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6,423 | 1672年 | 1672年(1672 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
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] | 1672年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。 | {{年代ナビ|1672}}
{{year-definition|1672}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[壬子]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[寛文]]12年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2332年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]11年
*** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]26年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]13年
** [[檀君紀元|檀紀]]4005年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[陽徳]]元年
* [[仏滅紀元]] : 2214年 - 2215年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1082年 - 1083年
* [[ユダヤ暦]] : 5432年 - 5433年
* [[ユリウス暦]] : 1671年12月22日 - 1672年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1672}}
== できごと ==
* [[3月2日]](寛文12年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]])- [[浄瑠璃坂の仇討]]発生{{要出典|date=2021-04}}。
* [[3月12日]] - 第三次[[英蘭戦争]] (-[[1674年]])。
* [[8月20日]] - [[オランダ共和制]]の指導者ヨハン・デ・ウィットと弟のコルネリス・デ・ウィットが民衆に虐殺される。
* [[12月23日]] - [[ジョヴァンニ・カッシーニ]]が[[土星]]の衛星[[レア (衛星)|レア]]を発見。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1672年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月16日]]([[寛文]]11年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]) - [[浪化]]、[[僧]]、[[俳人]](+ [[1703年]])
* [[2月13日]] - [[エティーヌ・F・ジョフロア]]、[[化学者]](+ [[1731年]])
* [[3月12日]]受洗 - [[リチャード・スティール]]([[w:Richard Steele|Richard Steele]])、[[作家]]、[[政治家]](+ [[1729年]])
* [[4月6日]] - [[アンドレ・カルディナル・デトゥーシュ]]、[[作曲家]](+ [[1749年]])
* [[5月1日]] - [[ジョゼフ・アディソン]]、政治家、[[随筆家]]、[[詩人]](+ [[1719年]])
* [[5月25日]]([[寛文]]12年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]) - [[阿部正喬]]、[[老中]](+ [[1750年]])
* [[6月9日]] - [[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]、[[ツァーリ|ロシア皇帝]](+ [[1725年]])
* [[6月11日]] - [[フランチェスコ・アントニオ・ボンポルティ]]、[[聖職者]]、アマチュア作曲家(+ [[1748年]])
* [[8月2日]] - [[ヨハン・ヤーコブ・ショイヒツァー]]、[[博物学|博物学者]](+ [[1733年]])
* [[9月8日]]受洗 - [[ニコラ・ド・グリニー]]、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1703年]])
* [[10月21日]] - [[ルドヴィコ・アントニオ・ムラトーリ]]([[w:Ludovico Antonio Muratori|Ludovico Antonio Muratori]])、[[歴史家]](+ [[1750年]])
* [[大高忠雄]]、[[赤穂浪士]](+ [[1703年]])
* [[武林隆重]]、赤穂浪士(+ [[1703年]])
* [[張廷玉]]、[[清]]の[[政治家]](+ [[1755年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1672年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[4月]]末 - [[ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール]]、作曲家、[[チェンバロ|クラヴサン]]奏者(* [[1601年]]/[[1602年]])
* [[6月17日]] - [[オラツィオ・ベネヴォリ]]、作曲家(* [[1605年]])
* [[6月18日]]([[寛文]]12年[[5月23日 (旧暦)|5月23日]]) - [[石川丈山]]、[[文人]](* [[1583年]])
* [[8月19日]](寛文12年[[6月27日 (旧暦)|閏6月27日]]) - [[山岡元隣]]、俳人(* [[1631年]])
* [[8月20日]] - [[コルネリス・デ・ウィット]]、政治家(* [[1623年]])
*8月20日 - [[ヨハン・デ・ウィット]]、政治家(* [[1625年]])
* [[9月15日]](寛文12年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]) - [[浅野長直]]、[[浅野長矩]]の祖父(* [[1610年]])
* [[9月16日]] - [[アン・ブラッドストリート]]、詩人(* [[1612年]]頃)
* [[11月6日]] - [[ハインリヒ・シュッツ]]、作曲家(* [[1585年]])
* [[11月8日]](寛文12年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]) - [[寺尾孫之允]]、[[宮本武蔵]]の高弟(* [[1611年]])
* [[11月19日]] - [[ジョン・ウィルキンズ]]([[w:John Wilkins|John Wilkins]])、聖職者(* [[1614年]])
* [[12月1日]](寛文12年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[溝口秋香]]、[[堀部武庸]]の祖母(* 生年不詳)
* [[12月6日]] - [[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世カジミェシュ]]、[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]][[ポーランド国王|王]](* [[1609年]])
* [[12月24日]](寛文12年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[独立性易]]、中国から来日した禅僧(* [[1596年]])
* [[ドニ・ゴーティエ]]、作曲家、[[リュート]]奏者(* [[1603年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1672}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
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[[Category:1672年|*]] | null | 2021-04-29T12:58:11Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1672%E5%B9%B4 |
6,424 | 1699年 | 1699年(1699 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 | [
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] | 1699年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。 | {{年代ナビ|1699}}
{{year-definition|1699}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[己卯]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元禄]]12年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2359年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[清]] : [[康熙]]38年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]25年
** [[檀君紀元|檀紀]]4032年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]20年
* [[仏滅紀元]] : 2241年 - 2242年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1110年 - 1111年
* [[ユダヤ暦]] : 5459年 - 5460年
* [[ユリウス暦]] : 1698年12月22日 - 1699年12月21日
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1699}}
== できごと ==
* [[1月26日]] - [[カルロヴィッツ条約]]締結。
* 日本:[[長崎奉行]]を四名に増員する。
* [[ウィリアム・ダンピア]]、[[オーストラリア]]北西岸を探検。
== 誕生 ==
{{see also|Category:1699年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[3月25日]] - [[ヨハン・アドルフ・ハッセ]]、[[作曲家]](+ [[1783年]])
* [[5月13日]] - [[ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[政治家]](+ [[1782年]])
* [[5月23日]] - [[ジョン・バートラム]]、[[植物学者]](+ [[1777年]])
* [[11月2日]] - [[ジャン・シメオン・シャルダン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jean-Baptiste-Simeon-Chardin Jean-Baptiste-Siméon Chardin French painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](+ [[1779年]])
* [[12月10日]] - [[クリスチャン6世 (デンマーク王)|クリスチャン6世]]、[[デンマーク]]および[[ノルウェー]][[国王]](+ [[1746年]])
* 月日不明 - [[アーラムギール2世]]、[[ムガル帝国]]第14代[[皇帝]](+ [[1759年]])
* 月日不明 - [[ジョヴァンニ・アントニオ・グアルディ]]([[w:Giovanni Antonio Guardi|Giovanni Antonio Guardi]])、画家(+ [[1760年]])
* 月日不明 - [[マシュー・ブレッティンガム]]、[[建築家]](+ [[1769年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1699年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月23日]]([[元禄]]11年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[木下順庵]]、[[儒学者]](* [[1621年]])
* [[3月2日]] - [[フランソワ・ルフォール]]([[w:Franz Lefort|Franz Lefort]])、[[軍人]]、[[外交官]](* [[1655年]])
* [[4月21日]] - [[ジャン・ラシーヌ]]、[[劇作家]](* [[1639年]])
* [[7月1日]](元禄12年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[徳川綱誠]]、[[尾張国]][[尾張藩]]第3代[[藩主]](* [[1652年]])
* [[7月12日]](元禄12年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[河村瑞賢]]、豪商(* [[1617年]]?)
* [[8月25日]] - [[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]]、デンマーク王(* [[1646年]])
* [[10月2日]](元禄12年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[戸田忠昌]]、[[武蔵国]][[岩槻藩]]藩主、[[老中]](* [[1632年]])
== フィクションのできごと ==
* 11代目ドクターらが海賊船に到着。[[セイレーン]]に襲撃される。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』)
== 脚注 ==
'''注釈'''
{{Reflist|group="注"}}
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1699}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}}
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[[Category:1699年|*]] | null | 2021-06-12T09:58:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1699%E5%B9%B4 |
6,425 | 墨俣城 | 墨俣城()は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の日本の城である。
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である。信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一の信長公記をはじめとする良質の史料には、全く記載がない。
秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。 今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣一夜城は、実在しなかったと判断せざるを得ない。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した大垣市墨俣歴史資料館(墨俣一夜城)が建てられているが、大垣城天守は江戸時代に整備されたものであり時代的に合わない。実際の墨俣城は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされている。また、公園内にある白鬚神社(の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれた際に分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなかった。
織田信長の戦国時代から安土桃山時代にかけての史料。
豊臣秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下にあげる。 | [
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] | 墨俣城は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の日本の城である。 | {{日本の城郭概要表
| img = File:墨俣一夜城 歴史資料館.jpg
| img_capt = 墨俣城跡に建つ歴史資料館
| img_width =260px
| name = 墨俣城
| pref = 岐阜県
| ar_called = 一夜城
| struct = 平城
| tower_struct = なし(複合式層塔型3重4階、RC造模擬)<br />(当時は高さ三間半の二階建て高櫓があった)
| builders = 不明([[豊臣秀吉|木下秀吉]]、[[前野長康|長康]]・[[蜂須賀正勝|小六]]ら蜂須賀党か)
| build_y = 不明([[1561年]]/[[1566年]]か)
| revamp = [[伊木忠次]]
| rulers = 不明(木下秀吉か)
| reject_y = 不明
| remains = なし
| rebuilding things = 模擬天守(資料館)
| cultural asset = 大垣市指定史跡<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2013-03-01 |url=http://www.city.ogaki.lg.jp/cmsfiles/contents/0000012/12659/cultural_properties.pdf |title=指定文化財一覧表 |format=PDF |publisher=大垣市 |accessdate=2013-03-21}}</ref>
| location = {{ウィキ座標2段度分秒|35|22|1.54|N|136|41|15.76|E|scale:60000}}
| 地図=Japan Gifu
| ラベル=墨俣城
| 緯度度=35|緯度分=22|緯度秒=1.54
| 経度度=136|経度分=41|経度秒=15.76
| アイコン=日本の城跡
| ラベル位置=bottom
}}
[[ファイル:Sunomata Castle 03.JPG|thumb|right|250px|近景]]
{{読み仮名|'''墨俣城'''|すのまたじょう}}は、[[岐阜県]][[大垣市]]墨俣町墨俣にあった[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[日本の城]]。
== 概要 ==
築城時期は不明である。[[長良川]]西岸の洲股(墨俣)<ref>当時の地名は'''洲股'''、いくつかある支流の合流地の意。後に'''墨俣'''と当て字がされた。</ref>の地は交通上・[[戦略]]上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた([[墨俣川の戦い]])。[[斎藤氏#美濃斎藤氏|斎藤氏]]側で築いた城は[[斎藤利為]]らが城主を務めた。また、[[1561年]]([[永禄]]4年)ないし[[1566年]](永禄9年)の[[織田信長]]による[[美濃国|美濃]]侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の[[豊臣秀吉]])がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる'''墨俣一夜城'''である。信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、[[太田牛一]]の[[信長公記]]をはじめとする良質の史料には、全く記載がない{{Sfn|藤本|1993|p=112}}。
秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。
今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣一夜城は、実在しなかったと判断せざるを得ない{{Sfn|藤本|1993|p=132}}。
=== 現在の墨俣城 ===
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には[[大垣城]]の[[天守]]を模した[[大垣市墨俣歴史資料館]](墨俣一夜城)が建てられているが、大垣城天守は江戸時代に整備されたものであり時代的に合わない。実際の墨俣城は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされている。また、公園内にある[[白鬚神社 (大垣市墨俣町)|白鬚神社]](の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれた際に分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
=== 墨俣城 - 資料 ===
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは[[天正]]12年([[1584年]])4月で、[[小牧・長久手の戦い]]を目前にして当時美濃を支配していた[[池田恒興]]の家臣[[伊木忠次]]が改修したとある。その2年後の天正14年([[1586年]])6月、[[木曽三川]]の大[[洪水|氾濫]]で[[木曽川]]の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなかった。
[[織田信長]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[史料]]。
*『[[信長公記]]』
** [[太田牛一]]著。
** 巻首「十四条合戦の事」に、[[永禄]]4年5月上旬([[1561年]]6月中旬頃)、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述がある。洲股要害の修築を誰に担当させたかについては言及されていない。
[[豊臣秀吉]]の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下にあげる。
*『[[甫庵太閤記]]』
** [[小瀬甫庵]]著、[[寛永]]3年(1626年)成立
** [[永禄]]9年([[1566年]])に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった、という記述がある。 城の場所や城名は明らかではなく、また墨俣の地名は甫庵が著作中で何度も使用しているのにもかかわらず、この箇所の記述においては用いていないことから、ここで秀吉が入れられた城は墨俣とは別の、[[木曽川]]沿いの場所のどこかであったとも読みとることができる。<!--独自研究的な考察文(発表済みの情報の合成の可能性)があります。--> <!--これは「偽書『武功夜話』の研究」に依ったものでしょう。「発表済みの情報の合成」ではない。-->また、記述の中にも[[閏月]]が考慮されていないなどいくつか問題点がある。<!--いずれにしろ、ここには「美濃国内のどこかで織田軍が比較的短期間で城を完成させ、秀吉がその城主となった」こと以上の情報はない。-->
*『[[武功夜話]]』(前野家古文書)
** [[昭和]]34年([[1959年]])に発見された前野家古文書のうちの『永禄州俣記』、一部が『武功夜話』昭和62年([[1987年]])出版<ref>『永禄州俣記』以外にも『州俣覚』など別史料も存在する。</ref>。
** [[江戸時代]]初期までにまとめられたと言われている同書には、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど[[伝説]]として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料と考えられている。しかし、[[偽書]]説も根強く、資料としての信頼性には意見が分かれるところである<ref>詳細は[[武功夜話#史料的価値に対する論争]]を参照のこと。</ref>。現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細はこの『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある[[大垣市墨俣歴史資料館|墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)]]も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。<!--また、この逸話が事実であるとする場合、建築史においてはプレハブ工法・プレカット工法の先駆けとなるものではないかともいわれている。--><!--脱線トリビア-->
== 文学作品(軍記物)への引用 ==
*『[[絵本太閤記]]』
** [[武内確斎]]著・法橋[[岡田玉山]]挿絵、[[読本]]、[[寛政]]9年([[1797年]])初編刊行
** [[永禄]]5年([[1562年]])の6月中旬に洲股砦城が建てられたという逸話が伝えられている。信長の命令で、最初に佐久間信盛、次に柴田勝家が修造を試みるが失敗。そこで、秀吉は信長に7日のうちに完成すると言上し、美濃勢を[[伏兵]]奇計で撃退しながら、砦城の建造準備を行い、とき6月中旬の雨で戦闘中断、材木を組み立て、一夜にして完成。[[曲輪#曲輪の用途|馬出し]]・柵・[[逆茂木]]を備えた龍に似たる長城。砦の普請まったく整い、[[清州城|清洲]]の信長に報告、金銀を褒美として賜る、と表現している。
*『[[新史太閤記]]』
** [[司馬遼太郎]]([[新潮文庫]]、[[1968年]])
** 墨俣築城に関して、美濃攻めにおいて織田信長の軍にとっては戦場が遠いことから前線基地として墨俣に築城する必要があるとの木下藤吉郎の進言で信長は築城を任せたところ、藤吉郎は3日でほぼ完成させた、と表現している<ref>司馬遼太郎『司馬遼太郎と城を歩く』(光文社、 [[2006年]])</ref>。
<!-- しかし、ここに墨俣城が創建された年代や位置については、明らかではない。墨俣の周辺は[[木曽三川]]の[[洪水]]によって頻繁に川の流路が変わったり、沿岸の土地が流れに浸食されたことで戦国時代当時とは地形が変わってはいるが、墨俣を描いた古地図には、墨俣の町の北辺に当時の城跡らしい三方を川に囲まれた台地があり、「城あと」の地名が記されているので、これが墨俣城跡であると推定されている。 -->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=原田実|authorlink=原田実 (作家)|date=2007-06|title=トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義|publisher=文芸社|isbn=978-4-286-02751-7|chapter=豊臣秀吉は美濃墨俣に一夜城を築いた!!}}
*藤本正行「墨俣一夜城は実在したか」(『歴史読本』1985年新年号)
*藤本正行『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』(JICC出版局、1993年)
* {{Cite book|和書|author=藤本正行|authorlink=藤本正行|coauthors=[[鈴木眞哉]]|date=2002-04|title=偽書『武功夜話』の研究|publisher=洋泉社|series=新書y|isbn=4-89691-626-3}}
== 関連項目 ==
* [[一夜城]]
* [[石垣山城]](一夜城)
* [[太閤記]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Sunomata Castle}}
* [http://www.city.ogaki.lg.jp/0000000723.html 墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)(大垣市ホームページ)] - 当時の洲股砦の北西側にある、外観は模擬天守。
* [http://www.asahi.com/travel/kosenjo/TKY200906240293.html 墨俣一夜城 築城史料 偽作か事実か 朝日新聞]
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[[Category:岐阜県の城]]
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[[Category:大垣市の建築物]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E4%BF%A3%E5%9F%8E |
6,427 | ヨハネス・ケプラー | ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571年12月27日 - 1630年11月15日)は、ドイツの天文学者。天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえる。また数学者、自然哲学者、占星術師という顔ももつ。
ケプラーは1571年12月27日、神聖ローマ帝国にある自由都市ヴァイル・デア・シュタット (現在のドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州のシュトゥットガルト西方約30km)にて居酒屋を営んでいたハインリヒ・ケプラーとカタリーナ・ケプラー(英語版)の間に生まれた。母のカタリーナは宿屋の娘 Katharina Guldenmannとして生まれ、ヒーラーとして薬草を用いて治療を行っていた人だった。 父方の祖父のSebald Keplerは同市の市長も務めたことのある人物だった。ヨハネスが生まれた時点で一家にはすでに男の子2人と女の子1人がおり、ケプラー家の経済状況は傾き、貧しくなりつつあった。父のハインリヒは収入を得るため傭兵となり、ヨハネスが5歳の時に家族と離ればなれになった。(そして後年、ヨハネスが17歳の時、父は亡くなることになる。八十年戦争中にネーデルラントにおいて亡くなったと考えられている)。
ヨハネスは4歳の時に天然痘にかかり視力を低下させ、手もいくぶん不自由になった。(なお、ケプラーの人生には天然痘の苦労がつきまとい、晩年には天然痘で妻子を失うことになる。) 6歳の時1577年の大彗星(英語版)を目撃した(後年、ヨハネスはそれについて「母に連れられて高い場所からそれを観た」と記述)
ケプラー家の信仰はプロテスタントであったが、当時の神聖ローマ帝国においては宗教的対立が高まっていたので、苦難を強いられる原因の一つともなった。
学校教育としては、ラテン語学校(=ヨーロッパの一般的な中等教育。英国のグラマースクールのようなもの)、次いでEvangelische Seminare Maulbronn und Blaubeuren(=プロテスタント系の神学校の一種)に進学、貧しかったので奨学金を得て通学したのち、1587年に聖職者になることを目指してテュービンゲン大学の神学科給費生の試験を受け合格し、入学。専門課程では哲学をVitus Müllerから学び、神学をJacob Heerbrandから学んだ。またこの専門課程で出会った新プラトン主義にケプラーは傾倒した(この新プラトン主義への傾倒は、ケプラーの後の著書の説明にも色濃く出ている)。
同大学の教養課程でミヒャエル・メストリン(1550―1631)による天文学の講義に出会い、興味を抱き、そこで惑星運行に関してプトレマイオスの宇宙体系(=宇宙に関する説明)およびコペルニクスの宇宙体系の両方を学ぶことになり、これによってコペルニクスの宇宙体系に開眼し傾倒してゆくことになった。またケプラーは同大学で数学も学んだ。ケプラーは数学の成績が優秀で、またホロスコープを学生仲間のために作ってみせるなどして天文学の技にも優れているとの評判を得た。最終学年、学業を終える時期、ケプラーは本当は牧師になることを望んでいたが、彼に推奨・提示された職は(牧師ではなく)プロテスタント系のグラーツの学校で数学および天文学の教師として教える仕事であった。彼はこれを受諾した。その時ケプラーは23歳だった。そして1594年に同大学を卒業した。
卒業した1594年からグラーツの学校(現在のグラーツ大学)で数学と天文学を教えるようになった。1596年には『宇宙の神秘(英語版)』を出版した。この書は、「太陽を中心として六惑星(水星・金星・地球・火星・木星・土星)が、5個の正多面体につぎつぎと外接・内接することによって、その距離が保たれている」と説明するものであった。また、この書でケプラーはニコラウス・コペルニクスの唱えた太陽中心説(地動説)を全面的に支持した。天文学者の中でコペルニクスの説を全面的に支持したのはケプラーが初めてであり、これを読んだガリレオ・ガリレイはケプラーにその考えを支持する旨の手紙を送った。1597年にはバーバラ・ミューラーと結婚。しかし翌1598年にはグラーツを治めていたオーストリア大公フェルディナント2世がグラーツからのプロテスタントの聖職者と教師の退去を命じ、ケプラーは失職する。
そんな折、1599年、ティコ・ブラーエ (1546-1601) に助手(ケプラーがいうには助手でなく共同研究者)としてプラハに招かれ、ケプラーはこれを受諾しプラハへと移った。ティコは当代きっての大観測家であり、1576年から1597年の21年間、デンマーク(現スウェーデン領)のヴェン島にウラニボリ天文台を建設して天空の観測を続け、さらにプラハでも観測を続けていたのであった。この観測データは望遠鏡のなかった当時、肉眼で観察されたものとしては最高の精度を持っていた。ティコは自らのデータから地動説を支持する証拠を見つけることができず、自ら手を加えた地球中心説(天動説)を提唱していた。ティコのもとで働き始めて1年半後の1601年にティコが亡くなった。ティコは臨終の遺言で、16年におよぶ観測の資料の整理をケプラーに委託した。(こうして観測家ティコの正確で膨大な観測データが理論家ケプラーの手に渡り整理・分析されたことがケプラーの法則発見へとつながり、太陽中心説(地動説)が強化される大きな転機となったのである。)
ティコ亡き後、ケプラーはブラーエの後任のルドルフ2世宮廷付占星術師として引き続き仕え、ティコの残した観測データをもとに研究を続けた。(なお、ティコの遺族にルドルフ2世が支払うはずだった観測データの代金はほとんど支払われず、ケプラーとティコの遺族のあいだには争いが起きた。)ケプラーは1609年、代表作とされる『新天文学(英語版)』を刊行した。「ケプラーの法則」の第1と第2法則もこの論文におさめられている。1611年には3人の子のうちの一人と妻のバルバラが死去し、1612年にパトロンであったルドルフ2世が亡くなると、ケプラーはプラハを離れ、オーストリアのリンツに州数学官の職を得た。1613年にはズザナ・ロイティンガーと再婚し、1619年には『宇宙の調和』を出版。この中でケプラーの第三法則を発表したが、1620年から1621年には故郷ヴュルテンベルグにおいて母カタリーナが魔女裁判に掛けられたため、その地にとどまって裁判と弁護に奔走した。1621年に無罪判決を勝ち取るとリンツに戻ったが、1626年には反乱軍によってリンツが被害を受けたためウルムへと移り、ここで1627年にはルドルフ表を完成させた。1630年、レーゲンスブルクで病死した。
ケプラーの自然哲学の中心は惑星論にある。ケプラーは「数が宇宙の秩序の中心である」とする点や天体音楽論(英語版)を唱える点で自然哲学におけるピタゴラス的伝統の忠実な擁護者であった。その反面、ニコラウス・コペルニクスやティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイも脱却できなかった円運動に基づく天体論から、楕円運動を基本とする天体論を唱え、近世自然哲学を刷新した。
現代の科学者にとってのケプラーの大きな功績は、数学的なモデルを提出するという方法の先駆者となったことである。(彼の提出した具体的なモデルは現代人から見れば誤っている面もあるが、ともかくも)数学的なモデルを構築し提示する、という方法はガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンを経て古典物理学の成立へとつながっていった。
ただしケプラーの数学的なモデルは、基本的にはピタゴラス的で、また新プラトン主義的であり、数(数論)や幾何学(正多面体)がきわめて直接的に物(の存在)や物の運動を支配している、調和されている、と考えており、その多くが現代人から見れば奇異なものである。例えば彼が初期に提唱した多面体太陽系モデルは、「惑星が6個存在することは、正多面体が5種類しか存在しないことと関連があるに違いない」というプラトン以来の思考の伝統の枠内にいる。またケプラーは火星の衛星が2個である事を予言したが、これは「地球、火星、木星の衛星の数は等比数列をなしている」という、ピタゴラス的な考え方(思いこみ)によるものである。結果として火星の衛星の数は2個ではあったが、その仮説の前提である木星の衛星の数は、当時知られていた4個よりも遥かに多かったのである。
ケプラー以前の天文学では「惑星は中心の星の周囲を完全な円軌道で運行する」と考えられていた。「完全なる神は完全なる運動を造られる」と考えられていたのだった。惑星は逆行運動をすることが知られており、それは何故か?ということが問題になっていたが、それは周転円の考えを導入することで解決され、最終的にはクラウディオス・プトレマイオスによって地球中心説(天動説)はほぼ完成し、その精度の高さもあって人々に受け入れられ、長きにわたって「惑星は円軌道で運行する」という理論が信じられた。
ニコラウス・コペルニクスは太陽中心説(地動説)を提唱した。現在、それは「コペルニクス的転回」として、発想の大転換を表現する際に比喩として用いられるが、そのコペルニクスもまた当時の「惑星は円軌道で運行する」という理論に縛られており、コペルニクスの地動説は従来の天動説に対し、少ない周転円で同程度の精度を出せるだけに過ぎない。実際には、周転円なしでもそれなりの精度が得られるため、理論の単純さのために精度を犠牲にする地動説論者も多かった。逆に、これを引き継いで『プロイセン星表』を作成したエラスムス・ラインホルトに至っては、逆に周転円の数をプトレマイオスの天動説よりも増やしてしまい、かえって煩雑さを増すという結果となった。
これに対してケプラーは、惑星の運動を歪んだ円もしくは楕円であるとした(ケプラーの第一法則)。ティコによって火星観測の正確なデータが残されていて、(現代人は知っている)実際の地球の軌道は完全な円にかなり近いが火星の軌道は楕円であったので、それが第一法則発見へとつながるデータとして役立った。それまでの理論「惑星の軌道は完全な円」を捨て、仮に「惑星の軌道は楕円」と仮定してみたところ、ティコの観測した結果を説明できることが分かり、後にケプラーの法則とされたのである。この法則に基づいてケプラーが作成した『ルドルフ星表』は『プロイセン星表』の30倍の精度を持ち、ようやく太陽中心説(地動説)は、従来の地球中心説(天動説)よりも単純かつ高精度のものとなり、説得力が増したのであった。
ケプラーの法則は「距離の二乗に反比例する力によって惑星が太陽に引かれている」と示唆する。ケプラーはそのことに気付いており、「太陽と惑星の間に、磁力のような力が存在する」と述べた。その力は、後にアイザック・ニュートンによって「万有引力」であるとされた。ただし、正確には万有引力は惑星を太陽系中心に引き付けているだけで、公転を続けるのは惑星の、軌道に接する面の方向の慣性、角運動量保存の法則による。
ケプラーはまた、球を敷き詰めたときに、面心立方格子が最密になると予想した。 この予想はケプラー予想と呼ばれ、規則正しく敷き詰める場合に関してはカール・フリードリヒ・ガウスによって早々に証明されたが、 不規則な敷き詰め方に関しては、400年もの間未解決の問題であった。ケプラー予想は1998年に、トーマス・C・ヘイルズによって、コンピュータを駆使して解決された。
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] | ヨハネス・ケプラーは、ドイツの天文学者。天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえる。また数学者、自然哲学者、占星術師という顔ももつ。 | {{Otheruses||宇宙補給機|ヨハネス・ケプラー (ATV)}}
{{Expand English|Johannes Kepler|fa=yes|date=2020年12月}}
{{Infobox Scientist
| name = ヨハネス・ケプラー
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| birth_date = [[1571年]][[12月27日]]
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}}
'''ヨハネス・ケプラー'''(Johannes Kepler、[[1571年]][[12月27日]] - [[1630年]][[11月15日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Johannes-Kepler Johannes Kepler German astronomer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は、[[ドイツ]]の[[天文学者]]。[[天体]]の運行法則に関する「[[ケプラーの法則]]」を唱えたことでよく知られている。理論的に天体の運動を解明したという点において、[[天体物理学|天体物理学者]]の先駆的存在だといえる。また[[数学者]]、[[自然哲学|自然哲学者]]、[[占星術]]師という顔ももつ。
== 生涯 ==
[[File:Kepler-Geburtshaus.jpg|thumb|right|120px|ヨハネス・ケプラーが生まれた家。]]
ケプラーは[[1571年]][[12月27日]]、[[神聖ローマ帝国]]にある[[自由都市]][[ヴァイル・デア・シュタット]] (現在のドイツの[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の[[シュトゥットガルト]]西方約30km)にて居酒屋を営んでいたハインリヒ・ケプラーと{{仮リンク|カタリーナ・ケプラー|en|Katharina Kepler}}の間に生まれた。母のカタリーナは宿屋の娘 Katharina Guldenmannとして生まれ、[[ヒーラー]]として[[薬草]]を用いて治療を行っていた人だった<ref group="注釈">母のカタリーナは、後年、国内で様々な宗教的な紛争によって人々が様々な思惑で動く中、「魔女」として告発されてしまい裁判にかけられ、息子のヨハネスは母をその危機から救うために様々な手を打つことになる。</ref><ref>James.A.Connor, Kepler's Witch: An Astronomer's Discovery of Cosmic Order Amid Religious War, Political Intrigue, and the Heresy Trial of His Mother, 2005. ISBN 0060750499. </ref>。 父方の祖父のSebald Keplerは同市の市長も務めたことのある人物だった。ヨハネスが生まれた時点で一家にはすでに男の子2人と女の子1人がおり、ケプラー家の経済状況は傾き、貧しくなりつつあった<ref>Max Casper, ''Kepler'', 1993. ISBN 0486676056. / James.A.Connor, Kepler's Witch: An Astronomer's Discovery of Cosmic Order Amid Religious War, Political Intrigue, and the Heresy Trial of His Mother, 2005. ISBN 0060750499. </ref>。父のハインリヒは収入を得るため[[傭兵]]となり、ヨハネスが5歳の時に家族と離ればなれになった。(そして後年、ヨハネスが17歳の時、父は亡くなることになる。[[八十年戦争]]中に[[ネーデルラント]]において亡くなったと考えられている)。
ヨハネスは4歳の時に[[天然痘]]にかかり視力を低下させ、手もいくぶん不自由になった。(なお、ケプラーの人生には[[天然痘]]の苦労がつきまとい、晩年には天然痘で妻子を失うことになる<ref>「ビジュアル百科 世界史1200人」136頁、入澤宣幸(西東社)</ref>。) 6歳の時{{仮リンク|1577年の大彗星|en|Great Comet of 1577}}を目撃した(後年、ヨハネスはそれについて「母に連れられて高い場所からそれを観た」と記述<ref>Koestler. The Sleepwalkers, 1990. ISBN 0140192468. p. 234。</ref>)
ケプラー家の信仰は[[プロテスタント]]であったが、当時の神聖ローマ帝国においては宗教的対立が高まっていたので、苦難を強いられる原因の一つともなった。
=== 教育 ===
学校教育としては、[[ラテン語学校]](=ヨーロッパの一般的な中等教育。英国の[[グラマースクール]]のようなもの)、次いで[[:de:Evangelische Seminare Maulbronn und Blaubeuren|Evangelische Seminare Maulbronn und Blaubeuren]](=プロテスタント系の[[神学校]]の一種)に進学、貧しかったので奨学金を得て通学したのち、[[1587年]]に[[聖職者]]になることを目指して[[エバーハルト・カール大学テュービンゲン|テュービンゲン大学]]の[[神学科]][[給費生]]の試験を受け合格し、入学。専門課程では[[哲学]]を[[:de:Vitus Müller|Vitus Müller]]から学び、[[神学]]を[[:en:Jacob Heerbrand|Jacob Heerbrand]]から学んだ。またこの専門課程で出会った[[新プラトン主義]]にケプラーは傾倒した(この新プラトン主義への傾倒は、ケプラーの後の著書の説明にも色濃く出ている)。
同大学の[[教養課程]]で[[ミヒャエル・メストリン]](1550―1631)による[[天文学]]の講義に出会い、興味を抱き、そこで惑星運行に関して[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の宇宙体系(=宇宙に関する説明)および[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の宇宙体系の両方を学ぶことになり、これによってコペルニクスの宇宙体系に開眼し傾倒してゆくことになった。またケプラーは同大学で[[数学]]も学んだ<ref>『数学と理科の法則・定理集』158頁。アントレックス(発行)図書印刷株式会社(印刷)</ref>。ケプラーは数学の成績が優秀で、また[[ホロスコープ]]を学生仲間のために作ってみせるなどして天文学の技にも優れているとの評判を得た。最終学年、学業を終える時期、ケプラーは本当は[[牧師]]になることを望んでいたが、彼に推奨・提示された職は(牧師ではなく)プロテスタント系の[[グラーツ]]の学校で数学および天文学の教師として教える仕事であった。彼はこれを受諾した。その時ケプラーは23歳だった。そして[[1594年]]に同大学を卒業した。
=== 就職 ===
[[File:Kepler-solar-system-1.png|thumb|right|160px|ケプラーが『{{仮リンク|宇宙の神秘|en|Mysterium Cosmographicum}}』(1596年刊)に掲載した図。太陽を中心として正多面体が外接や内接することで6つの惑星は距離を保っている、と説明する。ケプラーが学生時代から傾倒していた新プラトン主義的な説明を行った。]]
卒業した1594年からグラーツの学校(現在の[[グラーツ大学]])で数学と天文学を教えるようになった。[[1596年]]には『{{仮リンク|宇宙の神秘|en|Mysterium Cosmographicum}}』を出版した。この書は、「[[太陽]]を中心として六惑星([[水星]]・[[金星]]・[[地球]]・[[火星]]・[[木星]]・[[土星]])が、5個の[[正多面体]]につぎつぎと[[外接]]・[[内接]]することによって、その距離が保たれている」と説明するものであった<ref group="注釈">これは[[新プラトン主義]]の傾向が顕著に出ている説明である。新プラトン主義の源流であるプラトンの哲学では、正多面体を用いて物質的な現象を説明した。(『[[ティマイオス]]』など。ウィキペディアの「[[物質]]」の記事の「プラトン」の章も参照可)もちろんこうした説明は、現代天文学だけになじんでいる現代人にとっては、馴染み無く、とても奇異に感じられる説明である。</ref>。また、この書でケプラーはニコラウス・コペルニクスの唱えた[[地動説|太陽中心説(地動説)]]<ref group="注釈">[[太陽中心説]]は、日本では一般におおざっぱに「地動説」と呼ばれているもの。ヨーロッパでは本当は「太陽が中心」というコンセプトを軸に体系を考えており、あくまで「Helio(太陽)centrism(中心論)」(=Heliocentrism 太陽中心説)と呼ぶ。本当は、両者(地動説と太陽中心説)は厳密に言えば異なる(異なりうる)。西洋人にとっては、シンプルに「地球が中心」という考えから「太陽が中心」という考えへとシフトさせた点が、肝心なところなのである。そして「自分のいる星が宇宙の中心ではない」という点が、当時の人々にとっては、非常にショッキングだったわけである。)</ref>を全面的に支持した。天文学者の中でコペルニクスの説を全面的に支持したのはケプラーが初めてであり、これを読んだ[[ガリレオ・ガリレイ]]はケプラーにその考えを支持する旨の手紙を送った<ref>『コペルニクス 地球を動かし天空の美しい秩序へ』p160 O.ギンガリッチ,ジェームズ・マクラクラン 林大訳.大月書店,2008.11.オックスフォード科学の肖像</ref>。[[1597年]]にはバーバラ・ミューラーと結婚。しかし翌[[1598年]]にはグラーツを治めていた[[オーストリア大公]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント2世]]がグラーツからのプロテスタントの聖職者と教師の退去を命じ、ケプラーは[[失業|失職]]する。
そんな折、[[1599年]]、[[ティコ・ブラーエ]] (1546-1601) に助手(ケプラーがいうには助手でなく共同研究者)として[[プラハ]]に招かれ、ケプラーはこれを受諾しプラハへと移った<ref>『COSMOS 宇宙』第1巻 カール・セーガン 旺文社 1980年10月25日 初版 p.114</ref>。ティコは当代きっての大観測家であり、[[1576年]]から[[1597年]]の21年間、[[デンマーク]](現[[スウェーデン]]領)の[[ヴェン島]]にウラニボリ天文台を建設して天空の観測を続け、さらにプラハでも観測を続けていたのであった。この観測データは望遠鏡のなかった当時、肉眼で観察されたものとしては最高の精度を持っていた。ティコは自らのデータから地動説を支持する証拠を見つけることができず、自ら手を加えた地球中心説(天動説)を提唱していた。ティコのもとで働き始めて1年半後の[[1601年]]にティコが亡くなった。ティコは臨終の遺言で、16年におよぶ観測の資料の整理をケプラーに委託した。(こうして観測家ティコの正確で膨大な観測データが理論家ケプラーの手に渡り整理・分析されたことがケプラーの法則発見へとつながり、太陽中心説(地動説)が強化される大きな転機となったのである。)
ティコ亡き後、ケプラーはブラーエの後任の[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]宮廷付占星術師として引き続き仕え、ティコの残した観測データをもとに研究を続けた。(なお、ティコの遺族にルドルフ2世が支払うはずだった観測データの代金はほとんど支払われず、ケプラーとティコの遺族のあいだには争いが起きた。)ケプラーは[[1609年]]、代表作とされる『{{仮リンク|新天文学|en|Astronomia Nova}}』を刊行した<ref>「オックスフォード科学の肖像 ヨハネス・ケプラー」p87 オーウェン・ギンガリッチ編集代表 ジェームズ・R・ヴォールケル著 林大訳 大月書店 2010年9月21日第1刷</ref>。「ケプラーの法則」の第1と第2法則もこの論文におさめられている。[[1611年]]には3人の子のうちの一人と妻のバルバラが死去し、[[1612年]]にパトロンであったルドルフ2世が亡くなると、ケプラーはプラハを離れ、[[オーストリア]]の[[リンツ]]に州数学官の職を得た。[[1613年]]にはズザナ・ロイティンガーと再婚し、[[1619年]]には『宇宙の調和』を出版。この中でケプラーの第三法則を発表したが、[[1620年]]から[[1621年]]には故郷ヴュルテンベルグにおいて母カタリーナが[[魔女狩り|魔女裁判]]に掛けられたため、その地にとどまって裁判と弁護に奔走した。[[1621年]]に無罪判決を勝ち取るとリンツに戻ったが、[[1626年]]には反乱軍によってリンツが被害を受けたため[[ウルム]]へと移り、ここで[[1627年]]には[[ルドルフ表]]を完成させた。[[1630年]]、[[レーゲンスブルク]]で病死した。
== 自然哲学 ==
[[画像:Kepler-solar-system-1.png|thumb|ケプラー初期の多面体太陽系モデル]]
[[画像:Kepler-solar-system-2.png|thumb|太陽近傍]]
ケプラーの[[自然哲学]]の中心は惑星論にある。ケプラーは「[[数]]が宇宙の秩序の中心である」とする点や{{仮リンク|天体音楽論|en|Musica universalis}}を唱える点で自然哲学における[[ピタゴラス]]的伝統の忠実な擁護者であった。その反面、[[ニコラウス・コペルニクス]]や[[ティコ・ブラーエ]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]も脱却できなかった円運動に基づく天体論から、楕円運動を基本とする天体論を唱え、近世自然哲学を刷新した。
現代の科学者にとってのケプラーの大きな功績は、[[数理モデル|数学的なモデル]]を提出するという方法の先駆者となったことである。(彼の提出した具体的なモデルは現代人から見れば誤っている面もあるが、ともかくも)数学的なモデルを構築し提示する、という方法は[[ガリレオ・ガリレイ]]、[[アイザック・ニュートン]]を経て[[古典物理学]]の成立へとつながっていった。
ただしケプラーの数学的なモデルは、基本的にはピタゴラス的で、また新プラトン主義的であり、数(数論)や幾何学(正多面体)がきわめて直接的に物(の存在)や物の運動を支配している、調和されている、と考えており、その多くが現代人から見れば奇異なものである。例えば彼が初期に提唱した多面体[[太陽系]]モデルは、「惑星が6個存在することは、[[正多面体]]が5種類しか存在しないことと関連があるに違いない」というプラトン以来の思考の伝統の枠内にいる。またケプラーは[[火星]]の[[衛星]]が2個である事を予言したが<!--<ref>ちなみに火星の衛星の数が2個あるという説は、当時それなりに知られていたようで、後の[[ジョナサン・スウィフト]]の[[ガリヴァー旅行記]]にも「ラピュータ国の科学者の発見」という設定で紹介されている。後世、このガリヴァー旅行記の記述のほうが有名になっており、ジョナサン・スウィフトを予言者のように看做す説も見られる([[長崎新聞]]のコラム『水や空』[[2003年]]8月18日 など)が、元ネタはあくまでケプラーである(トンデモ超常現象99の真相 ISBN 978-4862480033)。</ref>(ノートの議論により、ひとまずコメントアウト)-->、これは「[[地球]]、火星、[[木星]]の衛星の数は[[等比数列]]をなしている」という、ピタゴラス的な考え方(思いこみ)によるものである。結果として火星の衛星の数は2個ではあったが、その仮説の前提である木星の衛星の数は、当時知られていた4個よりも遥かに多かったのである。
== ケプラーの法則 ==
{{Main|ケプラーの法則}}
ケプラー以前の天文学では「[[惑星]]は中心の星の周囲を<u>完全な[[円軌道]]</u>で運行する」と考えられていた。「完全なる神は完全なる運動を造られる」と考えられていたのだった。惑星は[[順行・逆行|逆行運動]]をすることが知られており、それは何故か?ということが問題になっていたが、それは[[周転円]]の考えを導入することで解決され、最終的には[[クラウディオス・プトレマイオス]]によって地球中心説([[天動説]])はほぼ完成し、その精度の高さもあって人々に受け入れられ、長きにわたって「惑星は円軌道で運行する」という理論が信じられた。
[[ニコラウス・コペルニクス]]は太陽中心説([[地動説]])を提唱した。現在、それは「[[コペルニクス的転回]]」として、発想の大転換を表現する際に比喩として用いられるが、そのコペルニクスもまた当時の「惑星は円軌道で運行する」という[[理論]]に縛られており、コペルニクスの地動説は従来の天動説に対し、少ない周転円で同程度の精度を出せるだけに過ぎない。実際には、周転円なしでもそれなりの精度が得られるため、理論の単純さのために精度を犠牲にする地動説論者も多かった。逆に、これを引き継いで『[[プロイセン表|プロイセン星表]]』を作成した[[エラスムス・ラインホルト]]に至っては、逆に周転円の数をプトレマイオスの天動説よりも増やしてしまい、かえって煩雑さを増すという結果となった。
これに対してケプラーは、惑星の運動を歪んだ円もしくは楕円であるとした(ケプラーの第一法則)。ティコによって火星観測の正確なデータが残されていて、(現代人は知っている)実際の地球の軌道は完全な円にかなり近いが火星の軌道は楕円であったので、それが第一法則発見へとつながるデータとして役立った。それまでの理論「惑星の軌道は完全な円」を捨て、仮に「惑星の軌道は楕円」と[[仮説|仮定]]してみたところ、ティコの観測した結果を説明できることが分かり、後に[[ケプラーの法則]]とされたのである。この法則に基づいてケプラーが作成した『[[ルドルフ表|ルドルフ星表]]』は『プロイセン星表』の30倍の精度を持ち、ようやく太陽中心説(地動説)は、従来の地球中心説(天動説)よりも単純かつ高精度のものとなり、説得力が増したのであった。
ケプラーの法則は「[[逆2乗の法則|距離の二乗に反比例]]する力によって惑星が太陽に引かれている」と示唆する。ケプラーはそのことに気付いており、「[[太陽]]と惑星の間に、<u>磁力のような力</u>が存在する」と述べた<ref group="注釈">『宇宙の記述の神秘』の中では、惑星は「原動力を与える魂」により動いていると説明したが、この法則は太陽から離れるほど惑星は減速する事を意味しており、惑星は太陽から放射される物質的な力によって公転を続けると解釈した。</ref>。その力は、後に[[アイザック・ニュートン]]によって「[[万有引力]]」であるとされた。ただし、正確には万有引力は惑星を太陽系中心に引き付けているだけで、公転を続けるのは惑星の、軌道に接する面の方向の[[慣性]]、[[角運動量保存の法則]]による<ref>[[スティーヴン・ワインバーグ]](2015年)『科学の発見』(訳・赤根洋子) 文藝春秋(2016年第1版)</ref>。
== ケプラー予想 ==
ケプラーはまた、球を敷き詰めたときに、[[面心立方格子構造|面心立方格子]]が最密になると予想した。
この予想は[[ケプラー予想]]と呼ばれ、規則正しく敷き詰める場合に関しては[[カール・フリードリヒ・ガウス]]によって早々に証明されたが、
不規則な敷き詰め方に関しては、400年もの間[[数学上の未解決問題|未解決の問題]]であった。ケプラー予想は[[1998年]]に、トーマス・C・ヘイルズによって、[[コンピュータ]]を駆使して解決された。
== ケプラー式望遠鏡 ==
{{main|ケプラー式望遠鏡}}発明したが実際には製作しなかった。
== その他の主な業績 ==
*[[光]]の[[逆2乗の法則]](強さが[[光源]]からの距離の二乗に[[反比例]]する)を証明した。
*[[1631年]]の[[水星]]の[[太陽]]面通過を予言した。これは[[ピエール・ガッサンディ]]により証明された。
*[[星型正多面体|ケプラー多面体]]を2つ発見した。
*後に[[ハレー彗星]]と呼ばれる、[[1607年]]の彗星を観測し記録を残した。
*[[SN 1604|1604年の超新星]]を発見・観測した。
*[[雪]]の[[結晶]]が必ず[[六角形#正六角形|正六角形]]になることを発見した。
*[[ケプラー予想]]を提起した。
*ケプラーの八角星を発見した。
== 他 ==
*[[欧州補給機]](ATV)2号機、[[アメリカ航空宇宙局]]の[[ケプラー宇宙望遠鏡|宇宙望遠鏡]]の名前に彼の名が採用されている。
*小惑星の[[ケプラー (小惑星)|(1134)ケプラー]]は彼の名に因んで命名された。
*[[ツェントネル]] ワイン商人がでたらめに量を測っていることに頭にきて定めた単位。厳密に「シュタントネル標準器」と呼ばれる器を作り、これにいっぱい入れたドナウ川の水の2/7を1ツェントネルとした。<ref>{{Cite book|和書 |title=はかりきれない世界の単位 |date=2017年6月20日 |publisher=株式会社創元社 |page=52}}</ref>
== 著書 ==
[[File:Epitome astronomiae copernicanae.tif|thumb|''Epitome astronomiae copernicanae'', 1618]]
*''The Forerunner of Dissertations on the Universe, Containing the Mystery of the Universe''1596年出版(宇宙についての先駆的論述、宇宙の謎を含んで、の意)<ref>最新天文百科 宇宙・惑星・生命をつなぐサイエンス HORIZONS Exploring the Universe p59 ISBN 978-4-621-08278-2</ref>
以下が日本語訳されている。<!-- 未訳のものの有無について、補完を求む。 -->
*''[[夢 (小説)|Somnium]]''
**『ケプラーの夢』[[渡辺正雄]]・榎本恵美子共訳([[講談社]],1972年、[[講談社学術文庫]] 1985年)
*''Mysterium cosmographicum''
**『宇宙の神秘』[[大槻真一郎]]・[[岸本良彦]]共訳([[工作舎]]、1982/2009年 ISBN 978-4-87502-417-0)
*''Harmonice Mundi'' 1619年出版
**『宇宙の調和』[[岸本良彦]]訳([[工作舎]]、2009年 ISBN 978-4-87502-418-7)
*''Astronomia Nova'' 1609年出版
**『新天文学』[[岸本良彦]]訳([[工作舎]]、2013年 ISBN 978-4-87502-453-8)
== 伝記など ==
* ヨハネス・ケプラー 近代宇宙観の夜明 [[アーサー・ケストラー]] [[小尾信彌]]、[[木村博]]訳.河出書房新社,1971年。のちちくま学芸文庫
* ケプラーと世界の調和 [[渡辺正雄]]編著。共立出版、1991年12月
* ジョン・バンヴィル『ケプラーの憂鬱:孤独な天文学者の半生』高橋和久・小熊令子訳、[[工作舎]]、1991年 ISBN 978-4-87502-187-2
* ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録 ジョシュア&アンーリー・ギルダー 山越幸江訳。地人書館、2006年6月
* ヨハネス・ケプラー 天文学の新たなる地平へ オーウェン・ギンガリッチ編 ジェームズ・R.ヴォールケル [[林大]]訳。大月書店、2010年9月、オックスフォード科学の肖像
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書|author=アーサー・ケストラー|authorlink=アーサー・ケストラー |translator=小尾信彌、木村博 |year=2008 |title=ヨハネス・ケプラー |publisher=[[筑摩書房]] |series=ちくま学芸文庫Math & Science |isbn=978-4-480-09155-0 }}
== 外部リンク ==
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* [http://www.johanneskepler.info/ Johannes Kepler info]
* {{Internet Archive author|name=Johannes Kepler}}
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* {{Commons-inline|Johannes Kepler}}
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6,429 | 摂津鉄道 | 摂津鉄道()は、明治時代に存在した鉄道路線、およびその路線を運行していた鉄道会社。
川辺馬車鉄道会社が1891年(明治24年)に開業した尼崎 - 伊丹間の馬車鉄道を、川西村(駅名は池田。現・川西池田駅近傍)まで延伸し、軽便鉄道化したものが摂津鉄道である。
1892年(明治25年)6月30日に尼崎 - 伊丹 - 池田間、および伊丹 - 生瀬間の営業を出願し、同年12月27日に認可を得ている。 当時の法律の制限があるため、川辺馬車鉄道の解散後、新会社を設立するという手順を踏んでいる。
1893年(明治26年)3月より伊丹駅 - 池田駅間の延伸工事を開始した。川辺馬車鉄道とは軌間が異なっていたため、尼ヶ崎駅 - 伊丹駅間の改軌工事も同時に行っている。同年10月28日より尼ヶ崎駅 - 賀茂(川西市)間で試運転を行い、同年12月12日に尼ヶ崎駅、長洲駅、伊丹駅、池田駅の4駅で開業。1894年(明治27年)3月に大物駅、塚口駅、伊丹南口駅も開業した。馬車鉄道時代の所要時間は尼ヶ崎駅 - 伊丹駅間で1時間を超えていたが、蒸気運転により、尼ヶ崎駅 - 長洲駅間は約9分、長洲駅 - 伊丹駅間は約18分に短縮した。
ただし、川辺馬車鉄道では許されていた平面交差は認められず、汽車が官線(東海道本線)をまたぐことは許可されなかった。このため、長洲駅を官線の北側と南側の2か所に分け、列車は折り返し、乗客は歩いて乗り替えを行うこととなった。興味深いことに貨物(貨車)のみ人力で押しての通過は認められていた。
長洲駅において官設鉄道により南北に分断されたことで、摂津鉄道は尼崎 - 伊丹・池田を結ぶよりも、尼崎・伊丹・池田を官線の神崎駅経由で大阪・神戸に結ぶ鉄道としての性格を強めた。また、官線への乗り換えを考慮し、神崎駅の官線列車発着時間に合わせたダイヤグラムが組まれており、 摂津鉄道各駅から官線への直通切符も発行されていた。
摂津鉄道が運行されていた当時、日本海側の重要な軍港であった舞鶴への鉄道敷設計画がさかんに立てられており(京都鉄道、阪鶴鉄道、摂丹鉄道など)、摂津鉄道もそれらの中に組み込まれていく運命にあった。最終的に1897年(明治30年)2月、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道会社に路線を売却して解散した。
阪鶴鉄道に買収された後も、改軌完了まで使用された。
20両購入。1編成につき4両を連結していた。上等車・中等車・下等車の3種があり、下等車の定員は1両24人。
伊予鉄道に1899年(明治32年)三等客車2両、三等緩急混合車2両、1900年(明治33年)に一等客車4両、三等客車6両、三等緩急混合車4両計18両を売却。
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"text": "長洲駅において官設鉄道により南北に分断されたことで、摂津鉄道は尼崎 - 伊丹・池田を結ぶよりも、尼崎・伊丹・池田を官線の神崎駅経由で大阪・神戸に結ぶ鉄道としての性格を強めた。また、官線への乗り換えを考慮し、神崎駅の官線列車発着時間に合わせたダイヤグラムが組まれており、 摂津鉄道各駅から官線への直通切符も発行されていた。",
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"text": "摂津鉄道が運行されていた当時、日本海側の重要な軍港であった舞鶴への鉄道敷設計画がさかんに立てられており(京都鉄道、阪鶴鉄道、摂丹鉄道など)、摂津鉄道もそれらの中に組み込まれていく運命にあった。最終的に1897年(明治30年)2月、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道会社に路線を売却して解散した。",
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] | 摂津鉄道は、明治時代に存在した鉄道路線、およびその路線を運行していた鉄道会社。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 摂津鉄道
|ロゴ = [[File:Settsu Railway logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[兵庫県]][[川辺郡|河辺郡]][[伊丹町]]<ref name="NDLDC780111"/>
|設立 = [[1892年]](明治25年)12月<ref name="NDLDC780111"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 社長 [[鴻池新十郎]]<ref name="NDLDC780111"/>
|資本金 = 240,000円<ref name="NDLDC780111"/>
|特記事項 = 上記データは1896年(明治29年)現在<ref name="NDLDC780111">[{{NDLDC|780111/152}} 『日本全国諸会社役員録. 明治29年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{{読み仮名|'''摂津鉄道'''|せっつてつどう}}は、[[明治]]時代に存在した[[鉄道路線]]、およびその路線を運行していた[[鉄道事業者|鉄道会社]]。
== 概要 ==
[[川辺馬車鉄道]]会社が[[1891年]](明治24年)に開業した[[尼崎港駅|尼崎]] - [[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹]]間の[[馬車鉄道]]を、[[川西町 (兵庫県)|川西村]](駅名は池田。現・[[川西池田駅]]近傍)まで延伸し、[[軽便鉄道]]化したものが摂津鉄道である。
[[1892年]](明治25年)6月30日に尼崎 - 伊丹 - 池田間、および伊丹 - 生瀬間の営業を出願し<ref name="amagasakishishi7p692">摂津鉄道会社営業願い・目論見書|尼崎市史第7巻p692 (1976)</ref>、同年12月27日に認可を得ている<ref name="amagasakishishi7p697">摂津鉄道敷設免許状|尼崎市史第7巻p697 (1976)</ref>。
当時の法律の制限があるため、川辺馬車鉄道の[[解散]]後、新会社を設立するという手順を踏んでいる。
[[1893年]](明治26年)3月より[[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]] - [[川西池田駅|池田駅]]間の延伸工事を開始した。川辺馬車鉄道とは[[軌間]]が異なっていたため、[[尼崎港駅|尼ヶ崎駅]] - 伊丹駅間の[[改軌]]工事も同時に行っている。同年10月28日より尼ヶ崎駅 - 賀茂(川西市)間で[[試運転]]を行い、同年12月12日に尼ヶ崎駅、長洲駅、伊丹駅、池田駅の4駅<ref>[{{NDLDC|2946422/3}} 「鉄道哩数」『官報』1894年1月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>で開業<ref>[{{NDLDC|805397/26}} 『鉄道局年報. 明治26年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。[[1894年]](明治27年)3月に大物駅、塚口駅、伊丹南口駅<ref>伊丹南口は南口[{{NDLDC|2946472/3}} 「鉄道哩数」『官報』1894年3月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>も開業した<ref name="amagasakishishi7p700">「琴陽雑誌」第21号(1894)|尼崎市史第7巻p700 (1976)</ref>。馬車鉄道時代の所要時間は尼ヶ崎駅 - 伊丹駅間で1時間を超えていたが、[[蒸気機関車|蒸気運転]]により、尼ヶ崎駅 - 長洲駅間は約9分、長洲駅 - 伊丹駅間は約18分に短縮した。
ただし、川辺馬車鉄道では許されていた[[平面交差]]は認められず、汽車が[[官設鉄道|官線]]([[東海道本線]])をまたぐことは許可されなかった。このため、長洲駅を官線の北側と南側の2か所に分け、列車は折り返し、乗客は歩いて[[乗換駅|乗り替え]]を行うこととなった。興味深いことに貨物([[貨車]])のみ[[人力]]で押しての通過は認められていた。
長洲駅において官設鉄道により南北に分断されたことで、摂津鉄道は尼崎 - 伊丹・池田を結ぶよりも、尼崎・伊丹・池田を官線の[[尼崎駅 (JR西日本)|神崎駅]]経由で[[大阪駅|大阪]]・[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]に結ぶ鉄道としての性格を強めた。また、官線への乗り換えを考慮し、神崎駅の官線列車発着時間に合わせた[[ダイヤグラム]]が組まれており<ref name="amagasakishishi3p268">「琴陽雑誌」第18号(1894)|尼崎市史第3巻p268 (1970)</ref>、
摂津鉄道各駅から官線への直通切符も発行されていた<ref name="itamishishi3p254">伊丹市史第3巻p254 (1972)</ref>。
摂津鉄道が運行されていた当時、[[裏日本|日本海側]]の重要な[[軍港]]であった[[舞鶴市|舞鶴]]への鉄道敷設計画がさかんに立てられており([[京都鉄道]]、[[阪鶴鉄道]]、[[摂丹鉄道]]など)、摂津鉄道もそれらの中に組み込まれていく運命にあった。最終的に[[1897年]](明治30年)2月、[[大阪市|大阪]]から[[舞鶴市|舞鶴]]までの鉄道を計画していた[[阪鶴鉄道]]会社に路線を売却して解散した<ref>[{{NDLDC|805398/152}} 『鉄道局年報. 明治29年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
== 路線データ ==
=== 開業区間 ===
{{Double image|right|Settsurailwaytimetable1894.jpg|200|Settsu Railway Linemap 1897.svg|200|「池田尼ヶ崎間軽便鉄道」と記された摂津鉄道の時刻表(明治27年4月16日改正版)<ref name="kishajikanhyou">汽車時間表 近畿名所獨案内(1894)</ref>。ただし塚口駅がない。|路線図}}
* 路線距離:約13.6km
* [[軌間]]:2フィート6インチ(762mm)<ref name="itamishishi3p253">伊丹市史第3巻p253 (1972)</ref>
* 停車場(当時の鉄道では駅でなく停車場の名称が一般的):7
** [[尼崎港駅|尼ヶ崎]](旧国鉄尼崎港駅)
** 大物(阪神[[大物駅]]付近)
** 長洲(旧国鉄神崎駅・現JR尼崎駅の西およそ300m)
** [[塚口駅 (JR西日本)|塚口]]
** [[伊丹南口駅|伊丹南口]](現猪名寺駅の北およそ800m)
** [[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹]]
** 池田([[川西市]]小戸、呉服橋西詰)
* 所要時間<ref name="kishajikanhyou">汽車時間表 近畿名所獨案内(1894)</ref>
** 尼ヶ崎駅(尼崎港駅)-長洲駅間:約9分
** 長洲駅-伊丹駅間:約18分
** 伊丹駅-池田駅間:約16分
* 乗客数:長洲駅、[[1895年]](明治28年)259,619人、平均711人/日<ref name="amagasakishishi9p259">尼崎市史第9巻p259 (1983)</ref>
* 列車本数<ref name="kishajikanhyou">汽車時間表 近畿名所獨案内(1894)</ref>
** 尼ヶ崎駅(尼崎港駅)-長洲駅間:1日14往復。尼ヶ崎始発6:49、最終発21:39。長洲始発7:12、最終発22:02。
** 長洲駅-池田駅間:1日11往復。長洲始発7:54、最終発22:06。池田始発6:08、最終発23:02。
* 運賃(下等)<ref name="kishajikanhyou">汽車時間表 近畿名所獨案内(1894)</ref>
** 尼ヶ崎駅発:長洲駅まで2銭、伊丹南口駅まで6銭、池田駅まで10銭
** 池田駅発:伊丹南口駅まで4銭、長洲駅まで8銭、尼ヶ崎駅まで10銭
=== 未成・予定区間 ===
* 伊丹-小浜(宝塚市)-生瀬(西宮市)
*: 川辺馬車鉄道が認可を得ていた伊丹-大鹿-小浜-川面(宝塚市)間の計画が基になっている。[[1892年]](明治25年)に改めて認可を得ており、用地買収も着手していた<ref name="amagasakishishi3p269">尼崎市史第3巻p269 (1970)</ref>がはかどらず、[[1895年]](明治28年)4月に断念した<ref name="kawanishishishi3p195">かわにし(川西市史)第3巻p195 (1980)</ref>。宝塚、生瀬への延伸構想は阪鶴鉄道に受け継がれ、ルートを川西経由に変更して実現している。
* 尼崎-西成郡安井(大阪市福島区)
*: [[1894年]](明治27年)1月に12.8kmの路線延長を出願したが、同年7月に却下された<ref name="amagasakishishi3p269">尼崎市史第3巻p269 (1970)</ref>。
* 池田-八木(京都府南丹市)
*: [[摂丹鉄道]]の名前で、池田駅から北に延伸し、京都-舞鶴間に建設予定の鉄道路線(京鶴線)に接続する計画。[[1893年]](明治26年)に出願した<ref name="amagasakishishi3p269">尼崎市史第3巻p269 (1970)</ref>が、[[1895年]](明治28年)10月に却下された。[[1896年]](明治29年)9月に再出願したが、[[1897年]](明治30年)5月に却下された<ref name="takaradukashishi3p181">宝塚市史第3巻p181 (1977)</ref>。
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;"
|-
!年度
!乗客(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!益金(円)
|-
|1893||142,417||3,046||1,561||888||673
|-
|1894||580,048||16,312||29,464||16,296||13,168
|-
|1895||665,077||16,987||36,568||19,206||17,362
|-
|1896||747,165||18,436||39,156||22,805||16,351
|-
|}
*[{{NDLDC|805404/179}} 「官私設鉄道営業収支累年表」]、[{{NDLDC|805404/167}} 「官私設鉄道運輸延哩程累年表」]『鉄道局年報. 明治38年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
== 車両 ==
[[阪鶴鉄道]]に買収された後も、改軌完了まで使用された。
=== 蒸気機関車 ===
; [[スイス]][[スイス・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス|SLM社]]製[[ウェルタンク]]機関車 - [[車軸配置]]0-6-0 (C)。
: [[摂津鉄道1号形蒸気機関車|4両 (1 - 4) ]]を購入。うち2両 (3, 4) が関西採炭に譲渡、そのうちの1両 (4) は[[佐世保鉄道]]に売却され、後に国鉄ケ215形蒸気機関車となった。
=== 客車 ===
20両購入。1編成につき4両を連結していた。上等車・中等車・下等車の3種があり、下等車の定員は1両24人<ref name="amagasakishishi3p268">「琴陽雑誌」第18号(1894)|尼崎市史第3巻p268 (1970)</ref>。
[[伊予鉄道]]に1899年(明治32年)三等客車2両、三等緩急混合車2両、1900年(明治33年)に一等客車4両、三等客車6両、三等緩急混合車4両計18両を売却<ref>和久田康雄 石本祐吉「伊予鉄道」『私鉄車両めぐり特輯』3、鉄道図書刊行会、1982年、350頁</ref>。
=== 貨車 ===
20両購入<ref name="itamishishi3p253">伊丹市史第3巻p253 (1972)</ref> <ref name="amagasakishishi3p268">「琴陽雑誌」第18号(1894)|尼崎市史第3巻p268 (1970)</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 参考文献 ==
* {{cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 9 関西2 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790027-2 | ref = imao }}
*尼崎市史
*伊丹市史
*川西市史「かわにし」
*宝塚市史
== 関連項目 ==
* [[川辺馬車鉄道]]
* [[摂丹鉄道]]
* [[鴻池財閥]]
* [[小西酒造]]
* [[阪鶴鉄道]]
* [[福知山線]]
{{Rail-stub}}
{{DEFAULTSORT:せつつてつとう}}
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
<!--[[Category:近畿地方の鉄道路線 (廃止)]]-->
[[Category:摂津鉄道|*]]
[[Category:阪鶴鉄道|社せつつてつとう]]
[[Category:兵庫県の交通史]]
[[Category:1897年の合併と買収]] | 2003-04-09T17:13:16Z | 2023-11-18T09:40:05Z | false | false | false | [
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"Template:Rail-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E9%89%84%E9%81%93 |
6,431 | 鉄道国有法 | 鉄道国有法(、明治39年3月31日法律第17号)は、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた日本の法律である。
1906年(明治39年)3月31日公布、1920年(大正9年)8月5日改正。1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道改革法等施行法(昭和61年法律第93号)第110条の規定により日本国有鉄道法と共に廃止。
これにより、1906年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、下記の17社の2,812.0哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。
国有化の目的には、「陸上交通機関ノ覇王」である鉄道の国有による積極的な経済発展の促進のほか、113億円(当時)に達した日露戦争費外債を低利外債への借換えのための担保資産としての利用、外国人による主要鉄道会社株式取得の回避など、日露戦争後の厳しい財政・経済状態に対する対応という消極的動機も強く働いていた。
日本の鉄道は創業以来、官設官営を基本方針とした。これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引した井上勝が、熱心な鉄道国有論者であったことが大きい。しかしながら、政府財政の窮乏により鉄道を全て官設官営で建設運営することはかなわず、やむなく民営鉄道に幹線鉄道建設の一部を委ねざるを得ないことになってしまった。そのため、井上は機会あるごとに、自説の鉄道国有論と私設鉄道買収を説き、鉄道国有化法案も再三国会に提出されたが、井上が退官する1893年(明治26年)までにそれが可決されることはなかった。
政府の財政を窮乏させる原因となったのは、西南戦争による過大な戦費の支出であった。これにより、鉄道建設のための予算がなくなり、それまでに完成していた京浜間、京阪神間鉄道を民間に売却して、その代金により新線建設を行なおうという案まで出たほどであった。鉄道網速成の方針と財政窮乏のジレンマが、幹線鉄道建設の一部を民間に委ねる方針転換をさせることになる。こうして1881年(明治14年)、日本初の私設鉄道、日本鉄道が設立されたのである。
井上は1883年(明治16年)、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に関する論旨」を提出した。この中で、鉄道の用途は国道と同様であって、これを民営に委ねるべきでないことを原則として、民営に委ねた場合に発生する、無用の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害を挙げて、自説を主張している。
一方で、政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブームが起こった。1884年(明治17年)の阪堺鉄道や、1887年(明治20年)の伊予鉄道を皮切りに、両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道は、官設・私設の両方により建設されることとなったが、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあり、それは1890年(明治23年)の経済恐慌となってはね返り、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設鉄道の経営の悪化を招いた。
状況は間もなく回復したが、このような状況の中で、1891年(明治24年)、井上は「鉄道政略に関する議」を上申した。この上申書では、従来からの鉄道国有論に加えて既設私設鉄道の買収を前面に押し出しており、そのためには私設鉄道買収法の制定が必要であると説いている。
この上申書を契機として、政府は再三、鉄道公債法と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可決されず、1892年(明治25年)に、買収法案に大幅な修正を加えた鉄道敷設法が制定された。しかしそれは、予定線建設のために必要がある場合のみ、私設鉄道の買収ができ、さらに議会の協賛を必要とする、将来の国有化の可能性をにおわせながら、実際は予定線の民間による建設を容認するなど、議会を構成する私設鉄道の株主でもある華族や資本家、地主たちによって完全に骨抜きにされてしまった。これに憤慨した井上は翌年、退官することとなる。
井上の鉄道国有論に対抗して鉄道民営論を唱えたのは、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱などの財界の有力者たちであった。彼らは資本主義の発展にともなって鉄道経営が大きな利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との間に密接な関連性があることをよく認識していた。渋沢らが関わる東京経済学協会が1891年に発表した「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いている。続いて渋沢らは、1894年(明治27年)に官設鉄道払下計画を立案し、一挙に彼らの理想とする鉄道民営の実現を図ったが、日清戦争の勃発にともない、計画は頓挫している。
その後、鉄道国有化が政治課題となるのは、1899年(明治32年)である。衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出、可決され、調査機関として首相直属の鉄道国有調査会が設置された。その報告に基づき、翌年鉄道国有法案および私設鉄道買収法案が帝国議会に提出されたが、これも議決されることはなかった。
しかし、この頃には、日清戦争後の三国干渉によって対ロシア戦を意識しだした軍部も、鉄道国有問題を第一義とするようになっていった。鉄道が民営であることの軍事的に不利な理由は、私鉄の場合、株式会社であるから、経営状態を詳しく株主に報告しなければならない。しかし、その株主の中には外国人投資家もいた。そのため、彼らに経営状況を教える時には、軍事輸送用の臨時列車を走らせることまでも公開する必要に迫られる可能性があり、同時に軍事機密が外国に漏洩される恐れもあった。加えて、外国人投資家に株を買い占められた時、それが敵国の資本家なら軍事輸送を拒否される恐れすらあった。軍事的理由以外にも、日露戦争後は、主要産業を独占化しつつあった財閥が、物流の大動脈である鉄道の意義を高く評価するようになり、主要幹線が多数の私設鉄道によって分割保有されていることが、諸外国との競争上、非常な不利であると認識されるようになった。
そして1906年、紆余曲折を経た鉄道国有法案は、西園寺公望内閣によって第22帝国議会に提出される。渋沢栄一に加えて井上馨や加藤高明、高橋是清も反対論を唱えて衆議院を説得しようとしたために政府は彼らの説得に苦慮したが、同年3月16日に賛成243・反対109で可決された。貴族院では曾我祐準(日本鉄道社長)や仙石貢(九州鉄道社長)が反対論を唱えたが、研究会の指導者三島弥太郎の工作によって3月27日に賛成205・反対62で修正付きで可決した。西園寺が総裁である立憲政友会は、第22帝国議会の会期終了日であったこと等により、両院協議会の開催を求めずに、貴族院回付案(修正した案)に同意することにより成立をはかり、反対派が退席するなか賛成214で可決し法案が成立した。これにより、井上の悲願であった鉄道国有化は漸く実現し、17私鉄が国有化されることとなったのである。
この時提出された法案の原案は、17私鉄の他に15私鉄を加えた32私鉄を買収するものであった。これは、閣議において17私鉄を買収するという原原案に15私鉄を加えたもので、衆議院は通過したものの、貴族院で修正され、原原案の17私鉄買収に戻った経緯がある。追加の15私鉄は、次のとおりであった。
川越鉄道、成田鉄道(初代)、東武鉄道、上武鉄道、豆相鉄道、水戸鉄道(2代)、中越鉄道、豊川鉄道、尾西鉄道、近江鉄道、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、中国鉄道、博多湾鉄道
このうち、博多湾鉄道、中国鉄道、豊川鉄道は戦時買収により、また中越鉄道、水戸鉄道、成田鉄道はそれ以前に買収されて国鉄線に組み込まれている。
1906年(明治39年)5月、私鉄買収の準備を行なう臨時鉄道国有準備局が、逓信大臣の管下に設置された。同局は、買収完了後もしばらくの間存続し、廃止されたのは鉄道院発足後の1909年(明治42年)7月末である。
私鉄の買収により、官設鉄道の現業部門である鉄道作業局の規模は一気に膨れあがった。私鉄から引き継がれた鉄道路線の延長は4,550km、未開業線292km、機関車1,118両、客車3,101両、貨車20,850両で、それまで官設鉄道が保有していた路線延長2,525km、機関車769両、客車1,832両、貨車10,821両を大きく上回っている。それらの受入れのため、1907年4月1日に鉄道作業局を帝国鉄道庁に改編した。
帝国鉄道庁では、各私鉄から引き継いだ膨大な人員を糾合したため、ポストの重複などによって余剰人員を抱えることとなったが、その一方で、私鉄の監督、許認可を行なっていた逓信省鉄道局においても、業務が激減する事態が生じた。そのため、両者を統合再編して体制の簡素化を図ることとなり、1908年(明治41年)12月5日鉄道院が発足した。この際、鉄道院は逓信大臣の管轄から離れて、新たに総裁を置き、内閣の直轄となった。
各私鉄から引き継がれた雑多な車両は、国有化後もしばらくの間、私鉄時代の形式番号のまま使用された。旧鉄道作業局の車両を含めて、新たな形式番号体系が制定されるのは、買収開始から実に3年後の1909年(客車・貨車は1911年)のことである。蒸気機関車だけに限定しても、タンク機関車103形式、テンダー機関車84形式、あわせて187形式に及び、客車、貨車を含めると、実に膨大な作業であったことがわかる。この時制定された蒸気機関車の形式番号体系は、1928年(昭和3年)に新たな体系が制定された後も併存し、現在に至るまで踏襲されている。
鉄道院発足直後の1910年(明治43年)は、1両の機関車も製造されていない。これは一気に膨れあがった雑多な形式を抱え、それらの今後の処遇や、輸送計画を練るのに手一杯で、機関車の新製にまで手が回らなかった結果ではないかと想像されている。その後は、各車種にわたって標準型車両が制定され、雑多な少数形式の淘汰が推進されていった。
また、鉄道国有法公布後、今度は新たな私鉄の出願がほとんど無くなるという事態になった。これは、私鉄を監督する法律である私設鉄道法の条件が厳しいという背景もあったが、地域開発の観点から見ると問題があった。そのため、1910年(明治43年)に鉄道開業に関する条文を相当簡略化した軽便鉄道法を制定した。その後、私設鉄道法に基づく私鉄の出願が全く無くなったため、1919年(大正8年)には軽便鉄道法と私設鉄道法を廃止し、新たに地方鉄道法を制定、私鉄の監督はこの法に基づいて行われるようになった。
またこれとは別に、路面電車と同じ軌道法に準拠した郊外鉄道の敷設を目論む者も現れた。米国で当時流行していたインターアーバンを真似たもので、1905年(明治38年)の阪神電気鉄道開業以後、全国に広まっていった。その中には、阪鶴鉄道の幹部が設立した箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)のように、鉄道国有法によって会社を手放した資本家が出資を行ったものもあった。
1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化により、国有化された鉄道は結局80年ほどして民営に戻ることとなった。 | [
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"text": "これにより、1906年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、下記の17社の2,812.0哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。",
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"text": "国有化の目的には、「陸上交通機関ノ覇王」である鉄道の国有による積極的な経済発展の促進のほか、113億円(当時)に達した日露戦争費外債を低利外債への借換えのための担保資産としての利用、外国人による主要鉄道会社株式取得の回避など、日露戦争後の厳しい財政・経済状態に対する対応という消極的動機も強く働いていた。",
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"text": "日本の鉄道は創業以来、官設官営を基本方針とした。これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引した井上勝が、熱心な鉄道国有論者であったことが大きい。しかしながら、政府財政の窮乏により鉄道を全て官設官営で建設運営することはかなわず、やむなく民営鉄道に幹線鉄道建設の一部を委ねざるを得ないことになってしまった。そのため、井上は機会あるごとに、自説の鉄道国有論と私設鉄道買収を説き、鉄道国有化法案も再三国会に提出されたが、井上が退官する1893年(明治26年)までにそれが可決されることはなかった。",
"title": "鉄道国有論の展開"
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"text": "政府の財政を窮乏させる原因となったのは、西南戦争による過大な戦費の支出であった。これにより、鉄道建設のための予算がなくなり、それまでに完成していた京浜間、京阪神間鉄道を民間に売却して、その代金により新線建設を行なおうという案まで出たほどであった。鉄道網速成の方針と財政窮乏のジレンマが、幹線鉄道建設の一部を民間に委ねる方針転換をさせることになる。こうして1881年(明治14年)、日本初の私設鉄道、日本鉄道が設立されたのである。",
"title": "鉄道国有論の展開"
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"text": "井上は1883年(明治16年)、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に関する論旨」を提出した。この中で、鉄道の用途は国道と同様であって、これを民営に委ねるべきでないことを原則として、民営に委ねた場合に発生する、無用の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害を挙げて、自説を主張している。",
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"text": "一方で、政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブームが起こった。1884年(明治17年)の阪堺鉄道や、1887年(明治20年)の伊予鉄道を皮切りに、両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道は、官設・私設の両方により建設されることとなったが、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあり、それは1890年(明治23年)の経済恐慌となってはね返り、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設鉄道の経営の悪化を招いた。",
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"text": "状況は間もなく回復したが、このような状況の中で、1891年(明治24年)、井上は「鉄道政略に関する議」を上申した。この上申書では、従来からの鉄道国有論に加えて既設私設鉄道の買収を前面に押し出しており、そのためには私設鉄道買収法の制定が必要であると説いている。",
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"text": "この上申書を契機として、政府は再三、鉄道公債法と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可決されず、1892年(明治25年)に、買収法案に大幅な修正を加えた鉄道敷設法が制定された。しかしそれは、予定線建設のために必要がある場合のみ、私設鉄道の買収ができ、さらに議会の協賛を必要とする、将来の国有化の可能性をにおわせながら、実際は予定線の民間による建設を容認するなど、議会を構成する私設鉄道の株主でもある華族や資本家、地主たちによって完全に骨抜きにされてしまった。これに憤慨した井上は翌年、退官することとなる。",
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"text": "井上の鉄道国有論に対抗して鉄道民営論を唱えたのは、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱などの財界の有力者たちであった。彼らは資本主義の発展にともなって鉄道経営が大きな利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との間に密接な関連性があることをよく認識していた。渋沢らが関わる東京経済学協会が1891年に発表した「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いている。続いて渋沢らは、1894年(明治27年)に官設鉄道払下計画を立案し、一挙に彼らの理想とする鉄道民営の実現を図ったが、日清戦争の勃発にともない、計画は頓挫している。",
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"text": "その後、鉄道国有化が政治課題となるのは、1899年(明治32年)である。衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出、可決され、調査機関として首相直属の鉄道国有調査会が設置された。その報告に基づき、翌年鉄道国有法案および私設鉄道買収法案が帝国議会に提出されたが、これも議決されることはなかった。",
"title": "鉄道国有論の展開"
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"text": "しかし、この頃には、日清戦争後の三国干渉によって対ロシア戦を意識しだした軍部も、鉄道国有問題を第一義とするようになっていった。鉄道が民営であることの軍事的に不利な理由は、私鉄の場合、株式会社であるから、経営状態を詳しく株主に報告しなければならない。しかし、その株主の中には外国人投資家もいた。そのため、彼らに経営状況を教える時には、軍事輸送用の臨時列車を走らせることまでも公開する必要に迫られる可能性があり、同時に軍事機密が外国に漏洩される恐れもあった。加えて、外国人投資家に株を買い占められた時、それが敵国の資本家なら軍事輸送を拒否される恐れすらあった。軍事的理由以外にも、日露戦争後は、主要産業を独占化しつつあった財閥が、物流の大動脈である鉄道の意義を高く評価するようになり、主要幹線が多数の私設鉄道によって分割保有されていることが、諸外国との競争上、非常な不利であると認識されるようになった。",
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"text": "そして1906年、紆余曲折を経た鉄道国有法案は、西園寺公望内閣によって第22帝国議会に提出される。渋沢栄一に加えて井上馨や加藤高明、高橋是清も反対論を唱えて衆議院を説得しようとしたために政府は彼らの説得に苦慮したが、同年3月16日に賛成243・反対109で可決された。貴族院では曾我祐準(日本鉄道社長)や仙石貢(九州鉄道社長)が反対論を唱えたが、研究会の指導者三島弥太郎の工作によって3月27日に賛成205・反対62で修正付きで可決した。西園寺が総裁である立憲政友会は、第22帝国議会の会期終了日であったこと等により、両院協議会の開催を求めずに、貴族院回付案(修正した案)に同意することにより成立をはかり、反対派が退席するなか賛成214で可決し法案が成立した。これにより、井上の悲願であった鉄道国有化は漸く実現し、17私鉄が国有化されることとなったのである。",
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"text": "この時提出された法案の原案は、17私鉄の他に15私鉄を加えた32私鉄を買収するものであった。これは、閣議において17私鉄を買収するという原原案に15私鉄を加えたもので、衆議院は通過したものの、貴族院で修正され、原原案の17私鉄買収に戻った経緯がある。追加の15私鉄は、次のとおりであった。",
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"text": "川越鉄道、成田鉄道(初代)、東武鉄道、上武鉄道、豆相鉄道、水戸鉄道(2代)、中越鉄道、豊川鉄道、尾西鉄道、近江鉄道、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、中国鉄道、博多湾鉄道",
"title": "鉄道国有論の展開"
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"text": "このうち、博多湾鉄道、中国鉄道、豊川鉄道は戦時買収により、また中越鉄道、水戸鉄道、成田鉄道はそれ以前に買収されて国鉄線に組み込まれている。",
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"title": "被買収私鉄の一覧"
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"text": "1906年(明治39年)5月、私鉄買収の準備を行なう臨時鉄道国有準備局が、逓信大臣の管下に設置された。同局は、買収完了後もしばらくの間存続し、廃止されたのは鉄道院発足後の1909年(明治42年)7月末である。",
"title": "その後の動き"
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"text": "私鉄の買収により、官設鉄道の現業部門である鉄道作業局の規模は一気に膨れあがった。私鉄から引き継がれた鉄道路線の延長は4,550km、未開業線292km、機関車1,118両、客車3,101両、貨車20,850両で、それまで官設鉄道が保有していた路線延長2,525km、機関車769両、客車1,832両、貨車10,821両を大きく上回っている。それらの受入れのため、1907年4月1日に鉄道作業局を帝国鉄道庁に改編した。",
"title": "その後の動き"
},
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"text": "帝国鉄道庁では、各私鉄から引き継いだ膨大な人員を糾合したため、ポストの重複などによって余剰人員を抱えることとなったが、その一方で、私鉄の監督、許認可を行なっていた逓信省鉄道局においても、業務が激減する事態が生じた。そのため、両者を統合再編して体制の簡素化を図ることとなり、1908年(明治41年)12月5日鉄道院が発足した。この際、鉄道院は逓信大臣の管轄から離れて、新たに総裁を置き、内閣の直轄となった。",
"title": "その後の動き"
},
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"text": "各私鉄から引き継がれた雑多な車両は、国有化後もしばらくの間、私鉄時代の形式番号のまま使用された。旧鉄道作業局の車両を含めて、新たな形式番号体系が制定されるのは、買収開始から実に3年後の1909年(客車・貨車は1911年)のことである。蒸気機関車だけに限定しても、タンク機関車103形式、テンダー機関車84形式、あわせて187形式に及び、客車、貨車を含めると、実に膨大な作業であったことがわかる。この時制定された蒸気機関車の形式番号体系は、1928年(昭和3年)に新たな体系が制定された後も併存し、現在に至るまで踏襲されている。",
"title": "その後の動き"
},
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"text": "鉄道院発足直後の1910年(明治43年)は、1両の機関車も製造されていない。これは一気に膨れあがった雑多な形式を抱え、それらの今後の処遇や、輸送計画を練るのに手一杯で、機関車の新製にまで手が回らなかった結果ではないかと想像されている。その後は、各車種にわたって標準型車両が制定され、雑多な少数形式の淘汰が推進されていった。",
"title": "その後の動き"
},
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"text": "また、鉄道国有法公布後、今度は新たな私鉄の出願がほとんど無くなるという事態になった。これは、私鉄を監督する法律である私設鉄道法の条件が厳しいという背景もあったが、地域開発の観点から見ると問題があった。そのため、1910年(明治43年)に鉄道開業に関する条文を相当簡略化した軽便鉄道法を制定した。その後、私設鉄道法に基づく私鉄の出願が全く無くなったため、1919年(大正8年)には軽便鉄道法と私設鉄道法を廃止し、新たに地方鉄道法を制定、私鉄の監督はこの法に基づいて行われるようになった。",
"title": "その後の動き"
},
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"text": "またこれとは別に、路面電車と同じ軌道法に準拠した郊外鉄道の敷設を目論む者も現れた。米国で当時流行していたインターアーバンを真似たもので、1905年(明治38年)の阪神電気鉄道開業以後、全国に広まっていった。その中には、阪鶴鉄道の幹部が設立した箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)のように、鉄道国有法によって会社を手放した資本家が出資を行ったものもあった。",
"title": "その後の動き"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化により、国有化された鉄道は結局80年ほどして民営に戻ることとなった。",
"title": "その後の動き"
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] | 鉄道国有法(てつどうこくゆうほう、は、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた日本の法律である。 1906年3月31日公布、1920年8月5日改正。1987年4月1日、日本国有鉄道改革法等施行法第110条の規定により日本国有鉄道法と共に廃止。 これにより、1906年から翌年の1907年にかけて、下記の17社の2,812.0哩が買収された。買収前には1,600哩に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。 国有化の目的には、「陸上交通機関ノ覇王」である鉄道の国有による積極的な経済発展の促進のほか、113億円に達した日露戦争費外債を低利外債への借換えのための担保資産としての利用、外国人による主要鉄道会社株式取得の回避など、日露戦争後の厳しい財政・経済状態に対する対応という消極的動機も強く働いていた。 | {{日本の法令
|題名=鉄道国有法
|通称=鉄国法
|番号=明治39年3月31日法律第17号
|効力=廃止
|種類=行政手続法
|内容=私鉄の買収・国有化について<br/> [[第9回衆議院議員総選挙|第9回総選挙衆議院]]<br/> [[第1次西園寺内閣]]
|関連=[[鉄道敷設法]]
|リンク=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950163/1 官報1906年03月31日]
|ウィキソース=鐵道國有法
}}
{{読み仮名|'''鉄道国有法'''|てつどうこくゆうほう|明治39年[[3月31日]][[法律]]第17号}}は、全国的な鉄道網を[[鉄道省|官設鉄道]]に一元化するため、[[私鉄]]を国有化することを定めた[[日本]]の[[法律]]である。
[[1906年]](明治39年)3月31日公布、[[1920年]](大正9年)[[8月5日]]改正。[[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]、[[日本国有鉄道改革法]]等施行法(昭和61年法律第93号)第110条の規定により[[s:ja:日本国有鉄道法|日本国有鉄道法]]と共に廃止。
これにより、1906年から翌年の[[1907年]](明治40年)にかけて、下記の17社の2,812.0[[マイル|哩]](約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。
国有化の目的には、「陸上交通機関ノ覇王」である鉄道の国有による積極的な経済発展の促進のほか、113億円(当時)に達した[[日露戦争]]費外債を低利外債への借換えのための担保資産としての利用、外国人による主要鉄道会社株式取得の回避など、日露戦争後の厳しい財政・経済状態に対する対応という消極的動機も強く働いていた<ref>鉄道国有調査会「鉄道国有ノ趣旨概要」日本国有鉄道編『[[日本国有鉄道百年史]]』第3巻</ref><ref>[[原田勝正]] [https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images/_tz0515.2617ca0ae6097602331cf9915874d56f.pdf 北東アジアの鉄道史における1906年] p.134.</ref>。
== 鉄道国有論の展開 ==
日本の鉄道は創業以来、官設官営を基本方針とした。これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引した[[井上勝]]が、熱心な鉄道国有論者であったことが大きい。しかしながら、政府財政の窮乏により鉄道を全て官設官営で建設運営することはかなわず、やむなく民営鉄道に幹線鉄道建設の一部を委ねざるを得ないことになってしまった。そのため、井上は機会あるごとに、自説の鉄道国有論と私設鉄道買収を説き、鉄道国有化法案も再三国会に提出されたが、井上が退官する[[1893年]](明治26年)までにそれが可決されることはなかった。
政府の財政を窮乏させる原因となったのは、[[西南戦争]]による過大な戦費の支出であった。これにより、鉄道建設のための予算がなくなり、それまでに完成していた京浜間、京阪神間鉄道を民間に売却して、その代金により新線建設を行なおうという案まで出たほどであった。鉄道網速成の方針と財政窮乏のジレンマが、幹線鉄道建設の一部を民間に委ねる方針転換をさせることになる。こうして[[1881年]](明治14年)、日本初の私設鉄道、[[日本鉄道]]が設立されたのである。
井上は[[1883年]](明治16年)、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に関する論旨」を提出した。この中で、鉄道の用途は[[国道]]と同様であって、これを民営に委ねるべきでないことを原則として、民営に委ねた場合に発生する、無用の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害を挙げて、自説を主張している。
一方で、政府の手厚い保護を受けていたとはいえ、日本鉄道が好調な決算を発表すると、各地で私設鉄道設立ブームが起こった。[[1884年]](明治17年)の[[阪堺鉄道]]や、[[1887年]](明治20年)の[[伊予鉄道]]を皮切りに、[[両毛鉄道]]<!-- 2016-01-04時点では[[両毛線]]へのリダイレクト-->、[[山陽鉄道]]、[[水戸鉄道]](初代)、[[九州鉄道]](初代)、[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]](初代)などが認可され、それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道は、官設・私設の両方により建設されることとなったが、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあり、それは[[1890年]](明治23年)の経済恐慌となってはね返り、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設鉄道の経営の悪化を招いた。
状況は間もなく回復したが、このような状況の中で、[[1891年]](明治24年)、井上は「鉄道政略に関する議」を上申した。この上申書では、従来からの鉄道国有論に加えて既設私設鉄道の買収を前面に押し出しており、そのためには私設鉄道買収法の制定が必要であると説いている。
この上申書を契機として、政府は再三、鉄道公債法と私設鉄道買収法を[[帝国議会]]に提出したが、いずれも可決されず、[[1892年]](明治25年)に、買収法案に大幅な修正を加えた[[鉄道敷設法]]が制定された。しかしそれは、予定線建設のために必要がある場合のみ、私設鉄道の買収ができ、さらに議会の協賛を必要とする、将来の国有化の可能性をにおわせながら、実際は予定線の民間による建設を容認するなど、議会を構成する私設鉄道の株主でもある[[華族]]や資本家、地主たちによって完全に骨抜きにされてしまった。これに憤慨した井上は翌年、退官することとなる。
井上の鉄道国有論に対抗して鉄道民営論を唱えたのは、[[渋沢栄一]]や[[田口卯吉]]、[[中上川彦次郎]]、[[三井財閥|三井]]や[[三菱財閥|三菱]]などの財界の有力者たちであった。彼らは[[資本主義]]の発展にともなって鉄道経営が大きな利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との間に密接な関連性があることをよく認識していた。渋沢らが関わる東京経済学協会が1891年に発表した「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いている。続いて渋沢らは、[[1894年]](明治27年)に官設鉄道払下計画を立案し、一挙に彼らの理想とする鉄道民営の実現を図ったが、[[日清戦争]]の勃発にともない、計画は頓挫している。
その後、鉄道国有化が政治課題となるのは、[[1899年]](明治32年)である。[[衆議院]]に「鉄道国有に関する建議案」が提出、可決され<ref>[{{NDLDC|1920411/200}} 「鉄道国有建議案」1899年2月8日国民新聞『新聞集成明治編年史. 第十卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|1920411/201}} 「鉄道国有建議案下院を通過」1899年2月15日中外商業『新聞集成明治編年史. 第十卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、調査機関として首相直属の鉄道国有調査会が設置された。その報告に基づき、翌年鉄道国有法案および私設鉄道買収法案が帝国議会に提出されたが、これも議決されることはなかった<ref>[{{NDLDC|1920419/37}} 「鉄道国有問題哀れ握り潰し」1900年2月22日国民新聞『新聞集成明治編年史. 第十一卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
しかし、この頃には、日清戦争後の[[三国干渉]]によって対[[ロシア]]戦を意識しだした軍部も、鉄道国有問題を第一義とするようになっていった。鉄道が民営であることの軍事的に不利な理由は、私鉄の場合、株式会社であるから、経営状態を詳しく株主に報告しなければならない。しかし、その株主の中には外国人投資家もいた。そのため、彼らに経営状況を教える時には、軍事輸送用の臨時列車を走らせることまでも公開する必要に迫られる可能性があり、同時に軍事機密が外国に漏洩される恐れもあった。加えて、外国人投資家に株を買い占められた時、それが敵国の資本家なら軍事輸送を拒否される恐れすらあった。軍事的理由以外にも、[[日露戦争]]後は、主要産業を独占化しつつあった[[財閥]]が、物流の大動脈である鉄道の意義を高く評価するようになり、主要幹線が多数の私設鉄道によって分割保有されていることが、諸外国との競争上、非常な不利であると認識されるようになった。
そして1906年、紆余曲折を経た鉄道国有法案は、[[第1次西園寺内閣|西園寺公望内閣]]によって第22帝国議会に提出される。渋沢栄一に加えて[[井上馨]]や[[加藤高明]]<ref>3月3日に外相辞任[{{NDLDC|1920436/51}} 「加藤外相独り国有に反対」1906年3月2日東京朝日新聞、「加藤外相去る」1906年3月3日東京朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第十三卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、[[高橋是清]]も反対論を唱えて[[衆議院]]を説得しようとしたために政府は彼らの説得に苦慮したが、同年[[3月16日]]に賛成243・反対109で可決された。[[貴族院_(日本)|貴族院]]では[[曾我祐準]](日本鉄道社長)や[[仙石貢]](九州鉄道社長)が反対論を唱えたが、[[研究会_(貴族院)|研究会]]の指導者[[三島弥太郎]]の工作によって[[3月27日]]に賛成205・反対62で修正付きで可決した。西園寺が総裁である[[立憲政友会]]は、第22帝国議会の会期終了日であったこと等により、[[両院協議会]]の開催を求めずに、貴族院回付案(修正した案)に同意することにより成立をはかり、反対派が退席するなか賛成214で可決し法案が成立した<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?billId=002212033 第22回帝国議会衆議院議事速記録第23号]</ref>。これにより、井上の悲願であった鉄道国有化は漸く実現し、17私鉄が国有化されることとなったのである。
この時提出された法案の原案は、17私鉄の他に15私鉄を加えた32私鉄を買収するものであった。これは、閣議において17私鉄を買収するという原原案に15私鉄を加えたもので、衆議院は通過したものの、[[貴族院 (日本)|貴族院]]で修正され、原原案の17私鉄買収に戻った経緯がある。追加の15私鉄は、次のとおりであった。
[[西武国分寺線|川越鉄道]]、[[成田線|成田鉄道]](初代)、[[東武鉄道]]、[[秩父鉄道|上武鉄道]]、[[伊豆箱根鉄道駿豆線|豆相鉄道]]、[[太田鉄道|水戸鉄道]](2代)、[[中越鉄道]]、[[豊川鉄道]]、[[名鉄尾西線|尾西鉄道]]、[[近江鉄道]]、[[南海本線|南海鉄道]]、[[南海高野線|高野鉄道]]、[[大阪鉄道 (2代目)|河南鉄道]]、[[中鉄バス|中国鉄道]]、[[博多湾鉄道汽船|博多湾鉄道]]
このうち、博多湾鉄道、中国鉄道、豊川鉄道は[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により、また中越鉄道、水戸鉄道、成田鉄道はそれ以前に買収されて国鉄線に組み込まれている。
== 被買収私鉄の一覧 ==
{| class="wikitable"
! 買収鉄道名 !! 買収年月日 !! 買収時鉄道長 !! 買収価格(千円) || 機関車数 || 客車数 || 貨車数 || 備考
|-
! [[北海道炭礦鉄道]]
| rowspan = "2" | 1906年10月1日 || style="text-align:right" | 204.5 哩 (329.1 km) || style="text-align:right" | 30,997 || style="text-align:right" | 79 || style="text-align:right" | 102 || style="text-align:right" | 1,753 || 官設鉄道が借受けの3.0 哩 (4.8km) 含まず
|-
! [[甲武鉄道]]
| style="text-align:right" | 27.8哩 (44.7km) || style="text-align:right" | 14,600 || style="text-align:right" | 13 || style="text-align:right" | 62 || style="text-align:right" | 266 ||
|-
! [[日本鉄道]]
| rowspan = "2" | 1906年11月1日 || style="text-align:right" | 860.8 哩 (1,385.3 km) || style="text-align:right" | 142,495 || style="text-align:right" | 368 || style="text-align:right" | 857 || style="text-align:right" | 6,411 ||
|-
! [[岩越鉄道]]
| style="text-align:right" | 49.5哩 (79.7km) || style="text-align:right" | 2,521 || style="text-align:right" | 6 || style="text-align:right" | 23 || style="text-align:right" | 112 ||
|-
! [[山陽鉄道]]
| rowspan = "2" | 1906年12月1日 || style="text-align:right" | 414.9 哩 (667.7 km) || style="text-align:right" | 78,850 || style="text-align:right" | 152 || style="text-align:right" | 534 || style="text-align:right" | 2,075 ||
|-
! [[西成鉄道]]
| style="text-align:right" | 4.6哩 (7.4km) || style="text-align:right" | 1,705 || style="text-align:right" | 4 || style="text-align:right" | 23 || style="text-align:right" | 227 || 官設鉄道が全区間借受
|-
! [[九州鉄道]]
| rowspan = "2" | 1907年7月1日 || style="text-align:right" | 442.8 哩 (712.6 km) || style="text-align:right" | 118,856 || style="text-align:right" | 256 || style="text-align:right" | 391 || style="text-align:right" | 7,148 ||
|-
! [[北海道鉄道 (初代)|北海道鉄道]]
| style="text-align:right" | 159.0哩 (255.9km) || style="text-align:right" | 11,452 || style="text-align:right" | 27 || style="text-align:right" | 44 || style="text-align:right" | 265 ||
|-
! [[京都鉄道]]
| rowspan = "3" | 1907年8月1日 || style="text-align:right" | 22.2 哩 (35.7 km) || style="text-align:right" | 3,341 || style="text-align:right" | 5 || style="text-align:right" | 60 || style="text-align:right" | 100 ||
|-
! [[阪鶴鉄道]]
| style="text-align:right" | 70.3哩 (113.1km) || style="text-align:right" | 7,010 || style="text-align:right" | 17 || style="text-align:right" | 44 || style="text-align:right" | 260 ||
|-
! [[北越鉄道]]
| style="text-align:right" | 85.8哩 (138.1km) || style="text-align:right" | 7,777 || style="text-align:right" | 18 || style="text-align:right" | 74 || style="text-align:right" | 298 ||
|-
! [[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]
| rowspan = "4" | 1907年9月1日 || style="text-align:right" | 73.2 哩 (117.8 km) || style="text-align:right" | 12,871 || style="text-align:right" | 24 || style="text-align:right" | 121 || style="text-align:right" | 274 ||
|-
! [[房総鉄道]]
| style="text-align:right" | 39.4哩 (63.4km) || style="text-align:right" | 2,157 || style="text-align:right" | 9 || style="text-align:right" | 32 || style="text-align:right" | 95 ||
|-
! [[七尾鉄道]]
| style="text-align:right" | 34.4哩 (55.4km) || style="text-align:right" | 1,491 || style="text-align:right" | 4 || style="text-align:right" | 19 || style="text-align:right" | 77 ||
|-
! [[徳島鉄道]]
| style="text-align:right" | 21.5哩 (34.6km) || style="text-align:right" | 1,341 || style="text-align:right" | 5 || style="text-align:right" | 25 || style="text-align:right" | 46 ||
|-
! [[関西鉄道]]
| rowspan = "2" | 1907年10月1日 || style="text-align:right" | 275.2 哩 (442.9 km) || style="text-align:right" | 36,130 || style="text-align:right" | 121 || style="text-align:right" | 571 || style="text-align:right" | 1,273 ||
|-
! [[参宮鉄道]]
| style="text-align:right" | 26.1哩 (42.0km) || style="text-align:right" | 5,729 || style="text-align:right" | 10 || style="text-align:right" | 88 || style="text-align:right" | 74 ||
|-
|}<ref>[[青木栄一 (地理学者)|青木 栄一]]『鉄道の地理学』p.94 2008年 [[WAVE出版]] ISBN 978-4-87290-376-8</ref><!-- キロ程は『鉄道の地理学』所収の値と若干異なっているが、表組み以前に記載されていた値を優先してある -->
== その後の動き ==
[[1906年]](明治39年)5月、私鉄買収の準備を行なう臨時鉄道国有準備局が、逓信大臣の管下に設置された。同局は、買収完了後もしばらくの間存続し、廃止されたのは[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]発足後の[[1909年]](明治42年)7月末である。
私鉄の買収により、官設鉄道の現業部門である鉄道作業局の規模は一気に膨れあがった。私鉄から引き継がれた鉄道路線の延長は4,550km、未開業線292km、機関車1,118両、客車3,101両、貨車20,850両で、それまで官設鉄道が保有していた路線延長2,525km、機関車769両、客車1,832両、貨車10,821両を大きく上回っている。それらの受入れのため、1907年4月1日に鉄道作業局を帝国鉄道庁に改編した。
帝国鉄道庁では、各私鉄から引き継いだ膨大な人員を糾合したため、ポストの重複などによって余剰人員を抱えることとなったが、その一方で、私鉄の監督、許認可を行なっていた逓信省鉄道局においても、業務が激減する事態が生じた。そのため、両者を統合再編して体制の簡素化を図ることとなり、[[1908年]](明治41年)12月5日鉄道院が発足した。この際、鉄道院は逓信大臣の管轄から離れて、新たに総裁を置き、内閣の直轄となった。
各私鉄から引き継がれた雑多な車両は、国有化後もしばらくの間、私鉄時代の形式番号のまま使用された。旧鉄道作業局の車両を含めて、新たな形式番号体系が制定されるのは、買収開始から実に3年後の1909年(客車・貨車は1911年)のことである。蒸気機関車だけに限定しても、[[タンク機関車]]103形式、[[テンダー機関車]]84形式、あわせて187形式に及び、客車、貨車を含めると、実に膨大な作業であったことがわかる。この時制定された蒸気機関車の形式番号体系は、[[1928年]](昭和3年)に新たな体系が制定された後も併存し、現在に至るまで踏襲されている。
鉄道院発足直後の[[1910年]](明治43年)は、1両の機関車も製造されていない。これは一気に膨れあがった雑多な形式を抱え、それらの今後の処遇や、輸送計画を練るのに手一杯で、機関車の新製にまで手が回らなかった結果ではないかと想像されている。その後は、各車種にわたって標準型車両が制定され、雑多な少数形式の淘汰が推進されていった。
また、鉄道国有法公布後、今度は新たな私鉄の出願がほとんど無くなるという事態になった。これは、私鉄を監督する法律である[[私設鉄道法]]の条件が厳しいという背景もあったが、地域開発の観点から見ると問題があった。そのため、[[1910年]](明治43年)に鉄道開業に関する条文を相当簡略化した[[軽便鉄道法]]を制定した。その後、私設鉄道法に基づく私鉄の出願が全く無くなったため、[[1919年]](大正8年)には軽便鉄道法と私設鉄道法を廃止し、新たに[[地方鉄道法]]を制定、私鉄の監督はこの法に基づいて行われるようになった。
またこれとは別に、[[路面電車]]と同じ[[軌道法]]に準拠した郊外鉄道の敷設を目論む者も現れた。米国で当時流行していた[[インターアーバン]]を真似たもので、[[1905年]](明治38年)の[[阪神電気鉄道]]開業以後、全国に広まっていった。その中には、阪鶴鉄道の幹部が設立した[[箕面有馬電気軌道]](後の[[阪急電鉄]])のように、鉄道国有法によって会社を手放した資本家が出資を行ったものもあった。
[[1987年]](昭和62年)の[[国鉄分割民営化]]により、国有化された鉄道は結局80年ほどして民営に戻ることとなった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[鉄道記念物]] - 西園寺公望自筆の鉄道国有法案説明草稿 - 所蔵:[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]] - [[1962年]]指定
* [[日本の国有鉄道に編入された鉄道の一覧]]
* [[戦時買収私鉄]]
* [[北海道官設鉄道]]
* [[鉄道省#鉄道院|鉄道院]] - 鉄道国有化に伴い、逓信省鉄道作業局(鉄道事業体)と逓信省鉄道局(監督官庁)を統合して発足
* [[日本国有鉄道]]
* [[国鉄]] - 同時期に各国で進んだ鉄道の国営・国有化やその経営形態について
* [[国鉄分割民営化]]
* [[客車略図]]
== 外部リンク ==
{{Wikisource-inline}}
* [https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m39_1906_01.html 鉄道国有法公布時の閣議書(公文書による日本の歩み)](追加15私鉄に抹消線が引かれているのがわかる)
{{日本の鉄道史}}
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[[Category:廃止された日本の法律]]
[[Category:日本の鉄道関連法規]]
[[Category:日本の鉄道史]]
[[Category:日本国有鉄道|法てつとうこくゆうほう]]
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6,434 | 四神相応 | 四神相応()は、東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応()ともいう。なお四神の中央に黄竜や麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や朝鮮と日本では大きく異なっている。
中国や韓国における風水の四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水()が配置されている背山臨水の地を、左右から砂()と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。
日本の平安京においても、北の丹波高地を玄武、東の大文字山を青龍砂、西の嵐山を白虎砂、南にあった巨椋池を朱雀とする対応付けが可能で、背山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から正しく京都は四神相応の地であった。ただし巨椋池が完全に干拓されてしまったために、現代では平安京は朱雀を失っている。なお平安京大内裏北方にある船岡山は玄武とするには低山に過ぎ、現代中国の風水の観点に立つと、船岡山は玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰と解釈される。
なお、中国元代に編集された家政全書である『居家必要事類』には『周書秘奥営造宅経』が収められており、そこには宅地の撰地条件として
一 屋宅舎。欲左有流水。謂之青龍。右有長道。謂之白虎。前有洿池。謂之朱雀。後有丘陵。謂之玄武。為最貴地。(屋宅は舎。左に流水有るを欲す。これを青龍と謂う。右に長道有り。これを白虎と謂う。前に洿池有り。これを朱雀と謂う。後ろに丘陵有り。これを玄武と謂う。最も貴地と為す。)
とある。これは後に述べる「四神=山川道澤」説と同じであり、この説が中国由来であることを明瞭に示す。なお、ここに朱雀を「洿池」即ち「溜め池」とすることは宅地からの水溜めを示していて、これらが住宅の敷地の撰地に限定していることに留意すべきである。さらに敦煌文書『司馬頭陀地脈訣』の中に
凡居宅、左青龍、東有南流水。是左青龍。右白虎、西大道。是右白虎。前朱雀、南有洿池。是前朱雀。後玄武、北有大丘陵。是玄武。(およそ居宅、左青龍、東に南流する水あり。これ左青龍なり。右白虎は西に大道あり。これ右白虎なり。前朱雀は南に洿池あり。これ前朱雀なり。後玄武は北に大丘陵あり。これ玄武なり。)
とある。この文書は出自から唐の頃のものと考えられる。これらは『周書秘奥営造宅経』と同じく住宅に関する四神である。
現代の日本では、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武が四神(四禽)として考えられ、次表のように四神を「山川道澤」にそれぞれ、青龍を川、白虎を道、朱雀を池(沢)、玄武を山と対応させる解釈が一般に流布している。
この解釈が一般的となったのは、古く平城京・平安京は四神相応の都とされ、また、平安時代から江戸時代にかけての書物に、平安京をモデルとして四神のことや山川道澤のことが見え、さらには具体的地名に充てる説が示されることによる。 これにより、近年、山川道澤説に従って具体的に地理的に比定する試みが近年盛んになっている。
四神(四禽)については、中国の天文学により、天空の四方に見える主な28の星を 二十八宿と名づけ、その星をつないだ形について、東が龍、南が鳥、西が虎、北が亀に見えるというところから起こった。 四神思想は中国からもたらされたものであるが、四神に地形を相応させる思想は日本特有のもので、中国には見られないという説もある。
平安京については、東・青龍を鴨川に、西・白虎を山陰道、南・朱雀を巨椋池、北・玄武を船岡山に、それぞれ充てる説が昭和50年ごろから村井康彦らにより広められ、現在ではこれが定説になった感がある。
これに対して足利健亮は、西白虎・大道を平安京西辺に沿って設けられたとする「木島大路(木嶋大路)」、南朱雀・沢畔は下鳥羽付近の遊水池、あるいは横大路付近にある土地(字朱雀)との説を提唱した。別に、目崎茂和は、青龍=鴨川、白虎=双ヶ丘もしくは西山、山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山・北山という説を述べた上で、「都を守る風水の目はいくつもあっていいし、多様に考えてみて」と話しており、複数の四神と思しきポイントが学者や風水研究家から提出されている。
一方、四神を山川道澤に当てはめる説に対しては、異論も唱えられている。黄永融は、風水説である「天心十道」が当てはまると考えており、平安京は、船岡山・大文字山・西山・甘南備山(在 京田辺市)を四神として、その交差点に大極殿を建てたという説を立てたが、中国哲学研究者で風水・易学についても著作のある三浦国雄はこの説に否定的な見解を述べている。平安京の「四神=山川道澤」説に対する批判として、歴史考古学研究者である加藤繁生は、平安京四神相応説に疑問を呈しつつ、仮にそうであってもそれが山川道澤であったはずはなく中国起源の都市風水に則り「三閉南開」といえる地形であったとし、「三閉」を京都盆地の東、北、西の三方を囲む山(東山・北山・西山)ではないかとしている。
また、四神相応によって京都が建都されたという思想は、福原遷都の際に遷都批判の理由付けとして成立したものとの指摘や、平安京における四神と山川道澤との対応の典拠は建都から時代を下った平安後期成立の『作庭記』であり、また、『作庭記』は寝殿造を念頭においた理想の庭園作りの作法を解説するものという性格上、平安京についての言及はなく、ましてや平安京のどこが山川道澤のどれと対応しているかといった具体的地名などが記されているわけではないことが指摘される。 『作庭記』の「四神=山川道澤」による「宅地風水」とは別物である「都市風水」により平安京選地がなされただろうという説に立てば、平安京の四神が「山川道澤」を表象し、それぞれに具体的地形を当て嵌めていたという考え方は、当然相容れないことになる。
一方、『作庭記』よりも古い、1058年頃の成立といわれる『雲州消息』に、四神を山川道澤に対応させる考えが記されており四神相応思想は平安中期には成立していたとの指摘や、また、天長5年(828年)の日付がある空海の「綜芸種智院式」に、綜芸種智院の立地について「兌白虎大道。離朱雀小澤。」との記載があることなどから、四神を山川道澤を対応させる考え方そのものは平安建都前後には成立していたとする見方もある。
そもそも平安京について、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあるものの、四神相応の地として選地されたことは、『日本紀略』に示される平安遷都の詔において「云々」と略された部分に記されたかもしれないが、史書には現れない。 だが、古墳時代後期の高松塚古墳、キトラ古墳には四神図、星宿図があり、平安京に先立つ平城京では、その建都にあたっての詔勅に「四禽図に叶い」と四神相応の地であると考えられていた。
平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらないが、このような現在考えられる平安京での四神と山川道澤との対応とは場所によって異なる対応の「四神相応」が、平泉の毛越寺の古鐘銘の例などにみられるように、平安京建都や『作庭記』の成立以降の鎌倉時代においても存在したことを示している。
このように日本における四神相応の解釈は古代から近世にかけて独自に変化し、現在のものとなったと考えられる。
鎌倉時代の『吾妻鏡』嘉禄元年十月廿日丁未条によれば、朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と、奈良興福寺の僧で法印であった珍誉との間で鎌倉幕府の御所の移転先をめぐって論争があったが、珍誉は『作庭記』にある山川道澤の四神相応を採用して『若宮大路』を四神相応の地として推している。北条泰時の鎌倉幕府は珍誉の説を採用して嘉禄元年(1225年)に御所を若宮大路に移転させた。珍誉の言は以下のように記録されている。
若宮大路者、可謂四神相応勝地也。西者大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、可准池沼云々。
(大意)若宮大路は四神相応の勝地というべきである。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛えており、池沼に准ずべきである云々。
このように朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と珍誉との間で論争があったということは、朝廷の陰陽寮では山川道澤の四神相応は採用されていなかったことを示唆している。
近世の城について、江戸城は菊池弥門の『柳営秘鑑』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記される一方、地形をもって「四神=山川道澤」説に合致しているとは言い難く、姫路城や福山城、熊本城などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。
名古屋城については、『金城温古録』では「四神相応の要地の城」とされ、四神相応の考え方が城地選定の一つの要因として考慮されていたと考えられるが、四神相応は山川道澤とは明らかに異なっている。このことは、少なくともこの時期には、四神相応が単に好い土地であることの言い換えに過ぎなかった可能性を示す。
また古代中国の風水では特定の方位について固定した吉凶をとる考えはなく、鬼門・裏鬼門を忌むのは日本独自の考え方である。その点で、大宰府の鬼門を護るために大宰府建設時に竈門神社が創建されたという『竈門山旧記』の記述から「鬼門」という概念の出現する前提としての「風水」が大宰府の都市計画(北の大野山(大城山)を玄武、東の御笠川を青龍、西の西海道を白虎、南の田園及び二日市温泉を朱雀とする)が立てられた時に存在したという主張は確かなものではない。
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"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "そもそも平安京について、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあるものの、四神相応の地として選地されたことは、『日本紀略』に示される平安遷都の詔において「云々」と略された部分に記されたかもしれないが、史書には現れない。 だが、古墳時代後期の高松塚古墳、キトラ古墳には四神図、星宿図があり、平安京に先立つ平城京では、その建都にあたっての詔勅に「四禽図に叶い」と四神相応の地であると考えられていた。",
"title": "日本"
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"paragraph_id": 17,
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"text": "平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらないが、このような現在考えられる平安京での四神と山川道澤との対応とは場所によって異なる対応の「四神相応」が、平泉の毛越寺の古鐘銘の例などにみられるように、平安京建都や『作庭記』の成立以降の鎌倉時代においても存在したことを示している。",
"title": "日本"
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"text": "このように日本における四神相応の解釈は古代から近世にかけて独自に変化し、現在のものとなったと考えられる。",
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"text": "鎌倉時代の『吾妻鏡』嘉禄元年十月廿日丁未条によれば、朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と、奈良興福寺の僧で法印であった珍誉との間で鎌倉幕府の御所の移転先をめぐって論争があったが、珍誉は『作庭記』にある山川道澤の四神相応を採用して『若宮大路』を四神相応の地として推している。北条泰時の鎌倉幕府は珍誉の説を採用して嘉禄元年(1225年)に御所を若宮大路に移転させた。珍誉の言は以下のように記録されている。",
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"text": "若宮大路者、可謂四神相応勝地也。西者大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、可准池沼云々。",
"title": "日本"
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"text": "(大意)若宮大路は四神相応の勝地というべきである。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛えており、池沼に准ずべきである云々。",
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"text": "このように朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と珍誉との間で論争があったということは、朝廷の陰陽寮では山川道澤の四神相応は採用されていなかったことを示唆している。",
"title": "日本"
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"text": "近世の城について、江戸城は菊池弥門の『柳営秘鑑』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記される一方、地形をもって「四神=山川道澤」説に合致しているとは言い難く、姫路城や福山城、熊本城などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。",
"title": "日本"
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"text": "名古屋城については、『金城温古録』では「四神相応の要地の城」とされ、四神相応の考え方が城地選定の一つの要因として考慮されていたと考えられるが、四神相応は山川道澤とは明らかに異なっている。このことは、少なくともこの時期には、四神相応が単に好い土地であることの言い換えに過ぎなかった可能性を示す。",
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"text": "また古代中国の風水では特定の方位について固定した吉凶をとる考えはなく、鬼門・裏鬼門を忌むのは日本独自の考え方である。その点で、大宰府の鬼門を護るために大宰府建設時に竈門神社が創建されたという『竈門山旧記』の記述から「鬼門」という概念の出現する前提としての「風水」が大宰府の都市計画(北の大野山(大城山)を玄武、東の御笠川を青龍、西の西海道を白虎、南の田園及び二日市温泉を朱雀とする)が立てられた時に存在したという主張は確かなものではない。",
"title": "日本"
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"text": "",
"title": "日本"
}
] | 四神相応は、東アジア・中華文明圏において、大地の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相のことをいう。四地相応ともいう。なお四神の中央に黄竜や麒麟を加えたものが「五神」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、中国や朝鮮と日本では大きく異なっている。 | {{出典の明記|date=2015年7月26日 (日) 17:48 (UTC)}}
[[画像:DatongJiulongBi.jpg|thumb|300px|九龍壁の黄竜([[紫禁城]])]]
[[画像:QingQilin.jpg|thumb|300px|[[頤和園]]にある麒麟像]]
[[画像:Longshan Temple - Fenghuang.jpg|thumb|300px|台湾、[[艋舺龍山寺]]の鳳凰]]
[[画像:Asuka Byako.JPEG|thumb|300px|白虎([[高松塚古墳]]の壁画)]]
[[画像:Yangshan Quarry connector road - marker - Black Tortoise - P1060798.JPG|thumb|300px|亀に蛇が巻き付いた形で描かれる玄武([[南京明文化村・陽山碑材|南京明文化村]])]]
<!--
[[画像:Kamado shrine 01.JPG|thumb|300px|竈門神社(福岡県太宰府市)]]
-->
{{読み仮名|'''四神相応'''|しじんそうおう}}は、[[東アジア]]・[[中華文明]]圏において、大地の四方の[[方位|方角]]を司る「[[四神]]」の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた[[地勢]]や[[地相]]のことをいう。{{読み仮名|'''四地相応'''|しちそうおう}}ともいう。なお[[四神]]の中央に[[黄竜]]や[[麒麟]]を加えたものが「[[五神]]」と呼ばれている。ただし現代では、その四神と現実の地形との対応付けについて、[[中国]]や[[朝鮮]]と日本では大きく異なっている。
== 中国・朝鮮 ==
中国や韓国における[[風水]]の四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の{{読み仮名|水|すい}}が配置されている背山臨水の地を、左右から{{読み仮名|砂|さ}}と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が[[玄武]]、前方の水が[[朱雀]]、玄武を背にして左側の砂が[[青龍]]、右側が[[白虎]]である。
日本の[[平安京]]においても、北の[[丹波高地]]を玄武、東の[[大文字山]]を青龍砂、西の[[嵐山]]を白虎砂、南にあった[[巨椋池]]を朱雀とする対応付けが可能で、背山臨水を左右から砂で守るという風水の観点から正しく[[京都]]は四神相応の地であった。ただし巨椋池が完全に干拓されてしまったために、現代では平安京は朱雀を失っている。なお平安京大内裏北方にある[[船岡山]]は玄武とするには低山に過ぎ、現代中国の風水の観点に立つと、船岡山は玄武を伝ってやってくる山龍が目指す星峰と解釈される。<ref>高藤 聡一郎『仙道風水術 尋竜の法』ISBN 4054003974<br />
本書の平安京の風水についての解説は、1994年6月5日にNHK総合で放送された『よみがえる平安京』のダイジェストとなっている。</ref>
なお、中国元代に編集された家政全書である『居家必要事類』には『周書秘奥営造宅経』が収められており、そこには宅地の撰地条件として
<blockquote>
一 屋宅舎。欲左有流水。謂之青龍。右有長道。謂之白虎。前有洿池。謂之朱雀。後有丘陵。謂之玄武。為最貴地。(屋宅は舎。左に流水有るを欲す。これを青龍と謂う。右に長道有り。これを白虎と謂う。前に洿池有り。これを朱雀と謂う。後ろに丘陵有り。これを玄武と謂う。最も貴地と為す。)
</blockquote>
とある。これは後に述べる「四神=山川道澤」説と同じであり、この説が中国由来であることを明瞭に示す。なお、ここに朱雀を「洿池」即ち「溜め池」とすることは宅地からの水溜めを示していて、これらが住宅の敷地の撰地に限定していることに留意すべきである。さらに敦煌文書『司馬頭陀地脈訣』の中に
<blockquote>
凡居宅、左青龍、東有南流水。是左青龍。右白虎、西大道。是右白虎。前朱雀、南有洿池。是前朱雀。後玄武、北有大丘陵。是玄武。(およそ居宅、左青龍、東に南流する水あり。これ左青龍なり。右白虎は西に大道あり。これ右白虎なり。前朱雀は南に洿池あり。これ前朱雀なり。後玄武は北に大丘陵あり。これ玄武なり。)
</blockquote>
とある。この文書は出自から唐の頃のものと考えられる<ref>この文書の末尾には「謹議三教不斉論 劉晏述」とあり、あるいはこれが[[空海]]が我が国に齎した「三教不斉論」と同じものではないかと考えられている(牧田諦亮『劉晏の三教不斉論について』1961)。[[劉晏]](715〜780)は唐の政治家で、安録山の乱以降の唐の財政を立て直した人物。</ref>。これらは『周書秘奥営造宅経』と同じく住宅に関する四神である。
==日本==
[[画像:Heiankyo overall model.jpg|thumb|300px|平安京復元模型([[京都市平安京創生館]]で撮影)]]
[[画像:Heian Shrine 01.jpg|thumb|300px|平安京を再現した神社『[[平安神宮]]』、四神相応の理論のもとに建つ(京都市左京区)]]
現代の日本では、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武が四神(四禽)として考えられ、次表のように四神を「山川道澤」にそれぞれ、青龍を川、白虎を道、朱雀を池(沢)、玄武を山と対応させる解釈が一般に流布している。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!方位!!四神!!地勢!!色!![[季節]]
|- style="background-color:#CFD"
|東||[[青龍]]||川/流水||青||春
|- style="background-color:#FFF"
|西||[[白虎]]||道/大道||白||秋
|- style="background-color:#FDC"
|南||[[朱雀]]||沢/湖沼||朱||夏
|- style="background-color:#CCC"
|北||[[玄武]]||山/丘陵||玄||冬
|}
この解釈が一般的となったのは、古く[[平城京]]・平安京は四神相応の都とされ、また、平安時代から江戸時代にかけての書物に、平安京をモデルとして四神のこと<ref>平安京四神相応説は鎌倉時代成立の『[[平家物語]]』が初出。そこには「此の地の体を見候うに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都を定むるに足れり」とのみあり、ここに四神を具体的形象に充てる説明はない。{{harvp|加藤|2016|p=213}}</ref>や山川道澤のこと<ref>平安京の四神を山川道澤に結びつける説の初出は[[正和]]3年(1314年)の奥書を持つ『聖徳太子平氏伝雑勘文』。この書は延喜17年(917年)成立の『聖徳太子伝歴(聖徳太子平氏伝)』の解説書でそこに山城国葛野の地形を「南開北塞、陽南陰北、河徑其前、東流成順」とあるのを解説して「左青竜は東より水南に流るなり。前朱雀は南に池溝あるなり。右白虎は西に大道あるなり。後ろ玄武は山岳あるなり。之をいう、四神具足の地と」と記す。{{harvp|加藤|2016|p=217}}</ref>が見え、さらには具体的地名に充てる説<ref>四神を鴨川等具体的地名に宛てる説は、[[江戸時代]]の地誌『山城名所寺社物語』([[享保]]元年)で「左青竜は加茂川なり。今の千本通り是右白虎なり」と二神のみ明示するのが最も古い。四神すべてを地名に比定するのは現在のところ昭和24年([[1949年]])発行の日本古典全書『平家物語』(朝日新聞)の頭注(冨倉徳次郎)に「宇多村の地勢の、東賀茂川、西大通、南鳥羽の田地、北比叡山のあるところから、四神相応の地と言った」とあるのが最も古く<!--古いものを見つけたら書き換えて行って下さい。-->、現在の通説「山=船岡山・川=鴨川・道=山陰道・澤=巨椋池」は、[[1974年]]の矢野貫一『京都歴史案内』(講談社)に初めて現れる。{{harvp|加藤|2016|p=219-220}}</ref>が示されることによる。
これにより、近年、山川道澤説に従って具体的に地理的に比定する試みが近年盛んになっている。
四神(四禽)については、中国の天文学により、天空の四方に見える主な28の星を 二十八宿と名づけ、その星をつないだ形について、東が龍、南が鳥、西が虎、北が亀に見えるというところから起こった<ref>江戸時代の「[[都名所図会]]」『四神相応の地』の項に「四神といふは、東を蒼龍、西を白虎、南を朱雀、北を玄武となづけて、四方にかくの如きの鬼神の象ありと思ふは非なり。本(もと)天の二十八宿を四ツ割りにして、七星づつを四方に配して、其星の象より起る名なり。‥‥。〔割註〕東涯制度通取意。」とあり、山川道澤説には全く触れない。</ref>。
四神思想は中国からもたらされたものであるが、四神に地形を相応させる思想は日本特有のもので、中国には見られないという説もある<ref>{{cite|和書|last=目崎|first=茂和|authorlink=目崎茂和|title=図説風水学|place=東京|publisher=東京書籍|year=1998|page=170-175}}</ref>。
=== 平安京 ===
平安京については、東・青龍を[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]に、西・白虎を[[山陰道]]、南・朱雀を[[巨椋池]]、北・玄武を[[船岡山]]に、それぞれ充てる説が昭和50年ごろから[[村井康彦]]らにより広められ{{Sfnp|加藤|2016}}、現在ではこれが定説になった感がある<ref>現在では、「西 大道」を奈良期にはここを通っていなかった山陰道に宛てるのには異論があり、また「北 高山」を船岡山に充てるのも低山に過ぎ、冬季に冠雪を見せる北山に当てる説がある。また「南 沢畔」を下鳥羽の遊水池([[鳥羽離宮]]の地)とする案がある。巨椋池は遠すぎるため無理があることを論拠としている。{{harvp|加藤|2016|p=218}}</ref>。
これに対して[[足利健亮]]は、西白虎・大道を平安京西辺に沿って設けられたとする「木島大路(木嶋大路)」<ref>この道(木島大路あるいは木嶋大路)は、史料的にも考古学的にも確認されていない。</ref>、南朱雀・沢畔は下鳥羽付近の遊水池、あるいは横大路付近にある土地(字朱雀)<ref>足利健亮の指摘によれば下鳥羽のやや南方の横大路には「朱雀」という小字名が遺る(平安京朱雀大路の南延長線上に当たる)。</ref>との説を提唱した<ref>{{cite|和書|last=足利|first=健亮|year=1997|chapter=平安京計画と四神の配置|title=景観から歴史を読む:地図を解く楽しみ|series=NHK人間大学|publisher=日本放送出版協会|page=31-41}}</ref>。別に、[[目崎茂和]]は、青龍=鴨川、白虎=[[双ヶ丘]]もしくは[[西山]]、山陰道、朱雀=巨椋池、玄武=船岡山・[[北山]]という説を述べた上で、「都を守る風水の目はいくつもあっていいし、多様に考えてみて」と話しており<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20070513052407/https://www.kyoto-np.co.jp/kp/special/omoshiro/shikake17_01.php|type=html|title=京都新聞 2006年1月29日掲載の記事「京の風水」|accessdate=2023-1-1}}</ref>、複数の四神と思しきポイントが学者や風水研究家から提出されている。
一方、四神を山川道澤に当てはめる説に対しては、異論も唱えられている。[[黄永融]]は、風水説である「天心十道」が当てはまると考えており、平安京は、船岡山・大文字山・西山・甘南備山(在 京田辺市)を四神として、その交差点に大極殿を建てたという説を立てた<ref>{{cite|和書|author=黄永融|title=風水都市:歴史都市の空間構成|publisher=学芸出版社|year=1999|page=103-104|}}</ref><ref> [https://web.archive.org/web/20060614021542/http://mkcr.jp/archive/041019.html (この説の図)] </ref>が、中国哲学研究者で風水・易学についても著作のある[[三浦国雄]]はこの説に否定的な見解を述べている<ref>{{cite|和書|last=三浦|first=国雄|suthorlink=三浦国雄|title=風水・中国人のトポス|year=1995|publisher=平凡社ライブラリー|isbn=4582761054}}</ref>。平安京の「四神=山川道澤」説に対する批判として、歴史考古学研究者である加藤繁生は、平安京四神相応説に疑問を呈しつつ、仮にそうであってもそれが山川道澤であったはずはなく中国起源の都市風水に則り「三閉南開」といえる地形であったとし、「三閉」を京都盆地の東、北、西の三方を囲む山(東山・北山・西山)ではないかとしている{{Sfnp|加藤|2016}}。
また、四神相応によって京都が建都されたという思想は、福原遷都の際に遷都批判の理由付けとして成立したものとの指摘<ref>{{cite|和書|last=田中|first=貴子|title=安倍晴明の一千年|place=東京|publisher=講談社|year=2003|page=82-107}}</ref>や、平安京における四神と山川道澤との対応の典拠は建都から時代を下った平安後期成立の『[[作庭記]]』であり、また、『作庭記』は[[寝殿造]]を念頭においた理想の庭園作りの作法<ref>『作庭記』における「四神=山川道澤」の対応は『周書秘奥営造宅経』にも同様の記述があり、『作庭記』のこの部分は中国から請来された書物から引用されたと推測される。また、『簠簋内伝』では、四神としての山川道澤がない場合に、特定の種類の樹木を特定の本数植えることで「四神=山川道澤」の代用となることを説いている。</ref>を解説するものという性格上、平安京についての言及はなく、ましてや平安京のどこが山川道澤のどれと対応しているかといった具体的地名などが記されているわけではないことが指摘される{{Sfnp|加藤|2016}}。<!--今後は、『作庭記』が参考にしたに違いない中国の文献を探し出し、それが我が国に齎された時期を明らかにすることが必要であろう。その上で、造宅や造園の四神が都の選地の四神になぜ援用されたのかそのプロセスと時期を明らかにする必要もある。-->
『作庭記』の「四神=山川道澤」による「宅地風水」とは別物である「都市風水」により平安京選地がなされただろうという説に立てば、平安京の四神が「山川道澤」を表象し、それぞれに具体的地形を当て嵌めていたという考え方は、当然相容れないことになる。<!--都には諸国から大道が通ずるべきなのに「西大道」一本でいいとする山川道澤説が都市の風水として不適当なのは明らかであろう{{Sfnp|加藤|2016}}。京都が四神相応の地であったというのはさておき、船岡山・鴨川・巨椋池・山陰道などを挙げて平安遷都を論じることには全く根拠がないとすべきである。以上のように、仮に平安遷都の際に四神相応が唱えられたとしても、その内に山川道澤がイメージされていたか不明である限り、学者たちがその比定に躍起になること自体、不毛の論議と言える。-->
一方、『作庭記』よりも古い、[[1058年]]頃の成立といわれる『雲州消息』に、四神を山川道澤に対応させる考えが記されており四神相応思想は平安中期には成立していたとの指摘や<ref>{{cite|和書|last=繁田|first=信一|authorlink=繁田信一|title=陰陽師と四神相応の地相|journal=本郷|volume=第65号|publisher=東京:吉川弘文館|date=2006-9|page=18-21}}</ref>、また、[[天長]]5年([[828年]])の日付がある[[空海]]の「綜芸種智院式」に、綜芸種智院の立地について「兌白虎大道。離朱雀小澤。」との記載があることなどから、四神を山川道澤を対応させる考え方そのものは平安建都前後には成立していたとする見方もある{{Sfnp|多ヶ谷|2007}}。
そもそも平安京について、選地の際に僧を伴っているから風水も選地理由のひとつであった可能性はあるものの、四神相応の地として選地されたことは、『[[日本紀略]]』に示される平安遷都の詔<ref>「十一月丁丑。詔。云々。山勢実合前聞。云々。此国山河襟帯、自然作城。因斯形勝、可制新号。宜改山背国、為山城国。又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号曰平安京。又近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下。可追昔号改称大津。云々。」(『[[日本紀略]]』延暦十三年の条)[http://gauss0.livedoor.blog/archives/4046917.html]</ref>において「云々」と略された部分に記されたかもしれないが、史書には現れない。
だが、[[古墳時代]]後期の[[高松塚古墳]]、[[キトラ古墳]]には四神図、星宿図があり、平安京に先立つ平城京では、その建都にあたっての詔勅<ref>「方今、平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従。(方に今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しずめ)を作(な)し、亀筮並に従ふ。)」(『[[日本書紀]]』[[和銅]]元年([[708年]])2月戊寅の詔)「四禽」は四つの動物、すなわち四神のこと。</ref>に「四禽図に叶い」と四神相応の地であると考えられていた。
平城京の立地は、平安京で説かれるような山川道澤にはあてはまらない<ref><!--「四禽図に叶ひ」あるいは「四神相応の地」というのに具体性はなく単なる美辞麗句かもしれず、また-->「三山鎮を作し」とあるところを見ると平城京の東西と北にある丘陵地を指すと考えられ、四神の内少なくとも三神は丘陵地のことであったとも解せられる一方で、それを四神相応とする以上、別の解釈がとられていたことになる。</ref>が、このような現在考えられる平安京での四神と山川道澤との対応とは場所によって異なる対応の「四神相応」が、平泉の[[毛越寺]]の古鐘銘の例<ref>右白虎には道ではなく「有大沢」となっており、前朱雀は沢畔ではなく「有森」であるなど。{{cite|和書|author=前川佳代|title=平泉の苑池 ―都市平泉の多元性―|journal=平泉文化研究年報|volume=第1号|place=盛岡|publisher=岩手県教育委員会|year=2001|page=59-70}}</ref>など<ref>平城京は、[[鎌倉時代]]後期の『詞林采葉抄』では「その中山を玄武に当て、貴人金爐を朱雀に当て、…」とあり、朱雀に「貴人金鳥」が対応付けられていることがわかる。</ref>にみられるように、平安京建都や『作庭記』の成立以降の鎌倉時代においても存在したことを示している{{Sfnp|多ヶ谷|2007}}。<!--すなわち、平安京の場合と異なる四神と地整との対応であることをもって「四神相応」の思想による選地・作城を否定する根拠とはならないといえる。-->
このように日本における四神相応の解釈は古代から近世にかけて独自に変化し、現在のものとなったと考えられる。
=== 平安京以外の都市 ===
{{出典の明記|section=1|date=2023年1月}}
{{参照方法|section=1|date=2023年1月}}
{{独自研究|section=1|date=2023年1月}}
[[鎌倉時代]]の『[[吾妻鏡]]』嘉禄元年十月廿日丁未条によれば、朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と、奈良興福寺の僧で法印であった[[珍誉]]との間で鎌倉幕府の御所の移転先をめぐって論争があったが、珍誉は『作庭記』にある山川道澤の四神相応を採用して『若宮大路』を四神相応の地として推している。北条泰時の鎌倉幕府は珍誉の説を採用して嘉禄元年(1225年)に御所を若宮大路に移転させた。珍誉の言は以下のように記録されている。
<blockquote>
若宮大路者、可謂四神相応勝地也。西者大道南行、東有河、北有鶴岳、南湛海水、可准池沼云々。
(大意)若宮大路は四神相応の勝地というべきである。西は大道が南行し、東に河有り、北に鶴岳有り、南に海水を湛えており、池沼に准ずべきである云々。
</blockquote>
このように朝廷から派遣されていた安倍国道以下七人陰陽師と珍誉との間で論争があったということは、朝廷の[[陰陽寮]]では山川道澤の四神相応は採用されていなかったことを示唆している<ref>山川道澤の四神相応が[[8世紀]]後葉に建設された平安京選地の思想的背景であるとの前提に立った主張については今のところ裏付けがないことに留意が必要である。</ref>。
近世の城について、[[江戸城]]は菊池弥門の『[[柳営秘鑑]]』によれば、「風此江戸城、天下の城の格に叶ひ、其土地は四神相応に相叶ゑり」と記される一方、地形をもって「四神=山川道澤」説に合致しているとは言い難く<ref>「四神=山川道澤」説を採用するとすれば、どう贔屓目にみても朱雀となりそうな[[東京湾]]は東から南東を経て南への広りがあるわけだし、白虎となりそうな[[甲州街道]]も単に西に延びているだけである。(珍誉のいう山川道澤の四神相応では、西の大道は南行している必要がある。)</ref>、[[姫路城]]や[[福山城 (備後国)|福山城]]<ref>[[西国街道]]は東から西に伸びているわけで、これを白虎として[[瀬戸内海]]を朱雀とするなら西国街道沿いには四神相応でない場所の方が少ないであろう。</ref>、[[熊本城]]などを「山川道澤」の四神相応とするもの同様に後世に創られた解釈である。
[[名古屋城]]については、『[[金城温古録]]』では「四神相応の要地の城」とされ、四神相応の考え方が城地選定の一つの要因として考慮されていたと考えられるが、四神相応は山川道澤とは明らかに異なっている<ref>「名府御城の如きは、道を四道に開かれて、四方より人民輻湊する事、恰も天下の城の如く十里に嶮地を置き、東は山、南は海、西北は木曾川あり、その中間、三五里を隔て要害設し給ふ(中略)、先は東は八事山の砦柵、西は佐屋、清州の陣屋(中略)、城、場、郭の三を備へ、四神相応の要地の城とは、これを申奉るなるべし」と記述されている。</ref>。このことは、少なくともこの時期には、四神相応が単に好い土地であることの言い換えに過ぎなかった可能性を示す。
また古代中国の風水では特定の方位について固定した吉凶をとる考えはなく、[[鬼門]]・裏鬼門を忌むのは日本独自の考え方である。その点で、[[大宰府]]の鬼門を護るために[[大宰府]]建設時に[[竈門神社]]が創建されたという『竈門山旧記』の記述から「鬼門」という概念の出現する前提としての「風水」が大宰府の都市計画(北の大野山(大城山)を玄武、東の[[御笠川]]を青龍、西の[[西海道]]を白虎、南の田園及び[[二日市温泉 (筑紫野市)|二日市温泉]]を朱雀とする)が立てられた時に存在したという主張は確かなものではない。
<!--
==== 現代の日本で一般に流布している説の例 ====
<table border="1">
<tr><td>方角</td><th>東</th><th>西</th><th>南</th><th>北</th><th>北東</th><th>南西</th>
<tr><td>四神</td><th>青龍</th><th>白虎</th><th>朱雀</th><th>玄武</th><th>鬼門</th><th>裏鬼門</th>
<tr><th>[[平安京]]</th><td>[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]</td><td>[[山陰道]]</td><td>[[巨椋池]]<br />(おぐらいけ)</td><td>[[船岡山]]</td><td>[[比叡山]]<br />[[比叡山延暦寺|延暦寺]]</td><td>[[城南宮]]・<br />[[石清水八幡宮]]</td>
<tr><th>[[大宰府]]</th><td>[[御笠川]]</td><td>[[西海道]]</td><td>[[二日市温泉 (筑紫野市)|二日市温泉]]</td><td>[[四王寺山]]<br />([[大城山]])</td><td>[[宝満山]]<br />[[竈門神社]]</td><td>[[杉塚廃寺]]</td>
<tr><th>[[平泉舘]]<br />(ひらいずみのたち)</th><td>[[北上川]]</td><td>[[奥の大道]]</td><td>[[大泉が池]]</td><td>[[関山]][[中尊寺]]</td><td> </td><td> </td>
<tr><th>[[鎌倉]]</th><td>[[滑川]]・[[逆川]]</td><td>[[東海道]]</td><td>[[相模湾]]</td><td>[[十王岩]]</td><td>[[永福寺跡]]</td><td>[[高徳院]]・[[成就院]]</td>
<tr><th>[[漢陽]]</th><td>[[漢江]]<br />(ハンガン)</td><td>(街道)</td><td>漢江</td><td>[[白岳山]](ペガクサン)</td><td> </td><td> </td>
<tr><th>[[江戸]]・<br />[[江戸城]]</th><td>[[平川]]</td><td>[[甲州街道]]</td><td>江戸湾<br />(現在の[[東京湾]])</td><td>[[麹町台地]]<br />・[[上野山]]</td><td>[[寛永寺]]・<br />[[神田明神]]</td><td>[[増上寺]]・<br />日吉山王社([[日枝神社]])</td>
<tr><th>[[姫路城]]</th><td>[[市川 (兵庫県)|市川]]</td><td>[[西国街道]]・<br />([[山陽道]])</td><td>[[瀬戸内海]]</td><td>[[広峰山]]</td><td>[[長壁神社]]・<br />[[十二所神社 (姫路市)|十二所神社]]</td><td>[[景福寺]]</td>
<tr><th>[[福山城 (備後国)|福山城]]</th><td>吉津川<br />(薬師川)</td><td>[[西国街道]]・<br />([[山陽道]])</td><td>[[瀬戸内海]]</td><td>松廼尾山</td><td>艮神社・<br />観音寺</td><td>能満寺</td>
<tr><th>[[熊本城]]</th><td>[[白川 (熊本県)|白川]]</td><td>[[薩摩街道]]</td><td>[[加勢川]]〜[[江津湖]]の湿地</td><td>京町台地</td><td>[[藤崎宮]]周辺の社寺群</td><td>新町界隈の社寺群</td>
</table>
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==現代に残る四神相応の例==
[[ファイル:Chirashi-zushi.jpg|thumb|300px|ちらし寿司]]
*[[大相撲]] - [[土俵]]上にある4つの色分けされた房は元来方屋の屋根を支えた4柱の名残であり四神を表している。
*[[ちらし寿司]] - 四色の具材で四神または[[四季]]、五色([[五行]])の具材で[[宇宙]]を表現しているといわれる。
==脚注==
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{{Reflist|3}}
==参考文献==
* 『日本史年表・地図』[[吉川弘文館]]、[[2007年]]
* 井上満郎『平安京と風水―宮都設定原理と風水思想の関係』 「日本社会の史的構造 古代中世」所収 思文閣出版、1997年
* 寺本健三『「営造宅経」和訳(その1)』 史迹美術同攷会「史迹と美術」第804号所収
* 寺本健三『敦煌文書「司馬頭陀地脈訣」和訳』 史迹美術同攷会「史迹と美術」第832,833号所収
* {{Cite|和書|last=加藤|first=繁生|title=「京都検定」を検定する(一)「四神相応の都」|journal=史迹と美術|publisher=史迹美術同攷会|volume=867|page=212-222|date=2016-8-28|ISSN=0386-9393}}
* 寺本健三『風水説研究』(京都・中西印刷)2016年
* {{cite|和書|last=多ヶ谷|first=有子|title=平安京 境界考|journal=関東学院大学文学部紀要|volume=第112号|year=2007|url=https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=NI20000318&elmid=Body&fname=181tagaya.pdf&loginflg=on&block_id=_296&once=true|type=pdf|ref=harv}}
==関連項目==
*[[四神]]
*[[風水]]
*[[陰陽道]]
*[[陰陽師]]
*[[天海]]
*[[陰陽五行説]]
*[[四王寺山]]
{{東アジアの伝説の生物}}
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[[Category:四神|*ししんそうおう]]
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6,435 | Java 3D | Java 3Dは、Java向けのシーングラフベースの3D (3次元コンピュータグラフィックス) 拡張APIである。サン・マイクロシステムズが開発し、のちにJogAmp Communityに移管された。Java Media APIの一部とされている。実際の描画はOpenGLやDirectX (Direct3D) などの3Dグラフィックス用APIを呼び出すことによって行なわれる。Java3Dの設計思想はVRMLに大きく影響を受けている。現在Java.net内のプロジェクトとして活動している。
Java 3Dを使ったアプリケーションとして、Looking Glassという3Dデスクトップ環境がある。
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'''Java 3D'''は、[[Java]]向けの[[シーングラフ]]ベースの3D ([[3次元コンピュータグラフィックス]]) 拡張[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]である。[[サン・マイクロシステムズ]]が開発し、のちにJogAmp Communityに移管された。[[Java Media API]]の一部とされている。実際の描画は[[OpenGL]]や[[DirectX]] ([[Direct3D]]) などの3Dグラフィックス用APIを呼び出すことによって行なわれる。Java3Dの設計思想は[[VRML]]に大きく影響を受けている。{{いつ範囲|date=2017年10月|現在}}[http://www.java.net/ Java.net]内のプロジェクトとして活動している。
Java 3Dを使ったアプリケーションとして、[[:en:Project Looking Glass|Looking Glass]]という3D[[デスクトップ環境]]がある。
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== javax.media.j3d (メディア:Java 3D) ==
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== javax.vecmath (ベクトル計算パッケージ) ==
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== 関連項目 ==
* [[Java 2D]]
* [[Mobile 3D Graphics API]]
* [[X3D]]
== 外部リンク ==
*[http://www.java.net/ Java.net](英文)
*[https://java3d.dev.java.net/ Java3dプロジェクトホーム](英文)
*[http://download.java.net/media/java3d/javadoc/1.5.1/ API Documentation(ver1.5.1)](英文)
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6,437 | 室町幕府 | 室町幕府()は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。
その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。足利幕府()ともいう。
義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。
延元元年(1336年)5月、九州から東上した足利尊氏が湊川の戦いで楠木正成を破る。後醍醐天皇は比叡山に退去したが、正成とともに「三木一草」と称された後醍醐の武将ら(結城親光・名和長年・千種忠顕)もこの前後に相次いで戦死したため、苦境に立たされることとなった。
翌月、入京した尊氏は光厳上皇を治天の君に擁立し、8月には光厳の弟豊仁親王(光明天皇)が践祚する。和睦の成立によって10月に帰洛した後醍醐は幽閉され、11月2日に光明へ神器が譲与される。
同月7日、是円(中原章賢)・真恵兄弟らが起草した『建武式目』の制定によって新たな武家政権の施政方針が示されたが、室町幕府の実質的な成立はこの時期とされる。北朝から権大納言に任ぜられた尊氏は「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍(鎌倉殿)を継承する存在と見なされた。
翌月21日、後醍醐が大和国吉野に脱出し、南北両朝の並立状態が始まる。
延元2年(北朝建武4年、1337年)8月、鎮守府将軍として東北にあった南朝方の北畠顕家が西上の途に就き、明くる延元3年(北朝建武5年、1338年)1月には青野原の戦いで幕府軍を撃破したものの、その後の連戦の末ついに5月に戦死し(石津の戦い)。また、事実上の南朝方総大将であった新田義貞も、閏7月の藤島の戦いで敗死した。
こうして、主将と奥羽に勢力を築いた有力武将の2人を失った南朝方の劣勢は覆いようもなく、北朝・幕府方優位の趨勢の下、建武5年(1338年)8月11日に尊氏は征夷大将軍に任ぜられた。
滅亡は、元亀4年(1573年)7月に15代将軍・義昭が織田信長によって京都から追放された時点とするのが一般的である。また、信長以前には、天文22年(1553年)8月に13代将軍義輝が三好長慶に敗れ近江国朽木谷に逃れてから永禄元年(1558年)11月に和議を結び入京するまで、長慶が将軍を擁立しない独自の政権を京畿に打ち立てていた例もある。
もっとも、義昭はその後も将軍を解官されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持していた。義昭追放後も彼を支援する毛利輝元ら毛利氏との交渉で、信長もその復帰を了承しており、幕府が存続(復活)する可能性もあったが、義昭の信長に対する人質要求により実現せず、結局義昭が政権に返り咲くことはなく、結果的に元亀4年の追放時点に遡及して(中央政権としての)幕府の滅亡が確定したともいえる。
藤田達生は、京都追放後の義昭による政権を「鞆幕府」として規定することを提唱した。これによれば、幕府の滅亡は1573年ではなく、より遅い時期となることとなるが、既に幕臣の多くが義昭の元を去っており、幕府の体をなしているとは言いがたく、「鞆幕府」説が研究者の支持を得ているものではないことに留意する必要がある。
天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白・豊臣秀吉とともに参内して、その地位を朝廷に返上するまで征夷大将軍であったと『公卿補任』は記録する。義昭は将軍職辞任後、朝廷から准三宮の待遇を得、秀吉からも貴人として最後まで遇された。現任将軍の存在という面を重視すれば、この天正16年1月を幕府終期と見ることもできる。
室町幕府の職制はほぼ鎌倉幕府の機構を踏襲している。基本法として建武式目を制定(1336年)。具体的な法令としては鎌倉時代の御成敗式目(貞永式目)を適用し、必要に応じて「建武以来追加」と呼ばれる追加法を発布して補充している。
幕府開設当初、初代将軍尊氏は武家の棟梁として諸国の武士を統帥して執事高師直がこれを補佐し、政務・裁判は弟直義が総理する二頭体制が取られた。やがて直義と師直の間に確執が生じ、幕府内が尊氏・直義両派に分裂して観応の擾乱へと発展、南朝方や諸国の武士を巻き込んで内乱は長期化した。
尊氏の後を継いだ2代将軍義詮は幕府機構の再建に努め、病に倒れると、細川頼之を管領に任じて幼少の後継者・義満を後見させた。頼之後見期及び義満による親裁期を経て政治機構が整えられていった。
鎌倉時代の将軍は全国の御家人と個々に主従関係を結び、所領(地頭職)を安堵する立場にあり、守護は任国の軍事・刑事の長であり、国内の御家人の監督者に過ぎなかった。
これに対して室町幕府は、守護大名による合議制・連合政権であったと評される。長期の南北朝内乱の間に、守護はその権限を拡大し、任国内の領主層の武士(国人)を被官化するなどして、任国の管理者から領国支配者(大名)となっていく(ただし地域差があるので、詳細は「守護領国制」を参照)。これにより、御家人=将軍直臣という鎌倉幕府の基礎構造は失われ、将軍の諸国武士・所領に対する支配は相当後退し、主に守護を通じて全国支配を行う体制となった。しかしながら室町将軍がこの現状をよしとした訳ではなく、鎌倉時代以来の足利氏の根本被官や一族、守護の分家など、守護大名の頭越しに各地の武士と主従関係を結ぶ場合もあった。特に足利義満は直属軍事力の整備に熱心であり、奉公衆を整えていき、以降の将軍にも継承された。
また、義満以降の室町幕府は「天下無為」の実現をもって全国統治の基本的な考え方としていた。「無為」とは何もしないことではなく、何もしない状態にもっていくことを指し、室町殿である将軍の上意をもって紛争当事者間の調停を図るものであった。上意は紛争解決の手段としては万能ではないものの、守護や国人にとっては無視しえないものであった。だが、嘉吉の乱後、幼少の将軍が続いた中で、管領である細川氏と畠山氏が上意を利用して自己に有利な政治的な状況を作りだそうとし、それに振り回された守護や国人は上意に従わなくなり、独自行動を取るようになる。やがて、彼らは仲間同士で連携して行動することで上意の相対化を図るようになり、特に守護たちは細川氏側と反細川氏側(最初は畠山氏、後に山名氏を盟主とする)に分かれて集団を形成して争い、応仁の乱の一因を作った。
その一方で、室町将軍以上の勢威を持った守護大名を幕府が危険視し、討伐した例もある。しかし、個々の守護大名はともかく、守護大名と室町将軍が全面的に対立することはなかった。守護大名は幕府から任命された守護職に支配の正当性の根拠があり、室町将軍の権威を否定することはできず、両者は相互に補完する体制であった(室町幕府―守護体制)。将軍の権威の失墜はすなわち守護大名の権威の失墜を意味し、応仁の乱後にそうなっていくのである。
中世後期、天皇から日本国の支配を委任されていた室町殿(征夷大将軍)の政治的権限の及ぶ実効統治範囲、管轄区域のことを室町殿御分国、あるいは室町殿分国、公方分国という。その範囲は九州探題管轄の11ヵ国、鎌倉府管轄の10ヵ国を除いた畿内・近国、山陽道、山陰道、南海道、東海道、北陸道の国々からなる。御分国内の守護家(二十一屋形)の多くは在京し、国政の重要議題は将軍から守護達に諮問され、将軍と共に国政に関わっていた。
文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」に、「就中、天下の事、さらにもって目出度き子細これなし。近国においては、近江・美濃・尾張・遠江・三河・飛騨・能登・加賀・越前・大和・河内、これらはことごとく皆御下知に応ぜず。年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は紀州・摂州・越中・和泉、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知の国々は播磨・備前・美作・備中・備後・伊勢・伊賀・淡路・四国などなり、一切御下知に応ぜず。守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ、遵行などこれをなすといえども、守護代以下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて日本国は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記しており、室町殿御分国と日本国の範囲は同一であるとの認識を示している。
室町幕府は辺境分治・遠国融和を基本的な政治方針としていた。15世紀前半に幕府は「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣」という認識を獲得し、日本国の東側の国境は鎌倉府との境界にある駿河に存在すると理解するようになった。こうして地方は幕府による日本国統治の埒外に置かれることになった。
東北地方には当初奥州管領が設置されたが、斯波家兼ら4人の管領が並立し争うなど混迷を極め、半世紀を経て奥州探題が設置された。さらに、奥羽2国(陸奥国・出羽国)が鎌倉府の管轄下に組み込まれると廃止されて一時期は稲村公方と篠川公方が設置されている。
幕府は鎌倉府に対抗するため、斯波家兼の孫大崎詮持を奥州探題に補任し、以降大崎氏により世襲される。しかし、蘆名氏・伊達氏などが京都扶持衆として戦国大名化していくにつれて、大崎氏も在地領主化していくことになる。
また、家兼の死後に羽州探題が分裂し次子最上兼頼以降最上氏により世襲される。
観応の擾乱が起こると、足利尊氏は鎌倉に東国10カ国を統括する機関として鎌倉府を設置した。長官は鎌倉公方で尊氏の子足利基氏の子孫が世襲し、関東管領が補佐した。室町時代を通じて鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領を務める上杉氏とも対立していった。
これに対抗するため、幕府は東国や陸奥の有力国人を京都扶持衆として直臣化した。このため、足利義教の代に永享の乱を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を攻め滅ぼして一時直接統治を図るが失敗に終わり、持氏の子足利成氏を新しい鎌倉公方とした。だが成氏も享徳の乱を起こして、古河御所に逃れて古河公方を名乗り、さらに上杉氏は山内上杉家と扇谷上杉家に分裂したため、応仁の乱が始まる前に関東地方は騒乱状態となる。
幕府も手をこまねいていたわけではなく、8代将軍足利義政の庶兄足利政知を関東に派遣する(堀越公方)。だが、堀越公方も政知の死後に今川氏の重臣伊勢盛時(北条早雲)によって倒されて、失敗に終わった。古河公方も小弓公方との分裂を経て、盛時の子孫である後北条氏によって傀儡化させられていくのである。
九州には本拠を博多(福岡県福岡市)に置く九州探題が設置される。初めは懐良親王ら南朝勢力の討伐に任じられた今川貞世(了俊)が就くが、了俊が九州で独自の勢力を築くと幕府に警戒され、了俊が解任された後は渋川氏の世襲となる。
室町幕府の財政は幕府直轄の御料所からの収入が主であったが、南北朝の戦乱の際に敵対する南朝側より狙われて奪取されたり、自軍への恩賞にされてしまうケースも多く、次第に土地からの収入が減少して鎌倉幕府や江戸幕府に比べて小規模であったと考えられている。このため、武家役として臨時の段銭や棟別銭などが徴収された。
商人に対しては特権や保護の代償に営業税などを取り、各港からの津料、関所のからの関銭(通行税)も徴収された。尚、足利義満の時代に京都の土倉や酒屋に対して恒常的に役銭を取る権利を認められると、段銭や棟別銭等と共に納銭方と呼ばれる幕府御用の土倉によって徴収された。後に納銭方は幕府の委託を受けて税収の保管・出納の事務等も任される様になり、こうした土倉を公方御倉と呼んだ。更に義満が日明貿易を始めると貿易そのものや抽分銭による収益も幕府収入となる。貿易の回数が限られていた為に臨時収入的な物に留まったが、1回の貿易で他の税収の数年分の収益を挙げる事もあったとされている。
また、明徳の乱・応永の乱・嘉吉の乱などによって没収された守護大名の所領の一部は幕府御料所に組み入れられたり、将軍側近や奉公衆に所領として宛がって将軍直属軍の基盤とした。他の臨時収入的な物として礼銭や分一銭等が挙げられる。更に15世紀後半以後には京都のある山城国内の御料所化にも着手している。
『南方紀伝』等によると、三職七頭の家格が定められたとされる。管領職には斯波氏、畠山氏、細川氏の三氏が就いて「三職(三管領)」と称し、山名氏、一色氏、土岐氏、赤松氏、京極氏、上杉氏、伊勢氏の七氏が「七頭」と称され、特に七氏のうちの山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏の四氏と土岐氏を含めた計五氏が京都奉行職(侍所所司)に就いて「四職」と称された。七頭の残り二氏のうち伊勢氏は奏者(申次)、上杉は関東執事(関東管領)にそれぞれ任じられた。その他、武田氏、小笠原氏の両氏を礼式奉行に、吉良氏、渋川氏、今川氏の諸氏は武頭(侍大将)とされ、将軍直轄の軍事力として奉公衆が編成された。
時代によって変遷はあるものの、これら三職家から准国持衆までの20数家が室町幕府における「大名」と呼称された家々で、俗に「室町二十一屋形」と呼ばれた(『京極家譜』)。 この「大名」と呼称された家々の他に、以下のような家格があった。
その他、「御一家」と称された吉良氏(西条家)・吉良氏(東条家)・渋川氏(満頼系)・石橋氏・石塔氏は別格として、三職並みの格式を与えられた。また鎌倉公方が支配する関東・奥羽では「関東管領」「関東八屋形」など独自の家格が整えられていき、その一方で京都の幕府と直接主従を結ぶ「京都扶持衆」なども存在した。
名前と就任年(年号は義満まで北朝のもの)。
(10代 足利義材は足利義稙と同一人物なので、通常は義稙を代数に含まない。代数に含む場合、義稙が12代、義晴が13代、義輝が14代、義栄が15代、義昭が16代となり、全16代15人となる) | [
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"text": "藤田達生は、京都追放後の義昭による政権を「鞆幕府」として規定することを提唱した。これによれば、幕府の滅亡は1573年ではなく、より遅い時期となることとなるが、既に幕臣の多くが義昭の元を去っており、幕府の体をなしているとは言いがたく、「鞆幕府」説が研究者の支持を得ているものではないことに留意する必要がある。",
"title": "滅亡"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "天正16年(1588年)1月13日、義昭は関白・豊臣秀吉とともに参内して、その地位を朝廷に返上するまで征夷大将軍であったと『公卿補任』は記録する。義昭は将軍職辞任後、朝廷から准三宮の待遇を得、秀吉からも貴人として最後まで遇された。現任将軍の存在という面を重視すれば、この天正16年1月を幕府終期と見ることもできる。",
"title": "滅亡"
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"text": "室町幕府の職制はほぼ鎌倉幕府の機構を踏襲している。基本法として建武式目を制定(1336年)。具体的な法令としては鎌倉時代の御成敗式目(貞永式目)を適用し、必要に応じて「建武以来追加」と呼ばれる追加法を発布して補充している。",
"title": "政治"
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"text": "幕府開設当初、初代将軍尊氏は武家の棟梁として諸国の武士を統帥して執事高師直がこれを補佐し、政務・裁判は弟直義が総理する二頭体制が取られた。やがて直義と師直の間に確執が生じ、幕府内が尊氏・直義両派に分裂して観応の擾乱へと発展、南朝方や諸国の武士を巻き込んで内乱は長期化した。",
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"text": "尊氏の後を継いだ2代将軍義詮は幕府機構の再建に努め、病に倒れると、細川頼之を管領に任じて幼少の後継者・義満を後見させた。頼之後見期及び義満による親裁期を経て政治機構が整えられていった。",
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"text": "鎌倉時代の将軍は全国の御家人と個々に主従関係を結び、所領(地頭職)を安堵する立場にあり、守護は任国の軍事・刑事の長であり、国内の御家人の監督者に過ぎなかった。",
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"text": "これに対して室町幕府は、守護大名による合議制・連合政権であったと評される。長期の南北朝内乱の間に、守護はその権限を拡大し、任国内の領主層の武士(国人)を被官化するなどして、任国の管理者から領国支配者(大名)となっていく(ただし地域差があるので、詳細は「守護領国制」を参照)。これにより、御家人=将軍直臣という鎌倉幕府の基礎構造は失われ、将軍の諸国武士・所領に対する支配は相当後退し、主に守護を通じて全国支配を行う体制となった。しかしながら室町将軍がこの現状をよしとした訳ではなく、鎌倉時代以来の足利氏の根本被官や一族、守護の分家など、守護大名の頭越しに各地の武士と主従関係を結ぶ場合もあった。特に足利義満は直属軍事力の整備に熱心であり、奉公衆を整えていき、以降の将軍にも継承された。",
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"text": "また、義満以降の室町幕府は「天下無為」の実現をもって全国統治の基本的な考え方としていた。「無為」とは何もしないことではなく、何もしない状態にもっていくことを指し、室町殿である将軍の上意をもって紛争当事者間の調停を図るものであった。上意は紛争解決の手段としては万能ではないものの、守護や国人にとっては無視しえないものであった。だが、嘉吉の乱後、幼少の将軍が続いた中で、管領である細川氏と畠山氏が上意を利用して自己に有利な政治的な状況を作りだそうとし、それに振り回された守護や国人は上意に従わなくなり、独自行動を取るようになる。やがて、彼らは仲間同士で連携して行動することで上意の相対化を図るようになり、特に守護たちは細川氏側と反細川氏側(最初は畠山氏、後に山名氏を盟主とする)に分かれて集団を形成して争い、応仁の乱の一因を作った。",
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"text": "その一方で、室町将軍以上の勢威を持った守護大名を幕府が危険視し、討伐した例もある。しかし、個々の守護大名はともかく、守護大名と室町将軍が全面的に対立することはなかった。守護大名は幕府から任命された守護職に支配の正当性の根拠があり、室町将軍の権威を否定することはできず、両者は相互に補完する体制であった(室町幕府―守護体制)。将軍の権威の失墜はすなわち守護大名の権威の失墜を意味し、応仁の乱後にそうなっていくのである。",
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"text": "中世後期、天皇から日本国の支配を委任されていた室町殿(征夷大将軍)の政治的権限の及ぶ実効統治範囲、管轄区域のことを室町殿御分国、あるいは室町殿分国、公方分国という。その範囲は九州探題管轄の11ヵ国、鎌倉府管轄の10ヵ国を除いた畿内・近国、山陽道、山陰道、南海道、東海道、北陸道の国々からなる。御分国内の守護家(二十一屋形)の多くは在京し、国政の重要議題は将軍から守護達に諮問され、将軍と共に国政に関わっていた。",
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"text": "文明年間、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」に、「就中、天下の事、さらにもって目出度き子細これなし。近国においては、近江・美濃・尾張・遠江・三河・飛騨・能登・加賀・越前・大和・河内、これらはことごとく皆御下知に応ぜず。年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は紀州・摂州・越中・和泉、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知の国々は播磨・備前・美作・備中・備後・伊勢・伊賀・淡路・四国などなり、一切御下知に応ぜず。守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ、遵行などこれをなすといえども、守護代以下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて日本国は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記しており、室町殿御分国と日本国の範囲は同一であるとの認識を示している。",
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"text": "室町幕府は辺境分治・遠国融和を基本的な政治方針としていた。15世紀前半に幕府は「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣」という認識を獲得し、日本国の東側の国境は鎌倉府との境界にある駿河に存在すると理解するようになった。こうして地方は幕府による日本国統治の埒外に置かれることになった。",
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"text": "東北地方には当初奥州管領が設置されたが、斯波家兼ら4人の管領が並立し争うなど混迷を極め、半世紀を経て奥州探題が設置された。さらに、奥羽2国(陸奥国・出羽国)が鎌倉府の管轄下に組み込まれると廃止されて一時期は稲村公方と篠川公方が設置されている。",
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"text": "幕府は鎌倉府に対抗するため、斯波家兼の孫大崎詮持を奥州探題に補任し、以降大崎氏により世襲される。しかし、蘆名氏・伊達氏などが京都扶持衆として戦国大名化していくにつれて、大崎氏も在地領主化していくことになる。",
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"text": "また、家兼の死後に羽州探題が分裂し次子最上兼頼以降最上氏により世襲される。",
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"text": "観応の擾乱が起こると、足利尊氏は鎌倉に東国10カ国を統括する機関として鎌倉府を設置した。長官は鎌倉公方で尊氏の子足利基氏の子孫が世襲し、関東管領が補佐した。室町時代を通じて鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領を務める上杉氏とも対立していった。",
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"text": "これに対抗するため、幕府は東国や陸奥の有力国人を京都扶持衆として直臣化した。このため、足利義教の代に永享の乱を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を攻め滅ぼして一時直接統治を図るが失敗に終わり、持氏の子足利成氏を新しい鎌倉公方とした。だが成氏も享徳の乱を起こして、古河御所に逃れて古河公方を名乗り、さらに上杉氏は山内上杉家と扇谷上杉家に分裂したため、応仁の乱が始まる前に関東地方は騒乱状態となる。",
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"text": "幕府も手をこまねいていたわけではなく、8代将軍足利義政の庶兄足利政知を関東に派遣する(堀越公方)。だが、堀越公方も政知の死後に今川氏の重臣伊勢盛時(北条早雲)によって倒されて、失敗に終わった。古河公方も小弓公方との分裂を経て、盛時の子孫である後北条氏によって傀儡化させられていくのである。",
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"text": "九州には本拠を博多(福岡県福岡市)に置く九州探題が設置される。初めは懐良親王ら南朝勢力の討伐に任じられた今川貞世(了俊)が就くが、了俊が九州で独自の勢力を築くと幕府に警戒され、了俊が解任された後は渋川氏の世襲となる。",
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"text": "室町幕府の財政は幕府直轄の御料所からの収入が主であったが、南北朝の戦乱の際に敵対する南朝側より狙われて奪取されたり、自軍への恩賞にされてしまうケースも多く、次第に土地からの収入が減少して鎌倉幕府や江戸幕府に比べて小規模であったと考えられている。このため、武家役として臨時の段銭や棟別銭などが徴収された。",
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"text": "商人に対しては特権や保護の代償に営業税などを取り、各港からの津料、関所のからの関銭(通行税)も徴収された。尚、足利義満の時代に京都の土倉や酒屋に対して恒常的に役銭を取る権利を認められると、段銭や棟別銭等と共に納銭方と呼ばれる幕府御用の土倉によって徴収された。後に納銭方は幕府の委託を受けて税収の保管・出納の事務等も任される様になり、こうした土倉を公方御倉と呼んだ。更に義満が日明貿易を始めると貿易そのものや抽分銭による収益も幕府収入となる。貿易の回数が限られていた為に臨時収入的な物に留まったが、1回の貿易で他の税収の数年分の収益を挙げる事もあったとされている。",
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"text": "また、明徳の乱・応永の乱・嘉吉の乱などによって没収された守護大名の所領の一部は幕府御料所に組み入れられたり、将軍側近や奉公衆に所領として宛がって将軍直属軍の基盤とした。他の臨時収入的な物として礼銭や分一銭等が挙げられる。更に15世紀後半以後には京都のある山城国内の御料所化にも着手している。",
"title": "政治"
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"text": "『南方紀伝』等によると、三職七頭の家格が定められたとされる。管領職には斯波氏、畠山氏、細川氏の三氏が就いて「三職(三管領)」と称し、山名氏、一色氏、土岐氏、赤松氏、京極氏、上杉氏、伊勢氏の七氏が「七頭」と称され、特に七氏のうちの山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏の四氏と土岐氏を含めた計五氏が京都奉行職(侍所所司)に就いて「四職」と称された。七頭の残り二氏のうち伊勢氏は奏者(申次)、上杉は関東執事(関東管領)にそれぞれ任じられた。その他、武田氏、小笠原氏の両氏を礼式奉行に、吉良氏、渋川氏、今川氏の諸氏は武頭(侍大将)とされ、将軍直轄の軍事力として奉公衆が編成された。",
"title": "室町幕府の守護大名等"
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{
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"text": "時代によって変遷はあるものの、これら三職家から准国持衆までの20数家が室町幕府における「大名」と呼称された家々で、俗に「室町二十一屋形」と呼ばれた(『京極家譜』)。 この「大名」と呼称された家々の他に、以下のような家格があった。",
"title": "室町幕府の守護大名等"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "その他、「御一家」と称された吉良氏(西条家)・吉良氏(東条家)・渋川氏(満頼系)・石橋氏・石塔氏は別格として、三職並みの格式を与えられた。また鎌倉公方が支配する関東・奥羽では「関東管領」「関東八屋形」など独自の家格が整えられていき、その一方で京都の幕府と直接主従を結ぶ「京都扶持衆」なども存在した。",
"title": "室町幕府の守護大名等"
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{
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"text": "名前と就任年(年号は義満まで北朝のもの)。",
"title": "歴代将軍"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(10代 足利義材は足利義稙と同一人物なので、通常は義稙を代数に含まない。代数に含む場合、義稙が12代、義晴が13代、義輝が14代、義栄が15代、義昭が16代となり、全16代15人となる)",
"title": "歴代将軍"
}
] | 室町幕府は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。足利幕府ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。 | {{政府
|政府名 = 室町幕府
|背景色 = #000000
|境界 = 中央
|画像 = Ashikaga mon.svg
|画像の説明 = [[足利家]][[家紋]]・[[引両紋|足利二つ引]]
|創設年 = [[1336年]]
|解散年 = [[1573年]]
|代表 = [[征夷大将軍]]([[足利将軍一覧|足利氏]])
|対象国 = {{JPN}}
|地域 =
|政庁所在地 = [[山城国]] [[平安京]]([[花の御所|室町]])<br/>(現 : [[京都府]][[京都市]])
|前政府 = 政権<br/>[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|20px]] [[建武の新政|建武政権]]<hr/>← 南北朝合一<br/>[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|20px]] [[北朝 (日本)|北朝]]<br/>[[ファイル:Imperial Seal of Japan.svg|20px]] [[南朝 (日本)|南朝]]
|後政府 = 政権<br/>{{JPN1573}} →<hr/>幕府内政権<br/>[[ファイル:松笠菱(細川向かい松).jpg|25x20px]] [[細川政権 (戦国時代)|細川政権]]
|空欄表題1 = 中央
|空欄記載1 = [[管領]]<br/>[[政所]]<br/>[[侍所]]<br/>[[問注所]]<br/>[[評定衆]]<br/>[[奉公衆]]
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|空欄記載2 = [[鎌倉府]]<br/>[[関東管領]]<br/>[[奥州探題]]<br/>[[羽州探題]]<br/>[[九州探題]]<br/>[[守護]]<br/>[[地頭]]
|サイト =
|備考 = 創設年は[[1338年]]、解散年は[[1588年]]とする説がある
}}
{{読み仮名|'''室町幕府'''|むろまちばくふ}}は、[[室町時代]]における[[日本]]の[[武家政権]]。[[征夷大将軍]]となる[[足利尊氏]]が[[京都]]で創始した。
その称は3代将軍[[足利義満]]が移した、[[花の御所]]に由来する。{{読み仮名|'''足利幕府'''|あしかがばくふ}}ともいう。
義満の時代に南北朝が合一([[明徳の和約]])され、全盛期を迎える。[[嘉吉の乱]]によって白昼堂々と6代将軍[[足利義教]]が殺害されると、[[足利将軍]]の権威は低下、[[管領]][[細川氏]]、細川氏の家臣[[三好長慶]]に実権を奪われ、最後は[[織田信長]]によって事実上の滅亡に追い込まれた。
== 成立時期 ==
[[ファイル:Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg|thumb|200px|初代将軍足利尊氏]]
[[延元]]元年([[1336年]])5月、[[九州]]から東上した[[足利尊氏]]が[[湊川の戦い]]で[[楠木正成]]を破る。[[後醍醐天皇]]は[[比叡山]]に退去したが、正成とともに「[[三木一草]]」と称された後醍醐の武将ら([[結城親光]]・[[名和長年]]・[[千種忠顕]])もこの前後に相次いで戦死したため、苦境に立たされることとなった。
翌月、入京した尊氏は[[光厳天皇|光厳上皇]]を[[治天の君]]に擁立し、8月には光厳の弟豊仁親王([[光明天皇]])が践祚する。和睦の成立によって10月に帰洛した後醍醐は幽閉され、11月2日に光明へ神器が譲与される。
同月7日、[[是円]](中原章賢)・[[真恵]]兄弟らが起草した『[[建武式目]]』の制定によって新たな武家政権の施政方針が示されたが、'''室町幕府の実質的な成立'''はこの時期とされる。北朝から[[大納言|権大納言]]に任ぜられた尊氏は「鎌倉大納言」と称され、鎌倉将軍([[鎌倉殿]])を継承する存在と見なされた。
翌月21日、後醍醐が[[大和国]][[吉野]]に脱出し、南北両朝の並立状態が始まる。
延元2年([[北朝 (日本)|北朝]][[建武 (日本)|建武]]4年、[[1337年]])8月、[[鎮守府将軍]]として[[東北地方|東北]]にあった[[南朝 (日本)|南朝]]方の[[北畠顕家]]が西上の途に就き、明くる延元3年(北朝建武5年、[[1338年]])1月には[[青野原の戦い]]で幕府軍を撃破したものの、その後の連戦の末ついに5月に戦死し([[石津の戦い]])。また、事実上の南朝方総大将であった[[新田義貞]]も、閏7月の[[藤島の戦い]]で敗死した。
こうして、主将と[[奥羽]]に勢力を築いた有力武将の2人を失った南朝方の劣勢は覆いようもなく、北朝・幕府方優位の趨勢の下、[[建武 (日本)|建武]]5年(1338年)8月11日に尊氏は'''[[征夷大将軍]]'''に任ぜられた。
== 滅亡 ==
滅亡は、[[元亀]]4年([[1573年]])7月に15代将軍・[[足利義昭|義昭]]が[[織田信長]]によって[[京都]]から追放された時点とするのが一般的である。また、信長以前には、[[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])8月に13代将軍[[足利義輝|義輝]]が[[三好長慶]]に敗れ[[近江国]][[朽木谷]]に逃れてから[[永禄]]元年([[1558年]])11月に和議を結び入京するまで、長慶が将軍を擁立しない独自の政権を京畿に打ち立てていた例もある。
もっとも、義昭はその後も将軍を[[解官]]されてはおらず、信長の勢力圏外においては依然将軍としての権威を保持していた。義昭追放後も彼を支援する[[毛利輝元]]ら[[毛利氏]]との交渉で、信長もその復帰を了承しており、幕府が存続(復活)する可能性もあったが、義昭の信長に対する人質要求により実現せず、結局義昭が政権に返り咲くことはなく、結果的に元亀4年の追放時点に遡及して(中央政権としての)幕府の滅亡が確定したともいえる。
[[藤田達生]]は、京都追放後の義昭による政権を「[[鞆幕府]]」として規定することを提唱した。これによれば、幕府の滅亡は1573年ではなく、より遅い時期となることとなる<ref>{{Cite journal|和書|author=藤田達生|title=「鞆幕府」論|journal=芸備地方史研究|issue=268・269号|year=2010}}</ref>が、既に幕臣の多くが義昭の元を去っており、幕府の体をなしているとは言いがたく、「鞆幕府」説が研究者の支持を得ているものではないことに留意する必要がある。
[[天正]]16年([[1588年]])[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]、義昭は[[関白]]・[[豊臣秀吉]]とともに参内して、その地位を朝廷に返上するまで征夷大将軍であったと『[[公卿補任]]』は記録する。義昭は将軍職辞任後、朝廷から[[准三宮]]の待遇を得、秀吉からも貴人として最後まで遇された。現任将軍の存在という面を重視すれば、この天正16年1月を幕府終期と見ることもできる。
== 政治 ==
=== 組織機構 ===
[[ファイル:Instituciones del shogunato Ashikaga obj a trazo.svg|thumb|250px|組織]]
* [[管領]]
* [[評定衆]]
* [[政所]]
* [[問注所]]
* [[侍所]]
* [[小侍所]]
* [[奉公衆]]
* [[地方 (職制)|地方(じかた)]]
* [[禅律方]]
* [[神宮方]]
* [[鎌倉府]]
* [[守護|守護職]]
* [[地頭]]
* [[奥州探題]]
* [[羽州探題]]
* [[中国探題]]
* [[九州探題]]
=== 中央 ===
[[ファイル:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|200px|3代将軍[[足利義満]]]]
[[ファイル:Hana-no-Gosho-Flower-Palace-Kyoto.png|250px|thumb|[[花の御所]](室町殿)]]
[[File:Muromachi-bakufu-ato sekihi.jpg|thumb|200px|[[花の御所]]跡]]
室町幕府の職制はほぼ[[鎌倉幕府]]の機構を踏襲している。基本法として[[建武式目]]を制定(1336年)。具体的な法令としては鎌倉時代の[[御成敗式目]](貞永式目)を適用し、必要に応じて「[[建武以来追加]]」と呼ばれる追加法を発布して補充している。
幕府開設当初、初代将軍尊氏は[[武家の棟梁]]として諸国の武士を統帥して[[執事]][[高師直]]がこれを補佐し、政務・裁判は弟[[足利直義|直義]]が総理する二頭体制が取られた。やがて直義と師直の間に確執が生じ、幕府内が尊氏・直義両派に分裂して[[観応の擾乱]]へと発展、南朝方や諸国の武士を巻き込んで内乱は長期化した。
尊氏の後を継いだ2代将軍[[足利義詮|義詮]]は幕府機構の再建に努め、病に倒れると、[[細川頼之]]を管領に任じて幼少の後継者・[[足利義満|義満]]を後見させた。頼之後見期及び義満による親裁期を経て政治機構が整えられていった。
鎌倉時代の将軍は全国の[[御家人]]と個々に主従関係を結び、所領([[地頭|地頭職]])を安堵する立場にあり、[[守護]]は任国の軍事・刑事の長であり、国内の御家人の監督者に過ぎなかった。
これに対して室町幕府は、[[守護大名]]による合議制・連合政権であったと評される。長期の南北朝内乱の間に、守護はその権限を拡大し、任国内の領主層の武士([[国人]])を被官化するなどして、任国の管理者から領国支配者(大名)となっていく(ただし地域差があるので、詳細は「[[守護領国制]]」を参照)。これにより、御家人=将軍直臣という鎌倉幕府の基礎構造は失われ、将軍の諸国武士・所領に対する支配は相当後退し、主に守護を通じて全国支配を行う体制となった。しかしながら室町将軍がこの現状をよしとした訳ではなく、鎌倉時代以来の足利氏の根本被官や一族、守護の分家など、守護大名の頭越しに各地の武士と主従関係を結ぶ場合もあった。特に[[足利義満]]は直属軍事力の整備に熱心であり、[[奉公衆]]を整えていき、以降の将軍にも継承された。
また、義満以降の室町幕府は「天下無為」の実現をもって全国統治の基本的な考え方としていた。「無為」とは何もしないことではなく、何もしない状態にもっていくことを指し、室町殿である将軍の上意をもって紛争当事者間の調停を図るものであった。上意は紛争解決の手段としては万能ではないものの、守護や国人にとっては無視しえないものであった<ref>{{Cite book|和書|author=市川裕士|chapter=応永・永享年間における室町幕府の地方支配と地域権力|title=室町幕府と地方支配と地域権力|publisher=戎光祥出版|year=2017|isbn=978-4-86403-234-6}}</ref>。だが、嘉吉の乱後、幼少の将軍が続いた中で、管領である細川氏と畠山氏が上意を利用して自己に有利な政治的な状況を作りだそうとし、それに振り回された守護や国人は上意に従わなくなり、独自行動を取るようになる。やがて、彼らは仲間同士で連携して行動することで上意の相対化を図るようになり、特に守護たちは細川氏側と反細川氏側(最初は畠山氏、後に山名氏を盟主とする)に分かれて集団を形成して争い、応仁の乱の一因を作った<ref>{{Cite book|和書|author=市川裕士|chapter=嘉吉の乱後の室町幕府の地方支配と地域権力|title=室町幕府と地方支配と地域権力|publisher=戎光祥出版|year=2017}}</ref>。
その一方で、室町将軍以上の勢威を持った守護大名を幕府が危険視し、討伐した例もある。しかし、個々の守護大名はともかく、守護大名と室町将軍が全面的に対立することはなかった。守護大名は幕府から任命された守護職に支配の正当性の根拠があり、室町将軍の権威を否定することはできず、両者は相互に補完する体制であった(室町幕府―守護体制)。将軍の権威の失墜はすなわち守護大名の権威の失墜を意味し、応仁の乱後にそうなっていくのである。
=== 室町殿御分国 ===
中世後期、[[天皇]]から日本国の支配を委任されていた室町殿([[征夷大将軍]])の政治的権限の及ぶ実効統治範囲、管轄区域のことを'''室町殿御分国'''、あるいは'''室町殿分国'''、'''公方分国'''という。その範囲は[[九州探題]]管轄の11ヵ国、[[鎌倉府]]管轄の10ヵ国を除いた[[畿内]]・[[近国]]、[[山陽道]]、[[山陰道]]、[[南海道]]、[[東海地方|東海道]]、[[北陸道]]の国々からなる<ref name="kokushi709">「室町殿」 『国史大辞典』13 吉川弘文館、1992年、709頁。</ref>。御分国内の守護家(二十一屋形)の多くは在京し、国政の重要議題は将軍から守護達に諮問され、将軍と共に国政に関わっていた<ref name="kokushi709"/>。
[[文明 (日本)|文明]]年間、大和[[興福寺]]・別当の[[尋尊]]は「[[大乗院寺社雑事記]]」に、「就中、[[天下]]の事、さらにもって目出度き子細これなし。[[近国]]においては、[[近江国|近江]]・[[美濃国|美濃]]・[[尾張国|尾張]]・[[遠江国|遠江]]・[[三河国|三河]]・[[飛騨国|飛騨]]・[[能登国|能登]]・[[加賀国|加賀]]・[[越前国|越前]]・[[大和国|大和]]・[[河内国|河内]]、これらはことごとく皆御下知に応ぜず。年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は[[紀伊国|紀州]]・[[摂津国|摂州]]・[[越中国|越中]]・[[和泉国|和泉]]、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知の国々は[[播磨国|播磨]]・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]・[[備中国|備中]]・[[備後国|備後]]・[[伊勢国|伊勢]]・[[伊賀国|伊賀]]・[[淡路国|淡路]]・[[四国]]などなり、一切御下知に応ぜず。守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ、遵行などこれをなすといえども、守護代以下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて[[日本国]]は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記しており、室町殿御分国と日本国の範囲は同一であるとの認識を示している<ref>{{Citation |和書|editor=有光友學|year=2003|title=戦国の地域国家|series=日本の時代史12|publisher=吉川弘文館 |page=16}}</ref>。
=== 地方 ===
室町幕府は辺境分治・遠国融和を基本的な政治方針としていた<ref>{{Cite journal|和書|author=古野貢|url=http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_111E0000017-6-5|title=中世後期地域権力論研究の視角|journal=市大日本史|issue=006|year=2003|page=109}}</ref>。15世紀前半に幕府は「遠国事ヲハ少々事雖不如上意候、ヨキ程ニテ被閣」という認識を獲得し<ref>{{Cite journal|和書|author=堀川康史|title=今川了俊の探題解任と九州情勢|journal=史学雑誌|volume=125巻|issue=12号|year=2016|pages=1-24}}{{doi|10.24471/shigaku.125.12_1}}</ref>、日本国の東側の国境は[[鎌倉府]]との境界にある[[駿河国|駿河]]に存在すると理解するようになった<ref>{{Cite journal|和書|author=黒嶋敏|title=境界論と主従の関係(報告,シンポジウム「中世史学の未来像を求めて」,日本史部会,第一一〇回史学会大会報告)|journal=史学雑誌|volume=122巻|issue=1号|year=2013|page=101}}{{doi|10.24471/shigaku.122.1_101_1}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=新田英治|url=https://hdl.handle.net/10959/2493|title=中世後期の東国守護をめぐる二、三の問題|journal=学習院大学文学部研究年報|issue=40号|year=1994|page=56}}</ref>。こうして地方は幕府による日本国統治の埒外に置かれることになった。
==== 奥羽 ====
[[東北地方]]には当初[[奥州管領]]が設置されたが、[[斯波家兼]]ら4人の管領が並立し争うなど混迷を極め、半世紀を経て[[奥州探題]]が設置された。さらに、奥羽2国([[陸奥国]]・[[出羽国]])が鎌倉府の管轄下に組み込まれると廃止されて一時期は[[足利満貞|稲村公方]]と[[足利満直|篠川公方]]が設置されている。
幕府は鎌倉府に対抗するため、[[斯波家兼]]の孫[[大崎詮持]]を奥州探題に補任し、以降[[大崎氏]]により世襲される。しかし、[[蘆名氏]]・[[伊達氏]]などが京都扶持衆として戦国大名化していくにつれて、大崎氏も在地領主化していくことになる。
また、家兼の死後に[[羽州探題]]が分裂し次子[[斯波兼頼|最上兼頼]]以降[[最上氏]]により世襲される。
==== 関東 ====
観応の擾乱が起こると、足利尊氏は[[鎌倉]]に[[東国]]10カ国を統括する機関として[[鎌倉府]]を設置した。長官は[[鎌倉公方]]で尊氏の子[[足利基氏]]の子孫が世襲し、[[関東管領]]が補佐した。室町時代を通じて鎌倉公方は幕府と対立し、[[関東管領]]を務める[[上杉氏]]とも対立していった。
これに対抗するため、幕府は東国や[[陸奥国|陸奥]]の有力国人を[[京都扶持衆]]として直臣化した。このため、足利義教の代に[[永享の乱]]を起こした第4代鎌倉公方[[足利持氏]]を攻め滅ぼして一時直接統治を図るが失敗に終わり、持氏の子[[足利成氏]]を新しい鎌倉公方とした。だが成氏も[[享徳の乱]]を起こして、[[古河城|古河御所]]に逃れて[[古河公方]]を名乗り、さらに上杉氏は[[山内上杉家]]と[[扇谷上杉家]]に分裂したため、[[応仁の乱]]が始まる前に関東地方は騒乱状態となる。
幕府も手をこまねいていたわけではなく、8代将軍[[足利義政]]の庶兄[[足利政知]]を関東に派遣する([[堀越公方]])。だが、[[堀越公方]]も政知の死後に[[今川氏]]の[[重臣]]伊勢盛時([[北条早雲]])によって倒されて、失敗に終わった。古河公方も[[小弓公方]]との分裂を経て、盛時の子孫である[[後北条氏]]によって傀儡化させられていくのである。
==== 九州 ====
九州には本拠を博多(福岡県福岡市)に置く[[九州探題]]が設置される。初めは[[懐良親王]]ら南朝勢力の討伐に任じられた[[今川貞世]](了俊)が就くが、了俊が九州で独自の勢力を築くと幕府に警戒され、了俊が解任された後は[[渋川氏]]の世襲となる。
=== 財政 ===
室町幕府の財政は幕府直轄の[[御料所]]からの収入が主であったが、南北朝の戦乱の際に敵対する南朝側より狙われて奪取されたり、自軍への[[恩賞]]にされてしまうケースも多く、次第に土地からの収入が減少して鎌倉幕府や江戸幕府に比べて小規模であったと考えられている。このため、[[武家役]]として臨時の[[段銭]]や棟別銭などが徴収された。
商人に対しては特権や保護の代償に営業税などを取り、各[[港]]からの[[津料]]、[[関所]]のからの[[関銭]](通行税)も徴収された。尚、足利義満の時代に京都の土倉や酒屋に対して恒常的に[[役銭]]を取る権利を認められると、段銭や棟別銭等と共に[[納銭方]]と呼ばれる幕府[[御用達|御用]]の土倉によって徴収された。後に納銭方は幕府の委託を受けて税収の保管・出納の事務等も任される様になり、こうした土倉を[[公方御倉]]と呼んだ。更に義満が日明貿易を始めると貿易そのものや[[抽分銭]]による収益も幕府収入となる。貿易の回数が限られていた為に臨時収入的な物に留まったが、1回の貿易で他の税収の数年分の収益を挙げる事もあったとされている。
また、明徳の乱・応永の乱・嘉吉の乱などによって没収された守護大名の所領の一部は幕府御料所に組み入れられたり、将軍側近や奉公衆に所領として宛がって将軍直属軍の基盤とした<ref>{{Citation|和書|author=田沼睦|chapter=室町幕府と守護領国|title=講座日本史3 封建社会の展開|publisher=東京大学出版会|year=1970}}/所収:{{Citation|和書|author=田沼睦|title=中世後期社会と公田体制|publisher=岩田書院|year=2007}}</ref>。他の臨時収入的な物として[[礼銭]]や[[分一銭]]等が挙げられる。更に[[15世紀]]後半以後には京都のある[[山城国|山城]]国内の御料所化にも着手している。
== 室町幕府の守護大名等 ==
{{See also|守護大名}}
=== 室町殿御分国 ===
『[[南方紀伝]]』等によると、'''三職七頭'''の家格が定められたとされる。'''管領職'''には'''[[斯波氏]]'''、'''[[畠山氏]]'''、'''[[細川氏]]'''の三氏が就いて「'''三職([[三管領]])'''」と称し、'''[[山名氏]]'''、'''[[一色氏]]'''、'''[[土岐氏]]'''、'''[[赤松氏]]'''、'''[[京極氏]]'''、'''[[上杉氏]]'''、'''[[伊勢氏]]'''の七氏が「'''[[七頭]]'''」と称され、特に七氏のうちの山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏の四氏と土岐氏を含めた計五氏が'''京都奉行職([[侍所]]所司)'''に就いて「'''[[四職]]'''」と称された。七頭の残り二氏のうち伊勢氏は'''奏者(申次)'''、上杉は'''関東執事(関東管領)'''にそれぞれ任じられた。その他、'''[[武田氏]]'''、'''[[小笠原氏]]'''の両氏を'''礼式奉行'''に、'''[[吉良氏]]'''、'''[[渋川氏]]'''、'''[[今川氏]]'''の諸氏は'''武頭(侍大将)'''とされ、将軍直轄の軍事力として[[奉公衆]]が編成された。
* [[三管領]](三職家):管領職に任じられる大名家であり、格別に高い格式を誇った。
** [[斯波氏]](武衛家):越前・尾張・遠江の守護職を世襲。三職の中でも筆頭に位置し、将軍連枝と同等の格式にあった。
** [[畠山氏]](金吾家):紀伊・河内・越中の守護職を世襲。室町中期には大きな勢力を誇ったが、同家の家督争いが応仁の乱の最大の要因となった。
** [[細川氏]](京兆家):摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を世襲。室町後期には管領職をほぼ独占し、幕府は『細川政権』の体をなした。
* [[御相伴衆]]:三職に次ぐ有力大名家で、宿老として宿老会議に出席して、将軍の諮問に答え幕政に参加できた家。
** [[一色氏]]:丹後・伊勢・三河の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
** 畠山氏(匠作家):能登の守護職を世襲。
** 細川氏(讃州家):阿波の守護職を世襲。
** [[山名氏]]:但馬・備後・安芸の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
** [[赤松氏]]:播磨・備前・美作の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。嘉吉の乱を引き起こして一時滅亡するものの、後に再興を許される。
** [[京極氏]]:出雲・隠岐・飛騨の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
** [[大内氏]]:周防・長門・豊前・筑前の守護職を世襲。
* [[国持衆]]:三職、御相伴衆に属する大名の庶家や、畿内近国の有力大名家が列した。
** 斯波氏(大野家):加賀・越前大野郡の守護職を世襲。
** [[土岐氏]]:美濃の守護職を世襲。侍所所司に任じられる家柄。
** [[六角氏]]:近江の守護職を世襲。
** 細川氏(上和泉家):和泉の守護職を世襲。
** 細川氏(下和泉家):和泉の守護職を世襲。
** 山名氏(伯耆家):伯耆の守護職を世襲。
** 山名氏(石見家):石見の守護職を世襲。
** [[武田氏]](豆州家):若狭・安芸の守護職を世襲。甲斐武田家の別流。
** [[冨樫氏]]:加賀の守護職を世襲。
** [[今川氏]]:駿河の守護職を世襲。鎌倉府の担当地域に隣接している事からその監視の役目を負った。
** [[上杉氏]](越後守護家):今川氏と同様の役目を負った。
** [[小笠原氏]](信濃守護家):今川氏、越後守護上杉氏と同様の役目を負った。
** [[河野氏]]:伊予の守護職を世襲。
* [[准国持衆]]:国持に准ずる家。
** 細川氏(奥州家):[[近世]][[大名]]に成長した肥後細川氏の前身(血統的には上和泉家)。
** 京極氏(加州家):[[嘉吉の乱]]で命を落とした[[京極高数]]の流れか。
時代によって変遷はあるものの、これら三職家から准国持衆までの20数家が室町幕府における「大名」と呼称された家々で<ref>{{Cite book|和書|author=二木謙一|authorlink=二木謙一|title=中世武家の作法|publisher=吉川弘文館|year=1999}}</ref>、俗に「'''室町二十一屋形'''」と呼ばれた(『京極家譜』)。
この「大名」と呼称された家々の他に、以下のような家格があった。
* [[外様衆]]:国持衆の一門の家。評定衆。鎌倉幕府以来の武門の名家。元守護。
** [[斯波氏]](末野家):[[斯波氏経]]の系統か。
** [[斯波氏]](五条家)
** [[細川氏]](天竺家)
** [[細川氏]](宍草家)
** [[畠山氏]](西谷内家)
** [[畠山氏]](駿河守家)
** [[山名氏]](摂津守家)
** [[山名氏]](有路家)
** [[一色氏]](宮内少輔家)
** [[一色氏]](五郎家)
** [[赤松氏]](七条家):[[赤松範資]]の系統。
** 赤松氏(有馬家):[[赤松義祐]]の系統。[[近世]][[大名]]に成長した久留米有馬氏の前身。
** 京極氏(鞍智家)
** 京極氏(宮内少輔家):庶流が[[戦国大名]][[尼子氏]]へと成長。
** [[仁木氏]](丹波家)
** [[仁木氏]](伊勢家)
** [[今川氏]](蒲原家)
** [[今川氏]]:元九州探題[[今川貞世]]の系統。
** [[土岐氏]](曽我屋家)
** [[土岐氏]](佐良木家)
** [[上杉氏]]([[八条上杉氏|二橋上杉氏]])
** [[上杉氏]]([[犬懸上杉氏|四条上杉氏]])
** [[高島氏]](越中守家)
** [[高島氏]](永田家)
** [[大島氏]]:元三河守護
** [[宮氏]]:元備中守護
** [[岩松氏]]:元飛騨、伊予、備後守護
** [[武田氏]](甲斐守護家):戦国期
** [[摂津氏]]:評定衆の[[家柄]]。
** [[波多野氏]]
** [[二階堂氏]]
** [[太田氏]]
** [[町野氏]]
** [[土肥氏]](箕浦家)
** [[工藤氏]]([[長野氏|長野家]])
** [[工藤氏]]([[小早川氏|小早川家]])
* [[御供衆]]:外様衆に次ぐ家格で、一部に国持衆並の格式を持つ家もあった。
** 細川氏(淡路家):淡路の守護職を世襲。国持衆並。奉公衆の一番番頭。
** 細川氏(備中家):備中の守護職を世襲。国持衆並。
** 細川氏(典厩家):摂津中島郡の守護職を世襲。国持衆並。
** 山名氏(因幡家):因幡の守護職を世襲。国持衆並。
** [[伊勢氏]](勢州家):政所執事職を世襲。
** [[桃井氏]]:奉公衆の二番番頭。
** 畠山氏(播州家):奉公衆の三番番頭。
** [[上野氏]]:奉公衆の三番番頭。
** 畠山氏(中務少輔家):奉公衆の四番番頭。
** [[大舘氏]]:奉公衆の五番番頭。
** 細川氏(野州家):伊予宇摩郡の守護職を世襲。
** 一色氏(式部少輔家):[[一色持範]]の系統。
* [[御部屋衆]]:御供衆に次ぐ家格。一部に御供衆と重複する家がある。
** [[吉見氏]]
** [[三淵氏]]
** [[高島氏]]([[朽木氏|朽木家]])
* [[申次衆]]:御部屋衆に次ぐ家格。一部に御供衆、御部屋衆と重複する家がある。
** 伊勢氏(備中家):[[北条早雲]]を出した家と考えられる。
** 畠山氏
** 大舘氏
** 上野氏
** [[荒川氏]]
* [[節朔衆]]:申次衆に次ぐ[[家格]]で、式日において将軍の目通りを許された家。
** [[小笠原氏]](備州家):信濃[[小笠原氏]]の別流。[[将軍家]]の弓馬師範役であった事から、本来の[[家格]]以上の格式を誇った。
** 一色氏(阿州家)
** [[中条氏]]
** [[千秋氏]]
** [[結城氏]]
** [[楢葉氏]]
* [[走衆]]:将軍直参。[[歩兵|徒歩]]で将軍の警護をした。
* [[小番衆]]:その他の奉公衆。
** [[加古氏]]
** [[竹林氏]]
** [[里見氏]]
** [[大井田氏]]
** [[羽川氏]]
** [[牛沢氏]]
** [[横瀬氏]]
** [[熊谷氏]](塩津家)
** [[大原氏]](備中守家)
** [[大原氏]](白井家)
** [[小早川氏]]
その他、「[[御一家]]」と称された[[吉良氏]](西条家)・吉良氏(東条家)・[[渋川氏]](満頼系)・[[石橋氏]]・[[石塔氏]]は別格として、三職並みの格式を与えられた。また[[鎌倉公方]]が支配する関東・奥羽では「[[関東管領]]」「[[関東八屋形]]」など独自の家格が整えられていき、その一方で京都の幕府と直接主従を結ぶ「[[京都扶持衆]]」なども存在した。
=== 九州 ===
* [[九州探題]]
** [[渋川氏]] : 足利氏一門の名族で足利将軍家・斯波氏に次ぐ家柄の良い一族。肥前の守護職も兼ねた。
*[[九州三人]]
** [[少弐氏]] : 鎌倉時代以来の九州一の名家。
** [[大友氏]] : 豊後・筑後の守護職を世襲。
** [[島津氏]] : 薩摩の守護職を世襲(今川探題下では守護でなかった時期がある)。
*それ以外
** [[菊池氏]] : 南朝・後南朝の主勢力であったが室町時代中期に足利将軍家に帰参し肥後の守護職となった。
=== 奥州 ===
* [[奥州探題]]
** [[大崎氏]] : 斯波氏の分家で陸奥の探題職を世襲。
* [[羽州探題]]
** [[最上氏]] : 大崎氏の分家で出羽の探題職を世襲。
=== 関東 ===
* [[関東管領]]
**[[上杉氏]]:山内上杉氏と扇谷上杉氏があった。
== 歴代将軍 ==
{{main|足利将軍一覧}}
名前と就任年(年号は義満まで北朝のもの)。
* 初代 [[足利尊氏]] [[暦応]]元年([[1338年]])
* 2代 [[足利義詮]] [[延文]]3年([[1359年]])
* 3代 [[足利義満]] [[応安]]元年([[1369年]])
* 4代 [[足利義持]] [[応永]]元年([[1395年]])
* 5代 [[足利義量]] 応永30年([[1423年]])
* 6代 [[足利義教]] [[正長]]2年([[1429年]])
* 7代 [[足利義勝]] [[嘉吉]]2年([[1442年]])
* 8代 [[足利義政]] [[文安]]6年([[1449年]])
* 9代 [[足利義尚]] [[文明 (日本)|文明]]5年([[1474年]])
* 10代 [[足利義稙|足利義材]] [[延徳]]2年([[1490年]])
* 11代 [[足利義澄]] [[明応]]3年([[1495年]])
* - 足利義尹(義稙)(義材が改名し、2度目の就任) [[永正]]5年([[1508年]])
* 12代 [[足利義晴]] [[大永]]元年([[1522年]])
* 13代 [[足利義輝]] [[天文 (元号)|天文]]15年([[1547年]])
* 14代 [[足利義栄]] [[永禄]]11年([[1568年]])
* 15代 [[足利義昭]] 永禄11年(1568年)
(10代 足利義材は足利義稙と同一人物なので、通常は義稙を代数に含まない<ref>『国史大事典』(吉川弘文館)</ref>。代数に含む場合、義稙が12代、義晴が13代、義輝が14代、義栄が15代、義昭が16代となり、全16代15人となる)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Ashikaga_shogunate}}
* [[幕府]] / [[武家政権]]
* [[足利氏]]
* [[足利将軍家]]
* [[足利将軍一覧]]
* [[足利市]] - 足利氏発祥の地とされる[[栃木県]]の都市
* [[鞆城]] - (義昭追放後の座所)
* [[山田渡辺氏|渡辺氏]] - 鞆での中心的役割を果たす
* [[守護]]
* [[守護代]]
* [[御一家衆]]
* [[奉公衆]]
* [[奉行衆]]
* [[官途奉行]]
* [[後鑑]]
* [[見聞諸家紋]]
* [[畿内・近国の戦国時代]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{日本の幕府}}
{{室町幕府将軍}}
{{管領}}
{{デフォルトソート:むろまちはくふ}}
[[Category:室町時代|*むろまちはくふ]]
[[Category:室町幕府|*]]
[[Category:山城国]]
[[Category:室町時代の京都]]
[[Category:足利尊氏]]
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[[Category:16世紀廃止]] | 2003-04-09T22:51:43Z | 2023-11-04T18:00:08Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C |
6,438 | 中間言語 | 中間言語()は、任意の言語を異なる任意の言語へ翻訳する際に利用する中間的な人工言語もしくは自然言語である。
ピヴォット言語(pivot language)は、中間言語のうちでも、特にピヴォット翻訳と呼ばれる機械翻訳における手法においてあらわれる言語である(英語版の記事名は pivot language となっており、特にこれについて説明している)。
一般に機械翻訳では、構文解析の結果すなわち構文木の変換によって翻訳したり(構文トランスファー方式)、あるいはより深く意味解析までおこなって翻訳をする(意味トランスファー方式)。いずれにしてもその変換は、翻訳元と翻訳先の言語に特化したものになる。それに対してピヴォット翻訳では、どの言語にも特化せず、どの言語にも対応できる「ピヴォット言語」への翻訳と、そこからの目的言語への翻訳、というようにして機械翻訳が可能であるものとして考えられるものである。
この手法のメリットは、組合せ爆発を防げることである。中間言語を用いると、翻訳が必要となる言語の組み合わせの数は二乗スケール ( ( n 2 ) = n 2 − n 2 ) {\displaystyle \left(\textstyle {\binom {n}{2}}={\frac {n^{2}-n}{2}}\right)} ではなく線形スケール ( n − 1 ) {\displaystyle (n-1)} に収まる。(言語Aと中間言語P、言語Bと中間言語P、... について翻訳が出来ればよく、あらゆる組み合わせの翻訳方法まで知る必要がなくなる)
一方のデメリットは、いわゆる重訳のそれと同様である。つまり、中間言語との再翻訳で2度の翻訳誤りと曖昧さを生む可能性があることである(この可能性が小さくなるようにピヴォット言語は設計されねばならず、そしてそれは難しいことでもある)。中間言語を翻訳に用いなければ、その可能性は1度に抑えられている。例えば、エルナン・コルテスがメソアメリカインディアンと会話する際に、エルナン・コルテスはヘロニモ・デ・アギラールにスペイン語で話し、ヘロニモ・デ・アギラールはマリンチェにマヤ語で話し、マリンチェはインディアンにナワトル語で話すように、各言語同士での再翻訳でニュアンスや意味の違いが発生しうる。
統計的機械翻訳(英語版)は言語Aから言語Bへの翻訳に言語A・Bのパラレルコーパス(英語版)を利用するが、パラレルコーパスは任意言語の全ての対には存在しないため任意言語翻訳では使えない。中間言語Pは2つの言語を繋ぎ、言語A・Bと中間言語Pのパラレルコーパスを使うことで任意言語翻訳を実現する。中間言語を用いた翻訳は、異なるコーパスへ転記するため厳密な情報保存において問題を抱えることがある。AからBへ翻訳に用いる2つのパラレルコーパス(A-P・P-B)は必然的に言語情報の欠損が起きる。ルールベース機械翻訳(英語版)は統計情報に依存せず、情報欠損の削減に助力する。ルールベース機械翻訳はA-P翻訳とP-B翻訳を一定のルールに従って翻訳する。
機械翻訳では3つの基礎的な手法を翻訳に利用される。1つはトライアングレーション、A-P・P-Bのフレーズの相関性に焦点を当てる。1つはトランスファー(英語版)、全てのセンテンスをAからPに翻訳、PからBに翻訳する。1つはシンセシス、翻訳システムのコーパスを構築する。トライアングレーション手法は、A-Bのフレーズテーブルを構築するためのA-P・P-Bの相対と語彙の重みを計算する。トランスファー手法は、トライアングレーションのような重み計算なくAからP、PからBへの単純な直意翻訳をする。シンセシス手法は、既存のAコーパスを使って、自身のシステムの改善するためのコーパスの構築に役立てる。統計的機械翻訳においてトライアングレーション手法とトランスファー手法を単純比較すると、トライアングレーション手法はトランスファー手法より適切な翻訳結果が得られると見なされている。
3つの中間言語の翻訳手法は統計的機械翻訳に役立つが、シンセシス手法はルールベース機械翻訳では適切ではなく、期待通りの性能を発揮しない。統計的機械翻訳とルールベース機械翻訳は一長一短であり、両翻訳システムのハイブリッド翻訳はどちらかのみを使用した翻訳システムより良い翻訳結果を得られる。
言語学習では、中間言語を第二言語(外国語)の学習者が言語を学んでゆく過程で発する、目標言語とは様々な点で違った体系を持つ学習者に特徴的な言語として用いる。すべての言語において、その個別の学習者には中間言語が存在する。この中間言語は当然、学習者の習得レベルや学習内容、母語などに影響を受ける。
たとえば日本語のみを母語とする者が話す英語は、英語を母語とする人たちのそれとは違っているのが普通である。それは文法や発音が少し違っていたり、特定の表現が多く用いられたり、またその反対にほとんど用いられなかったりと、個人によって異なる。そのようにある一定の規則を持ちながらも、目標言語とは異なっている学習者の言語を中間言語という。
この中間言語という概念はラリー・セリンカー(英語版)によって1972年に提唱された。中間言語という概念が登場するまで、第二言語習得研究における主な手法は、学習者の誤用から、目標言語と学習者の母語との違いを研究する、いわゆる誤用分析が中心であった。しかし学習者が発した誤りを研究するだけでは、回避(例えば、日本語の母語話者は英語におけるwhatやthatのような関係節をなるべく使わないように話そうとする)など誤用以外の問題点を扱えないことから、「学習者言語の自律性」を重んじる中間言語分析が注目されるようになった。
なお、「この中間言語という概念」は、前の節までで述べている pivot language 等ではなく、interlanguage と英語では呼んでいるものであり(詳しくは en:Larry Selinker や en:Interlanguage の記事などを参照)、むしろカタカナで「インターランゲージ」としたほうが誤解の可能性が無くなり、概念としてセリンカーが述べたそれであるとハッキリする。
英語・フランス語・ロシア語・アラビア語は自然言語の翻訳によく使われる中間言語である。 | [
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"text": "一方のデメリットは、いわゆる重訳のそれと同様である。つまり、中間言語との再翻訳で2度の翻訳誤りと曖昧さを生む可能性があることである(この可能性が小さくなるようにピヴォット言語は設計されねばならず、そしてそれは難しいことでもある)。中間言語を翻訳に用いなければ、その可能性は1度に抑えられている。例えば、エルナン・コルテスがメソアメリカインディアンと会話する際に、エルナン・コルテスはヘロニモ・デ・アギラールにスペイン語で話し、ヘロニモ・デ・アギラールはマリンチェにマヤ語で話し、マリンチェはインディアンにナワトル語で話すように、各言語同士での再翻訳でニュアンスや意味の違いが発生しうる。",
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"text": "統計的機械翻訳(英語版)は言語Aから言語Bへの翻訳に言語A・Bのパラレルコーパス(英語版)を利用するが、パラレルコーパスは任意言語の全ての対には存在しないため任意言語翻訳では使えない。中間言語Pは2つの言語を繋ぎ、言語A・Bと中間言語Pのパラレルコーパスを使うことで任意言語翻訳を実現する。中間言語を用いた翻訳は、異なるコーパスへ転記するため厳密な情報保存において問題を抱えることがある。AからBへ翻訳に用いる2つのパラレルコーパス(A-P・P-B)は必然的に言語情報の欠損が起きる。ルールベース機械翻訳(英語版)は統計情報に依存せず、情報欠損の削減に助力する。ルールベース機械翻訳はA-P翻訳とP-B翻訳を一定のルールに従って翻訳する。",
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"text": "3つの中間言語の翻訳手法は統計的機械翻訳に役立つが、シンセシス手法はルールベース機械翻訳では適切ではなく、期待通りの性能を発揮しない。統計的機械翻訳とルールベース機械翻訳は一長一短であり、両翻訳システムのハイブリッド翻訳はどちらかのみを使用した翻訳システムより良い翻訳結果を得られる。",
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"text": "言語学習では、中間言語を第二言語(外国語)の学習者が言語を学んでゆく過程で発する、目標言語とは様々な点で違った体系を持つ学習者に特徴的な言語として用いる。すべての言語において、その個別の学習者には中間言語が存在する。この中間言語は当然、学習者の習得レベルや学習内容、母語などに影響を受ける。",
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"text": "たとえば日本語のみを母語とする者が話す英語は、英語を母語とする人たちのそれとは違っているのが普通である。それは文法や発音が少し違っていたり、特定の表現が多く用いられたり、またその反対にほとんど用いられなかったりと、個人によって異なる。そのようにある一定の規則を持ちながらも、目標言語とは異なっている学習者の言語を中間言語という。",
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"text": "この中間言語という概念はラリー・セリンカー(英語版)によって1972年に提唱された。中間言語という概念が登場するまで、第二言語習得研究における主な手法は、学習者の誤用から、目標言語と学習者の母語との違いを研究する、いわゆる誤用分析が中心であった。しかし学習者が発した誤りを研究するだけでは、回避(例えば、日本語の母語話者は英語におけるwhatやthatのような関係節をなるべく使わないように話そうとする)など誤用以外の問題点を扱えないことから、「学習者言語の自律性」を重んじる中間言語分析が注目されるようになった。",
"title": "言語学"
},
{
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"text": "なお、「この中間言語という概念」は、前の節までで述べている pivot language 等ではなく、interlanguage と英語では呼んでいるものであり(詳しくは en:Larry Selinker や en:Interlanguage の記事などを参照)、むしろカタカナで「インターランゲージ」としたほうが誤解の可能性が無くなり、概念としてセリンカーが述べたそれであるとハッキリする。",
"title": "言語学"
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"text": "英語・フランス語・ロシア語・アラビア語は自然言語の翻訳によく使われる中間言語である。",
"title": "言語例"
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] | 中間言語は、任意の言語を異なる任意の言語へ翻訳する際に利用する中間的な人工言語もしくは自然言語である。 | {{出典の明記|date=2010年12月}}
{{Otheruses|[[自然言語]]の[[翻訳]]に関係する用語|コンピュータなどにおける([[形式言語]]の)中間的な表現(の言語)|中間表現}}
{{読み仮名|'''中間言語'''|ちゅうかんげんご}}は、任意の言語を異なる任意の言語へ[[翻訳]]する際に利用する中間的な[[人工言語]]もしくは[[自然言語]]である。
== ピヴォット言語 ==
ピヴォット言語(pivot language)は、中間言語のうちでも、特にピヴォット翻訳と呼ばれる[[機械翻訳]]における手法においてあらわれる言語である(英語版の記事名は pivot language となっており、特にこれについて説明している)。
一般に機械翻訳では、構文解析の結果すなわち構文木の変換によって翻訳したり(構文トランスファー方式)、あるいはより深く意味解析までおこなって翻訳をする(意味トランスファー方式)。いずれにしてもその変換は、翻訳元と翻訳先の言語に特化したものになる。それに対してピヴォット翻訳では、どの言語にも特化せず、どの言語にも対応できる「ピヴォット言語」への翻訳と、そこからの目的言語への翻訳、というようにして機械翻訳が可能であるものとして考えられるものである。
この手法のメリットは、[[組合せ爆発]]を防げることである。中間言語を用いると、翻訳が必要となる言語の組み合わせの数は二乗スケール<math>\left(\textstyle{\binom{n}{2}}=\frac{n^2-n}{2}\right)</math>ではなく線形スケール<math>(n-1)</math>に収まる。(言語Aと中間言語P、言語Bと中間言語P、… について翻訳が出来ればよく、あらゆる組み合わせの翻訳方法まで知る必要がなくなる)
一方のデメリットは、いわゆる重訳のそれと同様である。つまり、中間言語との再翻訳で2度の翻訳誤りと曖昧さを生む可能性があることである(この可能性が小さくなるようにピヴォット言語は設計されねばならず、そしてそれは難しいことでもある)。中間言語を翻訳に用いなければ、その可能性は1度に抑えられている。例えば、[[エルナン・コルテス]]が[[メソアメリカ]]インディアンと会話する際に、エルナン・コルテスは[[ヘロニモ・デ・アギラール]]に[[スペイン語]]で話し、ヘロニモ・デ・アギラールは[[マリンチェ]]に[[マヤ語]]で話し、マリンチェはインディアンに[[ナワトル語]]で話すように、各言語同士での再翻訳でニュアンスや意味の違いが発生しうる。
== 機械翻訳 ==
{{仮リンク|統計的機械翻訳|en|Statistical machine translation}}は言語Aから言語Bへの翻訳に言語A・Bの{{仮リンク|パラレルコーパス|en|Parallel text}}を利用するが、パラレルコーパスは任意言語の全ての対には存在しないため任意言語翻訳では使えない。中間言語Pは2つの言語を繋ぎ、言語A・Bと中間言語Pのパラレルコーパスを使うことで任意言語翻訳を実現する。中間言語を用いた翻訳は、異なるコーパスへ転記するため厳密な情報保存において問題を抱えることがある。AからBへ翻訳に用いる2つのパラレルコーパス(A-P・P-B)は必然的に言語情報の欠損が起きる。{{仮リンク|ルールベース機械翻訳|en|Rule-based machine translation}}は統計情報に依存せず、情報欠損の削減に助力する。ルールベース機械翻訳はA-P翻訳とP-B翻訳を一定のルールに従って翻訳する。
機械翻訳では3つの基礎的な手法を翻訳に利用される。1つは'''[[三角測量|トライアングレーション]]'''、A-P・P-Bのフレーズの相関性に焦点を当てる。1つは'''{{仮リンク|トランスファーベース機械翻訳|en|Transfer-based machine translation|label=トランスファー}}'''、全てのセンテンスをAからPに翻訳、PからBに翻訳する。1つは'''シンセシス'''、翻訳システムのコーパスを構築する。トライアングレーション手法は、A-Bのフレーズテーブルを構築するためのA-P・P-Bの相対と語彙の重みを計算する。トランスファー手法は、トライアングレーションのような重み計算なくAからP、PからBへの単純な直意翻訳をする。シンセシス手法は、既存のAコーパスを使って、自身のシステムの改善するためのコーパスの構築に役立てる。統計的機械翻訳においてトライアングレーション手法とトランスファー手法を単純比較すると、トライアングレーション手法はトランスファー手法より適切な翻訳結果が得られると見なされている。
3つの中間言語の翻訳手法は統計的機械翻訳に役立つが、シンセシス手法はルールベース機械翻訳では適切ではなく、期待通りの性能を発揮しない。統計的機械翻訳とルールベース機械翻訳は一長一短であり、両翻訳システムのハイブリッド翻訳はどちらかのみを使用した翻訳システムより良い翻訳結果を得られる。
== 言語学 ==
言語学習では、中間言語を[[第二言語]](外国語)の学習者が言語を学んでゆく過程で発する、目標言語とは様々な点で違った体系を持つ学習者に特徴的な言語として用いる。すべての言語において、その個別の学習者には中間言語が存在する。この中間言語は当然、学習者の習得レベルや学習内容、母語などに影響を受ける。
たとえば日本語のみを母語とする者が話す英語は、英語を母語とする人たちのそれとは違っているのが普通である。それは文法や発音が少し違っていたり、特定の表現が多く用いられたり、またその反対にほとんど用いられなかったりと、個人によって異なる。そのようにある一定の規則を持ちながらも、目標言語とは異なっている学習者の言語を中間言語という。
この中間言語という概念は{{仮リンク|ラリー・セリンカー|en|Larry Selinker}}によって1972年に提唱された。中間言語という概念が登場するまで、[[第二言語習得]]研究における主な手法は、学習者の誤用から、目標言語と学習者の母語との違いを研究する、いわゆる誤用分析が中心であった。しかし学習者が発した誤りを研究するだけでは、回避(例えば、日本語の母語話者は英語におけるwhatやthatのような関係節をなるべく使わないように話そうとする)など誤用以外の問題点を扱えないことから、「学習者言語の自律性」を重んじる中間言語分析が注目されるようになった。
なお、「この中間言語という概念」は、前の節までで述べている pivot language 等ではなく、interlanguage と英語では呼んでいるものであり(詳しくは [[:en:Larry Selinker]] や [[:en:Interlanguage]] の記事などを参照)、むしろカタカナで「インターランゲージ」としたほうが誤解の可能性が無くなり、概念としてセリンカーが述べたそれであるとハッキリする。
== 言語例 ==
[[英語]]・[[フランス語]]・[[ロシア語]]・[[アラビア語]]は自然言語の翻訳によく使われる中間言語である。
; [[インターリングア]]
: [[欧州連合|EU]]が提案した中間言語で、国際会議でも使われている<ref>Breinstrup, Thomas. "Linguaphobos? Non in le UE". [Linguaphobes? Not in the EU]. ''[[Panorama in Interlingua]]'', 2006, Issue 5.</ref>。
; [[エスペラント]]
: {{仮リンク|Distributed Language Translation|en|Distributed Language Translation}}プロジェクトが提案した中間言語で<ref>[[二木紘三]]著、「国際語の歴史と思想」(1981年、毎日新聞社)p.166</ref>、[[エスペラント版ウィキペディア]]などで使われている。
; [[Universal Networking Language]]
: 中間言語として設計された人工言語である<ref>{{cite web|url=http://www.undl.org/index.php?option=com_content&view=article&id=46&Itemid=58&lang=en|title=What is UNL?|publisher=UNDL Foundation|accessdate=2018-04-23}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:ちゆうかんけんこ}}
[[Category:機械翻訳]]
[[Category:応用言語学]] | 2003-04-09T23:06:47Z | 2023-11-27T04:55:47Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Otheruses",
"Template:読み仮名",
"Template:仮リンク",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%96%93%E8%A8%80%E8%AA%9E |
6,440 | 予約語 | 予約語(、英: reserved word)とは、プログラミング言語などの人工言語の仕様に定められているもので、ユーザープログラムの開発者が自分で付ける識別名としては利用できない特定の文字列のこと。たとえば変数名や関数名などに使用することができない、とあらかじめ定められた文字列(単語、字句など)のこと。あるいは、プログラミング言語などにおいて、固定された意味を持っており、その結果、プログラマーの側ではその意味を再定義できない語。
予約語と似ていてしばしば混同されてしまう言葉に「キーワード」(keyword) があるが、プログラミング言語の種類、また文脈によってreserved wordとkeywordは全く違う意味を持ちうるので、両者は異なる用語・概念と扱われている場合が多い。そのため、一旦は別物である可能性が高いとみなして扱うほうが安全である。
たとえば「予約語」という用語を「処理系で内部的に使う名前と同じであるといった理由で予約されているためにユーザーは使えない識別子」という意味で使っている規格もある。この場合予約語はキーワードとは別のものである。
一方、「キーワード」は言語仕様上特別な意味を持った語のことである。キーワードであっても予約語でないこともあるし、その逆もある。たとえばECMAScript (ECMA-262) 5th Edition (ES5) では、classやextendsは予約されており予約語だが言語で使われておらずキーワードではない。しかしECMA-262 6th Edition (ES6) では新たにサポートしたクラス構文のために使われるキーワードとなった。ECMA-262 では、キーワードは予約語の部分集合で、言語で制御構造などの意味を持つ予約語がキーワードである。Javaでは言語で使われていないgotoやconstもキーワードである。SQLには予約されたキーワードと予約されていないキーワードがある。例にも出てきたように、個々の規格によっても両者それぞれ微妙に意味が違うこともある。
なお、FORTRANやPL/Iのように予約語を持たないプログラミング言語もある。
「予約されたキーワード」(reserved keywords) や「予約されていないキーワード」(unreserved keywords) という用語が使用されている場合もある。
共通言語基盤 (CLI) 向けの共通言語仕様 (CLS) にしたがって実装されたC#やVB.NETでは、キーワードを識別子として利用する構文が用意されている。
上記の機能は、CLSを満たす他の.NET言語で記述されてアセンブリに公開されたシンボルの名前を使う場合などでも有用である。例えばC#ではDimはキーワードではないため、プロパティなどの名前として使用できるが、VB.NETではキーワードであるためそのままでは使えず、相互運用に支障が出る。そこで、シンボル名を使用する際に[Dim]と記述することでVB.NETでも識別子として使えるようになる。
C言語はキーワード (keywords) の他、予約済みの識別子 (reserved identifiers) を持つ。正確な詳細は ISO/IEC 9899 規格を参照のこと。
なお、IBMのz/OSのドキュメントでは「reserved keywords」と呼んでいるが、この用語はCの標準規格に準じたものではなく、厳密には誤りである。
C++には、C言語由来のキーワードと、C++で新たに追加されたキーワードがある。また、予約済みの識別子のルールもCと似ているが、若干異なる部分がある。正確な詳細は ISO/IEC 14882 規格を参照のこと。
C#の構文はC/C++やJavaによく似ており、キーワードも類似している。
COBOLは、500ほどの予約語がある。
FORTRANにはキーワードがあるが、予約語を持たない。そのため、ユーザー定義の名前(識別子)にifやgotoのようなキーワードと同じ綴りを使うこともできるが、プログラムの可読性やメンテナンス性を著しく下げるため使うべきではない。
隣接するキーワードは、その間に1つ以上の空白文字を入れる必要があるものもあれば、必要がないものもある。例えばGO TOをGOTOと書くことはできるが、DO WHILEをDOWHILEと書くことはできない。
Javaの構文はC/C++によく似ており、キーワードも類似している。
Pascalでは特殊記号 (special-symbol) の中に含まれる部分集合として、綴り記号 (word-symbol) という用語が使われる。『PASCAL 原書第4版』(培風館、1981)では word symbol の訳として「綴り記号」という用語を使っている。また、同書には「綴り記号(すなわち予約語)」という記述がある(p.12)。
ISO/IEC 7185:1990 の翻訳である JIS X 3008:1994「プログラム言語Pascal」では、「word-symbol」に対して「予約語」という翻訳を割り当てている。
特殊記号は、+, -などの演算子に使われる記号に加えて、begin, endなどの綴り記号を含む。
なお、C系の言語では、BASIC系の言語におけるELSEIFに直接相当するキーワードおよび構文は存在しない。C系言語のelse ifは複合キーワードや専用構文などではなく、else節に続く別のネストされたif文とみなされる。処理系によっては、あらかじめ定められたネスト数の上限に達するとコンパイルエラーとなる。
抽象構文的には全く違いは無いにもかかわらず、具象構文・字句構文(lexical syntax)的な違いは見た目の違いとしてわかりやすいこともあり、しばしばプログラマの好みの問題になりやすい。代表的にはブロックが { ... } か begin ... end か、などといった点であるが、そういった要素に記号を多用しがちな言語と、キーワードを多用しがちな言語がある。記号を使うのは簡潔だが、やりすぎると一見では暗号のようになりかねない(PerlやAPLなど)。キーワードを使う言語は冗長だが明示的という点は利点だが、識別子に使える名前が制限され、フォントを変えるなどシンタックスハイライトの支援がないと見た目にも区別しづらい。キーワードは全て大文字とし、識別子には必ず大文字アルファベット以外の文字が含まれるようにする、といった解決法もある。近年はISO 646の国際版に、世界的に7ビットの文字コードは定着したが、以前は、あるいは今もEBCDICは絶滅していないので記号は自由に使えない場合もあった。
コンテキストキーワード (contextual keywords) はC#やC++などの言語で採用されている特殊なキーワードで、文脈キーワード、文脈依存キーワード (context-sensitive keywords) とも言われる。
言語を後から拡張する場合、新しい構文やキーワードあるいは予約語を追加すると既存のコードとの互換性が壊れてしまう場合がある。例えば、既存の変数やメソッドの名前が新しいキーワードあるいは予約語と同じだった場合、新しい言語仕様では構文エラーとなる。しかし、完全に将来の拡張を予期してあらゆるキーワードを予約しておくことは困難であり、予約語が拡張の障害になりうる。
そこで、新しく拡張された構文の中でのみキーワードとして動作するのがコンテキストキーワードである。コンテキストキーワードは特定の構文以外では変数などの名前として使用できるため、既存のコードを破壊することがない。
例えば、C#のプロパティ構文では、C# 1.0の登場当初からget、set、valueという多くの名前に使われているであろう語をコンテキストキーワードとして定義している。これは例えばC/C++やJavaのコードをC#に移植する際に、名前の衝突を避けるのに役立つ。C# 5.0で追加されたasync/await構文でも、コンテキストキーワードを利用して言語仕様が拡張されている。
Cでは、例えばincludeやelifなどはプリプロセッサディレクティブの文脈では命令のひとつとして認識されるが、それ以外では通常のユーザー定義識別子として使用することもできる。
C++では、例えばC++11で追加されたoverrideやfinalは単独ではキーワードではなく、通常は変数名や関数名などの識別子として使用することもできるが、文脈によっては特殊な意味を持つようになる。
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"text": "予約語(、英: reserved word)とは、プログラミング言語などの人工言語の仕様に定められているもので、ユーザープログラムの開発者が自分で付ける識別名としては利用できない特定の文字列のこと。たとえば変数名や関数名などに使用することができない、とあらかじめ定められた文字列(単語、字句など)のこと。あるいは、プログラミング言語などにおいて、固定された意味を持っており、その結果、プログラマーの側ではその意味を再定義できない語。",
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"text": "抽象構文的には全く違いは無いにもかかわらず、具象構文・字句構文(lexical syntax)的な違いは見た目の違いとしてわかりやすいこともあり、しばしばプログラマの好みの問題になりやすい。代表的にはブロックが { ... } か begin ... end か、などといった点であるが、そういった要素に記号を多用しがちな言語と、キーワードを多用しがちな言語がある。記号を使うのは簡潔だが、やりすぎると一見では暗号のようになりかねない(PerlやAPLなど)。キーワードを使う言語は冗長だが明示的という点は利点だが、識別子に使える名前が制限され、フォントを変えるなどシンタックスハイライトの支援がないと見た目にも区別しづらい。キーワードは全て大文字とし、識別子には必ず大文字アルファベット以外の文字が含まれるようにする、といった解決法もある。近年はISO 646の国際版に、世界的に7ビットの文字コードは定着したが、以前は、あるいは今もEBCDICは絶滅していないので記号は自由に使えない場合もあった。",
"title": "キーワード指向の言語と記号指向の言語"
},
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"paragraph_id": 21,
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"text": "コンテキストキーワード (contextual keywords) はC#やC++などの言語で採用されている特殊なキーワードで、文脈キーワード、文脈依存キーワード (context-sensitive keywords) とも言われる。",
"title": "コンテキストキーワード"
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"text": "言語を後から拡張する場合、新しい構文やキーワードあるいは予約語を追加すると既存のコードとの互換性が壊れてしまう場合がある。例えば、既存の変数やメソッドの名前が新しいキーワードあるいは予約語と同じだった場合、新しい言語仕様では構文エラーとなる。しかし、完全に将来の拡張を予期してあらゆるキーワードを予約しておくことは困難であり、予約語が拡張の障害になりうる。",
"title": "コンテキストキーワード"
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"text": "そこで、新しく拡張された構文の中でのみキーワードとして動作するのがコンテキストキーワードである。コンテキストキーワードは特定の構文以外では変数などの名前として使用できるため、既存のコードを破壊することがない。",
"title": "コンテキストキーワード"
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"text": "例えば、C#のプロパティ構文では、C# 1.0の登場当初からget、set、valueという多くの名前に使われているであろう語をコンテキストキーワードとして定義している。これは例えばC/C++やJavaのコードをC#に移植する際に、名前の衝突を避けるのに役立つ。C# 5.0で追加されたasync/await構文でも、コンテキストキーワードを利用して言語仕様が拡張されている。",
"title": "コンテキストキーワード"
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"text": "Cでは、例えばincludeやelifなどはプリプロセッサディレクティブの文脈では命令のひとつとして認識されるが、それ以外では通常のユーザー定義識別子として使用することもできる。",
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"text": "C++では、例えばC++11で追加されたoverrideやfinalは単独ではキーワードではなく、通常は変数名や関数名などの識別子として使用することもできるが、文脈によっては特殊な意味を持つようになる。",
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"text": "マイクロソフトによる独自の言語拡張であるC++/CLIおよびC++/CX(英語版)では、プロパティやデリゲートなど、標準C++からの拡張機能に関連するキーワードはすべてコンテキストキーワードとして規定されている。",
"title": "コンテキストキーワード"
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] | 予約語(よやくご、とは、プログラミング言語などの人工言語の仕様に定められているもので、ユーザープログラムの開発者が自分で付ける識別名としては利用できない特定の文字列のこと。たとえば変数名や関数名などに使用することができない、とあらかじめ定められた文字列のこと。あるいは、プログラミング言語などにおいて、固定された意味を持っており、その結果、プログラマーの側ではその意味を再定義できない語。 | {{出典の明記|date=2021-09}}
{{読み仮名|'''予約語'''|よやくご|{{lang-en-short|reserved word}}}}とは、[[プログラミング言語]]などの人工言語の仕様に定められているもので、ユーザープログラムの開発者が自分で付ける[[識別子|識別名]]としては利用できない特定の[[文字列]]のこと<ref name="ewordsjp">[https://e-words.jp/w/%E4%BA%88%E7%B4%84%E8%AA%9E.html 予約語(reserved word)とは - IT用語辞典 e-Words]</ref>。たとえば変数名や関数名などに使用することができない、とあらかじめ定められた文字列(単語、[[字句]]など)のこと<ref name="ewordsjp" />。あるいは、プログラミング言語などにおいて、固定された意味を持っており、その結果、プログラマーの側ではその意味を再定義できない語<ref>[https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/reserved-word Collins, reserved words]</ref><ref>[https://www.dictionary.com/browse/reserved-word Reserved word Definition & Meaning | Dictionary.com Dictionary.com], “a word in a programming language or computer system that has a fixed meaning and therefore cannot be redefined by a programmer”</ref>。
== 概要 ==
予約語と似ていてしばしば混同されてしまう言葉に「キーワード」({{lang|en|keyword}}) があるが、プログラミング言語の種類、また文脈によってreserved wordとkeywordは全く違う意味を持ちうるので、両者は異なる用語・概念と扱われている場合が多い。そのため、一旦は別物である可能性が高いとみなして扱うほうが安全である。
{{要出典範囲|date=2021-09|たとえば「予約語」という用語を「処理系で内部的に使う名前と同じであるといった理由で予約されているためにユーザーは使えない識別子」という意味で使っている規格もある}}<!-- それは reserved names / reserved identifiers では? -->。この場合予約語はキーワードとは別のものである。
一方、「キーワード」は言語仕様上特別な意味を持った語のことである。キーワードであっても予約語でないこともあるし、その逆もある。たとえば[[ECMAScript]] (ECMA-262) 5th Edition (ES5) では、<code>class</code>や<code>extends</code>は予約されており予約語だが言語で使われておらずキーワードではない。しかしECMA-262 6th Edition (ES6) では新たにサポートしたクラス構文のために使われるキーワードとなった。ECMA-262 では、キーワードは予約語の部分集合で、言語で制御構造などの意味を持つ予約語がキーワードである。[[Java]]では言語で使われていない<code>goto</code>や<code>const</code>もキーワードである<ref>[https://docs.oracle.com/javase/tutorial/java/nutsandbolts/_keywords.html Java Language Keywords (The Java™ Tutorials > Learning the Java Language > Language Basics)]</ref>。[[SQL]]には予約されたキーワードと予約されていないキーワードがある。例にも出てきたように、個々の規格によっても両者それぞれ微妙に意味が違うこともある。
なお、[[FORTRAN]]や[[PL/I]]のように予約語を持たないプログラミング言語もある。
「予約されたキーワード」({{lang|en|reserved keywords}}) や「予約されていないキーワード」({{lang|en|unreserved keywords}}) という用語が使用されている場合もある<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/visual-basic/language-reference/keywords/ Keywords - Visual Basic | Microsoft Docs]</ref><ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/visual-basic/language-reference/keywords/ キーワード - Visual Basic | Microsoft Docs]</ref>。
[[共通言語基盤]] (CLI) 向けの[[共通言語仕様]] (CLS) にしたがって実装された[[C Sharp|C#]]や[[VB.NET]]では、キーワードを識別子として利用する構文が用意されている。
* C#では<code>@class</code>などのように先頭に<code>@</code>をつけることで識別子として利用することができる<ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/csharp/language-reference/tokens/verbatim @ - C# リファレンス | Microsoft Docs]</ref>。
* VB.NETでは<code>[Class]</code>などのように<code>[...]</code>で囲むことで識別子として利用することができる<ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/visual-basic/programming-guide/language-features/declared-elements/declared-element-names#escaped-names 宣言された要素の名前 - Visual Basic | Microsoft Docs]</ref>。
* [[F Sharp|F#]]では<code>``class``</code>などのように<code>``...``</code>で囲むことで識別子として利用することができる<ref>[https://docs.microsoft.com/ja-jp/dotnet/fsharp/language-reference/symbol-and-operator-reference/#string-and-identifier-symbols シンボルと演算子のリファレンス - F# | Microsoft Docs]</ref>。
上記の機能は、CLSを満たす他の.NET言語で記述されて[[アセンブリ (共通言語基盤)|アセンブリ]]に公開されたシンボルの名前を使う場合などでも有用である。例えばC#では<code>Dim</code>はキーワードではないため、プロパティなどの名前として使用できるが、VB.NETではキーワードであるためそのままでは使えず、相互運用に支障が出る。そこで、シンボル名を使用する際に<code>[Dim]</code>と記述することでVB.NETでも識別子として使えるようになる。
== 主な言語の予約語やキーワード ==
=== Ada ===
{{main|予約語 (Ada)}}
=== C言語 ===
[[C言語]]はキーワード (keywords) の他、予約済みの識別子 (reserved identifiers) を持つ<ref>[https://ja.cppreference.com/w/c/keyword C のキーワード - cppreference.com]</ref><ref>[https://ja.cppreference.com/w/c/language/identifier 識別子 - cppreference.com (C)]</ref>。正確な詳細は ISO/IEC 9899 規格を参照のこと。
{{main|キーワード (C言語)}}
{{seealso|命名規則 (プログラミング)}}
なお、[[IBM]]の[[z/OS]]のドキュメントでは「reserved keywords」と呼んでいる<ref>[https://www.ibm.com/docs/en/adfz/developer-for-zos/14.2.0?topic=programs-c-reserved-keywords C reserved keywords - IBM Documentation]</ref>が、この用語はCの標準規格に準じたものではなく、厳密には誤りである。
=== C++ ===
[[C++]]には、C言語由来のキーワードと、C++で新たに追加されたキーワードがある<ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/keyword C++ のキーワード - cppreference.com]</ref>。また、予約済みの識別子のルールもCと似ているが、若干異なる部分がある<ref>[https://ja.cppreference.com/w/cpp/language/identifiers 識別子 - cppreference.com (C++)]</ref>。正確な詳細は ISO/IEC 14882 規格を参照のこと。
{{main|キーワード (C++)}}
{{seealso|命名規則 (プログラミング)}}
=== C# ===
C#の構文はC/C++やJavaによく似ており、キーワードも類似している。
{{main|キーワード (C Sharp)}}
=== COBOL ===
[[COBOL]]は、500ほどの予約語がある<ref>[https://cimec.org.ar/~mstorti/prof77/node46.html]</ref>。
{{Main|予約語 (COBOL)}}
=== FORTRAN ===
[[FORTRAN]]にはキーワードがあるが、予約語を持たない<ref>[https://wg5-fortran.org/N001-N1100/N692.pdf Fortran 90, ISO/IEC 1539:1991 - §2.5.2 Keyword]</ref>。そのため、ユーザー定義の名前(識別子)に<code>if</code>や<code>goto</code>のようなキーワードと同じ綴りを使うこともできるが、プログラムの可読性やメンテナンス性を著しく下げるため使うべきではない<ref>[https://jp.xlsoft.com/documents/intel/cvf/vf-html/lr/lr02_01_03.htm キーワード | Compaq Visual Fortran | XLsoft]</ref>。
隣接するキーワードは、その間に1つ以上の空白文字を入れる必要があるものもあれば、必要がないものもある<ref>[https://jp.xlsoft.com/documents/intel/cvf/vf-html/lr/lr02_03_01.htm 自由形式 | Compaq Visual Fortran | XLsoft]</ref>。例えば<code>GO TO</code>を<code>GOTO</code>と書くことはできるが、<code>DO WHILE</code>を<code>DOWHILE</code>と書くことはできない。
=== Java ===
Javaの構文はC/C++によく似ており、キーワードも類似している。
{{main|キーワード (Java)}}
=== Pascal ===
[[Pascal]]では特殊記号 ({{lang|en|special-symbol}}) の中に含まれる部分集合として、綴り記号 ({{lang|en|word-symbol}}) という用語が使われる。『PASCAL 原書第4版』(培風館、1981)では word symbol の訳として「綴り記号」という用語を使っている。また、同書には「綴り記号(すなわち予約語)」という記述がある(p.12)。
ISO/IEC 7185:1990 の翻訳である JIS X 3008:1994「プログラム言語Pascal」では、「{{lang|en|word-symbol}}」に対して「予約語」という翻訳を割り当てている。
特殊記号は、<code>+</code>, <code>-</code>などの演算子に使われる記号に加えて、<code>begin</code>, <code>end</code>などの綴り記号を含む。
== 典型的な予約語・キーワード ==
* フロー制御を表す単語(<code>if</code>、<code>while</code> など)
* プログラムの構成要素を表す単語(<code>function</code>、<code>class</code> など)
* プログラムの構成要素を修飾する単語(<code>static</code>、<code>const</code> など)
* 組み込み関数(<code>open</code>、<code>read</code>など)
* 組み込みの型(<code>int</code>、<code>string</code>など)
* 他の言語などと混同して、誤用される可能性のある語(Javaの<code>goto</code>、<code>const</code>など)
* 将来キーワードとして利用するかも知れない語(JavaScriptの<code>let</code>、<code>super</code><ref>これらはES5時点では予約語だったが、ES6で追加された新機能に使われることになり、キーワードに昇格した。</ref>)
* 過去にキーワードだったため意味が無くなった後も(将来的な再利用のために)残してあるもの([[C++11]]の<code>export</code><ref>C++03ではテンプレートのエクスポート機能のために使われていたが、C++11ではその機能が廃止された。のちに[[C++20]]ではモジュール機能のために再利用されることになった。</ref>、[[C++17]]の<code>register</code><ref>[https://cpprefjp.github.io/lang/cpp17/remove_deprecated_use_of_the_register_keyword.html 非推奨だったregisterキーワードを削除 - cpprefjp C++日本語リファレンス]</ref>)
なお、C系の言語では、[[BASIC]]系の言語における<code>ELSEIF</code>に直接相当するキーワードおよび構文は存在しない。C系言語の<code>else if</code>は複合キーワードや専用構文などではなく、<code>else</code>節に続く別のネストされた<code>if</code>文とみなされる<ref>[https://ja.cppreference.com/w/c/language/if if 文 - cppreference.com]</ref><ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/language-reference/language-specification/statements#1282-the-if-statement Statements - C# language specification | Microsoft Learn]</ref>。処理系によっては、あらかじめ定められたネスト数の上限に達するとコンパイルエラーとなる<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/cpp/error-messages/compiler-errors-1/fatal-error-c1061 Fatal Error C1061 | Microsoft Learn]</ref>。
== キーワード指向の言語と記号指向の言語 ==
[[抽象構文木|抽象構文]]的には全く違いは無いにもかかわらず、具象構文・字句構文(lexical syntax)的な違いは見た目の違いとしてわかりやすいこともあり、しばしばプログラマの好みの問題になりやすい。代表的には[[ブロック (プログラミング)|ブロック]]が <code>{ ... }</code> か <code>begin ... end</code> か、などといった点であるが、そういった要素に記号を多用しがちな言語と、キーワードを多用しがちな言語がある。記号を使うのは簡潔だが、やりすぎると一見では暗号のようになりかねない(PerlやAPLなど)。キーワードを使う言語は冗長だが明示的という点は利点だが、識別子に使える名前が制限され、フォントを変えるなどシンタックスハイライトの支援がないと見た目にも区別しづらい。キーワードは全て大文字とし、識別子には必ず大文字アルファベット以外の文字が含まれるようにする、といった解決法もある。{{いつ範囲|date=2021-09|近年}}はISO 646の国際版に、世界的に7ビットの文字コードは定着したが、以前は、あるいは今もEBCDICは絶滅していないので記号は自由に使えない場合もあった。
== コンテキストキーワード ==
コンテキストキーワード (contextual keywords) は[[C Sharp|C#]]や[[C++]]などの言語で採用されている特殊なキーワードで、文脈キーワード、文脈依存キーワード (context-sensitive keywords) とも言われる。
言語を後から拡張する場合、新しい構文やキーワードあるいは予約語を追加すると既存のコードとの互換性が壊れてしまう場合がある。例えば、既存の変数やメソッドの名前が新しいキーワードあるいは予約語と同じだった場合、新しい言語仕様では構文エラーとなる。しかし、完全に将来の拡張を予期してあらゆるキーワードを予約しておくことは困難であり、予約語が拡張の障害になりうる。
そこで、新しく拡張された構文の中でのみキーワードとして動作するのがコンテキストキーワードである。コンテキストキーワードは特定の構文以外では変数などの名前として使用できるため、既存のコードを破壊することがない。
例えば、C#の[[プロパティ (プログラミング)|プロパティ]]構文では、C# 1.0の登場当初から<code>get</code>、<code>set</code>、<code>value</code>という多くの名前に使われているであろう語をコンテキストキーワードとして定義している<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/dotnet/csharp/language-reference/keywords/#contextual-keywords C# Keywords | Microsoft Docs]</ref><!-- 日本語版リファレンスは翻訳ミスがあるため参照しない。 -->。これは例えばC/C++やJavaのコードをC#に移植する際に、名前の衝突を避けるのに役立つ。C# 5.0で追加された[[async/await]]構文でも、コンテキストキーワードを利用して言語仕様が拡張されている。
Cでは、例えば<code>include</code>や<code>elif</code>などはプリプロセッサディレクティブの文脈では命令のひとつとして認識されるが、それ以外では通常のユーザー定義識別子として使用することもできる<ref>[https://en.cppreference.com/w/c/keyword C keywords - cppreference.com]</ref>。
C++では、例えば[[C++11]]で追加された<code>override</code>や<code>final</code>は単独ではキーワードではなく、通常は変数名や関数名などの識別子として使用することもできるが、文脈によっては特殊な意味を持つようになる<ref>[https://en.cppreference.com/w/cpp/keyword C++ keywords - cppreference.com]</ref><ref>[https://cpprefjp.github.io/lang/cpp11/override_final.html overrideとfinal - cpprefjp C++日本語リファレンス]</ref>。
[[マイクロソフト]]による独自の言語拡張である[[C++/CLI]]および{{仮リンク|C++/CX|en|C++/CX}}では、プロパティや[[デリゲート (プログラミング)|デリゲート]]など、標準C++からの拡張機能に関連するキーワードはすべてコンテキストキーワードとして規定されている<ref>[https://learn.microsoft.com/en-us/cpp/extensions/context-sensitive-keywords-cpp-component-extensions Context-Sensitive Keywords (C++/CLI and C++/CX) | Microsoft Learn]</ref>。
=== コンテキストキーワードの問題点 ===
* 文脈によってキーワードか否かが決まるので正規表現などでは判断しがたいこともあり、テキストエディタの[[シンタックスハイライト]]を正確に行うのが困難なこともある。しかし、[[パーサ]]の設計次第ではあるが[[統合開発環境]]などでは言語処理系自体のパーサを利用するなどして構文解析を行って実現する、という手もある。
* パーサ(構文規則)が複雑になる場合もある。
* 他のスコープの変数やクラスメンバなどを使用する際に、新しい構文の中でも識別子として利用しないといけない場合があり、コンテキストキーワードだけでは回避できない(以下のC#によるコード例を参照)。
<syntaxhighlight lang="csharp">
public class MyClass {
private string value; // value は setter でのみ使われるコンテキストキーワードなので、ここでは衝突しない。
public string Value {
get { return value; } // value は setter でのみ使われるコンテキストキーワードなので、ここでは衝突しない。
set { value = value; } // フィールド MyClass.value への代入ではなく、パラメータ value への自己代入となる。
//set { this.value = value; } // フィールドへの代入とするには、this による修飾が必要。
}
}
var obj = new MyClass();
obj.Value = "hoge";
System.Console.WriteLine("Value = \"{0}\"", obj.Value);
</syntaxhighlight><!-- C# 3.0 以降を想定。ここでは新しい言語機能を説明するのが目的ではないので、C# 6.0 以降の機能を使って書き直したりしないようにすること。 -->
=== コンテキストキーワードの利点 ===
* 前述の「問題点」は全て、[[字句解析器|レキシカルアナライザ]]は厳密な正規表現([[正規言語]]に限られた範囲の表現)によって先頭のトークンを切り出すことしかできず、[[構文解析器|パーサ]]は厳密に[[LL法#LL(1)構文解析表の作成|LL(1)]]か[[LALR法|LALR(1)]]の構文規則のみに従ってパースすることしかできない、という、聊か非現実的な前提の下では正しい。しかし実際の言語の処理系の実装では、レキシカルアナライザもパーザもアドホックに拡張されているのが普通である。コンテキストキーワードのようなものは一般に、何らかの指定されたキーワードの直後であるとか、記号の特殊な組み合わせといったような、アドホックな拡張によって容易に扱えるように設計されるのが通例であり、以上の問題点による実際の問題は小さい。
* 共通言語基盤 (CLI) のように、他の言語と共通のバックエンドやライブラリを使うためには、予約されている綴りを識別子として使うためのエスケープとともに、重要で必須な対応とも言える。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[命名規則 (プログラミング)]]
[[Category:プログラミング言語のトピック|よやくこ]]
[[Category:プログラミング言語の構文|よやくこ]]
[[Category:プログラミング言語の予約語|*]] | null | 2023-04-06T15:47:50Z | false | false | false | [
"Template:要出典範囲",
"Template:Main",
"Template:Seealso",
"Template:いつ範囲",
"Template:仮リンク",
"Template:出典の明記",
"Template:読み仮名",
"Template:Lang"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E7%B4%84%E8%AA%9E |
6,441 | 疑似科学 | 疑似科学(、英: pseudoscience)とは、科学的で事実に基づいたものであると主張されているにもかかわらず、科学的方法とは相容れない言明・信念・行為のことである。似非科学()や偽科学()などとも呼ばれる。疑似科学は、矛盾、誇張、反証不可能な主張、確証バイアスへの依存、他の専門家による評価への開放性の欠如、仮説形成時の体系的実践の欠如、および疑似科学的仮説が実験的に否定された後も長期間に渡って信奉されていることなどを特徴とすることが多い。
科学と疑似科学の区別は、哲学的・政治的・科学的な意味がある。科学と疑似科学を区別することは、医療・鑑定・環境政策・科学教育などの場合は実用的意義を持つ。気候変動の否定・占星術・錬金術・代替医療・オカルト信仰・創造科学などに見られる疑似科学的信念と科学的事実や理論を区別することは、科学教育とリテラシーの範疇である。
疑似科学は危険な影響を及ぼす可能性がある。たとえば、疑似科学的な反ワクチン運動や、病気の代替治療としてのホメオパシーの推進は、健康上の効果が実証されている重要な医療行為を人々が放棄することになり、不健康や死につながる。さらに、伝染病に対する正当な治療を拒否する人々は、他の人々を危険にさらしかねない。人種や民族の分類に関する疑似科学的理論は、人種差別や大量虐殺につながっている。
疑似科学という言葉は、不正確に、あるいは欺瞞的に科学として提示されているものであることを示唆しているため、特に疑似科学を支持している人々からは軽蔑的に捉えられることが多い。したがって、疑似科学を実践・擁護している人々は、この表現に異議を唱えることが多い。
英語では、ブードゥー・サイエンス(英語版)(英: Voodoo science)、ジャンク・サイエンス(英語版)(英: Junk science)、バッド・サイエンス(英語版)(英: Bad science)とも呼ばれる。
疑似科学を意味する英語の「pseudoscience」の語源は、古代ギリシア語で「偽り」を意味する接頭辞の「ψευδής」 およびラテン語で「知識」を意味する「scientia」である。この言葉は、少なくとも18世紀後半から使われていたが(たとえば、1796年にジェームズ・ペティット・アンドリュース(英語版)が錬金術について言及している)、本物の科学や正しい科学とは異なるという意味での疑似科学という概念は、19世紀中葉に広まったようである。pseudo-science という言葉は、1844年の『Northern Journal of Medicine』第387号に掲載された記事で初めて使用された。
それ以前には、1843年にフランスの生理学者であるフランソワ・マジャンディーが、骨相学を「現代の疑似科学」であると称している。20世紀に入ると、この言葉は「科学的であると主張している一方で、実際には信頼できる実験的証拠に裏付けられていない、諸現象に関する説明」を軽蔑的に表すために用いられるようになった。しかし、社会文化的環境において、個人や組織の安全が脅かされていると認識された際に、より形式的で厳密な方法で用いられることもあった。
疑似科学の歴史(英語版)とは、疑似科学の理論を経時的に研究することである。疑似科学は、科学と呼ばれるべき基準を満たしていないにもかかわらず、科学であるかのように見せかけている一連の信念のことである。
適切な科学と疑似科学を区別することは、ときに困難である。両者を区別するための提案の一つは、哲学者のカール・ポパーが提唱した「反証可能性」である。疑似科学から科学に発展した分野も存在するため、科学史や疑似科学の歴史において、この2つを区別することは特別に難しい。その一例として、錬金術などの疑似科学的・前科学的研究に起源を持つ化学が挙げられる。
疑似科学の多様性は、科学史をさらに複雑にしている。占星術などの現代の疑似科学の中には、科学時代以前に生まれたものもある。また、ルイセンコ主義のように、イデオロギーの一部として、あるいはイデオロギーへの脅威と思われるものに対抗して発展したものもある。このようなイデオロギー的プロセスの例としては、科学的な進化論に対抗して作成された創造科学やインテリジェント・デザインが挙げられる。
疑似科学は、科学的方法や反証可能性、およびマートンの規範(英語版)などの科学的基準を遵守していないため、科学であると通常主張しているにもかかわらず、科学とは区別される。
ある知識・方法・実践が科学的であるかどうかの判断基準として、科学者は多数の基本原則を受け入れている。実験結果は再現性を持ち、他の研究者によって検証(英語版)されるべきである。これらの原則は、実験が同じ条件下で測定可能な形で再現できることを保証し、所与の現象に関連する仮説または理論が有効かつ信頼できるかどうかを判断するために、さらなる研究を可能にすることを目的としている。基準では、科学的方法を全面的に適用し、無作為化、公正なサンプリング手順、研究の盲検化、およびその他の方法によってバイアスを制御、または排除することが要求される。実験条件や環境条件を含むすべての収集データは、精査と査読のために文書化され、追試や反証のためにさらなる実験や研究が行われることが期待される。また、有意性・信頼性・誤差(英語版)を統計的に定量化することも、科学的方法の重要なツールである。
20世紀中葉、哲学者のカール・ポパーは、科学と非科学(英語版)を区別するために「反証可能性」という基準を強調した。言明、仮説、または理論は、それらが誤っていることが実証される可能性を内包していれば、反証可能性を有している。つまり、それらを否定する観測や論証を考えることが可能であれば、反証可能性がある。ポパーは、占星術や精神分析を疑似科学の例とし、アインシュタインの相対性理論を科学の例とした。ポパーは、非科学(英: Nonscience)を、哲学的・数学的・神話的・宗教的・形而上学的な定式化、もう一方では疑似科学的な定式化に細分化した。
ある主張が反証可能であることの明確な必要性を示しているもう一つの例は、カール・セーガンの著書『悪霊にさいなまれる世界(英語版)』の中で、彼がガレージに飼っている不可視のドラゴンについて論じた際に述べられた。そこでは、このドラゴンが存在するという主張を否定する物理的な検証方法は存在しないことが指摘されている。いかなるテストを考案しようと、不可視のドラゴンには当てはまらないための理由があるため、最初の主張が誤りであることを実証できないのである。セーガンは次のように結論づける。
彼は、「私の仮説が誤りであることを示せないことは、それが真実であると証明することとまったく同じではない」と述べ、そのような主張が真実であったとしても、それは科学研究(英語版)の範疇には入らないと説明した。
1942年、ロバート・K・マートンは、真の科学とは何かを示す5つの「規範」を明らかにした。彼は、これらの規範のいずれかに違反している試みを非科学的なものと捉えた。なお、これらの規範は、科学界で広く受け入れられているものではない。
1978年、哲学者のポール・サガード(英語版)は、疑似科学を科学と区別できるのは、主に長期間にわたって代替理論に比べて進歩がなく、提唱者が理論の問題点を認めず、対処しない場合であると提案した。1983年、マリオ・ブンゲは、疑似科学と科学を区別するために、「信念の分野」と「研究の分野」の2つからなるカテゴリーを提案した。前者は主に個人的で主観的なものであり、後者は一定の体系的方法を伴うものである。スティーヴン・ノヴェラ(英語版)などによる、科学的懐疑主義に関する書籍『The Skeptics' Guide to the Universe(英語版)』(2018年)では、疑似科学の大きな特徴の一つとして、批判に対する敵意が挙げられている。
ポール・ファイヤアーベントなどの科学哲学者は、科学と非科学を区別することは不可能かつ望ましいことではないと主張した。科学と非科学の区別を困難にしているのは、科学理論や方法が新たなデータに応じて進化する速度が異なることである。ラリー・ラウダン(英語版)は、疑似科学には科学的な意味はなく、主に我々の感情を表すために使われていると指摘しており、次のように述べている。
同様に、リチャード・マクナリー(英語版)も次のように述べている。
哲学者のシルビオ・フントヴィッチ(英語版)とジェローム・ラベッツ(英語版)は、「疑似科学とは、出力が完全に不確実にならないように、入力の不確実性を抑えなければならないものと定義できる」と述べている。この定義は、『Uncertainty and Quality in Science for Policy(英語版)』に記載されており、定量的な情報を扱う技術が失われていることや、予測の精度を高めるために、予測を定式化するために使用された入力の不確実性を無視するという悪い慣習を示唆している。この言葉の使い方は、ポスト・ノーマル・サイエンス(英語版)の実践者の間でよく使われている。このように理解した場合、疑似科学は、NUSAP(英語版)や感度監査(英語版)(数理モデリングの場合)など、定量的情報の不確実性を評価するための優れた手法を用いて戦うことが可能となる。
科学研究の規範を遵守しているように示されているにもかかわらず、明らかにその規範を遵守していない場合、その主題・実践・知識体系は疑似科学と呼ばれる可能性が高い。以下は、その指標を列挙したものである。
アメリカでは、科学の原理や方法を十分に理解していない、科学リテラシーの低い人が人口の多くの割合を占めている。『Journal of College Science Teaching』の中で、アート・ホブソンは次のように述べている。「疑似科学的信念は、驚くほど我々の文化に浸透しており、公立学校の科学教師や新聞編集者の間でさえ広まっている。そしてこれは、科学リテラシーの欠如と密接に関連している」。しかし、同誌に掲載された1万人の生徒を対象に行われた研究では、科学的知識と疑似科学を信じることの間に強い相関関係はないと結論づけられている。
カール・セーガンは、著書『悪霊にさいなまれる世界(英語版)』の中で、中国政府と中国共産党が、中国における西洋の疑似科学の発展と、中国古来のある種の慣習に懸念を抱いていることについて論じている。彼は、米国で発生している疑似科学を世界的傾向の一部として捉え、その原因・危険性・診断・治療法は世界共通である可能性を示唆している。
2006年、アメリカ国立科学財団(NSF)は、科学と工学に関する論文の要旨を公表し、現代における疑似科学の普及について簡潔に述べた。それによると、「疑似科学への信仰は広く行き渡っている」とされ、ギャラップ調査を参考に、世論調査で挙げられた10種類の一般に信じられている超常現象の例を信じていることが「疑似科学的信念」であるとされた。その項目は、「超感覚的知覚・幽霊・幽霊屋敷・テレパシー・透視・占星術・死者との精神的交信・魔女・輪廻転生・チャネリング」である。このような疑似科学への信仰は、科学がどのように機能するかについての知識の欠如を表している。科学界は、証明されていない主張に一般人が過敏に反応することに対する懸念から、科学に関する情報を伝えようとすることがある。NSFは、米国における疑似科学信仰は、1990年代に広まり、2001年頃にピークを迎え、その後やや減少したが、疑似科学信仰は依然として一般的であると述べている。NSFの報告書によると、社会において疑似科学的問題に関する知識が不足しており、疑似科学的行為が一般的に行われているという。調査によると、米国の成人のうち、約3分の1が占星術を科学的だと考えているという。
疑似科学作家、および疑似科学的研究者と、彼らの反ユダヤ主義・人種差別・ネオナチズム的背景との間には多くの繋がりがある。彼らは、自身の信念を強化するために疑似科学を利用することが多い。最も優勢な疑似科学作家の一人は、フランク・コリン(英語版)である。彼はナチスを自称しており、著作の中でフランク・ジョセフと名乗っている。彼の著作の大半は、アトランティスや地球外生命体との遭遇、およびレムリアなどの古代文明をテーマにしており、白人至上主義的なニュアンスを含んでいることが多い。たとえば、コロンブス以前のヨーロッパ人が北アメリカに移住していたという主張や、アメリカ先住民の文明はすべて白人の子孫が興したものであるといった主張を展開している。
オルタナ右翼が疑似科学をイデオロギーの根拠としていることは、今に始まったことではない。反ユダヤ主義の基盤は、すべて疑似科学か科学的人種差別主義(英語版)に基づいている。サンダー・ギルマンは、ニューズウィーク誌に寄稿した記事の中で、疑似科学コミュニティの反ユダヤ主義的見解について解説している。
ネオナチや白人至上主義者は、自分たちの主張が単なる有害なステレオタイプではないことを「証明」する研究で、自身の主張を裏付けようとしている。たとえば、ブレット・ステファンズ(英語版)は、ニューヨーク・タイムズ紙にコラムを掲載し、アシュケナジムのユダヤ人は、あらゆる民族の中で最もIQが高いと主張した。しかし、ステファンズが引用した論文の研究方法と結論は、発表以降、何度も疑問視されているものである。その研究の著者のうち、少なくとも一人は、南部貧困法律センターによって白人ナショナリストと認定されていることが判明している。
科学誌のネイチャーは、ここ数年、特に集団遺伝学や古代のDNAを扱う研究者らに対して、研究を悪用しようとする過激派について警告する論説を何度も掲載している。ネイチャー誌に掲載された記事『Racism in Science: The Taint That Lingers』によると、20世紀初頭の優生学的疑似科学は、アジアやヨーロッパの一部からの移民を阻止しようとした米国の1924年移民法のように、公共政策に影響を与えるために利用されてきたという。「人種」は、科学的に妥当な概念ではないということが研究によって繰り返し示されているにもかかわらず、一部の科学者は「人種」間の測定可能な生物学的差異を探し続けている。
Singer & Benassi(1981)によると、疑似科学的信念は、少なくとも4つの要因により発生するという。
Eve & Dunn(1990)は、Singerらの調査結果を支持し、高校の生活科学と生物学の教師が疑似科学的信念を広めていることを発見した。
疑似科学の心理学は、何が科学的で何が疑似科学的であるかを明確にすることによって、疑似科学的な考え方を探り、分析することを試みている。疑似科学的思考の原因としては、反論よりも確認を求める傾向(確証バイアス)、心地よく感じる信念を抱く傾向、過度に一般化する傾向などが提案されている。Beyerstein(1991)によると、人間は類似性のみに基づいた関連付けをする傾向にあり、因果関係を考える際に誤帰属を犯す傾向にあるという。
マイケル・シャーマーによる信念依存的実在論の理論は、脳は本質的に、五感で感知したデータをスキャンし、パターンや意味を探し出す「信念のエンジン」であるという着想に基づいている。また、脳には、論理性のない本能に基づいた推論や仮定の結果として、認知バイアスを生み出す傾向があり、通常、認知におけるパターンが生じることにつながっているという。このようなパターニシティ(patternicity)と行為主体性(agenticity)の傾向は、「バイアスの盲点と呼ばれるメタバイアス、つまり、他人の判断におけるバイアスの影響を認識できる一方で、自分自身の判断に対するバイアスの影響を認識できない傾向」によっても引き起こされる。リンデマンは、社会的動機、つまり「自己と世界を理解すること、結果をコントロールする感覚を持つこと、所属すること、世界を善意あるものとみなすこと、自尊心を維持すること」などは、科学的な情報よりも、疑似科学の方が「より簡単に」満たすことができる場合が多いと述べている。さらに、疑似科学的な説明は、一般的に理性的に分析されるのではなく、経験的に分析される。理性的思考とは異なる一連の規則に基づいて行われる経験的思考は、「個人的に機能し、満足感を与え、十分なもの」である場合、その説明を妥当なものとみなし、科学によって提供されるよりも個人的な可能性がある世界に関する説明を提供し、複雑な出来事と結果の理解にかかる潜在的労力を減少させる。
科学的証拠よりも疑似科学を信じる傾向が存在する。一部の人は、疑似科学を信じる人が多いのは、科学リテラシーが欠如している人が多いためであると考えている。努力をほとんど要しない我々のデフォルトのOSである「システム1」を使用して、目先の満足を得ようとする傾向があるため、科学リテラシーを持たない人は、希望的観測に陥りやすい。このシステムは、自身が信じる結論を受け入れ、信じない結論を拒否することを促進する。複雑な疑似科学的現象を分析するためには、規則に従い、複数の次元で対象物を比較し、選択肢を検討するシステム2が必要である。この2つのシステムには、他にもいくつかの違いがあり、二重過程理論でさらに詳細に検討されている。科学的で世俗的な道徳や意味の体系は、一般的に、ほとんどの人にとって満足の行くものではない。人間は本来、幸福と充足を追求する前向きな種であるが、よりよい人生の非現実的な約束を掴もうとすることがあまりにも多いのである。
疑似科学的思考は、明らかにされる必要がある、多くの個人に存在する因果関係と有効性の錯覚的知覚であるため、心理学はそれについて多く論じている。研究では、本を読んだり、広告を見たり、他者の証言を聞いたりといった、特定の状況にさらされた大多数の人に錯覚的思考が発生し、それが疑似科学的信念の基礎となっていることが示唆されている。錯覚は珍しいことではなく、適切な条件を与えられれば、通常の感情的状況であっても系統的に発生させることができると考えられている。疑似科学を信じる人々が最も不満に感じることの一つは、アカデミズム科学が彼らを愚か者のように扱っていることである。現実世界で、これらの錯覚を最小限に抑えることは容易ではない。この目的のために、エビデンスに基づいた教育プログラムを設計することは、人々が自分自身の錯覚を認識し、軽減するために有効である。
哲学者は知識の種類を分類している。英語では、科学(science)という言葉は、特に自然科学と、それに関連する社会科学と呼ばれる分野を表すために使われる。正確な境界については、科学哲学者の間で意見が分かれている。たとえば、数学は経験的なものに近い形式科学なのか、それとも純粋な数学は論理学の哲学的研究に近く、したがって科学ではないのかなどである。しかし、科学的ではない(not scientific)観念は非科学的(non-scientific)であるという点では、すべての人が同意している。non-science という大きなカテゴリーには、歴史学・形而上学・宗教・芸術・人文科学など、自然科学と社会科学以外のすべての事柄が含まれる。このカテゴリーをさらに細分化すると、unscientific な主張は、上位のカテゴリーである non-scientific な主張の部分集合となる。このカテゴリーには、特に、優れた科学に直接反対するすべての事柄が含まれる。un-science には、「悪い科学」(自然界について何かを学ぼうとする善意に基づく試みの中で犯した誤りなど)と疑似科学の両方が含まれる。したがって、疑似科学は un-science の部分集合であり、un-science は non-science の部分集合である。
また、科学は、経験的研究と検証によって得られる物理的世界への洞察を提供するという点で、啓示・神学・スピリチュアリティとも区別される。最も有名な論争は、生物の進化と共通祖先の概念、地球の地質学的歴史、太陽系の形成、および宇宙の起源に関するものである。神や霊感による知識に由来する信念体系は、科学的であると主張したり、確立された科学を覆すようなものでなければ、疑似科学とはみなされない。さらに、執り成しの祈りで病気が治るというような特定の宗教的主張は、検証不可能な信念に基づいていることがあるが、科学的方法で検証することができる。
通俗科学の言明や通説は、科学の基準を満たしていない場合がある。「ポップ」・サイエンスは、一般の人々の間で科学と疑似科学の境界を曖昧にする可能性があり、また、サイエンス・フィクションも含む場合もある。実際に、通俗科学は、科学的方法論や専門家による査読に責任を持たない人々によって安易に発せられ、広められることがある。
所与の分野の主張が実験的に検証可能なものであり、基準が守られていれば、その主張がいかに奇妙かつ驚くべきもので、直感に反するものだとしても、疑似科学ではない。科学は、反証される可能性がある仮説を検証することから構成されているため、仮に主張が既存の実験結果や確立された理論と矛盾していても、その方法が健全であれば、注意する必要がある。そのような場合、その研究は「まだ一般的に受け入れられていない」観念と表現する方がよい可能性がある。「プロトサイエンス」は、科学的方法で十分に検討されていないが、既存の科学と矛盾しない、あるいは矛盾している場合には、その矛盾を合理的に説明することができる仮説を指す言葉である。また、実用的知識から科学的な分野への移行を意味することもある。
カール・ポパーは、科学と疑似科学、あるいは形而上学(存在の意味を問う哲学的問題)とを区別するためには、「観察や実験に基づく帰納的な経験的方法を厳密に遵守している」という基準では不十分であると述べている。彼は、真の経験的方法と非科学的方法、ひいては疑似科学的方法を区別する方法を提案した。後者の例としては、観察や実験に訴える占星術が挙げられる。占星術は、ホロスコープや伝記などの観察に基づく経験的証拠を持っていたが、許容可能な科学的基準を使用することに大きく失敗した。ポパーは、科学と疑似科学を区別するための重要な基準として、「反証可能性」を提唱した。
ポパーは、反証可能性を説明するために、人間の2つの行動例をジークムント・フロイトやアルフレッド・アドラーの理論に基づいて説明した。その例は、「溺れさせるつもりで子供を水中に突き落とす人と、子供を助けようとして自分の命を犠牲にする人」である。フロイトの観点では、一人目の男はエディプスコンプレックスに起因する心理的抑圧に苦しんでおり、二人目の男は昇華を達成している。アドラーの観点では、二人とも劣等感に苦しんでおり、自身の能力を証明しなければならないと考えている。一人目の男では、それによって犯罪へと駆り立てられ、二人目の男では、子供を救うことに駆り立てられたということになる。ポパーは、フロイトやアドラーの理論では、人間の行動を説明できないという反例を見つけることができなかった。ポパーは、それは観察結果が常に理論に適合しているか、あるいは確証されているからであり、それは理論の長所であるどころか、むしろ短所であると主張した。ポパーは、これとは対照的に、「物質的な物体が引き付けられるのとまったく同じように、光は重い物体(太陽など)によって引き付けられる必要がある」と予測したアインシュタインの重力理論を例に挙げた。これに従うと、太陽に近い恒星は、太陽から少し離れたところに移動しているように見え、お互いに離れているように見える。この予測は著しいリスクを伴うものだったため、ポパーにとって非常に衝撃的なものだった。通常では、太陽の明るさのために、この効果を観測することができないため、日食中に写真を撮り、夜に撮った写真と比較しなければならない。ポパーは、「観測の結果、予測されていた効果が確実に存在しないことがわかれば、その理論は単純に反証される」と述べている。また彼は、理論の科学的地位の基準を、反証可能性・反駁可能性・検証可能性の3つにまとめている。
ポール・サガード(英語版)は、科学と疑似科学を区別するために、占星術をケーススタディとして用い、それらを区別するための原則と基準を提案した。第一に、占星術は、プトレマイオス以来、更新されておらず、説明力も追加されていない。第二に、天文学における分点の歳差運動などの未解決問題を無視している。第三に、性格や行動に関する代替理論は、占星術が静的に天の力に帰している現象の説明を包含するように成長していった。最後に、占星術師は、未解決問題を解決するために理論を発展させることや、他の理論との関係で理論を批判的に評価することに無関心なままである。サガードは、この基準を占星術以外の分野にも適用することを考えた。それにより、物理学・化学・天文学・地球科学・生物学・考古学を科学の領域に残したまま、魔術やピラミッド学(英語版)などを疑似科学として区別することができると彼は考えたのである。
ラカトシュ・イムレは、科学哲学と科学史において、科学と疑似科学を区別する規範的方法論の問題である「線引き問題」の社会的・政治的重要性を強調している。彼のリサーチプログラム(英語版)に基づく科学的方法論の歴史的分析は、次のことを示唆している。「すべての科学理論は、永遠に『反例の海』に直面しているにもかかわらず、科学者たちは、驚くべき新事実(ハレー彗星の回帰や重力による光の歪曲など)を理論的に予測して成功させることが、優れた科学理論と疑似科学的で廃れた理論とを分かつと考えている」。ラカトシュは、「自身の方法論の歴史的好例である、ニュートンの天体力学の発展に関する斬新な可謬主義的分析」を提示しており、この歴史的転回を踏まえて、カール・ポパーやトーマス・クーンの説明における一定の不備を、彼の説明が補っていると論じている。「しかしながら、ラカトシュは、クーンがポパーを歴史的に批判していたことを認めていた。理論を徹底的に否定しなければならないとする反証主義者の考え方では、すべての重要な理論は『例外の海』に囲まれている。(中略)ラカトシュは、ポパー的反証主義の合理主義と、歴史によるそれ自体の反駁に見えるものとを一致させようとした」。
科学哲学者と科学者が1世紀以上にわたって研究を続けており、科学的方法の基本的部分についてもある程度の合意がなされているにもかかわらず、科学と疑似科学の境界は論争の的となっており、分析的に決定することは困難である。疑似科学という概念は、ある理論に対して科学的方法が誤って適用されているという理解に基づいているが、大多数の科学哲学者は、異なる分野と人類史の異なる時代においては、異なる種類の方法が適切であると主張している。ラカトシュによると、科学的偉業の典型的記述単位は、孤立した仮説ではなく、「洗練された数学的技術を用いて、例外を消化し、さらには肯定的証拠に変えることができる強力な問題解決の手続き」であるという。
ラウダンは、信頼できる知識と信頼できない知識という、より一般的な区別に焦点を当てることを好み、科学と非科学の区別は擬似問題であると主張した。
科学と疑似科学の線引き問題は、科学・哲学・政治の領域で議論されている。たとえば、ラカトシュ・イムレは、ソビエト共産党がメンデルの法則は疑似科学であると喧伝し、ニコライ・ヴァヴィロフなどの著名な科学者を含むその支持者をグラグに送ったことや、「西洋のリベラルなエスタブリッシュメント」が、疑似科学(特に社会的道徳観に反するもの)とみなしたトピックについて、言論の自由を否定していることを指摘している。
科学をイデオロギーから切り離すことができないとき、科学者が宣伝や注目を集めるために科学的知見を不正確に伝えるとき、政治家やジャーナリスト、および国家の知的エリートが短期的な政治的利益のために科学的事実を歪曲するとき、あるいは影響力のある個人が言葉を巧みに操り因果関係と相関関係を混同させるとき、何かが疑似科学となる。これらは、社会における科学の権威・価値・誠実性・独立性を低下させる。
科学と疑似科学を区別することは、医療・鑑定・環境政策・科学教育などの場合は実用的意義を持つ。実際には科学的に検証されていないにもかかわらず、科学的権威があるかのように装われている治療法は、患者にとって効果がなく、高価で危険なものである可能性があり、医療従事者・保険会社・政府の意思決定者・一般市民を混乱させる可能性がある。疑似科学によって推進された主張は、政府関係者や教育者が、カリキュラムを選択する際に誤った判断を下すことにつながる可能性がある。
学生が科学リテラシーを有しているかどうかは、科学技術の適切な使用に関する、さまざまな社会的・認知的思考スキルを、学生がどの程度、身につけているかによって決定される。科学技術を取り巻く環境の変化や、急速に変化する文化、および知識駆動時代の中で、科学分野の教育は新たな局面を迎えている。学校の科学カリキュラムを改革することは、人間の福祉に対する科学技術の影響力の変化に対処できるように、学生を教育することである。科学リテラシーとは、占星術などの疑似科学と科学を区別するためのものであり、学生が変化する世界に適応するための特性の一つである。科学リテラシーの特徴は、学生が問題解決、調査の実施、またはプロジェクトの作成に取り組むカリキュラムに組み込まれている。
フリードマンは、多数の科学者が疑似科学に関する教育を避ける理由として、疑似科学に過度の注意を払うことは、疑似科学に威厳をつけてしまう可能性があると述べている。一方、パークは、疑似科学が社会に対する脅威となりうることを強調し、科学者には科学と疑似科学の見分け方を教える責任があると考えている。
ホメオパシーなどの疑似科学は、一般的には良心的なものであっても、偽医者に利用されることがある。これは、不適任な施術者が医療を行うことを可能にするため、深刻な問題となる。ホメオパシーのイデオロギーを妄信している狂信者は、典型的な詐欺師よりも深刻な脅威となる可能性がある。非合理的な医療は無害ではなく、患者に偽医療を信頼させてしまうことは不用心なことである。
2016年12月8日、ジャーナリストのマイケル・V・レバインは、ウェブサイト「Natural News」がもたらす危険性を指摘した。
反ワクチン運動は、小児用ワクチンと自閉症の発症を関連付ける疑似科学的研究を引用し、子供にワクチンを接種しないよう多数の親を説得してきた。それには、ASDの子供によく認められる消化器疾患と発達遅滞(英語版)の併発が、ワクチン接種後2周間以内に発生していると主張したアンドリュー・ウェイクフィールドの研究が含まれる。この研究は、最終的に出版元によって撤回され、ウェイクフィールドは医師免許を剥奪された。
通常医療(西洋医学)にも疑似科学が混入することがあるのは知られている。世間に広く知れ渡っている医学的俗説の中には、医学的な正当性がないにも拘らず医師がこれを信奉しているものもあるため、不適切な医療行為の原因になる恐れが指摘されている。 (以下の項目は一部の応用が「似非科学」であるものを含む。例えばゲルマニウム自体や半導体としての利用は似非科学ではないが、一部の応用例が該当する。)
以下は、マーティン・ガードナーが著書『奇妙な論理』(1952年)で言及したものである: | [
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"text": "疑似科学(、英: pseudoscience)とは、科学的で事実に基づいたものであると主張されているにもかかわらず、科学的方法とは相容れない言明・信念・行為のことである。似非科学()や偽科学()などとも呼ばれる。疑似科学は、矛盾、誇張、反証不可能な主張、確証バイアスへの依存、他の専門家による評価への開放性の欠如、仮説形成時の体系的実践の欠如、および疑似科学的仮説が実験的に否定された後も長期間に渡って信奉されていることなどを特徴とすることが多い。",
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"text": "科学と疑似科学の区別は、哲学的・政治的・科学的な意味がある。科学と疑似科学を区別することは、医療・鑑定・環境政策・科学教育などの場合は実用的意義を持つ。気候変動の否定・占星術・錬金術・代替医療・オカルト信仰・創造科学などに見られる疑似科学的信念と科学的事実や理論を区別することは、科学教育とリテラシーの範疇である。",
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"text": "疑似科学は危険な影響を及ぼす可能性がある。たとえば、疑似科学的な反ワクチン運動や、病気の代替治療としてのホメオパシーの推進は、健康上の効果が実証されている重要な医療行為を人々が放棄することになり、不健康や死につながる。さらに、伝染病に対する正当な治療を拒否する人々は、他の人々を危険にさらしかねない。人種や民族の分類に関する疑似科学的理論は、人種差別や大量虐殺につながっている。",
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"text": "疑似科学という言葉は、不正確に、あるいは欺瞞的に科学として提示されているものであることを示唆しているため、特に疑似科学を支持している人々からは軽蔑的に捉えられることが多い。したがって、疑似科学を実践・擁護している人々は、この表現に異議を唱えることが多い。",
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"text": "英語では、ブードゥー・サイエンス(英語版)(英: Voodoo science)、ジャンク・サイエンス(英語版)(英: Junk science)、バッド・サイエンス(英語版)(英: Bad science)とも呼ばれる。",
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"text": "疑似科学を意味する英語の「pseudoscience」の語源は、古代ギリシア語で「偽り」を意味する接頭辞の「ψευδής」 およびラテン語で「知識」を意味する「scientia」である。この言葉は、少なくとも18世紀後半から使われていたが(たとえば、1796年にジェームズ・ペティット・アンドリュース(英語版)が錬金術について言及している)、本物の科学や正しい科学とは異なるという意味での疑似科学という概念は、19世紀中葉に広まったようである。pseudo-science という言葉は、1844年の『Northern Journal of Medicine』第387号に掲載された記事で初めて使用された。",
"title": "語源"
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"text": "それ以前には、1843年にフランスの生理学者であるフランソワ・マジャンディーが、骨相学を「現代の疑似科学」であると称している。20世紀に入ると、この言葉は「科学的であると主張している一方で、実際には信頼できる実験的証拠に裏付けられていない、諸現象に関する説明」を軽蔑的に表すために用いられるようになった。しかし、社会文化的環境において、個人や組織の安全が脅かされていると認識された際に、より形式的で厳密な方法で用いられることもあった。",
"title": "語源"
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"text": "疑似科学の歴史(英語版)とは、疑似科学の理論を経時的に研究することである。疑似科学は、科学と呼ばれるべき基準を満たしていないにもかかわらず、科学であるかのように見せかけている一連の信念のことである。",
"title": "歴史"
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"text": "適切な科学と疑似科学を区別することは、ときに困難である。両者を区別するための提案の一つは、哲学者のカール・ポパーが提唱した「反証可能性」である。疑似科学から科学に発展した分野も存在するため、科学史や疑似科学の歴史において、この2つを区別することは特別に難しい。その一例として、錬金術などの疑似科学的・前科学的研究に起源を持つ化学が挙げられる。",
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"text": "疑似科学の多様性は、科学史をさらに複雑にしている。占星術などの現代の疑似科学の中には、科学時代以前に生まれたものもある。また、ルイセンコ主義のように、イデオロギーの一部として、あるいはイデオロギーへの脅威と思われるものに対抗して発展したものもある。このようなイデオロギー的プロセスの例としては、科学的な進化論に対抗して作成された創造科学やインテリジェント・デザインが挙げられる。",
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"text": "疑似科学は、科学的方法や反証可能性、およびマートンの規範(英語版)などの科学的基準を遵守していないため、科学であると通常主張しているにもかかわらず、科学とは区別される。",
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"tag": "p",
"text": "ある知識・方法・実践が科学的であるかどうかの判断基準として、科学者は多数の基本原則を受け入れている。実験結果は再現性を持ち、他の研究者によって検証(英語版)されるべきである。これらの原則は、実験が同じ条件下で測定可能な形で再現できることを保証し、所与の現象に関連する仮説または理論が有効かつ信頼できるかどうかを判断するために、さらなる研究を可能にすることを目的としている。基準では、科学的方法を全面的に適用し、無作為化、公正なサンプリング手順、研究の盲検化、およびその他の方法によってバイアスを制御、または排除することが要求される。実験条件や環境条件を含むすべての収集データは、精査と査読のために文書化され、追試や反証のためにさらなる実験や研究が行われることが期待される。また、有意性・信頼性・誤差(英語版)を統計的に定量化することも、科学的方法の重要なツールである。",
"title": "科学との関係"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "20世紀中葉、哲学者のカール・ポパーは、科学と非科学(英語版)を区別するために「反証可能性」という基準を強調した。言明、仮説、または理論は、それらが誤っていることが実証される可能性を内包していれば、反証可能性を有している。つまり、それらを否定する観測や論証を考えることが可能であれば、反証可能性がある。ポパーは、占星術や精神分析を疑似科学の例とし、アインシュタインの相対性理論を科学の例とした。ポパーは、非科学(英: Nonscience)を、哲学的・数学的・神話的・宗教的・形而上学的な定式化、もう一方では疑似科学的な定式化に細分化した。",
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"text": "ある主張が反証可能であることの明確な必要性を示しているもう一つの例は、カール・セーガンの著書『悪霊にさいなまれる世界(英語版)』の中で、彼がガレージに飼っている不可視のドラゴンについて論じた際に述べられた。そこでは、このドラゴンが存在するという主張を否定する物理的な検証方法は存在しないことが指摘されている。いかなるテストを考案しようと、不可視のドラゴンには当てはまらないための理由があるため、最初の主張が誤りであることを実証できないのである。セーガンは次のように結論づける。",
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"text": "彼は、「私の仮説が誤りであることを示せないことは、それが真実であると証明することとまったく同じではない」と述べ、そのような主張が真実であったとしても、それは科学研究(英語版)の範疇には入らないと説明した。",
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"text": "1942年、ロバート・K・マートンは、真の科学とは何かを示す5つの「規範」を明らかにした。彼は、これらの規範のいずれかに違反している試みを非科学的なものと捉えた。なお、これらの規範は、科学界で広く受け入れられているものではない。",
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"text": "1978年、哲学者のポール・サガード(英語版)は、疑似科学を科学と区別できるのは、主に長期間にわたって代替理論に比べて進歩がなく、提唱者が理論の問題点を認めず、対処しない場合であると提案した。1983年、マリオ・ブンゲは、疑似科学と科学を区別するために、「信念の分野」と「研究の分野」の2つからなるカテゴリーを提案した。前者は主に個人的で主観的なものであり、後者は一定の体系的方法を伴うものである。スティーヴン・ノヴェラ(英語版)などによる、科学的懐疑主義に関する書籍『The Skeptics' Guide to the Universe(英語版)』(2018年)では、疑似科学の大きな特徴の一つとして、批判に対する敵意が挙げられている。",
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"text": "ポール・ファイヤアーベントなどの科学哲学者は、科学と非科学を区別することは不可能かつ望ましいことではないと主張した。科学と非科学の区別を困難にしているのは、科学理論や方法が新たなデータに応じて進化する速度が異なることである。ラリー・ラウダン(英語版)は、疑似科学には科学的な意味はなく、主に我々の感情を表すために使われていると指摘しており、次のように述べている。",
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"text": "同様に、リチャード・マクナリー(英語版)も次のように述べている。",
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "哲学者のシルビオ・フントヴィッチ(英語版)とジェローム・ラベッツ(英語版)は、「疑似科学とは、出力が完全に不確実にならないように、入力の不確実性を抑えなければならないものと定義できる」と述べている。この定義は、『Uncertainty and Quality in Science for Policy(英語版)』に記載されており、定量的な情報を扱う技術が失われていることや、予測の精度を高めるために、予測を定式化するために使用された入力の不確実性を無視するという悪い慣習を示唆している。この言葉の使い方は、ポスト・ノーマル・サイエンス(英語版)の実践者の間でよく使われている。このように理解した場合、疑似科学は、NUSAP(英語版)や感度監査(英語版)(数理モデリングの場合)など、定量的情報の不確実性を評価するための優れた手法を用いて戦うことが可能となる。",
"title": "科学との関係"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "科学研究の規範を遵守しているように示されているにもかかわらず、明らかにその規範を遵守していない場合、その主題・実践・知識体系は疑似科学と呼ばれる可能性が高い。以下は、その指標を列挙したものである。",
"title": "指標"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは、科学の原理や方法を十分に理解していない、科学リテラシーの低い人が人口の多くの割合を占めている。『Journal of College Science Teaching』の中で、アート・ホブソンは次のように述べている。「疑似科学的信念は、驚くほど我々の文化に浸透しており、公立学校の科学教師や新聞編集者の間でさえ広まっている。そしてこれは、科学リテラシーの欠如と密接に関連している」。しかし、同誌に掲載された1万人の生徒を対象に行われた研究では、科学的知識と疑似科学を信じることの間に強い相関関係はないと結論づけられている。",
"title": "普及率"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "カール・セーガンは、著書『悪霊にさいなまれる世界(英語版)』の中で、中国政府と中国共産党が、中国における西洋の疑似科学の発展と、中国古来のある種の慣習に懸念を抱いていることについて論じている。彼は、米国で発生している疑似科学を世界的傾向の一部として捉え、その原因・危険性・診断・治療法は世界共通である可能性を示唆している。",
"title": "普及率"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2006年、アメリカ国立科学財団(NSF)は、科学と工学に関する論文の要旨を公表し、現代における疑似科学の普及について簡潔に述べた。それによると、「疑似科学への信仰は広く行き渡っている」とされ、ギャラップ調査を参考に、世論調査で挙げられた10種類の一般に信じられている超常現象の例を信じていることが「疑似科学的信念」であるとされた。その項目は、「超感覚的知覚・幽霊・幽霊屋敷・テレパシー・透視・占星術・死者との精神的交信・魔女・輪廻転生・チャネリング」である。このような疑似科学への信仰は、科学がどのように機能するかについての知識の欠如を表している。科学界は、証明されていない主張に一般人が過敏に反応することに対する懸念から、科学に関する情報を伝えようとすることがある。NSFは、米国における疑似科学信仰は、1990年代に広まり、2001年頃にピークを迎え、その後やや減少したが、疑似科学信仰は依然として一般的であると述べている。NSFの報告書によると、社会において疑似科学的問題に関する知識が不足しており、疑似科学的行為が一般的に行われているという。調査によると、米国の成人のうち、約3分の1が占星術を科学的だと考えているという。",
"title": "普及率"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "疑似科学作家、および疑似科学的研究者と、彼らの反ユダヤ主義・人種差別・ネオナチズム的背景との間には多くの繋がりがある。彼らは、自身の信念を強化するために疑似科学を利用することが多い。最も優勢な疑似科学作家の一人は、フランク・コリン(英語版)である。彼はナチスを自称しており、著作の中でフランク・ジョセフと名乗っている。彼の著作の大半は、アトランティスや地球外生命体との遭遇、およびレムリアなどの古代文明をテーマにしており、白人至上主義的なニュアンスを含んでいることが多い。たとえば、コロンブス以前のヨーロッパ人が北アメリカに移住していたという主張や、アメリカ先住民の文明はすべて白人の子孫が興したものであるといった主張を展開している。",
"title": "普及率"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "オルタナ右翼が疑似科学をイデオロギーの根拠としていることは、今に始まったことではない。反ユダヤ主義の基盤は、すべて疑似科学か科学的人種差別主義(英語版)に基づいている。サンダー・ギルマンは、ニューズウィーク誌に寄稿した記事の中で、疑似科学コミュニティの反ユダヤ主義的見解について解説している。",
"title": "普及率"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "ネオナチや白人至上主義者は、自分たちの主張が単なる有害なステレオタイプではないことを「証明」する研究で、自身の主張を裏付けようとしている。たとえば、ブレット・ステファンズ(英語版)は、ニューヨーク・タイムズ紙にコラムを掲載し、アシュケナジムのユダヤ人は、あらゆる民族の中で最もIQが高いと主張した。しかし、ステファンズが引用した論文の研究方法と結論は、発表以降、何度も疑問視されているものである。その研究の著者のうち、少なくとも一人は、南部貧困法律センターによって白人ナショナリストと認定されていることが判明している。",
"title": "普及率"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "科学誌のネイチャーは、ここ数年、特に集団遺伝学や古代のDNAを扱う研究者らに対して、研究を悪用しようとする過激派について警告する論説を何度も掲載している。ネイチャー誌に掲載された記事『Racism in Science: The Taint That Lingers』によると、20世紀初頭の優生学的疑似科学は、アジアやヨーロッパの一部からの移民を阻止しようとした米国の1924年移民法のように、公共政策に影響を与えるために利用されてきたという。「人種」は、科学的に妥当な概念ではないということが研究によって繰り返し示されているにもかかわらず、一部の科学者は「人種」間の測定可能な生物学的差異を探し続けている。",
"title": "普及率"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "Singer & Benassi(1981)によると、疑似科学的信念は、少なくとも4つの要因により発生するという。",
"title": "説明"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "Eve & Dunn(1990)は、Singerらの調査結果を支持し、高校の生活科学と生物学の教師が疑似科学的信念を広めていることを発見した。",
"title": "説明"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "疑似科学の心理学は、何が科学的で何が疑似科学的であるかを明確にすることによって、疑似科学的な考え方を探り、分析することを試みている。疑似科学的思考の原因としては、反論よりも確認を求める傾向(確証バイアス)、心地よく感じる信念を抱く傾向、過度に一般化する傾向などが提案されている。Beyerstein(1991)によると、人間は類似性のみに基づいた関連付けをする傾向にあり、因果関係を考える際に誤帰属を犯す傾向にあるという。",
"title": "説明"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "マイケル・シャーマーによる信念依存的実在論の理論は、脳は本質的に、五感で感知したデータをスキャンし、パターンや意味を探し出す「信念のエンジン」であるという着想に基づいている。また、脳には、論理性のない本能に基づいた推論や仮定の結果として、認知バイアスを生み出す傾向があり、通常、認知におけるパターンが生じることにつながっているという。このようなパターニシティ(patternicity)と行為主体性(agenticity)の傾向は、「バイアスの盲点と呼ばれるメタバイアス、つまり、他人の判断におけるバイアスの影響を認識できる一方で、自分自身の判断に対するバイアスの影響を認識できない傾向」によっても引き起こされる。リンデマンは、社会的動機、つまり「自己と世界を理解すること、結果をコントロールする感覚を持つこと、所属すること、世界を善意あるものとみなすこと、自尊心を維持すること」などは、科学的な情報よりも、疑似科学の方が「より簡単に」満たすことができる場合が多いと述べている。さらに、疑似科学的な説明は、一般的に理性的に分析されるのではなく、経験的に分析される。理性的思考とは異なる一連の規則に基づいて行われる経験的思考は、「個人的に機能し、満足感を与え、十分なもの」である場合、その説明を妥当なものとみなし、科学によって提供されるよりも個人的な可能性がある世界に関する説明を提供し、複雑な出来事と結果の理解にかかる潜在的労力を減少させる。",
"title": "説明"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "科学的証拠よりも疑似科学を信じる傾向が存在する。一部の人は、疑似科学を信じる人が多いのは、科学リテラシーが欠如している人が多いためであると考えている。努力をほとんど要しない我々のデフォルトのOSである「システム1」を使用して、目先の満足を得ようとする傾向があるため、科学リテラシーを持たない人は、希望的観測に陥りやすい。このシステムは、自身が信じる結論を受け入れ、信じない結論を拒否することを促進する。複雑な疑似科学的現象を分析するためには、規則に従い、複数の次元で対象物を比較し、選択肢を検討するシステム2が必要である。この2つのシステムには、他にもいくつかの違いがあり、二重過程理論でさらに詳細に検討されている。科学的で世俗的な道徳や意味の体系は、一般的に、ほとんどの人にとって満足の行くものではない。人間は本来、幸福と充足を追求する前向きな種であるが、よりよい人生の非現実的な約束を掴もうとすることがあまりにも多いのである。",
"title": "説明"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "疑似科学的思考は、明らかにされる必要がある、多くの個人に存在する因果関係と有効性の錯覚的知覚であるため、心理学はそれについて多く論じている。研究では、本を読んだり、広告を見たり、他者の証言を聞いたりといった、特定の状況にさらされた大多数の人に錯覚的思考が発生し、それが疑似科学的信念の基礎となっていることが示唆されている。錯覚は珍しいことではなく、適切な条件を与えられれば、通常の感情的状況であっても系統的に発生させることができると考えられている。疑似科学を信じる人々が最も不満に感じることの一つは、アカデミズム科学が彼らを愚か者のように扱っていることである。現実世界で、これらの錯覚を最小限に抑えることは容易ではない。この目的のために、エビデンスに基づいた教育プログラムを設計することは、人々が自分自身の錯覚を認識し、軽減するために有効である。",
"title": "説明"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "哲学者は知識の種類を分類している。英語では、科学(science)という言葉は、特に自然科学と、それに関連する社会科学と呼ばれる分野を表すために使われる。正確な境界については、科学哲学者の間で意見が分かれている。たとえば、数学は経験的なものに近い形式科学なのか、それとも純粋な数学は論理学の哲学的研究に近く、したがって科学ではないのかなどである。しかし、科学的ではない(not scientific)観念は非科学的(non-scientific)であるという点では、すべての人が同意している。non-science という大きなカテゴリーには、歴史学・形而上学・宗教・芸術・人文科学など、自然科学と社会科学以外のすべての事柄が含まれる。このカテゴリーをさらに細分化すると、unscientific な主張は、上位のカテゴリーである non-scientific な主張の部分集合となる。このカテゴリーには、特に、優れた科学に直接反対するすべての事柄が含まれる。un-science には、「悪い科学」(自然界について何かを学ぼうとする善意に基づく試みの中で犯した誤りなど)と疑似科学の両方が含まれる。したがって、疑似科学は un-science の部分集合であり、un-science は non-science の部分集合である。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、科学は、経験的研究と検証によって得られる物理的世界への洞察を提供するという点で、啓示・神学・スピリチュアリティとも区別される。最も有名な論争は、生物の進化と共通祖先の概念、地球の地質学的歴史、太陽系の形成、および宇宙の起源に関するものである。神や霊感による知識に由来する信念体系は、科学的であると主張したり、確立された科学を覆すようなものでなければ、疑似科学とはみなされない。さらに、執り成しの祈りで病気が治るというような特定の宗教的主張は、検証不可能な信念に基づいていることがあるが、科学的方法で検証することができる。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "通俗科学の言明や通説は、科学の基準を満たしていない場合がある。「ポップ」・サイエンスは、一般の人々の間で科学と疑似科学の境界を曖昧にする可能性があり、また、サイエンス・フィクションも含む場合もある。実際に、通俗科学は、科学的方法論や専門家による査読に責任を持たない人々によって安易に発せられ、広められることがある。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "所与の分野の主張が実験的に検証可能なものであり、基準が守られていれば、その主張がいかに奇妙かつ驚くべきもので、直感に反するものだとしても、疑似科学ではない。科学は、反証される可能性がある仮説を検証することから構成されているため、仮に主張が既存の実験結果や確立された理論と矛盾していても、その方法が健全であれば、注意する必要がある。そのような場合、その研究は「まだ一般的に受け入れられていない」観念と表現する方がよい可能性がある。「プロトサイエンス」は、科学的方法で十分に検討されていないが、既存の科学と矛盾しない、あるいは矛盾している場合には、その矛盾を合理的に説明することができる仮説を指す言葉である。また、実用的知識から科学的な分野への移行を意味することもある。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "カール・ポパーは、科学と疑似科学、あるいは形而上学(存在の意味を問う哲学的問題)とを区別するためには、「観察や実験に基づく帰納的な経験的方法を厳密に遵守している」という基準では不十分であると述べている。彼は、真の経験的方法と非科学的方法、ひいては疑似科学的方法を区別する方法を提案した。後者の例としては、観察や実験に訴える占星術が挙げられる。占星術は、ホロスコープや伝記などの観察に基づく経験的証拠を持っていたが、許容可能な科学的基準を使用することに大きく失敗した。ポパーは、科学と疑似科学を区別するための重要な基準として、「反証可能性」を提唱した。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "ポパーは、反証可能性を説明するために、人間の2つの行動例をジークムント・フロイトやアルフレッド・アドラーの理論に基づいて説明した。その例は、「溺れさせるつもりで子供を水中に突き落とす人と、子供を助けようとして自分の命を犠牲にする人」である。フロイトの観点では、一人目の男はエディプスコンプレックスに起因する心理的抑圧に苦しんでおり、二人目の男は昇華を達成している。アドラーの観点では、二人とも劣等感に苦しんでおり、自身の能力を証明しなければならないと考えている。一人目の男では、それによって犯罪へと駆り立てられ、二人目の男では、子供を救うことに駆り立てられたということになる。ポパーは、フロイトやアドラーの理論では、人間の行動を説明できないという反例を見つけることができなかった。ポパーは、それは観察結果が常に理論に適合しているか、あるいは確証されているからであり、それは理論の長所であるどころか、むしろ短所であると主張した。ポパーは、これとは対照的に、「物質的な物体が引き付けられるのとまったく同じように、光は重い物体(太陽など)によって引き付けられる必要がある」と予測したアインシュタインの重力理論を例に挙げた。これに従うと、太陽に近い恒星は、太陽から少し離れたところに移動しているように見え、お互いに離れているように見える。この予測は著しいリスクを伴うものだったため、ポパーにとって非常に衝撃的なものだった。通常では、太陽の明るさのために、この効果を観測することができないため、日食中に写真を撮り、夜に撮った写真と比較しなければならない。ポパーは、「観測の結果、予測されていた効果が確実に存在しないことがわかれば、その理論は単純に反証される」と述べている。また彼は、理論の科学的地位の基準を、反証可能性・反駁可能性・検証可能性の3つにまとめている。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ポール・サガード(英語版)は、科学と疑似科学を区別するために、占星術をケーススタディとして用い、それらを区別するための原則と基準を提案した。第一に、占星術は、プトレマイオス以来、更新されておらず、説明力も追加されていない。第二に、天文学における分点の歳差運動などの未解決問題を無視している。第三に、性格や行動に関する代替理論は、占星術が静的に天の力に帰している現象の説明を包含するように成長していった。最後に、占星術師は、未解決問題を解決するために理論を発展させることや、他の理論との関係で理論を批判的に評価することに無関心なままである。サガードは、この基準を占星術以外の分野にも適用することを考えた。それにより、物理学・化学・天文学・地球科学・生物学・考古学を科学の領域に残したまま、魔術やピラミッド学(英語版)などを疑似科学として区別することができると彼は考えたのである。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ラカトシュ・イムレは、科学哲学と科学史において、科学と疑似科学を区別する規範的方法論の問題である「線引き問題」の社会的・政治的重要性を強調している。彼のリサーチプログラム(英語版)に基づく科学的方法論の歴史的分析は、次のことを示唆している。「すべての科学理論は、永遠に『反例の海』に直面しているにもかかわらず、科学者たちは、驚くべき新事実(ハレー彗星の回帰や重力による光の歪曲など)を理論的に予測して成功させることが、優れた科学理論と疑似科学的で廃れた理論とを分かつと考えている」。ラカトシュは、「自身の方法論の歴史的好例である、ニュートンの天体力学の発展に関する斬新な可謬主義的分析」を提示しており、この歴史的転回を踏まえて、カール・ポパーやトーマス・クーンの説明における一定の不備を、彼の説明が補っていると論じている。「しかしながら、ラカトシュは、クーンがポパーを歴史的に批判していたことを認めていた。理論を徹底的に否定しなければならないとする反証主義者の考え方では、すべての重要な理論は『例外の海』に囲まれている。(中略)ラカトシュは、ポパー的反証主義の合理主義と、歴史によるそれ自体の反駁に見えるものとを一致させようとした」。",
"title": "科学との境界"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "科学哲学者と科学者が1世紀以上にわたって研究を続けており、科学的方法の基本的部分についてもある程度の合意がなされているにもかかわらず、科学と疑似科学の境界は論争の的となっており、分析的に決定することは困難である。疑似科学という概念は、ある理論に対して科学的方法が誤って適用されているという理解に基づいているが、大多数の科学哲学者は、異なる分野と人類史の異なる時代においては、異なる種類の方法が適切であると主張している。ラカトシュによると、科学的偉業の典型的記述単位は、孤立した仮説ではなく、「洗練された数学的技術を用いて、例外を消化し、さらには肯定的証拠に変えることができる強力な問題解決の手続き」であるという。",
"title": "科学との境界"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ラウダンは、信頼できる知識と信頼できない知識という、より一般的な区別に焦点を当てることを好み、科学と非科学の区別は擬似問題であると主張した。",
"title": "科学との境界"
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{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "科学と疑似科学の線引き問題は、科学・哲学・政治の領域で議論されている。たとえば、ラカトシュ・イムレは、ソビエト共産党がメンデルの法則は疑似科学であると喧伝し、ニコライ・ヴァヴィロフなどの著名な科学者を含むその支持者をグラグに送ったことや、「西洋のリベラルなエスタブリッシュメント」が、疑似科学(特に社会的道徳観に反するもの)とみなしたトピックについて、言論の自由を否定していることを指摘している。",
"title": "政治・健康・教育"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "科学をイデオロギーから切り離すことができないとき、科学者が宣伝や注目を集めるために科学的知見を不正確に伝えるとき、政治家やジャーナリスト、および国家の知的エリートが短期的な政治的利益のために科学的事実を歪曲するとき、あるいは影響力のある個人が言葉を巧みに操り因果関係と相関関係を混同させるとき、何かが疑似科学となる。これらは、社会における科学の権威・価値・誠実性・独立性を低下させる。",
"title": "政治・健康・教育"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "科学と疑似科学を区別することは、医療・鑑定・環境政策・科学教育などの場合は実用的意義を持つ。実際には科学的に検証されていないにもかかわらず、科学的権威があるかのように装われている治療法は、患者にとって効果がなく、高価で危険なものである可能性があり、医療従事者・保険会社・政府の意思決定者・一般市民を混乱させる可能性がある。疑似科学によって推進された主張は、政府関係者や教育者が、カリキュラムを選択する際に誤った判断を下すことにつながる可能性がある。",
"title": "政治・健康・教育"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "学生が科学リテラシーを有しているかどうかは、科学技術の適切な使用に関する、さまざまな社会的・認知的思考スキルを、学生がどの程度、身につけているかによって決定される。科学技術を取り巻く環境の変化や、急速に変化する文化、および知識駆動時代の中で、科学分野の教育は新たな局面を迎えている。学校の科学カリキュラムを改革することは、人間の福祉に対する科学技術の影響力の変化に対処できるように、学生を教育することである。科学リテラシーとは、占星術などの疑似科学と科学を区別するためのものであり、学生が変化する世界に適応するための特性の一つである。科学リテラシーの特徴は、学生が問題解決、調査の実施、またはプロジェクトの作成に取り組むカリキュラムに組み込まれている。",
"title": "政治・健康・教育"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "フリードマンは、多数の科学者が疑似科学に関する教育を避ける理由として、疑似科学に過度の注意を払うことは、疑似科学に威厳をつけてしまう可能性があると述べている。一方、パークは、疑似科学が社会に対する脅威となりうることを強調し、科学者には科学と疑似科学の見分け方を教える責任があると考えている。",
"title": "政治・健康・教育"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ホメオパシーなどの疑似科学は、一般的には良心的なものであっても、偽医者に利用されることがある。これは、不適任な施術者が医療を行うことを可能にするため、深刻な問題となる。ホメオパシーのイデオロギーを妄信している狂信者は、典型的な詐欺師よりも深刻な脅威となる可能性がある。非合理的な医療は無害ではなく、患者に偽医療を信頼させてしまうことは不用心なことである。",
"title": "政治・健康・教育"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2016年12月8日、ジャーナリストのマイケル・V・レバインは、ウェブサイト「Natural News」がもたらす危険性を指摘した。",
"title": "政治・健康・教育"
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{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "反ワクチン運動は、小児用ワクチンと自閉症の発症を関連付ける疑似科学的研究を引用し、子供にワクチンを接種しないよう多数の親を説得してきた。それには、ASDの子供によく認められる消化器疾患と発達遅滞(英語版)の併発が、ワクチン接種後2周間以内に発生していると主張したアンドリュー・ウェイクフィールドの研究が含まれる。この研究は、最終的に出版元によって撤回され、ウェイクフィールドは医師免許を剥奪された。",
"title": "政治・健康・教育"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "通常医療(西洋医学)にも疑似科学が混入することがあるのは知られている。世間に広く知れ渡っている医学的俗説の中には、医学的な正当性がないにも拘らず医師がこれを信奉しているものもあるため、不適切な医療行為の原因になる恐れが指摘されている。 (以下の項目は一部の応用が「似非科学」であるものを含む。例えばゲルマニウム自体や半導体としての利用は似非科学ではないが、一部の応用例が該当する。)",
"title": "疑似科学とみなされているもの"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "以下は、マーティン・ガードナーが著書『奇妙な論理』(1952年)で言及したものである:",
"title": "疑似科学とみなされているもの"
}
] | 疑似科学(ぎじかがく、とは、科学的で事実に基づいたものであると主張されているにもかかわらず、科学的方法とは相容れない言明・信念・行為のことである。似非科学や偽科学などとも呼ばれる。疑似科学は、矛盾、誇張、反証不可能な主張、確証バイアスへの依存、他の専門家による評価への開放性の欠如、仮説形成時の体系的実践の欠如、および疑似科学的仮説が実験的に否定された後も長期間に渡って信奉されていることなどを特徴とすることが多い。 科学と疑似科学の区別は、哲学的・政治的・科学的な意味がある。科学と疑似科学を区別することは、医療・鑑定・環境政策・科学教育などの場合は実用的意義を持つ。気候変動の否定・占星術・錬金術・代替医療・オカルト信仰・創造科学などに見られる疑似科学的信念と科学的事実や理論を区別することは、科学教育とリテラシーの範疇である。 疑似科学は危険な影響を及ぼす可能性がある。たとえば、疑似科学的な反ワクチン運動や、病気の代替治療としてのホメオパシーの推進は、健康上の効果が実証されている重要な医療行為を人々が放棄することになり、不健康や死につながる。さらに、伝染病に対する正当な治療を拒否する人々は、他の人々を危険にさらしかねない。人種や民族の分類に関する疑似科学的理論は、人種差別や大量虐殺につながっている。 疑似科学という言葉は、不正確に、あるいは欺瞞的に科学として提示されているものであることを示唆しているため、特に疑似科学を支持している人々からは軽蔑的に捉えられることが多い。したがって、疑似科学を実践・擁護している人々は、この表現に異議を唱えることが多い。 英語では、ブードゥー・サイエンス、ジャンク・サイエンス、バッド・サイエンスとも呼ばれる。 | {{otheruseslist|科学を装った主張|主流ではない科学分野|境界科学|誤解により生まれる研究分野|病的科学|初期の科学的研究|プロトサイエンス}}
{{科学}}
{{読み仮名|'''疑似科学'''|ぎじかがく|{{lang-en-short|pseudoscience}}}}とは、科学的で事実に基づいたものであると主張されているにもかかわらず、[[科学的方法]]とは相容れない言明・信念・行為のことである<ref name="Cover_Curd_1998">{{citation2|veditors=Cover JA, Curd M|year=1998|title=Philosophy of Science: The Central Issues|pages=1–82}}</ref>{{refn|group=注釈|定義:
* [[オックスフォード英語辞典]](1989年、第2版)による定義:「偽りの科学、または科学に扮したもの。科学的方法に基づいていると誤解されたり、誤って科学的事実と位置づけられた、世界に関する一連の信念」<br>原文: "A pretended or spurious science; a collection of related beliefs about the world mistakenly regarded as being based on scientific method or as having the status that scientific truths now have"
* 「疑似科学に関する多数の作家は、疑似科学とは科学を装った非科学であると強調している。このテーマに関する現代の代表的な傑作は、『[[:en:Fads and Fallacies in the Name of Science|Fads and Fallacies in the Name of Science]](科学の名の下の流行と誤謬)』(Gardner 1957)と題されている。Brian Baigrie(1988, 438)によると、『これらの信念について不愉快なのは、真正の科学を装っていることだ』という。これらの著者や他の多数の著者は、ある活動や考えが疑似科学であるためには、次の2つの基準を満たさなければならないとしている(Hansson 1996)。1) 科学的でないこと、2) その主要な支持者が、それに対して科学的な印象を与えようとしていること」<br>原文: "Many writers on pseudoscience have emphasized that pseudoscience is non-science posing as science. The foremost modern classic on the subject (Gardner 1957) bears the title ''[[:en:Fads and Fallacies in the Name of Science|Fads and Fallacies in the Name of Science]]''. According to Brian Baigrie (1988, 438), '[w]hat is objectionable about these beliefs is that they masquerade as genuinely scientific ones.' These and many other authors assume that to be pseudoscientific, an activity or a teaching has to satisfy the following two criteria (Hansson 1996): (1) it is not scientific, and (2) its major proponents try to create the impression that it is scientific."<ref name="SEP section SciPse"/>
* 「『裏付ける根拠や妥当性がないにもかかわらず、科学的であるかのように見せかけている主張』(p. 33)。一方で科学は、『過去または現在に観測された現象や推測される現象を記述、および解釈するために考案された一連の方法であり、否定または確認に対して開かれている検証可能な知識体系の構築を目指している』(p. 17)」(これは[[アメリカ国立科学財団]]によって[https://www.nsf.gov/statistics/seind02/c7/c7s5.htm 採用された]定義である)<br>原文: '"claims presented so that they appear [to be] scientific even though they lack supporting evidence and plausibility" (p. 33). In contrast, science is "a set of methods designed to describe and interpret observed and inferred phenomena, past or present, and aimed at building a testable body of knowledge open to rejection or confirmation" (p. 17)'<ref name="gWEV0">{{harvp|Shermer|1997}}</ref> (this was the [https://www.nsf.gov/statistics/seind02/c7/c7s5.htm definition adopted by] the [[アメリカ国立科学財団|National Science Foundation]])}}。{{読み仮名|'''似非科学'''|えせかがく}}や{{読み仮名|'''偽科学'''|にせかがく}}などとも呼ばれる。疑似科学は、矛盾、誇張、[[反証可能性|反証不可能な主張]]、[[確証バイアス]]への依存、[[査読|他の専門家による評価]]への開放性の欠如、[[仮説]]形成時の体系的実践の欠如、および疑似科学的仮説が実験的に否定された後も長期間に渡って信奉されていることなどを特徴とすることが多い<ref name="SEP section SciPse">{{citation|chapter-url=http://plato.stanford.edu/entries/pseudo-science|chapter=Science and Pseudoscience|at=Section 2: The "science" of pseudoscience|title=Stanford Encyclopedia of Philosophy|year=2008|first=Sven Ove|last=Hansson|publisher=Metaphysics Research Lab, Stanford University|name-list-style=vanc}}</ref>。
[[線引き問題 (科学哲学)|科学と疑似科学の区別]]は、[[哲学]]的・[[政治]]的・[[科学]]的な意味がある<ref name="Imre-Lakatos"/>。科学と疑似科学を区別することは、[[医療]]・[[鑑定人|鑑定]]・[[環境政策学|環境政策]]・[[科学教育]]などの場合は実用的意義を持つ<ref name="Stanford-Demarcations">{{cite encyclopedia|last=Hansson|first=Sven Ove|title=Science and Pseudo-Science, Section 1: The purpose of demarcations|url=http://plato.stanford.edu/entries/pseudo-science/#PurDem|encyclopedia=Stanford Encyclopedia of Philosophy|publisher=Stanford University|accessdate=April 16, 2011|date=September 3, 2008|quote=From a practical point of view, the distinction is important for decision guidance in both private and public life. Since science is our most reliable source of knowledge in a wide variety of areas, we need to distinguish scientific knowledge from its look-alikes. Due to the high status of science in present-day society, attempts to exaggerate the scientific status of various claims, teachings, and products are common enough to make the demarcation issue pressing in many areas.}}</ref>。[[地球温暖化に対する懐疑論|気候変動の否定]]・[[占星術]]・[[錬金術]]・[[代替医療]]・[[オカルト|オカルト信仰]]・[[創造科学]]などに見られる疑似科学的信念と科学的事実や理論を区別することは、[[科学教育]]と[[科学リテラシー|リテラシー]]の範疇である<ref name="Stanford-Demarcations"/><ref name="Hurd"/>。
疑似科学は危険な影響を及ぼす可能性がある。たとえば、疑似科学的な[[ワクチン忌避|反ワクチン]]運動や、病気の代替治療としての[[ホメオパシー]]の推進は、健康上の効果が実証されている重要な医療行為を人々が放棄することになり、不健康や[[死]]につながる<ref name="FKGbU">{{cite web|last1=Vyse|first1=Stuart|author-link=:en:Stuart Vyse|title=What Should Become of a Monument to Pseudoscience?|url=https://skepticalinquirer.org/exclusive/what-should-become-of-a-monument-to-pseudoscience/|website=Skeptical Inquirer|date=10 July 2019|publisher=Center for Inquiry|accessdate=1 December 2019}}</ref><ref name="bxgBg">{{cite web|title=How anti-vax pseudoscience seeps into public discourse|url=https://www.salon.com/2019/01/13/how-anti-vax-pseudoscience-seeps-into-public-discourse/|website=Salon|date=13 January 2019|accessdate=16 December 2020}}</ref><ref name="mav9B">{{cite web|title=Anti-vaccination websites use 'science' and stories to support claims, study finds|url=https://www.sciencedaily.com/releases/2015/11/151103134800.htm|website=Johns Hopkins|publisher=Science Daily|accessdate=16 December 2020}}</ref>。さらに、伝染病に対する正当な治療を拒否する人々は、他の人々を危険にさらしかねない。[[人種]]や[[民族]]の分類に関する疑似科学的理論は、[[人種主義|人種差別]]や[[ジェノサイド|大量虐殺]]につながっている。
疑似科学という言葉は、不正確に、あるいは欺瞞的に科学として提示されているものであることを示唆しているため、特に疑似科学を支持している人々からは軽蔑的に捉えられることが多い。したがって、疑似科学を実践・擁護している人々は、この表現に異議を唱えることが多い<ref name="SEP section SciPse"/><ref name="Freitsch">{{cite journal|last1=Frietsch|first1=Ute|name-list-style=vanc|title=The boundaries of science/ pseudoscience|journal=European History Online (EGO)|date=7 April 2015|url=http://ieg-ego.eu/en/threads/crossroads/knowledge-spaces/ute-frietsch-the-boundaries-of-science-pseudoscience|accessdate=15 April 2017|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170415202501/http://ieg-ego.eu/en/threads/crossroads/knowledge-spaces/ute-frietsch-the-boundaries-of-science-pseudoscience|archivedate=2017年4月15日}}</ref>。
[[英語]]では、{{仮リンク|ブードゥー・サイエンス|en|Voodoo science}}({{lang-en-short|Voodoo science}})、{{仮リンク|ジャンク・サイエンス|en|Junk science}}({{lang-en-short|Junk science}})、{{仮リンク|バッド・サイエンス|en|Bad science}}({{lang-en-short|Bad science}})とも呼ばれる。
==語源==
疑似科学を意味する英語の「{{lang|en|pseudoscience}}」の語源は、[[古代ギリシア語]]で「偽り」を意味する接頭辞の「{{lang|grc|ψευδής}}」<ref name="WYabu">{{citation|title=The Free Dictionary|chapter=pseudo|publisher=Farlex, Inc.|year=2015|chapter-url=http://www.thefreedictionary.com/pseudo}}</ref><ref name="ipDIt">{{cite web|title=Online Etymology Dictionary|url=https://www.etymonline.com/search?q=pseudo|year=2015|publisher=Douglas Harper|accessdate=2021-07-17}}</ref> および[[ラテン語]]で「知識」を意味する「{{lang|la|scientia}}」である。この言葉は、少なくとも[[18世紀]]後半から使われていたが(たとえば、1796年に{{仮リンク|ジェームズ・ペティット・アンドリュース|en|James Pettit Andrews}}が[[錬金術]]について言及している<ref name="BocQl">{{OED|pseudoscience}}</ref><ref name="g4Mmc">{{harvp|Andrews|Henry|1796|p=87}}</ref>)、本物の科学や正しい科学とは異なるという意味での疑似科学という概念は、[[19世紀]]中葉に広まったようである。pseudo-science という言葉は、1844年の『Northern Journal of Medicine』第387号に掲載された記事で初めて使用された。
それ以前には、1843年にフランスの[[生理学]]者である[[フランソワ・マジャンディー]]が、[[骨相学]]を「現代の疑似科学」であると称している<ref name="Magendie1843">{{cite book|title=An Elementary Treatise on Human Physiology|author=Magendie F|publisher=Harper|others=John Revere|year=1843|edition=5th|location=New York|page=150}}</ref><ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=wgkgeQl9wN8C|title=Extraordinary Beliefs: A Historical Approach to a Psychological Problem|last=Lamont|first=Peter|year=2013|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-1107019331|pages=58}}</ref><ref name="u5Ez4">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=wgkgeQl9wN8C|title=Extraordinary Beliefs: A Historical Approach to a Psychological Problem|last=Lamont|first=Peter|year=2013|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-1107019331|pages=58|quote=When the eminent French physiologist, François Magendie, first coined the term ‘pseudo-science’ in 1843, he was referring to phrenology.}}</ref>。[[20世紀]]に入ると、この言葉は「科学的であると主張している一方で、実際には信頼できる実験的証拠に裏付けられていない、諸現象に関する説明」を軽蔑的に表すために用いられるようになった。しかし、社会文化的環境において、個人や組織の安全が脅かされていると認識された際に、より形式的で厳密な方法で用いられることもあった<ref name="Still">{{cite journal|journal=J Theory Soc Behav|year=2004|volume=34|issue=3|pages=265–90|title=The Social Psychology of "Pseudoscience": A Brief History|author=Still A, Dryden W|doi=10.1111/j.0021-8308.2004.00248.x}}</ref>。
==歴史==
{{main|{{仮リンク|疑似科学の歴史|en|History of pseudoscience}}}}
[[File:Venice ast sm.jpg|thumb|[[占星術]]で使用される[[黄道十二星座]]の[[サイン (占星術)|サイン]]。]]
{{仮リンク|疑似科学の歴史|en|History of pseudoscience}}とは、疑似科学の理論を経時的に研究することである。疑似科学は、科学と呼ばれるべき基準を満たしていないにもかかわらず、科学であるかのように見せかけている一連の信念のことである<ref name="G0Dqe">{{cite book|quote=Pseudoscientific – pretending to be scientific, falsely represented as being scientific|chapter=Pseudoscientific|title=Oxford American Dictionary|publisher=[[オックスフォード英語辞典|Oxford English Dictionary]]}}</ref><ref name="ySdig">{{cite book|chapter-url=http://skepdic.com/pseudosc.html|title=The Skeptic's Dictionary|chapter=Pseudoscience|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090201091026/http://www.skepdic.com/pseudosc.html|archivedate=2009年2月1日}}</ref>。
適切な科学と疑似科学を区別することは、ときに困難である<ref name="rpjTm">Kåre Letrud, "The Gordian Knot of Demarcation: Tying Up Some Loose Ends" ''International Studies in the Philosophy of Science'' 32 (1):3–11 (2019)</ref>。両者を区別するための提案の一つは、哲学者の[[カール・ポパー]]が提唱した「[[反証可能性]]」である<ref name="bRxUN">{{Cite book|title=Conjectures and refutations : the growth of scientific knowledge|last=Popper|first=Karl R. (Karl Raimund)|year=2002|publisher=Routledge|isbn=0415285933|location=London|pages=33–39|oclc=49593492}}</ref>。疑似科学から科学に発展した分野も存在するため、[[科学史]]や疑似科学の歴史において、この2つを区別することは特別に難しい。その一例として、[[錬金術]]などの疑似科学的・前科学的研究に起源を持つ[[化学]]が挙げられる。
疑似科学の多様性は、科学史をさらに複雑にしている。[[占星術]]などの現代の疑似科学の中には、科学時代以前に生まれたものもある。また、[[ルイセンコ主義]]のように、[[イデオロギー]]の一部として、あるいはイデオロギーへの脅威と思われるものに対抗して発展したものもある。このようなイデオロギー的プロセスの例としては、科学的な[[進化論]]に対抗して作成された[[創造科学]]や[[インテリジェント・デザイン]]が挙げられる<ref name="GMUjf">{{cite journal|author=Greener M|title=Taking on creationism. Which arguments and evidence counter pseudoscience?|journal=EMBO Reports|volume=8|issue=12|pages=1107–09|year=2007|pmid=18059309|pmc=2267227|doi=10.1038/sj.embor.7401131}}</ref>。
==科学との関係==
疑似科学は、[[科学的方法]]や[[反証可能性]]、および{{仮リンク|マートンの規範|en|Mertonian norms}}などの科学的基準を遵守していないため、科学であると通常主張しているにもかかわらず、[[科学]]とは区別される。
===科学的方法===
{{main|科学的方法}}
[[File:The Scientific Method (simple).png|thumb|[[科学的方法]]は「[[アブダクション|仮説形成]]・予測・検証・問いかけ」の絶え間ないサイクルである。]]
[[File:PhrenologyPix.jpg|thumb|[[19世紀]]の典型的な[[骨相学]]の図表。1820年代、骨相学者は心は脳にあると主張し、心が非物質的な魂に由来することを疑ったため、批判を浴びた。頭蓋骨の「隆起」を読み取ることで性格を予測できるとした彼らの考えは、のちに否定された<ref name="bowler">{{cite book|author=Bowler J|author-link=:en:Peter J. Bowler|title=Evolution: The History of an Idea|edition=3rd|publisher=[[:en:University of California Press|University of California Press]]|year=2003|isbn=978-0-520-23693-6|page=[https://archive.org/details/evolutionhistory0000bowl_n7y8/page/128 128]|url=https://archive.org/details/evolutionhistory0000bowl_n7y8/page/128}}</ref><ref name="dtg6e">Parker Jones, O., Alfaro-Almagro, F., & Jbabdi, S. (2018). ''An empirical, 21st century evaluation of phrenology''. Cortex. Volume 106. pp. 26–35. doi: doi:10.1016/j.cortex.2018.04.011</ref>。骨相学は、1843年に初めて疑似科学と呼ばれ、現在も疑似科学とみなされている<ref name="Magendie1843"/>。]]
ある知識・方法・実践が科学的であるかどうかの判断基準として、[[科学者]]は多数の基本原則を受け入れている。実験結果は[[再現性]]を持ち、他の研究者によって{{仮リンク|間主観的検証可能性|en|Intersubjective verifiability|label=検証|preserve=1}}されるべきである<ref name="q5PAB">e.g. {{harvp|Gauch|2003|pp=3–5 ff}}</ref>。これらの原則は、実験が同じ条件下で測定可能な形で再現できることを保証し、所与の[[現象]]に関連する[[仮説]]または[[理論]]が有効かつ信頼できるかどうかを判断するために、さらなる研究を可能にすることを目的としている。基準では、[[科学的方法]]を全面的に適用し、無作為化、公正なサンプリング手順、研究の[[二重盲検法|盲検化]]、およびその他の方法によって[[バイアス]]を制御、または排除することが要求される。実験条件や環境条件を含むすべての収集データは、精査と[[査読]]のために文書化され、[[追試]]や反証のためにさらなる実験や研究が行われることが期待される。また、[[有意|有意性]]・[[信頼区間|信頼性]]・{{仮リンク|許容誤差|en|Margin of error|label=誤差|preserve=1}}<ref name="cfhxV">{{harvp|Gauch|2003|pp=191 ''ff''}}, especially Chapter 6, "Probability", and Chapter 7, "inductive Logic and Statistics"</ref>を[[統計学|統計的]]に定量化することも、科学的方法の重要なツールである。
===反証可能性===
{{main|反証可能性|[[検証可能性 (科学哲学)|検証可能性]]}}
20世紀中葉、哲学者の[[カール・ポパー]]は、科学と{{仮リンク|非科学|en|Non-science}}を区別するために「[[反証可能性]]」という基準を強調した<ref name="Popper">{{cite book|last=Popper|first=Karl|name-list-style=vanc|author-link=カール・ポパー|year=1959|title=The Logic of Scientific Discovery|isbn=978-0-415-27844-7|publisher=Routledge|title-link=The Logic of Scientific Discovery|ref=harv}} The German version is currently in print by Mohr Siebeck ({{ISBN2|3-16-148410-X}}).</ref>。[[命題|言明]]、[[仮説]]、または[[理論]]は、それらが誤っていることが実証される可能性を内包していれば、反証可能性を有している。つまり、それらを否定する観測や論証を考えることが可能であれば、反証可能性がある。ポパーは、[[占星術]]や[[精神分析]]を疑似科学の例とし、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の[[相対性理論]]を科学の例とした。ポパーは、非科学({{lang-en-short|Nonscience}})を、哲学的・数学的・神話的・宗教的・形而上学的な定式化、もう一方では疑似科学的な定式化に細分化した<ref name="NvLv9">{{harvp|Popper|1963|pp=43–86}}</ref>。
ある主張が反証可能であることの明確な必要性を示しているもう一つの例は、[[カール・セーガン]]の著書『{{仮リンク|悪霊にさいなまれる世界|en|The Demon-Haunted World}}』の中で、彼がガレージに飼っている不可視のドラゴンについて論じた際に述べられた。そこでは、このドラゴンが存在するという主張を否定する物理的な検証方法は存在しないことが指摘されている。いかなるテストを考案しようと、不可視のドラゴンには当てはまらないための理由があるため、最初の主張が誤りであることを実証できないのである。セーガンは次のように結論づける。
{{quote|さて、熱のない炎を吐き、肉体を持たず、目に見えない空飛ぶドラゴンと、ドラゴンが完全に存在しないことの違いはなんだろうか?}}
彼は、「私の仮説が誤りであることを示せないことは、それが真実であると証明することとまったく同じではない」と述べ<ref name="jsXu4">{{harvp|Sagan|1994|p=171}}</ref>、そのような主張が真実であったとしても、それは{{仮リンク|科学研究|en|Models of scientific inquiry}}の範疇には入らないと説明した。
===マートンの規範===
{{main|{{仮リンク|マートンの規範|en|Mertonian norms}}}}
1942年、[[ロバート・キング・マートン|ロバート・K・マートン]]は、真の科学とは何かを示す5つの「規範」を明らかにした。彼は、これらの規範のいずれかに違反している試みを非科学的なものと捉えた。なお、これらの規範は、科学界で広く受け入れられているものではない。
* 独創性: 実験や研究は、科学界に新しい何らかのものを提示しなければならない。
* 分離性: 科学者がその科学を実践する理由は、単に知識の拡大のためでなければならない。科学者は、ある結果を期待する私的理由を持ってはならない。
* 普遍性: ある人が他者よりも容易にテストの情報を得ることができてはならない。社会階級、宗教、民族、その他の個人的要因が、ある種の科学を受け取ったり、実行したりする能力に影響を与えるべきではない。
* 懐疑心: 科学的事実は信仰に基づいてはならない。すべての事例や議論に疑問を持ち、誤りや根拠に乏しい主張がないかを常に確認すべきである。
* 開放性: 取得した科学的知識は、すべての人に利用可能にすべきである。また、研究結果は公表され、科学界で共有されるべきである<ref name="Paradigms Lost">{{cite book|last=Casti|first=John L.|author-link=:en:John Casti|name-list-style=vanc|title=Paradigms lost: tackling the unanswered mysteries of modern science|year=1990|publisher=Avon Books|location=New York|isbn=978-0-380-71165-9|pages=[https://archive.org/details/paradigmslost00jlca/page/51 51–52]|edition=1st|url=https://archive.org/details/paradigmslost00jlca/page/51}}</ref>。
===問題認識の拒否===
1978年、哲学者の{{仮リンク|ポール・サガード|en|Paul Thagard}}は、疑似科学を科学と区別できるのは、主に長期間にわたって代替理論に比べて進歩がなく、提唱者が理論の問題点を認めず、対処しない場合であると提案した<ref name="harvp Thagard 1978 pp 223 ff">{{harvp|Thagard|1978|pp=223 ff}}</ref>。1983年、[[マリオ・ブンゲ]]は、疑似科学と科学を区別するために、「信念の分野」と「研究の分野」の2つからなるカテゴリーを提案した。前者は主に個人的で主観的なものであり、後者は一定の体系的方法を伴うものである<ref name="EiwMW">{{harvp|Bunge|1983a}}</ref>。{{仮リンク|スティーヴン・ノヴェラ|en|Steven Novella}}などによる、[[科学的懐疑主義]]に関する書籍『{{仮リンク|The Skeptics' Guide to the Universe|en|The Skeptics' Guide to the Universe (book)}}』(2018年)では、疑似科学の大きな特徴の一つとして、批判に対する敵意が挙げられている<ref name="vz7kS">{{cite book|last=Novella|first=Steven|author-link=:en:Steven Novella|title=[[:en:The Skeptics' Guide to the Universe: How to Know What's Really Real in a World Increasingly Full of Fake|The Skeptics' Guide to the Universe: How to Know What's Really Real in a World Increasingly Full of Fake]]|year=2018|publisher=Grand Central Publishing|page=165}}</ref>。
===用語に対する批判===
[[ポール・ファイヤアーベント]]などの科学哲学者は、科学と非科学を区別することは不可能かつ望ましいことではないと主張した<ref name="SkE2f">{{cite book|author-link=ポール・ファイヤアーベント|last=Feyerabend|first=Paul|year=1975|title=Against Method: Outline of an Anarchistic Theory of Knowledge|isbn=978-0-86091-646-8|chapter-url=http://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/ge/feyerabe.htm|chapter=Table of contents and final chapter|url-access=registration|url=https://archive.org/details/againstmethod0000feye}}</ref>{{refn|group=注釈|'A particularly radical reinterpretation of science comes from Paul Feyerabend, "the worst enemy of science"... Like Lakatos, Feyerabend was also a student under Popper. In an interview with Feyerabend in ''Science'', [he says] "Equal weight... should be given to competing avenues of knowledge such as astrology, acupuncture, and witchcraft..."'<ref name="Gauch2003">{{harvp|Gauch|2003|p=88}}</ref>}}。科学と非科学の区別を困難にしているのは、[[科学理論]]や方法が新たなデータに応じて進化する速度が異なることである{{refn|name=fredb|group=注釈|"We can now propose the following principle of demarcation: A theory or discipline which purports to be scientific is pseudoscientific if and only if: it has been less progressive than alternative theories over a long period of time, and faces many unsolved problems; but the community of practitioners makes little attempt to develop the theory towards solutions of the problems, shows no concern for attempts to evaluate the theory in relation to others, and is selective in considering confirmations and non confirmations."<ref name="harvp Thagard 1978 pp 227–228">{{harvp|Thagard|1978|pp=227–228}}</ref>}}。{{仮リンク|ラリー・ラウダン|en|Larry Laudan}}は、疑似科学には科学的な意味はなく、主に我々の感情を表すために使われていると指摘しており、次のように述べている<ref name="Laudan_1996">{{cite book|author-link=:en:Larry Laudan|last=Laudan|first=Larry|year=1996|chapter=The demise of the demarcation problem|veditors=Ruse M|title=But Is It Science?: The Philosophical Question in the Creation/Evolution Controversy|pages=337–350}}</ref>。
{{quote|もし理性の側に立ちたいのであれば、「疑似科学」や「非科学的」といった語彙は放棄すべきである。これらの言葉は、我々に感情的に働きかけるだけの空虚なフレーズに過ぎない。}}
同様に、{{仮リンク|リチャード・マクナリー|en|Richard McNally}}も次のように述べている<ref name="o7JIf">{{cite journal|author=McNally RJ|url=http://www.srmhp.org/0202/pseudoscience.html|title=Is the pseudoscience concept useful for clinical psychology?|journal=The Scientific Review of Mental Health Practice|volume=2|issue=2|year=2003|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100430162007/http://www.srmhp.org/0202/pseudoscience.html|archivedate=2010年4月30日}}</ref>。
{{quote|「疑似科学」という言葉は、メディアのサウンドバイトにおいて、相手を素早く否定するための扇動的なバズワードに過ぎなくなっている。医療分野の起業家が自身の治療法を主張するとき、我々は彼らの治療法が疑似科学的であるかどうかを判断することに時間を費やすべきではない。むしろ、我々は彼らに次のように尋ねるべきである。「その治療介入が効果的であるということをどのように知ったのか?エビデンスはあるのか?」と。}}
===その他の定義===
哲学者の{{仮リンク|シルビオ・フントヴィッチ|en|Silvio Funtowicz}}と{{仮リンク|ジェローム・ラベッツ|en|Jerome Ravetz}}は、「疑似科学とは、出力が完全に不確実にならないように、入力の不確実性を抑えなければならないものと定義できる」と述べている。この定義は、『{{仮リンク|Uncertainty and Quality in Science for Policy|en|Uncertainty and Quality in Science for Policy}}』に記載されており<ref name="PNS0">{{cite book|author=Funtowicz S, Ravetz J|year=1990|title=Uncertainty and Quality in Science for Policy|location=Dordrecht|publisher=Kluwer Academic Publishers|title-link=Uncertainty and Quality in Science for Policy|page=54}}</ref>、定量的な情報を扱う技術が失われていることや、予測の精度を高めるために、予測を定式化するために使用された入力の不確実性を無視するという悪い慣習を示唆している。この言葉の使い方は、{{仮リンク|ポスト・ノーマル・サイエンス|en|Post-normal science}}の実践者の間でよく使われている。このように理解した場合、疑似科学は、{{仮リンク|NUSAP|en|NUSAP}}や{{仮リンク|感度監査|en|Sensitivity auditing}}(数理モデリングの場合)など、定量的情報の不確実性を評価するための優れた手法を用いて戦うことが可能となる。
==指標==
{{see also|{{仮リンク|疑似科学とみなされているものの一覧|en|List of topics characterized as pseudoscience}}}}
[[File:Rhustox.jpg|thumb|upright|[[ホメオパシー]]で使用されるレメディの一つである「ルス・トキシコデンドロン」。[[ツタウルシ]]から抽出される。]]
科学研究の規範を遵守しているように示されているにもかかわらず、明らかにその規範を遵守していない場合、その主題・実践・知識体系は疑似科学と呼ばれる可能性が高い<ref name="Cover_Curd_1998"/>{{Sfn|Bunge|1983b|p=}}。以下は、その指標を列挙したものである。
===不明瞭・大言壮語・検証不可能な主張===
* 正確ではなく漠然としており、具体的な測定結果が欠如している科学的主張<ref name="xMH1o">e.g. {{harvp|Gauch|2003|pp=211 ff}} (Probability, "Common Blunders").</ref>。
* 説明力がない、あるいはほとんどない主張<ref name="Popper, Karl 1963"/>。
* {{仮リンク|操作的定義|en|Operational definition}}を行っていない。操作的定義とは、定義者以外の人が独立して測定、またはテストできるように、対象となる変数、用語、または関心対象を公開することである{{refn|group=注釈|'Most terms in theoretical physics, for example, do not enjoy at least some distinct connections with observables, but not of the simple sort that would permit operational ''definitions'' in terms of these observables. [..] If a restriction in favor of operational definitions were to be followed, therefore, most of theoretical ''physics'' would have to be dismissed as meaningless pseudoscience!'<ref name="EUf6R">{{cite book|first=Paul Montgomery|last=Churchland|name-list-style=vanc|title=Matter and Consciousness: A Contemporary Introduction to the Philosophy of Mind|year=1999|publisher=MIT Press|url=https://books.google.com/books?id=_7CBvggqOE4C&q=%22operational+definitions.%22+pseudoscience&pg=PA90|page=90|isbn=978-0262530743}}</ref>}}。[[再現性]]の項目も参照。
* 倹約の原則を合理的に適用していない。つまり、複数の有効な説明が可能な場合に、可能な限り追加の仮定を必要としない説明を求めることを怠っている<ref name="aMule">{{harvp|Gauch|2003|pp=269 ff}}, "Parsimony and Efficiency"</ref>。詳細は[[オッカムの剃刀]]を参照。
* [[蒙昧主義]]的な言葉遣いをしており、主張に科学的な装いを持たせるために専門用語を濫用している。
* 境界条件が欠如している。十分に信頼できる科学理論の大多数は、予測される現象が適用される場合とそうでない場合の境界条件を明確にしている<ref name="Hines1988"/>。
* 実験計画において、[[偽薬|プラセボ]]や[[二重盲検法|二重盲検]]などの効果的な[[対照実験]]が欠如している。
* [[物理学]]や[[工学]]における基本的かつ確立された原理に対する理解が不足している<ref name="OsPUp">{{cite web|author=Donald E. Simanek|url=http://www.lhup.edu/~dsimanek/pseudo/scipseud.htm|title=What is science? What is pseudoscience?|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090425202814/http://www.lhup.edu/~dsimanek/pseudo/scipseud.htm|archivedate=2009年4月25日|accessdate=2021-07-17}}</ref>。
===反証よりも確証へ依存している===
* 観測か物理的実験によって誤りであることが示されるという論理的可能性を許容しない主張<ref name="Popper"/><ref name="Lakatos_1970">{{cite book|author=Lakatos I|year=1970|chapter=Falsification and the Methodology of Scientific Research Programmes|veditors=Lakatos I, Musgrave A|title=Criticism and the Growth of Knowledge|pages=91–195}}</ref>。[[反証可能性]]の項目も参照。
* ある理論が、その理論が予測するということが示されていない何らかのものを予測しているという主張<ref name="sT7iV">e.g. {{harvp|Gauch|2003|pp=178 ff}} (Deductive Logic, "Fallacies"), and at 211 ff (Probability, "Common Blunders")</ref>。予測力を与えない科学的主張は、よい場合では「思い込み」、悪い場合では「疑似科学」とみなされる<ref name="Vtd7w">''Macmillan Encyclopedia of Philosophy'' Vol. 3, "Fallacies" 174 ff, esp. section on "Ignoratio elenchi"</ref>。[[論点のすり替え]]も参照。
* 誤りであることが証明されていない主張は、それゆえに真実であり、その逆もまた然りであるという主張<ref name="T3iJ6">''Macmillan Encyclopedia of Philosophy'' Vol 3, "Fallacies" 174 ff esp. 177–178</ref>。詳細は[[無知に訴える論証]]を参照。
* 証言や[[事例証拠]]、または個人的な経験に過度に依存している。このような証拠は、発見の場面(すなわち、仮説形成の段階)では有用かもしれないが、{{仮リンク|正当化 (認識論)|en|Justification (epistemology)|label=正当化|preserve=1}}の場面(たとえば、[[統計的仮説検定]])では使用すべきではない<ref name="KSQ76">{{harvp|Bunge|1983a|p=381}}</ref>。
* 主張を支持するようなデータを提示する一方で、対立するデータを抑制したり考慮したりしていない<ref name="harvp Thagard 1978 pp 227–228"/>。これは[[観測選択効果|選択バイアス]]の一例であり、データの収集方法に起因する証拠やデータの歪曲である。選択効果と呼ばれることもある。
* 過去に他の場所で公表された過剰な主張や未検証の主張を繰り返し、あたかも真実であるかのように喧伝している。独自の経験的調査を行わない、このような無批判な二次報告の蓄積は、[[ウーズル効果]]と呼ばれる<ref name="Gambrill2012">{{cite book|author=Eileen Gambrill|title=Critical Thinking in Clinical Practice: Improving the Quality of Judgments and Decisions|url=https://books.google.com/books?id=NsuHtwciwQwC&pg=PA109|date=1 May 2012|publisher=John Wiley & Sons|isbn=978-0-470-90438-1|page=109|edition=3rd}}</ref>。
* 立証責任が逆転している([[消極的事実の証明]])。科学では、主張する側に立証責任があり、批判する側にはない。疑似科学的な議論は、この原則を無視し、[[懐疑主義|懐疑論]]者に対して、ある主張(たとえば、新しい治療法の有効性に関する主張)が誤りであるという合理的な疑いを超え、それを証明することを要求する場合がある。普遍的な否定を証明することは本質的に不可能であるため、この戦術は立証責任を主張側ではなく懐疑側に不正に負わせている<ref name="Lilienfeld">Lilienfeld SO (2004). ''Science and Pseudoscience in Clinical Psychology'' Guildford Press {{ISBN2|1-59385-070-0}}</ref>。[[悪魔の証明]]も参照。
* [[還元主義]]ではなく[[ホーリズム]]に訴えている。特に有機医療、代替医療、自然療法、メンタルヘルスなどの分野において疑似科学的主張を行う人は、否定的な知見を否定するために「ホーリズムのマントラ」に頼ることが多い<ref name="Ruscio"/>。
===他の専門家による検証への開放性の欠如===
* 結果公表前の[[査読]]を回避している(「{{仮リンク|記者会見による科学|en|Science by press conference}}」と呼ばれる)<ref name="Lilienfeld"/><ref name="58lDT">{{cite journal|author=Gitanjali B|title=Peer review – process, perspectives and the path ahead|journal=Journal of Postgraduate Medicine|volume=47|issue=3|pages=210–14|year=2001|pmid=11832629|url=http://www.senseaboutscience.org.uk/PDF/peerReview.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060623193431/http://www.senseaboutscience.org.uk/PDF/PeerReview.pdf|url-status=dead|archivedate=2006年6月23日}}</ref>{{refn|group=注釈|For an opposing perspective, e.g. [http://www.uow.edu.au/arts/sts/bmartin/dissent/documents/ss/ss5.html Chapter 5 of Suppression Stories by Brian Martin] (Wollongong: Fund for Intellectual Dissent, 1997), pp. 69–83.}}。既に受容されている科学理論に反する考えを提唱する人の中には、査読は確立されたパラダイムに偏っているという理由や、標準的な科学的方法では主張を十分に評価できないなどの理由から、自身の考えを査読にかけることを避ける人がいる。このような提唱者は、査読プロセスから距離を置くことにより、情報に通じた研究者仲間からの修正的フィードバックを得る機会を喪失している<ref name="Ruscio">{{harvp|Ruscio|2002}}</ref>。
* 科学研究に資金を提供している機関や出版社の一部は、他の研究者が独立して論文を評価できるように、著者に対して{{仮リンク|データ共有|en|Data sharing|label=データの共有|preserve=1}}を求めている。他の研究者が主張を再現できるような適切な情報を提供しないことは、開放性の欠如につながる<ref name="Gauch_2003">{{harvp|Gauch|2003|pp=124 ff}}</ref>。
* データや方法論の[[査読|独立したレビュー]]が求められた際に、秘密や独自の(専有の)知識の必要性を訴えている<ref name="Gauch_2003"/>。
* あらゆる視点からの知識豊富な支持者による、証拠に基づく実質的な議論が推奨されていない<ref name="KNk8D">{{harvp|Sagan|1994|p=210}}</ref>。
===進展がない===
* 主張を裏付ける追加の証拠を得ることに失敗している<ref name="Lakatos_1970"/><ref name=fredb group=注釈/>。[[テレンス・ハインズ]]は、過去2千年間ほとんど変化していない分野として、[[占星術]]を挙げている<ref name="Hines1988">{{cite book|author-link=テレンス・ハインズ|last=Hines|first=Terence|name-list-style=vanc|title=Pseudoscience and the Paranormal: A Critical Examination of the Evidence|publisher=Prometheus Books|location=Buffalo, NY|year=1988|isbn=978-0-87975-419-8|url=https://archive.org/details/pseudosciencepar00hine}}</ref><ref name="harvp Thagard 1978 pp 223 ff"/>。
* 自己修正の欠如。科学的な研究計画は、間違いを犯すこともあるが、時間経過とともにそれらの間違いを低減させていく傾向にある<ref name="Ruscio120">{{harvp|Ruscio|2002|p=120}}</ref>。それとは対照的に、矛盾する証拠があるにもかかわらず、そのままの形で残存している考えは、疑似科学とみなされる場合がある。これらの特徴は、『Scientists Confront Velikovsky』(1976年、コーネル大学)という著作でも詳説されており、[[トーマス・クーン]]の著作『科学革命の構造』(1962年)でも、疑似科学の特徴の一覧にある項目のいくつかについて触れられている。
* 裏付けとなる実験結果の[[有意|統計的有意性]]が時間が経っても改善されておらず、有意水準に近いことが普通となっている。通常、実験技術が向上するか、実験が繰り返されることにより、より強力な証拠が得られるが、統計的有意性が改善されていない場合は、通常、単に偶然によって成功するまで実験が繰り返されていることを示している。
===問題の擬人化===
* 閉鎖的な社会集団と[[権威主義的パーソナリティ]]、および反対意見の抑圧と[[集団思考]]は、合理的根拠のない信念の採用を助長する。自分たちの信念を確認しようとするあまり、その集団は批判者を敵とみなす傾向に転じる<ref name="Devilly_437">{{harvp|Devilly|2005}}</ref>。
* 科学界における主流派が疑似科学的な情報を抑圧しているという[[陰謀論]]を主張している{{refn|group=注釈|e.g. [http://archivefreedom.org/ archivefreedom.org], which claims that "The list of suppressed scientists even includes Nobel Laureates!"}}。
* 批判者の動機・性格・道徳・能力などを攻撃している<ref name="Devilly_437"/>{{refn|group=注釈|e.g. [http://philosophy.lander.edu/logic/person.html Philosophy 103: Introduction to Logic Argumentum Ad Hominem].}}。詳細は[[人身攻撃]]を参照。
===誤解を招く言葉遣い===
* 科学的に見える専門用語を作成し、非専門家に嘘や意味のない話を信じ込ませている。たとえば、水のことを「[[DHMO|一酸化二水素]]」(DHMO)というあまり使われない名称で呼称し、ほとんどの[[毒|毒液]]の主成分であると表現することで、一般の人々がいかに簡単に惑わされるかを示すという、昔からあるいたずらが挙げられる。
* 確立された専門用語を奇妙な方法で使用しており、その分野の主流の研究に精通していないことが示されている。
==普及率==
===アメリカ合衆国===
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、科学の原理や[[方法論|方法]]を十分に理解していない、[[科学リテラシー]]の低い人が人口の多くの割合を占めている{{refn|group=注釈|"Surveys conducted in the United States and Europe reveal that many citizens do not have a firm grasp of basic scientific facts and concepts, nor do they have an understanding of the scientific process. In addition, belief in pseudoscience (an indicator of scientific illiteracy) seems to be widespread among Americans and Europeans."<ref name="nsf2">{{citation|chapter-url=https://www.nsf.gov/statistics/seind04/c7/c7s2.htm|url-status=live|archiveurl=https://wayback.archive-it.org/5902/20150628032751/https://www.nsf.gov/statistics/seind04/c7/c7s2.htm|archivedate=2015年6月28日|year=2004|chapter=Chapter 7 Science and Technology: Public Attitudes and Understanding: Public Knowledge About S&T|accessdate=28 August 2013|title=Science and Engineering Indicators 2004|author=National Science Board|location=Arlington, VA|publisher=National Science Foundation}}</ref>}}{{refn|group=注釈|"A new national survey commissioned by the California Academy of Sciences and conducted by Harris Interactive® reveals that the U.S. public is unable to pass even a basic scientific literacy test."<ref name="calacademy">{{cite press release|last1=Stone|first1=Stephanie|last2=Ng|first2=Andrew|name-list-style=vanc|title=American adults flunk basic science: National survey shows only one-in-five adults can answer three science questions correctly|url=http://www.calacademy.org/newsroom/releases/2009/scientific_literacy.php|url-status=dead|publisher=[[カリフォルニア科学アカデミー|California Academy of Sciences]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131018022148/http://www.calacademy.org/newsroom/releases/2009/scientific_literacy.php|archivedate=2013年10月18日}}</ref>}}<ref name="sciencenews">{{cite web|url=https://www.sciencenews.org/blog/science-public/science-literacy-us-college-courses-really-count|title=Science literacy: U.S. college courses really count|accessdate=13 October 2017|work=Science News|last=Raloff|first=Janet|name-list-style=vanc|date=21 February 2010|publisher=Society for Science & the Public|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171013224518/https://www.sciencenews.org/blog/science-public/science-literacy-us-college-courses-really-count|archivedate=2017年10月13日}}</ref>{{refn|group=注釈|"In a survey released earlier this year [2007], Miller and colleagues found that about 28 percent of American adults qualified as scientifically literate, which is an increase of about 10 percent from the late 1980s and early 1990s."<ref name="sghQA">{{cite web|url=http://msutoday.msu.edu/news/2007/msu-prof-lack-of-science-knowledge-hurting-democratic-process/|title=MSU prof: Lack of science knowledge hurting democratic process|work=MSUToday|last=Oswald|first=Tom|name-list-style=vanc|date=15 November 2007|publisher=Michigan State University|accessdate=28 August 2013|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130911201844/http://msutoday.msu.edu/news/2007/msu-prof-lack-of-science-knowledge-hurting-democratic-process/|archivedate=2013年9月11日}}</ref>}}。『Journal of College Science Teaching』の中で、アート・ホブソンは次のように述べている。「疑似科学的信念は、驚くほど我々の文化に浸透しており、公立学校の科学教師や新聞編集者の間でさえ広まっている。そしてこれは、科学リテラシーの欠如と密接に関連している」<ref name="Art-Hobson">{{cite journal|last=Hobson|first=Art|name-list-style=vanc|year=2011|title=Teaching relevant science for scientific literacy|journal=Journal of College Science Teaching|url=http://physics.uark.edu/hobson/pubs/00.12.JCST.pdf|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110824105754/http://physics.uark.edu/hobson/pubs/00.12.JCST.pdf|archivedate=2011年8月24日}}</ref>。しかし、同誌に掲載された1万人の生徒を対象に行われた研究では、科学的知識と疑似科学を信じることの間に強い相関関係はないと結論づけられている<ref name="3Ncw9">{{cite journal|author=Impey C, Buxner S, Antonellis J, Johnson E, King C|title=A twenty-year survey of science literacy among college undergraduates|url=http://edcipr.com/wp-content/uploads/2016/09/NSTA_Survey_Science-Literacy_2011.pdf|journal=Journal of College Science Teaching|volume=40|issue=1|year=2011|pages=31–37|display-authors=2}}</ref>。
[[カール・セーガン]]は、著書『{{仮リンク|悪霊にさいなまれる世界|en|The Demon-Haunted World}}』の中で、中国政府と[[中国共産党]]が、[[中華人民共和国|中国]]における西洋の疑似科学の発展と、中国古来のある種の慣習に懸念を抱いていることについて論じている。彼は、米国で発生している疑似科学を世界的傾向の一部として捉え、その原因・危険性・診断・治療法は世界共通である可能性を示唆している<ref name="06kZB">{{harvp|Sagan|1994|pp=1–22}}</ref>。
2006年、[[アメリカ国立科学財団]](NSF)は、科学と工学に関する論文の要旨を公表し、現代における疑似科学の普及について簡潔に述べた。それによると、「疑似科学への信仰は広く行き渡っている」とされ、[[ギャラップ (企業)|ギャラップ調査]]を参考に<ref name="Gallup">{{harvp|National Science Board|2006|loc=[https://www.nsf.gov/statistics/seind06/c7/fig07-08.htm Figure 7-8 – Belief in paranormal phenomena: 1990, 2001, and 2005]}}. {{Cite web|url=http://www.nsf.gov/statistics/seind06/c7/fig07-08.htm|title=Figure 7-8|accessdate=20 April 2010|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160617081433/http://www.nsf.gov/statistics/seind06/c7/fig07-08.htm|archivedate=2016年6月17日|url-status=bot: unknown}}<br/>{{cite web|url=http://www.gallup.com/poll/16915/three-four-americans-believe-paranormal.aspx|date=16 June 2005|title=Three in Four Americans Believe in Paranormal|author=David W. Moore|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100822003849/http://www.gallup.com/poll/16915/three-four-americans-believe-paranormal.aspx|archivedate=2010年8月22日|accessdate=2021-07-17}}</ref>、世論調査で挙げられた10種類の一般に信じられている超常現象の例を信じていることが「疑似科学的信念」であるとされた<ref name="nsf">{{citation|author=National Science Board|year=2006|chapter-url=https://www.nsf.gov/statistics/seind06/c7/c7s2.htm|chapter=Chapter 7: Science and Technology Public Attitudes and Understanding: Public Knowledge About S&T|url-status=live|archiveurl=https://wayback.archive-it.org/5902/20150628042314/https://www.nsf.gov/statistics/seind06/c7/c7s2.htm|archivedate=2015年6月28日|title=Science and Engineering Indicators 2006|location=Arlington, VA|publisher=National Science Foundation|at=Footnote 29}}</ref>。その項目は、「[[超感覚的知覚]]・[[幽霊]]・[[幽霊屋敷]]・[[テレパシー]]・[[透視 (超心理学)|透視]]・[[占星術]]・[[霊媒|死者との精神的交信]]・[[魔女]]・[[輪廻転生]]・[[チャネリング]]」である<ref name="nsf"/>。このような疑似科学への信仰は、科学がどのように機能するかについての知識の欠如を表している。科学界は、証明されていない主張に一般人が過敏に反応することに対する懸念から、科学に関する情報を伝えようとすることがある<ref name="nsf"/>。NSFは、米国における疑似科学信仰は、1990年代に広まり、2001年頃にピークを迎え、その後やや減少したが、疑似科学信仰は依然として一般的であると述べている。NSFの報告書によると、社会において疑似科学的問題に関する知識が不足しており、疑似科学的行為が一般的に行われているという<ref name="HbwaF">{{cite book|author=National Science Board|year=2006|volume=[https://www.nsf.gov/statistics/seind06/pdf/volume1.pdf Volume 1]|title=Science and Engineering Indicators 2006|location=Arlington, VA|publisher=National Science Foundation}}</ref>。調査によると、米国の成人のうち、約3分の1が占星術を科学的だと考えているという<ref name="MEwLS">{{cite book|author=National Science Board|year=2006|volume=[https://wayback.archive-it.org/5902/20160211065248/https://www.nsf.gov/statistics/seind06/pdf/volume2.pdf Volume 2: Appendix Tables]|title=Science and Engineering Indicators 2006|location=Arlington, VA|publisher=National Science Foundation|chapter=Appendix table 7-16: Attitudes toward science and technology, by country/region: Most recent year|pages=A7–17}}</ref><ref name="LIRR9">{{cite journal|last=FOX News|title=Poll: More Believe In God Than Heaven|date=18 June 2004|url=http://www.foxnews.com/story/0,2933,99945,00.html|accessdate=26 Apr 2009|publisher=[[Fox News Channel]]|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090305093146/http://www.foxnews.com/story/0,2933,99945,00.html|archivedate=2009年3月5日}}</ref><ref name="A5Jfb">{{cite web|last=Taylor|first=Humphrey|name-list-style=vanc|title=Harris Poll: The Religious and Other Beliefs of Americans 2003|date=26 February 2003|url=http://www.harrisinteractive.com/harris_poll/index.asp?pid=359|accessdate=26 Apr 2009|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070111214109/http://www.harrisinteractive.com/harris_poll/index.asp?PID=359|archivedate=2007年1月11日}}</ref>。
===人種差別主義との関連性===
疑似科学作家、および疑似科学的研究者と、彼らの[[反ユダヤ主義]]・[[人種主義|人種差別]]・[[ネオナチ|ネオナチズム]]的背景との間には多くの繋がりがある。彼らは、自身の信念を強化するために疑似科学を利用することが多い。最も優勢な疑似科学作家の一人は、{{仮リンク|フランク・コリン|en|Frank Collin}}である。彼はナチスを自称しており、著作の中でフランク・ジョセフと名乗っている<ref name="ocYkg">{{cite web|title=Frank Joseph|url=https://www.innertraditions.com/author/frank-joseph|website=Inner Traditions|publisher=Inner Traditions|accessdate=1 December 2020}}</ref>。彼の著作の大半は、[[アトランティス]]や地球外生命体との遭遇、および[[レムリア]]などの古代文明をテーマにしており、[[白人至上主義]]的なニュアンスを含んでいることが多い。たとえば、[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]以前のヨーロッパ人が北アメリカに移住していたという主張や、アメリカ先住民の文明はすべて白人の子孫が興したものであるといった主張を展開している<ref name="RxsMI">{{cite web|last1=Colavito|first1=Jason|title=Review of "Power Places And The Master Builders of Antiquity" By Frank Joseph|url=http://www.jasoncolavito.com/blog/review-of-power-places-and-the-master-builders-of-antiquity-by-frank-joseph|website=Jason Colavito|publisher=Jason Colavito|accessdate=4 December 2020}}</ref>。
[[オルタナ右翼]]が疑似科学をイデオロギーの根拠としていることは、今に始まったことではない。反ユダヤ主義の基盤は、すべて疑似科学か{{仮リンク|科学的人種差別主義|en|Scientific racism}}に基づいている。[[サンダー・ギルマン]]は、[[ニューズウィーク]]誌に寄稿した記事の中で、疑似科学コミュニティの反ユダヤ主義的見解について解説している<ref name="ETQep">{{cite web|last1=Gilman|first1=Sander|title=The Alt-Right's Jew-Hating Pseudoscience Is Not New|url=https://www.newsweek.com/alt-right-jew-hating-pseudoscience-not-new-769309|website=Newsweek|date=3 January 2018|publisher=Newsweek|accessdate=28 November 2020}}</ref>。
{{quote|疑似科学の世界に登場するユダヤ人は、科学を利用して邪悪な目的を達成しようとする、病んでいて愚かであるか、あるいは、ばかばかしいほど頭のいい人々からなる、でっち上げられた集団である。他の集団も、彼らが自称するところの「人種科学」において、同様に描かれている。アフリカ系アメリカ人、アイルランド人、中国人、そして自分より劣っていることを証明したいあらゆる集団がそうである。}}
ネオナチや白人至上主義者は、自分たちの主張が単なる有害な[[ステレオタイプ]]ではないことを「証明」する研究で、自身の主張を裏付けようとしている。たとえば、{{仮リンク|ブレット・ステファンズ|en|Bret Stephens}}は、[[ニューヨーク・タイムズ]]紙にコラムを掲載し、[[アシュケナジム]]の[[ユダヤ人]]は、あらゆる民族の中で最もIQが高いと主張した<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/2019/12/27/opinion/jewish-culture-genius-iq.html|title=The Secrets of Jewish Genius|last=Stephens|first=Bret|date=December 28, 2019|work=[[The New York Times]]}}</ref>。しかし、ステファンズが引用した論文の研究方法と結論は、発表以降、何度も疑問視されているものである。その研究の著者のうち、少なくとも一人は、[[南部貧困法律センター]]によって[[白人ナショナリズム|白人ナショナリスト]]と認定されていることが判明している<ref name="aqHYS">{{cite web|last1=Shapiro|first1=Adam|title=The Dangerous Resurgence in Race Science|url=https://www.americanscientist.org/blog/macroscope/the-dangerous-resurgence-in-race-science|website=American Scientist|date=27 January 2020|publisher=American Scientist|accessdate=1 December 2020}}</ref>。
科学誌の[[ネイチャー]]は、ここ数年、特に[[集団遺伝学]]や古代の[[デオキシリボ核酸|DNA]]を扱う研究者らに対して、研究を悪用しようとする過激派について警告する論説を何度も掲載している。ネイチャー誌に掲載された記事『Racism in Science: The Taint That Lingers』によると、20世紀初頭の[[優生学]]的疑似科学は、アジアやヨーロッパの一部からの移民を阻止しようとした米国の[[排日移民法|1924年移民法]]のように、公共政策に影響を与えるために利用されてきたという。「[[人種]]」は、科学的に妥当な概念ではないということが研究によって繰り返し示されているにもかかわらず、一部の科学者は「人種」間の測定可能な生物学的差異を探し続けている<ref name="oRFef">{{cite journal|last1=Nelson|first1=Robin|title=Racism in Science: The Taint That Lingers|url=https://www.nature.com/articles/d41586-019-01968-z|journal=Nature|year=2019|volume=570|issue=7762|pages=440–441|doi=10.1038/d41586-019-01968-z|bibcode=2019Natur.570..440N|s2cid=195354000|accessdate=1 December 2020|doi-access=free}}</ref>。
==説明==
Singer & Benassi(1981)によると、疑似科学的信念は、少なくとも4つの要因により発生するという<ref name="aoycp">{{cite magazine|first1=Barry|last1=Singer|first2=Victor A.|last2=Benassi|name-list-style=vanc|title=Occult beliefs: Media distortions, social uncertainty, and deficiencies of human reasoning seem to be at the basis of occult beliefs|magazine=American Scientist|volume=69|issue=1|year=1981|pages=49–55|jstor=27850247}}</ref>。
* [[事例証拠|個人的経験]]に起因する一般的な認知の誤り。
* マスメディアによる、誤ったセンセーショナルな報道。
* 社会文化的要因。
* 不十分な、あるいは誤った[[科学教育]]。
Eve & Dunn(1990)は、Singerらの調査結果を支持し、高校の生活科学と生物学の教師が疑似科学的信念を広めていることを発見した<ref name="W1g03">{{cite magazine|first1=Raymond A.|last1=Eve|first2=Dana|last2=Dunn|name-list-style=vanc|title=Psychic powers, astrology & creationism in the classroom? Evidence of pseudoscientific beliefs among high school biology & life science teachers|magazine=The American Biology Teacher|volume=52|issue=1|year=1990|pages=10–21|url=https://libres.uncg.edu/ir/uncg/f/D_Dunn_Psychic_1990.pdf|doi=10.2307/4449018|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171013224934/https://libres.uncg.edu/ir/uncg/f/D_Dunn_Psychic_1990.pdf|archivedate=2017年10月13日|jstor=4449018}}</ref>。
===心理学===
疑似科学の心理学は、何が科学的で何が疑似科学的であるかを明確にすることによって、疑似科学的な考え方を探り、分析することを試みている。疑似科学的思考の原因としては、反論よりも確認を求める傾向([[確証バイアス]])<ref name="EWp1m">{{harvp|Devilly|2005|p=439}}</ref>、心地よく感じる信念を抱く傾向、過度に一般化する傾向などが提案されている。Beyerstein(1991)によると、人間は類似性のみに基づいた関連付けをする傾向にあり、因果関係を考える際に誤帰属を犯す傾向にあるという<ref name="wnT6n">{{cite journal|author=Beyerstein B, Hadaway P|s2cid=148414205|year=1991|title=On avoiding folly|journal=Journal of Drug Issues|volume=20|issue=4|pages=689–700|doi=10.1177/002204269002000418}}</ref>。
[[マイケル・シャーマー]]による信念依存的実在論の理論は、脳は本質的に、五感で感知したデータをスキャンし、パターンや意味を探し出す「信念のエンジン」であるという着想に基づいている。また、脳には、論理性のない本能に基づいた推論や仮定の結果として、[[認知バイアス]]を生み出す傾向があり、通常、認知におけるパターンが生じることにつながっているという。このようなパターニシティ(patternicity)と行為主体性(agenticity)の傾向は、「[[バイアスの盲点]]と呼ばれるメタバイアス、つまり、他人の判断におけるバイアスの影響を認識できる一方で、自分自身の判断に対するバイアスの影響を認識できない傾向」によっても引き起こされる<ref name="zbHau">{{cite journal|last=Shermer|first=Michael|name-list-style=vanc|author-link=マイケル・シャーマー|year=2011|title=Understanding the believing brain: Why science is the only way out of belief-dependent realism|url=http://www.scientificamerican.com/article/the-believing-brain/|journal=Scientific American|doi=10.1038/scientificamerican0711-85|accessdate=14 August 2016|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160830132644/http://www.scientificamerican.com/article/the-believing-brain/|archivedate=2016年8月30日}}</ref>。リンデマンは、社会的動機、つまり「自己と世界を理解すること、結果をコントロールする感覚を持つこと、所属すること、世界を善意あるものとみなすこと、自尊心を維持すること」などは、科学的な情報よりも、疑似科学の方が「より簡単に」満たすことができる場合が多いと述べている。さらに、疑似科学的な説明は、一般的に理性的に分析されるのではなく、経験的に分析される。理性的思考とは異なる一連の規則に基づいて行われる経験的思考は、「個人的に機能し、満足感を与え、十分なもの」である場合、その説明を妥当なものとみなし、科学によって提供されるよりも個人的な可能性がある世界に関する説明を提供し、複雑な出来事と結果の理解にかかる潜在的労力を減少させる<ref name="Lindeman">{{cite journal|author=Lindeman M|title=Motivation, cognition and pseudoscience|journal=Scandinavian Journal of Psychology|volume=39|issue=4|pages=257–65|year=1998|pmid=9883101|doi=10.1111/1467-9450.00085}}</ref>。
===教育と科学リテラシー===
[[科学的証拠]]よりも疑似科学を信じる傾向が存在する<ref name="Matute2015">{{cite journal|author=Matute H, Blanco F, Yarritu I, Díaz-Lago M, Vadillo MA, Barberia I|title=Illusions of causality: how they bias our everyday thinking and how they could be reduced|journal=Frontiers in Psychology|volume=6|pages=888|year=2015|pmid=26191014|pmc=4488611|doi=10.3389/fpsyg.2015.00888|doi-access=free}}</ref>。一部の人は、疑似科学を信じる人が多いのは、[[科学リテラシー]]が欠如している人が多いためであると考えている<ref name="xLASt">{{cite web|last=Lack|first=Caleb|name-list-style=vanc|work=Great Plains Skeptic|publisher=Skeptic Ink Network|url=http://www.skepticink.com/gps/2013/10/10/what-does-scientific-literacy-look-like-in-the-21st-century/|title=What does Scientific Literacy look like in the 21st Century?|date=10 October 2013|accessdate=9 April 2014|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140413130541/http://www.skepticink.com/gps/2013/10/10/what-does-scientific-literacy-look-like-in-the-21st-century/|archivedate=2014年4月13日}}</ref>。努力をほとんど要しない我々のデフォルトのOSである「システム1」を使用して、目先の満足を得ようとする傾向があるため、科学リテラシーを持たない人は、希望的観測に陥りやすい。このシステムは、[[確証バイアス|自身が信じる結論を受け入れ]]、信じない結論を拒否することを促進する。複雑な疑似科学的現象を分析するためには、規則に従い、複数の次元で対象物を比較し、選択肢を検討するシステム2が必要である。この2つのシステムには、他にもいくつかの違いがあり、[[二重過程理論]]でさらに詳細に検討されている<ref name="aoPN2">{{cite journal|last1=Evans|first1=Jonathan St. B. T.|title=In two minds: dual-process accounts of reasoning|journal=Trends in Cognitive Sciences|year=2003|volume=7|issue=10|pages=454–459|doi=10.1016/j.tics.2003.08.012|pmid=14550493|s2cid=12508462|url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1364661303002250|accessdate=15 October 2020}}</ref>。科学的で世俗的な道徳や意味の体系は、一般的に、ほとんどの人にとって満足の行くものではない。人間は本来、幸福と充足を追求する前向きな種であるが、よりよい人生の非現実的な約束を掴もうとすることがあまりにも多いのである<ref name="Shermer">{{cite book|first1=Michael|last1=Shermer|first2=Steven J.|last2=Gould|author-link1=Michael Shermer|name-list-style=vanc|author-link2=Stephen Jay Gould|year=2002|title=Why People Believe Weird Things: Pseudoscience, Superstition, and Other Confusions of Our Time|publisher=Holt Paperbacks|location=New York|isbn=978-0-8050-7089-7|title-link=Why People Believe Weird Things: Pseudoscience, Superstition, and Other Confusions of Our Time}}</ref>。
疑似科学的思考は、明らかにされる必要がある、多くの個人に存在する因果関係と有効性の錯覚的知覚であるため、心理学はそれについて多く論じている。研究では、本を読んだり、広告を見たり、他者の証言を聞いたりといった、特定の状況にさらされた大多数の人に錯覚的思考が発生し、それが疑似科学的信念の基礎となっていることが示唆されている。錯覚は珍しいことではなく、適切な条件を与えられれば、通常の感情的状況であっても系統的に発生させることができると考えられている。疑似科学を信じる人々が最も不満に感じることの一つは、アカデミズム科学が彼らを愚か者のように扱っていることである。現実世界で、これらの錯覚を最小限に抑えることは容易ではない<ref name="Matute"/>。この目的のために、エビデンスに基づいた教育プログラムを設計することは、人々が自分自身の錯覚を認識し、軽減するために有効である<ref name="Matute">{{cite journal|author=Matute H, Yarritu I, Vadillo MA|title=Illusions of causality at the heart of pseudoscience|journal=British Journal of Psychology|volume=102|issue=3|pages=392–405|year=2011|pmid=21751996|doi=10.1348/000712610X532210|citeseerx=10.1.1.298.3070}}</ref>。
==科学との境界==
===分類===
哲学者は[[知識]]の種類を分類している。英語では、[[科学]](science)という言葉は、特に[[自然科学]]と、それに関連する[[社会科学]]と呼ばれる分野を表すために使われる<ref name=":0">{{Cite book|url=https://plato.stanford.edu/archives/sum2017/entries/pseudo-science/|title=The Stanford Encyclopedia of Philosophy|last=Hansson|first=Sven Ove|year=2017|publisher=Metaphysics Research Lab, Stanford University|editor-last=Zalta|editor-first=Edward N.|edition=Summer 2017}}</ref>。正確な境界については、[[科学哲学]]者の間で意見が分かれている。たとえば、[[数学]]は経験的なものに近い[[形式科学]]なのか、それとも純粋な数学は[[論理学]]の[[哲学]]的研究に近く、したがって科学ではないのかなどである<ref name="L0347">{{cite book|title=Philosophy of Science: From Problem to Theory|author=Bunge, Mario Augusto|publisher=Transaction Publishers|year=1998|isbn=978-0-7658-0413-6|page=24}}</ref>。しかし、科学的ではない(not scientific)観念は非科学的(non-scientific)であるという点では、すべての人が同意している。[[:en:non-science|non-science]] という大きなカテゴリーには、[[歴史学]]・[[形而上学]]・[[宗教]]・[[芸術]]・[[人文科学]]など、自然科学と社会科学以外のすべての事柄が含まれる<ref name=":0"/>。このカテゴリーをさらに細分化すると、unscientific な主張は、上位のカテゴリーである non-scientific な主張の[[部分集合]]となる。このカテゴリーには、特に、優れた科学に直接反対するすべての事柄が含まれる<ref name=":0"/>。un-science には、「悪い科学」(自然界について何かを学ぼうとする善意に基づく試みの中で犯した誤りなど)と疑似科学の両方が含まれる<ref name=":0"/>。したがって、疑似科学は un-science の部分集合であり、un-science は non-science の部分集合である。
また、科学は、経験的研究と検証によって得られる物理的世界への洞察を提供するという点で、[[啓示]]・[[神学]]・[[スピリチュアリティ]]とも区別される<ref name="Gould">{{Cite magazine|first=Stephen Jay|last=Gould|author-link=スティーヴン・ジェイ・グールド|name-list-style=vanc|url=http://www.stephenjaygould.org/library/gould_noma.html|title=Nonoverlapping magisteria|magazine=Natural History|year=1997|issue=106|pages=16–22|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170104061453/http://www.stephenjaygould.org/library/gould_noma.html|archivedate=2017年1月4日}}</ref><ref name="TQHhy">{{harvp|National Center for Science Education|2008|p=10}}</ref>。最も有名な論争は、生物の[[進化]]と[[共通祖先]]の概念、地球の地質学的歴史、太陽系の形成、および宇宙の起源に関するものである<ref name="3CQ9Y">{{cite press release|url=http://www.royalsoc.ac.uk/news.asp?year=&id=4298|title=Royal Society statement on evolution, creationism and intelligent design|date=11 April 2006|publisher=[[Royal Society]]|location=London|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071013040110/http://www.royalsoc.ac.uk/news.asp?year=&id=4298|archivedate=2007年10月13日}}</ref>。神や霊感による知識に由来する信念体系は、科学的であると主張したり、確立された科学を覆すようなものでなければ、疑似科学とはみなされない。さらに、執り成しの祈りで病気が治るというような特定の宗教的主張は、検証不可能な信念に基づいていることがあるが、科学的方法で検証することができる。
[[通俗科学]]の言明や通説は、科学の基準を満たしていない場合がある。「ポップ」・サイエンスは、一般の人々の間で科学と疑似科学の境界を曖昧にする可能性があり、また、[[サイエンス・フィクション]]も含む場合もある<ref name="Pendle">{{cite web|first=George|last=Pendle|name-list-style=vanc|url=http://www.popularscience.co.uk/features/feat20.htm|title=Popular Science Feature – When Science Fiction is Science Fact|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060214144307/http://www.popularscience.co.uk/features/feat20.htm|archivedate=2006年2月14日|accessdate=2021-07-17}}</ref>。実際に、通俗科学は、科学的方法論や専門家による査読に責任を持たない人々によって安易に発せられ、広められることがある。
所与の分野の主張が実験的に検証可能なものであり、基準が守られていれば、その主張がいかに奇妙かつ驚くべきもので、直感に反するものだとしても、疑似科学ではない。科学は、反証される可能性がある仮説を検証することから構成されているため、仮に主張が既存の実験結果や確立された理論と矛盾していても、その方法が健全であれば、注意する必要がある。そのような場合、その研究は「まだ一般的に受け入れられていない」観念と表現する方がよい可能性がある。「[[プロトサイエンス]]」は、科学的方法で十分に検討されていないが、既存の科学と矛盾しない、あるいは矛盾している場合には、その矛盾を合理的に説明することができる仮説を指す言葉である。また、実用的知識から科学的な分野への移行を意味することもある<ref name="Popper"/>。
===哲学===
{{main|[[線引き問題 (科学哲学)|線引き問題]]|科学哲学}}
[[カール・ポパー]]は、科学と疑似科学、あるいは[[形而上学]]([[存在]]の意味を問う哲学的問題)とを区別するためには、「観察や実験に基づく帰納的な[[経験論|経験的]]方法を厳密に遵守している」という基準では不十分であると述べている<ref name="Popper, Karl 1963">{{cite book|last=Popper|first=Karl|name-list-style=vanc|author-link=カール・ポパー|year=1963|title=Conjectures and Refutations|url=http://www.paul-rosenfels.org/Popper.pdf|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171013124349/http://www.paul-rosenfels.org/Popper.pdf|archivedate=2017年10月13日|ref=harv}}</ref>。彼は、真の経験的方法と非科学的方法、ひいては疑似科学的方法を区別する方法を提案した。後者の例としては、観察や実験に訴える占星術が挙げられる。[[占星術]]は、[[ホロスコープ]]や[[伝記]]などの観察に基づく[[実証研究|経験的証拠]]を持っていたが、許容可能な科学的基準を使用することに大きく失敗した<ref name="Popper, Karl 1963"/>。ポパーは、科学と疑似科学を区別するための重要な基準として、「[[反証可能性]]」を提唱した。
ポパーは、反証可能性を説明するために、人間の2つの行動例を[[ジークムント・フロイト]]や[[アルフレッド・アドラー]]の理論に基づいて説明した。その例は、「溺れさせるつもりで子供を水中に突き落とす人と、子供を助けようとして自分の命を犠牲にする人」である。フロイトの観点では、一人目の男は[[エディプスコンプレックス]]に起因する[[抑圧 (心理学)|心理的抑圧]]に苦しんでおり、二人目の男は[[昇華 (心理学)|昇華]]を達成している。アドラーの観点では、二人とも[[劣等感]]に苦しんでおり、自身の能力を証明しなければならないと考えている。一人目の男では、それによって犯罪へと駆り立てられ、二人目の男では、子供を救うことに駆り立てられたということになる。ポパーは、フロイトやアドラーの理論では、人間の行動を説明できないという反例を見つけることができなかった。ポパーは、それは観察結果が常に理論に適合しているか、あるいは確証されているからであり、それは理論の長所であるどころか、むしろ短所であると主張した。ポパーは、これとは対照的に、「物質的な物体が引き付けられるのとまったく同じように、光は重い物体(太陽など)によって引き付けられる必要がある」と予測したアインシュタインの[[重力]]理論を例に挙げた。これに従うと、太陽に近い恒星は、太陽から少し離れたところに移動しているように見え、お互いに離れているように見える。この予測は著しいリスクを伴うものだったため、ポパーにとって非常に衝撃的なものだった。通常では、太陽の明るさのために、この効果を観測することができないため、日食中に写真を撮り、夜に撮った写真と比較しなければならない。ポパーは、「観測の結果、予測されていた効果が確実に存在しないことがわかれば、その理論は単純に反証される」と述べている。また彼は、理論の科学的地位の基準を、[[反証可能性]]・反駁可能性・[[検証可能性 (科学哲学)|検証可能性]]の3つにまとめている<ref name="Popper, Karl 1963"/>。
{{仮リンク|ポール・サガード|en|Paul Thagard}}は、科学と疑似科学を区別するために、[[占星術]]をケーススタディとして用い、それらを区別するための原則と基準を提案した<ref name="Thagard 1978 astrology">{{harvp|Thagard|1978}}</ref>。第一に、占星術は、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]以来、更新されておらず、説明力も追加されていない。第二に、天文学における分点の[[歳差]]運動などの未解決問題を無視している。第三に、[[人格心理学|性格]]や行動に関する代替理論は、占星術が静的に天の力に帰している現象の説明を包含するように成長していった。最後に、占星術師は、未解決問題を解決するために理論を発展させることや、他の理論との関係で理論を批判的に評価することに無関心なままである。サガードは、この基準を占星術以外の分野にも適用することを考えた。それにより、[[物理学]]・[[化学]]・[[天文学]]・[[地球科学]]・[[生物学]]・[[考古学]]を科学の領域に残したまま、[[ウィッチクラフト|魔術]]や{{仮リンク|ピラミッド学|en|Pyramidology}}などを疑似科学として区別することができると彼は考えたのである<ref name="Thagard 1978 astrology"/>。
[[ラカトシュ・イムレ]]は、[[科学哲学]]と[[科学史]]において、科学と疑似科学を区別する規範的方法論の問題である「[[線引き問題]]」の社会的・政治的重要性を強調している。彼の{{仮リンク|リサーチプログラム|en|Research program}}に基づく科学的方法論の歴史的分析は、次のことを示唆している。「すべての科学理論は、永遠に『反例の海』に直面しているにもかかわらず、科学者たちは、驚くべき新事実([[ハレー彗星]]の回帰や重力による光の歪曲など)を理論的に予測して成功させることが、優れた科学理論と疑似科学的で廃れた理論とを分かつと考えている<ref name="Imre-Lakatos"/>」。ラカトシュは、「自身の方法論の歴史的好例である、ニュートンの天体力学の発展に関する斬新な[[可謬主義]]的分析」を提示しており、この歴史的転回を踏まえて、[[カール・ポパー]]やトーマス・クーンの説明における一定の不備を、彼の説明が補っていると論じている<ref name="Imre-Lakatos"/>。「しかしながら、ラカトシュは、クーンがポパーを歴史的に批判していたことを認めていた。理論を徹底的に否定しなければならないとする反証主義者の考え方では、すべての重要な理論は『例外の海』に囲まれている。(中略)ラカトシュは、ポパー的反証主義の[[理性主義|合理主義]]と、歴史によるそれ自体の反駁に見えるものとを一致させようとした<ref name="Bird2008">{{cite book|first=Alexander|last=Bird|chapter=The Historical Turn in the Philosophy of Science|title=Routledge Companion to the Philosophy of Science|editor1-first=Stathis|editor1-last=Psillos|editor2-first=Martin|editor2-last=Curd|name-list-style=vanc|location=Abingdon|publisher=Routledge|year=2008|pages=9, 14|chapter-url=http://eis.bris.ac.uk/~plajb/research/papers/The-Historical-Turn.pdf|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130601030150/http://eis.bris.ac.uk/~plajb/research/papers/The-Historical-Turn.pdf|archivedate=2013年6月1日}}</ref>」。
{{quote|多くの哲学者が、この線引き問題を次のような言葉で解決することを試みた。十分に多くの人々が十分に強く信じている場合、その言明は知識となる。しかし、思想の歴史を見ると、多くの人々が不条理な信念を完全に信じていたことがわかる。仮に信念の強さが知識の証であるならば、悪魔・天使・悪霊・天国・地獄に関する作り話を知識として順序付けなければならない。一方、科学者は、自身の最高の理論に対しても非常に懐疑的である。ニュートンの理論は、科学がこれまでに生み出した中で最も強力な理論であるが、ニュートン自身は、遠くの物体がお互いに引き付け合うとは考えていなかった。そのため、どれだけ信念を強めようと、それは知識にはなりえない。実際に、科学的行動の特徴は、自身が最も大切にしている理論に対しても、ある種の懐疑心を持つことである。ある理論に盲目的に傾倒することは、知的な美徳ではなく、知的な犯罪である。<br/><br/>したがって、ある言明は、たとえそれが極めて「もっともらしく」、誰もがそれを信じていたとしても、疑似科学的であるかもしれず、逆にそれが信じられないものであり、誰もそれを信じていなかったとしても、科学的に価値のあるものかもしれない。誰も信じていないどころか、誰も理解していない理論であっても、最高の科学的価値を持つことさえあるのである<ref name="Imre-Lakatos"/>。|ラカトシュ・イムレ|科学と疑似科学}}
科学哲学者と科学者が1世紀以上にわたって研究を続けており、科学的方法の基本的部分についてもある程度の合意がなされているにもかかわらず、科学と疑似科学の境界は論争の的となっており、分析的に決定することは困難である<ref name="Cover_Curd_1998"/><ref name="caL1V">{{harvp|Gauch|2003|pp=3–7}}</ref><ref name="Zcx4A">{{cite book|last=Gordin|first=Michael D.|name-list-style=vanc|article=That a clear line of demarcation has separated science from pseudoscience|editor-last1=Numbers|editor-first1=Ronald L.|editor-last2=Kampourakis|editor-first2=Kostas|title=Newton's Apple and Other Myths about Science|pages=219–25|publisher=Harvard University Press|year=2015|url=https://books.google.com/books?id=pWouCwAAQBAJ&q=newton's+apple+and+other+myths+about+science|isbn=978-0674915473}}</ref>。疑似科学という概念は、ある理論に対して科学的方法が誤って適用されているという理解に基づいているが、大多数の科学哲学者は、異なる分野と人類史の異なる時代においては、異なる種類の方法が適切であると主張している。ラカトシュによると、科学的偉業の典型的記述単位は、孤立した仮説ではなく、「洗練された数学的技術を用いて、例外を消化し、さらには肯定的証拠に変えることができる強力な問題解決の手続き」であるという<ref name="Imre-Lakatos"/>。
{{quote|ポパーにとって、疑似科学とは、帰納法を用いて理論を生み出し、それを検証するために実験を行うだけのものである。ポパーは、理論の科学的地位を決定づけるのは反証可能性であるとしている。歴史的アプローチをとったクーンは、科学者がポパーの規則に従わず、圧倒的なデータでない限り反証を無視する場合があることを認めた。クーンにとって、科学とは、あるパラダイムのうちでパズルを解くことである。ラカトシュは、この論争に終止符を打つことを試み、科学は{{仮リンク|リサーチプログラム|en|Research program}}の中で行われ、その進歩性によって競い合うことを歴史が示していると指摘した。あるプログラムの主導的アイデアは、証拠によって裏付けられる予測を行うという、そのヒューリスティックな考え方によって進化していく可能性がある。ファイヤアーベントは、ラカトシュの例は選択的であり、科学史は科学的方法に普遍的な規則がないことを示しており、科学界に規則を押し付けることは進歩を妨げることになると主張した<ref name="Newbold">{{cite journal|author=Newbold D, Roberts J|title=An analysis of the demarcation problem in science and its application to therapeutic touch theory|journal=International Journal of Nursing Practice|volume=13|issue=6|pages=324–30|year=2007|pmid=18021160|doi=10.1111/j.1440-172X.2007.00646.x}}</ref>。}}
ラウダンは、信頼できる知識と信頼できない知識という、より一般的な区別に焦点を当てることを好み、科学と非科学の区別は[[擬似問題]]であると主張した<ref name="sQqWq">{{cite book|author=Laudan L|author-link=:en:Larry Laudan|veditors=Cohen RS, Laudan L|title=Physics, Philosophy and Psychoanalysis: Essays in Honor of Adolf Grünbaum|series=Boston Studies in the Philosophy of Science|volume=76|year=1983|publisher=D. Reidel|location=Dordrecht|isbn=978-90-277-1533-3|pages=111–27|chapter-url=https://books.google.com/books?id=AEvprSJzv2MC|chapter=The Demise of the Demarcation Problem}}</ref>。
{{quote|ファイヤアーベントは、ラカトシュの見解を、方法論的合理主義に扮した非現実的なアナーキズムとみなしている。ファイヤアーベントの主張は、標準的な方法論の規則に決して従うべきではないというものではなく、むしろ規則を無視することで進歩する場合もあるというものであった。一般的に受容されている規則がない場合は、代わりの説得方法が必要となる。ファイヤアーベントによると、ガリレオは読者を説得するために、文体と修辞法を用いる一方で、ラテン語ではなくイタリア語で執筆し、気質的に既に受け入れられる傾向にある人々に向けて主張を展開したという<ref name="Bird2008"/>。}}
==政治・健康・教育==
===政治的含意===
{{see also|{{仮リンク|科学の政治問題化|en|Politicization of science}}}}
科学と疑似科学の線引き問題は、科学・哲学・政治の領域で議論されている。たとえば、ラカトシュ・イムレは、[[ソビエト共産党]]が[[メンデルの法則]]は疑似科学であると喧伝し、[[ニコライ・ヴァヴィロフ]]などの著名な科学者を含むその支持者を[[グラグ]]に送ったことや、「西洋のリベラルなエスタブリッシュメント」が、疑似科学(特に社会的道徳観に反するもの)とみなしたトピックについて、言論の自由を否定していることを指摘している<ref name="Imre-Lakatos">{{citation|first=Imre|last=Lakatos|name-list-style=vanc|url=http://www2.lse.ac.uk/philosophy/About/lakatos/scienceAndPseudoscience.aspx|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110725130745/http://richmedia.lse.ac.uk/philosophy/2002_LakatosScienceAndPseudoscience128.mp3|archivedate=2011年7月25日|format=mp3|title=Science and Pseudoscience|page=[https://web.archive.org/web/20110728012423/http://www2.lse.ac.uk/philosophy/about/lakatos/scienceAndPseudoscienceTranscript.aspx (archive of transcript)]|no-pp=yes|publisher=The London School of Economics and Political Science, Dept of Philosophy, Logic and Scientific Method|year=1973}}</ref>。
科学を[[イデオロギー]]から切り離すことができないとき、科学者が宣伝や注目を集めるために科学的知見を不正確に伝えるとき、政治家やジャーナリスト、および国家の知的エリートが短期的な政治的利益のために科学的事実を歪曲するとき、あるいは影響力のある個人が言葉を巧みに操り因果関係と相関関係を混同させるとき、何かが疑似科学となる。これらは、[[社会]]における科学の権威・価値・誠実性・独立性を低下させる<ref name="Makgoba">{{cite journal|author=Makgoba MW|title=Politics, the media and science in HIV/AIDS: the peril of pseudoscience|journal=Vaccine|volume=20|issue=15|pages=1899–904|year=2002|pmid=11983241|doi=10.1016/S0264-410X(02)00063-4}}</ref>。
===健康的・教育的含意===
{{see also|根拠に基づく医療}}
科学と疑似科学を区別することは、[[医療]]・[[鑑定人|鑑定]]・[[環境政策学|環境政策]]・[[科学教育]]などの場合は実用的意義を持つ。実際には科学的に検証されていないにもかかわらず、科学的権威があるかのように装われている治療法は、患者にとって効果がなく、高価で危険なものである可能性があり、医療従事者・保険会社・政府の意思決定者・一般市民を混乱させる可能性がある。疑似科学によって推進された主張は、政府関係者や教育者が、カリキュラムを選択する際に誤った判断を下すことにつながる可能性がある{{refn|group=注釈|"From a practical point of view, the distinction is important for decision guidance in both private and public life. Since science is our most reliable source of knowledge in a wide variety of areas, we need to distinguish scientific knowledge from its look-alikes. Due to the high status of science in present-day society, attempts to exaggerate the scientific status of various claims, teachings, and products are common enough to make the demarcation issue serious. For example, creation science may replace evolution in studies of biology."<ref name="Stanford-Demarcations"/>}}。
学生が[[科学リテラシー]]を有しているかどうかは、科学技術の適切な使用に関する、さまざまな社会的・認知的思考スキルを、学生がどの程度、身につけているかによって決定される。科学技術を取り巻く環境の変化や、急速に変化する文化、および知識駆動時代の中で、科学分野の教育は新たな局面を迎えている。学校の科学カリキュラムを改革することは、人間の福祉に対する科学技術の影響力の変化に対処できるように、学生を教育することである。科学リテラシーとは、[[占星術]]などの疑似科学と科学を区別するためのものであり、学生が変化する世界に適応するための特性の一つである。科学リテラシーの特徴は、学生が問題解決、調査の実施、またはプロジェクトの作成に取り組むカリキュラムに組み込まれている<ref name="Hurd">{{cite journal|author=Hurd PD|title=Scientific literacy: New minds for a changing world|journal=Science Education|volume=82|issue=3|pages=407–16|year=1998|doi=10.1002/(SICI)1098-237X(199806)82:3<407::AID-SCE6>3.0.CO;2-G|bibcode=1998SciEd..82..407H}}{{subscription}}</ref>。
フリードマンは、多数の科学者が疑似科学に関する教育を避ける理由として、疑似科学に過度の注意を払うことは、疑似科学に威厳をつけてしまう可能性があると述べている<ref name="A1ktz">{{harvp|Efthimiou|2006|p=4}} – Efthimiou quoting Friedman: "We could dignify pseudoscience by mentioning it at all".</ref>。一方、パークは、疑似科学が社会に対する脅威となりうることを強調し、科学者には科学と疑似科学の見分け方を教える責任があると考えている<ref name="8Eead">{{harvp|Efthimiou|2006|p=4}} – Efthimiou quoting Park: "The more serious threat is to the public, which is not often in a position to judge which claims are real and which are ''voodoo''. ... Those who are fortunate enough to have chosen science as a career have an obligation to ''inform the public about voodoo science''".</ref>。
[[ホメオパシー]]などの疑似科学は、一般的には良心的なものであっても、偽医者に利用されることがある。これは、不適任な施術者が医療を行うことを可能にするため、深刻な問題となる。ホメオパシーの[[イデオロギー]]を妄信している狂信者は、典型的な詐欺師よりも深刻な脅威となる可能性がある。非合理的な医療は無害ではなく、患者に偽医療を信頼させてしまうことは不用心なことである<ref name="Haven">{{cite news|url=http://www.ncahf.org/pp/homeop.html#haven|author=The National Council Against Health Fraud|title=NCAHF Position Paper on Homeopathy|year=1994}}</ref>。
2016年12月8日、ジャーナリストのマイケル・V・レバインは、ウェブサイト「[[Natural News]]」がもたらす危険性を指摘した<ref name="LeVine">{{cite web|last=LeVine|first=Michael|name-list-style=vanc|date=8 December 2016|title=What scientists can teach us about fake news and disinformation|work=[[Business Insider]]|url=http://www.businessinsider.com/scientists-fake-news-and-disinformation-pseudoscience-2016-12|accessdate=15 December 2016|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161210131026/http://www.businessinsider.com/scientists-fake-news-and-disinformation-pseudoscience-2016-12|archivedate=2016年12月10日}}</ref>。
{{quote|胡散臭いセールスマンは、医学の黎明期から偽療法を押し付けてきたが、今日では「Natural News」などのウェブサイトが、危険な反医薬品・反ワクチン・反GMOの疑似科学をソーシャルメディアに氾濫させ、何百万もの人々を予防可能な病気にかかる危険にさらしている。}}
[[ワクチン忌避|反ワクチン]]運動は、小児用ワクチンと[[自閉症スペクトラム障害|自閉症]]の発症を関連付ける疑似科学的研究を引用し、子供にワクチンを接種しないよう多数の親を説得してきた<ref name=":1">{{Cite book|title=Pseudoscience: The Conspiracy Against Science|last1=Kaufman|first1=Allison|last2=Kaufman|first2=James|publisher=MIT Press|year=2017|isbn=978-0262037426|location=Cambridge, MA|pages=239}}</ref>。それには、ASDの子供によく認められる[[消化器疾患]]と{{仮リンク|発達遅滞|en|Developmental regression}}の併発が、ワクチン接種後2周間以内に発生していると主張した[[アンドリュー・ウェイクフィールド]]の研究が含まれる<ref name="XVPKO">{{Cite book|title=Critical Thinking, Science, and Pseudoscience: Why We Can't Trust Our Brains|last1=Lack|first1=Caleb|last2=Rousseau|first2=Jacques|publisher=Springer Publishing Company, LLC|year=2016|isbn=978-0826194190|location=New York|pages=221}}</ref><ref name="FFury">{{Cite book|title=Science and Pseudoscience in Clinical Psychology, Second Edition|last1=Lilienfeld|first1=Scott|last2=Lynn|first2=Steven Jay|last3=Lohr|first3=Jeffrey|publisher=Guilford Publications|year=2014|isbn=978-1462517893|location=New York|pages=435}}</ref>。この研究は、最終的に出版元によって撤回され、ウェイクフィールドは医師免許を剥奪された<ref name=":1"/>。
== 疑似科学とみなされているもの ==
{{複数の問題
|section = 1
|出典の明記 = 2021年7月
|精度 = 2021年7月
|雑多な内容の箇条書き = 2021年7月
}}
{{main|{{仮リンク|疑似科学とみなされているものの一覧|en|List of topics characterized as pseudoscience}}}}
=== 自然科学 ===
; [[クジラ#鯨が食す餌の消費量|鯨食害論]] : 個々に示されるデータが作為的である。
; [[ヘンドリック・シェーン]] : 「フラーレンを用いると、52Kで超伝導を実現できる」「117Kでも実現できる」「分子程度の大きさのトランジスタを作成できる」などとした説、論文群。
; [[ロイヤル・レイモンド・ライフ]]
; [[刺激惹起性多能性獲得細胞|刺激惹起性多能性獲得説]](STAP細胞) : 「動物の分化した細胞に弱酸性溶液に浸すなどの外的刺激を与えることで、再び分化する能力を獲得させることができた」とする説、論文群。
; [[千島学説]]
; [[常温核融合]]
; [[水からの伝言]] : 教材を意見交換するホームページで、道徳の授業での活用が提案され物議をかもした<ref name="水からの伝言の歴史">{{Cite journal |和書 |author=若杉亮平 |date=2014 |title=図書館における疑似科学的資料の扱いについて |url=http://id.nii.ac.jp/1273/00000237/ |journal=北陸学院大学・北陸学院大学短期大学部研究紀要 |issue=7 |pages=289-299}}</ref><ref name="伊勢田11" />。
; 神経神話 : [[ゲーム脳]]、[[脳の10パーセント神話]]など、認められない俗説が発生しないよう神経科学学会が取り組むことを宣言している<ref name="伊勢田11" />。
; [[地震雲]]
=== 社会科学 ===
; [[5匹の猿の実験]] : 猿の社会性にまつわる動物実験。Gary HamelとC. K. Prahaladの著書『Competing For The Future』(1996年)で登場したが著者はソースを提示しなかった。以降、数多くの人物がこの実験について言及しているがこの実験の存在が確認されたことはない<ref>{{Cite web |url=http://www.throwcase.com/2014/12/21/that-five-monkeys-and-a-banana-story-is-rubbish/ |title=That "Five Monkeys Experiment" Never Happened |access-date=2019-08-25 |date=2016 |publisher=THROWCASE}}</ref>。
; [[アドラー心理学]] : [[アルフレッド・アドラー|アドラー]]と交流のあった科学哲学者の[[カール・ポパー]]はアドラーの個人心理学は疑似科学を伴った理論であると批判している。1919年のある時、ポパーは小児患者の症例をアドラーに報告した。しかし、アドラーはその患者を診た事さえないのに、自分の劣等感理論によってその事例を事も無げに分析してみせたという。ポパーによれば、アドラーの個人心理学のように、どんな事例も都合よく解釈でき、[[反証可能性]]の無い理論はニセ科学である。これが[[アインシュタイン]]の[[相対性理論]]のような本物の科学とは異なる点だと言う<ref>{{Cite book |和書 |author=カール・R・ポパー |author-link=カール・ポパー |title=推測と反駁 |pages=60–62}}</ref>。
; [[オーパーツ]]
; [[サイエントロジーと精神医学]]や、その『[[ダイアネティックス]]』の著作
; [[サブリミナル効果]]<ref>{{Cite book |和書 |author=グレイム・ドナルド |title=図説 偽科学・珍学説読本 |year=2013 |publisher=[[原書房]] |chapter=第9章 ポップコーンはいかが? |others=花田和恵訳}}</ref> : 各国の放送倫理規定等で禁止されているが、数多くの検証実験によって殆ど効果は無いとされ、有っても極めて限定的な効果しか立証されていない。
; [[精神分析学]] : 学問とみなされる一方、[[カール・ポパー]]を初め疑似科学に過ぎないとみなしているものも多い。ポパーらの科学哲学者は反証可能性の観点から[[精神分析学]]を疑似科学とし、Grunbaumにいたっては精神分析学は反証可能性をもつ(なぜならそもそも精神分析学は全くの間違いであるから)と批判した。フロイトの治療業績のいくつか([[ヨーゼフ・ブロイアー#アンナ・O|アンナ・O]]の有名な奇跡を含め)捏造であると告発する者もいる (Borch-Jacobsen, 1996{{Full|date=2016年7月}})<ref group="注釈">ただし、精神分析の治療効果を統計的に示す研究も一部にある。たとえば、Nancee Blum, M.S.W., Don St. John, M.A et al. "[http://ajp.psychiatryonline.org/cgi/content/abstract/165/4/468 Systems Training for Emotional Predictability and Problem Solving (STEPPS) for Outpatients With Borderline Personality Disorder: A Randomized Controlled Trial and 1-Year Follow-Up]" ''Am J Psychiatry'' 2008; 165:pp468-478。詳細は[[精神分析学]]を参照。また、現代のアカデミックな心理学まで疑似科学だと誤解しないように注意する必要がある。現代のアカデミックな心理学はおおむね科学的方法を守っている。(フロイトなどの)精神分析学は、心理学の本流ではなく、あくまで傍流である。それについては[[心理学]]の項の「誤解」の節も読むこと。</ref>。
; [[血液型性格分類]] : 1970年代以降ブームを起こし、将来の研究までも否定するものではないが、2000年ごろまでの研究ではABOの血液型と性格との関係に妥当性はないとされており、2005年には放送倫理・番組向上機構からも番組で取り上げないよう勧告が出された<ref>{{Cite journal |和書 |date=2006 |title=疑似性格理論としての血液型性格関連説の多様性 |url=https://doi.org/10.2132/personality.15.33 |journal=パーソナリティ研究 |volume=15 |issue=1 |pages=33-47 |DOI=10.2132/personality.15.33 |doi=10.2132/personality.15.33 |author1=上村晃弘 |author2=サトウタツヤ}}</ref><ref name="meijiLabo">[https://gijika.com/ 疑似科学とされるものを科学的に考える](明治大学科学コミュニケーション研究所)</ref>。
; [[超心理学]]と[[サイ科学]] : 超心理学では実験の再現性という科学の必須条件がおざなりにされているとされる<ref name="超心理学の概要">{{Cite journal |和書 |author=木原英逸 |date=1987 |title=擬似科学の受容を巡る問題 |url=https://doi.org/10.4288/kisoron1954.18.103 |journal=科学基礎論研究 |volume=18 |issue=2 |pages=103-107 |DOI=10.4288/kisoron1954.18.103 |doi=10.4288/kisoron1954.18.103}}</ref>。研究歴は通算120年を超えるが劇的な成果はない<ref name="超心理学2">{{Cite journal |和書 |author=森田邦久 |date=2009 |title=科学と疑似科学を分ける2つの基準 |url=https://doi.org/10.4216/jpssj.42.1_1 |journal=科学哲学 |volume=42 |issue=1 |pages=1-14 |DOI=10.4216/jpssj.42.1_1 |doi=10.4216/jpssj.42.1_1}}</ref>。
=== 応用科学 ===
通常医療(西洋医学)にも疑似科学が混入することがあるのは知られている。世間に広く知れ渡っている医学的俗説の中には、医学的な正当性がないにも拘らず医師がこれを信奉しているものもあるため、不適切な医療行為の原因になる恐れが指摘されている<ref>[http://www.bmj.com/cgi/content/short/335/7633/1288 R. C. Vreeman and A. E. Carroll, Medical myths], [[ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル|BMJ]], 335 (2007), 1288-1289.</ref>。
(以下の項目は一部の応用が「似非科学」であるものを含む。例えばゲルマニウム自体や半導体としての利用は似非科学ではないが、一部の応用例が該当する。)
; [[ゲルマニウム]] : 身に着けるゲルマニウムが健康にいいと言われたが、国民生活センターがテストするなど公的機関が対処した例<ref name="伊勢田11" />。菊池誠は、飲むゲルマニウムにはまじめな研究もあるが、身につけることには根拠がないとした<ref name="ニセ科学に気をつけよう">{{Cite web|和書|url=https://imidas.jp/jijikaitai/k-40-047-09-08-g328 |title=ニセ科学に気をつけよう 科学的根拠を考えるということ |access-date=2018-08-03 |author=菊池誠 |date=2009-08-28 |publisher=imidas}}</ref><ref name="meijiLabo" />。[[ゲルマニウム温浴]]も参照。
; [[ディオバン事件]] : 「バルサルタン(商品名ディオバン)というノバルティスファーマが販売していた降圧剤は他の降圧剤に比べて脳卒中の割合等を大きく下げる」とする説、論文。
; [[デトックス]]<ref name="meijiLabo" /> : 松永和紀によれば、一部は医療行為だが、そうでないものに根拠はないとされる<ref name="公論松永">{{Cite journal |和書 |author=松永和紀 |date=2015-12 |title=氾濫する怪しい健康情報 疑似科学を担ぐ医師と科学者たち |journal=中央公論 |volume=129 |issue=12 |pages=117-123}}</ref>。
; [[ヒアルロン酸]]と[[コラーゲン]]<ref name="meijiLabo" />
; [[ホメオパシー]] : 疑似科学の検証で頻繁に登場するトピックで[[偽薬]]の効果しかないとされ、2010年には通常の医療を回避したことによって死亡事故が起こり、日本学術会議が見解を示す事態となった<ref>{{Cite journal |和書 |author=平野直子 |date=2011-03-10 |title=代替療法とリスクのコミュニケーション : ホメオパシーに関するメディア報道を事例として |url=https://hdl.handle.net/2065/36111 |journal=ソシオロジカル・ペーパーズ |volume=20 |pages=33-50}}</ref><ref name="meijiLabo" />。[[バッチフラワー]](フラワーエッセンス)はその関連。
; [[マイナスイオン]] : [[松永和紀]]による[[科学ジャーナリスト賞]]2008を受賞した『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』<ref>{{Cite web|和書|url=https://jastj.jp/jastj_prize/prize2008/ |title=科学ジャーナリスト賞2008 |access-date=2018-07-30 |publisher=日本科学技術ジャーナリスト会議}}</ref>によれば、2000年以降にテレビや雑誌で取り上げられたが、2000年末には安井至が自身のサイトや新聞などで科学的迷信とし、2002年には研究者と安井の公開討論が企画された<ref>松永和紀『メディアバイアス』光文社、2007年。pp.171-180.</ref><ref name="meijiLabo" />。
; [[有用微生物群]](EM菌) : 2018年、日本国の環境相はEM菌について、「これまで、効果があるとの科学的な検証を承知していない」と否定的な考えを示した<ref>{{Cite news |title=EM菌:効果「承知していない」 環境相、否定的考え示す - 毎日新聞 |newspaper=毎日新聞 |url=https://mainichi.jp/articles/20181016/k00/00e/040/287000c |access-date=2018-10-27 |language=ja-JP |work=毎日新聞}}</ref><ref name="meijiLabo" />。
; [[血液サラサラ]] : 上坂伸宏は「詐欺事件となった静止画による判定は論外だが、マイクロチャネル法もまだ15%の誤差があり、定量化的な測定法も2005年に提唱されているので発展が望まれる」と述べている<ref>{{Cite journal |和書 |author=上坂伸宏 |date=2008-09-01 |title=赤血球膜のしなやかさ(変形能)に関する研究の変遷と展望 : "血液サラサラ・ドロドロの誤謬"も考慮して |url=https://doi.org/10.5360/membrane.33.208 |journal=膜 |volume=33 |issue=5 |pages=208-214 |DOI=10.5360/membrane.33.208 |doi=10.5360/membrane.33.208}}</ref>。
; [[親学推進協会|親学]] : [[テレビ]]を見せないなどの「伝統的子育て」により([[先天性]]であるはずの)[[発達障害]]が予防可能と主張する<ref>{{Cite news |title=「親学」考 非科学と時代錯誤の家族観 推進議連に閣僚ずらり |date=2015-12-20 |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2014090602000154.html |access-date=2014-09-06 |publisher=[[東京新聞]]}}</ref>。
; [[酵素栄養学]] : 松永和紀は批判側であり、[[酵素]]を食べても消化されて分解されてしまうと主張する<ref name="公論松永" />。一般には消化酵素剤は医薬品として、体内の消化酵素不足による消化器・皮膚、血流といった症状の改善を目的とする<ref>{{Cite web|和書|url=https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/drugdic/article/556e7e5c83815011bdcf82c0.html |title=消化酵素製剤解説 処方薬辞典 |access-date=2018-07-26 |publisher=日経メディカル}}</ref>。
; [[酸性食品とアルカリ性食品]] : 日本では1980年代に疑問視されたが、その後日本国外で酸塩基負荷の指標PRALを用いた研究が開始され、その動向から栄養学教育に必要な知識に返り咲いた<ref>{{Cite journal |和書 |author=錦見盛光 |date=2014 |title=「酸性食品」・「アルカリ性食品」再考 |url=https://doi.org/10.20632/vso.88.5-6_283 |journal=ビタミン |volume=88 |issue=5 |pages=283 |DOI=10.20632/vso.88.5-6_283 |doi=10.20632/vso.88.5-6_283}}</ref>。
; [[霊氣]]
; [[人体冷凍保存]]<ref name="jk">{{Cite news |title=Mainstream science is frosty over keeping the dead on ice |newspaper=[[Chicago Tribune]] |date=29 September 2002 |author=Steinbeck RL |url=https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-2002-09-29-0209290429-story.html |access-date=2019-07-17 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190717153237/https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-2002-09-29-0209290429-story.html |archive-date=2019-07-17 |url-status=live}}</ref>
; {{仮リンク|MMRワクチン捏造論文事件|en|MMR vaccine and autism}} : 腸疾患・自閉症・三種混合ワクチンが関連した新しい病気「自閉症的全腸炎(autistic enterocolitis)」があるとした説。
; {{仮リンク|ベル・ギブソン|en|Belle Gibson}} : [[有機農業]]で生産された食品のみを摂取することによって末期がんを克服したと称していたオーストラリア人女性。 ''The Whole Pantry'' なる著作や自身のSNSアカウントで“がんを克服した”メニューを紹介し、噂を聞き付けたアップルがこれをアプリ化して新製品である[[Apple Watch]]の目玉の一つにしようとしたり、真に受けた世界中のがん患者が病院での治療を中止して症状が悪化する等の騒動を引き起こした。後に、ジャーナリストの調査によりギブソンはがんなどに罹患したことがないと証明され、詐欺容疑で収監された。
; {{仮リンク|量子医学|en|Quantum healing}} : 量子力学的な現象が健康や福祉に影響を与えるとする理論。[[粒子と波動の二重性]]や[[仮想粒子]]を含む様々な量子力学の概念や、より一般的にはエネルギーや[[波動 (オカルト)|波動(バイブレーション)]]などの関係性を仄めかす、様々な派生形が数多く存在する<ref>{{Cite web |url=http://spiritualnutrition.org/quantum-healing-vibrations |title=Quantum Healing: Transforming Who You Are - Spiritual Life Coaching |access-date=2012-12-15 |author=Alexander Dunlop |publisher=Spiritualnutrition.org |archive-url=https://web.archive.org/web/20121229175240/http://spiritualnutrition.org/quantum-healing-vibrations |archive-date=2012-12-29 |url-status=dead}}</ref>。現代の物理学に対する意図的な誤解について批判がなされている<ref>{{Cite web |url=http://blogs.wsj.com/speakeasy/2012/02/20/why-quantum-theory-is-so-misunderstood/ |title=Why Quantum Theory Is So Misunderstood - Speakeasy - WSJ |access-date=2012-12-15 |last=Cox |first=Brian |date=2012-02-20 |publisher=Blogs.wsj.com}}</ref>。特に(人体や個々の細胞などの)巨視的な対象は量子干渉や波動関数の崩壊などの量子物性を本質的に見せるにはあまりにも巨大すぎるという事実が問題となっている。
; {{仮リンク|虹彩学|en|Iridology}} : [[虹彩]]を疾病の分析に利用しようとする考え方<ref>{{Cite web |url=http://skepdic.com/iridol.html |title=iridology |access-date=2022-09-29 |publisher=The Skeptics Dictionary}}</ref>。1000人を超える人々から撮った4000枚以上の虹彩を用いた1957年から行われたドイツの研究では、分析方法として有用ではないとの結論に至った<ref>{{Cite book |author=Kibler, Max |title=Wert und Unwert der Irisdiagnose |date=1957 |publisher=Hippocrates |location=Stuttgart, Germany |author2=Sterzing, Ludwig |oclc=14682831}}</ref>。
=== 宗教的信念 ===
; [[創造論]]・[[創造科学]]・[[インテリジェント・デザイン]] : 神や知的設計者が人間を作ったとして進化論を批判し、欧米で活発に議論されている<ref name="伊勢田11">{{Cite journal |和書 |author=伊勢田哲治 |date=2011 |title=疑似科学をめぐる科学者の倫理 |url=http://rci.nanzan-u.ac.jp/ISE/ja/publication/se25/25-10iseda.pdf |journal=社会と倫理 |issue=25 |pages=101-119 |format=pdf}}</ref>。
=== マーティン・ガードナー ===
以下は、[[マーティン・ガードナー]]が著書『奇妙な論理』(1952年)で言及したものである<ref name="MartinG_book">{{Cite book |和書 |author=マーティン・ガードナー |author-link=マーティン・ガードナー |title=だまされやすさの研究 |series=奇妙な論理 |date=2003 |publisher=早川書房 |isbn=978-4-15-050272-0 |translator=市場 泰男 |volume=1 |origyear=1952 |oclc=939452951 |trans-title=In the Name of Science}}</ref>:
{{columns-list|column-width=30em|
* [[地球空洞説]]・[[地球平面説]]
* [[彗星]]・[[隕石]]などによる[[天変地異]]
**[[イマヌエル・ヴェリコフスキー]]の『[[衝突する宇宙]]』
**[[宇宙氷理論]]
* [[チャールズ・フォート]]と[http://www.forteana.org/index.html フォート協会]
* [[未確認飛行物体|UFO]]
*[[アルフレッド・ウィリアム・ローソン]]の[http://www.lawsonomy.org/ ローソノミー]
* 反[[ニュートン力学]]・反[[相対性理論]]
* [[反重力|重力制御・重力遮断]]
* [[ダウジング]]
* [[生命]]の[[自然発生説]]と生命の人工的生成
** 生命の[[彗星飛来説]]
* [[ルイセンコ論争|ルイセンコ主義]]
* [[人種差別]]の「科学的」根拠([[人種主義]])
* 海に沈んだ超大陸
**[[アトランティス]]大陸
**[[ムー大陸]]
**[[レムリア]]大陸
* [[ピラミッドパワー]]と[[数秘術]]
* 代替医療(の一部)
** [[ホメオパシー]]
** 自然療法(naturopacy)
** [[整骨]]療法
** [[カイロプラクティック]]
* [[偽医療]]と偽医療装置
**[[ラジオニクス]]
**[[ゲオルギイ・グルジエフ]]のムーヴメンツや[[アレイスター・クロウリー]]の[[オカルティズム]]
**[[エドガー・ケイシー]]の健康法
* [[フードファディズム]]・偽食事療法
** [[断食]]療法
** [[フレッチャー主義]](ひたすらよく噛んで食べる)
** [[合食禁]]
** 反[[牛乳]]主義
**[[菜食主義]]
**[[有機農業]]
* [[視力矯正]]
**[[ウィリアム・ホレイショ・ベーツ]]の近視矯正術
* 性に関するある種の理論
** 男女の産み分け<ref group="注釈">1950年代のガードナーの時代はともかくとして、現代では日本の慶応義塾大学の医学研究者などによって、排卵周期と確率分布の変動を利用して、ある程度の確度で産み分けられる科学的方法は見出されている。ガードナーの本は70年前に書かれた古い本であることに注意</ref>
** 強精剤と回春剤
** [[優生学]]
* [[オルゴン]]理論
* [[一般意味論]]・[[心理劇]](これについてはガードナーも判断を保留している)
* [[ダイアネティックス]](現在の[[サイエントロジー]]教会)
* ある種の性格判断
** [[骨相学]]
** [[筆跡学]]
** [[手相]]術
** [[ジョゼフ・バンクス・ライン]]が行った超能力研究<ref group="注釈">ただし、J.B.ラインの研究に関しては、彼は大変まじめな人で、その仕事は軽視できないほど注意深くまた巧妙に企画されており、本書のような「かけ足の検討」ではなくて、もっとはるかに真剣な扱いを受けるだけの値打がある、と述べている。人々の関心を集めているから取り上げたのだとガードナーは述べた。(pp.246-247)</ref>
* [[永久機関]]
* 盲目の人が指で文字をなぞって字を読む。
* 超能力を教育する機械
* [[ユリ・ゲラー]]と超物理学
}}
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Reflist|group="注釈"|20em}}
===出典===
{{Reflist|20em}}
===参考文献===
{{refbegin|32em}}
* {{cite web|url=https://www.smithsonianmag.com/history/the-fox-sisters-and-the-rap-on-spiritualism-99663697/|last=Abbot|first=K.|date=October 30, 2012|title=The Fox Sisters and the Rap on Spiritualism|work= Smithsonian.com|accessdate=2021-07-17}}
* {{cite book|last1=Andrews|first1=James Pettit|author-link=:en:James Pettit Andrews|last2=Henry|first2=Robert|name-list-style=vanc|author-link2=Robert Henry (minister)|year=1796|title=History of Great Britain, from the death of Henry VIII to the accession of James VI of Scotland to the crown of England|volume=II|publisher=T. Cadell and W. Davies|location=London|url=https://books.google.com/books?id=QIUUAAAAQAAJ&q=%22pseudo-science%22&pg=PA87|ref=harv}}
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==関連文献==
===和書===
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* {{cite book|title=Philosophy of Pseudoscience: Reconsidering the Demarcation Problem|last1=Pigliucci|first1=Massimo|author-link1=Massimo Pigliucci|last2=Boudry|first2=Maarten|name-list-style=vanc|author-link2=Maarten Boudry|location=Chicago|publisher=University of Chicago Press|year=2013|isbn=978-0-226-05196-3}}
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* {{cite book|year=1994|author=Wolpert, Lewis|s2cid=44724752|author-link=:en:Lewis Wolpert|title=The Unnatural Nature of Science|journal=Lancet|volume=341|issue=8840|page=310|publisher=[[:en:Harvard University Press|Harvard University Press]]|url=https://books.google.com/books?id=67Mr-fhfZmQC|isbn=978-0-6749-2981-4|pmid=8093949|doi=10.1016/0140-6736(93)92665-g}} First published 1992 by Faber & Faber, London.
{{refend}}
==関連項目==
* {{仮リンク|非科学|en|Non-science}}
* {{仮リンク|反科学|en|Antiscience}}
* [[境界科学]]
* [[病的科学]]
* [[超心理学]]
* [[プロトサイエンス]]
* {{仮リンク|ジャンク・サイエンス|en|Junk science}}
* [[ニセ医学]] - [[偽医療]] - [[民間療法]] - [[代替医療]]
* [[ファクトイド]]
* [[フェイクロア]]
* [[科学における不正行為]]
* {{仮リンク|疑似科学とみなされているものの一覧|en|List of topics characterized as pseudoscience}}
===疑似科学批判===
* [[サイコップ]]
* [[Japan Skeptics]]
* [[と学会]] - [[トンデモ本#概要|トンデモ本]]
* [[カール・セーガン]]
* [[安斎育郎]]
* [[大槻義彦]]
* [[天羽優子]]
* [[田崎晴明]]
==外部リンク==
* [http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_nyumon.html 「ニセ科学」入門] - 菊池誠
* [http://www.genpaku.org/skepticj/ The Skeptic's Dictionary 日本語版]
*[https://gijika.com/ 疑似科学とされるものを科学的に考える | Gijika.com] - [[明治大学]]科学コミュニケーション研究所
<!--* [http://www.sciencecomlabo.jp/ 疑似科学とされるものの科学性評定サイト] 疑問が呈されているため[[Wikipedia:外部リンクの選び方]]の基準の中立的な観点に疑問がある:[[石川幹人#疑似科学評定サイト]]-->
* {{SEP|pseudo-science|Science and Pseudo-Science|科学と疑似科学}}
{{SkepDic|pseudosc|pseudoscience}}([http://www.genpaku.org/skepticj/pseudosc.html 日本語訳版])
* [http://www.glycine-max.com/~mame/doc/SKEP_FAQ/skeptic.html sci.skeptic FAQ]{{Languageicon|en|英語}}
* [http://www.findarticles.com/cf_0/m2843/mag.jhtml Skeptical Inquirer](主要記事の検索付き全文公開){{Languageicon|en|英語}}
* [http://chronicle.com/free/v49/i21/21b02001.htm The Seven Warning Signs of Bogus Science]{{Languageicon|en|英語}}
* [http://www.tcm.phy.cam.ac.uk/~bdj10/psi.html ブライアン・ジョセフソン教授の超心理学]{{Languageicon|en|英語}}
* [http://www.skepdic.com/ The Skeptic's Dictionary]{{Languageicon|en|英語}}
{{科学哲学}}
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[[Category:疑似科学|*]]
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6,443 | プトレマイオス | プトレマイオス(古代ギリシア語: Πτολεμαῖος、ラテン文字転記:Ptolemaios)は、ギリシア人に見られる男性名。ラテン語: Ptolemaeus より「プトレマエウス」「プトレマイウス」、英語: Ptolemy [ˈtɒləmi] より「トレミー」とも呼ばれる。 | [
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== 歴史上の人物 ==
; 王侯
* [[プトレマイオス朝]][[古代エジプト|エジプト]]の王
** [[プトレマイオス1世]] - [[アレクサンドロス3世]](大王)の部下であった[[マケドニア王国|マケドニア]]出身のギリシア人。
** [[プトレマイオス2世]] - 上の子、ピラデルポス。
** [[プトレマイオス3世]] - エウエルゲテス。
** [[プトレマイオス4世]] - 上の子 フィロパトル。
** [[プトレマイオス5世]] - エピファネス。
<!-- ** [[プトレマイオス6世]] 解除は記事作成後に -->
<!-- ** [[プトレマイオス7世]] 解除は記事作成後に -->
<!-- ** [[プトレマイオス8世]] 解除は記事作成後に -->
** [[プトレマイオス9世]] - ソテル2世またはラテュロス。
** [[プトレマイオス10世]] - アレクサンドロス1世。
** [[プトレマイオス11世]] - アレクサンドロス2世。
** [[プトレマイオス12世]] - アウレテス。
** [[プトレマイオス13世]]
<!-- ** [[プトレマイオス14世]] 解除は記事作成後に -->
** [[プトレマイオス15世]] - カエサリオン。
* その他の王侯
** アロロスのプトレマイオス - [[紀元前4世紀]]前半のマケドニア王。
** [[プトレマイオス・ケラウノス]] - プトレマイオス1世の子で、[[紀元前3世紀]]前半のマケドニアの王。
** [[プトレマイオス (エピロス王)]] - 紀元前3世紀後半の[[エピロス王]]。
** {{仮リンク|プトレマイオス (ピュロスの子)|en|Ptolemy (son of Pyrrhus)}} - エピロス王[[ピュロス]](1世)の子。
* [[プトレマイオス (アンティゴノスの甥)]] - [[ディアドコイ戦争]]において上述のプトレマイオス1世と戦った[[アンティゴノス1世]]の甥。
; その他
* [[クラウディオス・プトレマイオス]] - ギリシアの天文学者、地理学者。
** [[プトレマイオス図]]
** [[プトレマイオスの王名表]]
<!-- ** [[プトレマイオス (小惑星)]] 解除は記事作成後に -->
<!-- ** [[プトレマイオス (火星のクレーター)]] 解除は記事作成後に -->
<!-- ** [[プトレマイオス (月のクレーター)]] 解除は記事作成後に -->
* [[グノーシス主義#西方|プトレマイオス (キリスト教)]] - [[2世紀]]頃のキリスト教[[グノーシス主義]]者内で勢力を誇ったヴァレンチヌス派(ウァレンティノス派)の有力者。ヴァレンチヌスの弟子。詳細な経歴は不明で殉教したという説もある。
* [[プトレマイオス・ヘパイスティオン]] - 1世紀から2世紀頃の古代ギリシアの文法学者、著述家。
* [[プトレマイオス (セレウコスの子)]]
* [[プトレマイオス (キュプロス王)]]
== ギリシア神話 ==
* [[プトレマイオス (ギリシア神話)]] - [[テーバイ]]の王。
== サブカルチャー ==
* [[ガンダムシリーズ一覧|ガンダムシリーズ]]関連
** [[機動戦士ガンダム00シリーズの登場兵器#プトレマイオス]] - 『[[機動戦士ガンダム00]]』に登場する宇宙輸送艦。
** [[コズミック・イラの施設#プトレマイオス]] - 『[[機動戦士ガンダムSEED]]』に登場する軍事施設。
== その他 ==
* [[プトレマイオス (小惑星)]]
== 関連項目 ==
* [[トレミー]]
{{人名の曖昧さ回避}}
{{DEFAULTSORT:ふとれまいおす}}
[[Category:ギリシャ語の男性名]] | null | 2021-08-13T14:53:25Z | false | false | false | [
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6,444 | 将棋界 | 将棋界()、棋界()は、将棋をめぐって、プロの棋士やアマチュア選手、将棋ファン(愛棋家)、業界関係者などで構成する社会領域。日本将棋連盟がその総本山である。
将棋のプロは、次の2つに大別される。
また、女流棋士は、次の3つに分かれている。
過去に、北尾まどかが2009年6月15日にLPSAを退会して「フリーの女流棋士」、次いで「日本将棋連盟の客員女流棋士」となり、2011年4月1日に日本将棋連盟所属の女流棋士に復帰した例がある。「日本将棋連盟の客員女流棋士」の該当者は北尾のみ。北尾まどか#棋歴を参照。
女性が新進棋士奨励会に入会して棋士を目指す例もあるが、今日まで四段昇段に至ったものはなく、女性の「棋士」は誕生していない。よって、女流棋士との区別をわかりやすくする意味で、棋士のことを「男性棋士」と呼ぶことがある。
プロが出場する将棋の大会は総じて棋戦と呼ばれる。将棋のプロ棋戦には、タイトル戦と、タイトル戦以外の一般棋戦(「優勝棋戦」などとも呼ばれる)があり、いずれも1年周期で行われる。タイトル戦に優勝すると1年間にわたりその称号(タイトル)を名乗ることができ、翌年に行われる同じタイトル戦では決勝戦までシードされる(これを挑戦手合制と呼ぶ)。タイトルを保持することは単に名誉であるだけでなく、様々な特権的待遇が付随する。また長期的に見れば、棋士としての実績はタイトルを何回獲得したかによって評価されることが多いため、タイトル獲得数は将棋界におけるステータスに直結する。したがって多くの棋士はタイトルの獲得を目標に据えて日々の対局をこなしている。
現在タイトル戦は竜王戦・名人戦・叡王戦・王位戦・王座戦・棋王戦・王将戦・棋聖戦の8つが行われている。名人戦の予選には順位戦という名前がついており、この順位戦を除く7つのタイトル戦には棋士全員が参加する(順位戦にもほとんどの棋士が参加する)。中には棋士以外でも出場できるものがあり、竜王戦・叡王戦・棋王戦には女流棋士とアマチュアの両方、王位戦・王座戦・棋聖戦には女流棋士の出場枠がある。竜王戦には奨励会員の出場枠もある。
一般棋戦の中には全棋士が参加するもの(朝日杯将棋オープン、銀河戦、NHK杯の3棋戦)もあるが、出場条件が限られたものがある。将棋日本シリーズのプロ公式戦は選抜されたトップ棋士のみで行われる棋戦であり、新人王戦・YAMADAチャレンジ杯・加古川青流戦の3棋戦は若手棋士もしくは低段の棋士のみで行われる棋戦である。これら一般棋戦はタイトル戦とは異なり、前年優勝者であっても当年の出場は保障されず、出場できたとしてもトーナメント戦を再び勝ち上がる必要がある。一般棋戦にもタイトル戦と同様に、アマチュアの出場枠、女流棋士の出場枠、奨励会員の出場枠が設けられているものがある。
女性のみ参加できる棋戦は女流棋戦と呼ばれ、7つの女流タイトル戦(清麗戦・マイナビ女子オープン・女流王座戦・女流名人戦・女流王位戦・女流王将戦・倉敷藤花戦)と1つの女流一般棋戦(YAMADA女流チャレンジ杯)がある。女流タイトルを獲得することは、それ自体が女流棋士にとっての大きな目標であるとともに、前述した8大タイトル戦に女流棋士枠から出場する上で非常に有利な実績となる。女流棋戦の中には、女流棋士以外の女性も参加できるものがあり、実際に女性奨励会員が女流タイトルを獲得した事例が複数ある。アマチュアの出場枠が設けられている女流棋戦もあり、女流王座戦のように申し込めば誰でも参加できるものもある。
8つのタイトル戦の中でも、竜王戦と名人戦は特に重要視される。竜王戦の賞金額は将棋の棋戦としては最高額であり、タイトル序列は1位である。一方、名人戦はタイトル序列こそ2位であるが、タイトル戦として最も長い歴史を誇り、またタイトル戦が生まれる前からの「名人位」の歴史も非常に長い。これらの事情から、竜王位と名人位は数あるタイトルの中でも棋士たちが特に憧れるタイトルであって、竜王戦・名人戦の両タイトル戦は将棋界の内外から熱い注目を注がれる一大イベントでもある。
竜王戦と名人戦が特に意識される理由はもう一つある。それは、各棋士の直近の成績をもとに全棋士を序列化・階層化し、現在の実力を端的に示す指標を作っていることである。竜王戦は全ての現役棋士を7つの階層(1組〜6組および竜王)に分け、竜王を頂点とする階層構造を形成している。名人戦の予選である「順位戦」もまた、現役棋士を大きく7つの階層に分け、さらにこのうちA級からC級2組までの5階層についてリーグ戦を行い一人一人に順位を付していく。昇段することはあっても降段することはない「段位」の制度とは異なり、竜王戦・順位戦のクラスは毎年入れ替えが行われるため、各棋士の実力の変化(成長と衰退)が反映されやすくなっている。したがって各棋士の在籍クラスは、それ自体が将棋界におけるステータスであり、日本将棋連盟公式ウェブサイトの棋士プロフィールページ上部に記載されるほか、一部棋戦のシード条件としても利用されている。
さらに順位戦における成績は、棋士生命の存否にも関わる。成績不振のためにフリークラスに一定年数在籍した棋士は、規定による引退を余儀無くされる。また、60歳以上の高齢棋士がC級2組から陥落した際にも、規定による引退が決定する。逆に、順位戦でC級2組以上に在籍し続ける限りは、(竜王戦をはじめとする)他棋戦での成績が全く振るわなくても棋士引退にまで追い込まれることはない。
竜王戦の予選は、竜王在位者を除く全棋士が1組から6組のいずれかに振り分けられ、どの組からでも竜王に挑戦できるチャンスがあるため、新人棋士から高齢棋士まで誰もが挑戦のチャンスを持つ。10月にプロ入りしたばかりの新四段の棋士でも、翌年に竜王位を奪取すればデビューからわずか14〜15ヶ月で竜王となる可能性がある(竜王ドリームと呼ばれる)。一方、名人戦の挑戦者となることができるのは定員が10しかないA級において1位となった者のみである。新しくプロになった棋士はC級2組(もしくはフリークラス)に在籍することになっており、しかも飛び昇級の制度はないため、名人への挑戦権を得るまでには、プロ入り後最低でも5年かかる(これは8つのタイトル戦の中で群を抜いて長い)。
棋士の収入の主軸は、棋戦に参加して対局することにより支払われる対局料と、棋戦に優勝ないし準優勝することにより支払われる賞金である。この他にも日本将棋連盟の役職に対する報酬、タイトル戦などの立会に対する手当などがあり、個人によってはこれらの他に将棋関連イベント(大盤解説会等)やテレビ番組・インターネット番組への出演、指導対局、将棋道場や将棋教室の経営、棋書やエッセイ等の執筆活動、将棋関連漫画・映画等の監修などによる収入をあげる者もいるが、棋士はそもそも自由業であり、自ら確定申告を行っているため、対局に紐づかない収入は連盟も関知していない。
獲得賞金と対局料の合計額による棋士のランキングは、毎年「獲得賞金・対局料ベスト10」(2001年から2011年分はベスト20)として、翌年2月頃に日本将棋連盟から発表される。4月から3月の「年度区切り」ではなく、1月から12月までの(暦年)集計である。なお集計のタイミングは「実際に賞金が支払われる時期」を基準とするため、竜王戦(のタイトル戦)のように「対局は年末、賞金の支払いは年明け」となる場合、ランキングでは翌年の集計に反映される。
タイトルホルダー、棋戦優勝者に加えて順位戦A級の棋士が上位となる傾向が強い。また竜王戦は賞金額が高く、竜王保持者はもちろんのこと、タイトル戦の敗者も賞金が1,650万円と高額であることから上位になりやすい。
このランキングは、翌年のいくつかの棋戦への出場権に関係する。「将棋日本シリーズ」では2006年に出場枠の規定が変更され、獲得賞金・対局料ランキングでの順位が出場権に反映されるようになった(従来は、順位戦の順位)。また、2007年から2012年まで行われた「大和証券杯ネット将棋・最強戦」の出場権も、このランキングに関係していた。
以前は、対局料とは別に順位戦のクラスによって決まる基本給もあった。基本給は名人が最も高く、A級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組と下がる毎に、1つ上位の7割前後が基本給となっていた。また、棋士は厚生年金に加入していた。
2011年3月4日に日本将棋連盟が公益社団法人化されると、基本給は原則廃止され、対局料・賞金、そして将棋普及活動への報酬に回された。また、夏と冬の特別手当(賞与)も廃止され、厚生年金も脱退した。基本給、賞与、厚生年金保険料負担は、公益社団法人において禁止事項とされる「特別の利益供与」に該当するためである。しかし、多くの棋戦はトーナメント方式なのに対し、リーグ戦方式で対局数が保証されている順位戦の対局料は、今なお基本給としての性質を持ち合わせている。また、各棋戦ごとに参稼報償金が設定されており、現在は基本給に代わるものとして支給されている。
序・中盤の少しの差が勝負に直結することの多いプロの将棋においては、先手が有利、後手が不利なものであるとされてきた。実際、日本将棋連盟が公式戦の統計を取り始めた1967年度以降、41年連続で先手番が後手番に勝ち越していた。象徴的なのは、羽生善治が初タイトル(竜王)を獲得した1989年度に、先手番での勝率が9割を超えたことである(29勝2敗で0.935)。また、「相矢倉は微差ながらも先手有利」という見解が大勢を占め始めた2000年頃から、谷川浩司は後手番のときにあまり矢倉を指さなくなった。
ところが、2008年度は初めて後手番が先手番に勝ち越し、それまでのプロ棋界の常識が覆った。これは、勝率が低かった後手番における普通の振り飛車が減った事や、4手目△3三角戦法の流行、ゴキゲン中飛車と横歩取り△8五飛戦法の好調、および後手番一手損角換わりの大流行、など複合的な要因があったとされる。
しかし、翌年以降は再び先手番の勝ち越しが続いている。これらの統計は全プロ棋士を対象としたものであり、上位棋士どうしの対局や持ち時間の長い対局だけに限れば、技術と時間の面で先手の利を活かしやすいため、さらに先手の勝率は上昇する。なお、2020年代のコンピュータ将棋は、棋力がプロ棋士を遥かに上回っており、先手の勝率が70%以上に達した大会の例があるなど、先手の勝率が高すぎることが問題になりつつある。
「将棋のアマチュア棋戦」を参照。
コンピュータ将棋の力は年々高まり、プロ棋士もコンピュータ将棋を研究に用いるようになった。2015年ごろには現役トッププロですら一部の対策が効く場合があるのを除けば惨敗を喫するレベルに至り、2017年にはponanzaが第2期電王戦において当時の名人であった佐藤天彦に2連勝した。
毎年3月初旬頃の、A級順位戦の最終局(5局が同日に開催される)が行われる日を、俗に「将棋界の一番長い日」と呼ぶ。
一年度(厳密には6月開幕なので、約9ヶ月強)かけて行われたA級順位戦リーグの最終日であり、名人挑戦者と2名の降級者が確定する可能性が高い(既に挑戦者や降級者が決まっていることもある)ことや、大山康晴・中原誠など現役晩年の名人経験者の陥落がかかっている場合は「負けたら引退か」という状況になることもあるため、プロ棋士をはじめとする将棋界からの注目が高くなる。
なお、クラス内の順位が絡む昇級や降級とは異なり、名人挑戦者だけは純粋に勝敗数のみで決められるため、この最終一斉対局で決着がつかず、プレーオフに持ち込まれる場合がある。特に2018年の第76期順位戦は史上最多の6者によるプレーオフとなったため、実際の決着は3週間後となって、「将棋界の一番長い日」ならぬ「将棋界の一番長い月」となった。
当日はNHK BSプレミアム(2011年まではNHK衛星第2テレビジョン<BS2>)で中継が行われていたが、2013年はスカパー!の囲碁・将棋チャンネル、BSスカパー!、スカチャンに移譲して、全対局の完全ノーカット実況が実施された。同年から2019年にかけて(2015年を除く)はニコニコ生放送、2017年からはABEMA将棋チャンネルでも全対局の完全生中継が行われている。
最終局は通常の対局同様に東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われていたが、2014年(平成26年)の第72期で初めて東京を離れ、静岡市葵区の浮月楼で対局が実施された。その後も2023年(令和5年)の第81期まで継続して行われ、A級順位戦最終局は浮月楼での開催が定着した。
2014年、2018年、2019年には「名人戦第0局」という別称が冠せられたが、2020年には外された。 | [
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"text": "将棋界()、棋界()は、将棋をめぐって、プロの棋士やアマチュア選手、将棋ファン(愛棋家)、業界関係者などで構成する社会領域。日本将棋連盟がその総本山である。",
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"text": "将棋のプロは、次の2つに大別される。",
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"text": "過去に、北尾まどかが2009年6月15日にLPSAを退会して「フリーの女流棋士」、次いで「日本将棋連盟の客員女流棋士」となり、2011年4月1日に日本将棋連盟所属の女流棋士に復帰した例がある。「日本将棋連盟の客員女流棋士」の該当者は北尾のみ。北尾まどか#棋歴を参照。",
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"text": "女性が新進棋士奨励会に入会して棋士を目指す例もあるが、今日まで四段昇段に至ったものはなく、女性の「棋士」は誕生していない。よって、女流棋士との区別をわかりやすくする意味で、棋士のことを「男性棋士」と呼ぶことがある。",
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"text": "プロが出場する将棋の大会は総じて棋戦と呼ばれる。将棋のプロ棋戦には、タイトル戦と、タイトル戦以外の一般棋戦(「優勝棋戦」などとも呼ばれる)があり、いずれも1年周期で行われる。タイトル戦に優勝すると1年間にわたりその称号(タイトル)を名乗ることができ、翌年に行われる同じタイトル戦では決勝戦までシードされる(これを挑戦手合制と呼ぶ)。タイトルを保持することは単に名誉であるだけでなく、様々な特権的待遇が付随する。また長期的に見れば、棋士としての実績はタイトルを何回獲得したかによって評価されることが多いため、タイトル獲得数は将棋界におけるステータスに直結する。したがって多くの棋士はタイトルの獲得を目標に据えて日々の対局をこなしている。",
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"text": "現在タイトル戦は竜王戦・名人戦・叡王戦・王位戦・王座戦・棋王戦・王将戦・棋聖戦の8つが行われている。名人戦の予選には順位戦という名前がついており、この順位戦を除く7つのタイトル戦には棋士全員が参加する(順位戦にもほとんどの棋士が参加する)。中には棋士以外でも出場できるものがあり、竜王戦・叡王戦・棋王戦には女流棋士とアマチュアの両方、王位戦・王座戦・棋聖戦には女流棋士の出場枠がある。竜王戦には奨励会員の出場枠もある。",
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] | 将棋界、棋界は、将棋をめぐって、プロの棋士やアマチュア選手、将棋ファン(愛棋家)、業界関係者などで構成する社会領域。日本将棋連盟がその総本山である。 | {{独自研究|date=2016年5月14日 (土) 07:16 (UTC)}}
{{将棋ヘッダ}}
{{読み仮名|'''将棋界'''|しょうぎかい}}、{{読み仮名|'''棋界'''|きかい}}は、[[将棋]]をめぐって、プロの[[棋士 (将棋)|棋士]]やアマチュア選手、将棋ファン(愛棋家)、業界関係者などで構成する社会領域。[[日本将棋連盟]]がその[[総本山]]である。
==プロ将棋界==
===プロ棋士===
{{Main2|詳細は「[[棋士 (将棋)]]」「[[女流棋士 (将棋)]]」を、一覧については「[[将棋棋士一覧]]」「[[将棋の女流棋士一覧]]」を}}
将棋のプロは、次の2つに大別される。
:1. 棋士(日本将棋連盟の四段から九段)
::原則として[[新進棋士奨励会]](通称:奨励会)で所定の成績を収めて四段昇段した者。ただし、2006年よりアマチュア・女流棋士としてプロ公式戦で所定の成績を収めた上で、編入試験に合格することで四段編入が認められるようになった<ref group="注">現制度の編入該当者は[[今泉健司]]と[[折田翔吾]]。現制度以前にもプロ編入試験の合格者として[[花村元司]]と[[瀬川晶司]]がいる。現行の編入試験は、瀬川の一件をきっかけに制定された。同時に、奨励会初段・三段編入試験も設けられた。</ref>。
::棋士のうち、現役の棋士は160名ほどである。<ref group="注">この他に引退棋士が60名ほど存命中である。引退した後も、日本将棋連盟を退会しない限りは棋士としての身分を保持し続けることができ、解説や指導、立会人(審判)などの仕事を続ける者も多い。ただし、引退後はプロ棋戦に出場することもアマチュア大会に出場することもできない。</ref>
:2. 女流棋士(女流2級から女流七段)
::現役は、60から70名程度である。
また、女流棋士は、次の3つに分かれている。
:a. 日本将棋連盟所属の女流棋士
:b. [[日本女子プロ将棋協会]](LPSA)所属の女流棋士
:c. フリーの女流棋士(2023年現在、フリーの女流棋士は[[中井広恵]]のみ)
過去に、[[北尾まどか]]が2009年6月15日にLPSAを退会して「フリーの女流棋士」、次いで「日本将棋連盟の客員女流棋士」となり、2011年4月1日に日本将棋連盟所属の女流棋士に復帰した例がある。「日本将棋連盟の客員女流棋士」の該当者は北尾のみ。[[北尾まどか#棋歴]]を参照。
女性が新進棋士奨励会に入会して棋士を目指す例もあるが、今日まで四段昇段に至ったものはなく、女性の「棋士」は誕生していない<ref group="注">新進棋士奨励会における女性の段級位としては[[里見香奈]]、[[西山朋佳]]、[[中七海]]の三段が最高。</ref>。よって、女流棋士との区別をわかりやすくする意味で、棋士のことを「男性棋士」と呼ぶことがある。
=== 棋戦 ===
{{Main2|詳細については「[[棋戦 (将棋)]]」を、歴代タイトル獲得者については「[[将棋のタイトル在位者一覧]]」「[[将棋の女流タイトル在位者一覧]]」を}}
プロが出場する将棋の大会は総じて棋戦と呼ばれる。将棋のプロ棋戦には、タイトル戦と、タイトル戦以外の一般棋戦(「優勝棋戦」などとも呼ばれる)<ref group="注">囲碁界では、将棋界の一般棋戦に相当する棋戦での優勝も「タイトル」と呼ぶ。それゆえ、将棋界のタイトル戦に相当する棋戦を「七大タイトル戦」と呼ぶ([[棋聖 (囲碁)|棋聖戦 (囲碁)]]、[[名人 (囲碁)|名人戦 (囲碁)]]、[[本因坊戦]]、[[十段 (囲碁)|十段戦 (囲碁)]]、[[王座 (囲碁)|王座戦 (囲碁)]]、[[天元戦]]、[[碁聖|碁聖戦]])。</ref>があり、いずれも1年周期で行われる<ref group="注">ただし、[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]や[[早指し将棋選手権]]は、過去1年に2度行われていた。</ref>。タイトル戦に優勝すると1年間にわたりその称号(タイトル)を名乗ることができ、翌年に行われる同じタイトル戦では決勝戦までシードされる(これを[[挑戦手合制]]と呼ぶ)。タイトルを保持することは単に名誉であるだけでなく、様々な特権的待遇が付随する<ref group="注">具体的には、他棋戦でのシード権の付与、解説イベントでの出演料や指導対局料金の増額などである。</ref>。また長期的に見れば、棋士としての実績はタイトルを何回獲得したかによって評価されることが多いため、タイトル獲得数は将棋界におけるステータスに直結する。したがって多くの棋士はタイトルの獲得を目標に据えて日々の対局をこなしている。
現在タイトル戦は[[竜王戦]]・[[名人戦 (将棋)|名人戦]]・[[叡王戦]]・[[王位戦 (将棋)|王位戦]]・[[王座戦 (将棋)|王座戦]]・[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]・[[王将戦]]・[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]の8つが行われている。名人戦の予選には[[順位戦]]という名前がついており、この順位戦を除く7つのタイトル戦には棋士全員が参加する(順位戦にもほとんどの棋士が参加する)。中には棋士以外でも出場できるものがあり、竜王戦・叡王戦・棋王戦には女流棋士とアマチュアの両方、王位戦・王座戦・棋聖戦には女流棋士の出場枠がある。竜王戦には奨励会員の出場枠もある。
一般棋戦の中には全棋士が参加するもの([[朝日杯将棋オープン]]、[[銀河戦]]、[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]]の3棋戦)もあるが、出場条件が限られたものがある。[[将棋日本シリーズ]]のプロ公式戦は選抜されたトップ棋士のみで行われる棋戦であり、[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]・[[YAMADAチャレンジ杯]]・[[加古川青流戦]]の3棋戦は若手棋士もしくは低段の棋士のみで行われる棋戦である。これら一般棋戦はタイトル戦とは異なり、前年優勝者であっても当年の出場は保障されず<ref group="注">年齢や段位などが出場条件を満たさなくなった場合は出場できない。また、奨励会員やアマチュアの場合、たとえ前年優勝者であっても当年の出場が保障されているわけではない。</ref>、出場できたとしてもトーナメント戦を再び勝ち上がる必要がある<ref group="注">かつては挑戦手合制を取る一般棋戦も存在したが、現在は存在しない。</ref>。一般棋戦にもタイトル戦と同様に、アマチュアの出場枠、女流棋士の出場枠、奨励会員の出場枠が設けられているものがある。
女性のみ参加できる棋戦は女流棋戦と呼ばれ、7つの女流タイトル戦([[清麗戦]]・[[マイナビ女子オープン]]・[[女流王座戦]]・[[女流名人戦 (将棋)|女流名人戦]]・[[女流王位戦]]・[[女流王将戦]]・[[倉敷藤花戦]])と1つの女流一般棋戦([[YAMADA女流チャレンジ杯]])がある。女流タイトルを獲得することは、それ自体が女流棋士にとっての大きな目標であるとともに、前述した8大タイトル戦に女流棋士枠から出場する上で非常に有利な実績となる<ref group="注">棋王戦や王位戦のように、特定の女流タイトル戦での実績を要件とする棋戦もある。</ref>。女流棋戦の中には、女流棋士以外の女性も参加できるものがあり、実際に女性奨励会員が女流タイトルを獲得した事例が複数ある<ref group="注">ただし、女流棋士ではない女性奨励会員が「女流棋士」枠から出場することを認めるか否かは棋戦による。竜王戦、叡王戦は認めているが、王位戦は認めていない。</ref>。アマチュアの出場枠が設けられている女流棋戦もあり、女流王座戦のように申し込めば誰でも参加できるものもある。
{{棋戦 (将棋)}}
=== 竜王戦と名人戦(順位戦) ===
{{Main2|詳細については「[[将棋の段級]]」「[[竜王戦]]」「[[順位戦]]」「[[名人戦 (将棋)]]」「[[名人 (将棋)]]」を、現役の棋士の竜王戦・順位戦のクラスは「[[将棋棋士の在籍クラス]]」を}}
8つのタイトル戦の中でも、[[竜王戦]]と[[名人戦 (将棋)|名人戦]]は特に重要視される。竜王戦の賞金額は将棋の棋戦としては最高額であり、タイトル序列は1位である。一方、名人戦はタイトル序列こそ2位であるが、タイトル戦として最も長い歴史を誇り、またタイトル戦が生まれる前からの「名人位」の歴史も非常に長い。これらの事情から、竜王位と名人位は数あるタイトルの中でも棋士たちが特に憧れるタイトルであって、竜王戦・名人戦の両タイトル戦は将棋界の内外から熱い注目を注がれる一大イベントでもある。
竜王戦と名人戦が特に意識される理由はもう一つある。それは、各棋士の直近の成績をもとに全棋士を序列化・階層化し、現在の実力を端的に示す指標を作っていることである。竜王戦は全ての現役棋士を7つの階層(1組〜6組および竜王)に分け、竜王を頂点とする階層構造を形成している。名人戦の予選である「順位戦」もまた、現役棋士を大きく7つの階層<ref group="注">名人(定員1名)、A級(原則・定員10名)、B級1組(同・定員13名)、B級2組、C級1組、C級2組、フリークラスの計7階層</ref>に分け、さらにこのうちA級からC級2組までの5階層についてリーグ戦を行い一人一人に順位を付していく。昇段することはあっても降段することはない「段位」の制度とは異なり、竜王戦・順位戦のクラスは毎年入れ替えが行われる<ref group="注">どちらの棋戦も昇降級は原則として1つずつであるが、竜王戦に限っては七番勝負の敗者が(たとえ3組以下からの挑戦者であっても)次期の1組に入るため、竜王挑戦を決めれば飛び昇級が可能である。</ref>ため、各棋士の実力の変化(成長と衰退)が反映されやすくなっている。したがって各棋士の在籍クラスは、それ自体が将棋界におけるステータスであり、日本将棋連盟公式ウェブサイトの棋士プロフィールページ上部に記載される<ref group="注">各棋士の'''現在の'''在籍クラスや保有タイトルは上部に表示される一方、各棋士が'''過去に'''獲得したタイトル等の履歴は下部に掲載される。([https://www.shogi.or.jp/player/pro/235.html 例])</ref>ほか、一部棋戦のシード条件としても利用されている<ref group="注">棋王戦、銀河戦など。</ref>。
さらに順位戦における成績は、棋士生命の存否にも関わる。成績不振のためにフリークラスに一定年数在籍した棋士は、規定による引退を余儀無くされる。また、60歳以上の高齢棋士がC級2組から陥落した際にも、規定による引退が決定する。逆に、順位戦でC級2組以上に在籍し続ける限りは、(竜王戦をはじめとする)他棋戦での成績が全く振るわなくても棋士引退にまで追い込まれることはない。
竜王戦の予選は、竜王在位者を除く全棋士が1組から6組のいずれかに振り分けられ、どの組からでも竜王に挑戦できるチャンスがある<ref group="注">ただし上位の組ほど挑戦権を得やすいシステムになっている。</ref>ため、新人棋士から高齢棋士まで誰もが挑戦のチャンスを持つ。10月にプロ入りしたばかりの新四段の棋士でも、翌年に竜王位を奪取すればデビューからわずか14〜15ヶ月で竜王となる可能性がある([[竜王戦#エピソード|竜王ドリーム]]と呼ばれる)<ref group="注">制度上はアマチュアや奨励会員にも竜王獲得の可能性があるため、プロデビュー前に竜王となることも不可能ではない。</ref>。一方、名人戦の挑戦者となることができるのは定員が10しかないA級において1位となった者のみである。新しくプロになった棋士はC級2組(もしくはフリークラス)に在籍することになっており、しかも飛び昇級の制度はないため、名人への挑戦権を得るまでには、プロ入り後最低でも5年かかる(これは8つのタイトル戦の中で群を抜いて長い)。
=== 獲得賞金と対局料 ===
棋士の収入の主軸は、棋戦に参加して対局することにより支払われる対局料と、棋戦に優勝ないし準優勝することにより支払われる賞金<ref group="注">竜王戦のように、予選トーナメントの優勝・準優勝者にも賞金が支払われる棋戦がある。</ref>である。この他にも日本将棋連盟の役職に対する報酬、タイトル戦などの立会に対する手当などがあり、個人によってはこれらの他に将棋関連イベント(大盤解説会等)やテレビ番組・インターネット番組への出演<ref group="注">テレビ出演の多い者は芸能事務所に所属しているため、出演依頼は将棋連盟を介さず行われる。</ref>、指導対局、将棋道場や将棋教室の経営、棋書やエッセイ等の執筆活動、将棋関連漫画・映画等の監修などによる収入をあげる者もいるが、棋士はそもそも自由業であり、自ら確定申告を行っているため、対局に紐づかない収入は連盟も関知していない。
獲得賞金と対局料の合計額による棋士のランキングは、毎年「獲得賞金・対局料ベスト10」(2001年から2011年分はベスト20)として、翌年2月頃に日本将棋連盟から発表される。4月から3月の「年度区切り」ではなく、1月から12月までの(暦年)集計である。なお集計のタイミングは「実際に賞金が支払われる時期」を基準とするため、竜王戦(のタイトル戦)のように「対局は年末、賞金の支払いは年明け」となる場合、ランキングでは翌年の集計に反映される<ref group="注">2019年現在、棋士が参加する公式棋戦のうち12月に決勝が行われるのは竜王戦のみであるが、一般棋戦時代の叡王戦(第1期・第2期)は12月に決勝三番勝負を行なっていた。</ref>。
タイトルホルダー、棋戦優勝者に加えて順位戦A級の棋士が上位となる傾向が強い。また竜王戦は賞金額が高く、竜王保持者はもちろんのこと、タイトル戦の敗者も賞金が1,650万円<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/ryuuou/rules.html|title=竜王ランキング戦・決勝トーナメントについて|竜王戦|棋戦|日本将棋連盟|accessdate=2020-07-21|publisher=[[日本将棋連盟]]}}</ref>と高額であることから上位になりやすい。
このランキングは、翌年のいくつかの棋戦への出場権に関係する。「[[将棋日本シリーズ]]」では2006年に出場枠の規定が変更され、獲得賞金・対局料ランキングでの順位が出場権に反映されるようになった(従来は、順位戦の順位)。また、2007年から2012年まで行われた「[[大和証券杯ネット将棋・最強戦]]」の出場権も、このランキングに関係していた。
以前は、対局料とは別に順位戦のクラスによって決まる基本給もあった。基本給は名人が最も高く、A級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組と下がる毎に、1つ上位の7割前後が基本給となっていた<ref group="注">棋士には日本将棋連盟の職員として給料が支払われたが、女流棋士の場合は給料はなかった。また、順位戦から外れたフリークラスの棋士も給料はなかった。</ref>。また、棋士は[[厚生年金]]に加入していた。
2011年3月4日に日本将棋連盟が[[公益社団法人]]化されると、基本給は原則廃止され、対局料・賞金、そして将棋普及活動への報酬に回された。また、夏と冬の特別手当([[賞与]])も廃止され、厚生年金も脱退した。基本給、賞与、厚生年金保険料負担は、公益社団法人において禁止事項とされる「特別の利益供与」に該当するためである<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=418AC0000000049 |title=公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律(平成十八年法律第四十九号)|publisher=e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 |date=2014-6-13 |quote=2016年4月1日施行分|accessdate=2019-12-27}}</ref>。しかし、多くの棋戦は[[トーナメント方式]]なのに対し、[[リーグ戦]]方式で対局数が保証されている順位戦の対局料は、今なお基本給としての性質を持ち合わせている。また、各棋戦ごとに参稼報償金が設定されており、現在は基本給に代わるものとして支給されている<ref>[http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-12d5.html 2011年6月 1日 (水) 日本将棋連盟が公益社団法人となった経過とコメントへの返事] - 「田丸昇のと金 横歩き」[[田丸昇]]</ref><ref>[http://tamarunoboru.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-b430.html 2014年10月21日 (火) 将棋界の引退制度に関するコメント、囲碁界との比較、引退後の収入] - 「田丸昇のと金 横歩き」田丸昇</ref>。
;獲得賞金・対局料ベスト10/20
{| border="1" class="wikitable" style="font-size:89%"
|
*単位は、万円。
*竜王戦は12月に終了するが就位式が翌年のため獲得賞金の反映も翌年となる。
*2001年から2011年分はベスト20として発表されていた。
*ベスト10以内に入ったものは、その前年の順位と獲得額も合わせて発表される。
*上記2点の事情のため、本表では前年に20位圏内に入っていた場合も反映している。
*色付きは、当年1月 - 12月のタイトル獲得(奪取または防衛)を表す。タイトル2つ以上獲得は<span style="background-color:#ff6699">濃い色</span>、1つ獲得は<span style="background-color: #ffcccc;">薄い色</span>。
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:80%;white-space:nowrap;"
|-
|年||1位||2位||3位||4位||5位||6位||7位||8位||9位||10位||11位||12位||13位||14位||15位||16位||17位||18位||19位||20位||備考
|-
|2022
|style="background-color:#ff6699"|[[藤井聡太|藤井聡]]<br />12205
|style="background-color:#ff6699"|[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]<br />7063
|[[豊島将之|豊島]]<br />5071
|style="background-color:#ffcccc"|[[永瀬拓矢|永瀬]]<br />4668
|[[斎藤慎太郎|斎藤慎]]<br />2362
|[[広瀬章人|広瀬]]<br />2166
|[[菅井竜也|菅井]]<br />1970
|[[佐藤天彦|佐藤天]]<br />1819
|[[山崎隆之|山崎]]<br />1770
|[[稲葉陽|稲葉]]<br />1580
|[[羽生善治|羽生]]
|[[糸谷哲郎|糸谷]]
|[[高見泰地|高見]] || || || || || || ||
|<ref>{{Cite web|和書|title=2022年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2023/02/202210.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20230203060730/https://www.shogi.or.jp/news/2023/02/202210.html |archive-date=2023-02-03 |date=2023-02-03|accessdate=2023-2-3|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref><ref>「将棋世界」2023年9月号 p185より。『高見が賞金ランキングで次点だったという』</ref>
|-
|2021||style="background-color:#ff6699"|渡辺明<br />8194||豊島<br />8145||style="background-color:#ff6699"|藤井聡<br />6996||style="background-color:#ffcccc"|永瀬<br />4821||羽生<br />3236||斎藤慎<br />2567||[[木村一基|木村一]]<br />2245||糸谷<br />1876||稲葉<br />1703||菅井<br />1674||
|
|山崎<br />1498
|佐藤天<br />1479
|広瀬<br />1392
| || || || || ||<ref>{{Cite web|和書|title=2021年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/02/202110.html|website=|date=2022-02-03|accessdate=2022-2-3|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2020||style="background-color:#ff6699"|豊島<br />10645||style="background-color:#ff6699"|渡辺明<br />8043||style="background-color:#ffcccc"|永瀬<br />4621||style="background-color:#ff6699"|藤井聡<br />4554||広瀬<br />3241||羽生<br />2491||[[久保利明|久保]]<br />2421||木村一<br />2338||[[丸山忠久|丸山]]<br />1926||[[千田翔太|千田]]<br />1692||糸谷<br />1502|| ||菅井<br />1445||稲葉<br />1395|| ||斎藤慎<br />1338|| || || || ||<ref>{{Cite web|和書|title=2020年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/202010.html|website=|date=2021-02-05|accessdate=2021-2-5|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2019|| style="background-color:#ff6699" |豊島<br />7157||広瀬<br />6984|| style="background-color:#ff6699" |渡辺明<br />6514|| style="background-color:#ff6699" |永瀬<br />4678||羽生<br />3999||佐藤天<br />3687|| style="background-color:#ffcccc" |木村一<br />3209||久保<br />2178||藤井聡<br />2108||斎藤慎<br />1868|| ||
|| || || || || || || || ||align="left"|豊島竜王名人<ref>{{Cite web|和書|title=2019年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2020/02/201910.html|website=|date=2020-02-03|accessdate=2020-03-18|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2018||羽生<br />7552|| style="background-color:#ffcccc" |佐藤天<br />5999|| style="background-color:#ffcccc" |渡辺明<br />5119|| style="background-color:#ff6699" |豊島<br />4722|| style="background-color:#ffcccc" |広瀬<br />2802|| style="background-color:#ffcccc" |[[高見泰地|高見]]<br />2636|| style="background-color:#ffcccc" |久保<br />2598|| style="background-color:#ffcccc" |斎藤慎<br />2393||菅井<br />2193||[[深浦康市|深浦]]<br />2189||
|藤井聡<br />2031
| || || || || ||永瀬<br />1382|| || ||<ref>{{Cite web|和書|title=羽生善治九段が2年ぶり1位 2018年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2019/02/201810.html|website=|date=2019-02-07|accessdate=2019-02-08|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190208093302/https://www.shogi.or.jp/news/2019/02/201810.html|archivedate=2019-2-8}}</ref>
|-
|2017|| style="background-color:#ffcccc" |渡辺明<br />7534|| style="background-color:#ffcccc" |佐藤天<br />7255|| style="background-color:#ff6699" |羽生<br />5070|| style="background-color:#ffcccc" |久保<br />3019||丸山<br />2908||稲葉<br />2801|| style="background-color:#ffcccc" |菅井<br />2363|| style="background-color:#ffcccc" |[[中村太地 (棋士)|中村太]]<br />2144||[[松尾歩|松尾]]<br />1985||[[佐藤康光|佐藤康]]<br />1967|| ||豊島<br />1795||斎藤慎<br />1699|| || || || ||広瀬<br />1499||深浦<br />1359|| ||<ref>{{Cite web|和書|title=2017年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2018/02/201710.html|website=|date=2018-02-06|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2016|| style="background-color:#ff6699" |羽生<br />9150|| style="background-color:#ff6699" |渡辺明<br />7390|| style="background-color:#ffcccc" |佐藤天<br />5722||糸谷<br />3543||山崎<br />3206|| style="background-color:#ffcccc" |[[郷田真隆|郷田]]<br />3185||豊島<br />2492||丸山<br />2210||[[三浦弘行|三浦]]<br />1997||深浦<br />1849|| ||久保<br />1665|| ||佐藤康<br />1602|| || || || ||稲葉<br />1423|| |||<ref>{{Cite web|和書|title=2016年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2017/02/201610.html|website=|date=2017-02-03|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2015|| style="background-color:#ff6699" |羽生<br />11900||糸谷<br />5531|| style="background-color: #ff6699;" |渡辺明<br />4577||[[森内俊之|森内]]<br />3450||[[行方尚史|行方]]<br />2689||佐藤天<br />2616|| style="background-color:#ffcccc" |郷田<br />2467||豊島<br />2459||深浦<br />2373||広瀬<br />2042|| ||三浦<br />1989|| || || || ||山崎<br />1346|| || || ||<ref>{{Cite web|和書|title=2015年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/02/201510.html|website=|date=2016-02-05|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2014||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11499||森内<br/>8374||style="background-color: #ff6699;"|渡辺明<br/>6684||郷田<br/>2340||豊島<br/>2160||行方<br/>2090||三浦<br/>2089||深浦<br/>1720||佐藤康<br/>1643||木村一<br/>1634||||style="background-color:#ffcccc"|糸谷<br/>1563||||||広瀬<br/>1356||||||||||||<ref>{{Cite web|和書|title=2014年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2015/02/201410.html|website=|date=2015-02-03|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2013||style="background-color:#ff6699"|渡辺明<br/>10255||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>7281||style="background-color: #ff6699;"|森内<br/>5503||郷田<br/>3453||丸山<br/>2912||佐藤康<br/>2720||行方<br/>1821||[[谷川浩司|谷川]]<br/>1818||久保<br/>1788||三浦<br/>1633||||||||||豊島<br/>1179||深浦<br/>1149||||||木村一<br/>1037||||align="left"|森内竜王名人<ref>{{Cite web|和書|title=2013年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2014/02/201310.html|website=|date=2014-02-07|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2012||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>9175||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>7197||style="background-color: #ffcccc;"|森内<br/>5317||丸山<br/>3409||久保<br/>3233||style="background-color:#ffcccc"|郷田<br/>2597||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>2505||深浦<br/>2100||[[藤井猛]]<br/>1705||山崎<br/>1643||||三浦<br/>1413||||||||||||||||||<ref>{{Cite web|和書|title=2012年獲得賞金・対局料ベスト10|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2013/02/201210.html|website=|date=2013-02-18|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2011||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>9886||style="background-color:#ff6699"|渡辺明<br/>8365||style="background-color:#ff6699"|久保<br/>4659||style="background-color: #ffcccc;"|森内<br/>3371||丸山<br/>2643||深浦<br/>2145||木村一<br/>2052||広瀬<br/>2005||佐藤康<br/>1920||郷田<br/>1679||三浦<br/>1650||[[橋本崇載|橋本崇]]<br/>1498||山崎<br/>1405||[[屋敷伸之|屋敷]]<br/>1333||豊島<br/>1286||谷川<br/>1220||佐藤天<br/>1148||藤井猛<br/>1107||[[高橋道雄|高橋]]<br/>1088||糸谷<br/>1035||<ref>{{Cite web|和書|title=2011年獲得賞金・対局料ベスト20|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2012/02/201120.html|website=|date=2012-02-16|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2010||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11576||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>6240||style="background-color:#ff6699"|久保<br/>4829||森内<br/>3270||深浦<br/>3173||佐藤康<br/>3018||三浦<br/>2850||藤井猛<br/>2410||丸山<br/>2372||style="background-color:#ffcccc"|広瀬<br/>2136||谷川<br/>1925||郷田<br/>1602||山崎<br/>1426||木村一<br/>1342||松尾<br/>1235||[[阿久津主税|阿久津]]<br/>1230||高橋<br/>1229||[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大]]<br/>1122||屋敷<br/>1075||[[井上慶太|井上慶]]<br/>1035||<ref>{{Cite web|和書|title=2010年獲得賞金・対局料ベスト20|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2011/02/201020.html|website=|date=2011-02-16|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2009||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11278||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>5605||style="background-color:#ffcccc"|深浦<br/>4864||style="background-color:#ffcccc"|久保<br/>3341||木村一<br/>2942||森内<br/>2728||佐藤康<br/>2688||郷田<br/>2632||阿久津<br/>2570||山崎<br/>2271||谷川<br/>2187||丸山<br/>1755||三浦<br/>1598||藤井猛<br/>1438||井上慶<br/>1337||高橋<br/>1257||[[森下卓|森下]]<br/>1250||鈴木大<br/>1206||行方<br/>1156||松尾<br/>1061||<ref>{{Cite web|和書|title=2009年獲得賞金・対局料ベスト20|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2010/03/200920.html|website=|date=2010-03-05|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2008||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>10711||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>6252||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>6082||森内<br/>3782||style="background-color:#ffcccc"|深浦<br/>3497||木村一<br/>2958||丸山<br/>2544||久保<br/>2402||行方<br/>2068||郷田<br/>1994||鈴木大<br/>1840||森下<br/>1799||谷川<br/>1657||三浦<br/>1502||山崎<br/>1439||[[島朗|島]]<br/>1392||阿久津<br/>1382||藤井猛<br/>1376||[[阿部隆]]<br/>1257||高橋<br/>1202||<ref>{{Cite web|和書|title=2008年獲得賞金・対局料ベスト20|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2009/03/post_87.html|website=|date=2009-03-02|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2007||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>8132||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>8032||style="background-color:#ff6699"|佐藤康<br/>7927||style="background-color:#ffcccc"|森内<br/>6721||style="background-color:#ffcccc"|深浦<br/>3392||郷田<br/>2994||久保<br/>2680||木村一<br/>2384||谷川<br/>2350||丸山<br/>1953||森下<br/>1885||阿久津<br/>1700||鈴木大<br/>1585||藤井猛<br/>1522||三浦<br/>1433||阿部隆<br/>1332||島<br/>1248||[[中原誠|中原]]<br/>1235||高橋<br/>1122||行方<br/>1098||<ref>{{Cite web|和書|title=2007年獲得賞金・対局料ベスト20|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2008/03/post_114.html|website=|date=2008-03-01|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2006||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>9376||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>7576||style="background-color:#ff6699"|森内<br/>6536||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>5654||谷川<br/>3205||丸山<br/>3116||藤井猛<br/>2506||鈴木大<br/>2277||郷田<br/>2159||森下<br/>1989||木村一<br/>1925||深浦<br/>1864||三浦<br/>1587||久保<br/>1485||島<br/>1301||阿部隆<br/>1295||井上慶<br/>1233||高橋<br/>1226||中原<br/>1170||[[先崎学|先崎]]<br/>1152||<ref>{{Cite web|和書|title=2006年獲得賞金・対局料ベスト20|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2007/03/200620.html|website=|date=2007-03-01|accessdate=2021-03-03|publisher=[[日本将棋連盟]]|}}</ref>
|-
|2005||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>10391||style="background-color:#ffcccc"|森内<br/>7117||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>6194||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>5040||谷川<br/>2844||三浦<br/>2637||山崎<br/>2299||木村一<br/>2286||藤井猛<br/>1981||深浦<br/>1954||郷田<br/>1934||丸山<br/>1898||森下<br/>1622||久保<br/>1595||鈴木大<br/>1479||阿部隆<br/>1372||先崎<br/>1356||[[中村修 (棋士)|中村修]]<br/>1334||島<br/>1327||中原<br/>1220||
|-
|2004||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11272||style="background-color:#ff6699"|森内<br/>10833||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>4673||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>4051||丸山<br/>2785||style="background-color:#ffcccc"|渡辺明<br/>2442||久保<br/>2407||深浦<br/>2384||森下<br/>1785||三浦<br/>1772||先崎<br/>1728||鈴木大<br/>1553||藤井猛<br/>1512||中原<br/>1468||郷田<br/>1456||高橋<br/>1422||山崎<br/>1327||屋敷<br/>1294||島<br/>1220||[[神谷広志|神谷]]<br/>1213||align="left"|森内竜王名人
|-
|2003||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>12910||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>5709||style="background-color:#ffcccc"|森内<br/>5269||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>4291||style="background-color:#ffcccc"|丸山<br/>3745||深浦<br/>3330||三浦<br/>2105||阿部隆<br/>2049||中原<br/>1850||久保<br/>1818||[[青野照市|青野]]<br/>1750||島<br/>1696||郷田<br/>1655||藤井猛<br/>1572||森下<br/>1550||[[堀口一史座|堀口一]]<br/>1488||渡辺明<br/>1472||木村一<br/>1459||中村修<br/>1395||鈴木大<br/>1389||align="left"|羽生竜王名人
|-
|2002||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11048||style="background-color:#ff6699"|佐藤康<br/>5788||style="background-color:#ffcccc"|森内<br/>4872||丸山<br/>4405||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>4231||藤井猛<br/>3417||郷田<br/>2851||堀口一<br/>2631||阿部隆<br/>2563||森下<br/>2371||中原<br/>1773||木村一<br/>1666||[[杉本昌隆|杉本昌]]<br/>1575||青野<br/>1536||島<br/>1516||[[南芳一|南]]<br/>1480||高橋<br/>1450||三浦<br/>1390||[[中田宏樹|中田宏]]<br/>1365||[[田中寅彦|田中寅]]<br/>1337||
|-
|2001||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11519||藤井猛<br/>5823||style="background-color:#ffcccc"|丸山<br/>5727||谷川<br/>4846||森内<br/>3992||style="background-color:#ffcccc"|郷田<br/>3274||佐藤康<br/>2567||久保<br/>2440||中原<br/>1881||森下<br/>1818||木村一<br/>1730||高橋<br/>1705||中村修<br/>1673||井上慶<br/>1471||[[加藤一二三|加藤一]]<br/>1427||屋敷<br/>1419||南<br/>1399||田中寅<br/>1386||青野<br/>1385||深浦<br/>1367||
|-
|2000||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>10595||谷川<br/>6739||style="background-color:#ffcccc"|藤井猛<br/>6503||佐藤康<br/>4744||style="background-color:#ffcccc"|丸山<br/>4137||森内<br/>2729||中原<br/>2427||鈴木大<br/>2160||郷田<br/>2086||森下<br/>1882||青野<br/>1695||加藤一<br/>1652||||田中寅<br/>1609||南<br/>1565||高橋<br/>1423||||井上慶<br/>1356||||||
|-
|1999||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>7872||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>6769||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>6355||style="background-color:#ffcccc"|藤井猛<br/>6146||丸山<br/>5228||郷田<br/>3801||森内<br/>3138||中原<br/>2377||森下<br/>2144||島<br/>2071||||||||||||||||||||||
|-
|1998||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11466||谷川<br/>9539||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>5737||style="background-color:#ffcccc"|郷田<br/>4078||屋敷<br/>2937||style="background-color:#ffcccc"|藤井猛<br/>2705||中原<br/>2408||森内<br/>2352||南<br/>2186||丸山<br/>2059||||||||||||||||||||||
|-
|1997||style="background-color:#ff6699"|谷川<br/>11762||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>10182||style="background-color:#ffcccc"|屋敷<br/>3555||中原<br/>3156||森下<br/>3148||佐藤康<br/>2651||森内<br/>2594||島<br/>2307||[[真田圭一|真田]]<br/>1997||高橋<br/>1924||||||||||||||||||郷田<br/>1488||||align="left"|谷川竜王名人
|-
|1996||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>16145||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>5069||森内<br/>3398||高橋<br/>3111||佐藤康<br/>3104||屋敷<br/>2789||[[米長邦雄|米長]]<br/>2502||中原<br/>2487||島<br/>2482||style="background-color:#ffcccc"|三浦<br/>2178||||||||||||||||||||||align="left"|羽生六冠→七冠<br/>→五冠
|-
|1995||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>16597||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>5402||中原<br/>4309||森下<br/>3410||佐藤康<br/>3372||米長<br/>2591||[[有吉道夫|有吉]]<br/>2068||郷田<br/>1980||高橋<br/>1966||[[森雞二|森雞]]<br/>1905||||||||||||||||||||||
|-
|1994||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>11297||佐藤康<br/>5513||米長<br/>4732||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>4359||中原<br/>3058||南<br/>2512||阿部隆<br/>2478||高橋<br/>2231||郷田<br/>1972||加藤一<br/>1958||||||||||||||||||||||
|-
|1993||style="background-color:#ff6699"|羽生<br/>10063||style="background-color:#ffcccc"|谷川<br/>5650||style="background-color:#ffcccc"|米長<br/>4876||中原<br/>4739||森内<br/>2297||style="background-color:#ffcccc"|佐藤康<br/>2191||南<br/>2168||深浦<br/>2109||郷田<br/>1970||[[塚田泰明|塚田泰]]<br/>1925||||||||||||||||||||||align="left" nowrap|羽生が初めて1位
|}
===将棋は先手が有利か===
序・中盤の少しの差が勝負に直結することの多いプロの将棋においては、先手が有利、後手が不利なものであるとされてきた<ref group="注">例えば、「[[将棋世界]]」2006年9月号で[[片上大輔]]が「将棋は先手有利なゲーム」と述べている。</ref>。実際、日本将棋連盟が公式戦の統計を取り始めた1967年度以降、41年連続で先手番が後手番に勝ち越していた。象徴的なのは、[[羽生善治]]が初タイトル(竜王)を獲得した1989年度に、先手番での勝率が9割を超えたことである(29勝2敗で0.935)。また、「[[相矢倉]]は微差ながらも先手有利」という見解が大勢を占め始めた2000年頃から、[[谷川浩司]]は後手番のときにあまり矢倉を指さなくなった。
ところが、2008年度は初めて後手番が先手番に勝ち越し、それまでのプロ棋界の常識が覆った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2009/03/2008_4.html|title=2008年度公式棋戦の対局で、統計開始以来初の後手番が勝ち越し!|将棋ニュース|日本将棋連盟|publisher=[[日本将棋連盟]]|date=2009-03-31|accessdate=2022-02-03}}</ref>。これは、勝率が低かった後手番における普通の振り飛車が減った事や、[[4手目△3三角|4手目△3三角戦法]]の流行、[[ゴキゲン中飛車]]と[[横歩取り8五飛|横歩取り△8五飛戦法]]の好調、および[[後手番一手損角換わり]]の大流行、など複合的な要因があったとされる。
しかし、翌年以降は再び先手番の勝ち越しが続いている。これらの統計は全プロ棋士を対象としたものであり、上位棋士どうしの対局や持ち時間の長い対局だけに限れば、技術と時間の面で先手の利を活かしやすいため、さらに先手の勝率は上昇する。なお、2020年代の[[コンピュータ将棋]]は、棋力がプロ棋士を遥かに上回っており、先手の勝率が70%以上に達した大会の例があるなど、先手の勝率が高すぎることが問題になりつつある<ref>{{Cite web||url=https://smart-flash.jp/lifemoney/243198/1/1/|title=羽生善治九段「将棋AIは先手勝率7割」に仰天…最強ソフト開発者との対談で「“将棋の結論” を考え直します」|publisher=[[smart-flash]]|date=2023-07-09|accessdate=2023-12-10}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
|rowspan="2" style="background-color: #ccf;"|'''年度'''||rowspan="2" style="background-color: #ccf;"|対局数||colspan="2" style="background-color: #ccf;"|先手||colspan="2" style="background-color: #ccf;"|後手
|-
|勝数||勝率||勝数||勝率
|-
|'''2003'''||2337||1215||0.534||1061||0.466
|-
|'''2004'''||2335||1266||0.554||1019||0.446
|-
|'''2005'''||2344||1216||0.530||1077||0.470
|-
|'''2006'''||2325||1192||0.521||1095||0.479
|-
|'''2007'''||2381||1237||0.531||1091||0.469
|- style="background-color: #ffcccc"
|'''2008'''||2387||1162||0.497||1175||0.503
|-
|'''2009'''||2422||1223||0.516||1149||0.484
|-
|'''2010'''||2404||1269||0.540||1081||0.460
|-
|'''2011'''||2446||1287||0.541||1093||0.459
|-
|'''2012'''||2553||1303||0.528||1164||0.472
|-
|'''2013'''||2443||1269||0.534||1106||0.466
|-
|}
==アマチュア将棋界==
「''[[将棋のアマチュア棋戦]]''」を参照。
==コンピュータ将棋==
{{main|コンピュータ将棋}}
コンピュータ将棋の力は年々高まり、プロ棋士もコンピュータ将棋を研究に用いるようになった。2015年ごろには現役トッププロですら一部の対策が効く場合があるのを除けば惨敗を喫するレベルに至り、2017年には[[ponanza]]が第2期[[電王戦]]において当時の名人であった[[佐藤天彦]]に2連勝した。
==「将棋界の」を冠した言葉==
=== 「将棋界の一番長い日」 ===
毎年3月初旬頃の、A級[[順位戦]]の最終局(5局が同日に開催される)が行われる日を、俗に「将棋界の一番長い日」と呼ぶ。
一年度(厳密には6月開幕なので、約9ヶ月強)かけて行われたA級順位戦リーグの最終日であり、[[名人戦 (将棋)|名人]]挑戦者と2名の降級者が確定する可能性が高い(既に挑戦者や降級者が決まっていることもある)ことや、[[大山康晴]]・[[中原誠]]など現役晩年の名人経験者の陥落がかかっている場合は「負けたら[[引退]]か」という状況になることもあるため、プロ棋士をはじめとする将棋界からの注目が高くなる。
なお、クラス内の順位が絡む昇級や降級とは異なり、名人挑戦者だけは純粋に勝敗数のみで決められるため、この最終一斉対局で決着がつかず、プレーオフに持ち込まれる場合がある。特に2018年の第76期順位戦は史上最多の6者によるプレーオフとなったため、実際の決着は3週間後となって、「将棋界の一番長い日」ならぬ「将棋界の一番長い月」となった。{{main|順位戦#A級|第76期順位戦#第76期順位戦}}
当日は[[NHK BSプレミアム]](2011年までは[[NHK衛星第2テレビジョン]]<BS2>)で中継が行われていたが、[[2013年]]は[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!]]の[[囲碁・将棋チャンネル]]、[[BSスカパー!]]、[[スカチャン]]に移譲して、全対局の完全ノーカット実況が実施された。同年から2019年にかけて([[2015年]]を除く)は[[ニコニコ生放送]]、[[2017年]]からは[[ABEMA]][[ABEMA 将棋チャンネル|将棋チャンネル]]でも全対局の完全生中継が行われている。
最終局は通常の対局同様に東京・千駄ヶ谷の[[将棋会館]]で行われていたが、[[2014年]](平成26年)の[[第72期順位戦|第72期]]で初めて東京を離れ、[[静岡市]][[葵区]]の[[浮月楼]]で対局が実施された。その後も[[2023年]]([[令和]]5年)の第81期まで継続して行われ、A級順位戦最終局は浮月楼での開催が定着した。{{main|浮月楼#将棋・囲碁の対局地として|順位戦#概要}}
2014年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/event/2014/01/72_2.html|title=第72期A級順位戦最終局(静岡対局) イベント募集のお知らせ|イベント|日本将棋連盟|publisher=[[日本将棋連盟]]|date=2014-01-28|accessdate=2022-02-03}}</ref>、[[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.shizuoka.jp/143_000101.html|title=第76期将棋名人戦第0局(A級順位戦最終局) 実施報告:静岡市|publisher= [[静岡市]]|date=2019-04-01|accessdate=2022-02-03}}</ref>、[[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|title=名人挑戦・降級はどうなる? 2年連続のプレーオフ開催となるか|棋戦トピックス|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/match_news/2019/02/2_3.html|website=|publisher=[[日本将棋連盟]]|date=2019-02-28|accessdate=2019-03-02}}</ref>には「名人戦第0局」という別称が冠せられたが、2020年<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.shizuoka.lg.jp/143_000169.html|title=第78期A級順位戦最終局~将棋界の一番長い日~実施報告:静岡市|publisher=[[静岡市]]|date=2020-04-01|accessdate=2022-02-03}}</ref>には外された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[棋士 (将棋)]]
* [[女流棋士 (将棋)]]
* [[将棋棋士一覧]]
* [[将棋の女流棋士一覧]]
* [[名人 (将棋)]]
* [[棋戦 (将棋)]]
* [[将棋大会のシード条件]]
* [[将棋の戦法一覧]]
* [[天童市]]
* [[将棋大賞]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/knowledge/world/01.html プロ棋界|将棋界について|将棋の基礎知識|日本将棋連盟]
* [https://www.shogi.or.jp/knowledge/world/02.html 女流プロ|将棋界について|将棋の基礎知識|日本将棋連盟]
* [https://www.shogi.or.jp/knowledge/world/03.html アマチュア|将棋界について|将棋の基礎知識|日本将棋連盟]
* [https://www.shogi.or.jp/knowledge/world/04.html 段と級|将棋界について|将棋の基礎知識|日本将棋連盟]
{{各年度の将棋界}}
{{将棋竜王戦}}
{{将棋順位戦}}
{{将棋}}
{{DEFAULTSORT:しようきかい}}
[[Category:将棋界|*]] | 2003-04-10T07:37:56Z | 2023-12-10T04:15:22Z | false | false | false | [
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"Template:棋戦 (将棋)",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E6%A3%8B%E7%95%8C |
6,445 | 囲碁の記録一覧 | 囲碁の記録一覧(いごのきろくいちらん)は、日本棋院または関西棋院に所属する囲碁棋士の記録の一覧である。
太字は名誉位獲得。2023年12月25日時点。
※この他、大竹英雄は日本棋院第一位決定戦で2連覇、これが発展した全日本第一位決定戦で引き続き5連覇し、計7連覇を果たしている。
各タイトルを5連覇または通算10期以上保持した者は、現役引退後または60歳の誕生日を迎えた後に「名誉○○」(○○はタイトル名、本因坊は永世称号として「○○世本因坊」)を名乗ることが許される。また10連覇(本因坊戦は9連覇)した場合現役60歳未満で名乗ることができる。
括弧つきの棋士は、条件を満たすまで名誉称号を名乗ることができない有資格者。
七大タイトルを全て一回以上通算で経験する事をグランドスラムと呼び、これを達成したのは趙治勲、張栩、井山裕太の3人(2023年現在)。このうち、井山裕太は七大タイトル全てを同時に保持したことがある(七冠、2016年が初)。また、井山は2017年のすべてのタイトルを獲得する年間グランドスラムも達成した。7つのうち6タイトル獲得者は加藤正夫、林海峰、山下敬吾の3人。
二日制の七番勝負の挑戦手合がある棋聖・名人・本因坊を同時に保持する事を大三冠と呼んだ。これを達成したのは趙治勲と井山裕太の2人(2023年現在)。ただし本因坊戦は2024年の第79期から一日制の五番勝負に変更となる。
歴史ある称号の名人と本因坊を同時に保持した棋士は、名人本因坊と称されることがある。過去に坂田栄男・林海峰・石田芳夫・趙治勲・張栩・高尾紳路・山下敬吾・井山裕太の8人が達成。
下記は日本棋院所属棋士のみを対象にした集計であり、関西棋院所属の棋士は集計に含まれていない。
こちらも日本棋院所属棋士のみを対象にした集計であり、関西棋院所属の棋士は集計に含まれていない。 | [
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] | 囲碁の記録一覧(いごのきろくいちらん)は、日本棋院または関西棋院に所属する囲碁棋士の記録の一覧である。 | {{出典の明記|date=2019年2月21日 (木) 13:07 (UTC)}}
{{囲碁}}
'''囲碁の記録一覧'''(いごのきろくいちらん)は、[[日本棋院]]または[[関西棋院]]に所属する[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]]の記録の一覧である。
==獲得タイトル==
=== 獲得数 ===
{{See also|囲碁棋士の獲得タイトル数ランキング|日本の囲碁タイトル在位者一覧}}
太字は名誉位獲得。2023年12月25日時点。
{| class="wikitable"
!棋戦!!棋士!!獲得数!!備考
|-
|全タイトル通算
|[[趙治勲]]
|76期
|
|-
|[[棋戦 (囲碁)#七大棋戦|七大タイトル]]通算
|[[井山裕太]]
|59期
|
|-
|三大タイトル通算
|趙治勲
|29期
|
|-
|[[棋聖 (囲碁)|棋聖戦]]
|'''井山裕太'''
|9期
|
|-
|[[名人 (囲碁)|名人戦]]
|'''趙治勲'''
|9期
|
|-
|[[本因坊戦]]
|'''趙治勲'''
|12期
|
|-
|[[王座 (囲碁)|王座戦]]
|'''[[加藤正夫]]'''
|11期
|
|-
|[[天元戦]]
|'''井山裕太'''
|8期
|
|-
|[[碁聖|碁聖戦]]
|'''[[小林光一]]'''・'''井山裕太'''
|9期
|井山は在位中
|-
|[[十段 (囲碁)|十段戦]]
|加藤正夫
|7期
|
|-
|[[NHK杯テレビ囲碁トーナメント|NHK杯]]
|'''[[坂田栄男]]'''
|11期
|
|-
|[[阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦|阿含桐山杯全日本]]
[[阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦|早碁選手権]]<ref group="注釈">第1期 - 第5期はアコム杯</ref>
|[[張栩]]・井山裕太
|5期
|
|-
|[[竜星戦]]
|井山裕太
|5期
|
|-
|[[王冠戦]]
|[[山城宏]]
|15期
|
|-
|[[関西棋院第一位決定戦|関西棋院第一位]]
|'''[[橋本昌二]]'''
|12期
|
|-
|[[新人王戦 (囲碁)|新人王戦]]<ref group="注釈">2008年以降、過去に新人王戦優勝の経験がある棋士は新人王戦に出場できないように規則が変更された。そのため、規則が再度変更されない限りはこの記録は破られることはない。</ref>
|[[依田紀基]]
|5期
|
|-
|[[フマキラー囲碁マスターズカップ|マスターズカップ]]<ref group="注釈">マスターズカップは終了したため、再開されない限りはこの記録は破られることはない。</ref>
|趙治勲
|4期
|
|}
=== 連覇記録 ===
{| class="wikitable"
! colspan="6"|七大タイトルの連覇記録
|-
!順位
!棋士
!タイトル
!連覇数
!獲得年度
!備考
|-
|-
|1
| style="background-color:#66ccff;" |[[井山裕太]]
|[[本因坊]]
| align="center" |11
|2012 - 2022
|
|-
|2
| style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|[[本因坊]]
| align=center|10
|1989 - 1998
|
|-
|3
| style="background-color:#66ccff;" |[[井山裕太]]
|[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]
| align="center" |9
|2013 - 2021
|
|-
|3
|style="background-color:#33ff66;"|[[高川格]]
|[[本因坊]]
| align=center|9
|1952 - 1960
|
|-
|5
| style="background-color:#0066ff;" |[[加藤正夫]]
|[[王座 (囲碁)|王座]]
| align="center" |8
|1982 - 1989
|
|-
|5
| style="background-color:#00ff00;" |[[小林光一]]
|[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]
| align="center" |8
|1986 - 1993
|
|-
|7
| style="background-color:#ff6633;" |[[坂田栄男]]
|[[本因坊]]
| align="center" |7
|1961 - 1967
|
|-
|7
| style="background-color:#00ff00;" |[[小林光一]]
|[[名人 (囲碁)|名人]]
| align="center" |7
|1988 - 1994
|
|-
|9
| style="background-color:#9966ff;" |[[藤沢秀行]]
|[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]
| align="center" |6
|1977 - 1982
|
|-
|9
| style="background-color:#ff99ff;" |[[大竹英雄]]
|[[碁聖]]
| align="center" |6
|1980 - 1985
|
|-
|9
| style="background-color:#00ff00;" |[[小林光一]]
|[[碁聖]]
| align="center" |6
|1988 - 1993
|
|-
|9
| style="background-color:#66ccff;" |[[井山裕太]]
|[[碁聖]]
| align=center|6
|2012 - 2017
|
|-
|13
| style="background-color:#aaaaaa;" |[[石田芳夫]]
|[[本因坊]]
|align="center" |5
|1971 - 1975
|
|-
|13
| style="background-color:#ff0000;" |[[趙治勲]]
|[[名人 (囲碁)|名人]]
|align="center" |5
|1980 - 1984
|
|-
|13
| style="background-color:#66ffff;" |[[林海峰]]
|[[天元戦|天元]]
|align="center" |5
|1989 - 1993
|
|-
|13
| style="background-color:#66ccff;" |[[井山裕太]]
|[[天元戦|天元]]
|align="center" |5
|2015 - 2019
|
|}
※この他、大竹英雄は[[日本棋院第一位決定戦]]で2連覇、これが発展した[[全日本第一位決定戦]]で引き続き5連覇し、計7連覇を果たしている。
=== 連続記録 ===
{|class="wikitable"
!記録!!棋士!!
|-
|-
| 同一タイトル戦連続出場||[[加藤正夫]]・[[井山裕太]]
|12期(加藤は王座戦第28期 - 第39期、井山は本因坊戦第67期 - 第78期)
|-
| 七大タイトル連続在位期間||加藤正夫
|14年6か月(1976年碁聖獲得 - 1990年王座失冠)<ref group="注釈">井山裕太が2024年5月末まで七大タイトルに連続在位して14年7か月となり更新する予定(2009年10月に名人位~)</ref>
|-
| 七大タイトル連続獲得||井山裕太
|12回(2016年王座戦 - 2018年本因坊戦)
|-
| 七大タイトル連続出場||井山裕太
|29回(2015年本因坊戦 - 2019年本因坊戦)
|-
| 七大タイトル獲得連続年数||[[趙治勲]]
|21年(1979年 - 1999年)
|-
| 七大タイトル出場連続年数||趙治勲
|24年(1979年 - 2002年)
|-
| 三大リーグ連続在籍<ref group="注釈">本因坊戦は1943~2023年までリーグ制、名人戦は1962年からリーグ制、棋聖戦は2001年からリーグ制</ref>||[[林海峰]]
|35期(名人戦、旧名人戦第3期 - 新名人戦23期)<ref group="注釈">名人在位8期を含む。</ref>
|}
====名誉称号====
各タイトルを5連覇または通算10期以上保持した者は、現役引退後または60歳の誕生日を迎えた後に「名誉○○」(○○はタイトル名、本因坊は永世称号として「○○世本因坊」)を名乗ることが許される。また10連覇(本因坊戦は9連覇)した場合現役60歳未満で名乗ることができる。{{main|名誉称号 (囲碁)}}
{| class="wikitable"
|+ 名誉称号一覧
!名誉称号!!棋士
|-
|[[棋聖 (囲碁)|名誉棋聖]]||[[藤沢秀行]] ・[[小林光一]] ・([[井山裕太]])
|-
|[[名人 (囲碁)|名誉名人]]||[[趙治勲]] ・小林光一
|-
|[[本因坊|永世本因坊]]||[[高川格]]・[[坂田栄男]]・[[石田芳夫]]・趙治勲・井山裕太
|-
|[[王座 (囲碁)|名誉王座]]||[[加藤正夫]]
|-
|[[天元戦|名誉天元]]||[[林海峰]]・(井山裕太)
|-
|[[碁聖|名誉碁聖]]||[[大竹英雄]] ・小林光一・(井山裕太)
|-
|[[十段 (囲碁)|名誉十段]]||(名誉称号保持者不在)
|-
|[[日本棋院選手権戦|名誉日本棋院選手権者]]||坂田栄男
|-
|[[NHK杯テレビ囲碁トーナメント|名誉NHK杯選手権者]]||坂田栄男
|-
|[[関西棋院第一位決定戦|名誉関西棋院第一位]]||[[橋本昌二]]・([[余正麒]])
|-
|[[女流本因坊戦|名誉女流本因坊]]
|([[謝依旻]])
|-
|[[女流名人戦 (囲碁)|名誉女流名人]]
|(謝依旻)・([[藤沢里菜]])
|-
|[[女流棋聖戦|名誉女流棋聖]]
|(謝依旻)
|-
|[[女流立葵杯|名誉女流立葵杯]]
|(藤沢里菜)
|}
括弧つきの棋士は、条件を満たすまで名誉称号を名乗ることができない有資格者。
===グランドスラム===
七大タイトルを全て一回以上通算で経験する事を'''グランドスラム'''と呼び、これを達成したのは[[趙治勲]]、[[張栩]]、[[井山裕太]]の3人(2023年現在)。このうち、[[井山裕太]]は七大タイトル全てを同時に保持したことがある(七冠、2016年が初)。また、井山は2017年のすべてのタイトルを獲得する年間グランドスラムも達成した。7つのうち6タイトル獲得者は[[加藤正夫]]、[[林海峰]]、[[山下敬吾]]の3人。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+グランドスラム達成者
!棋士
![[棋聖 (囲碁)|棋聖]]
![[十段 (囲碁)|十段]]
![[本因坊]]
![[碁聖]]
![[名人 (囲碁)|名人]]
![[王座 (囲碁)|王座]]
![[天元戦|天元]]
|-
|style="text-align:left"|[[趙治勲]]
|1983
|1982
|1981
|1979
|1980
|1976
|style="background-color:#ffffbc"|1987
|-
|style="text-align:left"|[[張栩]]
|style="background-color:#ffffbc"|2010
|2009
|2003
|2006
|2004
|2003
|2008
|-
|style="text-align:left"|[[井山裕太]]
|style="background-color:#ffffbc"|2013
|2011
|2012
|2012
|2009
|2012
|2011
|}
*年は初獲得年。黄色はグランドスラム達成時のタイトル。
===七大棋戦同時在位===
{| class="wikitable"
|+3以上の七大タイトルに同時に在位した棋士(各棋士の最高同時在位数)
!タイトル数
!棋士
!タイトル
!開始
!終了
!在位期間
!備考
|-
|rowspan=2|7
|rowspan=2 style="background-color:#66ccff;" |[[井山裕太]]
|rowspan=2|棋聖・名人・本因坊<br>王座・天元・碁聖・十段
|2016十段
|2016名人
|197日
|史上初の七冠独占
|-
|2017名人
|2018碁聖
|290日
|年間グランドスラム
|-
|5
| style="background-color:#ff33ff;" |[[張栩]]
|名人・王座・天元・碁聖・十段
|2009十段
|2009名人
|183日
|
|-
| rowspan="4" |4
| rowspan="2" style="background-color:#0066ff;" |[[加藤正夫]]
|本因坊・王座・天元・十段
|1979王座
|1980十段
|159日
|
|-
|名人・王座・碁聖・十段
|1987碁聖
|1988十段
|255日
|
|-
| style="background-color:#ff0000;" |[[趙治勲]]
|棋聖・名人・本因坊・十段
|1983棋聖
|1983十段
|41日
|
|-
| style="background-color:#00ff00;" |[[小林光一]]
|棋聖・名人・天元・十段
|1986棋聖
|1986名人
|211日
|
|-
| rowspan="7" |3
| rowspan="2" style="background-color:#ff6633;" |[[坂田栄男]]
|名人・本因坊・王座
|1963王座
|1965名人
|
|
|-
|本因坊・王座・十段
|1966王座
|1967王座
|
|
|-
| style="background-color:#aaaaaa;" |[[石田芳夫]]
|名人・本因坊・王座
|1974王座
|1975名人
|
|
|-
| style="background-color:#ff99ff;" |[[大竹英雄]]
|名人・碁聖・十段
|1980碁聖
|1980名人
|
|
|-
| style="background-color:#666699;" |[[王立誠]]
|棋聖・王座・十段
|2001十段
|2001王座
|204日
|
|-
| style="background-color:#e5e517;" |[[芝野虎丸]]
|名人・王座・十段
|2020十段
|2020名人
|110日
|
|-
| style="background-color:#8CB4CE;" |[[一力遼]]
|棋聖・本因坊・天元
|2023天元
|
|継続中
|
|-
|}
* 七大棋戦以外の棋戦も含む最多同時在位記録は[[井山裕太]]の8(2016年の[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]・[[名人 (囲碁)|名人]]・[[本因坊]]・[[王座 (囲碁)|王座]]・[[天元戦|天元]]・[[碁聖]]・[[十段 (囲碁)|十段]]・[[阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦|阿含桐山杯]]、2017年の棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段・[[NHK杯テレビ囲碁トーナメント|NHK杯]])。
====大三冠====
二日制の七番勝負の挑戦手合がある[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]・[[名人 (囲碁)|名人]]・[[本因坊]]を同時に保持する事を'''大三冠'''と呼んだ。これを達成したのは趙治勲と井山裕太の2人(2023年現在)。ただし本因坊戦は2024年の第79期から一日制の五番勝負に変更となる。{{main|大三冠}}
====名人本因坊====
歴史ある称号の[[名人 (囲碁)|名人]]と[[本因坊]]を同時に保持した棋士は、名人本因坊と称されることがある。過去に[[坂田栄男]]・[[林海峰]]・[[石田芳夫]]・[[趙治勲]]・[[張栩]]・[[高尾紳路]]・[[山下敬吾]]・[[井山裕太]]の8人が達成。{{main|名人本因坊}}
===最年少記録===
{|class="wikitable"
!記録!!棋士の名前!!年齢!!棋戦
|-style="background-color:#ffffbc"
|'''最年少七大タイトル獲得'''||'''[[芝野虎丸]]'''||'''19歳11か月'''||'''第44期名人戦 (2019年)'''
|-
|最年少棋聖||[[井山裕太]]||23歳10か月||第37期 (2013年)
|-
|最年少名人||芝野虎丸||19歳11か月||第44期 (2019年・史上初の10代名人)<ref>[https://www.sankei.com/article/20191024-6GQW73EBYZMPFAWCGSEPMDRFKM/ 囲碁・最年少名人の師匠が明かした「育て方」の極意]</ref>
|-
|最年少本因坊||[[石田芳夫]]||22歳10か月||第26期 (1971年)
|-
|最年少王座||芝野虎丸||20歳0か月||第67期 (2019年)
|-
|最年少天元||[[関航太郎]]||20歳0か月||第47期 (2021年)
|-
|最年少碁聖||[[許家元]]||20歳7か月||第43期 (2018年)
|-
|最年少十段||芝野虎丸||20歳7か月||第58期 (2020年)
|-
|最年少七大タイトル防衛(連覇)||関航太郎||21歳0か月18日||第48期天元 (2022年)
|-
|最年少二冠||芝野虎丸||20歳0か月||名人・王座(2019年)
|-
|最年少三冠||芝野虎丸||20歳7か月||名人・王座・十段(2020年)
|-
|最年少四冠||井山裕太||23歳2か月||本因坊・天元・碁聖・十段(2012年)
|-
|最年少五冠||井山裕太||23歳5か月||本因坊・王座・天元・碁聖・十段(2012年)
|-
|最年少六冠<ref group="注釈">六冠達成は井山裕太1人のみ</ref>||井山裕太||23歳9か月||棋聖・本因坊・天元・王座・碁聖・十段(2013年)
|-
|最年少七冠<ref group="注釈">七冠達成は井山裕太1人のみ</ref>||井山裕太||26歳10か月||棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段(2016年)
|-
|最年少名人本因坊||井山裕太||24歳4か月||2013年
|-
|最年少大三冠(棋聖名人本因坊)||井山裕太||24歳4か月||2013年
|-
|最年少グランドスラム||井山裕太||23歳9か月||2013年(棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段)
|-
|最年少七大タイトル名誉称号資格||石田芳夫||26歳||永世本因坊<ref group="注釈">5連覇</ref>(1975年)
|-style="background-color:#ffffbc"
|'''最年少タイトル獲得'''||'''[[仲邑菫]]'''||'''13歳11か月'''<ref group="注釈">女流棋士限定戦の記録。全棋士参加棋戦に限れば井山裕太の16歳4カ月での阿含・桐山杯優勝が最年少となる</ref>||'''第26期[[女流棋聖戦|女流棋聖]] (2023年)'''
|-
|最年少[[阿含・桐山杯全日本早碁オープン戦|阿含・桐山杯]]優勝||井山裕太||16歳4カ月||第12期(2005年)
|-
|最年少[[竜星戦]]優勝||芝野虎丸||17歳8か月||第26期(2017年)
|-
|最年少[[NHK杯テレビ囲碁トーナメント|NHK杯]]優勝||[[伊田篤史]]||20歳11か月||第62期(2015年)
|-
|最年少[[新人王戦 (囲碁)|新人王戦]](25歳以下、六段以下)優勝||[[大西竜平]]||16歳6か月||第41期(2016年)(初出場で優勝。史上初)<ref>[https://www.nihonkiin.or.jp/match_news/match_result/412_5.html 大西竜平二段が新人王戦優勝] 日本棋院(2016年9月30日)</ref>
|-
|最年少[[若鯉戦]](30歳以下、七段以下)優勝||[[一力遼]]||16歳5ヶ月||第8回(2013年)
|-
|最年少[[テイケイ杯俊英戦]](25歳以下)優勝||許家元||24歳3か月||第1回(2022年)
|-
|最年少[[王冠戦]](中部総本部限定)優勝||[[山城宏]]||19歳||第18期(1977年)
|-
|最年少[[関西棋院第一位決定戦]]優勝||[[村川大介]]||19歳||第54期(2010年)
|-
|最年少[[女流本因坊戦|女流本因坊]]||[[藤沢里菜]]||16歳1ヶ月||第33期(2014年)
|-
|最年少[[女流名人戦 (囲碁)|女流名人]]||[[謝依旻]]||18歳3ヶ月||第20期(2008年)
|-
|最年少[[女流立葵杯]]優勝||藤沢里菜||15歳9か月||第1回(2014年)
|-
|最年少[[女流棋聖戦|女流棋聖]]||仲邑菫||13歳11か月||第26期(2023年)
|-
|最年少[[扇興杯女流囲碁最強戦|扇興杯女流最強戦]]優勝||藤沢里菜||18歳9か月||第2回(2017年)
|-
|最年少女流グランドスラム||[[上野愛咲美]]||21歳||2023年(女流本因坊・女流名人・立葵杯・女流棋聖・扇興杯)
|-
|最年少名誉称号資格||謝依旻||21歳11か月||名誉女流本因坊<ref group="注釈">5連覇</ref>(2011年)
|-style="background-color:#ffffbc"
|'''最年少七大タイトル挑戦'''||'''井山裕太'''||'''19歳3か月'''||'''第33期名人戦 (2008年)'''
|-
|最年少棋聖挑戦||一力遼||20歳7か月||第42期 (2018年)
|-
|最年少名人挑戦||井山裕太||19歳3か月||第33期 (2008年)
|-
|最年少本因坊挑戦||伊田篤史||20歳0か月||第69期 (2014年)
|-
|最年少王座挑戦||一力遼||20歳4か月||第65期 (2017年)
|-
|最年少天元位挑戦||一力遼||19歳4か月||第42期 (2016年)
|-
|最年少碁聖挑戦||許家元||20歳5か月||第43期 (2018年)
|-
|最年少十段位挑戦||芝野虎丸||20歳3か月||第58期 (2020年)
|-
|最年少タイトル挑戦|||仲邑菫||13歳1か月||第33期女流名人戦 (2022年)
|-style="background-color:#ffffbc"
|'''最年少三大リーグ入り'''||'''一力遼'''||'''16歳9か月'''||'''第39期棋聖戦リーグ (2014年)'''
|-
|最年少棋聖戦トップリーグ入り<ref group="注釈">棋聖戦は2001年の第25期からリーグ制となり2016年の第40期からSABCの4段階リーグ方式に変更され、それまでは12人だったリーグが総計62名に拡大されてリーグ入りが容易になった。2022年の第46期に仲邑菫が12歳2か月でCリーグ入りしているが、従来のように七段昇段規定のあるSリーグ入りのみを対象とする。</ref>||一力遼||16歳9か月||第39期(2014年)
|-
|最年少名人戦リーグ入り||芝野虎丸||17歳11か月||第43期 (2017年)
|-
|最年少本因坊戦リーグ入り<ref group="注釈">本因坊戦は2024年の第79期からトーナメント戦に変更となったため、今後の記録更新はなくなった。</ref>||芝野虎丸||17歳9か月||第73期 (2017年)
|-style="background-color:#ffffbc"
|'''最年少入段'''||'''[[藤田怜央]]'''||'''9歳4か月'''<ref group="注釈">関西棋院の英才特別採用。日本棋院の英才特別採用では仲邑菫の10歳0カ月、日本棋院の女流特別採用では[[藤沢里菜]]の11歳6か月、日本棋院の正棋士採用では[[趙治勲]]の11歳9か月、関西棋院の正棋士採用では村川大介の11歳10か月が最年少。[[棋士採用試験]]も参照。</ref>||'''2022年'''
|-
|最年少二段||仲邑菫||12歳0カ月||2021年
|-
|最年少三段||[[趙治勲]]||13歳4カ月||1969年
|-
|最年少四段||趙治勲||14歳3カ月||1970年
|-
|最年少五段||趙治勲||15歳3カ月||1971年
|-
|最年少六段||趙治勲||17歳2カ月||1973年
|-
|最年少七段||井山裕太||16歳4カ月||2005年(第12期阿含・桐山杯優勝による)四段からの飛付昇段
|-
|最年少八段||井山裕太||19歳2カ月||2008年(第33期名人戦挑戦者決定による)
|-
|最年少九段||芝野虎丸||19歳11か月||2019年(第44期名人位獲得による・史上初の10代九段)
|}
=== その他の記録 ===
*最年長七大タイトル獲得:[[藤沢秀行]](67歳、第40期王座、68歳4カ月まで保持)
*最年長初七大タイトル獲得:[[羽根泰正]](46歳、第38期王座)
*最年長タイトル獲得:[[苑田勇一]](70歳、第1期[[テイケイ杯レジェンド戦]])
*最年長リーグ在籍:[[橋本宇太郎]](74歳、第37期本因坊リーグ)
*最年長入段:[[島田義邦]](34歳、関西棋院)
*最年長公式戦勝利:[[杉内雅男]](96歳10カ月)
*入段から七大タイトル獲得までの最短記録:[[関航太郎]](4年8か月、第47期天元戦)<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/851431 囲碁界大激震…「AIソムリエ」関航太郎20歳が史上最速でタイトル獲得できた“独自すぎる研究法”とは?《秋篠宮悠仁さまと芋掘りも》]</ref>
*入段から七大タイトル挑戦までの最短記録:関航太郎(4年6か月、第47期天元戦)
*入段からタイトル獲得までの最短記録:[[芝野虎丸]](2年11か月、第26期竜星戦)
*入段から三大リーグ入りまでの最短記録:芝野虎丸(3年0か月、第73期本因坊リーグ)
*入団から九段昇段までの最短記録:芝野虎丸(5年1か月、名人位)
*七大タイトル初獲得から最新の七大タイトル獲得までの最長記録:[[趙治勲]](31年間)
*飛付昇段記録(三段から七段)
**三大リーグ入り:[[余正麒]](2013年、第69期本因坊リーグ)、[[本木克弥]](2015年、第71期本因坊リーグ)
**タイトル戦での優勝:芝野虎丸(2017年、第26期竜星戦)
*親子タイトルホルダー:父 [[羽根泰正]](第38期王座)、息子 [[羽根直樹]](第28期棋聖など)
*親子四代プロ棋士:[[関山盛利]]-[[関山利一]]-[[関山利夫]]-[[関山利道]]、[[木谷實]]-[[木谷禮子]]/[[小林光一]]-[[小林泉美 (棋士)|小林泉美]]/[[張栩]]-[[張心澄]]/[[張心治]]
*年間の七大タイトル挑戦手合にすべて出場:[[井山裕太]](2016年、史上初。2017年・2018年もすべて出場)
*七大タイトル戦連続同一カード:3回 [[張栩]] - [[山下敬吾]](2009年天元戦 - 2010年十段戦)、井山裕太 - [[一力遼]](2017年王座戦 - 2018年棋聖戦)
*七大タイトル戦最多対戦カード:13回(井山裕太 - 一力遼、2016年天元戦から2023年碁聖戦まで)
*最多名誉称号資格保持:4(井山裕太)
=== 現在の七大棋戦在位者 ===
{{七大タイトル保持者}}
==年間記録==
*年間最高勝率:[[坂田栄男]] .9375(30勝2敗、1964年)
*年間最多勝利:[[張栩]] 70勝(14敗、2002年)
*年間最多敗戦:[[山下敬吾]] 32敗(39勝、2004年)
*年間最多対局:[[羽根直樹]] 88局(63勝25敗、2002年)
*年間最多獲得賞金:[[井山裕太]](1億7212万円、2015年)
==通算記録==
*通算最多勝:[[趙治勲]] 1600勝(2023年12月25日現在)
*通算最多敗:[[林海峰]] 963敗(2023年3月17日現在)
*通算最多対戦:趙治勲 - 小林光一の130局(趙67勝・小林63勝、2022年現在<ref>「趙治勲 囲碁と生きる」 趙治勲 日本棋院刊 2022年 p.173</ref>)
*最年少1000勝達成:[[結城聡]] 39歳2か月(所属は関西棋院。日本棋院記録は山下敬吾の40歳2か月)
*最年長1000勝達成:[[石井邦生]] 74歳3か月
*最短1000勝達成:[[山下敬吾]] 25年7か月
*最長1000勝達成:石井邦生 59年10か月
=== 1000勝達成棋士 ===
{| class="wikitable sortable"
!
!棋士
!達成日
!達成年齢
!入段からの年数
|-
|1
|style="background-color:#ff6633;"|[[坂田栄男]]
|1984年4月13日
|64歳1か月
|49年0か月
|-
|2
|style="background-color:#66ffff;"|[[林海峰]]
|1994年8月4日
|52歳2か月
|39年3か月
|-
|3
|style="background-color:#0066ff;"|[[加藤正夫]]
|1996年5月23日
|49歳2か月
|32年1か月
|-
|4
|style="background-color:#00ff00;"|[[小林光一]]
|1998年11月28日
|46歳2か月
|31年7か月
|-
|5
|style="background-color:#ff99ff;"|[[大竹英雄]]
|1999年2月18日
|56歳9か月
|42年10か月
|-
|6
|style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|1999年8月12日
|43歳1か月
|31年4か月
|-
|7
|[[橋本昌二]]
|2001年9月<ref name=":0" group="注釈">一部記録の紛失がある。</ref>
|66歳4か月
|54年4か月
|-
|8
|[[羽根泰正]]
|2001年11月8日
|57歳4か月
|43年7か月
|-
|9
|style="background-color:#ff9900;"|[[武宮正樹]]
|2006年2月9日
|55歳1か月
|40年10か月
|-
|10
|[[本田邦久]]
|2007年5月<ref name=":0" group="注釈">一部記録の紛失がある。</ref>
|61歳10か月
|46年4か月
|-
|11
|style="background-color:#666699;"|[[王立誠]]
|2008年2月14日
|49歳3か月
|35年10か月
|-
|12
|[[山城宏]]
|2008年7月7日
|49歳10か月
|36年3か月
|-
|13
|style="background-color:#aaaaaa;"|[[石田芳夫]]
|2010年5月20日
|61歳9か月
|47年1か月
|-
|14
|[[結城聡]]
|2011年4月3日
|'''39歳2か月'''
|27年1か月
|-
|15
|style="background-color:#ffff00;"|[[依田紀基]]
|2011年7月21日
|45歳5か月
|31年3か月
|-
|16
|[[工藤紀夫]]
|2011年10月6日
|71歳2か月
|56年6か月
|-
|17
|[[小林覚]]
|2011年12月1日
|52歳7か月
|37年8か月
|-
|18
|[[片岡聡]]
|2014年2月27日
|55歳6か月
|41年10か月
|-
|19
|[[王銘琬]]
|2015年6月4日
|53歳6か月
|38年2か月
|-
|20
|[[淡路修三]]
|2015年9月24日
|66歳1か月
|47年5か月
|-
|21
|[[石井邦生]]
|2016年2月1日
|74歳3か月
|59年10か月
|-
|22
|[[彦坂直人]]
|2016年8月18日
|54歳5か月
|40年4か月
|-
|23
|[[今村俊也]]
|2018年8月23日
|52歳5か月
|38年5か月
|-
|24
|style="background-color:#ff9966;"|[[山下敬吾]]
|2018年11月8日
|40歳2か月
|'''25年7か月'''
|-
|25
|[[苑田勇一]]
|2018年11月22日
|66歳7か月
|50年7か月
|-
|26
|style="background-color:#FFABDE;"|[[高尾紳路]]
|2019年04月18日
|42歳5か月
|28年0か月
|-
|27
|style="background-color:#99ff00;"|[[羽根直樹]]
|2019年10月24日
|43歳2か月
|28年6か月
|-
|28
| style="background-color:#ff33ff;" |[[張栩]]
|2020年11月2日
|40歳9か月
|26年7か月
|-
|29
|[[清成哲也]]
|2021年8月4日
|59歳8か月
|45年1か月
|-
|30
|[[山田規三生]]
|2022年6月30日
|49歳9か月
|33年2か月
|-
|31
|[[小県真樹]]
|2023年11月2日
|59歳1か月
|43年7か月
|}
=== 1100勝達成棋士 ===
{| class="wikitable sortable"
!
!棋士
!達成日
!達成年齢
!入段からの年数
|-
|1
|style="background-color:#ff6633;"|[[坂田栄男]]
|1994年11月
|74歳8か月
|
|-
|2
|style="background-color:#66ffff;"|[[林海峰]]
|1998年3月2日
|55歳9か月
|42年11か月
|-
|3
|style="background-color:#0066ff;"|[[加藤正夫]]
|1999年3月18日
|52歳0か月
|34年11か月
|-
|4
|style="background-color:#00ff00;"|[[小林光一]]
|2002年2月28日
|49歳5か月
|34年10か月
|-
|5
|style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|2002年4月4日
|45歳9か月
|34年0か月
|-
|6
|style="background-color:#ff99ff;"|[[大竹英雄]]
|2004年7月22日
|62歳2か月
|48年3か月
|-
|7
|[[羽根泰正]]
|2008年6月19日
|63歳11か月
|50年2か月
|-
|8
|style="background-color:#ff9900;"|[[武宮正樹]]
|2012年6月21日
|61歳5か月
|47年2か月
|-
|9
|[[山城宏]]
|2012年12月20日
|54歳4か月
|40年8か月
|-
|10
|style="background-color:#666699;"|[[王立誠]]
|2013年5月23日
|54歳6か月
|41年1か月
|-
|11
|[[本田邦久]]
|2013年10月2日
|68歳3か月
|52年8か月
|-
|12
|[[結城聡]]
|2014年3月31日
|'''42歳1か月'''
|30年0か月
|-
|13
|[[小林覚]]
|2016年11月3日
|57歳6か月
|42年7か月
|-
|14
|style="background-color:#ffff00;"|[[依田紀基]]
|2017年6月29日
|51歳4か月
|37年2か月
|-
|15
|style="background-color:#aaaaaa;"|[[石田芳夫]]
|2019年1月17日
|70歳5か月
|55年8か月
|-
|16
|[[片岡聡]]
|2020年7月23日
|61歳11ヶ月
|48年3ヶ月
|-
|17
|[[王銘琬]]
|2020年9月3日
|58歳9か月
|43年5か月
|-
|18
|style="background-color:#ff9966;"|[[山下敬吾]]
|2022年9月15日
|44歳0か月
|'''28年5か月'''
|}
=== 1200勝達成棋士 ===
{| class="wikitable sortable"
!
!棋士
!達成日
!達成年齢
!入段からの年数
|-
|1
|style="background-color:#0066ff;"|[[加藤正夫]]
|2002年3月21日
|55歳0か月
|37年11か月
|-
|2
|style="background-color:#66ffff;"|[[林海峰]]
|2002年4月18日
|59歳11か月
|47年0か月
|-
|3
|style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|2005年1月27日
|48歳7か月
|36年9か月
|-
|4
|style="background-color:#00ff00;"|[[小林光一]]
|2005年9月1日
|52歳11か月
|38年4か月
|-
|5
|style="background-color:#ff99ff;"|[[大竹英雄]]
|2011年3月28日
|68歳10か月
|54年11か月
|-
|6
|[[羽根泰正]]
|2015年5月21日
|70歳10か月
|57年1か月
|-
|7
|[[結城聡]]
|2017年6月8日
|'''45歳3か月'''
|'''33年3か月'''
|-
|8
|[[山城宏]]
|2017年6月12日
|58歳10か月
|45年2か月
|-
|9
|style="background-color:#666699;"|[[王立誠]]
|2019年7月18日
|60歳8か月
|47年3か月
|-
|10
|style="background-color:#ff9900;"|[[武宮正樹]]
|2021年1月14日
|70歳0か月
|55年9か月
|}
=== 1300勝達成棋士 ===
{| class="wikitable sortable"
!
!棋士
!達成日
!達成年齢
!入段からの年数
|-
|1
|style="background-color:#66ffff;"|[[林海峰]]
|2006年10月19日
|64歳4か月
|51年5か月
|-
|2
|style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|2008年6月19日
|51歳11か月
|40年2か月
|-
|3
|style="background-color:#00ff00;"|[[小林光一]]
|2011年
|58~59歳
|44~45年
|-
|4
|style="background-color:#ff99ff;"|[[大竹英雄]]
|2019年04月25日
|76歳11か月
|63年0か月
|-
|5
|[[結城聡]]
|2022年1月20日
|'''49歳11か月'''
|'''37年10か月'''
|}
=== 1400勝達成棋士 ===
{| class="wikitable sortable"
!
!棋士
!達成日
!達成年齢
!入段からの年数
|-
|1
|style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|2012年9月27日
|'''56歳3か月'''
|'''44年5か月'''
|-
|2
|style="background-color:#66ffff;"|[[林海峰]]
|2015年8月6日
|73歳2か月
|60年7か月
|-
|3
|style="background-color:#00ff00;"|[[小林光一]]
|2018年12月6日
|66歳2か月
|51年8か月
|}
=== 1500勝達成棋士 ===
{| class="wikitable sortable"
!
!棋士
!達成日
!年齢
!入段からの年数
|-
|1
|style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|2017年4月27日
|'''60歳10か月'''
|'''49年0か月'''
|}
=== 1600勝達成棋士 ===
{| class="wikitable sortable"
!
!棋士
!達成日
!年齢
!入段からの年数
|-
|1
|style="background-color:#ff0000;"|[[趙治勲]]
|2023年12月25日
|'''67歳6か月'''
|'''55年8か月'''
|}
==連勝記録==
*一般棋戦最多連勝:29 [[坂田栄男]](1964年)
*大手合:33 [[趙治勲]]
*同一タイトルマッチ:17 坂田栄男(本因坊戦、[[1963年]] - [[1967年]])
*七大タイトル挑戦手合:18 [[井山裕太]]([[2015年]]碁聖戦第3局 - [[2016年]]十段戦第2局)
*[[御城碁]]:19 [[本因坊秀策]]
=== 歴代記録 ===
下記は日本棋院所属棋士のみを対象にした集計であり、関西棋院所属の棋士は集計に含まれていない<ref name=":2" />。
{| class="wikitable sortable"
! 順 !! 棋士 !! 連勝数 !! 連勝開始 !! 連勝終了
|-
! 1
| [[坂田栄男]] || 29 || 1963年10月11日 || 1964年7月29日
|-
! 2
| [[井山裕太]] || 24 || 2015年7月23日 || 2015年11月25日
|-
! 2
| [[林海峯]] || 24 || 1977年6月13日 || 1977年11月24日
|-
! 2
| [[王立誠]] || 24 || 1975年9月24日 || 1976年4月12日
|-
! 2
| [[柳時熏]] || 24 || 1990年8月1日 || 1990年12月12日
|-
! 6
| [[高木祥一]] || 22 || 1971年7月29日 || 1972年3月16日
|-
! 6
| [[加藤正夫]] || 22 || 1992年9月10日 || 1993年2月1日
|-
! 8
| [[高尾紳路]] || 21 || 1995年3月22日 || 1995年8月16日
|-
! 8
| [[森田道博]] || 21 || 1990年9月20日 || 1991年2月7日
|-
! 10
| [[高尾紳路]] || 20 || 2000年5月31日 || 2000年9月21日
|-
! 10
| [[依田紀基]] || 20 || 1987年4月22日 || 1987年8月27日
|-
! 10
| [[新垣武]] || 20 || 1976年12月1日 || 1977年4月27日
|-
! 10
| [[森田道博]] || 20 || 1989年11月8日 || 1990年5月23日
|-
! 10
| {{Display none|8}}[[黒瀧正憲]]|| 20 || 1994年9月21日 || 1995年3月15日
|}
=== デビュー戦からの連勝記録 ===
こちらも日本棋院所属棋士のみを対象にした集計であり、関西棋院所属の棋士は集計に含まれていない<ref name=":2">[http://www.nihonkiin.or.jp/news/etc/post_677.html 日本棋院 囲碁界の連勝記録について]</ref>。
{| class="wikitable sortable " style="text-align:right"
! 順位 !! 棋士 !! 連勝数 !! 入段年 !! 入段年齢
|-
! 1
|{{Display none|9}} [[広江博之]]|| 12 || 1983 || 16歳
|-
! 2
|{{Display none|9}} [[依田紀基]] || 11 || 1980 || 14歳
|-
! 2
|{{Display none|9}} [[溝上知親]] || 11 || 1993 || 15歳
|-
! 2
|{{Display none|8}} [[伊田篤史]] || 11 || 2009 || 15歳
|-
! 5
| style="text-align:left" |{{Display none|9}} [[張栩]] || 10 || 1994 || 14歳
|-
! 6
|{{Display none|8}} [[下島陽平]]|| 9 || 1994 || 15歳
|-
! 6
| style="text-align:left" |{{Display none|6}} [[郭求真]]|| 9 || 1978 || 20歳
|-
! 6
|{{Display none|6}} [[黒瀧正樹]]|| 9 || 1994 || 17歳
|-
! 9
| style="text-align:left" |{{Display none|8}} [[杉本明]]|| 8 || 1991 || 17歳
|-
! 9
|{{Display none|8}} [[矢中克典]]|| 8 || 1992 || 20歳
|-
! 9
| {{Display none|7}} [[望月研一]] || 8 || 2000 || 16歳
|-
! 9
| {{Display none|3}} [[六浦雄太]] || 8 || 2014 || 14歳
|}
==対局記録==
===手数===
*最長:411手([[山部俊郎]]—星野紀、1950年大手合)<ref>「天下の奇譜と奇手」[[高木祥一]]著 [[日本棋院]]刊 p.67</ref><ref group="注釈">[[台湾]]では、2021年8月23日に打たれた楊子萱-張凱馨戦で、423手(ダメ詰めを入れて431手)という記録がある。</ref>
*最短(中押):33手([[前田陳爾]]—春山勇、1965年王座戦3次予選)<ref>「囲碁雑学もの知り百科」 日本棋院編 1983年 p.138</ref>
*最短(作り碁):121手([[武宮正樹]]—[[張栩]]、[[2003年]]名人リーグ)<ref>[http://www.asahi.com/igo/meijin/28ki/05d/05.html 第28期名人戦挑戦者決定リーグ戦 観戦記]</ref>
===長考===
*時間無制限:星野紀 16時間<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/12378?page=3 羽生善治も認める「長考に好手なし」――将棋・囲碁で1手に5時間かけた棋士の結末]</ref>
*持時間制:武宮正樹 5時間7分(1988年[[第43期本因坊戦]]挑戦手合第5局、対大竹英雄)
===珍形===
*[[長生]]:林海峰—[[小松英樹]](1993年本因坊リーグ)、[[王銘琬]]―[[内田修平]](2009年世界囲碁選手権富士通杯予選B)
*石柱(盤面を一方の石が19個並んで横断):本田幸子—山本豊([[1951年]]大手合)
*[[欠け眼生き]]:[[篠原正美]]-[[石榑郁郎]](1969年 王座戦予選)<ref>「囲碁雑学もの知り百科」 日本棋院編 1983年 p.153</ref>、[[上野愛咲美]]-一力遼(2019年 竜星戦トーナメント決勝)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[棋戦 (囲碁)]]
*[[棋士 (囲碁)]]
*[[囲碁の歴史]]
*[[日本の囲碁タイトル在位者一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.nihonkiin.or.jp/ 日本棋院 公式サイト]
*[https://kansaikiin.jp/ 関西棋院 公式サイト]
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6,447 | 棋戦 (将棋) | 棋戦()とは、将棋の大会のことである。通常はプロ(棋士、女流棋士)のものをいい、女流棋士のものは特に「女流棋戦」という。アマチュアの大会については、単に「将棋大会」などと言うことが多いが、規模の大きいものは「アマチュア棋戦」と呼ばれる。以下では、主に公益社団法人日本将棋連盟が主催するプロの棋戦について述べる。
2023年現在、以下のような棋戦がある。
公式戦は、対局結果と棋譜が日本将棋連盟の公式記録に残る棋戦、非公式戦は残らない棋戦である。タイトル戦は、優勝者にタイトル(称号)が与えられる棋戦、一般棋戦は、タイトル戦以外の公式戦のことである。一般棋戦には、全棋士に参加資格があるもの、上位棋士にのみ参加資格があるもの、若手棋士らにのみ参加資格があるものの区別がある。なお、一つの棋戦のなかに公式対局と非公式対局が混在する場合もある。なお、過去には一年に2回開催する棋戦なども存在したが、現在の棋戦は原則として一年に1回である。
棋士・女流棋士は、棋戦に参加して対局をすることで対局料・賞金を得て活動している。過去の棋戦も含めて、棋戦の大半は新聞・雑誌・テレビ・インターネット放送といったマスメディアが主催者である。新聞や雑誌の場合には主催紙に棋譜が掲載され、テレビやインターネット放送の場合には主催局で対局の模様が中継される。これらの主催者から、対局者に賞金などが支払われる。
棋戦のうち、称号(タイトル)を争うものがタイトル戦である。通常は、称号の名前がそのまま棋戦の名前になる(例:「竜王」の称号を争う棋戦が「竜王戦」)。優勝者は、称号を獲得し、翌年のタイトル戦が終わるまでの間、段位に代わってこれを肩書として名乗ることができる(例:「○○△△竜王」、「竜王 ○○△△」、あるいは単に「○○竜王」など)。さらに、特定の条件を満たした場合には、恒久的に名乗れる特別な称号を獲得できる場合もある(永世称号)。棋士個人の地位序列を左右すると共に対局料および賞金も高額であるため、棋戦の中ではタイトル戦が最も重んじられている。
タイトル戦は、いわゆる挑戦手合制で開催される。挑戦手合制では、まず現在のタイトル在位者(前回の優勝者)を除く棋士でトーナメントなどを開催して挑戦者を決定する。そして、選ばれた挑戦者と現在のタイトル在位者との間で番勝負(1対1で複数局を連続して戦うこと。シリーズとも言う)を行い、勝ち越した方がタイトルを獲得する。現在のタイトル在位者が再びタイトルを獲得することを防衛、挑戦者がタイトルを獲得することを奪取と言う。
タイトル戦以外の公式記録に残る棋戦が一般棋戦である。一般棋戦の中には、全棋士が参加するものだけでなく、参加資格が段位・年齢などで制限されているものもあり、昇段規定などで区別がなされている。また、かつては、名人以外の棋士だけが参加する棋戦などもあった。一般棋戦の開催方式は様々である。近年は勝ち残り式トーナメントが多いが、過去には、連勝数を競う勝ち抜き戦や挑戦手合制で開催されるものもあった。勝ち残りトーナメント方式の一般棋戦は、優勝棋戦などと呼ばれることもある。また、挑戦手合制の一般棋戦(早指し王位戦、王座戦(旧)、朝日選手権など)は、準タイトル戦などと呼ばれることもある。過去の一般棋戦は、勝ち残り式トーナメントの場合でも決勝のみ番勝負となっているものが多く、新人王戦は現在も決勝三番勝負で行われる。なお、一般棋戦でも特殊な称号(NHK杯選手権者など)が獲得できることもあるが、これらは段位の代わりではなく、その棋戦の中でのみ使われるものであるため、タイトルとは区別される。
先後(先手・後手)は振り駒によって決定される。ただしリーグ戦が実施される、順位戦・王位戦・王将戦・女流順位戦・女流名人戦・女流王位戦では、対局順決定時に先後も決定するため当該リーグ戦での振り駒は行われない。ただし、挑戦者決定プレーオフや残留決定戦などの同率戦対局では振り駒が行われる。
最強戦や女流最強戦(いずれも休止棋戦)などのネット棋戦では、コンピュータがランダムに先後を決定する。
タイトル戦などの番勝負では、1局目にのみ振り駒を行い、2局目以降は毎局先後を入れ替え、最終局については再度振り駒を行い先後を決定する。棋王戦の挑戦者決定戦(変則二番勝負)は厳密な意味での番勝負ではないため、2局目も振り駒を行う。
千日手や持将棋になると先後を入れ替えて即日指し直しとなる。タイトル戦での千日手・持将棋は後日指し直しとなることもある。
番勝負において、千日手・持将棋となり即日指し直しで勝負がついた場合の次局の先後については、千日手・持将棋となった緒局から先後を入れ替える。つまり、指し直し局を手番上1局と見ず、千日手・持将棋による先後の入れ替えは後続局に持ち越されない(一局完結方式)。
タイトル戦の勝者には、後日、就位式で免状に相当するものが与えられる。タイトルにより名称は異なる。名人は「推戴状」、竜王は「推挙状」、王座は「允許状」、王将は「贈位状」、王位、棋王、棋聖、叡王は「就位状」である。
プロの棋戦において、多くは、対局者のほか記録係・立会人・観戦記者らの関係者のみが対局室に入室し対局が行われるが、観覧席を設けて対局者の様子を一般のファンに公開する公開対局の形式によることもある。対局開始時やその直後などのごく短時間の公開、インターネット・TV中継での公開だけのものは公開対局にあてはまらない。タイトル戦で実施される場合は、午前は対局室(非公開)で午後から終局までが舞台上で公開対局となるケースが多い(例:第31期棋王戦第1局)。
棋士の側においても基本的に公開対局は奨励されるものとしての見解が多いが、タイトル戦のような長時間の対局においては疑問を呈する棋士もいる。
その他タイトル戦の番勝負についても棋王戦、王将戦、棋聖戦、王位戦で実施されたことがある。
2016年の将棋ソフト不正使用疑惑騒動を受け、2016年12月よりカンニング防止の目的で、将棋会館などでの対局の際に、棋士は対局前に所持するスマートフォンなどの電子機器を暗証番号式のロッカーに預け入れ、対局終了まで保管することが義務付けられている。また対局中にランダムで抜き打ち検査なども行っており、電子機器の所持が見つかった場合は出場停止などの処分を受けるとされている。タイトル戦ではロッカーなどが無いため、代わりに連盟の職員に機器類を預ける形となる。
同様の理由で、同じく2016年12月より、対局中の棋士は対局を行っている建物の敷地外への外出が許されなくなった。それ以前は昼食・夕食休憩時に外出して食事を摂る棋士も多かったが、以後の食事は原則として出前や連盟職員による買い出し、もしくは弁当などを持参する形となっている。こちらも罰則規定があり、違反すると対局料の減額などの処分を受ける。
タイトル戦の対局は将棋会館以外で行われる事がほとんどである。伝統ある旅館を筆頭に、ホテルや寺院・神社・料亭など、広めの和室を持つ施設が選ばれるのが一般的(和室以外の対局では臨時に畳を敷くが、やむを得ない場合はカーペット敷も認められる場合がある)。名人戦・竜王戦などで、対局地の公募も行われている。
対局者は、通常前日に現地入りし、夕方に対局室、盤・駒の選定・検分を行なう。将棋連盟が所蔵する駒以外に、地元の愛棋家が所有する駒が使われることも多い。 特に格の高いタイトル戦では、特別な盤駒が使用される事もある。たとえば、伝統的に、毎年の名人戦の第1局でのみ使用される「名人駒」がある。
対局前夜にはほとんどの場合前夜祭が開かれ、地元の将棋ファンとの交流などが図られる(ただし感染症の流行などを理由に実施されない場合もある)。
対局者が会場に向かう際は、原則として主催社の担当者や観戦記者・連盟職員らと同行するほか、両対局者の出発地が同じ場合は同じ列車・飛行機などに同乗する。一方で対局終了後は大抵は現地解散となるため、対局者や関係者はバラバラに帰宅する(観光を楽しむ者も少なくない)。
将棋のタイトル戦の番勝負では、対局者は和服を着用するのが慣例である。
対局者が洋服を着用した例も少なくなく、加藤一二三・森雞二・島朗・谷川浩司・羽生善治・佐藤康光・村山聖・永瀬拓矢・藤井聡太などの例が挙げられる。なお、永瀬は和服での対局を好まず、特に第5期叡王戦第2局では対局開始時に和服で登場したのち、いったん離席してスーツに着替えた。
竜王戦・名人戦では、記録係も和服を着ることになっている。王座戦では2023年度(第71期)より、番勝負で両対局者の和装が義務化された。
女流タイトル戦では、マイナビ女子オープン五番勝負においては和服(着物と袴)を着用する。他の女流タイトル戦の番勝負では洋服を着用するのが普通である。ただし、対局者の意思で和服を着用するのは自由である(例:第30期女流王位戦五番勝負第2局における渡部愛)。制服のある学校に在学中であれば、制服を着用する(例:第5期マイナビ女子オープン五番勝負における長谷川優貴)。
タイトル戦が終了した後の就位式(タイトルによって名称が異なる)には、主役たるタイトルホルダーは、棋士は紋付羽織袴、女流棋士は和服(対局時と異なり、袴は着用しない)で臨むことが多い。
江戸時代から名人は家元制の終身名人として続いていたが、1935年(昭和10年)、十三世名人の関根金次郎が1937年をもって名人位を退位することを宣言し、実力名人制に改められた。第1期名人戦は「名人決定大棋戦」と呼ばれた八段リーグ戦で2年にわたって行われ、1937年(昭和12年)に木村義雄が初代名人となった。これが将棋のタイトル戦の始まりである。
1946年(昭和21年)からは、名人戦の予選として「順位戦」のシステムが始まった。
(※以下の年度は、予選開始年ではなく番勝負が実施された年度。日本将棋連盟公式サイトでの表記も同様である)
(タイトル戦が「名人戦」「九段戦」「王将戦」の3棋戦という時代が約10年間続く。)
(以降、タイトル戦の数が5つ、年間のタイトル戦の回数が6回という時代が十余年続く。)
(7つのタイトル戦、竜王戦・名人戦・棋聖戦・王位戦・王座戦・棋王戦・王将戦の時代が2017年度まで続く。)
(2023年度時点で、8つのタイトル戦、竜王戦・名人戦・王位戦・叡王戦・王座戦・棋王戦・王将戦・棋聖戦 が行なわれている。)
8つのタイトル戦には序列が存在し、2022年現在、竜王戦が1位、名人戦が2位、以下、王位戦→叡王戦→王座戦→棋王戦→王将戦→棋聖戦の順である。タイトル戦の序列は契約金の額による。このため契約金が変更されれば序列も変更される。日本将棋連盟公式ホームページの棋戦一覧の項では、タイトル戦が序列順に並べられているが、長らく序列3位であった棋聖戦は、2009年8月に序列6位に下がり、2010年10月には7位に、さらに叡王戦がタイトル戦に組み入れられた2015年からは8位に下がっている。2017年のタイトル昇格時には序列3位だった叡王戦は、2020年のスポンサーと契約金の変更に伴い6位となったが、2022年に4位まで序列を戻している。
上記の棋戦の序列を受けて、棋士の序列は以下のように決められる。
名目上の序列は以上のようになるが、実際の運用においてはタイトルを持たない場合で段位が同じ場合は、棋士番号が小さい者が上座に座るのが暗黙の了解とされており、タイトルホルダーであっても実績に勝る先輩棋士や引退を控えた大棋士に対して敬意を表して上座を譲る光景がまれに見られる。
上記のようにタイトルの中でも、竜王と名人は別格に扱われる。この両タイトルのいずれかを所持している場合は他のタイトルの有無に関わらず「竜王」または「名人」とだけ呼ばれ、また、両タイトルを同時に保持した場合「竜王・名人」という特別な呼称で呼ばれる。2023年度名人戦終了時点で、「竜王・名人」となった棋士は5名(羽生善治(2回)、谷川浩司、森内俊之(2回)、豊島将之、藤井聡太)だけである。「竜王・名人」による竜王または名人の防衛は、3例(羽生、谷川、藤井)だけである。
竜王と名人が他タイトルとは別格に扱われる点は以下の通り。
なおタイトルとしての名人と竜王は、公式には同格という扱いになっている。ただ、スポンサーなどの事情を鑑み大きな声では主張できないものの、歴史の長さなどを理由に「名人位は特別なタイトル」という意見を持つ棋士も少なくなく、渡辺明などはその旨を公言している。週刊将棋1994年1月26日号では、「名人は天皇、竜王は首相」と表現している。
2020年現在、女流タイトル戦の数は8つである。なお、男性棋戦と異なり、女流棋戦は白玲戦以外の序列はないが、一覧表記する際は便宜的に「優勝賞金額の順」および「棋戦創設順」に並べる。
日本将棋連盟の「棋士」(将棋棋士)の棋戦である。
女流棋士や奨励会員、アマチュア選手の出場枠が設けられているものもある。女流棋士と奨励会の重籍者は、参加枠の適用が棋戦によって異なる。
棋士のタイトル戦は、下表のとおり、2021年現在8つある。この他に終了したタイトル戦として、九段戦・十段戦がある。
※いずれの棋戦も日本将棋連盟が主催者に名を連ねている。
上記の表の持ち時間は番勝負での持ち時間について示している。予選や本戦などでの持ち時間については「持ち時間#将棋」を参照。 叡王戦と王座戦はチェスクロック使用で秒単位の消費時間を算入し、使い切ったら60秒の秒読み(※)。その他のタイトル棋戦ではストップウォッチ使用で秒単位の消費時間を切り捨て、最後の1分を秒読み。
太字は現在の日本将棋連盟が公認しているタイトル戦。
女流タイトル戦は、日本将棋連盟が運営し、所属(日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会、フリー)にかかわらず、全ての現役女流棋士(休場者を除く)に出場義務が課される。リコー杯女流王座戦のみはエントリー制を採用しているため、出場を辞退できる。
マイナビ女子オープンとリコー杯女流王座戦はオープン棋戦であり、女性奨励会員(女流棋士と奨励会の重籍者を除く。以下同じ。)、予選を通過した女性アマチュア選手も出場できる。女流王将戦は、出場資格が「女流棋戦タイトルホルダーと女流棋士と選抜された女流アマチュアで行います。」と規定されているため、女流タイトル在位者は無条件に出場できる。女性奨励会員が出場できる女流タイトル戦は、マイナビ女子オープンと女流王座戦の2つである。どちらかの棋戦で女流タイトル保持者となった場合は女流王将戦が加わり最大3つである。
選抜された女性アマチュア選手の出場枠が設けられている棋戦もある。
2020年に白玲戦とその予選を兼ねる女流順位戦が創設され、女流タイトル戦は8つとなった。番勝負は全て1日制。「将棋の女流タイトル在位者一覧」も参照。
※いずれの棋戦も日本将棋連盟が主催者に名を連ねている。
直近をより重視の上、直近5期を参考(開催期により前後することもあります)
永世称号は、同一タイトルを一定の期数(3期の九段以外は最低5期保持を要する事が多い)獲得した者に与えられる称号であり、現存する8タイトル戦と、竜王戦へと発展解消されて終了棋戦となった2つのタイトル戦(九段戦・十段戦)に制定されている。また、一般棋戦ではNHK杯戦で永世称号に準じた「名誉NHK杯選手権者」の称号が制定されている。各棋戦には永世称号獲得のために必要な、連続または通算タイトル獲得期数あるいは優勝回数が規定されている。現在は、永世棋王だけが連続獲得のみの規定である。
永世称号の名称はタイトル名に「永世」または「名誉」を冠したものである。「名誉」を冠するのはタイトル戦では王座戦(日本経済新聞社主催。囲碁の王座戦も主催しているため、囲碁と同じ称号となった)のみである。また、永世名人の場合は資格を得た順に番号が付き「○○世名人」と呼称される(名人 (将棋)#永世名人を参照)。
永世称号を名乗り始めることを「永世(または名誉)○○に就位する」あるいは「永世(または名誉)○○を名乗る」と言う。ただし、永世名人の場合は「○○世名人を襲位する」と言う。
なお、タイトルの実績とは無関係に贈られた名誉称号(例:名誉名人、名誉九段)も存在する。塚田正夫は十段を獲得したことはないが、十段戦の前身棋戦である九段戦で永世九段を獲得し、逝去後に名誉十段が贈られている。
棋士のタイトル永世称号は引退後に名乗るのが原則とされているが、実際には、塚田正夫は永世称号に基づいて「九段」を称しており、また、大山康晴(永世王将、のちに十五世名人も)、中原誠(永世十段、のちに名誉王座・十六世名人・永世棋聖・永世王位も)、米長邦雄(永世棋聖)、谷川浩司(十七世名人)と、いずれも現役のまま永世称号を名乗っており、木村義雄が引退と同時に十四世名人を襲位した1952年以降、引退してから初めて永世称号を名乗った例は一つもない。なお名誉王座については、囲碁の名誉称号と同じく現役でも満60歳に達すると名乗ることができる。また、名誉NHK杯選手権者については達成直後に称号が贈られている。
女流棋戦において永世称号に相当するのは「クイーン称号」である。
2023年現在、「白玲戦」を除く7つのタイトル戦でクイーン称号が制定されている。
クイーン称号は、タイトル名称「○○」「女流○○」に対して「クイーン○○」となる。ただし「マイナビ女子オープン」では、タイトル名称「女王」に対してクイーン称号には「永世女王」となっている。
クイーン称号については、棋士の永世称号とは異なり「原則として引退後に就位」という規定はない。タイトル獲得・防衛によってクイーン称号の条件を満たすと、その期の就位式において、タイトルの就位状に加えて「クイーン称号の就位状」が同時に授与される 。
将棋の複数のタイトル全てを同時に保持する「全冠制覇」は、棋士のタイトル戦では九段戦に名人が参加するようになった1956年度から2023年度までに11回の挑戦機会があり、全冠制覇は9回達成された(4名達成、大山康晴のみ6回達成)。
棋士のタイトル戦における最後の全冠制覇達成者は2023年度の藤井聡太(全八冠制覇)である。藤井による最初の全冠制覇は、同記録のプロ入り後史上最速(7年0か月)・史上最年少(21歳2か月)での達成でもある。 なお藤井は王座獲得時に直近一年以内の参加可能な一般棋戦も全て制覇しており、同時期での棋戦完全制覇を達成している。
上記「#棋士タイトル全冠制覇」以外の生涯グランドスラム達成者(全タイトル1期以上獲得者)
2023年12月23日現在。年は年度で記載。すでに上述した記録は記さない。
将棋界ではタイトル数が3以上において、タイトル分散の状況がこれまでに4回生じている。(3タイトル時、6タイトル時、7タイトル時、8タイトル時に1回ずつ)。
下記6大会(個人戦)は主要アマ6棋戦と呼ばれる。そのいずれかにおける優勝は奨励会三段リーグ編入試験の受験資格となる。 | [
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"text": "プロの棋戦において、多くは、対局者のほか記録係・立会人・観戦記者らの関係者のみが対局室に入室し対局が行われるが、観覧席を設けて対局者の様子を一般のファンに公開する公開対局の形式によることもある。対局開始時やその直後などのごく短時間の公開、インターネット・TV中継での公開だけのものは公開対局にあてはまらない。タイトル戦で実施される場合は、午前は対局室(非公開)で午後から終局までが舞台上で公開対局となるケースが多い(例:第31期棋王戦第1局)。",
"title": "主な取り決めなど"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "棋士の側においても基本的に公開対局は奨励されるものとしての見解が多いが、タイトル戦のような長時間の対局においては疑問を呈する棋士もいる。",
"title": "主な取り決めなど"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "その他タイトル戦の番勝負についても棋王戦、王将戦、棋聖戦、王位戦で実施されたことがある。",
"title": "主な取り決めなど"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2016年の将棋ソフト不正使用疑惑騒動を受け、2016年12月よりカンニング防止の目的で、将棋会館などでの対局の際に、棋士は対局前に所持するスマートフォンなどの電子機器を暗証番号式のロッカーに預け入れ、対局終了まで保管することが義務付けられている。また対局中にランダムで抜き打ち検査なども行っており、電子機器の所持が見つかった場合は出場停止などの処分を受けるとされている。タイトル戦ではロッカーなどが無いため、代わりに連盟の職員に機器類を預ける形となる。",
"title": "主な取り決めなど"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "同様の理由で、同じく2016年12月より、対局中の棋士は対局を行っている建物の敷地外への外出が許されなくなった。それ以前は昼食・夕食休憩時に外出して食事を摂る棋士も多かったが、以後の食事は原則として出前や連盟職員による買い出し、もしくは弁当などを持参する形となっている。こちらも罰則規定があり、違反すると対局料の減額などの処分を受ける。",
"title": "主な取り決めなど"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "タイトル戦の対局は将棋会館以外で行われる事がほとんどである。伝統ある旅館を筆頭に、ホテルや寺院・神社・料亭など、広めの和室を持つ施設が選ばれるのが一般的(和室以外の対局では臨時に畳を敷くが、やむを得ない場合はカーペット敷も認められる場合がある)。名人戦・竜王戦などで、対局地の公募も行われている。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "対局者は、通常前日に現地入りし、夕方に対局室、盤・駒の選定・検分を行なう。将棋連盟が所蔵する駒以外に、地元の愛棋家が所有する駒が使われることも多い。 特に格の高いタイトル戦では、特別な盤駒が使用される事もある。たとえば、伝統的に、毎年の名人戦の第1局でのみ使用される「名人駒」がある。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "対局前夜にはほとんどの場合前夜祭が開かれ、地元の将棋ファンとの交流などが図られる(ただし感染症の流行などを理由に実施されない場合もある)。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "対局者が会場に向かう際は、原則として主催社の担当者や観戦記者・連盟職員らと同行するほか、両対局者の出発地が同じ場合は同じ列車・飛行機などに同乗する。一方で対局終了後は大抵は現地解散となるため、対局者や関係者はバラバラに帰宅する(観光を楽しむ者も少なくない)。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "将棋のタイトル戦の番勝負では、対局者は和服を着用するのが慣例である。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "対局者が洋服を着用した例も少なくなく、加藤一二三・森雞二・島朗・谷川浩司・羽生善治・佐藤康光・村山聖・永瀬拓矢・藤井聡太などの例が挙げられる。なお、永瀬は和服での対局を好まず、特に第5期叡王戦第2局では対局開始時に和服で登場したのち、いったん離席してスーツに着替えた。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "竜王戦・名人戦では、記録係も和服を着ることになっている。王座戦では2023年度(第71期)より、番勝負で両対局者の和装が義務化された。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "女流タイトル戦では、マイナビ女子オープン五番勝負においては和服(着物と袴)を着用する。他の女流タイトル戦の番勝負では洋服を着用するのが普通である。ただし、対局者の意思で和服を着用するのは自由である(例:第30期女流王位戦五番勝負第2局における渡部愛)。制服のある学校に在学中であれば、制服を着用する(例:第5期マイナビ女子オープン五番勝負における長谷川優貴)。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "タイトル戦が終了した後の就位式(タイトルによって名称が異なる)には、主役たるタイトルホルダーは、棋士は紋付羽織袴、女流棋士は和服(対局時と異なり、袴は着用しない)で臨むことが多い。",
"title": "慣例"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "江戸時代から名人は家元制の終身名人として続いていたが、1935年(昭和10年)、十三世名人の関根金次郎が1937年をもって名人位を退位することを宣言し、実力名人制に改められた。第1期名人戦は「名人決定大棋戦」と呼ばれた八段リーグ戦で2年にわたって行われ、1937年(昭和12年)に木村義雄が初代名人となった。これが将棋のタイトル戦の始まりである。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1946年(昭和21年)からは、名人戦の予選として「順位戦」のシステムが始まった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "(※以下の年度は、予選開始年ではなく番勝負が実施された年度。日本将棋連盟公式サイトでの表記も同様である)",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "(タイトル戦が「名人戦」「九段戦」「王将戦」の3棋戦という時代が約10年間続く。)",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "(以降、タイトル戦の数が5つ、年間のタイトル戦の回数が6回という時代が十余年続く。)",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "(7つのタイトル戦、竜王戦・名人戦・棋聖戦・王位戦・王座戦・棋王戦・王将戦の時代が2017年度まで続く。)",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "(2023年度時点で、8つのタイトル戦、竜王戦・名人戦・王位戦・叡王戦・王座戦・棋王戦・王将戦・棋聖戦 が行なわれている。)",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "8つのタイトル戦には序列が存在し、2022年現在、竜王戦が1位、名人戦が2位、以下、王位戦→叡王戦→王座戦→棋王戦→王将戦→棋聖戦の順である。タイトル戦の序列は契約金の額による。このため契約金が変更されれば序列も変更される。日本将棋連盟公式ホームページの棋戦一覧の項では、タイトル戦が序列順に並べられているが、長らく序列3位であった棋聖戦は、2009年8月に序列6位に下がり、2010年10月には7位に、さらに叡王戦がタイトル戦に組み入れられた2015年からは8位に下がっている。2017年のタイトル昇格時には序列3位だった叡王戦は、2020年のスポンサーと契約金の変更に伴い6位となったが、2022年に4位まで序列を戻している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "上記の棋戦の序列を受けて、棋士の序列は以下のように決められる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "名目上の序列は以上のようになるが、実際の運用においてはタイトルを持たない場合で段位が同じ場合は、棋士番号が小さい者が上座に座るのが暗黙の了解とされており、タイトルホルダーであっても実績に勝る先輩棋士や引退を控えた大棋士に対して敬意を表して上座を譲る光景がまれに見られる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "上記のようにタイトルの中でも、竜王と名人は別格に扱われる。この両タイトルのいずれかを所持している場合は他のタイトルの有無に関わらず「竜王」または「名人」とだけ呼ばれ、また、両タイトルを同時に保持した場合「竜王・名人」という特別な呼称で呼ばれる。2023年度名人戦終了時点で、「竜王・名人」となった棋士は5名(羽生善治(2回)、谷川浩司、森内俊之(2回)、豊島将之、藤井聡太)だけである。「竜王・名人」による竜王または名人の防衛は、3例(羽生、谷川、藤井)だけである。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "竜王と名人が他タイトルとは別格に扱われる点は以下の通り。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "なおタイトルとしての名人と竜王は、公式には同格という扱いになっている。ただ、スポンサーなどの事情を鑑み大きな声では主張できないものの、歴史の長さなどを理由に「名人位は特別なタイトル」という意見を持つ棋士も少なくなく、渡辺明などはその旨を公言している。週刊将棋1994年1月26日号では、「名人は天皇、竜王は首相」と表現している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2020年現在、女流タイトル戦の数は8つである。なお、男性棋戦と異なり、女流棋戦は白玲戦以外の序列はないが、一覧表記する際は便宜的に「優勝賞金額の順」および「棋戦創設順」に並べる。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日本将棋連盟の「棋士」(将棋棋士)の棋戦である。",
"title": "棋士の棋戦"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "女流棋士や奨励会員、アマチュア選手の出場枠が設けられているものもある。女流棋士と奨励会の重籍者は、参加枠の適用が棋戦によって異なる。",
"title": "棋士の棋戦"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "棋士のタイトル戦は、下表のとおり、2021年現在8つある。この他に終了したタイトル戦として、九段戦・十段戦がある。",
"title": "棋士の棋戦"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "※いずれの棋戦も日本将棋連盟が主催者に名を連ねている。",
"title": "棋士の棋戦"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "上記の表の持ち時間は番勝負での持ち時間について示している。予選や本戦などでの持ち時間については「持ち時間#将棋」を参照。 叡王戦と王座戦はチェスクロック使用で秒単位の消費時間を算入し、使い切ったら60秒の秒読み(※)。その他のタイトル棋戦ではストップウォッチ使用で秒単位の消費時間を切り捨て、最後の1分を秒読み。",
"title": "棋士の棋戦"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "太字は現在の日本将棋連盟が公認しているタイトル戦。",
"title": "棋士の棋戦"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "女流タイトル戦は、日本将棋連盟が運営し、所属(日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会、フリー)にかかわらず、全ての現役女流棋士(休場者を除く)に出場義務が課される。リコー杯女流王座戦のみはエントリー制を採用しているため、出場を辞退できる。",
"title": "女流棋戦"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "マイナビ女子オープンとリコー杯女流王座戦はオープン棋戦であり、女性奨励会員(女流棋士と奨励会の重籍者を除く。以下同じ。)、予選を通過した女性アマチュア選手も出場できる。女流王将戦は、出場資格が「女流棋戦タイトルホルダーと女流棋士と選抜された女流アマチュアで行います。」と規定されているため、女流タイトル在位者は無条件に出場できる。女性奨励会員が出場できる女流タイトル戦は、マイナビ女子オープンと女流王座戦の2つである。どちらかの棋戦で女流タイトル保持者となった場合は女流王将戦が加わり最大3つである。",
"title": "女流棋戦"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "選抜された女性アマチュア選手の出場枠が設けられている棋戦もある。",
"title": "女流棋戦"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2020年に白玲戦とその予選を兼ねる女流順位戦が創設され、女流タイトル戦は8つとなった。番勝負は全て1日制。「将棋の女流タイトル在位者一覧」も参照。",
"title": "女流棋戦"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "※いずれの棋戦も日本将棋連盟が主催者に名を連ねている。",
"title": "女流棋戦"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "直近をより重視の上、直近5期を参考(開催期により前後することもあります)",
"title": "女流棋戦"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "永世称号は、同一タイトルを一定の期数(3期の九段以外は最低5期保持を要する事が多い)獲得した者に与えられる称号であり、現存する8タイトル戦と、竜王戦へと発展解消されて終了棋戦となった2つのタイトル戦(九段戦・十段戦)に制定されている。また、一般棋戦ではNHK杯戦で永世称号に準じた「名誉NHK杯選手権者」の称号が制定されている。各棋戦には永世称号獲得のために必要な、連続または通算タイトル獲得期数あるいは優勝回数が規定されている。現在は、永世棋王だけが連続獲得のみの規定である。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "永世称号の名称はタイトル名に「永世」または「名誉」を冠したものである。「名誉」を冠するのはタイトル戦では王座戦(日本経済新聞社主催。囲碁の王座戦も主催しているため、囲碁と同じ称号となった)のみである。また、永世名人の場合は資格を得た順に番号が付き「○○世名人」と呼称される(名人 (将棋)#永世名人を参照)。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "永世称号を名乗り始めることを「永世(または名誉)○○に就位する」あるいは「永世(または名誉)○○を名乗る」と言う。ただし、永世名人の場合は「○○世名人を襲位する」と言う。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "なお、タイトルの実績とは無関係に贈られた名誉称号(例:名誉名人、名誉九段)も存在する。塚田正夫は十段を獲得したことはないが、十段戦の前身棋戦である九段戦で永世九段を獲得し、逝去後に名誉十段が贈られている。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "棋士のタイトル永世称号は引退後に名乗るのが原則とされているが、実際には、塚田正夫は永世称号に基づいて「九段」を称しており、また、大山康晴(永世王将、のちに十五世名人も)、中原誠(永世十段、のちに名誉王座・十六世名人・永世棋聖・永世王位も)、米長邦雄(永世棋聖)、谷川浩司(十七世名人)と、いずれも現役のまま永世称号を名乗っており、木村義雄が引退と同時に十四世名人を襲位した1952年以降、引退してから初めて永世称号を名乗った例は一つもない。なお名誉王座については、囲碁の名誉称号と同じく現役でも満60歳に達すると名乗ることができる。また、名誉NHK杯選手権者については達成直後に称号が贈られている。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "女流棋戦において永世称号に相当するのは「クイーン称号」である。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2023年現在、「白玲戦」を除く7つのタイトル戦でクイーン称号が制定されている。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "クイーン称号は、タイトル名称「○○」「女流○○」に対して「クイーン○○」となる。ただし「マイナビ女子オープン」では、タイトル名称「女王」に対してクイーン称号には「永世女王」となっている。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "クイーン称号については、棋士の永世称号とは異なり「原則として引退後に就位」という規定はない。タイトル獲得・防衛によってクイーン称号の条件を満たすと、その期の就位式において、タイトルの就位状に加えて「クイーン称号の就位状」が同時に授与される 。",
"title": "永世称号"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "将棋の複数のタイトル全てを同時に保持する「全冠制覇」は、棋士のタイトル戦では九段戦に名人が参加するようになった1956年度から2023年度までに11回の挑戦機会があり、全冠制覇は9回達成された(4名達成、大山康晴のみ6回達成)。",
"title": "全冠制覇"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "棋士のタイトル戦における最後の全冠制覇達成者は2023年度の藤井聡太(全八冠制覇)である。藤井による最初の全冠制覇は、同記録のプロ入り後史上最速(7年0か月)・史上最年少(21歳2か月)での達成でもある。 なお藤井は王座獲得時に直近一年以内の参加可能な一般棋戦も全て制覇しており、同時期での棋戦完全制覇を達成している。",
"title": "全冠制覇"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "上記「#棋士タイトル全冠制覇」以外の生涯グランドスラム達成者(全タイトル1期以上獲得者)",
"title": "全冠制覇"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2023年12月23日現在。年は年度で記載。すでに上述した記録は記さない。",
"title": "記録"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "将棋界ではタイトル数が3以上において、タイトル分散の状況がこれまでに4回生じている。(3タイトル時、6タイトル時、7タイトル時、8タイトル時に1回ずつ)。",
"title": "記録"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "下記6大会(個人戦)は主要アマ6棋戦と呼ばれる。そのいずれかにおける優勝は奨励会三段リーグ編入試験の受験資格となる。",
"title": "アマチュアの棋戦"
}
] | 棋戦とは、将棋の大会のことである。通常はプロ(棋士、女流棋士)のものをいい、女流棋士のものは特に「女流棋戦」という。アマチュアの大会については、単に「将棋大会」などと言うことが多いが、規模の大きいものは「アマチュア棋戦」と呼ばれる。以下では、主に公益社団法人日本将棋連盟が主催するプロの棋戦について述べる。 2023年現在、以下のような棋戦がある。 公式戦
タイトル戦
一般棋戦
全棋士参加棋戦
上位棋士選抜棋戦
年齢別棋士・下位棋士選抜棋戦
非公式戦 公式戦は、対局結果と棋譜が日本将棋連盟の公式記録に残る棋戦、非公式戦は残らない棋戦である。タイトル戦は、優勝者にタイトル(称号)が与えられる棋戦、一般棋戦は、タイトル戦以外の公式戦のことである。一般棋戦には、全棋士に参加資格があるもの、上位棋士にのみ参加資格があるもの、若手棋士らにのみ参加資格があるものの区別がある。なお、一つの棋戦のなかに公式対局と非公式対局が混在する場合もある。なお、過去には一年に2回開催する棋戦なども存在したが、現在の棋戦は原則として一年に1回である。 | {{色}}{{将棋ヘッダ}}
{{読み仮名|'''棋戦'''|きせん}}とは、[[将棋]]の大会のことである。通常はプロ([[棋士 (将棋)|棋士]]、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]])のものをいい、女流棋士のものは特に「女流棋戦」という。アマチュアの大会については、単に「将棋大会」などと言うことが多いが、規模の大きいものは「[[将棋のアマチュア棋戦|アマチュア棋戦]]」と呼ばれる。以下では、主に[[日本将棋連盟|公益社団法人日本将棋連盟]]が主催するプロの棋戦について述べる。
2023年現在、以下のような棋戦がある。
*公式戦
**タイトル戦(棋士:全8タイトル、女流棋士:全8タイトル)
**一般棋戦
***全棋士参加棋戦(棋士:全3大会、女流棋士:該当なし)
***上位棋士選抜棋戦(棋士:全1大会、女流棋士:該当なし)
***年齢別棋士・下位棋士選抜棋戦(棋士:全3大会、女流棋士:全1大会)
*非公式戦(棋士:全3大会、女流棋士:全3大会)
公式戦は、対局結果と棋譜が[[日本将棋連盟]]の公式記録に残る棋戦、非公式戦は残らない棋戦である<ref group="注">非公式戦であっても、棋戦の主催者が対局結果や棋譜(もしくは対局の映像)を保管あるいは公開している場合があるので、非公式戦だからといって必ずしも記録が失われるというわけではない。</ref>。タイトル戦は、優勝者にタイトル(称号)が与えられる棋戦、一般棋戦は、タイトル戦以外の公式戦のことである。一般棋戦には、全棋士に参加資格があるもの、上位棋士にのみ参加資格があるもの、若手棋士らにのみ参加資格があるものの区別がある。なお、一つの棋戦のなかに公式対局と非公式対局が混在する場合もある<ref group="注">[[叡王戦]](第3-5期)、[[マイナビ女子オープン]]、[[女流王座戦]]の3棋戦は最下位予選のみが非公式戦である。[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]は[[NHK杯テレビ将棋トーナメント#予選|女流予選]]が非公式戦である。</ref>。なお、過去には一年に2回開催する棋戦なども存在したが、現在の棋戦は原則として一年に1回である。
==概要==
棋士・女流棋士は、棋戦に参加して対局をすることで対局料・賞金を得て活動している。過去の棋戦も含めて、棋戦の大半は新聞・雑誌・テレビ・インターネット放送といったマスメディアが主催者である。新聞や雑誌の場合には主催紙に棋譜が掲載され、テレビやインターネット放送の場合には主催局で対局の模様が中継される。これらの主催者から、対局者に賞金などが支払われる。
棋戦のうち、称号(タイトル)を争うものがタイトル戦である。通常は、称号の名前がそのまま棋戦の名前になる(例:「竜王」の称号を争う棋戦が「竜王戦」)。優勝者は、称号を獲得し、翌年のタイトル戦が終わるまでの間、[[将棋の段級|段位]]に代わってこれを肩書として名乗ることができる(例:「○○△△竜王」、「竜王 ○○△△」、あるいは単に「○○竜王」など)。さらに、特定の条件を満たした場合には、恒久的に名乗れる特別な称号を獲得できる場合もある(永世称号)。棋士個人の地位序列を左右すると共に対局料および賞金も高額であるため、棋戦の中ではタイトル戦が最も重んじられている。
タイトル戦は、いわゆる[[挑戦手合制]]で開催される。挑戦手合制では、まず現在のタイトル在位者(前回の優勝者)を除く棋士でトーナメントなどを開催して挑戦者を決定する。そして、選ばれた挑戦者と現在のタイトル在位者との間で[[番勝負]]<ref group="注">これ以外にも番勝負が行われることはある。たとえば[[竜王戦]]では挑戦者決定戦も三番勝負で開催される。</ref>(1対1で複数局を連続して戦うこと。シリーズとも言う<ref>「第70期名人戦七番勝負第6局-堂々の防衛劇」 『将棋世界』 2012年8月号、7頁。</ref>)を行い、勝ち越した方がタイトルを獲得する。現在のタイトル在位者が再びタイトルを獲得することを防衛、挑戦者がタイトルを獲得することを奪取と言う。
タイトル戦以外の公式記録に残る棋戦が一般棋戦である。一般棋戦の中には、全棋士が参加するものだけでなく、参加資格が段位・年齢などで制限されているものもあり、昇段規定などで区別がなされている。また、かつては、名人以外の棋士だけが参加する棋戦などもあった。一般棋戦の開催方式は様々である。近年は[[トーナメント方式|勝ち残り式トーナメント]]が多いが、過去には、連勝数を競う勝ち抜き戦や挑戦手合制で開催されるものもあった。勝ち残りトーナメント方式の一般棋戦は、優勝棋戦などと呼ばれることもある。また、挑戦手合制の一般棋戦(早指し王位戦、王座戦(旧)、朝日選手権など)は、準タイトル戦などと呼ばれることもある。過去の一般棋戦は、勝ち残り式トーナメントの場合でも決勝のみ番勝負となっているものが多く、[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]は現在も決勝三番勝負で行われる。なお、一般棋戦でも特殊な称号(NHK杯選手権者など)が獲得できることもあるが、これらは段位の代わりではなく、その棋戦の中でのみ使われるものであるため、タイトルとは区別される。
== 主な取り決めなど ==
=== 先後の決定 ===
先後([[先手]]・[[後手]])は[[振り駒]]によって決定される。ただし[[リーグ戦]]が実施される、[[順位戦]]・[[王位戦 (将棋)|王位戦]]・[[王将戦]]・[[白玲戦|女流順位戦]]・[[女流名人戦 (将棋)|女流名人戦]]・[[女流王位戦]]では、対局順決定時に先後も決定するため当該リーグ戦での振り駒は行われない。ただし、挑戦者決定[[プレーオフ]]や残留決定戦などの同率戦対局では振り駒が行われる。
[[大和証券杯ネット将棋・最強戦|最強戦]]や[[大和証券杯ネット将棋・女流最強戦|女流最強戦]](いずれも休止棋戦)などのネット棋戦では、コンピュータがランダムに先後を決定する。
タイトル戦などの番勝負では、1局目にのみ振り駒を行い、2局目以降は毎局先後を入れ替え、最終局については再度振り駒を行い先後を決定する。[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]の挑戦者決定戦(変則二番勝負)は厳密な意味での番勝負ではないため、2局目も振り駒を行う。
[[千日手]]や[[持将棋]]になると先後を入れ替えて即日指し直しとなる。タイトル戦での千日手・持将棋は後日指し直しとなることもある。
番勝負において、千日手・持将棋となり即日指し直しで勝負がついた場合の次局の先後については、千日手・持将棋となった緒局から先後を入れ替える。つまり、指し直し局を手番上1局と見ず、千日手・持将棋による先後の入れ替えは後続局に持ち越されない(一局完結方式)。
=== 免状 ===
タイトル戦の勝者には、後日、就位式で免状に相当するものが与えられる。タイトルにより名称は異なる。名人は「推戴状」{{refn | group=注 | [[谷川浩司]]が現役で永世名人を襲位した際にも推戴状が授与された。<ref>{{citation | url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/06/post_2129.html | title=谷川浩司十七世名人「推戴状授与式」の模様 | publisher=日本将棋連盟 | date=2022-06-09 | accessdate=2022-06-10 }}</ref>}}、竜王は「推挙状」、王座は「允許状」、王将は「贈位状」、王位、棋王、棋聖、叡王は「就位状」である。<ref group="注">囲碁ではほとんど<!-- 曖昧な表現で失礼 -->のタイトルで「允許状」が与えられる。</ref><ref>{{citation | url=https://www.shogi.or.jp/photo_gallery/007.html | date=2015-03-19 | accessdate=2022-06-10 | title=名人戦 | work=弦巻勝のWeb将棋写真館 | author=[[弦巻勝]] | publisher=[[日本将棋連盟]] }}</ref><ref>{{ citation | url=https://www.sankei.com/article/20211108-SPS4PSCSJRKJDLAZWTN7AHDHNE/ | date=2021-11-08 | accessdate=2022-06-10 | title=藤井叡王就位式「決断良く指せた」 | publisher=[[産経新聞]] }}</ref>
=== 公開対局 ===
プロの棋戦において、多くは、対局者のほか記録係・[[立会人]]・[[観戦記者]]らの関係者のみが対局室に入室し対局が行われるが、観覧席を設けて対局者の様子を一般のファンに公開する[[公開対局 (将棋)|公開対局]]の形式によることもある。対局開始時やその直後などのごく短時間の公開、インターネット・TV中継での公開だけのものは公開対局にあてはまらない。タイトル戦で実施される場合は、午前は対局室(非公開)で午後から終局までが舞台上で公開対局となるケースが多い(例:第31期棋王戦第1局<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ehime-np.co.jp/tokushuex/0602kiousen/photo.html|title=第31期棋王戦松山対局・写真特集|accessdate=2018-07-15|last=|website=|publisher=[[愛媛新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180715142754/http://www.ehime-np.co.jp/tokushuex/0602kiousen/photo.html|archivedate=2018-7-15}}</ref>)。
棋士の側においても基本的に公開対局は奨励されるものとしての見解が多いが<ref>{{Cite web|和書|url=http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020730s3001s3|title=将棋対局もスポーツ感覚・ライブで“王手”|accessdate=2019-7-8|publisher=[[日経流通新聞]]|website=NIKKEI NET 将棋王国|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021019020159/http://hobby.nikkei.co.jp/shogi/column/index.cfm?i=20020730s3001s3|archivedate=2002-10-19|deadlinkdate=2019-7-8}}</ref>、タイトル戦のような長時間の対局においては疑問を呈する棋士もいる。
====例年公開対局が実施されている棋戦====
*[[竜王戦]](七番勝負第1局、10月)…東京都渋谷区の[[セルリアンタワー]]能楽堂(第30期より一部)
*[[将棋日本シリーズ]](JTプロ公式戦)…全国各地。決勝については2016年まで[[東京ビッグサイト]]、2017年より[[幕張メッセ]]。
*[[朝日杯将棋オープン戦]](1・2回戦(半分)、1月。準決勝・決勝、2月)…東京・[[有楽町センタービル|有楽町マリオン内]]の[[有楽町朝日ホール]]。また2016年以降は、1・2回戦の半分も公開対局となる(場所は年により異なる)。
*[[YAMADAチャレンジ杯]]、[[YAMADA女流チャレンジ杯]](準決勝・決勝、8月)…群馬県高崎市のLABI1 LIFE SELECT高崎。
*[[マイナビ女子オープン]](一斉予選、7月)…東京都千代田区のマイナビルーム([[パレスサイドビルディング]]内)。
*[[大山名人杯倉敷藤花戦]](三番勝負第2・3局、11月)…[[倉敷市芸文館]](アルスくらしき)。
*[[白瀧あゆみ杯争奪戦]](1回戦、8月)…東京都渋谷区の[[東急百貨店本店]](東急[[将棋まつり]])。
*[[世田谷花みず木女流オープン戦]](休止終了棋戦、全局4月29日)…東京都世田谷区の玉川高島屋S・C内のイベントスペース。
その他タイトル戦の番勝負についても[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]、[[王将戦]]、[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]、[[王位戦 (将棋)|王位戦]]で実施されたことがある。
=== 不正防止策 ===
[[2016年]]の[[将棋ソフト不正使用疑惑騒動]]を受け、2016年12月より[[カンニング]]防止の目的で、将棋会館などでの対局の際に、棋士は対局前に所持する[[スマートフォン]]などの電子機器を暗証番号式のロッカーに預け入れ、対局終了まで保管することが義務付けられている。また対局中にランダムで抜き打ち検査なども行っており、電子機器の所持が見つかった場合は出場停止などの処分を受けるとされている。タイトル戦ではロッカーなどが無いため、代わりに連盟の職員に機器類を預ける形となる。
同様の理由で、同じく2016年12月より、対局中の棋士は対局を行っている建物の敷地外への外出が許されなくなった。それ以前は昼食・夕食休憩時に外出して食事を摂る棋士も多かったが、以後の食事は原則として[[出前]]や連盟職員による買い出し、もしくは弁当などを持参する形となっている。こちらも罰則規定があり、違反すると対局料の減額などの処分を受ける<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG10H8T_Q7A210C1CC1000/ 棋士2人を罰金処分 将棋連盟、対局中に外出] - 日本経済新聞・2017年2月10日</ref>。
== 慣例 ==
=== 地方対局 ===
タイトル戦の対局は[[将棋会館]]以外で行われる事がほとんどである。伝統ある旅館を筆頭に、ホテルや寺院・神社・料亭など、広めの和室を持つ施設が選ばれるのが一般的(和室以外の対局では臨時に畳を敷くが、やむを得ない場合はカーペット敷も認められる場合がある)。名人戦・竜王戦などで、対局地の公募も行われている<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2022/11/3638_shogiyomiuricom.html 第36~38期竜王戦の開催地を公募します] - 日本将棋連盟・2022年11月10日</ref><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2021/08/post_2042.html 名人戦・開催地公募のお知らせ] - 日本将棋連盟・2021年8月3日</ref>。
対局者は、通常前日に現地入りし、夕方に対局室、盤・駒の選定・検分を行なう。将棋連盟が所蔵する駒以外に、地元の愛棋家が所有する駒が使われることも多い。<ref>{{citation | url=https://www.asahi.com/articles/ASL4M338XL4MUCVL003.html | date=2018-04-19 | accessdate=2022-06-10 | publisher=朝日新聞 | title=名人戦で使う駒、3種類の中から佐藤名人が選んだ理由}}</ref> 特に格の高いタイトル戦では、特別な盤駒が使用される事もある。たとえば、伝統的に、毎年の名人戦の第1局でのみ使用される「名人駒」がある。<ref>{{citation | url=http://www.meijinsen.jp/sp/77/01/02.html | title=名人戦棋譜速報 | date=2019-04-19 | accessdate=2022-06-10 }}</ref>
対局前夜にはほとんどの場合前夜祭が開かれ、地元の将棋ファンとの交流などが図られる(ただし感染症の流行などを理由に実施されない場合もある)。
対局者が会場に向かう際は、原則として主催社の担当者や[[観戦記者]]・連盟職員らと同行するほか、両対局者の出発地が同じ場合は同じ列車・飛行機などに同乗する。一方で対局終了後は大抵は現地解散となるため、対局者や関係者はバラバラに帰宅する(観光を楽しむ者も少なくない)。
=== 服装 ===
将棋のタイトル戦の[[番勝負]]では、対局者は[[和服]]を着用するのが慣例である。
対局者が[[洋服]]を着用した例も少なくなく、[[加藤一二三]]・[[森雞二]]・[[島朗]]・[[谷川浩司]]・[[羽生善治]]・[[佐藤康光]]・[[村山聖]]・[[永瀬拓矢]]・[[藤井聡太]]などの例が挙げられる。なお、永瀬は和服での対局を好まず、特に第5期叡王戦第2局では対局開始時に和服で登場したのち、いったん離席してスーツに着替えた<ref>{{Cite web|和書|title=永瀬拓矢叡王vs豊島将之竜王・名人 「城崎の無勝負」は波乱の幕開けか {{!}} 観る将棋、読む将棋|url=https://bunshun.jp/articles/-/39082|website=文春オンライン|accessdate=2021-01-12|first=小島|last=渉}}</ref>。<!-- 「それ以後は一度も和服を着ず」の旨は削除。先の事は不明 -->
竜王戦・名人戦では、記録係も和服を着ることになっている<ref group="注">『将棋世界』 2011年8月号付録「記録係は見た!」の66頁で、[[門倉啓太]](2011年4月1日に四段)が「名人戦と竜王戦七番勝負では、記録係も和服を着ることになっています」と記している。</ref>。王座戦では2023年度(第71期)より、番勝負で両対局者の和装が義務化された<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2023/08/31/kiji/20230831s000413F2055000c.html 永瀬拓矢王座 3年ぶり和装で「名誉王座」へ 「自分が一生懸命頑張らなければいけない」] - スポーツニッポン・2023年8月31日</ref>。
女流タイトル戦では、[[マイナビ女子オープン]]五番勝負においては和服(着物と[[袴]])を着用する<ref>{{Cite journal ja-jp|author=田名後健吾|year=|title=第12期マイナビ女子オープン五番勝負第1局 西山朋佳女王vs里見香奈女流四冠 - 桜舞い散る陣屋対局 西山女王が先勝|journal=[[将棋世界]]|serial=2019年6月号|publisher=[[日本将棋連盟]]|pages=36-46}}</ref>。他の女流タイトル戦の番勝負では洋服を着用するのが普通である。ただし、対局者の意思で和服を着用するのは自由である(例:第30期[[女流王位戦]]五番勝負第2局における[[渡部愛]]<ref>{{Cite web|和書|title=終局直後|url=http://kifulog.shogi.or.jp/joryuoui/2019/05/post-bb10.html|website=女流王位戦中継Blog|accessdate=2019-05-11|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511031602/http://kifulog.shogi.or.jp/joryuoui/2019/05/post-bb10.html|archivedate=2019-5-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ツィート|url=https://twitter.com/nanu_ke/status/1125389162977251330|website=|date=2019-05-06|accessdate=2019-05-11|language=ja|first=|last=|publisher=[[Twitter]]|author=[[渡部愛]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511031716/https:/twitter.com/nanu_ke/status/1125389162977251330|archivedate=2019-5-11}}</ref>)。制服のある学校に在学中であれば、制服を着用する(例:第5期マイナビ女子オープン五番勝負における[[長谷川優貴]]<ref>{{Cite web|和書|title=第5期マイナビ女子オープン・女王就位式|url=http://joshi-shogi.com/8060/|website=|accessdate=2019-05-11|publisher=[[日本女子プロ将棋協会]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511035329/http://joshi-shogi.com/8060/|archivedate=2019-5-11|date=2012-07-25}}</ref>)。
タイトル戦が終了した後の就位式(タイトルによって名称が異なる)には、主役たるタイトルホルダーは、棋士は[[紋付羽織袴]]、女流棋士は和服(対局時と異なり、袴は着用しない)で臨むことが多い。
== 沿革 ==
=== 実力制名人 ===
[[江戸時代]]から[[名人 (将棋)|名人]]は家元制の終身名人として続いていたが、1935年(昭和10年)、十三世名人の[[関根金次郎]]が1937年をもって名人位を退位することを宣言し、実力名人制に改められた。第1期[[名人戦 (将棋)|名人戦]]は「名人決定大棋戦」と呼ばれた八段リーグ戦で2年にわたって行われ、1937年(昭和12年)に[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が初代名人となった。これが将棋の[[タイトル (将棋)|タイトル]]戦の始まりである。
1946年(昭和21年)からは、名人戦の予選として「[[順位戦]]」のシステムが始まった。
=== 棋士のタイトル戦創設の歴史 ===
(※以下の年度は、予選開始年ではなく番勝負が実施された年度。日本将棋連盟公式サイトでの表記も同様である)
*1950年度(昭和25年度)
**「全日本選手権戦」(1948年創設、[[読売新聞社]]主催)が1950年度から「九段戦」と「名人九段戦」に分けられ、'''「九段戦」が史上2つめのタイトル戦'''となった。ただし、この時点では九段戦は「名人に次ぐ実力者を決める棋戦」という位置付けであり、名人以外の棋士によって争われた。九段戦終了後に行われる名人九段戦によって全日本選手権者が決せられた。
*1951年度(昭和26年度)
**前年度創設の'''「[[王将戦]]」'''(1950年度創設、[[毎日新聞社]]主催)'''が1951年度にタイトル戦となり'''、タイトル戦が3つとなる。
(タイトル戦が「名人戦」「九段戦」「王将戦」の3棋戦という時代が約10年間続く。)
*1960年度(昭和35年度)
**[[早指し王位決定戦|早指し王位戦]]([[産経新聞社]]主催)に[[名人A級勝抜戦]]([[ブロック紙3社連合]]主催)が合流して'''タイトル戦「[[王位戦 (将棋)|王位戦]]」'''(産経新聞社・ブロック紙3社連合主催)が始まり、タイトル戦は4つとなる。
*1962年度(昭和37年度)
**九段戦(全日本選手権戦)が「[[十段戦 (将棋)|十段戦]]」に改称される。
**史上初の1年度2期(前期・後期)の'''タイトル戦として[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]'''([[産経新聞社]]主催)が開始(棋聖戦開始に伴い、産経新聞社は王位戦の主催者から離脱)。
(以降、タイトル戦の数が5つ、年間のタイトル戦の回数が6回という時代が十余年続く。)
*1975年度(昭和50年度)
**前年度創設の'''「[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]」'''(1974年度創設、[[共同通信社]]主催)が'''1975年度にタイトル戦に昇格'''、タイトル戦は6つ(年7回)となる。
*1983年度(昭和58年度)
**'''「[[王座戦 (将棋)|王座戦]]」'''(1953年度 = 昭和28年度 創設、[[日本経済新聞社]]主催)が'''1983年度にタイトル戦に昇格'''、タイトル戦は7つ(年8回)となる。
*1988年度(昭和63年度)
**十段戦が発展解消して、賞金額トップの「[[竜王戦]]」(読売新聞社主催)が誕生。棋戦としての序列で名人戦を上回る初のタイトル戦となった。竜王のタイトルと名人のタイトルは同格である。
(7つのタイトル戦、竜王戦・名人戦・棋聖戦・王位戦・王座戦・棋王戦・王将戦の時代が2017年度まで続く。)
*1995年度(平成7年度)
**棋聖戦が他のタイトル戦と同じく1年度1期となり、7つのタイトル戦は全て年1回となる。
*2009年度(平成21年度)
**棋聖戦が2009年8月以降は序列6位に変更。
*2010年度(平成22年度)
**棋聖戦が2010年10月以降は序列7位に変更。
*2017年度(平成29年度)
**'''「[[叡王戦]]」'''(2015年度 = 平成27年度 創設、[[ドワンゴ]]主催)が'''タイトル戦に昇格'''(七番勝負、変動持ち時間制を採用)。'''タイトル戦の数は8つとなった。'''年8回のタイトル戦開催は23年ぶり。叡王戦の序列は3位で<ref name=":0">{{Cite news|title=将棋の「叡王戦」がタイトル戦に昇格! 王座戦以来34年ぶり|date=2017-05-20|url=http://www.hochi.co.jp/topics/20170520-OHT1T50214.html|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411105009/http://www.hochi.co.jp/topics/20170520-OHT1T50214.html|archivedate=2018-4-11|work=[[スポーツ報知]]}}</ref>、新聞社・通信社以外がタイトル主催者になるのは史上初。
*2021年度(令和3年度)
**叡王戦の第6期以降の主催者が[[不二家]]に変更となり、合わせて五番勝負(固定持ち時間制)、序列6位に変更。
**棋聖戦が序列8位に変更。
*2022年度(令和4年度)
**叡王戦が2022年6月以降は序列4位に変更。
(2023年度時点で、8つのタイトル戦、竜王戦・名人戦・王位戦・叡王戦・王座戦・棋王戦・王将戦・棋聖戦 が行なわれている。)
=== タイトル戦の序列 ===
8つのタイトル戦には序列が存在し、2022年現在、竜王戦が1位、名人戦が2位、以下、王位戦→叡王戦→王座戦→棋王戦→王将戦→棋聖戦の順である<ref>{{Cite news|title=日本将棋連盟主催棋戦一覧|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=|url=https://www.shogi.or.jp/match/|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://www.shogi.or.jp/match/|archivedate=2018-4-11}}</ref><ref group="注">日本将棋連盟の機関誌『[[将棋世界]]』では各棋戦の最新状況をまとめているが、たとえば2017年9月号では(1)「第30期竜王戦ランキング戦(相崎修司)」が168-174頁、(2)「第76期順位戦(浅見修平)」が175-181頁、(3)他の棋戦・女流棋戦を一括して「公式棋戦の動き(大川慎太郎)」が183-193頁という順であり、この順は毎号で固定されている。かつ「公式棋戦の動き」の中に「タイトル保持者/棋戦優勝者」の一覧表が毎月掲載されており、竜王→名人→(叡王はこの時点ではタイトル保持者が存在しない)→王位→王座→棋王→王将→棋聖の順である。</ref>。タイトル戦の序列は契約金の額による<ref name=":0" />。このため契約金が変更されれば序列も変更される。日本将棋連盟公式ホームページの棋戦一覧の項では、タイトル戦が序列順に並べられているが、長らく序列3位であった棋聖戦<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp:80/kisen/kisei/index.html |title=棋戦情報 |trans-title= |accessdate=2020-07-21 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |year= |month= |format= |website=日本将棋連盟 |work= |publisher=[[日本将棋連盟]] |page= |pages= |quote= |language= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090808004122/http://www.shogi.or.jp:80/kisen/kisei/index.html |archivedate=2009-08-08 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>は、2009年8月に序列6位に下がり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp:80/kisen/kisei/index.html |title=棋戦情報 |trans-title= |accessdate=2020-07-21 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |year= |month= |format= |website=日本将棋連盟 |work= |publisher=[[日本将棋連盟]] |page= |pages= |quote= |language= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090818195554/http://www.shogi.or.jp:80/kisen/kisei/index.html |archivedate=2009-08-18 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>、2010年10月には7位に、さらに叡王戦がタイトル戦に組み入れられた2015年からは8位に下がっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.shogi.or.jp:80/kisen/kisei/index.html |title=棋戦情報 |trans-title= |accessdate=2020-07-21 |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |year= |month= |format= |website=日本将棋連盟 |work= |publisher=[[日本将棋連盟]] |page= |pages= |quote= |language= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101014180144/http://www.shogi.or.jp:80/kisen/kisei/index.html |archivedate=2010-10-14 |deadlinkdate= |doi= |ref=}}</ref>。2017年のタイトル昇格時には序列3位だった叡王戦は、2020年のスポンサーと契約金の変更に伴い6位となったが、2022年に4位まで序列を戻している。
==== 棋士の序列 ====
{{also|棋士 (将棋)#棋士の序列}}
上記の棋戦の序列を受けて、棋士の序列は以下のように決められる<ref name="松本博文_20190611">{{Cite web|和書|author=松本博文 |date=2019-06-11 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8c67ab3340c0375d39696089a2d5f3ee440f464b |title=羽生善治九段は6位 藤井聡太七段は93位 将棋界の席次はどのようにして決まるか |website=[[Yahoo! JAPAN|Yahoo! JAPANニュース]] |publisher=[[ヤフー (企業)|Yahoo! JAPAN]] |accessdate=2020-08-02}}</ref>。
# 竜王と名人
#* タイトル数が多い者が1位、少ない者が2位。
#* タイトル数が同じ場合<ref group="注">タイトル数が2冠以上で同数の場合に他タイトルの序列と棋士番号のどちらが適用されるのかは公式には発表されていない。前例は2020年現在、2003年度に羽生善治名人・王座と森内俊之竜王・王将だった一例のみであり、どちらの基準であっても羽生が上位となる。</ref>、棋士番号が小さい者が1位<ref group="注">棋士番号が持ち出されるのは棋戦としての序列は竜王戦が1位なのに対し、タイトルとしての序列はともに1位タイであるため。</ref>、大きい者が2位<ref>{{Cite web|和書|title=王位戦予選1回戦、木下六段戦。|url=https://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/14ff0c1d729157525a4c570a2d259c61|website=blog.goo.ne.jp|accessdate=2021-09-14}}</ref>。
# その他のタイトル保持者
#* タイトル数が多い順に上位。
#* タイトル数が同じ場合、より上位のタイトルを持っている者が上位。
# 永世名人襲位者<ref>{{Cite web|和書|title=谷川浩司名人(当時)「その日、連盟に着くまでの私は、正にルンルン気分であった」|url=https://shogipenclublog.com/blog/2016/03/28/tanigawa-20/|website=将棋ペンクラブログ|accessdate=2023-08-27}}</ref>
# 永世称号襲位者
# 永世称号資格者
#* より早く何らかの資格を得た者が上位。種類や数は関係ない<ref group="注">出典には書かれていないが、現役のまま永世称号を襲位した場合は有資格者よりも上位となる様子。日本将棋連盟の棋士一覧では、谷川浩司の第十七世名人襲位前は羽生善治のほうが上位だった[https://web.archive.org/web/20220422025526/https://www.shogi.or.jp/player/]が、襲位後は羽生より上位に記載されるようになった[https://web.archive.org/web/20220526062323/https://www.shogi.or.jp/player/]。</ref>。
# 段位
#* 段位が同じ場合、より早くその段位になった者が上位。
名目上の序列は以上のようになるが、実際の運用においてはタイトルを持たない場合で段位が同じ場合は、棋士番号が小さい者が上座に座るのが暗黙の了解とされており<ref name="松本博文_20190611" />、タイトルホルダーであっても実績に勝る先輩棋士や引退を控えた大棋士に対して敬意を表して上座を譲る光景がまれに見られる<ref>{{Cite web|和書|author=NHK 将棋講座 |date=2013-05-06 |url=https://web.archive.org/web/20151121024541/http://textview.jp/post/hobby/3495 |title=米長邦雄 脳裏に焼きつく一局 |website=NHKテキストビュー |publisher=[[NHK出版]] |accessdate=2020-08-02}}</ref>。
==== 竜王と名人 ====
{{also|棋士 (将棋)#棋士の称号}}
上記のようにタイトルの中でも、[[竜王戦|竜王]]と[[名人 (将棋)|名人]]は別格に扱われる。この両タイトルのいずれかを所持している場合は他のタイトルの有無に関わらず「竜王」または「名人」とだけ呼ばれ、また、両タイトルを同時に保持した場合「竜王・名人」という特別な呼称で呼ばれる。2023年度名人戦終了時点で、「竜王・名人」となった棋士は5名([[羽生善治]](2回)、[[谷川浩司]]、[[森内俊之]](2回)、[[豊島将之]]、[[藤井聡太]])だけである<ref>{{Cite news || title = 羽生善治、谷川浩司、森内俊之、そして豊島将之 将棋界の頂点を極めた「竜王・名人」の系譜|| agency = [[ヤフー (企業)|ヤフー]]|| date = 2019-12-8|| url = https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/2296827cd27fca5b221c7c9df07cefbf4e949027}}</ref><ref >“[https://times.abema.tv/articles/-/10082190 藤井聡太竜王が最年少名人&史上2人目の七冠達成 渡辺明名人に4勝1敗 20歳10カ月でダブル快挙/将棋・名人戦七番勝負]”. ''ABEMA TIMES''. (2023年6月1日) 2023年6月1日(UTC)閲覧。</ref>。「竜王・名人」による竜王または名人の防衛は、3例(羽生<ref group="注">1994年度竜王戦で「竜王・名人」、以降1996年度竜王戦で失冠するまで竜王1期・名人2期防衛した。</ref>、谷川<ref group="注">1997年度名人戦で「竜王・名人」、以降1998年度名人戦で失冠するまで竜王1期防衛した。</ref>、藤井<ref group="注">2023年度名人戦で「竜王・名人」、以降2023年度竜王戦で防衛している。</ref>)だけである。
竜王と名人が他タイトルとは別格に扱われる点は以下の通り。
*他タイトルを同時に保有していても、原則として「竜王・名人」「竜王」「名人」と呼称される。
*昇段事由として、他タイトルより優位である。竜王位は獲得1期で八段、獲得2期で九段に昇段。名人位は獲得1期で九段に昇段する。一方、その他のタイトル獲得については、獲得1期で七段に、獲得2期で八段に<ref>{{Cite news|title=昇段規定改定のお知らせ (八段昇段の改定)|date=2018-5-22|last=|url=https://www.shogi.or.jp/news/2018/05/post_1694.html|accessdate=2018-05-22|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180522110605/https://www.shogi.or.jp/news/2018/05/post_1694.html|archivedate=2018-5-22|work=[[日本将棋連盟]]}}</ref><ref group="注">「タイトル2期獲得」の中に竜王位が1期含まれていても、同じ結果となる。</ref>、獲得3期で九段に昇段する<ref name=":1">{{Cite news|title=プロ棋士昇段には5つの方法があった。意外と知られていない、その仕組みとは?|将棋コラム(ライター:佐藤友康)|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2017-2-1|url=https://www.shogi.or.jp/column/2017/02/post_93.html|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411101128/https://www.shogi.or.jp/column/2017/02/post_93.html|archivedate=2018-4-11}}</ref><ref group="注">「タイトル3期獲得」には、竜王位を1期とその他のタイトルを2期獲得した場合も該当する。</ref>。
*日本将棋連盟がアマチュアに発行する段位免状に、連盟会長と共に署名する<ref>{{Cite news|title=道場で、雑誌で、アプリで。将棋の段位の取得方法紹介(ライター:yumegiwa)|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2016-10-9|url=https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/post_24.html|accessdate=2018-04-13|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180412224915/https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/post_24.html|archivedate=2018-4-12}}</ref>。署名順は、連盟会長→名人→竜王に固定されており、棋士序列と連動しない{{Refnest|group="注"|2018年3月、日本将棋連盟は[[伊藤かりん]]([[乃木坂46]])に初段免状を授与したが、署名順は、[[佐藤康光]]会長→[[佐藤天彦]]名人→[[羽生善治]]竜王であった<ref>{{Cite news|title=伊藤かりんさんに初段免状授与 森内俊之専務理事と試験対局!|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2018-3-19|url=https://www.shogi.or.jp/news/2018/03/post_1662.html|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411102219/https://www.shogi.or.jp/news/2018/03/post_1662.html|archivedate=2018-4-11}}</ref>。この時点で、羽生の冠数が2(竜王、棋聖)、佐藤天の冠数が1(名人)であるため、棋士序列は羽生が1位、佐藤天が2位であった。}}。
*かつては竜王と名人はタイトルを失い無冠になった後、もしくは竜王もしくは名人失冠後1年以内に他のタイトルも失い無冠になった後も、次年度の当該タイトル戦が終了するまでは<ref>『[[産経新聞]]』(東京本社)2018年12月27日付朝刊、14版、1面コラム「産経抄」。</ref>、「前竜王」「前名人」という称号を名乗ることができた<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20181225/k00/00m/040/134000c|title=羽生前竜王の肩書は「九段」に|accessdate=2018-12-27|website=|publisher=[[毎日新聞]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181227060858/https://mainichi.jp/articles/20181225/k00/00m/040/134000c|archivedate=2018-12-27}}</ref>{{Refnest|group="注"|ただし、以前は「前名人」を名乗る期間が1年間に限られておらず、[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が最初に「前名人」を名乗った際は、翌々年の名人復位まで「前名人」の称号のままであった。2人目の「前名人」である[[塚田正夫]]も1949年に木村に名人位を奪われた後、[[大山康晴]]の木村からの名人奪取・塚田自身の九段位取得の1952年まで「前名人」の称号のままであった。また1959年に名人位を奪われた[[升田幸三]]は「前名人」の称号を辞退して「九段」と名乗った<ref>[[東公平]]『升田幸三物語』(朝日新聞社)</ref>。}}。両方を立て続けに失い無冠になった場合は「前竜王・前名人」となる。「前竜王・前名人」「前竜王」「前名人」の棋士序列は、永世称号襲位者の次であった。「前竜王」と「前名人」が共に存在する場合、当該タイトルを後に失った方が上位である。「前名人」は1994年度に[[米長邦雄]]が、「前竜王」は1995年度に[[佐藤康光]]が名乗ったのが最後であり<ref>{{Cite news|title=佐藤康光九段 其の一|弦巻勝のWeb将棋写真館|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2016-5-14|url=https://www.shogi.or.jp/photo_gallery/029.html|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411153359/https://www.shogi.or.jp/photo_gallery/029.html|archivedate=2018-4-11}}</ref>、1998年度に名人と竜王を立て続けに失冠して無冠になった[[谷川浩司]]がそのまま「九段」を名乗ってからは、「前竜王・前名人」「前名人」「前竜王」を名乗る棋士は出ず、2018年12月に竜王を失って27年ぶりに無冠となった[[羽生善治]]は、日本将棋連盟から「前竜王」を名乗るか否か意向を問われたが、羽生は「前竜王」を辞退して段位である「九段」を名乗ることを選択した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hochi.co.jp/entertainment/20181225-OHT1T50088.html|title=前竜王・羽生善治の新肩書は「九段」 日本将棋連盟が本人の意向を受けて発表|accessdate=2018-12-27|date=2018-12-25|website=|publisher=[[スポーツ報知]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181227060641/https://www.hochi.co.jp/entertainment/20181225-OHT1T50088.html|archivedate=2018-12-27}}</ref>。これを受けて2020年2月に「前竜王・前名人」「前竜王」「前名人」の称号は廃止された<ref>{{Cite web|和書|title=将棋の「前竜王」や「前名人」の肩書廃止…20年以上、誰も名乗らず : 竜王戦 : 囲碁・将棋 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/ryuoh/20200218-OYT1T50226/|website=読売新聞オンライン|date=2020-02-18|accessdate=2020-02-18|language=ja|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200218132336/https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/ryuoh/20200218-OYT1T50226/|archivedate=2020-2-18}}</ref>。
なおタイトルとしての名人と竜王は、公式には同格という扱いになっている。ただ、スポンサーなどの事情を鑑み大きな声では主張できないものの、歴史の長さなどを理由に「名人位は特別なタイトル」という意見を持つ棋士も少なくなく、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]などはその旨を公言している<ref>『[[将棋の渡辺くん]]』(伊奈めぐみ著、[[講談社]])第6巻 pp.18 - 23</ref>。[[週刊将棋]]1994年1月26日号では、「名人は[[天皇]]、竜王は[[首相]]」と表現している<ref>[https://shogipenclublog.com/blog/2012/06/04/%e3%80%8c%e5%90%8d%e4%ba%ba%e3%81%af%e5%a4%a9%e7%9a%87%e3%80%81%e7%ab%9c%e7%8e%8b%e3%81%af%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%80%8d%ef%bc%88%e9%80%b1%e5%88%8a%e5%b0%86%e6%a3%8b%ef%bc%89/ 「名人は天皇、竜王は首相」(週刊将棋) | 将棋ペンクラブログ]</ref>。
=== 女流タイトル戦創設の歴史 ===
*1974年度(昭和49年度)
**[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]制度の発足とともに[[スポーツ報知|報知新聞]]主催で「女流名人位戦(現:[[女流名人戦 (将棋)|岡田美術館杯女流名人戦]])」が創設された<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.hochi.co.jp/topics/20171207-OHT1T50149.html|title=初代女流名人・蛸島彰子女流六段が引退…「ひふみん」に続き女流レジェンドも|accessdate=2019-7-7|publisher=[[スポーツ報知]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180110231517/https://www.hochi.co.jp/topics/20171207-OHT1T50149.html|archivedate=2018-1-10|deadlinkdate=2019-7-7}}</ref>{{Refnest|創設時は「'''将棋'''女流'''プロ'''名人位戦」という名称であった(1974年11月27日付 報知新聞<ref name=":2" />)。|group="注"}}。
*1978年度(昭和53年度)
**2つ目のタイトル戦である「[[女流王将戦]]」が[[将棋マガジン]]主催で創設。第1期の番勝負は1979年度の4月に開催。2008年度で一旦休止となるが翌年から霧島酒造杯女流王将戦として再開した。
*1989年度(平成元年度)
**[[ブロック紙3社連合|三社連合]]主催で[[王位戦 (将棋)|王位戦]]の姉妹棋戦として11年ぶりに3つ目のタイトル戦である「[[女流王位戦]]」が創設。第1期の番勝負は1990年度の4月に開催。
*1993年度(平成5年度)
**[[大山康晴]]十五世名人の出身地である[[倉敷市]]、[[山陽新聞]]などの主催で「[[大山名人杯倉敷藤花戦]]」が創設。地方自治体が主催者となるのは史上初。
*2000年度(平成12年度)
**2000年6月22日付で当時の女流タイトル保持者の席次を「タイトル創設順」と理事会で決定<ref name="女流棋戦序列"/>。
***創設順に、(1)女流名人、(2)女流王将、(3)女流王位、(4)倉敷藤花、の席次順。
***複数のタイトルを保持する場合でも、タイトル数とは関係なく、創設順のタイトルを保持している順の席次となる。
*2007年度(平成19年度)
**1987年度より行われていた[[週刊将棋]]主催の[[レディースオープントーナメント]](女流一般棋戦)を発展的解消をして、新たに「[[マイナビ女子オープン]]」を創設、女流タイトル戦として格上げされた。優勝賞金額は女流棋戦最高(当時)となる500万円<ref>[https://web.archive.org/web/20070921164918/http://open.mycom.co.jp/guide/open_guide.html マイナビ女子オープン 女子オープンとは](web.archive.orgによるアーカイブ)</ref>。番勝負は2008年度の4月に開催。
**女流タイトルの序列は、「女王」以下は創設順に、(1)女王、(2)女流名人、(3)女流王将、(4)女流王位、(5)倉敷藤花、の席次順。
*2011年度(平成23年度)
**引退者・奨励会員を含めた史上初の完全オープン棋戦として[[リコー]]主催で「[[女流王座戦|リコー杯女流王座戦]]」が創設された。優勝賞金500万円、準優勝賞金150万円。
::
:*女流タイトルの表記順は、「女王」「女流王座」以下は創設順に、(1)女王、(1)女流王座、(3)女流名人、(4)女流王将、(5)女流王位、(6)倉敷藤花、の順。
:*複数のタイトルを保持する場合の表記順を、(1)タイトル数の順、(2)女王、(2)女流王座、(4)タイトル創設順、に変更<ref>[https://web.archive.org/web/20110511145712/http://www.shogi.or.jp:80/player/joryu.html 女流棋士一覧]における「タイトル保持者」の表記順(2011年5月時点)</ref>。
:*2016年度以降の女流タイトルの表記順は、(1)女王、(2)女流王座、(3)女流名人、(4)女流王将、(5)女流王位、(6)倉敷藤花、の順<ref>[https://web.archive.org/web/20160915055820/http://www.shogi.or.jp/match/index.html#jsTabE02_02 棋戦一覧|日本将棋連盟(2016年9月15日時点)](web.archive.orgによるアーカイブ)</ref>。
*2019年度(平成31年度)
**棋聖戦の特別協賛でもある[[ヒューリック]]が主催となって、賞金額トップ(当時)の「[[清麗戦|ヒューリック杯清麗戦]]」が創設された。
**女流タイトルの表記順は、(1)清麗、(2)女王、(3)女流王座、(4)女流名人、(5)女流王将、(6)女流王位、(7)倉敷藤花、の順。
*2020年度(令和2年度)
**ヒューリックが主催となり、賞金額トップの女流棋戦となる「[[白玲戦|ヒューリック杯 白玲戦・女流順位戦]]」を創設。
**清麗戦の主催が[[ヒューリック]]から[[大成建設]]に交代し「[[清麗戦|大成建設杯清麗戦]]」に名称変更。
**女流タイトルの表記順は、(1)白玲、(2)清麗、(3)女王、(4)女流王座、(5)女流名人、(6)女流王将、(7)女流王位、(8)倉敷藤花、の順。
2020年現在、女流タイトル戦の数は8つである。なお、男性棋戦と異なり、女流棋戦は白玲戦以外の序列はない<ref>{{Cite web|和書|title=【勝負師たちの系譜】優勝賞金は女流最高額700万円! 7つ目の新タイトル「ヒューリック杯清麗戦」|url=https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190622/dom1906220003-n1.html|website=zakzak|accessdate=2019-11-06|language=ja|publisher=[[夕刊フジ]]|author=|last=青野|first=照市|authorlink=青野照市|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191106100704/https://www.zakzak.co.jp/soc/news/190622/dom1906220003-n1.html|archivedate=2019-11-6}}</ref><ref name="女流棋戦序列">[https://web.archive.org/web/20000818134530/http://www.shogi.or.jp/kikaij/jyouhou.htm 日本将棋連盟 棋界情報局「女流棋士 タイトル保持者の席次」](web.archive.orgによる2000年8月時点のアーカイブ)によると、日本将棋連盟の理事会において2000年6月22日付で当時の女流タイトル保持者の席次を「タイトル創設順」と決定している。
すなわち、当時の4つの女流タイトル保持者は、(1)女流名人{{=}}1974年創設、(2)女流王将{{=}}1978年創設、(3)女流王位{{=}}1989年創設、(4)倉敷藤花{{=}}1993年創設、の席次順であった。また、複数のタイトルを保持する場合でも、タイトル数とは関係なく、創設順のタイトルを保持している順としていた。すなわち、当時の女流タイトル保持者2名の序列は、(1)[[中井広恵]] 女流名人、(2)[[清水市代]] 女流三冠(女流王将・女流王位・倉敷藤花)とされた。</ref>が、一覧表記する際は便宜的に「優勝賞金額の順」および「棋戦創設順」に並べる。
== 棋士の棋戦 ==
日本将棋連盟の「[[棋士 (将棋)|棋士]]」(将棋棋士)の棋戦である。
[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]や[[新進棋士奨励会|奨励会]]員、[[アマチュア#将棋|アマチュア]]選手の出場枠が設けられているものもある。女流棋士と奨励会の重籍者は、参加枠の適用が棋戦によって異なる<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2011/05/1_12.html 里見香奈女流名人・女流王将・倉敷藤花、奨励会1級編入試験に合格(2011年5月21日 日本将棋連盟)]</ref><ref group="注">女流棋士と奨励会の重籍者が参加できる棋戦は、奨励会枠がある竜王戦・新人王戦・加古川青流戦に限られる。非女流棋士の女性奨励会員が女流タイトルを保持している場合はこの限りではなく、将棋連盟の推薦を受けまたは女流予選を通過することで、叡王戦、王座戦、棋王戦、朝日杯、銀河戦、NHK杯に参加できる。</ref>。
* [[将棋大会のシード条件]] - 参加条件の一覧表(アマチュア枠表示付)
=== タイトル戦 ===
棋士のタイトル戦は、下表のとおり、2021年現在8つある。この他に終了したタイトル戦として、[[十段戦 (将棋)|九段戦]]<ref group="注">1949年から開始、1961年まで実施、発展的解消して翌年からは[[十段戦 (将棋)|十段戦]]として実施。</ref>・[[十段戦 (将棋)|十段戦]]<ref group="注">1962年から開始、1987年まで実施、発展的解消して翌年からは[[竜王戦]]として実施。</ref>がある。
{{Main2|永世称号の条件および該当者は「[[棋戦 (将棋)#永世称号|永世称号]]」の項目を参照、タイトル戦の結果およびタイトル在位者は「[[将棋のタイトル戦結果一覧]]」「[[将棋のタイトル在位者一覧]]」を}}
※いずれの棋戦も日本将棋連盟が主催者に名を連ねている。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+ style="text-align:left; font-weight:normal"|(2023年11月時点)
|-
!棋戦名!!現在の<br/>保持者!!主催・協賛!!開始年度!!女流枠<br><ref group="注" name="女流枠">女流棋戦の実績による選抜枠であり、女流タイトルを獲得した女性奨励会員やアマチュアの女性が選抜される場合もある。</ref>!!奨励会<br>枠!!アマ<br>枠!!称号!!永世称号!!番勝負<br>(日数)!!持ち時間<br/>(休憩時間)<br/>【1日目封じ手】!!優勝賞金
|-
|'''[[竜王戦]]'''
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第36期竜王戦|第36期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[読売新聞社]]<br>[[野村ホールディングス]](特別協賛)<br>[[東急グループ]](協賛)<br>[[UACJ]](協賛)<br>[[あんしん財団]](協賛)<br>[[ニトリ]](協賛)
|1988年
|4名
|1名
|5名
|竜王
|永世竜王
|七番勝負<br>(2日制)
|8時間<br/>(昼12:30- /60分間)<br/>【封じ手 18時】
|4,400万円<br><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.shogi.or.jp/match/ryuuou/rules.html|title=竜王ランキング戦・決勝トーナメントについて |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2020-08-28}}</ref>
|-
|'''[[名人戦 (将棋)|名人戦]]'''<br />[[順位戦]]
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第81期順位戦|第81期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[毎日新聞社]]<br>[[朝日新聞社]]<br />[[大和証券グループ本社|大和証券グループ]](協賛)
|1935年<br><ref group="注">第1期名人戦のリーグ戦は1935年から1937年までの2年間をかけて行われた。</ref>
|なし
|なし
|なし
|名人
|永世名人
|七番勝負<br>(2日制)
|9時間<br/>(昼12:30- /60分間)<br/>(夕17:00- /30分間)<ref>名人戦における夕食休憩は2日目のみ。1日目には夕食休憩はなく、封じ手の18時30分以降まで行なわれる。</ref><br/>【封じ手 18時半】
|非公表
|-
|'''[[王位戦_(将棋)|<small>伊藤園お〜いお茶杯</small><br>王位戦]]'''
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第64期王位戦|第64期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[ブロック紙3社連合|新聞三社連合]]<br>[[伊藤園]][[お〜いお茶]](特別協賛)
|1960年
|2名
|なし
|なし
|王位
|永世王位
|七番勝負<br>(2日制)
|8時間<br/>(昼12:30- /60分間)<br/>【封じ手 18時】
|非公表<br><ref group="注">[http://www.nihonkiin.or.jp/match/tengen/042.html 日本棋院HP] によれば、同じく新聞三社連合が主催する囲碁の棋戦である[[天元戦]]の賞金は2015年現在1300万円。</ref>
|-
|'''[[叡王戦]]'''
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第8期叡王戦|第8期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[不二家]]<br/>[[レオス・キャピタルワークス|ひふみ]](特別協賛)<br>[[中部電力]](協賛)<br>[[豊田通商]](協賛)<br>[[豊田自動織機]](協賛)<br>[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|日本エイ・エム・ディ]](協賛)<br>[[アパホテル]](協賛)
|2017年<br><ref group="注">一般棋戦(優勝棋戦)として創設されたのは2015年度。</ref>
|なし
|なし
|なし
|叡王
|永世叡王
|五番勝負<br>(1日制)
|4時間{{small|(※[[チェスクロック]])}}<br/>(昼12:00- /60分間)
|非公表
|-
|'''[[王座戦_(将棋)|王座戦]]'''
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第71期王座戦_(将棋)|第71期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[日本経済新聞社]]<br>[[東海東京証券]](特別協賛)
|1983年<br /><ref group="注">一般棋戦(優勝棋戦)として創設されたのは1953年度</ref>
|4名
|なし
|なし
|王座
|名誉王座
|五番勝負<br>(1日制)
|5時間{{small|(※[[チェスクロック]])}}<br/>(昼12:10- /50分間)<br/>(夕17:00- /30分間)
|非公表<br><ref group="注">[http://www.nihonkiin.or.jp/match/oza/064.html 日本棋院HP] によれば、同じく日経新聞が主催する囲碁の棋戦である[[王座 (囲碁)|囲碁王座戦]]の賞金は2015年現在1400万円。</ref>
|-
|'''[[棋王戦_(将棋)|棋王戦<br>{{small|コナミグループ杯}}]]'''
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第48期棋王戦|第48期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[共同通信社]]<br> [[コナミグループ]](特別協賛)<br>[[大塚製薬]][[カロリーメイト]](協賛)
|1975年<br><ref group="注">一般棋戦(優勝棋戦)として創設されたのは1974年。翌年にタイトル戦に格上げされた。</ref>
|1名
|なし
|1名
|棋王
|永世棋王
|五番勝負<br>(1日制)
|4時間<br/>(昼12:00- /60分間)
|非公表
|-
|'''[[王将戦|<small>ALSOK杯</small><br>王将戦]]'''
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第72期王将戦|第72期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[スポーツニッポン新聞社]]<br />毎日新聞社<br />[[綜合警備保障|ALSOK]](特別協賛)<br>[[囲碁・将棋チャンネル]](協賛)
|1951年<br><ref group="注">一般棋戦として創設されたのは1950年。翌年にタイトル戦に格上げされた。</ref>
|なし
|なし
|なし
|王将
|永世王将
|七番勝負<br>(2日制)
|8時間<br/>(昼12:30- /60分間)<br/>【封じ手 18時】
|非公表
|-
|'''[[棋聖戦_(将棋)|<small>ヒューリック杯</small><br>棋聖戦]]'''
| style="background-color:#CFE5AE" |[[第94期棋聖戦_(将棋)|第94期]]<br />[[藤井聡太]]
|[[産業経済新聞社]]<br>[[ヒューリック]](特別協賛)
|1962年
|2名
|なし
|なし
|棋聖
|永世棋聖
|五番勝負<br>(1日制)
|4時間<br/>(昼12:00- /60分間)
|非公表<br><ref group="注">[http://www.nihonkiin.or.jp/match/jyudan/054.html 日本棋院HP] によれば、同じ産経新聞が主催する囲碁の棋戦である[[十段 (囲碁)|囲碁十段戦]]の賞金は2015年現在700万円。</ref>
|}
上記の表の持ち時間は[[番勝負]]での持ち時間について示している。予選や本戦などでの持ち時間については「[[持ち時間#将棋]]」を参照。 叡王戦と王座戦はチェスクロック使用で秒単位の消費時間を算入し、使い切ったら60秒の[[秒読み]](※)。その他のタイトル棋戦では[[ストップウォッチ]]使用で秒単位の消費時間を切り捨て、最後の1分を[[秒読み]]。
==== タイトル戦の年間スケジュール ====
{{色}}
{|border="1" class="wikitable" style="font-size:89%"
|{{color box|Yellow}}[[黄色|黄]]:予選トーナメント(予選T)・予選リーグ(予選L)<br/>{{color box|Lime}}[[緑色|緑]]:本戦トーナメント(本戦T)・本戦リーグ(本戦L)・順位戦<br/>{{color box|Orange}}[[橙色|橙]]:挑戦者決定戦(挑) {{color box|SkyBlue}}[[水色]]:タイトル戦番勝負
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;"
|-
!style="width:4em" rowspan="2"| 棋戦
|colspan="11"| 前年度
!colspan="12"| 当年度
|-
!style="| 5 !!style="width:1.5em"| 6 !!style="width:1.5em"| 7 !!style="width:1.5em"| 8 !!style="width:1.5em"| 9 !!style="width:1.5em"| 10 !!style="width:1.5em"| 11 !!style="width:1.5em"| 12 !!style="width:1.5em"| 1 !!style="width:1.5em"| 2 !!style="width:1.5em"| 3 !!style="width:1.5em"| 4 !!style="width:1.5em"| 5 !!style="width:1.5em"| 6 !!style="width:1.5em"| 7 !!style="width:1.5em"| 8 !!style="width:1.5em"| 9 !!style="width:1.5em"| 10 !!style="width:1.5em"| 11 !!style="width:1.5em"| 12 !!style="width:1.5em"| 1 !!style="width:1.5em"| 2 !!style="width:1.5em"| 3
|-
! [[名人戦 (将棋)|名人戦]]
| || colspan="10" style="background-color:Lime"| 順位戦 ||colspan="3" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負''' ||colspan="9"|
|-
! [[叡王戦]]
| colspan="1" | || colspan="8" style="background-color:Yellow"| 予選T || colspan="2" style="background-color:Lime"| 本戦T || colspan="3" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負''' || colspan="9"|
|-
! [[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]
| colspan="9" style="background-color:Yellow"| 予選T || colspan="3" style="background-color:Lime"| 本戦T || || colspan="2" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負''' || colspan="8"|
|-
! [[王位戦 (将棋)|王位戦]]
| colspan="2"| || colspan="7" style="background-color:Yellow"| 予選T || colspan="4" style="background-color:Lime"| 本戦L || style="background-color:Orange"| 挑 || colspan="3" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負''' || colspan="6"|
|-
! [[王座戦 (将棋)|王座戦]]
| colspan="6"| || colspan="5" style="background-color:Yellow"| 予選T || colspan="4" style="background-color:Lime"| 本戦T || || colspan="2" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負''' || colspan="5"|
|-
! [[竜王戦]]
| colspan="6"| || colspan="7" style="background-color:Yellow"| ランキング戦 || colspan="3" style="background-color:Lime"| 本戦T || style="background-color:Orange"| 挑 || colspan="3" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負''' || colspan="3"|
|-
! [[王将戦]]
| colspan="8"| || colspan="8" style="background-color:Yellow"| 予選T || colspan="3" style="background-color:Lime"| 本戦L || || colspan="3" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負'''
|-
! [[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]
| colspan="8"| || colspan="5" style="background-color:Yellow"| 予選T || colspan="6" style="background-color:Lime"| 本戦T || style="background-color:Orange"| 挑 || || colspan="2" style="background-color:SkyBlue"| '''番勝負'''
|}
=== 一般棋戦 ===
==== 全棋士参加棋戦・上位棋士選抜棋戦 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!棋戦名<!--主催者杯は棋戦名に含み協賛者杯は改行表記-->
!主催・協賛
!開始<br>年度
!棋士枠
!女流枠<br><ref group="注" name="女流枠" />
!奨励<br>会枠<!-- 三段リーグの実績による選抜枠(現行で設けられている棋戦は竜王戦新人王戦加古川戦のみ) -->
!アマ<br>枠<!-- アマ大会の実績による選抜枠 -->
!称号<br><ref group="注" name="棋戦称号">タイトル戦と異なり、通常は主催者以外の媒体で用いられることはない。</ref>
!持ち時間
!秒読み
!考慮時間
!優勝賞金
|-
|[[朝日杯将棋オープン戦]]
|[[朝日新聞社]](主催)<br/>{{small|(特別協賛)<br/>[[三井住友トラスト・ホールディングス]]}}
|2007年
|全棋士
|3名
|なし
|10名
|なし
|40分
|1分
|なし
|750万円<br/><ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.shogi.or.jp/match/asahi_cup/ |title=朝日杯将棋オープン戦 |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2017-06-08}}</ref>
|-
|[[銀河戦]]
|[[囲碁・将棋チャンネル]]
|1991年
|全棋士
|2名
|なし
|4名
|銀河
|本戦15分<br>予選25分
|30秒
|本戦1分x10回<br>予選なし
|非公表<br/><ref group="注">[http://www.nihonkiin.or.jp/match/ryusei/024.html 日本棋院HP] によれば、同じ囲碁・将棋チャンネル主催の囲碁の棋戦である[[竜星戦]]の賞金は2023年現在600万円。</ref>
|-
|[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯テレビ将棋<br>トーナメント]]
|[[日本放送協会]]
|1951年
|全棋士
|1名<br><ref group="注">女流棋士の本戦出場枠は1名。女流予選は人数不定。主に女流タイトル保持者が複数いる場合に女流予選が行われる。</ref>
|なし
|なし
|NHK杯<br>選手権者
|本戦10分<br>予選20分
|30秒
|本戦1分x10回<br>予選なし
|非公表<br><ref group="注">[http://www.nihonkiin.or.jp/match/nhk/063.html 日本棋院HP] によれば、同じNHK主催の囲碁の棋戦である[[NHK杯テレビ囲碁トーナメント]]の賞金は2023年現在500万円。</ref>
|-
|[[将棋日本シリーズ]]<br>JTプロ公式戦
|地方新聞11社<ref group="注">12名のトーナメントによる全11局の棋戦であり、各局をそれぞれ別の地方都市で開催する。開催地の地方新聞社([[北海道新聞]]、[[河北新報]]、[[新潟日報]]、[[北國新聞]]・[[富山新聞]]、[[静岡新聞]]、[[中日新聞]]、[[山陽新聞]]、[[中国新聞]]、[[四国新聞]]、[[西日本新聞]]、[[熊本日日新聞]])がそれぞれ主催者となる。</ref><br>[[日本たばこ産業]](協賛)
|1980年
|前回優勝者<br>タイトル保持者<br>獲得賞金ランキング上位者<br>の12名
|なし
|なし
|なし
|JT杯覇者
|10分
|30秒
|1分x5回
|500万円<br><ref>準優勝賞金は150万円。{{Cite web|和書|url=https://www.jti.co.jp/culture/shogi/professional/about/index.html|title=JTプロ公式戦について {{!}} 将棋日本シリーズ|work=[[日本たばこ産業|JT]]ウェブサイト|accessdate=2023-06-12}}</ref>
|}
==== その他選抜棋戦 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!棋戦名
!主催・協賛
!開始<br>年度
!棋士枠
!女流枠<br><ref group="注" name="女流枠" />
!奨励<br>会枠
!アマ<br>枠
!称号<br><ref group="注" name="棋戦称号" />
!持ち<br>時間
!考慮<br>時間
!優勝賞金
|-
|[[達人戦立川立飛杯|達人戦<br>{{small|立川立飛杯}}]]
|[[立飛ホールディングス]](特別協賛)<br>[[トヨタS&D西東京]](協賛)
|2023年
|50歳以上の棋士
|なし
|なし
|なし
|達人
|予選1時間<br>本戦30分
|なし
|非公表
|-
|[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]
|[[しんぶん赤旗]]
|1970年
|タイトル戦未出場の<br>六段以下かつ26歳以下の棋士<br>(四段昇段初年度に限り、27歳以上の棋士も対象)
|4名
|あり
|1名
|新人王
|3時間
|なし
|非公表<br/><ref group="注">[https://www.nihonkiin.or.jp/match/shinjin/048.html 日本棋院HP] によれば、同じ「しんぶん赤旗」主催の囲碁の棋戦である[[新人王戦 (囲碁)|囲碁新人王戦]]の賞金は2023年現在200万円</ref>
<!--
|-
|[[YAMADAチャレンジ杯]]
|上州将棋祭り委員会<br>[[上毛新聞|上毛新聞社]](協賛)<br>[[群馬テレビ]](協賛)<br>[[ユーシーカード]](協賛)<br>[[ヤマダデンキ]](特別協賛)
|2016年
|タイトル戦未出場の<br>五段以下かつプロ入り15年以下の棋士
|なし
|なし
|1名<br/><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2016/04/post_1385.html 新棋戦「上州YAMADAチャレンジ杯」開催のお知らせ 更新: 2016年4月16日 10:00] - 日本将棋連盟</ref>
|なし
|20分
|なし
|非公表
-->
|-
|[[加古川青流戦]]
|[[加古川市]]<br>加古川市ウェルネス協会
|2011年
|四段
|2名
|あり
|3名<br/><ref group="注">第6期は、第5期優勝した[[稲葉聡]]を含めた4名のアマチュアが出場。</ref>
|青流
|1時間
|なし
|非公表
|}
=== 非公式戦 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!棋戦名
!主催・協賛
!開始年度
!女流枠
!奨励会枠
!アマ枠
!持ち時間
!考慮時間
!優勝賞金
|-
|[[ABEMAトーナメント]]
|[[ABEMA|AbemaTV]]
|2018年
|なし<ref group="注">第2回のみ1名</ref>
|なし
|なし
|5分+1手毎に5秒加算<br/>([[持ち時間#フィッシャーモード|フィッシャールール]])
|なし
|1,000万円<br/><ref group="注">賞金1000万円は第3回以降。第1-2回の賞金は未判明。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「第3回AbemaTVトーナメント」開催決定 今度はなんと団体戦 トップ棋士によるドラフト会議も|url=https://times.abema.tv/articles/-/7044072|website=ABEMA TIMES|accessdate=2021-10-16|language=ja|publisher=[[AbemaTV]]|date=2020-3-3 <!--|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0530-2045-31/https://times.abema.tv:443/posts/7044072|archivedate=2020-5-30-->}}</ref>
|-
|[[SUNTORY 将棋オールスター 東西対抗戦|SUNTORY<br>将棋オールスター<br>東西対抗戦]](準公式戦)
|[[サントリー食品インターナショナル|サントリー食品<br>インターナショナル]]
|2021年
|なし
|なし
|なし
|一手30秒未満<br />(初手から30秒将棋)
|なし
|{{0|0,}}500万円
|-
|[[新銀河戦]]
|[[囲碁・将棋チャンネル]]
|2021年<br/><ref group="注">これまでの実施回数は2021年度の1回(2023年12月時点)。</ref>
|8名
|なし
|なし
|1分+1手毎に10秒加算<br/>(フィッシャールール)
|なし
|非公表
|}
=== 終了・休止棋戦 ===
'''太字'''は現在の日本将棋連盟が公認しているタイトル戦。
*名人戦・王将戦の前身棋戦(主催:毎日新聞・朝日新聞・ほか)
**([[名人 (将棋)|終世名人]])<ref group="注">終世名人は棋戦ではないが、現在の名人戦は従来の終世名人制を引き継いで短期実力名人制に移行する形で開始された。</ref>(1612-1936)→'''[[名人戦 (将棋)|名人戦]]'''<ref group="注">1937年から1949年までは毎日新聞主催。1950年から1976年までは朝日新聞主催。1977年は開催されず。1978年から2007年までは毎日新聞主催。2008年からは毎日新聞と朝日新聞の共同主催。</ref>(1937-1946)→'''名人戦'''(下位棋戦:[[順位戦]])<ref group="注">順位戦によって名人戦挑戦者を決定する。</ref>(1947-)
**(名人戦)→[[王将戦]]<ref group="注">名人戦が朝日新聞主催となったのに伴い、毎日新聞が新設。</ref>(1950)→'''王将戦'''<ref group="注">タイトル戦へ昇格。なお、名人戦が毎日新聞主催となったのに伴い、1978年からはスポーツニッポンが主催に加わる。</ref>(1951-)
**(名人戦)→[[朝日オープン将棋選手権|全日本トーナメント戦]]<ref group="注">名人戦が毎日新聞主催となった後に、朝日新聞が新設。</ref>(1982-2000)→朝日選手権戦<ref group="注">準タイトル戦に位置付けられ、タイトル戦同様の[[挑戦手合制]]で開催された。</ref>(2001-2006)→[[朝日杯将棋オープン戦|朝日杯戦]]<ref group="注">翌年から名人戦が毎日新聞と朝日新聞の共同主催となることに決まったため、準タイトル戦の朝日選手権戦を一般棋戦に縮小したもの。</ref>(2007-)
*竜王戦の前身棋戦(主催:読売新聞)
**[[十段戦_(将棋)#全日本選手権戦|全日本選手権戦]](1948-1949)<br/>→全日本選手権戦(下位棋戦:'''九段戦''')<ref group="注">九段戦は名人以外の棋士で争い、九段位獲得者と名人との間で名人九段五番勝負を行うことで全日本選手権者を決定した。</ref>(1950-1955)→<br/>→'''[[十段戦_(将棋)#九段戦|九段戦]]'''(1956-1961)→'''[[十段戦 (将棋)|十段戦]]'''(1962-1987)→'''[[竜王戦]]'''(1988-)
**[[全八段戦]](1952-1955)→九段戦へ統合
*王位戦・棋聖戦の前身棋戦(主催:産経新聞・新聞三社連合・ほか)
**[[早指し王位決定戦|産経杯戦]]<ref group="注">産経新聞主催。なお、産経杯戦は原則として名人不出場。</ref>(1951-1953)→早指し王位戦<ref group="注">産経新聞主催。準タイトル戦であり、タイトル戦同様の[[挑戦手合制]]で開催された。</ref>(1954-1959)→'''[[王位戦 (将棋)|王位戦]]'''<ref group="注">1960年から1961年までは産経新聞と新聞三社連合の共同主催。1962年から、産経新聞が棋聖戦を新設して離脱し、新聞三社連合主催。その後、1973年には神戸新聞が、1984年には徳島新聞が主催に加わる。</ref>(1960-)
**[[名人A級勝抜戦]]<ref group="注">新聞三社連合主催。</ref>(1950-1959)→王位戦へ統合
**[[三社杯B級選抜トーナメント|B級選抜トーナメント戦]]<ref group="注">新聞三社連合主催。B級棋士を対象とした棋戦。</ref>(1954-1959)→王位戦へ統合
**[[東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦|高松宮賞選手権戦]]<ref group="注">東京新聞主催。東京新聞が新聞三社連合の中日新聞傘下となったことに伴い、王位戦へ統合。</ref>(1956-1966)→王位戦へ統合
**(王位戦)→'''[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]'''<ref group="注">産経新聞が王位戦の主催を離脱して新設したもの。</ref>(1962-)
*王座戦の前身棋戦(主催:日経新聞)
**[[王座戦 (将棋)|王座戦]](1953-1982)→'''王座戦'''<ref group="注">1970年からタイトル戦同様の挑戦手合制で開催されていたが、正式にタイトル戦へ昇格。</ref>(1983-)
*棋王戦の前身棋戦(主催:共同通信・ほか)
**[[最強者決定戦|九、八、七段戦]]<ref group="注">九、八、七段戦は名人を除く七段以上の棋士、日本一杯戦と最強者決定戦は名人を除く順位戦B級以上の棋士が出場した。</ref>(1954-1956)→日本一杯戦(1957-1960)→最強者決定戦(1961-1973)→[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]](下位棋戦:名棋戦)<ref group="注">名人も出場できる棋戦となった。併せて古豪新鋭戦を名棋戦として再編し、棋王戦の予選にした。</ref>(1974)→'''棋王戦'''(下位棋戦:名棋戦)<ref group="注">正式にタイトル戦へ昇格した。</ref>(1975-1980)→'''棋王戦'''(1981-)
**[[名棋戦|六、五、四段戦]]<ref group="注">六、五、四段戦は六段以下の棋士、古豪新鋭戦は順位戦C級の棋士が出場した。</ref>(1955-1956)→古豪新鋭戦(1957-1973)→名棋戦(棋王戦の下位棋戦)へ
**[[天王戦|東西対抗勝継戦]]<ref group="注">大阪新聞主催。</ref>(1951-1967)→日本将棋連盟杯戦<ref group="注">地方紙の新聞十社連合による主催。なお、日本将棋連盟杯は名人の参加しない棋戦。</ref>(1968-1984)→天王戦<ref group="注">名人も参加する棋戦に改めたもの。</ref>(1985-1992)→棋王戦へ統合
*叡王戦の前身棋戦(主催:ドワンゴ)
**[[将棋電王戦|電王戦]]<ref group="注">棋士がコンピューター将棋と対戦する非公式戦。</ref>(2012-2014)→電王戦(下位棋戦:[[叡王戦]])<ref group="注">叡王戦によって電王戦出場者を決定した。</ref>(2015-2016)→'''叡王戦'''(2017-)
*その他の棋戦
**朝日新聞主催:[[昭和番付編成将棋]](1940-1943)
**[[テレビ東京]]主催:[[早指し将棋選手権|早指し選手権戦]](1972-1981)→早指し選手権戦(下位棋戦:早指し新鋭戦)<ref group="注">早指し新鋭戦は、早指し選手権戦の予選を兼ねて若手棋士が対局するもの。</ref>(1982-2002)
**[[週刊文春]]主催:[[名将戦]](1973-1987)
**[[近代将棋]]主催:[[若獅子戦]]<ref group="注">若手棋士向けの棋戦。</ref>(1977-1991)
**[[日刊ゲンダイ]]主催:[[オールスター勝ち抜き戦]](1978-2003)
**日本将棋連盟主催:[[大和証券杯ネット将棋・最強戦|ネット将棋・最強戦]](2007-2012)
**[[大阪新聞]]主催(非公式):[[若駒戦]]<ref group="注">奨励会員の大会。</ref>(1978-1992)
**[[近代将棋]]主催(非公式):[[近代将棋#近将カップ|近将カップ戦]]<ref group="注">六段以下の棋士、奨励会員、女流棋士、アマチュアによる非公式戦。</ref>(2003-2005)
**[[週刊朝日]]主催(非公式):[[富士通杯達人戦]](1993-2014)<ref group="注">2015年の開催は見送り。2016年以降は未定。 {{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.shogi.or.jp/news/2015/06/post_1224.html |title=達人戦のお知らせ |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2015-06-23}}</ref>
**日本将棋連盟主催、[[ヤマダデンキ]]特別協賛:[[YAMADAチャレンジ杯]](2016-2021、ただし2020-2021は中止)
== 女流棋戦 ==
=== 女流タイトル戦 ===
女流タイトル戦は、[[日本将棋連盟]]が運営し、所属(日本将棋連盟、[[日本女子プロ将棋協会]]、フリー)にかかわらず、全ての現役女流棋士(休場者を除く)に出場義務が課される{{Efn2|[[女流王将戦]]は「女流棋戦タイトルホルダーと女流棋士と選抜された女流アマチュアで行います。」(連盟公式サイト - 女流王将戦 - 棋戦概要(2019年11月7日閲覧)から引用)と規定されており、女流タイトル保持者は無条件に出場できる。}}。[[女流王座戦|リコー杯女流王座戦]]のみはエントリー制を採用しているため、出場を辞退できる<ref group="注">第5期[[女流王座戦]]([[2015年|2015年度]])で、[[矢内理絵子]]と[[竹俣紅]]が出場を辞退した例がある。</ref>。
[[マイナビ女子オープン]]とリコー杯女流王座戦はオープン棋戦であり、女性[[新進棋士奨励会|奨励会員]](女流棋士と奨励会の重籍者を除く。以下同じ。)、予選を通過した女性アマチュア選手も出場できる<ref>「奨励会と女流棋士の重籍に関する件」について(2011年5月27日 日本将棋連盟){{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2011/05/post_421.html|title=「奨励会と女流棋士の重籍に関する件」について|accessdate=2017-01-25|date=2015-12-31|publisher=[[日本将棋連盟]]}}</ref>。[[女流王将戦]]は、出場資格が「'''女流棋戦タイトルホルダー'''と女流棋士と選抜された女流アマチュアで行います。<ref group="注">「日本将棋連盟公式サイト - 棋戦一覧 - 霧島酒造杯女流王将戦 - 棋戦概要」(2019年11月7日閲覧)から引用</ref>」と規定されているため、女流タイトル在位者は無条件に出場できる。女性奨励会員が出場できる女流タイトル戦は、マイナビ女子オープンと女流王座戦の2つである。どちらかの棋戦で女流タイトル保持者となった場合は女流王将戦が加わり最大3つである<ref group="注">白玲戦は第1期のみ、女流タイトル三冠を保持していた奨励会員の西山朋佳が参加している。第2期以降は棋戦のシステム上、女流棋士でない女性奨励会員の参加は出来なくなっている。</ref>。
{{main2|女流棋士と奨励会の重籍|女流棋士_(将棋)#女流棋士と棋士(奨励会)}}
選抜された女性アマチュア選手の出場枠が設けられている棋戦もある。
2020年に白玲戦とその予選を兼ねる女流順位戦が創設され、女流タイトル戦は8つとなった。[[番勝負]]は全て1日制。「[[将棋の女流タイトル在位者一覧]]」も参照。
※いずれの棋戦も日本将棋連盟が主催者に名を連ねている。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
|+ style="text-align:left; font-weight:normal"|(2023年6月時点、優勝賞金額順および創設順<ref name="女流棋戦序列"/>)
|-
!棋戦<!--主催者杯名は大文字・協賛者杯名は小文字で記載-->
!現在の<br/>保持者
!主催・協賛
!開始年度
!女流棋士・<br>女性奨励会員<br>以外の女性参加枠
!称号
!永世称号
!番勝負
![[持ち時間]]
!優勝賞金
|-
|[[白玲戦|'''<small>ヒューリック杯<br></small>白玲戦'''<br/>女流順位戦]]
|style="background-color:#D1D2D4" |[[第3期女流順位戦|第3期]]<br/>[[西山朋佳]]
|[[ヒューリック]]
|2020年
|-
|白玲
|(未定)
|七番
|4時間<br><ref group="f" name="clock">[[対局時計]]使用で切れたら1手1分未満。</ref>
|1,500万円
|-
|'''[[清麗戦|<small>大成建設杯<br></small>清麗戦]]'''
|style="background-color:#E2F3F2"|[[第5期清麗戦|第5期]]<br/>[[里見香奈]]
|[[大成建設]]
|2019年
|-
|清麗
|クイーン清麗
|五番
|4時間<br><ref group="f" name="clock"/>
|{{0|0,}}700万円
|-
|'''[[マイナビ女子オープン|<small>マイナビ<br></small>女子オープン]]'''
|style="background-color:#D1D2D4" |[[第16期マイナビ女子オープン|第16期]]<br/>[[西山朋佳]]
|[[マイナビ]]
|2007年
|アマチュア(予選で選抜)<br/><ref group="注">有段格のアマチュアに限る。</ref>
|女王
|永世女王
|五番
|3時間<br><ref group="f" name="clock">[[対局時計]]使用で切れたら1手1分未満。</ref>
|{{0|0,}}500万円
|-
|'''[[女流王座戦|<small>リコー杯<br></small>女流王座戦]]'''
|style="background-color:#E2F3F2"|[[第13期女流王座戦|第13期]]<br/>[[里見香奈]]
|[[リコー]]<br>[[日本経済新聞社]](特別協力)
|2011年
|アマチュア(予選で選抜)<br/><ref group="注">[[女流王座戦]]のアマチュア予選は、一次予選への出場資格を持つ「日本将棋連盟が推薦する現役女流棋士と日本将棋連盟に所属する女性奨励会員」(「日本将棋連盟公式サイト - 棋戦一覧 - 女流王座戦 - 棋戦概要」(2019年11月6日閲覧)から引用)以外の全ての女性が参加できる。引退女流棋士、女流棋士の資格を放棄した元女流棋士が、アマチュアの扱いで参加できる女流タイトル戦は女流王座戦のみ。</ref>
|女流王座
|クイーン女流王座
|五番
|3時間
|{{0|0,}}500万円
|-
|'''[[女流名人戦 (将棋)|<small>岡田美術館杯</small><br>女流名人戦]]'''
|style="background-color:#D1D2D4" |[[第49期女流名人戦_(将棋)|第49期]]<br/>[[西山朋佳]]
|[[報知新聞社]]<br />[[ユニバーサルエンターテインメント]](特別協賛)
|1974年
|-
|女流名人
|クイーン女流名人
|五番
|3時間
|非公表
|-
|'''[[女流王位戦]]'''
|style="background-color:#E2F3F2"|[[第34期女流王位戦|第34期]]<br/>[[里見香奈]]
|[[ブロック紙3社連合|新聞三社連合]]<br>[[日本女子プロ将棋協会]]
|1989年
|-
|女流王位
|クイーン女流王位
|五番
|4時間
|非公表
|-
|'''[[女流王将戦|<small>霧島酒造杯</small><br/>女流王将戦]]'''
|style="background-color:#D1D2D4"|[[第45期女流王将戦|第45期]]<br/>[[西山朋佳]]
|[[囲碁・将棋チャンネル|囲碁将棋チャンネル]]<br/>[[霧島酒造]](協賛)<br/>[[BTV (企業)|BTV]](協力)
|1978年
|アマチュア(選抜5名)
|女流王将
|クイーン女流王将
|三番
|3時間<br><ref group="f">対局時計使用。[[2008年]]までは五番勝負・3時間、2009年から2017年までは三番勝負・25分・切れ40秒であった。</ref>
|非公表
|-
|'''[[大山名人杯倉敷藤花戦|<small>大山名人杯<br></small>倉敷藤花戦]]'''
|style="background-color:#E2F3F2"|[[第30期大山名人杯倉敷藤花戦|第30期]]<br/>[[里見香奈]]
|[[倉敷市]]<br />倉敷市文化振興財団(アルスくらしき)<br />[[山陽新聞]]
|1993年
|アマチュア(選抜2名)
|倉敷藤花
|クイーン倉敷藤花
|三番
|2時間<br/><ref group="f" name="clock"/>
|非公表
|}
{{reflist|group=f}}
==== 女流タイトル戦の年間スケジュール ====
{|border="1" class="wikitable" style="font-size:89%"
|{{color box|Yellow}}:予備予選/予選トーナメント(予選T)・予選リーグ(予選L)<br/>{{color box|Lime}}:本戦トーナメント(本戦T)・本戦リーグ(本戦L)・順位戦<br/>{{color box|Orange}}:挑戦者決定戦(挑) {{color box|SkyBlue}}:タイトル戦番勝負
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small"
|-
!style="width:6em" rowspan="2"| 棋戦
| colspan="11" |前年度
!colspan="12"| 当年度
|-
!style="width:1.5em"| 5 !!style="width:1.5em"| 6 !!style="width:1.5em"| 7 !!style="width:1.5em"| 8 !!style="width:1.5em"| 9
!!style="width:1.5em"| 10 !!style="width:1.5em"| 11 !!style="width:1.5em"| 12 !!style="width:1.5em"| 1 !!style="width:1.5em"| 2 !!style="width:1.5em"| 3 !!style="width:1.5em"| 4 !!style="width:1.5em"| 5 !!style="width:1.5em"| 6 !!style="width:1.5em"| 7 !!style="width:1.5em"| 8 !!style="width:1.5em"| 9 !!style="width:1.5em"| 10 !!style="width:1.5em"| 11 !!style="width:1.5em"| 12 !!style="width:1.5em"| 1 !!style="width:1.5em"| 2 !!style="width:1.5em"| 3
|-
! [[マイナビ女子オープン|女子オープン]]
| colspan="3" style="background-color:Yellow" |予選T
| colspan="8" style="background-color:Lime" | 本戦T
| colspan="3" style="background-color:SkyBlue" | '''番勝負'''
| colspan="9" |
|-
! [[女流王位戦]]
| colspan="3" |
| colspan="3" style="background-color:Yellow" |予選T
| colspan="4" style="background-color:Lime" |本戦L
| style="background-color:Orange" | 挑
| colspan="3" style="background-color:SkyBlue" |'''番勝負'''
| colspan="9" |
|-
! [[清麗戦]]
| colspan="5" |
| colspan="7" style="background-color:Yellow" |予選T
| colspan="2" style="background-color:Lime" | 本戦T
| colspan="2" style="background-color:SkyBlue" | '''番勝負'''
| colspan="7" |
|-
! [[白玲戦]]
| colspan="5" |
| colspan="10" style="background-color:Lime" |順位戦
| colspan="3" style="background-color:SkyBlue" |'''番勝負'''
| colspan="5" |
|-
! [[女流王将戦]]
| colspan="7" |
| colspan="3" style="background-color:Yellow" |予選T
|
| colspan="5" style="background-color:Lime" |本戦T
|
| colspan="1" style="background-color:SkyBlue" | '''番'''
| colspan="5" |
|-
! [[大山名人杯倉敷藤花戦|倉敷藤花戦]]
| colspan="10" |
| colspan="7" style="background-color:Lime" | 本戦T
|
| colspan="1" style="background-color:SkyBlue" | '''番'''
| colspan="4"|
|-
! [[女流王座戦]]
| colspan="12" |
| colspan="2" style="background-color:Yellow" |予選T
| colspan="3" style="background-color:Lime" | 本戦T
| colspan="3" style="background-color:SkyBlue" | '''番勝負'''
| colspan="3"|
|-
![[女流名人戦 (将棋)|女流名人戦]]
| colspan="7" |
| colspan="4" style="background-color:Yellow" |予選T
| colspan="8" style="background-color:Lime" |本戦L
|
| colspan="2" style="background-color:SkyBlue" |'''番勝負'''
|}
直近をより重視の上、直近5期を参考(開催期により前後することもあります)
=== 女流一般棋戦 ===
==== 若手棋士等選抜棋戦 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!棋戦名
!主催・協賛
!開始<br>年度
!棋士枠
!アマ<br>枠
!称号
!持ち<br>時間
!考慮<br>時間
!優勝賞金
|-
|[[YAMADA女流チャレンジ杯]]
|上州将棋祭り委員会<br>[[ヤマダデンキ]](特別協賛)<!-- [[上毛新聞|上毛新聞社]](協賛)<br>[[群馬テレビ]](協賛)<br>[[ユーシーカード]](協賛)<br> -->
|2015年
|女流二段以下かつプロ入り15年未満の<br/>タイトル戦未出場の女流棋士
|1名
|なし
|20分、<br/>秒読み30秒
|なし
|非公表
|}
=== 非公式戦 ===
* [[白瀧あゆみ杯争奪戦]](日本将棋連盟主催)
* [[1dayトーナメント]](日本女子プロ将棋協会主催)
* [[ABEMAトーナメント|女流ABEMAトーナメント]]([[ABEMA|AbemaTV]]主催)
=== 終了・休止女流棋戦 ===
* [[鹿島杯女流将棋トーナメント]]([[東京メトロポリタンテレビジョン]]主催、[[鹿島建設]]協賛)
* [[レディースオープントーナメント]]([[週刊将棋]]主催)※マイナビ女子オープンに移行
* [[大和証券杯ネット将棋・女流最強戦]](日本将棋連盟主催、[[大和証券グループ本社|大和証券グループ]]特別協賛)
* [[NSN女流プロトーナメント戦]](日本将棋ネットワーク主催)※'''非公式戦'''
* [[きしろ杯争奪関西女流メイショウ戦]](日本将棋連盟関西本部主催、[[神戸新聞社]]・[[デイリースポーツ|デイリースポーツ社]]後援、きしろ協賛)※'''非公式戦'''
* [[LADIES HOLLY CUP]](日本将棋連盟[[女流棋士会]]主催)※'''非公式戦'''
* [[NTTル・パルク杯天河戦]](日本女子プロ将棋協会主催、[[NTTル・パルク]]協賛)※'''非公式戦'''
* [[日レスインビテーションカップ]](日本女子プロ将棋協会主催、[[日本レストランシステム]]協賛)※'''非公式戦'''
* [[世田谷花みず木女流オープン戦]](二子玉川花みず木実行委員会、[[世田谷区]]、世田谷青少年将棋連盟 主催)※'''非公式戦'''
== 永世称号 ==
永世称号は、同一タイトルを一定の期数(3期の九段以外は最低5期保持を要する事が多い)獲得した者に与えられる称号であり、現存する8タイトル戦と、竜王戦へと発展解消されて終了棋戦となった2つのタイトル戦(九段戦・十段戦)に制定されている。また、一般棋戦では[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]で永世称号に準じた「名誉NHK杯選手権者」の称号が制定されている<ref name="nhkhai" group="注">タイトル戦の永世称号は、襲位(就位)後に公式戦や棋士の活動における肩書として呼称され、一部の棋戦で参加資格や上位シード対象の「永世称号者」として扱われるが、名誉NHK杯選手権者の称号は、肩書としての呼称はNHK杯戦やNHKの将棋番組に限定される。また、NHK杯戦以外の棋戦では参加資格やシード条件として扱われていない</ref>。各棋戦には永世称号獲得のために必要な、連続または通算タイトル獲得期数あるいは優勝回数が規定されている。現在は、永世棋王だけが連続獲得のみの規定である<ref group="注">[[米長邦雄]]によれば、米長が通算5期目、連続4期目の棋王位を獲得しようとする防衛戦の最中に、「通算5期でも永世棋王は認められない」という判断を[[日本将棋連盟]]が下したことなどによる。詳細は「[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]」を参照。</ref><ref group="注">過去には、九段戦で連続獲得のみの永世称号が存在した</ref>。
永世称号の名称はタイトル名に「永世」または「名誉」を冠したものである。「名誉」を冠するのはタイトル戦では[[王座戦 (将棋)|王座戦]]([[日本経済新聞社]]主催。囲碁の王座戦も主催しているため、囲碁と同じ称号となった)のみである。また、永世名人の場合は資格を得た順に番号が付き「○○世名人」と呼称される([[名人 (将棋)#永世名人]]を参照)。
永世称号を名乗り始めることを「永世(または名誉)○○に就位する」あるいは「永世(または名誉)○○を名乗る」と言う。ただし、永世名人の場合は「○○世名人を襲位する」と言う。
なお、タイトルの実績とは無関係に贈られた名誉称号(例:[[名人 (将棋)#その他の名人|名誉名人]]、名誉九段)も存在する。[[塚田正夫]]は十段を獲得したことはないが、十段戦の前身棋戦である九段戦で永世九段を獲得し、逝去後に名誉十段が贈られている。
棋士のタイトル永世称号は引退後に名乗るのが原則とされているが、実際には、塚田正夫は永世称号に基づいて「九段」を称しており<ref group="注">塚田正夫が段位としての九段を名乗ったのは、タイトルとしての九段を失冠した後の1956年であり、段位としての九段の昇段規定が新設されたのは、その2年後の1958年である。</ref>、また、大山康晴(永世王将、のちに十五世名人も)、中原誠(永世十段、のちに名誉王座・十六世名人・永世棋聖・永世王位も)、米長邦雄(永世棋聖)、谷川浩司(十七世名人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/05/post_2128.html |title=谷川浩司九段が永世名人(十七世名人)を襲位 |access-date=2022/5/26 |publisher=日本将棋連盟}}</ref>)と、いずれも現役のまま永世称号を名乗っており、木村義雄が引退と同時に十四世名人を襲位した1952年以降、引退してから初めて永世称号を名乗った例は一つもない。なお名誉王座については、[[名誉称号 (囲碁)|囲碁の名誉称号]]と同じく現役でも満60歳に達すると名乗ることができる<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.shogi.or.jp/news/2007/08/post_131.html |title="中原 誠 永世十段・名誉王座"誕生へ |publisher=[[日本将棋連盟]] |accessdate=2015-04-08}}</ref>。また、名誉NHK杯選手権者については達成直後に称号が贈られている<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2012/03/nhk_5.html 羽生善治二冠、名誉NHK杯に!] 日本将棋連盟、2012年3月19日(2017年8月20日閲覧)</ref>。
=== 永世称号一覧 ===
*襲位(就位)年が現役時代の場合は'''太字'''で表記
*九段戦(永世九段)・十段戦(永世十段)は終了棋戦
*(年齢)は達成当時または襲位(就位)当時の年齢
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|+ style="text-align:left"|永世称号
|-
!永世称号!!制定年!!条件!!達成者!!colspan="2"|規定達成年!!colspan="2"|襲位{{small|(就位)}}年!!備考
|-
!rowspan="2"|[[竜王戦#「永世竜王」の称号|永世竜王]]
|rowspan="2"|1996年||rowspan="2"|'''連続'''5期または<br />通算7期
|style="background-color:#AAE0F9"|[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]||2008年||{{small|({{年数|1984|04|23|2008|12|18}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
|style="background-color:#FCD3C1"|[[羽生善治]]||2017年||{{small|({{年数|1970|09|27|2017|12|05}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||史上初の永世七冠を達成
|-
!rowspan="6"|[[名人戦 (将棋)#永世名人|永世名人]]
|rowspan="6"|1949年||rowspan="6"|通算5期
|style="background-color:#E3F2E8"|[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]||(1945年)||{{small|({{年数|1905|02|21|1945|02|21}}歳)}}||1952年||{{small|({{年数|1905|02|21|1952|08|24}}歳)}}||十四世名人。制定前に規定達成
|-
|style="background-color:#C7E0F4"|[[大山康晴]]||1956年||{{small|({{年数|1923|03|13|1956|06|13}}歳)}}||'''1976年'''||{{small|({{年数|1923|03|13|1976|11|17}}歳)}}||十五世名人
|-
|style="background-color:#F0E8DF"|[[中原誠]]||1976年||{{small|({{年数|1947|09|02|1976|06|11}}歳)}}||'''2007年'''||{{small|({{年数|1947|09|02|2007|11|17}}歳)}}||十六世名人
|-
|style="background-color:#C9E8E6"|[[谷川浩司]]||1997年||{{small|({{年数|1962|04|06|1997|06|11}}歳)}}||'''2022年'''||{{small|({{年数|1962|04|06|2022|05|23}}歳)}}||十七世名人
|-
|style="background-color:#FFF9AE"|[[森内俊之]]||2007年||{{small|({{年数|1970|10|10|2007|06|29}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||十八世名人資格者
|-
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治||2008年||{{small|({{年数|1970|09|27|2008|06|17}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||十九世名人資格者
|-
!rowspan="2"|[[十段戦 (将棋)#永世九段・永世十段|永世九段]]<br/><ref group="注">当時の段位は原則として八段までであり、特別な段位である九段とタイトルとしての永世九段はほぼ同一視されていた。</ref>
|rowspan="2"|1954年||rowspan="2"|'''連続'''3期
|style="background-color:#FFF8E7"|[[塚田正夫]]||1954年||{{small|({{年数|1914|08|02|1954|11|28}}歳)}}||'''1954年'''<ref group="注">塚田は1956年に九段のタイトルを失冠後に九段を名乗った。ただし、これは一般的にタイトルとしての永世称号ではなく段位としての九段とされる。</ref>||{{small|({{年数|1914|08|02|1954|11|28}}歳)}}||逝去後(1978年)名誉十段追贈
|-
|style="background-color:#C7E0F4"|(大山康晴)||(1960年)||{{small|({{年数|1923|03|13|1960|12|07}}歳)}}||colspan="2"|-||一般的に永世称号に含まれない<ref group="注">「タイトルとしての永世九段」と「段位としての九段」とは明確に区別されておらず、タイトルとして永世九段の資格を獲得した時点で大山はすでに段位として九段に昇段していたためである。</ref>
|-
!rowspan="2"|[[十段戦 (将棋)#永世九段・永世十段|永世十段]]
| rowspan="2" |1980年|| rowspan="2" |通算10期<ref group="注">十段獲得期数は、前身の九段戦における九段獲得期数も含む。</ref>
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴||(1966年)||{{small|({{年数|1923|03|13|1966|01|07}}歳)}}||1992年<ref name="ooyama" group="注">大山は順位戦A級在籍で現役のまま逝去したため、年次は逝去年で表記。</ref>||{{small|(没後)}}||制定前に規定達成<ref group="注">十段戦終了時に永世十段の規定が再考され、前身の九段戦の獲得数も含めることとなった。大山の十段獲得期数は8期であったが、九段を6期獲得していたことからこれに該当して資格を得た。</ref>
|-
|style="background-color:#F0E8DF"|中原誠||1982年||{{small|({{年数|1947|09|02|1982|12|21}}歳)}}||'''1994年'''||{{small|({{年数|1947|09|02|1994|04|01}}歳)}}||
|-
!rowspan="3"|[[王位戦 (将棋)#永世王位|永世王位]]
|rowspan="3" |1997年||rowspan="3"|'''連続'''5期または<br />通算10期||style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴||(1964年)||{{small|({{年数|1923|03|13|1964|09|29}}歳)}}||1997年||{{small|(没後)}}||制定前に規定達成
|-
|style="background-color:#F0E8DF"|中原誠||(1977年)||{{small|({{年数|1947|09|02|1977|10|05}}歳)}}||'''2008年'''||{{small|({{年数|1947|09|02|2008|04|01}}歳)}}||制定前に規定達成
|-
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治||1997年||{{small|({{年数|1970|09|27|1997|08|29}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
![[叡王戦#永世叡王|永世叡王]]
|2023年||通算5期<ref>[https://www.shogi.or.jp/faq/provisions/ プロ棋戦の規定などについて「永世称号の規定はどうなっているのでしょうか。」] - 日本将棋連盟</ref>||(なし)|| - || - || - || - || -
|-
!rowspan="2"|[[王座戦 (将棋)#名誉王座|名誉王座]]
|rowspan="2" |1996年||rowspan="2"|'''連続'''5期または<br />通算10期<ref group="注">獲得期数は、非タイトル戦時代も含む。</ref>
|style="background-color:#F0E8DF"|中原誠||(1996年)||{{small|({{年数|1947|09|02|1996|09|02}}歳)}}||'''2007年'''||{{small|({{年数|1947|09|02|2007|09|02}}歳)}}||{{small|通算16期の実績による<br/>(優勝10回およびタイトル通算6期)}}
|-
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治||1996年||{{small|({{年数|1970|09|27|1996|09|25}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
!rowspan="2"|[[棋王戦 (将棋)#永世棋王|永世棋王]]
|rowspan="2" |1995年||rowspan="2"|'''連続'''5期
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治||1995年||{{small|({{年数|1970|09|27|1995|03|10}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
|style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明||2017年||{{small|({{年数|1984|04|23|2017|03|23}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
!rowspan="2"|[[王将戦#永世王将|永世王将]]
|rowspan="2" |1973年||rowspan="2"|通算10期
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴||(1965年)||{{small|({{年数|1923|03|13|1966|03|29}}歳)}}||'''1973年'''||{{small|({{年数|1923|03|13|1973|10|31}}歳)}}||制定前に規定達成
|-
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治||2006年||{{small|({{年数|1970|09|27|2007|03|20}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
!rowspan="5"|[[棋聖戦 (将棋)#永世棋聖|永世棋聖]]
|rowspan="5" |1965年||rowspan="5"|通算5期
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴||1965年||{{small|({{年数|1923|03|13|1965|01|11}}歳)}}||1992年<ref name="ooyama" group="注" />||{{small|(没後)}}||
|-
|style="background-color:#F0E8DF"|中原誠||1971年||{{small|({{年数|1947|09|02|1971|08|03}}歳)}}||'''2008年'''||{{small|({{年数|1947|09|02|2008|04|01}}歳)}}||永世称号資格獲得の最年少記録
|-
|style="background-color:#F9FBE9"|[[米長邦雄]]||1985年||{{small|({{年数|1943|06|10|1985|01|31}}歳)}}||'''1998年'''||{{small|({{年数|1943|06|10|1998|04|01}}歳)}}||
|-
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治||1995年||{{small|({{年数|1970|09|27|1995|07|08}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
|style="background-color:#C7CDE7"|[[佐藤康光]]||2006年||{{small|({{年数|1969|10|01|2006|07|05}}歳)}}||colspan="2"|(現役)||
|-
|[[NHK杯テレビ将棋トーナメント#名誉NHK杯選手権者|名誉NHK杯<br/>選手権者]]<ref name="nhkhai" group="注" />
|2012年||通算10回優勝||style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治
|'''2012年'''||{{small|({{年数|1970|09|27|2012|03|18}}歳)}}||colspan="2"| -||
|}
{|class="wikitable" style="!font-size:smaller; text-align:center; white-space:nowrap; width:50%; !margin-left:0em;"
|+ style="text-align:left"|永世称号の複数獲得
|-
!
!達成者数
!達成者
!資格獲得した永世称号
|-
!永世八冠
| -
|(達成者なし)|| -
|-
!永世七冠
|1名
|style="background-color:#FCD3C1"|[[羽生善治]]||永世竜王・十九世名人・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将・永世棋聖
|-
!永世六冠
|1名
|(同上)||
|-
!rowspan="3"|永世五冠
|rowspan="3"|3名
|(同上)||
|-
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴 ||十五世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将
|-
|style="background-color:#F0E8DF"|中原誠 ||十六世名人・永世十段・永世王位・名誉王座・永世棋聖
|-
!永世四冠
|3名
|(同上3名) ||
|-
!永世三冠
|3名
|(同上3名) ||
|-
!rowspan="2"|永世二冠
|rowspan="2"|4名
|(同上3名) ||
|-
|style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明 ||永世竜王・永世棋王
<!--
|-
!rowspan="6"|永世一冠
|rowspan="6"|9名
|(同上4名) ||
|-
|木村義雄 ||十四世名人
|-
|米長邦雄 ||永世棋聖
|-
|谷川浩司 ||十七世名人
|-
|森内俊之 ||十八世名人
|-
|佐藤康光 ||永世棋聖
-->
|}
=== クイーン称号 ===
女流棋戦において永世称号に相当するのは「クイーン称号」である{{Refnest|group="注"|2017年現在、日本将棋連盟の機関誌「[[将棋世界]]」<ref>{{Cite journal ja-jp|author=渡部壮大|year=|title=里見、連勝でクイーン王将に|journal= 将棋世界|serial=2016年12月号|publisher=日本将棋連盟|naid=|pages=20-21}}</ref><ref>{{Cite journal ja-jp|author=|year=|title=里見快走! 五冠に王手 第6期リコー杯女流王座戦第2局|journal= 将棋世界|serial=2017年1月号|publisher=日本将棋連盟|naid=|pages=26-27}}</ref>、日本将棋連盟公式サイト<ref>
{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/10/post_1452.html|title=里見女流王将、クイーン王将の称号を得る|accessdate=2017-07-26|date=2016-10-11|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161227220514/https://www.shogi.or.jp/news/2016/10/post_1452.html|archivedate=2016-12-27}}</ref><ref name="queen-ouza">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/09/6_18.html|title=第6期リコー杯女流王座戦五番勝負 対局者およびスケジュールについて|accessdate=2017-07-26|date=2016-09-01|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170726051529/https://www.shogi.or.jp/news/2016/09/6_18.html|archivedate=2017-07-26}}</ref>のいずれにおいても、「イ」を大きくする「クイーン」で表記している。同じく2017年現在、連盟公式サイトで「ィ」を小さくする「クィーン」で表記している例も見られるが<ref>{{Cite web|和書|url=http://kifulog.shogi.or.jp/joryu_ouza/2016/10/post-02bc.html|title=リコー杯女流王座戦中継ブログ「明日 五番勝負開幕」|accessdate=2017-07-26|date=2016-10-24|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170726064242/http://kifulog.shogi.or.jp/joryu_ouza/2016/10/post-02bc.html|archivedate=2017-07-26}}</ref>、表記ゆれとみなせる件数に留まる。}}。
2023年現在、「白玲戦」を除く7つのタイトル戦でクイーン称号が制定されている。
クイーン称号は、タイトル名称「○○」「女流○○」に対して「クイーン○○」となる。ただし「[[マイナビ女子オープン]]」では、タイトル名称「[[マイナビ女子オープン|女王]]」に対してクイーン称号には「'''永世'''女王」となっている。
クイーン称号については、棋士の永世称号とは異なり「原則として引退後に就位」という規定はない<ref group="注">2018年7月現在、[[清水市代]]と[[中井広恵]]が「クイーン称号を有し、タイトルを有さない現役女流棋士」に該当するが、クイーン称号ではなく段位で呼称されている。</ref>。タイトル獲得・防衛によってクイーン称号の条件を満たすと、その期の就位式において、タイトルの就位状に加えて「クイーン称号の就位状」が同時に授与される<ref>{{Cite news|title=ユニバーサル杯第40期女流名人位戦就位式の模様|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2014-3-26|url=https://www.shogi.or.jp/news/2014/03/40_7.html|accessdate=2018-06-07|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180607070333/https://www.shogi.or.jp/news/2014/03/40_7.html|archivedate=2018-6-7}}</ref><ref>{{Cite news|title=第38期霧島酒造杯女流王将就位式の模様|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2016-12-9|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/38_9.html|accessdate=2018-06-07|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180607053556/https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/38_9.html|archivedate=2018-6-7}}</ref>
{{Refnest|group="注"|2017年度の第42期[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]五番勝負を制して「棋王」を防衛した[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]は、「連続5期」の条件を満たし、永世棋王資格を獲得した。第42期棋王の就位式において、渡辺には、永世棋王資格を獲得したことについて「功労金」と「副賞」が授与された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2017/05/42_7.html|title=第42期棋王就位式ならびに祝賀パーティー|accessdate=2018-5-4|date=2017-5-30|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180607054624/https://www.shogi.or.jp/news/2017/05/42_7.html|archivedate=2018-6-7}}</ref>。}}。
{| class="wikitable"
|+ style="text-align:left"| クイーン称号
|-
!クイーン称号!!条件!!達成者!!称号獲得年!!備考
|-
|([[白玲戦]])|| - || - || - ||(クイーン称号の規定なし)
|-
|[[清麗戦|クイーン清麗]]<ref name="nikkan181212">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201812120000520.html|title=7個目の女流棋戦を新設、過去最高の賞金700万円|accessdate=2018-12-13|date=2018-12-12|website=|publisher=[[日刊スポーツ]]|language=ja|archiveurl=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201812120000520.html|archivedate=2018-12-13}}</ref>||通算5期<ref name="nikkan181212" />||なし||||
|-
|[[マイナビ女子オープン|永世女王]]||'''連続'''5期または<br/>通算7期<ref name="女流棋士の永世称号の規定">{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/faq/provisions/|title=よくある質問-プロ棋戦の規定などに関するご質問-女流棋士の永世称号の規定はどうなっているのでしょうか。|publisher=[[日本将棋連盟]]|accessdate=2017-10-25|archiveurl=|archivedate=}}</ref>|| style="background-color:#D1D2D4"|[[西山朋佳]]||2022年||
|-
|[[女流王座戦|クイーン王座]]||通算5期<ref name="女流棋士の永世称号の規定"/>||style="background-color:#E2F3F2"|[[里見香奈]]||2021年||史上初のクイーン五冠を達成。
|-
|rowspan="3"|[[女流名人戦 (将棋)|クイーン名人]]||rowspan="3"|通算5期||style="background-color:#FEE7DD"|[[中井広恵]]||1992年||
|-
|style="background-color:#FFFDEA"|[[清水市代]]||1996年||
|-
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈||2013年||
|-
|rowspan="2"|[[女流王位戦|クイーン王位]]||rowspan="2"|通算5期||style="background-color:#FFFDEA"|清水市代||1998年||
|-
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈||2019年||
|-
|rowspan="3"|[[女流王将戦|クイーン王将]]||rowspan="3"|通算5期||style="background-color:#B7CCA3"|[[林葉直子]]||1991年||1995年に連盟退会のため資格喪失。
|-
|style="background-color:#FFFDEA"|清水市代||2000年||史上初のクイーン四冠を達成。
|-
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈||2016年||
|-
|rowspan="2"|[[大山名人杯倉敷藤花戦|クイーン倉敷藤花]]||rowspan="2"|通算5期||style="background-color:#FFFDEA"|清水市代||1998年||
|-
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈||2012年||
|-
|}
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap; width:70%; !margin-left:0em;"
|+ style="text-align:left"|クイーン称号の複数獲得
|-
!
!達成者数
!達成者
!資格獲得したクイーン称号
<!-- |-
!クイーン八冠
| -
|(達成者なし)|| - -->
|-
!クイーン七冠
| -
|(達成者なし)|| -
|-
!クイーン六冠
| -
|(達成者なし)|| -
|-
!クイーン五冠
| 1名
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈 || クイーン王座<wbr>・クイーン名人<wbr>・クイーン王位<wbr>・クイーン王将<wbr>・クイーン倉敷藤花
|-
!rowspan="2"|クイーン四冠
|rowspan="2"| 2名
|(同上)|| -
|-
|style="background-color:#FFFDEA"|清水市代|| クイーン名人<wbr>・クイーン王位<wbr>・クイーン王将<wbr>・クイーン倉敷藤花
|-
!クイーン三冠
| 2名
|(同上2名)|| -
|-
!クイーン二冠
| 2名
|(同上2名)|| -
|}
== 全冠制覇 ==
将棋の複数のタイトル全てを同時に保持する「全冠制覇」は、棋士のタイトル戦では[[十段戦 (将棋)|九段戦]]に名人が参加するようになった1956年度<ref group="注">九段戦は創設された1950年度から1955年度まで名人は参加しなかった。[[大山康晴]]は1952年度から1954年度まで獲得できる名人・王将の二冠を3年間保持した。</ref>から2023年度までに11回の挑戦機会があり、全冠制覇は9回達成された(4名達成、[[大山康晴]]のみ6回達成)。
棋士のタイトル戦における最後の全冠制覇達成者は2023年度の[[藤井聡太]](全八冠制覇)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD062RB0W3A001C2000000/ |title=藤井聡太八冠が誕生、史上初の独占 将棋王座戦を制す |website=日本経済新聞 |date=2023-10-11 |accessdate=2023-10-11}}</ref>である。藤井による最初の全冠制覇は、同記録のプロ入り後史上最速(7年0か月)・史上最年少(21歳2か月)での達成でもある。
なお藤井は王座獲得時に直近一年以内の参加可能な一般棋戦も全て制覇しており、同時期での棋戦完全制覇を達成している。
=== 棋士タイトル全冠制覇 ===
{|class="wikitable" style="font-size:95%"
!回数 !!棋士!!達成日{{small|(失冠日)}} !!棋戦!!結果!!全冠期間
|-
|rowspan="2"|{{0}}1
|rowspan="2"|[[升田幸三]]<br/>(史上初)
|1957年{{0}}7月11日
|[[第10期順位戦|第16期名人戦]]
|'''全三冠達成'''(名人、王将、九段)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{age in days|1957|07|11|1958|03|29}}日
|-
|{{small|(1958年{{0}}3月29日)}}
|[[第7期王将戦]]
|王将失冠{{small|(二冠に後退/名人、九段)}}
|-
|rowspan="1"|{{0}}2
|rowspan="1"|[[大山康晴]]<br/>(史上2人目)
|1959年{{0}}6月12日
|[[第12期順位戦|第18期名人戦]]
|'''全三冠達成'''(名人、王将、九段)
|rowspan="1" style="text-align:center;"|{{age in days|1959|06|12|1960|09|20}}日
|-
|rowspan="1"|{{0}}3
|rowspan="1"|大山康晴
|1960年{{0}}9月20日
|[[第1期王位戦]]
|'''全四冠達成'''(名人、王位、王将、九段)
|rowspan="1" style="text-align:center;"|{{age in days|1960|09|20|1963|02|02}}日
|-
|rowspan="2"|{{0}}4
|rowspan="2"|大山康晴
|1963年{{0}}2月{{0}}2日
|[[第1期棋聖戦 (将棋)|第1期棋聖戦]]
|'''全五冠達成'''(名人、王位、王将、棋聖、十段)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{0}}{{age in days|1963|02|02|1963|03|20}}日
|-
|{{small|(1963年{{0}}3月20日)}}
|[[第12期王将戦]]
|王将失冠{{small|(四冠に後退/名人、王位、棋聖、十段)}}
|-
|rowspan="2"|{{0}}5
|rowspan="2"|大山康晴
|1964年{{0}}2月12日
|[[第13期王将戦]]
|'''全五冠達成'''(2度目/名人、王位、王将、棋聖、十段)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{age in days|1964|02|12|1966|07|23}}日
|-
|{{small|(1966年{{0}}7月23日)}}
|[[第8期棋聖戦 (将棋)|第8期棋聖戦]]
|棋聖失冠{{small|(四冠に後退/名人、王位、王将、十段)}}
|-
|rowspan="2"|{{0}}6
|rowspan="2"|大山康晴
|1967年{{0}}1月10日
|[[第9期棋聖戦 (将棋)|第9期棋聖戦]]
|'''全五冠達成'''(3度目/名人、王位、王将、棋聖、十段)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{age in days|1967|01|10|1967|07|24}}日
|-
|{{small|(1967年{{0}}7月24日)}}
|[[第10期棋聖戦 (将棋)|第10期棋聖戦]]
|棋聖失冠{{small|(四冠に後退/名人、王位、王将、十段)}}
|-
|rowspan="2"|{{0}}7
|rowspan="2"|大山康晴
|1970年{{0}}7月17日
|[[第16期棋聖戦 (将棋)|第16期棋聖戦]]
|'''全五冠達成'''(4度目/名人、王位、王将、棋聖、十段)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{age in days|1970|07|17|1970|12|11}}日
|-
|{{small|(1970年12月11日)}}
|[[第9期十段戦 (将棋)|第9期十段戦]]
|十段失冠{{small|(四冠に後退/名人、王位、王将、棋聖)}}
|-
| {{small|(-) }}
|([[中原誠]])
|{{small|(1978年度)}}
|[[第3期棋王戦]]
|全六冠制覇失敗{{small|(五冠保持=名人、十段、棋聖、王位、王将)}}
| style="text-align:center;"| (-)
|-
|{{small|(-) }}
|([[羽生善治]])
|{{small|(1994年度)}}
|[[第44期王将戦]]
|全七冠制覇失敗{{small|(六冠保持=竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王)}}
| style="text-align:center;"| (-)
|-
|rowspan="2"|{{0}}8
|rowspan="2"|羽生善治<br/>(史上3人目)
|1996年{{0}}2月14日
|[[第45期王将戦]]
|'''全七冠達成'''(竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王、王将)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{age in days|1996|02|14|1996|07|30}}日
|-
|{{small|(1996年{{0}}7月30日)}}
|[[第67期棋聖戦_(将棋)|第67期棋聖戦]]
|棋聖失冠{{small|(六冠に後退/竜王、名人、王位、王座、棋王、王将)}}
|-
|rowspan="1"| {{0}}9
|rowspan="1"|[[藤井聡太]]<br/>(史上4人目)
|2023年10月11日
|[[第71期王座戦_(将棋)|第71期王座戦]]
|'''全八冠達成'''(竜王、名人、王位、叡王、王座、棋王、王将、棋聖)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{sum2|1<!-- 起算日を加算/途絶時に除去 -->|{{age in days|2023|10|11}}}}日<br/>(継続中)
|}
==== 棋士タイトルの生涯グランドスラム ====
上記「[[#棋士タイトル全冠制覇]]」以外の'''生涯[[グランドスラム]]'''達成者(全タイトル1期以上獲得者)
*[[中原誠]] - [[第31期王座戦_(将棋)|第31期王座戦]]獲得により7つ目のタイトル獲得(旧十段戦含む、7タイトル時代)
*[[谷川浩司]] - [[第41期王将戦]]獲得により7つ目のタイトル獲得(旧十段戦除く7タイトル時代 {{=}} '''叡王戦創設まで''')
=== 女流タイトル全冠制覇 ===
{{節stub}}
==== 棋士タイトルの生涯グランドスラム ====
{{節stub}}
== 記録 ==
=== タイトル獲得記録 ===
{{リスト
|カッコ内は登場回数。
|タイトル数の{{colorbox|#ff8|黄色{{sup|'''永世'''}}}}は永世称号資格。
|'''{{bgcolor|#FCC|太字}}'''は在位中のタイトル。
|{{Font color||#ccc|†}}は終了棋戦。
|{{Font color||#ccc|灰色}}は現役期間とタイトル戦の終了・創設時期の関係で獲得機会のなかったもの。
}}
<!--更新される方は合わせて、表タイトルの日付等も更新してください-->
{| class="wikitable sortable" style="text-align:center;font-size: small; white-space:nowrap"
|+ style="text-align:left; font-size:105%; font-weight:normal"|(2023年11月11日、第36期竜王戦終了現在)
|- style="line-height:120%"
! style="width:2.5em" | 獲得数<br/>順位
! style="width:7em" | 棋士名
! style="width:3em" | 初挑戦<br/>年度
! style="width:3em" | 獲得<br/>合計
! style="width:3em" | {{2rows-brackets|lineheight=120%|登場|回数}}
! style="width:0.01em" |
! style="width:3em" | [[竜王戦|竜王]]
! style="width:3em;background-color:#ccc;" | [[十段戦 (将棋)|十段]]†
! style="width:3em;background-color:#ccc;" | [[十段戦 (将棋)|九段]]†
! style="width:3em" | [[名人戦 (将棋)|名人]]
! style="width:3em" | [[王位戦 (将棋)|王位]]
! style="width:3em" | [[王座戦 (将棋)|王座]]
! style="width:3em" | [[叡王戦|叡王]]
! style="width:3em" | [[棋王戦 (将棋)|棋王]]
! style="width:3em" | [[王将戦|王将]]
! style="width:3em" | [[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]
|-style="line-height:1em; white-space:nowrap;"
! style="border-top:hidden; font-size:89%; line-height:0.75em;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" class="unsortable" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;background-color:#ccc;" |
! style="border-top:hidden;background-color:#ccc;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
|- style="line-height:120%"
|1||style="background-color:#FCD3C1"|{{display none|はふ よしはる/}}[[羽生善治]]||1989||99||(138)||
| style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}7(16)
| -
|style="background-color:#ccc;"|-
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}9(17)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>18(23)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''名誉'''}}}}<br/>24(26)
| -
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>13(17)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>12(19)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>16(20)
|- style="line-height:120%"
|2||style="background-color:#C7E0F4"|{{display none|おおやま やすはる/}}[[大山康晴]]||1948||80||(112)||
| -
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}8(14)<br /><ref name="eiseijudan" group="注">大山は九段戦で3連覇しているが、九段昇段後であったため永世九段としては扱われておらず、九段戦の実績も含めて永世十段の称号が与えられている。</ref>
|<br />{{0}}6({{0}}8)<br /><ref name="eiseijudan" group="注" />
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>18(25)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>12(15)
| -
|style="background-color:#ccc;"| -
| {{0}}-({{0}}2)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>20(26)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>16(22)
|- style="line-height:120%"
|3||style="background-color:#F0E8DF"|{{display none|なかはら まこと/}}[[中原誠]]||1967||64||(91)||
| -
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>11(15)
|style="background-color:#ccc;"| -
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>15(18)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}8(11)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''名誉'''}}}}<br/>{{0}}6({{0}}8)<br /><ref group="注">タイトル戦昇格前の優勝10回と昇格後の獲得6期を合わせた実績により名誉王座の資格を与えられた。</ref>
|style="background-color:#ccc;"| -
|{{0}}1({{0}}3)
|{{0}}7(13)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>16(23)
|- style="line-height:120%"
|4|| style="background-color:#AAE0F9" |{{display none|わたなへ あきら/}}[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]||2003||31||(44)||
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>11(13)<br /><ref name="cheatingallegations" group="注" />
|style="background-color:#ccc;"| -
|style="background-color:#ccc;"| -
|{{0}}3({{0}}4)
| -
|{{0}}1({{0}}3)
| -
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>10(12)
|{{0}}5({{0}}7)
|{{0}}1({{0}}5)
|- style="line-height:120%"
|5||style="background-color:#C9E8E6"|{{display none|たにかわ こうし/}}[[谷川浩司]]||1983||27||(57)||
| {{0}}4({{0}}6)||-||style="background-color:#ccc;"|-
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}5(11)||{{0}}6(11)||{{0}}1({{0}}6)||-||{{0}}3({{0}}7)||{{0}}4({{0}}7)||{{0}}4({{0}}9)
|- style="line-height:120%"
|6||style="background-color:#F9FBE9"|{{display none|よねなか くにお/}}[[米長邦雄]]||1970||19||(48)||
| -(1)||2(6)||style="background-color:#ccc;"|-||1(8)||1(6)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||5(7)||3(8)||style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}7(12)
|-
|6|| style="background-color:#CFE5AE" |{{display none|ふしい そうた/}}[[藤井聡太]]||2020||19||(19)||
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}3({{0}}3)}}'''
| style="background-color:#ccc;" | -
| style="background-color:#ccc;" | -
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}1({{0}}1)}}'''
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}4({{0}}4)}}'''
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}1({{0}}1)}}'''
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}3({{0}}3)}}'''
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}1({{0}}1)}}'''
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}2({{0}}2)}}'''
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}4({{0}}4)}}'''
|- style="line-height:120%"
|8||style="background-color:#C7CDE7"|{{display none|さとう やすみつ/}}[[佐藤康光]]||1990||13||(37)||
| 1(5)||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||2(3)||-(5)||-(3)||-||2(6)||2(8)||style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}6({{0}}7)
|- style="line-height:120%"
|9||style="background-color:#FFF9AE"|{{display none|もりうち としゆき/}}[[森内俊之]]||1996||12||(25)||
| 2(5)||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}8(12)||-||-(1)||-||1(3)||1(2)||-(2)
|-
|10|| style="background-color:#EFE4F0" |{{display none|かとう ひふみ/}}[[加藤一二三]]||1960||8||(24)||
| -||3(7)||-||1(4)||1(3)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||2(3)||1(5)||-(2)
|- style="line-height:120%"
|10|| style="background-color:#E3F2E8" |{{display none|きむら よしお/}}[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]||1938||8||(11)||
| style="background-color:#ccc;" | -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-<ref group="注">現役期間の九段戦には名人のため参加していない。</ref>|| style="background-color:#ff8;" |{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}8(10)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-
|-
|12|| style="background-color:#FDE9F1" |{{display none|ますた こうそう/}}[[升田幸三]]||1951||7||(23)||
| style="background-color:#ccc;" | -||-(3)||2(3)||2(10)||-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||3(5)||-(2)
|-
|12|| style="background-color:#FFFCD6" |{{display none|みなみ よしかす/}}[[南芳一]]||1986||7||(16)||
| -||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-||-||2(5)||3(5)||2(6)
|-
|12|| style="background-color:#D8C1AD" |{{display none|くほ としあき/}}[[久保利明]]||2000||7||(15)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(3)||-||3(5)||4(7)||-
|-
|15|| style="background-color:#F8C1D9" |{{display none|とよしま まさゆき/}}[[豊島将之]]||2010||6||(18)||
|2(3)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||1(2)||1(4)||-(2)||1(2)||-||-(2)||1(3)
|-
|15||style="background-color:#EDF2C1"|{{display none|こうた まさたか/}}[[郷田真隆]]||1992||6||(18)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(2)||1(4)||-||-||1(3)||2(3)||2(6)
|- style="line-height:120%"
|15||style="background-color:#FFF8E7"|{{display none|つかた まさお/}}[[塚田正夫]]||1947||6||(10)||
|style="background-color:#ccc;"|-||-||style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>{{0}}4({{0}}5)||2(3)||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)
|-
|18||style="background-color:#E7E7E9"|{{display none|ふたかみ たつや/}}[[二上達也]]||1959||5||(26)||
| -||-(3)||-(2)||-(3)||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||1(5)||4(12)
|-
|18|| style="background-color:#DDD6CB" |{{display none|なかせ たくや/}}[[永瀬拓矢]]||2016||5||(12)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||4(5)||1(2)||-(2)||-(1)||-(2)
|-
|18||style="background-color:#E1E9F6"|{{display none|たかはし みちお/}}[[高橋道雄]]||1983||5||(10)||
| -||1(1)||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||3(5)||-||-||1(3)||-||-
|-
|21|| style="background-color:#E0DFEF" |{{display none|ないとう くにお/}}[[内藤國雄]]||1968||4||(13)||
| -||-||-||-||2(5)||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-||-(1)||-(1)||2(5)
|-
|21|| style="background-color:#F1E1CA" |{{display none|きりやま きよすみ/}}[[桐山清澄]]||1976||4||(10)||
| -||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-||-(1)||-||-(1)||-||1(2)||-||3(5)
|-
|23|| style="background-color:#B3DCC0" |{{display none|まるやま たたひさ/}}[[丸山忠久]]||1999||3||(10)||
|style="line-height:90%"| -(3){{sub|<br /><ref name="cheatingallegations" group="注">第29期挑戦者決定三番勝負の勝者は三浦弘行であったが、三番勝負敗者の丸山忠久が繰り上げで挑戦者になった。{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/10/29_13.html|title=第29期竜王戦七番勝負挑戦者の変更について|publisher=[[日本将棋連盟]]|date=2016-10-12|accessdate=2016-10-12}}詳しい経緯は[[将棋ソフト不正使用疑惑騒動]]を参照のこと。</ref>}}|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||2(3)||-||-(1)||-||1(2)||-||-(1)
|-
|23|| style="background-color:#BCBDC0" |{{display none|ふかうら こういち/}}[[深浦康市]]||1996||3||(8)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||3(5)||-||-||-||-(1)||-(2)
|-
|23|| style="background-color:#D3B5D6" |{{display none|ふしい たけし/}}[[藤井猛]]||1998||3||(7)||
| 3(4)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-(2)||-||-||-||-
|-
|23|| style="background-color:#D3C8E2" |{{display none|やしき のふゆき/}}[[屋敷伸之]]||1990||3||(7)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-||-||-||-||3(6)
|-
|23|| style="background-color:#DEA6CB" |{{display none|さとう あまひこ/}}[[佐藤天彦]]||2015||3||(6)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||3(4)||-||-(1)||-||-(1)||-||-
|-
|28||{{display none|ひろせ あきひと/}}[[広瀬章人]]||2010||2||(8)||
|1(3)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||1(3)||-||-||-(1)||-(1)||-
|-
|28||{{display none|もり けいし/}}[[森雞二]]||1978||2||(8)||
| -||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-(1)||1(2)||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||1(3)
|-
|28||{{display none|やまた みちよし/}}[[山田道美]]||1965||2||(6)||
| style="background-color:#ccc;" | -||-||-||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-(1)||2(4)
|-
|28||{{display none|なかむら おさむ/}}[[中村修 (棋士)|中村修]]||1984||2||(5)||
| -||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-||-||-||2(3)||-(2)
|-
|28||{{display none|ふくさき ふんこ/}}[[福崎文吾]]||1986||2||(4)||
| -||1(2)|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||1(2)||-||-||-||-
|-
|33||{{display none|きむら かすき/}}[[木村一基]]||2005||1||(9)||
| -(1)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||1(5)||-(2)||-||-||-||-(1)
|-
|33||{{display none|ありよし みちお/}}[[有吉道夫]]||1966||1||(9)||
| -||-||-||-(1)||-(2)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(3)||1(3)
|-
|33||{{display none|しま あきら/}}[[島朗]]||1988||1||(6)||
| 1(2)||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-(2)||-||-||-(1)||-(1)
|-
|33||{{display none|もりやす ひてみつ/}}[[森安秀光]]||1981||1||(6)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||-||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-||-(2)||-||1(2)
|-
|33||{{display none|みうら ひろゆき/}}[[三浦弘行]]||1995||1||(5)||
|style="line-height:90%"| -(0){{sub|<br/><ref name="cheatingallegations" group="注" />}}||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||-||-||-||-(1)||-||1(3)
|-
|33||{{display none|さいとう しんたろう/}}[[斎藤慎太郎]]||2017||1||(5)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(2)||-||1(2)||-||-||-||-(1)
|-
|33||{{display none|いとたに てつろう/}}[[糸谷哲郎]]||2014||1||(4)||
| 1(2)||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-(1)||-||-(1)||-||-
|-
|33||{{display none|なかむら たいち/}}[[中村太地 (棋士)|中村太地]]||2012||1||(4)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||1(3)||-||-||-||-(1)
|-
|33||{{display none|おおうち のふゆき/}}[[大内延介]]||1967||1||(4)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||1(2)||-||-
|-
|33||{{display none|すかい たつや/}}[[菅井竜也]]||2017||1||(3)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||1(2)||-||-(1)||-||-||-
|-
|33||{{display none|つかた やすあき/}}[[塚田泰明]]||1987||1||(2)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||1(2)||-||-||-||-
|-
|33||{{display none|たかみ たいち/}}[[高見泰地]]||2017||1||(2)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||1(2)||-||-||-
|-
|33||{{display none|たなか とらひこ/}}[[田中寅彦]]||1988||1||(2)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-||-||-||1(2)
|-
!順位
!棋士名
!初挑戦<br/>年度
!{{sort|0|}}合計!!{{sort|0|}}(挑戦)!!
![[竜王戦|竜王]]
!style="background-color:#ccc;" |[[十段戦 (将棋)|十段]]†
!style="background-color:#ccc;" |[[十段戦 (将棋)|九段]]†
![[名人戦 (将棋)|名人]]
![[王位戦 (将棋)|王位]]
![[王座戦 (将棋)|王座]]
!|[[叡王戦|叡王]]
![[棋王戦 (将棋)|棋王]]
![[王将戦|王将]]
![[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]
|-
| -||{{display none|もりした たく/}}[[森下卓]]||1990||-||(6)||
| -(1)||-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||-||-||-||-(2)||-(1)||-(1)
|-
| -||{{display none|はなむら もとし/}}[[花村元司]]||1953||-||(4)||
|style="background-color:#ccc;"|-||-||-(2)||-(1)||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-
|-
| -||{{display none|まるた ゆうそう/}}[[丸田祐三]]||1950||-||(4)||
| -||-||-||-(1)||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(2)||-
|-
| -||{{display none|まつた しけゆき/}}[[松田茂役]]||1953||-||(3)||
|style="background-color:#ccc;"|-||-||-(2)||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-
|-
| -||{{display none|すすき たいすけ/}}[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]||1999||-||(2)||
| -(1)||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-||-||-||-(1)
|-
| -||{{display none|なめかた ひさし/}}[[行方尚史]]||2013||-||(2)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||-(1)||-||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|たかしま かすきよ/}}[[高島一岐代]]||1955||-||(2)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-(1)||style="background-color:#ccc;"|-
|-
| -||{{display none|かつうら おさむ/}}[[勝浦修]]||1976||-||(2)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)
|-
| -||{{display none|にしむら かすよし/}}[[西村一義]]||1969||-||(2)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)
|-
| -||{{display none|ささき たいち/}}[[佐々木大地_(棋士)|佐々木大地]]||2023||-||(2)||
| -||style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-||-||-||-||-(1)
|-
| -||{{display none|さなた けいいち/}}[[真田圭一]]||1997||-||(1)||
| -(1)||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|あへ たかし/}}[[阿部隆]]||2002||-||(1)||
| -(1)||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|いとう たくみ/}}[[伊藤匠]]||2023||-||(1)||
| -(1)||style="background-color:#ccc;" |-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|いたや しろう/}}[[板谷四郎]]||1950||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||style="background-color:#ccc;"|-
|-
| -||{{display none|みなみくち しけかす/}}[[南口繁一]]||1951||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||-||-(1)||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-
|-
| -||{{display none|とい いちたろう/}}[[土居市太郎]]||1940||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-
|-
| -||{{display none|かんた たつのすけ/}}[[神田辰之助]]||1942||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-
|-
| -||{{display none|なた れんしよう/}}[[灘蓮照]]||1970||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-(1)||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-
|-
| -||{{display none|いなは あきら/}}[[稲葉陽]]||2017||-||(1)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-(1)||-||-||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|さとう たいころう/}}[[佐藤大五郎]]||1965||-||(1)||
| -||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-
|-
| -||{{display none|なかた ひろき/}}[[中田宏樹]]||1991||-||(1)||
| -||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|あおの てるいち/}}[[青野照市]]||1989||-||(1)||
| -||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|やまさき たかゆき/}}[[山崎隆之]]||2009||-||(1)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|かない こうた/}}[[金井恒太]]||2017||-||(1)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-||-(1)||-||-||-
|-
| -||{{display none|てくち わかむ/}}[[出口若武]]||2022||-||(1)||
| -|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-||-(1)||-||-||-
|-
| -||{{display none|たかしま ひろみつ/}}[[高島弘光]]||1975||-||(1)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-(1)||-||-
|-
| -||{{display none|ちた しようた/}}[[千田翔太]]||2017||-||(1)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-||-(1)||-||-
|-
| -||{{display none|ほんた けい/}}[[本田奎]]||2019||-||(1)||
| -||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-||-(1)||-||-
|-
| -||{{display none|かとう ひろし/}}[[加藤博二]]||1964||-||(1)||
| -||-||-||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-
|-
| -||{{display none|むらやま さとし/}}[[村山聖]]||1992||-||(1)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-(1)||-
|-
| -||{{display none|せきね しける/}}[[関根茂]]||1964||-||(1)||
| -||-||-||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)
|-
| -||{{display none|ほんま そうえつ/}}[[本間爽悦]]||1964||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)
|-
| -||{{display none|あわし ひとしけ/}}[[淡路仁茂]]||1979||-||(1)||
| -||-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-|| style="background-color:#ccc;" |-||-||-||-(1)
|-
!順位
!棋士名
!初挑戦<br/>年度
!{{sort|1|}}合計!!{{sort|1|}}(挑戦)!!
![[竜王戦|竜王]]
!style="background-color:#ccc;" |[[十段戦 (将棋)|十段]]†
!style="background-color:#ccc;" |[[十段戦 (将棋)|九段]]†
![[名人戦 (将棋)|名人]]
![[王位戦 (将棋)|王位]]
![[王座戦 (将棋)|王座]]
!|[[叡王戦|叡王]]
![[棋王戦 (将棋)|棋王]]
![[王将戦|王将]]
![[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]
|}
==== 女流タイトル ====
{{リスト
|カッコ内は登場回数。
|タイトル数の{{colorbox|#ff8|黄色{{sup|'''Q'''}}}}はクイーン称号保持を示す。
|'''{{bgcolor|#FCC|太字}}'''は在位中のタイトル。
|{{Font color||#ccc|灰色}}は現役期間とタイトル戦創設時期の関係で獲得機会のなかったもの{{Efn2|[[女流王座戦]]のアマチュア予選は、一次予選への出場資格を持つ「日本将棋連盟が推薦する現役女流棋士と日本将棋連盟に所属する女性奨励会員」(日本将棋連盟公式サイト、「女流王座戦 - 棋戦概要」(2019年11月6日閲覧)から引用)以外の'''全ての女性'''が参加できるため、女流王座戦の創設時点で生存していた女性は、理論上は女流王座のタイトルを獲得できた。女流王座戦の創設時点に故人だった女流棋士は[[杉崎里子]]のみだが、杉崎は本表に含まれない。よって女流王座戦から灰色表示を除いている。}}。
}}
<!-- 女性奨励会員(女流棋士と奨励会の重籍者を除く)については、参加資格のない棋戦の欄を空欄にしている。--><!-- 引退女流棋士と元女流棋士については、現役引退後に創設された棋戦の欄を{{Font color||#ccc|灰色}}にしている{{Efn2|[[女流王座戦]]のアマチュア予選は、一次予選への出場資格を持つ「日本将棋連盟が推薦する現役女流棋士と日本将棋連盟に所属する女性奨励会員」(日本将棋連盟公式サイト、「女流王座戦 - 棋戦概要」(2019年11月6日閲覧)から引用)以外の'''全ての女性'''が参加できるため、女流王座戦の創設時点で生存していた女性は、理論上は女流王座のタイトルを獲得できた。女流王座戦の創設時点に故人だった女流棋士は[[杉崎里子]]のみだが、杉崎は本表に含まれない。よって女流王座戦から灰色表示を除いている。}} --><!--女性奨励会員(女流棋士と奨励会の重籍者を除く)が参加できない棋戦や、引退女流棋士・元女流棋士も参加可能な棋戦があることに留意-->
<!--更新される方は合わせて、表タイトルの日付等も更新してください-->
{| class="wikitable sortable" style="text-align:center;font-size: small; white-space:nowrap"
|+ style="text-align:left; font-size:105%; font-weight:normal"|(2023年12月11日、第13期女流王座戦終了現在)
|- style="line-height:120%"
! style="width:2.5em" | 獲得数<br/>順位
! style="width:7em" | 女流棋士名
! style="width:3em" | 初挑戦<br/>年度
! style="width:3em" | 獲得<br/>合計
! style="width:3em" | {{2rows-brackets|lineheight=120%|登場|回数}}
! style="width:0.1em" |
! style="width:4em" |[[白玲戦|白玲]]
! style="width:4em" |[[清麗戦|清麗]]
! style="width:4em" |[[マイナビ女子オープン|女王]]
! style="width:4em" |[[女流王座戦|女流王座]]
! style="width:4em" |[[女流名人戦 (将棋)|女流名人]]
! style="width:4em" |[[女流王位戦|女流王位]]
! style="width:4em" |[[女流王将戦|女流王将]]
! style="width:4em" |[[大山名人杯倉敷藤花戦|倉敷藤花]]
|-style="line-height:1em; white-space:nowrap;"
! style="border-top:hidden; font-size:89%; line-height:0.75em;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" class="unsortable" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
! style="border-top:hidden;" |
|- style="line-height:120%"
|1|| style="background-color:#E2F3F2" |{{display none|さとみ かな/}}[[里見香奈]]||2008||56||(70)||
||{{0}}1({{0}}2)
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}4({{0}}5)}}'''
|{{0}}1({{0}}4)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}7({{0}}9)}}'''
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>12(13)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}9(11)}}'''
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>{{0}}8(11)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>'''{{bgcolor|#FCC|14(15)}}'''
|- style="line-height:120%"
|2||style="background-color:#FFFDEA"|{{display none|しみす いちよ/}}[[清水市代]]||1987||43||(71)||
||-||-||-||-({{0}}2)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>10(20)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>14(20)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>{{0}}9(15)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>10(14)
|- style="line-height:120%"
|3||style="background-color:#FEE7DD"|{{display none|なかい ひろえ/}}[[中井広恵]]||1983||19||(44)||
||-||-||-||-
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>{{0}}9(18)
|{{0}}3({{0}}8)||{{0}}4(12)||{{0}}3({{0}}6)
|- style="line-height:120%"
|4||style="background-color:#B7CCA3"|{{display none|はやしは なおこ/}}[[林葉直子]]||1982||15||(23)||
|style="background-color:#ccc;"| -
|style="background-color:#ccc;"| -
|style="background-color:#ccc;"| -
| -||4(7)||-(2)
|style="background-color:#ff8;"|{{align|right|{{sup|'''Q'''}}}}<br/>10(12)
|1(2)
|- style="line-height:120%"
|4|| style="background-color:#D1D2D4" |{{display none|にしやま ともか/}}[[西山朋佳]]||2014||15||(23)||
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}2({{0}}3)}}'''
|{{0}}-({{0}}1)
| style="background-color:#ff8;" |{{align|right|{{sup|'''永世'''}}}}<br/>'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}6({{0}}6)}}'''
|{{0}}2({{0}}4)
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}1({{0}}1)}}'''
|{{0}}-({{0}}1)
|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}4({{0}}5)}}'''
|{{0}}-({{0}}2)
|-
|6|| style="background-color:#FAD6E5" |{{display none|かとう ももこ/}}[[加藤桃子]]||2011||9||(20)||
|| -||1(2)||4(6)||4(9)||-(1)||-(1)||-(1)||-(1)
|-
|7||style="background-color:#FFF1D0"|{{display none|かい ともみ/}}[[甲斐智美]]||2008||7||(14)||
||-||-(1)||1(4)||-||-||4(6)||-||2(3)
|-
|7||style="background-color:#F1F8E9"|{{display none|たこしま あきこ/}}[[蛸島彰子]]||1974||7||(11)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-|| 4(7)||-||3(4)||-
|-
|9||style="background-color:#E5DDD5"|{{display none|やうち りえこ/}}[[矢内理絵子]]||1995||6||(18)||
||-||-||2(3)||-|| 3(4)||1(4)||-(2)||-(5)
|-
|10||style="background-color:#E1EFFA"|{{display none|さいた はるこ/}}[[斎田晴子]]||1991||4||(12)||
||-||-||-||-||1(4)||-||2(5)||1(3)
|-
|10||style="background-color:#F6E7F1"|{{display none|やました かすこ/}}[[山下カズ子]]||1977||4||(6)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||4(5)||-||-(1)||-
|-
|12||style="background-color:#E8E2F0"|{{display none|いしはし さちお/}}[[石橋幸緒]]||1996||3||(12)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||2(6)||1(5)||-(1)
|-
|13|||{{display none|うえた はつみ/}}[[上田初美]]||2009||2||(9)||
||-||-(1)||2(5)||-||-(2)||-||-(1)||-
|-
|13||{{display none|ちは りようこ/}}[[千葉涼子]]||1998||2||(9)||
||-||-||-||-||-(3)||-(2)||2(3)||-(1)
|-
|13||{{display none|かかわ まなお/}}[[香川愛生]]||2015||2||(5)||
||-||-||-||-||-||-||2(5)||-
|-
| 16||{{display none|いとう さえ/}}[[伊藤沙恵]]||2015||1||(11)||
|| -||-||-(1)||-(1)||1(4)||-(2)||-(1)||-(2)
|-
|16||{{display none|わたなへ まな/}}[[渡部愛]]||2018||1||(3)||
||-(1)||-||-||-||-||1(2)||-||-
|-
!{{sort|1|}}順位!!{{sort|1|}}女流棋士名!!{{sort|1|}}初挑戦<br/>年度!!{{sort|0|}}合計!!{{sort|0|}}(挑戦)!!
![[白玲戦|白玲]]
![[清麗戦|清麗]]
![[マイナビ女子オープン|女王]]
![[女流王座戦|女流王座]]
![[女流名人戦 (将棋)|女流名人]]
![[女流王位戦|女流王位]]
![[女流王将戦|女流王将]]
![[倉敷藤花戦|倉敷藤花]]
|-
| -||{{display none|むろや ゆき/}}[[室谷由紀]]||2016||-||(5)||
||-||-||-(1)||-||-(1)||-||-(1)||-(2)
|-
| -||{{display none|せきね きよこ/}}[[関根紀代子]]||1978||-||(4)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-(3)||-||-(1)||-
|-
| -||{{display none|いわね しのふ/}}[[岩根忍]]||2009||-||(3)||
||-||-||-(1)||-||-||-(1)||-||-(1)
|-
| -||{{display none|なかむら まりか/}}[[中村真梨花]]||2009||-||(3)||
||-||-||-||-||-(1)||-||-(1)||-(1)
|-
| -||{{display none|もりやす たえこ/}}[[森安多恵子]]||1976||-||(2)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-(1)||-||-(1)||-
|-
| -||{{display none|なかさわ ちかこ/}}[[長沢千和子]]||1984||-||(2)||
||-||-||-||-||-(1)||-||-(1)||-
|-
| -||{{display none|やまた くみ/}}[[山田久美]]||1990||-||(2)||
||-||-||-||-||-||-||-(1)||-(1)
|-
| -||{{display none|はせかわ ゆうき/}}[[長谷川優貴]]||2012||-||(1)||
||-||-||-(1)||-||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|ほんた さゆり/}}[[本田小百合]]||2012||-||(1)||
||-||-||-||-(1)||-||-||-||-
|-
| -||{{display none|てらした のりこ/}}[[寺下紀子]]||1974||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-(1)||style="background-color:#ccc;"|-||-||style="background-color:#ccc;"|-
|-
| -||{{display none|たた よしこ/}}[[多田佳子]]||1975||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-(1)||-||-||-
|-
| -||{{display none|うえむら まり/}}[[植村真理]]||1991||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-(1)||-||-
|-
| -||{{display none|やまね ことみ/}}[[山根ことみ]]||2021||-||(1)||
||-||-||-||-||-||-(1)||-||-
|-
| -||{{display none|たにかわ はるえ/}}[[谷川治恵]]||1981||-||(1)||
|style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||style="background-color:#ccc;"|-||-||-||-||-(1)||-
|-
| -||{{display none|たけへ さゆり/}}[[竹部さゆり]]||1996||-||(1)||
||-||-||-||-||-||-||-||-(1)
|-
!順位!!女流棋士名!!初挑戦<br/>年度!!合計!!(挑戦)!!
![[白玲戦|白玲]]
![[清麗戦|清麗]]
![[マイナビ女子オープン|女王]]
![[女流王座戦|女流王座]]
![[女流名人戦 (将棋)|女流名人]]
![[女流王位戦|女流王位]]
![[女流王将戦|女流王将]]
![[倉敷藤花戦|倉敷藤花]]
|}
=== 同一タイトル通算獲得期数記録 ===
{{節stub}}
=== タイトル連覇記録 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! colspan="6"|タイトル連覇記録(9連覇以上)
|-
!順位
!記録者
!タイトル
!連覇数
!獲得年度
!備考
|-
|1
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治
|[[王座戦 (将棋)|王座]]
| 19
|1992 - 2010
|
|-
|2
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴
|[[名人戦 (将棋)|名人]]
| 13
|1959 - 1971
|
|-
|3
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴
|[[王位戦 (将棋)|王位]]
| 12
|1960 - 1971
|
|-
|3
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治
|[[棋王戦 (将棋)|棋王]]
| 12
|1990 - 2001
|
|-
|5
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴
|[[十段戦 (将棋)|九段・十段]]
| 10
|1958 - 1967
|
|-
|5
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治
|[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]
| 10
|2008 - 2017
|
|-
|5
|style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明
|棋王
| 10
|2012 - 2021
|
|-
|8
|style="background-color:#C7E0F4"|大山康晴
|[[王将戦|王将]]
| 9
|1963 - 1971
|
|-
|8
|style="background-color:#F0E8DF"|中原誠
|名人
| 9
|1972 - 1981
|1977年は実施せず
|-
|8
|style="background-color:#FCD3C1"|羽生善治
|王位
| 9
|1993 - 2001
|
|-
|8
|style="background-color:#AAE0F9"|渡辺明
|[[竜王戦|竜王]]
| 9
|2004 - 2012
|
|-
!colspan="6" style="text-align:left; font-size:smaller"|[[第36期竜王戦]]まで
|}
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
! colspan="6"|女流タイトル連覇記録(4連覇以上)
|-
!順位
!記録者
!タイトル
!連覇数
!獲得年度
!備考
|-
|1
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈
|[[女流名人戦 (将棋)|女流名人]]
| 12
|2009 - 2020
|
|-
|2
|style="background-color:#B7CCA3"|林葉直子
|[[女流王将戦|女流王将]]
| 10
|1981 - 1990
|<ref group="注">番勝負の実施時期およびタイトル獲得日は翌年度の4月以降。</ref>
|-
|3
|style="background-color:#FFFDEA"|清水市代
|[[女流王位戦|女流王位]]
| 9
|1998 - 2006
|
|-
|3
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈
|[[大山名人杯倉敷藤花戦|倉敷藤花]]
| 9
|2015 - 2023
|継続中
|-
|5
|style="background-color:#FFFDEA"|清水市代
|倉敷藤花
| 7
|1994 - 2000
|
|-
|6
|style="background-color:#D1D2D4"|西山朋佳
|女王
| 6
|2018 - 2023
|継続中
|-
|7
|style="background-color:#FFFDEA"|清水市代
|女流名人
| 5
|1995 - 1999
|
|-
|7
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈
|倉敷藤花
| 5
|2008 - 2012
|
|-
|7
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈
|女流王位
| 5
|2019 - 2023
|継続中
|-
|10
|style="background-color:#F6E7F1"|山下カズ子
|女流名人
| 4
|1978 - 1981
|
|-
|10
|style="background-color:#FFFDEA"|清水市代
|女流王位
| 4
|1993 - 1996
|
|-
|10
|style="background-color:#FAD6E5"|加藤桃子
|[[マイナビ女子オープン|女王]]
| 4
|2014 - 2017
|
|-
|10
|style="background-color:#E2F3F2"|里見香奈
|女流王将
| 4
|2015 - 2018
|
|-
!colspan="6" style="text-align:left; font-size:smaller"|[[第31期倉敷藤花戦]]まで
|}
=== 複数タイトル同時在位 ===
{{Main2|タイトルを複数保持している棋士の呼称|将棋の段級#棋士の肩書}}
==== 棋士タイトル ====
{| class="wikitable" style="font-size:90%; white-space:nowrap; width:70%"
|+ style="text-align:left; font-weight:normal;"|複数のタイトルに同時に在位した棋士(最高'''獲得'''数順、日数は{{今日 (UTC)}}現在)
|-
!タイトル<wbr>数
!棋士名
!colspan="2"|タイトル
!開始
!終了
!在位期間
!備考
|-
! rowspan="7" |8冠
| rowspan="7" style="background-color:#CFE5AE;text-align:center;" |[[Template:棋士藤井聡太の肩書きの遍歴|藤井聡太]]
|colspan="2"|{{bgcolor|#EE9|'''竜王・名人<wbr>・王位<wbr>・叡王<wbr>・王座<wbr>・棋王<wbr>・王将・棋聖'''}}
|title="2023年 10月11日"|[[第71期王座戦 (将棋)|2023 王座]]'''獲得'''
|{{center|{{bgcolor|#FCC|{{0}} '''(継続中)''' {{0}}}}}}
| style="text-align:right" | '''{{bgcolor|#FCC|{{0}}{{Sum2|{{Age in days|2023|10|11}}|1|}}日}}'''<!-- 途絶時は1日分の算入を外す -->
| rowspan="7" |{{bgcolor|#EE9|{{0}}'''全冠独占 (全8冠)'''{{0}}}}<br/><br/>{{font|size=90%|2冠以上の在位期間は{{Sum2|{{Age in days|2020|8|20}}|1|}}日(継続中)<!-- 途絶時は1日分の算入を外す -->。<br>継続中の日数は閲覧日時点。}}
|- style="font-size:85%;"
!7冠
|竜王・名人・王位・叡王・棋王・王将・棋聖
|title="2023年 6月 1日"|[[第81期順位戦|2023 名人]]'''獲得'''
|title="2023年10月11日|2023 王座'''獲得'''
|style="text-align:right"|<ref group="" name="将棋世界2023-12">将棋世界 2023年12月号 p60</ref> {{age in days|2023|6|1|2023|10|11}}日
|- style="font-size:85%;"
|- style="font-size:85%;"
!6冠
|竜王・王位・叡王・棋王・王将・棋聖
|title="2023年 3月20日"|[[第48期棋王戦|2022 棋王]]'''獲得'''
|title="2023年 6月 1日|2023 名人'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2023|3|20|2023|6|1}}日
|- style="font-size:85%;"
!5冠
|竜王・王位・叡王・王将・棋聖
|title="2022年 2月12日"|[[第71期王将戦|2021 王将]]'''獲得'''
|title="2023年 3月20日"|2022 棋王'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2022|2|12|2023|3|20}}日
|- style="font-size:85%;"
!4冠
|竜王・王位・叡王・棋聖
|title="2021年11月13日"|[[第34期竜王戦|2021 竜王]]'''獲得'''
|title="2022年 2月12日"|2021 王将'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2021|11|13|2022|2|12}}日
|- style="font-size:85%;"
!3冠
|王位・叡王・棋聖
|title="2021年 9月13日"|[[第6期叡王戦|2021 叡王]]'''獲得'''
|title="2021年11月13日"|2021 竜王'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2021|9|13|2021|11|13}}日
|- style="font-size:85%;"
!2冠
|王位・棋聖
|title="2020年 8月20日"|[[第62期王位戦|2020 王位]]'''獲得'''
|title="2021年 9月13日"|2021 叡王'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2020|8|20|2021|9|13}}日
|-
! rowspan="11" |7冠
|rowspan="11" style="background-color:#FCD3C1;text-align:center;"|[[Template:棋士羽生善治の肩書きの遍歴|羽生善治]]
|colspan="2"|{{bgcolor|#EE9|'''竜王・名人<wbr>・棋聖<wbr>・王位<wbr>・王座<wbr>・棋王・王将''' }}
|title="1996年 2月14日"|1995 王将'''獲得'''
|title="1996年 7月30日"|1996 棋聖失冠
|style="text-align:right"|<ref name="将棋世界2023-12"/> {{bgcolor|#EE9|'''{{age in days|1996|2|14|1996|7|30}}日'''}}
|{{bgcolor|#EE9|{{0}}'''全冠独占 (全7冠{{=}}当時)'''{{0}}}}<ref group="注">七冠前後の六冠以上だった期間は721日、五冠以上は1100日、四冠以上は3328日、三冠以上は4087日、二冠以上は4280日。全体を通じて五冠以上だった期間は合計1687日、四冠以上だった期間は合計5290日、三冠以上だった期間は合計7951日、二冠以上だった期間は合計9285日、最長4781日。</ref>
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="2"|6冠
|竜王・名人・棋聖・王位・王座・棋王
|title="1994年12月 9日"|1994 竜王'''獲得'''
|title="1996年 2月14日"|1995 王将'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|1994|12|9|1996|2|14}}日
|rowspan="2"|6冠の在位期間合計は{{Sum2|{{age in days|1994|12|9|1996|2|14}}|{{age in days|1996|7|30|1996|11|29}}}}日。<br>6冠以上の在位期間合計は{{age in days|1994|12|9|1996|11|29}}日。
|- style="font-size:85%;"
|竜王・名人・王位・王座・棋王・王将
|title="1996年 7月30日"|1996 棋聖失冠
|title="1996年11月29日"|1996 竜王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1996|7|30|1996|11|29}}日
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="5"|5冠
|竜王・棋聖・王位・王座・棋王
|title="1993年 8月18日"|1993 王位'''獲得'''
|title="1993年12月10日"|1993 竜王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1993|8|18|1993|12|10}}日
|rowspan="5"|5冠の在位期間合計は{{Sum2|{{age in days|1993|8|18|1993|12|10}}|{{age in days|1994|6|7|1994|12|9}}|{{age in days|1996|11|29|1997|6|11}}|{{age in days|2000|7|31|2001|8|6}}|{{age in days|2001|11|30|2002|3|12}}}}日。<br>5冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1994|12|9|1996|11|29}}|{{age in days|1993|8|18|1993|12|10}}|{{age in days|1994|6|7|1994|12|9}}|{{age in days|1996|11|29|1997|6|11}}|{{age in days|2000|7|31|2001|8|6}}|{{age in days|2001|11|30|2002|3|12}}}}日。
|- style="font-size:85%;"
|名人・棋聖・王位・王座・棋王
|title="1994年 6月 7日"|1994 名人'''獲得'''
|title="1994年12月 9日"|1994 竜王'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|1994|6|7|1994|12|9}}日
|- style="font-size:85%;"
|名人・王位・王座・棋王・王将
|title="1996年11月29日"|1996 竜王失冠
|title="1997年 6月11日"|1997 名人失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1996|11|29|1997|6|11}}日
|- style="font-size:85%;"
|棋聖・王位・王座・棋王・王将
|title="2000年 7月31日"|2000 棋聖'''獲得'''
|title="2001年 8月 6日"|2001 棋聖失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2000|7|31|2001|8|6}}日
|- style="font-size:85%;"
|竜王・王位・王座・棋王・王将
|title="2001年11月30日"|2001 竜王'''獲得'''
|title="2002年 3月12日"|2001 王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2001|11|30|2002|3|12}}日
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="1"|4冠
|colspan="3" style="text-align:left;"|計10回 <br>({{age in days|1993|7|19|1993|8|18}}日+ {{age in days|1993|12|10|1994|6|7}}日+ {{age in days|1997|6|11|2000|7|31}}日+ {{age in days|2001|8|6|2001|11|30}}日+ {{age in days|2002|3|12|2002|8|29}}日+ {{age in days|2003|2|13|2003|3|20}}日+ {{age in days|2003|5|20|2003|11|27}}日+ {{age in days|2005|2|25|2006|3|11}}日+ {{age in days|2008|7|18|2010|3|17}}日+ {{age in days|2014|5|21|2016|5|31}}日)
|style="text-align:right"|{{sum2|{{age in days|1993|7|19|1993|8|18}}|{{age in days|1993|12|10|1994|6|7}}|{{age in days|1997|6|11|2000|7|31}}|{{age in days|2001|8|6|2001|11|30}}|{{age in days|2002|3|12|2002|8|29}}|{{age in days|2003|2|13|2003|3|20}}|{{age in days|2003|5|20|2003|11|27}}|{{age in days|2005|2|25|2006|3|11}}|{{age in days|2008|7|18|2010|3|17}}|{{age in days|2014|5|21|2016|5|31}}}}日
|4冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1993|7|19|2002|8|29}}|{{age in days|2003|2|13|2003|3|20}}|{{age in days|2003|5|20|2003|11|27}}|{{age in days|2005|2|25|2006|3|11}}|{{age in days|2008|7|18|2010|3|17}}|{{age in days|2014|5|21|2016|5|31}}}}日
|- style="font-size:85%;"
!3冠
|colspan="3" style="text-align:left;"|計11回<br> (194日+ 168日+ 61日+ 110日+ 15日+ 564日+ 31日+ 462日+ 14日+ 595日+ 456日)
|style="text-align:right"|{{Sum2|194|168|61|110|15|564|31|462|14|595|456}}日
|3冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1993|1|6|2004|3|16}}|{{age in days|2005|2|10|2007|9|26}}|{{age in days|2008|6|17|2011|6|22}}|{{age in days|2011|9|13|2011|9|27}}|{{age in days|2012|10|3|2017|8|30}}}}日
|- style="font-size:85%;"
!2冠
|colspan="3" style="text-align:left;"|計8回 <br>(106日+ 87日+ 155日+ 265日+ 83日+ 372日+ 42日+ 224日)
|style="text-align:right"|{{Sum2|106|87|155|265|83|372|42|224}}日
|2冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1992|9|22|2004|6|11}}|{{age in days|2004|9|8|2017|10|11}}|{{age in days|2017|12|5|2018|7|17}}}}日
|-
! rowspan="1" |6冠
|colspan="6" |{{2rows-brackets|{{0}}8冠達成者の藤井聡太が1度、7冠達成者の羽生善治が2度達成。|詳しくは「藤井聡太」「羽生善治」の項目参照}}
|
|-
! rowspan="11" |5冠
|rowspan="7" style="background-color:#C7E0F4;text-align:center;"|[[大山康晴]]
|rowspan="4" colspan="2"|{{bgcolor|#EE9|{{0}}'''名人・十段・棋聖・王位・王将'''{{0}} }}
|title="1963年 2月 2日"|[[第1期棋聖戦 (将棋)|1962{{sub|{{sub|後}}}} 棋聖]]'''獲得'''
|title="1963年 3月20日"|[[第12期王将戦|1962 王将]]失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1963|02|02|1963|03|20}}日
|rowspan="4"|合計1280日<br/>{{bgcolor|#EE9|{{0}}'''全冠独占 (全5冠{{=}}当時)'''{{0}}}}<ref group="注">連続して四冠以上だった期間は合計3412日、最長3031日、三冠以上は合計最長ともに4745日、二冠以上は合計6353日、最長5018日。</ref>
|-
|title="1964年 2月12日"|[[第13期王将戦|1963 王将]]'''獲得'''
|title="1966年 7月23日"|[[第8期棋聖戦_(将棋)|1966{{sub|前}} 棋聖]]失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1964|02|12|1966|07|23}}日
|-
|title="1967年 1月10日"|[[第9期棋聖戦_(将棋)|1966{{sub|{{sub|後}}}} 棋聖]]'''獲得'''
|title="1967年 7月24日"|[[第10期棋聖戦_(将棋)|1967{{sub|前}} 棋聖]]失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1967|01|10|1967|07|24}}日
|-
|title="1970年 7月17日"|[[第16期棋聖戦_(将棋)|1970{{sub|前}} 棋聖]]'''獲得'''
|title="1970年12月11日"|[[第9期十段戦_(将棋)|1970 十段]]失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1970|07|17|1970|12|11}}日
|- style="font-size:85%;"
!4冠
|colspan="3" style="text-align:center;"|計_回
|style="text-align:right"|<!-- {{Sum2|}} -->日
|4冠以上の在位期間合計は <!-- {{Sum2|}} -->日
|- style="font-size:85%;"
!3冠
|colspan="3" style="text-align:center;"|計_回
|style="text-align:right"|<!-- {{Sum2|}} -->日
|3冠以上の在位期間合計は <!-- {{Sum2|}} -->日
|- style="font-size:85%;"
!2冠
|colspan="3" style="text-align:center;"|計_回
|style="text-align:right"|<!-- {{Sum2|}} -->日
|2冠以上の在位期間合計は <!-- {{Sum2|}} -->日
|-
|rowspan="4" style="background-color:#F0E8DF;text-align:center;"|[[中原誠]]
|colspan="2"|名人・十段・棋聖・王位・王将
|1977棋聖{{sub|{{sub|後}}}}
|1978王将
|style="text-align:right"|367日
| <ref group="注">連続して四冠以上だった期間は合計2120日、最長1765日、三冠以上は合計3517日、最長2942日、二冠以上は合計6444日、最長4218日。</ref>
|- style="font-size:85%;"
!4冠
|colspan="3" style="text-align:center;"|計_回
|style="text-align:right"|<!-- {{Sum2|}} -->日
|4冠以上の在位期間合計は <!-- {{Sum2|}} -->日
|- style="font-size:85%;"
!3冠
|colspan="3" style="text-align:center;"|計_回
|style="text-align:right"|<!-- {{Sum2|}} -->日
|3冠以上の在位期間合計は <!-- {{Sum2|}} -->日
|- style="font-size:85%;"
!2冠
|colspan="3" style="text-align:center;"|計_回
|style="text-align:right"|<!-- {{Sum2|}} -->日
|2冠以上の在位期間合計は <!-- {{Sum2|}} -->日
|-
! rowspan="13" |4冠
|rowspan="7" style="background-color:#F9FBE9;text-align:center;" |[[米長邦雄]]
|colspan="2"|十段・棋聖・棋王・王将
|title="1985年 1月 8日"|1984 十段'''獲得'''
|title="1985年 3月 5日"|1984 王将失冠
| style="text-align:right" |{{age in days|1985|1|8|1985|3|5}}日
|
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="2"|3冠
|棋聖・棋王・王将
|title="1984年 1月23日"|1983{{sub|{{sub|後}}}} 棋聖'''獲得'''
|title="1985年 1月 8日"|1984 十段'''獲得'''
| style="text-align:right" |{{age in days|1984|1|23|1985|1|8}}日
|rowspan="2"|3冠の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1984|1|23|1985|1|8}}|{{age in days|1985|3|5|1985|3|22}}}}日<br>3冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1985|1|8|1985|3|5}}|{{age in days|1984|1|23|1985|1|8}}|{{age in days|1985|3|5|1985|3|22}}}}日
|- style="font-size:85%;"
|十段・棋聖・棋王
|title="1985年 3月 5日"|1984 王将失冠
|title="1985年 3月22日"|1984 棋王失冠
| style="text-align:right" |{{age in days|1985|3|5|1985|3|22}}日
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="4"|2冠
|王位・棋王
|title="1979年10月13日"|1979 王位'''獲得'''
|title="1980年 3月21日"|1979 棋王失冠
| style="text-align:right" |{{age in days|1979|10|13|1980|3|21}}日
|rowspan="4"|2冠の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1979|10|13|1980|3|21}}|{{age in days|1980|7|18|1980|8|29}}|{{age in days|1983|3|4|1984|1|23}}|{{age in days|1985|3|22|1986|7|25}}}}日。<br>2冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{Sum2|{{age in days|1985|1|8|1985|3|5}}|{{age in days|1984|1|23|1985|1|8}}|{{age in days|1985|3|5|1985|3|22}}}}|{{age in days|1979|10|13|1980|3|21}}|{{age in days|1980|7|18|1980|8|29}}|{{age in days|1983|3|4|1984|1|23}}|{{age in days|1985|3|22|1986|7|25}}}}日。
|- style="font-size:85%;"
|棋聖・王位
|title="1980年 7月18日"|1980{{sub|前}} 棋聖'''獲得'''
|title="1980年 8月29日"|1980 王位失冠
| style="text-align:right" |{{age in days|1980|7|18|1980|8|29}}日
|- style="font-size:85%;"
|棋王・王将
|title="1983年 3月 4日"|1982 王将'''獲得'''
|title="1984年 1月23日"|1983{{sub|{{sub|後}}}} 棋聖'''獲得'''
| style="text-align:right" |{{age in days|1983|3|4|1984|1|23}}日
|- style="font-size:85%;"
|十段・棋聖
|title="1985年 3月22日"|1984 棋王失冠
|title="1986年 7月25日"|1986{{sub|前}} 棋聖失冠
| style="text-align:right" |{{age in days|1985|3|22|1986|7|25}}日
|-
|rowspan="6" style="background-color:#C9E8E6;text-align:center;" |[[谷川浩司]]
|colspan="2"|竜王・棋聖・王位・王将
|title="1992年 2月28日"|1991 王将'''獲得'''
|title="1992年 9月 9日"|1992 王位失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1992|2|28|1992|9|9}}日
|{{0| }}<ref group="注">連続して三冠以上だった期間は合計783日、最長362日、二冠以上は合計2058日、最長1021日。</ref>
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="4"|3冠
|名人・王位・棋王
|title="1988年 6月14日"|1988 名人'''獲得'''
|title="1988年 9月22日"|1988 王位失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1988|6|14|1988|9|22}}日
|rowspan="5"|3冠の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1988|6|14|1988|9|22}}|{{age in days|1990|11|27|1991|10|14}}|{{age in days|1992|1|10|1992|2|28}}|{{age in days|1992|9|9|1993|1|6}}|}}日<br>3冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1992|2|28|1992|9|9}}|{{age in days|1988|6|14|1988|9|22}}|{{age in days|1990|11|27|1991|10|14}}|{{age in days|1992|1|10|1992|2|28}}|{{age in days|1992|9|9|1993|1|6}}|}}日<br>3冠以上の最長在位期間は {{Sum2|{{age in days|1992|1|10|1992|2|28}}|{{age in days|1992|2|28|1992|9|9}}|{{age in days|1992|9|9|1993|1|6}}|}}日。<br/>2冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{age in days|1992|2|28|1992|9|9}}|{{age in days|1988|6|14|1988|9|22}}|{{age in days|1990|11|27|1991|10|14}}|{{age in days|1992|1|10|1992|2|28}}|{{age in days|1992|9|9|1993|1|6}}|{{age in days|1988|4|5|1988|6|14}}|{{age in days|1988|9|22|1989|3|28}}|{{age in days|1989|8|29|1990|6|12}}|{{age in days|1990|10|2|1990|11|27}}|{{age in days|1991|10|14|1992|1|10}}|{{age in days|1993|1|6|1993|7|19}}|{{age in days|1997|6|11|1998|6|18}}|{{age in days|2004|3|20|2004|9|8}}|}}日、<br>2冠以上の最長在位期間は {{age in days|1990|10|2|1993|7|19}}日。
|- style="font-size:85%;"
|竜王・王位・王座
|title="1990年11月27日"|1990 竜王'''獲得'''
|title="1991年10月14日"|1991 王座失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1990|11|27|1991|10|14}}日
|- style="font-size:85%;"
|竜王・王位・棋聖
|title="1992年 1月10日"|1991{{sub|{{sub|後}}}} 棋聖'''獲得'''
|title="1992年 2月28日"|1991 王将'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|1992|1|10|1992|2|28}}日
|- style="font-size:85%;"
|竜王・王将・棋聖
|title="1992年 9月 9日"|1992 王位失冠
|title="1993年 1月 6日"|1992 竜王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1992|9|9|1993|1|6}}日
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="1"|2冠
|colspan="3"|{{age in days|1988|4|5|1988|6|14}}日 +{{age in days|1988|9|22|1989|3|28}}日 +{{age in days|1989|8|29|1990|6|12}}日 +{{age in days|1990|10|2|1990|11|27}}日 +{{age in days|1991|10|14|1992|1|10}}日 +{{age in days|1993|1|6|1993|7|19}}日 +{{age in days|1997|6|11|1998|6|18}}日 +{{age in days|2004|3|20|2004|9|8}}日
|style="text-align:right"|{{sum2|{{age in days|1988|4|5|1988|6|14}}|{{age in days|1988|9|22|1989|3|28}}|{{age in days|1989|8|29|1990|6|12}}|{{age in days|1990|10|2|1990|11|27}}|{{age in days|1991|10|14|1992|1|10}}|{{age in days|1993|1|6|1993|7|19}}|{{age in days|1997|6|11|1998|6|18}}|{{age in days|2004|3|20|2004|9|8}}|}}日
|-
! rowspan="23" |3冠
|rowspan="3" style="background-color:#FDE9F1;text-align:center;"|[[升田幸三]]
|colspan="2"|{{bgcolor|#EE9|{{0}}'''名人・王将・九段'''{{0}} }}
|title="1957年 7月11日"|1957 名人'''獲得'''
|title="1958年 3月29日"|1957 王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1957|7|11|1958|3|29}}日
|{{bgcolor|#EE9|{{0}}'''全冠独占 (全3冠{{=}}当時)'''{{0}}}}
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="2"|2冠
|王将・九段
|title="1957年 4月19日"|1957 九段'''獲得'''
|title="1957年 7月11日"|1957 名人'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|1957|4|19|1957|7|11}}日
|rowspan="2"|2冠の在位期間合計は {{sum2|{{age in days|1957|4|19|1957|7|11}}|{{age in days|1958|3|29|1958|12|27}}}}日。<br>2冠以上の在位期間合計は {{sum2|{{age in days|1957|7|11|1958|3|29}}|{{age in days|1957|4|19|1957|7|11}}|{{age in days|1958|3|29|1958|12|27}}}}日
|- style="font-size:85%;"
|名人・九段
|title="1958年 3月29日"|1957 王将失冠
|title="1958年12月27日"|1958 九段失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|1958|3|29|1958|12|27}}日
|-
|rowspan="5" style="background-color:#FFF9AE;text-align:center;"|[[森内俊之]]
|colspan="2"|{{sup|(1-2) }}竜王・名人・王将
|title="2004年 6月11日"|2004 名人'''獲得'''
|title="2004年12月28日"|2004 竜王失冠
|style="text-align:right"|200日
|rowspan="5"|2冠以上の在位期間は<br>{{nowrap|(1){{0}}{{age in days|2004|3|16|2005|2|10}}日}}、<br>{{nowrap|(2){{0}}{{age in days|2006|3|11|2007|3|28}}日}}、<br>{{nowrap|(3){{0}}{{age in days|2013|11|29|2014|5|21}}日}}、<br>{{nowrap|合計 {{Sum2|{{age in days|2004|3|16|2005|2|10}}|{{age in days|2006|3|11|2007|3|28}}|{{age in days|2013|11|29|2014|5|21}}}}日}}
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="4"|2冠
|{{sup|(1-1) }}竜王・王将
|title="2004年 3月16日"|2003 王将'''獲得'''
|title="2004年 6月11日"|2004 名人'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2004|3|16|2004|6|11}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(1-3) }}名人・王将
|title="2004年12月28日"|2004 竜王失冠
|title="2005年 2月10日"|2004 王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2004|12|28|2005|2|10}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(2) }}名人・棋王
|title="2006年 3月11日"|2005 棋王'''獲得'''
|title="2007年 3月28日"|2006 棋王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2006|3|11|2007|3|28}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(3) }}竜王・名人
|title="2013年11月29日"|2013 竜王'''獲得'''
|title="2014年 5月21日"|2014 名人失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2013|11|29|2014|5|21}}日
|-
|rowspan="10" style="background-color:#AAE0F9;text-align:center;"|[[渡辺明_(棋士)|渡辺明]]
|colspan="2"|{{sup|(2-2) }}竜王・棋王・王将
|title="2013年 3月24日"|2012 棋王'''獲得'''
|title="2013年11月29日"|2013 竜王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2013|3|24|2013|11|29}}日
|rowspan="3"| 3冠在位期間は合計 {{Sum2|{{age in days|2013|3|24|2013|11|29}}|{{age in days|2019|7|9|2020|7|16}}|{{age in days|2020|8|15|2022|2|12}}}}日
|-
|colspan="2"|{{sup|(4-2) }}棋王・王将・棋聖
|title="2019年 7月 9日"|2019 棋聖'''獲得'''
|title="2020年 7月16日"|2020 棋聖失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|7|9|2020|7|16}}日
|-
|colspan="2"|{{sup|(4-4) }}名人・棋王・王将
|title="2020年 8月15日"|2020 名人'''獲得'''
|title="2022年 2月12日"|2021 王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2020|8|15|2022|2|12}}日
|- style="font-size:85%;"
! rowspan="7" |2冠
|{{sup|(1) }}竜王・王座
|title="2011年 9月27日"|2011 王座'''獲得'''
|title="2012年10月 3日"|2012 王座失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2011|9|27|2012|10|3}}日
| rowspan="7" |2冠以上の在位期間は<br>{{nowrap|(1){{0}}{{age in days|2011|9|27|2012|10|3}}日}}、<br>{{nowrap|(2){{0}}{{age in days|2013|3|7|2015|3|27}}日}}、<br>{{nowrap|(3){{0}}{{age in days|2015|12|3|2017|12|5}}日}}、<br>{{nowrap|(4){{age in days|2019|2|25|2023|3|19}}日}}、<br>{{nowrap|合計 {{Sum2|{{age in days|2011|9|27|2012|10|3}}|{{age in days|2013|3|7|2015|3|27}}|{{age in days|2015|12|3|2017|12|5}}|{{age in days|2019|2|25|2023|3|19}}}}日}}
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(2-1) }}竜王・王将
|title="2013年 3月 7日"|2012 王将'''獲得'''
|title="2013年 3月24日"|2012 棋王'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2013|3|7|2013|3|24}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(2-3) }}棋王・王将
|title="2013年11月29日"|2013 竜王失冠
|title="2015年 3月27日"|2014 王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2013|11|29|2015|3|27}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(3) }}竜王・棋王
|title="2015年12月 3日"|2015 竜王'''獲得'''
|title="2017年12月 5日"|2017 竜王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2015|12|3|2017|12|5}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(4-1) }}棋王・王将
|title="2019年 2月25日"|2018 王将'''獲得'''
|title="2019年 7月 9日"|2019 棋聖'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|2|25|2019|7|9}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(4-3) }}棋王・王将
|title="2020年 7月16日"|2020 棋聖失冠
|title="2020年 8月15日"|2020 名人'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2020|7|16|2020|8|15}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(4-5) }}名人・棋王
|title="2022年 2月12日"|2021 王将失冠
|title="2023年 3月19日"|2022 棋王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2022|2|12|2023|3|19}}日
|-
|rowspan="5" style="background-color:#F8C1D9;text-align:center;"|[[豊島将之]]
|colspan="2"|{{sup|(1-2) }}名人・王位・棋聖
|title="2019年 5月17日"|2019 名人'''獲得'''
|title="2019年 7月 9日"|2019 棋聖失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|5|17|2019|7|9}}日
|rowspan="5" |2冠以上の在位期間は<br>{{nowrap|(1){{0}}{{age in days|2018|9|27|2019|9|26}}日}}、<br>{{nowrap|(2){{0}}{{age in days|2019|12|7|2020|8|15}}日}}、<br>{{nowrap|(3){{0}}{{age in days|2020|9|21|2021|9|13}}日}}、<br>{{nowrap|合計{{0}}{{Sum2|{{age in days|2018|9|27|2019|9|26}}|{{age in days|2019|12|7|2020|8|15}}|{{age in days|2020|9|21|2021|9|13}}}}日}}
|- style="font-size:85%;"
! rowspan="4" |2冠
|{{sup|(1-1) }}王位・棋聖
|title="2018年 9月27日"|2018 王位'''獲得'''
|title="2019年 5月17日"|2019 名人'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2018|9|27|2019|5|17}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(1-3) }}名人・王位
|title="2019年 7月 9日"|2019 棋聖失冠
|title="2019年 9月26日"|2019 王位失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|7|9|2019|9|26}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(2) }}竜王・名人
|title="2019年12月 7日"|2019 竜王'''獲得'''
|title="2020年 8月15日"|2020 名人失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|12|7|2020|8|15}}日
|- style="font-size:85%;"
|{{sup|(3) }}竜王・叡王
|title="2020年 9月21日"|2020 叡王'''獲得'''
|title="2021年 9月13日"|2021 叡王失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2020|9|21|2021|9|13}}日
|-
! rowspan="12" |2冠
| rowspan="2" style="background-color:#EFE4F0;text-align:center;" |[[加藤一二三]]
|colspan="2"|棋王・王将
|1978王将
|1978棋王
| style="text-align:right" |54日
| rowspan="2"| 合計196日
|-
|colspan="2"|名人・十段
|1982名人
|1982十段
|style="text-align:right"|142日
|-
|rowspan="2" style="background-color:#E1E9F6;text-align:center;"|[[高橋道雄]]
|colspan="2"|王位・棋王
|1986棋王
|1987王位
|style="text-align:right"|158日
|rowspan="2"|合計289日
|-
|colspan="2"|十段・棋王
|1987十段
|1987棋王
|style="text-align:right"|131日
|-
|rowspan="4" style="background-color:#FFFCD6;text-align:center;"|[[南芳一]]
|rowspan="2" colspan="2"|棋聖・王将
|1987王将
|1988棋聖{{sub|前}}
|style="text-align:right"|126日
|rowspan="4"|合計662日
|-
|1991棋聖{{sub|前}}
|1991棋聖{{sub|{{sub|後}}}}
|style="text-align:right"|163日
|-
|rowspan="2" colspan="2"|棋王・王将
|1988棋王
|1989王将
|style="text-align:right"|367日
|-
|1990王将
|1990棋王
|style="text-align:right"|6日
|-
|rowspan="2" style="background-color:#C7CDE7;text-align:center;"|[[佐藤康光]]
|colspan="2"|棋聖・王将
|2002棋聖
|2002王将
|style="text-align:right"|196日
|rowspan="2"|合計674日
|-
|colspan="2"|棋聖・棋王
|2006棋王
|2008棋聖
|style="text-align:right"|478日
|-
|style="background-color:#D8C1AD;text-align:center;"|[[久保利明]]
|colspan="2"|棋王・王将
|2009王将
|2011王将
|style="text-align:right"|722日
|
|-
|style="background-color:#DDD6CB;text-align:center;"|[[永瀬拓矢]]
|colspan="2"|叡王・王座
|2019王座
|2020叡王
|style="text-align:right"|356日
|
|}
==== 女流タイトル ====
{| class="wikitable" style="font-size:90%;!white-space:nowrap;"
|+ style="text-align:left; font-weight:normal;"| 複数のタイトルに同時に在位した女流棋士等(最高'''獲得'''数順、日数は{{今日 (UTC)}}現在)
|-
!タイトル数
!棋士名
!colspan="2"|タイトル
!開始
!終了
!在位期間
!備考
|-
! rowspan="20" |6冠
| rowspan="20" style="background-color:#E2F3F2;text-align:center;" |[[Template:里見香奈の女流棋士肩書きの変遷|里見香奈]]
|colspan="2"|清麗・女流王座・女流名人・女流王位・<br>女流王将・倉敷藤花
|title="2019年 9月 7日"|2019 清麗'''獲得'''
|title="2019年11月 1日"|2019 女流王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|9|7|2019|11|1}}日
| rowspan="2"|6冠の在位合計は {{Sum2|{{age in days|2019|9|7|2019|11|1}}|{{Age in days|2022|10|21|2022|10|28}}}}日
|-
|colspan="2"|白玲・清麗・女流王座・女流王位・<br>女流王将・倉敷藤花
|title="2022年10月21日"|2022 白玲'''獲得'''
|title="2022年10月28日"|2022 女流王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2022|10|21|2022|10|28}}日
|- style="font-size:85%;"
! rowspan="8" |5冠
|女王・女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|title="2013年 5月 1日"|2013 女王'''獲得'''
|title="2013年 6月17日"|2013 女流王位失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2013|5|1|2013|6|17}}日
| rowspan="8" |5冠の在位合計は{{Sum2|{{age in days|2013|5|1|2013|6|17}}|{{age in days|2016|11|25|2018|6|13}}|{{age in days|2019|6|13|2019|9|7}}|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}|{{age in days|2021|11|4|2021|11|17}}|{{age in days|2021|12|7|2022|2|24}}|{{age in days|2022|8|3|2022|10|21}}|{{Age in days|2022|10|28|2023|10|28}}}}日<br><br>5冠以上の在位合計は<br>62日+ 1267日 = {{Sum2|{{age in days|2019|9|7|2019|11|1}}|{{Age in days|2022|10|21|2022|10|28}}|{{age in days|2013|5|1|2013|6|17}}|{{age in days|2016|11|25|2018|6|13}}|{{age in days|2019|6|13|2019|9|7}}|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}|{{age in days|2021|11|4|2021|11|17}}|{{age in days|2021|12|7|2022|2|24}}|{{age in days|2022|8|3|2022|10|21}}|{{Age in days|2022|10|28|2023|10|28}}}}日
|- style="font-size:85%;"
|女流王座・女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|title="2016年11月25日"|2016 女流王座'''獲得'''
|title="2018年 6月13日"|2018 女流王位失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2016|11|25|2018|6|13}}日
|- style="font-size:85%;"
|女流王座・女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|title="2019年 6月13日"|2019 女流王位'''獲得'''
|title="2019年 9月 7日"|2019 清麗'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|6|13|2019|9|7}}日
|- style="font-size:85%;"
|清麗・女流王座・女流名人・女流王位・倉敷藤花
|title="2019年11月 1日"|2019 女流王将失冠
|title="2019年12月 4日"|2019 女流王座失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}日
|- style="font-size:85%;"
|清麗・女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|title="2021年11月 4日"|2021 女流王将'''獲得'''
|title="2021年11月17日"|2021 清麗失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2021|11|4|2021|11|17}}日
|- style="font-size:85%;"
|女流王座・女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|title="2021年12月 7日"|2021 女流王座'''獲得'''
|title="2022年 2月24日"|2021 女流名人失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2021|12|7|2022|2|24}}日
|- style="font-size:85%;"
|清麗・女流王座・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|title="2022年 8月 3日"|2022 清麗'''獲得'''
|title="2022年10月21日"|2022 白玲'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2022|8|3|2022|10|21}}日
|- style="font-size:85%;"
|白玲・清麗・女流王座・女流王位・倉敷藤花
|title="2022年10月28日"|2022 女流王将失冠
|title="2023年10月28日"|2023 白玲失冠
|style="text-align:right"|{{0}}{{Age in days|2022|10|28|2023|10|28}}日
<!-- |- style="font-size:85%;"
|'''{{bgcolor|#FCC|白玲・清麗・女流王座・女流王位・倉敷藤花}}'''
|title="2022年10月28日"|2022 女流王将失冠
|{{center|{{bgcolor|#FCC|{{0}} '''(継続中)''' {{0}}}}}}
|style="text-align:right"|'''{{bgcolor|#FCC|{{0}}{{Sum2|{{Age in days|2022|10|28}}|1|}}日}}''' --><!-- 途絶時は1日分の算入を外す -->
|- style="font-size:85%;"
! rowspan="8" |4冠
|女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|2012 女流王位'''獲得'''
|2013 女王'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{Age in days|2012|5|23|2013|5|1}}日
|rowspan="8"|4冠の在位期間合計は{{Sum2|{{Age in days|2012|5|23|2013|5|1}}|{{Age in days|2013|6|17|2013|10|23}}|{{Age in days|2015|11|23|2016|11|25}}|{{Age in days|2018|6|13|2019|6|13}}|{{Age in days|2019|12|4|2021|11|4}}|{{Age in days|2021|11|17|2021|12|7}}|{{Age in days|2022|2|24|2022|8|3}}||{{Age in days|2023|10|28}}|1}}日<br/><br/>4冠以上の在位期間合計は<br>1329日 + {{Sum2|{{Age in days|2012|5|23|2013|5|1}}|{{Age in days|2013|6|17|2013|10|23}}|{{Age in days|2015|11|23|2016|11|25}}|{{Age in days|2018|6|13|2019|6|13}}|{{Age in days|2019|12|4|2021|11|4}}|{{Age in days|2021|11|17|2021|12|7}}|{{Age in days|2022|2|24|2022|8|3}}||{{Age in days|2023|10|28}}|1}}日 = {{Sum2|1329|{{Age in days|2012|5|23|2013|5|1}}|{{Age in days|2013|6|17|2013|10|23}}|{{Age in days|2015|11|23|2016|11|25}}|{{Age in days|2018|6|13|2019|6|13}}|{{Age in days|2019|12|4|2021|11|4}}|{{Age in days|2021|11|17|2021|12|7}}|{{Age in days|2022|2|24|2022|8|3}}||{{Age in days|2023|10|28}}|1}}日
|- style="font-size:85%;"
|女王・女流名人・女流王将・倉敷藤花
|2013 女流王位失冠
|2013 女流王将失冠
|style="text-align:right"|{{Age in days|2013|6|17|2013|10|23}}日
|- style="font-size:85%;"
|女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|2015 倉敷藤花'''獲得'''
|2016 女流王座'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{Age in days|2015|11|23|2016|11|25}}日
|- style="font-size:85%;"
|女流王座・女流名人・女流王将・倉敷藤花
|2018 女流王位失冠
|2019 女流王位'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{Age in days|2018|6|13|2019|6|13}}日
|- style="font-size:85%;"
|清麗・女流名人・女流王位・倉敷藤花
|2019 女流王座 失冠
|2021 女流王将'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{Age in days|2019|12|4|2021|11|4}}日
|- style="font-size:85%;"
|女流名人・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|2021 清麗 失冠
|2021 女流王座 '''獲得'''
|style="text-align:right"|{{Age in days|2021|11|17|2021|12|7}}日
|- style="font-size:85%;"
|女流王座・女流王位・女流王将・倉敷藤花
|2022 女流名人 失冠
|2022 清麗 '''獲得'''
|style="text-align:right"|{{Age in days|2022|2|24|2022|8|3}}日
|-
|'''{{bgcolor|#FCC|清麗・女流王座・女流王位・倉敷藤花}}'''
|2023 白玲 失冠
|{{center|{{bgcolor|#FCC|{{0}} '''(継続中)''' {{0}}}}}}
| style="text-align:right" | '''{{bgcolor|#FCC|{{0}}{{Sum2|{{Age in days|2023|10|28}}|1|}}日}}'''<!-- 途絶時は1日分の算入を外す -->
|- style="font-size:85%;"
! rowspan="1" |3冠
| colspan="3"|計4回({{Age in days|2010|10|28|2012|5|23}}日+ {{Age in days|2013|10|23|2013|11|24}}日+ {{Age in days|2013|12|13|2014|5|8}}日+ {{Age in days|2015|10|13|2015|11|23}}日)
|style="text-align:right"|{{Sum2|{{Age in days|2010|10|28|2012|5|23}}|{{Age in days|2013|10|23|2013|11|24}}|{{Age in days|2013|12|13|2014|5|8}}|{{Age in days|2015|10|13|2015|11|23}}|}}日
| 3冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{Sum2|{{Sum2|{{age in days|2019|9|7|2019|11|1}}|{{Age in days|2022|10|21|2022|10|28}}|{{age in days|2013|5|1|2013|6|17}}|{{age in days|2016|11|25|2018|6|13}}|{{age in days|2019|6|13|2019|9|7}}|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}|{{age in days|2021|11|4|2021|11|17}}|{{age in days|2021|12|7|2022|2|24}}|{{age in days|2022|8|3|2022|10|21}}|{{Age in days|2022|10|28}}|1}}|{{Age in days|2012|5|23|2013|5|1}}|{{Age in days|2013|6|17|2013|10|23}}|{{Age in days|2015|11|23|2016|11|25}}|{{Age in days|2018|6|13|2019|6|13}}|{{Age in days|2019|12|4|2021|11|4}}|{{Age in days|2021|11|17|2021|12|7}}|{{Age in days|2022|2|24|2022|8|3}}|}}|{{Age in days|2010|10|28|2012|5|23}}|{{Age in days|2013|10|23|2013|11|24}}|{{Age in days|2013|12|13|2014|5|8}}|{{Age in days|2015|10|13|2015|11|23}}|}}日
|- style="font-size:85%;"
! rowspan="1" |2冠
| colspan="3"|計4回({{Age in days|2010|2|10|2010|10|28}}日+ {{Age in days|2013|11|24|2013|12|13}}日+ {{Age in days|2014|5|8|2014|8|29}}日+ {{Age in days|2015|5|27|2015|10|13}}日)
|style="text-align:right"|{{Sum2|{{Age in days|2010|2|10|2010|10|28}}|{{Age in days|2013|11|24|2013|12|13}}|{{Age in days|2014|5|8|2014|8|29}}|{{Age in days|2015|5|27|2015|10|13}}|}}日
| 2冠以上の在位期間合計は {{Sum2|{{Sum2|{{Sum2|{{Sum2|{{age in days|2019|9|7|2019|11|1}}|{{Age in days|2022|10|21|2022|10|28}}|{{age in days|2013|5|1|2013|6|17}}|{{age in days|2016|11|25|2018|6|13}}|{{age in days|2019|6|13|2019|9|7}}|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}|{{age in days|2021|11|4|2021|11|17}}|{{age in days|2021|12|7|2022|2|24}}|{{age in days|2022|8|3|2022|10|21}}|{{Age in days|2022|10|28}}|1}}|{{Age in days|2012|5|23|2013|5|1}}|{{Age in days|2013|6|17|2013|10|23}}|{{Age in days|2015|11|23|2016|11|25}}|{{Age in days|2018|6|13|2019|6|13}}|{{Age in days|2019|12|4|2021|11|4}}|{{Age in days|2021|11|17|2021|12|7}}|{{Age in days|2022|2|24|2022|8|3}}|}}|{{Age in days|2010|10|28|2012|5|23}}|{{Age in days|2013|10|23|2013|11|24}}|{{Age in days|2013|12|13|2014|5|8}}|{{Age in days|2015|10|13|2015|11|23}}|}}|{{Age in days|2010|2|10|2010|10|28}}|{{Age in days|2013|11|24|2013|12|13}}|{{Age in days|2014|5|8|2014|8|29}}|{{Age in days|2015|5|27|2015|10|13}}|}}日
|-
!5冠
| colspan="6" | (6冠達成者の里見香奈が8度達成、詳細は「里見香奈」の項を参照) ||
|-
! rowspan="10" |4冠
|rowspan="2" style="background-color:#FFFDEA;text-align:center;"|[[清水市代]]
|colspan="2" rowspan="2"|{{bgcolor|#EE9|{{0}}'''女流名人・女流王将・女流王位・倉敷藤花'''{{0}}}}
|1996女流王将
|1997女流王将
|style="text-align:right"|360日
|rowspan="2"|4冠の在位合計は610日<br/>{{bgcolor|#EE9|'''全冠独占 (全4冠{{=}}当時)'''}}
|-
|1998女流王位
|1999女流王将
|style="text-align:right"|250日
|-
|rowspan="8" style="background-color:#D1D2D4; text-align:center;" |[[西山朋佳]]
|colspan="2"|白玲・女王・女流王座・女流王将
|title="2021年10月16日"|2021 白玲'''獲得'''
|title="2021年11月 4日"|2021 女流王将失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2021|10|16|2021|11|4}}日
|rowspan="2"|4冠の在位期間合計は{{Sum2|{{age in days|2021|10|16|2021|11|4}}|{{Age in days|2023|10|28}}|1}}日。
|-
|colspan="2"|'''{{bgcolor|#FCC|白玲・女王・女流名人・女流王将}}'''
|title="2023年10月28日"|2023 白玲'''獲得'''
|{{center|{{bgcolor|#FCC|{{0}} '''(継続中)''' {{0}}}}}}
| style="text-align:right" | '''{{bgcolor|#FCC|{{0}}{{Sum2|{{Age in days|2023|10|28}}|1|}}日}}'''<!-- 途絶時は1日分の算入を外す -->
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="3"|3冠
|女王・女流王座・女流王将
|title="2019年12月 4日"|2019 女流王座'''獲得'''
|title="2021年10月16日"|2021 白玲'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|12|4|2021|10|16}}日
|rowspan="3"|3冠の在位期間合計は{{Sum2|{{age in days|2019|12|4|2021|10|16}}|{{age in days|2021|11|4|2021|12|7}}|{{Age in days|2023|2|24|2023|10|28}}}}日。<br/>3冠以上の在位期間合計は{{Sum2|{{age in days|2021|10|16|2021|11|4}}|{{age in days|2019|12|4|2021|10|16}}|{{age in days|2021|11|4|2021|12|7}}|{{Age in days|2023|2|24}}|1}}日。
|- style="font-size:85%;"
|白玲・女王・女流王座
|title="2021年11月 4日"|2021 女流王将失冠
|title="2021年12月 7日"|2021 女流王座失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2021|11|4|2021|12|7}}日
|- style="font-size:85%;"
|女王・女流名人・女流王将
|title="2023年 2月24日"|2022 女流名人'''獲得'''
|title="2023年10月28日"|2023 白玲'''獲得'''
| style="text-align:right" | {{Age in days|2023|2|24|2023|10|28}}日
|- style="font-size:85%;"
!rowspan="3"|2冠
|女王・女流王将
|title="2019年11月 1日"|2019 女流王将'''獲得'''
|title="2019年12月 4日"|2019 女流王座'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}日
|rowspan="3"|2冠の在位期間合計は{{Sum2|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}|{{age in days|2021|12|7|2022|12|21}}|{{age in days|2022|10|28|2023|2|24}}}}日。<br/>2冠以上の在位期間合計は{{Sum2|{{age in days|2019|11|1|2019|12|4}}|{{age in days|2021|12|7|2022|12|21}}|{{age in days|2022|10|28|2023|2|24}}|{{Sum2|{{age in days|2021|10|16|2021|11|4}}|{{age in days|2019|12|4|2021|10|16}}|{{age in days|2021|11|4|2021|12|7}}|{{Age in days|2023|2|24}}|1}}}}日。
|- style="font-size:85%;"
|白玲・女王
|title="2021年12月 7日"|2021 女流王座失冠
|title="2022年10月21日"|2022 白玲失冠
|style="text-align:right"|{{age in days|2021|12|7|2022|12|21}}日
|- style="font-size:85%;"
|女王・女流王将
|title="2022年10月28日"|2022 女流王将'''獲得'''
|title="2023年 2月24日"|2022 女流名人'''獲得'''
|style="text-align:right"|{{age in days|2022|10|28|2023|2|24}}日
|-
!3冠
| style="background-color:#FEE7DD;text-align:center;" |[[中井広恵]]
|colspan="2"|女流名人・女流王将・倉敷藤花
|2002女流王将
|2003女流名人
| style="text-align:right" |598日
|
|-
!rowspan="7"|2冠
|style="background-color:#F1F8E9;text-align:center;"|[[蛸島彰子]]
|colspan="2"|{{bgcolor|#EE9|'''{{0}}女流名人・女流王将{{0}}'''}}
|1982女流名人
|1982女流王将
|style="text-align:right"|62日
|{{bgcolor|#EE9|'''全冠独占(全2冠{{=}}当時)'''}}
|-
|rowspan="2" style="background-color:#B7CCA3;text-align:center;"|[[林葉直子]]
|colspan="2" rowspan="2" |{{bgcolor|#EE9|'''{{0}}女流名人・女流王将{{0}}'''}}
|1982女流名人
|1985女流名人
|style="text-align:right"|1066日
|{{bgcolor|#EE9|'''全冠独占(全2冠{{=}}当時)'''}}
|-
|1991女流名人
|1992女流名人
|style="text-align:right"|364日
|合計1430日
|-
|style="background-color:#E5DDD5;text-align:center;"|[[矢内理絵子]]
|colspan="2"|女王・女流名人
|2008女王
|2008女流名人
|style="text-align:right"|295日
|
|-
|rowspan="2" style="background-color:#FFF1D0;text-align:center;"|[[甲斐智美]]
|colspan="2"|女王・女流王位
|2010女流王位
|2011女王
|style="text-align:right"|327日
|rowspan="2"|合計876日
|-
|colspan="2"|女流王位・倉敷藤花
|2013倉敷藤花
|2015女流王位
|style="text-align:right"|549日
|-
|style="background-color:#FAD6E5;text-align:center;"|[[加藤桃子]]
|colspan="2"|女王・女流王座
|2014女流王座
|2016女流王座
|style="text-align:right"|727日
|
|-
|}
=== 一般棋戦に関する記録 ===
{{節stub}}
=== その他の主な記録 ===
2023年12月23日現在。年は年度で記載<ref group="注">王将戦・棋王戦・女流名人位戦は1月 - 3月開催、叡王戦(第5期まで)は4月 - 6月開催だが前年度扱いのため、対局が行われた西暦は年度に1を足したもの。竜王戦・女流王座戦が越年した場合も同様。</ref>。すでに上述した記録は記さない。
;通算記録
* 通算公式戦優勝回数:[[羽生善治]] 145回(タイトル戦99・一般棋戦46)
** 通算一般棋戦優勝回数:羽生善治 46回
* 通算非公式戦優勝回数:羽生善治 8回
;個人の連続記録
* 一冠以上連続在位:羽生善治 27年9か月(1990棋王獲得[1991年3月18日] - 2018竜王失冠[2018年12月21日])
* 登場タイトル戦連続獲得:19期([[大山康晴]]:[[第17期順位戦#第22期名人戦七番勝負|1963名人戦]] - [[第20期順位戦#第25期名人戦七番勝負|1966名人戦]])<ref name="大山19期連続">大山康晴による「全(登場)タイトル戦連続獲得記録」(19期)の内訳は、{{リスト|1963年度の6棋戦([[第17期順位戦#第22期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第2期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(前期)]]、[[第4期王位戦|王位戦]]、[[第2期十段戦 (将棋)|十段戦]]、[[第3期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(後期)]]、[[第13期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1964年度の6棋戦([[第18期順位戦#第23期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第4期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(前期)]]、[[第5期王位戦|王位戦]]、[[第3期十段戦 (将棋)|十段戦]]、[[第5期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(後期)]]、[[第14期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1965年度の6棋戦([[第19期順位戦#第24期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第6期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(前期)]]、[[第5期王位戦|王位戦]]、[[第4期十段戦 (将棋)|十段戦]]、[[第7期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦(後期)]]、[[第15期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1966年度 [[第20期順位戦#第25期名人戦七番勝負|名人戦]](全6棋戦中1棋戦)}}まで。大山の記録は「'''登場タイトル戦'''連続獲得19期」および「'''全タイトル戦'''連続獲得19期」で成立。</ref><br/>{{0|登場タイトル戦連続獲得:19期}}([[藤井聡太]]:[[第91期棋聖戦 (将棋)|2020棋聖戦]] - [[第36期竜王戦|2023竜王戦]]{{=}}継続中)<ref>藤井聡太による「登場タイトル戦連続獲得記録」(19期{{=}}継続中)の内訳は、{{リスト|2020年度の2棋戦([[第91期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]、[[第61期王位戦|王位戦]]、全8棋戦中2棋戦)、|2021年度の5棋戦([[第92期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]、[[第62期王位戦|王位戦]]、[[第6期叡王戦|叡王戦]]、[[第34期竜王戦|竜王戦]]、[[第71期王将戦|王将戦]]、全8棋戦中5棋戦)、|2022年度の6棋戦([[第7期叡王戦|叡王戦]]、[[第93期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]、[[第63期王位戦|王位戦]]、[[第35期竜王戦|竜王戦]]、[[第72期王将戦|王将戦]]、[[第48期棋王戦|棋王戦]]、全8棋戦中6棋戦)、|2023年度の6棋戦([[第8期叡王戦|叡王戦]]、[[第81期順位戦#第81期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第94期棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]、[[第64期王位戦|王位戦]]、[[第71期王座戦_(将棋)|王座戦]]、[[第36期竜王戦|竜王戦]]、全8棋戦中6棋戦、ほか2棋戦未実施)}}の19棋戦{{=}}継続中。第35期竜王戦以降は「全タイトル戦連続獲得記録」が成立(連続9期{{=}}継続中)。</ref>
* 全タイトル戦通じての連続獲得:19期([[大山康晴]] 1963名人戦 - 1966名人戦)<ref name="大山19期連続"/>
* 全タイトル戦連続登場:大山康晴 50期(1957名人戦 - 1967十段戦)<ref name="大山50期連続">大山康晴によるタイトル戦連続登場記録(50期)の内訳は、{{リスト|1957年度の3棋戦([[第11期順位戦#第16期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第8期九段戦|九段戦]]、[[第7期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1958年度の3棋戦([[第12期順位戦#第17期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第9期九段戦|九段戦]]、[[第8期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1959年度の3棋戦([[第13期順位戦#第18期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第10期九段戦|九段戦]]、[[第9期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1960年度の4棋戦([[第14期順位戦#第19期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第1期王位戦|王位戦]]、[[第11期九段戦|九段戦]]、[[第10期王将戦|王将戦]]の全3棋戦)、|1961年度の4棋戦([[第15期順位戦#第20期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第2期王位戦|王位戦]]、[[第12期九段戦|九段戦]]、[[第11期王将戦|王将戦]]の全4棋戦)、|1962年度の5棋戦([[第16期順位戦#第21期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第3期王位戦|王位戦]]、[[第1期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[第1期棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]、[[第12期王将戦|王将戦]]の全5棋戦)、|1963年度の6棋戦([[第17期順位戦#第22期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第4期王位戦|王位戦]]、[[第2期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第2期棋聖戦_(将棋)|前期]]/[[第3期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第13期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1964年度の6棋戦([[第18期順位戦#第23期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第5期王位戦|王位戦]]、[[第3期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第4期棋聖戦_(将棋)|前期]]/[[第5期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第14期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1965年度の6棋戦([[第19期順位戦#第24期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第6期王位戦|王位戦]]、[[第4期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第6期棋聖戦_(将棋)|前期]]/[[第7期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第15期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1966年度の6棋戦([[第20期順位戦#第25期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第7期王位戦|王位戦]]、[[第5期十段戦_(将棋)|十段戦]]、[[棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]<[[第8期棋聖戦_(将棋)|前期]]/[[第9期棋聖戦_(将棋)|後期]]>、[[第16期王将戦|王将戦]]の全6棋戦)、|1967年度の4棋戦([[第21期順位戦#第26期名人戦七番勝負|名人戦]]、[[第10期棋聖戦_(将棋)|棋聖戦]]、[[第8期王位戦|王位戦]]、[[第6期十段戦_(将棋)|十段戦]]の全6棋戦中4棋戦)}}まで。</ref>
* 同一タイトル戦での連続登場:羽生善治 26期(1992 - 2017王座戦)
* タイトル戦対局連勝:大山康晴 17連勝(1961九段戦<第3局> - 1962十段戦<第1局>)<ref>大山康晴のタイトル戦対局連勝(17連勝)の内訳は、[[第12期九段戦]](第3局<1961年12月1-2日>-第6局の4連勝)、[[第11期王将戦]](第1-4局の4連勝)、[[第16期順位戦#第21期名人戦七番勝負|第21期名人戦]](第1-4局の4連勝)、[[第3期王位戦]](第1-4局の4連勝)、[[第1期十段戦_(将棋)|第1期十段戦]](第1局<1962年10月26日>の1勝)まで。</ref>
;個人以外の連続記録
* 全タイトル戦通じての連続防衛:17期(1974棋聖戦(後) - 1977十段戦)(第1期棋王戦を含まず)
* 全タイトル戦通じての連続奪取:11期(1987王位戦 - 1988棋聖戦(後))(第1期竜王戦を含まず)
* 同一タイトル戦での連続奪取:7期(1996 - 2002棋聖戦)
;最年少・最年長記録
*;タイトル戦 最年少記録・最年長記録
{|class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center; white-space:nowrap; margin-left:2em;"
|-
!colspan="2" rowspan="2"|タイトル
!colspan="2"|最年少記録
!colspan="3"|最年長記録
|- style="line-height:120%"
!挑戦記録<br/>{{small|(第1局)}} !!獲得記録
!挑戦記録<br/>{{small|(第1局)}} !!獲得記録<br/>(奪取)!!獲得記録<br/>(防衛)
|-
!colspan="2"|全体記録
![[藤井聡太]]<br/>( {{age in years and days|age=yes|to=none|2002|7|19|2020|6|20|}} )<br/>第91期棋聖戦
!藤井聡太<br/>( {{age in years and days|age=yes|to=none|2002|7|19|2020|7|16|}} )<br/>第91期棋聖戦
![[大山康晴]]<br/>( {{age in years and days|age=yes|to=none|1923|3|13|1990|2|16|}} )<br/>第15期棋王戦
!大山康晴<br/>( {{age in years and days|age=yes|to=none|1923|3|13|1980|3|11|}} )<br/>第29期王将戦
!大山康晴<br/>( {{age in years and days|age=yes|to=none|1923|3|13|1982|4|8|}} )<br/>第31期王将戦<br/>( {{age in years and days|age=yes|to=none|1923|3|13|1983|3|4|}}まで保持 )
|-
!colspan="2"|[[竜王戦|竜王]]
|[[羽生善治]]<br/>(19歳0か月)<br/>第2期
|style="background-color:#ff8;"|'''羽生善治'''<br/>(19歳3か月0日)<br/>第2期
|羽生善治<br/>(50歳0か月)<br/>第33期
|style="background-color:#ff8;"|'''羽生善治'''<br/>(47歳2か月)<br/>第30期
|[[谷川浩司]]<br/>( {{Age in years and months|age=yes|to=none|1962|4|6|1997|11|19}}) <br/>第10期
|-
!colspan="2"|[[名人戦_(将棋)|名人]]
|[[加藤一二三]]<br/>(20歳3か月)<br/>第19期
|style="background-color:#ff8;"|'''藤井聡太'''<br/>(20歳10か月)<br/>第81期
|大山康晴<br/>(63歳2か月)<br/>第44期
|style="background-color:#ff8;"|'''[[米長邦雄]]'''<br/>(49歳11か月)<br/>第51期
|大山康晴<br/>(48歳3か月)<br/>第30期
|-
!colspan="2"|[[王位戦_(将棋)|王位]]
|藤井聡太<br/>(17歳11か月)<br/>第64期
|style="background-color:#ff8;"|'''藤井聡太'''<br/>(18歳1か月)<br/>第64期
|大山康晴<br/>(58歳)<br/>第22期
|[[木村一基]]<br/>(46歳3か月)<br/>第60期
|style="background-color:#ff8;"|'''[[大山康晴]]'''<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1923|3|13|1971|10|8|}})<br/>第12期
|-
!colspan="2"|[[叡王戦|叡王]]<br/><ref name="叡王戦記録">叡王戦は一般棋戦時代を含まず</ref>
|藤井聡太<br/>(19歳0か月)<br/>第6期
|style="background-color:#ff8;"|'''藤井聡太'''<br/>(19歳1か月)<br/>第6期
|[[金井恒太]]<br/>(31歳)<br/>第3期
|style="background-color:#ff8;"|'''[[豊島将之]]'''<br/>(30歳)<br/>第5期
|藤井聡太<br/>( {{age in years and months|age=yes|2002|7|19|to=none}}=継続中 )<br/>第7期から継続中
|-
!colspan="2"|[[王座戦_(将棋)|王座]]
|[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]<br/>(19歳4か月)<br/>第51期
|style="background-color:#ff8;"|'''藤井聡太'''<br/>(21歳2か月)<br/>第71期
|[[森雞二]]<br/>(49歳)<br/>第43期
|羽生善治<br/>(42歳)<br/>第60期
|style="background-color:#ff8;"|'''羽生善治'''<br/>(46歳)<br/>第64期
|-
!colspan="2"|[[棋王戦_(将棋)|棋王]]
|羽生善治<br/>(20歳4か月)<br/>第16期
|style="background-color:#ff8;"|'''羽生善治'''<br/>(20歳5か月)<br/>第16期
|大山康晴<br/>(66歳11か月)<br/>第15期
|style="background-color:#ff8;"|'''谷川浩司'''<br/>(42歳)<br/>第29期
|米長邦雄<br/>(40歳)<br/>第9期
|-
!colspan="2"|[[王将戦|王将]]
|藤井聡太<br/>(19歳5か月)<br/>第71期
|style="background-color:#ff8;"|'''藤井聡太'''<br/>(19歳6か月)<br/>第71期
|大山康晴<br/>(56歳)<br/>第29期
|大山康晴<br/>(56歳11か月)<br/>第29期
|style="background-color:#ff8;"|'''大山康晴'''<br/>(59歳0か月)<br/>第31期
|-
!colspan="2"|[[棋聖戦_(将棋)|棋聖]]
|藤井聡太<br/>(17歳10か月20日)<br/>第91期
|style="background-color:#ff8;"|'''藤井聡太'''<br/>(17歳11か月)<br/>第91期
|大山康晴<br/>(51歳)<br/>第24期
|大山康晴<br/>(51歳)<br/>第24期
|style="background-color:#ff8;"|'''大山康晴'''<br/>(54歳)<br/>第30期
|-
!rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|終了棋戦}}
![[十段戦_(将棋)#九段戦|九段]]
|[[大山康晴]]<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1923|3|13|1950|05|16|}})<br/>第1期
|style="background-color:#ff8;"|'''[[大山康晴]]'''<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1923|3|13|1950|07|07|}})<br/>第1期
|[[升田幸三]]<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1918|3|21|1957|02|24|}})<br/>第7期
|[[升田幸三]]<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1918|3|21|1957|04|19|}})<br/>第7期
|style="background-color:#ff8;"|'''[[塚田正夫]]'''<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1914|8|02|1956|03|25|}})<br/>第6期
|-
![[十段戦_(将棋)#十段戦|十段]]
||[[中原誠]]<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1947|9|2|1970|10|14|}})<br/>第9期
|style="background-color:#ff8;"|'''[[中原誠]]'''<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1947|9|2|1970|12|11|}})<br/>第9期
|[[大山康晴]]<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1923|3|13|1975|11|10|}})<br/>第14期
|style="background-color:#ff8;"|'''[[大山康晴]]'''<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1923|3|13|1974|1|8|}})<br/>第12期
|[[大山康晴]]<br/>( {{age in years and months|age=yes|to=none|1923|3|13|1967|12|23|}})<br/>第6期
|}
:* 初タイトル最年長獲得:[[木村一基]](46歳3か月・第60期王位戦)
:* タイトル戦最年少対決<br/>(対局者合計年齢 最年少記録):41歳<ref name="満年齢">1年未満を切り捨てた満年齢(の合計または差)</ref> = [[藤井聡太]](21歳<ref name="満年齢"/>) - [[伊藤匠]](20歳<ref name="満年齢"/>)(第36期竜王戦第1局1日目)<ref>日単位での合計年齢は42歳75日(藤井聡太:21歳79日、伊藤匠:20歳361日)。</ref>
:* タイトル戦最年長対決<br/>(対局者合計年齢 最年長記録):101歳<ref name="満年齢"/> = [[中原誠]](38歳<ref name="満年齢"/>) - [[大山康晴]](63歳<ref name="満年齢"/>)(第44期名人戦第5局2日目)<ref>日単位での合計年齢は102歳66日(中原誠:38歳274日<!-- {{age in years and days|1947|9|2|1986|06|03}} -->、大山康晴:63歳82日<!-- {{age in years and days|1923|3|13|1986|06|03}} -->)。</ref>
:* タイトル戦 最大年齢差対決:40歳差<ref name="満年齢"/> = [[南芳一]](26歳<ref name="満年齢"/>) - [[大山康晴]](66歳<ref name="満年齢"/>)(第15期棋王戦、第1局時点)<ref>日単位での年齢差は40歳87日差(南芳一:26歳253日<!--{{age in years and days|1963|6|8|1990|02|16}} -->、大山康晴:66歳340日<!--{{age in years and days|1923|3|13|1990|02|16}} -->)。</ref>
*;一般棋戦 最年少優勝・最年長優勝
{|class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center; white-space:nowrap; margin-left:2em;"
|-
!rowspan="1"|棋戦
!colspan="2"|{{0000}} {{0000}} 最年少優勝 {{0000}} {{0000}}
!colspan="2"|{{0000}} {{0000}} 最年長優勝 {{0000}} {{0000}}
|-
!全体記録
!colspan="2"|藤井聡太<br/>(15歳6か月)<br/>第11回朝日杯
!colspan="2"|大山康晴<br/>(60歳)<br/>第33回NHK杯
|-
![[朝日杯将棋オープン戦|朝日杯<br/>将棋オープン戦]]
|藤井聡太<br/>(15歳6か月)||第11回
|羽生善治<br/>(45歳4か月)||第9回
|-
![[銀河戦]]
|藤井聡太<br/>(18歳2か月)||第28期
|[[丸山忠久]]<br/>(53歳1か月)||第31期
|-
![[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯<br/>テレビ将棋トーナメント]]
|羽生善治<br/>(18歳)||第68回
|大山康晴<br/>(60歳)||第33回
|-
![[将棋日本シリーズ|将棋日本シリーズ<br/>JTプロ公式戦]]
|藤井聡太<br/>(20歳4か月)||第43回
|大山康晴<br/>(59歳7か月)||第3回
|-
![[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]<ref>六段以下</ref>
|藤井聡太<br/>(16歳2か月)||第49回
|[[若松政和]]<br/>(31歳0か月)<ref>当時は段位制限のみで年齢制限なし。現在はプロ(奨励会、女流も含)は原則26歳以下、アマチュアは年齢制限なし。</ref>||第2回
|-
![[加古川青流戦]]<ref>四段以下</ref>
|[[藤本渚]]<br/>(18歳)||第13期
|[[稲葉聡]]<br/>(30歳)<ref>アマチュアの一般棋戦優勝(史上初)</ref>||第5期
|}
*; タイトル複数冠達成 最年少記録・最年長記録
{|class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center; white-space:nowrap; width:50%; margin-left:2em;"
|-
!タイトル
!達成者数
!colspan="2"|最年少記録
!colspan="3"|最年長記録{{align|right|{{small|( -まで保持)}} }}
|-
!八冠
|1名
|<!--最年少-->藤井聡太<br>{{nowrap|(21歳2か月)}}||竜王・名人・王位・叡王<wbr>・王座・棋王・王将・棋聖
|<!--最年長-->藤井聡太<br>{{nowrap|(21歳2か月)}}||竜王・名人・王位・叡王<wbr>・王座・棋王・王将・棋聖
|継続中<br>{{small|( {{age in years and months|age=yes|to=none|2002|07|19}})}}
|-
!七冠
|2名
|<!--最年少-->藤井聡太<br>{{nowrap|(20歳10か月)}}||竜王・名人<wbr>・王位<wbr>・叡王<wbr>・棋王・王将・棋聖
|<!--最年長-->羽生善治<br>{{nowrap|(25歳)}}||竜王・名人・王位<wbr>・王座<wbr>・棋王・王将・棋聖
|{{small|( <!-- {{age in years and months|age=yes|to=none| | | | | | }} -->)}}
|-
!六冠
|2名
|<!--最年少-->藤井聡太<br>{{nowrap|(20歳8か月)}}||竜王・王位・叡王<wbr>・棋王・王将・棋聖
|<!--最年長-->羽生善治<br>{{nowrap|(26歳)}}||竜王・名人・王位<wbr>・王座・棋王・王将
|{{small|( <!-- {{age in years and months|age=yes|to=none| | | | | | }} -->)}}
|-
!五冠
|4名
|<!--最年少-->藤井聡太<br>{{nowrap|(19歳6か月)}}||竜王・王位<wbr>・叡王<wbr>・王将・棋聖
|<!--最年長-->大山康晴<br>{{nowrap|(47歳)}}||名人・王位<wbr>・王将<wbr>・棋聖・十段
|{{small|( <!-- {{age in years and months|age=yes|to=none| | | | | | }} -->)}}
|-
!四冠
|6名
|<!--最年少-->藤井聡太<br>{{nowrap|(19歳3か月)}}||竜王・王位・叡王・棋聖
|<!--最年長-->大山康晴<br>{{nowrap|(47歳)}}||名人・王位・王将・棋聖
|{{small|( <!-- {{age in years and months|age=yes|to=none| | | | | | }} -->)}}
|-
!三冠
|10名
|<!--最年少-->藤井聡太<br>{{nowrap|(19歳1か月)}}||王位・叡王・棋聖
|<!--最年長-->大山康晴<br>{{nowrap|(49歳)}}||名人・王位・王将
|{{small|( <!-- {{age in years and months|age=yes|to=none| | | | | | }} -->)}}
|-
!二冠
|16名
|<!--最年少-->藤井聡太<br>{{nowrap|(18歳1か月)}}||王位・棋聖
|<!--最年長-->大山康晴<br>{{nowrap|(51歳9か月)}}||棋聖・十段
|{{small|( <!-- {{age in years and months|age=yes|to=none| | | | | | }} -->)}}
|}
*;永世称号獲得 最年少記録・最年長記録
{|class="wikitable" style="font-size:smaller; text-align:center; white-space:nowrap; margin-left:2em; line-height:130%"
|-
!rowspan="1"|永世称号
!colspan="3"|
!colspan="2"|最年少記録
!colspan="2"|最年長記録
!rowspan="2"|他の資格獲得者
|-
!全体記録
!colspan="3"|{{table2|class=none|cols=3|獲得要件<br/>{{small|(連続/通算)}}| / |人数}}
!中原誠<br/>永世棋聖 !!23歳11か月
!中原誠<br/>名誉王座||49歳<ref name="中原名誉王座"/>
|-
![[竜王戦|永世竜王]]
|連続{{0}}<br/>{{0}}5期||通算{{0}}<br/>{{0}}7期
|2名
|渡辺明||24歳{{0}}7か月
|羽生善治||47歳{{0}}2か月
| -
|-
![[名人戦_(将棋)|永世名人]]
| - ||通算{{0}}<br/>{{0}}5期
|6名
|中原誠<br>(十六世名人)||28歳{{0}}9か月
|[[木村義雄_(棋士)|木村義雄]]<br>(十四世名人) ||47歳{{0}}6か月
|style="font-size:smaller"|{{table2|class=none|cols=5
|大山康晴<br>(十五世名人)<br>(33歳 3か月)
|谷川浩司<br>(十七世名人)<br>(35歳 2か月)
|[[森内俊之]]<br>(十八世名人)<br>(36歳 8か月)
|羽生善治<br>(十九世名人)<br>(37歳 8か月)}}
|-
![[王位戦_(将棋)|永世王位]]
|連続{{0}}<br/>{{0}}5期||通算{{0}}<br/>10期
|3名
|羽生善治||26歳11か月
|大山康晴 ||41歳{{0}}6か月
|style="font-size:smaller"|{{table2|class=none|cols=1|中原誠<br> (30歳{{0}}1か月)}}
|-
![[叡王戦|永世叡王]]
| - ||通算{{0}}<br/>{{0}}5期
| -
|( 該当なし ) || -
|( 該当なし ) || -
| -
|-
![[王座戦_(将棋)|名誉王座]]
|連続{{0}}<br/>{{0}}5期||通算{{0}}<br/>10期
|2名
|羽生善治||25歳11か月
|中原誠||49歳<ref name="中原名誉王座">『名誉王座』称号制定を受け、「王座通算16期」の実績により1996年9月に『名誉王座』資格獲得。</ref>
| -
|-
![[棋王戦_(将棋)|永世棋王]]
|連続{{0}}<br/>{{0}}5期|| -
|2名
|羽生善治||24歳{{0}}5か月
|渡辺明||32歳11か月
| -
|-
![[王将戦|永世王将]]
| - ||通算{{0}}<br/>10期
|2名
|羽生善治||36歳{{0}}5か月
|大山康晴 ||43歳{{0}}0か月
| -
|-
![[棋聖戦_(将棋)|永世棋聖]]
| - ||通算{{0}}<br/>{{0}}5期
|5名
|中原誠||23歳11か月
|大山康晴 ||41歳{{0}}9か月
|style="font-size:smaller;"|{{table2|class=none|cols=3|[[米長邦雄]]<br> (41歳{{0}}7か月) |羽生善治<br> (24歳{{0}}9か月) |佐藤康光<br> (36歳{{0}}9か月)}}
|-
![[十段戦_(将棋)|永世十段]]
| - ||通算{{0}}<br/>10期
|2名
|中原誠||35歳{{0}}3か月
|大山康晴 ||42歳{{0}}9か月
| -
|}
;最短記録
* 四段昇段からタイトル獲得までの最短記録:[[屋敷伸之]](1年10か月、第56期棋聖戦)
** 四段昇段からタイトル挑戦までの最短記録:屋敷伸之(1年2か月、第55期棋聖戦)
* 四段昇段から一般棋戦優勝までの最短記録:[[上野裕寿]](0年0か月31日、3戦目、第54期[[新人王戦]])
** 参考:四段昇段前の一般棋戦優勝:[[都成竜馬]](第44期新人王戦、三段在籍時に優勝)
** 参考:アマチュアの一般棋戦優勝:[[稲葉聡]](第5期[[加古川青流戦]])
;同一カード
* タイトル戦通算 = 22期(谷川浩司-羽生善治、羽生善治-佐藤康光)
* タイトル戦連続 = 6期([[升田幸三]]-大山康晴 1956王将戦 - 1958九段戦)
* 同一タイトル戦通算 = 9期(升田幸三-大山康晴 名人戦、羽生善治-森内俊之 名人戦)
* 同一タイトル戦連続 = 6期(大山康晴-中原誠 1970 - 1975十段戦)
;タイトルの分散(全タイトルの保持者が異なる)
将棋界ではタイトル数が3以上において、タイトル分散の状況がこれまでに4回生じている。<br/>(3タイトル時、6タイトル時、7タイトル時、8タイトル時に1回ずつ)。
*;3タイトル時
** [[1952年]][[2月12日]] - [[1952年]][[7月15日]]({{Age in days|1952|2|12|1952|7|15}}日間)<br/>(升田幸三の王将獲得 → 木村義雄の名人失冠)
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; margin-left:4em; white-space:nowrap;"
|-
!タイトル ||{{00}}(2タイトル時){{00}}||{{0}}'''タイトル分散時'''{{0}}<br/>( 3タイトル時 )||{{00}}(複数冠保持者){{00}}
|-
!名人
|style="border-right:none"| ||style="border-left:none"|'''[[木村義雄 (棋士) |木村義雄]]''' || →(大山康晴)
|-
!九段
|colspan="3"|'''[[大山康晴]]'''
|-
!王将
|(タイトル戦 昇格前) ||style="border-right:none"|'''[[升田幸三]]'''<br/>(第1期王将)||style="border-left:none"|
|}
*;6タイトル時
:* [[1982年]][[12月21日]] - [[1983年]][[1月21日]]({{Age in days|1982|12|21|1983|1|21}}日間)<br/>(中原誠の十段奪取 → 中原誠の棋聖奪取)
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; margin-left:4em; white-space:nowrap;"
|-
!タイトル ||{{00}}(複数冠保持者){{00}}||{{0}}'''タイトル分散時'''{{0}}||{{00}}(複数冠保持者){{00}}
|-
!名人
|colspan="3"|'''[[加藤一二三]]'''
|-
!十段
|(加藤一二三) → ||style="border-right:none"|'''[[中原誠]]'''||style="border-left:none"|
|-
!棋聖
|style="border-right:none"| ||style="border-left:none"|'''[[森雞二]]''' ||→ (中原誠)
|-
!王位
|colspan="3"|'''[[内藤國雄]]'''
|-
!棋王
|colspan="3"|'''[[米長邦雄]]'''
|-
!王将
|colspan="3"|'''[[大山康晴]]'''
|}
*;7タイトル時
:* [[1987年]][[10月21日]] - 同年[[11月25日]]({{Age in days|1987|10|21|1987|11|25}}日間)<br/>(塚田泰明の王座奪取 → 高橋道雄の十段奪取)
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; margin-left:4em; white-space:nowrap;"
|-
!タイトル ||{{00}}(複数冠保持者){{00}}||{{0}}'''タイトル分散時'''{{0}}||{{00}}(複数冠保持者){{00}}
|-
!名人
|colspan="3"|'''[[中原誠]]'''
|-
!十段
|style="border-right:none"| ||style="border-left:none"|'''[[福崎文吾]]'''||→ (高橋道雄)
|-
!棋聖
|colspan="3"|'''[[桐山清澄]]'''
|-
!王位
|colspan="3"|'''[[谷川浩司]]'''
|-
!王座
|(中原誠) → ||style="border-right:none"|'''[[塚田泰明]]''' ||style="border-left:none"|
|-
!棋王
|colspan="3"|'''[[高橋道雄]]'''
|-
!王将
|colspan="3"|'''[[中村修 (棋士)|中村修]]'''
|}
*;8タイトル時
:* [[2018年]][[7月17日]] - 同年[[9月27日]]({{Age in days|2018|07|17|2018|09|27}}日間) <br>(豊島将之の棋聖奪取 → 豊島将之の王位奪取)
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; margin-left:4em; white-space:nowrap;"
|-
!タイトル ||{{00}}(複数冠保持者){{00}}||{{0}}'''タイトル分散時'''{{0}}||{{00}}(複数冠保持者){{00}}
|-
!竜王
|colspan="3"|'''[[羽生善治]]'''
|-
!名人
|colspan="3"|'''[[佐藤天彦]]'''
|-
!叡王
|colspan="3"|'''[[高見泰地]]'''
|-
!王位
|style="border-right:none"| ||style="border-left:none"|'''[[菅井竜也]]''' ||→ (豊島将之)
|-
!王座
|colspan="3"|'''[[中村太地 (棋士)|中村太地]]'''
|-
!棋王
|colspan="3"|'''[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]'''
|-
!王将
|colspan="3"|'''[[久保利明]]'''
|-
!棋聖
|(羽生善治) → ||style="border-right:none"|'''[[豊島将之]]''' ||style="border-left:none"|
|}
;日本国外でのタイトル戦実施
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center; font-size:95%; margin-left:2em;"
|+ style="font-weight:normal; text-align:left; font-size:110%"|これまでの実施回数:22回(1976年1月21日 - 2023年6月5日)
|-
! !!棋戦!!期!!局数
!国名!!colspan="2"|都市<!-- !!対局場 -->
!対局日!!在位者!!勝敗!!挑戦者
|-
!1
|[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]||[[第1期棋王戦|1]]||style="line-height:100%"|決勝<br/>リーグ<!-- 戦 -->
|{{align|left|{{USA2}}}}||[[ホノルル]]||<ref>{{Cite journal|和書|author=大内延介|authorlink=大内延介|title=善意と情と好漢の人|journal=将棋世界|volume=81|issue=1|publisher=公益社団法人日本将棋連盟|date=2017-01|pages=104}}</ref><!-- ||[[ザ・カハラ・ホテル&リゾート|カハラヒルトン]] -->
|1976年{{0}}1月21日{{0|-00日}}
|[[内藤國雄]] {{align|right|{{0|_}}九段}}||千○-●||[[大内延介]] {{align|right|八段}}
|-
!2
|[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]||[[第46期棋聖戦 (将棋)|46]]||第2局
|{{align|left|{{flagicon|USA}} アメリカ}}||[[ロサンゼルス]]||<ref>{{Cite web|和書|url=https://shogipenclublog.com/blog/2019/08/29/morikeiji-9/|title=「ぎりぎりの終盤で、手洗いに立った森はそのままドアの前で立ちつくしていた。握りしめた左手のおしぼりが、ぶるぶるとふるえていた」|accessdate=2023-06-03|date=2019-08-29|website=将棋ペンクラブログ||publisher=将棋ペンクラブ}}</ref><!-- ||[[ニューオータニ#過去展開ホテル|ホテルニューオータニ]] -->
|1985年{{0}}7月{{0}}1日{{0|-00日}}
|[[米長邦雄]] {{align|right|棋聖}}||●-○||[[勝浦修]] {{align|right|八段}}
|-
!3
|[[竜王戦]]||[[第3期竜王戦|3]]||第1局
|{{align|left|{{GER}}}}||[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]||<ref name="竜王戦">{{Cite journal|和書|title=竜王戦七番勝負全結果データ|journal=将棋世界|volume=79|issue=8|publisher=公益社団法人日本将棋連盟|date=2015-08|pages=86-87}}</ref><!-- ||インターコンチネンタルホテル -->
|1990年10月19日-20日
|[[羽生善治]] {{align|right|竜王}}||●-○||[[谷川浩司]] {{align|right|二冠}}
|-
!4
|竜王戦||[[第4期竜王戦|4]]||第1局
|{{align|left|{{THA}}}}||[[バンコク]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ヒルトン・インターナショナル -->
|1991年10月24日-25日
|谷川浩司 {{align|right|竜王}}||持||[[森下卓]] {{align|right|六段}}
|-
!5
|竜王戦||[[第5期竜王戦|5]]||第1局
|{{align|left|{{GBR}}}}||[[ロンドン]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||モントカームホテル<ref name="竜王戦"/> -->
|1992年10月20日-21日
|谷川浩司 {{align|right|竜王}}||○-●||羽生善治 {{align|right|二冠}}
|-
!6
|竜王戦||[[第6期竜王戦|6]]||第1局
|{{align|left|{{SGP}}}}||シンガポール||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ウェスティン・プラザ<ref name="竜王戦"/> -->
|1993年10月20日-21日
|羽生善治 {{align|right|竜王}}||○-●||[[佐藤康光]] {{align|right|七段}}
|-
!7
|竜王戦||[[第7期竜王戦|7]]||第1局
|{{align|left|{{FRA}}}}||[[パリ]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ニッコー・ド・パリ<ref name="竜王戦"/> -->
|1994年10月18日-19日
|佐藤康光 {{align|right|竜王}}||●-○||羽生善治 {{align|right|名人}}
|-
!8
|竜王戦||[[第8期竜王戦|8]]||第1局
|{{align|left|{{CHN}}}}||[[北京市|北京]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||京倫飯店<ref name="竜王戦"/> -->
|1995年10月20日-21日
|羽生善治 {{align|right|竜王}}||●-○||佐藤康光 {{align|right|{{0|_}}前竜王}}
|-
!9
|竜王戦||[[第9期竜王戦|9]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|USA}} アメリカ}}||ロサンゼルス||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ホテルニューオータニ<ref name="竜王戦"/> -->
|1996年10月17日-18日
|羽生善治 {{align|right|竜王}}||○-●||谷川浩司 {{align|right|九段}}
|-
!10
|竜王戦||[[第10期竜王戦|10]]||第1局
|{{align|left|{{AUS}}}}||[[ゴールドコースト (クイーンズランド州)|ゴールドコースト]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ゴールドコースト・インターナショナル<ref name="竜王戦"/> -->
|1997年10月16日-17日
|谷川浩司 {{align|right|竜王}}||○-●||[[真田圭一]] {{align|right|六段}}
|-
!11
|竜王戦||[[第11期竜王戦|11]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|USA}} アメリカ}}||[[ニューヨーク]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ザ・キタノ<ref name="竜王戦"/> -->
|1998年10月15日-16日
|谷川浩司 {{align|right|竜王}}||●-○||[[藤井猛]] {{align|right|七段}}
|-
!12
|[[王座戦]]||[[第48期王座戦 (将棋)|48]]||第3局
|{{align|left|{{flagicon|CHN}} 中国}}||[[広州市|広州]]||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/month/oldall/2000-9all.html|title=2000年9月の対局(9月4日~10日を除く)|accessdate=2023-06-03|publisher=公益社団法人日本将棋連盟}}</ref><!-- ||ホワイトスワン -->
|2000年{{0}}9月21日{{0|-00日}}
|羽生善治 {{align|right|王座}}||千●-○||藤井猛 {{align|right|竜王}}
|-
!13
|竜王戦||[[第13期竜王戦|13]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|CHN}} 中国}}||[[上海市|上海]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||花園飯店<ref name="竜王戦"/> -->
|2000年10月19日-20日
|藤井猛 {{align|right|竜王}}||○-●||羽生善治 {{align|right|五冠}}
|-
!14
|王座戦||[[第50期王座戦 (将棋)|50]]||第3局
|{{align|left|{{flagicon|CHN}} 中国}}||上海||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00001980Z20C22A7000000/|title=将棋王座戦 写真で振り返る70年|accessdate=2023-06-04|publisher=株式会社日本経済新聞社}}</ref><!-- ||浦東シャングリラホテル -->
|2002年10月{{0}}9日{{0|-00日}}
|羽生善治 {{align|right|王座}}||○-●||佐藤康光 {{align|right|二冠}}
|-
!15
|竜王戦||[[第15期竜王戦|15]]||第1局
|{{align|left|{{TWN}}}}||[[台北市|台北]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ホテル・ロイヤル・タイペイ<ref name="竜王戦"/> -->
|2002年10月23日-24日
|羽生善治 {{align|right|竜王}}||千千||[[阿部隆]] {{align|right|七段}}
|-
!16
|竜王戦||[[第17期竜王戦|17]]||第1局
|{{align|left|{{KOR}}}}||[[ソウル特別市|ソウル]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||[[ホテル新羅#ソウル新羅ホテル|新羅ホテル]]<ref name="竜王戦"/> -->
|2004年10月19日-20日
|[[森内俊之]] {{align|right|竜王}}||●-○||[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]] {{align|right|六段}}
|-
!17
|竜王戦||[[第19期竜王戦|19]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|USA}} アメリカ}}||[[サンフランシスコ]]||<ref name="竜王戦"/><!-- ||ホテルニッコーサンフランシスコ<ref name="竜王戦"/> -->
|2006年10月10日-11日
|渡辺明 {{align|right|竜王}}||●-○||佐藤康光 {{align|right|棋聖}}
|-
!18
|竜王戦||[[第21期竜王戦|21]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|FRA}} フランス}}||パリ||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/ryuuou/21/|title=第21期竜王戦 決勝トーナメント・七番勝負|accessdate=2023-06-06|publisher=公益社団法人日本将棋連盟}}</ref><!-- ||ル・メリディアン・エトワール -->
|2008年10月18日-19日
|渡辺明 {{align|right|竜王}}||●-○||羽生善治 {{align|right|名人}}
|-
!19
|棋王戦||[[第35期棋王戦|35]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|CHN}} 中国}}||上海||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/kiou/35hon/5game.html|title=第35期棋王戦挑戦者決定トーナメント/五番勝負|accessdate=2023-06-06|publisher=公益社団法人日本将棋連盟}}</ref><!-- ||レキシントンプラザホテル -->
|2010年{{0}}2月{{0}}5日{{0|-00日}}
|[[久保利明]] {{align|right|棋王}}||●-○||佐藤康光 {{align|right|九段}}
|-
!20
|竜王戦||[[第27期竜王戦|27]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|USA}} アメリカ}}||ホノルル||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/ryuuou/27/|title=第21期竜王戦 七番勝負|accessdate=2023-06-06|publisher=公益社団法人日本将棋連盟}}</ref><!-- ||[[ハレクラニ]] -->
|2014年10月16日-17日
|森内俊之 {{align|right|竜王}}||●-○||[[糸谷哲郎]] {{align|right|七段}}
|-
!21
|[[叡王戦]]||[[第4期叡王戦|4]]||第1局
|{{align|left|{{flagicon|TWN}} 台湾}}||台北||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/eiou/4/index.html|title=第4期叡王戦 七番勝負|accessdate=2023-06-06|publisher=公益社団法人日本将棋連盟}}</ref><!-- ||[[円山大飯店|圓山大飯店]] -->
|2019年{{0}}4月{{0}}6日{{0|-00日}}
|[[高見泰地]] {{align|right|叡王}}||●-○||[[永瀬拓矢]] {{align|right|七段}}
|-
!22
|棋聖戦||[[第94期棋聖戦 (将棋)|94]]||第1局
|{{align|left|{{VNM}}}}||[[ダナン]]||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/match/kisei/|title=ヒューリック棋聖戦|棋戦|日本将棋連盟|accessdate=2023-06-06|publisher=公益社団法人日本将棋連盟}}</ref><!-- ||ダナン三日月 -->
|2023年{{0}}6月{{0}}5日{{0|-00日}}
|[[藤井聡太]] {{align|right|棋聖}}||○-●||[[佐々木大地 (棋士)|佐々木大地]] {{align|right|七段}}
|}
=== その他の主な女流棋戦の記録 ===
;通算記録
* 通算公式戦優勝回数:里見香奈 55回(タイトル戦55・一般棋戦0)
** 通算一般棋戦優勝回数:清水市代 11回
;個人の連続記録
* 一冠以上連続在位:清水市代 18年7か月(1991女流王将獲得[1992年3月24日] - 2010女流王将失冠[2010年10月28日])
* タイトル戦連続登場:清水市代 22期(1995女流王位戦 - 2000倉敷藤花戦)
** タイトル戦連続挑戦:中井広恵 4期(2001女流王位戦 - 2002女流王将戦)
*同一タイトル戦連続登場:清水市代 19期(1993 - 2011女流王位戦)
;個人以外の連続記録
* タイトル戦で奪取無し(防衛)の連続発生:6期(1978女流王将戦 - 1980女流名人位戦・2002女流王位戦 - 2003倉敷藤花戦)
* タイトル戦で奪取(在位者交代)の連続発生:5期(2013マイナビオープン - 2013女流王座戦)
* 同一タイトル戦で奪取(在位者交代)の連続発生:7期(1994 - 2000女流王将戦)
;最年少記録
* タイトル最年少挑戦:中井広恵(13歳・女流王将戦)
* タイトル最年少獲得:林葉直子(14歳・女流王将戦)
;最年長記録
* タイトル最年長獲得(防衛):清水市代(40歳9か月・女流王将戦)
** タイトル最年長奪取:清水市代(40歳1か月・女流名人戦)
** タイトル最年長挑戦:中井広恵(51歳4か月・倉敷藤花戦)
;同一カード
* タイトル戦通算 = 20期(中井広恵-清水市代)
<!-- * タイトル戦連続 = 2期(多数) -->
* 同一タイトル戦通算 = 10期(中井広恵-清水市代、女流名人戦)
* 同一タイトル戦連続 = 4期
::(中井広恵-清水市代、1994 - 1997女流名人戦)<br/>(清水市代-石橋幸緒、2006 - 2009女流王位戦)
* 同一カードでのタイトル戦棋戦数 = 8棋戦
::([[里見香奈]]-[[西山朋佳]]、女流タイトル戦 全8棋戦で実施{{=}}2024年1月から実施予定の2023年度女流名人戦を含む)
;日本国外での女流タイトル戦実施
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== アマチュアの棋戦 ==
{{main|将棋のアマチュア棋戦}}
下記6大会(個人戦)は主要アマ6棋戦と呼ばれる。そのいずれかにおける優勝は[[新進棋士奨励会|奨励会]]三段リーグ編入試験の受験資格となる。
* 全日本アマチュア名人戦
* アマチュア竜王戦
* 全国アマチュア王将位大会
* 朝日アマ名人戦
* しんぶん赤旗全国囲碁・将棋大会(赤旗名人戦)
* 支部名人戦個人戦
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[日本将棋連盟]]
* [[日本女子プロ将棋協会]]
* [[将棋棋士の獲得タイトル数ランキング|将棋棋士の公式戦優勝回数ランキング]]
* [[棋戦 (囲碁)]]
== 外部リンク ==
* [https://www.shogi.or.jp/match/ 日本将棋連盟主催棋戦一覧|日本将棋連盟]
{{棋戦 (将棋)}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%8B%E6%88%A6_(%E5%B0%86%E6%A3%8B) |
6,450 | 将棋の戦法 | 将棋の戦法()は、将棋における「戦い方」のことである。
分かりやすく言うと「攻撃」と「守備」のやり方、つまり「攻め」と「守り」のやり方のことである。
将棋では攻撃と守備のバランスが重要である。初心者がまず最初に覚えるべきこと、そして序盤で実際に重要になることは、守備の体制をつくることであり、もし玉将の周囲を手薄にしていれば、相手から容易に王手がかけられ(まるで流れ弾が当たったように)あっけなく詰んで負けてしまうことが起きる(トン死)。将棋の守備の典型が囲いである。しかし攻撃においても守備と同等、あるいはそれ以上に重要であり、自分の王の周囲の護りをがっちり固めるだけで相手の王を攻撃をしなければ、(護りが固ければ確かに「負けはしない」が)いつまでたっても勝てはしない。したがって将棋では一般に、守備と攻撃の両方を行う。
飛車は攻撃に用いられる駒であり、もし飛車を元の右側の位置に置いたままにしたら右側が「攻めの陣」ということになるので、玉のほうは反対サイドの左側へ移動させ、その玉の周囲を(金将・銀将などで)守り「守りの陣」とするのである。逆に飛車を左方へ移動させ左側を「攻めの陣」としたら、玉は右側へと移動させその周辺を「守りの陣」とする。つまり基本的には、攻めに使う駒(端的に言うと飛車)の位置と、守らなければならない一番重要な「玉」の位置は離すようにするのである。
基本のセオリーはこうなっており、入門者が「初心者」や「中級者」になるにはまずこうした基本のセオリーに沿った戦法を学び、しっかりと習得するわけである。ただし中級者以上になると、時としてこの基本セオリーを敢えて外すような戦法を使うこともある(詳細は下の節で解説)。
なお「戦法」という言葉は、もともと古い漠然とした言葉であり、現代的に言えば二つの意味・用法がある。一つは総称としての「戦法」、つまり「戦い方」そのものをまとめてざっくりと指す用法を示し、もう一つはかなり限定的な意味での「戦法」という用法を示す。いってみれば、現代の戦争用語の「戦略 / 戦術」という概念について、戦法で両方の概念をまとめて指している場合と、戦法で後者の戦術だけを限定的に指している場合がある、と言ってもよい。つまり文脈によって「戦法」の意味が異なる。
将棋には様々な戦法や分類法があり、基本的な型は存在するが、それらを突き詰めていくと局面が複雑化していく。
よくある分類法は、最序盤の局面の進行を、大駒の位置(まず飛車の位置。ついで角の位置や、初期段階で角と角を「交換」するかなど。)に着目していくつかの型(たとえば「居飛車」つまり飛車をもとの位置のままにしておく型、と「振飛車」つまり飛車の位置を左方面に動かす型、など)に大別し、それを「戦型」と呼んだ上で、各戦型ごとに、その戦型で攻撃する側と、その攻撃を受けて防御する側の効果的な指し方「戦法」について分類する方法である(こういう文脈では、限定的な意味で「戦法」という言葉を使う)。
とはいえ、棒銀戦法のように、様々な戦型で効果を発揮する汎用的な「戦法」もある。また、戦型と戦法(限定的な意味のほう)は相互に複雑に関係しており、必ずしも、大駒の位置で大分類してその下位分類として「戦法」を置けばよいというわけでもない。
例えば囲いが、大きな意味での戦法・一局全体を決定づけていることもある。穴熊囲いは非常に堅固な囲いの一種であり、それを守備に選ぶということ自体がれっきとした「戦法」である。一方が穴熊囲いを選ぶと残りの駒も決まり攻撃に使える駒が決まり、一方穴熊囲いと対峙する相手の側はその穴熊囲いに翻弄され、結果として盤上のやりとりのほとんどが、その「穴熊囲い」を軸に展開してゆく。
双方が矢倉囲いに組むことは「相矢倉」や「矢倉戦」などと呼ばれる。これなども「囲い」を基準にして「戦い方」を分類している。
なお、将棋では、(穴熊囲いのように)自軍の王の守りをガッチリと固めてあるほど相手に対する攻めも「ガンガン」と激しく行うということになる、自軍の王の守りが中途半端だと相手に対する攻めも中途半端になりがち、という面もあり、つまり(自軍の中ですら)守備と攻撃は相互に影響しあっているので、どんな時でも飛車の位置を基準とした分類(つまり攻撃用の駒の位置を基準とした分類)だけしかしない、というのは必ずしも適切ではない。したがって上級者の心の中では戦法は、実際にはひとつの分類法だけを用いるのではなく、さまざまな角度から、複雑な分類が行われている(ただし、心の中で戦法をどのように分類しているかということ自体が、いわば「情報戦」の一部であるので、上級者は明かさない)。
上の節で戦法の分類が複雑であることを説明したが、当記事では、まずは基本的な大分類、飛車の位置に着目して行う大分類について説明する。一般論を言えば、大駒の位置をどこにするかということ(「戦型」)が、序盤の重要な選択となる。
戦法は、最強の攻撃用の駒である飛車の使い方によって居飛車と振り飛車に大別される。居飛車は飛車を初期位置である右翼に居たまま使う戦法であり、振り飛車は飛車を左翼に振って(移動して)使う戦法である。なお、飛車の初期位置は厳密には右翼のうち右から2番目の筋(先手ならば2筋、後手ならば8筋)であるが、右から3番目や4番目の筋も右翼であることにはかわりはないから、これらの筋で飛車を使う戦法も居飛車に含まれ、右から3番目の筋で飛車を使う戦法は袖飛車、右から4番目の筋で飛車を使う戦法は右四間飛車と呼ばれる。
互いに居飛車と振り飛車のどちらの戦法を採るかという基準により、戦型は3つに大別できることになる。すなわち、双方が居飛車の相居飛車、一方が居飛車で他方が振り飛車の対抗型、双方が振り飛車の相振り飛車である。
以下、「相居飛車」「対抗型」「相振り飛車」の順に解説する。
相居飛車は、飛車と角の使い方・相手の飛車先の受け方により、矢倉・角換わり・相掛かり・横歩取りといった戦型に分類される。通常横歩取りは飛車先を交換する、矢倉戦や角換わり戦は飛車先を交換しない戦法となるが、相掛かりは両方の種類がある。
矢倉戦のほか、角換わりでも矢倉囲い系の囲いが用いられることが多いが、相掛かり・横歩取りは中住まいやイチゴ囲いなどに組むのが一般的である。居飛車の場合は中央から左側に玉を移動して囲いを築くが、稀に飛車のいる右側に玉を移動して戦うこともあり、これを右玉という。
対抗型では、角行と飛車の位置関係を見れば明らかなように、当初から居飛車側と振り飛車側で全く異なる非対称な形で駒組が始まる。そのため、相居飛車と比べるとある程度相手の駒組から独立して自分の駒組を進めることができ、居飛車側・振り飛車側の双方で様々な戦法が使用できる。
対抗型は、振り飛車側がどの筋に飛車を振っているかによって中飛車・四間飛車・三間飛車・向かい飛車に分類される。これに対し居飛車側の対応は、速攻を仕掛ける急戦と、固い囲いを組む持久戦に大別される。
互いに飛車を振る相振り飛車については、従来は振り飛車党同士の対戦で互いに譲らなかった場合などに出現する限定的な戦型とされていた。しかし、近年では相手の出方に応じて相振り飛車にする作戦が試されるようになり、居飛車党の棋士もしばしば指すようになった。とは言え、相居飛車や対抗型と比べて実戦例が少ないのは事実であり、相居飛車や対抗型ほど細かく戦法が整備されているわけではない。
相手にとって意外な、そして相手が対応法を知らない場合に一挙に有利となる戦法、「ハメ手」と呼ばれる手筋がちりばめられている戦法(だが、相手がその奇襲戦法と対処法を知っていてそれを指されると、かえって不利になる指し方)を奇襲戦法(またはハメ手、B級戦法など)と言う。奇襲戦法の多くは、初見の相手を惑わせて罠に嵌める目的で使われる。ただし序盤から戦型が固まらずに激しくなるものも多い。多種多様であり、早石田や鬼殺し向かい飛車、ノーガード戦法など明らかに上記3つの対抗系戦型に当てはまるものと、鬼殺しやパックマンのような戦型分類の意味をなさないものまである。
「奇襲戦法」も有名になりすぎて誰もが知るものとなってしまった場合や、研究熱心でその奇襲戦法に対する策を知り尽くしている相手には「奇襲戦法」ではなくなってしまう。
なお、矢倉の急戦型雀刺しなど、もともとは正統な戦法だったものの、完全な対策が確立されてしまって(棋士の間では「問題外」視されるようになり、なかば忘れられてゆき)、その結果現在では、その戦法を選ぶことが意外で、逆に「奇襲戦法」扱いされるようになった、というものもある。
通常の戦型の分類に当てはまらない進行を見せる将棋は、力戦型と呼ばれる。力戦型ではゴキゲン中飛車のようにもともとの正統戦法に近い戦型の戦法を応用して使うこともあれば、まったく独自に工夫して攻め方・守り方を構想する場合もある。戦型分類については一間飛車や筋違い角のように両方の場合があるもの、出だしは相居飛車で途中から変わる陽動振り飛車や坂田流向かい飛車のようなものや、英春流や嬉野流のように相手の戦型によって上記3つのものに当てはまる戦法などがある。
駒落ち将棋では、平手では通用しない駒落ち専用の戦法が存在する。
この他に、戦法として成立していないがやってしまいがちな手を冗談として戦法扱いすることがあるが、プロの公式戦でも多くみられるようになった後手一手損角換わりなどは、もともとそうした類の戦法であった。
急戦用
持久戦用・その他
2019年に刊行された『将棋世界Special 将棋戦法事典100+』(将棋世界編集部編、マイナビ出版)で、2019年時点での「人気戦法」のランキング(順位)が取りまとめられている。順位については以下の通り。 | [
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] | 将棋の戦法は、将棋における「戦い方」のことである。 | {{参照方法|date=2019年2月}}
{{Pathnav|将棋|frame=1}}
{{将棋ヘッダ}}{{wikibooks|将棋の戦法}}
{{読み仮名|'''将棋の戦法'''|しょうぎのせんぽう}}は、[[将棋]]における「戦い方」のことである。
== 概説 ==
分かりやすく言うと「攻撃」と「守備」のやり方、つまり「攻め」と「守り」のやり方のことである。
将棋では攻撃と守備のバランスが重要である。初心者がまず最初に覚えるべきこと、そして序盤で実際に重要になることは、守備の体制をつくることであり<ref name="shogirennmei_senpo_biginner_1">[https://www.shogi.or.jp/column/2016/10/beginner_1.html 日本将棋連盟公式サイト、[[高野秀行 (棋士)|高野秀行]]六段 執筆、【はじめての戦法入門-第1回】「まずはじめに覚えておくべき3つのセオリー」]</ref>、もし[[玉将]]の周囲を手薄にしていれば、相手から容易に王手がかけられ(まるで流れ弾が当たったように)あっけなく詰んで負けてしまうことが起きる(トン死)。将棋の守備の典型が[[囲い]]である。しかし攻撃においても守備と同等、あるいはそれ以上に重要であり、自分の王の周囲の護りをがっちり固めるだけで相手の王を攻撃をしなければ、(護りが固ければ確かに「負けはしない」が)いつまでたっても勝てはしない。したがって将棋では一般に、守備と攻撃の両方を行う。
[[飛車]]は攻撃に用いられる駒であり、もし飛車を元の右側の位置に置いたままにしたら右側が「攻めの陣」ということになるので、玉のほうは反対サイドの左側へ移動させ、その玉の周囲を([[金将]]・[[銀将]]などで)守り「守りの陣」とするのである<ref name="shogirennmei_senpo_biginner_1" />。逆に飛車を左方へ移動させ左側を「攻めの陣」としたら、玉は右側へと移動させその周辺を「守りの陣」とする<ref name="shogirennmei_senpo_biginner_1" />。つまり基本的には、攻めに使う駒(端的に言うと飛車)の位置と、守らなければならない一番重要な「玉」の位置は離すようにするのである<ref name="shogirennmei_senpo_biginner_1" />。
基本のセオリーはこうなっており、入門者が「初心者」や「中級者」になるにはまずこうした基本のセオリーに沿った戦法を学び、しっかりと習得するわけである。ただし中級者以上になると、時としてこの基本セオリーを敢えて外すような戦法を使うこともある(詳細は下の節で解説)。
なお「戦法」という言葉は、もともと古い漠然とした言葉であり、現代的に言えば二つの意味・用法がある。一つは総称としての「戦法」、つまり「戦い方」そのものをまとめてざっくりと指す用法を示し、もう一つはかなり限定的な意味での「戦法」という用法を示す。いってみれば、現代の戦争用語の「[[戦略]] / [[戦術]]」という概念について、戦法で両方の概念をまとめて指している場合と、戦法で後者の戦術だけを限定的に指している場合がある、と言ってもよい。つまり文脈によって「戦法」の意味が異なる。
== 戦法の分類 ==
将棋には様々な戦法や分類法があり、基本的な型は存在するが、それらを突き詰めていくと局面が複雑化していく。
よくある分類法は、最序盤の局面の進行を、大駒の位置(まず飛車の位置。ついで角の位置や、初期段階で角と角を「交換」するかなど。)に着目していくつかの型(たとえば「居飛車」つまり飛車をもとの位置のままにしておく型、と「振飛車」つまり飛車の位置を左方面に動かす型、など)に大別し、それを「戦型」と呼んだ上で、各戦型ごとに、その戦型で攻撃する側と、その攻撃を受けて防御する側の効果的な指し方「戦法」について分類する方法である(こういう[[文脈]]では、限定的な意味で「戦法」という言葉を使う)。
とはいえ、[[棒銀]]戦法のように、様々な戦型で効果を発揮する汎用的な「戦法」もある。また、戦型と戦法(限定的な意味のほう)は相互に複雑に関係しており、必ずしも、大駒の位置で大分類してその下位分類として「戦法」を置けばよいというわけでもない。
例えば[[囲い]]が、大きな意味での戦法・一局全体を決定づけていることもある。[[穴熊囲い]]は非常に堅固な囲いの一種であり、それを守備に選ぶということ自体がれっきとした「戦法」である<ref>({{Cite book|和書| author=大内延介|authorlink=大内延介| title = 穴熊戦法 : イビアナ・振り飛車穴熊のすべて | publisher = [[創元社]]| year = 1990 | isbn = 978-4422750729}})</ref>。一方が穴熊囲いを選ぶと残りの駒も決まり攻撃に使える駒が決まり、一方穴熊囲いと対峙する相手の側はその穴熊囲いに翻弄され、結果として盤上のやりとりのほとんどが、その「穴熊囲い」を軸に展開してゆく。
双方が[[矢倉囲い]]に組むことは「相矢倉」や「矢倉戦」などと呼ばれる<ref>{{Cite book|和書| author=畠山鎮|authorlink=畠山鎮| title = これからの相矢倉 | publisher = [[マイナビ出版]]| year = 2015 | isbn = 978-4839954390}} {{Cite book|和書| author=米長邦雄|authorlink=米長邦雄| title = 矢倉戦の攻防 | publisher = [[昭文社]]| year = 1992 | isbn = 978-4398235015}})。</ref><ref group="注">矢倉囲いに対して[[左美濃]]に囲うことを骨子とする[[左美濃#居角左美濃急戦|居角左美濃急戦]]など({{Cite book|和書| author=斎藤慎太郎|authorlink=斎藤慎太郎| title = 常識破りの新戦法 矢倉左美濃急戦 基本編 | publisher = [[マイナビ出版]]| year = 2017 | isbn = 978-4839961725}})。</ref>。これなども「囲い」を基準にして「戦い方」を分類している。
なお、将棋では、(穴熊囲いのように)自軍の王の守りをガッチリと固めてあるほど相手に対する攻めも「ガンガン」と激しく行うということになる、自軍の王の守りが中途半端だと相手に対する攻めも中途半端になりがち、という面もあり、つまり(自軍の中ですら)守備と攻撃は相互に影響しあっているので、どんな時でも飛車の位置を基準とした分類(つまり攻撃用の駒の位置を基準とした分類)だけしかしない、というのは必ずしも適切ではない。したがって上級者の心の中では戦法は、実際にはひとつの分類法だけを用いるのではなく、さまざまな角度から、複雑な分類が行われている(ただし、心の中で戦法をどのように分類しているかということ自体が、いわば「情報戦」の一部であるので、上級者は明かさない)。
=== 分類の基本 ===
上の節で戦法の分類が複雑であることを説明したが、当記事では、まずは基本的な大分類、飛車の位置に着目して行う大分類について説明する。一般論を言えば、大駒の位置をどこにするかということ(「戦型」)が、序盤の重要な選択となる。
戦法は、最強の攻撃用の駒である飛車の使い方によって'''居飛車'''と'''振り飛車'''に大別される。居飛車は飛車を初期位置である右翼に居たまま使う戦法であり、振り飛車は飛車を左翼に振って(移動して)使う戦法である。なお、飛車の初期位置は厳密には右翼のうち右から2番目の筋(先手ならば2筋、後手ならば8筋)であるが、右から3番目や4番目の筋も右翼であることにはかわりはないから、これらの筋で飛車を使う戦法も居飛車に含まれ、右から3番目の筋で飛車を使う戦法は[[袖飛車]]、右から4番目の筋で飛車を使う戦法は[[右四間飛車]]と呼ばれる。
互いに居飛車と振り飛車のどちらの戦法を採るかという基準により、戦型は3つに大別できることになる。すなわち、双方が居飛車の'''相居飛車'''、一方が居飛車で他方が振り飛車の'''対抗型'''、双方が振り飛車の'''相振り飛車'''である。
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 角
|lg|ng|sg|gg|kg| |sg|ng|lg
| |rg| | | | |gg| |
|pg| |pg|pg|pg|pg| |pg|pg
| | | | | | |pg| |
| |pg| | | | | | |
| | |ps| | | | |ps|
|ps|ps|ssl|ps|ps|ps|ps| |ps
| | |gs| | | | |rs|
|ls|ns| | |ks|gs|ss|ns|ls
|▲持ち駒 角<br />相居飛車の最序盤の例<br />(角換わり)}}
:なお飛車を中央である5筋で使うものについては、通常玉将を右翼に囲う点など、他の振り飛車との共通点が多いため、一般的に振り飛車に分類されるが、他の居飛車との共通点が多い戦法、たとえば[[カニカニ銀]](中飛車)や[[矢倉中飛車]]など、相居飛車(この場合は相矢倉)で生じる戦法であるために、居飛車に分類されることもある。
:それと、「対抗型」では「振り飛車」側、「相振り飛車」では後から振り飛車を明示した側が該当する。「相居飛車」では両者の盤上の駆け引き・合意によって戦型が決まるため、純粋にどちらか一方の意思とは言えないが、矢倉戦・角換わり(正調角換わり)・相掛かりは先手の主導、角換わり(後手一手損角換わり)・横歩取りは後手の主導で実現することが多いとされている。
:また、[[横歩取り]]のうち飛車位置が途中で左翼になるものや、[[ひねり飛車]]のように右に玉将を囲い途中から飛車の位置を変えるような、どちらかというと相居飛車に分類される指し方もある。
以下、「相居飛車」「対抗型」「相振り飛車」の順に解説する。
=== 相居飛車 ===
{{Main|居飛車#相居飛車}}
相居飛車は、飛車と角の使い方・相手の飛車先の受け方により、[[矢倉囲い|矢倉]]・[[角換わり]]・[[相掛かり]]・[[横歩取り]]といった戦型に分類される。通常横歩取りは飛車先を交換する、矢倉戦や角換わり戦は飛車先を交換しない戦法となるが、相掛かりは両方の種類がある。
矢倉戦のほか、角換わりでも矢倉囲い系の囲いが用いられることが多いが、相掛かり・横歩取りは[[中住まい]]やイチゴ囲いなどに組むのが一般的である。居飛車の場合は中央から左側に玉を移動して囲いを築くが、稀に飛車のいる右側に玉を移動して戦うこともあり、これを[[右玉]]という。
{{clear}}
=== 対抗型 ===
{| style="float:right;"
|-
|
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 なし
|lg|ng|sg|gg|kg|gg|sg|ng|lg
| | | | | |rgl| |bg|
|pg|pg|pg|pg|pg| | |pg|pg
| | | | | |pg|pg| |
| | | | | | | | |
| | |ps| | | | |ps|
|ps|ps| |ps|ps|ps|ps| |ps
| |bs| | | |ss| |rs|
|ls|ns|ss|gs|ks|gs| |ns|ls
|▲持ち駒 なし<br />対抗型の最序盤の例<br />(居飛車vs四間飛車)}}
|
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 なし
|lg|ng|sg|gg| |gg|sg|ng|lg
| | |kg| | | |rg|bg|
|pg|pg|pg|pg|pg|pg| |pg|pg
| | | | | | | | |
| | | | | | |pg| |
| | |ps|ps| | | | |
|ps|ps|bs|ss|ps|ps|ps|ps|ps
| |rsl| | | | | | |
|ls|ns| |gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲持ち駒 なし<br />相振り飛車の最序盤の例<br />(向かい飛車vs三間飛車)}}
|}
{{Main|振り飛車|居飛車#対振り飛車}}
対抗型では、角行と飛車の位置関係を見れば明らかなように、当初から居飛車側と振り飛車側で全く異なる非対称な形で駒組が始まる。そのため、相居飛車と比べるとある程度相手の駒組から独立して自分の駒組を進めることができ、居飛車側・振り飛車側の双方で様々な戦法が使用できる。
対抗型は、振り飛車側がどの筋に飛車を振っているかによって[[中飛車]]・[[四間飛車]]・[[三間飛車]]・[[向かい飛車]]に分類される。これに対し居飛車側の対応は、速攻を仕掛ける[[急戦]]と、固い囲いを組む[[持久戦]]に大別される。
=== 相振り飛車 ===
{{Main|相振り飛車}}
互いに飛車を振る相振り飛車については、従来は振り飛車党同士の対戦で互いに譲らなかった場合などに出現する限定的な戦型とされていた。しかし、近年では相手の出方に応じて相振り飛車にする作戦が試されるようになり、居飛車党の棋士もしばしば指すようになった。とは言え、相居飛車や対抗型と比べて実戦例が少ないのは事実であり、相居飛車や対抗型ほど細かく戦法が整備されているわけではない。
{{clear}}
=== その他 ===
==== 奇襲戦法 ====
相手にとって意外な、そして相手が対応法を知らない場合に一挙に有利となる戦法、「ハメ手」と呼ばれる手筋がちりばめられている戦法(だが、相手がその奇襲戦法と対処法を知っていてそれを指されると、かえって不利になる指し方)を'''[[奇襲戦法]]'''(またはハメ手、[[B級戦法]]など)と言う。奇襲戦法の多くは、初見の相手を惑わせて罠に嵌める目的で使われる。ただし序盤から戦型が固まらずに激しくなるものも多い。多種多様であり、[[早石田]]や[[鬼殺し向かい飛車]]、[[ノーガード戦法]]など明らかに上記3つの対抗系戦型に当てはまるものと、[[鬼殺し]]や[[パックマン]]のような戦型分類の意味をなさないものまである。
{{shogi diagram|tright
|△持ち駒 角歩
|lg|ng|sg|gg|kg|gg|sg| |lg
| |rg| | | | | | |
|pg|pg|pg|pg|pg|pg| | |pg
| | | | | | |pg|rs|
| | | | | |ngl| | |
| | |ps| | | | | |
|ps|ps| |ps|ps|ps|ps| |ps
| |ss| | | | | | |
|ls|ns| |gs|ks|gs|ss|ns|ls
|▲持ち駒 角歩<br />奇襲戦法の一例<br />(後手番角頭歩vs居飛車)}}
「奇襲戦法」も有名になりすぎて誰もが知るものとなってしまった場合や、研究熱心でその奇襲戦法に対する策を知り尽くしている相手には「奇襲戦法」ではなくなってしまう。
なお、矢倉の急戦型[[雀刺し]]など、もともとは正統な戦法だったものの、完全な対策が確立されてしまって(棋士の間では「問題外」視されるようになり、なかば忘れられてゆき)、その結果現在では、その戦法を選ぶことが意外で、逆に「奇襲戦法」扱いされるようになった、というものもある。
==== 力戦型 ====
通常の戦型の分類に当てはまらない進行を見せる将棋は、'''力戦型'''と呼ばれる。力戦型では[[ゴキゲン中飛車]]のようにもともとの正統戦法に近い戦型の戦法を応用して使うこともあれば、まったく独自に工夫して攻め方・守り方を構想する場合もある。戦型分類については[[一間飛車]]や[[筋違い角]]のように両方の場合があるもの、出だしは相居飛車で途中から変わる[[陽動振り飛車]]や[[坂田流向かい飛車]]のようなものや、[[英春流]]や[[嬉野流]]のように相手の戦型によって上記3つのものに当てはまる戦法などがある。
==== その他の戦法 ====
[[将棋の手合割|駒落ち将棋]]では、平手では通用しない駒落ち専用の戦法が存在する。
この他に、戦法として成立していないがやってしまいがちな手を冗談として戦法扱いすることがあるが、プロの公式戦でも多くみられるようになった[[後手一手損角換わり]]などは、もともとそうした類の戦法であった。
== 一覧 ==
=== 相居飛車の戦法一覧 ===
*[[矢倉囲い|矢倉戦]]
**相矢倉:[[矢倉3七銀#加藤流|加藤流]]、[[矢倉3七銀#4六銀・3七桂型(有吉流)|4六銀・3七桂型]]、[[脇システム]]、[[棒銀#矢倉棒銀|矢倉棒銀]]、[[森下システム]]、[[矢倉早囲い|早囲い]]、[[雀刺し]]、[[四手角]]、[[三手角]]、[[土居矢倉]]
**急戦矢倉:[[米長流急戦矢倉]](田丸流)、[[阿久津流急戦矢倉]](中原流、郷田流、渡辺流)、[[矢倉中飛車]]、[[右四間飛車#対矢倉の右四間飛車|右四間飛車]]([[腰掛け銀]]型)、△6二飛戦法、[[棒銀#原始棒銀|原始棒銀]]、[[カニカニ銀]]
**変化型:[[矢倉3五歩早仕掛け|▲3五歩早仕掛け]]、[[雁木囲い|雁木]]、[[陽動振り飛車]]、[[無理矢理矢倉]]
*[[角換わり]]
**[[腰掛け銀#角換わり腰掛け銀|腰掛け銀]]:相腰掛け銀、後手[[棒銀]]
**その他:[[早繰り銀#角換わり|早繰り銀]]、棒銀、[[筋違い角]]
**[[後手一手損角換わり]](角換わりとは独立した戦型として扱われることもある)
*[[相掛かり]]
**相居飛車型:[[棒銀#相掛かり棒銀|棒銀]]、[[塚田スペシャル]]、[[相掛かり|新旧対抗型]]、[[早繰り銀#相掛かり|飛車先交換早繰り銀]]、[[中原流相掛かり]]・中原飛車(5六飛)、[[腰掛け銀#相掛かり腰掛け銀|飛車先交換腰掛け銀]]・[[鎖鎌銀]]
**変化型:[[ひねり飛車]]([[縦歩取り]])
*[[横歩取り]]
**[[横歩取り3三角|横歩取り△3三角]]:空中戦法([[内藤國雄|内藤]]流)、[[中原流相掛かり|中原流]]、[[横歩取り8五飛|中座飛車]](横歩取り△8五飛)、3三飛成戦法(竹部流)
**その他:[[横歩取り3三桂|横歩取り△3三桂]]、[[横歩取り2三歩|横歩取り△2三歩]]、[[横歩取り4五角|横歩取り△4五角]]、[[相横歩取り]]
=== 対抗型居飛車の戦法一覧 ===
急戦用
*対中飛車急戦
**対ノーマル中飛車:[[棒銀]]・斜め棒銀、[[二枚銀]]3八飛型、加藤流[[袖飛車]]、[[4六金戦法]]、[[鳥刺し (将棋)|鳥刺し]]・[[嬉野流]]、[[山田定跡#振り飛車△4三銀型に対する斜め棒銀]]、[[英春流]]右四間、[[地下鉄飛車]]、[[雁木]]・[[引き角]]
**対ゴキゲン中飛車:[[ゴキゲン中飛車#▲5八金右超急戦|▲5八金右超急戦]]、[[ゴキゲン中飛車#超速▲3七銀|超速▲3七銀]]、[[ゴキゲン中飛車#丸山ワクチン|丸山ワクチン]]<ref group="注">超速▲3七銀や丸山ワクチンには急戦・持久戦どちらの変化もある。</ref>
*対四間飛車急戦
**[[左銀急戦]]:[[4六銀左戦法]]・斜め棒銀・準急戦(▲3六銀型、二枚銀)・[[山田定跡]]・[[4五歩早仕掛け#対四間飛車|4五歩早仕掛け]]・[[鷺宮定跡]]、[[ポンポン桂]]左銀型
**その他:棒銀・斜め棒銀、[[4六銀右戦法]]・斜め棒銀・3八飛型、[[右四間飛車#対振り飛車の右四間飛車|右四間飛車]]、鳥刺し、ポンポン桂右銀型、雁木・引き角、対[[玉頭銀]][[5七金戦法]]
*対三間飛車急戦
**対ノーマル三間飛車他:[[三間飛車破り]]4六銀急戦・7五歩早仕掛け・棒銀・斜め棒銀、[[4五歩早仕掛け#対三間飛車|4五歩早仕掛け]]・二枚銀、[[三歩突き捨て急戦]]、鳥刺し・嬉野流、英春流右四間、地下鉄飛車、雁木・引き角
**対石田流三間飛車:[[棒金]]、[[きmきm金]]、二枚銀3八飛(7二飛)型、鳥刺し・嬉野流
*対向かい飛車急戦
**棒銀・斜め棒銀・4六銀(左銀・右銀)戦法、5七金戦法、鳥刺し・嬉野流
持久戦用・その他
* [[居飛車穴熊]]戦法(引き角型、居角型、角交換型)
* [[左美濃]]戦法(引き角型、居角型、角交換型)、端美濃・[[串カツ囲い|串カツ戦法]]、対中飛車角道不突き左美濃(都成流)
* [[位取り]]戦法(引き角型、居角型、角交換型)、[[玉頭位取り戦法]]、6筋(4筋)位取り、[[5筋位取り]]戦法
* トーチカ戦法[[ミレニアム囲い|ミレニアム]](引き角型、位角型、角交換型)、ホラ囲い
* [[右玉|糸谷流右玉]]
* [[飯島栄治|飯島流]]引き角戦法
* 地下鉄飛車
* [[英春流]]
=== 対抗型振り飛車の戦法一覧 ===
*[[中飛車]]
**角道クローズド:
***ノーマル中飛車:[[ツノ銀中飛車]]、[[風車 (将棋)|風車]]、[[英ちゃん流中飛車]]、5筋歩交換型、[[原始中飛車]]、[[先手中飛車]]、[[5五の龍|5五龍中飛車]]、中飛車[[早繰り銀]]
***角交換型中飛車:[[角交換振り飛車#角交換型中飛車|角交換型中飛車]]、[[角交換振り飛車#角交換型ツノ銀中飛車|角交換型ツノ銀中飛車]]
**角道オープン:
***ノーマル中飛車:[[ゴキゲン中飛車]]、[[原始中飛車]]、[[先手中飛車]]、[[5筋位取り中飛車]]、[[矢倉流中飛車]]
***角交換型中飛車:[[ゴキゲン中飛車]]、[[平目 (将棋)|平目]]
*[[四間飛車]]
**角道クローズド:
***ノーマル四間飛車:腰掛け銀型・[[玉頭銀]]・ダイヤモンド美濃、▲5六歩(△5四歩)型、▲5八金(△5二金)型、7八金(△3二金)型、▲6筋(△4筋)位取り型、[[耀龍四間飛車]]
***角交換型四間飛車:[[角交換振り飛車#錆刀戦法(宗歩四間飛車)|錆刀戦法]](宗歩四間飛車)、[[角交換振り飛車#4五歩(6五歩)ポン|4五歩(6五歩)ポン]]
**角道オープン:
***ノーマル四間飛車:[[藤井システム]]
***角交換型四間飛車:[[角交換四間飛車]]、[[レグスペ]]、[[立石流四間飛車]]、[[筋違い角]]+四間飛車、筋違い角阪田流四間飛車型
*[[三間飛車]]
**角道クローズド:
***ノーマル三間飛車:腰掛け銀型・玉頭銀・ダイヤモンド美濃、▲5六歩(△5四歩)型、△3筋(▲7筋)位取り型、[[石田流]](本組)、大野流三間飛車(▲5七銀(△5三銀)型)、真部流三間飛車(▲6筋(△4筋)位取り)、[[中田功XP]]、[[下町流三間飛車]]、[[トマホーク (将棋)|トマホーク]]、[[カナケンシステム]]、[[久保システム]]
***角交換三間飛車:[[2手目△3二飛#初手八飛戦法|初手▲7八飛]]、[[2手目△3二飛]]、▲6七金(△6三金)型三間飛車
**角道オープン:
***ノーマル三間飛車:三間飛車藤井システム
***角交換型三間飛車:[[石田流]](早石田・升田式石田流)、[[鬼殺し (将棋)|鬼殺し]]、菅井流△3三金型三間飛車(阪田流三間飛車)、菅井流▲5六歩型三間飛車(菅井流ゴキゲン三間飛車)、[[2手目△3二飛#初手八飛戦法|初手▲7八飛(猫だまし戦法)]]、[[2手目△3二飛]]
*[[向かい飛車]]
**角道クローズド:
***ノーマル向かい飛車:▲5八金(△5二金)型向かい飛車、[[角交換振り飛車#7八金型向かい飛車|▲7八金(△3二金)型向かい飛車]]、[[メリケン向かい飛車]]
***角交換型向かい飛車:7八金(△3二金)型向かい飛車・腰掛け銀型・[[玉頭銀]]
**角道オープン:
***角交換型向かい飛車:[[角交換四間飛車|二手損向かい飛車]]<ref group="注">一度四間飛車に振り、角交換をした後に向かい飛車に振り直す。</ref>、[[ダイレクト向かい飛車]]<ref group="注">角交換四間飛車に対して、ダイレクトに向かい飛車に降るため、こう呼ばれる。</ref>、[[阪田流向かい飛車]]、[[角交換振り飛車#筋違い角向かい飛車|筋違い角向かい飛車]]、筋違い角阪田流、[[角交換振り飛車#升田流向かい飛車|升田流向かい飛車]]、[[角交換振り飛車#大野流向かい飛車|大野流向かい飛車]]、[[角交換振り飛車#4手目△3三角戦法|4手目△3三角戦法]]、[[筋違い角]]向かい飛車
=== 相振り飛車の戦法一覧 ===
*相振り飛車
**中飛車:[[中飛車左穴熊]]、△3三桂戦法
**四間飛車
**三間飛車:菅井流
**向かい飛車:里見流流れ金無双
=== その他の戦法一覧 ===
* 奇襲戦法
::[[奇襲戦法]]を参照。[[鬼殺し (将棋)|鬼殺し]]、[[早石田]]、[[4四歩パックマン]]、[[アヒル戦法]](大阪囲い)、[[嬉野流]]など、多数。
*駒落ちの戦法
:
:*下手棒銀
::八枚落ち<ref name=shoshi>所司(2010)</ref>、四枚落ち<ref name=sen>先崎(2012)</ref>、香落ち
:*灘定跡
::八枚落ち<ref name=sen/>
:*下手9筋攻め
::八枚落ち<ref name=sen/>、六枚落ち<ref name=shoshi/>、四枚落ち<ref name=shoshi/>
:*下手1筋突破
::六枚落ち<ref name=sen/>
:*二歩突っ切り定跡(右三間+カニ囲い)
::四枚落ち<ref name=shoshi/><ref name=sen/>、[[二枚落ち]]<ref name=shoshi/><ref name=sen/><ref name=hana>花村(2001)</ref>
:*銀多伝、金多伝([[多伝囲い]])
::二枚落ち<ref name=shoshi/><ref name=sen/><ref name=hana/>
:*上手五筋位取り
::二枚落ち(5五歩止め)<ref name=sen/><ref name=hana/>、飛車落ち、角落ち
:*上手8四歩型・7四歩型・7五歩交換型
::飛香落ち
:*2五桂ハネ定跡
::飛香落ち<ref name=hana/>
:*下手腰掛け銀
::飛香落ち<ref name=shoshi/>
:*上手三金止早仕掛
::飛車落ち
:*下手右四間飛車(金無双、銀冠型)
::飛車落ち<ref name=shoshi/>、飛香落ち
:*上手雁木
::二枚落ち、飛車落ち
:*上手お神酒指し
::飛車落ち
:*金開き3四銀型
::飛車落ち
:*上手3手目△5四歩戦法
::飛車落ち
:*居飛車引き角
::飛車落ち<ref name=shoshi/>
:*下手矢倉
::六枚落ち<ref name=sen/>、角落ち<ref name=shoshi/>
:*下手三間飛車
::飛車落ち、角落ち<ref name=shoshi/>
:*下手角交換型中飛車
::飛車落ち
:*下手中飛車
::角落ち<ref name=shoshi/>
:*上手6四金戦法
::二枚落ち、角落ち
:*上手5四銀-6二飛型
::角落ち
:*[[象嵌#将棋|金象眼・銀象眼]]
::角落ち
:*上手三間飛車△3四歩型
::香落ち<ref name=shoshi/>
:*下手三間飛車(相振り飛車)
::香落ち
:*上手角交換型中飛車
::香落ち<ref name=shoshi/>
:*上手△1二飛型
::香落ち<ref name=shoshi/>
:*下手1八飛戦法
::香落ち
== 人気ランキング ==
=== 2019年 ===
2019年に刊行された『将棋世界Special 将棋戦法事典100+』(将棋世界編集部編、マイナビ出版)で、2019年時点での「人気戦法」のランキング(順位)が取りまとめられている。順位については以下の通り。
{{Div col}}
* 1位-[[ゴキゲン中飛車]]
* 2位-[[藤井システム]]
* 3位-[[居飛車穴熊]]
* 4位-[[石田流]]
* 5位-[[角換わり]]
* 6位-[[雁木囲い]]
* 7位-[[四間飛車]]クラシック型
* 8位-[[相掛かり]]
* 9位-[[三間飛車]]クラシック型
* 10位-[[横歩取り]]
* 11位-[[矢倉囲い]]
* 12位-[[Elmo囲い]]
* 13位-[[右玉]]
* 14位-[[中飛車左穴熊]]
* 15位-[[ミレニアム囲い]]
* 16位-[[相振り飛車]]
* 17位-[[右四間飛車]]
* 18位-[[角交換振り飛車]]
* 19位-[[立石流四間飛車]]
* 20位-[[先手中飛車]]
* 21位-[[角換わり]]新型
* 22位-[[急戦矢倉]]
* 23位-[[升田式石田流]]
* 24位-[[トマホーク (将棋)]]
* 25位-[[向かい飛車]]
* 26位-[[ひねり飛車]]
* 27位-[[角交換四間飛車|角道オープン四間飛車]]
* 28位-[[雁木戦法]]オールド型
* 29位-[[右四間飛車]]対矢倉型
* 30位-[[阪田流向かい飛車]]
* 31位-[[藤井システム]]三間飛車
* 32位-[[後手番一手損角換わり]]
* 33位-対ゴキゲン中飛車[[超速3七銀]]
* 34位-四手目△[[3三角戦法]]
* 35位-[[ダイレクト向かい飛車]]
* 36位-[[2手目△3二飛]]
* 37位-[[石田流|戸辺流4→3戦法]]
* 38位-[[左美濃]]対矢倉急戦型
* 39位-現代風6七金矢倉([[土居矢倉]])
* 40位-[[早繰り銀]]極限型
* 41位-[[角交換振り飛車|初手▲7八飛戦法]]
* 42位-[[袖飛車#2手目△7四歩戦法|2手目△7四歩]]
* 43位-対[[ゴキゲン中飛車]]超急戦型
* 44位-[[筋違い角]]
* 45位-[[ミレニアム囲い]]振り飛車型
* 46位-[[棒銀]]対振り飛車型
* 47位-[[4六銀左戦法]]
* 48位-[[4五歩早仕掛け]]
* 49位-[[四間飛車]][[穴熊]]
* 50位-[[三間飛車]]穴熊
* 51位-[[風車 (将棋)]]
* 52位-[[丸山ワクチン (将棋)]]
* 53位-[[右玉]]糸谷流型
* 54位-[[角交換振り飛車|菅井流角交換三間飛車]]
* 55位-[[陽動振り飛車]]
* 56位-[[左美濃]]角道クローズ型
* 57位-[[飯島流引き角]]戦法
* 58位-[[矢倉中飛車]]
* 59位-[[矢倉流中飛車]]
* 60位-[[嬉野流]]
* 61位-[[ツノ銀中飛車]]
* 62位-[[角頭歩戦法]]
* 63位-[[玉頭位取り]]
* 64位-[[高田流左玉]]
* 65位-[[塚田スペシャル]]
* 66位-[[5筋位取り]]
* 67位-▲6筋(△4筋)位取り対振り飛車型
* 68位-[[山田定跡]]
* 69位-[[鷺宮定跡]]
* 70位-[[忍者銀]]
* 71位-[[串カツ囲い]]
* 72位-[[無理矢理矢倉]]嘘矢倉型
* 73位-[[原始中飛車]]
* 74位-[[原始棒銀]]
* 75位-[[早石田]]ムリヤリ型
* 76位-[[4六金戦法]]
* 77位-[[5五龍中飛車]]
* 78位-[[メリケン向かい飛車]]
* 79位-[[室岡システム]]
* 80位-[[棒金]]
* 81位-[[鬼殺し (将棋)]]
* 82位-[[英ちゃん流中飛車]]
* 83位-[[4六銀右戦法]]
* 84位-[[棒銀]]急戦型
* 85位-[[都成流]]△3一金
* 86位-[[英春流]]
* 87位-[[無理矢理矢倉]]
* 88位-[[角換わり]]新ポンポン桂型
* 89位-[[袖飛車]]森安流穴熊型
* 90位-[[ポンポン桂]]
* 91位-[[左美濃#Uターン飛車|Uターン飛車]]
* 92位-力戦誘導[[金沢流]]▲6六角
* 93位-対[[ひねり飛車]]タコ金
* 94位-[[阪田流2手目△9四歩]]
* 95位-[[新米長玉]]△6二玉型
* 96位-[[縦歩取り|桐山流タテ歩棒銀]]
* 97位-[[一間飛車]]
* 98位-[[2手目△6二銀]]
* 99位-[[4四歩パックマン]]
* 100位-[[5筋位取り中飛車]]飛騨の合掌造り型
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book ja-jp | author = [[塚田泰明]](監修)、[[横田稔]](著) | year = 1990 | title = 序盤戦!!囲いと攻めの形 | publisher = 高橋書店 | isbn = 978-4471132996}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[原田泰夫]] (監修)、荒木一郎 (プロデュース) | editor = [[森内俊之]]ら | year = 2004 | title = 日本将棋用語事典 | publisher = [[東京堂出版]] | isbn = 978-4490106602}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[上野裕和]] | year = 2018 | title = 将棋・序盤完全ガイド 相居飛車編(増補改訂版) | publisher = [[マイナビ出版]] | isbn = 978-4839966263}}
* {{Cite book ja-jp | author = 上野裕和 | year = 2018 | title = 将棋・序盤完全ガイド 振り飛車編(増補改訂版) | publisher = マイナビ出版 | isbn = 978-4839964986}}
* {{Cite book ja-jp | author = 上野裕和 | year = 2017 | title = 将棋・序盤完全ガイド 相振り飛車編 | publisher = マイナビ出版 | isbn = 978-4839962753}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[片上大輔]] | year = 2019 | title = 平成新手白書 居飛車編 | publisher = マイナビ出版 | isbn = 978-4839968533}}
* {{Cite book ja-jp | author = 片上大輔 | year = 2019 | title = 令和新手白書 振り飛車編 | publisher = マイナビ出版 | isbn = 978-4839971373}}
* {{Cite book ja-jp | author = 片上大輔 | year = 2021 | title = 平成新手白書 角交換振り飛車・相振り飛車編 | publisher = マイナビ出版 | isbn = 978-4839968533}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[花村元司]] | year = 2001 | title = 復刻版 よくわかる駒落ち | publisher = 東京書店 | isbn = 978-4885744303}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[所司和晴]] | year = 2010 | title = 【決定版】駒落ち定跡 | publisher = 毎日コミュニケーションズ | isbn = 978-4839937089}}
* {{Cite book ja-jp | author = [[先崎学]] | year = 2012 | title = 駒落ちのはなし | publisher = マイナビ | isbn = 978-4839944766}}
== 関連項目 ==
{{Wikibooks}}
*[[棋風]]
*[[奇襲戦法]]
{{将棋の戦法}}
{{将棋}}
{{DEFAULTSORT:しようきのせんほういちらん}}
[[Category:将棋の戦法|*]]
[[Category:将棋関連の一覧]] | 2003-04-10T08:18:24Z | 2023-09-25T10:06:16Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E6%A3%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E6%B3%95 |
6,452 | 宇宙開発事業団 | 宇宙開発事業団(うちゅうかいはつじぎょうだん) は、日本の宇宙開発を担う目的で日本政府が設立した特殊法人である。英文名称:National Space Development Agency of Japan, NASDA(ナスダ)。根拠法は「宇宙開発事業団法(廃止)」で、設立日は1969年(昭和44年)10月1日である。旧科学技術庁所属。1964年(昭和39年)4月に科学技術庁内に設置された宇宙開発推進本部が発展して発足した。2003年(平成15年)10月1日、航空宇宙技術研究所(NAL)・宇宙科学研究所(ISAS)と統合し、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)に改組された。
宇宙開発事業団法第1条「平和の目的に限り、人工衛星及び人工衛星打上げ用ロケットの開発、打上げ及び追跡を総合的、計画的かつ効率的に行ない、宇宙の開発及び利用の促進に寄与することを目的として」設立された。
日本の宇宙開発は東京大学生産技術研究所の糸川研究班(後の文部省宇宙科学研究所)によって始められ、固体燃料のカッパロケットによる大気観測で大きな成果を収めていた。一方で、科学目的以外の人工衛星及びロケットの開発を担うことを目的とし、1962年(昭和37年)4月に科学技術庁内に研究調整局航空宇宙課を、1963年(昭和38年)4月に航空宇宙課内に宇宙開発室を、1964年(昭和39年)7月にこれを発展的解消して科学技術庁宇宙開発推進本部を設置した。発足時の人数は23名で、五代富文などごく一部の例外を除けばロケット開発を専門とする技術者はいなかった。
科学技術庁は、科学観測重視の東大と異なり商用の実用人工衛星の打ち上げを目指していたため、固体ロケットよりも制御がしやすく力もある液体燃料ロケットの開発が不可欠であったが、当時の日本にとっては液体燃料ロケットは未知の領域であった。そこでまず初めに、2段目に新開発する液体ロケットエンジン、1段目に東大提供の固体ロケットを使用する、実験用の2段式ロケット「LS-Aロケット」を開発することになった。2段目の開発は予定通り完了したが、1段目の調達は東大との交渉に手間取ったために遅れ、1963年(昭和38年)の最初の打ち上げ実験は2段目のみのLS-Aサステーナロケットになった。そしてこの打ち上げは失敗した。その後1段目を装備したLS-Aロケットは1964年(昭和39年)と1965年(昭和40年)に合計3基が打ち上げられ、全てが成功した。
その一方、東大は事業を拡大し組織を東京大学宇宙航空研究所(後の文部省宇宙科学研究所)に再編、ロケットも大型化したため鹿児島県内之浦町にロケット発射場を構え、1966年(昭和41年)から人工衛星打ち上げ実験を開始した。
宇宙開発推進本部もロケット実験場の選定に取り掛かり、赤道に近い事を重視して1967年(昭和42年)に種子島を選定した。ところが、地元の漁協がロケット打ち上げが漁業に影響を与えるのではと難色を示し、漁協との交渉に1年以上を費やすこととなった。また、独自に人工衛星を打ち上げようとする東大に対しても自粛を求め、この間に東大は科学衛星だけを打ち上げる事、また将来にわたって大型ロケットの製造をしないとする協定を結び、両者が並立することとなった。翌1968年(昭和43年)に漁協との交渉がまとまり、ロケット打ち上げは漁業に影響しない月に行うとする協定が結ばれ、ロケット打ち上げ施設の建設が開始された。これが種子島宇宙センターである。
液体ロケットと固体ロケットを組み合わせたLS-Aロケットの打ち上げ実験はLS-Cロケットに引き継がれ、1968年(昭和43年)に種子島宇宙センター竹崎射場から1号機が打ち上げられ、1974年(昭和49年)までに合計8基が打ち上げられた。
1969年(昭和44年)10月1日、科学技術庁宇宙開発推進本部が発展的解消して、科学技術庁の下部機関として新たに宇宙開発事業団が発足した。
東大は1969年(昭和44年)にロケット打ち上げを再開し、一度の失敗を経て1970年(昭和45年)2月に日本初の人工衛星おおすみの打ち上げに成功した。一方、事業団の実用液体ロケットエンジンの開発は遅れ、予定までに人工衛星を打ち上げられない可能性も出てきた。そこで事業団は、東大のロケット輸出以来、日本のロケット開発に介入する機会をうかがっていて1967年(昭和42年)以降の対日ロケット技術供与の可能性を示唆していた米国と協定を結び、平和利用と輸出禁止を条件に技術供与を受けることになった。技術格差から日本側に不利な条件での協定となったが、おおすみの成功によって自力での衛星打ち上げが可能であることを証明したため、米国もかなり譲歩することとなった。
この協定によって事業団は独自ロケット開発計画であるQ計画・N計画を諦め、米国の技術供与とライセンス生産によって技術を習得する新N計画を進めることになった。そして新N計画の第2段用エンジンに使用されるLE-3の実証実験を兼ねたETVロケットの打ち上げ成功の後に、1975年(昭和50年)9月に日本初の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケットのN-Iロケットの打ち上げに成功した。後継機のN-IIロケットまでの17基は米国の技術を中心に開発され、あやめとあやめ2号以外の全ての衛星の軌道投入に成功した(あやめはロケット側、あやめ2号は衛星側の失敗)。続くH-Iロケットでは第二段に独自開発の国産エンジンLE-5を採用し国産化率を高めた。
事業団はH-Iまでに着実に米国の技術を吸収し、初の純国産液体燃料ロケットのH-IIロケットの開発に着手した。そして苦労しながらも日本初の第一段用液体燃料エンジンとなるLE-7の開発を完了し、1994年(平成6年)2月に試験一号機の打ち上げに成功した。しかし、打ち上げ単価が一回当たり190億円と高額であったため、価格を抑えた新ロケットの開発に入った。なおH-IIは七機打ち上げられたが2度の連続打ち上げ失敗のために運用中止となった。
その後、2001年8月にH-IIの改良型であるH-IIAロケットの打ち上げに成功し、低コスト化と信頼性を両立したロケットを完成させた。宇宙開発事業団時代のH-IIAロケット打ち上げは5機で、全て成功させている。
2度にわたるH-IIの失敗により、事業団は組織の改革に追われることになった。くしくも政府による行政改革の時期と重なり、行政スリム化のために宇宙科学研究所、航空宇宙技術研究所との統合が計画され、2003年10月1日に独立行政法人宇宙航空研究開発機構となった。
NASDAの事業は宇宙開発委員会が審議して定めた方針に従って実行される(外部リンクに示した計画参照)。
名称に花の名前が多いのは初代理事長である島秀雄の園芸趣味からきている。 | [
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"title": "沿革"
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"text": "この協定によって事業団は独自ロケット開発計画であるQ計画・N計画を諦め、米国の技術供与とライセンス生産によって技術を習得する新N計画を進めることになった。そして新N計画の第2段用エンジンに使用されるLE-3の実証実験を兼ねたETVロケットの打ち上げ成功の後に、1975年(昭和50年)9月に日本初の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケットのN-Iロケットの打ち上げに成功した。後継機のN-IIロケットまでの17基は米国の技術を中心に開発され、あやめとあやめ2号以外の全ての衛星の軌道投入に成功した(あやめはロケット側、あやめ2号は衛星側の失敗)。続くH-Iロケットでは第二段に独自開発の国産エンジンLE-5を採用し国産化率を高めた。",
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"text": "事業団はH-Iまでに着実に米国の技術を吸収し、初の純国産液体燃料ロケットのH-IIロケットの開発に着手した。そして苦労しながらも日本初の第一段用液体燃料エンジンとなるLE-7の開発を完了し、1994年(平成6年)2月に試験一号機の打ち上げに成功した。しかし、打ち上げ単価が一回当たり190億円と高額であったため、価格を抑えた新ロケットの開発に入った。なおH-IIは七機打ち上げられたが2度の連続打ち上げ失敗のために運用中止となった。",
"title": "沿革"
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"text": "その後、2001年8月にH-IIの改良型であるH-IIAロケットの打ち上げに成功し、低コスト化と信頼性を両立したロケットを完成させた。宇宙開発事業団時代のH-IIAロケット打ち上げは5機で、全て成功させている。",
"title": "沿革"
},
{
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"text": "2度にわたるH-IIの失敗により、事業団は組織の改革に追われることになった。くしくも政府による行政改革の時期と重なり、行政スリム化のために宇宙科学研究所、航空宇宙技術研究所との統合が計画され、2003年10月1日に独立行政法人宇宙航空研究開発機構となった。",
"title": "沿革"
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"text": "NASDAの事業は宇宙開発委員会が審議して定めた方針に従って実行される(外部リンクに示した計画参照)。",
"title": "事業計画"
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"text": "名称に花の名前が多いのは初代理事長である島秀雄の園芸趣味からきている。",
"title": "事業"
}
] | 宇宙開発事業団(うちゅうかいはつじぎょうだん)
は、日本の宇宙開発を担う目的で日本政府が設立した特殊法人である。英文名称:National Space Development Agency of Japan, NASDA(ナスダ)。根拠法は「宇宙開発事業団法(廃止)」で、設立日は1969年(昭和44年)10月1日である。旧科学技術庁所属。1964年(昭和39年)4月に科学技術庁内に設置された宇宙開発推進本部が発展して発足した。2003年(平成15年)10月1日、航空宇宙技術研究所(NAL)・宇宙科学研究所(ISAS)と統合し、国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)に改組された。 | {{出典の明記|date=2010年9月}}
{{Infobox 研究所
|名称 = 宇宙開発事業団
|英語名称 = National Space Development Agency of Japan
|画像 = File: Nasda logo.svg
|画像2 = World-Trade-Center-Building-Tokyo-01.jpg
|組織形態 = [[特殊法人]]
|略称 = NASDA(ナスダ)
|所在国 = {{JPN}}
|所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[浜松町]]2-4-1<br>[[世界貿易センタービルディング|世界貿易センタービル]]<br>26~29階<br>宇宙開発事業団本社<ref>
{{Cite web|和書
| first =
| author =
| authorlink =
| url = http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/nasda.html
| title = 宇宙情報センター / SPACE INFORMATION CENTER :宇宙開発事業団
| date =
| website = 宇宙情報センター
| publisher = [[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)
| format =
| doi =
| accessdate = 2020-04-12}}</ref><ref>
{{Cite press release
| 和書
| title = 宇宙開発事業団改革推進委員会の設置及び第1回会合の開催について
| publisher = 宇宙開発事業団(NASDA)
| date = 2000年7月12日
| url =https://www.jaxa.jp/press/nasda/2000/kaikaku_000712_j.html
| accessdate = 2020年4月14日}}</ref>
<ref>{{Cite web|和書
| first =
| author =
| authorlink =
| url = http://nomuralaw.com/s/subfile/Uchu.html
| title = 宇宙開発事業団
| date =
| website = 赤坂野村総合法律事務所
| publisher =
| format =
| doi =
| accessdate = 2020-04-12}}</ref>
|前身 = [[科学技術庁]]宇宙開発推進本部
|所管 = [[科学技術庁]]→[[文部科学省]]
|設立年月日 = [[1969年]][[10月1日]]
|廃止年月日 = [[2003年]][[10月1日]]
|後身 = [[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)
}}
'''宇宙開発事業団'''(うちゅうかいはつじぎょうだん)
は、[[日本の宇宙開発]]を担う目的で[[日本]][[政府]]が設立した[[特殊法人]]である。英文名称:'''Na'''tional '''S'''pace '''D'''evelopment '''A'''gency of Japan, '''NASDA'''(ナスダ)。根拠法は「[[宇宙開発事業団法]](廃止)」で、設立日は[[1969年]]([[昭和]]44年)[[10月1日]]である。旧[[科学技術庁]]所属。[[1964年]](昭和39年)[[4月]]に科学技術庁内に設置された宇宙開発推進本部が発展して発足した。[[2003年]]([[平成]]15年)[[10月1日]]、[[航空宇宙技術研究所]](NAL)・[[宇宙科学研究所]](ISAS)と統合し、[[国立研究開発法人]]'''[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)'''に改組された。
== 設立の目的 ==
宇宙開発事業団法第1条「平和の目的に限り、[[人工衛星]]及び人工衛星打上げ用[[ロケット]]の開発、打上げ及び追跡を総合的、計画的かつ効率的に行ない、[[宇宙開発|宇宙の開発]]及び利用の促進に寄与することを目的として」設立された。
== 歴代理事長 ==
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
!代
!期間
!氏名
!備考
|-
!初代
|1969年10月1日-1977年9月30日
|[[島秀雄]]
|
|-
!二代目
|1977年10月1日-1980年6月17日
|[[松浦陽恵]]
|
|-
!三代目
|1980年6月18日-1984年6月17日
|[[山内正男]]
|
|-
!四代目
|1984年6月18日-1989年10月31日
|[[大澤弘之]]
|
|-
!五代目
|1989年11月1日-1995年3月31日
|[[山野正登]]
|
|-
!六代目
|1995年4月1日-1996年9月30日
|[[松井隆]]
|
|-
!七代目
|1996年10月1日-2000年5月19日
|[[内田勇夫]]
|
|-
! -
|2000年5月20日-2000年7月9日
|[[五代富文]]
|副理事長、理事長職務代行
|-
!八代目
|2000年7月10日-2003年9月30日
|[[山之内秀一郎]]
|
|-
|}
== 沿革 ==
=== 前身 ===
日本の宇宙開発は[[東京大学]]生産技術研究所の糸川研究班(後の文部省[[宇宙科学研究所]])によって始められ、固体燃料の[[カッパロケット]]による[[地球の大気|大気]][[観測]]で大きな成果を収めていた。<!-- カッパロケットの[[海外]]への[[輸出]]は輸出先国での[[軍事]]転用に繋がる可能性があることから[[アメリカ合衆国|米国]]に咎められており{{要出典|date=2010年6月}}、将来的に[[商行為|商用]]の実用[[人工衛星]]を打ち上げるにしても大学の一機関では不可能な事であった。 -->一方で、科学目的以外の人工衛星及びロケットの開発を担うことを目的とし、[[1962年]](昭和37年)4月に科学技術庁内に研究調整局航空宇宙課を、[[1963年]](昭和38年)4月に航空宇宙課内に宇宙開発室を、[[1964年]](昭和39年)7月にこれを発展的解消して'''科学技術庁宇宙開発推進本部'''を設置した。発足時の人数は23名で、[[五代富文]]などごく一部の例外を除けばロケット開発を専門とする技術者はいなかった。<ref>{{Citation|和書
| author = 佐藤靖
| title = NASAを築いた人と技術
| publisher = [[東京大学出版会]]
| year = 2007
| page = 213
| isbn = 978-4-13-060305-8
}}</ref>
科学技術庁は、[[科学]]観測重視の東大と異なり商用の実用人工衛星の打ち上げを目指していたため、[[固体]]ロケットよりも制御がしやすく力もある[[液体]][[燃料]]ロケットの開発が不可欠であったが、当時の日本にとっては液体燃料ロケットは未知の領域であった。そこでまず初めに、2段目に新開発する液体ロケット[[エンジン]]、1段目に東大提供の固体ロケットを使用する、実験用の2段式ロケット「[[LS-Aロケット]]」を開発することになった。2段目の開発は予定通り完了したが、1段目の調達は東大との交渉に手間取ったために遅れ、1963年(昭和38年)の最初の打ち上げ実験は2段目のみのLS-Aサステーナロケットになった。そしてこの打ち上げは失敗した。その後1段目を装備したLS-Aロケットは1964年(昭和39年)と[[1965年]](昭和40年)に合計3基が打ち上げられ、全てが成功した。
その一方、東大は事業を拡大し組織を東京大学宇宙航空研究所(後の文部省宇宙科学研究所)に再編、ロケットも大型化したため[[鹿児島県]][[内之浦町]]にロケット発射場を構え、[[1966年]](昭和41年)から人工衛星打ち上げ実験を開始した。
=== 事業団の発足 ===
宇宙開発推進本部もロケット実験場の選定に取り掛かり、[[赤道]]に近い事を重視して[[1967年]](昭和42年)に[[種子島]]を選定した。ところが、地元の[[漁業協同組合|漁協]]がロケット打ち上げが[[漁業]]に影響を与えるのではと難色を示し、漁協との交渉に1年以上を費やすこととなった。また、独自に人工衛星を打ち上げようとする東大に対しても自粛を求め、この間に東大は科学衛星だけを打ち上げる事、また将来にわたって大型ロケットの製造をしないとする協定を結び、両者が並立することとなった。翌[[1968年]](昭和43年)に漁協との交渉がまとまり、ロケット打ち上げは漁業に影響しない月に行うとする協定が結ばれ、ロケット打ち上げ施設の建設が開始された。これが[[種子島宇宙センター]]である。
液体ロケットと固体ロケットを組み合わせたLS-Aロケットの打ち上げ実験は[[LS-Cロケット]]に引き継がれ、1968年(昭和43年)に種子島宇宙センター竹崎射場から1号機が打ち上げられ、[[1974年]](昭和49年)までに合計8基が打ち上げられた。
[[1969年]](昭和44年)[[10月1日]]、科学技術庁宇宙開発推進本部が発展的解消して、科学技術庁の下部機関として新たに'''宇宙開発事業団'''が発足した。
=== 米国の技術供与 ===
東大は1969年(昭和44年)にロケット打ち上げを再開し、一度の失敗を経て[[1970年]](昭和45年)2月に日本初の人工衛星[[おおすみ]]の打ち上げに成功した。一方、事業団の実用液体ロケットエンジンの開発は遅れ、予定までに人工衛星を打ち上げられない可能性も出てきた。そこで事業団は、東大のロケット輸出以来、日本のロケット開発に介入する機会をうかがっていて1967年(昭和42年)以降の対日ロケット[[技術]]供与の可能性を示唆していた米国と協定を結び、平和利用と輸出禁止を条件に技術供与を受けることになった。技術格差から日本側に不利な条件での協定となったが、おおすみの成功によって自力での衛星打ち上げが可能であることを証明したため、米国もかなり譲歩することとなった。
この協定によって事業団は独自ロケット開発計画であるQ計画・N計画を諦め、米国の技術供与と[[ライセンス生産]]によって技術を習得する新N計画を進めることになった。そして新N計画の第2段用エンジンに使用される[[LE-3]]の実証実験を兼ねた[[ETVロケット]]の打ち上げ成功の後に、[[1975年]](昭和50年)9月に日本初の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケットの[[N-Iロケット]]の打ち上げに成功した。後継機の[[N-IIロケット]]までの17基は米国の技術を中心に開発され、[[あやめ (人工衛星)|あやめ]]と[[あやめ2号]]以外の全ての衛星の軌道投入に成功した(あやめはロケット側、あやめ2号は衛星側の失敗)。続く[[H-Iロケット]]では第二段に独自開発の国産エンジン[[LE-5]]を採用し[[国産化率]]を高めた。
=== 国産技術向上 ===
事業団はH-Iまでに着実に米国の技術を吸収し、初の純国産液体燃料ロケットの[[H-IIロケット]]の開発に着手した。そして苦労しながらも日本初の第一段用液体燃料エンジンとなる[[LE-7]]の開発を完了し、[[1994年]](平成6年)2月に試験一号機の打ち上げに成功した。しかし、打ち上げ単価が一回当たり190億円と高額であったため、価格を抑えた新ロケットの開発に入った。なおH-IIは七機打ち上げられたが2度の連続打ち上げ失敗のために運用中止となった。
その後、[[2001年]][[8月]]にH-IIの改良型である[[H-IIAロケット]]の打ち上げに成功し、低[[コスト]]化と信頼性を両立したロケットを完成させた。宇宙開発事業団時代のH-IIAロケット打ち上げは5機で、全て成功させている。
=== 宇宙三機関統合 ===
2度にわたるH-IIの失敗により、事業団は組織の改革に追われることになった。くしくも[[政府]]による[[行政改革]]の時期と重なり、[[行政]]スリム化のために[[宇宙科学研究所]]、[[航空宇宙技術研究所]]との統合が計画され、[[2003年]][[10月1日]]に[[独立行政法人]][[宇宙航空研究開発機構]]となった。
=== 年表 ===
* [[1964年]](昭和39年)- [[科学技術庁]]内に「宇宙開発推進本部」設置。
* [[1969年]](昭和44年)- 発足。初代理事長は[[新幹線]]開発で知られる元国鉄技術者の[[島秀雄]]。
* [[1972年]](昭和47年)- 筑波宇宙センター発足。
* [[1975年]](昭和50年)- [[アメリカ合衆国|米国]]の技術供与を受けた[[N-Iロケット]]1号機運用開始( - [[1982年]]。合計7機)。[[技術試験衛星]](ETS-I)「きく」打ち上げ。
* [[1977年]](昭和52年)- N-Iロケット3号機により日本初の[[静止衛星]]となる技術試験衛星 (ETS-II) 「きく2号」打ち上げ。
* [[1981年]](昭和56年)- [[N-IIロケット]]運用開始( - [[1987年]]、合計8機)。
* [[1986年]](昭和61年)- [[H-Iロケット]]運用開始( - [[1992年]]、合計9機)。
* [[1990年]](平成2年)- 衛星の国際競争入札に関する協定を締結。
* [[1994年]](平成6年)- 初の純国産[[H-IIロケット]]運用開始( - [[1999年]]、合計7機。うち5号機と8号機の2回失敗。7号機はキャンセル)。
* [[2001年]](平成13年)- [[H-IIAロケット]]運用開始([[2003年]]3月までに合計4機打ち上げ)。
* 2001年(平成13年)8月 - 宇宙航空3機関統合正式決定。
* [[2002年]](平成14年)12月 - [[独立行政法人]]宇宙航空研究開発機構法が成立。
* 2003年(平成15年)10月 - 独立行政法人[[宇宙航空研究開発機構]]に改組。初代理事長は、当時NASDA理事長であった[[山之内秀一郎]]で、新組織の初代理事長がNASDAと同じ[[鉄道]]技術者出身ということになった。
== 事業計画 ==
NASDAの事業は[[宇宙開発委員会]]が審議して定めた方針に従って実行される(外部リンクに示した計画参照)。
* 人工衛星および人工衛星打上げ用ロケットの開発
* 人工衛星および人工衛星打上げ用ロケットの打上げおよび追跡
* これらに必要な方法、施設および設備の開発
: 注)人工衛星には、宇宙実験および[[国際宇宙ステーション]]を含む。
== 事業 ==
;[[ロケット]]
{{See also|Category:日本のロケット}}
* [[N-Iロケット]] - 運用終了
* [[N-IIロケット]] - 運用終了
* [[H-Iロケット]] - 運用終了
* [[H-IIロケット]] - 運用終了
* [[H-IIAロケット]] - JAXAと三菱重工により運用中
* [[H-IIBロケット]] - 運用終了
* [[J-Iロケット]] - 運用終了
* [[ETVロケット]] - 運用終了
* [[TR-Iロケット]] - 運用終了
* [[TR-IAロケット]] - 運用終了
* [[GXロケット]] - JAXA改組後に計画中止(民間主導のロケット開発の一部分担)
;[[人工衛星]]
{{See also|日本の宇宙機の一覧}}
名称に[[花]]の名前が多いのは初代理事長である島秀雄の[[園芸]][[趣味]]からきている。
* 技術試験衛星「[[きく (人工衛星)|きく]]」 (ETS) シリーズ
* 通信放送技術衛星「[[かけはし]]」 (COMETS)
* データ中継技術衛星「[[こだま (人工衛星)|こだま]]」 (DRTS)
* 民生部品・コンポーネント実証衛星「つばさ」 (MDS-1)
* 実験用通信衛星「[[あやめ (人工衛星)|あやめ]]」、「さくら」シリーズ
* [[放送衛星]]「ゆり」 (BS) シリーズ
* [[気象衛星]]「[[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]」 (GMS) シリーズ
* 運輸多目的衛星「ひまわり」 ([[MTSAT]]) シリーズ
* 地球観測技術衛星「[[みどり (人工衛星)|みどり]]」 (ADEOS) シリーズ
* 地球資源衛星「[[ふよう1号|ふよう]]」(JERS)シリーズ
* 海洋観測衛星「[[もも1号|もも]]」(MOS)シリーズ
* [[熱帯降雨観測衛星]](TRMM)
* [[情報収集衛星]](事実上の偵察衛星)
* 電離層観測衛星「[[うめ (人工衛星)|うめ]]」シリーズ
* [[マイクロラブサット]]
* 測地実験衛星「[[あじさい (衛星)|あじさい]]」
* [[SFU (人工衛星)|宇宙実験・観測フリーフライヤー]]
;[[国際宇宙ステーション]]
{{See also|日本人の宇宙飛行}}
* [[きぼう]](JEM)
* [[宇宙ステーション補給機]]HTV(H-II Transfer Vehicle)
;宇宙往還機
* [[HOPE (宇宙往還機)|HOPE]](H-II Orbiting Plane)
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.mext.go.jp/index.htm 文部科学省]
* [http://www.sjac.or.jp/data/walking_of_50_years/ 日本の航空宇宙工業 50年の歩み (社団法人 日本航空宇宙工業会)]
* [https://www.jaxa.jp/about/history/nasda_j.html JAXA | 宇宙開発事業団(NASDA)沿革]
* {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/nasda.html |title=宇宙情報センター / SPACE INFORMATION CENTER :宇宙開発事業団 |date=20070314011232}}
* {{Wayback|url=http://www.nasda.go.jp/index_j.html |title=NASDAホームページ |date=19991003201155}}
{{日本の宇宙探査機・人工衛星}}
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[[Category:かつて存在した日本の特殊法人]]
[[Category:文部科学省の歴史]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%96%8B%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E5%9B%A3 |
6,457 | ターミナス | ターミナス(Terminus)は、SF小説「銀河帝国の興亡(ファウンデーション)」3部作+続編(アイザック・アシモフ著)に登場する架空の惑星名であり、その首都の都市名でもある。
銀河系の辺境にあり、広大な海に約一万の島々が点在する。もっとも大きな島がかろうじて大陸サイズであり、そこに首都ターミナスが置かれている。農業に適した惑星だが、金属資源がほとんどないので重工業には不向きである。
銀河帝国の崩壊を予告した心理歴史学者ハリ・セルダンの提案により、1000年後の帝国の復活を期して知識を集積するという目的で、銀河百科事典の編纂を目的とした組織「第1ファウンデーション」がこの星に置かれた。
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] | ターミナス(Terminus)は、SF小説「銀河帝国の興亡(ファウンデーション)」3部作+続編(アイザック・アシモフ著)に登場する架空の惑星名であり、その首都の都市名でもある。 銀河系の辺境にあり、広大な海に約一万の島々が点在する。もっとも大きな島がかろうじて大陸サイズであり、そこに首都ターミナスが置かれている。農業に適した惑星だが、金属資源がほとんどないので重工業には不向きである。 銀河帝国の崩壊を予告した心理歴史学者ハリ・セルダンの提案により、1000年後の帝国の復活を期して知識を集積するという目的で、銀河百科事典の編纂を目的とした組織「第1ファウンデーション」がこの星に置かれた。 | '''ターミナス'''('''''Terminus''''')は、[[サイエンス・フィクション|SF]]小説「銀河帝国の興亡([[ファウンデーションシリーズ|ファウンデーション]])」3部作+続編([[アイザック・アシモフ]]著)に登場する架空の[[惑星]]名であり、その首都の都市名でもある。
銀河系の辺境にあり、広大な海に約一万の島々が点在する。もっとも大きな島がかろうじて大陸サイズであり、そこに首都ターミナスが置かれている。農業に適した惑星だが、金属資源がほとんどないので重工業には不向きである<ref>アイザック・アシモフ『ファウンデーションの彼方へ [上]』 [[岡部宏之]]訳、ハヤカワ文庫、1996年、122頁</ref>。
[[銀河帝国]]の崩壊を予告した心理歴史学者[[ハリ・セルダン]]の提案により、1000年後の帝国の復活を期して知識を集積するという目的で、銀河百科事典の編纂を目的とした組織「第1[[ファウンデーション (小説)|ファウンデーション]]」がこの星に置かれた。
== 日本語表記 ==
日本語によるカタカナ表記は以下のように翻訳者によって異なる。
;テルミナス
:[[創元SF文庫]]の[[厚木淳]]による翻訳。[[サイドランチ]]から発売された漫画版。
:語源となった[[ローマ神話]]の神[[テルミヌス]]のラテン語読みと英語読みとの折衷からなっている。
;ターミナス
:[[ハヤカワ文庫]]の[[岡部宏之]]による翻訳。[[ファウンデーション (テレビドラマ)|デレビドラマ版]]。
:英語の読みを元にしている。
;テルミヌス
:[[野田昌宏]]が翻案した児童向け抄訳本『滅びゆく銀河帝国』。[[鍛治靖子]]による[[創元SF文庫]]新訳版。
== 参考文献 ==
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{{アイザック・アシモフの作品}}
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[[Category:架空の天体]]
[[Category:ファウンデーション]]
[[cs:Seznam planet série Nadace#Terminus]]
[[sv:Stiftelseserien#Platser]] | null | 2023-02-12T20:43:53Z | false | false | false | [
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"Template:アイザック・アシモフの作品"
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6,458 | 外燃機関 | 外燃機関(、英: external combustion engine)は、機関内部にある気体を機関外部の熱源で加熱・冷却により膨張・収縮させることにより、熱エネルギーを運動エネルギーに変換する機関のこと。原動機のうち、燃焼ガスを直接作動流体として用いない熱機関を指す。対して、作動流体として用いるものは内燃機関と呼ばれる。
代表的なものとして、蒸気機関・蒸気タービン・スターリングエンジンがある。
外燃機関において、熱エネルギーから運動エネルギーに変換する過程で作用するものを動作気体、動作ガス、作動流体という。例えば蒸気タービンでは水を沸かしてその蒸気でタービンを回して機械的エネルギー(動力)を得るから、蒸気が蒸気機関における動作気体である。
内燃機関と比較した場合、熱源が外部にあるため燃料の形態(気体・液体・固体)による選択肢が広く、最適な条件で燃焼させられるため、大気汚染物質の排出を抑えやすい。また、化石燃料(石油・天然ガスなど)だけでなく原子力・地熱・太陽光など多種多様の熱源を利用できる(例えば蒸気機関車は石炭・重油といった化石燃料の他に薪やバガスも燃料にできる)。また、内燃機関に比べ作動音が比較的静かである。
産業革命を引き起こす原動力となった外燃機関であったが、やがて輸送機械を中心にガソリンエンジンなどの内燃機関に取って代わられた。外燃機関は小型化・軽量化が難しく、パワーウェイトレシオが小さい(重量がかさむ割に力が小さい)ため、輸送機械には向かないからである。ことレシプロ式の蒸気機関に限れば、蒸気機関車などにわずかに残るのみとなってしまった。
しかし、大型の蒸気機関については現代でも積極的に利用されている。たとえば火力発電所と原子力発電所は蒸気タービンで発電する汽力発電であり、高い熱効率を実現している。これらで用いられる蒸気タービンの熱効率は理論熱サイクルの限界に近い物がある。また外燃機関の一種であるスターリングエンジンはカルノーサイクルに最も近い動作が可能で、その熱効率の高さから一部の通常動力型潜水艦で非大気依存推進(AIP)に用いられている。
コンバインドサイクル発電は内燃機関の廃熱を外燃機関の熱源として利用することで熱効率を高める発電方法である。 | [
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] | 外燃機関(がいねんきかん、は、機関内部にある気体を機関外部の熱源で加熱・冷却により膨張・収縮させることにより、熱エネルギーを運動エネルギーに変換する機関のこと。原動機のうち、燃焼ガスを直接作動流体として用いない熱機関を指す。対して、作動流体として用いるものは内燃機関と呼ばれる。 代表的なものとして、蒸気機関・蒸気タービン・スターリングエンジンがある。 | {{出典の明記|date=2011年10月}}
[[Image:Newcomen atmospheric engine animation.gif|thumb|実用的な最初の外燃機関である[[蒸気機関#ニューコメンの蒸気機関|ニューコメンの蒸気機関]]。機関外部に熱源があり、作動流体は水(水蒸気)である。]]
{{読み仮名|'''外燃機関'''|がいねんきかん|{{lang-en-short|external combustion engine}}}}は、機関内部にある気体を機関外部の[[熱源]]で加熱・冷却により膨張・収縮させることにより、[[熱エネルギー]]を[[運動エネルギー]]に変換する[[機関 (機械)|機関]]のこと。[[原動機]]のうち、燃焼ガスを直接作動流体として用いない[[熱機関]]を指す。対して、作動流体として用いるものは[[内燃機関]]と呼ばれる。
代表的なものとして、[[蒸気機関]]・[[蒸気タービン]]・[[スターリングエンジン]]がある。
== 内燃機関との比較 ==
外燃機関において、熱エネルギーから運動エネルギーに変換する過程で作用するものを'''動作気体'''、'''動作ガス'''、'''作動流体'''という。例えば[[蒸気タービン]]では[[水]]を沸かしてその[[蒸気]]で[[タービン]]を回して機械的エネルギー([[動力]])を得るから、蒸気が蒸気機関における動作気体である。
[[内燃機関]]と比較した場合、熱源が外部にあるため[[燃料]]の形態([[気体]]・[[液体]]・[[固体]])による選択肢が広く、最適な条件で[[燃焼]]させられるため、[[大気汚染]]物質の[[排気ガス|排出]]を抑えやすい。また、[[化石燃料]]([[石油]]・[[天然ガス]]など)だけでなく原子力・[[地熱]]・[[太陽光]]など多種多様の熱源を利用できる(例えば蒸気機関車は[[石炭]]・[[重油]]といった化石燃料の他に[[薪]]や[[バガス]]も燃料にできる)。また、内燃機関に比べ[[騒音|作動音]]が比較的静かである。
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== コンバインドサイクル発電 ==
コンバインドサイクル発電は内燃機関の廃熱を外燃機関の熱源として利用することで熱効率を高める発電方法である。
{{See also|コンバインドサイクル発電}}
== 関連項目 ==
* [[内燃機関]]
* [[機関 (機械)]]
* [[熱力学サイクル]]
* [[スターリングエンジン]]
* [[バキュームエンジン]]
* [[蒸気機関]]
* [[蒸気タービン]]
* [[作動流体]]
* [[カルノーサイクル]]
* [[ランキンサイクル]]
* [[再熱サイクル]]
* [[再生サイクル]]
* [[再熱・再生サイクル]]
* [[カリーナサイクル]]
* [[エネルギー資源]]
== 外部リンク ==
* [https://kotobank.jp/word/%E5%A4%96%E7%87%83%E6%A9%9F%E9%96%A2-458249 外燃機関] - [[コトバンク]]
* [https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090113/322757/ ピストン型の外燃機関を国産化、木質バイオマスでコージェネ] - 日経エコロジー 2008年12月号([[日経BP]])
{{Tech-stub}}
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[[Category:外燃機関| ]]
[[Category:レトロニム]] | null | 2023-04-03T16:39:57Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E7%87%83%E6%A9%9F%E9%96%A2 |
6,463 | 干支 | 干支(かんし、えと、中国語: 干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。古代中国にはじまる暦法上の用語。 暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。
中国を初めとしてアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、ものごとの順序づけを表すのにも用いられ、陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された。古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。
起源は商(殷)代の中国にさかのぼる。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。日本、朝鮮半島、ベトナム、西はロシア、東欧などに伝わった。日本に暦が伝わったのは古墳時代から飛鳥時代にかけてで、朝廷は百済より暦法や天文地理を学ぶために学問僧を招き、604年(推古12年)、日本最初の暦が作成されたと伝えられる。
日本においては「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ...の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重の誤りである。
10と12の最小公倍数は60なので干支は60回で一周するが、干支の組合せはすべての組合せの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。十干十二支は戦国時代に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物への連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。鼠、牛、虎...の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。
干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。甲骨文には、干名だけで日を表すこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことがうかがえる(これについては、「殷#殷王の一覧」も併せて参照のこと)。
春秋戦国時代に、自然や世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行思想が起こり、干支も五行と結びつけられるようになった。
古くは十干を「十日」、十二支を「十二辰」と呼んだ。『史記』律書では上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼んでいる。幹(干)と枝(支)に喩えて「干支」と呼ばれるようになったのは後漢代からである。
月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。
年を表すには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、漢代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。
1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦代にも見られるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。
方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。
ただし、全10巻中8巻が『四庫全書』にも収められている唐の時代に編纂された兵書である『神機制敵太白陰經』 (李筌編)のうち、巻四「戰具」や巻九「遁甲」において、夜半、鶏鳴といった十二時による時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。
干支によって日付を記述する干支紀日法は、すでに殷代の甲骨文に現れている。
西洋では1月を4分割して「週」(7日)というサイクルを編み出した(ただし7という数字は天体から)が、古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。
ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、第3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジアの歴史書にも広く使用されている。
殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1から始まる順序数(自然数)を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。
現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。
中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。
さらに、旧暦の月は29日また30日で規律があまりなく、閏(うるう、月と月の間にさらに一ヶ月を入れる)もあるため、干支を使えば閏があるかないかがわかる。
一例として、史料に「○月甲寅朔(1日は甲寅の日)」のように記録したら、「乙丑、...(なにかのできごと)」はその月の12日であることは自明。そして「七月甲子」と「八月甲子」の間に60日もあるなら七月と八月の間に「閏七月」があることがわかる。
古くから中国では冬至を含む月を「子月」と呼んだ。
子は十二支の1番目であり「新たな生命の種が宿る時」とされており、旧命が滅し、新種が宿るため、子は十二支で唯一、生滅同梱・新旧同梱の支となる。時刻に関しても子の時刻は23:00-0:59となっており、旧から新へと切り替わることを意味する。
周代では冬至の日を新年とし、子月を1月としていたが、漢代に王朝が変わると夏暦が再び使用されるようになり、正月が寅月立春に移動し、寅月を1月とする夏暦が2000年以上も続き、現在の中国でも夏暦が使用されている。
「一陽来復」(いちようらいふく)とは、冬至を意味し、新年の到来、悪い事が続いた後で幸運に向かう事、陰気が極まった後に冬至を境に陽気に向かう事を意味し、陰暦10月は坤卦、11月は復卦に当たり、陰ばかりの中に陽が戻ることになり、復卦とは冬至の事である。
冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。
天文や二十四節気の平気法では冬至を1年の起点としている。子の時刻は23:00-0:59となっており、二十四節気を24時間上に例えると、子月にある冬至は0:00の位置となり、次の年への移行を意味することになる。物理上は、1年間の干支は冬至で切り替わることになる。
月名には十干を加えることが唐代には行われており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は丙、乙や庚の年は戊、丙や辛の年は庚、丁や壬の年は壬、戊や癸の年は甲となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。
紀年法とは、年を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。
歳星紀年法は、天球における木星の位置に基づく紀年法である。
中国の戦国時代に始まった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星の十二次における位置で年を記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星が天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。
太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳の天球における位置に基づく紀年法である。
木星は天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。
中国の戦国時代には、この直径は寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。
さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅』「釈天」より)。
漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支で太歳の位置が記述されるようになった。
この太歳の位置を示す十干にも歳名が付けられた。
この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐...となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。
ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦の顓頊暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた。
前漢の太初元年(紀元前104年)の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子を丁丑に改めた。後に三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。
後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。西暦2023年の干支は癸卯である。
民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。
十二支と十二獣がいつから結びつけられたのかは不明であるが、秦代の墓から出土した睡虎地秦簡に含まれる『日書』には既に現在のように動物が配当されている様子が伺われる。
後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。ただし、日、月、時刻、方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の風習である年賀状などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国によって違いが見られる。
干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。上述のように、日本で最初の暦がつくられたのは604年(推古12年)のことと伝わる。
埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。
一方、和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿...」という銘文が鋳されており、この「癸未年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である。
陰陽五行説では、十干に対し、天運を表す木、火、土、金、水の五行にそれぞれ陰陽一対を配して表す。訓読みでは十干の名称は、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、五行のそれぞれに「(の)え」・「(の)と」がついたものである。「(の)え」は「(の)兄姉」を意味する。「(の)と」は「(の)おと」に由来し、「(の)弟妹」を意味する。「えと」の呼称もこれに由来している。
十二支にも五行が配される。四季に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目を表す。土用の丑の日は夏の最終月(土用)の丑の日という意味である。各季節に十二支を配すと、
となる。
陰陽五行説が起こったのは、中国の戦国時代であり、騶衍の五行思想に陰陽思想が結びついたものである。これが干支と結びついて干支五行説として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになった。
五行の組合せによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。
他に、相侮、相乗がある。
干支は、時刻や方位、角度を表すのにも用いられる。
時刻については、現代の23時から翌1時までを子の刻とし、以下、丑、寅、...と続いて、11時から13時までを午の刻とした。現在、夜0時を「子夜」、昼12時を「正午」、正午より前を「午前」、正午より後を「午後」と称するのは、これに由来する。怪談などで用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは今日でいう午前2時半ごろのことである。
なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇12年(604年、甲子の年)の正月のことであったとされる。平安時代の延喜年間に編纂が始まり延長5年(927年)に完成した「延喜式」でも、宮中の諸門の開閉や日の出、日の入りの時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。
十干は、五行説によって説明されるようになると五行が表す方位である五方と結び付けられた。さらに、後には十二支や、易における八卦を交えて細かい二十四山が用いられるようになった。
十二支では、東を卯、西を酉、南を午、北を子の方位としている。東西を結ぶ線(緯線とは厳密には異なる)を「卯酉線(ぼうゆうせん)」、南北を結ぶ線(経線に相当)を「子午線」、経度0度のロンドンのグリニッジ天文台を通る経線を「本初子午線」と呼ぶのは、これに由来する。
四隅については、北東・南東・南西・北西がそれぞれ「うしとら」、「たつみ」、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「艮(ごん)」、「巽(そん)」、「坤(こん)」、「乾(けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、六壬神課で使用する式盤の地盤の形状に酷似している。
なお、二十四山(下表参考)では、十干のうちの戊・己は用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。
十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二律(音律)、十二辰(支)、二十四節気、五行、方位などが配当され、極めて複雑な理論が編み出された。
なお、歳徳神の在する方向とされる恵方(えほう)は、その年の干名によって定められている。
干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。中には、申(さる)の日は「去る」と通じるので結婚式を行わないなどというものもあった。
数え年の61歳は、生まれた年(数え年では本来的には生誕直後から1歳となる)の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾やちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。2周(120年)した場合は大還暦という。
中国では「花甲」、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。
中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。
辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では慶応に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。
また、『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年に充てている。これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇9年(601年)がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。
甲子革命については、中国でも、後漢末に太平道の教祖張角は光和3年(180年)に「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩伝)」、蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)とのスローガンを発しており、干支に基づく易姓革命を意識して光和7年(184年)という甲子の年に黄巾の乱を起こした史実がある。
近代以前の日本では、庚申の日に広く庚申講が行われたが、これは道教の伝説に基づいている。
中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。日本には庚申の晩に生まれた子、あるいは庚申の日の交わりで孕んだ子は盗人になるという言い伝えがあり、庚申の日に生まれた赤子には名に「金」の字を入れれば「ひと様の金を盗らない」という意味で厄除けになるとされた。夏目漱石の本名である「金之助」は、この俗信にちなむ。
日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。
陰陽五行説によれば、丙も午もともに剛強なる陽であって火の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。
それが日本では、八百屋お七が丙午の年(1666年)生まれたという風説があったところから、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した。これは男性中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかった。この迷信は戦後になっても残り、1966年の出生数は、前年比で45万人減少した136万人だった。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりおよそ57万人増え、193万人となった。なお、同様に火の重なる丁巳(ひのとみ)は八専の一つである。
五黄の寅参照。
干支は、二十四節気や雑節と結びついて、各地でさまざまな行事が行われている。
中国の漢代には、正月最初の子の日には皇帝が鋤で耕し、皇后が箒で蚕床をはらって、祖先神や蚕神をまつる行事があったといわれている。
この行事は、古代日本にも伝播しており、正倉院には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『小右記』にも記された「子の日のお遊び」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。
それ以外で著名なものとしては、次のものがある。
干支相生の日とされた天赦日は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春(立春から立夏前まで)は戊寅、夏(立夏から立秋前まで)は甲午、秋(立秋から立冬前まで)は戊申、冬(立冬から立春前まで)は甲子の日である。
選日のひとつ。1月・4月・7月・10月の亥の日、2月・5月・8月・11月の寅の日、3月・6月・9月・12月の午の日を三隣亡という。棟上げなど建築に関することの凶日とされる。
選日のひとつ。干支21番目の甲申の日から30番目の癸巳の日までの10日間を凶とした。
選日のひとつ。夏至以降3度目の庚の日(初伏)、4度目の庚の日(中伏)、立秋以後の最初の庚の日(末伏)を凶日とする。庚(かのえ)は「金の兄」で金の陽性であり、金は火に伏せられること(火剋金)から、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする考えに由来している。
それ以外の選日に次のものがあり、いずれも干支が用いられる。
漢代には易の解釈学として象数易が流行し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二支、二十四節気、五行、方位などが配当されて、複雑な理論が編み出された。
特に八卦と干支が結びついて占いに用いたものとして、納甲がある。完成は前漢代の京房によるといわれており、三国時代の呉の虞翻らによって継承された。後には十二支も易に用いられるようになり、八卦の各爻に干支が当てはめられた。唐の李淳風は『周易元義』で八卦六位図を伝えている。
一方、納音は、陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用し、形容詞を付加して30に干支を分類したものである。生まれ年の納音は、その人の運命を判断するのに用いられた。 納音において凶日とされたのが五墓日であった。戊辰の日、壬辰の日、丙戌の日、辛丑の日、乙未の日がそれで、家作りは構わないが、動土・地固め・葬式・墓作り・播種・旅行・祈祷などは凶とされた。その名から、この日に葬式などを行うと、墓を5つ並べるといって忌むことがあった。
十二直とは、暦注の一つであり、十二支とは別の12のサイクルを月に合わせて暦をつくり、その日の吉凶を占ったものである。中国では戦国時代に萌芽が見られ、秦と楚では異なる十二直を使用していた。現代まで伝わっているのは中国を統一した秦の十二直である。十二直は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉から構成される。
現代において干支占いは、血液型性格分類や占星術と比べてマイナーである。血液型や星座は個人のプロフィールによく記述されるが、干支は記載されないことが多い。
心理学者でもあった増永篤彦によって行われた、生日の干支において干から支にひいた十二運とある種の性格分類に相関があるとする研究は、動物占いや動物占いの動物キャラクターを別のもので置き換えた様々な占いに無断で流用されている。
ある年を西暦(あるいは皇紀)で表した値を10で割った余り、すなわち一の位を求め、下表から十干を割り出す。
同様に、西暦(あるいは皇紀)で表した値を12で割った余りを求め、下表から十二支を割り出す。
この二つの組合せが、その年の干支である。すなわち、西暦と皇紀においては、10の倍数の年が庚、12の倍数の年が申、60の倍数の年が庚申となる。例えば、西暦2005年(皇紀2665年)は、2005(2665)を 10 で割った余りが 5 となり、12 で割った余りが 1 となるので、乙酉(きのととり・いつゆう)となる。
また、西暦で表した値から 3 を引いて 60 で割った余りが干支一覧の左端の数となる(0の場合は60にする)。例えば、西暦2005年は、2005から 3 を引くと2002で、2002を 60 で割った余りは 22となり、乙酉が求められる。
現在の日本においては、太陽暦の年に対して干支を適用することが多いが、伝統的には節月(立春から翌年の立春の前日まで)を1つの干支として適用することも多く、一部の占いにおいては今日にも引き継がれている。また中国においては太陽太陰暦(農暦)に対して適用している。
十二支は月と同じ12個なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、太陽暦では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。
1月は節分以前の月に該当するため、干支は前年1月のものとなる(例:2022年1月の月の干支は辛丑)。なお、ここでいう月は「暦月」(1日から翌月1日の前日まで)を適用する場合と「節月」(節気から次の節気の前日まで)を適用する場合とがある。
ユリウス通日に49を加えて60で割った余りに1を加えると、上表(「干支」のページ、一番上の右側に表示) に示した数字となる。
検表法
例えば、西暦2018年5月21日は、十干日付5月21日I、年18I、世紀20J (癸)、十二支5.21E、18E、20B(丑)、癸丑の日である。ユリウス暦の場合、西曆年で表した値を80で割った余りを求め(年 mod 80)、その他のステップと同じである。例えば、紀元前105年(-104 mod 80 = 56)12月25日は、十干日付12月25日G、年56G、世紀ユリウスA(甲)、十二支12.25G、56G、ユリウスA(子)、甲子の日である。例を挙げましょう。
公式法
「五行」は十干、十二支それぞれの五行をあらわす。なお、十干が「弟(と)」の場合だけ、十干と十二支の間に「の」を入れて読むのが慣例である。 | [
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"text": "起源は商(殷)代の中国にさかのぼる。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。日本、朝鮮半島、ベトナム、西はロシア、東欧などに伝わった。日本に暦が伝わったのは古墳時代から飛鳥時代にかけてで、朝廷は百済より暦法や天文地理を学ぶために学問僧を招き、604年(推古12年)、日本最初の暦が作成されたと伝えられる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "日本においては「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ...の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重の誤りである。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "10と12の最小公倍数は60なので干支は60回で一周するが、干支の組合せはすべての組合せの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。十干十二支は戦国時代に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物への連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈である。鼠、牛、虎...の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。",
"title": "十干と十二支"
},
{
"paragraph_id": 6,
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"text": "干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。甲骨文には、干名だけで日を表すこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことがうかがえる(これについては、「殷#殷王の一覧」も併せて参照のこと)。",
"title": "十干と十二支"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "春秋戦国時代に、自然や世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行思想が起こり、干支も五行と結びつけられるようになった。",
"title": "十干と十二支"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "古くは十干を「十日」、十二支を「十二辰」と呼んだ。『史記』律書では上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼んでいる。幹(干)と枝(支)に喩えて「干支」と呼ばれるようになったのは後漢代からである。",
"title": "十干と十二支"
},
{
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"text": "月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。",
"title": "十干と十二支"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "年を表すには、古来、著しい事件や帝王の即位年を基準とすることが多かったが、戦国時代の中ごろになって木星(歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、漢代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。",
"title": "十干と十二支"
},
{
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"text": "1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは秦代にも見られるが、文献における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の陰陽家の影響を受けている。",
"title": "十干と十二支"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。",
"title": "十干と十二支"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ただし、全10巻中8巻が『四庫全書』にも収められている唐の時代に編纂された兵書である『神機制敵太白陰經』 (李筌編)のうち、巻四「戰具」や巻九「遁甲」において、夜半、鶏鳴といった十二時による時刻名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ習慣の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。",
"title": "十干と十二支"
},
{
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"text": "干支によって日付を記述する干支紀日法は、すでに殷代の甲骨文に現れている。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "西洋では1月を4分割して「週」(7日)というサイクルを編み出した(ただし7という数字は天体から)が、古代中国では1月を3分割して「旬」(10日)というサイクルを考案し、十干という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである。10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月(30日)になるので、十干と十二支を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ある日を甲子とすると、第2日が乙丑、第3日が丙寅というように進んで第60日の癸亥へと進み、第61日に至ると再び甲子に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『日本書紀』など東アジアの歴史書にも広く使用されている。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1から始まる順序数(自然数)を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "中国でも日本でも暦はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "さらに、旧暦の月は29日また30日で規律があまりなく、閏(うるう、月と月の間にさらに一ヶ月を入れる)もあるため、干支を使えば閏があるかないかがわかる。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "一例として、史料に「○月甲寅朔(1日は甲寅の日)」のように記録したら、「乙丑、...(なにかのできごと)」はその月の12日であることは自明。そして「七月甲子」と「八月甲子」の間に60日もあるなら七月と八月の間に「閏七月」があることがわかる。",
"title": "干支による紀日"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "古くから中国では冬至を含む月を「子月」と呼んだ。",
"title": "干支による紀月"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "子は十二支の1番目であり「新たな生命の種が宿る時」とされており、旧命が滅し、新種が宿るため、子は十二支で唯一、生滅同梱・新旧同梱の支となる。時刻に関しても子の時刻は23:00-0:59となっており、旧から新へと切り替わることを意味する。",
"title": "干支による紀月"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "周代では冬至の日を新年とし、子月を1月としていたが、漢代に王朝が変わると夏暦が再び使用されるようになり、正月が寅月立春に移動し、寅月を1月とする夏暦が2000年以上も続き、現在の中国でも夏暦が使用されている。",
"title": "干支による紀月"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "「一陽来復」(いちようらいふく)とは、冬至を意味し、新年の到来、悪い事が続いた後で幸運に向かう事、陰気が極まった後に冬至を境に陽気に向かう事を意味し、陰暦10月は坤卦、11月は復卦に当たり、陰ばかりの中に陽が戻ることになり、復卦とは冬至の事である。",
"title": "干支による紀月"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。",
"title": "干支による紀月"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "天文や二十四節気の平気法では冬至を1年の起点としている。子の時刻は23:00-0:59となっており、二十四節気を24時間上に例えると、子月にある冬至は0:00の位置となり、次の年への移行を意味することになる。物理上は、1年間の干支は冬至で切り替わることになる。",
"title": "干支による紀月"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "月名には十干を加えることが唐代には行われており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は丙、乙や庚の年は戊、丙や辛の年は庚、丁や壬の年は壬、戊や癸の年は甲となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。",
"title": "干支による紀月"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "紀年法とは、年を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "歳星紀年法は、天球における木星の位置に基づく紀年法である。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "中国の戦国時代に始まった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星の十二次における位置で年を記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星が天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳の天球における位置に基づく紀年法である。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "木星は天球上を十二次に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "中国の戦国時代には、この直径は寅の起点と申の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳が寅の位置に存在する年、つまり木星が丑の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳は卯、木星は子に位置する。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅』「釈天」より)。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支で太歳の位置が記述されるようになった。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この太歳の位置を示す十干にも歳名が付けられた。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐...となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、秦の顓頊暦では、太歳を設定するための直径を丑の起点と未の起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星が亥にあり、太歳が寅にある年とする新しい基準を設けた。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "前漢の太初元年(紀元前104年)の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子を丁丑に改めた。後に三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "後漢の建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆の三統暦の超辰法に従うならば、庚戌を辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された。これ以後、木星を観測して、その位置で年を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。西暦2023年の干支は癸卯である。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑と12世紀成立の高麗朝による正史『三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "十二支と十二獣がいつから結びつけられたのかは不明であるが、秦代の墓から出土した睡虎地秦簡に含まれる『日書』には既に現在のように動物が配当されている様子が伺われる。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。ただし、日、月、時刻、方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の風習である年賀状などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国によって違いが見られる。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本が百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年)とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。上述のように、日本で最初の暦がつくられたのは604年(推古12年)のことと伝わる。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "一方、和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿...」という銘文が鋳されており、この「癸未年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である。",
"title": "干支による紀年"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "陰陽五行説では、十干に対し、天運を表す木、火、土、金、水の五行にそれぞれ陰陽一対を配して表す。訓読みでは十干の名称は、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、五行のそれぞれに「(の)え」・「(の)と」がついたものである。「(の)え」は「(の)兄姉」を意味する。「(の)と」は「(の)おと」に由来し、「(の)弟妹」を意味する。「えと」の呼称もこれに由来している。",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "十二支にも五行が配される。四季に対応する五行は、春が木、夏が火、秋が金、冬は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目を表す。土用の丑の日は夏の最終月(土用)の丑の日という意味である。各季節に十二支を配すと、",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
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"tag": "p",
"text": "",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "陰陽五行説が起こったのは、中国の戦国時代であり、騶衍の五行思想に陰陽思想が結びついたものである。これが干支と結びついて干支五行説として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになった。",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "五行の組合せによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "他に、相侮、相乗がある。",
"title": "陰陽五行説との連関"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "干支は、時刻や方位、角度を表すのにも用いられる。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "時刻については、現代の23時から翌1時までを子の刻とし、以下、丑、寅、...と続いて、11時から13時までを午の刻とした。現在、夜0時を「子夜」、昼12時を「正午」、正午より前を「午前」、正午より後を「午後」と称するのは、これに由来する。怪談などで用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは今日でいう午前2時半ごろのことである。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは推古天皇12年(604年、甲子の年)の正月のことであったとされる。平安時代の延喜年間に編纂が始まり延長5年(927年)に完成した「延喜式」でも、宮中の諸門の開閉や日の出、日の入りの時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "十干は、五行説によって説明されるようになると五行が表す方位である五方と結び付けられた。さらに、後には十二支や、易における八卦を交えて細かい二十四山が用いられるようになった。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "十二支では、東を卯、西を酉、南を午、北を子の方位としている。東西を結ぶ線(緯線とは厳密には異なる)を「卯酉線(ぼうゆうせん)」、南北を結ぶ線(経線に相当)を「子午線」、経度0度のロンドンのグリニッジ天文台を通る経線を「本初子午線」と呼ぶのは、これに由来する。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "四隅については、北東・南東・南西・北西がそれぞれ「うしとら」、「たつみ」、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「艮(ごん)」、「巽(そん)」、「坤(こん)」、「乾(けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、六壬神課で使用する式盤の地盤の形状に酷似している。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "なお、二十四山(下表参考)では、十干のうちの戊・己は用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二律(音律)、十二辰(支)、二十四節気、五行、方位などが配当され、極めて複雑な理論が編み出された。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "なお、歳徳神の在する方向とされる恵方(えほう)は、その年の干名によって定められている。",
"title": "時刻と方角"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。中には、申(さる)の日は「去る」と通じるので結婚式を行わないなどというものもあった。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "数え年の61歳は、生まれた年(数え年では本来的には生誕直後から1歳となる)の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い頭巾やちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。2周(120年)した場合は大還暦という。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "中国では「花甲」、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。それ以来、日本では慶応に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "また、『日本書紀』では、神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年に充てている。これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、推古天皇9年(601年)がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"paragraph_id": 71,
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"text": "甲子革命については、中国でも、後漢末に太平道の教祖張角は光和3年(180年)に「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩伝)」、蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)とのスローガンを発しており、干支に基づく易姓革命を意識して光和7年(184年)という甲子の年に黄巾の乱を起こした史実がある。",
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"text": "近代以前の日本では、庚申の日に広く庚申講が行われたが、これは道教の伝説に基づいている。",
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"text": "中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。日本には庚申の晩に生まれた子、あるいは庚申の日の交わりで孕んだ子は盗人になるという言い伝えがあり、庚申の日に生まれた赤子には名に「金」の字を入れれば「ひと様の金を盗らない」という意味で厄除けになるとされた。夏目漱石の本名である「金之助」は、この俗信にちなむ。",
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"text": "日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを庚申講という。庚申講を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔で、今も各地に残っている。",
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"text": "陰陽五行説によれば、丙も午もともに剛強なる陽であって火の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。",
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"text": "それが日本では、八百屋お七が丙午の年(1666年)生まれたという風説があったところから、丙午の年に生まれた女性は気性が激しく、夫の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した。これは男性中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかった。この迷信は戦後になっても残り、1966年の出生数は、前年比で45万人減少した136万人だった。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりおよそ57万人増え、193万人となった。なお、同様に火の重なる丁巳(ひのとみ)は八専の一つである。",
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"text": "五黄の寅参照。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
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"text": "干支は、二十四節気や雑節と結びついて、各地でさまざまな行事が行われている。",
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"text": "中国の漢代には、正月最初の子の日には皇帝が鋤で耕し、皇后が箒で蚕床をはらって、祖先神や蚕神をまつる行事があったといわれている。",
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"text": "この行事は、古代日本にも伝播しており、正倉院には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『小右記』にも記された「子の日のお遊び」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"text": "それ以外で著名なものとしては、次のものがある。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"text": "干支相生の日とされた天赦日は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春(立春から立夏前まで)は戊寅、夏(立夏から立秋前まで)は甲午、秋(立秋から立冬前まで)は戊申、冬(立冬から立春前まで)は甲子の日である。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"text": "選日のひとつ。1月・4月・7月・10月の亥の日、2月・5月・8月・11月の寅の日、3月・6月・9月・12月の午の日を三隣亡という。棟上げなど建築に関することの凶日とされる。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"text": "選日のひとつ。干支21番目の甲申の日から30番目の癸巳の日までの10日間を凶とした。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"text": "選日のひとつ。夏至以降3度目の庚の日(初伏)、4度目の庚の日(中伏)、立秋以後の最初の庚の日(末伏)を凶日とする。庚(かのえ)は「金の兄」で金の陽性であり、金は火に伏せられること(火剋金)から、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする考えに由来している。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"text": "それ以外の選日に次のものがあり、いずれも干支が用いられる。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
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"text": "漢代には易の解釈学として象数易が流行し、そこでは、易の卦や、それを構成する爻に、十二月、十二支、二十四節気、五行、方位などが配当されて、複雑な理論が編み出された。",
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},
{
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"text": "特に八卦と干支が結びついて占いに用いたものとして、納甲がある。完成は前漢代の京房によるといわれており、三国時代の呉の虞翻らによって継承された。後には十二支も易に用いられるようになり、八卦の各爻に干支が当てはめられた。唐の李淳風は『周易元義』で八卦六位図を伝えている。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
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"text": "一方、納音は、陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用し、形容詞を付加して30に干支を分類したものである。生まれ年の納音は、その人の運命を判断するのに用いられた。 納音において凶日とされたのが五墓日であった。戊辰の日、壬辰の日、丙戌の日、辛丑の日、乙未の日がそれで、家作りは構わないが、動土・地固め・葬式・墓作り・播種・旅行・祈祷などは凶とされた。その名から、この日に葬式などを行うと、墓を5つ並べるといって忌むことがあった。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
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"text": "十二直とは、暦注の一つであり、十二支とは別の12のサイクルを月に合わせて暦をつくり、その日の吉凶を占ったものである。中国では戦国時代に萌芽が見られ、秦と楚では異なる十二直を使用していた。現代まで伝わっているのは中国を統一した秦の十二直である。十二直は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉から構成される。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
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"text": "現代において干支占いは、血液型性格分類や占星術と比べてマイナーである。血液型や星座は個人のプロフィールによく記述されるが、干支は記載されないことが多い。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
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"text": "心理学者でもあった増永篤彦によって行われた、生日の干支において干から支にひいた十二運とある種の性格分類に相関があるとする研究は、動物占いや動物占いの動物キャラクターを別のもので置き換えた様々な占いに無断で流用されている。",
"title": "干支にかかわる伝承や俗信"
},
{
"paragraph_id": 93,
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"text": "ある年を西暦(あるいは皇紀)で表した値を10で割った余り、すなわち一の位を求め、下表から十干を割り出す。",
"title": "干支の求め方"
},
{
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"text": "同様に、西暦(あるいは皇紀)で表した値を12で割った余りを求め、下表から十二支を割り出す。",
"title": "干支の求め方"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この二つの組合せが、その年の干支である。すなわち、西暦と皇紀においては、10の倍数の年が庚、12の倍数の年が申、60の倍数の年が庚申となる。例えば、西暦2005年(皇紀2665年)は、2005(2665)を 10 で割った余りが 5 となり、12 で割った余りが 1 となるので、乙酉(きのととり・いつゆう)となる。",
"title": "干支の求め方"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、西暦で表した値から 3 を引いて 60 で割った余りが干支一覧の左端の数となる(0の場合は60にする)。例えば、西暦2005年は、2005から 3 を引くと2002で、2002を 60 で割った余りは 22となり、乙酉が求められる。",
"title": "干支の求め方"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "現在の日本においては、太陽暦の年に対して干支を適用することが多いが、伝統的には節月(立春から翌年の立春の前日まで)を1つの干支として適用することも多く、一部の占いにおいては今日にも引き継がれている。また中国においては太陽太陰暦(農暦)に対して適用している。",
"title": "干支の求め方"
},
{
"paragraph_id": 98,
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"text": "十二支は月と同じ12個なので、月の十二支は毎年同じになる。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、太陽暦では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。",
"title": "干支の求め方"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "1月は節分以前の月に該当するため、干支は前年1月のものとなる(例:2022年1月の月の干支は辛丑)。なお、ここでいう月は「暦月」(1日から翌月1日の前日まで)を適用する場合と「節月」(節気から次の節気の前日まで)を適用する場合とがある。",
"title": "干支の求め方"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "ユリウス通日に49を加えて60で割った余りに1を加えると、上表(「干支」のページ、一番上の右側に表示) に示した数字となる。",
"title": "干支の求め方"
},
{
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"tag": "p",
"text": "検表法",
"title": "干支の求め方"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "例えば、西暦2018年5月21日は、十干日付5月21日I、年18I、世紀20J (癸)、十二支5.21E、18E、20B(丑)、癸丑の日である。ユリウス暦の場合、西曆年で表した値を80で割った余りを求め(年 mod 80)、その他のステップと同じである。例えば、紀元前105年(-104 mod 80 = 56)12月25日は、十干日付12月25日G、年56G、世紀ユリウスA(甲)、十二支12.25G、56G、ユリウスA(子)、甲子の日である。例を挙げましょう。",
"title": "干支の求め方"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "公式法",
"title": "干支の求め方"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "「五行」は十干、十二支それぞれの五行をあらわす。なお、十干が「弟(と)」の場合だけ、十干と十二支の間に「の」を入れて読むのが慣例である。",
"title": "干支一覧"
}
] | 干支は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。古代中国にはじまる暦法上の用語。
暦を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。 | {{otheruses||[[宮崎県]]の住所表記|干支 (北方町)}}
{{参照方法|date=2020-12}}
{{干支}}
'''干支'''(かんし、えと、{{lang-zh|干支}}、[[ピンイン]]:gānzhī)は、[[十干]]と[[十二支]]を組み合わせた[[60]]を周期とする[[数詞]]<ref name="kanshi">[https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B2%E6%94%AF-36886 コトバンク「干支」]</ref>。古代中国にはじまる暦法上の用語<ref name="10kan12shi">[https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%B9%B2%E5%8D%81%E4%BA%8C%E6%94%AF-73969 十干十二支]</ref>。
[[暦]]を始めとして、時間、方位、ことがらの順序などに用いられる<ref name="kanshi" />。'''六十干支'''(ろくじっかんし)、'''十干十二支'''(じっかんじゅうにし)、'''天干地支'''(てんかんちし)ともいう。
== 概説 ==
[[ファイル:Chu Kỳ 60 Năm.svg|thumb|280px|干支の60周期を表した図]]
[[中国]]を初めとして[[アジア]]の[[漢字文化圏]]において、[[年]]・[[月 (暦)|月]]・[[日]]・[[時間 (単位)|時間]]や[[方位]]、[[角度]]、ものごとの順序づけを表すのにも用いられ、[[陰陽五行説]]とも結び付いて様々な[[占い|卜占]]にも応用された<ref name="kanshi" />。古くは'''十日十二辰'''、'''十母十二子'''とも呼称した<ref name="10kan12shi" />。
起源は商([[殷]])代の中国にさかのぼる<ref name="kanshi" />。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ[[太陰太陽暦]]5年)、60年などをあらわす。'''干'''は'''幹・肝'''と、'''支'''は'''枝・肢'''と同源であるという。[[日本]]、[[朝鮮半島]]、[[ベトナム]]、西は[[ロシア]]、[[東ヨーロッパ|東欧]]などに伝わった。日本に暦が伝わったのは[[古墳時代]]から[[飛鳥時代]]にかけてで、[[朝廷 (日本)|朝廷]]は[[百済]]より[[暦法]]や天文地理を学ぶために学問僧を招き、[[604年]](推古12年)、日本最初の暦が作成されたと伝えられる<ref name="ndl1">[https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s1.html 国立国会図書館「日本の暦」第一章:暦の歴史]</ref>。
日本においては「干支」を「'''えと'''」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ…の[[十二支]]のみを指すことが多いが、「干支」は[[十干]]と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きの'''え'''(甲)」「きの'''と'''(乙)」「ひの'''え'''(丙)」「ひの'''と'''(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重の誤りである。
[[10]]と[[12]]の[[最小公倍数]]は[[60]]なので干支は60回で一周するが<ref name="kanshi" />、干支の組合せはすべての組合せの半数しかない。例えば、一覧01〜60で5回ある「子」のうちに、「甲子」はあるが「乙子」はない。これは、10と12に共通の約数2があるので、干支の周期が積の120ではなく、最小公倍数の60になるからである。
== 十干と十二支 ==
'''十干'''は[[甲]]・[[乙]]・[[丙]]・[[丁]]・[[戊]]・[[己]]・[[庚]]・[[辛]]・[[壬]]・[[癸]]の10種類からなり、'''十二支'''は[[子 (十二支)|子]]・[[丑]]・[[寅]]・[[卯]]・[[辰]]・[[巳]]・[[午]]・[[未]]・[[申]]・[[酉]]・[[戌]]・[[亥]]の12種類からなっており、これらを合わせて'''干支'''と呼ぶ<ref name="kanshi" />。十干十二支は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであって学問的な意味はない。また生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた[[植物]]への連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による[[後漢]]時代の解釈<ref group="注釈">『[[釈名]]』、『[[史記]]』暦書、『[[漢書]]』律暦志</ref>である。鼠、牛、虎…の12の動物との関係がなぜ設定されているのかにも諸説があるが詳細は不明である。
=== 十干 ===
{{main|十干}}
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!rowspan=2|[[十干]]
!colspan=3|[[日本語]]
!rowspan=2|[[中国語]]
!rowspan=2|[[朝鮮語]]
!rowspan=2|[[ベトナム語]]
!rowspan=2|本義<ref>参考文献:『中国的実在観の研究』(著:[[木村英一]])、『中国上代陰陽五行思想の研究』(著:[[小林信明]])、『宋代易学の研究』(著:[[今井宇三郎]])</ref>
|-
![[音読み]]
![[訓読み]]
!意味
|-
|[[甲]]||こう||きのえ||木の兄
|lang="zh-tw"|jiǎ/ㄐㄧㄚˇ
|lang="kr"|갑 (gap)
|lang="vi"|giáp
|草木の芽生え。鱗芽のかいわれの象意。
|-
|[[乙]]||おつ、いつ||きのと||木の弟
|lang="zh-tw"|yǐ/ㄧˇ
|lang="kr"|을 (eul)
|lang="vi"|ất
|陽気でまだ伸びなく、かがまっている状態。
|-
|[[丙]]||へい||ひのえ||火の兄
|lang="zh-tw"|bǐng/ㄅㄧㄥˇ
|lang="kr"|병 (byeong)
|lang="vi"|bính
|陽気の発揚。
|-
|[[丁]]||てい||ひのと||火の弟
|lang="zh-tw"|dīng/ㄉㄧㄥˉ
|lang="kr"|정 (jeong)
|lang="vi"|đinh
|陽気の充溢。
|-
|[[戊]]||ぼ||つちのえ||土の兄
|lang="zh-tw"|wù/ㄨˋ
|lang="kr"|무 (mu)
|lang="vi"|mậu
|茂に通じ、陽気による分化繁栄。
|-
|[[己]]||き||つちのと||土の弟
|lang="zh-tw"|jǐ/ㄐㄧˇ
|lang="kr"|기 (gi)
|lang="vi"|kỷ
|紀に通じ、分散を防ぐ統制作用。
|-
|[[庚]]||こう||かのえ||金の兄
|lang="zh-tw"|gēng/ㄍㄥˉ
|lang="kr"|경 (gyeong)
|lang="vi"|canh
|結実・形成・陰化の段階。
|-
|[[辛]]||しん||かのと||金の弟
|lang="zh-tw"|xīn/ㄒㄧㄣˉ
|lang="kr"|신 (shin)
|lang="vi"|tân
|陰による統制の強化。
|-
|[[壬]]||じん||みずのえ||水の兄
|lang="zh-tw"|rén/ㄖㄣˋ
|lang="kr"|임 (im)
|lang="vi"|nhâm
|妊に通じ、陽気を下に姙む意。
|-
|[[癸]]||き||みずのと||水の弟
|lang="zh-tw"|guǐ/ㄍㄨㄟˇ
|lang="kr"|계 (gye)
|lang="vi"|quý
|揆に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態。
|}
=== 十二支 ===
{{main|十二支}}
{| class="wikitable" style="text-align:center;white-space:nowrap"
|-
!rowspan="2"|十二支
!colspan="2"|[[日本語]]
![[中国語]]
![[広東語]]
![[台湾語]]
![[韓国語]]
![[ベトナム語]]
!rowspan=2|概要<ref>『[[漢書]]』律暦志</ref>
|-
![[音読み]]!![[訓読み]]
![[拼音]]
!'''[[粤拼]]'''
![[白話字]]
![[ハングル]]
![[クォックグー|国語]]
|-
|[[子 (十二支)|子]]||し||ね
|lang="zh"|zǐ
|zi2
|chú
|lang="ko"|자
|lang="vi"|tý
|「孳」(し:「ふえる」の意味)。<br />新しい生命が種子の中に萌し始める状態を表しているとされる。
|-
|[[丑]]||ちゅう||うし
|lang="zh"|chǒu
|cau2
|thiú
|lang="ko"|축
|lang="vi"|sửu
|「紐」(ちゅう:「ひも」「からむ」の意味)。<br />芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされ、<br />指をかぎ型に曲げて糸を撚ったり編んだりする象形ともされる。
|-
|[[寅]]||いん||とら
|lang="zh"|yín
|jan4
|în
|lang="ko"|인
|lang="vi"|dần
|「螾」(いん:「動く」の意味)。<br />春が来て草木が生ずる状態を表しているとされる。
|-
|[[卯]]||ぼう||う
|lang="zh"|mǎo
|maau5
|báu
|lang="ko"|묘
|lang="vi"|mão/mẹo
|「冒」、『史記』律書によると「茂」(ぼう:「しげる」の意味)。<br />草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとされる。
|-
|[[辰]]||しん||たつ
|lang="zh"|chén
|san4
|sîn
|lang="ko"|진
|lang="vi"|thìn
|「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)。<br />草木の形が整った状態を表しているとされる。
|-
|[[巳]]||し||み
|lang="zh"|sì
|zi6
|chī
|lang="ko"|사
|lang="vi"|tỵ
|「已」(い:「止む」の意味)。<br />草木の成長が極限に達した状態を表しているとされる。
|-
|[[午]]||ご||うま
|lang="zh"|wǔ
|ng5
|ngó͘
|lang="ko"|오
|lang="vi"|ngọ
|「忤」(ご:「つきあたる」「さからう」の意味)。<br />草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しているとされる。
|-
|[[未]]||び||ひつじ
|lang="zh"|wèi
|mei6
|bī
|lang="ko"|미
|lang="vi"|mùi
|「昧」(まい:「暗い」の意味)。<br />植物が鬱蒼と茂って暗く覆う状態を表しているとされる。<br />『[[説文解字]]』によると「味」(み:「あじ」の意味)。<br />果実が熟して滋味が生じた状態を表しているとされる。
|-
|[[申]]||しん||さる
|lang="zh"|shēn
|san1
|sin
|lang="ko"|신
|lang="vi"|thân
|「呻」(しん:「うめく」の意味)。<br />果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされる。
|-
|[[酉]]||ゆう||とり
|lang="zh"|yǒu
|jau5
|iú
|lang="ko"|유
|lang="vi"|dậu
|「緧」(しゅう:「ちぢむ」の意味)。<br />果実が成熟の極限に達した状態を表しているとされる。
|-
|[[戌]]||じゅつ||いぬ
|lang="zh"|xū
|seot1
|sut
|lang="ko"|술
|lang="vi"|tuất
|「滅」(めつ:「ほろぶ」の意味)。<br />草木が枯れる状態を表しているとされる。
|-
|[[亥]]||がい||い
|lang="zh"|hài
|hoi6
|hāi
|lang="ko"|해
|lang="vi"|hợi
|「閡」(がい:「とざす」の意味)。<br />草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表しているとされる。
|}
=== 干支概略史 ===
[[画像:Orakelknochen.JPG|left|thumb|240px|[[亀甲獣骨文字]]([[ウシ|牛]]の[[肩胛骨]]に甲骨文字が刻されている)、[[上海博物館]]蔵]]
[[画像:In-syou-teishitu.PNG|right|thumb|160px|殷商帝室の系譜]]
干支はすでに商([[殷]])代に現れており、[[殷墟]]出土の[[亀甲獣骨文字|亀甲獣骨]]にたくさんの干支が日付を表すために用いられている。[[甲骨文]]には、干名だけで日を表すこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことがうかがえる(これについては、「[[殷#殷王の一覧]]」も併せて参照のこと)。
[[春秋戦国時代]]に、[[自然]]や世界の成り立ちを[[木]]・[[火]]・[[土壌|土]]・[[金属|金]]・[[水]]から説明する[[五行思想]]が起こり、干支も五行と結びつけられるようになった。
古くは十干を「十日」、十二支を「十二辰」と呼んだ。『[[史記]]』律書では上を母、下を子に見立てて「'''十母十二子'''」と呼んでいる。幹(干)と枝(支)に喩えて「'''干支'''」と呼ばれるようになったのは[[後漢]]代からである。
月や年を表すために干支を用いるようになった時期は、殷代よりも後の時代に属する。
年を表すには、古来、著しい事件や[[帝王]]の[[即位]]年を基準とすることが多かったが、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の中ごろになって[[木星]](歳星)の天における位置によって年を指し示すことが考案された。後述のように、この方法がやがて発達し、当初は木星の位置により、次には十二支により、[[漢]]代には干支の組合せによって年を表す例が広く行われるようになった。
1日(24時間)を十二支に分けるようになった時期も漢代である。十二支に対して十二獣を充当することは[[秦]]代にも見られるが、[[文献資料 (歴史学)|文献]]における初出は後漢代からである。また、「外事には剛日を用い、内事には柔日を用いる」<ref group="注釈">用兵など外事には十干の奇数日、[[祭祀]]など内事には十干の偶数日を用いるのが良い、という意味。</ref>とされたのも漢代であり、これは、戦国時代の[[陰陽家]]の影響を受けている。
[[方位]]への応用も、[[陰陽五行思想]]と結びついたことによって漢代に広がった。
ただし、全10巻中8巻が『[[四庫全書]]』にも収められている[[唐]]の時代に編纂された兵書である『神機制敵太白陰經』
<ref group="注釈">一般に流布しているのは10巻本であるが、[[四庫全書]]には巻九、十を除いた8巻本が収録されている。</ref>([[李筌]]編)のうち、巻四「戰具」や巻九「遁甲」において、夜半、鶏鳴といった[[十二時]]による[[時刻]]名とともに、この時刻の干支は云々と記載されているので、時刻を干支で呼ぶ[[習慣]]の定着には長い時を要し、唐の時代にはまだ古い記憶の名残があったと推測できる。
== 干支による紀日 ==
干支によって日付を記述する'''干支紀日法'''は、すでに殷代の[[甲骨文]]に現れている。
西洋では1月を4分割して「[[週]]」(7日)というサイクルを編み出した(ただし7という数字は天体から)が、古代中国では1月を3分割して「[[旬 (単位)|旬]]」(10日)というサイクルを考案し、[[十干]]という順序符号をつけた。甲骨文には「卜旬(ぼくじゅん)」があり、これは、ある特定の日(癸の日)から向こう10日間の吉凶を占ったものである<ref group="注釈">甲骨を用いた占いには、[[癸]]の日以後10日間の吉凶を判断する定期的な卜旬と、開戦・豊作・異常気象の終わりを祈願する不定期的な占いがあった。</ref>。10日、すなわち十干を3回繰り返すと1か月([[30]][[日]])になるので、十干と[[十二支]]を組み合わせると、2か月(60日)周期で日付を記録することになる。
ある日を[[甲子]]とすると、第2日が[[乙丑]]、第3日が[[丙寅]]というように進んで第60日の[[癸亥]]へと進み、第61日に至ると再び[[甲子]]に還って日を記述していった。これは、3,000年以上経った今に至るまで、断絶することなく用いられている。また、干支紀日は『[[日本書紀]]』など[[東アジア]]の[[歴史書]]にも広く使用されている。
殷代においては、干支はもっぱら紀日法として用いられ、年に関しては1から始まる順序数([[自然数]])を使用しており、月に関しても順序数を基本としていた。
現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、[[山東省]][[臨沂]]県(りんぎけん)から出土した[[銀雀山漢墓]][[竹簡]]、および[[武帝 (漢)|武帝]]7年([[元光 (漢)|元光]]元年、[[紀元前134年]])の[[暦譜]]竹簡の例が最古とされている。
中国でも日本でも[[暦]]はしばしば改定されているが、干支による紀日は古代から連綿と続いており、古い記録の日付を確定する際の有力な手がかりになる。
さらに、旧暦の月は29日また30日で規律があまりなく、閏(うるう、月と月の間にさらに一ヶ月を入れる)もあるため、干支を使えば閏があるかないかがわかる。
一例として、史料に「○月甲寅朔(1日は甲寅の日)」のように記録したら、「乙丑、…(なにかのできごと)」はその月の12日であることは自明。そして「七月甲子」と「八月甲子」の間に60日もあるなら七月と八月の間に「閏七月」があることがわかる。
== 干支による紀月 ==
古くから中国では冬至を含む月を「[[子 (十二支)|子月]]」と呼んだ。
子は十二支の1番目であり「新たな生命の種が宿る時」とされており、旧命が滅し、新種が宿るため、子は十二支で唯一、生滅同梱・新旧同梱の支となる。時刻に関しても子の時刻は23:00-0:59となっており、旧から新へと切り替わることを意味する。
[[周|周代]]では冬至の日を新年とし、子月を1月としていたが、[[漢|漢代]]に王朝が変わると[[三正|夏暦]]が再び使用されるようになり、正月が寅月立春に移動し、寅月を1月とする夏暦が2000年以上も続き、現在の中国でも夏暦が使用されている。
「一陽来復」(いちようらいふく)とは、冬至を意味し、新年の到来、悪い事が続いた後で幸運に向かう事、陰気が極まった後に冬至を境に陽気に向かう事を意味し、陰暦10月は坤卦、11月は復卦に当たり、陰ばかりの中に陽が戻ることになり、復卦とは冬至の事である。
冬至は1年間で太陽の位置が最も低くなる日であり、1年間で日中が最も短くなり、冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始めるとされている。
[[天文]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}や[[二十四節気]]の[[平気法]]では冬至を1年の起点としている。子の時刻は23:00-0:59となっており、二十四節気を24時間上に例えると、子月にある冬至は0:00の位置となり、次の年への移行を意味することになる。物理上は、1年間の干支は冬至で切り替わることになる。
月名には十干を加えることが[[唐]]代には行われており、その場合の配当は年の干名によって各月の干が割り当てられた。たとえば、寅月についていえば、甲や己の年は[[丙]]、乙や庚の年は[[戊]]、丙や辛の年は[[庚]]、丁や壬の年は[[壬]]、戊や癸の年は[[甲]]となる。つまり、干名が甲である年の寅月は「丙寅月」となる。
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|-
!月の十二支||[[節気]]の区切り||[[中気]]
![[月 (暦)|月]]<br />([[天文]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}・[[平気法]]・[[周正]])||[[月 (暦)|月]]<br />([[旧暦]]・[[夏正]])||[[月 (暦)|月]]<br />([[新暦]])||甲・己年||乙・庚年||丙・辛年||丁・壬年||戊・癸年
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|子月||[[大雪]]-[[小寒]]||[[冬至]]
|[[11月 (旧暦)|1月]]<br />冬至で新年へ移行。新年・旧年の両方を含む月となる。||[[11月 (旧暦)|11月]]||[[12月|新暦12月]]上旬-[[1月|新暦1月]]上旬||丙子月||戊子月||庚子月||壬子月||甲子月
|-
|丑月||[[小寒]]-[[立春]]||[[大寒]]
|[[12月 (旧暦)|2月]]||[[12月 (旧暦)|12月]]||[[1月|新暦1月]]上旬-[[2月|新暦2月]]上旬||丁丑月||己丑月||辛丑月||癸丑月||乙丑月
|-
|寅月||[[立春]]-[[啓蟄]]||[[雨水]]
|[[1月 (旧暦)|3月]]||[[1月 (旧暦)|1月]]||[[2月|新暦2月]]上旬-[[3月|新暦3月]]上旬||丙寅月||戊寅月||庚寅月||壬寅月||甲寅月
|-
|卯月||[[啓蟄]]-[[清明]]||[[春分]]
|[[2月 (旧暦)|4月]]||[[2月 (旧暦)|2月]]||[[3月|新暦3月]]上旬-[[4月|新暦4月]]上旬||丁卯月||己卯月||辛卯月||癸卯月||乙卯月
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|辰月||[[清明]]-[[立夏]]||[[穀雨]]
|[[3月 (旧暦)|5月]]||[[3月 (旧暦)|3月]]||[[4月|新暦4月]]上旬-[[5月|新暦5月]]上旬||戊辰月||庚辰月||壬辰月||甲辰月||丙辰月
|-
|巳月||[[立夏]]-[[芒種]]||[[小満]]
|[[4月 (旧暦)|6月]]||[[4月 (旧暦)|4月]]||[[5月|新暦5月]]上旬-[[6月|新暦6月]]上旬||己巳月||辛巳月||癸巳月||乙巳月||丁巳月
|-
|午月||[[芒種]]-[[小暑]]||[[夏至]]
|[[5月 (旧暦)|7月]]||[[5月 (旧暦)|5月]]||[[6月|新暦6月]]上旬-[[7月|新暦7月]]上旬||庚午月||壬午月||甲午月||丙午月||戊午月
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|未月||[[小暑]]-[[立秋]]||[[大暑]]
|[[6月 (旧暦)|8月]]||[[6月 (旧暦)|6月]]||[[7月|新暦7月]]上旬-[[8月|新暦8月]]上旬||辛未月||癸未月||乙未月||丁未月||己未月
|-
|申月||[[立秋]]-[[白露]]||[[処暑]]
|[[7月 (旧暦)|9月]]||[[7月 (旧暦)|7月]]||[[8月|新暦8月]]上旬-[[9月|新暦9月]]上旬||壬申月||甲申月||丙申月||戊申月||庚申月
|-
|酉月||[[白露]]-[[寒露]]||[[秋分]]
|[[8月 (旧暦)|10月]]||[[8月 (旧暦)|8月]]||[[9月|新暦9月]]上旬-[[10月|新暦10月]]上旬||癸酉月||乙酉月||丁酉月||己酉月||辛酉月
|-
|戌月||[[寒露]]-[[立冬]]||[[霜降]]
|[[9月 (旧暦)|11月]]||[[9月 (旧暦)|9月]]||[[10月|新暦10月]]上旬-[[11月|新暦11月]]上旬||甲戌月||丙戌月||戊戌月||庚戌月||壬戌月
|-
|亥月||[[立冬]]-[[大雪]]||[[小雪]]
|[[10月 (旧暦)|12月]]||[[10月 (旧暦)|10月]]||[[11月|新暦11月]]上旬-[[12月|新暦12月]]上旬||乙亥月||丁亥月||己亥月||辛亥月||癸亥月
|}
== 干支による紀年 ==
[[紀年法]]とは、[[年]]を記したり数えたりするための方法のことで、[[中国]]を中心とした漢字文化圏では[[年号|年号紀元]]に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による'''干支紀年法'''が併用されてきた。その起源は[[木星]]の観測と深い関わりがある。
=== 歳星紀年法 ===
[[画像:Jupiter.jpg|270px|right|thumb|[[木星]]]]
'''歳星紀年法'''は、[[天球]]における[[木星]]の位置に基づく紀年法である。
中国の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に始まった。[[木星]]は約12年で[[天球]]上を一周し、[[十二次]](天球を[[天の赤道]]帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、[[木星]]は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、[[木星]]の[[十二次]]における位置で[[年]]を記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、[[木星]]が[[天球]]上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。
=== 太歳紀年法 ===
[[ファイル:Taisai.svg|240px|right|thumb|太歳と木星の移動]]
'''太歳紀年法'''は、[[木星]]の鏡像である[[太歳]]の[[天球]]における位置に基づく紀年法である。
[[木星]]は[[天球]]上を[[十二次]]に沿って西から東に進むが、当時の人たちがよく使っていた[[十二辰]](天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、[[木星]]の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に[[木星]]と線対称の位置に存在する[[太歳]]という仮想の星を設定し、その[[十二辰]]における位置で年を記すようにしたものである。
中国の戦国時代には、この直径は[[寅]]の起点と[[申]]の起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は[[太歳]]が[[寅]]の位置に存在する年、つまり[[木星]]が[[丑]]の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、[[太歳]]は[[卯]]、[[木星]]は[[子 (十二支)|子]]に位置する。
さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、[[太歳]]が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『[[爾雅]]』「釈天」より)。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!太歳の位置||[[子 (十二支)|子]]||[[丑]]||[[寅]]||[[卯]]||[[辰]]||[[巳]]||[[午]]||[[未]]||[[申]]||[[酉]]||[[戌]]||[[亥]]
|-
! rowspan="2"|歳名
|困敦||赤奮若
|摂提格||単閼||執徐||大荒落||敦牂||叶洽||涒灘||作噩||閹茂||大淵献
|-
|コントン||セキフンジャク
|セッテイカク||ゼンエン||シュウジョ||ダイコウラク||トンショウ||キョウコウ||トンタン||サクガク||エンモ||ダイエンケン
|}
[[前漢|漢代]]に入ると、[[淮南子|『淮南子』]]天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた'''干支'''で[[太歳]]の位置が記述されるようになった。
この[[太歳]]の位置を示す[[十干]]にも歳名が付けられた。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
!太歳の位置||[[甲]]||[[乙]]||[[丙]]||[[丁]]||[[戊]]||[[己]]||[[庚]]||[[辛]]||[[壬]]||[[癸]]
|-
! rowspan="2"|歳名
|閼逢||旃蒙||柔兆||強圉||著雍||屠維||上章||重光||玄黓||昭陽
|-
|エンホウ||センモウ||ジュウチョウ||キョウギョ||チョヨウ||トイ||ジョウショウ||チョウコウ||ゲンヨク||ショウヨウ
|}
この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。
ただし、[[木星]]の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、[[秦]]の[[顓頊暦]]では、[[太歳]]を設定するための直径を[[丑]]の起点と[[未]]の起点に引き、秦の[[始皇帝]]元年([[紀元前246年]])を[[木星]]が[[亥]]にあり、[[太歳]]が[[寅]]にある年とする新しい基準を設けた。
[[前漢]]の[[太初 (漢)|太初]]元年([[紀元前104年]])<ref group="注釈">この年の紀年は、『呂氏春秋』、『前漢書』賈誼伝、『前漢書』翼奉伝、『史記』歴書では、それぞれ[[乙亥]]、[[丙子]]、[[丁丑]]、[[甲寅]]となっており、それぞれ流派の異なる紀年が混在していた。前漢末に[[劉歆]]によって整備が始まり、これが最終的に整理されて完全に統一されるのは後漢初期の[[元和 (漢)|元和]]2年([[85年|西暦85年]])の改暦であった。</ref>の改暦([[太初暦]])では、超辰を行い、[[丙子]]を[[丁丑]]に改めた。後に[[三統暦]]の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、[[太初 (漢)|太初]]元年を再び[[丙子]]に戻し、[[太始 (漢)|太始]]2年([[紀元前95年]])を[[乙酉]]から[[丙戌]]へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。
=== 干支紀年法 ===
[[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]26年(西暦[[50年]])は、当時使われていた[[劉歆]]の[[三統暦]]の超辰法に従うならば、[[庚戌]]を[[辛亥]]とすべき年であった。にもかかわらず、[[光武帝]]に随従していた学者たちは超辰を行わず、[[庚戌]]のまま紀年を続けた。さらに[[元和 (漢)|元和]]2年(西暦[[85年]])の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された<ref group="注釈">この改暦は、中国における官暦の最初とされる。</ref>。これ以後、[[木星]]を観測して、その位置で[[年]]を記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。[[西暦]][[{{#time:Y年}}]]の干支は[[{{CURRENTKANSHI}}]]である。
民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した'''生肖紀年法'''が今も広く用いられている。なお、[[好太王碑|広開土王碑]]と[[12世紀]]成立の[[高麗]]朝による[[正史]]『[[三国史記]]』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。
==== 生肖紀年法 ====
{{main|十二支}}
十二支と十二[[哺乳類|獣]]<ref group="注釈">十二獣がなぜ十二支と結びつけられたかには、西方[[バビロニア]]の[[天文学]]における[[黄道]][[十二宮]]が各宮の多くを動物で表すことから、その影響を受けたのではないかとする見方がある。また、これが普及したのは[[農事暦]]を農民に教え、浸透させるための便法という説もある。</ref>がいつから結びつけられたのかは不明であるが、[[秦]]代の墓から出土した[[睡虎地秦簡]]<ref group="注釈">[[湖北省]][[雲夢県]]睡虎地で[[1975年]]に発見された秦代の竹簡。地方官吏を務めていた[[喜 (秦)|喜]]という人物の墓に収められていた。</ref>に含まれる『日書』には既に現在のように動物<ref group="注釈">ただし、[[シカ]]が入り[[イヌ]]がなく、配当も異なっているなど現代のものとは大きく異なる。</ref>が配当されている様子が伺われる。
後漢の[[王充]]が著した『[[論衡]]』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。ただし、日、月、[[時刻]]、[[方位]]などを干支で示す[[慣習]]が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の[[風習]]である[[年賀状]]<ref group="注釈">中国や韓国にも似た風習がある。</ref>などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国によって違いが見られる<ref group="注釈">[[亥]](中国や韓国などにおける猪([[ブタ]]))が日本では[[イノシシ]]、丑が[[ベトナム]]では[[スイギュウ]]などとなっている。日本で「猪」がイノシシを表すようになったのは、生肖紀年が伝来した当時の日本では、豚の飼育が必ずしも一般的でなかったからと考えられている。</ref>。[[西暦]][[{{#time:Y年}}]]の十二支は{{今年の十二支 (UTC) }}で、[[生肖]]は{{今年の生肖 (UTC) }}があてはまる。
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|-
!各国の十二獣||子||丑||寅||卯||辰||巳||午||未||申||酉||戌||亥
|-
|中国の十二獣||鼠||牛||虎||兎||竜||蛇||馬||羊<ref group="注釈">[[ヤギ]]を含む</ref>||猴<ref group="注釈">[[類人猿]]を除いた[[サル]]を意味する</ref>||鶏||狗||猪([[ブタ|豚]]<ref group="注釈">『[[猪]]』は[[中国語]]では[[ブタ]]を意味する</ref>)
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|日本の十二獣||[[ネズミ|鼠]]||[[ウシ|牛]]||[[トラ|虎]]||[[ウサギ|兎]]||[[竜]]||[[ヘビ|蛇]]||[[ウマ|馬]]||[[ヒツジ|羊]]||[[サル|猿]]||[[ニワトリ|鶏]]||[[犬]]||[[イノシシ|猪]]
|-
|[[大韓民国|韓国]]の十二獣||鼠||牛||虎||兎||竜||蛇||馬||羊||猿||鶏||犬||豚
|-
|[[タイ王国|タイ]]の十二獣||鼠||牛||虎||[[ネコ|猫]]||竜||蛇||馬||[[ヤギ|山羊]]||猿||鶏||犬||豚
|-
|[[ベトナム]]の十二獣||鼠||[[スイギュウ|水牛]]||虎||[[猫 (十二支)|猫]]||竜||蛇||馬||山羊||猿||鶏||犬||豚
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|[[モンゴル国|モンゴル]]の十二獣||鼠||牛||[[ヒョウ|豹]]・虎||兎||竜||蛇||馬||羊||猿||鶏||犬||豚
|-
|[[インド]]の十二獣||鼠||牛||虎||兎||竜||蛇||馬||羊||猿||[[ガルダ]]||犬||豚
|-
|[[アラビア]]の十二獣||鼠||牛||虎||兎||[[ワニ|鰐]]||蛇||馬||羊||猿||鶏||犬||豚
|-
|[[ロシア]]の十二獣||鼠||牛||虎||兎・猫||竜||蛇||馬||羊・山羊||猿||鶏||犬||豚
|-
|[[ベラルーシ]]の十二獣||鼠||牛||虎||兎・猫||竜||蛇||馬||羊||猿||鶏||犬||豚
|}
==== 干支紀年と日本 ====
[[ファイル:Gyoda Inariyama Tumulus In Spring 1.JPG|270px|right|thumb|[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]]]
干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の[[暦本]]が[[百済]]を通じて渡来したのは[[欽明天皇]]15年([[554年]])<ref>『日本書紀』巻第19。欽明天皇14年、[[暦博士]]を交代し暦本(こよみのためし)を送るようにとの[[勅]]を発し、翌年、固徳王保尊が暦博士として来日した記事が掲載される。巻第22には、[[推古天皇]]治下の[[602年]]に百済僧[[観勒]]が来日した記事もある。日本書紀には[[神武天皇]]以来の干支が記載されているが、『[[古事記]]』にはない。</ref>とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。上述のように、日本で最初の暦がつくられたのは604年(推古12年)のことと伝わる<ref name="ndl1" />。
[[埼玉県]][[行田市]]埼玉の[[埼玉古墳群]]の一つ、[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]から出土した[[金錯銘鉄剣]]には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を[[雄略天皇]]とする考えが主流であることから、「[[辛亥]]年」を[[471年]]とする説が有力である。ただし、これに対しては[[531年]]とする反論もある。
一方、[[和歌山県]][[橋本市]]隅田の[[隅田八幡神社|隅田八幡宮]]に所蔵されている[[隅田八幡宮人物画像鏡|人物画像鏡]]には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されており、この「[[癸未]]年」は、「男弟(おとど)王」が[[継体天皇]]と考えられることから、[[503年]]とする見方が有力である<ref group="注釈">銘中の「斯麻」は[[百済]]の[[武寧王]]と推測される。しかし、この「癸未年」に対しても[[443年]]との異論がある。</ref>。
== 陰陽五行説との連関 ==
{{main|陰陽五行思想}}
=== 陰陽五行説と十干 ===
[[陰陽五行説]]では、'''十干'''に対し、天運を表す[[木]]、[[火]]、[[土壌|土]]、[[金属|金]]、[[水]]の五行にそれぞれ[[陰陽]]一対を配して表す。[[訓読み]]では十干の名称は、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)となり、五行のそれぞれに「(の)え」・「(の)と」がついたものである。「(の)え」は「(の)[[兄]][[姉]]」を意味する。「(の)と」は「(の)おと」に由来し、「(の)[[弟]][[妹]]」を意味する。「'''えと'''」の呼称もこれに由来している。
=== 陰陽五行説と十二支 ===
'''十二支'''にも五行が配される。[[四季]]に対応する五行は、[[春]]が木、[[夏]]が火、[[秋]]が金、[[冬]]は水であり、土は各季節の最後の月にあたり、季節の変わり目を表す。[[土用の丑の日]]は夏の最終月([[土用]])の[[丑]]の日という意味である。各季節に十二支を配すと、
<ref>余春台『窮通宝鑑』</ref>
*'''[[春]]'''…寅(木)、卯(木)、辰(木、土用期間は土旺)
*'''[[夏]]'''…巳(火)、午(火)、未(火、土用期間は土旺)
*'''[[秋]]'''…申(金)、酉(金)、戌(金、土用期間は土旺)
*'''[[冬]]'''…亥(水)、子(水)、丑(水、土用期間は土旺)
となる。
陰陽五行説が起こったのは、中国の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]であり、{{Lang|zh|騶衍}}の[[五行思想]]に[[陰陽|陰陽思想]]が結びついたものである。これが干支と結びついて'''干支五行説'''として天地間の森羅万象における根本原理であると考えられるようになった。
=== 五行説と干支 ===
[[画像:Wuxing.svg|250px|thumb|right|相生と相剋]]
{{main|五行思想}}
五行の組合せによって吉凶を占うことができるとされる。代表的なものを下に掲げる。
*「'''[[五行思想#相生(そうじょう)|相生]]'''」…この関係は、天地陰陽の気が調和を保ち、万事が順調に進んで吉とされる。
**木生火(木は火を生じる)
**火生土(火は土を生じる)
**土生金(土は金を生じる)
**金生水(金は水を生じる)
**水生木(水は木を生じる)
*「'''[[五行思想#相剋(そうこく)|相剋]]'''」…この関係は、天地の平衡が失われるため凶とされる。
**木剋土(木は土を剋す)
**土剋水(土は水を剋す)
**水剋火(水は火を剋す)
**火剋金(火は金を剋す)
**金剋木(金は木を剋す)
*「'''[[五行思想#比和(ひわ)|比和]]'''」…この関係は、同気が重なるため、五行それぞれの性質を強め、良い場合はますます良く、悪い場合はますます悪くなるとされる。
他に、[[五行思想#相侮(そうぶ)|相侮]]、[[五行思想#相乗(そうじょう)|相乗]]がある。
== 時刻と方角 ==
干支は、[[時刻]]や[[方位]]、[[角度]]を表すのにも用いられる。
=== 時刻 ===
時刻については、現代の23時から翌1時までを[[子 (十二支)|子]]の刻とし、以下、丑、寅、…と続いて、11時から13時までを[[午]]の刻とした。現在、夜0時を「[[真夜中|子夜]]」、昼12時を「[[正午]]」、正午より前を「[[午前]]」、正午より後を「[[午後]]」と称するのは、これに由来する。[[怪談]]などで用いられる「草木も眠る丑三ツどき」とは今日でいう午前2時半ごろのことである。
なお、日本で初めて中国伝来の暦日を遵用して、時刻に十二支を配し、子を真夜中としたのは[[推古天皇]]12年([[604年]]、[[甲子]]の年)の正月のことであった<ref>『日本書紀』推古天皇12年条。</ref>とされる。[[平安時代]]の[[延喜]]年間に編纂が始まり[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])に完成した「[[延喜式]]」でも、[[宮中]]の諸門の開閉や[[日の出]]、[[日の入り]]の時刻について、「申四刻六分」のように十二支を用いて示している。
=== 方位 ===
{{main|方位}}
[[画像:Model Si Nan of Han Dynasty.jpg|350px|right|thumb|「[[指南]]」(漢代)]]
[[画像:China 24 cardinal directions.png|350px|right|thumb|二十四方]]
[[画像:Ehou-direction.png|290px|right|thumb|恵方]]
十干は、[[五行説]]によって説明されるようになると五行が表す方位である[[五方]]と結び付けられた。さらに、後には十二支や、[[易]]における[[八卦]]を交えて細かい[[二十四山]]が用いられるようになった。
十二支では、[[東]]を[[卯]]、[[西]]を[[酉]]、[[南]]を[[午]]、[[北]]を[[子 (十二支)|子]]の方位としている。東西を結ぶ線([[緯線]]とは厳密には異なる)を「'''[[卯酉線]]'''(ぼうゆうせん)」、南北を結ぶ線([[経線]]に相当)を「'''[[子午線]]'''」、[[経度]]0[[度 (角度)|度]]の[[ロンドン]]の[[グリニッジ天文台]]を通る経線を「'''[[本初子午線]]'''」と呼ぶのは、これに由来する。
四隅については、[[北東]]・[[南東]]・[[南西]]・[[北西]]がそれぞれ「うしとら」<ref group="注釈">[[艮]](うしとら、北東)を[[鬼門]]とする考えは、とくに日本で深められた。[[鬼]]が[[ウシ|牛]]のような角をもち、[[トラ|虎]]皮のパンツをはいて具象されるのも、「うしとら」からの連想である。なお、鬼退治のための動物が、[[桃太郎]]の伝説では[[イヌ]]、[[サル]]、[[キジ]]なのは、「うしとら」の反対方向が「ひつじさる」で、「ひつじ」の代わりに「とり」「いぬ」が入り、さらに「とり」が「きじ」に代わっていったのではないかという推測もある。</ref>、「たつみ」<ref group="注釈">[[喜撰|喜撰法師]]の「わがいほは 都の辰巳(たつみ) しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり」の「たつみ」とは南東方向を示している。</ref>、「ひつじさる」、「いぬい」と呼ばれ、該当する[[八卦]]から、「[[艮]](ごん)」、「[[巽]](そん)」、「[[坤]](こん)」、「[[乾]](けん)」の字を充当している。指南の実物を見るかぎり、南を指すためのレンゲの形状の磁石を置いた板の模様は、[[六壬神課]]で使用する[[式盤]]の地盤の形状に酷似している。
なお、[[二十四山]](下表参考)では、十干のうちの[[戊]]・[[己]]は用いられない。したがって、十干のうちの8、十二支の12、八卦のうちの4を合わせての24方位となる。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! !! [[漢字]] !! [[中国語]] !! 日本語([[音読み|音]]) !! 日本語([[訓読み|訓]]) !! 角度 !! 方位
|-
! 1
| 子 || zǐ/ㄗˇ || し || ね || 0° || 北
|-
! 2
| 癸 || guǐ /ㄎㄨㄟˊ|| き || みずのと || 15° || 北北東微北
|-
! 3
| 丑 || chǒu /ㄔㄡˇ|| ちゅう || うし || 30° || 北北東微東
|-
! 4
| 艮 || gèn/ㄍㄣˋ || ごん || うしとら || 45° || 北東
|-
! 5
| 寅 || yín /ㄧㄣˇ|| いん || とら || 60° || 東北東微北
|-
! 6
| 甲 || jiǎ /ㄐㄧㄚˇ|| こう || きのえ || 75° || 東北東微東
|-
! 7
| 卯 || mǎo /ㄇㄠˇ|| ぼう || う || 90° || 東
|-
! 8
| 乙 || yǐ /ㄧˇ|| いつ || きのと || 105° || 東南東微東
|-
! 9
| 辰 || chén /ㄔㄣˊ|| しん || たつ || 120° || 東南東微南
|-
! 10
| 巽 || xùn /ㄒㄩㄣˋ|| そん || たつみ || 135° || 南東
|-
! 11
| 巳 || sì /ㄙˋ|| し || み || 150° || 南南東微東
|-
! 12
| 丙 || bǐng /ㄅㄧㄥˇ|| へい || ひのえ || 165° || 南南東微南
|-
! 13
| 午 || wǔ /ㄨˇ|| ご || うま || 180° || 南
|-
! 14
| 丁 || dīng /ㄉㄧㄥˉ|| てい || ひのと || 195° || 南南西微南
|-
! 15
| 未 || wèi /ㄨㄟˋ|| み || ひつじ || 210° || 南南西微西
|-
! 16
| 坤 || kūn /ㄎㄨㄣˉ|| こん || ひつじさる || 225° || 南西
|-
! 17
| 申 || shēn /ㄕㄣˉ|| しん || さる || 240° || 西南西微南
|-
! 18
| 庚 || gēng /ㄍㄥˉ|| こう || かのえ || 255° || 西南西微西
|-
! 19
| 酉 || yǒu /ㄧㄡˇ|| ゆう || とり || 270° || 西
|-
! 20
| 辛 || xīn /ㄒㄧㄣˉ|| しん || かのと || 285° || 西北西微西
|-
! 21
| 戌 || xū /ㄒㄩˉ|| じゅつ || いぬ || 300° || 西北西微北
|-
! 22
| 乾 || qián /ㄑㄧㄢˊ|| けん || いぬい || 315° || 北西
|-
! 23
| 亥 || hài /ㄏㄞˋ|| がい || い || 330° || 北北西微西
|-
! 24
| 壬 || rén /ㄖㄣˋ|| じん || みずのえ || 345° || 北北西微北
|}
十二支が方位と結合していくのは、漢代のことと考えられている。漢代には易の解釈学である「象数易」という学問が隆盛し、そこでは、易の[[六十四卦|卦]]や、それを構成する[[爻]]に、十二月、[[十二律]](音律)、十二辰(支)、[[二十四節気]]、五行、方位などが配当され、極めて複雑な理論が編み出された。
なお、[[歳徳神]]の在する方向とされる[[恵方]](えほう)は、その年の干名によって定められている。
== 干支にかかわる伝承や俗信 ==
干支が十二獣や陰陽五行思想と結びついたことで、さまざまな伝承や俗信が生まれたが、日本に伝来すると日本固有のものとも習合して独自の俗信を生んでいった。中には、[[申]](さる)の日は「去る」と通じるので[[結婚式]]を行わないなどというものもあった。
=== 還暦 ===
[[数え年]]の61歳は、生まれた年(数え年では本来的には生誕直後から1歳となる)の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「[[還暦]](かんれき)」といい、歳をとる[[正月]]には、公私ともに正式に[[隠居]]して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。この年齢に達すると親族などが赤い[[頭巾]]や[[ちゃんちゃんこ]]を贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている<ref name="名前なし-1">飯倉(2003)。</ref>。現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。2周(120年)した場合は[[大還暦]]という。
中国では「花甲」、日本と同じように60年の長寿を祝い、無病息災を願う習慣が今も続いている。
=== 辛酉革命、甲子革令 ===
中国漢代[[緯書]]にみえる予言説([[讖緯]])である。中国よりもむしろ日本で信じられた。
[[辛酉]]は[[天|天命]]が改まる年とされ、王朝が交代する[[革命]]の年で[[辛酉|辛酉革命]]という。日本では、[[平安時代]]に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、[[三善清行]]の提唱によって、辛酉年の[[昌泰]]4年([[901年]])が「[[延喜]]」と改元された。それ以来、日本では[[慶応]]に至るまで、辛酉年と前年の[[庚申]]年の2年続きで改元が実施されたが、中国ではこのような例はない。
また、『日本書紀』では、[[神武天皇]]が即位したとする年を西暦[[紀元前660年]]の辛酉の年に充てている。これについて、[[明治時代]]の歴史学者[[那珂通世]]は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があり、[[推古天皇]]9年([[601年]])がその年に充たることから、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年に充てたとの説を立てた。また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後に充たる甲子年が革令([[甲子|甲子革令]])の年であり、[[白村江の戦い]]の翌年の甲子年(西暦[[664年]])が基点とされる。
甲子革命については、中国でも、後漢末に[[太平道]]の教祖[[張角]]は[[光和]]3年([[180年]])に「{{Lang|zh-hant|蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉}}(『[[後漢書]]』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 [[皇甫嵩]]伝<ref>{{Cite wikisource|title=後漢書/卷71|author=范曄|wslanguage=zh}}</ref>)」、蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)とのスローガンを発しており、干支に基づく[[易姓革命]]を意識して[[光和]]7年([[184年]])という甲子の年に[[黄巾の乱]]を起こした史実がある。
=== 庚申 ===
[[画像:Kōshinkuyōtō, Iseyama, Fujisawa, Kanagawa.jpg|thumb|270px|right|[[神奈川県]][[藤沢市]][[伊勢山 (藤沢市)|伊勢山]]公園の庚申塔([[申]]にちなんで[[三猿]]が彫られている)]]
{{main|庚申塔}}
近代以前の日本では、[[庚申]]の日に広く庚申講が行われたが、これは[[道教]]の[[伝説]]に基づいている。
中国の言い伝えによれば、人間の頭と腹と足には[[三尸]](さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視している。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝に日頃の行いを報告し、罪状によっては[[寿命]]が縮められるとされる。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この日には徹夜しなければならないとされた。これを「守庚申」という。また、中国では、庚申の日には、菜食するのがよいとも言われていた。日本には庚申の晩に生まれた子、あるいは庚申の日の交わりで孕んだ子は盗人になるという言い伝えがあり、庚申の日に生まれた赤子には名に「金」の字を入れれば「ひと様の金を盗らない」という意味で厄除けになるとされた。[[夏目漱石]]の本名である「金之助」は、この俗信にちなむ。
日本では、「庚申さま」として庚申の日そのものも神格化された。庚申の日の夜は村人が集まって神々を祀り、その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これを[[庚申講]]という。庚申講を3年18回<ref group="注釈">庚申の日は60日ごとなので、1年に6回ある。</ref>続けた記念に建立されたのが[[庚申塔]]で、今も各地に残っている。
=== 丙午 ===
[[陰陽五行説]]によれば、[[丙]]も[[午]]もともに剛強なる陽であって[[火]]の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。
それが日本では、[[八百屋お七]]が[[丙午]]の年([[1666年]])生まれたという風説があった<ref group="注釈">実際は1668年生まれだった可能性が高い。</ref>ところから、丙午の年に生まれた[[女性]]は気性が激しく、[[夫]]の運勢を圧倒して連れ合いを短命にするという俗信に変化した<ref group="注釈">[[1810年]]『[[燕石雑志]]』に「丙午の女は必ず男を食えると世に伝えし」とある。</ref>。これは[[男性]]中心主義の見方であり、迷信俗説に類するものであるが、日本では丙午年の出産が避けられて、新生児の数が他の干支の年よりも少なかった。この迷信は戦後になっても残り、[[1966年]]の出生数は、前年比で45万人減少した136万人だった。その反動もあり、翌年の丁未の年は新生児の数が例年よりおよそ57万人増え、193万人となった。なお、同様に火の重なる[[丁巳]](ひのとみ)は[[八専]]の一つである。
=== 強の寅 ===
[[五黄の寅]]参照。
=== 干支と年中行事 ===
[[画像:Japanese Festival in Honor of the Birth of Children.jpg|thumb|270px|right|[[端午の節句]]([[江戸時代]]の[[鯉のぼり]])、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』([[1867年]])より]]
干支は、[[二十四節気]]や[[雑節]]と結びついて、各地でさまざまな[[年中行事|行事]]が行われている。
中国の漢代には、[[正月]]最初の[[子 (十二支)|子]]の日には[[皇帝]]が[[鋤]]で耕し、[[皇后]]が[[箒]]で蚕床をはらって、[[祖先神]]や[[蚕神]]をまつる行事があったといわれている。
この行事は、古代日本にも伝播しており、[[正倉院]]には使用した鋤と箒が現存している。正月初子(はつね)の日に、山野に出て若菜をつみ、若松をひいて長寿を願った行事が、『[[小右記]]』にも記された「[[子の日のお遊び]]」であり、平安時代の宮中の年中行事であった。
それ以外で著名なものとしては、次のものがある。
*[[初午]]…[[2月]]最初の[[午]]の日に[[稲荷神社]]で[[祭礼]]が行われる。
*[[端午の節句]]…[[5月]]の月初めの午(端午)の日に行われる[[年中行事]]。
*[[土用の丑の日]]…[[土用]]<ref group="注釈">[[雑節]]に基づく暦。雑節とは[[二十四節気]]以外に設けられた季節の区切りのこと。本来は、[[土用]]は[[立春]]前、[[立夏]]前、[[立秋]]前、[[立冬]]前の年4回ある。</ref>([[立秋]]前の18日間)の[[丑]]の日。[[風呂]]に入ったり、[[灸]]をしたり、「ウ」のつく食べ物<ref group="注釈">「ウ」のつく食べ物とは、丑(うし)からの連想と思われる。[[ウリ]]や[[梅干し]]、[[ウナギ]]などであるが、ことにウナギは有名である。実際に牛を食べなかったのは、肉食が憚られる時代には無理だったこと、当時の牛は肉や乳を供するのではなく主として労働力に用いられていたからなどの説がある。</ref>を食べるとよいとされた<ref name="名前なし-1"/>。
*[[田の神#亥の子|亥の子]]…旧暦10月の[[亥]]の日に行う刈上げ行事。
*[[酉の市]]…[[11月]]の[[酉]]の日の[[鷲神社]]で行われる祭礼の際、[[神社]]境内に立つ[[市場|市]]。
*[[子の日祭]]…[[ネズミ]]が[[大黒天]]の使獣と考えられたところから、[[子 (十二支)|子]]の月(11月)の子の日に行われた。
*[[丑紅]]…[[寒]]中に作った紅は質が良いとして[[丑]]の日に「丑紅(寒紅)」を売る行事。
*戌の日…[[犬]]はお産が軽いとされることから、[[帯祝い]]などにはこの日を選ぶ風習がある。
=== 選日 ===
==== 天赦日 ====
干支相生の日とされた[[天赦日]]は、「よろずよし」の大吉日と考えられてきた。春([[立春]]から[[立夏]]前まで)は[[戊寅]]、夏(立夏から[[立秋]]前まで)は[[甲午]]、秋(立秋から[[立冬]]前まで)は[[戊申]]、冬(立冬から立春前まで)は[[甲子]]の日である。
==== 三隣亡(さんりんぼう) ====
{{main|三隣亡}}
[[選日]]のひとつ。1月・4月・7月・10月の[[亥]]の日、2月・5月・8月・11月の[[寅]]の日、3月・6月・9月・12月の[[午]]の日を[[三隣亡]]という。[[棟上げ]]など[[建築]]に関することの凶日とされる。
==== 十方暮(じっぽうくれ) ====
{{main|十方暮}}
選日のひとつ。干支21番目の[[甲申]]の日から30番目の[[癸巳]]の日までの10日間を凶とした。
==== 三伏(さんぶく)====
{{main|三伏}}
選日のひとつ。[[夏至]]以降3度目の[[庚]]の日(初伏)、4度目の庚の日(中伏)、立秋以後の最初の庚の日(末伏)を凶日とする。庚(かのえ)は「金の兄」で金の陽性であり、金は火に伏せられること(火剋金)から、火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶であるとする考えに由来している。
==== それ以外の選日 ====
それ以外の選日に次のものがあり、いずれも干支が用いられる。
*[[八専]]
*[[不成就日]]
*[[天一天上]]
*[[一粒万倍日]]
*[[犯土]](大土・小土)
*[[臘日]]
=== 干支と占い ===
漢代には[[易]]の解釈学として象数易が流行し、そこでは、易の[[六十四卦|卦]]や、それを構成する[[爻]]に、十二月、十二支、二十四節気、五行、方位などが配当されて、複雑な理論が編み出された。
特に[[八卦]]と干支が結びついて占いに用いたものとして、[[納甲]]がある<ref group="注釈">納甲という名前だが、実際の占いでは十二支を使用することがほとんどである。</ref>。完成は[[前漢]]代の[[京房]]によるといわれており、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[虞翻]]らによって継承された。後には十二支も易に用いられるようになり、八卦の各爻に干支が当てはめられた。唐の李淳風は『周易元義』で八卦六位図を伝えている。
一方、[[納音]]は、陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用し、[[形容詞]]を付加して30に干支を分類したものである。生まれ年の納音は、その人の運命を判断するのに用いられた<ref group="注釈">[[荻原井泉水]]は生まれ年の納音「井泉水」を[[俳号]]としたものである。<!--[[種田山頭火]]の「山頭火」は納音に由来するが、生まれ年の納音ではなく、字面を好んでの命名という。--></ref>。
納音において凶日とされたのが[[五墓日]]であった。[[戊辰]]の日、[[壬辰]]の日、[[丙戌]]の日、[[辛丑]]の日、[[乙未]]の日がそれで<!--五墓日って納音に基づくものなのでしょうか?日干五行から日支にひいた十二運の墓で決まっているように見えるのですが-->、家作りは構わないが、動土・地固め・葬式・墓作り・播種・旅行・祈祷などは凶とされた。その名から、この日に葬式などを行うと、墓を5つ並べるといって忌むことがあった。
==== 十二直 ====
{{main|十二直}}
'''十二直'''とは、[[暦注]]の一つであり、十二支とは別の12のサイクルを月に合わせて暦をつくり、その日の吉凶を占ったものである。中国では戦国時代に萌芽が見られ、秦と[[楚 (春秋)|楚]]では異なる十二直を使用していた。現代まで伝わっているのは中国を統一した秦の十二直である。[[十二直]]は、建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉から構成される。
==== 現代における干支占い ====
現代において干支占いは、[[血液型性格分類]]や[[占星術]]と比べてマイナーである。[[ABO式血液型|血液型]]や[[星座]]は個人のプロフィールによく記述されるが、干支は記載されないことが多い。
[[心理学|心理学者]]でもあった[[増永篤彦]]によって行われた、生日の干支において干から支にひいた[[十二運]]とある種の性格分類に相関があるとする研究は、動物占いや動物占いの動物キャラクターを別のもので置き換えた様々な占いに無断で流用されている。
== 干支の求め方 ==
=== 年の干支 ===
ある年を[[西暦]](あるいは[[神武天皇即位紀元|皇紀]])で表した値を10で割った余り、すなわち一の位を求め、下表から十干を割り出す。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
! 余り(一の位)
| 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9</td></tr>
|-
! 十干
| 庚 || 辛 || 壬 || 癸 || 甲 || 乙 || 丙 || 丁 || 戊 || 己
|}
同様に、西暦(あるいは皇紀)で表した値を12で割った余りを求め、下表から十二支を割り出す。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!余り
| 0 || 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8 || 9 || 10 || 11
|-
!十二支
| 申 || 酉 || 戌 || 亥 || 子 || 丑 || 寅 || 卯 || 辰 || 巳 || 午 || 未
|}
この二つの組合せが、その年の干支である。すなわち、西暦と皇紀においては、10の倍数の年が[[庚]]、12の倍数の年が[[申]]、60の倍数の年が[[庚申]]となる。例えば、西暦2005年(皇紀2665年)は、2005(2665)を 10 で割った余りが 5 となり、12 で割った余りが 1 となるので、[[乙酉]](きのととり・いつゆう)となる。
また、西暦で表した値から 3 を引いて 60 で割った余りが干支一覧の左端の数となる(0の場合は60にする)。例えば、西暦2005年は、2005から 3 を引くと2002で、2002を 60 で割った余りは 22となり、乙酉が求められる。
現在の日本においては、[[太陽暦]]の年に対して干支を適用することが多いが、伝統的には[[節月]]([[立春]]から翌年の立春の前日まで)を1つの干支として適用することも多く、一部の占いにおいては今日にも引き継がれている。また中国においては[[太陽太陰暦]](農暦)に対して適用している。
=== 月の干支 ===
十二支は[[月 (暦)|月]]と同じ12個なので、月の十二支は毎年同じになる<!--太陽太陰暦の閏月は?-->。十干は10個なので、十二支と組み合わせると、[[太陽暦]]では5年(60か月)周期で月の同じ干支が繰り返されることになる。
{| class="wikitable"
|-
!西暦年の下1桁!!1月!!2月!!3月!!4月!!5月!!6月!!7月!!8月!!9月!!10月!!11月!!12月
|-
|甲と己(4,9)||丁丑||丙寅||丁卯||戊辰||己巳||庚午||辛未||壬申||癸酉||甲戌||乙亥||丙子
|-
|乙と庚(5,0)||己丑||戊寅||己卯||庚辰||辛巳||壬午||癸未||甲申||乙酉||丙戌||丁亥||戊子
|-
|丙と辛(6,1)||辛丑||庚寅||辛卯||壬辰||癸巳||甲午||乙未||丙申||丁酉||戊戌||己亥||庚子
|-
|丁と壬(7,2)||癸丑||壬寅||癸卯||甲辰||乙巳||丙午||丁未||戊申||己酉||庚戌||辛亥||壬子
|-
|戊と癸(8,3)||乙丑||甲寅||乙卯||丙辰||丁巳||戊午||己未||庚申||辛酉||壬戌||癸亥||甲子
|}
1月は節分以前の月に該当するため、干支は前年1月のものとなる(例:2022年1月の月の干支は辛丑)。なお、ここでいう月は「暦月」(1日から翌月1日の前日まで)を適用する場合と「[[節月]]」(節気から次の節気の前日まで)を適用する場合とがある。
=== 日の干支 ===
[[ユリウス通日]]に49を加えて60で割った余りに1を加えると、上表(「干支」のページ、一番上の右側に表示) に示した数字となる。
'''検表法'''
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="text-align:center"
|-
! colspan="8" | 十干 || A <br/> 甲 || B <br/> 乙 || C <br/> 丙 || D <br/> 丁 || E <br/> 戊 || F<br/> 己 || G<br/> 庚 || H<br/> 辛 || I<br/> 壬 || J<br/> 癸 || colspan="10" | 天<br/>干 || rowspan="15" colspan="5"| 干<br/> 支 <br/>紀 <br/>日 <br/>速 <br/>查 <br/>表
|-
| rowspan="4" colspan="4" | 世紀 || rowspan="4" colspan="4" | 日付 || 01 || 02 || 03 || 04 || 05 || 06 || 07 || 08 || 09 || 10 || rowspan="4" colspan="10" | 年
|-
| 11 || 12 || 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 20
|-
| 21 || 22 || 23 || 24 || 25 || 26 || 27 || 28 || 29 || 30
|-
| 31 || || || || || || || || ||
|-
| <span style="color:red;">16</span>
! colspan="3" | <span style="color:red;">ユリウス</span>
| 08 || colspan="3" |
! A || B || C || D || E || F || G || H || I || J
| <span style="color:red;">0</span>0 || 02 || 21 || 23 || <span style="color:red;">40</span> || 42 || 61 || 63 || <span style="color:red;">80</span> || 82
|-
| colspan="2" | || 23 || || 02 || 06 || 07 || || J || A || B || C || D || E || F || G || H || I || <span style="color:red;">04</span> || 06 || 25 || 27 || <span style="color:red;">44</span> || 46 || 65 || 67|| <span style="color:red;">84</span> || 86
|-
| 18 || colspan="3" | || 01 || 04 || 05 || <span style="color:red;">02</span> || I || J || A || B || C || D || E || F || G || H || <span style="color:red;">08</span> || 10 || 29 || 31 || <span style="color:red;">48</span> || 50 || 69 || 71 || <span style="color:red;">88</span> || 90
|-
| || {{yes|}}<span style="color:red;">20</span> || colspan="2" | || || 03 || || <span style="color:red;">01</span> || {{yes|}}H || {{yes|}}I || {{yes|}}J || {{yes|}}A || {{yes|}}B || {{yes|}}C || {{yes|}}D || {{yes|}}E || {{yes|}}F || {{yes|}}G || <span style="color:red;">12</span> || 14 || 33 || 35 || <span style="color:red;">52</span> || 54 || 73 || 75 || <span style="color:red;">92</span> || 94
|-
| colspan="4" | ||colspan="4" | || {{yes|}}G || {{yes|}}H || {{yes|}}I || {{yes|}}J || {{yes|}}A || {{yes|}}B || {{yes|}}C || {{yes|}}D || {{yes|}}E || {{yes|}}F || <span style="color:red;">16</span> || {{yes|}}18 || 37 || 39 || <span style="color:red;">56</span> || 58 || 77 || 79 || <span style="color:red;">96</span> || 98
|-
| colspan="2" | || 22 || || colspan="4" | || F || G || H || I || J || A || B || C || D || E || 01 || 03 || <span style="color:red;">20</span> || 22 || 41|| 43 || <span style="color:red;">60</span> || 62 || 81 || 83
|-
| 17 ||colspan="2" | || <span style="color:red;">24</span> || colspan="4" | || E || F || G || H || I || J || A || B || C || D || 05 || 07 || <span style="color:red;">24</span> || 26 || 45 || 47 || <span style="color:red;">64</span> || 66 || 85 || 87
|-
| colspan="4" | || colspan="4" | || D || E || F || G || H || I || J || A || B || C || 09 || 11 || <span style="color:red;">28</span> || 30 || 49 || 51 || <span style="color:red;">68</span> || 70 || 89 || 91
|-
| || 19 || colspan="2" | || 11 || 12 || colspan="2" | || C || D || E || F || G || H || I || J || A || B || 13 || 15 || <span style="color:red;">32</span> || 34 || 53 || 55 || <span style="color:red;">72</span> || 74 || 93 || 95
|-
| colspan="2" | || 21 || || 09 || 10 || colspan="2" | || B || C || D || E || F || G || H || I || J || A || 17 || 19 || <span style="color:red;">36</span> || 38 || 57 || 59 || <span style="color:red;">76</span> || 78 || 97 || 99
|-
! colspan="8" | 十二支 || A <br /> 子 || B <br /> 丑 || C <br /> 寅 || D <br /> 卯 || E <br /> 辰 || F <br /> 巳 || G <br /> 午 || H <br /> 未 || I<br /> 申 || J <br /> 酉 || K <br /> 戌 || L <br /> 亥 || colspan="13"| 地<br />支
|-
| rowspan="3" colspan="4" | 世紀 || rowspan="3" colspan="4" | 日付 || 01 || 02 || 03 || 04 || 05 || 06 || 07 || 08 || 09 || 10 || 11 || 12 || rowspan="3" colspan="13"| 年
|-
| 13 || 14 || 15 || 16 || 17 || 18 || 19 || 20 || 21 || 22 || 23 || 24
|-
| 25 || 26 || 27 || 28 || 29 || 30 || 31 || || || || ||
|-
!colspan="4" | <span style="color:red;">ユリウス</span>
|colspan="3" | || 11
! A || B || C || D || E || F || G || H || I || J || K || L
| <span style="color:red;">0</span>0 || 07 || <span style="color:red;">16</span> || 23 || <span style="color:red;">32</span> || 39 || <span style="color:red;">48</span> || 55 || <span style="color:red;">64</span> || 71 || <span style="color:red;">80</span> || 87 || <span style="color:red;">96</span>
|-
| colspan="2" | || {{yes|}}<span style="color:red;"> 20 </span> || 23 || colspan="2" | || 09 || || {{yes|}}L || {{yes|}}A || {{yes|}}B || {{yes|}}C || {{yes|}}D || {{yes|}}E || {{yes|}}F || {{yes|}}G || {{yes|}}H || {{yes|}}I || {{yes|}}J || {{yes|}}K || || 14 || || 30 || || 46 || || 62 || || 78 || || 94 ||
|-
| 17 || colspan="3" | || colspan="4" | || K || L || A || B || C || D || E || F || G || H || I || J || 05 || || 21 || || 37 || || 53 || || 69 || || 85 || ||
|-
| colspan="4" | || colspan="2" | || 07 || || J || K || L || A || B || C || D || E || F || G || H || I || 03 || <span style="color:red;">12</span>|| 19 || <span style="color:red;">28</span> || 35 || <span style="color:red;">44</span> || 51 || <span style="color:red;">60</span> || 67 || <span style="color:red;">76</span> || 83 || <span style="color:red;">92</span> || 99
|-
| colspan="3" | || <span style="color:red;">24</span> || 01 || 05 || colspan="2" | || I || J || K || L || A || B || C || D || E || F || G || H || || 10 || || 26 || || 42 || || 58 || || 74 || || 90 ||
|-
| colspan="2" | || 21 || || <span style="color:red;">01</span> || 03 || colspan="2" | || H || I || J || K || L || A || B || C || D || E || F || G || 01 || || 17 || || 33 || || 49 || || 65 || || 81 || || 97
|-
| || 18 || colspan="2" | || colspan="3" | || 12 || G || H || I || J || K || L || A || B || C || D || E || F || || <span style="color:red;">08</span> || 15 || <span style="color:red;">24</span> || 31 || <span style="color:red;">40</span> || 47 || <span style="color:red;">56</span> || 63 || <span style="color:red;">72</span> || 79 || <span style="color:red;">88</span> || 95
|-
| colspan="4" | || colspan="3" | || 10 || F || G || H || I || J || K || L || A || B || C || D || E || 06 || || 22 || || 38 || || 54 || || 70 || || 86 || ||
|-
| colspan="4" | || colspan="2" | || 08 || || E || F || G || H || I || J || K || L || A || B || C || D || || 13 || || 29 || || 45 || || 61 || || 77 || || 93 ||
|-
| colspan="2" | || 22 || || 02 || 06 || colspan="2" | || D || E || F || G || H || I || J || K || L || A || B || C || <span style="color:red;">04</span> || 11 || <span style="color:red;">20</span> || 27 || <span style="color:red;">36</span> || 43 || <span style="color:red;">52</span> || 59 || <span style="color:red;">68</span> || 75 || <span style="color:red;">84</span> || 91 ||
|-
| <span style="color:red;">16</span> || 19 || colspan="2" | || <span style="color:red;">02</span> || 04 || colspan="2" | || {{yes|}}C || {{yes|}}D || {{yes|}}E || {{yes|}}F || {{yes|}}G || {{yes|}}H || {{yes|}}I || {{yes|}}J || {{yes|}}K || {{yes|}}L || {{yes|}}A || {{yes|}}B || 02 || || {{yes|}}18 || || 34 || || 50 || || 66 || || 82 || || 98
|-
| colspan="4" | || colspan="4" | || B || C || D || E || F || G || H || I || J || K || L || A || || 09 || || 25 || || 41 || || 57 || || 73 || || 89 ||
|}
例えば、西暦2018年5月21日は、十干日付5月21日I、年18I、世紀20'''J''' (癸)、十二支5.21E、18E、20'''B'''(丑)、癸丑の日である。ユリウス暦の場合、西曆年で表した値を80で割った余りを求め(年 mod 80)、その他のステップと同じである。例えば、紀元前105年(-104 mod 80 = 56)12月25日は、十干日付12月25日G、年56G、世紀ユリウス'''A'''(甲)、十二支12.25G、56G、ユリウス'''A'''(子)、甲子の日である。例を挙げましょう。
#1960.12.6: 十干HH'''E'''戊、十二支LL'''E'''辰、干支は戊辰である。
#1800.1.1: 十干II'''G'''庚、十二支II'''C'''寅、干支は庚寅である。
#1582.10.4: 1582 mod 80 = 62、十干EE'''J'''癸、十二支II'''J'''酉、干支は癸酉である。
#-2020.2.29: -2020 mod 80 = 60、十干GG'''B'''乙、十二支GG'''J'''酉、干支は乙酉である。
'''公式法'''
*グレゴリオ暦の公式:干支数 = (10 + [年/400] - [年/100] + 年 mod 80 x 5 + [年 mod 80/4] + 月値(m) + 日(d)) mod 60。
*ユリウス暦の公式:干支数 = (8 + 年 mod 80 x 5 + [年 mod 80/4] + 月値(m) + 日(d)) mod 60。
:{| class="wikitable" style="text-align:right"
!月
|1
|2
|3
|4
|5
|6
|7
|8
|9
|10
|11
|12
|-
!月<br />値
m
||00||31||-1||30||00||31||01||32||03||33||04||34
|-
!閏年
|| -1||30
! colspan="3" |mを求める公式
| colspan="7" |([30.6(M - 3) + 0.4] - 1) mod 60
|}
*例1: 2000年1月1日
:c = 10 + [20/4] - 20 = -5
:y = 2000 mod 80 x 5 + [2000 mod 80/4] = 0
:干支数 = (c + y + m + d) mod 60
:干支数 = (-5 + 0 - 1 + 1) mod 60 = 55
:干支は戊午である。
*例2: 紀元前4713年1月1日
:c = 8
:y = -4712 mod 80 x 5 [-4712 mod 80/4] = 42
:干支数 = (8 + 42 - 1 + 1) mod 60 = 50
:干支は癸丑である。
== 干支一覧 ==
「五行」は十干、十二支それぞれの五行をあらわす。なお、十干が「弟(と)」の場合だけ、十干と十二支の間に「の」を入れて読むのが慣例である。
{|border=1 class="wikitable"
|-
!1804年–2043年 (日本)
![[西暦]]年を60で割った余り
!干支<br>(読み)
! colspan="2" |五行
![[選日]]
!その干支に関する事項
|-
|[[1860年]]–[[1861年]]<br>[[1920年]]<br>[[1980年]]<br>[[2040年]]
| style="text-align:center" | 0
|[[庚申]]<br />(かのえさる・こうしん)
|金
|金
|八専
|庚申信仰([[庚申塔]])<br />[[庚申換局]]([[1680年]]、朝鮮)
|-
|[[1861年]]–[[1862年]]<br>[[1921年]]<br>[[1981年]]<br>[[2041年]]
| style="text-align:center" | 1
|[[辛酉]]<br>(かのとのとり・しんゆう)
|金
|金
|八専
|[[辛酉邪獄]]([[1801年]]、朝鮮)<br />[[辛酉政変]]([[1861年]]、中国) <br /> [[辛酉革命]]・[[辛酉改元]]
|-
|[[1862年]]–[[1863年]]<br>[[1922年]]<br>[[1982年]]<br>[[2042年]]
| style="text-align:center" | 2
|[[壬戌]]<br>(みずのえいぬ・じんじゅつ)
|水
|土
|
|[[壬戌民乱]]([[1862年]]、朝鮮)
|-
|[[1863年]]–[[1864年]]<br>[[1923年]]<br>[[1983年]]<br>[[2043年]]
| style="text-align:center" | 3
|[[癸亥]]<br>(みずのとのい・きがい)
|水
|水
|八専
|癸亥約定([[嘉吉条約]]、[[1443年]]、朝鮮)
|-
|[[1804年]]–[[1805年]]<br>[[1864年]]–[[1865年]]<br>[[1924年]]<br>[[1984年]]
| style="text-align:center" | 4
|[[甲子]]<br>(きのえね・かっし)
|木
|水
|[[天赦日]](立冬後)
|[[甲子士禍]]([[1504年]]、[[朝鮮]])<br />[[松尾芭蕉|芭蕉]]『[[甲子吟行]]』([[1684年]])<br />[[松浦清|松浦静山]]『[[甲子夜話]]』([[1821年]]、甲子の日に執筆開始)<br />[[伊東甲子太郎]]上洛([[1864年]])<br />[[阪神甲子園球場]]開園([[1924年]])<br />[[甲子信用組合]]創業(1924年)<br />[[甲子革令]]・[[甲子改元]]<br />[[飯沼本家|甲子正宗]]
|-
|[[1805年]]–[[1806年]]<br>[[1865年]]–[[1866年]]<br>[[1925年]]<br>[[1985年]]
| style="text-align:center" | 5
|[[乙丑]]<br>(きのとのうし・いっちゅう)
|木
|土
|
|
|-
|[[1806年]]–[[1807年]]<br>[[1866年]]–[[1867年]]<br>[[1926年]]<br>[[1986年]]
| style="text-align:center" | 6
|[[丙寅]]<br>(ひのえとら・へいいん)
|火
|木
|
|[[文化の大火|丙寅の大火]]([[1806年]]、日本)<br />[[丙寅教獄]]・[[丙寅洋擾]]([[1866年]]、朝鮮)
|-
|[[1807年]]–[[1808年]]<br>[[1867年]]–[[1868年]]<br>[[1927年]]<br>[[1987年]]
| style="text-align:center" | 7
|[[丁卯]]<br>(ひのとのう・ていぼう)
|火
|木
|
|[[丁卯胡乱]]([[1627年]]、朝鮮)
|-
|[[1808年]]–[[1809年]]<br>[[1868年]]–[[1869年]]<br>[[1928年]]<br>[[1988年]]
| style="text-align:center" | 8
|[[戊辰]]<br>(つちのえたつ・ぼしん)
|土
|土
|
|[[戊辰戦争]]([[1868年]]、[[日本]])
|-
|[[1809年]]–[[1810年]]<br>[[1869年]]–[[1870年]]<br>[[1929年]]<br>[[1989年]]
| style="text-align:center" | 9
|[[己巳]]<br>(つちのとのみ・きし)
|土
|火
|
|[[己巳換局]]([[1689年]]、朝鮮)
|-
|[[1810年]]–[[1811年]]<br>[[1870年]]–[[1871年]]<br>[[1930年]]<br>[[1990年]]
| style="text-align:center" | 10
|[[庚午]]<br>(かのえうま・こうご)
|金
|火
|[[犯土|大土]]
|[[古代日本の戸籍制度#庚午年籍|庚午年籍]]([[670年]]、日本)<br />[[庚午事変]]([[1870年]]、日本)
|-
|[[1811年]]–[[1812年]]<br>[[1871年]]–[[1872年]]<br>[[1931年]]<br>[[1991年]]
| style="text-align:center" | 11
|[[辛未]]<br>(かのとのひつじ・しんび)
|金
|土
|大土
|[[辛未戸籍]]([[1871年]]、日本)<br />[[辛未洋擾]](1871年、朝鮮)
|-
|[[1812年]]–[[1813年]]<br>[[1872年]]<br>[[1932年]]<br>[[1992年]]
| style="text-align:center" | 12
|[[壬申]]<br>(みずのえさる・じんしん)
|水
|金
|大土
|[[壬申の乱]]([[672年]]、日本)<br />[[壬申戸籍]]([[1872年]]、日本)
|-
|[[1813年]]–[[1814年]]<br>[[1873年]]<br>[[1933年]]<br>[[1993年]]
| style="text-align:center" | 13
|[[癸酉]]<br />(みずのとのとり・きゆう)
|水
|金
|大土
|[[癸酉靖難]]([[1453年]]、朝鮮)
|-
|[[1814年]]–[[1815年]]<br>[[1874年]]<br>[[1934年]]<br>[[1994年]]
| style="text-align:center" | 14
|[[甲戌]]<br>(きのえいぬ・こうじゅつ)
|木
|土
|大土
|[[甲戌の獄]]・[[甲戌換局]]([[1694年]]、朝鮮)
|-
|[[1815年]]–[[1816年]]<br>[[1875年]]<br>[[1935年]]<br>[[1995年]]
| style="text-align:center" | 15
|[[乙亥]]<br>(きのとのい・いつがい)
|木
|水
|大土
|[[乙亥党論]]([[1575年]]、朝鮮)
|-
|[[1816年]]–[[1817年]]<br>[[1876年]]<br>[[1936年]]<br>[[1996年]]
| style="text-align:center" | 16
|[[丙子]]<br>(ひのえね・へいし)
|火
|水
|大土
|[[丙子冤獄]]([[1456年]]、朝鮮)<br />[[丙子胡乱]]([[1636年]]、朝鮮)<br />[[日朝修好条規|丙子修交条約]](日朝修好条規・江華島条約、[[1876年]]、朝鮮)
|-
|[[1817年]]–[[1818年]]<br>[[1877年]]<br>[[1937年]]<br>[[1997年]]
| style="text-align:center" | 17
|[[丁丑]]<br />(ひのとのうし・ていちゅう)
|火
|土
|
|[[丁丑公論]]([[1877年]]、日本)
|-
|[[1818年]]–[[1819年]]<br>[[1878年]]<br>[[1938年]]<br>[[1998年]]
| style="text-align:center" | 18
|[[戊寅]]<br>(つちのえとら・ぼいん)
|土
|木
|[[犯土|小土]]<br />天赦日([[立春]]後)
|[[戊寅元暦]]([[中国]])
|-
|[[1819年]]–[[1820年]]<br>[[1879年]]<br>[[1939年]]<br>[[1999年]]
| style="text-align:center" | 19
|[[己卯]]<br />(つちのとのう・きぼう)
|土
|木
|小土
|[[己卯士禍]]([[1519年]]、朝鮮)
|-
|[[1820年]]–[[1821年]]<br>[[1880年]]<br>[[1940年]]<br>[[2000年]]
| style="text-align:center" | 20
|[[庚辰]]<br />(かのえたつ・こうしん)
|金
|土
|小土
|
|-
|[[1821年]]–[[1822年]]<br>[[1881年]]<br>[[1941年]]<br>[[2001年]]
| style="text-align:center" | 21
|[[辛巳]]<br>(かのとのみ・しんし)
|金
|火
|小土
|
|-
|[[1822年]]–[[1823年]]<br>[[1882年]]<br>[[1942年]]<br>[[2002年]]
| style="text-align:center" | 22
|[[壬午]]<br>(みずのえうま・じんご)
|水
|火
|小土
|[[壬午事変]]([[1882年]]、朝鮮)
|-
|[[1823年]]–[[1824年]]<br>[[1883年]]<br>[[1943年]]<br>[[2003年]]
| style="text-align:center" | 23
|[[癸未]]<br>(みずのとのひつじ・きび)
|水
|土
|小土
|
|-
|[[1824年]]–[[1825年]]<br>[[1884年]]<br>[[1944年]]<br>[[2004年]]
| style="text-align:center" | 24
|[[甲申]]<br>(きのえさる・こうしん)
|木
|金
|小土・[[十方暮]]
|[[甲申政変]]([[1884年]]、朝鮮)
|-
|[[1825年]]–[[1826年]]<br>[[1885年]]<br>[[1945年]]<br>[[2005年]]
| style="text-align:center" | 25
|[[乙酉]]<br>(きのとのとり・いつゆう)
|木
|金
|十方暮
|
|-
|[[1826年]]–[[1827年]]<br>[[1886年]]<br>[[1946年]]<br>[[2006年]]
| style="text-align:center" | 26
|[[丙戌]]<br>(ひのえいぬ・へいじゅつ)
|火
|土
|十方暮
|
|-
|[[1827年]]–[[1828年]]<br>[[1887年]]<br>[[1947年]]<br>[[2007年]]
| style="text-align:center" | 27
|[[丁亥]]<br>(ひのとのい・ていがい)
|火
|水
|十方暮
|
|-
|[[1828年]]–[[1829年]]<br>[[1888年]]<br>[[1948年]]<br>[[2008年]]
| style="text-align:center" | 28
|[[戊子]]<br>(つちのえね・ぼし)
|土
|水
|十方暮
|
|-
|[[1829年]]–[[1830年]]<br>[[1889年]]<br>[[1949年]]<br>[[2009年]]
| style="text-align:center" | 29
|[[己丑]]<br>(つちのとのうし・きちゅう)
|土
|土
|十方暮
|
|-
|[[1830年]]–[[1831年]]<br>[[1890年]]<br>[[1950年]]<br>[[2010年]]
| style="text-align:center" | 30
|[[庚寅]]<br>(かのえとら・こういん)
|金
|木
|十方暮
|[[庚寅年籍]]([[690年]]、日本)<br />[[庚寅新誌社]]創業([[1890年]]、4年後に日本初の[[時刻表]]創刊)
|-
|[[1831年]]–[[1832年]]<br>[[1891年]]<br>[[1951年]]<br>[[2011年]]
| style="text-align:center" | 31
|[[辛卯]]<br>(かのとのう・しんぼう)
|金
|木
|十方暮
|
|-
|[[1832年]]–[[1833年]]<br>[[1892年]]<br>[[1952年]]<br>[[2012年]]
| style="text-align:center" | 32
|[[壬辰]]<br>(みずのえたつ・じんしん)
|水
|土
|十方暮
|[[文禄・慶長の役#文禄の役|壬辰倭乱]]([[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]、[[1592年]]、朝鮮)
|-
|[[1833年]]–[[1834年]]<br>[[1893年]]<br>[[1953年]]<br>[[2013年]]
| style="text-align:center" | 33
|[[癸巳]]<br>(みずのとのみ・きし)
|水
|火
|十方暮<br />[[天一神#天一天上|天一天上]]
|
|-
|[[1834年]]–[[1835年]]<br>[[1894年]]<br>[[1954年]]<br>[[2014年]]
| style="text-align:center" | 34
|[[甲午]]<br>(きのえうま・こうご)
|木
|火
|天一天上<br />天赦日(立夏後)
|[[甲午農民戦争]]([[1894年]]、朝鮮)<br />[[日清戦争|甲午戦争]]([[日清戦争]] 1894年、中国)
|-
|[[1835年]]–[[1836年]]<br>[[1895年]]<br>[[1955年]]<br>[[2015年]]
| style="text-align:center" | 35
|[[乙未]]<br>(きのとのひつじ・いつび)
|木
|土
|天一天上
|[[乙未戦争]]([[1895年]]、[[台湾]])<br />[[乙未事変]](1895年、朝鮮)
|-
|[[1836年]]–[[1837年]]<br>[[1896年]]<br>[[1956年]]<br>[[2016年]]
| style="text-align:center" | 36
|[[丙申]]<br>(ひのえさる・へいしん)
|火
|金
|天一天上
|
|-
|[[1837年]]–[[1838年]]<br>[[1897年]]<br>[[1957年]]<br>[[2017年]]
| style="text-align:center" | 37
|[[丁酉]]<br>(ひのとのとり・ていゆう)
|火
|金
|天一天上
|[[文禄・慶長の役#慶長の役|丁酉再乱]]([[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]、[[1597年]]、朝鮮)<br />[[明暦の大火|丁酉火事]]([[1657年]]、日本)<br />[[丁酉文社]]([[1897年]]、日本)
|-
|[[1838年]]–[[1839年]]<br>[[1898年]]<br>[[1958年]]<br>[[2018年]]
| style="text-align:center" | 38
|[[戊戌]]<br>(つちのえいぬ・ぼじゅつ)
|土
|土
|天一天上
|[[高野長英]]『[[戊戌夢物語]]』([[1838年]])<br />[[戊戌変法]]・[[戊戌政変]]([[1898年]]、中国)
|-
|[[1839年]]–[[1840年]]<br>[[1899年]]<br>[[1959年]]<br>[[2019年]]
| style="text-align:center" | 39
|[[己亥]]<br>(つちのとのい・きがい)
|土
|水
|天一天上
|己亥東征([[応永の外寇]]、[[1419年]]、朝鮮)<br />[[礼訟#第1次礼訟(己亥礼訟)|己亥礼訟]]([[1659年]]、朝鮮)<br />[[己亥邪獄]]([[1839年]]、朝鮮)
|-
|[[1840年]]–[[1841年]]<br>[[1900年]]<br>[[1960年]]<br>[[2020年]]
| style="text-align:center" | 40
|[[庚子]]<br>(かのえね・こうし)
|金
|水
|天一天上
|[[義和団の乱|庚子事変(北清事変)]]([[1900年]]、中国)<br />[[庚子賠款]](1900年、中国)
|-
|[[1841年]]–[[1842年]]<br>[[1901年]]<br>[[1961年]]<br>[[2021年]]
| style="text-align:center" | 41
|[[辛丑]]<br>(かのとのうし・しんちゅう)
|金
|土
|天一天上
|[[北京議定書|辛丑条約(北京議定書)]]([[1901年]]、中国)
|-
|[[1842年]]–[[1843年]]<br>[[1902年]]<br>[[1962年]]<br>[[2022年]]
| style="text-align:center" | 42
|[[壬寅]]<br>(みずのえとら・じんいん)
|水
|木
|天一天上
|
|-
|[[1843年]]–[[1844年]]<br>[[1903年]]<br>[[1963年]]<br>[[2023年]]
| style="text-align:center" | 43
|[[癸卯]]<br>(みずのとのう・きぼう)
|水
|木
|天一天上
|[[癸卯園遊会]]([[1903年]]、日本)
|-
|[[1844年]]–[[1845年]]<br>[[1904年]]<br>[[1964年]]<br>[[2024年]]
| style="text-align:center" | 44
|[[甲辰]]<br>(きのえたつ・こうしん)
|木
|土
|天一天上
|
|-
|[[1845年]]–[[1846年]]<br>[[1905年]]<br>[[1965年]]<br>[[2025年]]
| style="text-align:center" | 45
|[[乙巳]]<br>(きのとのみ・いっし)
|木
|火
|天一天上
|[[乙巳の変]]([[645年]]、日本)<br />[[乙巳士禍]]([[1545年]]、朝鮮)<br />[[乙巳保護条約]]([[1905年]]、日本・[[大韓帝国]])
|-
|[[1846年]]–[[1847年]]<br>[[1906年]]<br>[[1966年]]<br>[[2026年]]
| style="text-align:center" | 46
|[[丙午]]<br>(ひのえうま・へいご)
|火
|火
|天一天上
|生まれ年にかかる俗信([[丙午#迷信|ひのえうまの迷信]])
|-
|[[1847年]]–[[1848年]]<br>[[1907年]]<br>[[1967年]]<br>[[2027年]]
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|[[丁未]]<br>(ひのとのひつじ・ていび)
|火
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|天一天上
|[[丁未換局]]([[1727年]]、朝鮮)<br />[[丁未印社]]([[1907年]]、日本)
|-
|[[1848年]]–[[1849年]]<br>[[1908年]]<br>[[1968年]]<br>[[2028年]]
| style="text-align:center" | 48
|[[戊申]]<br>(つちのえさる・ぼしん)
|土
|金
|天一天上<br />天赦日(立秋後)
|[[戊申の乱]]([[1728年]]、朝鮮)<br />[[戊申詔書]]([[1908年]]、日本)<br/>事件節戊申([[テト攻勢]]、1968年、ベトナム)
|-
|[[1849年]]–[[1850年]]<br>[[1909年]]<br>[[1969年]]<br>[[2029年]]
| style="text-align:center" | 49
|[[己酉]]<br>(つちのとのとり・きゆう)
|土
|金
|
|[[己酉約条]](慶長条約、[[1609年]]、朝鮮)
|-
|[[1850年]]–[[1851年]]<br>[[1910年]]<br>[[1970年]]<br>[[2030年]]
| style="text-align:center" | 50
|[[庚戌]]<br />(かのえいぬ・こうじゅつ)
|金
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|
|[[庚戌の変]]([[1550年]]、中国)
|-
|[[1851年]]–[[1852年]]<br>[[1911年]]<br>[[1971年]]<br>[[2031年]]
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|[[辛亥]]<br>(かのとのい・しんがい)
|金
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|
|[[辛亥邪獄]]([[1791年]]、朝鮮)<br />[[辛亥革命]]([[1911年]]、中国)
|-
|[[1852年]]–[[1853年]]<br>[[1912年]]<br>[[1972年]]<br>[[2032年]]
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|[[壬子]]<br>(みずのえね・じんし)
|水
|水
|[[八専]]
|
|-
|[[1853年]]–[[1854年]]<br>[[1913年]]<br>[[1973年]]<br>[[2033年]]
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|[[癸丑]]<br>(みずのとのうし・きちゅう)
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|
|-
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|[[1855年]]–[[1856年]]<br>[[1915年]]<br>[[1975年]]<br>[[2035年]]
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|木
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|火
|火
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|-
|[[1858年]]–[[1859年]]<br>[[1918年]]<br>[[1978年]]<br>[[2038年]]
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|[[戊午]]<br>(つちのえうま・ぼご)
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|[[戊午士禍]]([[1498年]]、朝鮮)<br />[[戊午の密勅]]([[1858年]]、日本)
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|[[1859年]]–[[1860年]]<br>[[1919年]]<br>[[1979年]]<br>[[2039年]]
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|[[己未]]<br>(つちのとのひつじ・きび)
|土
|土
|八専
|
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=飯倉晴武|authorlink=飯倉晴武|year=2003|month=1|title=日本人のしきたり|publisher=[[青春出版社]]|series=青春新書|isbn=4-413-04046-5|ref=飯倉}}
* {{Cite book|和書|author=今井宇三郎|authorlink=今井宇三郎|year=1958|month=|title=宋代易学の研究|publisher=[[明治図書出版]]|isbn=|ref=今井}}
* {{Cite book|和書|author=宇治谷孟|authorlink=宇治谷孟|year=1988|month=8|title=日本書紀(下)|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-158834-6|ref=書紀}}
* {{Cite book|和書|author=木村英一|authorlink=木村英一|year=1948|month=1|title=中国的実在観の研究―その学問的立場の反省|publisher=弘文堂書房|asin=B000JBMKV2|ref=木村}}
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* {{Cite book|和書|author=武田幸男|authorlink=武田幸男|year=2000|month=8|title=朝鮮史|publisher=[[山川出版社]]|series=世界各国史|isbn=4-634-41320-5|ref=武田}}
* {{Cite book|和書|author=能田忠亮|authorlink=能田忠亮|year=1979|month=11|chapter=かんし(干支)|title=日本歴史大辞典3 かた―き|publisher=[[河出書房新社]]|ref=能田}}
* {{Cite book|和書|author=福井康順|authorlink=福井康順|year=1979|month=11|chapter=えと(干支)|title=日本歴史大辞典2 え―かそ|publisher=河出書房新社|ref=福井}}
* {{Cite book|和書|author=薮内清|authorlink=薮内清|year=1980|month=1|title=歴史はいつ始まったか―年代学入門|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公新書|isbn=4-12-100590-2|ref=薮内}}
== 関連文献 ==
* 五十嵐謙吉『十二支の動物たち』八坂書房、1998年11月、ISBN 4-89694-424-0
* 石上七鞘『十二支の民俗伝承』[[おうふう]]、2003年4月、ISBN 4-273-03272-4
* 井本栄一『十二支動物の話-子丑寅卯辰巳篇』法政大学出版局、1999年12月、ISBN 4-588-35218-0
* 大西正男『十干十二支の成立の研究』大西先生論文発刊会、1975年
* [[大場磐雄]]『十二支(えと)と十二獣(どうぶつ)』[[北隆館]]、1996年10月、ISBN 4-8326-0390-6
* 奥野彦六『干支紀年考』酒井書店、1976年
* [[加藤大岳]]『干支暦抄』紀元書房、1953年
* 橋川禿『十二支神獣の信仰―十二支の民俗学』無聞舎、1975年
* [[邦光史郎]]『干支から見た日本史』[[毎日新聞社]]、1996年7月、ISBN 4-620-31122-7
* [[白川静]]『甲骨文の世界』[[平凡社]]〈[[平凡社東洋文庫]]〉1972年2月、ISBN 4-582-80204-4
* 杉山福一郎 『干支見方読方一覧―古文書解読研究資料』1983年10月
* 竹内照夫『干支物語』[[社会思想社]]〈[[現代教養文庫]]〉1971年1月、ISBN 4-390-10713-5
* 中村清兄『宇宙動物園―干支のルーツを探る』[[法政大学出版局]]、1983年1月、ISBN 4-588-35205-9
* [[南方熊楠]]『十二支考〈上〉』[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉1994年1月、ISBN 4-00-331391-7
* 南方熊楠『十二支考〈下〉』岩波書店〈岩波文庫〉1994年1月、ISBN 4-00-331392-5
* 水上静夫『干支の漢字学』[[大修館書店]]〈あじあブックス〉1998年12月、ISBN 4-469-23147-9
* [[諸橋轍次]]『十二支物語』大修館書店、1989年12月、ISBN 4-469-23049-9
* [[安岡正篤]]『干支の活学―安岡正篤 人間学講話』[[プレジデント社]]、1989年11月、ISBN 4-8334-1357-4
* [[柳宗玄]]『十二支のかたち』岩波書店、1995年2月、ISBN 4-00-260214-1
* [[薮内清]]『中国の天文暦法』[[平凡社]]、1990年11月、ISBN 4-582-50502-3
* [[吉野裕子]]『十二支―易・五行と日本の民俗』[[人文書院]]、1994年7月、ISBN 4-409-54046-7
* 陽史明『最新四柱推命理論 十干と生月「窮通宝鑑」』遊タイム出版、2006年12月、ISBN 4-86010-207-X
== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
{{ウィキプロジェクトリンク|紀年法|[[ファイル:Nuvola apps date.svg|34px|Project:紀年法]]}}
{{columns-list|colwidth=9em|40en|
* [[十干]]
* [[十二支]]
* [[甲骨文]]
* [[甲子園球場]]
* [[六十進法]]
* [[陰陽五行思想]]
* [[五行思想]]
* [[陰陽家]]
* [[讖緯]]
* [[辛酉#辛酉の年|辛酉の年]]
* [[甲子#甲子年|甲子の年]]
* [[庚申]]
* [[丙午]]
* [[方位]]
* [[十二宮]]
* [[十二神将]]
* [[干支表]]
* [[十二次]]
* [[十二運]]
* [[十二直]]
* [[中国暦]]
* [[日本の暦]]
* [[二十四節気]]
* [[雑節]]
* [[選日]]
* [[暦注]]
* [[納甲]]
* [[納音]]
* [[雑書]]
* [[琉球古字]]
* [[干支 (北方町)]]- [[北方町 (宮崎県)|北方町]]は、かつて住所に干支が当てられた珍しい自治体だった。[[延岡市]]に合併後は番地表記に用いられている。
*{{prefix}}
*{{intitle}}
}}
== 外部リンク ==
{{Wiktionary|干支|えと}}
* [https://www.ndl.go.jp/koyomi/ 日本の暦]([[国立国会図書館]])
* [http://koyomi8.com/directjp.cgi?http://koyomi8.com/sub/rekicyuu.htm 暦注計算](こよみのページ)
* [https://nakshatra.tokyo/60/ 60干支計算](月のうらないがく)
* [https://tokyoaccent.com/calendar/nengou.htm 西暦和年号干支対照一覧 ](10000年カレンダー)
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[[Category:暦注]] | 2003-04-10T12:21:27Z | 2023-12-30T13:08:07Z | false | false | false | [
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6,464 | ケイドロ | ケイドロあるいはドロケイは、鬼ごっこの一種である。警泥とも表記される。日本の伝承遊びの一つ。
「警察」(刑事、警官)と「泥棒」の二組に分かれ、警察が泥棒を捕まえて「牢屋」に入れるという設定であり、牢屋に入れられた泥棒も仲間に助けられて再び逃げることができることから、「助け鬼」に分類される。
地域によってさまざまな呼び名がある。
「警察」(鬼、追う側)と「泥棒」(子、逃げる側)に分かれて遊ぶ鬼ごっこである。警察はかくれている泥棒を見つけて捕まえ、「牢屋」に入れる。牢屋に入れられた泥棒も、仲間の泥棒に助けられると再び逃げることができる。泥棒が全員捕まると終了となり、警察と泥棒を入れ替えて次のゲームに移る。
広い場所で大勢で行うダイナミックな遊びで、ストーリー性のあるスリリングな設定もあって、子どもたちに人気の鬼ごっこの一つとなっている。日本では、昭和以前から行われていた伝承遊びの一つであり、地域によってさまざまな名称で呼ばれている(#呼称参照)。ただし、警察が泥棒を追いかけるという同様の遊びは日本以外でも見られる。
子が捕まっても仲間に助けられて再び逃げることができるという点から、「助け鬼」の一種に分類される。また、鬼と子の関係は、集団と集団の関係となることから、仲間同士での協力や作戦が重要となる。この観点からの分類では、「集団遊戯おに型」、その中の「対抗おに」に分類される。
フジテレビで放送されている『run for money 逃走中』は、ケイドロの派生形とされる。この番組のヒットにより、それを真似た遊びが小学校などで流行したが、「ミッション」が省略されたりルールが変更されたりした結果、昔からのケイドロと同じものとなっていることも多い。
地域によってさまざまな呼び名があり、「警察(刑事、警官)と泥棒」を表すケイドロ(けいどろ)・ドロケイ(どろけい)のほかに以下のように呼ばれている。
10人以上が望ましいものの、人数が少ない場合でも、警察の数を1人や2人にすることで楽しむことができる。上限は特になく、20人以上でも可能である。
3歳児から遊べるとしている資料もあるが、仲間同士の協力が必要なため一般的には5歳児以降で多く見られるとされる。幼児や小学校低学年の児童の場合は、警察の数を多めにするなどの工夫が必要であり、特に幼児の場合は、作戦会議を提案するなど仲間同士の協力を促す保育者の働きかけが重要である。さらに低年齢児の場合には、「泥棒」を「警察」が捕まえるということに対する恐怖感を「うさぎ、さる、とり」を「飼育員さん」が迎えに行くと置き換えることで和らげることができたという実践も報告されている。
校庭や公園、広場など、隠れるところのある広い場所が適する。ただし、あまり広すぎるとだらけてしまうため、泥棒が逃げてよい範囲をあらかじめ決めておくと良い。
かつては路地裏遊びの定番であり、街路や住宅の庭、家屋と家屋の隙間などを利用して遊ばれていた。
鬼ごっこの一つであるが、鬼と子はそれぞれ複数であり、かつ、少なくとも1ゲームの間において固定される。このため、鬼ごっこの中で鬼や子が複数のグループに分かれる「集団遊戯おに型」のうち、2つのグループが競う「対抗おに」に分類される。鬼と子の関係は、鬼は協力して子を捕まえようとし、子は鬼から逃れながらも他の子を助けようとするという集団と集団の関係となることから、仲間同士で協力しあうことが重要となる。
遊びの終わりは明瞭で、子がすべて捕まった時点でそのゲームは終了する。すなわち、ゲームを終わらせることができるのは鬼の側だけである。ただし、子は一度捕まっても再び復活する可能性がある点で「かくれんぼ」や「手つなぎ鬼」と異なる。この点から、「助け鬼」の一種とされる。
警察が泥棒を捕まえるというストーリー性を持ち、「追う-逃げる」という関係に加えて「仲間を助ける」という要素が加わることで、スリルのある遊びとなっている。また、鬼が警察役で子が泥棒役という、鬼ごっことは善悪が逆の立場となっていることも特徴である。日本では昭和以前から行われていた伝承遊びの一つであり、子どもたちの間で人気のある遊びの一つとなっている。明治時代にはすでに子どもたちの間で遊ばれていたとする資料もある。警察が泥棒を追いかけるという同様の遊びは、アルゼンチン、オーストリア、タイ、ブルガリアでも見られる。
特に鬼は、子を追い陣地を守る必要から運動量が多くなり、体力向上に資する。逆に子の側には、仲間を助ける際の瞬間的な判断と勇気が求められる。
1998年(平成10年)9月から10月にかけて近畿圏の大学・短期大学の保育専攻学生に行ったアンケート調査では、ケイドロをしたことがあるという回答は74.1%で、これは、ルールが必要な屋外の集団遊びの中で、Sケン(28.8%)、うずまきじゃんけん(32.0%)、陣取り(65.0%)などに次いで5番目に低い値であった。調査を行った姫路工業大学の勝木洋子らは、これらは個人の能力が直接勝敗に結び付かない集団と集団のダイナミックな遊びであり、かつては日本中で見られたこのような「弱者がいてもリーダーのもとに異年齢の集団が力を合わせる」遊びが減りつつあるのではないかと論じている。
一方で、2012年(平成24年)度に札幌大学の増田敦が同大文化学部スポーツ文化コースの1年生から3年生まで144名(男子119名、女子25名)を対象とした調査では、調査に用いた48種類の遊びのうち「好んでよくやった遊び」としてケイドロは男子で1位(66.4%)、女子では2位(68.0%)で、「知らない」または「知っているがおこなったことはない」と答えた学生は男女とも約8%であった。増田は、この結果から「男女が混じって遊んでいる様子が伺える」として「性差のない遊びであると言える」と指摘している。
また、2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)1月にかけて全国の国公私立の幼稚園・保育園1158園を対象としたアンケート調査では、ケイドロを実施している園は52.40%であったが、地域別では、東海地域は76.92%、関東地域は72.97%と、他の地域と比べて実施率が有意に高かった。調査を行った元名古屋市立大学の穐丸武臣らは、ケイドロなどは「戦後、路地裏遊びとして子どもたちに人気のあった遊び」であり、こうした遊びが幼稚園や保育園で受け継がれている地域ほど「他の伝承遊も数多く行っている可能性が高い」と推察している。なお、設置者・園種別では、私立幼稚園(59%)、公立保育園(39%)、私立保育園(48%)と比べて、国公立幼稚園の実施率(国立幼稚園67%、公立幼稚園65%)が高かった。
2004年(平成16年)からフジテレビで放送されている「run for money 逃走中(以下、逃走中)」は、ケイドロの派生形とされる。この番組のヒットにより、小学校などで「逃走中」をまねた遊びが流行した。また、保護者などによる同様の企画も全国で実施されている。
ただし、「ミッション」の設定などは小学生には難しいために省略されたり、また、昼休みなどに短時間で遊ぶためにルールの変更などがされており、結果として普通のケイドロとなっていることも多い。しかし、「逃走中」の「ハンター」(鬼)と「逃走者」(子)のイメージが共有されていることで、結果として昔ながらのケイドロと変わらないものになっていたとしても、子どもたちにとってはドラマティックで刺激的な新たな遊びとなっていると指摘されている。 | [
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"text": "かつては路地裏遊びの定番であり、街路や住宅の庭、家屋と家屋の隙間などを利用して遊ばれていた。",
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"text": "鬼ごっこの一つであるが、鬼と子はそれぞれ複数であり、かつ、少なくとも1ゲームの間において固定される。このため、鬼ごっこの中で鬼や子が複数のグループに分かれる「集団遊戯おに型」のうち、2つのグループが競う「対抗おに」に分類される。鬼と子の関係は、鬼は協力して子を捕まえようとし、子は鬼から逃れながらも他の子を助けようとするという集団と集団の関係となることから、仲間同士で協力しあうことが重要となる。",
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"text": "遊びの終わりは明瞭で、子がすべて捕まった時点でそのゲームは終了する。すなわち、ゲームを終わらせることができるのは鬼の側だけである。ただし、子は一度捕まっても再び復活する可能性がある点で「かくれんぼ」や「手つなぎ鬼」と異なる。この点から、「助け鬼」の一種とされる。",
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"text": "警察が泥棒を捕まえるというストーリー性を持ち、「追う-逃げる」という関係に加えて「仲間を助ける」という要素が加わることで、スリルのある遊びとなっている。また、鬼が警察役で子が泥棒役という、鬼ごっことは善悪が逆の立場となっていることも特徴である。日本では昭和以前から行われていた伝承遊びの一つであり、子どもたちの間で人気のある遊びの一つとなっている。明治時代にはすでに子どもたちの間で遊ばれていたとする資料もある。警察が泥棒を追いかけるという同様の遊びは、アルゼンチン、オーストリア、タイ、ブルガリアでも見られる。",
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"text": "特に鬼は、子を追い陣地を守る必要から運動量が多くなり、体力向上に資する。逆に子の側には、仲間を助ける際の瞬間的な判断と勇気が求められる。",
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"text": "1998年(平成10年)9月から10月にかけて近畿圏の大学・短期大学の保育専攻学生に行ったアンケート調査では、ケイドロをしたことがあるという回答は74.1%で、これは、ルールが必要な屋外の集団遊びの中で、Sケン(28.8%)、うずまきじゃんけん(32.0%)、陣取り(65.0%)などに次いで5番目に低い値であった。調査を行った姫路工業大学の勝木洋子らは、これらは個人の能力が直接勝敗に結び付かない集団と集団のダイナミックな遊びであり、かつては日本中で見られたこのような「弱者がいてもリーダーのもとに異年齢の集団が力を合わせる」遊びが減りつつあるのではないかと論じている。",
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"text": "一方で、2012年(平成24年)度に札幌大学の増田敦が同大文化学部スポーツ文化コースの1年生から3年生まで144名(男子119名、女子25名)を対象とした調査では、調査に用いた48種類の遊びのうち「好んでよくやった遊び」としてケイドロは男子で1位(66.4%)、女子では2位(68.0%)で、「知らない」または「知っているがおこなったことはない」と答えた学生は男女とも約8%であった。増田は、この結果から「男女が混じって遊んでいる様子が伺える」として「性差のない遊びであると言える」と指摘している。",
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"text": "また、2004年(平成16年)11月から2005年(平成17年)1月にかけて全国の国公私立の幼稚園・保育園1158園を対象としたアンケート調査では、ケイドロを実施している園は52.40%であったが、地域別では、東海地域は76.92%、関東地域は72.97%と、他の地域と比べて実施率が有意に高かった。調査を行った元名古屋市立大学の穐丸武臣らは、ケイドロなどは「戦後、路地裏遊びとして子どもたちに人気のあった遊び」であり、こうした遊びが幼稚園や保育園で受け継がれている地域ほど「他の伝承遊も数多く行っている可能性が高い」と推察している。なお、設置者・園種別では、私立幼稚園(59%)、公立保育園(39%)、私立保育園(48%)と比べて、国公立幼稚園の実施率(国立幼稚園67%、公立幼稚園65%)が高かった。",
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"text": "2004年(平成16年)からフジテレビで放送されている「run for money 逃走中(以下、逃走中)」は、ケイドロの派生形とされる。この番組のヒットにより、小学校などで「逃走中」をまねた遊びが流行した。また、保護者などによる同様の企画も全国で実施されている。",
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"text": "ただし、「ミッション」の設定などは小学生には難しいために省略されたり、また、昼休みなどに短時間で遊ぶためにルールの変更などがされており、結果として普通のケイドロとなっていることも多い。しかし、「逃走中」の「ハンター」(鬼)と「逃走者」(子)のイメージが共有されていることで、結果として昔ながらのケイドロと変わらないものになっていたとしても、子どもたちにとってはドラマティックで刺激的な新たな遊びとなっていると指摘されている。",
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] | ケイドロあるいはドロケイは、鬼ごっこの一種である。警泥とも表記される。日本の伝承遊びの一つ。 「警察」(刑事、警官)と「泥棒」の二組に分かれ、警察が泥棒を捕まえて「牢屋」に入れるという設定であり、牢屋に入れられた泥棒も仲間に助けられて再び逃げることができることから、「助け鬼」に分類される。 地域によってさまざまな呼び名がある。 | {{Redirect|ドロケイ|漫画作品およびテレビドラマ|ドロ刑}}
'''ケイドロ'''あるいは'''ドロケイ'''は、[[鬼ごっこ]]の一種である{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|小川|1988|p=513}}{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|増田|2013|p=113}}。'''警泥'''とも表記される{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}。[[日本]]の[[伝承遊び]]の一つ{{Sfn|西田他|2009|p=46}}{{Sfn|穐丸|2010|p=59}}。
「[[警察]]」{{Sfn|小川|1988|p=513}}{{Sfn|山路|2016|p=503}}{{Sfn|内藤|1987|p=12}}([[刑事]]{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|笹間|2010|p=160}}、[[警察官|警官]]{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|羽崎|2013|p=30}})と「[[泥棒]]」の二組に分かれ、警察が泥棒を捕まえて「牢屋」に入れるという設定であり、牢屋に入れられた泥棒も仲間に助けられて再び逃げることができることから、「'''助け鬼'''」に分類される{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}{{Sfn|戸田他|1989|p=317}}{{Sfn|河崎他|2007|p=95}}。
地域によってさまざまな呼び名がある{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}。
== 概要 ==
「[[警察]]」(鬼、追う側)と「[[泥棒]]」(子、逃げる側)に分かれて遊ぶ[[鬼ごっこ]]である{{Sfn|西田他|2009|p=46}}{{Sfn|笹間|2010|p=160}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}。警察はかくれている泥棒を見つけて捕まえ、「牢屋」に入れる{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|加古|2008|p=446}}。牢屋に入れられた泥棒も、仲間の泥棒に助けられると再び逃げることができる{{Sfn|笹間|2010|p=160}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|竹井|2012|p=23}}。泥棒が全員捕まると終了となり、警察と泥棒を入れ替えて次のゲームに移る{{Sfn|笹間|2010|p=160}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|竹井|2012|p=23}}。
広い場所で大勢で行うダイナミックな遊びで{{Sfn|勝木他|1999|p=499}}、ストーリー性のある{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}スリリングな設定もあって{{Sfn|菅原|1996|p=90}}、子どもたちに人気の鬼ごっこの一つとなっている{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}。[[日本]]では、[[昭和]]以前から行われていた{{Sfn|河崎|2008|p=13}}伝承遊びの一つであり{{Sfn|西田他|2009|p=46}}{{Sfn|穐丸|2010|p=59}}、地域によってさまざまな名称で呼ばれている{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}([[#呼称]]参照)。ただし、警察が泥棒を追いかけるという同様の遊びは日本以外でも見られる{{Sfn|加古|2008|p=557}}。
子が捕まっても仲間に助けられて再び逃げることができるという点から、「助け鬼」の一種に分類される{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}{{Sfn|戸田他|1989|p=317}}{{Sfn|河崎他|2007|p=95}}。また、鬼と子の関係は、集団と集団の関係となることから{{Sfn|小川|1988|p=513}}{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}、仲間同士での協力や作戦が重要となる{{Sfn|西田他|2009|p=46}}{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}{{Sfn|増田|2013|pp=113-112}}。この観点からの分類では、「集団遊戯おに型」{{Sfn|加古|2008|pp=16-17,446}}{{Sfn|増田|2013|p=120}}、その中の「対抗おに」に分類される{{Sfn|加古|2008|pp=16-17,446}}。
[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で放送されている『[[run for money 逃走中]]』は、ケイドロの派生形とされる{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}。この番組のヒットにより、それを真似た遊びが小学校などで流行したが、「ミッション」が省略されたりルールが変更されたりした結果、昔からのケイドロと同じものとなっていることも多い{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}。
== 呼称 ==
地域によってさまざまな呼び名があり{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}、「[[警察]]{{Sfn|小川|1988|p=513}}{{Sfn|山路|2016|p=503}}{{Sfn|内藤|1987|p=12}}([[刑事]]{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|笹間|2010|p=160}}、[[警察官|警官]]{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|羽崎|2013|p=30}})と泥棒」を表す'''ケイドロ'''{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|山路|2016|p=503}}{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}{{Sfn|増田|2013|p=120}}(けいどろ{{Sfn|西田他|2009|p=46}}{{Sfn|笹間|2010|p=160}}{{Sfn|加古|2008|p=446}}{{Sfn|勝木他|1999|p=498}})・'''ドロケイ'''{{Sfn|内藤|1987|p=12}}{{Sfn|河崎|2008|p=13}}{{Sfn|田中|2010|p=213}}{{Sfn|増田|2013|p=124}}(どろけい{{Sfn|増田|2013|p=109}}{{Sfn|竹井|2012|p=22}}{{Sfn|河崎他|1979|p=40}}{{Sfn|河崎|1984|p=8}})のほかに以下のように呼ばれている。
* '''どろじゅん'''・'''じゅんどろ'''{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|菅原|1996|p=90}}{{Sfn|加古|2008|p=446}} - 「泥棒と[[巡査]]」から{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}
* '''ぬすたん'''・'''ぬけたん'''{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}} - 「盗っ人と[[探偵]]」から{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}
* '''どろたん'''・'''たんどろ'''{{Sfn|加古|2008|p=446}}
* '''悪漢探偵'''{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}
* '''探偵ごっこ'''{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}
* '''ギャンポリ'''{{Sfn|加古|2008|p=446}}
== 遊び方 ==
=== 人数と年齢 ===
10人以上が望ましいものの{{Sfn|菅原|1996|p=90}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}、人数が少ない場合でも、警察の数を1人や2人にすることで楽しむことができる{{Sfn|菅原|1996|p=90}}{{Sfn|羽崎|2013|p=31}}。上限は特になく、20人以上でも可能である{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}。
3歳児から遊べるとしている資料もあるが{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}、仲間同士の協力が必要なため一般的には5歳児以降で多く見られるとされる{{Sfn|田中|2010|p=213}}。幼児や小学校低学年の児童の場合は、警察の数を多めにするなどの工夫が必要であり{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=37}}、特に幼児の場合は、作戦会議を提案するなど仲間同士の協力を促す保育者の働きかけが重要である{{Sfn|田中|2010|p=213}}。さらに低年齢児の場合には、「泥棒」を「警察」が捕まえるということに対する恐怖感を「うさぎ、さる、とり」を「飼育員さん」が迎えに行くと置き換えることで和らげることができたという実践も報告されている{{Sfn|山路|2016|p=503}}。
=== 場所 ===
[[校庭]]や[[公園]]、[[広場]]など{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}、隠れるところのある広い場所が適する{{Sfn|菅原|1996|p=90}}。ただし、あまり広すぎるとだらけてしまうため{{Sfn|竹井|2012|p=23}}、泥棒が逃げてよい範囲をあらかじめ決めておくと良い{{Sfn|菅原|1996|p=90}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|竹井|2012|p=23}}。
かつては[[生活道路|路地裏]]遊びの定番であり{{Sfn|穐丸他|2007|p=76}}、街路や[[住宅]]の[[庭]]、[[家屋]]と家屋の隙間などを利用して遊ばれていた{{Sfn|内藤|1987|p=12}}。
=== 基本ルール ===
# グループ分け
#:* じゃんけんなどで{{Sfn|菅原|1996|p=90}}{{Sfn|竹井|2012|p=22}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}「警察」と「泥棒」の2組に分かれる{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}{{Sfn|加古|2008|p=446}}{{Sfn|竹井|2012|p=22}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}。
#:** グループ分けに「[[いろは歌]]」を用いることもある{{Sfn|加古|2008|p=447}}。「いろはに'''ほ'''へ'''と'''ちり'''ぬ'''るをわかよ'''た'''」と順にあてていき、「ほ」(ポリス)あるいは「た」(探偵)が警察、「と」(泥棒)あるいは「ぬ」(盗っ人)が泥棒となる{{Sfn|加古|2008|p=447}}。
# 「牢屋」を決める
#:* あらかじめ牢屋の場所を決めておく{{Sfn|笹間|2010|p=160}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}{{Sfn|竹井|2012|p=22}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}。
#:** サッカーゴールやジャングルジム、砂場などがあればそれを牢屋としても良いし{{Sfn|竹井|2012|p=23}}、地面に丸{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}や四角{{Sfn|菅原|1996|p=90}}を書いてその内側を牢屋としても良い{{Sfn|菅原|1996|p=90}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}。また、木や鉄棒{{Sfn|多田|2002|p=27}}、ジャングルジム{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}を牢屋として、捕まった泥棒はそれに手を付くこととすることもできる{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=18}}。
#:** 牢屋の場所を決めるのは警察側とする場合もある{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|竹井|2012|p=22}}。
# ゲーム開始
#:* 警察は牢屋の中で50{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|竹井|2012|p=22}}または100{{Sfn|菅原|1996|p=90}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|加古|2008|p=446}}ないし200{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}を数え、その間に泥棒は逃げ、隠れる{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|加古|2008|p=446}}{{Sfn|竹井|2012|p=22}}。
#:* 数え終わると警察は泥棒を探し、見つけると追いかけて泥棒にタッチすることで泥棒を捕まえる{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|加古|2008|p=446}}。
#:** 警察が泥棒を捕まえたとする条件については、タッチするだけでは捕まえたことにならないとする地域もあり{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}、「捕まえて10数える{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}{{Sfn|竹井|2012|p=23}}(10数えられる前なら泥棒は警察を振り切って逃げることができる{{Sfn|多田|2002|p=27}})」、「背中を5回たたく{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}」、「牢屋まで連行する{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}」など地域によってさまざまなルールが存在する{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}。
#:* 捕まった泥棒は牢屋に入るが、仲間の捕まっていない泥棒にタッチされることで牢屋から出て再び逃げることができる{{Sfn|笹間|2010|p=160}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|竹井|2012|p=23}}。
#:** 警察は牢屋番を置く{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}、泥棒は仲間を助けるための「オトリ」になるなどの作戦が重要となる{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}。
# ゲームの終了
#:* 泥棒が全員捕まると警察の勝利となり{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}、泥棒と警察が交代して次のゲームに移る{{Sfn|笹間|2010|p=160}}{{Sfn|亀卦川|2007|p=19}}{{Sfn|加古|2008|p=446}}{{Sfn|竹井|2012|p=23}}。
== 特徴 ==
鬼ごっこの一つであるが{{Sfn|多田|2002|p=27}}{{Sfn|小川|1988|p=513}}{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}、鬼と子はそれぞれ複数であり{{Sfn|河崎他|1979|p=40}}、かつ、少なくとも1ゲームの間において固定される{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}。このため、鬼ごっこの中で鬼や子が複数のグループに分かれる「集団遊戯おに型」{{Sfn|増田|2013|p=113}}のうち、2つのグループが競う「対抗おに」に分類される{{Sfn|加古|2008|pp=16-17,446}}。鬼と子の関係は、鬼は協力して子を捕まえようとし、子は鬼から逃れながらも他の子を助けようとするという集団と集団の関係となることから{{Sfn|小川|1988|p=513}}{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}、仲間同士で協力しあうことが重要となる{{Sfn|西田他|2009|p=46}}{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}。
遊びの終わりは明瞭で、子がすべて捕まった時点でそのゲームは終了する{{Sfn|戸田他|1989|p=317}}{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}。すなわち、ゲームを終わらせることができるのは鬼の側だけである{{Sfn|戸田他|1989|p=317}}。ただし、子は一度捕まっても再び復活する可能性がある点で{{Sfn|河崎他|1979|p=41}}「[[かくれんぼ]]」や「[[手つなぎ鬼]]」と異なる{{Sfn|河崎他|1979|p=40}}。この点から、「助け鬼」の一種とされる{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}{{Sfn|戸田他|1989|p=317}}{{Sfn|河崎他|2007|p=95}}。
警察が泥棒を捕まえるというストーリー性を持ち{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}、「追う-逃げる」という関係に加えて「仲間を助ける」という要素が加わることで{{Sfn|小川|1988|p=513}}、スリルのある遊びとなっている{{Sfn|菅原|1996|p=90}}。また、鬼が警察役で子が泥棒役という、鬼ごっことは善悪が逆の立場となっていることも特徴である{{Sfn|東京おもちゃ美術館|2018|p=150}}。日本では[[昭和]]以前から行われていた{{Sfn|河崎|2008|p=13}}伝承遊びの一つであり{{Sfn|西田他|2009|p=46}}{{Sfn|穐丸|2010|p=59}}、子どもたちの間で人気のある遊びの一つとなっている{{Sfn|羽崎|2013|p=30}}{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=36}}。[[明治|明治時代]]にはすでに子どもたちの間で遊ばれていたとする資料もある{{Sfn|増田|2013|p=109}}。警察が泥棒を追いかけるという同様の遊びは、[[アルゼンチン]]、[[オーストリア]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ブルガリア]]でも見られる{{Sfn|加古|2008|p=557}}。
特に鬼は、子を追い陣地を守る必要から運動量が多くなり{{Sfn|羽崎|2013|p=31}}、体力向上に資する{{Sfn|鬼ごっこ協会|2018|p=37}}。逆に子の側には、仲間を助ける際の瞬間的な判断と勇気が求められる{{Sfn|羽崎|2013|p=31}}。
== 認知度 ==
[[1998年]]([[平成]]10年)9月から10月にかけて近畿圏の[[大学]]・[[短期大学]]の[[保育]]専攻学生に行った[[アンケート]]調査では、ケイドロをしたことがあるという回答は74.1%で、これは、ルールが必要な屋外の集団遊びの中で、[[Sケン]](28.8%)、[[うずまきじゃんけん]](32.0%)、[[陣取り]](65.0%)などに次いで5番目に低い値であった{{Sfn|勝木他|1999|pp=498-499}}。調査を行った[[姫路工業大学]]の[[勝木洋子]]らは、これらは個人の能力が直接勝敗に結び付かない集団と集団のダイナミックな遊びであり、かつては日本中で見られたこのような「弱者がいてもリーダーのもとに異年齢の集団が力を合わせる」遊びが減りつつあるのではないかと論じている{{Sfn|勝木他|1999|p=499}}。
一方で、[[2012年]](平成24年)度に[[札幌大学]]の[[増田敦]]が同大文化学部スポーツ文化コースの1年生から3年生まで144名(男子119名、女子25名)を対象とした調査では{{Sfn|増田|2013|p=121}}、調査に用いた48種類の遊びのうち{{Sfn|増田|2013|p=120}}「好んでよくやった遊び」としてケイドロは男子で1位(66.4%)、女子では2位(68.0%)で{{Sfn|増田|2013|p=111}}、「知らない」または「知っているがおこなったことはない」と答えた学生は男女とも約8%であった{{Sfn|増田|2013|p=109}}。増田は、この結果から「男女が混じって遊んでいる様子が伺える」として「性差のない遊びであると言える」と指摘している{{Sfn|増田|2013|p=109}}。
また、[[2004年]](平成16年)11月から[[2005年]](平成17年)1月にかけて全国の国公私立の[[幼稚園]]・[[保育所|保育園]]1158園を対象としたアンケート調査では{{Sfn|穐丸他|2007|pp=58-59}}、ケイドロを実施している園は52.40%であったが{{Sfn|穐丸他|2007|p=62}}、地域別では、[[東海地方|東海地域]]は76.92%、[[関東地方|関東地域]]は72.97%と、他の地域と比べて実施率が有意に高かった{{Sfn|穐丸他|2007|pp=69-70}}。調査を行った元[[名古屋市立大学]]の[[穐丸武臣]]らは、ケイドロなどは「戦後、[[生活道路|路地裏]]遊びとして子どもたちに人気のあった遊び」であり、こうした遊びが幼稚園や保育園で受け継がれている地域ほど「他の伝承遊も数多く行っている可能性が高い」と推察している{{Sfn|穐丸他|2007|p=76}}。なお、設置者・園種別では、私立幼稚園(59%)、公立保育園(39%)、私立保育園(48%)と比べて、国公立幼稚園の実施率(国立幼稚園67%、公立幼稚園65%)が高かった{{Sfn|穐丸|2010|pp=59-61}}。
== 派生 ==
{{See also|run for money 逃走中}}
[[2004年]]([[平成]]16年)から[[フジテレビ]]で放送されている「run for money 逃走中(以下、逃走中)」は、ケイドロの派生形とされる{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}。この番組のヒットにより、小学校などで「逃走中」をまねた遊びが流行した{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}。また、保護者などによる同様の企画も全国で実施されている{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}。
ただし、「ミッション」の設定などは小学生には難しいために省略されたり、また、昼休みなどに短時間で遊ぶためにルールの変更などがされており、結果として普通のケイドロとなっていることも多い{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}。しかし、「逃走中」の「ハンター」(鬼)と「逃走者」(子)のイメージが共有されていることで、結果として昔ながらのケイドロと変わらないものになっていたとしても、子どもたちにとってはドラマティックで刺激的な新たな遊びとなっていると指摘されている{{Sfn|杉谷|2013|p=6}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
* [[鬼ごっこ]]
* [[水雷艦長]]
* [[run for money 逃走中]]
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6,468 | ヘヴィメタル | ヘヴィメタル(英語: heavy metal)は、ロック・ミュージックのジャンルの一つ。1960年代末から1970年代の初頭にかけてイギリス及びアメリカ合衆国などで広く発展したロックのスタイルのひとつである。
ハードロックとヘヴィメタルとの境界は明確ではなく、ハードロックとヘヴィメタルとを一括してHR/HM(または「HM/HR」)と呼ぶこともある。「ヘヴィメタル」という用語自体は1970年代前半から存在したが、ハードロックが1970年代前半にピークを迎えた後、同時期に台頭したパンク・ロックのスピード感を加味して独自の成長を遂げたジャンルである。
代表的なヘヴィメタルバンドとして、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ジューダス・プリースト、アイアン・メイデン、スコーピオンズ、AC/DCなどが挙げられる。
日本における基本的な略称はメタル。他にHM、ヘヴィメタ、ヘビメタなど。
このジャンルに分類されるバンドのサウンドは、ハードロック同様、エレクトリック・ギターのファズやディストーションを強調した、ラウドなものであるのが基本である。
ハードロック/ヘヴィメタルは1970年代半ばごろから、アリーナ・ロックや産業ロック的なバンドと、アルバム志向のヘヴィメタルバンドに分かれる傾向も見られた(後述)。
また、時代を経るにつれてシーンの細分化が進んだことから、ヘヴィメタルは様々なサブジャンルを持つようになった。
メンバー構成は、ロックバンド一般に見られるものとあまり変わらないことが多い。ギター、ドラム、ボーカル、ベースを主軸とする。ジャンル名のとおり音の「ヘヴィさ」が重視されるため、ギターやベースのチューニングを下げて通常より低い音が出せるようにしている場合がある。
ヘヴィメタルではギターソロが重視される場合が多く、たいていの場合は1曲の間にギターソロが挿入される。またドラムソロやベースソロも行われることも多く、歌よりも演奏で魅せるような曲やインストゥルメンタルの曲も多い。こういった傾向から、速弾きなどのテクニカルな演奏を得意とするプレイヤーを多く生み出しており、エフェクターなど音楽機材の進化と多様化に多大な影響を与えたとも言われている。代表的なギタリストには、ジミー・ペイジ、トニー・アイオミ、エドワード・ヴァン・ヘイレン、マイケル・シェンカー、アンガス・ヤング、イングヴェイ・マルムスティーン、スティーヴ・ヴァイらがいる。
通常は強いディストーションをかけ、リフはパワーコードを主体とした力強い音でミュートを効かせながら刻む場合が多い。ヘヴィメタルバンドにはギタリストが2人いることが多い。リードギター担当とリズムギター担当に分かれている場合と、2人が同じリフを弾いて重厚さを増す場合や、2人が交互にギターソロを弾くこともある。スケールにはペンタトニック、ハーモニック・マイナー・スケール、フリジアン・スケールなどが用いられることが多い。
ヴォーカルは、1970年代のハードロックの頃から見られたように、高音域の金切り声でシャウトするもの、オペラのように朗々と歌い上げるもの、デスメタルではがなり立てたり、うめくようなデスヴォイス(グラウル、グラント)という歌唱法を用いるものなどがある。ヴォーカリストには、ロバート・プラント、オジー・オズボーン、ロブ・ハルフォード、ロニー・ジェイムス・ディオ、ブライアン・ジョンソンらがいる。
ベースは、ファンクのようにためのあるベースを強調することができず地味な脇役に徹し、リズムギターのリフにユニゾンして中音域の密度を上げ、重厚感の増幅に努めていることが多い。他ジャンルに比べ、強めのアタック音が特徴的なベーシストがしばしば見られる。代表的なベーシストには、ブルース・ロックをやってもクラシック的な「白い」演奏を行うジョン・ポール・ジョーンズなどがいる。ドラムスは総じてテンポが速く、またBPMが高くなくても手数が極めて多い傾向があるが、逆に重圧感を出すために極端にテンポを落とす場合もある。バスドラムを2つセッティングしたドラムセット(ツーバス)や、左右の足で1つのバスドラムを連続的に叩ける器具(ツイン・ペダル)を用いて、キックペダルを高速で踏み続けるプレイスタイルが採用されることがある。ドラマーには、ジョン・ボーナム、コージー・パウエルらがいる。
攻撃的な音楽性に合わせ、歌詞の内容もやはり攻撃的なものが目立つ。一般社会では悪魔崇拝やオカルト、犯罪、麻薬についてなどが問題視され、キリスト教会や若者の親世代から批判の対象になることがある。これはこのヘヴィメタルのルーツ・バンドの一つであるブラック・サバスと、そのヴォーカリスト、オジー・オズボーンなど、複数のバンドのイメージによるところが大きい。
ヘヴィメタルバンドの歌詞には、フォーク・メタルのように民俗音楽・民族音楽の影響を受けて歴史的事象を取り上げたものや、ユーライア・ヒープののアルバム『悪魔と魔法使い』の歌詞などファンタジーを感じさせるものなど様々なものがある。退廃的な内容の歌詞でも、ブラック・サバスもそうだが単に衆目を集めるための「営業用」のものも多い。ブラックメタルやマリリン・マンソンのように、本格的に反キリスト思想を音楽活動の指針とし、歌詞にもその主張を取り入れているバンドも存在するが、その一方でストライパーのようなクリスチャン・メタルと呼ばれるバンドもある。また、ヘヴィメタルバンドの歌詞やパフォーマンスを、マチズモと結びつける者もある。
政治的な思想信条や政党支持については、当然ながらミュージシャン個人によって異なる。アメリカのヘヴィメタルのミュージシャンの中には共和党の支持者もおり、ジョー・ペリー、テッド・ニュージェント、ジーン・シモンズ、アリス・クーパー、トム・アラヤ(スレイヤー)、デイヴ・ムステイン(メガデス)、サリー・エルナ(ゴッド・スマック)らがいる(HMではないが、キッド・ロックも共和党とドナルド・トランプの熱心な支持者である)。一方で、ジョン・ボンジョヴィは反共和党で、民主党支持である。日本においては、GALNERYUSの小野正利も靖国神社に参拝し竹島問題について言及している。しかし、日本の場合は特に1980年代以降、音楽と政治思想を切り離そうと考える傾向が強まり、へヴィメタルに限らず、積極的に政治的な思想信条や支持政党を表明するミュージシャンは少なくなっている。
ヘヴィメタルのファッションを端的に表した言葉としては、「レザー&スタッズ」がよく知られる。革(レザー)のジャケットに鋲(スタッズ)を大量に打ち込んだものである。 また、ステレオタイプなヘヴィメタルファッションとして、長髪、バンドロゴやアルバムジャケットをプリントした黒系のTシャツ、ジューダス・プリーストのような皮のジャンパーや皮ブーツ、細身ジーンズとスケーターシューズの合わせ、迷彩柄のカーゴパンツ、衣類に打たれたスタッド(鋲)やスパイク、バンドロゴのワッペンや缶バッジを大量に付けたジャケット(パッチGジャン)などが挙げられる。
反キリスト的なコンセプトのあるバンドでは、逆十字やペンタグラムをかたどったアクセサリーを身につけたり、白粉をベースにおどろおどろしい模様をつけた化粧(コープスペイント)などを施すこともある。マリリン・マンソンは全身をキャンパスにしてメイクと変装を施し、「アンチクライスト・スーパースター」と自称したことで知られる。
しかし、例えば皮製のファッションは、ロブ・ハルフォードのSMファッションが由来であり、他の例として黒人音楽を取り入れたコーンのようなニュー・メタルバンドでは、Bボーイファッションやストリート系ファッションを取り入れたり、スリップノットのようにマスクとユニフォームに身を包むなど、バンドやプレイヤー個人ごとのアイディアや音楽性、信条などから多様化しているのが実際である。
ヘッドバンギングした際の見栄えを良くするために長髪にしている者もいるが、HMは伝統的に長髪にするという側面もある。1990年代後半以降のジェイムズ・ヘットフィールドやフィル・アンセルモのように短髪の場合もある。ミュージシャンの高齢化により長髪を維持できずに短髪もしくは坊主頭にする者もいる。また、近年ではメタルコアやブルータル・デスメタルといったジャンルのミュージシャンやファンには長髪より短髪が多く目立ち、一見着ているバンドTシャツやキャップを見ない限りメタルファンかパンクスか見分けがつかない事もある。
音楽面では、例えば速弾きや特殊な奏法などを用い、スタジオ版よりも長時間に及ぶギター、ドラム、ベース各パートのソロタイムが設けられることが多く、曲中にギター同士やギターとキーボードで競い合うようにソロを弾いたりといったものがしばしばある。ステージ下手・中央・上手のメンバーがフォーメーションを取りリズムに合わせてヘッドバンギングしながら演奏をするのも、メタルらしい演出のひとつである。 バンドごとに見られる演出としては、
そのほかに
といった、画期的なものも見られる。他にもラムシュタインのような火吹きパフォーマンス、キッスのような花火や、キング・ダイアモンドのような巨大な舞台装置など、ライブでは派手なものが広く見られる。
ファンもこうしたパフォーマンスや演奏に応えてヘッドバンギングをしたり、指でメロイック・サインを組みながら腕を振ったりする(フィストバンギング)。更には激しく身体をぶつけ合う者(モッシュピット)、ステージからダイブする者、集団でアリーナを輪になって駆け抜ける者(サークルピット)など、ヘヴィメタル・バンドのコンサートでは、しばしば会場に激しい興奮と狂乱状態が見られ、時折それが原因で事故が発生することもある。
アイアン・メイデンをはじめとする正統派メタルバンドの作品ではデレク・リッグス、スラッシュメタルのカバーアートではエド・レプカ、メロディックデスメタルやブラックメタルの作品ではクリスティアン・ヴォーリンなどのように、著名なアーティストも存在している。また、セプティックフレッシュのSethやバロネスのJohn Baizleyのように自身もメタルミュージシャンでありながら、アートワークを手がけるものもいる。
バンドロゴでは、7000以上のバンドのロゴをデザインしてきたクリストフ・シュパイデルが著名なアーティストとして挙げられる。
名詞であるヘヴィメタルが使用されたのは、ビートニク作家であるウィリアム・S・バロウズの著作『ソフト・マシーン』(1961年)の中であり、彼はのちの作品『ノヴァ急報』でこのテーマを追求し、ヘヴィメタルという単語を依存性の強い薬物のメタファーとして用いている。また、『ローリング・ストーン』誌の音楽ジャーナリスト、レスター・バングスは1970年代の初頭にレッド・ツェッペリンやブラック・サバスに対する論評でこのヘヴィメタルという言葉を使い、この言葉が広まるきっかけとなったという。ただし、バンドの音楽性としてヘヴィメタルという形容を明示的に使ったのは、音楽プロデューサー、サンディ・パールマンが、自らプロデュースしていたブルー・オイスター・カルトに対してである。また、これには、バロウズと親交が深く、かつ、ブルー・オイスター・カルトのメンバー、アラン・レイニアの恋人でもあったパティ・スミスの影響もあったとされる。他に、「ロック(岩)よりもハード(硬い)」もしくは「ロック(岩)よりもヘヴィ(重い)」だからヘヴィメタルという説など、諸説ある。
今日ヘヴィメタルと形容される音を、最初に取り扱ったバンドについては諸説ある。初期のバンドであるレッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ディープ・パープルなどは、1960年代末から70年にデビューした「ハードロック・バンド」である。ステッペンウルフやアイアン・バタフライ、ブルー・チアー、マウンテン、ユーライア・ヒープ、フリー、ヴァニラ・ファッジなどを挙げる評論家も存在する。
ハードロック、ヘヴィメタルのルーツ楽曲としては、ビートルズの「ヘルター・スケルター - Helter Skelter」(『ザ・ビートルズ』収録、1968年発表)などがある。そのファズを使用したサウンド、激しいリフの上にシャウトするコーラス部などの音楽的な要素が特徴である。
その他にも1960年代後半からクリーム、ヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルを始めとするラウドなロックが多数現れた。また、ステッペンウルフが1968年に出した「ワイルドで行こう(ボーン・トゥ・ビー・ワイルド)」の歌詞には、オートバイ(のエンジン音)を「"Heavy Metal" thunder」と例える箇所がある。これらのバンドも音的にヘヴィメタルな要素を多分に含んでいるが、いずれもハードロックの範疇に留まるとみなすことが多い。
以上のようにハードロック、ヘヴィメタルの源流は様々挙げられる。より現在のヘヴィメタルシーンにまで直接的な影響をもたらしているバンドとして、1970年デビューのブラック・サバスがある。同年発表のファースト・アルバム『黒い安息日』やサード・アルバム『マスター・オブ・リアリティ』などのオカルト志向はユーライア・ヒープなどにも見られ、当時は新しい音楽表現と見做された。
英国のハードロックは1970年代前半に一時代を築き上げるが、ハードロック、プログレッシブ・ロックのマンネリ化への反動や大不況などから、1970年代半ばにパンク・ロック・ムーヴメントが起きる。かつてのハードロックは「オールド・ウェイヴ」と呼ばれるようになり、ブリティッシュ・ハードロック・シーンはその勢いを失っていった。しかしアンダーグラウンドシーンでは様々な若手バンドが、一部ではパンクのビートの性急感をも取り入れながら、新しい時代のハードロックを模索するようになっていた。『サウンズ』誌の記者ジェフ・バートンにより「NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)」と名付けられたこのムーヴメントは、少しずつ知られるようになっていった。1980年にはアイアン・メイデン、デフ・レパードがメジャーデビューし、シーンは一気に活性化していく。それらのバンドと比べると商業的な成功は大きくなかったものの、ヴェノムやダイアモンド・ヘッドものちのメタルシーンに影響を与えた。
NWOBHM勢に結成は先立ちながら、同時期のヘヴィメタルの立役者となったのが、同じくイギリス出身のジューダス・プリーストである。ブルースの影響を捨て去ることで、真っ白なヘヴィメタルの隆盛に寄与したのである。1969年の結成当初は比較的オーソドックスなハードロックをプレイしていた彼らであるが、やがて硬質で疾走感のあるギターリフを用い、金属的な高音ボーカルでシャウトするなどの様式美の伝統を作り出した。さらに1970年代後半からはレザー・ファッションを取り入れるなど、ステージ・パフォーマンスの面でも後々までステレオタイプ化されるような「ヘヴィメタル」のイメージを作り上げた。またモーターヘッドは、ロックンロールにパンク・ロック的な要素やスピード感のあるリズムを導入し、後のハードコア・パンクやスラッシュメタルの先駆けにもなった。さらにディープ・パープルのコンピレーション・アルバムが発売され、かつてのハードロックバンドの再評価、活躍も見られた。
イギリス以外の世界のバンドについては、ドイツのスコーピオンズ、アクセプト、オランダのヴァンデンバーグ、ゴールデン・イヤリング、オーストラリアのAC/DC、カナダのラッシュ、マホガニー・ラッシュ、デンマークのプリティ・メイズなどが注目された。日本では、1976年にBOWWOW(のちのVOW WOW)、1977年にレイジーがデビューした。
1978年にヴァン・ヘイレンがデビュー・アルバム『炎の導火線』でブレイクしたのを皮切りに、ヘヴィメタル・シーンはアメリカにも広がっていく。1980年代に入ると、1970年代初頭のヘヴィメタルに影響を受けたクワイエット・ライオット、モトリー・クルー、ラット、W.A.S.P.らの成功によりロサンゼルスのサンセット・ストリップにあったクラブを中心としたシーンが活性化する。LAメタル、またはグラム・メタルと呼ばれるジャンルが誕生する。ドッケン、ナイト・レンジャー、ポイズン、L.A.ガンズの他、東海岸ではボン・ジョヴィ、スキッド・ロウ、シンデレラなどのバンドが次々とメジャーデビューを果たした。こうしたバンドはグラム・メタルの名に違わず、グラム・ロックの影響を受けた派手でグラマラスでなルックスと、ノリのよいサウンドと歌詞が特徴で、広く若者の支持を集めることができたのである。MTVはヘヴィメタルバンドを大々的にバックアップし、産業化が進んでいくこととなる。
こうしてヘヴィメタルの巨大マーケットがアメリカに生まれると、それは旧来の英国市場とは比較にならない規模であり、欧州のバンドの多くがアメリカ進出を目指すようになった。ジューダス・プリーストやアイアン・メイデンといった英国の古参はもとより、英米以外の国からも多数のヘヴィメタルバンドがアメリカでも受け入れられ、特にオーストラリアのAC/DC、西ドイツ(当時)のスコーピオンズ、カナダのラッシュやトライアンフ等の活動が目立った。1980年代後半にはボン・ジョヴィ、デフ・レパード、ホワイトスネイクといったグループがアメリカを中心に大ヒットを連発し、ドイツのハロウィン、日本のLOUDNESSなどもビルボードのアルバムチャートに顔を出すなど、全盛期を迎えた。
80年代中頃には、アイアン・メイデンに影響を受けた音楽性で活動を開始したフェイツ・ウォーニングがアルバム『アウェイクン・ザ・ガーディアン』をリリースし、今でいうプログレッシブ・メタルの原型となるスタイルを提示した。このスタイルは後にドリーム・シアターやクイーンズライクらによって商業的な成功を収めることとなる。
1980年代中期のヨーロッパでは英国の伝統的ハードロックの影響下に、スピードを重視したアップテンポのリズムとメロディックで分かりやすい歌で人気を得たアクセプト、全米チャートでヒットを出したヨーロッパらの活躍があった。またスウェーデン出身のイングヴェイ・マルムスティーンは、クラシック音楽のバイオリニストパガニーニ、そしてディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの影響を受け、ネオクラシカルメタルと呼ばれるスタイルを確立。彼の速弾きは世界のギタリストたちに影響を与えた。
1980年代の後期になると、デスメタルやブラックメタルの荒々しいサウンドに対するリアクションとして、パワーメタルシーンができあがった。このジャンルの先駆けとしては、ジューダス・プリーストやアイアン・メイデンのようなハイトーン・ヴォーカルとスラッシュメタル由来のスピードを組み合わせることで、メロディアスで疾走感みなぎる新たな形式を生み出したドイツのハロウィンがいる。また、スウェーデンのハンマーフォール、イギリスのドラゴンフォース、フロリダのアイスド・アースなどは明らかに伝統的なNWOBHMのスタイルに影響を受けたサウンドを展開している。日本や南アメリカなどではこのジャンルの人気が根強く、ブラジルのアングラなどがポピュラーなバンドとして知られている。
NWOBHMそのものは1980年代半ばにその勢いを失ってしまうが、各国で若者達がヘヴイメタル・バンドを結成するきっかけとなった。 アメリカのアンダーグラウンドシーンでは、メタリカ、メガデス、スレイヤー、アンスラックスなどのバンドが、ヴェノムをはじめとするNWOBHMやハードコア・パンクの影響を受けながら、よりヘヴィな音楽形態であるスラッシュメタルを確立。これらはテンポの速さ、リフに重きを置いたサウンド、ダークな世界観を特徴とし、グラム・メタルとは一線を画するものであった。
80年代後半のメタルシーンを席巻したスラッシュメタルも、似通ったスタイルのバンドの乱立などで衰退していくが、フロリダではスラッシュメタルの凶暴性を突き詰めたデスメタルが、北欧ノルウェーでは、デスメタルを否定し80年代スラッシュメタルへの回帰を唱えて、反キリスト教のコンセプトを強調したブラックメタルが誕生するなど、その後のエクストリーム・メタルシーンの成立に大きな影響を与えるとともに、シーンの細分化が進んだ。
ヘヴィメタルは1980年代後半に商業的なピークを迎え、ガンズ・アンド・ローゼズやボン・ジョヴィ、ホワイト・ライオン、ウォレント、ポイズン、グレイト・ホワイト、ウィンガーらがヒットを出したが、90年代に入ると衰退の道をたどることになった。原因はポップ・ミュージック化したロックへの反発から登場した、グランジやオルタナティヴ・ロック・バンドがより若者たちの支持を集めるようになり、やがて大きなムーブメントになったからだった。この変化に対応できなかったバンド、あるいは変化の過程でファンの支持を得られなかったバンドはやがて表舞台から消えていった。
この状況を打開したのが、スラッシュ・メタルの代表と目されていたメタリカであった。彼らはアルバム『メタリカ』(1991年)でスラッシュ的なスピード性を放棄し、ヘヴィな音楽性を導入して2200万枚という大ヒットを飛ばす。また、メタリカ同様パンテラが『俗悪』で、ヘルメットが『ミーンタイム』で提示したグルーヴ・メタルというスタイルは数々のバンドが手本にした。パンテラに強く触発されたロブ・ハルフォードがジューダス・プリーストを脱退してFIGHTを結成したことは、この時期の流れを象徴するものといえる。また、インダストリアル・ロックバンド、ミニストリーは『ΚΕΦΑΛΗΞΘ‐詩篇69‐』に見られるように、従来の彼らの音楽にスラッシュメタル的な要素を加えるようになっていったが、この頃からフィア・ファクトリーをはじめとするメタル勢からも電子音楽にアプローチする動きが現れ始める。
こうした動きに呼応してヘヴィメタルシーンでは、若手ミュージシャンを中心にオルタナティヴ・メタルという新ジャンルがあらわれた。それはシンプルなリフに重いギターサウンド、現代社会を反映した歌詞、ラップの導入など、時代に適応した新しいメタル像(ニュー・メタル)であった。しかし、日本では音楽雑誌『BURRN!』を中心に、この動きをモダン・ヘヴィネスやヘヴィ・ロックと呼称して区分し、旧来のヘヴィメタルとは違うことを強調する傾向が出てきた。
このような流れの中、シャロン・オズボーンは、夫オジー・オズボーンが時代の半歩先を行く音楽性で常にヘヴィメタルの象徴であり続けたことを活かし、若手ニューメタル・バンドとオジー・オズボーン擁するブラック・サバスという組み合わせで全米をツアーするオズフェストというツアーに打って出る。これは見事に成功し、マリリン・マンソンやスリップノット、コーンなどのプロモーションに大きく貢献し、メタルコアなど後続のムーブメントに大きな影響を与えた。さらに結果的にはオジー・オズボーンそしてブラック・サバスを再認識させることに成功した。
1990年代初頭には、グレイヴやエントゥームドがイヤーエイク・レコードから1stアルバムをリリースし、デビュー。後にメロディックデスメタルシーンへ多大な影響を与えることとなるスウェディッシュ・デスメタルシーンが全盛を迎えた。
他方で、ノルウェーではデスメタルを"ライフメタル"と揶揄し、バソリーやセルティック・フロストをはじめとする1980年代スラッシュメタルの復権を唱えたブラックメタルシーンが大きな動きを見せていた。1992年には、それまでテクニカル・デスメタルとして活動をしていたダークスローンがセカンド・アルバムを発表してブラックメタルへの転向を見せ、世界中のエクストリームファンを驚愕させたともいわれる。また、1993年にはイギリスの『ケラング!』誌がブラックメタル特集を大々的に行い、多くの聴衆の目をひくこととなった。
同じく1990年代初頭にはトラブルがドゥームメタルにアシッドロックの音楽性を融合させ、カテドラルがイヤーエイク・レコードからデビューを果たしている。つづく1992年にはカイアスとスリープが重要なアルバムをリリースし、後でいうストーナーロック・シーンをつくりあげることに貢献した。こうして1990年代は、新しい時代にふさわしい姿に成長したバンド、消えていった旧世代のバンド、時代に応じて現れた若手のバンドと、世代交代が急速に進んでいった時代であったといえる。
1990年代後半のヨーロッパでは、デスメタルに叙情的なメロディを取り入れたメロディックデスメタル、ゴシック・ロックのサウンドやゴスファッションを取り入れたゴシックメタル、ヘヴィメタル的な要素を守りつつもニュースクール・ハードコアに接近したメタルコア、など、新たな動きが生み出されていった。
また、ヘヴィメタルと電子音楽との融合は1990年代初頭のインダストリアル・メタルなど過去から行われていたが、2000年代に入ってパソコンの普及が進んだことから、テクノ、エレクトロニカ、トランス、などの要素を取り入れたメタルバンドも現れるようになっている。このようなサブジャンル化(後述)は現在も止まることなく進んでいる。 この流れから、2000年代はスリップノットによるニュー・メタルの台頭や、リンキンパークやインキュバスなどによる、DJを含めた新しいスタイルの演奏に影響を与え、伝統的なヘヴィメタルと一線を画していった。
また、ベテランのヘヴィメタル・バンドであるジューダス・プリーストやアイアン・メイデンらも活躍した。黄金期のラインナップで再興した彼らは、新たなアルバムの発売やツアーを行い、メタルシーンの活性化に貢献した。シャロン・オズボーンもまたこうした動きに注目し、これらのベテラン・バンドと新しいバンドが新旧問わず多数参加する「オズフェスト」を毎年開催されるイベントに育てた。
音楽業界に「再結成ブーム」が到来したこともあり、多くのベテランバンドも再結成した。特にモトリー・クルーやヨーロッパ、ホワイトスネイクなどは再結成ツアーが成功を収めた。ジャパニーズ・メタルにおいてもラウドネスがオリジナルメンバーに戻ったり、アースシェイカーやANTHEM、BOWWOWにSHOW-YA等が再結成したりするなど、同じような現象が起きている。一方でスリップノットが「Knotfest」(ノットフェスト)を主催して、親交のあるメタルバンドと世界規模のツアーを実現するなど、新しい世代による音楽活動も精力的に行われた。
ジャパニーズ・メタルを参照。
地域ごとに特有の音楽性が認められる場合、地域別サブジャンルが出来る場合がある。
ヘヴィメタル・アーティストの一覧を参照。
ジャパニーズ・メタルアーティスト一覧を参照。 | [
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"text": "ヘヴィメタル(英語: heavy metal)は、ロック・ミュージックのジャンルの一つ。1960年代末から1970年代の初頭にかけてイギリス及びアメリカ合衆国などで広く発展したロックのスタイルのひとつである。",
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"text": "ハードロックとヘヴィメタルとの境界は明確ではなく、ハードロックとヘヴィメタルとを一括してHR/HM(または「HM/HR」)と呼ぶこともある。「ヘヴィメタル」という用語自体は1970年代前半から存在したが、ハードロックが1970年代前半にピークを迎えた後、同時期に台頭したパンク・ロックのスピード感を加味して独自の成長を遂げたジャンルである。",
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"text": "代表的なヘヴィメタルバンドとして、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ジューダス・プリースト、アイアン・メイデン、スコーピオンズ、AC/DCなどが挙げられる。",
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"text": "日本における基本的な略称はメタル。他にHM、ヘヴィメタ、ヘビメタなど。",
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"text": "このジャンルに分類されるバンドのサウンドは、ハードロック同様、エレクトリック・ギターのファズやディストーションを強調した、ラウドなものであるのが基本である。",
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"text": "ハードロック/ヘヴィメタルは1970年代半ばごろから、アリーナ・ロックや産業ロック的なバンドと、アルバム志向のヘヴィメタルバンドに分かれる傾向も見られた(後述)。",
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"text": "また、時代を経るにつれてシーンの細分化が進んだことから、ヘヴィメタルは様々なサブジャンルを持つようになった。",
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"text": "メンバー構成は、ロックバンド一般に見られるものとあまり変わらないことが多い。ギター、ドラム、ボーカル、ベースを主軸とする。ジャンル名のとおり音の「ヘヴィさ」が重視されるため、ギターやベースのチューニングを下げて通常より低い音が出せるようにしている場合がある。",
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"text": "ヘヴィメタルではギターソロが重視される場合が多く、たいていの場合は1曲の間にギターソロが挿入される。またドラムソロやベースソロも行われることも多く、歌よりも演奏で魅せるような曲やインストゥルメンタルの曲も多い。こういった傾向から、速弾きなどのテクニカルな演奏を得意とするプレイヤーを多く生み出しており、エフェクターなど音楽機材の進化と多様化に多大な影響を与えたとも言われている。代表的なギタリストには、ジミー・ペイジ、トニー・アイオミ、エドワード・ヴァン・ヘイレン、マイケル・シェンカー、アンガス・ヤング、イングヴェイ・マルムスティーン、スティーヴ・ヴァイらがいる。",
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"text": "通常は強いディストーションをかけ、リフはパワーコードを主体とした力強い音でミュートを効かせながら刻む場合が多い。ヘヴィメタルバンドにはギタリストが2人いることが多い。リードギター担当とリズムギター担当に分かれている場合と、2人が同じリフを弾いて重厚さを増す場合や、2人が交互にギターソロを弾くこともある。スケールにはペンタトニック、ハーモニック・マイナー・スケール、フリジアン・スケールなどが用いられることが多い。",
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"text": "ヴォーカルは、1970年代のハードロックの頃から見られたように、高音域の金切り声でシャウトするもの、オペラのように朗々と歌い上げるもの、デスメタルではがなり立てたり、うめくようなデスヴォイス(グラウル、グラント)という歌唱法を用いるものなどがある。ヴォーカリストには、ロバート・プラント、オジー・オズボーン、ロブ・ハルフォード、ロニー・ジェイムス・ディオ、ブライアン・ジョンソンらがいる。",
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"text": "ベースは、ファンクのようにためのあるベースを強調することができず地味な脇役に徹し、リズムギターのリフにユニゾンして中音域の密度を上げ、重厚感の増幅に努めていることが多い。他ジャンルに比べ、強めのアタック音が特徴的なベーシストがしばしば見られる。代表的なベーシストには、ブルース・ロックをやってもクラシック的な「白い」演奏を行うジョン・ポール・ジョーンズなどがいる。ドラムスは総じてテンポが速く、またBPMが高くなくても手数が極めて多い傾向があるが、逆に重圧感を出すために極端にテンポを落とす場合もある。バスドラムを2つセッティングしたドラムセット(ツーバス)や、左右の足で1つのバスドラムを連続的に叩ける器具(ツイン・ペダル)を用いて、キックペダルを高速で踏み続けるプレイスタイルが採用されることがある。ドラマーには、ジョン・ボーナム、コージー・パウエルらがいる。",
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"text": "攻撃的な音楽性に合わせ、歌詞の内容もやはり攻撃的なものが目立つ。一般社会では悪魔崇拝やオカルト、犯罪、麻薬についてなどが問題視され、キリスト教会や若者の親世代から批判の対象になることがある。これはこのヘヴィメタルのルーツ・バンドの一つであるブラック・サバスと、そのヴォーカリスト、オジー・オズボーンなど、複数のバンドのイメージによるところが大きい。",
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"text": "ヘヴィメタルバンドの歌詞には、フォーク・メタルのように民俗音楽・民族音楽の影響を受けて歴史的事象を取り上げたものや、ユーライア・ヒープののアルバム『悪魔と魔法使い』の歌詞などファンタジーを感じさせるものなど様々なものがある。退廃的な内容の歌詞でも、ブラック・サバスもそうだが単に衆目を集めるための「営業用」のものも多い。ブラックメタルやマリリン・マンソンのように、本格的に反キリスト思想を音楽活動の指針とし、歌詞にもその主張を取り入れているバンドも存在するが、その一方でストライパーのようなクリスチャン・メタルと呼ばれるバンドもある。また、ヘヴィメタルバンドの歌詞やパフォーマンスを、マチズモと結びつける者もある。",
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"text": "政治的な思想信条や政党支持については、当然ながらミュージシャン個人によって異なる。アメリカのヘヴィメタルのミュージシャンの中には共和党の支持者もおり、ジョー・ペリー、テッド・ニュージェント、ジーン・シモンズ、アリス・クーパー、トム・アラヤ(スレイヤー)、デイヴ・ムステイン(メガデス)、サリー・エルナ(ゴッド・スマック)らがいる(HMではないが、キッド・ロックも共和党とドナルド・トランプの熱心な支持者である)。一方で、ジョン・ボンジョヴィは反共和党で、民主党支持である。日本においては、GALNERYUSの小野正利も靖国神社に参拝し竹島問題について言及している。しかし、日本の場合は特に1980年代以降、音楽と政治思想を切り離そうと考える傾向が強まり、へヴィメタルに限らず、積極的に政治的な思想信条や支持政党を表明するミュージシャンは少なくなっている。",
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"text": "ヘヴィメタルのファッションを端的に表した言葉としては、「レザー&スタッズ」がよく知られる。革(レザー)のジャケットに鋲(スタッズ)を大量に打ち込んだものである。 また、ステレオタイプなヘヴィメタルファッションとして、長髪、バンドロゴやアルバムジャケットをプリントした黒系のTシャツ、ジューダス・プリーストのような皮のジャンパーや皮ブーツ、細身ジーンズとスケーターシューズの合わせ、迷彩柄のカーゴパンツ、衣類に打たれたスタッド(鋲)やスパイク、バンドロゴのワッペンや缶バッジを大量に付けたジャケット(パッチGジャン)などが挙げられる。",
"title": "詳細"
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"text": "反キリスト的なコンセプトのあるバンドでは、逆十字やペンタグラムをかたどったアクセサリーを身につけたり、白粉をベースにおどろおどろしい模様をつけた化粧(コープスペイント)などを施すこともある。マリリン・マンソンは全身をキャンパスにしてメイクと変装を施し、「アンチクライスト・スーパースター」と自称したことで知られる。",
"title": "詳細"
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"text": "しかし、例えば皮製のファッションは、ロブ・ハルフォードのSMファッションが由来であり、他の例として黒人音楽を取り入れたコーンのようなニュー・メタルバンドでは、Bボーイファッションやストリート系ファッションを取り入れたり、スリップノットのようにマスクとユニフォームに身を包むなど、バンドやプレイヤー個人ごとのアイディアや音楽性、信条などから多様化しているのが実際である。",
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"text": "ヘッドバンギングした際の見栄えを良くするために長髪にしている者もいるが、HMは伝統的に長髪にするという側面もある。1990年代後半以降のジェイムズ・ヘットフィールドやフィル・アンセルモのように短髪の場合もある。ミュージシャンの高齢化により長髪を維持できずに短髪もしくは坊主頭にする者もいる。また、近年ではメタルコアやブルータル・デスメタルといったジャンルのミュージシャンやファンには長髪より短髪が多く目立ち、一見着ているバンドTシャツやキャップを見ない限りメタルファンかパンクスか見分けがつかない事もある。",
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"text": "音楽面では、例えば速弾きや特殊な奏法などを用い、スタジオ版よりも長時間に及ぶギター、ドラム、ベース各パートのソロタイムが設けられることが多く、曲中にギター同士やギターとキーボードで競い合うようにソロを弾いたりといったものがしばしばある。ステージ下手・中央・上手のメンバーがフォーメーションを取りリズムに合わせてヘッドバンギングしながら演奏をするのも、メタルらしい演出のひとつである。 バンドごとに見られる演出としては、",
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"text": "そのほかに",
"title": "詳細"
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"text": "といった、画期的なものも見られる。他にもラムシュタインのような火吹きパフォーマンス、キッスのような花火や、キング・ダイアモンドのような巨大な舞台装置など、ライブでは派手なものが広く見られる。",
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"text": "ファンもこうしたパフォーマンスや演奏に応えてヘッドバンギングをしたり、指でメロイック・サインを組みながら腕を振ったりする(フィストバンギング)。更には激しく身体をぶつけ合う者(モッシュピット)、ステージからダイブする者、集団でアリーナを輪になって駆け抜ける者(サークルピット)など、ヘヴィメタル・バンドのコンサートでは、しばしば会場に激しい興奮と狂乱状態が見られ、時折それが原因で事故が発生することもある。",
"title": "詳細"
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"text": "アイアン・メイデンをはじめとする正統派メタルバンドの作品ではデレク・リッグス、スラッシュメタルのカバーアートではエド・レプカ、メロディックデスメタルやブラックメタルの作品ではクリスティアン・ヴォーリンなどのように、著名なアーティストも存在している。また、セプティックフレッシュのSethやバロネスのJohn Baizleyのように自身もメタルミュージシャンでありながら、アートワークを手がけるものもいる。",
"title": "詳細"
},
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"text": "バンドロゴでは、7000以上のバンドのロゴをデザインしてきたクリストフ・シュパイデルが著名なアーティストとして挙げられる。",
"title": "詳細"
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"text": "名詞であるヘヴィメタルが使用されたのは、ビートニク作家であるウィリアム・S・バロウズの著作『ソフト・マシーン』(1961年)の中であり、彼はのちの作品『ノヴァ急報』でこのテーマを追求し、ヘヴィメタルという単語を依存性の強い薬物のメタファーとして用いている。また、『ローリング・ストーン』誌の音楽ジャーナリスト、レスター・バングスは1970年代の初頭にレッド・ツェッペリンやブラック・サバスに対する論評でこのヘヴィメタルという言葉を使い、この言葉が広まるきっかけとなったという。ただし、バンドの音楽性としてヘヴィメタルという形容を明示的に使ったのは、音楽プロデューサー、サンディ・パールマンが、自らプロデュースしていたブルー・オイスター・カルトに対してである。また、これには、バロウズと親交が深く、かつ、ブルー・オイスター・カルトのメンバー、アラン・レイニアの恋人でもあったパティ・スミスの影響もあったとされる。他に、「ロック(岩)よりもハード(硬い)」もしくは「ロック(岩)よりもヘヴィ(重い)」だからヘヴィメタルという説など、諸説ある。",
"title": "語源"
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"text": "今日ヘヴィメタルと形容される音を、最初に取り扱ったバンドについては諸説ある。初期のバンドであるレッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ディープ・パープルなどは、1960年代末から70年にデビューした「ハードロック・バンド」である。ステッペンウルフやアイアン・バタフライ、ブルー・チアー、マウンテン、ユーライア・ヒープ、フリー、ヴァニラ・ファッジなどを挙げる評論家も存在する。",
"title": "歴史"
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"text": "ハードロック、ヘヴィメタルのルーツ楽曲としては、ビートルズの「ヘルター・スケルター - Helter Skelter」(『ザ・ビートルズ』収録、1968年発表)などがある。そのファズを使用したサウンド、激しいリフの上にシャウトするコーラス部などの音楽的な要素が特徴である。",
"title": "歴史"
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"text": "その他にも1960年代後半からクリーム、ヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルを始めとするラウドなロックが多数現れた。また、ステッペンウルフが1968年に出した「ワイルドで行こう(ボーン・トゥ・ビー・ワイルド)」の歌詞には、オートバイ(のエンジン音)を「\"Heavy Metal\" thunder」と例える箇所がある。これらのバンドも音的にヘヴィメタルな要素を多分に含んでいるが、いずれもハードロックの範疇に留まるとみなすことが多い。",
"title": "歴史"
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"text": "以上のようにハードロック、ヘヴィメタルの源流は様々挙げられる。より現在のヘヴィメタルシーンにまで直接的な影響をもたらしているバンドとして、1970年デビューのブラック・サバスがある。同年発表のファースト・アルバム『黒い安息日』やサード・アルバム『マスター・オブ・リアリティ』などのオカルト志向はユーライア・ヒープなどにも見られ、当時は新しい音楽表現と見做された。",
"title": "歴史"
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"text": "英国のハードロックは1970年代前半に一時代を築き上げるが、ハードロック、プログレッシブ・ロックのマンネリ化への反動や大不況などから、1970年代半ばにパンク・ロック・ムーヴメントが起きる。かつてのハードロックは「オールド・ウェイヴ」と呼ばれるようになり、ブリティッシュ・ハードロック・シーンはその勢いを失っていった。しかしアンダーグラウンドシーンでは様々な若手バンドが、一部ではパンクのビートの性急感をも取り入れながら、新しい時代のハードロックを模索するようになっていた。『サウンズ』誌の記者ジェフ・バートンにより「NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)」と名付けられたこのムーヴメントは、少しずつ知られるようになっていった。1980年にはアイアン・メイデン、デフ・レパードがメジャーデビューし、シーンは一気に活性化していく。それらのバンドと比べると商業的な成功は大きくなかったものの、ヴェノムやダイアモンド・ヘッドものちのメタルシーンに影響を与えた。",
"title": "歴史"
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"text": "NWOBHM勢に結成は先立ちながら、同時期のヘヴィメタルの立役者となったのが、同じくイギリス出身のジューダス・プリーストである。ブルースの影響を捨て去ることで、真っ白なヘヴィメタルの隆盛に寄与したのである。1969年の結成当初は比較的オーソドックスなハードロックをプレイしていた彼らであるが、やがて硬質で疾走感のあるギターリフを用い、金属的な高音ボーカルでシャウトするなどの様式美の伝統を作り出した。さらに1970年代後半からはレザー・ファッションを取り入れるなど、ステージ・パフォーマンスの面でも後々までステレオタイプ化されるような「ヘヴィメタル」のイメージを作り上げた。またモーターヘッドは、ロックンロールにパンク・ロック的な要素やスピード感のあるリズムを導入し、後のハードコア・パンクやスラッシュメタルの先駆けにもなった。さらにディープ・パープルのコンピレーション・アルバムが発売され、かつてのハードロックバンドの再評価、活躍も見られた。",
"title": "歴史"
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"text": "イギリス以外の世界のバンドについては、ドイツのスコーピオンズ、アクセプト、オランダのヴァンデンバーグ、ゴールデン・イヤリング、オーストラリアのAC/DC、カナダのラッシュ、マホガニー・ラッシュ、デンマークのプリティ・メイズなどが注目された。日本では、1976年にBOWWOW(のちのVOW WOW)、1977年にレイジーがデビューした。",
"title": "歴史"
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"text": "1978年にヴァン・ヘイレンがデビュー・アルバム『炎の導火線』でブレイクしたのを皮切りに、ヘヴィメタル・シーンはアメリカにも広がっていく。1980年代に入ると、1970年代初頭のヘヴィメタルに影響を受けたクワイエット・ライオット、モトリー・クルー、ラット、W.A.S.P.らの成功によりロサンゼルスのサンセット・ストリップにあったクラブを中心としたシーンが活性化する。LAメタル、またはグラム・メタルと呼ばれるジャンルが誕生する。ドッケン、ナイト・レンジャー、ポイズン、L.A.ガンズの他、東海岸ではボン・ジョヴィ、スキッド・ロウ、シンデレラなどのバンドが次々とメジャーデビューを果たした。こうしたバンドはグラム・メタルの名に違わず、グラム・ロックの影響を受けた派手でグラマラスでなルックスと、ノリのよいサウンドと歌詞が特徴で、広く若者の支持を集めることができたのである。MTVはヘヴィメタルバンドを大々的にバックアップし、産業化が進んでいくこととなる。",
"title": "歴史"
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"text": "こうしてヘヴィメタルの巨大マーケットがアメリカに生まれると、それは旧来の英国市場とは比較にならない規模であり、欧州のバンドの多くがアメリカ進出を目指すようになった。ジューダス・プリーストやアイアン・メイデンといった英国の古参はもとより、英米以外の国からも多数のヘヴィメタルバンドがアメリカでも受け入れられ、特にオーストラリアのAC/DC、西ドイツ(当時)のスコーピオンズ、カナダのラッシュやトライアンフ等の活動が目立った。1980年代後半にはボン・ジョヴィ、デフ・レパード、ホワイトスネイクといったグループがアメリカを中心に大ヒットを連発し、ドイツのハロウィン、日本のLOUDNESSなどもビルボードのアルバムチャートに顔を出すなど、全盛期を迎えた。",
"title": "歴史"
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"text": "80年代中頃には、アイアン・メイデンに影響を受けた音楽性で活動を開始したフェイツ・ウォーニングがアルバム『アウェイクン・ザ・ガーディアン』をリリースし、今でいうプログレッシブ・メタルの原型となるスタイルを提示した。このスタイルは後にドリーム・シアターやクイーンズライクらによって商業的な成功を収めることとなる。",
"title": "歴史"
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"text": "1980年代中期のヨーロッパでは英国の伝統的ハードロックの影響下に、スピードを重視したアップテンポのリズムとメロディックで分かりやすい歌で人気を得たアクセプト、全米チャートでヒットを出したヨーロッパらの活躍があった。またスウェーデン出身のイングヴェイ・マルムスティーンは、クラシック音楽のバイオリニストパガニーニ、そしてディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの影響を受け、ネオクラシカルメタルと呼ばれるスタイルを確立。彼の速弾きは世界のギタリストたちに影響を与えた。",
"title": "歴史"
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"text": "1980年代の後期になると、デスメタルやブラックメタルの荒々しいサウンドに対するリアクションとして、パワーメタルシーンができあがった。このジャンルの先駆けとしては、ジューダス・プリーストやアイアン・メイデンのようなハイトーン・ヴォーカルとスラッシュメタル由来のスピードを組み合わせることで、メロディアスで疾走感みなぎる新たな形式を生み出したドイツのハロウィンがいる。また、スウェーデンのハンマーフォール、イギリスのドラゴンフォース、フロリダのアイスド・アースなどは明らかに伝統的なNWOBHMのスタイルに影響を受けたサウンドを展開している。日本や南アメリカなどではこのジャンルの人気が根強く、ブラジルのアングラなどがポピュラーなバンドとして知られている。",
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"text": "NWOBHMそのものは1980年代半ばにその勢いを失ってしまうが、各国で若者達がヘヴイメタル・バンドを結成するきっかけとなった。 アメリカのアンダーグラウンドシーンでは、メタリカ、メガデス、スレイヤー、アンスラックスなどのバンドが、ヴェノムをはじめとするNWOBHMやハードコア・パンクの影響を受けながら、よりヘヴィな音楽形態であるスラッシュメタルを確立。これらはテンポの速さ、リフに重きを置いたサウンド、ダークな世界観を特徴とし、グラム・メタルとは一線を画するものであった。",
"title": "歴史"
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"text": "80年代後半のメタルシーンを席巻したスラッシュメタルも、似通ったスタイルのバンドの乱立などで衰退していくが、フロリダではスラッシュメタルの凶暴性を突き詰めたデスメタルが、北欧ノルウェーでは、デスメタルを否定し80年代スラッシュメタルへの回帰を唱えて、反キリスト教のコンセプトを強調したブラックメタルが誕生するなど、その後のエクストリーム・メタルシーンの成立に大きな影響を与えるとともに、シーンの細分化が進んだ。",
"title": "歴史"
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"text": "ヘヴィメタルは1980年代後半に商業的なピークを迎え、ガンズ・アンド・ローゼズやボン・ジョヴィ、ホワイト・ライオン、ウォレント、ポイズン、グレイト・ホワイト、ウィンガーらがヒットを出したが、90年代に入ると衰退の道をたどることになった。原因はポップ・ミュージック化したロックへの反発から登場した、グランジやオルタナティヴ・ロック・バンドがより若者たちの支持を集めるようになり、やがて大きなムーブメントになったからだった。この変化に対応できなかったバンド、あるいは変化の過程でファンの支持を得られなかったバンドはやがて表舞台から消えていった。",
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"text": "この状況を打開したのが、スラッシュ・メタルの代表と目されていたメタリカであった。彼らはアルバム『メタリカ』(1991年)でスラッシュ的なスピード性を放棄し、ヘヴィな音楽性を導入して2200万枚という大ヒットを飛ばす。また、メタリカ同様パンテラが『俗悪』で、ヘルメットが『ミーンタイム』で提示したグルーヴ・メタルというスタイルは数々のバンドが手本にした。パンテラに強く触発されたロブ・ハルフォードがジューダス・プリーストを脱退してFIGHTを結成したことは、この時期の流れを象徴するものといえる。また、インダストリアル・ロックバンド、ミニストリーは『ΚΕΦΑΛΗΞΘ‐詩篇69‐』に見られるように、従来の彼らの音楽にスラッシュメタル的な要素を加えるようになっていったが、この頃からフィア・ファクトリーをはじめとするメタル勢からも電子音楽にアプローチする動きが現れ始める。",
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"text": "こうした動きに呼応してヘヴィメタルシーンでは、若手ミュージシャンを中心にオルタナティヴ・メタルという新ジャンルがあらわれた。それはシンプルなリフに重いギターサウンド、現代社会を反映した歌詞、ラップの導入など、時代に適応した新しいメタル像(ニュー・メタル)であった。しかし、日本では音楽雑誌『BURRN!』を中心に、この動きをモダン・ヘヴィネスやヘヴィ・ロックと呼称して区分し、旧来のヘヴィメタルとは違うことを強調する傾向が出てきた。",
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"text": "このような流れの中、シャロン・オズボーンは、夫オジー・オズボーンが時代の半歩先を行く音楽性で常にヘヴィメタルの象徴であり続けたことを活かし、若手ニューメタル・バンドとオジー・オズボーン擁するブラック・サバスという組み合わせで全米をツアーするオズフェストというツアーに打って出る。これは見事に成功し、マリリン・マンソンやスリップノット、コーンなどのプロモーションに大きく貢献し、メタルコアなど後続のムーブメントに大きな影響を与えた。さらに結果的にはオジー・オズボーンそしてブラック・サバスを再認識させることに成功した。",
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"text": "1990年代初頭には、グレイヴやエントゥームドがイヤーエイク・レコードから1stアルバムをリリースし、デビュー。後にメロディックデスメタルシーンへ多大な影響を与えることとなるスウェディッシュ・デスメタルシーンが全盛を迎えた。",
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"text": "他方で、ノルウェーではデスメタルを\"ライフメタル\"と揶揄し、バソリーやセルティック・フロストをはじめとする1980年代スラッシュメタルの復権を唱えたブラックメタルシーンが大きな動きを見せていた。1992年には、それまでテクニカル・デスメタルとして活動をしていたダークスローンがセカンド・アルバムを発表してブラックメタルへの転向を見せ、世界中のエクストリームファンを驚愕させたともいわれる。また、1993年にはイギリスの『ケラング!』誌がブラックメタル特集を大々的に行い、多くの聴衆の目をひくこととなった。",
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"text": "同じく1990年代初頭にはトラブルがドゥームメタルにアシッドロックの音楽性を融合させ、カテドラルがイヤーエイク・レコードからデビューを果たしている。つづく1992年にはカイアスとスリープが重要なアルバムをリリースし、後でいうストーナーロック・シーンをつくりあげることに貢献した。こうして1990年代は、新しい時代にふさわしい姿に成長したバンド、消えていった旧世代のバンド、時代に応じて現れた若手のバンドと、世代交代が急速に進んでいった時代であったといえる。",
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"text": "1990年代後半のヨーロッパでは、デスメタルに叙情的なメロディを取り入れたメロディックデスメタル、ゴシック・ロックのサウンドやゴスファッションを取り入れたゴシックメタル、ヘヴィメタル的な要素を守りつつもニュースクール・ハードコアに接近したメタルコア、など、新たな動きが生み出されていった。",
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"text": "また、ヘヴィメタルと電子音楽との融合は1990年代初頭のインダストリアル・メタルなど過去から行われていたが、2000年代に入ってパソコンの普及が進んだことから、テクノ、エレクトロニカ、トランス、などの要素を取り入れたメタルバンドも現れるようになっている。このようなサブジャンル化(後述)は現在も止まることなく進んでいる。 この流れから、2000年代はスリップノットによるニュー・メタルの台頭や、リンキンパークやインキュバスなどによる、DJを含めた新しいスタイルの演奏に影響を与え、伝統的なヘヴィメタルと一線を画していった。",
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"text": "また、ベテランのヘヴィメタル・バンドであるジューダス・プリーストやアイアン・メイデンらも活躍した。黄金期のラインナップで再興した彼らは、新たなアルバムの発売やツアーを行い、メタルシーンの活性化に貢献した。シャロン・オズボーンもまたこうした動きに注目し、これらのベテラン・バンドと新しいバンドが新旧問わず多数参加する「オズフェスト」を毎年開催されるイベントに育てた。",
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"text": "音楽業界に「再結成ブーム」が到来したこともあり、多くのベテランバンドも再結成した。特にモトリー・クルーやヨーロッパ、ホワイトスネイクなどは再結成ツアーが成功を収めた。ジャパニーズ・メタルにおいてもラウドネスがオリジナルメンバーに戻ったり、アースシェイカーやANTHEM、BOWWOWにSHOW-YA等が再結成したりするなど、同じような現象が起きている。一方でスリップノットが「Knotfest」(ノットフェスト)を主催して、親交のあるメタルバンドと世界規模のツアーを実現するなど、新しい世代による音楽活動も精力的に行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "ジャパニーズ・メタルを参照。",
"title": "日本におけるヘヴィメタル"
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"text": "地域ごとに特有の音楽性が認められる場合、地域別サブジャンルが出来る場合がある。",
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"text": "ヘヴィメタル・アーティストの一覧を参照。",
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"text": "ジャパニーズ・メタルアーティスト一覧を参照。",
"title": "主要ヘヴィメタルバンド"
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] | ヘヴィメタルは、ロック・ミュージックのジャンルの一つ。1960年代末から1970年代の初頭にかけてイギリス及びアメリカ合衆国などで広く発展したロックのスタイルのひとつである。 ハードロックとヘヴィメタルとの境界は明確ではなく、ハードロックとヘヴィメタルとを一括してHR/HM(または「HM/HR」)と呼ぶこともある。「ヘヴィメタル」という用語自体は1970年代前半から存在したが、ハードロックが1970年代前半にピークを迎えた後、同時期に台頭したパンク・ロックのスピード感を加味して独自の成長を遂げたジャンルである。 代表的なヘヴィメタルバンドとして、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバス、ジューダス・プリースト、アイアン・メイデン、スコーピオンズ、AC/DCなどが挙げられる。 | {{Otheruses|音楽のジャンル|その他|ヘビーメタル}}
{{Infobox Music genre
| name = ヘヴィメタル<br />Heavy Metal
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| stylistic_origins = [[ブルースロック]]<br />[[サイケデリック・ロック]]<br />[[ハードロック]]
| cultural_origins = [[1960年代]]末<br />{{UK}}<br />{{US}}
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| subgenrelist =
| subgenres = [[NWOBHM]]<br />[[スピードメタル]]<br />[[スラッシュメタル]]<br />[[ドゥームメタル]]<br />[[ネオクラシカルメタル]]<br />[[パイレーツ・メタル]]<br />[[パワーメタル]]<br />[[デスメタル]]<br />[[ゴシックメタル]]<br />[[シンフォニックメタル]]<br />[[デスラッシュ]]<br />[[ブラックメタル]]<br />[[クリスチャン・メタル]]<br />[[エクストリーム・メタル]]<br />[[インダストリアル・メタル]]<br />[[オルタナティヴ・メタル]]<br />[[グルーヴ・メタル]]<br />[[ニュー・メタル]]<br />[[プログレッシブ・メタル]]<br />[[ジャーマンメタル]]<br />[[メロディックスピードメタル]]<br />[[メロディックデスメタル]]<br />[[メタルコア]]<br />[[デスコア]]<br />[[ジェント]]ほか
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| other_topics = [[メタル・ウムラウト]]<br />[[ブラストビート]]
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'''ヘヴィメタル'''({{lang-en|heavy metal}})は、[[ロック・ミュージック]]のジャンルの一つ。[[1960年代]]末から[[1970年代]]の初頭にかけて[[イギリス]]及び[[アメリカ合衆国]]などで広く発展した<ref>Weinstein (2000), pp. 14, 118.</ref>ロックのスタイルのひとつである<ref>Du Noyer (2003), p. 96; Weinstein (2000), pp. 11–13.</ref>。
'''[[ハードロック]]'''とヘヴィメタルとの境界は明確ではなく、ハードロックとヘヴィメタルとを一括して[[HR/HM]](または「HM/HR」)と呼ぶこともある。「ヘヴィメタル」という用語自体は[[1970年代]]前半から存在したが、ハードロックが1970年代前半にピークを迎えた後、同時期に台頭した[[パンク・ロック]]のスピード感を加味して独自の成長を遂げたジャンルである。
代表的なヘヴィメタル[[バンド (音楽)|バンド]]として、[[レッド・ツェッペリン]]、[[ブラック・サバス]]、[[ジューダス・プリースト]]、[[アイアン・メイデン]]、[[スコーピオンズ]]、[[AC/DC]]などが挙げられる。
== 概要 ==
[[日本]]における基本的な[[略称]]は'''メタル'''。他に'''HM'''、'''ヘヴィメタ'''、'''ヘビメタ'''{{efn2|ただし、日本においてヘヴィメタルを「ヘビメタ」と略すのは侮辱的な意味が含まれる場合もあるとして、ヘヴィメタルファンからは好まれないこともある<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.techinsight.jp/excerpt?id=78575&url=%2F2013%2F09%2Fhardrockgeinin-aruaru-ametalk20130926.html|title=【エンタがビタミン♪】“ハードロック芸人”のあるある。「ヘビメタと言われてイラっとする」に反響。|date=2013-9-27|publisher=Techinsight|accessdate=2021-2-2}}</ref>。これは80年代のお笑い番組(元気が出るテレビなど)でヘヴィメタルのファッションスタイル(金髪、レザー&スタッズなど)や音楽性を馬鹿にして笑いを取る手法が多く見られたため。}}など。
このジャンルに分類されるバンドのサウンドは、[[ハードロック]]<ref>http://www.allmusic.com/subgenre/hard-rock-ma0000002636</ref>同様、エレクトリック・ギターの[[ファズ]]やディストーションを強調した、ラウドなものであるのが基本である。
ハードロック/ヘヴィメタルは1970年代半ばごろから、アリーナ・ロックや[[産業ロック]]的なバンドと、[[アルバム]]志向のヘヴィメタルバンドに分かれる傾向も見られた(後述)。
また、時代を経るにつれてシーンの細分化が進んだことから、ヘヴィメタルは様々なサブジャンルを持つようになった。
{{main|ヘヴィメタル#ヘヴィメタルのサブジャンル}}
== 詳細 ==
=== 音楽的特徴 ===
メンバー構成は、ロックバンド一般に見られるものとあまり変わらないことが多い。[[ギター]]、[[ドラムセット|ドラム]]、[[ボーカル]]、[[ベース (弦楽器)|ベース]]を主軸とする。ジャンル名のとおり音の「'''ヘヴィさ'''」が重視されるため、ギターやベースの[[調律|チューニング]]を下げて通常より低い音が出せるようにしている場合がある。
ヘヴィメタルではギターソロが重視される場合が多く、たいていの場合は1曲の間にギターソロが挿入される。またドラムソロやベースソロも行われることも多く、[[歌]]よりも[[演奏]]で魅せるような曲や[[インストゥルメンタル]]の曲も多い。こういった傾向から、[[速弾き]]などのテクニカルな演奏を得意とするプレイヤーを多く生み出しており、[[エフェクター]]など音楽機材の進化と多様化に多大な影響を与えたとも言われている。代表的なギタリストには、[[ジミー・ペイジ]]<ref>[http://www.guitarworld.com/tag/jimmy-page]</ref>、[[トニー・アイオミ]]、[[エドワード・ヴァン・ヘイレン]]、[[マイケル・シェンカー]]、[[アンガス・ヤング]]、[[イングヴェイ・マルムスティーン]]、[[スティーヴ・ヴァイ]]らがいる。
通常は強い[[ディストーション (音響機器)|ディストーション]]をかけ、[[リフ]]はパワーコードを主体とした力強い音でミュートを効かせながら刻む場合が多い。ヘヴィメタルバンドには[[ギタリスト]]が2人いることが多い。'''[[リードギター]]'''担当と'''[[リズムギター]]'''担当に分かれている場合と、2人が同じリフを弾いて重厚さを増す場合や、2人が交互にギターソロを弾くこともある。スケールには'''[[ペンタトニック]]'''、'''ハーモニック・マイナー・スケール'''<ref>[http://www.justinguitar.com/modules/harmonic-minor-scale]</ref>、フリジアン・スケールなどが用いられることが多い。
ヴォーカルは、1970年代のハードロックの頃から見られたように、高音域の金切り声でシャウトするもの、オペラのように朗々と歌い上げるもの、[[デスメタル]]ではがなり立てたり、うめくような[[デスヴォイス]](グラウル、グラント)という歌唱法を用いるものなどがある。ヴォーカリストには、[[ロバート・プラント]]、[[オジー・オズボーン]]、[[ロブ・ハルフォード]]、[[ロニー・ジェイムス・ディオ]]、[[ブライアン・ジョンソン]]らがいる。
ベースは、[[ファンク]]のようにためのあるベースを強調することができず地味な脇役に徹し、リズムギターのリフに[[ユニゾン]]して中音域の密度を上げ、重厚感の増幅に努めていることが多い。他ジャンルに比べ、強めのアタック音が特徴的なベーシストがしばしば見られる。代表的なベーシストには、ブルース・ロックをやってもクラシック的な「白い」演奏を行う[[ジョン・ポール・ジョーンズ]]{{efn2|[[中流階級]]出身で[[クラシック音楽]]の素養がある。}}などがいる。ドラムスは総じてテンポが速く、また[[テンポ|BPM]]が高くなくても手数が極めて多い傾向があるが、逆に重圧感を出すために極端にテンポを落とす場合もある。バスドラムを2つセッティングしたドラムセット('''[[ツーバス]]''')や、左右の足で1つのバスドラムを連続的に叩ける器具('''ツイン・ペダル''')を用いて、キックペダルを高速で踏み続けるプレイスタイルが採用されることがある。ドラマーには、[[ジョン・ボーナム]]、[[コージー・パウエル]]らがいる。
=== 文化的特徴 ===
攻撃的な音楽性に合わせ、歌詞の内容もやはり攻撃的なものが目立つ。一般社会では[[悪魔崇拝]]や[[オカルト]]、[[犯罪]]、[[麻薬]]についてなどが問題視され、[[キリスト教会]]や若者の親世代から批判の対象になることがある。これはこのヘヴィメタルのルーツ・バンドの一つである[[ブラック・サバス]]と、そのヴォーカリスト、[[オジー・オズボーン]]など、複数のバンドのイメージによるところが大きい<ref>[https://www.bbc.com/culture/article/20151027-the-satanists-who-changed-music Satanists who changed music] 2023年1月30日閲覧</ref>。
ヘヴィメタルバンドの歌詞には、[[フォーク・メタル]]のように[[民俗音楽]]・[[民族音楽]]の影響を受けて歴史的事象を取り上げたものや、ユーライア・ヒープののアルバム『悪魔と魔法使い』の歌詞などファンタジーを感じさせるものなど様々なものがある。退廃的な内容の歌詞でも、ブラック・サバスもそうだが単に衆目を集めるための「営業用」のものも多い。[[ブラックメタル]]や[[マリリン・マンソン (バンド)|マリリン・マンソン]]のように、本格的に[[反キリスト]]思想を音楽活動の指針とし、歌詞にもその主張を取り入れているバンドも存在するが、その一方で[[ストライパー]]のような[[クリスチャン・ロック|クリスチャン・メタル]]と呼ばれるバンドもある。また、ヘヴィメタルバンドの[[歌詞]]やパフォーマンスを、[[マッチョ|マチズモ]]と結びつける者もある<ref>Fast (2005), pp. 89–91; Weinstein (2000), pp. 7, 8, 23, 36, 103, 104.</ref>。
=== 思想信条 ===
政治的な思想信条や[[政党]]支持については、当然ながらミュージシャン個人によって異なる。アメリカのヘヴィメタルのミュージシャンの中には[[共和党 (アメリカ合衆国)|共和党]]の支持者もおり、[[ジョー・ペリー]]<ref>{{cite web |url= https://www.rollingstone.com/politics/politics-news/aerosmiths-joe-perry-im-a-definite-old-school-republican-204196/ |title= Joe Perry I'm old school Repubirican | accessdate=26 August 2020 }}</ref>、[[テッド・ニュージェント]]<ref group="注">[[ドナルド・トランプ]]から[[ホワイトハウス]]に招待され出席している。</ref>、[[ジーン・シモンズ]]<ref group="注">ドナルド・トランプから就任式への出席を招待され、本人はその気だったが、家族に猛反対され出席を断念した</ref>、[[アリス・クーパー]]<ref group="注">[[共和党 (アメリカ合衆国)|共和党]]支持者だが、[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]]支持の[[トム・ハンクス]]が[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に適任と発言したこともある</ref>、[[トム・アラヤ]](スレイヤー)<ref> [https://pitchfork.com/news/71134-slayer-trump-photo-does-not-belong-on-a-slayer-social-page/ スレイヤー トランプのフォト掲載は個人的なもの] 2023年1月30日閲覧</ref>、[[デイヴ・ムステイン]](メガデス)、サリー・エルナ(ゴッド・スマック)らがいる(HMではないが、キッド・ロックも共和党と[[ドナルド・トランプ]]の熱心な支持者である)。一方で、ジョン・ボンジョヴィは反共和党で、民主党支持である<ref>[https://www.songfacts.com/facts/bon-jovi/have-a-nice-day Bon Jovi song Have a Nice Day] 2020年12月8日閲覧</ref>。日本においては、[[GALNERYUS]]の[[小野正利]]も[[靖国神社]]に参拝し[[竹島問題]]について言及している<ref>[https://okmusic.jp/news/18776 GALNERYUS、日本のへヴィメタル・バンド初のデイリー・アルバム・チャートTOP10入り] OKMusic、2012年10月11日、2020年11月14日閲覧</ref>。しかし、日本の場合は特に[[1980年代]]以降、音楽と政治思想を切り離そうと考える傾向が強まり、へヴィメタルに限らず、積極的に政治的な思想信条や支持政党を表明するミュージシャンは少なくなっている。
=== ファッション ===
ヘヴィメタルのファッションを端的に表した言葉としては、「レザー&スタッズ」がよく知られる。革(レザー)のジャケットに鋲(スタッズ)を大量に打ち込んだものである。
また、ステレオタイプなヘヴィメタルファッションとして、長髪、バンドロゴやアルバムジャケットをプリントした黒系のTシャツ、[[ジューダス・プリースト]]<ref>http://www.planetrock.com/.../judas-priest-launch-leather-jacket-art-...</ref>のような皮の[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]や皮ブーツ、細身ジーンズとスケーターシューズの合わせ、迷彩柄のカーゴパンツ、衣類に打たれたスタッド(鋲)やスパイク、バンドロゴの[[ワッペン]]や缶[[バッジ]]を大量に付けたジャケット(パッチGジャン)などが挙げられる。
反キリスト的なコンセプトのあるバンドでは、[[逆十字]]や[[ペンタグラム]]をかたどったアクセサリーを身につけたり、白粉をベースにおどろおどろしい模様をつけた化粧([[コープスペイント]])などを施すこともある。マリリン・マンソンは全身をキャンパスにしてメイクと変装を施し、「アンチクライスト・スーパースター」と自称したことで知られる。
しかし、例えば皮製のファッションは、[[ロブ・ハルフォード]]の[[SM (性風俗)|SM]]ファッションが由来であり<ref>JUDAS PRIEST『[[殺人機械]]』日本盤ライナーノーツ [[伊藤政則]]による解説文より。</ref>、他の例として黒人音楽を取り入れた[[コーン (バンド)|コーン]]のようなニュー・メタルバンドでは、[[Bボーイ]]ファッションやストリート系ファッションを取り入れたり、[[スリップノット]]のようにマスクとユニフォームに身を包むなど、バンドやプレイヤー個人ごとのアイディアや音楽性、信条などから多様化しているのが実際である。
[[ヘッドバンギング]]した際の見栄えを良くするために長髪にしている者もいるが、HMは伝統的に長髪にするという側面もある。1990年代後半以降の[[ジェイムズ・ヘットフィールド]]や[[フィル・アンセルモ]]のように短髪の場合もある。ミュージシャンの高齢化により長髪を維持できずに短髪もしくは坊主頭にする者もいる。また、近年ではメタルコアやブルータル・デスメタルといったジャンルのミュージシャンやファンには長髪より短髪が多く目立ち、一見着ているバンドTシャツやキャップを見ない限りメタルファンかパンクスか見分けがつかない事もある。
=== ステージパフォーマンス ===
音楽面では、例えば[[速弾き]]や特殊な奏法などを用い、スタジオ版よりも長時間に及ぶギター、ドラム、ベース各パートのソロタイムが設けられることが多く、曲中にギター同士やギターとキーボードで競い合うようにソロを弾いたりといったものがしばしばある。ステージ下手・中央・上手のメンバーがフォーメーションを取りリズムに合わせてヘッドバンギングしながら演奏をするのも、メタルらしい演出のひとつである。
バンドごとに見られる演出としては、
*[[ジューダス・プリースト]]は[[ハーレーダビッドソン]]に乗ってステージに登場する<ref>http://loudwire.com/11-things-you-didnt-know-about-rob-halford/</ref>。
そのほかに
*[[スレイヤー]]は「[[レイン・イン・ブラッド|レイニング・ブラッド]]」演奏中に曲名通りの血の雨を降らせる。
*[[ハロウィン]]は[[ジャックオーランタン]]の風船を飛ばす。
といった、画期的なものも見られる。他にも[[ラムシュタイン]]のような火吹きパフォーマンス、[[キッス]]のような花火や、[[キング・ダイアモンド]]のような巨大な舞台装置など、ライブでは派手なものが広く見られる。
ファンもこうしたパフォーマンスや演奏に応えてヘッドバンギングをしたり、指で[[コルナ|メロイック・サイン]]を組みながら腕を振ったりする(フィストバンギング)。更には激しく身体をぶつけ合う者(モッシュピット)、ステージからダイブする者、集団でアリーナを輪になって駆け抜ける者(サークルピット)など、ヘヴィメタル・バンドのコンサートでは、しばしば会場に激しい興奮と狂乱状態が見られ、時折それが原因で事故が発生することもある。
=== バンドロゴ、アルバムジャケット、アートワーク ===
アイアン・メイデンをはじめとする正統派メタルバンドの作品では[[デレク・リッグス]]、スラッシュメタルのカバーアートでは[[:en:Ed Repka|エド・レプカ]]<ref>{{cite web |url=https://www.facebook.com/pages/Ed-Repka-Illustration/135060286561078?id=135060286561078&sk=info |title=Ed Repka Illustration |accessdate=2014-09-24}}</ref>、メロディックデスメタルやブラックメタルの作品では[[クリスティアン・ヴォーリン]]<ref>{{cite web |url=http://www.kristianwahlin.se/ |title=Kristian Wåhlin |accessdate=2014-09-24}}</ref>などのように、著名なアーティストも存在している。また、[[セプティックフレッシュ]]のSeth<ref>{{cite web |url=http://www.sethsiroanton.com/ |title=SETH SIRO ANTON ART |accessdate=2014-09-24}}</ref>や[[バロネス (バンド)|バロネス]]のJohn Baizleyのように自身もメタルミュージシャンでありながら、アートワークを手がけるものもいる<ref>{{cite web |url=https://www.facebook.com/aperfectmonster |title=Official art Facebook |accessdate=2014-09-24}}</ref>。
バンドロゴでは、7000以上のバンドのロゴをデザインしてきた[[クリストフ・シュパイデル]]が著名なアーティストとして挙げられる<ref>{{cite book | title=Lord of the Logos | publisher=Die Gestalten Verlag | author= Christophe Szpajdel | year=2010 | isbn=3899552822}}</ref>。
== 語源 ==
名詞であるヘヴィメタルが使用されたのは、ビートニク作家である[[ウィリアム・S・バロウズ]]の著作『ソフト・マシーン』(1961年)の中であり、彼はのちの作品『ノヴァ急報』でこのテーマを追求し、ヘヴィメタルという単語を依存性の強い薬物のメタファーとして用いている<ref>[[:en:William S. Burroughs|Burroughs, William S]]. [http://www.efn.org/~dredmond/PP3.html "Nova Express"]. New York: Grove Press, 1964. Pg. 112.</ref>。また、『ローリング・ストーン』誌の音楽ジャーナリスト、[[:en:Lester Bangs|レスター・バングス]]は1970年代の初頭にレッド・ツェッペリンやブラック・サバスに対する論評でこのヘヴィメタルという言葉を使い、この言葉が広まるきっかけとなったという<ref>Weinstein (1991), p. 19</ref>。ただし、バンドの音楽性としてヘヴィメタルという形容を明示的に使ったのは、音楽プロデューサー、[[:en:Sandy Pearlman|サンディ・パールマン]]が、自らプロデュースしていた[[ブルー・オイスター・カルト]]に対してである。また、これには、バロウズと親交が深く、かつ、ブルー・オイスター・カルトのメンバー、アラン・レイニアの恋人でもあった[[パティ・スミス]]の影響もあったとされる。他に、「ロック(岩)よりもハード(硬い)」もしくは「ロック(岩)よりもヘヴィ(重い)」だからヘヴィメタルという説など、諸説ある。
== 歴史 ==
=== 黎明期 ===
今日ヘヴィメタルと形容される音を、最初に取り扱ったバンドについては諸説ある。初期のバンドである[[レッド・ツェッペリン]]、[[ブラック・サバス]]、[[ディープ・パープル]]などは、[[1960年代]]末から70年にデビューした「ハードロック・バンド」である。[[ステッペンウルフ]]や[[アイアン・バタフライ]]、[[ブルー・チアー]]、[[マウンテン (バンド)|マウンテン]]、[[ユーライア・ヒープ]]、[[フリー (バンド)|フリー]]、[[ヴァニラ・ファッジ]]などを挙げる評論家も存在する<ref>Weinstein (2000), pp. 14–15.</ref>。
ハードロック、ヘヴィメタルのルーツ楽曲としては、[[ビートルズ]]の「[[ヘルター・スケルター (ビートルズの曲)|ヘルター・スケルター]] - ''Helter Skelter''<ref>Blake (1997), p. 143</ref>」(『[[ザ・ビートルズ (アルバム)|ザ・ビートルズ]]』収録、1968年発表)などがある。そのファズを使用したサウンド、激しい[[リフ]]の上にシャウトするコーラス部などの音楽的な要素が特徴である。
その他にも1960年代後半から[[クリーム (バンド)|クリーム]]、ヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープルを始めとするラウドなロックが多数現れた。また、[[ステッペンウルフ]]が[[1968年]]に出した「ワイルドで行こう(ボーン・トゥ・ビー・ワイルド)」の歌詞には、[[オートバイ]](のエンジン音)を「"Heavy Metal" thunder」と例える箇所がある<ref>Walser (1993), p. 8</ref>。これらのバンドも音的にヘヴィメタルな要素を多分に含んでいるが、いずれも[[ハードロック]]の範疇に留まるとみなすことが多い。
以上のようにハードロック、ヘヴィメタルの源流は様々挙げられる。より現在のヘヴィメタルシーンにまで直接的な影響をもたらしているバンドとして、[[1970年]]デビューのブラック・サバスがある。同年発表のファースト・アルバム『[[黒い安息日]]』やサード・アルバム『[[マスター・オブ・リアリティ]]』などのオカルト志向はユーライア・ヒープなどにも見られ、当時は新しい音楽表現と見做された。
=== NWOBHMとヘヴィメタルの確立、定着 ===
英国の[[ハードロック]]は[[1970年代]]前半に一時代を築き上げるが、ハードロック、プログレッシブ・ロックのマンネリ化への反動や大不況などから、1970年代半ばに[[パンク・ロック]]・ムーヴメントが起きる。かつての[[ハードロック]]は「オールド・ウェイヴ」と呼ばれるようになり、ブリティッシュ・ハードロック・シーンはその勢いを失っていった。しかしアンダーグラウンドシーンでは様々な若手バンドが、一部ではパンクのビートの性急感をも取り入れながら、新しい時代のハードロックを模索するようになっていた。『サウンズ』誌の記者[[ジェフ・バートン]]により「[[NWOBHM]](ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)」と名付けられたこのムーヴメントは、少しずつ知られるようになっていった。[[1980年]]には[[アイアン・メイデン]]、[[デフ・レパード]]がメジャーデビューし、シーンは一気に活性化していく。それらのバンドと比べると商業的な成功は大きくなかったものの、[[ヴェノム (バンド)|ヴェノム]]や[[ダイアモンド・ヘッド (バンド)|ダイアモンド・ヘッド]]ものちのメタルシーンに影響を与えた<ref>Weinstein (1991), p. 44</ref>。
NWOBHM勢に結成は先立ちながら、同時期のヘヴィメタルの立役者となったのが、同じくイギリス出身の[[ジューダス・プリースト]]である。ブルースの影響を捨て去ることで、真っ白なヘヴィメタルの隆盛に寄与したのである<ref name="Walser 1993, p. 6">Walser (1993), p. 6.</ref><ref>"As much as Sabbath started it, Priest were the ones who took it out of the blues and straight into metal." Bowe, Brian J. ''Judas Priest: Metal Gods''. ISBN 0-7660-3621-9.</ref>。1969年の結成当初は比較的オーソドックスなハードロックをプレイしていた彼らであるが、やがて硬質で疾走感のあるギター[[リフ]]を用い、金属的な高音ボーカルでシャウトするなどの様式美の伝統を作り出した。さらに1970年代後半からはレザー・ファッションを取り入れるなど、ステージ・パフォーマンスの面でも後々までステレオタイプ化されるような「ヘヴィメタル」のイメージを作り上げた。また[[モーターヘッド]]は、[[ロックンロール]]にパンク・ロック的な要素やスピード感のあるリズムを導入し、後の[[ハードコア・パンク]]や[[スラッシュメタル]]の先駆けにもなった。さらにディープ・パープルのコンピレーション・アルバムが発売され、かつてのハードロックバンドの再評価、活躍も見られた。
イギリス以外の世界のバンドについては、ドイツの[[スコーピオンズ]]、[[アクセプト (バンド)|アクセプト]]、オランダの[[ヴァンデンバーグ (バンド)|ヴァンデンバーグ]]、[[ゴールデン・イヤリング]]、オーストラリアの[[AC/DC]]、カナダの[[ラッシュ (カナダのバンド)|ラッシュ]]、マホガニー・ラッシュ、デンマークの[[プリティ・メイズ]]などが注目された。日本では、[[1976年]]に[[BOWWOW]](のちのVOW WOW)、[[1977年]]に[[レイジー]]がデビューした。
=== アメリカ/産業化とLAメタル ===
1978年に[[ヴァン・ヘイレン]]がデビュー・アルバム『[[炎の導火線]]』でブレイクしたのを皮切りに、ヘヴィメタル・シーンはアメリカにも広がっていく<ref>Christe (2003), p. 51</ref>。[[1980年代]]に入ると、[[1970年代]]初頭のヘヴィメタルに影響を受けた[[クワイエット・ライオット]]、[[モトリー・クルー]]、[[ラット (バンド)|ラット]]、[[W.A.S.P.]]<ref>Rivadavia, Eduardo. [{{Allmusic|class=artist|id=quiet-riot-mn0000859868|pure_url=yes}} "Quiet Riot"]. Allmusic. Retrieved on March 25, 2007; Neely, Kim [http://www.rollingstone.com/artists/ratt/albums/album/211449/review/5946112/detonator "Ratt"]. Rolling Stone. Retrieved on April 3, 2007; Barry Weber & Greg Prato. [{{Allmusic|class=artist|id=mötley-crüe-mn0000500992|pure_url=yes}} "Mötley Crüe"]. Allmusic. Retrieved on April 3, 2007; Dolas, Yiannis. [http://www.rockpages.gr/detailspage.aspx?id=637&type=1&sub=%20&lang=EN "Blackie Lawless Interview"]. Rockpages. Retrieved on April 3, 2007. {{Wayback|url=http://www.rollingstone.com/artists/ratt/albums/album/211449/review/5946112/detonator|date=20071002050205|bot=DASHBot}}</ref>らの成功により[[ロサンゼルス]]の[[:en:Sunset Strip|サンセット・ストリップ]]にあったクラブを中心としたシーンが活性化する。[[LAメタル]]、または[[グラム・メタル]]と呼ばれるジャンルが誕生する。[[ドッケン]]、[[ナイト・レンジャー]]、[[ポイズン (ロックバンド)|ポイズン]]、[[L.A.ガンズ]]の他、東海岸では[[ボン・ジョヴィ]]、[[スキッド・ロウ (バンド)|スキッド・ロウ]]、[[シンデレラ (バンド)|シンデレラ]]などのバンドが次々とメジャーデビューを果たした。こうしたバンドは[[グラム・メタル]]の名に違わず、[[グラム・ロック]]の影響を受けた派手でグラマラスでなルックスと、ノリのよいサウンドと歌詞が特徴で<ref>Christe (2003), pp. 55–57</ref>、広く若者の支持を集めることができたのである。[[MTV]]はヘヴィメタルバンドを大々的にバックアップし、産業化が進んでいくこととなる。
こうしてヘヴィメタルの巨大マーケットがアメリカに生まれると、それは旧来の英国市場とは比較にならない規模であり、欧州のバンドの多くがアメリカ進出を目指すようになった。ジューダス・プリーストやアイアン・メイデンといった英国の古参はもとより、英米以外の国からも多数のヘヴィメタルバンドがアメリカでも受け入れられ、特にオーストラリアのAC/DC、西ドイツ(当時)のスコーピオンズ、カナダのラッシュや[[トライアンフ (バンド)|トライアンフ]]等の活動が目立った。1980年代後半にはボン・ジョヴィ、[[デフ・レパード]]、[[ホワイトスネイク]]といったグループがアメリカを中心に大ヒットを連発し、ドイツの[[ハロウィン (ドイツのバンド)|ハロウィン]]、日本の[[LOUDNESS]]なども[[ビルボード]]のアルバムチャートに顔を出すなど、全盛期を迎えた。
80年代中頃には、アイアン・メイデンに影響を受けた音楽性で活動を開始した[[フェイツ・ウォーニング]]がアルバム『アウェイクン・ザ・ガーディアン』をリリースし、今でいう[[プログレッシブ・メタル]]の原型となるスタイルを提示した<ref name="pop">{{cite web|url=http://www.popmatters.com/music/reviews/f/fateswarning-awaken.shtml|title=FATES WARNING Awaken the Guardian (Expanded Edition)|date=2005-06-13|accessdate=2014-08-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110525052311/http://www.popmatters.com/music/reviews/f/fateswarning-awaken.shtml|archivedate=2011年5月25日}}</ref>。このスタイルは後に[[ドリーム・シアター]]や[[クイーンズライク]]らによって商業的な成功を収めることとなる。
=== 1980年代ヨーロッパのシーン ===
1980年代中期のヨーロッパでは英国の伝統的ハードロックの影響下に、スピードを重視したアップテンポのリズムとメロディックで分かりやすい歌で人気を得た[[アクセプト (バンド)|アクセプト]]、全米チャートでヒットを出した[[ヨーロッパ (バンド)|ヨーロッパ]]らの活躍があった。またスウェーデン出身の[[イングヴェイ・マルムスティーン]]は、[[クラシック音楽]]のバイオリニスト[[ニコロ・パガニーニ|パガニーニ]]、そしてディープ・パープルの[[リッチー・ブラックモア]]の影響を受け、[[ネオクラシカルメタル]]と呼ばれるスタイルを確立。彼の[[速弾き]]は世界のギタリストたちに影響を与えた。
1980年代の後期になると、デスメタルやブラックメタルの荒々しいサウンドに対するリアクションとして、[[パワーメタル]]シーンができあがった<ref name="Genre - Power Metal">[{{Allmusic|class=style|id=power-metal-ma0000011913|pure_url=yes}} "Genre – Power Metal"]. Allmusic. Retrieved on March 20, 2007.</ref>。このジャンルの先駆けとしては、ジューダス・プリーストやアイアン・メイデンのようなハイトーン・ヴォーカルとスラッシュメタル由来のスピードを組み合わせることで、メロディアスで疾走感みなぎる新たな形式を生み出したドイツの[[ハロウィン (ドイツのバンド)|ハロウィン]]がいる<ref>[{{Allmusic|class=artist|id=helloween-mn0000957340|pure_url=yes}} "Helloween – Biography"]. Allmusic. Retrieved on April 8, 2007.</ref>。また、スウェーデンの[[ハンマーフォール]]、イギリスの[[ドラゴンフォース_(バンド)|ドラゴンフォース]]、フロリダの[[アイスド・アース]]などは明らかに伝統的なNWOBHMのスタイルに影響を受けたサウンドを展開している<ref>See, e.g., Reesman, Bryan. [{{Allmusic|class=album|id=glory-to-the-brave-mw0000233637|pure_url=yes}} "HammerFall: ''Glory to the Brave''"]. Allmusic; Henderson, Alex. [{{Allmusic|class=album|id=sonic-firestorm-mw0000333007|pure_url=yes}} "DragonForce: ''Sonic Firestorm''"]. Allmusic. Both retrieved on November 11, 2007.</ref>。日本や[[南アメリカ]]などではこのジャンルの人気が根強く、[[ブラジル]]の[[アングラ (バンド)|アングラ]]などがポピュラーなバンドとして知られている<ref name="A-Z of Power Metal">{{cite book |last=Sharpe-Young |first=Garry |year=2003 |title=A-Z of Power Metal |location=London |publisher=Cherry Red Books Ltd. |pages=19–20,354–356 |isbn=1-901447-13-8}}</ref>。
=== スラッシュメタルの流行 ===
NWOBHMそのものは1980年代半ばにその勢いを失ってしまうが、各国で若者達がヘヴイメタル・バンドを結成するきっかけとなった。
アメリカのアンダーグラウンドシーンでは、[[メタリカ]]、[[メガデス (バンド)|メガデス]]、[[スレイヤー]]、[[アンスラックス]]などのバンドが、[[ヴェノム (バンド)|ヴェノム]]をはじめとするNWOBHMや[[ハードコア・パンク]]の影響を受けながら、よりヘヴィな音楽形態である[[スラッシュメタル]]を確立。これらはテンポの速さ、リフに重きを置いたサウンド、ダークな世界観を特徴とし、[[グラム・メタル]]とは一線を画するものであった。
80年代後半のメタルシーンを席巻したスラッシュメタルも、似通ったスタイルのバンドの乱立などで衰退していくが、フロリダではスラッシュメタルの凶暴性を突き詰めた[[デスメタル]]が<ref name="DOJO">{{Cite web|和書|url=http://www.extremethedojo.com/feature/index.cgi?no=10 |title=それぞれのメタル元年 その2 ~デス・メタル~ |publisher=[[Extreme the DOJO]] |accessdate=2014-09-24}}</ref><ref name="DOJO2">{{Cite web|和書|url=http://www.extremethedojo.com/feature/index.cgi?no=11 |title=それぞれのメタル元年 その2 ~デス・メタル~ part.2 |publisher=[[Extreme the DOJO]] |accessdate=2014-09-24}}</ref>、北欧ノルウェーでは、デスメタルを否定し80年代スラッシュメタルへの回帰を唱えて、反キリスト教のコンセプトを強調した[[ブラックメタル]]が誕生するなど<ref name="DOJO3">{{Cite web|和書|url=http://www.extremethedojo.com/column/index.cgi?no=8 |title=それぞれのメタル元年 番外編~ブラック・メタル~ ブラックメタルとは何なのか 歴史編① |publisher=[[Extreme the DOJO]] |accessdate=2014-09-24}}</ref>、その後の[[エクストリーム・メタル]]シーンの成立に大きな影響を与えるとともに、シーンの細分化が進んだ。
=== ヘヴィメタルの衰退 - オルタナティヴ・メタルの勃興 ===
ヘヴィメタルは[[1980年代]]後半に商業的なピークを迎え、[[ガンズ・アンド・ローゼズ]]やボン・ジョヴィ、ホワイト・ライオン、ウォレント、ポイズン、グレイト・ホワイト、ウィンガーらがヒットを出したが、90年代に入ると衰退の道をたどることになった。原因は[[ポップ・ミュージック]]化したロックへの反発から登場した、[[グランジ]]や[[オルタナティヴ・ロック]]・バンドがより若者たちの支持を集めるようになり、やがて大きなムーブメントになったからだった。この変化に対応できなかったバンド、あるいは変化の過程でファンの支持を得られなかったバンドはやがて表舞台から消えていった。
この状況を打開したのが、スラッシュ・メタルの代表と目されていた[[メタリカ]]であった。彼らはアルバム『[[メタリカ (アルバム)|メタリカ]]』([[1991年]])<ref>http://www.discogs.com/Metallica-Metallica/master/6651</ref>でスラッシュ的なスピード性を放棄し、ヘヴィな音楽性を導入して2200万枚という大ヒットを飛ばす。また、メタリカ同様[[パンテラ]]が『俗悪』で、[[ヘルメット (バンド)|ヘルメット]]が『ミーンタイム』で提示した[[グルーヴ・メタル]]というスタイルは数々のバンドが手本にした。パンテラに強く触発された[[ロブ・ハルフォード]]が[[ジューダス・プリースト]]を脱退して[[ロブ・ハルフォード#FIGHT|FIGHT]]を結成したことは、この時期の流れを象徴するものといえる。また、[[インダストリアル|インダストリアル・ロック]]バンド、[[ミニストリー]]は『[[KE・AH‐詩篇69‐|ΚΕΦΑΛΗΞΘ‐詩篇69‐]]』に見られるように、従来の彼らの音楽にスラッシュメタル的な要素を加えるようになっていったが、この頃から[[フィア・ファクトリー]]をはじめとするメタル勢からも電子音楽にアプローチする動きが現れ始める。
こうした動きに呼応してヘヴィメタルシーンでは、若手ミュージシャンを中心に[[オルタナティヴ・メタル]]という新ジャンルがあらわれた。それはシンプルなリフに重いギターサウンド、現代社会を反映した歌詞、[[ラップ]]の導入など、時代に適応した新しいメタル像([[ニュー・メタル]])であった。しかし、日本では音楽雑誌『[[BURRN!]]』を中心に、この動きをモダン・ヘヴィネスやヘヴィ・ロックと呼称して区分し、旧来のヘヴィメタルとは違うことを強調する傾向が出てきた。
このような流れの中、[[シャロン・オズボーン]]は、夫[[オジー・オズボーン]]が時代の半歩先を行く音楽性で常にヘヴィメタルの象徴であり続けたことを活かし、若手ニューメタル・バンドとオジー・オズボーン擁するブラック・サバスという組み合わせで全米をツアーする[[オズフェスト]]というツアーに打って出る。これは見事に成功し、[[マリリン・マンソン]]や[[スリップノット]]、[[コーン (バンド)|コーン]]などのプロモーションに大きく貢献し、[[メタルコア]]など後続のムーブメントに大きな影響を与えた。さらに結果的にはオジー・オズボーンそしてブラック・サバスを再認識させることに成功した。
=== 1990年代のエクストリームメタルシーン ===
1990年代初頭には、[[グレイヴ (バンド)|グレイヴ]]や[[エントゥームド]]が[[イヤーエイク・レコード]]から1stアルバムをリリースし、デビュー。後に[[メロディックデスメタル]]シーンへ多大な影響を与えることとなる[[スウェディッシュ・デスメタル]]シーンが全盛を迎えた<ref name="DOJO5">{{Cite web|和書|url=http://www.extremethedojo.com/column/index.cgi?no=24 |title=それぞれのメタル元年 番外編~ブラック・メタル~ 第9回 ノルウェジアン・ブラックメタル第2の衝撃:Darkthroneのブラックメタル転向 |publisher=[[Extreme the DOJO]] |accessdate=2014-09-24}}</ref>。
他方で、ノルウェーではデスメタルを"ライフメタル"と揶揄し、[[バソリー]]や[[セルティック・フロスト]]をはじめとする1980年代スラッシュメタルの復権を唱えたブラックメタルシーンが大きな動きを見せていた。1992年には、それまで[[テクニカル・デスメタル]]として活動をしていた[[ダークスローン]]がセカンド・アルバムを発表して[[ブラックメタル]]への転向を見せ<ref name="DOJO5"/>、世界中のエクストリームファンを驚愕させたともいわれる。また、1993年にはイギリスの『[[ケラング!]]』誌がブラックメタル特集を大々的に行い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.extremethedojo.com/column/index.cgi?no=26 |title=それぞれのメタル元年 番外編~ブラック・メタル~ 第10回 ノルウェジアン・ブラックメタル第3の衝撃:Kerrang!によるブラックメタル大特集 |publisher=[[Extreme the DOJO]] |accessdate=2014-09-24}}</ref>、多くの聴衆の目をひくこととなった。
同じく1990年代初頭には[[トラブル (バンド)|トラブル]]が[[ドゥームメタル]]にアシッドロックの音楽性を融合させ、[[カテドラル (バンド)|カテドラル]]が[[イヤーエイク・レコード]]からデビューを果たしている。つづく1992年には[[カイアス]]<ref>{{cite web
|url = {{Allmusic|class=artist|id=kyuss-mn0000776011|pure_url=yes}}
|title = Kyuss biography
|accessdate = 2007-12-10
|author = Rivadavia, Eduardo
|publisher = Allmusic
|quote = …they are widely acknowledged as pioneers of the booming stoner rock scene of the 1990s…}}</ref>と[[スリープ (バンド)|スリープ]]<ref name="allmusic sleep">{{cite web
|url = {{Allmusic|class=artist|id=sleep-mn0000021578|pure_url=yes}}
|title = Sleep biography
|accessdate = 2008-07-21
|author = Rivadavia, Eduardo
|publisher = Allmusic}}</ref>が重要なアルバムをリリースし、後でいう[[ストーナーロック]]・シーンをつくりあげることに貢献した。こうして1990年代は、新しい時代にふさわしい姿に成長したバンド、消えていった旧世代のバンド、時代に応じて現れた若手のバンドと、世代交代が急速に進んでいった時代であったといえる。
=== 2000年代以降のヘヴィメタル ===
1990年代後半のヨーロッパでは、デスメタルに叙情的なメロディを取り入れた[[メロディックデスメタル]]、[[ゴシック・ロック]]のサウンドや[[ゴス (サブカルチャー)|ゴスファッション]]を取り入れた[[ゴシックメタル]]<ref>http://www.allmusic.com/style/goth-metal-ma0000011855</ref>、ヘヴィメタル的な要素を守りつつも[[ニュースクール・ハードコア]]に接近した[[メタルコア]]、など、新たな動きが生み出されていった。
また、ヘヴィメタルと[[電子音楽]]との融合は1990年代初頭の[[インダストリアル・メタル]]など過去から行われていたが、2000年代に入ってパソコンの普及が進んだことから、[[テクノポップ|テクノ]]、[[エレクトロニカ]]、[[トランス (音楽)|トランス]]、などの要素を取り入れたメタルバンドも現れるようになっている。このようなサブジャンル化([[#ヘヴィメタルのサブジャンル|後述]])は現在も止まることなく進んでいる。<br>
この流れから、2000年代は[[スリップノット]]による[[ニュー・メタル]]の台頭や、[[リンキンパーク]]や[[インキュバス]]などによる、DJを含めた新しいスタイルの演奏に影響を与え、伝統的なヘヴィメタルと一線を画していった。
また、ベテランのヘヴィメタル・バンドである[[ジューダス・プリースト]]や[[アイアン・メイデン]]らも活躍した。黄金期のラインナップで再興した彼らは、新たなアルバムの発売やツアーを行い、メタルシーンの活性化に貢献した。シャロン・オズボーンもまたこうした動きに注目し、これらのベテラン・バンドと新しいバンドが新旧問わず多数参加する「オズフェスト」を毎年開催されるイベントに育てた。
音楽業界に「再結成ブーム」が到来したこともあり、多くのベテランバンドも再結成した。特に[[モトリー・クルー]]や[[ヨーロッパ (バンド)|ヨーロッパ]]、[[ホワイトスネイク]]などは再結成ツアーが成功を収めた。[[ジャパニーズ・メタル]]においても[[LOUDNESS|ラウドネス]]がオリジナルメンバーに戻ったり、[[EARTHSHAKER|アースシェイカー]]や[[ANTHEM (バンド)|ANTHEM]]、[[BOWWOW]]に[[SHOW-YA]]等が再結成したりするなど、同じような現象が起きている。<br>一方で[[スリップノット]]が「Knotfest」(ノットフェスト)を主催して、親交のあるメタルバンドと世界規模のツアーを実現するなど、新しい世代による音楽活動も精力的に行われた。
== 日本におけるヘヴィメタル ==
[[ジャパニーズ・メタル]]を参照。
== ヘヴィメタルのサブジャンル ==
{{colbegin|3}}
* [[アバンギャルドメタル]]
* [[アンブラックメタル]]
* [[インダストリアル・メタル]]
* [[ヴァイキング・メタル]]
* [[エクストリーム・メタル]]
* [[エピックメタル]]
* [[オリエンタル・メタル]]
* [[オルタナティヴ・メタル]]
* [[カオティック・ハードコア]]
* [[グラインドコア]]
* [[クラシック・メタル]]
* [[クラストコア]]
* [[グラム・メタル]]
* [[クリスチャン・メタル]]
* [[グルーヴ・メタル]]
* [[クロスオーバー・スラッシュ]]
* [[ケルティック・メタル]]
* [[ゴアグラインド]]
* [[ゴシックメタル]]
* [[ジェント]]
* [[シンフォニックメタル]]
* [[シンフォニックブラックメタル]]
* [[ストーナーロック]]
* [[スピードメタル]]
* [[スラッジ・メタル]]
* [[スラッシュメタル]]
* [[ダークメタル]]
* [[チェロメタル]]
* [[テクニカルデスメタル]]
* [[デス・エン・ロール]]
* [[デスグラインド]]
* [[デスコア]]
* [[デス・ドゥーム]]
* [[デスメタル]]
* [[デスラッシュ]]
* [[デプレッシブブラックメタル]]
* [[ブルータル・デスメタル]]
* [[ドゥームメタル]]
* [[ドローン・メタル]]
* [[ニュースクール・ハードコア]]
* [[ニュー・メタル]]
* [[ナショナル・ソーシャリスト・ブラックメタル]]
* [[ネオクラシカルメタル]]
* [[パイレーツ・メタル]]
* [[パワーメタル]]
* [[ファンク・メタル]]
* [[フォーク・メタル]]
* [[ブラックゲイズ]]
* [[ブラックメタル]]
* [[プログレッシブ・メタル]]
* [[ポルカメタル]]
* [[マスコア]]
* [[ミクスチャー・ロック]]
* [[メタルコア]]
* [[メロディックスピードメタル]](メロディックパワーメタル)
* [[メロディックデスメタル]]
* [[メロディックメタルコア]]
* [[ラウドロック]]
* [[ミクスチャー・ロック#ラップメタル|ラップメタル]]
{{colend}}
地域ごとに特有の音楽性が認められる場合、地域別サブジャンルが出来る場合がある。
* [[LAメタル]]
* [[クラウト・ロック]]
* [[スウェディッシュ・デスメタル]]
* [[スパニッシュメタル]]
* [[ジャーマンメタル]]
* [[ジャパニーズメタル]]
* [[ベイエリア・スラッシュメタル]]
* [[北欧メタル]]
== 主要ヘヴィメタルバンド ==
[[ヘヴィメタル・アーティストの一覧]]を参照。
[[ジャパニーズ・メタルアーティスト一覧]]を参照。
== ヘヴィメタルを取り扱うメディア ==
=== 日本のメディア ===
==== テレビ番組 ====
* 伊藤政則の[[ROCK CITY]]([[テレビ神奈川|tvk]])
* [[GrindHouse tv]]([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]])
* [[METAL/HARD ROCK]]([[ミュージックビデオ専門/VMC]])
* [[METAL INT'L]]([[スペースシャワーTV]])
* [[MTV Headbangers Ball]]([[MTV]])
* [[ROCK WAVE]]([[テレビ埼玉|テレ玉]])
* [[HEAVYMETAL.TV]](TOKYO MX)終了
* [[LOUD INT'L]](スペースシャワーTV)終了
* [[ROCK FUJIYAMA]]([[テレビ東京]])終了
* [[ヘビメタさん]](テレビ東京・[[テレビ大阪]]・[[テレビ愛知]])終了
==== ラジオ番組 ====
* [[Captain Geki Rock 765]]([[関西インターメディア|FM COCOLO]])
* [[Ch.459 HARD ROCK/METAL]]([[スターデジオ]])
* [[Foolish G ~ギターバカイチダイ~]]([[エフエム北海道|AIR-G']])
* [[GrindHouse fm]]([[広島エフエム放送|HFM]]他4局ネット)
* [[GENOCIDE Takeuch サタニックな日々]]([[たんなん夢レディオ]])
* [[HEADBANGERS CLUB]]([[@FM]])
* [[HEAVY METAL SOUNDHOUSE]]([[USEN]])
* [[Heavy Metal Syndicate]]([[エフエム愛知|FM AICHI]]他27局ネット)終了
* [[POWER ROCK TODAY]]([[ベイエフエム|bayfm]])
* [[ROCKADOM]]([[エフエム富士|FM-FUJI]])
* [[ROCK DRIVE]]([[横浜エフエム放送|FMヨコハマ]])
* [[ROCK ON]]([[FM802]])
* [[ROCK STREAM]]([[エフエムさんだ|HoneyFM]])
* [[ROCK THE NATION]]([[エフエム仙台|date fm]]他7局ネット)
* [[国見昌臣のROLL N' RISE UP!!]]([[札幌コミュニティ放送局|ラジオカロスサッポロ]])
* [[スバル代行 presents 松本誠二のヘヴィメタルの逆襲]]([[DARAZコミュニティ放送|DARAZ FM]])
* [[BEAUTIFUL TIME]]([[エフエムインターウェーブ|Inter FM]])終了
* [[CAPTAIN ROCK]]([[エフエム大阪|fm osaka]])終了
* [[METAL KNIGHTS 鋼鉄の騎士団]]([[エフエム北海道|AIR-G']])終了
* [[ROCK or DIE]]([[エフエムぬまづ|COAST FM]])
* [[今日は一日○○三昧|今日は一日ハードロック・ヘビーメタル三昧]]([[NHK-FM]])※不定期放送
* [[METAL MASTER]]([[FM NORTH WAVE|FM NORTHWAVE]])
* [[福島HEAVY METAL計画]]([[エフエム福島|ふくしまFM]])
* [[WEEKLY MAVERICK HOUR HEAVY METAL ROMANCE]]([[BIPSC|FM ドラマシティ]])
==== 雑誌 ====
* [[BURRN!]]([[シンコーミュージック・エンタテイメント]])
** [[BURRN!#METALLION|METALLION]](シンコーミュージック・エンタテイメント)
** [[BURRN!#BURRN!_JAPAN|BURRN! JAPAN]](シンコーミュージック・エンタテイメント)
** [[炎 (雑誌)|炎]](シンコーミュージック・エンタテイメント)
* [[WeROCK]](旧[[ロッキンf]])([[ジャックアップ]])
* [[YOUNG GUITAR]](シンコーミュージック・エンタテイメント)
* [[ヘドバン (雑誌)|ヘドバン]](シンコーミュージック・エンタテイメント)
* [[MASSIVE (雑誌)|MASSIVE]](シンコーミュージック・エンタテイメント)
* [[激ロック]](Geki-Rock Entertainment)
* [[METAL HAMMER JAPAN]]([[リットー・ミュージック]])
===== 休廃刊誌 =====
* [[METAL GEAR(雑誌)|METAL GEAR]]([[ソニー・マガジンズ]])
* [[EAT magazine]]([[ジョインオアダイ]])
* [[GrindHouse Magazine]]([[グラインドハウス・マガジン]])
==== 漫画 ====
* [[MAD JAM]]([[岩田やすてる]])
* [[ROCKOMANGA!]]([[喜国雅彦]])
* [[ヘビメタ甲子園]]([[みやすのんき]])
* [[ハレルヤオーバードライブ!]]([[高田康太郎]])
* [[重金属彼女]](原作:[[西野かつみ]]・作画:[[りすまい]])
* [[デトロイト・メタル・シティ]]([[若杉公徳]])
* [[乙女たる!]]([[廣田眞胤]])
* [[メタル生徒会長]]([[伝説のメタラー]])<ref>[https://amass.jp/102074/ ヘヴィメタルを題材としたWEB漫画『メタル生徒会長』の単行本第1巻が発売] amass 2018年3月7日 2021年7月12日 閲覧</ref>
* メタリ子生活帳(めがめたる)<ref>[https://natalie.mu/comic/news/238733 メタル好きガールのゆるふわコミックエッセイ「メタリ子生活帳」] コミックナタリー 2017年6月29日 2021年7月12日 閲覧</ref>
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|ヘヴィメタル}}
* [[ハードロック]] / [[HR/HM]]
* [[ジャパニーズ・メタル]]
* [[パンク・ロック]]
* [[サイケデリック・ロック]]
* [[ブルース]] / [[ブルースロック]]
* [[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]
テレビ番組
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{{ロック・ミュージック}}
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[[Category:ヘヴィメタル|*]]
[[Category:ロックのジャンル]]
[[Category:イギリスの音楽]]
[[Category:アメリカ合衆国の音楽]] | 2003-04-10T18:23:48Z | 2023-12-28T10:45:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%AB |
6,469 | 真核生物 | 真核生物(しんかくせいぶつ、羅: Eukaryota、英: Eukaryote)は、動物、植物、菌類、原生生物など、身体を構成する細胞の中に細胞核と呼ばれる細胞小器官を有する生物である。
生物を基本的な遺伝の仕組みや生化学的性質を元に分類する3ドメイン説では、古細菌、細菌と共に生物界を3分する。古細菌および細菌の2ドメインは合わせて原核生物(Prokaryote)とも呼ばれる。真核生物は、原核生物に比べて大型で形態的に多様性に富むという特徴を持つ。かつての5界説における動物界、植物界、菌界、原生生物界の4界はすべて今日では真核生物に含まれる。
真核生物の細胞は一般的に原核生物の細胞よりも大きく、場合によっては1000倍以上の体積を持つこともある。細胞内にはさまざまな細胞小器官がある。細胞核は必要な物質のみ透過する穴の開いた二重の膜で覆われており、核液と遺伝情報を保持する DNA を含んでいる。細胞のその他の部分は細胞質と呼ばれ、細胞骨格によって支えられている。
核の周囲を板状とチューブ状の小胞体が取り巻いている。チューブ状の物は滑面小胞体、板状の物は粗面小胞体と呼ばれており、粗面小胞体にはいくつものリボソームが張り付き、細胞内での物質の生成、伝達が原核生物と同程度に潤滑させる器官である。リボソーム内で合成されたタンパク質が小胞体に渡され、小胞に入れられて細胞全体に分配される。ほとんどの真核生物では小胞はゴルジ体に蓄積される。小胞には様々な種類があり、これらの動きを合わせて細胞内組織が構成されている。
その他にも多くの器官が存在している。原核細胞と異なり、真核細胞の中には異化作用と酸素の消費に関係するミトコンドリアがある。植物や藻の系列では細胞内に光合成を行う葉緑体も含まれている。葉緑体を内部に持つ原核生物も存在しているが、それぞれ別々に細胞内に取り込まれたと考えられている(細胞内共生説)。真核生物の多くは細胞表面に鞭毛や繊毛があり、移動に使用したり、あるいは受容器官の働きをしている物もある。
細胞分裂の際には、まず核分裂が行われる。一般に、核内のDNAは細胞分裂に先立って、より集められて染色体になり、DNAはこの染色体ごとに新しい2つの細胞のために糸状の構造(紡錘糸)によって分かれて運ばれる。分かれた染色体のコピーが渡される。これを有糸分裂と呼ぶ。真核生物の染色体は直鎖状であり、末端にはテロメアと呼ばれる構造がある。
ほとんどの真核生物では有性生殖が行われる。減数分裂後、染色体の半数を2つ合わせて核の合成を行う。これには様々なパターンが存在する。
かつては細菌、アーキア (古細菌)、真核生物の3ドメインは共通の祖先から別個に誕生したとも考えられていたが、現在では古細菌の中から真核生物が進化したとする説が有力になりつつある(かつてのエオサイト説に近い)。特に、アスガルド古細菌から進化した事が分子系統解析から示唆されている。アスガルド古細菌は2010年代にその存在が確認され、真核生物と多くの類似性を有することが知られている。
真核生物には、実際のところ古細菌だけでなく、細菌など他の生物由来の要素も多く含まれている。真核生物は少なくとも2種以上の生物が合体して誕生したことがほぼ定説となっており、例えばミトコンドリアは、真核生物の母体となった古細菌にαプロテオバクテリアが細胞内共生を経て取り込まれて変化したものであるとする説が有力である。ミトコンドリアと同様に、葉緑体はシアノバクテリアが細胞内共生をへて真核生物に取り込みまれたものであると考えられている。ただし葉緑体については、すでに真核生物の誕生後、藻類の祖先となる系統でのみ個別に生じた現象であると考えられており、真核生物自体の起源とは関係しない。
古細菌から真核生物への具体的な道筋はいまだ未解明であり、水素仮説、リバース・フローモデル、Eモデル など多くの仮説が提唱されている。ほとんどの仮説が、古細菌がバクテリアを取り込んだと考えているのに対して、シントロピー・モデル と呼ばれる仮説のみ、バクテリア(特にデルタプロテオバクテリア)が古細菌を取り込んだと推定しており、共生の関係性が他の説とは逆である。この説ではミトコンドリアは古細菌とは別個に取り込まれて成立したとされる。上記の説以外にも、真核生物の細胞核に類似の器官をもつ一部のバクテリア(例えばプランクトミケス)が、真核生物の起源に関与しているとする説も存在する。
真核生物の成立年代は未確定ではあるものの、例えば真核生物に不可欠ないくつかの器官(例えばミトコンドリアや、ステロールを含む細胞膜)の成立に酸素が必須なことから、真核生物は24億年前の大酸化イベント以後、好気性条件下でおおまかに19億年前頃(原生代)には成立したとする説が有力である。一方で、真核生物は酸素が大気中に含まれていなかった大酸化イベント(Great Oxidation Event; GOE)以前の生活スタイル(嫌気呼吸)も保持しており、最初に誕生した真核生物は通性嫌気性生物であったと想定される。ちなみに大酸化イベント以前(太古代)の地球にもごく少量の酸素は存在していた可能性がある。ただ、真核生物を含め好気性生物が太古代にすでに存在していたかについては、それを明確に支持する証拠は現在のところない。最も古い真核生物の痕跡として、27億年前の地層から検出されたステランと呼ばれる真核生物由来の有機物質が一時期議論されていたが、その後これらのステランは当時のものではなく後世の混入であると結論づけられた。ステランは、真核生物が特徴的に生成するステロールが地層中で化石化したものである。現在、真核生物由来のステランとして認められた最も古いものは約8億年前の新原生代のものにとどまる。
新原生代以前の真核生物の有無および実態については詳しくわかっていない。2023年、現生の真核生物がもつステロールとは化学構造がやや異なる、”より原始的な”プロトステロールが化石化したものが新原生代以前の地層に広く分布していることが発表され、これらのステロールは現生の真核生物(クラウン・グループ)以前に存在していたステム・グループに属する生物が作り出していた可能性が指摘された。この説に従えば、現存する真核生物の最終共通祖先(英語版)は新原生代まで出現しなかったことになり、それまでは真核生物の前駆段階にあたる何らかの好気性生物が長く繁栄していたことになる。一方で、プロトステロールを含めてステロール自体は細菌が究極的な起源である可能性も指摘されており、新原生代以前のステロール(プロトステロール)を合成していた生物が何者だったのかによって、真核生物の成立過程についての理解は今後大きく変化する可能性がある。
ステラン以外の真核生物の痕跡としては、真核生物由来とされる微化石が21億年前の地層から発見されている。ただし、これらの化石が真に真核生物由来かどうかはなお議論の必要がある。19億年前の地層から見つかった、コイル状の多細胞生物と推定されるGrypaniaは真核生物として一定の支持を得ている最古の化石の一つである。真核生物の起源を分子時計を用いて推測する研究も行われている。ただし分子時計計算はステランなどの化学化石、および微化石の年代を基にしており、これら化石試料の選択と解釈次第で大きく計算結果が変動するため注意を要する(上述の否定された27億年前のステランもその例)。
ちなみに、動物や植物へ至る真核生物の多細胞化は真核生物自体の成立に比べて新しく、10億年前あたりを示唆する研究結果がある一方、上述のGrypaniaが本当に多細胞性の真核生物であった場合、多細胞化の起源が大幅に遡るため、結論は出ていない。
五界説では、真核生物は動物、植物、菌類、原生生物の4つの界に分類されていた。しかし近年では、分子系統解析などの研究成果を受け、真核生物の新しい分類体系が発表されている。例えば、動物と菌類は同一の系統に含まれるとしてオピストコンタにまとめられている。
現在提案されている分類体系として、国際原生生物学会(ISOP)によるものがある。この体系は2005年に発表され2012年と2019年に2度改訂されている。以下に2019年に出版された改訂版(Adl et al., 2019)の概観を表に示す。なお真核生物の系統関係の解明は2020年現在も進展中であり、今後も改訂が続いていくと考えられる。
細胞核という構造の有無が生物の分類にとって重要な差異であることは、19世紀にはすでに認識されていた。たとえば原生生物という言葉を初めて用いたエルンスト・ヘッケルは、細菌などのなんの構造も持たない生物を原生生物の中のモネラとして区別し、後に藍藻をここに含めている。しかし当時は動物と植物という差異がまず先に立っており、モネラとそれ以外という差異が注目されることはなかった。
真核生物という言葉は、文献上エドゥアール・シャットンが1925年の論文で初めて用いた。この論文はPansporella perplexaの分類学的位置を議論するもので、末尾の原生生物の分類表と樹形図の中でEucaryotesとProcaryotesが示されているものの、他には何の説明もなかった。シャットンの弟子で後にノーベル生理学・医学賞を受賞したアンドレ・ルヴォフの1932年のモノグラフの冒頭には、シャットンを引用しながら原生生物を原核生物と真核生物に二分する旨の記述がある。ここでは、原核的原生生物を細胞核やミトコンドリアがないもの、真核的原生生物を両者を持つものとしている。以後、20世紀前半に英語、ドイツ語、フランス語の文献で何度か言及されてはいるが、生物を真核生物と原核生物に二分する方法は一般的な認識とは程遠かった。たとえばハーバート・コープランド(英語版)は1938年に細胞核がない生物をモネラ界としたが、細胞核がある生物についてはヘッケルの3界(動物界、植物界、原生生物界)をそのまま採用している。この二分法を普及させたのは、カナダ人の細菌学者Roger Yates Stanierである。彼は1960年から翌年にかけてサバティカルでパスツール研究所に滞在し、ルヴォフとの議論の中でシャットンの二分法を知り、1962年の論文で広く知らしめたのである。電子顕微鏡による微細構造観察が当たり前のように行われる時代になって、この二分法は広く受け入れられるようになった。
しかし1990年に、カール・ウーズ(Carl Woese)らにより分子系統解析を用いて真核生物、細菌、古細菌の3ドメインが導入されるに伴い、真核生物・原核生物という二分法もまた過去のものとされるに至った(Three-domain system)。しかしながら、真核生物以外のすべての生物の総称として、原核生物という言葉は今日でも学術論文で用いられている。一方で21世紀に入ると、真核生物は古細菌から派生して出現した系統であるという理解が普及し、生物界を細菌とそれ以外で分ける、上記とは異なる意味合いでの二分法が出現している。
前述した国際原生生物学会(ISOP)による2019年の分類の詳細は下記のとおりである: | [
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"text": "真核生物(しんかくせいぶつ、羅: Eukaryota、英: Eukaryote)は、動物、植物、菌類、原生生物など、身体を構成する細胞の中に細胞核と呼ばれる細胞小器官を有する生物である。",
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"text": "生物を基本的な遺伝の仕組みや生化学的性質を元に分類する3ドメイン説では、古細菌、細菌と共に生物界を3分する。古細菌および細菌の2ドメインは合わせて原核生物(Prokaryote)とも呼ばれる。真核生物は、原核生物に比べて大型で形態的に多様性に富むという特徴を持つ。かつての5界説における動物界、植物界、菌界、原生生物界の4界はすべて今日では真核生物に含まれる。",
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"text": "真核生物の細胞は一般的に原核生物の細胞よりも大きく、場合によっては1000倍以上の体積を持つこともある。細胞内にはさまざまな細胞小器官がある。細胞核は必要な物質のみ透過する穴の開いた二重の膜で覆われており、核液と遺伝情報を保持する DNA を含んでいる。細胞のその他の部分は細胞質と呼ばれ、細胞骨格によって支えられている。",
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{
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"text": "核の周囲を板状とチューブ状の小胞体が取り巻いている。チューブ状の物は滑面小胞体、板状の物は粗面小胞体と呼ばれており、粗面小胞体にはいくつものリボソームが張り付き、細胞内での物質の生成、伝達が原核生物と同程度に潤滑させる器官である。リボソーム内で合成されたタンパク質が小胞体に渡され、小胞に入れられて細胞全体に分配される。ほとんどの真核生物では小胞はゴルジ体に蓄積される。小胞には様々な種類があり、これらの動きを合わせて細胞内組織が構成されている。",
"title": "真核細胞の構造"
},
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"text": "その他にも多くの器官が存在している。原核細胞と異なり、真核細胞の中には異化作用と酸素の消費に関係するミトコンドリアがある。植物や藻の系列では細胞内に光合成を行う葉緑体も含まれている。葉緑体を内部に持つ原核生物も存在しているが、それぞれ別々に細胞内に取り込まれたと考えられている(細胞内共生説)。真核生物の多くは細胞表面に鞭毛や繊毛があり、移動に使用したり、あるいは受容器官の働きをしている物もある。",
"title": "真核細胞の構造"
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"text": "細胞分裂の際には、まず核分裂が行われる。一般に、核内のDNAは細胞分裂に先立って、より集められて染色体になり、DNAはこの染色体ごとに新しい2つの細胞のために糸状の構造(紡錘糸)によって分かれて運ばれる。分かれた染色体のコピーが渡される。これを有糸分裂と呼ぶ。真核生物の染色体は直鎖状であり、末端にはテロメアと呼ばれる構造がある。",
"title": "繁殖"
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"title": "繁殖"
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"text": "かつては細菌、アーキア (古細菌)、真核生物の3ドメインは共通の祖先から別個に誕生したとも考えられていたが、現在では古細菌の中から真核生物が進化したとする説が有力になりつつある(かつてのエオサイト説に近い)。特に、アスガルド古細菌から進化した事が分子系統解析から示唆されている。アスガルド古細菌は2010年代にその存在が確認され、真核生物と多くの類似性を有することが知られている。",
"title": "起源"
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"text": "真核生物には、実際のところ古細菌だけでなく、細菌など他の生物由来の要素も多く含まれている。真核生物は少なくとも2種以上の生物が合体して誕生したことがほぼ定説となっており、例えばミトコンドリアは、真核生物の母体となった古細菌にαプロテオバクテリアが細胞内共生を経て取り込まれて変化したものであるとする説が有力である。ミトコンドリアと同様に、葉緑体はシアノバクテリアが細胞内共生をへて真核生物に取り込みまれたものであると考えられている。ただし葉緑体については、すでに真核生物の誕生後、藻類の祖先となる系統でのみ個別に生じた現象であると考えられており、真核生物自体の起源とは関係しない。",
"title": "起源"
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"text": "古細菌から真核生物への具体的な道筋はいまだ未解明であり、水素仮説、リバース・フローモデル、Eモデル など多くの仮説が提唱されている。ほとんどの仮説が、古細菌がバクテリアを取り込んだと考えているのに対して、シントロピー・モデル と呼ばれる仮説のみ、バクテリア(特にデルタプロテオバクテリア)が古細菌を取り込んだと推定しており、共生の関係性が他の説とは逆である。この説ではミトコンドリアは古細菌とは別個に取り込まれて成立したとされる。上記の説以外にも、真核生物の細胞核に類似の器官をもつ一部のバクテリア(例えばプランクトミケス)が、真核生物の起源に関与しているとする説も存在する。",
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"text": "真核生物の成立年代は未確定ではあるものの、例えば真核生物に不可欠ないくつかの器官(例えばミトコンドリアや、ステロールを含む細胞膜)の成立に酸素が必須なことから、真核生物は24億年前の大酸化イベント以後、好気性条件下でおおまかに19億年前頃(原生代)には成立したとする説が有力である。一方で、真核生物は酸素が大気中に含まれていなかった大酸化イベント(Great Oxidation Event; GOE)以前の生活スタイル(嫌気呼吸)も保持しており、最初に誕生した真核生物は通性嫌気性生物であったと想定される。ちなみに大酸化イベント以前(太古代)の地球にもごく少量の酸素は存在していた可能性がある。ただ、真核生物を含め好気性生物が太古代にすでに存在していたかについては、それを明確に支持する証拠は現在のところない。最も古い真核生物の痕跡として、27億年前の地層から検出されたステランと呼ばれる真核生物由来の有機物質が一時期議論されていたが、その後これらのステランは当時のものではなく後世の混入であると結論づけられた。ステランは、真核生物が特徴的に生成するステロールが地層中で化石化したものである。現在、真核生物由来のステランとして認められた最も古いものは約8億年前の新原生代のものにとどまる。",
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"text": "新原生代以前の真核生物の有無および実態については詳しくわかっていない。2023年、現生の真核生物がもつステロールとは化学構造がやや異なる、”より原始的な”プロトステロールが化石化したものが新原生代以前の地層に広く分布していることが発表され、これらのステロールは現生の真核生物(クラウン・グループ)以前に存在していたステム・グループに属する生物が作り出していた可能性が指摘された。この説に従えば、現存する真核生物の最終共通祖先(英語版)は新原生代まで出現しなかったことになり、それまでは真核生物の前駆段階にあたる何らかの好気性生物が長く繁栄していたことになる。一方で、プロトステロールを含めてステロール自体は細菌が究極的な起源である可能性も指摘されており、新原生代以前のステロール(プロトステロール)を合成していた生物が何者だったのかによって、真核生物の成立過程についての理解は今後大きく変化する可能性がある。",
"title": "起源"
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"text": "ステラン以外の真核生物の痕跡としては、真核生物由来とされる微化石が21億年前の地層から発見されている。ただし、これらの化石が真に真核生物由来かどうかはなお議論の必要がある。19億年前の地層から見つかった、コイル状の多細胞生物と推定されるGrypaniaは真核生物として一定の支持を得ている最古の化石の一つである。真核生物の起源を分子時計を用いて推測する研究も行われている。ただし分子時計計算はステランなどの化学化石、および微化石の年代を基にしており、これら化石試料の選択と解釈次第で大きく計算結果が変動するため注意を要する(上述の否定された27億年前のステランもその例)。",
"title": "起源"
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"text": "ちなみに、動物や植物へ至る真核生物の多細胞化は真核生物自体の成立に比べて新しく、10億年前あたりを示唆する研究結果がある一方、上述のGrypaniaが本当に多細胞性の真核生物であった場合、多細胞化の起源が大幅に遡るため、結論は出ていない。",
"title": "起源"
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"text": "五界説では、真核生物は動物、植物、菌類、原生生物の4つの界に分類されていた。しかし近年では、分子系統解析などの研究成果を受け、真核生物の新しい分類体系が発表されている。例えば、動物と菌類は同一の系統に含まれるとしてオピストコンタにまとめられている。",
"title": "下位分類"
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"text": "現在提案されている分類体系として、国際原生生物学会(ISOP)によるものがある。この体系は2005年に発表され2012年と2019年に2度改訂されている。以下に2019年に出版された改訂版(Adl et al., 2019)の概観を表に示す。なお真核生物の系統関係の解明は2020年現在も進展中であり、今後も改訂が続いていくと考えられる。",
"title": "下位分類"
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"text": "細胞核という構造の有無が生物の分類にとって重要な差異であることは、19世紀にはすでに認識されていた。たとえば原生生物という言葉を初めて用いたエルンスト・ヘッケルは、細菌などのなんの構造も持たない生物を原生生物の中のモネラとして区別し、後に藍藻をここに含めている。しかし当時は動物と植物という差異がまず先に立っており、モネラとそれ以外という差異が注目されることはなかった。",
"title": "研究の歴史"
},
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"text": "真核生物という言葉は、文献上エドゥアール・シャットンが1925年の論文で初めて用いた。この論文はPansporella perplexaの分類学的位置を議論するもので、末尾の原生生物の分類表と樹形図の中でEucaryotesとProcaryotesが示されているものの、他には何の説明もなかった。シャットンの弟子で後にノーベル生理学・医学賞を受賞したアンドレ・ルヴォフの1932年のモノグラフの冒頭には、シャットンを引用しながら原生生物を原核生物と真核生物に二分する旨の記述がある。ここでは、原核的原生生物を細胞核やミトコンドリアがないもの、真核的原生生物を両者を持つものとしている。以後、20世紀前半に英語、ドイツ語、フランス語の文献で何度か言及されてはいるが、生物を真核生物と原核生物に二分する方法は一般的な認識とは程遠かった。たとえばハーバート・コープランド(英語版)は1938年に細胞核がない生物をモネラ界としたが、細胞核がある生物についてはヘッケルの3界(動物界、植物界、原生生物界)をそのまま採用している。この二分法を普及させたのは、カナダ人の細菌学者Roger Yates Stanierである。彼は1960年から翌年にかけてサバティカルでパスツール研究所に滞在し、ルヴォフとの議論の中でシャットンの二分法を知り、1962年の論文で広く知らしめたのである。電子顕微鏡による微細構造観察が当たり前のように行われる時代になって、この二分法は広く受け入れられるようになった。",
"title": "研究の歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
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"text": "しかし1990年に、カール・ウーズ(Carl Woese)らにより分子系統解析を用いて真核生物、細菌、古細菌の3ドメインが導入されるに伴い、真核生物・原核生物という二分法もまた過去のものとされるに至った(Three-domain system)。しかしながら、真核生物以外のすべての生物の総称として、原核生物という言葉は今日でも学術論文で用いられている。一方で21世紀に入ると、真核生物は古細菌から派生して出現した系統であるという理解が普及し、生物界を細菌とそれ以外で分ける、上記とは異なる意味合いでの二分法が出現している。",
"title": "研究の歴史"
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{
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"text": "前述した国際原生生物学会(ISOP)による2019年の分類の詳細は下記のとおりである:",
"title": "系統の詳細"
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] | 真核生物は、動物、植物、菌類、原生生物など、身体を構成する細胞の中に細胞核と呼ばれる細胞小器官を有する生物である。 | {{生物分類表
| 色 = 原生生物界
| 名称 = 真核生物 <br>Eukaryota
| fossil_range = [[スタテリアン]] – [[完新世]] {{long fossil range|1700|0 |earliest=2300}}
| 画像 = [[ファイル:Eukaryota diversity 2.jpg|250px]]
| 画像キャプション ぬやま
| ドメイン = '''真核生物''' {{sname||Eukaryota}}
| 学名 = Eukaryota
| シノニム =
* Eukarya
| 和名 = 真核生物 (しんかくせいぶつ)
| 英名 = Eukaryote
| 下位分類名 = 下位分類群
| 下位分類 =
* (和名なし) {{sname||Discoba}}
* [[ヘミマスティゴフォラ]] {{sname||Hemimastigophora}}
* [[ディアフォレティケス]] {{sname||Diaphoretickes}}
** [[アーケプラスチダ|古色素体類]] {{sname||Archaeplastida}}
** [[ハクロビア]] {{sname||Hacrobia}}
** [[SARスーパーグループ]] {{sname||SAR supergroup}}
* [[ロウコゾア]] {{sname||Loukozoa}}
* (和名なし) {{sname||CRuMs}}
* [[アモルフェア]] {{sname||Amorphea}}
}}
'''真核生物'''(しんかくせいぶつ、[[ラテン語|羅]]: {{Sname|Eukaryota}}、[[英語|英]]: {{lang|en|Eukaryote}})は、[[動物]]、[[植物]]、[[菌類]]、[[原生生物]]など、身体を構成する[[細胞]]の中に[[細胞核]]と呼ばれる[[細胞小器官]]を有する[[生物]]である。
==概要==
生物を基本的な[[遺伝]]の仕組みや[[生物化学|生化学]]的性質を元に分類する3[[ドメイン (分類学)|ドメイン]]説では、[[古細菌]]、[[細菌]]と共に生物界を3分する。古細菌および細菌の2ドメインは合わせて[[原核生物]](Prokaryote)とも呼ばれる。真核生物は、原核生物に比べて大型で形態的に多様性に富むという特徴を持つ。かつての[[五界説|5界説]]における[[動物界]]、[[植物界]]、[[菌界]]、[[原生生物界]]の4界はすべて今日では真核生物に含まれる。
== 真核細胞の構造 ==
[[ファイル:Biological cell.svg|thumb|350px|left|真核細胞の模式図。1.[[核小体]] 2.[[細胞核]] 3.[[リボソーム]] 4.[[小嚢]] 5.粗面[[小胞体]] 6.[[ゴルジ体]] 7.[[細胞骨格]] 8.滑面[[小胞体]] 9.[[ミトコンドリア]] 10.[[液胞]] 11.[[細胞質基質]] 12.[[リソソーム]] 13.[[中心体]]]]
真核生物の細胞は一般的に原核生物の細胞よりも大きく、場合によっては1000倍以上の[[体積]]を持つこともある。細胞内にはさまざまな[[細胞小器官]]がある。細胞核は必要な物質のみ透過する穴の開いた二重の膜で覆われており、核液と[[遺伝]]情報を保持する [[デオキシリボ核酸|DNA]] を含んでいる。細胞のその他の部分は[[細胞質]]と呼ばれ、[[細胞骨格]]によって支えられている。
核の周囲を板状とチューブ状の[[小胞体]]が取り巻いている。チューブ状の物は滑面小胞体、板状の物は粗面小胞体と呼ばれており、粗面小胞体にはいくつもの[[リボソーム]]が張り付き、細胞内での物質の生成、伝達が原核生物と同程度に潤滑させる器官である。リボソーム内で合成された[[蛋白質|タンパク質]]が小胞体に渡され、[[小胞]]に入れられて細胞全体に分配される。ほとんどの真核生物では小胞は[[ゴルジ体]]に蓄積される。小胞には様々な種類があり、これらの動きを合わせて細胞内組織が構成されている。
その他にも多くの器官が存在している。原核細胞と異なり、真核細胞の中には異化作用と[[酸素]]の消費に関係する[[ミトコンドリア]]がある。[[植物]]や藻の系列では細胞内に[[光合成]]を行う[[葉緑体]]も含まれている。葉緑体を内部に持つ原核生物も存在しているが、それぞれ別々に細胞内に取り込まれたと考えられている([[細胞内共生説]])。真核生物の多くは細胞表面に[[鞭毛]]や[[繊毛]]があり、移動に使用したり、あるいは受容器官の働きをしている物もある。
== 繁殖 ==
[[細胞分裂]]の際には、まず[[細胞分裂|核分裂]]が行われる。一般に、核内のDNAは細胞分裂に先立って、より集められて[[染色体]]になり、DNAはこの染色体ごとに新しい2つの細胞のために糸状の構造(紡錘糸)によって分かれて運ばれる。分かれた染色体のコピーが渡される。これを有糸分裂と呼ぶ。真核生物の染色体は直鎖状であり、末端には[[テロメア]]と呼ばれる構造がある。
ほとんどの真核生物では[[有性生殖]]が行われる。減数分裂後、染色体の半数を2つ合わせて核の合成を行う。これには様々なパターンが存在する。
== 起源 ==
かつては[[細菌]]、[[アーキア]] (古細菌)、真核生物の3ドメインは共通の祖先から別個に誕生したとも考えられていたが<ref>{{Cite journal|last=Woese|first=C. R.|date=2002-06-25|title=On the evolution of cells|url=http://www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.132266999|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=99|issue=13|pages=8742–8747|language=en|doi=10.1073/pnas.132266999|issn=0027-8424|pmid=12077305|pmc=124369}}</ref>、現在では古細菌の中から真核生物が進化したとする説が有力になりつつある(かつての'''[[エオサイト説]]'''に近い)<ref name=":1">[[#矢島(2020)]] p.72.</ref><ref name=":10">{{Cite journal|last=Zaremba-Niedzwiedzka|first=Katarzyna|last2=Caceres|first2=Eva F.|last3=Saw|first3=Jimmy H.|last4=Bäckström|first4=Disa|last5=Juzokaite|first5=Lina|last6=Vancaester|first6=Emmelien|last7=Seitz|first7=Kiley W.|last8=Anantharaman|first8=Karthik|last9=Starnawski|first9=Piotr|date=2017-01|title=Asgard archaea illuminate the origin of eukaryotic cellular complexity|url=http://www.nature.com/articles/nature21031|journal=Nature|volume=541|issue=7637|pages=353–358|language=en|doi=10.1038/nature21031|issn=0028-0836}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Spang|first=Anja|last2=Saw|first2=Jimmy H.|last3=Jørgensen|first3=Steffen L.|last4=Zaremba-Niedzwiedzka|first4=Katarzyna|last5=Martijn|first5=Joran|last6=Lind|first6=Anders E.|last7=van Eijk|first7=Roel|last8=Schleper|first8=Christa|last9=Guy|first9=Lionel|date=2015-05|title=Complex archaea that bridge the gap between prokaryotes and eukaryotes|url=http://www.nature.com/articles/nature14447|journal=Nature|volume=521|issue=7551|pages=173–179|language=en|doi=10.1038/nature14447|issn=0028-0836|pmid=25945739|pmc=4444528}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Liu|first=Yang|last2=Makarova|first2=Kira S.|last3=Huang|first3=Wen-Cong|last4=Wolf|first4=Yuri I.|last5=Nikolskaya|first5=Anastasia N.|last6=Zhang|first6=Xinxu|last7=Cai|first7=Mingwei|last8=Zhang|first8=Cui-Jing|last9=Xu|first9=Wei|date=2021-05-27|title=Expanded diversity of Asgard archaea and their relationships with eukaryotes|url=http://www.nature.com/articles/s41586-021-03494-3|journal=Nature|volume=593|issue=7860|pages=553–557|language=en|doi=10.1038/s41586-021-03494-3|issn=0028-0836}}</ref>。特に、[[アスガルド古細菌]]から進化した事が[[分子系統解析]]から示唆されている。アスガルド古細菌は2010年代にその存在が確認され、真核生物と多くの類似性を有することが知られている<ref name=":1" />。
{{clade|{{clade
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|1= [[細菌]]
|label2= [[古細菌]]
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|label1=[[アスガルド古細菌]]
|1={{clade
|1=真核生物
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}}|label1=生物}}
真核生物には、実際のところ古細菌だけでなく、細菌など他の生物由来の要素も多く含まれている<ref>{{Cite journal|last=Brueckner|first=Julia|last2=Martin|first2=William F|editor-last=Pisani|editor-first=Davide|date=2020-04-01|title=Bacterial Genes Outnumber Archaeal Genes in Eukaryotic Genomes|url=https://academic.oup.com/gbe/article/12/4/282/5788535|journal=Genome Biology and Evolution|volume=12|issue=4|pages=282–292|language=en|doi=10.1093/gbe/evaa047|issn=1759-6653|pmid=32142116|pmc=7151554}}</ref>。真核生物は少なくとも2種以上の生物が合体して誕生したことがほぼ定説となっており、例えばミトコンドリアは、真核生物の母体となった古細菌に[[プロテオバクテリア#アルファプロテオバクテリア綱|αプロテオバクテリア]]が[[細胞内共生説|細胞内共生]]を経て取り込まれて変化したものであるとする説が有力である<ref>{{Cite journal|last=Sagan|first=Lynn|date=1967-03|title=On the origin of mitosing cells|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/0022519367900793|journal=Journal of Theoretical Biology|volume=14|issue=3|pages=225–IN6|language=en|doi=10.1016/0022-5193(67)90079-3}}</ref>。ミトコンドリアと同様に、葉緑体はシアノバクテリアが細胞内共生をへて真核生物に取り込みまれたものであると考えられている。ただし葉緑体については、すでに真核生物の誕生後、[[アーケプラスチダ|藻類]]の祖先となる系統でのみ個別に生じた現象であると考えられており、真核生物自体の起源とは関係しない。
古細菌から真核生物への具体的な道筋はいまだ未解明であり、水素仮説<ref>{{Cite journal|last=Martin|first=William|last2=Müller|first2=Miklós|date=1998-03|title=The hydrogen hypothesis for the first eukaryote|url=http://www.nature.com/articles/32096|journal=Nature|volume=392|issue=6671|pages=37–41|language=en|doi=10.1038/32096|issn=0028-0836}}</ref>、リバース・フローモデル<ref>{{Cite journal|last=Spang|first=Anja|last2=Stairs|first2=Courtney W.|last3=Dombrowski|first3=Nina|last4=Eme|first4=Laura|last5=Lombard|first5=Jonathan|last6=Caceres|first6=Eva F.|last7=Greening|first7=Chris|last8=Baker|first8=Brett J.|last9=Ettema|first9=Thijs J. G.|date=2019-07|title=Proposal of the reverse flow model for the origin of the eukaryotic cell based on comparative analyses of Asgard archaeal metabolism|url=http://www.nature.com/articles/s41564-019-0406-9|journal=Nature Microbiology|volume=4|issue=7|pages=1138–1148|language=en|doi=10.1038/s41564-019-0406-9|issn=2058-5276}}</ref>、E<sup>3</sup>モデル<ref>{{Cite journal|last=Imachi|first=Hiroyuki|last2=Nobu|first2=Masaru K.|last3=Nakahara|first3=Nozomi|last4=Morono|first4=Yuki|last5=Ogawara|first5=Miyuki|last6=Takaki|first6=Yoshihiro|last7=Takano|first7=Yoshinori|last8=Uematsu|first8=Katsuyuki|last9=Ikuta|first9=Tetsuro|date=2020-01-23|title=Isolation of an archaeon at the prokaryote–eukaryote interface|url=http://www.nature.com/articles/s41586-019-1916-6|journal=Nature|volume=577|issue=7791|pages=519–525|language=en|doi=10.1038/s41586-019-1916-6|issn=0028-0836|pmid=31942073|pmc=7015854}}</ref> など多くの仮説が提唱されている<ref>{{Cite journal|last=López-García|first=Purificación|last2=Moreira|first2=David|date=2020-05|title=The Syntrophy hypothesis for the origin of eukaryotes revisited|url=http://www.nature.com/articles/s41564-020-0710-4|journal=Nature Microbiology|volume=5|issue=5|pages=655–667|language=en|doi=10.1038/s41564-020-0710-4|issn=2058-5276}}</ref>。ほとんどの仮説が、古細菌がバクテリアを取り込んだと考えているのに対して、シントロピー・モデル<ref>{{Cite journal|last=Moreira|first=David|last2=López-García|first2=Purificación|date=1998-11|title=Symbiosis Between Methanogenic Archaea and δ-Proteobacteria as the Origin of Eukaryotes: The Syntrophic Hypothesis|url=http://link.springer.com/10.1007/PL00006408|journal=Journal of Molecular Evolution|volume=47|issue=5|pages=517–530|language=en|doi=10.1007/PL00006408|issn=0022-2844}}</ref> と呼ばれる仮説のみ、バクテリア(特に[[プロテオバクテリア|デルタプロテオバクテリア]])が古細菌を取り込んだと推定しており、共生の関係性が他の説とは逆である。この説ではミトコンドリアは古細菌とは別個に取り込まれて成立したとされる。上記の説以外にも、真核生物の細胞核に類似の器官をもつ一部のバクテリア(例えば[[プランクトミケス門|プランクトミケス]])が、真核生物の起源に関与しているとする説も存在する<ref>{{Cite journal|last=Fuerst|first=John A.|last2=Sagulenko|first2=Evgeny|date=2011-06|title=Beyond the bacterium: planctomycetes challenge our concepts of microbial structure and function|url=http://www.nature.com/articles/nrmicro2578|journal=Nature Reviews Microbiology|volume=9|issue=6|pages=403–413|language=en|doi=10.1038/nrmicro2578|issn=1740-1526}}</ref>。
=== 成立年代の推定 ===
真核生物の成立年代は未確定ではあるものの、例えば真核生物に不可欠ないくつかの器官(例えば[[ミトコンドリア]]や、[[ステロール]]を含む[[細胞膜]])<ref>{{Cite journal|last=Roger|first=Andrew J.|last2=Muñoz-Gómez|first2=Sergio A.|last3=Kamikawa|first3=Ryoma|date=2017-11|title=The Origin and Diversification of Mitochondria|url=https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.015|journal=Current Biology|volume=27|issue=21|pages=R1177–R1192|doi=10.1016/j.cub.2017.09.015|issn=0960-9822}}</ref><ref name=":9">{{Cite journal|last=Hoshino|first=Yosuke|last2=Gaucher|first2=Eric A.|date=2021-06-22|title=Evolution of bacterial steroid biosynthesis and its impact on eukaryogenesis|url=https://www.pnas.org/content/118/25/e2101276118|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=118|issue=25|language=en|doi=10.1073/pnas.2101276118|issn=0027-8424|pmid=34131078|pmc=8237579}}</ref>の成立に酸素が必須なことから、真核生物は24億年前の大酸化イベント以後、[[好気呼吸|好気性]]条件下でおおまかに19億年前頃([[原生代]])には成立したとする説が有力である<ref name=":8"/>。一方で、真核生物は酸素が大気中に含まれていなかった大酸化イベント([[:en:Great_Oxidation_Event|Great Oxidation Event]]; GOE)以前の生活スタイル([[嫌気呼吸]])も保持しており<ref>{{Cite journal|last=Müller|first=Miklós|last2=Mentel|first2=Marek|last3=van Hellemond|first3=Jaap J.|last4=Henze|first4=Katrin|last5=Woehle|first5=Christian|last6=Gould|first6=Sven B.|last7=Yu|first7=Re-Young|last8=van der Giezen|first8=Mark|last9=Tielens|first9=Aloysius G. M.|date=2012-06|title=Biochemistry and Evolution of Anaerobic Energy Metabolism in Eukaryotes|url=https://journals.asm.org/doi/10.1128/MMBR.05024-11|journal=Microbiology and Molecular Biology Reviews|volume=76|issue=2|pages=444–495|language=en|doi=10.1128/MMBR.05024-11|issn=1092-2172|pmid=22688819|pmc=3372258}}</ref><ref>{{Cite book|title=Mitochondria and Anaerobic Energy Metabolism in Eukaryotes: Biochemistry and Evolution|url=https://www.degruyter.com/document/doi/10.1515/9783110612417/html|publisher=De Gruyter|date=2020-12-07|isbn=978-3-11-061241-7|doi=10.1515/9783110612417|first=William F.|last=Martin|first2=Aloysius G. M.|last2=Tielens|first3=Marek|last3=Mentel}}</ref>、最初に誕生した真核生物は[[通性嫌気性生物]]であったと想定される。ちなみに大酸化イベント以前([[太古代]])の地球にもごく少量の酸素は存在していた可能性がある<ref>{{Cite journal|last=Catling|first=David C.|last2=Zahnle|first2=Kevin J.|date=2020-02|title=The Archean atmosphere|url=https://advances.sciencemag.org/lookup/doi/10.1126/sciadv.aax1420|journal=Science Advances|volume=6|issue=9|pages=eaax1420|language=en|doi=10.1126/sciadv.aax1420|issn=2375-2548|pmid=32133393|pmc=7043912}}</ref>。ただ、真核生物を含め好気性生物が太古代にすでに存在していたかについては、それを明確に支持する証拠は現在のところない。最も古い真核生物の痕跡として、27億年前の地層から検出された[[ステラン]]と呼ばれる真核生物由来の有機物質が一時期議論されていたが<ref>{{Cite journal|last=Brocks|first=J. J.|date=1999-08-13|title=Archean Molecular Fossils and the Early Rise of Eukaryotes|url=https://www.sciencemag.org/lookup/doi/10.1126/science.285.5430.1033|journal=Science|volume=285|issue=5430|pages=1033–1036|doi=10.1126/science.285.5430.1033}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Waldbauer|first=Jacob R.|last2=Sherman|first2=Laura S.|last3=Sumner|first3=Dawn Y.|last4=Summons|first4=Roger E.|date=2009-03|title=Late Archean molecular fossils from the Transvaal Supergroup record the antiquity of microbial diversity and aerobiosis|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0301926808002507|journal=Precambrian Research|volume=169|issue=1-4|pages=28–47|language=en|doi=10.1016/j.precamres.2008.10.011}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Brocks|first=Jochen J|last2=Buick|first2=Roger|last3=Summons|first3=Roger E|last4=Logan|first4=Graham A|date=2003-11|title=A reconstruction of Archean biological diversity based on molecular fossils from the 2.78 to 2.45 billion-year-old Mount Bruce Supergroup, Hamersley Basin, Western Australia|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0016703703002096|journal=Geochimica et Cosmochimica Acta|volume=67|issue=22|pages=4321–4335|language=en|doi=10.1016/S0016-7037(03)00209-6}}</ref>、その後これらのステランは当時のものではなく後世の混入であると結論づけられた<ref>{{Cite journal|last=French|first=Katherine L.|last2=Hallmann|first2=Christian|last3=Hope|first3=Janet M.|last4=Schoon|first4=Petra L.|last5=Zumberge|first5=J. Alex|last6=Hoshino|first6=Yosuke|last7=Peters|first7=Carl A.|last8=George|first8=Simon C.|last9=Love|first9=Gordon D.|date=2015-05-12|title=Reappraisal of hydrocarbon biomarkers in Archean rocks|url=https://www.pnas.org/content/112/19/5915|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=112|issue=19|pages=5915–5920|doi=10.1073/pnas.1419563112|pmid=25918387|pmc=4434754}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Rasmussen|first=Birger|last2=Fletcher|first2=Ian R.|last3=Brocks|first3=Jochen J.|last4=Kilburn|first4=Matt R.|date=2008-10|title=Reassessing the first appearance of eukaryotes and cyanobacteria|url=http://www.nature.com/articles/nature07381|journal=Nature|volume=455|issue=7216|pages=1101–1104|language=en|doi=10.1038/nature07381|issn=0028-0836}}</ref>。ステランは、真核生物が特徴的に生成する[[ステロール]]が地層中で化石化したものである。現在、真核生物由来のステランとして認められた最も古いものは約8億年前の[[新原生代]]のものにとどまる<ref>{{Cite journal|last=Hoshino|first=Yosuke|last2=Poshibaeva|first2=Aleksandra|last3=Meredith|first3=William|last4=Snape|first4=Colin|last5=Poshibaev|first5=Vladimir|last6=Versteegh|first6=Gerard J. M.|last7=Kuznetsov|first7=Nikolay|last8=Leider|first8=Arne|last9=van Maldegem|first9=Lennart|date=2017-09|title=Cryogenian evolution of stigmasteroid biosynthesis|url=https://advances.sciencemag.org/lookup/doi/10.1126/sciadv.1700887|journal=Science Advances|volume=3|issue=9|pages=e1700887|language=en|doi=10.1126/sciadv.1700887|issn=2375-2548|pmc=5606710|pmid=28948220}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Brocks|first=Jochen J.|last2=Jarrett|first2=Amber J. M.|last3=Sirantoine|first3=Eva|last4=Hallmann|first4=Christian|last5=Hoshino|first5=Yosuke|last6=Liyanage|first6=Tharika|date=2017-08|title=The rise of algae in Cryogenian oceans and the emergence of animals|url=https://www.nature.com/articles/nature23457|journal=Nature|volume=548|issue=7669|pages=578–581|language=en|doi=10.1038/nature23457|issn=1476-4687}}</ref>。
新原生代以前の真核生物の有無および実態については詳しくわかっていない。2023年、現生の真核生物がもつステロールとは化学構造がやや異なる、”より原始的な”プロトステロールが化石化したものが新原生代以前の地層に広く分布していることが発表され、これらのステロールは現生の真核生物(クラウン・グループ)以前に存在していたステム・グループに属する生物が作り出していた可能性が指摘された<ref>{{Cite journal|last=Brocks|first=Jochen J.|last2=Nettersheim|first2=Benjamin J.|last3=Adam|first3=Pierre|last4=Schaeffer|first4=Philippe|last5=Jarrett|first5=Amber J. M.|last6=Güneli|first6=Nur|last7=Liyanage|first7=Tharika|last8=van Maldegem|first8=Lennart M.|last9=Hallmann|first9=Christian|date=2023-06-22|title=Lost world of complex life and the late rise of the eukaryotic crown|url=https://www.nature.com/articles/s41586-023-06170-w|journal=Nature|volume=618|issue=7966|pages=767–773|language=en|doi=10.1038/s41586-023-06170-w|issn=0028-0836}}</ref>。この説に従えば、現存する{{仮リンク|真核生物発生|label=真核生物の最終共通祖先|en|Eukaryogenesis}}は新原生代まで出現しなかったことになり、それまでは真核生物の前駆段階にあたる何らかの好気性生物が長く繁栄していたことになる。一方で、プロトステロールを含めてステロール自体は細菌が究極的な起源である可能性も指摘されており<ref name=":9" />、新原生代以前のステロール(プロトステロール)を合成していた生物が何者だったのかによって、真核生物の成立過程についての理解は今後大きく変化する可能性がある。
ステラン以外の真核生物の痕跡としては、真核生物由来とされる[[微化石]]が21億年前の地層から発見されている<ref>{{Cite journal|last=Albani|first=Abderrazak El|last2=Bengtson|first2=Stefan|last3=Canfield|first3=Donald E.|last4=Bekker|first4=Andrey|last5=Macchiarelli|first5=Roberto|last6=Mazurier|first6=Arnaud|last7=Hammarlund|first7=Emma U.|last8=Boulvais|first8=Philippe|last9=Dupuy|first9=Jean-Jacques|date=2010-07|title=Large colonial organisms with coordinated growth in oxygenated environments 2.1 Gyr ago|url=https://www.nature.com/articles/nature09166|journal=Nature|volume=466|issue=7302|pages=100–104|language=en|doi=10.1038/nature09166|issn=1476-4687}}</ref>。ただし、これらの化石が真に真核生物由来かどうかはなお議論の必要がある。19億年前の地層から見つかった、コイル状の多細胞生物と推定されるGrypaniaは真核生物として一定の支持を得ている最古の化石の一つである<ref name=":8">{{Cite journal|last=Knoll|first=A.h|last2=Javaux|first2=E.j|last3=Hewitt|first3=D|last4=Cohen|first4=P|date=2006-06-29|title=Eukaryotic organisms in Proterozoic oceans|url=https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rstb.2006.1843|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences|volume=361|issue=1470|pages=1023–1038|doi=10.1098/rstb.2006.1843|pmid=16754612|pmc=1578724}}</ref>。真核生物の起源を分子時計を用いて推測する研究も行われている<ref>{{Cite journal|last=Strassert|first=Jürgen F. H.|last2=Irisarri|first2=Iker|last3=Williams|first3=Tom A.|last4=Burki|first4=Fabien|date=2021-03-25|title=A molecular timescale for eukaryote evolution with implications for the origin of red algal-derived plastids|url=https://www.nature.com/articles/s41467-021-22044-z|journal=Nature Communications|volume=12|issue=1|pages=1879|language=en|doi=10.1038/s41467-021-22044-z|issn=2041-1723|pmid=33767194|pmc=7994803}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Parfrey|first=L. W.|last2=Lahr|first2=D. J. G.|last3=Knoll|first3=A. H.|last4=Katz|first4=L. A.|date=2011-08-16|title=Estimating the timing of early eukaryotic diversification with multigene molecular clocks|url=http://www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/pnas.1110633108|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=108|issue=33|pages=13624–13629|language=en|doi=10.1073/pnas.1110633108|issn=0027-8424|pmid=21810989|pmc=3158185}}</ref>。ただし分子時計計算はステランなどの化学化石、および微化石の年代を基にしており、これら化石試料の選択と解釈次第で大きく計算結果が変動するため注意を要する<ref>{{Cite journal|last=Eme|first=L.|last2=Sharpe|first2=S. C.|last3=Brown|first3=M. W.|last4=Roger|first4=A. J.|date=2014-08-01|title=On the Age of Eukaryotes: Evaluating Evidence from Fossils and Molecular Clocks|url=http://cshperspectives.cshlp.org/lookup/doi/10.1101/cshperspect.a016139|journal=Cold Spring Harbor Perspectives in Biology|volume=6|issue=8|pages=a016139–a016139|language=en|doi=10.1101/cshperspect.a016139|issn=1943-0264|pmid=25085908|pmc=4107988}}</ref>(上述の否定された27億年前のステランもその例)。
ちなみに、[[動物]]や[[植物]]へ至る真核生物の多細胞化は真核生物自体の成立に比べて新しく、10億年前あたりを示唆する研究結果がある一方<ref name=":8" />、上述のGrypaniaが本当に多細胞性の真核生物であった場合、多細胞化の起源が大幅に遡るため、結論は出ていない。
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== 真核生物の位置付け ==
生物の分類の変遷を下に示す。真核生物の起源に関して、エオサイト説と今日提唱されている2ドメイン説は厳密には同一ではないが、古細菌と真核生物の近縁性に注目している点で同一である。また2ドメイン説においても、真核生物の名称および枠組み自体は存続している。
コメント: エオサイト説・2分岐説は系統・起源についての説だと思うので、生物の分類の枠組みと同列に並べるのは適切でないのでは。 このような図を提示するなら少なくとももっと説明は必要。 それと「2ドメイン説」という言葉は、系統についてなのか、分類体系として2ドメインにすることまで含意するのか不明なのでは。
文案:
過去に提唱された生物の分類の枠組みと、エオサイト説・2分岐説で考えられている系統群の関係を示す。
なお、2分岐説でも真核生物という分類群が解体されるわけではない。
また、分類体系をどうするか、分類群の階級をどうするかといったことは系統関係とはまた別の問題がある。
{| class="wikitable" style="margin-left: 0.5em; style=font-size:90%;"
!2界説
![[界 (分類学)#三界説|3界説]]
![[5界説]]
!6界説
!style="width:13%" |[[3ドメイン説]]<ref name="Woese_1990">
{{cite journal|author=Woese C, Kandler O, Wheelis M|year=1990|title=Towards a natural system of organisms: proposal for the domains Archaea, Bacteria, and Eucarya.(生物の自然機構について:古細菌、細菌、真核生物の3ドメインの提案)|journal=Proc Natl Acad Sci U S A|volume=87|issue=12|pages=4576-9|u=http://www.pnas.org/cgi/reprint/87/12/4576|id=PMID 2112744}}</ref>
!style="width:16%" |<!- - 2021年現在の現行説 - ->
2ドメイン説・[[エオサイト説]]
! rowspan="2" |具体例<ref>ここに載せた具体例は下記より引用:{{Cite book|ref=藤田10|author=藤田敏彦|title=動物の系統分類と進化|series=新・生命科学シリーズ|date=2010/4/28|publisher=裳華房|isbn=978-4785358426|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}} p91</ref>
|-
![[カール・フォン・リンネ|リンネ]]<br/>([[1735年]])
![[エルンスト・ヘッケル|ヘッケル]]<br/>([[1866年]])
![[ロバート・ホイタッカー|ホイタッカー]]<br/>([[1969年]])
![[カール・ウーズ|ウーズ]]<br/>([[1977年]])
!ウーズ<br/>([[1990年]])
!レイクら<br/>([[1984年]])
|-
| rowspan="3" |
| rowspan="3" style="background-color: khaki;" |'''[[原生生物]]界'''
| rowspan="2" style="background-color: lightgrey;" |'''[[モネラ界]]'''
| style="background-color: lightgrey;" |'''[[細菌|真正細菌]]界'''
| style="background-color: lightgrey;" |'''[[細菌]]'''
| style="background-color: lightgrey;" |'''[[細菌]]'''
|大腸菌、放線菌、藍色細菌
|-
| style="background-color: #F3E0E0;" |'''[[古細菌]]界'''
| style="background-color: #F3E0E0;" |'''[[アーキア]] (古細菌)'''
| rowspan="5" style="background-color: #F3E0E0;" |'''[[アーキア]]'''<!-(古細菌)-><!- Arkarya ? ->
ただし真核生物は古細菌から分岐したもので、1行目以外が真核生物に対応
|[[メタン菌|メタン生成菌]]、[[好熱好酸菌]]
|-
| style="background-color: khaki;" |'''[[原生生物]]界'''
| style="background-color: khaki;" |'''[[原生生物]]界'''
| rowspan="4" style="background-color: #e0d0b0;" |'''[[真核生物]]'''
|[[藻類]]、[[原生動物]]、[[変形菌|変形菌類]]
|-
| rowspan="2" style="background-color: lightgreen;" |'''[[植物]]界'''
| rowspan="2" style="background-color: lightgreen;" |'''[[植物]]界'''
| style="background-color: lightblue;" |'''[[菌類|菌界]]'''
| style="background-color: lightblue;" |'''[[菌類|菌界]]'''
|[[キノコ]]、[[カビ]]、[[地衣類|地衣植物]]
|-
| style="background-color: lightgreen;" |'''[[植物]]界'''
| style="background-color: lightgreen;" |'''[[植物]]界'''
|[[苔|コケ類]]、[[シダ植物門|シダ類]]、[[種子植物]]
|-
| style="background-color: rgb(211,211,164);" |'''[[動物]]界'''
| style="background-color: rgb(211,211,164);" |'''[[動物]]界'''
| style="background-color: rgb(211,211,164);" |'''[[動物]]界'''
| style="background-color: rgb(211,211,164);" |'''[[動物]]界'''
|[[無脊椎動物]]、[[脊椎動物]]
|}
上の表の「動物界」、「植物界」などに登場する「[[界 (分類学)|界]]」という語は、生物の分類階級の一つで、3ドメイン説が登場するまでは最上位の分類階級として位置づけられていた。
-->
== 下位分類 ==
[[五界説]]では、真核生物は動物、植物、菌類、原生生物の4つの[[界 (分類学)|界]]に分類されていた。<!-- 例えば、原生生物の分類体系であるLevine ''et al.'' (1980)は、国際原生動物学会の合意して図鑑や百科事典などに取り入れられていた。-->しかし近年では、分子系統解析などの研究成果を受け、真核生物の新しい分類体系が発表されている。例えば、動物と菌類は同一の系統に含まれるとして[[オピストコンタ]]にまとめられている。
<!-- {{疑問点|date=2021年8月|title=ISOPの分類体系は 系統を重視した分類体系 であって、系統樹そのものではないでしょう。}} -->
現在提案されている分類体系として、[[国際原生生物学会]](ISOP)によるものがある。この体系は2005年に発表され<ref name=":4">[[#Adl(2005)]]</ref>2012年<ref name=":5">[[#Adl(2012)]]</ref>と2019年<ref name=":0">[[#Adl(2019)]]</ref>に2度改訂されている。以下に2019年に出版された改訂版(Adl ''et al.,'' 2019)の概観を表に示す<ref name=":0" /><ref>[[#矢島(2020)]]</ref>。なお真核生物の系統関係の解明は2020年現在も進展中であり<ref>{{Cite journal|last=Burki|first=Fabien|last2=Roger|first2=Andrew J.|last3=Brown|first3=Matthew W.|last4=Simpson|first4=Alastair G.B.|date=2020-01|title=The New Tree of Eukaryotes|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0169534719302575|journal=Trends in Ecology & Evolution|volume=35|issue=1|pages=43–55|language=en|doi=10.1016/j.tree.2019.08.008}}</ref>、今後も改訂が続いていくと考えられる。
{| class="wikitable"
| rowspan="2" |[[アモルフェア]]
{{sname||Amorphea}}
| colspan="2" |[[アメーボゾア]]
{{Sname||Amoebozoa}}(アメーバや粘菌を含む系統)
|-
| colspan="2" |[[incertae sedis]] オバゾア
{{Sname||Obazoa}}([[動物|後生動物]]や[[菌類]]を含む系統)
|-
| rowspan="3" |[[ディアフォレティケス]]
{{Sname||Diaphoretickes}}
|[[アーケプラスチダ|古色素体類]]
{{Sname||Archaeplastida}}
|[[灰色藻|灰色藻類]] 、[[紅藻|紅藻類]]、[[緑色植物亜界|緑色植物]]を含む系統
|-
| colspan="2" |[[SARスーパーグループ|SAR]] [[:en:SAR supergroup|Sar]]
|-
| colspan="2" |[[ハプティスタ|ハプチスタ]] {{Sname||Haptista}}や[[クリプチスタ]] {{Sname||Cryptista}}などいくつかの単系統群
|-
| colspan="3" |クルムス、[[メタモナス|メタモナダ]] 、ディスコバ、マラウィモナス類等以上に属さないいくつかの単系統群
|}<!-- 真核生物は、アモルフェアとディアフォレティケスの2つに大別される。さらにそれらは、[[スーパーグループ (分類学)|スーパーグループ]]と呼ばれる大きな系統群を含む。スーパーグループの1つであった[[エクスカバータ]]は、 -->
* 2005年と2012年版の体系では主要な分類群の1つとして採用されていた「[[エクスカバータ]]」は、単系統性が疑わしいとされ<ref>[[#矢島(2020)]] p.74.</ref>、ディスコバ、メタモナダ、マラウィモナス類の3つに解体された。
* オピストコンタ、アプソモナス類、Breviatea は単系統群を形成すると考えられ、{{sname||Obazoa}} と呼ばれる。
== 研究の歴史 ==
[[細胞核]]という構造の有無が生物の分類にとって重要な差異であることは、19世紀にはすでに認識されていた。たとえば[[原生生物]]という言葉を初めて用いた[[エルンスト・ヘッケル]]は、細菌などのなんの構造も持たない生物を原生生物の中の[[モネラ]]として区別し、後に[[藍藻]]をここに含めている<ref name="Sapp2005">{{cite journal|author=Sapp, J.|year=2005|title=The Prokaryote-Eukaryote Dichotomy: Meanings and Mythology|journal=Microbiol. Mol. Biol. Rev.|volume=69|issue=2|pages=292-305|doi=10.1128/mmbr.69.2.292-305.2005}}</ref>。しかし当時は[[動物]]と[[植物]]という差異がまず先に立っており、モネラとそれ以外という差異が注目されることはなかった。
真核生物という言葉は、文献上[[エドゥアール・シャットン]]が1925年の論文で初めて用いた<ref name="Katscher2004">{{cite journal|author=Katscher, F.|year=2004|title=The History of the Terms Prokaryotes and Eukaryotes| journal=Protist|volume=155|pages=257-263|doi=10.1078/143446104774199637}}</ref>。この論文は{{snamei|Pansporella perplexa}}の分類学的位置を議論するもので、末尾の原生生物の分類表と樹形図の中で{{lang|fr|Eucaryotes}}と{{lang|fr|Procaryotes}}が示されているものの、他には何の説明もなかった<ref>{{cite journal|author=Chatton, E.|year=1925|title=Pansporella perplexa, amoebien à spores protégées parasite de daphnies|journal=Ann. Sci. Nat. Zool.|volume=8|pages=5–84|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k55415433/f8.item}}</ref>。シャットンの弟子で後に[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞した[[アンドレ・ルヴォフ]]の1932年のモノグラフの冒頭には、シャットンを引用しながら原生生物を原核生物と真核生物に二分する旨の記述がある。ここでは、原核的原生生物を[[細胞核]]や[[ミトコンドリア]]がないもの、真核的原生生物を両者を持つものとしている<ref>{{cite book|author=Lwoff, A.|year=1932|title=Recherches Biochimiques sur la Nutrition des Protozoaires. Le Pouvoir de Synthèse.|publisher=Masson|locastion=Paris}}</ref>。以後、20世紀前半に[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]の文献で何度か言及されてはいるが、生物を真核生物と原核生物に二分する方法は一般的な認識とは程遠かった<ref name="Katscher2004" />。たとえば{{仮リンク|ハーバート・コープランド|en|Herbert Copeland}}は1938年に細胞核がない生物を[[モネラ界]]としたが、細胞核がある生物についてはヘッケルの3界(動物界、植物界、原生生物界)をそのまま採用している<ref>{{cite journal|author=Copeland, H.|year=1938|title=The kingdoms of organisms|journal=Quart. Rev. Biol.|volume=13|issue=4|pages=383-420|doi=10.1086/394568}}</ref>。この二分法を普及させたのは、カナダ人の[[細菌学者]][[:en:Roger Yates Stanier|Roger Yates Stanier]]である。彼は1960年から翌年にかけて[[サバティカル]]で[[パスツール研究所]]に滞在し、ルヴォフとの議論の中でシャットンの二分法を知り、1962年の論文<ref>{{cite journal|author=Stanier & van Niel|year=1962|title=The concept of a bacterium|journal=Arch. Mikrobiol.|volume=42|pages=17–35|doi=10.1007/BF00425185}}</ref>で広く知らしめたのである<ref name="Sapp2005" /><ref name="Katscher2004" />。[[電子顕微鏡]]による[[微細構造]]観察が当たり前のように行われる時代になって、この二分法は広く受け入れられるようになった。
しかし1990年に、[[カール・ウーズ]](Carl Woese)らにより分子[[系統学|系統解析]]を用いて真核生物、細菌、古細菌の3ドメインが導入されるに伴い、真核生物・原核生物という二分法もまた過去のものとされるに至った([[:en:Three-domain_system|Three-domain system]])<ref>{{Cite journal|last=Woese|first=C R|last2=Kandler|first2=O|last3=Wheelis|first3=M L|date=1990-06|title=Towards a natural system of organisms: proposal for the domains Archaea, Bacteria, and Eucarya.|url=https://pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.87.12.4576|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|volume=87|issue=12|pages=4576–4579|language=en|doi=10.1073/pnas.87.12.4576|issn=0027-8424|pmc=PMC54159|pmid=2112744}}</ref>。しかしながら、真核生物以外のすべての生物の総称として、原核生物という言葉は今日でも学術論文で用いられている。一方で21世紀に入ると、真核生物は古細菌から派生して出現した系統であるという理解が普及し、生物界を細菌とそれ以外で分ける、上記とは異なる意味合いでの二分法が出現している<ref name=":10" />。
== 系統の詳細 ==
前述した[[国際原生生物学会]](ISOP)による2019年<ref name=":0" />の分類の詳細は下記のとおりである:
{| class="wikitable"
| rowspan="28" |[[アモルフェア]]
{{sname||Amorphea}}
| rowspan="12" |[[アメーボゾア]]
{{Sname||Amoebozoa}}
| colspan="5" |[[ツブリネア綱|ツブリネア]]<ref name=":7">[[#矢嶋(2020)]] p.76.</ref> {{Sname||Tubulinea}}
|-
| rowspan="6" |エボシア<ref name=":7" />{{Sname||Evosea}}
| colspan="4" |{{Sname||Variosea}}
|-
| rowspan="3" |真正動菌類<ref>{{Cite web|和書|url=http://protist.i.hosei.ac.jp/taxonomy/Sarcodina/Mycetozoea.html|title=動菌類 Mycetozoa|accessdate=2021/08/12|publisher=法政大学}}</ref>{{Sname||Eumycetozoa}}
| colspan="3" |[[タマホコリカビ類|タマホコリカビ綱]]{{Sname||Dictyostelia}}
|-
| colspan="3" |[[変形菌]][[タマホコリカビ類|綱]]
{{Sname||Myxogastria}}
|-
| colspan="3" |{{Sname||Protosporangiida}}
|-
| colspan="4" |{{Sname||Cutosea}}
|-
| colspan="4" |[[アーケアメーバ]]{{Sname||Archamoebea}}
|-
| rowspan="5" |[[ディスコセア綱|ディスコセア]]{{Sname||Discosea}}
| colspan="4" |フラベリナ<ref>{{Cite web|和書|url=http://protist.i.hosei.ac.jp/taxonomy/Sarcodina/Lobosea/Gymnamoebia/Amoebida/Flabellina.html|title=フラベリナ亜目|accessdate=2021/08/06|publisher=[[法政大学]]原生生物情報サーバ}}</ref>{{Sname||Flabellinia}}
|-
| colspan="4" |''スティグアメーバ'' {{Sname||Stygamoebida}}
|-
| rowspan="3" |{{Sname||Centramoebia}}
| colspan="3" |[[アカントアメーバ]]{{Sname||Acanthopodida}}
|-
| colspan="3" |{{Sname||Pellitida}}
|-
| colspan="3" |{{Sname||Himatismenida}}
|-
| rowspan="16" |[[incertae sedis]] オバゾア
{{Sname||Obazoa}}
| colspan="5" |[[アプソゾア#分類|アプソモナス類]] {{sname||Apusomonadida}}
|-
| colspan="5" |[[ブレビアテア綱|ブレビアータ類]] {{Sname||Breviatea}}
|-
| rowspan="14" |[[オピストコンタ]]
{{Sname||Opisthokonta}}
| rowspan="4" |[[ホロゾア]] {{Sname||Holozoa}}
| colspan="3" |{{Sname||Ichthyosporea}}
|-
| colspan="3" |[[フィラステレア|フィラステレア綱]]{{Sname||Filasterea}}
|-
| colspan="3" |[[襟鞭毛虫]]{{Sname||Choanoflagellata}}
|-
| colspan="3" |'''[[動物|動物界]]'''{{Sname||Metazoa}}
|-
| rowspan="10" |[[Nucletmycea]]
| colspan="3" |[[ロトスファエリダ目|ラブディオフリス]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://protist.i.hosei.ac.jp/taxonomy/Sarcodina/Heliozoea/Rotosphaerida.html|title=ラブディオフリス目|accessdate=2021/08/06|publisher=法政大学}}</ref>{{Sname||Rotosphaerida}}
|-
| rowspan="9" |'''[[菌類|菌界]]'''{{Sname||fungi}}
| colspan="2" |{{Sname||Opisthosporidia}}
|-
| colspan="2" |[[コウマクノウキン門|コウマクノウキン目]]{{Sname||Blastocladiales}}
|-
| colspan="2" |[[ツボカビ門]]{{Sname||Chytridiomycota}}
|-
| colspan="2" |[[二核菌]]亜界 ({{sname||Dikarya}})
|-
| colspan="2" |[[サヤミドロモドキ|サヤミドロモドキ綱]]{{Sname||Monoblepharidomycetes}}
|-
| colspan="2" |[[ケカビ亜門|ケカビ門]]{{Sname||Mucoromycota}}
|-
| colspan="2" |[[ネオカリマスティクス科]]{{Sname||Neocallimastigaceae}}
|-
| colspan="2" |フクロカビ属{{Sname||Olpidium}}
|-
| colspan="2" |{{Sname||Zoopagomycota}}
|-
| rowspan="76" |[[ディアフォレティケス]]
{{Sname||Diaphoretickes}}
| rowspan="32" |[[アーケプラスチダ|古色素体類]]
{{Sname||Archaeplastida}}
| colspan="5" |[[灰色藻|灰色藻類]] {{Sname||Glaucophyta}}
|-
| rowspan="11" |[[紅藻|'''紅藻植物門''']] {{Sname||Rhodophyceae}}
| colspan="4" |[[イデユコゴメ綱|イデユコゴメ目]]{{Sname||Cyanidiales}}
|-
| rowspan="4" |原始紅藻亜門<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://tonysharks.com/Seaweeds_list/Red/Rhodophyta_top.html|title=日本産海藻リスト 紅藻類|accessdate=2021/08/07}}</ref>{{Sname||Proteorhodophytina}}
| colspan="3" |[[オオイシソウ綱|オオイシソウ目]]{{Sname||Compsopogonales}}
|-
| colspan="3" |[[チノリモ綱]]{{Sname||Porphyridiophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[ロデラ綱|ロデラ]][[チノリモ綱|綱]]{{Sname||Rhodellophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[ベニミドロ綱|ベニミドロ目]]{{Sname||Stylonematales}}
|-
| rowspan="6" |真正紅藻亜門<ref name=":2" />{{Sname||Eurhodophytina}}
| colspan="3" |[[ウシケノリ綱|ウシケノリ目]]{{Sname||Bangiales}}
|-
| rowspan="5" |[[真正紅藻綱]]<ref name=":2" />{{Sname||Florideophycidae}}
| colspan="2" |ベニマダラ科<ref group="注">Adl et.al.2019では真正紅藻綱の直下は「亜綱」になっているが、ここだけ「{{Sname||Hildenbrandiophycidae}}」(ベニマダラ'''亜綱''')ではなく「{{Sname||Hildenbrandiaceae}}」(ベニマダラ'''科''')になっている。</ref> {{Sname||Hildenbrandiaceae}}
|-
| colspan="2" |ウミゾウメン亜綱 {{Sname||Nemaliophycidae}}
|-
| colspan="2" |サンゴモ亜綱 {{Sname||Corallinophycidae}}
|-
| colspan="2" |イタニグサ亜綱 {{Sname||Ahnfeltiophycidae}}
|-
| colspan="2" |マサゴシバリ亜綱 {{Sname||Rhodymeniophycidae}}
|-
| rowspan="20" |[[緑色植物亜界|緑色植物]] {{Sname||Chloroplastida}}
| rowspan="13" |'''[[緑藻植物門]]'''{{Sname||Chlorophyta}}
| colspan="3" |[[アオサ藻綱]]{{Sname||Ulvophycea}}
|-
| colspan="3" |[[トレボウクシア藻綱]]{{Sname||Trebouxiophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[緑藻綱]]{{Sname||Chlorophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[クロロデンドロン藻綱]]{{Sname||Chlorodendrophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[ペディノ藻綱]]{{Sname||Pedinophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[クロロピコン藻綱]]{{Sname||Chloropicophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[ピコキスティス藻綱]]{{Sname||Picocystophyceae}}
|-
| colspan="3" |[[ピラミモナス目]]{{Sname||Pyramimonadales}}
|-
| colspan="3" |[[マミエラ藻綱]]{{Sname||Mamiellophyceae}}
|-
| colspan="3" |ネフロセルミス属{{Sname||Nephroselmis}}
|-
| colspan="3" |{{Sname||Pycnococcaceae}}
|-
| colspan="3" |[[パルモフィルム藻綱]]{{Sname||Palmophyllophyceae}}
|-
| colspan="3" |{{Sname||Streptophyta}}
|-
| rowspan="7" |[[ストレプト植物]]{{Sname||Streptophyta}}
| colspan="3" |[[クロロキブス藻綱|クロロキブス藻属]]{{Sname||Chlorokybus}}
|-
| colspan="3" |[[メソスティグマ藻綱|メソスティグマ藻]][[クロロキブス藻綱|属]]{{Sname||Mesostigma}}
|-
| colspan="3" |[[クレブソルミディウム藻綱|クレブソルミディウム藻]][[クロロキブス藻綱|綱]]{{Sname||Klebsormidiophyceae}}
|-
| rowspan="4" |フラグモプラスト植物{{Sname||Phragmoplastophyta}}
| colspan="2" |[[接合藻|ホシミドロ藻綱]]{{Sname||Zygnematophyceae}}
|-
| colspan="2" |[[コレオケーテ藻綱]]{{Sname||Coleochaetophyceae}}
|-
| colspan="2" |[[車軸藻類|シャジクモ綱]]{{Sname||Charophyceae}}
|-
| colspan="2" |'''[[陸上植物|陸上植物門]]'''{{Sname||Embryophyta}}
|-
| rowspan="35" |[[SARスーパーグループ|SAR]] <!--{{Sname||Sar}}-->
[[:en:SAR supergroup|Sar]]
| rowspan="24" |[[ストラメノパイル]] {{Sname||Stramenopiles}}
| rowspan="6" |ビギラ{{Sname||Bigyra}}
| rowspan="4" |{{Sname||Opalozoa}}
| colspan="2" |{{Sname||Nanomonadea}}
|-
| colspan="2" |オパリナ類{{Sname||Opalinata}}
|-
| colspan="2" |[[プラシディア類]]{{Sname||Placidida}}
|-
| colspan="2" |[[ビコソエカ類|ビコソエカ目]]{{Sname||Bicosoecida}}
|-
| rowspan="2" |{{Sname||Sagenista}}
| colspan="2" |[[ラビリンチュラ類|ラビリンチュラ綱]]{{Sname||Labyrinthulomycetes}}
|-
| colspan="2" |{{Sname||Pseudophyllomitidae}}
|-
| rowspan="18" |{{Sname||Gyrista}}
| colspan="3" |{{Sname||Developea}}
|-
| colspan="3" |[[サカゲツボカビ類]]{{Sname||Hyphochytriales}}
|-
| colspan="3" |[[卵菌]]{{Sname||Peronosporomycetes}}
|-
| colspan="3" |{{Sname||Pirsoniales}}
|-
| colspan="3" |アクチノフリス科{{Sname||Actinophryidae}}
|-
| rowspan="13" |[[オクロ植物|'''オクロ植物門''']]{{Sname||Ochrophyta}}
| rowspan="8" |{{Sname||Chrysista}}
|[[黄金色藻|黄金色藻綱]]{{Sname||Chrysophyceae}}
|-
|真正眼点藻綱<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://www.ujssb.org/biospnum/search.php?Kingdom=Protista&Phylum=Stramenopiles&Subphylum=Heterokontophyta|title=不等毛植物類|accessdate=2021/08/07|publisher=日本分類学会連合}}</ref>{{Sname||Eustigmatales}}
|-
|[[褐藻|褐藻綱]]<ref name=":3" />{{Sname||Phaeophyceae}}
|-
|{{Sname||Phaeothamniophyceae}}
|-
|[[ラフィド藻|ラフィド藻綱]]<ref name=":3" />{{Sname||Raphidophyceae}}
|-
|{{Sname||Schizocladia}}
|-
|[[黄緑藻|黄緑藻綱]]<ref name=":3" />{{Sname||Xanthophyceae}}
|-
|{{Sname||Diatomista}}
|-
| rowspan="5" |{{Sname||Diatomista}}
|{{Sname||Bolidophyceae}}
|-
|[[珪藻]]{{Sname||Diatomeae}}
|-
|{{Sname||Dictyochophyceae}}
|-
|ペラゴ藻綱<ref name=":3" />{{Sname||Pelagophyceae}}
|-
|ピングイオ藻綱<ref name=":3" />{{Sname||Pinguiophyceae}}
|-
| rowspan="6" |[[アルベオラータ]] {{Sname||Alveolata}}
| colspan="4" |[[コルポデラ目]]{{Sname||Colpodellida}}
|-
| colspan="4" |パーキンサス目<ref>{{Cite web|和書|url=http://fishparasite.fs.a.u-tokyo.ac.jp/Perkinsus%20olseni/Perkinsus-olseni.html|title=Perkinsus olseni(パーキンサス・オルセナイ)|accessdate=2021/08/06|publisher=[[東京大学]]}}</ref>{{Sname||Perkinsida}}
|-
| colspan="4" |コルポネマ目<ref>{{Cite web|和書|url=http://protist.i.hosei.ac.jp/taxonomy/Zoomastigophora/Genus/Colponema/index.html|title=コルポネマ属 Colponema|accessdate=2021/08/06|publisher=法政大学原生生物情報サーバ}}</ref>{{Sname||Colponemida}}
|-
| colspan="4" |[[渦鞭毛藻|渦鞭毛藻上綱]]{{Sname||Dinoflagellata}}
|-
| colspan="4" |[[アピコンプレックス門]]{{Sname||Apicomplexa}}
|-
| colspan="4" |[[繊毛虫|繊毛虫門]]{{Sname||Ciliophora}}
|-
| rowspan="5" |[[リザリア]] {{Sname||Rhizaria}}
| colspan="4" |[[ケルコゾア|ケルコゾア門]]{{Sname||Cercozoa}}
|-
| colspan="4" |{{Sname||Endomyxa}}([[ネコブカビ類]]{{Sname||Phytomyxea}}を含む系統)
|-
| rowspan="2" |レタリア類<ref>{{Cite web|和書|url=http://kccn.konan-u.ac.jp/bio/syst/pages/2107b.html|title=レタリア門|accessdate=2021/08/06}}</ref>{{Sname||Retaria}}
| colspan="3" |[[有孔虫|有孔虫下門]]{{Sname||Foraminifera}}
|-
| colspan="3" |[[放散虫|放散虫門]]{{Sname||Radiolaria}}
|-
| colspan="4" |{{Sname||Tremula}}
|-
| rowspan="2" |[[ハプティスタ|ハプチスタ]] {{Sname||Haptista}}
| colspan="5" |[[ハプト藻|ハプト藻類]]{{Sname||Haptophyta}}
|-
| colspan="5" |{{Sname||Centroplasthelida}}
|-
| rowspan="2" |[[クリプチスタ]] {{Sname||Cryptista}}
| colspan="5" |{{Snamei||Palpitomonas}}
|-
| colspan="5" |[[クリプト藻|クリプト藻綱]]{{Snamei||Cryptophyceae}}
|-
| colspan="6" |[[incertae sedis]] {{Snamei||Microheliella}}
|-
| colspan="6" |[[incertae sedis]] {{Snamei||Ancoracysta}}
|-
| colspan="6" |[[incertae sedis]] [[テロネマ門|テロネマ]] {{Sname||Telonemia}}
|-
| colspan="6" |[[incertae sedis]] {{Sname|species|Rappemonads}}
|-
| colspan="6" |[[incertae sedis]] [[ピコゾア]] {{Sname||Picozoa}}
|-
| rowspan="3" |クルムス
{{Sname||CRuMs}}
| colspan="6" |コロディクティオニッズ<ref name=":6">[[#矢島(2020)]] p74.</ref> {{sname||Collodictyonidae}}
|-
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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*[Adl(2005)] {{Cite journal|last=Adl|first=Sina M.|last2=Simpson|first2=Alastair G. B.|last3=Farmer|first3=Mark A.|last4=Andersen|first4=Robert A.|last5=Anderson|first5=O. Roger|last6=Barta|first6=John R.|last7=Bowser|first7=Samuel S.|last8=Brugerolle|first8=Guy|last9=Fensome|first9=Robert A.|date=2005-10|title=The New Higher Level Classification of Eukaryotes with Emphasis on the Taxonomy of Protists|url=http://doi.wiley.com/10.1111/j.1550-7408.2005.00053.x|journal=The Journal of Eukaryotic Microbiology|volume=52|issue=5|pages=399–451|language=en|doi=10.1111/j.1550-7408.2005.00053.x|issn=1066-5234|ref=Adl(2005)}}
*[Adl(2012)] {{Cite journal|last=Adl|first=Sina M.|last2=Simpson|first2=Alastair G. B.|last3=Lane|first3=Christopher E.|last4=Lukeš|first4=Julius|last5=Bass|first5=David|last6=Bowser|first6=Samuel S.|last7=Brown|first7=Matthew W.|last8=Burki|first8=Fabien|last9=Dunthorn|first9=Micah|date=2012-09|title=The Revised Classification of Eukaryotes|url=http://doi.wiley.com/10.1111/j.1550-7408.2012.00644.x|journal=Journal of Eukaryotic Microbiology|volume=59|issue=5|pages=429–514|language=en|doi=10.1111/j.1550-7408.2012.00644.x|pmid=23020233|pmc=3483872|ref=Adl(2012)}}
* [Adl(2019)] {{Cite journal|last=Adl|first=Sina M.|last2=Bass|first2=David|last3=Lane|first3=Christopher E.|last4=Lukeš|first4=Julius|last5=Schoch|first5=Conrad L.|last6=Smirnov|first6=Alexey|last7=Agatha|first7=Sabine|last8=Berney|first8=Cedric|last9=Brown|first9=Matthew W.|year=2019|title=Revisions to the Classification, Nomenclature, and Diversity of Eukaryotes|url=https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/jeu.12691|journal=Journal of Eukaryotic Microbiology|volume=66|language=en|doi=10.1111/jeu.12691|issn=1066-5234|pmid=30257078|pmc=6492006|ref=Adl(2019)}}
* [矢島(2020)] {{Citation|title=真核生物の高次分類体系の改訂―Adl et al. (2019)について―|url=https://doi.org/10.19004/taxa.48.0_71|publisher=日本動物分類学会|date=2020-02-29|accessdate=2020-03-24|doi=10.19004/taxa.48.0_71|language=ja|first=裕規|last=矢﨑|first2=智之|last2=島野|ref=矢島(2020)}}
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6,470 | 円 (通貨) | 円(えん)は、日本国の法定通貨の通貨単位。通貨記号は¥(円記号)、ISO 4217による通貨コードはJPY。旧字体では圓、ローマ字ではyenと表記され、しばしば日本円(にほんえん、にっぽんえん)ともいう。
通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和62年法律第42号)により「通貨の額面価格の単位は円とし、その額面価格は一円の整数倍とする。」と定められている(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第2条第1項)。
日本の通貨単位である「円」は、明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された新貨条例(明治4年太政官布告第267号)で定められたものである。
当時の表記は旧字体の「圓」であった。貨幣法(明治30年法律第16号)施行により貨幣条例(明治8年太政官布告第108号、新貨条例を改正公布)は廃止されたが、通貨単位としての円は受け継がれ、現在の通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和62年法律第42号)に受け継がれている。
外国為替市場や為替レートなど、日本以外の通貨との関りの深い分野では、「日本円」という表記や呼称がよく用いられ、国際通貨や特別引出権のひとつである。
長らく日本においてのみ法定通貨とされていたが、2014年1月より2019年6月まではジンバブエの法定通貨の1つに加えられ、この期間、日本円を法定通貨とする国は2カ国となっていた。なお、ジンバブエでは日本円の他に米ドル、ユーロ、英ポンド、南アフリカ・ランド、ボツワナ・プラ、中国人民元、インド・ルピー、豪ドルも法定通貨として導入されていた。2019年6月に暫定通貨RTGSドルが唯一の法定通貨と指定され、これらの外貨を法定通貨とすることが禁じられた。
「円(圓)」という単位名は中国に由来する。中国では、銀は鋳造せずに塊で秤量貨幣として扱われたが(銀錠)、18世紀頃からスペインと、それ以上にその植民地であったメキシコから銀の鋳造貨幣が流入した(洋銀)。これらはその形から、「銀圓」と呼ばれた。後にイギリスの香港造幣局が「香港壱圓」と刻印したドル銀貨を発行したのはこの流れからである。「銀圓」は、その名と共に日本にも流入し、日本もこれを真似て通貨単位を「円(圓)」と改めた。1870年、日本は、香港ドル銀貨と同品位・同量の銀貨を本位貨幣とする銀本位制を採用すると決定したが、直後に伊藤博文が当時の国際情勢を鑑みて急遽金本位制に変更することを建議した。
現在のローマ字表記が「en」ではなく「yen」と書かれるようになった原因は日銀自身も不明としており、外国人に正確な発音をさせるため、西欧言語で頻発する「en」という単語と混同されないための区別、中国の「圓=YUAN」からの転化の3つの説を挙げている。外国語では綴りに引かれて、「イェン」/jɛn/といった具合に「y」を発音する。
歴史的仮名遣いは「ゑん (wen)」であるが、16世紀ごろの日本では、発音上は「え」も「ゑ」も区別なく /je/ と発音されていた。この時代のキリシタン文献には、「え」「ゑ」がどちらも ye と綴られている(詳細は日本語の項の音韻史、または「ゑ」の項を参照)。
英国人宣教師W.H.メドハーストは、日本を訪れたことも日本人に会ったこともなかったが、ジャカルタ(バタヴィア)で、和蘭辞典や日本を訪れたことのある人々の情報を基に『英和・和英語彙』(1830年)を著した。この語彙集には「e」と「ye」が混在しており、たとえば冒頭の仮名一覧を見ると、「え」「ゑ」に「e」「ye」の両方が当てられている。19世紀後半に来日したアメリカ人宣教師 J. C. ヘボンは、先行する辞典・語彙集などを参考にしながら、史上初の本格的な英和・和英辞典である『和英語林集成』(初版1867年)を著した。この辞典はメドハーストの表記に倣い、「円」以外にも、「え」「ゑ」で始まる単語は全て「ye」と綴られている。しかし一部地域をのぞいて、この時代には /je/ 音は /e/ 音へと移行しており、ヘボンは綴りを実際の音に近づけるため、第3版(1886年。この版においてヘボン式ローマ字が確立)に至って、「円」と格助詞の「へ」以外、「え」「ゑ」を全て「e」で表記することにした。
補助単位としては、
が規定されるが、銭および厘単位(一円未満)の全ての硬貨・紙幣(補助貨幣・臨時補助貨幣・小額日本銀行券・小額政府紙幣)は1953年末に小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律(昭和28年法律第60号)によって小額通貨が整理された際に使用・流通禁止措置が取られた。現在、「銭」や「厘」の単位は通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律によって「一円未満の金額の計算単位」と定められており(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第2条第2項)、為替や株式の取引、少額物品の単価見積で単位としての銭が便宜的に使用されるにすぎない。ただし、電子マネーやプリペイドカードに限り、一部の取引で小数点第2位まで0.01円(1銭)単位での取引が認められている。
なお、円にはいくつか種類があり、第二次世界大戦終戦までは内地で流通した日本円の他、外地通貨である台湾円(台湾で流通)や朝鮮円(朝鮮及び関東州で流通)も存在した(南洋群島は例外的に日本円が流通)。また、満洲国の通貨も「圓」と称しており、1935年(康徳2年)9月以降は日本円と完全に等価で通用していた。
中華人民共和国の通貨単位である「元」の正式名称は「圆(=圓・円)」である。かつて「"圓"の画数が多い」という理由で、その代わりに同音 (yuan) の「元」が当てられ、今日に至る。韓国・北朝鮮の「ウォン」も「圓(=円)」の朝鮮語読みである(ただし現在はウォンの公式な漢字表記はない)。香港特別行政区の香港ドルやマカオ特別行政区のマカオ・パタカ、中華民国の新台湾ドルも、区内・国内での名称は「元」ないし「圓」であるほか、モンゴルの通貨単位であるトゥグルグもモンゴル語で「圓」と同義である。すなわち、これら東アジアの諸通貨は、みな本質的には「圓」という名称を共有しているといえる。
同様に通貨記号“¥”も日本の円と中国の人民元で共有している。
なお中国語では日本円を「日圓」「日元」、米ドルを「美元」、ユーロを「欧元」というように、国・地域名を冠してそこで用いられる通貨を指す用法も派生した。
現在も継続的に発行されているものは硬貨6種類、紙幣4種類である。現在発行されていない旧紙幣・旧硬貨については日本銀行券、日本の硬貨を参照のこと。
明治維新によって江戸幕府が崩壊し、新たに明治政府が誕生したものの、通貨制度はいまだ江戸幕府のものを引き継いでおり、さらに維新時の混乱によって経済の混乱が起きていた。また、かねてからの江戸幕府の財政難は改善されておらず、むしろ悪化の一途を辿り、幕末期には破綻寸前にまで陥っていた。通貨制度も複雑なもので、東日本の金(計数貨幣)と西日本の銀(秤量貨幣)の統一すらなされておらず、さらに金銀比価の差によって幕末に大量の金が海外に流出していたこともあり(幕末の通貨問題)、これらの財政難と通貨問題の解消のために近代的な通貨制度の確立は急務となっていた。
1871年(明治4年)に明治政府は新貨条例を制定し、貨幣の基本単位に円を用いることを決定した。このとき、通貨に十進法を用い、補助単位として銭および厘を用いることが定められるともに、純金1,500mgを1円(すなわち金平価1,500mg)とする金本位制の導入が試みられ、20円、10円、5円、2円、1円の日本初の洋式本位金貨が鋳造、発行された。この量目は米国訪問中の伊藤博文が建言したものであり、当時の国際貨幣制度確立案として米国下院に提案中だった1ドル金貨の金純分とほぼ等しい。
また、当時明治政府が鋳造し流通していた明治二分判(量目3g 金純分22.3%)2枚(=1両)の純金および純銀含有量の合計の実質価値に近似でもあり、新旧物価が1両=1円として連結し、物価体系の移行に難が少ないとして採用された(なお、江戸幕府最後の二分判である万延二分判と明治二分判の純金含有量はほぼ同じである)。
しかし輸入増加、西南戦争や日清戦争等による不換紙幣・銀行券の濫発、金流出等により実際には金本位制は機能しなくなり、事実上銀本位制のままだった。これは当時発行されていた日本銀行券が、本位金貨が存在したのにもかかわらず、兌換銀券であったことでも頷ける。
その後、日清戦争の賠償金として受け取った金を兌換準備充当の正貨として、1897年に貨幣法が制定され、第2次金本位制度が確立し、ようやく紙幣の金兌換が実現した。
ただし、このとき定められた1円の金平価は750mgと半減し、しかも兌換準備充当正貨は英国に置いたままの在外正貨の形で運用された。これに伴い1871年から発行された最初の本位金貨は、この時から額面の2倍の通用力を有すこととなった。一方新貨幣法による本位金貨は20円、10円、5円のみとなり、1円金貨は発行されなかった。これらの本位金貨は第二次世界大戦後も廃止されず、1988年4月1日に通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律が施行されるまで名目上は現行通貨であった。
この金兌換は1917年まで継続されたが、第一次世界大戦が勃発すると各国が金輸出を禁止し、日本もこれに追随する形で金本位制を停止して、これにより金輸出は禁止され、兌換も停止された。
第一次世界大戦が終結すると、いちはやく金輸出を解禁したアメリカを皮切りに、主要国は次々と金輸出を解禁し、1928年にフランスが金輸出を解禁すると、列強のうち金輸出を解禁していない国は日本だけとなった。このため、1930年1月に金の輸出を自由化して金本位制度を復活させる措置(金解禁)が取られたが、当時は1929年10月24日に発生したウォール街の株価の大暴落(暗黒の木曜日)によって世界経済が大混乱に陥っており、この金解禁は日本経済にも大混乱をもたらした。このため、解禁から2年もたたない1931年12月には金輸出・金兌換が再び禁止となり日本の金本位制は崩壊、その後は管理通貨制度に移行した。第二次世界大戦後は、生産設備の壊滅・賠償引当、経済統制の弛緩、不作、占領経費の円建て支払いなどの理由により、インフレーションが進行、新円切替に至る。
第二次世界大戦後のIMF体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)下では、米ドルを介した金為替本位制により、1円の金平価は2.4685mgとなった。この価格は、1ドルの金平価1/35トロイオンスを、当時の対ドル円為替相場である1ドル=360円で割って算出されたものである。米ドルを基軸通貨とする体制はこれまでの金本位制に対し、俗に「ドル本位制」と呼ばれる。この対ドル固定相場制に基づく金為替本位制は世界的な経済の安定をもたらしたが、この体制そのものが第二次世界大戦中のアメリカ経済の比重が非常に高まった時期のものであり、ヨーロッパや日本が復興を遂げるとともに通貨のバランスが変動して、1960年代以降はアメリカからのドルの流出が続き、ドルの地位低下が深刻なものとなった。
このブレトン・ウッズ体制は1971年8月15日のニクソン・ショック(ドル・ショック)により、アメリカがドルの金兌換を停止したことで崩壊した。その後、固定相場制への復帰が試みられ、同年12月18日にはスミソニアン協定がIMFの10カ国グループ(G10)の間で結ばれた。この協定において日本は経済成長を反映し、それまでの1ドル=360円から大幅に切り上げ(16.88%)した1ドル=308円に決定した。しかしその後もドルの下落は止まらず、イギリスをはじめとして各国が次々とスミソニアン体制から脱退して変動相場制へと移行、日本もこれを維持しきれずに1973年2月には変動相場制に移行した。
変動相場制への移行後、上下を続けた円相場は1970年代末にアメリカのインフレ対策への失望から急速に円高へ進んだ(ドル危機)。ポール・ボルカーFRB議長により新金融調節方式が採用されるとドルの金利は急速に上昇し、合わせて円相場は円安へ向かった。1985年、高すぎるドル相場の安定的是正を目指してプラザ合意が行なわれると、円相場は1年で2倍の円高となった。バブル経済期に一時的な円安を迎えた後、1995年にかけて円高が進み1ドル=70円台後半まで円高が進んだ。1990年代後半には「強いドル政策」と日本の金融危機により円安が進行。以後、緩やかに円高に向かう。
現在はハードカレンシーのひとつ、且つアメリカドル、ユーロと並び世界三大通貨(日本ではG3通貨とも。ないしはイギリス・ポンドとあわせて世界4大通貨)として国際的に認知され、信用されている。円の特徴としては、日本が経常黒字国であること、物価上昇率が低いこと、低金利であることが挙げられる。市場のボラティリティが低い状況下では、低金利の円を借り入れて他通貨に投資する動き(いわゆる円キャリー取引)が活性化するため、緩やかに円安が進む傾向にある。一方、ボラティリティの上昇局面には、こうした投資の巻き戻しに加えて、経常黒字、低い物価上昇率といった要因が意識されるため、円高が急速に進む傾向にある。円高と円安のリスクのどちらがより大きいかを示す指標であるリスクリバーサルは、過去10年以上にわたりほぼ一貫して円高リスクの方が大きいことを示唆している。
2000年代中盤にかけての世界的な低ボラティリティ環境下では、低金利の円は減価を続けた。米ドルと米ドル以外の主要国通貨も含めた通貨の国際的な購買力を示す実質実効為替レートで見ると、2007年にはプラザ合意以前の円安水準へと逆戻りし(右上グラフ青線)、円はもはやローカル通貨でしかないという評価もされた。円に対するこうした評価は、円に対する先安感を助長し、先述した円キャリー取引を加速させた。しかし、2008年にかけて、金融危機が深刻化する中で円の独歩高が進行しており、過度の円安期待が歪んだものであったことを示唆している。
円の流通高は2015年9月現在において現金ベースで96兆0,377億円であり、このうち日本銀行が発行する紙幣(日本銀行券)が91兆3,980億円、財務省が発行する硬貨(貨幣)が4兆6,397億円である。円の通貨流通高とは、現金の総額と捉えることもできる。紙幣は国立印刷局が印刷・製造しており、製品そのものは市中に出回っている紙幣以外に日本銀行の金庫内にも保管されており、必要に応じて発行される。個人や企業への支払に使う紙幣を調達するために、金融機関が日本銀行に保有している当座預金から資金を引き出して、日本銀行の窓口で紙幣を受け取ることによって日本銀行券は発行される。日銀当座預金を含むマネタリーベース(日本銀行が供給する通貨)での合計額は332兆1,941億円である。
経済活動に使われる資金としての円は、現金以外にも銀行に個人や企業が保有している当座預金や普通預金などほとんど現金と同様に日々の取引の決済に利用できる資金などもある。日本では、金融機関以外の民間企業、個人や地方公共団体などが保有している現金に当座預金、普通預金、定期性預金などを加え、さらにCD(譲渡性預金)を加えたM2+CDが市中にある円資金の流通量の指標として使われることが多い(詳しくはマネーサプライを参照)。
米ドル - 円(東京外国為替市場(東京インターバンク相場)、ドル・円スポット・レート、日本標準時17時時点、月中平均)
日本円は世界中の国で外貨準備として用いられており、2018年では第3位の通貨である。 | [
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"text": "中華人民共和国の通貨単位である「元」の正式名称は「圆(=圓・円)」である。かつて「\"圓\"の画数が多い」という理由で、その代わりに同音 (yuan) の「元」が当てられ、今日に至る。韓国・北朝鮮の「ウォン」も「圓(=円)」の朝鮮語読みである(ただし現在はウォンの公式な漢字表記はない)。香港特別行政区の香港ドルやマカオ特別行政区のマカオ・パタカ、中華民国の新台湾ドルも、区内・国内での名称は「元」ないし「圓」であるほか、モンゴルの通貨単位であるトゥグルグもモンゴル語で「圓」と同義である。すなわち、これら東アジアの諸通貨は、みな本質的には「圓」という名称を共有しているといえる。",
"title": "通貨単位"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "同様に通貨記号“¥”も日本の円と中国の人民元で共有している。",
"title": "通貨単位"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "なお中国語では日本円を「日圓」「日元」、米ドルを「美元」、ユーロを「欧元」というように、国・地域名を冠してそこで用いられる通貨を指す用法も派生した。",
"title": "通貨単位"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "現在も継続的に発行されているものは硬貨6種類、紙幣4種類である。現在発行されていない旧紙幣・旧硬貨については日本銀行券、日本の硬貨を参照のこと。",
"title": "流通硬貨・紙幣"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "明治維新によって江戸幕府が崩壊し、新たに明治政府が誕生したものの、通貨制度はいまだ江戸幕府のものを引き継いでおり、さらに維新時の混乱によって経済の混乱が起きていた。また、かねてからの江戸幕府の財政難は改善されておらず、むしろ悪化の一途を辿り、幕末期には破綻寸前にまで陥っていた。通貨制度も複雑なもので、東日本の金(計数貨幣)と西日本の銀(秤量貨幣)の統一すらなされておらず、さらに金銀比価の差によって幕末に大量の金が海外に流出していたこともあり(幕末の通貨問題)、これらの財政難と通貨問題の解消のために近代的な通貨制度の確立は急務となっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1871年(明治4年)に明治政府は新貨条例を制定し、貨幣の基本単位に円を用いることを決定した。このとき、通貨に十進法を用い、補助単位として銭および厘を用いることが定められるともに、純金1,500mgを1円(すなわち金平価1,500mg)とする金本位制の導入が試みられ、20円、10円、5円、2円、1円の日本初の洋式本位金貨が鋳造、発行された。この量目は米国訪問中の伊藤博文が建言したものであり、当時の国際貨幣制度確立案として米国下院に提案中だった1ドル金貨の金純分とほぼ等しい。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、当時明治政府が鋳造し流通していた明治二分判(量目3g 金純分22.3%)2枚(=1両)の純金および純銀含有量の合計の実質価値に近似でもあり、新旧物価が1両=1円として連結し、物価体系の移行に難が少ないとして採用された(なお、江戸幕府最後の二分判である万延二分判と明治二分判の純金含有量はほぼ同じである)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "しかし輸入増加、西南戦争や日清戦争等による不換紙幣・銀行券の濫発、金流出等により実際には金本位制は機能しなくなり、事実上銀本位制のままだった。これは当時発行されていた日本銀行券が、本位金貨が存在したのにもかかわらず、兌換銀券であったことでも頷ける。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "その後、日清戦争の賠償金として受け取った金を兌換準備充当の正貨として、1897年に貨幣法が制定され、第2次金本位制度が確立し、ようやく紙幣の金兌換が実現した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ただし、このとき定められた1円の金平価は750mgと半減し、しかも兌換準備充当正貨は英国に置いたままの在外正貨の形で運用された。これに伴い1871年から発行された最初の本位金貨は、この時から額面の2倍の通用力を有すこととなった。一方新貨幣法による本位金貨は20円、10円、5円のみとなり、1円金貨は発行されなかった。これらの本位金貨は第二次世界大戦後も廃止されず、1988年4月1日に通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律が施行されるまで名目上は現行通貨であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この金兌換は1917年まで継続されたが、第一次世界大戦が勃発すると各国が金輸出を禁止し、日本もこれに追随する形で金本位制を停止して、これにより金輸出は禁止され、兌換も停止された。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第一次世界大戦が終結すると、いちはやく金輸出を解禁したアメリカを皮切りに、主要国は次々と金輸出を解禁し、1928年にフランスが金輸出を解禁すると、列強のうち金輸出を解禁していない国は日本だけとなった。このため、1930年1月に金の輸出を自由化して金本位制度を復活させる措置(金解禁)が取られたが、当時は1929年10月24日に発生したウォール街の株価の大暴落(暗黒の木曜日)によって世界経済が大混乱に陥っており、この金解禁は日本経済にも大混乱をもたらした。このため、解禁から2年もたたない1931年12月には金輸出・金兌換が再び禁止となり日本の金本位制は崩壊、その後は管理通貨制度に移行した。第二次世界大戦後は、生産設備の壊滅・賠償引当、経済統制の弛緩、不作、占領経費の円建て支払いなどの理由により、インフレーションが進行、新円切替に至る。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後のIMF体制(いわゆるブレトン・ウッズ体制)下では、米ドルを介した金為替本位制により、1円の金平価は2.4685mgとなった。この価格は、1ドルの金平価1/35トロイオンスを、当時の対ドル円為替相場である1ドル=360円で割って算出されたものである。米ドルを基軸通貨とする体制はこれまでの金本位制に対し、俗に「ドル本位制」と呼ばれる。この対ドル固定相場制に基づく金為替本位制は世界的な経済の安定をもたらしたが、この体制そのものが第二次世界大戦中のアメリカ経済の比重が非常に高まった時期のものであり、ヨーロッパや日本が復興を遂げるとともに通貨のバランスが変動して、1960年代以降はアメリカからのドルの流出が続き、ドルの地位低下が深刻なものとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "このブレトン・ウッズ体制は1971年8月15日のニクソン・ショック(ドル・ショック)により、アメリカがドルの金兌換を停止したことで崩壊した。その後、固定相場制への復帰が試みられ、同年12月18日にはスミソニアン協定がIMFの10カ国グループ(G10)の間で結ばれた。この協定において日本は経済成長を反映し、それまでの1ドル=360円から大幅に切り上げ(16.88%)した1ドル=308円に決定した。しかしその後もドルの下落は止まらず、イギリスをはじめとして各国が次々とスミソニアン体制から脱退して変動相場制へと移行、日本もこれを維持しきれずに1973年2月には変動相場制に移行した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "変動相場制への移行後、上下を続けた円相場は1970年代末にアメリカのインフレ対策への失望から急速に円高へ進んだ(ドル危機)。ポール・ボルカーFRB議長により新金融調節方式が採用されるとドルの金利は急速に上昇し、合わせて円相場は円安へ向かった。1985年、高すぎるドル相場の安定的是正を目指してプラザ合意が行なわれると、円相場は1年で2倍の円高となった。バブル経済期に一時的な円安を迎えた後、1995年にかけて円高が進み1ドル=70円台後半まで円高が進んだ。1990年代後半には「強いドル政策」と日本の金融危機により円安が進行。以後、緩やかに円高に向かう。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現在はハードカレンシーのひとつ、且つアメリカドル、ユーロと並び世界三大通貨(日本ではG3通貨とも。ないしはイギリス・ポンドとあわせて世界4大通貨)として国際的に認知され、信用されている。円の特徴としては、日本が経常黒字国であること、物価上昇率が低いこと、低金利であることが挙げられる。市場のボラティリティが低い状況下では、低金利の円を借り入れて他通貨に投資する動き(いわゆる円キャリー取引)が活性化するため、緩やかに円安が進む傾向にある。一方、ボラティリティの上昇局面には、こうした投資の巻き戻しに加えて、経常黒字、低い物価上昇率といった要因が意識されるため、円高が急速に進む傾向にある。円高と円安のリスクのどちらがより大きいかを示す指標であるリスクリバーサルは、過去10年以上にわたりほぼ一貫して円高リスクの方が大きいことを示唆している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2000年代中盤にかけての世界的な低ボラティリティ環境下では、低金利の円は減価を続けた。米ドルと米ドル以外の主要国通貨も含めた通貨の国際的な購買力を示す実質実効為替レートで見ると、2007年にはプラザ合意以前の円安水準へと逆戻りし(右上グラフ青線)、円はもはやローカル通貨でしかないという評価もされた。円に対するこうした評価は、円に対する先安感を助長し、先述した円キャリー取引を加速させた。しかし、2008年にかけて、金融危機が深刻化する中で円の独歩高が進行しており、過度の円安期待が歪んだものであったことを示唆している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "円の流通高は2015年9月現在において現金ベースで96兆0,377億円であり、このうち日本銀行が発行する紙幣(日本銀行券)が91兆3,980億円、財務省が発行する硬貨(貨幣)が4兆6,397億円である。円の通貨流通高とは、現金の総額と捉えることもできる。紙幣は国立印刷局が印刷・製造しており、製品そのものは市中に出回っている紙幣以外に日本銀行の金庫内にも保管されており、必要に応じて発行される。個人や企業への支払に使う紙幣を調達するために、金融機関が日本銀行に保有している当座預金から資金を引き出して、日本銀行の窓口で紙幣を受け取ることによって日本銀行券は発行される。日銀当座預金を含むマネタリーベース(日本銀行が供給する通貨)での合計額は332兆1,941億円である。",
"title": "円の流通高"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "経済活動に使われる資金としての円は、現金以外にも銀行に個人や企業が保有している当座預金や普通預金などほとんど現金と同様に日々の取引の決済に利用できる資金などもある。日本では、金融機関以外の民間企業、個人や地方公共団体などが保有している現金に当座預金、普通預金、定期性預金などを加え、さらにCD(譲渡性預金)を加えたM2+CDが市中にある円資金の流通量の指標として使われることが多い(詳しくはマネーサプライを参照)。",
"title": "円の流通高"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "米ドル - 円(東京外国為替市場(東京インターバンク相場)、ドル・円スポット・レート、日本標準時17時時点、月中平均)",
"title": "為替レート"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本円は世界中の国で外貨準備として用いられており、2018年では第3位の通貨である。",
"title": "外貨準備"
}
] | 円(えん)は、日本国の法定通貨の通貨単位。通貨記号は¥(円記号)、ISO 4217による通貨コードはJPY。旧字体では圓、ローマ字ではyenと表記され、しばしば日本円(にほんえん、にっぽんえん)ともいう。 通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和62年法律第42号)により「通貨の額面価格の単位は円とし、その額面価格は一円の整数倍とする。」と定められている(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第2条第1項)。 | {{Otheruses|日本の現行通貨|東アジアの他の同名の通貨|圓|その他の用法|円 (曖昧さ回避)}}
{{redirect|YEN|かつて存在したレコードレーベル「YEN RECORDS」|アルファレコード|[[山嵜晋平]]監督の短編映画|DIVOC-12}}
{{Infobox Currency
| image_1 = JPY Banknotes.png
| image_title_1 = [[日本銀行券|紙幣]]
| image_2 = JPY coins 2.png
| image_title_2 = [[日本の硬貨|硬貨]]
| iso_code = JPY
| using_countries = {{JPN}}
| unofficial_users = {{flag|Myanmar}}<ref>{{cite news|url=https://www.mmtimes.com/news/cbm-permits-border-trades-yen-and-yuan-denominations.html |title=CBM permits border trades in yen and yuan denominations |date=January 30, 2019 |first=Htin Lynn |last=Aung |work=[[The Myanmar Times]]}}</ref>
| inflation_rate = 3.7%
| inflation_source_date = [https://www.stat.go.jp/data/cpi/sokuhou/tsuki/index-z.html 総務省統計局]([[2019年]]平均)
| inflation_method = [[消費者物価指数|CPI]]
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| subunit_name_1 = [[銭]]([[通貨]]は廃止)
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| symbol = [[円記号|¥]]
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| frequently_used_coins = [[一円硬貨|¥1]], [[五円硬貨|¥5]], [[十円硬貨|¥10]], [[五十円硬貨|¥50]], [[百円硬貨|¥100]], [[五百円硬貨|¥500]]
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| printer_website = {{URL|https://www.npb.go.jp/}}
| mint = [[造幣局 (日本)|造幣局]]
| mint_website = {{URL|https://www.mint.go.jp/}}
}}
'''円'''(えん)は、[[日本国]]の法定通貨の[[通貨単位]]。[[通貨記号]]は'''¥'''([[円記号]])、[[ISO 4217]]による通貨コードは'''JPY'''。[[字体#旧字体|旧字体]]では'''[[圓]]'''、[[ローマ字]]では'''yen'''と表記され、しばしば'''日本円'''(にほんえん、にっぽんえん)ともいう。
[[通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律]](昭和62年法律第42号)により「通貨の額面価格の単位は円とし、その額面価格は一円の整数倍とする。」と定められている(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第2条第1項)。
== 概要 ==
日本の通貨単位である「円」は、[[明治]]4年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]([[1871年]][[6月27日]])に制定された[[新貨条例]](明治4年太政官布告第267号)で定められたものである。
当時の表記は旧字体の「圓」であった。[[貨幣法]](明治30年法律第16号)施行により貨幣条例(明治8年太政官布告第108号、新貨条例を改正公布)は廃止されたが、通貨単位としての円は受け継がれ、現在の通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和62年法律第42号)に受け継がれている。
[[外国為替市場]]や[[為替レート]]など、日本以外の通貨との関りの深い分野では、「日本円」という表記や呼称がよく用いられ、[[国際通貨]]や[[特別引出権]]のひとつである。
== 使用国 ==
*{{JPN}} - 発行国、[[法定通貨]]。
=== 過去に流通した地域 ===
*{{ZIM}} - 他の外貨8通貨と共に法定通貨に加えられていた。流通状況は不明。
長らく日本においてのみ法定通貨とされていたが、[[2014年]]1月より[[2019年]]6月まではジンバブエの法定通貨の1つに加えられ<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html ジンバブエ基礎データ]、外務省、2014年10月25日</ref>、この期間、日本円を法定通貨とする国は2カ国となっていた。なお、ジンバブエでは日本円の他に[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]、[[ユーロ]]、[[スターリング・ポンド|英ポンド]]、[[ランド (通貨)|南アフリカ・ランド]]、[[プラ|ボツワナ・プラ]]、[[人民元|中国人民元]]、[[インド・ルピー]]、[[オーストラリア・ドル|豪ドル]]も法定通貨として導入されていた<ref>{{cite news |title=ジンバブエが日本円を採用 困難な中央銀行の信用回復|newspaper=[[ダイヤモンド社]] |date=2014-3-3|url=http://diamond.jp/articles/-/49266 |accessdate=2014-3-6|author=加藤出}}</ref>。2019年6月に暫定通貨[[RTGSドル]]が唯一の法定通貨と指定され、これらの外貨を法定通貨とすることが禁じられた<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/zimbabwe-economy-currency-idJPKCN1TQ06O|title=ジンバブエ、RTGSを唯一の法定通貨に制定 政策金利50%へ|agency=[[ロイター]]|date=2019-06-25|accessdate=2019-07-23}}</ref>。
== 通貨単位 ==
「'''円(圓)'''」という単位名は中国に由来する。中国では、銀は鋳造せずに塊で[[秤量貨幣]]として扱われたが([[銀錠]])、[[18世紀]]頃から[[スペイン]]と、それ以上にその[[植民地]]であった[[メキシコ]]から銀の鋳造貨幣が流入した([[洋銀]])。これらはその形から、「[[銀元|銀圓]]」と呼ばれた。後にイギリスの香港造幣局が「香港壱圓」と刻印したドル銀貨を発行したのはこの流れからである。「銀圓」は、その名と共に日本にも流入し、日本もこれを真似て通貨単位を「円(圓)」と改めた。[[1870年]]、日本は、[[香港ドル]]銀貨と同品位・同量の銀貨を[[本位貨幣]]とする[[銀本位制]]を採用すると決定したが、直後に[[伊藤博文]]が当時の国際情勢を鑑みて急遽[[金本位制]]に変更することを建議した<ref name="Sekaihyakka">「円」の項『世界大百科事典26』 [[平凡社]]、2009年</ref>。
現在のローマ字表記が「en」ではなく「'''yen'''」と書かれるようになった原因は日銀自身も不明としており、外国人に正確な発音をさせるため、西欧言語で頻発する「en」という単語と混同されないための区別、中国の「圓=YUAN」からの転化の3つの説を挙げている<ref>[https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/money/c25.htm/ 円のローマ字表記が「YEN」となっているのはなぜですか? : 日本銀行 Bank of Japan]</ref>。外国語では綴りに引かれて、「イェン」{{ipa|jɛn}}といった具合に「y」を発音する。
[[歴史的仮名遣|歴史的仮名遣い]]は「ゑん (wen)」であるが、16世紀ごろの日本では、発音上は「え」も「ゑ」も区別なく {{ipa|je}} と発音されていた。この時代のキリシタン文献には、「え」「ゑ」がどちらも ye と綴られている(詳細は[[日本語]]の項の音韻史、または「[[ゑ]]」の項を参照)。
英国人宣教師[[ウォルター・ヘンリー・メドハースト|W.H.メドハースト]]は、日本を訪れたことも日本人に会ったこともなかったが、[[ジャカルタ]]([[バタヴィア]])で、和蘭辞典や日本を訪れたことのある人々の情報を基に『英和・和英語彙』(1830年)を著した。この語彙集には「e」と「ye」が混在しており、たとえば冒頭の仮名一覧を見ると、「え」「ゑ」に「e」「ye」の両方が当てられている。19世紀後半に来日したアメリカ人宣教師 [[ジェームス・カーティス・ヘボン|J. C. ヘボン]]は、先行する辞典・語彙集などを参考にしながら、史上初の本格的な[[英和辞典|英和]]・[[和英辞典]]である『[[和英語林集成]]』(初版1867年)を著した。この辞典はメドハーストの表記に倣い、「円」以外にも、「え」「ゑ」で始まる単語は全て「ye」と綴られている。しかし一部地域をのぞいて、この時代には {{ipa|je}} 音は {{ipa|e}} 音へと移行しており、ヘボンは綴りを実際の音に近づけるため、第3版(1886年。この版においてヘボン式ローマ字が確立)に至って、「円」と格助詞の「へ」以外、「え」「ゑ」を全て「e」で表記することにした<ref>[http://www.meijigakuin.ac.jp/mgda/contents5_j.html 各版ローマ字対照表]</ref>。
[[通貨の補助単位|補助単位]]としては、
* '''[[銭]]''' - 円の100分の1(1円=100銭)
* '''[[厘#金銭の単位|厘]]''' - 円の1,000分の1、銭の10分の1(1円=1,000厘、1銭=10厘)
が規定されるが、銭および厘単位(一円未満)の全ての硬貨・紙幣([[日本の補助貨幣|補助貨幣]]・[[臨時補助貨幣]]・小額[[日本銀行券]]・[[小額政府紙幣]])は[[1953年]]末に[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]](昭和28年法律第60号)によって小額通貨が整理された際に使用・流通禁止措置が取られた。現在、「'''銭'''」や「'''厘'''」の単位は通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律によって「'''一円未満の金額の計算単位'''」と定められており(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律第2条第2項)、[[為替]]や[[株式]]の取引、少額物品の単価見積で単位としての銭が便宜的に使用されるにすぎない。ただし、[[電子マネー]]や[[プリペイドカード]]に限り、一部の取引で[[小数点]]第2位まで0.01円(1銭)単位での取引が認められている。
なお、円にはいくつか種類があり、[[第二次世界大戦]]終戦までは[[内地]]で流通した日本円の他、外地通貨である[[台湾銀行|台湾円]]([[日本統治時代の台湾|台湾]]で流通)や[[朝鮮銀行#発行紙幣|朝鮮円]]([[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]及び[[関東州]]で流通)も存在した([[南洋諸島|南洋群島]]は例外的に日本円が流通)。また、[[満州国|満洲国]]の通貨も「[[満州国圓|圓]]」と称しており、[[1935年]]([[康徳]]2年)9月以降は日本円と完全に等価で通用していた。
[[中華人民共和国]]の通貨単位である「[[人民元|元]]」の正式名称は「{{lang|zh|圆}}(=圓・円)」である。かつて「"圓"の画数が多い」という理由で、その代わりに同音 (yuan) の「元」が当てられ、今日に至る。[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の「[[ウォン]]」も「圓(=円)」の[[朝鮮語]]読みである(ただし現在はウォンの公式な漢字表記はない)。[[香港|香港特別行政区]]の[[香港ドル]]や[[マカオ|マカオ特別行政区]]の[[マカオ・パタカ]]、[[中華民国]]の[[新台湾ドル]]も、区内・国内での名称は「元」ないし「圓」であるほか、[[モンゴル]]の通貨単位である[[トゥグルグ]]も[[モンゴル語]]で「圓」と同義である。すなわち、これら東アジアの諸通貨は、みな本質的には「[[圓]]」という名称を共有しているといえる。
同様に[[通貨記号]]“¥”も日本の円と中国の[[人民元]]で共有している。
なお[[中国語]]では日本円を「日圓」「日元」、米ドルを「美元」、ユーロを「欧元」というように、国・地域名を冠してそこで用いられる通貨を指す用法も派生した。
{{main|圓}}
== 流通硬貨・紙幣 ==
現在も継続的に発行されているものは[[硬貨]]6種類、紙幣4種類である。現在発行されていない旧紙幣・旧硬貨については[[日本銀行券]]、[[日本の硬貨]]を参照のこと。
=== 硬貨 ===
{{main|日本の硬貨}}
{|class="wikitable" style="font-size: 90%"
|-
!colspan="10"|現在発行されている硬貨<ref name="coin">{{Cite web|和書|title=通常貨幣一覧 |url=https://www.mof.go.jp/policy/currency/coin/general_coin/list.htm |publisher=財務省 |accessdate=2022-09-16}}</ref>
|-
!rowspan="2"| 画像 !!rowspan="2"| 額 !!colspan="4"| データ !!colspan="3"| 説明 !!rowspan="2"| 発行開始年
|-
! 直径 !! 厚さ !! 重さ !! 組成 !! 縁 !! 表面 !! 裏面
|- {{Coin-silver-color}}
| style="text-align:center; background:#000;"| [[Image:1JPY.JPG|141px]]
| [[一円硬貨|1円]] || 20 mm || 1.2 mm || 1 g || 100 % [[アルミニウム]]
| 無地 || 若木、国名、金額 || 金額、鋳造年 || 1955年(昭和30年)
|- {{Coin-yellow-color}}
| style="text-align:center; background:#000;"| [[Image:5JPY.JPG|141px]]
| [[五円硬貨|5円]] || 22 mm || 1.5 mm || 3.75 g || [[黄銅]]<br/>60 - 70 % [[銅]]<br/>30 - 40 % [[亜鉛]]
| 無地 || [[イネ|稲穂]]と[[水面]]、穴の周りに[[歯車]]、金額 || 国名、鋳造年、双葉 || 1959年(昭和34年)
|- {{Coin-copper-color}}
| style="text-align:center; background:#000;" |[[Image:10JPY.JPG|141px]]
| [[十円硬貨|10円]] || 23.5 mm || 1.5 mm || 4.5 g || [[青銅]]<br/>95 % [[銅]]<br/>3 - 4 % [[亜鉛]]<br/>1 - 2 % [[スズ]]
| 無地 || [[平等院|平等院鳳凰堂]]、国名、金額 || [[常緑広葉樹林|常盤木]]、金額、鋳造年 || 1959年(昭和34年)
|- {{Coin-silver-color}}
| style="text-align:center; background:#000;"| [[Image:50JPY.JPG|141px]]
| [[五十円硬貨|50円]] || 21 mm || 1.7 mm || 4 g || [[白銅]]<br/>75 % [[銅]]<br/>25 % [[ニッケル]]
| ギザ ||[[キク|菊]]、国名、金額 ||金額、鋳造年 || 1967年(昭和42年)
|- {{Coin-silver-color}}
| style="text-align:center; background:#000;"| [[Image:100JPY.JPG|141px]]
| [[百円硬貨|100円]] || 22.6 mm || 1.7 mm || 4.8 g || [[白銅]]<br/>75 % [[銅]]<br/>25 % [[ニッケル]]
| ギザ ||[[サクラ|桜]]、国名、金額 ||金額、鋳造年 || 1967年(昭和42年)
|- {{Coin-silver-color}}
| style="text-align:center; background:#000;"| [[Image:500yen-R3.jpg|141px]]
| [[五百円硬貨|500円]] || 26.5 mm || || 7.1 g || | 外縁:[[ニッケル黄銅]]<br/>中心(表層):[[白銅]]<br/>中心(内側):[[銅]]<br/>([[バイメタル貨|バイカラー]]・[[クラッド貨幣|クラッド]])<br/>75 % [[銅]]<br/>12.5 % [[亜鉛]]<br/>12.5 %[[ニッケル]]
| 異形斜めギザ || [[キリ|桐]]、国名、金額 || [[ササ|笹]]、[[タチバナ|橘]]、金額、鋳造年 || 2021年(令和3年)
|-
|}
=== 紙幣 ===
{{main|日本銀行券}}
{|class="wikitable"
|-
!colspan="8"| Eシリーズ (2004)<ref>{{cite web|url=http://www.boj.or.jp/en/note_tfjgs/note/valid/issue.htm/#p04|title=Bank of Japan Notes and Coins Currently Issued|publisher=Bank of Japan|accessdate=10 December 2015}}</ref>
|-
!colspan="2"| 画像 !!rowspan="2"| 金額 !!rowspan="2"| 大きさ !!rowspan="2"| 色 !!colspan="2"| 説明 !!rowspan="2"| 発行日
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! 表面 !! 裏面 !! 表面 !! 裏面
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| style="text-align:center; background:#000;"|[[File:1000 yen banknote 2004.jpg|105px]]
| style="text-align:center; background:#000;"|[[File:1000 Yen from Back.jpg|105px]]
| [[千円紙幣|1000円]] || 150 × 76 mm || 青 || [[野口英世]] || [[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]、[[本栖湖]]、[[サクラ|桜]] ||rowspan="3"| 2004年(平成16年)11月1日
|-
| style="text-align:center; background:#000;"|[[File:5000 Yenes (2004) (Anverso).jpg|110px]]
| style="text-align:center; background:#000;"|[[File:5000 Yenes (2004) (Reverso).jpg|110px]]
| [[五千円紙幣|5000円]] || 156 × 76 mm || 紫 || [[樋口一葉]] || [[尾形光琳]]の燕子花図
|-
| style="text-align:center; background:#000;"| [[File:10000 Yenes (Anverso).jpg|112px]]
| style="text-align:center; background:#000;"| [[File:10000 Yenes (Reverso).jpg|112px]]
| [[一万円紙幣|10000円]] || 160 × 76 mm || 茶 || [[福澤諭吉]] || [[平等院]]の[[鳳凰]]像
|}
{|class="wikitable"
|-
!colspan="8"| Dシリーズ (2000)<ref>{{cite web|url=http://www.boj.or.jp/en/note_tfjgs/note/valid/issue.htm/#p04|title=Bank of Japan Notes and Coins Currently Issued|publisher=Bank of Japan|accessdate=10 December 2015}}</ref>
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!colspan="2"| 画像 !!rowspan="2"| 金額 !!rowspan="2"| 大きさ !!rowspan="2"| 色 !!colspan="2"| 説明 !!rowspan="2"| 発行日
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! 表面 !! 裏面 !! 表面 !! 裏面
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| style="text-align:center; background:#000;"|[[File:Series D 2K Yen Bank of Japan note - front.jpg|105px]]
| style="text-align:center; background:#000;"|[[File:Series D 2K Yen Bank of Japan note - back.jpg|105px]]
| [[二千円紙幣|2000円]] || 154 × 76 mm || 緑 || [[守礼門]] || [[紫式部]]、[[源氏物語絵巻]]([[光源氏]]、[[冷泉帝]]) || 2000年(平成12年)7月19日
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|}
* '''[[千円紙幣]]''' - E千円券と称され、縦76mm×横150mm。[[2004年]](平成16年)[[11月1日]]発行。表は[[野口英世]]、裏は[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]と[[サクラ|桜]]がデザインされている。
* '''[[二千円紙幣|弐千円紙幣]]''' - D弐千円券と称され、縦76mm×横154mm。[[2000年]](平成12年)[[7月19日]]発行。表は[[沖縄県]][[首里城]]の[[守礼門]]、裏は[[紫式部]]と[[源氏物語]]絵巻がデザインされている。
* '''[[五千円紙幣]]''' - E五千円券と称され、縦76mm×横156mm。2004年(平成16年)11月1日発行。表は[[樋口一葉]]、裏は[[尾形光琳]]の燕子花図がデザインされている。
* '''[[一万円紙幣|壱万円紙幣]]''' - E壱万円券と称され、縦76mm×横160mm。2004年(平成16年)11月1日発行。表は[[福澤諭吉]]、裏は[[平等院]]の[[鳳凰]]像がデザインされている。
== 歴史 ==
=== 「円」制定の経緯 ===
[[File:JAPAN-10-Constitutional_Monarchy-One_Yen_(1873).jpg|thumb|220px|旧国立銀行券 1円 田道将軍と兵船(1873年)]]
[[File:20yen-M3.jpg|thumb|220px|明治初期に作られていた20円金貨(1870年)]]
[[File:20yen-M30.jpg|thumb|220px|新二十円金貨明治三十年(1897年)]]
[[明治維新]]によって[[江戸幕府]]が崩壊し、新たに明治政府が誕生したものの、通貨制度はいまだ江戸幕府のものを引き継いでおり、さらに維新時の混乱によって経済の混乱が起きていた。また、かねてからの江戸幕府の財政難は改善されておらず、むしろ悪化の一途を辿り、幕末期には破綻寸前にまで陥っていた。通貨制度も複雑なもので、[[東日本]]の金([[計数貨幣]])と[[西日本]]の銀([[秤量貨幣]])の統一すらなされておらず、さらに[[金銀比価]]の差によって幕末に大量の金が海外に流出していたこともあり([[幕末の通貨問題]])、これらの財政難と通貨問題の解消のために近代的な通貨制度の確立は急務となっていた。
[[1871年]](明治4年)に明治政府は[[新貨条例]]を制定し、[[貨幣]]の基本単位に'''円'''を用いることを決定した。このとき、通貨に[[十進法]]を用い、補助単位として[[銭]]および[[厘]]を用いることが定められるともに、[[金|純金]]1,500[[ミリグラム|mg]]を1円(すなわち金平価1,500mg)とする[[金本位制]]の導入が試みられ、20円、10円、5円、2円、1円の日本初の[[日本の金貨|洋式本位金貨]]が鋳造、発行された。この量目は[[アメリカ合衆国|米国]]訪問中の[[伊藤博文]]が建言したものであり、当時の国際貨幣制度確立案として[[アメリカ合衆国下院|米国下院]]に提案中だった1[[アメリカ合衆国ドル|ドル]][[金貨]]の金純分とほぼ等しい<ref>「円でたどる経済史」p17 荒木信義 丸善ライブラリー 平成3年10月20日発行</ref>。
また、当時明治政府が鋳造し流通していた明治[[二分金|二分判]](量目3[[グラム|g]] 金純分22.3[[パーセント|%]])2枚(=1[[両]])の純金および純銀含有量の合計の実質価値に近似でもあり、新旧物価が1両=1円として連結し、物価体系の移行に難が少ないとして採用された(なお、[[江戸幕府]]最後の二分判である[[万延]]二分判と明治二分判の純金含有量はほぼ同じである)。
=== 金・銀本位制 ===
しかし輸入増加、[[西南戦争]]や[[日清戦争]]等による[[不換紙幣]]・銀行券の濫発、金流出等により実際には[[金本位制]]は機能しなくなり、事実上[[銀本位制]]のままだった。これは当時発行されていた[[日本銀行券]]が、[[本位金貨]]が存在したのにもかかわらず、兌換銀券であったことでも頷ける。
その後、[[日清戦争]]の賠償金として受け取った金を兌換準備充当の正貨として、[[1897年]]に[[貨幣法]]が制定され、第2次金本位制度が確立し、ようやく[[紙幣]]の金兌換が実現した。
ただし、このとき定められた1円の金平価は750mgと半減し、しかも兌換準備充当正貨は[[イギリス|英国]]に置いたままの在外正貨の形で運用された。これに伴い1871年から発行された最初の本位金貨は、この時から額面の2倍の通用力を有すこととなった。一方新貨幣法による本位金貨は20円、10円、5円のみとなり、1円金貨は発行されなかった。これらの本位金貨は[[第二次世界大戦]]後も[[廃止]]されず、1988年4月1日に[[通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律]]が施行されるまで名目上は現行通貨であった。
この金兌換は[[1917年]]まで継続されたが、[[第一次世界大戦]]が勃発すると各国が金輸出を禁止し、日本もこれに追随する形で金本位制を停止して、これにより金輸出は禁止され、兌換も停止された。
第一次世界大戦が終結すると、いちはやく金輸出を解禁したアメリカを皮切りに、主要国は次々と金輸出を解禁し、1928年にフランスが金輸出を解禁すると、列強のうち金輸出を解禁していない国は日本だけとなった。このため、[[1930年]]1月に金の輸出を自由化して金本位制度を復活させる措置([[金解禁]])が取られたが、当時は[[1929年]]10月24日に発生したウォール街の株価の大暴落([[暗黒の木曜日]])によって世界経済が大混乱に陥っており、この金解禁は日本経済にも大混乱をもたらした。このため、解禁から2年もたたない[[1931年]]12月には金輸出・金兌換が再び禁止となり日本の金本位制は崩壊、その後は[[管理通貨制度]]に移行した。第二次世界大戦後は、生産設備の壊滅・賠償引当、経済統制の弛緩、不作、占領経費の円建て支払いなどの理由により、インフレーションが進行、[[新円切替]]に至る。
=== 金為替本位制 ===
第二次世界大戦後の[[国際通貨基金|IMF]]体制(いわゆる[[ブレトン・ウッズ協定|ブレトン・ウッズ体制]])下では、[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]を介した金為替本位制により、1円の金平価は2.4685mgとなった。この価格は、1ドルの金平価1/35[[トロイオンス]]を、当時の対ドル円為替相場である1ドル=360円で割って算出されたものである<ref group="注">円の角度が360度であることに由来すると言う説があるが、これは俗説で正しくない。物価情勢などを考えて計算されたものである。</ref>。米ドルを基軸通貨とする体制はこれまでの金本位制に対し、俗に「ドル本位制」と呼ばれる。この対ドル[[固定相場制]]に基づく金為替本位制は世界的な経済の安定をもたらしたが、この体制そのものが第二次世界大戦中のアメリカ経済の比重が非常に高まった時期のものであり、ヨーロッパや日本が復興を遂げるとともに通貨のバランスが変動して、1960年代以降はアメリカからのドルの流出が続き、ドルの地位低下が深刻なものとなった。
このブレトン・ウッズ体制は[[1971年]]8月15日の[[ニクソン・ショック]](ドル・ショック)により、アメリカがドルの金兌換を停止したことで崩壊した。その後、固定相場制への復帰が試みられ、同年12月18日には[[スミソニアン協定]]が[[国際通貨基金|IMF]]の10カ国グループ([[G10]])の間で結ばれた。この協定において日本は経済成長を反映し、それまでの1ドル=360円から大幅に切り上げ(16.88%)した1ドル=308円に決定した。しかしその後もドルの下落は止まらず、[[イギリス]]をはじめとして各国が次々とスミソニアン体制から脱退して変動相場制へと移行、日本もこれを維持しきれずに[[1973年]]2月には[[変動相場制]]に移行した。
=== 変動相場制 ===
{{Vertical_images_list
|寄せ=右
|幅=240px
|画像1=JPY Nominal Effective Exchange Rates (1970-).svg
|説明1=
|画像2=JPY Real Effective Exchange Rates (1970-).svg
|説明2=日本円の[[実効為替レート]](<span style="color:red;">名目</span>・<span style="color:blue;">実質</span>)の変遷(2005年 = 100, 1970年1月〜)
}}
変動相場制への移行後、上下を続けた円相場は1970年代末にアメリカのインフレ対策への失望から急速に円高へ進んだ(ドル危機)。[[ポール・ボルカー]][[連邦準備制度|FRB]]議長により新金融調節方式が採用されるとドルの金利は急速に上昇し、合わせて円相場は円安へ向かった。1985年、高すぎるドル相場の安定的是正を目指して[[プラザ合意]]が行なわれると、円相場は1年で2倍の円高となった。バブル経済期に一時的な円安を迎えた後、1995年にかけて円高が進み1ドル=70円台後半まで円高が進んだ。1990年代後半には「強いドル政策」と日本の金融危機により円安が進行。以後、緩やかに円高に向かう。
現在は[[ハードカレンシー]]のひとつ、且つアメリカドル、ユーロと並び世界三大通貨<ref>[http://www.tokyostarbank.co.jp/education/topics/fcy_20120911_1/index.html アメリカ・ドル(米ドル)- 世界の基軸通貨]、東京スター銀行、2012年9月11日</ref>(日本ではG3通貨とも。ないしは[[スターリング・ポンド|イギリス・ポンド]]とあわせて世界4大通貨)として国際的に認知され、信用されている。円の特徴としては、日本が経常黒字国であること、物価上昇率が低いこと、低金利であることが挙げられる。市場の[[ボラティリティ]]が低い状況下では、低金利の円を借り入れて他通貨に投資する動き(いわゆる[[円キャリー取引]])が活性化するため、緩やかに円安が進む傾向にある。一方、ボラティリティの上昇局面には、こうした投資の巻き戻しに加えて、経常黒字、低い物価上昇率といった要因が意識されるため、円高が急速に進む傾向にある。円高と円安のリスクのどちらがより大きいかを示す指標であるリスクリバーサルは、過去10年以上にわたりほぼ一貫して円高リスクの方が大きいことを示唆している。
2000年代中盤にかけての世界的な低ボラティリティ環境下では、低金利の円は減価を続けた。米ドルと米ドル以外の主要国通貨も含めた通貨の国際的な購買力を示す実質[[実効為替レート]]で見ると、2007年にはプラザ合意以前の円安水準へと逆戻りし(右上グラフ青線)、円はもはやローカル通貨でしかないという評価もされた<ref>「YEN漂流 私はこう見る」 [[日本経済新聞]]、[[2008年]][[1月5日]]。</ref><ref>[[天木直人]] 「[http://www.amakiblog.com/archives/2008/01/06/#000656 円は今やローカル通貨と言い放った元財務官僚]」『天木直人のブログ』[[2008年]][[1月6日]]</ref>。円に対するこうした評価は、円に対する先安感を助長し、先述した[[円キャリー取引]]を加速させた。しかし、2008年にかけて、金融危機が深刻化する中で円の独歩高が進行しており、過度の円安期待が歪んだものであったことを示唆している。
== 円の流通高 ==
円の流通高は2015年9月現在において現金ベースで96兆0,377億円であり、このうち[[日本銀行]]が発行する紙幣(日本銀行券)が91兆3,980億円、[[財務省]]が発行する硬貨(貨幣)が4兆6,397億円である<ref name="統計">日本銀行ホームページ[http://www.stat-search.boj.or.jp/ssi/mtshtml/m.html 主要時系列統計データ表(月次)]の「マネタリーベース平均残高/うち 日本銀行券発行高」「マネタリーベース平均残高/うち 貨幣流通高」を参照。</ref>。円の通貨流通高とは、[[現金]]の総額と捉えることもできる。紙幣は[[国立印刷局]]が印刷・製造しており、製品そのものは市中に出回っている紙幣以外に日本銀行の金庫内にも保管されており、必要に応じて発行される。個人や企業への支払に使う紙幣を調達するために、金融機関が日本銀行に保有している[[預金#当座預金|当座預金]]から資金を引き出して、日本銀行の窓口で紙幣を受け取ることによって日本銀行券は発行される。日銀当座預金を含む[[マネタリーベース]](日本銀行が供給する通貨)での合計額は332兆1,941億円である<ref name="統計"/>。
経済活動に使われる資金としての円は、現金以外にも銀行に個人や企業が保有している当座預金や普通預金などほとんど現金と同様に日々の取引の決済に利用できる資金などもある。日本では、金融機関以外の民間企業、個人や地方公共団体などが保有している現金に当座預金、普通預金、定期性預金などを加え、さらにCD(譲渡性預金)を加えたM2+CDが市中にある円資金の流通量の指標として使われることが多い(詳しくは[[マネーサプライ]]を参照)。
== 為替レート ==
米ドル - 円([[東京外国為替市場]](東京インターバンク相場)、ドル・円[[スポット・レート]]、[[日本標準時]]17時時点、月中平均)<ref>1979年(昭和54年)までは日本銀行ホームページ{{Cite web|和書|url=http://www2.boj.or.jp/dlong/stat/stat2.htm |title=時系列データ |accessdate=2015年10月14日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051031010108/http://www2.boj.or.jp/dlong/stat/stat2.htm |archivedate=2005年10月31日 }}にある「外国為替相場 / text」を参照した。</ref><ref>1980年(昭和55年)1月以降は、日本銀行ホームページ[http://www.stat-search.boj.or.jp/index.html# 時系列統計データ検索サイト]の主要時系列統計データ表「[http://www.stat-search.boj.or.jp/ssi/mtshtml/m.html 月次]」を参照した。</ref>
<div style="height:auto; overflow: auto; text-align: left">
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!rowspan="2"|年!!colspan="12"|月
|-
!1月!!2月!!3月!!4月!!5月!!6月!!7月!!8月!!9月!!10月!!11月!!12月
|-
![[1949年]](昭和24年)から<br/>[[1971年]](昭和46年)まで
|colspan="12"|360(固定相場)
|-
![[1972年]](昭和47年)
|colspan="12"|308(1971年(昭和46年)[[12月]]より切り上げ)
|-
![[1973年]](昭和48年)
|301.15||270.00||265.83||265.50||264.95||265.30||263.45||265.30||265.70||266.68||279.00||280.00
|-
![[1974年]](昭和49年)
|299.00||287.60||276.00||279.75||281.90||284.10||297.80||302.70||298.50||299.85||300.10||300.95
|-
![[1975年]](昭和50年)
|297.85||286.60||293.80||293.30||291.35||296.35||297.35||297.90||302.70||301.80||303.00||305.15
|-
![[1976年]](昭和51年)
|303.70||302.25||299.70||299.40||299.95||297.40||293.40||288.76||287.30||293.70||296.45||293.00
|-
![[1977年]](昭和52年)
|288.25||283.25||277.30||277.50||277.30||266.50||266.30||267.43||264.50||250.65||244.20||240.00
|-
![[1978年]](昭和53年)
|241.74||238.83||223.40||223.90||223.15||204.50||190.80||190.00||189.15||176.05||197.80||195.10
|-
![[1979年]](昭和54年)
|201.40||202.35||209.30||219.15||219.70||217.00||216.90||220.05||223.45||237.80||249.50||239.90
|-
![[1980年]](昭和55年)
|237.73||244.07||248.61||251.45||228.06||218.11||220.91||224.34||214.95||209.21||212.99||209.79
|-
![[1981年]](昭和56年)
|202.19||205.76||208.84||215.07||220.78||224.21||232.11||233.62||229.83||231.40||223.76||219.02
|-
![[1982年]](昭和57年)
|224.55||235.25||240.64||244.90||236.97||251.11||255.10||258.67||262.74||271.33||265.02||242.49
|-
![[1983年]](昭和58年)
|232.90||236.27||237.92||237.70||234.78||240.06||240.49||244.36||242.71||233.00||235.25||234.34
|-
![[1984年]](昭和59年)
|233.95||233.67||225.52||224.95||230.67||233.29||242.72||242.24||245.19||246.89||243.29||247.96
|-
![[1985年]](昭和60年)
|254.11||260.34||258.43||251.67||251.57||248.95||241.70||237.20||236.91||214.84||203.85||202.75
|-
![[1986年]](昭和61年)
|200.05||184.62||178.83||175.56||166.89||167.82||158.65||154.11||154.78||156.04||162.72||162.13
|-
![[1987年]](昭和62年)
|154.48||153.49||151.56||142.96||140.47||144.52||150.20||147.57||143.03||143.48||135.25||128.25
|-
![[1988年]](昭和63年)
|127.44||129.26||127.23||124.88||124.74||127.20||133.10||133.63||134.45||128.85||123.16||123.63
|-
![[1989年]](昭和64年/平成元年)
|127.24||127.77||130.35||132.01||138.40||143.92||140.63||141.20||145.06||141.99||143.55||143.62
|-
![[1990年]](平成2年)
|145.09||145.54||153.19||158.50||153.52||153.78||149.23||147.46||138.96||129.73||129.01||133.72
|-
![[1991年]](平成3年)
|133.65||130.44||137.09||137.15||138.02||139.83||137.98||136.85||134.59||130.81||129.64||128.07
|-
![[1992年]](平成4年)
|125.05||127.53||132.75||133.59||130.55||126.90||125.66||126.34||122.72||121.14||123.84||123.98
|-
![[1993年]](平成5年)
|125.02||120.97||117.02||112.37||110.23||107.29||107.77||103.72||105.27||106.94||107.81||109.72
|-
![[1994年]](平成6年)
|111.49||106.14||105.12||103.48||104.00||102.69||{{0}}98.54||{{0}}99.86||{{0}}98.79||{{0}}98.40||{{0}}98.00||100.17
|-
![[1995年]](平成7年)
|{{0}}99.79||{{0}}98.23||{{0}}90.77||{{0}}83.53||{{0}}85.21||{{0}}84.54||{{0}}87.24||{{0}}94.56||100.31||100.68||101.89||101.86
|-
![[1996年]](平成8年)
|105.81||105.70||105.85||107.40||106.49||108.82||109.25||107.84||109.76||112.30||112.27||113.74
|-
![[1997年]](平成9年)
|118.18||123.01||122.66||125.47||118.91||114.31||115.10||117.89||120.74||121.13||125.35||129.52
|-
![[1998年]](平成10年)
|129.45||125.85||128.83||131.81||135.08||140.35||140.66||144.76||134.50||121.33||120.61||117.40
|-
![[1999年]](平成11年)
|113.14||116.73||119.71||119.66||122.14||120.81||119.76||113.30||107.45||106.00||104.83||102.61
|-
![[2000年]](平成12年)
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![[2001年]](平成13年)
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![[2002年]](平成14年)
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![[2003年]](平成15年)
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![[2022年]](令和4年)
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[通貨の一覧|世界の通貨一覧]]
* [[特別引出権]]
* [[円相場]]
* [[円キャリー取引]](円キャリートレード)
* [[B円]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mof.go.jp/policy/currency/index.html 通貨(貨幣・紙幣)]
* [https://www.npb.go.jp/ja/intro/kihon/genzai.html 現在発行されているお札]
* [https://www.mint.go.jp/operations/production/operations_coin_presently-minted.html 現在製造している貨幣]
* [https://www.imes.boj.or.jp/cm/index.html 日本銀行金融研究所貨幣博物館]
* [http://chigasakiws.web.fc2.com/index.html 近現代・日本のお金(貨幣、紙幣)]
* {{Kotobank|円(日本の貨幣単位)}}
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6,471 | タンパク質 | タンパク質(タンパクしつ、蛋白質、英: protein [ˈproʊtiːn]、独: Protein [proteˈiːn/protain])とは、20種類のアミノ酸が鎖状に多数連結(重合)してできた高分子化合物であり、生物の重要な構成成分のひとつである。
構成するアミノ酸の数や種類、また結合の順序によって種類が異なり、分子量約4000前後のものから、数千万から億単位になるウイルスタンパク質まで多くの種類が存在する。連結したアミノ酸の個数が少ない場合にはペプチドと言い、これが直線状に連なったものはポリペプチドと呼ばれることが多いが、名称の使い分けを決める明確なアミノ酸の個数が決まっているわけではないようである。
タンパク質は、炭水化物、脂質とともに三大栄養素と呼ばれ、各々の英単語の頭文字を取って「PFC」とも呼ばれる。タンパク質は筋肉や骨、皮膚などをつくる役割も果たしている。
ドイツ語: Protein、英語: protein、フランス語: protéine [prɔtein]、スペイン語: proteína はギリシア語で「第一の」を意味する prōteîos から採られた。1838年にオランダの化学者ヨハンネス・ムルデルが、スウェーデンの化学者イェンス・ベルセリウスから助言を受け、窒素を非常に多く含む生物の基本要素と考えてこの名称をつけた。
「蛋白質」の「蛋」とは卵のことを指し、卵白(蛋白)がタンパク質を主成分とすることによる。これは Protein がドイツ語でまた Eiweiß(卵白)とも訳され、これが日本語に直訳されたと考えられる。
「蛋」という漢字は、例えば皮蛋のように中国ではよく使われる字であるが、日本ではあまり普及していない。そのため栄養学者の川島四郎が「蛋白質」では分かりにくいとして「卵白質」という語を使用したが、一般的に利用されるにはいたらなかった。 現在では、栄養学分野では平仮名の「たんぱく質」、生物学では片仮名の「タンパク質」が使われる傾向にある。
タンパク質は以下のような階層構造をもつ。
また、アミノ酸のみで構成された種類は単純タンパク質と言い、構成成分にアミノ酸以外のものが含まれる場合は複合タンパク質と呼ばれる。
食物として摂取したタンパク質は消化の過程でアミノ酸にまで分解され吸収され、体内で再びタンパク質へ構成される。このタンパク質を作る基本物質であるアミノ酸は、炭素元素を中心に水溶液中でプラスに荷電するアミノ基とマイナスに荷電するカルボキシ基を持ち、残り2箇所に水素と側鎖と呼ばれる分子構造を持つ。タンパク質をつくるアミノ酸は20種類あるが、これらの差は側鎖の形状の違いで分けられる。
タンパク質はアミノ酸のポリマーである。その基本的な構造は2つのアミノ酸の一方のカルボキシ基 (−COOH) と他方のアミノ基 (−NH2) が水分子を1つ放出する脱水縮合(ペプチド結合)を起こして酸アミド結合 (−CO−NH−) を形成することでできる鎖状である。また、システイン残基がしばしばジスルフィド結合 (S−S) の架橋構造をつくることもある。このポリマーの末端の結合していない部分は、アミノ基側をN末端、カルボキシ基側をC末端とよぶ。この時、一列のアミノ酸の脇には側鎖が並ぶ事になり、この配列の数や順序を指してタンパク質の一次構造とよぶ。
アミノ酸の配列は、遺伝子の本体である物質・DNAの塩基配列により決定される(3個のヌクレオチドにより、1つのアミノ酸が指定される)。ペプチド結合してタンパク質の構成成分となった単位アミノ酸部分 (−NH−CH(−R)−CO−) をアミノ酸残基と呼ぶ。それぞれの残基は、側鎖置換基 R の違いによって異なる性質をもつ。
鎖状のポリペプチドは、それだけではタンパク質の機能を持たない。一次構造で並んだ側鎖が相互作用で結びつき、ポリペプチドには決まった2種類の方法で結びついた箇所が生じる。1つはαヘリックス(螺旋構造)と呼ばれ、あるアミノ酸残基の酸素と、4つ離れた残基の水素の結びつきを基礎に、同じ事が順次起こってポリペプチドにらせん構造をつくる。もう1つのβシートとは、ポリペプチドの一部が折り畳まれ、それぞれの水素と酸素残基が結合してつくるシート状の構造である。これらは二次構造と呼ばれる。水素結合やファンデルワールス力などによるこの畳み込みはフォールディング (folding) とも呼ばれる。結合エネルギーが比較的低いため、簡単な処理によって構造を変性させやすい。
タンパク質はαヘリックスやβシートといった二次構造の特定の組み合わせが局部的に集合し形成されたαヘアピンやβヘアピンなどの超二次構造と呼ばれる単位ができて核に纏まったドメインをとり、タンパク質全体としての三次構造をとる。これは立体的に見てまとまった領域である。三次構造は側鎖間の相互作用によって安定する。特殊な塩基間の水素結合やシステイン残基間のジスルフィド結合、静電引力などが安定化に寄与するが、特に疎水結合が大きく影響する。そのため有機溶媒や界面活性剤などで疎水結合を切ると三次構造が壊れ、タンパク質の変性が起こりやすい。三次構造の立体を図案化し描かれたものは「リボンモデル」と言う。
タンパク質の中には複数(場合によっては複数種)のポリペプチド鎖が非共有結合でまとまって複合体(会合体)を形成しているものがあり、このような関係を四次構造と呼ぶ。各ポリペプチド鎖はモノマーまたはサブユニットと呼ばれ、複合体はオリゴマーと言う。各サブユニットには疎水結合や水素結合またはイオン結合が広い領域に多数存在し相補的に働くために方向性があるため、サブユニットは全体で特定の空間配置(コンホメーション)を取る。例えば、ヒトの赤血球に含まれ酸素を運ぶヘモグロビンは、α・β2種類のグロビンというサブユニットがそれぞれ2つずつ結びつく四次構造を持ったタンパク質の一種である。
タンパク質の立体構造は、そのアミノ酸配列(一次構造)により決定されていると考えられている(Anfinsenのドグマ)。また、二次以上の高次構造は、いずれも一次構造で決定されるアミノ酸配列を反映している。例えば Glu、Ala、Leu が連続するとαヘリックス構造をとりやすい。Ile、Val、Metはβシート構造をとりやすい。また各構造の継ぎ目の鋭角なターンの部分には Gly、Pro、Asn が置かれる、などの例がある。さらに、疎水性アミノ酸残基同士は引き合い(疎水結合)、Cys 同士はジスルフィド結合を形成して高次構造を安定化させる。
生体のタンパク質を構成するアミノ酸は20種類あるが、それが3つ連結したペプチドだけでも約20=8000通りの組み合わせがあり得る。タンパク質については、その種類は数千万種と言われる。生物の遺伝子(ゲノム)から作られるタンパク質ひとそろいのセットは、プロテオームと呼ばれるが、ヒトゲノムの塩基配列解読が終わった今、プロテオームの解析(プロテオミクス)が盛んに進められている。
タンパク質の機能は上記の三次構造・四次構造(立体構造)によって決定される。これは、同じアミノ酸の配列からなるタンパク質でも、立体構造(畳まれ方)によって機能が変わるということである。たとえばBSEの原因となるプリオンは、正常なプリオンとは立体構造が違うだけである。なお、多くのタンパク質では、熱や圧力を加えたり、溶液の pH 値を変える、変性剤を加えるなどの操作により二次以上の高次構造が変化し、その機能(活性)を失う。これをタンパク質の変性という。変性したタンパク質においては、疎水結合、水素結合、イオン結合の多くが破壊され、全体にランダムな構造が増加したペプチド鎖の緩んだ状態になることが知られている。タンパク質の変性は、かつて不可逆な過程であると考えられてきたが、現在では多くのタンパク質において、変性は可逆的な過程である事が確認されている。なお、変性したタンパク質を元の高次構造に戻す操作をタンパク質の再生という。タンパク質の再生は、原理としては、畳み込まれたペプチド鎖を一旦完全にほどき、数時間かけてゆっくりと畳み込むよう条件を細かく調整・変化させることで行われている。
特定のアミノ酸配列に対して、存在しうる安定な高次構造が複数存在するにもかかわらず、生体内では特定の遺伝子から特定の機能を持つ高次構造をとったタンパク質が合成できるかは、必ずしも明らかではない。クリスチャン・アンフィンセンの実験などで判明した多くのタンパク質が変性した後にもその高次構造の再生が可能なことから、一次構造それ自体が、高次構造のかなりの部分を決めていることは疑いがなく、これは「アンフィンセンのドグマ」と呼ばれる。しかし、先のタンパク質の再生は数時間かかる操作(実際には、二次構造の畳み込みはかなり迅速に起こっていて、三次構造の確定に時間がかかるらしい)であるのに対し、生体内でのタンパク質の合成は数十秒から一分で完了する。さらに、発見された「アンフィンセンのドグマ」に反する事例からも、タンパク質分子を高速に畳み込み、正しい高次構造へと導く因子の存在が考えられている(例:タンパク質ジスルフィドイソメラーゼ、プロリンシストランスイソメラーゼ、分子シャペロン)。また、生体内では間違った立体構造をしているタンパク質はそのタンパク質のLysのアミノ基にポリユビキチンが共有結合で結合した後に、プロテアソームによって分解される。
タンパク質は周囲の環境の変化によりその高次構造を変化させ、その機能を変えることができる。タンパク質である酵素は、その触媒する反応の速度を条件に応じて変化させることができる。
上記のようなタンパク質の高次構造は、X線結晶構造解析、NMR(核磁気共鳴)、電子顕微鏡などによって測定されている。また、タンパク質構造予測による理論的推定なども行われている。タンパク質の立体構造と機能は密接な関係を持つことから、それぞれのタンパク質の立体構造の解明は、その機能を解明するために重要である。いずれ、ほしい機能にあわせてタンパク質の立体構造を設計し、合成できるようになるだろうと考えられている。
これまでの研究により構造が解明されたタンパク質については、蛋白質構造データバンクによりデータの管理が行われており、研究者のみならず一般の人でもそのデータを自由に利用、閲覧できる。
タンパク質は、それぞれのアミノ酸配列に固有の立体構造を自発的に形成する。このことから、タンパク質の天然状態は熱力学的な最安定状態(最も自由エネルギーが低い状態)であると考えられている(アンフィンセンのドグマ)。
タンパク質の立体構造安定性は天然状態と変性状態の自由エネルギーの差 Δ G d {\displaystyle \Delta G_{\rm {d}}} (変性自由エネルギー)で決まる。なお、温度依存性を議論する場合には、安定性の指標として e x p ( − Δ G d / k T ) {\displaystyle exp(-\Delta G_{\rm {d}}/kT)} が用いられることもある。通常、タンパク質の安定性は、温度、圧力、溶媒条件等に依存する。従って、それらの条件をある程度変化させると、タンパク質は変性する。
タンパク質の安定性を決める要因として、ファン・デル・ワールス相互作用、疎水性相互作用、水素結合、イオン結合、鎖エントロピー、ジスルフィド結合などがある。これらの寄与の大きさは、温度等により変わる。
多くのタンパク質は、室温近傍で数十 kJ/mol 程度の Δ G d {\displaystyle \Delta G_{\rm {d}}} をとる。この非常に小さな Δ G d {\displaystyle \Delta G_{\rm {d}}} は変性状態に対して天然状態が絶妙なバランスで安定であることを示しており、この性質は限界安定性 (marginal stability) と呼ばれている。
温度が変化すると、変性エンタルピー Δ H d {\displaystyle \Delta H_{\rm {d}}} や変性エントロピー Δ S d {\displaystyle \Delta S_{\rm {d}}} は急激に変化するが、それらの変化の大部分は相殺して Δ G d {\displaystyle \Delta G_{\rm {d}}} に寄与しない(エンタルピー・エントロピー相殺)。変性熱容量変化 Δ C p , d {\displaystyle \Delta C_{p,{\rm {d}}}} は正の値を持ち、タンパク質内部のアミノ酸残基(疎水性アミノ酸が多い)の水和に伴う水和水の熱容量変化によるものであると考えられている。
タンパク質はその変性の途中で、二次構造はあまり変化しないのに三次構造が壊れた状態を取ることがある。これをモルテン・グロビュール状態 (molten globule state) とよぶ。この状態は高塩濃度下かつ低pHの条件で安定に存在することがあり、タンパク質の折り畳みの初期過程を反映したものであると考えられている。
タンパク質は高温になると変性する。これは熱変性と呼ばれる。加熱するとタンパク質の一次構造が変化することはほとんど無いが、二次以上の高次構造は崩れやすい。約60°C以上になると、周囲に軽く結びつき水和状態をつくる水分子が振動し高次結合部分が解け、細長い状態になる。さらに内部に封じられた疎水部分が露出し、他のポリペプチドの露出部分と引き合い、全体に詰まった状態になる。通常は透明で液状の卵白が、加熱されると白い固形に変化するのはこの原理からである。
また、低温でも変性を起こすが、通常のタンパク質が低温変性を起こす温度は0 °C以下である。タンパク質の安定性は変性自由エネルギー Δ G d {\displaystyle \Delta G_{\rm {d}}} で決まる。変性熱容量は室温付近でほぼ一定値であるため、 Δ G d {\displaystyle \Delta G_{\rm {d}}} の温度依存性は上に凸の曲線になる。この曲線と Δ G d = 0 {\displaystyle \Delta G_{\rm {d}}=0} の交点が低温変性と熱変性の温度である。
タンパク質はpHの変化によっても変性する。pHが極端に変化すると、タンパク質の表面や内部の荷電性極性基(Glu、Asp、Lys、Arg、His)の荷電状態が変化する。これによってクーロン相互作用によるストレスがかかり、タンパク質が変性する。
タンパク質は圧力変化によって変性することが知られている。通常のタンパク質は常圧 (0.1 MPa) 近傍でもっとも安定であり、数100 MPa程度で変性する。キモトリプシンは例外的であり、100 MPa程度でもっとも安定である。そのため、温度によっては変性状態にあるものが加圧によって巻き戻ることがある。圧力変性は天然状態よりも変性状態の体積が小さいために起こるものであり、ルシャトリエの原理で説明できる。
尿素やグアニジン塩酸は水素結合によるタンパク質の構造安定性を、結合間に割り込むことで低下させる作用を持つため、その溶液中でタンパク質は変性する。このようにタンパク質を変性させる作用をもつ物質は変性剤と呼ばれる。また通常は変性剤とは呼ばれないが、界面活性剤もタンパク質を変性させる作用がある。
タンパク質は生物に固有の物質である。その合成は生きた細胞の中で行われ、合成されたものは生物の構造そのものとなり、あるいは酵素などとして生命現象の発現に利用される。また、類似のタンパク質であっても、生物の種が異なれば一次構造が異なることは普通である。タンパク質はアミノ酸が多数結合した高分子化合物であるが、人工的な高分子のように単純な繰り返しではなく、順番がきっちりと決定されている。これは、そのアミノ酸の種と順番がDNAに暗号で記述されていることによる。遺伝子暗号は往々にしてその形質に関係するタンパク質の設計図であると考えられる(一遺伝子一酵素説)。エンゲルスは「生命はタンパク質の存在様式である」と言ったが、故のないことではない。
タンパク質の生体における機能は多種多様であり、たとえば次のようなものがある。
その他、よく知られたタンパク質に下村脩が発見した蛍光に関わる提灯形状のタンパク質であるGFPやRFPなどがある。特定波長域の励起光を受けると蛍光を発する。一部の生物(オワンクラゲ, スナギンチャクなど)にみられる。
これらのタンパク質が機能を発揮する上で最も重要な過程に、特異的な会合(結合)がある。酵素および抗体はその基質および抗原を特異的に結合することにより機能を発揮する。また構造形成、運動や情報のやりとりもタンパク質分子同士の特異的会合なしには考えられない。この特異的会合は、基本的には二次〜四次構造の形成と同様の原理に基づき、対象分子との間に複数の疎水結合、水素結合、イオン結合が作られ安定化することで実現される。
タンパク質は炭素、酸素、窒素、水素(重量比順)を必ず含む。どのようなアミノ酸から構成されているかによって、組成比は多少異なる。しかしながら、生体材料においては窒素の重量比が16 %前後の値をとることが多いため、窒素量Nの6.3倍を粗蛋白量と定義する。
このほか、システイン、シスチン、必須アミノ酸であるメチオニンに由来する硫黄の組成比が高く、さらにリン酸の形でタンパク質に結合されているリンも多い。ジブロモチロシンに由来する臭素、ジヨードチロシン、トリヨードチロシン、チロキシンに由来するヨウ素がわずかに含まれることがある。ヘモグロビンや多くの酵素に含まれる鉄、銅や、一部の酸化還元酵素に含まれるセレン(セレノシステインの形をとる)などもある。
ヒトの体は15 - 20 %がタンパク質であり、成人の日本人のタンパク質の推定平均必要量(g/kg 体重/日)は、0. 72(g/kg 体重/日)であるとされている。これは、窒素出納実験により測定された良質たんぱく質の窒素平衡維持量をもとに、それを日常食混合たんぱく質の消化率で補正して推定平均必要量を算定している。
タンパク質の推定平均必要量(g/kg 体重/日)=0. 65(窒素平衡維持量)(g/kg 体重/日)÷ 0. 90(消化率)=0. 72(g/kg 体重/日)
例えば体重70kgの成人の日本人ならタンパク質の必要量は、50g/日となる。
2003年、世界保健機関 (WHO) と国連食糧農業機関 (FAO) は「食事、栄養と生活習慣病の予防」(Diet, Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases) を報告している。
一日のエネルギー必要量は、男性では2660 kcal、女性では1995 kcal であり、タンパク質のエネルギー量は4 kcal/gであり、仮に15 %の値を当てはめると、以下のとおりとなる。
ハーバード大学の研究によると、食事で十分なタンパク質を摂取することが、認知機能を守るために重要である可能性が示唆されている。炭水化物を食べることに比べて、タンパク質を食べることは、人生の後半に認知機能の低下を発症する可能性を低くすることと関連している。炭水化物ではなく動物性タンパク質に由来するカロリーが5 %増えるごとに、認知症の発症リスクは11 %低くなった。また、炭水化物ではなく植物性タンパク質に由来するカロリーが5 %増えるごとに、認知症の発症リスクは26 %低くなった。
2019年の日本人を対象とした大規模コホート研究において、植物性タンパク質からの摂取エネルギー量が多い人ほど、全死亡率、心血管疾患 (CVD) 死亡、心疾患死亡、脳血管疾患死亡のリスクが低くなる傾向がみられた。総摂取エネルギー量の3 %相当の動物性タンパク質を植物性タンパク質に置き換えた場合、動物性タンパク質をすべて植物性タンパク質に置き換えた場合より全死亡リスク、癌リスク、心血管疾患 (CVD) 死亡リスクが有意に低下した。
2020年7月22日にハーバード大学とテヘラン大学が発表した研究によると、より多くの植物ベースのタンパク質を食べることは寿命を延ばすことができる。カロリー摂取量の3 %を動物性タンパク質(肉、鶏肉、魚、または乳製品)から植物性タンパク質(英語版)に置き換えることは、あらゆる原因による死亡の10 %減少に対応した。特に、卵と赤身の肉を植物性タンパク質に置き換えると、死亡リスクが男性で24 %、女性で21 %も減少したという。
2019年の日本人を対象とした大規模コホート研究において、総死亡率または原因別死亡率の調査を行った結果、動物性タンパク質の摂取による、総死亡率または原因別死亡率との明確な関連はみられないとの研究結果が報告されている。また、赤身肉を多く食べる女性の脳血管疾患死亡リスクは低下が見られる。しかし、摂取基準以上に大量の赤肉を食べる男性は心疾患死亡リスクの上昇がみられるとの研究結果が出ている。白肉である鶏肉はがんの死亡リスク低下がみられるが、メカニズムは解明されていない。それでも、ほんの少し、食事を炭水化物から動物性タンパク質に変えることは、脳の健康に有効であり、少なくとも砂糖や白米などの精製された穀物よりも動物性タンパク質の方が脳や体の健康に良いということになる。
タンパク質の摂取量を増やすことは、筋肉量の増加や健康増進のためにハーバード大学医学部でも推奨されている。これにより、高齢者は筋肉量を維持することができ、日常生活の質を向上させ、転倒などを防ぐことができるのである。
世界保健機関の2007年の報告では、タンパク質の過剰な摂取は腎臓疾患や糖尿病性腎症を悪化させるとされている。とはいえ、ハーバード大学医学部によれば、タンパク質の摂取量はカロリーの25 %に達しても、健康に有益で過剰ではないとされており、一般的な食事ではタンパク質の過剰摂取はほとんどあり得ないとされている。
炭水化物とタンパク質の摂取量によって10段階に分けて分析し、炭水化物の摂取量が1段階減り、タンパク質の摂取量が1段階増えるごとに、心筋梗塞や脳卒中の発症のリスクが4 %ずつ増え、低炭水化物・高タンパク質のグループでは、そうでないグループに比べて発症リスクが最大1.6倍高まったとの報告がある。
2002年のWHOの報告書では、カルシウムの摂取量が多い国に骨折が多いという「カルシウム・パラドックス」の理由として、タンパク質によるカルシウム必要量を増大させる酸性の負荷の影響があるのではないか、と推論されている。 ハーバード大学で、栄養学を教えているウォルター・ウィレット教授は、タンパク質を摂取しすぎれば酸を中和するために骨が使われるので骨が弱くなる可能性がある、として注意を促している。
65歳以上の男性に2g/kg体重/日以上のタンパク質を摂取させると、血中尿素窒素が10.7mmol/L以上に上昇し、高窒素血症が発症することが報告されていること等により、成人においては年齢にかかわらず、タンパク質摂取は2.0g/kg体重/日未満に留めるのが適当とされている。70kgの体重のヒトならばタンパク質140g/日に相当し、摂取基準の1.5-2倍に相当する。
栄養学ではタンパク質全体の量を測定することが重要であり、また生化学で特定のタンパク質を分離精製した際にも、それがどの程度の量であるかを求める必要がある。これらのために一般的なタンパク質の定量分析法が多数開発されている。
精度の高い方法としては、燃焼後に窒素量を測定するデュマ法、硫酸分解後にアンモニア量を測定するケルダール法などがある。
またより簡便な方法としては、紫外可視近赤外分光法、アミド結合(ペプチド結合)の検出を用いたビウレット法、それにフェノール性水酸基等の検出を組み合わせたローリー法、色素との結合を観測するブラッドフォード法などがある。
タンパク質の栄養素としての価値は、それに含まれる必須アミノ酸の構成比率によって優劣がある。これを評価する基準としては、動物実験によって求める生物価とタンパク質正味利用率、化学的に、タンパク質を構成するアミノ酸の比率から算出するプロテインスコア、ケミカルスコア、アミノ酸スコアがある。
化学的に算定する後三者の方法は、算定方法に細かな違いがあるが、最終的には必須アミノ酸各々について標品における含量と標準とされる一覧とを比較し、その中で最も不足しているアミノ酸(これを第一制限アミノ酸という)について、標準との比率を百分率で示すもの。この際、数値のみだけでなく、必ず第一制限アミノ酸の種類を付記することになっている。
生物価 (BV) とは、吸収されたタンパク質の窒素量に対して,体に保持された窒素量の比を百分率で示した値のこと。内因性の糞尿への排泄量を補正する。
という式で表される。
正味タンパク質利用率 (NPU) とは、摂取したタンパク質(窒素)のどれだけの割合が体内でタンパク質(窒素)として保持されたかを示した値のこと。
という式で表される。
イエローストーン国立公園では、熱水の中で生育する細菌が発見されている。このような高温環境で生きられる生物のタンパク質にはどのような特徴があるか、全貌は解明されておらず、外見上も他のタンパク質と差は認められない。分析の結果、熱に弱いアミノ酸(アスパラギン・システイン・メチオニンなど)の含有量が比較的少なく、逆にプロリンが多く含まれていることが判明した。
逆に低温で機能を失わないタンパク質は不凍タンパク質と呼ばれ、魚類から発見され1969年に単離に成功した。このタンパク質が低温で活動できるメカニズムは、氷晶核が形成されにくい構造を持つためと考えられる。
タンパク質には、アミノ酸配列のヌクレオチドだけで構成される単純タンパク質と、その外側にアミノ酸以外の装飾をもつ複合タンパク質がある。複合タンパク質が纏う装飾には、主に糖とリン酸がある。
タンパク質が付随させる糖は単糖からなる糖鎖であり、アミノ酸アスパラギンの残基に、N-アセチルグルコサミンとマンノースが繋がったコア構造という土台の先に、分岐も含め多様な構造をつくる。ただし、このようにタンパク質に接続する単糖の種類は9種しか見つかっていない。例えば赤血球の細胞膜をつくるタンパク質に繋がる糖鎖の種類が、ABO式血液型を決定づけている。この糖鎖は、その種類ごとに異なるレクチンという他のタンパク質があり、この組み合わせで情報交換を行う役割を担っている。
アミノ酸のトレオニンやチロシンなどが持つ水酸基残基と結びつくリン酸は、アデノシン三リン酸 (ATP) から供給され、リン酸を放出したATPはアデノシン二リン酸になる。リン酸化はタンパク質の働きを活性化したり、逆に抑制する働きを持つ。ひとつのタンパク質の活性化は次のタンパク質のリン酸化を促し、これが連続することで多岐にわたる情報伝達が行われる。この様子は「リン酸化カスケード」と呼ばれる。
生体内部のタンパク質は必要な時に作られ、使われ続けるうちに充分な機能を発揮できなくなる。分子シャペロンなどによる修復を受けるが、やがてタンパク質も寿命を迎える。その期間は種類によって異なり、数ヶ月のものから数十秒しか持たないものもあり、それぞれ生体内部で分解される。
その判断が下されるメカニズムは明らかになっていないが、タンパク質の寿命が近づくとリジン残基にユビキチンという非常に小さなタンパク質が付着する。1つだけでは特に変化は起こらないが、次々に結合して4個以上のユビキチン鎖状になると、タンパク質はプロテアソームと呼ばれる筒状構造体の中に導かれ、この中でペプチドにまで分解される。この一連の反応はユビキチン・プロテアソームシステムと呼ばれる。
もうひとつの主要なタンパク質分解機構としてオートファジーがあり、一度に多くのタンパク質が分解されるため、飢餓状態において重要度の低いタンパク質を分解してアミノ酸を補充する場合などに機能する。 | [
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"text": "タンパク質(タンパクしつ、蛋白質、英: protein [ˈproʊtiːn]、独: Protein [proteˈiːn/protain])とは、20種類のアミノ酸が鎖状に多数連結(重合)してできた高分子化合物であり、生物の重要な構成成分のひとつである。",
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"text": "構成するアミノ酸の数や種類、また結合の順序によって種類が異なり、分子量約4000前後のものから、数千万から億単位になるウイルスタンパク質まで多くの種類が存在する。連結したアミノ酸の個数が少ない場合にはペプチドと言い、これが直線状に連なったものはポリペプチドと呼ばれることが多いが、名称の使い分けを決める明確なアミノ酸の個数が決まっているわけではないようである。",
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"text": "タンパク質は、炭水化物、脂質とともに三大栄養素と呼ばれ、各々の英単語の頭文字を取って「PFC」とも呼ばれる。タンパク質は筋肉や骨、皮膚などをつくる役割も果たしている。",
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"text": "ドイツ語: Protein、英語: protein、フランス語: protéine [prɔtein]、スペイン語: proteína はギリシア語で「第一の」を意味する prōteîos から採られた。1838年にオランダの化学者ヨハンネス・ムルデルが、スウェーデンの化学者イェンス・ベルセリウスから助言を受け、窒素を非常に多く含む生物の基本要素と考えてこの名称をつけた。",
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"text": "「蛋白質」の「蛋」とは卵のことを指し、卵白(蛋白)がタンパク質を主成分とすることによる。これは Protein がドイツ語でまた Eiweiß(卵白)とも訳され、これが日本語に直訳されたと考えられる。",
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"text": "「蛋」という漢字は、例えば皮蛋のように中国ではよく使われる字であるが、日本ではあまり普及していない。そのため栄養学者の川島四郎が「蛋白質」では分かりにくいとして「卵白質」という語を使用したが、一般的に利用されるにはいたらなかった。 現在では、栄養学分野では平仮名の「たんぱく質」、生物学では片仮名の「タンパク質」が使われる傾向にある。",
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"text": "タンパク質は以下のような階層構造をもつ。",
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"text": "また、アミノ酸のみで構成された種類は単純タンパク質と言い、構成成分にアミノ酸以外のものが含まれる場合は複合タンパク質と呼ばれる。",
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"text": "食物として摂取したタンパク質は消化の過程でアミノ酸にまで分解され吸収され、体内で再びタンパク質へ構成される。このタンパク質を作る基本物質であるアミノ酸は、炭素元素を中心に水溶液中でプラスに荷電するアミノ基とマイナスに荷電するカルボキシ基を持ち、残り2箇所に水素と側鎖と呼ばれる分子構造を持つ。タンパク質をつくるアミノ酸は20種類あるが、これらの差は側鎖の形状の違いで分けられる。",
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"text": "タンパク質はアミノ酸のポリマーである。その基本的な構造は2つのアミノ酸の一方のカルボキシ基 (−COOH) と他方のアミノ基 (−NH2) が水分子を1つ放出する脱水縮合(ペプチド結合)を起こして酸アミド結合 (−CO−NH−) を形成することでできる鎖状である。また、システイン残基がしばしばジスルフィド結合 (S−S) の架橋構造をつくることもある。このポリマーの末端の結合していない部分は、アミノ基側をN末端、カルボキシ基側をC末端とよぶ。この時、一列のアミノ酸の脇には側鎖が並ぶ事になり、この配列の数や順序を指してタンパク質の一次構造とよぶ。",
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"text": "アミノ酸の配列は、遺伝子の本体である物質・DNAの塩基配列により決定される(3個のヌクレオチドにより、1つのアミノ酸が指定される)。ペプチド結合してタンパク質の構成成分となった単位アミノ酸部分 (−NH−CH(−R)−CO−) をアミノ酸残基と呼ぶ。それぞれの残基は、側鎖置換基 R の違いによって異なる性質をもつ。",
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"text": "鎖状のポリペプチドは、それだけではタンパク質の機能を持たない。一次構造で並んだ側鎖が相互作用で結びつき、ポリペプチドには決まった2種類の方法で結びついた箇所が生じる。1つはαヘリックス(螺旋構造)と呼ばれ、あるアミノ酸残基の酸素と、4つ離れた残基の水素の結びつきを基礎に、同じ事が順次起こってポリペプチドにらせん構造をつくる。もう1つのβシートとは、ポリペプチドの一部が折り畳まれ、それぞれの水素と酸素残基が結合してつくるシート状の構造である。これらは二次構造と呼ばれる。水素結合やファンデルワールス力などによるこの畳み込みはフォールディング (folding) とも呼ばれる。結合エネルギーが比較的低いため、簡単な処理によって構造を変性させやすい。",
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"text": "タンパク質はαヘリックスやβシートといった二次構造の特定の組み合わせが局部的に集合し形成されたαヘアピンやβヘアピンなどの超二次構造と呼ばれる単位ができて核に纏まったドメインをとり、タンパク質全体としての三次構造をとる。これは立体的に見てまとまった領域である。三次構造は側鎖間の相互作用によって安定する。特殊な塩基間の水素結合やシステイン残基間のジスルフィド結合、静電引力などが安定化に寄与するが、特に疎水結合が大きく影響する。そのため有機溶媒や界面活性剤などで疎水結合を切ると三次構造が壊れ、タンパク質の変性が起こりやすい。三次構造の立体を図案化し描かれたものは「リボンモデル」と言う。",
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"text": "タンパク質の中には複数(場合によっては複数種)のポリペプチド鎖が非共有結合でまとまって複合体(会合体)を形成しているものがあり、このような関係を四次構造と呼ぶ。各ポリペプチド鎖はモノマーまたはサブユニットと呼ばれ、複合体はオリゴマーと言う。各サブユニットには疎水結合や水素結合またはイオン結合が広い領域に多数存在し相補的に働くために方向性があるため、サブユニットは全体で特定の空間配置(コンホメーション)を取る。例えば、ヒトの赤血球に含まれ酸素を運ぶヘモグロビンは、α・β2種類のグロビンというサブユニットがそれぞれ2つずつ結びつく四次構造を持ったタンパク質の一種である。",
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"text": "タンパク質の立体構造は、そのアミノ酸配列(一次構造)により決定されていると考えられている(Anfinsenのドグマ)。また、二次以上の高次構造は、いずれも一次構造で決定されるアミノ酸配列を反映している。例えば Glu、Ala、Leu が連続するとαヘリックス構造をとりやすい。Ile、Val、Metはβシート構造をとりやすい。また各構造の継ぎ目の鋭角なターンの部分には Gly、Pro、Asn が置かれる、などの例がある。さらに、疎水性アミノ酸残基同士は引き合い(疎水結合)、Cys 同士はジスルフィド結合を形成して高次構造を安定化させる。",
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"text": "生体のタンパク質を構成するアミノ酸は20種類あるが、それが3つ連結したペプチドだけでも約20=8000通りの組み合わせがあり得る。タンパク質については、その種類は数千万種と言われる。生物の遺伝子(ゲノム)から作られるタンパク質ひとそろいのセットは、プロテオームと呼ばれるが、ヒトゲノムの塩基配列解読が終わった今、プロテオームの解析(プロテオミクス)が盛んに進められている。",
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"text": "タンパク質の機能は上記の三次構造・四次構造(立体構造)によって決定される。これは、同じアミノ酸の配列からなるタンパク質でも、立体構造(畳まれ方)によって機能が変わるということである。たとえばBSEの原因となるプリオンは、正常なプリオンとは立体構造が違うだけである。なお、多くのタンパク質では、熱や圧力を加えたり、溶液の pH 値を変える、変性剤を加えるなどの操作により二次以上の高次構造が変化し、その機能(活性)を失う。これをタンパク質の変性という。変性したタンパク質においては、疎水結合、水素結合、イオン結合の多くが破壊され、全体にランダムな構造が増加したペプチド鎖の緩んだ状態になることが知られている。タンパク質の変性は、かつて不可逆な過程であると考えられてきたが、現在では多くのタンパク質において、変性は可逆的な過程である事が確認されている。なお、変性したタンパク質を元の高次構造に戻す操作をタンパク質の再生という。タンパク質の再生は、原理としては、畳み込まれたペプチド鎖を一旦完全にほどき、数時間かけてゆっくりと畳み込むよう条件を細かく調整・変化させることで行われている。",
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"text": "特定のアミノ酸配列に対して、存在しうる安定な高次構造が複数存在するにもかかわらず、生体内では特定の遺伝子から特定の機能を持つ高次構造をとったタンパク質が合成できるかは、必ずしも明らかではない。クリスチャン・アンフィンセンの実験などで判明した多くのタンパク質が変性した後にもその高次構造の再生が可能なことから、一次構造それ自体が、高次構造のかなりの部分を決めていることは疑いがなく、これは「アンフィンセンのドグマ」と呼ばれる。しかし、先のタンパク質の再生は数時間かかる操作(実際には、二次構造の畳み込みはかなり迅速に起こっていて、三次構造の確定に時間がかかるらしい)であるのに対し、生体内でのタンパク質の合成は数十秒から一分で完了する。さらに、発見された「アンフィンセンのドグマ」に反する事例からも、タンパク質分子を高速に畳み込み、正しい高次構造へと導く因子の存在が考えられている(例:タンパク質ジスルフィドイソメラーゼ、プロリンシストランスイソメラーゼ、分子シャペロン)。また、生体内では間違った立体構造をしているタンパク質はそのタンパク質のLysのアミノ基にポリユビキチンが共有結合で結合した後に、プロテアソームによって分解される。",
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"text": "タンパク質は周囲の環境の変化によりその高次構造を変化させ、その機能を変えることができる。タンパク質である酵素は、その触媒する反応の速度を条件に応じて変化させることができる。",
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"text": "上記のようなタンパク質の高次構造は、X線結晶構造解析、NMR(核磁気共鳴)、電子顕微鏡などによって測定されている。また、タンパク質構造予測による理論的推定なども行われている。タンパク質の立体構造と機能は密接な関係を持つことから、それぞれのタンパク質の立体構造の解明は、その機能を解明するために重要である。いずれ、ほしい機能にあわせてタンパク質の立体構造を設計し、合成できるようになるだろうと考えられている。",
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"text": "これまでの研究により構造が解明されたタンパク質については、蛋白質構造データバンクによりデータの管理が行われており、研究者のみならず一般の人でもそのデータを自由に利用、閲覧できる。",
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"text": "タンパク質は、それぞれのアミノ酸配列に固有の立体構造を自発的に形成する。このことから、タンパク質の天然状態は熱力学的な最安定状態(最も自由エネルギーが低い状態)であると考えられている(アンフィンセンのドグマ)。",
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"text": "タンパク質の立体構造安定性は天然状態と変性状態の自由エネルギーの差 Δ G d {\\displaystyle \\Delta G_{\\rm {d}}} (変性自由エネルギー)で決まる。なお、温度依存性を議論する場合には、安定性の指標として e x p ( − Δ G d / k T ) {\\displaystyle exp(-\\Delta G_{\\rm {d}}/kT)} が用いられることもある。通常、タンパク質の安定性は、温度、圧力、溶媒条件等に依存する。従って、それらの条件をある程度変化させると、タンパク質は変性する。",
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"text": "タンパク質の安定性を決める要因として、ファン・デル・ワールス相互作用、疎水性相互作用、水素結合、イオン結合、鎖エントロピー、ジスルフィド結合などがある。これらの寄与の大きさは、温度等により変わる。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "タンパク質はその変性の途中で、二次構造はあまり変化しないのに三次構造が壊れた状態を取ることがある。これをモルテン・グロビュール状態 (molten globule state) とよぶ。この状態は高塩濃度下かつ低pHの条件で安定に存在することがあり、タンパク質の折り畳みの初期過程を反映したものであると考えられている。",
"title": "物性"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "タンパク質は高温になると変性する。これは熱変性と呼ばれる。加熱するとタンパク質の一次構造が変化することはほとんど無いが、二次以上の高次構造は崩れやすい。約60°C以上になると、周囲に軽く結びつき水和状態をつくる水分子が振動し高次結合部分が解け、細長い状態になる。さらに内部に封じられた疎水部分が露出し、他のポリペプチドの露出部分と引き合い、全体に詰まった状態になる。通常は透明で液状の卵白が、加熱されると白い固形に変化するのはこの原理からである。",
"title": "物性"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また、低温でも変性を起こすが、通常のタンパク質が低温変性を起こす温度は0 °C以下である。タンパク質の安定性は変性自由エネルギー Δ G d {\\displaystyle \\Delta G_{\\rm {d}}} で決まる。変性熱容量は室温付近でほぼ一定値であるため、 Δ G d {\\displaystyle \\Delta G_{\\rm {d}}} の温度依存性は上に凸の曲線になる。この曲線と Δ G d = 0 {\\displaystyle \\Delta G_{\\rm {d}}=0} の交点が低温変性と熱変性の温度である。",
"title": "物性"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "タンパク質はpHの変化によっても変性する。pHが極端に変化すると、タンパク質の表面や内部の荷電性極性基(Glu、Asp、Lys、Arg、His)の荷電状態が変化する。これによってクーロン相互作用によるストレスがかかり、タンパク質が変性する。",
"title": "物性"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "タンパク質は圧力変化によって変性することが知られている。通常のタンパク質は常圧 (0.1 MPa) 近傍でもっとも安定であり、数100 MPa程度で変性する。キモトリプシンは例外的であり、100 MPa程度でもっとも安定である。そのため、温度によっては変性状態にあるものが加圧によって巻き戻ることがある。圧力変性は天然状態よりも変性状態の体積が小さいために起こるものであり、ルシャトリエの原理で説明できる。",
"title": "物性"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "尿素やグアニジン塩酸は水素結合によるタンパク質の構造安定性を、結合間に割り込むことで低下させる作用を持つため、その溶液中でタンパク質は変性する。このようにタンパク質を変性させる作用をもつ物質は変性剤と呼ばれる。また通常は変性剤とは呼ばれないが、界面活性剤もタンパク質を変性させる作用がある。",
"title": "物性"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "タンパク質は生物に固有の物質である。その合成は生きた細胞の中で行われ、合成されたものは生物の構造そのものとなり、あるいは酵素などとして生命現象の発現に利用される。また、類似のタンパク質であっても、生物の種が異なれば一次構造が異なることは普通である。タンパク質はアミノ酸が多数結合した高分子化合物であるが、人工的な高分子のように単純な繰り返しではなく、順番がきっちりと決定されている。これは、そのアミノ酸の種と順番がDNAに暗号で記述されていることによる。遺伝子暗号は往々にしてその形質に関係するタンパク質の設計図であると考えられる(一遺伝子一酵素説)。エンゲルスは「生命はタンパク質の存在様式である」と言ったが、故のないことではない。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "タンパク質の生体における機能は多種多様であり、たとえば次のようなものがある。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その他、よく知られたタンパク質に下村脩が発見した蛍光に関わる提灯形状のタンパク質であるGFPやRFPなどがある。特定波長域の励起光を受けると蛍光を発する。一部の生物(オワンクラゲ, スナギンチャクなど)にみられる。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "これらのタンパク質が機能を発揮する上で最も重要な過程に、特異的な会合(結合)がある。酵素および抗体はその基質および抗原を特異的に結合することにより機能を発揮する。また構造形成、運動や情報のやりとりもタンパク質分子同士の特異的会合なしには考えられない。この特異的会合は、基本的には二次〜四次構造の形成と同様の原理に基づき、対象分子との間に複数の疎水結合、水素結合、イオン結合が作られ安定化することで実現される。",
"title": "機能"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "タンパク質は炭素、酸素、窒素、水素(重量比順)を必ず含む。どのようなアミノ酸から構成されているかによって、組成比は多少異なる。しかしながら、生体材料においては窒素の重量比が16 %前後の値をとることが多いため、窒素量Nの6.3倍を粗蛋白量と定義する。",
"title": "組成"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "このほか、システイン、シスチン、必須アミノ酸であるメチオニンに由来する硫黄の組成比が高く、さらにリン酸の形でタンパク質に結合されているリンも多い。ジブロモチロシンに由来する臭素、ジヨードチロシン、トリヨードチロシン、チロキシンに由来するヨウ素がわずかに含まれることがある。ヘモグロビンや多くの酵素に含まれる鉄、銅や、一部の酸化還元酵素に含まれるセレン(セレノシステインの形をとる)などもある。",
"title": "組成"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヒトの体は15 - 20 %がタンパク質であり、成人の日本人のタンパク質の推定平均必要量(g/kg 体重/日)は、0. 72(g/kg 体重/日)であるとされている。これは、窒素出納実験により測定された良質たんぱく質の窒素平衡維持量をもとに、それを日常食混合たんぱく質の消化率で補正して推定平均必要量を算定している。",
"title": "タンパク質の必要量と摂取基準"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "タンパク質の推定平均必要量(g/kg 体重/日)=0. 65(窒素平衡維持量)(g/kg 体重/日)÷ 0. 90(消化率)=0. 72(g/kg 体重/日)",
"title": "タンパク質の必要量と摂取基準"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "例えば体重70kgの成人の日本人ならタンパク質の必要量は、50g/日となる。",
"title": "タンパク質の必要量と摂取基準"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2003年、世界保健機関 (WHO) と国連食糧農業機関 (FAO) は「食事、栄養と生活習慣病の予防」(Diet, Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases) を報告している。",
"title": "タンパク質の必要量と摂取基準"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一日のエネルギー必要量は、男性では2660 kcal、女性では1995 kcal であり、タンパク質のエネルギー量は4 kcal/gであり、仮に15 %の値を当てはめると、以下のとおりとなる。",
"title": "タンパク質の必要量と摂取基準"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ハーバード大学の研究によると、食事で十分なタンパク質を摂取することが、認知機能を守るために重要である可能性が示唆されている。炭水化物を食べることに比べて、タンパク質を食べることは、人生の後半に認知機能の低下を発症する可能性を低くすることと関連している。炭水化物ではなく動物性タンパク質に由来するカロリーが5 %増えるごとに、認知症の発症リスクは11 %低くなった。また、炭水化物ではなく植物性タンパク質に由来するカロリーが5 %増えるごとに、認知症の発症リスクは26 %低くなった。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2019年の日本人を対象とした大規模コホート研究において、植物性タンパク質からの摂取エネルギー量が多い人ほど、全死亡率、心血管疾患 (CVD) 死亡、心疾患死亡、脳血管疾患死亡のリスクが低くなる傾向がみられた。総摂取エネルギー量の3 %相当の動物性タンパク質を植物性タンパク質に置き換えた場合、動物性タンパク質をすべて植物性タンパク質に置き換えた場合より全死亡リスク、癌リスク、心血管疾患 (CVD) 死亡リスクが有意に低下した。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2020年7月22日にハーバード大学とテヘラン大学が発表した研究によると、より多くの植物ベースのタンパク質を食べることは寿命を延ばすことができる。カロリー摂取量の3 %を動物性タンパク質(肉、鶏肉、魚、または乳製品)から植物性タンパク質(英語版)に置き換えることは、あらゆる原因による死亡の10 %減少に対応した。特に、卵と赤身の肉を植物性タンパク質に置き換えると、死亡リスクが男性で24 %、女性で21 %も減少したという。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2019年の日本人を対象とした大規模コホート研究において、総死亡率または原因別死亡率の調査を行った結果、動物性タンパク質の摂取による、総死亡率または原因別死亡率との明確な関連はみられないとの研究結果が報告されている。また、赤身肉を多く食べる女性の脳血管疾患死亡リスクは低下が見られる。しかし、摂取基準以上に大量の赤肉を食べる男性は心疾患死亡リスクの上昇がみられるとの研究結果が出ている。白肉である鶏肉はがんの死亡リスク低下がみられるが、メカニズムは解明されていない。それでも、ほんの少し、食事を炭水化物から動物性タンパク質に変えることは、脳の健康に有効であり、少なくとも砂糖や白米などの精製された穀物よりも動物性タンパク質の方が脳や体の健康に良いということになる。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "タンパク質の摂取量を増やすことは、筋肉量の増加や健康増進のためにハーバード大学医学部でも推奨されている。これにより、高齢者は筋肉量を維持することができ、日常生活の質を向上させ、転倒などを防ぐことができるのである。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "世界保健機関の2007年の報告では、タンパク質の過剰な摂取は腎臓疾患や糖尿病性腎症を悪化させるとされている。とはいえ、ハーバード大学医学部によれば、タンパク質の摂取量はカロリーの25 %に達しても、健康に有益で過剰ではないとされており、一般的な食事ではタンパク質の過剰摂取はほとんどあり得ないとされている。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "炭水化物とタンパク質の摂取量によって10段階に分けて分析し、炭水化物の摂取量が1段階減り、タンパク質の摂取量が1段階増えるごとに、心筋梗塞や脳卒中の発症のリスクが4 %ずつ増え、低炭水化物・高タンパク質のグループでは、そうでないグループに比べて発症リスクが最大1.6倍高まったとの報告がある。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2002年のWHOの報告書では、カルシウムの摂取量が多い国に骨折が多いという「カルシウム・パラドックス」の理由として、タンパク質によるカルシウム必要量を増大させる酸性の負荷の影響があるのではないか、と推論されている。 ハーバード大学で、栄養学を教えているウォルター・ウィレット教授は、タンパク質を摂取しすぎれば酸を中和するために骨が使われるので骨が弱くなる可能性がある、として注意を促している。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "65歳以上の男性に2g/kg体重/日以上のタンパク質を摂取させると、血中尿素窒素が10.7mmol/L以上に上昇し、高窒素血症が発症することが報告されていること等により、成人においては年齢にかかわらず、タンパク質摂取は2.0g/kg体重/日未満に留めるのが適当とされている。70kgの体重のヒトならばタンパク質140g/日に相当し、摂取基準の1.5-2倍に相当する。",
"title": "健康"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "栄養学ではタンパク質全体の量を測定することが重要であり、また生化学で特定のタンパク質を分離精製した際にも、それがどの程度の量であるかを求める必要がある。これらのために一般的なタンパク質の定量分析法が多数開発されている。",
"title": "タンパク質の定量法"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "精度の高い方法としては、燃焼後に窒素量を測定するデュマ法、硫酸分解後にアンモニア量を測定するケルダール法などがある。",
"title": "タンパク質の定量法"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "またより簡便な方法としては、紫外可視近赤外分光法、アミド結合(ペプチド結合)の検出を用いたビウレット法、それにフェノール性水酸基等の検出を組み合わせたローリー法、色素との結合を観測するブラッドフォード法などがある。",
"title": "タンパク質の定量法"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "タンパク質の栄養素としての価値は、それに含まれる必須アミノ酸の構成比率によって優劣がある。これを評価する基準としては、動物実験によって求める生物価とタンパク質正味利用率、化学的に、タンパク質を構成するアミノ酸の比率から算出するプロテインスコア、ケミカルスコア、アミノ酸スコアがある。",
"title": "タンパク質の栄養価"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "化学的に算定する後三者の方法は、算定方法に細かな違いがあるが、最終的には必須アミノ酸各々について標品における含量と標準とされる一覧とを比較し、その中で最も不足しているアミノ酸(これを第一制限アミノ酸という)について、標準との比率を百分率で示すもの。この際、数値のみだけでなく、必ず第一制限アミノ酸の種類を付記することになっている。",
"title": "タンパク質の栄養価"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "生物価 (BV) とは、吸収されたタンパク質の窒素量に対して,体に保持された窒素量の比を百分率で示した値のこと。内因性の糞尿への排泄量を補正する。",
"title": "タンパク質の栄養価"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "という式で表される。",
"title": "タンパク質の栄養価"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "正味タンパク質利用率 (NPU) とは、摂取したタンパク質(窒素)のどれだけの割合が体内でタンパク質(窒素)として保持されたかを示した値のこと。",
"title": "タンパク質の栄養価"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "という式で表される。",
"title": "タンパク質の栄養価"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "イエローストーン国立公園では、熱水の中で生育する細菌が発見されている。このような高温環境で生きられる生物のタンパク質にはどのような特徴があるか、全貌は解明されておらず、外見上も他のタンパク質と差は認められない。分析の結果、熱に弱いアミノ酸(アスパラギン・システイン・メチオニンなど)の含有量が比較的少なく、逆にプロリンが多く含まれていることが判明した。",
"title": "特殊なタンパク質"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "逆に低温で機能を失わないタンパク質は不凍タンパク質と呼ばれ、魚類から発見され1969年に単離に成功した。このタンパク質が低温で活動できるメカニズムは、氷晶核が形成されにくい構造を持つためと考えられる。",
"title": "特殊なタンパク質"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "タンパク質には、アミノ酸配列のヌクレオチドだけで構成される単純タンパク質と、その外側にアミノ酸以外の装飾をもつ複合タンパク質がある。複合タンパク質が纏う装飾には、主に糖とリン酸がある。",
"title": "複合タンパク質"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "タンパク質が付随させる糖は単糖からなる糖鎖であり、アミノ酸アスパラギンの残基に、N-アセチルグルコサミンとマンノースが繋がったコア構造という土台の先に、分岐も含め多様な構造をつくる。ただし、このようにタンパク質に接続する単糖の種類は9種しか見つかっていない。例えば赤血球の細胞膜をつくるタンパク質に繋がる糖鎖の種類が、ABO式血液型を決定づけている。この糖鎖は、その種類ごとに異なるレクチンという他のタンパク質があり、この組み合わせで情報交換を行う役割を担っている。",
"title": "複合タンパク質"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アミノ酸のトレオニンやチロシンなどが持つ水酸基残基と結びつくリン酸は、アデノシン三リン酸 (ATP) から供給され、リン酸を放出したATPはアデノシン二リン酸になる。リン酸化はタンパク質の働きを活性化したり、逆に抑制する働きを持つ。ひとつのタンパク質の活性化は次のタンパク質のリン酸化を促し、これが連続することで多岐にわたる情報伝達が行われる。この様子は「リン酸化カスケード」と呼ばれる。",
"title": "複合タンパク質"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "生体内部のタンパク質は必要な時に作られ、使われ続けるうちに充分な機能を発揮できなくなる。分子シャペロンなどによる修復を受けるが、やがてタンパク質も寿命を迎える。その期間は種類によって異なり、数ヶ月のものから数十秒しか持たないものもあり、それぞれ生体内部で分解される。",
"title": "タンパク質の生体内分解"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "その判断が下されるメカニズムは明らかになっていないが、タンパク質の寿命が近づくとリジン残基にユビキチンという非常に小さなタンパク質が付着する。1つだけでは特に変化は起こらないが、次々に結合して4個以上のユビキチン鎖状になると、タンパク質はプロテアソームと呼ばれる筒状構造体の中に導かれ、この中でペプチドにまで分解される。この一連の反応はユビキチン・プロテアソームシステムと呼ばれる。",
"title": "タンパク質の生体内分解"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "もうひとつの主要なタンパク質分解機構としてオートファジーがあり、一度に多くのタンパク質が分解されるため、飢餓状態において重要度の低いタンパク質を分解してアミノ酸を補充する場合などに機能する。",
"title": "タンパク質の生体内分解"
}
] | タンパク質とは、20種類のアミノ酸が鎖状に多数連結(重合)してできた高分子化合物であり、生物の重要な構成成分のひとつである。 構成するアミノ酸の数や種類、また結合の順序によって種類が異なり、分子量約4000前後のものから、数千万から億単位になるウイルスタンパク質まで多くの種類が存在する。連結したアミノ酸の個数が少ない場合にはペプチドと言い、これが直線状に連なったものはポリペプチドと呼ばれることが多いが、名称の使い分けを決める明確なアミノ酸の個数が決まっているわけではないようである。 タンパク質は、炭水化物、脂質とともに三大栄養素と呼ばれ、各々の英単語の頭文字を取って「PFC」とも呼ばれる。タンパク質は筋肉や骨、皮膚などをつくる役割も果たしている。 | [[ファイル:Myoglobin.png|サムネイル|[[ミオグロビン]]の3D構造。[[αヘリックス]]をカラー化している。このタンパク質は[[X線回折]]によって初めてその構造が解明された。]]
'''タンパク質'''(タンパクしつ、'''蛋白質'''、{{Lang-en-short|protein}} {{IPA-en|ˈproʊtiːn|}}、{{Lang-de-short|Protein}} {{IPA-de|proteˈiːn/protain|}})とは、20種類の[[タンパク質を構成するアミノ酸|アミノ酸]]が[[鎖]]状に多数連結([[重合]])してできた[[高分子化合物]]であり、[[生物]]の重要な[[構成]]成分のひとつである<ref name="SeikagakuDic810-6">[[#生化学辞典(2版)|生化学辞典第2版、p.810 【タンパク質】]]</ref>。
構成するアミノ酸の数や種類、また結合の順序によって種類が異なり、分子量約4000前後のものから、数千万から数億単位になるウイルスタンパク質まで多くの種類が存在する<ref name="SeikagakuDic810-6" />。連結したアミノ酸の個数が少ない場合には[[ペプチド]]と言い、これが直線状に連なったものはポリペプチドと呼ばれる<ref name=Take24>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.24-33、第一章 たんぱく質の性質、第二節 肉を食べることの意味]]</ref>ことが多いが、名称の使い分けを決める明確なアミノ酸の個数が決まっているわけではないようである。
タンパク質は、[[炭水化物]]、[[脂肪|脂質]]とともに[[三大栄養素]]と呼ばれ<ref name="すこやか">{{Cite web|和書|title=三大栄養素の基礎知識|url= https://www.nipro.co.jp/sukoyakanet/21/index.html|accessdate=2020-10-31}}</ref>、各々の英単語の頭文字を取って「[[PFC]]」とも呼ばれる。タンパク質は筋肉や骨、皮膚などをつくる役割も果たしている<ref name="すこやか"/>。
== 名称 ==
{{Lang-de|Protein}}、{{Lang-en|protein}}、{{Lang-fr|protéine}} {{IPA-fr|prɔtein|}}、{{Lang-es|proteína}} は[[ギリシア語]]で「第一の」を意味する prōteîos から採られた。1838年に[[オランダ]]の化学者[[ヨハンネス・ムルデル]]が、[[スウェーデン]]の化学者[[イェンス・ベルセリウス]]から助言を受け、[[窒素]]を非常に多く含む生物の基本要素と考えてこの名称をつけた<ref name=Take16>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.16-23、第一章 たんぱく質の性質、第一節 栄養素としてのたんぱく質]]</ref>。
「蛋白質」の「蛋」とは[[卵]]のことを指し、[[卵白]](蛋白)がタンパク質を主成分とすることによる。これは Protein が[[ドイツ語]]でまた {{de|Eiweiß}}(卵白)とも訳され、これが[[日本語]]に直訳されたと考えられる<ref name=Take16 />。
「蛋」という漢字は、例えば[[皮蛋]]のように中国ではよく使われる字であるが、日本ではあまり普及していない。そのため[[栄養学|栄養学者]]の[[川島四郎]]が「蛋白質」では分かりにくいとして「卵白質」という語を使用したが、一般的に利用されるにはいたらなかった。
現在では、栄養学分野では平仮名の「たんぱく質」、生物学では片仮名の「タンパク質」が使われる傾向にある<ref name=Take3>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.3-6、はじめに]]</ref>。
== 構造 ==
{{Main|タンパク質構造}}
タンパク質は以下のような階層構造をもつ。
* [[一次構造]] - アミノ酸配列
* [[二次構造]] - αヘリックス、βシート、ランダム構造
* [[三次構造]] - タンパク質全体の構造
* [[四次構造]] - 多量体
また、アミノ酸のみで構成された種類は単純タンパク質と言い、構成成分にアミノ酸以外のものが含まれる場合は複合タンパク質と呼ばれる<ref name="SeikagakuDic810-6" />。
=== アミノ酸 ===
{{Main|アミノ酸}}
食物として摂取したタンパク質は[[消化]]の過程で[[アミノ酸]]にまで分解され吸収され、体内で再びタンパク質へ構成される。このタンパク質を作る基本物質であるアミノ酸は、[[炭素]][[元素]]を中心に水溶液中でプラスに[[荷電]]する[[アミノ基]]とマイナスに荷電する[[カルボキシ基]]を持ち、残り2箇所に[[水素]]と側鎖と呼ばれる分子構造を持つ<ref name=Take24 />。タンパク質をつくるアミノ酸は20種類あるが、これらの差は側鎖の形状の違いで分けられる<ref name=Take24 />。
=== 一次構造 ===
{{Main|一次構造}}
タンパク質はアミノ酸の[[ポリマー]]である。その基本的な構造は2つのアミノ酸の一方のカルボキシ基 (−COOH) と他方のアミノ基 (−NH<sub>2</sub>) が水分子を1つ放出する[[脱水縮合]]([[ペプチド結合]])を起こして酸アミド結合 (−CO−NH−) を形成することでできる鎖状である<ref name=Take24 />。また、[[システイン]]残基がしばしば[[ジスルフィド結合]] (S−S) の架橋構造をつくることもある。このポリマーの末端の結合していない部分は、アミノ基側をN末端、カルボキシ基側をC末端とよぶ<ref name="SeikagakuDic812-5">[[#生化学辞典(2版)|生化学辞典第2版、p.812 【タンパク質の一次構造】]]</ref>。この時、一列のアミノ酸の脇には側鎖が並ぶ事になり、この配列の数や順序を指してタンパク質の'''[[一次構造]]'''とよぶ<ref name=Take24 />。
アミノ酸の配列は、[[遺伝子]]の本体である物質・[[デオキシリボ核酸|DNA]]の[[塩基配列]]により決定される<ref name="SeikagakuDic812-5" />(3個の[[ヌクレオチド]]により、1つのアミノ酸が指定される)。ペプチド結合してタンパク質の構成成分となった単位アミノ酸部分 (−NH−CH(−R)−CO−) をアミノ酸残基と呼ぶ。それぞれの残基は、側鎖置換基 R の違いによって異なる性質をもつ。
=== 二次構造 ===
{{Main|二次構造}}
鎖状のポリペプチドは、それだけではタンパク質の機能を持たない。一次構造で並んだ側鎖が相互作用で結びつき、ポリペプチドには決まった2種類の方法で結びついた箇所が生じる。1つは[[αヘリックス]](螺旋構造)と呼ばれ、あるアミノ酸残基の酸素と、4つ離れた残基の水素の結びつきを基礎に、同じ事が順次起こってポリペプチドにらせん構造をつくる<ref name=Take34>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.34-48、第一章 たんぱく質の性質、第三節 「焼く」とどうなる?たんぱく質]]</ref>。もう1つの[[βシート]]とは、ポリペプチドの一部が折り畳まれ、それぞれの水素と酸素残基が結合してつくる[[シート]]状の構造である<ref name=Take34 />。これらは'''[[二次構造]]'''と呼ばれる<ref name="SeikagakuDic816-1">[[#生化学辞典(2版)|生化学辞典第2版、p.816 【タンパク質の二次構造】]]</ref>。[[水素結合]]や[[ファンデルワールス力]]などによるこの畳み込みは[[フォールディング]] (folding) とも呼ばれる<ref name=Take85>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.85-96、第二章 たんぱく質の作られ方、第四節 ポリペプチドはいかにして「たんぱく質」となるか]]</ref>。結合エネルギーが比較的低いため、簡単な処理によって構造を変性させやすい<ref name="SeikagakuDic816-1" />。
=== 三次構造 ===
[[ファイル:Lysozyme.png|サムネイル|[[リゾチーム]]のリボンモデル。αヘリックスが赤、βシートは黄色で表される。]]
{{Main|三次構造}}
タンパク質はαヘリックスやβシートといった二次構造の特定の組み合わせが局部的に集合し形成されたαヘアピンやβヘアピンなどの超二次構造と呼ばれる単位ができて核に纏まった[[タンパク質ドメイン|ドメイン]]をとり、タンパク質全体としての'''[[三次構造]]'''をとる<ref name="SeikagakuDic814-2">[[#生化学辞典(2版)|生化学辞典第2版、p.812 【タンパク質の三次構造】]]</ref>。これは立体的に見てまとまった領域である。三次構造は側鎖間の相互作用によって安定する。特殊な塩基間の水素結合やシステイン残基間の[[ジスルフィド結合]]、[[静電引力]]などが安定化に寄与するが、特に[[疎水結合]]が大きく影響する。そのため[[有機溶媒]]や[[界面活性剤]]などで疎水結合を切ると三次構造が壊れ、タンパク質の変性が起こりやすい<ref name="SeikagakuDic814-2" />。三次構造の立体を図案化し描かれたものは「リボンモデル」と言う<ref name=Take34 />。
=== 四次構造 ===
[[ファイル:Haemoglobin-3D-ribbons.png|サムネイル|[[ヘモグロビン]]のリボンモデル。2種2個ずつの[[グロビン]]サブユニットが計4つ集まり、四次構造を作っている。]]
{{Main|四次構造}}
タンパク質の中には複数(場合によっては複数種)の[[ポリペプチド鎖]]が非共有結合でまとまって複合体(会合体)を形成しているものがあり、このような関係を'''[[四次構造]]'''と呼ぶ<ref name="SeikagakuDic816-3">[[#生化学辞典(2版)|生化学辞典第2版、p.816 【タンパク質の四次構造】]]</ref>。各ポリペプチド鎖はモノマーまたはサブユニットと呼ばれ、複合体は[[オリゴマー]]と言う<ref name="SeikagakuDic816-3" />。各サブユニットには疎水結合や水素結合または[[イオン結合]]が広い領域に多数存在し相補的に働くために方向性があるため、サブユニットは全体で特定の空間配置([[コンホメーション]])を取る<ref name="SeikagakuDic816-3" />。例えば、ヒトの[[赤血球]]に含まれ酸素を運ぶ[[ヘモグロビン]]は、α・β2種類の[[グロビン]]というサブユニットがそれぞれ2つずつ結びつく四次構造を持ったタンパク質の一種である<ref name=Take34 />。
=== 一次構造と高次構造の関係 ===
タンパク質の立体構造は、そのアミノ酸配列(一次構造)により決定されていると考えられている(Anfinsenのドグマ)。また、二次以上の高次構造は、いずれも一次構造で決定されるアミノ酸配列を反映している。例えば [[グルタミン酸|Glu]]、[[アラニン|Ala]]、[[ロイシン|Leu]] が連続するとαヘリックス構造をとりやすい。[[イソロイシン|Ile]]、[[バリン|Val]]、[[メチオニン|Met]]はβシート構造をとりやすい。また各構造の継ぎ目の鋭角なターンの部分には [[グリシン|Gly]]、[[プロリン|Pro]]、[[アスパラギン|Asn]] が置かれる、などの例がある。さらに、[[疎水性]]アミノ酸残基同士は引き合い([[疎水結合]])、[[システイン|Cys]] 同士は[[ジスルフィド結合]]を形成して高次構造を安定化させる。
=== プロテオーム ===
生体のタンパク質を構成するアミノ酸は20種類あるが<ref name="SeikagakuDic810-6" />、それが3つ連結した[[ペプチド]]だけでも約20{{sup|3}}=8000通りの組み合わせがあり得る。タンパク質については、その種類は数千万種と言われる。生物の遺伝子([[ゲノム]])から作られるタンパク質ひとそろいのセットは、'''[[プロテオーム]]'''と呼ばれるが、[[ヒトゲノム]]の塩基配列解読が終わった今、プロテオームの解析([[プロテオミクス]])が盛んに進められている。
=== タンパク質の構造と機能 ===
タンパク質の機能は上記の三次構造・四次構造(立体構造)によって決定される。これは、同じアミノ酸の配列からなるタンパク質でも、立体構造(畳まれ方)によって機能が変わるということである。たとえば[[牛海綿状脳症|BSE]]の原因となる[[プリオン]]は、正常なプリオンとは立体構造が違うだけである。なお、多くのタンパク質では、[[熱]]や[[圧力]]を加えたり、溶液の [[水素イオン指数|pH]] 値を変える、変性剤を加えるなどの操作により二次以上の高次構造が変化し、その機能(活性)を失う。これをタンパク質の[[変性]]という。変性したタンパク質においては、[[疎水結合]]、[[水素結合]]、[[イオン結合]]の多くが破壊され、全体にランダムな構造が増加したペプチド鎖の緩んだ状態になることが知られている。タンパク質の変性は、かつて不可逆な過程であると考えられてきたが、現在では多くのタンパク質において、変性は可逆的な過程である事が確認されている。なお、変性したタンパク質を元の高次構造に戻す操作をタンパク質の再生という。タンパク質の再生は、原理としては、畳み込まれたペプチド鎖を一旦完全にほどき、数時間かけてゆっくりと畳み込むよう条件を細かく調整・変化させることで行われている。
=== タンパク質の折り畳み ===
特定のアミノ酸配列に対して、存在しうる安定な高次構造が複数存在するにもかかわらず、生体内では特定の遺伝子から特定の機能を持つ高次構造をとったタンパク質が合成できるかは、必ずしも明らかではない。[[クリスチャン・アンフィンセン]]の実験などで判明した多くのタンパク質が変性した後にもその高次構造の再生が可能なことから、一次構造それ自体が、高次構造のかなりの部分を決めていることは疑いがなく、これは「[[アンフィンセンのドグマ]]」と呼ばれる<ref name=Take85 />。しかし、先のタンパク質の再生は数時間かかる操作(実際には、二次構造の畳み込みはかなり迅速に起こっていて、三次構造の確定に時間がかかるらしい)であるのに対し、生体内でのタンパク質の合成は数十秒から一分で完了する。さらに、発見された「アンフィンセンのドグマ」に反する事例からも、タンパク質分子を高速に畳み込み、正しい高次構造へと導く因子の存在が考えられている<ref name=Take85 />(例:[[タンパク質ジスルフィドイソメラーゼ]]、プロリンシストランスイソメラーゼ、[[分子シャペロン]])。また、生体内では間違った立体構造をしているタンパク質はそのタンパク質の[[リシン|Lys]]のアミノ基にポリ[[ユビキチン]]が[[共有結合]]で結合した後に、[[プロテアソーム]]によって分解される。
タンパク質は周囲の環境の変化によりその高次構造を変化させ、その機能を変えることができる。タンパク質である[[酵素]]は、その触媒する反応の速度を条件に応じて変化させることができる。
=== 立体構造の決定 ===
上記のようなタンパク質の高次構造は、[[X線結晶構造解析]]、[[NMR]](核磁気共鳴)、[[電子顕微鏡]]などによって測定されている。また、[[タンパク質構造予測]]による理論的推定なども行われている。タンパク質の立体構造と機能は密接な関係を持つことから、それぞれのタンパク質の立体構造の解明は、その機能を解明するために重要である。いずれ、ほしい機能にあわせてタンパク質の立体構造を設計し、合成できるようになるだろうと考えられている。
これまでの研究により構造が解明されたタンパク質については、[[蛋白質構造データバンク]]<ref> (PDB) [http://www.pdbj.org/index_j.html]</ref>によりデータの管理が行われており、研究者のみならず一般の人でもそのデータを自由に利用、閲覧できる。
== 物性 ==
=== 熱力学的安定性 ===
タンパク質は、それぞれのアミノ酸配列に固有の立体構造を自発的に形成する。このことから、タンパク質の[[天然状態]]は熱力学的な最安定状態(最も自由エネルギーが低い状態)であると考えられている([[アンフィンセンのドグマ]])。
タンパク質の立体構造安定性は天然状態と変性状態の[[自由エネルギー]]の差 <math>\Delta G_{\rm d}</math>(変性自由エネルギー)で決まる。なお、温度依存性を議論する場合には、安定性の指標として <math>exp(-\Delta G_{\rm d}/kT)</math> が用いられることもある。通常、タンパク質の安定性は、温度、圧力、溶媒条件等に依存する。従って、それらの条件をある程度変化させると、タンパク質は変性する。
タンパク質の安定性を決める要因として、[[ファンデルワールス力|ファン・デル・ワールス相互作用]]、[[疎水性相互作用]]、[[水素結合]]、[[イオン結合]]、[[鎖エントロピー]]、[[ジスルフィド結合]]などがある。これらの寄与の大きさは、温度等により変わる。
多くのタンパク質は、室温近傍で数十 kJ/mol 程度の<math>\Delta G_{\rm d}</math>をとる。この非常に小さな<math>\Delta G_{\rm d}</math>は変性状態に対して天然状態が絶妙なバランスで安定であることを示しており、この性質は'''限界安定性''' (marginal stability) と呼ばれている。
温度が変化すると、[[変性エンタルピー]]<math>\Delta H_{\rm d}</math>や[[変性エントロピー]]<math>\Delta S_{\rm d}</math>は急激に変化するが、それらの変化の大部分は相殺して <math>\Delta G_{\rm d}</math> に寄与しない([[エンタルピー]]・[[エントロピー]]相殺)。変性熱容量変化<math>\Delta C_{p,\rm d}</math>は正の値を持ち、タンパク質内部のアミノ酸残基([[アミノ酸|疎水性アミノ酸]]が多い)の水和に伴う水和水の熱容量変化によるものであると考えられている。
=== モルテン・グロビュール状態 ===
タンパク質はその変性の途中で、二次構造はあまり変化しないのに三次構造が壊れた状態を取ることがある。これを'''モルテン・グロビュール状態''' (molten globule state) とよぶ<ref group="注釈">東京大学の和田昭允教授の命名による。</ref>。この状態は高塩濃度下かつ低pHの条件で安定に存在することがあり、タンパク質の折り畳みの初期過程を反映したものであると考えられている。
=== 熱変性・低温変性 ===
タンパク質は高温になると変性する。これは熱変性と呼ばれる。加熱するとタンパク質の一次構造が変化することはほとんど無いが、二次以上の高次構造は崩れやすい。約60℃以上になると、周囲に軽く結びつき水和状態をつくる水分子が振動し高次結合部分が解け、細長い状態になる。さらに内部に封じられた疎水部分が露出し、他のポリペプチドの露出部分と引き合い、全体に詰まった状態になる。通常は透明で液状の卵白が、加熱されると白い固形に変化するのはこの原理からである<ref name=Take34 />。
また、低温でも変性を起こすが、通常のタンパク質が低温変性を起こす温度は0 ℃以下である。タンパク質の安定性は変性自由エネルギー<math>\Delta G_{\rm d}</math>で決まる。変性熱容量は室温付近でほぼ一定値であるため、<math>\Delta G_{\rm d}</math>の温度依存性は上に凸の曲線になる。この曲線と<math>\Delta G_{\rm d} = 0</math>の交点が低温変性と熱変性の温度である。
=== 酸変性・アルカリ変性 ===
タンパク質は[[水素イオン指数|pH]]の変化によっても変性する。pHが極端に変化すると、タンパク質の表面や内部の荷電性極性基([[グルタミン酸|Glu]]、[[アスパラギン酸|Asp]]、[[リシン|Lys]]、[[アルギニン|Arg]]、[[ヒスチジン|His]])の荷電状態が変化する。これによってクーロン相互作用によるストレスがかかり、タンパク質が変性する。
=== 圧力変性 ===
タンパク質は圧力変化によって変性することが知られている。通常のタンパク質は常圧 (0.1{{nbsp}}M[[パスカル (単位)|Pa]]) 近傍でもっとも安定であり、数100{{nbsp}}MPa程度で変性する。[[キモトリプシン]]は例外的であり、100{{nbsp}}MPa程度でもっとも安定である。そのため、温度によっては変性状態にあるものが加圧によって巻き戻ることがある。圧力変性は天然状態よりも変性状態の体積が小さいために起こるものであり、[[ルシャトリエの原理]]で説明できる。
=== 変性剤による変性 ===
[[尿素]]や[[グアニジン]]塩酸は水素結合によるタンパク質の構造安定性を、結合間に割り込むことで低下させる作用を持つため、その溶液中でタンパク質は変性する。このようにタンパク質を変性させる作用をもつ物質は変性剤と呼ばれる。また通常は変性剤とは呼ばれないが、界面活性剤もタンパク質を変性させる作用がある。
== 機能 ==
タンパク質は[[生物]]に固有の物質である。その合成は生きた[[細胞]]の中で行われ、合成されたものは生物の構造そのものとなり、あるいは酵素などとして生命現象の発現に利用される。また、類似のタンパク質であっても、生物の[[種 (分類学)|種]]が異なれば一次構造が異なることは普通である。タンパク質は[[アミノ酸]]が多数結合した[[高分子]]化合物であるが、人工的な高分子のように単純な繰り返しではなく、順番がきっちりと決定されている。これは、そのアミノ酸の種と順番が[[デオキシリボ核酸|DNA]]に暗号で記述されていることによる。遺伝子暗号は往々にしてその形質に関係するタンパク質の設計図であると考えられる([[一遺伝子一酵素説]])。[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]は「'''生命はタンパク質の存在様式である'''」と言ったが、故のないことではない。
タンパク質の生体における機能は多種多様であり、たとえば次のようなものがある<ref name=Take54>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.54-60、第二章 たんぱく質の作られ方、第一節 体をつくるあげるたんぱく質]]</ref>。
;酵素タンパク質:[[代謝]]などの[[化学反応]]を起こさせる[[触媒]]である[[酵素]]<ref name=Take98>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.98-113、第三章 たんぱく質のはたらき、第一節 たんぱく質はたんぱく質を分解する]]</ref>。細胞内で情報を伝達する多くの役目も担う<ref name=Take113>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.113-123、第三章 たんぱく質のはたらき、第二節 体のはたらきを維持するたんぱく質を]]</ref>。
;構造タンパク質:生体構造を形成するタンパク質:[[コラーゲン]]、[[ケラチン]]など
;[[運搬体タンパク質|輸送タンパク質]]:何かを運ぶ機能を持つ種類で、酸素を運ぶ赤血球中のヘモグロビンや血液中に存在し[[脂質]]を運ぶ[[アルブミン]]、[[コレステロール]]を運ぶ[[アポリポタンパク質]]などが当たる<ref name=Take113 />。
;[[貯蔵タンパク質]]:[[栄養]]の貯蔵に関与するタンパク質であり、卵白中の[[オボアルブミン]]や細胞中で[[鉄]]イオンを貯蔵する[[フェリチン]]や[[ヘモシデリン]]などである<ref name=Take113 />。
;収縮タンパク質:運動に関与するタンパク質。[[筋肉]]を構成する筋原繊維の[[アクチン]]、[[ミオシン]]など。細長いフィラメントを構成し、互いが滑りあう事で筋肉の収縮や弛緩を起こす<ref name=Take54 />。
;防御タンパク質:[[免疫]]機能に関与する種類であり、[[抗体]]とも言われる。[[B細胞]]によって作られる[[グロブリン]]がこれに当たる<ref name=Take113 />。
;調節タンパク質:DNAのエンハンサーと結合して遺伝発現を調整するタンパク質や、細胞内で[[カルシウム]]を使って他のたんぱく質の働きを調整する[[カルモジュリン]]などが当たる<ref name=Take113 />。
その他、よく知られたタンパク質に[[下村脩]]が発見した[[蛍光]]に関わる提灯形状のタンパク質である[[GFP]]<ref name=Take85 />や[[RFP (生物学)|RFP]]などがある。特定波長域の励起光を受けると蛍光を発する。一部の生物([[オワンクラゲ]], [[スナギンチャク]]など)にみられる。
これらのタンパク質が機能を発揮する上で最も重要な過程に、特異的な会合(結合)がある。酵素および抗体はその基質および抗原を特異的に結合することにより機能を発揮する。また構造形成、運動や情報のやりとりもタンパク質分子同士の特異的会合なしには考えられない。この特異的会合は、基本的には二次〜四次構造の形成と同様の原理に基づき、対象分子との間に複数の[[疎水結合]]、[[水素結合]]、[[イオン結合]]が作られ安定化することで実現される。
== 組成 ==
タンパク質は[[炭素]]、[[酸素]]、[[窒素]]、[[水素]](重量比順)を必ず含む。どのようなアミノ酸から構成されているかによって、組成比は多少異なる。しかしながら、生体材料においては窒素の重量比が16{{nbsp}}[[%]]前後の値をとることが多いため、窒素量Nの<!--6.25-->6.3倍を粗蛋白量と定義する。
このほか、[[システイン]]、[[シスチン]]、[[必須アミノ酸]]である[[メチオニン]]に由来する[[硫黄]]の組成比が高く、さらに[[リン酸]]の形でタンパク質に結合されている[[リン]]も多い。[[ジブロモチロシン]]に由来する[[臭素]]、[[ジヨードチロシン]]、[[トリヨードチロシン]]、[[チロキシン]]に由来する[[ヨウ素]]がわずかに含まれることがある。[[ヘモグロビン]]や多くの酵素に含まれる[[鉄]]、[[銅]]や、一部の[[酸化還元酵素]]に含まれる[[セレン]]([[セレノシステイン]]の形をとる)などもある。
==タンパク質の必要量と摂取基準==
{| class="wikitable floatright" style="clear:right; font-size:smaller"
|+タンパク質を多く含む食品(100g中)<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365419.htm | title = 第2章 日本食品標準成分表 PDF(日本語版) | publisher = 文部科学省 | accessdate = 2021-06-03 }}</ref>
|-
!品名!!たんぱく質(g)
|-
!和牛||-
|-
|リブロース生(焼き)||9.7 (14.6)
|-
|ばら生||12.8
|-
|もも生(焼き)||20.2 (27.7)
|-
!輸入牛肉 ||-
|-
|リブロース生(焼き)||20.1 (25)
|-
|ばら生(焼き)||12.8 (15.9)
|-
|もも生(焼き)||20 (28)
|-
|ビーフジャーキー||54.8
|-
!乳類||-
|-
|牛乳||3.3
|-
|脱脂粉乳 ||34
|-
|プロセスチーズ||22.7
|-
|パルメザンチーズ||44
|-
!豚||-
|-
|ロース生(焼き)||19.3 (26.7)
|-
|ばら生(焼き)||14.4 (19.6)
|-
|もも生(焼き)||21.5 (30.2)
|-
!鶏||-
|-
|むね生(焼き)||21.3 (34.7)
|-
|もも生(焼き)||16.6 (26.3)
|-
|ささ身(焼き)||23.0 (27.3)
|-
!卵||-
|-
|鶏卵(ゆで)||12.3 (12.9)
|-
|卵黄(ゆで)||16.5 (16.7)
|-
|卵白(ゆで)||10.5 (11.3)
|-
|乾燥全卵||49.1
|-
!魚類||-
|-
|うるめいわし生||21.3
|-
|うるめいわし煮干し||64.5
|-
|クロマグロ赤身生||26.4
|-
|さば生(焼き)||20.6 (25.2)
|-
|まあじ生(焼き)||19.7 (25.9)
|-
|そうだがつお生||25.7
|-
|かつお節||77.1
|-
!穀類||-
|-
|だいず乾燥(ゆで)||33.8 (14.8)
|-
|とうもろこし玄穀||8.6
|-
!海藻||-
|-
|あおのり 素干し||29.4
|-
|あまのり 焼海苔||41.4
|-
!昆虫||-
|-
|いなご佃煮||26.3
|-
!コオロギ<ref>{{Cite web|和書| url = https://takeo.tokyo/note/answer-honestly/#ah-1-2 | title = 栄養価やアレルギー、安全性など昆虫食の疑問にお答えします | publisher = TAKEO | accessdate = 2021-06-03 }}</ref>||-
|-
|コオロギ生||20
|-
|コオロギパウダー||50 - 70
|}
===必要量===
ヒトの体は15 - 20{{nbsp}}[[%]]がタンパク質であり<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.jmi.or.jp/qanda/bunrui4/q_061.html#:~:text=ヒトの体は水分,にもかかわっています。 | title = ヒトはなぜタンパク質を食べるの? | publisher = 公益財団法人 日本食肉消費総合センター | accessdate = 2021-06-03 }}</ref>、成人の日本人のタンパク質の推定平均必要量(g/kg 体重/日)は、0. 72(g/kg 体重/日)であるとされている。これは、窒素出納実験により測定された良質たんぱく質の窒素平衡維持量をもとに、それを日常食混合たんぱく質の消化率で補正して推定平均必要量を算定している。
タンパク質の推定平均必要量(g/kg 体重/日)=0. 65(窒素平衡維持量)(g/kg 体重/日)÷ 0. 90(消化率)=0. 72(g/kg 体重/日)<ref name=mhlw>「{{PDFlink|[https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/05/dl/s0529-4f.pdf たんぱく質]}}」『[https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/05/s0529-4.html 日本人の食事摂取基準」(2010年版)]』</ref>
例えば体重70kgの成人の日本人ならタンパク質の必要量は、50g/日となる。
===摂取基準===
2003年、[[世界保健機関]] (WHO) と[[国連食糧農業機関]] (FAO) は「食事、栄養と生活習慣病の予防<ref name="whofao2003">Report of a Joint WHO/FAO Expert Consultation ''[http://www.fao.org/docrep/005/ac911e/ac911e00.htm Diet, Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases]'', 2003</ref>」(''Diet, Nutrition and the Prevention of Chronic Diseases'') を報告している。
{| class="wikitable"
|+ 栄養摂取目標の範囲(抄)<ref name="whofao2003" /><br> (5.1.3 表6)
! colspan="2" | 食物要素 !! 目標(総エネルギーに対する[[%]])
|-
|colspan="2" | '''たんぱく質''' || style="text-align:center" | 10-15{{nbsp}}%
|}
{{main|食生活指針}}
一日のエネルギー必要量は、男性では2660{{nbsp}}kcal、女性では1995{{nbsp}}kcal であり、タンパク質のエネルギー量は4 kcal/gであり、仮に15{{nbsp}}%の値を当てはめると、以下のとおりとなる。
*男性では、2660{{nbsp}}kcal/日 x 0.15 / 4{{nbsp}}kcal/g =100{{nbsp}}g/日
*女性では、1995{{nbsp}}kcal/日 x 0.15 / 4{{nbsp}}kcal/g =75{{nbsp}}g/日
== 健康 ==
=== 認知機能保護作用 ===
ハーバード大学の研究によると、食事で十分なタンパク質を摂取することが、認知機能を守るために重要である可能性が示唆されている。炭水化物を食べることに比べて、タンパク質を食べることは、人生の後半に認知機能の低下を発症する可能性を低くすることと関連している。炭水化物ではなく動物性タンパク質に由来するカロリーが5{{nbsp}}[[%]]増えるごとに、認知症の発症リスクは11{{nbsp}}%低くなった。また、炭水化物ではなく植物性タンパク質に由来するカロリーが5{{nbsp}}%増えるごとに、認知症の発症リスクは26{{nbsp}}%低くなった<ref name=":0">{{Cite web |title=Protein intake associated with less cognitive decline |url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/protein-intake-associated-with-less-cognitive-decline |website=Harvard Health |date=2022-06-01 |access-date=2022-05-19 |language=en |first=Heidi |last=Godman}}</ref>。
=== 植物ベース ===
2019年の日本人を対象とした大規模コホート研究において、植物性タンパク質からの摂取エネルギー量が多い人ほど、全死亡率、心血管疾患 (CVD) 死亡、心疾患死亡、脳血管疾患死亡のリスクが低くなる傾向がみられた。総摂取エネルギー量の3{{nbsp}}[[%]]相当の動物性タンパク質を植物性タンパク質に置き換えた場合、動物性タンパク質をすべて植物性タンパク質に置き換えた場合より全死亡リスク、癌リスク、心血管疾患 (CVD) 死亡リスクが有意に低下した<ref name="epic0123">{{Cite web|和書|url=http://www.epi-c.jp/entry/e011_0_0123.html |title=[2019年文献] 植物性蛋白質を多くとる人は,全死亡ならびに心血管疾患死亡リスクが低い |publisher=Life Science |accessdate=2022-01-22}}</ref><ref name="Budhathoki2019">{{Cite journal|和書|author=Sanjeev Budhathoki|year=2019|title=Association of Animal and Plant Protein Intake With All-Cause and Cause-Specific Mortality in a Japanese Cohort|journal=JAMA Intern Med|volume=179|issue=11|pages=1509-1518|publisher=American Medical Association|ref=harv|doi=10.1001/jamainternmed.2019.2806|author2=Norie Sawada|author3=Motoki Iwasaki|author4=Taiki Yamaji|author5=Atsushi Goto|author6=Ayaka Kotemori|author7=Junko Ishihara|author8=Ribeka Takachi|author9=Hadrien Charvat|author10=Tetsuya Mizoue|author11=Hiroyasu Iso|author12=Shoichiro Tsugane}}</ref>。
2020年7月22日に[[ハーバード大学]]と[[テヘラン大学]]が発表した研究によると、より多くの植物ベースのタンパク質を食べることは寿命を延ばすことができる。カロリー摂取量の3{{nbsp}}%を動物性タンパク質(肉、鶏肉、魚、または乳製品)から{{仮リンク|植物性タンパク質|en|Textured vegetable protein}}に置き換えることは、あらゆる原因による死亡の10{{nbsp}}%減少に対応した。特に、卵と赤身の肉を植物性タンパク質に置き換えると、死亡リスクが男性で24{{nbsp}}%、女性で21{{nbsp}}%も減少したという<ref>{{Cite web |title=Eat more plant-based proteins to boost longevity |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/eat-more-plant-based-proteins-to-boost-longevity |website=Harvard Health |accessdate=2020-11-03 |first=Harvard Health |last=Publishing}}</ref><ref>{{Cite web |title=Plant protein may help you live longer |url=https://www.health.harvard.edu/mens-health/plant-protein-may-help-you-live-longer |website=Harvard Health |accessdate=2020-11-13 |first=Harvard Health |last=Publishing}}</ref>。
=== 動物性タンパク質 ===
2019年の日本人を対象とした大規模コホート研究において、総死亡率または原因別死亡率の調査を行った結果、動物性タンパク質の摂取による、総死亡率または原因別死亡率との明確な関連はみられないとの研究結果が報告されている<ref name="epic0123" /><ref name="Budhathoki2019" />。また、赤身肉を多く食べる女性の脳血管疾患死亡リスクは低下が見られる。しかし、摂取基準以上に大量の赤肉を食べる男性は心疾患死亡リスクの上昇がみられるとの研究結果が出ている。白肉である鶏肉はがんの死亡リスク低下がみられるが、メカニズムは解明されていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/8648.html |title=肉類摂取と死亡リスクとの関連 |publisher=国立がん研究センター |accessdate=2022-01-22}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=Eiko Saito|year=2020|title=Association between meat intake and mortality due to all-cause and major causes of death in a Japanese population|journal=PLoS One|volume=15|issue=12|publisher=Public Library of Science (PLOS)|ref=harv|doi=10.1371/journal.pone.0244007|author2=Xiaohe Tang|author3=Sarah Krull Abe|author4=Norie Sawada|author5=Junko Ishihara|author6=Ribeka Takachi|author7=Hiroyasu Iso|author8=Taichi Shimazu|author9=Taiki Yamaji|author10=Motoki Iwasaki|author11=Manami Inoue|author12=Shoichiro Tsugane}}</ref>。それでも、ほんの少し、食事を炭水化物から動物性タンパク質に変えることは、脳の健康に有効であり、少なくとも砂糖や白米などの精製された穀物よりも動物性タンパク質の方が脳や体の健康に良いということになる<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=The sweet danger of sugar |url=https://www.health.harvard.edu/heart-health/the-sweet-danger-of-sugar |website=Harvard Health |date=2017-05-01 |access-date=2022-06-01 |language=en}}</ref>。
=== 筋肉増量 ===
タンパク質の摂取量を増やすことは、筋肉量の増加や健康増進のためにハーバード大学医学部でも推奨されている。これにより、高齢者は筋肉量を維持することができ、日常生活の質を向上させ、転倒などを防ぐことができるのである<ref>{{Cite web |title=Building better muscle |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/building-better-muscle |website=Harvard Health |date=2022-02-01 |access-date=2022-06-01 |language=en |first=Matthew |last=Solan}}</ref><ref>{{Cite web |title=Eating enough daily protein may delay disability |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/eating-enough-daily-protein-may-delay-disability |website=Harvard Health |date=2019-02-01 |access-date=2022-06-01 |language=en}}</ref>。
===過剰摂取===
[[世界保健機関]]の2007年の報告では、タンパク質の過剰な摂取は腎臓疾患<ref>{{Cite web|和書|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/123056 |title=「野菜350g」は本当にカラダにいいの…?食生活のウソホント |publisher=FRIDAYデジタル |date=2020-07-16 |accessdate=2020-11-27}}</ref>や[[糖尿病性腎症]]を悪化させるとされている<ref>『タンパク質・アミノ酸の必要量 WHO/FAO/UNU合同専門協議会報告』[[日本アミノ酸学会]]監訳、医歯薬出版、2009年05月。ISBN 978-4263705681 邦訳元 ''[http://whqlibdoc.who.int/trs/WHO_TRS_935_eng.pdf Protein and amino acid requirements in human nutrition]'', Report of a Joint WHO/FAO/UNU Expert Consultation, 2007</ref>。とはいえ、ハーバード大学医学部によれば、タンパク質の摂取量はカロリーの25{{nbsp}}%に達しても、健康に有益で過剰ではないとされており、一般的な食事ではタンパク質の過剰摂取はほとんどあり得ないとされている<ref>{{Cite web |title=Low-carb and high-fat diet helps obese older adults |url=https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/low-carb-and-high-fat-diet-helps-obese-older-adults |website=Harvard Health |date=2020-12-01 |access-date=2022-06-01 |language=en}}</ref>。
[[炭水化物]]とタンパク質の摂取量によって10段階に分けて分析し、炭水化物の摂取量が1段階減り、タンパク質の摂取量が1段階増えるごとに、[[心筋梗塞]]や[[脳卒中]]の発症のリスクが4{{nbsp}}%ずつ増え、低炭水化物・高タンパク質のグループでは、そうでないグループに比べて発症リスクが最大1.6倍高まったとの報告がある<ref>[http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=61435 低炭水化物ダイエットご用心…発症リスク高まる]2012.07.08読売新聞。スウェーデンの30〜49歳の女性43396人{{信頼性要検証|date=2012年11月}}</ref>。
2002年のWHOの報告書では、カルシウムの摂取量が多い国に骨折が多いという「[[カルシウム・パラドックス]]」の理由として、タンパク質によるカルシウム必要量を増大させる酸性の負荷の影響があるのではないか、と推論されている<ref name="who2002">joint FAO/WHO expert consultation. "[http://www.fao.org/docrep/004/Y2809E/y2809e0h.htm#bm17.9 Chapter 11 Calcium]", ''[http://www.fao.org/DOCREP/004/Y2809E/y2809e00.htm Human Vitamin and Mineral Requirements]'', 2002.</ref>。
[[ハーバード大学]]で、[[栄養学]]を教えている[[ウォルター・ウィレット]]教授は、タンパク質を摂取しすぎれば酸を中和するために骨が使われるので骨が弱くなる可能性がある、として注意を促している<ref name="herberd2003">[[ウォルター・ウィレット|ウォルター C. ウィレット]] 『太らない、病気にならない、おいしいダイエット-ハーバード大学公式ダイエットガイド』 光文社、2003年5月。174〜175頁。ISBN 978-4334973964。(原著 ''Eat, Drink, and Be Healthy'', 2001)</ref>。
65歳以上の男性に2g/kg体重/日以上のタンパク質を摂取させると、血中尿素窒素が10.7mmol/L以上に上昇し、高窒素血症が発症することが報告されていること等により、成人においては年齢にかかわらず、タンパク質摂取は2.0g/kg体重/日未満に留めるのが適当とされている<ref name="mhlw" />。70kgの体重のヒトならばタンパク質140g/日に相当し、摂取基準の1.5-2倍に相当する。
== タンパク質の定量法 ==
[[栄養学]]ではタンパク質全体の量を測定することが重要であり、また[[生化学]]で特定のタンパク質を分離精製した際にも、それがどの程度の量であるかを求める必要がある。これらのために一般的なタンパク質の定量分析法が多数開発されている。
精度の高い方法としては、[[燃焼]]後に[[窒素]]量を測定する[[デュマ法]]、[[硫酸]]分解後に[[アンモニア]]量を測定する[[ケルダール法]]などがある。
またより簡便な方法としては、[[紫外可視近赤外分光法]]、[[アミド結合]]([[ペプチド結合]])の検出を用いた[[ビウレット法]]、それに[[フェノール]]性[[水酸基]]等の検出を組み合わせた[[ローリー法]]、[[色素]]との結合を観測する[[ブラッドフォード法]]などがある。
== タンパク質の栄養価 ==
タンパク質の[[栄養素]]としての価値は、それに含まれる[[必須アミノ酸]]の構成比率によって優劣がある。これを評価する基準としては、動物実験によって求める[[生物価]]と[[タンパク質正味利用率]]、化学的に、タンパク質を構成するアミノ酸の比率から算出する[[プロテインスコア]]、[[ケミカルスコア]]、[[アミノ酸スコア]]がある。
化学的に算定する後三者の方法は、算定方法に細かな違いがあるが、最終的には必須アミノ酸各々について標品における含量と標準とされる一覧とを比較し、その中で最も不足しているアミノ酸(これを第一制限アミノ酸という)について、標準との比率を百分率で示すもの。この際、数値のみだけでなく、必ず第一[[制限アミノ酸]]の種類を付記することになっている。
=== 生物価 (BV) ===
生物価 (BV) とは、吸収されたタンパク質の窒素量に対して,体に保持された窒素量の比を百分率で示した値のこと。内因性の糞尿への排泄量を補正する。
生物価 (BV) = 体内保留窒素量/吸収窒素量×100 ([[%]])
という式で表される。
=== 正味タンパク質利用率 (NPU) ===
正味タンパク質利用率 (NPU) とは、摂取したタンパク質(窒素)のどれだけの割合が体内でタンパク質(窒素)として保持されたかを示した値のこと。
正味タンパク質利用率 (NPU) = 体内保留窒素/摂取窒素×100 = 生物価×消化吸収率 ([[%]])
という式で表される。
== 特殊なタンパク質 ==
[[イエローストーン国立公園]]では、熱水の中で生育する細菌が発見されている。このような高温環境で生きられる生物のタンパク質にはどのような特徴があるか、全貌は解明されておらず、外見上も他のタンパク質と差は認められない。分析の結果、熱に弱いアミノ酸(アスパラギン・システイン・メチオニンなど)の含有量が比較的少なく、逆にプロリンが多く含まれていることが判明した<ref name=Take123>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.123-133、第三章 たんぱく質のはたらき、第三節 たんぱく質のお湯加減―いろいろな温度で働くたんぱく質たち―]]</ref>。
逆に低温で機能を失わないタンパク質は[[不凍タンパク質]]と呼ばれ、[[魚類]]から発見され1969年に単離に成功した。このタンパク質が低温で活動できるメカニズムは、[[氷晶核]]が形成されにくい構造を持つためと考えられる<ref name=Take123 />。
== 複合タンパク質 ==
タンパク質には、アミノ酸配列のヌクレオチドだけで構成される単純タンパク質と、その外側にアミノ酸以外の装飾をもつ複合タンパク質がある。複合タンパク質が纏う装飾には、主に糖とリン酸がある<ref name=Take134>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.134-145、第三章 たんぱく質のはたらき、第四節 たんぱく質の装飾品と、その利用]]</ref>。
タンパク質が付随させる糖は[[単糖]]からなる糖鎖であり、アミノ酸アスパラギンの残基に、[[N-アセチルグルコサミン]]と[[マンノース]]が繋がったコア構造という土台の先に、分岐も含め多様な構造をつくる。ただし、このようにタンパク質に接続する単糖の種類は9種<ref>[[ガラクトース]]、[[N-アセチルグルコサミン]]、[[N-アセチルガラクトサミン]]、[[マンノース]]、L- [[フコース]]、[[グルコース]]、[[キシロース]]、[[グルクロン酸]]、[[シアル酸]](武村(2011)、p.139)</ref>しか見つかっていない。例えば赤血球の細胞膜をつくるタンパク質に繋がる糖鎖の種類が、[[ABO式血液型]]を決定づけている<ref name=Take134 />。この糖鎖は、その種類ごとに異なる[[レクチン]]という他のタンパク質があり、この組み合わせで情報交換を行う役割を担っている<ref name=Take134 />。
アミノ酸のトレオニンやチロシンなどが持つ水酸基残基と結びつくリン酸は、[[アデノシン三リン酸]] (ATP) から供給され、リン酸を放出したATPは[[アデノシン二リン酸]]になる。リン酸化はタンパク質の働きを活性化したり、逆に抑制する働きを持つ。ひとつのタンパク質の活性化は次のタンパク質のリン酸化を促し、これが連続することで多岐にわたる情報伝達が行われる。この様子は「リン酸化カスケード」と呼ばれる<ref name=Take134 />。
== タンパク質の生体内分解 ==
生体内部のタンパク質は必要な時に作られ、使われ続けるうちに充分な機能を発揮できなくなる。[[シャペロン|分子シャペロン]]などによる修復を受けるが、やがてタンパク質も寿命を迎える。その期間は種類によって異なり、数ヶ月のものから数十秒しか持たないものもあり、それぞれ生体内部で分解される<ref name=Take145>[[#武村(2011)|武村(2011)、p.145-153、第三章 たんぱく質のはたらき、第五節 たんぱく質の「死」]]</ref>。
その判断が下されるメカニズムは明らかになっていないが、タンパク質の寿命が近づくとリジン残基に[[ユビキチン]]という非常に小さなタンパク質が付着する。1つだけでは特に変化は起こらないが、次々に結合して4個以上のユビキチン鎖状になると、タンパク質は[[プロテアソーム]]と呼ばれる筒状構造体の中に導かれ、この中でペプチドにまで分解される。この一連の反応は'''ユビキチン・プロテアソームシステム'''と呼ばれる<ref name=Take145 />。
もうひとつの主要なタンパク質分解機構として'''[[オートファジー]]'''があり、一度に多くのタンパク質が分解されるため、飢餓状態において重要度の低いタンパク質を分解してアミノ酸を補充する場合などに機能する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title = 生化学辞典第2版|edition = 第2版第6刷|year = 1995|publisher = [[東京化学同人]]|isbn = 4-8079-0340-3|ref = 生化学辞典(2版)}}
* {{Cite book|和書|author =武村政春 |title = たんぱく質入門|edition = 第1刷|year = 2011|publisher = [[講談社]]|isbn = 978-4-06-257730-4|ref = 武村(2011)}}
* {{Cite journal|和書|author=山口迪夫 |title=食べ物と酸・アルカリ : 「酸性食品・アルカリ性食品」の理論をめぐる矛盾点(身の回りの酸・塩基)(<特集>酸と塩基) |date=1989-12-20 |publisher=社団法人日本化学会 |journal=化学と教育 |volume=37 |number=6 |naid=110001826976 |pages=606-609 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[キサントプロテイン反応]]
* [[ビウレット反応]]
* [[ニンヒドリン反応]]
* [[ペプチド固相合成法]]
* [[無細胞タンパク質合成系]]
* [[タンパク質生合成]] / [[翻訳 (生物学)|翻訳]] / [[コドン]]
* [[アミノ酸]]
* [[遺伝子]]
* [[セントラルドグマ]]
* [[プロテオーム]]
* [[糖タンパク質]]
* [[金属タンパク質]]
* [[タンパク質ファミリー]]
* [[オーミクス]]
* [[人工タンパク質]]
* [[メイラード反応]]
* [[Gタンパク質]]
* [[τタンパク質]] - [[アルツハイマー病]]に関連するとされている変異性のタンパク質。<!-- 別称'''MAPT''' -->
{{see also|Category:タンパク質}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Proteins}}
* [https://pdbj.org/ 日本蛋白質構造データバンク]
* {{Wayback |date=20070205152156 |url=http://folding.stanford.edu/japanese/science.html |title=Folding@Home Science }}
* {{Mpedia|英語版記事名=Proteins|英語版タイトル=Proteins}}
* {{Kotobank}}
{{遺伝子発現}}
{{タンパク質}}
{{代謝}}
<!--
{{タンパク質を構成するアミノ酸}}
{{一次構造}}
{{二次構造}}
{{三次構造}}
{{四次構造}}
{{酵素}}
-->
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たんはくしつ}}
[[Category:タンパク質|*]]
[[Category:分子生物学]]
[[Category:プロテオミクス]] | 2003-04-11T00:31:33Z | 2023-12-18T13:26:44Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E8%B3%AA |
6,472 | 香山リカ | 香山 リカ(かやま リカ) | [
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] | 香山 リカ リカちゃん人形に付けられた設定上の本名。
香山リカ (精神科医) - リカちゃん人形にちなむペンネーム。
香山リカ (歌手) - この名前を名乗った歌手は複数存在する。まず、涼川真里(小林由紀子)が香山リカ名義で数曲の楽曲を発表している。その後、別の少女歌手が香山リカの名前でデビューしている。さらに1983年、山崎春美が主宰するオルタナティヴ・ロックバンド「TACO」の1stアルバム『タコ』にコーラスとして香山リカなる人物が参加している。なお、山崎春美は精神科医の香山リカのペンネームの名付け親であるが、この人物は彼女とは別人である。
香山リカ (子役) - 映画『太陽を盗んだ男』(1979年)、TVドラマ『チーちゃんごめんね』(1977年)、『コンドールマン』(1975年)などの作品に同名の人物が出演している。これらの人物が同一人物かどうかは不明。
細野不二彦の漫画『愛しのバットマン』の登場人物。 | '''香山 リカ'''(かやま リカ)
*[[リカちゃん|リカちゃん人形]]に付けられた設定上の本名。
*[[香山リカ (精神科医)]] - リカちゃん人形にちなむペンネーム。
*[[香山リカ (歌手)]] - この名前を名乗った歌手は複数存在する。まず、涼川真里(小林由紀子)が香山リカ名義で数曲の楽曲を発表している(1969年 - 1971年頃)。その後、別の少女歌手が香山リカの名前でデビューしている(1971年 - 1975年頃)。さらに1983年、[[山崎春美]]が主宰する[[オルタナティヴ・ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]「[[山崎春美#TACO|TACO]]」の1stアルバム『タコ』にコーラスとして香山リカなる人物が参加している。なお、山崎春美は精神科医の香山リカのペンネームの名付け親であるが、この人物は彼女とは別人である。
*[[香山リカ (子役)]] - 映画『[[太陽を盗んだ男]]』(1979年)、TVドラマ『[[チーちゃんごめんね]]』(1977年)、『[[コンドールマン]]』(1975年)などの作品に同名の人物が出演している。これらの人物が同一人物かどうかは不明。
*[[細野不二彦]]の漫画『[[愛しのバットマン]]』の登場人物。
{{人名の曖昧さ回避}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%B1%B1%E3%83%AA%E3%82%AB |
6,478 | 内廷皇族 | 内廷皇族()とは、独立した宮家を持たない宮廷内部の皇族を指す語である。具体的には三后(皇后・皇太后・太皇太后)・皇太子・皇太子妃とその家族や未婚の皇子女、及び上皇后(天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく)を指す。天皇及び上皇(天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく)を含めて彼らが営む独立の生計を「内廷」と称することから、天皇及び上皇を除いた内廷の構成員たる皇族を「内廷皇族」と呼ぶ。なお、天皇及び上皇は「皇族」の定義に準じて「内廷皇族」にも含まれない。宮内庁や皇室経済法では、正式には「内廷にある皇族」と呼んでおり「内廷皇族」は略称である。
2019年(令和元年)5月1日の第126代天皇徳仁の即位以降、現行の皇室典範及び皇室経済法が施行されて以来初めて、皇太子や皇太孫も含めて内廷皇族に皇位継承権を持つ親王や王が1人も存在しない状態となった。
昭和天皇の母である皇太后節子、皇后良子(香淳皇后)と所生の皇子女たる照宮成子内親王、久宮祐子内親王、孝宮和子内親王、順宮厚子内親王、継宮明仁親王、義宮正仁親王、清宮貴子内親王が内廷皇族であった。成子内親王は1943年(昭和18年)10月13日に盛厚王との婚姻により、内廷皇族から内廷外皇族に移った(後に東久邇宮家の臣籍降下により皇族の身分を離れる)。
昭和天皇の内廷は大きく変化した。1950年(昭和25年)5月21日に孝宮和子内親王が鷹司平通との婚姻により、皇族の身分を離れた。1951年(昭和26年)5月17日には貞明皇后が崩御した。 1952年(昭和27年)10月10日に順宮厚子内親王が池田隆政との婚姻により、内廷皇族及び皇族の身分を離れ、一方で1959年(昭和34年)4月10日には正田美智子が皇太子明仁親王との婚姻により内廷皇族に加わり、1960年(昭和35年)2月23日に浩宮徳仁親王が明仁親王第一男子として出生した。同年3月10日に清宮貴子内親王が島津久永との婚姻により皇族の身分を離れた。1964年(昭和39年)9月30日には義宮正仁親王が津軽華子と結婚し常陸宮を興し独立する。翌1965年(昭和40年)11月30日には第二男子礼宮文仁親王が、1969年(昭和44年)4月18日には第一女子紀宮清子内親王が誕生、内廷皇族に加わった。
1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王は皇位継承に伴い、内廷皇族ではなくなった。この時点においては明仁の母である皇太后良子(香淳皇后)、皇后美智子、皇太子徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王が内廷皇族であったが、1990年(平成2年)6月29日に文仁親王が川嶋紀子との結婚により秋篠宮を創設し独立、1993年(平成5年)6月9日には小和田雅子が皇太子徳仁親王との婚姻により内廷皇族に加わり、2000年(平成12年)6月17日には皇太后良子が崩御に伴い内廷皇族から外れた。
2001年(平成13年)12月1日に敬宮愛子内親王が徳仁親王第一女子として誕生し内廷皇族に加わり、2005年(平成17年)11月15日には紀宮清子内親王が黒田慶樹との婚姻により皇族の身分を離れた。
2019年(令和元年)5月1日、徳仁親王は皇位継承に伴い、内廷皇族ではなくなった。前日(平成31年4月30日)まで天皇であった明仁は退位に伴い上皇となったものの、天皇に相当する身位として皇族の外におかれた。また、内廷皇族から、皇位継承権を有する親王や王は、現皇室典範の下では初めて不在となった。なお、皇后となった雅子、上皇后となった美智子は引き続き内廷皇族のままである。 | [
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}
] | 内廷皇族とは、独立した宮家を持たない宮廷内部の皇族を指す語である。具体的には三后(皇后・皇太后・太皇太后)・皇太子・皇太子妃とその家族や未婚の皇子女、及び上皇后(天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく)を指す。天皇及び上皇(天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく)を含めて彼らが営む独立の生計を「内廷」と称することから、天皇及び上皇を除いた内廷の構成員たる皇族を「内廷皇族」と呼ぶ。なお、天皇及び上皇は「皇族」の定義に準じて「内廷皇族」にも含まれない。宮内庁や皇室経済法では、正式には「内廷にある皇族」と呼んでおり「内廷皇族」は略称である。 2019年(令和元年)5月1日の第126代天皇徳仁の即位以降、現行の皇室典範及び皇室経済法が施行されて以来初めて、皇太子や皇太孫も含めて内廷皇族に皇位継承権を持つ親王や王が1人も存在しない状態となった。 | {{読み仮名|'''内廷皇族'''|ないていこうぞく}}とは、独立した[[宮家]]を持たない宮廷内部の皇族を指す語である。具体的には'''[[三后]]([[皇后]]・[[皇太后]]・[[太皇太后]])・[[皇太子]]・[[皇太子妃]]'''とその家族や未婚の皇子女、及び'''[[上皇后]]'''([[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]に基づく)を指す。[[天皇]]及び[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]](天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく)を含めて彼らが営む独立の生計を「内廷」と称することから、天皇及び上皇を除いた内廷の構成員たる皇族を「内廷皇族」と呼ぶ。なお、天皇及び上皇は「皇族」の定義に準じて「内廷皇族」にも含まれない。[[宮内庁]]や[[皇室経済法]]では、正式には「'''内廷にある[[皇族]]'''」と呼んでおり「内廷皇族」は略称である。
[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月1日]]の第126代天皇[[徳仁]]の即位以降、現行の[[皇室典範]]及び[[皇室経済法]]が施行されて以来初めて、皇太子や皇太孫も含めて内廷皇族に[[皇位継承]]権を持つ[[親王]]や[[王 (皇族)|王]]<ref>現行の[[皇室典範]]及び[[皇室経済法]]の下で[[王 (皇族)|王]]は1人も出生していない。</ref>が1人も存在しない状態となった<ref>天皇徳仁の子女には第1皇女子の[[敬宮愛子内親王]]しかおらず、天皇徳仁の父である[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]][[明仁]]は[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]により[[皇位継承]]権を有しない。</ref>。
== 内廷費 ==
{{Quotation|
;[[皇室経済法]]第四条
:[[内廷費]]は、天皇並びに皇后、太皇太后、皇太后、皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるものとし、別に法律で定める定額を、毎年支出するものとする。
}}
== 現在の構成 ==
{| class="wikitable"
!
!
!読み
!性別
!生年月日
!現年齢
!天皇[[徳仁]]から<br />見た続柄
![[皇位継承順位]]
![[摂政]]継承順位
|-
|align=center|[[ファイル:Empress Masako at TICAD7.jpg|80px]]
|[[皇后雅子|雅子]]([[皇后]])
||まさこ
||女性
||1963年(昭和38年)12月{{0}}9日
||{{0}}{{年数|1963|12|09}}歳||妻(配偶者)
|
|第3位
|-
|align=center|[[ファイル:Empress Michiko's arrival in Manila - 2016 (cropped).jpg|80px]]
|[[上皇后美智子|美智子]]([[上皇后]])
||みちこ
||女性
||1934年(昭和{{0}}9年)10月20日
||{{0}}{{年数|1934|10|20}}歳
|母
|
|第4位
|-
|align=center|[[ファイル:Aiko_2021_(cropped).jpg|80px]]
|[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]
||あいこ
||女性
||2001年(平成13年)12月{{0}}1日
||{{0}}{{年数|2001|12|01}}歳||第1皇女子
|
|第5位
|}
=== 系図 ===
{{familytree/start|style=line-height:100%}}
{{familytree | |!|}}
{{familytree |AKI|v|MIC|AKI=第125代天皇[[明仁]]([[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])|MIC=[[上皇后美智子|美智子]]([[上皇后]])
| boxstyle_AKI = background-color: #c7dc68
| boxstyle_MIC = background-color: #c7dc68
}}
{{familytree | |,|-|^|-|-|-|-|-|v|-|-|-|.| }}
{{familytree |NAR|v|MAS| |AKF| |KUS |NAR=第126代天皇[[徳仁]]|MAS=[[皇后雅子|雅子]]([[皇后]])|AKF=[[秋篠宮文仁親王]]([[皇嗣]])|KUS=[[黒田清子|黒田清子<br />(紀宮)]]
| boxstyle_NAR = background-color: #e6b422
| boxstyle_MAS = background-color: #c7dc68
}}
{{familytree | | | |!}}
{{familytree | | |AIK|AIK=[[愛子内親王|敬宮<br />愛子内親王]]
| boxstyle_AIK = background-color: #c7dc68
}}
{{familytree/end}}
== 内廷皇族の身位 ==
* 「'''[[皇后]]'''」は夫たる天皇が[[崩御]]すると「'''[[皇太后]]'''」となり、さらにその皇太后は次代の天皇も崩御すると「'''[[太皇太后]]'''」となり終生、内廷皇族に留まる<ref>[[2019年]]([[平成]]31年[[4月30日]])に[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]によって[[退位]]した第125代天皇[[明仁]]の皇后である[[上皇后美智子|美智子]]は、同特例法の定めにより「[[上皇后]]」の称号を使用している。</ref>。また、離婚によって皇籍を離れることはできない。
* 「'''[[皇太子]]'''・皇長孫(皇太子の最長男子)たる[[親王]]、及び天皇より3親等以遠の直系卑属にあたる最長男子たる[[王 (皇族)|王]]」は、即位するまで内廷皇族の身分に留まる。3親等以遠の直系卑属にあたる最長男子たる王は、[[皇位継承]]に伴い直系尊属の天皇より2親等以内に入ると親王に身位が変更され、皇長孫は父である皇太子が即位するとともに皇太子となり独立の生計・組織を有するようになるが、いずれも身分上は内廷皇族のままである。また、皇籍を離れることはできない。天皇の最長男子たる男子が[[薨去]]しており、その男子の最長男子たる皇長孫が[[皇嗣]]([[皇位継承順位]]1位)である場合、その皇長孫は皇太孫となる。
* 「皇太子以外の天皇の男子・皇長孫以外の孫男子たる親王、天皇より3親等以遠の直系卑属にあたる最長男子以外の男子たる王、及び先代以前の天皇の直系卑属で当代の天皇の傍系男子たる親王又は王」は、誕生から独立して宮家を興すまで、内廷皇族の身分に留まる。
* 「'''[[皇太子妃]]'''」は皇太子との婚姻によって内廷皇族に加わる。夫たる皇太子との離婚もしくは夫たる皇太子の薨去を受けての[[皇室会議]]の決定によって皇族の身分を離れない限り、内廷皇族の身分に留まる。皇長孫の妃、及び天皇より3親等以遠の直系卑属にあたる最長男子たる王の妃も同様である。また、皇長孫が皇太孫である場合、その妃は皇太孫妃となる。
* 「[[内親王]]」、及び「[[女王 (皇族)|女王]]」は皇位継承資格・宮家を創設する資格がともにないため、内廷皇族同士での婚姻によって宮家を創設、内廷外の男性皇族との結婚([[親王妃]]、又は[[王妃 (皇族)|王妃]]となる<ref>皇后となるまでは、引き続き元来の身位(内親王、又は女王)も併存(保持)する。</ref>)、又は天皇及び皇族以外の者との婚姻によって[[降嫁]]しない限り内廷皇族の身分に留まる。ただし内親王、及び女王が長期間、内廷皇族の身分に留まる例はごく少ない。
==内廷皇族の変遷(現皇室典範施行以降)==
* オレンジ色の背景は[[天皇]]、水色の背景は[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]を表す(天皇・上皇は皇族ではなく、内廷皇族にも含まれない。)。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!
! colspan="11" | [[昭和]]
! colspan="5" | [[平成]]
! [[令和]]
|-
! style="width:8em" | 内廷皇族
! [[1947年|22]]
! [[1950年|25]]
! [[1951年|26]]
! [[1952年|27]]
! [[1959年|34]]
! colspan="2" | [[1960年|35]]
! [[1964年|39]]
! [[1965年|40]]
! [[1969年|44]]
! [[1989年|64]]
! [[1990年|02]]
! [[1993年|05]]
! [[2000年|12]]
! [[2001年|13]]
! [[2005年|17]]
! [[2019年|01]]
|-
| [[貞明皇后]]
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| [[崩御|崩]] || ||
| style="width:1.3em" |
| style="width:1.3em" |
| || || || || || || || || ||
|-
| [[昭和天皇]]
| bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯
| bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯
| bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯
| 崩 || || || || || ||
|-
| [[香淳皇后]]
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯
| 崩 || || ||
|-
| [[鷹司和子|孝宮 和子内親王]]
| bgcolor="#bcffbc" | ◯
| [[臣籍降嫁|婚]] || || || || || || || || || || || || || || ||
|-
| [[池田厚子|順宮 厚子内親王]]
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| 婚 || || || || || || || || || || || || ||
|-
| [[明仁]](上皇)
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯
| bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯
| bgcolor="aqua" | ◯
|-
| [[常陸宮正仁親王|義宮 正仁親王]]
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| [[宮家|宮]] || || || || || || || || ||
|-
| [[島津貴子|清宮 貴子内親王]]
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| 婚 || || || || || || || || || ||
|-
| [[上皇后美智子]] || || || ||
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯
|-
| [[徳仁]]([[今上天皇]]) || || || || ||
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#e6b422" | ◯
|-
| [[秋篠宮文仁親王|礼宮 文仁親王]] || || || || || || || ||
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| 宮 || || || || ||
|-
| [[黒田清子|紀宮 清子内親王]] || || || || || || || || ||
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| 婚 ||
|-
| [[皇后雅子]] || || || || || || || || || || || ||
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
| bgcolor="#bcffbc" | ◯
|-
| [[愛子内親王|敬宮 愛子内親王]] || || || || || || || || || || || || || ||
| bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯ || bgcolor="#bcffbc" | ◯
|-
!総人数||7||6||5||4||5||6||5||4||5||6||5||4||5||4||5||4||3
|}
== 内廷皇族の歴史 ==
=== 昭和時代前期 ===
[[Image:Showa-family1941 12 7.jpg|thumb|200px|[[1941年|昭和16年]]の天皇一家。ここに写っているうち、天皇を除く全員が内廷皇族に該当する。]]
[[昭和天皇]]の母である[[皇太后節子]]、皇后良子([[香淳皇后]])と所生の皇子女たる[[照宮成子内親王]]、[[久宮祐子内親王]]、[[孝宮和子内親王]]、[[順宮厚子内親王]]、[[継宮明仁親王]]、[[義宮正仁親王]]、[[清宮貴子内親王]]が内廷皇族であった。成子内親王は[[1943年]](昭和18年)[[10月13日]]に[[盛厚王]]との婚姻により、内廷皇族から内廷外皇族に移った(後に東久邇宮家の[[臣籍降下]]により皇族の身分を離れる)。
=== 昭和時代後期 ===
昭和天皇の内廷は大きく変化した。[[1950年]](昭和25年)[[5月21日]]に孝宮和子内親王が[[鷹司平通]]との婚姻により、皇族の身分を離れた。[[1951年]](昭和26年)5月17日には貞明皇后が崩御した。 [[1952年]](昭和27年)[[10月10日]]に順宮厚子内親王が[[池田隆政]]との婚姻により、内廷皇族及び皇族の身分を離れ、一方で[[1959年]](昭和34年)4月10日には[[正田美智子]]が皇太子明仁親王との婚姻により内廷皇族に加わり、[[1960年]](昭和35年)[[2月23日]]に[[浩宮徳仁親王]]が明仁親王第一男子として出生した。同年[[3月10日]]に清宮貴子内親王が[[島津久永]]との婚姻により皇族の身分を離れた。1964年(昭和39年)9月30日には義宮正仁親王が[[津軽華子]]と結婚し[[常陸宮]]を興し独立する。翌[[1965年]](昭和40年)11月30日には第二男子[[礼宮文仁親王]]が、[[1969年]](昭和44年)4月18日には第一女子[[紀宮清子内親王]]が誕生、内廷皇族に加わった。
=== 平成時代〈[[20世紀]](1989年1月7日 - 2000年) 〉===
[[1989年]](昭和64年)1月7日、明仁親王は皇位継承に伴い、内廷皇族ではなくなった。この時点においては明仁の母である皇太后良子(香淳皇后)、皇后美智子、皇太子徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王が内廷皇族であったが、[[1990年]]([[平成]]2年)[[6月29日]]に文仁親王が[[文仁親王妃紀子|川嶋紀子]]との結婚により[[秋篠宮]]を創設し独立、[[1993年]](平成5年)[[6月9日]]には小和田雅子が皇太子徳仁親王との婚姻により内廷皇族に加わり、[[2000年]](平成12年)[[6月17日]]には皇太后良子が崩御に伴い内廷皇族から外れた。
===平成時代〈[[21世紀]](2001年 - 2019年4月30日)〉===
[[2001年]](平成13年)[[12月1日]]に敬宮愛子内親王が徳仁親王第一女子として誕生し内廷皇族に加わり、[[2005年]](平成17年)[[11月15日]]には紀宮清子内親王が[[黒田慶樹]]との婚姻により皇族の身分を離れた。
===令和===
[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月1日]]、徳仁親王は皇位継承に伴い、内廷皇族ではなくなった。前日(平成31年[[4月30日]])まで天皇であった明仁は[[退位]]に伴い[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]]となったものの、天皇に相当する身位として皇族の外におかれた。また、内廷皇族から、皇位継承権を有する親王や王は、現皇室典範の下では初めて不在となった。なお、皇后となった雅子、[[上皇后]]となった美智子は引き続き内廷皇族のままである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[内廷費]]
{{天皇項目}}
{{DEFAULTSORT:ないていこうそく}}
[[Category:日本の皇室]] | 2003-04-11T02:21:41Z | 2023-11-11T15:45:28Z | false | false | false | [
"Template:読み仮名",
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"Template:Familytree/start",
"Template:Familytree/end",
"Template:脚注ヘルプ",
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"Template:天皇項目"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%BB%B7%E7%9A%87%E6%97%8F |
6,482 | アレフ | アレフ、アーレフ (Aleph) | [
{
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"tag": "p",
"text": "アレフ、アーレフ (Aleph)",
"title": null
}
] | アレフ、アーレフ (Aleph) ヘブライ文字の第1文字(א)。「アーレフ」ともいう。
アラビア文字の第1文字「アリフ(ا)」のエジプトなどのアーンミーヤによる発音。
アレフ数 - 数学において無限集合の濃度を表す。
Aleph (宗教団体) - 2000年に発足した宗教団体。オウム真理教の後継団体。
アレフ (企業) - 「びっくりドンキー」「ペペサーレ」「ハーフダイム」などのファミリーレストランを展開する日本の外食産業。
アレフ (コンピレーション・アルバム) - 覚醒工房が1984年(昭和59年)に発表したコンピレーション・アルバム。
Aleph (統合図書館システム) - イスラエルのEx Libris社が開発する図書館システム。
日本アレフ - 東京都港区芝のセンサ製造メーカー。法人番号:8010401123440
資生堂がかつて発売していた男性用化粧品ブランド。
イタリアのユーロビートプロデューサー・シンガーソングライターのデイブ・ロジャースがボーカリストを務めていたディスコバンド。
アトラスのゲームソフト『真・女神転生II』の主人公のデフォルト名。 | '''アレフ'''、'''アーレフ''' (Aleph)
* [[ヘブライ文字]]の第1文字({{Lang|he|[[א]]}})。「アーレフ」ともいう。
* [[アラビア文字]]の第1文字「'''[[ا|アリフ(ا)]]'''」の[[エジプト]]などの[[アーンミーヤ]]による[[発音]]。
* '''[[アレフ数]]''' - 数学において[[無限集合]]の[[濃度 (数学)|濃度]]を表す。
* '''[[Aleph (宗教団体)]]''' - 2000年に発足した宗教団体。[[オウム真理教]]の後継団体。
* '''[[アレフ (企業)]]''' - 「[[びっくりドンキー]]」「ペペサーレ」「ハーフダイム」などのファミリーレストランを展開する日本の外食産業。
* '''[[アレフ (コンピレーション・アルバム)]]''' - [[覚醒工房]]が[[1984年]](昭和59年)に発表したコンピレーション・アルバム。
* [[Aleph (統合図書館システム)]] - イスラエルの{{仮リンク|Ex Libris|en|Ex Libris Group}}社が開発する図書館システム。
* [[日本アレフ]] [https://www.nippon-aleph.co.jp/company/info/] - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]]の[[センサ]]製造メーカー。{{法人番号|8010401123440}}
* [[資生堂]]がかつて発売していた男性用[[化粧品]]ブランド。
* イタリアの[[ユーロビート]]プロデューサー・[[シンガーソングライター]]の[[デイブ・ロジャース]]が[[ボーカリスト]]を務めていた[[ディスコ]]バンド。
* アトラスのゲームソフト『[[真・女神転生II]]』の[[主人公]]の[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]名。
{{Aimai}}
{{DEFAULTSORT:あれふ}} | 2003-04-11T02:38:17Z | 2023-10-31T11:59:26Z | true | false | false | [
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"Template:仮リンク",
"Template:法人番号",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%95 |
6,483 | 上祐史浩 | 上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年〈昭和37年〉12月17日 - )は、日本の宗教思想家で、ひかりの輪代表。
アーレフ(現Aleph・旧オウム真理教)元代表で同宗教法人の責任役員であった。
オウム信者としての名前(ホーリーネーム)は、マイトレーヤであった。
福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)にて九州大学出身で福岡銀行に勤める父と、福岡学芸大学(現:福岡教育大学)出身で教員の母の間に生まれる。父親は最初弁護士を目指していたが、かなわずに銀行員となった。同じ年代で同じ久留米市の生まれでは松田聖子がいる。福岡には4歳まで生活し、父親が東京勤務となったため一家で上京、その後、父親が東京のライターを売る貿易会社に転職するが、父親の女性問題によって両親が別居し、母子2人暮らしとなる(両親が正式に離婚したのは上祐が出家した頃)。父親は離婚後も養育費はきちんと払っていたことを上祐は後に確認している。父親は、その後脱サラしライター分野で起業。小学校から高校まで成績は良かった。なお、「上祐」という苗字は、福岡県を中心に20名ほどいるとしている。
早稲田大学高等学院(早大学院)卒。大学時代、英語会のサークルに所属し、英語ディベート活動の大会で入賞するなど活躍した。修士課程の2年目の1986年、オウム真理教の前身団体で当時ヨガ団体だった「オウム神仙の会」に出会い、8月に入会する。きっかけは『月刊ムー』(学研)での麻原の紹介記事であった。当時、超能力や健康、神秘的な事柄に関心があったが、ヨガには興味はなかった。入会後、泊りがけで参加した丹沢セミナーにおいて、1日10時間にも及ぶ厳しい行法やヨガの呼吸法など、ストイックで過激な修行に強い印象を受けた。その後、数回修行を繰返したところで神秘体験を経験。瞑想しながら体の感覚がなくなるような不思議な感覚や不思議な色や光を見る。最終的にはクンダリニーまで体験。このことで、麻原をヨガの正しい指導者として認識するに至る。
同年4月に特殊法人宇宙開発事業団に入る。宇宙開発事業団に入った理由は、当時の宇宙開発事業団会長がNHK教育テレビジョンで「これからの地球を救うのは宇宙である」と話しているのを聞き、感銘を受けたためである。また、アポロの月着陸を見た世代であり、宇宙が子供時代からの憧れであったためである。しかし、就職する少し前に始めていたオウム神仙の会が面白くなり、出家するため、1か月で退職。上祐が宇宙開発事業団を退職したのは5月だが、オウム真理教は7月から出家制度を基本とする宗教団体に衣替えしていった。出家や退職について母親には反対されたが押し切った。
上祐は、オウムでは、男性の中で佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった。上祐が出家当時の麻原は「極限」という言葉を好み、「6つの極限」を提唱していた。「布施や奉仕の極限」「戒律を守る極限」「忍耐の極限」「精進の極限」「瞑想の極限」「知恵を磨く極限」である。オウム真理教では上祐は早くから認められ、1987年時には既に数百人の会員のうち10人ほどしかいなかった「大師」として認められる。新興宗教ブームの仕掛け人として、当時麻原はしばしばマスメディアにも登場した頃であった。1989年には坂本弁護士一家殺害事件が発生。この事件の直前に上祐は麻原に反対する発言をしたため、石井久子とともに共謀の場から外されたため、この事件には関わっていない。この坂本弁護士の事件の前に、坂本弁護士を殺害したメンバーが中心となり2件の内部事件(オウム真理教男性信者殺害事件)がすでに起こされていた。上祐は、これら3つの事件の全容を知らずに教団のスポークスマンとしてそれらの事件の「もみ消し役」を麻原に命じられた。その際の発言の数々が、マスメディアで「ああいえば、上祐」と言われるきっかけとなる。
1992年12月には、「尊師」に次ぐ位階の「正大師」に昇進。「マイトレーヤ正大師」として1990年の武装化開始後は生物化学兵器開発に関与し、亀戸異臭事件にも参加した。1993年9月にはロシア支部長に就任。
1993年秋から教団ロシア支部に出向。なぜ上祐が指名されたのかは上祐自身分からないというが、メディアでは「左遷説」「擁護説」などが飛び交った。ロシア語はほとんど話せないが、片言のロシア語か、英語-ロシア語の通訳を介して英語で話していた。時には日本語-ロシア語の通訳を介することもあったが、その通訳は、ソ連崩壊前には対日本の諜報部で活躍していた人物であった。
地下鉄サリン事件後には、麻原にロシアから日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。外報部長・緊急対策本部長などの役職でスポークスマンの役割を果たす。得意とする話術や堪能な英語力で教団の疑惑や犯罪容疑に反論することから、「ああいえば、上祐」と揶揄された。1995年10月6日に国土法違反事件で有印私文書偽造などの容疑で逮捕され、懲役3年の実刑判決を受ける。上祐は、サリンの製造技術については、当時アメリカの学者がサリンに関する情報をインターネット上に公開しており、それをネット検索で見付けた土谷正実らが探し出し、試行錯誤の末、製造に成功したと証言している。
1999年12月に広島刑務所を出所して教団に復帰し、2000年2月に「アレフ」(現Aleph)を設立するが、その後、麻原彰晃の妻松本知子と対立し、また、運営方針について反上祐派の反発を受けたことから、2007年5月、別団体として独立、「ひかりの輪」を設立した。
なお、公安調査庁は、上祐が麻原の意思を実現するために“麻原隠し”を徹底し観察処分を免れるための隠蔽工作として別団体を作ったのではないのかという見方をしている。一方、東京地方裁判所は、「原告(※ひかりの輪)の設立は、別団体を組織して、別団体との間で役割分担しながら活動することを求めていた松本(※麻原)の意思に従ってされたものであるとまでは認めることはできない。」と事実認定し(2017年9月25日の判決)、麻原の意思に基づいて設立された団体ではないとしている。
2007年5月7日、麻原の教義を完全排除したとする新団体ひかりの輪を設立、代表に就任。上祐はひかりの輪を「仏教の思想や心理学を学んだり、ヨガの体操や呼吸法を実習したり、聖地巡り(パワースポット、全国各地の神社仏閣、それに付随する自然など)を行っている」と説明している。
公安調査庁は、麻原の影響力を払拭したかのように装うオウム真理教の後継団体であり、麻原の死刑が執行された2018年7月以降も依然として麻原の影響下にあるなど、危険な体質との認識を変えていない。一方、公安調査庁に35年間務めた元公安調査官は、ひかりの輪への監査の結果、ひかりの輪は麻原の影響下になく、危険性はないと2020年9月30日付けでコメントしている。アメリカ国務省も、オウム真理教そのものについて、テロの危険はないとして、1997年以来25年間続けてきた「外国テロ組織(FTO)」指定を2022年5月20日に解除している。 | [
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"text": "早稲田大学高等学院(早大学院)卒。大学時代、英語会のサークルに所属し、英語ディベート活動の大会で入賞するなど活躍した。修士課程の2年目の1986年、オウム真理教の前身団体で当時ヨガ団体だった「オウム神仙の会」に出会い、8月に入会する。きっかけは『月刊ムー』(学研)での麻原の紹介記事であった。当時、超能力や健康、神秘的な事柄に関心があったが、ヨガには興味はなかった。入会後、泊りがけで参加した丹沢セミナーにおいて、1日10時間にも及ぶ厳しい行法やヨガの呼吸法など、ストイックで過激な修行に強い印象を受けた。その後、数回修行を繰返したところで神秘体験を経験。瞑想しながら体の感覚がなくなるような不思議な感覚や不思議な色や光を見る。最終的にはクンダリニーまで体験。このことで、麻原をヨガの正しい指導者として認識するに至る。",
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"text": "地下鉄サリン事件後には、麻原にロシアから日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。外報部長・緊急対策本部長などの役職でスポークスマンの役割を果たす。得意とする話術や堪能な英語力で教団の疑惑や犯罪容疑に反論することから、「ああいえば、上祐」と揶揄された。1995年10月6日に国土法違反事件で有印私文書偽造などの容疑で逮捕され、懲役3年の実刑判決を受ける。上祐は、サリンの製造技術については、当時アメリカの学者がサリンに関する情報をインターネット上に公開しており、それをネット検索で見付けた土谷正実らが探し出し、試行錯誤の末、製造に成功したと証言している。",
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"text": "1999年12月に広島刑務所を出所して教団に復帰し、2000年2月に「アレフ」(現Aleph)を設立するが、その後、麻原彰晃の妻松本知子と対立し、また、運営方針について反上祐派の反発を受けたことから、2007年5月、別団体として独立、「ひかりの輪」を設立した。",
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] | 上祐 史浩は、日本の宗教思想家で、ひかりの輪代表。 アーレフ(現Aleph・旧オウム真理教)元代表で同宗教法人の責任役員であった。 オウム信者としての名前(ホーリーネーム)は、マイトレーヤであった。 | {{存命人物の出典明記|date=2022年10月25日 (火) 20:52 (UTC)}}
{{Infobox オウム真理教徒
|名前= 上祐 史浩
|画像=
|説明=
|生年= {{生年月日と年齢|1962|12|17}}
|生地= [[福岡県]][[三潴郡]][[城島町]]<br />(現・[[久留米市]])
|没年=
|没地=
|出身校= [[早稲田大学大学院理工学研究科]]修士課程
|ホーリーネーム= [[マイトレーヤ]]
|階級= [[正大師]]
|役職= 外報部長<br />緊急対策本部長<br />アーレフ代表
|入信= [[1986年]][[8月]]
|出家= [[1987年]]
|事件= [[亀戸異臭事件]]<br />[[オウム真理教国土利用計画法違反事件|国土利用計画法違反事件]]
|判決= 懲役3年
|現在= [[ひかりの輪]]代表
}}
'''上祐 史浩'''(じょうゆう ふみひろ、[[1962年]]〈[[昭和]]37年〉[[12月17日]] - )は、[[日本]]の宗教思想家で、[[ひかりの輪]]代表。
アーレフ(現[[アレフ (宗教団体)|Aleph]]・旧[[オウム真理教]])元代表で同[[宗教法人#宗教法人の役員|宗教法人の責任役員]]であった<ref>1989年8月29日、東京都に提出された[[宗教法人|宗教法人規則認証申請書]]より</ref>。
オウム信者としての名前([[ホーリーネーム]])は、'''[[弥勒菩薩|マイトレーヤ]]'''であった。
== 概要 ==
[[福岡県]][[三潴郡]][[城島町]](現・[[久留米市]])にて[[九州大学]]出身で[[福岡銀行]]に勤める父と、福岡学芸大学(現:[[福岡教育大学]])出身で[[教員]]の母の間に生まれる。父親は最初[[弁護士]]を目指していたが、かなわずに銀行員となった<ref name="machiroku"/><ref name="psia">{{Cite web|和書|url=http://www.moj.go.jp/psia/20140331.aum_aboutaum.html|title=オウム真理教について|accessdate=2021-05-08|publisher=[[公安調査庁]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190110071409/http://www.moj.go.jp/psia/20140331.aum_aboutaum.html|archivedate=2019-01-10|date=2017年5月24日}}</ref>。同じ年代で同じ久留米市の生まれでは[[松田聖子]]がいる<ref name="machiroku"/>。福岡には4歳まで生活し、父親が東京勤務となったため一家で上京<ref name="machiroku"/>、その後、父親が[[東京]]のライターを売る[[貿易]]会社に転職するが、父親の女性問題によって両親が別居し、母子2人暮らしとなる(両親が正式に離婚したのは上祐が出家した頃<ref name="offreco">[[田原総一朗 オフレコ!]][[2013年]]6月14日放送</ref>)。父親は離婚後も養育費はきちんと払っていたことを上祐は後に確認している<ref name="machiroku" />。父親は、その後脱サラしライター分野で起業<ref name="machiroku"/>。小学校から高校まで成績は良かった。なお、「'''上祐'''」という苗字は、福岡県を中心に20名ほどいるとしている<ref name="machiroku">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.youtube.com/watch?v=06aJKk4dXA8|title=【前編】元オウム真理教 上祐史浩/早稲田大学院からJAXA内定も麻原と出会い教団幹部に|publisher=街録ch-あなたの人生、教えてください-|accessdate=2021-7-24}}</ref>。
[[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田大学高等学院]](早大学院)卒。大学時代、英語会のサークルに所属し、英語ディベート活動の大会で入賞するなど活躍した。修士課程の2年目の[[1986年]]、オウム真理教の前身団体で当時[[ヨガ]]団体だった「オウム神仙の会」に出会い、8月に入会する<ref name="psia" />。きっかけは『[[月刊ムー]]』([[Gakken|学研]])での麻原の紹介記事であった。当時、[[超能力]]や[[健康]]、神秘的な事柄に関心があったが、ヨガには興味はなかった。入会後、泊りがけで参加した丹沢セミナーにおいて、1日10時間にも及ぶ厳しい行法やヨガの呼吸法など、ストイックで過激な修行に強い印象を受けた。その後、数回修行を繰返したところで[[神秘体験]]を経験。[[瞑想]]しながら体の感覚がなくなるような不思議な感覚や不思議な色や光を見る。最終的には[[クンダリニー]]まで体験。このことで、麻原をヨガの正しい指導者として認識するに至る<ref name="machiroku"/>。
同年4月に[[特殊法人]][[宇宙開発事業団]]<ref group="注釈">現:[[独立行政法人]][[宇宙航空研究開発機構]](略称JAXA)。</ref>に入る。[[宇宙開発事業団]]に入った理由は、当時の宇宙開発事業団会長が[[NHK教育テレビジョン]]で「これからの[[地球]]を救うのは[[宇宙]]である」と話しているのを聞き、感銘を受けたためである<ref name="offreco" />。また、[[アポロ計画|アポロ]]の月着陸を見た世代であり、宇宙が子供時代からの憧れであったためである。しかし、就職する少し前に始めていたオウム神仙の会が面白くなり、出家するため、1か月で退職。上祐が宇宙開発事業団を退職したのは5月だが、オウム真理教は7月から出家制度を基本とする宗教団体に衣替えしていった。出家や退職について母親には反対されたが押し切った<ref group="注釈">中学以降両親は別居状態であったため、退職や出家に関して父親に相談をすることはなかったという。</ref>。
上祐は、オウムでは、男性の中で[[岡崎一明|佐伯一明]](後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった<ref name="hikaring"/>。上祐が出家当時の麻原は「極限」という言葉を好み、「6つの極限」を提唱していた。「布施や奉仕の極限」「戒律を守る極限」「忍耐の極限」「精進の極限」「瞑想の極限」「知恵を磨く極限」である。オウム真理教では上祐は早くから認められ、1987年時には既に数百人の会員のうち10人ほどしかいなかった「大師」として認められる。新興宗教ブームの仕掛け人として、当時麻原はしばしばマスメディアにも登場した頃であった<ref name="machiroku"/>。1989年には[[坂本弁護士一家殺害事件]]が発生。この事件の直前に上祐は麻原に反対する発言をした<ref group="注釈">このころ[[サンデー毎日]]をはじめとする[[マスメディア]]によるオウムバッシングが始まり、麻原が「毎日新聞社はけしからん。トラックで突っ込むか」と発言したのに対し上祐は「危険です」と反対した。</ref>ため、[[石井久子]]とともに共謀の場から外されたため、この事件には関わっていない。この坂本弁護士の事件の前に、坂本弁護士を殺害したメンバーが中心となり2件の内部事件(オウム真理教男性信者殺害事件)がすでに起こされていた<ref group="注釈">この際のメンバーに新人2人を加え、坂本弁護士一家殺害事件は実行された。</ref>。上祐は、これら3つの事件の全容を知らずに教団のスポークスマンとしてそれらの事件の「もみ消し役」を麻原に命じられた。その際の発言の数々が、マスメディアで「'''ああいえば、上祐'''」と言われるきっかけとなる<ref name="machiroku"/>。
[[1992年]]12月には、「[[尊師]]」に次ぐ位階の「正大師」に昇進。「マイトレーヤ正大師」として[[1990年]]の武装化開始後は生物化学兵器開発に関与し、[[亀戸異臭事件]]にも参加した。[[1993年]]9月にはロシア支部長に就任<ref name="hikaring"/>。
1993年秋から教団ロシア支部に出向。なぜ上祐が指名されたのかは上祐自身分からないというが、メディアでは「左遷説」「擁護説」などが飛び交った。[[ロシア語]]はほとんど話せないが、片言のロシア語か、英語-ロシア語の通訳を介して英語で話していた。時には日本語-ロシア語の通訳を介することもあったが、その通訳は、ソ連崩壊前には対日本の諜報部で活躍していた人物であった<ref name="machiroku"/>。
[[地下鉄サリン事件]]後には、麻原にロシアから日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。外報部長・緊急対策本部長などの役職でスポークスマンの役割を果たす。得意とする話術や堪能な英語力で教団の疑惑や犯罪容疑に反論することから、「'''ああいえば、上祐'''」と揶揄された<ref name="aaieba" />。[[1995年]][[10月6日]]に[[オウム真理教国土利用計画法違反事件|国土法違反事件]]で[[文書偽造の罪|有印私文書偽造]]などの容疑で[[逮捕]]され<ref group="注釈">彼の逮捕は各局が緊急[[報道特別番組|報道特番]]を編成し全国に伝えられ、[[超力戦隊オーレンジャー]]などが特番の影響受けた。</ref>、[[懲役]]3年の[[実刑]][[判決 (日本法)|判決]]を受ける。上祐は、[[サリン]]の製造技術については、当時アメリカの学者がサリンに関する情報を[[インターネット]]上に公開しており、それをネット検索で見付けた[[土谷正実]]らが探し出し、試行錯誤の末、製造に成功したと証言している<ref name="machiroku"/>。
[[1999年]]12月に[[広島刑務所]]を出所して教団に復帰し、2000年2月に「'''[[アレフ (宗教団体)|アレフ]]'''」(現Aleph)を設立するが、その後、[[麻原彰晃]]の妻[[松本知子]]と対立し、また、運営方針について反上祐派の反発を受けたことから、[[2007年]]5月、別団体として独立、「'''[[ひかりの輪]]'''」を設立した。
なお、[[公安調査庁]]は、上祐が麻原の意思を実現するために“麻原隠し”を徹底し観察処分を免れるための隠蔽工作として別団体を作ったのではないのかという見方をしている<ref name="psia" />。一方、東京地方裁判所は、「原告(※ひかりの輪)の設立は、別団体を組織して、別団体との間で役割分担しながら活動することを求めていた松本(※麻原)の意思に従ってされたものであるとまでは認めることはできない。」と事実認定し(2017年9月25日の判決)、麻原の意思に基づいて設立された団体ではないとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://joyu.jp/hikarinowa/aum/08/0040.html |title=ひかりの輪への公安調査庁の観察処分を取り消した東京地裁判決(2017.9.25)について |access-date=2022-10-09 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。
== ひかりの輪 ==
[[2007年]][[5月7日]]、麻原の教義を完全排除したとする新団体ひかりの輪を設立、代表に就任。上祐はひかりの輪を「仏教の思想や心理学を学んだり、ヨガの体操や呼吸法を実習したり、聖地巡り(パワースポット、全国各地の神社仏閣、それに付随する自然など)を行っている」と説明している<ref name="machiroku"/>。
[[公安調査庁]]は、麻原の影響力を払拭したかのように装うオウム真理教の後継団体であり、麻原の死刑が執行された2018年7月以降も依然として麻原の影響下にあるなど、危険な体質との認識を変えていない<ref name="moj">{{Cite web|和書|url=https://www.moj.go.jp/psia/20140331.aum.top.html|title=公安調査庁公式サイト|accessdate=2021-7-24}}</ref><ref name="youtubekoan">{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=Ca8RzBDB4dA|title=【日本語字幕】「あのテロ事件から四半世紀~今も変わらないオウム真理教~」(本編)YouTube 公安調査庁宣伝動画|accessdate=2021-7-24}}</ref>。一方、公安調査庁に35年間務めた元公安調査官は、ひかりの輪への監査の結果、ひかりの輪は麻原の影響下になく、危険性はないと2020年9月30日付けでコメントしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://joyu.jp/hikarinowa/overview/02_2/0072.html |title=ひかりの輪の健全性を認めた外部監査委員会の報告 |access-date=2022-10-09 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。アメリカ国務省も、オウム真理教そのものについて、テロの危険はないとして、1997年以来25年間続けてきた「外国テロ組織(FTO)」指定を2022年5月20日に解除している<ref>{{Cite news|title=米国務省 オウム真理教の「外国テロ組織」指定を解除|newspaper=NHK|date=2022-05-21|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220521/k10013636731000.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220528000833/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220521/k10013636731000.html|archivedate=2022-05-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://joyu.jp/hikarinowa/aum/021/0060_1.html |title=米国務省による評価と決定 |access-date=2020-10-09 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。
== 経歴 ==
=== 1980年代 ===
;入信以前
:[[宇宙戦艦ヤマト]]と[[江川卓 (野球)|江川卓]]と[[超能力]]が好きな少年だった<ref name="anokoJY">[[有田芳生]]と[[女性自身]]「シリーズ人間」取材班『「あの子」がオウムに!』p.76-103</ref>。オウム時代とは対照的に、成人前の上祐はあまり目立たない方であった。父親は事業に失敗し家に帰らず母子家庭状態となり、上祐が駅や公園で呆然としていた姿も目撃されている<ref name="anokoJY" />。
:[[早稲田大学]]在学中、サークルで[[ディベート]]の技術を学ぶ。ディベートサークルの活動を通じて、[[苫米地英人]]と面識があった<ref>[[ミランカ]]『博士も知らないニッポンのウラ』、[[苫米地英人]]『洗脳原論』(春秋社、2000年)</ref>。ただし苫米地とディベートの試合をしたことはないとのこと<ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.256</ref>。
;入信
:大学時代より[[超常現象]][[チベット仏教]]教団活動、[[ヨーガ]]などに強い興味を持っていたが、オカルト雑誌『[[トワイライトゾーン (雑誌)|トワイライトゾーン]]』に掲載されていた[[麻原彰晃]]の[[アーサナ]]解説記事をきっかけに、[[1986年]]に、同誌で紹介されていた麻原彰晃主催で後のオウム真理教となる[[オウム神仙の会]]に入会する<ref>オウム出版『マハームドラー』 p.108</ref>。麻原の空中浮揚写真は長年信じていた<ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.62</ref>。
: 早稲田大学大学院を出た後、[[特殊法人]][[宇宙開発事業団]]に就職するも1ヶ月で退職し出家、ニューヨーク支部建設に携わる。出家番号は13。
: ニューヨークでは入信者を増やすことができず、定期的に入信状況を伝える都沢からの電話で手厳しい叱咤激励の言葉をかけられ、プライドを傷つけられた。1988年にニューヨーク支部の閉鎖が決まると、麻原から「今後海外支部を担当することはないだろう」と言われる<ref>[[島田裕巳]]『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』([[トランスビュー]]、2001年)</ref>。
;恋人を捧げる
: 上祐の恋人の[[都沢和子]]も共に出家信者となった。入会後は都沢は麻原に惹かれて上祐から離れている面があったが、尊師のマハームドラー(試練)だと認識し理解することで乗り越えられたという<ref>オウム出版『マハームドラー』 p.129</ref>。1995年に[[岩上安身]]のインタビューに答えて、「尊師は煩悩を遮断する力が強いので誰とセックスしてもいい」「彼女(都沢)は麻原尊師と融合するならば、それはあの、精神的ステージが高くなるんで、私と融合するよりいいと思うんで、私は恋人を麻原尊師に捧げたいと思います。私はそういうのは負担ですので。」と語っている<ref name="iwkm">[https://web.archive.org/web/20071204150726/http://www.hh.iij4u.or.jp:80/~iwakami/aum1.htm 上祐インタビュー(1995.6) ] [[岩上安身]]ウェブサイト(InternetArchive)</ref>。
;坂本弁護士との接点
: [[1989年]]、[[青山吉伸]]、[[早川紀代秀]]らと共に[[坂本堤]]弁護士と訴訟回避に向けた交渉を行ったり、[[TBSテレビ|TBS]]に坂本堤弁護士インタビューの放送中止を要求する([[TBSビデオ問題]])などしていたが、未成年だけでなく上祐のような成人も親元に戻るべきとする坂本と見解の相違が生じて決裂した。
: 麻原から(坂本の名前は出さずに)教団に批判的な存在を[[ポア (オウム真理教)|ポア]](殺害)することについて一度意見を求められた際に強く反対しており、そのため、坂本弁護士の殺害に関しては、同じく反対していた[[石井久子]]や上祐を除いて、麻原は殺害を謀議、[[坂本堤弁護士一家殺害事件]]を起こす。暴力行為ではなく自らの広報活動によって批判による影響を和らげるべきだと考えていた上祐は、教団が起こした事件だと察した際には不満を感じ麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。
: 後年、上祐は[[テレビ朝日]]の取材の中で(その当時は自分がまだ知らなかったオウムの犯罪を考慮すると)坂本に先見の明があったと思うと証言している。一方、[[早川紀代秀]]は坂本弁護士事件について上祐や[[石井久子]]、[[松本知子]]は知っていたと証言している<ref>降幡賢一『オウム法廷11』 p.245</ref>。
=== 1990年代 ===
; 衆議院選挙オウム出馬
: [[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙]]に、[[真理党]]として教団幹部の立候補にも[[岐部哲也]]と共に最後まで反対していたと伝えられている<ref name="kaitai">『オウム解体』宮崎学vs上祐史浩([[雷韻出版]] [[2000年]][[5月1日]])</ref>。選挙で上祐は[[東京都第5区 (中選挙区)|東京5区]]から立候補したが、最下位で落選した。この選挙が惨敗に終わり、麻原が大勢の信者達を前に話した「[[国家権力]]によって票のすり替えが行われた」という[[陰謀論]]にもただ一人異議を唱え、「自分独自の電話調査では麻原彰晃に投票すると言った[[有権者]]は100名中誰もいなかった」と発言。一人で反駁を続けたため、麻原は選挙結果の調査をするが、麻原の考えは変わらなかった<ref name="hikaring" />。
; BC兵器開発
: [[オウム真理教の兵器]]開発にも携わっており、[[生物兵器]][[オウム真理教の兵器#散布装置|風船爆弾]]開発、[[オウム真理教の国家転覆計画#ホスゲン爆弾計画|ホスゲン爆弾]]計画、第7[[サティアン]][[サリンプラント]]計画、[[亀戸異臭事件]]に関わっていた。
:特に1993年6月~7月の[[亀戸異臭事件]]では[[炭疽菌]]培養のまとめ役を担当した。[[1993年]]1月([[亀戸異臭事件]]の前)に行われた以後のテロ活動に関する謀議では、参加はしていたものの肯定的でなかったことから麻原に叱責を受けたと語るが<ref name="hikaring">{{Cite web|和書|url=http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/cat215/post-1.html|title=【2】オウムの犯罪と武装化:1988年~1995年|accessdate=2021-05-08|publisher=[[ひかりの輪]]|author=上祐史浩|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210111000051/http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/cat215/post-1.html|archivedate=2021-01-11|work=上祐史浩個人の総括}}
</ref>、[[野田成人]]によると、どうせ失敗するのではと考える他の信者をよそに「絶対にこのプロジェクトは成功させるからな!」と張り切っていたという<ref>[[野田成人]]ブログ「[http://alephnoda.blog85.fc2.com/blog-entry-1105.html 報道4]」 2018/2/12閲覧</ref>。
; ロシア支部へ
: [[1992年]]より[[オウム真理教モスクワ支部|ロシア支部]]に派遣されている<ref name="一橋81">『オウム帝国の正体』 p.81</ref>。[[早川紀代秀]]曰くロシアでの上祐は「[[グル]]のようで、小麻原みたいになっていた」<ref>江川紹子『魂の虜囚』 p.429</ref>。[[1994年]]以降は麻原に「[[日本]]にいると身に災いが及ぶ」と言われほとんどを[[ロシア連邦]]で過ごしていたが、一時的に日本に戻った際に教団による薬物を使った[[オウム真理教の修行|イニシエーション]]を受け、麻原への[[帰依]]を深めることとなった<ref name="hikaring" />。
: ロシア支部への派遣の背景には、次のような事情があったと元幹部の[[富田隆]]は述べている。「上祐の頭の良さや能力からいえば、麻原の側近として常に側に置いておいてもよいのに、海外支部などの遠方に追いやられていることが本当に多かったのです」「(上祐は)麻原のイエスマンになり切れずにいました」「麻原に忖度しながらも麻原に思いをぶつけたり、自分の意見をいったりしていた」「麻原に可愛がられている反面、煙たがられてもいました」「物理的に遠いところに上祐を置いておいて、上祐に口を挟まれないようにしたうえで、麻原は好きなことをやっていたのです。その反面、麻原や側近の手に余る事態が生じると、カヤの外だった上祐を呼び戻して、正確な情報を与えないままで処理させることもよくありました」<ref>{{Cite book|和書|title=オウム真理教元幹部の手記|date=|year=|publisher=青林堂|pages=53-54|author=富田隆}}</ref>
; 地下鉄サリン事件後
: [[1995年]]、[[地下鉄サリン事件]]が発生して間もなく、麻原から「広報活動をしてほしい」との電話が届き、[[日本]]へ帰国する。
: サリン事件後、教団の広報責任者として、[[青山吉伸]]や[[村井秀夫]]らと共に、連日朝から晩までテレビの[[ワイドショー]]や[[ニュース番組]]やラジオに出演し、オウムに批判的なあらゆる意見に対して徹底的に反論、数々の疑惑事件は[[創価学会]]や[[アメリカ合衆国軍|米軍]]、[[自衛隊]]を初めとする国家権力の陰謀であり、[[サリン]]被害を受けているのはオウムだとの見解を示し続けた。海外メディアに対しても堪能な[[英語]]で反論した<ref group="注釈">この際、外国人記者から「You're a liar(あなたは嘘つきだ)」と言われて非難されている。</ref>。なお、青山も村井も上祐も[[サリン]]に関わっていた。
:更に、[[記者会見]]の場でも才能を発揮。容疑がいわゆる[[微罪逮捕]]や[[別件逮捕]]が横行した際は、怒りをあらわにし、机に拳を叩きつけながら[[日本の警察|警察]]や[[報道機関]]を批難した。逮捕容疑の一覧を記した[[フリップボード|フリップ]]を公表すると「まぁただ私はあまりごちゃごちゃ言いたくないんですよ、これ(フリップ)見たら分かるでしょう? [[馬鹿]]らしいですよこんなの!」と言いながらフリップを投げたり、[[村井秀夫刺殺事件]]直後の会見では、記者が今度の事件で[[麻原彰晃]]代表が会見を開くのかと質問したところ、「麻原を[[殺人|殺す気]]ですか今度は? 麻原を殺す気ですか? 今度は!? 尊師を今度は殺すんですか!?」と激昂した<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=yu83LkLsly4 オウム真理教 上祐史浩 外国人記者会見6/8 日本外国特派員協会 (日本外国特派員協会)]</ref>。
;ああいえば上祐
: 当時、連日メディアに出演し見せた言論[[パフォーマンス]]から、ジャーナリストの[[二木啓孝]]に「ああ言えばこう言う」を捩った'''「ああ言えば上祐」'''と命名され<ref name="aaieba">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/99564?page=1|title=「ああ言えば、上祐」の言葉を作った記者が語る 死刑執行で神格化された麻原彰晃の危険性|accessdate=2021-05-08|publisher=[[AERA dot.]]|author=西岡千史|date=2018-08-06}}</ref>、'''「上祐ギャル」'''と呼ばれる熱狂的な追っかけの女性ファンも登場、[[ファンクラブ]]ができるなど一躍話題の人となった<ref>[http://biz-journal.jp/2012/09/post_688.html 元オウム追っかけギャルたちが語る、幹部たちとの思い出 | ビジネスジャーナル]</ref>。上祐ギャルからは「母性本能をくすぐる」「愛人になってもいい」「オウムを出てきちんとした宗教団体をつくったら、誘われて入っちゃう」「(神秘性を保つために)[[村井秀夫刺殺事件|村井さんみたいに殺されたほうがいいのかも]]」と人気があった<ref name="anokoJY" />。
:[[都沢和子]]とともに早稲田大学英語部(ESA)で[[ディベート#教育ディベート(狭義のディベート)|教育ディベート]]の経験者であったことが[[マスメディア]]に報じられ、[[ディベート]]が相手を言い負かす技術として注目を集めることとなった。ディベートの達人として、上祐は通常なら到底弁護不可能な無理のあることも言い込める技量があった。また、上祐の女性運転手も美人で話題となった(元[[六本木]]の[[ホステス]]。[[1995年]]に元信者への逮捕監禁致傷の疑いで逮捕され、懲役2年、執行猶予4年の判決を受けた)<ref>毎日新聞 1997年2月5日 夕刊9面</ref><ref>{{Cite web|和書|last=|first=|author=|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07070640/?all=1&page=3|title=「オウム麻原」死刑執行 事件で注目された女性信者たちの“その後”|pages=|work=デイリー新潮|publisher=[[新潮社]]|date=2011-12-8|accessdate=2018-7-15|language=}}</ref>。
; 懲役3年の実刑判決
:[[熊本県]][[阿蘇郡]][[波野村 (熊本県)|波野村]](現在の[[阿蘇市]]波野地区)の土地取得をめぐる[[オウム真理教国土利用計画法違反事件|国土利用計画法違反事件]]で、[[1995年]][[10月6日]]に[[逮捕]]。'''[[偽証の罪|偽証]]'''と'''[[文書偽造の罪|有印私文書偽造・同行使の罪]]'''で10月28日に起訴される。
:麻原の側近と目される教団幹部であったが、一連の[[オウム真理教事件]]では1992年以降はロシア支部にいたこともあり、教団本部の[[共謀]]や実行の場にいなかったことや、[[サリンプラント建設事件]]では建設・警備関係者のみが起訴されたこと<ref>「オウム サリン量産計画 上祐被告関与の疑い」 読売新聞 1995年12月13日</ref>、[[亀戸異臭事件]]などの[[生物兵器]]テロでは、有毒な炭疽菌が生成・噴霧されずに被害が出なかったため[[不能犯]]とされたことなどで、重要犯罪事件で[[起訴]]はされなかった。
:法廷では麻原について「麻原尊師はあらゆる意味で導き手であり、救世主であり、私のすべて」「サンキュー・アンド・グッドバイ」と語った<ref>降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.205</ref><ref>江川紹子『魂の虜囚』 2000年 p.86</ref>。
:その後、'''[[懲役]]3年の[[実刑]][[判決 (日本法)|判決]]'''を受け、[[広島刑務所]]に[[収監]]された。
=== 2000年代 ===
;シガチョフ・チェイス
: [[1999年]]([[平成]]11年)[[12月29日]]の広島刑務所出所後も、教団で有力者とみられていた。[[公安警察]]から当初は教団再活性化の危険性があるのではないかと危惧されていた。
: しかし、[[2000年]](平成12年)に現地で非合法化された[[ロシア連邦|ロシア]]のオウム信者が、日本でのテロによる麻原奪還・ロシア脱出を計画していることを知ると、ロシアの警察と警視庁公安部に通報し、信者も使って、その阻止に動いた。その中で[[東京入国管理局]]に該当信者の入国を認めないよう要請するが、東京入管は違法性がないとして入国させたため、自分に近い信者をロシア信者の監視に派遣した([[シガチョフ事件]])。
; 軟禁された代表
: [[2002年]](平成14年)に、[[アレフ (宗教団体)|アーレフ]]で代表となるも、「[[オウム真理教事件]]を反省し、[[麻原彰晃]]の影響を排除する」という改革を打ち出したため主流派(麻原回帰派)の強い反発を受け、翌年にも事実上失脚。「修行」と称して自室に軟禁されるようになる。なお、この期間にオウムの分派の[[ケロヨンクラブ]]で傷害致死事件が発生し、グループ内部から上祐らアーレフ幹部に告発があったが、その際も告発した信者に、警視庁に告発するように促している。
; 上祐派として分裂
: [[2006年]](平成18年)[[4月30日]]、[[TBSテレビ|TBS]]の「[[jNN報道特集|報道特集]]」が、新教団立ち上げ計画を明言していた事を報道。この時期、[[千葉県]][[習志野市]]のマンションを「[[上祐派]]」の道場として使用しながら活動するも、管理者からは立ち退きを要求されており、同年9月には立ち退きを完了。[[東京都]][[世田谷区]][[烏山 (世田谷区)|南烏山]]の[[マンション]]を拠点とした。
: 公式サイトも教団から分離して、「脱麻原」(後述)を旨とする新教団として活動、その後も内部分裂が進み、[[2007年]](平成19年)[[3月8日]]にアーレフを正式脱退。翌[[3月9日|9日]]、[[mixi]]のアカウントを取得したことを、公式[[ウェブサイト|サイト]]の[[ブログ]]で公表した。上祐のマイミクシィ(申請含む)は、わずか2日で上限の1,000人に達した。
:[[5月7日]]に、麻原の教義を完全排除したとする新団体「[[ひかりの輪]]」を設立して、代表の座についた。そして、[[2009年]]には、ひかりの輪として、オウム事件の被害者に賠償金を支払う契約を締結して<ref>{{Cite web |url=https://joyu.jp/hikarinowa/aum/02/0002_1.html |title=オウム事件被害者組織と締結した賠償契約の内容 |access-date=2023-12-26 |publisher=ひかりの輪}}</ref>、履行を続けている<ref>{{Cite web |url=https://joyu.jp/hikarinowa/aum/02/0004_2.html |title=被害者賠償金のお支払いについて〈お支払いの最新状況〉 |access-date=2023-12-26 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。
=== 2010年代 ===
;オウム時代の回想
:[[2010年]][[12月3日]]号の[[フライデー (雑誌)|FRIDAY]]誌上にて、麻原彰晃はカリスマ的な能力はあるが、それが人格と一致せず、誇大妄想と被害妄想の精神病理的な人物と考えていると述べた。その麻原の人格の根源は、幼い頃からの親・社会に対する反感・逆恨みではないかと評した。この麻原への批判については、ブログでも詳細を明らかにしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/hikari-sokatsu/entry-12735142419.html?frm=theme |title=麻原彰晃とは何者だったか |access-date=2022-10-09 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。さらに、その後、大手出版社等から刊行した書籍でも明らかにしている<ref>{{Cite web |url=https://joyu.jp/interview/01_2/1496.html |title=著作一覧 |access-date=2023-12-26 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。
:また、ロシアに行く前から、オウム真理教が[[サリン]]を研究していた事実を承知していたが、当時反対しきれなかったのは、それは信者にとって、一般人と同様に麻原彰晃に[[ポア (オウム真理教)|ポア]]されることを意味するからだと述べた<ref name="HIKARINOWA" />。
: 「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だと嘘をつき続けていた。自分は嘘吐きだった」と告白した。また、サリン事件は教団が起こしたものだと麻原から伝えられたのは帰国して1ヶ月後([[村井秀夫刺殺事件]]の後)で、一連の事件の全貌を知ったのもその頃だったと語っている。
: この上祐の回想を裏付けるように、オウム元幹部の富田隆は、次のように著書で明らかにしている。「つまり上祐は麻原とその側近が、食い荒らしきったところの後処理係のような面があったと思います。麻原も取り巻きも、詳しい事情を話してしまうと上祐に呆れられ馬鹿にされかねないので、中途半端な情報しか与えなかったのでしょう。(中略)地下鉄サリン事件のときにも、当時の報道を見る限り、ロシア支部から上祐が戻されたのは、事件後のようでした。オウムのスポークスマンとして活動している姿を見て、ひょっとしたら今回も正確で詳しい情報を与えられないまま仕事をさせられているのではないかと思いました。なぜなら上祐が屁理屈をこねるときは、正確な情報が少ないときだからです。正確な情報さえあれば、上祐の能力なら、もっと上手く処理できただろうにと思った瞬間が何度かあったように、私は思いました。そんな上祐なので、麻原の家族やオウム原理主義者の集うAleph(アレフ)と決別したのでしょう。」<ref>{{Cite book|和書|title=オウム真理教元幹部の手記|publisher=青林堂|pages=54-55|author=富田隆}}</ref>
:また村井刺殺事件に関しては、後に雑誌『[[フライデー (雑誌)|FRIDAY]]』[[2010年]][[12月3日]]号誌上の対談にて「[[覚醒剤]]取引などで関係の深かった[[暴力団]]による口封じ説、[[村井秀夫]]氏が生きていることで、第2・第3の[[サリン]]事件が起きる可能性があったために、当局が起こした謀略説などがあるが、予言を実現させるためにオウム真理教が行った[[自作自演]]の可能性があると感じている」と発言している<ref name="HIKARINOWA">[http://hikarinowa.net/public-info/pressreport/2010/friday2010123.html ひかりの輪広報部(2011年01月19日)]</ref>。『終わらないオウム』で実行犯の[[徐裕行]]と対談した[[2013年]]以降は「徐氏に会って、あれは単独犯だと感じた。彼の巨悪のオウムを倒すという義憤によるものです。 背景にオウムも暴力団も関係していないと思う」と単独犯説を主張するようになった。『田原総一朗 オフレコ!スペシャル』(2013年[[6月14日]])で上祐と対談した田原総一朗はこの主張に対して「本当かな?」「彼(徐裕行)にとって悪なんかあるのかな」と疑問を投げかけている。
;菊地直子による批判に回答
:[[2012年]][[6月19日]]号の『[[SPA!]]』のインタビュー記事で、上祐が「[[菊地直子]]は[[サリン]]生成に関与し、[[刑事責任]]を負った」と語ったことに関し、菊地は事実ではないと[[東京拘置所]]内から手紙で上祐宛に撤回するよう要請したが、返事はなかった。ただし、上祐のブログの回答によれば、週刊誌の記事は上祐のインタビューを編集したもののために誤解が生じる文書となっているが、記事の中で「刑事責任を負った」とした主体は、菊池を指したものではないという真意を説明した。
:また、菊地がサリン生成に関与したかどうかは、生成に関与した[[遠藤誠一]]、[[土谷正実]]らに聞けば分かるにもかかわらず、それをせず捜査機関の情報(=[[マスメディア]]の報道)を鵜呑みにして話したり、菊地は上祐ともほとんど話したことがないにもかかわらず、菊地の性格についても触れたりしている態度を[[2018年]][[4月13日]]付の[[ブログ]]中で批判している<ref name="hositakusan2018.04.13">[http://hositakusan.jugem.jp/ 上祐史浩さんのSPA!インタビュー記事について 2018.04.13 Friday 00:17]</ref>。
;麻原の死刑執行
:2018年に[[オウム真理教事件]]の刑事裁判が終結し、麻原死刑執行間近との噂が流れたが、麻原の死刑執行については賛成を表明した<ref>[https://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-12372649593.html 麻原の死刑執行はアレフを抑制して再発防止の決め手に | 上祐史浩]</ref>。同年7月6日に麻原の死刑が執行されると、上祐は同日中に会見を開き「私も教団で重大な責任があった。被害者遺族に深くおわびしたい」と述べるとともに、麻原に対しては「かつてのような思いはない」とした<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL763HWKL76UTIL00S.html?iref=comtop_8_01|title=上祐史浩氏が会見 「私も教団で重大な責任があった」|newspaper=朝日新聞|date=2018-07-06|accessdate=2018-07-06}}</ref>。
;女性幹部信者殺害事件の目撃を認める
:2018年7月11日、[[新潮社]]の[[週刊新潮]]で、上祐が[[オウム真理教女性信者殺害事件|女性信者殺害事件]](立件なし)の場に同席し、殺害の光景を目撃していたことを報じた。上祐もこれを認めた<ref>[http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3417935.html TBS NEWS オウム元幹部・上祐氏「松本元死刑囚らが女性信者殺害を目撃」]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2018/07250557/?all=1&page=1|title=オウム時代の「女性信者殺害」を隠蔽! 「上祐史浩」に教祖の資格はあるか?|work=デイリー新潮|publisher=新潮社|accessdate=2018-07-27|date=2018-07-26}}</ref>。
{{main|オウム真理教女性信者殺害事件#事件の発覚}}こうした2018年の麻原の死刑執行や新たな事件の判明等により、オウム事件への総括をより深く求められるようになったことから、その後は、麻原やオウム真理教の教義を反省・総括したとする内容の談話を、マスコミやインターネット番組に出演して公表したり<ref>{{Cite web |url=https://joyu.jp/interview/02_1/1550.html |title=マスコミ・ネットへの出演等の一覧 |access-date=2023-12-27 |publisher=ひかりの輪}}</ref>、有識者と対談したりして公表し続けている<ref>{{Cite web |url=https://joyu.jp/interview/03_1/1530.html |title=トークイベントでの対談・講演等の一覧 |access-date=2023-12-27 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。
== エピソード ==
=== 思想 ===
*「2000年以降は[[水瓶座]]の時代で、宗教と科学が融合した霊的科学文明が到来とする」といった趣旨の発言がある<ref name="aqua">[https://web.archive.org/web/20051027095806/http://www.aleph.to:80/newcentury/index.html 新世紀アクエリアスの宗教革命] アーレフ公式サイト(InternetArchive)</ref>。
*[[虹]]が好きで、虹を神聖なものとして崇拝している<ref>上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.199</ref>。アレフ代表就任のときにも[[雷]]や[[虹]]が出て祝福してくれたという<ref>[https://web.archive.org/web/20020802070846/http://www.aleph.to:80/seija/seitaisi/episodes/20020215.html マイトレーヤ正大師のエピソード<代表就任にあたって 神々の祝福が舞い降りた>]アレフ公式サイト(InternetArchive)</ref>。
*幼少期に好きだった作品として[[宇宙戦艦ヤマト]]、[[バビル2世]]、[[ウルトラシリーズ|ウルトラマンシリーズ]]、[[機動戦士ガンダム]]を挙げている<ref name="iwkm"/>。
*麻原が好んだ世界情勢予言を行っていた<ref>[https://web.archive.org/web/20060507035444/http://www.aleph.to:80/saint/seitaisi/index.html 聖者 【菩薩---慈愛の救済者 マイトレーヤ正大師】] アーレフ公式サイト(InternetArchive)</ref>。
*[[妖精]]の存在を信じている。植物は妖精が管理していると語る<ref>[https://web.archive.org/web/20040426024138/http://www.joyu.to:80/qa/10religion/003.html Q 植物にメッセージが伝わる?] 上祐史浩公式サイト(InternetArchive)</ref>。
*オウム真理教・アレフ(aleph)を脱会して、ひかりの輪を設立してからは、「宗教ではなく宗教哲学として:理性で宗教を解釈し活用する」「心理学・物理学も学び、東西の思想哲学の融合を目指す」などとして、「盲信・強制を排除した思想・哲学・宗教への姿勢」を強調している<ref>{{Cite web|和書|url=https://joyu.jp/hikarinowa/overview/05/0041.html |title=ひかりの輪とは――東西の幸福の智恵、思想哲学の学習教室 |access-date=2022-10-09 |publisher=ひかりの輪}}</ref>。
=== その他 ===
*[[しげの秀一]]の漫画作品『[[頭文字D]]』の登場人物である「[[頭文字Dの登場人物#赤城レッドサンズ(RedSuns) / プロジェクトD(PROJECT.D)|'''史浩'''(ふみひろ)]]」に関して、名前や容姿から上祐をモデルとしているという諸説が存在する。また、同作の後継作である『[[MFゴースト]]』においても「[[MFゴースト#上有 史浩|上有 史浩('''じょうゆう ふみひろ''')]]」という人物が登場しており、『頭文字D』史浩と同一人物であることが示唆されている<ref>[https://twitter.com/joyu_fumihiro/status/1350193755840630784 上祐史浩さん(@joyu_fumihiro)からのツイート](2021年1月16日)</ref>。
**上祐も自身の[[Facebook]]でこの件に触れており、「文字の違いはあるが、そもそもこの発音の氏名を持つ人間は日本に一人しかいない」とした上で、劇中での史浩の役職がチームの「'''外報部長'''」であり、上祐のオウム真理教における役職名と同じであることを挙げている。その上で「当時の社会状況を考えると、このキャラが一切炎上を経験しなかったことは非常に不思議」と綴っている。なお、上祐自身は『頭文字D』のことを知らず、[[レーシングカー]]好きの知人から聞いて初めて知ったとしており、知人からは上祐本人が25年間この事実を知ることがなかったことを驚かれたという<ref name="joyu">{{Cite web|和書|url=https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3837155193028857&id=100002032418376|title=上祐史浩Facebook - 私とアニメのシンクロニシティ第2回 頭文字Dの「上有史浩」:25年後に知った自分をパクったキャラ|accessdate=2022-10-21}}</ref>。
==人物評==
*「ディベートはうまいが、相手を言い負かそうとばかりするので、交渉は下手」 - 元信者<ref>江川紹子『魂の虜囚』p.118</ref>
*「すごいヤツと聞いていたのに、対決すると存在感、威圧感がまるで感じられない」 - [[有田芳生]]<ref>『中日新聞』1995年5月31日</ref>
== 略歴 ==
* [[1962年]]12月 - [[福岡県]]に生まれる。
* [[1969年]] - 小学校2年の時に[[東京都]][[世田谷区]]へ転居。
* [[1978年]] - 世田谷区立池尻中学校(現世田谷区立三宿中学校)卒業、[[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田大学高等学院]]進学。
* [[1981年]] - 早稲田大学高等学院卒業、[[早稲田大学]][[理工学部]]電子通信学科に入学。
* [[1985年]] - 早稲田大学理工学部電子通信学科卒業、早稲田大学大学院理工学研究科に進学。[[人工知能]]を専攻。
* [[1986年]] - [[オウム神仙の会]]に入会。
* [[1987年]] - 早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了、工学修士、[[宇宙開発事業団]](現・[[宇宙航空研究開発機構]])に就職。1ヶ月の研修期間終了と同時に退職し同年5月1日付でオウムの出家信者となる。クンダリニーヨーガの成就を認定され'''大師'''となる。
* [[1988年]] - ニューヨーク支部に派遣され、翌年帰国。
* 1989年 - マハームドラーの成就を認定され'''正悟師'''となる。
* [[1990年]] - [[第39回衆議院議員総選挙]]で[[真理党]]から[[東京都第5区 (中選挙区)|東京5区]]で立候補したが落選。風船細菌爆弾開発を担当。
* [[1992年]] - ロシア支部に派遣される。大乗のヨーガの成就を認定され'''正大師'''となる。
* [[1993年]] - [[亀戸異臭事件]]、[[サリンプラント]]に関わる。同年秋にロシア支部長となる。
* [[1995年]]3月 - [[地下鉄サリン事件]]発生後ロシアから帰国(この事件では訴追されていない)。
* 1995年[[10月7日]] - [[逮捕]]される([[国土利用計画法|国土法]]違反などで[[懲役]]3年の実刑)。
* [[1999年]][[12月29日]] - [[広島刑務所]]を出所。
* [[2002年]][[1月29日]] - 「[[アレフ (宗教団体)|アーレフ]]」教団代表に就任。
* [[2003年]]10月 - 麻原回帰派の反発により教団運営から隔離され、自室にこもる。
* [[2007年]][[3月8日]] - アーレフを脱退し、松本[[死刑囚]]の教義を完全排除した新団体を設立すると発表。
* 2007年[[5月7日]] - 松本死刑囚の教義を完全排除した新団体[[ひかりの輪]]を設立、代表に就任。万物が一体であり、オウムのように社会を善悪の二元に分けることを否定する、「'''一元思想'''」を提唱している<ref name="hikarinowa">[https://joyu.jp/hikarinowa/buddhism/12/0061.html ひかりの輪公式サイト"宗教と科学の統合"]</ref>。
* [[2009年]][[7月6日]] - ひかりの輪の代表として、オウム真理教事件の被害者団体(オウム真理教犯罪被害者支援機構)と賠償契約を締結した。
* [[2013年]][[12月31日]] - ひかりの輪の代表として、宗教団体ではなく、思想哲学の学習教室に改革する規約を採択した。
== 著書 ==
* 『覚醒新世紀』[[東山出版]](2002年)ISBN 483440076X
* 『上祐史浩が語る―苦悩からの解放』東山出版(2002年)ISBN 4834400727
* 『上祐史浩が語る〈2〉心の解放と神秘の世界』東山出版(2003年)ISBN 4834400786
* 『オウム事件 17年目の告白』[[扶桑社]](2012年)ISBN 978-4594067496
* 『終わらないオウム』[[鹿砦社]]、上祐史浩, [[鈴木邦男]],[[徐裕行]]の共同著者、[[田原総一朗]]監修(2013年)ISBN 978-4846309497
* 『危険な宗教の見分け方』 ポプラ社、上祐史浩、田原総一郎の共著(2013年)ISBN 978-4591136768
* 『地下鉄サリン事件20年被害者の僕がききます』 dZERO、上祐史浩、さかはらあつしの共著(2015年)ISBN 978-4-8443-7676-7
== 出演 ==
===テレビ===
*[[池上彰の選挙ライブ]]([[テレビ東京]])<ref name="oricon">[https://www.oricon.co.jp/prof/715373/tv/ 【オリコン】テレビ出演・上祐史浩]</ref>
*独占スクープ!池上彰VSオウム6人の証言者 (テレビ東京)<ref name="oricon"/>
*世紀の瞬間&未解決事件 4時間半スペシャル ([[テレビ朝日]])<ref name="oricon"/>
*オウムは今も生きている… ~総力追跡!地下鉄サリン事件20年~ (テレビ東京)<ref name="oricon"/>
*オウム20年目の真実~暴走の原点と幻の核武装計画~ (テレビ朝日)<ref name="oricon"/>
*世紀の瞬間&日本の未解決事件スペシャル (テレビ朝日)<ref name="oricon"/>
===インターネット番組===
*[[三谷三四郎#YouTube番組|街録ch〜あなたの人生、教えて下さい〜]]([[YouTube|YouTube番組]])
== 関連項目 ==
* [[軽部真一]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジテレビのアナウンサー一覧|アナウンサー]]。早稲田大学高等学院・早稲田大学の同級生である。
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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== 参考文献 ==
* 『オウム法廷―グルのしもべたち〈上〉』(朝日新聞社、1998年)ISBN 9784022612236
* {{Cite book|和書|author=一橋文哉|authorlink=一橋文哉|title=オウム帝国の正体|date=2002-11-01|publisher=[[新潮文庫]]|isbn=4-10-142623-6|ref=一橋(2002)}}
== 関連項目 ==
* [[オウム真理教]]
* [[オウム真理教事件]]
== 外部リンク ==
* [http://www.joyu.jp/ 上祐史浩オフィシャルサイト]
* [https://ameblo.jp/joyufumihiro/ 上祐史浩オフィシャルブログ]
* {{Twitter|joyu_fumihiro}}
* [https://www.youtube.com/user/HIKARINOWAMOVIE 上祐史浩・ひかりの輪YouTubeチャンネル]
* [http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/ オウムの教訓 上祐史浩個人の総括] - オウム時代の総括及び反省を裁判資料と共に上祐が記した文章。
* [https://www.ustream.tv/recorded/8415379 平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」前半] - 野田成人や[[鈴木邦男]]([[一水会 (思想団体)|一水会]]顧問)との対談
* [https://www.ustream.tv/recorded/8416386 平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」後半] - 野田成人や鈴木邦男(一水会顧問)との対談
* [https://www.ustream.tv/recorded/11414758 プチ鹿島・居島一平の思わず聞いてしまいました!!4] - ゲストとして出演
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6,493 | 金日成 | 金日成(きん にっせい、キム・イルソン、朝: 김일성、英: Kim Il-sung、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1994年7月8日)は、北朝鮮の政治家、軍人、独裁者。同国初代最高指導者(1948年9月9日 - 1994年7月8日)。称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥、朝鮮民主主義人民共和国英雄(3回受章しており「三重英雄」と称される)。北朝鮮の最高指導者に就任してから死去するまで権力を握り続け、死後は永久国家主席(英語版)に位置付けられた。
先祖は、現在の全羅北道・全州出身。本貫全州金氏。
満洲一帯において抗日パルチザン活動に部隊指揮官として参加し、第二次世界大戦後は朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。以後死去するまで最高指導者の地位にあり、1948年から1972年までは首相、1972年から死去するまで国家主席を務めた。死後の1998年に改定された憲法では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。
また、同国の支配政党である朝鮮労働党の党首(1949年から1966年までは中央委員会委員長、1966年以降は中央委員会総書記)の地位に結党以来一貫して就いていた。遺体はエンバーミングを施され、平壌市内の錦繍山太陽宮殿(旧国家主席宮殿)に安置されている。
出生名は金成柱(きん せいちゅう、キム・ソンジュ、朝鮮語: 김성주)である。「ソンジュ」という漢字音に従って「聖柱」または「誠柱」と表記した資料もある。活動家となって以後は「金一星」(きん いっせい、キム・イルソン、김일성)と名乗り、さらに「金日成」(朝鮮語発音は「金一星」と同じキム・イルソン)と改名した。「日成」は、本格的に抗日パルチザン活動に参加した1932年ころから使い始めた号(称号)である。
同国の公式伝記では当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「星では足りない、太陽とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。
日本では、かつては「きん・にっせい」と日本語の音読みで呼んでいたが、1980年代以降は漢字表記のまま「キム・イルソン」と朝鮮語読みされることが増えた。なお、NHKでは「キム・イルソン」と片仮名で表記することを基本としている。
1912年4月15日、平壌西方にある万景台(マンギョンデ)に金亨稷の長男として誕生する。母の康盤石はキリスト教徒であり、外祖父の康敦煜はキリスト教長老会の牧師であった。抗日派もしくはそのシンパであったためか、金亨稷は1919年3月1日の独立運動(三・一独立運動)の翌年に金日成を連れて南満洲(中国東北部)に移住した。
金日成は満洲の平城の小学校で学んだ後、1926年に満洲の民族派朝鮮人独立運動団体正義府が運営する軍事学校の華成義塾に入学した。正義府の幹部には池青天がおり、華成義塾は数年前に現役日本軍将校だった青天や金擎天が教官を務めた新興武官学校の流れをくむ学校である。しかし、金日成はここを短期間で退学した。この前後に父の亨稷が没している。なお、亨稷は正義府に関係していたとされる。
父親が没した後、金日成は中華民国・吉林省吉林市の中国人中学校である毓文中学校(中国語版)に通い、そこで他の学生とともに本格的にマルクス・レーニン主義に触れ、教師で中国人共産主義者の尚鉞(英語版)に強い影響を受け、共産主義の青年学生運動に参加したことで中学校退学を余儀無くされた。
金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満洲の朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団だった。1930年、中国共産党から派遣された朝鮮人運動家・呉成崙(全光)が、コミンテルンの一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では入党しなかったものと推測されている。金日成の中国共産党の入党は1932年・1933年とするものと、2つの記録が中国共産党側の史料に残っている。親友で中国人の張蔚華(中国語版)とともに1932年に入党したともされている。これ以降、金日成は、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加し、さらには1936年から再編された東北抗日聯軍の隊員となるに至った、とされる。
東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件)。
当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。それにも関わらず金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている。
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円で、金日成が一人突出していたわけではない。
また、この普天堡襲撃は在満韓人祖国光復会甲山支部(後の朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている。
その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後、抗日聯軍は1940年3月11日に安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。苦力およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満洲人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満洲警察・前田隊の追うところとなったが、逆に前田隊を待ち伏せして襲撃した。この襲撃による前田隊の損害は140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。このとき、前田隊の隊員はそのほとんどが練度の低い朝鮮人によって構成されていたため、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた。
このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
重村智計は、普天堡の戦いは北朝鮮が喧伝しているよりもっと小規模であり、東北抗日聯軍も中国抗日軍との連合軍であったことを指摘している。
しかし日本側の巧みな帰順工作・討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥って小部隊に分散しての隠密行動を余儀無くされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で生き残っていた直接の上司・魏拯民を置き去りにし、十数名ほどの僅かな部下と共にソビエト連邦領沿海州へと逃れた。
ソ連に越境した金日成はスパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の周保中が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる。
1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。金日成は9月19日にウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした。同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した。
金日成はアメリカ統治下の南部に拠点を置き、朴憲永に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指していく。
1945年10月10日には平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任。10月10日は朝鮮労働党創建記念日となっている。
1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、同年8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金枓奉が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。
ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した。3月1日、平壌での集会上で手榴弾を投擲されるが、ソ連兵の護衛により一命を取り留めた。翌年2月22日には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。
このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は1970年代に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入におびえなければならない要因となった。その後第一次インドシナ戦争でベトナムを支援した。
ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。1948年に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日に大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。さらに翌1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(1966年10月12日より総書記)に選出された。
1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除されたソ連の資料から、戦争はアメリカとの冷戦において勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、満洲という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった。
当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、ソウル会戦において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。
9月15日、アメリカ軍が仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の7月4日に朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹))を疎開させた後、10月11日に平壌を脱出し、中華人民共和国の通化に事実上亡命した。
10月25日に中華人民共和国が中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍および朝鮮人民軍は中朝連合司令部の指揮下に置かれた。中朝連合軍の彭徳懐司令官は朝鮮労働党延安派の朴一禹を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた。
その後、戦局は38度線付近で膠着状態に陥り、休戦交渉が本格化した。1953年2月7日、最高人民会議常任委員会政令により、「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与。同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。
金日成派は満洲派とも呼ばれる東北抗日聯軍出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。満洲派はかつて中国共産党のパルチザンとソ連軍に加わった成り立ちから、植民地時代から朝鮮で活動していた国内派よりも、当初は延安派やソ連派と友好的であり、金日成と満洲派は、まず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には朴憲永をリーダーとする南労派(国内派の主流と目された一派。ソウルを中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。延安派とソ連派は南労派の粛清を黙視していたが、その後共同して金日成の批判を試みるもその報復で自らも粛清されるに至った(8月宗派事件)。さらに満洲派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。一方で1961年にソ連とソ朝友好協力相互援助条約、中華人民共和国とは中朝友好協力相互援助条約を結んで軍事同盟関係を築くことで中ソとの決定的対立は回避した。
1967年5月には国内北部で活動していた朴金喆ら甲山派なども粛清し、満洲派が主導権を握るに至った。この頃までに満洲派の中からも金策の変死事件が起こるなどしている。その結果、「朝鮮労働党初代政治委員で生き延びたのは、金日成以外では皆無」と言われるほどの粛清となった。
1969年以降、満洲派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光(1977年に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が継続され、金日成の後妻の金聖愛(1993年に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の金英柱(1975年に失脚、1993年に国家副主席として復帰)、叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には政治犯収容所へと送られた。
金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。全体主義体制の整理であるとする立場、満洲派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、金正日後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。
金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。1950年代のうちに社会主義体制(ソ連型社会主義体制)を築き、1960年代末までに満洲派=金日成派独裁体制を完成させた。
1972年4月15日、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、個人崇拝が強まると国外の懸念を生んだ。
12月27日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席の地位が新設されると、翌12月28日、金日成は国家主席に就任した。
新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。
さらに1977年、金日成はマルクス・レーニン主義を創造的に発展させたとする「主体(チュチェ)思想」を国家の公式理念とした。
国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。
1977年7月3日、NHKの取材団が金日成へのインタビューを行い、7月13日に「金日成主席単独会見」として放送。
1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。
1980年10月、第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。
1982年11月、錦繍山主席宮会議室で開かれた金日成、金正日、呉振宇、金仲麟の4名による秘密会議のなかで、金日成は「東京を火の海にするのがわれわれの任務」であると語った。これは、ソビエト連邦指導部のなかでもレオニード・ブレジネフが北朝鮮に攻撃兵器を渡すことに消極的であったのに対し、ユーリ・アンドロポフは第三次世界大戦勃発をも辞さない決意を北朝鮮に対し秘密電報で伝えてきたことを受けてのものであった。これに鼓舞された金日成は、韓国の後方基地にあたり、スパイ罪をもたない日本を軍事的に叩き、通常兵器で軍事的優位に立つ韓国を赤化しようと試みた。
1985年12月、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)に加盟。
1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。
1991年4月19日には毎日新聞社訪朝団へのインタビューに応じた。
1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。
1991年10月5日に生涯最後の外遊である中国訪問で鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定する。
1991年12月6日、咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可なしに同年11月30日から中国政府が手配した北京首都国際空港経由で電撃訪朝していた統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるために世界を驚かせた(ただし、当時の統一教会は韓国大統領盧泰愚の北方外交に呼応して中国など共産圏で事業を手掛けており、北朝鮮との接触もその人脈から始まっている)。文鮮明はこの訪朝についてソ連東欧への「神主義」「頭翼思想」の布教や中国でのパンダ自動車事業を例に出して「私の勝共思想は共産主義を殺す思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救済の思想」とする声明文を出した。会談では離散家族再会に取り組むこと、核査察を受けること、自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的な窮地を救われる。
1992年1月30日に北朝鮮政府は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し、1994年4月16日に金日成は西側メディアのインタビューで核開発を否定するも、1994年6月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、元大統領ジミー・カーターを特使として北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた。
経過は不明ながらも、結果として長男の金正日が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。金日成および北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。
金日成の首の後ろには1958年時点からコブがあり、しかも徐々に大きくなっていたため健康を心配する声も上がっていた。金日成が59歳とまだ若かった1971年時点で、金正日が後継者に指名された。北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。
後継者選定については
というプロパガンダを徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。
このプロパガンダのあり方は、世襲そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。
金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。
また、三代の世襲も目的にしていたかは定かではないが、金日成は金正日と成蕙琳の結婚に反対したものの、後に娘と娘婿である金敬姫・張成沢夫妻のとりなしを受けて、初孫である金正男を可愛がり、1994年に訪朝した元アメリカ大統領ジミー・カーターにも「自分が一番愛する孫」と金正男を紹介している。また、金正日と後妻の高英姫の結婚にも反対し、その子の金正恩や金正哲が、平壌から離れた元山で生活させられ、金敬姫・張成沢夫妻によって面会も認められなかったのとは対照的に、誕生日を金日成によって直接祝われた金正男は、謂わば金日成・金正日と同じ長子であるがゆえに、金正日の後継者となりうる「皇太子」の地位が確定したと、当時の側近達は看做していた。
金日成は1994年7月8日午前2時に平安北道香山郡香山官邸(北緯39度58分19秒 東経126度19分17秒 / 北緯39.97194度 東経126.32139度 / 39.97194; 126.32139)で死去した。死亡時には首の後ろにあったコブが野球ボール大にまで大きくなっていた
。北朝鮮政府の公式発表では香山官邸ではなく、平壌の錦繍山議事堂で死去したことになっている。
死去の数日前から金日成への独占インタビューの為、日本人ジャーナリストの中丸薫が北朝鮮へ入国している。どこから調べたのか、入国してからは宿泊していた高麗ホテルの電話が各国のメディア取材から鳴り止まなかったという。労働党幹部との調整で金日成の独占インタビューを7月11日に許可されていた。ところが7月7日になってインタビューの延期を示唆し始めたという。レストランでの支払い時に女性店員が泣きながら対応した為に異変に気づいたという。
北朝鮮政府は翌日の7月9日正午に朝鮮中央放送の「特別放送」で公式発表を行い、死因は執務中の過労による心筋梗塞と報じた。金日成は長く心臓病を患っており、さらに82歳と高齢であったことからも一般に病死は事実と見られている。
2000年の南北首脳会談で、息子の金正日は、晩年の金日成が、ソ連のクレムリン病院のペースメーカーを付けていたと述べた。ペースメーカーを付ければ、血液の凝集現象が現れ、急死の原因となる。そのため、西側諸国や中国ではアスピリンを服用することが多いが、ソ連からはそのような説明は受けず、「魚を食べるのがいい」といった従来の常識に従っていたのが間違いだったと述べた。
1994年には、息子の金正日が病気治療中であったため死亡までの間、様々な課題の解決に向けて金日成は自ら精力的な陣頭指揮に当たることになる。内政では低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、大統領ビル・クリントンの密命を帯びた元大統領ジミー・カーターの招朝実現と直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるという彼特有の「円環の理論」に基づく賭けでもあったが、交渉の結果「米朝枠組み合意」を結ぶことで決着。さらには当時の韓国大統領金泳三との間で開催されることが決まっていた初の南北首脳会談の話題が持ち上がっており、彼の突然の死は世界に衝撃を与えた。
死去2日前の7月6日にも経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。セメント生産が成否を握ると叱咤した上で、党官僚の形式主義を声を荒らげて非難しながら、やめていたはずの煙草を喫煙した後に寝室に入ったとの情報がある。
このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や暗殺を疑う声が上がった。しかし米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。また韓国の中央日報が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し北朝鮮は激しく抗議した。なお、同日に金正日が金日成に会っていないことは主席府(錦繍山議事堂)責任書記・全河哲が残していた記録の上からも明らかである。
葬儀は国葬として金正日主導のもと7月11日に首都平壌で執り行われた。当日は北朝鮮全土から大勢の国民が集まり、朝鮮中央テレビでは人々が万寿台に集まり一斉に地面を叩きながら泣き崩れている様子が報じられた。その後遺体はエンバーミングが施され、錦繍山議事堂(主席宮殿)を改築した錦繍山太陽宮殿に安置された。
北朝鮮政府は国家として「三年の喪に服す」と宣言した。
1998年9月5日に行われた憲法改正によって「永久国家主席(英語版)」(en:Eternal leaders of North Korea)に任じられる。
北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの尊称の下に神格化され、個人崇拝されてきた。その一例として金日成による抗日パルチザン時代の活動について北朝鮮では学生用・人民用教材において「縮地法を使い、落ち葉に乗って大きな川を渡り、松ぼっくりで銃弾を作り、砂で米を作った」といった記述が行われていた。
しかし、2019年頃から変化が指摘されており、労働新聞の2019年3月の記事は孫の金正恩が書簡で「もし偉大さを強調するなどといって、首領(最高指導者)の革命活動や風貌を神格化すれば、真実を隠すことにつながる」との考えを表したことを伝えた。2020年5月20日付の労働新聞も「縮地法の秘訣」と題した記事で抗日パルチザン時代の縮地法について霊的な技術を言ったものではないとして金日成・金正日時代の解釈とは異なる見解を伝えた。北朝鮮のメディアが最高指導者に独断で言及することは考えられないことから、金正恩の意向が反映されているとみられている。
抗日の闘士として勇名を馳せたが、たとえ日本人であっても個人として信頼を置く人物に対しては友情を示し、もし同胞であったならば決して許されないような言動に対しても寛容な態度で対応することもあった。
金日成は終戦後も残留していた二人の日本人女性を家政婦として雇っていた。将来日本が共産主義になることを心配していた二人に彼は共産主義の優位性を説いて聞かせた。それにもかかわらず彼女たちが「天皇陛下のほうが好き」と正直に答えたので、説得することを諦め笑って受け流したエピソードが伝えられる。同様のエピソードは息子の金正日が料理人に日本人の藤本健二を雇い、家族的な付き合いをした例がある。
李栄薫は、「中国共産党傘下の抗日聯軍に中隊長クラスの位で所属していた金日成と、彼の部下50名余りは、関東軍の追撃を受けて1941年には沿海州のソ連領に逃げ込み、同地で1945年の解放時まで過ごしていました」「戦争が終結する少し前、スターリンは沿海州にいた金日成をモスクワに呼び、彼がこれからさき朝鮮北部に作る自分の代理政府の責任者として適格であるかどうかをテストします。そしてスターリンは金日成に満足したようです。これにともない金日成はソ連軍の船に乗り、解放から1カ月後に元山港に帰ってきました」と説明したうえで、北朝鮮の歴史書『現代朝鮮歴史』(1983年)が「朝鮮の解放は金日成が組織し領導した栄光の抗日武装闘争の勝利がもたらした偉大な結実だった」と記述していることを「真っ赤なウソ」「深刻な捏造」「偽善の知性」として、北朝鮮の歴史書が歴然たる事実を国民を欺いているのは、北朝鮮社会に思想・学問の自由がなく、偽善の専制権力が君臨しているから、と批判している。
訪朝経験のある元アメリカ大統領ジミー・カーターは2009年11月、タイの新聞との会見で金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評している。
脱北した黄長燁元朝鮮労働党書記はフリージャーナリスト・山本皓一とのインタビューにおいて「金日成は自分の経歴を美化するなど俗物的な所はあったが、抗日パルチザン闘争などで苦労した経験があり人民の痛みもある程度わかっていた。ともかくも国民を飢え死にはさせなかった。現在の非民主主義的な体制を造り上げたのは金日成ではなく金正日である」と証言している。また、黄長燁は金日成は中国式の改革開放に肯定的な柔軟さを持っていたが、金正日は自己保身を優先して苦難の行軍を引き起こして経済を低迷させた責任があると証言しており、これは他の記録でも裏付けられている。
金氏 本貫は全州金氏。回顧録『世紀とともに』によると、「金膺禹の10代前の先祖金継祥が、全羅道から平安道へ移住してきた」という。金膺禹は、「朝鮮平壌中城里の出身で、生活苦から平壌の地主李平澤家の墓守をするために万景台に帰ってきた」という。金日成はその曽孫にあたる。
日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身する「キム・イルソン将軍」の伝説があったことには、多くの証言がある。キム・イルソン将軍について巷では、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などと言われていた。2016年10月、金日成とされた「金顕忠」が旧大日本帝国陸軍士官学校出身だったことが判る卒業生名簿が発見・公表された。抗日運動では「金光瑞」などと名乗ったとされる。
金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」「朝鮮語がたどたどしい」という声があがった。南朝鮮を信託統治していたアメリカ軍は、1948年8月1日に作成した資料で、金成柱が抗日闘士として名を挙げた「金日成」の名を騙っているとしている。金成柱が伝説を利用して「金日成」と名乗っただろうということについては、『金日成と満州抗日戦争』において、別人説を否定した和田春樹も認めている。別人説は、金日成が伝説を剽窃したことによって出てきたものであり、伝説のモデルが実在する可能性は高い。伝説のモデルについての探索と、金日成のパルチザン活動の実体については、別個に考える必要がある。
キム・イルソン将軍については、李命英が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという同音の金一成と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金擎天が、生まれた年がともに1888年、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないか、と佐々木春隆は推測している。
普天堡の事件によって、東北抗日聯軍第六師長である金日成の正体について多くの伝聞が飛び交った。彼を27歳で平壌近郊出身とするもの、36歳の人物だとするもの、陸士卒業生だとするものなどである。また、普天堡襲撃に関与した者が逮捕されたときの供述が事前の情報と矛盾することから、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長・金日成と、後にソ連軍政下で有力指導者として登場した金日成とは別人ではないかと疑われている。これに対する和田春樹などによる反論もある。
諱は初め聖柱のち成柱と改める。父亨稷は順川と号し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、1926年6月5日共産主義者の朝鮮人に暗殺されたという。その後母は中国人の警察隊隊長の妾になる。のちに中国共産党系の馬賊の一員となり、一星(イルソン)を名乗る。ソ連軍に担がれて北朝鮮入りする際に、伝説の英雄金日成の名をそのまま借用した。本物の金日成は、1937年9月に日満の警察隊と交戦し射殺される。
元抗日パルチザンの多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである。
また、金日成が朝鮮戦争中に連合軍側に狙撃され戦死した、若しくは事故死したという説が朝鮮戦争中の韓国で広まった。しかし、この時期は金日成が一族を伴って、中国領の吉林に逃げ込んだという話がある。そのため、息子で後に朝鮮労働党の総書記となる金正日は吉林の小学校に通っていたとされている。 | [
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"text": "金日成(きん にっせい、キム・イルソン、朝: 김일성、英: Kim Il-sung、1912年〈明治45年〉4月15日 - 1994年7月8日)は、北朝鮮の政治家、軍人、独裁者。同国初代最高指導者(1948年9月9日 - 1994年7月8日)。称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥、朝鮮民主主義人民共和国英雄(3回受章しており「三重英雄」と称される)。北朝鮮の最高指導者に就任してから死去するまで権力を握り続け、死後は永久国家主席(英語版)に位置付けられた。",
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"text": "先祖は、現在の全羅北道・全州出身。本貫全州金氏。",
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"text": "満洲一帯において抗日パルチザン活動に部隊指揮官として参加し、第二次世界大戦後は朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。以後死去するまで最高指導者の地位にあり、1948年から1972年までは首相、1972年から死去するまで国家主席を務めた。死後の1998年に改定された憲法では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。",
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"text": "また、同国の支配政党である朝鮮労働党の党首(1949年から1966年までは中央委員会委員長、1966年以降は中央委員会総書記)の地位に結党以来一貫して就いていた。遺体はエンバーミングを施され、平壌市内の錦繍山太陽宮殿(旧国家主席宮殿)に安置されている。",
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"text": "出生名は金成柱(きん せいちゅう、キム・ソンジュ、朝鮮語: 김성주)である。「ソンジュ」という漢字音に従って「聖柱」または「誠柱」と表記した資料もある。活動家となって以後は「金一星」(きん いっせい、キム・イルソン、김일성)と名乗り、さらに「金日成」(朝鮮語発音は「金一星」と同じキム・イルソン)と改名した。「日成」は、本格的に抗日パルチザン活動に参加した1932年ころから使い始めた号(称号)である。",
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"text": "同国の公式伝記では当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「星では足りない、太陽とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。",
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"text": "日本では、かつては「きん・にっせい」と日本語の音読みで呼んでいたが、1980年代以降は漢字表記のまま「キム・イルソン」と朝鮮語読みされることが増えた。なお、NHKでは「キム・イルソン」と片仮名で表記することを基本としている。",
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"text": "1912年4月15日、平壌西方にある万景台(マンギョンデ)に金亨稷の長男として誕生する。母の康盤石はキリスト教徒であり、外祖父の康敦煜はキリスト教長老会の牧師であった。抗日派もしくはそのシンパであったためか、金亨稷は1919年3月1日の独立運動(三・一独立運動)の翌年に金日成を連れて南満洲(中国東北部)に移住した。",
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"text": "金日成は満洲の平城の小学校で学んだ後、1926年に満洲の民族派朝鮮人独立運動団体正義府が運営する軍事学校の華成義塾に入学した。正義府の幹部には池青天がおり、華成義塾は数年前に現役日本軍将校だった青天や金擎天が教官を務めた新興武官学校の流れをくむ学校である。しかし、金日成はここを短期間で退学した。この前後に父の亨稷が没している。なお、亨稷は正義府に関係していたとされる。",
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"text": "父親が没した後、金日成は中華民国・吉林省吉林市の中国人中学校である毓文中学校(中国語版)に通い、そこで他の学生とともに本格的にマルクス・レーニン主義に触れ、教師で中国人共産主義者の尚鉞(英語版)に強い影響を受け、共産主義の青年学生運動に参加したことで中学校退学を余儀無くされた。",
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"text": "金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満洲の朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団だった。1930年、中国共産党から派遣された朝鮮人運動家・呉成崙(全光)が、コミンテルンの一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では入党しなかったものと推測されている。金日成の中国共産党の入党は1932年・1933年とするものと、2つの記録が中国共産党側の史料に残っている。親友で中国人の張蔚華(中国語版)とともに1932年に入党したともされている。これ以降、金日成は、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加し、さらには1936年から再編された東北抗日聯軍の隊員となるに至った、とされる。",
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"text": "東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件)。",
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"text": "当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。それにも関わらず金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている。",
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"text": "1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円で、金日成が一人突出していたわけではない。",
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"text": "また、この普天堡襲撃は在満韓人祖国光復会甲山支部(後の朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている。",
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"text": "その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後、抗日聯軍は1940年3月11日に安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。苦力およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満洲人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満洲警察・前田隊の追うところとなったが、逆に前田隊を待ち伏せして襲撃した。この襲撃による前田隊の損害は140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。このとき、前田隊の隊員はそのほとんどが練度の低い朝鮮人によって構成されていたため、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた。",
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"text": "このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。",
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"text": "重村智計は、普天堡の戦いは北朝鮮が喧伝しているよりもっと小規模であり、東北抗日聯軍も中国抗日軍との連合軍であったことを指摘している。",
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"text": "しかし日本側の巧みな帰順工作・討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥って小部隊に分散しての隠密行動を余儀無くされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で生き残っていた直接の上司・魏拯民を置き去りにし、十数名ほどの僅かな部下と共にソビエト連邦領沿海州へと逃れた。",
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"text": "ソ連に越境した金日成はスパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の周保中が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる。",
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"text": "1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。金日成は9月19日にウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした。同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した。",
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"text": "金日成はアメリカ統治下の南部に拠点を置き、朴憲永に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指していく。",
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"text": "1945年10月10日には平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任。10月10日は朝鮮労働党創建記念日となっている。",
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"text": "1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、同年8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金枓奉が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。",
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"text": "ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した。3月1日、平壌での集会上で手榴弾を投擲されるが、ソ連兵の護衛により一命を取り留めた。翌年2月22日には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。",
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"text": "このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は1970年代に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入におびえなければならない要因となった。その後第一次インドシナ戦争でベトナムを支援した。",
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"text": "ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。1948年に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日に大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。さらに翌1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(1966年10月12日より総書記)に選出された。",
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"text": "1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除されたソ連の資料から、戦争はアメリカとの冷戦において勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、満洲という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった。",
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"text": "当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、ソウル会戦において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。",
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"text": "9月15日、アメリカ軍が仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の7月4日に朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹))を疎開させた後、10月11日に平壌を脱出し、中華人民共和国の通化に事実上亡命した。",
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"text": "10月25日に中華人民共和国が中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍および朝鮮人民軍は中朝連合司令部の指揮下に置かれた。中朝連合軍の彭徳懐司令官は朝鮮労働党延安派の朴一禹を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた。",
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"text": "金日成派は満洲派とも呼ばれる東北抗日聯軍出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。満洲派はかつて中国共産党のパルチザンとソ連軍に加わった成り立ちから、植民地時代から朝鮮で活動していた国内派よりも、当初は延安派やソ連派と友好的であり、金日成と満洲派は、まず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には朴憲永をリーダーとする南労派(国内派の主流と目された一派。ソウルを中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。延安派とソ連派は南労派の粛清を黙視していたが、その後共同して金日成の批判を試みるもその報復で自らも粛清されるに至った(8月宗派事件)。さらに満洲派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。一方で1961年にソ連とソ朝友好協力相互援助条約、中華人民共和国とは中朝友好協力相互援助条約を結んで軍事同盟関係を築くことで中ソとの決定的対立は回避した。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1967年5月には国内北部で活動していた朴金喆ら甲山派なども粛清し、満洲派が主導権を握るに至った。この頃までに満洲派の中からも金策の変死事件が起こるなどしている。その結果、「朝鮮労働党初代政治委員で生き延びたのは、金日成以外では皆無」と言われるほどの粛清となった。",
"title": "経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "1969年以降、満洲派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光(1977年に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が継続され、金日成の後妻の金聖愛(1993年に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の金英柱(1975年に失脚、1993年に国家副主席として復帰)、叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には政治犯収容所へと送られた。",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。全体主義体制の整理であるとする立場、満洲派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、金正日後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。1950年代のうちに社会主義体制(ソ連型社会主義体制)を築き、1960年代末までに満洲派=金日成派独裁体制を完成させた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "1972年4月15日、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、個人崇拝が強まると国外の懸念を生んだ。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "12月27日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席の地位が新設されると、翌12月28日、金日成は国家主席に就任した。",
"title": "経歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。",
"title": "経歴"
},
{
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"text": "さらに1977年、金日成はマルクス・レーニン主義を創造的に発展させたとする「主体(チュチェ)思想」を国家の公式理念とした。",
"title": "経歴"
},
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"tag": "p",
"text": "国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。",
"title": "経歴"
},
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"paragraph_id": 42,
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"text": "1977年7月3日、NHKの取材団が金日成へのインタビューを行い、7月13日に「金日成主席単独会見」として放送。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。",
"title": "経歴"
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"text": "1980年10月、第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 45,
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"text": "1982年11月、錦繍山主席宮会議室で開かれた金日成、金正日、呉振宇、金仲麟の4名による秘密会議のなかで、金日成は「東京を火の海にするのがわれわれの任務」であると語った。これは、ソビエト連邦指導部のなかでもレオニード・ブレジネフが北朝鮮に攻撃兵器を渡すことに消極的であったのに対し、ユーリ・アンドロポフは第三次世界大戦勃発をも辞さない決意を北朝鮮に対し秘密電報で伝えてきたことを受けてのものであった。これに鼓舞された金日成は、韓国の後方基地にあたり、スパイ罪をもたない日本を軍事的に叩き、通常兵器で軍事的優位に立つ韓国を赤化しようと試みた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 46,
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"text": "1985年12月、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)に加盟。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "1991年4月19日には毎日新聞社訪朝団へのインタビューに応じた。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 49,
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"text": "1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 50,
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"text": "1991年10月5日に生涯最後の外遊である中国訪問で鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定する。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 51,
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"text": "1991年12月6日、咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可なしに同年11月30日から中国政府が手配した北京首都国際空港経由で電撃訪朝していた統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるために世界を驚かせた(ただし、当時の統一教会は韓国大統領盧泰愚の北方外交に呼応して中国など共産圏で事業を手掛けており、北朝鮮との接触もその人脈から始まっている)。文鮮明はこの訪朝についてソ連東欧への「神主義」「頭翼思想」の布教や中国でのパンダ自動車事業を例に出して「私の勝共思想は共産主義を殺す思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救済の思想」とする声明文を出した。会談では離散家族再会に取り組むこと、核査察を受けること、自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的な窮地を救われる。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "1992年1月30日に北朝鮮政府は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し、1994年4月16日に金日成は西側メディアのインタビューで核開発を否定するも、1994年6月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、元大統領ジミー・カーターを特使として北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた。",
"title": "経歴"
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"text": "経過は不明ながらも、結果として長男の金正日が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。金日成および北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。",
"title": "経歴"
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"text": "金日成の首の後ろには1958年時点からコブがあり、しかも徐々に大きくなっていたため健康を心配する声も上がっていた。金日成が59歳とまだ若かった1971年時点で、金正日が後継者に指名された。北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "後継者選定については",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 56,
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"text": "というプロパガンダを徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。",
"title": "経歴"
},
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"paragraph_id": 57,
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"text": "このプロパガンダのあり方は、世襲そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。",
"title": "経歴"
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"text": "金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "また、三代の世襲も目的にしていたかは定かではないが、金日成は金正日と成蕙琳の結婚に反対したものの、後に娘と娘婿である金敬姫・張成沢夫妻のとりなしを受けて、初孫である金正男を可愛がり、1994年に訪朝した元アメリカ大統領ジミー・カーターにも「自分が一番愛する孫」と金正男を紹介している。また、金正日と後妻の高英姫の結婚にも反対し、その子の金正恩や金正哲が、平壌から離れた元山で生活させられ、金敬姫・張成沢夫妻によって面会も認められなかったのとは対照的に、誕生日を金日成によって直接祝われた金正男は、謂わば金日成・金正日と同じ長子であるがゆえに、金正日の後継者となりうる「皇太子」の地位が確定したと、当時の側近達は看做していた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "金日成は1994年7月8日午前2時に平安北道香山郡香山官邸(北緯39度58分19秒 東経126度19分17秒 / 北緯39.97194度 東経126.32139度 / 39.97194; 126.32139)で死去した。死亡時には首の後ろにあったコブが野球ボール大にまで大きくなっていた",
"title": "経歴"
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"text": "。北朝鮮政府の公式発表では香山官邸ではなく、平壌の錦繍山議事堂で死去したことになっている。",
"title": "経歴"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "死去の数日前から金日成への独占インタビューの為、日本人ジャーナリストの中丸薫が北朝鮮へ入国している。どこから調べたのか、入国してからは宿泊していた高麗ホテルの電話が各国のメディア取材から鳴り止まなかったという。労働党幹部との調整で金日成の独占インタビューを7月11日に許可されていた。ところが7月7日になってインタビューの延期を示唆し始めたという。レストランでの支払い時に女性店員が泣きながら対応した為に異変に気づいたという。",
"title": "経歴"
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"text": "北朝鮮政府は翌日の7月9日正午に朝鮮中央放送の「特別放送」で公式発表を行い、死因は執務中の過労による心筋梗塞と報じた。金日成は長く心臓病を患っており、さらに82歳と高齢であったことからも一般に病死は事実と見られている。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 64,
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"text": "2000年の南北首脳会談で、息子の金正日は、晩年の金日成が、ソ連のクレムリン病院のペースメーカーを付けていたと述べた。ペースメーカーを付ければ、血液の凝集現象が現れ、急死の原因となる。そのため、西側諸国や中国ではアスピリンを服用することが多いが、ソ連からはそのような説明は受けず、「魚を食べるのがいい」といった従来の常識に従っていたのが間違いだったと述べた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1994年には、息子の金正日が病気治療中であったため死亡までの間、様々な課題の解決に向けて金日成は自ら精力的な陣頭指揮に当たることになる。内政では低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、大統領ビル・クリントンの密命を帯びた元大統領ジミー・カーターの招朝実現と直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるという彼特有の「円環の理論」に基づく賭けでもあったが、交渉の結果「米朝枠組み合意」を結ぶことで決着。さらには当時の韓国大統領金泳三との間で開催されることが決まっていた初の南北首脳会談の話題が持ち上がっており、彼の突然の死は世界に衝撃を与えた。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "死去2日前の7月6日にも経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。セメント生産が成否を握ると叱咤した上で、党官僚の形式主義を声を荒らげて非難しながら、やめていたはずの煙草を喫煙した後に寝室に入ったとの情報がある。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や暗殺を疑う声が上がった。しかし米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。また韓国の中央日報が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し北朝鮮は激しく抗議した。なお、同日に金正日が金日成に会っていないことは主席府(錦繍山議事堂)責任書記・全河哲が残していた記録の上からも明らかである。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "葬儀は国葬として金正日主導のもと7月11日に首都平壌で執り行われた。当日は北朝鮮全土から大勢の国民が集まり、朝鮮中央テレビでは人々が万寿台に集まり一斉に地面を叩きながら泣き崩れている様子が報じられた。その後遺体はエンバーミングが施され、錦繍山議事堂(主席宮殿)を改築した錦繍山太陽宮殿に安置された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "北朝鮮政府は国家として「三年の喪に服す」と宣言した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1998年9月5日に行われた憲法改正によって「永久国家主席(英語版)」(en:Eternal leaders of North Korea)に任じられる。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの尊称の下に神格化され、個人崇拝されてきた。その一例として金日成による抗日パルチザン時代の活動について北朝鮮では学生用・人民用教材において「縮地法を使い、落ち葉に乗って大きな川を渡り、松ぼっくりで銃弾を作り、砂で米を作った」といった記述が行われていた。",
"title": "神格化とその変化"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "しかし、2019年頃から変化が指摘されており、労働新聞の2019年3月の記事は孫の金正恩が書簡で「もし偉大さを強調するなどといって、首領(最高指導者)の革命活動や風貌を神格化すれば、真実を隠すことにつながる」との考えを表したことを伝えた。2020年5月20日付の労働新聞も「縮地法の秘訣」と題した記事で抗日パルチザン時代の縮地法について霊的な技術を言ったものではないとして金日成・金正日時代の解釈とは異なる見解を伝えた。北朝鮮のメディアが最高指導者に独断で言及することは考えられないことから、金正恩の意向が反映されているとみられている。",
"title": "神格化とその変化"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "抗日の闘士として勇名を馳せたが、たとえ日本人であっても個人として信頼を置く人物に対しては友情を示し、もし同胞であったならば決して許されないような言動に対しても寛容な態度で対応することもあった。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "金日成は終戦後も残留していた二人の日本人女性を家政婦として雇っていた。将来日本が共産主義になることを心配していた二人に彼は共産主義の優位性を説いて聞かせた。それにもかかわらず彼女たちが「天皇陛下のほうが好き」と正直に答えたので、説得することを諦め笑って受け流したエピソードが伝えられる。同様のエピソードは息子の金正日が料理人に日本人の藤本健二を雇い、家族的な付き合いをした例がある。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "李栄薫は、「中国共産党傘下の抗日聯軍に中隊長クラスの位で所属していた金日成と、彼の部下50名余りは、関東軍の追撃を受けて1941年には沿海州のソ連領に逃げ込み、同地で1945年の解放時まで過ごしていました」「戦争が終結する少し前、スターリンは沿海州にいた金日成をモスクワに呼び、彼がこれからさき朝鮮北部に作る自分の代理政府の責任者として適格であるかどうかをテストします。そしてスターリンは金日成に満足したようです。これにともない金日成はソ連軍の船に乗り、解放から1カ月後に元山港に帰ってきました」と説明したうえで、北朝鮮の歴史書『現代朝鮮歴史』(1983年)が「朝鮮の解放は金日成が組織し領導した栄光の抗日武装闘争の勝利がもたらした偉大な結実だった」と記述していることを「真っ赤なウソ」「深刻な捏造」「偽善の知性」として、北朝鮮の歴史書が歴然たる事実を国民を欺いているのは、北朝鮮社会に思想・学問の自由がなく、偽善の専制権力が君臨しているから、と批判している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "訪朝経験のある元アメリカ大統領ジミー・カーターは2009年11月、タイの新聞との会見で金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評している。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "脱北した黄長燁元朝鮮労働党書記はフリージャーナリスト・山本皓一とのインタビューにおいて「金日成は自分の経歴を美化するなど俗物的な所はあったが、抗日パルチザン闘争などで苦労した経験があり人民の痛みもある程度わかっていた。ともかくも国民を飢え死にはさせなかった。現在の非民主主義的な体制を造り上げたのは金日成ではなく金正日である」と証言している。また、黄長燁は金日成は中国式の改革開放に肯定的な柔軟さを持っていたが、金正日は自己保身を優先して苦難の行軍を引き起こして経済を低迷させた責任があると証言しており、これは他の記録でも裏付けられている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "金氏 本貫は全州金氏。回顧録『世紀とともに』によると、「金膺禹の10代前の先祖金継祥が、全羅道から平安道へ移住してきた」という。金膺禹は、「朝鮮平壌中城里の出身で、生活苦から平壌の地主李平澤家の墓守をするために万景台に帰ってきた」という。金日成はその曽孫にあたる。",
"title": "系譜"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身する「キム・イルソン将軍」の伝説があったことには、多くの証言がある。キム・イルソン将軍について巷では、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などと言われていた。2016年10月、金日成とされた「金顕忠」が旧大日本帝国陸軍士官学校出身だったことが判る卒業生名簿が発見・公表された。抗日運動では「金光瑞」などと名乗ったとされる。",
"title": "別人説"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」「朝鮮語がたどたどしい」という声があがった。南朝鮮を信託統治していたアメリカ軍は、1948年8月1日に作成した資料で、金成柱が抗日闘士として名を挙げた「金日成」の名を騙っているとしている。金成柱が伝説を利用して「金日成」と名乗っただろうということについては、『金日成と満州抗日戦争』において、別人説を否定した和田春樹も認めている。別人説は、金日成が伝説を剽窃したことによって出てきたものであり、伝説のモデルが実在する可能性は高い。伝説のモデルについての探索と、金日成のパルチザン活動の実体については、別個に考える必要がある。",
"title": "別人説"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "キム・イルソン将軍については、李命英が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという同音の金一成と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金擎天が、生まれた年がともに1888年、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないか、と佐々木春隆は推測している。",
"title": "別人説"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "普天堡の事件によって、東北抗日聯軍第六師長である金日成の正体について多くの伝聞が飛び交った。彼を27歳で平壌近郊出身とするもの、36歳の人物だとするもの、陸士卒業生だとするものなどである。また、普天堡襲撃に関与した者が逮捕されたときの供述が事前の情報と矛盾することから、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長・金日成と、後にソ連軍政下で有力指導者として登場した金日成とは別人ではないかと疑われている。これに対する和田春樹などによる反論もある。",
"title": "別人説"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "諱は初め聖柱のち成柱と改める。父亨稷は順川と号し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、1926年6月5日共産主義者の朝鮮人に暗殺されたという。その後母は中国人の警察隊隊長の妾になる。のちに中国共産党系の馬賊の一員となり、一星(イルソン)を名乗る。ソ連軍に担がれて北朝鮮入りする際に、伝説の英雄金日成の名をそのまま借用した。本物の金日成は、1937年9月に日満の警察隊と交戦し射殺される。",
"title": "別人説"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "元抗日パルチザンの多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである。",
"title": "別人説"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "また、金日成が朝鮮戦争中に連合軍側に狙撃され戦死した、若しくは事故死したという説が朝鮮戦争中の韓国で広まった。しかし、この時期は金日成が一族を伴って、中国領の吉林に逃げ込んだという話がある。そのため、息子で後に朝鮮労働党の総書記となる金正日は吉林の小学校に通っていたとされている。",
"title": "別人説"
}
] | 金日成は、北朝鮮の政治家、軍人、独裁者。同国初代最高指導者。称号は朝鮮民主主義人民共和国大元帥、朝鮮民主主義人民共和国英雄(3回受章しており「三重英雄」と称される)。北朝鮮の最高指導者に就任してから死去するまで権力を握り続け、死後は永久国家主席に位置付けられた。 | {{大統領
| 人名 = 金日成
| 各国語表記 = {{Lang|ko|김일성}}<br>{{lang|en|Kim Il-sung}}
| 画像 = Kim_Il_Sung_Portrait-3.jpg
| 画像サイズ = 220px
| キャプション = 金日成の公式肖像画
| 国名 = {{PRK2}}
| 職名 = [[File:Emblem of North Korea.svg|20px]] 初代 [[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]
| 就任日 = [[1972年]][[12月28日]]
| 退任日 = [[1994年]][[7月8日]]
| 副大統領 = [[崔庸健]]<br/>{{仮リンク|康良煜|en|Kang Ryang-uk|zh|康良煜|ko|강량욱}}<br/>[[金東奎]]<br/>[[金一 (政治家)|金一]]<br/>[[朴成哲]]<br/>[[李鐘玉]]<br/>[[金英柱]]<br/>[[金炳植]]
| 副大統領職 = {{仮リンク|朝鮮民主主義人民共和国副主席|en|Vice President of North Korea|label=国家副主席}}
| 国名2 = {{Flag|KWP}}
| 職名2 = 初代 [[朝鮮労働党中央委員会総書記|中央委員会総書記]]
| 就任日2 = [[1966年]][[10月12日]]
| 退任日2 = [[1994年]][[7月8日]]
| 副大統領2 = [[金一 (政治家)|金一]]<br/>[[呉振宇]]<br/>'''[[金正日]]'''<br/>[[李鐘玉]]
| 副大統領職2 = [[朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員会|政治局常務委員]]<ref group="注">1980年の[[w:6th Congress of the Workers' Party of Korea|第6回党大会]]で選出。</ref>
| 国名3 = [[ファイル:Flag of the North Korean People's Army.svg|25px|border]] [[朝鮮人民軍]]
| 職名3 = 第2代 [[朝鮮民主主義人民共和国武力最高司令官|最高司令官]]
| 就任日3 = [[1950年]][[7月4日]]
| 退任日3 = [[1991年]][[12月24日]](公式発表は[[12月25日]])
| 元首職3 =
| 元首3 =
| 国名4 = {{PRK2}}
| 職名4 = 初代 [[朝鮮民主主義人民共和国の首相|内閣首相]]
| 就任日4 = [[1948年]][[9月9日]]
| 退任日4 = [[1972年]][[12月28日]]
| 元首4 = [[金枓奉]]<br/>[[崔庸健]]
| 元首職4 = [[最高人民会議常任委員会|最高人民会議<br>常任委員会委員長]]
| 国名5 = {{Flag|KWP}}
| 職名5 = 初代 [[朝鮮労働党中央委員会総書記|中央委員会委員長]]
| 就任日5 = [[1949年]][[6月30日]]
| 退任日5 = [[1966年]][[10月12日]]
| 元首職5 =
| 元首5 =
| 出生日 = [[1912年]]([[明治]]45年)[[4月15日]]
| 生地 = {{KOR1910}} [[平安南道 (日本統治時代)|平安南道]][[平壌直轄市|平壌府]][[万景台]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1912|4|15|1994|7|8}}
| 没地 = {{PRK}} [[平安北道]][[香山郡]][[香山官邸]] ({{coord|39|58|19|N|126|19|17|E|}})<ref name="sankei0127">{{cite news|author=[[李相哲]]|url=https://www.sankei.com/article/20150127-I4ONGYGTGJPA3OLUW5XRLQBENQ/|title=【秘録金正日(9)】死亡当夜、平壌から3機のヘリ 看取ったのは「経験不足」の医師、記録が隠した“不都合な真実”|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産経新聞社]]|date=2015-1-27|accessdate=2016-9-25}}</ref><br/>※北朝鮮政府の公式発表では[[平壌直轄市]]の[[錦繍山太陽宮殿|錦繍山議事堂]]
| 出身校 = 華成義塾など
| 配偶者 = [[金正淑 (北朝鮮)|金正淑]]<br/>[[金聖愛]]
| 政党 = {{Flag|KWP}}<br/>{{Flagicon image|Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg}} [[中国共産党]](1931年 - 1945年)
| 宗教 = [[無神論]]
| サイン = Kim Il Sung Signature.svg
}}
{{朝鮮の人物
|hanja=金日成
|chosŏn'gŭl=김일성
|katakana=キ<small>ム</small> イ<small>ル</small>ソン
|hiragana=きんにっせい
|alphabet=Kim Il-sung
}}
'''金日成'''(きん にっせい<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E6%97%A5%E6%88%90%28%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%A3%E3%81%9B%E3%81%84%29-1525651 |title=日本大百科全書(ニッポニカ)「金日成(きんにっせい)」 |access-date=2022-07-01}}</ref>、キム・イルソン、{{lang-ko-short|'''김일성'''}}、{{lang-en-short|Kim Il-sung}}、[[1912年]]〈[[明治]]45年〉[[4月15日]] - [[1994年]][[7月8日]])は、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[政治家]]、[[軍人]]、[[独裁者]]<!--ノート参照-->。同国初代[[朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者|最高指導者]]([[1948年]][[9月9日]] - [[1994年]][[7月8日]])。[[称号]]は[[朝鮮人民軍の階級|朝鮮民主主義人民共和国大元帥]]、[[朝鮮民主主義人民共和国英雄]](3回受章しており「三重英雄」と称される)。北朝鮮の最高指導者に就任してから死去するまで[[権力]]を握り続け、死後は{{仮リンク|永遠の領袖|en|Eternal leaders of North Korea|label=永久国家主席}}に位置付けられた。
==概要==
先祖は、現在の[[全羅北道]]・[[全州市|全州]]出身<ref>{{Cite web|和書|title=【秘録金正日(17)】先祖の出自は韓国南部…創り出された「白頭山出生」神話、金日成は「ここだ」と決めつけ(3/6ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20150324-45QB7ZTCMBL5TNYQPWWDNQRH7E/3/ |access-date=2022-11-02 |publisher=産経ニュース}}</ref>。[[本貫]][[全州金氏]]。<ref>{{Cite web |title=김일성 시조 잠든 모악산···김정은 답방 때 참배할까 |url=https://www.joongang.co.kr/article/22993338 |access-date=2022-11-02 |publisher=中央日報 |language=ko}}</ref>
[[満洲]]一帯において[[抗日パルチザン]]活動に部隊指揮官として参加し、[[第二次世界大戦]]後は[[朝鮮半島]]北部に[[朝鮮民主主義人民共和国]]を建国した。以後死去するまで最高指導者の地位にあり、[[1948年]]から[[1972年]]までは[[朝鮮民主主義人民共和国の首相|首相]]、[[1972年]]から死去するまで[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]を務めた。死後の[[1998年]]に改定された[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法|憲法]]では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。
また、同国の支配政党である[[朝鮮労働党]]の党首([[1949年]]から[[1966年]]までは中央委員会委員長、1966年以降は[[朝鮮労働党中央委員会総書記|中央委員会総書記]])の地位に結党以来一貫して就いていた。遺体は[[エンバーミング]]を施され、[[平壌直轄市|平壌]]市内の[[錦繍山太陽宮殿]](旧国家主席宮殿)に安置されている。
==姓名と呼称==
出生名は'''金成柱'''(きん せいちゅう、キム・ソンジュ、{{lang-ko|김성주}})である。「ソンジュ」という[[朝鮮漢字音|漢字音]]に従って「聖柱」または「誠柱」と表記した資料もある。活動家となって以後は「'''金一星'''」(きん いっせい、キム・イルソン、{{lang|ko|김일성}})と名乗り、さらに「金日成」(朝鮮語発音は「金一星」と同じキム・イルソン)と改名した。「日成」は、本格的に[[抗日パルチザン]]活動に参加した[[1932年]]ころから使い始めた[[号 (称号)|号(称号)]]である<ref>許東粲 「金日成評伝 新装版―虚構と実像」亜紀書房、1992年、7-19頁。335-342頁には、朝鮮占領ソ連軍所属の高麗人、鄭律の証言が載っているが、それによれば、解放後の北朝鮮に帰国当初には、金日成は金成柱と名乗っていたという。</ref>。
同国の公式伝記では当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「[[天体|星]]では足りない、[[太陽]]とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。
日本では、かつては「きん・にっせい」と日本語の音読みで呼んでいたが、1980年代以降は漢字表記のまま「キム・イルソン」と朝鮮語読みされることが増えた。なお、NHKでは「キム・イルソン」と片仮名で表記することを基本としている<ref>{{Cite web|和書|title=在日韓国・朝鮮人の表記と読みはどうなっているのか |url=https://www.nhk.or.jp/faq-corner/4housoubangumi/04/04-04-06.html |website= |access-date=2022-08-30 |language=ja |last= |publisher=日本放送協会}}</ref>。
== 経歴 ==
=== 出生 ===
[[1912年]][[4月15日]]、[[平壌直轄市|平壌]]西方にある[[万景台]](マンギョンデ)に[[金亨稷]]の長男として誕生する。母の[[康盤石]]は[[キリスト教徒]]であり、外祖父の[[康敦煜]]はキリスト教長老会の[[牧師]]であった<ref group="注">北朝鮮の公式文献では両親の信仰については特に触れられていないが、[[康敦煜]]が使徒「[[ペテロ]]」の名に因み女性の名としては珍しい「盤石」という名を娘に付けた逸話は良く知られている。</ref>。抗日派もしくはその[[シンパ]]であったためか、金亨稷は[[1919年]][[3月1日]]の独立運動([[三・一独立運動]])の翌年に金日成を連れて[[南満洲]]([[中国東北部]])に移住した。
金日成は満洲の平城の小学校で学んだ後、[[1926年]]に満洲の民族派朝鮮人独立運動団体[[正義府]]が運営する軍事学校の華成義塾に入学した。正義府の幹部には[[池青天]]がおり、華成義塾は数年前に現役日本軍将校だった青天や[[金擎天]]が教官を務めた新興武官学校の流れをくむ学校である。しかし、金日成はここを短期間で退学した。この前後に父の亨稷が没している。なお、亨稷は正義府に関係していたとされる<ref>許東粲 『金日成評伝 新装版―虚構と実像』亜紀書房、1992年、63-81頁。和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年、30-32頁。</ref>。
父親が没した後、金日成は[[中華民国の歴史|中華民国]]・[[吉林省]][[吉林市]]の中国人中学校である{{仮リンク|毓文中学校|zh|吉林毓文中学}}に通い<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/312896/1|title=金総書記訪問の中国・吉林省は「幼い頃の思い出の地」|newspaper=[[東亜日報]]|date=2010-09-24|accessdate=2017-10-05}}</ref>、そこで他の学生とともに本格的に[[マルクス・レーニン主義]]に触れ、教師で中国人[[共産主義者]]の{{仮リンク|尚鉞|en|Shang Yue}}に強い影響を受け<ref>『世紀とともに』第3章</ref>、共産主義の青年学生運動に参加したことで中学校退学を余儀無くされた。
=== 中国共産党入党 ===
金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満洲の朝鮮人民族派・[[朝鮮革命軍]]のうち、[[李鐘洛]]率いる[[左派]]の一団だった。[[1930年]]、[[中国共産党]]から派遣された朝鮮人運動家・[[呉成崙]](全光)が、[[コミンテルン]]の一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では入党しなかったものと推測されている<ref>和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年、70-71頁</ref>。金日成の中国共産党の入党は[[1932年]]・[[1933年]]とするものと、2つの記録が中国共産党側の史料に残っている<ref name="ReferenceA">水野直樹・和田春樹『朝鮮近現代史における金日成』神戸学生青年センター出版部、1996年、24-26頁</ref>。親友で中国人の{{仮リンク|張蔚華|zh|张蔚华}}とともに1932年に入党したともされている<ref>呂明輝『金日成与張蔚華:跨越国界的生死情義』世界知識出版社、2002年、150頁 ISBN 9787501217106</ref>。これ以降、金日成は、中国共産党が指導する[[抗日パルチザン]]組織の[[東北人民革命軍]]に参加し、さらには[[1936年]]から再編された[[東北抗日聯軍]]の隊員となるに至った、とされる<ref group="注">長らく北朝鮮の公式[[プロパガンダ]]では金日成が指揮した部隊は「[[朝鮮人民革命軍]]」であったとされ、東北人民革命軍、東北抗日聯軍という名称や中国共産党の指導には言及されていなかった。但し1958年に書かれた李羅英「朝鮮民族解放闘争史」では金日成が中国共産党に入党したことを仄めかしている。金日成は最晩年に執筆した回顧録『[[世紀とともに]]』(未完)において、中国共産党指導下の東北抗日聯軍に在籍していたことを率直に吐露している。またそこでは、[[李立三]]の下で極左路線に流れた中国指導部との間に路線上、民族上の葛藤があったことも記している。</ref>。
東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば[[親日派]][[反共主義|反共]]団体である民生団員であるというレッテルを貼られて[[粛清]]された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した([[民生団事件]])<ref group="注">[[1933年]]から「反民生団闘争」が始まったことによって400名余の朝鮮人が粛清され、抗日闘争の継続に大きな障害をもたらしたとされている。</ref>。
当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。それにも関わらず金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている<ref name="ReferenceA" />。
=== 抗日パルチザン活動 ===
[[1937年]][[6月4日]]、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が[[韓国併合|朝鮮]][[咸鏡南道 (日本統治時代)|咸鏡南道]]の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件([[普天堡の戦い]])を契機に、金日成は名を知られるようになった<ref>{{YouTube|Gw_1ZWdZx60|김일성 항일투쟁의 진실, 보천보 전투}} - KBS역사저널 그날(2020年3月24日){{ko icon|kr=1}}</ref><ref>{{YouTube|xiD--BbJEyY|보천보 전투의 영웅, 김일성의 진실}} - KBS역사저널 그날(2020年3月24日){{ko icon|kr=1}}</ref>。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと<ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、42-48頁。金日成部隊に関する朝鮮半島内の報道は、おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、襲われる満洲の朝鮮人農民の苦しみに同情を寄せたものが多かった。</ref>、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の[[懸賞金]]をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、[[崔賢]]に一万円<ref>佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、p.809-810</ref>で、金日成が一人突出していたわけではない。
また、この普天堡襲撃は在満韓人祖国光復会[[甲山郡|甲山]]支部(後の[[甲山派|朝鮮労働党甲山派]])の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている<ref>佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、p.779-780</ref>。
その後、[[日本軍]]は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。[[咸興市|咸興]](かんこう、ハムン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に[[金仁旭]]少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後、抗日聯軍は1940年3月11日に安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。[[苦力]]およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満洲人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満洲警察・前田隊の追うところとなった<ref>佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、800-802頁。金日成部隊は、1940年3月11日には安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。[[苦力]]およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満洲人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満洲警察・前田隊の追うところとなった。</ref><ref>徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、47-53頁。金日成部隊の兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に訓練を施しては兵士に仕立てた。また食料の調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求めに応じない場合には、人質の耳を切り落とすと脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々を恐怖に陥れた。</ref>が、逆に前田隊を待ち伏せして襲撃した。この襲撃による前田隊の損害は140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。このとき、前田隊の隊員はそのほとんどが練度の低い朝鮮人によって構成されていたため、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた<ref>[[和田春樹]]『金日成と満州抗日戦争』、平凡社、1992年、272-273頁。金賛汀『パルチザン挽歌』、御茶の水書房、1992年、189-190頁。佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、昭和60年、800-802頁。前田隊140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。</ref><ref>和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、41頁。前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人であり、死亡者も多くがそうだった。</ref>。
このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
[[重村智計]]は、[[普天堡の戦い]]は北朝鮮が喧伝しているよりもっと小規模であり、東北抗日聯軍も中国抗日軍との[[連合軍]]であったことを指摘している<ref>{{Cite|和書|date=2003-11-10|author=|title=[[日本の論点]]2004|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4165030300|page=89}}</ref>。
=== ソ連への退却 ===
[[File:1943-10-05-제88여단 대원.jpg|250px|thumb|1943年10月5日、第88旅団幹部合影。前列右から2人目が金日成、3人目が周保中。]]
しかし日本側の巧みな帰順工作・討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥って小部隊に分散しての隠密行動を余儀無くされるようになった。[[1940年]]の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で生き残っていた直接の上司・魏拯民を置き去りにし、十数名ほどの僅かな部下と共に[[ソビエト連邦]]領[[沿海州]]へと逃れた<ref>和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、43-46頁。</ref>。
ソ連に越境した金日成は[[スパイ]]の容疑を受けて[[ロシア国境軍|ソ連国境警備隊]]に一時監禁される。その後東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の[[周保中]]が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月の[[ハバロフスク]]会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連[[極東軍管区|極東戦線]]傘下の[[第88独立狙撃旅団 (ソ連軍)|第88特別旅団]]に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる<ref group="注">但し、北朝鮮の公式文献では40年代に金日成らがソ連領内に退却していたことについて触れておらず、金日成の息子である[[金正日]]も、[[ハバロフスク]]近郊の[[ヴャツコエ]]や[[ウラジオストク]]近郊のオケアンスカヤではなく[[白頭山]]で生まれたことになっている。</ref>。
=== 帰国後、指導者へ ===
{{Triple image stack|left/right/center|Kim Il-sung 1946.JPG|Soviet military advisers attending North Korean mass event.jpg|1945-12 Kim Il-sung and Romanenko.jpg|200|金日成([[1946年]])|1945年10月14日の民衆大会に出席した金日成。後方にはレベジェフ少将らソ連軍幹部が並ぶ|1945年12月、ソ連軍民政司令官ロマネンコ少将と会談する金日成。}}
[[ファイル:Kim Gu and Kim Il-sung in 194804.png|サムネイル|金九と(1948年頃)]]
[[1945年]]8月、[[赤軍|ソ連軍]]が[[38度線|北緯38度線]]以北の朝鮮半島北部を[[占領]]した<ref>{{YouTube|VMtZT-0ujkk|북에 진주한 소련군은 해방군? 점령군?}} - KBS역사저널 그날(2020年3月24日){{ko icon|kr=1}}</ref>。金日成は[[9月19日]]に[[ウラジオストク]]からソ連の軍艦プガチョフに搭乗して[[元山市|元山港]]に上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした<ref>加藤博「ソ連が作った金王朝」(『文藝春秋』1992年4月号)</ref>。同年[[10月14日]]に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した<ref>{{YouTube|xnuGoo8T5HQ|김일성, 평양 군중 앞에 서다}} - KBS역사저널 그날(2020年3月24日){{ko icon|kr=1}}</ref>。
金日成はアメリカ統治下の南部に拠点を置き、[[朴憲永]]に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指していく。
1945年10月10日には平壌に[[朝鮮共産党#朝鮮共産党北部朝鮮分局|朝鮮共産党北部朝鮮分局]]が設置され、[[12月17日]]の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任。10月10日は[[朝鮮労働党創建記念日]]となっている。
[[1946年]]5月には北部朝鮮分局を[[北朝鮮共産党]]と改名し、同年8月末には[[朝鮮新民党]]と合併して[[北朝鮮労働党]]を創設し、[[金枓奉]]が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。
ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として[[1946年]][[2月8日]]に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した<ref>{{YouTube|_tTkI_mehRY|김일성의 급진 개혁, 그리고 그 속내}} - KBS역사저널 그날(2020年3月24日){{ko icon|kr=1}}</ref>。3月1日、平壌での集会上で[[手榴弾]]を投擲されるが、ソ連兵の護衛により一命を取り留めた<ref>{{Cite news |title= 金日成氏の命を救ったソ連市民、北朝代表団が墓参|date= 2014-04-26|url= http://japanese.ruvr.ru/2014_04_26/271703425/|accessdate= 2014-04-27|publisher= [[VOICE OF RUSSIA]]}}暗殺を自身の体で防いだソ連兵ヤコフ・ノヴィチェンコには北朝鮮の[[朝鮮民主主義人民共和国英雄|共和国英雄]]称号が授与された。</ref>。翌年[[2月22日]]には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の[[臨時政府]]として[[北朝鮮人民委員会]]に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。
このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は[[1970年代]]に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入におびえなければならない要因となった。その後[[第一次インドシナ戦争]]で[[ベトナム民主共和国|ベトナム]]を支援した。
ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。[[1948年]]に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、[[8月15日]]に[[大韓民国]]が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。[[9月9日]]、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。さらに翌[[1949年]][[6月30日]]、北朝鮮労働党と[[南朝鮮労働党]]が合併して[[朝鮮労働党]]が結成されると、その党首である中央委員会委員長([[1966年]][[10月12日]]より総書記)に選出された<ref>平井久志『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』岩波書店、2011年、106頁。(ただし1953年9月に就任したとする説もある。下斗米伸夫『モスクワと金日成』岩波書店、2006年、153頁)</ref>。
=== 朝鮮戦争 ===
[[ファイル:Victorious Fatherland Liberation War Museum, Pyongyang, North Korea-1.jpg|225px|thumb|金日成を指揮官として称える壁画]]
[[1950年]][[6月25日]]、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、[[朝鮮戦争]]が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除された[[ソ連]]の資料から、戦争はアメリカとの[[冷戦]]において勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、[[満洲]]という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった<ref>{{Cite news |author=[[重村智計]] |date=2011-03|title=北朝鮮の拉致,テロ,核開発,有事の国際関係 |publisher=[[早稲田大学]]社会安全政策研究所紀要(3)|url=https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21565&item_no=1&page_id=13&block_id=21 |format=PDF |page=194}}</ref>。
当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・[[粛清]]などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、[[ソウル会戦 (第一次)|ソウル会戦]]において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の[[農民]]たちの蜂起を期待していたためともいわれる<ref>{{Cite book|和書|author=李栄薫|authorlink=李栄薫|date=2009-02|title=大韓民国の物語|publisher=[[文藝春秋]]|ISBN=4163703101|page=256}}</ref>。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。
[[9月15日]]、[[アメリカ軍]]が[[仁川上陸作戦]]を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の[[7月4日]]に[[朝鮮人民軍最高司令官]]に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人([[金正日]]・[[金敬姫]]兄妹)<ref group="注">次男シューラは1947年に事故死している。</ref>)を疎開させた後、[[10月11日]]に平壌を脱出し、中華人民共和国の[[通化]]に事実上亡命した<ref>下斗米(2006年)、103ページ。</ref>。
[[10月25日]]に中華人民共和国が[[中国人民志願軍]](抗美援朝義勇軍)を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍および[[朝鮮人民軍]]は[[中朝連合司令部]]の指揮下に置かれた。中朝連合軍の[[彭徳懐]]司令官は[[朝鮮労働党]][[延安派]]の[[朴一禹]]を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた<ref>[[田中恒夫]]「彭徳懐と金日成」『図説 朝鮮戦争』河出書房新社〈ふくろうの本〉、東京、2011年4月30日、初版発行、83頁。</ref>。
その後、戦局は[[38度線]]付近で膠着状態に陥り、休戦交渉が本格化した。[[1953年]][[2月7日]]、[[最高人民会議常任委員会]]政令により、「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、[[共和国元帥|朝鮮民主主義人民共和国元帥]]の称号を授与<ref>{{Cite news |title={{Lang|zh|朝鲜最高人民会议常任委员会授予金日成将军以元帅称号}} |newspaper=[[新華社]] |date=1953-02-08 |url=http://www.cass.net.cn/zhuanti/y_kmyc/review/1953/month2/19530208-1.htm |accessdate=2012-08-12 }}</ref>。同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。
=== 粛清 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-38870-0003, Berlin, Otto Nagel, Otto Grotewohl, Kim Ir Sen.jpg|225px|thumb|[[オットー・グローテヴォール]]らと談笑する金日成([[1956年]])]]
==== 反満洲派の粛清 ====
{{main|8月宗派事件}}
金日成派は[[満洲派 (朝鮮労働党)|満洲派]]とも呼ばれる東北抗日聯軍出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。満洲派はかつて中国共産党のパルチザンとソ連軍に加わった成り立ちから、植民地時代から朝鮮で活動していた国内派よりも、当初は[[延安派]]や[[ソ連派 (朝鮮)|ソ連派]]と友好的であり、金日成と満洲派は、まず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には[[朴憲永]]をリーダーとする[[南朝鮮労働党|南労派]](国内派の主流と目された一派。[[ソウル特別市|ソウル]]を中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。延安派とソ連派は南労派の粛清を黙視していたが、その後共同して金日成の批判を試みるもその報復で自らも粛清されるに至った([[8月宗派事件]])。さらに満洲派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。一方で[[1961年]]にソ連と[[ソ朝友好協力相互援助条約]]、中華人民共和国とは[[中朝友好協力相互援助条約]]を結んで軍事同盟関係を築くことで中ソとの決定的対立は回避した。
[[1967年]]5月には国内北部で活動していた[[朴金喆]]ら[[甲山派]]なども粛清し、満洲派が主導権を握るに至った。この頃までに満洲派の中からも[[金策]]の変死事件が起こるなどしている。その結果、「朝鮮労働党初代政治委員で生き延びたのは、金日成以外では皆無」と言われるほどの粛清となった<ref group="注">参考として朝鮮労働党初代政治委員の名簿を以下に掲げる。金日成以外の政治委員が排除されていったことが見てとれるだろう。
* 金日成(政治委員 [[満洲派 (朝鮮労働党)|満洲派]])
* [[朴憲永]](政治委員 [[南労党派]]) - [[処刑]]
* [[許哥而]](政治委員 [[ソ連派 (朝鮮)|ソ連派]]) - [[変死]]
* [[金枓奉]](政治委員 [[延安派]]) - 獄死
* [[李承燁 (政治家)|李承燁]](政治委員 南労党派) - 処刑
* [[金三龍]](政治委員 南労党派) - 処刑
* [[朴一禹]](政治委員 延安派) - 追放
* [[金策]](政治委員 満洲派) - 変死したとも、朝鮮戦争で戦死したとも言われる
* [[許憲]](政治委員 南労党派) - [[事故死]]
* 崔昌益(組織委員 延安派) - 獄死</ref>。
==== 満洲派内部の粛清 ====
[[1969年]]以降、満洲派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光([[1977年]]に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。[[1972年]]には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が継続され、金日成の後妻の金聖愛([[1993年]]に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の[[金英柱]]([[1975年]]に失脚、[[1993年]]に国家副主席として復帰)、叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮([[1978年]]に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には[[朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所|政治犯収容所]]へと送られた。
金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の[[プロレタリア独裁|執権]]を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。[[全体主義]]体制の整理であるとする立場、満洲派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、[[金正日]]後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。<!--後継体制を準備するための粛清だという見方にはいくつかの反論があります-->
=== 独裁体制の確立 ===
[[ファイル:Kim Il-sung.jpg|225px|thumb|金日成を讃えるプロパガンダ・ポスター]]
金日成は[[スターリン主義|スターリン型]]の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。[[1950年]]代のうちに社会主義体制([[ソ連型社会主義]]体制)を築き、[[1960年]]代末までに満洲派=金日成派[[独裁]]体制を完成させた。<!--(なお、戦前の日本の政治制度、特に天皇制と官僚制の関係を自国の政治制度の参考にしたとの説もある。)←この類似はしばしば指摘されていますし、口頭でも聞きますが、「疑い」として書くにしても「朝鮮民主主義人民共和国」の項目か、別セクションを設けるのが適当ではないでしょうか。-->
1972年[[4月15日]]、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、[[個人崇拝]]が強まると国外の懸念を生んだ。
[[12月27日]]に[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]]が公布され、国家元首として[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]の地位が新設されると、翌[[12月28日]]、金日成は国家主席に就任した。
新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。
さらに[[1977年]]、金日成は[[マルクス・レーニン主義]]を創造的に発展させたとする「[[主体思想|主体(チュチェ)思想]]」を国家の公式理念とした。
=== 国家主席として ===
[[ファイル:CeausescuKim1971.jpg|225px|thumb|[[ニコラエ・チャウシェスク]]を迎える金日成([[1971年]])]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-1984-0601-046, Berlin, Besuch Kim II Sung in der DDR.jpg|225px|thumb|[[ドイツ民主共和国]]訪問の際、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]と並ぶ金日成([[1984年]])]]
国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から[[1973年]]3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年[[7月4日]]に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「[[南北共同声明]]」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。
[[1977年]][[7月3日]]、NHKの取材団が金日成へのインタビューを行い<ref>[http://www.chongryon.com/ss/comp/w9/w9_J.html 両国人民の利益に合致すること]</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=《NHK取材団と行なった》金日成主席の談話 / 金日成|journal=月刊朝鮮資料|volume=17|issue=9|publisher=朝鮮問題研究所|date=1977-09-01|pages=8 - 13|id={{NDLJP|2676814/6}}}}</ref>、7月13日に「金日成主席単独会見」として放送<ref>{{NHKアーカイブス|A197707131930001300100|金日成主席単独会見}}</ref>。
[[1980年代]]以降はそれまで頼みの綱だったソ連など[[共産圏]]からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の[[餓死|餓死者]]が出たと言われる。
[[1980年]]10月、第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での[[連邦制]]という「[[高麗民主連邦共和国]]」創設を韓国側に提唱した。
[[1982年]]11月、[[錦繍山太陽宮殿|錦繍山主席宮]]会議室で開かれた金日成、金正日、[[呉振宇]]、[[金仲麟]]の4名による秘密会議のなかで、金日成は「[[東京]]を火の海にするのがわれわれの任務」であると語った<ref name="kang315">[[#康|康(1998)pp.315-318]]</ref>。これは、[[ソビエト連邦]]指導部のなかでも[[レオニード・ブレジネフ]]が北朝鮮に攻撃兵器を渡すことに消極的であったのに対し、[[ユーリ・アンドロポフ]]は[[第三次世界大戦]]勃発をも辞さない決意を北朝鮮に対し秘密電報で伝えてきたことを受けてのものであった<ref name="kang315" />。これに鼓舞された金日成は、韓国の後方基地にあたり、スパイ罪をもたない日本を軍事的に叩き、通常兵器で軍事的優位に立つ韓国を赤化しようと試みた<ref name="kang315" />。
[[1985年]]12月、北朝鮮は[[核拡散防止条約]](NPT)に加盟。
[[1987年]][[11月29日]]に起きた「[[大韓航空機爆破事件]]」は犯人の一人とされる[[金賢姫]](キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。
[[1991年]][[4月19日]]には[[毎日新聞社]]訪朝団へのインタビューに応じた<ref>毎日フォトバンク - タイトル「金日成 北朝鮮国家主席 毎日新聞訪朝取材団と会見」ID:P20020911dd1dd1phj311000</ref><ref>{{KBS NEWS|3703756|북한 김일성 남북총리회담 희망}}(KBS9時ニュース、1991年4月20日)</ref><ref>{{KBS NEWS|3703755|한국 · 소련 정상회담 일본 언론보도}}(KBS9時ニュース、1991年4月20日)</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=『毎日新聞』編集局長が提起した質問にたいする金日成主席の回答(1991[年]4月19日) / 金日成|journal=月刊朝鮮資料|volume=31|issue=6|publisher=朝鮮問題研究所|date=1991-06-01|pages=2 - 6|id={{NDLJP|2676980/3}}}}</ref>。
[[1991年]][[9月17日]]には韓国と共に、[[国際連合]]に同時加盟する。
[[1991年]][[10月5日]]に生涯最後の外遊である中国訪問<ref>{{KBS NEWS|3708687|김일성 주석, 중국에 경제지원 요청}}(KBS9時ニュース、1991年10月5日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1991/nwdesk/article/1852992_30445.html 김일성 북한주석, 중국 이붕총리와 원자재 수급관련 회담]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1991年10月5日)</ref>で[[鄧小平]]から[[改革開放]]を迫られて帰国後の会議で[[羅先特別市#国際貿易拠点として|羅津・先鋒経済貿易地帯]]の設置を決定する<ref>[[五味洋治]]『中国は北朝鮮を止められるか 中朝愛憎の60年を追う』159頁 2010年6月 晩聲社 ISBN 978-4891883485</ref>。
[[1991年]][[12月6日]]、[[咸鏡南道]]の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可なしに同年[[11月30日]]から中国政府が手配<ref>世界日報1991年12月1日付</ref>した[[北京首都国際空港]]経由で電撃訪朝していた統一教会(統一協会、[[世界基督教統一神霊協会]])の教祖[[文鮮明]]と会談<ref>{{KBS NEWS|3710473|문선명 통일교주 방북}}(KBS9時ニュース、1991年12月6日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1991/nwdesk/article/1855120_30445.html 문선명 통일교교주, 김일성과 회담]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1991年12月6日)</ref><ref>{{KBS NEWS|3710512|통일교 문선명 씨 방북활동에 대해 조사}}(KBS9時ニュース、1991年12月7日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1991/nwdesk/article/1855161_30445.html 대검찰청, 문선명 교주 공동성명 내용 보안법 적용 검토]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1991年12月7日)</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=【ファイル社会主義朝鮮】|journal=月刊朝鮮資料|volume=32|issue=2|publisher=朝鮮問題研究所|date=1992-02-01|pages=52 - 53|id={{NDLJP|2676988/28}}}}</ref>。金日成を[[サタン]]の代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるために世界を驚かせた(ただし、当時の統一教会は韓国大統領[[盧泰愚]]の[[北方外交]]に呼応して中国など共産圏で事業を手掛けており、北朝鮮との接触もその人脈から始まっている<ref>『新東亜』2000年9月号</ref>)。文鮮明はこの訪朝についてソ連東欧への「神主義」「頭翼思想」の布教や中国でのパンダ自動車事業を例に出して「私の勝共思想は共産主義を殺す思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救済の思想」<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.familyforum.jp/2013112225785|title = 統一教会・文鮮明教祖は、なぜ北朝鮮に行ったのか?|date = 2013-11-22|author = |work = |accessdate = 2016年7月24日}}</ref><ref>文鮮明「北朝鮮から帰って」1991年12月7日</ref>とする声明文を出した。会談では[[離散家族]]再会に取り組むこと、核査察を受けること、自由陣営国家からの投資を受け入れること、[[軍需産業]]を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、[[金剛山 (朝鮮)|金剛山]]開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的な窮地を救われる。
[[1992年]][[1月30日]]に北朝鮮政府は[[国際原子力機関]](IAEA)の核査察協定に調印したが<ref>{{KBS NEWS|3712220|북한, IAEA와 핵안전 협정 서명}}(KBS9時ニュース、1992年1月30日)</ref>、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し<ref>[https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19930312 KBS9時ニュース現場](1993年3月12日){{ko icon|kr=1}}</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1993/nwdesk/2137902_30682.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1993年3月12日)</ref><ref>[https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19930313 KBS9時ニュース現場]{{ko icon|kr=1}}(1993年3月13日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1993/nwdesk/2138365_30682.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1993年3月13日)</ref>、[[1994年]][[4月16日]]に金日成は西側メディアのインタビューで核開発を否定するも<ref>{{KBS NEWS|3739426|김일성 북한 주석 핵 재사찰 거부}}(KBSニュース9、1994年4月16日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/article/1926981_30690.html 김일성, CNN TV와의 회견에서 '핵무기 개발 부인']{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1994年4月16日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/article/1926983_30690.html 김일성 주석 발언 내용]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1994年4月16日)</ref><ref>{{KBS NEWS|3739553|김일성 북한 주석, 미국 등지에 손짓}}(KBSニュース9、1994年4月20日)</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=『ワシントン・タイムズ』記者団の質問にたいする回答(1994年4月16日) / 金日成|journal=月刊朝鮮資料|volume=34|issue=10|publisher=朝鮮問題研究所|date=1994-10-01|pages=2 - 12|id={{NDLJP|2677021/5}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=CNN記者団の質問にたいする回答(1994年4月17日) / 金日成|journal=月刊朝鮮資料|volume=34|issue=10|publisher=朝鮮問題研究所|date=1994-10-01|pages=13 - 18|id={{NDLJP|2677021/10}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=NHK記者団の質問にたいする回答(1994年4月17日) / 金日成|journal=月刊朝鮮資料|volume=34|issue=10|publisher=朝鮮問題研究所|date=1994-10-01|pages=19 - 22|id={{NDLJP|2677021/13}}}}</ref>、1994年6月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった<ref>[https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19940614 KBSニュース9]{{ko icon|kr=1}}(1994年6月14日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/2176995_30688.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1994年6月14日)</ref>。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、元大統領[[ジミー・カーター]]を特使として北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領[[金泳三]]との南北首脳会談実施の提案を受け入れた<ref>[https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19940616 KBSニュース9]{{ko icon|kr=1}}(1994年6月16日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/2177518_30688.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1994年6月16日)</ref>。
=== 後継者問題 ===
経過は不明ながらも、結果として長男の[[金正日]]が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。金日成および北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。
金日成の首の後ろには1958年時点からコブがあり<ref>{{cite news||title=金正恩第1書記、後頭部になにが?|newspaper=[[中央日報]]|publisher=中央日報社|date=2015-10-18|url=http://japanese.joins.com/photo/273/2/144273.html?servcode=§code=l|accessdate=2018-01-16}}</ref>、しかも徐々に大きくなっていたため健康を心配する声も上がっていた。金日成が59歳とまだ若かった1971年時点で、金正日が後継者に指名された<ref>{{cite news||author=[[李相哲]]|title=【秘録金正日(26)】病気の叔父押しのけ、長老らを籠絡「次世代に譲るべき」|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産経新聞社]]|date=2015-5-26|url=https://www.sankei.com/article/20150526-3HX4S62X2RMYVEBI2RU6ODLEIY/4/|accessdate=2018-01-16}}</ref>。北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。
後継者選定については
# 継続革命が必要であるように首領には後継者が必要だ
# 後継者には最も優秀な人物が就かなければならない
# 後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない
という[[プロパガンダ]]を徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。
このプロパガンダのあり方は、[[世襲]]そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。
金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。
また、三代の世襲も目的にしていたかは定かではないが、金日成は金正日と[[成蕙琳]]の結婚に反対したものの、後に娘と娘婿である金敬姫・[[張成沢]]夫妻のとりなしを受けて、[[初孫]]である[[金正男]]を可愛がり<ref name=huffpo17218>{{Cite web|和書|url = https://www.huffingtonpost.jp/foresight/kim-mystery_b_14833232.html|title = 金正男氏暗殺の謎:「白頭の血統」の視点から--平井久志|date = 2017-02-18|publisher = [[ハフィントン・ポスト]]|accessdate = 2018-01-28}}</ref>、1994年に訪朝した元アメリカ大統領ジミー・カーターにも「自分が一番愛する孫」と金正男を紹介している<ref name=huffpo17218/><ref>{{Cite web|和書|url = https://www.huffingtonpost.jp/lee-aeran/kim-jong-nam-killed_b_15100868.html|title = 金正男暗殺事件はテロ行為と見なして対応すべき|date = 2017-03-04|publisher = [[ハフポスト]]|accessdate = 2018-02-03}}</ref>。また、金正日と後妻の[[高英姫]]の結婚にも反対<ref>[http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201202151002301 "北 김일성, 김정은 손자로 인정안했다"] [[경향신문]] 2012년 2월 15일</ref><ref>[[PHP研究所]]『Voice』平成29年4月号</ref>し、その子の[[金正恩]]や[[金正哲]]が、平壌から離れた元山で生活させられ、金敬姫・張成沢夫妻によって面会<ref>{{Cite web|和書
|url = https://www.asahi.com/articles/ASL5H3J6CL5HUHBI00D.html
|title = スッポン大量死に正恩氏激怒、支配人は銃殺 脱北者出版
|date = 2018-05-15
|publisher = [[朝日新聞]]
|accessdate = 2018-05-18
}}</ref>も認められなかったのとは対照的に、誕生日を金日成によって直接祝われた金正男は、謂わば金日成・金正日と同じ長子であるがゆえに、金正日の後継者となりうる「[[皇太子]]」の地位が確定したと、当時の側近達は看做していた<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.asahi.com/articles/ASKB36DWRKB3UHBI022.html|title = 殺害された金正男氏、波乱の生涯 一晩10万ドル浪費も|date = 2017-10-05|publisher = [[朝日新聞]]|accessdate = 2018-01-28}}</ref>。
=== 死去 ===
{{main|{{仮リンク|金日成の死|en|Death and state funeral of Kim Il-sung|zh|金日成之死|es|Muerte de Kim Il-sung|redirect=1}}}}
[[ファイル:Kumsusan Memorial Palace, Pyongyang.jpg|225px|thumb|金日成と金正日の遺体が安置されている[[錦繍山太陽宮殿]]]]
金日成は[[1994年]][[7月8日]]午前2時に[[平安北道]][[香山郡]][[香山官邸]]({{coord|39|58|19|N|126|19|17|E|}})<ref name="sankei0127"/>で死去した。死亡時には首の後ろにあったコブが野球ボール大にまで大きくなっていた<ref>{{cite news||title=金正恩第1書記、後頭部になにが?|newspaper=[[中央日報]]|publisher=中央日報社|date=2015-10-18|url=http://japanese.joins.com/article/120/207120.html?servcode=500§code=500|accessdate=2018-01-16}}</ref>
[[ファイル:Kim il Song. 1994 4.jpg|225px|thumb|[[1994年]][[4月]]、晩年の金日成]]
。北朝鮮政府の公式発表では香山官邸ではなく、[[平壌直轄市|平壌]]の[[錦繍山太陽宮殿|錦繍山議事堂]]で死去したことになっている。
死去の数日前から金日成への独占インタビューの為、日本人ジャーナリストの[[中丸薫]]が北朝鮮へ入国している<ref>{{KBS NEWS|3741857|김정일, 김일성 주석 장례 후 권력 승계}}(KBSニュース9、1994年7月12日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/article/1933348_30690.html 북한, 김일성 장례후 새주석 선출 북한, 김일성 장례후 새주석 선출]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1994年7月12日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/article/1933350_30690.html 나까마루(일본 정치평론가) 인터뷰1]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1994年7月12日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/article/1933352_30690.html 나까마루(일본 정치평론가) 인터뷰2]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1994年7月12日)</ref>。どこから調べたのか、入国してからは宿泊していた高麗ホテルの電話が各国のメディア取材から鳴り止まなかったという。労働党幹部との調整で金日成の独占インタビューを7月11日に許可されていた。ところが7月7日になってインタビューの延期を示唆し始めたという。レストランでの支払い時に女性店員が泣きながら対応した為に異変に気づいたという<ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/article/1933089_30690.html 일본인 나까마루 가오르씨가 본 평양]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1994年7月9日)</ref>。
北朝鮮政府は翌日の[[7月9日]]正午に[[朝鮮中央放送]]の「特別放送」で公式発表を行い、死因は執務中の過労による[[心筋梗塞]]と報じた<ref>[https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19940709 KBSニュース9]{{ko icon|kr=1}}(1994年7月9日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/2186020_30688.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1994年7月9日)</ref><ref>{{NHKアーカイブス|A199407091200031300100|ニュース}}</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/article/1933114_30690.html 일본의 반응과 그곳 조총련계 움직임]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1994年7月9日)</ref><ref>[https://www.nbcnews.com/video/from-the-archives-kim-il-sung-dies-43496003916 From the archives: Kim Il Sung dies] NBC NEWS{{en icon}}</ref><ref>{{YouTube|SWbWIPF4yfw|South Korea - Reaction To Kim's Death}} - AP archive{{en icon}}</ref><ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab94069297/portrait-de-kim-il-sung Portrait de Kim Il Sung] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab94069299/perspective-kim-il-sung Perspective Kim Il Sung] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|a3Vj0HdVzOo|20h France 2 du 9 juillet 1994 - mort de Kim Il Sung | Archive INA}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref><ref>{{KBS NEWS|3741812|세계적 특종, KBS 뉴스 신속히 보도}}(KBSニュース9、1994年7月10日)</ref><ref>[https://newslibrary.naver.com/search/searchByDate.naver#%7B%22mode%22%3A0%2C%22trans%22%3A%221%22%2C%22pageSize%22%3A20%2C%22date%22%3A%221994-07-10%22%2C%22officeId%22%3A%2200023%22%2C%22page%22%3A1%2C%22fevt%22%3A7112%7D 1994년 07월 10일 :: 네이버 뉴스 라이브러리]{{ko icon|kr=1}}(1994年7月10日)</ref><ref>{{YouTube|F9xnYvEvlNs|대한뉴스 제 2018호-김일성 사망}} - [[大韓ニュース|KTV 대한늬우스]]{{ko icon|kr=1}}(1994年7月13日)</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=すべての党員と人民に告ぐ――朝鮮労働党中央委員会、同中央軍事委員会、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会、同中央人民委員会、同政務院(1994年7月8日) / 朝鮮労働党中央委員会 ; 朝鮮労働党中央軍事委員会 ; 朝鮮民主主義人民共和国国防委員会 ; 朝鮮民主主義人民共和国中央人民委員会 ; 朝鮮民主主義人民共和国政務院|journal=月刊朝鮮資料|volume=34|issue=9|publisher=朝鮮問題研究所|date=1994-09-01|pages=6 - 8|id={{NDLJP|2677020/5}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=金日成主席の疾病と死亡原因に関する医学的結論書(7月9日)|journal=月刊朝鮮資料|volume=34|issue=9|publisher=朝鮮問題研究所|date=1994-09-01|pages=12|id={{NDLJP|2677020/8}}}}</ref>。金日成は長く[[心臓病]]を患っており、さらに82歳と高齢であったことからも一般に病死は事実と見られている。
2000年の[[南北首脳会談]]で、息子の金正日は、晩年の金日成が、ソ連のクレムリン病院の[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]を付けていたと述べた。ペースメーカーを付ければ、[[血液]]の凝集現象が現れ、急死の原因となる。そのため、西側諸国や中国では[[アスピリン]]を服用することが多いが、ソ連からはそのような説明は受けず、「魚を食べるのがいい」といった従来の常識に従っていたのが間違いだったと述べた<ref>林東源:著、波佐場清:訳『南北首脳会談への道 林東源回顧録』岩波書店、2008年、p51~52</ref>。
1994年には、息子の[[金正日]]が病気治療中であったため死亡までの間、様々な課題の解決に向けて金日成は自ら精力的な陣頭指揮に当たることになる。内政では低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ビル・クリントン]]の密命を帯びた元大統領[[ジミー・カーター]]の招朝実現と直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるという彼特有の「円環の理論」に基づく賭けでもあったが、交渉の結果「[[米朝枠組み合意]]」を結ぶことで決着。さらには当時の[[大韓民国|韓国]][[大統領 (大韓民国)|大統領]][[金泳三]]との間で開催されることが決まっていた初の[[南北首脳会談]]の話題が持ち上がっており、彼の突然の死は世界に衝撃を与えた。
死去2日前の7月6日にも経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。[[セメント]]生産が成否を握ると叱咤した上で<ref>{{Cite journal|和書|title=【ファイル社会主義朝鮮】|journal=月刊朝鮮資料|volume=34|issue=11|publisher=朝鮮問題研究所|date=1994-11-01|pages=65|id={{NDLJP|2677022/34}}}}</ref><ref>この映像と音声は記録映画『偉大な生涯の1994年』に収録</ref>、党官僚の[[形式主義]]を声を荒らげて非難しながら、やめていたはずの[[たばこ|煙草]]を[[喫煙]]した後に寝室に入ったとの情報がある<ref>{{cite news||author=[[李相哲]]|title=【秘録金正日(8)】「労働者の忠誠心は高いのですが食べることができず…」に衝撃 食糧配給の途絶 ただ一人知らされなかった〝裸の王様〟|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産経新聞社]]|date=2015-1-20|url=https://www.sankei.com/article/20150120-7DJXFZZ3EZLAFJ6MEU37HXGWBM/|accessdate=2017-4-22}}</ref>。
このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や[[暗殺]]を疑う声が上がった。しかし米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。また韓国の[[中央日報]]が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し北朝鮮は激しく抗議した。なお、同日に金正日が金日成に会っていないことは主席府(錦繍山議事堂)責任書記・[[全河哲]]が残していた記録の上からも明らかである。
[[葬儀]]は[[国葬]]として金正日主導のもと[[7月11日]]に首都平壌で執り行われた。当日は北朝鮮全土から大勢の国民が集まり、[[朝鮮中央放送|朝鮮中央テレビ]]では人々が万寿台に集まり一斉に地面を叩きながら泣き崩れている様子が報じられた<ref>[https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19940711 KBSニュース9]{{ko icon|kr=1}}(1994年7月11日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1994/nwdesk/2186850_30688.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1994年7月11日)</ref>。その後遺体は[[エンバーミング]]が施され、錦繍山議事堂(主席宮殿)を改築した[[錦繍山太陽宮殿]]に安置された。
北朝鮮政府は国家として「三年の喪に服す」と宣言した<ref>{{YouTube|rbxGW0FcyQg|갑자기 들려온 김일성 사망 소식! 애도 기간만 3년?! 슬픔까지 통제당한 北 주민들 | 이제 만나러 갑니다 508 회
}} - [[Channel A]]{{ko icon|kr=1}}</ref>。
[[1998年]][[9月5日]]に行われた憲法改正によって「{{仮リンク|永遠の領袖|en|Eternal leaders of North Korea|label=永久国家主席}}」([[:en:Eternal leaders of North Korea]])に任じられる<ref group="注">他国における同様の地位としては、[[中華民国]]による[[孫文]]の“[[中国国民党]]総理”と[[蒋介石]]の“中国国民党永久総裁”がある。国民党の党首は「主席」</ref>。
== 神格化とその変化 ==
北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの尊称の下に[[神格化]]され、[[北朝鮮の個人崇拝|個人崇拝]]されてきた<ref>{{cite news|title=「首領」「将軍」の次は? 北朝鮮住民が注目する金正恩時代の変化|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=東亜日報社|date=2011-12-26|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/415951/1|accessdate=2018-01-16}}</ref>。その一例として金日成による抗日パルチザン時代の活動について北朝鮮では学生用・人民用教材において「[[縮地|縮地法]]を使い、落ち葉に乗って大きな川を渡り、松ぼっくりで銃弾を作り、砂で米を作った」といった記述が行われていた<ref name=chosunon20200521>{{Cite news|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/21/2020052180130.html|title=朝鮮労働党機関紙が金日成の「縮地法」を否定|work=|publisher=朝鮮日報|date=2020年5月21日}}</ref>。
しかし、2019年頃から変化が指摘されており、労働新聞の2019年3月の記事は孫の金正恩が書簡で「もし偉大さを強調するなどといって、首領(最高指導者)の革命活動や風貌を神格化すれば、真実を隠すことにつながる」との考えを表したことを伝えた<ref name=chosunon20200521 /><ref name=asahi20200522>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASN5Q5GY2N5QUHBI02K.html|title=金正恩氏、また雲隠れ 「現実主義」との関連指摘も|work=|publisher=朝日新聞|date=2020年5月22日}}</ref>。2020年5月20日付の労働新聞も「縮地法の秘訣」と題した記事で抗日パルチザン時代の縮地法について霊的な技術を言ったものではないとして金日成・金正日時代の解釈とは異なる見解を伝えた<ref name=chosunon20200521 />。北朝鮮のメディアが最高指導者に独断で言及することは考えられないことから、金正恩の意向が反映されているとみられている<ref name=asahi20200522 />。
== 人物像 ==
抗日の闘士として勇名を馳せたが、たとえ日本人であっても個人として信頼を置く人物に対しては友情を示し、もし同胞であったならば決して許されないような言動に対しても寛容な態度で対応することもあった。{{要出典|date=2023年4月}}
金日成は終戦後も残留していた二人の日本人女性を家政婦として雇っていた。将来日本が[[共産主義]]になることを心配していた二人に彼は共産主義の優位性を説いて聞かせた。それにもかかわらず彼女たちが「[[昭和天皇|天皇陛下]]のほうが好き」と正直に答えたので、説得することを諦め笑って受け流したエピソードが伝えられる<ref>[[大島信三]]『異形国家を作った男-----金日成の生涯と負の遺産』([[芙蓉書房]])</ref><ref>[[佐藤守]]2009『金正日は日本人だった』[[講談社]]</ref>。同様のエピソードは息子の[[金正日]]が料理人に日本人の[[藤本健二]]を雇い、家族的な付き合いをした例がある。
== 評価 ==
[[李栄薫]]は、「中国共産党傘下の抗日聯軍に中隊長クラスの位で所属していた金日成と、彼の部下50名余りは、関東軍の追撃を受けて1941年には沿海州のソ連領に逃げ込み、同地で1945年の解放時まで過ごしていました」「戦争が終結する少し前、スターリンは沿海州にいた金日成をモスクワに呼び、彼がこれからさき朝鮮北部に作る自分の代理政府の責任者として適格であるかどうかをテストします。そしてスターリンは金日成に満足したようです。これにともない金日成はソ連軍の船に乗り、解放から1カ月後に[[元山市|元山港]]に帰ってきました」と説明したうえで、北朝鮮の歴史書『現代朝鮮歴史』(1983年)が「朝鮮の解放は金日成が組織し領導した栄光の抗日武装闘争の勝利がもたらした偉大な結実だった」と記述していることを「真っ赤なウソ」「深刻な捏造」「偽善の知性」として、北朝鮮の歴史書が歴然たる事実を国民を欺いているのは、北朝鮮社会に思想・学問の自由がなく、偽善の[[専制]]権力が君臨しているから、と批判している<ref>{{Cite book|和書|author=李栄薫|authorlink=李栄薫|date=2009-02|title=大韓民国の物語|publisher=[[文藝春秋]]|pages=199-200|ISBN=4163703101}}</ref>。
訪朝経験のある元アメリカ大統領ジミー・カーターは[[2009年]]11月、[[タイ王国|タイ]]の新聞との会見で金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評している。
脱北した[[黄長燁]]元[[朝鮮労働党]]書記はフリージャーナリスト・[[山本皓一]]とのインタビューにおいて「金日成は自分の経歴を美化するなど俗物的な所はあったが、抗日パルチザン闘争などで苦労した経験があり人民の痛みもある程度わかっていた。ともかくも国民を飢え死にはさせなかった。'''現在の非民主主義的な体制を造り上げたのは金日成ではなく金正日である'''」と証言している。また、黄長燁は金日成は中国式の[[改革開放]]に肯定的な柔軟さを持っていたが、金正日は自己保身を優先して[[苦難の行軍]]を引き起こして経済を低迷させた責任があると証言しており<ref>久保田るり子『金正日を告発する 黄長燁が語る朝鮮半島の実相』162頁、2008年</ref>、これは他の記録でも裏付けられている<ref>{{cite news |title=【秘録金正日(47)】中国の改革解放を「共産主義捨てた」と一蹴 トウ小平は「なんてばかなやつだ」と激怒 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2015-10-23|url=https://www.sankei.com/article/20151023-UD7A2SERIRPDHDC5Z2KTE757DU/6/ |accessdate=2016-09-16}}</ref><ref>五味洋治『中国は北朝鮮を止められるか: 中朝愛憎の60年を追う』第5章158頁、2010年</ref>。
== 系譜 ==
'''金氏''' [[本貫]]は[[全州金氏]]。回顧録『[[世紀とともに]]』によると、「[[金膺禹]]の10代前の先祖金継祥が、全羅道から平安道へ移住してきた」という。[[金膺禹]]は、「[[朝鮮]][[平壌直轄市|平壌]]中城里の出身で、生活苦から平壌の[[地主]][[李平澤]]家の[[墓守]]をするために[[万景台]]に帰ってきた」という。金日成はその曽孫にあたる。
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{{familytree/end}}
== 家族 ==
*高祖父:[[金松齡]]([[1810年]] - [[1899年]][[3月12日]])
*高祖母:[[羅氏]]([[1811年]] - [[1897年]][[1月23日]])
*曽祖父:[[金膺禹]]([[1848年]][[旧暦]][[6月17日]] - [[1878年]][[旧暦]][[10月4日]])
*曽祖母:李氏
*祖父:[[金輔鉉]]([[1871年]][[旧暦]][[8月19日]] - [[1955年]][[新暦]][[9月2日]])
*祖母:[[李寶益]]([[1876年]][[旧暦]][[5月31日]] - [[1959年]][[新暦]][[10月18日]])
*父:[[金亨稷]]([[1894年]][[旧暦]][[7月10日]] - [[1926年]][[新暦]][[6月5日]])
*母:[[康盤石]]([[1892年]][[旧暦]][[4月11日]] - [[1932年]][[新暦]][[7月31日]])
*いとこ:[[金永柱]]
*いとこ:[[金元柱]]([[1926年]] - [[1957年]][[6月27日]])
*いとこ:[[金昌柱]]
*いとこ:[[金貞淑]]
*次弟:[[金哲柱 (軍人)|金哲柱]]
*末弟:[[金英柱]]
*長男:[[金正日]] 幼名:有羅(ユーラ、{{lang|ko|김유라}})、母[[金正淑 (北朝鮮)|金正淑]]
**孫(長男):[[金正男]]([[1971年]][[5月10日]] - [[2017年]][[2月13日]])、母[[成恵琳]]
***曽孫(長男):[[金綿率]]、母[[申正熙]]
***曽孫(次男):[[金漢率]]([[1995年]][[6月16日]] - )、 母[[李惠慶]]
***曽孫(三男):[[金ジミー]]([[1997年]] - )、母[[李惠慶]]
***曽孫(長女):[[金率姫]]([[1998年]] - )、母[[李惠慶]]
***曽孫(男):[[金東煥]] 、母[[崔惠理]]
***曽孫(女):[[金現慶]] 、母[[徐英蘭]]
**孫(次男):[[金正哲]]([[1981年]][[9月25日]] - )、母[[高英姫]]([[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]帰還者)
**孫(三男):[[金正恩]]([[1984年]][[1月8日]] - )、母[[高英姫]](在日朝鮮人帰還者)
**孫(長女):[[金恵敬]]、母[[洪一茜]]
**孫(次女):[[金雪松]]、母[[金英淑]]
**孫(三女):[[金英順]]、母[[金英淑]]
**孫(四女):[[金与正]]、母[[高英姫]]
*次男:[[金万一]] 幼名:修羅(シューラ、{{lang|ko|김슈라}})、母[[金正淑 (北朝鮮)|金正淑]]
*三男:[[金成一]]([[1951年]] - )、母[[文成子]]
*四男:[[金平一]]([[1954年]][[8月10日]] - )、母[[金聖愛]]
**孫:[[金仁剛]]
*五男:[[金英一]]([[1956年]]8月 - [[2000年]]5月?)、母[[金聖愛]]
**孫:[[金成剛]]
*六男:[[金清一]]、母[[金聖愛]]
*長女:[[金敬姫]]([[1946年]][[5月30日]] - )、母[[金正淑 (北朝鮮)|金正淑]]
**孫:[[張琴松]](1977年 - 2006年8月)
*次女:[[金慶真]]([[1952年]] - )、母[[金聖愛]]
*三女?:[[金京一]]、母[[金聖愛]]
*この他にも「金ヒョン(金賢男とも)」([[1972年]]-、母未詳(金日成の専属[[看護婦]]という))という男子がいるとの説がある<ref>朝鮮労働党の宣伝部門責任者に就任していたという。[http://www.fsight.jp/8542 金正日後継に躍り出た「金ヒョン」という男] Foresight(フォーサイト) 2002年10月号 新潮社</ref>。消息は不明。
*金日成のいとこ<ref>金亨稷の次弟亨禄の長女か。なお、金正日のいとこ、との報道もある。[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170910/k10011133771000.html 北朝鮮 首脳会談で通訳務めた日本対応の幹部更迭か] NHK 2017年9月10日 「キム総書記(金正日)のいとこがトップを務める「朝鮮対外文化連絡委員会」」とある。</ref>に[[金貞淑]]がいる。貞淑の系譜は未詳。[[韓国国家情報院]]によると、[[1964年]]に社会主義労働青年同盟(金日成社会主義青年同盟)副委員長、[[1971年]]に朝鮮職業総同盟副委員長、[[1986年]]に「[[民主朝鮮]]」責任主筆、[[1982年]]からは[[最高人民会議]]代議員、[[2009年]]12月には対外文化連絡委員会委員長となったという。[[2010年]]2月、[[朝鮮中央放送]]は金正日の誕生日を記念した宴会について報じた際、貞淑を対外文化連絡委員長と紹介しており、同職在任が確認されている<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2010/02/19/0300000000AJP20100219003600882.HTML 北朝鮮、対外文化連絡委員長に金貞淑氏を任命] 聨合ニュース 2010年2月19日</ref>。貞淑の夫は[[朝鮮労働党]]対南担当秘書の[[許錟]](ホ・ダム、2010年当時既に故人)。夫婦で日成・正日親子側近として正日の権力世襲を支えた身内という。金正恩権力継承後の貞淑の動静は不明。対外文化連絡委員会は北朝鮮政府の外交部署の一つであり、北朝鮮外務省とともに朝鮮労働党国際部の指揮の下にある。北朝鮮と国交がある国家との外交を担当する外務省に対し、委員会は[[日本]]や[[アメリカ合衆国]]など北朝鮮と国交がない国家や民間人との外交活動を行う。[[朝鮮対外文化連絡協会]]とは別の組織。
== 主な著書 ==
* {{Cite book|和書|translator=現代朝鮮研究会|title=祖国解放戦争|publisher=青木書店|date=1953-08-01|id={{NDLJP|3033978}}}}
* 「金日成選集 (김일성선집)」(1953年) - 上・下巻
** {{Cite book|和書|translator=日本共産党中央委員会金日成選集翻訳委員会|title=金日成選集 第4 上|publisher=日本共産党中央委員会出版部|date=1962-12-27|id={{NDLJP|2979781}}}}
** {{Cite book|和書|translator=日本共産党中央委員会金日成選集翻訳委員会|title=金日成選集 第4 下|publisher=日本共産党中央委員会出版部|date=1964-05-15|id={{NDLJP|2979782}}}}
** {{Cite book|和書|translator=日本共産党中央委員会金日成選集翻訳委員会|title=金日成二巻選集 第1巻|publisher=日本共産党中央委員会出版部|date=1966-08-30|id={{NDLJP|3021102}}}}
** {{Cite book|和書|translator=日本共産党中央委員会金日成選集翻訳委員会|title=金日成二巻選集 第2巻|publisher=日本共産党中央委員会出版部|date=1966-11-25|id={{NDLJP|2979803}}}}
* {{Cite book|和書|title=わが国での社会主義経済建設のために|publisher=外国文出版社|date=1958-12-10|id={{NDLJP|3017758}}}}
* 「金日成著作集 (김일성저작집)」(1962年) - 全3巻
* {{Cite book|和書|title=現情勢とわが党の任務 : 朝鮮労働党代表者会議でおこなった報告|publisher=外国文出版社|date=1966-10|id={{NDLJP|3034269}}}}
* 「進歩的民主主義について (진보적민주주의에 대하여)」
* {{Cite book|和書|title=チョソン民主主義人民共和国は、わが人民の自由と独立の旗じるしであり、社会主義・共産主義建設の強力な武器である|publisher=外国文出版社|date=1968|id={{NDLJP|3446865}}}}
* {{Cite book|和書|title=マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の旗,反帝反米闘争の旗をたかくかかげて世界革命を促進しよう|publisher=外国文出版社|date=1969|id={{NDLJP|12250769}}}}
* {{Cite book|和書|title=社会主義経済のいくつかの理論的問題について|publisher=外国文出版社|date=1969|id={{NDLJP|11936655}}}}
* {{Cite book|和書|title=国家活動のすべての分野で自主・自立・自衛の革命精神をいっそう徹底的に具現しよう|publisher=外国文出版社|date=1971|id={{NDLJP|11928263}}}}
* 「金日成著作選集 (김일성저작선집)」(1971年)
* {{Cite book|和書|title=教育において社会主義教育学の原理を徹底的に具現することについて|publisher=外国文出版社|date=1973|id={{NDLJP|12055038}}}}
* {{Cite book|和書|title=重要産業の国有化は自主独立国家建設の基礎|publisher=外国文出版社|date=1973|id={{NDLJP|11948595}}}}
* {{Cite book|和書|title=チョソンの革命家はチョソンをよく知るべきである|publisher=外国文出版社|date=1973|id={{NDLJP|12245913}}}}
* {{Cite book|和書|title=極左冒険主義路線を排撃し、革命的組織路線を貫徹しよう|publisher=外国文出版社|date=1973|id={{NDLJP|11924959}}}}
* {{Cite book|和書|title=思想活動において教条主義と形式主義を一掃し主体を確立するために|publisher=外国文出版社|date=1973|id={{NDLJP|11924961}}}}
* {{Cite book|和書|title=わが国における民主主義革命と社会主義革命のいくつかの経験について|publisher=外国文出版社|date=1973|id={{NDLJP|11924958}}}}
* {{Cite book|和書|title=金日成主席談話集|publisher=読売新聞社|date=1973-06-10|id={{NDLJP|11928258}}}}
* {{Cite book|和書|title=祖国統一への道|publisher=読売新聞社|date=1973-11-30|id={{NDLJP|12173118}}}}
* {{Cite book|和書|title=わが国社会主義農業の正しい運営のために|publisher=外国文出版社|date=1975|id={{NDLJP|11990813}}}}
* {{Cite book|和書|title=わが革命におけるチュチェについて 1|publisher=外国文出版社|date=1975|id={{NDLJP|12251213}}}}
* {{Cite book|和書|title=わが革命におけるチュチェについて 2|publisher=外国文出版社|date=1975|id={{NDLJP|12250482}}}}
* {{Cite book|和書|translator=キム・イルソン主席著作翻訳委員会|title=朝鮮の自主的平和統一|publisher=未来社|date=1976-04-15|id={{NDLJP|12172207}}}}
* {{Cite book|和書|title=非同盟運動はわれわれの時代の強大な反帝革命勢力である|publisher=外国文出版社|date=1977|id={{NDLJP|11925495}}}}
* {{Cite book|和書|title=青少年運動について|publisher=外国文出版社|date=1977|id={{NDLJP|12120977}}}}
* {{Cite book|和書|title=わが革命におけるチュチェについて 3|publisher=外国文出版社|date=1982|id={{NDLJP|12250627}}}}
* {{Cite book|和書|title=農村テーゼの完全な実現のために|publisher=外国文出版社|date=1982|id={{NDLJP|12039221}}}}
* {{Cite book|和書|translator=金日成労作翻訳委員会|title=チュチェ思想と祖国統一|publisher=雄山閣|date=1982-04-15|id={{NDLJP|12251216}}}}
* {{Cite book|和書|title=高麗民主連邦共和国創立方案について|publisher=外国文出版社|date=1983|id={{NDLJP|11926523}}}}
* {{Cite book|和書|translator=金日成主席著作翻訳委員会|title=日朝友好のために|publisher=チュチェ思想国際研究所|date=1986-08-15|id={{NDLJP|11923523}}}}
* {{Cite book|和書|title=全世界の自主化のために|publisher=外国文出版社|date=1986|id={{NDLJP|11925454}}}}
* 「[[世紀とともに]] (세기와 더불어)」(1994年) - 全8巻
* 「[[金日成全集]] (김일성전집)」(2012年) - 全100冊
== 別人説 ==
{{Main|{{仮リンク|金日成の身元をめぐる論争|ko|김일성 가짜설}}}}
日本統治下の朝鮮半島において、抗日独立運動に挺身する「キム・イルソン将軍」の伝説があったことには、多くの証言がある。キム・イルソン将軍について巷では、「[[陸軍士官学校 (日本)|日本陸軍士官学校]]を出ている」「[[義兵闘争]]のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「[[白頭山]]を根城にして日本軍と戦った」などと言われていた<ref>李命英『金日成は四人いた』より。</ref>。[[2016年]][[10月]]、金日成とされた「'''金顕忠'''」が旧大日本帝国陸軍士官学校出身だったことが判る卒業生名簿が発見・公表された<ref>[https://www.iza.ne.jp/article/20161030-65TT3QTXCJJDRE27FE3IEMJ25Q/ “初代”金日成は旧陸軍士官学校出身 卒業名簿に本名記載、伝説的抗日運動家] Iza 2016年10月30日</ref>。抗日運動では「[[金擎天|金光瑞]]」などと名乗ったとされる。
金日成が初めて北朝鮮の民衆の前に姿を現したとき、「若すぎる」「朝鮮語がたどたどしい」という声があがった<ref>[[萩原遼]]『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』に詳しい。</ref>。南朝鮮を信託統治していたアメリカ軍は、1948年[[8月1日]]に作成した資料で、金成柱が抗日闘士として名を挙げた「金日成」の名を騙っているとしている<ref>「[http://news.goo.ne.jp/article/yonhap/world/yonhap-20090813wow005.html 米国は『金日成』を偽者と判断、1948年資料]」『聯合ニュース』2009年8月13日付配信記事(2012年9月23日閲覧)。</ref>。金成柱が伝説を利用して「金日成」と名乗っただろうということについては、『金日成と満州抗日戦争』において、別人説を否定した[[和田春樹]]も認めている。別人説は、金日成が伝説を[[剽窃]]したことによって出てきたものであり、伝説のモデルが実在する可能性は高い。伝説のモデルについての探索と、金日成のパルチザン活動の実体については、別個に考える必要がある。
キム・イルソン将軍については、李命英が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという同音の[[金一成]]と、陸士出身で白馬に乗って活躍した[[金擎天]]が、生まれた年がともに[[1888年]]、出身地も同じ[[咸鏡南道]]であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないか、と佐々木春隆は推測している<ref>佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』より。</ref>。
[[普天堡の戦い|普天堡]]の事件によって、東北抗日聯軍第六師長である金日成の正体について多くの伝聞が飛び交った。彼を27歳で平壌近郊出身とするもの、36歳の人物だとするもの、陸士卒業生だとするものなどである。また、普天堡襲撃に関与した者が逮捕されたときの供述が事前の情報と矛盾することから、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長・金日成と、後にソ連軍政下で有力指導者として登場した金日成とは別人ではないかと疑われている<ref>李命英著『金日成は四人いた』など</ref>。これに対する和田春樹などによる反論もある<ref group="注">後に朴金喆、朴達らが恵山事件により逮捕され、彼らから金日成は普天堡襲撃当時36歳の人物だと言う供述が引き出された。しかし、満洲国の朝鮮人治安関係者は金日成は事件当時27歳平壌近郊の[[平安南道 (日本統治時代)|平安南道]]大同郡古平面南里出身の人物で、既に日満側に帰順していた[[金英柱]]の実兄であるといった情報を集め、金日成の祖母や金英柱を連れて来て投降を呼びかけている。その後の[[朝鮮総督府]]の記録でも、「金日成の身許に付ては種々の説があるが本名金成柱当二十九年平安南道大同郡古坪面(原文ママ)南里の出身」(思想彙報20号(1939年9月))と記されている。こうした事情から、普天堡襲撃を行った東北抗日聯軍第六師長と、後に北朝鮮政府首班として登場した金日成とは別人ではないかと疑う意見が出た。李命英は聴き取り調査などに基づいて金日成複数説を提起した。しかし、抗日運動家に関する記述に齟齬があるのは珍しいことではなく、結局は朝鮮総督府がその他の情報・供述を排して「本名金成柱当二十九年」としていることなど、李命英の日本に保存されていた資料の読み落としが指摘され、両者は同一人物で間違いないという反論([[和田春樹]]など)がなされている。</ref>。
諱は初め聖柱のち成柱と改める。父亨稷は順川と号し、鴨緑江の北岸で「順川医院」という漢方薬商を営み、アヘンの密売などで一時は裕福だったが、1926年6月5日共産主義者の朝鮮人に暗殺されたという。その後母は中国人の警察隊隊長の妾になる。のちに中国共産党系の馬賊の一員となり、一星(イルソン)を名乗る。ソ連軍に担がれて北朝鮮入りする際に、伝説の英雄金日成の名をそのまま借用した。本物の金日成は、1937年9月に日満の警察隊と交戦し射殺される<ref>『続 日本人が知ってはならない歴史』 p48, [[若狭和朋]] 朱鳥社 (2007年) ISBN 978-4-434-11358-1</ref>。
元[[抗日パルチザン]]の多くが、現在の金日成は別人だと生前証言したという話もある。抗日パルチザンで名を知られた金日成は1900年代初頭に活動した人で、現在の金日成が生まれた1912年には、成人を過ぎていたとされるものである<ref>『朝鮮半島最後の陰謀」』 p85, [[李鍾植]] 幻冬舎 (2007年) ISBN 978-4-344-01323-0 その「本物」とされる金日成はスターリンに粛清されたと各国諜報機関で通説となっており、ソビエトが朝鮮人を糾合のために金日成を作り上げたとしている。</ref>。
{{要出典|範囲=また、金日成が朝鮮戦争中に連合軍側に狙撃され戦死した、若しくは事故死したという説が朝鮮戦争中の韓国で広まった。しかし、この時期は金日成が一族を伴って、中国領の吉林に逃げ込んだという話がある。そのため、息子で後に朝鮮労働党の総書記となる金正日は吉林の小学校に通っていたとされている。|date=2022年1月}}
== 登場する作品 ==
;テレビドラマ
:*『第1共和国』(1981年、MBC - クク・チョンファン)
:*『黎明のその日』(1990年、 KBS - [[チョン・グァンリョル]])
:*『[[第4共和国 (テレビドラマ)|第4共和国]]』(1995年、MBC - チュ・ヒョン)
:*『[[ソウル1945]]』(2006年、 KBS - パク・チョルホ)
:*『大韓民国政治秘史』(2013年、 MBN - キム・ヨンイン)
;映画
:*『[[22年目の記憶]]』(2014年 - [[ソル・ギョング]])南北首脳会談のリハーサルの金日成の代役「キム・ソングン」として登場。
:*『[[オペレーション・クロマイト]]』(2016年 - イ・ウォンジョン)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=康明道|authorlink=康明道|translator=[[尹学準]]|year=1998|month=10|title=北朝鮮の最高機密|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]|isbn=4-16-755016-4|ref=康}}
== 関連項目 ==
* [[世界平和統一家庭連合]]
* [[スターリン主義]]
* [[全体主義]]
* [[主体思想]]
* [[独裁者]]
* [[個人崇拝]]
* [[北朝鮮の個人崇拝]]
* [[金日成が受賞した勲章一覧]]
* [[金日成と金正日の肖像画]]
* [[金日成将軍の歌]](金日成を称える歌)
* [[金日成広場]]
* [[金日成総合大学]]
* [[金日成競技場]]
* [[曺晩植]]
* [[金日成花]]
* [[デヴィ・スカルノ]] - 金日成花・金正日花委員会名誉会長
* [[22年目の記憶]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kim Il-sung}}
* [http://dprk-cn.com/memoir 金日成回顧録「世紀とともに」](中国語)
* [http://my.cnd.org/modules/wfsection/article.php?articleid=994 My China News Digest](中国語) - 粛清された初期要人達の死因なども紹介。
* [http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/history/ 朝鮮族近現代史-朝鮮族ネット](日本語)
* [http://www.jlyw.com/default.asp 吉林毓文中学](中国語)
* {{Kotobank}}
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6,494 | マーキュリー計画 | マーキュリー計画(マーキュリーけいかく、英: Project Mercury)は、1958年から1963年にかけて実施された、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画である。これはアメリカとソビエト連邦(以下ソ連)の間でくり広げられた宇宙開発競争の初期の焦点であり、人間を地球周回軌道上に送り安全に帰還させることを、理想的にはソ連よりも先に達成することを目標としていた。計画は、空軍から事業を引き継いだ新設の非軍事機関アメリカ航空宇宙局によって実行され、20回の無人飛行 (実験動物を乗せたものを含む)、およびマーキュリー・セブンと呼ばれるアメリカ初の宇宙飛行士たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われた。
宇宙開発競争は、1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号を発射したことにより始まった。この事件はアメリカ国民に衝撃を与え、その結果NASAが創設され、当時行われていた宇宙開発計画は文民統制の下で推進されることとなった。1958年、NASAは人工衛星エクスプローラー1号の発射に成功し、次なる目標は有人宇宙飛行となった。
だが初めて人間を宇宙に送ったのは、またしてもソ連であった。1961年4月、史上初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの乗るボストーク1号が地球を1周した。この直後の5月5日、アメリカ初の宇宙飛行士アラン・シェパードが搭乗するマーキュリー・レッドストーン3号が弾道飛行を行った。同年8月、ソ連はゲルマン・チトフを飛行させ1日間の宇宙滞在に成功した。アメリカが衛星軌道に到達したのは翌1962年2月20日のことで、ジョン・グレンが地球を3周した。マーキュリー計画が終了した1963年の時点で両国はそれぞれ6人の飛行士を宇宙に送っていたが、アメリカは宇宙での総滞在時間という点で依然としてソ連に後れを取っていた。
マーキュリー宇宙船を設計したのは、マクドネル・エアクラフト社であった。円錐の形状をした船内は完全に与圧され、水、酸素、食料などの補給物資を約1日間にわたり飛行士に供給した。打ち上げはフロリダ州ケープ・カナベラル空軍基地で行われ、発射機にはレッドストーンミサイルまたはアトラスDミサイルを改良したロケットが使用された。また宇宙船の先には、ロケットが故障するなどの緊急事態が発生した際に飛行士を安全に脱出させるための緊急脱出用ロケットが取りつけられていた。飛行手順は、追跡および通信の基地である有人宇宙飛行ネットワークを経由して地上からコントロールされるように設計されていたが、機内にもバックアップのための制御装置が搭載されていた。帰還の際には、小型の逆噴射用ロケットを点火して軌道から離脱した。また機体の底部には溶融式の耐熱保護板が取りつけられており、大気圏再突入時の高温から宇宙船を守った。最終的にはパラシュートが開いて海上に着水し、近隣にいる海軍の艦船のヘリコプターが宇宙船と飛行士を回収した。
計画名は、ローマ神話の旅行の神メルクリウス (Mercurius, マーキュリー) からつけられた。マーキュリーは翼の生えた靴を履き、高速で移動すると言われている。計画の総費用は16億ドル (2010年の貨幣価値で換算) で、およそ200万人の人間が関わった。宇宙飛行士たちはマーキュリー・セブンの名で知られ、各宇宙船には「7」で終わる名称が、それぞれの飛行士によってつけられた。
開始当初こそ失敗が連続して進行は遅れたものの、計画は次第に知名度を得、テレビやラジオで世界中に報道されるようになった。この後の二人乗りの宇宙船を使用するジェミニ計画では、月飛行で必要となる宇宙空間でのランデブーやドッキングが実行された。マーキュリー計画はその基礎を築いたと言える。さらにアポロ計画の開始が発表されたのは、マーキュリーが初の有人宇宙飛行を成功させた数週間後のことだった。
マーキュリー計画が公式に承認されたのは1958年10月7日、また公表されたのは同年12月7日のことであった。当初の計画名が「宇宙飛行士計画 (Project Astronaut)」だったことからも分かるとおり、アイゼンハワー (Dwight D. Eisenhower ) 大統領の最大の関心は宇宙飛行士の選定にあった。その後古代神話に基づいてマーキュリーの名が与えられたが、これはSM-65ミサイルにギリシャ神話の神「アトラス」、PGM-19ミサイルにローマ神話の神「ジュピター」の名をつけたようにすでに先例があった。また当時空軍で予定されていた同じ目的を持つMISS (Man In Space Soonest, 人間をできる限り早く宇宙へ) 計画は、マーキュリー計画に吸収されることとなった。
第二次世界大戦終了後に米ソの間でくり広げられた核開発競争は、長距離ミサイルの開発へと発展していった。また同時に両極は、気象データの収集、通信、諜報などを目的とする人工衛星の製造にも着手したが、そのほとんどは機密事項とされていた。そのため米国民は1957年10月にソ連が史上初の人工衛星を打ち上げたことにより、アメリカが宇宙開発でソ連に遅れをとっているのではないかという懸念、いわゆる「ミサイル・ギャップ論争」に陥ることとなった。さらに拍車をかけるように、一ヶ月後ソ連はスプートニク2号で犬を軌道上に到達させた。この犬は生きて地球に回収されることはなかったが、彼らの目的が有人宇宙飛行にあることは明らかであった。これを受けアイゼンハワー大統領は、非軍事および科学目的の宇宙開発計画を担当する文民組織を創設することを命じた。シビリアン・コントロールとしたのは、宇宙開発の中で軍事目的に関わるものはその詳細を明らかにすることができなかったからである。連邦研究機関のアメリカ航空諮問委員会 (National Advisory Committee for Aeronautics, NACA) をアメリカ航空宇宙局 (National Aeronautics and Space Administration, NASA) と名称を改め1958年に設立されたこの新組織は、同年中にアメリカ初の人工衛星を打ち上げるという最初の課題を達成した。次なる目標は、人間を宇宙に送り込むことであった。
この当時、宇宙とは地表から高度100キロメートル以上の空間と定義されていた。そこに到達するためには、強力なロケットを使用する以外に手段はなかった。これは搭乗する飛行士が、爆発の危険性や強いG (加速度)、大気圏を突破するときの振動、さらに大気圏再突入の際の華氏10,000度 (摂氏5,540度) を超える高温などの様々な危険にさらされることを意味していた。
宇宙空間では、飛行士には呼吸をするために与圧室や宇宙服が必要とされる。またそこでは、平衡感覚を喪失させるおそれのある無重量状態も経験することになる。この他にも宇宙線や微小隕石の衝突にさらされる危険がある。放射線も隕石も、通常は分厚い大気の層にさえぎられて地表に到達することのないものである。だがこれらはすべて、克服することは可能であると考えられた。まずそれまでの衛星発射の経験から、隕石に衝突する可能性は無視できるほどのものであると予想された。また1950年代初期に行われた航空機を使用しての人工無重力実験や高Gの人体実験、さらに動物を宇宙空間に送っての観察結果などは、これらの問題はすべて技術によって対処できることを示唆していた。さらに大気圏再突入に関しては大陸間弾道弾を使って研究が行われていたが、これによれば宇宙船が減速する際に発生する熱のほとんどは、鈍角の (先端が尖っていない) 耐熱保護板を機体の前面に置くことで解消できることが明らかになっていた。
1958年10月1日、NASAが正式に発足し、キース・グレナン (T. Keith Glennan) が初代長官に、ヒュー・ドライデン (Hugh L. Dryden, 前NACA長官) が副長官に任命された。グレナンから大統領への報告は、国立航空宇宙評議会 (National Aeronautics and Space Council) を通して行われることになっていた。NASAの組織内においてマーキュリー計画に責任を持つのは「スペース・タスク・グループ (Space Task Group)」と呼ばれる集団で、その計画の目的は有人宇宙船を地球周回軌道に乗せ、宇宙空間での飛行士の能力や身体機能を観察し、搭乗員と宇宙船を安全に帰還させることであった。既存の技術や使用可能な装置は何でも利用され、また機体の設計においては最もシンプルで信頼のおける方法が試みられ、革新的な実験計画とともに現存するミサイルが発射機として活用された。宇宙船に要求される機能には、以下のようなものがあった。すなわち、1. 異常事態が発生したときに宇宙船と飛行士を発射用ロケットから分離させる緊急脱出用ロケット 2. 軌道上で宇宙船の姿勢をコントロールするための姿勢制御用ロケット 3. 宇宙船を軌道から離脱させるための逆噴射用ロケット 4. 大気圏再突入の際の空気力学的抵抗に耐えうる機体設計 5. 着水装置 である。飛行中の宇宙船と交信するためには、広範な通信ネットワークシステムを作る必要があった。当初アイゼンハワーはアメリカの宇宙計画に過度に軍事色を持たせることを望まなかったため、マーキュリー計画を国家の最優先事項に置くことをためらっていた。このためマーキュリー計画は「DXレーティング」という国防計画の優先事項の順位では軍事計画の後に置かれることになったが、この順位は1959年5月には逆転した。
マーキュリー宇宙船開発の入札には12社が参加した。1959年1月、マクドネル・エアクラフト社が2,000万ドルで落札し、宇宙船設計の主契約企業に選ばれた。この2週間前、ロサンゼルスに本拠を置くノースアメリカン社が、緊急脱出用ロケット開発に使用される小型ロケット「リトル・ジョー」の製作設計の契約を獲得していた。飛行中の宇宙船と地上との交信に必要な世界的な通信網の開発には、ウェスタン・エレクトリック社 (Western Electric Company) が任命された。弾道飛行に使用されるレッドストーンロケットの製作はアラバマ州ハンツビルのクライスラー社が、また軌道飛行に使用されるアトラスロケットの製作はカリフォルニア州サンディエゴのコンベア社が担当した。有人ロケット発射場には、フロリダ州ケープカナベラル空軍基地の中にある大西洋ミサイル基地が空軍によって準備された。またここは総合司令センターでもあり、一方で通信連絡に関する管制センターはメリーランド州のゴダード宇宙飛行センターに配置された。リトル・ジョーの発射実験はヴァージニア州のワロップス島で行われた。宇宙飛行士の訓練はヴァージニア州のラングレー研究所、オハイオ州クリーブランドのグレン研究センターおよびウォーミンスター海軍航空軍事センター(英語版)で実施された。空力の研究にはラングレー研究所の風洞実験所およびニューメキシコ州アラモゴードのホロマン空軍基地(英語版)にあるロケットスレッド施設が使用された。宇宙船の着水システムの開発には海軍と空軍両方の航空機が使用される一方で、海上に帰還した宇宙船の回収には海軍の艦船と海軍及び海兵隊のヘリコプターが使用された。またケープカナベラルの南にあるココアビーチという町が、にわかに注目をあびることになった。1962年にこの町からアメリカ初の軌道周回飛行への発射を見守った人は、およそ7万5,000人であった。
マーキュリー宇宙船の設計責任者は、NACA時代から有人宇宙飛行の研究に携わっていたマキシム・ファジェット (Maxime Faget) であった。機体の高さは3.3メートル、直径は1.8メートルで、緊急脱出用ロケットを加えると全体の高さは7.9メートルになった。居住空間の容積は2.8立方メートルで、飛行士一人が入り込むのが精一杯だった。また船内には55個のスイッチと30個のヒューズ、35個の機械式レバーの、総計120個の制御機器があった。機体の重量は、計画中で最も重かったマーキュリー・アトラス9の場合では1,400キログラムだった。船体の外殻は高温に耐えることができるレネ41というニッケル合金で作られていた。
宇宙船は円錐の形状をしており、先端部分には首状の部分があった。底部には凸面状の耐熱保護板が取りつけられており (下図の2を参照) 、その内部はグラスファイバーで何層にも覆われたアルミニウムのハニカム構造になっていた。また熱保護板には、帰還の際に宇宙船を減速させるための3基の逆噴射ロケット(1) がストラップで固定されていた。3基の逆噴射ロケットの間には、発射の最終段階で機体をロケットから分離し軌道に投入するための小型ロケットがあった。ストラップは逆噴射ロケット使用後に切断され、不要になったロケットは機体から切り離された。熱保護板のすぐ上には与圧された船室があり (3)、船内では飛行士は体の形に合わせた座席にシートベルトでしばりつけられた。飛行士の目の前には計器板が、背中には熱保護板があり、また座席の直下には環境制御装置が設置されていた。この装置は酸素の供給と船内の気温の調整をし、二酸化炭素や水蒸気および臭いの除去を行い、さらに軌道上での尿の採取などをした。先端部には回収装置が納められている区画 (4) があり、内部には減速用のドローグシュート1本とメインパラシュート2本が格納されていたが、メインのうちの1本は予備であった。熱保護板と船内の底部の隔壁の間にはエアバッグが納められており、着水直前に展開させて衝撃を和らげた。回収装置のさらにその先にはアンテナ区画 (5) があり、通信用と宇宙船追跡用の2基のアンテナが格納されていた。また帰還の際に熱保護板が正しく進行方向を向くように姿勢を安定させるフラップも設置されていた。宇宙船の前方に取りつけられている緊急脱出用ロケット (6) には、3基の固体燃料ロケットが装備されていた。発射が失敗した際には緊急脱出用ロケットが短時間だけエンジンを噴射し、宇宙船を迅速かつ確実に発射用ロケットから遠ざけ、機体が海面に接近するとパラシュートが展開し着水した (詳しい手順については計画の詳細を参照)。
船内では飛行士は耐熱保護板を背にし、椅子に座った姿勢であお向けに横たわっていた。地上での実験では、発射時や大気圏再突入時の高Gに耐えるにはこの姿勢が最適であることが判明していた。またファイバーグラス製の座席は、宇宙服を着たときの飛行士の体型にぴったり合うように特注されたものであった。飛行士の左手には緊急脱出用ロケットの操作レバーがあり、発射前あるいは発射中に非常事態が発生し、なおかつロケットが自動点火しなかった場合には、飛行士自身がこのレバーを引いて脱出した。
宇宙服には、船内の環境制御装置の他に独自の生命維持装置が付属しており、酸素の供給や体温の調節などを行うことができた。船内の空気には、5.5重量ポンド毎平方インチ (37.921ヘクトパスカル) の純粋酸素が使用された。一方でソ連の宇宙船では、地上の大気と同じ1気圧の酸素と窒素の混合気を使用していた。NASAがこの方式を選択したのは、こちらのほうが制御しやすく、減圧症 (潜水病とも言われる) の危険を避けることができ、宇宙服の重量を減らせたからである。火災が発生した際には (実際には一度も起らなかったが)、船内から酸素をすべて排出することによって消火した。またそのような事態に限らず、何らかの理由で船内の気圧がゼロになってしまったような場合でも、飛行士は宇宙服に保護されて地球に帰還することができた。ヘルメットのバイザーは、飛行中は上げた状態にされていた。これは宇宙服の中が通常は与圧されていないことを意味する。もしバイザーを下ろして服の中を与圧すると、宇宙服は風船のようにふくらんでしまい、重要なスイッチが配置されている左側の計器板にかろうじて手が届くだけという状態になってしまった。
飛行士には、胸部に心拍数を計測するための電極、腕には血圧を計測するための加圧帯、体温を測定するための直腸体温計がつけられ (最後の飛行では口中体温計に改められた)、測定値はリアルタイムで地上に送られた。また水は普通に飲み、丸薬状の食料も摂ることができた
軌道に乗ると、宇宙船は中心軸に沿ったもの (ロール)、左右方向 (ヨー)、上下方向 (ピッチ) の3つの軸に沿って回転させることができた。機体の制御は過酸化水素を燃料とする小型ロケットエンジンで行った 。また正面にある窓または潜望鏡によって位置を確認することができた。潜望鏡は360°回転させることができ、その画像は目の前のスクリーンに映し出された。
宇宙船の開発には飛行士たち自身も関わり、機体の制御と窓の設置は絶対に譲れない条件であると主張した。その結果、宇宙船の運動およびその他の機能は3つの方法によってコントロールされることとなった。1つは地上からの中継によるもの、1つは船内の機器によって自動的に行われるもの、最後は飛行士ら自身による制御で、飛行士の操作は他の2つよりも最優先されるものとなった。マーキュリー最後の飛行で飛行士のゴードン・クーパーは手動で大気圏に再突入したが、これは飛行士による操作ができるようにしていなければ実現不可能なものであり、その有効性が結果によって確認されることとなった。
NASAは1958年から1959年にかけ、三度にわたってマーキュリー宇宙船の設計を変更した。宇宙船の入札終了後の1958年11月、NASAは提出されていた設計案のうちの「C案」を採用したが、1959年7月の試験飛行が失敗した後、最終形態の「D案」が浮上した (下図参照)。耐熱保護板の形状についてはそれより以前に、1950年代の弾道ミサイルの実験を通して開発が進められていた。それによれば先端を鈍角の形状にすれば、発生した衝撃波が宇宙船の周囲の熱のほとんどを逃がしてくれることが明らかになっていた。また熱保護の対策をさらに進めるために、ヒートシンクまたは溶融剤のいずれかを保護板に添加することが検討された。ヒートシンクとは保護板の表面に無数の細かい穴を開け、そこから空気を噴射して熱を逃がすという方式である。一方で溶融剤とは保護板の表面にわざと熱で溶ける物質を塗り、それを蒸発させることにより熱を奪うというもので、無人試験がくり返された後、後者のほうが採用されることとなった。宇宙船の設計と並行してX-15のような既存のロケット機状の形態も検討されていたが、この方式は宇宙船に採用するには技術的にまだあまりにも遠かったため、最終的に除外された。熱保護板や機体の安定性については風洞試験がくり返され、後には実際に飛行させて試験された。緊急脱出用ロケットは無人で試験飛行が行われた。パラシュートは開発が難航したためロガロ翼のハンググライダーのような形式も検討されたが、最終的に却下された。
宇宙船はミズーリ州セントルイスにあるマクドネル・エアクラフト社工場内のクリーンルームで製造され、同所の真空室で試験された。600近くある下請け企業の中には、宇宙船の環境制御システムを製造したギャレット・エアリサーチ (Garrett AiResearch) 社などもあった。最終品質検査および最終準備は、ケープ・カナベラルのS格納庫で行われた。NASAは20機の製造を発注し、それぞれ1番から20番までの番号がふられたが、10、12、15、17、19番の機体は飛行することはなかった。また3番機と4番機は無人飛行試験の際に破壊された。11番機は大西洋の底に沈んだが、38年後に回収された。宇宙船の中には脱出システムを修正したり長時間の滞在ができるようにするなど、初期の段階から改良が加えられたものもあった。さらに数多くのモックアップ (宇宙船としての機能は搭載していない、飛行を目的とはしない性能試験のための模型) がNASAおよびマクドネルによって製造され、回収装置や緊急脱出用ロケットの試験のために使用されたまたマクドネルは飛行士の訓練のためのシミュレーターも製作した。
マーキュリー計画では2種類の発射用ロケットが使用された。最も重要なのは、軌道飛行に使用されるAtlas LV-3B (アトラスD) ロケットであった。アトラスは1950年代半ばにコンベア社が空軍のために開発したもので、酸化剤には液体酸素 (LOX) を、燃料にはケロシンを使用していた。ロケット自体の全高は20メートルだが、宇宙船と緊急脱出用ロケットを加えると (ロケットと宇宙船の接合部を含む) 29メートルになった。第1段は2基のエンジンからなるスカート部で、ロケット本体から燃料と液体酸素を供給され、発射時には中央の本体ロケットとともに燃焼ガスを噴射し、宇宙船を軌道に投入するのに十分な推力を発生させた。第1段切り離し後は中央の本体ロケットが燃焼を続けた。本体ロケットにはスラスターが装備されジャイロスコープに従って動作した。この2基の小型ロケットは本体側面に設置され、より正確に機体を誘導することを可能にした。外殻はきわめて薄いステンレスで作られているため、機体がゆがんだりしないよう常に燃料またはヘリウムガスで内部から圧力をかけておく必要があった。これは燃料の重量の2パーセントまで機体の重量を削減できることを意味していた。またアトラスDは元々は核弾頭を搭載するために設計されていたので、それより重量のある宇宙船を乗せるためには機体をさらに強化することが求められた。また内蔵された誘導システムは、大型化した機体に合わせて位置を変えなければならなかった。マーキュリー計画後期にはLGM-25C (タイタンII) ミサイルの使用も検討されたが、時期的に間に合わなかった。アトラスはケープ・カナベラルまでは空輸され、発射台までは台車で運ばれ、発射台に到着したら整備塔のクレーンで台車とともに垂直に立たされ、複数のクランプで台に固定された。
もう一つの有人飛行用発射機は1段式で高さ25メートル (宇宙船と緊急脱出用ロケットを含む) のマーキュリー・レッドストーンロケットで、弾道飛行に使用された。燃料はアルコール、酸化剤に液体酸素を使用する液体燃料ロケットだったが推力はわずか34トンしかなかったため、宇宙船を衛星軌道に乗せることはできなかった。レッドストーンは1950年代初頭にドイツのV2ロケットを改良して陸軍のために開発されたものであり、マーキュリーに流用するにあたっては、先端を取り除いて宇宙船との接合部分を設置し発射時の振動を和らげるための素材を使用するなどの改良が施された。ロケットエンジンを製作したのはノースアメリカンで、フィンを作動させることによって進行方向を制御した。その方法は二つあり、一つは機体の底部についている翼を作動させるもの、もう一つはノズルのすぐ下にあるフィンを作動させて燃焼ガスの流れを変えるというものであった (もちろん、この二つを同時に使用することもあった)。アトラスとレッドストーンのどちらにも不具合を感知する自動中止装置が搭載されており、何か異常が発生した場合には自動的に緊急脱出用ロケットを点火するようになっていた。弾道飛行用には当初はレッドストーンの類縁であるジュピターミサイルの使用が検討されたが、1959年7月に予算の問題によりレッドストーンに決定された。
この他に高さ17メートルのリトル・ジョーと呼ばれる小型ロケットも使用された。これは打ち上げ脱出システムの無人テスト用であり、分離用ロケットエンジンを持つモジュール(いわゆるアボートタワー)を取り付けた宇宙船がその上部に据えられた。その主要な目的は、動圧が最大になり宇宙船をロケットから分離させることが最も困難になる、最大動圧点(マックスQ)であっても、システムを機能するものにすることだった。またマックスQは、飛行士が最も激しい振動にさらされる瞬間でもある。リトル・ジョーは固体燃料ロケットを使用し、1958年にNACAによって有人弾道飛行を目的として設計されたが、マーキュリー計画でアトラスDの発射をシミュレートすることを目的に再設計された。機体の製作はノース・アメリカンが行った。発射後に飛行方向を制御する機能は持っていなかったため、発射台を傾けることで目標方向に打ち上げた。最大到達高度はペイロード満載状態で160キロメートルだった。さらにリトル・ジョーのほかに宇宙船追跡ネットワークを検証するためスカウトロケットが一度だけ使用されたことがあったが、発射直後に打ち上げが失敗し地面に激突して機体は破壊された。
1959年4月9日、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られる以下の7名の宇宙飛行士を発表した。
1961年5月にシェパードは弾道飛行に成功し、宇宙に行った初めてのアメリカ人となった。彼はアポロ14号でも飛行し、マーキュリー・セブンの中で唯一月面に降り立った。グリソムはアメリカ人として2番目に宇宙に行き、その後のジェミニ計画およびアポロ計画にも参加したが、1967年1月にアポロ1号の事故で死亡した。グレンは1962年2月に地球周回軌道に到達した初めてのアメリカ人となり、その後NASAを引退して政治家となったが、1998年にスペースシャトルSTS-95で飛行士として復活した。スレイトンは健康上の理由でマーキュリーにはついに搭乗できず、1962年からは職員としてNASAに残ったが、1975年にアポロ・ソユーズテスト計画で飛行した。クーパーはマーキュリー最後の飛行で同計画の中では最も長く宇宙に滞在し、またジェミニ計画でも飛行した。カーペンターはマーキュリーが唯一の宇宙飛行となった。シラーはマーキュリーでの3度目の地球周回飛行に搭乗し、ジェミニ計画にも参加した。またその3年後のアポロ7号でも船長を務め、マーキュリー、ジェミニ、アポロの3つの計画で宇宙に行った唯一の飛行士となった。
飛行士らの任務の中には広報活動も含まれており、彼らは報道陣のインタビューに答え、計画に関わる施設を訪れ職員と会話をした。移動を容易にするために、飛行士らはジェット戦闘機の使用を要求した。マスコミの間ではジョン・グレンが最も受けが良く、セブンの代表であるかのように見なされていた。飛行士らは『ライフ』誌に手記を売り、同誌は彼らを愛国的で信心深い家族思いの男であると描写した。飛行士が宇宙にいる間、彼の家に入り家族と接触することが許されたのはライフだけだった。計画中、グリソム、カーペンター、クーパー、シラー、スレイトンらはラングレー空軍基地内またはその近辺で家族とともに過ごしたが、グレンは同基地に単身赴任し週末にワシントンD.C.にいる妻子のところに戻った。シェパードはバージニア州のオセアーナ海軍航空基地(英語版)で家族とともに生活した。
宇宙飛行士の資格を満たす者は、当初はあらゆるリスクを引き受ける覚悟がある男あるいは女であれば誰でもよいだろうと思われていたが、アイゼンハワーの主張により、アメリカ人で最初に宇宙に乗り込む者は当時508名いたテストパイロットの中から選抜されることになった。しかしながら軍のテストパイロットの中には女性はいなかったため、必然的に飛行士はすべて男性で構成された。またこのときNACAでX-15のテストパイロットをしていた、後に人類初の月面着陸をすることになるニール・アームストロングは、民間人であるという理由で除外された。さらに選抜条件の中には、25歳から40歳までで身長1メートル80センチ以下、さらに科学または技術の分野で学位を持っていることという項目が加えられた。学位の条件が追加されたことにより、実験機X-1の飛行士で人類で初めて音速を突破したチャック・イェーガーなども除外されることになった。イェーガーは後にマーキュリー計画に対しては批判的になり、特に猿を使って実験したことをひどく軽蔑した。 気球で高度31,330メートルの成層圏からスカイダイビングをした世界記録 (当時) を持つジョゼフ・キッティンジャーはすべての条件をクリアしていたが、彼が当時関わっていた超高空ダイビングのプロジェクトを進行させることを選んだため応募しなかった。有資格者の中には、有人宇宙飛行がマーキュリー計画の後にも継続されるとは信じられなかったため辞退した者たちもいた。508名の中から110名が面接で選ばれ、さらにその中から32名が体力および心理テストでふるい分けられた。残った候補者は健康面、視力、聴力が検査され、騒音、振動、加速度、孤独環境、熱などに対する耐性も検査された。特殊な隔離室では、混乱した状況の中で課題をこなす能力があるかを調べられた。また候補者たちは自身に関する500以上の質問を受け、様々な画像を表示され何が見えるかを答えさせられた (白紙を見せられることもあった) 。ジェミニおよびアポロで飛行したジム・ラヴェルは、体力試験で落とされた。これらの試験の後、最終的には6名まで絞り込む予定だったが、7名のままにすることになった。
飛行士らが受けた訓練の中には、選抜試験の項目と重複するものもあった。海軍航空開発センターにある遠心加速器では、発射および帰還時に経験する重力加速度の変化をシミュレーションし、6G以上の加速度を受けたときに必要とされる特殊な呼吸法などを習得した。航空機を使用しての無重力訓練も行われ、初期の段階では複座式戦闘機の後部座席を使用し、後期の段階では貨物機の内部を改造し壁や床にマットを敷き詰めたものが使われた。ルイス飛行推進研究所にある「多軸回転試験慣性装置 (Multi-Axis Spin-Test Inertia Facility, MASTIF)」と呼ばれる設備では、船内にある操縦桿を模したコントローラーを使用して宇宙船の姿勢を制御する訓練が行われた。この他にもプラネタリウムやシミュレーターを使用して、星や地球を基準にして軌道上で正しく姿勢を制御する方法などを学んだ。通信や飛行手順の訓練にはフライトシミュレーターが使用され、最初の段階ではトレーナーが一対一でサポートし、後の段階では飛行士自身でコントロールセンターと連絡を取る訓練をした。着水訓練にはラングレーのプールが使用され、後には実際に海に出て潜水士がつきながらヘリコプターで回収される訓練が行われた。
マーキュリー計画には弾道飛行、軌道 (地球周回) 飛行の二種類の飛行計画があった。弾道飛行にはレッドストーンを使用し、2分30秒の燃焼で宇宙船を高度32海里 (59キロメートル) まで上昇させ、ロケット分離後は放物線を描いて慣性で飛行した。打ち上げ後は自然に落下してくるため逆噴射ロケットは本来は必要なかったが、性能を検証するために点火された。宇宙船は弾道飛行、軌道飛行ともに大西洋に帰還した。着水後には潜水士が機体に姿勢を安定させるための浮き輪を取りつけることになっていたが、弾道飛行では準備が間に合わなかった。弾道飛行では15分間の飛行で高度102〜103海里 (189〜190キロメートル)、軌道飛行距離は262海里 (485キロメートル) に到達した。
計画の準備は主搭乗員と予備搭乗員の選抜よりも1ヶ月先行して行われた。予備搭乗員は主搭乗員に万一のことがあった場合の控えで、すべての訓練を主搭乗員とともに受けた。発射3日前、飛行士は飛行中に排便する可能性を最小限にするために特別食をとりはじめたが、発射当日の朝食にはステーキを食べるのが慣例となっていた。飛行士の体にセンサーをつけ宇宙服を着用させると、船内の環境に適応させるために宇宙服の中に純粋酸素が送り込まれた。発射台にバスで到着すると、飛行士は整備塔に付属するエレベーターでホワイトルームと呼ばれる準備室に行き、作業員に補助され発射の2時間前に宇宙船に乗り込んだ。飛行士の体をシートベルトで座席に固定するとハッチがボルトで締められ、作業員が撤退し整備塔がロケットから離れた。この後、ロケットのタンクに液体酸素が充填された。発射準備および発射後のすべての進行は、カウントダウン (秒読み) と呼ばれる工程表に沿って行われた。発射1日前に予備秒読みが開始され、ロケットや宇宙船のすべてのシステムが点検される。その後15時間中断され、この間に火工品が充填される。この後、軌道飛行の場合は発射6時間半前 (Tマイナス390) に主秒読みが開始され、発射の瞬間 (T0) の瞬間までは数が少なくなり、発射後は軌道投入の瞬間 (Tプラス5分) まで読み上げが続行された。
軌道飛行では、アトラスのエンジンは発射4秒前に点火される。ロケットは留め金で固定されており、十分な推力が発生するとフックが外れて発射台を離れる (A) 。30秒後に動圧が最大になるマックスQに達し、このとき飛行士は激しい振動にさらされることになる。2分10秒後、第1段のスカート部が切り離される (B)。この時点で緊急脱出用ロケットは必要なくなるので、切り離し用ロケットに点火して投棄される (C).。ロケットはその後次第に進路を水平に傾け、発射から5分10秒後、高度87海里 (161キロメートル) で宇宙船が軌道に投入される (D)。ちなみにマーキュリーに限らず、世界の多くの国において人工衛星は地球の自転を利用するために東に向かって発射されるのが通例となっている。ここで3基の切り離し用小型ロケットが1秒間点火され、宇宙船はロケットから離れる。エンジンを停止する直前には、加速度は8Gに達する (弾道飛行では6G)。軌道に投入されると宇宙船は自動的に180° 向きを変え、逆噴射用ロケットを前方にし機首を14.5° 下方に傾けた姿勢になる。機首を下に向けるのは、地上との交信のために必要だからである。いったん軌道に乗ると、宇宙船は帰還のために大気圏再突入をするときを除いて軌道を変更することは不可能になる。地球を1周するのには、通常88分を要する。軌道に投入されるのは近地点と呼ばれる軌道が最も低くなる場所で、高度はおよそ87海里 (161 km) である。逆に最も高くなる (約150海里, 280 km) 場所は遠地点と呼ばれ、地球の反対側になる。帰還の際 (E) には下向きの角度が34° にまで増加される。逆噴射ロケットの燃焼時間は1基が10秒で、一つが点火してからそれぞれ5秒の間隔を置いて次々に噴射される (F)。再突入の間 (G)、飛行士には8G (弾道飛行では11から12G) の加速度が加わる。耐熱保護板の周囲の温度は華氏3,000度 (摂氏1,650度) に達し、またこのとき宇宙船の周囲の空気が高温によりイオン化するため、ブラックアウトと呼ばれる通信が途絶する時間帯が2分間ほど発生する。再突入後、高度2万1,000フィート (6,400メートル) で姿勢を安定させるためのドローグシュートと呼ばれる小型パラシュートが展開し (H)、その後高度1万フィート (3,000メートル) でメインパラシュートが展開する (I)。ロープにかかる張力を低減させるため最初は小さく開き、数秒後に全開する。着水直前、衝撃を和らげるために耐熱保護板の裏にあるエアバッグが展開される (J)。着水するとパラシュートを切り離し、アンテナが伸ばされ艦船やヘリコプターが追跡できるよう電波のビーコンが発信される (K) 。また空から視認しやすくさせるため、緑色の染料が宇宙船の周囲に流される。ヘリが到着すると、潜水士が姿勢を垂直に保つための浮き輪を機体に取りつける。先端部にワイヤーがひっかけられると飛行士が爆発ボルトのスイッチを入れてハッチを吹き飛ばし、飛行士と宇宙船はともにヘリによってホイスト (つり上げ) されて回収される。
マーキュリー計画を支える人員は通常1万8,000人前後で、そのうち回収作業に関わったのはおよそ1万5,000人だった。その他の人員のほとんどは、世界中にはりめぐらされた宇宙船追跡ネットワークに関わっていた。追跡ネットワークは赤道上に置かれた18の基地からなるもので、1960年中には完成していた人工衛星追跡網を基礎にしていた。その主な役割は宇宙船からデータを収集することと、飛行士と地上の間の双方向の通信を提供することだった。各基地は700海里 (1,300キロメートル) 離れており、宇宙船がその間を通過するには通常7分を要した。また他の飛行士たちには宇宙船通信担当官 (Capsule Communicator, CAPCOM) の任務が割り当てられ、軌道上にいる飛行士との通信連絡を担当した。宇宙船から送られてきたデータはゴダード宇宙センターで処理された後にケープ・カナベラルのマーキュリー管制センターに送られ、管制室にある世界地図の両側に表示された。地図上には宇宙船の現在位置と、緊急事態が発生した場合に30分以内に帰還できる位置が示されていた。
1961年4月12日、ソ連のユーリ・ガガーリンが地球周回飛行に成功し、人類初の宇宙飛行士となった。その3週間後の5月5日、アラン・シェパードが弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった。アメリカが地球周回飛行に成功したのは1962年2月20日のことで、マーキュリー3人目の飛行士ジョン・グレンが軌道に到達したが、これ以前の1961年8月にはソ連の2人目の飛行士ゲルマン・チトフがすでに1日間の飛行に成功していた。マーキュリーでは1963年5月16日までにさらに3度の発射が行われ、最後の飛行では1日間で地球を22周したものの、その翌月に行われたボストーク計画最後の飛行ボストーク5号では、ほぼ5日間で地球を82周する当時の最長記録を打ち立てていた。
マーキュリーにおける有人飛行はすべて成功裏に終了した。主な医療的問題は、単純な個人衛生と飛行後の起立性低血圧が発生しただけだった。発射用ロケットは無人試験の段階から継続して使用されてきたため、有人飛行の計画番号は1からは始まらなかった。また2種類の異なるロケットが使用されたため、飛行計画にもMR (マーキュリー・レッドストーン、弾道飛行) とMA (マーキュリー・アトラス、軌道飛行) の2種類の名称が与えられることになったが、飛行士たちはパイロットの伝統に従っておのおのの宇宙船に独自に名前をつけていたため、MR、MAの名称は一般的には用いられることは少なかった。また飛行士らが与えた名称には、7名の宇宙飛行士を記念して末尾に"7"がつけられた。マーキュリー・レッドストーンはケープカナベラル空軍基地第5発射施設から、マーキュリー・アトラスはケープ・カナベラル空軍基地第14発射施設から打ち上げられた。時計には現地時間よりも5時間進んでいる協定世界時が使用された。
無人飛行ではリトル・ジョー、レッドストーン、アトラスが使用され、発射機、脱出システム、宇宙船および追跡ネットワークの開発が行われた。地上追跡ネットワークを試験するため1度だけスカウト・ロケットを使用して無人機の発射が試みられたが、失敗して軌道に到達することはなかった。リトル・ジョーを使用したものでは8度の飛行で7機の機体が打ち上げられ、そのうちの3度が成功した。2度目のリトル・ジョーの飛行にはリトル・ジョー6の名称が与えられたが、これは最初の5機がすでに他の飛行に割り当てられた後で計画に挿入されたことによるものであった。
計画は、開始から最後の軌道飛行までを数えると22ヶ月遅れた。また12の元請と75の下請け、さらに約7,200の孫請け企業と契約し、従業した人数は200万を数えた。1969年にNASAが行った試算によれば、費用は総額で3億9,260万ドル (インフレ 率を換算すれば17億3,000万ドル) におよび、その内訳は宇宙船開発費が1億3,530万ドル、発射機開発費が8,290万ドル、運営費が4,930万ドル、宇宙船追跡の運用および装置が7,190万ドル、施設費が5,320万ドルであった。
マーキュリーは、今日ではアメリカ初の有人宇宙飛行計画として記念されている。ソビエトとの宇宙開発競争に勝利することこそできなかったものの、国威を発揚し、また後続のジェミニ、アポロ、スカイラブ計画などに対しては先駆者として科学的成功を収めた。1950年代の段階では科学者の中には有人宇宙飛行の実現性を信じていない者もいて、ジョン・F・ケネディが大統領に選出されるまで、彼を含む多くの者は計画に疑念を抱いていた。フリーダム7の発射数ヶ月前、ケネディは大統領として、社会にとって大きな成功を収めるものとしてマーキュリー計画を支持することを選んだ。結局アメリカ大衆の大多数も有人宇宙飛行を支持し、数週間以内にケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させかつ安全に地球に帰還させる計画を発表した。飛行した6人のパイロットは勲章を受け パレードで行進し、また2名はアメリカ合衆国議会合同会議に招かれ演説した。女性を除外した飛行士の選考基準を受け、独自に飛行士を選ぶ民間のプロジェクトも立ち上がった。そこでは13名の女性飛行士が選ばれ、彼女たちはマーキュリー計画で男性飛行士が受けたテストをすべてクリアし、メディアによってマーキュリー13と命名された。このような努力にもかかわらず、NASAは1978年にスペースシャトル計画で新たに飛行士を選出するまで女性飛行士を誕生させなかった。
1964年、ケープ・カナベラルの第14発射施設の近くで、計画のシンボルと数字の7を組み合わせた金属製の記念碑が除幕された。1962年、アメリカ合衆国郵便公社はMA6の飛行を称え、マーキュリー記念切手を発行した。有人宇宙飛行を描いた切手が発行されるのはこれが初めてのことであった。この切手は1962年2月20日、アメリカ初の有人地球周回飛行が行われたその当日、フロリダ州ケープ・カナベラルで発売された。2011年5月4日、郵便公社は計画初の有人飛行フリーダム7の50周年の記念切手を発行した。映像表現においては、同計画は1979年のトム・ウルフの小説『ライトスタッフ』を元に1983年に製作された同名の映画で描写されている。2011年2月25日、世界最大の技術専門家協会であるIEEE (Institute of Electrical and Electronic Engineers, アイ・トリプル・イー、『電気電子技術者協会』の意) はマクドネル社の後継企業であるボーイングに、マーキュリー宇宙船を開発した功績により「Milestone Award for important inventions (重要発明品記念賞)」を授与した。
記念表彰は計画終了後に起業家たちが収集家を満足させるために制作した。 | [
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"text": "マーキュリー計画(マーキュリーけいかく、英: Project Mercury)は、1958年から1963年にかけて実施された、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画である。これはアメリカとソビエト連邦(以下ソ連)の間でくり広げられた宇宙開発競争の初期の焦点であり、人間を地球周回軌道上に送り安全に帰還させることを、理想的にはソ連よりも先に達成することを目標としていた。計画は、空軍から事業を引き継いだ新設の非軍事機関アメリカ航空宇宙局によって実行され、20回の無人飛行 (実験動物を乗せたものを含む)、およびマーキュリー・セブンと呼ばれるアメリカ初の宇宙飛行士たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われた。",
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"text": "宇宙開発競争は、1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号を発射したことにより始まった。この事件はアメリカ国民に衝撃を与え、その結果NASAが創設され、当時行われていた宇宙開発計画は文民統制の下で推進されることとなった。1958年、NASAは人工衛星エクスプローラー1号の発射に成功し、次なる目標は有人宇宙飛行となった。",
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"text": "だが初めて人間を宇宙に送ったのは、またしてもソ連であった。1961年4月、史上初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの乗るボストーク1号が地球を1周した。この直後の5月5日、アメリカ初の宇宙飛行士アラン・シェパードが搭乗するマーキュリー・レッドストーン3号が弾道飛行を行った。同年8月、ソ連はゲルマン・チトフを飛行させ1日間の宇宙滞在に成功した。アメリカが衛星軌道に到達したのは翌1962年2月20日のことで、ジョン・グレンが地球を3周した。マーキュリー計画が終了した1963年の時点で両国はそれぞれ6人の飛行士を宇宙に送っていたが、アメリカは宇宙での総滞在時間という点で依然としてソ連に後れを取っていた。",
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"text": "マーキュリー宇宙船を設計したのは、マクドネル・エアクラフト社であった。円錐の形状をした船内は完全に与圧され、水、酸素、食料などの補給物資を約1日間にわたり飛行士に供給した。打ち上げはフロリダ州ケープ・カナベラル空軍基地で行われ、発射機にはレッドストーンミサイルまたはアトラスDミサイルを改良したロケットが使用された。また宇宙船の先には、ロケットが故障するなどの緊急事態が発生した際に飛行士を安全に脱出させるための緊急脱出用ロケットが取りつけられていた。飛行手順は、追跡および通信の基地である有人宇宙飛行ネットワークを経由して地上からコントロールされるように設計されていたが、機内にもバックアップのための制御装置が搭載されていた。帰還の際には、小型の逆噴射用ロケットを点火して軌道から離脱した。また機体の底部には溶融式の耐熱保護板が取りつけられており、大気圏再突入時の高温から宇宙船を守った。最終的にはパラシュートが開いて海上に着水し、近隣にいる海軍の艦船のヘリコプターが宇宙船と飛行士を回収した。",
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"text": "計画名は、ローマ神話の旅行の神メルクリウス (Mercurius, マーキュリー) からつけられた。マーキュリーは翼の生えた靴を履き、高速で移動すると言われている。計画の総費用は16億ドル (2010年の貨幣価値で換算) で、およそ200万人の人間が関わった。宇宙飛行士たちはマーキュリー・セブンの名で知られ、各宇宙船には「7」で終わる名称が、それぞれの飛行士によってつけられた。",
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"text": "開始当初こそ失敗が連続して進行は遅れたものの、計画は次第に知名度を得、テレビやラジオで世界中に報道されるようになった。この後の二人乗りの宇宙船を使用するジェミニ計画では、月飛行で必要となる宇宙空間でのランデブーやドッキングが実行された。マーキュリー計画はその基礎を築いたと言える。さらにアポロ計画の開始が発表されたのは、マーキュリーが初の有人宇宙飛行を成功させた数週間後のことだった。",
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"text": "マーキュリー計画が公式に承認されたのは1958年10月7日、また公表されたのは同年12月7日のことであった。当初の計画名が「宇宙飛行士計画 (Project Astronaut)」だったことからも分かるとおり、アイゼンハワー (Dwight D. Eisenhower ) 大統領の最大の関心は宇宙飛行士の選定にあった。その後古代神話に基づいてマーキュリーの名が与えられたが、これはSM-65ミサイルにギリシャ神話の神「アトラス」、PGM-19ミサイルにローマ神話の神「ジュピター」の名をつけたようにすでに先例があった。また当時空軍で予定されていた同じ目的を持つMISS (Man In Space Soonest, 人間をできる限り早く宇宙へ) 計画は、マーキュリー計画に吸収されることとなった。",
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"text": "第二次世界大戦終了後に米ソの間でくり広げられた核開発競争は、長距離ミサイルの開発へと発展していった。また同時に両極は、気象データの収集、通信、諜報などを目的とする人工衛星の製造にも着手したが、そのほとんどは機密事項とされていた。そのため米国民は1957年10月にソ連が史上初の人工衛星を打ち上げたことにより、アメリカが宇宙開発でソ連に遅れをとっているのではないかという懸念、いわゆる「ミサイル・ギャップ論争」に陥ることとなった。さらに拍車をかけるように、一ヶ月後ソ連はスプートニク2号で犬を軌道上に到達させた。この犬は生きて地球に回収されることはなかったが、彼らの目的が有人宇宙飛行にあることは明らかであった。これを受けアイゼンハワー大統領は、非軍事および科学目的の宇宙開発計画を担当する文民組織を創設することを命じた。シビリアン・コントロールとしたのは、宇宙開発の中で軍事目的に関わるものはその詳細を明らかにすることができなかったからである。連邦研究機関のアメリカ航空諮問委員会 (National Advisory Committee for Aeronautics, NACA) をアメリカ航空宇宙局 (National Aeronautics and Space Administration, NASA) と名称を改め1958年に設立されたこの新組織は、同年中にアメリカ初の人工衛星を打ち上げるという最初の課題を達成した。次なる目標は、人間を宇宙に送り込むことであった。",
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"text": "この当時、宇宙とは地表から高度100キロメートル以上の空間と定義されていた。そこに到達するためには、強力なロケットを使用する以外に手段はなかった。これは搭乗する飛行士が、爆発の危険性や強いG (加速度)、大気圏を突破するときの振動、さらに大気圏再突入の際の華氏10,000度 (摂氏5,540度) を超える高温などの様々な危険にさらされることを意味していた。",
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"text": "宇宙空間では、飛行士には呼吸をするために与圧室や宇宙服が必要とされる。またそこでは、平衡感覚を喪失させるおそれのある無重量状態も経験することになる。この他にも宇宙線や微小隕石の衝突にさらされる危険がある。放射線も隕石も、通常は分厚い大気の層にさえぎられて地表に到達することのないものである。だがこれらはすべて、克服することは可能であると考えられた。まずそれまでの衛星発射の経験から、隕石に衝突する可能性は無視できるほどのものであると予想された。また1950年代初期に行われた航空機を使用しての人工無重力実験や高Gの人体実験、さらに動物を宇宙空間に送っての観察結果などは、これらの問題はすべて技術によって対処できることを示唆していた。さらに大気圏再突入に関しては大陸間弾道弾を使って研究が行われていたが、これによれば宇宙船が減速する際に発生する熱のほとんどは、鈍角の (先端が尖っていない) 耐熱保護板を機体の前面に置くことで解消できることが明らかになっていた。",
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"text": "1958年10月1日、NASAが正式に発足し、キース・グレナン (T. Keith Glennan) が初代長官に、ヒュー・ドライデン (Hugh L. Dryden, 前NACA長官) が副長官に任命された。グレナンから大統領への報告は、国立航空宇宙評議会 (National Aeronautics and Space Council) を通して行われることになっていた。NASAの組織内においてマーキュリー計画に責任を持つのは「スペース・タスク・グループ (Space Task Group)」と呼ばれる集団で、その計画の目的は有人宇宙船を地球周回軌道に乗せ、宇宙空間での飛行士の能力や身体機能を観察し、搭乗員と宇宙船を安全に帰還させることであった。既存の技術や使用可能な装置は何でも利用され、また機体の設計においては最もシンプルで信頼のおける方法が試みられ、革新的な実験計画とともに現存するミサイルが発射機として活用された。宇宙船に要求される機能には、以下のようなものがあった。すなわち、1. 異常事態が発生したときに宇宙船と飛行士を発射用ロケットから分離させる緊急脱出用ロケット 2. 軌道上で宇宙船の姿勢をコントロールするための姿勢制御用ロケット 3. 宇宙船を軌道から離脱させるための逆噴射用ロケット 4. 大気圏再突入の際の空気力学的抵抗に耐えうる機体設計 5. 着水装置 である。飛行中の宇宙船と交信するためには、広範な通信ネットワークシステムを作る必要があった。当初アイゼンハワーはアメリカの宇宙計画に過度に軍事色を持たせることを望まなかったため、マーキュリー計画を国家の最優先事項に置くことをためらっていた。このためマーキュリー計画は「DXレーティング」という国防計画の優先事項の順位では軍事計画の後に置かれることになったが、この順位は1959年5月には逆転した。",
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"text": "マーキュリー宇宙船開発の入札には12社が参加した。1959年1月、マクドネル・エアクラフト社が2,000万ドルで落札し、宇宙船設計の主契約企業に選ばれた。この2週間前、ロサンゼルスに本拠を置くノースアメリカン社が、緊急脱出用ロケット開発に使用される小型ロケット「リトル・ジョー」の製作設計の契約を獲得していた。飛行中の宇宙船と地上との交信に必要な世界的な通信網の開発には、ウェスタン・エレクトリック社 (Western Electric Company) が任命された。弾道飛行に使用されるレッドストーンロケットの製作はアラバマ州ハンツビルのクライスラー社が、また軌道飛行に使用されるアトラスロケットの製作はカリフォルニア州サンディエゴのコンベア社が担当した。有人ロケット発射場には、フロリダ州ケープカナベラル空軍基地の中にある大西洋ミサイル基地が空軍によって準備された。またここは総合司令センターでもあり、一方で通信連絡に関する管制センターはメリーランド州のゴダード宇宙飛行センターに配置された。リトル・ジョーの発射実験はヴァージニア州のワロップス島で行われた。宇宙飛行士の訓練はヴァージニア州のラングレー研究所、オハイオ州クリーブランドのグレン研究センターおよびウォーミンスター海軍航空軍事センター(英語版)で実施された。空力の研究にはラングレー研究所の風洞実験所およびニューメキシコ州アラモゴードのホロマン空軍基地(英語版)にあるロケットスレッド施設が使用された。宇宙船の着水システムの開発には海軍と空軍両方の航空機が使用される一方で、海上に帰還した宇宙船の回収には海軍の艦船と海軍及び海兵隊のヘリコプターが使用された。またケープカナベラルの南にあるココアビーチという町が、にわかに注目をあびることになった。1962年にこの町からアメリカ初の軌道周回飛行への発射を見守った人は、およそ7万5,000人であった。",
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"text": "マーキュリー宇宙船の設計責任者は、NACA時代から有人宇宙飛行の研究に携わっていたマキシム・ファジェット (Maxime Faget) であった。機体の高さは3.3メートル、直径は1.8メートルで、緊急脱出用ロケットを加えると全体の高さは7.9メートルになった。居住空間の容積は2.8立方メートルで、飛行士一人が入り込むのが精一杯だった。また船内には55個のスイッチと30個のヒューズ、35個の機械式レバーの、総計120個の制御機器があった。機体の重量は、計画中で最も重かったマーキュリー・アトラス9の場合では1,400キログラムだった。船体の外殻は高温に耐えることができるレネ41というニッケル合金で作られていた。",
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"text": "宇宙船は円錐の形状をしており、先端部分には首状の部分があった。底部には凸面状の耐熱保護板が取りつけられており (下図の2を参照) 、その内部はグラスファイバーで何層にも覆われたアルミニウムのハニカム構造になっていた。また熱保護板には、帰還の際に宇宙船を減速させるための3基の逆噴射ロケット(1) がストラップで固定されていた。3基の逆噴射ロケットの間には、発射の最終段階で機体をロケットから分離し軌道に投入するための小型ロケットがあった。ストラップは逆噴射ロケット使用後に切断され、不要になったロケットは機体から切り離された。熱保護板のすぐ上には与圧された船室があり (3)、船内では飛行士は体の形に合わせた座席にシートベルトでしばりつけられた。飛行士の目の前には計器板が、背中には熱保護板があり、また座席の直下には環境制御装置が設置されていた。この装置は酸素の供給と船内の気温の調整をし、二酸化炭素や水蒸気および臭いの除去を行い、さらに軌道上での尿の採取などをした。先端部には回収装置が納められている区画 (4) があり、内部には減速用のドローグシュート1本とメインパラシュート2本が格納されていたが、メインのうちの1本は予備であった。熱保護板と船内の底部の隔壁の間にはエアバッグが納められており、着水直前に展開させて衝撃を和らげた。回収装置のさらにその先にはアンテナ区画 (5) があり、通信用と宇宙船追跡用の2基のアンテナが格納されていた。また帰還の際に熱保護板が正しく進行方向を向くように姿勢を安定させるフラップも設置されていた。宇宙船の前方に取りつけられている緊急脱出用ロケット (6) には、3基の固体燃料ロケットが装備されていた。発射が失敗した際には緊急脱出用ロケットが短時間だけエンジンを噴射し、宇宙船を迅速かつ確実に発射用ロケットから遠ざけ、機体が海面に接近するとパラシュートが展開し着水した (詳しい手順については計画の詳細を参照)。",
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"text": "船内では飛行士は耐熱保護板を背にし、椅子に座った姿勢であお向けに横たわっていた。地上での実験では、発射時や大気圏再突入時の高Gに耐えるにはこの姿勢が最適であることが判明していた。またファイバーグラス製の座席は、宇宙服を着たときの飛行士の体型にぴったり合うように特注されたものであった。飛行士の左手には緊急脱出用ロケットの操作レバーがあり、発射前あるいは発射中に非常事態が発生し、なおかつロケットが自動点火しなかった場合には、飛行士自身がこのレバーを引いて脱出した。",
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"text": "宇宙服には、船内の環境制御装置の他に独自の生命維持装置が付属しており、酸素の供給や体温の調節などを行うことができた。船内の空気には、5.5重量ポンド毎平方インチ (37.921ヘクトパスカル) の純粋酸素が使用された。一方でソ連の宇宙船では、地上の大気と同じ1気圧の酸素と窒素の混合気を使用していた。NASAがこの方式を選択したのは、こちらのほうが制御しやすく、減圧症 (潜水病とも言われる) の危険を避けることができ、宇宙服の重量を減らせたからである。火災が発生した際には (実際には一度も起らなかったが)、船内から酸素をすべて排出することによって消火した。またそのような事態に限らず、何らかの理由で船内の気圧がゼロになってしまったような場合でも、飛行士は宇宙服に保護されて地球に帰還することができた。ヘルメットのバイザーは、飛行中は上げた状態にされていた。これは宇宙服の中が通常は与圧されていないことを意味する。もしバイザーを下ろして服の中を与圧すると、宇宙服は風船のようにふくらんでしまい、重要なスイッチが配置されている左側の計器板にかろうじて手が届くだけという状態になってしまった。",
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"text": "飛行士には、胸部に心拍数を計測するための電極、腕には血圧を計測するための加圧帯、体温を測定するための直腸体温計がつけられ (最後の飛行では口中体温計に改められた)、測定値はリアルタイムで地上に送られた。また水は普通に飲み、丸薬状の食料も摂ることができた",
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"text": "軌道に乗ると、宇宙船は中心軸に沿ったもの (ロール)、左右方向 (ヨー)、上下方向 (ピッチ) の3つの軸に沿って回転させることができた。機体の制御は過酸化水素を燃料とする小型ロケットエンジンで行った 。また正面にある窓または潜望鏡によって位置を確認することができた。潜望鏡は360°回転させることができ、その画像は目の前のスクリーンに映し出された。",
"title": "宇宙船"
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"text": "宇宙船の開発には飛行士たち自身も関わり、機体の制御と窓の設置は絶対に譲れない条件であると主張した。その結果、宇宙船の運動およびその他の機能は3つの方法によってコントロールされることとなった。1つは地上からの中継によるもの、1つは船内の機器によって自動的に行われるもの、最後は飛行士ら自身による制御で、飛行士の操作は他の2つよりも最優先されるものとなった。マーキュリー最後の飛行で飛行士のゴードン・クーパーは手動で大気圏に再突入したが、これは飛行士による操作ができるようにしていなければ実現不可能なものであり、その有効性が結果によって確認されることとなった。",
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"text": "NASAは1958年から1959年にかけ、三度にわたってマーキュリー宇宙船の設計を変更した。宇宙船の入札終了後の1958年11月、NASAは提出されていた設計案のうちの「C案」を採用したが、1959年7月の試験飛行が失敗した後、最終形態の「D案」が浮上した (下図参照)。耐熱保護板の形状についてはそれより以前に、1950年代の弾道ミサイルの実験を通して開発が進められていた。それによれば先端を鈍角の形状にすれば、発生した衝撃波が宇宙船の周囲の熱のほとんどを逃がしてくれることが明らかになっていた。また熱保護の対策をさらに進めるために、ヒートシンクまたは溶融剤のいずれかを保護板に添加することが検討された。ヒートシンクとは保護板の表面に無数の細かい穴を開け、そこから空気を噴射して熱を逃がすという方式である。一方で溶融剤とは保護板の表面にわざと熱で溶ける物質を塗り、それを蒸発させることにより熱を奪うというもので、無人試験がくり返された後、後者のほうが採用されることとなった。宇宙船の設計と並行してX-15のような既存のロケット機状の形態も検討されていたが、この方式は宇宙船に採用するには技術的にまだあまりにも遠かったため、最終的に除外された。熱保護板や機体の安定性については風洞試験がくり返され、後には実際に飛行させて試験された。緊急脱出用ロケットは無人で試験飛行が行われた。パラシュートは開発が難航したためロガロ翼のハンググライダーのような形式も検討されたが、最終的に却下された。",
"title": "宇宙船"
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"text": "宇宙船はミズーリ州セントルイスにあるマクドネル・エアクラフト社工場内のクリーンルームで製造され、同所の真空室で試験された。600近くある下請け企業の中には、宇宙船の環境制御システムを製造したギャレット・エアリサーチ (Garrett AiResearch) 社などもあった。最終品質検査および最終準備は、ケープ・カナベラルのS格納庫で行われた。NASAは20機の製造を発注し、それぞれ1番から20番までの番号がふられたが、10、12、15、17、19番の機体は飛行することはなかった。また3番機と4番機は無人飛行試験の際に破壊された。11番機は大西洋の底に沈んだが、38年後に回収された。宇宙船の中には脱出システムを修正したり長時間の滞在ができるようにするなど、初期の段階から改良が加えられたものもあった。さらに数多くのモックアップ (宇宙船としての機能は搭載していない、飛行を目的とはしない性能試験のための模型) がNASAおよびマクドネルによって製造され、回収装置や緊急脱出用ロケットの試験のために使用されたまたマクドネルは飛行士の訓練のためのシミュレーターも製作した。",
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "マーキュリー計画では2種類の発射用ロケットが使用された。最も重要なのは、軌道飛行に使用されるAtlas LV-3B (アトラスD) ロケットであった。アトラスは1950年代半ばにコンベア社が空軍のために開発したもので、酸化剤には液体酸素 (LOX) を、燃料にはケロシンを使用していた。ロケット自体の全高は20メートルだが、宇宙船と緊急脱出用ロケットを加えると (ロケットと宇宙船の接合部を含む) 29メートルになった。第1段は2基のエンジンからなるスカート部で、ロケット本体から燃料と液体酸素を供給され、発射時には中央の本体ロケットとともに燃焼ガスを噴射し、宇宙船を軌道に投入するのに十分な推力を発生させた。第1段切り離し後は中央の本体ロケットが燃焼を続けた。本体ロケットにはスラスターが装備されジャイロスコープに従って動作した。この2基の小型ロケットは本体側面に設置され、より正確に機体を誘導することを可能にした。外殻はきわめて薄いステンレスで作られているため、機体がゆがんだりしないよう常に燃料またはヘリウムガスで内部から圧力をかけておく必要があった。これは燃料の重量の2パーセントまで機体の重量を削減できることを意味していた。またアトラスDは元々は核弾頭を搭載するために設計されていたので、それより重量のある宇宙船を乗せるためには機体をさらに強化することが求められた。また内蔵された誘導システムは、大型化した機体に合わせて位置を変えなければならなかった。マーキュリー計画後期にはLGM-25C (タイタンII) ミサイルの使用も検討されたが、時期的に間に合わなかった。アトラスはケープ・カナベラルまでは空輸され、発射台までは台車で運ばれ、発射台に到着したら整備塔のクレーンで台車とともに垂直に立たされ、複数のクランプで台に固定された。",
"title": "発射機"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "もう一つの有人飛行用発射機は1段式で高さ25メートル (宇宙船と緊急脱出用ロケットを含む) のマーキュリー・レッドストーンロケットで、弾道飛行に使用された。燃料はアルコール、酸化剤に液体酸素を使用する液体燃料ロケットだったが推力はわずか34トンしかなかったため、宇宙船を衛星軌道に乗せることはできなかった。レッドストーンは1950年代初頭にドイツのV2ロケットを改良して陸軍のために開発されたものであり、マーキュリーに流用するにあたっては、先端を取り除いて宇宙船との接合部分を設置し発射時の振動を和らげるための素材を使用するなどの改良が施された。ロケットエンジンを製作したのはノースアメリカンで、フィンを作動させることによって進行方向を制御した。その方法は二つあり、一つは機体の底部についている翼を作動させるもの、もう一つはノズルのすぐ下にあるフィンを作動させて燃焼ガスの流れを変えるというものであった (もちろん、この二つを同時に使用することもあった)。アトラスとレッドストーンのどちらにも不具合を感知する自動中止装置が搭載されており、何か異常が発生した場合には自動的に緊急脱出用ロケットを点火するようになっていた。弾道飛行用には当初はレッドストーンの類縁であるジュピターミサイルの使用が検討されたが、1959年7月に予算の問題によりレッドストーンに決定された。",
"title": "発射機"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この他に高さ17メートルのリトル・ジョーと呼ばれる小型ロケットも使用された。これは打ち上げ脱出システムの無人テスト用であり、分離用ロケットエンジンを持つモジュール(いわゆるアボートタワー)を取り付けた宇宙船がその上部に据えられた。その主要な目的は、動圧が最大になり宇宙船をロケットから分離させることが最も困難になる、最大動圧点(マックスQ)であっても、システムを機能するものにすることだった。またマックスQは、飛行士が最も激しい振動にさらされる瞬間でもある。リトル・ジョーは固体燃料ロケットを使用し、1958年にNACAによって有人弾道飛行を目的として設計されたが、マーキュリー計画でアトラスDの発射をシミュレートすることを目的に再設計された。機体の製作はノース・アメリカンが行った。発射後に飛行方向を制御する機能は持っていなかったため、発射台を傾けることで目標方向に打ち上げた。最大到達高度はペイロード満載状態で160キロメートルだった。さらにリトル・ジョーのほかに宇宙船追跡ネットワークを検証するためスカウトロケットが一度だけ使用されたことがあったが、発射直後に打ち上げが失敗し地面に激突して機体は破壊された。",
"title": "発射機"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1959年4月9日、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られる以下の7名の宇宙飛行士を発表した。",
"title": "宇宙飛行士"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1961年5月にシェパードは弾道飛行に成功し、宇宙に行った初めてのアメリカ人となった。彼はアポロ14号でも飛行し、マーキュリー・セブンの中で唯一月面に降り立った。グリソムはアメリカ人として2番目に宇宙に行き、その後のジェミニ計画およびアポロ計画にも参加したが、1967年1月にアポロ1号の事故で死亡した。グレンは1962年2月に地球周回軌道に到達した初めてのアメリカ人となり、その後NASAを引退して政治家となったが、1998年にスペースシャトルSTS-95で飛行士として復活した。スレイトンは健康上の理由でマーキュリーにはついに搭乗できず、1962年からは職員としてNASAに残ったが、1975年にアポロ・ソユーズテスト計画で飛行した。クーパーはマーキュリー最後の飛行で同計画の中では最も長く宇宙に滞在し、またジェミニ計画でも飛行した。カーペンターはマーキュリーが唯一の宇宙飛行となった。シラーはマーキュリーでの3度目の地球周回飛行に搭乗し、ジェミニ計画にも参加した。またその3年後のアポロ7号でも船長を務め、マーキュリー、ジェミニ、アポロの3つの計画で宇宙に行った唯一の飛行士となった。",
"title": "宇宙飛行士"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "飛行士らの任務の中には広報活動も含まれており、彼らは報道陣のインタビューに答え、計画に関わる施設を訪れ職員と会話をした。移動を容易にするために、飛行士らはジェット戦闘機の使用を要求した。マスコミの間ではジョン・グレンが最も受けが良く、セブンの代表であるかのように見なされていた。飛行士らは『ライフ』誌に手記を売り、同誌は彼らを愛国的で信心深い家族思いの男であると描写した。飛行士が宇宙にいる間、彼の家に入り家族と接触することが許されたのはライフだけだった。計画中、グリソム、カーペンター、クーパー、シラー、スレイトンらはラングレー空軍基地内またはその近辺で家族とともに過ごしたが、グレンは同基地に単身赴任し週末にワシントンD.C.にいる妻子のところに戻った。シェパードはバージニア州のオセアーナ海軍航空基地(英語版)で家族とともに生活した。",
"title": "宇宙飛行士"
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{
"paragraph_id": 27,
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"text": "宇宙飛行士の資格を満たす者は、当初はあらゆるリスクを引き受ける覚悟がある男あるいは女であれば誰でもよいだろうと思われていたが、アイゼンハワーの主張により、アメリカ人で最初に宇宙に乗り込む者は当時508名いたテストパイロットの中から選抜されることになった。しかしながら軍のテストパイロットの中には女性はいなかったため、必然的に飛行士はすべて男性で構成された。またこのときNACAでX-15のテストパイロットをしていた、後に人類初の月面着陸をすることになるニール・アームストロングは、民間人であるという理由で除外された。さらに選抜条件の中には、25歳から40歳までで身長1メートル80センチ以下、さらに科学または技術の分野で学位を持っていることという項目が加えられた。学位の条件が追加されたことにより、実験機X-1の飛行士で人類で初めて音速を突破したチャック・イェーガーなども除外されることになった。イェーガーは後にマーキュリー計画に対しては批判的になり、特に猿を使って実験したことをひどく軽蔑した。 気球で高度31,330メートルの成層圏からスカイダイビングをした世界記録 (当時) を持つジョゼフ・キッティンジャーはすべての条件をクリアしていたが、彼が当時関わっていた超高空ダイビングのプロジェクトを進行させることを選んだため応募しなかった。有資格者の中には、有人宇宙飛行がマーキュリー計画の後にも継続されるとは信じられなかったため辞退した者たちもいた。508名の中から110名が面接で選ばれ、さらにその中から32名が体力および心理テストでふるい分けられた。残った候補者は健康面、視力、聴力が検査され、騒音、振動、加速度、孤独環境、熱などに対する耐性も検査された。特殊な隔離室では、混乱した状況の中で課題をこなす能力があるかを調べられた。また候補者たちは自身に関する500以上の質問を受け、様々な画像を表示され何が見えるかを答えさせられた (白紙を見せられることもあった) 。ジェミニおよびアポロで飛行したジム・ラヴェルは、体力試験で落とされた。これらの試験の後、最終的には6名まで絞り込む予定だったが、7名のままにすることになった。",
"title": "宇宙飛行士"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "飛行士らが受けた訓練の中には、選抜試験の項目と重複するものもあった。海軍航空開発センターにある遠心加速器では、発射および帰還時に経験する重力加速度の変化をシミュレーションし、6G以上の加速度を受けたときに必要とされる特殊な呼吸法などを習得した。航空機を使用しての無重力訓練も行われ、初期の段階では複座式戦闘機の後部座席を使用し、後期の段階では貨物機の内部を改造し壁や床にマットを敷き詰めたものが使われた。ルイス飛行推進研究所にある「多軸回転試験慣性装置 (Multi-Axis Spin-Test Inertia Facility, MASTIF)」と呼ばれる設備では、船内にある操縦桿を模したコントローラーを使用して宇宙船の姿勢を制御する訓練が行われた。この他にもプラネタリウムやシミュレーターを使用して、星や地球を基準にして軌道上で正しく姿勢を制御する方法などを学んだ。通信や飛行手順の訓練にはフライトシミュレーターが使用され、最初の段階ではトレーナーが一対一でサポートし、後の段階では飛行士自身でコントロールセンターと連絡を取る訓練をした。着水訓練にはラングレーのプールが使用され、後には実際に海に出て潜水士がつきながらヘリコプターで回収される訓練が行われた。",
"title": "宇宙飛行士"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "マーキュリー計画には弾道飛行、軌道 (地球周回) 飛行の二種類の飛行計画があった。弾道飛行にはレッドストーンを使用し、2分30秒の燃焼で宇宙船を高度32海里 (59キロメートル) まで上昇させ、ロケット分離後は放物線を描いて慣性で飛行した。打ち上げ後は自然に落下してくるため逆噴射ロケットは本来は必要なかったが、性能を検証するために点火された。宇宙船は弾道飛行、軌道飛行ともに大西洋に帰還した。着水後には潜水士が機体に姿勢を安定させるための浮き輪を取りつけることになっていたが、弾道飛行では準備が間に合わなかった。弾道飛行では15分間の飛行で高度102〜103海里 (189〜190キロメートル)、軌道飛行距離は262海里 (485キロメートル) に到達した。",
"title": "計画の詳細"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "計画の準備は主搭乗員と予備搭乗員の選抜よりも1ヶ月先行して行われた。予備搭乗員は主搭乗員に万一のことがあった場合の控えで、すべての訓練を主搭乗員とともに受けた。発射3日前、飛行士は飛行中に排便する可能性を最小限にするために特別食をとりはじめたが、発射当日の朝食にはステーキを食べるのが慣例となっていた。飛行士の体にセンサーをつけ宇宙服を着用させると、船内の環境に適応させるために宇宙服の中に純粋酸素が送り込まれた。発射台にバスで到着すると、飛行士は整備塔に付属するエレベーターでホワイトルームと呼ばれる準備室に行き、作業員に補助され発射の2時間前に宇宙船に乗り込んだ。飛行士の体をシートベルトで座席に固定するとハッチがボルトで締められ、作業員が撤退し整備塔がロケットから離れた。この後、ロケットのタンクに液体酸素が充填された。発射準備および発射後のすべての進行は、カウントダウン (秒読み) と呼ばれる工程表に沿って行われた。発射1日前に予備秒読みが開始され、ロケットや宇宙船のすべてのシステムが点検される。その後15時間中断され、この間に火工品が充填される。この後、軌道飛行の場合は発射6時間半前 (Tマイナス390) に主秒読みが開始され、発射の瞬間 (T0) の瞬間までは数が少なくなり、発射後は軌道投入の瞬間 (Tプラス5分) まで読み上げが続行された。",
"title": "計画の詳細"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "軌道飛行では、アトラスのエンジンは発射4秒前に点火される。ロケットは留め金で固定されており、十分な推力が発生するとフックが外れて発射台を離れる (A) 。30秒後に動圧が最大になるマックスQに達し、このとき飛行士は激しい振動にさらされることになる。2分10秒後、第1段のスカート部が切り離される (B)。この時点で緊急脱出用ロケットは必要なくなるので、切り離し用ロケットに点火して投棄される (C).。ロケットはその後次第に進路を水平に傾け、発射から5分10秒後、高度87海里 (161キロメートル) で宇宙船が軌道に投入される (D)。ちなみにマーキュリーに限らず、世界の多くの国において人工衛星は地球の自転を利用するために東に向かって発射されるのが通例となっている。ここで3基の切り離し用小型ロケットが1秒間点火され、宇宙船はロケットから離れる。エンジンを停止する直前には、加速度は8Gに達する (弾道飛行では6G)。軌道に投入されると宇宙船は自動的に180° 向きを変え、逆噴射用ロケットを前方にし機首を14.5° 下方に傾けた姿勢になる。機首を下に向けるのは、地上との交信のために必要だからである。いったん軌道に乗ると、宇宙船は帰還のために大気圏再突入をするときを除いて軌道を変更することは不可能になる。地球を1周するのには、通常88分を要する。軌道に投入されるのは近地点と呼ばれる軌道が最も低くなる場所で、高度はおよそ87海里 (161 km) である。逆に最も高くなる (約150海里, 280 km) 場所は遠地点と呼ばれ、地球の反対側になる。帰還の際 (E) には下向きの角度が34° にまで増加される。逆噴射ロケットの燃焼時間は1基が10秒で、一つが点火してからそれぞれ5秒の間隔を置いて次々に噴射される (F)。再突入の間 (G)、飛行士には8G (弾道飛行では11から12G) の加速度が加わる。耐熱保護板の周囲の温度は華氏3,000度 (摂氏1,650度) に達し、またこのとき宇宙船の周囲の空気が高温によりイオン化するため、ブラックアウトと呼ばれる通信が途絶する時間帯が2分間ほど発生する。再突入後、高度2万1,000フィート (6,400メートル) で姿勢を安定させるためのドローグシュートと呼ばれる小型パラシュートが展開し (H)、その後高度1万フィート (3,000メートル) でメインパラシュートが展開する (I)。ロープにかかる張力を低減させるため最初は小さく開き、数秒後に全開する。着水直前、衝撃を和らげるために耐熱保護板の裏にあるエアバッグが展開される (J)。着水するとパラシュートを切り離し、アンテナが伸ばされ艦船やヘリコプターが追跡できるよう電波のビーコンが発信される (K) 。また空から視認しやすくさせるため、緑色の染料が宇宙船の周囲に流される。ヘリが到着すると、潜水士が姿勢を垂直に保つための浮き輪を機体に取りつける。先端部にワイヤーがひっかけられると飛行士が爆発ボルトのスイッチを入れてハッチを吹き飛ばし、飛行士と宇宙船はともにヘリによってホイスト (つり上げ) されて回収される。",
"title": "計画の詳細"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "マーキュリー計画を支える人員は通常1万8,000人前後で、そのうち回収作業に関わったのはおよそ1万5,000人だった。その他の人員のほとんどは、世界中にはりめぐらされた宇宙船追跡ネットワークに関わっていた。追跡ネットワークは赤道上に置かれた18の基地からなるもので、1960年中には完成していた人工衛星追跡網を基礎にしていた。その主な役割は宇宙船からデータを収集することと、飛行士と地上の間の双方向の通信を提供することだった。各基地は700海里 (1,300キロメートル) 離れており、宇宙船がその間を通過するには通常7分を要した。また他の飛行士たちには宇宙船通信担当官 (Capsule Communicator, CAPCOM) の任務が割り当てられ、軌道上にいる飛行士との通信連絡を担当した。宇宙船から送られてきたデータはゴダード宇宙センターで処理された後にケープ・カナベラルのマーキュリー管制センターに送られ、管制室にある世界地図の両側に表示された。地図上には宇宙船の現在位置と、緊急事態が発生した場合に30分以内に帰還できる位置が示されていた。",
"title": "地上管制"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1961年4月12日、ソ連のユーリ・ガガーリンが地球周回飛行に成功し、人類初の宇宙飛行士となった。その3週間後の5月5日、アラン・シェパードが弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった。アメリカが地球周回飛行に成功したのは1962年2月20日のことで、マーキュリー3人目の飛行士ジョン・グレンが軌道に到達したが、これ以前の1961年8月にはソ連の2人目の飛行士ゲルマン・チトフがすでに1日間の飛行に成功していた。マーキュリーでは1963年5月16日までにさらに3度の発射が行われ、最後の飛行では1日間で地球を22周したものの、その翌月に行われたボストーク計画最後の飛行ボストーク5号では、ほぼ5日間で地球を82周する当時の最長記録を打ち立てていた。",
"title": "飛行"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "マーキュリーにおける有人飛行はすべて成功裏に終了した。主な医療的問題は、単純な個人衛生と飛行後の起立性低血圧が発生しただけだった。発射用ロケットは無人試験の段階から継続して使用されてきたため、有人飛行の計画番号は1からは始まらなかった。また2種類の異なるロケットが使用されたため、飛行計画にもMR (マーキュリー・レッドストーン、弾道飛行) とMA (マーキュリー・アトラス、軌道飛行) の2種類の名称が与えられることになったが、飛行士たちはパイロットの伝統に従っておのおのの宇宙船に独自に名前をつけていたため、MR、MAの名称は一般的には用いられることは少なかった。また飛行士らが与えた名称には、7名の宇宙飛行士を記念して末尾に\"7\"がつけられた。マーキュリー・レッドストーンはケープカナベラル空軍基地第5発射施設から、マーキュリー・アトラスはケープ・カナベラル空軍基地第14発射施設から打ち上げられた。時計には現地時間よりも5時間進んでいる協定世界時が使用された。",
"title": "飛行"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "無人飛行ではリトル・ジョー、レッドストーン、アトラスが使用され、発射機、脱出システム、宇宙船および追跡ネットワークの開発が行われた。地上追跡ネットワークを試験するため1度だけスカウト・ロケットを使用して無人機の発射が試みられたが、失敗して軌道に到達することはなかった。リトル・ジョーを使用したものでは8度の飛行で7機の機体が打ち上げられ、そのうちの3度が成功した。2度目のリトル・ジョーの飛行にはリトル・ジョー6の名称が与えられたが、これは最初の5機がすでに他の飛行に割り当てられた後で計画に挿入されたことによるものであった。",
"title": "飛行"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "計画は、開始から最後の軌道飛行までを数えると22ヶ月遅れた。また12の元請と75の下請け、さらに約7,200の孫請け企業と契約し、従業した人数は200万を数えた。1969年にNASAが行った試算によれば、費用は総額で3億9,260万ドル (インフレ 率を換算すれば17億3,000万ドル) におよび、その内訳は宇宙船開発費が1億3,530万ドル、発射機開発費が8,290万ドル、運営費が4,930万ドル、宇宙船追跡の運用および装置が7,190万ドル、施設費が5,320万ドルであった。",
"title": "後世に与えた影響と遺産"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "マーキュリーは、今日ではアメリカ初の有人宇宙飛行計画として記念されている。ソビエトとの宇宙開発競争に勝利することこそできなかったものの、国威を発揚し、また後続のジェミニ、アポロ、スカイラブ計画などに対しては先駆者として科学的成功を収めた。1950年代の段階では科学者の中には有人宇宙飛行の実現性を信じていない者もいて、ジョン・F・ケネディが大統領に選出されるまで、彼を含む多くの者は計画に疑念を抱いていた。フリーダム7の発射数ヶ月前、ケネディは大統領として、社会にとって大きな成功を収めるものとしてマーキュリー計画を支持することを選んだ。結局アメリカ大衆の大多数も有人宇宙飛行を支持し、数週間以内にケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させかつ安全に地球に帰還させる計画を発表した。飛行した6人のパイロットは勲章を受け パレードで行進し、また2名はアメリカ合衆国議会合同会議に招かれ演説した。女性を除外した飛行士の選考基準を受け、独自に飛行士を選ぶ民間のプロジェクトも立ち上がった。そこでは13名の女性飛行士が選ばれ、彼女たちはマーキュリー計画で男性飛行士が受けたテストをすべてクリアし、メディアによってマーキュリー13と命名された。このような努力にもかかわらず、NASAは1978年にスペースシャトル計画で新たに飛行士を選出するまで女性飛行士を誕生させなかった。",
"title": "後世に与えた影響と遺産"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1964年、ケープ・カナベラルの第14発射施設の近くで、計画のシンボルと数字の7を組み合わせた金属製の記念碑が除幕された。1962年、アメリカ合衆国郵便公社はMA6の飛行を称え、マーキュリー記念切手を発行した。有人宇宙飛行を描いた切手が発行されるのはこれが初めてのことであった。この切手は1962年2月20日、アメリカ初の有人地球周回飛行が行われたその当日、フロリダ州ケープ・カナベラルで発売された。2011年5月4日、郵便公社は計画初の有人飛行フリーダム7の50周年の記念切手を発行した。映像表現においては、同計画は1979年のトム・ウルフの小説『ライトスタッフ』を元に1983年に製作された同名の映画で描写されている。2011年2月25日、世界最大の技術専門家協会であるIEEE (Institute of Electrical and Electronic Engineers, アイ・トリプル・イー、『電気電子技術者協会』の意) はマクドネル社の後継企業であるボーイングに、マーキュリー宇宙船を開発した功績により「Milestone Award for important inventions (重要発明品記念賞)」を授与した。",
"title": "後世に与えた影響と遺産"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "記念表彰は計画終了後に起業家たちが収集家を満足させるために制作した。",
"title": "後世に与えた影響と遺産"
}
] | マーキュリー計画は、1958年から1963年にかけて実施された、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画である。これはアメリカとソビエト連邦(以下ソ連)の間でくり広げられた宇宙開発競争の初期の焦点であり、人間を地球周回軌道上に送り安全に帰還させることを、理想的にはソ連よりも先に達成することを目標としていた。計画は、空軍から事業を引き継いだ新設の非軍事機関アメリカ航空宇宙局によって実行され、20回の無人飛行 (実験動物を乗せたものを含む)、およびマーキュリー・セブンと呼ばれるアメリカ初の宇宙飛行士たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われた。 宇宙開発競争は、1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号を発射したことにより始まった。この事件はアメリカ国民に衝撃を与え、その結果NASAが創設され、当時行われていた宇宙開発計画は文民統制の下で推進されることとなった。1958年、NASAは人工衛星エクスプローラー1号の発射に成功し、次なる目標は有人宇宙飛行となった。 だが初めて人間を宇宙に送ったのは、またしてもソ連であった。1961年4月、史上初の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンの乗るボストーク1号が地球を1周した。この直後の5月5日、アメリカ初の宇宙飛行士アラン・シェパードが搭乗するマーキュリー・レッドストーン3号が弾道飛行を行った。同年8月、ソ連はゲルマン・チトフを飛行させ1日間の宇宙滞在に成功した。アメリカが衛星軌道に到達したのは翌1962年2月20日のことで、ジョン・グレンが地球を3周した。マーキュリー計画が終了した1963年の時点で両国はそれぞれ6人の飛行士を宇宙に送っていたが、アメリカは宇宙での総滞在時間という点で依然としてソ連に後れを取っていた。 マーキュリー宇宙船を設計したのは、マクドネル・エアクラフト社であった。円錐の形状をした船内は完全に与圧され、水、酸素、食料などの補給物資を約1日間にわたり飛行士に供給した。打ち上げはフロリダ州ケープ・カナベラル空軍基地で行われ、発射機にはレッドストーンミサイルまたはアトラスDミサイルを改良したロケットが使用された。また宇宙船の先には、ロケットが故障するなどの緊急事態が発生した際に飛行士を安全に脱出させるための緊急脱出用ロケットが取りつけられていた。飛行手順は、追跡および通信の基地である有人宇宙飛行ネットワークを経由して地上からコントロールされるように設計されていたが、機内にもバックアップのための制御装置が搭載されていた。帰還の際には、小型の逆噴射用ロケットを点火して軌道から離脱した。また機体の底部には溶融式の耐熱保護板が取りつけられており、大気圏再突入時の高温から宇宙船を守った。最終的にはパラシュートが開いて海上に着水し、近隣にいる海軍の艦船のヘリコプターが宇宙船と飛行士を回収した。 計画名は、ローマ神話の旅行の神メルクリウス からつけられた。マーキュリーは翼の生えた靴を履き、高速で移動すると言われている。計画の総費用は16億ドル (2010年の貨幣価値で換算) で、およそ200万人の人間が関わった。宇宙飛行士たちはマーキュリー・セブンの名で知られ、各宇宙船には「7」で終わる名称が、それぞれの飛行士によってつけられた。 開始当初こそ失敗が連続して進行は遅れたものの、計画は次第に知名度を得、テレビやラジオで世界中に報道されるようになった。この後の二人乗りの宇宙船を使用するジェミニ計画では、月飛行で必要となる宇宙空間でのランデブーやドッキングが実行された。マーキュリー計画はその基礎を築いたと言える。さらにアポロ計画の開始が発表されたのは、マーキュリーが初の有人宇宙飛行を成功させた数週間後のことだった。 | {{Infobox
| above = マーキュリー計画
| image = [[File:Mercury-patch-info.png|170px]]
| caption =
| header1 =
| label1 = 期間
| data1 = 1958年 – 1963年
| header2 =
| label2 = 実施国
| data2 = [[アメリカ合衆国]]
| header3 =
| label3 = 目標
| data3 = [[有人宇宙飛行]]
| header4 =
| label4 = 結果
| data4 = 完遂<br />アメリカ初の有人宇宙飛行:<br />{{unbulleted list
|[[弾道飛行]]: [[1961年]][[5月5日]]
|[[人工衛星の軌道|地球周回飛行]]: [[1962年]][[2月20日]]
|1日以上の軌道滞在: [[1963年]][[5月15日|5月15]]〜[[5月16日|16日]]}}
| header5 =
| label5 =
| data5 =
| header6 =
| label6 = [[宇宙飛行士]]
| data6 = {{unbulleted list
| [[スコット・カーペンター]]
| [[ゴードン・クーパー]]
| [[ジョン・ハーシェル・グレン|ジョン・グレン]]
| [[ガス・グリソム]]
| [[ウォーリー・シラー]]
| [[アラン・シェパード]]
| [[ドナルド・スレイトン]]
}}
| header7 =
| label7 = 搭乗員数
| data7 = 1名
| header8 =
| label8 = 使用[[ロケット]]
| data8 = [[アトラス (ミサイル)|アトラス]]、[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]]、[[リトル・ジョー]]
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| label9 = 受注企業
| data9 = [[マクドネル・エアクラフト]] (宇宙船製造)
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| label10 = 経費
| data10 = 16億[[ドル]] ([[2010年]]現在の[[貨幣]][[価値]]に換算)
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| label11 = 後続計画
| data11 = [[ジェミニ計画]]および[[アポロ計画]]
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| label12 = 対抗者
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}}
'''マーキュリー計画'''(マーキュリーけいかく、{{lang-en-short|Project Mercury}})は、[[1958年]]から[[1963年]]にかけて実施された、[[アメリカ合衆国]]初の[[有人宇宙飛行]]計画である。これはアメリカと[[ソビエト連邦]](以下ソ連)の間でくり広げられた[[宇宙開発競争]]の初期の焦点であり、[[人間]]を[[地球周回軌道]]上に送り安全に帰還させることを、理想的にはソ連よりも先に達成することを目標としていた。計画は、[[アメリカ空軍|空軍]]から事業を引き継いだ新設の非軍事機関[[アメリカ航空宇宙局]]によって実行され、20回の無人飛行 ([[実験動物]]を乗せたものを含む)、および[[マーキュリー・セブン]]と呼ばれるアメリカ初の[[宇宙飛行士]]たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われた。
[[宇宙開発]]競争は、[[1957年]]にソ連が[[人工衛星]][[スプートニク1号]]を発射したことにより始まった。この事件はアメリカ国民に衝撃を与え、その結果NASAが創設され、当時行われていた宇宙開発計画は[[文民統制]]の下で推進されることとなった。[[1958年]]、NASAは人工衛星[[エクスプローラー1号]]の発射に成功し、次なる目標は有人宇宙飛行となった。
だが初めて人間を宇宙に送ったのは、またしてもソ連であった。[[1961年]]4月、史上初の宇宙飛行士[[ユーリイ・ガガーリン|ユーリ・ガガーリン]]の乗る[[ボストーク1号]]が地球を1周した。この直後の[[5月5日]]、アメリカ初の宇宙飛行士[[アラン・シェパード]]が搭乗する[[マーキュリー・レッドストーン3号]]が[[弾道飛行]]を行った。同年8月、ソ連は[[ゲルマン・チトフ]]を飛行させ1日間の宇宙滞在に成功した。アメリカが衛星軌道に到達したのは翌[[1962年]][[2月20日]]のことで、[[ジョン・ハーシェル・グレン|ジョン・グレン]]が地球を3周した。マーキュリー計画が終了した1963年の時点で両国はそれぞれ6人の飛行士を宇宙に送っていたが、アメリカは宇宙での総滞在時間という点で依然としてソ連に後れを取っていた。
マーキュリー宇宙船を設計したのは、[[マクドネル・エアクラフト]]社であった。円錐の形状をした船内は完全に[[与圧]]され、[[水]]、[[酸素]]、食料などの補給物資を約1日間にわたり飛行士に供給した。打ち上げは[[フロリダ州]][[ケープ・カナベラル]]空軍基地で行われ、発射機には[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]][[ミサイル]]または[[アトラス (ミサイル)|アトラスD]]ミサイルを改良した[[ロケット]]が使用された。また宇宙船の先には、ロケットが故障するなどの緊急事態が発生した際に飛行士を安全に脱出させるための[[打ち上げ脱出システム|緊急脱出用ロケット]]が取りつけられていた。飛行手順は、追跡および通信の基地である有人宇宙飛行ネットワークを経由して地上からコントロールされるように設計されていたが、機内にもバックアップのための制御装置が搭載されていた。帰還の際には、小型の[[逆噴射]]用ロケットを点火して軌道から離脱した。また機体の底部には溶融式の耐熱保護板が取りつけられており、[[大気圏再突入]]時の高温から宇宙船を守った。最終的には[[パラシュート]]が開いて海上に着水し、近隣にいる[[アメリカ合衆国海軍|海軍]]の艦船の[[ヘリコプター]]が宇宙船と飛行士を回収した。
計画名は、[[ローマ神話]]の旅行の神[[メルクリウス]] (Mercurius, マーキュリー) からつけられた。マーキュリーは翼の生えた靴を履き、高速で移動すると言われている。計画の総費用は16億[[ドル]] (2010年の貨幣価値で換算) で、およそ200万人の人間が関わった<!--{{citation needed|date=January 2015}} {{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}-->。宇宙飛行士たちはマーキュリー・セブンの名で知られ、各宇宙船には「7」で終わる名称が、それぞれの飛行士によってつけられた。
開始当初こそ失敗が連続して進行は遅れたものの、計画は次第に知名度を得、テレビやラジオで世界中に報道されるようになった。この後の二人乗りの宇宙船を使用する[[ジェミニ計画]]では、月飛行で必要となる[[宇宙空間]]での[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]や[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]が実行された。マーキュリー計画はその基礎を築いたと言える。さらに[[アポロ計画]]の開始が発表されたのは、マーキュリーが初の有人宇宙飛行を成功させた数週間後のことだった。
==創設==
マーキュリー計画が公式に承認されたのは1958年[[10月7日]]、また公表されたのは同年[[12月7日]]のことであった{{sfn|Grimwood|1963|p=12}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=132}}。当初の計画名が「宇宙飛行士計画 (Project Astronaut)」だったことからも分かるとおり、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]] (Dwight D. Eisenhower ) [[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の最大の関心は宇宙飛行士の選定にあった{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}。その後古代[[神話]]に基づいてマーキュリーの名が与えられたが、これはSM-65ミサイルに[[ギリシャ神話]]の神「アトラス」、PGM-19ミサイルにローマ神話の神「[[ジュピター (ミサイル)|ジュピター]]」の名をつけたようにすでに先例があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=132}}。また当時空軍で予定されていた同じ目的を持つ[[MISS (アメリカ合衆国の宇宙計画)|MISS]] (Man In Space Soonest, 人間をできる限り早く宇宙へ) 計画は、マーキュリー計画に吸収されることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=102}}{{refn|「人間をできる限り早く宇宙へ」は四段階ある月着陸計画の第一段階であり、1965年中に終了すると予想されていた。経費は総額で15億ドル、また発射用ロケットには「スーパー・タイタン」が使用されることになっていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=91}}。|group=n}}。
===背景===
[[File:Sputnik 1.jpg|thumb|upright|1957年に発射されたスプートニク1号の複製]]
[[第二次世界大戦]]終了後に米ソの間でくり広げられた[[核兵器の歴史|核開発競争]]は、[[弾道ミサイル|長距離ミサイル]]の開発へと発展していった{{sfn|Catchpole|2001|pp=12-14}}。また同時に両極は、[[気象]]データの収集、[[通信]]、[[諜報活動|諜報]]などを目的とする人工衛星の製造にも着手したが、そのほとんどは機密事項とされていた{{sfn|Catchpole|2001|p=81}}。そのため米国民は1957年10月にソ連が史上初の人工衛星を打ち上げたことにより、アメリカが宇宙開発でソ連に遅れをとっているのではないかという懸念、いわゆる「[[ミサイル・ギャップ論争]]」に陥ることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=28, 52}}{{sfn|Catchpole|2001|p=81}}。さらに拍車をかけるように、一ヶ月後ソ連は[[スプートニク2号]]で[[犬]]を軌道上に到達させた。この犬は生きて地球に回収されることはなかったが、彼らの目的が有人宇宙飛行にあることは明らかであった{{sfn|Catchpole|2001|p=55}}。これを受けアイゼンハワー大統領は、非軍事および科学目的の宇宙開発計画を担当する文民組織を創設することを命じた。シビリアン・コントロールとしたのは、宇宙開発の中で軍事目的に関わるものはその詳細を明らかにすることができなかったからである。連邦研究機関の[[アメリカ航空諮問委員会]] (National Advisory Committee for Aeronautics, NACA) を[[アメリカ航空宇宙局]] (National Aeronautics and Space Administration, NASA) と名称を改め{{sfn|Alexander & al.|1966|p=113}}1958年に設立されたこの新組織は、同年中にアメリカ初の人工衛星を打ち上げるという最初の課題を達成した。次なる目標は、人間を宇宙に送り込むことであった{{sfn|Catchpole|2001|pp=57, 82}}。
この当時、宇宙とは地表から高度100キロメートル以上の空間と定義されていた。そこに到達するためには、強力なロケットを使用する以外に手段はなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=70}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=13}}。これは搭乗する飛行士が、爆発の危険性や強いG ([[加速度]])、[[大気圏]]を突破するときの振動{{sfn|Alexander & al.|1966|p=44}}、さらに大気圏再突入の際の[[華氏]]10,000度 ([[摂氏]]5,540度) を超える高温などの様々な危険にさらされることを意味していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=59}}。
宇宙空間では、飛行士には呼吸をするために[[与圧]]室や[[宇宙服]]が必要とされる{{sfn|Catchpole|2001|p=466}}。またそこでは、[[平衡感覚]]を喪失させるおそれのある[[無重量状態]]も経験することになる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=357}}。この他にも[[宇宙線]]や[[微小隕石]]の衝突にさらされる危険がある。放射線も隕石も、通常は分厚い大気の層にさえぎられて地表に到達することのないものである{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=35, 39–40}}。だがこれらはすべて、克服することは可能であると考えられた。まずそれまでの衛星発射の経験から、隕石に衝突する可能性は無視できるほどのものであると予想された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=49}}。また1950年代初期に行われた航空機を使用しての人工無重力実験や高Gの人体実験、さらに動物を宇宙空間に送っての観察結果などは、これらの問題はすべて技術によって対処できることを示唆していた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=37-38}}。さらに大気圏再突入に関しては[[大陸間弾道ミサイル|大陸間弾道弾]]を使って研究が行われていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=61}}が、これによれば宇宙船が減速する際に発生する熱のほとんどは、鈍角の (先端が尖っていない) 耐熱保護板を機体の前面に置くことで解消できることが明らかになっていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=61}}。
===組織と施設===
<div style="float: right; position: relative; width:330px; font-size:10px; margin:0em 0em 0em 2.5em;">
[[File:Map of USA without state ad.png|thumb|330px|<span style="font-size:12px;">マーキュリー計画における製造施設と管制施設の位置</span>]]
{{Image label|x=0.840 |y=0.310 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.870 |y=0.295 |scale=330|text=ワロップス}}
{{Image label|x=0.880 |y=0.325 |scale=330|text=アイランド}}
{{Image label|x=0.830 |y=0.340 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.780 |y=0.370 |scale=330|text=ハンプトン}}
{{Image label|x=0.820 |y=0.260 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.780 |y=0.230 |scale=330|text=ジョンスビル}}
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{{Image label|x=0.560 |y=0.275 |scale=330|text=クリーブランド}}
{{Image label|x=0.810 |y=0.300 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.650 |y=0.315 |scale=330|text=グリーンベルト}}
{{Image label|x=0.770 |y=0.530 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.685 |y=0.495 |scale=330|text=ケープ・カナベラル}}
{{Image label|x=0.645 |y=0.410 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.495 |y=0.410 |scale=330|text=ハンツビル}}
{{Image label|x=0.570 |y=0.325 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.430 |y=0.320 |scale=330|text=セントルイス}}
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{{Image label|x=0.320 |y=0.455 |scale=330|text=アラモゴード}}
{{Image label|x=0.090 |y=0.425 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.120 |y=0.420 |scale=330|text=サンディエゴ}}
{{Image label|x=0.070 |y=0.395 |scale=330|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.100 |y=0.380 |scale=330|text=ロサンゼルス}}
</div>
1958年[[10月1日]]、NASAが正式に発足し、キース・グレナン (T. Keith Glennan) が初代長官に、ヒュー・ドライデン (Hugh L. Dryden, 前NACA長官) が副長官に任命された{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=98–99}}。グレナンから大統領への報告は、国立航空宇宙評議会 (National Aeronautics and Space Council) を通して行われることになっていた{{sfn|Catchpole|2001|p=82}}。NASAの組織内においてマーキュリー計画に責任を持つのは「スペース・タスク・グループ (Space Task Group)」と呼ばれる集団で、その計画の目的は有人宇宙船を地球周回軌道に乗せ、宇宙空間での飛行士の能力や身体機能を観察し、搭乗員と宇宙船を安全に帰還させることであった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=134}}。既存の技術や使用可能な装置は何でも利用され、また機体の設計においては最もシンプルで信頼のおける方法が試みられ、革新的な実験計画とともに現存するミサイルが発射機として活用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=134}}。宇宙船に要求される機能には、以下のようなものがあった。すなわち、1. 異常事態が発生したときに宇宙船と飛行士を発射用ロケットから分離させる緊急脱出用ロケット 2. 軌道上で宇宙船の姿勢をコントロールするための[[姿勢制御]]用ロケット 3. 宇宙船を軌道から離脱させるための[[逆噴射]]用ロケット 4. 大気圏再突入の際の[[空気力学]]的抵抗に耐えうる機体設計 5. 着水装置 である{{sfn|Alexander & al.|1966|p=134}}。飛行中の宇宙船と交信するためには、広範な通信ネットワークシステムを作る必要があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=143}}。当初アイゼンハワーはアメリカの宇宙計画に過度に軍事色を持たせることを望まなかったため、マーキュリー計画を国家の最優先事項に置くことをためらっていた。このためマーキュリー計画は「DXレーティング」という国防計画の優先事項の順位では軍事計画の後に置かれることになったが、この順位は1959年5月には逆転した{{sfn|Catchpole|2001|p=157}}。
マーキュリー宇宙船開発の[[入札]]には12社が参加した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=121, 191}}。1959年1月、[[マクドネル・エアクラフト]]社が2,000万ドルで落札し、宇宙船設計の主契約企業に選ばれた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=137}}。この2週間前、[[ロサンゼルス]]に本拠を置く[[ノースアメリカン]]社が、緊急脱出用ロケット開発に使用される小型ロケット「[[リトル・ジョー]]」の製作設計の契約を獲得していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=124}}{{refn|group=n|「リトル・ジョー」の名称は、設計図に描かれていた4本のロケットの配置が[[クラップス]]という2個のサイコロを振るゲームに類似していたため、開発者たちが命名した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=124}}。}}。飛行中の宇宙船と地上との交信に必要な世界的な通信網の開発には、ウェスタン・エレクトリック社 (Western Electric Company) が任命された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=216}}。弾道飛行に使用されるレッドストーンロケットの製作は[[アラバマ州]][[ハンツビル]]の[[クライスラー]]社が{{sfn|Alexander & al.|1966|p=21}}、また軌道飛行に使用されるアトラスロケットの製作は[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]の[[コンベア]]社が担当した{{sfn|Catchpole|2001|p=158}}。有人ロケット発射場には、フロリダ州[[ケープカナベラル空軍基地]]の中にある[[大西洋]]ミサイル基地が空軍によって準備された{{sfn|Catchpole|2001|p=89–90}}。またここは総合司令センターでもあり、一方で通信連絡に関する管制センターは[[メリーランド州]]の[[ゴダード宇宙飛行センター]]に配置された{{sfn|Catchpole|2001|p=86}}。リトル・ジョーの発射実験は[[ヴァージニア州]]の[[ワロップス島]]で行われた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=141}}。宇宙飛行士の訓練はヴァージニア州の[[ラングレー研究所]]、[[オハイオ州]][[クリーブランド]]の[[グレン研究センター]]および{{仮リンク|ウォーミンスター海軍航空軍事センター|en|Naval Air Warfare Center Warminster}}で実施された{{sfn|Catchpole|2001|pp = 103-110}}。空力の研究にはラングレー研究所の[[風洞]]実験所{{sfn|Alexander & al.|1966|p = 88}}および[[ニューメキシコ州]][[アラモゴード]]の{{仮リンク|ホロマン空軍基地|en|Holloman Air Force Base}}にある[[ロケットスレッド]]施設が使用された{{sfn|Catchpole|2001|p=248}}。宇宙船の着水システムの開発には海軍と空軍両方の航空機が使用される{{sfn|Catchpole|2001|pp=172-173}}一方で、海上に帰還した宇宙船の回収には海軍の艦船と海軍及び[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]のヘリコプターが使用された{{refn|海軍によれば、1960年夏の段階でNASAが計画していた宇宙船の回収作業は[[大西洋艦隊 (アメリカ海軍)|大西洋艦隊]]のすべての船舶を展開させるというもので、そのための費用はマーキュリー計画にかかる経費の総額を凌駕するものになっただろうとのことであった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=265}}。|group=n}}。またケープカナベラルの南にある[[ココアビーチ]]という町が、にわかに注目をあびることになった<ref name="CocoaBeach" />。1962年にこの町からアメリカ初の軌道周回飛行への発射を見守った人は、およそ7万5,000人であった<ref name="CocoaBeach" />。
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Wallops Island - GPN-2000-001888.jpg|ワロップス島実験施設。1961年
Mercury control center 4june1963.jpg|ケープ・カナベラルのマーキュリー管制センター。1963年
File:Gilruth-S69-39595.jpg|スペース・タスク・グループの責任者、ロバート・ギルルース (Robert R. Gilruth)。1969年
</gallery>
==宇宙船==
マーキュリー宇宙船の設計責任者は、NACA時代から有人宇宙飛行の研究に携わっていたマキシム・ファジェット (Maxime Faget) であった{{sfn|Catchpole|2001|p=150}}。機体の高さは3.3メートル、直径は1.8メートルで、緊急脱出用ロケットを加えると全体の高さは7.9メートルになった{{sfn|Catchpole|2001|p=131}}。居住空間の[[容積]]は2.8立方メートルで、飛行士一人が入り込むのが精一杯だった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=47}}。また船内には55個のスイッチと30個の[[電力ヒューズ|ヒューズ]]、35個の機械式レバーの、総計120個の制御機器があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=47}}。機体の重量は、計画中で最も重かったマーキュリー・アトラス9の場合では1,400キログラムだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=490}}。船体の外殻は高温に耐えることができる[[レネ41]]という[[ニッケル]][[合金]]で作られていた{{sfn|Catchpole|2001|p=136}}。
宇宙船は[[円錐]]の形状をしており、先端部分には首状の部分があった{{sfn|Catchpole|2001|p=131}}。底部には凸面状の耐熱保護板が取りつけられており (下図の'''2'''を参照) {{sfn|Catchpole|2001|pp=134–136}}、その内部は[[グラスファイバー]]で何層にも覆われた[[アルミニウム]]の[[ハニカム]]構造になっていた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=140, 143}}。また熱保護板には、帰還の際に宇宙船を減速させるための3基の逆噴射ロケット('''1''') {{sfn|Catchpole|2001|pp=132–134}}がストラップで固定されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}。3基の逆噴射ロケットの間には、発射の最終段階で機体をロケットから分離し軌道に投入するための小型ロケットがあった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=188}}。ストラップは逆噴射ロケット使用後に切断され、不要になったロケットは機体から切り離された{{sfn|Catchpole|2001|p=134}}。熱保護板のすぐ上には与圧された船室があり ('''3'''){{sfn|Catchpole|2001|pp=136–144}}、船内では飛行士は体の形に合わせた座席にシートベルトでしばりつけられた。飛行士の目の前には計器板が、背中には熱保護板があり{{sfn|Catchpole|2001|pp=136-137}}、また座席の直下には環境制御装置が設置されていた。この装置は酸素の供給と船内の気温の調整をし{{sfn|Catchpole|2001|p=138}}、[[二酸化炭素]]や[[水蒸気]]および臭いの除去を行い、さらに軌道上での[[尿]]の採取などをした{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}{{refn|group=n|最初の弾道飛行では尿の採取は行われなかった。他の飛行では、[[宇宙服]]に排出した尿をためておくための貯蔵器が取りつけられていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=368}}。}}。先端部には回収装置が納められている区画 ('''4'''){{sfn|Catchpole|2001|pp=144–145}} があり、内部には減速用のドローグシュート1本とメインパラシュート2本が格納されていたが、メインのうちの1本は予備であった{{sfn|Catchpole|2001|p=144}}。熱保護板と船内の底部の隔壁の間には[[エアバッグ]]が納められており、着水直前に展開させて衝撃を和らげた{{sfn|Catchpole|2001|p=135}}。回収装置のさらにその先には[[アンテナ]]区画 ('''5'''){{sfn|Catchpole|2001|pp=145–148}} があり、通信用と宇宙船追跡用の2基のアンテナが格納されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=147}}。また帰還の際に熱保護板が正しく進行方向を向くように姿勢を安定させる[[フラップ]]も設置されていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=199}}。宇宙船の前方に取りつけられている緊急脱出用ロケット ('''6''') には、3基の[[固体燃料ロケット]]が装備されていた{{sfn|Catchpole|2001|pp=179–181}}。発射が失敗した際には緊急脱出用ロケットが短時間だけエンジンを噴射し、宇宙船を迅速かつ確実に発射用ロケットから遠ざけ、機体が海面に接近するとパラシュートが展開し着水した{{sfn|Catchpole|2001|p=179}} (詳しい手順については[[#計画の詳細|計画の詳細]]を参照)。
<gallery style="float:left; margin:0em 0.5em 0em 0em;" widths="390" heights="170">
Mercury-spacecraft-color.png|1. 逆噴射用ロケット 2. 耐熱保護板 3. 居住区画 4. パラシュート格納庫 5. アンテナ部 6. 緊急脱出用ロケット
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<gallery style="float:left; margin:0em 0em 0em 0em;" widths="170" heights="170">
McDonnellMercuryCapsule1.jpg|逆噴射用ロケットおよび補助推進ロケット
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<gallery style="margin:0em 0em 2em 0em;" widths="290" heights="170">
Landing-skirt.jpg|着水用エアバッグの展開
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===船内での飛行士===
[[File:GPN-2000-001027.jpg|thumb|upright=0.65|マーキュリー宇宙服を着用するジョン・グレン]]
船内では飛行士は耐熱保護板を背にし、椅子に座った姿勢であお向けに横たわっていた。地上での実験では、発射時や大気圏再突入時の高Gに耐えるにはこの姿勢が最適であることが判明していた。またファイバーグラス製の座席は、宇宙服を着たときの飛行士の体型にぴったり合うように特注されたものであった。飛行士の左手には緊急脱出用ロケットの操作レバーがあり、発射前あるいは発射中に非常事態が発生し、なおかつロケットが自動点火しなかった場合には、飛行士自身がこのレバーを引いて脱出した{{sfn|Catchpole|2001|p=142}}。
宇宙服には、船内の環境制御装置の他に独自の生命維持装置が付属しており、酸素の供給や体温の調節などを行うことができた{{sfn|Catchpole|2001|p=191}}。船内の空気には、5.5[[重量ポンド毎平方インチ]] (37.921[[ヘクトパスカル]]) の純粋酸素が使用された{{sfn|Gatland|1976|p=264}}。一方でソ連の宇宙船では、地上の大気と同じ1[[気圧]]の酸素と[[窒素]]の混合気を使用していた。NASAがこの方式を選択したのは、こちらのほうが制御しやすく、[[減圧症]] (潜水病とも言われる) の危険を避けることができ{{sfn|Giblin|1998|p=}}{{refn|group=n|酸素以外の気体は一切使用しないという決定は、1960年[[4月21日]]にマクドネル・エアクラフト社のテストパイロットG. B. ノース飛行士が、マーキュリー宇宙船および宇宙服の性能試験中に減圧室の中で意識を失い重傷を負うという事故が発生した際、批判されることとなった。この事故は窒素を大量に含む (酸素が少ない) 混合気が減圧室内から宇宙服の供給菅に入り込んだことによって発生したことが判明した。{{sfn|Giblin|1998|p=}}}}、宇宙服の重量を減らせたからである。火災が発生した際には (実際には一度も起らなかったが)、船内から酸素をすべて排出することによって消火した{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}。またそのような事態に限らず、何らかの理由で船内の気圧がゼロになってしまったような場合でも、飛行士は宇宙服に保護されて地球に帰還することができた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=48–49}}{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}。[[ヘルメット]]の[[バイザー]]は、飛行中は上げた状態にされていた。これは宇宙服の中が通常は与圧されていないことを意味する{{sfn|Catchpole|2001|p=139}}。もしバイザーを下ろして服の中を与圧すると、宇宙服は風船のようにふくらんでしまい、重要なスイッチが配置されている左側の計器板にかろうじて手が届くだけという状態になってしまった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=246}}。
飛行士には、胸部に[[心拍数]]を計測するための[[電極]]、腕には[[血圧]]を計測するための加圧帯、[[体温]]を測定するための直腸[[体温計]]がつけられ (最後の飛行では口中体温計に改められた{{sfn|Catchpole|2001|pp=191, 194}})、測定値はリアルタイムで地上に送られた{{sfn|Catchpole|2001|p=191}}。また水は普通に飲み、丸薬状の食料も摂ることができた{{sfn|Catchpole|2001|pp=343-344}}{{refn|group=n|船内の蒸気や尿は浄化され、飲用水として利用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=47}}。}}
軌道に乗ると、宇宙船は中心軸に沿ったもの (ロール)、左右方向 (ヨー)、上下方向 (ピッチ) の3つの軸に沿って回転させることができた{{sfn|Catchpole|2001|pp=142–143}}。機体の制御は[[過酸化水素]]を燃料とする小型[[ロケットエンジン]]で行った{{sfn|Alexander & al.|1966|p=499}} {{sfn|Catchpole|2001|p=143}}。また正面にある窓または[[潜望鏡]]によって位置を確認することができた。潜望鏡は360°回転させることができ、その画像は目の前のスクリーンに映し出された{{sfn|Catchpole|2001|p=141}}。
宇宙船の開発には飛行士たち自身も関わり、機体の制御と窓の設置は絶対に譲れない条件であると主張した{{sfn|Catchpole|2001|pp=98–99}}。その結果、宇宙船の運動およびその他の機能は3つの方法によってコントロールされることとなった。1つは地上からの中継によるもの、1つは船内の機器によって自動的に行われるもの、最後は飛行士ら自身による制御で、飛行士の操作は他の2つよりも最優先されるものとなった。マーキュリー最後の飛行で飛行士のゴードン・クーパーは手動で大気圏に再突入したが、これは飛行士による操作ができるようにしていなければ実現不可能なものであり、その有効性が結果によって確認されることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=501}}。
===開発と製造===
[[File:Technicians working in the McDonnell White Room on the Mercury-crop.jpg|thumb|upright=0.9|[[セントルイス]]のマクドネル社における宇宙船の製造]]
NASAは1958年から1959年にかけ、三度にわたってマーキュリー宇宙船の設計を変更した{{sfn|Catchpole|2001|p=152}}。宇宙船の入札終了後の1958年11月、NASAは提出されていた設計案のうちの「C案」を採用した{{sfn|Catchpole|2001|p=153}}が、1959年7月の試験飛行が失敗した後、最終形態の「D案」が浮上した (下図参照){{sfn|Catchpole|2001|p=159}}。耐熱保護板の形状についてはそれより以前に、1950年代の[[弾道ミサイル]]の実験を通して開発が進められていた。それによれば先端を鈍角の形状にすれば、発生した[[衝撃波]]が宇宙船の周囲の熱のほとんどを逃がしてくれることが明らかになっていた{{sfn|Catchpole|2001|p=149}}。また熱保護の対策をさらに進めるために、[[ヒートシンク]]または[[溶融]]剤のいずれかを保護板に添加することが検討された{{sfn| Alexander & al.|1966|p=63}}。ヒートシンクとは保護板の表面に無数の細かい穴を開け、そこから空気を噴射して熱を逃がすという方式である。一方で溶融剤とは保護板の表面にわざと熱で溶ける物質を塗り、それを蒸発させることにより熱を奪う{{sfn| Alexander & al.|1966|p=64}}というもので、無人試験がくり返された後、後者のほうが採用されることとなった{{sfn| Alexander & al.|1966|p=206}}。宇宙船の設計と並行して[[X-15 (航空機)|X-15]]のような既存のロケット機状の形態も検討されていた{{sfn| Alexander & al.|1966|pp=78-80}}が、この方式は宇宙船に採用するには技術的にまだあまりにも遠かったため、最終的に除外された{{sfn| Alexander & al.|1966|p=72}}{{refn|group=n|ロケット機による宇宙飛行の検討はその後も空軍の[[X-20 (航空機)|ダイナソア]]計画によって踏襲されたが、1963年に中止された{{sfn|Catchpole|2001|pp=425, 428}}。1960年代の終わりごろ、NASAは再使用可能な宇宙機の開発に着手した。これが最終的に[[スペースシャトル]]計画につながることとなった。<ref>{{cite web|title=Introduction to future launch vehicle plans [1963-2001]. 3.The Space Shuttle (1968-72)|url=http://www.pmview.com/spaceodysseytwo/spacelvs/sld001.htm|accessdate=3 February 2014}}</ref>}}。熱保護板や機体の安定性については風洞試験がくり返され{{sfn|Alexander & al.|1966|p=88}}、後には実際に飛行させて試験された{{sfn|Catchpole|2001|p=229}}。緊急脱出用ロケットは無人で試験飛行が行われた{{sfn|Catchpole|2001|p=196}}。パラシュートは開発が難航したため[[フランシス・ロガロ|ロガロ翼]]の[[ハンググライダー]]のような形式も検討されたが、最終的に却下された{{sfn| Alexander & al.|1966|p=198}}。
宇宙船は[[ミズーリ州]][[セントルイス]]にあるマクドネル・エアクラフト社工場内の[[クリーンルーム]]で製造され、同所の[[真空]]室で試験された{{sfn|Catchpole|2001|pp=132, 159}}。600近くある下請け企業の中には、宇宙船の環境制御システムを製造したギャレット・エアリサーチ (Garrett AiResearch) 社などもあった{{sfn| Alexander & al.|1966|p=137}}{{sfn|Catchpole|2001|p=138}}。最終品質検査および最終準備は、ケープ・カナベラルのS格納庫で行われた{{sfn|Catchpole|2001|pp=184-188}}{{refn| S格納庫で行われたマーキュリー・レッドストーン2号の修理には110日を要した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=310}}。|group=n}}。NASAは20機の製造を発注し、それぞれ1番から20番までの番号がふられた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=137}}が、10、12、15、17、19番の機体は飛行することはなかった{{sfn|Grimwood|1963|pp=235–238}}。また3番機と4番機は無人飛行試験の際に破壊された{{sfn|Grimwood|1963|pp=235–238}}。11番機は[[大西洋]]の底に沈んだ{{sfn|Grimwood|1963|pp=235–238}}が、38年後に回収された{{sfn|Catchpole|2001|pp=402–405}}。宇宙船の中には脱出システムを修正したり長時間の滞在ができるようにするなど、初期の段階から改良が加えられたものもあった{{refn|改良機は後に機体番号を2B、15Bと改められた{{sfn|Grimwood|1963|pp=216-218}}。また中には、二度にわたって改良されたものもあった。たとえば15番機は一度15Aになり、その後15Bとなった{{sfn|Grimwood|1963|p=149}}|group=n}}。さらに数多くの[[木型|モックアップ]] (宇宙船としての機能は搭載していない、飛行を目的とはしない性能試験のための模型) がNASAおよびマクドネルによって製造され{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=126 & 138}}、回収装置や緊急脱出用ロケットの試験のために使用された{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=96, 105}}またマクドネルは飛行士の訓練のための[[シミュレーション|シミュレーター]]も製作した{{sfn|Catchpole|2001|p=107}}。
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Heatshield-test3.jpg|風洞実験で再現された衝撃波。1957年
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<gallery style="float:left; margin:0em 0.5em 0em 0em;" widths="320" heights="170">
Mercury-design.png|宇宙船デザインの進化。1958〜59年
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Mercury Space Capsule-wind-tunnel.jpg|モックアップでの実験。1959年
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{{clear}}
==発射機==
[[File:Mercury-launch-vehicles.jpg|thumb|upright=1.5|左からマーキュリー・アトラス、マーキュリー・レッドストーン、リトルジョー]]
マーキュリー計画では2種類の発射用ロケットが使用された{{sfn|Catchpole|2001|pp=225, 250}}{{refn|group=n|「マーキュリー・レッドストーン・ブースター開発」のように、発射機自体に対して「ブースター」という用語がしばしば使用されたがこれは例外で、この記事では「ブースター」をマーキュリー・アトラスの1段目のみに使用する。}}。最も重要なのは、軌道飛行に使用されるAtlas LV-3B ([[アトラス (ミサイル)|アトラスD]]) ロケットであった。アトラスは1950年代半ばにコンベア社が空軍のために開発した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=22}}もので、[[酸化剤]]には[[液体酸素]] (LOX) を、燃料には[[ケロシン]]を使用していた{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}。ロケット自体の全高は20メートルだが、宇宙船と緊急脱出用ロケットを加えると (ロケットと宇宙船の接合部を含む) 29メートルになった{{sfn|Catchpole|2001|p=212}}。第1段は2基のエンジンからなるスカート部で、ロケット本体から燃料と液体酸素を供給され{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}、発射時には中央の本体ロケットとともに燃焼ガスを噴射し{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}、宇宙船を軌道に投入するのに十分な[[推力]]を発生させた{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}。第1段切り離し後は中央の本体ロケットが燃焼を続けた。本体ロケットにはスラスターが装備され[[ジャイロスコープ]]に従って動作した{{sfn|Catchpole|2001|pp=458-459}}。この2基の小型ロケットは本体側面に設置され、より正確に機体を誘導することを可能にした{{sfn|Catchpole|2001|p=211}}。外殻はきわめて薄い[[ステンレス]]で作られているため、機体がゆがんだりしないよう常に燃料または[[ヘリウム]]ガスで内部から圧力をかけておく必要があった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=25}}。これは燃料の重量の2パーセントまで機体の重量を削減できることを意味していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=25}}。またアトラスDは元々は[[核弾頭]]を搭載するために設計されていたので、それより重量のある宇宙船を乗せるためには機体をさらに強化することが求められた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=188}}。また内蔵された誘導システムは、大型化した機体に合わせて位置を変えなければならなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=188}}。マーキュリー計画後期にはLGM-25C ([[タイタンII (ミサイル)|タイタンII]]) ミサイルの使用も検討されたが、時期的に間に合わなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=305}}{{refn|タイタンはその後のジェミニ計画で使用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=503}}。|group=n}}。アトラスはケープ・カナベラルまでは空輸され、発射台までは台車で運ばれ{{sfn|Catchpole|2001|p=216}}、発射台に到着したら整備塔の[[クレーン]]で台車とともに垂直に立たされ、複数のクランプで台に固定された{{sfn|Unknown|1962|p=50}}{{sfn|Catchpole|2001|p=216}}。
もう一つの有人飛行用発射機は1段式で高さ25メートル (宇宙船と緊急脱出用ロケットを含む) のマーキュリー・レッドストーンロケットで、弾道飛行に使用された{{sfn|Catchpole|2001|p=206}}。燃料は[[アルコール]]、酸化剤に液体酸素を使用する[[液体燃料ロケット]]だったが推力はわずか34トンしかなかったため、宇宙船を衛星軌道に乗せることはできなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=206}}。レッドストーンは1950年代初頭に[[ドイツ]]の[[V2ロケット]]を改良して[[アメリカ陸軍|陸軍]]のために開発されたものであり{{sfn|Alexander & al.|1966|p=21}}、マーキュリーに流用するにあたっては、先端を取り除いて宇宙船との接合部分を設置し発射時の振動を和らげるための素材を使用するなどの改良が施された{{sfn|Catchpole|2001|p=207}}。ロケットエンジンを製作したのは[[ノースアメリカン]]で、フィンを作動させることによって進行方向を制御した。その方法は二つあり、一つは機体の底部についている翼を作動させるもの、もう一つは[[ノズル]]のすぐ下にあるフィンを作動させて燃焼ガスの流れを変えるというものであった (もちろん、この二つを同時に使用することもあった){{sfn|Alexander & al.|1966|p=21}}。アトラスとレッドストーンのどちらにも不具合を感知する自動中止装置が搭載されており、何か異常が発生した場合には自動的に緊急脱出用ロケットを点火するようになっていた{{sfn|Catchpole|2001|pp=209, 214}}。弾道飛行用には当初はレッドストーンの類縁である[[ジュピター (ミサイル)|ジュピター]]ミサイルの使用が検討されたが、1959年7月に予算の問題によりレッドストーンに決定された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=151}}{{sfn|Grimwood|1963|p=69}}。
この他に高さ17メートルの[[リトル・ジョー]]と呼ばれる小型ロケットも使用された。これは[[打ち上げ脱出システム]]の無人テスト用であり、分離用ロケットエンジンを持つモジュール(いわゆるアボートタワー)を取り付けた宇宙船がその上部に据えられた{{sfn|Catchpole|2001|p=197}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=638}}。その主要な目的は、動圧<!--「空気抵抗」ではない。動圧にCdを掛けたものが抵抗-->が最大になり宇宙船をロケットから分離させることが最も困難になる、[[最大動圧点]](マックスQ)であっても、システムを機能するものにすることだった{{sfn|Catchpole|2001|p=223}}。またマックスQは、飛行士が最も激しい振動にさらされる瞬間でもある{{sfn|Catchpole|2001|p=284}}。リトル・ジョーは[[固体燃料ロケット]]を使用し、1958年にNACAによって有人弾道飛行を目的として設計されたが、マーキュリー計画でアトラスDの発射をシミュレートすることを目的に再設計された{{sfn|Catchpole|2001|p=196}}。機体の製作はノース・アメリカンが行った{{sfn|Catchpole|2001|p=197}}。発射後に飛行方向を制御する機能は持っていなかったため、発射台を傾けることで目標方向に打ち上げた{{sfn|Catchpole|2001|p=198}}。最大到達高度は[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]満載状態で160キロメートルだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=125}}。さらにリトル・ジョーのほかに宇宙船追跡ネットワークを検証するため[[スカウト (ロケット)|スカウト]]ロケットが一度だけ使用されたことがあったが、発射直後に打ち上げが失敗し地面に激突して機体は破壊された{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=392–397}}。
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Little Joe 5B capsule mating.jpg|ワロップス島でリトル・ジョーの機体の上に宇宙船を設置する場面
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<gallery style="float:left; margin:0em 0em 0em 0em;" widths="210" heights="170">
Unloading Atlas Launch Vehicle - GPN-2003-00041.jpg|ケープ・カナベラルで、輸送機から降ろされるアトラス
20130717155518!Mercury-Redstone 4 booster erection 61-MR4-45.jpg|[[ケープカナベラル空軍基地第5発射施設]]で、発射台の上に立たされるレッドストーン
Launch Complex 14-MA-9.jpg|第14発射施設の発射台上のアトラス
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{{-}}
==宇宙飛行士==
[[File:Project Mercury-Mercury Seven-Astronauts.jpg|thumb|upright=1.35|左からグリソム、シェパード、カーペンター、シラー、スレイトン、グレン、クーパー。1962年]]
1959年[[4月9日]]、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られる以下の{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}7名の宇宙飛行士を発表した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=164}}。
*[[スコット・カーペンター]] (Malcolm Scott Carpenter [[1925年]]〜[[2013年]] 海軍所属)
*[[ゴードン・クーパー]] (Leroy Gordon "Gordo" Cooper, Jr. [[1927年]]〜[[2004年]] 空軍所属)
*[[ジョン・ハーシェル・グレン]] (John Herschel Glenn, Jr. [[1921年]]〜[[2016年]] 海兵隊所属)
*[[ガス・グリソム]] (Virgil Ivan "Gus" Grissom [[1926年]]〜[[1967年]] 空軍所属)
*[[ウォルター・シラー]] (Walter Marty "Wally" Schirra, Jr. [[1923年]]〜[[2007年]] 海軍所属)
*[[アラン・シェパード]] (Alan Bartlett Shepard, Jr. 1923年〜[[1998年]] 海軍所属)
*[[ドナルド・スレイトン]] (Donald Kent "Deke" Slayton [[1924年]]〜[[1993年]] 空軍所属)
1961年5月にシェパードは弾道飛行に成功し、宇宙に行った初めてのアメリカ人となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=341}}。彼は[[アポロ14号]]でも飛行し、マーキュリー・セブンの中で唯一月面に降り立った{{sfn|Catchpole|2001|p=445}}。グリソムはアメリカ人として2番目に宇宙に行き、その後のジェミニ計画およびアポロ計画にも参加したが、1967年1月に[[アポロ1号]]の事故で死亡した{{sfn|Catchpole|2001|p=442}}。グレンは1962年2月に地球周回軌道に到達した初めてのアメリカ人となり、その後NASAを引退して政治家となったが、1998年に[[スペースシャトル]][[STS-95]]で飛行士として復活した{{sfn|Catchpole|2001|pp=440,441}}。スレイトンは健康上の理由でマーキュリーにはついに搭乗できず、1962年からは職員としてNASAに残ったが、[[1975年]]に[[アポロ・ソユーズテスト計画]]で飛行した{{sfn|Catchpole|2001|pp=446-447}}。クーパーはマーキュリー最後の飛行で同計画の中では最も長く宇宙に滞在し、またジェミニ計画でも飛行した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641}}。カーペンターはマーキュリーが唯一の宇宙飛行となった。シラーはマーキュリーでの3度目の地球周回飛行に搭乗し、ジェミニ計画にも参加した。またその3年後の[[アポロ7号]]でも船長を務め、マーキュリー、ジェミニ、アポロの3つの計画で宇宙に行った唯一の飛行士となった。
飛行士らの任務の中には広報活動も含まれており、彼らは報道陣のインタビューに答え、計画に関わる施設を訪れ職員と会話をした{{sfn|Catchpole|2001|p=99}}。移動を容易にするために、飛行士らはジェット戦闘機の使用を要求した{{sfn|Catchpole|2001|p=104}}。マスコミの間ではジョン・グレンが最も受けが良く、セブンの代表であるかのように見なされていた{{sfn|Catchpole|2001|p=96}}。飛行士らは『[[ライフ (雑誌)|ライフ]]』誌に手記を売り、同誌は彼らを愛国的で信心深い家族思いの男であると描写した{{sfn|Catchpole|2001|p=100}}。飛行士が宇宙にいる間、彼の家に入り家族と接触することが許されたのはライフだけだった{{sfn|Catchpole|2001|p=100}}。計画中、グリソム、カーペンター、クーパー、シラー、スレイトンらは[[ラングレー空軍基地]]内またはその近辺で家族とともに過ごしたが、グレンは同基地に単身赴任し週末に[[ワシントンD.C.]]にいる妻子のところに戻った。シェパードは[[バージニア州]]の{{仮リンク|オセアーナ海軍航空基地|en|Naval Air Station Oceana}}で家族とともに生活した{{sfn|Catchpole|2001|p=97}}。
===飛行士の選抜と訓練===
宇宙飛行士の資格を満たす者は、当初はあらゆるリスクを引き受ける覚悟がある男あるいは女であれば誰でもよいだろうと思われていた{{sfn|Catchpole|2001|p=91}}が、アイゼンハワーの主張により、アメリカ人で最初に宇宙に乗り込む者は当時508名いた[[テストパイロット]]の中から選抜されることになった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=160–161}}。しかしながら軍のテストパイロットの中には女性はいなかったため、必然的に飛行士はすべて男性で構成された{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}。またこのときNACAでX-15のテストパイロットをしていた、後に人類初の月面着陸をすることになる[[ニール・アームストロング]]は、民間人であるという理由で除外された{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}{{refn|group=n|アームストロングは1952年に海軍を退役し、海軍予備役 (Naval Reserve) の中尉になった。予備役には1960年に任務を離れるまでとどまった。{{sfn|Hansen|2005|p=118}}}}。さらに選抜条件の中には、25歳から40歳までで身長1メートル80センチ以下、さらに科学または技術の分野で[[学位]]を持っていることという項目が加えられた{{sfn|Catchpole|2001|p=92}}。学位の条件が追加されたことにより、実験機[[X-1 (航空機)|X-1]]の飛行士で人類で初めて[[音速]]を突破した[[チャック・イェーガー]]なども除外されることになった{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}。イェーガーは後にマーキュリー計画に対しては批判的になり、特に猿を使って実験したことをひどく軽蔑した{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}{{refn|ジョン・グレンも学位は持っていなかったが、選抜委員会に影響力のある友人を利用して合格した{{sfn|Catchpole|2001|p=440}}。|group=n}}。 [[気球]]で高度31,330メートルの[[成層圏]]から[[スカイダイビング]]をした世界記録 (当時) を持つ[[ジョゼフ・キッティンジャー]]はすべての条件をクリアしていたが、彼が当時関わっていた超高空ダイビングのプロジェクトを進行させることを選んだため応募しなかった{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}。有資格者の中には、有人宇宙飛行がマーキュリー計画の後にも継続されるとは信じられなかったため辞退した者たちもいた{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}{{refn|マーキュリー計画の開始当初は、アイゼンハワーとNASAの初代長官グレナンはアメリカが初めて人類を宇宙に送り、それが宇宙開発競争のゴールになると信じていた{{sfn|Catchpole|2001|p=407}}。|group=n}}。508名の中から110名が面接で選ばれ、さらにその中から32名が体力および心理テストでふるい分けられた{{sfn|Catchpole|2001|p=93}}。残った候補者は健康面、視力、聴力が検査され、騒音、振動、加速度、孤独環境、熱などに対する耐性も検査された{{sfn|Catchpole|2001|p=98}}。特殊な隔離室では、混乱した状況の中で課題をこなす能力があるかを調べられた{{sfn|Catchpole|2001|p=98}}。また候補者たちは自身に関する500以上の質問を受け、様々な画像を表示され何が見えるかを答えさせられた (白紙を見せられることもあった) {{sfn|Catchpole|2001|p=98}}。ジェミニおよびアポロで飛行した[[ジム・ラヴェル]]は、体力試験で落とされた{{sfn|Catchpole|2001|pp=92–93}}。これらの試験の後、最終的には6名まで絞り込む予定だったが、7名のままにすることになった{{sfn|Catchpole|2001|p=94}}。
飛行士らが受けた訓練の中には、選抜試験の項目と重複するものもあった{{sfn|Catchpole|2001|pp=103-110}}。海軍航空開発センターにある[[遠心力|遠心]]加速器では、発射および帰還時に経験する重力加速度の変化をシミュレーションし、6G以上の加速度を受けたときに必要とされる特殊な呼吸法などを習得した{{sfn|Catchpole|2001|p=104}}。航空機を使用しての無重力訓練も行われ、初期の段階では複座式戦闘機の後部座席を使用し、後期の段階では[[貨物機]]の内部を改造し壁や床にマットを敷き詰めたものが使われた{{sfn|Catchpole|2001|p=105}}。ルイス飛行推進研究所にある「多軸回転試験慣性装置 (Multi-Axis Spin-Test Inertia Facility, MASTIF)」と呼ばれる設備では、船内にある操縦桿を模したコントローラーを使用して宇宙船の姿勢を制御する訓練が行われた<ref>{{cite web| title =Gimbal Rig Mercury Astronaut Trainer | publisher =NASA| date =9 June 2008| url =http://www.nasa.gov/centers/glenn/about/history/mastif.html#.VIy1TnvAuJw|accessdate = 13 December 2014 }}</ref><ref>{{cite video |accessdate=2015-12-22 |url=https://www.youtube.com/watch?v=M3m5npzgVLY |title=Gimbal Rig |publisher=NASA Glenn Research Center |date=2008-12-4 |quote=The old multiple-axis space test inertia facility at NASA Glenn, fondly called "the gimbal rig," simulated tumble-type maneuvers that might be encountered in space flight. All Mercury astronauts trained on this rig.}}</ref>。この他にも[[プラネタリウム]]やシミュレーターを使用して、星や地球を基準にして軌道上で正しく姿勢を制御する方法などを学んだ{{sfn|Catchpole|2001|pp=105, 109}}。通信や飛行手順の訓練にはフライトシミュレーターが使用され、最初の段階ではトレーナーが一対一でサポートし、後の段階では飛行士自身でコントロールセンターと連絡を取る訓練をした{{sfn|Catchpole|2001|p=111}}。着水訓練にはラングレーのプールが使用され、後には実際に海に出て[[潜水士]]がつきながらヘリコプターで回収される訓練が行われた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=346}}。
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File:Astronaut Walter M. Schirra Prepares to Test Gravitational Stress.jpg|海軍航空開発センターにおける耐G訓練。1960年
File:Mercury Astronauts in Weightless Flight on C-131 Aircraft - GPN-2002-000039.jpg|C-131輸送機を使用しての無重力訓練
File:Project Mercury AWT Gimbaling Rig close.jpg|ルイス研究センターのMASTIF
File:Shepard in trainer before launch.png|ケープ・カナベラルにおける飛行訓練
File:B60 285b.jpg|ラングレー調査センターにおける降機訓練
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==計画の詳細==
[[File:Mr3-flight-timeline-simple.png|thumb|upright=1.2|弾道飛行の詳細。点線は無重力の期間を表す。]]
マーキュリー計画には弾道飛行、軌道 (地球周回) 飛行の二種類の飛行計画があった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=xiii, 99}}。弾道飛行にはレッドストーンを使用し、2分30秒の燃焼で宇宙船を高度32[[海里]] (59キロメートル) まで上昇させ、ロケット分離後は[[放物線]]を描いて[[慣性]]で飛行した{{sfn|Unknown|1961a|p=7}}{{sfn|Catchpole|2001|pp=208, 250}}。打ち上げ後は自然に落下してくるため逆噴射ロケットは本来は必要なかったが、性能を検証するために点火された。宇宙船は弾道飛行、軌道飛行ともに大西洋に帰還した{{sfn|Catchpole|2001|pp=250, 308}}。着水後には潜水士が機体に姿勢を安定させるための浮き輪を取りつけることになっていたが、弾道飛行では準備が間に合わなかった{{sfn|Catchpole|2001|pp=250, 308}}。弾道飛行では15分間の飛行で高度102〜103海里 (189〜190キロメートル)、軌道飛行距離は262海里 (485キロメートル) に到達した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641}}{{sfn|Catchpole|2001|p=475}}。
計画の準備は主搭乗員と予備搭乗員の選抜よりも1ヶ月先行して行われた。予備搭乗員は主搭乗員に万一のことがあった場合の控えで、すべての訓練を主搭乗員とともに受けた{{sfn|Catchpole|2001|p=110}}。発射3日前、飛行士は飛行中に[[排便]]する可能性を最小限にするために特別食をとりはじめた{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}が、発射当日の朝食にはステーキを食べるのが慣例となっていた{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}。飛行士の体にセンサーをつけ宇宙服を着用させると、船内の環境に適応させるために宇宙服の中に純粋酸素が送り込まれた{{sfn|Catchpole|2001|p=280}}。発射台にバスで到着すると、飛行士は整備塔に付属するエレベーターでホワイトルームと呼ばれる準備室に行き、作業員に補助され発射の2時間前に宇宙船に乗り込んだ{{sfn|Catchpole|2001|p=188}}{{refn|group=n|宇宙船の中には、他の飛行士が「ハンドボール禁止」の貼り紙をするなどの悪ふざけをしていることがしばしばあった。{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。}}。飛行士の体をシートベルトで座席に固定するとハッチがボルトで締められ、作業員が撤退し整備塔がロケットから離れた{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。この後、ロケットのタンクに液体酸素が充填された{{sfn|Catchpole|2001|p=281}}。発射準備および発射後のすべての進行は、[[カウントダウン]] (秒読み) と呼ばれる工程表に沿って行われた。発射1日前に予備秒読みが開始され、ロケットや宇宙船のすべてのシステムが点検される。その後15時間中断され、この間に火工品が充填される。この後、軌道飛行の場合は発射6時間半前 (Tマイナス390) に主秒読みが開始され、発射の瞬間 (T0) の瞬間までは数が少なくなり、発射後は軌道投入の瞬間 (Tプラス5分) まで読み上げが続行された{{sfn|Catchpole|2001|p=188}}{{refn|group=n|秒読みは2分前までは発射施設にある防護室で制御され、その後コントロールセンターが引き継ぐ。最後の10秒の読み上げはセンターで管制業務をしている宇宙飛行士の一人が行い、すでに待機しているテレビ中継で放映された{{sfn|Catchpole|2001|p=282}}。}}。
[[File:Vol-Atlas-Mercury.png|thumb|upright=0.9|軌道飛行の詳細。AからDまでは発射、EからKまでは帰還および着水。]]
軌道飛行では、アトラスのエンジンは発射4秒前に点火される。ロケットは留め金で固定されており、十分な推力が発生するとフックが外れて発射台を離れる ('''A''') {{sfn|Catchpole|2001|pp=188, 242}}。30秒後に動圧<!--「空気抵抗」ではない。動圧にCdを掛けたものが抵抗-->が最大になるマックスQ<!--「と呼ばれる速度」ではない。大気圧との相互作用による、飛行プロファイル上の過程であって「速度」を指している語ではない-->に達し、このとき飛行士は激しい振動にさらされることになる{{sfn|Catchpole|2001|p=340}}。2分10秒後、第1段のスカート部が切り離される ('''B'''){{sfn|Catchpole|2001|p=188}}。この時点で緊急脱出用ロケットは必要なくなるので、切り離し用ロケットに点火して投棄される ('''C''').{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}{{refn|これ以前の段階で発射を中止する事態になった場合は緊急脱出用ロケットが1秒間噴射され、宇宙船と飛行士を爆発の可能性があるロケットから遠ざける{{sfn|Catchpole|2001|p=179}}。この時点で宇宙船はロケットから切り離され、パラシュートで着水する{{sfn|Catchpole|2001|p=180}}。|group=n}}。ロケットはその後次第に進路を水平に傾け、発射から5分10秒後、高度87海里 (161キロメートル) で宇宙船が軌道に投入される ('''D'''){{sfn|Unknown|1962|p=46}}。ちなみにマーキュリーに限らず、世界の多くの国において人工衛星は地球の[[自転]]を利用するために東に向かって発射されるのが通例となっている{{sfn|Catchpole|2001|pp=188, 460}}{{refn|group=n|軌道投入のための発射方向は真東からわずかに北に向けられていた。これは3回の軌道飛行で追跡ネットワークを最良に機能させ、着水地点を北大西洋上にするための措置であった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=215}}。}}。ここで3基の切り離し用小型ロケットが1秒間点火され、宇宙船はロケットから離れる{{sfn|Catchpole|2001|p=133}}{{refn|ロケットは崩壊しやがて落下する。フレンドシップ7ではロケットの一部が南アフリカで発見された{{sfn|Grimwood|1963|p=164}}。|group=n}}。エンジンを停止する直前には、加速度は8Gに達する (弾道飛行では6G){{sfn|Catchpole|2001|p=340}}{{sfn|Unknown|1961|p=10}}。軌道に投入されると宇宙船は自動的に180° 向きを変え、逆噴射用ロケットを前方にし機首を14.5° 下方に傾けた姿勢になる。機首を下に向けるのは、地上との交信のために必要だからである{{sfn|Alexander & al.|1966|p=333}}{{sfn|Catchpole|2001|p=120}}{{refn|group=n|軌道上では宇宙船の姿勢は常に変化する、つまり漂流するが、これは姿勢制御システム (attitude control system, ASCS) によって自動的に修正された。ASCSは、過酸化水素から発生した酸素を小さなノズルから噴射した。燃料を節約するため、長い飛行の際などは宇宙船は時によって漂流するままにまかせることもあった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=195, 450}}。}}。いったん軌道に乗ると、宇宙船は帰還のために大気圏再突入をするときを除いて軌道を変更することは不可能になる{{sfn|Catchpole|2001|p=462}}。地球を1周するのには、通常88分を要する{{sfn|Catchpole|2001|p=324}}。軌道に投入されるのは[[近点・遠点|近地点]]と呼ばれる軌道が最も低くなる場所で、高度はおよそ87海里 (161 km) である。逆に最も高くなる (約150海里, 280 km) 場所は遠地点と呼ばれ、地球の反対側になる{{sfn|Catchpole|2001|p=475}}。帰還の際 ('''E''') には下向きの角度が34° にまで増加される{{sfn|Alexander & al.|1966|p=333}}。逆噴射ロケットの燃焼時間は1基が10秒で、一つが点火してからそれぞれ5秒の間隔を置いて次々に噴射される ('''F'''){{sfn|Catchpole|2001|p=133}}{{sfn|Unknown|1961|p=9}}。再突入の間 ('''G''')、飛行士には8G (弾道飛行では11から12G) の加速度が加わる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=574}}。耐熱保護板の周囲の温度は華氏3,000度 (摂氏1,650度) に達し、またこのとき宇宙船の周囲の空気が高温により[[イオン化]]するため、ブラックアウトと呼ばれる通信が途絶する時間帯が2分間ほど発生する{{sfn|Unknown|1962|p=9}}{{sfn|Catchpole|2001|p=134}}。再突入後、高度2万1,000フィート (6,400メートル) で姿勢を安定させるためのドローグシュートと呼ばれる小型パラシュートが展開し ('''H'''){{sfn|Catchpole|2001|p=147}}、その後高度1万フィート (3,000メートル) でメインパラシュートが展開する ('''I''')。ロープにかかる[[張力]]を低減させるため最初は小さく開き、数秒後に全開する{{sfn|Alexander & al.|1966|p=356}}。着水直前、衝撃を和らげるために耐熱保護板の裏にあるエアバッグが展開される ('''J'''){{sfn|Alexander & al.|1966|p=356}}。着水するとパラシュートを切り離し{{sfn|Catchpole|2001|p=144}}、アンテナが伸ばされ艦船やヘリコプターが追跡できるよう[[電波]]の[[ビーコン]]が発信される ('''K''') {{sfn|Catchpole|2001|p=144}}。また空から視認しやすくさせるため、緑色の染料が宇宙船の周囲に流される{{sfn|Catchpole|2001|p=144}}{{refn|group=n|最初の飛行では[[チャフ|レーダーチャフ]]や回収船の水中聴音器で検知できるようにするためのソーファー (SOFAR) 爆弾と呼ばれる装置も搭載されたが、不必要であることがわかったので以降は排除された{{sfn|Alexander& al.|1966|p=445}}。}}。ヘリが到着すると、潜水士が姿勢を垂直に保つための浮き輪を機体に取りつける{{sfn|Catchpole|2001|p=166}}。先端部にワイヤーがひっかけられると飛行士が爆発ボルトのスイッチを入れてハッチを吹き飛ばし{{sfn|Catchpole|2001|pp=144–145}}、飛行士と宇宙船はともにヘリによってホイスト (つり上げ) されて回収される{{refn|機首の円筒部分から脱出することも可能で、カーペンターのみが実行した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=143}}{{sfn|Catchpole|2001|p=147}}。最後の2回の飛行では宇宙船は飛行士を乗せたまま釣り上げられ、飛行士は回収船上でハッチから機外に出た{{sfn|Catchpole|2001|pp=363, 382}}。カーペンターの飛行では空軍の[[水上機]]が海軍機よりも1時間半先に着水点に到着し飛行士の収容を申し出たが、回収作業を監督する海軍提督が断った。このことは後に問題となり、[[アメリカ上院|上院]]の[[公聴会]]で質問されることとなった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=457}}。|group=n}}。
<gallery widths="225" heights="160">
Mercury profile.jpg|マーキュリーで使用された有人発射機
Glenn62.jpg|軌道上のジョン・グレン (マーキュリー・アトラス6)
Shepard Hoisted into Recovery Helicopter - GPN-2000-001361-crop.jpg|ヘリコプターによる回収作業(マーキュリー・レッドストーン3)
</gallery>
==地上管制==
[[File:Mercury Control crop.jpg|thumb|alt=A look inside the Mercury Control Center, Cape Canaveral, Florida. Dominated by the control board showing the position of the spacecraft above ground|ケープ・カナベラルの管制センター内部 (マーキュリー・アトラス8)]]
マーキュリー計画を支える人員は通常1万8,000人前後で、そのうち回収作業に関わったのはおよそ1万5,000人だった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}{{sfn|Unknown|1962|p=3}}{{refn|グレンの飛行のとき発射ボタンを押したのはT. J. オマリー (T. J. O'Malley) で、カーペンター、シラー、クーパーのときの発射ボタンを押したのは第14発射施設の施設長で発射指揮官のカルヴィン・D. フォウラー (Calvin D. Fowler) だった<ref>1963年5月15日、ゴードン・クーパーのマーキュリー・アトラスの際の報道発表による{{full|date=2015-12-22}}</ref>{{Full|date=June 2013}}。|group=n}}。その他の人員のほとんどは、世界中にはりめぐらされた宇宙船追跡ネットワークに関わっていた。追跡ネットワークは[[赤道]]上に置かれた18の基地からなるもので、1960年中には完成していた人工衛星追跡網を基礎にしていた{{sfn|Catchpole|2001|pp=124, 461–462}}。その主な役割は宇宙船からデータを収集することと、飛行士と地上の間の双方向の通信を提供することだった{{sfn|Catchpole|2001|p=117}}。各基地は700海里 (1,300キロメートル) 離れており、宇宙船がその間を通過するには通常7分を要した{{sfn|Catchpole|2001|pp=121, 126}}。また他の飛行士たちには[[宇宙船通信担当官]] (Capsule Communicator, CAPCOM) の任務が割り当てられ、軌道上にいる飛行士との通信連絡を担当した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=360}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=479}}{{refn|group=n|宇宙船がアメリカ上空にいる間は、地上との通信はしばしばテレビで放映された。}}。宇宙船から送られてきたデータはゴダード宇宙センターで処理された後にケープ・カナベラルのマーキュリー管制センターに送られ{{sfn|Catchpole|2001|p=118}}、管制室にある世界地図の両側に表示された。地図上には宇宙船の現在位置と、緊急事態が発生した場合に30分以内に帰還できる位置が示されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=120}}{{refn|group=n|追跡網は1980年代に衛星追跡システムが完成するまで、その後の宇宙計画でも使用された{{sfn|Catchpole|2001|p=409}}。またコントロールセンターは1965年にケープ・カナベラルからヒューストンに移転した{{sfn|Catchpole|2001|p=88}}。}}。
==飛行==
<div style="float: right; position: relative;width:400px; margin: 0em 0em 0.5em 2em;">
[[File:Mercury-splash-down.png|thumb|400px|マーキュリー計画における着水点]]
{{Image label|x=0.700 |y=0.175 |scale=400|text=<span style="color:gray;">/</span>}}
{{Image label|x=0.690 |y=0.145 |scale=400|text=<span style="background:white; color:gray; font-size:11px; padding-left:2px;">ケープ・カナベラル</span>}}
{{Image label|x=0.100 |y=0.270 |scale=400|text=<span style="color:gray;font-size:11px;">ハワイ</span>}}
{{Image label|x=0.725 |y=0.185 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.610 |y=0.205 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">フリーダム7</span>}}
{{Image label|x=0.730 |y=0.180 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.755 |y=0.180 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">リバティ・ベル7</span>}}
{{Image label|x=0.790 |y=0.225 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.815 |y=0.220 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">フレンドシップ7</span>}}
{{Image label|x=0.825 |y=0.245 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.850 |y=0.250 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">オーロラ7</span>}}
{{Image label|x=0.025 |y=0.190 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.050 |y=0.190 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">シグマ7</span>}}
{{Image label|x=0.020 |y=0.220 |scale=400|text=[[File:City locator 23.svg|10px]]}}
{{Image label|x=0.045 |y=0.225 |scale=400|text=<span style="font-size:11px;">フェイス7</span>}}
</div>
1961年[[4月12日]]、ソ連のユーリ・ガガーリンが地球周回飛行に成功し、人類初の宇宙飛行士となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=332}}。その3週間後の[[5月5日]]、アラン・シェパードが弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=341}}。アメリカが地球周回飛行に成功したのは1962年2月20日のことで、マーキュリー3人目の飛行士ジョン・グレンが軌道に到達したが、これ以前の1961年8月にはソ連の2人目の飛行士[[ゲルマン・チトフ]]がすでに1日間の飛行に成功していた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=377, 422}}。マーキュリーでは1963年[[5月16日]]までにさらに3度の発射が行われ、最後の飛行では1日間で地球を22周した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641}}ものの、その翌月に行われたボストーク計画最後の飛行[[ボストーク5号]]では、ほぼ5日間で地球を82周する当時の最長記録を打ち立てていた{{sfn|Catchpole|2001|p=476}}。
===有人飛行===
マーキュリーにおける有人飛行はすべて成功裏に終了した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640-641}}。主な医療的問題は、単純な個人[[衛生]]と飛行後の[[起立性低血圧]]が発生しただけだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}。発射用ロケットは無人試験の段階から継続して使用されてきたため、有人飛行の計画番号は1からは始まらなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638-641}}。また2種類の異なるロケットが使用されたため、飛行計画にもMR (マーキュリー・レッドストーン、弾道飛行) とMA (マーキュリー・アトラス、軌道飛行) の2種類の名称が与えられることになったが、飛行士たちはパイロットの伝統に従っておのおのの宇宙船に独自に名前をつけていたため、MR、MAの名称は一般的には用いられることは少なかった。また飛行士らが与えた名称には、7名の宇宙飛行士を記念して末尾に"7"がつけられた{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}。マーキュリー・レッドストーンはケープカナベラル空軍基地第5発射施設から、マーキュリー・アトラスはケープ・カナベラル空軍基地第14発射施設から打ち上げられた。時計には現地時間よりも5時間進んでいる[[協定世界時]]が使用された。
{| class="wikitable"
|-
!colspan="10" align="center"|データ{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=640–641 when nothing else is mentioned in table}}
|-
! 計画
! 識別名
! 飛行士
! 発射時間
! 飛行時間
! 地球周回<br />回数
! 遠地点<br />(km)
! 近地点<br />(km)
! 最大速度<br />(km/h)
! 予定着水点<br />との誤差<br />(km)
|-
| [[マーキュリー・レッドストーン3号]] <br />(MR3)
| ''フリーダム7''
| シェパード
| style="text-align:right;" |1961年5月5日<br />14時34分
| style="text-align:right;" |15分22秒
| style="text-align:right;" |0
| style="text-align:right;" |188
| style="text-align:center;" | —
| style="text-align:right;" |8,262
| style="text-align:right;" |5.6
|-
| [[マーキュリー・レッドストーン4号]] <br />(MR4)
| ''リバティ・ベル7''
| グリソム
| style="text-align:right;" |1961年7月21日<br />12時20分
| style="text-align:right;" |15分37秒
| style="text-align:right;" |0
| style="text-align:right;" |190
| style="text-align:center;" |—
| style="text-align:right;" |8,317
| style="text-align:right;" |9.3
|-
| [[マーキュリー・アトラス6号]]<br />(MA6)
| ''フレンドシップ7''
| グレン
| style="text-align:right;" |1962年2月20日<br />14時47分
| style="text-align:right;" |4時間55分23秒
| style="text-align:right;" |3
| style="text-align:right;" |261
| style="text-align:right;" |161
| style="text-align:right;" |28,234
| style="text-align:right;" |74
|-
| [[マーキュリー・アトラス7号]]<br />(MA7)
| ''オーロラ7''
| カーペンター
| style="text-align:right;" |1962年5月24日<br />12時45分
| style="text-align:right;" |4時間56分5秒
| style="text-align:right;" |3
| style="text-align:right;" |269
| style="text-align:right;" |161
| style="text-align:right;"|28,242
| style="text-align:right;" |400
|-
| [[マーキュリー・アトラス8号]]<br />(MA8)
| ''シグマ7''
| シラー
| style="text-align:right;" |1962年10月3日<br />12時15分
| style="text-align:right;" |9時間13分15秒
| style="text-align:right;" |6
| style="text-align:right;" |283
| style="text-align:right;" |161
| style="text-align:right;" |28,257
| style="text-align:right;" |7.4
|-
| [[マーキュリー・アトラス9号]]<br />(MA9)
| ''フェイス7''
| クーパー
| style="text-align:right;" |1963年5月15日<br />13時04分
| style="text-align:right;" |1日<br />10時間19分49秒
| style="text-align:right;" | 22
| style="text-align:right;" | 267
| style="text-align:right;" | 161
| style="text-align:right;" |28,239
| style="text-align:right;" |8.1
|}
{| class="wikitable"
|-
!colspan="2" |備考
|-
| {{Nowrap|マーキュリー・レッドストーン3号}}||アメリカ初の有人宇宙飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=341}}。 [[空母]][[レイク・シャンプレイン (空母)|レイク・シャンプレイン]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=357}}。
|-
|マーキュリー・レッドストーン4号||回収作業中に不意にハッチが開いたため海水が浸入して沈没{{sfn|Alexander & al.|1966|p=373}}{{refn |1999年に海中から引き上げられた{{sfn|Catchpole|2001|pp=402–405}}。| group = n }}。空母[[ランドルフ (空母)|ランドルフ]]が回収作業に当たる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=375}}。
|-
|マーキュリー・アトラス6号||アメリカ初の地球周回飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=422}}。逆噴射ロケットを装着したまま大気圏に再突入{{sfn|Alexander & al.|1966|p=432}}{{refn|group=n|フレンドシップ7の発射は2ヶ月間に何度も延期された。フラストレーションのたまったある政治家は、宇宙船とアトラスロケットの組み合わせを「配管工の悪夢以上の[[ルーブ・ゴールドバーグ・マシン]]だ」と例えた。{{sfn|Alexander & al.|1966|p=409, 411}}。}}。[[フリゲート艦]]ノア (Noa) が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=433}}。
|-
|マーキュリー・アトラス7号||スレイトンに替わりカーペンターが飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=440}}{{refn|group=n|カーペンターが着水点を大きく通り過ぎてしまったのは、自動姿勢安定装置が故障し、逆噴射ロケットの噴射方向が宇宙船の動きに合わせてずれてしまったのが原因だった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=453-454}}。}}。[[駆逐艦]][[ファラガット (DDG-37)|ファラガット]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=456}}。
|-
|マーキュリー・アトラス8号||最も狂いなく計画通りに進行した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=484}}。操縦テストを実行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=476}}。空母[[キアサージ (空母)|キアサージ]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=483}}。
|-
|マーキュリー・アトラス9号||アメリカ初の1日以上の宇宙滞在{{sfn|Alexander & al.|1966|p=487}}。アメリカ最後の単独での宇宙飛行{{refn|group=n|アレクサンダー&al. によれば、恐らくそうなるであろうと思われる{{sfn|Alexander & al.|1966|p=506}}。}}。空母''キアサージ''が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=501}}。
|-
|回収方法の違い|| MA6では宇宙船と飛行士がヘリコプターによって直接ホイストされた (釣り上げられた) 。MA8では宇宙船と飛行士が船まで曳航された。MA9では宇宙船は飛行士を乗せたままヘリで釣り上げられ船まで運ばれた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=353,375,433,457,483-484,501}}。
|}
<gallery widths="280" heights="180">
Kennedy, Johnson, and others watching flight of Astronaut Shepard on television, 05 May 1961.png|ホワイトハウスでシェパードの飛行をテレビで見るケネディ大統領
USS Kearsarge (CVS-33) crew spells out 'Mercury 9' on the flight deck, 15 May 1963 (GPN-2000-001403).jpg|空母キアサージの甲板でマーキュリー9の人文字を作る船員たち
Astronaut_John_Glenn_being_Honored_-_GPN-2000-000607.jpg|大統領に表彰されるジョン・グレン
</gallery>
===無人飛行===
無人飛行ではリトル・ジョー、レッドストーン、アトラスが使用され{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}、発射機、脱出システム、宇宙船および追跡ネットワークの開発が行われた{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638-641}}。地上追跡ネットワークを試験するため1度だけスカウト・ロケットを使用して無人機の発射が試みられたが、失敗して軌道に到達することはなかった。リトル・ジョーを使用したものでは8度の飛行で7機の機体が打ち上げられ、そのうちの3度が成功した。2度目のリトル・ジョーの飛行にはリトル・ジョー6の名称が与えられたが、これは最初の5機がすでに他の飛行に割り当てられた後で計画に挿入されたことによるものであった{{sfn|Catchpole|2001|p=231}}{{sfn|Catchpole|2001|p=278}}。
{| class="wikitable"
|-
! 計画名
! 発射日時
! 飛行時間
! 備考{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638–641 when nothing else is mentioned in table}}
|-
|[[リトル・ジョー1号]]
| style="text-align:right;" |1959年8月21日
| style="text-align:right;" |20秒
|失敗。緊急脱出用ロケットの試験を行う予定だったが、電気系統の故障のため発射30分前に脱出ロケットが点火してしまい、ロケット本体を地上に残したまま宇宙船と脱出ロケットが発射されてしまった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=208}}。
|-
|[[ビッグ・ジョー1号]]
| style="text-align:right;" |1959年9月9日
| style="text-align:right;" |13分00秒
|一部成功。耐熱保護板およびアトラスと宇宙船の接続部分のテストが行われた。マーキュリー・アトラスとしては実質的にこれが初めての飛行となった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=640}}。ケープ・カナベラル南東2,407キロメートルの洋上でUSSストロングが回収{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=203–204}}。高度105キロメートルに到達し、耐熱保護板の性能が検証された{{sfn|Catchpole|2001|p=229}}。
|-
|[[リトル・ジョー6号]]
| style="text-align:right;" |1959年10月4日
| style="text-align:right;" |5分10秒
|宇宙船の空力特性および総合試験。一部が成功。追加の試験は行われなかった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=209}}。
|-
|[[リトル・ジョー1A号]]
| style="text-align:right;" |1959年11月4日
| style="text-align:right;" |8分11秒
|宇宙船の模型を使用して飛行中における脱出ロケットの試験が行われ、一部が成功。ロケットが点火した時間が予定より10秒遅れた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=210}}。ワロップス島南東18.5キロメートル沖合でUSSオポチューンが回収{{sfn|Catchpole|2001|p=232}}。
|-
|[[リトル・ジョー2号]]
| style="text-align:right;" |1959年12月4日
| style="text-align:right;" |11分6秒
|脱出ロケットの試験として[[霊長類]]を乗せて行われ、成功した。サムという名の[[アカゲザル]]を搭乗させ、高高度に到達させた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=210}}。ヴァージニア州ワロップス島南東312キロメートル沖合でUSSボリーが回収。高度85キロメートルに到達{{sfn|Catchpole|2001|pp=234, 474}}。
|-
|[[リトル・ジョー1B号]]
| style="text-align:right;" |1960年1月21日
| style="text-align:right;" |8分35秒
|模型の宇宙船に猿を乗せ、マックスQにおける脱出ロケットの試験が行われ成功した。搭乗させたのはミス・サムという名のアカゲザルだった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=212}}。高度15キロメートルに到達。
|-
|[[緊急脱出用ロケット海岸発射試験|海岸での脱出ロケット発射]]
| style="text-align:right;" |1960年5月9日
| style="text-align:right;" |1分31秒
|脱出ロケットのみの発射試験。成功。
|-
|[[マーキュリー・アトラス1号]] (MA1)
|style="text-align:right;" |1960年1月29日
| style="text-align:right;" |3分18秒
|宇宙船とアトラスの組み合わせとして発射されたが、マックスQで爆発して失敗{{sfn|Alexander & al.|1966|p=276}}。重量削減のためにビッグ・ジョー以来アトラスの外殻は薄く作られるようになっていたが、これが機体崩壊の原因を招いた。次のアトラスは一時的対応として機体が強化されたが、一方で残りのものはビッグ・ジョーと同じ機体特性で製造された{{sfn|Catchpole|2001|p=243}}。
|-
|[[リトル・ジョー5号]]
| style="text-align:right;" |1960年11月8日
| style="text-align:right;" |2分22秒
|実機の宇宙船を使用しての初の脱出ロケット試験を行ったが、失敗した。宇宙船との接合部が空気抵抗で変形した上に配線が間違っていたため脱出ロケットが予定よりも早く点火し、さらに発射ロケットから切り離すことにも失敗した{{sfn|Catchpole|2001|p=248}}。接合部はその後[[ロケットスレッド]]で検査された{{sfn|Catchpole|2001|p=248}}。高度16キロメートルに到達{{sfn|Alexander & al.|1966|p=291}}。
|-
|[[マーキュリー・レッドストーン1号]] (MR1)
| style="text-align:right;" |1960年11月21日
| style="text-align:right;" |2秒
|実機の宇宙船を使用してのマックスQにおける性能試験を行う予定だったが失敗。配線が誤っていたため点火後2秒でレッドストーンのエンジンが停止し{{sfn|Alexander & al.|1966|p=298}}、ロケットは10センチメートル上昇してまた発射台に戻った{{sfn|Alexander & al.|1966|p=294}}{{refn|group=n|レッドストーンのエンジン停止直後に脱出ロケットが点火し、ロケットと宇宙船を発射台に残したまま高度1,200メートルまで上昇して300メートル離れた場所に落下した。また脱出ロケットが点火してから3秒後に宇宙船のドローグシュートが展開し、さらにメインパラシュートが開いた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=294}}。}}。
|-
|[[マーキュリー・レッドストーン1A号]] (MR1A)
|style="text-align:right;" |1960年12月19日
| style="text-align:right;" |15分45秒
|マーキュリー・レッドストーンの組み合わせとしての性能試験を行い、成功。MRとしての初の飛行。空母[[ヴァリー・フォージ (空母)|ヴァリー・フォージ]]が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=297}}。高度210キロメートルに到達{{sfn|Alexander & al.|1966|p=310}}。
|-
|[[マーキュリー・レッドストーン2号]] (MR2)
| style="text-align:right;" |1961年1月31日
| style="text-align:right;" |16分39秒
|[[ハム (チンパンジー)|ハム]]という名の[[チンパンジー]]を乗せて弾道飛行を行う。USSドナー (LSD-20) {{sfn|Alexander & al.|1966|p=316}}がケープ・カナベラル南東679キロメートル沖合で回収{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=638-639}}。
|-
|[[マーキュリー・アトラス2号]] (MA2)
| style="text-align:right;" |1961年2月21日
| style="text-align:right;" |17分56秒
|マーキュリー・アトラス接続部の試験。USS''ドナー''{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=321–322}}がケープ・カナベラル南東2,305キロメートル沖合で回収。
|-
|[[リトル・ジョー5A号]]
|style="text-align:right;" |1961年3月18日
| style="text-align:right;" |23分48秒
|実機の宇宙船を使用しての2度目の脱出ロケット試験。一部成功。予定より14秒早く脱出ロケットが点火し、宇宙船を発射ロケットから切り離すことに失敗した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=327}}。
|-
|[[マーキュリー・レッドストーン・ロケット開発試験飛行|マーキュリー・レッドストーンBD号]]
|style="text-align:right;" |1961年3月24日
| style="text-align:right;" |8分23秒
|レッドストーン最後の試験飛行 (BDはBooster Development、『ロケットの開発』の意味){{sfn|Alexander & al.|1966|p=330}}。
|-
|[[マーキュリー・アトラス3号]] (MA3)
| style="text-align:right;" |1961年4月25日
| style="text-align:right;" |7分19秒
|[[ロボット]]の飛行士{{refn|飛行士と同じ体温と水蒸気、CO<sub>2</sub>を発生させる機械{{sfn|Catchpole|2001|p=309}}。|group=n}}を乗せての軌道飛行 (弾道飛行より向上){{sfn|Alexander & al.|1966|p=335}}{{sfn|Catchpole|2001|p=275}}を行う予定だったが失敗。軌道に乗らないことが分かった時点で破壊された。模型の宇宙船は回収され、MA4で再使用された{{sfn|Alexander & al.|1966|p=337}}。
|-
|[[リトル・ジョー5B号]]
| style="text-align:right;" |1961年4月28日
| style="text-align:right;" |5分25秒
|実機の宇宙船を使用しての3度めの脱出ロケット試験。成功。リトル・ジョー計画の終了。
|-
|colspan=4|(1961年5月〜7月、有人弾道飛行)
|-
|[[マーキュリー・アトラス4号]] (MA4)
| style="text-align:right;" |{{Nowrap|1961年9月13日}}
| style="text-align:right;" |1時間49分20秒
|ロボットの飛行士を搭乗させての軌道上における環境制御装置の試験。成功。地球を1周し、データを地上に送信。計画における初の軌道飛行{{sfn|Alexander & al.|1966|p=386-387}}。[[バミューダ諸島]]東方283キロメートルの洋上でUSS[[ディケーター (DD-936)]] が回収{{sfn|Alexander & al.|1966|p=389}}。
|-
|[[マーキュリー・スカウト1号]] (MS1)
| style="text-align:right;" |1961年11月1日
| style="text-align:right;" |44秒
|宇宙船追跡ネットワークの検査を試みるも失敗。誘導システムが故障した後に中止される{{sfn|Alexander & al.|1966|p=397}}。追跡ネットワークのデータはMA4とMA5のものが流用された{{sfn|Catchpole|2001|p=312}}。
|-
|[[マーキュリー・アトラス5号]] (MA5)
| style="text-align:right;" |1961年11月29日
| style="text-align:right;" | {{Nowrap|3時間20分59秒}}
|エノスという名のチンパンジーを搭乗させての環境制御装置の試験を行い、成功。軌道を2周し、同装置が人間を搭乗させても十分に機能することを証明した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=404}}{{refn|group=n|エノスは与えられた信号に正しい反応をしたかどうかにより、褒美としてバナナの小丸薬をもらうか弱い電気ショックを受けたが、正しい反応をしたのに間違えて電気ショックを食らうことがあった{{sfn|Alexander & al.|1966|p=405}}。}}。マーキュリー・アトラス最後の試験飛行。バミューダ南東410キロメートルの洋上でUSSストームス{{sfn|Alexander & al.|1966|p=406}}が回収した{{sfn|Grimwood|1963|p=169}}。
|-
|colspan=4|(1962年2月〜1963年5月、有人軌道飛行)
|}
<gallery widths="220" heights="180">
File:Launch of Little Joe 1B, January 21, 1960.jpg|ミス・サムを乗せて発射台を離れるリトル・ジョー1B。1960年
File:Escape rocket of Mercury-Redstone 1-crop.jpg|発射中止後に点火してしまったMR1の脱出ロケット。1960年
File:Chimpanzee Ham in Biopack Couch for MR-2 flight MSFC-6100114.jpg| MR2のハム。1961年
File:Chimpanzee Enos before the flight of Mercury-Atlas 5 (cropped).jpg|MA5のエノス。1961年
</gallery>
===キャンセルされた計画===
{| class="wikitable"
|-
! style="width:120px;"|計画名
! style="width:90px;"|識別名
! style="width:90px;"|飛行士
! style="width:140px;"|予定発射日
! style="width:100px;"|キャンセル<br />決定日時
! 備考
|-
|マーキュリー・ジュピター1号
|
|
|
|1959年<br />1月1日{{sfn|Grimwood|1963|p=81}}
|
|-
|マーキュリー・ジュピター2号
|
|チンパンジー
|1960年1〜3月期
|1959年<br />1月1日{{sfn|Grimwood|1963|p=81}}
|宇宙船の最大動圧試験を行うことが提案されていた<ref name="MJ2" />
|-
| {{Nowrap|マーキュリー・レッドストーン5号}}
|
|グレン<br />(予定)
|1960年3月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
|1961年8月{{sfn|Cassutt|Slayton|1994|p=104}}
| rowspan="4"|他の4飛行士らによる弾道飛行が計画されていた{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}。
|-
|マーキュリー・レッドストーン6号
|
|
|1960年4月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
|1961年7月{{sfn|Cassutt|Slayton|1994|p=101}}
|-
|マーキュリー・レッドストーン7号
|
|
|1960年5月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
|
|-
|マーキュリー・レッドストーン8号
|
|
|1960年6月{{sfn|Catchpole|2001|p=474}}
|
|-
|マーキュリー・アトラス10号
| ''フリーダム7-II''
|シェパード
|1963年10月
|1963年<br />6月13日
|3日間の飛行を予定{{refn|group=n|1962年11月、耐熱保護板に追加の補給物資を取りつけて3日間の飛行を行うことが計画された。1963年1月までに、マーキュリー・アトラス9号の代替案として1日の飛行に変更されたが、9号が成功したことによりキャンセルされた{{sfn|Catchpole|2001|pp=385-386}}。}}。
|-
|マーキュリー・アトラス11号
|
|グリソム
|1963年10〜12月期
|1962年10月
|1日間の飛行を予定<ref name="Mercury-Atlas 11" />。
|-
|マーキュリー・アトラス12号
|
|シラー
|1963年10〜12月期
|1962年10月
|1日間の飛行を予定<ref name="Mercury-Atlas 12" />。
|}
== 後世に与えた影響と遺産 ==
[[File:Gordon cooper ticker tape.png|thumb|upright=0.85|ゴードン・クーパーのパレード。1963年]]
計画は、開始から最後の軌道飛行までを数えると22ヶ月遅れた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}。また12の元請と75の下請け、さらに約7,200の孫請け企業と契約し、従業した人数は200万を数えた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=508}}。1969年にNASAが行った試算によれば、費用は総額で3億9,260万ドル ([[インフレ]]<ref name="lafleur20100308" /> 率を換算すれば17億3,000万ドル) におよび、その内訳は宇宙船開発費が1億3,530万ドル、発射機開発費が8,290万ドル、運営費が4,930万ドル、宇宙船追跡の運用および装置が7,190万ドル、施設費が5,320万ドルであった{{sfn|Wilford|1969|p=67}}{{sfn|Alexander & al.|1966|p=643}}。
マーキュリーは、今日ではアメリカ初の有人宇宙飛行計画として記念されている{{sfn|Catchpole|2001|p=cover}}。ソビエトとの宇宙開発競争に勝利することこそできなかったものの、国威を発揚し、また後続のジェミニ、アポロ、スカイラブ計画などに対しては先駆者として科学的成功を収めた{{sfn|Catchpole|2001|p=417}}{{refn|国際ルールでは飛行士は宇宙船とともに安全に着陸しなければならないと定められている。ガガーリンは実際には[[射出座席]]で宇宙船から離れ、パラシュートで着地した。ソ連は1971年に彼らの主張に文句がつけられることがなくなるまで、これを受け入れなかった{{sfn|Siddiqi|2000|p=283}}。|group=n}}。1950年代の段階では科学者の中には有人宇宙飛行の実現性を信じていない者もいて{{refn|スプートニク1号の発射をさかのぼること5ヶ月の1957年5月、後に主契約企業となるマクドネル社の社長は有人宇宙飛行は1990年までに実現することはないだろうと予言した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=119}}。|group=n}}、[[ジョン・F・ケネディ]]が大統領に選出されるまで、彼を含む多くの者は計画に疑念を抱いていた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=272}}。''フリーダム7''の発射数ヶ月前、ケネディは大統領として、社会にとって大きな成功を収めるものとして{{sfn|Alexander & al.|1966|p=434}}マーキュリー計画を支持することを選んだ{{sfn|Alexader & al.|1966|p=306}}{{refn|フリーダム7の発射当日は、アメリカ中の道路で運転手たちが車を停めてラジオで中継を聞いた。後に初の地球周回飛行を行ったフレンドシップ7では、約1億人がテレビやラジオで中継を見、また聞いた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=423}}。シグマ7とフェイス7の発射の様子は、[[通信衛星]]を経由して西ヨーロッパにライブで中継された<ref name=Telstar/>。アメリカの大手3大メディアでシグマ7の発射を刻々と報道したのは2局で、残る1局は[[ワールドシリーズ]]の開幕戦を中継していた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=472}}。|group=n}}。結局アメリカ大衆の大多数も有人宇宙飛行を支持し、数週間以内にケネディは、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させかつ安全に地球に帰還させる計画を発表した{{sfn|Alexander & al.|1966|p=363}}。飛行した6人のパイロットは勲章を受け{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=362, 435, 459, 486, 502, 584}} パレードで行進し、また2名は[[アメリカ合衆国議会合同会議]]に招かれ演説した{{sfn|Alexander & al.|1966|pp=435, 501}}。女性を除外した飛行士の選考基準を受け、独自に飛行士を選ぶ民間のプロジェクトも立ち上がった。そこでは13名の女性飛行士が選ばれ、彼女たちはマーキュリー計画で男性飛行士が受けたテストをすべてクリアし{{sfn|Catchpole|2001|p=447}}、メディアによって[[マーキュリー13]]と命名された{{sfn|Catchpole|2001|pp=447–448}}{{refn|このことは当時のソ連の指導者[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]に、1963年6月16日に史上初の女性宇宙飛行士[[ワレンチナ・テレシコワ]]を飛行させるきっかけを与えた{{sfn|Alexander & al.|1966|p=506}}。|group=n}}。このような努力にもかかわらず、NASAは1978年にスペースシャトル計画で新たに飛行士を選出するまで女性飛行士を誕生させなかった{{sfn|Catchpole|2001|p=448}}。
1964年、ケープ・カナベラルの第14発射施設の近くで、計画のシンボルと数字の7を組み合わせた金属製の記念碑が除幕された<ref name="Monument" />。1962年、[[アメリカ合衆国郵便公社]]はMA6の飛行を称え、マーキュリー[[記念切手]]を発行した。有人宇宙飛行を描いた[[切手]]が発行されるのはこれが初めてのことであった<ref name="GlennStamp" />。この切手は1962年2月20日、アメリカ初の有人地球周回飛行が行われたその当日、フロリダ州ケープ・カナベラルで発売された<ref name="GlennStamp" />。[[2011年]]5月4日、郵便公社は計画初の有人飛行''フリーダム7''の50周年の記念切手を発行した<ref name="ShepardStamp" />。映像表現においては、同計画は[[1979年]]の[[トム・ウルフ]]の小説『[[ライトスタッフ]]』を元に[[1983年]]に製作された同名の[[映画]]で描写されている<ref name="IMdBRightStuff" />。2011年[[2月25日]]、世界最大の技術専門家協会である[[IEEE]] (Institute of Electrical and Electronic Engineers, アイ・トリプル・イー、『電気電子技術者協会』の意) はマクドネル社の後継企業である[[ボーイング]]に、マーキュリー宇宙船を開発した功績により「Milestone Award for important inventions (重要発明品記念賞)」を授与した<ref name="BoeingMedia" />{{refn|ボーイングはこの賞を、マーキュリーの先駆的な"航法および制御装置、[[オートパイロット]]、速度安定および制御、[[フライ・バイ・ワイヤ]]システム"などを開発した功績により受賞した<ref name="BoeingMedia"/>。|group=n}}。
<gallery widths="340" heights="230" align="center">
File:Project Mercury Pad14.jpg|14番発射施設のマーキュリー記念碑。1964年
</gallery>
=== 展示 ===
<gallery widths="185" heights="145">
File:Freedom 7 U.S. Naval Academy.JPG|[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]に展示されている''フリーダム7''。2010年
Liberty Bell 7 The Kansas Cosmosphere and Space Center.JPG|カンザス・コスモスフィア宇宙センターに展示されている''リバティ・ベル7''。2010年
Friendship 7 the National Air and Space Museum.JPG|[[国立航空宇宙博物館]]に展示されている''フレンドシップ7''。2009年
Aurora 7 the Museum of Science and Industry in Chicago.JPG|[[シカゴ科学産業博物館]]に展示されている''オーロラ7''。2009年
MA-8 Sigma 7 Astronaut Hall of Fame, Titusville, FL.JPG|合衆国宇宙飛行士栄誉殿堂に展示されている''シグマ7''。2011年
MA-9 Faith 7 Space Center Houston, Houston, TX.JPG|[[ヒューストン宇宙センター]]に展示されている''フェイス7''。2011年
</gallery>
=== 計画の記章 ===
記念表彰は計画終了後に[[起業]]家たちが収集家を満足させるために制作した<ref name="patches" />{{refn|マーキュリーの飛行士たちが制作した唯一の表彰は、NASAのロゴと名札だけだった<ref name="patches"/>。有人飛行をした各機体は黒で塗装され、飛行の記章と識別名、アメリカ国旗およびUnited Statesの文字だけが描かれた{{sfn|Catchpole|2001|p=132}}。|group=n}}。
<gallery widths="90" heights="90">
Mercury 3 - Patch.png
Mercury 4 - Patch.png
Mercury 6 - Patch.png
Aurora 7 patch.png
Mercury-8-patch.png
Mercury 9 - Patch.png
</gallery>
==画像==
===飛行士の配置===
<gallery widths="780" heights="360">
AstronautAssignmentsChart-Mercury7.PNG|マーキュリー7の飛行士たちの配置表。シラーが3回と最も多くの飛行を割り当てられている。グレンは最も早くNASAを離れたが、1998年にスペースシャトルSTS-95で最後の飛行をしている<ref name=Glenn1998/>。シェパードは7人の中で唯一月面を歩いた男である。
</gallery>
===追跡ネットワーク===
<gallery widths="630" heights="370">
Mercury Tracking Network 2.png| MA8の飛行経路および追跡ステーション。宇宙船はフロリダのケープ・カナベラルカら発射され、東に向かって飛行する。新しい軌道は地球の自転の影響で左のほうにそれぞれずれていく。軌道は北緯32.5°と南緯32.5°の間を移動する{{sfn|Catchpole|2001|p=128}}。1〜6は軌道番号、黄色は発射地点、黒点は追跡ステーション、赤はステーションの追跡可能範囲、青は着陸地点を表す。</gallery>
===宇宙船解剖図===
<gallery widths="365" heights="260">
Mercury Spacecraft.png|宇宙船内部
Mercury-spacecraft-control.png|宇宙船のヨ-、ピッチ、ロールの3つの回転軸
</gallery>
===計器板と操縦桿===
<gallery widths="420" heights="300">
File:Control panels mercury atlas 6.png|''フレンドシップ7''の計器板{{sfn|Unknown|1962|p=8}}。計器板は飛行によって変化したが、その中で中央を占める望遠鏡の表示スクリーンは最後の飛行では除かれた
File:Three-axis hand controller mercury project.jpg|姿勢制御装置の3軸操縦桿
</gallery>
===発射施設===
<gallery widths="450" heights="250">
File:Launch-complex-14.png|発射直前の第14発射施設 (整備塔は移動済み)。発射準備作業は防護室 (blockhouse) で行われる。
</gallery>
===地上着陸システム試験===
<gallery widths="500" heights="380">
File:Mercury-project-earth-landing-system-test.png|着水および回収訓練のため模型の宇宙船を落下させる際の手順。システムの個々の段階の試験と併せて、56種類のこのような品質試験が行われた。パラグライダーを使用する代替案も提案されたが、模型の試験では行われなかった{{sfn|Catchpole|2001|pp=172-173}}。
</gallery>
===宇宙計画の比較===
<gallery widths="430" heights="330">
File:NASA spacecraft comparison.jpg|アポロ (最大)、ジェミニ、マーキュリー (最小) の、宇宙船およびロケットのNASAによる比較図。
</gallery>
==脚注==
=== 注釈 ===
{{reflist|30em
| group = n
| colwidth =
| refs =
}}
===出典===
{{reflist|20em|refs=
<ref name=CocoaBeach>{{cite web|title=History-At-A-Glance|url=http://www.cityofcocoabeach.com/citylife/History_at_A_Glance.htm|publisher=City of Cocoa Beach|accessdate=24 June 2013|archivedate=2013年1月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130104190601/http://www.cityofcocoabeach.com/citylife/History_at_A_Glance.htm|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>
<ref name="MJ2">{{cite web |url=http://www.astronautix.com/flights/merr2mj2.htm |title=Mercury-Jupiter 2 (MJ-2) |publisher=Astronautix.com |date= |accessdate=2012-05-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120617195355/http://www.astronautix.com/flights/merr2mj2.htm |archivedate=2012年6月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>
<ref name="Mercury-Atlas 11">{{cite web|title=Mercury MA-11|url=http://www.astronautix.com/flights/meryma11.htm|publisher=Encyclopedia Astronauticax|accessdate=22 June 2013}}</ref>
<ref name="Mercury-Atlas 12">{{cite web|title=Mercury MA-12|url=http://www.astronautix.com/flights/meryma12.htm|publisher=Encyclopedia Astronautica|accessdate=22 June 2013}}</ref>
<ref name=Telstar>{{cite web|title=Mercury Atlas 8|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1962-052A|publisher=NASA|accessdate=22 June 2013}}</ref>
<ref name="GlennStamp">{{cite web|title=Mystic stamp company|url=http://www.mysticstamp.com/viewProducts.asp?sku=1193|accessdate=1 April 2012}}</ref>
<ref name="ShepardStamp">{{cite web|title=Stamps Mark Shepard's 1961 Flight |url= http://www.nasa.gov/topics/history/features/shepard_stamp.html|publisher=US Postal Service|accessdate=5 May 2011}}</ref>
<ref name="BoeingMedia">{{cite web|title=Boeing Press Release|url=http://boeing.mediaroom.com/index.php?s=43&item=1639|accessdate=25 February 2011}}</ref>
<ref name="IMdBRightStuff">{{cite web|publisher=IMdB|url=https://www.imdb.com/title/tt0086197/|title=The Right Stuff|accessdate=2011-10-04}}</ref>
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==参考文献==
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*{{cite book|last=Unknown|title=Results of the first U.S. manned suborbital space flight|date=1961|publisher=NASA|url=http://msquair.files.wordpress.com/2011/05/results-of-the-first-manned-sub-orbital-space-flight.pdf|location=USA|ref=harv}}
*{{cite book|last=Unknown|title=Results of the second U.S. manned suborbital space flight| date=1961a| publisher=NASA| url=http://www.jsc.nasa.gov/history/mission_trans/MR04_TEC.PDF| location=USA|ref=harv}}
*{{cite book|title=Results of the first United States manned orbital space flight, 20 February 1962|last=Unknown|url=http://science.ksc.nasa.gov/history/mercury/ma-6/docs/ma-6-results.pdf|date=1962|publisher=NASA|location=USA|ref=harv}}
*{{cite book | last = Wilford | first = John Noble | authorlink = :en:John Noble Wilford | title = We Reach the Moon | publisher = Bantam Books | edition = | date = July 1969 | location = New York, USA | page = | isbn = |ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Mercury program}}
* [[ジェミニ計画]]
* [[アポロ計画]]
* [[スプートニク計画]]
* [[ボストーク]]
* [[宇宙開発競争]]
* [[ライトスタッフ]] - マーキュリー計画に従事した宇宙飛行士を描いた作品。
* [[スペース カウボーイ]] - 冒頭の、有人飛行が動物実験に切り替えられる旨の言い渡しは初期の無人飛行計画を指す。
* [[ドリーム (2016年の映画)]] - マーキュリー計画に[[計算手]]として参加した黒人女性を描く[[伝記映画]]。
==外部リンク==
* [http://www-pao.ksc.nasa.gov/history/mercury/mercury.htm NASA(Kennedy Space Center)のマーキュリー計画の解説]
* {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/mercury_program.html |title=JAXAによる解説 |date=20070504223244}}
* [http://history.nasa.gov/SP-4003/cover.htm Space Medicine In Project Mercury By Mae Mills Link]
* [https://web.archive.org/web/20120101014338/http://www.aokwom.com/ Project Mercury Simulator for Mac and PC](archive)
* [http://www.ibiblio.org/mscorbit/document.html PDFs of historical Mercury documents including familiarization manuals.]
* [http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/diagrams/mercury.html Project Mercury Drawings and Technical Diagrams]
* {{youtube|SbzcYuyvZag|Project Mercury - 1963 NASA Space Program Documentary}} - wdtvlive42 - Archive Footage, 2011-11-12
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6,498 | 南北朝時代 | 南北朝時代(なんぼくちょうじだい)とは、中国、日本、ベトナムの歴史上で、朝廷が南北に別れた時代のことを指す。 | [
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] | 南北朝時代(なんぼくちょうじだい)とは、中国、日本、ベトナムの歴史上で、朝廷が南北に別れた時代のことを指す。 中国における南北朝時代については、南北朝時代 (中国)を参照。 日本における南北朝時代については、南北朝時代 (日本)を参照。
ベトナムにおける南北朝時代については、南北朝時代 (ベトナム)を参照。
朝鮮史では、南の(統一)新羅と北の渤海が並立していた時期を南北国時代と呼ぶことがある。
アメリカ合衆国では、南北戦争の時期にワシントンD.C.を中心とする従来の連邦政府(北部政府)とリッチモンドを中心とするアメリカ連合国政府(南部政府)が並立した。 | '''南北朝時代'''(なんぼくちょうじだい)とは、[[中国]]、[[日本]]、[[ベトナム]]の[[b:歴史#アジア|歴史]]上で、[[朝廷]]が南北に別れた時代のことを指す。
*[[中国]]における南北朝時代については、[[南北朝時代 (中国)]]を参照。
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**[[宋 (王朝)|宋代]]から[[元 (王朝)|元]]による統一(もしくは元の滅亡)まで、中国の北部に北方民族系の王朝([[遼 (王朝)|遼(契丹)]]・[[西夏]]・[[金 (王朝)|金]]・元)と南部に漢民族系王朝([[北宋]]・[[南宋]])が分立していた時代を「第二次南北朝時代」とする表現もある。
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*[[日本]]における南北朝時代については、[[南北朝時代 (日本)]]を参照。
*[[ベトナム]]における南北朝時代については、[[南北朝時代 (ベトナム)]]を参照。
*[[朝鮮半島|朝鮮]]史では、南の[[新羅|(統一)新羅]]と北の[[渤海]]が並立していた時期を[[南北国時代]]と呼ぶことがある。
*[[アメリカ合衆国]]では、[[南北戦争]]の時期に[[ワシントンD.C.]]を中心とする従来の連邦政府(北部政府)と[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]を中心とする[[アメリカ連合国]]政府(南部政府)が並立した。
== 関連項目 ==
* [[戦国時代]]・[[三国時代]] - 複数の国・地域に存在する同名の分裂抗争時代の曖昧さ回避ページ。
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6,499 | 神戸駅 (兵庫県) | 神戸駅()は、兵庫県神戸市中央区相生町三丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅である。駅番号はJR-A63。「JR神戸線」の愛称区間に含まれている。東京都千代田区の東京駅から続く東海道本線の終点および当駅から福岡県北九州市門司区の門司駅までのびる山陽本線の起点である。
市内の主要駅の一つだが、神戸の繁華街の中心駅は三ノ宮駅・三宮駅(神戸三宮駅)である。
1874年に日本で2番目の鉄道路線である大阪 - 神戸間の官設鉄道の駅として開業した。現在の駅舎は1930年築で、近代化遺産に指定されている。また、第2回近畿の駅百選にも選出された。
東海道本線の西側の終点および山陽本線の東側の起点であり、東海道本線を所属線としているが直通運転が行われているため当駅を起終点とする列車は少ない。JR発足後は大阪駅(東海道本線所属)から当駅を介して姫路駅(山陽本線所属)に至る区間を「JR神戸線」の愛称で旅客向けに案内しており、この区間は一体的に運行されている。また、当駅から分岐する路線はないため、名目上は東海道本線・山陽本線という本州を代表する幹線の終点および起点駅ではあるが、運行上はJR神戸線の途中駅としての側面が強い。ホームの南(浜側)には、両路線の起終点を示すキロポストがある。歴史的には東海道本線が元々から国有路線であったのに対し、山陽本線は民間の山陽鉄道によって作られ、後に国有化された。
都市名を冠する市内の主要な駅の一つとして名目上の神戸市の代表駅や特定都区市内制度の神戸市内中心駅とされるが、神戸市役所や商業地域の中心地に近いのは二つ東隣の三ノ宮駅、県庁は一つ東隣の元町駅が最寄駅であり、山陽新幹線の停車駅は三ノ宮駅の北に位置する新神戸駅である。
当駅開業時の神戸町の範囲は東は旧生田川から西は宇治川までだったが、当駅所在地は宇治川以西、湊川以東である。宇治川 - 湊川間は概ね西国街道を境に浜側が兵庫津の相生町と東川崎町、山側が坂本村で、坂本村の南部は1871年から「仲町部」と称して開発されていた。兵庫津の各町名や仲町部の新町名(古湊通・中町通・多聞通・橘通・上橘通)は1879年に神戸区(市の前身)、1889年に神戸市の一部となってからも1931年まで「兵庫」を冠称していた。このように「兵庫」と認識されていた場所で「神戸」を名乗った駅が当駅である。このため、当駅と同時に神戸町に開業した駅は「三ノ宮」を名乗ることになった。
宇治川 - 湊川間には駅開業に先んじて福原遊廓(当初は当駅所在地にあったが1873年に新福原と通称される現在地に移転)、2代目兵庫県庁舎、湊川神社ができ、1887年には神戸区役所(のちに神戸市役所)が当駅付近に移転。1901年には湊川が付け替えられ、1905年に湊川旧河道に誕生した新開地は「東の浅草、西の新開地」と称されるほど活況を呈するようになり、最寄駅のひとつとなる当駅周辺も賑わいを見せていた。
新開地や神戸駅周辺が賑わう一方で、1899年の神戸外国人居留地返還を機に街や港の中心が旧生田川筋へ移る動きも始まっていた。河口西岸に居留地が位置する生田川は湊川より30年も早く付け替えられ、生田川旧河道には1873年に滝道(フラワーロード)が整備され、1889年の市制施行の際に旧生田川以東の葺合村が市域に加わった。返還後の旧居留地はオフィス街へと変容し、1907年に旧生田川河口と旧居留地沖で新港突堤の埋立造成が開始された。昭和初期には東海道本線三ノ宮駅の移転、阪神本線の地下線切り替え、阪急神戸本線の延伸等によって三宮が鉄道結節点となった。
神戸大空襲後に湊川公園付近の校舎を転用していた神戸市役所は、旧地に近い湊川神社北と旧生田川筋の東遊園地の2ヶ所を新庁舎建設候補地として検討していたが、1957年に東遊園地へ新築移転した。高度成長期以降、私鉄を含めた複数の路線が集結するターミナル駅の三ノ宮駅・三宮駅周辺に商業施設が集積し、中心市街地の地位は三宮に奪われた。豪華な貴賓室や、当駅始発の東京方面への優等列車用ホームとして使用されていた1番のりばなどに、かつて神戸市の中心駅であった名残を見ることができる。
乗降客数は当駅よりも三ノ宮駅の方が多いため、スーパーはくとやサンライズ瀬戸・出雲(上りのみ)などの特急列車は三ノ宮駅のみに停車し、当駅を通過するものが多い。ただし、かつて運転されていた寝台特急「彗星」は特急列車の中で唯一、三ノ宮駅を通過し当駅に停車していたが、2000年3月に「あかつき」との併結運転開始と同時に当駅から三ノ宮駅に停車駅が変更となった。その後、「彗星」は2005年9月30日で廃止され、それと引き換えに「はまかぜ」が当駅に一部停車するようになった(「はまかぜ」は三ノ宮駅にも停車する)。なお、2019年3月に運行を開始した「らくラクはりま」は、運行開始時より当駅に停車している。1978年10月1日以前は新快速も当駅を通過していた(三ノ宮駅は1970年10月1日の新快速登場時から停車していた)。
アーバンネットワークエリアおよびICOCA利用エリアに含まれている。また、長距離乗車券の特定都区市内制度における名目上の「神戸市内」の中心駅である。駅長が配置された直営駅であり、管理駅として神戸市内の山陽本線の所属駅である兵庫駅 - 舞子駅間の各駅および山陽本線支線(和田岬線)の和田岬駅を管轄している。
以下の駅との連絡が可能となっている。
321系・223系・225系の車内ディスプレイでは、上記のうち地下鉄海岸線のみが連絡路線として表示されている。
また、三ノ宮駅・元町駅・新長田駅と同様、山陽新幹線新神戸駅(地下鉄山手線で連絡)との連絡扱いをしている。
島式ホーム3面5線のプラットホームを有する高架駅。上りの外側線のみ、待避線(1番のりば)を用いて列車の追い越しが可能である。
兵庫駅側の下り内側線と上り内側線の間に引上線があり、平日朝ラッシュ時と毎日深夜の折り返し列車が使用している。5番線と阪神高速道路の間にある留置線(6番線)は2012年3月12日に使用が停止された。
当駅の前後は、両方向とも急カーブ(半径・400メートル)を描いている。
改札口は中央口とビエラ神戸口の2か所。いずれもバリアフリーの一環として、段差が解消されている。改札口とホームを結ぶエレベーター・エスカレーターは、1番のりばには設置されていない。
上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で表記している。
普通列車はすべて中央(内側線)の3番・4番のりば、新快速・特急はすべて外側線の2番・5番のりばを使用する。当駅を通過する貨物列車も、2番・5番のりばを通過する。この複々線の列車運用は当駅から東海道本線(琵琶湖線)の草津駅まで行われている。
快速は基本的に3番・4番のりばに停車するが、大阪方面は平日朝ラッシュ時に新快速を先に通す列車は1番のりば、平日朝の終わりの列車と土曜・休日の朝の一部は2番のりばに停車する。また、姫路方面は快速のうち平日朝に外側線を走行する列車は5番のりばに停車する。
1番のりばは平日朝ラッシュ時のみ使われ、停車する列車がない時間帯は閉鎖される。この1番ホームは、もともと当駅始発の東京方面への優等列車用に割り当てられ、戦前は特急「燕」・「鴎」や急行列車が、また戦後も急行「銀河」や電車特急「こだま」(1958年 - 1961年)・「つばめ」(1960年 - 1961年)・「富士」(1961年 - 1964年)がこのホームから発車していた。しかし、東海道新幹線の開業で1964年に「富士」が廃止、翌1965年には「銀河」も姫路発着となり、当駅発着となる定期の特急・急行列車は消滅した。その後、阪神・淡路大震災の発生前まで使用を停止していた。なお、2011年3月11日までは夜間に西明石からの回送列車が入り、引き上げ線経由で留置線に入る運用があった。また、1番乗り場には、電光掲示板は設置されていない。
1・2・3・5番のりばは外側線・内側線の双方向への出発が可能である。4番のりばから列車線への出発はできない。
日中時間帯は1時間に16本(新快速と快速がそれぞれ4本、普通が8本)停車する。朝夕時間帯は本数が多くなる。
東海道本線の終点、山陽本線の起点であり、長らく神戸駅を始発、終着とする優等列車、普通列車が設定されていたが、1968年10月1日のヨンサントオ・ダイヤ改正で始発、終着する定期列車が一時消滅。国鉄分割民営化後には、1989年3月11日のダイヤ改正で特急「スーパー雷鳥」の1本が当駅発着の設定となったが、1997年3月8日の改正で廃止された。
2021年6月21日の時点では、早朝4時台の大阪方面京都行き一番列車は当駅始発で、5時台の西明石行き一番列車も当駅始発である(西明石駅から回送列車で運行し、当駅で乗客を乗せている)。平日朝7時台に当駅始発の大阪方面行き、大阪発夜21時台に当駅止まり(到着は22時20分)が1本ずつ設定されている。なお、折り返し列車は事故などでダイヤが乱れた場合は日中にも運行されることがある。1986年11月1日 - 1996年7月19日の間は折り返しが日中にも設定されていた。
淡路屋が製造・販売を担当している。主な駅弁は下記の通り。
2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は53,563人である。JR西日本の駅では第12位で、兵庫県内での同社の駅では、三ノ宮駅に次ぐ第2位、山陽本線では広島駅に次いで第2位である。(JR西日本管内で所属路線が一路線のみの駅では三ノ宮駅、鶴橋駅、高槻駅に次ぐ第4位)。2022年度はJR京都線の新大阪駅や高槻駅を下回っている。
2006年度以降は減少傾向が続き、2009年度は乗車人員が7万人を下回った。定期乗車人員も2008年度までは概ね5万人程度で横ばい傾向であったが、同年を境に減少傾向にあった。しかし、2013年4月18日に神戸ハーバーランドの再開発でumieが開業したことにより、2013年度は乗車人員が大幅に増加して再度7万人台を上回った。
近年の1日平均乗車人員は下表のとおりである。
線路が南北方向に走り、周辺の地域はほぼ東西に相対している。多くの市民は、神戸ハーバーランド側の方角を「浜手」、六甲山側の方角を「山手」と言い表す。
東寄りの一帯は、ウォーターフロント開発地区の「神戸ハーバーランド」であり、大規模な商業施設や高層ビルが並んでいる。国鉄時代には貨物ターミナルの湊川駅があり、廃止後の駅跡地の再開発により誕生した。
北側には円形ロータリーの「神戸駅前」、南側には四角形ロータリーの「神戸駅南口」停留所がある。なお、現在の駅舎が竣工してから100周年を迎える2030年を目標に円形ロータリーを廃止し、南側にバス乗り場を統合する再整備が計画されている。 | [
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"text": "神戸大空襲後に湊川公園付近の校舎を転用していた神戸市役所は、旧地に近い湊川神社北と旧生田川筋の東遊園地の2ヶ所を新庁舎建設候補地として検討していたが、1957年に東遊園地へ新築移転した。高度成長期以降、私鉄を含めた複数の路線が集結するターミナル駅の三ノ宮駅・三宮駅周辺に商業施設が集積し、中心市街地の地位は三宮に奪われた。豪華な貴賓室や、当駅始発の東京方面への優等列車用ホームとして使用されていた1番のりばなどに、かつて神戸市の中心駅であった名残を見ることができる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "乗降客数は当駅よりも三ノ宮駅の方が多いため、スーパーはくとやサンライズ瀬戸・出雲(上りのみ)などの特急列車は三ノ宮駅のみに停車し、当駅を通過するものが多い。ただし、かつて運転されていた寝台特急「彗星」は特急列車の中で唯一、三ノ宮駅を通過し当駅に停車していたが、2000年3月に「あかつき」との併結運転開始と同時に当駅から三ノ宮駅に停車駅が変更となった。その後、「彗星」は2005年9月30日で廃止され、それと引き換えに「はまかぜ」が当駅に一部停車するようになった(「はまかぜ」は三ノ宮駅にも停車する)。なお、2019年3月に運行を開始した「らくラクはりま」は、運行開始時より当駅に停車している。1978年10月1日以前は新快速も当駅を通過していた(三ノ宮駅は1970年10月1日の新快速登場時から停車していた)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
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"text": "アーバンネットワークエリアおよびICOCA利用エリアに含まれている。また、長距離乗車券の特定都区市内制度における名目上の「神戸市内」の中心駅である。駅長が配置された直営駅であり、管理駅として神戸市内の山陽本線の所属駅である兵庫駅 - 舞子駅間の各駅および山陽本線支線(和田岬線)の和田岬駅を管轄している。",
"title": "概要"
},
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"text": "以下の駅との連絡が可能となっている。",
"title": "概要"
},
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"text": "321系・223系・225系の車内ディスプレイでは、上記のうち地下鉄海岸線のみが連絡路線として表示されている。",
"title": "概要"
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"text": "また、三ノ宮駅・元町駅・新長田駅と同様、山陽新幹線新神戸駅(地下鉄山手線で連絡)との連絡扱いをしている。",
"title": "概要"
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"text": "島式ホーム3面5線のプラットホームを有する高架駅。上りの外側線のみ、待避線(1番のりば)を用いて列車の追い越しが可能である。",
"title": "駅構造"
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"text": "兵庫駅側の下り内側線と上り内側線の間に引上線があり、平日朝ラッシュ時と毎日深夜の折り返し列車が使用している。5番線と阪神高速道路の間にある留置線(6番線)は2012年3月12日に使用が停止された。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "当駅の前後は、両方向とも急カーブ(半径・400メートル)を描いている。",
"title": "駅構造"
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{
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"text": "改札口は中央口とビエラ神戸口の2か所。いずれもバリアフリーの一環として、段差が解消されている。改札口とホームを結ぶエレベーター・エスカレーターは、1番のりばには設置されていない。",
"title": "駅構造"
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"text": "上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で表記している。",
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"text": "普通列車はすべて中央(内側線)の3番・4番のりば、新快速・特急はすべて外側線の2番・5番のりばを使用する。当駅を通過する貨物列車も、2番・5番のりばを通過する。この複々線の列車運用は当駅から東海道本線(琵琶湖線)の草津駅まで行われている。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "快速は基本的に3番・4番のりばに停車するが、大阪方面は平日朝ラッシュ時に新快速を先に通す列車は1番のりば、平日朝の終わりの列車と土曜・休日の朝の一部は2番のりばに停車する。また、姫路方面は快速のうち平日朝に外側線を走行する列車は5番のりばに停車する。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "1番のりばは平日朝ラッシュ時のみ使われ、停車する列車がない時間帯は閉鎖される。この1番ホームは、もともと当駅始発の東京方面への優等列車用に割り当てられ、戦前は特急「燕」・「鴎」や急行列車が、また戦後も急行「銀河」や電車特急「こだま」(1958年 - 1961年)・「つばめ」(1960年 - 1961年)・「富士」(1961年 - 1964年)がこのホームから発車していた。しかし、東海道新幹線の開業で1964年に「富士」が廃止、翌1965年には「銀河」も姫路発着となり、当駅発着となる定期の特急・急行列車は消滅した。その後、阪神・淡路大震災の発生前まで使用を停止していた。なお、2011年3月11日までは夜間に西明石からの回送列車が入り、引き上げ線経由で留置線に入る運用があった。また、1番乗り場には、電光掲示板は設置されていない。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "1・2・3・5番のりばは外側線・内側線の双方向への出発が可能である。4番のりばから列車線への出発はできない。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "日中時間帯は1時間に16本(新快速と快速がそれぞれ4本、普通が8本)停車する。朝夕時間帯は本数が多くなる。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "東海道本線の終点、山陽本線の起点であり、長らく神戸駅を始発、終着とする優等列車、普通列車が設定されていたが、1968年10月1日のヨンサントオ・ダイヤ改正で始発、終着する定期列車が一時消滅。国鉄分割民営化後には、1989年3月11日のダイヤ改正で特急「スーパー雷鳥」の1本が当駅発着の設定となったが、1997年3月8日の改正で廃止された。",
"title": "駅構造"
},
{
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"text": "2021年6月21日の時点では、早朝4時台の大阪方面京都行き一番列車は当駅始発で、5時台の西明石行き一番列車も当駅始発である(西明石駅から回送列車で運行し、当駅で乗客を乗せている)。平日朝7時台に当駅始発の大阪方面行き、大阪発夜21時台に当駅止まり(到着は22時20分)が1本ずつ設定されている。なお、折り返し列車は事故などでダイヤが乱れた場合は日中にも運行されることがある。1986年11月1日 - 1996年7月19日の間は折り返しが日中にも設定されていた。",
"title": "駅構造"
},
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"text": "淡路屋が製造・販売を担当している。主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は53,563人である。JR西日本の駅では第12位で、兵庫県内での同社の駅では、三ノ宮駅に次ぐ第2位、山陽本線では広島駅に次いで第2位である。(JR西日本管内で所属路線が一路線のみの駅では三ノ宮駅、鶴橋駅、高槻駅に次ぐ第4位)。2022年度はJR京都線の新大阪駅や高槻駅を下回っている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "2006年度以降は減少傾向が続き、2009年度は乗車人員が7万人を下回った。定期乗車人員も2008年度までは概ね5万人程度で横ばい傾向であったが、同年を境に減少傾向にあった。しかし、2013年4月18日に神戸ハーバーランドの再開発でumieが開業したことにより、2013年度は乗車人員が大幅に増加して再度7万人台を上回った。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "近年の1日平均乗車人員は下表のとおりである。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "線路が南北方向に走り、周辺の地域はほぼ東西に相対している。多くの市民は、神戸ハーバーランド側の方角を「浜手」、六甲山側の方角を「山手」と言い表す。",
"title": "駅周辺"
},
{
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"text": "東寄りの一帯は、ウォーターフロント開発地区の「神戸ハーバーランド」であり、大規模な商業施設や高層ビルが並んでいる。国鉄時代には貨物ターミナルの湊川駅があり、廃止後の駅跡地の再開発により誕生した。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "北側には円形ロータリーの「神戸駅前」、南側には四角形ロータリーの「神戸駅南口」停留所がある。なお、現在の駅舎が竣工してから100周年を迎える2030年を目標に円形ロータリーを廃止し、南側にバス乗り場を統合する再整備が計画されている。",
"title": "バス路線"
}
] | 神戸駅は、兵庫県神戸市中央区相生町三丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅である。駅番号はJR-A63。「JR神戸線」の愛称区間に含まれている。東京都千代田区の東京駅から続く東海道本線の終点および当駅から福岡県北九州市門司区の門司駅までのびる山陽本線の起点である。 市内の主要駅の一つだが、神戸の繁華街の中心駅は三ノ宮駅・三宮駅(神戸三宮駅)である。 | {{Otheruses|JR西日本東海道本線・山陽本線(JR神戸線)の神戸駅|阪神電気鉄道・阪急電鉄の駅|高速神戸駅|神戸市営地下鉄の駅|ハーバーランド駅}}
<!--このページを見た人はその前に[[神戸駅]](曖昧さ回避ページ)を見ているはずなので(初見で「神戸駅 (兵庫県)」と検索することは滅多にない)、[[高速神戸駅]]への誘導のみとします。-->
{{統合文字|神}}
{{駅情報
|社色 = #0072bc
|文字色 =
|駅名 = 神戸駅
|画像 = Kobe_station_north_side.JPG
|pxl = 300
|画像説明 = 駅全景(北口側から)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
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|coord={{coord|34|40|46.3|N|135|10|40.89|E}}|marker-color=0072bc|title=神戸駅
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}}下はハーバーランド駅、左は高速神戸駅
|よみがな = こうべ
|ローマ字 = Kōbe
|所在地 = [[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]][[相生町 (神戸市)|相生町]]三丁目1-1<ref name="zeneki-JR">{{Cite book |和書 |title=兵庫の鉄道全駅 JR・三セク |publisher=神戸新聞総合出版センター |date=2011-12-15 |isbn=9784343006028 |pages=30-31}}</ref>
|座標 = {{Coord|34|40|46.3|N|135|10|40.89|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|所属事業者 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
|電報略号 = コヘ
|駅番号 = '''JR-A63'''{{sfn|結解|2020|p=143}}{{sfn|双葉社|2021|p=37}}
|開業年月日 = [[1874年]]([[明治]]7年)[[5月11日]]<ref name="zeneki-JR"/>{{sfn|結解|2020|p=143}}
|駅構造 = [[高架駅]]<ref name="zeneki-JR"/>
|ホーム = 3面5線<ref name="zeneki-JR"/>
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR神戸線]])
|隣の駅1 =
|前の駅1 = JR-A62 [[元町駅 (兵庫県)|元町]]
|駅間A1 = 1.7
|キロ程1 = 589.5 km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大阪駅|大阪]]から33.1
|起点駅1 =
|所属路線2 = {{JR西路線記号|K|A}} [[山陽本線]]([[JR神戸線]])
|隣の駅2 =
|次の駅2 = [[兵庫駅|兵庫]] JR-A64
|駅間B2 = 1.8
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 神戸
|乗車人員 = 53,563
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗換 =[[ハーバーランド駅]]([[神戸市営地下鉄海岸線|地下鉄海岸線]]){{sfn|双葉社|2021|p=34}}<br /> [[高速神戸駅]]([[神戸高速線]]){{sfn|双葉社|2021|p=34}}
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<ref name="zeneki-JR"/>([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有<br />[[指定席券売機#アシストマルス|みどりの券売機プラス]]設置駅<br />[[画像:JR area SHIN.png|15px|神]] [[特定都区市内|神戸市内]]駅(中心駅)
|備考全幅 = 東海道本線と山陽本線は直通運転(JR神戸線)
}}
[[ファイル:Kobe Station01bs5s3750.jpg|thumb|北口]]
[[ファイル:Kobe harborland08s3200.jpg|thumb|南口駅前ロータリー]]
[[ファイル:Kobe Station Central Gate.jpg|thumb|中央口コンコース]]
[[ファイル:Kobe-Sta Home.JPG|thumb|プラットホーム(2006年)]]
{{読み仮名|'''神戸駅'''|こうべえき}}は、[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]][[相生町 (神戸市)|相生町]]三丁目にある{{sfn|結解|2020|p=143}}、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="zeneki-JR"/>。[[駅番号]]は'''JR-A63'''{{sfn|結解|2020|p=143}}。「[[JR神戸線]]」の[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]区間に含まれている{{sfn|双葉社|2021|p=32}}。[[東京都]][[千代田区]]の[[東京駅]]から続く[[東海道本線]]の終点および当駅から[[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]の[[門司駅]]までのびる[[山陽本線]]の起点である{{sfn|双葉社|2021|p=32}}{{sfn|結解|2020|p=106}}。
市内の主要駅の一つだが、神戸の[[繁華街]]の中心駅は[[三ノ宮駅]]・[[三宮駅]](神戸三宮駅)である。
== 概要 ==
[[1874年]]に日本で2番目の鉄道路線である[[大阪駅|大阪]] - 神戸間の[[鉄道省|官設鉄道]]の駅として開業した{{sfn|結解|2020|p=132}}<ref name="kobe20210610">{{Cite news|url = https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202106/0014405340.shtml|title = JR神戸駅前リニューアル 広場を再整備、周辺活性化へ|newspaper = 神戸新聞NEXT|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210610134441/https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202106/0014405340.shtml|date = 2021-06-10|archivedate = 2021-06-10|accessdate = 2022-02-12}}</ref><ref name="lmaga20210613">{{Cite web|和書|url = https://www.lmaga.jp/news/2021/06/279739/|title = 思い入れ強すぎて毒舌連発の神戸市長、神戸駅前を再整備へ|website = [[京阪神エルマガジン社|Lmaga.jp]]|date = 2021-06-13|accessdate = 2021-02-12}}</ref>。現在の駅舎は[[1930年]]築で<ref name="kobe20210610"/><ref name="lmaga20210613"/>、[[近代化遺産]]に指定されている。また、第2回[[近畿の駅百選]]にも選出された。
[[東海道本線]]の西側の[[終着駅|終点]]および[[山陽本線]]の東側の[[起点]]であり、東海道本線を[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]としているが{{sfn|結解|2020|p=143}}<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年{{要ページ番号|date=2022年2月}}</ref>[[直通運転]]が行われているため当駅を起終点とする列車は少ない。[[JR]]発足後は[[大阪駅]](東海道本線所属)から当駅を介して[[姫路駅]](山陽本線所属)に至る区間を「[[JR神戸線]]」の愛称で[[旅客]]向けに案内しており、この区間は一体的に運行されている{{sfn|双葉社|2021|p=32}}。また、当駅から分岐する[[鉄道路線|路線]]はないため、名目上は東海道本線・山陽本線という本州を代表する幹線の終点および起点駅ではあるが、運行上はJR神戸線の途中駅としての側面が強い。[[プラットホーム|ホーム]]の南(浜側)には、両路線の起終点を示す[[距離標|キロポスト]]がある。歴史的には東海道本線が元々から国有路線であったのに対し、山陽本線は民間の[[山陽鉄道]]によって作られ、後に[[鉄道国有法|国有化]]された。
都市名を冠する市内の主要な駅の一つとして名目上の神戸市の代表駅や[[特定都区市内]]制度の神戸市内中心駅とされるが、[[神戸市役所]]や[[商業地域]]の[[中心市街地|中心地]]に近いのは二つ東隣の[[三ノ宮駅]]<ref name="lmaga20210613"/>、[[兵庫県庁舎|県庁]]は一つ東隣の[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]が最寄駅であり、[[山陽新幹線]]の[[停車 (鉄道)|停車]]駅は三ノ宮駅の北に位置する[[新神戸駅]]である。
当駅開業時の神戸町の範囲は東は旧[[生田川]]から西は[[宇治川 (兵庫県)|宇治川]]までだったが、当駅所在地は宇治川以西、[[湊川 (兵庫県)|湊川]]以東である。宇治川 - 湊川間は概ね[[西国街道]]を境に浜側が[[兵庫津]]の[[相生町 (神戸市)|相生町]]と[[東川崎町]]、山側が坂本村で、坂本村の南部は[[1871年]]から「仲町部」と称して開発されていた。兵庫津の各町名や仲町部の新町名([[古湊通]]・[[中町通]]・[[多聞通]]・[[橘通]]・上橘通)は[[1879年]]に[[神戸区]](市の前身)、[[1889年]]に神戸市の一部となってからも[[1931年]]まで「兵庫」を冠称していた。このように「兵庫」と認識されていた場所で「神戸」を名乗った駅が当駅である。このため、当駅と同時に神戸町に開業した駅は「三ノ宮」を名乗ることになった。
宇治川 - 湊川間には駅開業に先んじて[[福原 (神戸市)|福原遊廓]](当初は当駅所在地にあったが[[1873年]]に新福原と通称される現在地に移転)、2代目[[兵庫県庁舎]]、[[湊川神社]]ができ、[[1887年]]には神戸区役所(のちに神戸市役所)が当駅付近に移転。[[1901年]]には湊川が付け替えられ、[[1905年]]に湊川旧河道に誕生した[[新開地]]は「東の[[浅草]]、西の新開地」と称されるほど活況を呈するようになり<ref>{{Cite web|和書|title=JR神戸駅はなぜ神戸市の中心街から外れたところに位置している?|url=https://news.mynavi.jp/article/20140217-kobe/|website=[[マイナビニュース]]|date=2014-02-17|accessdate=2020-08-31|language=ja}}</ref>、最寄駅のひとつとなる当駅周辺も賑わいを見せていた。
新開地や神戸駅周辺が賑わう一方で、[[1899年]]の[[神戸外国人居留地]]返還を機に街や港の中心が旧生田川筋へ移る動きも始まっていた。河口西岸に居留地が位置する生田川は湊川より30年も早く付け替えられ、生田川旧河道には[[1873年]]に滝道([[フラワーロード]])が整備され、1889年の[[市制]]施行の際に旧生田川以東の[[葺合村]]が市域に加わった。返還後の旧居留地はオフィス街へと変容し、[[1907年]]に旧生田川河口と旧居留地沖で[[新港 (神戸市)|新港突堤]]の埋立造成が開始された。[[昭和]]初期には東海道本線三ノ宮駅の移転、[[阪神本線]]の地下線切り替え、[[阪急神戸本線]]の延伸等によって[[三宮]]が[[交通結節点|鉄道結節点]]となった。
[[神戸大空襲]]後に[[湊川公園]]付近の校舎を転用していた神戸市役所は、旧地に近い湊川神社北と旧生田川筋の[[東遊園地]]の2ヶ所を新庁舎建設候補地として検討していたが、[[1957年]]に東遊園地へ新築移転した<ref>[https://www.city.kobe.lg.jp/culture/modern_history/archive/detail/history_08.html 神戸市誕生詳細|BE KOBE 神戸の近現代史](2023年10月12日閲覧)</ref>。[[高度成長期]]以降、[[私鉄]]を含めた複数の路線が集結する[[ターミナル駅]]の[[三ノ宮駅]]・[[三宮駅]]周辺に[[店|商業施設]]が集積し、[[中心市街地]]の地位は三宮に奪われた。豪華な[[貴賓室]]や、当駅始発の[[東京駅|東京]]方面への優等列車用ホームとして使用されていた1番のりばなどに、かつて神戸市の中心駅であった名残を見ることができる。
乗降客数は当駅よりも三ノ宮駅の方が多いため<ref name="lmaga20210613"/>、[[スーパーはくと]]や[[サンライズ瀬戸]]・[[サンライズ出雲|出雲]](上りのみ)などの[[特別急行列車|特急列車]]は三ノ宮駅のみに停車し{{sfn|双葉社|2021|p=39}}、当駅を通過するものが多い。ただし、かつて運転されていた寝台特急「[[彗星 (列車)|彗星]]」は特急列車の中で唯一、三ノ宮駅を通過し当駅に停車していたが、[[2000年]][[3月]]に「[[あかつき (列車)|あかつき]]」との併結運転開始と同時に当駅から三ノ宮駅に停車駅が変更となった。その後、「彗星」は[[2005年]][[9月30日]]で廃止され、それと引き換えに「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」が当駅に一部停車するようになった(「はまかぜ」は三ノ宮駅にも停車する){{sfn|双葉社|2021|p=36}}。なお、[[2019年]]3月に運行を開始した「[[らくラクはりま]]」は、運行開始時より当駅に停車している{{sfn|双葉社|2021|p=36}}<ref>{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASLCZ4W0BLCZPTIL01K.html|title = JR神戸線に通勤特急「らくラクはりま」 来春デビュー|newspaper = [[朝日新聞デジタル]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20181210142050/https://www.asahi.com/articles/ASLCZ4W0BLCZPTIL01K.html|date = 2018-12-07|archivedate = 2018-12-10|accessdate = 2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/diagram2021-4/|title = JR西日本「らくラクはりま」新大阪駅まで区間延長、大久保駅に停車|website = マイナビニュース|date = 2020-12-18|accessdate = 2022-02-12}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.kobe-np.co.jp/news/akashi/202103/0014153867.shtml|title = 大阪まで乗り換え不要 「らくラクはりま」が大久保駅停車に|newspaper = 神戸新聞NEXT|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210316072729/https://www.kobe-np.co.jp/news/akashi/202103/0014153867.shtml|date = 2021-03-16|archivedate = 2021-03-16|accessdate = 2022-02-12}}</ref>。[[1978年]][[10月1日]]以前は[[新快速]]も当駅を通過していた(三ノ宮駅は[[1970年]]10月1日の新快速登場時から停車していた)。
[[アーバンネットワーク]]エリアおよび[[ICOCA]]利用エリアに含まれている。また、長距離乗車券の[[特定都区市内]]制度における名目上の「神戸市内」の中心駅である。駅長が配置された[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]であり、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として神戸市内の山陽本線の所属駅である[[兵庫駅]] - [[舞子駅]]間の各駅および山陽本線支線([[和田岬線]])の[[和田岬駅]]を管轄している。
=== 接続路線 ===
以下の駅との連絡が可能となっている。
* [[神戸市営地下鉄]]
** [[神戸市営地下鉄海岸線|海岸線]] - [[ハーバーランド駅]]{{sfn|双葉社|2021|p=34}}
* [[阪神電気鉄道]]・[[阪急電鉄]]
** [[阪神神戸高速線|神戸高速線]] - [[高速神戸駅]]{{sfn|双葉社|2021|p=34}}
[[JR西日本321系電車|321系]]・[[223系]]・[[JR西日本225系電車|225系]]の車内ディスプレイでは、上記のうち地下鉄海岸線のみが連絡路線として表示されている{{要出典|date=2023年8月}}。
また、[[三ノ宮駅]]・[[元町駅_(兵庫県)|元町駅]]・[[新長田駅]]と同様、[[山陽新幹線]][[新神戸駅]](地下鉄山手線で連絡)との連絡扱いをしている<ref>{{Cite web|和書|title=「神戸市内」発着の乗車券では、新幹線の新神戸駅... {{!}} FAQ {{!}} JRおでかけネット |url=https://faq.jr-odekake.net/faq_detail.html?id=1233 |website=faq.jr-odekake.net |access-date=2023-08-25}}</ref>。
== 歴史 ==
[[ファイル:Kobe Station Honjo Shigeru1932.jpg|thumb|神戸駅改札を通り東京に向かう[[本庄繁]]前・[[関東軍]]司令官([[1932年]]9月)]]
[[ファイル:Change around Kobe station and Kobe Harbor Land.JPG|thumb|神戸駅周辺の変遷。上から順に明治14年測量図・大正13年測量図・昭和28年航空写真・昭和59年航空写真。右上側の貨物駅は湊川駅で、客貨分離により神戸駅と敷地を分割したことがわかる。]]
* [[1874年]]([[明治]]7年)[[5月11日]]:[[官設鉄道]]の駅として開業<ref name="zeneki-JR"/>{{sfn|結解|2020|p=132}}<ref name="kobe20210610"/>{{sfn|双葉社|2021|p=44}}。[[新橋駅]] - [[横浜駅]]間の鉄道開通に続く2番目の鉄道の[[大阪駅]] - 当駅間の路線の終着駅で、開業時の駅舎はレンガ造りであった。それまでは[[北風家]]所有の粥原の新田であった。
* [[1875年]](明治8年)4月:駅構内に蟹川船渠を開設<ref>[https://www.customs.go.jp/kobe/00zeikan_top.htm/150nen/145.pdf 神戸税関年表(2023年9月29日閲覧)]</ref>。
* [[1876年]](明治9年)[[6月27日]]:駅構内に鉄道桟橋を架設<ref>[https://www.city.kobe.lg.jp/documents/7179/koubekounennpyou.pdf 神戸開港150年のあゆみ(神戸港関連歴史略年表)、神戸開港150年記念事業実行委員会(2023年9月29日閲覧)]</ref>。
* [[1889年]](明治22年)
** [[7月1日]]:[[東海道本線]]の原型となる新橋駅 - 当駅間が全線開通。2代目の駅舎になる<ref name="lmaga20210613"/>。また、神戸鉄道局(後の大阪鉄道管理局)が置かれた。
** [[9月1日]]:[[山陽鉄道]]が[[兵庫駅]]から延長され、当駅に乗り入れ{{sfn|双葉社|2021|p=44}}。
* [[1895年]](明治28年)[[4月1日]]:線路名称制定。東海道線の所属となる{{sfn|結解|2020|p=132}}。
* [[1906年]](明治39年)[[12月1日]]:山陽鉄道が国有化され{{sfn|双葉社|2021|p=44}}、[[官設鉄道]]のみの駅になる。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:線路名称再制定。東海道線の本線部分が東海道本線となり、旧・山陽鉄道線は[[山陽本線]]となる。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[12月1日]]:東海道本線貨物支線の[[湊川駅 (国鉄)|湊川駅]]に貨物取り扱い業務を移管。当駅での貨物の取り扱いを廃止。湊川駅自体は神戸駅の敷地を客貨分離により分割したもの。
* [[1930年]](昭和5年)[[7月1日]]:駅高架化に先駆け、三代目の現在の駅舎に改築<ref name="kobe20210610"/><ref name="lmaga20210613"/><ref name="駅の話">{{Cite book ja-jp |author = 交建設計・駅研グループ |year = 1996 |title = 駅のはなし 明治から平成まで |edition = 改訂初版 |publisher = 成山堂書店 |isbn = 4-425-76032-8 |page = 135 }}</ref>。近代的設備を備えたこの駅は、貴賓室などもそなえた豪華なものともなっていた。
* [[1931年]](昭和6年)[[10月10日]]:高架駅化<ref name="駅の話"/>。
* [[1978年]](昭和53年)[[10月2日]]:[[新快速]]の停車駅となる。
* [[1980年]](昭和55年)[[12月1日]]:行政区の合併により駅の所在地が[[生田区]]から[[中央区 (神戸市)|中央区]]となる。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:湊川駅が廃止。跡地は再開発され、[[1992年]][[9月]]に[[神戸ハーバーランド]]となっている。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の駅となる{{sfn|双葉社|2021|p=44}}{{sfn|結解|2020|p=133}}。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:路線愛称の制定により、東海道本線の大阪駅 - 当駅間および山陽本線の当駅 - [[姫路駅]]間で「[[JR神戸線]]」の愛称を使用開始{{sfn|双葉社|2021|p=44}}。
* [[1992年]]([[平成]]4年)
** 9月1日:[[神戸ハーバーランド]]の街びらきに伴い、地下自由通路を新設<ref name="kotsu19921027">{{Cite news |title=JR西日本 神戸駅改装工事が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-27 |page=1 }}</ref>。
** [[10月24日]]:中央コンコースの東西に分かれていた改札口を中央改札口に統一し、西口改札口を中2階から1階に移転<ref name="kotsu19921027"/>。コンコース階の内装の下半分をレンガ調、上半分を白色とし、南側の外壁を張り替える<ref name="kotsu19921027"/>。
* [[1995年]](平成7年)
** [[1月17日]]:[[阪神・淡路大震災]]により、営業休止{{sfn|双葉社|2021|p=44}}。
** [[1月30日]]:当駅 - [[須磨駅]]間が営業再開。
** [[2月20日]]:[[灘駅]] - 当駅間が営業再開。
* [[1997年]](平成9年)
** [[3月8日]]:JR神戸線標準[[接近メロディ]]「さざなみ」導入<ref>{{Cite news |title=列車接近をメロディーで JR神戸線塚本-姫路間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-11 |page=3 }}</ref>。
** [[10月18日]]:[[自動改札機]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=185 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年)[[7月29日]]:[[運行管理システム (JR西日本)#JR京都・神戸線システム|JR京都・神戸線運行管理システム]]導入。
* [[2003年]](平成15年)
** [[10月12日]]:バリアフリー化工事が完成。2 - 5番のりばで[[エレベーター]]が供用開始。
** [[11月1日]]:[[ICカード]]「[[ICOCA]]」の利用が可能となる。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[駅自動放送]]を更新。
* [[2013年]](平成25年)[[5月2日]]:自動改札機を新型のものに交換。
* [[2015年]](平成27年)[[3月12日]]:入線警告音の見直しに伴い、接近メロディをJR神戸線標準接近メロディ「さざなみ」の音質見直し版に再び変更する<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/03/page_6933.html 琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線・大阪環状線の駅のホームで使用している「入線警告音」の音質を見直します]</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:[[駅ナンバリング]]が導入される<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!]</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[12月25日]]:5番のりばで[[ホームドア#昇降式|昇降式ホーム柵]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201217_00_anzen.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201217093039/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201217_00_anzen.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜駅のホームの安全性向上にむけて〜 神戸駅5番のりばの昇降式ホーム柵を使用開始します。|publisher=西日本旅客鉄道|date=2020-12-17|accessdate=2021-01-08|archivedate=2020-12-17}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[3月5日]]:2番のりばで昇降式ホーム柵の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210216_00_anzen.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210216060313/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210216_00_anzen.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜駅のホームの安全性向上にむけて〜 高槻駅3番のりば、鶴橋駅2番のりばの可動式ホーム柵、神戸駅2番のりばの昇降式ホーム柵を使用開始します。|publisher=西日本旅客鉄道|date=2021-02-16|accessdate=2021-02-16|archivedate=2021-02-16}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[ファイル:Tōkaidō Sanyô border.jpg|thumb|[[東海道本線]]と[[山陽本線]]の境界線]]
島式ホーム3面5線{{sfn|双葉社|2021|p=34}}の[[プラットホーム]]を有する[[高架駅]]。上りの外側線のみ、待避線(1番のりば)を用いて列車の追い越しが可能である。
兵庫駅側の下り内側線と上り内側線の間に引上線があり{{sfn|双葉社|2021|p=34}}、平日朝[[ラッシュ時]]と毎日深夜の折り返し列車が使用している。5番線と阪神高速道路の間にある留置線(6番線)は[[2012年]][[3月12日]]に使用が停止された。
当駅の前後は、両方向とも急カーブ(半径・400メートル)を描いている。
改札口は中央口とビエラ神戸口の2か所。いずれも[[バリアフリー]]の一環として、段差が解消されている。改札口とホームを結ぶ[[エレベーター]]・[[エスカレーター]]は、1番のりばには設置されていない。
=== のりば ===
<!--方面表記は、JR西日本(JRおでかけネット)の「構内図」の記載に準拠-->
{| class="wikitable"
!のりば<!-- 事業者側による呼称 --->!!路線!!方向!!線路!!行先!!備考
|-
!1
|rowspan="5"|{{JR西路線記号|K|A}} JR神戸線
|rowspan="3" style="text-align:center;"|上り
|rowspan="2"|外側線
|rowspan="3"|[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎]]・[[大阪駅|大阪]]・[[京都駅|京都]]方面<!--※出典先には「三ノ宮」の記載はなし--><ref name="jr-odekake-premises?id=0610145">{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0610145|title=神戸駅|構内図:JRおでかけネット|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2023-01-13}}</ref>
|平日朝の[[京阪神快速|(M)快速(外側快速)]]のみ使用
|-
!2
|特急・新快速・[[京阪神快速|(M)快速(外側快速)]]
|-
!3
|rowspan="2"|内側線
|rowspan="2"|快速・普通
|-
!4
|rowspan="2" style="text-align:center;"|下り
|rowspan="2"|[[西明石駅|西明石]]・[[姫路駅|姫路]]方面<ref name="jr-odekake-premises?id=0610145" />
|-
!5
|外側線
|特急・新快速・平日朝の[[京阪神快速|快速の一部(外側快速)]]
|}
上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で表記している。
普通列車はすべて中央(内側線)の3番・4番のりば{{sfn|結解|2020|p=105}}、新快速・特急はすべて外側線の2番・5番のりばを使用する{{sfn|結解|2020|p=105}}。当駅を通過する貨物列車も、2番・5番のりばを通過する。この[[複々線]]の列車運用は当駅から東海道本線([[琵琶湖線]])の[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]まで行われている{{sfn|結解|2020|p=105}}。
快速は基本的に3番・4番のりばに停車するが{{sfn|結解|2020|p=105}}、大阪方面は平日朝ラッシュ時に新快速を先に通す列車は1番のりば、平日朝の終わりの列車と土曜・休日の朝の一部は2番のりばに停車する。また、姫路方面は快速のうち平日朝に外側線を走行する列車は5番のりばに停車する。
1番のりばは平日朝ラッシュ時のみ使われ、停車する列車がない時間帯は閉鎖される。この1番ホームは、もともと当駅始発の[[東京駅|東京]]方面への優等列車用に割り当てられ、戦前は特急「[[つばめ (列車)|燕]]」・「[[かもめ (列車)|鴎]]」や急行列車が、また戦後も急行「[[銀河 (列車)|銀河]]」や電車特急「[[こだま (列車)|こだま]]」(1958年 - 1961年)・「[[つばめ (列車)|つばめ]]」(1960年 - 1961年)・「[[富士 (列車)|富士]]」(1961年 - 1964年)がこのホームから発車していた。しかし、[[東海道新幹線]]の開業で1964年に「富士」が廃止、翌1965年には「銀河」も姫路発着となり、当駅発着となる定期の特急・急行列車は消滅した。その後、[[阪神・淡路大震災]]の発生前まで使用を停止していた。なお、2011年3月11日までは夜間に西明石からの回送列車が入り、引き上げ線経由で留置線に入る運用があった。また、1番乗り場には、電光掲示板は設置されていない。
1・2・3・5番のりばは外側線・内側線の双方向への出発が可能である。4番のりばから列車線への出発はできない。
=== ダイヤ ===
日中時間帯は1時間に16本(新快速と快速がそれぞれ4本、普通が8本)停車する{{sfn|双葉社|2021|p=36}}。朝夕時間帯は本数が多くなる。
東海道本線の終点、山陽本線の起点であり、長らく神戸駅を始発、終着とする[[優等列車]]、普通列車が設定されていたが、[[1968年]][[10月1日]]の[[ヨンサントオ]]・[[ダイヤ改正]]で始発、終着する定期列車が一時消滅<ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-29 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/202002/0013153700.shtml |title=看板「安土-神戸」の謎解明 鉄道ファンらが協力 |publisher=神戸新聞 |accessdate=2020-02-29}}</ref>。国鉄分割民営化後には、[[1989年]][[3月11日]]のダイヤ改正で特急「[[サンダーバード (列車)|スーパー雷鳥]]」の1本が当駅発着の設定となったが、[[1997年]][[3月8日]]の改正で廃止された。
2021年6月21日の時点<ref>交通新聞社 西日本時刻表 2021夏号 p.44、p.64、p.67、p.70</ref>では、早朝4時台の大阪方面[[京都駅|京都]]行き一番列車は当駅始発で、5時台の西明石行き一番列車も当駅始発である(西明石駅から[[回送|回送列車]]で運行し、当駅で乗客を乗せている)。平日朝7時台に当駅始発の大阪方面行き、大阪発夜21時台に当駅止まり(到着は22時20分)が1本ずつ設定されている。なお、折り返し列車は事故などでダイヤが乱れた場合は日中にも運行されることがある。[[1986年]][[11月1日]] - [[1996年]][[7月19日]]の間は折り返しが日中にも設定されていた。
== 駅弁 ==
[[淡路屋 (神戸駅)|淡路屋]]が製造・販売を担当している。主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=187-190}}</ref>。
{{Div col||20em}}
* 神戸牛すきやき重
* 神戸鉄板焼き弁当
* JR貨物コンテナ弁当 明石の鯛めし編
* ハローキティ新幹線弁当
* ハローキティ版ひっぱりだこ飯
* JR貨物コンテナ弁当 神戸のすきやき編
* あっちっち但馬牛すきやき弁当
* 夢の超特急0系新幹線弁当
* 神戸のすきやきとステーキ弁当
* 神戸のステーキ弁当
* ひょうご日和
* 柿の葉寿司
* 肉めし
* ひっぱりだこ飯
* 米田茶店 かに寿し
* 神戸食館
* きつねの鶏めし
* 六甲山縦走弁当
* 日本の朝食弁当
* パンダくろしお弁当
{{Div col end}}
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''53,563人'''である<ref name="jrwesttoukei">[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/ JR西日本「データで見るJR西日本」]</ref>。JR西日本の駅では第12位で、兵庫県内での同社の駅では、三ノ宮駅に次ぐ第2位、山陽本線では広島駅に次いで第2位である。(JR西日本管内で所属路線が一路線のみの駅では三ノ宮駅、鶴橋駅、高槻駅に次ぐ第4位)。2022年度はJR京都線の[[新大阪駅]]や[[高槻駅]]を下回っている。
2006年度以降は減少傾向が続き、2009年度は乗車人員が7万人を下回った。定期乗車人員も2008年度までは概ね5万人程度で横ばい傾向であったが、同年を境に減少傾向にあった。しかし、2013年4月18日に神戸ハーバーランドの再開発で[[umie]]が開業したことにより、2013年度は乗車人員が大幅に増加して再度7万人台を上回った。
近年の1日平均乗車人員は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
|+年度別1日平均乗車人員<ref>[http://web.pref.hyogo.lg.jp/ac08/ac08_1_000000124.html 兵庫県統計書]</ref><ref>[https://www.city.kobe.lg.jp/a47946/shise/toke/toukei/toukeisho/index.html 神戸市統計書]</ref>
!rowspan="2"|年度
!colspan="2"|1日平均乗車人員
|-
!総数
!定期
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 75,663 || 49,747
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 75,846 || 50,103
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 74,541 || 50,396
|-
|1998年(平成10年)
| 73,302 || 49,787
|-
|1999年(平成11年)
| 72,525 || 49,675
|-
|2000年(平成12年)
| 72,865 || 50,262
|-
|2001年(平成13年)
| 72,168 || 50,321
|-
|2002年(平成14年)
| 70,040 || 49,176
|-
|2003年(平成15年)
| 70,091 || 49,269
|-
|2004年(平成16年)
| 71,151 || 49,947
|-
|2005年(平成17年)
| 71,785 || 50,205
|-
|2006年(平成18年)
| 72,019 || 50,376
|-
|2007年(平成19年)
| 71,855 || 50,367
|-
|2008年(平成20年)
| 71,258 || 49,975
|-
|2009年(平成21年)
| 68,722 || 48,771
|-
|2010年(平成22年)
| 68,002 || 48,375
|-
|2011年(平成23年)
| 67,562 || 47,697
|-
|2012年(平成24年)
| 66,935 || 46,749
|-
|2013年(平成25年)
| 70,579 || 47,529
|-
|2014年(平成26年)
| 68,947 || 46,571
|-
|2015年(平成27年)
| 70,204 || 46,994
|-
|2016年(平成28年)
| 70,301 || 46,725
|-
|2017年(平成29年)
| 70,518 || 46,588
|-
|2018年(平成30年)
| 70,925 || 45,825
|-
|2019年(令和元年)
| 72,517 || 45,404
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 55,742 ||
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 52,801 ||
|}
== 駅周辺 ==
<!--一覧なので箇条書きは避けられない
{{ambox
| type = content
| section =
| text = このセクションは周辺施設の[[Wikipedia:雑多な内容を箇条書きした節を避ける|雑多な箇条書き]]で構成されており、内容も現在に偏り歴史的見地にも欠けています。文章による解説を中心に据え、施設の箇条書きは解説に必要な程度に絞り込む必要があります。
}}-->
[[ファイル:Kobe Station PLICO.jpg|thumb|プリコ神戸]]
[[ファイル:Kobe Station Kobe Food Terrace.jpg|thumb|神戸フードテラス]]
[[ファイル:Duo-kobe2.jpg|thumb|デュオこうべ(高速神戸駅・JR神戸駅・ハーバーランド駅を結ぶ地下街)。メトロこうべを経由して地下街は新開地駅まで延びている。]]
線路が南北方向に走り、周辺の地域はほぼ東西に相対している。多くの市民は、[[神戸ハーバーランド]]側の方角を「浜手」、[[六甲山]]側の方角を「山手」と言い表す。
東寄りの一帯は、[[ウォーターフロント]]開発地区の「神戸ハーバーランド」であり、大規模な商業施設や高層ビルが並んでいる。国鉄時代には貨物ターミナルの[[湊川駅 (国鉄)|湊川駅]]があり、廃止後の駅跡地の[[都市再開発|再開発]]により誕生した。
; 駅地下街
* [[デュオこうべ]]
* [[メトロこうべ]]
; 山手(西側)
* [[タクシー]]乗り場(中型・小型)
* [[湊川神社]]<ref name="lmaga20210613"/>
* [[神戸文化ホール]]
* [[神戸市立中央図書館]]
* [[神戸市立中央体育館]]
* [[神戸大学]]医学部・医学部付属病院
* [[神戸地方裁判所]]
* [[国道28号]]
* [[国道428号]]
*:当駅元町寄りのガード近くが起点である。
[[ファイル:Housing design center harborland Kobe and Kobe Crystal tower.jpg|thumb|南口前(HDCと神戸クリスタルタワー)]]
[[ファイル:Kobe Mosaic01s55s3200.jpg|thumb|モザイク(神戸ハーバーランド)]]
; 駅浜手(東側)
* タクシー乗り場(中型)
* [[神戸中央郵便局]]([[ゆうちょ銀行]]神戸店(大阪支店神戸出張所)・[[かんぽ生命保険]]神戸支店を併設)
* [[神戸ハーバーランド]]
** ホテルクラウンパレス神戸
** [[神戸ハーバーランドセンタービル]]
** [[プロメナ神戸]]
** [[umie]]
** [[キャナルガーデン]]
** [[神戸情報文化ビル]]
*** [[神戸新聞社]]本社([[神戸新聞]]・[[デイリースポーツ]]発行元)
*** [[ラジオ関西]]本社・スタジオ
** [[ハーバーウォーク]]
** [[umie MOSAIC]]
*** [[神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール]]
** [[高浜旅客ターミナル]]
*** [[旧神戸港信号所]]
** [[煉瓦倉庫レストラン街]]
* [[神戸クリスタルタワー]]([[川崎重工業]]神戸本社)
* [[神戸駅前JUSTスクエア]]
** [[サンテレビジョン]]本社・スタジオ
** [[聚楽|神戸ジュラクホテル]]
* [[国道2号]]
== バス路線 ==
北側には円形ロータリーの「'''神戸駅前'''」、南側には四角形ロータリーの「'''神戸駅南口'''」停留所がある。なお、現在の駅舎が竣工してから100周年を迎える[[2030年]]を目標に円形ロータリーを廃止し、南側にバス乗り場を統合する再整備が計画されている<ref name="kobe20210610"/><ref name="lmaga20210613"/>。
<!--[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。-->
{| class="wikitable" style="font-size:80%;"
!運行事業者!!系統・行先!!備考
|-
!colspan="3"|神戸駅前
|-
|style="text-align:center;"|[[神戸市バス]]
|[[神戸市バス松原営業所#4系統|'''4''']]・[[神戸市バス松原営業所#40系統|'''40''']]:大日丘住宅前<br />[[神戸市バス松原営業所#7系統|'''7''']]:[[三宮駅|三宮]](市民福祉交流センター前)<br />[[神戸市バス松原営業所#9系統|'''9''']]:吉田町<br />[[神戸市バス松原営業所#11系統|'''11''']]:[[板宿駅|板宿]]<br />[[神戸市バス松原営業所#65系統|'''65''']]:ひよどり台方面<br />[[神戸市バス松原営業所#95系統|'''95''']]・[[神戸市バス松原営業所#96系統|'''96系統''']]:[[新長田駅]]<br />[[神戸市バス松原営業所#110系統|'''110系統''']]・[[神戸市バス松原営業所#112系統|'''112系統''']]:[[鷹取駅|JR鷹取駅]]
|
|-
|style="text-align:center;"|[[阪急バス]]
|[[阪急バス唐櫃営業所#150系統・151系統|'''150''']]:[[西鈴蘭台駅]]<br />[[阪急バス唐櫃営業所#61系統|'''61''']]:[[鈴蘭台駅|鈴蘭台]]
|
|-
!colspan="3"|神戸駅北口
|-
|style="text-align:center;"|[[神姫バス]]
|[[神姫バス神戸営業所#山手線|'''山手線''']]:三宮センター街東口
|
|-
!colspan="3"|神戸駅南口
|-
|style="text-align:center;"|阪急バス
|'''61''':鈴蘭台
|
|-
|style="text-align:center;"|神姫バス
|[[神姫バス三田営業所#10番台|'''14''']]:[[谷上駅]]・[[三田駅 (兵庫県)|三田駅]]<br />[[神姫バス西神営業所|'''38''']]:白川台・押部谷(栄)<br />[[神戸学院大学]]ポートアイランドキャンパス<br />[[神戸市立医療センター中央市民病院|中央市民病院]]<br />[[神戸空港]]
|「14」の三田駅行は3本のみ<br />「38」の押部谷(栄)行は1本のみでそれ以外は白川台止まり<br />神戸学院大学ポートアイランドキャンパス行は学校休校日は運休<br />中央市民病院行は平日のみ運行
|-
|style="text-align:center;"|[[岸和田観光バス]]
|[[岸和田観光バス#SPA LINE 鳴門・四国|'''SPA LINE 鳴門・四国''']]:[[鳴門市|鳴門]](観光汽船のりば前)/ [[大阪シティエアターミナル|OCAT]]
|「OCAT」行は空席のある場合のみ乗車可
|}
== 備考 ==
* [[阪急電鉄]]や[[阪神電気鉄道]]の[[ターミナル駅]]である[[三宮駅]]や、阪急が三宮に乗り入れる以前にターミナルとしていた[[上筒井駅]](1940年に廃止)、それぞれ一時期'''神戸駅'''を名乗っていた。各項目と[[神戸駅 (曖昧さ回避)]]も参照。
== 隣の駅 ==
;西日本旅客鉄道(JR西日本)
:{{JR西路線記号|K|A}} JR神戸線(東海道本線・山陽本線)
:*特急「[[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]」「[[らくラクはりま]]」停車駅<!--詳細は列車記事参照のこと---> 「[[スーパーはくと]]」一部停車駅
::{{Color|#0072bc|■}}新快速
:::[[三ノ宮駅]] (JR-A61) - '''神戸駅 (JR-A63)''' - [[明石駅]] (JR-A73)
::{{Color|#ff6600|■}}快速・{{Color|#999|■}}普通([[JR東西線]]・[[学研都市線]]内で[[区間快速]]となる電車を含む)
:::[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]] (JR-A62) - '''神戸駅 (JR-A63)''' - [[兵庫駅]] (JR-A64)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title = [[鉄道ダイヤ情報|DJ]]鉄ぶらブックス 031 路線百科 東海道本線|author = 結解善幸|publisher = [[交通新聞社]]|date = 2020-10-30|isbn = 978-4-330-08020-8|ref = {{sfnref|結解|2020}} }}
* {{Cite book|和書|title = 都市鉄道完全ガイド 関西JR編 2021-2022年版|publisher = [[双葉社]]|date = 2021-06-22|isbn = 978-4-575-45881-7|ref = {{sfnref|双葉社|2021}} }}
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[神戸駅]](曖昧さ回避) - 異なる発音を含む、他の同名の駅の一覧
* [[神戸駅 (曲)]] - [[ガガガSP]]の歌う楽曲。
* [[北風正造]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR西日本駅|0610145|神戸}}
* [https://www.jrwd.co.jp/vierra/kobe.html ビエラ神戸(高架下・駅ビル商業施設)] - JR西日本不動産開発
* [http://www.plico-kobe.jp/ プリコ神戸]
{{JR神戸線}}
{{近畿の駅百選}}
{{DEFAULTSORT:こうへ}}
[[Category:神戸市中央区の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 こ|うへ]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:山陽鉄道の鉄道駅]]
[[Category:JR神戸線|こうへえき]]
[[Category:1874年開業の鉄道駅]]
[[Category:1930年竣工の日本の建築物|こうへえき]]
[[Category:西洋館|こうへえき]]
[[Category:1870年代日本の設立|こうへえき]] | 2003-04-11T05:46:03Z | 2023-12-06T14:19:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%A7%85_(%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C) |
6,500 | 中波帯 | 中波帯()は、総務省令無線局運用規則第2条第1項第3号において「285kHzから535kHzまでの周波数帯」と定義される周波数帯。無線工学における長波(30 - 300kHz)と中波(300kHz - 3MHz)にまたがり、長波のごく一部と中波の一部を占める周波数帯である。
長波と中波のうち数パーセントを占めるに過ぎないこの250kHz幅を特に中波帯と呼ぶのは、ここが移動体における無線通信(移動業務)の周波数帯として全世界共通に使われてきたからである。夜間には電離層の反射により1000km程度まで伝播することもあるが、地表波の伝わる200 - 300km以内で安定した通信を行うのが基本。移動局を相手とする陸上局には、通信の受け持ち区域が指定される場合がある。
海上移動業務では20世紀末にGMDSSへ転換されるまで、また航空移動業務でも二次大戦終了の直後まで、この周波数帯における手動モールス通信を義務付けられる無線局が存在し、遭難通信などで重要な役割を果たしてきた。
現在でも途上国を中心に、中波帯でモールス通信を行う移動業務の無線局は存在しているが、日本においては専ら電波航法や航行警報に利用されている。 | [
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] | 中波帯は、総務省令無線局運用規則第2条第1項第3号において「285kHzから535kHzまでの周波数帯」と定義される周波数帯。無線工学における長波と中波にまたがり、長波のごく一部と中波の一部を占める周波数帯である。 長波と中波のうち数パーセントを占めるに過ぎないこの250kHz幅を特に中波帯と呼ぶのは、ここが移動体における無線通信(移動業務)の周波数帯として全世界共通に使われてきたからである。夜間には電離層の反射により1000km程度まで伝播することもあるが、地表波の伝わる200 - 300km以内で安定した通信を行うのが基本。移動局を相手とする陸上局には、通信の受け持ち区域が指定される場合がある。 海上移動業務では20世紀末にGMDSSへ転換されるまで、また航空移動業務でも二次大戦終了の直後まで、この周波数帯における手動モールス通信を義務付けられる無線局が存在し、遭難通信などで重要な役割を果たしてきた。 現在でも途上国を中心に、中波帯でモールス通信を行う移動業務の無線局は存在しているが、日本においては専ら電波航法や航行警報に利用されている。 | {{Law}}
{{読み仮名|'''中波帯'''|ちゅうはたい}}は、[[総務省|総務]][[省令]][[無線局運用規則]]第2条第1項第3号において「285kHzから535kHzまでの周波数帯」と定義される[[周波数|周波数帯]]<ref>{{Cite web|和書|title=無線局運用規則 第2条第1項第3号|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325M50080000017&keyword=%E7%84%A1%E7%B7%9A%E5%B1%80%E9%81%8B%E7%94%A8%E8%A6%8F%E5%89%87#Mp-At_2|publisher=e-Gov|accessdate=2022-5-19}}</ref>。[[無線工学]]における[[長波]](30 - 300kHz)と[[中波]](300kHz - 3MHz)にまたがり、長波のごく一部と中波の一部を占める周波数帯である<ref>法令上は、[[AMラジオ]]など[[中波放送]]の電波を指す用語ではない。</ref>。
長波と中波のうち数パーセントを占めるに過ぎないこの250kHz幅を特に中波帯と呼ぶのは、ここが移動体における無線通信([[移動業務]])の周波数帯として全世界共通に使われてきたからである。夜間には[[電離層]]の反射により1000km程度まで伝播することもあるが、地表波の伝わる200 - 300km以内で安定した通信を行うのが基本。[[移動局]]を相手とする[[陸上局]]には、通信の受け持ち区域が指定される場合がある。
海上移動業務では20世紀末に[[海上における遭難及び安全に関する世界的な制度|GMDSS]]へ転換されるまで、また航空移動業務でも二次大戦終了の直後まで、この周波数帯における手動モールス通信を義務付けられる無線局が存在し、[[遭難通信]]などで重要な役割を果たしてきた。
現在でも途上国を中心に、中波帯でモールス通信を行う移動業務の無線局は存在しているが、日本においては専ら[[電波航法]]や[[航行警報]]に利用されている。
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[電波]]
*[[電波の周波数による分類]]
{{DEFAULTSORT:ちゆうはたい}}
[[Category:電波法]]
[[Category:周波数帯]] | 2003-04-11T06:11:16Z | 2023-11-11T22:51:02Z | false | false | false | [
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"Template:Law"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B3%A2%E5%B8%AF |
6,501 | 短波帯 | 短波帯()とは、総務省令の無線局運用規則第2条第1項第5号が定義する、「4,000kHzから26,175kHzまでの周波数帯」の電波である。無線工学で言う短波(HF、3 - 30MHz)の大部分を占める。
この周波数帯においては、電離層での反射(上空波)を利用する通信が主である。 混信や雑音が多いうえに送受できる情報量が小さく回線品質は良くないが、両端末の設備だけで数千kmの通信が行えるので、衛星通信や海底同軸ケーブルが出現するまでは大陸間通信にも多用された。 船舶・航空機などの移動体遠距離通信でも衛星回線が多くなってきたが、航行安全のための全地球的な短波通信網は今なお重要である。またBCL(国際放送受信)やアマチュア無線などで、個人が直接利用できる遠距離通信媒体でもある。
以上の利用形態を根拠に設けられた電波行政上の区分が短波帯である。なおHFのうち3 - 4,000kHzでは中波と同様に、大地に沿って伝播する地表波の利用が主体なので、同第4号が規定する中短波帯の一部となっている。また上限の26,175kHzより上は超短波と同様に、電離層伝播を前提としない通信が多いため、短波帯には含めていない(超短波#電波行政における超短波と短波の区分)。 | [
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{{読み仮名|'''短波帯'''|たんぱたい}}とは、[[総務省|総務]][[省令]]の[[無線局運用規則]][https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325M50080000017#5 第2条第1項第5号]が定義する、「4,000[[キロヘルツ|kHz]]から26,175kHzまでの周波数帯」の電波である。[[無線工学]]で言う[[短波]](HF、3 - 30[[メガヘルツ|MHz]])の大部分を占める。
この[[周波数帯]]においては、[[電離層]]での反射([[電波伝播#上空波(電離層反射波)|上空波]])を利用する通信が主である。 混信や雑音が多いうえに送受できる情報量が小さく回線品質は良くないが、両端末の設備だけで数千kmの通信が行えるので、[[衛星通信]]や海底[[同軸ケーブル]]が出現するまでは大陸間通信にも多用された。
[[船舶]]・[[航空機]]などの移動体遠距離通信でも[[衛星回線]]が多くなってきたが、航行安全のための全地球的な短波通信網は今なお重要である。また[[BCL]](国際放送受信)や[[アマチュア無線]]などで、個人が直接利用できる遠距離通信媒体でもある。
以上の利用形態を根拠に設けられた電波行政上の区分が短波帯である。なおHFのうち3 - 4,000kHzでは[[中波]]と同様に、大地に沿って伝播する地表波の利用が主体なので、[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325M50080000017#5 同第4号]が規定する[[中短波帯]]の一部となっている。また上限の26,175kHzより上は[[超短波]]と同様に、電離層伝播を前提としない通信が多いため、短波帯には含めていない([[超短波#電波行政における超短波と短波の区分]])。
== 関連項目 ==
*[[電波]]
*[[電波の周波数による分類]]
{{DEFAULTSORT:たんはたい}}
[[Category:電波法]]
[[Category:周波数帯]] | null | 2022-09-26T21:40:28Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%AD%E6%B3%A2%E5%B8%AF |
6,505 | 山陽鉄道 | 山陽鉄道()は、明治時代の鉄道会社。現在、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する山陽本線にあたる路線などを建設した。
現在兵庫県で運行している山陽電気鉄道、および下関市周辺のバスを運行しているサンデン交通の前身山陽電気軌道とは無関係である。
1888年(明治21年)1月に設立、4月の株主総会で中上川彦次郎が社長に選出された。本社は、神戸の西柳原町に置かれた。
同年11月1日に兵庫 - 明石間が開通し、12月23日には、明石 - 姫路間が開通した。翌年の1889年(明治22年)9月1日に神戸 - 兵庫間が開通。
その後、岡山、広島を経て1901年(明治34年)5月27日に山口県の馬関(現在の下関)までが開通して、神戸 - 馬関間の路線が全通した。中上川は、瀬戸内航路との競合を考えて、線路の勾配を「100分の1以下」(10パーミル以下)にするよう指示した。このことから、中上川には「百分の一」「ワン・ハンドレッド」のあだ名が付けられた。この方針は中上川が退社した1891年以降も踏襲されたが、瀬野駅 - 八本松駅間の大山峠を越す区間(通称「瀬野八」)だけは22.6パーミルの急勾配を含む結果となった(「瀬野八」の項目参照)。しかし、東海道本線を始め他の主要幹線と比較すると平坦な路線で、岩徳線のように距離短縮のための例や、赤穂線や呉線のように山陽本線の勾配緩和線として建設された路線があったものの山陽本線自体は今日に至るまで勾配緩和のための大規模な線路移設はされていない。
1900年(明治33年)に日本で初の寝台車を導入。
1903年(明治36年)に経営悪化した播但鉄道、1904年(明治37年)には讃岐鉄道から事業譲渡を受け、営業範囲を拡大した。1906年(明治39年)12月1日に鉄道国有法により国有化され、1909年(明治42年)に国鉄山陽本線、播但線、大嶺線(後の美祢線の一部)、讃岐線(後の予讃線と土讃線のそれぞれ一部)となった。
山陽鉄道は積極的な経営方針を採っていたことで知られており、その後戦後にかけて鉄道業界全般を通して普及していった設備・サービス・事業等の中には同鉄道が日本で初めて実現させたものも少なくない。たとえば、長距離急行列車の運転(1894年)、車内灯の電化・ボーイの添乗(1898年)、食堂車の連結(1899年)、一等寝台車の投入(1900年)、二等寝台車の投入(1903年)、3軸ボギー車の投入、真空制動機の採用、ステーションホテル(山陽ホテル)設置などである。また全線が開通した1901年(明治34年)には、日本初の優等列車「最急行」(特急列車の元とされる)を走らせた。
これらは、瀬戸内海を通る航路との競合にさらされたためだといわれているが、その反面無理なスピードアップをしていた面もあって更に保線状況も悪かったため、列車の振動は酷く鉄道事故も多発した。当時九州鉄道の社長で後に鉄道大臣にもなった仙石貢は、「こんな非常識なスピードを出す列車には危なくて乗れない」と語っている。一方、後に国有鉄道で定時運行の確立に尽力して「運転の神様」と呼ばれ、超特急「燕」生みの親ともなった結城弘毅が在職していた。
多角経営の一環として、瀬戸内海に本州、四国、九州を結ぶ、鉄道と連絡する航路を運営していた。壱岐丸、対馬丸という二隻の航洋渡峡船を1904年に三菱重工業長崎造船所に発注し、完成後、子会社の山陽汽船が運営する関釜連絡船を1905年(明治38年)に就航させ、既に完成していた京釜鉄道を経由すると東京 - 京城(現ソウル)を60時間で結んだ。他に山陽鉄道系航路として、山陽汽船商社が下関駅開通まで門徳連絡船や宇高連絡船の前身になる岡山 - 高松間および尾道 - 多度津間の航路を、直営で宮島連絡船や関門連絡船を運行していた。
なお同鉄道において運行された列車の沿革は、「山陽本線優等列車沿革」を参照。
明治の日本における対外戦争では、山陽鉄道は軍隊や補給物資を大陸へ運ぶために大きな役割を果たした。日清戦争(1894年 - 1895年)では山陽鉄道は広島までしか開通していなかったため、東京からの鉄道西端で、大型船が運用できる宇品港があった広島市は兵站基地となり、戦争を指揮する広島大本営が置かれ、軍部の中枢だけでなく天皇も広島に移動し、帝国議会も広島で開催されていた。
日本の鉄道会社で、初めて株主優待制度を導入した可能性を紹介した記事が、2022年(令和4年)8月8日 日本経済新聞 夕刊8面に掲載されている。
国有鉄道に引継がれた車両は機関車152両、客車500両、貨車2109両である
開業当初は官設鉄道と同様にイギリス製の蒸気機関車を輸入したが、1893年(明治26年)からはアメリカ製に移行し、特に低圧と高圧の各2気筒で動輪を駆動するヴォークレイン複式機関車を好んで採用した。また、英米からの輸入機の模倣ではあったが、自社の兵庫工場で機関車新製も行っている。
山陽鉄道の番号は貨車客車車種に関係なく通し番号がふられている。各車両の番号対象表は形式図を参照
ボギー優等車 製造所は山陽鉄道兵庫工場
2軸蓄電車 客車列車の室内電灯のため蓄電池を積込んだ車両を製作した。
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』
古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、1988年、9-16、23頁
詳細は山陽汽船商社参照 | [
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"text": "明治の日本における対外戦争では、山陽鉄道は軍隊や補給物資を大陸へ運ぶために大きな役割を果たした。日清戦争(1894年 - 1895年)では山陽鉄道は広島までしか開通していなかったため、東京からの鉄道西端で、大型船が運用できる宇品港があった広島市は兵站基地となり、戦争を指揮する広島大本営が置かれ、軍部の中枢だけでなく天皇も広島に移動し、帝国議会も広島で開催されていた。",
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"text": "日本の鉄道会社で、初めて株主優待制度を導入した可能性を紹介した記事が、2022年(令和4年)8月8日 日本経済新聞 夕刊8面に掲載されている。",
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"text": "国有鉄道に引継がれた車両は機関車152両、客車500両、貨車2109両である",
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"text": "開業当初は官設鉄道と同様にイギリス製の蒸気機関車を輸入したが、1893年(明治26年)からはアメリカ製に移行し、特に低圧と高圧の各2気筒で動輪を駆動するヴォークレイン複式機関車を好んで採用した。また、英米からの輸入機の模倣ではあったが、自社の兵庫工場で機関車新製も行っている。",
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"text": "山陽鉄道の番号は貨車客車車種に関係なく通し番号がふられている。各車両の番号対象表は形式図を参照",
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"text": "ボギー優等車 製造所は山陽鉄道兵庫工場",
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"text": "2軸蓄電車 客車列車の室内電灯のため蓄電池を積込んだ車両を製作した。",
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"text": "リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』",
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"text": "古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、1988年、9-16、23頁",
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"text": "詳細は山陽汽船商社参照",
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] | 山陽鉄道は、明治時代の鉄道会社。現在、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する山陽本線にあたる路線などを建設した。 現在兵庫県で運行している山陽電気鉄道、および下関市周辺のバスを運行しているサンデン交通の前身山陽電気軌道とは無関係である。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 山陽鉄道
|ロゴ = [[画像:SanyoRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[兵庫県]][[神戸市]]兵庫浜崎通4丁目<ref name="NDLDC780118"/>
|設立 = [[1888年]](明治21年)1月<ref name="NDLDC780118"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 取締役会長 [[松本重太郎]]<ref name="NDLDC780118"/>
|資本金 = 24,000,000円(払込額)<ref name="NDLDC780118"/>
|特記事項 = 上記データは1903年(明治36年)現在<ref name="NDLDC780118">[{{NDLDC|780118/315}} 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
}}
{{読み仮名|'''山陽鉄道'''|さんようてつどう}}は、[[明治]]時代の[[鉄道事業者|鉄道会社]]。現在、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が管轄する[[山陽本線]]に当たる路線などを建設した。
現在[[兵庫県]]で運行している[[山陽電気鉄道]]、および[[下関市]]周辺の[[バス (交通機関) |バス]]を運行している[[サンデン交通]]の前身[[山陽電気軌道]]とは無関係である。
== 概要 ==
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|路線概略図 |#ddd}}
{{BS-table}}
{{BS-colspan}}
国有化直前の路線
----
{{BS|leer|||↑官設鉄道線|}}
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|}
|}
[[1888年]]([[明治]]21年)1月に設立、4月の株主総会で[[中上川彦次郎]]が社長に選出された<ref>[{{NDLDC|1920367/253}} 「山陽鉄道社長は中上川彦次郎」時事新報1887年4月8日『新聞集成明治編年史. 第六卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。本社は、[[神戸市|神戸]]の西柳原町に置かれた。
同年[[11月1日]]に兵庫 - 明石間が開通し、[[12月23日]]には、明石 - 姫路間が開通した。翌年の[[1889年]](明治22年)[[9月1日]]に神戸 - 兵庫間が開通<ref name="名前なし-1">[{{NDLDC|2945097/6}} 「鉄道運輸開業免許状下付」『官報』1889年8月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
その後、岡山、広島を経て[[1901年]](明治34年)[[5月27日]]に[[山口県]]の馬関(現在の[[下関駅|下関]])までが開通して、神戸 - 馬関間の路線が全通した。中上川は、[[瀬戸内海|瀬戸内]]航路との競合を考えて、線路の勾配を「100分の1以下」(10[[パーミル]]以下)にするよう指示した。このことから、中上川には「百分の一」「ワン・ハンドレッド」の渾名が付けられた<ref>長船友則『山陽鉄道物語』JTBキャンブックス、2008年</ref>。この方針は中上川が退社した[[1891年]]以降も踏襲されたが、[[瀬野駅]] - [[八本松駅]]間の大山峠を越す区間(通称「[[瀬野八]]」)だけは22.6パーミルの急勾配を含む結果となった(「[[瀬野八]]」の項目参照)。しかし、[[東海道本線]]を始め他の主要幹線と比較すると平坦な路線で、[[岩徳線]]のように距離短縮のための例や、[[赤穂線]]や[[呉線]]のように山陽本線の勾配緩和線として建設された路線があったものの[[山陽本線]]自体は今日に至るまで勾配緩和のための大規模な線路移設はされていない。
[[1900年]](明治33年)に日本で初の[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]を導入。
[[1903年]](明治36年)に経営悪化した[[播但鉄道]]、[[1904年]](明治37年)には[[讃岐鉄道]]から事業譲渡を受け、営業範囲を拡大した。[[1906年]](明治39年)[[12月1日]]に[[鉄道国有法]]により[[国有化]]され、[[1909年]](明治42年)に[[国鉄]][[山陽本線]]、[[播但線]]、大嶺線(後の[[美祢線]]の一部)、讃岐線(後の[[予讃線]]と[[土讃線]]のそれぞれ一部)となった。
山陽鉄道は積極的な経営方針を採っていたことで知られており、その後戦後にかけて鉄道業界全般を通して普及して行った設備・サービス・事業等の中には同鉄道が日本で初めて実現させたものも少なくない。例えば、長距離[[急行列車]]の運転([[1894年]])、車内灯の[[白熱電球|電化]]・[[給仕|ボーイ]]の添乗([[1898年]])、[[食堂車]]の連結([[1899年]])、[[A寝台|一等寝台車]]の投入([[1900年]])、二等寝台車の投入([[1903年]])、3軸[[ボギー台車|ボギー車]]の投入、[[真空ブレーキ|真空制動機]]の採用、ステーションホテル([[山陽ホテル]])設置などである。また全線が開通した1901年(明治34年)には、日本初の[[優等列車]]「[[最急行]]」([[特別急行列車|特急列車]]の元とされる)を走らせた。
これらは、[[瀬戸内海]]を通る航路との競合にさらされたためだといわれているが、その反面無理なスピードアップをしていた面もあって更に保線状況も悪かったため、列車の振動は酷く[[鉄道事故]]も多発した。当時[[九州鉄道]]の社長で後に[[鉄道大臣]]にもなった[[仙石貢]]は、「こんな非常識なスピードを出す列車には危なくて乗れない」と語っている。一方、後に国有鉄道で定時運行の確立に尽力して「運転の神様」と呼ばれ、超特急「[[つばめ (列車) |燕]]」生みの親ともなった[[結城弘毅]]が在職していた。
多角経営の一環として、瀬戸内海に本州、四国、九州を結ぶ、鉄道と連絡する航路を運営していた。[[壱岐丸]]、[[対馬丸 (連絡船・初代)|対馬丸]]という二隻の航洋渡峡船を[[1904年]]に[[三菱重工業長崎造船所]]に発注し、完成後、子会社の[[山陽汽船商社|山陽汽船]]が運営する[[関釜連絡船]]を[[1905年]](明治38年)に就航させ、既に完成していた[[京釜鉄道]]を経由すると[[東京]] - [[京城府|京城]](現[[ソウル特別市|ソウル]])を60時間で結んだ。他に山陽鉄道系航路として、山陽汽船商社が[[下関駅]]開通まで門徳連絡船や[[宇高連絡船]]の前身になる岡山 - 高松間及び尾道 - 多度津間の航路を、直営で[[宮島連絡船]]や[[関門連絡船]]を運行していた。
なお同鉄道において運行された列車の沿革は、「[[山陽本線優等列車沿革]]」を参照。
明治の日本における対外戦争では、山陽鉄道は軍隊や補給物資を大陸へ運ぶために大きな役割を果たした。[[日清戦争]](1894年 - 1895年)では山陽鉄道は広島までしか開通していなかったため、東京からの鉄道西端で、大型船が運用出来る[[広島港|宇品港]]があった広島市は兵站基地となり、戦争を指揮する[[広島大本営]]が置かれ、軍部の中枢だけで無く天皇も広島に移動し、帝国議会も広島で開催されていた。
日本の鉄道会社で、初めて株主優待制度を導入した可能性を紹介した記事が、2022年(令和4年)8月8日 日本経済新聞 夕刊8面に掲載されている。
== 役員 ==
[[学校:Murano Yamando.jpg|thumb|村野山人]]
* [[中上川彦次郎]] - 初代社長
* [[村野山人]] - 副社長
* [[松本重太郎]] - 2代目社長、会長
* [[牛場卓蔵]] - 専務(後に会長兼務)、国有化時の代表
== 路線・駅一覧 ==
* 1888年(明治21年)
** 1月4日 - 山陽鉄道会社設立許可。鉄道布設免許状下付(神戸-岡山-広島-赤間関間)<ref>[{{NDLDC|2944597/7}} 『官報』1888年1月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 11月11日 - 兵庫-明石間<ref>[{{NDLDC|2944841/4}} 「鉄道開業免許状下付」『官報』1888年10月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|2944845/7}} 「広告」『官報』1888年11月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 12月23日 - 明石-姫路間<ref>[{{NDLDC|2944889/8}} 「鉄道開業免許状下付」『官報』1888年12月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1889年(明治22年)
** 9月1日 - 兵庫-神戸間<ref name="名前なし-1"/><ref>[{{NDLDC|2945102/6}} 「広告」『官報』1889年9月3日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 11月11日 - 姫路-龍野間<ref>[{{NDLDC|2945162/5}} 「鉄道開業免許状下付」『官報』1889年11月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1890年(明治23年)
** 7月8日 - 兵庫-和田崎間<ref name="kap90710"/><ref>帝国鉄道要では7月10日[{{NDLDC|805310/94}} 『帝国鉄道要鑑. 第3版』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 7月10日 - 龍野-有年間<ref name="kap90710">[{{NDLDC|2945360/6}} 「鉄道運輸開業免許状下付」『官報』1890年7月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 12月1日 - 有年-仮三石間<ref>[{{NDLDC|2945480/8}} 「汽車運転並ニ発着時刻及賃金」『官報』1890年11月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1891年(明治24年)
**3月18日 - 三石-岡山間<ref>[{{NDLDC|2945571/3}} 「鉄道運輸開業」『官報』1891年3月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 4月25日 - 岡山-倉敷間<ref>[{{NDLDC|2945603/3}} 「鉄道運輸開業」『官報』1891年4月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 7月14日 - 倉敷-笠岡間<ref>[{{NDLDC|2945675/3}} 「鉄道運輸開業」『官報』1891年7月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 9月11日 - 笠岡-福山間<ref>[{{NDLDC|2945724/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1891年9月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 11月3日 - 福山-尾道間<ref>[{{NDLDC|2945768/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1891年11月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1892年(明治25年)7月20日 - 尾道-三原間<ref>[{{NDLDC|2945981/4}} 「鉄道運輸開業」『官報』1892年7月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1894年(明治27年)6月10日 - 糸崎(三原)-広島間<ref>[{{NDLDC|2946544/4}} 「運輸開業及哩数」『官報』1894年6月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1897年(明治30年)9月25日 - 広島-徳山間<ref>[{{NDLDC|2947562/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年9月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1898年(明治31年)3月17日- 徳山-三田尻間<ref>[{{NDLDC|2947705/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年3月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1900年(明治33年)12月3日 - 三田尻-厚狭間<ref>[{{NDLDC|2948525/7}} 「運輸開始」『官報』1900年12月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1901年(明治34年)5月27日 - 厚狭-馬関間<ref>[{{NDLDC|2948669/7}} 「運輸開始」『官報』1901年5月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1902年(明治35年)12月29日 - 広島-宇品間(軍用線)<ref>[{{NDLDC|2949158/4}} 「運輸営業開始」『官報』1903年1月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1903年(明治36年)6月1日 - 姫路-新井間、飾磨-豆腐町間<ref>[{{NDLDC|2949287/5}} 「営業開始」『官報』1903年6月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1904年(明治37年)
** 1月21日 - 鉄道敷設仮免許状下付(岡山-宇野間)<ref>[{{NDLDC|2949477/8}} 「私設鉄道株式会社仮免許状下付」『官報』1904年1月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 5月27日 - 鉄道敷設仮免許状下付(厚狭停車場-[[大嶺町|大嶺村]]間)<ref>[{{NDLDC|2949591/9}} 「私設鉄道仮免許状下付」『官報』1904年5月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 7月13日 - 鉄道敷設本免許状下付(厚狭停車場-大嶺村間)<ref>[{{NDLDC|2949632/10}} 「私設鉄道株式会社本免許状下付」『官報』1904年7月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 11月25日 - 鉄道敷設本免許状下付(高松市-琴平町間)<ref name="名前なし-2">[{{NDLDC|2949748/11}} 「私設鉄道本免許状下付」『官報』1904年11月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 12月1日 - 讃岐鉄道より譲受(高松-琴平間)<ref>和久田康雄『鉄道ファンのための私鉄史研究資料』電気車研究会、2014年、157頁</ref>
** 12月1日 - 鉄道作業局呉線を山陽鉄道が承継<ref>[{{NDLDC|2949746/1}} 「逓信省告示第481号」『官報』1904年11月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1905年(明治38年)9月13日 - 厚狭-大嶺間<ref>[{{NDLDC|2950005/10}} 「運輸開始」『官報』1905年9月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1906年(明治39年)
** 4月1日 - 新井-竹田間、竹田-和田山間<ref>[{{NDLDC|2950171/11}} 「運輸開始」『官報』1906年4月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 11月7日 - 鉄道敷設本免許状下付(岡山停車場-児島郡玉野村大字宇野間)<ref name="名前なし-2"/>
** 12月1日 - 買収・国有化
* 神戸 - 下関 (329.3 M=529.95 km)
*: [[神戸駅 (兵庫県) |神戸駅]] - [[兵庫駅]] - [[鷹取駅]] - [[須磨駅]] - [[塩屋駅 (兵庫県) |塩屋仮停車場]] - [[垂水駅]] - [[舞子駅|舞子仮停車場]] - [[明石駅]] - [[大久保駅 (兵庫県) |大久保駅]] - [[土山駅]] - [[加古川駅]] - [[宝殿駅]] - [[曽根駅 (兵庫県) |曽根駅]] - [[御着駅]] - [[姫路駅]] - [[網干駅]] - [[竜野駅]] - [[相生駅 (兵庫県) |那波駅]] - [[有年駅]] - [[上郡駅]] - [[三石駅]] - [[吉永駅]] - [[和気駅]] - [[万富駅]] - [[瀬戸駅]] - [[東岡山駅|西大寺駅]] - [[岡山駅]] - [[庭瀬駅]] - [[倉敷駅]] - [[新倉敷駅|玉島駅]] - [[金光駅|金神駅]] - [[鴨方駅]] - [[笠岡駅]] - [[大門駅 (広島県) |大門駅]] - [[福山駅]] - [[松永駅]] - [[尾道駅]] - [[糸崎駅]] - [[三原駅]] - [[本郷駅 (広島県) |本郷駅]] - [[河内駅]] - [[白市駅]] - [[西条駅 (広島県) |西条駅]] - [[八本松駅]] - [[瀬野駅]] - [[海田市駅]] - [[広島駅]] - [[横川駅 (広島県) |横川駅]] - [[西広島駅|己斐駅]] - [[五日市駅]] - [[廿日市駅]] - [[宮島口駅|宮島駅]] - [[玖波駅]] - [[大竹駅]] - [[岩国駅]] - [[藤生駅]] - [[由宇駅]] - [[神代駅 (山口県) |神代駅]] - [[大畠駅]] - [[柳井駅|柳井津駅]] - [[田布施駅]] - [[岩田駅]] - [[島田駅 (山口県) |島田駅]] - [[下松駅 (山口県) |下松駅]] - [[徳山駅]] - [[福川駅]] - [[富海駅]] - [[防府駅|三田尻駅]] - [[大道駅]] - [[新山口駅|小郡駅]] - [[嘉川駅]] - [[本由良駅|阿知須駅]] - [[厚東駅|船木駅]] - [[小野田駅]] - [[厚狭駅]] - [[埴生駅]] - [[小月駅]] - [[長府駅]] - [[新下関駅|一ノ宮駅]] - [[幡生駅]] - [[下関駅]]
* 兵庫 - 和田岬(1.6 M=2.57 km・貨物線)
*: 兵庫駅 - [[新川駅 (兵庫県) |新川荷扱所]] - [[和田岬駅]]
* 飾磨 - 姫路 - 和田山(44.4 M=71.45 km・飾磨 - 新井間は旧播但鉄道・豆腐町 - 姫路間は貨物線)
*: [[飾磨港駅|飾磨駅]] - [[飾磨駅 (国鉄) |天神駅]] - [[亀山駅 (兵庫県) |亀山駅]] - 豆腐町駅 - 姫路駅 - [[京口駅]] - [[野里駅]] - [[仁豊野駅]] - [[香呂駅]] - [[溝口駅]] - [[福崎駅]] - [[甘地駅]] - [[鶴居駅]] - [[寺前駅]] - [[長谷駅 (兵庫県) |長谷駅]] - [[生野駅 (兵庫県) |生野駅]] - [[新井駅 (兵庫県) |新井駅]] - [[竹田駅 (兵庫県) |竹田駅]] - [[和田山駅]]
* 高松 - 琴平(27.2 M=43.77 km・旧讃岐鉄道)
*: [[高松駅 (香川県) |高松駅]] - [[鬼無駅]] - [[端岡駅]] - [[国分駅 (香川県) |国分駅]] - [[鴨川駅]] - [[坂出駅]] - [[宇多津駅]] - [[丸亀駅]] - [[多度津駅]] - [[金蔵寺駅]] - [[善通寺駅]] - [[琴平駅]]
* 海田市 - 呉(12.4 M=19.96 km・鉄道作業局借受線)
*: 海田市駅 - [[矢野駅]] - [[坂駅]] - 浜崎駅 - [[天応駅]] - [[吉浦駅]] - [[呉駅]]
* 広島 - 宇品(3.7 M=5.95 km・鉄道作業局借受線)
*: 広島駅 - 比治山駅 - 丹那駅 - [[宇品駅]]
* 厚狭 - 大嶺 (12.2 M=19.63 km)
*: 厚狭駅 - [[厚保駅]] - [[四郎ヶ原駅]] - [[南大嶺駅|伊佐駅]] - [[大嶺駅]]
== 車両 ==
国有鉄道に引継がれた車両は機関車152両、客車500両、貨車2109両である<ref>[{{NDLDC|805387/345}} 『鉄道国有始末一斑』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
=== 蒸気機関車 ===
開業当初は官設鉄道と同様にイギリス製の蒸気機関車を輸入したが、[[1893年]](明治26年)からはアメリカ製に移行し、特に低圧と高圧の各2気筒で動輪を駆動するヴォークレイン[[複式機関|複式機関車]]を好んで採用した。また、英米からの輸入機の模倣ではあったが、自社の兵庫工場で機関車新製も行っている。
;Nos. 1 - 4, 6, 7
:1888年、[[イギリス|英]][[バルカン・ファウンドリー]]製。[[車軸配置|軸配置]]2-4-2 (1B1) の[[タンク機関車|タンク機]]。国有化前に1は[[東武鉄道]]、2は[[南海電気鉄道|南海鉄道]]に譲渡された。後の山陽鉄道形式1 → [[国鉄400形蒸気機関車#500形・600形・700形|鉄道院700形]]。
;Nos. 5, 8, 9
:1889年、英[[ナスミス・ウィルソン]]製。軸配置0 - 6 - 0 (C) のタンク機。3両共国有化前に譲渡された。5, 8は[[北海道炭礦鉄道]]、9は官設鉄道(鉄道局)。後の[[国鉄1100形蒸気機関車|鉄道院1100形]]。
;Nos. 10 - 23
:1889年、英[[ニールソン]]製。軸配置4-4-0 (2B) の[[テンダー機関車|テンダ機]]。11 - 14, 17, 18, 20は国有化前に官設鉄道(鉄道局)へ譲渡。後の[[国鉄5300形蒸気機関車#5400形|5400形]]。
;Nos. 24 - 27
:1890年、英バルカン・ファウンドリー製。軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機。全車国有化前に譲渡。24, 26は官設鉄道(鉄道局)、25, 27は[[筑豊鉄道]]。後の鉄道院700形。
;形式1 (Nos. 3, 4, 6, 7)
:英バルカン・ファウンドリー製。軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機。後の鉄道院700形。
;形式2 (Nos. 5, 8)
:英ダブス製。軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機。後の鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#500形・600形・700形|500形]]。
;形式3 (Nos. 9 - 18)
:1890年、英[[ベイヤー・ピーコック]]製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄5300形蒸気機関車#5300形|5300形]]。
;形式4 (Nos. 19 - 25)
:1889年、英ニールソン製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院5400形。
;形式5 (Nos. 26 - 31)
:1893年、[[アメリカ合衆国|米]][[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]製。軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄8450形蒸気機関車|8450形]]。
;形式6 (Nos. 32 - 34)
:1894年、米ボールドウィン製。軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。34は播但鉄道2の譲受車。後の鉄道院[[国鉄3300形蒸気機関車|3300形]]。
;形式7 (Nos. 35 - 38)
:1894年、米ボールドウィン製。軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄8350形蒸気機関車|8350形]]。
;形式8 (No. 39)
:1895年、米ボールドウィン製。軸配置2-4-2 (1B1) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄5060形蒸気機関車|5060形]]。
;形式9 (No. 40)
:1896年、自社兵庫工場製。軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機で形式1、形式2の模倣。後の鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#850形|850形]]。
;形式10 (Nos. 41 - 50)
:1896年、米ボールドウィン製。軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機。46は国有化前に北越鉄道に譲渡、50はテンダ機(形式19)に改造。後の鉄道院[[国鉄950形蒸気機関車|950形]]。
;形式11 (Nos. 51, 52)
:1896年、米ボールドウィン製。軸配置0-6-0 (C) のタンク機。後の鉄道院[[国鉄1000形蒸気機関車#1010形|1010形]]。
;形式12 (Nos. 53 - 70, 96 - 105)
:1897年、1901年、米ボールドウィン製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄5900形蒸気機関車|5900形]]。
;形式13 (Nos. 71 - 81)
:1898年、米[[ロジャーズ・ロコモティブ・ワークス|ロジャーズ]]製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄5950形蒸気機関車|5950形]]。
;形式14 (Nos. 82 - 85)
:1898年、米ロジャーズ製。軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄8400形蒸気機関車|8400形]]。
;形式15 (Nos. 86, 87)
:1898年、米ディックソン製。軸配置0-6-0 (C) のタンク機。後の鉄道院[[国鉄1020形蒸気機関車|1020形]]。
;形式16 (Nos. 88 - 95)
:1900年、米[[スケネクタディ・ロコモティブ・ワークス|スケネクタディ]]製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄6120形蒸気機関車|6120形]]。
;形式17 (Nos. 108 - 111)
:1903年、自社兵庫工場製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄6100形蒸気機関車|6100形]]。
;形式18 (Nos. 106, 107)
:1902年、1903年、自社兵庫工場製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。形式3の予備部品活用による新製車。後の鉄道院[[国鉄5300形蒸気機関車#5480形|5480形]]。
;形式19 (No. 50)
:自社兵庫工場で形式10をテンダ機に改造したもの。軸配置2-4-2 (1B1) 。後の鉄道院[[国鉄950形蒸気機関車|5050形]]。
;形式20 (No. 46[II])
:1900年、米ボールドウィン製。軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。旧中国鉄道5。後の鉄道院[[国鉄8380形蒸気機関車|8380形]]。
;形式21 (Nos. 1[II], 2[II])
:1896年、米ボールドウィン製。軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機。旧播但鉄道L2形4, 5。後の鉄道院[[国鉄200形蒸気機関車|200形]]。
;形式22 (No. 112)
:1902年、米ボールドウィン製。軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄8250形蒸気機関車|8250形]]。
;形式23 (Nos. 113 - 115)
:1893年、米ボールドウィン製。軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。旧播但鉄道L1形1-3。後の鉄道院[[国鉄3300形蒸気機関車|3300形]]。
;形式24 (No. 116)
:1897年、米[[ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス|ピッツバーグ]]製。軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。旧播但鉄道L3形6。後の鉄道院[[国鉄3400形蒸気機関車|3400形]]。
;形式25 (Nos. 117, 118, 123, 124)
:1904年、1905年自社兵庫工場製。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄6100形蒸気機関車|6100形]]。
;形式26 (Nos. 119, 120)
:1897年、米ピッツバーグ製。軸配置4-4-2 (2B) のテンダ機。1905年、[[京都鉄道]]から譲受。後の鉄道院[[国鉄5200形蒸気機関車|5200形]]。
;形式27 (Nos. 121, 122)
:1905年、自社兵庫工場製。軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄8500形蒸気機関車|8500形(初代)]]。
;形式28 (Nos. 125 - 128)
:1906年、自社兵庫工場製。軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。後の鉄道院[[国鉄3380形蒸気機関車|3380形]]。
;形式29 (Nos. 129 - 135)
:1889年、1894年、1901年、[[ドイツ|独]]ホーエンツォレルン製。軸配置0-4-0 (B) のタンク機。旧讃岐鉄道A1形1-4, 11-13。後の鉄道院[[国鉄60形蒸気機関車|60形]]。
;形式30 (Nos. 136 - 139)
:1896年、英ナスミス・ウィルソン製。軸配置0-6-0 (C) のタンク機。旧讃岐鉄道A2形5-8。後の鉄道院[[国鉄1200形蒸気機関車|1200形]]。
;形式31 (Nos. 140, 141)
:1896年、英ダブス製。軸配置02-6-0 (C) のタンク機。旧讃岐鉄道A3形9, 10。後の鉄道院[[国鉄1200形蒸気機関車#1230形(ダブス製1200系)|1230形]]。
;形式32 (Nos. 142 - 152)
:1905年、米ボールドウィン製。軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。後の鉄道院[[国鉄3360形蒸気機関車|3360形]]。
;形式33 (No. 93)
:自社兵庫工場で形式16をピストン弁に改造したもの。軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。後の鉄道院[[国鉄6050形蒸気機関車|6050形]]。
;形式34 (No. 118)
:軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機。1906年に形式25を改造したもの。後の鉄道院[[国鉄6100形蒸気機関車|6100形]]。
;形式35 (Nos. 153 - 158)
:1909年、帝国鉄道庁兵庫工場製(買収後に完成)。軸配置2-6-4 (1C2) のタンク機。後の鉄道院[[国鉄3700形蒸気機関車|3700形]]。
=== 客車 ===
[[ファイル:Dining car -Sanyo Tetsudo.jpg|thumb|1227-1229のいずれか国鉄ホイシ9180形<ref>鉄道友の会客車気動車研究会『日本の食堂車』ネコパブリッシング、2012年、5頁</ref>]]
山陽鉄道の番号は貨車客車車種に関係なく通し番号がふられている。各車両の番号対象表は形式図を参照
ボギー優等車 製造所は山陽鉄道兵庫工場
* 883ほか<ref group="註" >883・391・908-911・932・933</ref>一二等車(定員一等24人、二等32人)8両 国有化後<ref>[[国鉄客車の車両形式#1911年称号規程|明治44年1月16日車両称号規程]]より</ref>ホイロ5250-5257(形式5250)[{{NDLDC|2942240/25}} 形式図]
* 912 一二等車(定員一等24人、二等32人)1両 国有化後ホイロ9265(形式9265)[{{NDLDC|2942240/201}} 形式図]
* 1943-1945 一二等車(定員一等21人、二等36人)3両 国有化後ホイロ9270-9272(形式9270)[{{NDLDC|2942240/202}} 形式図]
* 2635・2636 一二等車(定員一等21人、二等31人)2両 国有化後ホイロ9273・9274(形式9270)[{{NDLDC|2942240/203}} 形式図]
* 884・892・935 二等車(定員66人)3両 国有化後ホロ9320-9322(形式9320)[{{NDLDC|2942240/208}} 形式図]
* 934・936・1236-1238 二等車(定員66人)5両 国有化後ホロ9323-9327(形式9320)[{{NDLDC|2942240/209}} 形式図]
* 1420・1421・1684・1685 二等車(定員68人)4両 国有化後ホロ9328-9331(形式9320)[{{NDLDC|2942240/210}} 形式図]
* 2625-2631 二三等車(定員二等36人、三等30人)7両 国有化後ホロハ9400-9406(形式9400)[{{NDLDC|2942240/218}} 形式図]
* 1422-1426 二三等車(定員二等32人、三等36人)5両 国有化後フホロハ9490-9494(形式9400)[{{NDLDC|2942240/220}} 形式図]
* 2452-2454 一等寝台車(定員寝台20人、座席30人)3両 国有化後イネ9060-9062(形式9060)[{{NDLDC|2942240/180}} 形式図]
* 1244ほか<ref group="註" >1244-1246、1417-1419、1681-1683</ref> 一等寝台食堂車(定員寝台16人、座席24人、食堂8人)9両 国有化後イネシ9070-9078(形式9070)[{{NDLDC|2942240/181}} 形式図]1900年(明治33年)から使用された。寝台車の嚆矢。専従の給仕が乗務。馬関延長時に1681-1683を増備<ref name= "tomo"/>
* 1841 一等寝台食堂車(定員寝台16人、座席24人、食堂8人)2両 国有化後イネシ9080(形式9080)[{{NDLDC|2942240/182}} 形式図]
* 2037・2038 一等寝台食堂車(定員寝台16人、座席24人、食堂8人)2両 国有化後イネシ9081・9082(形式9080)[{{NDLDC|2942240/183}} 形式図]
* 2045・2046 一等寝台食堂車(定員寝台16人、座席24人、食堂8人)2両 国有化後イネシ9090・9091(形式9090)[{{NDLDC|2942240/184}} 形式図]国有化後に完成<ref name= "tomo"/>
* 1834・1836-1840 二等寝台車(定員52人)5両 国有化後ロネ9130-9135(形式9130)[{{NDLDC|2942240/187}} 形式図]
* 1227-1229 一等食堂車(定員一等26人、食堂13人)3両 国有化後ホイシ9180-9182(形式9180)[{{NDLDC|2942240/191}} 形式図]1899年(明治32年)から使用された。本格的食堂車の嚆矢。登場時には食堂室中央に大型テーブルが設けられる<ref name= "tomo">鉄道友の会客車気動車研究会『日本の食堂車』ネコパブリッシング、2012年、5-7頁</ref>
* 2399-2401 二等食堂車(定員二等8人、食堂24人)3両 国有化後ホロシ9210-9212(形式9210)[{{NDLDC|2942240/195}} 形式図]
2軸蓄電車 客車列車の室内電灯のため蓄電池を積込んだ車両を製作した。
* 313ほか<ref group="註" >313-316、318-324。326-329、332-338、340、357、586</ref> 25両 山陽鉄道会社兵庫工場製 国有化後チク4500-4524(形式4500) [{{NDLDC|2942239/452}} 形式図]
* 317ほか<ref group="註" >317、325、339、361、585</ref>5両 山陽鉄道会社兵庫工場製 国有化後チク4525-4529(形式4525) [{{NDLDC|2942239/453}} 形式図]
* 330・331 2両 山陽鉄道会社兵庫工場製 国有化後チク4530.4531(形式4530) [{{NDLDC|2942239/454}} 形式図]
* 354・355 2両 山陽鉄道会社兵庫工場製 国有化後チク4532.4533(形式4532) [{{NDLDC|2942239/455}} 形式図]
* 349・364・369 3両 オールドベリー工場製 国有化後チク4534-4536(形式4534)[{{NDLDC|2942239/456}} 形式図]
{{Reflist|group="註"}}
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;"
|-
! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車
|-
|1888||9||55||104
|-
|1889||9||70||200
|-
|1890||27||164||443
|-
|1891||25||170||514
|-
|1892||25||139||323
|-
|1893||31||149||358
|-
|1894||38||179||438
|-
|1895||39||210||468
|-
|1896||49||230||615
|-
|1897||70||275||805
|-
|1898||87||328||890
|-
|1899||85||322||941
|-
|1900||87||325||937
|-
|1901||103||380||1,166
|-
|1902||105||400||1,351
|-
|1903||116||436||1,580
|-
|1904||133<br>△3||523<br>△21||1,759<br>△5
|-
|1905||142<br>△3||521<br>△21||1,805<br>△5
|-
|1906||152<br>△3||534<br>△21||2,075<br>△5
|-
|}
*「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
* 車両欄△印は借受車(呉線)
*1892年度の車両の減少は不況による車両売却<ref>『[[日本国有鉄道百年史]]』第2巻、584頁</ref>
*1903年(明治36年)播但鉄道買収により機関車6両、客車26両、貨車82両を承継<ref>[{{NDLDC|2127166/234}} 『日本鉄道史. 中篇』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1904年(明治37年)讃岐鉄道買収により機関車13両、客車73両、貨車62両を承継<ref>[{{NDLDC|2127166/236}} 『日本鉄道史. 中篇』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
== 航路 ==
* 徳山-門司-赤間関間 1898年(明治31年)10月3日開航。1901年(明治34年)5月27日廃止。馬関丸、豊浦丸
* 馬関-門司間 1901年(明治34年)5月27日開航。大瀬戸丸、下関丸
* 岡山-高松間 1903年(明治36年)3月18日開航。旭丸、玉藻丸
* 尾道-多度津間 1903年(明治36年)3月18日開航。児島丸
* 宮島-厳島間 1903年(明治36年)5月8日開航。宮島丸、厳島丸
* 下関-釜山間 1905年(明治38年)9月11日開航。壱岐丸、対馬丸
古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、1988年、9-16、23頁
詳細は[[山陽汽船商社]]参照
=== 船舶 ===
* 馬関丸 船舶番号4817 鋼体 322トン 1899年(明治32年)三菱造船所製<ref name="snm33">[{{NDLDC|901330/107}} 『日本船名録. 明治33年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>1903年(明治36年)売却
* 豊浦丸 船舶番号4818 鋼体 320トン 1899年(明治32年)三菱造船所製<ref name="snm33"/>1903年(明治36年)売却
* 下関丸 船舶番号6833 鋼体 188トン 1901年(明治34年)三菱造船所製<ref>[{{NDLDC|901332/102}} 『日本船名録. 明治35年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 大瀬戸丸 船舶番号6834 鋼体 188トン 1901年(明治34年)三菱造船所製<ref name="snm35">[{{NDLDC|901332/103}} 『日本船名録. 明治35年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 小門丸 船舶番号6861 木造 25トン 1901年(明治34年)川崎造船所製<ref name="snm35"/>
* 珠島丸 船舶番号8267 木造 33トン 1902年(明治35年)[[日立造船#沿革|大阪鉄工所]]製<ref name="snpk37">[{{NDLDC|901335/109}} 『日本船名録. 明治37年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 宮島丸 船舶番号8377 木造 39トン 1902年(明治35年)小野清吉製<ref>[{{NDLDC|901338/114}} 『日本船名録. 明治39年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 旭丸 船舶番号8271 鋼体 24トン 1903年(明治36年)大阪鉄工所製<ref name="snpk37"/>
* 児島丸 船舶番号8272 鋼体 223トン 1903年(明治36年)三菱造船所製<ref name="snpk37"/>
* 玉藻丸 船舶番号8273 鋼体 223トン 1903年(明治36年)三菱造船所製<ref name="snpk37"/>
* 細江丸 船舶番号9042 木造 32トン 1905年(明治38年)三菱造船所製<ref name="snpk39122">[{{NDLDC|901338/122}} 『日本船名録. 明治39年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 厳島丸 船舶番号9050 鋼体 70トン 1905年(明治38年)大阪鉄工所製<ref name="snpk39123">[{{NDLDC|901338/123}} 『日本船名録. 明治39年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 壱岐丸 船舶番号9043 鋼体 1680トン 1905年(明治38年)三菱造船所製 (山陽汽船所有)<ref name="snpk39122"/>
* 対馬丸 船舶番号9048 鋼体 1679トン 1905年(明治38年)三菱造船所製 (山陽汽船所有)<ref name="snpk39123"/>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
*{{Cite journal |和書|author =井田泰人|title =山陽鉄道会社における中上川彦次郎の経営姿勢と社内改革|date =1997|publisher =交通史学会|journal =交通史研究|volume =39|doi=10.20712/kotsushi.39.0_56|pages =56-69|ref = }}
*{{Cite journal |和書|author =井田泰人|title =村野山人と山陽鉄道|date =2002|publisher =交通史学会|journal =交通史研究|volume =48|doi=10.20712/kotsushi.48.0_57|pages =57-68|ref = }}
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{DEFAULTSORT:さんようてつとう}}
[[Category:山陽鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:かつて存在した兵庫県の企業]]
[[Category:かつて存在した日本の海運会社]] | 2003-04-11T07:30:20Z | 2023-12-29T04:03:31Z | false | false | false | [
"Template:BS-table",
"Template:BS",
"Template:BS4",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite journal",
"Template:Reflist",
"Template:鉄道国有法被買収私鉄",
"Template:基礎情報 会社",
"Template:読み仮名",
"Template:UKrail-header",
"Template:BS-colspan",
"Template:BS2"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%99%BD%E9%89%84%E9%81%93 |
6,506 | 山陽本線 | 山陽本線(さんようほんせん)は、兵庫県神戸市中央区の神戸駅から福岡県北九州市門司区の門司駅までを瀬戸内海に沿って結ぶJRの鉄道路線(幹線)である。本線のほか、通称「和田岬線」と呼ばれる兵庫駅 - 和田岬駅間の支線を持つ。神戸駅 - 下関駅間と和田岬線は西日本旅客鉄道(JR西日本)、下関駅 - 門司駅間は九州旅客鉄道(JR九州)の管轄となっている。東海道本線と並び、日本の鉄道交通・物流の大動脈を担い続けている。
なお、広義では山陽新幹線の新神戸駅から小倉駅までの区間も山陽本線に含める場合があるが、本項目では在来線としての山陽本線全般の概要や沿革などについて記す。新幹線については「山陽新幹線」を、また在来線の地域ごとの詳細については以下の記事も参照。
神戸駅を終点とする東海道本線を西に延長する形で、神戸から姫路・岡山・福山・広島・下関などの兵庫県南部から山陽地方の瀬戸内海沿いの各主要都市を経由し、北九州の門司に至る路線である。東海道本線とともに本州の大動脈としての役割を担っており、普通・快速・新快速・特急・貨物列車が東海道本線と直通運転していることから「東海道・山陽本線」とまとめて呼ばれることが多い。門司駅からは鹿児島本線に直通して小倉駅方面に至る。
かつては東京や京阪神(関西)と中国地方・九州を結ぶ長距離旅客列車が運行されていたが、山陽新幹線の開業後は長距離旅客輸送の役割を同新幹線に譲り、並行する山陽本線の旅客輸送は地域輸送中心の体制に移行している。全線を走行する定期旅客列車は現在、存在せず、倉敷駅 - 門司駅間には特急列車は走行していない。一方、日本貨物鉄道(JR貨物)による貨物列車は全区間で運行されており、ほとんどの貨物列車が東海道本線と直通運転している。
神戸駅 - 姫路駅間には、直通している東海道本線の大阪駅 - 神戸駅間とともに「JR神戸線」の愛称がつけられている。大阪駅 - 姫路駅間は阪神間および兵庫県南部(播磨地域)の都市間を結ぶ主要路線であるJR神戸線として一体的な運行がなされ、12両編成の新快速が高速・高頻度運転を行なっている。JR神戸線区間は基本的に姫路駅以西とは大きく運行形態が異なる。また、神戸駅 - 相生駅間と和田岬線が旅客営業規則の定める「大阪近郊区間」、神戸駅 - 西明石駅間が「電車特定区間」に含まれる。神戸駅 - 西明石駅間は、東海道本線(琵琶湖線)の草津駅から続く複々線となっており、草津駅 - 西明石駅間の複々線の距離は120.9 kmと日本最長である。複々線区間では主に新快速と特急・貨物列車が列車線を、快速列車と普通電車が電車線を走行する。
中国地方の広島エリアの区間にある「瀬野八」と呼ばれる瀬野駅 - 八本松駅間は、22.6‰の勾配と半径300mの急曲線が散在しているため、スピードアップの大きな障害となっている(沿線風景の三原駅 - 広島駅間も参照)。
神戸駅 - 下関駅間と和田岬線のJR西日本区間全線がIC乗車カード「ICOCA」の利用エリア、下関駅 - 門司駅間がJR九州のIC乗車カード「SUGOCA」の利用エリア(福岡・佐賀・熊本・大分エリア)となっている。ただし、ICOCA定期券を除いてICOCAエリアとSUGOCAエリアとをIC乗車カードでまたがって利用することはできない。
ラインカラーは、JR神戸線区間にはJR西日本のコーポレートカラーである「青」が設定されており、姫路駅以西には特に設定されていなかったが、公式サイトの近畿エリア路線図には、姫路駅 - 上郡駅間もJR神戸線と同じ青で表現されていた。岡山支社では「緑」、広島支社では「青」が、それぞれ自支社独自のラインカラーに設定されていたが、2014年度から路線記号の導入に合わせて広島支社エリアでもJR西日本としての公式なラインカラーが設定されることになり、ラインカラーと路線記号として、神戸駅 - 上郡駅間に青(■) A 、白市駅(後に糸崎駅まで延長) - 広島駅間に緑(■) G 、広島駅 - 岩国駅間に赤(■) R がそれぞれ設定された。このうち、海田市駅 - 広島駅間は呉線の列車が乗り入れるため、重複して黄(■) Y が、広島駅 - 横川駅間は可部線の列車が乗り入れるため、重複して青(■) B が付与されている。
2016年3月26日からは岡山支社エリアでもラインカラーと路線記号として、三石駅 - 岡山駅間(既存の「A」区間との境界は上郡駅)に黄緑(■) S 、岡山駅 - 福山駅間に橙(■) W 、福山駅 - 糸崎駅間に空色(■) X がそれぞれ設定された。 このうち、東岡山駅 - 岡山駅間は赤穂線の列車が乗り入れるため、重複して赤(■) N が、岡山駅 - 倉敷駅間は伯備線の列車が乗り入れるため、重複して緑(■) V が付与されている。
なお、このダイヤ改正後に更新された公式サイトの全域路線図や、岡山支社管内で運賃表を路線記号入りに更新した駅や、2017年3月に案内表示の更新が開始された糸崎駅では、既存の「G」区間についても三原駅 - 白市駅間が包含され、三原駅 - 広島駅間(「X」区間との境界は糸崎駅)を設定範囲としており、「R」区間は広島地区導入段階から南岩国駅も含まれている。ただし、これらの三原駅 - 入野駅の各駅構内の旅客案内では白市駅 - 岩国駅の各駅とは異なり、路線記号のアルファベットを抜いたカラーのみのシンボルを用いている。
岩国駅 - 下関駅間については2018年8月現在で路線記号導入の予定はない一方で、公式サイトの広島エリアの路線図では2016年度の時点で岩国以東の延長の形で赤で表現されていたが、2017年3月の可部線の延伸に合わせて路線記号制定前に使用していた青(■)による案内に戻された。この時点では当該区間の駅構内の旅客案内で赤と青が混在(いずれの場合もアルファベット無し)していたが、2018年3月のダイヤ改正までには青に統一されたほか、岩国駅については新駅舎供用と同時に区間のカラーを区別するようになった。
JR九州区間においても2018年9月からラインカラー・駅ナンバリングが設定されており、鹿児島本線(吉塚 - 門司港間)と共通のラインカラー赤(■)、路線記号JAを使うが、ナンバリングは鹿児島本線と独立して設定してあり、小倉駅をJA51として下関駅へ向けて増加する。
支社および鉄道部の管轄は以下のように分かれている。
上記の営業キロ数は柳井駅経由のものである。岩国駅 - 櫛ケ浜駅間を通過する場合の運賃・料金は最短経路である岩徳線経由として計算する(経路特定区間)。岩徳線の岩国駅 - 櫛ケ浜駅間は営業キロ43.7 km、換算キロ48.1 kmなので、神戸駅 - 門司駅間の運賃・料金計算に用いる営業キロは512.7 km、運賃計算キロは517.1 kmとなる。
須磨駅 - 塩屋駅間、東尾道駅 - 三原駅間、宮島口駅近辺、岩国駅以西の山口県内では、瀬戸内海が車窓に迫る。最後は下関駅の先で海の下に潜って、再び地上に出るとそこは九州である。
山陽本線の起点でもあり、東海道本線の終点でもある神戸駅は、3面5線の構造になっており、上り線は2面3線の構造になっている。東海道本線から途切れることなくほとんどの列車が直通運転を行っている。神戸駅を出ると、東海道本線から引き続き方向別複々線で西へ進み、しばらくビル街のまん中を貫くように走る。次の兵庫駅では和田岬駅へ向かう支線の通称「和田岬線」が接続する。和田岬線は、工場地帯の通勤線であり、平日でも朝夕の時間帯しか運行されていない。ホームも1面1線の単線路線で、兵庫駅 - 和田岬駅間のピストン輸送となっている。
兵庫駅 - 新長田駅間で方向別複々線が終わり、ここから先は線路別複々線となる。列車線が山側、電車線が海側になっており、列車線を新快速などの優等列車と貨物列車が走り、電車線を快速と普通が走っている。兵庫駅から明石駅まで列車線にホームはない。新長田駅は普通しか停車しないが、神戸市営地下鉄西神・山手線、海岸線と連絡している。
神戸貨物ターミナル駅が併設されている鷹取駅を出ると、列車線の上り線が合流して阪神高速3号神戸線を潜る。少し走ると須磨海浜公園駅へ。電車線のみにホームがあり、2面4線の橋上駅舎となっている須磨駅付近では海と山に挟まれた険しい地形の中を山陽電気鉄道本線・国道2号とともに並走する。国道2号が山陽本線を乗り越えて行くと塩屋駅に着く。垂水駅を出ると、舞子駅で明石海峡大橋の下を潜り、明石市に入ってすぐの朝霧駅まで海沿いを走り、やがて日本標準時子午線上にある時計台で知られる明石市立天文科学館を過ぎると、城下町である明石市の中心駅・明石駅である。
この駅は2面4線の構造になっているが、線路別の構造になっているので同一ホーム上での緩急接続はできない。東海道本線の草津駅から続いた複々線は次の西明石駅で終わり、この先は複線となって真っ直ぐ北西方向を向いて走る。住宅やマンションが建て込む明石の市街地を走り、2面4線の大久保駅。さらに真っ直ぐ走り、左手から山陽新幹線が近づいてきて、それを見ながら2面2線の魚住駅。魚住駅を出ると山陽新幹線が左手に離れて行き、線路は真っ直ぐ北西方向に走り、明石市と播磨町に跨る2面3線の土山駅に着く。加古川市に入り、左手に加古川バイパスが並行するのを見て2面3線の東加古川駅、さらに真っ直ぐ北西方向を向いて走り、高架線を駆け上がり加古川の市街地を見て加古川駅に着く。
加古川を出るとすぐに加古川を渡り宝殿駅。この駅は加古川市と高砂市の境にある。姫路バイパスが乗り越えて右にカーブしながら曽根駅。ここまでが高砂市で、この駅を出ると播磨地方の中心都市・姫路市に入る。ひめじ別所駅・姫路貨物駅、御着駅を過ぎると市川を渡り、東姫路駅を過ぎて市街地に入り姫路駅に至る。姫路駅は姫新線・播但線および播州赤穂や上郡・岡山方面との乗り換え駅となっている。また、須磨駅 - 明石駅間で並走し、明石以西では南側の沿岸部に進路をとった山陽電気鉄道本線も、姫路駅北側に所在する山陽姫路駅に乗り入れている。
姫路駅を出ると山陽電鉄本線を跨ぎ、その後は南西方向に真っすぐに進んで山陽新幹線を潜りしばらく姫新線と並行する。姫路バイパスを潜ると英賀保駅。はりま勝原駅を過ぎ、次の網干駅は姫路市の南西端に位置し、岡山方には網干総合車両所が広がっている。網干駅は山陽網干駅と駅名は似るが、約3 km離れており乗り換えには向かない。網干駅を出ると、左手に広大な車両所が広がるのを見て進む。なお、網干総合車両所の所在地は姫路市ではなく太子町である。
車両所が途切れると林田川を渡り、山陽新幹線の高架が見えて、それを潜ると揖保川を渡る。揖保川を渡ってたつの市に入ると竜野駅だが、名称は「たつの」であっても平成の大合併前の龍野市内の駅ですらなかった駅で、たつの市の中心駅は市役所なども近い、姫新線の本竜野駅である。相生市に入って山陽新幹線を潜ると相生駅、左手に単線の赤穂線が分かれていき、山陽本線は右にカーブし、再び山陽新幹線の高架と山陽自動車道を潜って狭い山間を行く。国道2号と並行して進み、赤穂市に入って有年駅。有年駅を出ると右にカーブして進路を北にとる。国道2号とは離れて、国道373号と千種川に沿って進む。しばらくして上郡町に入り、千種川を渡ると、智頭急行線が分岐する上郡駅に到着する。現在は京阪神・岡山から鳥取方面に向かう特急列車は智頭急行線を経由している。
この先、兵庫県と岡山県の県境を有する上郡駅 - 三石駅間は、山陽本線では最も長い駅間であると同時に、和田岬線に次いで列車本数の少ない区間であり、この区間を通る普通列車は、企画乗車券「青春18きっぷ」の使用可能期間中、京阪神方面と四国・広島・岡山方面を往来する乗客で混雑する場合が多い。そのため、一部の列車で最大6 - 7両編成での運転も行っている。
上郡駅を出て、上下線が智頭急行線の単線の線路を挟んで進み、左にカーブして智頭急行線が高架線の形で、山陽本線上り線を乗り越えて右手に分かれて行く。ここから先は標高は低いものの軽い峠越えであり、山を周り込むように走る。例えば次の駅への最短距離を進むなら南南西の鯰峠に直行せねばならないが、実際の経路は北上して鯰峠を避けて、鯰峠の西の谷を登りながら走る。そして、千種川水系と吉井川水系との分水嶺である船坂峠を船坂トンネルで抜けると岡山県に入る。国道2号と並行して走り、三石駅。次は備前市にある閑谷学校に近い吉永駅。吉永駅を出て、日笠川や金剛川を渡り和気駅。和気を出ると左手に山陽自動車道、右手に吉井川を見ながら進むと熊山駅、吉井川を渡ると岡山市に入り万富駅。万富駅からしばらく西南方向に走ると瀬戸駅で、しばらく南に向かって進み、山陽新幹線の高架を潜って、右にカーブして山陽新幹線に沿って西へ進んで上道駅に着く。東岡山駅で赤穂線と合流して高島駅を過ぎると、百間川を渡り西川原駅。旭川を渡る付近で岡山城が見え始めると、津山線と合流し岡山駅に着く。
岡山駅は津山線のほか、吉備線と宇野線の起点であると同時に、運転系統上は伯備線と赤穂線および瀬戸大橋線の列車も、ほとんどが岡山駅を始発・終着としている。また岡山電気軌道の路面電車との乗り換えも可能である。
岡山駅を出て、JR貨物岡山機関区、JR西日本岡山電車区といった広大な車両基地を併設した岡山貨物ターミナル駅を過ぎると、北長瀬駅、庭瀬駅を通る。庭瀬駅を出ると家並みが途切れて田畑が目立つようになる。岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)の最寄駅でもある中庄駅を経て、右手に山陽自動車道の倉敷ジャンクションが見え、瀬戸中央自動車道を潜る。左にカーブして西南方向を向いて走り、伯備線への下り線が分岐し高架になって山陽本線を乗り越え、3線になってホーム3面5線の倉敷駅へ。
岡山県第二の都市・倉敷市の中心駅である倉敷駅は伯備線が分岐し、駅の南西からは水島臨海鉄道が発着している。周辺には大原美術館や白壁の商家が並ぶ美観地区などの観光名所がある。 次の西阿知駅の先で高梁川を渡ると、白桃や、マスカット、ピオーネなどのブドウの産地である玉島地域を通り、平地や山の斜面に桃畑や葡萄畑が作られているのを見ることができる。再び山陽新幹線が近付いてくると新倉敷駅である。金光教の本部がある金光駅、鴨方駅、里庄駅と、のどかな田園風景がしばらく続く。笠岡市に入って、工場や商業施設が国道2号沿いに立ち並んでいるのを見ながら走り、左手に笠岡港が見えると笠岡駅である。次の大門駅から広島県に入る。
貨物ターミナル併設の東福山駅を過ぎ、3階を新幹線、2階部分を在来線が走行する二重高架区間となり福山城が迫ると広島県東部の拠点都市である福山市の中心駅福山駅に到着する。福山駅は山陽新幹線との乗り換え駅で、福塩線が分岐するほか、井原鉄道の一部列車も乗り入れる。芦田川を渡り市街地をしばらく進むと、周辺の景色は田園地帯になり、山陽新幹線が福山トンネルに入るあたりで備後赤坂駅を経て、1966年まで存在した旧松永市の中心駅・松永駅へ。しばらく宅地化の進む中を走って東尾道駅を過ぎる。
三原駅までは海の見える区間が長く続き、中でも尾道市にある急斜面の石段と伝統的な街並みに、しまなみ海道の橋梁を望む情景は、しばしば観光パンフレットの題材に使われる。
尾道の市街地が途切れて三原市に入る。糸崎港が見えてくると糸崎駅である。糸崎駅は運転上の要衝で、岡山方面や広島方面からの列車が折り返す。次の三原駅では呉線が分岐する。
本郷駅を過ぎるとその後は山岳路線となり、緩やかな上りカーブが連続する。東広島市に入り、椋梨川を渡ると河内駅。駅前には国道432号が通り、駅南側の山の上には広島空港がある。入野駅を過ぎ、白市駅からは広島シティネットワーク区間に入る。この駅から先はしばらく平坦な路盤になり、学生の多い西高屋駅、東広島市の中心地である酒都・西条にあり広島大学への連絡口ともなっている西条駅、2017年に開業した寺家駅を経て、八本松駅へ向かう。
山陽本線は山陽鉄道の時代から、なるべく路線の勾配を抑えることに重点を置いて建設されたが、三原駅以西のルートを決めるにあたり、工費のかかるトンネルを避けつつ、最も経済的な最短経路を選んだ結果、広島県内の八本松駅 - 瀬野駅間に「瀬野八」と呼ばれる22.6‰の急勾配区間が生じた。上り貨物列車は広島貨物ターミナル駅 - 西条駅間で、最後尾に補助機関車(補機)を連結して後押ししてもらっている。
瀬野八を下っていき、広島市に入り、瀬野川と国道2号に沿いながら瀬野駅へ。この駅からはスカイレールが北に延びているのが見える。瀬野駅の先も広島平野に流れる瀬野川に沿って坂が続き、中野東駅に至る。この辺りから徐々に平地が多くなり、次の安芸中野駅を出る頃には広島平野が広がる。
海田町に入ってすぐ、山陽新幹線を潜り、呉線と合流すると海田市駅。海田市を出るとすぐに再び広島市に入り、呉線の線路を潜りて、複々線となって進む。この先、広島駅までは複々線区間で、旅客列車を外側2線に、貨物列車を内側2線に振り分けることで、広島都市圏の輸送量に対応している。府中町に入って向洋駅。この駅付近にはマツダが本社を構える。再度広島市に入り、天神川駅を通り、芸備線の線路が見えた後、グラウンドが垣間見えるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)の横を通過するとまもなく広島駅に到着する。
広島駅では山陽新幹線のほかに芸備線、運転系統上は可部線や呉線の列車が発着しており、それらと接続している。また駅前からは広島電鉄(広電)が発着しており、紙屋町・八丁堀など広島市中心部へのアクセスとなっている。
広島駅を出発するとまもなく、2015年に開業した新白島駅に着く。可部線大町駅と共にアストラムラインとの乗換駅として、広島市北部の住宅地や紙屋町・本通など繁華街へ向かう新たなルートの起点として期待される。横川駅で可部線と分岐し、太田川放水路を渡って左にカーブして、山陽新幹線とは別れ南西を向いて太田川放水路沿いに進む。そのまま太田川放水路沿いに進んで西広島駅。ここから先、宮島口駅までは広電と並行する。草津沼田道路を潜りて、広電の商工センター入口駅が併設されている新井口駅で、八幡川を渡ると、広電の広電五日市駅が併設されている五日市駅、廿日市駅、宮内串戸駅を過ぎ、左手に広電、その向こうに国道2号、さらに向こうに海を見て南下していく。国道2号バイパスが乗り越えて海側を走る国道2号と合流し、しばらく走り阿品駅に着く。市街地と郊外の住宅地の風景が続くが、次第に海沿いの区間となり、車窓に世界遺産で日本三景の一つである安芸の宮島が見えると宮島口駅。宮島口駅を出ると国道2号と並行して海沿いを進む。前空駅を過ぎ、右にカーブして内陸に入って大野浦駅。広島県西端の工業都市・大竹市に入り玖波駅を過ぎ、コンビナート群が近付いてくると大竹駅に着く。
小瀬川を渡ると山口県である。2008年3月15日和木町に開業した和木駅を過ぎ、岩国市の中心駅・岩国駅に到着。この駅は岩徳線との分岐駅で、この線に直通する錦川鉄道の車両も見られる。
岩国駅から櫛ケ浜駅まで、岩徳線は山岳路線として山中を短絡するのに対し、山陽本線は海岸沿いを遠回りして走る。特に南岩国駅から大畠駅までは瀬戸内海が一望できる区間となっており周防大島や大島大橋、防予フェリー(柳井港駅から徒歩でフェリーターミナルにアクセスできる)の船舶を見ることができる。なお、山陽新幹線のルートはほぼ岩徳線に沿っている。
徳山駅から先はカーブをくり返す線形を取る区間が多い。新山口駅では山陽新幹線、宇部線、山口線、萩市方面へのバスの乗り換え駅となっており山口県の鉄道の要衝となっている。 宇部駅を出ると厚狭駅までカーブを多く渡りながら新幹線と合流。山陽小野田市の中心地を過ぎていくと一旦住宅地を抜け、再び街が構成され小月駅に到着。
長府駅を出ると瀬戸内海と別れ、山陽新幹線と垂直に交差する新下関駅を過ぎ、日本海側を経由してきた山陰本線と合流。同線との接続駅である幡生駅は、車両工場である下関総合車両所が隣接し、駅南側にはJR貨物幡生機関区が広がる。住宅地を進み、本州側最後の駅である下関駅に至る。
下関駅 - 門司駅間はJR九州区間となる。下関駅を出ると車両基地である下関総合車両所運用検修センターと貨物駅に挟まれる形で進み、運河を渡った先の彦島で関門トンネルに入り関門海峡の下を通過する。トンネルを出ると本州から九州に入って北九州市となり、鹿児島本線の上下線の間に出て同線と合流し、山陽本線の終点である門司駅に至る。関門トンネルの門司側の出入り口にはデッドセクションがあり、直流・交流の転換を行う(「運行形態」の節も参照)。なお貨物線は坂道での停止を防ぐため、旅客線より小倉側にデッドセクションが設置されている。
東海道本線と同じく、山陽新幹線開業以後は都市間輸送鉄道としての役割は新幹線に譲っている。寝台特急などの夜行列車が全線を通して運転されていたが、2009年3月14日のダイヤ改正で寝台特急「富士」「はやぶさ」(山陽本線内では併結運転)が廃止されたのを最後に山陽本線の全区間を直通運行する定期旅客列車は全廃された。
2019年3月現在、山陽本線内のみを運行する優等列車は無く、線内を走る優等列車は、「らくラクはりま」を除きすべて山陰方面や四国へ直通する列車である。以下の列車が運転されている。
下記に示す区間は山陽本線を走行する区間である。全運行区間など各列車の詳細については当該列車の記事を参照。過去の列車は「山陽本線優等列車沿革」を参照。
長大路線であり、沿線に複数の拠点都市を有していることもあって、現在は姫路駅・相生駅・岡山駅・福山駅・糸崎駅(または三原駅)・広島駅・岩国駅・新山口駅・下関駅で運転系統が分かれている。かつては、車両運用上の都合によりこれらの複数の運転系統にわたって運転される長距離列車が終日にわたって設定されていた(多くは広島駅、徳山駅で列車番号を変更して直通運転していた)。しかし、2009年3月14日ダイヤ改正以降はダイヤが整理され、昼間時の快速列車の廃止や列車本数の削減が行われたほか、岡山地区 - 山口地区相互間の長距離列車も大幅に削減された。2018年の平成30年7月豪雨発生までは糸崎駅 → 下関駅間を走行する列車(2016年3月26日ダイヤ改正から2017年3月4日ダイヤ改正までは岡山駅始発)が下り1本のみ存在し、これが日本で最長の距離を走行する普通列車となっていたが、豪雨後の臨時ダイヤで白市駅発に短縮された。2019年3月16日ダイヤ改正で広島地区の運行車両が227系に統一されたことに伴い、長らく運転されてきた岡山地区 - 広島地区間の長距離列車、並びに広島地区 - 新山口方面直通の長距離列車が完全に消滅し、糸崎駅(または三原駅)と岩国駅での原則乗り換えが発生している。
姫路駅 - 相生駅間と東岡山駅 - 岡山駅間では赤穂線、岡山駅 - 倉敷駅間では伯備線、海田市駅 - 広島間では呉線、広島駅 - 横川駅間では可部線、櫛ケ浜駅 - 徳山駅間では岩徳線、幡生駅 - 下関駅間では山陰本線にそれぞれ直通する列車が乗り入れている。
ダイヤの構成上、次の6つの区間に大きく分けられる。
この区間は近畿圏に含まれている。神戸駅 - 姫路駅間はアーバンネットワークの一角であり、東海道本線大阪駅 - 神戸駅間ともにJR神戸線の愛称が付けられている。ほとんどの列車が東海道本線から直通運転を行っている。並行する私鉄(山陽電気鉄道・神戸高速鉄道)と競合しているため、新快速を運転し高速都市間輸送を行っている。
JR神戸線区間では、新快速・快速が加古川駅・姫路駅・網干駅発着、普通電車が須磨駅・西明石駅発着で、多数運行されている。
姫路駅 - 上郡駅間では本数は少なくなるが、1時間に姫路駅 - 網干駅間で3本、網干駅 - 上郡駅間(相生駅で乗り換え)で1本運転されており、朝夕には網干駅発着の列車が多く設定されている。この区間は新快速も含めてすべて各駅に停車する。JR神戸線からの列車は大半が相生駅から赤穂線に乗り入れ播州赤穂駅まで運転されている。始発・最終を含めた朝晩に限り京都・大阪方面から上郡駅まで行く列車も設定されている。
支線である和田岬線は、朝夕のラッシュ時のみの運転であり、専用の車両による支線内の往復運転となっている。
相生駅 - 岡山駅間を直通する列車は、反対の福山方面と比べると本数が少なく、日中は1時間に1本の運転である。日中は相生駅で赤穂線播州赤穂駅 - 姫路駅間運転の列車と接続している。日中のこの区間は区間列車も含めて、瀬戸駅 - 岡山駅間では1時間に2本運転されている。2021年3月13日のダイヤ改正で和気駅まで運行されていた昼間の区間列車は瀬戸駅までに短縮された。朝晩は姫路駅 - 岡山駅間直通が10往復ある。また、姫路駅 - 上郡駅間、岡山駅 - 瀬戸駅・万富駅(朝の1往復のみ)・和気駅・吉永駅・三石駅間の区間列車もある。相生駅 - 東岡山駅間の夜間滞泊は、3本が上郡駅で、2本が三石駅で行っている。
この区間は3・4両編成を基本に、ラッシュ時は6両・7両(午前のみ)編成で運行される。
新幹線博多開業に伴う1975年3月10日のダイヤ改正から1980年9月30日までの間、姫路駅 - 岡山駅間でも快速が定期列車として数本運転され、相生駅・上郡駅・三石駅・和気駅・瀬戸駅に停車していた。また、1988年3月12日まではこの区間から東海道本線大阪駅までの直通列車(須磨駅・垂水駅は通過)が1往復あり、2002年3月22日までは西明石駅発着の設定があった。
また、1994年4月3日から同年12月18日までの日曜日には、平安遷都1200年祭に関連して全車座席指定席の臨時快速「サンデー三都号」が岡山駅 - 京都駅間で117系・213系を使用して運転され、1997年の京都駅ビル開業直後の日曜・祝日には新快速を臨時延長して早朝に岡山発京都行き、夕方に京都発岡山行きの「ストレート快速京都号」として数か月間運転されたが、末期は夕方の岡山行の設定がなかった。
沿線の町内会等を中心とした「JR快速電車導入促進期成会」は「東備・西播地区の交流促進などに快速導入が必要」と訴え、2008年4月30日、JR西日本岡山支社に運転実現を求める要望書を提出した。JR西日本岡山支社は「車両や運転手の数も限られ検討が必要」としている。また、2010年3月10日には、井戸敏三兵庫県知事と石井正弘岡山県知事が会談し、岡山駅 - 姫路駅間の増便と新快速の運転を要望することで両知事が合意し、さらに同区間の増便と姫新線・赤穂線の利便性向上に向けた取り組みを沿線市町等と進めることも決めたが、以降目立った進展は見られない。
岡山駅 - 糸崎駅間では、普通が1時間に3本、糸崎駅 - 三原駅間では1時間に4本運転されている。2014年3月15日のダイヤ改正で福山駅で乗り換えとなる場合が発生した。朝夕ラッシュ時は6・7・8両での運転もあるが、日中は115系電車3・4両編成での運転が主体となる。快速「マリンライナー」から転用された213系電車も使用されるほか、岡山駅 - 福山駅間では福塩線への車両送り込みのため105系電車で1往復運転されている。岡山以東(赤穂線を含む)と直通運転する列車も多い。以前は呉線経由を含め広島方面への直通列車が多数設定されていたが、2020年3月14日ダイヤ改正で廃止され、全列車が糸崎駅または三原駅で乗り換えとなっている。2021年3月13日ダイヤ改正で白市駅から糸崎駅の列車削減に伴って、糸崎駅から三原駅までの列車の本数が削減された。
岡山駅 - 倉敷駅間では伯備線からの直通列車が1時間に2本程度運転されており、ワンマン運転を行う列車がある。福塩線への車両送り込みのため岡山駅 - 府中駅間の直通列車も下り1本(和気始発)・上り2本設定されている。
岡山駅 - 福山駅間では117系電車による快速「サンライナー」が運転されていた。1999年12月4日からワンマン運転を開始し、4両編成で運転されていた。2019年3月16日のダイヤ改正以降は夕方以降を中心に運転されていた。2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された。
広島地区では国鉄時代末期の1982年に「ひろしまシティ電車」として普通列車が大増発され、JR発足後も「広島シティネットワーク」を構成する一路線として広島空港連絡の白市駅折り返し列車などが運転されるなど、都市圏輸送の充実が図られてきた。
2015年3月14日現在、日中は普通が1時間に4本運転されている。朝を中心に白市駅 - 岩国駅間で快速「通勤ライナー」が1時間に1本運転されている。2010年3月改正以前と、2016年3月26日改正から2018年7月の豪雨災害発生までの間は、快速「シティライナー」も運転されていた。2022年3月のダイヤ改正により、「通勤ライナー」は西条駅 - 広島駅間で早朝に2本(下りのみ)、岩国駅 - 広島駅間で早朝に1本(上りのみ)に削減された。
岡山方面からの列車も乗り入れる糸崎駅 - 三原駅を除き、227系電車のみが使用されている。
この区間では、本数は1時間に1 - 2本程度である。国鉄時代の1975年から1985年にかけては広島駅 - 下関駅間を直通する快速列車(晩年は岩国駅 - 小郡駅(現・新山口駅)間を除いては各駅停車)が設定されていたり、JR化後にも広島方面から徳山駅まで快速「シティライナー」が設定されていた(ただし岩国駅 - 徳山駅間は各駅停車)が、現在は普通列車のみの運転である。2012年3月17日改正で広島地区からの直通列車が大幅に削減され、2019年3月16日改正で徳山駅から新山口・下関方面への直通運転が廃止された。一方、徳山駅で系統分割される列車は減少し、岩国駅 - 下関駅間を直通運転する列車が増加している。
朝夕ラッシュ時には、下関市内の小月駅 - 下関駅間のみを運転する列車が設定されており、徳山・新山口方面 - 下関間を直通する列車と合わせて1時間に3 - 4本の運行となる。
115系電車での運転が中心となっている。特に新山口駅 - 下関駅間は国鉄時代に製造された車両のみで運転されている。2023年3月18日のダイヤ改正以降、4両編成以下で運転される列車は終日ワンマン運転を行っている。
関門トンネルを含むこの区間はJR九州の管轄区間となる。かつては本区間から新山口方面や山陰本線との直通列車が存在していたが、2005年10月のダイヤ改正でこれらの直通列車は全廃され(これにより、関門トンネルを通過する気動車列車も消滅)、運転系統が分断された。下関駅では原則として同一ホームでの対面乗り換えとして利便性を維持している。
旅客列車の日中の運転本数はおおむね1時間に2 - 3本であり、下関駅 - 門司駅間のみの区間運転列車や下関駅から門司駅を経て鹿児島本線小倉駅までの運転となっている。早朝のみ、日豊本線柳ヶ浦駅・行橋駅(いずれも上りのみ)・大分駅(下りのみ)と直通する列車が設定されている。
本州と関門トンネル内は直流電化だが、関門トンネルの九州側の門司駅構内で交流電化になる。そのため、関門トンネルを通過する下関駅 - 門司駅間は気動車と交直両用電車・機関車のみが走行できる。普通列車にはJR九州大分車両センター所属の415系1500番台交直流電車が使用され、門司駅構内のデッドセクションで直流・交流の切り替えを行っている。
なおこの区間をふくむ普通乗車券で山陽新幹線に乗車することはできない。詳しくは「山陽新幹線#新下関 - 博多間の取り扱い」を参照。
毎週水曜日(多客期や祝日と重なる場合などを除く)は保守点検の時間を確保するため、以下の区間・時間帯でおよそ1時間は運休している(2015年3月14日現在)。
山口地区では、保守点検に伴い、列車を区間運休する日がある。その場合は運休区間で代行バスを運行している。
2001年より2005年まで、主に、広島駅 - 下関駅間で下関地域鉄道部のキハ181系気動車を用いた気動車快速列車が運行されていた。列車名は時期により異なり、主に「フグの旬の時季」とされる冬季では「下関ふくフク号」、夏季では「関門・海峡物語号」などの列車愛称を与えられ運行された。これは、基本的に山陰本線特急「いそかぜ」に使用されていた下関地域鉄道部(現在の下関総合車両所に相当)所属の同車両が3両編成2本と最低限の車両しか配備されていなかったためであるが、全車両座席指定席で運行するなど特色ある運用がなされたと言われる。
なお、2003年の夏期には、NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の舞台ともなった巌流島が関門海峡上にあることから、同ドラマの主人公であった七代目市川新之助(現在の十一代目市川海老蔵)演ずる宮本武蔵のラッピングなどを施した「関門・MUSASHI号」が運行された。また、2015年には、大河ドラマ「花燃ゆ」の放映を記念して、三石駅 - 下関駅間で、ラッピング列車が運行された。
ただし、これらキハ181系気動車を用いた気動車快速列車では同車両が不調または定期検査などの理由により、時折宮原総合運転所または岡山電車区の117系電車や岡山電車区の213系電車による電車列車により代替運行が行われていた。このほかふくフク号にはSLやまぐち号用のレトロ客車が使われたり、きのくにシーサイド用の客車が使われたこともある。2005年の春の運行では、「あさかぜ」の運用を離脱したばかりの下関地域鉄道部下関車両管理室所属の24系客車が使用された。
2001年3月3日に「山陽シティライナー」が運転を開始して以来、運転区間を年々拡大し、かつては下関発三石行きの普通列車があり、運行距離が 425.7km で、普通列車では日本最長であった。
三石駅直通列車が廃止されてから2009年3月までは、下関駅 - 岡山駅間を運行する列車が普通列車では日本最長の 384.7km になった。以後は新山口までの 315.8kmと短縮し、2015年3月14日のダイヤ改正でさらに徳山まで区間短縮となりこの時点で最長距離普通列車の座を根室本線の「滝川発釧路行普通2427D列車」に譲った。
2016年3月26日のダイヤ改正で再び岡山発下関行きの普通列車が1本(369M)復活し、最長距離普通列車となったが、翌2017年3月4日に糸崎発下関行きに短縮されたため再び滝川発釧路行2427Dに最長距離の座を譲った。ただし2427Dは根室本線が台風により一部区間が不通となっているため、新得発釧路行きでの運転となっており、実際に運転している距離は369Mのほうが長い。
2019年3月16日のダイヤ改正で、369Mは糸崎発岩国行きにさらに短縮されたため、快速・新快速を含めば最長距離普通列車は敦賀発播州赤穂行きの新快速3527M(土休日は3407M・3527Mの2本) 275.5 kmとなっている。
2020年3月14日のダイヤ改正にて369M列車は時刻表上から消滅した。
和田岬線を除く全線で多くの貨物列車が運行されている。大半がコンテナ車で編成された高速貨物列車で、タンク車などを連結可能な専用貨物列車は一部区間で臨時列車として運行されているのみである。
牽引機は、幡生操車場以東では直流用電気機関車のEF65形、EF66形、EF210形。これらは東海道本線と直通している。幡生操車場以西では交流直流両用電気機関車のEH500形。なお幡生操車場駅 - 下関駅間の貨物列車は直流用電気機関車またはDE10形ディーゼル機関車が牽引する。上り列車は広島貨物ターミナル駅→西条駅間で、急勾配(瀬野八)登坂用に補助機関車(補機)を編成後部に連結して後押し運転しており、2013年初頭からは補機としてEF210形300番台を連結している。2022年3月までは補機にEF67形電気機関車も使用されていた。また神戸駅 - 伯備線間はEF64形電気機関車、岡山貨物ターミナル駅 - 水島臨海鉄道間はDE10形・DD200形(水島臨海鉄道所有)ディーゼル機関車が牽引する。
かつて運転されていた山口線 - 美祢線直通列車はDD51形ディーゼル機関車が、宇部線 - 美祢線直通列車はDE10形ディーゼル機関車が牽引していた。これらについては直通先各線におけるJR貨物の第二種鉄道事業が2014年4月1日限りで廃止されたため、現在は乗り入れていない。
山陽線の貨物列車発着のある駅は、神戸貨物ターミナル駅・姫路貨物駅・岡山貨物ターミナル駅・東福山駅・広島貨物ターミナル駅・大竹駅・岩国駅・新南陽駅・宇部駅・下関駅である。
平成30年7月豪雨により、2018年7月以降は広島県内で一部区間が1か月以上復旧できず不通となり、伯備線・山陰本線・山口線経由での貨物列車の迂回運転が同年8月28日から実施され、同年9月30日に最後の不通区間が開通することとなったため、運行は9月28日に終了した。しかし台風24号の影響で同年9月29日に一部区間が不通となったため、同年10月5日から再び伯備線・山陰本線・山口線経由の迂回貨物列車が運行された。同月13日に山陽本線が全線開通することになったため、運行は同月11日に終了した。
他線への直通車両は当該路線の記事を参照。以下に示す車両はすべて電車である。なお、網干車とは網干総合車両所所属車、岡山車とは下関総合車両所岡山電車支所所属車、広島車とは下関総合車両所広島支所所属車、下関車とは下関総合車両所運用検修センター所属車のことである。
神戸駅から下関駅までは、私鉄の山陽鉄道の手により開通した。1888年に兵庫駅 - 明石駅間が開業し、翌年に神戸駅・竜野駅まで開通。以後順次西へと路線が延び、1901年に馬関駅(現在の下関駅)まで開通した。山陽鉄道は1906年、鉄道国有法により国有化され、官営鉄道山陽本線となった。
1934年に現在の岩徳線が全通し山陽本線に編入され、距離が短縮された。それまでの柳井経由の路線は柳井線となった。しかし複線化は、柳井経由で進められることとなった。この理由は、現岩徳線には当時の蒸気機関車牽引では運転上の障害となる長大トンネル(欽明路トンネル・3149m)が存在したことから、複線化で長大トンネルをもう1本掘ることは工期的にも不利とされたためである。1944年に柳井線を含む神戸駅 - 下関駅間全線の複線化が完成すると、柳井線を山陽本線に再編入した。代わりに、岩国駅 - 周防高森駅 - 櫛ケ浜駅間は岩徳線となった。
下関駅から九州へは山陽鉄道時代から鉄道連絡船で連絡していたが、1942年に世界初の海底トンネルである関門トンネルが開通し、山陽本線は門司駅まで延長された。
和田岬線を除く全線の電化が1964年に完成、同年に開通した東海道新幹線に接続して西日本各地へ向かう特急列車・急行列車が頻繁に運転されるようになった。その後、山陽新幹線が1972年に岡山駅まで、1975年に博多駅まで開業し、山陽本線を走っていたほとんどの優等列車が廃止された。以後、貨物列車と寝台特急のほかは、地域内輸送が主となっている。これに伴い、中線や副本線などの待避設備を廃止(架線や一部のポイントを撤去し保線用車両等のみ使用できる状態としたものもある)した途中駅もある。また、貨物列車のために宇部駅 - 厚狭駅間が3線化され本線をオーバークロスする珍しい線形が採用されたが貨物列車衰退により複線に戻されており、コンクリートの橋梁と枕木のみが遺構として残っている。そのほか、新山口駅 - 下関駅間では送り込みもかねた気動車列車もあったが2006年に廃止となった。
(貨):貨物専用駅、◆・◇:貨物取扱駅(貨物専用駅を除く。◇印は定期貨物列車の発着なし)
ここでは駅名と主要駅のキロ程のみを記す。接続路線・快速停車駅などの詳細についてはJR神戸線#駅一覧および和田岬線#駅一覧を参照。
( ) 内は起点からの営業キロ
ここでは駅名と主要駅のキロ程のみを記す。接続路線・快速停車駅などの詳細については山陽本線 (広島地区)#駅一覧を参照。
( ) 内は起点からの営業キロ
便宜上、ほぼ全ての列車が直通する鹿児島本線小倉駅までをあわせて記載する。
( )内は起点からの営業キロ。
( )内は神戸駅起点の営業キロ。廃止区間や和田岬線のものを除く。
姫路駅 - 英賀保駅間にある手柄山中央公園(姫路市西延末)近くに新駅を設置する計画がある。2026年春に開業する予定。2021年1月14日にはJR西日本が近畿運輸局に駅設置の認可申請をした。手柄山中央公園には1974年まで姫路モノレールが運行されており、同モノレール以来の鉄道によるアクセス手段となる。 | [
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"text": "山陽本線(さんようほんせん)は、兵庫県神戸市中央区の神戸駅から福岡県北九州市門司区の門司駅までを瀬戸内海に沿って結ぶJRの鉄道路線(幹線)である。本線のほか、通称「和田岬線」と呼ばれる兵庫駅 - 和田岬駅間の支線を持つ。神戸駅 - 下関駅間と和田岬線は西日本旅客鉄道(JR西日本)、下関駅 - 門司駅間は九州旅客鉄道(JR九州)の管轄となっている。東海道本線と並び、日本の鉄道交通・物流の大動脈を担い続けている。",
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"text": "なお、広義では山陽新幹線の新神戸駅から小倉駅までの区間も山陽本線に含める場合があるが、本項目では在来線としての山陽本線全般の概要や沿革などについて記す。新幹線については「山陽新幹線」を、また在来線の地域ごとの詳細については以下の記事も参照。",
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"text": "神戸駅を終点とする東海道本線を西に延長する形で、神戸から姫路・岡山・福山・広島・下関などの兵庫県南部から山陽地方の瀬戸内海沿いの各主要都市を経由し、北九州の門司に至る路線である。東海道本線とともに本州の大動脈としての役割を担っており、普通・快速・新快速・特急・貨物列車が東海道本線と直通運転していることから「東海道・山陽本線」とまとめて呼ばれることが多い。門司駅からは鹿児島本線に直通して小倉駅方面に至る。",
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"text": "かつては東京や京阪神(関西)と中国地方・九州を結ぶ長距離旅客列車が運行されていたが、山陽新幹線の開業後は長距離旅客輸送の役割を同新幹線に譲り、並行する山陽本線の旅客輸送は地域輸送中心の体制に移行している。全線を走行する定期旅客列車は現在、存在せず、倉敷駅 - 門司駅間には特急列車は走行していない。一方、日本貨物鉄道(JR貨物)による貨物列車は全区間で運行されており、ほとんどの貨物列車が東海道本線と直通運転している。",
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"text": "神戸駅 - 姫路駅間には、直通している東海道本線の大阪駅 - 神戸駅間とともに「JR神戸線」の愛称がつけられている。大阪駅 - 姫路駅間は阪神間および兵庫県南部(播磨地域)の都市間を結ぶ主要路線であるJR神戸線として一体的な運行がなされ、12両編成の新快速が高速・高頻度運転を行なっている。JR神戸線区間は基本的に姫路駅以西とは大きく運行形態が異なる。また、神戸駅 - 相生駅間と和田岬線が旅客営業規則の定める「大阪近郊区間」、神戸駅 - 西明石駅間が「電車特定区間」に含まれる。神戸駅 - 西明石駅間は、東海道本線(琵琶湖線)の草津駅から続く複々線となっており、草津駅 - 西明石駅間の複々線の距離は120.9 kmと日本最長である。複々線区間では主に新快速と特急・貨物列車が列車線を、快速列車と普通電車が電車線を走行する。",
"title": "概要"
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"text": "中国地方の広島エリアの区間にある「瀬野八」と呼ばれる瀬野駅 - 八本松駅間は、22.6‰の勾配と半径300mの急曲線が散在しているため、スピードアップの大きな障害となっている(沿線風景の三原駅 - 広島駅間も参照)。",
"title": "概要"
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"text": "神戸駅 - 下関駅間と和田岬線のJR西日本区間全線がIC乗車カード「ICOCA」の利用エリア、下関駅 - 門司駅間がJR九州のIC乗車カード「SUGOCA」の利用エリア(福岡・佐賀・熊本・大分エリア)となっている。ただし、ICOCA定期券を除いてICOCAエリアとSUGOCAエリアとをIC乗車カードでまたがって利用することはできない。",
"title": "概要"
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"text": "ラインカラーは、JR神戸線区間にはJR西日本のコーポレートカラーである「青」が設定されており、姫路駅以西には特に設定されていなかったが、公式サイトの近畿エリア路線図には、姫路駅 - 上郡駅間もJR神戸線と同じ青で表現されていた。岡山支社では「緑」、広島支社では「青」が、それぞれ自支社独自のラインカラーに設定されていたが、2014年度から路線記号の導入に合わせて広島支社エリアでもJR西日本としての公式なラインカラーが設定されることになり、ラインカラーと路線記号として、神戸駅 - 上郡駅間に青(■) A 、白市駅(後に糸崎駅まで延長) - 広島駅間に緑(■) G 、広島駅 - 岩国駅間に赤(■) R がそれぞれ設定された。このうち、海田市駅 - 広島駅間は呉線の列車が乗り入れるため、重複して黄(■) Y が、広島駅 - 横川駅間は可部線の列車が乗り入れるため、重複して青(■) B が付与されている。",
"title": "概要"
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"text": "2016年3月26日からは岡山支社エリアでもラインカラーと路線記号として、三石駅 - 岡山駅間(既存の「A」区間との境界は上郡駅)に黄緑(■) S 、岡山駅 - 福山駅間に橙(■) W 、福山駅 - 糸崎駅間に空色(■) X がそれぞれ設定された。 このうち、東岡山駅 - 岡山駅間は赤穂線の列車が乗り入れるため、重複して赤(■) N が、岡山駅 - 倉敷駅間は伯備線の列車が乗り入れるため、重複して緑(■) V が付与されている。",
"title": "概要"
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"text": "なお、このダイヤ改正後に更新された公式サイトの全域路線図や、岡山支社管内で運賃表を路線記号入りに更新した駅や、2017年3月に案内表示の更新が開始された糸崎駅では、既存の「G」区間についても三原駅 - 白市駅間が包含され、三原駅 - 広島駅間(「X」区間との境界は糸崎駅)を設定範囲としており、「R」区間は広島地区導入段階から南岩国駅も含まれている。ただし、これらの三原駅 - 入野駅の各駅構内の旅客案内では白市駅 - 岩国駅の各駅とは異なり、路線記号のアルファベットを抜いたカラーのみのシンボルを用いている。",
"title": "概要"
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"text": "岩国駅 - 下関駅間については2018年8月現在で路線記号導入の予定はない一方で、公式サイトの広島エリアの路線図では2016年度の時点で岩国以東の延長の形で赤で表現されていたが、2017年3月の可部線の延伸に合わせて路線記号制定前に使用していた青(■)による案内に戻された。この時点では当該区間の駅構内の旅客案内で赤と青が混在(いずれの場合もアルファベット無し)していたが、2018年3月のダイヤ改正までには青に統一されたほか、岩国駅については新駅舎供用と同時に区間のカラーを区別するようになった。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 11,
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"text": "JR九州区間においても2018年9月からラインカラー・駅ナンバリングが設定されており、鹿児島本線(吉塚 - 門司港間)と共通のラインカラー赤(■)、路線記号JAを使うが、ナンバリングは鹿児島本線と独立して設定してあり、小倉駅をJA51として下関駅へ向けて増加する。",
"title": "概要"
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"text": "支社および鉄道部の管轄は以下のように分かれている。",
"title": "概要"
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"text": "上記の営業キロ数は柳井駅経由のものである。岩国駅 - 櫛ケ浜駅間を通過する場合の運賃・料金は最短経路である岩徳線経由として計算する(経路特定区間)。岩徳線の岩国駅 - 櫛ケ浜駅間は営業キロ43.7 km、換算キロ48.1 kmなので、神戸駅 - 門司駅間の運賃・料金計算に用いる営業キロは512.7 km、運賃計算キロは517.1 kmとなる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "須磨駅 - 塩屋駅間、東尾道駅 - 三原駅間、宮島口駅近辺、岩国駅以西の山口県内では、瀬戸内海が車窓に迫る。最後は下関駅の先で海の下に潜って、再び地上に出るとそこは九州である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "山陽本線の起点でもあり、東海道本線の終点でもある神戸駅は、3面5線の構造になっており、上り線は2面3線の構造になっている。東海道本線から途切れることなくほとんどの列車が直通運転を行っている。神戸駅を出ると、東海道本線から引き続き方向別複々線で西へ進み、しばらくビル街のまん中を貫くように走る。次の兵庫駅では和田岬駅へ向かう支線の通称「和田岬線」が接続する。和田岬線は、工場地帯の通勤線であり、平日でも朝夕の時間帯しか運行されていない。ホームも1面1線の単線路線で、兵庫駅 - 和田岬駅間のピストン輸送となっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "兵庫駅 - 新長田駅間で方向別複々線が終わり、ここから先は線路別複々線となる。列車線が山側、電車線が海側になっており、列車線を新快速などの優等列車と貨物列車が走り、電車線を快速と普通が走っている。兵庫駅から明石駅まで列車線にホームはない。新長田駅は普通しか停車しないが、神戸市営地下鉄西神・山手線、海岸線と連絡している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "神戸貨物ターミナル駅が併設されている鷹取駅を出ると、列車線の上り線が合流して阪神高速3号神戸線を潜る。少し走ると須磨海浜公園駅へ。電車線のみにホームがあり、2面4線の橋上駅舎となっている須磨駅付近では海と山に挟まれた険しい地形の中を山陽電気鉄道本線・国道2号とともに並走する。国道2号が山陽本線を乗り越えて行くと塩屋駅に着く。垂水駅を出ると、舞子駅で明石海峡大橋の下を潜り、明石市に入ってすぐの朝霧駅まで海沿いを走り、やがて日本標準時子午線上にある時計台で知られる明石市立天文科学館を過ぎると、城下町である明石市の中心駅・明石駅である。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "この駅は2面4線の構造になっているが、線路別の構造になっているので同一ホーム上での緩急接続はできない。東海道本線の草津駅から続いた複々線は次の西明石駅で終わり、この先は複線となって真っ直ぐ北西方向を向いて走る。住宅やマンションが建て込む明石の市街地を走り、2面4線の大久保駅。さらに真っ直ぐ走り、左手から山陽新幹線が近づいてきて、それを見ながら2面2線の魚住駅。魚住駅を出ると山陽新幹線が左手に離れて行き、線路は真っ直ぐ北西方向に走り、明石市と播磨町に跨る2面3線の土山駅に着く。加古川市に入り、左手に加古川バイパスが並行するのを見て2面3線の東加古川駅、さらに真っ直ぐ北西方向を向いて走り、高架線を駆け上がり加古川の市街地を見て加古川駅に着く。",
"title": "沿線概況"
},
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"text": "加古川を出るとすぐに加古川を渡り宝殿駅。この駅は加古川市と高砂市の境にある。姫路バイパスが乗り越えて右にカーブしながら曽根駅。ここまでが高砂市で、この駅を出ると播磨地方の中心都市・姫路市に入る。ひめじ別所駅・姫路貨物駅、御着駅を過ぎると市川を渡り、東姫路駅を過ぎて市街地に入り姫路駅に至る。姫路駅は姫新線・播但線および播州赤穂や上郡・岡山方面との乗り換え駅となっている。また、須磨駅 - 明石駅間で並走し、明石以西では南側の沿岸部に進路をとった山陽電気鉄道本線も、姫路駅北側に所在する山陽姫路駅に乗り入れている。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "姫路駅を出ると山陽電鉄本線を跨ぎ、その後は南西方向に真っすぐに進んで山陽新幹線を潜りしばらく姫新線と並行する。姫路バイパスを潜ると英賀保駅。はりま勝原駅を過ぎ、次の網干駅は姫路市の南西端に位置し、岡山方には網干総合車両所が広がっている。網干駅は山陽網干駅と駅名は似るが、約3 km離れており乗り換えには向かない。網干駅を出ると、左手に広大な車両所が広がるのを見て進む。なお、網干総合車両所の所在地は姫路市ではなく太子町である。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "車両所が途切れると林田川を渡り、山陽新幹線の高架が見えて、それを潜ると揖保川を渡る。揖保川を渡ってたつの市に入ると竜野駅だが、名称は「たつの」であっても平成の大合併前の龍野市内の駅ですらなかった駅で、たつの市の中心駅は市役所なども近い、姫新線の本竜野駅である。相生市に入って山陽新幹線を潜ると相生駅、左手に単線の赤穂線が分かれていき、山陽本線は右にカーブし、再び山陽新幹線の高架と山陽自動車道を潜って狭い山間を行く。国道2号と並行して進み、赤穂市に入って有年駅。有年駅を出ると右にカーブして進路を北にとる。国道2号とは離れて、国道373号と千種川に沿って進む。しばらくして上郡町に入り、千種川を渡ると、智頭急行線が分岐する上郡駅に到着する。現在は京阪神・岡山から鳥取方面に向かう特急列車は智頭急行線を経由している。",
"title": "沿線概況"
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"text": "この先、兵庫県と岡山県の県境を有する上郡駅 - 三石駅間は、山陽本線では最も長い駅間であると同時に、和田岬線に次いで列車本数の少ない区間であり、この区間を通る普通列車は、企画乗車券「青春18きっぷ」の使用可能期間中、京阪神方面と四国・広島・岡山方面を往来する乗客で混雑する場合が多い。そのため、一部の列車で最大6 - 7両編成での運転も行っている。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "上郡駅を出て、上下線が智頭急行線の単線の線路を挟んで進み、左にカーブして智頭急行線が高架線の形で、山陽本線上り線を乗り越えて右手に分かれて行く。ここから先は標高は低いものの軽い峠越えであり、山を周り込むように走る。例えば次の駅への最短距離を進むなら南南西の鯰峠に直行せねばならないが、実際の経路は北上して鯰峠を避けて、鯰峠の西の谷を登りながら走る。そして、千種川水系と吉井川水系との分水嶺である船坂峠を船坂トンネルで抜けると岡山県に入る。国道2号と並行して走り、三石駅。次は備前市にある閑谷学校に近い吉永駅。吉永駅を出て、日笠川や金剛川を渡り和気駅。和気を出ると左手に山陽自動車道、右手に吉井川を見ながら進むと熊山駅、吉井川を渡ると岡山市に入り万富駅。万富駅からしばらく西南方向に走ると瀬戸駅で、しばらく南に向かって進み、山陽新幹線の高架を潜って、右にカーブして山陽新幹線に沿って西へ進んで上道駅に着く。東岡山駅で赤穂線と合流して高島駅を過ぎると、百間川を渡り西川原駅。旭川を渡る付近で岡山城が見え始めると、津山線と合流し岡山駅に着く。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "岡山駅は津山線のほか、吉備線と宇野線の起点であると同時に、運転系統上は伯備線と赤穂線および瀬戸大橋線の列車も、ほとんどが岡山駅を始発・終着としている。また岡山電気軌道の路面電車との乗り換えも可能である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "岡山駅を出て、JR貨物岡山機関区、JR西日本岡山電車区といった広大な車両基地を併設した岡山貨物ターミナル駅を過ぎると、北長瀬駅、庭瀬駅を通る。庭瀬駅を出ると家並みが途切れて田畑が目立つようになる。岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)の最寄駅でもある中庄駅を経て、右手に山陽自動車道の倉敷ジャンクションが見え、瀬戸中央自動車道を潜る。左にカーブして西南方向を向いて走り、伯備線への下り線が分岐し高架になって山陽本線を乗り越え、3線になってホーム3面5線の倉敷駅へ。",
"title": "沿線概況"
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"text": "岡山県第二の都市・倉敷市の中心駅である倉敷駅は伯備線が分岐し、駅の南西からは水島臨海鉄道が発着している。周辺には大原美術館や白壁の商家が並ぶ美観地区などの観光名所がある。 次の西阿知駅の先で高梁川を渡ると、白桃や、マスカット、ピオーネなどのブドウの産地である玉島地域を通り、平地や山の斜面に桃畑や葡萄畑が作られているのを見ることができる。再び山陽新幹線が近付いてくると新倉敷駅である。金光教の本部がある金光駅、鴨方駅、里庄駅と、のどかな田園風景がしばらく続く。笠岡市に入って、工場や商業施設が国道2号沿いに立ち並んでいるのを見ながら走り、左手に笠岡港が見えると笠岡駅である。次の大門駅から広島県に入る。",
"title": "沿線概況"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "貨物ターミナル併設の東福山駅を過ぎ、3階を新幹線、2階部分を在来線が走行する二重高架区間となり福山城が迫ると広島県東部の拠点都市である福山市の中心駅福山駅に到着する。福山駅は山陽新幹線との乗り換え駅で、福塩線が分岐するほか、井原鉄道の一部列車も乗り入れる。芦田川を渡り市街地をしばらく進むと、周辺の景色は田園地帯になり、山陽新幹線が福山トンネルに入るあたりで備後赤坂駅を経て、1966年まで存在した旧松永市の中心駅・松永駅へ。しばらく宅地化の進む中を走って東尾道駅を過ぎる。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "三原駅までは海の見える区間が長く続き、中でも尾道市にある急斜面の石段と伝統的な街並みに、しまなみ海道の橋梁を望む情景は、しばしば観光パンフレットの題材に使われる。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 29,
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"text": "尾道の市街地が途切れて三原市に入る。糸崎港が見えてくると糸崎駅である。糸崎駅は運転上の要衝で、岡山方面や広島方面からの列車が折り返す。次の三原駅では呉線が分岐する。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 30,
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"text": "本郷駅を過ぎるとその後は山岳路線となり、緩やかな上りカーブが連続する。東広島市に入り、椋梨川を渡ると河内駅。駅前には国道432号が通り、駅南側の山の上には広島空港がある。入野駅を過ぎ、白市駅からは広島シティネットワーク区間に入る。この駅から先はしばらく平坦な路盤になり、学生の多い西高屋駅、東広島市の中心地である酒都・西条にあり広島大学への連絡口ともなっている西条駅、2017年に開業した寺家駅を経て、八本松駅へ向かう。",
"title": "沿線概況"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "山陽本線は山陽鉄道の時代から、なるべく路線の勾配を抑えることに重点を置いて建設されたが、三原駅以西のルートを決めるにあたり、工費のかかるトンネルを避けつつ、最も経済的な最短経路を選んだ結果、広島県内の八本松駅 - 瀬野駅間に「瀬野八」と呼ばれる22.6‰の急勾配区間が生じた。上り貨物列車は広島貨物ターミナル駅 - 西条駅間で、最後尾に補助機関車(補機)を連結して後押ししてもらっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "瀬野八を下っていき、広島市に入り、瀬野川と国道2号に沿いながら瀬野駅へ。この駅からはスカイレールが北に延びているのが見える。瀬野駅の先も広島平野に流れる瀬野川に沿って坂が続き、中野東駅に至る。この辺りから徐々に平地が多くなり、次の安芸中野駅を出る頃には広島平野が広がる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "海田町に入ってすぐ、山陽新幹線を潜り、呉線と合流すると海田市駅。海田市を出るとすぐに再び広島市に入り、呉線の線路を潜りて、複々線となって進む。この先、広島駅までは複々線区間で、旅客列車を外側2線に、貨物列車を内側2線に振り分けることで、広島都市圏の輸送量に対応している。府中町に入って向洋駅。この駅付近にはマツダが本社を構える。再度広島市に入り、天神川駅を通り、芸備線の線路が見えた後、グラウンドが垣間見えるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)の横を通過するとまもなく広島駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "広島駅では山陽新幹線のほかに芸備線、運転系統上は可部線や呉線の列車が発着しており、それらと接続している。また駅前からは広島電鉄(広電)が発着しており、紙屋町・八丁堀など広島市中心部へのアクセスとなっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "広島駅を出発するとまもなく、2015年に開業した新白島駅に着く。可部線大町駅と共にアストラムラインとの乗換駅として、広島市北部の住宅地や紙屋町・本通など繁華街へ向かう新たなルートの起点として期待される。横川駅で可部線と分岐し、太田川放水路を渡って左にカーブして、山陽新幹線とは別れ南西を向いて太田川放水路沿いに進む。そのまま太田川放水路沿いに進んで西広島駅。ここから先、宮島口駅までは広電と並行する。草津沼田道路を潜りて、広電の商工センター入口駅が併設されている新井口駅で、八幡川を渡ると、広電の広電五日市駅が併設されている五日市駅、廿日市駅、宮内串戸駅を過ぎ、左手に広電、その向こうに国道2号、さらに向こうに海を見て南下していく。国道2号バイパスが乗り越えて海側を走る国道2号と合流し、しばらく走り阿品駅に着く。市街地と郊外の住宅地の風景が続くが、次第に海沿いの区間となり、車窓に世界遺産で日本三景の一つである安芸の宮島が見えると宮島口駅。宮島口駅を出ると国道2号と並行して海沿いを進む。前空駅を過ぎ、右にカーブして内陸に入って大野浦駅。広島県西端の工業都市・大竹市に入り玖波駅を過ぎ、コンビナート群が近付いてくると大竹駅に着く。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "小瀬川を渡ると山口県である。2008年3月15日和木町に開業した和木駅を過ぎ、岩国市の中心駅・岩国駅に到着。この駅は岩徳線との分岐駅で、この線に直通する錦川鉄道の車両も見られる。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "岩国駅から櫛ケ浜駅まで、岩徳線は山岳路線として山中を短絡するのに対し、山陽本線は海岸沿いを遠回りして走る。特に南岩国駅から大畠駅までは瀬戸内海が一望できる区間となっており周防大島や大島大橋、防予フェリー(柳井港駅から徒歩でフェリーターミナルにアクセスできる)の船舶を見ることができる。なお、山陽新幹線のルートはほぼ岩徳線に沿っている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "徳山駅から先はカーブをくり返す線形を取る区間が多い。新山口駅では山陽新幹線、宇部線、山口線、萩市方面へのバスの乗り換え駅となっており山口県の鉄道の要衝となっている。 宇部駅を出ると厚狭駅までカーブを多く渡りながら新幹線と合流。山陽小野田市の中心地を過ぎていくと一旦住宅地を抜け、再び街が構成され小月駅に到着。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "長府駅を出ると瀬戸内海と別れ、山陽新幹線と垂直に交差する新下関駅を過ぎ、日本海側を経由してきた山陰本線と合流。同線との接続駅である幡生駅は、車両工場である下関総合車両所が隣接し、駅南側にはJR貨物幡生機関区が広がる。住宅地を進み、本州側最後の駅である下関駅に至る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "下関駅 - 門司駅間はJR九州区間となる。下関駅を出ると車両基地である下関総合車両所運用検修センターと貨物駅に挟まれる形で進み、運河を渡った先の彦島で関門トンネルに入り関門海峡の下を通過する。トンネルを出ると本州から九州に入って北九州市となり、鹿児島本線の上下線の間に出て同線と合流し、山陽本線の終点である門司駅に至る。関門トンネルの門司側の出入り口にはデッドセクションがあり、直流・交流の転換を行う(「運行形態」の節も参照)。なお貨物線は坂道での停止を防ぐため、旅客線より小倉側にデッドセクションが設置されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "東海道本線と同じく、山陽新幹線開業以後は都市間輸送鉄道としての役割は新幹線に譲っている。寝台特急などの夜行列車が全線を通して運転されていたが、2009年3月14日のダイヤ改正で寝台特急「富士」「はやぶさ」(山陽本線内では併結運転)が廃止されたのを最後に山陽本線の全区間を直通運行する定期旅客列車は全廃された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2019年3月現在、山陽本線内のみを運行する優等列車は無く、線内を走る優等列車は、「らくラクはりま」を除きすべて山陰方面や四国へ直通する列車である。以下の列車が運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "下記に示す区間は山陽本線を走行する区間である。全運行区間など各列車の詳細については当該列車の記事を参照。過去の列車は「山陽本線優等列車沿革」を参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "長大路線であり、沿線に複数の拠点都市を有していることもあって、現在は姫路駅・相生駅・岡山駅・福山駅・糸崎駅(または三原駅)・広島駅・岩国駅・新山口駅・下関駅で運転系統が分かれている。かつては、車両運用上の都合によりこれらの複数の運転系統にわたって運転される長距離列車が終日にわたって設定されていた(多くは広島駅、徳山駅で列車番号を変更して直通運転していた)。しかし、2009年3月14日ダイヤ改正以降はダイヤが整理され、昼間時の快速列車の廃止や列車本数の削減が行われたほか、岡山地区 - 山口地区相互間の長距離列車も大幅に削減された。2018年の平成30年7月豪雨発生までは糸崎駅 → 下関駅間を走行する列車(2016年3月26日ダイヤ改正から2017年3月4日ダイヤ改正までは岡山駅始発)が下り1本のみ存在し、これが日本で最長の距離を走行する普通列車となっていたが、豪雨後の臨時ダイヤで白市駅発に短縮された。2019年3月16日ダイヤ改正で広島地区の運行車両が227系に統一されたことに伴い、長らく運転されてきた岡山地区 - 広島地区間の長距離列車、並びに広島地区 - 新山口方面直通の長距離列車が完全に消滅し、糸崎駅(または三原駅)と岩国駅での原則乗り換えが発生している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "姫路駅 - 相生駅間と東岡山駅 - 岡山駅間では赤穂線、岡山駅 - 倉敷駅間では伯備線、海田市駅 - 広島間では呉線、広島駅 - 横川駅間では可部線、櫛ケ浜駅 - 徳山駅間では岩徳線、幡生駅 - 下関駅間では山陰本線にそれぞれ直通する列車が乗り入れている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ダイヤの構成上、次の6つの区間に大きく分けられる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この区間は近畿圏に含まれている。神戸駅 - 姫路駅間はアーバンネットワークの一角であり、東海道本線大阪駅 - 神戸駅間ともにJR神戸線の愛称が付けられている。ほとんどの列車が東海道本線から直通運転を行っている。並行する私鉄(山陽電気鉄道・神戸高速鉄道)と競合しているため、新快速を運転し高速都市間輸送を行っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "JR神戸線区間では、新快速・快速が加古川駅・姫路駅・網干駅発着、普通電車が須磨駅・西明石駅発着で、多数運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "姫路駅 - 上郡駅間では本数は少なくなるが、1時間に姫路駅 - 網干駅間で3本、網干駅 - 上郡駅間(相生駅で乗り換え)で1本運転されており、朝夕には網干駅発着の列車が多く設定されている。この区間は新快速も含めてすべて各駅に停車する。JR神戸線からの列車は大半が相生駅から赤穂線に乗り入れ播州赤穂駅まで運転されている。始発・最終を含めた朝晩に限り京都・大阪方面から上郡駅まで行く列車も設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "支線である和田岬線は、朝夕のラッシュ時のみの運転であり、専用の車両による支線内の往復運転となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "相生駅 - 岡山駅間を直通する列車は、反対の福山方面と比べると本数が少なく、日中は1時間に1本の運転である。日中は相生駅で赤穂線播州赤穂駅 - 姫路駅間運転の列車と接続している。日中のこの区間は区間列車も含めて、瀬戸駅 - 岡山駅間では1時間に2本運転されている。2021年3月13日のダイヤ改正で和気駅まで運行されていた昼間の区間列車は瀬戸駅までに短縮された。朝晩は姫路駅 - 岡山駅間直通が10往復ある。また、姫路駅 - 上郡駅間、岡山駅 - 瀬戸駅・万富駅(朝の1往復のみ)・和気駅・吉永駅・三石駅間の区間列車もある。相生駅 - 東岡山駅間の夜間滞泊は、3本が上郡駅で、2本が三石駅で行っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この区間は3・4両編成を基本に、ラッシュ時は6両・7両(午前のみ)編成で運行される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "新幹線博多開業に伴う1975年3月10日のダイヤ改正から1980年9月30日までの間、姫路駅 - 岡山駅間でも快速が定期列車として数本運転され、相生駅・上郡駅・三石駅・和気駅・瀬戸駅に停車していた。また、1988年3月12日まではこの区間から東海道本線大阪駅までの直通列車(須磨駅・垂水駅は通過)が1往復あり、2002年3月22日までは西明石駅発着の設定があった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、1994年4月3日から同年12月18日までの日曜日には、平安遷都1200年祭に関連して全車座席指定席の臨時快速「サンデー三都号」が岡山駅 - 京都駅間で117系・213系を使用して運転され、1997年の京都駅ビル開業直後の日曜・祝日には新快速を臨時延長して早朝に岡山発京都行き、夕方に京都発岡山行きの「ストレート快速京都号」として数か月間運転されたが、末期は夕方の岡山行の設定がなかった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "沿線の町内会等を中心とした「JR快速電車導入促進期成会」は「東備・西播地区の交流促進などに快速導入が必要」と訴え、2008年4月30日、JR西日本岡山支社に運転実現を求める要望書を提出した。JR西日本岡山支社は「車両や運転手の数も限られ検討が必要」としている。また、2010年3月10日には、井戸敏三兵庫県知事と石井正弘岡山県知事が会談し、岡山駅 - 姫路駅間の増便と新快速の運転を要望することで両知事が合意し、さらに同区間の増便と姫新線・赤穂線の利便性向上に向けた取り組みを沿線市町等と進めることも決めたが、以降目立った進展は見られない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "岡山駅 - 糸崎駅間では、普通が1時間に3本、糸崎駅 - 三原駅間では1時間に4本運転されている。2014年3月15日のダイヤ改正で福山駅で乗り換えとなる場合が発生した。朝夕ラッシュ時は6・7・8両での運転もあるが、日中は115系電車3・4両編成での運転が主体となる。快速「マリンライナー」から転用された213系電車も使用されるほか、岡山駅 - 福山駅間では福塩線への車両送り込みのため105系電車で1往復運転されている。岡山以東(赤穂線を含む)と直通運転する列車も多い。以前は呉線経由を含め広島方面への直通列車が多数設定されていたが、2020年3月14日ダイヤ改正で廃止され、全列車が糸崎駅または三原駅で乗り換えとなっている。2021年3月13日ダイヤ改正で白市駅から糸崎駅の列車削減に伴って、糸崎駅から三原駅までの列車の本数が削減された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "岡山駅 - 倉敷駅間では伯備線からの直通列車が1時間に2本程度運転されており、ワンマン運転を行う列車がある。福塩線への車両送り込みのため岡山駅 - 府中駅間の直通列車も下り1本(和気始発)・上り2本設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "岡山駅 - 福山駅間では117系電車による快速「サンライナー」が運転されていた。1999年12月4日からワンマン運転を開始し、4両編成で運転されていた。2019年3月16日のダイヤ改正以降は夕方以降を中心に運転されていた。2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "広島地区では国鉄時代末期の1982年に「ひろしまシティ電車」として普通列車が大増発され、JR発足後も「広島シティネットワーク」を構成する一路線として広島空港連絡の白市駅折り返し列車などが運転されるなど、都市圏輸送の充実が図られてきた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2015年3月14日現在、日中は普通が1時間に4本運転されている。朝を中心に白市駅 - 岩国駅間で快速「通勤ライナー」が1時間に1本運転されている。2010年3月改正以前と、2016年3月26日改正から2018年7月の豪雨災害発生までの間は、快速「シティライナー」も運転されていた。2022年3月のダイヤ改正により、「通勤ライナー」は西条駅 - 広島駅間で早朝に2本(下りのみ)、岩国駅 - 広島駅間で早朝に1本(上りのみ)に削減された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "岡山方面からの列車も乗り入れる糸崎駅 - 三原駅を除き、227系電車のみが使用されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この区間では、本数は1時間に1 - 2本程度である。国鉄時代の1975年から1985年にかけては広島駅 - 下関駅間を直通する快速列車(晩年は岩国駅 - 小郡駅(現・新山口駅)間を除いては各駅停車)が設定されていたり、JR化後にも広島方面から徳山駅まで快速「シティライナー」が設定されていた(ただし岩国駅 - 徳山駅間は各駅停車)が、現在は普通列車のみの運転である。2012年3月17日改正で広島地区からの直通列車が大幅に削減され、2019年3月16日改正で徳山駅から新山口・下関方面への直通運転が廃止された。一方、徳山駅で系統分割される列車は減少し、岩国駅 - 下関駅間を直通運転する列車が増加している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "朝夕ラッシュ時には、下関市内の小月駅 - 下関駅間のみを運転する列車が設定されており、徳山・新山口方面 - 下関間を直通する列車と合わせて1時間に3 - 4本の運行となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "115系電車での運転が中心となっている。特に新山口駅 - 下関駅間は国鉄時代に製造された車両のみで運転されている。2023年3月18日のダイヤ改正以降、4両編成以下で運転される列車は終日ワンマン運転を行っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "関門トンネルを含むこの区間はJR九州の管轄区間となる。かつては本区間から新山口方面や山陰本線との直通列車が存在していたが、2005年10月のダイヤ改正でこれらの直通列車は全廃され(これにより、関門トンネルを通過する気動車列車も消滅)、運転系統が分断された。下関駅では原則として同一ホームでの対面乗り換えとして利便性を維持している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "旅客列車の日中の運転本数はおおむね1時間に2 - 3本であり、下関駅 - 門司駅間のみの区間運転列車や下関駅から門司駅を経て鹿児島本線小倉駅までの運転となっている。早朝のみ、日豊本線柳ヶ浦駅・行橋駅(いずれも上りのみ)・大分駅(下りのみ)と直通する列車が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "本州と関門トンネル内は直流電化だが、関門トンネルの九州側の門司駅構内で交流電化になる。そのため、関門トンネルを通過する下関駅 - 門司駅間は気動車と交直両用電車・機関車のみが走行できる。普通列車にはJR九州大分車両センター所属の415系1500番台交直流電車が使用され、門司駅構内のデッドセクションで直流・交流の切り替えを行っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "なおこの区間をふくむ普通乗車券で山陽新幹線に乗車することはできない。詳しくは「山陽新幹線#新下関 - 博多間の取り扱い」を参照。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "毎週水曜日(多客期や祝日と重なる場合などを除く)は保守点検の時間を確保するため、以下の区間・時間帯でおよそ1時間は運休している(2015年3月14日現在)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "山口地区では、保守点検に伴い、列車を区間運休する日がある。その場合は運休区間で代行バスを運行している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2001年より2005年まで、主に、広島駅 - 下関駅間で下関地域鉄道部のキハ181系気動車を用いた気動車快速列車が運行されていた。列車名は時期により異なり、主に「フグの旬の時季」とされる冬季では「下関ふくフク号」、夏季では「関門・海峡物語号」などの列車愛称を与えられ運行された。これは、基本的に山陰本線特急「いそかぜ」に使用されていた下関地域鉄道部(現在の下関総合車両所に相当)所属の同車両が3両編成2本と最低限の車両しか配備されていなかったためであるが、全車両座席指定席で運行するなど特色ある運用がなされたと言われる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "なお、2003年の夏期には、NHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の舞台ともなった巌流島が関門海峡上にあることから、同ドラマの主人公であった七代目市川新之助(現在の十一代目市川海老蔵)演ずる宮本武蔵のラッピングなどを施した「関門・MUSASHI号」が運行された。また、2015年には、大河ドラマ「花燃ゆ」の放映を記念して、三石駅 - 下関駅間で、ラッピング列車が運行された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ただし、これらキハ181系気動車を用いた気動車快速列車では同車両が不調または定期検査などの理由により、時折宮原総合運転所または岡山電車区の117系電車や岡山電車区の213系電車による電車列車により代替運行が行われていた。このほかふくフク号にはSLやまぐち号用のレトロ客車が使われたり、きのくにシーサイド用の客車が使われたこともある。2005年の春の運行では、「あさかぜ」の運用を離脱したばかりの下関地域鉄道部下関車両管理室所属の24系客車が使用された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2001年3月3日に「山陽シティライナー」が運転を開始して以来、運転区間を年々拡大し、かつては下関発三石行きの普通列車があり、運行距離が 425.7km で、普通列車では日本最長であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "三石駅直通列車が廃止されてから2009年3月までは、下関駅 - 岡山駅間を運行する列車が普通列車では日本最長の 384.7km になった。以後は新山口までの 315.8kmと短縮し、2015年3月14日のダイヤ改正でさらに徳山まで区間短縮となりこの時点で最長距離普通列車の座を根室本線の「滝川発釧路行普通2427D列車」に譲った。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "2016年3月26日のダイヤ改正で再び岡山発下関行きの普通列車が1本(369M)復活し、最長距離普通列車となったが、翌2017年3月4日に糸崎発下関行きに短縮されたため再び滝川発釧路行2427Dに最長距離の座を譲った。ただし2427Dは根室本線が台風により一部区間が不通となっているため、新得発釧路行きでの運転となっており、実際に運転している距離は369Mのほうが長い。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2019年3月16日のダイヤ改正で、369Mは糸崎発岩国行きにさらに短縮されたため、快速・新快速を含めば最長距離普通列車は敦賀発播州赤穂行きの新快速3527M(土休日は3407M・3527Mの2本) 275.5 kmとなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正にて369M列車は時刻表上から消滅した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "和田岬線を除く全線で多くの貨物列車が運行されている。大半がコンテナ車で編成された高速貨物列車で、タンク車などを連結可能な専用貨物列車は一部区間で臨時列車として運行されているのみである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "牽引機は、幡生操車場以東では直流用電気機関車のEF65形、EF66形、EF210形。これらは東海道本線と直通している。幡生操車場以西では交流直流両用電気機関車のEH500形。なお幡生操車場駅 - 下関駅間の貨物列車は直流用電気機関車またはDE10形ディーゼル機関車が牽引する。上り列車は広島貨物ターミナル駅→西条駅間で、急勾配(瀬野八)登坂用に補助機関車(補機)を編成後部に連結して後押し運転しており、2013年初頭からは補機としてEF210形300番台を連結している。2022年3月までは補機にEF67形電気機関車も使用されていた。また神戸駅 - 伯備線間はEF64形電気機関車、岡山貨物ターミナル駅 - 水島臨海鉄道間はDE10形・DD200形(水島臨海鉄道所有)ディーゼル機関車が牽引する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "かつて運転されていた山口線 - 美祢線直通列車はDD51形ディーゼル機関車が、宇部線 - 美祢線直通列車はDE10形ディーゼル機関車が牽引していた。これらについては直通先各線におけるJR貨物の第二種鉄道事業が2014年4月1日限りで廃止されたため、現在は乗り入れていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "山陽線の貨物列車発着のある駅は、神戸貨物ターミナル駅・姫路貨物駅・岡山貨物ターミナル駅・東福山駅・広島貨物ターミナル駅・大竹駅・岩国駅・新南陽駅・宇部駅・下関駅である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "平成30年7月豪雨により、2018年7月以降は広島県内で一部区間が1か月以上復旧できず不通となり、伯備線・山陰本線・山口線経由での貨物列車の迂回運転が同年8月28日から実施され、同年9月30日に最後の不通区間が開通することとなったため、運行は9月28日に終了した。しかし台風24号の影響で同年9月29日に一部区間が不通となったため、同年10月5日から再び伯備線・山陰本線・山口線経由の迂回貨物列車が運行された。同月13日に山陽本線が全線開通することになったため、運行は同月11日に終了した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "他線への直通車両は当該路線の記事を参照。以下に示す車両はすべて電車である。なお、網干車とは網干総合車両所所属車、岡山車とは下関総合車両所岡山電車支所所属車、広島車とは下関総合車両所広島支所所属車、下関車とは下関総合車両所運用検修センター所属車のことである。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "神戸駅から下関駅までは、私鉄の山陽鉄道の手により開通した。1888年に兵庫駅 - 明石駅間が開業し、翌年に神戸駅・竜野駅まで開通。以後順次西へと路線が延び、1901年に馬関駅(現在の下関駅)まで開通した。山陽鉄道は1906年、鉄道国有法により国有化され、官営鉄道山陽本線となった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "1934年に現在の岩徳線が全通し山陽本線に編入され、距離が短縮された。それまでの柳井経由の路線は柳井線となった。しかし複線化は、柳井経由で進められることとなった。この理由は、現岩徳線には当時の蒸気機関車牽引では運転上の障害となる長大トンネル(欽明路トンネル・3149m)が存在したことから、複線化で長大トンネルをもう1本掘ることは工期的にも不利とされたためである。1944年に柳井線を含む神戸駅 - 下関駅間全線の複線化が完成すると、柳井線を山陽本線に再編入した。代わりに、岩国駅 - 周防高森駅 - 櫛ケ浜駅間は岩徳線となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "下関駅から九州へは山陽鉄道時代から鉄道連絡船で連絡していたが、1942年に世界初の海底トンネルである関門トンネルが開通し、山陽本線は門司駅まで延長された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 89,
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"text": "和田岬線を除く全線の電化が1964年に完成、同年に開通した東海道新幹線に接続して西日本各地へ向かう特急列車・急行列車が頻繁に運転されるようになった。その後、山陽新幹線が1972年に岡山駅まで、1975年に博多駅まで開業し、山陽本線を走っていたほとんどの優等列車が廃止された。以後、貨物列車と寝台特急のほかは、地域内輸送が主となっている。これに伴い、中線や副本線などの待避設備を廃止(架線や一部のポイントを撤去し保線用車両等のみ使用できる状態としたものもある)した途中駅もある。また、貨物列車のために宇部駅 - 厚狭駅間が3線化され本線をオーバークロスする珍しい線形が採用されたが貨物列車衰退により複線に戻されており、コンクリートの橋梁と枕木のみが遺構として残っている。そのほか、新山口駅 - 下関駅間では送り込みもかねた気動車列車もあったが2006年に廃止となった。",
"title": "歴史"
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"text": "(貨):貨物専用駅、◆・◇:貨物取扱駅(貨物専用駅を除く。◇印は定期貨物列車の発着なし)",
"title": "駅一覧"
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"text": "ここでは駅名と主要駅のキロ程のみを記す。接続路線・快速停車駅などの詳細についてはJR神戸線#駅一覧および和田岬線#駅一覧を参照。",
"title": "駅一覧"
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"text": "( ) 内は起点からの営業キロ",
"title": "駅一覧"
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"text": "ここでは駅名と主要駅のキロ程のみを記す。接続路線・快速停車駅などの詳細については山陽本線 (広島地区)#駅一覧を参照。",
"title": "駅一覧"
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"text": "( ) 内は起点からの営業キロ",
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"text": "便宜上、ほぼ全ての列車が直通する鹿児島本線小倉駅までをあわせて記載する。",
"title": "駅一覧"
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"text": "( )内は起点からの営業キロ。",
"title": "駅一覧"
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"text": "( )内は神戸駅起点の営業キロ。廃止区間や和田岬線のものを除く。",
"title": "駅一覧"
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"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "姫路駅 - 英賀保駅間にある手柄山中央公園(姫路市西延末)近くに新駅を設置する計画がある。2026年春に開業する予定。2021年1月14日にはJR西日本が近畿運輸局に駅設置の認可申請をした。手柄山中央公園には1974年まで姫路モノレールが運行されており、同モノレール以来の鉄道によるアクセス手段となる。",
"title": "新駅設置計画"
}
] | 山陽本線(さんようほんせん)は、兵庫県神戸市中央区の神戸駅から福岡県北九州市門司区の門司駅までを瀬戸内海に沿って結ぶJRの鉄道路線(幹線)である。本線のほか、通称「和田岬線」と呼ばれる兵庫駅 - 和田岬駅間の支線を持つ。神戸駅 - 下関駅間と和田岬線は西日本旅客鉄道(JR西日本)、下関駅 - 門司駅間は九州旅客鉄道(JR九州)の管轄となっている。東海道本線と並び、日本の鉄道交通・物流の大動脈を担い続けている。 なお、広義では山陽新幹線の新神戸駅から小倉駅までの区間も山陽本線に含める場合があるが、本項目では在来線としての山陽本線全般の概要や沿革などについて記す。新幹線については「山陽新幹線」を、また在来線の地域ごとの詳細については以下の記事も参照。 JR神戸線 山陽本線 (広島地区) | <!--出典が不足している場合は具体的な箇所にタグを貼り、ノートで指摘してください-->
{{For|山陽電気鉄道の鉄道路線|山陽電気鉄道本線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo JRgroup.svg|35px|link=JR]] 山陽本線
|画像 = JR Sanyo-main-line Series115-3000.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = [[瀬戸内海]]沿岸を走行する[[国鉄115系電車|115系]]の普通列車<br />(2022年10月 [[大畠駅]] - [[神代駅 (山口県)|神代駅]]間)
|通称 = [[JR神戸線]](神戸駅 - [[姫路駅]]間)<br />[[和田岬線]]([[兵庫駅]] - [[和田岬駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[兵庫県]]、[[岡山県]]、[[広島県]]、[[山口県]]、[[福岡県]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]<ref name="youran-jrw" /><ref name="youran-jrf" /><ref name="kobe-np20171005">{{Cite news |title=JR神戸駅の距離標一新 消えた私鉄の歴史刻む |newspaper=[[神戸新聞]] |date=2017-10-05 |url=https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/201710/0010614649.shtml |publisher=神戸新聞社 |accessdate=2017-10-23}}</ref>
|終点 = [[門司駅]]
|駅数 = 131駅(貨物駅含む)
|輸送実績 =
|1日利用者数 =
|電報略号 = サヨホセ
|路線記号 = {{JR西路線記号|K|A}}(神戸 - 上郡間)<br / >{{JR西路線記号|O|S}}(上郡 - 岡山間)<br / >{{JR西路線記号|O|W}}(岡山 - 福山間)<br / >{{JR西路線記号|O|X}}(福山 - 三原間)<br />{{JR西路線記号|H|G}}(糸崎 - 広島間)<br / >{{JR西路線記号|H|R}}(広島 - 岩国間)<br / >{{JR九駅番号|JA}}(下関 - 門司間)
|開業 = [[1888年]][[11月1日]]
|全通 = [[1901年]][[5月27日]](神戸 - 下関間)<br />[[1942年]][[7月1日]](全線)
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)<br />(神戸 - 下関間、兵庫 - 和田岬間)<ref name="youran-jrw">国土交通省鉄道局監修『[[鉄道要覧]]』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.42</ref><br />[[九州旅客鉄道]](JR九州)<br />(下関 - 門司間)<ref name="youran-jrk">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.53</ref>
|運営者=JR西日本・JR九州(第1種鉄道事業者)および<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(神戸 - 北九州貨物ターミナル間 第2種鉄道事業者)<ref name="youran-jrf">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.60</ref>
|車両基地 =
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]を参照
|路線距離 = 534.4 [[キロメートル|km]](神戸 - 門司間)<br />2.7 [[キロメートル|km]](兵庫 - 和田岬間)
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数 = [[複々線]](神戸 - 西明石間、海田市 - 広島間)<br />[[複線]](西明石 - 海田市間、広島 - 門司間、うち下関 - 門司間は[[単線並列]])<br />[[単線]](和田岬線)
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br />[[交流電化|交流]]20,000V・60[[ヘルツ (単位)|Hz]] (門司駅構内)<br />いずれも[[架空電車線方式]]
|最大勾配 =
|最小曲線半径 =
|閉塞方式 = 自動閉塞式<ref name="heisoku">平成27年度鉄道統計年報 - 国土交通省</ref>
|保安装置 = [[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](神戸 - 上郡間・拠点P方式)<br>[[自動列車停止装置#D-TAS(旧称 ATS-DW形(ATS-M形))|D-TAS]]及びATS-SW(白市 - 岩国間)<br>ATS-SW(上郡 - 白市間、岩国 - 下関間、兵庫 - 和田岬間)<br>[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SK]](下関 - 門司間)
|最高速度 = 130 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 =
|路線図名 =
|路線図表示 =
}}
{{BS-map
|title=経路図
|title-bg=white
|title-color=black
|map=
{{BS2||STR|||[[東海道本線]](JR神戸線)|}}
{{BS2||BHF|0.0|[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]|}}
{{BS2||LSTR|||本線区間は[[JR神戸線]]を、支線は|}}
{{BS2||LSTR|||[[和田岬線]]・[[兵庫臨港線]]を参照|}}
{{BS2||BHF|54.8|[[姫路駅]]|}}
{{BS2||LSTR||[[#沿線概況]]を参照|}}
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{{BS2||LSTR|||[[山陽本線 (広島地区)]]を参照|}}
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{{BS2||LSTR||[[#沿線概況]]を参照|}}
{{BS2||BHF|528.1|[[下関駅]]|}}
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}}
'''山陽本線'''(さんようほんせん)は、[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]<ref name="youran-jrw" /><ref name="kobe-np20171005" />から[[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]の[[門司駅]]までを[[瀬戸内海]]に沿って結ぶ[[JR]]の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。本線のほか、通称「[[和田岬線]]」と呼ばれる[[兵庫駅]] - [[和田岬駅]]間の支線を持つ。神戸駅 - [[下関駅]]間と和田岬線は[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)<ref name="youran-jrw" />、下関駅 - 門司駅間は[[九州旅客鉄道]](JR九州)<ref name="youran-jrk" />の管轄となっている。[[東海道本線]]と並び、日本の鉄道交通・物流の大動脈を担い続けている。
なお、広義では[[山陽新幹線]]の[[新神戸駅]]から[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]までの区間も山陽本線に含める場合があるが、本項目では[[在来線]]としての山陽本線全般の概要や沿革などについて記す。新幹線については「[[山陽新幹線]]」を、また在来線の地域ごとの詳細については以下の記事も参照。
* [[JR神戸線]] (神戸駅 - 姫路駅間)
* [[山陽本線 (広島地区)]] (白市駅 - 岩国駅間)
== 概要 ==
神戸駅を終点とする[[東海道本線]]を西に延長する形で、[[神戸市|神戸]]から[[姫路市|姫路]]・[[岡山市|岡山]]・[[福山市|福山]]・[[広島市|広島]]・[[下関市|下関]]などの兵庫県南部から[[山陽地方]]の瀬戸内海沿いの各主要都市を経由し、[[北九州市|北九州]]の[[門司区|門司]]に至る路線である。東海道本線とともに[[本州]]の大動脈としての役割を担っており、普通・快速・新快速・特急・貨物列車が東海道本線と直通運転していることから「'''東海道・山陽本線'''」とまとめて呼ばれることが多い。門司駅からは[[鹿児島本線]]に直通して[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]方面に至る。
かつては[[東京]]や[[京阪神]]([[関西]])と[[中国地方]]・[[九州]]を結ぶ長距離旅客列車が運行されていたが、[[山陽新幹線]]の開業後は長距離旅客輸送の役割を同新幹線に譲り、並行する山陽本線の旅客輸送は地域輸送中心の体制に移行している。全線を走行する定期旅客列車は現在、存在せず、倉敷駅 - 門司駅間には特急列車は走行していない。一方、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)による[[貨物列車]]は全区間で運行されており、ほとんどの貨物列車が東海道本線と直通運転している。<!-- 詳細は運行形態の節に記述を。-->
神戸駅 - [[姫路駅]]間には、直通している東海道本線の[[大阪駅]] - 神戸駅間とともに「'''[[JR神戸線]]'''」の[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]がつけられている{{Refnest|group="注釈"|関西地区においては利用者の間でも愛称で呼ばれることが多く、[[在阪テレビジョン放送局|在阪テレビ各局]]<ref group="注釈">[[サンテレビジョン]]・[[びわ湖放送]]・[[京都放送]]・[[テレビ和歌山]]・[[奈良テレビ放送]]を含む</ref>を中心に関西地方のマスコミも路線愛称で報道している。}}。大阪駅 - 姫路駅間は[[阪神間]]および兵庫県南部([[播磨国|播磨]]地域)の都市間を結ぶ主要路線であるJR神戸線として一体的な運行がなされ、12両編成の[[新快速]]が高速・高頻度運転を行なっている。JR神戸線区間は基本的に姫路駅以西とは大きく運行形態が異なる。また、神戸駅 - 相生駅間と和田岬線が[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)|大阪近郊区間]]」、神戸駅 - [[西明石駅]]間が「[[電車特定区間]]」に含まれる。神戸駅 - [[西明石駅]]間は、東海道本線([[琵琶湖線]])の[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]から続く[[複々線]]となっており、草津駅 - 西明石駅間の複々線の距離は120.9 kmと日本最長である。複々線区間では主に[[新快速]]と[[特別急行列車|特急]]・貨物列車が[[電車線・列車線|列車線]]を、快速列車と普通電車が[[電車線・列車線|電車線]]を走行する。
中国地方の広島エリアの区間にある「[[瀬野八]]」と呼ばれる瀬野駅 - 八本松駅間は、22.6[[パーミル|‰]]の勾配と半径300mの急曲線が散在しているため、スピードアップの大きな障害となっている(沿線風景の[[#三原駅 - 広島駅間|三原駅 - 広島駅間]]も参照)。
神戸駅 - [[下関駅]]間と和田岬線のJR西日本区間全線が[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」の利用エリア<ref>[https://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道、2023年4月2日閲覧</ref><ref name="westjr20221221">[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/221221_00_press_icocakakudai.pdf 在来線(山口エリア)および山陽新幹線でのICカードサービス拡大 〜2023年4月1日(土)スタート!〜] - 西日本旅客鉄道、2022年12月21日</ref>、下関駅 - [[門司駅]]間がJR九州のIC乗車カード「[[SUGOCA]]」の利用エリア(福岡・佐賀・熊本・大分エリア)となっている。ただし、ICOCA定期券を除いてICOCAエリアとSUGOCAエリアとをIC乗車カードでまたがって利用することはできない。
ラインカラーは、JR神戸線区間にはJR西日本の[[コーポレートカラー]]である「青」が設定されており、姫路駅以西には特に設定されていなかった<ref name="map_all_20140622">{{Cite web|和書|url = http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/index_all.pdf|format = PDF|title = JR西日本全域路線図|publisher = JRおでかけネット|archiveurl = https://web.archive.org/web/20140622183157/http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/index_all.pdf|archivedate = 2014-06-22|accessdate = 2016-04-21}}</ref>が、公式サイトの近畿エリア路線図には、姫路駅 - 上郡駅間もJR神戸線と同じ青で表現されていた<ref name="map_all_20140622_ubn">{{Cite web|和書|url = http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/ubn.pdf|format = PDF|title = JR線 近畿エリア路線図|publisher = JRおでかけネット|archiveurl = https://web.archive.org/web/20140622183157/http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/ubn.pdf|archivedate = 2014-06-22|accessdate = 2016-04-21}}</ref>。[[西日本旅客鉄道岡山支社|岡山支社]]では「緑」、[[西日本旅客鉄道広島支社|広島支社]]では「青」が、それぞれ自支社独自のラインカラーに設定されていたが<ref group="注釈">いずれも駅の案内では他支社管轄区間も自支社のラインカラーに従った案内になっており、例えば岡山駅掲出の運賃表ではJR神戸線の区間も緑色で記載される。また糸崎駅では広島方面も緑色、三原駅では岡山駅方面も青色で記載していた。</ref>、2014年度から路線記号の導入に合わせて広島支社エリアでもJR西日本としての公式なラインカラーが設定されることになり、ラインカラーと路線記号として、神戸駅 - 上郡駅間に'''青'''({{Color|#0072ba|■}})''' A '''、白市駅(後に糸崎駅まで延長) - 広島駅間に'''緑'''({{Color|#5a9934|■}})''' G '''、広島駅 - 岩国駅間に'''赤'''({{Color|#d7322e|■}})''' R '''がそれぞれ設定された<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref><ref name="map_all_20150318">{{Cite web|和書|url = http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/index_all.pdf|format = PDF|title = JR西日本全域路線図|publisher = JRおでかけネット|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150318193604/http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/index_all.pdf|archivedate = 2015-03-18|accessdate = 2016-04-21}}</ref>。このうち、海田市駅 - 広島駅間は[[呉線]]の列車が乗り入れるため、重複して'''黄'''({{Color|#db8e00|■}})''' Y '''が、広島駅 - 横川駅間は[[可部線]]の列車が乗り入れるため、重複して'''青'''({{Color|#00a6b4|■}})''' B '''が付与されている。
2016年3月26日からは岡山支社エリアでもラインカラーと路線記号として、三石駅 - 岡山駅間(既存の「A」区間との境界は上郡駅)に'''黄緑'''({{Color|#accd00|■}})''' S '''、岡山駅 - 福山駅間に'''橙'''({{Color|#ff8e1f|■}})''' W '''、福山駅 - 糸崎駅間に'''空色'''({{Color|#00acd1|■}})''' X '''がそれぞれ設定された<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/09/page_7661.html 岡山・福山エリアの主な路線に「路線記号」「ラインカラー」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2015年9月17日、2016年3月9日閲覧</ref><ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/01/page_8222.html 「吉備線・宇野線・岡山駅出入口の愛称名」ならびに「路線記号・ラインカラー」の使用開始について] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年1月28日、2016年3月10日閲覧</ref>。 このうち、東岡山駅 - 岡山駅間は[[赤穂線]]の列車が乗り入れるため、重複して'''赤'''({{Color|#f8405c|■}})''' N '''が、岡山駅 - 倉敷駅間は[[伯備線]]の列車が乗り入れるため、重複して'''緑'''({{Color|#378640|■}})''' V '''が付与されている。
なお、このダイヤ改正後に更新された公式サイトの全域路線図<ref name="map_all_20160421">{{Cite web|和書|url = http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/index_all.pdf|format = PDF|title = JR西日本全域路線図|publisher = JRおでかけネット|archiveurl = https://web.archive.org/web/20160421131635/http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/index_all.pdf|archivedate = 2016-04-21|accessdate = 2016-04-21}}</ref>や、岡山支社管内で運賃表を路線記号入りに更新した駅や、2017年3月に案内表示の更新が開始された糸崎駅では、既存の「G」区間についても三原駅 - 白市駅間が包含され、三原駅 - 広島駅間(「X」区間との境界は糸崎駅)を設定範囲としており、「R」区間は広島地区導入段階から南岩国駅も含まれている<ref name="map_all_20150318" />。ただし、これらの三原駅 - 入野駅の各駅構内の旅客案内では白市駅 - 岩国駅の各駅とは異なり、路線記号のアルファベットを抜いたカラーのみのシンボルを用いている。
岩国駅 - 下関駅間については2018年8月現在で路線記号導入の予定はない一方で、公式サイトの広島エリアの路線図<ref>{{Cite web|和書|url =http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/cnh.pdf|format = PDF|title = 広島エリア路線図|publisher=JRおでかけネット|archiveurl = https://web.archive.org/web/20160326145210/http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/cnh.pdf|archivedate = 2016-03-26|accessdate = 2016-04-21}}</ref>では2016年度の時点で岩国以東の延長の形で赤で表現されていたが、2017年3月の可部線の延伸に合わせて路線記号制定前に使用していた青({{Color|#0072ba|■}})による案内に戻された<ref name="map_cnh_20170303">{{Cite web|和書|url = http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/cnh.pdf|format = PDF|title = 広島エリア路線図|publisher = JRおでかけネット|archiveurl = https://web.archive.org/web/20170303230838/http://www.jr-odekake.net/eki/pdf/cnh.pdf|archivedate = 2017-03-03|accessdate = 2017-03-04}}</ref>。この時点では当該区間の駅構内の旅客案内で赤と青が混在(いずれの場合もアルファベット無し)していたが、2018年3月のダイヤ改正までには青に統一されたほか、岩国駅については新駅舎供用と同時に区間のカラーを区別するようになった。
JR九州区間においても2018年9月からラインカラー・駅ナンバリングが設定されており<ref name=":02">{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2018/09/28/Newsrelease-ekinumbering.pdf|title=訪日外国人のお客さまに、安心してご利用いただけるご案内を目指します!北部九州エリア157駅に「駅ナンバリング」を導入します|accessdate=2018-9-28|format=PDF|publisher=九州旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180928060817/http://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2018/09/28/Newsrelease-ekinumbering.pdf|archivedate=2018-9-28}}</ref>、鹿児島本線(吉塚 - 門司港間)と共通のラインカラー'''赤'''({{Color|#ee3d49|■}})、路線記号'''JA'''を使うが、ナンバリングは鹿児島本線と独立して設定してあり、小倉駅をJA51として下関駅へ向けて増加する。
支社および鉄道部の管轄は以下のように分かれている。
* 神戸駅 - 上郡駅間、兵庫駅 - 和田岬駅間 …JR西日本[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]
* 上郡駅(構内除く)- 下関駅間 …JR西日本[[西日本旅客鉄道中国統括本部|中国統括本部]]
* 下関駅(構内除く)- 門司駅間 …JR九州[[九州旅客鉄道鉄道事業本部|本社鉄道事業本部]]
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長537.1 km(支線を除いた神戸駅 - 門司駅間は534.4 km)
** 西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
*** [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[下関駅]]間 528.1 km<ref name="youran-jrw" />
*** [[兵庫駅]] - [[和田岬駅]]間 2.7 km<ref name="youran-jrw" /> ([[和田岬線]])
** 九州旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
*** 下関駅 - [[門司駅]]間 6.3 km<ref name="youran-jrk"/>
** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])
*** 神戸駅 - [[北九州貨物ターミナル駅]]間 (534.4 km)<ref name="youran-jrf" />
* [[軌間]]:1067mm
* [[線路等級|規格]]:
** 神戸駅 - 下関駅間 甲線
** 兵庫駅 - 和田岬駅間 不明
** 下関駅 - 門司駅間 甲線
* 駅数:131(起終点駅含む)<!--東姫路駅・寺家駅追加-->
** 旅客駅:127<!--東姫路駅・寺家駅追加-->
*** JR西日本:126<!--東姫路駅・寺家駅追加-->
*** JR九州:1(下関駅を除く)
**** 山陽本線所属の旅客駅に限定した場合、東海道本線所属の神戸駅と鹿児島本線所属の門司駅<ref name="teisya">『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref> が除外され、125駅<!--東姫路駅・寺家駅追加-->となる<ref group="注釈">これらはすべてJR西日本所属で、JR九州としての山陽本線所属駅はない。</ref>。
** 貨物駅:4(旅客併設駅除く)
* 複線区間:
** 複々線:
*** 神戸駅 - 西明石駅間 22.8 km
*** 海田市駅 - 広島駅間 6.4 km
** 複線:
*** 西明石駅 - 海田市駅間 275.5 km
*** 広島駅 - 門司駅間 229.7 km(下関駅 - 門司駅間は[[単線並列]])
** 単線:兵庫駅 - 和田岬駅間
* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]1500V、門司駅構内のみ[[交流電化|交流]]20,000V・60 Hz)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式<ref name="heisoku" />
* 保安装置
** 神戸駅 - 上郡駅間:[[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]](拠点P方式)および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]]
** 白市駅 - 岩国駅間:[[自動列車停止装置#D-TAS(旧称 ATS-DW形(ATS-M形))|D-TAS]]及びATS-SW
** 上郡駅 - 白市駅間、岩国駅 - 下関駅間、兵庫駅 - 和田岬駅間:ATS-SW
** 下関駅 - 門司駅間:[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SK]]
* 最高速度:
** 神戸駅 - 姫路駅間 130 km/h(西明石駅 - 兵庫駅間の電車線は120km/h)
** 姫路駅 - 下関駅間 120 km/h
** 下関駅 - 門司駅間 95km/h<ref>[https://www.jrkyushu.co.jp/company/ir/library/fact_sheet/pdf/factsheets2017.pdf FACt SHEETS 2017] - JR九州</ref>
** 兵庫駅 - 和田岬駅間 85 km/h
* [[運転指令所]]:
** 神戸駅 - 上郡駅間 [[大阪総合指令所|近畿総合指令所大阪指令所]]
** 上郡駅 - 糸崎駅間 中国総合指令所岡山指令所
** 糸崎駅 - 下関駅間 中国総合指令所広島指令所
** 下関駅 - 門司駅間 博多総合指令センター
* [[列車運行管理システム]]
** [[運行管理システム (JR西日本)|JR京都・神戸線運行管理システム]](神戸駅 - 上郡駅間)
** 山陽線運行管理システム(上郡駅 - 三原駅間、両駅の構内除く)
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間
** [[ICOCA]]エリア :
*** 神戸駅 - 下関駅間 (神戸駅 - 相生駅は、[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
*** 兵庫駅 - 和田岬駅間 (PiTaPaポストペイサービス対象区間)
** [[SUGOCA]]福岡・佐賀・熊本・大分エリア:
*** 下関駅 - 門司駅間
上記の営業キロ数は柳井駅経由のものである。岩国駅 - 櫛ケ浜駅間を通過する場合の運賃・料金は最短経路である[[岩徳線]]経由として計算する([[経路特定区間]])。岩徳線の岩国駅 - 櫛ケ浜駅間は営業キロ43.7 km、換算キロ48.1 kmなので、神戸駅 - 門司駅間の運賃・料金計算に用いる営業キロは512.7 km、運賃計算キロは517.1 kmとなる。
== 沿線概況 ==
{{BS-map
|title = 山陽本線(姫路駅 - 白市駅間)
|title-bg = #0072ba
|title-color = white
|map =
{{BS|STR|||{{rint|ja|wkab}} [[JR神戸線]]||}}
{{BS3||ABZg+r||||{{rint|ja|wkj}} [[播但線]]|}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|{{BSkm|54.8|87.9}}|[[姫路駅]]||}}
{{BS5|KBHFa|exKBHFa|eABZg2|eSTR2+c3|STRc3|||[[山陽姫路駅]]/''姫路仮駅''|}}
{{BS5|eSTR2u|exSTR3|O2=POINTERg@fq|eSTR+c1|xSTR+4+c1|STR+4|||''[[姫路市交通局モノレール線|姫路市営モノレール]]''|}}
{{BS5|exSTR+1|eSTR+4u|STR|exHST|STR|||''豆腐町駅''|}}
{{BS5|exLSTR|STRl|KRZo|xKRZu|KRZo|||[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]:{{rint|kobe|sym}} [[山陽電気鉄道本線|本線]]|}}
{{BS5|exLSTR|STR+l|ABZgr|exSTRl|eKRZo|||''播但線(飾磨港線)''→|}}
{{BS5|xKRZu|KRZu|KRZu|STRq|STRr|||[[山陽新幹線]]||}}
{{BS5|exSTRl|eKRZu|eKRZu||||||}}
{{BS5||STRr|STR|||||{{rint|ja|wkk}} [[姫新線]]|}}
{{BS|BHF|59.4|[[英賀保駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[夢前川]]|}}
{{BS|BHF|62.2|[[はりま勝原駅]]||}}
{{BS3|exKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||65.1|[[網干駅]]||}}
{{BS5|exHSTq|exABZqr|eKRZu|||||''糸井駅 [[播電鉄道]]''|}}
{{BS|eABZgl|||''[[北沢産業網干鉄道]]''|}}
{{BS3||KRWgl|KRW+r||||}}
{{BS3||STR|KDSTe||[[網干総合車両所]]||}}
{{BS|eDST|67.2|''林田川信号場''||}}
{{BS3|LSTRq|KRZu|STR+r||||}}
{{BS3||hKRZWae|hKRZWae|||[[揖保川]]|}}
{{BS3||BHF|STR|71.0|[[竜野駅]]||}}
{{BS3||STR|TUNNEL2||||}}
{{BS3|STR+l|KRZu|STRr|||山陽新幹線|}}
{{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||75.5|[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]||}}
{{BS3|STR|ABZgl||||{{rint|ja|wkaa}} [[赤穂線]]|}}
{{BS3|STRl|KRZu|STR+r||||}}
{{BS3||STR|tSTRa|||||}}
{{BS3||eDST|tLSTR|78.9|''西原信号場''| -1931|}}
{{BS|STR||||}}<!-- 山陽新幹線と赤穂鉄道がくっついて見えるのを防ぐため -->
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|exKBHFa|O3=HUBeq|83.1|[[有年駅]]||}}
{{BS3||STR|exSTRl|||''[[赤穂鉄道]]''|}}
{{BS|eDST|88.2|''千種川仮信号場''||}}
{{BS5|||hKRZWae||LOGO JRW kinki-A|||[[千種川]]|}}
{{BS5|||BHF||GRZq|89.6|[[上郡駅]]||}}
{{BS5|||ABZgr||LOGO JRW oka-S|||[[智頭急行]]:[[智頭急行智頭線|智頭線]]|}}
{{BS|eDST|93.9|''栗原信号場''| -1925|}}
{{BS|eDST|98.0|''梨ヶ原信号場''||}}
{{BS|TUNNEL1|O1=GRZq||船阪トンネル| ↑[[兵庫県]]/[[岡山県]]↓|}}
{{BS|BHF|102.4|JR-S11 [[三石駅]]||}}
{{BS|eDST|105.5|''谷村信号場''| -1925|}}
{{BS|BHF|109.5|JR-S10 [[吉永駅]]||}}
{{BS|eDST|112.4|''金剛川仮信号場''||}}
{{BS|hKRZWae|||金剛川|}}
{{BS3||STR|exSTR+l||''[[同和鉱業片上鉄道]]''|}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|exBHF|O3=HUBeq|114.8|JR-S09 [[和気駅]]||}}
{{BS3||eKRZu|exSTRr|||}}
{{BS|BHF|119.4|JR-S08 [[熊山駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[吉井川]]|}}
{{BS|BHF|123.5|JR-S07 [[万富駅]]||}}
{{BS|BHF|128.0|JR-S06 [[瀬戸駅]]||}}
{{BS3||eDST|LSTR|129.6|''砂川仮信号場''||}}
{{BS3|STR+l|KRZu|STRr|||山陽新幹線|}}
{{BS5||TUNNEL2|BHF||LOGO JRW oka-S|132.7|JR-S05 [[上道駅 (岡山県)|上道駅]]||}}
{{BS3|STR|ABZg+l||||{{rint|ja|won}} 赤穂線|}}
{{BS5||STR|BHF||GRZq|136.1|JR-S04 [[東岡山駅]]||}}
{{BS3|STR|BHF||138.9|JR-S03 [[高島駅]]||}}
{{BS3|STR|eDST||140.0|''百川仮信号場''| -1935|}}
{{BS3|hKRZWae|hKRZWae||||[[百間川]]|}}
{{BS3|STR|eDST||140.6|''中井信号場''| -1933|}}
{{BS3|STR|BHF||140.8|JR-S02 [[西川原駅]]||}}
{{BS5||hKRZWae|hKRZWae|LOGO JRW oka-S|LOGO JRW oka-N|||[[旭川 (岡山県)|旭川]]|}}
{{BS3|STRl|KRZu|STR+r||||}}
{{BS3|STR+r|STR|STR|||{{rint|ja|wot}} [[津山線]]|}}
{{BS5|KRW+l|KRWgr|STR|STR|||||}}
{{BS5|BST|KRWgl|KRWg+r|STR||||[[岡山気動車区]]|}}
{{BS5|KRWl|KRWg+r|STR|STR|||||}}
{{BS5||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|BHF|O4=HUBeq|GRZq|143.4|JR-S01・JR-W01 [[岡山駅]]|[[ファイル:BSicon TRAM.svg|14px|link=岡山電気軌道東山本線|岡山電気軌道東山本線]]([[岡山駅前駅]])|}}
{{BS3|STRr|O1=KRW+l|KRWgr|STR|||←[[吉備線]]({{rint|ja|wou}} 桃太郎線)|}}
{{BS3|STR|eABZgl|eKRZo|||''宇野線旧線''|}}
{{BS5||STRl|KRZu|KRZo|STR+r||||}}
{{BS5||KRW+l|KRWgr|STR|STR|O5=POINTERg@fq|||[[宇野線]]|}}
{{BS5|ABZq+l|KRZu|KRZu|STRr|STR|||({{rint|ja|wol}} 宇野みなと線・{{rint|ja|wom}} [[瀬戸大橋線]])|}}
{{BS5|KRWg+l|KRWgr|ABZg+l|KDSTeq|STR||[[岡山機関区]]||}}
{{BS5|KBSTe|STR|STR||STR|||[[博多総合車両所]]岡山支所|}}
{{BS5||KDSTe|e3ABZg+1|ex3STRq-|e3ABZg+4||[[岡山電車区]]||}}
{{BS5|||STR||eDST|{{BSkm| |4.6}}|''岡操口信号場''| -1956||}}
{{BS5|LOGO JRW san-V|LOGO JRW oka-W|eDST||STRl|{{BSkm|145.9|4.0}}|''岡山操車場''| -1990|}}
{{BS|DST|{{BSkm|146.1| }}|[[岡山貨物ターミナル駅]]||}}
{{BS|BHF|{{BSkm|146.8| }}|JR-W02 [[北長瀬駅]]||}}
{{BS|BHF|{{BSkm|149.9|0.0}}|JR-W03 [[庭瀬駅]]||}}
{{BS|BHF|154.6|JR-W04 [[中庄駅]]||}}
{{BS5|GRZq||BHF|KBHFa||159.3|JR-W05 [[倉敷駅]]|/[[倉敷市駅]]|}}
{{BS3||ABZgr|STR|||{{rint|ja|wsv}} [[伯備線]]|}}
{{BS5|LOGO JRW oka-W||KRWgl|KRWg+r|||||}}
{{BS3||STR|STRl|||[[水島臨海鉄道|水島臨海]]:[[水島臨海鉄道水島本線|水島本線]]|}}
{{BS|eDST|162.5|''高梁仮信号場''| -1920|}}
{{BS|BHF|163.3|JR-W06 [[西阿知駅]]||}}
{{BS3|LSTR|hKRZWae||||[[高梁川]]|}}
{{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||169.6|JR-W07 [[新倉敷駅]]||}}
{{BS3|LSTR|STR|||||}}
{{BS|BHF|174.9|JR-W08 [[金光駅]]||}}
{{BS|BHF|178.4|JR-W09 [[鴨方駅]]||}}
{{BS|BHF|182.4|JR-W10 [[里庄駅]]||}}
{{BS3|exKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||187.1|JR-W11 [[笠岡駅]]||}}
{{BS3|exSTRr|STR||||''[[井笠鉄道]]:[[井笠鉄道本線|本線]]''|}}
{{BS|eDST|188.7|''金浦仮信号場''| -1934|}}
{{BS|eDST|190.6|''金浦信号場''| -1925|}}
{{BS|STR+GRZq|||↑岡山県/[[広島県]]↓|}}
{{BS3|LSTR|BHF||194.2|JR-W12 [[大門駅 (広島県)|大門駅]]||}}
{{BS3|STRl|KRZu|STR+r|||山陽新幹線|}}
{{BS3||STR|TUNNEL1||||}}
{{BS3|STR+l|KRZu|STRr||||}}
{{BS3|STR|ABZg+l|KBSTeq|||[[JFEスチール西日本製鉄所#福山地区|JFEスチール西日本製鉄所]] 専用線|}}
{{BS3|STR|BHF||197.5|JR-W13 [[東福山駅]]||}}
{{BS5|exKBHFeq|STR|STR||LOGO JRW oka-W|||''両備福山駅'' ''福塩南線''|}}
{{BS5||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|exKBHFa|O4=HUBeq|GRZq|201.7|JR-W14・JR-X14 [[福山駅]]||}}
{{BS3|KRZo|ABZgr|exSTRl|||←{{rint|ja|woz}} [[福塩線]]/''[[鞆鉄道線|鞆鉄道]]''→|}}
{{BS5||hKRZWae|hKRZWae||LOGO JRW oka-X|||[[芦田川]]|}}
{{BS3|LSTR|BHF||207.5|JR-X15 [[備後赤坂駅]]||}}
{{BS|BHF|212.4|JR-X16 [[松永駅]]||}}
{{BS|BHF|215.3|JR-X17 [[東尾道駅]]||}}
{{BS|eDST|216.9|''山波仮信号場''| -1939|}}
{{BS3|exKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||221.8|JR-X18 [[尾道駅]]||}}
{{BS3|exSTRr|STR||||''[[尾道鉄道]]''|}}
{{BS|eDST|225.1|''木原信号場''| -1933|}}
{{BS3||STR|KDSTa||''[[糸崎機関区]]''||}}<!-- 車両基地としては存続 -->
{{BS5|||KRWg+l|KRWr|LOGO JRW oka-X||||}}
{{BS5||LSTR|BHF||GRZq|230.9|JR-X19・JR-G17 [[糸崎駅]]||}}
{{BS5||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq||LOGO JRW hiro-G|233.3|JR-X20・JR-G16 [[三原駅]]||}}
{{BS3|STR|ABZgl||||{{rint|ja|why}} [[呉線]]|}}
{{BS3|STR|eKRWgl|exKRW+r||||}}
{{BS3|TUNNEL1|TUNNEL1|exSTR|||}}
{{BS3|TUNNEL1|eKRWg+l|exKRWr||||}}
{{BS3|STR|eDST||238.3|''萩路信号場''| -1939|}}
{{BS3|TUNNEL2|BHF||242.8|JR-G15 [[本郷駅 (広島県)|本郷駅]]||}}
{{BS5||STRl|KRZu|tSTRaq|tLSTR+r|||山陽新幹線|}}
{{BS|eDST|250.0|''郷原仮信号場''| -1945|}}
{{BS|BHF|255.1|JR-G14 [[河内駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[沼田川]]|}}
{{BS|eDST|259.3|''入野信号場''| -1939|}}
{{BS|BHF|259.5|JR-G13 [[入野駅 (広島県)|入野駅]]||}}
{{BS|BHF|263.9|JR-G12 [[白市駅]]||}}
{{BS|STR|||{{rint|ja|whg}} [[山陽本線 (広島地区)]]|}}
}}
{{BS-map
|title = 山陽本線(岩国駅 - 門司駅間)
|title-bg =
|title-color =
|map =
{{BS3||STR|LOGO JRW hiro-R|||{{rint|ja|whr}} [[山陽本線 (広島地区)]]|}}
{{BS3|exKHSTa|ABZg+l|KBSTeq|||''港駅''/日本製紙 専用線|}}
{{BS3|exBHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|GRZq|346.1|[[岩国駅]]||}}
{{BS3|xKRZ|ABZgr|||''山陽本線旧線''|・[[岩徳線]]|}}
{{BS3|exSTRr|STR||||''[[岩国電気軌道]]''|}}
{{BS|hKRZWae|||今津川|}}
{{BS|eDST|348.0|''川下信号場''| -1984|}}
{{BS|hKRZWae|||門前川|}}
{{BS|eDST|349.4|''尾津信号場''| -1944|}}
{{BS|BHF|350.7|[[南岩国駅]]||}}
{{BS|BHF|353.4|[[藤生駅]]||}}
{{BS|TUNNEL1||通津トンネル||}}
{{BS|BHF|358.6|[[通津駅]]||}}
{{BS|BHF|361.6|[[由宇駅]]||}}
{{BS|TUNNEL2||||}}
{{BS|BHF|366.8|[[神代駅 (山口県)|神代駅]]||}}
{{BS|eDST|368.7|''東原仮信号場''| -1948|}}
{{BS|eDST|369.1|''西原仮信号場''| -1948|}}
{{BS|eDST|369.2|''相地信号場''| -1961|}}
{{BS|eBHF|370.5|神代仮駅| -1916|}}
{{BS|TUNNEL1||神代第一トンネル||}}
{{BS3||BHF|exBOOT|371.9|[[大畠駅]]| ''[[大島連絡船|大島航路]]''|}}
{{BS|TUNNEL1||神代第二トンネル||}}
{{BS|BHF|376.4|[[柳井港駅]]||}}
{{BS|BHF|379.2|[[柳井駅]]||}}
{{BS|BHF|385.4|[[田布施駅]]||}}
{{BS|TUNNEL1||大塚トンネル||}}
{{BS|BHF|390.9|[[岩田駅]]||}}
{{BS|TUNNEL2||||}}
{{BS|eDST|394.0|''立野信号場''| -1963|}}
{{BS|BHF|395.9|[[島田駅 (山口県)|島田駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[島田川]]|}}
{{BS|BHF|400.7|[[光駅]]||}}
{{BS3||ABZg+l|KBSTeq|||[[日立製作所]][[日立製作所笠戸事業所|笠戸事業所]] 専用線|}}
{{BS|BHF|406.9|[[下松駅 (山口県)|下松駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||切戸川|}}
{{BS|hKRZWae|||平田川|}}
{{BS|hKRZWae|||末武川|}}
{{BS|ABZg+r||''山陽本線旧線''|・岩徳線|}}
{{BS5|LSTR||BHF|||411.5|[[櫛ケ浜駅]]||}}
{{BS5|STRl|STRq|KRZu|STR+r|||||}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|414.9|[[徳山駅]]||}}
{{BS3|STR+l|KRZu|STRr||||}}
{{BS3|LSTR|KRWgl|KRW+r||||}}
{{BS3||STR|DST||''徳山客車区''||}}
{{BS3||STR|DST||新南陽総合鉄道部|(JR貨物)|}}
{{BS3||KRWg+l|KRWr||||}}
{{BS|ABZg+l|||[[トクヤマ]]工場|}}
{{BS|BHF|419.0|[[新南陽駅]]||}}
{{BS5|||eABZgl|exABZq+r|exKBSTeq|||''[[東ソー]]南陽事業所 専用線''|}}
{{BS5|||STR|exKBSTe||||''[[信越化学工業]]など 専用線''|}}
{{BS|BHF|421.9|[[福川駅]]||}}
{{BS|BHF|425.7|[[戸田駅 (山口県)|戸田駅]]||}}
{{BS|TUNNEL2||||}}
{{BS|TUNNEL1||大畠トンネル|}}
{{BS|eDST|432.9|''田ノ浴信号場''| -1962|}}
{{BS|BHF|434.2|[[富海駅]]||}}
{{BS|eDST|437.2|''[[防府貨物駅]]''||}}
{{BS|eDST|437.6|''牟礼仮信号場''| -1942|}}
{{BS3|exKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||441.4|[[防府駅]]||}}
{{BS3|exSTRr|STR||||''[[防石鉄道]]''|}}
{{BS|eDST|445.7|''佐波川信号場''| -1961|}}
{{BS|hKRZWae|||[[佐波川]]|}}
{{BS|hKRZWae|||横曽根川|}}
{{BS|BHF|449.2|[[大道駅]]||}}
{{BS3|LSTR|BHF||454.0|[[四辻駅]]||}}
{{BS3|hKRZWae|hKRZWae|||||}}
{{BS5||STRl|KRZu|STRq|STR+r||||}}
{{BS5||KDSTaq|ABZg+r||STR||下関総合車両所新山口支所||}}
{{BS5|||ABZg+r||STR|||[[山口線]]|}}
{{BS5|||BHF|O3=HUBaq|KBHFa|O4=HUBq|BHF|O5=HUBeq|459.2|[[新山口駅]]||}}
{{BS5||STR+l|KRZu|KRZu|STRr|||山陽新幹線|}}
{{BS3|LSTR|STR|HST|||[[上嘉川駅]]|}}
{{BS3||STR|STRl|||[[宇部線]]|}}
{{BS|BHF|463.2|[[嘉川駅]]||}}
{{BS|BHF|467.7|[[本由良駅]]||}}
{{BS|eDST|472.7|''上清水信号場''| -1941|}}
{{BS|eDST|475.8|''善和信号場''| -1961|}}
{{BS3|LSTR|TUNNEL1|||||}}
{{BS3|hKRZWae|hKRZWae||||[[厚東川]]|}}
{{BS3|LSTR|BHF||478.0|[[厚東駅]]||}}
{{BS|ABZg+l|||宇部線|}}
{{BS3|exKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||484.5|[[宇部駅]]||}}
{{BS3|exSTRr|STR|STR+l|||←''[[船木鉄道]]''/[[小野田線]]→|}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|KBHFe|O3=HUBeq|488.0|[[小野田駅]]||}}
{{BS3|LSTR|STR|||||}}
{{BS3|hKRZWae|hKRZWae||||[[厚狭川]]|}}
{{BS3|STRl|KRZu|STR+r||||}}
{{BS3||ABZg+r|STR|||[[美祢線]]|}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|494.3|[[厚狭駅]]||}}
{{BS5|STR+l|STRq|KRZu|STRr||||山陽新幹線|}}
{{BS5|LSTR||TUNNEL1||||||}}
{{BS|eDST|498.9|''炭山信号場''| -1941|}}
{{BS|eDST|499.1|''福田仮信号場''||}}
{{BS|eDST|499.5|''福田信号場''| -1960|}}
{{BS|BHF|502.6|[[埴生駅]]||}}
{{BS|eDST|505.8|''松屋信号場''| -1960|}}
{{BS|TUNNEL1||||}}
{{BS|hKRZWae|||[[木屋川]]|}}
{{BS3|exKBHFeq|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||508.8|[[小月駅]]|''長門鉄道''|}}
{{BS|BHF|515.0|[[長府駅]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=山陽電気軌道|山陽電気軌道長関線]]|}}
{{BS|eDST|517.0|''滑石信号場''| -1961|}}
{{BS|TUNNEL1||滑石トンネル|}}
{{BS5|||eABZgl|exBHFq|exSTR+r|520.3|''長門一ノ宮駅''| -1928}}
{{BS5|tLSTR||STR||exTUNNEL1||''長谷トンネル''||}}
{{BS5|tSTRl|tSTReq|TBHFu|tSTRaq|xKRZt|520.9|[[新下関駅]]|山陽新幹線|}}
{{BS5|||STR||exSTR||||}}
{{BS5|||ABZg+r||exSTR|||[[山陰本線]]|}}
{{BS5|||KRWgl|KRW+r|exSTR||||}}
{{BS5|||BHF|KDSTe|exSTR|524.6|[[幡生駅]] [[下関総合車両所]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=山陽電気軌道|山陽電気軌道幡生線]]|}}
{{BS5|||eABZg+l|exBHFq|exSTRr||''幡生駅''| -1928|}}
{{BS|DST|525.4|[[幡生駅#幡生操車場|幡生操車場]]・[[幡生機関区]]||}}
{{BS5|||STR||exKDSTa|{{BSkm| |1.3}}|''下関港駅''| -1942|}}
{{BS5|||eABZgl|exBHFq|exSTRr|{{BSkm|529.1|0.0}}|''下関駅''| -1942 [[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=山陽電気軌道|山陽電気軌道長関線]]|}}
{{BS3||STR|exBOOT|||''[[関門連絡船|関門航路]]''|}}
{{BS5|exKBSTa||STR|||||''市場駅''|}}
{{BS5|exSTR|GRZq|BHF|||528.1|JA53 [[下関駅]]|}}
{{BS5|exSTR|LOGO JRK-JA|KRWgl|KRW+r|exSTR+l|||''細江ヤード出入線''|}}
{{BS5|exSTR|KRW+l|KRWgr|eKRWgl|exKRWg+r||下関総合車両所||}}
{{BS5|exSTR|KDSTe|STR|ENDEe|exSTR|| 運用検修センター||}}
{{BS5|exSTRl|exSTRq|eKRZo|exSTRq|exSTRr||||}}
{{BS5|WDOCKSc3||hSTRa||WDOCKSc2||||}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|O3=lhMSTR|P3=STR|WDOCKSm|WDOCKSm|||小瀬戸|}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSc4|hSTRe|WDOCKSc1|WDOCKSm|||[[彦島]]|}}
{{BS5|WDOCKSm||STR+GRZq||WDOCKSm|||↑[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]/[[九州旅客鉄道|JR九州]]↓|}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSc3|tSTRa|WDOCKSc2|WDOCKSm||[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]||}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|O3=tSTR|WDOCKSm|WDOCKSm|||[[関門海峡]](大瀬戸)|}}
{{BS5|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|O3=tSTR+GRZq|WDOCKSm|WDOCKSm|||↑山口県/[[福岡県]]↓|}}
{{BS|tSTRe|||←{{rint|ja|kjak}} [[鹿児島本線]]→|}}
{{BS5|STRq|BHFq|ABZqr|STRq||534.4|JA52 [[門司駅]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=西鉄北九州線|西鉄北九州線]]''(門司駅前駅)''|}}
}}
須磨駅 - 塩屋駅間、東尾道駅 - 三原駅間、宮島口駅近辺、岩国駅以西の山口県内では、[[瀬戸内海]]が車窓に迫る。最後は下関駅の先で海の下に潜って、再び地上に出るとそこは[[九州]]である。
=== 神戸駅 - 姫路駅間 ===
{{See also|JR神戸線#沿線概況}}
山陽本線の起点でもあり、[[東海道本線]]の終点でもある[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]<ref name="kobe-np20171005" />は、3面5線の構造になっており、上り線は2面3線の構造になっている。東海道本線から途切れることなくほとんどの列車が直通運転を行っている。神戸駅を出ると、東海道本線から引き続き方向別複々線で西へ進み、しばらくビル街のまん中を貫くように走る。次の[[兵庫駅]]では[[和田岬駅]]へ向かう支線の通称「[[和田岬線]]」が接続する。和田岬線は、工場地帯の通勤線であり<ref name="zensenzeneki9-p52">『全線全駅鉄道の旅 9 山陽・四国 JR私鉄3300キロ』小学館、1991年、p.52</ref>、平日でも朝夕の時間帯しか運行されていない。ホームも1面1線の単線路線で、兵庫駅 - 和田岬駅間のピストン輸送となっている。<!--青春18きっぷのシーズンは和田岬線目当ての乗客が多い。-->
兵庫駅 - 新長田駅間で方向別複々線が終わり、ここから先は線路別複々線となる。[[電車線・列車線|列車線]]が山側、[[電車線・列車線|電車線]]が海側になっており、列車線を[[新快速]]などの優等列車と貨物列車が走り、電車線を快速と普通が走っている。兵庫駅から明石駅まで列車線にホームはない。[[新長田駅]]は普通しか停車しないが、[[神戸市営地下鉄]][[神戸市営地下鉄西神・山手線|西神・山手線]]、[[神戸市営地下鉄海岸線|海岸線]]と連絡している。
[[神戸貨物ターミナル駅]]が併設されている[[鷹取駅]]を出ると、列車線の上り線が合流して[[阪神高速3号神戸線]]を潜る。少し走ると[[須磨海浜公園駅]]へ。電車線のみにホームがあり、2面4線の橋上駅舎となっている[[須磨駅]]付近では海と山に挟まれた険しい地形の中を[[山陽電気鉄道本線]]・[[国道2号]]とともに並走する。国道2号が山陽本線を乗り越えて行くと[[塩屋駅 (兵庫県)|塩屋駅]]に着く。[[垂水駅]]を出ると、[[舞子駅]]で[[明石海峡大橋]]の下を潜り、[[明石市]]に入ってすぐの[[朝霧駅]]まで海沿いを走り、やがて[[日本標準時子午線]]上にある時計台で知られる[[明石市立天文科学館]]を過ぎると、城下町である明石市の中心駅・[[明石駅]]である。
この駅は2面4線の構造になっているが、線路別の構造になっているので同一ホーム上での[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]はできない。東海道本線の[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]から続いた複々線は次の[[西明石駅]]で終わり、この先は複線となって真っ直ぐ北西方向を向いて走る。住宅やマンションが建て込む明石の市街地を走り、2面4線の[[大久保駅 (兵庫県)|大久保駅]]。さらに真っ直ぐ走り、左手から[[山陽新幹線]]が近づいてきて、それを見ながら2面2線の[[魚住駅]]。魚住駅を出ると山陽新幹線が左手に離れて行き、線路は真っ直ぐ北西方向に走り、明石市と[[播磨町]]に跨る2面3線の[[土山駅]]に着く。[[加古川市]]に入り、左手に[[加古川バイパス]]が並行するのを見て2面3線の[[東加古川駅]]、さらに真っ直ぐ北西方向を向いて走り、高架線を駆け上がり加古川の市街地を見て[[加古川駅]]に着く。
加古川を出るとすぐに[[加古川]]を渡り[[宝殿駅]]。この駅は加古川市と[[高砂市]]の境にある。[[姫路バイパス]]が乗り越えて右にカーブしながら[[曽根駅 (兵庫県)|曽根駅]]。ここまでが高砂市で、この駅を出ると播磨地方の中心都市・[[姫路市]]に入る。[[ひめじ別所駅]]・[[姫路貨物駅]]、[[御着駅]]を過ぎると[[市川 (兵庫県)|市川]]を渡り、[[東姫路駅]]を過ぎて市街地に入り[[姫路駅]]に至る。姫路駅は[[姫新線]]・[[播但線]]および[[播州赤穂駅|播州赤穂]]や[[上郡駅|上郡]]・[[岡山駅|岡山]]方面との乗り換え駅となっている。また、須磨駅 - 明石駅間で並走し、明石以西では南側の沿岸部に進路をとった山陽電気鉄道本線も、姫路駅北側に所在する[[山陽姫路駅]]に乗り入れている。
<gallery>
JR-Kobe-Line-223-J9.jpg|須磨駅 - 塩屋駅間では海岸に接して走行する。
JRW series223 Kobe.jpg|明石海峡大橋を望む舞子駅付近。
</gallery>
=== 姫路駅 - 岡山駅間 ===
姫路駅を出ると[[山陽電気鉄道本線|山陽電鉄本線]]を跨ぎ、その後は南西方向に真っすぐに進んで山陽新幹線を潜りしばらく姫新線と並行する。姫路バイパスを潜ると[[英賀保駅]]。[[はりま勝原駅]]を過ぎ、次の[[網干駅]]は姫路市の南西端に位置し、岡山方には[[網干総合車両所]]が広がっている。網干駅は[[山陽網干駅]]と駅名は似るが、約3 km離れており乗り換えには向かない。網干駅を出ると、左手に広大な車両所が広がるのを見て進む。なお、網干総合車両所の所在地は姫路市ではなく[[太子町 (兵庫県)|太子町]]である。
車両所が途切れると[[林田川]]を渡り、山陽新幹線の高架が見えて、それを潜ると[[揖保川]]を渡る。揖保川を渡って[[たつの市]]に入ると[[竜野駅]]だが、名称は「たつの」であっても[[日本の市町村の廃置分合|平成の大合併]]前の[[龍野市]]<!--旧自治体へのリンクです。-->内の駅ですらなかった駅で、たつの市の中心駅は市役所なども近い、姫新線の[[本竜野駅]]である。[[相生市]]に入って山陽新幹線を潜ると[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]、左手に単線の[[赤穂線]]が分かれていき、山陽本線は右にカーブし、再び山陽新幹線の高架と[[山陽自動車道]]を潜って狭い山間を行く。国道2号と並行して進み、[[赤穂市]]に入って[[有年駅]]。有年駅を出ると右にカーブして進路を北にとる。国道2号とは離れて、[[国道373号]]と[[千種川]]に沿って進む。しばらくして[[上郡町]]に入り、千種川を渡ると、[[智頭急行智頭線|智頭急行線]]が分岐する[[上郡駅]]に到着する。現在は京阪神・岡山から[[鳥取駅|鳥取]]方面に向かう特急列車は智頭急行線を経由している。
この先、兵庫県と岡山県の県境を有する上郡駅 - 三石駅間は、山陽本線では最も長い駅間である<ref group="注釈">なお、2024年の[[北陸新幹線]]延伸に伴う[[北陸本線]](敦賀駅 - 金沢駅間)の経営移管後は、本区間がJR西日本の在来線で最長の駅間となる。</ref>と同時に、和田岬線に次いで列車本数の少ない区間であり、<!--{{要出典|範囲=-->この区間を通る普通列車は、企画乗車券「[[青春18きっぷ]]」の使用可能期間中、京阪神方面と四国・広島・岡山方面を往来する乗客で混雑する場合が多い<ref>[https://news.mynavi.jp/article/sanyo-3/ 「青春18きっぷ」で山陽本線の旅、その2 - 糸崎駅から三ノ宮駅まで|山陽新幹線&山陽本線の旅] マイナビニュース 2019年2月25日</ref><ref>[https://kisha-tabi.com/18kippu-rough/ 初めての方は要覚悟!18きっぷ難所ランキング新幹線並行区間編|汽車旅指南所] 2017年7月8日 </ref><!--|date=2016年6月}}-->。そのため、一部の列車で最大6 - 7両編成での運転も行っている。
上郡駅を出て、上下線が智頭急行線の単線の線路を挟んで進み、左にカーブして智頭急行線が高架線の形で、山陽本線上り線を乗り越えて右手に分かれて行く。ここから先は標高は低いものの軽い峠越えであり、山を周り込むように走る。例えば次の駅への最短距離を進むなら南南西の[[鯰峠]]に直行せねばならないが、実際の経路は北上して鯰峠を避けて、鯰峠の西の谷を登りながら走る。そして、千種川水系と吉井川水系との分水嶺である[[船坂峠]]を[[船坂トンネル]]で抜けると[[岡山県]]に入る。[[国道2号]]と並行して走り、[[三石駅]]。次は[[備前市]]にある[[閑谷学校]]に近い[[吉永駅]]。吉永駅を出て、[[日笠川]]や[[金剛川]]を渡り[[和気駅]]。和気を出ると左手に山陽自動車道、右手に[[吉井川]]を見ながら進むと[[熊山駅]]、吉井川を渡ると[[岡山市]]に入り[[万富駅]]。万富駅からしばらく西南方向に走ると[[瀬戸駅]]で、しばらく南に向かって進み、山陽新幹線の高架を潜って、右にカーブして山陽新幹線に沿って西へ進んで[[上道駅 (岡山県)|上道駅]]に着く。[[東岡山駅]]で赤穂線と合流して[[高島駅]]を過ぎると、[[百間川]]を渡り[[西川原駅]]。[[旭川 (岡山県)|旭川]]を渡る付近で[[岡山城]]が見え始めると、[[津山線]]と合流し[[岡山駅]]に着く。
岡山駅は津山線のほか、[[吉備線]]と[[宇野線]]の起点であると同時に、運転系統上は伯備線と赤穂線および[[瀬戸大橋線]]の列車も、ほとんどが岡山駅を始発・終着としている。また[[岡山電気軌道]]の路面電車との乗り換えも可能である。
[[File:JNR 115-3000 in Setouchi yellow livery 2015-01-04.jpg|thumb|200px|none|吉井川橋梁を走行する普通列車]]
=== 岡山駅 - 三原駅間 ===
岡山駅を出て、JR貨物岡山機関区、JR西日本[[岡山電車区]]といった広大な車両基地を併設した[[岡山貨物ターミナル駅]]を過ぎると、[[北長瀬駅]]、[[庭瀬駅]]を通る。庭瀬駅を出ると家並みが途切れて田畑が目立つようになる。[[岡山県倉敷スポーツ公園野球場]](マスカットスタジアム)の最寄駅でもある[[中庄駅]]を経て、右手に山陽自動車道の[[倉敷ジャンクション]]が見え、[[瀬戸中央自動車道]]を潜る。左にカーブして西南方向を向いて走り、伯備線への下り線が分岐し高架になって山陽本線を乗り越え、3線になってホーム3面5線の[[倉敷駅]]へ。
岡山県第二の都市・[[倉敷市]]の中心駅である倉敷駅は伯備線が分岐し、駅の南西からは[[水島臨海鉄道]]が発着している。周辺には[[大原美術館]]や白壁の商家が並ぶ[[倉敷美観地区|美観地区]]などの観光名所がある<ref name="zensenzeneki9-p58">『全線全駅鉄道の旅 9 山陽・四国 JR私鉄3300キロ』小学館、1991年、pp.58-59</ref>。
次の[[西阿知駅]]の先で[[高梁川]]を渡ると、[[白桃]]や、[[マスカット・オブ・アレキサンドリア|マスカット]]、[[ピオーネ]]などの[[ブドウ]]の産地である[[玉島地域]]を通り、平地や山の斜面に[[モモ|桃]]畑や葡萄畑が作られているのを見ることができる。再び山陽新幹線が近付いてくると[[新倉敷駅]]である。[[金光教]]の本部がある[[金光駅]]、[[鴨方駅]]、[[里庄駅]]と、のどかな田園風景がしばらく続く。[[笠岡市]]に入って、工場や商業施設が国道2号沿いに立ち並んでいるのを見ながら走り、左手に[[笠岡港]]が見えると[[笠岡駅]]である。次の[[大門駅 (広島県)|大門駅]]から[[広島県]]に入る。
貨物ターミナル併設の[[東福山駅]]を過ぎ、3階を新幹線、2階部分を在来線が走行する二重高架区間となり[[福山城 (備後国)|福山城]]が迫ると広島県東部の拠点都市である福山市の中心駅[[福山駅]]に到着する。福山駅は山陽新幹線との乗り換え駅で、[[福塩線]]が分岐するほか、[[井原鉄道]]の一部列車も乗り入れる。[[芦田川]]を渡り市街地をしばらく進むと、周辺の景色は田園地帯になり、山陽新幹線が[[福山トンネル]]に入るあたりで[[備後赤坂駅]]を経て、1966年まで存在した旧[[松永市]]の中心駅・[[松永駅]]へ。しばらく宅地化の進む中を走って[[東尾道駅]]を過ぎる。
三原駅までは海の見える区間が長く続き、中でも[[尾道市]]にある急斜面の石段と伝統的な街並みに、[[西瀬戸自動車道|しまなみ海道]]の橋梁を望む情景は、{{要出典|範囲=しばしば観光パンフレットの題材に使われる|date=2016年6月}}。
尾道の市街地が途切れて[[三原市]]に入る。[[糸崎港]]が見えてくると[[糸崎駅]]である。糸崎駅は運転上の要衝で、岡山方面や広島方面からの列車が折り返す。次の[[三原駅]]では[[呉線]]が分岐する。
=== 三原駅 - 広島駅間 ===
[[本郷駅 (広島県)|本郷駅]]を過ぎるとその後は山岳路線となり、緩やかな上りカーブが連続する。[[東広島市]]に入り、[[椋梨川]]を渡ると[[河内駅]]。駅前には[[国道432号]]が通り、駅南側の山の上には[[広島空港]]がある。[[入野駅 (広島県)|入野駅]]を過ぎ、[[白市駅]]からは[[広島シティネットワーク]]区間に入る。この駅から先はしばらく平坦な路盤になり、学生の多い[[西高屋駅]]、東広島市の中心地である[[西条酒|酒都・西条]]にあり[[広島大学]]への連絡口ともなっている[[西条駅 (広島県)|西条駅]]、2017年に開業した[[寺家駅]]を経て、[[八本松駅]]へ向かう。
山陽本線は[[山陽鉄道]]の時代から、なるべく路線の勾配を抑えることに重点を置いて建設されたが<ref name="koukogaku" />、三原駅以西のルートを決めるにあたり、工費のかかるトンネルを避けつつ、最も経済的な最短経路を選んだ結果<ref name="koukogaku" />、広島県内の八本松駅 - 瀬野駅間に「[[瀬野八]]」と呼ばれる22.6‰の急勾配区間が生じた<ref name="koukogaku">浅野明彦『鉄道考古学を歩く』JTB、1998年、pp.167-168</ref>。上り貨物列車は広島貨物ターミナル駅 - 西条駅間で、最後尾に[[補助機関車]](補機)を連結して後押ししてもらっている。
[[ファイル:EF67 senohati.JPG|thumb|200px|none|後補機の[[国鉄EF67形電気機関車|EF67]]を連結して「瀬野八」区間を行く貨物列車]]
瀬野八を下っていき、[[広島市]]に入り、[[瀬野川]]と国道2号に沿いながら[[瀬野駅]]へ。この駅からは[[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線|スカイレール]]が北に延びているのが見える。瀬野駅の先も広島平野に流れる瀬野川に沿って坂が続き、[[中野東駅]]に至る。この辺りから徐々に平地が多くなり、次の[[安芸中野駅]]を出る頃には広島平野が広がる。
[[海田町]]に入ってすぐ、山陽新幹線を潜り、呉線と合流すると[[海田市駅]]。海田市を出るとすぐに再び広島市に入り、呉線の線路を潜りて、複々線となって進む。この先、広島駅までは複々線区間で、旅客列車を外側2線に、貨物列車を内側2線に振り分けることで、[[広島都市圏]]の輸送量に対応している。[[府中町]]に入って[[向洋駅]]。この駅付近には[[マツダ]]が本社を構える。再度広島市に入り、[[天神川駅]]を通り、[[芸備線]]の線路が見えた後、グラウンドが垣間見える[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]](広島市民球場)の横を通過するとまもなく[[広島駅]]に到着する。
広島駅では山陽新幹線のほかに芸備線、運転系統上は[[可部線]]や[[呉線]]の列車が発着しており、それらと接続している。また駅前からは[[広島電鉄]](広電)が発着しており、[[紙屋町・八丁堀]]など広島市中心部へのアクセスとなっている。
=== 広島駅 - 岩国駅間 ===
広島駅を出発するとまもなく、2015年に開業した[[新白島駅]]に着く。可部線[[大町駅 (広島県)|大町駅]]と共に[[広島高速交通広島新交通1号線|アストラムライン]]との乗換駅として、広島市北部の住宅地や紙屋町・本通など繁華街へ向かう新たなルートの起点として期待される。[[横川駅 (広島県)|横川駅]]で可部線と分岐し、[[太田川放水路]]を渡って左にカーブして、山陽新幹線とは別れ南西を向いて太田川放水路沿いに進む。そのまま太田川放水路沿いに進んで[[西広島駅]]。ここから先、宮島口駅までは広電と並行する。[[草津沼田道路]]を潜りて、広電の[[商工センター入口駅]]が併設されている[[新井口駅]]で、[[八幡川 (広島市佐伯区)|八幡川]]を渡ると、広電の[[広電五日市駅]]が併設されている[[五日市駅]]、[[廿日市駅]]、[[宮内串戸駅]]を過ぎ、左手に広電、その向こうに国道2号、さらに向こうに海を見て南下していく。国道2号バイパスが乗り越えて海側を走る国道2号と合流し、しばらく走り[[阿品駅]]に着く。市街地と郊外の住宅地の風景が続くが、次第に海沿いの区間となり、車窓に[[世界遺産]]で[[日本三景]]の一つである[[厳島|安芸の宮島]]が見えると[[宮島口駅]]。宮島口駅を出ると国道2号と並行して海沿いを進む。[[前空駅]]を過ぎ、右にカーブして内陸に入って[[大野浦駅]]。広島県西端の工業都市・[[大竹市]]に入り[[玖波駅]]を過ぎ、[[コンビナート]]群が近付いてくると[[大竹駅]]に着く。
[[小瀬川]]を渡ると[[山口県]]である。2008年3月15日[[和木町]]に開業した[[和木駅]]を過ぎ、[[岩国市]]の中心駅・[[岩国駅]]に到着。この駅は[[岩徳線]]との分岐駅で、この線に直通する[[錦川鉄道]]の車両も見られる。
=== 岩国駅 - 下関駅間 ===
岩国駅から[[櫛ケ浜駅]]まで、岩徳線は山岳路線として山中を短絡するのに対し、山陽本線は海岸沿いを遠回りして走る。特に[[南岩国駅]]から[[大畠駅]]までは瀬戸内海が一望できる区間となっており[[屋代島|周防大島]]や[[大島大橋 (山口県)|大島大橋]]、[[防予フェリー]]([[柳井港駅]]から徒歩でフェリーターミナルにアクセスできる)の船舶を見ることができる。なお、山陽新幹線のルートはほぼ岩徳線に沿っている。
[[徳山駅]]から先はカーブをくり返す[[線形 (路線)|線形]]を取る区間が多い。[[新山口駅]]では山陽新幹線、[[宇部線]]、[[山口線]]、[[萩市]]方面へのバスの乗り換え駅となっており山口県の鉄道の要衝となっている。
[[宇部駅]]を出ると[[厚狭駅]]までカーブを多く渡りながら新幹線と合流。山陽小野田市の中心地を過ぎていくと一旦住宅地を抜け、再び街が構成され[[小月駅]]に到着。
[[長府駅]]を出ると瀬戸内海と別れ、山陽新幹線と垂直に交差する[[新下関駅]]を過ぎ、日本海側を経由してきた[[山陰本線]]と合流。同線との接続駅である[[幡生駅]]は、車両工場である[[下関総合車両所]]が隣接し、駅南側にはJR貨物[[幡生機関区]]が広がる。住宅地を進み、本州側最後の駅である[[下関駅]]に至る。
{{節スタブ}}
=== 下関駅 - 門司駅間 ===
下関駅 - 門司駅間はJR九州区間となる。下関駅を出ると車両基地である下関総合車両所運用検修センターと貨物駅に挟まれる形で進み、運河を渡った先の[[彦島]]で[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]に入り[[関門海峡]]の下を通過する。トンネルを出ると本州から九州に入って[[北九州市]]となり、[[鹿児島本線]]の上下線の間に出て同線と合流し、山陽本線の終点である[[門司駅]]に至る。関門トンネルの門司側の出入り口には[[デッドセクション]]があり、[[直流電化|直流]]・[[交流電化|交流]]の転換を行う(「[[#下関駅 - 門司駅間_2|運行形態]]」の節も参照)。なお貨物線は坂道での停止を防ぐため、旅客線より小倉側に[[デッドセクション]]が設置されている。
== 運行形態 ==
[[東海道本線]]と同じく、[[山陽新幹線]]開業以後は都市間輸送鉄道としての役割は新幹線に譲っている。[[寝台列車|寝台特急]]などの[[夜行列車]]が全線を通して運転されていたが、2009年3月14日のダイヤ改正で寝台特急「[[富士 (列車)|富士]]」「[[はやぶさ (列車)|はやぶさ]]」(山陽本線内では併結運転)が廃止されたのを最後に山陽本線の全区間を直通運行する定期旅客列車は全廃された。
=== 優等列車 ===
2019年3月現在、山陽本線内のみを運行する優等列車は無く、線内を走る優等列車は、「らくラクはりま」を除きすべて山陰方面や四国へ直通する列車である。以下の列車が運転されている。
下記に示す区間は山陽本線を走行する区間である。全運行区間など各列車の詳細については当該列車の記事を参照。過去の列車は「[[山陽本線優等列車沿革]]」を参照。
* 昼行列車
** [[らくラクはりま]]([[JR西日本289系電車|289系電車]]、神戸駅 - 姫路駅間)
** [[はまかぜ (列車)|はまかぜ]]([[JR西日本キハ189系気動車|キハ189系気動車]]、神戸駅 - 姫路駅間)
** [[スーパーはくと]]([[智頭急行HOT7000系気動車]]、神戸駅〈13号を除き通過〉 - 上郡駅間)
** [[いなば (列車)|スーパーいなば]]([[JR西日本キハ187系気動車|キハ187系気動車]]、上郡駅 - 岡山駅間)
** [[やくも]]([[国鉄381系電車|381系電車]]、岡山駅 - 倉敷駅間)
* 夜行列車
** [[サンライズ瀬戸]]([[JR西日本285系電車|285系電車]]、神戸駅〈通過〉 - 岡山駅間)
** [[サンライズ出雲]](285系電車、神戸駅〈通過〉 - 倉敷駅間)
=== 地域輸送 ===
長大路線であり、沿線に複数の拠点都市を有していることもあって、現在は[[姫路駅]]・[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]・[[岡山駅]]・[[福山駅]]・[[糸崎駅]](または[[三原駅]])・[[広島駅]]・[[岩国駅]]・[[新山口駅]]・[[下関駅]]で運転系統が分かれている。かつては、車両運用上の都合によりこれらの複数の運転系統にわたって運転される長距離列車が終日にわたって設定されていた(多くは広島駅、徳山駅で[[列車番号]]を変更して[[直通運転]]していた)。しかし、2009年3月14日ダイヤ改正以降はダイヤが整理され、昼間時の快速列車の廃止や列車本数の削減が行われたほか、岡山地区 - 山口地区相互間の長距離列車も大幅に削減された。[[2018年]]の[[平成30年7月豪雨]]発生までは糸崎駅 → 下関駅間を走行する列車(2016年3月26日ダイヤ改正から2017年3月4日ダイヤ改正までは岡山駅始発)が下り1本のみ存在し、これが[[#岡山・下関間長距離普通列車|日本で最長の距離を走行する普通列車]]となっていたが、豪雨後の臨時ダイヤで[[白市駅]]発に短縮された。2019年3月16日ダイヤ改正で広島地区の運行車両が[[JR西日本227系電車|227系]]に統一されたことに伴い、長らく運転されてきた岡山地区 - [[山陽本線 (広島地区)|広島地区]]間の長距離列車、並びに広島地区 - 新山口方面直通の長距離列車が完全に消滅し、糸崎駅(または三原駅)と岩国駅での原則乗り換えが発生している。
姫路駅 - 相生駅間と[[東岡山駅]] - 岡山駅間では[[赤穂線]]、岡山駅 - [[倉敷駅]]間では[[伯備線]]、[[海田市駅]] - 広島間では[[呉線]]、広島駅 - [[横川駅 (広島県)|横川駅]]間では[[可部線]]、[[櫛ケ浜駅]] - 徳山駅間では[[岩徳線]]、[[幡生駅]] - 下関駅間では[[山陰本線]]にそれぞれ直通する列車が乗り入れている。
ダイヤの構成上、次の6つの区間に大きく分けられる。
==== 神戸駅 - 姫路駅・相生駅・上郡駅間 ====
{{Main|JR神戸線#運行形態|京阪神快速#運行形態|京阪神緩行線#運行形態|和田岬線#運行形態}}
{{Main2|赤穂線直通列車については「[[赤穂線#運行形態]]」も}}
この区間は[[近畿圏]]に含まれている。神戸駅 - 姫路駅間は[[アーバンネットワーク]]の一角であり、[[東海道本線]][[大阪駅]] - 神戸駅間ともに[[JR神戸線]]の愛称が付けられている。ほとんどの列車が東海道本線から直通運転を行っている。並行する私鉄([[山陽電気鉄道]]・[[神戸高速鉄道]])と競合しているため、[[新快速]]を運転し高速都市間輸送を行っている。
JR神戸線区間では、新快速・快速が加古川駅・姫路駅・網干駅発着、普通電車が須磨駅・西明石駅発着で、多数運行されている。
姫路駅 - 上郡駅間では本数は少なくなるが、1時間に姫路駅 - 網干駅間で3本、網干駅 - 上郡駅間([[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]で乗り換え)で1本運転されており、朝夕には網干駅発着の列車が多く設定されている。この区間は新快速も含めてすべて各駅に停車する。JR神戸線からの列車は大半が相生駅から[[赤穂線]]に乗り入れ[[播州赤穂駅]]まで運転されている。始発・最終を含めた朝晩に限り京都・大阪方面から[[上郡駅]]まで行く列車も設定されている。
支線である[[和田岬線]]は、朝夕のラッシュ時のみの運転であり、専用の車両による支線内の往復運転となっている。
[[ファイル:TokaidoLineStops JRW osaka2 20180317.svg|700px|停車駅(大阪駅-上郡駅間)]]
==== 姫路駅・相生駅 - 岡山駅間 ====
{{Main2|赤穂線直通列車については「[[赤穂線#運行形態]]」も}}
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; float:right; margin:0 0 1em 2em;"
|+日中1時間あたりの運転本数<br />(2021年10月2日現在)
!種別\駅名
!style="width:1em;"|姫路
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|網干
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|相生
!…
! style="width:1em;" |上郡
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|瀬戸
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|東岡山
!…
!style="width:1em;"|岡山
|-
|普通(西明石以東は快速) ||colspan="3" style="background-color:#feb;"|2本 || colspan="14" |
|-
|普通||colspan="6" style="background-color:#ccc"|1本 || colspan="5" style="background-color:#ccc" |1本 || colspan="3" style="background-color:#ccc" |2本 ||colspan="3" style="background-color:#ccc"|4本
|}
相生駅 - 岡山駅間を直通する列車は、反対の福山方面と比べると本数が少なく、日中は1時間に1本の運転である。日中は相生駅で[[赤穂線]][[播州赤穂駅]] - 姫路駅間運転の列車と接続している。日中のこの区間は区間列車も含めて、瀬戸駅 - 岡山駅間では1時間に2本運転されている。[[2021年]][[3月13日]]のダイヤ改正で和気駅まで運行されていた昼間の区間列車は瀬戸駅までに短縮された。朝晩は姫路駅 - 岡山駅間直通が10往復ある。また、姫路駅 - 上郡駅間、岡山駅 - 瀬戸駅・万富駅(朝の1往復のみ)・和気駅・吉永駅・三石駅間の区間列車もある。相生駅 - 東岡山駅間の[[夜間滞泊]]は、3本が上郡駅で、2本が三石駅で行っている。
この区間は3・4両編成を基本に、ラッシュ時は6両・7両(午前のみ)編成で運行される<ref group="注釈">西川原駅では7両編成の列車しか停まれないため。他駅では8両編成が停車可。</ref>。
新幹線博多開業に伴う1975年3月10日のダイヤ改正から1980年9月30日までの間、姫路駅 - 岡山駅間でも快速が定期列車として数本運転され、相生駅・上郡駅・三石駅・和気駅・瀬戸駅に停車していた。また、1988年3月12日まではこの区間から東海道本線[[大阪駅]]までの直通列車(須磨駅・垂水駅は通過)が1往復あり、[[2002年]]3月22日までは西明石駅発着の設定があった。
また、1994年4月3日から同年12月18日までの日曜日には、平安遷都1200年祭に関連して全車[[座席指定席]]の臨時快速「サンデー三都号」が岡山駅 - 京都駅間で117系・213系を使用して運転され<ref>『JR気動車客車編成表 '95年版』ジェー・アール・アール、1995年。{{ISBN2|4-88283-116-3}}。</ref>、1997年の京都駅ビル開業直後の日曜・祝日には新快速を臨時延長して早朝に岡山発京都行き、夕方に京都発岡山行きの「ストレート快速京都号」として数か月間運転されたが、末期は夕方の岡山行の設定がなかった。
沿線の町内会等を中心とした「JR快速電車導入促進期成会」は「東備・西播地区の交流促進などに快速導入が必要」と訴え、2008年4月30日、JR西日本岡山支社に運転実現を求める要望書を提出した。JR西日本岡山支社は「車両や運転手の数も限られ検討が必要」としている<ref>[http://www.okanichi.co.jp/20080501133634.html 岡山―姫路間「快速の早期導入を」JRに連合町内会など要望] - [[岡山日日新聞]] 2008年5月1日</ref>。また、2010年3月10日には、[[井戸敏三]]兵庫県知事と[[石井正弘]]岡山県知事が会談し、岡山駅 - 姫路駅間の増便と新快速の運転を要望することで両知事が合意し、さらに同区間の増便と姫新線・赤穂線の利便性向上に向けた取り組みを沿線市町等と進めることも決めた<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002774152.shtml 姫路‐岡山に新快速を 井戸知事らJRへ要請合意] - [[神戸新聞]] 2010年3月10日{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>が、以降目立った進展は見られない。
==== 岡山駅 - 福山駅・糸崎駅・三原駅間 ====
{{Main2|伯備線直通列車については「[[伯備線#運行形態]]」も}}
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; float:right; margin:0 0 1em 2em;"
|+日中1時間あたりの運転本数<br />(2022年3月12日現在)
!種別\駅名
!style="width:1em;"|岡山
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|倉敷
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|金光
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|福山
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|糸崎
!…
!style="width:1em;"|三原
|-
|普通(一部糸崎・福山乗換え)||colspan="17" style="background-color:#ccc;"|2-3本
|-
|伯備線普通||colspan="3" style="background-color:#ccc"|2本 ||colspan="12"|
|}
岡山駅 - 糸崎駅間では、普通が1時間に3本、糸崎駅 - 三原駅間では1時間に4本運転されている。2014年3月15日のダイヤ改正で福山駅で乗り換えとなる場合が発生した。朝夕ラッシュ時は6・7・8両での運転もあるが、日中は[[国鉄115系電車|115系]]電車3・4両編成での運転が主体となる。快速「マリンライナー」から転用された213系電車も使用されるほか、岡山駅 - 福山駅間では福塩線への車両送り込みのため105系電車で1往復運転されている。岡山以東([[赤穂線]]を含む)と直通運転する列車も多い。以前は[[呉線]]経由を含め広島方面への直通列車が多数設定されていたが、[[2020年]][[3月14日]]ダイヤ改正で廃止され、全列車が糸崎駅または三原駅で乗り換えとなっている。[[2021年]][[3月13日]]ダイヤ改正で白市駅から糸崎駅の列車削減に伴って、糸崎駅から三原駅までの列車の本数が削減された。
岡山駅 - 倉敷駅間では[[伯備線]]からの直通列車が1時間に2本程度運転されており、[[ワンマン運転]]を行う列車がある。[[福塩線]]への車両送り込みのため岡山駅 - [[府中駅 (広島県)|府中駅]]間の直通列車も下り1本(和気始発)・上り2本設定されている。
岡山駅 - 福山駅間では[[国鉄117系電車|117系]]電車による快速「[[サンライナー]]」が運転されていた。1999年12月4日からワンマン運転を開始し、4両編成で運転されていた<ref name="kotsu_2010">ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2010夏』[[交通新聞社]]、2010年、p.206。{{ISBN2|978-4-330-14310-1}}。</ref>。2019年3月16日のダイヤ改正以降は夕方以降を中心に運転されていた。2022年3月12日のダイヤ改正で廃止された<ref name="raifjp20220312" />。
==== 糸崎駅・三原駅 - 岩国駅間 ====
{{Main2|白市駅 - 岩国駅間の詳細|山陽本線 (広島地区)#運行形態}}
{{Main2|呉線直通列車|呉線#運行形態|可部線直通列車|可部線#運行形態}}
広島地区では国鉄時代末期の[[1982年]]に「ひろしまシティ電車」として普通列車が大増発され、JR発足後も「[[広島シティネットワーク]]」を構成する一路線として[[広島空港]]連絡の[[白市駅]]折り返し列車などが運転されるなど、都市圏輸送の充実が図られてきた。
2015年3月14日現在<ref>交通新聞社『JR時刻表』2015年3月号</ref>、日中は普通が1時間に4本運転されている。朝を中心に白市駅 - 岩国駅間で快速「通勤ライナー」が1時間に1本運転されている。2010年3月改正以前と、2016年3月26日改正から2018年7月の豪雨災害発生までの間は、快速「[[山陽本線 (広島地区)#快速「シティライナー」|シティライナー]]」も運転されていた<ref>。[https://web.archive.org/web/20100202001134/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174658_799.html 広島支社 快速列車の愛称名変更について]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年1月29日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/151218_06_hiroshima.pdf 平成28年春のダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道広島支社プレスリリース 2015年12月18日</ref>。2022年3月のダイヤ改正により、「通勤ライナー」は西条駅 - 広島駅間で早朝に2本(下りのみ)、岩国駅 - 広島駅間で早朝に1本(上りのみ)に削減された<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_hiroshima.pdf 平成24年春のダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道広島支社プレスリリース 2011年12月16日</ref>。
岡山方面からの列車も乗り入れる糸崎駅 - 三原駅を除き、[[JR西日本227系電車|227系]]電車のみが使用されている。
==== 岩国駅 - 下関駅間 ====
{{Main2|岩徳線直通列車|岩徳線#運行形態|山陰本線直通列車|山陰本線#長門市駅 - 下関駅間}}
この区間では、本数は1時間に1 - 2本程度である。国鉄時代の1975年から1985年にかけては広島駅 - 下関駅間を直通する快速列車(晩年は岩国駅 - 小郡駅(現・新山口駅)間を除いては各駅停車)が設定されていたり、JR化後にも広島方面から徳山駅まで快速「シティライナー」が設定されていた(ただし岩国駅 - 徳山駅間は各駅停車)が、現在は普通列車のみの運転である。2012年3月17日改正で広島地区からの直通列車が大幅に削減され、2019年3月16日改正で徳山駅から新山口・下関方面への直通運転が廃止された。一方、徳山駅で系統分割される列車は減少し、岩国駅 - 下関駅間を直通運転する列車が増加している。
朝夕ラッシュ時には、[[下関市]]内の小月駅 - 下関駅間のみを運転する列車が設定されており、徳山・新山口方面 - 下関間を直通する列車と合わせて1時間に3 - 4本の運行となる。
115系電車での運転が中心となっている。特に新山口駅 - 下関駅間は国鉄時代に製造された車両のみで運転されている。2023年3月18日のダイヤ改正以降、4両編成以下で運転される列車は終日ワンマン運転を行っている<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/221216_00_press_daiyachuto.pdf 2023 年春のダイヤ改正について] - 西日本旅客鉄道中国統括本部(2022年12月16日)、2022年12月16日閲覧</ref><ref>[https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/250426 JR芸備線、快速列車増便へ 3月のダイヤ改正 山口県内の山陽線、4両以下は全てワンマン化] - 中国新聞デジタル(2022年12月26日)、2023年3月18日閲覧</ref>。
==== 下関駅 - 門司駅間 ====
[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]を含むこの区間はJR九州の管轄区間となる。かつては本区間から新山口方面や[[山陰本線]]との直通列車が存在していたが、2005年10月のダイヤ改正でこれらの直通列車は全廃され(これにより、関門トンネルを通過する気動車列車も消滅)、運転系統が分断された。下関駅では原則として同一ホームでの[[対面乗り換え]]として利便性を維持している。
旅客列車の日中の運転本数はおおむね1時間に2 - 3本であり、下関駅 - 門司駅間のみの区間運転列車や下関駅から門司駅を経て[[鹿児島本線]][[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]までの運転となっている。早朝のみ、[[日豊本線]][[柳ヶ浦駅]]・[[行橋駅]](いずれも上りのみ)・[[大分駅]](下りのみ)と直通する列車が設定されている。
本州と関門トンネル内は[[直流電化]]だが、関門トンネルの九州側の門司駅構内で[[交流電化]]になる。そのため、関門トンネルを通過する下関駅 - 門司駅間は[[気動車]]と[[交直流電車|交直両用電車]]・[[電気機関車|機関車]]のみが走行できる。普通列車にはJR九州[[大分車両センター]]所属の[[国鉄415系電車|415系1500番台]]交直流電車が使用され、門司駅構内の[[デッドセクション]]で直流・交流の切り替えを行っている。
なおこの区間をふくむ普通乗車券で山陽新幹線に乗車することはできない。詳しくは「[[山陽新幹線#新下関 - 博多間の取り扱い]]」を参照。
==== 水曜日に運休する区間・時間帯 ====
毎週水曜日(多客期や祝日と重なる場合などを除く)は保守点検の時間を確保するため、以下の区間・時間帯でおよそ1時間は運休している(2015年3月14日現在)。
* 岡山駅 - 糸崎駅間:2往復
山口地区では、保守点検に伴い、列車を区間運休する日がある。その場合は運休区間で代行バスを運行している。
==== 下関観光臨時列車 ====
2001年より2005年まで、主に、広島駅 - 下関駅間で[[下関地域鉄道部]]の[[国鉄キハ181系気動車|キハ181系気動車]]を用いた気動車快速列車が運行されていた。列車名は時期により異なり、主に「[[フグ]]の旬の時季」とされる冬季では「下関ふくフク号」、夏季では「関門・海峡物語号」などの列車愛称を与えられ運行された。これは、基本的に[[山陰本線]][[特別急行列車|特急]]「[[いそかぜ (列車)|いそかぜ]]」に使用されていた[[下関地域鉄道部]](現在の[[下関総合車両所]]に相当)所属の同車両が3両編成2本と最低限の車両しか配備されていなかったためであるが、全車両[[座席指定席]]で運行するなど特色ある運用がなされたと言われる。
なお、[[2003年]]の夏期には、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]「[[武蔵 MUSASHI]]」の舞台ともなった[[巌流島]]が関門海峡上にあることから、同ドラマの主人公であった[[市川海老蔵 (11代目)|七代目市川新之助]](現在の十一代目市川海老蔵)演ずる[[宮本武蔵]]の[[ラッピング車両|ラッピング]]などを施した「関門・MUSASHI号」が運行された。また、2015年には、大河ドラマ「[[花燃ゆ]]」の放映を記念して、三石駅 - 下関駅間で、ラッピング列車が運行された。
ただし、これらキハ181系気動車を用いた気動車快速列車では同車両が不調または定期検査などの理由により、時折[[宮原総合運転所]]または[[岡山電車区]]の[[国鉄117系電車|117系電車]]や岡山電車区の[[国鉄213系電車|213系電車]]による電車列車により代替運行が行われていた。このほかふくフク号には[[SLやまぐち号]]用のレトロ客車が使われたり、[[きのくにシーサイド]]用の客車が使われたこともある。2005年の春の運行では、「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」の運用を離脱したばかりの下関地域鉄道部下関車両管理室所属の[[国鉄24系客車|24系客車]]が使用された。
==== 岡山・下関間長距離普通列車 ====
[[2001年]][[3月3日]]に「'''山陽シティライナー'''」が運転を開始して以来、運転区間を年々拡大し、かつては下関発[[三石駅|三石]]行き<ref group="注釈">下関駅から暫くの区間では、便宜上「岡山行き」と案内しており、方向幕も「岩国 - 西条快速 岡山」を表示していた。いずれも[[三原駅]]までの区間で「三石行き」との案内に変わっていた。</ref>の普通列車があり、運行距離が 425.7km で、普通列車では日本最長であった<ref group="注釈">下関駅の西隣は福岡県の[[門司駅]]で、三石駅の東隣りは兵庫県の[[上郡駅]]であるため、[[九州地方|九州]]([[福岡県]])の少し先から[[近畿地方|関西]]([[兵庫県]])の一歩手前まで走行していたことになる。</ref>。
三石駅直通列車が廃止されてから2009年3月までは、下関駅 - 岡山駅間を運行する列車が普通列車では日本最長の 384.7km になった。以後は新山口までの 315.8kmと短縮し、[[2015年]][[3月14日]]のダイヤ改正でさらに徳山まで区間短縮となりこの時点で最長距離普通列車の座を[[根室本線]]の「[[根室本線#滝川発釧路行普通2427D列車|滝川発釧路行普通2427D列車]]」に譲った。
[[2016年]][[3月26日]]のダイヤ改正で再び岡山発下関行きの普通列車が1本(369M)復活し、最長距離普通列車となったが<ref>{{Cite news |url=http://response.jp/article/2016/03/21/271898.html |title=北海道の「長〜〜い」普通列車、距離は2位に転落…1位は再び山陽線 |newspaper=Response.|publisher=株式会社イード|date=2016-3-21 |accessdate=2016-3-23}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://kanmon.keizai.biz/headline/45/ |title=山陽本線に「国内最長」鈍行列車復活 岡山〜下関間7時間33分 |newspaper=関門経済新聞|publisher=|date=2016-3-28 |accessdate=2016-3-28}}</ref>、翌2017年3月4日に糸崎発下関行きに短縮されたため再び滝川発釧路行2427Dに最長距離の座を譲った。ただし2427Dは根室本線が台風により一部区間が不通となっているため、新得発釧路行きでの運転となっており、実際に運転している距離は369Mのほうが長い<ref>[http://www.sanyonews.jp/article/495327 岡山発 さらば日本一の長距離列車 JRダイヤ改正で下関行き廃止] - 山陽新聞デジタル、2017年3月1日</ref>。
2019年3月16日のダイヤ改正で、369Mは糸崎発岩国行きにさらに短縮されたため<ref>[https://news.mynavi.jp/article/jrdiagram2019-24/ JRダイヤ改正は2019年3月16日(24) 山陽本線369M、岩国駅までの運転に - 「シティライナー」設定なし] - マイナビニュース、2019年2月25日</ref>、快速・新快速を含めば最長距離普通列車は敦賀発播州赤穂行きの新快速3527M(土休日は3407M・3527M<ref>[https://trafficnews.jp/post/99252 JRの普通列車 長距離日本一は? 近畿&関東からランクイン 最北路線も ] - 乗りものニュース、2020年8月17日</ref>の2本) 275.5 kmとなっている<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/33066?page=1 1位は敦賀発播州赤穂行きの275.5km! 青春18きっぷで乗る長距離ランキング ~運行距離編~] - AERA.dot、2019年7月20日 <!-- これの2ページ目で述べているが上野東京ラインの熱海駅 - 黒磯駅は268.1kmで2位--></ref>。
2020年3月14日のダイヤ改正にて369M列車は時刻表上から消滅した。
=== 貨物列車 ===
[[和田岬線]]を除く全線で多くの[[貨物列車]]が運行されている。大半が[[コンテナ車]]で編成された[[高速貨物列車]]で、[[タンク車]]などを連結可能な[[専用貨物列車]]は一部区間で[[臨時列車]]として運行されているのみである。
牽引機は、[[幡生駅#幡生操車場|幡生操車場]]以東では[[直流]]用[[電気機関車]]の[[国鉄EF65形電気機関車|EF65形]]、[[国鉄EF66形電気機関車|EF66形]]、[[JR貨物EF210形電気機関車|EF210形]]。これらは東海道本線と直通している。幡生操車場以西では[[交流]]直流両用電気機関車の[[JR貨物EH500形電気機関車|EH500形]]。なお幡生操車場駅 - [[下関駅]]間の貨物列車は直流用電気機関車または[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形]][[ディーゼル機関車]]が牽引する。上り列車は[[広島貨物ターミナル駅]]→[[西条駅 (広島県)|西条駅]]間で、急勾配([[瀬野八]])登坂用に[[補助機関車]](補機)を編成後部に連結して後押し運転しており、2013年初頭からは補機としてEF210形300番台を連結している。2022年3月までは補機に[[国鉄EF67形電気機関車|EF67形]]電気機関車も使用されていた。また[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[伯備線]]間は[[国鉄EF64形電気機関車|EF64形]]電気機関車、岡山貨物ターミナル駅 - [[水島臨海鉄道]]間はDE10形・DD200形(水島臨海鉄道所有)ディーゼル機関車が牽引する<ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/345388/ |title=水島臨海鉄道のDD200形が運転開始 |date=2021-10-02 |website=鉄道ホビダス |work=鉄道投稿情報局 |publisher=ネコ・パブリッシング |accessdate=2022-06-04}}</ref>。
かつて運転されていた[[山口線]] - [[美祢線]]直通列車は[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]ディーゼル機関車が、[[宇部線]] - 美祢線直通列車はDE10形ディーゼル機関車が牽引していた。これらについては直通先各線におけるJR貨物の第二種鉄道事業が[[2014年]][[4月1日]]限りで廃止されたため<ref>電気車研究会『平成二十六年度 鉄道要覧』</ref>、現在は乗り入れていない。
山陽線の貨物列車発着のある駅は、[[神戸貨物ターミナル駅]]・[[姫路貨物駅]]・[[岡山貨物ターミナル駅]]・[[東福山駅]]・広島貨物ターミナル駅・[[大竹駅]]・[[岩国駅]]・[[新南陽駅]]・[[宇部駅]]・下関駅である。
[[平成30年7月豪雨]]により、2018年7月以降は広島県内で一部区間が1か月以上復旧できず不通となり<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/08/page_12826.html|title=貨物列車の迂回運転実現に向けた検討状況について|publisher=西日本旅客鉄道・日本貨物鉄道|date=2018-08-03|accessdate=2018-08-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180805035733/http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/08/page_12826.html |archivedate=2018年8月5日}}</ref>、伯備線・[[山陰本線]]・山口線経由での貨物列車の迂回運転が同年8月28日から実施され、同年9月30日に最後の不通区間が開通することとなったため<ref>[https://trafficnews.jp/post/81497 「豪雨被災のJR山陽本線、9月30日に全線再開 「10月中」の見通しを前倒し」] 乗りものニュース(2018年9月14日配信)2022年6月5日閲覧</ref>、運行は9月28日に終了した<ref name="hobidas20181001">{{Cite web|和書|date=2018-10-01 |url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2018/10/jrjr_2033.html |title=【JR西+JR貨】山陰本線 迂回貨物運転終了 |website= 鉄道ホビダス |work=RMニュース |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |accessdate=2022-06-05 }}</ref>。しかし[[平成30年台風第24号|台風24号]]の影響で同年9月29日に一部区間が不通となったため<ref>[https://trafficnews.jp/post/81626 「JR山陽本線の貨物列車は運転再開延期 全線復旧目前、山口県内で土砂流入」] 乗りものニュース(2018年10月1日配信)2022年6月5日閲覧</ref>、同年10月5日から再び伯備線・山陰本線・[[山口線]]経由の迂回貨物列車が運行された<ref name="trafficnews20181004">[https://trafficnews.jp/post/81655 「山陰本線経由の貨物列車、再び運転へ 台風で一部不通の山陽本線を迂回」] 乗りものニュース(2018年10月4日配信)2022年6月5日閲覧</ref>。同月13日に山陽本線が全線開通することになったため、運行は同月11日に終了した<ref name="response20181010">{{Cite news |title=山陽本線の貨物列車は再開後も一部が運休に…迂回運行は10月11日発で終了 台風24号 |newspaper=レスポンス |date=2018-10-10 |author=佐藤正樹 |url=https://response.jp/article/2018/10/10/314906.html |publisher=イード |accessdate=2022-06-05}}</ref>。
<gallery>
JRF EF210-7 20160218.jpg |EF210形
</gallery>
== 使用車両 ==
{{Main2|特急列車|#優等列車|貨物列車|#貨物列車}}
他線への直通車両は当該路線の記事を参照。以下に示す車両はすべて[[電車]]である。なお、網干車とは[[網干総合車両所]]所属車、岡山車とは[[下関総合車両所|下関総合車両所岡山電車支所]]所属車、広島車とは[[下関総合車両所|下関総合車両所広島支所]]所属車、下関車とは[[下関総合車両所|下関総合車両所運用検修センター]]所属車のことである。<!--運用区間など資料をお持ちの方は加筆をお願いします-->
* JR神戸線快速・新快速(神戸駅 - 上郡駅間)
** [[JR西日本221系電車|221系]](網干車:快速)
** [[JR西日本223系電車|223系]](網干車:新快速・快速)
** [[JR西日本225系電車|225系]](網干車:新快速・快速)
* JR神戸線普通(神戸駅 - 加古川駅間)
** [[JR西日本207系電車|207系]]
** [[JR西日本321系電車|321系]]
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ファイル:Series-221-C2 (2021-02-04).jpg|221系
ファイル:Series223-2000-W35.jpg|223系
ファイル:Series-225-U2 (2021-12-19).jpg|225系
ファイル:Series-207-1000R-S16 (2022-01-20).jpg|207系
ファイル:Series-321-D17 (2021-11-25).jpg|321系
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* 姫路駅 - 下関駅間快速・普通
**[[国鉄105系電車|105系]](岡山車:岡山駅 - 福山駅間、下関車:新山口駅、宇部駅 - 下関駅間)
** [[国鉄113系電車|113系]](岡山車:姫路駅 - 糸崎駅間)
** [[国鉄115系電車|115系]](岡山車:姫路駅 - 三原駅間、下関車<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成28年春ダイヤ改正について(広島・山口エリア) |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2015-12-18 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/151218_06_hiroshima.pdf |accessdate=2016-02-22 }}</ref>:岩国駅 - 下関駅間)
*** 長らく岡山・広島・山口地区の主力として走り続けてきたが、2015年3月14日に227系が広島地区に導入されると115系2扉車は広島地区での運用が消滅し、115系3扉車についても急速に減少していった。そして2019年3月16日のダイヤ改正で三原駅 - 岩国駅間はすべての快速・普通列車の車両が227系で統一され、105系と113系、115系は広島地区での運用がなくなった<ref name="jrwest-hirosima20181214">{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/181214_00_hiroshima.pdf 2019年春のダイヤ改正について]}} - JR西日本 広島支社、2018年12月14日</ref>。岡山地区でも2023年度以降に淘汰される予定<ref name="jrwest20211118">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/211118_06_new.pdf|format=PDF|title=岡山・備後エリアへの新型車両導入について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2021-11-18|accessdate=2021-11-18}}</ref>。
** [[国鉄123系電車|123系]](下関車:宇部駅 - 下関駅間)
** [[国鉄213系電車|213系]](岡山車:東岡山駅 - 三原駅間)
** [[JR西日本227系電車|227系]](岡山車:岡山駅 - 三原駅、広島車:福山駅 - 新山口駅間)
*** 113系と115系を置き換える目的で登場し、2015年3月14日に糸崎駅 - 岩国駅間(一部由宇駅間)で営業運転開始。2016年3月26日のダイヤ改正で福山駅 - 糸崎駅間、および由宇駅 - 徳山駅間にも運用範囲を拡大し、快速「シティライナー」を227系で統一。2019年3月16日のダイヤ改正で三原駅 - 岩国駅間はすべての快速・普通列車の車両が227系で統一された<ref name="jrwest-hirosima20181214" />。さらに2022年3月12日のダイヤ改正で徳山駅 - 新山口駅間にも運用範囲を拡大した。岡山地区にも旧型車両を置き換える目的で500番台を導入し<ref name="jrwest20211118" /><ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/220510_03_okayama.pdf |title=岡山・備後エリアに導入する新型車両のデザインの決定について ~デザインコンセプトは「豊穏の彩」|publisher=西日本旅客鉄道|date=2022-05-10|accessdate=2022-05-10}}</ref>、2023年7月22日に岡山駅 - 三原駅間で営業運転開始<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/230529_00_press_urara.pdf |title=岡山・備後エリアの新型車両「Urara」の運行開始について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2022-05-25|accessdate=2022-07-23}}</ref>。
* 下関駅 - 門司駅間普通
** [[国鉄415系電車|415系]]([[南福岡車両区]]、[[大分鉄道事業部|大分車両センター]]所属)
* 兵庫駅 - 和田岬駅間普通
** 207系
<gallery>
JRW Series105-K07.jpg|105系(岡山・山口地区、写真は山口地区)
JRW Series113-2000 B09.jpg|113系(岡山地区)
JRW Series115-1000 D26.jpg|115系(岡山地区)
KuMoHa 123.jpg|123系(山口地区)
JRW Series213-0 C10.jpg|213系(岡山地区)
JRW-Series227-0 A36.jpg|227系(岡山・広島・福山地区、写真は広島・福山地区)
</gallery>
== 歴史 ==
{{Main2|山陽鉄道の歴史の詳細|山陽鉄道}}
{{Main2|優等列車の沿革|山陽本線優等列車沿革}}
=== 概略 ===
神戸駅から下関駅までは、私鉄の[[山陽鉄道]]の手により開通した。[[1888年]]に兵庫駅 - 明石駅間が開業し、翌年に神戸駅・竜野駅まで開通。以後順次西へと路線が延び、[[1901年]]に馬関駅(現在の下関駅)まで開通した。山陽鉄道は[[1906年]]、[[鉄道国有法]]により国有化され、[[官営鉄道]]山陽本線となった。
[[1934年]]に現在の[[岩徳線]]が全通し山陽本線に編入され、距離が短縮された。それまでの柳井経由の路線は柳井線となった。しかし複線化は、柳井経由で進められることとなった。この理由は、現岩徳線には当時の[[蒸気機関車]]牽引では運転上の障害となる長大トンネル(欽明路トンネル・3149m)が存在したことから、複線化で長大トンネルをもう1本掘ることは工期的にも不利とされたためである。[[1944年]]に柳井線を含む神戸駅 - 下関駅間全線の複線化が完成すると、柳井線を山陽本線に再編入した。代わりに、岩国駅 - 周防高森駅 - 櫛ケ浜駅間は岩徳線となった。
下関駅から九州へは山陽鉄道時代から鉄道連絡船で連絡していたが、[[1942年]]に世界初の海底トンネルである[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]が開通し、山陽本線は門司駅まで延長された。
和田岬線を除く全線の電化が[[1964年]]に完成、同年に開通した東海道新幹線に接続して西日本各地へ向かう[[特別急行列車|特急列車]]・[[急行列車]]が頻繁に運転されるようになった。その後、[[山陽新幹線]]が[[1972年]]に岡山駅まで、[[1975年]]に博多駅まで開業し、山陽本線を走っていたほとんどの優等列車が廃止された。以後、貨物列車と寝台特急のほかは、地域内輸送が主となっている。これに伴い、中線や副本線などの待避設備を廃止(架線や一部のポイントを撤去し保線用車両等のみ使用できる状態としたものもある)した途中駅もある。また、貨物列車のために宇部駅 - 厚狭駅間が[[複々線#三線|3線]]化され本線をオーバークロスする珍しい線形が採用されたが貨物列車衰退により複線に戻されており、コンクリートの橋梁と枕木のみが遺構として残っている。そのほか、新山口駅 - 下関駅間では送り込みもかねた気動車列車もあったが2006年に廃止となった。
=== 年表 ===
==== 山陽鉄道 ====
* [[1888年]]([[明治]]21年)
** [[11月1日]]:'''山陽鉄道'''により兵庫駅 - 明石駅間 (10[[マイル|M]]68[[チェーン (単位)|C]]11[[リンク (単位)|L]]≒17.46 km)が開業。兵庫駅・須磨駅・垂水駅・明石駅が開業。
** [[12月23日]]:明石駅 - 姫路駅間 (22M14C94L≒35.71 km)が延伸開業。大久保駅・土山駅・加古川駅・阿弥陀駅(現在の曽根駅)・姫路駅が開業。
* [[1889年]](明治22年)
** [[2月1日]]:全線改マイルにより2C99L(≒0.06 km)短縮。
** 8月:垂水駅が舞子駅に改称。
** [[9月1日]]:神戸駅 - 兵庫駅間 (1M11C25L≒1.84 km)が複線で延伸開業。神戸駅で官営鉄道と接続。
** [[11月11日]]:姫路駅 - 竜野仮停車場駅間 (10M0C≒16.09 km)が延伸開業。網干駅・竜野仮停車場が開業。
* [[1890年]](明治23年)
** [[7月8日]]:貨物支線(和田岬線)兵庫駅 - 和田崎町駅間 (1M64C≒2.90 km)が開業。和田崎町駅(現在の和田岬駅)が開業。
** [[7月10日]]:竜野仮停車場 - 有年駅間 (7M39C≒12.05 km)が延伸開業。竜野駅・那波駅(現在の相生駅)・有年駅が開業。竜野仮停車場が廃止。
** [[12月1日]]:有年駅 - 三石仮停車場駅間 (12M3C77L≒19.39 km)が延伸開業。三石仮停車場が開業。
* [[1891年]](明治24年)
** [[3月18日]]:三石仮停車場 - 岡山駅間 (27M41C≒44.28 km)が延伸開業。三石駅・吉永駅・和気駅・瀬戸駅・長岡駅(現在の東岡山駅)・岡山駅が開業。三石仮停車場が廃止。
** [[4月25日]]:岡山駅 - 倉敷駅間 (9M74C≒15.97 km)が延伸開業。庭瀬駅・倉敷駅が開業。
** [[5月9日]]:営業距離をマイル・チェーン・リンク表記からマイル・チェーン表記に簡略化、一部修正(神戸駅 - 倉敷駅間 101M9C8L→99M3C)。
** [[7月14日]]:倉敷駅 - 笠岡駅間 (17M39C≒28.14 km)が延伸開業。玉島駅(現在の新倉敷駅)・鴨方駅・笠岡駅が開業。
** [[9月11日]]:笠岡駅 - 福山駅間 (8M70C≒14.28 km)が延伸開業。福山駅が開業。
** [[11月3日]]:福山駅 - 尾道駅間 (12M22C≒19.75 km)が延伸開業。松永駅・尾道駅が開業。
* [[1892年]](明治25年)[[7月20日]]:尾道駅 - 三原駅(初代)駅間 (5M50C≒9.05 km)が延伸開業。三原駅(初代・現在の糸崎駅)が開業。
* [[1893年]](明治26年)
** [[4月21日]]:本線が改マイルにより16C(≒0.32 km)延長。
** [[12月3日]]:和田岬線 兵庫駅 - 和田崎町駅間に新川荷扱所が開業。
* [[1894年]](明治27年)[[6月10日]]:糸崎駅 - 広島駅間 (46M22C≒74.47 km)が延伸開業。三原駅(初代)を糸崎駅に改称。三原駅(2代目)・本郷駅・河内駅・西条駅・瀬野駅・海田市駅・広島駅が開業。
* [[1895年]](明治28年):和田崎町駅が和田岬駅に改称。
** [[1月25日]]:白市駅が開業。
** [[4月4日]]:上郡駅・八本松駅が開業。
* [[1896年]](明治29年)[[7月1日]]:塩屋仮停車場(現在の塩屋駅)・舞子公園仮停車場(現在の舞子駅)が開業。
* [[1897年]](明治30年)
** [[9月25日]]:広島駅 - 徳山駅間 (68M41C≒110.26 km)が延伸開業。横川駅・己斐駅(現在の西広島駅)・廿日市駅・宮島駅(現在の宮島口駅)・玖波駅・大竹駅・岩国駅・藤生駅・由宇駅・大畠駅・柳井津駅(現在の柳井駅)・田布施駅・島田駅・下松駅・徳山駅が開業。
** [[12月18日]]:本線が改マイルにより5C(≒0.10 km)短縮。
** [[12月26日]]:万富駅・大門駅が開業。
* [[1898年]](明治31年)[[3月17日]]:徳山駅 - 三田尻駅間 (16M37C≒26.49 km)が延伸開業。福川駅・富海駅・三田尻駅(現在の防府駅)が開業。
* [[1899年]](明治32年)
** [[1月1日]]:兵庫駅 - 姫路駅間が複線化。
** [[4月1日]]:舞子駅が垂水駅に、舞子公園仮停車場が舞子仮停車場に改称。
** [[6月5日]]:岩田駅が開業。
** [[7月23日]]:神代駅(初代)が開業。
** [[12月8日]]:五日市駅が開業。
* [[1900年]](明治33年)
** 4月1日:鷹取駅が開業。
** [[4月18日]]:御着駅が開業。
** [[5月14日]]:宝殿駅が開業。
** [[12月3日]]:三田尻駅 - 厚狭駅間 (32M66C≒53.83 km)が延伸開業。大道駅・小郡駅(現在の新山口駅)・嘉川駅・阿知須駅(現在の本由良駅)・船木駅(現在の厚東駅)・小野田駅・厚狭駅が開業。
* [[1901年]](明治34年)
** [[3月31日]]:和田岬線が改マイルにより2C(≒0.04 km)短縮。
** [[5月27日]]:厚狭駅 - 馬関駅間 (21M60C≒35.00 km)が延伸開業し、神戸駅 - 馬関駅間が全通。埴生駅・小月駅・長府駅・一ノ宮駅(現在の新下関駅)・幡生駅・馬関駅(現在の下関駅)が開業。
** [[8月4日]]:金神駅(現在の金光駅)が開業。
* [[1902年]](明治35年)
** [[3月1日]]:阿弥陀駅が曽根駅に改称。
** [[4月7日]]:和田岬線が改マイルにより14C(≒0.28 km)短縮。
** [[6月1日]]:馬関駅が下関駅に改称。
** [[11月12日]]:営業距離をマイル・チェーン表記からマイル表記に簡略化(神戸駅 - 下関駅間 329M21C→329.3M、兵庫駅 - 和田岬駅間 1M48C→1.6M)。
* [[1903年]](明治36年)12月:海田市駅 - 広島駅間が複線化。
* [[1906年]](明治39年)1月1日:長岡駅が西大寺駅に改称。
==== 鉄道院 - 運輸通信省 ====
* 1906年(明治39年)12月1日:山陽鉄道が国有化。同時に和田岬線で改マイルが実施され、0.2M(≒0.32 km)延長。塩屋仮停車場・舞子仮停車場が駅に変更。
* [[1907年]](明治40年)7月1日:神代駅(初代)が[[臨時駅|仮停車場]]に変更され神代仮停車場になる。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定。神戸駅 - 下関駅間、兵庫駅 - 和田岬駅間を'''山陽本線'''とする。
* [[1910年]](明治43年)
** [[7月1日]]:宇部駅が開業。
** [[10月25日]]:上郡駅 - 三石駅間が複線化。
* [[1911年]](明治44年)
** [[3月1日]]:戸田駅が開業。
** [[6月20日]]:三石駅 - 吉永駅間が複線化。
** 11月1日:和田岬線 兵庫駅 - 和田岬駅間の旅客営業開始、改マイルにより0.1M(≒0.16 km)短縮。貨物支線([[兵庫臨港線]])新川分岐点 - 新川駅間 (0.4M≒0.64 km)が開業。新川荷扱所が和田岬線の中間駅から兵庫臨港線の終着駅扱いに変更。姫路駅 - 網干駅間に英賀保信号所が開設。
* [[1912年]](明治45年)
** [[4月11日]]:虹ヶ浜駅(現在の光駅)が開業。
** [[4月16日]]:和田岬線 鐘紡前駅が開業。
** [[6月15日]]:本郷駅 - 河内駅間に郷原信号所が開設。
* 1912年([[大正]]元年)
** [[11月20日]]:八本松駅 - 瀬野駅間に上瀬野信号所が開設。
** [[11月27日]]:上郡駅 - 三石駅間に梨ヶ原信号所が開設。
* [[1913年]](大正2年)[[4月15日]]:英賀保信号所が駅に変更され英賀保駅が開業。
* [[1915年]](大正4年)
** [[4月26日]]:庭瀬駅 - 倉敷駅間に帯江信号所が開設。
** 5月:幡生駅 - 下関駅間が複線化。
* [[1916年]](大正5年)
** [[1月1日]]:一ノ宮駅が長門一ノ宮駅に改称。
** [[6月5日]]:水越駅(現在の備後赤坂駅)が開業。
** [[6月30日]]:神代仮停車場が廃止。
** 7月1日:尾道駅 - 糸崎駅間に木原信号所が開設。
** [[11月1日]]:船木駅が厚東駅に改称。
* [[1917年]](大正6年)
** 4月16日:姫路駅 - 英賀保駅間が複線化。
** 5月15日:明石駅 - 大久保駅間に小久保信号所が開設。
** [[7月10日]]:和気駅 - 万富駅間に熊山信号所が開設。
** [[7月13日]]:鴨方駅 - 笠岡駅間に里庄信号所、松永駅 - 尾道駅間に山波信号所、三原駅 - 本郷駅間に荻路信号所、河内駅 - 白市駅間に入野信号所、白市駅 - 西条駅間に西高屋信号所、瀬野駅 - 海田市駅間に中野信号所、宮島駅 - 玖波駅間に大野浦信号所、由宇駅 - 大畠駅間に神代信号所、大道駅 - 小郡駅間に四辻信号所が開設。
** [[9月29日]]:竜野駅 - 那波駅間が複線化。阿知須駅 - 厚東駅間に上清水信号所が開設。
** [[12月5日]]:英賀保駅 - 網干駅間が複線化。
* [[1918年]](大正7年)1月1日:水越駅が備後赤坂駅に改称。
* [[1919年]](大正8年)
** [[3月16日]]:大野浦信号所が駅に変更され大野浦駅が開業。
** [[4月1日]]:金神駅を金光駅に改称。
** [[5月1日]]:那波駅 - 有年駅間が複線化。
** [[8月1日]]:[[宇品線]] 広島駅 - 宇品駅間 (3.7M≒5.95 km)の旅客営業を廃止し山陽本線貨物支線として編入。
** 10月15日:兵庫臨港線 新川荷扱所が駅に変更され新川駅が開業。
* [[1920年]](大正9年)
** 2月12日:倉敷駅 - 玉島駅間に高梁仮信号場が開設。
** [[5月16日]]:四辻信号場が駅に変更され四辻駅が開業。
** [[5月25日]]:西阿知駅が開業。高梁仮信号場が廃止。
** 8月1日:向洋駅が開業。
** [[8月15日]]:中野信号所が駅に変更され安芸中野駅が開業。
** [[11月15日]]:里庄信号所が駅に変更され里庄駅が開業。
* [[1921年]](大正10年)
** [[1月20日]]:網干駅 - 竜野間、万富駅 - 瀬戸駅間が複線化。
** [[3月25日]]:有年駅 - 上郡間、西大寺駅 - 中井仮信号所間が複線化。西大寺駅 - 岡山駅間に中井仮信号場が開設。
** 11月15日:瀬戸駅 - 西大寺駅間が複線化。
* [[1922年]](大正11年)
** [[3月6日]]:吉永駅 - 和気駅間が複線化。
** 4月1日:信号所を信号場に改称。
** 4月15日:大久保駅 - 土山駅間に魚住信号所、土山駅 - 加古川駅間に平岡信号場が開設。
** 7月1日:岡山駅 - 庭瀬駅間が複線化。
** [[10月28日]]:中井仮信号場 - 岡山駅間が複線化。
** [[10月29日]]:中井仮信号場が廃止。
** [[11月10日]]:西高屋信号場 - 西条駅間が複線化。
** 11月20日:瀬野駅 - 安芸中野駅間が複線化。
** [[11月30日]]:西条駅 - 八本松駅間が複線化。
** [[12月15日]]:木原信号場 - 糸崎駅間が複線化。
** [[12月16日]]:安芸中野駅 - 海田市駅間が複線化。
* [[1923年]](大正12年)
** [[2月1日]]:大門駅 - 福山駅間が複線化。笠岡駅 - 大門駅間に金浦信号場が開設。
** [[3月30日]]:八本松駅 - 瀬野駅間が複線化。
** [[4月10日]]:尾道駅 - 木原信号場間が複線化。
** [[6月1日]]:和気駅 - 熊山信号場間が複線化。
** [[6月7日]]:熊山信号場 - 万富駅間が複線化。
** [[6月25日]]:笠岡駅 - 大門駅間が複線化。
** 7月1日:有年駅 - 那波駅間に西原信号場、上郡駅 - 三石駅間に粟原信号場、三石駅 - 吉永駅間に谷村信号場、西大寺駅 - 岡山駅間に中井信号場が開設。
** [[9月30日]]:備後赤坂駅 - 松永駅間が複線化。
** 11月10日:鴨方駅 - 里庄駅間が複線化。
** 11月20日:厚狭駅 - 埴生駅間が複線化。
** [[12月12日]]:白市駅 - 西高屋信号場間が複線化。
** [[12月20日]]:帯江信号場 - 倉敷駅間が複線化。
* [[1924年]](大正13年)
** 1月20日:小月駅 - 長府駅間が複線化。
** [[1月25日]]:庭瀬駅 - 帯江信号場間が複線化。
** [[2月11日]]:河内駅 - 白市駅間が複線化。
** [[2月15日]]:埴生駅 - 小月駅間が複線化。
** [[3月5日]]:金光駅 - 鴨方駅間が複線化。
** [[4月2日]]:玉島駅 - 金光駅間が複線化。
** 6月1日:本郷駅 - 河内駅間が複線化。
** 10月25日:小郡駅 - 嘉川駅間が複線化。
** [[11月8日]]:徳山駅 - 戸田駅間が複線化。
** 11月15日:西阿知駅 - 玉島駅間が複線化。
** [[11月29日]]:荻路信号場 - 本郷駅間が複線化。
** 11月30日:五日市駅 - 廿日市駅間が複線化。
** 12月20日:倉敷駅 - 西阿知駅間が複線化。
* [[1925年]](大正14年)
** [[1月15日]]:三原駅 - 荻路信号場間が複線化。
** 1月23日:吉永駅 - 和気駅間に金剛川仮信号場が開設(廃止日不詳)。
** [[1月25日]]:里庄駅 - 笠岡駅間が複線化。
** [[1月26日]]:糸崎駅 - 三原駅間が複線化。
** [[2月10日]]:己斐駅 - 五日市駅間が複線化。
** [[3月9日]]:福山駅 - 備後赤坂駅間が複線化。
** [[3月10日]]:嘉川駅 - 阿知須駅間が複線化。
** [[6月8日]]:松永駅 - 山波信号場間が複線化。
** [[8月30日]]:山波信号場 - 尾道駅間が複線化、神戸駅 - 広島駅間の複線化完成。
** [[8月31日]]:山波信号場が廃止。
** [[10月5日]]:厚東駅 - 宇部駅間が複線化。
** 10月15日:金浦信号場が廃止。
** [[10月16日]]:粟原信号場・谷村信号場が廃止。
** 11月5日:有年駅 - 上郡駅間に千種川仮信号場が開設(廃止日不詳)。
* [[1926年]](大正15年)
** 2月1日:網干駅 - 竜野駅間に林田川仮信号場が開設(廃止日不詳)。
** [[3月15日]]:横川駅 - 己斐駅間が複線化。
** 3月25日:大野浦駅 - 玖波駅間が複線化。
** [[4月17日]]:広島駅 - 横川駅間が複線化。
** [[4月18日]]:周防富田駅(現在の新南陽駅)が開業。
** [[4月30日]]:宇部駅 - 小野田駅間が複線化。
** [[6月30日]]:富海駅 - 三田尻駅間が複線化<ref>鉄道省『[{{NDLDC|1022002/136}} 昭和元年度 鉄道統計資料]』第二編、1926年、p.239(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 7月20日:瀬戸駅 - 西大寺駅間に砂川仮信号場が開設(廃止日不詳)。
** [[8月13日]]:小野田駅 - 厚狭駅間が複線化。
** [[9月23日]]:安芸中野駅 - 海田市駅間で[[列車脱線事故]]([[山陽本線特急列車脱線事故]])が発生。
** [[10月1日]]:西高屋信号場が駅に変更され西高屋駅が開業。
** [[10月10日]]:大竹駅 - 岩国駅間が複線化。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** 3月1日:柳井津駅 - 田布施駅間が複線化。
** 3月15日:玖波駅 - 大竹駅間が複線化。
** [[10月15日]]:田布施駅 - 岩田間、阿知須駅 - 厚東駅間が複線化。
** 12月20日:大道駅 - 四辻駅間が複線化。
* [[1928年]](昭和3年)
** [[2月11日]]:櫛ケ浜駅が開業。
** 4月15日:戸田駅 - 富海駅間が複線化<ref name="testudou-toukei1928">鉄道省『[{{NDLDC|1022009/109}} 昭和三年度 鉄道統計資料]』第二編、1928年、p.185(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
** 6月25日:四辻駅 - 小郡駅間が複線化。
** [[6月27日]]:廿日市駅 - 宮島駅間が複線化。
** 6月30日:下松駅 - 徳山駅間が複線化<ref name="testudou-toukei1928" />。
** [[7月20日]]:宮島駅 - 大野浦駅間が複線化。
** [[8月3日]]:虹ヶ浜駅 - 下松駅間が複線化。
** [[11月19日]]:長府駅 - 幡生駅間が経路変更、複線化。長門一ノ宮駅・幡生駅が移転。
* [[1929年]](昭和4年)
** [[2月3日]]:岩国駅が麻里布駅に改称。
** [[2月14日]]:厚狭駅 - 埴生駅間に福田仮信号場が開設(廃止日不詳)。
** [[4月20日]]:柳井港駅が開業。柳井津駅が柳井駅に改称。
* [[1930年]](昭和5年)
** [[3月11日]]:帯江信号場が駅に変更され中庄駅が開業。
** [[3月25日]]:明石操車場が開設。小久保信号場が廃止。
** 4月1日:営業距離をマイル表記からメートル表記に変更、兵庫臨港線の起点を新川分岐点から兵庫駅に変更(神戸駅 - 下関駅間 329.3M→529.3 km、兵庫駅 - 和田岬駅間 1.7M→2.7 km、兵庫駅 - 新川駅間 0.4M→1.6 km、広島駅 - 宇品駅間 3.7M→5.9 km)。
** 6月25日:藤生駅 - 由宇駅間、三田尻駅 - 大道駅間が複線化。
** [[8月11日]]:熊山信号場が駅に変更され熊山駅が開業。
* [[1931年]](昭和6年)
** 10月10日:兵庫駅 - 鷹取駅間が3線化。神戸駅 - 鷹取駅間が高架化。
** [[11月12日]]:西原信号場が廃止。
** 12月15日:梨ヶ原信号場が廃止。
* [[1932年]](昭和7年)[[12月16日]]:兵庫臨港線 新川駅 - 神戸市場駅間 (1.2 km) 延伸開業。兵庫駅 - 新川駅間改キロ (-0.1 km)。神戸市場駅が開業。
* [[1933年]](昭和8年)
** 3月3日:上郡駅 - 三石駅間に梨ヶ原仮信号場が開設(廃止日不詳)。
** [[5月26日]]:中井信号場が廃止。
** [[6月21日]]:兵庫臨港線 新川駅 - 兵庫港駅間 (1.9 km) が開業。兵庫港駅が開業。
** 8月2日:木原信号場が廃止。
* [[1934年]](昭和9年)
** 3月31日:笠岡駅 - 大門駅間に金浦仮信号場が開設。
** [[6月11日]]:貨物支線 下関駅 - 下関港駅間 (1.3 km) 開業。下関港駅が開業。
** 6月29日:金浦仮信号場が廃止。
** 7月20日:神戸駅 - 須磨駅間が電化。
** 8月11日:通津駅が開業。
** [[9月20日]]:須磨駅 - 明石駅間が電化。
** 10月2日:西大寺駅 - 岡山駅間に百間川仮信号場が開設。
** 12月1日:現在の岩徳線である麻里布駅(現在の岩国駅) - 周防高森駅 - 櫛ケ浜駅間 (43.7 km) が全通し、山陽本線に編入。麻里布駅 - 柳井駅 - 櫛ケ浜駅間 (65.4 km) を柳井線として分離。
* [[1935年]](昭和10年)2月1日:百間川仮信号場が廃止。
* [[1936年]](昭和11年)[[9月9日]]:魚住信号場・平岡信号場が廃止。
* [[1937年]](昭和12年)
** [[5月23日]]:神戸駅 - 兵庫駅間が複々線化。
** 7月1日:貨物支線 広島駅 - 宇品駅間 (5.9 km) を宇品線として分離。
** 8月31日:明石駅 - 明石操車場間が電化。旅客営業はなく、[[明石電車区]]への出入庫及び回送のみ運転<ref>『関西国電略年誌』p12,13参照。</ref>。
** 9月5日:松永駅 - 尾道駅間に山波仮信号場が開設。
* [[1938年]](昭和13年)[[9月22日]]:兵庫駅 - 鷹取駅間が5線化。
* [[1939年]](昭和14年)
** 5月16日:山波仮信号場が廃止。
** 8月11日:荻路信号場・郷原信号場・入野信号場が廃止。
** [[8月21日]]:上瀬野信号場が廃止。
** 11月15日:幡生駅 - 下関駅間に桜山信号場が開設。
* [[1940年]](昭和15年)[[10月10日]]:厚狭駅 - 埴生駅間に炭山信号場が開設。
* [[1941年]](昭和16年)
** 2月1日:虹ヶ浜駅が光駅に改称。
** 6月11日:上清水信号場が廃止。
** 6月21日:炭山信号場が廃止。
* [[1942年]](昭和17年)
** 4月1日:幡生駅 - 下関駅間改キロ (-0.6 km)。宮島駅が宮島口駅に、麻里布駅が岩国駅に、岩国駅が[[西岩国駅]]に改称。
** [[5月16日]]:桜山信号場が廃止。
** 7月1日:関門トンネルが開通し貨物線として下関駅 - 門司駅間 (6.3 km) 開業、山陽本線全通。幡生駅 - 門司駅間が電化。下関港駅が下関駅に統合されて廃止 (-1.3 km)。
** 9月11日:富海駅 - 三田尻駅間に牟礼仮信号場が開設。
** 10月1日:那波駅を相生駅に改称。牟礼仮信号場が廃止。
** [[11月7日]]:柳井線 尾津信号場 - 藤生駅間が複線化。岩国駅 - 藤生駅間に尾津信号場が開設。
** 11月15日:下関駅 - 門司間の旅客営業開始。下関駅が移転。
* [[1943年]](昭和18年)5月1日:宇部駅が西宇部駅に改称。
* [[1944年]](昭和19年)
** 2月1日:海田市駅 - 広島駅間が複々線化。
** 4月1日:明石操車場が廃止され、同操車場構内に西明石駅が開業。明石駅 - 西明石駅間の電車営業運転開始。
** 4月1日:柳井線 大畠駅 - 柳井港駅間が複線化。
** [[5月10日]]:柳井線 由宇駅 - 神代信号場間が複線化。
** [[9月9日]]:関門トンネル上り線が開通。下関駅 - 門司駅間が複線化。
** [[9月11日]]:柳井線 神代信号場 - 大畠駅間が複線化。
** 9月29日:柳井線 柳井港駅 - 柳井駅間が複線化。
** 9月30日:柳井線 岩国駅 - 尾津信号場間が複線化。
** 10月1日:尾津信号場が廃止。
** [[10月11日]]:岩田駅 - 光駅間が複線化、全線複線化完成。柳井線 (65.4 km) を山陽本線に編入し、岩国駅 - 周防高森駅 - 櫛ケ浜駅間 (43.7 km) を[[岩徳線]]として分離。神代信号場が駅に変更され神代駅(2代目)が開業。
* [[1945年]](昭和20年)
** 5月1日:岡山駅 - 庭瀬駅間に岡山操車場が開設。
** [[8月8日]]:[[8月6日]]の[[広島市への原子爆弾投下]]により被災した広島市内の区間が、広島 - 横川間が複線開通して全線復旧が完了<ref>『年表 ヒロシマ ~核時代50年の記録~』(1995年7月21日、中国新聞社発行)17頁。</ref>。
** 10月15日:本郷駅 - 河内駅間に郷原仮信号場が開設。
** 11月19日:郷原仮信号場が廃止。
* [[1947年]](昭和22年)7月15日:神代駅 - 大畠駅間に東原仮信号場・西原仮信号場が開設。
* [[1948年]](昭和23年)[[9月2日]]:東原仮信号場・西原仮信号場が廃止。
==== 日本国有鉄道 ====
* [[1950年]](昭和25年)6月1日:阿知須駅を本由良駅に改称。
* [[1952年]](昭和27年)6月20日:南岩国駅が開業。
* [[1953年]](昭和28年)[[12月25日]]:入野駅が開業。
* [[1954年]](昭和29年)4月1日:新長田駅が開業。
* [[1956年]](昭和31年)[[2月15日]]:岩国駅 - 南岩国駅間に川下信号場が開設。[[在日米軍]][[岩国飛行場|岩国基地]][[専用鉄道|専用線]]の分岐点。
* [[1957年]](昭和32年)[[3月27日]]:貨物支線 姫路駅 - 姫路市場駅間 (1.5 km) が開業。姫路市場駅が開業。
* [[1958年]](昭和33年)4月10日:西明石駅 - 姫路駅間が電化。
* [[1959年]](昭和34年)
** 9月22日:姫路駅 - 上郡駅間が電化。
** 10月16日:厚狭駅 - 埴生駅間に福田信号場開設通報。
** 12月26日:玖波駅 - 大竹駅間に小方信号場開設通報。
* [[1960年]](昭和35年)
** 3月31日:小方信号場・福田信号場廃止通報。
** 4月18日:大竹駅 - 岩国駅間に新港信号場、埴生駅 - 小月駅間に松屋信号場開設通報。
** 6月1日:西宇部駅 - 厚狭駅間が電化。
** 7月25日:新港信号場廃止通報。
** 9月12日:神代駅 - 大畠駅間に相地信号場、長府駅 - 長門一ノ宮駅間に滑石信号場開設通報。松屋信号場廃止通報。
** 10月1日:上郡駅 - 倉敷駅間が電化。
* [[1961年]](昭和36年)
** 2月23日:相地信号場廃止通報。
** [[3月20日]]:西大寺駅を東岡山駅に改称。
** 5月:本由良駅 - 厚東駅間に善和信号場が開設。
** 5月1日:滑石信号場廃止通報。
** 6月1日:小郡駅 - 西宇部間、厚狭駅 - 幡生駅間が電化。
** 8月1日:三田尻駅 - 大道駅間に佐波川信号場が開設。
** 8月21日:宮島口駅 - 大野浦駅間に賀撫津信号場が開設。
** 9月:善和信号場が廃止。
** [[9月6日]]:倉敷駅 - 三原駅間が電化。
** 10月:戸田駅 - 富海駅間に田ノ浴信号場が開設。佐波川信号場が廃止。
** 10月1日:魚住駅・東加古川駅が開業。
** 12月:賀撫津信号場が廃止。
** 12月21日:廿日市駅 - 宮島口駅間に阿品信号場が開設。
* [[1962年]](昭和37年)
** 3月1日:和田岬線 鐘紡前駅が廃止(1948年3月頃から休止中)。
** 5月10日:田ノ浴信号場廃止通報。
** [[5月12日]]:三原駅 - 広島駅間が電化。
** 6月:阿品信号場が廃止。岩田駅 - 島田駅間に立野信号場が開設。
** 10月1日:広島駅 - 横川駅間が電化。
** 11月1日:三田尻駅が防府駅に改称。
* [[1963年]](昭和38年)
** 6月:立野信号場が廃止。
** [[6月28日]]:横川駅 - 己斐駅間が高架化(実際には太田川放水路以西、すなわち横川駅 - 己斐駅間のほとんどは地上線である)。
** 11月8日:大野浦駅 - 玖波駅間に八坂信号場開設通報。
* [[1964年]](昭和39年)
** 5月12日:八坂信号場が廃止。
** [[7月25日]]:横川駅 - 小郡駅間が電化され、全線電化完成。
** 10月1日:西宇部駅が宇部駅に改称。
* [[1965年]](昭和40年)[[3月28日]]:鷹取駅 - 西明石駅間が複々線化。垂水駅付近が高架化。
* [[1966年]](昭和41年)6月15日:貨物駅として東福山駅が開業。
* [[1968年]](昭和43年)
** 6月20日:朝霧駅が開業。
** [[9月20日]]:宇部駅 - 厚狭駅間が3線化<ref>{{Cite news |和書|title=国鉄今週の切替え工事 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-15 |page=1 }}</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)
** 3月1日:貨物駅として東広島駅(現在の広島貨物ターミナル駅)が開業。
** 10月1日:貨物駅として西岡山駅が開業。己斐駅が西広島駅に改称。
* [[1974年]](昭和49年)[[9月24日]]:福山駅付近が高架化。
* [[1975年]](昭和50年)3月10日:玉島駅が新倉敷駅に、長門一ノ宮駅が新下関駅に改称。
* [[1979年]](昭和54年)
** 4月1日:東福山駅の旅客営業開始。
** 11月1日:貨物支線 姫路駅 - 姫路市場駅間 (1.5 km) が廃止。姫路市場駅が廃止。
* [[1980年]](昭和55年)10月1日:周防富田駅が新南陽駅に改称。和田岬線 兵庫駅 - 和田岬駅間の貨物営業廃止。
* [[1984年]](昭和59年)
** [[2月1日]]:兵庫臨港線 兵庫駅 - 新川駅 - 神戸市場駅間 (2.7 km)、新川駅 - 兵庫港駅間 (1.9 km) が廃止。新川駅・神戸市場駅・兵庫港駅・川下信号場が廃止。
** [[12月6日]]:三原駅 - 下関駅間で CTC 使用開始
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:高島駅・新井口駅が開業。
* [[1986年]](昭和61年)11月1日:上道駅および貨物駅として防府貨物駅が開業。
==== 民営化以降 ====
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により、神戸駅 - 下関駅間が西日本旅客鉄道、下関駅 - 門司駅間が九州旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が神戸駅 - 門司駅間の第二種鉄道事業者となる。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月13日]]:大阪駅 - 神戸駅 - 姫路駅間に'''JR神戸線'''の愛称が使用開始。
** [[4月3日]]:宮内串戸駅が開業。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** 3月11日:岡山駅 - 福山駅間の快速を「[[サンライナー|SUNライナー]]」と命名<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、pp.159-160</ref>(後に「サンライナー」と改称)。
** 8月11日:中野東駅・阿品駅が開業。
* [[1990年]](平成2年)
** 3月10日:岡山操車場が貨物駅の西岡山駅に統合され廃止。
** 3月15日:旧岡山操車場の場所に貨物駅の西岡山駅が移転。
** [[6月26日]]:三原駅付近高架化。三原駅 - 本郷駅間が経路変更され0.6km短縮。
* [[1991年]](平成3年)4月1日:山陰本線への直通列車のみ、幡生駅 - 下関駅間でワンマン運転開始<ref>ジェー・アール・アール『JR気動車客車編成表 2010』交通新聞社、2010年。{{ISBN2|978-4-330-14710-9}}。</ref><ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JRワンマン運転線区一覧表 |page=191 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-113-9}}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)
** [[3月21日]]:JR貨物の姫路駅が移転し、姫路貨物駅に改称。
** [[5月23日]]:防府駅付近高架化。
* [[1995年]](平成7年)
** [[1月17日]]:[[阪神・淡路大震災]]により、姫路駅 - 神戸駅間が不通になる。
** [[1月18日]]:一部区間で運転を再開(以後段階的に開通して不通区間が解消)。
** [[1月30日]]:神戸駅 - 須磨駅間のうち、上下電車線・内側線が復旧。
** [[4月1日]]:神戸駅 - 西明石駅間の上下列車線・外側線が復旧。
** 10月1日:[[鉄道部|地域鉄道部]]制度発足に伴い、新倉敷駅 - 糸崎駅間が岡山支社直轄から[[せとうち地域鉄道部]]管理に、糸崎駅(構内除く)- 白市駅(構内除く)間が広島支社直轄から[[三原地域鉄道部]]管理に、岩国駅 - 四辻駅(構内除く)間が広島支社直轄から[[徳山地域鉄道部]]管理に、四辻駅 - 下関駅間が広島支社直轄から[[下関地域鉄道部]]管理になる<ref name="data2001">『データで見るJR西日本 2001』西日本旅客鉄道</ref>。
** [[12月22日]]:貨物駅の東広島駅が広島貨物ターミナル駅に改称。
* [[1996年]](平成8年)[[7月21日]]:東尾道駅が開業。
* [[1997年]](平成9年)[[3月31日]]:宇部駅 - 厚狭駅間の増線(貨物線)が廃止され複線に戻る。
* [[1999年]](平成11年)12月4日:快速「サンライナー」でワンマン運転開始<ref name="kotsu_2010">ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2010夏』[[交通新聞社]]、2010年、p.206。{{ISBN2|978-4-330-14310-1}}。</ref>。
* [[2000年]](平成12年)3月11日:前空駅が開業。
* [[2001年]](平成13年)7月1日:和田岬線 兵庫駅 - 和田岬駅間が電化。
* [[2003年]](平成15年)
**[[5月12日]]:加古川駅下り線が高架化。
** [[5月26日]]:加古川駅上り線が高架化され、同駅の山陽本線部分高架化が完成<ref>『JR気動車客車編成表 '04年版』ジェー・アール・アール、2004年、p.189。{{ISBN2|4-88283-125-2}}。</ref>。
** 10月1日:小郡駅が新山口駅に改称<ref>[https://web.archive.org/web/20040614002832/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030730b.html 平成15年秋 ダイヤ改正](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年7月30日</ref>。
** [[12月1日]]:JR貨物の鷹取駅が神戸貨物ターミナル駅に改称。
* [[2004年]](平成16年)3月13日:天神川駅が開業<ref>[https://web.archive.org/web/20050227223431/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/031212b.html 山陽本線 広島 - 向洋間に新駅「天神川駅」開業](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年12月12日</ref>。
* [[2005年]](平成17年)
** 3月1日:ひめじ別所駅が開業<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20050331073646/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/041222b_kobe.pdf 〜平成 17 年春 ダイヤ改正について〜]}}(インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道神戸支社プレスリリース 2004年12月22日</ref>。
** 10月1日:北長瀬駅が開業。
* [[2006年]](平成18年)[[3月26日]]:姫路駅付近が高架化。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:須磨海浜公園駅・はりま勝原駅・西川原駅・和木駅が開業。
* [[2009年]](平成21年)
** 6月1日:組織改正により、四辻駅 - 厚狭駅(構内除く)間の管理が下関地域鉄道部から[[山口地域鉄道部]]に移管される<ref>[https://web.archive.org/web/20090525094929/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174240_799.html 「山口地域鉄道部」新設に伴う組織改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年7月8日</ref>。
** [[7月12日]]:網干駅 - 上郡駅間でATS-Pが使用開始<ref>「交通新聞」2009年7月8日</ref>。
* [[2012年]](平成24年)度内(日時不明):防府貨物駅が廃止。併設された防府貨物オフレールステーションのみ施設扱いで存続<ref>鉄道貨物協会「貨物時刻表」の「JR貨物全営業線」における、2012年度版と2013年度版の山陽線の駅数変動による。</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:新白島駅が開業<ref name="mainichi-np-2015-3-15">大西岳彦(2015年3月15日). “新白島駅:開業 JR山陽線とアストラムラインを連結−−中区”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社) p.24</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** 3月26日:東姫路駅が開業<ref name="westjr20151002-7724">{{Cite press release |和書 |title=JR神戸線(山陽線)御着・姫路間新駅 駅名の決定について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2015-10-2|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/10/page_7724.html |accessdate=2015-10-2}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=平成28年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2015-12-18 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2015/12/page_8083.html |accessdate=2016-02-22 }}</ref>。西岡山駅を岡山貨物ターミナル駅に改称<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成28年3月時刻改正 新しい鉄道輸送サービスのご案内 |publisher=日本貨物鉄道株式会社 |format=PDF |date=2015-12-18 |url=http://www.jrfreight.co.jp/common/pdf/news/201512daiya.pdf |accessdate=2015-12-21}}</ref>。
** 5月12日:上郡駅 - 三原駅間(両駅の構内除く)でCTC装置を含む運行管理システムが使用開始<ref>{{Cite press release |和書 |title=山陽線運行管理システムの使用開始について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2016-03-24 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/03/page_8540.html |accessdate=2016-05-12 }}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月4日]]:寺家駅が開業<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/161216_00_hiroshima.pdf|format=PDF|title=平成29年春のダイヤ改正について|publisher=[[西日本旅客鉄道広島支社]]|date=2016-12-16|accessdate=2016-12-19}}</ref>。
** 6月1日:組織改正によりせとうち地域鉄道部が廃止され、同地域鉄道部の管轄区間が岡山支社直轄に戻る<ref name="data2018">[http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_25.pdf データで見るJR西日本2018] p.203 - 西日本旅客鉄道</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** 6月1日:組織改正により三原地域鉄道部が廃止され、同地域鉄道部の管轄区間が広島支社直轄に戻る<ref name="data2018" />。
** [[7月6日]]:[[平成30年7月豪雨]]のため、相生駅 - 和気駅間、岡山駅 - 下関間が運休<ref name="milt001243188">{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001243188.pdf#page=50 平成30年台風第7号及び前線等による被害状況等について(第7報) ]}} - 国土交通省 災害情報、2018年7月7日 5:00現在</ref>。三原駅 - 海田市駅間の至る箇所で土砂流入・盛土流出などの被害を受けた<ref>{{Cite news |author=木下健児 |url=https://news.mynavi.jp/article/20180711-662692/ |title=JR西日本「平成30年7月豪雨」山陽本線など1カ月以上の運転見合わせ |newspaper=[[マイナビニュース]]|publisher=[[マイナビ]]|date=2018年7月11日 |accessdate=2018年8月5日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180714162300/https://news.mynavi.jp/article/20180711-662692/ |archivedate=2018年7月14日}}</ref>。
** [[7月7日]]:和気駅 - 岡山駅間も運休<ref name="milt001243188" />。
** 7月8日:相生駅 - 上郡駅間、新山口駅 - 下関駅間が運転再開<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASL776VQLL77PTIL03Y.html|title=JR西日本、在来線の大半を8日始発から運行|publisher=朝日新聞|date=2018-07-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180716162923/https://www.asahi.com/articles/ASL776VQLL77PTIL03Y.html|archivedate=2018-07-16}}</ref>。
** [[7月9日]]:瀬戸駅 - 笠岡駅間、海田市駅 - 岩国駅間、徳山駅 - 新山口駅間が運転再開<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASL786F59L78PTIL03N.html|title=一部在来線、9日朝から運転再開 見通し立たない路線も|publisher=朝日新聞|date=2018-07-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180716094010/https://www.asahi.com/articles/ASL786F59L78PTIL03N.html|archivedate=2018-07-16}}</ref>。
** 7月10日:上郡駅 - 瀬戸駅間が運転再開<ref>{{Cite news |url=https://news.mynavi.jp/article/20180709-661790/|title=JR西日本・JR四国など豪雨で被害を受けた各線区、7/10運転計画は|publisher=マイナビニュース|date=2018-07-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180717133206/https://news.mynavi.jp/article/20180709-661790/|archivedate=2018-07-17}}</ref>。
** 7月14日:笠岡駅 - 福山駅間が運転再開<ref name="mainavi-np-2018-7-12">{{Cite news |author=上新大介 |url=https://news.mynavi.jp/article/20180712-663333/ |title=JR西日本「平成30年7月豪雨」山陽本線笠岡~三原間7/18までに再開 |newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2018年7月12日 |accessdate=2018年8月5日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180713203047/https://news.mynavi.jp/article/20180712-663333/ |archivedate=2018年7月13日}}</ref>。
** [[7月17日]]:岩国駅 - 柳井駅間が運転再開<ref name="jrhiroshima20180713">{{Cite web|和書|date=2018-07-13|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180713_02_hiroshima_1.pdf|title=各線区の運転状況について|publisher=西日本旅客鉄道広島支社|accessdate=2018-07-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180713154741/http://www.westjr.co.jp/press/article/items/180713_02_hiroshima_1.pdf|archivedate=2018-07-13}}</ref>。
** [[7月18日]]:福山駅 - 三原駅間が運転再開<ref name="mainavi-np-2018-7-12" />。
** 8月1日:下松駅 - 徳山駅間が運転再開<ref>{{Cite news |url=https://news.mynavi.jp/article/20180719-666377/|title=JR西日本、山陽本線の全線復旧は11月 - 各線区の再開時期明らかに|publisher=マイナビニュース|date=2018-07-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180731213832/https://news.mynavi.jp/article/20180719-666377/|archivedate=2018-07-31}}</ref>。
** [[8月18日]]:瀬野駅 - 海田市駅間が運転再開<ref>{{Cite news |url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=457484&comment_sub_id=0&category_id=256|title=【西日本豪雨】海田市―瀬野あす再開 山陽線、当面は臨時ダイヤ|publisher=中国新聞アルファ|date=2018-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180816105516/http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=457484&comment_sub_id=0&category_id=256|archivedate=2018-08-16}}</ref>。
** [[8月21日]]:白市駅 - 八本松駅間が運転再開、9月8日まではこの区間のみでの暫定的な折り返し運転を実施<ref>{{Cite news |url=http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=458016&comment_sub_id=0&category_id=256|title=【西日本豪雨】海田市―瀬野JR再開 乗客「日常戻った」|publisher=中国新聞アルファ|date=2018-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180818103930/http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=458016&comment_sub_id=0&category_id=256|archivedate=2018-08-19}}</ref>。
** [[9月9日]]:八本松駅 - 瀬野駅間、柳井駅 - 下松駅間が運転再開<ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/west/news/180822/wst1808220099-n1.html|title=JR、一部で再開前倒し 好天続き復旧作業が順調に進む|publisher=産経WEST|date=2018-08-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180908112734/https://www.sankei.com/west/news/180822/wst1808220099-n1.html|archivedate=2018-09-08}}</ref>。
** [[9月29日]]:[[平成30年台風第24号]]の影響で光駅 - 下松駅間で土砂流入が再発し、柳井駅 - 下松駅間が再度運休<ref name="asahiASL9Z3JCZL9ZPITB004">{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/ASL9Z3JCZL9ZPITB004.html|title=JR山陽線三原―白市間が運行再開 西日本豪雨で被災|publisher=朝日新聞デジタル|date=2018-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180930100444/https://www.asahi.com/articles/ASL9Z3JCZL9ZPITB004.html|archivedate=2018-09-30}}</ref>。
** [[9月30日]]:三原駅 - 白市駅間が運転再開<ref name="asahiASL9Z3JCZL9ZPITB004" /><ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/09/page_13056.html |title=西日本豪雨で被害を受けた山陽線などの運転再開見込みについて |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2018-09-14 |accessdate=2018-09-16 }}</ref>。
** [[10月13日]]:柳井駅 - 下松駅間が運転再開され、豪雨災害発生以来3か月ぶりに全線の運転が再開される<ref>{{Cite news |url=https://trafficnews.jp/post/81698|title=JR山陽本線、全線復旧は13日に 山陰回りの貨物列車は運転終了へ|publisher=乗りものニュース|date=2018-10-10 |accessdate=2018-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181010113543/https://trafficnews.jp/post/81698|archivedate=2018-10-10}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://response.jp/article/2018/10/10/314906.html|title=山陽本線の貨物列車は再開後も一部が運休に…迂回運行は10月11日発で終了 台風24号|publisher=レスポンス|date=2018-10-10|accessdate=2018-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181011192532/https://response.jp/article/2018/10/10/314906.html|archivedate=2018-10-11}}</ref>。ただし徐行が必要な区間があることから、一部区間では翌2019年3月15日まで平日ダイヤを元にした暫定ダイヤを適用。
* [[2020年]](令和2年)
** [[4月26日]]:白市駅 - 西広島駅間にて[[自動列車停止装置#D-TAS(旧称 ATS-DW形(ATS-M形))|D-TAS]]が使用開始する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200409_00_dtas.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201113074746/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200409_00_dtas.pdf|format=PDF|language=日本語|title=山陽本線 白市〜西広島間で「D-TAS」を使用開始します|publisher=西日本旅客鉄道|date=2020-04-09|accessdate=2021-01-14|archivedate=2020-11-13}}</ref>。
** 9月:[[駅ナンバリング|駅ナンバー]](駅番号)を三石駅 - 三原駅間および糸崎駅 - 岩国駅間の各駅に順次導入<ref name="number_okayama" /><ref name="number_hiroshima" /><ref group="注釈">糸崎駅・三原駅は岡山支社・広島支社の駅ナンバーを重複付与。</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:快速「サンライナー」廃止<ref name="raifjp20220312">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/03/12/201000.html |title=快速“サンライナー”の運転終了 |accessdate=2022-03-13 |publisher=交友社 |date=2022-03-12 |website=鉄道ファン・railf.jp |work=鉄道ニュース}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[3月18日]]:岩国駅 - 下関駅間でワンマン運転開始<ref>{{Cite press release|title=2023年春のダイヤ改正について|publisher=西日本旅客鉄道中国統括本部|date=2022-12-16|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/221216_00_press_daiyachuto.pdf#page=9|format=PDF|language=ja|access-date=2023-12-26}}</ref>。
** [[7月11日]]:大雨の影響で小野田駅 - 厚狭駅間で盛り土に亀裂が生じたため、同区間の運転を2週間程度見合わせることをJR西日本が発表<ref>{{Cite news |title=JR山陽本線 新山口駅〜小野田駅間 13日始発から運転再開 |newspaper=NHK NEWSWEB |date=2023-07-11 |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamaguchi/20230711/4060017605.html |access-date=2023-07-12 |publisher=日本放送協会}}</ref>
== 駅一覧 ==
(貨):貨物専用駅、◆・◇<!--・■-->:貨物取扱駅(貨物専用駅を除く。◇印は定期貨物列車の発着なし<!--、■印は[[オフレールステーション]]-->)
=== 西日本旅客鉄道 ===
==== 神戸駅 - 姫路駅間、兵庫駅 - 和田岬駅間 ====
ここでは駅名と主要駅のキロ程のみを記す。接続路線・快速停車駅などの詳細については[[JR神戸線#駅一覧]]および[[和田岬線#駅一覧]]を参照。
( ) 内は起点からの営業キロ
; 本線
: [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] (0.0 km) - [[兵庫駅]]◇ (1.8 km) - [[新長田駅]] - [[鷹取駅]]・(貨)[[神戸貨物ターミナル駅]] - [[須磨海浜公園駅]] - [[須磨駅]] - [[塩屋駅 (兵庫県)|塩屋駅]] - [[垂水駅]] - [[舞子駅]] - [[朝霧駅]] - [[明石駅]] - [[西明石駅]] (22.8 km) - [[大久保駅 (兵庫県)|大久保駅]] - [[魚住駅]] - [[土山駅]] - [[東加古川駅]] - [[加古川駅]] (39.1 km) - [[宝殿駅]]◇ - [[曽根駅 (兵庫県)|曽根駅]] - [[ひめじ別所駅]]・(貨)[[姫路貨物駅]] - [[御着駅]]◇ - [[東姫路駅]] - [[姫路駅]] (54.8 km)
; 支線([[和田岬線]])
: 兵庫駅 (0.0 km) - [[和田岬駅]] (2.7 km)
==== 姫路駅 - 上郡駅間 ====
* 停車駅
** 新快速・快速・普通…この区間のすべての旅客駅に停車。
** 特急…[[#優等列車]]の各列車記事参照。
* この区間は全駅[[兵庫県]]に所在。
* 網干駅 - 竜野駅間で[[揖保郡]]太子町を通るが、同町内に駅はない。
* この区間については、2020年9月時点で駅ナンバーは姫路駅([[JR神戸線#駅一覧]]参照)を除いて導入されていない。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="2"|累計<br>営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地
|- style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"
!神戸<br>から
![[東京駅|東京]]<br>から
|-
!colspan="4" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="2" style="text-align:center"|{{rint|ja|wkas|size=17}} 山陽本線([[JR神戸線]])(神戸・大阪方面)
|-
|[[姫路駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|54.8
|style="text-align:right;"|644.3
|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] [[山陽新幹線]]・{{rint|ja|wkas|size=17}} 山陽本線(JR神戸線:JR-A85)・{{rint|ja|wkj|size=17}} [[播但線]]・{{rint|ja|wkk|size=17}} [[姫新線]]<br>[[山陽電気鉄道]]:[[ファイル:Number_prefix_San-yo_Railway_line.png|17x17ピクセル|SY]] [[山陽電気鉄道本線|本線]] …[[山陽姫路駅]](SY 43)
|rowspan="4"|[[姫路市]]
|-
|[[英賀保駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|59.4
|style="text-align:right;"|648.9
|
|-
|[[はりま勝原駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|62.2
|style="text-align:right;"|651.7
|
|-
|[[網干駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|65.1
|style="text-align:right;"|654.6
|
|-
|[[竜野駅]]
|style="text-align:right;"|5.9
|style="text-align:right;"|71.0
|style="text-align:right;"|660.5
|
|style="white-space:nowrap;"|[[たつの市]]
|-
|[[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|75.5
|style="text-align:right;"|665.0
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{rint|ja|wkaa|size=17}} [[赤穂線]]<ref group="*">赤穂線の正式な起点は相生駅だが、播州赤穂からの列車はすべて姫路駅へ乗り入れる</ref>
|[[相生市]]
|-
|[[有年駅]]
|style="text-align:right;"|7.6
|style="text-align:right;"|83.1
|style="text-align:right;"|672.6
|
|[[赤穂市]]
|-
|[[上郡駅]]
|style="text-align:right;"|6.5
|style="text-align:right;"|89.6
|style="text-align:right;"|679.1
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|wos|size=17}} 山陽本線(岡山方面)<br>[[智頭急行]]:[[智頭急行智頭線|智頭線]]
|style="white-space:nowrap;"|[[赤穂郡]]<br>[[上郡町]]
|-
!colspan="4" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="2" style="text-align:center"|{{rint|ja|wos|size=17}} 山陽本線(岡山方面)
|}
* 以下の駅以外は[[無人駅]]
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](5駅)
** 姫路駅・英賀保駅・網干駅・相生駅・上郡駅
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
** [[JR西日本交通サービス]](2駅)
*** はりま勝原駅・竜野駅
==== 上郡駅 - 岡山駅間 ====
* 停車駅
** 普通…すべての旅客駅に停車。
** 特急…[[#優等列車]]の各列車記事参照。
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2020年9月より順次導入<ref name="number_okayama">[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200728_04_ekinumber.pdf 岡山・福山エリア 8路線82駅への「駅ナンバー」の導入について] - 西日本旅客鉄道、2020年7月28日</ref>。上郡駅は導入対象外。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:5.5em; border-bottom:solid 3px #accd00;"|駅ナンバー<br /><ref name="number_okayama" />
!rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #accd00;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #accd00;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="2"|累計<br>営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #accd00;"|接続路線
!rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #accd00;"|所在地
|- style="border-bottom:solid 3px #accd00;"
!神戸<br>から
!東京<br>から
|-
!colspan="5" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="4" style="text-align:center"|{{rint|ja|wkas|size=17}} 山陽本線(姫路方面)
|-
! -
|[[上郡駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|89.6
|style="text-align:right;"|679.1
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|wkas|size=17}} 山陽本線(姫路方面)<br>[[智頭急行]]:[[智頭急行智頭線|智頭線]]
|colspan="3"|[[兵庫県]]<br>[[赤穂郡]]<br>[[上郡町]]
|-
!JR-S11
|[[三石駅]]
|style="text-align:right;"|12.8
|style="text-align:right;"|102.4
|style="text-align:right;"|691.9
|
|rowspan="11" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[岡山県]]|height=6em}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[備前市]]
|-
!JR-S10
|[[吉永駅]]
|style="text-align:right;"|7.1
|style="text-align:right;"|109.5
|style="text-align:right;"|699.0
|
|-
!JR-S09
|[[和気駅]]
|style="text-align:right;"|5.3
|style="text-align:right;"|114.8
|style="text-align:right;"|704.3
|
|colspan="2"|[[和気郡]]<br>[[和気町]]
|-
!JR-S08
|[[熊山駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|119.4
|style="text-align:right;"|708.9
|
|colspan="2"|[[赤磐市]]
|-
!JR-S07
|[[万富駅]]
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|123.5
|style="text-align:right;"|713.0
|
|rowspan="7" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[岡山市]]|height=6em}}
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[東区 (岡山市)|東区]]
|-
!JR-S06
|[[瀬戸駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|128.0
|style="text-align:right;"|717.5
|
|-
!JR-S05
|[[上道駅 (岡山県)|上道駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|132.7
|style="text-align:right;"|722.2
|
|-
!JR-S04
|[[東岡山駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|136.1
|style="text-align:right;"|725.6
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|won|size=17}} 赤穂線(JR-N04)<ref group="*" name="akoline">赤穂線の正式な終点は東岡山駅だが、運転系統上は岡山駅へ乗り入れる</ref>
|rowspan="3"|[[中区 (岡山市)|中区]]
|-
!JR-S03
|[[高島駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|138.9
|style="text-align:right;"|728.4
|
|-
!JR-S02
|[[西川原駅]]<br><small>(西川原・就実駅)</small>
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|140.8
|style="text-align:right;"|730.3
|
|-
!JR-S01
|[[岡山駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|143.4
|style="text-align:right;"|732.9
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{rint|ja|wow|size=17}} 山陽本線(福山方面:JR-W01)・{{rint|ja|wsv|size=17}} [[伯備線]](JR-V01)<ref group="*" name="hakubi">伯備線の正式な起点は倉敷駅だが、運転系統上は岡山駅へ乗り入れる</ref>・{{rint|ja|wot|size=17}} [[津山線]]・{{rint|ja|wol|size=17}} [[宇野線]](宇野みなと線:JR-L01)・{{rint|ja|wom|size=17}} [[瀬戸大橋線]](JR-M01)<ref group="*">宇野みなと線と瀬戸大橋線は宇野線 岡山駅 - 茶屋町駅間で重複。</ref>・{{rint|ja|wou|size=17}} [[吉備線]](桃太郎線:JR-U01)<br>[[岡山電気軌道]]:[[岡山電気軌道東山本線|東山本線]] …[[岡山駅前停留場]](H01,S01)
|[[北区 (岡山市)|北区]]
|-
!colspan="5" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="4" style="text-align:center"|{{rint|ja|wow|size=17}} 山陽本線(福山方面)
|}
* 以下の駅以外は[[無人駅]]
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](5駅)
** 上郡駅・和気駅・瀬戸駅・東岡山駅・岡山駅
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
** [[JR西日本中国交通サービス]](1駅)
*** 高島駅
==== 岡山駅 - 福山駅間 ====
* 停車駅
** 普通…すべての旅客駅に停車。
** 特急…[[#優等列車]]の各列車記事参照。
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2020年9月より順次導入<ref name="number_okayama" />。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:5.5em; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|駅ナンバー<br /><ref name="number_okayama" />
!rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="2"|累計<br>営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|接続路線
!rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|所在地
|- style="border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"
!神戸<br>から
!東京<br>から
|-
!colspan="5" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="4" style="text-align:center"|{{rint|ja|wos|size=17}} 山陽本線(瀬戸方面)
|-
!JR-W01
|[[岡山駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|143.4
|style="text-align:right;"|732.9
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{rint|ja|wos|size=17}} 山陽本線(瀬戸方面:JR-S01)・{{rint|ja|won|size=17}} 赤穂線(JR-N01)<ref group="*" name="akoline" />・{{rint|ja|wot|size=17}} [[津山線]]・{{rint|ja|wol|size=17}} [[宇野線]](宇野みなと線:JR-L01)・{{rint|ja|wom|size=17}} [[瀬戸大橋線]](JR-M01)・{{rint|ja|wou|size=17}} [[吉備線]](桃太郎線:JR-U01)<br>[[岡山電気軌道]]:[[岡山電気軌道東山本線|東山本線]] …[[岡山駅前停留場]](H01,S01)
|rowspan="12" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[岡山県]]|height=6em}}
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[岡山市]]<br>[[北区 (岡山市)|北区]]
|-
!-
|(貨)[[岡山貨物ターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|145.9
|style="text-align:right;"|735.4
|
|-
!JR-W02
|[[北長瀬駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|146.8
|style="text-align:right;"|736.3
|
|-
!JR-W03
|[[庭瀬駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|149.9
|style="text-align:right;"|739.4
|
|-
!JR-W04
|[[中庄駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|154.6
|style="text-align:right;"|744.1
|
|rowspan="4"|[[倉敷市]]
|-
!JR-W05
|[[倉敷駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|159.3
|style="text-align:right;"|748.8
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|wsv|size=17}} 伯備線(JR-V05)<ref group="*" name="hakubi" /><br>[[水島臨海鉄道]]:[[水島臨海鉄道水島本線|水島本線]] …[[倉敷市駅]](MR0)
|-
!JR-W06
|[[西阿知駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|163.3
|style="text-align:right;"|752.8
|
|-
!JR-W07
|[[新倉敷駅]]
|style="text-align:right;"|5.3
|style="text-align:right;"|168.6
|style="text-align:right;"|758.1
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線
|-
!JR-W08
|[[金光駅]]
|style="text-align:right;"|6.3
|style="text-align:right;"|174.9
|style="text-align:right;"|764.4
|
|rowspan="2"|[[浅口市]]
|-
!JR-W09
|[[鴨方駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|178.4
|style="text-align:right;"|767.9
|
|-
!JR-W10
|[[里庄駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|182.4
|style="text-align:right;"|771.9
|
|[[浅口郡]]<br>[[里庄町]]
|-
!JR-W11
|[[笠岡駅]]
|style="text-align:right;"|4.7
|style="text-align:right;"|187.1
|style="text-align:right;"|776.6
|
|[[笠岡市]]
|-
!JR-W12
|[[大門駅 (広島県)|大門駅]]
|style="text-align:right;"|7.1
|style="text-align:right;"|194.2
|style="text-align:right;"|783.7
|
|rowspan="3" colspan="3"|[[広島県]]<br>[[福山市]]
|-
!JR-W13
|[[東福山駅]]◆
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|197.5
|style="text-align:right;"|787.0
|
|-
!JR-W14
|[[福山駅]]◇
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|201.7
|style="text-align:right;"|791.2
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{rint|ja|wox|size=17}} 山陽本線(糸崎方面:JR-X14)・{{rint|ja|woz|size=17}} [[福塩線]]
|-
!colspan="5" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="4" style="text-align:center"|{{rint|ja|wox|size=17}} 山陽本線(糸崎方面)
|}
* 以下の駅以外は[[無人駅]]
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](5駅)
** 岡山駅・倉敷駅・新倉敷駅・笠岡駅・福山駅
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
** [[JR西日本中国交通サービス]](2駅)
*** 北長瀬駅・中庄駅
==== 福山駅 - 糸崎駅・三原駅間 ====
* 便宜上、岡山・福山方面からの列車運行の西端となる三原駅も含めて記載する。
* 定期普通列車はこの区間のすべての旅客駅に停車。
* この区間は全駅[[広島県]]に所在。
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2020年9月より順次導入<ref name="number_okayama" />。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:5.5em; border-bottom:solid 3px #00acd1;"|駅ナンバー<br /><ref name="number_okayama" />
!rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #00acd1;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00acd1;"|駅間営業キロ
!colspan="2"|累計<br>営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00acd1;"|接続路線
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #00acd1;"|所在地
|- style="border-bottom:solid 3px #00acd1;"
!神戸<br>から
!東京<br>から
|-
!colspan="5" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="2" style="text-align:center"| {{rint|ja|wow|size=17}} 山陽本線(岡山方面)
|-
!JR-X14
|[[福山駅]]◇
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|201.7
|style="text-align:right;"|791.2
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{rint|ja|wow|size=17}} 山陽本線(岡山方面:JR-W14)・{{rint|ja|woz|size=17}} 福塩線
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[福山市]]
|-
!JR-X15
|[[備後赤坂駅]]
|style="text-align:right;"|5.8
|style="text-align:right;"|207.5
|style="text-align:right;"|797.0
|
|-
!JR-X16
|[[松永駅]]
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|212.4
|style="text-align:right;"|801.9
|
|-
!JR-X17
|[[東尾道駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|215.3
|style="text-align:right;"|804.8
|
|rowspan="2"|[[尾道市]]
|-
!JR-X18
|[[尾道駅]]
|style="text-align:right;"|6.5
|style="text-align:right;"|221.8
|style="text-align:right;"|811.3
|
|-
!JR-X19
|[[糸崎駅]]◇
|style="text-align:right;"|9.1
|style="text-align:right;"|230.9
|style="text-align:right;"|820.4
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|whg|size=17}} 山陽本線(白市・広島方面:JR-G17)
|rowspan="2"|[[三原市]]
|-
!JR-X20
|[[三原駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|233.3
|style="text-align:right;"|822.8
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{rint|ja|whg|size=17}} 山陽本線(白市・広島方面:JR-G16)・{{rint|ja|why|size=17}} [[呉線]](JR-Y31)
|}
* 以下の駅以外は[[無人駅]]
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](5駅)
** 福山駅・松永駅・尾道駅・糸崎駅・三原駅
==== 糸崎駅 - 白市駅間 ====
* 定期普通列車(快速含む)はこの区間のすべての旅客駅に停車。
* この区間は全駅[[広島県]]に所在。
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2020年9月より順次導入<ref name="number_hiroshima">[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200728_05_ekinumber.pdf 広島エリア 5路線79駅への「駅ナンバー」の導入について] - 西日本旅客鉄道、2020年7月28日</ref>。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:5.5em; border-bottom:solid 3px #5a9934;"|駅ナンバー<br /><ref name="number_hiroshima" />
!rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #5a9934;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #5a9934;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="2"|累計<br>営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #5a9934;"|接続路線
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #5a9934;"|所在地
|- style="border-bottom:solid 3px #5a9934;"
!神戸<br>から
!東京<br>から
|-
!JR-G17
|[[糸崎駅]]◇
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|230.9
|style="text-align:right;"|820.4
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|wox|size=17}} 山陽本線(福山方面:JR-X19)
|rowspan="3"|[[三原市]]
|-
!JR-G16
|[[三原駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|233.3
|style="text-align:right;"|822.8
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{rint|ja|wox|size=17}} 山陽本線(福山方面:JR-X20)・{{rint|ja|why|size=17}} [[呉線]](JR-Y31)
|-
!JR-G15
|[[本郷駅 (広島県)|本郷駅]]
|style="text-align:right;"|9.5
|style="text-align:right;"|242.8
|style="text-align:right;"|832.3
|
|-
!JR-G14
|[[河内駅]]
|style="text-align:right;"|12.3
|style="text-align:right;"|255.1
|style="text-align:right;"|844.6
|
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[東広島市]]
|-
!JR-G13
|[[入野駅 (広島県)|入野駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|259.5
|style="text-align:right;"|849.0
|
|-
!JR-G12
|[[白市駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|263.9
|style="text-align:right;"|853.4
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|whg|size=17}} 山陽本線(広島方面:JR-G12)
|-
!colspan="5" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="2" style="text-align:center"| {{rint|ja|whg|size=17}} [[山陽本線 (広島地区)|山陽本線(広島方面)]]
|}
{{Reflist|group="*"}}
* 以下の駅以外は[[無人駅]]
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](2駅)
** 糸崎駅・三原駅
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
** [[JR西日本中国交通サービス]](2駅)
*** 本郷駅・白市駅
==== 白市駅 - 岩国駅間 ====
ここでは駅名と主要駅のキロ程のみを記す。接続路線・快速停車駅などの詳細については[[山陽本線 (広島地区)#駅一覧]]を参照。
( ) 内は起点からの営業キロ
; 本線
: [[白市駅]] (263.9 km) - [[西高屋駅]] - [[西条駅 (広島県)|西条駅]] (272.9 km) - [[寺家駅]] - [[八本松駅]] - [[瀬野駅]] - [[中野東駅]] - [[安芸中野駅]] - [[海田市駅]] - [[向洋駅]] - [[天神川駅]] - (貨)[[広島貨物ターミナル駅]] - [[広島駅]] (304.7 km) - [[新白島駅]] - [[横川駅 (広島県)|横川駅]] - [[西広島駅]] (310.2 km) - [[新井口駅]] - [[五日市駅]] (316.8 km) - [[廿日市駅]] (320.2 km) - [[宮内串戸駅]] - [[阿品駅]] - [[宮島口駅]] (326.5 km) - [[前空駅]] - [[大野浦駅]] - [[玖波駅]] - [[大竹駅]]◆ (340.8 km) - [[和木駅]] - [[岩国駅]]◆ (346.1 km)
==== 岩国駅 - 下関駅間 ====
* 定期普通列車はこの区間のすべての旅客駅に停車。
* この区間は全駅[[山口県]]に所在。
* この区間については、2020年9月時点で駅ナンバーや駅番号は岩国駅([[山陽本線 (広島地区)#駅一覧]]参照)、下関駅(次節参照)を除いて導入されていない。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名・操車場名
!rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="2"|累計<br>営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地
|-
! style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|神戸<br>から
! style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|東京<br>から
|-
!colspan="4" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="2" style="text-align:center"| {{rint|ja|whr|size=17}} [[山陽本線 (広島地区)|山陽本線(広島方面)]]
|-
|[[岩国駅]]◆
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|346.1
|style="text-align:right;"|935.6
|西日本旅客鉄道:{{rint|ja|whr|size=17}} 山陽本線(広島方面:JR-R16)・{{color|#008f65|■}}[[岩徳線]]<br>[[錦川鉄道]]:[[錦川鉄道錦川清流線|錦川清流線]]<ref group="*">錦川鉄道錦川清流線の起点は岩徳線川西駅だが、運転系統上は岩国駅へ乗り入れる</ref>
|rowspan="6"|[[岩国市]]
|-
|[[南岩国駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|350.7
|style="text-align:right;"|940.2
|
|-
|[[藤生駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|353.4
|style="text-align:right;"|942.9
|
|-
|[[通津駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|358.6
|style="text-align:right;"|948.1
|
|-
|[[由宇駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|361.6
|style="text-align:right;"|951.1
|
|-
|[[神代駅 (山口県)|神代駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|366.8
|style="text-align:right;"|956.3
|
|-
|[[大畠駅]]
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|371.9
|style="text-align:right;"|961.4
|
|rowspan="3"|[[柳井市]]
|-
|[[柳井港駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|376.4
|style="text-align:right;"|965.9
|
|-
|[[柳井駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|379.2
|style="text-align:right;"|968.7
|
|-
|[[田布施駅]]
|style="text-align:right;"|6.2
|style="text-align:right;"|385.4
|style="text-align:right;"|974.9
|
|[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]<br>[[田布施町]]
|-
|[[岩田駅]]
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|390.9
|style="text-align:right;"|980.4
|
|rowspan="3"|[[光市]]
|-
|[[島田駅 (山口県)|島田駅]]
|style="text-align:right;"|5.0
|style="text-align:right;"|395.9
|style="text-align:right;"|985.4
|
|-
|[[光駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|400.7
|style="text-align:right;"|990.2
|
|-
|[[下松駅 (山口県)|下松駅]]◇
|style="text-align:right;"|6.2
|style="text-align:right;"|406.9
|style="text-align:right;"|996.4
|
|[[下松市]]
|-
|[[櫛ケ浜駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|411.5
|style="text-align:right;"|1001.0
|西日本旅客鉄道:{{color|#008f65|■}}岩徳線<ref group="*">岩徳線の正式な終点は山陽本線櫛ケ浜駅だが、運転系統上は徳山駅に乗り入れる</ref>
|rowspan="5"|[[周南市]]
|-
|[[徳山駅]]
|style="text-align:right;"|3.4
|style="text-align:right;"|414.9
|style="text-align:right;"|1004.4
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線
|-
|[[新南陽駅]]◆
|style="text-align:right;"|4.1
|style="text-align:right;"|419.0
|style="text-align:right;"|1008.5
|
|-
|[[福川駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|421.9
|style="text-align:right;"|1011.4
|
|-
|[[戸田駅 (山口県)|戸田駅]]
|style="text-align:right;"|3.8
|style="text-align:right;"|425.7
|style="text-align:right;"|1015.2
|
|-
|[[富海駅]]
|style="text-align:right;"|8.5
|style="text-align:right;"|434.2
|style="text-align:right;"|1023.7
|
|rowspan="3"|[[防府市]]
|-
|[[防府駅]]
|style="text-align:right;"|7.2
|style="text-align:right;"|441.4
|style="text-align:right;"|1030.9
|
|-
|[[大道駅]]
|style="text-align:right;"|7.8
|style="text-align:right;"|449.2
|style="text-align:right;"|1038.7
|
|-
|[[四辻駅]]
|style="text-align:right;"|4.8
|style="text-align:right;"|454.0
|style="text-align:right;"|1043.5
|
|rowspan="4"|[[山口市]]
|-
|[[新山口駅]]
|style="text-align:right;"|5.2
|style="text-align:right;"|459.2
|style="text-align:right;"|1048.7
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{color|#e86c4c|■}}[[山口線]]・{{color|#a52f5d|■}}[[宇部線]]
|-
|[[嘉川駅]]
|style="text-align:right;"|4.0
|style="text-align:right;"|463.2
|style="text-align:right;"|1052.7
|
|-
|[[本由良駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|467.7
|style="text-align:right;"|1057.2
|
|-
|[[厚東駅]]
|style="text-align:right;"|10.3
|style="text-align:right;"|478.0
|style="text-align:right;"|1067.5
|
|rowspan="2"|[[宇部市]]
|-
|[[宇部駅]]◆
|style="text-align:right;"|6.5
|style="text-align:right;"|484.5
|style="text-align:right;"|1074.0
|西日本旅客鉄道:{{color|#a52f5d|■}}宇部線
|-
|[[小野田駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|488.0
|style="text-align:right;"|1077.5
|西日本旅客鉄道:{{color|#776493|■}}[[小野田線]]
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[山陽小野田市]]
|-
|[[厚狭駅]]◇
|style="text-align:right;"|6.3
|style="text-align:right;"|494.3
|style="text-align:right;"|1083.8
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線・{{color|#dc208f|■}}[[美祢線]]
|-
|[[埴生駅]]
|style="text-align:right;"|8.3
|style="text-align:right;"|502.6
|style="text-align:right;"|1092.1
|
|-
|[[小月駅]]
|style="text-align:right;"|6.2
|style="text-align:right;"|508.8
|style="text-align:right;"|1098.3
|
|rowspan="6"|[[下関市]]
|-
|[[長府駅]]
|style="text-align:right;"|6.2
|style="text-align:right;"|515.0
|style="text-align:right;"|1104.5
|
|-
|[[新下関駅]]◇
|style="text-align:right;"|5.9
|style="text-align:right;"|520.9
|style="text-align:right;"|1110.4
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] 山陽新幹線
|-
|[[幡生駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|524.6
|style="text-align:right;"|1114.1
|西日本旅客鉄道:{{color|#6d8320|■}}[[山陰本線]]<ref group="*">山陰本線の正式な終点は幡生駅だが、運転系統上は下関駅へ乗り入れる</ref>
|-
|[[幡生駅#幡生操車場|幡生操車場]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|525.4
|style="text-align:right;"|1114.9
|
|-
|[[下関駅]]◆
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|528.1
|style="text-align:right;"|1117.6
|[[九州旅客鉄道]]:{{JR九駅番号|JA}} 山陽本線(門司方面:JA53)
|}
{{Reflist|group="*"}}
* 以下の駅以外は[[無人駅]]
* [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](8駅)
** 岩国駅・徳山駅・防府駅・新山口駅・宇部駅・厚狭駅・新下関駅・下関駅
* [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]
** [[JR西日本中国交通サービス]](8駅)
*** 南岩国駅・柳井駅・光駅・下松駅・小野田駅・小月駅・長府駅・幡生駅
* [[日本の鉄道駅#簡易委託駅|簡易委託駅]](1駅)
** 大道駅
=== 九州旅客鉄道 ===
便宜上、ほぼ全ての列車が直通する[[鹿児島本線]][[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]までをあわせて記載する。
* {{JR特定都区市内|九}}:特定都区市内制度における「北九州市内」エリアの駅
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:1em;border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|{{縦書き|電化方式|height=4em}}
!rowspan="2" style="width:1em;border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|{{縦書き|路線名|height=4em}}
!rowspan="2" style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|駅番号
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|駅名
!rowspan="2" style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|駅間<br>営業キロ
!colspan="3"|累計<br>営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|接続路線
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|所在地
|-
! style="border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|下関<br>から
! style="border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|神戸<br>から
! style="border-bottom:solid 3px #ee3d49;"|東京<br>から
|-
|rowspan="2" style="background:#9cf; font-weight:bold; text-align:center; "|{{縦書き|直流}}
|rowspan="3" style="text-align:center;"|{{縦書き|'''山陽本線'''|height=5em}}
!JA53
|[[下関駅]]◆
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:right;"|528.1
|style="text-align:right;"|1117.6
|西日本旅客鉄道:{{color|#0072ba|■}}山陽本線(徳山方面)・{{color|#6d8320|■}}山陰本線<ref group="*">山陰本線の正式な終点は幡生駅だが、運転系統上は下関駅へ乗り入れる</ref>
|colspan="2"|[[山口県]]<br>[[下関市]]
|-
|colspan="9" style="text-align:center;"|(この間で[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]を通り[[関門海峡]]を横断する)
|-style="height:1em"
|rowspan="5" style="background:#fbc; font-weight:bold; text-align:center; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|交流|height=5em}}
!rowspan="2"|JA52
|rowspan="2"|[[門司駅]] {{JR特定都区市内|九}}
|rowspan="2" style="text-align:right;"|6.3
|rowspan="2" style="text-align:right;"|6.3
|rowspan="2" style="text-align:right;"|534.4
|rowspan="2" style="text-align:right;"|1123.9
|rowspan="2"|九州旅客鉄道:{{JR九駅番号|JA}} [[鹿児島本線]]([[門司港駅|門司港]]方面:JA29)
|rowspan="5" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[福岡県]] [[北九州市]]|height=10em}}
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[門司区]]
|-
|rowspan="4" style="text-align:center;"|{{縦書き|鹿児島本線|height=6em}}
|-
!
|style="width:8em;"|(貨)[[北九州貨物ターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|7.7
|style="text-align:right;"|535.8
|style="text-align:right;"|1125.3
|
|style="white-space:nowrap;" rowspan="3"|[[小倉北区]]
|-
!
|(貨)[[東小倉駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|10.2
|style="text-align:right;"|538.3
|style="text-align:right;"|1127.8
|
|-
!JA51
|[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] {{JR特定都区市内|九}}
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|11.8
|style="text-align:right;"|539.9
|style="text-align:right;"|1129.4
|九州旅客鉄道:{{JR九駅番号|JA}} 鹿児島本線(博多方面:JA28)・{{JR九駅番号|JF}} [[日豊本線]](JF01)・{{JR九駅番号|JI}} [[日田彦山線]](JI01)<ref group="*" name="hita">日田彦山線の正式な起点は日豊本線[[城野駅 (JR九州)|城野駅]]だが、運転系統上は全列車が小倉駅まで乗り入れる</ref><br>西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] [[山陽新幹線]]<br>[[北九州高速鉄道]](北九州モノレール):[[北九州高速鉄道小倉線|小倉線]](01)
|-
!colspan="4" style="text-align:center"|直通運転区間
|colspan="7" style="text-align:center"| 門司駅より:{{JR九駅番号|JA}} 鹿児島本線小倉駅経由[[博多駅|博多]]方面、{{JR九駅番号|JF}} 日豊本線[[行橋駅|行橋]]方面
|}
{{Reflist|group="*"}}
=== 廃止区間 ===
( )内は起点からの営業キロ。
; 貨物支線:[[兵庫臨港線]](1984年廃止)
: [[兵庫駅]] (0.0 km) - [[新川駅 (兵庫県)|新川駅]] (1.5 km) - [[神戸市場駅]] (2.7 km)
: 新川駅 (0.0 km) - [[兵庫港駅]] (1.9 km)
; 貨物支線(1979年廃止)
: 姫路駅 (0.0 km) - [[姫路市場駅]] (1.5 km)
; 貨物支線(1942年廃止)
: 下関駅 (0.0 km) - 下関港駅 (1.3 km)
=== 廃駅・廃止信号場 ===
( )内は神戸駅起点の営業キロ。廃止区間や和田岬線のものを除く。
{{Col|
* 明石操車場:明石駅 - 西明石駅間 (22.4 km)
* 小久保信号場:西明石駅付近(約22.9 km)
* 魚住信号場:魚住駅付近 (29.0 km)
* 平岡信号場:東加古川駅 - 加古川駅間 (35.9 km)
* 林田川仮信号場:網干駅 - 竜野駅間 (約67.2 km)
* 西原信号場:相生駅 - 有年駅間 (78.9 km)
* 千種川仮信号場:有年駅 - 上郡駅間 (約88.2 km)
* 栗原信号場:上郡駅 - 三石駅間 (約94.0 km)
* 梨ヶ原信号場:上郡駅 - 三石駅間 (97.9 km)
* 谷村信号場:三石駅 - 吉永駅間 (約105.5 km)
* 金剛川仮信号場:吉永駅 - 和気駅間 (約112.5 km)
* 砂川仮信号場:瀬戸駅 - 上道駅間 (約129.6 km)
* 百間川仮信号場:高島駅 - 西川原駅間 (140.0 km)
* 中井信号場:現在の西川原駅付近 (140.6 km)
* 岡山操車場:岡山駅 - 西岡山駅間 (145.9 km)
* 高梁仮信号所:倉敷駅 - 西阿知駅間 (約162.5 km)
* 金浦仮信号場:笠岡駅 - 大門駅間 (188.7 km)
* 金浦信号場:笠岡駅 - 大門駅間 (約190.6 km)
* 山波信号場:東尾道駅 - 尾道駅間 (216.9 km)
* 木原信号場:尾道駅 - 三原駅間 (226.2 km)
* 荻路信号場:三原駅 - 本郷駅間 (238.3 km)<!-- 日本鉄道旅行地図では、旧線上にはない -->
* 郷原信号場:本郷駅 - 河内駅間 (250.0 km)
* 入野信号場:河内駅 - 入野駅間 (259.3 km)
* [[上瀬野信号所|上瀬野信号場]]:八本松駅 - 瀬野駅間 (284.2 km)
* 阿品信号場:阿品駅付近 (324.7 km)
|
* 賀撫津信号場:宮島口駅 - 大野浦駅間 (328.2 km)
* 八坂信号場:大野浦駅 - 玖波駅間 (334.4 km)
* 小方信号場:玖波駅 - 大竹駅間 (338.6 km)
* 新港信号場:大竹駅 - 岩国駅間 (343.3 km)
* 川下信号場:岩国駅 - 南岩国駅間 (348.0 km) …[[在日米軍]][[岩国飛行場|岩国基地]][[専用鉄道|専用線]]の分岐点。
* 尾津信号場:岩国駅 - 南岩国駅間 (349.4 km)
* 東原仮信号場:神代駅 - 大畠駅間 (368.7 km)
* 西原仮信号場:神代駅 - 大畠駅間 (369.1 km)
* 相地信号場:神代駅 - 大畠駅間 (369.2 km)
* 神代駅(初代):現在の神代駅 - 大畠駅間 (約370.4 km)
* 立野信号場:岩田駅 - 島田駅間 (394.0 km)
* 田ノ浴信号場:戸田駅 - 富海駅間 (432.9 km)
* [[防府貨物駅]]:富海駅 - 防府駅間(437.2 km)…末期は[[オフレールステーション]]のみの営業であったため、貨物駅から施設扱いに移行。
* 牟礼仮信号場:富海駅 - 防府駅間 (437.6 km)
* 佐波川信号場:防府駅 - 大道駅間 (445.7 km)
* 上清水信号場:本由良駅 - 厚東駅間 (472.7 km)
* 善和信号場:本由良駅 - 厚東駅間 (475.8 km)
* 炭山信号場:厚狭駅 - 埴生駅間 (498.9 km)
* 福田信号場:厚狭駅 - 埴生駅間 (499.5 km)
* 松屋信号場:埴生駅 - 小月駅間 (505.8 km)
* 滑石信号場:長府駅 - 新下関駅間 (517.0 km)
* 桜山信号場:幡生駅 - 下関駅間
|}}
=== 過去の接続路線 ===
{{Main2|神戸駅 - 姫路駅間|JR神戸線#過去の接続路線}}
* 網干駅:[[北沢産業網干鉄道]]
* 網干駅:[[播電鉄道]]
* 有年駅:[[赤穂鉄道]]
* 和気駅:[[同和鉱業片上鉄道]]
* 東岡山駅:[[西大寺鉄道]]
* 笠岡駅:[[井笠鉄道]]本線
* 福山駅:[[鞆鉄道線]]
* 尾道駅:[[尾道鉄道]]
* 広島駅:[[宇品線]]
* 岩国駅:[[岩国電気軌道]]
* 防府駅:[[防石鉄道]]
* 新山口駅:[[大日本軌道]][[大日本軌道山口支社|山口支社]]線
* 宇部駅:[[船木鉄道]]
* 小月駅:[[長門鉄道]]
* 幡生駅:[[山陽電気軌道]]
* 下関駅:山陽電気軌道
== 新駅設置計画 ==
姫路駅 - 英賀保駅間にある[[手柄山中央公園]](姫路市西延末)近くに新駅を設置する計画がある<ref name="yomiuri20161210">{{Cite news |title=姫路にJR新駅設置へ、山陽線・姫路 - 英賀保駅間 |url=http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20161210-OYO1T50032.html |newspaper=読売新聞 |date=2016-12-10 |accessdate=2016-12-11 |archiveurl=https://archive.is/20161213225708/http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20161210-OYO1T50032.html |archivedate=2016年12月13日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。2026年春に開業する予定<ref name="pr20210114" />。2021年1月14日にはJR西日本が近畿運輸局に駅設置の認可申請をした<ref name="pr20210114">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210114_00_shineki.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210114064200/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210114_00_shineki.pdf|format=PDF|language=日本語|title=山陽本線 姫路・英賀保間新駅設置について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2021-01-14|accessdate=2021-01-14|archivedate=2021-01-14}}</ref>。手柄山中央公園には1974年まで[[姫路市交通局モノレール線|姫路モノレール]]が運行されており、同モノレール以来の鉄道によるアクセス手段となる<ref>[https://news.railway-pressnet.com/archives/20678 姫路モノレール「代替新駅」認可 山陽本線・姫路~英賀保間、5年後の開業目指す] - 鉄道プレスネット、2021年1月14日<!-- →代替というには時期が離れすぎ。このサイトはおかしい。--></ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2018年8月|section=1}}
* [[川島令三]]編著『山陽・山陰ライン - 全線・全駅・全配線』1 神戸・姫路エリア、[[講談社]]、2011年。{{ISBN2|978-4-06-295151-7}}。
* 川島令三編著『山陽・山陰ライン - 全線・全駅・全配線』3 京都北部・兵庫エリア、講談社、2012年。{{ISBN2|978-4-06-295153-1}}。
* 川島令三編著『山陽・山陰ライン - 全線・全駅・全配線』5 鳥取・出雲・尾道エリア、講談社、2012年。{{ISBN2|978-4-06-295155-5}}。
* 川島令三編著『山陽・山陰ライン - 全線・全駅・全配線』7 広島エリア、講談社、2012年。{{ISBN2|978-4-06-295157-9}}。
* 川島令三編著『山陽・山陰ライン - 全線・全駅・全配線』8 山口エリア、講談社、2012年。{{ISBN2|978-4-06-295158-6}}。
* [[宮脇俊三]]編著『鉄道廃線跡を歩く II - 実地踏査消えた鉄道60』[[JTB]]、1996年。{{ISBN2|4-533-02533-1}}。
* 宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩く III - 今も残る消えた鉄路の痕跡60』JTB、1997年。{{ISBN2|4-533-02743-1}}。
* 宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩く V - 消えた鉄道実地踏査60』JTB、1998年。{{ISBN2|4-533-03002-5}}。
* [http://www.westjr.co.jp/company/issue/data/ 『データで見るJR西日本』] - 西日本旅客鉄道
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Sanyō Main Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[東海道本線]]
* [[山陽新幹線]]
* [[国道2号]]
* [[山陽自動車道]]
* [[関門自動車道]]
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/kobesanyo.html JR神戸線・山陽線:JR西日本 列車走行位置]
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/sanyo1.html 山陽線(上郡~三原):JR西日本 列車走行位置]
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/sanyo2.html 山陽線(糸崎~南岩国):JR西日本 列車走行位置]
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/sanyo3.html 山陽線(岩国~下関):JR西日本 列車走行位置]
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[[Category:山陽本線|*]]
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[[Category:中国地方の鉄道路線]]
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[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
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[[Category:兵庫県の交通]]
[[Category:岡山県の交通]]
[[Category:広島県の交通]]
[[Category:山口県の交通]]
[[Category:福岡県の交通]]
[[Category:山陽地方]] | 2003-04-11T07:41:50Z | 2023-12-25T17:20:52Z | false | false | false | [
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"Template:参照方法"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%99%BD%E6%9C%AC%E7%B7%9A |
6,507 | 京都鉄道 | 京都鉄道()は、1893年(明治26年)に設立された民営鉄道。現在の山陰本線のうち、嵯峨野線の区間に相当する路線を建設、運営した。社長は田中源太郎。
明治時代、日本海側の主要都市である舞鶴市までの鉄道敷設が課題となっていた。そこで田中源太郎、浜岡光哲らが発起人となり京都から舞鶴までの鉄路敷設を目的に会社が設立され、1895年(明治28年)に京都駅から綾部を経て、舞鶴に至る鉄道免許を受けた。
なお、舞鶴への鉄道敷設計画は京都鉄道のほか、阪鶴鉄道(大阪 - 福知山 - 舞鶴)、摂丹鉄道(大阪 - 園部 - 舞鶴)と競合しており、舞鶴への鉄道免許は熱心な設置運動の賜物であった。
断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所を越える保津峡の難工事も苦心の末、1900年(明治33年)に京都 - 園部間が開業するが、園部以北へは資金難のため工事が遅々として進まず、政府は舞鶴鎮守府開庁に続き、京都から舞鶴へ通じる鉄道の建設は国策遂行上必須とし、1902年4月、未成部分の鉄道免許を取り消し、政府自らの手で京都から舞鶴へ通じる鉄道の建設を開始した。
京都鉄道は1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により1907年(明治40年)に阪鶴鉄道とともに国に買収され、1910年(明治43年)に園部 - 綾部間の鉄道が開通した。
1904年に本社屋を兼ねて造られた二条駅の駅舎は日本最古の木造駅舎で、1996年の同駅の高架化に伴い梅小路蒸気機関車館に移築。資料展示館として利用された。2016年の京都鉄道博物館開業後は、ミュージアムショップとなっている。
国有化直前の1907年7月31日現在の路線及び駅名を記する。
すべて木製2軸車
『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)
京都府南桑田郡亀岡町~大阪府豊能郡東郷村、東郷村野間中~妙見山を結ぶ計画だった「亀能鉄道」(大正11年10月27日免許下付)と 京都府葛野郡桂村~南桑田郡亀岡町を結ぶ計画だった「京畿鉄道」(昭和2年12月26日延長免許下付)が、合併して「京都鉄道」を名乗っていた。 昭和10年11月14日鉄道起業廃止許可。 | [
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"text": "京都府南桑田郡亀岡町~大阪府豊能郡東郷村、東郷村野間中~妙見山を結ぶ計画だった「亀能鉄道」(大正11年10月27日免許下付)と 京都府葛野郡桂村~南桑田郡亀岡町を結ぶ計画だった「京畿鉄道」(昭和2年12月26日延長免許下付)が、合併して「京都鉄道」を名乗っていた。 昭和10年11月14日鉄道起業廃止許可。",
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] | 京都鉄道は、1893年(明治26年)に設立された民営鉄道。現在の山陰本線のうち、嵯峨野線の区間に相当する路線を建設、運営した。社長は田中源太郎。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 京都鉄道
|ロゴ = [[File:KyotoRyLogo.svg|150px]]
|画像 = [[File:NIJO station (founder building) kyoto,JAPAN.jpg|250px]]
|画像説明 = 京都鉄道の本社を兼ねていた<br />二条駅初代駅舎(1988年撮影)。<br />鬼瓦に同鉄道の社章が残る。
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[京都府]][[葛野郡]]朱雀野村<ref name="NDLDC780119-215"/>
|設立 = [[1895年]](明治28年)12月<ref name="NDLDC780119-215"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 社長 [[田中源太郎]]<ref name="NDLDC780119-215"/>
|資本金 = 4,500,000円<ref name="NDLDC780119-215"/>
|特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119-215">[{{NDLDC|780119/215}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{{読み仮名|'''京都鉄道'''|きょうとてつどう}}は、1893年([[明治]]26年)に設立された[[民営鉄道]]。現在の[[山陰本線]]のうち、[[嵯峨野線]]の区間に相当する路線を建設、運営した。社長は[[田中源太郎]]。
== 歴史 ==
明治時代、[[日本海]]側の主要都市である[[舞鶴市]]までの鉄道敷設が課題となっていた。そこで[[田中源太郎]]、浜岡光哲らが発起人となり京都から[[舞鶴市|舞鶴]]までの鉄路敷設を目的に会社が設立され、[[1895年]](明治28年)に京都駅から[[綾部市|綾部]]を経て、舞鶴に至る鉄道免許を受けた。
なお、舞鶴への鉄道敷設計画は京都鉄道のほか、[[阪鶴鉄道]](大阪 - 福知山 - 舞鶴)、[[摂丹鉄道]](大阪 - 園部 - 舞鶴)と競合しており、舞鶴への鉄道免許は熱心な設置運動の賜物であった。
断崖絶壁に線路を通し、トンネル8箇所、橋梁は50箇所を越える[[保津峡]]の難工事も苦心の末、[[1900年]](明治33年)に京都 - [[園部駅|園部]]間が開業するが、園部以北へは資金難のため工事が遅々として進まず、政府は[[舞鶴鎮守府]]開庁に続き、京都から舞鶴へ通じる鉄道の建設は国策遂行上必須とし、[[1902年]]4月、未成部分の鉄道免許を取り消し<ref>[{{NDLDC|2948941/9}} 『官報』第5638号、明治35年4月24日。]</ref>、政府自らの手で京都から舞鶴へ通じる鉄道の建設を開始した。
京都鉄道は[[1906年]](明治39年)公布の[[鉄道国有法]]により[[1907年]](明治40年)に[[阪鶴鉄道]]とともに国に買収され、[[1910年]](明治43年)に園部 - 綾部間の鉄道が開通した。
[[1904年]]に本社屋を兼ねて造られた[[二条駅]]の駅舎は日本最古の木造駅舎で、[[1996年]]の同駅の高架化に伴い[[梅小路蒸気機関車館]]に移築。資料展示館として利用された。[[2016年]]の[[京都鉄道博物館]]開業後は、ミュージアムショップとなっている。
== 沿革 ==
*[[1895年]](明治28年)12月 設立<ref>[{{NDLDC|780111/82}} 『日本全国諸会社役員録. 明治29年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。[[京都市|京都]]から[[舞鶴市|舞鶴]]までの鉄道敷設を目指した。
*[[1897年]](明治30年)
**[[2月15日]] [[二条駅|二条]] - [[嵯峨嵐山駅|嵯峨]]間開業。二条駅、嵯峨駅開設<ref>[{{NDLDC|2947373/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年2月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
**[[4月27日]] 大宮 - 二条間延伸開業。大宮駅、丹波口駅開設。
**[[11月16日]] [[京都駅|京都]] - 大宮間延伸開業。鉄道作業局の京都駅乗り入れ。
*[[1898年]](明治31年)[[1月1日]] 花園駅開設<ref>[{{NDLDC|2947643/4}} 「停車場設置」『官報』1898年1月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1899年]](明治32年)
**[[8月1日]] 大宮駅閉鎖。
**[[8月15日]] 嵯峨 - [[園部駅|園部]]間延伸開業し全通。亀岡駅、八木駅、園部駅開設<ref>[{{NDLDC|2948134/6}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年8月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*1900年(明治33年)3月3日 鉄道敷設免許申請却下(二条-伏見間)<ref>[{{NDLDC|805399/172}} 『鉄道局年報. 明治32年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1905年]](明治38年)[[1月15日]] 大宮駅再開設<ref>[{{NDLDC|2949797/12}} 「営業開始」『官報』1905年1月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*[[1907年]](明治40年)8月1日 国有化。
*[[1909年]](明治43年)[[10月12日]] [[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定「京都線」。
== 路線・駅一覧 ==
[[国有化]]直前の1907年7月31日現在の路線及び駅名を記する。
*京都 - 園部(22.2M=35.73km)
*:[[京都駅]] - 大宮駅 - [[丹波口駅]] - [[二条駅]] - [[花園駅 (京都府)|花園駅]] - [[嵯峨嵐山駅|嵯峨駅]] - [[亀岡駅]] - [[八木駅]] - [[園部駅]]
[[File:Kyoto Railway and Hankaku Railway Linemap 1907.svg|thumb|none|400px|京都鉄道・阪鶴鉄道路線図(1907年7月31日)]]
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;"
|-
!年度
!乗客(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!益金(円)
|-
|1897||675,330||297||50,839||64,807||▲ 13,968
|-
|1898||913,339||29,267||67,144||34,877||32,267
|-
|1899||1,130,411||58,462||106,033||50,846||55,187
|-
|1900||1,463,831||98,747||212,494||77,041||135,453
|-
|1901||1,298,663||101,954||229,580||96,908||132,672
|-
|1902||1,289,762||114,895||241,078||111,389||129,689
|-
|1903||1,205,741||129,386||225,985||105,688||120,297
|-
|1904||945,169||105,222||175,551||87,490||88,061
|-
|1905||932,357||136,189||196,248||91,098||105,150
|-
|1906||1,077,539||160,662||230,650||119,481||111,169
|-
|1907||758,397||127,134||158,780||79,500||79,280
|-
|}
*「国有及私設鉄道運輸延哩程累年表」「国有及私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 車両 ==
=== 蒸気機関車 ===
;形式3 (Nos. 1, 2)
:1894年[[イギリス|英]][[ナスミス・ウィルソン]]社製・[[車軸配置]]0-6-0 (C) [[タンク機関車|タンク機]]
:2は1895年(開業前)に[[台湾総督府鉄道]]に譲渡と推定。1は国有化後[[国鉄1100形蒸気機関車#京都鉄道|1100形]] (1111)
;形式1 (Nos. 2 (II), 6, 7)
:1898年、1903年英ナスミス・ウィルソン社製・車軸配置2-4-2 (1B1) タンク機→鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#500形・600形・700形|600形]] (643 - 645)
;形式2 (No. 3)
:1894年英[[ダブス]]社製・車軸配置2-4-2 (1B1) タンク機→鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#500形・600形・700形|500形]] (509) 官設鉄道から譲受?
;形式4 (Nos. 4, 5)
:1897年[[アメリカ合衆国|米]][[ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス|ピッツバーグ]]社製・車軸配置4-4-0 (2B) [[テンダー機関車|テンダ機]]
:1905年[[山陽鉄道]]に譲渡。国有化後[[国鉄5200形蒸気機関車|5200形]] (5200, 5201)
=== 客車 ===
すべて木製2軸車
*い1-5 5両 東京平岡工場製 定員22人 国有化後イ107-111(形式107) 一等車 [{{NDLDC|2942239/24}} 形式図]
*いろ1-4 4両 京都鉄道会社工場製 定員(一等12人、二等16人) 国有化後イロ299-302(形式274) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/59}} 形式図]
*ろ1-6 6両 東京平岡工場製 定員32人 国有化後ロ622-627(形式503)二等車 [{{NDLDC|2942239/102}} 形式図]
*は1-37 37両 東京平岡工場製(1-27)、京都鉄道会社工場製(28-37) 定員50人 国有化後ハ1927-1963(形式1005)三等車 [{{NDLDC|2942239/189}} 形式図]
*はに1-4 4両 東京平岡工場製 定員50人 国有化後フハ3267-3270(形式3155)三等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942239/268}} 形式図]
*ほに1-4 4両 東京平岡工場製 国有化後ユニ3941-3944(形式3941)郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/401}} 形式図]
*リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』
=== 貨車 ===
* へ1 - 15 京都鉄道製 有蓋貨車 鉄道院ワ15063形(15063 - 15077)
* へ16 - 33 熱田車両製造所、京都鉄道製 有蓋貨車 鉄道院ワ15078形(15078 - 15095)
* へ34 - 47 東京車輌製造所製 有蓋貨車 鉄道院ワ15096形(15096 - 15109)
* へと1・2 京都鉄道製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ4550形(4550・4551)
* へと3 - 4 東京車輌製造所製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ4550形(4552 - 4553)
* ち1・2 京都鉄道製 鉄張有蓋貨車 鉄道院テハワ949形(949・950)
* ぬ1・2 京都鉄道製 [[家畜車]] 鉄道院カ583形(583・584)
* る1 - 5 京都鉄道製 無蓋貨車 鉄道院ト15842形(15842 - 15846)
* を1 - 26 京都鉄道製 無蓋貨車 鉄道院ト15816形(15816 - 15841)
* わ1 - 12 平岡工場製 土運車 鉄道院ツ3115形(3115 - 3126)
* か1・2 京都鉄道製 材木車 鉄道院チ554形(554・555)
『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;"
|-
! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車
|-
|1897||4||50||60
|-
|1898||4||50||70
|-
|1899||5||60||70
|-
|1900||5||60||98
|-
|1901||5||60||100
|-
|1902||5||60||100
|-
|1903||6||60||100
|-
|1904||7||60||100
|-
|1905||5||60||100
|-
|1906||5||60||100
|-
|}
*「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
=== もう1つの「京都鉄道」 ===
京都府南桑田郡[[亀岡町]]~大阪府豊能郡東郷村、東郷村野間中~妙見山を結ぶ計画だった「亀能鉄道」(大正11年10月27日免許下付)と
京都府葛野郡桂村~南桑田郡亀岡町を結ぶ計画だった「京畿鉄道」(昭和2年12月26日延長免許下付)が、合併して「京都鉄道」を名乗っていた。
昭和10年11月14日鉄道起業廃止許可。
*参照:各年の「官報」(国立国会図書館デジタルコレクション)
==脚注==
{{Reflist}}
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{DEFAULTSORT:きようとてつとう}}
[[Category:京都鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:1893年設立の企業]]
[[Category:1907年廃止の企業]]
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チェス盤の縦の列。チェスボード#マスの表記を参照。 ネイルファイル - 爪の手入れ用のやすり。
ファイル (歯科) - 歯科治療用のやすり。 宇宙少年 ファイル星人 - 特撮テレビドラマ『ウルトラマンタロウ』に登場する宇宙人。ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙少年 ファイル星人を参照。 | {{WikipediaPage|ファイル・File|Wikipedia:FAQ 画像などのファイル}}
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* [[ファイル (文具)]] - [[書類]]を整理するための文具。
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; [[やすり]]
* [[ネイルファイル]] - [[爪]]の手入れ用のやすり。
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; 架空の名称
* 宇宙少年 ファイル星人 - 特撮テレビドラマ『[[ウルトラマンタロウ]]』に登場する宇宙人。[[ウルトラマンタロウの登場怪獣#宇宙少年 ファイル星人]]を参照。
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6,510 | GTO | GTO(ジーティーオー) | [
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] | GTO(ジーティーオー) | '''GTO'''(ジーティーオー)
== 自動車 ==
* イタリア語「Gran Turismo Omologato」の略。
**[[自動車競技|自動車レース]]の[[グランツーリスモ|GTカー]]クラスの公認([[ホモロゲーション]])取得車両。
*** [[フェラーリ]]のレース公認取得用生産車両。
****[[フェラーリ・250GTO]]
****[[フェラーリ・288GTO]]
****[[フェラーリ・599GTBフィオラノ#599GTO|フェラーリ・599GTO]]
** 語源はGran Turismo Omologatoだが、レース公認以外の製品
*** [[ポンティアック・GTO]]
*** [[三菱自動車工業|三菱自動車]]がかつて生産していた[[クーペ]]・ボディの乗用車。
**** [[三菱・ギャランGTO]]
**** [[三菱・GTO]]
*その他
** [[IMSA GT選手権|IMSA-GTO]] (IMSA Grand Touring Over 2.5L) - [[アメリカ合衆国]]の国内自動車選手権のカテゴリ名称。
== フィクション ==
* [[バトルアスリーテス大運動会#ゲーム|バトルアスリーテス大運動会 GTO]] - ゲーム。「Grand Trial Onnanoko(グランド・トライアル・おんなのこ)」の略。
* テレビアニメ『[[キディ・ガーランド]]』に登場する組織、Galactic Trade Organization(銀河系貿易監視機関)。または同作の[[製作委員会方式|製作委員会]]。
* [[GTO (漫画)]] - [[藤沢とおる]]の漫画作品。「Great Teacher Onizuka(グレート・ティーチャー・オニヅカ)」の略。アニメもこちらの項で説明。
<!--**[[GTO (パチスロ)]] - 本作を題材にしたパチスロ。[[フィールズ (企業)|フィールズ]]が企画開発し、[[ビスティ]]から発売された。-->
<!--**[[GTO (パチンコ)]] - 本作を題材にしたパチンコ。[[フィールズ (企業)|フィールズ]]が企画開発し、[[ビスティ]]から2010年1月に発売された。-->
** 上記の作品の主人公・[[鬼塚英吉]]の通称。
**[[GTO Live in 北海道]] - 本作を題材にした小説。
**[[GTO (1998年のテレビドラマ)]] - 本作を題材にしたテレビドラマの第1作。映画化もされた。
**[[GTO (2012年のテレビドラマ)]] - 本作を題材にしたテレビドラマ第2作。
== その他 ==
* [[静止トランスファ軌道]] (Geostationary Transfer Orbit) - 衛星の軌道の一種。
* [[ゲートターンオフサイリスタ]] (Gate Turn-Off thyristor) - 半導体素子の一種。'''GTOサイリスタ'''ともいう。
* 株式会社ジィティオ(GTO) - [[アシックス|株式会社アシックス]]の前身企業のひとつ。
* [[グローバルトラベルオンライン]] - [[住友商事]]の子会社が開設している[[海外旅行]]専門[[ウェブサイト|サイト]]。
<!--* [[G.T.O.]] - [[:en:Sinitta|Sinitta]]([[シニータ]])が歌う[[ストック・エイトキン・ウォーターマン]]がプロデュースした楽曲タイトル。-->
== 関連項目 ==
* [[グランツーリスモ (曖昧さ回避)]]
*{{Prefix}}
*{{intitle}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/GTO |
6,511 | ジャッキー・チェン | ジャッキー・チェン(繁: 成龍; チャン・ロン 日本語読み:せいりゅう IPA: [ʈʂhə̌ŋ.lʊ̌ŋ] 粤拼: Sing4 Lung4、英: Jackie Chan、1954年4月7日 - )は、中華人民共和国の俳優、監督、プロデューサー、武術家、歌手。出生名は 陳 港生(チャン・コンサン、ちん こんせい、繁: 陳港生; IPA: [ʈʂhə̌n kàŋ.ʂə́ŋ])、本名は 房 仕龍(ファン・シーロン、ぼう しりゅう、繁: 房仕龍; IPA: [fǎŋ ʂɻ̩̂.lʊ̌ŋ])。身長 173cm。
恵まれた身体能力を活かして、暗い復讐劇が多かったカンフーアクション映画の世界に、ハロルド・ロイドやバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主役として出演。69歳を迎えた2023年現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。
存命俳優としてはギネス世界記録となるスタント回数を記録している。
妻は台湾の元女優ジョアン・リン。息子は俳優のジェイシー・チャン。
ジャッキー・チェンは、1954年にイギリス領香港のヴィクトリア・ピークにて陳港生(チャン・コンサン)として生まれた。祖籍は安徽省で、父親は陳志平(チャールズ・チャン、本名: 房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)。
ジャッキーの父親は中国国民党のスパイであり、国共内戦の結果香港に逃れ、改名、在香港米領事館にて料理人として働いていた。ジャッキーは2001年にこの事実を父親から知らされ、本名は房仕龍であること、兄弟がいることなどを知った。この話をジャッキーは撮影し、ドキュメンタリー映画『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』(2003年)として世間に公表した。2003年には息子が陳祖明から房祖名に改名、2013年には自身も房仕龍に改名している。
7歳から約10年間、中国戯劇学院(中国語: 中国戏剧学院)で京劇や中国武術を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務めた。映画デビュー作は『大小黄天覇』(1962年)。
無名時代、ブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでリーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『燃えよドラゴン』(1973年)ではリーに首を折られるエキストラ役としても出演した。その後オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いた。
「陳元龍」名義で大地製作の『ファイティング・マスター』(1972年)で俳優デビューする。『ドラゴン・ファイター』 (1973年)に悪役として出演するが、2作品ともヒットはしなかった。
1976年にロー・ウェイプロダクションの支配人ウィリーチャンの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイプロと専属契約し、芸名を陳元龍から成龍と改名し、『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(1976年)で再デビューを果たした。しかし、300本あまりの映画のうち興行成績は振るわなかった。
ジャッキーは、「クレイジーモンキー/笑拳」で監督、及び主演を果たし、初のヒットデビューをした。
続く『少林寺木人拳』(1976年)、『成龍拳』(1977年)、『飛龍神拳』(1977年)などのクンフー作品に主演するが、同じく興行成績は振るわず、不発に終わってしまう。
復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられることが多かったが成功には至らず、そうした反省も踏まえ、ジャッキーは製作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。
ロー・ウェイプロと専属契約中、シーゾナル・フィルムへレンタルし、1977年、ユエン・ウーピン監督の『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)に出演した。ジャッキーが独自のコメディ路線を打ち出したこの映画は高い興行成績を突破した。続く『ドランクモンキー 酔拳』(1978年)で、ジャッキーはスーパースターとしての地位を不動のものにした。次作の『クレージーモンキー 笑拳』(1979年)では監督業にも進出。1979年にはロー・ウェイプロを離れ、新たにゴールデン・ハーベスト社に移籍。ゴールデン・ハーベストで最初に製作した映画は、自ら監督と主演作を務めた『ヤングマスター 師弟出馬』(1980年)である。
1980年代に入ると、『プロジェクトA』(1984年)や『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985年)に代表される自ら命懸けのスタントをこなす監督・主演作品が大ヒット。香港映画界を代表するアジアのトップスターとなった。一時期、批評家からの声に刺激され『奇蹟/ミラクル』(1989年)のような文芸路線を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。
そんな華々しい活躍の中で『サンダーアーム/龍兄虎弟』(1986年)の撮影中に大けがを負ってしまい、その後遺症で右耳がほとんど聞こえなくなっている。
『プロジェクト・イーグル』(1991年)を最後に一時監督業からは退き俳優業に専念する一方、製作者として『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1992年)などの文芸作品も世に送り出した。
元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』(1980年)ではホセ・フェラーらと共演したが、興行成績が振るわず、散々な結果に終わった。また、ハリウッドの有名俳優が総出演した『キャノンボール』(1981年)では彼と同じく香港俳優のマイケル・ホイと共に日本人ドライバーとして出演。映画自体はアメリカでヒットしたものの、地元香港では振るわず、ジャッキーの存在がハリウッドに広まることはなかった。
2度目にハリウッドに挑戦したのは、ちょうど香港映画がアメリカでヒットするようになった頃だった。ゴールデン・ハーベストは『プロテクター』(1985年)でジャッキーにタフガイを演じさせたが、彼のキャラクターがうまく生かされず、評価は高まらなかった。しかし、1995年公開の香港作品『レッド・ブロンクス』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。
そして1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築き、続編『ラッシュアワー2』(2001年)は全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後、立て続けにアメリカ映画作品に出演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった。
ただし地元香港では、これらのジャッキー主演ハリウッド映画はいずれも不入りで、『タキシード』(2002年)、『シャンハイ・ナイト』(2003年)、『メダリオン』(2003年)などはジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった。
2004年に香港のエンペラー・エンターテインメント・グループと提携して、自らの映画制作会社、JCEムービーズを設立し、その第1回作品として『香港国際警察/NEW POLICE STORY』を製作・主演。以後、香港・中国映画とアメリカ映画に並行して出演するようになる。2007年には長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなり、2008年にはジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。
2009年、アクションを封印したシリアスなバイオレンス映画『新宿インシデント』に主演。主人公の師匠役を演じた2010年の『ベスト・キッド』は2000年代に入ってからの出演作では最大のヒット作となった。2011年、出演作100本目記念作品とされる歴史映画『1911』が公開。2012年の『ライジング・ドラゴン』で「体を張った本格アクションからは今作限りで引退」と宣言した。
2014年4月、上海市普陀区に世界で初めてとなるジャッキー・チェンの博物館、成龍電影芸術館が開館した。芸術館をはじめ3棟の建物がメインとなり、映画資料や小道具、衣装などが展示されている。
2015年に公開された主演・製作映画『ドラゴン・ブレイド』が大ヒットを記録し、2010年代最大の成功作となった。これにより、アメリカのフォーブス誌の高額俳優ランキング(2014年6月1日〜2015年6月1日)で5000万ドルを記録し、ロバート・ダウニーJr.に次ぐ世界2位となった。
2016年、アカデミー名誉賞を受賞した。また、ファンへの感謝も忘れず、「僕が窓から飛び降りたり、キックしてパンチして、骨折しながら映画を作り続けているのはすべて世界のファンのためだよ。ありがとう!」と述べ、会場でスタンディングオベーションが起きた。
地元香港では漢字名「成龍(セン・ロン)」、欧米では英語名"Jackie Chan"、日本では英語名のカタカナ表記による日本語名「ジャッキー・チェン」を俳優名としている。日本では当初「ジャッキー・チャン」として活動する予定であったが、日本のみ諸事情(親しみを込めて相手を呼ぶ際の「〜ちゃん」と被るため)により「ジャッキー・チェン」で活動することとなった。だが息子は「ジェイシー・チャン」になっている。
ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手、スタントマンなどの仲間で構成された『成家班、英語名:Jackie Chan Stunt Team(ジャッキー・チェン・スタント・チーム)』によって支えられている。成家班はジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション(殺陣)を作り上げている。
ヘリコプターを使ったアクションとして『ポリス・ストーリー3』(1992年)と『ファイナル・プロジェクト』(1996年)が有名だが、『ポリス・ストーリー3』の時は機体がジャッキーの体にぶつかり大怪我、『ファイナル・プロジェクト』ではプロペラがジャッキーの帽子に接触(頭上2cm)し、間一髪大怪我を免れている。その後ジャッキーはヘリコプターを使ったアクションはやらなくなった。
「自身の作品で一番好きなのは?」の問いに対し、「アクションなら『ポリス・ストーリー/香港国際警察』、監督なら『奇蹟/ミラクル』」と答えている。また「思い出に残る作品は?」の問いに対し、笑いながら「沢山ありますよ」と前置きした後、悩みながら、第3位は『酔拳2』、第2位は『レッド・ブロンクス』、第1位は『プロジェクトA』と答えている。
自身のスタントマンは『プロジェクトA』から使用しており、時計台の落下はマース(火星)(英語版)も担当している。 アクションではチン・ガーロウ(錢家樂)(英語版)、カースタントではブラッキー・コウ(柯受良)、曾凡仁、李樹華。他にはブルース・ロウ(羅禮賢)、見た目もそっくりなリー・ハイチン(李海青)、馬毅など。アクション、武術、カースタントに使用しているのは2007年に羅禮賢が発言したことをきっかけに中華圏では広く知られているが、日本では本人も否定する発言をするのであまり知られていない。しかし2004年のあるアメリカの映画祭でジェット・リー(李連杰)が「ジャッキーもスタントマンを使う」とインタビューに答えている。
自身がプロデュースした作品には1シーンのみのカメオ出演をする場合が多い(1986年『クラッシュ・エンジェルス/失われたダイヤモンド』、1999年『ジェネックス・コップ』、2004年『エンター・ザ・フェニックス』など)。
以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。また事あるごとに引退を示唆する発言をしている。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。
俳優だけではなく歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は彼自身が歌うことが多い。歌はロックレコードの李宗盛から学んだ。
陳淑樺(サラ・チェン)との「明明白白我的心」は中華圏でよく知られ、今でもデュエット・ソングとして人気がある。1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。
日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓による「マリアンヌ」でシングルレコードによる発売。ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『ヤングマスター 師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。『ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(CHINA BLUE、TOKYO SATURDAY NIGHT)を本人が歌った。
トム・クルーズやジョニー・デップと並び、ファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真など、常に特別待遇で接している。
千葉真一の熱狂的なファンで、千葉のような「アクションスター」になる事が夢だった。テレビドラマ『キイハンター』でスタントマンに頼らず、千葉が演ずるアクションに刺激を受けて惚れこみ、ジャッキーがスターと認められだした頃に東映京都撮影所へ千葉を表敬訪問している。
1994年に読字障害であることを告白したが、2012年現在は克服している。広東語、北京語、英語、韓国語に堪能で、日本語も少し話せる。
ふるまいよしこによると、日本で人気を博していた時代のジャッキーは、中国ではまったく知られておらず、ジャッキーの映画が中国に入り始めたのは1997年の香港返還後のことで、植民地政府下の香港警察に全面的な協力を受けて撮影された作品は、当初は公的には敬遠されていた感があったという。2000年代に香港映画が中国市場の開拓を狙って作品作りをするようになると、ジャッキーも積極的に中国に進出し、香港映画が中国市場受けするテーマやアプローチを選択し始めると、ジャッキーも香港のスターというより、中国のスターを目指し始めた。
2012年9月21日にCBCの『George Stroumboulopoulos Tonight』に出演した時に「父は、元スパイだった。ある日、オフィスに戻るために、運転をしていたら、80歳近くになる父親が急に、話しておきたい秘密があるというのでカメラと照明を設定し、そしてカメラの前でその告白をしてもらった。私は、40年以上ジャッキー・チェンとして生きてきたが本名は房(ファン)であると父から伝えられた。父には、他に息子が2人、母には娘が2人いると言われ、自分には兄弟がいることがこの時分かった。」とインタビューに答えている。このインタビューで(この時点では)2人の兄に会った事はないが、姉達には会ったと答えている。
ジャッキーは、日本では「香港の庶民派スター」という何十年来のイメージであるが、中華圏では立派な「愛国派スター」と認識されており、「正義の中国人として外国の悪に立ち向かっていく」作品が続き、そこに「愛国ムード」を嗅ぎ取る人もいる。
ブルース・リーとの逸話。ジャッキーが無名時代、休日に1人でボウリングに行こうと道を歩いていると、偶然ブルース・リーと遭遇。2人は仲良くボウリング場へと足を運んだが、ブルース・リーはジャッキーのプレイを後ろから見るだけで「じゃ、用事があるからこれで」と言い残し帰って行ったということがあった。また撮影の合間には、彼の作品でスタントを演じていたジャッキーに対して、特に優しく接してくれていたとのこと。
『七小福』時代から同じ釜の飯を食って育ったサモ・ハン・キンポーは先輩でありユン・ピョウは後輩である。2人はジャッキーと共に1983年から1988年に多くの共演作品が日本でも公開され、社会現象を起こし香港ビッグ3と呼ばれている。
3人が幼い頃ユン・ピョウの20セントを巡って2人が殴り合いの喧嘩をし、サモ・ハンが勝利したことがあるとユン・ピョウがインタビューしている。
ジャッキーが無名時代には先に映画業界で名を馳せていたサモ・ハンが色々面倒を見ていたこともある。
ジャッキーとサモ・ハンは両者の作品に対する取り組み方(ジャッキーはアクション、特に美しさに対する拘りが強く、サモ・ハンは娯楽性に重点が置かれる傾向の作品が多いなど)の違いにより『サイクロンZ』以降疎遠であったがその後、1995年の『デッドヒート』と1997年の『ナイスガイ』で再タッグを組み、2008年の 『拳師〜The Next Dragon〜』ではジャッキーがエグゼクティブ・プロデューサーを務めサモが主演。香港電影金像奨での功労賞の同時受賞、香港の年越しイベントでの『七小福』の共演、お互いのスタントチームの共有をしているなど、仲は修復している。
2015年1月にはユン・ピョウの娘の結婚式にサモ・ハンがジャッキーを呼び寄せ、久しぶりに3人が揃ったと場を大いに盛り上げた。
2003年、『80デイズ』の撮影のためにベルリンに滞在した時、バディーベアに出会い、翌2004年に香港ビクトリアパークでこのバディーベアを展示できるように取り計らった。この展示会の開催で、ユニセフと2つの恵まれない子供たちのための団体が414万香港ドル(約5700万円)を手にした。
チベット自治区に監視を行う中国に対して一部で抗議がある中、北京五輪に反対することは不公平であるとし、北京五輪では記念ソングを合唱した。2009年5月2日には2010年上海国際博覧会の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウン・イベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。
2011年1月20日、アメリカ・ホワイトハウスで行われた公式訪問中の胡錦濤国家主席を歓迎する「オバマ米大統領夫妻主催の晩餐会」にジャッキーも政財界の大物や著名人など計225人の招待客と共に出席し、ジャッキーと対面したオバマ米大統領は握手しながら、「私も君のファンだよ」と話しかけたばかりか、ヒラリー・クリントン米国務長官も、夫のビル・クリントン元米大統領もジャッキーのファンだと話した。また胡主席とも話す機会に恵まれ、ちょうどジャッキーと胡主席が話し始めようとかという時にオバマ米大統領がやってきて、「知っていますか。アメリカでジャッキーはとてもとても有名なんですよ」と話しかけた。すると胡主席は「中国ではもっと有名ですよ」と笑顔で返答した。この公式晩餐会を振り返ったジャッキーは、「本当に光栄に思う」と興奮ぎみにメディアに語った。
2012年、香港政府観光局の観光大使を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行った。また、中国人民政治協商会議では委員にも選ばれた。
2019年には2019年逃亡犯条例改正案をめぐる香港の混乱に対して「みんなの『紅旗の守り人』としての思いを表現したい」と述べて香港政府・中国政府を支持するキャンペーン「五星紅旗を守る14億人」に参加した。
2020年、「国家安全法」の香港への導入について、2000人を超える香港の芸能関係者と連名で支持を表明した。
2021年7月8日、副主席を務めている中国映画家協会(英語版)が開催した中国共産党結党100周年記念座談会において、「共産党は偉大だ。約束したことは数十年で実現するだろう」「私は中国人になって光栄だが、共産党員がうらやましい。私も党員になりたい」と語った。これに対して『環球時報』は、「香港エリートの共産党に対する理解は、ますます客観的、理性的になってきている」と評価している。
近年、ジャッキーは中国共産党との関係を重視する動きを見せ、大陸寄りの姿勢が鮮明となっており、香港では「裏切り者」との批判を受けている。周来友は「ジャッキーはかつて天安門事件が発生した1989年当時、テレサ・テンを始め、数々の香港スターたちと共に中国共産党を批判し、学生たちを支持するため、大規模なイベントにも参加しました。現在のジャッキーについて香港市民からは『共産党の犬』という批判も出ています。ジャッキーファンも多くいる日本でも彼の変化に複雑な思いを抱く人も多いのではないでしょうか」と指摘している。
ジャッキーは2004年3月28日に親善大使として上海を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、台湾の選挙直前に起こった三一九台湾総統・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国をさらに強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。姚文智行政院新聞局局長は、彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』〈台北市1014万台湾元〉、『THE MYTH/神話』〈台北市1100万台湾元〉『香港国際警察/NEW POLICE STORY』〈台北市900万台湾元〉)。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。
その後、ジャッキーは台湾を愛しているからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も台湾人なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の2006年9月19日に香港映画の『プロジェクトBB』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統陳水扁に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。さらに台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。
2007年には「中国人に自由を与えてはいけない。香港や台湾は自由すぎて乱れている。中国人は管理されるべきだ」などと中国メディアで語り、台湾や香港のみならず、中国国内の知識人からもバッシングを浴びた。2009年4月18日、海南島で行われたボアオ・アジア・フォーラムの会見上で、中国国外メディアから文化活動の自由について聞かれ、「自由すぎると、香港のように混乱する。台湾も混乱している。中国人は管理される必要がある」と発言した。その後も、中国政府への忠誠や愛国をチャンスがある限り示すようになり、香港での自由や民主を求める機運を堂々と批判し、2019年のデモの際にはCCTVに出演して、「CCTVが呼びかけた『14億人で中国国旗を振ろう』キャンペーンにぼくは真っ先に賛成した」と誇らしげに述べて、香港市民の失望を買った。
また「テレビは日本製を買う。中国製のテレビは爆発するかもしれない」と発言し物議をかもした。
慈善家でも知られており、幼少期にジャッキー自身が貧しくても「悪人とは付き合うな、麻薬には手を出すな」などの親の教えには感謝している。
ジャッキー・チェンは若い頃、テレサ・テンと恋愛をしていた。しかし、価値観の違いや仕事の忙しさなどが原因で2人は別れることになる。
1983年、ジャッキーは台湾女優の林鳳嬌(ジョアン・リン)と結婚。しかし日本では、本人および映画会社関係者はそのことを隠し続け、1980年代にも日本のテレビがスクープしたが、取材に対して独身であると説明し、既婚者であることを秘匿していた。
テレサは1995年に気管支喘息の発作のため亡くなった。テレサの死後も、ジャッキーの彼女に対する思いと悲しみは消えることなく、ジャッキーの第2弾レコードには、テレサとのデュエット曲を収録した。
ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『キャノンボール』を除いて多くの作品で三菱自動車工業の車両協力を受けている。 特にランサー、ミラージュ、パジェロ、ギャランが多い。
ジャッキー自身も三菱ふそう・ファイターのCMに出演したことがあるほか、香港-北京ラリーでは篠塚建次郎選手と日本全国の三菱ギャラン店ディーラーメカニックで構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも三菱・パジェロを自ら運転している。
1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいたことがある。
大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車からホンダ・アコードやプレリュードなどの日本車、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ数台と数多い高級車、スポーツカーを所持していた。
2005年には、中華人民共和国内のみでフォルクスワーゲン・キャディのキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている。
香港では風水などの思想を重視するため、縁起の良いナンバープレートが高額で取引されることがよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。
2015年にアジアン・ル・マン・シリーズチャンピオンの中国系チームであるDCレーシングの共同オーナーに就任。2016年にフランス系チームのシグナテックとジョイントして、「バシー・DCレーシング(Baxi DC Racing)」の名でWEC(世界耐久選手権)のLMP2クラスにフル参戦を開始した。マシンはオレカ・05のOEM供給であるアルピーヌ・A460で、日産エンジンを使用。初年度はシグナテック・アルピーヌがル・マン24時間レース優勝、とWEC年間チャンピオンに輝いたのに対して、DCレーシングはル・マンではリタイア、年間でも下から2番目という結果に終わった。この年のマシンカラーリングは自らの新作映画、カンフー・ヨガのもので、マシンのカウルにはジャッキーの写真が大きく使われている。
2017年は規約改訂に伴い、マシンをオレカ・07、エンジンをギブソンに変更。またチームオペレーションはシグナテックに代わってJotaスポーツが担うことになり、チーム名は「ジャッキー・チェン・DCレーシング(Jackie Chan DC Racing)」へ変更された。シグナテック内で2番手の扱いだった昨年までとは打って変わり、開幕戦シルバーストンでWEC初優勝を飾ると、第3戦ル・マン24時間でもクラス優勝を勝ち取った。なお最上位クラスのLMP1クラスの台数が少なかったことやLMP1全車にトラブルが発生したこともあり、下位クラスながら総合でも一時トップを快走し、最終的に総合2位に入るという快挙を成し遂げている。年間チャンピオンは最終戦までもつれこんだが、最終的にバイヨン・レベリオンに敗れ2位に終わった。
1973年に「ついに自分もスターになるチャンスがきた」と、意気揚々と初主演作『廣東小老虎』(1973年)の撮影に臨んだジャッキーだったが、そのあまりの低予算、悪条件ぶりに愕然とする。この作品はいわゆるセブンデイズ映画と言われる類の作品で、わずか7日間で完成させてしまうような粗末な現場だった。大きく落ち込む彼にさらに追い打ちをかけるようにショッキングなニュースが飛び込んで来た。それは“ブルース・リー急死”の報だった。偉大なスターのあまりにも早過ぎる死だった。この香港映画界を揺るがす悲報に香港全体が大きな喪失感に包まれた。ジャッキーもスタントに参加したブルース・リーの遺作『燃えよドラゴン』はリーの死後、世界各地で公開され大ヒットを記録。世界的なスーパースターへと上り詰めたとき、リーはもうこの世にいなかった。そしてカンフー映画市場は急激に冷え込み、冬の時代へと突入してゆく。時代はコメディやロマンスといったドラマが中心となり本格的なクンフー映画の本数は激減していた。
貯めたお金を切り崩しながら数ヵ月を過ごした後、かつて世話になったジュー・ムー監督からやっとのことで仕事をもらった。その1作目の『花飛満城春』では人妻と関係を持つ人力車夫役を演じ、ベッドシーンを披露した。2作目の『拍案驚奇』には殺人犯役で出演。ともにアダルトな作品で映画自体はまずまずヒットしたものの、ジャッキーにとっては仕事を得るのが難しい状態が続いた。
1975年にゴールデン・ハーベストへ入社し、ゴールデン・ハーベストでのサモ・ハンの仕事がまた増えてきたが、本格的なアクションと呼べる作品は少なかった。その頃に製作された数少ないクンフー映画が『少林門』(1975年)だった。監督は当時まだ無名で、のちにハリウッドで活躍する、若き日のジョン・ウーだった。当初は出演予定がなかったジャッキーも準主役で出ることになった。この作品は撮影から約1年後の1976年夏に香港で公開されたが、ヒットせずに終わった。
『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(1976年)で、ロー・ウェイがジャッキーに求めたのはブルース・リーの姿そのもので、不器用な演技しかできなかったジャッキーにとって、それはあまりに困難だった。撮影現場で、要求に思うように応えられないジャッキーに対し、ローは怒りをぶちまけるのだった。その度にマネージャーのウィリーはジャッキーの不満や悩みを聞いてやり、なだめては何とか撮影を続けさせた。当時、香港にはマネージャーという概念自体がなく、後にジャッキーの右腕を振るったウィリーこそ、その元祖と言われている。ローは現場を抜け出してギャンブルをしに行ったりし、撮影を他人任せにしていなくなることが多かった。
再デビューの撮影から2か月を待たずしてジャッキーは次回作『少林寺木人拳』(1976年)の撮影に取り掛かる。本作の総監督たるローは前作の出来によほど嫌気が差したせいか、ジャッキー同様に安いギャラで雇った当時の若手監督のチェン・チーホワ(陳誌華)に、実際の撮影現場をほぼ任せっきりにした。前作の撮影監督がチーホワで、ジャッキーより7歳年上と年齢が近いこともあってすぐに意気投合。ともに20代で若い感性を持っており、互いにアイデアを出し合って、映画作りを楽しんだ。ジャッキーは後にこの作品を「ある意味、僕の最初の『夢の映画』。映画作りとはこうあるべきだと思って作った」と語っている。
ロー・ウェイとは個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長レイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐している。その内容を以下に要約する。
1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』、『ドランクモンキー 酔拳』や、続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットした。ジャッキーとウィリー・チェンは、ローがレンタル出向前に製作し完成していた『拳精』と『龍拳』を、過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗していたために配給会社が警戒して買わなくなっていたこともあり(蛇拳と酔拳のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『ジャッキー・チェンの醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第一作『ヤングマスター 師弟出馬』の製作を開始してしまう。
ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、黒社会を利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。ジャッキーは拉致されローの面前へ引き出され、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも黒社会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても黒社会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な黒社会の件は、その世界と繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは黒社会に狙われることはなくなり、ローもまた黒社会と手を切ることができた。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』、『炎の大捜査線』に準主演級で出演した。これらの作品へのノーギャラでの出演ついてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。
この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本では、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家の日野康一が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及。この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった 可哀想なモンキー」とされた。
なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会追放キャンペーンでは陣頭に立っている。その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と述べた。
『プロジェクト・イーグル』PRのために『笑っていいとも!』へ出演した際、南原清隆の「香港の中国返還後はどうなさるんですか?」との質問に一瞬困った形相を見せたが、笑って「1997年以降は日本に行きます。歓迎してくれますか?」と答え、周囲を驚かせた。冗談か本気かは別として、当時の情勢が垣間見える瞬間だった。
英語圏の映画レビューサイトとして有名なRotten Tomatoes(ロッテン・トマト)は、ジャッキー・チェンの一ファンであったSenh Duongが『ジャッキー・チェンのファンとして、ジャッキーの映画に関する合衆国内のレビューを残らず集めようとした時に思いついた』とサイト発案の理由を語っている。
東映は香港のカンフー映画の輸入に熱心で、系列の東映洋画が日本でまだ無名のジャッキーの映画を7本まとめて購入。1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との併映で公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット、『トラック野郎』の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『スネーキーモンキー 蛇拳』『クレージーモンキー 笑拳』『拳精』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった。その後も拳シリーズは1年ペースで、『少林寺木人拳』『龍拳』『蛇鶴八拳』『カンニング・モンキー 天中拳』『成龍拳』『ジャッキー・チェンの醒拳』が公開され話題を集めた。
その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、1980年代の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに石丸博也の吹き替えが、分かりやすく共感を呼び、好評を博した。
1980年代当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」、「ジャッキー・チェン祭」などの名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映を行っていた。2011年には、ジャッキー・チェンをリスペクトとした映画イベント「成龍祭」が規模を拡大し、「大成龍祭」として、東名阪で行なわれ、先に大阪と名古屋が終了。東京は11月に幕を閉じた。このイベントは2004年から、TOHOシネマズの劇場を中心に毎年実施されている。ファンが積極的に協力しているのが特徴で、2010年は、ジャッキー本人からビデオメッセージが直接届いたり、参加者が書いたジャッキーへの寄せ書きに返事が来るなど、ジャッキーサイドにも認知されつつある。
1980年代から1990年代にかけて、日本のファン達による私設(個人)ファンクラブが多かったことは有名で、「ポーポークラブ」、「CHANS CLUB」、「不死鳥成龍会」、「香港電影倶楽部/MIRACLES」、「無問題倶楽部」、「チャイニーズドラゴン」、「陳先生酔酌会」、「成龍熱愛会」などが多数存在した。それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集いなどの活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影など)で訪れた際は、喜んで対応していた。
1980年代にはジャッキーが以前からファンであった西城秀樹と親友の間柄となった。1987年の滋賀県烏丸半島で行われた「アジア・ポップス'87〜第5回びわ湖水の祭典〜」コンサートでは同じステージに立って「ギャランドゥ」、「琵琶湖周航の歌」等を一緒に熱唱した。
西城と最後に共演したのは『ウチくる!?』にジャッキーがメインゲストで出た回で、西城がサプライズでジャッキーの前に現れたら、とても驚いたという。西城は成龍讃歌という雑誌のインタビューで「浅草の料理屋のロケで、その時も彼は手羽先を食べていました。アワビのエピソードで盛り上がったことを覚えています。あの時は僕が前年に体調を崩した姿で、それでも元気に再会できたことは嬉しかった」と話している。また、西城が二度目に体調を崩した後には、ジャッキーがNHKの番組の出演時に、「は~いヒデキさん、お元気ですか!」というビデオメッセージを贈り、西城は本当に嬉しかったという。
西城の告別式には「秀樹さんはスーパースターで、多くの香港芸能人の憧れ。僕らは永遠にあなたのことを思っております。香港の親友、ジャッキー・チェン」という内容の弔電を送っている。
1995年にはジャッキー自らが監修したアーケードゲーム『ザ・カンフーマスター ジャッキー・チェン』が、当時東京・三鷹市にあったゲームメーカー・カネコより発表(後述)。
訪日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演することが多い。日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』でTOKIOのメンバーと数回にわたりさまざまなゲームで対決をしている。
2007年秋には、上戸彩とともにオロナミンC(大塚製薬)のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。
2013年には、キリンビールの「のどごし生」CM「夢のドリーム」企画において、一般公募で選ばれた「カンフースターになりたい」という会社員の夢を実現する形で、会社員、中川翔子、会社員の後輩のアクション俳優らと共演した。中川はジャッキーのファンで、ワタナベエンターテイメントに所属するブレイク前、ジャッキー・チェン事務所の日本支部があった頃に所属していたことがあるほか、母と香港旅行に行った時にとあるレストランでジャッキー本人と遭遇し、中川が泣いていたのを見てなのか声を掛け、「何で泣いてるの?(中川親子の)食事代払ったよ」と言われ、ジャッキーがおごってくれたというエピソードを後年語っており、CM共演時は感激している。中川はジャッキーが無名時代にエキストラ的に共演したブルース・リーファンでもある。
タイトルは日本語題・原題の順 ※は監督兼任。主演作品のみを抜粋。詳細はジャッキー・チェンの作品一覧を参照。 | [
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"text": "ジャッキー・チェン(繁: 成龍; チャン・ロン 日本語読み:せいりゅう IPA: [ʈʂhə̌ŋ.lʊ̌ŋ] 粤拼: Sing4 Lung4、英: Jackie Chan、1954年4月7日 - )は、中華人民共和国の俳優、監督、プロデューサー、武術家、歌手。出生名は 陳 港生(チャン・コンサン、ちん こんせい、繁: 陳港生; IPA: [ʈʂhə̌n kàŋ.ʂə́ŋ])、本名は 房 仕龍(ファン・シーロン、ぼう しりゅう、繁: 房仕龍; IPA: [fǎŋ ʂɻ̩̂.lʊ̌ŋ])。身長 173cm。",
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"text": "恵まれた身体能力を活かして、暗い復讐劇が多かったカンフーアクション映画の世界に、ハロルド・ロイドやバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主役として出演。69歳を迎えた2023年現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。",
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"text": "存命俳優としてはギネス世界記録となるスタント回数を記録している。",
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"text": "妻は台湾の元女優ジョアン・リン。息子は俳優のジェイシー・チャン。",
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"text": "ジャッキー・チェンは、1954年にイギリス領香港のヴィクトリア・ピークにて陳港生(チャン・コンサン)として生まれた。祖籍は安徽省で、父親は陳志平(チャールズ・チャン、本名: 房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)。",
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"text": "ジャッキーの父親は中国国民党のスパイであり、国共内戦の結果香港に逃れ、改名、在香港米領事館にて料理人として働いていた。ジャッキーは2001年にこの事実を父親から知らされ、本名は房仕龍であること、兄弟がいることなどを知った。この話をジャッキーは撮影し、ドキュメンタリー映画『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』(2003年)として世間に公表した。2003年には息子が陳祖明から房祖名に改名、2013年には自身も房仕龍に改名している。",
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"text": "7歳から約10年間、中国戯劇学院(中国語: 中国戏剧学院)で京劇や中国武術を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務めた。映画デビュー作は『大小黄天覇』(1962年)。",
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"text": "無名時代、ブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでリーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『燃えよドラゴン』(1973年)ではリーに首を折られるエキストラ役としても出演した。その後オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いた。",
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"text": "「陳元龍」名義で大地製作の『ファイティング・マスター』(1972年)で俳優デビューする。『ドラゴン・ファイター』 (1973年)に悪役として出演するが、2作品ともヒットはしなかった。",
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"text": "1976年にロー・ウェイプロダクションの支配人ウィリーチャンの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイプロと専属契約し、芸名を陳元龍から成龍と改名し、『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(1976年)で再デビューを果たした。しかし、300本あまりの映画のうち興行成績は振るわなかった。",
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"text": "ジャッキーは、「クレイジーモンキー/笑拳」で監督、及び主演を果たし、初のヒットデビューをした。",
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"text": "続く『少林寺木人拳』(1976年)、『成龍拳』(1977年)、『飛龍神拳』(1977年)などのクンフー作品に主演するが、同じく興行成績は振るわず、不発に終わってしまう。",
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"text": "復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられることが多かったが成功には至らず、そうした反省も踏まえ、ジャッキーは製作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。",
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"text": "ロー・ウェイプロと専属契約中、シーゾナル・フィルムへレンタルし、1977年、ユエン・ウーピン監督の『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)に出演した。ジャッキーが独自のコメディ路線を打ち出したこの映画は高い興行成績を突破した。続く『ドランクモンキー 酔拳』(1978年)で、ジャッキーはスーパースターとしての地位を不動のものにした。次作の『クレージーモンキー 笑拳』(1979年)では監督業にも進出。1979年にはロー・ウェイプロを離れ、新たにゴールデン・ハーベスト社に移籍。ゴールデン・ハーベストで最初に製作した映画は、自ら監督と主演作を務めた『ヤングマスター 師弟出馬』(1980年)である。",
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"text": "1980年代に入ると、『プロジェクトA』(1984年)や『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985年)に代表される自ら命懸けのスタントをこなす監督・主演作品が大ヒット。香港映画界を代表するアジアのトップスターとなった。一時期、批評家からの声に刺激され『奇蹟/ミラクル』(1989年)のような文芸路線を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。",
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"text": "そんな華々しい活躍の中で『サンダーアーム/龍兄虎弟』(1986年)の撮影中に大けがを負ってしまい、その後遺症で右耳がほとんど聞こえなくなっている。",
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"text": "『プロジェクト・イーグル』(1991年)を最後に一時監督業からは退き俳優業に専念する一方、製作者として『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1992年)などの文芸作品も世に送り出した。",
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"text": "元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』(1980年)ではホセ・フェラーらと共演したが、興行成績が振るわず、散々な結果に終わった。また、ハリウッドの有名俳優が総出演した『キャノンボール』(1981年)では彼と同じく香港俳優のマイケル・ホイと共に日本人ドライバーとして出演。映画自体はアメリカでヒットしたものの、地元香港では振るわず、ジャッキーの存在がハリウッドに広まることはなかった。",
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"text": "2度目にハリウッドに挑戦したのは、ちょうど香港映画がアメリカでヒットするようになった頃だった。ゴールデン・ハーベストは『プロテクター』(1985年)でジャッキーにタフガイを演じさせたが、彼のキャラクターがうまく生かされず、評価は高まらなかった。しかし、1995年公開の香港作品『レッド・ブロンクス』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。",
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"text": "そして1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築き、続編『ラッシュアワー2』(2001年)は全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後、立て続けにアメリカ映画作品に出演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ただし地元香港では、これらのジャッキー主演ハリウッド映画はいずれも不入りで、『タキシード』(2002年)、『シャンハイ・ナイト』(2003年)、『メダリオン』(2003年)などはジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2004年に香港のエンペラー・エンターテインメント・グループと提携して、自らの映画制作会社、JCEムービーズを設立し、その第1回作品として『香港国際警察/NEW POLICE STORY』を製作・主演。以後、香港・中国映画とアメリカ映画に並行して出演するようになる。2007年には長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなり、2008年にはジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2009年、アクションを封印したシリアスなバイオレンス映画『新宿インシデント』に主演。主人公の師匠役を演じた2010年の『ベスト・キッド』は2000年代に入ってからの出演作では最大のヒット作となった。2011年、出演作100本目記念作品とされる歴史映画『1911』が公開。2012年の『ライジング・ドラゴン』で「体を張った本格アクションからは今作限りで引退」と宣言した。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2014年4月、上海市普陀区に世界で初めてとなるジャッキー・チェンの博物館、成龍電影芸術館が開館した。芸術館をはじめ3棟の建物がメインとなり、映画資料や小道具、衣装などが展示されている。",
"title": "経歴"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2015年に公開された主演・製作映画『ドラゴン・ブレイド』が大ヒットを記録し、2010年代最大の成功作となった。これにより、アメリカのフォーブス誌の高額俳優ランキング(2014年6月1日〜2015年6月1日)で5000万ドルを記録し、ロバート・ダウニーJr.に次ぐ世界2位となった。",
"title": "経歴"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2016年、アカデミー名誉賞を受賞した。また、ファンへの感謝も忘れず、「僕が窓から飛び降りたり、キックしてパンチして、骨折しながら映画を作り続けているのはすべて世界のファンのためだよ。ありがとう!」と述べ、会場でスタンディングオベーションが起きた。",
"title": "経歴"
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{
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"tag": "p",
"text": "地元香港では漢字名「成龍(セン・ロン)」、欧米では英語名\"Jackie Chan\"、日本では英語名のカタカナ表記による日本語名「ジャッキー・チェン」を俳優名としている。日本では当初「ジャッキー・チャン」として活動する予定であったが、日本のみ諸事情(親しみを込めて相手を呼ぶ際の「〜ちゃん」と被るため)により「ジャッキー・チェン」で活動することとなった。だが息子は「ジェイシー・チャン」になっている。",
"title": "俳優活動"
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"text": "ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手、スタントマンなどの仲間で構成された『成家班、英語名:Jackie Chan Stunt Team(ジャッキー・チェン・スタント・チーム)』によって支えられている。成家班はジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション(殺陣)を作り上げている。",
"title": "俳優活動"
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{
"paragraph_id": 28,
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"text": "ヘリコプターを使ったアクションとして『ポリス・ストーリー3』(1992年)と『ファイナル・プロジェクト』(1996年)が有名だが、『ポリス・ストーリー3』の時は機体がジャッキーの体にぶつかり大怪我、『ファイナル・プロジェクト』ではプロペラがジャッキーの帽子に接触(頭上2cm)し、間一髪大怪我を免れている。その後ジャッキーはヘリコプターを使ったアクションはやらなくなった。",
"title": "俳優活動"
},
{
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"tag": "p",
"text": "「自身の作品で一番好きなのは?」の問いに対し、「アクションなら『ポリス・ストーリー/香港国際警察』、監督なら『奇蹟/ミラクル』」と答えている。また「思い出に残る作品は?」の問いに対し、笑いながら「沢山ありますよ」と前置きした後、悩みながら、第3位は『酔拳2』、第2位は『レッド・ブロンクス』、第1位は『プロジェクトA』と答えている。",
"title": "俳優活動"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "自身のスタントマンは『プロジェクトA』から使用しており、時計台の落下はマース(火星)(英語版)も担当している。 アクションではチン・ガーロウ(錢家樂)(英語版)、カースタントではブラッキー・コウ(柯受良)、曾凡仁、李樹華。他にはブルース・ロウ(羅禮賢)、見た目もそっくりなリー・ハイチン(李海青)、馬毅など。アクション、武術、カースタントに使用しているのは2007年に羅禮賢が発言したことをきっかけに中華圏では広く知られているが、日本では本人も否定する発言をするのであまり知られていない。しかし2004年のあるアメリカの映画祭でジェット・リー(李連杰)が「ジャッキーもスタントマンを使う」とインタビューに答えている。",
"title": "俳優活動"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "自身がプロデュースした作品には1シーンのみのカメオ出演をする場合が多い(1986年『クラッシュ・エンジェルス/失われたダイヤモンド』、1999年『ジェネックス・コップ』、2004年『エンター・ザ・フェニックス』など)。",
"title": "俳優活動"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。また事あるごとに引退を示唆する発言をしている。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。",
"title": "俳優活動"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "俳優だけではなく歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は彼自身が歌うことが多い。歌はロックレコードの李宗盛から学んだ。",
"title": "俳優活動"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "陳淑樺(サラ・チェン)との「明明白白我的心」は中華圏でよく知られ、今でもデュエット・ソングとして人気がある。1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。",
"title": "俳優活動"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓による「マリアンヌ」でシングルレコードによる発売。ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『ヤングマスター 師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。『ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(CHINA BLUE、TOKYO SATURDAY NIGHT)を本人が歌った。",
"title": "俳優活動"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "トム・クルーズやジョニー・デップと並び、ファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真など、常に特別待遇で接している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "千葉真一の熱狂的なファンで、千葉のような「アクションスター」になる事が夢だった。テレビドラマ『キイハンター』でスタントマンに頼らず、千葉が演ずるアクションに刺激を受けて惚れこみ、ジャッキーがスターと認められだした頃に東映京都撮影所へ千葉を表敬訪問している。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1994年に読字障害であることを告白したが、2012年現在は克服している。広東語、北京語、英語、韓国語に堪能で、日本語も少し話せる。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ふるまいよしこによると、日本で人気を博していた時代のジャッキーは、中国ではまったく知られておらず、ジャッキーの映画が中国に入り始めたのは1997年の香港返還後のことで、植民地政府下の香港警察に全面的な協力を受けて撮影された作品は、当初は公的には敬遠されていた感があったという。2000年代に香港映画が中国市場の開拓を狙って作品作りをするようになると、ジャッキーも積極的に中国に進出し、香港映画が中国市場受けするテーマやアプローチを選択し始めると、ジャッキーも香港のスターというより、中国のスターを目指し始めた。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2012年9月21日にCBCの『George Stroumboulopoulos Tonight』に出演した時に「父は、元スパイだった。ある日、オフィスに戻るために、運転をしていたら、80歳近くになる父親が急に、話しておきたい秘密があるというのでカメラと照明を設定し、そしてカメラの前でその告白をしてもらった。私は、40年以上ジャッキー・チェンとして生きてきたが本名は房(ファン)であると父から伝えられた。父には、他に息子が2人、母には娘が2人いると言われ、自分には兄弟がいることがこの時分かった。」とインタビューに答えている。このインタビューで(この時点では)2人の兄に会った事はないが、姉達には会ったと答えている。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ジャッキーは、日本では「香港の庶民派スター」という何十年来のイメージであるが、中華圏では立派な「愛国派スター」と認識されており、「正義の中国人として外国の悪に立ち向かっていく」作品が続き、そこに「愛国ムード」を嗅ぎ取る人もいる。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ブルース・リーとの逸話。ジャッキーが無名時代、休日に1人でボウリングに行こうと道を歩いていると、偶然ブルース・リーと遭遇。2人は仲良くボウリング場へと足を運んだが、ブルース・リーはジャッキーのプレイを後ろから見るだけで「じゃ、用事があるからこれで」と言い残し帰って行ったということがあった。また撮影の合間には、彼の作品でスタントを演じていたジャッキーに対して、特に優しく接してくれていたとのこと。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "『七小福』時代から同じ釜の飯を食って育ったサモ・ハン・キンポーは先輩でありユン・ピョウは後輩である。2人はジャッキーと共に1983年から1988年に多くの共演作品が日本でも公開され、社会現象を起こし香港ビッグ3と呼ばれている。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "3人が幼い頃ユン・ピョウの20セントを巡って2人が殴り合いの喧嘩をし、サモ・ハンが勝利したことがあるとユン・ピョウがインタビューしている。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 45,
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"text": "ジャッキーが無名時代には先に映画業界で名を馳せていたサモ・ハンが色々面倒を見ていたこともある。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ジャッキーとサモ・ハンは両者の作品に対する取り組み方(ジャッキーはアクション、特に美しさに対する拘りが強く、サモ・ハンは娯楽性に重点が置かれる傾向の作品が多いなど)の違いにより『サイクロンZ』以降疎遠であったがその後、1995年の『デッドヒート』と1997年の『ナイスガイ』で再タッグを組み、2008年の 『拳師〜The Next Dragon〜』ではジャッキーがエグゼクティブ・プロデューサーを務めサモが主演。香港電影金像奨での功労賞の同時受賞、香港の年越しイベントでの『七小福』の共演、お互いのスタントチームの共有をしているなど、仲は修復している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2015年1月にはユン・ピョウの娘の結婚式にサモ・ハンがジャッキーを呼び寄せ、久しぶりに3人が揃ったと場を大いに盛り上げた。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2003年、『80デイズ』の撮影のためにベルリンに滞在した時、バディーベアに出会い、翌2004年に香港ビクトリアパークでこのバディーベアを展示できるように取り計らった。この展示会の開催で、ユニセフと2つの恵まれない子供たちのための団体が414万香港ドル(約5700万円)を手にした。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "チベット自治区に監視を行う中国に対して一部で抗議がある中、北京五輪に反対することは不公平であるとし、北京五輪では記念ソングを合唱した。2009年5月2日には2010年上海国際博覧会の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウン・イベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2011年1月20日、アメリカ・ホワイトハウスで行われた公式訪問中の胡錦濤国家主席を歓迎する「オバマ米大統領夫妻主催の晩餐会」にジャッキーも政財界の大物や著名人など計225人の招待客と共に出席し、ジャッキーと対面したオバマ米大統領は握手しながら、「私も君のファンだよ」と話しかけたばかりか、ヒラリー・クリントン米国務長官も、夫のビル・クリントン元米大統領もジャッキーのファンだと話した。また胡主席とも話す機会に恵まれ、ちょうどジャッキーと胡主席が話し始めようとかという時にオバマ米大統領がやってきて、「知っていますか。アメリカでジャッキーはとてもとても有名なんですよ」と話しかけた。すると胡主席は「中国ではもっと有名ですよ」と笑顔で返答した。この公式晩餐会を振り返ったジャッキーは、「本当に光栄に思う」と興奮ぎみにメディアに語った。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2012年、香港政府観光局の観光大使を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行った。また、中国人民政治協商会議では委員にも選ばれた。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2019年には2019年逃亡犯条例改正案をめぐる香港の混乱に対して「みんなの『紅旗の守り人』としての思いを表現したい」と述べて香港政府・中国政府を支持するキャンペーン「五星紅旗を守る14億人」に参加した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2020年、「国家安全法」の香港への導入について、2000人を超える香港の芸能関係者と連名で支持を表明した。",
"title": "人物"
},
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2021年7月8日、副主席を務めている中国映画家協会(英語版)が開催した中国共産党結党100周年記念座談会において、「共産党は偉大だ。約束したことは数十年で実現するだろう」「私は中国人になって光栄だが、共産党員がうらやましい。私も党員になりたい」と語った。これに対して『環球時報』は、「香港エリートの共産党に対する理解は、ますます客観的、理性的になってきている」と評価している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "近年、ジャッキーは中国共産党との関係を重視する動きを見せ、大陸寄りの姿勢が鮮明となっており、香港では「裏切り者」との批判を受けている。周来友は「ジャッキーはかつて天安門事件が発生した1989年当時、テレサ・テンを始め、数々の香港スターたちと共に中国共産党を批判し、学生たちを支持するため、大規模なイベントにも参加しました。現在のジャッキーについて香港市民からは『共産党の犬』という批判も出ています。ジャッキーファンも多くいる日本でも彼の変化に複雑な思いを抱く人も多いのではないでしょうか」と指摘している。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ジャッキーは2004年3月28日に親善大使として上海を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、台湾の選挙直前に起こった三一九台湾総統・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国をさらに強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。姚文智行政院新聞局局長は、彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』〈台北市1014万台湾元〉、『THE MYTH/神話』〈台北市1100万台湾元〉『香港国際警察/NEW POLICE STORY』〈台北市900万台湾元〉)。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "その後、ジャッキーは台湾を愛しているからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も台湾人なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の2006年9月19日に香港映画の『プロジェクトBB』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統陳水扁に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。さらに台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2007年には「中国人に自由を与えてはいけない。香港や台湾は自由すぎて乱れている。中国人は管理されるべきだ」などと中国メディアで語り、台湾や香港のみならず、中国国内の知識人からもバッシングを浴びた。2009年4月18日、海南島で行われたボアオ・アジア・フォーラムの会見上で、中国国外メディアから文化活動の自由について聞かれ、「自由すぎると、香港のように混乱する。台湾も混乱している。中国人は管理される必要がある」と発言した。その後も、中国政府への忠誠や愛国をチャンスがある限り示すようになり、香港での自由や民主を求める機運を堂々と批判し、2019年のデモの際にはCCTVに出演して、「CCTVが呼びかけた『14億人で中国国旗を振ろう』キャンペーンにぼくは真っ先に賛成した」と誇らしげに述べて、香港市民の失望を買った。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 59,
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"text": "また「テレビは日本製を買う。中国製のテレビは爆発するかもしれない」と発言し物議をかもした。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "慈善家でも知られており、幼少期にジャッキー自身が貧しくても「悪人とは付き合うな、麻薬には手を出すな」などの親の教えには感謝している。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ジャッキー・チェンは若い頃、テレサ・テンと恋愛をしていた。しかし、価値観の違いや仕事の忙しさなどが原因で2人は別れることになる。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 62,
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"text": "1983年、ジャッキーは台湾女優の林鳳嬌(ジョアン・リン)と結婚。しかし日本では、本人および映画会社関係者はそのことを隠し続け、1980年代にも日本のテレビがスクープしたが、取材に対して独身であると説明し、既婚者であることを秘匿していた。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "テレサは1995年に気管支喘息の発作のため亡くなった。テレサの死後も、ジャッキーの彼女に対する思いと悲しみは消えることなく、ジャッキーの第2弾レコードには、テレサとのデュエット曲を収録した。",
"title": "人物"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『キャノンボール』を除いて多くの作品で三菱自動車工業の車両協力を受けている。 特にランサー、ミラージュ、パジェロ、ギャランが多い。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "ジャッキー自身も三菱ふそう・ファイターのCMに出演したことがあるほか、香港-北京ラリーでは篠塚建次郎選手と日本全国の三菱ギャラン店ディーラーメカニックで構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも三菱・パジェロを自ら運転している。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいたことがある。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車からホンダ・アコードやプレリュードなどの日本車、ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ数台と数多い高級車、スポーツカーを所持していた。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2005年には、中華人民共和国内のみでフォルクスワーゲン・キャディのキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "香港では風水などの思想を重視するため、縁起の良いナンバープレートが高額で取引されることがよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。",
"title": "人物"
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"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2015年にアジアン・ル・マン・シリーズチャンピオンの中国系チームであるDCレーシングの共同オーナーに就任。2016年にフランス系チームのシグナテックとジョイントして、「バシー・DCレーシング(Baxi DC Racing)」の名でWEC(世界耐久選手権)のLMP2クラスにフル参戦を開始した。マシンはオレカ・05のOEM供給であるアルピーヌ・A460で、日産エンジンを使用。初年度はシグナテック・アルピーヌがル・マン24時間レース優勝、とWEC年間チャンピオンに輝いたのに対して、DCレーシングはル・マンではリタイア、年間でも下から2番目という結果に終わった。この年のマシンカラーリングは自らの新作映画、カンフー・ヨガのもので、マシンのカウルにはジャッキーの写真が大きく使われている。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2017年は規約改訂に伴い、マシンをオレカ・07、エンジンをギブソンに変更。またチームオペレーションはシグナテックに代わってJotaスポーツが担うことになり、チーム名は「ジャッキー・チェン・DCレーシング(Jackie Chan DC Racing)」へ変更された。シグナテック内で2番手の扱いだった昨年までとは打って変わり、開幕戦シルバーストンでWEC初優勝を飾ると、第3戦ル・マン24時間でもクラス優勝を勝ち取った。なお最上位クラスのLMP1クラスの台数が少なかったことやLMP1全車にトラブルが発生したこともあり、下位クラスながら総合でも一時トップを快走し、最終的に総合2位に入るという快挙を成し遂げている。年間チャンピオンは最終戦までもつれこんだが、最終的にバイヨン・レベリオンに敗れ2位に終わった。",
"title": "人物"
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{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1973年に「ついに自分もスターになるチャンスがきた」と、意気揚々と初主演作『廣東小老虎』(1973年)の撮影に臨んだジャッキーだったが、そのあまりの低予算、悪条件ぶりに愕然とする。この作品はいわゆるセブンデイズ映画と言われる類の作品で、わずか7日間で完成させてしまうような粗末な現場だった。大きく落ち込む彼にさらに追い打ちをかけるようにショッキングなニュースが飛び込んで来た。それは“ブルース・リー急死”の報だった。偉大なスターのあまりにも早過ぎる死だった。この香港映画界を揺るがす悲報に香港全体が大きな喪失感に包まれた。ジャッキーもスタントに参加したブルース・リーの遺作『燃えよドラゴン』はリーの死後、世界各地で公開され大ヒットを記録。世界的なスーパースターへと上り詰めたとき、リーはもうこの世にいなかった。そしてカンフー映画市場は急激に冷え込み、冬の時代へと突入してゆく。時代はコメディやロマンスといったドラマが中心となり本格的なクンフー映画の本数は激減していた。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "貯めたお金を切り崩しながら数ヵ月を過ごした後、かつて世話になったジュー・ムー監督からやっとのことで仕事をもらった。その1作目の『花飛満城春』では人妻と関係を持つ人力車夫役を演じ、ベッドシーンを披露した。2作目の『拍案驚奇』には殺人犯役で出演。ともにアダルトな作品で映画自体はまずまずヒットしたものの、ジャッキーにとっては仕事を得るのが難しい状態が続いた。",
"title": "エピソード"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "1975年にゴールデン・ハーベストへ入社し、ゴールデン・ハーベストでのサモ・ハンの仕事がまた増えてきたが、本格的なアクションと呼べる作品は少なかった。その頃に製作された数少ないクンフー映画が『少林門』(1975年)だった。監督は当時まだ無名で、のちにハリウッドで活躍する、若き日のジョン・ウーだった。当初は出演予定がなかったジャッキーも準主役で出ることになった。この作品は撮影から約1年後の1976年夏に香港で公開されたが、ヒットせずに終わった。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(1976年)で、ロー・ウェイがジャッキーに求めたのはブルース・リーの姿そのもので、不器用な演技しかできなかったジャッキーにとって、それはあまりに困難だった。撮影現場で、要求に思うように応えられないジャッキーに対し、ローは怒りをぶちまけるのだった。その度にマネージャーのウィリーはジャッキーの不満や悩みを聞いてやり、なだめては何とか撮影を続けさせた。当時、香港にはマネージャーという概念自体がなく、後にジャッキーの右腕を振るったウィリーこそ、その元祖と言われている。ローは現場を抜け出してギャンブルをしに行ったりし、撮影を他人任せにしていなくなることが多かった。",
"title": "エピソード"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "再デビューの撮影から2か月を待たずしてジャッキーは次回作『少林寺木人拳』(1976年)の撮影に取り掛かる。本作の総監督たるローは前作の出来によほど嫌気が差したせいか、ジャッキー同様に安いギャラで雇った当時の若手監督のチェン・チーホワ(陳誌華)に、実際の撮影現場をほぼ任せっきりにした。前作の撮影監督がチーホワで、ジャッキーより7歳年上と年齢が近いこともあってすぐに意気投合。ともに20代で若い感性を持っており、互いにアイデアを出し合って、映画作りを楽しんだ。ジャッキーは後にこの作品を「ある意味、僕の最初の『夢の映画』。映画作りとはこうあるべきだと思って作った」と語っている。",
"title": "エピソード"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "ロー・ウェイとは個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長レイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐している。その内容を以下に要約する。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』、『ドランクモンキー 酔拳』や、続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットした。ジャッキーとウィリー・チェンは、ローがレンタル出向前に製作し完成していた『拳精』と『龍拳』を、過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗していたために配給会社が警戒して買わなくなっていたこともあり(蛇拳と酔拳のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『ジャッキー・チェンの醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第一作『ヤングマスター 師弟出馬』の製作を開始してしまう。",
"title": "エピソード"
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"text": "ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、黒社会を利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。ジャッキーは拉致されローの面前へ引き出され、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも黒社会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても黒社会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な黒社会の件は、その世界と繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは黒社会に狙われることはなくなり、ローもまた黒社会と手を切ることができた。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』、『炎の大捜査線』に準主演級で出演した。これらの作品へのノーギャラでの出演ついてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。",
"title": "エピソード"
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"text": "この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本では、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家の日野康一が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及。この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった 可哀想なモンキー」とされた。",
"title": "エピソード"
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"text": "なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会追放キャンペーンでは陣頭に立っている。その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と述べた。",
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"text": "『プロジェクト・イーグル』PRのために『笑っていいとも!』へ出演した際、南原清隆の「香港の中国返還後はどうなさるんですか?」との質問に一瞬困った形相を見せたが、笑って「1997年以降は日本に行きます。歓迎してくれますか?」と答え、周囲を驚かせた。冗談か本気かは別として、当時の情勢が垣間見える瞬間だった。",
"title": "エピソード"
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"text": "英語圏の映画レビューサイトとして有名なRotten Tomatoes(ロッテン・トマト)は、ジャッキー・チェンの一ファンであったSenh Duongが『ジャッキー・チェンのファンとして、ジャッキーの映画に関する合衆国内のレビューを残らず集めようとした時に思いついた』とサイト発案の理由を語っている。",
"title": "エピソード"
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"text": "東映は香港のカンフー映画の輸入に熱心で、系列の東映洋画が日本でまだ無名のジャッキーの映画を7本まとめて購入。1979年に『トラック野郎・熱風5000キロ』との併映で公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット、『トラック野郎』の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『スネーキーモンキー 蛇拳』『クレージーモンキー 笑拳』『拳精』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった。その後も拳シリーズは1年ペースで、『少林寺木人拳』『龍拳』『蛇鶴八拳』『カンニング・モンキー 天中拳』『成龍拳』『ジャッキー・チェンの醒拳』が公開され話題を集めた。",
"title": "日本との関わり"
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"text": "その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、1980年代の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに石丸博也の吹き替えが、分かりやすく共感を呼び、好評を博した。",
"title": "日本との関わり"
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"text": "1980年代当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」、「ジャッキー・チェン祭」などの名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映を行っていた。2011年には、ジャッキー・チェンをリスペクトとした映画イベント「成龍祭」が規模を拡大し、「大成龍祭」として、東名阪で行なわれ、先に大阪と名古屋が終了。東京は11月に幕を閉じた。このイベントは2004年から、TOHOシネマズの劇場を中心に毎年実施されている。ファンが積極的に協力しているのが特徴で、2010年は、ジャッキー本人からビデオメッセージが直接届いたり、参加者が書いたジャッキーへの寄せ書きに返事が来るなど、ジャッキーサイドにも認知されつつある。",
"title": "日本との関わり"
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"text": "1980年代から1990年代にかけて、日本のファン達による私設(個人)ファンクラブが多かったことは有名で、「ポーポークラブ」、「CHANS CLUB」、「不死鳥成龍会」、「香港電影倶楽部/MIRACLES」、「無問題倶楽部」、「チャイニーズドラゴン」、「陳先生酔酌会」、「成龍熱愛会」などが多数存在した。それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集いなどの活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影など)で訪れた際は、喜んで対応していた。",
"title": "日本との関わり"
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"text": "1980年代にはジャッキーが以前からファンであった西城秀樹と親友の間柄となった。1987年の滋賀県烏丸半島で行われた「アジア・ポップス'87〜第5回びわ湖水の祭典〜」コンサートでは同じステージに立って「ギャランドゥ」、「琵琶湖周航の歌」等を一緒に熱唱した。",
"title": "日本との関わり"
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"text": "西城と最後に共演したのは『ウチくる!?』にジャッキーがメインゲストで出た回で、西城がサプライズでジャッキーの前に現れたら、とても驚いたという。西城は成龍讃歌という雑誌のインタビューで「浅草の料理屋のロケで、その時も彼は手羽先を食べていました。アワビのエピソードで盛り上がったことを覚えています。あの時は僕が前年に体調を崩した姿で、それでも元気に再会できたことは嬉しかった」と話している。また、西城が二度目に体調を崩した後には、ジャッキーがNHKの番組の出演時に、「は~いヒデキさん、お元気ですか!」というビデオメッセージを贈り、西城は本当に嬉しかったという。",
"title": "日本との関わり"
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"text": "西城の告別式には「秀樹さんはスーパースターで、多くの香港芸能人の憧れ。僕らは永遠にあなたのことを思っております。香港の親友、ジャッキー・チェン」という内容の弔電を送っている。",
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"text": "1995年にはジャッキー自らが監修したアーケードゲーム『ザ・カンフーマスター ジャッキー・チェン』が、当時東京・三鷹市にあったゲームメーカー・カネコより発表(後述)。",
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"text": "訪日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演することが多い。日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』でTOKIOのメンバーと数回にわたりさまざまなゲームで対決をしている。",
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"text": "2007年秋には、上戸彩とともにオロナミンC(大塚製薬)のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。",
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"text": "2013年には、キリンビールの「のどごし生」CM「夢のドリーム」企画において、一般公募で選ばれた「カンフースターになりたい」という会社員の夢を実現する形で、会社員、中川翔子、会社員の後輩のアクション俳優らと共演した。中川はジャッキーのファンで、ワタナベエンターテイメントに所属するブレイク前、ジャッキー・チェン事務所の日本支部があった頃に所属していたことがあるほか、母と香港旅行に行った時にとあるレストランでジャッキー本人と遭遇し、中川が泣いていたのを見てなのか声を掛け、「何で泣いてるの?(中川親子の)食事代払ったよ」と言われ、ジャッキーがおごってくれたというエピソードを後年語っており、CM共演時は感激している。中川はジャッキーが無名時代にエキストラ的に共演したブルース・リーファンでもある。",
"title": "日本との関わり"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "タイトルは日本語題・原題の順 ※は監督兼任。主演作品のみを抜粋。詳細はジャッキー・チェンの作品一覧を参照。",
"title": "フィルモグラフィー(抜粋)"
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] | ジャッキー・チェンは、中華人民共和国の俳優、監督、プロデューサー、武術家、歌手。出生名は 陳 港生、本名は 房 仕龍。身長 173cm。 恵まれた身体能力を活かして、暗い復讐劇が多かったカンフーアクション映画の世界に、ハロルド・ロイドやバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主役として出演。69歳を迎えた2023年現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。 存命俳優としてはギネス世界記録となるスタント回数を記録している。 妻は台湾の元女優ジョアン・リン。息子は俳優のジェイシー・チャン。 | {{別人|x1=俳優、歌手の張学友こと|ジャッキー・チュン}}
{{百科事典的でない|date=2022年7月1日 (金) 09:11 (UTC)}}
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{{Infobox Chinese-language singer and actor
| name = <small>ジャッキー・チェン</small><br />成龍<br />Jackie Chan<br /><small>[[銀紫荊星章|SBS]] [[大英帝国勲章|MBE]] [[連邦直轄区拿督勲章|PMW]]</small>
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| caption = [[2016年]]
| tradchinesename = 成龍
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| english = Jackie Chan
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| hongkongfilmwards = '''最優秀作品賞'''<br />1986年『[[ポリス・ストーリー/香港国際警察]]』<br />'''[[香港電影金像奨 最佳動作設計|最優秀アクション監督賞]]'''<br />1996年『[[レッド・ブロンクス]]』<br />1999年『[[WHO AM I?]]』<br />'''Professional Achievement Award'''<br />2005年
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----'''[[アカデミー賞]]'''<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<ref name="movie">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref><br />2016年
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| piccap = 繁体字中国語(上)と簡体字中国語(下)で書かれたジャッキー・チェン
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'''ジャッキー・チェン'''({{Lang-zh-hant-short|成龍}}; チャン・ロン 日本語読み:せいりゅう<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3-190716 日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャッキー・チェン」の意味・わかりやすい解説] [[コトバンク]]</ref> {{IPA-all|ʈʂʰə̌ŋ.lʊ̌ŋ}} [[香港語言学学会粤語拼音方案|粤拼]]: Sing4 Lung4、{{Lang-en-short|Jackie Chan}}、[[1954年]][[4月7日]] - )は、[[中華人民共和国]]の[[俳優]]、[[映画監督|監督]]、[[映画プロデューサー|プロデューサー]]、[[中国武術|武術家]]、[[歌手]]。出生名は '''陳 港生'''(チャン・コンサン、ちん こんせい、{{Lang-zh-hant-short|陳港生}}; {{IPA-all|ʈʂʰə̌n kàŋ.ʂə́ŋ}})、本名は '''房 仕龍'''(ファン・シーロン、ぼう しりゅう、{{Lang-zh-hant-short|房仕龍}}; {{IPA-all|fǎŋ ʂɻ̩̂.lʊ̌ŋ}})。身長 173cm。
恵まれた身体能力を活かして、暗い復讐劇が多かった[[カンフー]][[アクション映画]]の世界に、[[ハロルド・ロイド]]や[[バスター・キートン]]などの[[コメディ映画]]の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風の[[カンフー映画]]を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主役として出演。69歳を迎えた2023年現在でも自らアクション[[スタント]]をこなすことで知られる。代表作は『[[プロジェクトA]]』など多数。
存命俳優としてはギネス世界記録となるスタント回数を記録している<ref>例として、クレイグ・グレンディ『ギネス世界記録 2014』p203(2013年9月12日初版、KADOKAWA)などに記載あり。</ref>。
妻は[[台湾]]の元[[俳優|女優]][[林鳳嬌|ジョアン・リン]]。息子は俳優の[[ジェイシー・チャン]]。
== 生い立ち ==
ジャッキー・チェンは、1954年に[[イギリス領香港]]の[[ヴィクトリア・ピーク]]にて'''陳港生'''(チャン・コンサン)<ref group="注" name="born_in_Hong_Kong">名前の「港生(ピン音表記:Kong Sang(ゴンサン))」は(希望すれば「英国海外市民(British National Overseas、BNO)」)になることができる)『香港(Hong Kong)生まれ』であるという意味である。</ref>として生まれた。祖籍は[[安徽省]]で、父親は陳志平(チャールズ・チャン、本名: 房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)<ref group="注">両親については、[[:en:Charles and Lee-Lee Chan|Charles and Lee-Lee Chan]]参照。彼の生い立ちは、[[メイベル・チャン]]監督の『[[失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン]]』([[2002年]])に詳しく、ジャッキー本人も知らない兄弟の存在など複雑な家庭環境を持ったことが紹介されている。また、この作品においてジャッキーの本名は陳港生ではなく、房仕龍(家系図上での名は房仕龍とされており、ジャッキーは唐代の宰相[[房玄齢]]の子孫だと自称している)であると明かされている。</ref>。
ジャッキーの父親は[[中国国民党]]のスパイであり、[[国共内戦]]の結果香港に逃れ、改名、在香港米領事館にて料理人として働いていた。ジャッキーは2001年にこの事実を父親から知らされ、本名は'''房仕龍'''であること、兄弟がいることなどを知った。この話をジャッキーは撮影し、ドキュメンタリー映画『[[失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン]]』(2003年)として世間に公表した。2003年には息子が陳祖明から房祖名に改名、2013年には自身も'''房仕龍'''に改名している。
== 経歴 ==
[[ファイル:Jackie Chan star.JPG|thumb|250px|香港星光大道のチェンの手形]]
[[ファイル:JCGroup KowloonTong.JPG|thumb|250px|香港[[九龍塘]]にあるチェンの制作会社]]
[[ファイル:Jackie Chan star in Hollywood.jpg|thumb|250px|[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にあるチェンの星]]
=== 中国戯劇学院時代から映画デビューへ ===
7歳から約10年間、{{日本語版にない記事リンク|中国戯劇学院|zh|中国戏剧学院}}で[[京劇]]や中国武術を学び、学院の閉鎖後、映画の[[エキストラ]]やスタントマンを務めた<ref group="注">彼の青春時代を描いた、メイベル・チャン製作総指揮・脚本、[[アレックス・ロー]]監督、サモ・ハン・キンポー主演の『[[七小福]]』([[1989年]])では、厳しい京劇の学校での生活と、[[香港映画]]界へと進むまで姿が描かれている(ただしジャッキー本人は出演していない)。</ref>。映画デビュー作は『[[大小黄天覇]]』(1962年)。
無名時代、[[ブルース・リー]]の映画『[[ドラゴン怒りの鉄拳]]』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでリーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『[[燃えよドラゴン]]』(1973年)ではリーに首を折られるエキストラ役としても出演した<ref name="20120921_CBC" />。その後オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いた。
「'''陳元龍'''」<!--チャン・ユンロン-->名義で大地製作の『[[ファイティング・マスター]]』(1972年)で俳優デビューする。『[[ドラゴン・ファイター]]』 (1973年)に悪役として出演するが、2作品ともヒットはしなかった。
=== 成龍としての再デビュー ===
1976年にロー・ウェイプロダクションの支配人ウィリーチャンの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイプロと専属契約し、芸名を'''陳元龍'''<!--チャン・ユンロン-->から'''成龍'''<!--セン・ロン-->と改名し、『[[レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳]]』(1976年)で再デビューを果たした。しかし、300本あまりの映画のうち興行成績は振るわなかった<ref name="DeA17" />。
ジャッキーは、「クレイジーモンキー/笑拳」で監督、及び主演を果たし、初のヒットデビューをした。
続く『[[少林寺木人拳]]』(1976年)、『[[成龍拳]]』(1977年)、『[[ジャッキー・チェンの飛龍神拳|飛龍神拳]]』(1977年)などのクンフー作品に主演するが、同じく興行成績は振るわず、不発に終わってしまう<ref name="DeA17" />。
復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられることが多かったが成功には至らず、そうした反省も踏まえ、ジャッキーは製作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。
=== アジアのトップスターに ===
ロー・ウェイプロと専属契約中、シーゾナル・フィルムへレンタルし、1977年、[[ユエン・ウーピン]]監督の『[[スネーキーモンキー 蛇拳]]』(1978年)に出演した。ジャッキーが独自のコメディ路線を打ち出したこの映画は高い興行成績を突破した。続く『[[ドランクモンキー 酔拳]]』(1978年)で、ジャッキーはスーパースターとしての地位を不動のものにした。次作の『[[クレージーモンキー 笑拳]]』(1979年)では監督業にも進出。1979年にはロー・ウェイプロを離れ、新たに[[ゴールデン・ハーベスト]]社に移籍。ゴールデン・ハーベストで最初に製作した映画は、自ら監督と主演作を務めた『[[ヤングマスター 師弟出馬]]』(1980年)である。
1980年代に入ると、『[[プロジェクトA]]』(1984年)や『[[ポリス・ストーリー/香港国際警察]]』(1985年)に代表される自ら命懸けのスタントをこなす監督・主演作品が大ヒット。香港映画界を代表するアジアのトップスターとなった。一時期、批評家からの声に刺激され『[[奇蹟/ミラクル]]』(1989年)のような文芸路線を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。
そんな華々しい活躍の中で『[[サンダーアーム/龍兄虎弟]]』(1986年)の撮影中に大けがを負ってしまい、その後遺症で右耳がほとんど聞こえなくなっている。
『[[プロジェクト・イーグル]]』(1991年)を最後に一時監督業からは退き俳優業に専念する一方、製作者として『[[ロアン・リンユィ 阮玲玉]]』(1992年)などの文芸作品も世に送り出した。
=== ハリウッド進出 ===
元々、[[ハリウッド]]進出の意欲は高く、『[[バトルクリーク・ブロー]]』(1980年)では[[ホセ・フェラー]]らと共演したが、興行成績が振るわず、散々な結果に終わった。また、ハリウッドの有名俳優が総出演した『[[キャノンボール (映画)|キャノンボール]]』(1981年)では彼と同じく香港俳優の[[マイケル・ホイ]]と共に日本人ドライバーとして出演。映画自体はアメリカでヒットしたものの、地元香港では振るわず、ジャッキーの存在がハリウッドに広まることはなかった。
2度目にハリウッドに挑戦したのは、ちょうど香港映画がアメリカでヒットするようになった頃だった。ゴールデン・ハーベストは『[[プロテクター (映画)|プロテクター]]』(1985年)でジャッキーにタフガイを演じさせたが、彼のキャラクターがうまく生かされず、評価は高まらなかった<ref group="注">アメリカでの撮影では、肝心のアクションシーンにおいて些細なシーンでも保険の問題などから監督やコーディネーターに危険と判断され香港時代のようにノースタントで自由に演じさせてもらえないなど、ハリウッドのシステムで悩んだという。</ref>。しかし、1995年公開の香港作品『[[レッド・ブロンクス]]』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。
そして1998年の『[[ラッシュアワー (映画)|ラッシュアワー]]』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築き、続編『[[ラッシュアワー2]]』(2001年)は全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後、立て続けにアメリカ映画作品に出演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、[[アカデミー賞]]のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった。
ただし地元香港では、これらのジャッキー主演ハリウッド映画はいずれも不入りで、『[[タキシード (2002年の映画)|タキシード]]』(2002年)、『[[シャンハイ・ナイト]]』(2003年)、『[[メダリオン]]』(2003年)などはジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった<ref>[[野崎歓]]『香港映画の街角』[[青土社]]、310ページ。</ref>。
=== アジアへの回帰と脱スタント・アクション ===
2004年に香港の[[エンペラー・エンターテインメント・グループ]]と提携して、自らの映画制作会社、JCEムービーズを設立し、その第1回作品として『[[香港国際警察/NEW POLICE STORY]]』を製作・主演。以後、香港・中国映画とアメリカ映画に並行して出演するようになる。2007年には長年の友人である[[真田広之]]との初共演が実現した『[[ラッシュアワー3]]』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなり、2008年には[[ジェット・リー]]との初共演作『[[ドラゴン・キングダム]]』が公開された。
2009年、アクションを封印したシリアスなバイオレンス映画『[[新宿インシデント]]』に主演。主人公の師匠役を演じた2010年の『[[ベスト・キッド (2010年の映画)|ベスト・キッド]]』は2000年代に入ってからの出演作では最大のヒット作となった。2011年、出演作100本目記念作品とされる歴史映画『[[1911 (映画)|1911]]』が公開。2012年の『[[ライジング・ドラゴン]]』で「体を張った本格アクションからは今作限りで引退」と宣言した。
2014年4月、[[上海市]][[普陀区 (上海市)|普陀区]]に世界で初めてとなるジャッキー・チェンの博物館、[[成龍電影芸術館]]が開館した。芸術館をはじめ3棟の建物がメインとなり、映画資料や小道具、衣装などが展示されている。
2015年に公開された主演・製作映画『[[ドラゴン・ブレイド]]』が大ヒットを記録し、2010年代最大の成功作となった。これにより、アメリカの[[フォーブス (雑誌)|フォーブス誌]]の高額俳優ランキング(2014年6月1日〜2015年6月1日)で5000万ドルを記録し、[[ロバート・ダウニーJr.]]に次ぐ世界2位となった。
2016年、[[アカデミー名誉賞]]を受賞した。また、ファンへの感謝も忘れず、「僕が窓から飛び降りたり、キックしてパンチして、骨折しながら映画を作り続けているのはすべて世界のファンのためだよ。ありがとう!」と述べ、会場でスタンディングオベーションが起きた<ref name="movie">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref><ref>{{cite news|url=https://www.cinemacafe.net/article/2016/11/14/44894.html|title=ジャッキー・チェン、アカデミー賞“名誉賞”を受賞|newspaper=cinemacafe.net|date=2016-11-14|accessdate=2016-12-15}}</ref>。
== 俳優活動 ==
[[ファイル:Jackie Chan and a female singer 2.jpg|thumb|歌手として活躍するチェン]]
[[ファイル:Jackie Chan's Embraer Legacy 650 on finals at Beijing Capital Airport.jpg|thumb|チェンの私用ジェット機・レガシー650(北京)]]
地元香港では漢字名「'''成龍'''(セン・ロン<ref name="shenron">[https://ja.forvo.com/word/成龍/ 成龍 の発音 広東語・粤語(yue)]</ref>)」、[[欧米]]では英語名"'''Jackie Chan'''"<ref name="official">[https://jackiechan.com/ The Official Website of Jackie Chan] 自らの公式ウェブサイトで"Jackie Chan"とのみ名乗っている。2019年09月29日閲覧。[https://megalodon.jp/2019-0929-2356-07/www.jackiechan.com/ アーカイブ]</ref><ref name="1999_Silver_Bauhinia_Star">[https://www.info.gov.hk/cml/eng/miscell/index2.htm Recipients of Hong Kong Special Administrative Region Honours and Awards 1999 Silver Bauhinia Star (S.B.S.)] 2019年9月29日閲覧。[https://megalodon.jp/2019-0929-2305-00/https://www.info.gov.hk:443/cml/eng/miscell/index2.htm アーカイブ]</ref>、[[日本]]では英語名のカタカナ表記による日本語名「'''ジャッキー・チェン'''」<ref name="eiga_com">[https://eiga.com/person/37742/ ジャッキー・チェン(映画.com)] 2019年10月01日閲覧。[https://megalodon.jp/2019-1001-0001-50/https://eiga.com:443/person/37742/ アーカイブ]</ref><ref name="movie_walker">[https://moviewalker.jp/person/15389/ ジャッキー・チェン(MovieWalker)] 2019年10月01日閲覧。[https://megalodon.jp/2019-1001-0004-42/https://movie.walkerplus.com:443/person/15389/ アーカイブ]</ref>を俳優名としている。日本では当初「ジャッキー・チャン」として活動する予定であったが、日本のみ諸事情(親しみを込めて相手を呼ぶ際の「〜ちゃん」と被るため)により「ジャッキー・チェン」で活動することとなった。だが息子は「[[ジェイシー・チャン]]」になっている。
=== アクション俳優 ===
{{Main2|成家班については[[#ジャッキー・スタントチームのメンバー|ジャッキー・スタントチームのメンバー]]を}}
ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手、スタントマンなどの仲間で構成された『[[:en:Jackie Chan Stunt Team|成家班]]、英語名:Jackie Chan Stunt Team(ジャッキー・チェン・スタント・チーム)』によって支えられている。成家班はジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション([[殺陣]])を作り上げている。
ヘリコプターを使ったアクションとして『[[ポリス・ストーリー3]]』(1992年)と『[[ファイナル・プロジェクト]]』(1996年)が有名だが、『[[ポリス・ストーリー3]]』の時は機体がジャッキーの体にぶつかり大怪我、『[[ファイナル・プロジェクト]]』ではプロペラがジャッキーの帽子に接触(頭上2cm)し、間一髪大怪我を免れている。その後ジャッキーはヘリコプターを使ったアクションはやらなくなった。
「自身の作品で一番好きなのは?」の問いに対し、「アクションなら『[[ポリス・ストーリー/香港国際警察]]』、監督なら『[[奇蹟/ミラクル]]』」と答えている。また「思い出に残る作品は?」の問いに対し、笑いながら「沢山ありますよ」と前置きした後、悩みながら、第3位は『[[酔拳2]]』、第2位は『[[レッド・ブロンクス]]』、第1位は『[[プロジェクトA]]』と答えている。
==== スタントマンの使用 ====
自身のスタントマンは『プロジェクトA』から使用しており、時計台の落下は{{仮リンク|label=マース(火星)|マース (俳優)|en|Cheung Wing-fat}}<ref name=":0">{{Cite web|title=成龍從來不用替身?別開玩笑了,他替身多的一卡車都裝不下!|url=https://kknews.cc/entertainment/3bnkamo.html|accessdate=2020-04-07|language=zh-tw}}</ref>も担当している。
アクションでは{{仮リンク|チン・ガーロウ|label=チン・ガーロウ(錢家樂)|en|Chin Ka-lok}}<ref name=":0" />、カースタントでは[[柯受良|ブラッキー・コウ(柯受良)]]<ref name=":1">{{Cite web|title=duang,duang,duang你不知道的成龍八大黑歷史|url=http://www.ifuun.com/a201712047474450/|website=iFuun|date=2017-12-04|accessdate=2020-04-07|language=zh-tw}}</ref>、曾凡仁<ref>{{Cite web|title=成龍替身拍戲多年,傷痕累累,成龍「給」他一輛法拉利表示感謝|url=https://fingerdaily.com/6/%E6%88%90%E9%BE%8D%E6%9B%BF%E8%BA%AB%E6%8B%8D%E6%88%B2%E5%A4%9A%E5%B9%B4%EF%BC%8C%E5%82%B7%E7%97%95%E7%B4%AF%E7%B4%AF%EF%BC%8C%E6%88%90%E9%BE%8D%E3%80%8C%E7%B5%A6%E3%80%8D%E4%BB%96%E4%B8%80%E8%BC%9B.html|website=新指尖日報|accessdate=2020-04-08|language=zh-TW|last=.}}</ref>、李樹華<ref>{{Cite web|title=成龙曾经的御用替身,邓光荣赞助他赛车,一天最高赚过2万块|url=https://new.qq.com/omn/20190304/20190304A0BXRZ.html|website=new.qq.com|accessdate=2020-04-08}}</ref>。他には[[ブルース・ロウ|ブルース・ロウ(羅禮賢)]]<ref name=":1" />、見た目もそっくりなリー・ハイチン(李海青)<ref>{{Cite web|和書|title=やっぱりいたスタントマン!ジャッキー・チェン瓜二つの李海青はクールな「龍兄さん」―中国 (2009年3月12日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Recordchina_20090312030/|website=エキサイトニュース|accessdate=2020-04-07|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|title=作為成龍的替身,他替成龍出生入死,到頭來卻不被成龍承認|url=https://kknews.cc/entertainment/kyko8p.html|accessdate=2020-04-08|language=zh-tw}}</ref>、馬毅<ref name=":1" />など。アクション、武術、カースタントに使用しているのは2007年に羅禮賢が発言したことをきっかけに中華圏では広く知られているが、日本では本人も否定する発言をするのであまり知られていない。しかし2004年のあるアメリカの映画祭で[[ジェット・リー|ジェット・リー(李連杰)]]が「ジャッキーもスタントマンを使う」とインタビューに答えている<ref>{{Cite web|title=揭秘成龙帅气“替身”的真实面目(图)-推荐频道-手机搜狐|url=https://m.sohu.com/n/556862366/|website=m.sohu.com|accessdate=2020-04-07}}</ref>。
==== カメオ出演 ====
自身がプロデュースした作品には1シーンのみの[[カメオ出演]]をする場合が多い(1986年『クラッシュ・エンジェルス/失われたダイヤモンド』、1999年『ジェネックス・コップ』、2004年『[[エンター・ザ・フェニックス]]』など)。
==== 引退・新人の育成について ====
以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。また事あるごとに引退を示唆する発言をしている。[[2000年代]]に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。
=== 歌手 ===
俳優だけではなく歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は彼自身が歌うことが多い。歌は[[ロックレコード]]の[[李宗盛]]から学んだ。
[[陳淑樺]](サラ・チェン)との「明明白白我的心」は[[中華圏]]でよく知られ、今でも[[デュエット]]・ソングとして人気がある。1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。
日本での本格的歌手デビューは、1983年の[[五輪真弓]]による「マリアンヌ」で[[シングル]]レコードによる発売。ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『[[ヤングマスター 師弟出馬]]』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。『[[ファースト・ミッション]]』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(CHINA BLUE、TOKYO SATURDAY NIGHT)を本人が歌った。
== 人物 ==
[[ファイル:Jackie Chan Cannes.jpg|thumb|カンヌ映画祭でのジャッキー・チェン(2008年)]]
[[ファイル:Jackie Chan - Cannes.jpg|thumb|alt=upright0.1|カンヌ映画祭にて(2012年)]]
[[ファイル:Jackie Chan Cannes 2013.jpg|thumb|alt=upright0.1|カンヌ映画祭にて(2013年)]]
[[ファイル:Jackie Chan July 2016.jpg|thumb|シドニーにて(2016年)]]
{{中華圏の人物
|タイトル= ジャッキー・チェン
|画像種別=
|画像= [[File:Ministru prezidents Valdis Dombrovskis tiekas ar filmu zvaigzni Džekiju Čanu (6993157256).jpg|160px]]
|画像の説明=
|簡体字= 成龙
|繁体字= 成龍
|ピン音= Chéng Lóng(北京語)<br />Sing4 Lung4(広東語)
|通用 =
|注音= ㄔㄥˊㄌㄨㄥˊ
|ラテン字=
|発音=チォンロン(北京語)<br />センロン(広東語)
|和名= せいりゅう
|英語名=Jackie Chan
|本名繁体字=房仕龍
|本名簡体字=房仕龙
|本名ピン音=Fáng Shìlóng(北京語)<br />Fong4 Si6 Lung4(広東語)
|本名通用=
|本名注音=ㄈㄤˊㄕˋㄌㄨㄥˊ
|本名注音二式=
|本名和名=
|本名発音=ファン・シーロン(北京語)<br />フォン・シーロン(広東語)
|本名ラテン字=
|本名英語名=Fong Si-lung
}}
[[トム・クルーズ]]や[[ジョニー・デップ]]と並び、ファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真など、常に特別待遇で接している。
[[千葉真一]]の熱狂的なファンで、千葉のような「アクションスター」になる事が夢だった<ref name="chibashinichi">{{Cite web|和書|author= [[堀田眞三]] |date= 2006-07-30|url= https://blog.goo.ne.jp/hottashinzo/e/46a52dbafe59712cdeaf15ab22f92cbb|title= 千葉真一さんの職業病|publisher= 俳優 堀田眞三(グランパ)です。|language= 日本語|accessdate= 2010-12-24}}</ref>。[[テレビドラマ]]『[[キイハンター]]』で[[スタント・パーソン|スタントマン]]に頼らず、千葉が演ずるアクションに刺激を受けて惚れこみ、ジャッキーがスターと認められだした頃に[[東映京都撮影所]]へ千葉を表敬訪問している<ref name="chibashinichi" />。
[[1994年]]に[[ディスレクシア|読字障害]]であることを告白したが、2012年現在は克服している。[[広東語]]、[[北京語]]、[[英語]]、[[朝鮮語|韓国語]]<ref group="注">[[大韓民国|韓国]]でも大変人気が高く、本人もたびたび韓国を訪れている。</ref>に堪能で、[[日本語]]も少し話せる。
[[ふるまいよしこ]]によると、日本で人気を博していた時代のジャッキーは、中国ではまったく知られておらず、ジャッキーの映画が中国に入り始めたのは[[1997年]]の[[香港返還|香港返還後]]のことで、[[香港政庁|植民地政府下]]の[[香港警察]]に全面的な協力を受けて撮影された作品は、当初は公的には敬遠されていた感があったという<ref name="ふるまいよしこ">{{Cite web2|url=https://diamond.jp/articles/-/306891|title=ジャッキー・チェンは今や「中国政府べったりスター」、香港映画を待つ運命|accessdate=2022-07-25|author=[[ふるまいよしこ]]|date=2022-07-24|website=[[週刊ダイヤモンド|ダイヤモンド・オンライン]]}}</ref>。[[2000年代]]に香港映画が中国市場の開拓を狙って作品作りをするようになると、ジャッキーも積極的に中国に進出し、香港映画が中国市場受けするテーマやアプローチを選択し始めると、ジャッキーも香港のスターというより、中国のスターを目指し始めた<ref name="ふるまいよしこ"/>。
[[2012年]][[9月21日]]に[[:en:CBC Television|CBC]]の『[[:en:George Stroumboulopoulos Tonight|George Stroumboulopoulos Tonight]]』に出演した時に「父は、元スパイだった。ある日、オフィスに戻るために、運転をしていたら、80歳近くになる父親が急に、話しておきたい秘密があるというのでカメラと照明を設定し、そしてカメラの前でその告白をしてもらった。私は、40年以上ジャッキー・チェンとして生きてきたが本名は房(ファン)であると父から伝えられた。父には、他に息子が2人、母には娘が2人いると言われ、自分には兄弟がいることがこの時分かった。」とインタビューに答えている。このインタビューで(この時点では)2人の兄に会った事はないが、姉達には会ったと答えている<ref name="20120921_CBC">[https://www.youtube.com/watch?v=2qbi4wNefo0 Jackie Chan on George Stroumboulopoulos Tonight: Extended Interview] ※03:26頃、エキストラ役のジャッキー・チェン(それとは判別できない)が[[ブルース・リー]]を後ろから羽交い締めにし、逆にリーに首を折られるという『[[燃えよドラゴン]]』の懐かしの場面が放映される。07:45頃からジャッキー・チェンの父がスパイであった事などの秘話が始まる。2019年09月30日閲覧。</ref>。
ジャッキーは、日本では「香港の庶民派スター」という何十年来のイメージであるが、[[中華圏]]では立派な「愛国派スター」と認識されており、「[[正義]]の[[中国人]]として[[外国]]の悪に立ち向かっていく」作品が続き、そこに「愛国ムード」を嗅ぎ取る人もいる<ref name="ふるまいよしこ"/>。
=== 先輩・後輩との関係 ===
[[ブルース・リー]]との逸話。ジャッキーが無名時代、休日に1人で[[ボウリング]]に行こうと道を歩いていると、偶然ブルース・リーと遭遇。2人は仲良くボウリング場へと足を運んだが、ブルース・リーはジャッキーのプレイを後ろから見るだけで「じゃ、用事があるからこれで」と言い残し帰って行ったということがあった。また撮影の合間には、彼の作品でスタントを演じていたジャッキーに対して、特に優しく接してくれていたとのこと。
『[[七小福]]』時代から同じ釜の飯を食って育った[[サモ・ハン・キンポー]]は先輩であり[[ユン・ピョウ]]は後輩である。2人はジャッキーと共に1983年から1988年に多くの共演作品が日本でも公開され、社会現象を起こし香港ビッグ3と呼ばれている。
3人が幼い頃ユン・ピョウの20セントを巡って2人が殴り合いの喧嘩をし、サモ・ハンが勝利したことがあるとユン・ピョウがインタビューしている。
ジャッキーが無名時代には先に映画業界で名を馳せていたサモ・ハンが色々面倒を見ていたこともある。
ジャッキーとサモ・ハンは両者の作品に対する取り組み方(ジャッキーはアクション、特に美しさに対する拘りが強く、サモ・ハンは娯楽性に重点が置かれる傾向の作品が多いなど)の違いにより『[[サイクロンZ (映画)|サイクロンZ]]』以降疎遠であったがその後、1995年の『[[デッドヒート (映画)|デッドヒート]]』と1997年の『[[ナイスガイ]]』で再タッグを組み、2008年の 『[[拳師〜The Next Dragon〜]]』ではジャッキーがエグゼクティブ・プロデューサーを務めサモが主演。[[香港電影金像奨]]での功労賞の同時受賞、香港の年越しイベントでの『七小福』の共演、お互いのスタントチームの共有をしているなど、仲は修復している。
2015年1月にはユン・ピョウの娘の結婚式にサモ・ハンがジャッキーを呼び寄せ、久しぶりに3人が揃ったと場を大いに盛り上げた。
=== 政治関係 ===
[[2003年]]、『[[80デイズ]]』の撮影のためにベルリンに滞在した時、[[ユナイテッドバディーベア|バディーベア]]に出会い、翌[[2004年]]に香港ビクトリアパークでこのバディーベアを展示できるように取り計らった。この展示会の開催で、[[国際連合児童基金|ユニセフ]]と2つの恵まれない子供たちのための団体が414万[[香港ドル]](約5700万円)を手にした。
[[チベット自治区]]に監視を行う中国に対して一部で抗議がある中、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]に反対することは不公平であるとし、北京五輪では記念ソングを合唱した<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/3791607/ <北京五輪>閉会式にジャッキーら総出演、ほぼぶっつけ本番で大合唱!―中国]</ref>。2009年5月2日には2010年[[上海国際博覧会]]の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウン・イベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。
[[2011年]][[1月20日]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ホワイトハウス]]で行われた公式訪問中の[[胡錦濤]][[中華人民共和国主席|国家主席]]を歓迎する「[[バラク・オバマ|オバマ米大統領]]夫妻主催の晩餐会」にジャッキーも政財界の大物や著名人など計225人の招待客と共に出席し、ジャッキーと対面したオバマ米大統領は握手しながら、「私も君のファンだよ」と話しかけたばかりか、[[ヒラリー・クリントン]]米[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]も、夫の[[ビル・クリントン]]元米大統領もジャッキーのファンだと話した。また胡主席とも話す機会に恵まれ、ちょうどジャッキーと胡主席が話し始めようとかという時にオバマ米大統領がやってきて、「知っていますか。アメリカでジャッキーはとてもとても有名なんですよ」と話しかけた。すると胡主席は「中国ではもっと有名ですよ」と笑顔で返答した。この公式晩餐会を振り返ったジャッキーは、「本当に光栄に思う」と興奮ぎみにメディアに語った。
2012年、香港[[政府観光局]]の[[観光大使]]を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行った。また、[[中国人民政治協商会議]]では委員にも選ばれた<ref>{{Cite news | url = https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0205N_S3A200C1FF8000/ | title = ジャッキー・チェン氏ら助言機関委員に 中国共産党| newspaper= 日本経済新聞| date = 2013-02-02 }}</ref><ref>{{Cite news | url = http://www.asahi.com/articles/ASK334DQZK33UHBI01C.html | title = 中国の政協が開幕 ジャッキー・チェンさんも登場 | newspaper = 朝日新聞 | date = 2017-03-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170303164330/http://www.asahi.com/articles/ASK334DQZK33UHBI01C.html|archivedate=2017-03-03}}</ref>。
2019年には[[2019年逃亡犯条例改正案]]をめぐる香港の混乱に対して「みんなの『紅旗の守り人』としての思いを表現したい」と述べて香港政府・中国政府を支持するキャンペーン「五星紅旗を守る14億人」に参加した<ref>{{Cite news| url = https://www.recordchina.co.jp/b737087-s16-c10-d0000.html| title = 僕は紅旗の守り人 香港に安定を=ジャッキー・チェン | newspaper = [[Record China]]| date = 2019-08-14|accessdate=2019-08-16}}</ref>。
2020年、「[[中華人民共和国国家安全法|国家安全法]]」の香港への導入について、2000人を超える香港の芸能関係者と連名で支持を表明した<ref>{{Cite web|和書|title=ジャッキー・チェンさんら、国家安全法制への支持表明:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASN505WQQN50UHMC00N.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-05-31|language=ja}}</ref>。
[[2021年]][[7月8日]]、副主席を務めている{{仮リンク|中国映画家協会|en|China Film Association}}が開催した[[中国共産党]]結党100周年記念座談会において、「共産党は偉大だ。約束したことは数十年で実現するだろう」「私は[[中国人]]になって光栄だが、共産党員がうらやましい。私も党員になりたい」と語った<ref name="朝日新聞"/>。これに対して『[[環球時報]]』は、「香港[[エリート]]の共産党に対する理解は、ますます客観的、理性的になってきている」と評価している<ref name="朝日新聞">{{Cite news |author=高田正幸 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP7D6HQ5P7DUHBI02G.html |title=「共産党員になりたい」 ジャッキー・チェン氏が発言 |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=|date=2021-07-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210712160956/https://www.asahi.com/articles/ASP7D6HQ5P7DUHBI02G.html |archivedate=2021-07-12}}</ref>。
近年、ジャッキーは中国共産党との関係を重視する動きを見せ、大陸寄りの姿勢が鮮明となっており、香港では「裏切り者」との批判を受けている<ref name="東京スポーツ0830"/>。[[周来友]]は「ジャッキーはかつて[[六四天安門事件|天安門事件]]が発生した[[1989年]]当時、[[テレサ・テン]]を始め、数々の香港スターたちと共に中国共産党を批判し、学生たちを支持するため、大規模な[[イベント]]にも参加しました。現在のジャッキーについて香港市民からは『共産党の[[イヌ|犬]]』という批判も出ています。ジャッキーファンも多くいる日本でも彼の変化に複雑な思いを抱く人も多いのではないでしょうか」と指摘している<ref name="東京スポーツ0830">{{Cite news|author=|date=2022-08-31|title=ジャッキー・チェンに「裏切り者」の烙印 中国本土に8億円豪邸を購入|publisher=|newspaper=[[東京スポーツ]]|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/4413677/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220830214132/https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/4413677/|archivedate=2022-08-30}}</ref>。
==== 台湾に関する発言 ====
ジャッキーは[[2004年]][[3月28日]]に親善大使として[[上海市|上海]]を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、[[台湾]]の選挙直前に起こった三一九[[中華民国総統|台湾総統]]・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国をさらに強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。姚文智[[行政院新聞局]]局長は、彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』〈[[台北市]]1014万[[台湾ドル|台湾元]]〉、『[[THE MYTH/神話]]』〈台北市1100万台湾元〉『[[香港国際警察/NEW POLICE STORY]]』〈台北市900万台湾元〉)。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。
その後、ジャッキーは台湾を愛しているからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も[[台湾人]]なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の[[2006年]][[9月19日]]に香港映画の『[[プロジェクトBB]]』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統[[陳水扁]]に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。さらに台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。
==== 中国・台湾・香港に関する発言 ====
[[2007年]]には「[[中国人]]に[[自由]]を与えてはいけない。香港や台湾は自由すぎて乱れている。中国人は[[管理]]されるべきだ」などと中国メディアで語り、台湾や香港のみならず、中国国内の[[知識人]]からもバッシングを浴びた<ref name="ふるまいよしこ"/>。[[2009年]][[4月18日]]、[[海南島]]で行われた[[ボアオ・アジア・フォーラム]]の会見上で、中国国外メディアから文化活動の自由について聞かれ、「自由すぎると、[[香港]]のように混乱する。[[台湾]]も混乱している。[[中国人]]は管理される必要がある」と発言した<ref>{{Cite news|author=|date=2009-04-20|title=ジャッキー「中国人は要管理」、中国人「その通り!」|publisher=[[サーチナ (ポータルサイト)|Searchina]]|newspaper=|url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0420&f=national_0420_027.shtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090423210557/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0420&f=national_0420_027.shtml|archivedate=2009-04-23}}</ref>。その後も、中国政府への[[忠誠]]や愛国をチャンスがある限り示すようになり、香港での自由や民主を求める機運を堂々と批判し、[[2019年-2020年香港民主化デモ|2019年のデモ]]の際には[[中国中央電視台|CCTV]]に出演して、「CCTVが呼びかけた『14億人で中国国旗を振ろう』キャンペーンにぼくは真っ先に賛成した」と誇らしげに述べて、香港市民の失望を買った<ref name="ふるまいよしこ"/>。
また「[[テレビ]]は[[Made in Japan|日本製]]を買う。中国製のテレビは[[爆発]]するかもしれない」と発言し物議をかもした<ref>{{Cite news|author=|date=2009-04-20|title=【華流】ジャッキー「TV買うなら日本製」で、納得の中国人も|publisher=[[サーチナ (ポータルサイト)|Searchina]]|newspaper=|url=http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0420&f=entertainment_0420_004.shtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090421225909/http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0420&f=entertainment_0420_004.shtml|archivedate=2009-04-21}}</ref>。
=== 収入・財産 ===
[[フィランソロピー|慈善家]]でも知られており、幼少期にジャッキー自身が貧しくても「悪人とは付き合うな、[[麻薬]]には手を出すな」などの親の教えには感謝している。
* 2005年[[12月29日]]付の台湾の通信社・中央社は、香港メディアの報道「台湾・香港著名人の2005年年収ランキング」によると推定2億3000万香港ドル(約30億円)であると伝えた。
* 2006年、10億香港ドル(約150億円)と言われる全財産の半分を慈善事業に寄付するよう遺言を作成したと発表された。
* 2011年4月、総資産260億円と言われる財産を家族には残さず、その全てを不幸な人の為に使う事を公言した<ref>[https://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=50368 「全財産をチャリティー」宣言、息子への遺産ゼロ―香港] - 2011年4月3日、レコードチャイナ</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110404/ent11040409270005-n1.htm ジャッキー全財産を東日本大震災などに寄付 総額260億円] - 2011年4月4日、産経ニュース</ref>。
=== 女性関係 ===
ジャッキー・チェンは若い頃、[[テレサ・テン]]と恋愛をしていた。しかし、価値観の違いや仕事の忙しさなどが原因で2人は別れることになる。
1983年、ジャッキーは台湾女優の[[林鳳嬌]](ジョアン・リン)と結婚。しかし日本では、本人および映画会社関係者はそのことを隠し続け、1980年代にも日本のテレビがスクープしたが、取材に対して独身であると説明し、既婚者であることを秘匿していた。
テレサは1995年に気管支喘息の発作のため亡くなった。テレサの死後も、ジャッキーの彼女に対する思いと悲しみは消えることなく、ジャッキーの第2弾レコードには、テレサとのデュエット曲を収録した<ref group="注">自伝『I AM JACKIE CHAN』の中で、テレサとの恋愛と別れ、亡くなった彼女に対する想いについて明かしている。なおテレサとのデュエット曲は、日本だけでなく中華圏でも大ヒットしたテレサの代表曲「[[時の流れに身をまかせ]]」の北京語版(「我只在乎你」)からテレサの歌声のみを抜き出し、ジャッキーのボーカルと合成して完成させたものである。</ref>。
=== 三菱自動車との関係 ===
==== 映画での三菱車の使用 ====
{{出典の明記|section=1|date=2021年1月}}
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ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『[[キャノンボール (映画)|キャノンボール]]』を除いて多くの作品で[[三菱自動車工業]]の車両協力を受けている。
特に[[三菱・ランサー|ランサー]]、[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]]、[[三菱・パジェロ|パジェロ]]、[[三菱・ギャラン|ギャラン]]が多い。
* 『[[スパルタンX]]』(快餐車):[[三菱・デリカ|デリカ]](欧州名L300)ベースのハイテク[[移動販売|移動販売車]](劇中に三菱自動車の[[ネオンサイン]]も映る)が登場。改造は007のボンド・カーも手がけている所によるものらしい。他に劇中のカーチェイスに巻き込まれる一般車として老婆の運転する[[三菱・スタリオン|スタリオン]]がジャンプするシーンがあるが、ジャンプ後の[[ダブルミーニング|老婆の台詞が車の宣伝文句ともとれるもの]]となっている。
* 『[[ファースト・ミッション]]』:ミラージュ。[[九龍]]から[[香港島]]の市街地において香港警察のパジェロなどと派手なカーチェイスを展開する。[[三菱・ギャラン|ギャランΣ]]も登場している。
* 『[[サンダーアーム/龍兄虎弟]]』:ミラージュ・スパイダー(ミラージュベースのコンセプトカー)。敵組織のウェザリングが施された数台のパジェロとカーチェイスの末、爆破される。この車は、1984年の[[マカオグランプリ]]の「ジャッキー・チェン・トロフィー」においてジャッキーが乗る[[ペースカー]]としてお披露目されたところ、ジャッキーに気に入られ、劇用車として使用されることになった。三菱は劇中のメイン車両としてガルウイングのオリジナル車、スタント・爆破用として簡略装備のスウィングドア車、緊急脱出シーン撮影のためのエンジンなし改造車の3台を提供したが、劇中ではスウィングドア車がメイン車両として起用されており(ガルウイングを開けるシーンもなし)、三菱の意図とは裏腹にガルウイングに豪華装備のオリジナル車が爆破されてしまった。これはスウィングドア車両が三菱に返却されたため判明したことであり、同車は現在も保存されているらしい。
* 『[[香港発活劇エクスプレス 大福星]]』:[[新宿駅]]〜[[富士急ハイランド]]間を[[三菱・ミニカ|ミニカ]]でカーチェイス。[[リチャード・ン]]扮する念力の運転するデリカがマイクロバス([[三菱ふそう・ローザ|ローザ]])に追突される。
* 『[[プロテクター (映画)|プロテクター]]』:香港での捜査車両にパジェロ。港の麻薬工場への送迎車にデリカと[[トヨタ・ライトエース]]。
* 『ポリス・ストーリー/香港国際警察』:[[バラック]]街のカーチェイスで[[三菱・コルディア|コルディア]]、犯人側の車に[[三菱・シャリオ|シャリオ]](外国名:スペースワゴン)。麻薬王の秘書の車にギャランΣ。署長を人質にして逃げる時はミラージュ。この作品の後半では[[ホンダ・シビック]]を運転して派手な縦列駐車を決めている(この作品以外にもホンダや日産、マツダの車両が劇用車で登場している)。
* 『[[ポリス・ストーリー2/九龍の眼]]』:ミラージュ。運転席のヒューズ線を使って爆弾解体。この他にギャランやシビックの覆面車も確認できる。
* 『[[キャノンボール2]]』:ハイテク改造を施したスタリオンでアーノルド([[リチャード・キール]])と共に出走(前作は[[スバル・レオーネ]])。
* 『[[プロジェクト・イーグル]]』:あらゆる改造が施されたパジェロが登場。この特別仕様車の外観は、初期のパリダカ仕様パジェロ、水陸両用可能な点はパジェロのコンセプトカーであるフォーリストラーダを髣髴とさせる。劇中冒頭で洋上に浮かぶこの車のルーフデッキで釣りをしているシーンがある。
* 『[[ツイン・ドラゴン]]』:ラストの格闘シーンは三菱の自動車テスト場での設定になっている。他にもランサーや[[三菱・ディアマンテ|ディアマンテ]]が劇中に登場(4ドアセダンのランサーは日本ではミラージュの4ドア)。ジャッキーが格闘するシーンでは最後に悪玉タイガー([[カーク・ウォン]])をギャランΣの衝突実験車に乗せ、そのままクラッシュさせた。タイガーのショットガンで実験装置が壊された為衝突したスピードは時速300キロとされ、[[シートベルト]]非装着だった為即死だった。なお、その前にターザン([[テディ・ロビン・クァン]])が同じ目に遭うが、装置が正常に作動された為はるかに低速であった上にシートベルトを装着していたおかげで無事だった。
* 『[[新ポリス・ストーリー]]』:ミラージュと同じくギャランはジャッキー・チェンの作品に登場する。この作品はギャランΣのスタンダードクラスのGLでカーチェイスで大破。ランサーはジャッキーが汚れた服を、新しい服に着替えるためにリヤハッチゲートを開けて使った。ランサーはミラージュの兄弟車にあたり、ジャッキー映画でも活躍する。
* 『[[デッドヒート (映画)|デッドヒート]]』:[[三菱・ランサーエボリューション|ランサーエボリューション]]III、[[三菱・GTO|GTO]]でレースに出走。序盤のシーンで、クーガー([[トーステン・ニッケル]])の駆る黒い[[日産・スカイライン|日産・R32スカイラインGT-R]]を[[三菱・FTO]]でチェイスしている。また三菱自動車の施設(三菱自動車・岡崎工場、現三菱ふそうトラック・バス喜連川テストコース)で研修を受けるシーンもある。その他のレース車はシビック、ギャランVR-4、[[マツダ・RX-7]]、[[トヨタ・スープラ]]、[[BMW・3シリーズ]]などで、その多くがレース中に大破、爆破される。
* 『[[ファイナル・プロジェクト]]』:パジェロ・FTO、最後のジャンプで船に突っ込む。
* 『[[WHO AM I?]]』:秘密任務のため大怪我を負ったが現地の部族に助けられて仲間になり、パジェロでクロスカントリーラリーに参戦している日本人チームが困っているところに出くわす。また南アフリカでBMWとのカーチェイスでランサーエボリューションIVが使われている(ただし一部カットは通常のランサーをエボ外装にしたものが使われている。ホイールナット個数、シート仕様から判別可能)。
* 『[[香港国際警察/NEW POLICE STORY]]』:犯人を追いかけていく過程にパジェロを使用。他にもランサーエボリューションなどが登場。
* 『[[プロジェクトBB]]』:[[現金輸送車]]に牽引されていったベビーカーを追いかけるためにパジェロを借りる。乳児を狙うギャング団の車にグランディス。モク警部の捜査車両にランサー。大家の車は[[スバル・ドミンゴ]]。
* またハリウッド作品でも香港が舞台だった場合三菱車が登場していたこともある(例:「ラッシュアワー2」でジャッキー扮するリー警部の愛車がランサー〈もしくはミラージュ〉)。
* 『デッドヒート』のパンフレットで、レーシングドライバー[[中谷明彦]]は「本気でレーサーを目指したら強敵になるに違いない」と語っている。
* 2010年代に入ってからの現代劇作品において三菱自動車の車両提供はなくなっている。
==== 映画外での関係 ====
ジャッキー自身も[[三菱ふそう・ファイター]]のCMに出演したことがあるほか、[[チャイナラリー|香港-北京ラリー]]では[[篠塚建次郎]]選手と日本全国の三菱[[ギャラン店]]ディーラー[[自動車整備士|メカニック]]で構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも[[三菱・パジェロ]]を自ら運転している。
1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいたことがある。
大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車から[[ホンダ・アコード]]や[[ホンダ・プレリュード|プレリュード]]などの日本車、[[ランボルギーニ・カウンタック]]、[[フェラーリ]]数台と数多い[[高級車]]、スポーツカーを所持していた。
2005年には、中華人民共和国内のみで[[フォルクスワーゲン・キャディ]]のキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mitsubishi-motors.com/jp/corporate/pressrelease/corporate/detail1618.html|title=プレスリリース:MITSUBISHI MOTORS JAPAN 三菱自動車、中国におけるブランドキャラクターとしてジャッキー・チェン氏を起用|date=2007-04-20|accessdate=2007-08-25}}</ref>。
香港では風水などの思想を重視するため、縁起の良いナンバープレートが高額で取引されることがよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。
=== レーシングチームオーナー ===
2015年に[[アジアン・ル・マン・シリーズ]]チャンピオンの中国系チームであるDCレーシングの共同オーナーに就任。2016年に[[フランス]]系チームの[[シグナテック]]とジョイントして、「バシー・DCレーシング(Baxi DC Racing)」の名でWEC([[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権]])のLMP2クラスにフル参戦を開始した。マシンは[[オレカ・05]]のOEM供給であるアルピーヌ・A460で、[[日産自動車|日産]]エンジンを使用。初年度はシグナテック・[[アルピーヌ]]が[[ル・マン24時間レース]]優勝、とWEC年間チャンピオンに輝いたのに対して、DCレーシングはル・マンではリタイア、年間でも下から2番目という結果に終わった。この年のマシンカラーリングは自らの新作映画、[[カンフー・ヨガ]]のもので、マシンのカウルにはジャッキーの写真が大きく使われている。
2017年は規約改訂に伴い、マシンをオレカ・07、エンジンを[[ギブソン・テクノロジー|ギブソン]]に変更。またチームオペレーションはシグナテックに代わって[[Jotaスポーツ]]が担うことになり、チーム名は「ジャッキー・チェン・DCレーシング(Jackie Chan DC Racing)」へ変更された。シグナテック内で2番手の扱いだった昨年までとは打って変わり、開幕戦[[シルバーストン]]でWEC初優勝を飾ると、第3戦[[ル・マン24時間レース|ル・マン24時間]]でもクラス優勝を勝ち取った。なお最上位クラスのLMP1クラスの台数が少なかったことやLMP1全車にトラブルが発生したこともあり、下位クラスながら総合でも一時トップを快走し、最終的に総合2位に入るという快挙を成し遂げている<ref>[http://motorz.jp/car/39465/ ルマンで総合2位の快挙!ジャッキー・チェンDCレーシングって一体どんなチーム?]</ref>。年間チャンピオンは最終戦までもつれこんだが、最終的に[[レベリオン・レーシング|バイヨン・レベリオン]]に敗れ2位に終わった。
== エピソード ==
=== 再デビューまでの苦難 ===
[[1973年]]に「ついに自分もスターになるチャンスがきた」と、意気揚々と初主演作『[[タイガー・プロジェクト/ドラゴンへの道 序章|廣東小老虎]]』(1973年)の撮影に臨んだジャッキーだったが、そのあまりの低予算、悪条件ぶりに愕然とする。この作品はいわゆるセブンデイズ映画と言われる類の作品で、わずか7日間で完成させてしまうような粗末な現場だった<ref name="DeA12" />。大きく落ち込む彼にさらに追い打ちをかけるようにショッキングなニュースが飛び込んで来た。それは“ブルース・リー急死”の報だった。偉大なスターのあまりにも早過ぎる死だった。この香港映画界を揺るがす悲報に香港全体が大きな喪失感に包まれた。ジャッキーもスタントに参加したブルース・リーの[[遺作]]『[[燃えよドラゴン]]』はリーの死後、世界各地で公開され大ヒットを記録。世界的なスーパースターへと上り詰めたとき、リーはもうこの世にいなかった。そしてカンフー映画市場は急激に冷え込み、冬の時代へと突入してゆく。時代はコメディやロマンスといったドラマが中心となり本格的なクンフー映画の本数は激減していた<ref name="DeA12">『ジャッキー・チェン DVDコレクション 第12号』「JCストーリー 『初めての挫折』」 [[DeAGOSTINI]]〈デアゴスティーニ・シリーズ〉、2014年8月5日、12頁。雑誌コード:30211-9/2。</ref>。
貯めたお金を切り崩しながら数ヵ月を過ごした後、かつて世話になった[[ジュー・ムー]]監督からやっとのことで仕事をもらった。その1作目の『花飛満城春』では人妻と関係を持つ人力車夫役を演じ、ベッドシーンを披露した。2作目の『拍案驚奇』には殺人犯役で出演。ともにアダルトな作品で映画自体はまずまずヒットしたものの、ジャッキーにとっては仕事を得るのが難しい状態が続いた<ref name="DeA13">『ジャッキー・チェン DVDコレクション 第13号』「JCストーリー 『続く苦境の中で…』」 [[DeAGOSTINI]]〈デアゴスティーニ・シリーズ〉、2014年8月19日、12頁。雑誌コード:30211-9/16。</ref>。
1975年に[[ゴールデン・ハーベスト]]へ入社し、ゴールデン・ハーベストでのサモ・ハンの仕事がまた増えてきたが、本格的なアクションと呼べる作品は少なかった。その頃に製作された数少ないクンフー映画が『[[ジャッキー・チェンの秘龍拳 少林門|少林門]]』(1975年)だった。監督は当時まだ無名で、のちにハリウッドで活躍する、若き日の[[ジョン・ウー]]だった。当初は出演予定がなかったジャッキーも準主役で出ることになった。この作品は撮影から約1年後の1976年夏に香港で公開されたが、ヒットせずに終わった<ref name="DeA13" />。
=== ロー・ウェイとの関係 ===
==== 再デビュー当時のエピソード ====
『[[レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳]]』(1976年)で、[[ロー・ウェイ]]がジャッキーに求めたのは[[ブルース・リー]]の姿そのもので、不器用な演技しかできなかったジャッキーにとって、それはあまりに困難だった。撮影現場で、要求に思うように応えられないジャッキーに対し、ローは怒りをぶちまけるのだった。その度にマネージャーのウィリーはジャッキーの不満や悩みを聞いてやり、なだめては何とか撮影を続けさせた。当時、香港にはマネージャーという概念自体がなく、後にジャッキーの右腕を振るったウィリーこそ、その元祖と言われている。ローは現場を抜け出してギャンブルをしに行ったりし、撮影を他人任せにしていなくなることが多かった<ref name="DeA17">『ジャッキー・チェン DVDコレクション 第17号』「JCストーリー 『ブルース・リーの影』」 [[DeAGOSTINI]]〈デアゴスティーニ・シリーズ〉、2014年10月14日、12頁。雑誌コード:30211-11/11。</ref>。
再デビューの撮影から2か月を待たずしてジャッキーは次回作『[[少林寺木人拳]]』(1976年)の撮影に取り掛かる。本作の総監督たるローは前作の出来によほど嫌気が差したせいか、ジャッキー同様に安いギャラで雇った当時の若手監督のチェン・チーホワ(陳誌華)に、実際の撮影現場をほぼ任せっきりにした。前作の撮影監督がチーホワで、ジャッキーより7歳年上と年齢が近いこともあってすぐに意気投合。ともに20代で若い感性を持っており、互いにアイデアを出し合って、映画作りを楽しんだ。ジャッキーは後にこの作品を「ある意味、僕の最初の『夢の映画』。映画作りとはこうあるべきだと思って作った」と語っている<ref name="DeA17" />。
==== ジャッキー・ジャック事件 ====
ロー・ウェイとは個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長[[レイモンド・チョウ]]、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐している。その内容を以下に要約する。
1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』、『ドランクモンキー 酔拳』や、続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットした。ジャッキーとウィリー・チェンは、ローがレンタル出向前に製作し完成していた『拳精』と『龍拳』を、過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗していたために配給会社が警戒して買わなくなっていたこともあり(蛇拳と酔拳のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『ジャッキー・チェンの醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第一作『[[ヤングマスター 師弟出馬]]』の製作を開始してしまう<ref group="注">『醒拳』は結果的にローが1983年に、ジャッキー似の俳優を使った追加撮影シーンと『笑拳』のNGフィルムなどを使用し無理やり完成させ、ジャッキー最新作として公開したため、ジャッキーは裁判沙汰にしようと考えるくらい激怒した。</ref>。
ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、黒社会を利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。ジャッキーは拉致されローの面前へ引き出され、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも黒社会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても黒社会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な黒社会の件は、その世界と繋がりの深い元祖香港映画のドン、[[ジミー・ウォング]]に間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは黒社会に狙われることはなくなり、ローもまた黒社会と手を切ることができた。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『[[ドラゴン特攻隊]]』、『[[炎の大捜査線]]』に準主演級で出演した。これらの作品へのノーギャラでの出演ついてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。
この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本では、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、[[映画評論|映画評論家]]の[[日野康一]]が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及。この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった 可哀想なモンキー」とされた。
なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会追放キャンペーンでは陣頭に立っている。その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と述べた。
=== その他のエピソード ===
『[[プロジェクト・イーグル]]』PRのために『[[笑っていいとも!]]』へ出演した際、[[南原清隆]]の「香港の中国返還後はどうなさるんですか?」との質問に一瞬困った形相を見せたが、笑って「1997年以降は日本に行きます。歓迎してくれますか?」と答え、周囲を驚かせた。冗談か本気かは別として、当時の情勢が垣間見える瞬間だった。
英語圏の映画レビューサイトとして有名な[[Rotten Tomatoes]](ロッテン・トマト)は、ジャッキー・チェンの一ファンであったSenh Duongが『ジャッキー・チェンのファンとして、ジャッキーの映画に関する合衆国内のレビューを残らず集めようとした時に思いついた』とサイト発案の理由を語っている。
== 日本との関わり ==
[[東映]]は香港の[[カンフー映画]]の輸入に熱心で、系列の[[東映洋画]]が日本でまだ無名のジャッキーの映画を7本まとめて購入<ref name="成龍讃歌">{{Cite journal |和書 |author = 鈴木常承・福永邦昭・小谷松春雄・野村正昭 |title = {{small|"東映洋画部なくしてジャッキーなし!"}} ジャッキー映画、日本公開の夜明け |journal = ジャッキー・チェン 成龍讃歌 |series = タツミムック |date = 2017年7月20日発行 |publisher = [[辰巳出版]] |isbn = 978-4-7778-1754-2 |pages = 104-111 }}</ref>。1979年に『[[トラック野郎・熱風5000キロ]]』との併映で公開された『[[ドランクモンキー 酔拳]]』が大ヒット、『トラック野郎』の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『[[スネーキーモンキー 蛇拳]]』『[[クレージーモンキー 笑拳]]』『[[拳精]]』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった<ref name="成龍讃歌"/>。その後も拳シリーズは1年ペースで、『[[少林寺木人拳]]』『[[龍拳]]』『[[蛇鶴八拳]]』『[[カンニング・モンキー 天中拳]]』『[[成龍拳]]』『[[ジャッキー・チェンの醒拳]]』が公開され話題を集めた。
その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、[[1980年代]]の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに[[石丸博也]]の吹き替えが、分かりやすく共感を呼び、好評を博した<ref group="注">1990年代頃までの過去の作品はジャッキーの肉声ではなく、別の役者によって吹替えられている。これはジャッキー作品特有のものではなく、当時の香港映画界では、俳優の出身地が様々であること、俳優にポスト・プロダクションに時間を費やさせないこと、といった理由から撮影時に音声の録音をせず、後からプロの声優によって北京語・広東語・英語音声の音源を作成するシステムになっていたことによる。2012年現在では出演者本人の台詞を録音して使うことが主流となっている。また過去の作品をアメリカで公開する際はジャッキー自身の英語のセリフにより新録音され、音楽もリニューアルされることが多い(『酔拳2』『レッド・ブロンクス』『ファイナル・プロジェクト』など)。</ref>。
1980年代当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」、「ジャッキー・チェン祭」などの名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映を行っていた。[[2011年]]には、ジャッキー・チェンをリスペクトとした映画イベント「成龍祭」が規模を拡大し、「大成龍祭」として、東名阪で行なわれ、先に大阪と名古屋が終了。東京は11月に幕を閉じた。このイベントは2004年から、TOHOシネマズの劇場を中心に毎年実施されている。ファンが積極的に協力しているのが特徴で、2010年は、ジャッキー本人からビデオメッセージが直接届いたり、参加者が書いたジャッキーへの寄せ書きに返事が来るなど、ジャッキーサイドにも認知されつつある。
1980年代から1990年代にかけて、日本のファン達による私設(個人)ファンクラブが多かったことは有名で、「ポーポークラブ」、「CHANS CLUB」、「不死鳥成龍会」、「香港電影倶楽部/MIRACLES」、「無問題倶楽部」、「チャイニーズドラゴン」、「陳先生酔酌会」、「成龍熱愛会」などが多数存在した。それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集いなどの活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影など)で訪れた際は、喜んで対応していた。
[[1980年代]]にはジャッキーが以前からファンであった[[西城秀樹]]と親友の間柄となった。[[1987年]]の[[滋賀県]][[烏丸半島]]で行われた「アジア・ポップス'87〜第5回[[びわ湖水の祭典]]〜」コンサートでは同じステージに立って「[[ギャランドゥ]]」、「[[琵琶湖周航の歌]]」等を一緒に熱唱した。
西城と最後に共演したのは『[[ウチくる!?]]』にジャッキーがメインゲストで出た回で、西城がサプライズでジャッキーの前に現れたら、とても驚いたという。西城は成龍讃歌という雑誌のインタビューで「浅草の料理屋のロケで、その時も彼は手羽先を食べていました。アワビのエピソードで盛り上がったことを覚えています。あの時は僕が前年に体調を崩した姿で、それでも元気に再会できたことは嬉しかった」と話している<ref name="seiryu sanka39">{{Cite book|和書|title=ジャッキー・チェン 成龍讃歌|series=タツミムック|pages=39|chapter=INTERVIEW 西城秀樹}}</ref>。また、西城が二度目に体調を崩した後には、ジャッキーがNHKの番組の出演時に、「は~いヒデキさん、お元気ですか!」というビデオメッセージを贈り、西城は本当に嬉しかったという<ref name="seiryu sanka39"/>。
西城の告別式には「秀樹さんはスーパースターで、多くの香港芸能人の憧れ。僕らは永遠にあなたのことを思っております。香港の親友、ジャッキー・チェン」という内容の弔電を送っている<ref>[https://hochi.news/articles/20180526-OHT1T50124.html 西城秀樹さん告別式にジャッキー・チェンから弔電]</ref>。
[[1995年]]にはジャッキー自らが監修したアーケードゲーム『ザ・カンフーマスター ジャッキー・チェン』が、当時東京・三鷹市にあったゲームメーカー・[[カネコ]]より発表(後述)。
訪日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演することが多い。[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[ザ!鉄腕!DASH!!]]』で[[TOKIO]]のメンバーと数回にわたりさまざまなゲームで対決をしている。
[[2007年]]秋には、[[上戸彩]]とともに[[オロナミンCドリンク|オロナミンC]]([[大塚製薬]])のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。
[[2013年]]には、[[キリンビール]]の「のどごし生」CM「夢のドリーム」企画において、一般公募で選ばれた「カンフースターになりたい」という会社員の夢を実現する形で、会社員、[[中川翔子]]、会社員の後輩のアクション俳優らと共演した。中川はジャッキーのファンで、[[ワタナベエンターテイメント]]に所属するブレイク前、ジャッキー・チェン事務所の日本支部があった頃に所属していたことがあるほか、母と香港旅行に行った時にとあるレストランでジャッキー本人と遭遇し、中川が泣いていたのを見てなのか声を掛け、「何で泣いてるの?(中川親子の)食事代払ったよ」と言われ、ジャッキーがおごってくれたというエピソードを後年語っており、CM共演時は感激している。中川はジャッキーが無名時代にエキストラ的に共演した[[ブルース・リー]]ファンでもある。
== ジャッキー・スタントチームのメンバー ==
* [[:en:Ken Lo|Ken Lo (Kenneth Lo Wai-Kwong or Kenneth Houi Kang Low)]]([[ケネス・ロー・ワイコン]])
* [[:en:Mars (actor)|Mars (Cheung Wing-fat)]]([[マース (俳優)|マース]])
* [[:en:Brad Allan|Brad Allan (Bradley James "Brad" Allan)]]([[ブラッドリー・ジェームズ・アラン]]) - 2021年8月7日死去
* Rocky Lai (Rocky Lai Keung-Kun)([[ロッキー・ライ]])
* Danny Chow (Danny Chow Yun Kin)([[ダニー・チュウ]])
* Benny Lai (Benny Lai Keung Kuen)([[ベニー・ライ]])
* Tai-Bo([[太保 (俳優)|太保]]、[[タイポー]])
* Paul Wong (Paul Wong Kwan)([[ポール・ウォン]])
* [[楊升]](楊一凡) - 2021年7月28日死去
== フィルモグラフィー(抜粋) ==
タイトルは日本語題・原題の順 ※は監督兼任。主演作品のみを抜粋。詳細は[[ジャッキー・チェンの作品一覧]]を参照。
=== 映画 ===
==== 1970年代====
* [[タイガー・プロジェクト/ドラゴンへの道 序章]] ''廣東小老虎''(1974年)
* [[レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳]] ''新精武門''(1976年)
* [[少林寺木人拳]] ''少林木人巷''(1976年)
* [[ファイナル・ドラゴン]] ''風、雨、雙流星''(1977年)
* [[成龍拳]] ''劍・花・煙雨江南''(1977年)
* [[蛇鶴八拳]] ''蛇鶴八歩''(1977年)
* [[ジャッキー・チェンの飛龍神拳]] ''飛渡捲雲山''(1977年)
* [[カンニング・モンキー 天中拳]] ''一招半式闖江湖''(1978年)
* [[スネーキーモンキー 蛇拳]] ''蛇形刁手''(1978年)
* [[拳精]] ''拳精''(1978年)
* [[龍拳]] ''龍拳''(1978年)
* [[ドランクモンキー 酔拳]] ''醉拳''(1978年)
* [[クレージーモンキー 笑拳]] ''笑拳怪招''(1979年)※
==== 1980年代 ====
* [[ヤング・マスター/師弟出馬]] ''師弟出馬''(1980年) ※
* [[バトルクリーク・ブロー]] ''The Big Brawl''(1980年)
* [[ドラゴンロード]] ''龍少爺''(1981年)※
* [[ジャッキー・チェンの醒拳]] ''龍騰虎躍''(1983年)
* [[プロジェクトA]] ''A計劃''(1983年)※
* [[スパルタンX]] ''快餐車''(1984年)
* [[プロテクター (映画)|プロテクター]] ''The Protector''(1985年)
* [[ファースト・ミッション]] ''龍的心''(1985年)
* [[ポリス・ストーリー/香港国際警察]] ''警察故事''(1985年)※
* [[サンダーアーム/龍兄虎弟]] ''龍兄虎弟''(1986年)※
* [[プロジェクトA2 史上最大の標的]] ''A計劃續集''(1987年)※
* [[サイクロンZ (映画)|サイクロンZ]] ''飛龍猛將''(1988年)
* [[ポリス・ストーリー2/九龍の眼]] ''警察故事續集''(1988年)※
* [[奇蹟/ミラクル]] ''奇蹟''(1989年)※
==== 1990年代 ====
* [[プロジェクト・イーグル]] ''飛鷹計劃''(1991年)※
* [[ツイン・ドラゴン]] ''雙龍會''(1992年)
* [[ポリス・ストーリー3]] ''警察故事3 超級警察''(1992年)
* [[シティーハンター (映画)|シティーハンター]] ''城市獵人''(1993年)
* [[新ポリス・ストーリー]] ''重案組''(1993年)
* [[酔拳2]] ''醉拳II''(1994年)
* [[レッド・ブロンクス]] ''紅番區''(1995年)
* [[デッドヒート (映画)|デッドヒート]] ''霹靂火''(1995年)
* [[ファイナル・プロジェクト]] ''警察故事4之簡單任務''(1996年)
* [[ナイスガイ]] ''一個好人''(1997年)
* [[WHO AM I?]] ''我是誰?''(1998年)※
* [[ラッシュアワー (映画)|ラッシュアワー]] ''Rush Hour''(1998年)
* [[ゴージャス (映画)|ゴージャス]] ''玻璃樽''(1999年)
==== 2000年代 ====
* [[シャンハイ・ヌーン]] ''Shanghai Noon''(2000年)
* [[アクシデンタル・スパイ]] ''特務迷城''(2001年)
* [[ラッシュアワー2]] ''Rush Hour 2''(2001年)
* [[タキシード (2002年の映画)|タキシード]] ''The Tuxedo''(2002年)
* [[シャンハイ・ナイト]] ''Shanghai Knights''(2003年)
* [[メダリオン]] ''飛龍再生/The Medallion''(2003年)
* [[80デイズ]] ''Around The World In 80 Days''(2004年)
* [[香港国際警察/NEW POLICE STORY]] ''新警察故事''(2004年)
* [[THE MYTH/神話]] ''神話''(2005年)
* [[プロジェクトBB]] ''寶貝計劃''(2006年)
* [[ラッシュアワー3]] ''Rush Hour 3''(2007年)
* [[ドラゴン・キングダム]] ''The Forbidden Kingdom''(2008年)
* [[新宿インシデント]] ''新宿事件''(2009年)
==== 2010年代 ====
* [[ダブル・ミッション]] ''The Spy Next Door''(2010年)
* [[ラスト・ソルジャー]] ''大兵小將''(2010年)
* [[ベスト・キッド (2010年の映画)|ベスト・キッド]] ''The Karate Kid''(2010年)
* [[1911 (映画)|1911]] ''辛亥革命''(2011年)※
* [[ライジング・ドラゴン]] ''十二生肖''(2012年)※
* [[ポリス・ストーリー/レジェンド]] ''警察故事2013''(2013年)
* [[ドラゴン・ブレイド]] ''天將雄師'' (2015年)
* [[スキップ・トレース]] ''Skiptrace''(2016年)
* [[レイルロード・タイガー]] ''鐡道飛虎''(2016年)
* [[カンフー・ヨガ]] ''功夫瑜伽''(2017年)
* [[ザ・フォーリナー/復讐者]] ''The Foreigner''(2017年)
* [[ポリス・ストーリー REBORN]] ''机器之血''(2017年)
* [[ナイト・オブ・シャドー 魔法拳]] ''神探蒲松龄''(2019年)
==== 2020年代 ====
* [[プロジェクトV]] ''急先鋒''(2020年)
* [[プロジェクトX-トラクション]] ''Hidden Strike''(2023年)
==== 声優 ====
* [[カンフー・パンダ]] ''Kung Fu Panda''(2008年)
* [[カンフー・パンダ2]] ''Kung Fu Panda2''(2011年)
* [[カンフー・パンダ3]] ''Kung Fu Panda 3''(2016年)
* [[レゴニンジャゴー ザ・ムービー]] ''The Lego Ninjago Movie''(2017年)…実写シーンでの出演もしている
* [[ナッツジョブ リバティパーク奪還作戦!!]] ''The Nut Job 2: Nutty by Nature''(2020年)
* [[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (映画)#ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!|ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!]] ''Teenage Mutant Ninja Turtles: Mutant Mayhem''(2023年)
=== テレビアニメ ===
* [[ジャッキー・チェン・アドベンチャー]] ''Jackie Chan Adventures''(2000年〜2005年)
=== ドキュメンタリー ===
; 映画
* [[失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン]] ''龍的深處 - 失落的拼圖''(2003年)
; テレビ
* [[ジャッキー・チェン マイ・ストーリー]] ''成龍的傳奇''(1998年)
* [[ジャッキー・チェン マイ・スタント]] ''成龍的特技''(1998年)
* [[ジャッキー・チェン ドラゴンへの道]] ''The invincible Jacky Chan:Fast funny and furious''(2002年)
== ディスコグラフィー ==
=== シングル(EP) ===
# '''マリアンヌ'''(1983年11月30日、[[ワーナーミュージック・ジャパン|ワーナー・パイオニア]]/L-1643)
#* マリアンヌ - 作詞・作曲:[[五輪真弓]] 編曲:[[後藤次利]]
#* ハロー・ハッピー・ソング - 作詞・作曲:五輪真弓 編曲:後藤次利
# '''ハートはYES'''(1984年7月10日、ワーナー・パイオニア/L-1674)
#* ハートはYES - 作詞:[[芹沢類]] 作曲:[[玉置浩二]] 編曲:[[椎名和夫]]
#* MOVIE STAR - 作詞・作曲:Paul de Senneville / Olivier Toussaint編曲:椎名和夫
# '''I LOVE YOU, YOU, YOU'''(1984年11月28日、ワーナー・パイオニア/L-1691)
#* I LOVE YOU, YOU, YOU - 作詞:[[売野雅勇]] 作曲・編曲:[[後藤次利]]
#* I LOVE YOU, YOU, YOU(広東語ヴァージョン) - 広東語詞:リチャード・ラム 作曲・編曲:後藤次利
# '''TOKYO SATURDAY NIGHT'''(1985年8月25日、ワーナー・パイオニア/L-1712)
#* TOKYO SATURDAY NIGHT - 作詞・作曲:[[美樹克彦]] 編曲:[[竜崎孝路]]
#* CHINA BLUE - 作詞:[[今野雄二]] 作曲:[[高中正義]] 編曲:椎名和夫
# '''無問題'''(1987年11月28日、ワーナー・パイオニア/L-1821)
#* 無問題 - 作詞:HOLLY LOVE 作曲・編曲:椎名和夫
#* 無問題(インストゥルメンタル) - 作曲・編曲:椎名和夫
=== シングル(CD) ===
# '''MOVIE STAR'''(1988年2月25日、ワーナー・パイオニア/10SL-104)
#* MOVIE STAR - 作詞・作曲:Paul de Senneville / Olivier Toussaint 編曲:椎名和夫
#* 無問題 - 作詞:HOLLY LOVE 作曲・編曲:椎名和夫
# '''TOKYO SATURDAY NIGHT'''(1988年2月25日、ワーナー・パイオニア/10SL-105)
#* TOKYO SATURDAY NIGHT - 作詞・作曲:美樹克彦 編曲:竜崎孝路
#* I LOVE YOU, YOU, YOU - 作詞:売野雅勇/作曲・編曲:後藤次利
# '''愛のセレナーデ'''(1988年8月25日、[[日本コロムビア]]/10CA-8062)※[[河合奈保子]]とのデュエット
#* 愛のセレナーデ - 作詞:[[吉元由美]] 作曲:河合奈保子 編曲:[[矢野立美]]
#* Southern Cruise - 作詞:吉元由美 作曲:河合奈保子 編曲:矢野立美
# '''見つめていたい(明明白白我的心)'''(1995年1月20日、[[ポニーキャニオン]]/XYDA-10002)※[[陳淑樺]]とのデュエット
#* 見つめていたい(明明白白我的心) - 作詞・作曲:[[李宗盛]]
#* 見つめていたい(明明白白我的心)(オリジナル・カラオケ)
=== アルバム ===
# '''THE BOY'S LIFE'''(1985年8月25日、ワーナー・パイオニア/32XL-113)
# '''LOVE ME'''(1984年2月22日、ワーナー・パイオニア/32XL-134)
# '''シャングリラ'''(1986年11月28日、ワーナー・パイオニア/32XL-171)
# '''無問題'''(1987年12月10日、ワーナー・パイオニア/32XL-241)
# '''見つめていたい'''(1994年12月16日、ポニーキャニオン/XYCA-2)
# '''龍の心'''(2003年1月16日、[[ロックレコード]]/RCCA-2123)
# '''龍の夢'''(2009年11月18日、ロックレコード/RCCA-2202)
== 著書 ==
* 『愛してポーポー <small>ジャッキー・チェン自伝</small>』([[集英社]]、1984年)
* 『I AM JACKIE CHAN <small>僕はジャッキー・チェン 初めて語られる香港帝王の素顔</small>』([[ジェフ・ヤン]]共著、[[西間木洋子]]訳、[[近代映画社]]、1999年)
* 『永遠の少年 <small>ジャッキー・チェン自伝</small>』([[朱墨]]共著、[[鄭重]]訳、[[ダイヤモンド社]]、2016年)
== CM ==
* [[麒麟麦酒|キリンビール]]
** キリン生A(1984年)
** のどごし〈生〉「のどごし夢のドリーム カンフースター篇」(2013年)
* [[アサヒシューズ]] クーガーバイオターボ
* [[大日本除虫菊|金鳥]] キンチョウリキッド
* [[日清食品]] ビッグチャイナ
* 三洋薬品 配置薬
* [[東亞合成]] [[アロンアルフア]]
* [[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカ]] 暴暴茶
* [[大塚製薬]] [[オロナミンCドリンク]]
* [[三菱自動車工業]] [[三菱ふそう・ファイター]]
* [[ペプシコーラ]] [[マウンテンデュー]]
* [[XaviX]]
* [[Visa]]
* [[スクウェア・エニックス]] [[星のドラゴンクエスト]]
== ゲーム ==
; [[スパルタンX (ゲーム)|スパルタンX]](アーケードゲーム・家庭用ゲーム各種)
: ジャッキー関連での初のゲーム化は、1984年にアイレムが製作販売した[[アーケードゲーム]]の『[[スパルタンX (ゲーム)|スパルタンX]]』である。ただし、ゲーム自体は映画の内容とは関連性はなく、登場人物の名前程度しか共通点はなかった。尚、1985年に[[任天堂]]より発売された、[[ファミリーコンピュータ]]への移植版のパッケージの絵には、ジャッキー似のイラストが使われている。またFCへの移植版は後に『KUNG FU』というタイトルに変更され販売された。後にアイマックスより、プレイステーションやセガサターンで発売された『アイレムアーケードクラシックス』では、アーケード版の復刻版が収録されていた。
: [[2005年]]に後述の家庭用[[体感ゲーム]]『[[XaviXPORT]]』の事業にも参加しており、同年秋にゲーム事業のイベントで訪日した際には、関係者から『スパルタンX』がゲーム化されていることを初めて聞き、無言で手を差し出す(権利料を払え、の意)という行為を行った。場が凍りつくようなハプニングであったが、直後にジャッキーは満面の笑みで[[ジョーク]]であることをアピールし事無きを得た。
; ジャッキー・チェン([[PCエンジン]]・[[ファミリーコンピュータ]])
: [[PCエンジン]]およびファミリーコンピュータ用のゲームソフトとして、1990年に[[ハドソン]]より『ジャッキー・チェン』が発売(開発は[[ナウプロダクション]])。前述のスパルタンXとは異なり、こちらはジャッキー自身が主人公であり、正統派のアクションゲームとして発売された。このゲームの発売時のゲーム雑誌でのインタビュー記事には、リップサービスか本当なのかはともかく、ジャッキー自身のアイディアがゲーム中に取り入れられていると本人がコメントしていた。
; カンフーマスター ジャッキー・チェン(アーケードゲーム)
: [[1995年]]には、アーケード用[[対戦型格闘ゲーム]]の「カンフーマスター ジャッキー・チェン」が日本のゲームメーカーの[[カネコ]]により製作、エイブルコーポレーションにより販売された。こちらはジャッキー自身が正式に監修している。このゲームの登場キャラは実在の俳優を撮影した画像を録り込んで使用し、ジャッキー本人もキャプチャ撮影を行いそのまま実写で登場している。尚、このゲームにおいてジャッキーは主人公のプレイヤーキャラクターではなく、最終ボスとして登場する敵役という異質なものであった。登場する服装は数パターンあり、クンフーの稽古着や『プロジェクトA』内で着装した警察の正装で戦う。ちなみに後に発売された続編では晴れてプレイヤーキャラとして使用可能になった。攻撃されると血が吹き飛んだり、[[モータルコンバット]]のフェイタリティに似たシステムもあるが、ジャッキー戦ではこういった残虐演出は削除されている。
; Jackie Chan Stuntmaster([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]])
: 2000年に発売された[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用の3Dアクションゲーム。日本未発売。[[ニューヨーク市]]を舞台に主人公のジャッキー・チェンが悪の組織に誘拐された祖父フレドリックを救うと言うストーリー内容。主人公の[[モーションキャプチャ]]による動きや主人公の声にジャッキー本人が参加して担当している。
; Jackie Chan Adventures Legend of the Dark Hand([[ゲームボーイアドバンス]])
: ゲームボーイアドバンス用ソフト。日本未発売で2001年発売。開発及び発売はアクティビジョン。テレビアニメ『[[ジャッキー・チェン・アドベンチャー]]』の横スクロール型のベルトスクロールアクションゲーム。
; Jackie Chan Adventures([[PlayStation 2]])
: PlayStation 2用ソフトで2004年9月30日発売。日本及び北米では未発売で欧州のみ発売であった。開発はアトミック・プラネット。発売元はインタラクティブ・ヒップ。上記のゲームボーイアドバンス用ゲームと同様、テレビアニメ『ジャッキー・チェン・アドベンチャー』のゲーム。ゲームボーイアドバンス版は2Dのベルトスクロールアクションゲームであったが、このゲームはトゥーンレンダリング技術によるアニメ調のグラフィックを使用した3Dアクションゲームであった。
; XaviX AEROSTEP([[XaviXPORT]])
: 2005年に新世代株式会社が発売したフィットネス機器及びゲーム機『[[XaviXPORT]]』のローンチソフトのひとつ。新世代社はジャッキーと共同でXaviXPORT向けアプリケーション開発会社JCSを設立し、本ソフトを共同開発した。XaviXPORTの発表会場にジャッキー本人も登場し、製品のデモンストレーションを行った。ゲーム内では実写でジャッキー本人がインストラクターとして登場しているほか、ジャッキーになって香港の道を走るゲームが収録されている。
; XaviX POWER BOXING([[XaviXPORT]])
: 上記同様に開発・発売されたXaviXPORTのローンチソフト。ボクシングの試合結果に応じて実写のジャッキー本人メッセージをくれる。発表会のデモンストレーションではKO負けしてしまい、ジャッキーがゲーム内のジャッキーに慰みの言葉をもらうという失態を演じた。
; [[プロ野球スピリッツ5]]([[PlayStation 3]])
: [[2008年]]4月に発売。[[東京ドーム]]でプレイすると外野後方にあるオロナミンCの看板にジャッキーが映る。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|year=2005.2|title=香港映画の街角|editor=[[野崎歓]](著)|publisher=[[青土社]]|isbn=
4-7917-6169-3|ref={{SfnRef|香港映画の街角|2005}}}}
* {{Cite book|和書|year=2017.7.20|title=TATUMI MOOK ジャッキー・チェン 成龍讃歌|editor=宮島和宏(編)|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=
978-4-7778-1754-2|ref={{SfnRef|ジャッキー・チェン 成龍讃歌|2017}}}}
* 『ジャッキー・チェンDVDコレクションシリーズ』、[[デアゴスティーニ|デアゴスティーニジャパン]]、2014年3月 - 2016年8月。
== 関連項目 ==
{{Portal 映画}}
=== 中国戯劇学院生 ===
* [[サモ・ハン・キンポー]]
* [[ユン・ピョウ]]
* [[ユン・ワー]]
* [[ユン・ケイ]]
* [[ユン・チウ]]
* [[ユエン・ウーピン]]
=== 映画会社 ===
* [[ゴールデン・ハーベスト]]
* [[ゴールデン・ウェイ]]
* [[シーゾナル・フィルム]]
* [[ワーナー・ブラザース]]
* [[ニュー・ライン・シネマ]]
* [[タッチストーン・ピクチャーズ]]
=== 吹替声優 ===
* [[石丸博也]] - 専属吹替声優。テレビ放送・ソフトを問わずほぼ全ての作品でジャッキーの吹き替えを担当している。
* [[山野井仁]] - 拳シリーズのビデオ(BW版)のみジャッキーの吹替を担当している。
* [[堀内賢雄]] - 引退した石丸に代わり、原語版でジャッキーが演じた『[[ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ (映画)#ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!|ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!]]』のスプリンター役の吹き替えを(石丸の事務所に連絡し了承を得た上で)務めた<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1695802065 |title = 映画『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』スプリンター役・堀内賢雄さんインタビュー|タートルズの父親的な存在のスプリンターを演じて「同じ親として気持ちがよくわかる」 |publisher = [[アニメイトタイムズ]] |date = 2023-09-29|access-date = 2023-12-04}}</ref>。
=== その他 ===
* [[あほ拳ジャッキー]] - ジャッキーのパロディキャラ、ジャッキーちゃんが主役のギャグ漫画。ブルース・ソー、リー・リンチン、カン・ピョウなども登場する。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Jackie_Chan}}
{{Wikiquote|zh:成龍|成龍{{zh icon}}}}
{{Wikiquote|en:Jackie Chan|成龍{{en icon}}}}
* [https://jackiechan.com/ ジャッキー・チェン 公式サイト]{{en icon}}
* {{allcinema name|12378|ジャッキー・チェン}}
* {{Kinejun name|16512|ジャッキー・チェン}}
* {{IMDB name|0000329|Jackie Chan}}
* {{Amg name|84650|Jackie Chan}}
* [https://www.rottentomatoes.com/celebrity/jackie_chan Jackie Chan] at [[Rotten Tomatoes]]
* {{Facebook|jackie}}
* {{Twitter|EyeOfJackieChan}}
* {{instagram|jackiechan|ジャッキー・チェン}}
* {{YouTube|rLQ1V_H7vh4|Jackie Chan receives an Honorary Award at the 2016 Governors Awards}} [[アカデミー名誉賞]] ジャッキー・チェン(受賞スピーチ映像)
* {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=JackyChenPC|title=ジャッキー・チェン(PCエンジン版) - ハドソンゲームナビ|date=20040505162554}}
* {{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=JackyChenFC|title=ジャッキー・チェン(ファミコン版) - ハドソンゲームナビ|date=20040610232348}}
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6,513 | 功夫 | 功夫(カンフーまたはクンフー、繁体字: 功夫; 拼音: Gōngfu; 粤拼: Gungfu、[kʊ́ŋfu] 北京語発音、英語: kung fu/kungfu([ˌkʌŋˈfuː] ( 音声ファイル)または[ˌkʊŋˈfuː]、日本語読み:こうふまたはくふう)は、中国武術を指す。少林拳、詠春拳、太極拳などさまざまな体系があり、世界中で実践されている。本来の意味は「練習・鍛錬・訓練の蓄積」、また、それに掛けた「時間や労力」を意味であり、必ずしもに関連するわけではない。「功夫が足りている」のように用いられる。茶の場合は「工夫茶(功夫茶)」などと使用される。
この用語が中国人コミュニティによって中国武術に関連して使用されるようになったのは、20世紀後半になってからのことである。オックスフォード英語辞典は、「kung fu」という用語を「空手に似た主に非武装の中国武術」と定義し、印刷物で「kung fu」が最初に使用されたのは 1966年のパンチ誌によるものであるとしている。
北京語では拼音は Gōngfu だが、ブルース・リーの中国武術香港映画の映画が世界的にヒットした際、ウェード式、もしくは広東語の伝統的な表記法によって Kung-fu と書かれ、英語読みされた「カンフー」[ˌkʌŋˈfuː] ( 音声ファイル) が世界的に中国武術一般の総称として広まった。
日本では1970年代から1980年代前半、カンフー映画の字幕や広告において「武術」あるいは「カンフー」と表示すべき部分を「空手」と表示するなどの誤りや、「日本から広まった空手の達人による空手映画」などといった現在から考えると信じられないような誤解もあった。カンフーブームが空手道場の入門者を増やすという現象も当時見られた。ただし、カンフー映画と空手が全く無縁なわけではなく、カンフー映画では中国武術ではない、空手やテコンドーをもとにしたアクションも多く見られた。
格闘技コミックを数多く描いた漫画原作者、梶原一騎は「ショーリンケン、コンフー、つまりカラテ!」などと、意図したものかは不明だが、ブルース・リーブームを空手と結びつけるミスリードを誘う表現を多用した。またリーの成功以降、カンフーの修行者の記号化が促進され、中国拳法家といえば「中国服(女性はチャイナドレス)を着用して布靴を履き、戦闘時には上半身裸でヌンチャクを振り回しホアアアアアアと奇声をあげる」「攻撃時にはアチョーと奇声を発する」などといったイメージが一般大衆間において形成された。1970-80年代には日本のテレビドラマ『ザ・ハングマン』シリーズ、『西部警察 PART-III』など、非常に多くの映像作品においてこうした記号化されたカンフー使いが登場した。この時期においても、複数回の映画化の機会に恵まれ、知名度の高かった少林拳に関しては、日本人の宗道臣によって戦後に創始された少林寺拳法との混同こそあったものの比較的正確な姿で紹介されている。1990年代以降、格闘ゲームの流行などもあって中国拳法に関する情報量が増えたことからこうした傾向は薄れている。 | [
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] | 功夫(カンフーまたはクンフー、繁体字: 功夫; 拼音: Gōngfu; 粤拼: Gung1fu1、 北京語発音、英語: kung fu/kungfuは、中国武術を指す。少林拳、詠春拳、太極拳などさまざまな体系があり、世界中で実践されている。本来の意味は「練習・鍛錬・訓練の蓄積」、また、それに掛けた「時間や労力」を意味であり、必ずしもに関連するわけではない。「功夫が足りている」のように用いられる。茶の場合は「工夫茶」などと使用される。 この用語が中国人コミュニティによって中国武術に関連して使用されるようになったのは、20世紀後半になってからのことである。オックスフォード英語辞典は、「kung fu」という用語を「空手に似た主に非武装の中国武術」と定義し、印刷物で「kung fu」が最初に使用されたのは 1966年のパンチ誌によるものであるとしている。 | {{Otheruses|中国の武道|映画『功夫』|カンフーハッスル}}
{{複数の問題
|独自研究=2010年12月
|出典の明記=2015年9月
|参照方法=2010年12月}}
{{Chinese|
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| poj = kang-hu
| tl = kang-hu
}}'''功夫'''('''カンフー'''または'''クンフー'''、{{Lang-zh|t=功夫|p=Gōngfu|j=Gung<sup>1</sup>fu<sup>1</sup>|first=t}}、{{IPAc-cmn|g|ong|1|f|u|5}} {{audio|Zh-gongfu.ogg|北京語発音|help=no}}、{{Lang-en|kung fu/kungfu}}({{IPAc-en|ˌ|k|ʌ|ŋ|ˈ|f|uː|audio=En-us-kung fu.ogg}}または{{IPAc-en|ˌ|k|ʊ|ŋ|ˈ|f|uː}}、日本語読み:こうふまたはくふう<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8A%9F%E5%A4%AB-471347#E6.99.AE.E5.8F.8A.E7.89.88.20.E5.AD.97.E9.80.9A |title=功夫 |access-date=2022-10-27 |publisher=普及版 字通}}</ref>)は、[[中国武術]]を指す。[[少林拳]]、[[詠春拳]]、[[太極拳]]などさまざまな体系があり、世界中で実践されている。本来の意味は「練習・鍛錬・訓練の蓄積」、また、それに掛けた「時間や労力」を意味であり、必ずしも<ref name="Lorge">{{Cite book |last1=Lorge |first1=Peter |title=Chinese Martial Arts From Antiquity to the Twenty-First Century |year=2012 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=9780521878814}}</ref>に関連するわけではない<ref>『基本をのこらず身に着ける はじめてのカンフー』8頁。</ref>。「功夫が足りている」のように用いられる。茶の場合は「[[中国茶#工夫茶(茶芸)|工夫茶(功夫茶)]]」などと使用される。
この用語が中国人コミュニティによって中国武術に関連して使用されるようになったのは、20世紀後半になってからのことである<ref name="Lorge2">{{Cite book |last1=Lorge |first1=Peter |title=Chinese Martial Arts From Antiquity to the Twenty-First Century |year=2012 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=9780521878814}}</ref>。[[オックスフォード英語辞典]]は、「kung fu」という用語を「[[空手道|空手]]に似た主に非武装の中国武術」と定義し、印刷物で「kung fu」が最初に使用されたのは 1966年のパンチ誌によるものであるとしている<ref name="Lorge3">{{Cite book |last1=Lorge |first1=Peter |title=Chinese Martial Arts From Antiquity to the Twenty-First Century |year=2012 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=9780521878814}}</ref>。
== ブルース・リーの香港映画と功夫 ==
{{see also|カンフー映画}}
[[画像:Bruce Lee 2001 Tajikistan stamp7.jpg|サムネイル|[[ブルース・リー]]の切手(タジキスタン)|右]]
[[北京語]]では[[拼音]]は Gōngfu だが、[[ブルース・リー]]の中国武術[[香港映画]]の映画が世界的にヒットした際、[[ウェード式]]、もしくは[[広東語]]の伝統的な表記法によって Kung-fu と書かれ、英語読みされた「カンフー」{{IPA-en|ˌkʌŋˈfuː||En-us-kung fu.ogg}} が世界的に中国武術一般の総称として広まった。
[[日本]]では1970年代から1980年代前半、[[カンフー映画]]の字幕や広告において「武術」あるいは「カンフー」と表示すべき部分を「[[空手道|空手]]」と表示するなどの誤りや、「日本から広まった空手の達人による空手映画」などといった現在から考えると信じられないような誤解もあった。カンフーブームが空手道場の入門者を増やすという現象も当時見られた。ただし、カンフー映画と空手が全く無縁なわけではなく、カンフー映画では中国武術ではない、空手や[[テコンドー]]をもとにしたアクションも多く見られた。
格闘技コミックを数多く描いた[[漫画原作者]]、[[梶原一騎]]は「ショーリンケン、コンフー、つまりカラテ!」などと、意図したものかは不明だが、[[ブルース・リー]]ブームを空手と結びつけるミスリードを誘う表現を多用した<ref>たとえば「[[プロレススーパースター列伝]]」講談社漫画文庫版2巻P32での[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]の台詞「ショーリンケン……コンフー……つ、つまり……東洋の神秘の格闘技カラテ!!」など。なお、実際にブッチャーが身につけているのは空手である。</ref>。またリーの成功以降、カンフーの修行者の記号化が促進され、中国拳法家といえば「[[漢服|中国服]](女性は[[チャイナドレス]])を着用して布靴<ref>{{Lang|zh-tw|懶漢鞋}}(ランハンシエ)</ref>を履き、戦闘時には上半身裸で[[ヌンチャク]]を振り回しホアアアアアアと奇声をあげる」「攻撃時にはアチョーと奇声を発する」などといったイメージが一般大衆間において形成された。1970-80年代には日本のテレビドラマ『[[ザ・ハングマン]]』シリーズ、『[[西部警察 PART-III]]』など<ref group="注">『ザ・ハングマン』にはドラゴンという香港人の青年がレギュラーキャラクターとして登場しており、当初は当時の香港人の姿を正確に描写していたが、のち記号化されたカンフー使いの姿に変更された。『西部警察 PART-III』においても、北条刑事が似たような経緯でキャラクター描写が変更されている。</ref>、非常に多くの映像作品においてこうした記号化されたカンフー使いが登場した。この時期においても、複数回の映画化の機会に恵まれ、知名度の高かった[[少林拳]]に関しては、日本人の[[宗道臣]]によって戦後に創始された[[少林寺拳法]]との混同こそあったものの比較的正確な姿<ref group="注">『[[仮面ライダースーパー1]]』においても、拳法の指導を行った拳法家・[[龍明広]]は姓名とともに流派も「北派少林拳」と正確にクレジットされた。</ref>で紹介されている。1990年代以降、格闘ゲームの流行などもあって中国拳法に関する情報量が増えたことからこうした傾向は薄れている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
[[画像:Pagoda Forest, Shaolin Temple.jpg|サムネイル|280px|少林寺の塔林|右]]
<!--要解説-->
* [[中国武術]]
* [[中国武術一覧]]
* [[発勁]]
* [[嵩山少林寺]]
* [[気功]]
* [[形意拳]]
* [[経絡]]
* [[カンフー映画]]
== 外部リンク ==
*[https://web.archive.org/web/20070115151744/http://www.wingchun.com.au/jp/ インターナショナル ウィンチュン アカデミー 馮氏詠春武術学院]
*[https://ange7mariya.wixsite.com/chienwingchun 銭氏詠春道場(Chien Wing Chun)]
*[http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_4&wr_id=14 中国の武術文化]
*[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010709_00000 ハイビジョン特集 カンフー 絶技のすべて ~驚異の中国武術~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス]
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[[Category:中国武術]] | 2003-04-11T09:32:53Z | 2023-11-14T16:48:51Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%A4%AB |
6,514 | オリュンポス十二神 | オリュンポス十二神(オリュンポスじゅうにしん、古代ギリシア語: Δωδεκάθεον)は、ギリシア神話において、オリュンポス山の山頂に住まうと伝えられる12柱の神々。
現代ギリシア語では「オリュンポスの十二神」と呼称されるが、古典ギリシア語では単に「十二神」と呼んだ。
通常、12神の神々は
である。
12柱目にはヘスティアーを入れるのが通常であるが、ディオニューソスを入れる場合もある。これは、十二神に入れないことを嘆く甥ディオニューソスを哀れんで、ヘスティアーがその座を譲ったためとされる。また、ごくまれにポセイドーンやデーメーテールなどが外されることもある。
ほかに十二神と同格の神として、ハーデース(プルートン)とその妃ペルセポネー(コレー)がいる。通常は十二神には含まれないが、ごくまれに含めることもある。十二神にハーデースが含まれないのは他の神と違って冥界の神であり、冥界は地下の存在と考えられていたためで、属性が異なるとの理由から十二神から外されている。
オリュンポスの秩序より見た場合、十二の神々は第一世代と第二世代に分けることができる。クロノスとレアーのあいだに生まれた息子と娘に当たる、ゼウス、ポセイドーン、ハーデース、ヘーラー、デーメーテール、ヘスティアーが第一世代の神で、ゼウスの息子と娘に当たる、アテーナー、アポローン、アルテミス、ヘーパイストス、アレース、アプロディーテー、ヘルメース、ディオニューソスが第二世代の神となる。
ただし、これはオリュンポスの秩序での系譜に基づいている。たとえば、アプロディーテーについては、ホメーロスはゼウスとディオーネーのあいだの娘としているが、ヘーシオドスはクロノスが切断したウーラノスの男根の周りの泡より生まれたとしている。ヘーシオドスの説では、アプロディーテーはゼウスよりも古くからある女神となる。ここから、ウーラノスの男根よりの女神を天上の「アプロディーテー・ウーラニアー」、ゼウスとディオーネーの娘の女神を民衆の「アプロディーテー・パンデーモス」として呼び分けることもある。
ローマ神話ではディー・コンセンテス(Dii Consentes)あるいはコンセンテス・ディー (Consentes Dii) と呼ばれ(共に「調和せし神々」の意)、主神ユーピテルをはじめとする男女6柱ずつの神々とされるが、その内訳は伝わっていない。 | [
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] | オリュンポス十二神は、ギリシア神話において、オリュンポス山の山頂に住まうと伝えられる12柱の神々。 現代ギリシア語では「オリュンポスの十二神」と呼称されるが、古典ギリシア語では単に「十二神」と呼んだ。 | {{Otheruseslist|'''ギリシア神話の神々'''|[[漫画]]『[[リングにかけろ]]』の登場人物|リングにかけろ#ギリシアJr.(ギリシア十二神)}}
{{Greek mythology}}
[[File:Olympians.jpg|thumb|170px|オリュンポス十二神]]
'''オリュンポス十二神'''(オリュンポスじゅうにしん、{{Lang-grc|'''Δωδεκάθεον'''}}<ref group="注釈">{{lang-*-Latn|grc|Dōdekatheon}}</ref><ref group="注釈">十二({{lang|grc|δώδεκα}}、{{lang-*-Latn|grc|dōdeka}}) + 神々({{lang-grc|θεοί}}、{{lang-*-Latn|grc|theoi}})</ref>)は、[[ギリシア神話]]において、[[オリンポス山|オリュンポス山]]の山頂に住まうと伝えられる12柱の[[神|神々]]。
現代ギリシア語では「オリュンポスの十二神<ref group="注釈">{{lang-el-short|Οί Δώδεκα Θεοί του Ολύμπου}}</ref>」と呼称されるが、古典ギリシア語では単に「十二神<ref group="注釈">{{lang-grc|Δωδεκάθεον}}</ref>」と呼んだ。
== 概説 ==
[[File:Altar twelve gods cast.jpg|thumb|right|160px|[[ローマ神話]]の十二神の祭壇。用途不明。[[黄道]][[黄道十二星座|獣帯]]の祭壇か。紀元1世紀]]
=== 十二神の変動 ===
通常、12神の神々は
# [[ゼウス]]
# [[ヘーラー]]<ref group="注釈">ヘーラーは本来、古代ギリシア人の女神ではなく、先住民の大女神であった。ギリシアの地に侵攻し先住民を征服した古代ギリシア人が、先住民との宥和を目的に、彼らの主神ゼウスの妃とした。</ref>
# [[アテーナー]]<ref group="注釈">アテーナーは元々、先住民の女神と考えられ、豊穣の大女神で都市守護神であった。アテーナーを「処女神」とし、ゼウスの娘とすることで、オリュンポスの秩序が生み出された。</ref>
# [[アポローン]]
# [[アプロディーテー]]
# [[アレース]]
# [[アルテミス]]
# [[デーメーテール]]
# [[ヘーパイストス]]
# [[ヘルメース]]
# [[ポセイドーン]]
# [[ヘスティアー]]
である。
12柱目には[[ヘスティアー]]を入れるのが通常であるが、[[ディオニューソス]]を入れる場合もある。これは、十二神に入れないことを嘆く甥ディオニューソスを哀れんで、ヘスティアーがその座を譲ったためとされる。また、ごくまれにポセイドーンやデーメーテールなどが外されることもある。
ほかに十二神と同格の神として、[[ハーデース]](プルートン)とその妃[[ペルセポネー]]([[コレー]]<ref group="注釈">「コレー」とは古代ギリシア語で、「娘・少女・乙女」の意味で、デーメーテールの娘であることよりこう呼ばれる。コレーとデーメーテールは、母娘二柱の女神として、[[エレウシースの秘儀]]を初めとして、[[古代ギリシア]]の秘教において崇拝された二大女神であった。</ref>)がいる。通常は十二神には含まれないが、ごくまれに含めることもある。十二神にハーデースが含まれないのは他の神と違って冥界の神であり、冥界は地下の存在と考えられていたためで、属性が異なるとの理由から十二神から外されている。
=== 神々の世代 ===
オリュンポスの秩序より見た場合、十二の神々は第一世代と第二世代に分けることができる。[[クロノス]]と[[レアー]]のあいだに生まれた息子と娘に当たる、ゼウス、ポセイドーン、ハーデース、ヘーラー、デーメーテール、ヘスティアーが第一世代の神で、ゼウスの息子と娘に当たる、アテーナー、アポローン、アルテミス、ヘーパイストス、アレース、アプロディーテー、ヘルメース、ディオニューソスが第二世代の神となる。
ただし、これはオリュンポスの秩序での系譜に基づいている。たとえば、アプロディーテーについては、[[ホメーロス]]はゼウスと[[ディオーネー]]のあいだの娘としているが、[[ヘーシオドス]]は[[クロノス]]が切断した[[ウーラノス]]の男根の周りの泡より生まれたとしている<ref>[[#koudu|高津『ギリシア・ローマ神話辞典』]]p.25。</ref>。ヘーシオドスの説では、アプロディーテーはゼウスよりも古くからある女神となる。ここから、ウーラノスの男根よりの女神を天上の「アプロディーテー・ウーラニアー」、ゼウスとディオーネーの娘の女神を民衆の「アプロディーテー・パンデーモス」として呼び分けることもある。
=== ローマ神話の十二神 ===
[[ローマ神話]]では'''[[ディー・コンセンテス]]'''(Dii Consentes)あるいは'''コンセンテス・ディー''' ({{lang|la|Consentes Dii}}) と呼ばれ(共に「調和せし神々」の意)、主神[[ユーピテル]]をはじめとする男女6柱ずつの神々とされるが、その内訳は伝わっていない。
== 十二神の一覧表 ==
* ハーデースとペルセポネーは十二神に含まれないが、天体との関係から記載する。
=== 名前と権能 ===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!colspan=2 |神名
!rowspan=2 style="white-space:nowrap" |ローマ神話との対応<br>(英語由来転写)
!rowspan=2 style="white-space:nowrap" |性別
!rowspan=2 |説明
!rowspan=2 style="white-space:nowrap" |対応する天体
|-
!style="white-space:nowrap" |[[古代ギリシア語]]
!style="white-space:nowrap" |他のカタカナ転写<br>慣用名
|-
| Ζεύς
[[ゼウス]]
| ゼウス
|[[ユーピテル]]<br>(ジュピター)
|男神
|神々の王、オリュンポスの主神。<br>雷神、天空神。<br>多数の神・半神・英雄の父祖。
|[[木星]]<br>[[ゼウス (小惑星)|ゼウス]] (小惑星)
|-
| Ἥρα
[[ヘーラー]]
|ヘラ
|[[ユーノー]]<br>(ジュノー)
|女神
|style="white-space:nowrap" |ゼウスの妻、神々の女王。<br>婚姻の神で、女性の守護神。<br>嫉妬深い。
|[[ジュノー (小惑星)|ユノ]] (小惑星)<br>[[ヘラ (小惑星)|ヘラ]] (小惑星)
|-
| Ἀθηνᾶ
[[アテーナー]]<br>アテネ<ref group="注釈">アテネは、[[ギリシア語イオニア方言|イオニア方言]]形で、女神の古い名アテナより派生した。アテナは、アテナイア([[ホメロス]]ではアテナイエ、つまり[[アテナイ]]の女)に由来する。[[#koudu|高津『ギリシア・ローマ神話辞典』]]</ref>
|アテナ<br>アテネ
|[[ミネルウァ]]<br>(ミネルヴァ)
|女神
|知恵・工芸・戦略の神。<br>戦争の知略を司る。<br>都市の守護神。
|[[ミネルバ (小惑星)|ミネルバ]] (小惑星)<br>[[パラス (小惑星)|パラス]] (小惑星)
|-
| Ἀπόλλων
[[アポローン]]
|アポロン
|アポロー<br>(アポロ)
|男神
|予言・芸術・音楽・医療の神。<br>光明神ともされる。[[ポイボス]]。<br>[[ヘーリオス]]([[太陽]])と混同された。
|[[太陽]]<br>[[アポロ群]]<br>[[アポロ (小惑星)|アポロ]] (小惑星)
|-
| Ἀφροδίτη
[[アプロディーテー]]<br>アプロディタ
|アプロディテ<br>アフロディテ<br>アフロディーテ
|[[ウェヌス]]<br>(ヴィーナス)
|女神
|愛と美の神。<br>[[エロース]]の母とされる。
|[[金星]]<br>[[アフロディテ (小惑星)|アフロディテ]] (小惑星)
|-
| Ἄρης
[[アレース]]
|アレス
|[[マールス]]<br>(マーズ)
|男神
|軍神。戦争の災厄を司る。<br>ギリシア神話では知に劣り、人間にも敗れる。対応するローマ神話の[[マールス]]は主神[[ユーピテル]]と同じ程篤く信仰されていた。
|[[火星]]
|-
| Ἄρτεμις
[[アルテミス]]
|アルテミス
|[[ディアーナ]]<br>(ダイアナ)
|女神
|狩猟・森林・純潔の神。<br>処女神だが、豊穣の神。<br>[[セレーネー]]([[ルーナ]])と混同された。
|[[月]]<br>[[ディアナ (小惑星)|ディアナ]] (小惑星)<br>[[アルテミス (小惑星)|アルテミス]] (小惑星)
|-
| Δημήτηρ
[[デーメーテール]]
|デメテル
|[[ケレース]]<br>(セレス)
|女神
|農耕・大地の神。[[乙女座]]に関連。
|[[ケレス (準惑星)|ケレス]] (準惑星)<br>[[デメテル (小惑星)|デメテル]] (小惑星)
|-
| Ἥφαιστος
[[ヘーパイストス]]
|ヘパイストス<br>ヘファイストス
|[[ウゥルカーヌス]]<br>(バルカン)
|男神
|火山・炎・鍛冶の神。[[奇形|畸形]]。
|[[バルカン (惑星)|バルカン]]<br>[[ヘファイストス (小惑星)|ヘファイストス]] (小惑星)
|-
| Ἑρμῆς
[[ヘルメース]]
|ヘルメス
|[[メルクリウス]]<br>(マーキュリー)
|男神
|伝令神。<br>旅人たちの守護神。
|[[水星]]<br>[[ヘルメス (小惑星)|ヘルメス]] (小惑星)
|-
| Ποσειδῶν
[[ポセイドーン]]
|ポセイドン
|[[ネプトゥーヌス]]<br>(ネプチューン)
|男神
|海洋の王。<br>海・泉・地震・馬・塩の神。
|[[海王星]]<br>[[ポセイドン (小惑星)|ポセイドン]] (小惑星)
|-
| Εστία
[[ヘスティアー]]
|ヘスティア
|[[ウェスタ]]<br>(ヴェスタ)
|女神
|かまどの神。家庭生活の守護神。<br>名は「炉」を意味する。
|[[ベスタ (小惑星)|ベスタ]] (小惑星)<br>[[ヘスティア (小惑星)|ヘスティア]] (小惑星)
|-
| Διόνυσος
[[ディオニューソス]]
|ディオニュソス
|[[バックス (ローマ神話)|バックス]]<br>(バッカス)
|男神
|豊穣・葡萄酒・酩酊の神。
|[[バックス (小惑星)|バックス]] (小惑星)<br>[[ディオニスス (小惑星)|ディオニスス]] (小惑星)
|-
| Ἅιδης
[[ハーデース]]<br>プルートーン<ref group="注釈">プルートーンとは「富める者」の意味で、ハーデースの別称である。ラテン語の神名プルートーは、この名より派生している。[[#koudu|高津『ギリシア・ローマ神話辞典』]]</ref>
|ハデス<br>ハーデス
|[[プルートー]]<br>(プルート)
|男神
|[[黄泉|冥界]]の王。<br>地下(クトニオス)・農耕の神。
|[[冥王星]] (準惑星)<br>[[オルクス (小惑星)|オルクス]] (小惑星)
|-
| Περσεφόνη
[[ペルセポネー]]
|ペルセポネ
|[[プロセルピナ]]<br>(プロセルピナ)
|女神
|冥界の王妃。<br>春・芽吹き・乙女・季節の神。<br>[[コレー]]とも呼ばれる。
|[[プロセルピーナ (小惑星)|プロセルピーナ]] (小惑星)<br>[[ペルセフォネ (小惑星)|ペルセフォネ]] (小惑星)
|}
=== 系譜・血統 ===
{| class="wikitable" style="line-height:1.4em; margin-right:0px;"
|-
! colspan="2" | 神名
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | 世代
! colspan="2" | 両親
! rowspan="2" | 備考
! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | 起源<ref group="注釈">「固有」は、古代[[ギリシャ人|ギリシア人]](ヘレネス)固有の神、「先住」はギリシア先住民の神、「外来」は非ギリシア起源の神、「東方」は外来かつ[[オリエント]]起源の神を指す</ref><ref>これらの判断は、[[#koudu|高津『ギリシア・ローマ神話辞典』]]の各神の項目の記述に従った。</ref>
|-
! 古典ギリシア語
! style="white-space:nowrap;" | ギリシア文字<br />ラテン文字
! 父親
! style="white-space:nowrap" |母親(位格<ref group="注釈">「ティーターン」は広義の(12柱の兄弟姉妹以外も含む)[[ティーターン]]、「オリュンポス」はオリュンポス12神を指す。</ref>)
|-
| ゼウス
| {{lang|grc|Ζεύς}}<br />{{ラテン翻字|grc|Zeus}}
| 第一
| クロノス
| [[レアー]]<br/>(ティーターン)
| クロノスの末子。<br />多数の神や半神、英雄の父祖。
| 固有
|-
| ヘーラー
| {{lang|grc|Ἥρα}}<br />{{ラテン翻字|grc|Hēra}}
| 第一
| style="white-space:nowrap;" | クロノス
| レアー<br/>(ティーターン)
| ゼウスの妻・姉。
| 先住
|-
| アテーナー
| {{lang|grc|Ἀθηνᾶ}}<br />{{ラテン翻字|grc|Athēnā}}
| 第二
| ゼウス
| [[メーティス]]<br/>(ティーターン)
| ゼウスの娘。<br />母は[[オーケアニス|オーケアニデス]]の一柱。
| 先住
|-
| アポローン
| {{lang|grc|Ἀπόλλων}}<br />{{ラテン翻字|grc|Apollōn}}
| 第二
| ゼウス
| [[レートー]]<br/>(ティーターン)
| アルテミスの兄弟。<br />母は[[コイオス]]の娘。
| 外来
|-
| style="white-space:nowrap;" | アプロディーテー
| {{lang|grc|Ἀφροδίτη}}<br />{{ラテン翻字|grc|Aphrodītē}}
| 第二
| ゼウス
| [[ディオーネー]]<br/>(ティーターン)
| 本来はオリエントの女神。<br />[[エロース]]の母。
| 東方
|-
| アレース
| {{lang|grc|Ἄρης}}<br />{{ラテン翻字|grc|Arēs}}
| 第二
| ゼウス
| ヘーラー<br/>(オリュンポス)
| 本来は[[トラキア|トラーキア]]地方の神。
| 外来?
|-
| アルテミス
| {{lang|grc|Ἄρτεμις}}<br />{{ラテン翻字|grc|Artemis}}
| 第二
| ゼウス
| レートー<br/>(ティーターン)
| アポローンの姉妹。
| 先住
|-
| デーメーテール
| {{lang|grc|Δημήτηρ}}<br />{{ラテン翻字|grc|Dēmētēr}}
| 第一
| クロノス
| レアー<br/>(ティーターン)
| ゼウスの姉。<br />ペルセポネーの母。二柱女神。
| 固有
|-
| ヘーパイストス
| {{lang|grc|Ἥφαιστος}}<br />{{ラテン翻字|grc|Hēphaistos}}
| 第二
| ゼウス
| ヘーラー<br/>(オリュンポス)
| 母が単独で生んだともされる。
| 固有
|-
| ヘルメース
| {{lang|grc|Ἑρμῆς}}<br />{{ラテン翻字|grc|Hermēs}}
| 第二
| ゼウス
| [[マイア]]<br/>(ティーターン)
| ゼウスの末子。<br />母は[[プレイアデス]]の一柱。
| 先住
|-
| ポセイドーン
| {{lang|grc|Ποσειδῶν}}<br />{{ラテン翻字|grc|Poseidōn}}
| 第一
| クロノス
| レアー<br/>(ティーターン)
| ゼウスの兄。ハーデースの弟。
| 固有
|-
| ヘスティアー
| {{lang|grc|Ἑστία}}<br />{{ラテン翻字|grc|Hestiā}}
| 第一
| クロノス
| レアー<br/>(ティーターン)
| ゼウスの姉。クロノスの長女。
| 固有
|-
| ディオニューソス
| {{lang|grc|Διόνυσος}}<br />{{ラテン翻字|grc|{{unicode|Dionȳsos}}}}
| 第二
| ゼウス
| [[セメレー]]<br/>(人間)
| 本来はトラーキアの神。<br />母は[[カドモス]]の娘で人間。
| 外来
|-
| ハーデース
| {{lang|grc|Ἅιδης}}<br />{{ラテン翻字|grc|Hādēs}}
| 第一
| クロノス
| レアー<br/>(ティーターン)
| ゼウスとポセイドーンの兄。<br />ペルセポネーの夫。
| 固有
|-
| ペルセポネー
| {{lang|grc|Περσεφόνη}}<br />{{ラテン翻字|grc|Persephonē}}
| 第二
| ゼウス
| デーメーテール<br/>(オリュンポス)
| ハーデースの妻。<br />母と共に秘教の二柱女神。
| style="white-space:nowrap;" | 固有<br />先住<ref group="注釈">[[ペルセポネー]]は、[[コレー]]の名で呼ばれる[[デーメーテール]]との「母娘二柱女神」としては、古代ギリシア民族固有の女神であるが、「ペルセポネーという名」は先住民のものと考えられる。</ref>
|}
<references group="*"/>
== 十二神ギャラリー ==
<gallery>
File:Jupiter Smyrna Louvre Ma13.jpg|[[ゼウス]]
File:Hera Campana Louvre Ma2283.jpg|[[ヘーラー]]
File:Athena Varvakeion - MANA - Fidias.jpg|[[アテーナー]]
File:Apollo ny carlsberg glyptotek.jpg|[[アポローン]]
File:1848 Jean-Auguste-Dominique Ingres - Venus Anadyomène.jpg|[[アプロディーテー]]
File:Ares Ludovisi Altemps b Inv.jpg|[[アレース]]
File:Artemis Louvre2.jpg|[[アルテミス]]
File:Museo Pio-Clementino Ceres Demeter.jpg|[[デーメーテール]]
File:Vulcan (Bissen).jpg|[[ヘーパイストス]]
File:Hermes Ingenui Pio-Clementino Inv544.jpg|[[ヘルメース]]
File:Neptuno colosal (Museo del Prado) 01.jpg|[[ポセイドーン]]
File:Hestia - Wellesley College - DSC09634.JPG|[[ヘスティアー]]
File:Dionysos Louvre Ma87 n2.jpg|[[ディオニューソス]]
File:Hades-et-Cerberus-III.jpg|[[ハーデース]]
File:AMI - Isis-Persephone.jpg|[[ペルセポネー]]
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2020年9月16日 (水) 03:32 (UTC)|section=1}}
* {{Cite book|和書
|author=高津春繁|authorlink=高津春繁
|title=ギリシア・ローマ神話辞典
|publisher=[[岩波書店]]
|year=1960
|ISBN=9784000800136
|ref=koudu
}}
* {{Cite book|和書
|author=アポロドーロス|authorlink=アポロドーロス
|title=[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]
|edition=改訂版
|others=高津春繁訳
|publisher=岩波書店
|series=[[岩波文庫]]
|year=1978
|ISBN=9784003211014
}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Greek deities}}
* [[ギリシア神話の神々の系譜]]
{{オリュンポス十二神}}
{{ギリシア神話}}
{{デフォルトソート:おりゆんほすしゆうにしん}}
[[Category:オリュンポス十二神|*]]
[[Category:ギリシア神話]]
[[Category:名数12|おりゆんほす]] | null | 2023-05-20T13:51:04Z | false | false | false | [
"Template:Lang",
"Template:ラテン翻字",
"Template:Notelist",
"Template:参照方法",
"Template:Commons",
"Template:オリュンポス十二神",
"Template:Lang-grc",
"Template:Cite book",
"Template:ギリシア神話",
"Template:Otheruseslist",
"Template:Lang-el-short",
"Template:Reflist",
"Template:Greek mythology",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Lang-*-Latn"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%82%B9%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%A5%9E |
6,515 | 病気の別名の一覧 | 病気の別名の一覧は、病気や症状の一覧、およびおのおのの病名の別名の一覧(50音別索引、アルファベット順)。
50音別 | [
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"text": "病気の別名の一覧は、病気や症状の一覧、およびおのおのの病名の別名の一覧(50音別索引、アルファベット順)。",
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},
{
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"text": "50音別",
"title": null
}
] | 病気の別名の一覧は、病気や症状の一覧、およびおのおのの病名の別名の一覧(50音別索引、アルファベット順)。 この一覧は各記事に正式な記事名がつけられていて、適切なリダイレクトが張られていて、記事中に俗称・旧名や略称がきちんと併記されて居る事を確認するためのチェックリストでもある。
この一覧は日常語と医学用語で意味に乖離がある言葉(複雑骨折等)も含める。
世の書籍や学会発表では固有名詞の入った病名の使用をなるべく減らして普遍的な病名を使おうという方針なので、固有名詞の入った病名から普遍的な病名へのリダイレクトを貼る事で、古い文献を参照する際などに役に立つ物を作る。
病態生理に基づく病名が一般的でない病気は括弧に括って表記する。
読み方や変換が難しい物は読み仮名のリダイレクトも作る。 50音別 英称アルファベット順 A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z
英略アルファベット順 A B C D E F G H I J K L M N O P Q R S T U V W X Y Z
子分野索引 外部リンク 参考文献 | '''病気の別名の一覧'''は、[[病気]]や[[症状]]の一覧、およびおのおのの病名の別名の一覧(50音別[[索引]]、アルファベット順)。
*この一覧は各記事に正式な記事名がつけられていて、適切なリダイレクトが張られていて、記事中に俗称・旧名や略称がきちんと併記されて居る事を確認するためのチェックリストでもある。
*この一覧は日常語と医学用語で意味に乖離がある言葉([[複雑骨折]]等)も含める。
*世の書籍や学会発表では固有名詞の入った病名の使用をなるべく減らして普遍的な病名を使おうという方針なので、固有名詞の入った病名から普遍的な病名へのリダイレクトを貼る事で、古い文献を参照する際などに役に立つ物を作る。
*病態生理に基づく病名が一般的でない病気は括弧に括って表記する。
*読み方や変換が難しい物は読み仮名のリダイレクトも作る。
50音別
{{KTOC}}
*英称アルファベット順 [[#A|A]] [[#B|B]] [[#C|C]] [[#D|D]] [[#E|E]] [[#F|F]] [[#G|G]] [[#H|H]] [[#I|I]] [[#J|J]] [[#K|K]] [[#L|L]] [[#M|M]] [[#N|N]] [[#O|O]] [[#P|P]] [[#Q|Q]] [[#R|R]] [[#S|S]] [[#T|T]] [[#U|U]] [[#V|V]] [[#W|W]] [[#X|X]] [[#Y|Y]] [[#Z|Z]]
*英略アルファベット順 [[#略A|A]] [[#略B|B]] [[#略C|C]] [[#略D|D]] [[#略E|E]] [[#略F|F]] [[#略G|G]] [[#略H|H]] [[#略I|I]] [[#略J|J]] [[#略はいききょうK|K]] [[#略L|L]] [[#略M|M]] [[#略N|N]] [[#略O|O]] [[#略P|P]] [[#略Q|Q]] [[#略R|R]] [[#略S|S]] [[#略T|T]] [[#略U|U]] [[#略V|V]] [[#略W|W]] [[#略X|X]] [[#略Y|Y]] [[#略Z|Z]]
*[[#子分野索引|子分野索引]] [[#外部リンク|外部リンク]] [[#参考文献|参考文献]]
==50音別==
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="0" style="width:100%"
|-
|普遍的な病名||←||固有名詞の入った病名||俗称・旧名||略語||備考(現在どの記事へリダイレクトされているか、等)
|-
|
=== あ ===
|-
|[[亜急性硬化性全脳炎]]||←|| 脳炎|| ||[[SSPE]]||[[subacute sclerosing panencephalitis]]
|-
|[[アルツハイマー病]]||←|| ||アルツハイマー||AD||[[Alzheimer's Disease]]
|-
|(まだない)||←||[[Alport症候群]]
|-
|[[アレルギー性結膜炎]]||←||
|-
|[[アレルギー性紫斑病]]||←||[[Schönlein-Henoch紫斑病]]、[[シェーンライン-ヘノッホ紫斑病]]
|-
|[[好酸球性多発血管炎性肉芽腫症]]||←||[[Churg-Strauss症候群]]、[[チャーグ-ストラウス症候群]]、[[アレルギー性肉芽腫性血管炎]]
|-
|[[アレルギー性鼻炎]]||←||
|-
|[[アンジェルマン症候群]]||←||
|-
|(まだない)||←||[[Anton症候群]]、[[アントン症候群]]
|-
|
=== い ===
|-
|[[胃巨大皺襞症]](いきょだいすうへきしょう)||←||[[Ménétrier病]]、[[メニトリエ病]]|| || ||[[巨大肥厚性胃炎]]と同じ
|-
|[[一過性脳虚血発作]]||←|| || ||[[TIA]]||[[transient cerebral ischemic attack]]
|-
|[[遺伝性運動感覚性ニューロパチーI型・II型]]||←||[[シャルコー・マリー・トゥース病]]|| ||[[CMT]]||[[腓骨筋萎縮症]]、[[神経性進行性筋萎縮症]]と同じ
|-
|[[陰萎]](いんい)||←|| || ||[[ED]]||[[Erection Disorder]]
|-
|[[インフルエンザ]]||←|| ||[[流感]]||||
|-
|
=== う ===
|-
|[[ウィリアムズ症候群]]||←||
|-
|[[齲歯]](うし)||←|| ||[[う蝕|虫歯]]([[むしば]])
|-
|[[う蝕|齲蝕]](うしょく)||←|| ||[[う蝕|虫歯]]([[むしば]])
|-
|[[牛海綿状脳症]]||←|| ||[[狂牛病]]||[[BSE]]||[[bovine spongiform encephalopathy]]
|-
|[[うっ血性心不全|鬱血性心不全]]||←|| || ||[[CHF]]||[[congestive heart failure]]
|-
|
=== え ===
|-
|[[A型肝炎]]||←|| || ||[[HA]]||[[hepatitis A]]
|-
|[[腋臭症]](えきしゅうしょう)[[臭汗症]](しゅうかんしょう)||←|| ||[[腋臭]](わきが)
|-
|[[壊死性腸炎]]||←|| || ||[[NEC]]||[[necrotizing enterocolitis]]
|-
|[[F中]](えふちゅう)||←|| ||[[病気]](びょうき)
|-
|[[円形脱毛症]](えんけいだつもうしょう)||←|| ||[[十円禿]](じゅうえんはげ)
|-
|[[延髄外側症候群]]||←||[[Wallenberg症候群]]、[[ワレンベルク症候群]]
|-
|
=== お ===
|-
|[[黄疸出血性レプトスピラ症]](おうだんしゅっけつせいれぷとすぴらしょう)||←||[[Weil病]]、[[ワイル病]]
|-
|(まだない)||←||[[オールブライト遺伝性骨異栄養症]]、[[Albright's遺伝性骨異栄養症]]
|-
|[[悪寒]](おかん)||←||
|-
|[[悪心]](おしん)||←|| ||[[吐気]](はきけ)
|-
|[[悪露]](おろ)||←|| ||[[下り物|下物]](おりもの)|| ||[[帯下]]と同じ
|-
|[[オリーブ橋小脳萎縮症]](おりーぶきょうしょうのういしゅくしょう)||←|| || ||[[OPCA]]||[[Olivopontinecelebellar atrophy]]
|-
|
=== か ===
|-
|[[外傷後健忘]]||←|| || ||[[PTA]]||[[posttraumatic amnesia]]
|-
|[[咳嗽]](がいそう)||←|| ||[[咳]](せき)
|-
|[[外反母趾]](がいはんぼし)||←||
|-
|[[化学物質過敏症]] ||←||
|-
|[[潰瘍性大腸炎]]||←|| || ||[[UC]]
|-
|[[下顎骨骨折]]||←||
|-
|[[顎関節脱臼]]||←||
|-
|[[顎関節症]]||←||
|-
|[[仮性球麻痺]](かせいきゅうまひ)||←|| || ||[[PBP]]||[[pseudobulbar palsy]]
|-
|[[痂皮]](かひ)||←|| ||[[瘡蓋]](かさぶた)
|-
|[[花粉症]]||←||
|-
|(まだない)||←||[[カルマン症候群|Kallmann症候群]]、[[カルマン症候群]]
|-
|[[悪性腫瘍]]||←||
|-
|[[肝炎]]||←||
|-
|[[間欠性跛行]]||←||
|-
|[[肝硬変]]||←|| || ||[[LC]]||[[liver cirrhosis]]
|-
|[[肝細胞癌]]||←|| || ||[[HCC]]
|-
|[[関節炎]]||←||
|-
|[[関節リウマチ]]||←|| || ||[[RA]]
|-
|[[完全右脚ブロック]]||←|| || ||[[CRBBB]]||[[complete right bundle branch block]]
|-
|[[感染性心内膜炎]]||←|| ||亜急性細菌性心内膜炎、subacute bacterial endocarditis[[SBE]]||[[IE]]||[[Infective endocarditis]]
|-
|[[完全房室ブロック]]||←|| || ||[[CAVB]]||[[complete atroioventiricular block]]
|-
|[[感染症]]||←||
|-
|[[汗貯留症候群]](かんちょりゅうしょうこうぐん)||←|| ||[[汗疹]](あせも)
|-
|[[冠動脈疾患]]||←|| [[虚血性心疾患]],[[心筋梗塞]],[[狭心症]]|| ||[[CHD]]||[[coronary heart disease]]
|-
|[[感冒]](かんぼう)||←|| ||[[風邪]](かぜ)
|-
|[[肝レンズ核変性症]]||←||[[Wilson病]]、[[ウィルソン病]]
|-
|
=== き ===
|-
|[[キアリ奇形II型]]||←||[[Chiai奇形II型]]、[[Arnold-Chiari奇形]]
|-
|[[気管支喘息]]||←|| || ||[[BA]]||[[bronchial asthema]]
|-
|[[偽性低アルドステロン症II型]]||←||[[Gordon症候群]]
|-
|[[ぎっくり腰]]||←||
|-
|[[急性アルコール中毒]]||←||
|-
|[[急性炎症性脱髄性多発神経根炎]]||←||[[ギランバレ症候群]]、[[ギランバレー症候群]]、[[ギラン-バレ症候群]]、[[ギラン-バレー症候群]]、[[ギラン・バレ症候群]]、[[ギラン・バレー症候群]]、[[Guillain-Barré症候群]]|| ||[[GBS]]||[[Guillain-Barre syndrome]]
|-
|[[急性灰白質髄炎]](きゅうせいかいはくしつずいえん)||←||[[ポリオ]]|| || ||→[[急性灰白髄炎]]
|-
|[[急性骨髄性白血病]]||←|| || ||[[AML]]||[[acute myelogenous leukemia]]
|-
|[[急性細菌性心内膜炎]]||←|| || ||[[ABE]]||[[acute bacterial endocarditis]]
|-
|[[急性糸球体腎炎]]||←|| || ||[[AGN]]||[[atute glomerulonephritis]]
|-
|[[急性心筋梗塞]]||←|| || ||[[AMI]]||[[acute myocardial infarciton]]
|-
|[[急性腎不全]]||←|| || ||[[ARF]]||[[acute renal failure]]
|-
|[[急性前骨髄性白血病]]||←|| || ||[[APL (曖昧さ回避)|APL]]||[[acute promyelocytic leukemia]]
|-
|[[急性リンパ性白血病]]||←|| || ||[[ALL]]||[[acute lymphcitic leukemia]]
|-
|[[狂犬病]]||←||
|-
|[[狭心症]]||←||
|-
|[[強皮症]]||←|| || ||[[SD]]||[[scleroderma]]
|-
|[[胸腺低形成症]]||←||[[Di George症候群]]、[[ディジョージ症候群]]|| ||[[DGS]]
|-
|[[虚血性心疾患]]||←||[[冠動脈疾患]] || ||[[IHD]]||[[ischemic heart disease]]
|-
|[[巨大肥厚性胃炎]]||←||[[Ménétrier病]]、[[メニトリエ病]]|| || ||[[胃巨大皺襞症]]と同じ
|-
|[[魚鱗癬]](ぎょりんせん)||←|| ||[[鮫肌]](さめはだ)
|-
|[[筋萎縮性側索硬化症]]||←|| || ||[[ALS]]||[[amyotropic lateral screlosis]]
|-
|[[筋ジストロフィー]]||←||
|-
|
=== く ===
|-
|[[クールー病]]||←||
|-
|[[糖質ホルモン過剰症候群]]||←||[[Cushing症候群]]、[[クッシング症候群]]
|-
|[[下垂体腫瘍性糖質ホルモン過剰症]]||←||[[Cushing病]]、[[クッシング病]]
|-
|(まだない)||←||[[Goodpasture症候群]]、[[グッドパスチャー症候群]]
|-
|[[蜘蛛膜下出血]](くもまくかしゅっけつ)||←|| ||[[ザー]]||[[SAH]]||[[subarachnoid hemorrhage]]
|-
|[[クラインフェルター症候群]]||←|| || || || →[[染色体異常]]
|-
|[[先天性ガラクトセルブロシダーゼ欠損症]]||←||[[Krabbe病]]、[[クラッベ病]]
|-
|(まだない)||←||[[Klüver-Bucy症候群]]、 [[情動#概説|クリューヴァー・ビューシー症候群]]
|-
|[[甲状腺刺激ホルモン受容体刺激型自己抗体性甲状腺機能亢進症]]||←||[[Basedow病]]、[[バセドウ病]]|| || ||[[グレイヴズ病]]と同じ
|-
|[[クロイツフェルト・ヤコブ病]]||←|| ||[[ヤコブ病]]||[[CJD]]
|-
|[[クローン病]]||←||
|-
|
=== け ===
|-
|[[鶏眼]](けいがん)||←|| ||[[魚の目]](うおのめ)|| ||[[clavus]]
|-
|[[痙攣]](けいれん)||←||
|-
|[[結核]]||←|| || ||[[TB]]||[[tuberculosis]]
|-
|[[血小板無力症]]||←||[[Glanzmannの血小板無力症]]、[[グランツマンの血小板無力症]]
|-
|[[血栓性血小板減少性紫斑病]]||←|| || ||[[TTP]]||[[thrombotic theombocytopenic purpura]]
|-
|[[結節性硬化症]]||←||[[Bourneville-Pringle病]]、[[ブルヌヴィーユ-プリングル病]]
|-
|[[結節性動脈周囲炎]]||←|| || ||[[PN]]||[[periarteritis nodosa]]
|-
|[[血友病]]||←||
|-
|[[下痢]]||←||
|-
|[[原発性アルドステロン症]]||←||[[Conn症候群]]、[[コン症候群]]
|-
|
=== こ ===
|-
|高血圧症||←|| || ||[[HT]]||[[hypertension]]→[[高血圧]]
|-
|[[膠原病]]||←|| || || ||
|-
|[[好酸球性肉芽腫]]||←||[[Calvé病]]|| || ||
|-
|[[先天性グルコセルブロシダーゼ欠損症]]||←||[[Gaucher病]]、[[ゴーシェ病]]
|-
|[[高脂血症]]||←|| || ||[[HL]]||[[hyperlipidemia]]
|-
|[[高次脳機能障害]]||←|| || || ||
|-
|[[後縦靱帯硬化症]](こうじゅうじんたいこうかしょう)||←|| || ||[[OPLL]]||[[Ossification of the posterior longitudinal ligament]]
|-
|[[高所恐怖症]]||←|| || || ||
|-
|[[後天性免疫不全症候群]]||←|| ||[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]||[[AIDS]]||[[acquired immunodeficiency syndrome]]
|-
|[[更年期障害]]||←|| || || ||
|-
|[[咬耗症]]||←|| || || ||
|-
|[[呼吸器疾患]]||←|| || || ||
|-
|[[帯下]](たいげ)||←|| ||[[下り物|下物]](おりもの)||[[悪露]]と同じ
|-
|[[五十肩]]||←|| || || ||
|-
|[[骨形成不全症]]||←|| || ||[[OI]]||[[osteogenesis imperfecta]]
|-
|[[骨粗鬆症]](こつそしょうしょう)||←|| || || ||
|-
|[[股部白癬]](こぶはくせん)||←|| ||[[陰金田虫]](いんきんたむし)
|-
|[[コレラ]]||←|| || || ||
|-
|
=== さ ===
|-
|[[再生不良性貧血]]||←||[[ファンコーニ貧血]]
|-
|[[臍ヘルニア]](さいへるにあ)||←|| ||[[出臍]]([[でべそ]])
|-
|[[坐骨神経痛]]||←||
|-
|[[挫滅症候群]]||←|| ||[[クラッシュ・シンドローム]]
|-
|[[酸素欠乏症]]||←|| ||[[酸欠]]
|-
|[[三尖弁狭窄症]]||←|| || ||[[TS]]||[[tricuspid stenosis , tuberous sclerosis]]
|-
|[[三尖弁閉鎖不全症]]||←|| || ||[[TI]]||[[tricuspid insufficiency]]
|-
|(先天性βヘキソサミニダーゼβ鎖欠損症)||←||[[Sandhoff病]]、[[サンドホフ病]]
|-
|
=== し ===
|-
|[[痔]](じ、ぢ)||←|| || || ||痔瘻・内痔核など肛門部疾患の総称であり、単一の疾患ではない
|-
|[[C型肝炎]]||←|| ||[[非A非B型肝炎]]||[[HC]]||[[hepatitis C]]
|-
|(まだない)||←||[[Sheehan症候群]]、[[シーハン症候群]]
|-
|[[歯根嚢胞]]||←||
|-
|[[持続勃起症]](じぞくぼっきしょう)||←||
|-
|[[色素性母斑]](しきそせいぼはん)||←|| ||[[ほくろ|黒子]](ほくろ)、[[黒痣]]([[くろあざ]])
|-
|[[子宮筋腫]](しきゅうきんしゅ)||←||
|-
|[[歯垢]](しこう)||←|| ||[[歯糞]]([[はくそ]])
|-
|[[歯周病]](ししゅうびょう)||←||
|-
|[[四十肩]](しじゅうかた)||←||
|-
|[[自然気胸]](しぜんききょう)||←||
|-
|[[歯周病|歯槽膿漏]](しそうのうろう)||←|| || || ||→[[歯周病]]([[ししゅうびょう]])
|-
|[[自閉症]]||←||
|-
|[[脂肪肝]]||←||
|-
|[[肝斑]](しみ)||←||
|-
|[[若年性関節リウマチ]]||←|| || ||[[JRA]]||[[juvenile rheumatoid arthritis]]
|-
|[[若年性骨粗鬆症]]||←||[[Scheuermann病]]、[[ショイエルマン病]]|| || ||
|-
|[[雀卵斑]](じゃくらんはん)||←|| ||[[雀斑]]([[そばかす]])
|-
|[[重症急性呼吸器症候群]]||←|| || ||[[SARS]]||[[Severe Acute Respiratory Syndrome]]
|-
|[[重症筋無力症]]||←|| || ||[[MG]]||[[myasthenia gravis]]
|-
|[[十二指腸潰瘍]]||←|| || ||[[DU]]||[[duodenal ulcer]]
|-
|[[慢性原発性副腎皮質機能低下症]]||←||[[Schmidt症候群]]、[[シュミット症候群]]
|-
|[[上顎洞癌]](じょうがくどうがん)||←||
|-
|[[常染色体性優性多発性嚢胞腎]]||←||[[常染色体優性多発性嚢胞腎]]、[[多発性嚢胞腎]]、[[ADPKD]]
|-
|[[常染色体性劣性多発性嚢胞腎]]||←||[[常染色体劣性多発性嚢胞腎]]、[[多発性嚢胞腎]]、[[ARPKD]]
|-
|[[小児がん]]||←||
|-
|[[小児急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群]]||←||[[川崎病]]|| ||[[MCLS]]||[[mucocutaneus lymphnode syndrome]]
|-
|[[上腕骨外側上顆炎]]||←|| ||[[テニス肘]]||
|-
|[[食思不振]](しょくしふしん)||←|| ||[[食欲不振]]([[しょくよくふしん]])
|-
|[[褥瘡]](じょくそう)||←|| ||[[床擦れ]]([[とこずれ]])
|-
|[[食中毒]]||←||
|-
|[[食道癌]]||←||
|-
|[[徐脈]]||←||
|-
|[[自律神経失調症]]||←||
|-
|[[脂漏性角化症]](しろうせいかくかしょう)||←|| ||[[年寄り疣]]([[としよりいぼ]])|| ||[[老人性疣贅]](ろうじんせいゆうぜい)と同じ
|-
|[[腎芽腫]](じんがしゅ)||←||[[Wilms腫瘍]]、[[ウィルムス腫瘍]]、[[腎芽細胞腫]]
|-
|[[腎機能障害]]||←||
|-
|[[心筋梗塞]]||←|| || ||[[MI]]||[[myocardial infarction]]
|-
|[[神経因性膀胱機能障害]](しんけいいんせいぼうこうきのうしょうがい)||←|| || ||[[NBD]]||[[neurogenic bladder dysfunction]]
|-
|[[神経性進行性筋萎縮症]](しんけいせいしんこうせいきんいしゅくしょう)||←||[[Charcot-Marie-Tooth病]]、[[シャルコー-マリー-トゥース病]]|| ||[[CMT]]||[[遺伝性運動感覚性ニューロパチーI型・II型]]、[[腓骨筋萎縮症]]と同じ
|-
|[[進行性核上性麻痺]](しんこうせいかくじょうまひ)||←|| || ||[[PSP]]||[[progressive supranuclear palsy]]
|-
|[[進行性筋ジストロフィー症]]||←|| || ||[[PMD]]||[[progressive muscular dystrophy]]
|-
|[[進行性全身性硬化症]]||←|| || ||[[PSS]]||[[progressive systemic sclerosis]]
|-
|[[進行性肥厚性間質ニューロパチー]]||←||[[Déjérine-Sottas病]]、[[デジェリン-ソッタ病]]
|-
|[[心室性期外収縮]]||←|| || ||[[VPC]]||[[ventricular premature contraction]]
|-
|[[心室中隔欠損症]]||←|| || ||[[VSD]]||[[ventricular septal defect]]
|-
|[[尋常性座瘡]](じんじょうせいざそう)||←|| ||[[靤皰]](にきび)
|-
|[[尋常性白斑]](じんじょうせいはくはん)||←|| ||[[白癜]](しろなまず)
|-
|[[心身症]]||←|| || ||[[PSD]]||[[psychosomatic disease]]
|-
|[[シンスプリント]]||←|| || || ||[[Medial Tibial Stress Syndrome]]
|-
|[[新生児一過性多呼吸]]||←||
|-
|[[心房細動]]||←|| || ||[[Af]]||[[atrial fibrillation]]
|-
|[[心房中隔欠損症]]||←|| || ||[[ASD]]||[[atrial septal defect]]
|-
|[[蕁麻疹]](じんましん)||←||
|-
|
=== す ===
|-
|[[膵炎]](すいえん)||←||
|-
|[[水痘]](すいとう)||←|| ||[[水疱瘡]]([[みずぼうそう]])
|-
|[[水頭症]](すいとうしょう)||←||
|-
|[[頭痛]]||←||
|-
|(まだない)||←||[[stiff-person症候群]]、[[スティッフパーソン症候群]]、[[stiff-man症候群]]、[[スティッフマン症候群]]、[[スティフ・マン症候群]]、[[全身強直症候群]]、[[全身硬直症候群]]|| ||[[SPS]]、[[スティッフマン症候群|SMS]]||[[stiff person syndrome]], [[stiff man syndrome]]
|-
|[[ステロイド皮膚症]]||←||
|-
| ||←|| || ||[[スモン]]、[[SMON]]||[[subacute myelo-optico-neuropathy]]
|-
|
=== せ ===
|-
|[[生活習慣病]]||←|| ||[[成人病]]
|-
|[[性感染症]]||←|| || ||[[STD]]||[[sexual transmitted disease]]
|-
|[[精神発達遅滞]]||←|| || ||[[MR]]||[[mental retardation]]
|-
|[[性同一性障害]]||←||
|-
|[[脊柱管狭窄症]]||←||
|-
|[[脊髄性筋萎縮症]]||←|| || ||[[SMA]]||[[Spinal Muscular Atrophy]]
|-
|[[脊髄性進行性筋萎縮症I型]]||←||[[Werdnig-Hoffmann病]]、[[ヴェルドニヒ-ホフマン病]]|| ||[[SPMA]]||→[[脊髄性筋萎縮症]]
|-
|[[脊髄性進行性筋萎縮症III型]]||←||[[Kugelberg-Welander病]]、[[クーゲルベルク-ヴェランダー病]]、[[クーゲルベルグ・ヴェランダー病]]|| ||[[SPMA]]||→[[脊髄性筋萎縮症]]
|-
|[[赤痢]]
|-
|[[癤]](疒節)(せつ)||←|| ||[[御出来]](おでき)|| ||[[furuncle]]、[[フルンケル]]
|-
|[[接触性皮膚炎]](せっしょくせいひふえん)||←|| ||[[かぶれ]]
|-
|[[染色体異常]]||←||
|-
|[[全身性強皮症]]||←|| || ||[[SS]]||[[systemic screlosis]]
|-
|[[全身性ループスエリテマトーデス]]||←|| ||[[全身性エリテマトーデス]]||[[SLE]]||[[systemic lupus erythmatosus]]
|-
|[[喘息]]||←||
|-
|[[先天性甲状腺機能低下症]]||←|| ||[[クレチン症]]
|-
|[[先天性白皮症]](せんてんせいはくひしょう)||←|| ||[[アルビノ]]、[[白子]]||OCA||→[[眼皮膚白皮症]]、[[albinism]]、[[oculocutaneous albinism]]
|-
|[[先天性無痛無汗症]](せんてんせいむつうむかんしょう)
|-
|
=== そ ===
|-
|[[双極性障害]]||←|| ||[[躁鬱病]]([[そううつびょう]])
|-
|[[壮年性脱毛症]]([[そうねんせいだつもうしょう]])||←|| ||[[若禿]]([[わかはげ]])
|-
|[[爪白癬]]([[そうはくせん]])||←|| ||[[爪水虫]]([[つめみずむし]])
|-
|[[僧帽弁狭窄症]]([[そうぼうべんきょうさくしょう]])||←|| || ||[[MS]]||[[mitral(valve) stenosis]]
|-
|[[僧帽弁閉鎖不全症]]||←|| || ||[[MR]]
|-
|[[足白癬]]([[そくはくせん]])||←|| ||[[水虫]]([[みずむし]])
|-
|
=== た ===
|-
|[[ターナー症候群]]||←|| || || ||→[[染色体異常]]
|-
|[[帯下]]([[たいげ]]、[[こしけ]])||←|| ||[[下り物|下物]](おりもの)|| ||[[悪露]]と同じ
|-
|[[帯状疱疹]]([[たいじょうほうしん]])||←|| ||[[たんがさー]]/[[つづらご]]/たづ
|-
|[[大腿骨頭辷り症]]([[だいたいこっとうすべりしょう]])||←|| ||[[大腿骨頭骨端線離開]]
|-
|[[高安動脈炎]]||←||[[大動脈炎症候群]]、[[高安病]]、[[脈なし病]]
|-
|[[大動脈弁狭窄症]]||←|| || ||[[AS]]||[[aortic stenosis]]
|-
|[[大動脈弁狭窄及び閉鎖不全症]]||←|| || ||[[ASI]]||[[aortic stenoinsufficiency]]
|-
|[[大動脈弁閉鎖不全]]||←|| || ||[[AI]]||[[aortic insufficiency]]
|-
|[[大動脈弁閉鎖不全]]||←|| || ||[[AR]]||[[aortic regurgitation]]
|-
|[[体部白癬]]([[たいぶはくせん]])||←|| ||[[ぜに田虫]]([[ぜにたむし]])
|-
|[[大理石様皮斑]]([[だいりせきようひはん]])||←|| ||[[ひだこ]]
|-
|[[ダウン症候群]]||←|| || || ||→[[染色体異常]]
|-
|[[多発性硬化症]]||←|| || ||[[MS]]||[[multiple sclerosis]]
|-
|[[多発性骨髄腫]]||←|| || ||[[MM]]||[[multiple myeloma]]
|-
|[[多発性内分泌腫瘍症I型]]||←||[[Wermer症候群]]、[[ワーマー症候群]]
|-
|[[多発性内分泌腫瘍症IIA型]]||←||[[Sipple症候群]]、[[シップル症候群]]
|-
|[[ダブリューピーダブリュー症候群]]||←|| ||[[WPW症候群]]||[[WPW]]||[[Wolf-Parkinson-White syndrome]]
|-
|[[単純性粃糠疹]]([[たんじゅんせいひこうしん]])||←|| ||[[はたけ]]
|-
|[[炭疽症]]([[たんそしょう]])||←||
|-
|[[男性恐怖症]]||←||
|-
|
=== ち ===
|-
|[[痔]]([[じ]]、[[ぢ]])||←|| || || ||痔瘻・内痔核など肛門部疾患の総称であり、単一の疾患ではない
|-
|[[注意欠陥・多動性障害]]||←|| || ||[[ADHD]]||[[注意欠陥障害]](AD)[[Attention Deficit]]、[[多動性障害]] ([[HD]])[[Hyperactivity Disorder]]
|-
|[[虫垂炎]]([[ちゅうすいえん]])||←|| ||[[盲腸]]、[[盲腸炎]]|| ||[[盲腸]]は医学的には別の意
|-
|[[腸管出血性大腸菌感染症]]||←|| || || ||[[O157]]
|-
|[[陳旧性心筋梗塞]]([[ちんきゅうせいしんきんこうそく]])||←|| || ||[[OMI]]||[[Old Myocardial Infarction]]
|-
|
=== つ ===
|-
|[[痛風]]||←||
|-
|
=== て ===
|-
|[[低血圧]]([[ていけつあつ]])||←||
|-
|(先天性βヘキソサミニダーゼα鎖欠損症)||←||[[Tay-Sachs病]]、[[テイ=サックス病]]
|-
|[[癲癇]]([[てんかん]])||←||
|-
|[[伝染性耳下腺炎]]([[でんせんせいじかせんえん]])||←|| ||[[お多福風邪]]([[おたふくかぜ]])
|-
|[[伝染性紅斑]]([[でんせんせいこうはん]])||←|| ||[[りんご病]]
|-
|[[伝染性軟属腫]]([[でんせんせいなんぞくしゅ]])||←|| ||[[水疣]]([[みずいぼ]])
|-
|[[伝染性膿痂疹]]([[でんせんせいのうかしん]])||←|| ||[[とびひ]]
|-
|
=== と ===
|-
|[[糖原病I型]]||←||[[von Gierke病]]、[[フォン・ギールケ病]]
|-
|[[糖原病II型]]||←||[[Pompe病]]、[[ポンペ病]]
|-
|[[糖原病III型]]||←||[[Cori病]]、[[コーリ病]]
|-
|[[糖原病IV型]]||←||[[Andersen病]]、[[アンダーセン病]]
|-
|[[糖原病V型]]||←||[[MacArdle病]]、[[マッカードル病]]
|-
|[[糖原病VII型]]||←||[[Tarui病]]、[[垂井病]]
|-
|[[統合失調症]]||←|| ||[[精神分裂病]]
|-
|[[凍瘡]]([[とうそう]])||←|| ||[[霜焼]]([[しもやけ]])
|-
|[[痘瘡]]([[とうそう]])||←|| ||[[天然痘]]
|-
|[[糖尿病]]||←|| || ||[[DM]]||[[diabetes mellitus]]
|-
|[[洞不全症候群]]||←|| || ||[[SSS]]||[[sick sinus syndrome]]
|-
|[[頭部白癬]]([[とうぶはくせん]])||←|| ||[[しらくも]]
|-
|[[動脈管開存症]]||←|| || ||[[動脈管開存症|PDA]]||[[patent ductus arteriosus]]
|-
|[[動脈硬化症]]||←||
|-
|[[特発性血小板減少性紫斑病]]||←|| || ||[[ITP]]||[[idiopathic thrombocytopenic purpura]]
|-
|[[特発性心筋症]]||←|| || ||[[ICM]]||[[ideopathic cardiomyopathy]]
|-
|[[特発性大腿骨頭壊死症]]||←||
|-
|[[特発性肥厚性大動脈弁下狭窄症]]||←|| || ||[[IHSS]]||[[ideopathic hypertropic subaortic stenosis]]
|-
|[[突発性食道破裂]]||←||[[Boerhaave症候群]]、[[ボールハーフェ症候群]]
|-
|[[突発性難聴]]||←||
|-
|[[突発性門脈圧亢進症]]||←||[[Banti症候群]]、[[バンチ症候群]]
|-
|[[鳥インフルエンザ]]||←|| || || ||→[[トリインフルエンザ]]
|-
|[[トルコ鞍空虚症候群]]||←|| ||[[empty sella症候群]]
|-
|
=== な ===
|-
|[[ナルコレプシー]]||←|| || || ||
|-
|[[内反脛骨]]([[ないはんけいこつ]])||←||[[Blount病]]、[[ブラウント病]]|| || ||
|-
|[[軟繊維腫]]([[なんせんいしゅ]])||←|| ||[[くちびー]]|| ||[[skin tag]]
|-
|
=== に ===
|-
|(スフィンゴミエリン蓄積症)||←||[[Niemann-Pick病]]、[[ニーマン-ピック病]]|| ||[[NPD]]||[[Niemann-Pick disease]]
|-
|[[日射病]]||←||
|-
|[[日本脳炎]]||←||
|-
|[[尿路感染症]]||←|| || ||[[UTI]]||[[urinary tract infection]]
|-
|[[認知症]]||←|| || ||[[痴呆]]
|-
|
=== ぬ ===
|-
|
=== ね ===
|-
|[[猫鳴き症候群]]||←|| || || ||→[[染色体異常]]
|-
|[[熱射病]]||←||
|-
|[[熱傷]]([[ねっしょう]])||←|| ||[[火傷]]([[やけど]])
|-
|[[熱中症]]||←||
|-
|[[ネフローゼ症候群]]||←||
|-
|
=== の ===
|-
|[[脳血管障害]]||←|| ||[[脳卒中]]||[[CVD]]||[[cerebrovascular disorder]][[cerebral vascular disease]]
|-
|[[脳梗塞]]||←|| ||[[脳軟化症]]||||[[cerebral infarction]]
|-
|[[脳室内出血]]||←|| || ||[[IVH]]||[[intraventricular hemorrhage]]
|-
|[[脳出血]]||←|| ||[[脳溢血]]([[のういっけつ]])||||[[cerebral hemorrhage]]
|-
|[[脳性麻痺]]||←|| || ||[[CP]]||[[cerebral palsy]]
|-
|[[脳脊髄液減少症]]||←||
|-
|[[脳卒中]]([[のうそっちゅう]])||←|| ||[[中風]] (風に中る[[あたる]])||||脳梗塞と脳出血を明確にしない概念、脳血管障害にあたる
|-
|[[脳底動脈不完全栓塞]]||←||
|-
|[[脳貧血]](発作)[[のうひんけつ]](ほっさ)||←|| ||[[貧血]]([[ひんけつ]])|| ||[[貧血]]は医学的には別の意
|-
|
=== は ===
|-
|[[パーキンソン症候群]]||←||
|-
|[[パーキンソン病]]||←|| || ||[[PD]]||[[Parkinson's Disease]]
|-
|(傍糸球体装置過形成性続発性アルドステロン症)||←||[[Bartter症候群]]、[[バーター症候群]]
|-
|[[肺炎]]||←||
|-
|[[敗血症]]||←||
|-
|[[肺血栓塞栓症]]||←|| ||[[エコノミークラス症候群]]、[[旅行者血栓症]]
|-
|[[白癬菌症]]([[はくせんきんしょう]])||←|| ||[[田虫]]([[たむし]]、[[タムシ]])
|-
|[[麦粒腫]]([[ばくりゅうしゅ]])||←|| ||[[物貰い]]([[ものもらい]])
|-
|(甲状腺刺激ホルモン受容体刺激型自己抗体性甲状腺機能亢進症)||←||[[Basedow病]]、[[バセドウ病]]|| || ||[[グレイヴズ病]]と同じ
|-
|[[白血病]]||←|| ||[[血液のガン]]
|-
|[[ハンセン病]]、[[ハンセン氏病]]||←|| ||[[癩病]](疒賴病)([[らいびょう]])
|-
|[[ハンチントン病]]||←||[[Huntington病]]、[[Huntington舞踏病]]、[[ハンチントン舞踏病]]
|-
|
=== ひ ===
|-
|[[B型肝炎]]||←|| || ||[[HB]]||[[hepatitis B]]
|-
|[[腓骨筋萎縮症]]||←||[[Charcot-Marie-Tooth病]]、[[シャルコー-マリー-トゥース病]]|| ||[[CMT]]||[[遺伝性運動感覚性ニューロパチーI型・II型]]、[[神経性進行性筋萎縮症]]と同じ
|-
|[[皮膚筋炎]]||←|| || ||[[DM]]||[[dermatimyositis]]
|-
|[[肥満]]||←||
|-
|[[氷食症]]||←||
|-
|[[貧血]]||←||
|-
|[[頻脈]]||←||
|-
|
=== ふ ===
|-
|(先天性αグルコシダーゼ欠損症)||←||[[Fabry病]]、[[ファブリ病]]
|-
|[[風疹]]([[ふうしん]])||←|| ||[[三日麻疹]]([[みっかばしか]])
|-
|[[副甲状腺機能亢進症]]||←|| || ||[[HPT]]||[[hyperparathyroidism]]
|-
|[[腹部大動脈瘤]]||←|| || ||[[腹部大動脈瘤|AAA]]||[[abdominal aorthic aneurysm]]
|-
|[[不整脈]]||←||
|-
|[[浮腫]]([[ふしゅ]])||←|| ||浮腫([[むくみ]]) || ||読みが異なる
|-
|[[不眠症]]||←||
|-
|[[プラダー・ウィリー症候群]]||←|| || || ||→[[染色体異常]]
|-
|(まだない)||←||[[Plunmmer病]]、[[プランマー病]]
|-
|(まだない)||←||[[Freidreich症候群]]、[[フリードライヒ症候群]]
|-
|[[ブルセラ症]]||←||
|-
|[[粉砕骨折]]([[ふんさいこっせつ]])||←|| ||[[複雑骨折]]([[ふくざつこっせつ]]) || ||[[複雑骨折]]は医学的には別の意味
|-
|[[粉瘤]]([[ふんりゅう]])||←|| ||[[豆腐の粕]]([[とうふのかし(す)]])|| ||[[atheroma]]、[[アテローム]]
|-
|
=== へ ===
|-
|[[閉塞性血栓性血管炎]]||←|| || ||TAO||[[thromboangitis obliterans]]
|-
|[[閉塞性動脈硬化症]]||←|| || ||[[ASO]]||[[arteriosclerosis obliterans]]
|-
|[[ペスト]]||←|| ||[[黒死病]]
|-
|[[ヘルニア]]||←||
|-
|[[変形性関節症]]||←|| || ||[[OA]]||[[osteoarthritis]]
|-
|[[胼胝腫]]([[べんちしゅ]])||←|| ||[[胝]]、[[胼]]([[たこ]])
|-
|
=== ほ ===
|-
|[[膀胱結石]]||←||
|-
|[[勃起不全]]([[ぼっきふぜん]])||←|| ||[[インポテンツ]]、[[インポテンス]]||[[ED]]||[[Erectile Dysfunction]]
|-
|[[ボツリヌス症]]||←||
|-
|[[ホジキン病]]||←|| || ||[[HD]]||[[Hodgkin's disease]]
|-
|[[ポリオ]]||←||
|-
|[[ホルモン異常]]||←||
|-
|[[本態性動脈血栓症]]||←||
|-
|
=== ま ===
|-
|[[マールブルグ熱]]||←||
|-
|[[麻痺]]([[まひ]])||←||
|-
|[[マラリア]]||←||
|-
|[[マルファン症候群]]||←||
|-
|(まだない)||←||[[Mallory-Weiss症候群]]、[[マロリー・ワイス症候群]]
|-
|[[慢性原発性副腎皮質機能低下症]]||←||[[Addison病]]、[[アディソン病]]
|-
|[[慢性甲状腺炎]]||←||[[橋本病]]
|-
|[[慢性骨髄性白血病]]||←|| || ||[[CML]]||[[chronic myelogenous leukemia]]
|-
|[[慢性進行性外眼筋麻痺]]||←||[[Kearns-Sayre症候群]]、[[ケーンズ-セイヤー症候群]]|| ||[[CPEO]]、[[KSS]]
|-
|[[慢性腎不全]]||←|| || ||[[CRF]]||[[Chronic renal failure]]
|-
|[[慢性疲労症候群]]||←|| || ||[[CFS]]||[[chronic fatigue syndrome]]
|-
|[[慢性閉塞性肺疾患]]||←|| || ||COLD||[[chronic obstructive lung disease]]
|-
|[[慢性リンパ性白血病]]||←|| || ||[[CLL]]||[[chronic lympocytic leukemia]]
|-
|
=== み ===
|-
|[[見張り疣]]([[みはりいぼ]])||←|| ||[[疣痔]]([[いぼじ]])|| ||[[sentinel skin tag]]
|-
|
=== む ===
|-
|[[ムコ多糖代謝異常症]]||←|| ||[[ムコ多糖症]]||MPS||
|-
|[[夢中遊行症]]
|-
|[[夢遊病]]
|-
|
=== め ===
|-
|[[メタボリックシンドローム]]||←||シンドロームX、死の四重奏(deadly quartet)、代謝症候群|| ||MS||metabolic syndrome||
|-
|[[メチル水銀中毒症]]||←|| ||[[水俣病]]([[みなまたびょう]])
|-
|[[メニエール症候群]]||←||
|-
|[[メビウス症候群]]||←|| || ||MS||Mobius syndrome (Moebius syndrome) ||
|-
|[[目脂]]([[めやに]])||←|| ||[[目糞]]([[めくそ]])
|-
|
=== も ===
|-
|[[毛細血管拡張性失調症]]||←||[[Louis-Bar症候群]]、[[ルイ・バール症候群]]|| || ||[[毛細血管拡張性運動失調症]]と同じ
|-
|[[毛細血管拡張性運動失調症]]||←||[[Louis-Bar症候群]]、[[ルイ・バール症候群]]|| || ||[[毛細血管拡張性失調症]]と同じ
|-
|[[毛巣洞]]([[もうそうどう]])||←||
|-
| モルキオ病
=== や ===
|-
|[[夜尿症]](やにょうしょう)||←|| ||[[御寝小]]([[おねしょ]])、[[寝小便]]
|-
|[[夜盲症]](やもうしょう)||←|| ||[[鳥目]]([[とりめ]])
|-
|
=== ゆ ===
|-
|[[有機水銀中毒症]]||←|| ||[[水俣病]]([[みなまたびょう]])
|-
|[[疣贅]](ゆうぜい)||←|| ||[[疣]]([[いぼ]])
|-
|
=== よ ===
|-
|[[癰]](よう)||←|| ||[[御出来]]([[おでき]])|| ||[[carbuncle]]、[[カルブンケル]]
|-
|[[腰痛症]]||←|| || || ||→[[腰痛]]
|-
|[[腰部脊柱管狭窄症]]||←||
|-
|
=== ら ===
|-
|[[ライム病]]||←||[[Lyme病]]
|-
|[[落屑]](らくせつ)||←|| ||[[ふけ]]|| ||[[鱗屑]](りんせつ)と同じ
|-
|[[ラッサ熱]]||←||
|-
|[[鱗屑]](りんせつ)||←|| ||[[ふけ]]|| ||[[落屑]](らくせつ)と同じ
|-
|[[卵巣嚢腫]]||←||
|-
|[[ランチメイト症候群]]||←||[[ランチメート症候群]]
|-
|
=== り ===
|-
|[[リウマチ熱]]||←|| || ||[[RF]]||[[rheumatic fever]]
|-
|(アミロライド感受性Naチャンネル性偽性高アルドステロン症)||←||[[Liddle症候群]]、[[リドル症候群]]
|-
|[[リベド血管炎]]||←|| || || ||[[Livedo reticularis with summer ulceration]]
|-
|[[良性前立腺肥大症]]||←|| ||[[前立腺肥大症]]||[[BPH]]||[[benign prostatic hypertrophy]]
|-
|
=== る ===
|-
|
=== れ ===
|-
|[[裂肛]]([[れっこう]])||←|| ||[[切れ痔]]([[きれじ]])
|-
|(先天性HGPRT完全欠損症)||←||[[Lesch-Nyhan症候群]]、[[レッシュ・ナイハン症候群]]
|-
|[[連合弁膜症]]||←|| || ||[[CVD]]||[[combined valvular disease]]
|-
|
=== ろ ===
|-
|[[漏斗胸]]||←||
|-
|[[老人性痴呆症]]||←||
|-
|[[老人性疣贅]]([[ろうじんせいゆうぜい]])||←|| ||[[年寄り疣]]([[としよりいぼ]])|| ||[[脂漏性角化症]]([[しろうせいかくかしょう]])と同じ
|-
|(まだない)||←||[[Laurence-Moon-Biedl症候群]]、[[ローレンス-ムーン-ビードル症候群]]
|-
|[[濾胞性歯嚢胞]]([[ろほうせいしのうほう]])||←||
|-
|
=== わ ===
|-
|}
==英称アルファベット順==
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="0" style="width:100%"
|-
|英称||→||普遍的な病名||固有名詞の入った病名||俗称・旧名||略語||備考(現在どの記事へリダイレクトされているか、等)
|-
|
=== A ===
|-
|[[abdominal aorthic aneurysm]]||→||[[腹部大動脈瘤]]|| || ||[[腹部大動脈瘤|AAA]]
|-
|[[acute bacterial endocarditis]]||→||[[急性細菌性心内膜炎]]|| || ||[[ABE]]
|-
|[[acute lymphcitic leukemia]]||→||[[急性リンパ性白血病]]|| || ||[[ALL]]
|-
|[[acute myelogenous leukemia]]||→||[[急性骨髄性白血病]]|| || ||[[AML]]
|-
|[[acute myocardial infarciton]]||→||[[急性心筋梗塞]]|| || ||[[AMI]]
|-
|[[acute promyelocytic leukemia]]||→||[[急性前骨髄性白血病]]|| || ||[[APL (曖昧さ回避)|APL]]
|-
|[[acute renal failure]]||→||[[急性腎不全]]|| || ||[[ARF]]
|-
|[[acquired immunodeficiency syndrome]]||→||[[後天性免疫不全症候群]]|| ||[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]||[[AIDS]]
|-
|[[Albright's遺伝性骨異栄養症]]||→||(まだない)||[[オルブライト遺伝性骨異栄養症]]|| ||AHO
|-
|[[Alport syndrome]]||→||(まだない)||
|-
|[[Alzheimer's Disease]]||→|| ||[[アルツハイマー病]]|| ||AD
|-
|[[amyotropic lateral screlosis]]||→||[[筋萎縮性側索硬化症]]|| || ||[[ALS]]
|-
|[[Anton syndrome]]||→||(まだない)||[[アントン症候群]]、[[Anton症候群]]
|-
|[[aortic insufficiency]]||→||[[大動脈弁閉鎖不全]]|| || ||[[AI]]
|-
|[[aortic regurgitation]]||→||[[大動脈弁閉鎖不全]]|| || ||[[AR]]
|-
|[[aortic stenoinsufficiency]]||→||[[大動脈弁狭窄及び閉鎖不全症]]|| || ||[[ASI]]
|-
|[[aortic stenosis]]||→||[[大動脈弁狭窄症]]|| || ||[[AS]]
|-
|[[atrial fibrillation]]||→||[[心房細動]]|| || ||[[AF]]
|-
|[[arteriosclerosis obliterans]]||→||[[閉塞性動脈硬化症]]|| || ||[[ASO]]
|-
|[[atrial septal defect]]||→||[[心房中隔欠損症]]|| || ||[[ASD]]
|-
|[[attention Deficit]]||→||[[注意欠陥性障害]]|| || ||AD
|-
|[[attention Deficit / Hyperactivity Disorder]]||→||[[注意欠陥・多動性障害]]|| || ||[[ADHD]]
|-
|[[atute glomerulonephritis]]||→||[[急性糸球体腎炎]]|| || ||[[AGN]]
|-
|
=== B ===
|-
|[[Bartter syndrome]]||→||(傍糸球体装置過形成性続発性アルドステロン症)||[[バーター症候群]]、[[Bartter症候群]]
|-
|[[Basedow disease]]||→||(甲状腺刺激ホルモン受容体刺激型自己抗体性甲状腺機能亢進症)||[[バセドウ病]]|| || ||[[グレイヴズ病]]と同じ
|-
|[[benign prostatic hypertrophy]]||→||[[良性前立腺肥大症]]|| || ||[[BPH]]
|-
|[[Blount disease]]||→||[[内反脛骨]]([[ないはんけいこつ]])||[[Blount病]]、[[ブラウント病]]|| ||
|-
|[[bovine spongiform encephalopathy]]||→||[[牛海綿状脳症]]|| || ||[[BSE]]
|-
|[[bronchial asthema]]||→||[[気管支喘息]]|| || ||[[BA]]
|-
|
=== C ===
|-
|[[Calvé diserse]]||→||[[好酸球性肉芽腫]]||[[Calvé病]]|| ||
|-
|[[cerebral palsy]]||→||[[脳性麻痺]]|| || ||[[CP]]
|-
|[[cerebral vascular disease]]||→||[[脳血管障害]]||[[脳梗塞]]、[[脳出血]] || ||[[CVD]]
|-
|[[chronic lympocytic leukemia]]||→||[[慢性リンパ性白血病]]|| || ||[[CLL]]
|-
|[[chronic myelogenous leukemia]]||→||[[慢性骨髄性白血病]]|| || ||[[CML]]
|-
|[[chronic obstructive lung disease]]||→||[[慢性閉塞性肺疾患]]|| || ||COLD
|-
|[[Chronic renal failure]]||→||[[慢性腎不全]]|| || ||[[CRF]]
|-
|[[combined valvular disease]]||→||[[連合弁膜症]]|| || ||[[CVD]]
|-
|[[complate right bundle branch block]]||→||[[完全右脚ブロック]]|| || ||[[CRBBB]]
|-
|[[congestive heart failure]]||→||[[うっ血性心不全|鬱血性心不全]]|| || ||[[CHF]]
|-
|[[coronary heart disease]]||→||[[冠動脈疾患]]||[[虚血性心疾患]] || ||[[CHD]]
|-
|[[Cushing disease]]||→||(下垂体腫瘍性糖質ホルモン過剰症)||[[クッシング病]]、[[Cushing病]]
|-
|[[Cushing syndrome]]||→||(糖質ホルモン過剰症)||[[クッシング症候群]]、[[Cushing症候群]]
|-
|
=== D ===
|-
|[[dermatimyositis]]||→||[[皮膚筋炎]]|| || ||[[DM]]
|-
|[[diabetes mellitus]]||→||[[糖尿病]]|| || ||[[DM]]
|-
|[[duodenal ulcer]]||→||[[十二指腸潰瘍]]|| || ||[[DU]]
|-
|
=== E ===
|-
|[[election disorder]]||→||[[陰萎]]|| || ||[[ED]]
|-[[erection disorder]]||→||[[勃起障害]]|| || ||[[ED]]
|
=== F ===
|-
|[[Fabry disease]]||→||(先天性αグルコシダーゼ欠損症)||[[ファブリ病]]、[[Fabry病]]
|-
|[[Freidreich syndrome]]||→||(まだない)||[[フリードライヒ症候群]]、[[Freidreich症候群]]
|-
|
=== G ===
|-
|[[Gaucher disease]]||→||(先天性グルコセルブロシダーゼ欠損症)||[[ゴーシェ病]]、[[Gaucher病]]
|-
|[[Goodpasture syndrome]]||→||(まだない)||[[グッドパスチャー症候群]]、[[Goodpasture症候群]]
|-
|[[Graves disease]]||→||(甲状腺刺激ホルモン受容体刺激型自己抗体性甲状腺機能亢進症)||[[グレイヴズ病]]、[[Graves病]]|| || ||[[バセドウ病]]と同じ
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|[[Guillain-Barré syndrome]]||→||[[急性炎症性脱髄性多発神経根炎]]||[[ギランバレ症候群]]、[[ギランバレー症候群]]、[[ギラン-バレ症候群]]、[[ギラン-バレー症候群]]、[[ギラン・バレ症候群]]、[[ギラン・バレー症候群]]、[[Guillain-Barré症候群]]|| ||[[GBS]]
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=== H ===
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=== J ===
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=== K ===
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|[[Krabbe disease]]||→||(先天性ガラクトセルブロシダーゼ欠損症)||[[クラッベ病]]、[[Krabbe病]]
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=== L ===
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|[[Laurence-Moon-Biedl syndrome]]||→||(まだない)||[[ローレンス-ムーン-ビードル症候群]]、[[Laurence-Moon-Biedl症候群]]
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=== M ===
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|[[Mallory-Weiss syndrome]]||→||(まだない)||[[マロリー・ワイス症候群]]、[[Mallory-Weiss症候群]]
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|[[Mobius syndrome]] (Moebius syndrome) ||→||[[メビウス症候群]]|| || ||[[MS]]
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|[[mucocutaneus lymphnode syndrome]]||→||[[川崎病]]|| || ||[[MCLS]]
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=== P ===
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|[[Schmidt syndrome]]||→||(慢性原発性副腎皮質機能低下症>+慢性甲状腺炎)||[[シュミット症候群]]、[[Schmidt症候群]]
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|[[scleroderma]]||→||[[強皮症]]|| || ||[[SD]]
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|[[Severe Acute Respiratory Syndrome]]||→||[[重症急性呼吸器症候群]]|| || ||[[SARS]]
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|[[Sheehan syndrome]]||→||(まだない)||[[シーハン症候群]]、[[Sheehan症候群]]
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|[[sick sinus syndrome]]||→||[[洞不全症候群]]|| || ||[[SSS]]
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=== T ===
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|[[Tay-Sachs disease]]||→||(先天性βヘキソサミニダーゼα鎖欠損症)||[[テイ=サックス病]]、[[Tay-Sachs病]]
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=== U ===
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=== V ===
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|略語||→||普遍的な病名||固有名詞の入った病名||俗称・旧名||備考(現在どの記事へリダイレクトされているか、等)
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=== 略A ===
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|[[腹部大動脈瘤|AAA]]||→||[[腹部大動脈瘤]]|| || ||[[abdominal aorthic aneurysm]]
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|[[ABE]]||→||[[急性細菌性心内膜炎]]|| || ||[[acute bacterial endocarditis]]
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|[[ACS]]||→||[[急性冠疾患症候群|急性冠症候群]]||不安定[[狭心症]]、[[急性心筋梗塞]] || ||[[acute coronary syndrome]]
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|AD||→|| ||[[アルツハイマー病]]|| ||[[Alzheimer's Disease]]
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|AD||→||[[注意欠陥性障害]]|| || ||[[Attention Deficit]]
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|[[ADHD]]||→||[[注意欠陥・多動性障害]]|| || ||[[Attention Deficit / Hyperactivity Disorder]]
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|[[af]]||→||[[心房細動]]|| || ||[[atrial fibrillation]]
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|[[AF]]||→||[[心房粗動]]|| || ||[[atrial flutter]]
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|[[AGN]]||→||[[急性糸球体腎炎]]|| || ||[[atute glomerulonephritis]]
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|AHO||→||(まだない)||[[オールブライト遺伝性骨異栄養症]]、[[Albright's遺伝性骨異栄養症]]
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|[[AI]]||→||[[大動脈弁閉鎖不全]]|| || ||[[aortic insufficiency]]
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|[[AIDS]]||→||[[後天性免疫不全症候群]]|| ||[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]||[[acquired immunodeficiency syndrome]]
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|[[AMI]]||→||[[急性心筋梗塞]]|| || ||[[acute myocardial infarciton]]
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|[[AML]]||→||[[急性骨髄性白血病]]|| || ||[[acute myelogenous leukemia]]
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|[[ALL]]||→||[[急性リンパ性白血病]]|| || ||[[acute lymphcitic leukemia]]
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|[[ALS]]||→||[[筋萎縮性側索硬化症]]|| || ||[[amyotropic lateral screlosis]]
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|[[APL (曖昧さ回避)|APL]]||→||[[急性前骨髄性白血病]]|| || ||[[acute promyelocytic leukemia]]
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|[[AR]]||→||[[大動脈弁閉鎖不全]]|| || ||[[aortic regurgitation]]
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|[[ARF]]||→||[[急性腎不全]]|| || ||[[acute renal failure]]
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|[[AS]]||→||[[大動脈弁狭窄症]]|| || ||[[aortic stenosis]]
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|[[ASD]]||→||[[心房中隔欠損症]]|| || ||[[atrial septal defect]]
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|[[ASI]]||→||[[大動脈弁狭窄及び閉鎖不全症]]|| || ||[[aortic stenoinsufficiency]]
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|[[ASO]]||→||[[閉塞性動脈硬化症]]|| || ||[[arteriosclerosis obliterans]]
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|[[ATL]]||→||[[成人T細胞白血病]]|| || ||[[adult T-cell leukemia]]
=== 略B ===
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|[[BA]]||→||[[気管支喘息]]|| || ||[[bronchial asthema]]
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|[[BPH]]||→||[[良性前立腺肥大症]]|| || ||[[benign prostatic hypertrophy]]
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|[[BSE]]||→||[[牛海綿状脳症]]|| || ||[[bovine spongiform encephalopathy]]
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=== 略C ===
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|[[CHD]]||→||[[冠動脈疾患]]||[[虚血性心疾患]]、[[狭心症]]、[[心筋梗塞]] || ||[[coronary heart diserse]]
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|[[CHF]]||→||[[うっ血性心不全|鬱血性心不全]]|| || ||[[congestive heart failure]]
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|[[CLL]]||→||[[慢性リンパ性白血病]]|| || ||[[chronic lympocytic leukemia]]
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|[[CML]]||→||[[慢性骨髄性白血病]]|| || ||[[chronic myelogenous leukemia]]
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|[[COPD]]||→||[[慢性閉塞性肺疾患]]|| || ||[[chronic obstructive lung disease]]
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|[[CRBBB]]||→||[[完全右脚ブロック]]|| || ||[[complate right bundle branch block]]
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|[[CRF]]||→||[[急性腎不全]]|| || ||[[Chronic renal failure]]
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|[[CVD]]||→||[[脳血管障害]]||[[脳出血]]、[[脳梗塞]]、[[一過性脳虚血発作]] ||[[中風]] ||[[cerebral vascular disease]]
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|[[CVD]]||→||[[連合弁膜症]]|| || ||[[combined valvular disease]]
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=== 略D ===
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|[[DM]]||→||[[皮膚筋炎]]|| || ||[[dermatimyositis]]
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|[[DU]]||→||[[十二指腸潰瘍]]|| || ||[[duodenal ulcer]]
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=== 略E ===
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|[[EGPA]]||→||[[好酸球性多発血管炎性肉芽腫症]]||[[チャーグ-ストラウス症候群]]、[[Churg-Strauss症候群]]、
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|[[GBS]]||→||[[急性炎症性脱髄性多発神経根炎]]||[[ギランバレ症候群]]、[[ギランバレー症候群]]、[[ギラン-バレ症候群]]、[[ギラン-バレー症候群]]、[[ギラン・バレ症候群]]、[[ギラン・バレー症候群]]、[[Guillain-Barré症候群]]|| ||[[Guillain-Barré syndrome]]
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=== 略H ===
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|[[HB]]||→||[[B型肝炎]]|| || ||[[hepatitis B]]
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=== 略I ===
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=== 略N ===
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=== 略U ===
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=== 略V ===
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=== 略W ===
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=== 略X ===
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=== 略Z ===
|}
== 関連項目 ==
*ウィキペディア[[:category:病気|病気カテゴリ]]
*ウィキペディア[[:category:症候|症候名カテゴリ]]
*[[領域別病名一覧]]
*[[不定愁訴]]
==外部リンク==
*[http://www.dermatol.or.jp/QandA/contents.html 皮膚科QandA]{{リンク切れ|date=2022年4月}} - [[日本皮膚科学会]]
{{DEFAULTSORT:ひようきのへつめいのいちらん}}
[[Category:病気|*へつめいのいちらん]]
[[Category:医療の一覧|ひようきのへつめい]]
[[Category:別名|ひようき]] | 2003-04-11T10:49:24Z | 2023-11-06T13:06:43Z | false | false | false | [
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"Template:リンク切れ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%85%E6%B0%97%E3%81%AE%E5%88%A5%E5%90%8D%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
6,516 | カオダイ教 | カオダイ教(カオダイきょう、高台教、ベトナム語:Đạo Cao Đài / 道高臺)は、ベトナムの新宗教。1926年、ファム コン タック(ベトナム語: Phạm Công Tắc / , 1890年- 1959年)とレ・ヴァン・チャウン(ベトナム語:Lê Văn Trung / 黎文忠, 1876年 - 1934年12月19日)によって唱えられた。五教(儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教)の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた。
ホーチミン市から北西約100kmのタイニン省(ベトナム語:Tĩnh Tây Ninh / 省西寧)ホアタイン市社(ベトナム語:Thị xã Hòa Thành / 市社和城)に総本山がある。信徒数は約100万から300万と言われ、タイニン省の人口の7割あるいは3分の2がカオダイ教の信者だと言われる。カオダイとはベトナム道教の最高神玉皇上帝のことであり、総本山教会堂の祭壇中央に信者を見下ろすように設置される目だまは、カオダイの神の目である。これは天眼と呼ばれ「宇宙の原理」「宇宙の至上神」の象徴とする。この目玉はカオダイ教のシンボルマークでもある。教義では、キリスト教的な要素、特に聖職者の階級制度を採用していると言われるなどカトリックの側面が見られる一方で、古来からの精霊崇拝の要素も見られる。孔子、老子、釈迦、観音菩薩、キリスト、ムハンマド、さらには李白、太上老君(老子)、ソクラテス、トルストイ、ヴィクトル・ユーゴーなどを聖人や使徒と仰ぐ。1959年に死んだファン・コン・タック(ベトナム語版、英語版)という人物がカオダイの新たな教祖として祀られている。タックはキリスト教徒であったが仏教、儒教、老教、キリスト教に神道を束ね世界の救済を行ったとされる。
カオダイは第1回目の人類救済のために釈迦の姿を借り現世へ現れ、第2回目はキリストと老子の姿を借りて現れた。現在、3回目の人類救済のために東西諸宗教を統合したとされる。
総本山の建物は南国的かつ色彩的な外観であり、内部には色とりどりのネオンが取り囲み祭壇は派手でけばけばしい(もっとも、ベトナムでは田んぼの脇の祠から廟、寺の本尊、教会に至るまでLEDやネオンで飾るのは一般的である)。一般信徒は主に白色のアオザイ(衣長)を身に着け、日に4回の礼拝を行う。礼拝は声明のようなものが唱えられ、信者らはひれ伏し2回の鳴物入りの合唱隊とともに不思議な酩酊状態が作り出される。
フランス領インドシナ時代には独自に私兵団や自治機構を持ち反フランス運動を展開する一方で、インドシナ戦争中にはベトミン(ベトナム独立同盟会)と戦った。ジュネーヴ協定によってベトナム共和国(南ベトナム)が成立すると、カトリック教徒の政権がカオダイ教やホアハオ教(和好教)、ビン・スエン派などの私兵団を武装解除する動きを見せたため、武力抵抗を図ったが鎮圧された。 | [
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"text": "ホーチミン市から北西約100kmのタイニン省(ベトナム語:Tĩnh Tây Ninh / 省西寧)ホアタイン市社(ベトナム語:Thị xã Hòa Thành / 市社和城)に総本山がある。信徒数は約100万から300万と言われ、タイニン省の人口の7割あるいは3分の2がカオダイ教の信者だと言われる。カオダイとはベトナム道教の最高神玉皇上帝のことであり、総本山教会堂の祭壇中央に信者を見下ろすように設置される目だまは、カオダイの神の目である。これは天眼と呼ばれ「宇宙の原理」「宇宙の至上神」の象徴とする。この目玉はカオダイ教のシンボルマークでもある。教義では、キリスト教的な要素、特に聖職者の階級制度を採用していると言われるなどカトリックの側面が見られる一方で、古来からの精霊崇拝の要素も見られる。孔子、老子、釈迦、観音菩薩、キリスト、ムハンマド、さらには李白、太上老君(老子)、ソクラテス、トルストイ、ヴィクトル・ユーゴーなどを聖人や使徒と仰ぐ。1959年に死んだファン・コン・タック(ベトナム語版、英語版)という人物がカオダイの新たな教祖として祀られている。タックはキリスト教徒であったが仏教、儒教、老教、キリスト教に神道を束ね世界の救済を行ったとされる。",
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"text": "カオダイは第1回目の人類救済のために釈迦の姿を借り現世へ現れ、第2回目はキリストと老子の姿を借りて現れた。現在、3回目の人類救済のために東西諸宗教を統合したとされる。",
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"text": "総本山の建物は南国的かつ色彩的な外観であり、内部には色とりどりのネオンが取り囲み祭壇は派手でけばけばしい(もっとも、ベトナムでは田んぼの脇の祠から廟、寺の本尊、教会に至るまでLEDやネオンで飾るのは一般的である)。一般信徒は主に白色のアオザイ(衣長)を身に着け、日に4回の礼拝を行う。礼拝は声明のようなものが唱えられ、信者らはひれ伏し2回の鳴物入りの合唱隊とともに不思議な酩酊状態が作り出される。",
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"text": "フランス領インドシナ時代には独自に私兵団や自治機構を持ち反フランス運動を展開する一方で、インドシナ戦争中にはベトミン(ベトナム独立同盟会)と戦った。ジュネーヴ協定によってベトナム共和国(南ベトナム)が成立すると、カトリック教徒の政権がカオダイ教やホアハオ教(和好教)、ビン・スエン派などの私兵団を武装解除する動きを見せたため、武力抵抗を図ったが鎮圧された。",
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] | カオダイ教は、ベトナムの新宗教。1926年、ファム コン タックとレ・ヴァン・チャウンによって唱えられた。五教(儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教)の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた。 | [[ファイル:CaodaismSymbol.PNG|thumb|right|カオダイ教のシンボル「カオダイの目」]]
[[ファイル:Cao Dai temple (Vietnam).jpg|thumb|200px|カオダイ教の礼拝]]
'''カオダイ教'''(カオダイきょう、高台教、{{vie|v=Đạo Cao Đài|hn=道高臺}})は、[[ベトナム]]の[[新宗教]]。[[1919年|1926年]]、ファム コン タック({{vie|v= Phạm Công Tắc|hn= }}, 1890年- 1959年)<ref>Ngô Minh Chiêu は宗教名で、本名はゴ・ヴァン・チェウ({{vie|v=Ngô Văn Chiêu|hn=吳文昭}})。</ref>とレ・ヴァン・チャウン({{vie|v=Lê Văn Trung|hn=黎文忠}}, 1876年 - 1934年12月19日)によって唱えられた。'''五教'''([[儒教]]、[[道教]]、[[仏教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]])の教えを土台にしたことから、カオダイ=高臺(高台)と名付けられた。
== 概説 ==
[[ファイル:Cao-dai-temple1.jpg|thumb|left|200px|カオダイ教総本山の中央礼拝堂]]
[[ホーチミン市]]から北西約100kmの[[タイニン省]]({{vie|v=Tĩnh Tây Ninh|hn=省西寧}})[[ホアタイン|ホアタイン市社]]({{vie|v=Thị xã Hòa Thành|hn=市社和城}})に[[本山|総本山]]がある。信徒数は約100万から300万と言われ、[[タイニン省]]の人口の7割あるいは3分の2がカオダイ教の信者だと言われる。カオダイとはベトナム道教の最高神玉皇上帝のことであり、総本山教会堂の祭壇中央に信者を見下ろすように設置される目だまは、カオダイの神の目である。これは'''天眼'''と呼ばれ「宇宙の原理」「宇宙の至上神」の象徴とする。この目玉はカオダイ教のシンボルマークでもある。[[教義]]では、キリスト教的な要素、特に[[聖職者]]の階級制度を採用していると言われるなど[[カトリック教会|カトリック]]の側面が見られる一方で、古来からの[[精霊]]崇拝の要素も見られる。[[孔子]]、[[老子]]、[[釈迦]]、[[観音菩薩]]、[[キリスト]]、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]、さらには[[李白]]、[[太上老君]]([[老子]])、[[ソクラテス]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[ヴィクトル・ユーゴー]]などを[[聖人]]や[[使徒]]と仰ぐ。[[1959年]]に死んだ{{仮リンク|ファン・コン・タック|vi|Phạm Công Tắc|en|Phạm Công Tắc}}という人物がカオダイの新たな教祖として祀られている。タックはキリスト教徒であったが仏教、儒教、老教、キリスト教に神道を束ね世界の救済を行ったとされる<ref name="AJIANI HITARU"></ref>。
カオダイは第1回目の人類救済のために釈迦の姿を借り現世へ現れ、第2回目はキリストと老子の姿を借りて現れた。現在、3回目の人類救済のために東西諸宗教を統合したとされる<ref name="AJIANI HITARU">[[高樹のぶ子]]『[[アジアに浸る]]』([[文藝春秋社]] 2011年2月25日)</ref>。
総本山の建物は南国的かつ色彩的な外観であり、内部には色とりどりの[[ネオンサイン|ネオン]]が取り囲み祭壇は派手でけばけばしい(もっとも、ベトナムでは田んぼの脇の祠から廟、寺の本尊、教会に至るまでLEDやネオンで飾るのは一般的である)。一般信徒は主に白色の[[アオザイ]](衣長)を身に着け、日に4回の[[礼拝]]を行う。礼拝は声明のようなものが唱えられ、信者らはひれ伏し2回の鳴物入りの合唱隊とともに不思議な酩酊状態が作り出される<ref name="AJIANI HITARU"></ref>。
[[フランス領インドシナ]]時代には独自に私兵団や自治機構を持ち反フランス運動を展開する一方で、[[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]中には[[ベトミン]](ベトナム独立同盟会)と戦った。[[ジュネーヴ協定]]によって[[ベトナム共和国]](南ベトナム)が成立すると、カトリック教徒の政権がカオダイ教や[[ホアハオ教]](和好教)、[[ビン・スエン派]]などの私兵団を武装解除する動きを見せたため、武力抵抗を図ったが鎮圧された。
== 画像 ==
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ファイル:Cao Dai My Tho.JPG|[[ミトー]]のカオダイ教寺院の祭壇
ファイル:Thanh that Da Phuoc 12.JPG|[[ダラット]]のカオダイ教寺院
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[高樹のぶ子]]『[[アジアに浸る]]』([[文藝春秋社]] 2011年2月25日)
== 関連項目 ==
* [[ホアハオ教]]
* [[三一教]]
* [[大本]]
* [[生長の家]]
* [[バハイ教]]
* [[世界紅卍字会]]
* [[フリーメイソン]]
* [[イルミナティ]]
* [[プロヴィデンスの目]]
== 外部リンク ==
* [http://www.caodai.org/ Cao Đài site]
* [http://www.youtube.com/watch?v=_WoK79lofg4 ベトナムの新宗教団体 カオダイ教本部、クチトンネル潜入取材(丹波新報社)]
{{Commons|Category:Cao Dai}}
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[[Category:ベトナムの新宗教]]
[[Category:タイニン省]]
[[Category:アジアの宗教的シンクレティズム]] | null | 2023-05-07T08:07:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AA%E3%83%80%E3%82%A4%E6%95%99 |
6,518 | 北越鉄道 | 北越鉄道()は、かつて新潟県内で鉄道を建設、営業した鉄道事業者(私鉄)である。現在の信越本線直江津 - 新潟間に相当し、1907年(明治40年)に鉄道国有法により国有化された。
現在の信越本線が日本海岸の直江津から内陸の長野に向けて1886年(明治19年)に路線を伸ばしはじめたものの、直江津以北の官設による建設は見通しが立たないと判明した。そのため地元新潟県有志は渋沢栄一に東京の資本家を呼び込むことを依頼し、渋沢を発起人代表として1895年(明治28年)に北越鉄道株式会社(本社新潟市)を設立した。直江津側は1897年(明治30年)の春日新田 - 鉢崎を皮切りに、順次延伸開業していった。
新潟側でも1896年(明治29年)に着工し建設が進められたが、起点を沼垂にして長岡方面延伸を急ぐべしとする東京資本と、新潟市街に至近となる萬代橋畔に駅を設けたい新潟出身重役との対立がおさまらなかった。株主総会で本社を東京に移すと決める際には警官の出動する騒ぎであったという。沼垂機関庫と貨物庫が爆破され、1897年(明治30年)の開業は4日遅れる事態にまで至った。1903年(明治36年)に本社が長岡に移転し、翌年に新潟延伸が実現している。
1904年(明治37年)に新津 - 新発田の免許を再び得たが、「同区間の免許が失効すれば既成区間の免許も失効する。全線を公売または建設実費で政府または他の会社に売渡しても異議はない」という条件付であった。この区間は未成のまま引き継がれ、国有化後の1912年(大正元年)に開業している(現在の羽越本線の一部)。
1906年(明治39年)に鉄道国有法の成立により買収されることが決まった。業績が悪く評価額が低いため株主の損失が大きいとして衆議院に救済を請願したが、これは叶わなかった。線路138.1 km(未開業線25.5km)、機関車18、客車74、貨車298が引き継がれた。
2等は3等の50%増し、1等は2.5倍
タンク機関車ばかり、7形式18両が在籍した。1899年より渡辺嘉一の考案で重油専燃装置を取付け最終的には全車に装着した。しかし火災事故も何件か発生した。
当初の2等車と3等車は両端開放出入台形、車体寸法7214×2210×3315mm、軸距離3810mm、自重6.3t。1898年から貫通扉付密閉型、片側2扉に改めた。形式称号は1等車「イ」、2等車「ロ」、3等車「ハ」、手荷物緩急車「ブ」、郵便車「ユ」。
客車の在籍
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』
初期は6トン積みで後期は7トン積み、油槽車は私有貨車が多く、数に入っていない。なお1899年に日本で最初の鉄製筒型の石油タンク車が新潟鐵工所で製造された
貨車の在籍 | [
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] | 北越鉄道は、かつて新潟県内で鉄道を建設、営業した鉄道事業者(私鉄)である。現在の信越本線直江津 - 新潟間に相当し、1907年(明治40年)に鉄道国有法により国有化された。 | {{混同|北越急行}}
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|特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119-428">[{{NDLDC|780119/428}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
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<nowiki>*: </nowiki>渋海川橋梁崩落のため、<br />1900年4月から8月の間設置<br />
<nowiki>#: </nowiki>現在の新潟駅より[[萬代橋]]寄り。[[:File:Niigata-area-rail.png|図]]参照
|}
|}
{{読み仮名|'''北越鉄道'''|ほくえつてつどう}}は、かつて[[新潟県]]内で[[鉄道]]を建設、営業した[[鉄道事業者]]([[私鉄]])である。現在の[[信越本線]][[直江津駅|直江津]] - [[新潟駅|新潟]]間に相当し、[[1907年]]([[明治]]40年)に[[鉄道国有法]]により国有化された。
== 沿革 ==
=== 設立と開業 ===
現在の[[信越本線]]が[[日本海]]岸の[[直江津駅|直江津]]から内陸の[[長野駅|長野]]に向けて[[1886年]](明治19年)に路線を伸ばしはじめたものの、直江津以北の[[官設鉄道|官設]]による建設は見通しが立たないと判明した<ref name="kawakami_155">川上 (1968) pp. 155-157「北越鉄道の開業から国有まで」</ref><ref name="nippontetsudoshi">鉄道省 (1921)</ref>。そのため地元[[新潟県]]有志は[[渋沢栄一]]に東京の資本家を呼び込むことを依頼し、渋沢を発起人代表として[[1895年]](明治28年)に北越鉄道株式会社(本社新潟市<ref>当初東京市5月移転[[日本国有鉄道百年史]]第4巻、341頁</ref>)を設立した<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" /><ref>[{{NDLDC|780111/180}} 『日本全国諸会社役員録. 明治29年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。直江津側は[[1897年]](明治30年)の[[春日新田駅|春日新田]] - [[鉢崎駅|鉢崎]]を皮切りに、順次延伸開業していった。
=== 新潟側起点選定 ===
新潟側でも[[1896年]](明治29年)に着工し建設が進められたが、[[起点]]を[[沼垂駅|沼垂]]にして[[長岡駅|長岡]]方面延伸を急ぐべしとする東京資本と、新潟市街に至近となる[[萬代橋]]畔に[[鉄道駅|駅]]を設けたい新潟出身重役との対立がおさまらなかった<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" /><ref>[{{NDLDC|1920411/58}} 「停車場問題で三万の新潟市民県庁に押寄す」国民新聞 明治30年4月22日『新聞集成明治編年史第十巻』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。株主総会で本社を東京に移すと決める際には警官の出動する騒ぎであったという<ref name="kawakami_155" />。沼垂機関庫と貨物庫が[[爆破]]され<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />、[[1897年]](明治30年)の開業は4日遅れる事態にまで至った。[[1903年]](明治36年)に本社が長岡に移転し、翌年に新潟延伸が実現している。
=== 新発田延伸計画と国有化 ===
[[1904年]](明治37年)に[[新津駅|新津]] - [[新発田駅|新発田]]の免許を再び得たが、「同区間の免許が失効すれば既成区間の免許も失効する。全線を公売または建設実費で政府または他の会社に売渡しても異議はない」という条件付であった<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />。この区間は[[未成線|未成]]のまま引き継がれ、国有化後の[[1912年]]([[大正]]元年)に開業している(現在の[[羽越本線]]の一部)。
1906年(明治39年)に[[鉄道国有法]]の成立により買収されることが決まった。業績が悪く評価額が低いため株主の損失が大きいとして[[衆議院]]に救済を請願したが、これは叶わなかった<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />。線路138.1 km(未開業線25.5km)、[[蒸気機関車|機関車]]18、[[客車]]74、[[貨車]]298が引き継がれた。
=== 年表 ===
* [[1894年]]([[明治]]27年)4月:北越鉄道、直江津 - 長岡 - 新津 - 新発田、新津 - 沼垂 98[[マイル|哩]]余の免許を申請(7月:仮免許下付<ref>[{{NDLDC|2946606/2}} 「私設鉄道敷設仮免状下付」『官報』1894年8月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)
* [[1895年]](明治28年)12月12日:免許下付<ref>[{{NDLDC|2947038/12}} 「私設鉄道敷設免許状下付」『官報』1896年1月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(7月:免許状下付申請)
* [[1896年]](明治29年)
**2月:柏崎 - 出雲崎 - 新潟 - 沼垂の免許申請
** 3月:本間英一郎を技師長にむかえ起工。本間([[1854年]]生)は[[マサチューセッツ工科大学]]を[[1874年]](明治7年)に卒業し<ref>"General Catalogue" Massachusetts Institute of Technology, 1899, p217</ref>、[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]技師長を務めていた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AC%E9%96%93%20%E8%8B%B1%E4%B8%80%E9%83%8E-1654735 本間 英一郎(読み)ホンマ ヒデイチロウ]コトバンク</ref>。
** 4月1日:米山隧道(鉢崎 - 柏崎)開鑿開始
** 8月
***馬越 - 沼垂1哩22[[チェーン (単位)|鎖]]の仮線敷設着手
*** 信濃川岸の馬越に荷揚げし新潟側を着工
* [[1897年]](明治30年)
**4月:直江津 - 鉢崎工事落成
** 5月13日:春日新田 - 鉢崎14哩9鎖開通<ref>[{{NDLDC|2947453/7}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年5月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、春日新田に機関庫を設置
** 5月17日:柏崎 - 出雲崎 - 新潟 - 沼垂の仮免状下付<ref>[{{NDLDC|2947456/4}} 「私設鉄道敷設仮免状下付」『官報』1897年5月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 7月:株主総会を東京で開催、本社を東京に移転<!-- 川上 (1968) -->
** 8月1日:鉢崎 - 柏崎7哩75鎖開通<ref>[{{NDLDC|2947521/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年8月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 11月11日:沼垂機関庫と貨物庫などが爆破され、建物は大破、機関車は破損
** 11月20日:柏崎 - 北条5哩23鎖および沼垂 - 一ノ木戸24哩70鎖開通<ref>[{{NDLDC|2947608/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年11月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1898年]](明治31年)
**6月16日:一ノ木戸 - 長岡14哩30鎖開通<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947782/6 「停車場設置」『官報』1898年6月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 12月27日:北条 - 長岡17哩44鎖開通により春日新田 - 沼垂全通<ref>[{{NDLDC|2947955/6}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年1月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 不明:機関車燃料に[[重油]]を採用
* [[1899年]](明治32年)
**5月20日:春日新田 - 直江津に仮線を建設し、貨車を手押しで運転
**7月28日:鉢崎 - 柏崎間に青海川停車場開業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948118/6 「停車場設置」『官報』1899年8月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
** 9月5日:春日新田 - 直江津連絡線41鎖に列車直通<ref>[{{NDLDC|2948151/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年9月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
**12月10日:柏崎 - 北條間に安田停車場開業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948226/4 「停車場設置」『官報』1899年12月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1900年]](明治33年)
**3月:沼垂 - 万代橋を申請(9月に認可)<!-- 川上 (1968) -->
** 4月7日:塚山-北條間の渋海川橋梁が流失していたところに建築列車が進入し川中に転落。4月15日より8月7日まで両岸に東渋海川(仮)、西渋海川(仮)を設置<ref>[{{NDLDC|2948350/4}} 「仮停車場設置」『官報』1900年5月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|2948439/5}} 「仮停車場閉鎖」『官報』1900年8月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
**9月:本社を長岡に移転<!-- 川上 (1968) -->
** 11月5日:正午、第4米山隧道(鉢崎 - 青海川)内で上り建築列車と下り貨物列車が正面衝突<!-- 川上 (1968) -->
* [[1901年]](明治34年)9月1日:長岡 - 見附間に押切停車場開業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2948754/2 「停車場設置」『官報』1901年9月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1902年]](明治35年)7月10日:青海川 - 柏崎間に鯨波臨時停車場開業、9月30日まで<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949011/13 「臨時停車場設置」『官報』1902年7月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1903年]](明治36年)
**4月15日:鯨波仮停車場開業、10月31日まで<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949241/8 「仮停車場開始」『官報』1903年4月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
**4月19日:加茂 - 矢代田間に羽生田停車場開業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949247/4 「停車場設置」『官報』1903年4月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
**10月27日:鯨波仮停車場の営業を翌年3月31日まで延長<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949405/3 「仮停車場使用継続」『官報』1903年10月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1904年]](明治37年)
**4月1日:鯨波停車場開業<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949542/7 「停車場開始」『官報』1904年4月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
**5月3日:沼垂 - 新潟1哩14鎖開業<ref>[{{NDLDC|2949570/10}} 「運輸開始」『官報』1904年5月6日](国立国会図書館デジタルコレク ション)</ref>
** 9月9日:直江津 - 新発田の免許を短縮し直江津 - 新津にすることを申請(12月9日許可<ref>[{{NDLDC|2949761/9}} 「私設鉄道株式会社線路短縮許可」『官報』1904年12月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)
** 9月21日:新津 - 新発田の延長を申請(12月9日免許下付<ref>[{{NDLDC|2949761/9}} 「私設鉄道株式会社本免許状下付」『官報』1904年12月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)
** 10月:柏崎 - 出雲崎 - 新潟 - 沼垂の免許を返納<ref>[{{NDLDC|2949687/12}} 「私設鉄道株式会社本免許申請書下戻」『官報』1904年9月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1906年]](明治39年)
**8月30日:春日停車場廃止<ref name=":0">[{{NDLDC|2950301/7}} 「停車場廃止竝開始」『官報』1906年9月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
**9月1日:直江津 - 犀潟間に黒井停車場開業<ref name=":0" />
* [[1907年]](明治40年)8月1日:鉄道国有法により7,776,887円で買収
== 業績 ==
; 1899年(明治32年)頃
: [[営業係数]]89(1897-1899年の平均)、1日1マイルあたり収入14円(1899年)、配当なし<ref name="kawakami_155" />
; 1906年(明治39年)
: 営業係数42、配当5%、建設費7,157,789円、資本金370万円(全額払い込み済み)、社債300万円、借入金54万円<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;"
|-
!年度
!乗客(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!益金(円)
|-
|1897||211,825||6,471||43,123||38,871||4,252
|-
|1898||860,792||30,753||182,168||157,200||24,968
|-
|1899||1,244,621||102,149||425,269||189,289||235,980
|-
|1900||1,384,765||143,675||536,313||246,992||289,321
|-
|1901||1,225,339||139,507||608,120||293,844||314,276
|-
|1902||1,242,672||153,705||596,448||285,792||310,656
|-
|1903||1,318,807||207,649||663,467||339,651||323,816
|-
|1904||1,174,619||179,082||645,350||301,283||344,067
|-
|1905||1,173,635||182,034||696,263||309,793||386,470
|-
|1906||1,205,633||228,870||787,896||331,172||456,724
|-
|1907||807,568||161,069||542,754||278,005||264,749
|-
|}
*「国有及私設鉄道運輸延哩程累年表」「国有及私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 路線 ==
; 施設<ref name="kawakami_155" />
: 軌条30 kg/m
: 閉塞方式:票券式
: 機関庫:春日新田、長岡、新潟
; ほか<ref name="nippontetsudoshi" />
: 延長:85哩65鎖
: 最急勾配:100分の1
: 隧道総延長:6810呎
== 運輸 ==
=== 時刻 ===
; 1898年(明治31年)、春日新田 - 沼垂開業当時<ref name="kawakami_157">川上 (1968) p. 157「北越鉄道の運輸」</ref>
: 春日新田発6:35 - 18:35(3時間ごと等間隔)
: 長岡着9:00 - 21:00
: 長岡発6:25 - 18:25
: 沼垂着8:45 - 20:45
: 沼垂発6:35 - 18:35
: 長岡着8:55 - 20:55
: 長岡発6:20 - 18:20
: 春日新田着8:45 - 20:45
: [[上野駅|上野]]発6:00、直江津着18:45で長岡行きに接続、長岡発6:45で上野着22:00<ref>川上 (1968) p. 157に北越鉄道の広告が掲載されており、上野 - 長岡が当日圏内であることが謳われている。</ref>
; 1904年、新潟延長時
: 長岡止め下り終列車を新潟に延長し、上野 - 新潟が当日圏内に<ref name="kawakami_157" />
: 売店付き客車(調理室のない食堂車と推定される)を連結開始<ref name="nippontetsudoshi" /><ref name="kawakami_157" />
=== 運賃 ===
2等は3等の50%増し、1等は2.5倍<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />
; 当初<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />
: 長岡 - 沼垂は3等1マイルあたり1.4銭([[信濃川]]水運との競争のため)、春日新田 - 長岡は3等1マイルあたり1.5銭
; 1898年(明治31年)6月<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />
: 全線で3等1マイルあたり1.5銭に統一
; 1901年(明治34年)5月<ref name="kawakami_155" /><ref name="nippontetsudoshi" />
: 3等1マイルあたり2銭に改定
== 車両 ==
=== 機関車 ===
[[タンク機関車]]ばかり、7形式18両が在籍した。1899年より渡辺嘉一の考案で重油専燃装置を取付け最終的には全車に装着した。しかし火災事故も何件か発生した。
* '''A形''' (1, 2) : 1896年、[[イギリス|英]][[ナスミス・ウィルソン]]製。[[ホワイト式車輪配置|車軸配置]]0-6-0。国有化後は、[[国鉄1100形蒸気機関車#北越鉄道|1100形]] (1109, 1110)。
* '''B形''' (3 - 7) : 1896年、英[[キットソン]]製。車軸配置0-6-0。国有化後は、[[国鉄1800形蒸気機関車#1800形|1800形]] (1808 - 1812)。
* '''C形''' (8 - 12) : 1898年、英ナスミス・ウィルソン製。車軸配置0-6-0。国有化後は、[[国鉄1800形蒸気機関車#1940形|1940形]] (1940 - 1944)。
* '''D形''' (13, 14) : 1897年、[[アメリカ合衆国|米]][[クック・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス|クック]]製。車軸配置0-6-2。国有化後は、[[国鉄2700形蒸気機関車|2700形]] (2700, 2701)。
* '''E形''' (15) : 1895年、米[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]製。車軸配置2-4-2。1899年、[[山陽鉄道]]から譲受。国有化後は、[[国鉄950形蒸気機関車|950形]] (958)。
* '''F形''' (16, 17) : 1901年、英ナスミス・ウィルソン製。車軸配置0-6-0。国有化後は、[[国鉄1800形蒸気機関車#2080形|2080形]] (2080, 2081)。
* '''G形''' (18) : 1905年、[[汽車製造]]製。車軸配置2-4-2。国有化後は、[[国鉄230形蒸気機関車|230形]] (268)。[[佐賀県]][[鳥栖市]]の[[九州旅客鉄道|JR九州]][[鳥栖駅]]前で静態保存。
=== 客車 ===
当初の2等車と3等車は両端開放出入台形、車体寸法7214×2210×3315mm、軸距離3810mm、自重6.3t。1898年から[[貫通扉]]付密閉型、片側2扉に改めた<ref name="kawakami_159">川上 (1968) p. 159「北越鉄道の客貨車」</ref>。[[形式称号]]は1等車「イ」、2等車「ロ」、3等車「ハ」、手荷物緩急車「ブ」、郵便車「ユ」<ref name="kawakami_159" />。
[[客車]]の在籍
; 1897年12月末現在
: 35輌、2等車4輌、3等車26輌、緩急車5輌で1等車なし<ref name="kawakami_159" />
; 国有化に際して引き継ぎ
: 74輌、1等2等合造車6輌、2等車8輌、3等車40輌、3等手用制動機付き2輌、3等郵便手荷物緩急車4輌、手荷物緩急車4輌で、いずれも2軸車<ref name="kawakami_159" />
* イロ1.2 2両 松井工場製 定員[[一等車|一等]]8人[[二等車|二等]]12人 国有化後イロ336.337(形式332) 一二等[[合造車]] [{{NDLDC|2942239/77}} 形式図]
* イロ3 - 6 4両 東京松井工場製 定員一等12人二等14人 国有化後イロ348 - 351(形式339) 一二等合造車 [{{NDLDC|2942239/81}} 形式図]
* ロ1.2 2両 三田製作所工場製 定員22人 国有化後ロ805.806(形式805) [[二等車]] [{{NDLDC|2942239/129}} 形式図]
* ロ3 - 8 6両 新濱鉄工所工場製 定員28人 国有化後ロ807 - 812(形式807) 二等車 [{{NDLDC|2942239/130}} 形式図]
* ハ1 - 26 26両 三田製作所工場製(1 - 11)新潟工場製(12 - 26) 定員40人 国有化後ハ2539-2564(形式2539) 三等車 [{{NDLDC|2942239/238}} 形式図]、[{{NDLDC|1105976/98}} 写真]<ref>『新潟鉄工所四十年史』国立国会図書館デジタルコレクション</ref>
* ハ29 - 31 3両 松井工場製 定員50人 国有化後ハ2421 - 2423(形式2421) [[三等車]] [{{NDLDC|2942239/226}} 形式図]
* ハ40 - 42 3両 北越鉄道会社長野工場製 定員48人 国有化後ハ2424 - 2426(形式2421) 三等車 1898年三等客車として製造されたが、1903年頃長岡工場で改造し、売店付客車(後に[[食堂車]])シ1 - 3となった。国有化後に食堂営業は廃止されている<ref>鉄道友の会 客車気動車研究会『日本の食堂車』ネコ・パブリッシング、2012年、4頁</ref><ref>食堂は廃止三等車に改造[{{NDLDC|805359/39}} 『鉄道院年報. 明治42年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 [{{NDLDC|2942239/227}} 形式図]
* ハ32 - 39 8両 新潟鉄工所工場製 定員44人 国有化後ハ3314 - 3321(形式3314) 三等車([[手ブレーキ|手用制動機]]附) [{{NDLDC|2942239/276}} 形式図]
* ハブ1.2 2両 三田製作所工場製 定員40人 国有化後フハ3307.3308(形式3277) 三等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942239/273}} 形式図]
* ハブ3 - 6 4両 松井工場製 定員26人 国有化後ハニ3677 - 3680(形式) 三等[[荷物車|手荷物]]合造[[緩急車]] [{{NDLDC|2942239/341}} 形式図]
* ハユブ1.2 2両 新潟鉄工所工場製 定員24人 国有化後ハユニ3517.3518(形式3517) 三等[[郵便車|郵便]]手荷物合造緩急車 [{{NDLDC|2942239/308}} 形式図]
* ユ1 - 4 4両 新潟鉄工所工場製 国有化後ユ3741 - 3744(形式3741) 郵便車 [{{NDLDC|2942239/354}} 形式図]
* ユブ1 - 4 4両 松井工場製 国有化後ユニ3945 - 3948(形式3945) 郵便手荷物合造緩急車 [{{NDLDC|2942239/402}} 形式図]
* ブ1 - 4 4両 松井工場製 国有化後ニ4338 - 4341(形式4338) 手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/443}} 形式図]
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』
=== 貨車 ===
初期は6トン積みで後期は7トン積み、[[タンク車|油槽車]]は[[私有貨車]]が多く、数に入っていない<ref name="kawakami_159" />。なお1899年に日本で最初の鉄製筒型の石油タンク車が[[新潟鐵工所]]で製造された
[[貨車]]の在籍
; 1897年12月末現在<ref name="kawakami_159" />
: 117輌、うち[[有蓋車]]17輌、有蓋[[緩急車]]15輌、[[無蓋車]]15輌、[[土運車]]70輌
; 国有当時<ref name="kawakami_159" />
: 有蓋車200輌、有蓋緩急車25輌、無蓋車15輌、無蓋車[[手ブレーキ|手用制動機]]付3輌、[[長物車|材木車]]2輌、油槽車8輌、土運車37輌、土運車手用制動機付8輌
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;"
|-
! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車
|-
|1897||10||35||117
|-
|1898||11||74||177
|-
|1899||12||74||196
|-
|1900||15||74||298
|-
|1901-1905||17||74||298
|-
|1906||18||74||298
|-
|}
*「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 役員 ==
*取締役会長
**[[渡辺嘉一]](1907年1月)
*専務取締役
**[[銀林綱男]]<ref>[{{NDLDC|779810/577}} 『人事興信録. 初版(明36.4刊)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1896年1月-1896年)
**[[前島密]](1896年12月-1898年2月)
**渡辺嘉一(1898年-1907年1月)
**[[久須美秀三郎]]<ref>[{{NDLDC|779810/405}} 『人事興信録. 初版(明36.4刊)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1907年1月-)
*取締役
**銀林綱男(1895年12月-1896年)
**[[末延道成]](1895年12月-)
**前島密(1895年12月-)
**山口権三郎<ref>[{{NDLDC|778701/55}} 『北越名士伝』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1895年12月-1897年1月)
**本間新作<ref>[{{NDLDC|779812/334}} 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1895年12月-1897年1月)
**[[鍵冨三作財閥|鍵冨三作]]<ref>[{{NDLDC|778701/48}} 『北越名士伝』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1895年12月-1905年7月)
**[[今村清之助]](1895年12月-1897年1月、1898年7月-1902年9月)
**濱政弘(1897年1月-1898年7月)
**[[牧口義方]]<ref>[{{NDLDC|778032/262}} 『衆議院議員列伝』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1897年1月-1898年7月)
**[[斎藤喜十郎財閥|齋藤喜十郎]]<ref>[{{NDLDC|779813/454}} 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>(1897年1月-1898年7月)
**渡辺嘉一(1896年1月)
**[[原六郎]](1898年7月-)
== 脚注および参考文献 ==
<references />
*{{Cite book | 和書 | chapter = 北越鉄道 | title = 日本鉄道史 | author= 鉄道省|authorlink=鉄道省 | year = 1921 | volume = 中篇 | pages = 524-537 | publisher = [鉄道省] | location = [東京] }}
*{{Cite book | 和書 | title = 新日本鉄道史 | volume = 下 | author = 川上幸義 | pages = 155-159 | publisher = [[鉄道図書刊行会]] | year = 1968 }}
<!--
*{{Cite book | 和書 | pages = pp. ■ | title = 昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧 | author= 鉄道省|authorlink=鉄道省 | publisher = 鉄道省
(覆刻:鉄道史資料保存会)| year = 1937年(覆刻:1986年) | location = 東京(覆刻:大阪) | id = ISBN 4-88540-048-1 }}
-->
*{{Cite book | 和書 | volume = 6 北信越 | title = 日本鉄道旅行地図帳 | author = 今尾恵介(監修) | year = 2008 | publisher = 新潮社 | id = ISBN 978-4-10-790024-1 }}
*今城光秀「私設鉄道経営者・技術者一覧」『大東文化大学経営論集』第2号125-126頁
*瀬古龍雄「新潟県鉄道のあゆみ」『鉄道史学』No.23、2005年
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{DEFAULTSORT:ほくえつてつとう}}
[[Category:北越鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:新潟県の交通史]]
[[Category:かつて存在した新潟県の企業]] | null | 2022-07-01T05:33:27Z | false | false | false | [
"Template:Cite book",
"Template:基礎情報 会社",
"Template:UKrail-header",
"Template:BS",
"Template:BS-colspan",
"Template:読み仮名",
"Template:混同",
"Template:BS-table",
"Template:鉄道国有法被買収私鉄"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%B6%8A%E9%89%84%E9%81%93 |
6,519 | 九州鉄道 | 九州鉄道()は、明治時代に存在した九州の私設鉄道会社である。北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003年から九州鉄道記念館として利用されている。
九州鉄道は、九州初の鉄道路線を開通した会社である。
1887年(明治20年)、松田和七郎、藤金作、伊丹文右エ門、渋谷清六、白木為直、嘉悦氏房の六名が会社設立発起者総代となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけて創立した。 1888年(明治21年)、政府に設立認可され、初代社長に高橋新吉が就任した。技術職にはヘルマン・ルムシュッテルらドイツ人技術者が雇用された。
初の路線は1889年(明治22年)に開通した博多駅 - 千歳川仮停車場間であり、後に鹿児島本線の一部となった。なお、2022年現在も開通当初から現存する駅は、博多駅を含めた鹿児島本線の二日市駅、原田駅、田代駅、鳥栖駅、三角線の網田駅の6つである。
その後幹線や筑豊鉄道との合併により筑豊の運炭路線を得るなど、新線建設・他の鉄道会社との統合により北九州・西九州地域を中心に九州島内の広域で路線網を拡大し、堅調な経営基盤を築いていた(特に後者については、筑豊炭田からの石炭輸送の好調ぶりから、1899年(明治32年)以降は貨物収入が旅客収入を上回る状況が続くなど、同鉄道の後期における主力収入源として重宝されていた)が、1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により1907年(明治40年)7月1日に国有化された。
路線の詳細な沿革については各路線記事を参照のこと。
国有化までに敷設された現鹿児島本線とそれに付随する支線は、九州鉄道が独自に敷設したものである。陸軍衛戍地であった小倉地区の軍用路線や現北九州市内の路線は、軍政や国防計画の変遷にともなって頻繁に変更されている。九州鉄道の手による支線は篠栗線の一部と三角線全区間にとどまる。
現在の鹿児島本線の北半分、初代門司(→門司港)‐初代八代(→球磨川貨)間、および1911年(明治44年)にルート変更のため廃止された大蔵線に該当する。1889年(明治22年)に開業した博多‐千歳川仮停車場間を皮切りに、該当区間は1896年(明治29年)までに全通した。国有化までこの区間の延伸は進まず、肥薩線経由の全通は国有化後の1909年(明治42年)、川内経由の現行の鹿児島本線に付け替わったのは1927年(昭和2年)のことである。
当初は九州鉄道の本線の一部として開業した大蔵線区間に当たる。1891年(明治24年)の黒崎‐門司間全通時の区間である。1902年(明治35年)に戸畑線が開通してからは輸送量が激減し、本線から迂回線として大蔵線へ分離されたのは国有化後の1908年(明治41年)。廃止は1911年(明治44年)のことである。
小倉裏線(現鹿児島本線)高浜(→富野)信号所 - (現日豊本線)紫川聯絡所間の軍用線に該当する。豊州本線が陸軍小倉連隊衛戍地を西に迂回しているため、衛戍地正門の位置する東側に直結する短絡線として1903年(明治36年)に敷設された。日露戦争時の出征輸送に使われたのみで、1916年(大正5年)に廃止された。
上記の小倉裏線の本線と同時に敷設・廃止された短絡線。行橋方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う足立駅に直通できるように設置された。足立・紫川南篠崎で三角線を形成していた。
上記の小倉裏線の本線に追加する形で1904年(明治37年)に敷設された短絡線。黒崎方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う足立駅に直通できるように設置された。小倉・北篠崎・板櫃で三角線を形成していた。小倉裏線系統では最も早く、大蔵線と同時に1911年(明治44年)廃止された。
北九州市内を通過する鹿児島本線の現行ルートに該当する。清朝やロシア帝国の上陸・艦砲射撃作戦による線路寸断を危惧した陸軍に反対されたため、大蔵線を先行開業して1902年(明治35年)にようやく並行新線として開業した。八幡・戸畑の集客力をもって大蔵線を圧倒する収益を上げ、国有化後の1908年(明治41年)に正式に人吉本線(→鹿児島本線)へ編入された。
現在の篠栗線西半分の路線に該当する。1904年(明治37年)に吉塚‐篠栗間が全通し、翌年の博多乗り入れが完了すると、国有化後も変化なく推移した。筑豊本線桂川までの延伸が実現したのは、長大な篠栗トンネルの掘削が可能となった戦後のことで、1968年(昭和43年)のことである。
現在の三角線全区間に該当する。1899年(明治32年)に宇土‐三角間が全通して以来、路線の変更はない。
国有化までに敷設された現長崎本線とそれに付随する支線は、九州鉄道が独自に敷設したものだけではなく、地元資本によって敷設された中小私鉄の買収路線が含まれている。長崎線の支線で九州鉄道が敷設していないのは、鹿児島線から委譲した私鉄出身の筑肥線を別にすると、松浦線伊万里以遠とその支線群、戦後に建設された喜々津-浦上間の長崎本線新線区間にとどまる。
順に、現在の長崎本線東側の鳥栖‐江北(旧・肥前山口)間・佐世保線東側の肥前山口‐早岐間・大村線の全線にあたる早岐‐諫早間・長崎本線末端の諫早‐初代長崎(→浦上)間に該当する。1891年(明治24年)に鳥栖‐佐賀間を開業して以来、1898年(明治31年)に中間部の諫早‐長与間が結節されて全通した。二代長崎への延伸は国有化後の1905年(明治38年)、肥前鹿島経由の現行の長崎本線に付け替わり、佐世保線の区間変更・大村線の独立が行われたのは1934年(昭和9年)のことである。
現在の佐世保線末端区間に該当する。佐世保には海軍鎮守府が設置されていたため、建設は長崎線と並行して進められており、早岐開業から半年後の1898年(明治31年)には、長崎線の大村延伸と同時に早岐‐佐世保間も全通している。1934年(昭和9年)の長崎本線付け替えによる肥前山口‐早岐間の編入を除くと、大きな変化はない。
唐津興業鉄道(→唐津鉄道)が敷設した買収路線で、現在の唐津線および貨物支線に該当する。1898年(明治31年)、唐津側の大島貨‐妙見(→西唐津)‐山本間の開業を皮切りに、莇原(→現多久)延伸を果たした1902年(明治35年)に九州鉄道へ合併された。長崎線久保田延伸は九州鉄道によって実現した。末端の西唐津‐大島貨間は1982年(昭和57年)廃止。
1903年(明治36年)に唐津鉄道によって莇原(→現多久)‐柚ノ木原間に敷設された現唐津線の貨物支線。1967年(昭和42年)に廃止された。
1905年(明治35年)に九州鉄道によって相知分岐点(→中相知信)‐相知貨(→相知炭坑)間に敷設された現唐津線の貨物支線。1978年(昭和53年)に廃止された。 唐津線の支線としては、山本 - 岸嶽間の通称「岸嶽線」が知られるが、国有化後の1912年(明治45年)に開業したもので、唐津鉄道・九州鉄道は関与していない。
伊万里鉄道が敷設した買収路線で、現在の松浦鉄道の東側、有田‐伊万里間に該当する。1898年(明治31年)8月に開業したが、建設資金の返済に行き詰まり、さっそく同年12月に九州鉄道へ買収された。国有化後も「伊万里線」の名称のまましばらく延伸されなかったが、1930年(昭和5年)より延伸が始まり、1945年(昭和20年)に松浦線と結節されて編入された。
国有化までに敷設された現日豊本線とそれに付随する支線は、主に豊州鉄道が敷設したもので、九州鉄道は豊州鉄道への連絡線および合併後の延伸路線の敷設にとどまっている。豊州鉄道は1901年(明治34年)に九州鉄道に合併した。日豊線の支線で九州鉄道の敷設でないものは、日田彦山線の両端部である。
国有化までに敷設された現筑豊本線とそれに付随する支線は、主に筑豊興業鉄道→筑豊鉄道が敷設したもので、九州鉄道は合併後の延伸路線の敷設にとどまっている。筑豊鉄道は1897年(明治30年)に九州鉄道に合併した。筑豊線の支線で九州鉄道が敷設していないのは、国有化直後に開業した香月線がある。
現在の筑豊本線の北側、若松‐飯塚間、および1988年(昭和63年)に廃止された上山田線の西側、飯塚‐上山田間に該当する。筑豊興業鉄道が1891年(明治24年)若松‐直方間を開業して以来、合併までに飯塚を越えて臼井まで延伸した。九州鉄道が延伸を引き継ぎ、国有化までに上山田まで全通を果たした。1929年(昭和4年)に桂川‐原田間開業と長尾線編入により、筑豊本線が若松‐原田間に付け替え、飯塚以南は上山田線に分離した。上山田線は1966年(昭和41年)に豊前川崎まで全通するが、1988年をもって廃止された。
現在の筑豊本線の中央部、飯塚‐長尾(→桂川)に該当する。九州鉄道により1901年(明治34年)に全通した。国有化後は筑豊本線の一支線である「長尾線」に過ぎなかったが、長尾以南を延伸して冷水峠を越えて鹿児島本線原田まで直結することになり、1929年(昭和4年)に筑豊本線の一部として編入された。篠栗線開業にともなう博多‐筑豊間の直通化で、開業時とは打って変わって幹線化している。
九州鉄道が1898年(明治31年)に平恒分岐点(→二代平恒)‐初代平恒貨間に敷設した上山田線の貨物線。1939年(昭和14年)に廃止された。
現在の平成筑豊鉄道伊田線の全線、直方‐伊田(→田川伊田)に該当する。筑豊興業鉄道により1893年(明治26年)に直方‐金田間が開業し、合併後の九州鉄道により1899年(明治32年)に伊田延伸が行われ、全線開業した。伊田線の特徴である全線複線は国有化直後の1911年(明治44年)に実施されている。
九州鉄道が1899年(明治32年)に本洞分岐点 ‐ 本洞間に敷設した貨物線。1922年(大正11年)に廃止された。
九州鉄道が1898年(明治31年)に中泉 ‐ 日焼間に敷設した現伊田線の貨物線。旧大城第一分岐点以遠は1945年(昭和20年)に廃止された。
九州鉄道が1900年(明治33年)に日焼支線大城第一分岐点(→中泉) ‐ 大城第一間に敷設した現伊田線の貨物線。1964年(昭和39年)に廃止された。
九州鉄道が1900年(明治33年)に大城第一支線大城第二分岐点 ‐ 大城第二間に敷設した現伊田線の貨物線。1923年(大正12年)に廃止された。
九州鉄道が1904年(明治37年)に赤池分岐点(→赤池) ‐ 赤池(→赤池炭坑)間に敷設した現伊田線の貨物線。1978年(昭和53年)に廃止された。
九州鉄道が1903年(明治36年)に方城分岐点(→金田) ‐ 方城間に敷設した現伊田線の貨物線。1971年(昭和46年)に廃止された。
1989年(平成元年)に廃止された宮田線の全線、勝野‐桐野(→筑前宮田)間に該当する。九州鉄道により1902年(明治35年)に貨物支線として全線開業した。開業当時の終点は「宮田駅」だったが、2年後に「桐野駅」に改名し、1937年(昭和12年)に「筑前宮田駅」に再改名した経緯があり、国有化後の路線名も「桐野線」であった。旅客輸送は国有化後の1912年(明治45年)から実施した。
1977年(昭和52年)に廃止された宮田線の貨物支線。九州鉄道により1904年(明治37年)に勝野 - 初代菅牟田間の全線が開業した。実質上は勝野駅構内扱いで菅牟田分岐点が存在し、1912年(明治45年)に磯光駅として独立している。初代菅牟田貨は1911年(明治44年)に廃止されており、廃線時の二代菅牟田貨は1区間手前の新駅であった。
1969年(昭和44年)に廃止された幸袋線の全線、小竹‐潤野(→二瀬)間に該当する。筑豊鉄道が1894年(明治27年)に小竹‐幸袋間を開業して以来、九州鉄道により潤野まで延伸された。さらに国有化後も枝国まで延伸され、廃線区間が全通した。末端の二瀬‐枝国間は先行して1965年(昭和40年)に廃止されている。
1969年(昭和44年)に廃止された幸袋線の貨物支線。九州鉄道が1899年(明治32年)に伊岐須分岐点(→幸袋) ‐ 伊岐須間を全通した。幸袋線の本線は末端の枝国以外は旅客化されたが、支線は廃線まで貨物線のままであった。
1920年(大正9年)に廃止された幸袋線の貨物支線。九州鉄道が1903年(明治36年)に目尾分岐点‐初代目尾間を全通した。二代目尾は支線廃止と同時に本線上に新設され、当初より旅客扱いを行った。
九州鉄道が1902年(明治35年)に小竹 ‐ 塩頭間に敷設した現筑豊本線の貨物線。1945年(昭和20年)に廃止された。
現在の後藤寺線の西半分、新飯塚‐上三緒間、および上三緒以南の山野貨物支線に該当する。1902年(明治35年)、九州鉄道により筑豊本線の貨物支線として芳雄貨(→新飯塚) ‐ 山野(→筑前山野)間を開業した。国有化以後は途中駅の上三緒から漆生への延伸が続き、上三緒以南は漆生線への編入と旅客扱い開始を経て、戦時統合の末に後藤寺線へと編入される。取り残された山野貨物支線は、1964年(昭和39年)に廃止された。
九州鉄道が1898年(明治31年)に飯塚 ‐ 忠隈間に敷設した現筑豊本線の貨物線。1945年(昭和20年)に廃止された。
開業時に蒸気機関車や客車にドイツ製の車両を導入したことが特色である。経営基盤が脆弱であったことから、線路状況と輸送量に合わせて最適の機関車を使い分けるイギリス流の運用はせず、汎用の同形機関車を大量に導入して機関車の保守費低減を図った。後期には、アメリカ製の機関車を大量に導入している。
著名なもののみ記す。 | [
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"text": "九州鉄道()は、明治時代に存在した九州の私設鉄道会社である。北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003年から九州鉄道記念館として利用されている。",
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"text": "九州鉄道は、九州初の鉄道路線を開通した会社である。",
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"text": "1887年(明治20年)、松田和七郎、藤金作、伊丹文右エ門、渋谷清六、白木為直、嘉悦氏房の六名が会社設立発起者総代となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけて創立した。 1888年(明治21年)、政府に設立認可され、初代社長に高橋新吉が就任した。技術職にはヘルマン・ルムシュッテルらドイツ人技術者が雇用された。",
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"text": "初の路線は1889年(明治22年)に開通した博多駅 - 千歳川仮停車場間であり、後に鹿児島本線の一部となった。なお、2022年現在も開通当初から現存する駅は、博多駅を含めた鹿児島本線の二日市駅、原田駅、田代駅、鳥栖駅、三角線の網田駅の6つである。",
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"text": "その後幹線や筑豊鉄道との合併により筑豊の運炭路線を得るなど、新線建設・他の鉄道会社との統合により北九州・西九州地域を中心に九州島内の広域で路線網を拡大し、堅調な経営基盤を築いていた(特に後者については、筑豊炭田からの石炭輸送の好調ぶりから、1899年(明治32年)以降は貨物収入が旅客収入を上回る状況が続くなど、同鉄道の後期における主力収入源として重宝されていた)が、1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により1907年(明治40年)7月1日に国有化された。",
"title": "概要"
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"text": "路線の詳細な沿革については各路線記事を参照のこと。",
"title": "沿革"
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"text": "国有化までに敷設された現鹿児島本線とそれに付随する支線は、九州鉄道が独自に敷設したものである。陸軍衛戍地であった小倉地区の軍用路線や現北九州市内の路線は、軍政や国防計画の変遷にともなって頻繁に変更されている。九州鉄道の手による支線は篠栗線の一部と三角線全区間にとどまる。",
"title": "保有路線"
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"text": "現在の鹿児島本線の北半分、初代門司(→門司港)‐初代八代(→球磨川貨)間、および1911年(明治44年)にルート変更のため廃止された大蔵線に該当する。1889年(明治22年)に開業した博多‐千歳川仮停車場間を皮切りに、該当区間は1896年(明治29年)までに全通した。国有化までこの区間の延伸は進まず、肥薩線経由の全通は国有化後の1909年(明治42年)、川内経由の現行の鹿児島本線に付け替わったのは1927年(昭和2年)のことである。",
"title": "保有路線"
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"text": "当初は九州鉄道の本線の一部として開業した大蔵線区間に当たる。1891年(明治24年)の黒崎‐門司間全通時の区間である。1902年(明治35年)に戸畑線が開通してからは輸送量が激減し、本線から迂回線として大蔵線へ分離されたのは国有化後の1908年(明治41年)。廃止は1911年(明治44年)のことである。",
"title": "保有路線"
},
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"text": "小倉裏線(現鹿児島本線)高浜(→富野)信号所 - (現日豊本線)紫川聯絡所間の軍用線に該当する。豊州本線が陸軍小倉連隊衛戍地を西に迂回しているため、衛戍地正門の位置する東側に直結する短絡線として1903年(明治36年)に敷設された。日露戦争時の出征輸送に使われたのみで、1916年(大正5年)に廃止された。",
"title": "保有路線"
},
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"tag": "p",
"text": "上記の小倉裏線の本線と同時に敷設・廃止された短絡線。行橋方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う足立駅に直通できるように設置された。足立・紫川南篠崎で三角線を形成していた。",
"title": "保有路線"
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"text": "上記の小倉裏線の本線に追加する形で1904年(明治37年)に敷設された短絡線。黒崎方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う足立駅に直通できるように設置された。小倉・北篠崎・板櫃で三角線を形成していた。小倉裏線系統では最も早く、大蔵線と同時に1911年(明治44年)廃止された。",
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"text": "北九州市内を通過する鹿児島本線の現行ルートに該当する。清朝やロシア帝国の上陸・艦砲射撃作戦による線路寸断を危惧した陸軍に反対されたため、大蔵線を先行開業して1902年(明治35年)にようやく並行新線として開業した。八幡・戸畑の集客力をもって大蔵線を圧倒する収益を上げ、国有化後の1908年(明治41年)に正式に人吉本線(→鹿児島本線)へ編入された。",
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"text": "現在の篠栗線西半分の路線に該当する。1904年(明治37年)に吉塚‐篠栗間が全通し、翌年の博多乗り入れが完了すると、国有化後も変化なく推移した。筑豊本線桂川までの延伸が実現したのは、長大な篠栗トンネルの掘削が可能となった戦後のことで、1968年(昭和43年)のことである。",
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"text": "現在の三角線全区間に該当する。1899年(明治32年)に宇土‐三角間が全通して以来、路線の変更はない。",
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"text": "順に、現在の長崎本線東側の鳥栖‐江北(旧・肥前山口)間・佐世保線東側の肥前山口‐早岐間・大村線の全線にあたる早岐‐諫早間・長崎本線末端の諫早‐初代長崎(→浦上)間に該当する。1891年(明治24年)に鳥栖‐佐賀間を開業して以来、1898年(明治31年)に中間部の諫早‐長与間が結節されて全通した。二代長崎への延伸は国有化後の1905年(明治38年)、肥前鹿島経由の現行の長崎本線に付け替わり、佐世保線の区間変更・大村線の独立が行われたのは1934年(昭和9年)のことである。",
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"text": "現在の佐世保線末端区間に該当する。佐世保には海軍鎮守府が設置されていたため、建設は長崎線と並行して進められており、早岐開業から半年後の1898年(明治31年)には、長崎線の大村延伸と同時に早岐‐佐世保間も全通している。1934年(昭和9年)の長崎本線付け替えによる肥前山口‐早岐間の編入を除くと、大きな変化はない。",
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"text": "唐津興業鉄道(→唐津鉄道)が敷設した買収路線で、現在の唐津線および貨物支線に該当する。1898年(明治31年)、唐津側の大島貨‐妙見(→西唐津)‐山本間の開業を皮切りに、莇原(→現多久)延伸を果たした1902年(明治35年)に九州鉄道へ合併された。長崎線久保田延伸は九州鉄道によって実現した。末端の西唐津‐大島貨間は1982年(昭和57年)廃止。",
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"text": "1905年(明治35年)に九州鉄道によって相知分岐点(→中相知信)‐相知貨(→相知炭坑)間に敷設された現唐津線の貨物支線。1978年(昭和53年)に廃止された。 唐津線の支線としては、山本 - 岸嶽間の通称「岸嶽線」が知られるが、国有化後の1912年(明治45年)に開業したもので、唐津鉄道・九州鉄道は関与していない。",
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"text": "1977年(昭和52年)に廃止された宮田線の貨物支線。九州鉄道により1904年(明治37年)に勝野 - 初代菅牟田間の全線が開業した。実質上は勝野駅構内扱いで菅牟田分岐点が存在し、1912年(明治45年)に磯光駅として独立している。初代菅牟田貨は1911年(明治44年)に廃止されており、廃線時の二代菅牟田貨は1区間手前の新駅であった。",
"title": "保有路線"
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"text": "1969年(昭和44年)に廃止された幸袋線の全線、小竹‐潤野(→二瀬)間に該当する。筑豊鉄道が1894年(明治27年)に小竹‐幸袋間を開業して以来、九州鉄道により潤野まで延伸された。さらに国有化後も枝国まで延伸され、廃線区間が全通した。末端の二瀬‐枝国間は先行して1965年(昭和40年)に廃止されている。",
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"text": "1969年(昭和44年)に廃止された幸袋線の貨物支線。九州鉄道が1899年(明治32年)に伊岐須分岐点(→幸袋) ‐ 伊岐須間を全通した。幸袋線の本線は末端の枝国以外は旅客化されたが、支線は廃線まで貨物線のままであった。",
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"text": "1920年(大正9年)に廃止された幸袋線の貨物支線。九州鉄道が1903年(明治36年)に目尾分岐点‐初代目尾間を全通した。二代目尾は支線廃止と同時に本線上に新設され、当初より旅客扱いを行った。",
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"text": "九州鉄道が1902年(明治35年)に小竹 ‐ 塩頭間に敷設した現筑豊本線の貨物線。1945年(昭和20年)に廃止された。",
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"text": "現在の後藤寺線の西半分、新飯塚‐上三緒間、および上三緒以南の山野貨物支線に該当する。1902年(明治35年)、九州鉄道により筑豊本線の貨物支線として芳雄貨(→新飯塚) ‐ 山野(→筑前山野)間を開業した。国有化以後は途中駅の上三緒から漆生への延伸が続き、上三緒以南は漆生線への編入と旅客扱い開始を経て、戦時統合の末に後藤寺線へと編入される。取り残された山野貨物支線は、1964年(昭和39年)に廃止された。",
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"text": "九州鉄道が1898年(明治31年)に飯塚 ‐ 忠隈間に敷設した現筑豊本線の貨物線。1945年(昭和20年)に廃止された。",
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"text": "開業時に蒸気機関車や客車にドイツ製の車両を導入したことが特色である。経営基盤が脆弱であったことから、線路状況と輸送量に合わせて最適の機関車を使い分けるイギリス流の運用はせず、汎用の同形機関車を大量に導入して機関車の保守費低減を図った。後期には、アメリカ製の機関車を大量に導入している。",
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"text": "著名なもののみ記す。",
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] | 九州鉄道は、明治時代に存在した九州の私設鉄道会社である。北九州市門司区に旧本社の建物が残存し、2003年から九州鉄道記念館として利用されている。 | {{otheruses|1887年から1907年まで存在した九州鉄道(初代)|[[西日本鉄道]]の前身事業者|九州鉄道 (2代)}}
{{混同|九州旅客鉄道}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 九州鉄道
|ロゴ = [[File:KyushuRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[福岡県]][[門司市]]清滝町<ref name="NDLDC780119-937"/>
|設立 = [[1888年]](明治21年)6月<ref name="NDLDC780119-937"/>
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|代表者 = 専務取締役社長 [[仙石貢]]<ref name="NDLDC780119-937"/>
|資本金 = 62,000,000円<ref name="NDLDC780119-937"/>
|特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119-937">[{{NDLDC|780119/937}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{{読み仮名|'''九州鉄道'''|きゅうしゅうてつどう}}は、[[明治]]時代に存在した[[九州]]の[[鉄道事業者|私設鉄道会社]]である。[[北九州市]][[門司区]]に旧本社の建物が残存し、2003年から[[九州鉄道記念館]]として利用されている。
== 概要 ==
九州鉄道は、九州初の鉄道路線を開通した会社である<ref name="mainichi-np-2014-12-8">中園敦二(2014年12月8日). “雑記帳:九州初の鉄道である九州鉄道(現JR九州)が開業して…”. [[毎日新聞]] (毎日新聞社)</ref>。
[[1887年]](明治20年)、松田和七郎、[[藤金作]]、伊丹文右エ門、渋谷清六、白木為直、[[嘉悦氏房]]の六名が会社設立発起者総代となり、福岡・熊本・佐賀の各県令に呼びかけて創立した。
[[1888年]](明治21年)、政府に設立認可され、初代社長に[[高橋新吉 (英学者)|高橋新吉]]が就任した。技術職には[[ヘルマン・ルムシュッテル]]らドイツ人技術者が雇用された。
初の路線は[[1889年]](明治22年)に開通した[[博多駅]] - 千歳川仮停車場間であり、後に[[鹿児島本線]]の一部となった<ref name="mainichi-np-2014-12-8" />。なお、[[2022年]]現在も開通当初から現存する駅は、博多駅を含めた鹿児島本線の[[二日市駅]]、[[原田駅 (福岡県)|原田駅]]、[[田代駅]]、[[鳥栖駅]]、三角線の[[網田駅]]の6つである。
その後幹線や[[筑豊鉄道]]との合併により[[筑豊]]の運炭路線を得るなど、新線建設・他の鉄道会社との統合により北九州・西九州地域を中心に九州島内の広域で路線網を拡大し、堅調な経営基盤を築いていた(特に後者については、[[筑豊炭田]]からの石炭輸送の好調ぶりから、[[1899年]](明治32年)以降は貨物収入が旅客収入を上回る状況が続くなど、同鉄道の後期における主力収入源として重宝されていた)が、[[1906年]](明治39年)公布の[[鉄道国有法]]により[[1907年]](明治40年)[[7月1日]]に国有化された。
== 沿革 ==
路線の詳細な沿革については各路線記事を参照のこと。
*[[1887年]](明治20年)- 会社設立
*[[1888年]](明治21年)6月27日- 営業認可<ref>[{{NDLDC|2944738/4}} 「鉄道布設免許状下付」『官報』1888年6月30日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
*[[1889年]](明治22年)[[12月11日]] - 九州初の鉄道として博多 - [[千歳川仮停車場]]間開業<ref name="mainichi-np-2014-12-8" />(千歳川仮停車場は、佐賀県鳥栖市、現在の肥前旭駅-久留米駅の間、[[筑後川]]北岸)
*[[1891年]](明治24年)[[4月1日]] - 門司駅(現、[[門司港駅]])まで東進
**[[7月1日]] - 春日駅(現、[[熊本駅]])まで南進
**[[8月20日]] - 現在の[[長崎本線]]の一部たる[[鳥栖駅|鳥栖]] - [[佐賀駅|佐賀]]間開業
*[[1896年]](明治29年)[[11月21日]] - 現在の鹿児島本線が[[八代駅]]延伸
*[[1897年]](明治30年)[[10月1日]] - [[筑豊鉄道]]を吸収合併
*[[1898年]](明治31年)[[11月27日]] - 現在の[[佐世保線]]・[[大村線]]にあたる早岐駅経由で鳥栖 - [[長崎駅|長崎]]間全通
**[[12月28日]]- [[伊万里鉄道]]を吸収合併
*[[1899年]](明治32年)[[12月25日]] 現在の[[三角線]]にあたる宇土 - 三角間を開業、住吉・網田・三角の各駅を新設。
*[[1901年]](明治34年)[[9月3日]] - [[豊州鉄道]](初代)を吸収合併
*[[1902年]](明治35年)[[2月23日]] - [[唐津鉄道]]を吸収合併
*[[1906年]](明治39年)[[5月10日]] - 門司 - 八代駅間、及び、門司 - 長崎間に同鉄道初の[[急行列車]](料金不要)を設定。「[[最急行|最大急行]]」と称し宣伝した
*[[1907年]](明治40年)[[7月1日]] - 鉄道国有法に基づき国有化され[[帝国鉄道庁]]の所管となり九州鉄道(初代)が解散
*[[1909年]](明治42年)[[10月12日]] - 「鹿児島本線」など線路名称制定
== 保有路線 ==
=== 現・鹿児島線のルーツ ===
国有化までに敷設された現[[鹿児島本線]]とそれに付随する支線は、九州鉄道が独自に敷設したものである。陸軍衛戍地であった小倉地区の軍用路線や現[[北九州市]]内の路線は、軍政や国防計画の変遷にともなって頻繁に変更されている。九州鉄道の手による支線は[[篠栗線]]の一部と[[三角線]]全区間にとどまる。
*門司 - 八代 (参考・現鹿児島本線の門司港-八代間の営業キロは232.3km)
現在の[[鹿児島本線]]の北半分、初代門司(→[[門司港駅|門司港]])‐初代[[八代駅|八代]](→球磨川貨)間、および[[1911年]]([[明治]]44年)にルート変更のため廃止された[[大蔵線]]に該当する。[[1889年]]([[明治]]22年)に開業した[[博多駅|博多]]‐千歳川仮停車場間を皮切りに、該当区間は[[1896年]]([[明治]]29年)までに全通した。国有化までこの区間の延伸は進まず、[[肥薩線]]経由の全通は国有化後の[[1909年]]([[明治]]42年)、[[川内駅 (鹿児島県)|川内]]経由の現行の[[鹿児島本線]]に付け替わったのは[[1927年]]([[昭和]]2年)のことである。
*小倉 - 大蔵 - 黒崎
当初は九州鉄道の本線の一部として開業した[[大蔵線]]区間に当たる。[[1891年]]([[明治]]24年)の[[黒崎駅|黒崎]]‐門司間全通時の区間である。[[1902年]]([[明治]]35年)に戸畑線が開通してからは輸送量が激減し、本線から迂回線として大蔵線へ分離されたのは国有化後の[[1908年]]([[明治]]41年)。廃止は[[1911年]]([[明治]]44年)のことである。
*(現[[鹿児島本線]])富野信号場 - (現・[[日豊本線]])紫川聯絡所
[[小倉裏線]](現[[鹿児島本線]])高浜(→富野)信号所 - (現[[日豊本線]])[[紫川聯絡所]]間の軍用線に該当する。豊州本線が陸軍小倉連隊衛戍地を西に迂回しているため、衛戍地正門の位置する東側に直結する短絡線として[[1903年]]([[明治]]36年)に敷設された。[[日露戦争]]時の出征輸送に使われたのみで、[[1916年]]([[大正]]5年)に廃止された。
*(旧・小倉裏線)足立軍用停車場 - (現・日豊本線)南篠崎聯絡所
上記の小倉裏線の本線と同時に敷設・廃止された短絡線。[[行橋駅|行橋]]方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う[[足立軍用停車場|足立駅]]に直通できるように設置された。足立・紫川[[南篠崎聯絡所|南篠崎]]で三角線を形成していた。
*(現・日豊本線)北篠崎聯絡所 - (旧・大蔵線)板櫃聯絡所
上記の小倉裏線の本線に追加する形で[[1904年]](明治37年)に敷設された短絡線。黒崎方面からの上り列車が衛戍地正門に沿う足立駅に直通できるように設置された。[[小倉駅 (福岡県)|小倉]]・[[北篠崎聯絡所|北篠崎]]・[[板櫃聯絡所|板櫃]]で三角線を形成していた。小倉裏線系統では最も早く、大蔵線と同時に[[1911年]]([[明治]]44年)廃止された。
*小倉 - 戸畑 - 黒崎
[[北九州市]]内を通過する鹿児島本線の現行ルートに該当する。[[清朝]]や[[ロシア帝国]]の上陸・[[艦砲射撃]]作戦による線路寸断を危惧した陸軍に反対されたため、大蔵線を先行開業して[[1902年]]([[明治]]35年)にようやく並行新線として開業した。[[八幡駅 (福岡県)|八幡]]・[[戸畑駅|戸畑]]の集客力をもって大蔵線を圧倒する収益を上げ、国有化後の[[1908年]]([[明治]]41年)に正式に人吉本線(→鹿児島本線)へ編入された。
*吉塚 - 篠栗 (10.3km)
現在の[[篠栗線]]西半分の路線に該当する。[[1904年]]([[明治]]37年)に[[吉塚駅|吉塚]]‐[[篠栗駅|篠栗]]間が全通し、翌年の[[博多駅|博多]]乗り入れが完了すると、国有化後も変化なく推移した。[[筑豊本線]][[桂川駅 (福岡県)|桂川]]までの延伸が実現したのは、長大な篠栗トンネルの掘削が可能となった戦後のことで、[[1968年]]([[昭和]]43年)のことである。
*宇土 - 三角 (25.6km)
現在の[[三角線]]全区間に該当する。[[1899年]]([[明治]]32年)に[[宇土駅|宇土]]‐[[三角駅|三角]]間が全通して以来、路線の変更はない。
=== 現・長崎線のルーツ ===
国有化までに敷設された現[[長崎本線]]とそれに付随する支線は、九州鉄道が独自に敷設したものだけではなく、地元資本によって敷設された中小私鉄の買収路線が含まれている。長崎線の支線で九州鉄道が敷設していないのは、鹿児島線から委譲した私鉄出身の[[筑肥線]]を別にすると、[[松浦線]]伊万里以遠とその支線群、戦後に建設された[[喜々津駅|喜々津]]-浦上間の長崎本線新線区間にとどまる。
*鳥栖‐長崎 (157.1km)
順に、現在の[[長崎本線]]東側の[[鳥栖駅|鳥栖]]‐[[江北駅 (佐賀県)|江北]](旧・肥前山口)間・[[佐世保線]]東側の肥前山口‐[[早岐駅|早岐]]間・[[大村線]]の全線にあたる早岐‐[[諫早駅|諫早]]間・長崎本線末端の諫早‐初代長崎(→[[浦上駅|浦上]])間に該当する。[[1891年]]([[明治]]24年)に鳥栖‐[[佐賀駅|佐賀]]間を開業して以来、[[1898年]]([[明治]]31年)に中間部の諫早‐[[長与駅|長与]]間が結節されて全通した。二代[[長崎駅|長崎]]への延伸は国有化後の[[1905年]]([[明治]]38年)、[[肥前鹿島駅|肥前鹿島]]経由の現行の[[長崎本線]]に付け替わり、佐世保線の区間変更・大村線の独立が行われたのは[[1934年]]([[昭和]]9年)のことである。
*早岐 - 佐世保 (8.9km)
現在の[[佐世保線]]末端区間に該当する。佐世保には海軍鎮守府が設置されていたため、建設は長崎線と並行して進められており、早岐開業から半年後の[[1898年]]([[明治]]31年)には、長崎線の[[大村駅 (長崎県)|大村]]延伸と同時に早岐‐[[佐世保駅|佐世保]]間も全通している。[[1934年]]([[昭和]]9年)の長崎本線付け替えによる肥前山口‐早岐間の編入を除くと、大きな変化はない。
*久保田 - 妙見 - 大島 (45.0km)
唐津興業鉄道(→唐津鉄道)が敷設した買収路線で、現在の[[唐津線]]および貨物支線に該当する。[[1898年]]([[明治]]31年)、唐津側の[[大島駅 (佐賀県)|大島貨]]‐妙見(→[[西唐津駅|西唐津]])‐[[山本駅 (佐賀県)|山本]]間の開業を皮切りに、莇原(→現[[多久駅|多久]])延伸を果たした[[1902年]]([[明治]]35年)に九州鉄道へ合併された。長崎線[[久保田駅 (佐賀県)|久保田]]延伸は九州鉄道によって実現した。末端の西唐津‐大島貨間は[[1982年]]([[昭和]]57年)廃止。
*莇原 - 柚ノ木原 (1.4km)
[[1903年]]([[明治]]36年)に唐津鉄道によって莇原(→現[[多久駅|多久]])‐[[柚ノ木原駅|柚ノ木原]]間に敷設された現唐津線の貨物支線。[[1967年]]([[昭和]]42年)に廃止された。
*相知分岐点 - 相知 (0.7km)
[[1905年]]([[明治]]35年)に九州鉄道によって[[中相知信号場|相知分岐点]](→中相知信)‐[[相知炭坑駅|相知貨]](→相知炭坑)間に敷設された現唐津線の貨物支線。[[1978年]]([[昭和]]53年)に廃止された。
唐津線の支線としては、山本 - 岸嶽間の通称「岸嶽線」が知られるが、国有化後の[[1912年]]([[明治]]45年)に開業したもので、唐津鉄道・九州鉄道は関与していない。
*有田 - 伊万里 (13.0km)
[[伊万里鉄道]]が敷設した買収路線で、現在の[[松浦鉄道西九州線|松浦鉄道]]の東側、[[有田駅|有田]]‐[[伊万里駅|伊万里]]間に該当する。[[1898年]]([[明治]]31年)8月に開業したが、建設資金の返済に行き詰まり、さっそく同年12月に九州鉄道へ買収された。国有化後も「伊万里線」の名称のまましばらく延伸されなかったが、[[1930年]]([[昭和]]5年)より延伸が始まり、[[1945年]]([[昭和]]20年)に[[松浦線]]と結節されて編入された。
=== 現・日豊線のルーツ ===
国有化までに敷設された現[[日豊本線]]とそれに付随する支線は、主に[[豊州鉄道]]が敷設したもので、九州鉄道は豊州鉄道への連絡線および合併後の延伸路線の敷設にとどまっている。豊州鉄道は[[1901年]](明治34年)に九州鉄道に合併した。日豊線の支線で九州鉄道の敷設でないものは、[[日田彦山線]]の両端部である。
* 小倉 - 宇佐 (参考・現日豊本線の小倉-柳ヶ浦間の営業キロは69.1km)
: 現在の[[日豊本線]]の北側、[[小倉駅 (福岡県)|小倉]] ‐ 長洲(→初代宇佐→現[[柳ヶ浦駅|柳ヶ浦]])間に該当する。小倉‐行事間は[[1895年]](明治28年)4月に九州鉄道が敷設した連絡線で、同年8月に豊州鉄道が[[行橋駅|行橋]] ‐ 伊田(→[[田川伊田駅|田川伊田]])間に開業すると、行橋への乗り入れを開始した。豊州鉄道は大分方面への支線を敷設し、[[1897年]]([[明治]]30年)に長洲までの区間を全通させた。豊州本線の延伸は国有化後から始まり、[[1923年]](大正12年)、宮崎本線との結節が実現して東九州の幹線が現[[吉都線]]経由で実現した。[[国分駅 (鹿児島県)|国分]]経由の現日豊本線が全通するのは[[1930年]](昭和5年)である。
* 行橋 - 伊田 - 添田 (37.2km)
: 現在の[[平成筑豊鉄道田川線]]の全線にあたる行橋 ‐ 田川伊田および[[日田彦山線]]中間部の田川伊田 ‐ [[西添田駅|西添田]]間に該当する。豊州鉄道の本線として[[1895年]](明治28年)に行橋 ‐ 伊田間が開業し、現田川線部分が全通した。日田彦山線部分は[[1896年]](明治29年)に後藤寺(→[[田川後藤寺駅|田川後藤寺]])延伸を皮切りに逐次延伸し、豊州鉄道買収後の[[1903年]](明治36年)に添田(初代)まで全通した。伊田以遠が田川線から分離されたのは、彦山線全通後の[[1960年]](昭和35年)である。
* 香春 - 夏吉 (2.3km)
: 豊州鉄道が[[1899年]](明治32年)に香春(初代。→[[勾金駅|勾金]]) - [[夏吉駅|夏吉]]間に敷設した貨物線。[[1973年]](昭和48年)に廃止された。
* 川崎 - 第一大任 (0.9km)
: 九州鉄道が1899年に川崎(→[[豊前川崎駅|豊前川崎]]) ‐ [[第一大任駅|第一大任]]間に敷設した貨物線。[[1974年]](昭和49年)に廃止された。後述の第二大任貨物駅も合わせ、旧[[添田線]]の[[大任駅]]とは遠く離れ、関連性はない。
* 添田 - 庄 (1.0km)
: 九州鉄道が[[1904年]](明治37年)に初代添田 ‐ [[庄駅 (福岡県)|庄]]間に敷設した貨物線。[[1943年]](昭和18年)に廃止された。
* 川崎 - 第二大任 (1.9km)
: 九州鉄道が[[1906年]](明治39年)に川崎(→豊前川崎) ‐ [[第二大任駅|第二大任]]間に敷設した貨物線。[[1970年]](昭和45年)に廃止された。
* 後藤寺 - 宮床 ‐ 豊国 (3.7km)
: 現在の[[平成筑豊鉄道糸田線]]の南半分、後藤寺 ‐ 宮床(→[[糸田駅|糸田]](2代)) ‐ [[豊国駅|豊国]]間に該当する。豊州鉄道が1897年に全線開業した。九州鉄道編入・国有化(宮床線)を経ても変化はなかったが、[[1943年]](昭和18年)、戦時合併で国有化した[[産業セメント鉄道]][[金田駅|金田]] ‐ 糸田間と統合して糸田線に改名し、宮床駅も糸田駅(2代)となった。支線化した豊国貨物線は[[1945年]](昭和20年)に廃止された。
* 後藤寺 - 起行 (0.7km)
: 現在の[[後藤寺線]]の東側、後藤寺 ‐ [[起行駅|起行]]間に該当する。豊州鉄道が[[1897年]](明治30年)に全線開業した。九州鉄道編入・国有化(田川線貨物支線)を経ても変化はなかったが、1943年、戦時合併で国有化した産業セメント鉄道赤坂‐起行間に加え、[[漆生線]]赤坂以西と結節し、後藤寺線に改名した。起行貨物駅は[[1982年]]([[昭和]]57年)に廃止された。
=== 現・筑豊線のルーツ ===
国有化までに敷設された現[[筑豊本線]]とそれに付随する支線は、主に筑豊興業鉄道→[[筑豊鉄道]]が敷設したもので、九州鉄道は合併後の延伸路線の敷設にとどまっている。筑豊鉄道は[[1897年]]([[明治]]30年)に九州鉄道に合併した。筑豊線の支線で九州鉄道が敷設していないのは、国有化直後に開業した[[香月線]]がある。
*若松 - 上山田 (53.8km)
現在の[[筑豊本線]]の北側、[[若松駅|若松]]‐[[飯塚駅|飯塚]]間、および[[1988年]]([[昭和]]63年)に廃止された[[上山田線]]の西側、飯塚‐[[上山田駅|上山田]]間に該当する。筑豊興業鉄道が[[1891年]]([[明治]]24年)若松‐[[直方駅|直方]]間を開業して以来、合併までに飯塚を越えて[[臼井駅|臼井]]まで延伸した。九州鉄道が延伸を引き継ぎ、国有化までに上山田まで全通を果たした。[[1929年]]([[昭和]]4年)に[[桂川駅 (福岡県)|桂川]]‐[[原田駅 (福岡県)|原田]]間開業と長尾線編入により、筑豊本線が若松‐原田間に付け替え、飯塚以南は上山田線に分離した。上山田線は[[1966年]]([[昭和]]41年)に豊前川崎まで全通するが、1988年をもって廃止された。
*飯塚 - 長尾 (5.9km)
現在の筑豊本線の中央部、飯塚‐長尾(→桂川)に該当する。九州鉄道により[[1901年]]([[明治]]34年)に全通した。国有化後は筑豊本線の一支線である「長尾線」に過ぎなかったが、長尾以南を延伸して冷水峠を越えて鹿児島本線原田まで直結することになり、[[1929年]]([[昭和]]4年)に筑豊本線の一部として編入された。[[篠栗線]]開業にともなう博多‐筑豊間の直通化で、開業時とは打って変わって幹線化している。
*平恒分岐点 - 平恒 (0.7km)
九州鉄道が[[1898年]]([[明治]]31年)に平恒分岐点(→二代[[平恒駅|平恒]])‐初代平恒貨間に敷設した上山田線の貨物線。[[1939年]]([[昭和]]14年)に廃止された。
*直方 - 伊田 (16.1km)
現在の[[平成筑豊鉄道伊田線]]の全線、[[直方駅|直方]]‐伊田(→[[田川伊田駅|田川伊田]])に該当する。筑豊興業鉄道により[[1893年]]([[明治]]26年)に直方‐[[金田駅|金田]]間が開業し、合併後の九州鉄道により[[1899年]]([[明治]]32年)に伊田延伸が行われ、全線開業した。伊田線の特徴である全線複線は国有化直後の[[1911年]](明治44年)に実施されている。
*本洞分岐点 - 本洞 (0.9km)
九州鉄道が[[1899年]]([[明治]]32年)に[[本洞信号所|本洞分岐点]] ‐ [[本洞駅|本洞]]間に敷設した貨物線。[[1922年]]([[大正]]11年)に廃止された。
*中泉 - 日焼 (1.4km)
九州鉄道が[[1898年]]([[明治]]31年)に[[中泉駅|中泉]] ‐ [[日焼駅|日焼]]間に敷設した現伊田線の貨物線。旧大城第一分岐点以遠は[[1945年]]([[昭和]]20年)に廃止された。
*大城第一分岐点 - 大城第一 (1.3km)
九州鉄道が[[1900年]]([[明治]]33年)に日焼支線[[大城第一分岐点]](→中泉) ‐ [[大城第一駅|大城第一]]間に敷設した現伊田線の貨物線。[[1964年]]([[昭和]]39年)に廃止された。
*大城第二分岐点 - 大城第二 (0.9km)
九州鉄道が[[1900年]]([[明治]]33年)に大城第一支線[[大城第二分岐点]] ‐ [[大城第二駅|大城第二]]間に敷設した現伊田線の貨物線。[[1923年]]([[大正]]12年)に廃止された。
*赤池分岐点 - 赤池 (0.3km)
九州鉄道が[[1904年]]([[明治]]37年)に赤池分岐点(→[[赤池駅 (福岡県)|赤池]]) ‐ [[赤池炭坑駅|赤池]](→赤池炭坑)間に敷設した現伊田線の貨物線。[[1978年]]([[昭和]]53年)に廃止された。
*方城分岐点 - 方城 (1.0km)
九州鉄道が[[1903年]]([[明治]]36年)に方城分岐点(→金田) ‐ [[方城駅|方城]]間に敷設した現伊田線の貨物線。[[1971年]]([[昭和]]46年)に廃止された。
*勝野 - 桐野 (5.3km)
[[1989年]]([[平成]]元年)に廃止された[[宮田線]]の全線、[[勝野駅|勝野]]‐桐野(→[[筑前宮田駅|筑前宮田]])間に該当する。九州鉄道により[[1902年]]([[明治]]35年)に貨物支線として全線開業した。開業当時の終点は「宮田駅」だったが、2年後に「桐野駅」に改名し、[[1937年]]([[昭和]]12年)に「筑前宮田駅」に再改名した経緯があり、国有化後の路線名も「桐野線」であった。旅客輸送は国有化後の[[1912年]]([[明治]]45年)から実施した。
*勝野 - 菅牟田 (2.2km)
[[1977年]]([[昭和]]52年)に廃止された宮田線の貨物支線。九州鉄道により[[1904年]]([[明治]]37年)に勝野 - 初代菅牟田間の全線が開業した。実質上は勝野駅構内扱いで菅牟田分岐点が存在し、[[1912年]]([[明治]]45年)に[[磯光駅]]として独立している。初代菅牟田貨は[[1911年]]([[明治]]44年)に廃止されており、廃線時の二代菅牟田貨は1区間手前の新駅であった。
*小竹 - 潤野 (7.6km)
[[1969年]]([[昭和]]44年)に廃止された[[幸袋線]]の全線、[[小竹駅|小竹]]‐潤野(→[[二瀬駅|二瀬]])間に該当する。筑豊鉄道が[[1894年]]([[明治]]27年)に小竹‐[[幸袋駅|幸袋]]間を開業して以来、九州鉄道により潤野まで延伸された。さらに国有化後も[[枝国駅|枝国]]まで延伸され、廃線区間が全通した。末端の二瀬‐枝国間は先行して[[1965年]]([[昭和]]40年)に廃止されている。
*伊岐須分岐点 - 伊岐須 (2.5km)
[[1969年]]([[昭和]]44年)に廃止された幸袋線の貨物支線。九州鉄道が[[1899年]]([[明治]]32年)に伊岐須分岐点(→幸袋) ‐ [[伊岐須駅|伊岐須]]間を全通した。幸袋線の本線は末端の枝国以外は旅客化されたが、支線は廃線まで貨物線のままであった。
*目尾分岐点 - 目尾 (0.3km)
[[1920年]]([[大正]]9年)に廃止された幸袋線の貨物支線。九州鉄道が[[1903年]]([[明治]]36年)に目尾分岐点‐初代目尾間を全通した。二代[[目尾駅|目尾]]は支線廃止と同時に本線上に新設され、当初より旅客扱いを行った。
*小竹 - 塩頭 (2.3km)
九州鉄道が[[1902年]]([[明治]]35年)に小竹 ‐ [[塩頭駅|塩頭]]間に敷設した現筑豊本線の貨物線。[[1945年]]([[昭和]]20年)に廃止された。
*芳雄 - 上三緒 - 山野 (5.3km)
現在の[[後藤寺線]]の西半分、[[新飯塚駅|新飯塚]]‐[[上三緒駅|上三緒]]間、および上三緒以南の山野貨物支線に該当する。[[1902年]]([[明治]]35年)、九州鉄道により筑豊本線の貨物支線として芳雄貨(→新飯塚) ‐ [[筑前山野駅|山野]](→筑前山野)間を開業した。国有化以後は途中駅の上三緒から漆生への延伸が続き、上三緒以南は[[漆生線]]への編入と旅客扱い開始を経て、戦時統合の末に後藤寺線へと編入される。取り残された山野貨物支線は、[[1964年]]([[昭和]]39年)に廃止された。
*飯塚 - 忠隈 (1.0km)
九州鉄道が[[1898年]]([[明治]]31年)に[[飯塚駅|飯塚]] ‐ [[忠隈駅|忠隈]]間に敷設した現筑豊本線の貨物線。[[1945年]]([[昭和]]20年)に廃止された。
== 車両 ==
開業時に[[蒸気機関車]]や客車に[[ドイツ]]製の車両を導入したことが特色である。経営基盤が脆弱であったことから、線路状況と輸送量に合わせて最適の機関車を使い分ける[[イギリス]]流の運用はせず、汎用の同形機関車を大量に導入して機関車の保守費低減を図った。後期には、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]製の機関車を大量に導入している。
=== 蒸気機関車 ===
;形式1 (1 - 3)
:1889年・[[ドイツ|独]]ホーエンツォレルン製。[[車軸配置]]0-4-0 (B) の[[タンク機関車|タンク機]] → [[国鉄45形蒸気機関車|鉄道院45形]] (45 - 47)
;形式4 (4 - 10, 11 - 14, 19 - 22, 29 - 33)
:1889年 - 1894年・独[[クラウス=マッファイ|クラウス]]製。[[車軸配置]]0-4-0 (B) のタンク機。 → [[国鉄10形蒸気機関車|鉄道院10形]] (10 - 32)
:29, 33は[[紀和鉄道]]に譲渡
;形式15 (15 - 18, 23, 24, 27, 28, 34 - 38, 39 - 45, 114, 115)
:1890年 - 1898年・独クラウス製。車軸配置0-6-0 (C) → [[国鉄1440形蒸気機関車|鉄道院1400形・1440形]] (1400 - 1413, 1440 - 1446)
;形式25 (25, 26)
:1894年・[[イギリス|英]][[シャープ・スチュアート]]製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機 → [[国鉄1530形蒸気機関車|鉄道院1530形]] (1530, 1531)
;形式46 (46 - 49)
:1896年・[[アメリカ合衆国|米]][[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]製。車軸配置2-6-0 (1C) の[[テンダー機関車|テンダ機]] → [[国鉄8200形蒸気機関車 (初代)|鉄道院8200形]] (8200 - 8203)
;形式55 (55 - 66)
:1897年・米[[スケネクタディ・ロコモティブ・ワークス|スケネクタディ]]製。車軸配置4-4-0 (2B) のテンダ機 → [[国鉄5700形蒸気機関車|鉄道院5700形]] (5709-5720)
;形式67 (67 - 70, 100)
:英[[ナスミス・ウィルソン]]製。車軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機 → [[国鉄400形蒸気機関車|鉄道院600形]] (656 - 660)
;[[九州鉄道71形蒸気機関車|形式71]] (71)
:1889年・米ボールドウィン製。車軸配置0-4-0 (B) のサドルタンク機。旧筑豊鉄道1。1900年、[[官営八幡製鐵所|八幡製鉄所]]に譲渡。
;[[九州鉄道72形蒸気機関車|形式72]] (72)
:1889年・米ボールドウィン製。車軸配置0-4-2 (B1) のタンク機。旧筑豊鉄道2。1900年、八幡製鉄所に譲渡。
;形式73 (73, 74, 80 - 84, 87 - 89, 97, 98)
:1890年 - 1895年・米ボールドウィン製。車軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。旧筑豊鉄道3, 4, 10 - 14, 17 - 19, 27, 28 → [[国鉄3300形蒸気機関車|鉄道院3300形]] (3306-3317)
;形式75 (75, 76)
:1880年・英[[バルカン・ファウンドリー]]製。車軸配置2-4-2 (1B1) のタンク機。筑豊鉄道が[[山陽鉄道]]から譲受。旧5, 6 → [[国鉄400形蒸気機関車|鉄道院700形]] (715, 700)
;形式77 (77, 78, 85, 86)
:1892年 - 1894年・米ボールドウィン製。車軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。旧筑豊鉄道7, 8, 15, 16 → [[国鉄8000形蒸気機関車|鉄道院8000形]] (8000 - 8003)
;形式79 (79)
:1892年・米ボールドウィン製。車軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。旧筑豊鉄道9 → [[国鉄8000形蒸気機関車|鉄道院8050形]] (8050)
;形式90 (90, 91)
:1894年・米ボールドウィン製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機。旧筑豊鉄道20, 21 → [[国鉄1320形蒸気機関車|鉄道院1320形]] (1320, 1321)
;形式92 (92 - 94)
:1895年・米ボールドウィン製。車軸配置0-8-0 (D) のタンク機。旧筑豊鉄道22-24 → [[国鉄4030形蒸気機関車|鉄道院4030形]] (4030 - 4032)
;形式95 (95, 96)
:1895年・米ボールドウィン製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機。旧筑豊鉄道25, 26 → [[国鉄1000形蒸気機関車#1010形|鉄道院1010形]] (1012, 1013)
;形式99 (99, 100)
:1895年・米ボールドウィン製。車軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機。旧筑豊鉄道29, 30 → [[国鉄8000形蒸気機関車|鉄道院8000形]] (8004, 8005)
;形式102 (102 - 113)
:1898年・米[[ブルックス・ロコモティブ・ワークス|ブルックス]]製。車軸配置2-6-0 (1C) のタンク機 → [[国鉄2820形蒸気機関車|鉄道院2820形]] (2820 - 2831)
;形式116 (116 - 127, 142 - 153)
:1898年 - 1899年・米スケネクタディ製。車軸配置4-4-0 (C) のテンダ機 → 鉄道院5700形 (5721-5732)
;形式128 (128 - 139)
:1898年・米スケネクタディ製。車軸配置2-8-0 (1D) のテンダ機 → [[国鉄9500形蒸気機関車|鉄道院9500形]] (9500 - 9511)
;[[九州鉄道140形蒸気機関車|形式140]] (140, 141)
:1898年・米[[クック・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス|クック]]製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機。旧伊万里鉄道1, 2。1899年[[近江鉄道]]に譲渡
;形式154 (154 - 165, 191 - 227, 252 - 263)
:1899年 - 1906年・米スケネクタディ([[アメリカン・ロコモティブ|アルコ]])製。車軸配置2-6-0 (1C) のテンダ機 → [[国鉄8550形蒸気機関車|鉄道院8550形]] (8550-8610)
;形式166 (166, 170)
:1894年 - 1896年・米ボールドウィン製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機。旧豊州鉄道1, 5→ [[国鉄1320形蒸気機関車|鉄道院1320形]] (1322, 1323)
;形式167 (167 - 169, 171 - 173)
:1894年 - 1896年・米ボールドウィン製。車軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。旧豊州鉄道2 - 4, 6-8 → [[国鉄3300形蒸気機関車|鉄道院3300形]] (3318 - 3323)
;形式174 (174-185)
:1897年 - 1899年・米[[ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス|ピッツバーグ]]製。車軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機。旧豊州鉄道9-20 → [[国鉄3400形蒸気機関車|鉄道院3400形]] (3400-3411)
;形式186 (186 - 189)
:1897年・[[スイス・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス|スイス・ロコモティブ]] (SLM) 製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機。旧唐津鉄道1 - 4 → [[国鉄1500形蒸気機関車|鉄道院1500形]] (1500 - 1503)
;形式190 (190)
:1897年・スイス・ロコモティブ製。車軸配置0-6-0 (C) のタンク機。旧唐津鉄道5。1904年八幡製鉄所に譲渡
;形式228 (228 - 251)
:1906年・米アルコ・スケネクタディ製。車軸配置2-6-2 (1C1) のタンク機 → [[国鉄3100形蒸気機関車|鉄道院3100形]] (3100 - 3123)
=== 客車 ===
著名なもののみ記す。
;[[皇室用客車#2号御料車(初代)|2号御料車]]
:ドイツ・バンデルチーペン社製の二軸御料車。
;[[九州鉄道ブリル客車]]
:国有化直前にアメリカ合衆国の[[ブリル]]社に発注された豪華客車編成であったが日本到着は九州鉄道の国有化後となり充分に活用されなかった。「或る列車」とも称される。
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;"
|-
! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車
|-
|1889||3||20||46
|-
|1890||14||38||107
|-
|1891||18||55||138
|-
|1892||22||53||246
|-
|1893||24||53||352
|-
|1894||26||68||410
|-
|1895||38||84||653
|-
|1896||49||94||838
|-
|1897||94||164||2,060
|-
|1898||141||236||2,612
|-
|1899||153||304||3,558
|-
|1900||159||302||3,822
|-
|1901||184||366||4,505
|-
|1902||196||384||4,874
|-
|1903||202||386||4,964
|-
|1904||207||390||5,376
|-
|1905||220||390||5,690
|-
|1906||244||392||6,348
|-
|}
*[{{NDLDC|805406/158}} 「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度](国立国会図書館デジタルコレクション)
*合併会社より引継ぎ
**1897年筑豊鉄道機関車30両、客車22両、貨車1,022両<ref>『[[日本国有鉄道百年史]]』第4巻、571頁</ref>
**1898年伊万里鉄道機関車2両、客車8両、貨車20両<ref>『日本国有鉄道百年史』第4巻、586頁</ref>
**1901年豊州鉄道機関車20両、客車52両、貨車595両<ref>『日本国有鉄道百年史』第4巻、577頁</ref>
**1902年唐津鉄道機関車5両、客車15両、貨車184両<ref>『日本国有鉄道百年史』第4巻、583頁</ref>
== 脚注 ==
<references />
==関連文献==
*{{Cite journal |和書|author =小野田滋|author2 =板井幸市|author3=鶴英樹|title =わが国における鉄道トンネルの沿革と現状 (第5報) -旧・九州鉄道をめぐって |date =1995|publisher = |journal =土木史研究|volume =15|doi=10.2208/journalhs1990.15.269|pages =269-281|ref = }}
== 関連項目 ==
*[[九州旅客鉄道]](JR九州) - 実質的な後継企業
**[[九州鉄道記念館]] - 九州鉄道本社屋を利用
*[[日本の鉄道]]
*[[九州の鉄道]]
*[[大村湾連絡船]]
*[[仙石貢]] - 社長経験者
== 外部リンク ==
*[https://web.archive.org/web/20040803051631/http://www14.big.or.jp/~z-museum/railroad_photo_hall/lines/kagoshima/kagoshima.html 雑学の博物館 鹿児島本線(門司港〜鹿児島)]
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{DEFAULTSORT:きゆうしゆうてつとう}}
[[Category:九州鉄道(初代)|社]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:かつて存在した福岡県の企業]] | 2003-04-11T12:13:02Z | 2023-08-17T08:09:09Z | false | false | false | [
"Template:混同",
"Template:基礎情報 会社",
"Template:読み仮名",
"Template:Cite journal",
"Template:鉄道国有法被買収私鉄",
"Template:Otheruses"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93 |
6,520 | 北海道鉄道 (初代) | 北海道鉄道()は、明治時代の北海道に存在した私鉄。現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の函館駅と南小樽駅の間を建設した。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により1907年(明治40年)7月1日に国有化された。
なお、現在の千歳線などを建設した北海道鉄道(1943年〈昭和18年〉国有化)ととは、別の会社である。
下記の開業線158 M77 Cが買収された。買収直前(1907年6月30日)における区間及び駅は次のとおり。
国有化時には機関車27、客車44、貨車300が引き継がれた。
木製2軸車
木製ボギー車
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』
北海道新幹線の札幌延伸後は、当鉄道が敷設した路線は小樽駅 - 南小樽駅間を除き、全て並行在来線として扱われる。そのうち長万部駅 - 余市駅間は、沿線自治体が廃止・バス転換を容認しており、事実上廃止が決定している。 | [
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"text": "下記の開業線158 M77 Cが買収された。買収直前(1907年6月30日)における区間及び駅は次のとおり。",
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"text": "木製2軸車",
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"text": "木製ボギー車",
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"title": "備考"
}
] | 北海道鉄道は、明治時代の北海道に存在した私鉄。現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の函館駅と南小樽駅の間を建設した。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により1907年(明治40年)7月1日に国有化された。 なお、現在の千歳線などを建設した北海道鉄道(1943年〈昭和18年〉国有化)ととは、別の会社である。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 北海道鉄道
|ロゴ = [[File:HokkaidoRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京府]][[東京市]][[京橋区]]木挽町五丁目<ref name="NDLDC780119"/>
|設立 = [[1900年]](明治33年)5月<ref name="NDLDC780119"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 専務取締役社長 [[北垣国道]]<ref name="NDLDC780119"/>
|資本金 = 6,340,000円(払込額)<ref name="NDLDC780119"/>
|関係する人物 = [[島安次郎]]
|特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119">[{{NDLDC|780119/124}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{{読み仮名|'''北海道鉄道'''|ほっかいどうてつどう}}は、[[明治]]時代の[[北海道]]に存在した[[私鉄]]。現在の[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[函館本線]]の[[函館駅]]と[[南小樽駅]]の間を建設した。[[1906年]](明治39年)公布の[[鉄道国有法]]により[[1907年]](明治40年)[[7月1日]]に国有化された。
なお、現在の[[千歳線]]などを建設した[[北海道鉄道 (2代)|北海道鉄道]]([[1943年]]〈昭和18年〉国有化)ととは、別の会社である。
== 歴史 ==
* [[1896年]]([[明治]]29年):'''函樽鉄道'''(かんそんてつどう <ref>{{Cite web|和書|date=2022-12-15 |url=https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/names/view/1809 |title=函樽鉄道(株) |publisher=[[渋沢栄一記念財団]] |accessdate=2023-02-19}}</ref>)として会社設立<ref>[http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-05/shishi_04-05-05-03-01.htm 「函館市史」通説編2 4編5章5節3-1]</ref>。[[1900年]](明治33年)に北海道鉄道に改称。
* [[1902年]](明治35年)[[12月10日]]:函館駅(初代) - 本郷駅間が開業し<ref name="tanaka1 34-35" />、同区間に函館駅(初代、[[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]])<ref name="tanaka1 315" /><ref name="haruka" /><ref name="imao 26" />・桔梗駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・七飯駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・本郷駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" /><ref name="imao 26" />を開設。然別駅 - 蘭島駅間が開業し<ref name="tanaka1 34-35" />、同区間に然別駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・仁木駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・余市駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・蘭島駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />を開設。
* [[1903年]](明治36年)
** [[6月28日]]:本郷駅 - 森駅間が延伸開業し<ref name="tanaka1 34-35" /><ref group="新聞" name="官報 1903-07-03" />、同区間に大沼駅(初代、一般駅)<ref name="tanaka1 311" /><ref name="imao 26" />・宿野辺駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・森駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />を開設。山道駅 - 然別駅間が延伸開業し<ref name="tanaka1 34-35" /><ref group="新聞" name="官報 1903-07-03" />、同区間に[[山道駅]]<ref name="tanaka1 315" />を開設。蘭島駅 - 小樽中央駅間が延伸開業し<ref name="tanaka1 34-35" /><ref group="新聞" name="官報 1903-07-03" />、同区間に塩谷駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・小樽中央駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" /><!-- 『[{{NDLDC|805402/107}} 明治三十六年 鉄道局年報]』 私設鉄道停車場別旅客貨物及賃金表では「小樽中央」-->を開設。この時点における運行本数は、山道駅 - 小樽中央駅間が1日3往復、函館駅(初代) - 森駅間が1日4往復であった<ref>「北海道鉄道第二期線の開通」『殖民公報』No.22、1903年7月</ref>。
** [[11月3日]]:森駅 - 熱郛駅間が延伸開業し<ref name="tanaka1 34-35" />、同区間に石倉駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・野田追駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・山越内駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" /><ref name="haruka" />・八雲駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・黒岩駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・国縫駅(一般駅)<ref name=" teisha2 809" /><ref name="tanaka1 311" />・長万部駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・二股駅(一般駅)<ref name="北海道630駅 183" /><ref name="tanaka1 311" /><ref name="imao 26" />・黒松内駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・熱郛駅(一般駅)<ref name="北海道630駅 183" /><ref name="tanaka1 311" /><ref name="imao 26" />を開設。
* [[1904年]](明治37年)
** [[7月1日]]:函館駅(2代) - 亀田駅間が延伸開業し<ref name="tanaka1 34-35" />、同区間に函館駅(2代、一般駅)を新設<ref name="tanaka1 311" /><ref name="imao 26" />。函館駅(初代)を亀田駅に改称<ref name="haruka" /><ref name="imao 26" />。
** [[7月18日]]:[[稲穂トンネル]]の供用開始で小沢駅 - 山道駅間が延伸開業し<ref name="tanaka1 34-35" />、同区間に小沢駅(一般駅)を新設<ref name="tanaka1 311" />。山道駅が廃止<ref name="tanaka1 315" />。
** [[10月15日]]:倶知安トンネルの供用開始で歌棄駅 - 小沢駅間が延伸開業し、函館駅(2代) - 高島駅間が全通<ref name="tanaka1 34-35" /><ref name="tanaka2 202" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />。同区間に磯谷駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・蘭越駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・昆布駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・真狩駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・比羅夫駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />・倶知安駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" />を、既設区間に赤井川駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />・山崎駅(一般駅)<ref name="tanaka1 311" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />・紋別駅(一般駅)<ref name=" teisha2 809" /><ref name="tanaka1 311" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />・蕨岱駅(一般駅)<ref name="北海道630駅 183" /><ref name="tanaka1 311" /><ref name="imao 26" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />を開設。宿野辺駅を駒ヶ岳駅(当時の表記は「駒ヶ嶽」)<ref name="tanaka1 319" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />、山越内駅を山越駅<ref name="tanaka1 319" /><ref name="haruka" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />、熱郛駅を歌棄駅<ref name="tanaka1 319" /><ref name="imao 26" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />、蘭島駅を忍路駅<ref name="tanaka1 319" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" />、小樽中央駅を[[高島 (小樽市)|高島]]駅{{Refnest|group="注釈"|name="小樽駅改称"|なお、1903年(明治36年)7月1日に、小樽中央駅が「'''[[稲穂 (小樽市)|稲穂]]駅'''(いなほえき)」へ改称されたとの記述が散見されるが<ref name="駅史 小樽駅 77年のあゆみ 28" />、当時の新聞公告でも1904年(明治37年)10月15日に「小樽中央停車場」から「高島停車場」へ、1905年(明治38年)12月15日に「高島停車場」から「中央小樽停車場」へ改称したとされており、『北海道鉄道百年史』など旧国鉄関係の書籍でも「稲穂駅」の記述は存在しない。}}<ref name="tanaka1 34-35" /><ref name="tanaka1 319" /><ref group="新聞" name="官報 1904-10-18" /><!-- 『[{{NDLDC|805403/89}} 明治三十七年 鉄道局年報]』『[{{NDLDC|806091/184}} 第16回 北海道庁統計書]』(明治37年度)では「高島」-->に改称。
* [[1905年]](明治38年)
** [[1月29日]]:銀山駅(一般駅)を開設<ref name="tanaka1 311" />。
** [[8月1日]]:高島駅 - 小樽駅(初代)間が延伸開業<ref name="tanaka1 34-35" /><ref name="tanaka2 202" /><ref name="RJ240" /><!-- 『[{{NDLDC|805404/24}} 明治三十八年 鉄道局年報]』開業線路の区間表記は「高島 小樽間」-->。小樽駅(初代)にて[[北海道炭礦鉄道]]に接続。
** [[9月15日]]:北海道炭礦鉄道・[[北海道官設鉄道]]との間で[[旅客]]・[[チッキ|小荷物]]・[[貨物]]の[[連絡運輸]]開始<ref name="tanaka2 202" />。
** [[12月15日]]:歌棄駅を熱郛駅<ref name="tanaka1 319" /><ref name="imao 26" /><ref group="新聞" name="官報 1905-12-06" />、磯谷駅を目名駅<ref name="tanaka1 319" /><ref group="新聞" name="官報 1905-12-06" />、真狩駅を狩太駅<ref name="tanaka1 319" /><ref group="新聞" name="官報 1905-12-06" />、忍路駅を蘭島駅<ref name="tanaka1 319" /><ref group="新聞" name="官報 1905-12-06" />、高島駅を中央小樽駅<ref group="注釈" name="小樽駅改称" /><ref name="tanaka1 34-35" /><!--『写真で見る北海道の鉄道』上巻の34-35頁では、1905年(明治38年)12月7日に「高島駅」から「中央小樽駅」に改称と表記されているが、同319頁では1905年(明治38年)12月15日には「高島駅」から「小樽中央駅」に改称と表記されている。--><ref name="tanaka1 319" /><ref group="新聞" name="官報 1905-12-06" /><!-- 『[{{NDLDC|805404/86}} 明治三十八年 鉄道局年報]』 私設鉄道停車場別旅客貨物及賃金表(年度末現在)では「中央小樽」-->にそれぞれ改称。
* [[1906年]](明治39年)[[9月8日]]:北海道炭礦鉄道との[[直通運転|直通列車]]が函館駅(2代) - [[札幌駅]]間で運行開始<ref name="tanaka1 34-35" /><ref name="tanaka1 36-37" />。
* [[1907年]](明治40年)
** [[1月17日]]:国縫駅を約1.1 km紋別駅方へ移転<ref name=" teisha2 809" />。
** [[6月5日]]:大沼公園臨時乗降場を開設。
** [[7月1日]]:北海道鉄道の函館駅(2代) - 小樽駅(初代)間が国有化<ref name="tanaka1 34-35" /><ref name="tanaka2 202" />。
== 被買収路線 ==
下記の開業線158 [[マイル|M]]77 [[チェーン (単位)|C]]が買収された<ref name="hikitsugi">開業線158 M77 C、機関車27、客車44、貨車300 [{{NDLDC|805387/365}} 『鉄道国有始末一斑』 673頁](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。買収直前(1907年6月30日)における区間及び[[鉄道駅|駅]]は次のとおり。
* 函館-小樽 158 M77 C
*: [[函館駅]] - [[亀田駅 (北海道)|亀田駅]] - [[七飯駅]] - [[新函館北斗駅|本郷駅]] - [[大沼駅]] - [[大沼公園駅|大沼公園臨時乗降場]] - [[赤井川駅]] - [[駒ヶ岳駅]] - [[森駅 (北海道)|森駅]] - [[石倉駅]] - [[野田生駅|野田追駅]] - [[山越駅]] - [[八雲駅]] - [[山崎駅 (北海道)|山崎駅]] - [[黒岩駅]] - [[国縫駅]] - [[中ノ沢駅|紋別駅]] - [[長万部駅]] - [[二股駅]] - [[蕨岱駅]] - [[黒松内駅]] - [[熱郛駅]] - [[目名駅]] - [[蘭越駅]] - [[昆布駅]] - [[ニセコ駅|狩太駅]] - [[比羅夫駅]] - [[倶知安駅]] - [[小沢駅]] - [[銀山駅]] - [[然別駅]] - [[仁木駅]] - [[余市駅]] - [[蘭島駅]] - [[塩谷駅]] - [[小樽駅|中央小樽駅]] - [[南小樽駅|小樽駅]]
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;"
|-
!年度
!乗客(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!益金(円)
|-
|1902||20,089||406||10,572||4,562||6,010
|-
|1903||364,100||43,047||161,956||289,042||▲ 127,086
|-
|1904||502,921||83,246||403,082||450,006||▲ 46,924
|-
|1905||660,064||154,750||701,436||534,319||167,117
|-
|1906||836,491||255,158||900,974||603,424||297,550
|-
|1907||240,680||84,190||299,443||267,418||32,025
|-
|}
*「国有及私設鉄道運輸延哩程累年表」「国有及私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
==車両==
国有化時には機関車27、客車44、貨車300が引き継がれた<ref name="hikitsugi" />。
===蒸気機関車===
;A1形 - 1
:0-6-0 (C) 形[[タンク機関車|タンク機]]
:米[[ボールドウィン (車両メーカー)|ボールドウィン]]社製
:[[鉄道院]][[国鉄1180形蒸気機関車|1180形]] NO.1181
:旧[[高野鉄道]]7
;A2形 - 2
:0-6-0 (C) 形タンク機
:英[[ナスミス・ウィルソン]]社製
:鉄道院[[国鉄1200形蒸気機関車#北海道鉄道|1170形]] NO.1170
;B1形 - 3, 4
:2-4-2 (1B1) 形タンク機
:[[汽車製造]]製
:鉄道院[[国鉄230形蒸気機関車|230形]] NO.269, 270
;B2形 - 5
:2-4-2 (1B1) 形タンク機
:英ナスミス・ウィルソン社製
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車|600形]] NO.647
;A3形 - 6-8
:0-6-0 (C) 形タンク機
:英[[ダブス]]社製
:鉄道院[[国鉄1800形蒸気機関車|1850形]] NO.1882-1884
;C1形 - 9, 10
:2-6-0 (1C) 形[[テンダー機関車|テンダ機]]
:英[[ベイヤー・ピーコック]]社製
:鉄道院[[国鉄7700形蒸気機関車|7700形]] NO.7712, 7713
;D1形 - 11
:0-4-4-0 (B+B) 形タンク機([[マレー式機関車|マレー式]])
:独[[J.A.マッファイ|マッファイ]]社製
:鉄道院[[国鉄4500形蒸気機関車|4510形]] NO.4510
;C2形 - 12-17
:2-6-0 (1C) 形テンダ機
:英[[ノース・ブリティッシュ・ロコモティブ]]社製
:鉄道院[[国鉄7800形蒸気機関車|7800形]] NO.7802-7807
;E1形 - 18-22
:0-6-2 (C1) 形タンク機
:英ノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社製
:鉄道院[[国鉄2100形蒸気機関車|2120形]] NO.2378-2382
;E2形 - 23-27
:0-6-2 (C1) 形タンク機
:英ノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社製
:鉄道院2120形 NO.2383-2387 - 旧鉄道作業局 B6形 NO.1016-1019& 1046
=== 客車 ===
木製2軸車
*イロ3.4 2両 天野工場製 定員一等8人二等18人 国有化後フイロ370.371(形式370) 一二等車(手用制動機附)[{{NDLDC|2942239/85}} 形式図]
*ロハ1-6 6両 東京車輌会社工場製(1-5)東京天野工場製(6) 定員(二等10人三等20人) 国有化後フロハ930-935(形式930) ニ三等車(手用制動機附)[{{NDLDC|2942239/167}} 形式図]
*ハ7-14 8両 東京車輌会社工場製、東京天野工場製 定員36人 国有化後フハ3434-3441(形式3434) ニ三等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942239/283}} 形式図]
*ヨユ1-6 6両 製造所不明 国有化後フユ3775-3780(形式3775) 郵便車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942239/364}} 形式図図面無し]
*ヨユ7-11 5両 新橋工場製 国有化後フユ3781-3785(形式3781)郵便車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942239/365}} 形式図図面無し]
*ユニ1.3 2両 天野工場製 国有化後ユニ3980.3981(形式3980) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/414}} 形式図]
*ユニ4 1両 北海道鉄道会社函館工場製 国有化後ユニ3982(形式3982) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/415}} 形式図]
木製ボギー車
*イロ1.2 2両 東京天野工場製、汽車製造会社製 定員一等18人二等32人 国有化後フホイロ5450.5451(形式5450) 一二等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942240/38}} 形式図]
*イロ5 1両 東京車輌製造会社工場製 定員一等18人二等28人 国有化後フホイロ5460(形式5460) 一二等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942240/39}} 形式図]
*イロ6.7 2両 東京天野工場製 定員一等19人二等30人 国有化後フホイロ5470.5471(形式5470) 一二等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942240/40}} 形式図]
*ハ1-6 6両 東京天野工場製(1-3)汽車会社製造製(4-6) 定員80人 国有化後フホハ7980-7985(形式7980) 三等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942240/122}} 形式図]
*ハ15-18 4両 東京車輌製造会社工場製(15.16)東京天野工場製(17.18) 定員80人 国有化後フホハ7990-7993(形式7990) 三等車 [{{NDLDC|2942240/123}} 形式図]
*ユニ5.6 2両 東京車輌製造会社工場製 国有化後ホユニ87300.8731(形式8730) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942240/163}} 形式図]
*ユニ7.8 2両 東京天野工場製、汽車会社製造製 国有化後ホユニ8740-8741(形式8740) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942240/164}} 形式図]
リンク先は[[国立国会図書館デジタルコレクション]]の『客車略図 上 下巻』
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;"
|-
! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車
|-
|1902||4||10||50
|-
|1903||10||30||150
|-
|1904||17||39||210
|-
|1905||22||44||250
|-
|1906||27||44||265
|-
|}
*「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 備考 ==
[[北海道新幹線]]の[[札幌駅|札幌]]延伸後は、当鉄道が敷設した路線は[[小樽駅]] - [[南小樽駅]]間を除き、全て[[並行在来線]]として扱われる。そのうち[[長万部駅]] - [[余市駅]]間は、沿線自治体が[[廃線|廃止]]・[[廃止代替バス#鉄道廃止代替バス|バス転換]]を容認しており、事実上廃止が決定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20220203/7000042993.html|title=並行在来線 余市 - 長万部バス転換を確認 小樽 - 余市が焦点に|publisher=[[NHK札幌放送局]]|date=2022-02-03|accessdate=2022-02-04}} </ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
==== 書籍 ====
{{Reflist|2|refs=
<ref name="駅史 小樽駅 77年のあゆみ 28">[[#小樽駅 77年のあゆみ|『駅史 小樽駅 77年のあゆみ』 28頁]]</ref>
<ref name="RJ240">[[#RJ240 15-22|『鉄道ジャーナル』通巻240号 15-22頁]]</ref>
<ref name="北海道630駅 183">[[#北海道630駅|『北海道630駅』 183頁]]</ref>
<ref name="tanaka1 34-35">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 34-35頁]]</ref>
<ref name="tanaka1 36-37">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 36-37頁]]</ref>
<ref name="tanaka1 311">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 311頁]]</ref>
<ref name="tanaka1 315">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 315頁]]</ref>
<ref name="tanaka1 319">[[#tanaka1|『写真で見る北海道の鉄道』 上巻 国鉄・JR線 319頁]]</ref>
<ref name="tanaka2 202">[[#tanaka2|『写真で見る北海道の鉄道』 下巻 SL・青函連絡船他 202頁]]</ref>
<ref name="haruka">[[#道南鉄道100年史 遥|『道南鉄道100年史 遥』]]</ref>
<ref name="imao 26">[[#imao|『日本鉄道旅行地図帳―全線・全駅・全廃線―』1号・北海道 26頁]]</ref>
<ref name=" teisha2 809">[[#teisya2|『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』Ⅱ 809頁]]</ref>
}}
==== 新聞記事 ====
{{Reflist|group="新聞"|refs=
<ref group="新聞" name="官報 1903-07-03">{{Cite news|url={{NDLDC|2949308/4}}|title=運輸開始 去月二十三日|newspaper=[[官報]](国立国会図書館デジタルコレクション)|publisher=[[国立印刷局|印刷局]]|date=1903-07-03|accessdate=2015-12-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151213071635/{{NDLDC|2949308/4}}|archivedate=2015-12-13}}</ref>
<ref group="新聞" name="官報 1904-10-18">{{Cite news|url={{NDLDC|2949713/13}}|title=運輸並停車場開始哩程更正等|newspaper=官報(国立国会図書館デジタルコレクション)|publisher=印刷局|date=1904-10-18|accessdate=2015-12-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151213075950/{{NDLDC|2949713/13}}|archivedate=2015-12-13}}</ref>
<ref group="新聞" name="官報 1905-12-06">{{Cite news|url={{NDLDC|2950069/16}}|title=停車場改称|newspaper=官報(国立国会図書館デジタルコレクション)|publisher=印刷局|date=1905-12-06|accessdate=2015-12-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151213084154/{{NDLDC|2950069/16}}|archivedate=2015-12-13}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* {{Cite book|和書|editor=宮脇俊三|editor-link=宮脇俊三|others=[[原田勝正]](編)|title=北海道630駅|publisher=小学館|series=JR・私鉄全線各駅停車|volume= |issue=1|page=183|location= |date=1993-06|isbn=978-4-09-395401-3|id=ISBN 4-09-395401-1|ref=北海道630駅}}
* {{Cite book|和書|author=石野哲(編集長)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編|pages= |volume=Ⅰ|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=1998-09-19|isbn=978-4-533-02980-6|id=ISBN 4-533-02980-9|ref=teisya1}}
* {{Cite book|和書|author=石野哲(編集長)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編|pages=808-809,825|volume=Ⅱ|publisher=JTBパブリッシング|date=1998-09-19|isbn=978-4-533-02980-6|id=ISBN 4-533-02980-9|ref=teisya2}}
* {{Cite book|和書|author=田中和夫(監修)|authorlink=田中和夫|title=写真で見る北海道の鉄道|publisher=北海道新聞社(編集)|volume=上巻 国鉄・JR線|pages=4-45,114-123,190-193,200-205,212-219,311-319|date=2002-07-15|isbn=978-4-89453-220-5|id=ISBN 4-89453-220-4|ref=tanaka1}}
* {{Cite book|和書|author=田中和夫(監修)|title=写真で見る北海道の鉄道|publisher=北海道新聞社(編集)|volume=下巻 SL・青函連絡船他|pages=156-203,222-225|date=2002-12-05|isbn=978-4-89453-237-3|id=ISBN 4-89453-237-9|ref=tanaka2}}
* {{Cite book|和書|editor=函館-渡島大野間鉄道開通100周年記念誌編集委員会|others= |title=道南鉄道100年史 遥|publisher=[[北海道旅客鉄道函館支社]]|series= |volume= |issue= |pages= |location= |date=2003-02|isbn= |id= |ref=道南鉄道100年史 遥}}
* {{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介|title=[[日本鉄道旅行地図帳]]―全線・全駅・全廃線―|publisher=[[新潮社]]|series=新潮「旅」ムック|volume=1号・北海道|issue= |pages=14,19,26-27|date=2008-05-17|isbn=978-4-10-790019-7|id=ISBN 4-10-790019-3|ref=imao}}
* {{Cite book|和書|title=日本鉄道史|author=鉄道省|authorlink=鉄道省|year=1921|volume=中篇|pages=638-650,857-858|publisher=[鉄道省]|location=[東京]}}
* {{Cite book|和書|title=鉄道国有始末一斑|author=逓信省|authorlink=逓信省|year=1909|pages=<!--pp. 1012 + 66 + 地図4 + 表7-->|publisher=逓信省|location=東京}}
=== 雑誌 ===
* {{Cite journal|和書|date=1980-12|name=年表|journal=駅史 小樽駅 77年のあゆみ|volume= |issue= |pages=28|publisher=鉄道ジャーナル社|ref=小樽駅 77年のあゆみ}}
* {{Cite journal|和書|date=1986-12|journal=[[鉄道ジャーナル]]|volume=20|issue=第13号(通巻240号・1986年12月号)|pages=15-22|publisher=鉄道ジャーナル社|ref=RJ240 15-22}}
== 関連項目 ==
* [[北垣国道]] - 創立時の社長
* [[山線]]・[[海線]]
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{DEFAULTSORT:ほつかいとうてつとう1}}
[[category:北海道鉄道(初代)|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:北海道の交通史]] | 2003-04-11T12:13:26Z | 2023-11-15T01:36:49Z | false | false | false | [
"Template:Cite journal",
"Template:鉄道国有法被買収私鉄",
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6,521 | 北海道炭礦鉄道 | 北海道炭礦鉄道(ほっかいどうたんこうてつどう)は、かつて北海道内で鉄道路線を運営していた鉄道会社。
官営幌内鉄道が開業した手宮(小樽市) - 幌内(三笠市)間の鉄道路線を1889年(明治22年)に譲渡され、現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の一部などを建設、沿線の炭鉱から産出される石炭を積出港に運搬する役目を担った。
1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により、同年10月1日に鉄道路線は買収・国有化されたが、会社自体はその後も北海道炭礦汽船と改称して存続している。
下記の計207.5マイル(≒329.79キロメートル)が買収された。なお、砂川 - 空知太間は官設鉄道(1905年3月31日以前は北海道官設鉄道)が借受けていた。
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] | 北海道炭礦鉄道(ほっかいどうたんこうてつどう)は、かつて北海道内で鉄道路線を運営していた鉄道会社。 官営幌内鉄道が開業した手宮(小樽市) - 幌内(三笠市)間の鉄道路線を1889年(明治22年)に譲渡され、現在の北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の一部などを建設、沿線の炭鉱から産出される石炭を積出港に運搬する役目を担った。 1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により、同年10月1日に鉄道路線は買収・国有化されたが、会社自体はその後も北海道炭礦汽船と改称して存続している。 | {{混同|x1=1923年から1924年にかけて存在した|link1=雄別炭礦|北海炭礦鉄道}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 北海道炭礦鉄道
|ロゴ = [[File:HCR logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
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|本社所在地 = [[北海道]][[札幌市|札幌区]]北5条西3丁目<ref name="NDLDC780118"/>
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|資本金 = 18,000,000円<ref name="NDLDC780118"/>
|特記事項 = 上記データは1903年(明治36年)現在<ref name="NDLDC780118">[{{NDLDC|780118/887}} 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
'''北海道炭礦鉄道'''(ほっかいどうたんこうてつどう)は、かつて[[北海道]]内で[[鉄道路線]]を運営していた[[鉄道事業体|鉄道会社]]。
[[官営幌内鉄道]]が開業した[[手宮駅|手宮]]([[小樽市]]) - [[幌内駅|幌内]]([[三笠市]])間の[[鉄道路線]]を[[1889年]](明治22年)に譲渡され、現在の[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[函館本線]]の一部などを建設、沿線の炭鉱から産出される[[石炭]]を積出港に運搬する役目を担った。
[[1906年]](明治39年)公布の[[鉄道国有法]]により、同年[[10月1日]]に鉄道路線は買収・国有化されたが、会社自体はその後も'''[[北海道炭礦汽船]]'''と改称して存続している。
== 歴史 ==
* [[1889年]](明治22年)
**11月18日 鉄道布設及営業免許<ref>[{{NDLDC|2945180/5}} 「鉄道布設及営業免許」『官報』1889年12月4日](国立国会図書館デジタル化資料)</ref>
**[[12月11日]] 【譲受】手宮 - 幌内、幌内太 - 幾春別(←官営幌内鉄道) 【駅】手宮、[[南小樽駅|住吉]]、[[朝里駅|朝里]]、[[銭函駅|銭函]]、[[手稲駅|軽川]]、[[琴似駅 (JR北海道)|琴似]]、[[札幌駅|札幌]]、[[白石駅 (JR北海道)|白石]]、[[野幌駅|野幌]]、[[江別駅|江別]]、[[幌向駅|幌向]]、[[岩見沢駅|岩見沢]]、[[三笠駅 (北海道)|幌内太]]、幌内、[[幾春別駅|幾春別]]
* [[1890年]](明治23年)[[9月5日]]? 【駅廃止】白石
* [[1891年]](明治24年)[[7月5日]] 【延伸開業】岩見沢 - 砂川 - 歌志内 【駅新設】[[峰延駅|峰延]]、[[美唄駅|美唄]]、[[奈井江駅|奈井江]]、[[砂川駅|砂川]]、[[歌志内駅|歌志内]]
* [[1892年]](明治25年)
** [[2月1日]] 【延伸開業】砂川 - 空知太 【駅新設】[[空知太駅|空知太]]
** [[8月1日]] 【延伸開業】岩見沢 - 室蘭<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2945994/4 『官報』 1892年08月02日 鉄道庁彙報「鉄道運輸開業」](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【駅新設】[[由仁駅|由仁]]、[[追分駅 (北海道)|追分]]、[[苫小牧駅|苫小牧]]、[[白老駅|白老]]、[[登別駅|登別]]、[[幌別駅|幌別]]、[[東室蘭駅|室蘭(初代)]]
** [[11月1日]] 【延伸開業】追分 - 夕張<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2946069/4 『官報』 1892年10月31日 鉄道庁彙報「鉄道運輸開業」](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【駅新設】[[新夕張駅|紅葉山]]、[[夕張駅|夕張]]
* [[1893年]](明治26年)
** [[3月26日]] 【駅新設】(貨)[[桟橋駅|桟橋]]
** [[7月1日]] 【駅新設】[[栗山駅|栗山]]
** 8月1日 【駅新設】[[川端駅|川端]]
* [[1894年]](明治27年)
** 8月1日 【駅新設】[[厚別駅|厚別]]、[[早来駅|早来]]
** [[10月1日]] 【駅新設】[[栗沢駅|清真布]]
* [[1896年]](明治29年)[[10月21日]] 【駅新設】[[神威駅|神威]]
* [[1897年]](明治30年)
** [[2月16日]] 【駅新設】[[滝ノ上駅|滝ノ上]]、[[清水沢駅|清水沢]]、[[竹浦駅|敷生]](現、竹浦)、[[三川駅 (北海道)|三川]]
** 7月1日 【延伸開業】輪西 - 室蘭 【駅新設】[[室蘭駅|室蘭(2代)]] 【駅名改称】室蘭(初代)→[[東室蘭駅|輪西(初代)]]
* [[1898年]](明治31年)
** 2月1日 【駅新設】[[錦岡駅|錦多峰]]、[[沼ノ端駅|沼ノ端]]
** [[7月16日]] 【借上】砂川 - 空知太(→北海道官設鉄道)
* [[1900年]](明治33年)[[6月11日]] 【駅名改称】住吉→[[南小樽駅|小樽]]
* [[1901年]](明治34年)
** [[11月6日]] 【駅廃止】(貨)桟橋
** [[12月1日]] 【駅新設】鷲別、[[鹿ノ谷駅|鹿ノ谷]]
* [[1902年]](明治35年)
** 8月1日 【駅新設】(貨)[[志文駅|志文]]
** [[9月21日]] 【駅新設】[[遠浅駅|遠浅]]
** [[10月11日]] 【駅新設】[[安平駅|安平]]
* [[1903年]](明治36年)[[4月21日]] 【駅新設】[[白石駅 (JR北海道)|白石]] 【貨物駅→一般駅】志文
* [[1905年]](明治38年)
** [[4月1日]] 【借上】砂川 - 空知太(→官設鉄道。北海道官設鉄道の官設鉄道編入による)
** [[6月21日]] 【駅新設】(貨)[[御崎駅|御崎]]
** [[10月8日]] 【駅新設】[[張碓駅|張碓]]
** [[11月15日]] 【駅新設】(貨)[[沼ノ沢駅|沼ノ沢]]
* [[1906年]](明治39年)10月1日 【被買収・国有化】全線
== 被買収路線 ==
下記の計207.5[[マイル]](≒329.79[[キロメートル]])が買収された。なお、砂川 - 空知太間は官設鉄道(1905年3月31日以前は[[北海道官設鉄道]])が借受けていた。
* 室蘭 - 岩見沢 - 手宮 133.6哩(≒214.53km):現在の函館本線および[[室蘭本線]]の一部、[[手宮線]]([[1985年]][[廃線|廃止]])
* 岩見沢 - 歌志内 30.8哩(≒45.73km):現在の函館本線の一部および[[歌志内線]]([[1988年]]廃止)
* 砂川 - 空知太 3.0哩(≒4.83km):現在の函館本線の一部
* 岩見沢 - 幾春別 11.2哩(≒18.19km):後の[[幌内線]]([[1987年]]廃止)
* 幌内太 - 幌内 1.7哩(≒2.74km):後の幌内線(1987年廃止)
* 追分 - 紅葉山 - 夕張 27.2哩(≒43.77km):現在の[[石勝線]]の一部(紅葉山 - 夕張は[[2019年]]廃止)
1哩([[マイル]])=1.609344km
== 車両 ==
=== 蒸気機関車 ===
(番号は、国有化時のものを記す。)
* '''A形''' → '''イ形'''('''1 - 8''') - 2-6-0(1C)形[[テンダー機関車|テンダ機]] - [[国鉄7100形蒸気機関車|鉄道院7100形]] - [[H・K・ポーター|ポーター]]社製(官営幌内鉄道引継ぎ)
* '''B形''' → '''ロ形'''('''9,10''') - 2-6-0(1C)形テンダ機 - [[国鉄7170形蒸気機関車|鉄道院7170形]] - [[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]社製(官営幌内鉄道引継ぎ)
* '''[[北海道炭礦鉄道15号形蒸気機関車|15,16]]''' - 2-4-2(1B1)形[[タンク機関車|サドルタンク機]] - 1898年[[伊豆箱根鉄道駿豆線|豆相鉄道]]に譲渡 - ボールドウィン社製
* '''D形''' → '''ハ形'''('''15,16'''(2代)) - 0-4-0(B)形サドルタンク機 - [[国鉄5形蒸気機関車|鉄道院5形]] - ボールドウィン社製
* '''E形''' → '''ニ形'''('''17,18''') - 0-6-0(C)形タンク機 - [[国鉄1100形蒸気機関車|鉄道院1100形]] - [[ナスミス・ウィルソン]]社製(旧[[山陽鉄道]])
* '''C形・F形''' → '''ホ形'''('''11 - 14,19 - 24,28,29,33 - 37,39 - 46''') - 2-6-0(1C)形テンダ機 - [[国鉄7200形蒸気機関車#第1種(7200 - 7224)|鉄道院7200形]] - ボールドウィン社製
* '''G形''' → '''ヘ形'''('''25 - 27,31,32,38,50,51''') - 2-8-0(1D)形テンダ機 - [[国鉄9000形蒸気機関車#9000形(9040形)|鉄道院9000形]] - ボールドウィン社製
* '''H形''' → '''ト形'''('''30''') - 2-6-0(1C)形テンダ機 - [[国鉄7150形蒸気機関車|鉄道院7150形]] - 自社手宮工場製(国産機関車第2号)
* '''J形''' → '''チ形'''('''47 - 49''') - 2-6-2(1C1)形タンク機 - [[国鉄3060形蒸気機関車|鉄道院3060形]] - ボールドウィン社製
* '''K形''' → '''リ形'''('''52 - 54''') - 0-6-0(C)形タンク機 - [[国鉄1980形蒸気機関車|鉄道院1980形]] - [[ブルックス・ロコモティブ・ワークス|ブルックス]]社製(旧勢和鉄道注文流れ)
* '''L形''' → '''ヌ形'''('''55 - 57''') - 4-4-0(2B)形テンダ機 - [[国鉄5700形蒸気機関車|鉄道院5700形]] - [[スケネクタディ・ロコモティブ・ワークス|スケネクタディ]]社製
* '''M形''' → '''ル形'''('''58 - 60''') - 2-6-2(1C1)形タンク機 - [[国鉄3250形蒸気機関車|鉄道院3390形]] - ボールドウィン社製(58は[[日本鉄道]]から譲受)
* '''N形''' → '''ヲ形'''('''61,62''') - 0-6-0(C)形タンク機 - [[国鉄1430形蒸気機関車|鉄道院1430形]] - [[ハノマーグ|ハノーバー]]社製
* '''O形''' → '''ワ形'''('''A,7'''(2代)) - 0-8-0(D)形タンク機 - [[国鉄4000形蒸気機関車|鉄道院4000形]] - ポーター社製
* '''カ形'''('''71 - 73''') - 2-8-0(1D)形テンダ機 - [[国鉄9000形蒸気機関車#9030形|鉄道院9030形]] - ボールドウィン社製
* '''ヨ形'''('''68 - 70''') - 4-4-0(2B)形テンダ機 - [[国鉄5800形蒸気機関車|鉄道院5800形]] - ボールドウィン社製
* '''ヨ形'''('''74 - 78''') - 4-4-0(2B)形テンダ機 - [[国鉄5700形蒸気機関車|鉄道院5700形]] - [[アメリカン・ロコモティブ]]社スケネクタディ工場製
* '''100 - 125''' - 2-8-0(1D)形テンダ機 - [[国鉄9050形蒸気機関車|鉄道院9050形]] - アメリカン・ロコモティブ社[[ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス|ピッツバーグ工場]]製(国有化後に到着)
=== 客車 ===
* [[開拓使号客車|開拓使]]
* [[北海道炭礦鉄道の客車]]
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[北海道炭礦汽船]]
* [[堀基]] - 創業者・初代社長
* [[高島嘉右衛門]] - 第2代・第4代社長
* [[西村捨三]] - 第3代社長
* [[井上角五郎]] - 専務取締役(鉄道国有化時の代表)
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{Normdaten}}
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[[Category:北海道炭礦鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:日本の石炭関連企業|廃ほつかいとうたんこうてつとう]]
[[Category:北海道の交通史]] | null | 2022-10-27T05:13:24Z | false | false | false | [
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"Template:基礎情報 会社",
"Template:鉄道国有法被買収私鉄",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%82%AD%E7%A4%A6%E9%89%84%E9%81%93 |
6,522 | 甲武鉄道 | 甲武鉄道()は、明治時代に日本に存在していた鉄道事業者(私鉄)である。現在の中央本線のうち、東京都内の大部分を横断する御茶ノ水駅から八王子駅までの区間の前身にあたる。
甲武鉄道は1889年(明治22年)に開業した。開業時の社長は大久保利和であった。
東京市内の御茶ノ水を起点として、飯田町や新宿 を経由して多摩郡を東西へ横断し、国分寺や立川などを貫いて八王子に至る鉄道を保有・運営していた。
動力ははじめ蒸気で、のちに一部区間では電気を併用した。軌間は1,067mmであった。
1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により同年10月1日に国有化され、中央本線の一部となった。
同社の発端は、水運の代わりとなる馬車鉄道の計画であった。
1870年(明治3年)に玉川上水の船運が開業したが、船員が上水に放尿するなどの夥しい違反行為により2年後に禁止された。代替路線として、その堤防沿いに新宿 - 羽村間に馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設が企画されたことが同社の始まりである。発起人は服部九一、岩田作兵衛、井関盛艮(元神奈川県知事)であった。
しかし、堤防沿いの鉄道は認可を得られなかったため経路を変更し、1886年(明治19年)11月に新宿 - 八王子間の敷設免許を得た。
一方、同時期に本路線の競合となりえる岩谷松平らが蒸気鉄道を出願し、また武蔵鉄道が川崎 - 八王子間の蒸気鉄道を出願していたため、直ちに動力を馬車でなく蒸気に変更して出願したことで競願者を退けた。
そして資本金を30万円から60万円に増資する必要から大隈重信へ協力を求めた結果、平沼専蔵らから出資を得ることができ、1888年(明治21年)3月免許状が下付された。
ところがその後、井関らと大隈派で対立を生じ、大隈派は株を売却、甲信鉄道へ投資してしまった。
そのとき登場したのが雨宮敬次郎だった。雨宮は安田善次郎らから資金提供を受け暴落した甲武鉄道株を買いあさり、資本金60万円のうち38万円相当の株を獲得し経営の実権を握ることになる。1888年5月2日の株主総会において役員を選出した。(社長)奈良原繁、(常議員)雨宮敬次郎、(常議員)井関盛艮、(常議員)指田茂十郎、(監査役)安田善次郎、(監査役)岩田作兵衛。そして6月9日に副社長となった大久保利和が10月31日の株主総会において社長に就任する。奈良原は常議員となる。
1889年(明治22年)4月に新宿 - 立川間、8月には 立川 - 八王子間を開業した。
新宿から東京市内への路線延長は、当初は甲州街道沿いが計画されたが、青山練兵場や三崎町の工廠の後押しもあり、1889年5月に申請、7月に仮免状が下付されたもので、1894年10月には新宿 - 牛込が、1895年4月に牛込 - 飯田町が開業している。これは更なる延長が計画され、1890年(明治23年)に飯田町 - 万世橋を出願、1900年(明治33年)には当時計画中の東京縦貫高架鉄道(現在の上野 - 新橋のJR鉄道路線)の接続を条件に免許状が下付され、このうち1904年(明治37年)12月に御茶ノ水までの延長が完成した。
開業から1891年(明治34年)までは新宿で路線が接続し、また創立委員長の奈良原繁が社長を務めた日本鉄道が営業管理を行っていた。
また、東京市内区間での旅客が増えたことから1904年8月21日に飯田町 - 中野間を電化し、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行った。車体長10mほどの二軸車ではあったが、総括制御を採用し重連運転も可能で、郊外電車として十分な性能を備えていた。詳しくは甲武鉄道の電車を参照されたい。この電車運転区間は複線化されていた。
現在も中央本線が走っている、本路線のうちの東中野駅(甲武鉄道時代は柏木) - 立川駅を結ぶ約27.4 kmの直線経路は、1964年の新幹線の開業までは日本全国で3番目に長いものであった。東西方向へほぼ完全な一直線であることから、東京の地図や空中写真を見ても目につくものとなっている。
この東京都心の新宿から西へ延びて武蔵野(多摩)とを結ぶ路線は、同地域を結ぶ街道であり江戸時代には基幹道路であった甲州街道や、庶民に利用された青梅街道からは離れており、多摩地域の要衝として発展していた府中などの既存の都市を通らない経路であった。
このような当時の主要街路とは異なる路線を建設された理由に関して、本路線を継承した東日本旅客鉄道(JR東日本)の広報部は「諸説あることは認識しているが、社内で根拠を持って話せる人はいない」と述べている。
「当初は甲州街道あるいは青梅街道沿いのルートを予定していたが、住民の反対運動により当時は田園・林野だった場所を一直線に突っ切る現路線に変更された」といった言説が各自治体史や朝日新聞『中央線』などといった戦後の文献に掲載されており、馬車鉄道の計画の際に「自然作物の成長が阻まれる」「街道がさびれる」(明治18年8月の南豊島郡9村、9月の和田村外3村の陳情)といった反対の声があったことは確認されている。
また、甲部鉄道の開業を担当する工部省の官僚であった仙石貢(のちの鉄道大臣)が独断で即決したという説もある。鉄道ジャーナリストの青木槐三の著書「鉄道黎明の人々」(1951年発行)の記述によれば、「雷親父の仙石が『武蔵野の原だ、これでいい』と地図の上にグーンと太い鉛筆の線をひいた」という。
この説に関してJR東日本の鉄道博物館は「豪傑伝の可能性もあり真偽は不明」としている。
反対運動説に対して、「鉄道忌避伝説」を唱える立場からは、全国のそういった言説を調査して『鉄道忌避伝説の謎〜汽車が来た町、来なかった町』を著した地理学者の青木栄一は「馬車鉄道から蒸気鉄道への動力変更に当たって、建設が鉄道局に委託されたため、(平坦・効率的な最短の)武蔵野台地上の一直線ルートが考えられたと思う」と指摘している。
また、JR東日本の鉄道博物館の副館長であった荒木文宏も「勾配など地理的条件、コスト面などから、20km以上の直線は作る側にとって最も理想なルート」と説明した。
さらに、江戸東京博物館の学芸員として中央線を研究した真下祥幸は、「蒸気機関車の能力、燃料供給、土地買収などから地理的に最も合理的なルートを選んだ」と分析した。真下は次の理由から推測した。
また真下は、「住民の反対運動のせいという説や、仙石貢が独断で決めたという説は、いずれも考えづらい。」と指摘した。真下は次の理由から2説を否定している。
現在の西武国分寺線および新宿線の東村山 - 本川越である川越鉄道、および青梅線である青梅鉄道は、甲武鉄道の支線にあたる。いずれも甲武鉄道が東京市内への延長線建設に追われていたため、地元の資本を利用して設立したもので、その株主は甲武鉄道の主要株主と沿線在住者で構成されていた。特に、軌間が同じである川越鉄道とは、直通運転などが実施されていた。
しかし、1906年の鉄道国有法制定によって甲武鉄道が国有化されると、川越鉄道と青梅鉄道は独立した存在となった。特に川越鉄道は、鉄道国有法原案では、甲武鉄道とともに国有化される予定となっていたが、これは貴族院での審議によって修正され、川越鉄道は民営鉄道としての独立を保ったという経緯があった。
甲武鉄道からの分離後、都心に接続するルートを断たれた川越鉄道は都心乗り入れを目指し、いくつかの合従連衡を経て、西武鉄道という社名になった後、1927年、山手線高田馬場駅に至る村山線を開通させた。これは、後の西武新宿線に当たる。さらに終戦直後の1945年9月には、後の西武池袋線となる路線を保有していた武蔵野鉄道との合併により、現在の西武鉄道のネットワークが形作られることとなった。
一方、青梅鉄道は、当初免許が下付された青梅町までのルートからさらなる延伸を地道に続け、青梅電気鉄道への改称を経て、1929年には御嶽駅までの延伸を果たす。しかし、戦時中、青梅電気鉄道は、戦時買収私鉄の一つに数えられてしまい、1944年国有化を迎える。さらに国有化の直後には後の奥多摩駅である氷川駅までの全通を果たし、日本国有鉄道傘下となった1950年代には、中央線に直通する青梅―東京間の電車が定期化されることとなり、現在の青梅線の運転形態が形作られていった。
また、これらとは別に、雨宮が1889年3月八王子-甲府間の山梨鉄道設立を出願したが、甲信鉄道との競願の末に却下された。実際に八王子と甲府が接続されるのは、官設鉄道によって工事が行われた1903年のことであり、これも1906年に甲武鉄道が国有化されると、旧甲武鉄道線と一体化した運転が行われるようになった。
『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』、日本国有鉄道、1952年、61頁
開業時は1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 立川間を直通した。八王子延伸時にも1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 八王子間を直通した。1894年牛込開業時には牛込 - 八王子間6往復、牛込 - 新宿間6往復
国有化時は機関車13客車92貨車316
東京市街線電化用として1904年に製造された、全長10mあまりの二軸電車。買収によって官設鉄道籍となり、「国電」の元祖として知られ、デ968 (→ 松本電気鉄道ハニフ1)が鉄道博物館に展示保管されている。
すべて木製2軸車
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』
1896年飯田町に工場が設けられ客車と貨車の製造がはじめられた。飯田町で製造した油槽車(タンク車)はすべて私有貨車であった。
『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年) | [
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"text": "動力ははじめ蒸気で、のちに一部区間では電気を併用した。軌間は1,067mmであった。",
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"text": "1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により同年10月1日に国有化され、中央本線の一部となった。",
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"text": "同社の発端は、水運の代わりとなる馬車鉄道の計画であった。",
"title": "沿革"
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"text": "1870年(明治3年)に玉川上水の船運が開業したが、船員が上水に放尿するなどの夥しい違反行為により2年後に禁止された。代替路線として、その堤防沿いに新宿 - 羽村間に馬車鉄道(甲武馬車鉄道)の敷設が企画されたことが同社の始まりである。発起人は服部九一、岩田作兵衛、井関盛艮(元神奈川県知事)であった。",
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"text": "しかし、堤防沿いの鉄道は認可を得られなかったため経路を変更し、1886年(明治19年)11月に新宿 - 八王子間の敷設免許を得た。",
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"text": "一方、同時期に本路線の競合となりえる岩谷松平らが蒸気鉄道を出願し、また武蔵鉄道が川崎 - 八王子間の蒸気鉄道を出願していたため、直ちに動力を馬車でなく蒸気に変更して出願したことで競願者を退けた。",
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"text": "そして資本金を30万円から60万円に増資する必要から大隈重信へ協力を求めた結果、平沼専蔵らから出資を得ることができ、1888年(明治21年)3月免許状が下付された。",
"title": "沿革"
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"text": "ところがその後、井関らと大隈派で対立を生じ、大隈派は株を売却、甲信鉄道へ投資してしまった。",
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"text": "そのとき登場したのが雨宮敬次郎だった。雨宮は安田善次郎らから資金提供を受け暴落した甲武鉄道株を買いあさり、資本金60万円のうち38万円相当の株を獲得し経営の実権を握ることになる。1888年5月2日の株主総会において役員を選出した。(社長)奈良原繁、(常議員)雨宮敬次郎、(常議員)井関盛艮、(常議員)指田茂十郎、(監査役)安田善次郎、(監査役)岩田作兵衛。そして6月9日に副社長となった大久保利和が10月31日の株主総会において社長に就任する。奈良原は常議員となる。",
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"text": "1889年(明治22年)4月に新宿 - 立川間、8月には 立川 - 八王子間を開業した。",
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"text": "新宿から東京市内への路線延長は、当初は甲州街道沿いが計画されたが、青山練兵場や三崎町の工廠の後押しもあり、1889年5月に申請、7月に仮免状が下付されたもので、1894年10月には新宿 - 牛込が、1895年4月に牛込 - 飯田町が開業している。これは更なる延長が計画され、1890年(明治23年)に飯田町 - 万世橋を出願、1900年(明治33年)には当時計画中の東京縦貫高架鉄道(現在の上野 - 新橋のJR鉄道路線)の接続を条件に免許状が下付され、このうち1904年(明治37年)12月に御茶ノ水までの延長が完成した。",
"title": "沿革"
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"text": "開業から1891年(明治34年)までは新宿で路線が接続し、また創立委員長の奈良原繁が社長を務めた日本鉄道が営業管理を行っていた。",
"title": "沿革"
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"text": "また、東京市内区間での旅客が増えたことから1904年8月21日に飯田町 - 中野間を電化し、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行った。車体長10mほどの二軸車ではあったが、総括制御を採用し重連運転も可能で、郊外電車として十分な性能を備えていた。詳しくは甲武鉄道の電車を参照されたい。この電車運転区間は複線化されていた。",
"title": "沿革"
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"text": "現在も中央本線が走っている、本路線のうちの東中野駅(甲武鉄道時代は柏木) - 立川駅を結ぶ約27.4 kmの直線経路は、1964年の新幹線の開業までは日本全国で3番目に長いものであった。東西方向へほぼ完全な一直線であることから、東京の地図や空中写真を見ても目につくものとなっている。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "この東京都心の新宿から西へ延びて武蔵野(多摩)とを結ぶ路線は、同地域を結ぶ街道であり江戸時代には基幹道路であった甲州街道や、庶民に利用された青梅街道からは離れており、多摩地域の要衝として発展していた府中などの既存の都市を通らない経路であった。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "このような当時の主要街路とは異なる路線を建設された理由に関して、本路線を継承した東日本旅客鉄道(JR東日本)の広報部は「諸説あることは認識しているが、社内で根拠を持って話せる人はいない」と述べている。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "「当初は甲州街道あるいは青梅街道沿いのルートを予定していたが、住民の反対運動により当時は田園・林野だった場所を一直線に突っ切る現路線に変更された」といった言説が各自治体史や朝日新聞『中央線』などといった戦後の文献に掲載されており、馬車鉄道の計画の際に「自然作物の成長が阻まれる」「街道がさびれる」(明治18年8月の南豊島郡9村、9月の和田村外3村の陳情)といった反対の声があったことは確認されている。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "また、甲部鉄道の開業を担当する工部省の官僚であった仙石貢(のちの鉄道大臣)が独断で即決したという説もある。鉄道ジャーナリストの青木槐三の著書「鉄道黎明の人々」(1951年発行)の記述によれば、「雷親父の仙石が『武蔵野の原だ、これでいい』と地図の上にグーンと太い鉛筆の線をひいた」という。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "この説に関してJR東日本の鉄道博物館は「豪傑伝の可能性もあり真偽は不明」としている。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "反対運動説に対して、「鉄道忌避伝説」を唱える立場からは、全国のそういった言説を調査して『鉄道忌避伝説の謎〜汽車が来た町、来なかった町』を著した地理学者の青木栄一は「馬車鉄道から蒸気鉄道への動力変更に当たって、建設が鉄道局に委託されたため、(平坦・効率的な最短の)武蔵野台地上の一直線ルートが考えられたと思う」と指摘している。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "また、JR東日本の鉄道博物館の副館長であった荒木文宏も「勾配など地理的条件、コスト面などから、20km以上の直線は作る側にとって最も理想なルート」と説明した。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "さらに、江戸東京博物館の学芸員として中央線を研究した真下祥幸は、「蒸気機関車の能力、燃料供給、土地買収などから地理的に最も合理的なルートを選んだ」と分析した。真下は次の理由から推測した。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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"text": "また真下は、「住民の反対運動のせいという説や、仙石貢が独断で決めたという説は、いずれも考えづらい。」と指摘した。真下は次の理由から2説を否定している。",
"title": "武蔵野のルート策定経緯"
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{
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"text": "現在の西武国分寺線および新宿線の東村山 - 本川越である川越鉄道、および青梅線である青梅鉄道は、甲武鉄道の支線にあたる。いずれも甲武鉄道が東京市内への延長線建設に追われていたため、地元の資本を利用して設立したもので、その株主は甲武鉄道の主要株主と沿線在住者で構成されていた。特に、軌間が同じである川越鉄道とは、直通運転などが実施されていた。",
"title": "関連する路線"
},
{
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"text": "しかし、1906年の鉄道国有法制定によって甲武鉄道が国有化されると、川越鉄道と青梅鉄道は独立した存在となった。特に川越鉄道は、鉄道国有法原案では、甲武鉄道とともに国有化される予定となっていたが、これは貴族院での審議によって修正され、川越鉄道は民営鉄道としての独立を保ったという経緯があった。",
"title": "関連する路線"
},
{
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"text": "甲武鉄道からの分離後、都心に接続するルートを断たれた川越鉄道は都心乗り入れを目指し、いくつかの合従連衡を経て、西武鉄道という社名になった後、1927年、山手線高田馬場駅に至る村山線を開通させた。これは、後の西武新宿線に当たる。さらに終戦直後の1945年9月には、後の西武池袋線となる路線を保有していた武蔵野鉄道との合併により、現在の西武鉄道のネットワークが形作られることとなった。",
"title": "関連する路線"
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{
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"text": "一方、青梅鉄道は、当初免許が下付された青梅町までのルートからさらなる延伸を地道に続け、青梅電気鉄道への改称を経て、1929年には御嶽駅までの延伸を果たす。しかし、戦時中、青梅電気鉄道は、戦時買収私鉄の一つに数えられてしまい、1944年国有化を迎える。さらに国有化の直後には後の奥多摩駅である氷川駅までの全通を果たし、日本国有鉄道傘下となった1950年代には、中央線に直通する青梅―東京間の電車が定期化されることとなり、現在の青梅線の運転形態が形作られていった。",
"title": "関連する路線"
},
{
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"text": "また、これらとは別に、雨宮が1889年3月八王子-甲府間の山梨鉄道設立を出願したが、甲信鉄道との競願の末に却下された。実際に八王子と甲府が接続されるのは、官設鉄道によって工事が行われた1903年のことであり、これも1906年に甲武鉄道が国有化されると、旧甲武鉄道線と一体化した運転が行われるようになった。",
"title": "関連する路線"
},
{
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"text": "『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』、日本国有鉄道、1952年、61頁",
"title": "施設"
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{
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"text": "開業時は1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 立川間を直通した。八王子延伸時にも1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 八王子間を直通した。1894年牛込開業時には牛込 - 八王子間6往復、牛込 - 新宿間6往復",
"title": "運行状況"
},
{
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"text": "国有化時は機関車13客車92貨車316",
"title": "車両"
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{
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"text": "東京市街線電化用として1904年に製造された、全長10mあまりの二軸電車。買収によって官設鉄道籍となり、「国電」の元祖として知られ、デ968 (→ 松本電気鉄道ハニフ1)が鉄道博物館に展示保管されている。",
"title": "車両"
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"text": "すべて木製2軸車",
"title": "車両"
},
{
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"text": "リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』",
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{
"paragraph_id": 37,
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"text": "1896年飯田町に工場が設けられ客車と貨車の製造がはじめられた。飯田町で製造した油槽車(タンク車)はすべて私有貨車であった。",
"title": "車両"
},
{
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"text": "『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)",
"title": "車両"
}
] | 甲武鉄道は、明治時代に日本に存在していた鉄道事業者(私鉄)である。現在の中央本線のうち、東京都内の大部分を横断する御茶ノ水駅から八王子駅までの区間の前身にあたる。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 甲武鉄道
|ロゴ = [[File:KobuRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京府]][[東京市]][[麹町区]]飯田町4丁目<ref name="NDLDC780118"/>
|設立 = [[1888年]](明治21年)3月<ref name="NDLDC780118"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 専務取締役 [[三浦泰輔]]<ref name="NDLDC780118"/>
|資本金 = 5,500,000円<ref name="NDLDC780118"/>
|特記事項 = 上記データは1903年(明治36年)現在<ref name="NDLDC780118">[{{NDLDC|780118/108}} 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|路線概略図 |#ddd}}
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|}
|}
{{読み仮名|'''甲武鉄道'''|こうぶてつどう}}は、[[明治|明治時代]]に[[日本]]に存在していた[[鉄道事業者]]([[私鉄]])である。現在の'''[[中央本線]]'''のうち、[[東京都]]内の大部分を横断する[[御茶ノ水駅]]から[[八王子駅]]までの区間の前身にあたる。
== 概要 ==
甲武鉄道は[[1889年]]([[明治]]22年)に開業した。開業時の[[社長]]は[[大久保利和]]であった。
[[東京市]]内の[[御茶ノ水駅|御茶ノ水]]を起点として、[[飯田町駅|飯田町]]や[[新宿駅|新宿]] を経由して[[多摩郡]]を東西へ横断し、[[国分寺市|国分寺]]や[[立川市|立川]]などを貫いて[[八王子駅|八王子]]に至る[[鉄道]]を保有・運営していた。
動力ははじめ[[蒸気]]で、のちに一部区間では[[電気]]を併用した。[[軌間]]は1,067[[ミリメートル|mm]]であった。
[[1906年]](明治39年)[[公布]]の[[鉄道国有法]]により同年[[10月1日]]に[[国有化]]され、'''[[中央本線]]'''の一部となった。
== 沿革 ==
=== 開業前 ===
同社の発端は、[[水運]]の代わりとなる[[馬車鉄道]]の計画であった。
[[1870年]](明治3年)に[[玉川上水]]の船運が開業したが、船員が上水に放尿するなどの夥しい違反行為により2年後に禁止された。代替路線として、その堤防沿いに[[新宿区|新宿]] - [[羽村市|羽村]]間に[[馬車鉄道]](甲武馬車鉄道)の敷設が企画されたことが同社の始まりである。発起人は服部九一、岩田作兵衛、[[井関盛艮]](元[[神奈川県]][[知事]])であった。
しかし、堤防沿いの鉄道は認可を得られなかったため経路を変更し、[[1886年]](明治19年)11月に[[新宿]] - [[八王子市|八王子]]間の敷設免許を得た。
一方、同時期に本路線の競合となりえる[[岩谷松平]]らが[[蒸気機関車|蒸気鉄道]]を出願し、また武蔵鉄道が[[川崎市|川崎]] - 八王子間の蒸気鉄道を出願していたため、直ちに[[動力]]を馬車でなく蒸気に変更して出願したことで競願者を退けた。
そして資本金を30万円から60万円に増資する必要から[[大隈重信]]へ協力を求めた結果、[[平沼専蔵]]らから出資を得ることができ、[[1888年]](明治21年)3月免許状が下付された<ref name="kanp8846">[{{NDLDC|2944664/5}} 「鉄道布設免許状下付」『官報』1888年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
ところがその後、井関らと大隈派で対立を生じ、大隈派は株を売却、[[甲信鉄道]]へ投資してしまった。
そのとき登場したのが[[雨宮敬次郎]]だった。雨宮は[[安田善次郎]]らから資金提供を受け暴落した甲武鉄道株を買いあさり、資本金60万円のうち38万円相当の株を獲得し経営の実権を握ることになる。1888年5月2日の株主総会において役員を選出した。(社長)[[奈良原繁]]、(常議員)[[雨宮敬次郎]]、(常議員)[[井関盛艮]]、(常議員)指田茂十郎、(監査役)[[安田善次郎]]、(監査役)岩田作兵衛。そして6月9日に副社長となった[[大久保利和]]が10月31日の株主総会において社長に就任する。奈良原は常議員となる<ref>『日本国有鉄道百年史』第2巻、518頁</ref>。
=== 開業後 ===
[[1889年]](明治22年)4月に[[新宿駅|新宿]] - [[立川駅|立川]]間、8月には [[立川駅|立川]] - [[八王子駅|八王子]]間を開業した<ref>[{{NDLDC|1920380/178}} 「甲武鉄道新宿八王子間開通祝賀式」読売新聞1889年8月14日『新聞集成明治編年史. 第七卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
[[File:甲武鉄道御茶ノ水駅(1905年).jpg|thumb|甲武鉄道御茶ノ水駅(1905年)]]
新宿から東京市内への路線延長は、当初は[[甲州街道]]沿いが計画されたが、[[青山練兵場]]や[[三崎町 (千代田区)|三崎町]]の工廠の後押しもあり、1889年5月に申請、7月に仮免状<ref name="kanp89717">[{{NDLDC|2945061/4}} 「鉄道線路測量仮免状下付」『官報』1889年7月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が下付されたもので、[[1894年]]10月には新宿 - [[牛込]]が、[[1895年]]4月に[[牛込]] - [[飯田町駅|飯田町]]が開業している。これは更なる延長が計画され、[[1890年]](明治23年)に飯田町 - [[万世橋駅|万世橋]]を出願、[[1900年]](明治33年)には当時計画中の東京縦貫高架鉄道(現在の上野 - 新橋のJR鉄道路線)の接続を条件に免許状が下付され、このうち[[1904年]](明治37年)12月に御茶ノ水までの延長が完成した。
開業から[[1891年]](明治34年)までは新宿で路線が接続し、また創立委員長の奈良原繁が社長を務めた[[日本鉄道]]が営業管理を行っていた。
また、東京市内区間での旅客が増えたことから1904年[[8月21日]]に飯田町 - [[中野駅 (東京都)|中野]]間を[[鉄道の電化|電化]]し<ref name="kanp4829">[{{NDLDC|2949669/10}} 「電車開始並停車場設置」『官報』1904年8月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、日本の普通鉄道では初めて[[電車]]運転を行った。車体長10mほどの二軸車ではあったが、[[総括制御]]を採用し重連運転も可能で、郊外電車として十分な性能を備えていた。詳しくは[[甲武鉄道の電車]]を参照されたい。この電車運転区間は[[複線]]化されていた。
== 年表 ==
* 1886年(明治19年)11月10日 甲武馬車鉄道に対し馬車鉄道敷設免許(内藤新宿-新座郡上保谷村新田-八王子間)<ref>[{{NDLDC|1920367/209}} 「甲武鉄道」内外新報1886年11月18日『新聞集成明治編年史. 第六卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1888年(明治21年)3月31日 鉄道布設免許状下付(武蔵国南豊島郡内藤新宿-武蔵国南多摩郡八王子間)<ref name="kanp8846"/>
* 1889年(明治22年)4月11日 開業(新宿-立川間)<ref name=kapo8949>[{{NDLDC|2944975/6}} 「鉄道運輸開始並ニ賃金発着時刻」『官報』1889年4月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|2944977/5}} 「鉄道哩数」『官報』1889年4月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1889年(明治22年)7月13日 仮免状下付(新宿停車場-神田区三崎町間)<ref name="kanp89717"/>
* 1889年(明治22年)8月11日 開業(立川-八王子間)<ref name=kapo89810>[{{NDLDC|2945082/6}} 「鉄道運輸開始」『官報』1889年8月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1893年(明治26年)3月1日 鉄道敷設免許状下付(新宿-四谷-飯田町間)
* 1894年(明治27年)9月17日 新宿-青山軍用停車場間落成。11月陸軍より委託。1896年(明治29年)9月25日委託解除
* 1894年(明治27年)10月9日 開業(新宿-牛込間)<ref>[{{NDLDC|2946654/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1894年10月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1894年(明治27年)12月 川越鉄道の委託により営業管理
* 1895年(明治28年)4月3日 開業(牛込-飯田町間)<ref>[{{NDLDC|2946801/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1895年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1895年(明治28年)12月30日 新宿-飯田町間複線化
* 1896年(明治29年)4月 青梅鉄道の委託により営業管理
* 1897年(明治30年)11月9日 青梅鉄道との管理契約解除
* 1898年(明治31年)6月30日 免許状下付申請却下(四ツ谷-烏森間)<ref>[{{NDLDC|805399/25}} 『鉄道局年報. 明治31年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1898年(明治31年)12月1日 仮免状下付(飯田町-鍛冶町間)<ref>[{{NDLDC|805399/19}} 『鉄道局年報. 明治31年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1900年(明治33年)4月25日 免許状下付(飯田町-鍛冶町間)<ref>[{{NDLDC|805400/16}} 『鉄道局年報. 明治33年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1900年(明治33年)5月18日 免許状下付申請却下(四ツ谷-有楽町間)<ref>[{{NDLDC|805400/17}} 『鉄道局年報. 明治33年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1904年(明治37年)8月21日 電車運転開始(飯田町-中野間 架空複線式、直流600V)<ref name="kanp4829"/>
* 1904年(明治37年)12月31日 電車運転開始(飯田町-御茶ノ水間)<ref>[{{NDLDC|2949787/12}} 「電車運転開始」『官報』1905年1月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1906年(明治39年)10月1日 鉄道国有法により'''国有化'''
== 武蔵野のルート策定経緯 ==
現在も[[中央本線]]が走っている、本路線のうちの[[東中野駅]](甲武鉄道時代は柏木) - [[立川駅]]を結ぶ約27.4 [[キロメートル|km]]の直線経路は、[[1964年]]の[[新幹線]]の開業までは日本全国で3番目に長いものであった。東西方向へほぼ完全な一直線であることから、東京の[[地図]]や[[空中写真]]を見ても目につくものとなっている。
この東京[[都心]]の[[新宿]]から西へ延びて[[武蔵野]]([[多摩]])とを結ぶ路線は、同地域を結ぶ[[街道]]であり[[江戸時代]]には基幹道路であった[[甲州街道]]や、庶民に利用された[[青梅街道]]からは離れており、[[多摩]]地域の要衝として発展していた[[府中市 (東京都)|府中]]などの既存の[[都市]]を通らない経路であった。
=== 経路策定の理由 ===
このような当時の主要街路とは異なる路線を建設された理由に関して、本路線を継承した[[東日本旅客鉄道|東日本旅客鉄道(JR東日本)]]の広報部は「諸説あることは認識しているが、社内で根拠を持って話せる人はいない」と述べている<ref name=":0">{{Cite news|title=JR中央線、まっすぐな路線なぜ カギは蒸気機関車 「地理的に最も合理的なルート」|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2016-05-10|url=https://style.nikkei.com/article/DGXKZO02073760Z00C16A5L83000/|accessdate=2021-09-01}}</ref>。
==== 反対運動説 ====
「当初は[[甲州街道]]あるいは[[青梅街道]]沿いのルートを予定していたが、住民の反対運動により当時は田園・林野だった場所を一直線に突っ切る現路線に変更された」といった言説が各自治体史や[[朝日新聞]]『中央線』などといった戦後の文献に掲載されており、[[馬車鉄道]]の計画の際に「自然作物の成長が阻まれる」「街道がさびれる」(明治18年8月の南豊島郡9村、9月の和田村外3村の陳情)といった反対の声があったことは確認されている。
==== 仙石貢の即断説 ====
また、甲部鉄道の開業を担当する[[工部省]]の[[官僚]]であった[[仙石貢]](のちの[[鉄道大臣]])が独断で即決したという説もある。鉄道[[ジャーナリスト]]の[[青木槐三]]の著書「鉄道黎明の人々」(1951年発行)の記述によれば、「雷親父の仙石が『[[武蔵野]]の原だ、これでいい』と地図の上にグーンと太い[[鉛筆]]の線をひいた」という<ref name=":0" />。
この説に関して[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]は「豪傑伝の可能性もあり真偽は不明」としている<ref name=":0" />。
==== 効率上の理由説 ====
反対運動説に対して、「[[鉄道と政治#鉄道忌避伝説|鉄道忌避伝説]]」を唱える立場からは、全国のそういった言説を調査して『鉄道忌避伝説の謎〜汽車が来た町、来なかった町』を著した[[地理学者]]の[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]は「馬車鉄道から蒸気鉄道への動力変更に当たって、建設が[[鉄道局]]に委託されたため、(平坦・効率的な最短の)[[武蔵野台地]]上の一直線ルートが考えられたと思う」と指摘している。
また、JR東日本の[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]の副館長であった荒木文宏も「勾配など地理的条件、コスト面などから、20km以上の直線は作る側にとって最も理想なルート」と説明した<ref name=":0" />。
さらに、[[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]の[[学芸員]]として[[中央本線|中央線]]を研究した真下祥幸は、「[[蒸気機関車]]の能力、燃料供給、土地買収などから地理的に最も合理的なルートを選んだ」と分析した。真下は次の理由から推測した<ref name=":0" />。
* 現路線のルートは[[甲州街道]]などより平坦で勾配差がないため、機関車の[[馬力]]が弱いという弱点を克服できた。
* 開業時からあった[[国分寺]]、[[立川談志|立川]]などの駅も、機関車を動かすのに必要な水を[[用水路]]から供給する契約が成立した地域が選ばれている。
* 当時の沿線は[[畑]]ばかりであり、既存の民家が集積する[[街道]]沿いよりも[[用地買収]]がしやすかった。
* 建設費をなるべく抑えるために単純な直線になった。
また真下は、「住民の[[反対運動]]のせいという説や、[[仙石貢]]が独断で決めたという説は、いずれも考えづらい。」と指摘した。真下は次の理由から2説を否定している<ref name=":0" />。
* 甲武鉄道が開業した1889年は日本初の鉄道開通([[新橋駅|新橋]] - [[横浜市|横浜]]間)から20年近くが経過しており、すでに民衆から鉄道への抵抗感は弱まり、むしろ経済効果が注目されていた(実際に、1890年に開業した本路線の[[日野駅 (東京都)|日野駅]]をめぐっては、住民から駅を設置してほしいという請願運動があった)。
* 当時の測量技術から、仙石が無策に線を引いて路線を決めることは考えづらい。
== 関連する路線 ==
現在の[[西武鉄道|西武]][[西武国分寺線|国分寺線]]および[[西武新宿線|新宿線]]の東村山 - 本川越である川越鉄道、および[[青梅線]]である青梅鉄道は、甲武鉄道の支線にあたる。いずれも甲武鉄道が東京市内への延長線建設に追われていたため、地元の資本を利用して設立したもので、その株主は甲武鉄道の主要株主と沿線在住者で構成されていた。特に、軌間が同じである川越鉄道とは、直通運転などが実施されていた。
しかし、1906年の鉄道国有法制定によって甲武鉄道が国有化されると、川越鉄道と青梅鉄道は独立した存在となった。特に川越鉄道は、鉄道国有法原案では、甲武鉄道とともに国有化される予定となっていたが、これは[[貴族院 (日本)|貴族院]]での審議によって修正され、[[川越鉄道]]は民営鉄道としての独立を保ったという経緯があった。
甲武鉄道からの分離後、都心に接続するルートを断たれた川越鉄道は都心乗り入れを目指し、いくつかの合従連衡を経て、[[西武鉄道]]という社名になった後、1927年、山手線高田馬場駅に至る村山線を開通させた。これは、後の[[西武新宿線]]に当たる。さらに終戦直後の[[1945年]][[9月]]には、後の西武池袋線となる路線を保有していた[[武蔵野鉄道]]との合併により、現在の西武鉄道のネットワークが形作られることとなった。
一方、青梅鉄道は、当初免許が下付された青梅町までのルートからさらなる延伸を地道に続け、青梅電気鉄道への改称を経て、1929年には御嶽駅までの延伸を果たす。しかし、戦時中、青梅電気鉄道は、[[戦時買収私鉄]]の一つに数えられてしまい、1944年国有化を迎える。さらに国有化の直後には後の奥多摩駅である氷川駅までの全通を果たし、日本国有鉄道傘下となった1950年代には、中央線に直通する青梅―東京間の電車が定期化されることとなり、現在の青梅線の運転形態が形作られていった。
また、これらとは別に、雨宮が1889年3月八王子-甲府間の山梨鉄道設立を出願したが、[[甲信鉄道]]との競願の末に却下された<ref>[{{NDLDC|1920380/151}} 「山梨鉄道出願」朝野新聞1889年3月15日『新聞集成明治編年史. 第七卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>沢和哉「幻の甲信鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.308</ref>。実際に八王子と甲府が接続されるのは、官設鉄道によって工事が行われた1903年のことであり、これも1906年に甲武鉄道が国有化されると、旧甲武鉄道線と一体化した運転が行われるようになった。
== 駅一覧 ==
; 御茶ノ水-八王子間(27.8[[マイル|哩]])
: [[御茶ノ水駅]] -(0.5哩)- [[水道橋駅]] -(0.3哩)- [[飯田町駅]] -(0.5哩)- [[飯田橋駅|牛込駅]] -(0.7哩)- [[市ケ谷駅|市ヶ谷駅]] -(0.5哩)- [[四ツ谷駅]] -(0.8哩)- [[信濃町駅]] -(0.4哩)- [[千駄ケ谷駅]] -(0.6哩)- [[代々木駅]] -(0.5哩)- [[新宿駅]] -(0.9哩)- [[大久保駅 (東京都)|大久保駅]] -(0.6哩)- [[東中野駅|柏木駅]] -(1.3哩)- [[中野駅 (東京都)|中野駅]] -(2.5哩)- [[荻窪駅]] -(2.3哩)- [[吉祥寺駅]] -(2.0哩)- [[武蔵境駅|境駅]] -(3.5哩)- [[国分寺駅]] -(3.8哩)- [[立川駅]] -(2.1哩)- [[日野駅 (東京都)|日野駅]] -(1.4哩)- [[豊田駅]] -(2.6哩)- [[八王子駅]]
== 施設 ==
* 柏木変電所 [[回転変流器]](出力600V、100kW)2基
* 市ヶ谷変電所 回転変流器(出力600V、100kW)1基
『鉄道80年のあゆみ 1872-1952』、日本国有鉄道、1952年、61頁
== 運行状況 ==
開業時は1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 立川間を直通した<ref name=kapo8949/><ref name=express>新橋 - 新宿間の運行経路は、現在の[[成田エクスプレス]]新宿方面発着系統と同じであった。</ref>。八王子延伸時にも1日4往復うち1往復は新橋 - 新宿 - 八王子間を直通した<ref name=express/><ref name=kapo89810/>。1894年牛込開業時には牛込 - 八王子間6往復、牛込 - 新宿間6往復<ref>[{{NDLDC|2946720/14}} 「全国汽車発着時刻及乗車賃金表」『官報』1894年12月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:70%;"
|-
!年度
!乗客(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!益金(円)
|-
|1889||272,937||17,001||77,581||30,171||47,410
|-
|1890||357,543||30,959||92,878||40,188||52,690
|-
|1891||364,004||31,127||98,024||38,985||59,039
|-
|1892||417,895||52,558||111,768||35,891||75,877
|-
|1893||463,238||77,742||132,248||39,380||92,868
|-
|1894||847,930||99,686||161,957||46,811||115,146
|-
|1895||2,421,798||139,950||254,248||93,131||161,117
|-
|1896||3,668,233||151,373||312,237||119,212||193,025
|-
|1897||3,860,976||192,843||394,525||169,148||225,377
|-
|1898||4,163,204||234,521||408,202||202,561||205,641
|-
|1899||4,486,463||280,963||489,093||199,949||289,144
|-
|1900||4,881,973||313,729||540,493||226,674||313,819
|-
|1901||5,026,781||325,933||568,023||240,763||327,260
|-
|1902||5,197,335||315,741||596,339||240,660||355,679
|-
|1903||4,886,442||441,364||674,070||297,461||376,609
|-
|1904||5,047,767||469,166||665,754||303,373||362,381
|-
|1905||4,904,345||493,782||770,657||380,259||390,398
|-
|}
*「官私設鉄道運輸延哩程累年表」「官私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治38年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 車両 ==
国有化時は機関車13客車92貨車316<ref>[{{NDLDC|805387/329}} 『鉄道国有始末一斑』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
=== 蒸気機関車 ===
; K1形 (1, 2, 4, 5, 8, 9)
: [[イギリス|英]][[ナスミス・ウィルソン]]社製・軸配置2-4-2 (1B1) タンク機→鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#甲武鉄道|600形]] (622 - 627)
; 192→3
: 英[[ニールソン]]社製・軸配置4-4-0 (2B) テンダ機→1897年鉄道作業局に返還。のち鉄道院[[国鉄5400形蒸気機関車|5400形]] (5406)
; K2形 (6, 7)
: [[ドイツ|独]][[クラウス=マッファイ|クラウス]]社製・軸配置0-4-0 (B) タンク機→鉄道院[[国鉄10形蒸気機関車|10形]] (12, 13)
; K3形 (10-12)
: [[アメリカ合衆国|米]][[ブルックス・ロコモティブ・ワークス|ブルックス]]社製・軸配置2-6-2 (1C1) タンク機→鉄道院[[国鉄3020形蒸気機関車|3020形]] (3020 - 3022)
; K4形 (13, 14)
: 独クラウス社製・軸配置0-6-0 (C) タンク機→鉄道院[[国鉄1800形蒸気機関車#1550形|1550形]] (1550, 1551)
; K5形 (15-17)
: 独クラウス社製・軸配置0-6-0 (C) タンク機(買収後に落成)→鉄道院[[国鉄1800形蒸気機関車#2060形|2060形]] (2060 - 2062)
=== 電車 ===
東京市街線電化用として1904年に製造された、全長10mあまりの二軸電車。買収によって官設鉄道籍となり、「[[国電]]」の元祖として知られ、デ968 (→ [[松本電気鉄道]]ハニフ1)が[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]に展示保管されている。
{{see|甲武鉄道の電車}}
=== 客車 ===
すべて木製2軸車
*いろ1.2 2両 新橋工場製 定員一等12人二等16人 国有化後イロ279.280(形式274) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/55}} 形式図]
*いろ3-7 5両 甲武鉄道会社飯田町工場製 定員一等10人二等14人 国有化後イロ309-311(形式309) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/62}} 形式図]
*ろ1 1両 東京平岡工場製 定員36人 国有化後ロ744(形式744) 二等車 [{{NDLDC|2942239/112}} 形式図]
*ろ2.3 2両 飯田町製 定員32人 国有化後ロ614.615(形式503) 二等車 [{{NDLDC|2942239/99}} 形式図]
*ろ4.5 2両 飯田町製 定員26人 国有化後ロ757.758(形式746) 二等車 [{{NDLDC|2942239/116}} 形式図]
*ろ6.7 2両 平岡工場製 定員20人 国有化後ロ799.800(形式799) 二等車 [{{NDLDC|2942239/127}} 形式図]
*はぶ1-5 5両 新橋工場製 定員47人 国有化後ハフ2783-2787(形式2661) 三等緩急車 [{{NDLDC|2942239/248}} 形式図]
*は6.7.9 3両 新橋工場製 定員50人 国有化後ハ2166-2168(形式2024) 三等車 [{{NDLDC|2942239/200}} 形式図]
*は10.13 2両 平岡工場製 定員50人 国有化後ハ2302.2303(形式2302) 三等車→多摩鉄道([[西武多摩川線]])フハ1.2 [{{NDLDC|2942239/215}} 形式図]
*は11.12.14-21 10両 平岡工場製三田製作所工場製 定員50人 国有化後ハ2304-2313(形式2304) 三等車 [{{NDLDC|2942239/216}} 形式図]
*は22-24 3両 近岡製 定員34人 国有化後ハ2478-2480(形式2478) 三等車 [{{NDLDC|2942239/234}} 形式図]
*は25-37 13両 近岡製飯田町製 定員50人 国有化後ハ1760-1772(形式1005) 三等車 [{{NDLDC|2942239/183}} 形式図]
*にと1.3-5 4両 飯田町製 国有化後ユニ3909-3912(形式3906) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/388}} 形式図]
*にと2 1両 飯田町製 国有化後ユニ3913(形式3913) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/389}} 形式図]
*にと6 1両 飯田町製 国有化後ユニ3914(形式3914) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/390}} 形式図]
*にと7 1両 飯田町製 国有化後ユニ3915(形式3915) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/391}} 形式図]
*にと8 1両 飯田町製 国有化後ユニ3916(形式3916) 郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/392}} 形式図]
*に1.2 2両 平岡工場製 国有化後ニ4318.4319(形式4318) 手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/436}} 形式図]
*に3-7 5両 飯田町製 国有化後ニ4320-4324(形式4320) 手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/437}} 形式図]
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』
=== 貨車 ===
* ほ1-21 新橋工場製 有蓋貨車 鉄道院ワ6415 形( 6415-6435 )
* ほ22-25 松井工場製 有蓋貨車 鉄道院ワ14396 形( 14396-14399 )
* ほ26-35、41-54 近岡工場、甲武鉄道飯田町工場製 有蓋貨車 鉄道院ワ7571 形( 7571-7579、14400-14414 )
* ほ55-169 甲武鉄道飯田町工場、天野工場、日本車輌製 有蓋貨車 鉄道院ワ14415 形( 14415-14529 )
* へ1-3 新橋工場製 有蓋緩急車 鉄道院 ワフ2775 形( 2775-2777 ) 3
* へ4-9、15-19 甲武鉄道飯田町工場製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ4462 形( 4462-4472 )
* へ10-14 甲武鉄道飯田町工場製 有蓋緩急車 鉄道院ワフ4473 形( 4473-4477 )
* りぶ1-5 神戸工場製 土運車 鉄道院 フツ1319 形( 1319-1323 )
* りぶ6-8、13-16 松井工場、平岡工場、日本車輌製 土運車 鉄道院フツ1324 形( 1324-1330 )
* りぶ9-12 三田製作所製 土運車(手用制動機付) 鉄道院フツ1336 形( 1336-1339 )
* りぶ17-21 甲武鉄道飯田町工場製 土運車(手用制動機付) 鉄道院フツ1324 形( 1331-1335 )
* りぶ22-26 製造所不明 土運緩急車 鉄道院ツフ1000 形( 1000-1004 )
* り1、3-15 神戸工場製 土運車 鉄道院ツ3011 形( 3011-3024 )
* り16-40、57-61、63、64、66-74、76、77 松井工場、平岡工場、甲武鉄道飯田町工場、日本車輌製 土運車 鉄道院ツ2197 形( 3025-3066、2197 )
* り41-47、49-56 三田製作所製 土運車 鉄道院 ツ2204 形( 2198-2208、3067-3075 )
* ち1-5 新橋工場製 無蓋貨車 鉄道院ト9404 形( 9404-9408 )
* ち6、10、11、13-15、17、20 甲武鉄道飯田町工場製 無蓋貨車 鉄道院ト15540 形( 15540-15547 )
* ち7-9、12、16、18、19 甲武鉄道飯田町工場製 無蓋貨車 鉄道院ト15540 形( 15563-15569 )
* ち21-35 天野工場製 無蓋貨車 鉄道院ト15540 形( 15548-15552 )
==== 私有貨車 ====
1896年飯田町に工場が設けられ客車と貨車の製造がはじめられた。飯田町で製造した油槽車([[タンク車]])はすべて[[私有貨車]]であった。
* 小倉常吉所有い<ref>形式写真はゐ(「2軸&3軸のタンク車」『[[とれいん (雑誌)|とれいん]]』No.142)</ref>1-10、鉄道院ア1560形(1560-1569)
* 日本石油所有乙1-5、鉄道院ア1730形(1730-1734)
* 国油共同販売所所有コ132-136、鉄道院ア2107形(2117-2121)
『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:50%;"
|-
!年度
!機関車
!客車
!貨車
|-
|1889||2||9||20
|-
|1890||2||14||28
|-
|1891||3||14||28
|-
|1892||3||16||48
|-
|1893||3||16||66
|-
|1894||5||28||91
|-
|1895||7||28||101
|-
|1896||9||39||116
|-
|1897||11||39||146
|-
|1898||11||41||156
|-
|1899||11||42||166
|-
|1900||11||55||176
|-
|1901||10||64||176
|-
|1902||11||64||196
|-
|1903||13||64||196
|-
|1904||13||80||216
|-
|1905||13||80||266
|-
|}
* 客車の項に電車含む
*「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治38年度(国立国会図書館デジタルコレクション)
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*[[野田正穂]]・[[原田勝正]]・[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]・[[老川慶喜]]『多摩の鉄道百年』(日本経済評論社・1993)
*[[中村建治]]『中央線誕生〜甲武鉄道の開業に賭けた挑戦者たち』(本の風景社・2003)
*[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]『鉄道忌避説の謎〜汽車が来た町、来なかった町』(吉川弘文館・2006)
*大塚和之「甲武鉄道東京市街鉄道線電気運転100年」『[[鉄道ファン]]』No.524
*鉄道省 『日本鉄道史』中篇、1921年、329-343頁
* 中川浩一 他「軽便王国雨宮」丹沢新社、1972年、9-12頁
* [{{NDLDC|2385822/96}} 雨宮敬次郎『過去六十年事蹟』、1907年](国立国会図書館デジタルコレクション)
*三宅俊彦「中央本線電車区間の進展」『タイムスリップ中央線』大正出版、2003年
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{DEFAULTSORT:こうふてつとう}}
[[Category:甲武鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:東京都の交通史]]
[[Category:戦前の東京]] | 2003-04-11T12:16:58Z | 2023-12-16T05:21:38Z | false | false | false | [
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"Template:UKrail-header",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%AD%A6%E9%89%84%E9%81%93 |
6,523 | 日本鉄道 | 日本鉄道株式会社(にっぽんてつどう)は、かつて存在した日本の鉄道事業者である。1881年(明治14年)に設立された日本初の民営鉄道会社(私鉄)であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた。1906年(明治39年)に国有化された。
1872年5月、高島嘉右衛門は東京から青森に至り北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建言、却下されるも、高島は政府要人の岩倉具視を説き、鍋島直大、蜂須賀茂韶をして明治天皇および当時の政府に『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森あるいは東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走らせることを補す』ことを建言させた。こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日、設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立された。
もともと政府では井上勝をはじめとして、鉄道は国が敷設して国が保有すべきであるという意見が強かったが、西南戦争の出費などで財政が窮乏してしまったこともあり、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになった。
政府の事業として計画された中山道沿いの鉄道区間のうち、東京 - 高崎間の測量が開始されたが、前述のような理由による財政難から工事は着工されなかった。これに対して、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きがあり、日本鉄道の設立に結実した。
設立当初は、以下4路線の建設を目的にしており、そのため社名も「いずれ日本全国の鉄道をこの会社に敷設させる」目標から付けられたが、実際に建設されたのは1.にあたる東日本の路線のみであった。
1882年(明治15年)、川口 - 熊谷間から建設を開始、当初は貿易港がある品川、横浜と直結する計画であったが、山手の起伏が大きく建設費はより高額となることが見込まれたため、まずは東京下町の山下町(現台東区上野)を起点として建設が進み、1883年(明治16年)7月28日に第一区線の上野 - 熊谷間を開業、その後、第一区線の高崎、下前橋(内藤分停車場)への延伸(利根川手前)、赤羽 - 品川間の品川線(現在の赤羽線赤羽 - 池袋間と山手線池袋 - 品川間、1885年3月1日開業)、第二区線(大宮 - 白河間)、第三区線(白河 - 仙台間)、第四区線(仙台 - 盛岡間)、第五区線(盛岡 - 青森間)と順次建設し、1891年(明治24年)9月1日に現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開業した。このほか、1889年(明治22年)12月には第一区線を両毛鉄道(現両毛線)の前橋まで延伸、1890年8月1日には日光線(宇都宮 - 日光)を全通する。翌1891年(明治24年)には水戸鉄道(現水戸線小山 - 水戸間)を買収、途中駅である友部を分岐点として1895年(明治28年)11月4日に友部 - 土浦間の土浦線(現常磐線)北部区間、また1896年(明治29年)12月25日に土浦 - 田端間の同南部区間を開業する。一方で1897年(明治30年)には両毛鉄道を買収し、1898年(明治31年)8月23日には水戸 - 岩沼間の磐城線(常磐線、日本鉄道での路線名は海岸線)を全通させた。なお、同年1898年2月24日には福島の機関士などおよそ400人が日本初の鉄道ストライキに突入、ストにより上野青森間が運行休止となった。ストは4日に及び労働者側の要求(待遇改善)は大半が認められた。現在の山手線池袋 - 田端間(当初は豊島線とも呼称)が開設されたのは1903年(明治36年)4月1日のことである。
形式的には私鉄ではあったが、路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっており、建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、国有地の無償貸与、建設国営など、実質上は「半官半民」の会社であった。それに関して以下のような隠喩事例がある。
特に仙台駅以北の鉄道建設に当たっては、人口密度が低いことから開業後も十分な利益を挙げることが難しいとの理由で、国は建設中の資金利子 (8 %) を肩代わりして負担したり、官有地を無償で同鉄道に払い下げるなどの優遇措置を採っている。
以後、これに触発されるような形で山陽鉄道・九州鉄道・北海道炭礦鉄道などの新たな私鉄会社が続々と日本各地で創設され、日本の鉄道はその多くが私財で建設されることになる。
1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により、同年11月1日に国有化された。前年の規模は機関車356輌、客車847輌、貨車5731輌、路線長860 M35Cであった。
国有化後、日本鉄道が建設した路線はしばらく「元日本線」と呼ばれていたが、これでは多く路線を有していた旧日本鉄道の線区を区分するのに不都合なため、1909年(明治42年)に国有鉄道線路名称が制定され、東北本線や高崎線などといった現在の呼び名が生まれることになった。
下記は、国有化直前(1906年10月31日)における開業路線の一覧である。 路線の総延長は、859M75C。
日本鉄道では会社定款の第2条で「本会社ノ目的ハ左ニ記載スル鉄道ヲ敷設シ運輸ノ業ヲ営ムニ在リ」として次のように区分されていた。(以下では国有化直前の内容を示す)
蒸気機関車の形式は、メーカーの略称(アルファベットの大文字1字または2字)にテンダー機関車は「t」を付し、数字部分は、動軸数/総軸数で表されている。また、「b」はボギー式の2軸先台車を装備していることを表す。例えば「Dbt2/4」とは、ダブス社 (DÜbs) 製のボギー式先台車を装備したテンダー機関車で、総軸数4、動軸数2を意味する。
一方で機関車固有の番号は、形式に関わりなく追番で付与されている。日本鉄道発足当初は、機関車の輸入が官設鉄道により代行されていたこともあり、官設鉄道の機関車と通しで番号が付けられていたが、1893年(明治26年)に日本鉄道独自の一連番号に変更・改番された。その後、1898年(明治31年)にアメリカ製の機関車の番号を501から付すようにし、その際、工事用、入換用の機関車をそれぞれ「甲1」「乙1」に改めた。1903年(明治36年)以降は、401 -、701、801 -という番号区分が生じている。
ボギー客車は製作時期により3タイプにわかれる。また国有化後に基本形客車登場以前に大宮工場で製作された車両も旧日本鉄道とみなされておりここで取り上げる。
最初に登場したボギー車は1889年から1890年にかけて官設鉄道新橋工場、神戸工場で上中等車(一二等車)10両、下等車(三等車)40両が製作された。車体は官設鉄道ボギー客車に酷似しており、最大長さ49′ 3 1⁄4′′、屋根は二層で照明は油灯で屋根上にランプケースが突出ている。便所は客室中央部にあり、貫通扉はなかった。1902年になり全車貫通式に改造され三等車のうち12両がニ三等車5両三等緩急車7両に改造された。のちにこのグループは甲号ボギー客車とよばれるようになった
1899年から1900年にかけて日本鉄道大宮工場で一二等車4両、二三等車4両、三等車10両、三等手荷物緩急車4両が製作された。オープンデッキとなり、最大長さ59′6′′、屋根は二層で台枠はイギリスリード社製の魚腹形である。台車は軸ばね式と釣り合い梁式の2種があり、イギリスリーズフォージ社製。便所は客室中央部にある。のちにこれらの車両は乙号ボギー客車とよばれるようになった
1903年に日本鉄道大宮工場で一二等車6両、二三等車3両、三等車14両、三等緩急車5両が新製された。これらの車両は乙号より短くなり最大長さ52′、寒冷地を考慮しオープンデッキをやめ側扉を設置。便所は臭気を客室内に漏れないよう車端部に設置した。また貫通幌が取付けられた。台車は軸ばね式、イギリスリーズフォージ社製。台枠は乙号と同じイギリスリード社製の魚腹形でストック品を使用。丙号ボギー客車とよばれた。
国有化後の1909年に大宮工場で製作された。旧日本鉄道の記号番号が付番された。この車両で丸屋根となり一部の車両は3軸ボギー台車が採用された。照明が電燈となり屋根上に通風器(トルペード)が装備された。また台車は軸ばね式と釣り合い梁式の2種で乙号の台車より軸距が延長されている
形式図は『客車略図 下巻』国立国会図書館デジタルコレクションより
1906年に日本鉄道が青函航路向けにイギリスに発注したが、1908年竣功時には国有化されていた。 | [
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"text": "日本鉄道株式会社(にっぽんてつどう)は、かつて存在した日本の鉄道事業者である。1881年(明治14年)に設立された日本初の民営鉄道会社(私鉄)であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた。1906年(明治39年)に国有化された。",
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"text": "1872年5月、高島嘉右衛門は東京から青森に至り北海道開拓を支える鉄道の建設を政府に建言、却下されるも、高島は政府要人の岩倉具視を説き、鍋島直大、蜂須賀茂韶をして明治天皇および当時の政府に『華族と士族が家財をもって会社を建て、東京と青森あるいは東京と越後新潟に鉄路を敷き蒸気機関車を走らせることを補す』ことを建言させた。こうした経緯を経た1881年8月1日、岩倉具視をはじめとする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年11月11日、設立特許条約書が下付され、初代社長に吉井友実を選出して会社が設立された。",
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"text": "もともと政府では井上勝をはじめとして、鉄道は国が敷設して国が保有すべきであるという意見が強かったが、西南戦争の出費などで財政が窮乏してしまったこともあり、民間資本を取り入れて鉄道を敷設することになった。",
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"text": "設立当初は、以下4路線の建設を目的にしており、そのため社名も「いずれ日本全国の鉄道をこの会社に敷設させる」目標から付けられたが、実際に建設されたのは1.にあたる東日本の路線のみであった。",
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"text": "1882年(明治15年)、川口 - 熊谷間から建設を開始、当初は貿易港がある品川、横浜と直結する計画であったが、山手の起伏が大きく建設費はより高額となることが見込まれたため、まずは東京下町の山下町(現台東区上野)を起点として建設が進み、1883年(明治16年)7月28日に第一区線の上野 - 熊谷間を開業、その後、第一区線の高崎、下前橋(内藤分停車場)への延伸(利根川手前)、赤羽 - 品川間の品川線(現在の赤羽線赤羽 - 池袋間と山手線池袋 - 品川間、1885年3月1日開業)、第二区線(大宮 - 白河間)、第三区線(白河 - 仙台間)、第四区線(仙台 - 盛岡間)、第五区線(盛岡 - 青森間)と順次建設し、1891年(明治24年)9月1日に現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開業した。このほか、1889年(明治22年)12月には第一区線を両毛鉄道(現両毛線)の前橋まで延伸、1890年8月1日には日光線(宇都宮 - 日光)を全通する。翌1891年(明治24年)には水戸鉄道(現水戸線小山 - 水戸間)を買収、途中駅である友部を分岐点として1895年(明治28年)11月4日に友部 - 土浦間の土浦線(現常磐線)北部区間、また1896年(明治29年)12月25日に土浦 - 田端間の同南部区間を開業する。一方で1897年(明治30年)には両毛鉄道を買収し、1898年(明治31年)8月23日には水戸 - 岩沼間の磐城線(常磐線、日本鉄道での路線名は海岸線)を全通させた。なお、同年1898年2月24日には福島の機関士などおよそ400人が日本初の鉄道ストライキに突入、ストにより上野青森間が運行休止となった。ストは4日に及び労働者側の要求(待遇改善)は大半が認められた。現在の山手線池袋 - 田端間(当初は豊島線とも呼称)が開設されたのは1903年(明治36年)4月1日のことである。",
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"text": "形式的には私鉄ではあったが、路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっており、建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、国有地の無償貸与、建設国営など、実質上は「半官半民」の会社であった。それに関して以下のような隠喩事例がある。",
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"text": "特に仙台駅以北の鉄道建設に当たっては、人口密度が低いことから開業後も十分な利益を挙げることが難しいとの理由で、国は建設中の資金利子 (8 %) を肩代わりして負担したり、官有地を無償で同鉄道に払い下げるなどの優遇措置を採っている。",
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"text": "以後、これに触発されるような形で山陽鉄道・九州鉄道・北海道炭礦鉄道などの新たな私鉄会社が続々と日本各地で創設され、日本の鉄道はその多くが私財で建設されることになる。",
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"text": "1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により、同年11月1日に国有化された。前年の規模は機関車356輌、客車847輌、貨車5731輌、路線長860 M35Cであった。",
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"text": "国有化後、日本鉄道が建設した路線はしばらく「元日本線」と呼ばれていたが、これでは多く路線を有していた旧日本鉄道の線区を区分するのに不都合なため、1909年(明治42年)に国有鉄道線路名称が制定され、東北本線や高崎線などといった現在の呼び名が生まれることになった。",
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"text": "下記は、国有化直前(1906年10月31日)における開業路線の一覧である。 路線の総延長は、859M75C。",
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"text": "日本鉄道では会社定款の第2条で「本会社ノ目的ハ左ニ記載スル鉄道ヲ敷設シ運輸ノ業ヲ営ムニ在リ」として次のように区分されていた。(以下では国有化直前の内容を示す)",
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"text": "蒸気機関車の形式は、メーカーの略称(アルファベットの大文字1字または2字)にテンダー機関車は「t」を付し、数字部分は、動軸数/総軸数で表されている。また、「b」はボギー式の2軸先台車を装備していることを表す。例えば「Dbt2/4」とは、ダブス社 (DÜbs) 製のボギー式先台車を装備したテンダー機関車で、総軸数4、動軸数2を意味する。",
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"text": "一方で機関車固有の番号は、形式に関わりなく追番で付与されている。日本鉄道発足当初は、機関車の輸入が官設鉄道により代行されていたこともあり、官設鉄道の機関車と通しで番号が付けられていたが、1893年(明治26年)に日本鉄道独自の一連番号に変更・改番された。その後、1898年(明治31年)にアメリカ製の機関車の番号を501から付すようにし、その際、工事用、入換用の機関車をそれぞれ「甲1」「乙1」に改めた。1903年(明治36年)以降は、401 -、701、801 -という番号区分が生じている。",
"title": "車両"
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"text": "ボギー客車は製作時期により3タイプにわかれる。また国有化後に基本形客車登場以前に大宮工場で製作された車両も旧日本鉄道とみなされておりここで取り上げる。",
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"text": "最初に登場したボギー車は1889年から1890年にかけて官設鉄道新橋工場、神戸工場で上中等車(一二等車)10両、下等車(三等車)40両が製作された。車体は官設鉄道ボギー客車に酷似しており、最大長さ49′ 3 1⁄4′′、屋根は二層で照明は油灯で屋根上にランプケースが突出ている。便所は客室中央部にあり、貫通扉はなかった。1902年になり全車貫通式に改造され三等車のうち12両がニ三等車5両三等緩急車7両に改造された。のちにこのグループは甲号ボギー客車とよばれるようになった",
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"text": "1899年から1900年にかけて日本鉄道大宮工場で一二等車4両、二三等車4両、三等車10両、三等手荷物緩急車4両が製作された。オープンデッキとなり、最大長さ59′6′′、屋根は二層で台枠はイギリスリード社製の魚腹形である。台車は軸ばね式と釣り合い梁式の2種があり、イギリスリーズフォージ社製。便所は客室中央部にある。のちにこれらの車両は乙号ボギー客車とよばれるようになった",
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"text": "1903年に日本鉄道大宮工場で一二等車6両、二三等車3両、三等車14両、三等緩急車5両が新製された。これらの車両は乙号より短くなり最大長さ52′、寒冷地を考慮しオープンデッキをやめ側扉を設置。便所は臭気を客室内に漏れないよう車端部に設置した。また貫通幌が取付けられた。台車は軸ばね式、イギリスリーズフォージ社製。台枠は乙号と同じイギリスリード社製の魚腹形でストック品を使用。丙号ボギー客車とよばれた。",
"title": "車両"
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"text": "国有化後の1909年に大宮工場で製作された。旧日本鉄道の記号番号が付番された。この車両で丸屋根となり一部の車両は3軸ボギー台車が採用された。照明が電燈となり屋根上に通風器(トルペード)が装備された。また台車は軸ばね式と釣り合い梁式の2種で乙号の台車より軸距が延長されている",
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] | 日本鉄道株式会社(にっぽんてつどう)は、かつて存在した日本の鉄道事業者である。1881年(明治14年)に設立された日本初の民営鉄道会社(私鉄)であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた。1906年(明治39年)に国有化された。 | {{Otheruses|かつて存在した日本の鉄道事業者の'''日本鉄道株式会社'''|日本の鉄道全般|日本の鉄道}}
{{混同|日本鉄道事業|大日本軌道}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 日本鉄道株式会社
|ロゴ = [[File:NipponRyLogo.svg|150px]]
|画像 = [[File:View_of_Ueno-Nakasendo_railway_from_Ueno_station.jpg|250px]]
|画像説明 = 1885年(明治18年)当時の上野駅
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[東京府]][[東京市]][[下谷区]]山下町<ref name="NDLDC780118"/>
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|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 社長 [[曾我祐準]]<ref name="NDLDC780118"/>
|資本金 = 66,000,000円<ref name="NDLDC780118"/>
|特記事項 = 上記データは1903年(明治36年)現在<ref name="NDLDC780118">[{{NDLDC|780118/107}} 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
'''日本鉄道株式会社'''(にっぽんてつどう)は、かつて存在した[[日本]]の[[鉄道事業者]]である。1881年(明治14年)に設立された日本初の民営鉄道会社([[私鉄]])であり、現在の[[東北本線]]や[[高崎線]]、[[常磐線]]など、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた。1906年(明治39年)に国有化された。
== 概要 ==
[[1872年]]5月<!--明治5年12月2日(1872年12月31日)まで旧暦を使用しているため、「1872年5月」が新暦なのか旧暦なのかの検証必要。-->、[[高島嘉右衛門]]は[[東京]]から[[青森市|青森]]に至り[[北海道]]開拓を支える鉄道の建設を[[明治維新#明治政府|政府]]に建言、却下されるも、高島は政府[[要人]]の[[岩倉具視]]を説き、[[鍋島直大]]、[[蜂須賀茂韶]]をして[[明治天皇]]および当時の政府に『[[華族]]と[[士族]]が家財をもって[[会社]]を建て、東京と青森あるいは東京と[[越後国|越後]][[新潟市|新潟]]に鉄路を敷き[[蒸気機関車]]を走らせることを補す』ことを建言させた。こうした経緯を経た[[1881年]][[8月1日]]、岩倉具視をはじめとする華族などが参加して私立鉄道会社「日本鉄道」の創立が決定し、同年[[11月11日]]、設立特許条約書が下付され、初代社長に[[吉井友実]]を選出して会社が設立された<ref>[[大町雅美]]著「哀愁の野州鉄道 - 栃木県鉄道秘話 -」(随想舎発行)</ref><ref>[{{NDLDC|960214/266}} 『日本鉄道史. 上編』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
もともと政府では[[井上勝]]をはじめとして、鉄道は国が敷設して国が保有すべきであるという意見が強かったが、[[西南戦争]]の出費などで[[財政]]が窮乏してしまったこともあり、[[民間]][[資本]]を取り入れて鉄道を敷設することになった。
政府の事業として計画された[[中山道]]沿いの鉄道区間のうち、東京 - [[高崎駅|高崎]]間の[[測量]]が開始されたが、前述のような理由による財政難から工事は着工されなかった。これに対して、民間資金による鉄道の早期開業を求める動きがあり、日本鉄道の設立に結実した。
設立当初は、以下4路線の建設を目的にしており、そのため社名も「いずれ日本全国の鉄道をこの会社に敷設させる」目標から付けられたが、実際に建設されたのは1.にあたる東日本の路線のみであった<ref>[[#鉄道省 (1921)|日本鉄道史上篇]] p. 400</ref>。
# [[東京市|東京]]より[[上野国|上州]][[高崎市|高崎]]に達し此中間より[[陸奥国 (1869-)|陸奥]]青森まで
# 高崎より中山道を通し[[越前国|越前]]敦賀の線([[長浜市|長浜]] - [[敦賀市|敦賀]])に接続し即ち東西京(東京 - [[京都]])の連絡をなす
# 中山道線路中より北越新潟を経て[[出羽国|羽州]]に達す
# 九州[[豊前国|豊前]]大里([[門司区|門司]])より[[小倉市|小倉]]を経て[[肥前国|肥前]][[長崎市|長崎]]に達しこの中央より[[肥後国|肥後]]に及ぼす
[[ファイル:Fukiage Saitama Nippon Railway Railway-workers 1.jpg|thumb|第一区線を工事した当時の役員と作業員(1883年)]]
[[1882年]](明治15年)、[[川口駅|川口]] - [[熊谷駅|熊谷]]間から建設を開始、当初は[[貿易港]]がある[[品川駅|品川]]、[[横浜駅|横浜]]と直結する計画であったが、[[山の手|山手]]の起伏が大きく建設費はより高額となることが見込まれたため、まずは東京[[下町]]の山下町(現[[台東区]][[上野]])を[[起点]]として建設が進み、[[1883年]](明治16年)[[7月28日]]に第一区線の上野 - 熊谷間を開業、その後、第一区線の高崎、下前橋(内藤分停車場)への延伸([[利根川]]手前)、[[赤羽駅|赤羽]] - 品川間の品川線(現在の[[赤羽線]]赤羽 - [[池袋駅|池袋]]間と[[山手線]]池袋 - 品川間、[[1885年]][[3月1日]]開業)、第二区線([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] - [[白河駅|白河]]間)、第三区線(白河 - [[仙台駅|仙台]]間)、第四区線(仙台 - [[盛岡駅|盛岡]]間)、第五区線(盛岡 - 青森間)と順次建設し、[[1891年]](明治24年)[[9月1日]]に現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開業した。このほか、[[1889年]](明治22年)12月には第一区線を[[両毛鉄道]](現[[両毛線]])の[[前橋駅|前橋]]まで延伸、[[1890年]]8月1日には[[日光線]]([[宇都宮駅|宇都宮]] - [[日光駅|日光]])を全通する。翌1891年(明治24年)には[[水戸鉄道]](現[[水戸線]][[小山駅|小山]] - [[水戸駅|水戸]]間)を[[M&A|買収]]、途中駅である[[友部駅|友部]]を[[ジャンクション (鉄道)|分岐点]]として[[1895年]](明治28年)[[11月4日]]に友部 - [[土浦駅|土浦]]間の土浦線(現[[常磐線]])北部区間、また[[1896年]](明治29年)[[12月25日]]に土浦 - [[田端駅|田端]]間の同南部区間を開業する。一方で[[1897年]](明治30年)には両毛鉄道を買収し、[[1898年]](明治31年)[[8月23日]]には水戸 - [[岩沼駅|岩沼]]間の磐城線(常磐線、日本鉄道での路線名は海岸線)を全通させた。なお、同年1898年[[2月24日]]には福島の機関士などおよそ400人が日本初の鉄道ストライキに突入、ストにより上野青森間が運行休止となった。ストは4日に及び労働者側の要求(待遇改善)は大半が認められた。現在の山手線池袋 - 田端間(当初は[[豊島区|豊島]]線とも呼称)が開設されたのは[[1903年]](明治36年)[[4月1日]]のことである。
形式的には私鉄ではあったが、路線の建設や運営には政府及び[[官設鉄道]]が関わっており、建設路線の決定も[[国策]]的要素が優先されたり、[[国有財産|国有地]]の無償貸与、建設国営など、実質上は「[[半官半民]]」の会社であった<ref>[[#鉄道省 (1921)|日本鉄道史上篇]] pp. 698-703</ref>。それに関して以下のような[[隠喩]]事例がある。
{{Quotation|会社と云ふはほんの名称のみ、全く一個のお役所|『龍門雑誌』〔りゅうもんざっし〕第481号 1928年10月<ref>『[[#老川 (1996)|鉄道]]』(p28)</ref>}}
特に[[仙台駅]]以北の鉄道建設に当たっては、[[人口密度]]が低いことから開業後も十分な[[利益]]を挙げることが難しいとの理由で、国は建設中の資金[[利子]] (8 %) を肩代わりして負担したり、官有地を無償で同鉄道に払い下げるなどの優遇措置を採っている<ref>[[#鉄道省 (1921)|日本鉄道史上篇]] p. 403</ref>。
以後、これに触発されるような形で[[山陽鉄道]]・[[九州鉄道]]・[[北海道炭礦鉄道]]などの新たな私鉄会社が続々と日本各地で創設され、[[日本の鉄道]]はその多くが私財で建設されることになる。
[[1906年]](明治39年)公布の[[鉄道国有法]]により、同年[[11月1日]]に[[国有化]]された。前年の規模は機関車356輌、[[客車]]847輌、[[貨車]]5731輌、路線長860 [[マイル|M]]35[[チェーン (単位)|C]]であった<ref>[[#鉄道省 (1921)|日本鉄道史中篇]] p. 312</ref>。
国有化後、日本鉄道が建設した路線はしばらく「'''元日本線'''」と呼ばれていたが、これでは多く路線を有していた旧日本鉄道の線区を区分するのに不都合なため、[[1909年]](明治42年)に[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]が制定され、[[東北本線]]や[[高崎線]]などといった現在の呼び名が生まれることになった。
== 開業の歴史 ==
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header|路線概略図 |#ddd}}
{{BS-table}}
{{BS-colspan}}
国有化直前の路線<ref>
*『[[#鉄道省 (1921)|日本鉄道史]]』中篇巻末「鉄道路線図(明治39年9月末日現在)」
*『[[#逓信省 (1909)|鉄道国有始末一斑]]』巻末付図
*『日本国有鉄道百年史』3巻巻末付図</ref>
:[[File:BSicon STR.svg|{{BSpx}}]]:日本鉄道線
:[[File:BSicon BHF.svg|{{BSpx}}]]:路線分界駅
:[[File:BSicon HST.svg|{{BSpx}}]]:それ以外の駅
:[[File:BSicon exSTR.svg|{{BSpx}}]]:他社線
: <nowiki>*</nowiki> :国有化後の廃止
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{{BS7-2||||||||||[[官設鉄道|官鉄]]|}}
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{{BS7-2||BHF|||BHF|||[[水戸駅]]|[[宇都宮駅]]}}
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{{BS7-2||STR|||HST||||[[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]}}
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{{BS7-2|||||KBHFe||||[[青森駅]]}}
|}
|}
*[[1883年]][[7月28日]] 【開業】[[上野駅|上野]] - [[熊谷駅|熊谷]]<ref>[{{NDLDC|2943224/2}} 「工部省告示第11号」『官報』1883年7月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001707404 「日本鉄道会社上野熊谷間鉄道ヲ仮ニ開業セシム」『公文類聚・第七編・明治十六年・第六十巻・運輸四・橋道二・雑載・鉄道』](国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧可)</ref> 【駅新設】上野、[[王子駅|王子]]、[[浦和駅|浦和]]、[[上尾駅|上尾]]、[[鴻巣駅|鴻巣]]、熊谷
*1883年[[10月21日]] 【延伸開業】熊谷 - [[本庄駅|本庄]] 【駅新設】[[深谷駅|深谷]]、本庄
*1883年[[12月27日]] 【延伸開業】本庄 - [[新町駅|新町]] 【駅新設】新町
*[[1884年]][[5月1日]] 【延伸開業】新町 - [[高崎駅|高崎]] 【駅新設】高崎
*1884年[[8月20日]] 【延伸開業】高崎 - [[前橋駅|前橋]](内藤分停車場) 【駅新設】前橋(内藤分停車場)
*[[1885年]][[3月1日]] 【支線開業】[[品川駅|品川]] - [[赤羽駅|赤羽]] 【駅新設】品川(既設)、[[渋谷駅|渋谷]]、[[新宿駅|新宿]]、[[板橋駅|板橋]]、+赤羽、+桶川、+吹上
*1885年[[3月16日]] 【駅新設】+[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]、+[[目黒駅|目黒]]、+[[目白駅|目白]]
*1885年[[7月16日]] 【開業】大宮 - [[宇都宮駅|宇都宮]] 【駅新設】[[蓮田駅|蓮田]]、[[久喜駅|久喜]]、[[栗橋駅|栗橋]]、[[古河駅|古河]]、[[小山駅|小山]]、[[石橋駅 (栃木県)|石橋]]、宇都宮
*[[1886年]][[10月1日]] 【延伸開業】宇都宮 - [[西那須野駅|那須]] 【駅新設】[[矢板駅|矢板]]、那須
*1886年[[11月1日]] 【駅新設】+[[長久保駅|長久保]]
*1886年[[12月1日]] 【延伸開業】那須 - [[黒磯駅|黒磯]] 【駅新設】黒磯
*[[1887年]]5月1日 【駅新設】+[[倉賀野駅|倉賀野]]
*1887年7月16日 【延伸開業】黒磯 - [[郡山駅 (福島県)|郡山]] 【駅新設】[[豊原駅|豊原]]、[[白河駅|白河]]、[[矢吹駅|矢吹]]、[[須賀川駅|須賀川]]、郡山
*1887年[[12月15日]] 【延伸開業】郡山 - [[塩竈駅|塩竈]]<ref>[{{NDLDC|2944572/6}} 「鉄道開業」『官報』1887年12月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【駅新設】[[本宮駅 (福島県)|本宮]]、[[二本松駅|二本松]]、[[松川駅|松川]]、[[福島駅 (福島県)|福島]]、[[桑折駅|桑折]]、[[白石駅 (宮城県)|白石]]、[[大河原駅 (宮城県)|大河原]]、[[岩沼駅|岩沼]]、[[仙台駅|仙台]]、塩竈(初代)
*[[1888年]][[10月11日]] 【駅新設】+[[名取駅|増田]]、+[[岩切駅|岩切]]
*[[1889年]][[12月26日]] 【延伸開業】前橋(内藤分停車場)-前橋(両毛鉄道) 【駅新設】前橋(両毛鉄道) 【駅廃止】前橋(内藤分停車場)
*[[1890年]][[4月16日]] 【延伸開業】岩切 - [[一ノ関駅|一ノ関]] 【駅新設】+[[松島駅|松島(初代)]]、[[小牛田駅|小牛田]]、[[瀬峰駅|瀬峰]]、[[石越駅|石越]]、[[花泉駅|花泉]]、一ノ関<ref>[{{NDLDC|2945295/5}} 「鉄道哩数」『官報』1890年4月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1890年[[6月1日]] 【支線開業】宇都宮 - [[今市駅|今市]] 【駅新設】砥上、[[鹿沼駅|鹿沼]]、[[文挟駅|文挟]]、今市<ref>[{{NDLDC|2945326/6}} 「鉄道哩数」『官報』1890年5月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1890年[[8月1日]] 【支線延伸開業】今市 - [[日光駅|日光]] 【駅新設】日光
*1890年11月1日 【延伸開業】一ノ関 - [[盛岡駅|盛岡]] 【駅新設】[[前沢駅|前沢]]、[[水沢駅|水沢]]、[[北上駅|黒沢尻]]、[[花巻駅|花巻]]、日詰、盛岡<ref>[{{NDLDC|2945455/3}} 「鉄道哩数」『官報』1890年10月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【支線延伸開業】[[秋葉原駅|秋葉原]] - 上野(貨物線)
*[[1891年]][[1月12日]] 【駅新設】+[[越河駅|越河]]、+[[槻木駅|槻木]]<ref>[{{NDLDC|2945532/5}} 「鉄道哩数」『官報』1891年2月3日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1891年5月1日 【駅名改称】那須→西那須野
*1891年[[9月1日]] 【延伸開業】盛岡 - [[青森駅|青森]]<ref>[{{NDLDC|2945701/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1891年8月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【駅新設】+古田、+[[黒田原駅|黒田原]]、[[好摩駅|好摩]]、[[いわて沼宮内駅|沼宮内]]、[[奥中山高原駅|中山]]、[[小鳥谷駅|小鳥谷]]、[[三戸駅|三ノ戸]]、[[八戸駅|尻内]]、[[上北町駅|沼崎]]、[[野辺地駅|野辺地]]、[[小湊駅|小湊]]、[[浅虫温泉駅|浅虫]]、青森
*1891年[[12月20日]] 【駅新設】+[[二戸駅|福岡]]、+[[下田駅|下田]]<ref>[{{NDLDC|2945801/4}} 「停車場開始」『官報』1891年12月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1892年]]3月1日 【譲受】[[水戸鉄道]] 【駅新設】+[[鹿島台駅|鹿島台]]<ref>[{{NDLDC|2945862/3}} 「停車常設値及哩数」『官報』1892年3月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1893年]][[2月15日]] 【駅新設】+[[石鳥谷駅|石鳥谷]]、+[[一戸駅|一ノ戸]]
*1893年[[3月25日]] 【駅新設】+[[小金井駅|小金井]]<ref>[{{NDLDC|2946181/6}} 「鉄道哩数」『官報』1893年3月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1893年7月16日 【駅新設】+[[蕨駅|蕨]]、+[[野内駅|野内]]、+[[浦町駅|浦町]]
*[[1894年]][[1月4日]] 【支線開業】尻内 - [[本八戸駅|八ノ戸]]<ref>[{{NDLDC|2946422/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1894年1月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【駅新設】八ノ戸、+[[利府駅|利府]]、+[[新田駅 (宮城県)|新田]]、+[[乙供駅|乙供]]、+[[狩場沢駅|狩場沢]]、+[[赤塚駅|赤塚]]
*1894年[[4月1日]] 【駅新設】+[[間々田駅|間々田]]、+[[三沢駅 (青森県)|古間木]]
*1894年10月1日 【支線延伸開業】八ノ戸 - [[陸奥湊駅|湊]] 【駅新設】湊<ref>官報では「港」[{{NDLDC|2946649/4}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1894年10月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1894年[[11月2日]] 【駅新設】+長町(軍用停車場)
*[[1895年]]4月1日 【駅新設】+長岡([[伊達駅|伊達]])
*1895年[[7月1日]] 【駅新設】+[[友部駅|友部]]
*1895年[[7月6日]] 【駅新設】+[[雀宮駅|雀宮]]
*1895年[[9月25日]] 【駅新設】+[[新治駅|新治]]
*1895年[[11月4日]] 【開業】[[土浦駅|土浦]] - 友部 【駅新設】土浦、[[神立駅|神立]]、[[高浜駅 (茨城県)|高浜]]、[[石岡駅|石岡]]、[[岩間駅|岩間]]<ref>[{{NDLDC|2946982/10}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1895年11月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1895年12月1日 【駅新設】+[[羽鳥駅|羽鳥]]<ref>官報では11月4日[{{NDLDC|2946982/10}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1895年11月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1896年]][[2月25日]] 【駅新設】+[[泉崎駅|泉崎]]
*1896年4月1日 【駅新設】[[田端駅|田端]]
*1896年[[12月25日]] 【延伸開業】田端 - 土浦 【駅新設】(貨)[[隅田川駅|隅田川]]、[[南千住駅|南千住]]、[[北千住駅|北千住]]、[[松戸駅|松戸]]、[[柏駅|柏]]、[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]、[[取手駅|取手]]、[[藤代駅|藤代]]、[[牛久駅|牛久]]、[[荒川沖駅|荒川沖]]<ref>[{{NDLDC|2947343/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年1月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1897年]][[1月1日]] 【譲受】両毛鉄道
*1897年2月25日 【延伸開業】水戸 - [[いわき駅|平]] 【駅新設】[[佐和駅|佐和]]、[[大甕駅|大甕]]、[[常陸多賀駅|下孫]]、[[日立駅|助川]]、[[十王駅|川尻]]、[[高萩駅|高萩]]、[[磯原駅|磯原]]、[[大津港駅|関本]]、[[勿来駅|勿来]]、[[植田駅 (福島県)|植田]]、[[泉駅 (福島県いわき市)|泉]]、[[湯本駅|湯本]]、[[内郷駅|綴]]、平<ref>[{{NDLDC|2947381/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年2月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【駅廃止】古田、長久保 【駅新設】+[[岡本駅 (栃木県)|岡本]]、+[[氏家駅|氏家]]、+[[野崎駅 (栃木県)|野崎]]<ref>[{{NDLDC|2947382/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年3月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1897年4月1日 【駅新設】+[[山前駅|山前]]
*1897年[[5月17日]] 【駅新設】+[[亀有駅|亀有]]
*1897年6月1日 【駅新設】+[[日和田駅|日和田]]
*1897年[[6月5日]] 【駅新設】+[[片岡駅|片岡]]
*1897年7月1日 【駅新設】+[[金ケ崎駅|金ヶ崎]]、+[[剣吉駅|剣吉]]
*1897年[[8月29日]] 【延伸開業】平 - [[久ノ浜駅|久ノ浜]] 【駅新設】[[草野駅 (福島県)|草野]]、[[四ツ倉駅|四ツ倉]]、久ノ浜<ref>[{{NDLDC|2947538/6}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年9月1日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1897年[[11月10日]] 【支線開業】岩沼 - [[相馬駅|中村]] 【駅新設】中村、[[新地駅|新地]]、[[坂元駅|坂元]]、[[浜吉田駅|吉田]]、[[亘理駅|亘理]]<ref name="kap97119">[{{NDLDC|2947595/5}} 「運輸開業免許状下付」「停車場設置」『官報』1897年11月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1897年[[11月15日]] 【駅新設】+[[神保原駅|神保原]]<ref name="kap97119"/>
*1897年12月27日 【駅新設】+[[金町駅|金町]]
*[[1898年]][[1月11日]] 【駅新設】+[[岩手川口駅|川口]]
*1898年4月1日 【駅新設】[[東海駅|石神]]
*1898年[[4月3日]] 【支線延伸開業】[[原ノ町駅|原ノ町]] - 中村 【駅新設】原ノ町、[[鹿島駅|鹿島]]<ref>[{{NDLDC|2947715/7}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1898年[[5月8日]] 【駅新設】+[[稲田駅|稲田]]
*1898年[[5月11日]] 【支線延伸開業】[[小高駅|小高]] - 原ノ町 【駅新設】小高、[[磐城太田駅|高]]<ref>[{{NDLDC|2947748/6}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年5月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1898年[[5月28日]] 【駅新設】+[[平泉駅|平泉]]
*1898年[[8月6日]] 【駅新設】+[[馬橋駅|馬橋]]
*1898年[[8月23日]] 【延伸開業】久ノ浜 - 小高 【駅新設】[[広野駅 (福島県)|広野]]、[[木戸駅|木戸]]、[[富岡駅|富岡]]、[[双葉駅|長塚]]、[[浪江駅|浪江]]<ref>[{{NDLDC|2947831/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年8月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1898年9月1日 【駅新設】[[矢幅駅|矢幅]]
*1898年[[11月28日]] 【駅新設】+[[那須塩原駅|東那須野]]
*1898年12月1日 【駅名改称】高→磐城太田
*1898年 【哩程設定】田端 - 隅田川(貨物線)
*[[1899年]]10月21日 【駅新設】+[[宝積寺駅|宝積寺]]
*[[1900年]][[8月14日]] 【駅新設】+[[龍ケ崎市駅|佐貫]]
*1900年[[9月5日]] 【駅新設】+[[藤田駅|藤田]]
*[[1901年]]2月25日 【駅新設】+[[大崎駅|大崎]]、+(貨)[[恵比寿駅|恵比寿]]
*[[1902年]]3月1日 【駅名改称】岩船→岩舟
*1902年[[9月13日]] 【駅新設】+[[鶴田駅|鶴田]] 【駅廃止】砥上
*1902年11月1日 【駅名改称】岩船→岩舟
*[[1903年]]4月1日 【支線開業】田端 - [[池袋駅|池袋]] 【駅新設】+池袋、[[大塚駅 (東京都)|大塚]]、[[巣鴨駅|巣鴨]]<ref>[{{NDLDC|2949236/7}} 「運輸開始」「停車場設置」『官報』1903年4月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1904年]]4月1日 【駅新設】+(貨)[[羽黒駅 (茨城県)|羽黒]]
*1904年[[11月22日]] 【駅新設】[[大野駅|大野]]
*1904年[[12月31日]] 【駅新設】[[小繋駅|小繋]](給水所)
*[[1905年]]4月1日 【支線開業】[[日暮里駅|日暮里]] - [[三河島駅|三河島]] 【駅新設】+日暮里、+三河島<ref>[{{NDLDC|2949866/15}} 「運輸開始並停車場設置」『官報』1905年4月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*[[1906年]][[1月21日]] 【駅新設】+[[滝沢駅|滝沢]]
*1906年11月1日 【買収・国有化】全線
=== 水戸鉄道 ===
*1889年[[1月16日]] 【開業】小山 - 水戸 【駅新設】小山(既設)、結城、伊佐山、下館、岩瀬、笠間、太田町、内原、水戸
*1889年[[5月25日]] 【駅名改称】伊佐山→川島、太田町→宍戸
*1890年[[11月26日]] 【支線開業】水戸 - 那珂川(貨物線) 【駅新設】(貨)那珂川
*1890年12月1日 【駅新設】福原
*1892年3月1日 【譲渡】全線(→日本鉄道)<ref>[https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001730398 「日本鉄道会社ニ於テ水戸鉄道実収ニ付鉄道及附属ノ財産ヲ授受ニ同会社ニ於テ営業ス」『公文類聚・第十六編・明治二十五年・第三十二巻・産業一・農事・商事』](国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧可)</ref>
=== 両毛鉄道 ===
*1888年[[5月22日]] 【開業】小山 - 足利 【駅新設】小山(既設)、栃木、佐野、足利<ref>[{{NDLDC|2944696/10}} 「運輸開業」『官報』1888年5月14日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*1888年[[11月15日]] 【延伸開業】足利 - 桐生 【駅新設】桐生
*1889年[[10月10日]] 【駅新設】岩船、+小俣
*1889年[[11月20日]] 【延伸開業】桐生 - 前橋 【駅新設】大間々(初代)、国定、伊勢崎、駒形、前橋
*1893年[[2月18日]] 【駅新設】+富田
*1895年[[3月18日]] 【駅新設】+富山
*1897年1月1日 【譲渡】全線(→日本鉄道)
:※駅名の前の"+"は、既設線への新駅開業
== 路線一覧 ==
下記は、国有化直前(1906年10月31日)における開業路線の一覧である。 路線の総延長は、859[[マイル|M]]75[[チェーン (単位)|C]]<!--買収時はマイル+チェーン--><ref>[[#鉄道省 (1921)|日本鉄道史中篇]] p. 312「(明治)38年に於ける開業哩程は360哩35鎖[39年度に至り訂正し之より40鎖を減ぜり]」</ref>。
*'''上野 - 青森間''' (456M71C) - [[東北本線]]及び[[いわて銀河鉄道線]]、[[青い森鉄道線]]
*:[[上野駅]] - [[日暮里駅]] - [[田端駅]] - [[王子駅]] - [[赤羽駅]] - [[蕨駅]] - [[浦和駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[蓮田駅]] - [[久喜駅]] - [[栗橋駅]] - [[古河駅]] - [[間々田駅]] - [[小山駅]] - [[小金井駅]] - [[石橋駅 (栃木県)|石橋駅]] - [[雀宮駅]] - [[宇都宮駅]] - [[岡本駅 (栃木県)|岡本駅]] - [[宝積寺駅]] - [[氏家駅]] - [[片岡駅]] - [[矢板駅]] - [[野崎駅 (栃木県)|野崎駅]] - [[西那須野駅]] - [[那須塩原駅|東那須野駅]] - [[黒磯駅]] - [[黒田原駅]] - [[豊原駅]] - [[白河駅]] - [[泉崎駅]] - [[矢吹駅]] - [[須賀川駅]] - [[郡山駅 (福島県)|郡山駅]] - [[日和田駅]] - [[本宮駅 (福島県)|本宮駅]] - [[二本松駅]] - [[松川駅]] - [[金谷川駅]] - [[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[伊達駅|長岡駅]] - [[桑折駅]] - [[藤田駅]] - [[越河駅]] - [[白石駅 (宮城県)|白石駅]] - [[大河原駅 (宮城県)|大河原駅]] - [[槻木駅]] - [[岩沼駅]] - [[名取駅|増田駅]] - [[長町駅]] - [[仙台駅]] - [[岩切駅]] - [[利府駅]] - [[松島駅]](初代) - [[鹿島台駅]] - [[小牛田駅]] - [[瀬峰駅]] - [[新田駅 (宮城県)|新田駅]] - [[石越駅]] - [[花泉駅]] - [[一ノ関駅]] - [[平泉駅]] - [[前沢駅]] - [[水沢駅]] - [[金ケ崎駅]] - [[北上駅|黒沢尻駅]] - [[花巻駅]] - [[石鳥谷駅]] - [[日詰駅]] - [[矢幅駅]] - [[盛岡駅]] - [[滝沢駅]] - [[好摩駅]] - [[岩手川口駅|川口駅]] - [[いわて沼宮内駅|沼宮内駅]] - [[奥中山高原駅|中山駅]] - [[小繋駅|小繋給水所]] - [[小鳥谷駅]] - [[一戸駅|一ノ戸駅]] - [[二戸駅|福岡駅]] - [[三戸駅|三ノ戸駅]] - [[剣吉駅]] - [[八戸駅|尻内駅]] - [[下田駅]] - [[三沢駅 (青森県)|古間木駅]] - [[上北町駅|沼崎駅]] - [[乙供駅]] - [[野辺地駅]] - [[狩場沢駅]] - [[小湊駅]] - [[浅虫温泉駅|浅虫駅]] - [[野内駅]] - [[浦町駅]] - [[青森駅]]
*'''上野 - 秋葉原間''' (1M15C) - 東北本線の貨物支線
*:上野駅 - (貨)[[秋葉原駅]]
*'''品川 - 赤羽間''' (12M76C) - [[山手線]]の一部及び[[赤羽線]]([[埼京線]]の一部)
*:[[品川駅]] - [[大崎駅]] - [[目黒駅]] - (貨)[[恵比寿駅]] - [[渋谷駅]] - [[新宿駅]] - [[目白駅]] - [[池袋駅]] - [[板橋駅]] - 赤羽駅
*'''田端 - 池袋間''' (3M20C) - 山手線の一部
*:池袋駅 - [[大塚駅 (東京都)|大塚駅]] - [[巣鴨駅]] - 田端駅
*'''日暮里 - 岩沼間''' (213M12C) - [[常磐線]]及び貨物支線
*:日暮里駅 - [[三河島駅]] - [[南千住駅]] - [[北千住駅]] - [[亀有駅]] - [[金町駅]] - [[松戸駅]] - [[馬橋駅]] - [[柏駅]] - [[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] - [[取手駅]] - [[藤代駅]] - [[龍ケ崎市駅|佐貫駅]] - [[牛久駅]] - [[荒川沖駅]] - [[土浦駅]] - [[神立駅]] - [[高浜駅 (茨城県)|高浜駅]] - [[石岡駅]] - [[羽鳥駅]] - [[岩間駅]] - [[友部駅]] - [[内原駅]] - [[赤塚駅]] - [[水戸駅]] - [[佐和駅]] - [[東海駅|石神駅]] - [[大甕駅]] - [[常陸多賀駅|下孫駅]] - [[日立駅|助川駅]] - [[十王駅|川尻駅]] - [[高萩駅]] - [[磯原駅]] - [[大津港駅|関本駅]] - [[勿来駅]] - [[植田駅 (福島県)|植田駅]] - [[泉駅 (福島県いわき市)|泉駅]] - [[湯本駅]] - [[内郷駅|綴駅]] - [[いわき駅|平駅]] - [[草野駅 (福島県)|草野駅]] - [[四ツ倉駅]] - [[久ノ浜駅]] - [[広野駅 (福島県)|広野駅]] - [[木戸駅]] - [[富岡駅]] - [[大野駅]] - [[双葉駅|長塚駅]] - [[浪江駅]] - [[小高駅]] - [[磐城太田駅]] - [[原ノ町駅]] - [[鹿島駅]] - [[相馬駅|中村駅]] - [[新地駅]] - [[坂元駅]] - [[浜吉田駅|吉田駅]] - [[亘理駅]] - 岩沼駅
*'''田端 - 隅田川間''' (2M52C) - 常磐線の貨物支線
*:田端駅 - (貨)[[隅田川駅]]
*'''水戸 - 那珂川間''' (0M62C) - 常磐線の貨物支線(1984年廃止)
*:水戸駅 - (貨)[[那珂川駅]]
*'''大宮 - 前橋間''' (52M38C) - [[高崎線]]及び[[両毛線]]([[上越線]])の一部
*:大宮駅 - [[上尾駅]] - [[桶川駅]] - [[鴻巣駅]] - [[吹上駅 (埼玉県)|吹上駅]] - [[熊谷駅]] - [[深谷駅]] - [[本庄駅]] - [[神保原駅]] - [[新町駅]] - [[倉賀野駅]] - [[高崎駅]] - [[前橋駅]]
*'''小山 - 前橋間''' (50M74C) - 両毛線の一部
*:小山駅 - [[栃木駅]] - [[大平下駅|富山駅]] - [[岩舟駅]] - [[佐野駅]] - [[富田駅 (栃木県)|富田駅]] - [[足利駅]] - [[山前駅]] - [[小俣駅 (栃木県)|小俣駅]] - [[桐生駅]] - [[岩宿駅|大間々駅]] - [[国定駅]] - [[伊勢崎駅]] - [[駒形駅]] - 前橋駅
*'''小山 - 友部間''' (31M27C) - [[水戸線]]
*:小山駅 - [[結城駅]] - [[川島駅]] - [[下館駅]] - [[新治駅]] - [[岩瀬駅]] - (貨)[[羽黒駅 (茨城県)|羽黒駅]] - [[福原駅]] - [[稲田駅]] - [[笠間駅]] - [[宍戸駅]] - 友部駅
*'''宇都宮 - 日光間''' (25M0C) - [[日光線]]
*:宇都宮駅 - [[鶴田駅]] - [[鹿沼駅]] - [[文挟駅]] - [[今市駅]] - [[日光駅]]
*'''岩切 - 塩竈間''' (4M24C) - [[塩釜線|塩竈線]](現在廃止)
*:岩切駅 - [[塩釜埠頭駅|塩竈駅]]
*'''尻内 - 湊間''' (5M4C) - [[八戸線]]の一部
*:尻内駅 - [[本八戸駅|八ノ戸駅]] - [[湊駅 (青森県)|湊駅]]
:上記以外に北千住 - 隅田川間の貨物支線<!--(2.7M)-->があるが、哩程に計上されていない。
== 線区別の線路名称 ==
日本鉄道では会社定款の第2条で「本会社ノ目的ハ左ニ記載スル鉄道ヲ敷設シ運輸ノ業ヲ営ムニ在リ」として次のように区分されていた。(以下では国有化直前の内容を示す)
*'''本線南区'''
*:東京下谷区山下町ヨリ埼玉県下大宮ヲ経テ宮城県下仙台ニ至ル鉄道
*'''本線北区'''
*:仙台ヨリ青森県下青森ニ至ル鉄道
*'''高崎線'''
*:本線南区大宮ヨリ分岐シ群馬県下高崎ヲ経テ同県下前橋附近(利根川手前)ニ至ル鉄道
*'''海岸線'''
*:本線南区田端ヨリ分岐シ東京府下南千住ニ至ル鉄道
*:本線南区日暮里ヨリ分岐シ三河島ニ於テ前項ノ鉄道ニ連絡スル鉄道
*:第1項ノ鉄道中南千住附近ヨリ分岐シ水戸ヲ経テ岩沼ニ於テ本線南区ニ連絡スル鉄道
*:前項ノ鉄道中友部ヨリ分岐シ小山ニ於テ本線南区ニ連絡スル鉄道
*'''秋葉原線'''
*:東京下谷区山下町ヨリ同神田区佐久間町ニ至ル鉄道
*'''山手線'''
*:本線南区赤羽ヨリ分岐シ東京府下品川ニ至ル鉄道
*:本線南区田端ヨリ分岐シ池袋ニ於テ前項ノ鉄道ニ連絡スル鉄道
*'''両毛線'''
*:本線南区小山ヨリ分岐シ前橋附近ニ於テ高崎線ニ接続スル鉄道
*'''日光線'''
*:本線南区宇都宮ヨリ分岐シ栃木県下日光ニ至ル鉄道
*'''塩竈線'''
*:本線北区岩切ヨリ分岐シ宮城県下塩竈ニ至ル鉄道
*'''八戸線'''
*:本線北区尻内ヨリ分岐シ青森県下湊ニ至ル鉄道
;主な変遷
:#'''本線南区'''、'''本線北区'''、'''高崎線'''は、1906年2月8日決議の定款変更で、'''第1区'''(東京・前橋間)、'''第2区'''(大宮・白河間)、'''第3区'''(白河・仙台間)、'''第4区'''(仙台・盛岡間)、'''第5区'''(盛岡・青森間)を再編したものである。
:#'''海岸線'''は、1901年8月8日決議の定款変更で、'''水戸線'''(小山・水戸間)、'''隅田川線'''(田端・南千住間)、'''土浦線'''(南千住・友部間)、'''磐城線'''(水戸・岩沼間)を統合し、1906年2月8日決議の定款変更で、日暮里・三河島間を追加したものである。
:#'''山手線'''は、1901年8月8日決議の定款変更で、'''品川線'''(赤羽・品川間)、'''豊島線'''(田端・池袋間)を統合したものである。
== 車両 ==
{|class="wikitable" style="text-align: center"
|+日本鉄道の車両数
!rowspan="2"|年!!rowspan="2"|機関車!!rowspan="2"|客車!!colspan="2"|貨車
|-
!有蓋車!!無蓋車
|-
|1890||54||158||colspan="2"|763
|-
|1900||286||824||1,646||1,957
|-
|1905||356||857||2,345||3,386
|}
=== 蒸気機関車 ===
[[蒸気機関車]]の[[鉄道の車両番号|形式]]は、メーカーの略称(アルファベットの大文字1字または2字)に[[テンダー機関車]]は「t」を付し、数字部分は、動軸数/総軸数で表されている。また、「b」は[[ボギー台車|ボギー式]]の2軸先台車を装備していることを表す。例えば「Dbt2/4」とは、ダブス社 (DÜbs) 製のボギー式先台車を装備したテンダー機関車で、総軸数4、動軸数2を意味する。
一方で機関車固有の番号は、形式に関わりなく追番で付与されている。日本鉄道発足当初は、機関車の[[輸入]]が官設鉄道により代行されていたこともあり、官設鉄道の機関車と通しで番号が付けられていたが、1893年(明治26年)に日本鉄道独自の一連番号に変更・改番された。その後、1898年(明治31年)にアメリカ製の機関車の番号を501から付すようにし、その際、工事用、[[入換機関車|入換用の機関車]]をそれぞれ「甲1」「乙1」に改めた。1903年(明治36年)以降は、401 -、701、801 -という番号区分が生じている。
* '''Pbt2/4形'''(31、33→'''1'''(2代)、'''2''') - 1882年・英[[ベイヤー・ピーコック]]社製→鉄道院[[国鉄5300形蒸気機関車|5300形]]
* '''M3/3形'''(25→'''3'''→'''甲1''') - 1881年・英[[マニング・ワードル]]社製→鉄道院[[国鉄1290形蒸気機関車|1290形]]
* '''Dbt2/4形'''(35 - 57(奇数)→'''4 - 15''') - 1883年・英[[ダブス]]社製→鉄道院[[国鉄5130形蒸気機関車#5230形|5230形]]
* '''SS2/3形'''(36、40→'''16、17''') - 1875年・英[[シャープ・スチュアート]]社製→鉄道院[[国鉄120形蒸気機関車#130形・140形|140形]]
* '''W2/4形'''(69 - 75(奇数)→'''18 - 21''') - 1886年・英[[ナスミス・ウィルソン]]社製→1902年房総鉄道に譲渡→鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車|400形]]
* '''W2/4形'''('''18、19'''(2代)、'''31 - 36'''、'''40 - 53''') - 1888年・英ナスミス・ウィルソン社製(18、19は1902年岩越鉄道から譲受)→鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車|600形]]
* '''W3/3形'''(59→'''22'''、'''21'''(2代)) - 1885年・英ナスミス・ウィルソン社製(21は1902年岩越鉄道から譲受)→鉄道院[[国鉄1100形蒸気機関車|1100形]]
* '''D3/3形'''('''25 - 30、87 - 92、117 - 122''') - 1887年・英ダブス社製→鉄道院[[国鉄1800形蒸気機関車#1850形|1850形]]
* '''D2/4形'''('''37 - 39、66 - 71''') - 1888年・英ダブス社製→鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車|500形]]
* '''W3/4形'''(138 - 148(偶数)→'''54 - 59''' - 1889年・英ナスミス・ウィルソン社製→鉄道院[[国鉄7600形蒸気機関車|7600形]]
* '''D3/4形'''('''60 - 65''') - 1891年・英ダブス社製→鉄道院[[国鉄2100形蒸気機関車#2100形|2100形]]
* '''Nbt2/4形'''('''72 - 76''') - 1893年・英[[ニールソン]]社製→鉄道院[[国鉄5500形蒸気機関車#5630形|5630形]]
* '''Nt3/4形'''(212 - 230(偶数)→'''77 - 86''') - 1893年・英ニールソン社製→鉄道院[[国鉄7750形蒸気機関車|7750形]]
* '''Pbt2/4形'''('''93 - 104、153 - 200''') - 1894年・英ベイヤー・ピーコック社製→鉄道院[[国鉄5500形蒸気機関車|5500形]]
* '''N3/3形'''('''105 - 116''') - 1894年・英ニールソン社製→鉄道院[[国鉄1800形蒸気機関車#1960形|1960形]]
* '''K2/2形'''('''乙1''') - 1895年・独[[クラウス=マッファイ|クラウス]]社製→1902年房総鉄道に譲渡→鉄道院[[国鉄10形蒸気機関車|10形]]
* '''P3/3形'''('''123 - 152''') - 1896年・英ベイヤー・ピーコック社製→鉄道院[[国鉄1800形蒸気機関車#1900形|1900形]](147 - 152は、1902年岩越鉄道に譲渡)
* '''Db3/6形'''('''201 - 204''') - 1898年・英ダブス社製→鉄道院[[国鉄3800形蒸気機関車|3800形]]
* '''Dbt2/4形'''('''205、206''') - 1898年・英ダブス社製→鉄道院[[国鉄5830形蒸気機関車|5830形]]
* '''SSbt2/4形'''('''207 - 212''') - 1898年・英シャープ・スチュアート社製→鉄道院[[国鉄5500形蒸気機関車#5650形(東武鉄道B4形)|5650形]]
* '''Pbt2/4形'''('''213 - 230''') - 1899年・英ベイヤー・ピーコック社製→鉄道院[[国鉄5600形蒸気機関車|5600形]]
* '''Obt2/4形'''('''3'''(2代)) - 1901年・自社[[大宮総合車両センター|大宮工場]]製→鉄道院[[国鉄5130形蒸気機関車#5270形|5270形]]
* '''Pt3/4形'''('''320 - 325''') - 1902年・英ベイヤー・ピーコック社製→鉄道院[[国鉄7050形蒸気機関車|7080形]]
* '''Dt3/4形'''('''326 - 331''') - 1902年・英ダブス社製→鉄道院[[国鉄7050形蒸気機関車|7050形]]
* '''NBt3/4形'''('''332 - 337''') - 1903年・英[[ノース・ブリティッシュ・ロコモティブ]]社製→鉄道院7050形
* '''O3/3形'''('''401 - 406''') - 1904年・自社大宮工場製→鉄道院[[国鉄1100形蒸気機関車|1040形]]
* '''B3/5形'''('''501 - 505''') - 1893年・米[[ボールドウィン (車両メーカー)|ボールドウィン]]社製→鉄道院[[国鉄3250形蒸気機関車|3250形]](504は1901年[[北海道炭礦鉄道]]に譲渡)
* '''Bbt2/5形'''('''506 - 529''') - 1897年・米ボールドウィン社製→鉄道院[[国鉄6600形蒸気機関車|6600形]]
* '''Bt4/6形'''('''530 - 549''') - 1897年・米ボールドウィン社製→鉄道院[[国鉄9700形蒸気機関車|9700形]]
* '''S2/4形'''('''550 - 575''') - 1898年・米[[スケネクタディ・ロコモティブ・ワークス|スケネクタディ]]社製→鉄道院[[国鉄900形蒸気機関車|900形]]
* '''Bt4/5形'''('''576 - 587''') - 1906年・米ボールドウィン社製→鉄道院[[国鉄9300形蒸気機関車|9300形]]
* '''Rt4/5形'''('''588 - 599''') - 1906年・米[[アメリカン・ロコモティブ|アルコ]](ロジャーズ)社製→→鉄道院[[国鉄9400形蒸気機関車|9400形]]
* '''Ma2/2+2/2形'''('''701''') - 1903年・独[[J.A.マッファイ]]社製→鉄道院[[国鉄4500形蒸気機関車|4500形]]
* '''P3/5形'''('''801 - 824''') - 1904年・英ベイヤー・ピーコック社製→鉄道院[[国鉄3200形蒸気機関車|3200形]]
* '''H3/5形'''('''825 - 830''') - 1904年・独[[ハノマーク|ハノーバー]]社製→鉄道院[[国鉄3170形蒸気機関車|3170形]]
* '''HS3/5形'''('''831、832''') - 1904年・独[[ヘンシェル]]社製→鉄道院[[国鉄3240形蒸気機関車|3240形]]
* '''NB3/4形'''('''833 - 844''') - 1905年・英ノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社製(1906年[[阪鶴鉄道]]から譲受)→鉄道院[[国鉄2100形蒸気機関車#2120形・2400形・2500形|2120形]]
=== 客車 ===
ボギー客車は製作時期により3タイプにわかれる。また国有化後に[[鉄道院基本形客車|基本形客車]]登場以前に大宮工場で製作された車両も旧日本鉄道とみなされておりここで取り上げる。
最初に登場したボギー車は1889年から1890年にかけて官設鉄道新橋工場、神戸工場で上中等車(一二等車)10両、下等車(三等車)40両が製作された。車体は[{{NDLDC|2942240/79}} 官設鉄道ボギー客車]<ref>『客車略図 下巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>に酷似しており、最大長さ49′ 3 {{分数|4}}″、屋根は二層<ref>[{{NDLDC|846790/29}} 第十六図 下段『鉄道車輛名称図解』] (国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>で照明は油灯で屋根上にランプケース<ref>[{{NDLDC|846790/41}} 『鉄道車輛名称図解』]</ref>が突出ている。便所は客室中央部にあり、貫通扉はなかった。1902年になり全車貫通式に改造され三等車のうち12両がニ三等車5両三等緩急車7両に改造された<ref>[{{NDLDC|805523/41}} 『年報』明治35年日本鉄道株式会社 ](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。のちにこのグループは'''甲号ボギー客車'''とよばれるようになった
*一二等車
**いろ1-10 新橋工場製 定員一等14人二等26人 国有化後<ref>[[国鉄客車の車両形式#1911年称号規程|明治44年1月16日車両称号規程]]より</ref>ホイロ5220-5228(形式5220) いろ10は明治42年廃車。[{{NDLDC|2942240/22}} 形式図]
*二三等車
**ろは50-54 新橋工場製 定員二等18人三等34人 国有化後ホロハ5760-5764(形式5760)[{{NDLDC|2942240/60}} 形式図]
*三等車(手用制動機附)
**は1-5 新橋工場製 定員71人 国有化後フホハ7830-7834(形式7830)[{{NDLDC|2942240/109}} 形式図]
**は11-33 神戸工場製 定員71人 国有化後フホハ7835-7857(形式7830)[{{NDLDC|2942240/110}} 形式図]
*三等手荷物緩急車
**はに300-306 神戸工場製 定員34人 国有化後ホハニ8350-8356(形式8350)[{{NDLDC|2942240/141}} 形式図]
1899年から1900年にかけて日本鉄道大宮工場で一二等車4両、二三等車4両、三等車10両、三等手荷物緩急車4両が製作された。オープンデッキとなり、最大長さ59′6″、屋根は二層で[[台枠]]はイギリスリード社製の魚腹形である。台車は軸ばね式と[[鉄道車両の台車#イコライザー式|釣り合い梁式]]の2種があり、イギリスリーズフォージ社製<ref name="yosio"/>。便所は客室中央部にある。のちにこれらの車両は'''乙号ボギー客車'''とよばれるようになった
*一二等車
**いろ57-58 定員一等24人二等28人 国有化後ホイロ5230-5231(形式5230)[{{NDLDC|2942240/23}} 形式図]
**いろ59-60 定員一等28人二等24人 国有化後ホイロ5240-5241(形式5240)[{{NDLDC|2942240/24}} 形式図]
*二三等車
**ろは18-19 定員二等35人三等34人 国有化後ホロハ5740-5741(形式5740)[{{NDLDC|2942240/57}} 形式図]
**ろは20-21 定員二等35人三等34人 国有化後ホロハ5742-5743(形式5740)[{{NDLDC|2942240/58}} 形式図]
*三等車(手用制動機附)
**は357-360 定員78人 国有化後フホハ7860-7863(形式7860)[{{NDLDC|2942240/111}} 形式図]
**は361-363 定員80人 国有化後フホハ7864-7866(形式7860)[{{NDLDC|2942240/112}} 形式図]
**は364-366 定員80人 国有化後フホハ7867-7869(形式7860)[{{NDLDC|2942240/113}} 形式図]
*三等手荷物緩急車
**はに129-132 定員34人 国有化後ホハニ8340-8343(形式8340)手荷物室に開放型の側廊があり手摺がついている[{{NDLDC|2942240/140}} 形式図]
1903年に日本鉄道大宮工場で一二等車6両、二三等車3両、三等車14両、三等緩急車5両が新製された<ref>[{{NDLDC|805524/41}} 『年報』明治36年日本鉄道株式会社 ](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。これらの車両は乙号より短くなり最大長さ52′、寒冷地を考慮しオープンデッキをやめ側扉を設置。便所は臭気を客室内に漏れないよう車端部に設置した。また貫通幌が取付けられた。台車は軸ばね式<ref group="注釈">[[博物館明治村]]には[[留萌鉄道]]に払下げられた釣り合い梁式の台車が展示されている。</ref>、イギリスリーズフォージ社製。台枠は乙号と同じイギリスリード社製の魚腹形でストック品を使用。'''丙号ボギー客車'''とよばれた。
*一等寝台二等車(売店付)
**いろ61-66 定員一等12人寝室4人二等20人 登場時は食堂付で定員は5名。1909年には食堂は撤去され二等定員25人となり売店が設置された。国有化後イネロ5050-5055(形式5050)[{{NDLDC|2942240/11}} 形式図] [{{NDLDC|846790/14}} 写真] <ref>『鉄道車輛名称図解』(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
*二三等車
**ろは55-57 定員二等26人三等29人 国有化後ホロハ5750-5752(形式5750)[{{NDLDC|2942240/59}} 形式図]
*三等緩急車
**は367-372 定員三等70人 国有化後ホハフ7520-7525(形式7520)[{{NDLDC|2942240/103}} 形式図]
**は373-380 定員三等64人 国有化後ホハフ7530-7537(形式7530)[{{NDLDC|2942240/104}} 形式図]
*手荷物緩急車
**はに307-311 製造時は三等緩急車(手荷物室付)であったが1906年に全室荷物車に改造された。国有化後ホニ8860-8864(形式8860)[{{NDLDC|2942240/170}} 形式図]
国有化後の1909年に大宮工場で製作された。旧日本鉄道の記号番号が付番された。この車両で丸屋根となり一部の車両は3軸ボギー台車が採用された。照明が電燈となり屋根上に[[通風器]](トルペード<ref>[{{NDLDC|846790/42}} 「ベンチレーター」『鉄道車輛名称図解』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)が装備された。また台車は軸ばね式と[[鉄道車両の台車#イコライザー式|釣り合い梁式]]の2種で乙号の台車より軸距が延長されている<ref name="yosio">吉雄永春「ファンの目で見た台車のはなし」『レイル』No.16、プレスアイゼンバーン、64-67頁</ref>
*二三等緩急車
**ろは61-64 定員二等20人三等28人 のちにホロハフ5880-5883(形式5880)[{{NDLDC|2942240/64}} 形式図]
*三等緩急車
**は381-393 定員三等64人 のちにホハフ7540-7552(形式7540)[{{NDLDC|2942240/105}} 形式図]
*手荷物緩急車
**に312-320 のちにホニ8870-8878(形式8870)[{{NDLDC|2942240/171}} 形式図]
*二等食堂車
**ろし1-7 定員二等14人食堂11人 のちにオロシ9200-9206(形式9200)[{{NDLDC|2942240/194}} 形式図]
*一等寝台二等車
**いろ67-72 定員一等18人寝台12人二等16人 のちにオイネロ9110-9115(形式9110)[{{NDLDC|2942240/185}} 形式図]
**いろ73-74 定員一等18人寝台8人二等13人 のちにオイネロ9120-9121(形式9120)[{{NDLDC|2942240/186}} 形式図]
*二三等緩急車
**ろは58-60 定員二等20人三等28人 のちにナロハフ9460-9462(形式9460)[{{NDLDC|2942240/219}} 形式図]
形式図は『客車略図 下巻』国立国会図書館デジタルコレクションより
== 船舶 ==
1906年に日本鉄道が青函航路向けにイギリスに発注したが、1908年竣功時には国有化されていた。
* [[比羅夫丸]]<ref name="swme">[{{NDLDC|901341/149}} 『日本船名録. 明治42年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[田村丸]]<ref name="swme"/>
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
(著者・編者の五十音順)
*{{Cite book | 和書
| author=老川慶喜|authorlink=老川慶喜
| title = 鉄道
| series = 日本史小百科 - 近代
| publisher = [[東京堂出版]]
| date = 1996年9月17日
| edition = 初版
| isbn = 978-4490202908
| ref = 老川 (1996)
}}
*鈴木啓之「日本鉄道所有のボギー客車についての覚書」『鉄道史料』No.110
*{{Cite book | 和書
| title = 鉄道国有始末一斑
| author=逓信省|authorlink=逓信省
| date = 1909年(明治42年)
| pages = pp. 1012、66、地図4葉、表7葉
| publisher = 逓信省
| location = 東京
| ref = 逓信省 (1909)
}}
*{{Cite book | 和書
| title = 日本鉄道史
| author=鉄道省|authorlink=鉄道省
| date = 1921年(大正10年)
| volume = 上篇・中篇
| page = 上 pp. 395-406、684-759、巻末付図、中 pp. 289-319、856、巻末付図
| publisher = [鉄道省]
| place = [[東京]]
| ref = 鉄道省 (1921)
}}
== 関連項目 ==
関係者
*[[吉井友実]] - 初代社長
*[[井上勝]]
*[[岩倉具視]]
*[[奈良原繁]] - 2代目社長
*[[小野義眞]] - 3代目社長
<!--*[[毛利重輔]] - 4代目社長 -->
*[[曾我祐準]] - 5代目社長
日本初の私鉄とされる他の事業者
*[[東京馬車鉄道]]
*[[阪堺鉄道]]
*[[木道社]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:につほんてつとう}}
[[Category:日本鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:かつて存在した東京都の企業]]
[[Category:岩倉具視]]
[[Category:1880年代日本の設立]]
[[Category:1881年設立の企業]]
[[Category:1906年廃止の企業]] | 2003-04-11T12:21:47Z | 2023-09-17T13:36:19Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%89%84%E9%81%93 |
6,525 | 西成鉄道 | 西成鉄道()は、現在のJR西日本大阪環状線の一部及びJRゆめ咲線(桜島線)を建設した明治時代の私鉄である。
1898年、大阪 - 安治川口間を開業。旅客営業は福島 - 安治川口間のみであったが、翌1899年に大阪-福島間でも旅客営業を開始した。1904年、全区間を官設鉄道に貸し渡し、1905年に開業した安治川口-天保山(現在廃止)間も同時に貸し渡された。
1906年公布の鉄道国有法により同年12月1日に全線(4M44C)が国有化され、1909年の国有鉄道線路名称制定時に西成線となった。
西成鉄道は大阪から安治川口にいたる短い路線である。かつては僅か数年ではあるが官設鉄道安治川支線が開業していた。当時の大阪港であった安治川上流の富島は川幅、水深とも小さく汽船の大型化に対応できないため貨物は神戸港にシフトしていた。このため、安治川河口付近に築港工事(大阪港第1次修築工事)が計画されることになり、資材運搬と臨港鉄道の計画が考えられた。
まず、堺市の食満藤平らのグループが大阪駅付近より西成郡川北村大字南新田(大阪市編入後に川岸町へ改称)に至る延長3哩45鎖の川口鉄道を出願、もうひとつは西成郡下福島村の江川常太郎ら安治川付近の住人が天保山対岸の西成郡川北村大字築地(大阪市編入後に桜島町へ改称)より同郡下福島村、野田村、上福島村、曾根崎村を経て大阪にいたる延長3哩52鎖の西成鉄道を出願した。ところがこの競願は官設鉄道の敷設見込みとして却下されてしまった。このため両者は合議をはかり川口鉄道の発起人は願書を撤回し西成鉄道の計画に加わることになった。一方官設鉄道の敷設計画は予算の都合から早期実現の見込みは立たなかった。しかし安治川沿いの発展には時間の猶予は許されないという事情もあった。西成鉄道は政府による鉄道買収の求めがあるときはそれに応じるという追願を提出。その結果1894年に仮免状が下付されることになった。1896年2月に免許状が下付され、5月に起工となった。1898年3月に竣功し4月に大阪 - 安治川口間の貨物営業を開始した。なお旅客営業は大阪-福島間は連絡工事未完成のため福島-安治川口間のみとし翌年工事完成まで続けられた。
1898年に関西鉄道は大阪港との連絡をはかるため西成鉄道を買収する計画をたてた。そこで10月の臨時株主総会において議案を提出したが買収後の利益が不明であるとして実現しなかった。1902年にも買収についての話がもちあがったがこれも成立しなかった。この動きに対し関西鉄道とは競争関係にあった官設鉄道(政府)も西成鉄道買収を検討するようになっていた。 一方国有化の噂は岩下清周を西成鉄道に関与するきっかけとなった。1899年頃北浜銀行創業期の第二位の大株主であり重役の灘の酒造家鷲尾久太郎がこの西成鉄道株買占めに失敗し支払に困窮。これを救済するべく負債を肩代わりした結果15000株を銀行が引き取ることになり、まず1902年に渡邊千代三郎(のち大阪瓦斯社長)を送り込み1904年に渡邊が社長辞任後は岩下自身が国有化まで社長をすることになった。そして国有化の話はちょうど日露戦争勃発により軍用貨物及び兵員の輸送が大阪港を利用することになっていたため、とりあえず西成鉄道を借り受けることになった。やがて日露戦争終結後鉄道国有法が成立。買収される17私鉄の中では最も規模が小さかったが、もともと官設で建設する構想があり、またすでに貸し渡しされている事情から国有化されることになった。
機関車4、客車23、貨車227が引き継がれている。
すべて木製2軸車
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』 | [
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] | 西成鉄道は、現在のJR西日本大阪環状線の一部及びJRゆめ咲線(桜島線)を建設した明治時代の私鉄である。 1898年、大阪 - 安治川口間を開業。旅客営業は福島 - 安治川口間のみであったが、翌1899年に大阪-福島間でも旅客営業を開始した。1904年、全区間を官設鉄道に貸し渡し、1905年に開業した安治川口-天保山(現在廃止)間も同時に貸し渡された。 1906年公布の鉄道国有法により同年12月1日に全線(4M44C)が国有化され、1909年の国有鉄道線路名称制定時に西成線となった。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 西成鉄道
|ロゴ = [[File:NishinariRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]川岸町<ref name="NDLDC780118"/>
|設立 = [[1896年]](明治29年)2月<ref name="NDLDC780118"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 社長 [[渡邊千代三郎]]<ref name="NDLDC780118"/>
|資本金 = 1,650,000円(払込額)<ref name="NDLDC780118"/>
|特記事項 = 上記データは1903年(明治36年)現在<ref name="NDLDC780118">[{{NDLDC|780118/223}} 『日本全国諸会社役員録. 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{{読み仮名|'''西成鉄道'''|にしなりてつどう}}は、現在の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[大阪環状線]]の一部及び[[桜島線|JRゆめ咲線]](桜島線)を建設した[[明治]]時代の[[私鉄]]である。
[[1898年]]、[[大阪駅|大阪]] - [[安治川口駅|安治川口]]間を開業。旅客営業は[[福島駅 (JR西日本)|福島]] - 安治川口間のみであったが、翌[[1899年]]に大阪-福島間でも旅客営業を開始した。[[1904年]]、全区間を[[鉄道省|官設鉄道]]に貸し渡し、[[1905年]]に開業した安治川口-天保山(現在廃止)間も同時に貸し渡された。
[[1906年]]公布の[[鉄道国有法]]により同年[[12月1日]]に全線(4[[マイル|M]]44[[チェーン (単位)|C]])が国有化され<ref name="hikitsugi" >開業線4M44C、機関車4、客車23、貨車227 [{{NDLDC|805387/354}} 『鉄道国有始末一斑』 p. 650](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>、[[1909年]]の[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定時に'''西成線'''となった。
== 歴史 ==
西成鉄道は大阪から安治川口にいたる短い路線である。かつては僅か数年ではあるが[[安治川駅|官設鉄道安治川支線]]が開業していた。当時の[[大阪港]]であった[[旧淀川|安治川]]上流の富島は川幅、水深とも小さく汽船の大型化に対応できないため貨物は[[神戸港]]にシフトしていた。このため、安治川河口付近に築港工事(大阪港第1次修築工事)が計画されることになり、資材運搬と臨港鉄道の計画が考えられた。
まず、[[堺市]]の食満藤平らのグループが大阪駅付近より[[西成郡]][[川北村 (大阪府)|川北村]][[大字]]南新田(大阪市編入後に川岸町へ改称)に至る延長3哩45鎖の川口鉄道を出願、もうひとつは西成郡[[福島 (大阪市)|下福島村]]の江川常太郎ら安治川付近の住人が[[天保山]]対岸の西成郡川北村大字築地(大阪市編入後に桜島町へ改称)より同郡下福島村、[[野田村 (大阪府西成郡)|野田村]]、[[福島 (大阪市)|上福島村]]、[[曾根崎|曾根崎村]]を経て大阪にいたる延長3哩52鎖の西成鉄道を出願した。ところがこの競願は官設鉄道の敷設見込みとして却下されてしまった。このため両者は合議をはかり川口鉄道の発起人は願書を撤回し西成鉄道の計画に加わることになった。一方官設鉄道の敷設計画は予算の都合から早期実現の見込みは立たなかった。しかし安治川沿いの発展には時間の猶予は許されないという事情もあった。西成鉄道は政府による鉄道買収の求めがあるときはそれに応じるという追願を提出。その結果1894年に仮免状が下付されることになった。1896年2月に免許状が下付され、5月に起工となった。1898年3月に竣功し4月に大阪 - 安治川口間の貨物営業を開始した。なお旅客営業は大阪-福島間は連絡工事未完成のため福島-安治川口間のみとし翌年工事完成まで続けられた。
1898年に[[関西鉄道]]は大阪港との連絡をはかるため西成鉄道を買収する計画をたてた。そこで10月の臨時株主総会において議案を提出したが買収後の利益が不明であるとして実現しなかった。1902年にも買収についての話がもちあがったがこれも成立しなかった。この動きに対し関西鉄道とは競争関係にあった官設鉄道(政府)も西成鉄道買収を検討するようになっていた<ref>[{{NDLDC|1920419/33}} 「鉄道国有は国民の重荷」報知新聞1900年2月6日『新聞集成明治編年史. 第十一卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
一方国有化の噂は[[岩下清周]]を西成鉄道に関与するきっかけとなった。1899年頃[[北浜銀行]]創業期の第二位の大株主であり重役の灘の酒造家鷲尾久太郎がこの西成鉄道株買占めに失敗し支払に困窮<ref>[{{NDLDC|1920419/50}} 「大阪経済界=極度に萎縮」報知新聞1900年4月20日『新聞集成明治編年史. 第十一卷』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。これを救済するべく負債を肩代わりした結果15000株を銀行が引き取ることになり、まず1902年に渡邊千代三郎(のち大阪瓦斯社長)を送り込み1904年に渡邊が社長辞任後は岩下自身が国有化まで社長をすることになった<ref>[{{NDLDC|1223402/95}} 『岩下清周伝』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。そして国有化の話はちょうど日露戦争勃発により軍用貨物及び兵員の輸送が大阪港を利用することになっていたため、とりあえず西成鉄道を借り受けることになった。やがて日露戦争終結後[[鉄道国有法]]が成立。買収される17私鉄の中では最も規模が小さかったが、もともと官設で建設する構想があり、またすでに貸し渡しされている事情から国有化されることになった。
* 1894年(明治27年)10月 仮免状下付<ref>[{{NDLDC|805397/92}} 『鉄道局年報. 明治27年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1896年(明治29年)2月8日 免許状下付<ref>[{{NDLDC|2947070/5}} 「私設鉄道敷設免許状下付」『官報』1896年2月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1898年(明治31年)4月5日 大阪 - 安治川口間を開業。大阪-福島間は連絡工事未完成のため貨物運輸のみ<ref>[{{NDLDC|2947715/7}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1898年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1899年(明治32年)4月1日<ref>『日本鉄道史』中巻、[[日本国有鉄道百年史]]』第4巻</ref>もしくは5月1日<ref>[{{NDLDC|2948038/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年5月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 大阪-福島間の旅客営業を開始
* 1900年(明治33年)4月25日 安治川口-京都間直通貨物列車運転開始
* 1901年(明治34年)11月 肥後銀行<ref>前[[国立銀行 (明治)|第六国立銀行]]現在の肥後銀行とは別</ref>から約束手形で借り入れた5000円が返済不能となり、有体動産及び運輸収入の差押を受ける<ref>野田正穂『日本証券市場成立史』有斐閣 、1980年、142-143頁</ref>
* 1904年(明治37年)1月14日 仮免状下付(安治川口-桜島町間)<ref>[{{NDLDC|2949471/5}} 「仮免許状下付」『官報』1904年1月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1904年(明治37年)6月22日 免許状下付(安治川口-桜島町間)<ref>[{{NDLDC|2949612/7}} 「本免許状下付」『官報』1904年6月23日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1904年(明治37年)12月1日 運輸営業を廃止。鉄道作業局が継承<ref>[{{NDLDC|2949746/1}} 「逓信省告示第482号」『官報』1904年11月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1905年(明治38年)4月1日 安治川口-天保山(現在廃止)間開業<ref>[{{NDLDC|2949852/8}} 「逓信省告示第161号」『官報』1905年3月29日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* 1906年(明治39年)12月1日 鉄道国有法によりに国有化
== 路線・駅一覧 ==
*大阪-西九条-桜島-天保山(4.7M)
*:[[大阪駅]] - [[福島駅 (JR西日本)|福島駅]] - [[野田駅 (JR西日本)|野田駅]] - [[西九条駅]] - [[安治川口駅]] - [[天保山駅]]([[桜島線|JRゆめ咲線]]桜島駅の約200m北 [[桜島駅#歴史]])
[[File:Nishinari Railway Linemap 1906.svg|thumb|none|500px|路線図(1906年11月30日)]]
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;"
|-
!年度
!乗客(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!益金(円)
|-
|1898||131,677||32,314||32,278||21,528||10,750
|-
|1899||284,847||51,870||53,240||28,976||24,264
|-
|1900||391,625||93,457||53,754||34,321||19,433
|-
|1901||461,852||109,369||49,485||50,896||▲ 1,411
|-
|1902||525,528||139,610||56,703||57,535||▲ 832
|-
|1903||833,546||169,968||72,283||63,910||8,373
|-
|1904||601,621||128,612||58,062||64,321||▲ 6,259
|-
|1905||||||100,402||10,611||89,791
|-
|}
*「官私設鉄道運輸延哩程累年表」「官私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治38年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 車両 ==
機関車4、客車23、貨車227が引き継がれている<ref name="hikitsugi" />。
=== 蒸気機関車 ===
;形式甲1 - 1-4
:1896年、[[イギリス|英]][[ダブス]]社製[[車輪配置 0-6-0|0-6-0 (C)]] 形タンク機
:1900年、1を[[北海道官設鉄道]]、3を[[徳島鉄道]]に譲渡
:[[鉄道院]][[国鉄1100形蒸気機関車#1150形・1270形(ダブス製1100系)|1150形]] (1150, 1151)
;1(2代)
:1901年、英[[ナスミス・ウィルソン]]社製[[車輪配置 2-4-2|2-4-2 (1B1)]] 形タンク機
:[[総武鉄道 (初代)|総武鉄道]]から譲受
:[[北海道鉄道 (初代)|北海道鉄道]]に譲渡。国有化後[[国鉄400形蒸気機関車|600形]] (647)
;1(3代), 3(2代)
:1903年、[[汽車製造]]製[[車輪配置 2-4-0|2-4-0 (1B)]] 形タンク機
:鉄道院[[国鉄170形蒸気機関車|170形]] (170, 171)
=== 客車 ===
すべて木製2軸車
*いろ1.2 2両 東京[[平岡工場]]製 定員一等12人二等16人 国有化後イロ303, 304(形式274) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/60}} 形式図]
*いろ3 1両 東京平岡工場製 定員一等12人二等16人 国有化後イロ316(形式315) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/66}} 形式図]
*は1-6 6両 東京平岡工場製 定員50人国有化後ハ2211-2216(形式2195) 三等車 [{{NDLDC|2942239/209}} 形式図]
*は7-16 10両 東京平岡工場製 定員50人 国有化後ハ2427-2436(形式2427) 三等車 [{{NDLDC|2942239/228}} 形式図]
*はふ1-4 4両 東京平岡工場製 定員30人 この車両のように明治時代の単車には張り出し窓がつけられている車両が多数存在しており、車掌が列車の状況を確認していた。国有化後ハニ3669-3672(形式3662)三等手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/339}} 形式図]
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』
=== 貨車 ===
* へ1-15、[[鉄道車両製造所]]製、鉄製有蓋貨車、鉄道院テハワ951形(951-965)
* に1-54、平岡工場製、有蓋貨車、鉄道院ワ15234形(15234-15287)
* にふ1-4、平岡工場製、有蓋緩急車、鉄道院ワフ4579形(4579-4582)
* ほ100-168、西成鉄道製、無蓋貨車、鉄道院ト16104形(15612-16580)
* ほ169-208、汽車製造松井工場三田製作所製、無蓋貨車、鉄道院ト16104形(16104-16123、16851-16590、16234-16243)
* ほ300-314、鉄道車両製造所製、無蓋貨車、鉄道院ト16244形(16591-16605)
* ほ315-318、320-324,三田製作所製、無蓋貨車、鉄道院ト16244形(16244-16252)
* ほ325-344、汽車製造製、無蓋貨車、鉄道院ト15862形(15862-15881)
* 『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻[[鉄道史資料保存会]]1990年)計226両と国有化時より1両足りない
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;"
|-
! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車
|-
|1898||4||23||127
|-
|1899||2||23||212
|-
|1900||2||23||227
|-
|1901||3||23||227
|-
|1902||3||23||227
|-
|1903||4||23||227
|-
|1904||4||23||227
|-
|1905||4||23||227
|-
|}
*[{{NDLDC|805404/158}} 「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治38年度](国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*{{Cite book | 和書 | title = 日本鉄道史 | author= 鉄道省|authorlink=鉄道省 | year = 1921 | volume = 中篇 | pages = 355-356,552-558,857 | publisher = [鉄道省] | location = [東京] }}
*{{Cite book | 和書 | title = 新日本鉄道史 | author = 川上幸義 | year = 1968 | volume = 下 | pages = 258-259 | publisher = 鉄道図書刊行会 | location = 東京 }}
*{{Cite book | 和書 | title = 鉄道国有始末一斑 | author= 逓信省|authorlink=逓信省 | year = 1909 | pages = <!--pp. 1012 + 66 + 地図4 + 表7--> | publisher = 逓信省 | location = 東京 }}
*武知京三「西成鉄道の成立と展開」『大阪の歴史』No.7、大阪市史編纂所、1983年
*[[谷山花猿|伊牟田敏充]]「岩下清周と北浜銀行」『資本主義の形成と発展』東京大学出版会、1968年
*今城光秀「私設鉄道経営者・技術者一覧」『大東文化大学経営論集』第2号
== 関連項目 ==
* [[今村清之助]] 創業期取締役
* [[岩下清周]]国有化時の取締役社長
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
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[[Category:西成鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
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6,526 | 総武鉄道 | 総武鉄道(そうぶてつどう)という名称の鉄道会社は、過去に2つある。どちらも下総国(総州)と武蔵国(武州)とを結ぶ鉄道であった。 | [
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2代:1929年(昭和4年)11月22日に北総鉄道(現在の北総鉄道とは無関係)から改称し、1944年(昭和19年)3月1日に東武鉄道に合併され、消滅した。東武野田線#北総鉄道・総武鉄道を参照。 | '''総武鉄道'''(そうぶてつどう)という名称の鉄道会社は、過去に2つある。どちらも下総国(総州)と武蔵国(武州)とを結ぶ鉄道であった。
* 初代:旧総州鉄道・武総鉄道(いずれも1887年設立、翌年建設申請却下により解散した未成線)を母体として1889年(明治22年)に設立され、1894年(明治27年)7月20日に市川 - 佐倉間が開通した。1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により、1907年(明治40年)9月1日にとして国有化された。[[総武本線#総武鉄道]]を参照。
* 2代:1929年(昭和4年)11月22日に北総鉄道(現在の[[北総鉄道]](旧・北総開発鉄道)とは無関係)から改称し、1944年(昭和19年)3月1日に東武鉄道に合併され、消滅した。[[東武野田線#北総鉄道・総武鉄道]]を参照。
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6,530 | 関西鉄道 | 関西鉄道(關西鐵道。かんせいてつどう、かんさいてつどう)は、明治時代に存在した鉄道会社。大阪府中東部・京都府・三重県・奈良県と滋賀県・和歌山県に路線を展開した。
現在JR東海・JR西日本が保有する関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・奈良線・大阪環状線の前身である。本社は三重県四日市市にあったが後に事務所は大阪に移転した。 官営鉄道(官鉄)東海道線のルートから外れた三重県・滋賀県の旧東海道沿いの地域を東海道線と連絡する目的で開業したが、周辺鉄道会社を合併することで路線規模を広げ、名古屋 - 大阪間の独自直通ルート開設を実現した。東海道線との間で壮絶な旅客獲得競争を繰り広げたことが後世まで有名になっている(後述)。 旅客サービスや車両技術において先進的な試みを行ったことでも知られるが、この背景として、日本の鉄道技術の先駆者と言われる島安次郎が初期に技師として同社に在職していたことがあげられる。
関西鉄道の『関西』の読みは「かんせい」または「かんさい」の二例が確認されている。関西鉄道運輸課が発行したポストカードにはKANSAIの文字が見られる一方、旧交通博物館所蔵の関西鉄道の文書にカンセイテツドウという片仮名の文字があるなど、当事者作成の書類でさえ表記に揺れがあった。
関西鉄道が保有した機関車の先頭部に取り付けられた車番のプレートには「KANSEI RAILWAY COMPANY」と記され、図面もKANSEIで統一されていた。一方、『日本鉄道一覧表』(内務省鉄道庁、1892年)には「KWANSAI RAILWAY COMPANY」と記載されている(字音仮名遣により「か(ka)」を「くゎ(kwa)」とする表記も当時は見られ、『日本鉄道一覧表』の英文表記もそれにあたる)。
1888年、官設鉄道の経路から外れた東海道沿いの滋賀、三重県下の都市を東海道線に結ぶ目的で四日市で設立された。1895年、当初の目標であった名古屋駅と草津駅を結ぶ鉄道が完成した後は大阪進出を目指して、大阪の複数の鉄道会社と合併交渉を開始した。
その後、路線を西へ奈良まで延長し、片町 - 四条畷を開業していた浪速鉄道および四条畷から木津方面の路線免許を持つ(未開業の)城河鉄道を合併して現在の片町線経由で名阪間を開通、1898年に大阪片町にターミナルを入手した。しかし、敷地の拡張が困難なため網島(廃止)に起点を移設した。さらに大阪鉄道 (初代)を合併し、湊町(現:JR難波駅)にターミナルを再度移転させた。これでJR難波駅から天王寺駅、奈良駅を経由する現在の路線が完成した。
名阪全通に伴い、官設鉄道との間でこの区間の旅客・貨物を巡る争奪戦が始まった。これは、関西鉄道を吸収した側の官鉄の正史ともいえる「日本鉄道史」にも紙幅を割いて触れられるほどであった。
関西鉄道は、昼行1往復・夜行1往復で料金不要の急行列車を設定した。新式の「早風(はやかぜ)」(後の国鉄6500形蒸気機関車)と名づけられた蒸気機関車を用いた急行は、同区間を昼行では下り5時間34分・上り5時間16分、夜行は下り6時間41分・上り6時間3分で走破した。この時、官鉄の下り急行列車は名古屋駅 - 大阪駅間において昼行が6時間4分、夜行が5時間20分で走破し、運賃も同額の1円21銭であったから、勝負はほぼ互角であった。
1900年(明治33年)の関西本線ルート(湊町駅 - 名古屋駅)完成後は昼行急行に関してはこちらのルートを通すようになった。しかし所要時間はこの時若干伸びた。その後、1902年(明治35年)には再び所要時間を短縮し、5時間弱の運転とした。急行列車には1904年(明治37年)より食堂車も連結されるようになった。
1902年(明治35年)8月1日、官鉄の同区間の片道運賃が1円77銭・往復運賃が2円30銭だったのに対して、関西鉄道が往復運賃を2円(片道は1円47銭)に値下げると、官鉄は同月6日に往復運賃を1円47銭に値下げし、往復運賃が片道運賃を下回るという事態になった。関西鉄道もすぐさま往復運賃を1円50銭に値下げし、団扇などといった小物のサービスを行うなどして競争は泥沼化して行った。
同年末に名古屋商業会議所の建議により大阪府知事、国会議員等の調停がなされ和解が成立したものの、翌年10月になって関西鉄道側が一方的に協定を破棄する形で競争が再開され、同鉄道は片道運賃を1円10銭・往復運賃を1円20銭とし弁当なども無料でサービスした。この競争は、1904年(明治37年)2月に日露戦争が勃発したことで輸送が軍需優先となったため、同年5月にようやく終結した。
合併によって近畿地方での存在感が高まるにつれ、周辺の私鉄が関西鉄道に合流する動きがでてきた。1904年に紀和鉄道が合併した後、同年に近畿鉄道合同委員会を設け南和鉄道、奈良鉄道が合流した。南海鉄道は委員会に加わったものの合流に至らなかった。
その後関西鉄道は、1906年(明治39年)公布の鉄道国有法により1907年(明治40年)10月1日に国有化された。路線299M16C(開業線280M72C、未開業線18M24C)機関車121、客車571、貨車1273が引き継がれた。一地方のみの路線であるので国有化を除外されたいとの請願書を出したが受け入れられなかった。
国有化直前、同社は主要幹線である湊町 - 奈良 - 七条(京都)間と、名古屋 - 河原田間および城東線(現:大阪環状線)の電化計画を立てて認可を受けていたが、これは国有化に当たって買収額を高くするための方策であったとする見方もある。電化は国有化後全く顧みられず、1914年(大正3年)以降に発展した大阪電気軌道・奈良電気鉄道・伊勢電気鉄道(何れも今日の近畿日本鉄道)の路線網に機能をとって代わられた。1973年(昭和48年)になってようやく関西本線の奈良 - 湊町間が電化され、現在では関西本線の亀山 - 加茂間以外は電化が完了している。
特記なき項は『日本鉄道史』による
関西鉄道の蒸気機関車の形式は、原則として同形機の最初の番号を採ったが、形式ごとに日本語によるクラス名が付けられており、特色となっていた。駿馬の名など古典文学に多く由来しており、特に磨墨・池月は平家物語に登場し、宇治川の合戦の先陣争いで知られた源頼朝の愛馬から採られている。 | [
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] | 関西鉄道(關西鐵道。かんせいてつどう、かんさいてつどう)は、明治時代に存在した鉄道会社。大阪府中東部・京都府・三重県・奈良県と滋賀県・和歌山県に路線を展開した。 現在JR東海・JR西日本が保有する関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・奈良線・大阪環状線の前身である。本社は三重県四日市市にあったが後に事務所は大阪に移転した。
官営鉄道(官鉄)東海道線のルートから外れた三重県・滋賀県の旧東海道沿いの地域を東海道線と連絡する目的で開業したが、周辺鉄道会社を合併することで路線規模を広げ、名古屋 - 大阪間の独自直通ルート開設を実現した。東海道線との間で壮絶な旅客獲得競争を繰り広げたことが後世まで有名になっている(後述)。
旅客サービスや車両技術において先進的な試みを行ったことでも知られるが、この背景として、日本の鉄道技術の先駆者と言われる島安次郎が初期に技師として同社に在職していたことがあげられる。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 関西鉄道
|ロゴ = [[File:KanseiRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[三重県]][[四日市市]]浜田町<ref name="NDLDC780119-527"/>
|設立 = [[1888年]](明治21年)3月<ref name="NDLDC780119-527"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 取締役社長 [[片岡直温]]<ref name="NDLDC780119-527"/>
|資本金 = 24,181,800円(払込額)<ref name="NDLDC780119-527"/>
|関係する人物 = [[前島密]]、[[鶴原定吉]]、[[島安次郎]]
|特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119-527">{{Cite book|和書|doi=10.11501/780119|chapterurl={{NDLDC|780119/527}}|title=日本全国諸会社役員録|issue=明治40年|publisher=商業興信所|date=1907|chapter=下編 三重県之部|pages=下編167}}</ref>。}}
'''関西鉄道'''(關西鐵道。かんせいてつどう、かんさいてつどう<ref>{{Cite book|和書 |author=和久田康夫 |year=1984 |title=私鉄史ハンドブック |publisher=電気車研究会 |ISBN=4-88548-065-5 |page= 192}} 「カンセイ(カンサイ)」と表記。</ref>)は、[[明治]]時代に存在した[[鉄道事業者|鉄道会社]]。大阪府中東部・京都府・三重県・奈良県と滋賀県・和歌山県に路線を展開した。
現在[[東海旅客鉄道|JR東海]]・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が保有する[[関西本線]]・[[草津線]]・[[片町線]]・[[紀勢本線]]・[[桜井線]]・[[和歌山線]]・[[奈良線]]・[[大阪環状線]]の前身である。本社は[[三重県]][[四日市市]]にあったが後に事務所は大阪に移転した<ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 p. 357「(明治)33年1月15日網島に大阪事務所[後35年9月之を湊町に移転せり]を設け3月1日より社長以下職員該事務所に於て全般の社務を行うものとし」</ref>。
官営鉄道(官鉄)[[東海道本線|東海道線]]のルートから外れた三重県・[[滋賀県]]の旧[[東海道]]沿いの地域を東海道線と連絡する目的で開業したが、周辺鉄道会社を合併することで路線規模を広げ、名古屋 - 大阪間の独自直通ルート開設を実現した。東海道線との間で壮絶な旅客獲得競争を繰り広げたことが後世まで有名になっている([[#官鉄との競争|後述]])。
旅客サービスや車両技術において先進的な試みを行ったことでも知られるが、この背景として、日本の鉄道技術の先駆者と言われる[[島安次郎]]が初期に技師として同社に在職していた<ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 p. 371「(明治)31年末に在りては(中略)汽車課長島安次郎(中略)在任せしが(中略)34年5月汽車課長島安次郎辞し」</ref>ことがあげられる。
== 社名 ==
関西鉄道の『関西』の読みは「かん'''せ'''い」または「かん'''さ'''い」の二例が確認されている。関西鉄道運輸課が発行したポストカードにはKANSAIの文字が見られる一方、旧交通博物館所蔵の関西鉄道の文書にカンセイテツドウという片仮名の文字があるなど、当事者作成の書類でさえ表記に揺れがあった<ref>{{Cite book|和書|author=辻 良樹|title=関西 鉄道考古学探見|pages=28,34|publisher=JTBパブリッシング|date=2007-11|isbn=9784533069086}}</ref>。
関西鉄道が保有した機関車の先頭部に取り付けられた車番のプレートには「'''KANSEI''' RAILWAY COMPANY」と記され、図面もKANSEIで統一されていた<ref>{{Cite book|和書 |year=2006| author = 奥田晴彦 |title=関西鉄道史 |publisher=鉄道史資料保存会 |pages=□5(四角5)、□21(四角21)}}</ref>。一方、『日本鉄道一覧表』([[内務省 (日本)|内務省]]鉄道庁、1892年)には「'''KWANSAI''' RAILWAY COMPANY」と記載されている<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/1081739|chapterurl={{NDLDC|1081739/8}}|title=日本鐵道一覽表 明治25年2月調|publisher=鐵道廳|date=1892|chapter=鉄道会社 路線一覧|pages=8}}</ref>([[字音仮名遣]]により[[ゎ#日本語における発音|「か(ka)」を「くゎ(kwa)」とする表記]]も当時は見られ<ref>{{Cite book|和書 |year=1910 |title=日本百科大辞典 |volume=第三巻 |publisher=三省堂 |page= 944}}</ref>、『日本鉄道一覧表』の英文表記もそれにあたる)。
== 沿革 ==
=== 設立から名阪全通 ===
1888年、官設鉄道の経路から外れた東海道沿いの滋賀、三重県下の都市を東海道線に結ぶ目的で[[四日市市|四日市]]で設立された<ref>『[[#tetsudoshi1|日本鉄道史]]』上篇 pp. 812-814</ref>。1895年、当初の目標であった[[名古屋駅]]と[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]を結ぶ鉄道が完成した後は大阪進出を目指して、大阪の複数の鉄道会社と合併交渉を開始した<!-- ref『日本国有鉄道百年史』第4巻 p. ?? /ref -->。
その後、路線を西へ奈良まで延長し、[[片町駅|片町]] - [[四条畷駅|四条畷]]を開業していた'''浪速鉄道'''および四条畷から木津方面の路線免許を持つ(未開業の)'''城河鉄道'''を合併して現在の[[片町線]]経由で名阪間を開通、1898年に大阪片町にターミナルを入手した。しかし、敷地の拡張が困難なため[[網島駅|網島]](廃止)に起点を移設した。さらに[[大阪鉄道 (初代)]]を合併し、湊町(現:[[JR難波駅]])にターミナルを再度移転させた。これで[[JR難波駅]]から[[天王寺駅]]、[[奈良駅]]を経由する現在の路線が完成した。
=== 官鉄との競争 ===
名阪全通に伴い、官設鉄道との間でこの区間の旅客・貨物を巡る[[競争|争奪戦]]が始まった。これは、関西鉄道を吸収した側の官鉄の正史ともいえる「日本鉄道史」にも紙幅を割いて触れられるほどであった<ref>『[[#tetsudoshi2a|日本鉄道史]]』中篇 pp. 172-178, 361</ref>。
関西鉄道は、昼行1往復・夜行1往復で[[急行券|料金]]不要の[[急行列車]]を設定した。新式の「早風(はやかぜ)」(後の[[国鉄6500形蒸気機関車]])と名づけられた[[蒸気機関車]]を用いた急行は、同区間を昼行では下り5時間34分・上り5時間16分、夜行は下り6時間41分・上り6時間3分で走破した。この時、官鉄の下り急行列車は名古屋駅 - [[大阪駅]]間において昼行が6時間4分、夜行が5時間20分で走破し、[[運賃]]も同額の1円21銭であったから、勝負はほぼ互角であった。
[[1900年]](明治33年)の関西本線ルート(湊町駅 - 名古屋駅)完成後は昼行急行に関してはこちらのルートを通すようになった。しかし所要時間はこの時若干伸びた。その後、[[1902年]](明治35年)には再び所要時間を短縮し、5時間弱の運転とした。急行列車には[[1904年]](明治37年)より[[食堂車]]も連結されるようになった。
1902年(明治35年)8月1日、官鉄の同区間の片道運賃が1円77銭・往復運賃が2円30銭だったのに対して、関西鉄道が往復運賃を2円(片道は1円47銭)に値下げると、官鉄は同月6日に往復運賃を1円47銭に値下げし、往復運賃が片道運賃を下回るという事態になった。関西鉄道もすぐさま往復運賃を1円50銭に値下げし、団扇などといった小物のサービスを行うなどして競争は泥沼化して行った。
同年末に名古屋[[商業会議所]]の建議により大阪府知事、国会議員等の[[調停]]がなされ和解が成立したものの、翌年10月になって関西鉄道側が一方的に協定を破棄する形で競争が再開され、同鉄道は片道運賃を1円10銭・往復運賃を1円20銭とし[[弁当]]なども無料でサービスした。この競争は、1904年(明治37年)2月に[[日露戦争]]が勃発したことで輸送が軍需優先となったため、同年5月にようやく終結した。
=== 近畿鉄道合同 ===
合併によって近畿地方での存在感が高まるにつれ、周辺の私鉄が関西鉄道に合流する動きがでてきた。[[1904年]]に[[紀和鉄道]]が合併した後、同年に近畿鉄道合同委員会を設け<ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 pp. 363-364</ref>[[南和鉄道]]、[[奈良鉄道]]が合流した。[[南海電気鉄道|南海鉄道]]は委員会に加わったものの合流に至らなかった。
=== 国有化 ===
その後関西鉄道は、[[1906年]](明治39年)公布の[[鉄道国有法]]により[[1907年]](明治40年)[[10月1日]]に国有化された。路線299[[マイル|M]]16[[チェーン (単位)|C]](開業線280M72C、未開業線18M24C)機関車121、客車571、貨車1273が引き継がれた<ref>『[[#ippan|鉄道国有始末一斑]]』p. 740</ref>。一地方のみの路線であるので国有化を除外されたいとの請願書を出したが受け入れられなかった<ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 pp. 367-368。競合路線である関西鉄道を民営のままに残す考えはなかったといわれる。</ref>。
国有化直前、同社は主要幹線である湊町 - 奈良 - [[京都駅|七条]](京都)間と、名古屋 - [[河原田駅|河原田]]間および城東線(現:[[大阪環状線]])の電化計画を立てて認可を受けていた<ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 p. 368</ref>が、これは国有化に当たって買収額を高くするための方策であったとする見方もある。電化は国有化後全く顧みられず、[[1914年]](大正3年)以降に発展した[[大阪電気軌道]]・[[奈良電気鉄道]]・[[伊勢電気鉄道]](何れも今日の[[近畿日本鉄道]])の路線網に機能をとって代わられた。[[1973年]](昭和48年)になってようやく[[関西本線]]の奈良 - 湊町間が電化され、現在では関西本線の亀山 - 加茂間以外は電化が完了している。
=== 年表 ===
[[File:Tsuge Station in Meiji era.jpg|thumb|関西鉄道時代の[[柘植駅]]・1898年(明治31年)発行「関西参宮鉄道案内記」より]]
[[File:Kajigaya-Zuidō.jpg|thumb|木津川市に残る大仏線の遺構・梶ヶ谷隧道]]
[[ファイル:Kokubu bridge, Minakuchi, Koka 01.jpg|サムネイル|関西鉄道の社紋が残る[[草津線]]の国分橋梁([[滋賀県]][[甲賀市]])]]
特記なき項は『[[#tetsudoshi|日本鉄道史]]』による
* [[1888年]](明治21年)3月1日:三重県四日市市に資本金300万円で設立が許可。
* [[1889年]](明治22年)12月15日:[[草津駅 (滋賀県)|草津]] - [[三雲駅|三雲]]間開業<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/2945185|chapterurl={{NDLDC|2945185/5}}|title=官報|issue=1936号(1889年12月10日)|publisher=大蔵省印刷局|date=1889-12-10|chapter=通運 - 鉄道運輸開業免許状下付|pages=108}}</ref><ref>運賃及び時刻表掲載{{Cite book|chapterurl=https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001723750 |chapter=関西鉄道会社鉄道草津三雲間運輸ヲ開始ス|title=公文類聚・第十三編・明治二十二年・第四十九巻・運輸九・橋道鉄道附四|url=https://www.digital.archives.go.jp/file/1695794.html|publisher=国立公文書館デジタルアーカイブ|和書|date=1889|accessdate=2023-12-06}}</ref>。
* [[1890年]](明治23年)
** 2月19日:三雲 - [[柘植駅|柘植]]間開通<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/2945240|chapterurl={{NDLDC|2945240/7}}|title=官報|issue=1988号(1890年02月18日)|publisher=大蔵省印刷局|date=1890-02-18|chapter=関西鉄道 三雲柘植間延長線開業広告|pages=184}}</ref><ref>運賃及び時刻表掲載{{Cite book|chapterurl=https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001726927 |chapter=関西鉄道線路中三雲柘植間運輸ヲ開業ス|title=公文類聚・第十四編・明治二十三年・第六十五巻・運輸七・橋道二鉄道附|url=https://www.digital.archives.go.jp/file/1717849.html |publisher=国立公文書館デジタルアーカイブ|和書|date=1890|accessdate=2023-12-06}}</ref>、現在の[[草津線]]全通。
** 12月25日:[[四日市駅|四日市]] - 柘植間開業<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/2945503|chapterurl={{NDLDC|2945503/8}}|title=官報|issue=2249号(1890年12月25日)|publisher=大蔵省印刷局|date=1890-12-25|chapter=関西鉄道 幹線全通広告|pages=346}}</ref><ref>運賃及び時刻表掲載{{Cite book|chapterurl=https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001726979 |chapter=関西鉄道会社鉄道線四日市柘植間乗車賃金ヲ定ム|title=公文類聚・第十四編・明治二十三年・第六十五巻・運輸七・橋道二鉄道附|url=https://www.digital.archives.go.jp/file/1717849.html |publisher=国立公文書館デジタルアーカイブ|和書|date=1890|accessdate=2023-12-06}}</ref>。
* [[1891年]](明治24年)
** 8月21日:[[亀山駅 (三重県)|亀山]] - [[一身田駅|一身田]]間開業<ref>{{Cite news|和書|title=龜山一身田間鐵道開通の景況|newspaper=伊勢新聞|date=1891-08-22|page=1}}</ref>。
** 11月4日:一身田 - [[津駅|津]]間開業<ref>{{Cite news|和書|title=關鉄津一身田間開通式|newspaper=伊勢新聞|date=1891-11-05|page=1}}。なお『日本鉄道史』上篇 p.817 では11月3日となっている。</ref>。
* [[1894年]](明治27年)7月5日:四日市 - 桑名仮停車場間延伸開業<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/805397|chapterurl={{NDLDC|805397/93}}|title=鉄道局年報|issue=明治26年度|publisher=逓信省鉄道局|date=1894|chapter=私設鉄道|pages=71}}</ref>。
* [[1895年]](明治28年)
** 5月24日:桑名仮停車場 - [[桑名駅|桑名]]間延伸開業、および[[名古屋駅|名古屋]] - [[弥富駅|前ヶ須]]間開業。
** 11月7日:弥富 - 桑名間開業により草津 - [[名古屋駅|名古屋]]間全通。
* [[1897年]](明治30年)
** 1月15日:柘植 - 上野(現:[[伊賀上野駅]])間開業。
** 2月9日:'''[[浪速鉄道]]'''を合併([[片町駅|片町]] - [[四条畷駅|四条畷]]間)。
** 11月11日:上野 - [[加茂駅 (京都府)|加茂]]間開業。
* [[1898年]](明治31年)
** 4月12日:[[四条畷駅|四条畷]] - [[長尾駅 (大阪府)|長尾]]間開業。
** 4月19日:加茂 - [[大仏駅|大仏]]間、通称大仏線または大仏鉄道開業。
** 6月4日:新木津 - 四条畷間開業。
** 9月16日:新木津 - 木津間開業。
** 11月8日:放出 - 寝屋川間開業<ref name=IMAO10>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修) |title=日本鉄道旅行地図帳 |publisher=新潮社 |volume=10 大阪 |year=2009 |isbn=978-4-10-790028-9|pages=27-28}}</ref>。
** 11月18日:加茂 - [[新木津駅|新木津]]間<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介 |title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=8 関西1 |year=2008 |isbn=978-4-10-790026-5|pages=38-39}}</ref>、寝屋川 - [[網島駅|網島]]間開業<ref name=IMAO10/>。これにより名古屋 - [[網島駅|網島]]間全通、同経路で[[急行列車]]の運行開始。
* [[1899年]](明治32年)
** 5月21日:大仏線大仏駅 - 奈良駅間開業、[[奈良駅]]へ乗り入れ。
** 10月9日:鉄道敷設免許申請却下(綱島 - 島町間)<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/805399|chapterurl={{NDLDC|805399/172}}|title=鉄道局年報|issue=明治31年度|publisher=逓信省鉄道局|date=1899|chapter=仮免状下付申請却下|pages=23}}</ref>。
* [[1900年]](明治33年)
** 5月19日:鉄道敷設免許申請却下(綱島 - 梅田間)<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/805400|chapterurl={{NDLDC|805400/18}}|title=鉄道局年報|issue=明治33年度|publisher=逓信省鉄道局|date=1900|chapter=仮免状下付申請却下|pages=24}}</ref>。
** 6月6日:'''[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]'''譲受([[JR難波駅|湊町]] - 奈良間、[[王寺駅|王寺]] - [[桜井駅 (奈良県)|桜井]]間、[[天王寺駅|天王寺]] - [[大阪駅|大阪]]間)。
* [[1901年]](明治34年)12月21日:網島 - [[桜ノ宮駅|桜ノ宮]]間開業。
* [[1903年]](明治36年)1月5日:天王寺 - [[内国勧業博覧会|博覧会]]間開業、貨物営業開始。3月1日旅客営業開始、8 - 9月に施設撤去。
* [[1904年]](明治37年)
** 8月27日:'''[[紀和鉄道]]'''譲受([[五条駅 (奈良県)|五条]] - [[紀和駅|和歌山]]間)。
** 12月9日:'''[[南和鉄道]]'''譲受([[高田駅 (奈良県)|高田]] - 五条間)。
* [[1905年]](明治38年)2月8日:'''[[奈良鉄道]]'''譲受([[京都駅|七条]] - 桜井間)。
* [[1907年]](明治40年)
** 8月:大仏線廃線(1907年旅客駅廃止:貨物駅として存続)。
** 8月21日:木津付近で経路変更、現在の形を構築。
** 10月1日:[[鉄道国有法]]により国有化。
== 路線・駅一覧 ==
*[[1907年]](明治40年)[[8月20日]]現在<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修) |title=日本鉄道旅行地図帳 |publisher=新潮社 |volume=8 関西1 |year=2008 |isbn=978-4-10-790026-5|pages=38-39,41,44}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修) |title=日本鉄道旅行地図帳 |publisher=新潮社 |volume=10 大阪 |year=2009 |isbn=978-4-10-790028-9|pages=26-28}}</ref>。<!--加茂 - 大仏 - 奈良間および加茂 - 新木津間廃止直前-->
*線区区分は『日本鉄道史 中篇』(1921年)の巻末地図による<ref>{{Cite book|和書|doi=10.11501/2127166|chapterurl={{NDLDC|2127166/485}}|title=日本鉄道史 中篇|publisher=鉄道省|date=1921|chapter=鉄道路線図 明治39年9月末日現在|pages=}}</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"| 名古屋 - 湊町間 106[[マイル|M]] 67[[チェーン (単位)|C]]
!駅
!接続路線
!備考
|-
| style="width:25em"|[[名古屋駅]] - [[愛知駅]] - [[蟹江駅]] - [[弥富駅]] - [[長島駅]] - [[桑名駅]] - [[富田駅 (三重県)|富田駅]] - [[富田浜駅|富田浜臨時仮停車場]] - [[四日市駅]] - [[河原田駅]] - [[加佐登駅]] - [[亀山駅 (三重県)|亀山駅]] - [[関駅 (三重県)|関駅]] - [[加太駅 (三重県)|加太駅]] - [[柘植駅]] - [[佐那具駅]] - [[伊賀上野駅|上野駅]] - [[島ケ原駅]] - [[大河原駅 (京都府)|大河原駅]] - [[笠置駅]] - [[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] - [[大仏駅]] - [[奈良駅]] - [[郡山駅 (奈良県)|郡山駅]] - [[法隆寺駅]] - [[王寺駅]] - [[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]] - [[八尾駅]] - [[平野駅 (JR西日本)|平野駅]] - [[天王寺駅]] - [[今宮駅]] - [[JR難波駅|湊町駅]]
| style="width:24em"| 自社線乗換:亀山、柘植、加茂、奈良、王寺、天王寺<br />[[帝国鉄道庁]]([[東海道本線|東海道線]]):名古屋<br />[[名古屋電気鉄道]]([[名古屋市電栄町線|栄町線]]):名古屋(笹島電停)<br />[[名鉄尾西線|尾西鉄道]]:弥富<br />[[大阪鉄道 (2代目)|河南鉄道]]:柏原<br />[[南海電気鉄道|南海鉄道]]([[南海天王寺支線|天王寺支線]]):天王寺<br />[[阪堺電気軌道上町線|大阪電気鉄道]]:天王寺
| style="width:20em"| 奈良 - 湊町間は旧・大阪鉄道<br />加茂 - 大仏 - 奈良間は1907年8月21日廃止、木津経由に変更
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"| 柘植 - 草津間 22M 49C
| style="width:25em"| 柘植駅 - [[甲賀駅|大原駅]] - [[甲南駅|深川駅]] - [[貴生川駅]] - [[三雲駅]] - [[石部駅]] - [[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]
| style="width:24em"| 自社線乗換:柘植<br />[[近江鉄道]]([[近江鉄道本線|本線]]):貴生川<br />帝国鉄道庁(東海道線):草津
| style="width:20em"|
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|亀山 - 津間 9M 52C
| style="width:25em"| 亀山駅 - [[下庄駅]] - [[一身田駅]] - [[津駅]]
| style="width:24em"| 自社線乗換:亀山<br />[[参宮鉄道]]:津
| style="width:20em"|
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|加茂 - 桜ノ宮間 32M 41C
| style="width:25em"| 加茂駅 - [[新木津駅]] - [[祝園駅]] - [[京田辺駅|田辺駅]] - [[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]] - [[津田駅]] - [[星田駅]] - [[四条畷駅]] - [[野崎駅 (大阪府)|野崎仮停車場]] - [[住道駅]] - [[徳庵駅]] - [[放出駅]] - 寝屋川聯絡所 - [[網島駅]] - [[桜ノ宮駅]]
| style="width:24em"| 自社線乗換:加茂、新木津、放出、桜ノ宮
| style="width:20em"| 寝屋川(聯) - 四条畷間は旧・浪速鉄道<br />加茂 - 新木津間は1907年8月21日廃止、木津経由に変更
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|七条 - 桜井間 38M 15C
| style="width:25em"| [[京都駅|七条駅]] - 東寺仮停車場 - [[伏見駅 (京都府)#国有鉄道伏見駅|伏見駅]] - [[桃山駅]] - [[木幡駅 (JR西日本)|木幡駅]] - [[宇治駅 (JR西日本)|宇治駅]] - [[新田駅 (京都府)|新田駅]] - [[長池駅]] - [[玉水駅]] - [[棚倉駅]] - [[上狛駅]] - [[木津駅 (京都府)|木津駅]] - 奈良駅 - [[京終駅]] - [[帯解駅]] - [[櫟本駅]] - [[天理駅|丹波市駅]] - [[柳本駅]] - [[三輪駅]] - [[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]
| style="width:24em"| 自社線乗換:木津、奈良、桜井<br />帝国鉄道庁(東海道線、旧[[京都鉄道|京都鉄道線]]<!--路線名制定前-->):七条(京都駅)
| style="width:20em"| 旧・奈良鉄道
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|大阪 - 天王寺間 6M 57C
| style="width:25em"| [[大阪駅]] - [[天満駅]] - 桜ノ宮駅 - [[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] - [[玉造駅]] - [[桃谷駅]] - 天王寺駅
| style="width:24em"| 自社線乗換:桜ノ宮、天王寺<br />帝国鉄道庁(東海道線、旧[[西成鉄道|西成鉄道線]]<!--路線名制定前-->):大阪<br />[[阪神電気鉄道]]([[阪神本線|本線]]):大阪(梅田駅)<br />南海鉄道(天王寺支線):天王寺<br />大阪電気鉄道:天王寺
| style="width:20em"| 旧・大阪鉄道
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|放出 - 片町間 2M 17C
| style="width:25em"| 放出駅 - 寝屋川聯絡所 - [[片町駅]]
| style="width:24em"| 自社線乗換:放出
| style="width:20em"| 旧・浪速鉄道
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|王寺 - 桜井間 13M 11C
| style="width:25em"| 王寺駅 - [[香芝駅|下田駅]] - [[高田駅 (奈良県)|高田駅]] - [[畝傍駅]] - 桜井駅
| style="width:24em"| 自社線乗換:王寺、高田、桜井
| style="width:20em"| 旧・大阪鉄道
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|高田 - 和歌山間 47M 8C
| style="width:25em"| 高田駅 - [[大和新庄駅|新庄駅]] - [[御所駅]] - [[掖上駅|壺阪駅]] - [[吉野口駅]] - [[北宇智駅]] - [[五条駅 (奈良県)|五条駅]] - [[大和二見駅|二見駅]] - [[隅田駅]] - [[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]] - [[高野口駅]] - [[妙寺駅]] - [[笠田駅]] - [[名手駅]] - [[粉河駅]] - [[紀伊長田駅|長田臨時停車場]] - [[打田駅]] - [[岩出駅]] - [[船戸駅]] - [[布施屋駅]] - [[田井ノ瀬駅]] - [[紀和駅|和歌山駅]]
| style="width:24em"| 自社線乗換:高田
| style="width:20em"| 高田 - 五条間は旧・南和鉄道<br />五条 - 和歌山間は旧・紀和鉄道
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|和歌山 - 南海聯絡点間 29C
| style="width:25em"| 和歌山駅 - 南海聯絡点
| style="width:24em"| (南海鉄道[[和歌山市駅]]に乗入れ)
| style="width:20em"| 旧・紀和鉄道
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|二見 - 川端間(貨物線) 72C
| style="width:25em"| 二見駅 - [[川端駅 (奈良県)|川端駅]]
| style="width:24em"| 自社線接続:二見
| style="width:20em"| 旧・南和鉄道
|}
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%"
|+style="text-align:left;"|新木津 - 木津間(休止中) 29C
| style="width:25em"| 新木津駅 - 木津駅
| style="width:24em"| 自社線乗換:木津、新木津
| style="width:20em"| 1907年8月21日より営業再開
|}
[[File:Kansei Railway Linemap 1907.svg|thumb|none|700px|路線網(1907年8月20日)]]
== 車両 ==
=== 蒸気機関車 ===
関西鉄道の蒸気機関車の形式は、原則として同形機の最初の番号を採ったが、形式ごとに日本語によるクラス名が付けられており、特色となっていた。駿馬の名など古典文学に多く由来しており、特に磨墨・池月は[[平家物語]]に登場し、[[宇治川の戦い|宇治川の合戦]]の先陣争いで知られた源頼朝の愛馬から採られている。
;形式1 - 1, 2
:英ダブス社製0-6-0 (C) 形タンク機 - 1900年[[秩父鉄道|上武鉄道]]、[[七尾鉄道]]に譲渡
:国有化後[[国鉄1100形蒸気機関車#1150形・1270形(ダブス製1100系) |1270形]]
;形式3・池月(いけづき・第1種) - 3-8, 11-13, 26-29
:英[[ダブス]]社製2-4-2 (1B1) 形タンク機
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#大阪鉄道・関西鉄道|500形]]
;形式9・飛龍(ひりょう) - 9, 10
:英ダブス社製4-4-0 (2B) 形テンダ機
:鉄道院[[国鉄5300形蒸気機関車#5450形|5450形]]
;形式14・雷(いかずち) - 14-16, 78, 79
:英ダブス社製0-6-2 (C1) 形タンク機
:鉄道院[[国鉄2100形蒸気機関車#2100形|2100形]]
;形式17・望月(もちづき) - 17-20
:米[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]社製0-6-0 (C) 形タンク機
:旧[[浪速鉄道]]1-4
:鉄道院[[国鉄1000形蒸気機関車|1000形]]
;形式21・磨墨(するすみ) - 21, 22, 46-51, 74-77
:英[[ナスミス・ウィルソン]]社製2-4-2 (1B1) 形タンク機
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#870形|870形]]
;形式23・鬼鹿毛(おにかげ) - 23-25
:米[[ブルックス・ロコモティブ・ワークス|ブルックス]]社製2-6-0 (1C) 形テンダ機
:鉄道院[[国鉄7650形蒸気機関車|7650形]]
;形式30・電光(いなずま) - 30-39, 122, 123
:英ダブス社製2-6-0 (1C) 形テンダ機
:鉄道院[[国鉄7850形蒸気機関車|7850形]]
;形式40・早風(はやかぜ) - 40-45, 107-109
:米[[ピッツバーグ・ロコモティブ・アンド・カー・ワークス|ピッツバーグ]]社製4-4-0 (2B) 形テンダ機
:鉄道院[[国鉄6500形蒸気機関車|6500形]]
;形式3・池月(第2種) - 52-56
:英ダブス社製2-4-2 (1B1) 形タンク機
:旧[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]1-5
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#大阪鉄道・関西鉄道|500形]]
;形式57・駒月(こまづき) - 57, 58
:英ダブス社製2-4-2 (1B1) 形タンク機
:旧大阪鉄道6, 7
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#220形|220形]]
;形式3・池月(第3種) - 59-68
:英[[バルカン・ファウンドリー]]社製2-4-2 (1B1) 形タンク機
:旧大阪鉄道8-17
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#大阪鉄道・関西鉄道|700形]]
;形式3・池月(第3種) - 69-71
:英ナスミス・ウィルソン社製2-4-2 (1B1) 形タンク機
:旧大阪鉄道18-20
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#大阪鉄道・関西鉄道|600形]]
;形式80・小鷹(こたか) - 80, 81
:独[[クラウス=マッファイ|クラウス]]社製0-4-0 (B) 形タンク機
:旧[[九州鉄道]]29, 33→[[紀和鉄道]]A2形5, 6
:鉄道院[[国鉄10形蒸気機関車|10形]] (10, 11)
;形式82・友鶴(ともづる) - 82-85
:米ブルックス社製2-4-2 (1B1) 形タンク機
:旧紀和鉄道A1形1-4
:鉄道院[[国鉄400形蒸気機関車#450形|450形]]
;形式86・隼(はやぶさ) - 86
:米ボールドウィン社製0-6-0 (C) 形タンク機
:旧紀和鉄道B2形7
:鉄道院[[国鉄1180形蒸気機関車|1180形]]
;形式87・鵯(ひよどり) - 87
:米ボールドウィン社製0-6-0 (C) 形タンク機
:旧紀和鉄道B3形8
:鉄道院[[国鉄1180形蒸気機関車#1370形|1370形]]
;形式88・千早(ちはや) - 88-92
:英ダブス社製0-6-0 (C) 形タンク機
:旧[[南和鉄道]]1-5
:鉄道院[[国鉄1480形蒸気機関車|1480形]]
;形式93・春日(かすが) - 93-97
:米ボールドウィン社製2-6-2 (1C1) 形タンク機
:旧[[奈良鉄道]]1-5
:鉄道院[[国鉄3030形蒸気機関車|3030形]]
;形式98・三笠(みかさ) - 98-104
:[[スイス・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス|SLM]]製2-6-0 (1C) 形タンク機
:旧奈良鉄道6-12
:鉄道院[[国鉄2800形蒸気機関車|2800形]]
;形式14・雷 - 105, 106
:米ボールドウィン社製0-6-2 (C1) 形タンク機
:鉄道院[[国鉄2100形蒸気機関車#2120形・2400形・2500形|2500形]]
;形式110・追風(おいかぜ) - 110-121
:米[[アメリカン・ロコモティブ]]社ピッツバーグ工場製4-4-0 (2B) 形テンダ機
:鉄道院[[国鉄6000形蒸気機関車|6000形]]
== その他 ==
* 客車の窓下に[[等級 (鉄道車両)|等級]]識別の「帯」を塗装する手法([[一等車]]を白、[[二等車]]を青、[[普通車 (鉄道車両)|三等車]]を赤)は、関西鉄道が最初に導入したものである。旅客にも一目で等級を区別でき、便利なことから、国有化後に広く採用されるに至った<ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 p. 354「(明治)29年11月汽車課長島安次郎の創意に基き客車の外側(の窓下)を塗装し白、青、赤の三色を以て上、中、下等を別てり、之を本邦鉄道における客車色別の創始とす」</ref>。
* また[[駅名標]]によく併設されている「駅周辺名所観光案内」も、[[1893年]](明治26年)に関西鉄道が考案したといわれる<ref>辻 良樹『関西 鉄道考古学探見』122頁</ref><ref>{{Cite book|和書|author=所澤秀樹|year =2015|title =鉄道史の仁義なき闘い 鉄道会社ガチンコ勝負列伝|publisher =創元社|isbn = 978-4-422-24072-5|page=24}}</ref>。
* 草津線貴生川 - 三雲間の国分橋梁(アーチ橋)に関西鉄道の社紋が現役の構造物で残る<ref>辻 良樹『関西 鉄道考古学探見』33-34頁</ref>。
* 草津線甲南 - 貴生川間沿線の八坂神社に、関西鉄道の開通の様子を描いた奉納[[絵馬]](通常非公開)がある。絵馬には敷設関係者や汽車、客車の姿が描かれている<ref>辻 良樹『関西 鉄道考古学探見』28-32頁</ref>。
== 関連項目 ==
*[[参宮鉄道]]([[紀勢本線]]、[[参宮線]]の前身)
*[[大阪電気軌道]]([[近畿日本鉄道]]の直系母体で、営業テリトリーが多く同一)
*[[大阪鉄道 (2代目)]](近畿日本鉄道の前身の一つ)
*[[南海電気鉄道]](かつて関西鉄道に直通)
*[[近鉄特急史]](国有化後の関西本線・草津線・参宮線優等列車沿革)
*[[かすが (列車)]](国有化後に名阪間に設定された関西本線の準急・急行列車)
*[[前島密]](初代社長)<ref>『[[#tetsudoshi1|日本鉄道史]]』上篇 p. 819「会社は創立の際前島密を社長とし(中略)明治21年11月(中略)社長前島密亦辞す」</ref>
*[[鶴原定吉]](1900年11月から1901年8月までの社長<ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 p. 370「(明治33年11月)25日鶴原定吉を取締役とし同日之を社長とす」</ref><ref>『[[#tetsudoshi2b|日本鉄道史]]』中篇 p. 371「(明治34年)8月31日取締役鶴原定吉辞す」</ref>。後に第二代[[大阪市長]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|doi=10.11501/2127152||title=日本鉄道史 上篇|publisher=鉄道省|date=1921|chapterurl={{NDLDC|2127152/477}}|chapter=第七章 私設鐵道ノ發達 第四節 私設鐵道條例ニ據ル鐵道 第三 關西鐵道|pages=812-819|ref=tetsudoshi1}}
*{{Cite book|和書|doi=10.11501/2127166||title=日本鉄道史 中篇|publisher=鉄道省|date=1921|chapterurl={{NDLDC|2127166/116}}|chapter=第十二章 官設鐵道 第三節 運輸 第一 槪要|pages=172-178|ref=tetsudoshi2a}}
*{{Cite book|和書|doi=10.11501/2127166||title=日本鉄道史 中篇|publisher=鉄道省|date=1921|chapterurl={{NDLDC|2127166/214}}|chapter=第十四章 私設鐵道 第二節 旣設鐵道 第七 關西鐵道|pages=349-372|ref=tetsudoshi2b}}
*{{Cite book|和書|doi=10.11501/2127166|chapterurl={{NDLDC|2127166/485}}|title=日本鉄道史 中篇|publisher=鉄道省|date=1921|chapter=鉄道路線図 明治39年9月末日現在|pages=|ref=tetsudoshi2map}}
*{{Cite book | 和書 | title = 新日本鉄道史 | author = 川上幸義 | year = 1968 | volume = 下 | pages = 242-256 | publisher = 鉄道図書刊行会 | location = 東京 | ref=kawakami}}
*{{Cite book | 和書 | title = 鉄道国有始末一斑 | author = [[逓信省]] | year = 1909 | pages = <!--pp. 1012 + 66 + 地図4 + 表7--> | publisher = 逓信省 | location = 東京 | ref=ippan}}
*奥田晴彦『関西鉄道史』鉄道史資料保存会 2006年。
*辻良樹『関西 鉄道考古学探見』JTBパブリッシング 2007年。
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
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[[Category:関西鉄道|社]]
[[Category:関西本線|*]]
[[Category:奈良線|*]]
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[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A5%BF%E9%89%84%E9%81%93 |
6,531 | 参宮鉄道 | 参宮鉄道()は、現在の東海旅客鉄道(JR東海)紀勢本線・参宮線の津 - 山田(現伊勢市)間を建設運営した三重県の私設鉄道である。伊勢神宮の参拝客を見込んで設立された。
1888年、関西鉄道の開業を見越し三重県度会郡宇治山田町(現在の三重県伊勢市)の北川矩一らが津 - 小俣の南勢鉄道を出願したが、鉄道国有論者の井上勝は「遊覧目的で殖産興業上は無意味、また短距離でもあり関西鉄道の延長を待つべし」と却下した。しかし翌年、渋沢栄一、大倉喜八郎、渡辺洪基、奈良原繁らの大物を加えたところ「伊勢神宮への参詣者も多く、急ぎ建設を要する、場合に依っては開業後関西鉄道と合併すればよいだろう」と一転して仮免許が与えられている。
1890年に参宮鉄道株式会社が設立され、路線は関西鉄道会社の亀山 - 津駅間に繋がり津駅から南下する路線となった。松阪 - 宮川は伊勢参詣者を生計の対象としている地元に配慮して伊勢参宮街道を離れた経路にした。1893年(明治26年)津 - 宮川間が開業、1897年(明治30年)には宮川橋梁が完成して山田までの全線が開業した。本社、工場も後に山田に移転している。山田より先、鳥羽までの延長を申請して免許されているが、同年1907年(明治40年)国有化され、着工および完成は官設鉄道の手による。また、買収価格の引き上げを意図したとも考えられる複線化、電化を申請して認可され、複線化は一部完成、電化は未着手に終わっている。この施設改良は国有化後一顧だにされず、複線化部分も第二次世界大戦中に金属供出のために撤去され、単線のまま1920-1930年代に発展した現在の近畿日本鉄道(近鉄)路線に機能を譲ってしまった。
地理的には関西鉄道の支線的位置であり、しかも片岡直温が共通の社長であったが、業績が良いためか合併せずに国有化を迎えた。
国有化直前(1907年9月30日現在)の路線と駅一覧を記す。
国有化に際して引き継がれた車輌は蒸気機関車10両、客車82両、貨車74両であった。
開業当初は山陽鉄道から機関車を借り入れた。自社所有になるものはいずれもタンク機で、形式は車軸配置1B1を1、1Bを2、1C1を3とした。
当初の客車は四輪車密閉区分客室の「マッチ箱客車」であったが、貫通扉を有しているのが特徴である。1903年ボギー車の使用を開始した。形式称号は、一等車「い」、一二等合造車「ろ」、二等車「は」、二三等合造車「わ」、三等緩急車を含む三等車「に」、郵便緩急車「ほ」、手荷物緩急車「へ」であった。官設鉄道への引継ぎ輌数は一等車2、一二等合造車6、二等車5、二三等合造車2、三等車57、同制動機付き1、三等郵便緩急車3、三等手荷物緩急車5、三等郵便手荷物緩急車1であった。
木製2軸車
木製ボギー車
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』
貨車は有蓋車「と」、無蓋車「ぬ」、魚車「ち」、家畜車「る」、鉄製有蓋車「り」、有蓋緩急車「を」があり、73両が引き継がれた。
『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)計73両
「参宮鉄道株式会社」は本項目の伊勢の鉄道であるが、「参宮」を社名に戴く鉄道会社は他にも日本各地にある。一般名詞としての「参宮鉄道」は神社(または寺院)の参拝客輸送を目的として敷設された鉄道を指す。 | [
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"text": "「参宮鉄道株式会社」は本項目の伊勢の鉄道であるが、「参宮」を社名に戴く鉄道会社は他にも日本各地にある。一般名詞としての「参宮鉄道」は神社(または寺院)の参拝客輸送を目的として敷設された鉄道を指す。",
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] | 参宮鉄道は、現在の東海旅客鉄道(JR東海)紀勢本線・参宮線の津 - 山田(現伊勢市)間を建設運営した三重県の私設鉄道である。伊勢神宮の参拝客を見込んで設立された。 | {{基礎情報 会社
|社名 = 参宮鉄道
|ロゴ = [[File:SanguRyLogo.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[三重県]][[伊勢市|宇治山田市]]<ref name="NDLDC780119-531"/>
|設立 = [[1890年]](明治23年)8月<ref name="NDLDC780119-531"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|代表者 = 社長 [[片岡直温]]<ref name="NDLDC780119-531"/>
|資本金 = 1,900,000円(払込額)<ref name="NDLDC780119-531"/>
|関係する人物 = [[島安次郎]]
|特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119-531">[{{NDLDC|780119/531}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
{{読み仮名|'''参宮鉄道'''|さんぐうてつどう}}は、現在の[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[紀勢本線]]・[[参宮線]]の[[津駅|津]] - 山田(現[[伊勢市駅|伊勢市]])間を建設運営した[[三重県]]の[[私設鉄道]]である。[[伊勢神宮]]の参拝客を見込んで設立された。
== 歴史 ==
[[1888年]]、[[関西鉄道]]の開業を見越し三重県度会郡宇治山田町(現在の三重県伊勢市)の北川矩一らが津 - 小俣の南勢鉄道を出願したが、鉄道国有論者の[[井上勝]]は「遊覧目的で[[殖産興業]]上は無意味、また短距離でもあり関西鉄道の延長を待つべし」と却下した。しかし翌年、[[渋沢栄一]]、[[大倉喜八郎]]、[[渡辺洪基]]、[[奈良原繁]]らの大物を加えたところ「伊勢神宮への参詣者も多く、急ぎ建設を要する、場合に依っては開業後関西鉄道と合併すればよいだろう」と一転して仮免許が与えられている<ref name="名前なし-1">新日本鉄道史 p. 256</ref>。
1890年に参宮鉄道株式会社が設立され、路線は関西鉄道会社の亀山 - 津駅間に繋がり津駅から南下する路線となった<ref name="bunka">{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=590 |title=参宮鉄道延長補充線路宮川橋梁之図 |publisher=三重県 |accessdate=2021-12-05}}</ref>。松阪 - 宮川は伊勢参詣者を生計の対象としている地元に配慮して[[伊勢参宮街道]]を離れた経路にした。[[1893年]](明治26年)津 - 宮川間が開業、[[1897年]](明治30年)には宮川橋梁が完成して山田までの全線が開業した<ref name="bunka" />。本社、工場も後に山田に移転している。山田より先、鳥羽までの延長を申請して免許されているが、同年[[1907年]](明治40年)[[鉄道国有法|国有化]]され、着工および完成は官設鉄道の手による。また、買収価格の引き上げを意図したとも考えられる<ref>施設改良に有利な買収価格算定法のため、国有化直前の着工、及び完成は他の買収対象私鉄にも頻見される</ref>[[複線]]化、[[鉄道の電化|電化]]を申請して認可され、複線化は一部完成、電化は未着手に終わっている<ref>日本鉄道史 p. 460</ref><ref name="名前なし-1"/>。この施設改良は国有化後一顧だにされず、複線化部分も[[第二次世界大戦]]中に金属供出のために撤去され、単線のまま1920-1930年代に発展した現在の[[近畿日本鉄道]](近鉄)路線に機能を譲ってしまった。
地理的には関西鉄道の支線的位置であり、しかも[[片岡直温]]が共通の社長であったが、業績が良いためか合併せずに国有化を迎えた<ref name="名前なし-1"/>。
=== 年表 ===
* [[1889年]](明治22年) 津 - 小俣(宮川)間の鉄道建設を出願
* [[1890年]](明治23年)8月18日 [[関西鉄道]]との連絡を条件に免許<ref>[{{NDLDC|2945397/7}} 「鉄道布設運輸営業免許」『官報』1890年8月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1893年]](明治26年)[[12月31日]]<ref>[{{NDLDC|2946422/3}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1894年1月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> [[津駅|津]] - [[宮川駅|宮川]]23[[マイル]]58[[チェーン (単位)|チェーン]]開業、同時に[[阿漕駅]]・[[高茶屋駅]]・[[松阪駅]]・相可駅(現[[多気駅]])・[[田丸駅]]・宮川駅が開業<ref>{{Cite news|title=開業廣告|newspaper=伊勢新聞|date=1894-01-01|page=1}}</ref>
* [[1894年]](明治27年)[[1月10日]] [[六軒駅 (三重県)|六軒駅]]開業<ref>{{cite news|title=六軒停車塲落成|newspaper=伊勢新聞|date=1894-01-09|page=1}}</ref><ref name="rokken_tokuwa">六軒駅・徳和駅の開業日は、『[{{NDLDC|807425/192}} 明治27年 三重県統計書]』でも六軒は明治27年1月10日、徳和は同年12月31日開業の旨の注記があるが、鉄道省編集『[{{NDLDC|1020981/82}} 鉄道停車場一覧]』(大正15年版)では両駅とも明治26年12月31日となっている(各リンクは国立国会図書館デジタルコレクション)。</ref>
** 12月 宮川 - 山田(現[[伊勢市駅|伊勢市]])間延長申請
** 12月31日 [[徳和駅]]開業<ref>{{Cite news|title=参宮鐵道德和驛開業廣告|newspaper=伊勢新聞|date=1894-12-30|page=3}}</ref><ref name="rokken_tokuwa" />
* [[1896年]](明治29年)1月24日 宮川 - 山田間免許
* [[1897年]](明治30年)[[11月11日]] 宮川 - 山田間2マイル37チェーン開業、全線開通<ref>[{{NDLDC|2947598/5}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年11月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1898年]](明治31年)4月 [[鉄道省|官設鉄道]]、関西鉄道と協定し[[京都駅|京都]] - 山田間に直通列車運転
* [[1906年]](明治39年)12月 山田 - 鳥羽間延長申請
* [[1907年]](明治40年)1月 複線化及び電化認可
** 4月 複線化着工(未成)
** 7月1日 山田 - 鳥羽間免許(未着工)
** [[10月1日]] [[鉄道国有法]]により国有化
== 路線・駅一覧 ==
国有化直前(1907年9月30日現在)の路線と駅一覧を記す<ref name="hikitsugi" >[{{NDLDC|805387/408}} 『鉄道国有始末一斑』 p. 758-759](国立国会図書館デジタルコレクション)には 38M58C(開業線26M10C、未開業線12M48C)機関車10、客車88、貨車74を引き継いだとある</ref>。
*開業線:津 - 山田(26[[マイル|M]]10[[チェーン (単位)|C]]=42.00km<ref>日本鉄道史中篇 p. 461「開業路線は(明治)30年度以来26哩10鎖[訂正又は線路変更等の為5鎖を減せり]」</ref>)
*:[[津駅|津]] - [[阿漕駅|阿漕]] - [[高茶屋駅|高茶屋]] - [[六軒駅 (三重県)|六軒]] - [[松阪駅|松阪]] - [[徳和駅|徳和]] - [[多気駅|相可]] - [[田丸駅|田丸]] - [[宮川駅|宮川]] - [[山田上口駅|筋向橋]] - [[伊勢市駅|山田]]
*未成線:山田 - 鳥羽(12M48C)
[[File:Sangu Railway Linemap 1907.svg|thumb|none|500px|路線図(1907年8月20日)]]
== 輸送・収支実績 ==
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:80%;"
|-
!年度
!乗客(人)
!貨物量(トン)
!営業収入(円)
!営業費(円)
!益金(円)
|-
|1893||176,935||784||46,423||23,365||23,058
|-
|1894||540,316||7,063||105,886||54,624||51,262
|-
|1895||736,442||8,721||154,772||46,119||108,653
|-
|1896||886,126||12,293||192,076||50,238||141,838
|-
|1897||1,083,036||15,629||232,691||75,363||157,328
|-
|1898||1,028,215||20,598||260,217||94,496||165,721
|-
|1899||1,173,246||31,108||292,892||106,471||186,421
|-
|1900||1,234,352||35,066||305,505||102,141||203,364
|-
|1901||1,177,218||31,135||313,468||106,335||207,133
|-
|1902||1,124,670||36,256||308,310||105,915||202,395
|-
|1903||1,181,113||38,266||340,773||105,833||234,940
|-
|1904||1,080,397||48,454||254,201||102,758||151,443
|-
|1905||1,217,612||52,205||322,452||121,236||201,216
|-
|1906||1,370,450||63,116||392,740||139,219||253,521
|-
|1907||1,128,992||44,333||331,612||111,465||220,147
|-
|}
*「国有及私設鉄道運輸延哩程累年表」「国有及私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 車両 ==
国有化に際して引き継がれた車輌は[[蒸気機関車]]10両、[[客車]]82両、[[貨車]]74両であった<ref>新日本鉄道史下巻 p. 256</ref><ref name="hikitsugi" />。
=== 蒸気機関車 ===
開業当初は[[山陽鉄道]]から機関車を借り入れた。自社所有になるものはいずれも[[タンク機関車|タンク機]]で、形式は[[車軸配置]]1B1を'''1'''、1Bを'''2'''、1C1を'''3'''とした<ref>新日本鉄道史下巻 p. 257</ref>。
*'''形式1''' ('''1 - 4, 6''')
*:2-4-2 (1B1) 形タンク機 - [[イギリス|英]][[ナスミス・ウィルソン]]社 1894年 (1-3)、1896年 (4)、1896年 (6) 製
*:[[鉄道作業局]]L形と同形、[[鉄道院]]形式[[国鉄400形蒸気機関車#参宮鉄道|600形]] 651-655
*'''形式2''' ('''5''')
*:2-4-0 (1B) 形タンク機 - 英ナスミス・ウィルソン社 1896年製
*:鉄道院形式[[国鉄400形蒸気機関車#100形|100形]] 100
*'''形式1''' ('''7, 8''')
*:2-4-2 (1B1) 形タンク機 - [[汽車製造]] 1903年製 作業局L形のスケッチ
*:鉄道院形式[[国鉄400形蒸気機関車#800形|800形]] 800, 801
*'''形式3''' ('''9, 10''')
*:2-6-2 (1C1) 形タンク機 - [[アメリカ合衆国|米]][[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]社 1907年製
*:鉄道院形式[[国鉄3050形蒸気機関車|3050形]] 3050, 3051
=== 客車 ===
当初の客車は四輪車密閉区分客室の「マッチ箱客車」であったが、貫通扉を有しているのが特徴である。1903年ボギー車の使用を開始した。形式称号は、[[一等車]]「い」、一二等合造車「ろ」、[[二等車]]「は」、二三等合造車「わ」、三等[[緩急車]]を含む[[三等車]]「に」、[[郵便車|郵便緩急車]]「ほ」、[[荷物車|手荷物緩急車]]「へ」であった。官設鉄道への引継ぎ輌数は一等車2、一二等合造車6、二等車5、二三等合造車2、三等車57、同制動機付き1、三等郵便緩急車3、三等手荷物緩急車5、三等郵便手荷物緩急車1であった<ref name="名前なし-2">新日本鉄道史下巻 pp. 257-259</ref><ref name="hikitsugi" />。
木製2軸車
*い1 1両 参宮鉄道山田工場製 定員17人 国有化後イ106(形式106) 一等車 [{{NDLDC|2942239/23}} 形式図]円卓付
*い2 1両 参宮鉄道山田工場製 定員24人 国有化後イ134(形式134) 一等車 [{{NDLDC|2942239/32}} 形式図]
*ろ1-4 4両 東京平岡工場製 定員一等8人二等10人 国有化後イロ256-259(形式253) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/49}} 形式図]
*ろ5 1両 東京平岡工場製 定員一等8人二等10人 国有化後イロ327(形式327) 一二等車 [{{NDLDC|2942239/72}} 形式図]
*は1-5 5両 東京平岡工場製(1-4)参宮鉄道山田工場製(5) 定員24人 国有化後ロ767-769(形式767) 二等車 [{{NDLDC|2942239/119}} 形式図]
*に1-16、18-26、28-38 36両 東京平岡工場製三田製作所工場製松井工場製 定員50人 国有化後ハ2353-2388(形式2353) 三等車 [{{NDLDC|2942239/221}} 形式図]
*は45-54 10両 汽車会社工場製 定員48人 国有化後ハ2389-2398(形式2353) 三等車 [{{NDLDC|2942239/222}} 形式図]
*に39.40.43 3両 関西鉄道会社工場製 定員48人 国有化後ハ2399-2401(形式2353) 三等車 [{{NDLDC|2942239/223}} 形式図]
*に41.42.44 3両 関西鉄道会社工場製 定員44人 国有化後ハ2402-2404(形式2353) 三等車 [{{NDLDC|2942239/224}} 形式図]車体側面が樽状
*ほ1-3 3両 三田製作所工場製 定員8人 国有化後ハユ3473-3475(形式3473) 三等郵便車 [{{NDLDC|2942239/289}} 形式図]郵便室の外側に廊下が設けられている
*へ1-4 4両 東京平岡工場製 定員8人 国有化後ハニ3673-3676(形式3673) 三等手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/340}} 形式図]
*へ5.6 2両 東京平岡工場製 国有化後ニ4336.4337(形式4336) 手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942239/442}} 形式図]
*へ9 1両 東京平岡工場製 定員34人 国有化後フハ3309(形式3309) 三等車(手用制動機附) [{{NDLDC|2942239/274}} 形式図]
木製ボギー車
*ろ6 1両 日本車輌製造会社工場製 定員一等16人二等24人 国有化後ホイロ5300(形式5300) 一二等車 [{{NDLDC|2942240/30}} 形式図]
*わ1 1両 汽車製造会社工場製 定員二等20人三等43人 国有化後ホロハ5770(形式5770) 二三等車 [{{NDLDC|2942240/62}} 形式図]
*わ2 1両 日本車輌製造会社工場製 定員二等22人三等34人 国有化後ホロハ5771(形式5770) 二三等車 [{{NDLDC|2942240/63}} 形式図]
*に55-59 5両 汽車製造会社工場製 定員86人 国有化後ホハ6730-6734(形式6730) 三等車 [{{NDLDC|2942240/93}} 形式図]
*ほ4 1両 日本車輌製造会社工場製 定員22人 国有化後ホハユニ8230(形式8230) 三等郵便手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942240/134}} 形式図]外側に廊下が設けられている
*へ12 1両 日本車輌製造会社工場製 定員53人 国有化後ホハニ8390(形式8390) 三等手荷物緩急車 [{{NDLDC|2942240/146}} 形式図]
リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上 下巻』
=== 貨車 ===
貨車は[[有蓋車]]「と」、[[無蓋車]]「ぬ」、魚車「ち」、[[家畜車]]「る」、[[鉄製有蓋車]]「り」、有蓋緩急車「を」があり、73両が引き継がれた<ref name="名前なし-2"/><ref name="hikitsugi" />。
* と1-9、11-25 参宮鉄道、平岡工場、松井工場製、有蓋貨車、国有化後ワ14961形(14961-14984)
* と26-29 日本車輌製造製、有蓋貨車、国有化後ワ6460形(6460-6463)
* と30-31、33-49 日本車輌製造製、有蓋貨車、国有化後ワ14985形(14985-15003)
* を1・2 平岡工場製、有蓋緩急車、国有化後ワフ4543形(4543-4544)
* り1 日本車輌製造製、鉄製有蓋貨車、国有化後テワ1002形(1002)
* ち1・2 平岡工場製、魚運車、国有化後ウ410形(410-411)
* る1 平岡工場製、家畜車、国有化後カ582形(582)
* ぬ1-10 平岡工場製、無蓋貨車、国有化後ト15798形(15798-15807)
* ぬ16-20 参宮鉄道製、無蓋貨車(材木車兼用)、国有化後トチ450形(450-454)
* ね11-15 松井工場参宮鉄道製、土運車、国有化後ツ3094形(3094-3098)
『貨車略図』明治四十四年、鉄道院(復刻鉄道史資料保存会1990年)計73両
=== 車両数の推移 ===
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:30%;"
|-
! 年度 !!機関車 !! 客車 !! 貨車
|-
|1893||||30||6
|-
|1894||3||38||26
|-
|1895||3||40||24
|-
|1896||4||40||31
|-
|1897||5||55||34
|-
|1898||5||55||44
|-
|1899||5||56||44
|-
|1900||5||62||44
|-
|1901||6||65||49
|-
|1902||7||79||49
|-
|1903||8||79||49
|-
|1904||8||79||54
|-
|1905||8||79||54
|-
|1906||8||79||74
|}
*「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より
== 「参宮」を社名にする鉄道 ==
「参宮鉄道株式会社」は本項目の伊勢の鉄道であるが、「参宮」を社名に戴く鉄道会社は他にも<!-- 全国 JPOV-->日本各地にある。一般名詞としての「参宮鉄道」は神社(または寺院)の参拝客輸送を目的として敷設された鉄道を指す。
*[[鹿島参宮鉄道]] [[鹿島神宮]]
*[[参宮急行電鉄]] [[伊勢神宮]]
*[[琴平参宮電鉄]] [[金比羅宮]]
*[[筑前参宮鉄道]] [[宇美八幡宮]]、[[筥崎宮]]
*[[宇佐参宮鉄道]] [[宇佐神宮]]
== 参考文献 ==
*{{Cite book | 和書 | title = 日本鉄道史 | author = [[鉄道省]] | year = 1921 | volume = 中篇 | pages = pp. 459-464、351、860-861 | publisher = [鉄道省] | location = [東京] }}<!--上篇に設立経緯記載、目次のみ確認、頁示さず-->
*{{Cite book | 和書 | title = 新日本鉄道史 | author = 川上幸義 | year = 1968 | volume = 下 | pages = pp. 256-259 | publisher = 鉄道図書刊行会 | location = 東京 }}
*{{Cite book | 和書 | title = 鉄道国有始末一斑 | author = [[逓信省]] | year = 1909 | pages = <!--pp. 1012 + 66 + 地図4 + 表7-->| publisher = 逓信省 | location = 東京 }}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[近畿日本鉄道]](近鉄) - 路線網が重複、参宮輸送の機能を受け継いだ
*[[近鉄特急史]] - 参宮線・関西本線の列車史
*[[みえ (列車)]] - 同上
*[[大阪電気軌道|大阪電気軌道・参宮急行電鉄・関西急行電鉄]]:近鉄の前身、伊勢参宮の路線を建設
*[[伊勢電気鉄道]] - 近鉄[[近鉄名古屋線|名古屋線]]の前身の一つ
*[[伊勢鉄道伊勢線]]
*[[島安次郎]] - 鉄道技術者、参宮鉄道顧問技師<!--ref>日本鉄道史中篇 p. 463「(明治30年)8月島安次郎を顧問技師とす[34年5月之を解く]」</ref reference 以後のrefは機能しないおそれ-->
{{鉄道国有法被買収私鉄}}
{{DEFAULTSORT:さんくうてつとう}}
[[Category:参宮鉄道|*]]
[[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]]
[[Category:国有化された日本の鉄道事業者]]
[[Category:紀勢本線]]
[[Category:三重県の交通史]]
[[Category:かつて存在した三重県の企業]]
[[Category:1890年設立の企業]]
[[Category:1907年廃止の企業]] | 2003-04-11T12:39:28Z | 2023-11-15T14:58:06Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%AE%AE%E9%89%84%E9%81%93 |
6,532 | スマートメディア | スマートメディア(SmartMedia)は、東芝(半導体メモリ事業部。現・キオクシア)が開発したメモリーカード、フラッシュメモリメディアの通称。
東芝・オリンパス・富士写真フイルム(当時)・東京エレクトロン・セガ・エンタープライゼス(現・セガ)の5社で結成したSSFDCフォーラムによって規格策定され、1995年から市販された。CF・SDなどでも幅広く採用されたNAND型フラッシュメモリを用いている。
正式名称はSSFDC(Solid State Floppy Disk Card: 半導体フロッピーディスクカード)である。「SmartMedia」の商標から、SMと略される。
サイズは(長さ)45.0 mm×(幅)37.0 mm ×(厚さ)0.76 mmときわめて薄く、重さは2 g。データ容量は1997年までに500 kB・2 MB・4 MBの製品が出荷され、1998年に16 MB、1999年に32 MB、2000年に64 MB(SMIDのみ)、2001年に128 MB(SMIDのみ)が市販化・発売された。駆動電圧は5 Vないし3.3 Vで、メディア上部の切り欠きが左にあるのが5 V・右にあるのが3.3 Vである。ただし、5 V駆動のカードは企画発足当初のごくわずかの期間に流通したのみで、小容量の製品しかなく、対応機種もごく少ない。
ライトプロテクト(書き込み禁止)機能があり、カード中央右寄りの○部分に付属品のプロテクトシールを貼付することで、書き込み(追記・消去・フォーマット)アクセスが出来なくなる。
1999年秋には、欧米で商用化が始まった有料音楽配信サイトからダウンロードしたコンテンツを、スマートメディアに移動させてMP3プレーヤーで利用する際の権利者保護のため、全米レコード協会とメジャーレコード5社が策定したSDMIに準拠させるメディア毎に固有の128ビットIDを付加した「ID付きスマートメディア (Smart Media ID)」が登場した。ID機能を利用しない機器でも下位互換性により問題なく利用できるため、市販化以降、ID無しの製品は市場から姿を消している。SMIDは、1999年12月に発売されたマジックゲートメモリースティックや2000年発売のSDメモリーカードとは異なり、カード自体に著作権保護のための暗号化技術 (CPRM) を備えておらず、固有のIDを接続機器に認識させるのみで、コンテンツ側でIDを基にしたデジタル著作権管理の適用が必要となる。
スマートメディアの開発者たる東芝は、1999年8月にサンディスク、松下電器産業らと組んでSDメモリーカードを開発し、富士フイルム・オリンパスと袂を分った。セガと東京エレクトロンは1997年以降表立った活動はしていない。ただし、東芝はスマートメディアを採用した各種製品を2002年まで発売していた。2001年には当時世界初のスマートメディアとSDカードに対応(供用)したPCカード型R/Wを発売している。
富士フイルムとオリンパスは2002年に大容量化が可能であるxDピクチャーカードを開発し、市販化以降に発売された両社製品(デジタルカメラ)で記憶メディアの移行が進められた。スマートメディアとは一切互換性が無い。
2005年3月7日、東芝はスマートメディアの生産から一部を除き撤退することを決めた。また、業界団体の「SSFDCフォーラム」も2007年5月で解散。これによりスマートメディアの新規生産は完全にストップしたため、新品メディアは市場流通在庫のみとなっている。富士フイルムとオリンパスではスマートメディアを使用するカメラユーザーのためにネット直販サイトにて修理部品扱いで売り続けていた。在庫限りのため販売量を1ユーザー1枚に限定していたが、2019年4月現在、オリンパス、富士フイルムの両サイトでは販売終了となっている。
現在でもスマートメディアを使用する製品は、エレクトーン(ステージア)に代表される電子楽器を除いて、概ね2002年以前に発売された製品に限られている。
コンパクトフラッシュ・SDメモリーカード・メモリースティックとは異なり、I/Oデバイスを搭載する機能はない。
3.5インチフロッピーディスクドライブ (FDD) を経由して読み書きが可能になる、フロッピーディスク (FD) 型のアダプタである。動作にはコイン型電池を必要とする。OSに対応したドライバーを組み込むことで、内部の回路を通じてFDDの磁気ヘッド部分とSM間でリード/ライトが可能であり、特別なメモリーカードリーダライタなどの追加ハードウェアが要らない利点があった。しかし、大容量化に対応できなくなったこと、読み出し・書き込み速度はFD並みであり、他メディアに劣るなどの問題もあった。
前述のとおり専用ドライバでハードウェアとしてFDDを使う方式であり、フロッピーディスクを模擬するものではない。そのため、フラッシュパスを一般的なフロッピーディスクとして使う事は出来ない。
メディア上にコントローラ部分を持たないため、非常に薄い構造になっている。
構造が単純なため、コスト面でも他規格に比べ有利だとされていた一方、コントローラを機器側に内蔵しているため、メディア側の電圧変更や大容量化などで互換性問題を生じることも多く、以下のような現象が生じユーザーの不評を買った。
スマートメディア陣営では当初、「カードにコントローラを内蔵せず安価で汎用性の高いスマートメディアは、広く使われる『乾電池』のような存在となり、そうでない他の規格は『特殊電池』の地位にとどまるだろう」と豪語していた。特に盟主の東芝は2000年の東京国際ブックフェアなどで、スマートメディアを用いた電子出版事業を提唱しており、いかに量産低価格化に楽観的見通しを抱いていたかが窺える。しかし、実際にはライバルのコンパクトフラッシュの価格は量産効果によりスマートメディアと大差は無かった。
加えて、スマートメディアは上記のような互換性問題が常につきまとい、「機器とメディアが心中を余儀なくされる」という傾向が強かった。
結果として、互換性を保ちつつ順調に容量を伸ばしたコンパクトフラッシュやマルチメディアカードが「乾電池」の地位についたのに対して、スマートメディアは汎用性の低い「特殊電池」の地位に甘んじることとなり、当初の主張とは正反対の結果に終わった。
電気接点が広い面積で露出していることから外部の静電気等の影響を受けやすく、またユーザーが半導体メモリの扱いに慣れていない早い時期に登場したこともあって中身のデータを失う事故が多く、評判が悪かった。 | [
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] | スマートメディア(SmartMedia)は、東芝(半導体メモリ事業部。現・キオクシア)が開発したメモリーカード、フラッシュメモリメディアの通称。 | {{出典の明記|date=2023年11月}}
[[Image:Smartmedia.svg|thumb|200px|スマートメディアを模したイラスト (3.3 V)]]
'''スマートメディア'''(SmartMedia)は、[[東芝]](半導体メモリ事業部。現・[[キオクシア]])が開発した[[メモリーカード]]、[[フラッシュメモリ]]メディアの通称。
== 概要 ==
[[東芝]]・[[オリンパス]]・[[富士フイルム|富士写真フイルム]](当時)・[[東京エレクトロン]]・[[セガゲームス|セガ・エンタープライゼス(現・セガ)]]の5社で結成した'''SSFDC[[フォーラム]]'''によって規格策定され、1995年から市販された。[[コンパクトフラッシュ|CF]]・[[SDメモリーカード|SD]]などでも幅広く採用された[[NAND型フラッシュメモリ]]を用いている。
正式名称は'''SSFDC'''(''Solid State Floppy Disk Card'': 半導体フロッピーディスクカード)である。「'''''SmartMedia'''''」の商標から、SMと略される。
サイズは(長さ)45.0 mm×(幅)37.0 mm ×(厚さ)0.76 mmときわめて薄く、重さは2 g。データ容量は1997年までに500 kB・2 MB・4 MBの製品が出荷され、1998年に16 MB、1999年に32 MB、2000年に64 MB(SMIDのみ)、2001年に128 MB(SMIDのみ)が市販化・発売された。駆動電圧は5 Vないし3.3 Vで、メディア上部の切り欠きが左にあるのが5 V・右にあるのが3.3 Vである。ただし、5 V駆動のカードは企画発足当初のごくわずかの期間に流通したのみで、小容量の製品しかなく、対応機種もごく少ない。
ライトプロテクト(書き込み禁止)機能があり、カード中央右寄りの○部分に付属品のプロテクトシールを貼付することで、書き込み(追記・消去・フォーマット)アクセスが出来なくなる。
1999年秋には、欧米で商用化が始まった有料[[音楽配信]]サイトからダウンロードしたコンテンツを、スマートメディアに移動させて[[デジタルオーディオプレーヤー|MP3プレーヤー]]で利用する際の権利者保護のため、[[全米レコード協会]]とメジャーレコード5社が策定した[[SDMI]]に準拠させる<!---効率の良いメディア管理の必要性から-->メディア毎に固有の128ビットIDを付加した「ID付きスマートメディア ('''''Smart Media ID''''')」が登場した。ID機能を利用しない機器でも下位[[互換性]]により問題なく利用できるため、市販化以降、ID無しの製品は市場から姿を消している。SMIDは、1999年12月に発売された[[マジックゲート]][[メモリースティック]]や2000年発売の[[SDメモリーカード]]とは異なり、カード自体に著作権保護のための暗号化技術 ([[CPRM]]) を備えておらず、固有のIDを接続機器に認識させるのみで、コンテンツ側でIDを基にした[[デジタル著作権管理]]の適用が必要となる。
=== メディアの終焉 ===
スマートメディアの開発者たる東芝は、1999年8月に[[サンディスク]]、[[パナソニック|松下電器産業]]らと組んで[[SDメモリーカード]]を開発し、富士フイルム・オリンパスと袂を分った。セガと東京エレクトロンは1997年以降表立った活動はしていない。ただし、東芝はスマートメディアを採用した各種製品を2002年まで発売していた。2001年には当時世界初のスマートメディアとSDカードに対応(供用)した[[PCカード]]型R/Wを発売している。
富士フイルムとオリンパスは2002年に大容量化が可能である[[xDピクチャーカード]]を開発し、市販化以降に発売された両社製品(デジタルカメラ)で記憶メディアの移行が進められた。スマートメディアとは一切互換性が無い。
[[2005年]][[3月7日]]、東芝はスマートメディアの生産から一部を除き撤退することを決めた。また、業界団体の「SSFDCフォーラム」も[[2007年]]5月で解散。これによりスマートメディアの新規生産は完全にストップしたため、新品メディアは市場流通在庫のみとなっている。富士フイルムとオリンパスではスマートメディアを使用するカメラユーザーのためにネット直販サイトにて修理部品扱いで売り続けていた。在庫限りのため販売量を1ユーザー1枚に限定していたが、2019年4月現在、オリンパス、富士フイルムの両サイトでは販売終了となっている。
現在でもスマートメディアを使用する製品は、[[エレクトーン]]([[エレクトーン#STAGEA|ステージア]])に代表される[[電子楽器]]を除いて、概ね2002年以前に発売された製品に限られている。
コンパクトフラッシュ・SDメモリーカード・メモリースティックとは異なり、I/Oデバイスを搭載する機能はない。
== 記憶メディアとして採用された製品 ==
* 東芝製品
** Allegretto(アレグレット、[[デジタルカメラ]])
** [[GENIO]]([[携帯情報端末|PDA]])
** [[Rupo]](ワードプロセッサ、1997年以降の上級機種に搭載。)
** [[dIGO]](=ディーゴ=MP3プレーヤー、1999年12月に発売。[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]と[[パイオニアLDC]]所属アーティストの楽曲を収録したSMIDが同梱)
** ヘッドフォン一体型MP3プレイヤー(2000年2月に東芝EMIが販売。[[布袋寅泰]]のオリジナル曲などを収録したSMICが同梱)
** ハイビジョンテレビ(D4000シリーズ)
* [[デジタルカメラ]]・[[ICレコーダー]](2000 - 2002年以降の発売機種はSD/xDへ移行)
** [[富士フイルム|富士写真フイルム]]([[FinePix]]シリーズ)
** [[オリンパス]]([[オリンパスCAMEDIAシリーズ]]・[[オリンパス・ボイストレックシリーズ|ボイストレック]])
** [[リコー]]
** [[三洋電機]][[Xacti]]
** [[セガ]]「DIGIO」(1997年発売のデジタルカメラ。500 kB ・5 VのSMのみ公式対応)
* [[デジタルオーディオプレーヤー]]([[クリエイティブメディア]]など海外メーカーの製品が多かった)
* [[富士通]]「[[OASYS]]」(ワードプロセッサ、1997年以降発売の上位機種)
* [[シャープ]]「インターネット[[ビューカム]]」(日本初の半導体 (SM) 記録型[[デジタルビデオカメラ]])
* カシオ計算機製品
** デジタルカメラ
** [[カシオトーン]](キーボード)
** [[プリヴィア]](デジタルピアノ、2003年以降の製品にも採用)
* [[NTTドコモ]](販売元)のモバイル端末
** [[キャメッセ]]プチ([[東芝]]製)
** キャメッセボード([[セイコーエプソン]]製)
* [[ヤマハ]]製品
** [[エレクトーン]]
*** [[エレクトーン#STAGEA|ステージア]](2004年発売であり、SM採用機種としては最後発)
** [[シンセサイザー]]
*** [[ヤマハ・CSシリーズ|CS6x]]
*** [[ヤマハ・Sシリーズ|S80 / S30]]
*** [[ヤマハ・MOTIFシリーズ|MOTIF 6 / MOTIF 7 / MOTIF 8]]
*** [[ヤマハ・MUシリーズ|MU2000]]
*** [[ヤマハ・QYシリーズ|QY100]] (シーケンサー専用機)
*** [[ヤマハ・RM/RSシリーズ|RS7000]]
** [[クラビノーバ]](上位機種)
** [[ポータトーン]](上位機種)
** [[Muma]](コンテンツキヨスク端末)
** サウンドスケッチャーSH-01(ステレオマイク内蔵・[[オーバーダビング|重ね録り]]可能な携帯ディジタルレコーダー)
* [[ローランド]]、[[コルグ]]などの[[シンセサイザー]]・[[電子ピアノ]]などの電子楽器にも幅広く採用されている。
=== ゲーム・玩具関係 ===
* [[マリオのふぉとぴー]]
* [[エーエムスリー]]「[[アドバンスムービー]]」([[ゲームボーイアドバンス]]向けの動画コンテンツ販売サービス)
* [[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]「[[プリント倶楽部]]2」(セガDIGIOで撮影した画像をスマートメディアを介して取り込んで使用することができた。)
* [[旺文社]]の[[知育玩具]]「ヤミーボックスエクスパッド」
=== フラッシュパス ===
3.5インチ[[フロッピーディスク]]ドライブ (FDD) を経由して読み書きが可能になる、フロッピーディスク (FD) 型のアダプタである<ref>{{Cite web|和書|date=1997-03-04 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970304/ssfdc.htm |title=東芝、スマートメディアをFDDで読み書きできるアダプタを出荷開始 |publisher=PC Watch |accessdate=2012-08-23}}</ref>。動作にはコイン型電池を必要とする。OSに対応したドライバーを組み込むことで、内部の回路を通じてFDDの磁気ヘッド部分とSM間でリード/ライトが可能であり、特別な[[メモリーカードリーダライタ]]などの追加[[ハードウェア]]が要らない利点があった。しかし、大容量化に対応できなくなったこと、読み出し・書き込み速度はFD並みであり、他メディアに劣るなどの問題もあった。
前述のとおり専用ドライバでハードウェアとしてFDDを使う方式であり、フロッピーディスクを模擬するものではない。そのため、フラッシュパスを一般的なフロッピーディスクとして使う事は出来ない。
== 構造と問題点 ==
{{独自研究|section=1|date=2023年10月}}
[[画像:Smartmedia_5V.jpg|thumb|150px|5 Vタイプのスマートメディア]]
メディア上にコントローラ部分を持たないため、非常に薄い構造になっている。
構造が単純なため、コスト面でも他規格に比べ有利だとされていた一方、コントローラを機器側に内蔵しているため、メディア側の電圧変更や大容量化などで互換性問題を生じることも多く、以下のような現象が生じユーザーの不評を買った。
* 動作電圧が2種類(5 V・3.3 V)あり、互換性がない。1997年に発売された2MBから動作電圧が5 Vから3.3 Vに変更されたが、その際従来の5 Vの製品は速やかに市場から消えただけでなく、より大容量の製品も発売されなかった。
* 製品によっては、使用できる容量に制限がある。3.3 Vタイプを採用した初期の製品では、2 MB - 8 MBまでの容量にしか対応できない。大容量の製品は認識されず、しかも大容量の製品が登場すると小容量のものは入手困難になった。
スマートメディア陣営では当初、「カードにコントローラを内蔵せず安価で汎用性の高いスマートメディアは、広く使われる『乾電池』のような存在となり、そうでない他の規格は『特殊電池』の地位にとどまるだろう」と豪語していた。特に盟主の東芝は2000年の東京国際ブックフェアなどで、スマートメディアを用いた電子出版事業を提唱しており、いかに量産低価格化に楽観的見通しを抱いていたかが窺える。しかし、実際にはライバルのコンパクトフラッシュの価格は量産効果によりスマートメディアと大差は無かった。
加えて、スマートメディアは上記のような互換性問題が常につきまとい、「機器とメディアが心中を余儀なくされる」という傾向が強かった。
結果として、互換性を保ちつつ順調に容量を伸ばしたコンパクトフラッシュや[[マルチメディアカード]]が「乾電池」の地位についたのに対して、スマートメディアは汎用性の低い「特殊電池」の地位に甘んじることとなり、当初の主張とは正反対の結果に終わった。
電気接点が広い面積で露出していることから外部の静電気等の影響を受けやすく、またユーザーが半導体メモリの扱いに慣れていない早い時期に登場したこともあって中身のデータを失う事故が多く、評判が悪かった。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[メモリーカード]]
{{メモリーカード}}
[[Category:メモリーカード|すまとめていあ]] | 2003-04-11T12:56:06Z | 2023-11-16T14:27:57Z | false | false | false | [
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6,533 | 名数一覧 | [] | null | {{TOCright}}
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* [[三種の神器]]・[[三種の神器 (電化製品)]]
* [[天下三茄子]]:[[九十九髪茄子]]・[[松本茄子]]・[[富士茄子]]
* 中国の正史
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* [[三清]]
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* 三大預言書:[[イザヤ書]]・[[エレミヤ書]]・[[エゼキエル書]]
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* [[三国司]]([[戦国三国司]]):[[姉小路氏]]・[[一条氏]]・[[北畠氏]]
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** 劉邦三傑:[[韓信]]・[[蕭何]]・[[張良]]
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** [[警視庁の三郎三傑]]:[[高野佐三郎]]・[[高橋赴太郎]]・[[川崎善三郎]]
* 三銃士
** [[三銃士]]
** [[闘魂三銃士]]:[[武藤敬司]]・[[蝶野正洋]]・[[橋本真也]]
* [[三頭政治]]
* [[三千家]]
* [[飛騨山脈|北アルプス]]三大急登:[[烏帽子岳 (飛騨山脈)|烏帽子岳]]のブナ立尾根・[[笠ヶ岳]]の笠新道・[[燕岳]]の合戦尾根
* 三代格式:[[弘仁格式]]・[[貞観格式]]・[[延喜格式]]
* [[寛政の三奇人]]:[[林子平]]・[[高山彦九郎]]・[[蒲生君平]]
* [[寛政の三博士]]:[[古賀精里]]・[[尾藤二洲]]・[[柴野栗山]](古賀精里の代わりに[[岡田寒泉]]を加える事もある)
* [[寛政の三忠臣]]:[[松平定信]]・[[本多忠籌]]・[[加納久周]]
* 三賢女(三才女)
** 三賢女:[[小野小町]]・[[紫式部]]・[[清少納言]]
** [[賀茂真淵#県門の三才女|県門の三才女]]:[[進藤茂子]]・[[油谷倭文子]]・[[鵜殿余野子]]
* [[幕末の三舟]]:[[勝海舟]]・[[山岡鉄舟]]・[[高橋泥舟]]
* [[幕末の三剣士]]:[[男谷信友]]・[[島田虎之助]]・[[大石進]]・[[比留間与八]]
* 三筆
** [[書の三聖]]:[[空海]]・[[菅原道真]]・[[小野道風]]
** [[三跡]](三蹟):[[小野道風]]・[[藤原佐理]]・[[藤原行成]]
** [[三筆]]:[[空海]]・[[嵯峨天皇]]・[[橘逸勢]]
** [[三筆#寛永の三筆|寛永の三筆]]:[[本阿弥光悦]]・[[近衛信尹]]・[[松花堂昭乗]]
** [[三筆#黄檗の三筆|黄檗の三筆]]:[[隠元隆琦]]・[[木庵性瑫]]・[[即非如一]]
** [[三筆#幕末の三筆|幕末の三筆]]:[[市川米庵]]・[[貫名菘翁]]・[[巻菱湖]]
** [[三筆#明治の三筆|明治の三筆]]:[[日下部鳴鶴]]・[[中林梧竹]]・[[巖谷一六]]
* 室町幕府三[[管領]]:[[細川氏]]・[[畠山氏]]・[[斯波氏]]
* [[和歌三神]]:[[住吉明神]]・[[玉津島明神]]・[[柿本人麻呂]](または人麻呂の代わりに[[天満天神]]、住吉明神・玉津島明神の代わりに[[山部赤人]]・[[衣通姫]])
* [[三河三奉行]]:[[高力清長]]・[[本多重次]]・[[天野康景]]
* [[三弾正]]:[[保科正俊]]・[[真田幸隆]]・[[高坂昌信]]
* [[三駿河]]:[[宇佐美定満]]・[[吉川元春]]・[[加藤信邦]]
* [[三山城]]:[[竹腰正信]]・[[直江兼続]]・[[横山長知]]
* [[摂津三守護]]:[[和田惟政]]・[[池田勝正]]・[[伊丹親興]]
* 三家老
** [[豊州三家老]](大友三家老):[[吉弘鑑理]]・[[臼杵鑑速]]・[[立花道雪]]または[[吉岡長増]]
** [[宇喜多三老]]:[[岡家利]](利勝)・[[戸川秀安]]・[[長船貞親]]
** [[筒井三家老]]:[[島清興]]・[[松倉重信]]・[[森好之]]
** 大浦三老:[[小笠原信浄]]・[[兼平綱則]]・[[森岡信元]]
** 氏康三家老:[[大道寺政繁]]・[[遠山綱景]]・[[松田憲秀]]
** [[三中老]]:[[生駒親正]]・[[堀尾吉晴]]・[[中村一氏]]
* [[三山]](※多数あり、詳細は「[[三山]]」を参照)
* [[松代三山]](儒者):[[鎌原桐山]]、[[山寺常山]]、[[佐久間象山]]
* [[天保の三剣豪]]:[[男谷信友]]・[[島田虎之助]]・[[大石進]](大石進の代わりに[[比留間与八]]を加える事もある)
* [[天保の三佞人]]:[[水野忠篤 (美濃守)|水野忠篤]]・[[林忠英]]・[[美濃部茂育]]
* [[海赤雨三将]]:[[海北綱親]]・[[赤尾清綱]]・[[雨森清貞]]
* [[三美神]]
* 三姉妹
** [[浅井三姉妹]]:[[淀殿|茶々]]・[[常高院|初]]・[[崇源院|江]]
** [[プロヴァンスの三姉妹]]
* 天下三肩衝:茶入れの銘器、[[初花|初花肩衝]]・[[楢柴肩衝]]・[[新田肩衝]]
* [[三羽烏]]
** [[清水東三羽烏]]:[[大榎克己]]・[[長谷川健太]]・[[堀池巧]]
** [[北原白秋|白秋]]門下三羽烏:[[萩原朔太郎]]・[[室生犀星]]・[[大手拓次]]
* [[三魔]]:[[今参局|御今]]・[[有馬持家]]・[[烏丸資任]]
* [[三富]]:[[谷中感応寺]]・[[目黒不動]]・[[湯島天神]]
* [[三竦み]]
** [[じゃんけん]]:[[カエル]]・[[ヘビ]]・[[ナメクジ]]
** [[狐拳]]:[[狐]]・[[庄屋]]・[[猟師]]
** 産業組織論:構造S・行為C・成果P
* [[匂宮三帖]]
* [[帚木三帖]]
* [[三関]]
* [[江戸三森]]
* 江戸の三大刑場:[[小塚原刑場]]・[[鈴ヶ森刑場]]・[[大和田刑場]]
* [[仁科三湖]]:[[青木湖]]・[[木崎湖]]・[[中綱湖]]
* 佐賀の三右衛門:[[酒井田柿右衛門]]・[[今泉今右衛門]]・[[中里太郎右衛門 (13代)|中里太郎右衛門]]
* 有田の三右衛門:[[酒井田柿右衛門|柿右衛門]]・[[今泉今右衛門|今右衛門]]・[[館林源右衛門|源右衛門]]
* [[三分]]:序分・正宗分・流通分
* [[大正三美人]]:[[九條武子]]・[[柳原白蓮]]・[[江木欣々]]または[[林きむ子]]
* [[三一致の法則]]:時の単一・場の単一・筋の単一
* 三人の会:[[芥川也寸志]]・[[團伊玖磨]]・[[黛敏郎]]
* [[ピアノ三重奏曲|ピアノ三重奏]]
* 三代集:[[古今集]]・[[後撰集]]・[[拾遺集]]
* [[三界]]:欲界・[[色界]]・[[無色界]]
* [[三民主義]]:民族の独立・民権の伸長・民主の安定
* [[三都]]:[[京]]・[[大坂]]・[[江戸]]
* [[ロボット工学三原則]]
* [[非核三原則]]:もたず・つくらず・もちこませず
* [[昭和三大馬鹿査定]]
* [[三ばか大将]](各種あり)
* [[三密]]:身密・口密・心密
* [[3つの密]]:密閉空間・密集場所・密接場面
* [[三審制]]:[[地裁]]・[[高裁]]・[[最高裁]]
* [[三権分立]]:[[行政]]・[[立法]]・[[司法]]
* [[三悪 (国際政治)|三悪]]:[[テロリズム]]・[[分離主義]]・[[急進主義]]
* 文壇三大音声:[[丸谷才一]]・[[開高健]]・[[井上光晴]]
* [[春秋#テキストと注釈|春秋三伝]]:[[春秋左氏伝]]・[[春秋公羊伝]]・[[春秋穀梁伝]]
* 三秀才:[[加藤周一]]・[[中村真一郎]]・[[福永武彦]]
* 日本三大[[俳優#性別での分類|女優]]
** 三大女優:[[水谷八重子 (初代)]]・[[山田五十鈴]]・[[杉村春子]]
** 日本映画三大美人女優:山田五十鈴・[[原節子]]・[[入江たか子]]
** [[新劇]]三大婆さん役女優:[[北林谷栄]]([[劇団民藝]])・[[鈴木光枝]]([[劇団文化座]])・[[初井言榮]]([[劇団青年座]])
** [[劇団俳優座]]が生んだ[[新劇]]三大女優:[[市原悦子]]・[[岩崎加根子]]・[[渡辺美佐子]]
** 角川三人娘:[[薬師丸ひろ子]]・[[原田知世]]・[[渡辺典子]]
== 4 ==
{{also|:Category:名数4|:Category:日本の名数4}}
* 日本四大○○→[[日本四大一覧]]
** 四大工業地帯:[[京浜工業地帯]]・[[中京工業地帯]]・[[阪神工業地帯]]・[[北九州工業地帯]]
** [[幕末の四大人斬り]]:[[田中新兵衛]]・[[河上彦斎]]・[[岡田以蔵]]・[[桐野利秋|中村半次郎]]
* [[四大公害病]]:[[水俣病]]・[[イタイイタイ病]]・[[第二水俣病]]・[[四日市ぜんそく]]
* 中国四大○○→[[中国四大一覧]]
** [[蘇州市|蘇州]]四大[[庭園|園林]]:[[蘇州古典園林]]のうち、[[宋 (王朝)|宋代]]の滄浪亭・[[元 (王朝)|元代]]の獅子林・[[明|明代]]の拙政園・[[清|清代]]の留園
* 世界四大○○→[[世界四大一覧]]
** [[世界四大文明]]:[[エジプト文明]]・[[メソポタミア文明]]・[[インダス文明]]・[[黄河文明]]
** 四大[[ギリシア教父]]:[[アレクサンドリアのアタナシオス|アタナシオス]]・[[カイサリアのバシレイオス]]・[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]・[[ヨハネス・クリュソストモス]]
** 四大[[ラテン教父]]:[[アンブロジウス]]・[[ヒエロニムス]]・[[アウグスティヌス]]・[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]
* [[四季]]
* 四季の女神:[[佐保姫]](春)・筒姫(夏)・[[竜田姫]](秋)・宇津姫(冬)
* [[四史]]([[前四史]])『[[史記]]』・『[[漢書]]』・『[[後漢書]]』・『[[三国志]]』
* [[四神]]([[四神相応]])
* [[四霊]]
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*四書
** [[四書]]([[儒教]]):[[論語]]・[[孟子 (書物)|孟子]]・[[大学 (書物)|大学]]・[[中庸]]
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*[[四元素|四大:地・水・火・風]]
* [[四夷]]:[[東夷]]・[[西戎]]・[[南蛮]]・[[狄|北狄]]
* [[四元素]]
* [[四大精霊]]
* [[四人組]]
** [[四人組 (中国史)]]
* [[四天王]](○○四天王)
** [[織田四天王]]:[[柴田勝家]]・[[滝川一益]]・[[明智光秀]]・[[丹羽長秀]]
** [[徳川四天王]]:[[本多忠勝]]・[[井伊直政]]・[[榊原康政]]・[[酒井忠次]]
** [[頼光四天王]]:[[渡辺綱]]・[[坂田金時]]・[[卜部季武]]・[[碓井貞光]]
** [[武田四天王]]:[[馬場信春]]・[[内藤昌豊]]・[[山県昌景|山縣昌景]]・[[高坂昌信]]
** [[龍造寺四天王]]:[[江里口信常]]・[[成松信勝]]・[[百武賢兼]]・[[円城寺信胤]]・[[木下昌直]]
** [[藤原惺窩|惺門四天王]]:[[林羅山]]・[[那波活所]]・[[松永尺五]]・[[堀杏庵]]
** 落語四天王:三代目[[古今亭志ん朝]]・七代目[[立川談志]]・八代目[[橘家圓蔵 (8代目)|橘屋圓蔵]]・五代目[[三遊亭圓楽 (5代目)|三遊亭圓楽]]<ref>この四人に加えて初代[[林家三平 (初代)|林家三平]]は、「四天王の上のつけ麺大王」と自称していた。</ref>
** 悪筆四天王:[[石原慎太郎]]・[[黒岩重吾]]・[[田中小実昌]]・[[川上宗薫]]
** Vシネマ四天王:[[哀川翔]]・[[竹内力]]・[[小沢仁志]]・[[白竜]]
* [[戦国四君]]:[[孟嘗君]]([[田斉|斉]])・[[平原君]]([[趙 (戦国)|趙]])・[[春申君]]([[楚 (春秋)|楚]])・[[信陵君]]([[魏 (戦国)|魏]])
*四家
** [[藤原四家]]:[[藤原南家]]・[[藤原北家]]・[[藤原式家]]・[[藤原京家]]
** [[茶道四家]]:[[表千家]]・[[裏千家]]・[[武者小路千家]]・[[藪内家]]
** [[元末四大家]]:[[黄公望]]・[[呉鎮]]・[[倪瓚]]・[[王蒙 (画家)|王蒙]]
* [[一条朝の四納言]]:[[藤原公任]]・[[藤原行成]]・[[藤原斉信]]・[[源俊賢]]
* [[四姓]](日本):[[源氏]]・[[平氏]]・[[藤原氏]]・[[橘氏]]
** [[神祇官|神祇]]の四姓:[[白川伯王家]]・[[大中臣氏]]・[[卜部氏]]・[[忌部氏]]
* [[国学]]の四大人(よはしらのうし):[[荷田春満]]・[[賀茂真淵]]・[[本居宣長]]・[[平田篤胤]]
** [[神道霊学]]の四大人:[[川面凡児]]・[[友清歓真]]・[[荒深道斉]]・[[田中治吾平]]
* [[冷泉家]]の四祖:[[藤原俊成]]・[[藤原定家]]・[[藤原為家]]・[[冷泉為相]]
* [[四職]]:[[山名氏]]・[[一色氏]]・[[京極氏]]・[[赤松氏]]
* [[織田信長|信長の四長]]:[[林秀貞]]・[[平手政秀]]・[[青山信昌]]・[[内藤勝介]]
* [[囲碁四哲]]:[[本因坊元丈]]・[[安井知得]]・[[幻庵因碩]]・[[本因坊秀和]]
* [[清洲会議|清洲会議四宿老]]:[[柴田勝家]]・[[丹羽長秀]]・[[池田恒興]]・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]
* [[浅井四翼]]:[[磯野員昌]]・[[野村定元]]・[[三田村秀俊]]・[[大野木国重]]
* [[マスコミ四媒体]]:[[新聞]]・[[雑誌]]・[[ラジオ]]・[[テレビ]]
* 呉中四傑:[[揚基]]・[[高啓]]・[[張羽]]・[[徐賁]]
* [[島津四勇将]]:[[新納忠元]]・[[鎌田政年]]・[[川上久朗]]・[[肝付兼盛]]
*[[幕末の四賢侯]]:[[松平春嶽|松平慶永]]・[[山内容堂|山内豊信]]・[[島津斉彬]]・[[伊達宗城]]
* [[四鏡]]:[[大鏡]]・[[今鏡]]・[[水鏡]]・[[増鏡]]
* [[大州|四大洲]]:贍部洲・勝身洲・牛貨洲・倶盧洲
* 四部合戦状:[[平家物語]]・[[保元物語]]・[[平治物語]]・[[承久記]]
* [[弦楽四重奏]]
* [[シフゾウ|四不象]]
* [[四維]]:東北・東南・西北・西南
* [[南朝 (日本)|南朝]]四代:[[後醍醐天皇|後醍醐]]・[[後村上天皇|後村上]]・[[長慶天皇|長慶]]・[[後亀山天皇|後亀山]]
* [[算術#四則演算|四則演算]]
* [[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]四大悲劇:[[ハムレット]]・[[オセロー|オセロ]]・[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]・[[リア王]]
== 5 ==
{{also|:Category:名数5|:Category:日本の名数5}}
* [[日本五大一覧]]
* [[五街道]]:[[東海道]]、[[中山道]]、[[甲州街道]]、[[奥州街道]]、[[日光街道]]
* [[五畿七道]]
* [[五行]]:木・火・土・金・水
* 五大:[[四元素|地・水・火・風]]・[[アーカーシャ|空]]
* [[五穀]]
* [[五色沼 (福島県北塩原村)]]
* [[五色沼 (仙台市)]]
* [[爵位|五爵]]:[[公爵]]、[[侯爵]]、[[伯爵]]、[[子爵]]、[[男爵]]
* [[五臓六腑]]
* [[五大洋]]
* [[五人囃子]]
* [[五大老]]
* [[五奉行]]
** [[五奉行 (毛利氏)|毛利五奉行]]:[[児玉就忠]]・[[桂元忠]]・[[赤川元保|赤川元助]]・[[粟屋元親]]・[[国司元相]]
* [[五山]]
** [[尼寺五山]]
** [[鎌倉五山]]
** [[京都五山]]
* 五岳(※いろいろ多数あり、詳細は[[五岳]]を参照)
* [[春秋五覇]](五覇)
* [[五賢帝]]
* [[五大湖]]
* [[富士五湖]]:[[山中湖]]、[[河口湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]、[[精進湖]]、[[本栖湖]]
* [[三方五湖]]:三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖
* [[五摂家]]:[[近衛家]]、[[九条家]]、[[一条家]]、[[二条家]]、[[鷹司家]]
* [[天下三茄子|名物五つ茄子]]:[[富士茄子]]・[[曙茄子]]・[[七夕茄子]]・[[利休小茄子]]・[[豊後茄子]]
*五将
** [[五将軍]]([[魏 (三国)|魏]]:[[張遼]]・[[楽進]]・[[于禁]]・[[張郃]]・[[徐晃]])
** [[五虎大将軍]]([[蜀漢|蜀]]:[[関羽]]・[[張飛]]・[[趙雲]]・[[馬超]]・[[黄忠]])
** [[織田五大将]]:[[柴田勝家]]・[[丹羽長秀]]・[[滝川一益]]・[[明智光秀]]・[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]
** [[北条五色備]]:[[北条綱成]]・[[北条綱高]]・[[富永直勝]]・[[笠原康勝]]・[[多目元忠]]
* [[小返しの五本鑓]]:[[川上忠兄]]・[[川上久智]]・[[川上久林]]・[[押川公近]]・[[久保之盛]]
* [[五人組]]
** [[五人組 (日本史)]]
** [[ロシア5人組]]
* [[五箇条の御誓文]]
* [[五榜の掲示]]
* [[モーセ五書]]
* [[五鬼]]
** [[寛政異学の禁|寛政の五鬼]]:[[山本北山]]、[[亀田鵬斎]]、[[市川鶴鳴]]、[[冢田大峯]]、[[豊島豊洲]]
* [[節句|五節句]]:[[人日]]・[[上巳]]・[[端午]]・[[七夕]]・[[重陽]]
* [[五蘊]]:色・受・想・行・識
* [[大州|五大州]]
* [[五悪]]:[[殺生]]・[[偸盗]]・[[邪淫]]・[[妄語]]・[[飲酒]]
* [[五悪趣]]:[[地獄]]・[[餓鬼]]・[[畜生]]・[[人間]]・[[天]]または、[[地獄]]・[[餓鬼]]・[[畜生]]・[[修羅]]・[[人天]]([[人間]])
* 五大[[クラシックレース]]:[[桜花賞]]・[[さつき賞]]・[[オークス]]・[[ダービー]]・[[菊花賞]]
* [[クラリネット五重奏]]
* [[五大人的資源]]:エネルギー・情報・お金・空間・時間
* [[:zh:五蠹|五蠹]]:指学者(儒士)・言談者(縦横家)・帯剣者(遊俠)・患御者(逃亡兵)・商工之民
* [[梨壺の五人]]:[[大中臣能宣]]・[[源順]]・[[清原元輔]]・[[坂上望城]]・[[紀時文]]
* [[明智五宿老]]
* [[大坂五人衆]]
* [[東京新詩社]]五才媛:[[与謝野晶子]]・[[山川登美子]]・[[茅野雅子]]・[[石上露子]]・[[玉野花子]]
* [[神田五大学]]:[[法政大学]]・[[中央大学]]・[[専修大学]]・[[日本大学]]・[[明治大学]]
* [[日本の戦後改革#内容|五大改革指令]]:[[秘密警察]]の廃止・[[労働組合]]の結成奨励・[[婦人解放]]・[[学校教育の民主化]]・[[経済の民主化]]
* [[2019年-2020年香港民主化デモ#五大要求|香港五大要求]]([[中国語]]:五大訴求):[[2019年逃亡犯条例改正案|逃亡犯条例改正案]]の完全撤回・[[普通選挙]]の実現・独立調査委員会の設置・逮捕されたデモ参加者の逮捕取り下げ・民主化デモを暴動とした認定の取り消し
* [[平和五原則]]:領土、主権の相互尊重・相互不可侵・相互内政不干渉・平等互恵・平和共存
* [[法律学校 (旧制)|五大法律学校]]:東京法学社(のち、[[東京法学校]]、現・[[法政大学]])、[[専修学校]](現・[[専修大学]])、[[明治法律学校]](現・[[明治大学]])、[[東京専門学校]](現・[[早稲田大学]])、[[英吉利法律学校]](現・[[中央大学]])
* 五流:加役流・反逆縁坐流・子孫犯過失流・不孝流・会赦猶流
== 6 ==
{{also|:Category:名数6|:Category:日本の名数6}}
* [[六家]]
* [[六義]]
* [[六気]]:陰・陽・風・雨・晦・明または:寒・暑・燥・湿・風・火
* 六大:[[四元素|地・水・火・風]]・[[アーカーシャ|空]]・[[識]]
* [[六経]]
* [[六国]]
* [[六根]]:[[目|眼]]・[[耳]]・[[鼻]]・[[舌]]・[[身]]・[[意識]]
* [[六書]]
* [[六朝]]
* [[六道]]
* [[六腑]]:[[大腸]]・[[小腸]]・胆・[[胃]]・三焦・[[膀胱]]
* [[六方]]
* [[六法]]
* [[福祉六法]]:[[児童福祉法]]・[[身体障害者福祉法]]・[[生活保護法]]・[[知的障害者福祉法]]・[[母子及び寡婦福祉法]]・[[老人福祉法]]
* [[六卿]]:[[大宰]]・[[大司徒]]・[[大宗伯]]・[[大司馬]]・[[大司寇]]・[[大司空]]
* [[六人組]]
* [[フランス6人組]]
* [[六歌仙]]
* [[六観音]]
* [[六国史]]
* [[六大州]]
* [[六大学 (曖昧さ回避)|六大学]]
* [[地蔵菩薩#六地蔵|六地蔵]]
* [[南都六宗]]
* [[西美濃三人衆|斎藤六宿老]]:[[氏家直元]]・[[安藤守就]]・[[日根野弘就]]・[[竹腰尚光]]・[[長井衛安]]・[[日比野清美]]
* [[六角六宿老]]:[[三雲成持]]・[[蒲生賢秀]]・[[進藤貞治]]・[[平井定武]]・[[後藤秀勝]]・[[目賀田綱清]]
* [[和歌六人党]]
* [[奥近習六人衆]]
* [[六大都市]]:[[東京]]23区・[[横浜市]]・[[名古屋市]]・[[京都市]]・[[大阪市]]・[[神戸市]]
* [[6大グループ]]
* [[六大浮世絵師]]:[[鈴木春信]]・[[鳥居清長]]・[[喜多川歌麿]]・[[東洲斎写楽]]・[[葛飾北斎]]・[[歌川広重]]
* [[江戸の六上水]]
* [[六字名号]]
* [[六師外道]]
* [[六欲天]]:四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天
* [[雲隠六帖]]
* [[六芸|六藝]]:礼・楽・御・書・射・数
* [[東京六大学]]:[[東京大学]]・[[慶應大学]]・[[早稲田大学]]・[[立教大学]]・[[明治大学]]・[[法政大学]]
* [[流罪#日本における流罪|六所遠流]]:[[伊豆七島]]・[[薩摩五島]]・[[天草]]・[[壱岐]]・[[隠岐諸島|隠岐]]・[[佐渡]]
* [[六玉川]]
== 7 ==
{{also|:Category:名数7|:Category:日本の名数7}}
* [[七将]]:[[福島正則]]・[[加藤清正]]・[[細川忠興]]・[[浅野幸長]]・[[黒田長政]]・[[加藤嘉明]]・[[池田輝政]]
* [[七曜]](=[[七政]])
* [[七色]]:(1)[[虹]]の[[虹の色|色]]: 赤・橙・黄・緑・青・藍・紫(2)[[七色唐辛子]]蕃椒・[[胡麻]]・[[陳皮]]・[[芥子]]・菜種・麻実・[[山椒]]
* 七大:[[四元素|地・水・火・風]]・[[アーカーシャ|空]]・[[識]]・[[六根|根]]
* [[ギリシャ七賢人]]
* [[ローマの七丘]]
* [[七福神]]
* [[七つの海]]
* [[七元徳]]([[カトリック]]で3[[対神徳]]+4[[枢要徳]])
* 七罪(カトリックの[[七つの大罪]])
* [[七つ道具]]
* [[七観音]]
* [[奥州七観音]]
* [[七俳仙]]
* [[七博士]]
* [[竹林の七賢]]
* [[七不思議]]
** [[世界の七不思議]]
** [[越後七不思議]]
** [[本所七不思議]]
* [[賤ヶ岳の戦い#賤ヶ岳の七本槍|賤ヶ岳の七本槍]]:[[福島正則]]・[[加藤清正]]・[[加藤嘉明]]・[[脇坂安治]]・[[糟屋武則]]・[[平野長泰]]・[[片桐且元]]
* [[竹下派七奉行]]:[[小渕恵三]]・[[橋本龍太郎]]・[[羽田孜]]・[[小沢一郎]]・[[奥田敬和]]・[[渡部恒三]]・[[梶山静六]]
* [[蟹江七本槍]]
* [[小豆坂七本槍]]
* [[高鍋の七本槍]]
* [[七卿落ち]]
* [[春の七草]]
* [[秋の七草]]
* [[佐賀の七賢人]]
* [[利休七哲]]
* [[江戸七弁天]]
* [[江戸七氷川]]
* [[江戸七森]]
* [[大阪七墓]]
* [[北斗七星]]
* [[帝国大学|旧七帝大]]
* [[七手組]]:[[速水守久]]・[[野々村吉安]]・堀田盛重(盛高)・[[中島氏種]]・[[真野頼包]]・[[青木一重]]・[[伊東長実]]([[郡宗保]]が入るとも)
* [[那須七騎]]:[[大関宗増]]・[[大田原資清]]・[[那須政資]]・[[千本資俊]]・[[福原資孝]]・[[伊王野資信]]・[[芦野資豊]]
* [[伊豆七島]]:[[伊豆大島|大島]]・[[新島]]・[[利島]]・[[神津島]]・[[三宅島]]・[[御蔵島]]・[[八丈島]]
* [[自由七科]]:[[文法学]]・[[論理学]]・[[修辞学]]・[[幾何学]]・[[算術]]・[[天文学]]・[[音楽]]
* [[棋戦 (囲碁)|囲碁の七大タイトル]]:[[棋聖 (囲碁)|棋聖]]・[[名人 (囲碁)|名人]]・[[本因坊]]・[[十段 (囲碁)|十段]]・[[王座 (囲碁)|王座]]・[[天元戦|天元]]・[[碁聖]]
* [[典型七公害]]
* [[セブン・シスターズ]]
* [[俳諧]][[七部集]]
* [[南都七大寺]]:[[東大寺]]・[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]・[[大安寺]]・[[興福寺]]・[[元興寺]]・[[薬師寺]]・[[法隆寺]]
* [[京の七口]]
* [[鎌倉七口]]
* [[箱根七湯]]
* [[七人ミサキ]]
* [[七宝]]:①[[金]]・[[銀]]・[[瑠璃]]・[[玻璃]]・[[硨磲]]・[[珊瑚]]・[[瑪瑙]](『[[無量寿経]]』)②金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・[[真珠]]・玫瑰(『[[法華経]]』)
== 8 ==
{{also|:Category:名数8|:Category:日本の名数8}}
* [[八大地獄]]
* [[八卦]]
* [[八正道]]
* [[八仙]] - 呂洞賓(りょどうひん)ほか8人の仙人
* [[八部衆]]
* [[二十一代集|八代集]]
* [[八大竜王]]
* [[八徳]]:仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌
* [[八介]]:[[大内介]]・[[富樫介]]・[[井伊介]]・[[狩野介]]・[[三浦介]]・[[千葉介]]・[[上総介]]・[[秋田城介]]
* [[八味]](甘・辛・塩・酸・苦・旨・渋・淡)
* [[八旗]]
* [[八音]]
* [[八景]]
* [[江戸八富士]]
* [[江戸八森]]
* [[近江八景]]
* [[金沢八景]]
* 深川八景([[永代橋]]の水鏡、[[永代寺]]の晩鐘、[[木場]]、[[塩浜 (江東区)|塩浜]]、[[仲町]]、[[洲崎 (東京都)|洲崎]]弁天、[[佃 (東京都中央区)|佃]]の雨、[[富岡八幡宮|深川八幡宮]])
* [[関八州]]
* [[甲州八珍果]]
* [[坂東八平氏]]
* [[黒田八虎]]:[[母里友信]]・[[後藤基次]]・[[黒田利高]]・[[黒田利則]]・[[黒田直之]]・[[栗山利安]]・[[黒田一成]]・[[井上之房]]
* [[琉球八社]]
* [[八道]]
* [[棋戦 (将棋)|将棋の8タイトル]]:[[竜王戦|竜王]]・[[名人 (将棋)|名人]]・[[棋聖戦 (将棋)|棋聖]]・[[王位戦 (将棋)|王位]]・[[王座戦 (将棋)|王座]]・[[棋王戦 (将棋)|棋王]]・[[王将戦|王将]]・[[叡王戦|叡王]]
* [[八犬士]] - 『[[南総里見八犬伝]]』
* [[欠史八代]]:[[綏靖]]・[[安寧]]・[[懿徳]]・[[孝昭]]・[[孝安]]・[[孝霊]]・[[孝元]]・[[開化]]
* [[八虐]]:[[謀反]]・[[謀大逆]]・[[謀叛]]・[[悪逆]]・[[不道]]・[[大不敬]]・[[不孝]]・[[不義]]
* [[飲中八仙]]:[[賀知章]]・[[李璡]]・[[李適之]]・[[崔宗之]]・[[蘇晋]]・[[李白]]・[[張旭]]・[[焦遂]]
* [[唐宋八大家]]:[[韓愈]]・[[柳宗元]]・[[欧陽脩]]・[[蘇洵]]・[[蘇軾]]・[[蘇轍]]・[[曾鞏]]・[[王安石]]
* [[八木]]:[[松]]・[[ヒノキ|柏]]・[[竹]]・[[橘]]・[[楡]]・[[カラタチ|枳]]・[[桑]]・[[ナツメ|棗]]
* [[忍野八海]]
== 9 ==
{{also|:Category:名数9|:Category:日本の名数9}}
* [[九偉人]]
* [[九卿]]
* [[九経]]
* [[九字]]
* [[九星]]
* [[九品]]
* [[九曜]](=[[九執]])
* [[九流]]
* [[九老僧]]
* [[九つの世界]]
* [[九州 (中国)|九州]]
* [[鎌倉将軍一覧|鎌倉幕府将軍九代]]
* [[竜生九子]]
* [[エジプト九柱の神々]]
* [[九竅]]([[九穴]])
* [[九家]]:[[儒家]]・[[道家]]・[[陰陽家]]・[[法家]]・[[名家 (諸子百家)|名家]]・[[墨家]]・[[縦横家]]・[[雑家]]・[[農家 (諸子百家)|農家]]
* [[九夷]]:① 畎夷・於夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷、② [[玄菟郡|玄菟]]・[[楽浪]]・[[高句麗|高驪]]・満飾・[[夫余|鳧臾]]・索家・東屠・[[倭人]]・天鄙
* [[九字名号]]
* [[経済安定九原則]]:均衡予算・徴税計画の促進・融資制限・賃金の安定・物価の統制・外国為替管理の強化・輸出増加への施策・重要国産原品の増産・食糧集荷計画の改善
== 10 ==
{{also|:Category:名数10|:Category:日本の名数10}}
* [[十王]]
* [[十干]]
* [[十家]]
* [[十戒]]
* [[十刹]]
* [[十通]]
* [[十界]]
* [[十哲]]
** [[孔門十哲]]
** [[蕉門十哲]]
** [[木門十哲]]
* [[十天君]](『封神演義』)
* [[十常侍]](三国志)
* [[十牛図]]
* [[十如是]]
* [[十大弟子]]
* [[十羅刹女]]
* [[東京十社]]
* [[出雲十旗]]
* [[玉鬘十帖]]
* [[宇治十帖]]
* [[尼子十勇士]]
* [[真田十勇士]]([[猿飛佐助]]ほか)
* [[維新の十傑]]
* [[オリジナル10]]
* [[十進分類法]]
* [[欠史十代]]:[[仁賢天皇|仁賢]]・[[武烈天皇|武烈]]・[[継体天皇|継体]]・[[安閑天皇|安閑]]・[[宣化天皇|宣化]]・[[欽明天皇|欽明]]・[[敏達天皇|敏達]]・[[用明天皇|用明]]・[[崇峻天皇|崇峻]]・[[推古天皇|推古]]
* [[十悪]]:[[殺生]]・[[偸盗]]・[[邪婬]]・[[妄語]]・[[両舌]]・[[悪口]]・[[綺語]]・[[貪欲]]・[[瞋恚]]・[[邪見]]
* [[ノックスの十戒]]
* [[十字名号]]
* [[十方]]:[[東西南北]]・[[四維]]
* [[鎌倉十橋]]
* [[鎌倉十井]]
* [[範疇論 (アリストテレス)|アリストテレスの10範疇]]
== 11 ==
{{also|:Category:名数11|:Category:日本の名数11}}
* [[十一宮家]]
* [[十一面観音]]
* [[田島山十一ヶ寺]]
* [[ベストイレブン]]
* [[Jリーグベストイレブン]]
* [[Kリーグベストイレブン]]
* [[PFA年間ベストイレブン]]
* [[セルビア・スーペルリーガベストイレブン]]
* [[甲子殉難十一烈士]]
* [[麒麟閣十一功臣]]
* [[NEXT11]]
* [[三井家#三井十一家|三井十一家]]
== 12 ==
{{also|:Category:名数12|日本の名数12}}
* [[オリュンポス十二神]]
* [[十二因縁]]
* [[十二因縁|十二縁起]]
* [[十二所権現]]
* 十二縁門
* 十二客
* [[十二様]]
* [[十二支]]
* [[十二徳]]:([[信]][[悌]][[忠]][[敬]][[仁]][[勇]][[義]][[和]][[礼]][[孝]][[智]][[聖]])
* [[十二直]]
* [[十二湖]]
* [[十二小預言書]]
* [[十二神将]]
* [[十二月将]]
* [[十二天将]]
* [[十二使徒]]
* [[外郭十二門]]:(門号氏族=[[大伴氏|大伴連]]・[[若犬養氏|若犬養連]]・[[壬生氏|壬生連]]・[[佐伯氏|佐伯連]]・[[伊福部氏|伊福部連]]・[[海犬養氏|海犬養連]]・[[猪養氏|猪養連]]・[[丹治比氏|丹治比連]]・[[山部氏|山部連]]・[[建部氏|建部君]]・[[的氏|的臣]]・[[玉手氏|玉手臣]])
* 十二勇将(十二臣将)(『[[ローランの歌]]』)
* [[円明園十二生肖獣首銅像]]
* [[冠位十二階]]
* [[皇朝十二銭]]
* [[黄道十二宮]]
* [[賀茂真淵#県門十二大家|県門十二大家]]
* [[現存天守#現存12天守|現存十二天守]]
* [[伊賀十二人衆]]
* [[12星座占い]]
* [[十二音技法]]
== 13 ==
{{also|:Category:名数13|:Category:日本の名数13}}
* [[十三経]]
* [[中国十三宗]]
* [[十三史]]
* [[二十一代集|十三代集]]
* [[十三塚]]
* [[名家 (公家)|十三名家]]
* [[門跡|十三門跡]]
* [[十三門派]]
* [[冠位十三階]]
* [[13星座占い]]
* [[十三宗五十六派|十三宗]]
* 十三階段
* [[13植民地]]
* [[十三人の合議制]]
* [[十三仏信仰|十三仏]]
* [[おおさか十三仏霊場]]
* [[神戸十三仏霊場]]
* [[阿南十三佛霊場]]
* [[伊予十三仏霊場]]
* [[岩戸山十三仏]]
* [[鎌倉十三仏霊場]]
* [[京都十三仏霊場]]
* [[藤ヶ谷十三塚]]
* [[北海道十三仏霊場]]
* [[大和十三仏霊場]]し
* [[十三宗五十六派]]
* [[アッシリア十三士]]
* [[十三王]]
* [[広東十三行]]
* [[XIII機関]]
* [[護廷十三隊]]
* [[13植民地]]
* [[神道十三派]]
* [[十三代集]]
* [[十三太保]]
* [[チベット十三万戸]]
* [[生駒十三峠の十三塚]]
* [[十三峠 (曖昧さ回避)]]
* [[十三道制]]
* [[七色十三階冠]]
* [[13日の金曜日]]
* [[藤ヶ谷十三塚]]
* [[明の十三陵]]
* [[吉田13人衆]]
* [[パン屋の1ダース]]
* [[鎌倉殿の13人]]
== 14 ==
{{also|:Category:名数14|:Category:日本の名数14}}
* [[十四事]](射、騎、棒、刀、抜刀、撃剣、薙刀、鎌、槍、鳥銃、石火箭、火箭、捕縛、拳)
* [[北海道]]十四[[支庁]]
* [[G-14]]
* [[G14 (サミット)]]
* [[十四か条の平和原則]]
* [[洪範14条]]
== 15 ==
{{also|:Category:名数15|:Category:日本の名数15}}
* [[足利将軍一覧|室町幕府将軍十五代]]
* [[徳川将軍一覧|江戸幕府将軍十五代]]
* [[西園寺十五将]]
* [[東京15区]]
* [[G15]]
* [[15共和国]]
* [[建武中興十五社]]
* [[西園寺十五将]]
* [[十五大財閥]]
* [[筑後十五城]]
* [[豊の国名水15選]]
* [[U15カナダ研究大学連盟]]
== 16 ==
{{also|:Category:名数16|:Category:日本の名数16}}
* [[鎌倉幕府の執権一覧|鎌倉幕府執権十六代]]
* [[徳川十六神将]]
* [[燕雲十六州]]
* [[十六島 (茨城県・千葉県)|十六島]] ①上之島、②西代、③ト杭、④中島、⑤六角、⑥結佐(以上現[[稲敷市]])、⑦松崎(現[[神崎町]])、⑧長島、⑨八筋川、⑩大島、⑪加藤洲、⑫境島、⑬三島、⑭中洲、⑮磯山、⑯扇島(以上現[[香取市]])
* [[十六むさし]]
* [[世阿弥]]十六部集
* [[十六羅漢]]
* [[十六観]]
* [[十六観智]]
* [[西山国師遺跡霊場]]
* [[十六小地獄]]
* [[十六善神]]
* [[大石良雄外十六人忠烈の跡]]
* [[加藤十六将]]
* [[十六大国]]
* [[五胡十六国時代]]
* [[十六国春秋]]
* [[十六人裁判]]
* [[聖トマス西と15殉教者]]
* [[十六摂]]
* [[十六茶]]
* [[長野十六槍]]
* [[十六むさし]]
* [[厄除け十六童子]]
== 17 ==
{{also|:Category:名数17|:Category:日本の名数17}}
* [[越後十七将]](上杉十七将)
* [[源義平#左近の桜、右近の橘|義平十七騎]]
* [[十七殿]]
* [[十七条憲法]]
* [[十七史]]
* [[朝倉孝景条々|朝倉敏景十七箇条]]
* [[西国愛染十七霊場]]
* [[天草十七人衆]]
* [[河内十七箇所]]
* [[十七史商榷]]
* [[首都圏私立17大学]]
* [[十七か条協定]]
* [[ネーデルラント17州]]
== 18 ==
{{also|:Category:名数18|:Category:日本の名数18}}
* [[十八番]]
* [[歌舞伎十八番]]
* [[猿之助十八番]]
* [[国主|国持十八家]]
* [[西美濃十八将]]
* [[毛利十八将]]
* [[十八松平]]
* [[十八大通]]
* [[十八史]]
* [[十八史略]]
* [[十八般兵器]]
* [[日本の仏教#系譜・宗派|十八宗]]
* [[十八学士]]
* [[十八羅漢]]
* [[関東十八檀林]]
* [[比丘十八物]]
* [[真言宗十八本山]]
* [[仏塔古寺十八尊]]
* [[十八か条の条約]]
* [[十八家晋史]]
* [[十八技]]
* [[菊池十八外城]]
* [[ゲッティンゲンの18人]]
* [[公武法制応勅十八箇条]]
* [[新歌舞伎十八番]]
* [[石勒十八騎]]
* [[唐の十八陵]]
* [[武芸十八般]]
== 19 ==
{{also|:Category:名数19|:Category:日本の名数19}}
* [[古詩十九首]]
* [[冠位十九階]]
== 20 ==
{{also|:Category:名数20|:Category:日本の名数20}}
* [[20人展]]
* [[龍門二十品]]
* [[ヴァン=ダインの二十則]]
* [[四国別格二十霊場]]
* [[BEL20]]
* [[G20]]
* [[ISEQ 20指数]]
* [[OMXコペンハーゲン20]]
* [[廿日先代]]
* [[CAC Next 20]]
* [[20-20-20クラブ]]
* [[公式レバノン・トップ20]]
* [[二十種競技]]
* [[高子二十境]]
* [[二十等爵]]
== 21 ==
{{also|:Category:名数21|:Category:日本の名数21}}
* [[二十一流]]
* [[二十一代集]]
* [[二十一史]]
* [[室町幕府|二十一屋形]]
* [[江戸廿一森]]
* [[対華二十一か条要求]]
* [[虜人日記|敗因二十一ヶ条]]
* [[洛中法華21ヶ寺]]
* [[仮名目録追加21条]]
* [[ぎふの棚田21選]]
* [[甲賀二十一家]]
* [[早雲寺殿廿一箇条]]
* [[都留市二十一秀峰]]
* [[美少女クラブ21]]
== 22 ==
{{also|:Category:名数22|:Category:日本の名数22}}
* [[二十二社]]
* [[二十二史]]
* [[二十二史考異]]
* [[二十二史箚記]]
* [[廷臣二十二卿列参事件]]
* [[タンパク質を構成するアミノ酸|アミノ酸22種]]
== 23 ==
{{also|:Category:名数23|:Category:日本の名数23}}
* [[東京都区部|東京23区]]
* [[中華人民共和国の行政区分|中国23省]]
* [[ヒルベルトの23の問題]]
* [[本町橋の夜戦|夜討二十三士]]
* [[二十三府制]]
* [[清岡道之助|野根山二十三士]]
== 24 ==
{{also|:Category:名数24|:Category:日本の名数24}}
* [[大阪24区]]
* [[二十四史]]
* [[二十四輩]]
* [[二十四孝]]
* [[二十四節気]]
* [[二十四番花信風]]
* [[武田二十四将]]
* [[黒田二十四騎]]
* [[凌煙閣二十四功臣]]
* [[河泉二十四地蔵霊場]]
* [[二十四諸天]]
* [[ぼけよけ二十四地蔵尊霊場]]
* [[二十四山]]
* [[北杜24景]]
* [[24の前奏曲]]:[[フレデリック・ショパン]]作曲
* 24の前奏曲:[[アレクサンドル・スクリャービン]]作曲
* 24の前奏曲:[[ヨーク・ボウエン]]作曲
* [[24の奇想曲]]:[[ニコロ・パガニーニ]]作曲
* [[24の前奏曲とフーガ]]:[[ドミトリー・ショスタコーヴィッチ]]作曲
== 25 ==
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* [[二十五大寺]]
* [[二十五菩薩]]
* [[上杉謙信#上杉二十五将|上杉二十五将]]
* [[二十五史]]
* [[江戸二十五天神]]
* [[OMXヘルシンキ25]]
* [[25カ条綱領]]
* [[菅公聖蹟二十五拝]]
* [[日本二十五勝]]
* [[廿五部秘書]]
* [[前橋二十五人衆]]
* [[洛陽天満宮二十五社順拝]]
* [[真盛上人二十五霊場]]
* [[関西花の寺二十五霊場]]
* [[鶴岡二十五坊]]
* [[二十五有]]
* [[法然上人知多二十五霊場]]
* [[法然上人二十五霊場]]
* 25の前奏曲:[[レインゴリト・グリエール]]作曲
* 25の前奏曲:[[ツェーザリ・キュイ]]作曲
== 26 ==
{{also|:Category:名数26|:Category:日本の名数26}}
* [[日本二十六聖人]]
* [[二十六史]]
* [[冠位二十六階]]
* [[26人のバクー・コミッサール]]
== 27 ==
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* [[二十七宿]]
* [[TYPE-MOON#組織|死徒二十七祖]]
== 28 ==
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* [[二十八宿]]
* [[二十八部衆]]
* [[雲台二十八将]]
* [[徳川二十八神将]]
* [[武相不動尊二十八所]]
* [[葛城二十八宿]]
* [[清水二十八人衆]]
* [[二十八天]]
* [[毘沙門天二十八使者]]
== 30 ==
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* [[ダウ平均株価|ダウ工業株30種平均]]
* [[OMXストックホルム30]]
* [[TOPIX Core30]]
* [[うつくしまの音30景]]
* [[がんばる商店街30選]]
* [[30-30クラブ]]
* [[Z-POP COUNTDOWN 30]]
* [[日本株30]]
* [[三十人政権]]
* [[30人の戦い]]
* [[三十番神]]
* [[もえっくす30]]
== 32 ==
{{Also|:Category:名数32|Category:日本の名数32}}
* [[三十二身分]]
* [[三十二相八十種好]]
* [[太極拳老譜三十二解]]
* [[立花家三十二槍柱]]
* [[三十二番職人歌合]]
== 33 ==
{{also|:Category:名数33|:Category:日本の名数33}}
* [[西国三十三所|西国三十三所観音霊場]]
* [[新西国三十三箇所|新西国三十三箇所観音霊場]]
* [[播磨西国三十三箇所|播磨西国三十三箇所観音霊場]]
* [[坂東三十三箇所|坂東三十三箇所観音霊場]]
* [[飛騨・美濃さくら三十三選]]
* [[飛騨・美濃紅葉三十三選]]
* [[三十三観音]]
* [[三十三身]]
* [[33人の東方人]]
* [[33人の東方人の旗]]
* [[南方三十三館]]
* [[民族代表33人]]
* [[福原西国三十三観音霊場]]
* [[岩部山三十三観音]]
* [[三十三応現身像]]
* [[ザクの磨崖三十三観音]]
* [[三十三天]]
* [[磨崖三十三観音 (郡山市)]]
== 34 ==
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* [[秩父三十四箇所|秩父三十四所観音霊場]]
== 35 ==
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* [[IBEX 35]]
* [[東京35区|旧東京市35区]]
== 36 ==
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* [[三十六歌仙]]
* [[女房三十六歌仙]]
* [[中古三十六歌仙]]
* [[新三十六歌仙]]
* [[釈門三十六歌仙]]
* [[集外三十六歌仙]]
* [[近世三十六歌仙]]
* [[石川丈山#三十六詩仙|三十六詩仙]]・[[三十六歌仙 (曖昧さ回避)]]
* [[三十六俳仙]]
* [[三十六計]]
* [[三十六字母]]
* [[富嶽三十六景]]
* [[江戸城三十六見附]]
* [[沖縄三十六歌仙]]
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* [[海外三十六国]]
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* [[近畿三十六不動尊霊場]]
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* [[東海三十六不動尊霊場]]
* [[遠江三十六人衆]]
* [[西本願寺本三十六人家集]]
* [[卅六飛将]]
* [[兵法三十六計]]
* [[北海道三十六不動尊霊場]]
* [[やまなみ五湖 水のある風景36選]]
== 38 ==
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* [[内海三十八職]]
== 40 ==
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* [[American Top 40]]
* [[ウルトラトップ40]]
* [[エードライ・オーストリア・トップ40]]
* [[CAC 40]]
* [[40原]]
* [[ネーダラントス・トップ40]]
* [[NORTH WAVE TOP 40]]
* [[Billboard TOP40]]
== 44 ==
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* [[甲州街道四十四次]]
== 47 ==
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* [[赤穂浪士|四十七士]]
* [[47都道府県]]
* [[47CLUB]]
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== 48 ==
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* [[四十八滝]]
* [[四十八手]]
* [[伊東四十八城]]
* [[火消#いろは組|いろは四八組]]
* 48の前奏曲とフーガ:[[カール・チェルニー]]作曲
== 49 ==
{{also|:Category:名数49|:Category:日本の名数49}}
*[[西国薬師四十九霊場]]
* [[善光寺四十九名所]]
* [[中国四十九薬師霊場]]
* [[中部四十九薬師霊場]]
* [[東海四十九薬師霊場]]
== 50 ==
{{also|:Category:名数50|:Category:日本の名数50}}
* [[五十音]]
* [[アメリカ合衆国の州|アメリカ50州]]
* [[浪速の名橋50選]]
* [[Taiwan TOP50]]
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* [[かながわの公園50選]]
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== 53 ==
{{also|:Category:名数53|:Category:日本の名数53}}
* [[東海道五十三次]]
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== 54 ==
{{also|:Category:名数54|:Category:日本の名数54}}
* [[源氏物語|源氏物語五十四帖]]
== 56 ==
{{also|:Category:名数56|:Category:日本の名数56}}
*[[十三宗五十六派|五十六派]]
== 60 ==
{{also|:Category:名数60|:Category:日本の名数60}}
* [[六十干支]]
* [[S&P トロント60指数]]
* [[六十家小説]]
* [[六十律]]
== 62 ==
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* [[六十二見]]
== 64 ==
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== 69 ==
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* [[中山道六十九次]]
== 70 ==
{{also|:Category:名数70|:Category:日本の名数70}}
* [[相撲の七十手]]
* [[TOPIX Large70]]
* [[七十子]]
* [[七十人訳聖書]]
* [[七十門徒]]
== 72 ==
{{also|:Category:名数72|:Category:日本の名数72}}
* [[ゴエティア|ソロモンの霊]]
* [[七十二候]]
== 77 ==
{{also|:Category:名数77|:カテゴリ:日本の名数77}}
* [[がんばる商店街77選]]
* [[77ヶ国グループ]]
* [[新・がんばる商店街77選]]
== 80 ==
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* [[三十二相八十種好]]
== 88 ==
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* [[四国八十八箇所]]
* [[日本の水浴場88選]]
* [[八王子八十八景]]
*[[星座の一覧|88星座]]
* [[廷臣八十八卿列参事件|廷臣八十八卿]]
* [[北区歴史と文化の八十八選]]
* [[四国のみずべ八十八カ所]]
* [[とくしま88景]]
== 95 ==
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* [[95か条の論題]]
== 100 ==
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* [[日本100名城]]
* [[ヨーロッパ100名城]]
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* [[百選]]
** [[東北の駅百選]]
** [[関東の駅百選]]
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** [[日本の白砂青松100選]]
* [[諸子百家]]
* [[百首歌]]
* [[小倉百人一首の歌人の一覧|百人一首]]
* [[東郷100彩]]
* [[豆腐百珍]]
* [[百物語]]
== 104 ==
{{also|:Category:名数104|:Category:日本の名数104}}
* [[日本の道100選]] - 名前は百選だが、実際には104の道が選ばれている。
== 108 ==
{{also|:Category:名数108|:Category:日本の名数108}}
* [[水滸伝百八星一覧表|水滸伝百八星]]
* 百八[[煩悩]]
*[[猪俣百八燈]]
* [[甲斐百八霊場]]
* [[BRW108]]
== 200 ==
{{also|:Category:名数200|:Category:日本の名数200}}
* [[日本二百名山]]
* [[Billboard 200]]
* [[Billboard Global 200]]
* [[S&P/ASX 200]]
* [[京都の自然200選]]
== 225 ==
{{also|:Category:名数225|:Category:日本の名数225}}
* [[日経平均株価|日経225]]
== 300 ==
{{also|:Category:名数300|:Category:日本の名数300}}
* [[日本百名山#他の百名山|日本三百名山]]
* [[三百諸侯]]
* [[300-300クラブ]]
* [[唐詩三百首]]
== 404 ==
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* [[四百四病]]
== 500 ==
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* [[Graph500]]
* [[S&P 500]]
* [[TOP500]]
* [[五百人会]]
* [[生物多様性保全上重要な里地里山]]
* [[竹成五百羅漢]]
* [[チンクェチェント]]
* [[南朝五百番歌合]]
* [[日本の重要湿地500]]
* [[五百人評議会]]
* [[フィナンシャル・タイムズ・グローバル500]]
* [[フォーチュン500]]
* [[フォーチュン・グローバル500]]
* [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]]
* [[五百羅漢]]
*[[房総の魅力500選]]
== 1000 ==
{{also|:カテゴリ:名数1000|:カテゴリ:日本の名数1000}}
* [[三千大千世界]]
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* [[千躰観音]]
* [[千躰観音堂]]
* [[キンタマ千本くじ]]
* [[千字文]]
* [[戦争をさせない1000人委員会]]
* [[太極千字文]]
* [[日経JAPAN1000]]
* [[八王子千人同心]]
== 1500 ==
{{also|:Category:名数1500|:Category:日本の名数1500}}
* [[千五百番歌合]]
== 関連項目 ==
{{地域代表リスト}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://doing100.com/jiten/ 名数辞典]
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[[Category:名数|*いちらん]]
[[Category:一覧|めいすう]] | 2003-04-11T12:59:07Z | 2023-11-18T04:40:22Z | false | false | false | [
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|
6,535 | 核小体 | 核小体(かくしょうたい、拉,独,英:nucleolus)は、真核生物の細胞核の中に存在する、分子密度の高い領域で、rRNAの転写やリボソームの構築が行われる場所のこと。一般に光学顕微鏡で観察できる。直径1〜3μm程度。仁、核仁とも言われる。生体膜によって明確に区分される構造ではない。成長期の細胞や活発に機能する細胞でよく発達する。
細胞周期の進行する中で前期には消失して核分裂に備え、rDNAからの転写とともに再形成される。
核小体を電子顕微鏡で観察すると、繊維状中心部 (Fibrillar centre: FC)、高密度繊維状部 (Dense fibrillar component: DFC)の二層と、周辺部にある顆粒部 (Granular component: GC)が認められる。RNAの転写とプロセシングは中央二層の領域で行われると考えられているが詳細については議論が残る。
rDNAからRNAポリメラーゼIによって転写されたrRNA前駆体はsnoRNA等の働きによりプロセシングを受け18S、5.8S、28S(高等動物の場合)のrRNAとなる。
真核生物の rRNAはこれにRNAポリメラーゼIIIによって転写された5S RNAを加えた物。rRNAにリボソーム蛋白質が会合して形成されたリボソームは核膜孔を経て細胞質に運ばれ翻訳装置として機能する。近年核細胞質間の輸送において核小体の機能が注目されている。 | [
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<!-- [[ファイル:Biological cell.svg|thumb|400px|典型的な動物細胞の模式図: (1) '''核小体'''(仁)、(2) [[細胞核]]、(3) [[リボソーム]]、(4) [[小胞]]、(5) [[粗面小胞体]]、(6) [[ゴルジ体]]、(7) [[微小管]]、(8) [[滑面小胞体]]、(9) [[ミトコンドリア]]、(10) [[液胞]]、(11) [[細胞質基質]]、(12) [[リソソーム]]、(13) [[中心体]]]] -->
[[ファイル:Diagram human cell nucleus ja.svg|300x300px|thumb|ヒトの細胞の核<br />核小体はオレンジ色の球体として示されている]]
'''核小体'''(かくしょうたい、[[ラテン語|拉]],[[ドイツ語|独]],[[英語|英]]:nucleolus)は、[[真核生物]]の[[細胞核]]の中に存在する、分子密度の高い領域で、[[rRNA]]の[[転写 (生物学)|転写]]や[[リボソーム]]の構築が行われる場所のこと。一般に[[光学顕微鏡]]で観察できる。直径1〜3μm程度。'''[[仁 (曖昧さ回避)|仁]]'''、核仁とも言われる。[[生体膜]]によって明確に区分される構造ではない。成長期の細胞や活発に機能する細胞でよく発達する。
[[細胞周期]]の進行する中で前期には消失して[[核分裂]]に備え、[[rDNA]]からの転写とともに再形成される。
核小体を[[電子顕微鏡]]で観察すると、繊維状中心部 (Fibrillar centre: FC)、高密度繊維状部 (Dense fibrillar component: DFC)の二層と、周辺部にある顆粒部 (Granular component: GC)が認められる。[[リボ核酸|RNA]]の転写と[[プロセシング]]は中央二層の領域で行われると考えられているが詳細については議論が残る。
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[[Category:細胞小器官]]
[[Category:細胞核]] | null | 2022-12-04T19:45:48Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%B0%8F%E4%BD%93 |
6,536 | 1571年 | 1571年(1571 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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] | 1571年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。 | {{年代ナビ|1571}}
{{year-definition|1571}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[辛未]]
* [[元号一覧 (日本)|日本]]
** [[元亀]]2年
** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2231年
* [[元号一覧 (中国)|中国]]
** [[明]] : [[隆慶 (明)|隆慶]]5年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]4年
** [[檀君紀元|檀紀]]3904年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[莫朝]] : [[崇康]]6年
** [[黎朝|後黎朝]] : [[正治 (黎朝)|正治]]14年
* [[仏滅紀元]] : 2113年 - 2114年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 978年 - 979年
* [[ユダヤ暦]] : 5331年 - 5332年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1571|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
*[[6月24日]] - [[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]が入植地[[マニラ]]を建設
* [[9月30日]]([[元亀]]2年[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]) - [[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]
* [[10月7日]] - [[レパント海戦]]
* [[長崎市|長崎]]に[[ポルトガル]]商館設立
* [[イングランド王国|イングランド]]で{{仮リンク|リドルフィ陰謀事件|en|Ridolfi plot}}
== 誕生 ==
{{see also|Category:1571年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[1月27日]] - [[アッバース1世]]、[[サファヴィー朝]]の第5代[[シャー]](+ [[1629年]])
* [[2月15日]] - [[ミヒャエル・プレトリウス]]、[[ドイツ]]の[[作曲家]]、[[オルガニスト]]、[[音楽理論|音楽理論家]](+ [[1621年]])
* [[5月11日]](元亀2年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]) - [[丹羽長重]]、[[武将]]・[[大名]]、陸奥[[白河藩]]初代藩主(+ [[1637年]])
* [[6月17日]] - [[トーマス・マン (経済学者)|トーマス・マン]]、[[イングランド王国|イングランド]]の[[実業家]]、[[経済学者]](+ [[1641年]])
* [[6月27日]](元亀2年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[角倉素庵]]、土木事業家・書家(+ [[1632年]])
* [[8月7日]] - [[トマス・ルポ]]、[[イングランド]]の作曲家、[[ヴィオラ・ダ・ガンバ|ヴァイオル]]奏者(+ [[1627年]])
* [[9月28日]] - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]、[[バロック]]期の[[イタリア人]][[画家]](+ [[1610年]])
* [[12月9日]] - [[アドリアーンスゾーン・メチウス]]、[[オランダ]]の[[地理学者]]、[[天文学者]](+ [[1635年]])
* [[12月11日]](元亀2年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) - [[狩野孝信]]、[[絵師]](+ [[1618年]])
* [[12月27日]] - [[ヨハネス・ケプラー]]、ドイツの天文学者(+ [[1630年]])
* [[12月31日]](元亀2年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[後陽成天皇]]、107代[[天皇]](+ [[1617年]])
* [[ジョン・ウォード]]、イングランドの作曲家(+ [[1638年]])
* [[ガブリエル・デストレ]]、[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の愛妾(+ [[1599年]])
* [[フレデリック・デ・ハウトマン]]、オランダの[[探検家]](+ [[1627年]])
* [[支倉常長]]、[[仙台藩]]士、[[慶長遣欧使節]](+ [[1622年]])
* [[柳生宗矩]]、武将・大名・[[剣術]]家(+ [[1646年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1571年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月13日]] - [[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]、[[イタリア]]の[[画家]]・[[彫刻家]](* [[1500年]])
* [[3月6日]]([[元亀]]2年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[塚原卜伝]]、[[剣豪]]・[[兵法家]](* [[1489年]])
* [[6月4日]](元亀2年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]) - [[氏家直元]]、[[武将]](* 生年不詳)
* [[7月6日]](元亀2年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]{{Sfn|時山弥八編|1916|p=75}}) - [[毛利元就]]、[[戦国大名]](* [[1497年]])
* [[7月15日]](元亀2年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[島津貴久]]、戦国大名 (* [[1514年]])
* [[8月30日]](元亀2年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[出羽元倶]]、武将、[[毛利元就]]の六男(* [[1555年]])
* [[9月17日]](元亀2年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[和田惟政]]、 武将(* [[1532年]])
* [[10月21日]](元亀2年[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]) - [[北条氏康]]、戦国大名(* [[1515年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|1571}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/1571%E5%B9%B4 |
6,537 | 声明 | 声明(しょうみょう、梵: śabda-vidyā)とは、古代インドにおける五つの学科のひとつで、サンスクリットなどの音韻論・文法学を指す。
転じて、仏典に節をつけた仏教音楽を指す。日本では、梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)ともいう。本項ではこの仏教音楽について主に記述する。
古代インドの学問分野(五明・ごみょう)の一つ。五明とは、声明(音韻論・文法学)・工巧明(工芸・技術論)・医方明(医学)・因明(論理学)・内明(自己の宗旨の学問、仏教者の場合は仏教学)の5種類の学問分野を指す。
中国で仏教声楽を指した言葉として「梵唄」という語が用いられた。梵唄の成立の詳細は不明ではあるが、『法苑珠林』などの記述から魏の曹植に始まるというのが通説となっている。
インドから仏教とともに仏教声楽ももたらされた。中国とインドでは言語も音楽文化もまったく異なるために、そのままの形で受容されることはなかったが、仏典を基にした歌詞や、梵語の音韻を活かした朗々とした音声など、漢語の声調を基調とした梵唄として発展を遂げた。梁代に書かれた『高僧伝』には、経師と呼ばれる経文の読唱に長じ、梵唄を作曲する声楽専門の僧が名を連ねている。
日本の声明は陰陽五行説に基づいた中国の音楽理論が基礎となっている。声明は宮・商・角・徵・羽という5音からなり、呂・律・中曲と呼ばれる音階、旋律に関する3つの概念に則ってパターン化されている。これらの概念は天台、真言など流派によって解釈が多少異なる。
儀礼の場において、呂曲、律曲は四箇法要や二箇法要などの場を飾るための曲として使われ、呂曲のほうが相対的に重要な地位を占めている。中曲は日本独自の様式であり、儀礼と儀礼の間をつなぐ、本尊に願いを伝えるなど、儀礼を進行させるための実用的な機能を持つ。現存する日本語歌詞の声明のほとんどは中曲に属する。
754年(天平勝宝4年)に東大寺大仏開眼法要のときに声明を用いた記録があり、奈良時代には声明が盛んにおこなわれていたと考えられる。
平安時代初期に最澄・空海がそれぞれ声明を伝えて、天台声明・真言声明の基となった。天台宗・真言宗以外の仏教宗派にも、各宗独自の声明があり、現在も継承されている。源氏物語の中に度々出てくる法要の場でも、比叡山の僧たちによって天台声明が演奏されていた。
平安時代に中国から入ってきた実践的な仏教声楽は梵唄と呼ばれていた。また、インドの声明にあたる悉曇学という梵字の文法や音韻を研究する学問が盛んとなった。やがて、悉曇学と経典の読謡を合わせたものを声明と呼ぶようになり、中世以後には経典の読謡の部分のみを指して声明と称するようになった。
声明は口伝(くでん)で伝えるため、現在の音楽理論でいうところの楽譜に相当するものが当初はなかった。そのため、伝授は困難を極めた。後世になってから楽譜にあたる墨譜(ぼくふ)、博士(はかせ)が考案された。なお、各流派により博士などの専門用語には違いがある。
しかし博士はあくまでも唱えるための参考であり、声明を正式に習得しようとすれば、口伝(「ロイ」とも言う。指導者による面授。)が必要不可欠であり、面授によらなければ、師から弟子への流派の維持・継承は出来ない。そのために指導者・後継者の育成が必須であった。
中世以前の声明は一般の日本人のみならず、僧侶にとってもその内容は理解し難いものだった。そのため、日本語の歌詞によるわかり易い声明が求められるようになり、講式という形式の声明が成立した。講式は既存の声明の約束事とは逸脱した音組織で成り立っていたため、新たな記譜方式を考案するに至った。講式は平曲・謡曲など邦楽の発展に大きな影響を及ぼした。
戦乱や明治期の廃仏毀釈により、寺院が荒廃した。それにともない、僧侶が離散するなど、さまざまな条件が重なって、多くの流派が廃絶した。
天台声明は最澄が伝えたものが基礎となり、独自の展開をした。最澄以後は、円仁・安然が興隆させた。後に融通念仏の祖となる良忍が中興の祖として知られる。1109年(天仁2年)に、良忍は、京都・大原に来迎院を建立した。大原の来迎院の山号を、中国の声明発祥の地・魚山(ぎょさん)に擬して、魚山と呼称された。やがて、来迎院・勝林院の2ヶ寺を大原流魚山声明の道場として知られるようになった。また、後に寂源が一派をなして、大原には2派の系統の声明があった。のちに宗快が大原声明を再興するに至った。
湛智が新しい音楽理論に基づいた流れを構築した。以降、天台声明の中枢をなし、現在の天台声明に継承されている。融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗の声明は、天台声明の系統である。
明治以降に、魚山声明正統の復興・伝承に尽力した大原魚山声明研究会主宰者の故天納傳中實光院住職は、1998年にチェコではじめて天台声明を紹介し、同時にプラハ・グレゴリオ聖歌隊との協力を薦めた。主宰者を失った大原魚山声明研究会の解散後、「魚山流天台声明研究會」が、故天納傳中大僧正直伝の声明を伝える天台宗僧侶たちによって、新たに発足された。
魚山流天台声明研究會は「一人一切人一切人一人(=一人は全員のために全員は一人のために)」をスローガンとする「天台声明」を歌い継いでいる無伴奏男性ユニゾンとして、ヨーロッパでCD『遙声(ようせい)』を発売、デビューを果たした。
真言声明は空海が伝えたものが基礎となり、現在に至っている。声明が体系化されてきたのは真雅以降である。寛朝はなかでも中興の祖ともいえる。声明の作曲・整備につとめた。
鎌倉時代までは多くの流派があったが、覚性法親王により、本相応院流・新相応院流・醍醐流・中川大進流の4派にまとめられた。このうち中川大進流は、奈良・中川寺の大進が流祖。
古義真言宗の声明は江戸時代にかけて衰微・廃絶した。本相応院流・新相応院流・醍醐流は明治中期ごろまでには廃絶した。現在では、中川大進流を継ぐ智山(ちざん)声明(京都・智積院)、豊山(ぶざん)声明(奈良・長谷寺)、南山進流(なんざんしんりゅう・高野山、京都・古義真言宗寺院)に分別される。 | [
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] | 声明とは、古代インドにおける五つの学科のひとつで、サンスクリットなどの音韻論・文法学を指す。 転じて、仏典に節をつけた仏教音楽を指す。日本では、梵唄(ぼんばい)・梵匿(ぼんのく)・魚山(ぎょざん)ともいう。本項ではこの仏教音楽について主に記述する。 | {{See Wiktionary|仏教音楽の一つである'''声明'''('''しょうみょう''')}}
{{Otheruses||B'zの楽曲|声明/Still Alive}}
'''声明'''(しょうみょう、{{lang-sa-short|śabda-vidyā}}{{refnest|name="精選版_声明"|[https://kotobank.jp/word/%E5%A3%B0%E6%98%8E-79881#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「声明」 - 精選版 日本国語大辞典]小学館。}})とは、古代インドにおける五つの学科のひとつで、[[サンスクリット]]などの[[音韻論]]・[[文法学]]を指す{{refnest|name="精選版_声明"}}。
転じて、[[仏典]]に節をつけた[[仏教]]音楽を指す{{refnest|name="精選版_声明"}}。日本では、'''梵唄'''(ぼんばい)・'''梵匿'''(ぼんのく)・'''魚山'''(ぎょざん)ともいう。本項ではこの仏教音楽について主に記述する。
== インドの声明 ==
古代インドの学問分野([[五明]]・ごみょう)の一つ。五明とは、声明(音韻論・文法学)・工巧明(工芸・技術論)・医方明(医学)・[[因明]](論理学)・内明(自己の宗旨の学問、仏教者の場合は仏教学)の5種類の学問分野を指す。
== チベットの声明 ==
{{See|チベット仏教の声明}}
== 中国の声明 ==
中国で仏教声楽を指した言葉として「梵唄」という語が用いられた。梵唄の成立の詳細は不明ではあるが、『[[法苑珠林]]』などの記述から[[魏 (三国)|魏]]の[[曹植]]に始まるというのが通説となっている{{sfn|澤田 |1994|p=45-47}}。
インドから仏教とともに仏教声楽ももたらされた。中国とインドでは言語も音楽文化もまったく異なるために、そのままの形で受容されることはなかったが、仏典を基にした歌詞や、梵語の音韻を活かした朗々とした音声など、漢語の声調を基調とした梵唄として発展を遂げた{{sfn|澤田 |1994|p=45-47}}。[[梁 (南朝)|梁]]代に書かれた『[[高僧伝]]』には、経師と呼ばれる経文の読唱に長じ、梵唄を作曲する声楽専門の僧が名を連ねている。
== 日本の声明 ==
日本の声明は[[陰陽五行説]]に基づいた中国の音楽理論が基礎となっている{{sfn|澤田 |1990|p=157}}。声明は宮・商・角・徵・羽という5音からなり、呂・律・中曲と呼ばれる[[音階]]、[[旋律]]に関する3つの概念に則ってパターン化されている。これらの概念は天台、真言など流派によって解釈が多少異なる。
儀礼の場において、呂曲、律曲は四箇[[法要]]や二箇法要などの場を飾るための曲として使われ、呂曲のほうが相対的に重要な地位を占めている。中曲は日本独自の様式であり、儀礼と儀礼の間をつなぐ、本尊に願いを伝えるなど、儀礼を進行させるための実用的な機能を持つ{{sfn|澤田 |1990|p=168-171}}。現存する日本語歌詞の声明のほとんどは中曲に属する。
=== 歴史 ===
754年([[天平勝宝]]4年)に[[東大寺]][[奈良の大仏|大仏]][[開眼]][[法要]]のときに声明を用いた記録があり、奈良時代には声明が盛んにおこなわれていたと考えられる。
平安時代初期に[[最澄]]・[[空海]]がそれぞれ声明を伝えて、天台声明・真言声明の基となった。[[天台宗]]・[[真言宗]]以外の仏教宗派にも、各宗独自の声明があり、現在も継承されている。[[源氏物語]]の中に度々出てくる法要の場でも、[[比叡山]]の僧たちによって天台声明が演奏されていた。
平安時代に中国から入ってきた実践的な仏教[[声楽]]は梵唄と呼ばれていた。また、インドの声明にあたる[[悉曇学]]という[[梵字]]の文法や音韻を研究する学問が盛んとなった。やがて、悉曇学と経典の読謡を合わせたものを声明と呼ぶようになり、中世以後には経典の読謡の部分のみを指して声明と称するようになった{{sfn|澤田 |1990|p=156}}。
声明は[[口伝]](くでん)で伝えるため、現在の音楽理論でいうところの[[楽譜]]に相当するものが当初はなかった。そのため、伝授は困難を極めた。後世になってから楽譜にあたる'''墨譜'''(ぼくふ)、博士(はかせ)が考案された。なお、各流派により博士などの専門用語には違いがある。
しかし博士はあくまでも唱えるための参考であり、声明を正式に習得しようとすれば、口伝(「ロイ」とも言う。指導者による面授。)が必要不可欠であり、面授によらなければ、師から弟子への流派の維持・継承は出来ない。そのために指導者・後継者の育成が必須であった。
中世以前の声明は一般の日本人のみならず、僧侶にとってもその内容は理解し難いものだった。そのため、日本語の歌詞によるわかり易い声明が求められるようになり、'''講式'''という形式の声明が成立した。講式は既存の声明の約束事とは逸脱した音組織で成り立っていたため、新たな記譜方式を考案するに至った。講式は[[平曲]]・[[謡曲]]など[[邦楽]]の発展に大きな影響を及ぼした{{sfn|澤田 |1990|p=168-171}}。
戦乱や明治期の[[廃仏毀釈]]により、寺院が荒廃した。それにともない、僧侶が離散するなど、さまざまな条件が重なって、多くの流派が廃絶した。
=== 流派 ===
==== 天台声明 ====
天台声明は[[最澄]]が伝えたものが基礎となり、独自の展開をした。最澄以後は、[[円仁]]・[[安然]]が興隆させた。後に[[融通念仏]]の祖となる'''[[良忍]]'''が中興の祖として知られる。1109年([[天仁]]2年)に、良忍は、[[京都]]・[[大原 (京都市)|大原]]に[[来迎院 (京都市左京区)|来迎院]]を建立した。大原の来迎院の山号を、中国の声明発祥の地・魚山(ぎょさん)に擬して、魚山と呼称された。やがて、来迎院・[[勝林院]]の2ヶ寺を大原流魚山声明の道場として知られるようになった。また、後に[[寂源]]が一派をなして、大原には2派の系統の声明があった。のちに宗快が大原声明を再興するに至った。
湛智が新しい音楽理論に基づいた流れを構築した。以降、天台声明の中枢をなし、現在の天台声明に継承されている。[[融通念仏宗]]、[[浄土宗]]、[[浄土真宗]]の声明は、天台声明の系統である。
;大原魚山声明研究会
明治以降に、魚山声明正統の復興・伝承に尽力した大原魚山声明研究会主宰者の故天納傳中實光院住職は、1998年にチェコではじめて天台声明を紹介し、同時にプラハ・グレゴリオ聖歌隊との協力を薦めた。主宰者を失った大原魚山声明研究会の解散後、「魚山流天台声明研究會」<ref>[http://shomyo.shop11.makeshop.jp/ 魚山流天台声明研究會]{{リンク切れ|date=2022-11}}</ref>が、故天納傳中大僧正直伝の声明を伝える天台宗僧侶たちによって、新たに発足された。
魚山流天台声明研究會は「一人一切人一切人一人(=一人は全員のために全員は一人のために)」をスローガンとする「天台声明」を歌い継いでいる無伴奏男性ユニゾンとして、ヨーロッパでCD『遙声(ようせい)』<ref>[http://shomyo.shop11.makeshop.jp/shopdetail/002000000001/brandname/ 遙声(ようせい)]{{リンク切れ|date=2022-11}}</ref>を発売、デビューを果たした。
==== 真言声明 ====
真言声明は[[空海]]が伝えたものが基礎となり、現在に至っている。声明が体系化されてきたのは[[真雅]]以降である。[[寛朝]]はなかでも中興の祖ともいえる。声明の作曲・整備につとめた。
===== 四派 =====
[[鎌倉時代]]までは多くの流派があったが、[[覚性法親王]]により、'''本相応院流'''・'''新相応院流'''・'''醍醐流'''・'''中川大進流'''の4派にまとめられた。このうち中川大進流は、[[奈良]]・[[中川]]寺の[[大進]]が流祖。
[[古義真言宗]]の声明は江戸時代にかけて衰微・廃絶した。本相応院流・新相応院流・醍醐流は明治中期ごろまでには廃絶した。現在では、中川大進流を継ぐ'''智山'''(ちざん)'''声明'''(京都・[[智積院]])、'''豊山'''(ぶざん)'''声明'''(奈良・[[長谷寺]])、'''南山進流'''(なんざんしんりゅう・[[高野山]]、京都・[[古義真言宗]]寺院)に分別される。
==== 智山声明・豊山声明 ====
* '''智山声明'''・'''豊山声明'''([[新義真言宗]]系声明) :[[真言宗智山派]]・[[真言宗豊山派]]、両派の声明は、もとは、中川大進流に由来する。頼瑜が醍醐の古流を採り入れた。1583年(天正13年)[[根来寺]](和歌山県)が[[豊臣秀吉]]に焼き討ちされて衰微すると、智山・豊山の両派は、醍醐の古流をもとにして、一派を形成するに至った。特徴としては、豊山の「論議」・智山の「声明」と称される。
==== 南山進流 ====
* '''南山進流'''(古義真言宗系声明) :大進上人を流祖とし[[中川寺跡|中川寺]]を本拠地とする中川大進流(大和進流)がもとになった。[[貞永]]年間(1232~1233)に[[高野山]]蓮華谷・三宝院の勝心が、中川寺の慈業に依頼し、本拠地を高野山に移した。後に高野山の別名、[[南山]]を冠して、南山進流と称した。進流・野山進流とも称する。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 天納傳中 『声明―天台声明と五台山念仏の系譜』 春秋社、1999年、ISBN 978-4393970089
* 天納傳中ほか 『仏教音楽辞典』 法蔵館、1995年
* 岩田宗一 『声明の研究』 法蔵館、1999年、ISBN 978-4831862112
* 岩田宗一 『声明・儀礼資料年表』 法蔵館、2000年、ISBN 978-4831862129
* 岩田宗一 『声明は音楽のふるさと』 法蔵館、2003年、ISBN 978-4831862143
* 『声明大系』 法蔵館
* 『密教辞典』 法蔵館
* {{Cite journal |和書 |author = 澤田篤子 |title = 日本の仏教声楽における音組織について |journal = 儀礼と音楽 I |date = 1990 |publisher = 東京書籍 |series = 民族音楽叢書 |isbn = 978-4-487-75254-6 |ref = harv }}
* {{Cite journal |和書 |author = 澤田篤子 |title = 仏教声楽:その成立と受容 |journal = 日本の音楽・アジアの音楽 |date = 1994 |publisher = 東京書籍 |series = 岩波講座 | volume = 2 |edition = 2 |isbn = 4000103628 |ref = harv }}
== 関連項目 ==
* [[チベット仏教の声明]]
* [[邦楽]]
* [[音楽]]
* [[音頭]]
* [[宗教音楽]]
* [[歌]]
* [[悉曇部 (大正蔵)]]
== 外部リンク ==
* [http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/syoumyou%20index.html 南山進流声明の世界]
* [http://sanboin.com/ 高野山別格本山 三宝院]
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6,538 | 雅楽 | 雅楽(ががく)は、日本の古典音楽の一つ。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる雅楽(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。
ベトナムについては「ベトナムの雅楽」を参照。
アジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞に、上代以前から伝わる音楽や舞が融合して日本化した芸術。10世紀頃の平安時代に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、奈良時代にまで遡る。
現在においては、以下の三つに大別される。
雅楽の原義は「雅正の楽舞」で、「俗楽」の対。国内の宮内庁式部職楽部による定義では、宮内庁式部職楽部が演奏する曲目の内、洋楽を除くもの、とされる。多くは器楽曲で宮廷音楽として継承されている。現在でも大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式である。ただし、平安時代に行われた楽制改革により大陸から伝来したものは編曲や整理統合がなされ国風化しているため、かなり変化している。主に京都の貴族の間で行われていた宮廷音楽としての雅楽の形態については応仁の乱以降、江戸幕府が楽師の末裔(楽家)を集めて再編するまでの100年以上は、各家々で細々と継承を続けてきた為、同じ曲でも流派によって何通りもの解釈が存在する。また、後述するように明治時代以降は演奏速度に変化が見られる。
篳篥のカタカナで記されている譜面を唱歌(しょうが : メロディーを暗謡するために譜面の文字に節をつけて歌う事)として歌うときに、ハ行の発音を「ファフィフフェフォ」と発音するなど16世紀以前の日本語の発音の特徴などはそのまま伝えられている可能性が高い。
楽琵琶の譜面のように漢字で記されるものは、中国の敦煌で発見された琵琶譜とも類似点が多く、さらに古い大陸から伝わった様式が多く継承されている。
最も重要な史料としては、狛近真の『教訓抄』(きょうくんしょう)、豊原統秋の『體源抄』(たいげんしょう)、安倍季尚の『楽家録』(がっかろく)が日本三大楽書とされている。
明治撰定譜に収録され、現在演奏されている曲は現行曲と呼ばれ、唐楽103曲と高麗楽32曲がある。現在楽譜が残っているが、明治撰定譜にない雅楽の曲は遠楽と呼ばれ、現代では稀に復曲されて演奏されることもある。また曲名は資料で確認できるが、楽譜が現存せず既に演奏が不可能な雅楽の曲は亡失曲と呼ばれる。雅楽の古典曲の総数は、現行曲だけでなく遠楽や亡失曲も含めると現行曲の倍以上にのぼる。
現在では、雅楽のジャンルの中では唐楽が最も有名であることから、一般的に雅楽というと、唐楽のイメージが強いが、他にも上述のような多くのジャンルの雅楽がある。
5世紀前後から中国大陸、朝鮮半島など(南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった。大宝元年の大宝令によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽(チャンパの音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。中国の雅楽は儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、この雅楽とは無関係で、唐の宴会で演奏されていた燕楽という音楽がもとになっているとされる。ベトナムの雅楽(nhã nhạc)や韓国に伝わる国楽は中国大陸の雅楽に由来し、日本の雅楽とは異なる。 天平勝宝四年の東大寺の大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、この頃までは大規模な演奏形態がとられていた。 また、宮中の他に四天王寺、東大寺、薬師寺や興福寺など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。
平安時代になると雅楽寮の規模は縮小され、宮中では左右の近衛府の官人や殿上人、寺社の楽人が雅楽の演奏を担うようになった。貴族の間では儀式や法要と関係のない私的な演奏会が催されるようになり、儀式芸能としての雅楽とは性格を異にする宮廷音楽としての雅楽が発展していった。この流れの中で催馬楽、朗詠、今様など娯楽的性格の強い謡物が成立した。唐楽、高麗楽の作風や音楽理論を基にした新曲も盛んに作られるようになった。 また、平安初期から中期にかけては楽制改革と呼ばれる漸進的な変更が行われた。 三韓、渤海の楽は右方の高麗楽として、唐、天竺、林邑などの楽は左方の唐楽として分類された。また、方響や阮咸など他の楽器で代用できる物や役割の重なる幾つもの楽器が廃止された。この他にいくつかの変更を経て現代の雅楽に近い形が整い本格的に日本独自の様式として発展していく事になる。
平安時代末期からは地下人の楽家が台頭するようになり、宮中では鎌倉時代後期以降はそれまで活動の主体であった殿上人の楽家に代わって雅楽演奏の中核をなすようになる。 この影響で龍笛に代わって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった。
室町時代になると応仁の乱が起こり戦場となった京都の楽人は地方へ四散し、宮中の雅楽の担い手である貴族の勢力は大きく衰退した。また、乱により楽譜などの資料や舞楽装束の大半が焼失した。乱が雅楽に与えた影響は大きく、多くの演奏技法や曲目が失われ宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶した。京都では乱の後しばらく残った楽所や各楽人によって細々と雅楽が伝承される状態が続く事になる。一方で四天王寺など京都から離れた寺社では乱の前後で雅楽の伝承にはあまり影響がなかったため、後に宮中雅楽の復興に大きく関わることになる。
正親町天皇、後陽成天皇の代になると四天王寺、興福寺などの寺社や地方から京都に楽人が集められ、雅楽の関わる宮廷儀式が少しずつ復興されていった。
江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所(奈良)、天王寺楽所(大阪)、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、宮中の雅楽の復興を行った。 江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなる。三代将軍家光の代には紅葉山にある徳川家康の廟所での祭儀のため三方楽所より八人の楽人が江戸に召喚され、元和4(1618)年に寺社奉行の傘下に紅葉山楽人が設置された。 雅楽を愛好する大名も増え、宮中では朝儀全般の復興が行われる中で古曲の復曲が盛んに行われるようになった。
明治時代に入ると、明治政府によって三方楽所や紅葉山楽所の楽人が東京へ招集され、雅楽局(後の宮内省雅楽部)が編成された。 しかし各楽所・楽家によって演奏方法や舞の振り付けが異なっており、伝承されていた楽譜や曲目にも差があった。そこで無用な軋轢や演奏に際しての不都合を避けるために急遽これらを統一する作業が行われた。このとき楽曲の取捨選択が行われ、明治選定譜と呼ばれる楽譜が作成された。明治撰定譜の楽曲がどのような考え方で選ばれたのかは不明である。明治撰定譜の作成後は選定曲以外の曲の演奏を行わない事になったため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。 しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もあり、この頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない。
現在、宮内省雅楽部は宮内庁式部職楽部となり百曲ほどを継承しているが、使用している楽譜が楽部創設以来の明治選定譜に基づいているにもかかわらず昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったらしく、曲によっては明治時代の三倍近くの長さになっており、これに合わせて奏法も変化している。これは廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことにも現れている。このような変化や律と呂が意識されなくなってきている事などから現代の雅楽には混乱が見られ、全体としての整合性が失われているのではないかと見ている研究者もいるが、その成立の過程や時代ごとの変遷を考慮すれば時代ごとの雅楽様式があると見るべきで、確かに失われた技法などは多いが現代の奏法は現代の奏法として確立しているとの見方もある。
近年では伶楽舎などの団体が廃絶曲を現代の雅楽様式に合わせて編曲して復曲する試みを行っている。失われた演奏技法や廃絶曲を古楽譜などの当時の資料に基づいて復元し、平安時代の雅楽様式を再現する試みを行っている団体もある。また、後述のように雅楽の新曲や雅楽の要素を含んだ音楽の創作活動も行われている。
雅楽の演奏を、インターネットの動画共有サービスやイベントで披露する個人やグループもある。
※国風歌舞と謡物を古代歌謡と総称する場合がある。
楽器のみの演奏を管絃と言い、主として屋内で演奏され、舞を伴う演奏を舞楽と言い、主として屋外で演奏される。
管絃は、管楽器、絃楽器、打物に分けることができる。 すなわち左方の楽は、管楽器は横笛、篳篥および笙を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓および鞨鼓を、右方の楽は、管楽器は高麗笛および篳篥を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓、三の鼓を、それぞれ用いる。 ただし略式では絃楽器が除かれる場合がある。 一曲を奏するには、はじめ音頭の横笛または高麗笛が一人奏し始め、これに打物がつき、付所(つけどころ)から他の管楽器がこれに合奏し、それから一二節ずつ遅れて順に琵琶および箏が参加する。 曲の終わりは、各楽器の音頭のみが止め手(とめて)を奏する。 管絃を奏するとき、同じ調に属する複数曲をあつめて、順に奏するので、最初にその調の音取(ねとり)または調子を奏する。 中古以降、その間に催馬楽および朗詠が加えられ、時にはうち1曲が残楽(のこりがく)とされた。
曲には序(じょ)・破(は)・急(きゅう)があり、西洋音楽で言う第一楽章、第二楽章、第三楽章に相当する。
序・破・急を完備する楽曲は、五常楽など極めて少ない。多くの場合、破のみあるいは急のみの演奏となる。序・破・急を通しで演奏することを「一具」と呼ぶ。
曲の調子には何種類かあったが、現在は、唐楽に6種類、高麗楽に3種類が残る。以下の上から6つまでを一般に唐楽の「六調子」と言う。
(双調、壱越調、太食調は対応する洋音階の長音階と比べてシに相当する音が半音低い(ミクソリディア旋法と同様))
(黄鐘調、平調、盤渉調は対応する洋音階の自然短音階と比べてラに相当する音が半音高い(ドリア旋法と同様)、高麗平調は洋音階と同じ)
雅楽の世界観では、壱越調は全ての中心の調子とされる。双調・黄鐘調・平調・盤渉調はそれぞれ春・夏・秋・冬の調子とされ、古くはそれぞれその季節に奏された。
雅楽のレパートリーで親しまれている調子とは別の調子に則って演奏することも可能である(「渡し物」と称する)。その場合は西洋音楽の移調とは異なり、その調子に含まれる音階に沿って演奏されるため、メロディラインが若干変化する。
『越天楽』を平調と盤渉調で聴き比べて例に挙げると、平調では「D-EEBBABEEEDE」となるが、これを西洋音楽の論理に則って完全5度下に移調すると「G-AAEEDEAAAGA」となる。それに対して盤渉調では「G-AAF#F#EF#BBBAB」となり、途中から完全4度下の移調になっていることが判る。これは、一つには現代使用されている楽器が平調のためのもので、特に、主旋律を奏する篳篥の音域が狭いため、他の調子を演奏するときに、部分的に変えて演奏せざるを得ないためである。このような部分で龍笛が補足的に本来の音に近いメロディーを吹くことになり、その部分がヘテロフォニーと呼ばれる、ずれの現象を伴って演奏されることにより、独特の味わいがでることとなる。
実際は、更に複雑で、黄鐘調や盤渉調の『越天楽』を、聞き慣れた平調と聞き比べると、同じ曲とは思えないほど、全く違う雰囲気になる。譜面も別に作成され、唱歌も変わる。『迦陵頻』に於いては、渡し物では曲名も『鳥(鳥破・鳥急)』に変わる。
旋律のみならず、リズムも渡し物において変化することがある。管弦では只拍子(6拍子)で演奏される曲が舞楽になると夜多羅拍子(5拍子)となって変わってしまうものがいくつかある。一つの曲に使用される音列が変わったり、リズムが変わったりするところはインドの古典音楽のラーガマーリカ(ラーガを変えながら演奏)やターラマーリカ(リズムを変えながら演奏)等と共通するものがあり、特に雅楽で言う拍の概念はインドのターラの概念に近いものがあることは、小泉文夫の指摘するところである。
渡し物は管絃でのみ行われる。すなわち舞楽は本来の調子でのみ行われ、舞楽に渡し物を用いることはない。
明治期に仏教や道学に由来する調子が廃絶した。
広義には国風歌舞も含まれる。以下の分類には例外や異論もある。
唐を経由して伝来したものを左方舞(左舞)と言い、伴奏音楽を唐楽と呼ぶ。 朝鮮半島(高麗)を経由して伝来したものを右方舞(右舞)と言い、伴奏音楽を高麗楽と呼ぶ。
平舞(ひらまい)は、文舞(ぶんのまい)ともよばれ、武器などを持たずに舞う、穏やかな感じの舞。 仮面を付けずに、常装束(襲装束・蛮絵装束)で、4人で舞う曲が多い。 例外として、『振鉾(えんぶ)』は鉾を持つ1人舞、『青海波』『迦陵頻』『胡蝶』は別装束、『安摩』『二ノ舞』は仮面を着け笏や桴を持つなど。
走舞(はしりまい)は勇猛な仮面を付け、桴や鉾を持ち、平舞に比して活発な動きで舞う勇壮な舞。 別装束(裲襠装束)で1名(『納曽利』は2名、または1名)で舞う。
武舞(ぶまい、ぶのまい)は、太刀・剣や鉾を持って舞う勇猛な舞。「文舞」に対する言葉。 2名、または4名で舞う。
童舞(どうぶ、わらわまい)とは、元服前の男子が舞う舞楽のことである。近代以降は女子あるいは成人女性が舞う場合も多い。下記の事情から童舞は特に関東地方においては希少価値がきわめて高い。
『迦陵頻』と『胡蝶 (舞楽)』は童舞専用の曲であり、その他にも『抜頭』や『還城楽』、『納曽利』等、童舞のバージョンがある曲が現行曲に数曲ある(明治撰定譜にないものも含めれば、童舞のバージョンがある曲は蘭陵王など更に多くあった)。仮面を付けずに白塗りの厚化粧をするのが原則であるが、素顔のままや薄化粧の場合もある。
女舞(おんなまい)とは、妙齢の女性が舞う舞楽のことである。平安末期には中絶し、文献上のみの存在となっていたが、1970年代に一部の団体が復活させた。
『柳花苑』は元々は女舞専用の曲だったが長年管弦のみだった。その他にも『桃李花』や『五常楽』等に、女舞のバージョンがあった。仮面を付けずに白塗りの厚化粧をするのが原則であるが、素顔のままや薄化粧の場合もある。
平安以降、唐楽の曲目と高麗楽の曲目が番舞(つがいまい)としてセットで上演される場合が多くなった。その一覧を示す。
管絃の合奏の中心となる楽器は、一般的に三管、三鼓、両絃(二絃)の8種類といわれる。
これらの楽器は大変高価であるが、篳篥や龍笛には、練習用の安価な楽器(プラスチック製)もある。 その他に笏拍子などが使われることもある。 笙は簧(リード)に結露すると音程が狂うので、演奏の合間に必ず暖めておく。このため夏でも火鉢や電熱器をそばに置く。篳篥は舌(リード)を柔らかくするため、緑茶に浸ける。
三管については次のような説明がなされる。
この3つの管楽器をあわせて「三管」と呼ぶ。合奏することで、宇宙を創ることができると考えられていた。
合奏時の主な役割は、主旋律を篳篥が担当する。篳篥は音程が不安定な楽器で、同じ指のポジションで長2度くらいの差は唇の締め方で変わる。演奏者は、本来の音程より少し下から探るように演奏を始めるため、その独特な雰囲気が醸しだされる。また、その特徴を生かして、「塩梅(あんばい)」といわれる、いわゆるこぶしのような装飾的な演奏法が行われる。
龍笛は篳篥が出ない音をカバーしたりして、旋律をより豊かにする。
笙は独特の神々しい音色で楽曲を引き締める役割もあるが、篳篥や龍笛の演奏者にとっては、息継ぎのタイミングを示したり、テンポを決めたりといった役割もある。笙は日本の音楽の中では珍しく和声(ハーモニー)を醸成する楽器であり、その和声は雅楽用語で合竹という。基本的には6つの音(左手の親指、人差し指、中指、薬指と右手の親指と人差し指を使用)から構成され、4度と5度音程を組み合わせた20世紀以降の西欧音楽に使用されるような複雑なものであるが、調律法が平均律ではないので不協和音というより、むしろ澄んだ音色に聞こえる。クロード・ドビュッシーの和音は笙の影響がみられるという説もある。
「三鼓」とは、羯鼓(または三ノ鼓)、鉦鼓、太鼓であるが、羯鼓の演奏者が洋楽の指揮者の役割を担い、全体のテンポを決めている。
「両絃」とは、楽琵琶、箏のことで、演奏者が一定の音形を演奏し、拍(はく)を明確にしている。
笙の楽譜は、基本的には合竹の名前を順に並べたものとなっている。それに対して、篳篥と龍笛の楽譜は、唱歌がカタカナで書いてあり、その左側の漢字が音程を表す。いずれの場合も、右側には黒丸や小さな黒点が書いてあり、黒丸は拍子、黒点は小拍子を表す。
楽譜に書かれる、繰り返しに関する用語としては、「二返」「自是」「重頭」「換頭」「返付」などが挙げられる。「二返」は「自是」のところから、「自是」がなければ曲の頭あるいは前の「二返」の直後からそのフレーズをもう一度繰り返すというものである。「重頭」は曲自体を繰り返すときに、1回目の終わりに加えられるフレーズで、重頭を経て冒頭に戻る。「換頭」も曲自体を繰り返すときのものだが、こちらは冒頭に戻らず、換頭のフレーズを演奏してから「返付」の位置へと戻るものである。
現代の雅楽のテンポは、多くの西洋音楽と比較しても非常に遅い場合が多いが、管弦より舞楽の方が速い傾向にあり、管弦曲であっても舞楽会の最終に舞楽吹で奏される長慶子などは雅楽としては非常に速いテンポとなっている。
歴史的には、前述のように昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったということもあるが、近代以前に遡っても平安時代の演奏と江戸時代の演奏とでは江戸時代の演奏の方が遅くなっているという説もあり、平安時代の演奏を当時のものと思われる速いテンポで再現する試みもある。
楽人の正式な装束は衣冠、または狩衣が原則であるが、明治以降に楽部が直垂を制定して以降は神社仏閣や民間の伝承団体でも直垂を着用する場合が多い。直垂の場合、生地は海松色(みるいろ)と呼ばれる、見る角度によって色彩が変わる美しいものが使われる場合が多い。略式では比較的安価な白衣に差袴(神職の普段着と同様)、稀に夏には統一の浴衣(俗楽の浴衣ざらいに倣う)となる。装束を統一しない場合、僧職は法衣、女性は女性神職装束や巫女装束、一般的な和服の場合がある。通常、化粧しない(女性は薄化粧の場合有り、三管の場合は口紅を塗らない)が、舞人と兼任の場合や、祭り等によっては厚化粧の場合もある。
舞人の装束は国風歌舞や謡物では白系、唐楽では赤系、高麗楽では緑、茶、黄褐色系が多い。それぞれに、特定の曲目専用の装束(別装束)と、複数の曲目で共通に使う装束(襲装束、等)がある。
曲によっては指定の仮面を着用する場合がある。仮面を付けない曲の場合や、仮面が指定された曲を女性や少年少女が舞う場合は仮面を付けずに素顔のままか、化粧(団体によっては歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧)をする場合がある。
尚、これらの正式な装束、仮面(特に別装束、とりわけ、童舞の装束)は大変高価であるため、これらを購入できる神社仏閣、団体は大規模な神社、寺院や財政に余裕がある団体に限定される。また、童舞以外のほとんどの装束は成人男性、または女性用に仕立てられ、また、重量があること、仮面を付けた場合に視野が制約されること、長く伸びている部分(裾、裳、等)があるため、振り付けに関しても伸びている部分の捌き方等の難易度が高いこと、また、東日本においては伝承団体のメンバーのほとんどが成人であることと財政に余裕がない場合が多いことから、少年少女の育成に消極的な場合が多い。育成している場合でも略式なら安価な装束で済む管弦と『浦安の舞』等にとどまり、舞楽は行わないか、行う場合でも成人に限られる場合が多い。従って、童舞は特に関東地方においては希少価値がきわめて高い。
現在、国立劇場の企画の一環として、廃絶された楽器や楽曲を復元する試みが行われている。これを総称して、「伶楽」(れいがく)ないし「遠楽」(えんがく)と呼ぶ。芝祐靖が音楽監督を務める伶楽舎が演奏活動を行っている。
箜篌、五弦琵琶、阮咸 (楽器)、排簫、尺八(近世邦楽の尺八とは異なる)、竽、大篳篥、方響など
明治時代にも正倉院に残る残欠を参考に箜篌や五弦琵琶などを復元したことがある。江戸時代から途絶えることなく伝わる漆工芸や螺鈿の技術等により工芸品としては高度なものであるが、弦の張力は演奏に耐えるものではなく、演奏のための楽器としての復元は昭和になってからである。
雅楽の現行曲以外の曲名は、古文書で確認できるものだけでも次のようなものがある。
遠楽と亡失曲の区別には曖昧な部分もあり、古文書で龍笛や琵琶など一部パートしか楽譜が現存していないものや、ある特定の現行曲のことではないかとする説があるものなどもある。伶楽舎の芝祐靖などはそういった遠楽の数々を復曲しているが、一部パートしか楽譜が現存していないものでも、その残りのパートを作成して復曲した例もある。雅楽の特に管絃曲は歴史的にテンポが遅くなっていく傾向があるので、廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことは前述の通りだが、盤渉調の盤渉参軍などはその良い例である。
雅楽器を用いた宗教音楽、祭典楽などがある。
国立劇場では、雅楽の編成のための新しい作品を現代の国内外の作曲家に委嘱し、演奏している。国立劇場以外の民間でも同様の試みが行われている。特に武満徹の『秋庭歌一具』(1973年 - 1979年)は優秀な解釈により頻繁に演奏され、現代雅楽の欠かせないレパートリーとなっている。
ポップスの分野では篳篥、笙奏者の東儀秀樹が、篳篥の音色を生かしたポピュラー音楽の編曲および自作を演奏し、メディアにも頻繁に出演するなど、雅楽のイメージを一新し一般に紹介している。
また東儀の他に、雅楽器も用いた演奏集団「MAHORA」、音楽理論の分析・研究に重点を置き現代的雅楽曲を創作する、吉川八幡神社 (豊能町)宮司 久次米一弥主催の現代雅楽ユニット「天地雅楽」、 主に雅楽曲をアレンジした演目を多く演奏する「トラロ会」などがある。
冨田勲の『源氏物語幻想交響絵巻』(オーケストラと雅楽の楽器による演奏)。
コンサートホールではなく神社等で行われるもの。※は童舞(厚化粧の少年、または少女)が登場
また、雅楽協議会が2005年より発行している雅楽だよりや、アメリカ合衆国スタンフォード大学音楽学部CCRMAのウェブサイトで、雅楽や現代雅楽の研究成果を閲覧できる。
近年は日本国外においても雅楽の価値が高まり、特にアメリカ合衆国コロンビア大学では雅楽アンサンブルが結成され、熱心な指導が行われ、学生を京都、東京に派遣している。 | [
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"tag": "p",
"text": "現在においては、以下の三つに大別される。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "雅楽の原義は「雅正の楽舞」で、「俗楽」の対。国内の宮内庁式部職楽部による定義では、宮内庁式部職楽部が演奏する曲目の内、洋楽を除くもの、とされる。多くは器楽曲で宮廷音楽として継承されている。現在でも大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式である。ただし、平安時代に行われた楽制改革により大陸から伝来したものは編曲や整理統合がなされ国風化しているため、かなり変化している。主に京都の貴族の間で行われていた宮廷音楽としての雅楽の形態については応仁の乱以降、江戸幕府が楽師の末裔(楽家)を集めて再編するまでの100年以上は、各家々で細々と継承を続けてきた為、同じ曲でも流派によって何通りもの解釈が存在する。また、後述するように明治時代以降は演奏速度に変化が見られる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "篳篥のカタカナで記されている譜面を唱歌(しょうが : メロディーを暗謡するために譜面の文字に節をつけて歌う事)として歌うときに、ハ行の発音を「ファフィフフェフォ」と発音するなど16世紀以前の日本語の発音の特徴などはそのまま伝えられている可能性が高い。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "楽琵琶の譜面のように漢字で記されるものは、中国の敦煌で発見された琵琶譜とも類似点が多く、さらに古い大陸から伝わった様式が多く継承されている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "最も重要な史料としては、狛近真の『教訓抄』(きょうくんしょう)、豊原統秋の『體源抄』(たいげんしょう)、安倍季尚の『楽家録』(がっかろく)が日本三大楽書とされている。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "明治撰定譜に収録され、現在演奏されている曲は現行曲と呼ばれ、唐楽103曲と高麗楽32曲がある。現在楽譜が残っているが、明治撰定譜にない雅楽の曲は遠楽と呼ばれ、現代では稀に復曲されて演奏されることもある。また曲名は資料で確認できるが、楽譜が現存せず既に演奏が不可能な雅楽の曲は亡失曲と呼ばれる。雅楽の古典曲の総数は、現行曲だけでなく遠楽や亡失曲も含めると現行曲の倍以上にのぼる。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "現在では、雅楽のジャンルの中では唐楽が最も有名であることから、一般的に雅楽というと、唐楽のイメージが強いが、他にも上述のような多くのジャンルの雅楽がある。",
"title": "概説"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "5世紀前後から中国大陸、朝鮮半島など(南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった。大宝元年の大宝令によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽(チャンパの音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。中国の雅楽は儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、この雅楽とは無関係で、唐の宴会で演奏されていた燕楽という音楽がもとになっているとされる。ベトナムの雅楽(nhã nhạc)や韓国に伝わる国楽は中国大陸の雅楽に由来し、日本の雅楽とは異なる。 天平勝宝四年の東大寺の大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、この頃までは大規模な演奏形態がとられていた。 また、宮中の他に四天王寺、東大寺、薬師寺や興福寺など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "平安時代になると雅楽寮の規模は縮小され、宮中では左右の近衛府の官人や殿上人、寺社の楽人が雅楽の演奏を担うようになった。貴族の間では儀式や法要と関係のない私的な演奏会が催されるようになり、儀式芸能としての雅楽とは性格を異にする宮廷音楽としての雅楽が発展していった。この流れの中で催馬楽、朗詠、今様など娯楽的性格の強い謡物が成立した。唐楽、高麗楽の作風や音楽理論を基にした新曲も盛んに作られるようになった。 また、平安初期から中期にかけては楽制改革と呼ばれる漸進的な変更が行われた。 三韓、渤海の楽は右方の高麗楽として、唐、天竺、林邑などの楽は左方の唐楽として分類された。また、方響や阮咸など他の楽器で代用できる物や役割の重なる幾つもの楽器が廃止された。この他にいくつかの変更を経て現代の雅楽に近い形が整い本格的に日本独自の様式として発展していく事になる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "平安時代末期からは地下人の楽家が台頭するようになり、宮中では鎌倉時代後期以降はそれまで活動の主体であった殿上人の楽家に代わって雅楽演奏の中核をなすようになる。 この影響で龍笛に代わって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "室町時代になると応仁の乱が起こり戦場となった京都の楽人は地方へ四散し、宮中の雅楽の担い手である貴族の勢力は大きく衰退した。また、乱により楽譜などの資料や舞楽装束の大半が焼失した。乱が雅楽に与えた影響は大きく、多くの演奏技法や曲目が失われ宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶した。京都では乱の後しばらく残った楽所や各楽人によって細々と雅楽が伝承される状態が続く事になる。一方で四天王寺など京都から離れた寺社では乱の前後で雅楽の伝承にはあまり影響がなかったため、後に宮中雅楽の復興に大きく関わることになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "正親町天皇、後陽成天皇の代になると四天王寺、興福寺などの寺社や地方から京都に楽人が集められ、雅楽の関わる宮廷儀式が少しずつ復興されていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所(奈良)、天王寺楽所(大阪)、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、宮中の雅楽の復興を行った。 江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなる。三代将軍家光の代には紅葉山にある徳川家康の廟所での祭儀のため三方楽所より八人の楽人が江戸に召喚され、元和4(1618)年に寺社奉行の傘下に紅葉山楽人が設置された。 雅楽を愛好する大名も増え、宮中では朝儀全般の復興が行われる中で古曲の復曲が盛んに行われるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "明治時代に入ると、明治政府によって三方楽所や紅葉山楽所の楽人が東京へ招集され、雅楽局(後の宮内省雅楽部)が編成された。 しかし各楽所・楽家によって演奏方法や舞の振り付けが異なっており、伝承されていた楽譜や曲目にも差があった。そこで無用な軋轢や演奏に際しての不都合を避けるために急遽これらを統一する作業が行われた。このとき楽曲の取捨選択が行われ、明治選定譜と呼ばれる楽譜が作成された。明治撰定譜の楽曲がどのような考え方で選ばれたのかは不明である。明治撰定譜の作成後は選定曲以外の曲の演奏を行わない事になったため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。 しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もあり、この頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "現在、宮内省雅楽部は宮内庁式部職楽部となり百曲ほどを継承しているが、使用している楽譜が楽部創設以来の明治選定譜に基づいているにもかかわらず昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったらしく、曲によっては明治時代の三倍近くの長さになっており、これに合わせて奏法も変化している。これは廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことにも現れている。このような変化や律と呂が意識されなくなってきている事などから現代の雅楽には混乱が見られ、全体としての整合性が失われているのではないかと見ている研究者もいるが、その成立の過程や時代ごとの変遷を考慮すれば時代ごとの雅楽様式があると見るべきで、確かに失われた技法などは多いが現代の奏法は現代の奏法として確立しているとの見方もある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "近年では伶楽舎などの団体が廃絶曲を現代の雅楽様式に合わせて編曲して復曲する試みを行っている。失われた演奏技法や廃絶曲を古楽譜などの当時の資料に基づいて復元し、平安時代の雅楽様式を再現する試みを行っている団体もある。また、後述のように雅楽の新曲や雅楽の要素を含んだ音楽の創作活動も行われている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "雅楽の演奏を、インターネットの動画共有サービスやイベントで披露する個人やグループもある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "※国風歌舞と謡物を古代歌謡と総称する場合がある。",
"title": "雅楽の曲の分類と演目"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "楽器のみの演奏を管絃と言い、主として屋内で演奏され、舞を伴う演奏を舞楽と言い、主として屋外で演奏される。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "管絃は、管楽器、絃楽器、打物に分けることができる。 すなわち左方の楽は、管楽器は横笛、篳篥および笙を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓および鞨鼓を、右方の楽は、管楽器は高麗笛および篳篥を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓、三の鼓を、それぞれ用いる。 ただし略式では絃楽器が除かれる場合がある。 一曲を奏するには、はじめ音頭の横笛または高麗笛が一人奏し始め、これに打物がつき、付所(つけどころ)から他の管楽器がこれに合奏し、それから一二節ずつ遅れて順に琵琶および箏が参加する。 曲の終わりは、各楽器の音頭のみが止め手(とめて)を奏する。 管絃を奏するとき、同じ調に属する複数曲をあつめて、順に奏するので、最初にその調の音取(ねとり)または調子を奏する。 中古以降、その間に催馬楽および朗詠が加えられ、時にはうち1曲が残楽(のこりがく)とされた。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "曲には序(じょ)・破(は)・急(きゅう)があり、西洋音楽で言う第一楽章、第二楽章、第三楽章に相当する。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "序・破・急を完備する楽曲は、五常楽など極めて少ない。多くの場合、破のみあるいは急のみの演奏となる。序・破・急を通しで演奏することを「一具」と呼ぶ。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "曲の調子には何種類かあったが、現在は、唐楽に6種類、高麗楽に3種類が残る。以下の上から6つまでを一般に唐楽の「六調子」と言う。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "(双調、壱越調、太食調は対応する洋音階の長音階と比べてシに相当する音が半音低い(ミクソリディア旋法と同様))",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "(黄鐘調、平調、盤渉調は対応する洋音階の自然短音階と比べてラに相当する音が半音高い(ドリア旋法と同様)、高麗平調は洋音階と同じ)",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "雅楽の世界観では、壱越調は全ての中心の調子とされる。双調・黄鐘調・平調・盤渉調はそれぞれ春・夏・秋・冬の調子とされ、古くはそれぞれその季節に奏された。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "雅楽のレパートリーで親しまれている調子とは別の調子に則って演奏することも可能である(「渡し物」と称する)。その場合は西洋音楽の移調とは異なり、その調子に含まれる音階に沿って演奏されるため、メロディラインが若干変化する。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "『越天楽』を平調と盤渉調で聴き比べて例に挙げると、平調では「D-EEBBABEEEDE」となるが、これを西洋音楽の論理に則って完全5度下に移調すると「G-AAEEDEAAAGA」となる。それに対して盤渉調では「G-AAF#F#EF#BBBAB」となり、途中から完全4度下の移調になっていることが判る。これは、一つには現代使用されている楽器が平調のためのもので、特に、主旋律を奏する篳篥の音域が狭いため、他の調子を演奏するときに、部分的に変えて演奏せざるを得ないためである。このような部分で龍笛が補足的に本来の音に近いメロディーを吹くことになり、その部分がヘテロフォニーと呼ばれる、ずれの現象を伴って演奏されることにより、独特の味わいがでることとなる。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "実際は、更に複雑で、黄鐘調や盤渉調の『越天楽』を、聞き慣れた平調と聞き比べると、同じ曲とは思えないほど、全く違う雰囲気になる。譜面も別に作成され、唱歌も変わる。『迦陵頻』に於いては、渡し物では曲名も『鳥(鳥破・鳥急)』に変わる。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "旋律のみならず、リズムも渡し物において変化することがある。管弦では只拍子(6拍子)で演奏される曲が舞楽になると夜多羅拍子(5拍子)となって変わってしまうものがいくつかある。一つの曲に使用される音列が変わったり、リズムが変わったりするところはインドの古典音楽のラーガマーリカ(ラーガを変えながら演奏)やターラマーリカ(リズムを変えながら演奏)等と共通するものがあり、特に雅楽で言う拍の概念はインドのターラの概念に近いものがあることは、小泉文夫の指摘するところである。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "渡し物は管絃でのみ行われる。すなわち舞楽は本来の調子でのみ行われ、舞楽に渡し物を用いることはない。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "明治期に仏教や道学に由来する調子が廃絶した。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "広義には国風歌舞も含まれる。以下の分類には例外や異論もある。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "唐を経由して伝来したものを左方舞(左舞)と言い、伴奏音楽を唐楽と呼ぶ。 朝鮮半島(高麗)を経由して伝来したものを右方舞(右舞)と言い、伴奏音楽を高麗楽と呼ぶ。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "平舞(ひらまい)は、文舞(ぶんのまい)ともよばれ、武器などを持たずに舞う、穏やかな感じの舞。 仮面を付けずに、常装束(襲装束・蛮絵装束)で、4人で舞う曲が多い。 例外として、『振鉾(えんぶ)』は鉾を持つ1人舞、『青海波』『迦陵頻』『胡蝶』は別装束、『安摩』『二ノ舞』は仮面を着け笏や桴を持つなど。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "走舞(はしりまい)は勇猛な仮面を付け、桴や鉾を持ち、平舞に比して活発な動きで舞う勇壮な舞。 別装束(裲襠装束)で1名(『納曽利』は2名、または1名)で舞う。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "武舞(ぶまい、ぶのまい)は、太刀・剣や鉾を持って舞う勇猛な舞。「文舞」に対する言葉。 2名、または4名で舞う。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "童舞(どうぶ、わらわまい)とは、元服前の男子が舞う舞楽のことである。近代以降は女子あるいは成人女性が舞う場合も多い。下記の事情から童舞は特に関東地方においては希少価値がきわめて高い。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "『迦陵頻』と『胡蝶 (舞楽)』は童舞専用の曲であり、その他にも『抜頭』や『還城楽』、『納曽利』等、童舞のバージョンがある曲が現行曲に数曲ある(明治撰定譜にないものも含めれば、童舞のバージョンがある曲は蘭陵王など更に多くあった)。仮面を付けずに白塗りの厚化粧をするのが原則であるが、素顔のままや薄化粧の場合もある。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "女舞(おんなまい)とは、妙齢の女性が舞う舞楽のことである。平安末期には中絶し、文献上のみの存在となっていたが、1970年代に一部の団体が復活させた。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "『柳花苑』は元々は女舞専用の曲だったが長年管弦のみだった。その他にも『桃李花』や『五常楽』等に、女舞のバージョンがあった。仮面を付けずに白塗りの厚化粧をするのが原則であるが、素顔のままや薄化粧の場合もある。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "平安以降、唐楽の曲目と高麗楽の曲目が番舞(つがいまい)としてセットで上演される場合が多くなった。その一覧を示す。",
"title": "唐楽・高麗楽"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "管絃の合奏の中心となる楽器は、一般的に三管、三鼓、両絃(二絃)の8種類といわれる。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "これらの楽器は大変高価であるが、篳篥や龍笛には、練習用の安価な楽器(プラスチック製)もある。 その他に笏拍子などが使われることもある。 笙は簧(リード)に結露すると音程が狂うので、演奏の合間に必ず暖めておく。このため夏でも火鉢や電熱器をそばに置く。篳篥は舌(リード)を柔らかくするため、緑茶に浸ける。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "三管については次のような説明がなされる。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "この3つの管楽器をあわせて「三管」と呼ぶ。合奏することで、宇宙を創ることができると考えられていた。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "合奏時の主な役割は、主旋律を篳篥が担当する。篳篥は音程が不安定な楽器で、同じ指のポジションで長2度くらいの差は唇の締め方で変わる。演奏者は、本来の音程より少し下から探るように演奏を始めるため、その独特な雰囲気が醸しだされる。また、その特徴を生かして、「塩梅(あんばい)」といわれる、いわゆるこぶしのような装飾的な演奏法が行われる。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "龍笛は篳篥が出ない音をカバーしたりして、旋律をより豊かにする。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "笙は独特の神々しい音色で楽曲を引き締める役割もあるが、篳篥や龍笛の演奏者にとっては、息継ぎのタイミングを示したり、テンポを決めたりといった役割もある。笙は日本の音楽の中では珍しく和声(ハーモニー)を醸成する楽器であり、その和声は雅楽用語で合竹という。基本的には6つの音(左手の親指、人差し指、中指、薬指と右手の親指と人差し指を使用)から構成され、4度と5度音程を組み合わせた20世紀以降の西欧音楽に使用されるような複雑なものであるが、調律法が平均律ではないので不協和音というより、むしろ澄んだ音色に聞こえる。クロード・ドビュッシーの和音は笙の影響がみられるという説もある。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "「三鼓」とは、羯鼓(または三ノ鼓)、鉦鼓、太鼓であるが、羯鼓の演奏者が洋楽の指揮者の役割を担い、全体のテンポを決めている。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "「両絃」とは、楽琵琶、箏のことで、演奏者が一定の音形を演奏し、拍(はく)を明確にしている。",
"title": "雅楽に使われる楽器"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "笙の楽譜は、基本的には合竹の名前を順に並べたものとなっている。それに対して、篳篥と龍笛の楽譜は、唱歌がカタカナで書いてあり、その左側の漢字が音程を表す。いずれの場合も、右側には黒丸や小さな黒点が書いてあり、黒丸は拍子、黒点は小拍子を表す。",
"title": "雅楽の楽譜"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "楽譜に書かれる、繰り返しに関する用語としては、「二返」「自是」「重頭」「換頭」「返付」などが挙げられる。「二返」は「自是」のところから、「自是」がなければ曲の頭あるいは前の「二返」の直後からそのフレーズをもう一度繰り返すというものである。「重頭」は曲自体を繰り返すときに、1回目の終わりに加えられるフレーズで、重頭を経て冒頭に戻る。「換頭」も曲自体を繰り返すときのものだが、こちらは冒頭に戻らず、換頭のフレーズを演奏してから「返付」の位置へと戻るものである。",
"title": "雅楽の楽譜"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "現代の雅楽のテンポは、多くの西洋音楽と比較しても非常に遅い場合が多いが、管弦より舞楽の方が速い傾向にあり、管弦曲であっても舞楽会の最終に舞楽吹で奏される長慶子などは雅楽としては非常に速いテンポとなっている。",
"title": "雅楽のテンポ"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "歴史的には、前述のように昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったということもあるが、近代以前に遡っても平安時代の演奏と江戸時代の演奏とでは江戸時代の演奏の方が遅くなっているという説もあり、平安時代の演奏を当時のものと思われる速いテンポで再現する試みもある。",
"title": "雅楽のテンポ"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "楽人の正式な装束は衣冠、または狩衣が原則であるが、明治以降に楽部が直垂を制定して以降は神社仏閣や民間の伝承団体でも直垂を着用する場合が多い。直垂の場合、生地は海松色(みるいろ)と呼ばれる、見る角度によって色彩が変わる美しいものが使われる場合が多い。略式では比較的安価な白衣に差袴(神職の普段着と同様)、稀に夏には統一の浴衣(俗楽の浴衣ざらいに倣う)となる。装束を統一しない場合、僧職は法衣、女性は女性神職装束や巫女装束、一般的な和服の場合がある。通常、化粧しない(女性は薄化粧の場合有り、三管の場合は口紅を塗らない)が、舞人と兼任の場合や、祭り等によっては厚化粧の場合もある。",
"title": "装束、仮面、化粧"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "舞人の装束は国風歌舞や謡物では白系、唐楽では赤系、高麗楽では緑、茶、黄褐色系が多い。それぞれに、特定の曲目専用の装束(別装束)と、複数の曲目で共通に使う装束(襲装束、等)がある。",
"title": "装束、仮面、化粧"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "曲によっては指定の仮面を着用する場合がある。仮面を付けない曲の場合や、仮面が指定された曲を女性や少年少女が舞う場合は仮面を付けずに素顔のままか、化粧(団体によっては歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧)をする場合がある。",
"title": "装束、仮面、化粧"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "尚、これらの正式な装束、仮面(特に別装束、とりわけ、童舞の装束)は大変高価であるため、これらを購入できる神社仏閣、団体は大規模な神社、寺院や財政に余裕がある団体に限定される。また、童舞以外のほとんどの装束は成人男性、または女性用に仕立てられ、また、重量があること、仮面を付けた場合に視野が制約されること、長く伸びている部分(裾、裳、等)があるため、振り付けに関しても伸びている部分の捌き方等の難易度が高いこと、また、東日本においては伝承団体のメンバーのほとんどが成人であることと財政に余裕がない場合が多いことから、少年少女の育成に消極的な場合が多い。育成している場合でも略式なら安価な装束で済む管弦と『浦安の舞』等にとどまり、舞楽は行わないか、行う場合でも成人に限られる場合が多い。従って、童舞は特に関東地方においては希少価値がきわめて高い。",
"title": "装束、仮面、化粧"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "現在、国立劇場の企画の一環として、廃絶された楽器や楽曲を復元する試みが行われている。これを総称して、「伶楽」(れいがく)ないし「遠楽」(えんがく)と呼ぶ。芝祐靖が音楽監督を務める伶楽舎が演奏活動を行っている。",
"title": "伶楽 (一度廃絶し、近年復元された雅楽)"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "箜篌、五弦琵琶、阮咸 (楽器)、排簫、尺八(近世邦楽の尺八とは異なる)、竽、大篳篥、方響など",
"title": "伶楽 (一度廃絶し、近年復元された雅楽)"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "明治時代にも正倉院に残る残欠を参考に箜篌や五弦琵琶などを復元したことがある。江戸時代から途絶えることなく伝わる漆工芸や螺鈿の技術等により工芸品としては高度なものであるが、弦の張力は演奏に耐えるものではなく、演奏のための楽器としての復元は昭和になってからである。",
"title": "伶楽 (一度廃絶し、近年復元された雅楽)"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "雅楽の現行曲以外の曲名は、古文書で確認できるものだけでも次のようなものがある。",
"title": "伶楽 (一度廃絶し、近年復元された雅楽)"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "遠楽と亡失曲の区別には曖昧な部分もあり、古文書で龍笛や琵琶など一部パートしか楽譜が現存していないものや、ある特定の現行曲のことではないかとする説があるものなどもある。伶楽舎の芝祐靖などはそういった遠楽の数々を復曲しているが、一部パートしか楽譜が現存していないものでも、その残りのパートを作成して復曲した例もある。雅楽の特に管絃曲は歴史的にテンポが遅くなっていく傾向があるので、廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことは前述の通りだが、盤渉調の盤渉参軍などはその良い例である。",
"title": "伶楽 (一度廃絶し、近年復元された雅楽)"
},
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"paragraph_id": 67,
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"text": "雅楽器を用いた宗教音楽、祭典楽などがある。",
"title": "近代における雅楽の派生"
},
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"paragraph_id": 68,
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"text": "国立劇場では、雅楽の編成のための新しい作品を現代の国内外の作曲家に委嘱し、演奏している。国立劇場以外の民間でも同様の試みが行われている。特に武満徹の『秋庭歌一具』(1973年 - 1979年)は優秀な解釈により頻繁に演奏され、現代雅楽の欠かせないレパートリーとなっている。",
"title": "現代雅楽"
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"text": "ポップスの分野では篳篥、笙奏者の東儀秀樹が、篳篥の音色を生かしたポピュラー音楽の編曲および自作を演奏し、メディアにも頻繁に出演するなど、雅楽のイメージを一新し一般に紹介している。",
"title": "現代雅楽"
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"paragraph_id": 70,
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"text": "また東儀の他に、雅楽器も用いた演奏集団「MAHORA」、音楽理論の分析・研究に重点を置き現代的雅楽曲を創作する、吉川八幡神社 (豊能町)宮司 久次米一弥主催の現代雅楽ユニット「天地雅楽」、 主に雅楽曲をアレンジした演目を多く演奏する「トラロ会」などがある。",
"title": "現代雅楽"
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"text": "冨田勲の『源氏物語幻想交響絵巻』(オーケストラと雅楽の楽器による演奏)。",
"title": "現代雅楽"
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"text": "コンサートホールではなく神社等で行われるもの。※は童舞(厚化粧の少年、または少女)が登場",
"title": "雅楽を鑑賞する機会"
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"text": "また、雅楽協議会が2005年より発行している雅楽だよりや、アメリカ合衆国スタンフォード大学音楽学部CCRMAのウェブサイトで、雅楽や現代雅楽の研究成果を閲覧できる。",
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},
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"text": "近年は日本国外においても雅楽の価値が高まり、特にアメリカ合衆国コロンビア大学では雅楽アンサンブルが結成され、熱心な指導が行われ、学生を京都、東京に派遣している。",
"title": "雅楽を鑑賞する機会"
}
] | 雅楽(ががく)は、日本の古典音楽の一つ。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる雅楽(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。 ベトナムについては「ベトナムの雅楽」を参照。 | {{Otheruses|日本の雅楽|その他}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2015年8月30日 (日) 12:19 (UTC)
| 独自研究 = 2017年12月
}}
[[ファイル:Ladies of the mikados court performing the butterfly danceJ. M. W. Silver.jpg|thumb|300px|御前での胡蝶の舞、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版]]
'''雅楽'''(ががく)は、[[日本]]の古典[[音楽]]の一つ。以下、[[宮内庁式部職楽部]]に伝わる雅楽([[重要無形文化財]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]→2007年)を中心に述べる。
[[ベトナム]]については「[[ベトナムの雅楽]]」を参照。
== 概説 ==
[[アジア大陸]]の諸国からもたらされた[[音楽]]や[[舞]]に、[[上代]]以前から伝わる音楽や舞が融合して[[日本化]]した[[芸術]]。[[10世紀]]頃の[[平安時代]]に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、[[奈良時代]]にまで遡る。<!-- 日経新聞や毎日新聞など日本のメディアは、雅楽を世界最古のオーケストラとしているが、デンマーク王立管弦楽団が世界最古である。 -->
現在においては、以下の三つに大別される。
* 国風歌舞(くにぶりのうたまい) — 日本古来の歌謡をもとに[[平安時代|平安期]]に完成された、[[神道]]や[[皇室]]に深い関わりをもつ歌舞。[[神楽]]、[[東遊]]、倭歌、[[大歌]]、[[久米歌]]、[[誄|誄歌]]などで、主に宮廷の行事や儀式で演奏される<ref name=mizoshita>溝下勝一、「[https://hdl.handle.net/10132/15011 中学校音楽科教育における和太鼓授業の研究]」 学位論文 兵庫教育大学 2014年3月</ref>。
* [[アジア大陸|大陸]]系の楽舞 — 5世紀頃から9世紀頃までの間に大陸から伝わった楽舞をもとに日本で作られた、[[中国]]、[[天竺]]、[[林邑]]系の[[唐楽]](とうがく)と、[[朝鮮半島]]、[[渤海 (国)|渤海]]系の[[高麗楽]](こまがく)。[[インド]] ・[[ベトナム]]地域や[[シルクロード]]を西にたどった地域から伝来した音楽や舞も含まれる<ref name=mizoshita/>
* [[歌いもの|謡物]](うたいもの) — 日本古来の民詩や漢詩に節づけをした声楽で、大陸からの渡来楽器による伴奏を伴う平安期に新しく作られた歌曲。[[催馬楽]]や[[朗詠]]など<ref name=mizoshita/>。
雅楽の原義は「雅正の楽舞」で、「[[俗楽]]」の対。国内の[[宮内庁]][[宮内庁式部職|式部職]]楽部による定義では、宮内庁式部職楽部が演奏する曲目の内、[[洋楽]]を除くもの、とされる。多くは器楽曲で宮廷音楽として継承されている。現在でも大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式である。ただし、平安時代に行われた楽制改革により大陸から伝来したものは編曲や整理統合がなされ国風化しているため、かなり変化している。主に京都の[[貴族#日本|貴族]]の間で行われていた宮廷音楽としての雅楽の形態については[[応仁の乱]]以降、[[江戸幕府]]が楽師の末裔([[三方楽所#楽家|楽家]])を集めて再編するまでの100年以上は、各家々で細々と継承を続けてきた為、同じ曲でも流派によって何通りもの解釈が存在する。また、後述するように[[明治時代]]以降は演奏速度に変化が見られる。
[[篳篥]]のカタカナで記されている[[楽譜|譜面]]を[[唱歌 (演奏法)|唱歌]](しょうが : [[メロディー]]を暗謡するために[[楽譜|譜面]]の文字に節をつけて歌う事)として歌うときに、[[ハ行]]の発音を「ファフィフフェフォ」と発音するなど16世紀以前の[[日本語]]の発音の特徴などはそのまま伝えられている可能性が高い。
[[楽琵琶]]の譜面のように漢字で記されるものは、中国の[[敦煌]]で発見された[[琵琶]]譜とも類似点が多く、さらに古い大陸から伝わった様式が多く継承されている。
最も重要な史料としては、[[狛近真]]の『[[教訓抄]]』(きょうくんしょう)、[[豊原統秋]]の『[[體源抄]]』(たいげんしょう)、[[安倍季尚]]の『[[楽家録]]』(がっかろく)が日本三大楽書とされている。
[[明治撰定譜]]に収録され、現在演奏されている曲は'''現行曲'''と呼ばれ、唐楽103曲と高麗楽32曲がある。現在楽譜が残っているが、明治撰定譜にない雅楽の曲は'''遠楽'''と呼ばれ、現代では稀に復曲されて演奏されることもある。また曲名は資料で確認できるが、楽譜が現存せず既に演奏が不可能な雅楽の曲は'''亡失曲'''と呼ばれる。雅楽の古典曲の総数は、現行曲だけでなく遠楽や亡失曲も含めると現行曲の倍以上にのぼる。
現在では、雅楽のジャンルの中では唐楽が最も有名であることから、一般的に雅楽というと、唐楽のイメージが強いが、他にも上述のような多くのジャンルの雅楽がある。
== 歴史 ==
[[ファイル: Kasuga Gongen vol2s4.JPG|thumb|[[春日権現験記]]]]
5世紀前後から中国大陸、朝鮮半島など([[南アジア]]については、736年に[[大宰府]]に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される<ref>[[#増本 (2000)|増本 (2000)]]、pp.32, 34, 46</ref>。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった<ref>[[#増本 (2000)|増本 (2000)]]、pp.29-31</ref>。[[大宝 (日本)|大宝]]元年の[[大宝律令|大宝令]]によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽([[チャンパ]]の音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。[[雅楽 (中国)|中国の雅楽]]は儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、この雅楽とは無関係で、[[唐]]の宴会で演奏されていた'''燕楽'''という音楽がもとになっているとされる。[[ベトナムの雅楽]](nhã nhạc)や[[大韓民国|韓国]]に伝わる国楽は中国大陸の雅楽に由来し、日本の雅楽とは異なる。
[[天平勝宝]]四年の[[東大寺の大仏]][[開眼法要]]の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、この頃までは大規模な演奏形態がとられていた。
また、宮中の他に[[四天王寺]]、[[東大寺]]、[[薬師寺]]や[[興福寺]]など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。
平安時代になると雅楽寮の規模は縮小され、宮中では左右の[[近衛府]]の官人や[[殿上人]]、寺社の楽人が雅楽の演奏を担うようになった。貴族の間では儀式や法要と関係のない私的な演奏会が催されるようになり、儀式芸能としての雅楽とは性格を異にする宮廷音楽としての雅楽が発展していった。この流れの中で[[催馬楽]]、[[朗詠]]、[[今様]]など娯楽的性格の強い謡物が成立した。唐楽、高麗楽の作風や音楽理論を基にした新曲も盛んに作られるようになった。
また、平安初期から中期にかけては楽制改革と呼ばれる漸進的な変更が行われた。
[[三韓]]、渤海の楽は右方の高麗楽として、唐、天竺、林邑などの楽は左方の唐楽として分類された。また、[[方響]]や[[阮咸]]など他の楽器で代用できる物や役割の重なる幾つもの楽器が廃止された。この他にいくつかの変更を経て現代の雅楽に近い形が整い本格的に日本独自の様式として発展していく事になる。
平安時代末期からは地下人の楽家が台頭するようになり、宮中では鎌倉時代後期以降はそれまで活動の主体であった殿上人の楽家に代わって雅楽演奏の中核をなすようになる。
この影響で[[龍笛]]に代わって[[地下人]]の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった。
[[室町時代]]になると[[応仁の乱]]が起こり戦場となった京都の楽人は地方へ四散し、宮中の雅楽の担い手である貴族の勢力は大きく衰退した。また、乱により楽譜などの資料や舞楽装束の大半が焼失した。乱が雅楽に与えた影響は大きく、多くの演奏技法や曲目が失われ宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶した。京都では乱の後しばらく残った楽所や各楽人によって細々と雅楽が伝承される状態が続く事になる。一方で四天王寺など京都から離れた寺社では乱の前後で雅楽の伝承にはあまり影響がなかったため、後に宮中雅楽の復興に大きく関わることになる。
[[正親町天皇]]、[[後陽成天皇]]の代になると四天王寺、興福寺などの寺社や地方から京都に楽人が集められ、雅楽の関わる宮廷儀式が少しずつ復興されていった。
[[江戸時代]]に入ると[[江戸幕府]]が南都楽所([[奈良]])、[[天王寺]]楽所([[大阪]])、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、宮中の雅楽の復興を行った。
江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなる。三代将軍[[徳川家光|家光]]の代には[[紅葉山 (東京都) |紅葉山]]にある[[徳川家康]]の廟所での祭儀のため三方楽所より八人の楽人が江戸に召喚され、[[元和 (日本)|元和]]4([[1618年|1618]])年に[[寺社奉行]]の傘下に紅葉山楽人が設置された。
雅楽を愛好する大名も増え、宮中では朝儀全般の復興が行われる中で古曲の復曲が盛んに行われるようになった。
[[明治時代]]に入ると、[[明治政府]]によって三方楽所や紅葉山楽所の楽人が東京へ招集され、雅楽局(後の[[宮内省]]雅楽部)が編成された。
しかし各楽所・楽家によって演奏方法や舞の振り付けが異なっており、伝承されていた楽譜や曲目にも差があった。そこで無用な軋轢や演奏に際しての不都合を避けるために急遽これらを統一する作業が行われた。このとき楽曲の取捨選択が行われ、明治選定譜と呼ばれる楽譜が作成された。明治撰定譜の楽曲がどのような考え方で選ばれたのかは不明である。明治撰定譜の作成後は選定曲以外の曲の演奏を行わない事になったため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。
しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もあり、この頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない。
[[ファイル:Gagaku.jpg|thumb|雅楽の演奏風景(2010年)]]
現在、宮内省雅楽部は宮内庁式部職楽部となり百曲ほどを継承しているが、使用している楽譜が楽部創設以来の明治選定譜に基づいているにもかかわらず昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったらしく、曲によっては明治時代の三倍近くの長さになっており、これに合わせて奏法も変化している。これは廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことにも現れている。このような変化や律と呂が意識されなくなってきている事などから現代の雅楽には混乱が見られ、全体としての整合性が失われているのではないかと見ている研究者もいるが、その成立の過程や時代ごとの変遷を考慮すれば時代ごとの雅楽様式があると見るべきで、確かに失われた技法などは多いが現代の奏法は現代の奏法として確立しているとの見方もある。
近年では伶楽舎などの団体が廃絶曲を現代の雅楽様式に合わせて編曲して復曲する試みを行っている。失われた演奏技法や廃絶曲を古楽譜などの当時の資料に基づいて復元し、平安時代の雅楽様式を再現する試みを行っている団体もある。また、後述のように雅楽の新曲や雅楽の要素を含んだ音楽の創作活動も行われている。
雅楽の演奏を、[[インターネット]]の[[動画共有サービス]]やイベントで披露する個人やグループもある<ref>【トレンド】雅楽で奏でる [[麻呂|まろ]]の入店/[[令和]]でバズる「貴族感」『[[日経MJ]]』2019年8月9日(19面)。</ref>。
== 現代の雅楽における諸問題 ==
* 伝統的製法の楽器や舞楽装束は元々需要が殆ど無かった事もあり、職人の技量の維持や技術の継承が難しくなってきている。具体的に一例を挙げると割管という龍笛や篳篥の製作技法を持つ職人は今や数人しか残っていない。
* 雅楽の民間への普及は進んでいるものの、実力のある指導者が少なく寺社などで技量を問われず慣習によって演奏を任される場合が多いため技量の低い団体が非常に多くなっている。さらに技量の低い者が指導を行い、間違った演奏方法、舞楽の舞い方が広まるという悪循環に陥っている。また、寺社の関係者の場合は儀式のために仕方なくやっているという意識の者も多く技量向上に関心を示さないというケースが多い。
* 宮内庁式部職楽部においては楽師の定員が少なく、年間の活動時間の大半を洋楽に取られているため雅楽の技量の維持が難しくなっており若手の楽師に細かい技法の伝承がうまくなされていないのが現状である。
* [[日本音楽著作権協会]](JASRAC)が演奏者に使用料の申告を要請する事例が発生したが、直ぐに和解をしている。これについて協会は「著作権消滅等、管理楽曲のないことが確認できた場合には、当然に著作物使用料のお支払いは必要ございません」「雅楽は平安時代から伝わる古典芸術であり、通常は著作権が存在するような楽曲ではありません」とした上で、「しかし、[[現代雅楽]]など著作権の存続する楽曲がこれら催物において利用される場合もある」との事である。因みに今回の事例は、申告要請された演奏者は古典芸術のみの演奏しかしないために使用料の発生がしなかったからである。
* [[笙]]に使われる竹は、本来は[[茅葺]]家屋の屋根裏で長期間[[囲炉裏]]の煙で燻されたもの(煤竹)が使われており、そのような家が解体されるときに、楽器製作者が貰い受けているが、そのような家屋自体が激減し、材料難となっている。そのため近年作られる笙のうち大部分は白竹で作られた笙である。
== 雅楽の曲の分類と演目 ==
[[ファイル:Bugak002.jpg|thumb|150px|人長舞]]
* 日本に古くから伝わるもの([[国風歌舞]] くにぶりのうたまい)
** [[神楽歌]]
*** [[人長舞]](にんじょうまい)
** [[東遊]](あずまあそび)
*** [[駿河舞]]
*** [[求子舞]](もとめごまい)
** [[大和歌]]([[倭歌]]とも)
*** [[大和舞]]([[倭舞]]とも)
** [[久米歌]]
*** [[久米舞]]
** [[大歌]](おおうた)
*** [[五節舞]](ごせちのまい)
** [[誄歌]](るいか)
** [[悠紀・主基]](ゆき・すき)
**: 歌詞は[[s:国風歌舞]]を参照
* 日本国外から伝来したもの
** 左方舞・[[唐楽]] ………中国、天竺(インド)、林邑(南ベトナム)系のもの
** 右方舞・[[高麗楽|高麗(中国東北部)楽]]………渤海(中国の東北地方)、朝鮮、系のもの
**: これらには上記の作風を真似て日本で制作された曲(本邦楽)も含む。
* 平安時代にできた歌曲([[謡物]] うたいもの)
** [[催馬楽]](さいばら)
** [[朗詠]](ろうえい)
** [[今様]](いまよう)
**: 歌詞は[[s:謡物|謡物]]を参照
※国風歌舞と謡物を'''古代歌謡'''と総称する場合がある。
== 唐楽・高麗楽 ==
=== 演奏形態 ===
楽器のみの演奏を'''管絃'''と言い、主として屋内で演奏され、舞を伴う演奏を'''舞楽'''と言い、主として屋外で演奏される。
管絃は、管楽器、絃楽器、打物に分けることができる。
すなわち左方の楽は、管楽器は横笛、篳篥および笙を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓および鞨鼓を、右方の楽は、管楽器は高麗笛および篳篥を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓、三の鼓を、それぞれ用いる。
ただし略式では絃楽器が除かれる場合がある。
一曲を奏するには、はじめ音頭の横笛または高麗笛が一人奏し始め、これに打物がつき、付所(つけどころ)から他の管楽器がこれに合奏し、それから一二節ずつ遅れて順に琵琶および箏が参加する。
曲の終わりは、各楽器の音頭のみが止め手(とめて)を奏する。
管絃を奏するとき、同じ調に属する複数曲をあつめて、順に奏するので、最初にその調の音取(ねとり)または調子を奏する。
中古以降、その間に催馬楽および朗詠が加えられ、時にはうち1曲が残楽(のこりがく)とされた。
=== 楽曲の様式 ===
曲には[[序破急|序(じょ)・破(は)・急(きゅう)]]があり、[[西洋]][[音楽]]で言う第一楽章、第二楽章、第三楽章に相当する。
* 序は一番ゆったりした流れで、自由な緩急で[[旋律]]を演奏する。
* 破はゆったりした流れだが、[[拍子]]が決められていて小拍子(西洋音楽の[[小節]]に相当)を八拍として演奏する。
* 急はさっくりした流れとなり、拍子は小拍子を四拍として演奏する。
:ただし、演目によっては必ずしも急が速いテンポとはならないので、あくまでも一組の曲の3番目ぐらいの意味である。
序・破・急を完備する楽曲は、[[五常楽]]など極めて少ない。多くの場合、破のみあるいは急のみの演奏となる。序・破・急を通しで演奏することを「一具」と呼ぶ。
=== 曲の調子 ===
曲の調子には何種類かあったが、現在は、唐楽に6種類、高麗楽に3種類が残る。以下の上から6つまでを一般に唐楽の「六調子」と言う<ref>{{Cite web|和書|url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/236528/m0u/%E5%85%AD%E8%AA%BF%E5%AD%90/ |title=六調子 |work=デジタル大辞泉 |publisher=goo辞書 |accessdate=2015-03-25 }}</ref>。
* G呂旋:双調(そうじょう)
* D呂旋:壱越調(いちこつちょう)
* Am律旋:黄鐘調(おうしきちょう)、高麗双調(こまそうじょう)
* E呂旋:太食調(たいしきちょう)
* Em律旋:平調(ひょうじょう)、高麗壱越調(こまいちこつちょう)
* Bm律旋:盤渉調(ばんしきちょう)
* F#m律旋:高麗平調(こまひょうじょう)
(双調、壱越調、太食調は対応する洋音階の[[長音階]]と比べてシに相当する音が半音低い([[ミクソリディア旋法]]と同様))
(黄鐘調、平調、盤渉調は対応する洋音階の自然[[短音階]]と比べてラに相当する音が半音高い([[ドリア旋法]]と同様)、高麗平調は洋音階と同じ)
雅楽の世界観では、壱越調は全ての中心の調子とされる。双調・黄鐘調・平調・盤渉調はそれぞれ春・夏・秋・冬の調子とされ、古くはそれぞれその季節に奏された。
==== 渡し物 ====
雅楽のレパートリーで親しまれている調子とは別の調子に則って演奏することも可能である(「渡し物」と称する)。その場合は西洋音楽の移調とは異なり、その調子に含まれる[[音階]]に沿って演奏されるため、メロディラインが若干変化する。
『[[越天楽]]』を平調と盤渉調で聴き比べて例に挙げると、平調では「D-EEBBABEEEDE」となるが、これを西洋音楽の論理に則って完全5度下に移調すると「G-AAEEDEAAAGA」となる。それに対して盤渉調では「G-AAF#F#EF#BBBAB」となり、途中から完全4度下の移調になっていることが判る。これは、一つには現代使用されている楽器が平調のためのもので、特に、主旋律を奏する篳篥の音域が狭いため、他の調子を演奏するときに、部分的に変えて演奏せざるを得ないためである。このような部分で龍笛が補足的に本来の音に近いメロディーを吹くことになり、その部分が[[ヘテロフォニー]]と呼ばれる、ずれの現象を伴って演奏されることにより、独特の味わいがでることとなる。
実際は、更に複雑で、黄鐘調や盤渉調の『[[越天楽]]』を、聞き慣れた平調と聞き比べると、同じ曲とは思えないほど、全く違う雰囲気になる。譜面も別に作成され、唱歌も変わる。『[[迦陵頻]]』に於いては、渡し物では曲名も『鳥(鳥破・鳥急)』に変わる。
旋律のみならず、リズムも渡し物において変化することがある。管弦では只拍子(6拍子)で演奏される曲が舞楽になると夜多羅拍子(5拍子)となって変わってしまうものがいくつかある。一つの曲に使用される音列が変わったり、リズムが変わったりするところはインドの古典音楽のラーガマーリカ(ラーガを変えながら演奏)やターラマーリカ(リズムを変えながら演奏)等と共通するものがあり、特に雅楽で言う拍の概念はインドのターラの概念に近いものがあることは、[[小泉文夫]]の指摘するところである。
渡し物は管絃でのみ行われる。すなわち舞楽は本来の調子でのみ行われ、舞楽に渡し物を用いることはない。
=== 明治期に廃絶した調子と曲名 ===
明治期に[[仏教]]や[[儒教|道学]]に由来する調子が廃絶した。
* 沙陀調
* 壱越性調
* 性調―『長命女児』『千金女児』『安弓子』『[[王昭君]]』
* 水調
* 乞食調
* 道調
=== 舞の種類 ===
広義には[[国風歌舞]]も含まれる。以下の分類には例外や異論もある。
==== 左方と右方 ====
唐を経由して伝来したものを左方舞(左舞)と言い、伴奏音楽を唐楽と呼ぶ。
朝鮮半島(高麗)を経由して伝来したものを右方舞(右舞)と言い、伴奏音楽を高麗楽と呼ぶ。
==== 平舞 ====
'''平舞'''(ひらまい)は、文舞(ぶんのまい)ともよばれ、武器などを持たずに舞う、穏やかな感じの舞。
仮面を付けずに、常装束(襲装束・蛮絵装束)で、4人で舞う曲が多い。
例外として、『振鉾(えんぶ)』は鉾を持つ1人舞、『青海波』『迦陵頻』『胡蝶』は別装束、『安摩』『二ノ舞』は仮面を着け笏や桴を持つなど。
==== 走舞 ====
'''走舞'''(はしりまい)は勇猛な仮面を付け、桴や鉾を持ち、平舞に比して活発な動きで舞う勇壮な舞。
別装束(裲襠装束)で1名(『[[納曽利]]』は2名、または1名)で舞う。
==== 武舞 ====
'''武舞'''(ぶまい、ぶのまい)は、太刀・剣や鉾を持って舞う勇猛な舞。「文舞」に対する言葉。
2名、または4名で舞う。
==== 童舞 ====
'''童舞'''(どうぶ、わらわまい)とは、元服前の男子が舞う舞楽のことである。近代以降は女子あるいは成人女性が舞う場合も多い。[[#装束、仮面、化粧|下記の事情]]から童舞は特に[[関東地方]]においては希少価値がきわめて高い。
『[[迦陵頻]]』と『[[胡蝶 (舞楽)]]』は童舞専用の曲であり、その他にも『[[抜頭]]』や『[[還城楽]]』、『[[納曽利]]』等、童舞のバージョンがある曲が現行曲に数曲ある(明治撰定譜にないものも含めれば、童舞のバージョンがある曲は[[蘭陵王 (雅楽)|蘭陵王]]など更に多くあった)。仮面を付けずに白塗りの[[厚化粧]]をするのが原則であるが、素顔のままや薄化粧の場合もある。
==== 女舞 ====
'''女舞'''(おんなまい)とは、妙齢の女性が舞う舞楽のことである。平安末期には中絶し、文献上のみの存在となっていたが、1970年代に一部の団体が復活させた。
『[[柳花苑]]』は元々は女舞専用の曲だったが長年管弦のみだった。その他にも『[[桃李花]]』や『[[五常楽]]』等に、女舞のバージョンがあった。仮面を付けずに白塗りの[[厚化粧]]をするのが原則であるが、素顔のままや薄化粧の場合もある。
=== 現行曲一覧 ===
[[ファイル:舞楽(京都・先斗町にて).jpg|thumb|抜頭]]
[[ファイル:Bugak001.jpg|thumb|林歌]]
[[ファイル:Bugaku(Naiku) 01.JPG|thumb|振鉾 後方に大太鼓が見える]]
: ※は[[林邑八楽]](りんゆうはちがく)、及び、その番舞。林邑八楽は、『蘭陵王』『迦陵頻』『安摩』『陪臚』『抜頭』『胡飲酒』『万秋楽』『菩薩』の8曲<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E9%82%91%E5%85%AB%E6%A5%BD-687796 |title=林邑八楽 リンユウハチガク |work=デジタル大辞泉 |publisher=コトバンク |accessdate=2015-03-25 }}</ref>。
: 以下の一覧では原則として明治撰定譜に掲載されているものを挙げているが、明治撰定譜にないものでも、現在一般的に販売されている雅楽の楽譜に掲載されているものはそれに準じた扱いにしているものもある。
==== 唐楽(左方) ====
: ※太字は舞楽曲
* '''壱越調''' - '''[[春鶯囀]]'''、'''[[賀殿]]'''、'''[[迦陵頻]]'''※<!--(童舞、[[厚化粧]]の少年(時には少女、巫女)が舞う)-->、'''[[承和楽]]'''、'''[[北庭楽]]'''、'''[[蘭陵王 (雅楽)|蘭陵王]]'''※<!--(中国風の感じが残る)-->、'''[[胡飲酒]]'''※、'''[[新羅陵王]]'''、[[回盃楽]]、[[十天楽]]、'''[[菩薩 (雅楽)|菩薩]]'''※、[[酒胡子]]、[[武徳楽]]、[[酒清司]]、[[壱団嬌]]、'''[[安摩]]'''('''[[二舞]]''')※、[[文長楽]]
* '''平調''' - '''[[皇麞]]'''、'''[[五常楽]]'''、'''[[万歳楽]]'''、'''[[甘州 (雅楽)|甘州]]'''、[[早甘州]]、[[三台塩]]、[[春楊柳]]、[[林歌]]、[[老君子]]、'''[[陪臚]]'''※(唐楽だが舞は右方)、[[鶏徳]]、[[慶雲楽]]、'''[[裹頭楽]]'''、[[想夫恋 (雅楽)|想夫恋]]([[相府蓮]])、[[勇勝]]、[[扶南 (雅楽)|扶南]]、[[夜半楽]]、[[小郎子]]、[[王昭君 (雅楽)|王昭君]]、[[越天楽]]、[[梅芳楽]]、[[鶏応楽]]
* '''双調''' - '''[[春庭楽]]'''、'''[[柳花苑]]'''(女人舞楽:近年復活)、[[回盃楽]]、[[春鶯囀|颯踏]]、[[春鶯囀|入破]]、[[酒胡子]]、[[武徳楽]]、[[賀殿|賀殿破]]、[[賀殿|賀殿急]]、[[鳥破]]、[[鳥急]]、[[胡飲酒破]]、[[北庭楽]]、[[陵王]]、[[新羅陵王急]]、[[文鳥 (雅楽)|文鳥]]
* '''黄鐘調''' - '''[[喜春楽]]'''、'''[[桃李花]]'''、'''[[央宮楽]]'''、[[海青楽]]、[[平蛮楽]]、[[西王楽]]、[[拾翠楽]]、[[蘇合香急]]、[[青海波]]、[[鳥急]]、[[越天楽]]、[[千秋楽 (雅楽)|千秋楽]]
* '''盤渉調''' - '''[[蘇合香 (雅楽)|蘇合香]]'''、'''[[万秋楽]]'''※、[[宗明楽]]、'''[[輪台 (雅楽)|輪台]]'''、'''[[青海波]]'''、[[白柱]]、[[竹林楽]]、'''[[蘇莫者]]'''、[[千秋楽 (雅楽)|千秋楽]]、'''[[採桑老]]'''、[[剣気褌脱]]、[[越天楽]]、[[鳥向楽]]、[[蘇春]]
* '''太食調''' - '''[[太平楽]]'''('''[[朝小子]]'''、'''[[武昌楽]]'''、'''[[合歓塩]]''')、'''[[打毬楽]]'''、[[傾盃楽]]、[[仙遊霞]]、'''[[還城楽]]'''(左右双方にあり)、'''[[抜頭]]'''※(舞は左右双方にあり)、'''[[散手 (雅楽)|散手]]'''([[散手破陣楽]])、[[長慶子]]、[[蘇芳菲]]、[[輪鼓褌脱]]、[[庶人三台]]、[[霞洗]]
==== 高麗楽(右方) ====
: ※全曲が舞楽曲
* '''高麗壱越調''' - [[新鳥蘇]]、[[古鳥蘇]]、[[退走禿]](退宿徳)、[[進走禿]](進宿徳)、[[延喜楽]]、[[胡蝶 (舞楽)]]※<!--(童舞、[[厚化粧]]の少年〔時には少女、巫女〕が舞う)-->、[[八仙 (雅楽)|八仙]]、[[仁和楽]]、[[胡徳楽]]、[[狛鉾]]、[[敷手]]、[[貴徳 (雅楽)|貴徳]]、[[納曽利]]※、[[皇仁庭]]、[[埴破]]、[[進蘇利古]]、[[蘇利古]]※、[[綾切]]、[[長保楽]]、[[新靺鞨]]
* '''高麗平調''' - [[林歌]]
* '''高麗双調''' - [[地久]]、[[白浜 (雅楽)|白浜]]、[[登天楽]]、[[蘇志摩利]]
==== 雑楽 ====
* [[振鉾]](新楽乱声(唐楽)と高麗乱声(高麗楽)を同時に演奏、左方と右方の舞人が登場)、[[壹鼓]]、[[一曲]]
{{節スタブ}}
=== 番舞一覧 ===
平安以降、唐楽の曲目と高麗楽の曲目が番舞(つがいまい)としてセットで上演される場合が多くなった。その一覧を示す。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
!唐楽||高麗楽||備考
|-
|[[迦陵頻]]||[[胡蝶 (舞楽)]]||童舞([[厚化粧]]が原則)
|-
|[[蘭陵王 (雅楽)|蘭陵王]]||[[納曽利]]||
|-
|[[菩薩 (雅楽)|菩薩]]||[[蘇利古]]||
|-
|[[抜頭]]||[[還城楽]]||還城楽は双方に同名曲
|-
|[[還城楽]]||[[抜頭]]||抜頭は双方に同名曲
|-
|[[甘州 (雅楽)|甘州]]||[[林歌]]||
|-
|[[太平楽]]||[[陪臚]]||陪臚は双方に同名曲
|-
|[[陪臚]]||[[地久]]||
|-
|[[春庭楽]]||[[白浜 (雅楽)|白浜]]||
|-
|[[五常楽]]||[[登天楽]]||
|-
|[[蘇莫者]]||[[蘇志摩利]]||
|-
|[[打球楽]]||[[埴破]]||
|-
|[[散手 (雅楽)|散手]]||[[貴徳 (雅楽)|貴徳]]||
|-
|}
== 雅楽に使われる楽器 ==
[[ファイル:Gagaku orchestra01.JPG|thumb|300px|2013年秋の[[京都御所]]一般公開での雅楽の演奏]]
管絃の合奏の中心となる楽器は、一般的に三管、三鼓、両絃(二絃)の8種類といわれる。
* [[笙]](鳳笙)、[[篳篥]](ひちりき)、[[龍笛]](横笛、おうてき)または[[高麗笛]](こまぶえ)または[[神楽笛]]または中管
* [[楽太鼓]]または[[和太鼓|大太鼓]](鼉太鼓、だだいこ)、[[鉦鼓]]または大鉦鼓、[[羯鼓]](鞨鼓)または[[三ノ鼓]]
* [[楽琵琶]]、[[楽箏]]または[[和琴]](倭琴)
これらの楽器は大変高価であるが、篳篥や龍笛には、練習用の安価な楽器(プラスチック製)もある。
その他に[[笏拍子]]などが使われることもある。
笙は簧(リード)に結露すると音程が狂うので、演奏の合間に必ず暖めておく。このため夏でも[[火鉢]]や[[電熱器]]をそばに置く。篳篥は舌(リード)を柔らかくするため、[[緑茶]]に浸ける。
=== 三管の説明 ===
三管については次のような説明がなされる。
* 「天から差し込む光」を表す[[笙]](しょう、天の音)。
* 「天と地の間を縦横無尽に駆け巡る龍」を表す[[龍笛]](りゅうてき、空の音。横笛(おうてき))。
* 「地上にこだまする人々の声」を表す[[篳篥]](ひちりき、地の音)。
この3つの管楽器をあわせて「三管」と呼ぶ。合奏することで、宇宙を創ることができると考えられていた。
合奏時の主な役割は、主[[メロディ|旋律]]を[[篳篥]]が担当する。篳篥は音程が不安定な楽器で、同じ指のポジションで長2度くらいの差は唇の締め方で変わる。演奏者は、本来の音程より少し下から探るように演奏を始めるため、その独特な雰囲気が醸しだされる。また、その特徴を生かして、「塩梅(あんばい)」といわれる、いわゆるこぶしのような装飾的な演奏法が行われる。
[[龍笛]]は[[篳篥]]が出ない音をカバーしたりして、旋律をより豊かにする。
[[笙]]は独特の神々しい音色で楽曲を引き締める役割もあるが、[[篳篥]]や[[龍笛]]の演奏者にとっては、息継ぎのタイミングを示したり、テンポを決めたりといった役割もある。笙は日本の音楽の中では珍しく[[和声]](ハーモニー)を醸成する楽器であり、その和声は雅楽用語で合竹という。基本的には6つの音(左手の親指、人差し指、中指、薬指と右手の親指と人差し指を使用)から構成され、4度と5度音程を組み合わせた20世紀以降の西欧音楽に使用されるような複雑なものであるが、[[調律]]法が[[平均律]]ではないので[[協和音と不協和音|不協和音]]というより、むしろ澄んだ音色に聞こえる。[[クロード・ドビュッシー]]の和音は笙の影響がみられるという説もある。
=== 三鼓の説明 ===
「三鼓」とは、[[羯鼓]](または[[三ノ鼓]])、[[鉦鼓]]、[[和太鼓|太鼓]]であるが、羯鼓の演奏者が洋楽の指揮者の役割を担い、全体のテンポを決めている。
=== 両絃(二絃)の説明===
「両絃」とは、[[楽琵琶]]、[[箏]]のことで、演奏者が一定の音形を演奏し、拍(はく)を明確にしている。
=== 使われる楽器 ===
* 国風歌舞
*: [[笏拍子]]、[[和琴]]、[[篳篥]]、[[神楽笛]](倭舞、神楽)、[[高麗笛]](東遊)、中管(東遊)、[[龍笛]](五節舞)
* 管弦(管絃舞楽)
*: [[羯鼓]]、[[楽太鼓]]、[[鉦鼓]]、[[笙]]、[[篳篥]]、[[龍笛]]、[[楽琵琶]]、[[楽箏]]
* 唐楽(左方)
*: [[羯鼓]]、[[和太鼓|大太鼓]]、大[[鉦鼓]]、[[笙]]、[[篳篥]]、[[龍笛]]
* 高麗楽(右方)
*: [[三ノ鼓]]、[[和太鼓|大太鼓]]、大[[鉦鼓]]、[[篳篥]]、[[高麗笛]](明治撰定譜には右方の楽琵琶と楽箏の譜が残されているが近代に入ってから演奏に用いられたという記録はない)
* 催馬楽、今様
*: [[笏拍子]]、[[笙]]、[[篳篥]]、[[龍笛]]、[[楽琵琶]]、[[楽箏]]
* 朗詠
*: [[笏拍子]]、[[笙]]、[[篳篥]]、[[龍笛]]
* [[浦安の舞]](参考)
*: [[笏拍子]]、または[[楽太鼓]](一般の[[和太鼓]]もok)、[[和琴]]、または[[楽箏]]([[生田流]]等の[[箏]]もok)、[[篳篥]]、[[神楽笛]]
== 雅楽の楽譜 ==
笙の楽譜は、基本的には合竹の名前を順に並べたものとなっている<ref>{{Cite book |和書 |author=増本伎共子 |year=2000 |title=雅楽入門 |page=77-79 |publisher=音楽之友社 |location= |isbn=4-276-37083-3 |quote= }}</ref>。それに対して、篳篥と龍笛の楽譜は、唱歌がカタカナで書いてあり、その左側の漢字が音程を表す。いずれの場合も、右側には黒丸や小さな黒点が書いてあり、黒丸は拍子、黒点は小拍子を表す。
楽譜に書かれる、繰り返しに関する用語としては、「二返」「自是」「重頭」「換頭」「返付」などが挙げられる。「二返」は「自是」のところから、「自是」がなければ曲の頭あるいは前の「二返」の直後からそのフレーズをもう一度繰り返すというものである。「重頭」は曲自体を繰り返すときに、1回目の終わりに加えられるフレーズで、重頭を経て冒頭に戻る。「換頭」も曲自体を繰り返すときのものだが、こちらは冒頭に戻らず、換頭のフレーズを演奏してから「返付」の位置へと戻るものである。
== 雅楽のテンポ ==
現代の雅楽のテンポは、多くの西洋音楽と比較しても非常に遅い場合が多いが、管弦より舞楽の方が速い傾向にあり、管弦曲であっても舞楽会の最終に舞楽吹で奏される[[長慶子]]などは雅楽としては非常に速いテンポとなっている。
歴史的には、前述のように昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったということもあるが、近代以前に遡っても平安時代の演奏と江戸時代の演奏とでは江戸時代の演奏の方が遅くなっているという説もあり、平安時代の演奏を当時のものと思われる速いテンポで再現する試みもある。
== 装束、仮面、化粧 ==
[[ファイル:Figure Ryo-oh01.JPG|thumb|280px|陵王の装束の人形 2013年秋の京都御所一般公開にて]]
[[ファイル:Ama figure01.JPG|thumb|280px|案摩(安摩)の装束の人形。雑面(蔵面、造面、ぞうめん)という仮面を付けている 2013年秋の京都御所一般公開にて]]
楽人の正式な装束は[[衣冠]]、または[[狩衣]]が原則であるが、明治以降に楽部が[[直垂]]を制定して以降は神社仏閣や民間の伝承団体でも直垂を着用する場合が多い。直垂の場合、生地は'''海松色'''(みるいろ)と呼ばれる、見る角度によって色彩が変わる美しいものが使われる場合が多い。略式では比較的安価な白衣に差袴(神職の普段着と同様)、稀に夏には統一の浴衣(俗楽の浴衣ざらいに倣う)となる。装束を統一しない場合、僧職は法衣、女性は女性神職装束や[[巫女装束]]、一般的な[[和服]]の場合がある。通常、化粧しない(女性は薄化粧の場合有り、三管の場合は口紅を塗らない)が、舞人と兼任の場合や、祭り等によっては[[厚化粧]]の場合もある。
舞人の装束は国風歌舞や謡物では白系、唐楽では赤系、高麗楽では緑、茶、黄褐色系が多い。それぞれに、特定の曲目専用の装束([[常装束|別装束]])と、複数の曲目で共通に使う装束([[常装束|襲装束]]、等)がある。
曲によっては指定の仮面を着用する場合がある。仮面を付けない曲の場合や、仮面が指定された曲を女性や少年少女が舞う場合は仮面を付けずに素顔のままか、化粧(団体によっては[[歌舞伎舞踊]]と同様の[[舞台化粧]])をする場合がある。
尚、これらの正式な装束、仮面(特に別装束、とりわけ、童舞の装束)は大変高価であるため、これらを購入できる神社仏閣、団体は大規模な神社、寺院や財政に余裕がある団体に限定される。また、童舞以外のほとんどの装束は成人男性、または女性用に仕立てられ、また、重量があること、仮面を付けた場合に視野が制約されること、長く伸びている部分(裾、裳、等)があるため、振り付けに関しても伸びている部分の捌き方等の難易度が高いこと、また、[[東日本]]においては伝承団体のメンバーのほとんどが成人であることと財政に余裕がない場合が多いことから、少年少女の育成に消極的な場合が多い。育成している場合でも略式なら安価な装束で済む管弦と『[[浦安の舞]]』等にとどまり、舞楽は行わないか、行う場合でも成人に限られる場合が多い。従って、童舞は特に関東地方においては希少価値がきわめて高い。
== 伶楽 (一度廃絶し、近年復元された雅楽) ==
現在、国立劇場の企画の一環として、廃絶された楽器や楽曲を復元する試みが行われている。これを総称して、「伶楽」(れいがく)ないし「遠楽」(えんがく)と呼ぶ。[[芝祐靖]]が音楽監督を務める[[伶楽舎]]が演奏活動を行っている。
=== 復元された楽器 ===
[[箜篌]]、[[五弦琵琶]]、[[阮咸 (楽器)]]、[[排簫]]、[[尺八]](近世邦楽の尺八とは異なる)、<span lang="zh">[[竽]]</span>、大[[篳篥]]、[[方響]]など
明治時代にも[[正倉院]]に残る残欠を参考に箜篌や五弦琵琶などを復元したことがある。江戸時代から途絶えることなく伝わる漆工芸や螺鈿の技術等により工芸品としては高度なものであるが、弦の張力は演奏に耐えるものではなく、演奏のための楽器としての復元は昭和になってからである。
=== 廃絶曲(遠楽・亡失曲)の曲名 ===
雅楽の現行曲以外の曲名は、古文書で確認できるものだけでも次のようなものがある。
* 壱越調 - [[皇帝破陣楽]]、[[団乱旋]]、[[玉樹後庭花]]、[[壱弄楽]]、[[河水楽]]、[[溢金楽]]、[[詔応楽]]、[[河曲子]]、[[飲酒楽 (壱越調)]]、[[左撲楽]]、[[最涼州]]、[[渋河鳥]]、[[安楽塩]]、[[壱徳塩]]、[[承嘉楽]]、[[天寿楽]]、[[承天楽]]、[[厥磨賦]]、[[蘇羅密]]、[[古詠詩]]、[[香呂娘]]、[[勒念娘]]、[[細要娘]]、[[天感楽]]、[[骨崙曲子]]、[[二郎神曲子]]、[[羅紫渃県]]、[[古玉樹]]、[[延慶楽]]、[[九明楽]]、[[補臨褌脱]]、[[曹婆]]、[[弄槍]]、[[婆理]]、[[筑紫諸県舞]]、[[師子]]
* 平調 - [[宮商荊仙楽]]、[[娬媚娘]]、[[渋金楽]]、[[豊生楽]]、[[永隆楽]]、[[直火鳳]]、[[平調火鳳]]、[[連珠火鳳]]、[[移都師]]、[[駱勢娘]]、[[廻忽]]、[[龍勝楽]]、[[城頭楽]]、[[感恩多]]、[[偈頌 (雅楽)|偈頌]]、[[送秋楽]]、[[安弓子]]、[[千金女児]]、[[長命女児]]、[[番假崇]]
* 双調 - [[和風楽]]、[[催馬楽 (双調)]]、[[狭鰭河]]、[[萬春楽]]、[[絲楊園]]、[[悠紀作物]]、[[主基作物]]、[[落梅曲]]、[[林光楽]]
* 黄鐘調 - [[弄殿楽]]、[[応天楽]]、[[散吟打毬楽]]、[[安城楽]]、[[河南浦]]、[[感城楽]]、[[清上楽]]、[[皇帝三台]]、[[提金楽]]、[[皇帝調]]、[[長生楽]]、[[赤白蓮華楽]]、[[夏引楽]]、[[承燕楽]]、[[天安楽]]、[[催馬楽 (黄鐘調)]]、[[榎葉井]]、[[英雄楽]]、[[重光楽]]、[[九城楽]]、[[承涼楽]]、[[汎龍舟]]、[[聖明楽]]、[[青海楽]]、[[弊契児]]、[[韋郷堂々]]、[[韓神]]
* 盤渉調 - [[秋風楽]]、[[感秋楽]]、[[明月楽]]、[[山鷓鴣]]、[[元歌]]、[[徳貫子]]、[[盤渉参軍]]、[[永宝楽]]、[[登貞楽]]、[[阿嬀娘]]、[[徳伴子]]、[[鳥歌萬歳楽]]、[[承秋楽]]、[[鶏鳴楽]]、[[玄城楽]]、[[長元楽]]、[[曹娘褌脱]]、[[遊児女]]
* 太食調 - [[賀王恩]]、[[天人楽]]、[[飲酒楽 (太食調)]]、[[如意娘]]、[[秦王破陣楽]]、[[放鷹楽]]、[[西河]]、[[河満子]]、[[六胡州]]、[[天長久]]、[[薜問堤]]、[[惜々塩]]、[[上元楽]]、[[五更囀]]、[[大天楽]]、[[大宝楽]]、[[大酺楽]]、[[大定楽]]、[[興明楽]]、[[五坊楽]]、[[後散]]、[[古堂々]]、[[慣々塩]]
* 高麗壱越調 - [[黒甲序]]、[[都志]]、[[顔徐]]、[[酣酔楽]]、[[狛犬 (雅楽)|狛犬]]、[[石川 (雅楽)|石川]]、[[狛龍]]、[[新河浦]]、[[桔桿]]、[[常武楽]]、[[作物 (高麗壱越調)]]、[[葦波]]、[[鞘切]]、[[啄木 (雅楽)|啄木]]、[[歌良古蘇呂]]
* 高麗平調 - [[作物 (高麗平調)]]
* 高麗双調 - [[作物 (高麗双調)]]
遠楽と亡失曲の区別には曖昧な部分もあり、古文書で龍笛や琵琶など一部パートしか楽譜が現存していないものや、ある特定の現行曲のことではないかとする説があるものなどもある。伶楽舎の[[芝祐靖]]などはそういった遠楽の数々を復曲しているが、一部パートしか楽譜が現存していないものでも、その残りのパートを作成して復曲した例もある。雅楽の特に管絃曲は歴史的にテンポが遅くなっていく傾向があるので、廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことは前述の通りだが、盤渉調の盤渉参軍などはその良い例である。
== 近代における雅楽の派生 ==
雅楽器を用いた宗教音楽、祭典楽などがある。
* 『[[浦安の舞]]』『[[悠久の舞]]』『[[豊栄の舞]]』『[[朝日舞]]』など[[近代に作られた神楽]]([[:s:近代に作られた神楽]])
* [[真如苑]]の、古楽器を復元して仏教[[声明]](しょうみょう)と融合した『[[千年の響き]]』
* [[岡山県]]([[黒住教]]、[[金光教]])発祥の、雅楽と[[能楽]]・[[俗楽]]の要素が合わさった「[[吉備楽]]」[http://tengaku.konko.jp/item/kibigaku/kibigaku.htm]
* 金光教楽長[[尾原音人]]によって創始された金光教祭典楽の「[[中正楽]]」[http://tengaku.konko.jp/item/chusei/chusei.htm]
== 現代雅楽 ==
{{main|現代雅楽}}
[[国立劇場]]では、雅楽の編成のための新しい作品を現代の国内外の作曲家に委嘱し、演奏している。国立劇場以外の民間でも同様の試みが行われている。特に[[武満徹]]の『[[秋庭歌一具]]』([[1973年]] - [[1979年]])は優秀な解釈により頻繁に演奏され、現代雅楽の欠かせないレパートリーとなっている。
ポップスの分野では[[篳篥]]、[[笙]]奏者の[[東儀秀樹]]が、篳篥の音色を生かしたポピュラー音楽の編曲および自作を演奏し、メディアにも頻繁に出演するなど、雅楽のイメージを一新し一般に紹介している。
また東儀の他に、雅楽器も用いた演奏集団[http://www.mahora-japan.com/ 「MAHORA」]、音楽理論の分析・研究に重点を置き現代的雅楽曲を創作する、[[吉川八幡神社 (豊能町)]]宮司 [[久次米一弥]]主催の現代雅楽ユニット[https://web.archive.org/web/20040819121540/http://www.geocities.jp/tenchigaraku/japanese.index.html 「天地雅楽」]、
主に雅楽曲をアレンジした演目を多く演奏する[http://sienkyo.jpn.org 「トラロ会」]などがある。
冨田勲の『[[源氏物語]]幻想交響絵巻』(オーケストラと雅楽の楽器による演奏)。
== 雅楽にまつわる言葉 ==
; 塩梅(えんばい)
: 西洋音楽で言うところの[[メリスマ]]。近似する音程へ徐々に移行する一種のポルタメント。ゆっくりと慎重に音程を変更するところから、具合を測りつつ物事を進めるさまを表す。
; 八多羅(やたら)、八多羅滅多羅(やたらめったら)、滅多(めった)
: 現在は「矢鱈」と書くがこれは明治時代に[[夏目漱石]]によって作られた[[当て字]]で、本来は雅楽の拍子を指す。2拍子と3拍子のリズム細胞を繋げる変拍子。転じて、リズムが合わず滅茶苦茶で大袈裟な身振りや様を指す。多羅(たら)は[[サンスクリット]]の[[ターラ]](リズム)に由来する。
; 打ち合わせ(うちあわせ)
: 管楽器同士で練習をした後、打楽器を交えて、最終的なリハーサルをしたことから。
; 野暮(やぼ)
: 笙の17本の管のうち「也」と「毛」の音が使用されないことから。
; 二の舞を舞う(にのまいをまう)
: 「[[二ノ舞]]」は「[[安摩]]」とセットの[[#番舞一覧|番舞]]、ただし例外的にどちらも左方に属し、装束のみ二ノ舞は右方の装束。安摩が上手に舞った後、二ノ舞は真似て舞おうとするが、上手に出来ずに滑稽な動きになるという設定。転じて他人の''成功'' を真似て失敗すること。他人の''失敗'' を繰り返す例に使われるのは本来は誤用。
; 呂律(ろれつ)
: 古くは「りょりつ」とも読んだ。呂と律は雅楽における曲調の大分類であり(上述の[[#曲の調子|曲の調子]]を参照)、呂律は広い意味での曲の調子を意味する。呂旋法を前提に作られた曲を律旋法で詠おうとすると調子がおかしくなることから、音の調子が合わない(転じて詠唱や講演でうまく言葉が続けて発音できない)ことを「呂律が回らない」と表現するようになった。
; 呂旋法(りょせんぽう)
:'''雅楽'''では、この旋法の曲はきわめてまれで、壱越調、双調、太食調、沙陀調、水調などがこれに属するが、その大半は中国の商調(宮、商、角、嬰角、徴、羽および嬰羽からなる)で、ただし、宮調(宮、商、角、変徴、徴、羽および変宮からなる)、徴調(宮、商、角、嬰角、羽および変宮からなる)もある。
:つまり、日本雅楽の呂旋法は、商調において起止音を宮音と定めたものである。
;律旋法(りつせんぽう)
:宮、商、嬰商、角、徴、羽および嬰羽の7音であり、角が宮の上完全4度にあるのがその特徴である。
:雅楽では、平調、黄鐘調、盤渉調がこれに属する。
; 二の句を継げない(にのくをつげない)
: [[朗詠]]で、一の句から二の句に移る時、急に高音となるため歌うのが難しいことから。
; 唱歌(しょうが)
:三味線や、篳篥、箏などの邦楽器を記憶するために、一定の規則にしたがって奏法の情報も含めて歌う体系。⇒[[唱歌]]
{{節スタブ}}
== 雅楽を鑑賞する機会 ==
コンサートホールではなく神社等で行われるもの。※は童舞([[厚化粧]]の少年、または少女)が登場
* [[北海道]]
* [[東北地方|東北]]
** 5月5日:一切経会慈恩寺舞楽 - [[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]([[山形県]][[寒河江市]])
** 8月12日:御鎮座記念祭 雅楽の夕べ - [[大崎八幡宮]]([[宮城県]][[仙台市]])
** 9月14日、15日:[[林家舞楽]] - [[谷地八幡宮]](山形県[[河北町]])
* [[北関東]]
** 5月上旬:[[雅楽鑑賞の夕べ]] - [[群馬県護国神社]]([[群馬県]][[高崎市]])
** 10月上旬:[[雅楽秋の演奏会]] - [[貫前神社]](群馬県[[富岡市]])
** 11月中旬:[[舞楽祭]] - [[笠間稲荷神社]]([[茨城県]][[笠間市]])※
* [[南関東]]
** 7月上旬:[[雅楽の夕べ]] - [[大宮八幡宮 (杉並区)|大宮八幡宮]]([[東京都]][[杉並区]])
** 10月上旬:[[乃木神社管絃祭]] - [[乃木神社 (東京都港区)|乃木神社]](東京都[[港区 (東京都)|港区]])
* [[中部地方|中部]]
** 4月16日:[[東照宮祭]] - [[名古屋東照宮]]([[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]])
** 4月29日:[[春季神楽祭]] - [[伊勢神宮]]([[三重県]][[伊勢市]])※
** 5月1日:[[舞楽神事]] - [[熱田神宮]](名古屋市[[熱田区]])※
** 9月中旬:[[仲秋管絃祭]] - [[静岡浅間神社]]([[静岡市]][[葵区]])※
* [[京都府]]
** 4月上旬:[[お花祭]] - [[山崎聖天|観音寺]](山崎聖天)([[京都府]][[大山崎町]])※
** 5月中旬:[[三船祭]]([[京都市]][[右京区]])※
** 7月7日:[[水祭り]] - [[貴船神社]](京都市[[左京区]])※
** 9月15日未明:[[石清水祭]] - [[石清水八幡宮]](京都府[[八幡市]])※
** 11月中旬:[[嵐山もみじ祭]](京都市右京区)※
* その他の[[近畿地方]]
** 4月22日:[[聖霊会]] - [[四天王寺]]([[大阪市]][[天王寺区]])※
** 5月5日:[[こどもの日舞楽演奏会]] - [[春日大社]]([[奈良市]])※
** 5月上卯日:[[卯之葉神事奉納舞楽]] - [[住吉大社]](大阪市[[住吉区]])※
** 6月10日:[[漏刻祭]] - [[近江神宮]]([[滋賀県]][[大津市]])
** 中秋の名月:[[観月祭]] - 住吉大社(大阪市住吉区)
** 9月下旬:[[雅楽の夕べ]] - [[生田神社]]([[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]])
** 11月3日:[[文化の日舞楽演奏会]] - 春日大社(奈良市)※
* [[中国地方|中国]]
* [[四国]]
* [[九州]]
** 通年:「古民家喫茶室ギャラリー雲の森(雲八幡宮文化館)」にてコーヒーを注文すると聴くことができる(不定休) - [[雲八幡宮]] ([[大分県]][[中津市]])
また、[[雅楽協議会]]が2005年より発行している[[雅楽だより]]や、[[アメリカ合衆国]][[スタンフォード大学]]音楽学部CCRMAのウェブサイトで、雅楽や現代雅楽の研究成果を閲覧できる。
=== 海外 ===
近年は日本国外においても雅楽の価値が高まり、特に[[アメリカ合衆国]][[コロンビア大学]]では雅楽[[アンサンブル]]が結成され、熱心な指導が行われ、学生を京都、東京に派遣している。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =[[増本伎共子]]|title =雅楽入門|year = 2000|publisher = [[音楽之友社]] |series = 音楽選書|isbn = 4-276-37083-3|ref=増本 (2000)}}
== 関連項目 ==
* [[幽玄]]
* [[御座楽]] - [[琉球王国]]の雅楽
* [[ベトナムの雅楽]]
* [[雅楽 (中国)|中国の雅楽]]
* [[雅楽 (朝鮮)|朝鮮の雅楽]]
* [[彌彦神社]]
* [[邦楽]]
* [[和楽器]]
* [[十二律]]
* [[五音音階]]
* [[唱歌 (演奏法)]](しょうが)
* [[日本の伝統芸能]]
* [[田辺尚雄]]
* [[吉沢検校]]
* [[序破急]]
* [[原笙子]]
* [[東儀秀樹]]
* [[蛮絵装束]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Gagaku}}
* [https://ich.unesco.org/en/RL/gagaku-00265 雅楽 - ユネスコ無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage - ICH)]
* {{国指定文化財等データベース|303|100|雅楽}}
* [https://www.kunaicho.go.jp/culture/gagaku/gagaku.html 雅楽] - 宮内庁
* [https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/ 雅楽 GAGAKU] - 文化デジタルライブラリー
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/gagaku_ryuteki/index.html |title=思音の笛 |date=20181106083111}}
* [https://gagaku.okunohosomichi.net/gagaku_page.htm 雅楽のページ]
* [http://kaz3275.sitemix.jp/gagaku/ 採桑老の口傳~さいそうろうのいいつたえ~]
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6,539 | 先行者 | 先行者(せんこうしゃ、拼音: Xiānxíngzhě)とは、中華人民共和国の中国人民解放軍国防科技大学の研究室で開発された人型二足歩行ロボット(ヒューマノイド)である。
先行者は「人型走行ロボット実験デモシステム」と位置付けられている。
2000年11月29日、中国人民解放軍国防科技大学が開発した中国初の人型二足歩行ロボットとして発表された。高さ1.4メートル、重量20キログラムで、ある程度の言語を理解することができるという。1990年に国防科技大で開発された二足歩行ロボットは記憶された環境かつ平地をゆっくりと歩行するだけだったが、先行者は段差のある場所でも自由自在に歩行できるようになった上、歩行速度も6秒あたり1歩から1秒あたり2歩まで高速化された。
また、足の裏にセンサーが設けられており、柔らかい地面や段差などの上でもこれを感知し、倒れないように重心を制御することができる。言語機能については、発表の時点では事前にプログラムされたいくつかの言葉のみ理解するという仕組みだった。
電源や制御は外部に依存しており、本体は主に駆動部で構成されている。制御用コンピュータと本体は光ファイバーのケーブルで接続されている。駆動のためのモーターが細長く、関節部分からのはみ出しが目立つ外見である。
中国における二足歩行ロボットの開発は1980年代半ばから始まった。当時、先進国ではコンピュータ技術を用いたロボット設計が主流であったが、中国人民解放軍国防科技大学のロボット開発者らは鉛筆と定規のみで設計を行うほかになかった。1985年、国際科学技術博覧会で目にしたロボットに影響を受け、中国における本格的な二足歩行ロボットの開発が始まった。この時点のロボットは脚部のみで、歩行プログラムの設計が難航し、開発者らは研究室に連日泊まり込みで作業を行った。開発メンバーの馬宏緒によれば、先行者自体の開発は1987年に始まり、早稲田大学との学術交流の際に目にした、加藤一郎設計による二足歩行ロボットの影響があったという。1987年12月31日、中国に初の二足歩行ロボットが完成。1989年、ヒューマノイドに搭載するニューラルネットワークの設計が開始。2000年11月29日、頭部、目、頸部、胴体、両脚などの部位を備えたヒューマノイドとして「先行者」が発表された。危険な環境での作業やリハビリテーションなどの分野でヒューマノイドを活用していくことが目標とされた。
中国での報道後、先行者が歩行する動画は日本のテレビ番組などでも紹介された。
インターネット上では、2001年3月3日にテキストサイト『侍魂』が『ロボット技術の最先端』と題した記事でジョーク交じりに取り上げたのをきっかけに話題となった。その後、元の写真を切り張りしたGIFアニメが「悠」という名前のネットユーザーによって作成され、同サイトで紹介された。記事に掲載されたGIFアニメは先行者の手足を激しく動かしたもののほか、写真の角度から砲門のように見えた股関節部分のはみ出しを「中華キャノン」と称し砲撃を行わせるというものもあった。なお、これらのGIFアニメを作成した「悠」は自身だった事を後年、俳優の松崎悠希が明かしている。その後、先行者を題材にしたCGムービーやゲーム、小説などの同人作品が作られていった。
2002年2月に行われたROBO-ONE第1回大会には、開発者である馬宏緒と周華平がゲストとして招かれた。先行者自体は軍事機密に抵触するとして国外への持ち出しが認められなかったが、先行者に関するパネルと動画の特別展示が行われた。
同年、雑誌『ネットランナー』7月号の特別付録として、先行者を模した「中華キャノン」のプラモデルが青島文化教材社により製作された。
『ぷにぷに☆ぽえみぃ』、『りぜるまいん』、『いぬかみっ!』、『ネギま!?』、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』、『生徒会役員共』、出口竜正版『アベノ橋魔法☆商店街』(第2話の閃光のシャー)、『ラストピリオド』 (TVアニメ版)、といった、日本の漫画やアニメにも、ネタの一環として出演を果たしている。
なお、中国のアニメ作品でも先行者が取り上げられる事例はあり、2013年のロボットアニメ『超限獵兵-凱能(中国語版)』では、作中に登場する巨大ロボット兵器「ATF」(Asy-Tac Fronteer)は、先行者(Fronteer)を起源とすると設定されている。 | [
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] | 先行者とは、中華人民共和国の中国人民解放軍国防科技大学の研究室で開発された人型二足歩行ロボット(ヒューマノイド)である。 | {{otheruses||その他|先行}}
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'''先行者'''(せんこうしゃ、{{Lang-zh |hp=Xiānxíngzhě}})とは、[[中華人民共和国]]の[[中国人民解放軍国防科技大学]]の研究室で開発された人型[[二足歩行ロボット]]([[ヒューマノイド]])である。
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== 概要 ==
先行者は「人型走行ロボット実験デモシステム」と位置付けられている<ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~nrc/activities/sekosha/senkosha.htm ROBO-ONEに先行者を呼ぶぞプロジェクト]</ref>。
2000年11月29日、中国人民解放軍国防科技大学が開発した中国初の人型二足歩行ロボットとして発表された<ref name="PD_01">{{Cite web|和書|url= http://peopledaily.co.jp/j/2000/11/29/jp20001129_44763.html |title= 中国初の人型ロボット、発表 |publisher= 人民網 日文版 |date=2000-11-29 |accessdate= 2015-02-24 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20090227083102/http://peopledaily.co.jp/j/2000/11/29/jp20001129_44763.html |archivedate= 2009-02-27}}</ref><ref name="SC_01">{{Cite web|和書|date= 2000-12-01 |url= http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2000&d=1201&f=it_1201_002.shtml |title= 中国:人間型ロボット「先行者」発表 |publisher= サーチナニュース |accessdate=2015-02-24}}</ref><ref name="sina">{{Cite web |date= 2000-12-05 |url= http://tech.sina.com.cn/o/45063.shtml |title= {{lang|zh|孕育15年 中国“生”出了个机器人(附图)}}|publisher= [[新浪|sina.com]] |accessdate=2015-02-26}}</ref>。高さ1.4[[メートル]]、重量20[[キログラム]]で、ある程度の言語を理解することができるという。1990年に国防科技大で開発された二足歩行ロボットは記憶された環境かつ平地をゆっくりと歩行するだけだったが、先行者は段差のある場所でも自由自在に歩行できるようになった上、歩行速度も6秒あたり1歩から1秒あたり2歩まで高速化された。
また、足の裏にセンサーが設けられており、柔らかい地面や段差などの上でもこれを感知し、倒れないように重心を制御することができる。言語機能については、発表の時点では事前にプログラムされたいくつかの言葉のみ理解するという仕組みだった<ref name="sina"/>。
電源や制御は外部に依存しており、本体は主に駆動部で構成されている。制御用コンピュータと本体は光ファイバーのケーブルで接続されている。駆動のためのモーターが細長く、関節部分からのはみ出しが目立つ外見である<ref name="AA">{{Cite web|和書|date=2002-06-12 |url=https://allabout.co.jp/gm/gc/292411/ |title=「先行者」に見る中国のロボ開発 |publisher= All about |accessdate=2015-02-23}}</ref>。
== 開発 ==
中国における二足歩行ロボットの開発は1980年代半ばから始まった<ref name="PD_02">{{Cite web |date= 2000-11-30 |url= http://www.people.com.cn/GB/paper39/2079/331893.html |title= “先行者”迈向新世纪 ———我国第一台类人型机器人诞生记 |publisher= 人民網 |accessdate=2015-02-24}}</ref><ref name="AA"/><ref>{{Cite web |date= 2000-11-30 |url= http://www.people.com.cn/GB/channel1/15/20001129/331342.html |title= {{lang|zh|新世纪的“先行者”——我国第一台类人型机器人诞生记}} |publisher= 人民網 |accessdate=2015-02-26}}</ref>。当時、先進国ではコンピュータ技術を用いたロボット設計が主流であったが、中国人民解放軍国防科技大学のロボット開発者らは鉛筆と定規のみで設計を行うほかになかった。1985年、[[国際科学技術博覧会]]で目にしたロボットに影響を受け、中国における本格的な二足歩行ロボットの開発が始まった。この時点のロボットは脚部のみで、歩行プログラムの設計が難航し、開発者らは研究室に連日泊まり込みで作業を行った。開発メンバーの馬宏緒によれば、先行者自体の開発は1987年に始まり、[[早稲田大学]]との学術交流の際に目にした、[[加藤一郎 (ロボット研究者)|加藤一郎]]設計による二足歩行ロボットの影響があったという<ref name="ASCII"/>。1987年12月31日、中国に初の二足歩行ロボットが完成。1989年、ヒューマノイドに搭載する[[ニューラルネットワーク]]の設計が開始。2000年11月29日、頭部、目、頸部、胴体、両脚などの部位を備えたヒューマノイドとして「先行者」が発表された。危険な環境での作業やリハビリテーションなどの分野でヒューマノイドを活用していくことが目標とされた。
== 日本からの注目 ==
中国での報道後、先行者が歩行する動画は日本のテレビ番組などでも紹介された。
インターネット上では、2001年3月3日にテキストサイト『[[侍魂]]』が『ロボット技術の最先端』と題した記事でジョーク交じりに取り上げたのをきっかけに話題となった<ref name="AA" />。その後、元の写真を切り張りした[[GIFアニメーション|GIFアニメ]]が「悠」という名前のネットユーザーによって作成され、同サイトで紹介された。記事に掲載されたGIFアニメは先行者の手足を激しく動かしたもののほか、写真の角度から砲門のように見えた股関節部分のはみ出しを「中華キャノン」と称し砲撃を行わせるというものもあった。なお、これらのGIFアニメを作成した「悠」は自身だった事を後年、俳優の[[松崎悠希]]が明かしている<ref>{{Cite web|和書|title=平成の終わりに一つだけヒミツを。大昔、ブログが流行るもっと前、僕はGIFアニメ職人の「悠」として活動していました。その時に作ったGIFアニメが・・・こちらです。 #先行者 #侍魂 #平成ネット史pic.twitter.com/KA5PvrcKXo|url=https://twitter.com/Yuki_Mats/status/1080495026759553024|website=@Yuki_Mats|date=2019-01-02|accessdate=2019-09-21|language=ja|first=Yuki Matsuzaki|last=松崎悠希}}</ref>。その後、先行者を題材にしたCGムービーやゲーム、小説などの[[同人]]作品が作られていった<ref name="IT_01" />。
2002年2月に行われた[[ROBO-ONE]]第1回大会には、開発者である馬宏緒と周華平がゲストとして招かれた<ref name="ASCII">{{Cite web|和書|date= 2002-02-02 |url= http://ascii.jp/elem/000/000/328/328974/ |title= 【ROBO-ONE Vol.1】『先行者』開発者も応援!――2足歩行ロボット格闘競技大会予選 |publisher= ASCII.jp |accessdate=2015-02-24}}</ref><ref name="IT_01">{{Cite web|和書|date= 2002-01-31|url= https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0201/31/09.html |title= 「ROBO-ONE」に「先行者」!! |publisher= ITmedia ニュース|accessdate=2015-02-24}}</ref>。先行者自体は軍事[[機密]]に抵触するとして国外への持ち出しが認められなかったが、先行者に関するパネルと動画の特別展示が行われた。
同年、雑誌『[[ネトラン|ネットランナー]]』7月号の特別付録として、先行者を模した「中華キャノン」の[[プラモデル]]が[[青島文化教材社]]により製作された<ref name="IT_02">{{Cite web|和書|date= 2002-05-29 |url= https://www.itmedia.co.jp/news/0205/29/njbt_17.html |title=「先行者」がプラモに?|publisher= ITmedia ニュース |accessdate=2015-02-24}}</ref>。
『[[ぷにぷに☆ぽえみぃ]]』、『[[りぜるまいん]]』、『[[いぬかみっ!]]』、『[[ネギま!?]]』、『[[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX]]』、『[[生徒会役員共]]』、[[出口竜正]]版『[[アベノ橋魔法☆商店街]]』(第2話の閃光のシャー)、『[[ラストピリオド -終わりなき螺旋の物語-#テレビアニメ|ラストピリオド]]』 (TVアニメ版)、といった、日本の漫画やアニメ<!--(14話等)どの作品の14話?-->にも、[[ネタ]]の一環として出演を果たしている。
なお、中国のアニメ作品でも先行者が取り上げられる事例はあり、2013年の[[ロボットアニメ]]『{{仮リンク|超限獵兵-凱能|zh|超限獵兵-凱能}}』では、作中に登場する[[リアルロボット|巨大ロボット兵器]]「ATF」(Asy-Tac Fronteer)は、先行者(Fronteer)を起源とすると設定されている<ref>[https://web.archive.org/web/20131016052747/http://www.kainar.net:80/donghua/shijieguan/2013-06-18/137.html ATF] - 『超限獵兵-凱能』公式サイト(中国語・[[インターネット・アーカイブ]])、2021年1月1日閲覧。</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[ロボット]]
== 外部リンク ==
* [http://www.nudt.edu.cn/ 国防科学技術大学]
* 「侍魂」の先行者紹介記事
** [http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/tamasiitop/robotyuugoku/robotyuugoku.htm ロボット技術の最先端]
** [http://www6.plala.or.jp/private-hp/samuraidamasii/kikaku/kahou/kahou7.htm 最先端ロボット技術外伝]
* {{Wayback|url=http://www5b.biglobe.ne.jp/~nrc/activities/sekosha/senkosha.htm |title=ROBO-ONEに先行者を呼ぶぞプロジェクト |date=20020201214928}} - ROBO-ONEに開発者らを招待したロボット愛好家団体、西村ロボットクラブの記事。招待までの経緯のほか、先行者の機能の解説や開発者らが撮影した動画が掲載されている。
* [http://www.hinden5.com/senkousha/index.html 先行者の同人ゲーム]
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[[Category:ロボット]] | 2003-04-11T17:29:03Z | 2023-09-20T11:58:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E8%A1%8C%E8%80%85 |
6,542 | 日本海 |
日本海()は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。
ユーラシア大陸と樺太の間の間宮海峡(タタール海峡)、樺太と北海道の間の宗谷海峡でオホーツク海と繋がっており、北海道と本州の間の津軽海峡では太平洋と、九州と対馬の間の対馬海峡東水道、対馬と韓国の間の対馬海峡で東シナ海と繋がっている。
国際水路機関 (IHO:International Hydrographic Organization) の「大洋と海の境界 (S-23)」による日本海の境界は、北東では外満州のSushcheva岬と樺太西岸のTuik岬とを結ぶ線、樺太南端の西能登呂岬(またはクズネツォワ岬)と北海道北端の宗谷岬(または野寒布岬)とを結ぶ線、道南の恵山岬と青森県の尻屋崎とを結ぶ線、南東では山口県下関市の村崎ノ鼻、六連島、北九州市の八幡岬とを結ぶ線、および南西では長崎県の野母崎、福江島の大瀬埼、韓国済州島最南端のプナム崎、全羅南道の玉島、珍島を結ぶ線で囲まれる海域となっており、南西部では対馬海峡・朝鮮海峡よりも西の五島列島や韓国南部まで含まれている。しかし、一般的には九州北西部、特に長崎県西方や五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことは少なく、環境省や気象庁、長崎県などの資料では、これらの海域を日本海に含まず、東シナ海の一部とするなどしている。
中国における古称は、鯨海()であった。
古代の日本では北海と呼んでいた。『日本書紀』の垂仁天皇2年是年条に、朝鮮半島から来た都怒我阿羅斯等が穴戸(長門)を出て海路を迷ったあげく、「北海をまわって出雲国を経て」越の笥飯浦(現在の敦賀)に至ったという話がある。
「日本海」が初めて見えるのは、イタリア出身の宣教師マテオ・リッチが北京で作った「坤輿万国全図」で、1602年に刊行された。日本では1802年(享和2年)に蘭学者山村才助が『訂正増訳采覧異言』で初めて用いた。そしてロシア海軍のクルーゼンシュテルン提督(1770-1846)の著書『世界周航記』が続く。英語ではSea of JapanまたはJapan Sea。ラテン語ではMare Iaponicum(マレ・ヤポーニクム)。フランス語ではmer du Japon、ドイツ語ではJapanisches Meer、ロシア語では Японское море であり、いずれも『日本海』を意味する。
現在、国連および国際的な海図の大半は「日本海」(もしくはその訳語)という表記を使用しており、国際的にこれが一般的である。海図上の名称の基準になっている国際水路機関 (IHO) の「大洋と海の境界 (S-23)」(1953年)においても、Japan Sea の名称を用いている。
太平洋 (Тихий океан) の一部という認識も強く、ウラジオストクにある艦隊の名称やナホトカにあるシベリア鉄道ナホトカ支線のナホトカ航路との接続駅は「太平洋」を名乗っており、「太平洋通り」という名称の通りもある。
朝鮮語において、韓国では東海(동해、トンヘ)、北朝鮮では朝鮮東海(조선동해、チョソントンヘ)との呼称が一般的である。この他、昔は朝鮮海(조선해、チョソンヘ)などとも呼ばれている。韓国は、「日本海」の国際使用は植民地統治の残滓(日帝残滓)であるとして「東海」、「韓国海」、「朝鮮海」等への置き換えもしくは併記を主張している。この問題の詳細は日本海呼称問題を参照。
平均水深は1,752m、最も深い地点で3,742mで、表面積は978,000 kmである。中央の大和堆(水深約400m)を挟んで主に3つの深い海盆があり北に日本海盆(水深およそ3,000m)、南東にやや浅い大和海盆、南西に対馬海盆(ともに水深およそ2500m)と呼ばれている。また、富山湾沖から水深1,000mにも達する富山深海長谷が約750kmにわたって延びている(富山平野や砺波平野はその延長である)。大陸棚が東部沿岸に広がっているが、西部、特に朝鮮半島沿いは非常に狭く、幅は30km程度である。
海峡の水深が浅いため外海との海水の交換は少なく、唯一対馬海峡から対馬海流が流入するのみである。暖流の流入は日本の温暖な気候に影響を与えている。北部には寒流のリマン海流が流れているが、地質調査からかつて親潮が流れていたことが明らかとなった。
深層には太平洋とは全く性質を異にする日本海固有水と呼ばれる、寒冷で溶存酸素に富んだ海水が分布する。
北方と南西海域は豊富な水産資源が得られ、鉱物資源や天然ガス、わずかながら石油そしてメタンハイドレートの存在など経済的にも重要な海域とされる。
日本列島は4000万年前まで大陸の一部であったが、4000万年前頃から2000万年前にかけて大陸から分離し日本海の原型が形成され、その後拡大が進み数百万年前にはほぼ現在の配置になった。対馬海峡はまだユーラシア大陸と陸続きで、対馬海峡が形成されたのは第四紀になってからといわれている。その後氷期間氷期の世界的な海水準の変化によって、水深130m程度の浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返していた。そのため、堆積物の岩相や同位体の構成比、元素濃度は劇的に変化をしている。
樺太から日本列島沿岸に沿って海嶺やマグニチュード7クラスの地震の多発域が帯状に連なっており、これを日本海東縁変動帯と呼ぶ。日本海東縁変動帯では、ネフチェゴルスク地震、北海道南西沖地震、日本海中部地震、庄内沖地震、新潟地震、新潟県中越地震、新潟県中越沖地震などが発生している。
太平洋より種族数が少なく固有種も乏しいことから、日本海の形成時代はあまり古くないといわれている。カニなどの沿岸性底動物は一般に豊富で、能登半島を境にしてその動物相にやや変化がみられる。太平洋岸に比べ、対馬暖流の影響で南方系種族の北限がはるか北方に延びている。例を挙げると、サザエは日本海側では青森でも漁獲されるのに対し太平洋側では関東以北には現れない。
プランクトンは沿海沖の冷水域および陸棚上に多く、中央部に乏しい。種類は対馬暖流系の暖水種と、リマン寒流系の冷水種に分けられるが、両者の分布は水塊分布ほど明確に区分されず、混在海域が広い。北方系の魚類としては、ニシン、サケ、マス、タラなどがあり、南方系の魚類としてはやや温帯性に属するブリが多いが、乱獲が問題となっている。魚類としてもっと重要なものは温帯性のマダイ、マイワシ、サバ、カレイなどである。これらの分布を太平洋と比較すると、次のような特徴がある。
また古来からクジラの回遊経路として知られ、かつて沿岸には多数の捕鯨漁村が存在した。これらのほとんどは捕鯨により激減したため今では稀にしか見られないが、ヒゲクジラでは珍しく大規模な回遊を行わないミンククジラやナガスクジラの個体群も存在する。
漂着物として、主に韓国、中国など日本海を航行する貨物船や漁船、また朝鮮半島や日本本土から不法投棄されるゴミが海流に乗って、対馬や日本海沿岸に漂着する。その量は膨大で沿岸地方自治体の財政を圧迫するほどである。
さらに、ロシアなどが遺棄していた放射性物質は深海を汚染しているおそれが大きく、カニや深海魚の汚染に不安感がもたれている。特に経済が悪化していた当時のロシアでは太平洋艦隊の古い原子力潜水艦の原子炉を日本海公海上の海溝に投棄していたことが問題とされている。
韓国政府は68年から4年間、約45トンの放射性廃棄物を日本海の鬱陵島(ウルルンド)から南に12海里離れた水深約2200メートル地点に投棄した。
また、冬季の天候の悪化時に起きる海難事故では、ナホトカ号重油流出事故のように大量の重油で沿岸部が汚染される事件が多発している。中国、ロシア、韓国船の中には船内を海水で洗浄した廃油を海に投棄する船が後をたたない。主に冬から春にかけて、航行中の船から材木などが大量に流出し航行に危険をもたらす事件も起こっている。
沿岸部の岩礁地帯の植物が死滅して、焼いたサザエの殻のように、水面下の岩に付いた貝等の屍骸で磯全体が広範囲にわたって白く焼けたように見えることから、この呼び名がある。日本海沿岸部全体で観察される現象で、沿岸部での魚の激減、えさの減少から沿岸部で産卵されて育つ人間に有用な魚の稚魚の成長が難しくなることなど、漁業全体への深刻な影響が懸念される。川の水が流入する直近の場所では少ないことから、海水の変化が原因と考えられている。
海水の変化の理由として、有力な説は船底塗料等の中に含まれる環境ホルモンによる海洋汚染、流入する河川の治水による有機物の減少、最新の説には、温暖化による海水の有機物の減少(貧栄養化現象、栄養減化現象)を挙げる説等があるが、原因は不明である。
なお、現代の磯を見慣れている人には「磯焼け」が常態であるのでこの言葉に実感はないが、半世紀前の人々が普通に見た磯(水中)は、岩などが見えないほど海草が生い茂っていたのである。
能登金剛や東尋坊などの荒々しい海の光景や、天橋立、鳥取砂丘、千里浜海岸、丹後の鳴き砂など海と砂の作る不思議な海岸の光景が有名である。ほかにも多くの風光明媚な観光地や天然記念物が散在し、北海道から対馬まで、観光資源としての価値も高い。
日本海に面した地域を指定した国立公園には利尻礼文サロベツ国立公園、山陰海岸国立公園、大山隠岐国立公園の3公園がある。
暑寒別天売焼尻国定公園、ニセコ積丹小樽海岸国定公園、津軽国定公園、男鹿国定公園、鳥海国定公園、佐渡弥彦米山国定公園、能登半島国定公園、越前加賀海岸国定公園、若狭湾国定公園、丹後天橋立大江山国定公園、北長門海岸国定公園、玄海国定公園、壱岐対馬国定公園など多くの地が国定公園の指定を受けているが、近時、道路港湾によりその風景は破壊されつつある。
多数のフェリー航路が設定されている。
また、上海から北米への航路は、日本海に入った後津軽海峡を通り抜けるように太平洋へと向かう。この航路を採用する期間は夏季のみ。その理由は台風を避けるため、黒潮など激しい潮の流れを避けるための2つである。
南西部にある竹島について日韓で領土問題が起きている。 | [
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"text": "日本海()は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。",
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"text": "ユーラシア大陸と樺太の間の間宮海峡(タタール海峡)、樺太と北海道の間の宗谷海峡でオホーツク海と繋がっており、北海道と本州の間の津軽海峡では太平洋と、九州と対馬の間の対馬海峡東水道、対馬と韓国の間の対馬海峡で東シナ海と繋がっている。",
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"text": "国際水路機関 (IHO:International Hydrographic Organization) の「大洋と海の境界 (S-23)」による日本海の境界は、北東では外満州のSushcheva岬と樺太西岸のTuik岬とを結ぶ線、樺太南端の西能登呂岬(またはクズネツォワ岬)と北海道北端の宗谷岬(または野寒布岬)とを結ぶ線、道南の恵山岬と青森県の尻屋崎とを結ぶ線、南東では山口県下関市の村崎ノ鼻、六連島、北九州市の八幡岬とを結ぶ線、および南西では長崎県の野母崎、福江島の大瀬埼、韓国済州島最南端のプナム崎、全羅南道の玉島、珍島を結ぶ線で囲まれる海域となっており、南西部では対馬海峡・朝鮮海峡よりも西の五島列島や韓国南部まで含まれている。しかし、一般的には九州北西部、特に長崎県西方や五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことは少なく、環境省や気象庁、長崎県などの資料では、これらの海域を日本海に含まず、東シナ海の一部とするなどしている。",
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"text": "古代の日本では北海と呼んでいた。『日本書紀』の垂仁天皇2年是年条に、朝鮮半島から来た都怒我阿羅斯等が穴戸(長門)を出て海路を迷ったあげく、「北海をまわって出雲国を経て」越の笥飯浦(現在の敦賀)に至ったという話がある。",
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"text": "「日本海」が初めて見えるのは、イタリア出身の宣教師マテオ・リッチが北京で作った「坤輿万国全図」で、1602年に刊行された。日本では1802年(享和2年)に蘭学者山村才助が『訂正増訳采覧異言』で初めて用いた。そしてロシア海軍のクルーゼンシュテルン提督(1770-1846)の著書『世界周航記』が続く。英語ではSea of JapanまたはJapan Sea。ラテン語ではMare Iaponicum(マレ・ヤポーニクム)。フランス語ではmer du Japon、ドイツ語ではJapanisches Meer、ロシア語では Японское море であり、いずれも『日本海』を意味する。",
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"text": "現在、国連および国際的な海図の大半は「日本海」(もしくはその訳語)という表記を使用しており、国際的にこれが一般的である。海図上の名称の基準になっている国際水路機関 (IHO) の「大洋と海の境界 (S-23)」(1953年)においても、Japan Sea の名称を用いている。",
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"text": "太平洋 (Тихий океан) の一部という認識も強く、ウラジオストクにある艦隊の名称やナホトカにあるシベリア鉄道ナホトカ支線のナホトカ航路との接続駅は「太平洋」を名乗っており、「太平洋通り」という名称の通りもある。",
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"text": "朝鮮語において、韓国では東海(동해、トンヘ)、北朝鮮では朝鮮東海(조선동해、チョソントンヘ)との呼称が一般的である。この他、昔は朝鮮海(조선해、チョソンヘ)などとも呼ばれている。韓国は、「日本海」の国際使用は植民地統治の残滓(日帝残滓)であるとして「東海」、「韓国海」、「朝鮮海」等への置き換えもしくは併記を主張している。この問題の詳細は日本海呼称問題を参照。",
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"text": "平均水深は1,752m、最も深い地点で3,742mで、表面積は978,000 kmである。中央の大和堆(水深約400m)を挟んで主に3つの深い海盆があり北に日本海盆(水深およそ3,000m)、南東にやや浅い大和海盆、南西に対馬海盆(ともに水深およそ2500m)と呼ばれている。また、富山湾沖から水深1,000mにも達する富山深海長谷が約750kmにわたって延びている(富山平野や砺波平野はその延長である)。大陸棚が東部沿岸に広がっているが、西部、特に朝鮮半島沿いは非常に狭く、幅は30km程度である。",
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"text": "海峡の水深が浅いため外海との海水の交換は少なく、唯一対馬海峡から対馬海流が流入するのみである。暖流の流入は日本の温暖な気候に影響を与えている。北部には寒流のリマン海流が流れているが、地質調査からかつて親潮が流れていたことが明らかとなった。",
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"text": "深層には太平洋とは全く性質を異にする日本海固有水と呼ばれる、寒冷で溶存酸素に富んだ海水が分布する。",
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"text": "日本列島は4000万年前まで大陸の一部であったが、4000万年前頃から2000万年前にかけて大陸から分離し日本海の原型が形成され、その後拡大が進み数百万年前にはほぼ現在の配置になった。対馬海峡はまだユーラシア大陸と陸続きで、対馬海峡が形成されたのは第四紀になってからといわれている。その後氷期間氷期の世界的な海水準の変化によって、水深130m程度の浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返していた。そのため、堆積物の岩相や同位体の構成比、元素濃度は劇的に変化をしている。",
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"text": "樺太から日本列島沿岸に沿って海嶺やマグニチュード7クラスの地震の多発域が帯状に連なっており、これを日本海東縁変動帯と呼ぶ。日本海東縁変動帯では、ネフチェゴルスク地震、北海道南西沖地震、日本海中部地震、庄内沖地震、新潟地震、新潟県中越地震、新潟県中越沖地震などが発生している。",
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"text": "太平洋より種族数が少なく固有種も乏しいことから、日本海の形成時代はあまり古くないといわれている。カニなどの沿岸性底動物は一般に豊富で、能登半島を境にしてその動物相にやや変化がみられる。太平洋岸に比べ、対馬暖流の影響で南方系種族の北限がはるか北方に延びている。例を挙げると、サザエは日本海側では青森でも漁獲されるのに対し太平洋側では関東以北には現れない。",
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"text": "プランクトンは沿海沖の冷水域および陸棚上に多く、中央部に乏しい。種類は対馬暖流系の暖水種と、リマン寒流系の冷水種に分けられるが、両者の分布は水塊分布ほど明確に区分されず、混在海域が広い。北方系の魚類としては、ニシン、サケ、マス、タラなどがあり、南方系の魚類としてはやや温帯性に属するブリが多いが、乱獲が問題となっている。魚類としてもっと重要なものは温帯性のマダイ、マイワシ、サバ、カレイなどである。これらの分布を太平洋と比較すると、次のような特徴がある。",
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"title": "海の環境破壊"
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"title": "海の環境破壊"
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"text": "なお、現代の磯を見慣れている人には「磯焼け」が常態であるのでこの言葉に実感はないが、半世紀前の人々が普通に見た磯(水中)は、岩などが見えないほど海草が生い茂っていたのである。",
"title": "海の環境破壊"
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"text": "能登金剛や東尋坊などの荒々しい海の光景や、天橋立、鳥取砂丘、千里浜海岸、丹後の鳴き砂など海と砂の作る不思議な海岸の光景が有名である。ほかにも多くの風光明媚な観光地や天然記念物が散在し、北海道から対馬まで、観光資源としての価値も高い。",
"title": "観光"
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"text": "日本海に面した地域を指定した国立公園には利尻礼文サロベツ国立公園、山陰海岸国立公園、大山隠岐国立公園の3公園がある。",
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"text": "暑寒別天売焼尻国定公園、ニセコ積丹小樽海岸国定公園、津軽国定公園、男鹿国定公園、鳥海国定公園、佐渡弥彦米山国定公園、能登半島国定公園、越前加賀海岸国定公園、若狭湾国定公園、丹後天橋立大江山国定公園、北長門海岸国定公園、玄海国定公園、壱岐対馬国定公園など多くの地が国定公園の指定を受けているが、近時、道路港湾によりその風景は破壊されつつある。",
"title": "観光"
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"text": "また、上海から北米への航路は、日本海に入った後津軽海峡を通り抜けるように太平洋へと向かう。この航路を採用する期間は夏季のみ。その理由は台風を避けるため、黒潮など激しい潮の流れを避けるための2つである。",
"title": "航路"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "南西部にある竹島について日韓で領土問題が起きている。",
"title": "隣接する国"
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] | 日本海は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海である。 | {{Otheruses}}
{{半保護}}
{{Infobox East Asian name
| title = 日本海
| img = Sea-of-Japan-Map-Japanese-日本海の地図.png
| imgwidth = 300px
| caption = 日本海の位置
|
| chinese = {{lang|zh|日本海}}
| pinyin = Rìběnhǎi
|
| koreanname = 韓国での表記
| koreancontext =
| hangul = {{lang|ko|동해(일본해)}}
| hanja = {{lang|ko|東海(日本海)}}
| rr = Donghae(Ilbonhae)
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|
| koreanname2 = 北朝鮮での表記
| koreancontext2 =
| hangul2 = {{lang|ko|조선동해(일본해)}}
| hanja2 = {{lang|ko|朝鮮東海(日本海)}}
| rr2 = Joseondonghae
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|
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| cyrillic = Японское море
|
| japanesename =
| kanji = 日本海
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| romaji = Nihonkai
|
| othername =
| field1 = 英語
| content1 = Sea of Japan
}}
{{読み仮名|'''日本海'''|にほんかい}}は、西[[太平洋]]の[[縁海]]で、[[日本列島]]、[[朝鮮半島]]、[[沿海州]]などに囲まれた海である。
== 範囲 ==
ユーラシア大陸と樺太の間の[[間宮海峡]](タタール海峡)、樺太と北海道の間の[[宗谷海峡]]で[[オホーツク海]]と繋がっており、北海道と本州の間の[[津軽海峡]]では太平洋と、九州と[[対馬]]の間の[[対馬海峡]]東水道、対馬と韓国の間の[[対馬海峡]]で[[東シナ海]]と繋がっている。
[[File:日本海の範囲.png|thumb|日本海の範囲を示したもの]]
[[国際水路機関]] (IHO:International Hydrographic Organization) の「大洋と海の境界 (S-23)」による日本海の境界は、北東では[[外満州]]のSushcheva岬と樺太西岸のTuik岬とを結ぶ線、樺太南端の[[西能登呂岬]](またはクズネツォワ岬)と北海道北端の[[宗谷岬]](または[[野寒布岬]])とを結ぶ線、[[道南]]の[[恵山岬]]と[[青森県]]の[[尻屋崎]]とを結ぶ線、南東では[[山口県]][[下関市]]の[[村崎ノ鼻]]、[[六連島]]、[[北九州市]]の[[八幡岬 (北九州市)|八幡岬]]とを結ぶ線、および南西では[[長崎県]]の[[長崎半島|野母崎]]、[[福江島]]の[[大瀬埼灯台|大瀬埼]]、韓国[[済州島]]最南端のプナム崎、[[全羅南道]]の[[玉島 (珍島郡)|玉島]]、[[珍島]]を結ぶ線で囲まれる海域となっており<ref name="ihosp23">国際水路機関の「大洋と海の境界 (S-23)」におけるJapan Sea、{{en icon}}[https://iho.int/uploads/user/pubs/standards/s-23/S-23_Ed3_1953_EN.pdf#page=34 "Limits of Oceans and Seas" (Special Publication No. 23), 3rd Edition 1953], International Hydrographic Organization, p.32,「52. Japan Sea」の項</ref><ref group="注釈">[https://docs.iho.int/iho_pubs/standard/S-23/S23_Ed3_Sheet_1_Small.jpg Limits of Oceans and Seas] Sheet 1、世界地図上で、日本海には通し番号 52が当てられている。</ref><ref name="1kaiho">[http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN1/soudan/kaiyo.html 北海道周辺の海洋名称]([[第一管区海上保安本部]])</ref><ref>[https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN9/mame/mamechi.htm#nihonkai 「日本海の範囲」国際水路機関による定義]([[第九管区海上保安本部]])</ref>、南西部では対馬海峡・朝鮮海峡よりも西の[[五島列島]]や韓国南部まで含まれている。しかし、一般的には九州北西部、特に長崎県西方や五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことは少なく、[[環境省]]<ref>[https://www.env.go.jp/park/saikai/ 西海国立公園 環境省自然環境局]</ref>や[[気象庁]]<ref>[https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/shindan/sougou/html_vol2/2_2_4_vol2.html 海洋の健康診断表 総合診断表 2.2.4 対馬暖流および日本海固有水] (気象庁)</ref><ref>[http://www.jma-net.go.jp/nagasaki/gyomu/syoukai/kikoutokusei.html 長崎の気候特性 長崎海洋気象台]</ref>、長崎県<ref>[http://www.pref.nagasaki.jp/sizen/4yomimono/mizube/mizube2.html 「水辺へ、ようこそ」 Ⅱ.長崎県の浅海域環境] 長崎県自然環境課</ref>などの資料では、これらの海域を日本海に含まず、東シナ海の一部とするなどしている。
== 名称 ==
中国における古称は、{{読み仮名|'''鯨海'''|けいかい}}であった<ref>2006. [http://www.360doc.com/content/16/1124/07/18841360_609063920.shtml “鲸海”这个名字如何改成了“日本海”]. Retrieved on March 07, 2017</ref>。
古代の日本では'''北海'''と呼んでいた。『[[日本書紀]]』の[[垂仁天皇]]2年是年条に、朝鮮半島から来た[[都怒我阿羅斯等]]が穴戸([[長門国|長門]])を出て海路を迷ったあげく、「北海をまわって[[出雲国]]を経て」[[越国|越]]の笥飯浦(現在の[[敦賀市|敦賀]])に至ったという話がある<ref>『日本書紀』巻第6、垂仁天皇2年是歳条。尾島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守『日本書紀』1(新編日本古典文学全集2)、小学館、1994年、300-302頁。</ref>。
「日本海」が初めて見えるのは、イタリア出身の宣教師[[マテオ・リッチ]]が北京で作った「[[坤輿万国全図]]」で、[[1602年]]に刊行された<ref name=ueda>上田正昭『日本古代史をいかに学ぶか』205頁。</ref>。日本では1802年([[享和]]2年)に蘭学者[[山村才助]]が『訂正増訳采覧異言』で初めて用いた<ref name=ueda></ref>。そしてロシア海軍の[[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン|クルーゼンシュテルン]]提督(1770-1846)の著書『世界周航記』が続く<ref name=ueda></ref>。[[英語]]では''Sea of Japan''または''Japan Sea''。[[ラテン語]]では''Mare Iaponicum''(マレ・ヤポーニクム)。[[フランス語]]では''mer du Japon''、[[ドイツ語]]では''Japanisches Meer''、[[ロシア語]]では ''{{lang|ru|Японское море}}'' であり<ref name="gsen-iponskoemore">{{GSEn|128477|Японское море|日本海}}</ref>、いずれも『日本海』を意味する。
現在、[[国際連合|国連]]および国際的な[[海図]]の大半は「日本海」(もしくはその訳語)という表記を使用しており、国際的にこれが一般的である。[[海図]]上の名称の基準になっている[[国際水路機関]] (IHO) の「大洋と海の境界 (S-23)」(1953年)においても、Japan Sea の名称を用いている<ref name="ihosp23">国際水路機関の「大洋と海の境界 (S-23)」におけるJapan Sea、{{en icon}}[https://iho.int/uploads/user/pubs/standards/s-23/S-23_Ed3_1953_EN.pdf#page=34 "Limits of Oceans and Seas" (Special Publication No. 23), 3rd Edition 1953], International Hydrographic Organization, p.32,「52. Japan Sea」の項</ref>。
[[太平洋]] (<span lang="ru">Тихий океан</span>) の一部という認識も強く、[[ウラジオストク]]にある艦隊の名称や[[ナホトカ]]にある[[シベリア鉄道]]ナホトカ支線の[[ナホトカ航路]]との接続駅は「太平洋」を名乗っており、「太平洋通り」という名称の通りもある。
[[朝鮮語]]において、韓国では東海(<span lang="ko">''동해''</span>、トンヘ)、北朝鮮では朝鮮東海(<span lang="ko">''조선동해''</span>、チョソントンヘ)との呼称が一般的である。この他、昔は朝鮮海(<span lang="ko">''조선해''</span>、チョソンヘ)などとも呼ばれている。韓国は、「日本海」の国際使用は[[日本統治時代の朝鮮|植民地統治]]の残滓([[日帝残滓]])であるとして「東海」、「韓国海」、「朝鮮海」等への置き換えもしくは併記を主張している。この問題の詳細は[[日本海呼称問題]]を参照。
== 自然 ==
[[画像:Uozu mirage winter 1.jpg|right|260px|thumb|[[富山県]][[魚津市]]から臨む富山湾]]
平均水深は1,752[[メートル|m]]、最も深い地点で3,742mで、表面積は978,000 [[平方キロメートル|km{{sup|2}}]]である。中央の[[大和堆]](水深約400m)を挟んで主に3つの深い[[海盆]]があり北に日本海盆(水深およそ3,000m)、南東にやや浅い大和海盆、南西に[[対馬海盆]](ともに水深およそ2500m)と呼ばれている。また、[[富山湾]]沖から水深1,000mにも達する[[富山深海長谷]]が約750kmにわたって延びている([[富山平野]]や[[砺波平野]]はその延長である)。[[大陸棚]]が東部沿岸に広がっているが、西部、特に[[朝鮮半島]]沿いは非常に狭く、幅は30km程度である。
海峡の水深が浅いため外海との海水の交換は少なく、唯一対馬海峡から[[対馬海流]]が流入するのみである。暖流の流入は日本の温暖な気候に影響を与えている。北部には寒流の[[リマン海流]]が流れているが、地質調査からかつて[[親潮]]が流れていたことが明らかとなった。
深層には太平洋とは全く性質を異にする[[日本海固有水]]と呼ばれる、寒冷で[[溶存酸素量|溶存酸素]]に富んだ海水が分布する。
北方と南西海域は豊富な水産資源が得られ、[[鉱物資源]]や[[天然ガス]]、わずかながら[[石油]]そして[[メタンハイドレート]]の存在など経済的にも重要な海域とされる。
日本列島は4000万年前まで[[大陸]]の一部であったが、4000万年前頃から2000万年前にかけて大陸から分離し日本海の原型が形成され、その後拡大が進み数百万年前にはほぼ現在の配置になった。対馬海峡はまだ[[ユーラシア大陸]]と陸続きで、対馬海峡が形成されたのは[[第四紀]]になってからといわれている。その後[[氷期|氷期間氷期]]の世界的な[[海水準変動|海水準の変化]]によって、水深130m程度の浅い海峡は閉じたり開いたりを繰り返していた。そのため、堆積物の岩相や[[同位体]]の構成比、元素濃度は劇的に変化をしている<ref>{{PDFlink|[http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_49/49-05_03.pdf 日本海東部の海底堆積物中の元素濃度の鉛直変化と堆積環境]}}産業技術総合研究所 地質調査総合センター</ref>。
樺太から日本列島沿岸に沿って海嶺や[[マグニチュード]]7クラスの地震の多発域が帯状に連なっており、これを[[日本海東縁変動帯]]と呼ぶ。日本海東縁変動帯では、[[ネフチェゴルスク地震]]、[[北海道南西沖地震]]、[[日本海中部地震]]、[[庄内沖地震]]、[[新潟地震]]、[[新潟県中越地震]]、[[新潟県中越沖地震]]などが発生している<ref>{{PDFlink|[http://www.jpgu.org/publication/cd-rom/2003cd-rom/pdf/j027/j027-004.pdf タービダイトから推定される日本海東縁佐渡海嶺の地震発生ポテンシャル]}}日本地球惑星科学連合</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.gsj.jp/Pub/Bull/vol_49/49-01_01.pdf 日本海東縁海域の活構造およびその地震との関係]}}(独)産業技術総合研究所 地質調査総合センター</ref>。
=== 生態系と漁業 ===
太平洋より種族数が少なく[[固有種]]も乏しいことから、日本海の形成時代はあまり古くないといわれている。カニなどの沿岸性底動物は一般に豊富で、[[能登半島]]を境にしてその動物相にやや変化がみられる。太平洋岸に比べ、[[対馬暖流]]の影響で南方系種族の北限がはるか北方に延びている。例を挙げると、[[サザエ]]は日本海側では[[青森県|青森]]でも漁獲されるのに対し太平洋側では[[関東地方|関東]]以北には現れない。
[[プランクトン]]は沿海沖の冷水域および陸棚上に多く、中央部に乏しい。種類は対馬暖流系の暖水種と、リマン寒流系の冷水種に分けられるが、両者の分布は水塊分布ほど明確に区分されず、混在海域が広い。北方系の魚類としては、[[ニシン]]、[[サケ]]、[[マス]]、[[タラ]]などがあり、南方系の魚類としてはやや温帯性に属する[[ブリ]]が多いが、乱獲が問題となっている。魚類としてもっと重要なものは温帯性の[[マダイ]]、[[マイワシ]]、[[サバ]]、[[カレイ]]などである。これらの分布を太平洋と比較すると、次のような特徴がある。
*南方系魚類の回遊範囲は太平洋岸より北上し、北方系魚類の境界ははるかに南下している。
*カツオ、マグロが少ないので、日本海中央の[[サバ]][[延縄]][[漁業]]以外に[[遠洋漁業]]が発達しない。
*表層水は夏に高温になるが、わずか下層では寒冷となるため、表層で[[イワシ]]、サバ、[[鯛|タイ]]など温暖水魚がとれ、[[深海]]や海底では[[タチウオ]]、[[タラ]]などの冷水魚が獲れる。
また古来から[[クジラ]]の回遊経路として知られ、かつて沿岸には多数の捕鯨漁村が存在した。これらのほとんどは捕鯨により激減したため今では稀にしか見られないが、[[ヒゲクジラ]]では珍しく大規模な回遊を行わない[[ミンククジラ]]や[[ナガスクジラ]]の個体群も存在する。
== 海の環境破壊 ==
=== 海洋汚染 ===
漂着物として、主に韓国、中国など日本海を航行する[[貨物船]]や[[漁船]]、また朝鮮半島や日本本土から[[不法投棄]]されるゴミが[[海流]]に乗って、[[対馬]]や日本海沿岸に漂着する。その量は膨大で沿岸[[地方政府|地方自治体]]の財政を圧迫するほどである。
さらに、ロシアなどが遺棄していた[[放射性物質]]は深海を汚染しているおそれが大きく、[[カニ]]や[[深海魚]]の汚染に不安感がもたれている。特に経済が悪化していた当時のロシアでは[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]の古い[[原子力潜水艦]]の[[原子炉]]を日本海[[公海]]上の海溝に投棄していたことが問題とされている<ref>[http://www.nsc.go.jp/hakusyo/hakusho05/1-6-3.htm 平成5年版原子力安全白書第1編第6章第3節 旧ソ連、中・東欧の原子力発電所をめぐる安全協力]</ref>。
韓国政府は68年から4年間、約45トンの放射性廃棄物を日本海の[[鬱陵島]](ウルルンド)から南に12海里離れた水深約2200メートル地点に投棄した<ref>[http://japanese.joins.com/article/606/137606.html?sectcode=430&servcode=400 40年前、東海に放射性廃棄物を投棄] 中央日報2011年02月21日付</ref>。
また、冬季の天候の悪化時に起きる海難事故では、[[ナホトカ号重油流出事故]]のように大量の[[重油]]で沿岸部が汚染される事件が多発している。中国、ロシア、韓国船の中には船内を海水で洗浄した廃油を海に投棄する船が後をたたない。主に冬から春にかけて、航行中の船から材木などが大量に流出し航行に危険をもたらす事件も起こっている。
=== 磯焼け ===
{{See also|磯焼け}}
沿岸部の岩礁地帯の植物が死滅して、焼いた[[サザエ]]の殻のように、水面下の岩に付いた貝等の屍骸で磯全体が広範囲にわたって白く焼けたように見えることから、この呼び名がある。日本海沿岸部全体で観察される現象で、沿岸部での魚の激減、えさの減少から沿岸部で産卵されて育つ人間に有用な魚の稚魚の成長が難しくなることなど、[[漁業]]全体への深刻な影響が懸念される。川の水が流入する直近の場所では少ないことから、海水の変化が原因と考えられている。
海水の変化の理由として、有力な説は船底塗料等の中に含まれる[[環境ホルモン]]による[[海洋汚染]]、流入する河川の治水による[[有機物]]の減少、最新の説には、温暖化による海水の有機物の減少(貧栄養化現象、栄養減化現象)を挙げる説等があるが、原因は不明である。
なお、現代の磯を見慣れている人には「磯焼け」が常態であるのでこの言葉に実感はないが、半世紀前の人々が普通に見た磯(水中)は、岩などが見えないほど[[海草]]が生い茂っていたのである。
== 観光 ==
[[File:Senkakuwan 20170416-2.jpg|thumb|260px|荒波に浸食された岩が連なる[[尖閣湾]]([[佐渡島]])]]
[[能登金剛]]や[[東尋坊]]などの荒々しい海の光景や、[[天橋立]]、[[鳥取砂丘]]、[[千里浜なぎさドライブウェイ|千里浜海岸]]、丹後の[[鳴き砂]]など海と砂の作る不思議な[[海岸]]の光景が有名である。ほかにも多くの風光明媚な観光地や[[天然記念物]]が散在し、[[北海道]]から[[対馬]]まで、観光資源としての価値も高い。
=== 国立公園 ===
日本海に面した地域を指定した国立公園には[[利尻礼文サロベツ国立公園]]、[[山陰海岸国立公園]]、[[大山隠岐国立公園]]の3公園がある。
=== 国定公園 ===
[[暑寒別天売焼尻国定公園]]、[[ニセコ積丹小樽海岸国定公園]]、[[津軽国定公園]]、[[男鹿国定公園]]、[[鳥海国定公園]]、[[佐渡弥彦米山国定公園]]、[[能登半島国定公園]]、[[越前加賀海岸国定公園]]、[[若狭湾国定公園]]、[[丹後天橋立大江山国定公園]]、[[北長門海岸国定公園]]、[[玄海国定公園]]、[[壱岐対馬国定公園]]など多くの地が[[国定公園]]の指定を受けているが、近時、道路港湾によりその風景は破壊されつつある。
== 航路 ==
多数の[[フェリー]]航路が設定されている。
*[[新日本海フェリー]] ([[舞鶴港|舞鶴]] - [[小樽港|小樽]]、[[敦賀港|敦賀]] - [[新潟港|新潟]] - [[秋田港|秋田]] - [[苫小牧東港周文フェリーターミナル|苫小牧]]、敦賀 - 苫小牧、新潟 - 小樽)
*[[DBSクルーズフェリー]](境港 - 東海 - ウラジオストク)
*[[関釜フェリー]]([[下関港|下関]] - 韓国・[[釜山広域市|釜山]])
*[[JR九州高速船]]([[博多港|博多]] - 韓国・釜山)
*[[カメリアライン]](博多 - 韓国・釜山)
*[[ワニノ・ホルムスク鉄道連絡船]]([[ワニノ]] - [[ホルムスク]])
また、[[上海市|上海]]から[[北アメリカ|北米]]への航路は、日本海に入った後津軽海峡を通り抜けるように太平洋へと向かう。この航路を採用する期間は夏季のみ。その理由は台風を避けるため、黒潮など激しい潮の流れを避けるための2つである。
== 隣接する国 ==
<div style="float:right;width:600px;height:300px;overflow:hidden;position:relative;margin-left:15px">
{|cellpadding=0 cellspacing=0 style="position:absolute;top:-300px;left:-650px"
|-
|[[画像:Topographic90deg N0E0.png|750px]]
|[[画像:Topographic90deg N0E90.png|750px]]
|}
<div style="position:absolute;top:50%;left:80%">[[日本列島]]</div>
<div style="position:absolute;top:80%;left:55%">[[台湾島]]</div>
<div style="position:absolute;top:45%;left:65%">[[朝鮮半島]]</div>
<div style="position:absolute;top:50%;left:60%">[[黄海]]</div>
<div style="position:absolute;top:35%;left:74%">日本海</div>
<div style="position:absolute;top:75%;left:84%">[[太平洋]]</div>
<div style="position:absolute;top:55%;left:15%">[[チベット高原]]</div>
<div style="position:absolute;top:65%;left:10%">[[ヒマラヤ山脈]]</div>
<div style="position:absolute;top:45%;left:50%">[[黄河]]</div>
<div style="position:absolute;top:65%;left:50%">[[長江]]</div>
<div style="position:absolute;top:10%;left:25%">[[モンゴル高原]]</div>
<div style="position:absolute;top:55%;left:50%">[[中原]]</div>
<div style="position:absolute;top:70%;left:65%">[[南西諸島]]</div>
<div style="position:absolute;top:93%;left:40%">[[海南島]]</div>
<div style="position:absolute;top:60%;left:62%">[[東シナ海]]</div>
<div style="position:absolute;top:93%;left:48%">[[南シナ海]]</div>
</div>
*{{JPN}}
*{{KOR}}
*{{PRK}}
*{{RUS}}
=== 隣接する日本の地方区分 ===
*{{flagcountry|北海道}}
*[[東北地方]]
**{{flagcountry|青森県}}
**{{flagcountry|秋田県}}
**{{flagcountry|山形県}}
*[[北陸地方]]
**{{flagcountry|新潟県}}
**{{flagcountry|富山県}}
**{{flagcountry|石川県}}
**{{flagcountry|福井県}}
*[[近畿地方]]
**{{flagcountry|京都府}}([[丹後国|丹後]])
**{{flagcountry|兵庫県}}([[但馬国|但馬]])
*[[中国地方]]
**{{flagcountry|鳥取県}}
**{{flagcountry|島根県}}
**{{flagcountry|山口県}}
*[[九州|九州地方]]
**{{flagcountry|福岡県}}([[福岡地方]]・[[北九州地区|北九州地方]])
**{{flagcountry|佐賀県}}([[唐津市]]周辺)
**{{flagcountry|長崎県}}([[壱岐島|壱岐]]・[[対馬]])
=== 隣接する大韓民国の地方区分 ===
*[[江原特別自治道]]
*[[慶尚北道]]
*[[蔚山広域市]]
=== 隣接する朝鮮民主主義人民共和国の地方区分 ===
*[[羅先特別市]]
*[[咸鏡北道]]
*[[咸鏡南道]]
*[[江原道 (朝鮮民主主義人民共和国)|江原道]]
=== 隣接するロシア連邦の地方区分 ===
*[[極東連邦管区]]
**[[沿海地方]]
**[[ハバロフスク地方]]
**[[サハリン州]]
=== 領土問題 ===
南西部にある竹島について日韓で[[領土問題]]が起きている。
== 日本海を冠した企業など ==
*日本海信販株式会社(現:株式会社エヌケーシー)
*株式会社[[新日本海新聞社]]([[鳥取県]]の[[新聞社]]。[[日本海新聞]]と[[大阪日日新聞]]を発行する株式会社)
*株式会社[[日本海ケーブルネットワーク]](鳥取県の[[ケーブルテレビ]]放送事業者)
*[[日本海テレビジョン放送]]株式会社(略称NKT。鳥取市に本社を置き、鳥取県と[[島根県]]を放送対象地域とする[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列の[[テレビ局]])
*[[日本海味噌醤油]]株式会社([[富山県]]に本社を置く[[味噌]]・[[醤油]]の醸造業。[[キダ・タロー]]作曲の[[コマーシャルソング|CMソング]]で有名)
*[[日本海ガス]](富山県を中心とした[[都市ガス]]・[[液化石油ガス|LPガス]]業者)
*[[新日本海フェリー]](大阪市に本社を置く、[[舞鶴港|舞鶴]]・[[敦賀港|敦賀]]・[[新潟港|新潟]]・[[秋田港|秋田]]と[[小樽港|小樽]]・[[苫小牧東港|苫小牧東]]を結ぶフェリー会社)
*日本海オセアンリーグ:[[プロ野球]][[独立リーグ]]・[[ベイサイドリーグ]]の2022年度の名称
*[[日本海リーグ]]:プロ野球独立リーグ(日本海オセアンリーグとは別リーグ)
*[[海洋エネルギー資源開発促進日本海連合]]:日本海の海底資源を共同調査するための自治体の広域連合。日本海側12府県で構成される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Sea of Japan|日本海}}
*[[日本海呼称問題]]
*[[日本海海戦]]
*[[日本海学]]
*[[環日本海]]
*[[環日本海経済圏]]
*[[日本列島]]
*[[佐渡島]]
*[[隠岐諸島]]
== 外部リンク ==
*[https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/shindan/sougou/index.html 海洋の健康診断表 総合診断表] (気象庁)
*[https://doi.org/10.5026/jgeography.119.1079 日本海の拡大と構造線 ―MTL,TTLそしてフォッサマグナ―] 地学雑誌 Vol.119 (2010) No.6 P1079-1124
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6,543 | SDメモリーカード | SDメモリーカード(エスディーメモリーカード、英: SD Memory Card)は、フラッシュメモリーに属するメモリーカードである。SDカードとも呼ばれる。デジタルカメラ、携帯電話などの携帯機器やテレビなどの家電機器まで幅広く利用されている。
本項では、マルチメディアカード (MMC) を除く、互換性を持つ高機能化・大容量化・小型化の規格についても併せて解説する。
SDメモリーカードは、1999年8月25日に松下電器産業(現・パナソニック)、サンディスク(現・ウエスタン・デジタル)、東芝(現・キオクシア)によって構成されたSD Groupによって開発・発表された。2000年1月7日には、関連団体である「SDカードアソシエーション (SD Card Association, SDA)(現・SDアソシエーション (SD Association, SDA)」がアメリカ合衆国カリフォルニア州に設立された。
SD規格のロゴは1990年代前半に東芝が開発した。ソニー・フィリップス陣営の対抗規格に競り勝つ形でDVDの原型となった光ディスク「Super Density Disc」のために制作されたもので、ロゴ内の「D」は光ディスクの意匠がある。
デジタル著作権管理を目的としてSDMI (Secure Digital Music Initiative)によって制定されたSDMI仕様に準拠したメモリーカードとして開発された経緯があるため、「SD」の呼称について、かつてはSecure Digitalの略称であると説明していた。しかしSDMIは強制力がある仕様ではなく対応機器が一部にとどまり普及しなかったため、SDMIは2001年に活動を休止。このことから、2006年9月にSDメモリーカードの規格書がVer. 2.00に改版された際にはSecure Digitalの略称であるという説明が削除され、これ以降の版でも何かの略称であるという記述は存在しない。
2000年代にはマルチメディアカード・スマートメディア・コンパクトフラッシュ・メモリースティック・xDピクチャーカードなどの競合するメモリーカード規格が多数存在したが、ライセンス料を安価にしたり、miniSDなどの新しい規格をタイムリーに投入したり、携帯電話に搭載されるといった後押しもあり、2005年8月時点での日本国内でのSDカードの販売シェアは64.9 %と圧倒的多数を占め、メモリーカード規格の主流になることができた。
発表当初からのSDカードは全て、SDMI仕様で規定された著作権保護規格CPRMに対応していたが、SD 6.1においてオプションとなり非対応カードも販売されるようになった。対応カードにおいてはCPRM機能に加えて、参照不可能な著作権情報管理用領域(プロテクト領域)が設けられており、メディアとして実際に使用できる容量とは若干の差分が存在する。
SPIモードがあり、低速で良いのであればSPIバスにて簡単に複数のデバイスを接続できる。製品に対応スロットが用意されている場合でも、SDメモリーカードの容量や製品との相性問題の関係で使用できない場合がある。
miniSDカード(ミニエスディーカード)は、SDメモリーカードの小型版で、端子が2ピン追加され11ピンとなっている。サンディスクが2003年(平成15年)3月に発表した。
SDメモリーカードとは電気的に互換性があり、端子の変換のみの簡易な構造のアダプタに装着することでSDメモリーカードとしても利用できる。実際に販売されているminiSDカード製品の多くは、アダプタを同梱している。
2006年(平成18年)には一時、SDメモリーカードの売り上げの半分以上がこのminiSDになった。当時日本では主に携帯電話端末向けに利用されていたが、その後はより小型化されたmicroSDカードへの移行が進んだ。2007年(平成19年)後半にはほとんどの端末にmicroSDカードが採用されるようになり、2008年(平成20年)頃にはminiSDカードの販売数は減少に転じた。microSDカードをminiSDカードに変換するアダプタの存在によりmicroSDカードで代替可能なことも、miniSDカードの市場規模縮小に拍車をかけた。
ソニーグループの製品では、以前はメモリースティックを外部メディアとして採用することが多かった。携帯電話メーカーSony EricssonもSO902iとSO902iWP+まではメモリースティック PRO Duoを採用していたが、2006年発売のSO903iではメモリースティック PRO DuoとminiSDの両規格に対応した外部メモリースロットを搭載した。同社は2007年発売の後継機SO903iTV以降、メモリースティック、miniSDのいずれも廃止し、microSDに移行している。
microSDカード(マイクロエスディーカード)は、SDアソシエーションによって2005年(平成17年)7月13日に承認されたフラッシュメモリ型電子媒体である。サンディスクが2004年(平成16年)2月に開発したトランスフラッシュ(TransFlash; TFカード)の仕様を引き継いだもので、名称は異なるが媒体そのものは同じである。
外形寸法は、11 mm × 15 mm × 1 mmと、SDメモリーカードの1/4程度、汎用品として使われているリムーバブルメディアの中で最も寸法が小さい。miniSDの場合と同様に、SDメモリーカードとは電気的に互換性があり、microSDカードを変換アダプタに装着することによって、SDメモリーカードまたはminiSDカードとして利用することができる。
日本国外では当初モトローラの携帯電話を中心に採用されていた。日本ではボーダフォン 日本法人(現・ソフトバンク)のVodafone 702MO、Vodafone 702sMO(いずれもモトローラ製)にTransFlash規格で採用され、日本のメーカーからも2006年(平成18年)1月に開発が発表されたVodafone 804Nを皮切りに、続々と対応端末が登場した。本体の小型化・薄型化にも貢献できるため、miniSDに替わって主流となった。
auの2006年(平成18年)秋冬CDMA 1X WINモデルではメモリースティック Duoに対応のW43SとW44SおよびminiSDに対応のW41SHを除く全てが、NTTdocomoでもSO903iを除く903iシリーズがmicroSD専用スロットを搭載した。こうした背景のもと、2007年6月にはSD陣営でのシェアトップに君臨する規格となった。
小型大容量化によって頻繁な着脱を想定せず、電池パックの内側にmicroSDカードスロットを設ける端末が多い。スマートフォンでは、SIMカードと同じトレイに乗せて挿入する機種も多く見られる。
携帯電話以外にデジタルオーディオプレーヤーなどにも容量増設用としてmicroSDスロットが設置されているものもある。
日本では2009年(平成21年)から映像ソフトウエアの媒体としても使用されるようになった。映画などがDVD-Video、Blu-ray DiscとmicroSDとのセットまたはmicroSD単体で販売されている。ワンセグ放送と互換性のあるフォーマットで収録されており、広く普及しているワンセグ対応携帯電話などで手軽に再生できる。
また、小型のUSBメモリのなかには、狭義のUSBフラッシュドライブの構造ではなくmicroSDカードと小型のmicroSDカードリーダーを組み合わせることで記憶装置を構成している製品も存在する。
SDメモリーカードは、マルチメディアカード (MMC) に近い形状を持っており、SDメモリーカード用スロットは物理的にMMCも挿入可能な互換性を持つ。そのため、SDメモリーカードを使用している機器では、マルチメディアカードも利用できることが多い。
当初の規格では端子は1列のみであったが、SD 4.00で規定されたUHS-IIから2列目の端子が追加された。従来の端子を第1ロウ、UHS-II以降で追加された端子を第2ロウと呼ぶ。
SDメモリーカードにはロック機能(書き込み禁止スイッチ)がついており、カード側面のツマミをロック位置に移動させると、データの削除 / 上書きを禁止することができるとされている。ロックのツマミが書き込み可能位置に存在することを検出し「書き込みが可能である」と判定している。ツマミの位置は接続される機器側で物理的に検出しており、カード内部の電気回路とは接続されていない。このため、USBアダプタなど機器側でロックを検出しないこともあり、その場合はスイッチの意味は全く無い。
2018年にはハギワラソリューションズにより、誤操作防止としてロックスイッチを廃したSDメモリーカードが発売されている。
各種用途に合わせたSD規格が制定されている。
など。
また、PRO CARDと呼ばれるパナソニックの独自規格カードがあり、同社製の業務用高機能電子レンジ(マイクロウェーブ解凍機・マイクロウェーブコンベクションオーブンなど)でメニューを記憶させる専用のカードである。これらの機器に市販のカードは使用できない。
SDSC (SD Standard Capacity) は2000年のSD 1.01で規定された当初の規格。最大容量は2 GiBである。これは、SDメモリーカードでの事実上の標準的なファイルフォーマットとしてFAT16が用いられ、その規格上の最大ボリュームサイズが最大で2 GiBまでに制限されているためである。過去には2 GiBを超える製品も存在したが、SDメモリーカード規格外なので使用できる製品がごく一部に限られている(現在では通常、2 GiBを超える製品は後述のSDHC、SDXC規格が使用されている)。
SDメモリーカードは、非常に簡素な構造と技術とを採用し、扱いやすい大きさ、形状、側面の誤消去防止用の物理プロテクトスイッチ、SD Music Initiative (Secure Digital Music Initiative, SDMI) 適合の著作権保護機能など、家庭電化製品(家電など)への幅広い用途を直接意識した機能が特徴である。これは、ソニーなどが推進するメモリースティック(1997年(平成9年)7月17日発表)と直接競合した。
SDHC (SD High Capacity) は2006年のSD 2.00で規定され、ファイルシステムをFAT32に対応させたことで最大32 GiBまでの大容量化が可能となった。
物理的な寸法は従来のSDメモリーカードと同一で、上位互換性を保持しているため、SDHC対応機器でSDメモリーカードを扱うことができる。追加された仕様により下位互換性は存在しないため、旧来のSDメモリーカードのみに対応した機器はSDHCメモリーカードを扱うことはできない。ただし、物理的な寸法と電気的な仕様は互換性があるため、SDHC規格よりも前に発売されているデジタルカメラ、メモリーカードリーダー、パソコンの一部はファームウェアやドライバのアップデートによってSDメモリーカードの上限の2 GiBを超える容量の認識、利用が可能になっている。同様に、SDメモリーカードにしか対応していないノートパソコンでもWindows XP SP3へアップデート、ホットフィックスの適用、またはそれ以降のOSへアップグレードすることで内蔵のSDカードスロットが2 GiB以上の容量を認識可能となる場合がある。
SDXC (SD eXtended Capacity) は2009年(平成21年)のSD 3.00で規定された。ファイルシステムにexFATを採用し最大容量は2 TiBとなった。
物理的な寸法は旧来のSDメモリーカード規格と同一で、上位互換性を保持しており、SDXC対応機器でSD / SDHCメモリーカードを扱うことができる。SDXCではSDXCとmicroSDXCの2種類の形状になる。miniSDXCの規格自体は仕様書に存在しているが、マーケティング上現実的でないという理由から省かれている。
旧来のSDHC対応機器でSDXCメモリーカードをFAT32でフォーマットし使用することも可能である。ただし、Windows標準のフォーマッタを使用した場合、実装上の問題から64 GiB以上のSDXCメモリーカードであっても利用できる上限容量は32 GiBとなる(サードパーティー製のフォーマッタを使用することで、1ファイルあたりの容量は4 GiBまでに制約されるものの回避可能である)。
FAT32とexFATの違いを理解しないでexFATファイルシステムのままのSDXCカードをSDXC規格非対応製品に挿入することは危険で、メーカー側も使用を推奨しておらず、あくまでも自己責任的な使用になる。実際、SDXC規格非対応の携帯電話やスマートフォンにmicroSDXCカードを挿入した結果、microSDXCカードが使用不能になる事態が相次いで報告されている。物理的な破損ではないため、SDXC規格対応製品でフォーマットし直せばカード自体は回復するが、それまでにカードに保存されていたデータは消滅する。
2012年6月にNTTドコモがそれに関する通知を発表し、その現象を回避するソフトウェアアップデートの配布を行なっている。なお、ソフトウェアアップデート後も、非対応機種では引き続き使用できない。
なお、2022年(令和4年)10月現在のところ、exFATを扱えるのはMicrosoft Windows XP SP2以降(更新プログラム (KB955704) 適用)、Microsoft Windows Vista SP1以降、Microsoft Windows 7、Microsoft Windows 8、Microsoft Windows 8.1、Microsoft Windows 10、Microsoft Windows 11の各種Windows OS、またはWindows CE 6.0、Mac OS X v10.6.4以降に限られ、パソコンやモバイル環境によっては利用できない。2009年(平成21年)1月現在、Linux系などのサポートに関しては、マイクロソフトからの発表はない。CES 2009 News release DS AssosiationにもSDXCメモリーカードに関する概説のみが発表されており、サポートOS、周辺機器などに関する記述はない。
なお、Linuxについては、FUSEを利用した実装が存在し、Ubuntuなどのディストリビューションの最新版で利用できる。
AppleのMac製品には2010年(平成22年)新発売から、従来はなかったSDカードスロットが内蔵されはじめ、SDXCにソフトに対応、iMac (Mid 2010) 以降のモデルにはハードも対応。また接続は内部USBではなく、PCI Express 1レーン接続になっている。
SDXCメモリーカードの規格上の最大容量は2 TiB (2048 GiB) で、転送速度はロードマップ上にて将来的に最大300 MB/sの高速な転送を可能にするとしている。また、SDHCとEmbedded SD、SDIOにも転送速度高速化の規格と技術が採用される予定である。
2009年の時点では製品化の目処が立っていたのは最大256 GiBまでであり、それ以上の容量は技術革新が必要な状態となっていたが、2020年時点ではSDXC・microSDXCとも最大1 TiBまでの大容量カードが発売されており、転送速度は製品にて最大160 MB/s実装可能となっている。
SDUC (SD Ultra Capacity) は、最大容量128 TiBに対応する規格として2018年のSD 7.00で規定された。ファイルシステムはSDXCメモリーカードに引き続きexFATを採用している。従来のSDメモリーカードとの後方互換性を有する。
通信速度に関する規格であり、いわゆる理論最大値である。
なお、一部の製品にみられる「XX倍速」という表記はSDアソシエーションの規格によるものではない。一般には、コンパクトディスクの転送速度である150 KB/sを「1倍速」として転送速度を表記している。
2000年のSD 1.01で規定された当初のモード。後述のHSの登場に伴って名称がつけられた。ノーマルスピードとも呼ばれる。最大転送速度は12.5 MB/sで、対応メモリーカードにモードを示す表記はない。
2004年のSD 1.10で規定されたモード。バススピードは25 MB/sで、モードを示す表記は規定されていないが製品によって「Hi-Speed」等の表記がなされた。
2010年のSD 3.01で規定されたモードで、UHSはUltra High Speedの略。SDR12、SDR25、SDR50、DDR50、SDR104の4つのスピード区分があり、最大転送速度はそれぞれ12.5 MB/s、25 MB/s、50 MB/s、50 MB/s、104 MB/sとなる。規格上はUHS50カードとUHS104カードが規定され、UHS50カードはSDR104をサポートしないため最大転送速度は50 MB/s、UHS104は全てをサポートし104 MB/s。UHS-Iに対応するカードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「I」と印字される。
2011年のSD 4.00で規定されたモード。常に双方向通信を行うFD(Full Duplex)モードとデータ送受信時は片方向通信を行うHD(Half Duplex)モードがあり、最大転送速度はそれぞれ156 MB/sと312 MB/s。対応カードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「II」と表記される。対応カードのピン数は増加しているが後方互換性は確保されており、従来の機器と組み合わせた場合は遅い側のモードに合わせて動作する。。
2017年のSD 6.00で規定されたモード。HDモードが削除されFDモードのみとなり、最大転送速度は624 MB/s。UHS-II同様、下位互換性を備えるためピンは2段に配置され、従来同様の転送も可能。対応カードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「III」と表記される。。
2018年のSD 7.00で規定されたモード。PCIe 3.0とNVMe 1.3を採用し、PCIe 3.0 x1レーンで最大転送速度985 MB/sを実現した。
2020年のSD 8.00でPCIe 4.0およびNVMe 1.4に対応し、新たにPCIe 3.0 x2レーンまたはPCIe 4.0 x1レーンによる最大転送速度1970 MB/s、PCIe 4.0 x2レーンによる3940 MB/sに対応した。
PCIe 3.0 x1レーンまたはPCIe 4.0 x1レーンによる転送はUHS-II / IIIと同形状のメモリーカードで対応するが、PCIe 3.0 x2レーンおよびPCIe 4.0 x2レーンによる転送はさらにピン数を増やした新形状のカードでのみ可能である。またピンアサインの関係でUHS-II / IIIとSD Expressは排他であり、SD Express対応カードをUHS-II / III対応機器に挿入するとUHS-Iとして動作するため大幅に転送速度が低下する。
2006年のSD 2.00において、SDHCカードの規格策定と同時にデータ転送速度の目安としてスピードクラスも策定された。統一された基準を元にこのスピードクラスのロゴを明示することで、消費者がその用途にあったスピードクラスのカードを選択可能にするとしている。SDカードではオプション扱いだが、SDHCカードではスピードクラスの規格に準拠することが義務付けられている。SD 2.00では2、4、6の3種だったがSD 3.00で10が追加された。各スピードクラスに準拠した製品は、Cの中に各クラスに対応した数字が書かれたロゴマークを表示することができる。
定められた単位の未使用領域(=汚れ率0 %のAU)に定められた記録方法で書き込みを行ったとき、カードごとの最低保証レートは以下のようになる。
※ Class 10は後で規格化されたため、HighSpeedモードをサポートしていないハードウェアでは最低速度が保証されない。
UHSスピードクラスは2010年のSD 3.01で規定されたもので、当初はU1のみだったが2011年のSD 4.00でU3が追加された。準拠する製品はUの中に対応する数字が書かれたロゴマークを表示することができる。
ビデオスピードクラスは2016年のSD 5.00で規定されたもので、V6, 10はHSおよびUHS-I / II / III対応カード、V30はUHS-I / II / III対応カード、V60, 90はUHS-II / III対応カードで実装可能である。
Androidスマートフォンなどで、アプリケーションをインストールしたりデータを格納する場合、ランダムアクセスやシーケンシャルの性能が求められるようになり、アプリケーションを快適に利用するための規格として策定された。
SD Ver.5.1で、ランダムリード1500IOPS、ランダムライト500IOPSのアプリケーションパフォーマンスクラス1(A1)が策定された。
SD Ver.6.0で、ランダムリード4000IOPS、ランダムライト2000IOPSのアプリケーションパフォーマンスクラス2(A2)が策定された。
SDにはメモリーカード規格の他、SDIOと呼ばれるI/Oインターフェースを想定した規格もある。標準での電流容量はStandard-Power SDIOとして200 mAまでだが、High-Power SDIOとして500 mAまで拡張できる。
SDメモリーカード仕様をベースにしたデジタル機器内蔵メモリ用規格、さまざまな機器で共通のI/Oインターフェースを利用しSDメモリーカードとの互換性を高めることを目的としている。
捜査機関へのデジタルスチルカメラの浸透は早かったものの、メモリーカードの内容『改竄』問題はずっとついて回った。そこで捜査機関や法執行機関等向けに上書き保存機能を無効化したSDメモリーカードが提供されるようになった。
日本の携帯型電話機分野では、2000年(平成12年)12月にDDIポケット(現・ワイモバイル)が発売した九州松下電器(現・パナソニック システムネットワークス)製のPHS端末「KX-HS100」で初めて採用された。携帯電話では2002年(平成14年)3月にJ-フォン(現・ソフトバンク)が発売したシャープ製端末「J-SH51」で採用、その後日本の他キャリア・メーカーに波及した。
2003年(平成15年)にminiSDカードが発売されるとフルサイズのSDカードにかわりこちらの採用が多くなり、NTTドコモが10月21日に発表した「505iS」シリーズでは当時首位のNEC、松下電器産業を含む4社がminiSDカードを採用。ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ(現・ソニーモバイルコミュニケーションズ)、三菱電機の2社が採用した小型版メモリースティック「メモリースティック Duo」に対して優勢となった。また、三菱電機も「901i」シリーズではminiSDを採用し、以後は機種毎のコンセプトに合ったメモリーカードを選択するようになっている。
microSDカードは、2004年(平成16年)にモトローラ製端末Vodafone 702MO、Vodafone 702sMOに採用(当時の名称はトランスフラッシュ)されてからは、日本国内での普及が中心のminiSDを置き換えるかたちで米国・日本での採用が進み、au(KDDI / 沖縄セルラー電話連合)では2006年秋モデルではほとんどの機種をmicroSDカードに対応させた。対抗規格である「メモリースティック マイクロ」の採用例は日本国内ではW52Sのみにとどまり、しかもW52S自体も変換アダプタによりmicroSDに対応したこともあり、microSDの優勢は確固たるものとなった。他社も追従する形で2007年(平成19年)以降、携帯電話の外部メモリースロットが対応するサイズはmicroSDカードとなった。
一貫してメモリースティックを採用し続けていたソニー・エリクソンも、SO903iではメモリースティックDuoとminiSDカードの両対応とした。それ以降、同社が日本市場向けに供給している端末はほぼ全てmicroSDを採用している。
SDメモリカードは規格として後発だったため、当初は他のメモリーカード規格に対してシェアや出荷数で大きな差をつけられていた。
2003年(平成15年)には最大のライバルであるメモリースティックとのシェアが逆転する。この年は、小型・薄型のコンパクトデジタルカメラに不向きな大柄のコンパクトフラッシュからの規格変更を最後まで決めかねていた、老舗カメラメーカーのニコンとキヤノンが相次いでSDカードの採用を決定し、コンパクトデジタルカメラ分野での大勢も決した。
デジタル一眼レフカメラでは、コンパクトフラッシュの大きさがそれほど問題にならないことと、主にプロの現場で使われるため容量・転送速度・信頼性の問題から、2013年現在でもコンパクトフラッシュが標準的なメディアである。ただし、デジタル一眼レフにもSDカードを使用する機種があり、ペンタックスでは*ist Dを除く全機種で、ニコンではD40 / D40x・D50・D80・D90・D300s(CFとのデュアルスロット)で採用、またキヤノンではMark II以降のEOS-1D及びEOS-1DsでSDカードとコンパクトフラッシュのデュアルスロットを採用している。
2007年(平成19年)春にはこれまでxDピクチャーカード陣営の中心だった富士フイルムがSDカードとxDピクチャーカードのどちらか一方を使えるデュアルスロット搭載という形でSDカードが使えるコンパクトデジタルカメラを発売。2009年(平成21年)にはデュアルスロットを撤廃してSD / SDHCカードのみの対応とした機種も発売された。2007年(平成19年)冬にはxDピクチャーカード陣営のもう一つの中心だったオリンパスも一部機種でアダプタによりmicroSDに対応する機種を発売、2010年(平成22年)1月発売のFE-47・μTOUGH-3000以降の機種でSD / SDHCカード対応になった。またソニーも2010年(平成22年)以降SDカードとメモリースティックのデュアルスロットに対応したデジタルカメラを発売し事実上、主要メーカー全てがSDカードを採用することになった。
コンパクトデジタルカメラでは、microSDをアダプタなしで使用できる機種も存在する。
2003年(平成15年)頃からSDカードが優勢になってきていたものの、しばらくはデファクトスタンダードと言えるほどの差をつけられていなかった。しかし2005年(平成17年)から携帯電話でのminiSD規格の採用が増加してきたこともあり、シェアを徐々に拡大。2006年(平成18年)にはメモリーカードシェアの約7割を獲得したデータがある。またmicroSDは2007年1月に日本国内の販売シェアでminiSDを抜いた。
2008年(平成20年)では、BCNランキングによるとメモリーカードシェアの7割以上をSD系列が占めている(microSD 40.6 %、SDカード33.1 %)。
家電量販店などのメモリーカードコーナーでもSD系列メディアは最も品揃えが豊富であり、身近な小売店としてコンビニエンスストアなどでも購入が可能な場合もある。2009年(平成21年)時点ではUSBメモリと並び、最も有力なフラッシュメモリメディアとして普及している。
ほかにゲーム機では、任天堂は松下電器産業(現・パナソニック)との提携でニンテンドーゲームキューブ対応のSDカードアダプタを発売したほか、ゲームボーイアドバンスSPの周辺機器「プレイやん」やWii、ニンテンドーDSi、ニンテンドー3DS、Nintendo Switch(MicroSDXCカード 2 TiBまで)にもSDメモリーカード規格を採用している。
このような市場動向から、消費者がデジタルカメラ、ビデオカメラなどを購入する際にSDカードを使えることが商品選択の際の一つのポイントとされることがある。そのため、先述した自社規格であるメモリースティックを抱えるソニーも、自社製パソコンおよびPlayStation 3(初期の一部のモデルのみ)にSDカードスロットを、携帯電話ではmicroSDやminiSDを採用するなどして消費者のニーズに応えている。同社はSDメモリーカード対応のデジタルカメラ(一部のデジタル一眼レフカメラを除く)や、SDメモリーカード単体の発売はしていなかったが、2010年(平成22年)1月からSD / SDHCカード及び、携帯電話向けのmicroSD / microSDHCカードの発売を開始し、2011年(平成23年)からはソニー製でもSDメモリーカードのみに対応しメモリースティックには対応しない製品が登場している。また、規格化されたばかりのSDUC規格に対応した機器については2019年7月7日現在、日本では存在していない。
SDカードは違法コピーが蔓延するCDに変わり著作権保護機能を前面にアピールしたセキュアなメディアとして登場した。しかし、SDMIはもとより途中から追加されたCPRMも対応製品が発表される前に違法コピーされていた。SDXC及びSDUCでは、CPRMを強化(ただし互換性はない)したCPXMに対応した。
SDカードには複数の特許が絡む。PCでは特許料不要でUSB端子を用いるUSBメモリが一般化しており、ライセンス契約などによる製造コストの増加を懸念し、SDカードスロットの搭載を見送るメーカーも存在する。ただ、デジタルカメラの写真などを取り込むといった需要があることから、ホームユーザー向けPCへの搭載は増えている。
加えて、LinuxなどのオープンソースOSでは、同様に特許の関係で、ドライバなどのソフトウェア的な実装自体は行われているものの、標準では使用できないようになっている。このため、Linuxなどを販売する商用ディストリビュータが、個別で特許契約した上で、各自の判断で有効化する必要がある。これもほとんどのLinuxディストリビューションで有効化されている。
ただし、FreeBSDは、特許問題のない下位互換規格である「マルチメディアカードの例外的な実装」と位置付けし「SDメモリーカードではない」と主張、実装が行われている。
SDHCカードはSDスピードクラスの制定によって現在の最高速度の規定が「Class 10のカード:10 MB/s (80 Mbps) 以上の速度」であり、またSDXC規格にて最大300 MB/sを目指している。しかし、コンパクトフラッシュでは2006年(平成18年)5月のCF Spec. Rev 4.0で、ATA/ATAPI-7のUDMA 6の最大888倍速133 MB/sの転送速度を公称しており、転送速度の面でSD規格のカードはこれに及ばない。この転送速度差は書き込み速度に直結するため、高速な転送速度を要求される高級デジタルカメラにコンパクトフラッシュが採用され続けている理由になっている。
以下は、SDカードを含むすべてのメモリーカード規格でも生じうる欠点である。 | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "SDメモリーカード(エスディーメモリーカード、英: SD Memory Card)は、フラッシュメモリーに属するメモリーカードである。SDカードとも呼ばれる。デジタルカメラ、携帯電話などの携帯機器やテレビなどの家電機器まで幅広く利用されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "本項では、マルチメディアカード (MMC) を除く、互換性を持つ高機能化・大容量化・小型化の規格についても併せて解説する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "SDメモリーカードは、1999年8月25日に松下電器産業(現・パナソニック)、サンディスク(現・ウエスタン・デジタル)、東芝(現・キオクシア)によって構成されたSD Groupによって開発・発表された。2000年1月7日には、関連団体である「SDカードアソシエーション (SD Card Association, SDA)(現・SDアソシエーション (SD Association, SDA)」がアメリカ合衆国カリフォルニア州に設立された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "SD規格のロゴは1990年代前半に東芝が開発した。ソニー・フィリップス陣営の対抗規格に競り勝つ形でDVDの原型となった光ディスク「Super Density Disc」のために制作されたもので、ロゴ内の「D」は光ディスクの意匠がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "デジタル著作権管理を目的としてSDMI (Secure Digital Music Initiative)によって制定されたSDMI仕様に準拠したメモリーカードとして開発された経緯があるため、「SD」の呼称について、かつてはSecure Digitalの略称であると説明していた。しかしSDMIは強制力がある仕様ではなく対応機器が一部にとどまり普及しなかったため、SDMIは2001年に活動を休止。このことから、2006年9月にSDメモリーカードの規格書がVer. 2.00に改版された際にはSecure Digitalの略称であるという説明が削除され、これ以降の版でも何かの略称であるという記述は存在しない。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "2000年代にはマルチメディアカード・スマートメディア・コンパクトフラッシュ・メモリースティック・xDピクチャーカードなどの競合するメモリーカード規格が多数存在したが、ライセンス料を安価にしたり、miniSDなどの新しい規格をタイムリーに投入したり、携帯電話に搭載されるといった後押しもあり、2005年8月時点での日本国内でのSDカードの販売シェアは64.9 %と圧倒的多数を占め、メモリーカード規格の主流になることができた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "発表当初からのSDカードは全て、SDMI仕様で規定された著作権保護規格CPRMに対応していたが、SD 6.1においてオプションとなり非対応カードも販売されるようになった。対応カードにおいてはCPRM機能に加えて、参照不可能な著作権情報管理用領域(プロテクト領域)が設けられており、メディアとして実際に使用できる容量とは若干の差分が存在する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "SPIモードがあり、低速で良いのであればSPIバスにて簡単に複数のデバイスを接続できる。製品に対応スロットが用意されている場合でも、SDメモリーカードの容量や製品との相性問題の関係で使用できない場合がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "miniSDカード(ミニエスディーカード)は、SDメモリーカードの小型版で、端子が2ピン追加され11ピンとなっている。サンディスクが2003年(平成15年)3月に発表した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "SDメモリーカードとは電気的に互換性があり、端子の変換のみの簡易な構造のアダプタに装着することでSDメモリーカードとしても利用できる。実際に販売されているminiSDカード製品の多くは、アダプタを同梱している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)には一時、SDメモリーカードの売り上げの半分以上がこのminiSDになった。当時日本では主に携帯電話端末向けに利用されていたが、その後はより小型化されたmicroSDカードへの移行が進んだ。2007年(平成19年)後半にはほとんどの端末にmicroSDカードが採用されるようになり、2008年(平成20年)頃にはminiSDカードの販売数は減少に転じた。microSDカードをminiSDカードに変換するアダプタの存在によりmicroSDカードで代替可能なことも、miniSDカードの市場規模縮小に拍車をかけた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ソニーグループの製品では、以前はメモリースティックを外部メディアとして採用することが多かった。携帯電話メーカーSony EricssonもSO902iとSO902iWP+まではメモリースティック PRO Duoを採用していたが、2006年発売のSO903iではメモリースティック PRO DuoとminiSDの両規格に対応した外部メモリースロットを搭載した。同社は2007年発売の後継機SO903iTV以降、メモリースティック、miniSDのいずれも廃止し、microSDに移行している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "microSDカード(マイクロエスディーカード)は、SDアソシエーションによって2005年(平成17年)7月13日に承認されたフラッシュメモリ型電子媒体である。サンディスクが2004年(平成16年)2月に開発したトランスフラッシュ(TransFlash; TFカード)の仕様を引き継いだもので、名称は異なるが媒体そのものは同じである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "外形寸法は、11 mm × 15 mm × 1 mmと、SDメモリーカードの1/4程度、汎用品として使われているリムーバブルメディアの中で最も寸法が小さい。miniSDの場合と同様に、SDメモリーカードとは電気的に互換性があり、microSDカードを変換アダプタに装着することによって、SDメモリーカードまたはminiSDカードとして利用することができる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本国外では当初モトローラの携帯電話を中心に採用されていた。日本ではボーダフォン 日本法人(現・ソフトバンク)のVodafone 702MO、Vodafone 702sMO(いずれもモトローラ製)にTransFlash規格で採用され、日本のメーカーからも2006年(平成18年)1月に開発が発表されたVodafone 804Nを皮切りに、続々と対応端末が登場した。本体の小型化・薄型化にも貢献できるため、miniSDに替わって主流となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "auの2006年(平成18年)秋冬CDMA 1X WINモデルではメモリースティック Duoに対応のW43SとW44SおよびminiSDに対応のW41SHを除く全てが、NTTdocomoでもSO903iを除く903iシリーズがmicroSD専用スロットを搭載した。こうした背景のもと、2007年6月にはSD陣営でのシェアトップに君臨する規格となった。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "小型大容量化によって頻繁な着脱を想定せず、電池パックの内側にmicroSDカードスロットを設ける端末が多い。スマートフォンでは、SIMカードと同じトレイに乗せて挿入する機種も多く見られる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "携帯電話以外にデジタルオーディオプレーヤーなどにも容量増設用としてmicroSDスロットが設置されているものもある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日本では2009年(平成21年)から映像ソフトウエアの媒体としても使用されるようになった。映画などがDVD-Video、Blu-ray DiscとmicroSDとのセットまたはmicroSD単体で販売されている。ワンセグ放送と互換性のあるフォーマットで収録されており、広く普及しているワンセグ対応携帯電話などで手軽に再生できる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、小型のUSBメモリのなかには、狭義のUSBフラッシュドライブの構造ではなくmicroSDカードと小型のmicroSDカードリーダーを組み合わせることで記憶装置を構成している製品も存在する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "SDメモリーカードは、マルチメディアカード (MMC) に近い形状を持っており、SDメモリーカード用スロットは物理的にMMCも挿入可能な互換性を持つ。そのため、SDメモリーカードを使用している機器では、マルチメディアカードも利用できることが多い。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "当初の規格では端子は1列のみであったが、SD 4.00で規定されたUHS-IIから2列目の端子が追加された。従来の端子を第1ロウ、UHS-II以降で追加された端子を第2ロウと呼ぶ。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "SDメモリーカードにはロック機能(書き込み禁止スイッチ)がついており、カード側面のツマミをロック位置に移動させると、データの削除 / 上書きを禁止することができるとされている。ロックのツマミが書き込み可能位置に存在することを検出し「書き込みが可能である」と判定している。ツマミの位置は接続される機器側で物理的に検出しており、カード内部の電気回路とは接続されていない。このため、USBアダプタなど機器側でロックを検出しないこともあり、その場合はスイッチの意味は全く無い。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2018年にはハギワラソリューションズにより、誤操作防止としてロックスイッチを廃したSDメモリーカードが発売されている。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "各種用途に合わせたSD規格が制定されている。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "など。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、PRO CARDと呼ばれるパナソニックの独自規格カードがあり、同社製の業務用高機能電子レンジ(マイクロウェーブ解凍機・マイクロウェーブコンベクションオーブンなど)でメニューを記憶させる専用のカードである。これらの機器に市販のカードは使用できない。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "SDSC (SD Standard Capacity) は2000年のSD 1.01で規定された当初の規格。最大容量は2 GiBである。これは、SDメモリーカードでの事実上の標準的なファイルフォーマットとしてFAT16が用いられ、その規格上の最大ボリュームサイズが最大で2 GiBまでに制限されているためである。過去には2 GiBを超える製品も存在したが、SDメモリーカード規格外なので使用できる製品がごく一部に限られている(現在では通常、2 GiBを超える製品は後述のSDHC、SDXC規格が使用されている)。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "SDメモリーカードは、非常に簡素な構造と技術とを採用し、扱いやすい大きさ、形状、側面の誤消去防止用の物理プロテクトスイッチ、SD Music Initiative (Secure Digital Music Initiative, SDMI) 適合の著作権保護機能など、家庭電化製品(家電など)への幅広い用途を直接意識した機能が特徴である。これは、ソニーなどが推進するメモリースティック(1997年(平成9年)7月17日発表)と直接競合した。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "SDHC (SD High Capacity) は2006年のSD 2.00で規定され、ファイルシステムをFAT32に対応させたことで最大32 GiBまでの大容量化が可能となった。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "物理的な寸法は従来のSDメモリーカードと同一で、上位互換性を保持しているため、SDHC対応機器でSDメモリーカードを扱うことができる。追加された仕様により下位互換性は存在しないため、旧来のSDメモリーカードのみに対応した機器はSDHCメモリーカードを扱うことはできない。ただし、物理的な寸法と電気的な仕様は互換性があるため、SDHC規格よりも前に発売されているデジタルカメラ、メモリーカードリーダー、パソコンの一部はファームウェアやドライバのアップデートによってSDメモリーカードの上限の2 GiBを超える容量の認識、利用が可能になっている。同様に、SDメモリーカードにしか対応していないノートパソコンでもWindows XP SP3へアップデート、ホットフィックスの適用、またはそれ以降のOSへアップグレードすることで内蔵のSDカードスロットが2 GiB以上の容量を認識可能となる場合がある。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "SDXC (SD eXtended Capacity) は2009年(平成21年)のSD 3.00で規定された。ファイルシステムにexFATを採用し最大容量は2 TiBとなった。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "物理的な寸法は旧来のSDメモリーカード規格と同一で、上位互換性を保持しており、SDXC対応機器でSD / SDHCメモリーカードを扱うことができる。SDXCではSDXCとmicroSDXCの2種類の形状になる。miniSDXCの規格自体は仕様書に存在しているが、マーケティング上現実的でないという理由から省かれている。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "旧来のSDHC対応機器でSDXCメモリーカードをFAT32でフォーマットし使用することも可能である。ただし、Windows標準のフォーマッタを使用した場合、実装上の問題から64 GiB以上のSDXCメモリーカードであっても利用できる上限容量は32 GiBとなる(サードパーティー製のフォーマッタを使用することで、1ファイルあたりの容量は4 GiBまでに制約されるものの回避可能である)。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "FAT32とexFATの違いを理解しないでexFATファイルシステムのままのSDXCカードをSDXC規格非対応製品に挿入することは危険で、メーカー側も使用を推奨しておらず、あくまでも自己責任的な使用になる。実際、SDXC規格非対応の携帯電話やスマートフォンにmicroSDXCカードを挿入した結果、microSDXCカードが使用不能になる事態が相次いで報告されている。物理的な破損ではないため、SDXC規格対応製品でフォーマットし直せばカード自体は回復するが、それまでにカードに保存されていたデータは消滅する。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2012年6月にNTTドコモがそれに関する通知を発表し、その現象を回避するソフトウェアアップデートの配布を行なっている。なお、ソフトウェアアップデート後も、非対応機種では引き続き使用できない。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお、2022年(令和4年)10月現在のところ、exFATを扱えるのはMicrosoft Windows XP SP2以降(更新プログラム (KB955704) 適用)、Microsoft Windows Vista SP1以降、Microsoft Windows 7、Microsoft Windows 8、Microsoft Windows 8.1、Microsoft Windows 10、Microsoft Windows 11の各種Windows OS、またはWindows CE 6.0、Mac OS X v10.6.4以降に限られ、パソコンやモバイル環境によっては利用できない。2009年(平成21年)1月現在、Linux系などのサポートに関しては、マイクロソフトからの発表はない。CES 2009 News release DS AssosiationにもSDXCメモリーカードに関する概説のみが発表されており、サポートOS、周辺機器などに関する記述はない。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "なお、Linuxについては、FUSEを利用した実装が存在し、Ubuntuなどのディストリビューションの最新版で利用できる。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "AppleのMac製品には2010年(平成22年)新発売から、従来はなかったSDカードスロットが内蔵されはじめ、SDXCにソフトに対応、iMac (Mid 2010) 以降のモデルにはハードも対応。また接続は内部USBではなく、PCI Express 1レーン接続になっている。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "SDXCメモリーカードの規格上の最大容量は2 TiB (2048 GiB) で、転送速度はロードマップ上にて将来的に最大300 MB/sの高速な転送を可能にするとしている。また、SDHCとEmbedded SD、SDIOにも転送速度高速化の規格と技術が採用される予定である。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2009年の時点では製品化の目処が立っていたのは最大256 GiBまでであり、それ以上の容量は技術革新が必要な状態となっていたが、2020年時点ではSDXC・microSDXCとも最大1 TiBまでの大容量カードが発売されており、転送速度は製品にて最大160 MB/s実装可能となっている。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "SDUC (SD Ultra Capacity) は、最大容量128 TiBに対応する規格として2018年のSD 7.00で規定された。ファイルシステムはSDXCメモリーカードに引き続きexFATを採用している。従来のSDメモリーカードとの後方互換性を有する。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "通信速度に関する規格であり、いわゆる理論最大値である。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお、一部の製品にみられる「XX倍速」という表記はSDアソシエーションの規格によるものではない。一般には、コンパクトディスクの転送速度である150 KB/sを「1倍速」として転送速度を表記している。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2000年のSD 1.01で規定された当初のモード。後述のHSの登場に伴って名称がつけられた。ノーマルスピードとも呼ばれる。最大転送速度は12.5 MB/sで、対応メモリーカードにモードを示す表記はない。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2004年のSD 1.10で規定されたモード。バススピードは25 MB/sで、モードを示す表記は規定されていないが製品によって「Hi-Speed」等の表記がなされた。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2010年のSD 3.01で規定されたモードで、UHSはUltra High Speedの略。SDR12、SDR25、SDR50、DDR50、SDR104の4つのスピード区分があり、最大転送速度はそれぞれ12.5 MB/s、25 MB/s、50 MB/s、50 MB/s、104 MB/sとなる。規格上はUHS50カードとUHS104カードが規定され、UHS50カードはSDR104をサポートしないため最大転送速度は50 MB/s、UHS104は全てをサポートし104 MB/s。UHS-Iに対応するカードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「I」と印字される。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2011年のSD 4.00で規定されたモード。常に双方向通信を行うFD(Full Duplex)モードとデータ送受信時は片方向通信を行うHD(Half Duplex)モードがあり、最大転送速度はそれぞれ156 MB/sと312 MB/s。対応カードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「II」と表記される。対応カードのピン数は増加しているが後方互換性は確保されており、従来の機器と組み合わせた場合は遅い側のモードに合わせて動作する。。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2017年のSD 6.00で規定されたモード。HDモードが削除されFDモードのみとなり、最大転送速度は624 MB/s。UHS-II同様、下位互換性を備えるためピンは2段に配置され、従来同様の転送も可能。対応カードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「III」と表記される。。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2018年のSD 7.00で規定されたモード。PCIe 3.0とNVMe 1.3を採用し、PCIe 3.0 x1レーンで最大転送速度985 MB/sを実現した。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2020年のSD 8.00でPCIe 4.0およびNVMe 1.4に対応し、新たにPCIe 3.0 x2レーンまたはPCIe 4.0 x1レーンによる最大転送速度1970 MB/s、PCIe 4.0 x2レーンによる3940 MB/sに対応した。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "PCIe 3.0 x1レーンまたはPCIe 4.0 x1レーンによる転送はUHS-II / IIIと同形状のメモリーカードで対応するが、PCIe 3.0 x2レーンおよびPCIe 4.0 x2レーンによる転送はさらにピン数を増やした新形状のカードでのみ可能である。またピンアサインの関係でUHS-II / IIIとSD Expressは排他であり、SD Express対応カードをUHS-II / III対応機器に挿入するとUHS-Iとして動作するため大幅に転送速度が低下する。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2006年のSD 2.00において、SDHCカードの規格策定と同時にデータ転送速度の目安としてスピードクラスも策定された。統一された基準を元にこのスピードクラスのロゴを明示することで、消費者がその用途にあったスピードクラスのカードを選択可能にするとしている。SDカードではオプション扱いだが、SDHCカードではスピードクラスの規格に準拠することが義務付けられている。SD 2.00では2、4、6の3種だったがSD 3.00で10が追加された。各スピードクラスに準拠した製品は、Cの中に各クラスに対応した数字が書かれたロゴマークを表示することができる。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "定められた単位の未使用領域(=汚れ率0 %のAU)に定められた記録方法で書き込みを行ったとき、カードごとの最低保証レートは以下のようになる。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "※ Class 10は後で規格化されたため、HighSpeedモードをサポートしていないハードウェアでは最低速度が保証されない。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "UHSスピードクラスは2010年のSD 3.01で規定されたもので、当初はU1のみだったが2011年のSD 4.00でU3が追加された。準拠する製品はUの中に対応する数字が書かれたロゴマークを表示することができる。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ビデオスピードクラスは2016年のSD 5.00で規定されたもので、V6, 10はHSおよびUHS-I / II / III対応カード、V30はUHS-I / II / III対応カード、V60, 90はUHS-II / III対応カードで実装可能である。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "Androidスマートフォンなどで、アプリケーションをインストールしたりデータを格納する場合、ランダムアクセスやシーケンシャルの性能が求められるようになり、アプリケーションを快適に利用するための規格として策定された。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "SD Ver.5.1で、ランダムリード1500IOPS、ランダムライト500IOPSのアプリケーションパフォーマンスクラス1(A1)が策定された。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "SD Ver.6.0で、ランダムリード4000IOPS、ランダムライト2000IOPSのアプリケーションパフォーマンスクラス2(A2)が策定された。",
"title": "規格"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "SDにはメモリーカード規格の他、SDIOと呼ばれるI/Oインターフェースを想定した規格もある。標準での電流容量はStandard-Power SDIOとして200 mAまでだが、High-Power SDIOとして500 mAまで拡張できる。",
"title": "SDIO "
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "SDメモリーカード仕様をベースにしたデジタル機器内蔵メモリ用規格、さまざまな機器で共通のI/Oインターフェースを利用しSDメモリーカードとの互換性を高めることを目的としている。",
"title": "Embedded SD"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "捜査機関へのデジタルスチルカメラの浸透は早かったものの、メモリーカードの内容『改竄』問題はずっとついて回った。そこで捜査機関や法執行機関等向けに上書き保存機能を無効化したSDメモリーカードが提供されるようになった。",
"title": "改竄防止機能付きSDメモリーカード[ライトワンス (Write Once) SDメモリーカード] "
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "日本の携帯型電話機分野では、2000年(平成12年)12月にDDIポケット(現・ワイモバイル)が発売した九州松下電器(現・パナソニック システムネットワークス)製のPHS端末「KX-HS100」で初めて採用された。携帯電話では2002年(平成14年)3月にJ-フォン(現・ソフトバンク)が発売したシャープ製端末「J-SH51」で採用、その後日本の他キャリア・メーカーに波及した。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2003年(平成15年)にminiSDカードが発売されるとフルサイズのSDカードにかわりこちらの採用が多くなり、NTTドコモが10月21日に発表した「505iS」シリーズでは当時首位のNEC、松下電器産業を含む4社がminiSDカードを採用。ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ(現・ソニーモバイルコミュニケーションズ)、三菱電機の2社が採用した小型版メモリースティック「メモリースティック Duo」に対して優勢となった。また、三菱電機も「901i」シリーズではminiSDを採用し、以後は機種毎のコンセプトに合ったメモリーカードを選択するようになっている。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "microSDカードは、2004年(平成16年)にモトローラ製端末Vodafone 702MO、Vodafone 702sMOに採用(当時の名称はトランスフラッシュ)されてからは、日本国内での普及が中心のminiSDを置き換えるかたちで米国・日本での採用が進み、au(KDDI / 沖縄セルラー電話連合)では2006年秋モデルではほとんどの機種をmicroSDカードに対応させた。対抗規格である「メモリースティック マイクロ」の採用例は日本国内ではW52Sのみにとどまり、しかもW52S自体も変換アダプタによりmicroSDに対応したこともあり、microSDの優勢は確固たるものとなった。他社も追従する形で2007年(平成19年)以降、携帯電話の外部メモリースロットが対応するサイズはmicroSDカードとなった。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "一貫してメモリースティックを採用し続けていたソニー・エリクソンも、SO903iではメモリースティックDuoとminiSDカードの両対応とした。それ以降、同社が日本市場向けに供給している端末はほぼ全てmicroSDを採用している。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "SDメモリカードは規格として後発だったため、当初は他のメモリーカード規格に対してシェアや出荷数で大きな差をつけられていた。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2003年(平成15年)には最大のライバルであるメモリースティックとのシェアが逆転する。この年は、小型・薄型のコンパクトデジタルカメラに不向きな大柄のコンパクトフラッシュからの規格変更を最後まで決めかねていた、老舗カメラメーカーのニコンとキヤノンが相次いでSDカードの採用を決定し、コンパクトデジタルカメラ分野での大勢も決した。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "デジタル一眼レフカメラでは、コンパクトフラッシュの大きさがそれほど問題にならないことと、主にプロの現場で使われるため容量・転送速度・信頼性の問題から、2013年現在でもコンパクトフラッシュが標準的なメディアである。ただし、デジタル一眼レフにもSDカードを使用する機種があり、ペンタックスでは*ist Dを除く全機種で、ニコンではD40 / D40x・D50・D80・D90・D300s(CFとのデュアルスロット)で採用、またキヤノンではMark II以降のEOS-1D及びEOS-1DsでSDカードとコンパクトフラッシュのデュアルスロットを採用している。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)春にはこれまでxDピクチャーカード陣営の中心だった富士フイルムがSDカードとxDピクチャーカードのどちらか一方を使えるデュアルスロット搭載という形でSDカードが使えるコンパクトデジタルカメラを発売。2009年(平成21年)にはデュアルスロットを撤廃してSD / SDHCカードのみの対応とした機種も発売された。2007年(平成19年)冬にはxDピクチャーカード陣営のもう一つの中心だったオリンパスも一部機種でアダプタによりmicroSDに対応する機種を発売、2010年(平成22年)1月発売のFE-47・μTOUGH-3000以降の機種でSD / SDHCカード対応になった。またソニーも2010年(平成22年)以降SDカードとメモリースティックのデュアルスロットに対応したデジタルカメラを発売し事実上、主要メーカー全てがSDカードを採用することになった。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "コンパクトデジタルカメラでは、microSDをアダプタなしで使用できる機種も存在する。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2003年(平成15年)頃からSDカードが優勢になってきていたものの、しばらくはデファクトスタンダードと言えるほどの差をつけられていなかった。しかし2005年(平成17年)から携帯電話でのminiSD規格の採用が増加してきたこともあり、シェアを徐々に拡大。2006年(平成18年)にはメモリーカードシェアの約7割を獲得したデータがある。またmicroSDは2007年1月に日本国内の販売シェアでminiSDを抜いた。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)では、BCNランキングによるとメモリーカードシェアの7割以上をSD系列が占めている(microSD 40.6 %、SDカード33.1 %)。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "家電量販店などのメモリーカードコーナーでもSD系列メディアは最も品揃えが豊富であり、身近な小売店としてコンビニエンスストアなどでも購入が可能な場合もある。2009年(平成21年)時点ではUSBメモリと並び、最も有力なフラッシュメモリメディアとして普及している。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "ほかにゲーム機では、任天堂は松下電器産業(現・パナソニック)との提携でニンテンドーゲームキューブ対応のSDカードアダプタを発売したほか、ゲームボーイアドバンスSPの周辺機器「プレイやん」やWii、ニンテンドーDSi、ニンテンドー3DS、Nintendo Switch(MicroSDXCカード 2 TiBまで)にもSDメモリーカード規格を採用している。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "このような市場動向から、消費者がデジタルカメラ、ビデオカメラなどを購入する際にSDカードを使えることが商品選択の際の一つのポイントとされることがある。そのため、先述した自社規格であるメモリースティックを抱えるソニーも、自社製パソコンおよびPlayStation 3(初期の一部のモデルのみ)にSDカードスロットを、携帯電話ではmicroSDやminiSDを採用するなどして消費者のニーズに応えている。同社はSDメモリーカード対応のデジタルカメラ(一部のデジタル一眼レフカメラを除く)や、SDメモリーカード単体の発売はしていなかったが、2010年(平成22年)1月からSD / SDHCカード及び、携帯電話向けのmicroSD / microSDHCカードの発売を開始し、2011年(平成23年)からはソニー製でもSDメモリーカードのみに対応しメモリースティックには対応しない製品が登場している。また、規格化されたばかりのSDUC規格に対応した機器については2019年7月7日現在、日本では存在していない。",
"title": "メモリーカード市場シェアの変遷"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "SDカードは違法コピーが蔓延するCDに変わり著作権保護機能を前面にアピールしたセキュアなメディアとして登場した。しかし、SDMIはもとより途中から追加されたCPRMも対応製品が発表される前に違法コピーされていた。SDXC及びSDUCでは、CPRMを強化(ただし互換性はない)したCPXMに対応した。",
"title": "欠点"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "SDカードには複数の特許が絡む。PCでは特許料不要でUSB端子を用いるUSBメモリが一般化しており、ライセンス契約などによる製造コストの増加を懸念し、SDカードスロットの搭載を見送るメーカーも存在する。ただ、デジタルカメラの写真などを取り込むといった需要があることから、ホームユーザー向けPCへの搭載は増えている。",
"title": "欠点"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "加えて、LinuxなどのオープンソースOSでは、同様に特許の関係で、ドライバなどのソフトウェア的な実装自体は行われているものの、標準では使用できないようになっている。このため、Linuxなどを販売する商用ディストリビュータが、個別で特許契約した上で、各自の判断で有効化する必要がある。これもほとんどのLinuxディストリビューションで有効化されている。",
"title": "欠点"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ただし、FreeBSDは、特許問題のない下位互換規格である「マルチメディアカードの例外的な実装」と位置付けし「SDメモリーカードではない」と主張、実装が行われている。",
"title": "欠点"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "SDHCカードはSDスピードクラスの制定によって現在の最高速度の規定が「Class 10のカード:10 MB/s (80 Mbps) 以上の速度」であり、またSDXC規格にて最大300 MB/sを目指している。しかし、コンパクトフラッシュでは2006年(平成18年)5月のCF Spec. Rev 4.0で、ATA/ATAPI-7のUDMA 6の最大888倍速133 MB/sの転送速度を公称しており、転送速度の面でSD規格のカードはこれに及ばない。この転送速度差は書き込み速度に直結するため、高速な転送速度を要求される高級デジタルカメラにコンパクトフラッシュが採用され続けている理由になっている。",
"title": "欠点"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "以下は、SDカードを含むすべてのメモリーカード規格でも生じうる欠点である。",
"title": "欠点"
}
] | SDメモリーカードは、フラッシュメモリーに属するメモリーカードである。SDカードとも呼ばれる。デジタルカメラ、携帯電話などの携帯機器やテレビなどの家電機器まで幅広く利用されている。 本項では、マルチメディアカード (MMC) を除く、互換性を持つ高機能化・大容量化・小型化の規格についても併せて解説する。 | {{Redirect|SDカード|日本の[[自動車安全運転センター]]が発行する証明証|SDカード (運転免許)}}
[[File:SD-Logo.svg|thumb|250px|ロゴマーク]]
[[File:SD Cards.svg|thumb|250px|さまざまなSDメモリーカードの模擬図<br />(上からSD、miniSD、microSD)]]
'''SDメモリーカード'''(エスディーメモリーカード、{{Lang-en-short|SD Memory Card}})は、[[フラッシュメモリ|フラッシュメモリー]]に属する[[メモリーカード]]である。'''SDカード'''とも呼ばれる。[[デジタルカメラ]]、[[携帯電話]]などの[[携帯機器]]や[[テレビ受像機|テレビ]]などの[[家電機器]]まで幅広く利用されている。
本項では、[[マルチメディアカード]] (MMC) を除く、互換性を持つ高機能化・大容量化・小型化の規格についても併せて解説する。
== 概要 ==
SDメモリーカードは、[[1999年]][[8月25日]]に松下電器産業(現・[[パナソニック]])、[[サンディスク]](現・[[ウエスタン・デジタル]])、[[東芝]](現・[[キオクシア]])によって構成されたSD Groupによって開発・発表された。[[2000年]]1月7日には、関連団体である「SDカードアソシエーション (SD Card Association, ''SDA'')(現・[[SDアソシエーション]] (SD Association, ''SDA'')」が[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]<ref name="ite65-2">{{Cite journal|和書|author=阪本久男 |title=SDカード標準化の歩み |journal=映像情報メディア学会誌 |volume=65 |issue=2 |publisher=映像情報メディア学会 |year=2011 |doi=10.3169/itej.65.157}}</ref>に設立された。
SD規格の[[ロゴタイプ|ロゴ]]は[[1990年代]]前半に東芝が開発した。[[ソニー]]・[[フィリップス]]陣営の対抗規格に競り勝つ形で[[DVD]]の原型となった[[光ディスク]]「[[Super Density Disc]]」のために制作されたもので、ロゴ内の「D」は光ディスクの意匠がある。
[[デジタル著作権管理]]を目的としてSDMI (Secure Digital Music Initiative)によって制定されたSDMI仕様に準拠したメモリーカードとして開発された経緯があるため<ref>{{Cite journal|和書|author=上林達・下田乾二・坂本広幸 |title=SDカードのコンテンツ保護 |journal=東芝レビュー |volume=58 |issue=6 |publisher=東芝 |year=2003 |issn=0372-0462 |url=https://www.global.toshiba/content/dam/toshiba/migration/corp/techReviewAssets/tech/review/2003/06/58_06pdf/a09.pdf |format=PDF}}</ref>、「SD」の呼称について、かつてはSecure Digitalの略称であると説明していた<ref>「1 General description」『SD Specifications Part 1 Physical Layer Simplified Specification Ver1.10』 SD Group、2003年4月</ref><ref>{{Cite web|和書|title=プレスリリース (2003.7.17-2) SDカードを利用したデジタル著作権保護技術の開発について |url=https://www.global.toshiba/jp/news/corporate/2003/07/pr1702.html |website=東芝 |publisher=東芝 |date=2003-07-17 |accessdate=2023-02-18}}</ref>。しかしSDMIは強制力がある仕様ではなく対応機器が一部にとどまり普及しなかったため<ref>{{Cite web|和書|title=レコード会社から見た音楽のデジタルフォーマットにかかわる技術動向について |url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/020/06051709/005.pdf |author=佐藤亘宏 |website=文化審議会 著作権分科会私的録音録画小委員会(第2回)議事録 [資料5] |publisher=文部科学省 |date=2006-05-17 |accessdate=2023-02-18}}</ref>、SDMIは2001年に活動を休止。このことから、2006年9月にSDメモリーカードの規格書がVer. 2.00に改版された際にはSecure Digitalの略称であるという説明が削除され、これ以降の版でも何かの略称であるという記述は存在しない。
2000年代には[[マルチメディアカード]]・[[スマートメディア]]・[[コンパクトフラッシュ]]・[[メモリースティック]]・[[xDピクチャーカード]]などの競合するメモリーカード規格が多数存在したが、ライセンス料を安価にしたり、miniSDなどの新しい規格をタイムリーに投入したり、携帯電話に搭載されるといった後押しもあり、2005年8月時点での日本国内でのSDカードの販売シェアは64.9 %と圧倒的多数を占め<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.bcnretail.com/news/detail/051003_2320.html |title = BCNランキング SD連合がシェア65 %で圧勝、メモリーカード規格対決、買い得なのは? |accessdate = 2019-1-11}}</ref>、メモリーカード規格の主流になることができた。
* [[2001年]] - SDカードスロットに接続して使うSDカード型の周辺機器を作ることができる、SDIOカード規格が発表された<ref name="ite65-2" />。
* [[2003年]] - 小型化したminiSDカード規格が発表された<ref name="ite65-2" />。
* [[2005年]] - セキュリティ機能を強化したSD SMART規格が発表された<ref name="ite65-2" />。
* [[2006年]]1月 - [[アメリカ合衆国|米国]]の「2006 International [[コンシューマー・エレクトロニクス・ショー|CES]]」で、SDメモリーカードの規格限界容量である最大32 [[ギビバイト|GiB]]を規定した「SDHC」が発表された。
* 2006年 - さらに小型化したmicroSD規格が発表された<ref name="ite65-2" />。
* [[2009年]]1月 - 64 GiB以上の記憶容量に対応する規格として「SDXC」という新規格の仕様を策定、[[2009年]]8月に64 GiB仕様のカードを発表した。規格に関してはファイルシステムに[[exFAT]]を採用することで記憶容量を最大で2 [[テビバイト|TiB]] (2048 GiB)、データ転送速度は300 MB/sまで拡張する予定となっている。
* [[2018年]]6月 -「SD 7.0」規格として最大で985 MB/sの転送速度に対応する規格である「SD Express」と、最大で128 TiBの容量に対応する規格である「SDUC」を発表した<ref name="SD_Express">{{Cite web|title=SD EXPRESS – A REVOLUTIONARY INNOVATION FOR SD MEMORY CARDS|url=https://www.sdcard.org/press/SD_EXPRESS_A_REVOLUTIONARY_INNOVATION_FOR_SD_MEMORY_CARDS.pdf|publisher=SD Association|format=PDF|date=2018-06-27|accessdate=2018-06-28}}</ref>。
発表当初からのSDカードは全て、SDMI仕様で規定された著作権保護規格[[CPRM]]に対応していたが、SD 6.1においてオプションとなり非対応カードも販売されるようになった。対応カードにおいてはCPRM機能に加えて、参照不可能な著作権情報管理用領域(プロテクト領域)が設けられており、メディアとして実際に使用できる容量とは若干の差分が存在する。
[[シリアル・ペリフェラル・インタフェース|SPI]]モードがあり、低速で良いのであればSPIバスにて簡単に複数のデバイスを接続できる。製品に対応スロットが用意されている場合でも、SDメモリーカードの容量や製品との相性問題の関係で使用できない場合がある。
<gallery>
ファイル:Disassembling Panasonic RP-SD032.jpg|旧世代の製品である、Panasonic RP-SD032の内部。コントローラチップを介してFlashメモリとつながっている。
ファイル:Disassembling TOSHIBA SD-K16G.jpg|TOSHIBA SD-K16Gの内部。端子とコントローラ・Flashメモリが一体になっている。
ファイル:SD-Karte Eye-Fi 16G geöffnet.JPG|無線LANを内蔵したEye-Fi Pro X2の内部。
</gallery>
=== miniSDカード{{Anchors|miniSDメモリーカード}} <!-- 携帯電話でアンカーを多数使用 --> ===
miniSDカード(ミニエスディーカード)は、SDメモリーカードの小型版で、端子が2ピン追加され11ピンとなっている。サンディスクが2003年(平成15年)3月に発表した。
SDメモリーカードとは電気的に[[互換性]]があり、端子の変換のみの簡易な構造のアダプタに装着することでSDメモリーカードとしても利用できる。実際に販売されているminiSDカード製品の多くは、アダプタを同梱している。
[[2006年]](平成18年)には一時、SDメモリーカードの売り上げの半分以上がこのminiSDになった。当時[[日本]]では主に[[携帯電話]]端末向けに利用されていたが、その後はより小型化された[[#microSDカード|microSDカード]]への移行が進んだ。[[2007年]](平成19年)後半にはほとんどの端末にmicroSDカードが採用されるようになり、[[2008年]](平成20年)頃にはminiSDカードの販売数は減少に転じた。microSDカードをminiSDカードに変換するアダプタの存在によりmicroSDカードで代替可能なことも、miniSDカードの市場規模縮小に拍車をかけた<ref name="bcn20070726" />。
[[ソニー]]グループの製品では、以前は[[メモリースティック]]を外部メディアとして採用することが多かった。携帯電話メーカー[[ソニーモバイルコミュニケーションズ|Sony Ericsson]]も[[SO902i]]と[[SO902iWP+]]までは[[メモリースティック#メモリースティック PRO Duo|メモリースティック PRO Duo]]を採用していたが、[[2006年]]発売の[[SO903i]]ではメモリースティック PRO DuoとminiSDの両規格に対応した外部メモリースロットを搭載した。同社は[[2007年]]発売の後継機[[SO903iTV]]以降、メモリースティック、miniSDのいずれも廃止し、[[#microSDカード|microSD]]に移行している。
<gallery>
ファイル:MiniSD Card 256MB.jpg|miniSDカード (256 [[メビバイト|MiB]])
ファイル:MiniSD with adapter.jpg|miniSDカードとアダプタ
ファイル:Minisd inside.jpg|miniSDカードの内部
</gallery>
=== microSDカード {{Anchors|microSDメモリーカード}} <!-- 携帯電話でアンカーを多数使用 --> ===
[[File:Sdadaptersandcards.jpg|thumb|250px|microSDカード(右)とアダプタ]]
[[ファイル:SD-microSD adaptor.jpg|thumb|250px|microSDアダプタの内部構造。端子を変換するだけの非常に簡素な構造である。]]
microSDカード(マイクロエスディーカード)は、SDアソシエーションによって[[2005年]](平成17年)[[7月13日]]に承認された[[フラッシュメモリ]]型[[電子媒体]]である。サンディスクが[[2004年]](平成16年)[[2月]]に開発した'''トランスフラッシュ'''(TransFlash; TFカード)の仕様を引き継いだもので、名称は異なるが媒体そのものは同じである。
外形寸法は、11 [[ミリメートル|mm]] × 15 mm × 1 mmと、SDメモリーカードの1/4程度、汎用品として使われている[[リムーバブルメディア]]の中で最も寸法が小さい。miniSDの場合と同様に、SDメモリーカードとは電気的に互換性があり、microSDカードを変換アダプタに装着することによって、SDメモリーカードまたはminiSDカードとして利用することができる。
==== 携帯電話での利用 ====
日本国外では当初[[モトローラ]]の[[携帯電話]]を中心に採用されていた。日本では[[ソフトバンク|ボーダフォン 日本法人(現・ソフトバンク)]]の[[Vodafone 702MO]]、[[Vodafone 702sMO]](いずれもモトローラ製)に[[TransFlash]]規格で採用され、日本のメーカーからも[[2006年]](平成18年)1月に開発が発表された[[Vodafone 804N]]を皮切りに、続々と対応端末が登場した。本体の小型化・薄型化にも貢献できるため、miniSDに替わって主流となった。
[[au (携帯電話)|au]]の[[2006年]](平成18年)秋冬[[CDMA 1X WIN]]モデルではメモリースティック Duoに対応の[[W43S]]と[[W44S]]およびminiSDに対応の[[W41SH]]を除く全てが、[[NTTドコモ|NTTdocomo]]でも[[SO903i]]を除く[[FOMA#903iシリーズ|903iシリーズ]]がmicroSD専用スロットを搭載した。こうした背景のもと、2007年6月にはSD陣営でのシェアトップに君臨する規格となった<ref name="bcn20070726">[https://www.bcnretail.com/news/detail/070726_8014.html microSDがついにSDを逆転、携帯電話が握るメモリカード売れ筋の行方] BCNランキング 2007年7月26日</ref>。
小型大容量化によって頻繁な着脱を想定せず、電池パックの内側にmicroSDカードスロットを設ける端末が多い。[[スマートフォン]]では、[[SIMカード]]と同じトレイに乗せて挿入する機種も多く見られる。
==== 携帯電話以外での用途 ====
携帯電話以外に[[デジタルオーディオプレーヤー]]などにも容量増設用としてmicroSDスロットが設置されているものもある。
日本では[[2009年]](平成21年)から映像ソフトウエアの媒体としても使用されるようになった。映画などが[[DVD-Video]]、[[Blu-ray Disc]]とmicroSDとのセットまたはmicroSD単体で販売されている。[[ワンセグ]]放送と互換性のあるフォーマットで収録されており、広く普及しているワンセグ対応携帯電話などで手軽に再生できる。
また、小型のUSBメモリのなかには、狭義の[[USBフラッシュドライブ]]の構造ではなくmicroSDカードと小型のmicroSDカードリーダーを組み合わせることで記憶装置を構成している製品も存在する<ref>{{Cite web|和書|title=バッファロー社製のUSBメモリを分解したら、中からMicro SD!?|url=https://getnews.jp/archives/684799|publisher=ガジェット通信|accessdate=2020-10-24}}</ref>。
== 規格 ==
=== 形状(フォームファクタ) ===
SDメモリーカードは、[[マルチメディアカード]] (MMC) に近い形状を持っており、SDメモリーカード用スロットは物理的にMMCも挿入可能な[[互換性]]を持つ。そのため、SDメモリーカードを使用している機器では、マルチメディアカードも利用できることが多い。
当初の規格では端子は1列のみであったが、SD 4.00で規定されたUHS-IIから2列目の端子が追加された。従来の端子を第1ロウ、UHS-II以降で追加された端子を第2ロウと呼ぶ。
{| class="wikitable" style="margin:0.5em auto"
|+各SD規格メモリーカードの形状比較<ref name="dev-overview-20200729">{{Cite web|和書|url=https://www.sdcard.org/jp/developers/overview/index.html |title=SD規格の概要 - SD Association |accessdate=2020-07-29}}</ref>
|-
!colspan="2"|
!SDメモリーカード
!miniSDカード
!microSDカード
|-
|colspan="2"|幅
|24 [[ミリメートル|mm]]
|20 [[ミリメートル|mm]]
|11 [[ミリメートル|mm]]
|-
|colspan="2"|長さ
|32 [[ミリメートル|mm]]
|21.5 [[ミリメートル|mm]]
|15 [[ミリメートル|mm]]
|-
|colspan="2"|厚さ
|2.1 [[ミリメートル|mm]]
|1.4 [[ミリメートル|mm]]
|1.0 [[ミリメートル|mm]]
<!--|-
|体積
|1,596 mm<sup>3</sup>
|589 mm<sup>3</sup>
|165 mm<sup>3</sup>
|-
|重量
|約2 g
|約1 g
|約0.4 g-->
|-
|rowspan="2"|動作電圧 ([[ボルト (単位)|V]])
|第1ロウ
|3.3 V VDD(2.7 - 3.6 V)
|3.3 V VDD(2.7 - 3.6 V)
|3.3 V VDD(2.7 - 3.6 V)
|-
|第2ロウ
|1.8 V VDD(1.70 - 1.95 V)
| -
|1.8 V VDD(1.70 - 1.95 V)
|-
|colspan="2"|誤消去防止スイッチ
|あり
|なし<ref name="adapter" group="注">SDへの変換アタプターを利用する場合は、アタプターに誤消去防止スイッチがあるため、それを利用することができる。</ref>
|なし<ref name="adapter" group="注"/>
|-
|colspan="2"|端子ガード突起
|あり<ref group="注">製品によっては耐久性の向上等を目的として突起を無くしたものもある(ソニー製TOUGHシリーズなど)。</ref>
|なし
|なし
|-
|rowspan="4"|端子数
|DS<br>HS<br>UHS-I
|9ピン
|11ピン
|8ピン
|-
|UHS-II<br>UHS-III
|17ピン
| -
|16ピン
|-
|SD Express 1-lane
|17 - 19ピン
| -
|17ピン
|-
|SD Express 2-lane
|25 - 27ピン
| -
| -
|}
==== SDメモリーカードのロック ====
SDメモリーカードにはロック機能(書き込み禁止スイッチ)がついており、カード側面のツマミをロック位置に移動させると、データの削除 / 上書きを禁止することができるとされている。ロックのツマミが書き込み可能位置に存在することを検出し「書き込みが可能である」と判定している。ツマミの位置は接続される機器側で物理的に検出しており、カード内部の電気回路とは接続されていない。このため、USBアダプタなど機器側でロックを検出しないこともあり、その場合はスイッチの意味は全く無い。
2018年には[[ハギワラシスコム#沿革|ハギワラソリューションズ]]により、誤操作防止としてロックスイッチを廃したSDメモリーカードが発売されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hagisol.co.jp/news/201808/0809/|title=SDメモリーカードのロックスイッチを排除することで誤動作を防止!人気の“Sシリーズ”に「ロックスイッチ無し」モデルを新発売|publisher=ハギワラソリューションズ|date=2018-08-09|accessdate=2020-05-12}}</ref>。
=== SDアプリケーションフォーマット ===
各種用途に合わせたSD規格が制定されている<ref name="WhatSD">{{Cite web|和書|url=http://japan.sdcard.com/WhatSD/hirogaru.asp?Page=1 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030825094953/http://japan.sdcard.com/WhatSD/hirogaru.asp?Page=1 |archivedate=2003-08-25 |title=■SDメモリーカードの各種フォーマット(SD Memory Card Information) |accessdate=2010-06-03}}</ref>。
; SD-Audio
: SDカードに備わっているCPRMを利用して対応する音声ファイルを暗号化する、著作権保護を目的としたフォーマット。
: {{Main|SD-Audio}}
; SD-Video
: SDメモリーカード用フォーマットの一種で動画記録の規格<ref name="WhatSD" />。利用可能な動画像圧縮方式は[[MPEG-2]]と[[MPEG-4]]。[[CPRM]]対応。
; SD-Video ISDB-T Mobile Video Profile
: [[ワンセグ]]チューナーを内蔵し番組録画に対応した[[携帯電話機]]の登場にあわせて[[2005年]](平成17年) - [[2006年]](平成18年)頃に策定された規格であり、[[ISDB#ISDB-T|ISDB-T]]で受信した番組を[[H.264]]方式でストリーミングに記録する。
: ワンセグ放送そのものにスクランブルは施されていないが、基本的にチューナー側でCPRMを被せて録画するため、チューナー内蔵・接続の機器(携帯電話機やPCなど)の内部記憶媒体に録画・作成したファイルを、SDなどのリムーバブルメディア間でコピー・ムーブする際は、[[DVDレコーダー]]と同様に、録画機器本体の操作またはワンセグチューナーや携帯電話機に付属する対応PCアプリケーション等の正当な方法で行わないと再生できなくなる。[[2008年]](平成20年)頃からダビング10に対応したワンセグチューナーや携帯電話機が市販されるようになった。
{{See also|ワンセグ}}
; その他SD規格
* SD-Binding - SDカード対応機器の固有データと結びつけた、著作権やプライバシーの保護規格。
* SD-Image - 静止画記録用であるが、デジタルカメラ以外の用途を想定。サポートする主なフォーマットについては、静止画は[[Windows bitmap|BMP]]、[[Graphics Interchange Format|GIF]] (87a, 89a)、[[JPEG]] (JFIF)、JPEG (Exif)、PNG/簡易動画は[[GIFアニメーション|GIFアニメ]] (89a)。
* SD-Picture - 静止画記録用。主な用途はデジタルカメラ。サポートするフォーマットは[[カメラファイルシステム規格|DCF]] ([[Exchangeable image file format|Exif]]) 必須。
* SD-Map<ref name="ite65-2" />
* SD-pDocument - 印刷分野やFAX用。JPEG / TIFF およびテキスト形式。
* SD-ePublish - 電子ドキュメント対応。[[HyperText Markup Language|HTML]]系対応。
* SD-PIM - スケジュールや住所などの個人的な情報管理用。住所録、スケジュール、メッセージ、メモ、ブックマークなど対応。
* SD-Sound - 電子音源データ利用の音楽再生用。主な用途は電話、カラオケなど。サポートするフォーマット[[MIDI|MIDI Files]]必須。
* SD-Voice - 音声記録用。主な用途はICレコーダーや携帯電話など。サポートする主なフォーマットは[[G.726]]、[[Adaptive Multi-Rate|AMR]]。
など。
また、PRO CARDと呼ばれるパナソニックの独自規格カードがあり、同社製の業務用高機能電子レンジ(マイクロウェーブ解凍機・マイクロウェーブコンベクションオーブンなど)でメニューを記憶させる専用のカードである。これらの機器に市販のカードは使用できない。
=== 容量 ===
==== SD(SDSC) ====
[[File:16 MB SD Card, Toshiba-2724.jpg|thumb|250px|東芝製SDメモリーカード]]
'''SDSC<ref>通常SDSCと記載することはない</ref>''' ('''SD''' '''S'''tandard '''C'''apacity) は[[2000年]]のSD 1.01で規定された当初の規格。最大容量は2 [[ギビバイト|GiB]]である{{Sfn|SDA |2020 |p=6}}。これは、SDメモリーカードでの事実上の標準的なファイルフォーマットとして[[File Allocation Table#FAT16|FAT16]]が用いられ<ref group="注">規格上はFAT12およびFAT16が規定されている。FAT12の場合最大容量は32 MiBとなる。</ref>、その規格上の最大ボリュームサイズが最大で2 GiBまでに制限されているためである。過去には2 GiBを超える製品も存在したが、SDメモリーカード規格外なので使用できる製品がごく一部に限られている(現在では通常、2 GiBを超える製品は後述の[[#SDHC|SDHC]]、[[#SDXC|SDXC]]規格が使用されている)。
SDメモリーカードは、非常に簡素な構造と技術とを採用し、扱いやすい大きさ、形状、側面の誤消去防止用の物理プロテクトスイッチ、[[SD Music Initiative]] (Secure Digital Music Initiative, ''SDMI'') 適合の[[著作権]]保護機能など、家庭電化製品(家電など)への幅広い用途を直接意識した機能が特徴である。これは、[[ソニー]]などが推進する[[メモリースティック]]([[1997年]](平成9年)[[7月17日]]発表)と直接競合した。
<!--
; SDメモリーカード
{{節スタブ|date=2020年7月}}
; miniSDカード
* [[2003年]](平成15年)
:* 5月:16 MiB
:* 5月:32 MiB
:* 7月:64 MiB
:* 10月:128 MiB
:* 10月:256 MiB
* [[2004年]](平成16年)
:* 8月:512 MiB
* [[2005年]](平成17年)
:* 6月:1 GiB
:* 12月:2 GiB
; microSDカード
* [[2004年]](平成16年)
:* 11月:256 MiB
* [[2005年]](平成17年)
:* 8月:512 MiB
* [[2006年]](平成18年)
:* 1月:1 GiB
:* 8月:2 GiB
-->
==== SDHC {{Anchors|SDHCメモリーカード|miniSDHCメモリーカード|microSDHCメモリーカード|microSDHCカード}} <!-- 携帯電話でアンカーを多数使用 --> ====
[[File:SDHC memory card 8GB.png|250px|thumb|SDHCメモリーカード]]
'''SDHC''' ('''SD''' '''H'''igh '''C'''apacity) は[[2006年]]のSD 2.00で規定され、ファイルシステムを[[File Allocation Table#FAT32|FAT32]]に対応させたことで最大32 GiB{{Sfn|SDA |2020 |p=6}}までの大容量化が可能となった。
物理的な寸法は従来のSDメモリーカードと同一で、[[上位互換]]性を保持しているため、SDHC対応機器でSDメモリーカードを扱うことができる。追加された仕様<ref>[[:en:Secure Digital#Storage capacity calculations|英語版]]を参照</ref>により[[下位互換]]性は存在しないため、旧来のSDメモリーカードのみに対応した機器はSDHCメモリーカードを扱うことはできない。ただし、物理的な寸法と電気的な仕様は互換性があるため、SDHC規格よりも前に発売されているデジタルカメラ、[[メモリーカードリーダー]]、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の一部は[[ファームウェア]]やドライバのアップデートによってSDメモリーカードの上限の2 GiBを超える容量の認識、利用が可能になっている。同様に、SDメモリーカードにしか対応していないノートパソコンでもWindows XP SP3へアップデート、ホットフィックスの適用、またはそれ以降のOSへアップグレードすることで内蔵のSDカードスロットが2 GiB以上の容量を認識可能となる場合がある。
<!--
; SDHCメモリーカード
* [[2006年]](平成18年)
:* 6月:4 GiB
:* 11月:8 GiB
* [[2007年]](平成19年)
:* 10月:16 GiB
* [[2008年]](平成20年)
:* 1月:32 GiB
:* 8月:6 GiB<ref name="Pana_Press">[https://news.panasonic.com/jp/press/jn080728-1 プレスリリース]</ref>
:* 9月:12 GiB<ref name="Pana_Press" />
; miniSDHCカード
* [[2006年]](平成18年)
:* 11月:4 GiB
* [[2008年]](平成20年)
:* 5月:8 GiB
; microSDHCカード
* [[2007年]](平成19年)
:* 7月:4 GiB
:* 11月:6 GiB
:* 12月:8 GiB
* [[2008年]](平成20年)
:* 10月:16 GiB
* [[2010年]](平成22年)
:* 3月:32 GiB (Class 2)
:* 10月:32 GiB (Class 4)
* [[2011年]](平成23年)
:* 1月:32 GiB (Class 10)
-->
==== SDXC {{Anchors|SDXCメモリーカード|microSDXCメモリーカード|microSDXCカード}} <!-- 携帯電話でアンカーを多数使用 --> ====
'''SDXC''' ('''SD''' e'''X'''tended '''C'''apacity) は[[2009年]](平成21年)のSD 3.00で規定された。ファイルシステムに[[exFAT]]を採用し最大容量は2 [[テビバイト|TiB]]となった{{Sfn|SDA |2020 |p=6}}。
物理的な寸法は旧来のSDメモリーカード規格と同一で、[[上位互換]]性を保持しており、SDXC対応機器でSD / SDHCメモリーカードを扱うことができる。SDXCではSDXCとmicroSDXCの2種類の形状になる。miniSDXCの規格自体は仕様書に存在しているが、マーケティング上現実的でないという理由から省かれている。
旧来のSDHC対応機器でSDXCメモリーカードをFAT32でフォーマットし使用することも可能である。ただし、Windows標準のフォーマッタを使用した場合、実装上の問題から64 GiB以上のSDXCメモリーカードであっても利用できる上限容量は32 GiBとなる([[サードパーティー]]製のフォーマッタを使用することで、1ファイルあたりの容量は4 GiBまでに制約されるものの回避可能である)。
FAT32とexFATの違いを理解しないでexFATファイルシステムのままのSDXCカードをSDXC規格非対応製品に挿入することは危険で、メーカー側も使用を推奨しておらず<ref>[http://panasonic.jp/support/sd_w/info/index.html Panasonic-SDXCメモリーカードの注意事項]</ref>、あくまでも自己責任的な使用になる。実際、SDXC規格非対応の[[携帯電話]]や[[スマートフォン]]にmicroSDXCカードを挿入した結果、microSDXCカードが使用不能になる事態が相次いで報告されている。物理的な破損ではないため、SDXC規格対応製品でフォーマットし直せばカード自体は回復するが、それまでにカードに保存されていたデータは消滅する。
[[2012年]][[6月]]に[[NTTドコモ]]がそれに関する通知<ref>[https://www.docomo.ne.jp/info/notice/page/120606_00.html microSDXCカードご利用時のご注意について]</ref>を発表し、その現象を回避するソフトウェアアップデートの配布を行なっている。なお、ソフトウェアアップデート後も、非対応機種では引き続き使用できない。
なお、[[2022年]]([[令和]]4年)10月現在のところ、exFATを扱えるのは[[Microsoft Windows XP]] SP2以降(更新プログラム (KB955704) 適用)、[[Microsoft Windows Vista]] SP1以降、[[Microsoft Windows 7]]、[[Microsoft Windows 8]]、[[Microsoft Windows 8.1]]、[[Microsoft Windows 10]]、[[Microsoft Windows 11]]の各種[[Microsoft Windows|Windows]] [[オペレーティングシステム|OS]]、または[[Microsoft Windows Embedded CE|Windows CE]] 6.0、[[Mac OS X v10.6]].4以降に限られ、パソコンやモバイル環境によっては利用できない。[[2009年]](平成21年)1月現在、[[Linux]]系などのサポートに関しては、[[マイクロソフト]]からの発表はない。CES 2009 News release DS AssosiationにもSDXCメモリーカードに関する概説のみが発表されており、サポートOS、周辺機器などに関する記述はない。
なお、Linuxについては、[[Filesystem in Userspace|FUSE]]を利用した実装が存在<ref>{{Cite web|和書|author=末岡洋子|date=2013-01-22|url=https://mag.osdn.jp/13/01/22/0452214|title=FUSEベースのMicrosoft「exFAT」実装、「fuse-exfat 1.0」がリリース|publisher=OSDN Magazine|accessdate=2017-10-08}}</ref>し、[[Ubuntu]]などのディストリビューションの最新版で利用できる。
[[Apple]]の[[Mac (コンピュータ)|Mac]]製品には[[2010年]](平成22年)新発売から、従来はなかったSDカードスロットが内蔵されはじめ、SDXCに[[Mac OS X v10.6|ソフト]]に対応、[[iMac (インテルベース)|iMac]] (Mid 2010) 以降のモデルにはハードも対応。また接続は内部[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]ではなく、[[PCI Express]] 1レーン接続になっている。
SDXCメモリーカードの規格上の最大容量は2 [[テビバイト|TiB]] (2048 GiB) で、転送速度は[[ロードマップ]]上にて将来的に最大300 MB/sの高速な転送を可能にするとしている。また、SDHCとEmbedded SD、SDIOにも転送速度高速化の規格と技術が採用される予定である。
2009年の時点では製品化の目処が立っていたのは最大256 GiBまでであり、それ以上の容量は技術革新が必要な状態となっていた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0910/08/news106_2.html 最大2Tバイトの「SDXC」、登場はいつ?(2/2)] +D PC USER ([[ITmedia]]) 2009年10月8日</ref>が、2020年時点ではSDXC・microSDXCとも最大1 TiBまでの大容量カードが発売されており、転送速度は製品にて最大160 MB/s実装可能となっている。
==== SDUC {{Anchors|SDUCメモリーカード|microSDUCメモリーカード|microSDUCカード}} <!-- 携帯電話への便宜のため --> ====
'''SDUC''' ('''SD''' '''U'''ltra '''C'''apacity) は、最大容量128 TiB{{Sfn|SDA |2020 |p=6}}に対応する規格として[[2018年]]のSD 7.00で規定された。[[ファイルシステム]]はSDXCメモリーカードに引き続き[[exFAT]]を採用している。従来のSDメモリーカードとの後方互換性を有する<ref name="SD_Express" />。
=== 最大転送速度(バスインターフェーススピード) ===
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ XX倍速表記の例
|-
!速度表記
!転送速度
|-
|60倍速
|9 MB/s
|-
|70倍速
|10.65 MB/s
|-
|80倍速
|12 MB/s
|-
|133倍速
|20 MB/s
|-
|150倍速
|22.5 MB/s
|-
|}
通信速度に関する規格であり、いわゆる理論最大値である。
なお、一部の製品にみられる「XX倍速」という表記はSDアソシエーションの規格によるものではない。一般には、[[コンパクトディスク]]の転送速度である150 KB/sを「1倍速」として転送速度を表記している。
==== DS(デフォルトスピード) ====
2000年のSD 1.01で規定された当初のモード。後述のHSの登場に伴って名称がつけられた。ノーマルスピードとも呼ばれる。最大転送速度は12.5 MB/sで、対応メモリーカードにモードを示す表記はない<ref name="dev-busspeed-20200729">{{Cite web|和書|url=https://www.sdcard.org/jp/developers/overview/bus_speed/index.html |title=バスインターフェーススピード - SD Association |accessdate=2020-07-29}}</ref>。
==== HS(ハイスピード) ====
2004年のSD 1.10で規定されたモード。バススピードは25 MB/sで、モードを示す表記は規定されていないが製品によって「Hi-Speed」等の表記がなされた<ref name="dev-busspeed-20200729" />。
==== UHS-I ====
[[File:Lexar SDXC card, class 10, 64 gb.JPG|thumb|250px|UHS-I対応SDメモリーカード]]
[[2010年]]のSD 3.01で規定されたモードで、UHSは'''U'''ltra '''H'''igh '''S'''peedの略。SDR12、SDR25、SDR50、DDR50、SDR104の4つのスピード区分があり、最大転送速度はそれぞれ12.5 MB/s、25 MB/s、50 MB/s、50 MB/s、104 MB/sとなる。規格上はUHS50カードとUHS104カードが規定され、UHS50カードはSDR104をサポートしないため最大転送速度は50 MB/s、UHS104は全てをサポートし104 MB/s。UHS-Iに対応するカードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「I」と印字される<ref name="standard-4.10">{{Citation | url = https://www.sdcard.org/downloads/pls/simplified_specs/part1_410.pdf | contribution = SD Specifications Version 4.10 | publisher = SD Card Association| title = 3.10.5 - Summary of Bus Speed Mode for UHS-II Card |format=PDF |accessdate=2013-09-24 |deadlinkdate=2020-05-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131202232415/https://www.sdcard.org/downloads/pls/simplified_specs/part1_410.pdf |archivedate=2013-12-02}}.</ref><ref name="dev-busspeed-20200729" />。
{{-}}
==== UHS-II ====
[[ファイル:20200530-IMGP0340.jpg|代替文=UHS-I(左)とUHS-II(右)対応SDメモリーカードの接点部の比較|サムネイル|UHS-I(左)とUHS-II(右)対応SDメモリーカードの接点部の比較]]
[[2011年]]のSD 4.00で規定されたモード。常に双方向通信を行うFD(Full Duplex)モードとデータ送受信時は片方向通信を行うHD(Half Duplex)モードがあり、最大転送速度はそれぞれ156 MB/sと312 MB/s。対応カードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「II」と表記される。対応カードのピン数は増加しているが後方互換性は確保されており、従来の機器と組み合わせた場合は遅い側のモードに合わせて動作する。<ref name="standard-4.10" /><ref name="dev-busspeed-20200729" />。
{{-}}
==== UHS-III ====
[[2017年]]のSD 6.00で規定されたモード。HDモードが削除されFDモードのみとなり、最大転送速度は624 MB/s。UHS-II同様、下位互換性を備えるためピンは2段に配置され、従来同様の転送も可能。対応カードにはSDメモリーカードロゴマークの右横下に「III」と表記される。<ref name="dev-busspeed-20200729" /><ref>{{Cite web|和書|title=最大624MB/秒の最速SDカード規格UHS−III策定。CFast 2.0やXQD 2.0に匹敵、速すぎてまだ製品化不能 - Engadget Japanese|url=https://japanese.engadget.com/2017/02/27/624mb-sd-uhs-iii-cfast-2-0-xqd-2-0/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170307015025/http://japanese.engadget.com:80/2017/02/27/624mb-sd-uhs-iii-cfast-2-0-xqd-2-0/|archivedate=2017-03-07|deadlinkdate=2022-05-01|website=Engadget JP|accessdate=2020-03-13|language=ja-jp|first=Hirotaka|last=Totsu}}</ref>。
==== SD Express ====
[[2018年]]のSD 7.00で規定されたモード。[[PCI Express|PCIe]] 3.0と[[NVM Express|NVMe]] 1.3を採用し、PCIe 3.0 x1レーンで最大転送速度985 MB/sを実現した<ref name="dev-busspeed-20200729" /><ref>{{Cite web|title=SD Express Cards with PCIe and NVMe Interfaces|url=https://www.sdcard.org/downloads/pls/latest_whitepapers/SD_Express_Cards_with_PCIe_and_NVMe_Interfaces_White_Paper.pdf|publisher=SD Association|format=PDF|date=2018-06-27|accessdate=2018-06-28}}</ref>。
[[2020年]]のSD 8.00でPCIe 4.0およびNVMe 1.4に対応し、新たにPCIe 3.0 x2レーンまたはPCIe 4.0 x1レーンによる最大転送速度1970 MB/s、PCIe 4.0 x2レーンによる3940 MB/sに対応した<ref name="dev-busspeed-20200729" />。
PCIe 3.0 x1レーンまたはPCIe 4.0 x1レーンによる転送はUHS-II / IIIと同形状のメモリーカードで対応するが、PCIe 3.0 x2レーンおよびPCIe 4.0 x2レーンによる転送はさらにピン数を増やした新形状のカードでのみ可能である。またピンアサインの関係でUHS-II / IIIとSD Expressは排他であり、SD Express対応カードをUHS-II / III対応機器に挿入するとUHS-Iとして動作するため大幅に転送速度が低下する<ref name="dev-busspeed-20200729" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://dc.watch.impress.co.jp/docs/special/cfe/1229121.html |title=徹底理解CFexpress:第2回:CFexpress規格の誕生と詳細 |publisher=デジカメ Watch |data=2020-01-17 |accessdate=2020-07-29}}</ref>。
=== スピードクラス ===
==== スピードクラス ====
2006年のSD 2.00において、SDHCカードの規格策定と同時にデータ転送速度の目安としてスピードクラスも策定された。統一された基準を元にこのスピードクラスのロゴを明示することで、消費者がその用途にあったスピードクラスのカードを選択可能にするとしている。SDカードではオプション扱いだが、SDHCカードではスピードクラスの規格に準拠することが義務付けられている。SD 2.00では2、4、6の3種だったがSD 3.00で10が追加された。各スピードクラスに準拠した製品は、Cの中に各クラスに対応した数字が書かれたロゴマークを表示することができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sdcard.org/jp/developers/overview/speed_class/index.html |title=スピードクラス - SD Association |accessdate=2020-07-29}}</ref>。
定められた単位の未使用領域(=汚れ率0 %のAU)に定められた記録方法で書き込みを行ったとき、カードごとの最低保証レートは以下のようになる。
{|class="wikitable"
! スピードクラス !! 最低保証速度
|-
| Class 2 || 2 MB/s
|-
| Class 4 || 4 MB/s
|-
| Class 6 || 6 MB/s
|-
| Class 10 || 10 MB/s<ref>[http://www.panasonic.co.uk/html/en_GB/2372767/index.html Panasonic Launches SDHC Memory Cards with Class 10 Speed Specification] Panasonic UK 2009年5月21日</ref>
|}
※ Class 10は後で規格化されたため、HighSpeedモードをサポートしていないハードウェアでは最低速度が保証されない。
==== UHSスピードクラス ====
UHSスピードクラスは2010年のSD 3.01で規定されたもので、当初はU1のみだったが2011年のSD 4.00でU3が追加された。準拠する製品はUの中に対応する数字が書かれたロゴマークを表示することができる。
{| class="wikitable"
! UHSスピードクラス !! 最低保証速度
|-
| UHSスピードクラス1 || 10 MB/s (80 [[メガビット毎秒|Mbps]])
|-
| UHSスピードクラス3 || 30 MB/s (240 [[メガビット毎秒|Mbps]])
|}
==== ビデオスピードクラス ====
ビデオスピードクラスは2016年のSD 5.00で規定されたもので、V6, 10はHSおよびUHS-I / II / III対応カード、V30はUHS-I / II / III対応カード、V60, 90はUHS-II / III対応カードで実装可能である。
{| class="wikitable"
! ビデオスピードクラス !! 最低保証速度
|-
| ビデオスピードクラス6 || 6 MB/s
|-
| ビデオスピードクラス10 || 10 MB/s
|-
| ビデオスピードクラス30 || 30 MB/s
|-
| ビデオスピードクラス60 || 60 MB/s
|-
| ビデオスピードクラス90 || 90 MB/s
|}
=== アプリケーションパフォーマンスクラス ===
[[Android (オペレーティングシステム)|Android]][[スマートフォン]]などで、アプリケーションをインストールしたりデータを格納する場合、ランダムアクセスやシーケンシャルの性能が求められるようになり、アプリケーションを快適に利用するための規格として策定された<ref>[https://www.sdcard.org/ja/developers-2/sd-standard-overview/application-performance-class/ アプリケーションパフォーマンスクラス] SD Association</ref>。
SD Ver.5.1で、ランダムリード1500IOPS、ランダムライト500IOPSのアプリケーションパフォーマンスクラス1(A1)が策定された。
SD Ver.6.0で、ランダムリード4000IOPS、ランダムライト2000IOPSのアプリケーションパフォーマンスクラス2(A2)が策定された。
== SDIO {{Anchors|SDIOカード|miniSDIOカード|microSDIOカード}} == <!-- 携帯電話記事に配慮 -->
{{multiple image
| align = right
| direction = horizontal
| footer = SDIOカメラ(左)および無線LAN(右)<br />{{Commonscat-inline|SDIO devices|SDIO機器}}
| image1 = HP PhotoSmart SDIO Kamera.jpg
| width1 = 134
| image2 = Planex Wireless LAN SDIO Card GW-SD11P 1.jpg
| width2 = 120
}}
SDにはメモリーカード規格の他、'''SDIO'''と呼ばれる[[入出力|I/O]]インターフェースを想定した規格もある。標準での電流容量はStandard-Power SDIOとして200 [[ミリアンペア|mA]]までだが、High-Power SDIOとして500 mAまで拡張できる。
;SDIOカード
:[[Bluetooth]]、[[無線LAN]]、[[ワンセグ]]チューナー、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]、[[デジタルカメラ]]カードなどがある。日本では'''SDIOカード'''として[[データ通信]]用[[PHS]]カードが市販されていた。
;miniSDIOカード
:Bluetooth、無線LAN、[[ビデオ]]出力、[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]カードなどがある。
;microSDIOカード
:2010年5月時点で、無線LANアダプタ<ref>[http://auonlineshop.kddi.com/disp/CSfLastGoodsPage_001.jsp?GOODS_NO=2143 無線LAN microSDIOカード(au携帯電話 Wi-Fi WIN対応機種専用)]</ref>が発売されている。
== Embedded SD ==
SDメモリーカード仕様をベースにしたデジタル機器内蔵メモリ用規格、さまざまな機器で共通のI/Oインターフェースを利用しSDメモリーカードとの互換性を高めることを目的としている<ref>[https://www.sdcard.org/developers/overview/embedded_sd/ Embedded SD Standard] - SD Accociation</ref>。
== {{Vanc|改竄防止機能付きSDメモリーカード}}[ライトワンス (Write Once) SDメモリーカード] {{Anchors|WORM|Write_Once_SD|ライトワンス|ライトワンスSD}} ==
捜査機関への[[デジタルカメラ|デジタルスチルカメラ]]の浸透は早かったものの、メモリーカードの内容『改竄』問題はずっとついて回った<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/34284 |title=「42都道府県警が採用」なぜ警察は“改ざん”できる捜査SDカードを使い続けるのか? |access-date=2022-12-18 |website=文春オンライン}}</ref>。そこで捜査機関や法執行機関等向けに上書き保存機能を無効化したSDメモリーカードが提供されるようになった<ref>例えば[[キオクシア]]の[https://www.kioxia.com/ja-jp/business/memory/write-once.html 改ざん防止機能付きSDメモリカード]。2022年12月18日閲覧。</ref><ref>カメラオプションとして[[キヤノン]]も用意している([https://canon.jp/-/media/Project/Canon/CanonJP/Website/support/support-info/200820kissx10-sdworm/kissx10-sdworm-leaflet.pdf カタログ])。2022年12月18日閲覧。</ref>。
== メモリーカード市場シェアの変遷 ==
=== 携帯電話におけるメモリーカードのシェア ===
[[File:Huawei U8950D no cover.JPG|thumb|250px|スマートフォンにセットされたmicroSDメモリーカード]]
日本の携帯型電話機分野では、[[2000年]](平成12年)12月にDDIポケット(現・[[ワイモバイル]])が発売した[[九州松下電器]](現・[[パナソニック システムネットワークス]])製の[[PHS]]端末「KX-HS100」で初めて採用された。携帯電話では[[2002年]](平成14年)3月にJ-フォン(現・[[ソフトバンク]])が発売した[[シャープ]]製端末「[[J-SH51]]」で採用、その後日本の他キャリア・メーカーに波及した。
[[2003年]](平成15年)にminiSDカードが発売されるとフルサイズのSDカードにかわりこちらの採用が多くなり、[[NTTドコモ]]が[[10月21日]]に発表した「505iS」シリーズでは当時首位の[[日本電気|NEC]]、松下電器産業を含む4社がminiSDカードを採用。ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ(現・[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]])、[[三菱電機]]の2社が採用した小型版メモリースティック「メモリースティック Duo」に対して優勢となった。また、三菱電機も「901i」シリーズではminiSDを採用し、以後は機種毎のコンセプトに合ったメモリーカードを選択するようになっている。
microSDカードは、[[2004年]](平成16年)に[[モトローラ]]製端末[[Vodafone 702MO]]、[[Vodafone 702sMO]]に採用(当時の名称はトランスフラッシュ)されてからは、日本国内での普及が中心のminiSDを置き換えるかたちで米国・日本での採用が進み、[[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]] / [[沖縄セルラー電話]]連合)では2006年秋モデルではほとんどの機種をmicroSDカードに対応させた。対抗規格である「メモリースティック マイクロ」の採用例は日本国内では[[W52S]]のみにとどまり、しかもW52S自体も変換アダプタによりmicroSDに対応したこともあり、microSDの優勢は確固たるものとなった。他社も追従する形で[[2007年]](平成19年)以降、携帯電話の外部メモリースロットが対応するサイズはmicroSDカードとなった。
一貫してメモリースティックを採用し続けていたソニー・エリクソンも、[[SO903i]]ではメモリースティックDuoとminiSDカードの両対応とした。それ以降、同社が日本市場向けに供給している端末はほぼ全てmicroSDを採用している。
=== デジタルカメラにおけるシェア ===
[[File:Canon HF100 with PQI SDHC card 20080610.jpg|thumb|250px|SDメモリーカード対応カムコーダ]]
SDメモリカードは規格として後発だったため、当初は他のメモリーカード規格に対してシェアや出荷数で大きな差をつけられていた。
[[2003年]](平成15年)には最大のライバルである[[メモリースティック]]とのシェアが逆転する。この年は、小型・薄型のコンパクトデジタルカメラに不向きな大柄の[[コンパクトフラッシュ]]からの規格変更を最後まで決めかねていた、老舗カメラメーカーの[[ニコン]]と[[キヤノン]]が相次いでSDカードの採用を決定し、コンパクトデジタルカメラ分野での大勢も決した。
デジタル[[一眼レフカメラ]]では、コンパクトフラッシュの大きさがそれほど問題にならないことと、主にプロの現場で使われるため容量・転送速度・信頼性の問題から、2013年現在でもコンパクトフラッシュが標準的なメディアである。ただし、デジタル一眼レフにもSDカードを使用する機種があり、[[ペンタックス]]では*ist Dを除く全機種で、ニコンでは[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D40|D40]] / [[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D40x|D40x]]・[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D50|D50]]・[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D80|D80]]・[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D90|D90]]・[[ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧#D300s|D300s]](CFとのデュアルスロット)で採用、またキヤノンでは[[キヤノンのカメラ製品一覧|Mark II以降のEOS-1D及びEOS-1Ds]]でSDカードと[[コンパクトフラッシュ]]のデュアルスロットを採用している。
[[2007年]](平成19年)春にはこれまで[[xDピクチャーカード]]陣営の中心だった[[富士フイルム]]がSDカードとxDピクチャーカードのどちらか一方を使えるデュアルスロット搭載という形でSDカードが使えるコンパクトデジタルカメラを発売。[[2009年]](平成21年)にはデュアルスロットを撤廃してSD / SDHCカードのみの対応とした機種も発売された。[[2007年]](平成19年)冬には[[xDピクチャーカード]]陣営のもう一つの中心だった[[オリンパス]]も一部機種で[[MicroSDアタッチメント MASD-1|アダプタ]]によりmicroSDに対応する機種を発売、[[2010年]](平成22年)1月発売の[[FE-47]]・[[μTOUGH-3000]]以降の機種でSD / SDHCカード対応になった。またソニーも[[2010年]](平成22年)以降SDカードとメモリースティックのデュアルスロットに対応したデジタルカメラを発売し事実上、主要メーカー全てがSDカードを採用することになった。
コンパクトデジタルカメラでは、microSDをアダプタなしで使用できる機種も存在する。
=== デファクトスタンダードとしてのSDカード ===
[[File:HK 2010 Computer Festival IT Show shop SD Memory Cards.JPG|thumb|250px|陳列されたメモリーカード(香港、2010年)]]
[[File:Wii-Console-SD-Card.jpg|thumb|250px|家庭用ゲーム機のWiiに挿入されたメモリーカード]]
[[2003年]](平成15年)頃からSDカードが優勢になってきていたものの、しばらくは[[デファクトスタンダード]]と言えるほどの差をつけられていなかった。しかし[[2005年]](平成17年)から携帯電話でのminiSD規格の採用が増加してきたこともあり、シェアを徐々に拡大。[[2006年]](平成18年)にはメモリーカードシェアの約7割を獲得したデータがある<ref>[https://www.bcnretail.com/news/detail/060705_4728.html 主役はminiSDへ、携帯電話需要を追い風にシェア7割に迫るSD系メモリカード] BCNランキング 2006年7月5日</ref>。またmicroSDは2007年1月に日本国内の販売シェアでminiSDを抜いた<ref name="bcn20070726" />。
[[2008年]](平成20年)では、BCNランキングによるとメモリーカードシェアの7割以上をSD系列が占めている(microSD 40.6 %、SDカード33.1 %)<ref>[https://www.bcnretail.com/news/detail/080222_9919p1.html microSDが4割突破のメモリカード、容量はGBクラスがあたりまえの時代に] [[BCNランキング]] 2008年2月22日</ref>。
[[家電量販店]]などのメモリーカードコーナーでもSD系列メディアは最も品揃えが豊富であり、身近な小売店として[[コンビニエンスストア]]などでも購入が可能な場合もある。[[2009年]](平成21年)時点では[[USBメモリ]]と並び、最も有力なフラッシュメモリメディアとして普及している。
ほかに[[ゲーム機]]では、[[任天堂]]は松下電器産業(現・[[パナソニック]])との提携で[[ニンテンドーゲームキューブ]]対応の[[SDカードアダプタ]]を発売したほか、[[ゲームボーイアドバンスSP]]の周辺機器「[[プレイやん]]」や[[Wii]]、[[ニンテンドーDSi]]、[[ニンテンドー3DS]]、[[Nintendo Switch]](MicroSDXCカード 2 TiBまで)にもSDメモリーカード規格を採用している。
このような市場動向から、消費者がデジタルカメラ、ビデオカメラなどを購入する際にSDカードを使えることが商品選択の際の一つのポイントとされることがある。そのため、先述した自社規格であるメモリースティックを抱えるソニーも、[[VAIO|自社製パソコン]]および[[PlayStation 3]](初期の一部のモデルのみ)にSDカードスロットを、携帯電話ではmicroSDやminiSDを採用するなどして消費者のニーズに応えている。同社はSDメモリーカード対応のデジタルカメラ(一部のデジタル一眼レフカメラを除く)や、SDメモリーカード単体の発売はしていなかったが、[[2010年]](平成22年)1月からSD / SDHCカード及び、携帯電話向けのmicroSD / microSDHCカードの発売を開始し、[[2011年]](平成23年)からはソニー製でもSDメモリーカードのみに対応しメモリースティックには対応しない製品が登場している。また、規格化されたばかりのSDUC規格に対応した機器については2019年7月7日現在、日本では存在していない。
== 欠点 ==
{{独自研究|section=1|date=2021年5月}}
=== 著作権保護 ===
SDカードは違法コピーが蔓延するCDに変わり著作権保護機能を前面にアピールしたセキュアなメディアとして登場した。しかし、SDMIはもとより途中から追加された[[CPRM]]も対応製品が発表される前に違法コピーされていた。SDXC及びSDUCでは、CPRMを強化(ただし互換性はない)した[[CPXM]]に対応した。
=== 特許関連 ===
SDカードには複数の[[特許]]が絡む。PCでは特許料不要でUSB端子を用いるUSBメモリが一般化しており、ライセンス契約などによる製造コストの増加を懸念し、SDカードスロットの搭載を見送るメーカーも存在する。ただ、[[デジタルカメラ]]の[[写真]]などを取り込むといった需要があることから、ホームユーザー向けPCへの搭載は増えている。
加えて、[[Linux]]などの[[オープンソース]]OSでは、同様に特許の関係で、ドライバなどのソフトウェア的な実装自体は行われているものの、標準では使用できないようになっている。このため、Linuxなどを販売する商用ディストリビュータが、個別で特許契約した上で、各自の判断で有効化する必要がある。これもほとんどの[[Linuxディストリビューション]]で有効化されている。
ただし、[[FreeBSD]]は、特許問題のない下位互換規格である「[[マルチメディアカード]]の例外的な実装」と位置付けし「SDメモリーカードではない」と主張、実装が行われている。
=== 転送速度 ===
SDHCカードはSDスピードクラスの制定によって現在{{いつ|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の最高速度の規定が「Class 10のカード:10 MB/s (80 [[メガビット毎秒|Mbps]]) 以上の速度」であり、またSDXC規格にて最大300 MB/sを目指している。しかし、[[コンパクトフラッシュ]]では[[2006年]](平成18年)[[5月]]のCF Spec. Rev 4.0で、ATA/ATAPI-7のUDMA 6の最大888倍速133 MB/sの転送速度を公称しており、転送速度の面でSD規格のカードはこれに及ばない。この転送速度差は書き込み速度に直結するため、高速な転送速度を要求される高級デジタルカメラにコンパクトフラッシュが採用され続けている理由になっている。
=== その他 ===
以下は、SDカードを含むすべてのメモリーカード規格でも生じうる欠点である。
; フラッシュメモリに関わる問題
: {{main|フラッシュメモリ}}SDカードがデータ記録用に採用しているフラッシュメモリは、アクセス速度、耐衝撃性、静音性、省電力性の点で優れている。その一方、書き換え可能回数に上限があり、書き換えを一定数繰り返すと正常に保存できなくなったり、保存されているデータを破損したりする可能性が高まる。他のフラッシュメモリを採用している製品同様、SDメモリーカードもこの欠点は(現時点では)回避できない。またフラッシュメモリは精密な電子製品であり、電気的なストレスに弱く、水没など水に起因する故障も起こりうる。製品によっては、これを避けるため防水加工を施したものもある。
: SDカードにも[[フラッシュメモリ#SLCとMLC|MLC、TLC]]等の書き込み形式があるが、[[ドライブレコーダー]]等に適した耐久性を売りにした製品以外に関しては書き込み形式が表記されていないものが殆どである。
:
; 小型化による問題
: メモリサイズの小型化と可搬性の高さから、紛失または盗難の危険性が高い。顧客情報等の[[個人情報漏洩]]事故などの機密情報の漏洩に繋がりやすいため、セキュリティ上のリスクがある。乳幼児などが誤飲する危険性もある。
: 本体は小さいが、それに比してケースが大きいため、保管専有スペースを取る。また、ケースには入れず裸で保管した場合は保存したデータの摘要を記入する場所がないか、あったとしても小さすぎる。ラベルに記入するスペースを設けているものもあるが、極めて希な上スペースも非常に小さい。
== 参考文献 ==
* {{cite book|title=Physical Layer Simplified Specification |volume=1 |author= SD Card Association Technical Committee |publisher=SD Card Association |edition=8.00 |date=2020-09-23 |year=2020 |ref={{SfnRef|SDA |2020}}|url=https://www.sdcard.org/downloads/pls/ |language=en-US |format=pdf |accessdate=2022-05-28}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[メモリーカード]]
* [[USBフラッシュドライブ]]
* [[SD-Audio]]
* [[SD-Jukebox]] ([[MOOCS]])
* [[SDアソシエーション]]
<!--(単にSDメモリーカードを利用する機器を個々に挙げていたらキリがない)* [[SDリピーター]] -->
== 外部リンク ==
{{commonscat|Secure Digital}}
*[https://www.sdcard.org/ja/developers-2/sd-standard-overview/ SD規格の概要]
{{メモリーカード}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:SDめもりいかあと}}
[[Category:メモリーカード]] | 2003-04-11T18:03:47Z | 2023-09-30T02:59:12Z | false | false | false | [
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6,544 | コンパクトフラッシュ | コンパクトフラッシュ (英語: CompactFlash, CF) は、小型カード型インタフェース、およびその規格による拡張カード。1990年代後半から2000年代後半にかけて、フラッシュメモリ型メモリーカードとして民生向け機器で広く使われた。また、ノートパソコンにネットワーク通信機器などの拡張デバイスを接続するためのインターフェイスとしても使われた他、産業用・組み込み用に使われている。
コンパクトフラッシュ(以下CFと略称で表記する)は、アメリカのサンディスクを盟主とするコンパクトフラッシュアソシエーション(CFアソシエーション)が策定していた拡張カードの規格である。CF規格は1994年にサンディスクによって開発されたため、「コンパクトフラッシュ」という名称は、サンディスクの登録商標である。そのため他のメーカーは商標の使用を避けるため「CFカード」や「CF」といった名称を用いることが多い。
メディア(CFカード)は主に補助記憶装置として利用され、1990年代後半から2010年代前半にかけてメモリーカードとして民生向けに大量に市販されていた他、CFカードサイズの1インチハードディスク (HDD)であるマイクロドライブのようなものも存在した。製品の寸法は42.8 mm×36.4 mm×3.3 mmのTypeI(ほとんどの製品で採用されていた形状)と、少し厚い5 mmのTypeII(内部に何かを組み込んだ製品などで採用されていた形状)がある。
インターフェースとしてパラレルATA接続を採用しており、1990年代当時ノートパソコン用として普及していた拡張メディアであるPCカード(ATAカード)規格と電気的な互換性がある。そのため、CFカード型デバイスをノートPCのPCカードスロットに接続するための変換アダプターを噛ませる際、アダプター側にコントローラーを搭載する必要がなく、アダプターを安価に製造できた。またCFカードのサイズもPCカードのサイズに準じて策定されたものであるから、ノートPCにおいてPCカードと同じ感覚でCFカードを利用できる利点があり、特にCFカード型メモリーカードは、それまでノートPC用の補助記憶装置として普及していたPCカード型フラッシュATAカードと同等に扱えたので便利であった。また、Bluetoothを利用した無線通信アダプターなど、拡張スロットに収まる寸法のカード型デバイスや、CFスロットからはみ出す形の、CFカード型PHSカード、有線/無線LANカード等の入出力デバイスも発売された。これら消費電力の多いI/Oカード用に、1998年にCF+規格として電力容量が拡張された。2000年頃にはCFスロットを標準搭載したノートPCもいくつか発売されたが、わざわざCFスロットを搭載しなくても、PCカードスロットにアダプターを噛ませれば賄えたのと、2000年代に入るとUSB端子の普及によってUSB接続型のCFカードリーダーが安価に出回るようになったので、それほど多かったわけではない。
大きさは、PCカードの3分の1程度であり、それゆえ「コンパクト」と名前がついているが、1990年代後半より続々と登場した他のフラッシュメモリカード類の規格と比較すると最も大きい。そのため、CFカードは携帯機器向けメモリカードの規格としては、コンパクトな機器には搭載できないという欠点があったが、一方でその大きさを生かして大容量かつ転送速度が高速と言う利点があり、1990年代末から2000年代にかけて行われたメモリーカードの規格争いにおいて、デジタルカメラやPDAといった容量と速度を必要とする機器において採用されるメディアとしての地位を確保していた。
2000年代後半には携帯機器のコンパクト化もあって、民生向けメモリーカードの規格戦争においてmicroSD規格が覇権を握るものの、プロフェッショナル向けカメラにおいてはメディアの小ささよりも大容量と高速な転送速度が必要とされることから、CFカードは一般人向け機器での採用が無くなった2010年代以降もデジタル一眼レフなどのプロフェッショナル向け機器において採用されていた。
2011年、CFアソシエーションはCFの次世代規格としてXQD1.0を発表。また、2012年には従来のパラレルATA接続だけではなくシリアルATA(SATA)接続に対応させた産業向けのCFの規格である「CFast」規格(2008年策定)をSATA-IIIインターフェースに対応させてCFの次世代規格としたCFast2.0規格を発表。両者とも初代CF規格との互換性はない。なお、業界の都合で次世代CFの規格が2つに分裂することになったが、2019年にCFアソシエーションはXQDおよびCFastの次世代規格として、XQDに対して後方互換性を持つCFexpress 2.0規格を発表し、次世代CFの規格が再び統一された。
2022年現在、初代CF規格はCFアソシエーションにおける開発を終了しているが、当面の間はメーカーがメディアを販売し続ける限りは展開が終了することはないとのこと。一般に流通している最大容量は512 GBである。2010年のCF5.0規格から48bit LBA (BigDrive) に対応しており、仕様上の最大容量は144 PBになっている。
デジタルカメラが普及し始めた1990年代後半から2000年代前半にかけて、コンパクトフラッシュはスマートメディアと並んで代表的なメモリカードであった。その後、コンパクトデジタルカメラは、より小型のSDメモリカード・メモリースティックなどを使用するようになったが、それら小型メディアより高速かつ大容量であったため、デジタル一眼レフカメラなどの高級機器においては引き続きコンパクトフラッシュを使用するものが多かった。
その後、一部のデジタル一眼レフはCFとSDのデュアルスロットを備え、両者を併用できるようにした製品も存在した。しかし、SDメモリカードの更なる高速化と大容量化、より高速な規格(CFastやXQD)の登場もあって、2010年代半ば頃よりデジタル一眼レフ用のメディアはそれらに移行した。
転送速度はレキサー・メディアがCDの転送速度の1倍速である150 KB/s(1.2 Mビット毎秒)を等倍とすると制定しており、各社はこの表現を採用している。規格の改定のたびに、パラレルATA規格の更新を取り入れている。CF Spec. Rev 6.0では、UDMA 7の最大1113倍速、167 MB/sの転送速度である。
PCカードアダプタを介して接続した場合、従来の16ビットPCカードスロットでは速度が遅いものしかないため(最高35倍速 5.3MB/s、一般に10倍速前後1 - 2 MB/s)、高速なCFカードはその性能を発揮できない。その場合は、CardBusアダプタ(バス速度444倍速66.6 MB/s、2007年現在実測260倍速39 MB/s)、または、ExpressCardアダプタ(2007年現在200倍速30 MB/s、2008年現在300倍速45 MB/s)を使用することで高速転送が可能となる。
USBカードアダプタを介して接続した場合、USB 2.0 では最大60 MB/sとなり、超高速タイプ(90 MB/sから100 MB/s)のコンパクトフラッシュの性能が発揮できない。そのような場合は、USB 3.0対応のカードアダプタを使えば解決できる。
本来のCF規格の目的である、フラッシュメモリなどを使ったメモリーカードである。CF規格では「コンパクトフラッシュストレージカード (CompactFlash Storage Card)」となっているが、ここでは一般に使われることの少ない「ストレージカード」との表現を避け、一般的な「メモリーカード」として表記する。
PCカードATAと68ピンATAとの両用、5 V電源と3.3 V電源との両用、アドレス2 KB制限、電流容量5 V電源時100 mA・3.3 V電源時75 mAまでの消費電流制限など、PCカードの一部仕様のみを必須として一部仕様を制限して採用した簡略仕様となっている。外形寸法は42.8 mm×36.4 mm×3.3 mmのタイプ1と、42.8 mm×36.4 mm×5 mmのタイプ2の二種類が基本だが、CFスロットからはみ出す物や、はみ出した部分がさらに厚くなった物へも対応している。
規格上ファイルシステム形式は策定されておらず、CFAはFAT12またはFAT16またはFAT32を推奨しているのみである。物理的にはカードリーダ/ライタがATA対応さえしていれば、CFメモリーカード側をFAT32等、いかようにも初期化できる。ただしATAの各種容量の壁に注意して対応を確認する必要がある。CF+カードをCF+非対応の古いカードリーダ/ライタに装着すると、電源容量が足りずカードを認識しない場合や、認識しても想定外の動作をすることがある。近年はデータの大容量化に伴い、CF+規格でFAT32の読み書きに対応した製品が多く流通するようになっている。
CFとして必須仕様の一部不採用や、電源容量などの拡張を採用できる、CF規格を拡張したCF+規格のカードが存在する。
どちらの電圧でも500 mAまでの電流容量の拡張や、片方の電圧のみの対応や、68ピンATA互換の不採用など、CF規格からの逸脱部分が追加定義された。外形寸法もCFタイプ1よりもさらに下側を1 mm以上厚く拡張された42.8 mm×36.4 mm×最小4.3 mmのCF+拡張タイプ1がある。CF+拡張タイプ1のスロットからはみ出す物や、はみ出した部分がさらに厚くなった物へも対応している。
CFastとは、CompactFlash Associationが策定した規格である。
CFexpress (CFX) は、2016年9月に発表されたPCIe 3.0とNVMe 1.2をベースとした規格である。2017年4月に公開されたCFexpress 1.0では、2レーンのPCIe 3.0を採用しており、最大転送速度2 GB/sに対応している。将来的には8レーンまで増やすことで8 GB/sまで対応可能である。XQDメモリーカードと上位互換性を保持している。
CFexpress1.0規格を採用した製品は発売されなかったが、2019年にCFexpress2.0が策定され、2020年よりカメラの最上位機種を手始めに各社より対応機器が続々と発売されている。そのため、一時期CFastとXQDに2分されたコンパクトフラッシュの規格はCFexpressに一本化されたと言える。 | [
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"text": "コンパクトフラッシュ (英語: CompactFlash, CF) は、小型カード型インタフェース、およびその規格による拡張カード。1990年代後半から2000年代後半にかけて、フラッシュメモリ型メモリーカードとして民生向け機器で広く使われた。また、ノートパソコンにネットワーク通信機器などの拡張デバイスを接続するためのインターフェイスとしても使われた他、産業用・組み込み用に使われている。",
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"text": "コンパクトフラッシュ(以下CFと略称で表記する)は、アメリカのサンディスクを盟主とするコンパクトフラッシュアソシエーション(CFアソシエーション)が策定していた拡張カードの規格である。CF規格は1994年にサンディスクによって開発されたため、「コンパクトフラッシュ」という名称は、サンディスクの登録商標である。そのため他のメーカーは商標の使用を避けるため「CFカード」や「CF」といった名称を用いることが多い。",
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"text": "メディア(CFカード)は主に補助記憶装置として利用され、1990年代後半から2010年代前半にかけてメモリーカードとして民生向けに大量に市販されていた他、CFカードサイズの1インチハードディスク (HDD)であるマイクロドライブのようなものも存在した。製品の寸法は42.8 mm×36.4 mm×3.3 mmのTypeI(ほとんどの製品で採用されていた形状)と、少し厚い5 mmのTypeII(内部に何かを組み込んだ製品などで採用されていた形状)がある。",
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"text": "インターフェースとしてパラレルATA接続を採用しており、1990年代当時ノートパソコン用として普及していた拡張メディアであるPCカード(ATAカード)規格と電気的な互換性がある。そのため、CFカード型デバイスをノートPCのPCカードスロットに接続するための変換アダプターを噛ませる際、アダプター側にコントローラーを搭載する必要がなく、アダプターを安価に製造できた。またCFカードのサイズもPCカードのサイズに準じて策定されたものであるから、ノートPCにおいてPCカードと同じ感覚でCFカードを利用できる利点があり、特にCFカード型メモリーカードは、それまでノートPC用の補助記憶装置として普及していたPCカード型フラッシュATAカードと同等に扱えたので便利であった。また、Bluetoothを利用した無線通信アダプターなど、拡張スロットに収まる寸法のカード型デバイスや、CFスロットからはみ出す形の、CFカード型PHSカード、有線/無線LANカード等の入出力デバイスも発売された。これら消費電力の多いI/Oカード用に、1998年にCF+規格として電力容量が拡張された。2000年頃にはCFスロットを標準搭載したノートPCもいくつか発売されたが、わざわざCFスロットを搭載しなくても、PCカードスロットにアダプターを噛ませれば賄えたのと、2000年代に入るとUSB端子の普及によってUSB接続型のCFカードリーダーが安価に出回るようになったので、それほど多かったわけではない。",
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"text": "大きさは、PCカードの3分の1程度であり、それゆえ「コンパクト」と名前がついているが、1990年代後半より続々と登場した他のフラッシュメモリカード類の規格と比較すると最も大きい。そのため、CFカードは携帯機器向けメモリカードの規格としては、コンパクトな機器には搭載できないという欠点があったが、一方でその大きさを生かして大容量かつ転送速度が高速と言う利点があり、1990年代末から2000年代にかけて行われたメモリーカードの規格争いにおいて、デジタルカメラやPDAといった容量と速度を必要とする機器において採用されるメディアとしての地位を確保していた。",
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"text": "2000年代後半には携帯機器のコンパクト化もあって、民生向けメモリーカードの規格戦争においてmicroSD規格が覇権を握るものの、プロフェッショナル向けカメラにおいてはメディアの小ささよりも大容量と高速な転送速度が必要とされることから、CFカードは一般人向け機器での採用が無くなった2010年代以降もデジタル一眼レフなどのプロフェッショナル向け機器において採用されていた。",
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"text": "2011年、CFアソシエーションはCFの次世代規格としてXQD1.0を発表。また、2012年には従来のパラレルATA接続だけではなくシリアルATA(SATA)接続に対応させた産業向けのCFの規格である「CFast」規格(2008年策定)をSATA-IIIインターフェースに対応させてCFの次世代規格としたCFast2.0規格を発表。両者とも初代CF規格との互換性はない。なお、業界の都合で次世代CFの規格が2つに分裂することになったが、2019年にCFアソシエーションはXQDおよびCFastの次世代規格として、XQDに対して後方互換性を持つCFexpress 2.0規格を発表し、次世代CFの規格が再び統一された。",
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"text": "2022年現在、初代CF規格はCFアソシエーションにおける開発を終了しているが、当面の間はメーカーがメディアを販売し続ける限りは展開が終了することはないとのこと。一般に流通している最大容量は512 GBである。2010年のCF5.0規格から48bit LBA (BigDrive) に対応しており、仕様上の最大容量は144 PBになっている。",
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"text": "デジタルカメラが普及し始めた1990年代後半から2000年代前半にかけて、コンパクトフラッシュはスマートメディアと並んで代表的なメモリカードであった。その後、コンパクトデジタルカメラは、より小型のSDメモリカード・メモリースティックなどを使用するようになったが、それら小型メディアより高速かつ大容量であったため、デジタル一眼レフカメラなどの高級機器においては引き続きコンパクトフラッシュを使用するものが多かった。",
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"text": "その後、一部のデジタル一眼レフはCFとSDのデュアルスロットを備え、両者を併用できるようにした製品も存在した。しかし、SDメモリカードの更なる高速化と大容量化、より高速な規格(CFastやXQD)の登場もあって、2010年代半ば頃よりデジタル一眼レフ用のメディアはそれらに移行した。",
"title": "概要"
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"text": "転送速度はレキサー・メディアがCDの転送速度の1倍速である150 KB/s(1.2 Mビット毎秒)を等倍とすると制定しており、各社はこの表現を採用している。規格の改定のたびに、パラレルATA規格の更新を取り入れている。CF Spec. Rev 6.0では、UDMA 7の最大1113倍速、167 MB/sの転送速度である。",
"title": "転送速度"
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"text": "PCカードアダプタを介して接続した場合、従来の16ビットPCカードスロットでは速度が遅いものしかないため(最高35倍速 5.3MB/s、一般に10倍速前後1 - 2 MB/s)、高速なCFカードはその性能を発揮できない。その場合は、CardBusアダプタ(バス速度444倍速66.6 MB/s、2007年現在実測260倍速39 MB/s)、または、ExpressCardアダプタ(2007年現在200倍速30 MB/s、2008年現在300倍速45 MB/s)を使用することで高速転送が可能となる。",
"title": "転送速度"
},
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"text": "USBカードアダプタを介して接続した場合、USB 2.0 では最大60 MB/sとなり、超高速タイプ(90 MB/sから100 MB/s)のコンパクトフラッシュの性能が発揮できない。そのような場合は、USB 3.0対応のカードアダプタを使えば解決できる。",
"title": "転送速度"
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"text": "本来のCF規格の目的である、フラッシュメモリなどを使ったメモリーカードである。CF規格では「コンパクトフラッシュストレージカード (CompactFlash Storage Card)」となっているが、ここでは一般に使われることの少ない「ストレージカード」との表現を避け、一般的な「メモリーカード」として表記する。",
"title": "コンパクトフラッシュメモリーカード"
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"text": "PCカードATAと68ピンATAとの両用、5 V電源と3.3 V電源との両用、アドレス2 KB制限、電流容量5 V電源時100 mA・3.3 V電源時75 mAまでの消費電流制限など、PCカードの一部仕様のみを必須として一部仕様を制限して採用した簡略仕様となっている。外形寸法は42.8 mm×36.4 mm×3.3 mmのタイプ1と、42.8 mm×36.4 mm×5 mmのタイプ2の二種類が基本だが、CFスロットからはみ出す物や、はみ出した部分がさらに厚くなった物へも対応している。",
"title": "コンパクトフラッシュメモリーカード"
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"text": "規格上ファイルシステム形式は策定されておらず、CFAはFAT12またはFAT16またはFAT32を推奨しているのみである。物理的にはカードリーダ/ライタがATA対応さえしていれば、CFメモリーカード側をFAT32等、いかようにも初期化できる。ただしATAの各種容量の壁に注意して対応を確認する必要がある。CF+カードをCF+非対応の古いカードリーダ/ライタに装着すると、電源容量が足りずカードを認識しない場合や、認識しても想定外の動作をすることがある。近年はデータの大容量化に伴い、CF+規格でFAT32の読み書きに対応した製品が多く流通するようになっている。",
"title": "コンパクトフラッシュメモリーカード"
},
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"text": "CFとして必須仕様の一部不採用や、電源容量などの拡張を採用できる、CF規格を拡張したCF+規格のカードが存在する。",
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"text": "どちらの電圧でも500 mAまでの電流容量の拡張や、片方の電圧のみの対応や、68ピンATA互換の不採用など、CF規格からの逸脱部分が追加定義された。外形寸法もCFタイプ1よりもさらに下側を1 mm以上厚く拡張された42.8 mm×36.4 mm×最小4.3 mmのCF+拡張タイプ1がある。CF+拡張タイプ1のスロットからはみ出す物や、はみ出した部分がさらに厚くなった物へも対応している。",
"title": "CF+カード"
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"text": "CFastとは、CompactFlash Associationが策定した規格である。",
"title": "CFastカード"
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"text": "CFexpress (CFX) は、2016年9月に発表されたPCIe 3.0とNVMe 1.2をベースとした規格である。2017年4月に公開されたCFexpress 1.0では、2レーンのPCIe 3.0を採用しており、最大転送速度2 GB/sに対応している。将来的には8レーンまで増やすことで8 GB/sまで対応可能である。XQDメモリーカードと上位互換性を保持している。",
"title": "CFexpress"
},
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"text": "CFexpress1.0規格を採用した製品は発売されなかったが、2019年にCFexpress2.0が策定され、2020年よりカメラの最上位機種を手始めに各社より対応機器が続々と発売されている。そのため、一時期CFastとXQDに2分されたコンパクトフラッシュの規格はCFexpressに一本化されたと言える。",
"title": "CFexpress"
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] | コンパクトフラッシュ は、小型カード型インタフェース、およびその規格による拡張カード。1990年代後半から2000年代後半にかけて、フラッシュメモリ型メモリーカードとして民生向け機器で広く使われた。また、ノートパソコンにネットワーク通信機器などの拡張デバイスを接続するためのインターフェイスとしても使われた他、産業用・組み込み用に使われている。 | {{otheruses|記憶メディア|同じ略称のクレジットカード|セディナ}}
[[Image:CompactFlash.jpg|thumb|250px|コンパクトフラッシュ]]
[[Image:Compactflash.jpg|thumb|250px|コンパクトフラッシュの大きさ]]
'''コンパクトフラッシュ''' ({{lang-en|CompactFlash, CF}}) は、小型[[カード]]型[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]、およびその規格による[[拡張カード]]。1990年代後半から2000年代後半にかけて、[[フラッシュメモリ]]型[[メモリーカード]]として民生向け機器で広く使われた。また、ノートパソコンにネットワーク通信機器などの拡張デバイスを接続するためのインターフェイスとしても使われた他、産業用・組み込み用に使われている。
==概要==
コンパクトフラッシュ(以下CFと略称で表記する)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[サンディスク]]を盟主とするコンパクトフラッシュアソシエーション(CFアソシエーション)が策定していた拡張カードの規格である。CF規格は[[1994年]]にサンディスクによって開発されたため、「コンパクトフラッシュ」という名称は、サンディスクの登録商標である。そのため他のメーカーは商標の使用を避けるため「'''CFカード'''」や「'''CF'''」といった名称を用いることが多い。
メディア(CFカード)は主に[[補助記憶装置]]として利用され、1990年代後半から2010年代前半にかけて[[メモリーカード]]として民生向けに大量に市販されていた他、CFカードサイズの1インチ[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]] (HDD)である[[マイクロドライブ]]のようなものも存在した。製品の寸法は42.8 mm×36.4 mm×3.3 mmのTypeI(ほとんどの製品で採用されていた形状)と、少し厚い5 mmのTypeII(内部に何かを組み込んだ製品などで採用されていた形状)がある。
インターフェースとして[[Advanced Technology Attachment#パラレルATA|パラレルATA]]接続を採用しており、1990年代当時ノートパソコン用として普及していた拡張メディアである[[PCカード]](ATAカード)規格と電気的な互換性がある。そのため、CFカード型デバイスをノートPCのPCカードスロットに接続するための変換アダプターを噛ませる際、アダプター側にコントローラーを搭載する必要がなく、アダプターを安価に製造できた。またCFカードのサイズもPCカードのサイズに準じて策定されたものであるから、ノートPCにおいてPCカードと同じ感覚でCFカードを利用できる利点があり、特にCFカード型メモリーカードは、それまでノートPC用の補助記憶装置として普及していたPCカード型フラッシュATAカードと同等に扱えたので便利であった。また、[[Bluetooth]]を利用した無線通信アダプターなど、[[拡張スロット]]に収まる寸法のカード型デバイスや、CFスロットからはみ出す形の、CFカード型[[PHS]]カード、有線/無線[[Local Area Network|LAN]]カード等の入出力デバイスも発売された。これら[[消費電力]]の多い[[入出力|I/O]]カード用に、1998年に[[#CF+カード|CF+規格]]として電力容量が拡張された。2000年頃にはCFスロットを標準搭載したノートPCもいくつか発売されたが、わざわざCFスロットを搭載しなくても、PCカードスロットにアダプターを噛ませれば賄えたのと、2000年代に入るとUSB端子の普及によってUSB接続型のCFカードリーダーが安価に出回るようになったので、それほど多かったわけではない。
大きさは、[[PCカード]]の3分の1程度であり、それゆえ「コンパクト」と名前がついているが、1990年代後半より続々と登場した他のフラッシュメモリカード類の規格と比較すると最も大きい。そのため、CFカードは携帯機器向けメモリカードの規格としては、コンパクトな機器には搭載できないという欠点があったが、一方でその大きさを生かして大容量かつ転送速度が高速と言う利点があり、1990年代末から2000年代にかけて行われたメモリーカードの[[規格争い]]において、[[デジタルカメラ]]や[[携帯情報端末|PDA]]といった容量と速度を必要とする機器において採用されるメディアとしての地位を確保していた。
2000年代後半には携帯機器のコンパクト化もあって、民生向けメモリーカードの規格戦争において[[SDメモリーカード#microSDカード|microSD]]規格が覇権を握るものの、プロフェッショナル向けカメラにおいてはメディアの小ささよりも大容量と高速な転送速度が必要とされることから、CFカードは一般人向け機器での採用が無くなった2010年代以降もデジタル一眼レフなどのプロフェッショナル向け機器において採用されていた。
2011年、CFアソシエーションはCFの次世代規格としてXQD1.0を発表。また、2012年には従来のパラレルATA接続だけではなくシリアルATA(SATA)接続に対応させた産業向けのCFの規格である「CFast」規格(2008年策定)をSATA-IIIインターフェースに対応させてCFの次世代規格としたCFast2.0規格を発表。両者とも初代CF規格との互換性はない。なお、業界の都合で次世代CFの規格が2つに分裂することになったが、2019年にCFアソシエーションはXQDおよびCFastの次世代規格として、XQDに対して後方互換性を持つCFexpress 2.0規格を発表し、次世代CFの規格が再び統一された。
2022年現在、初代CF規格はCFアソシエーションにおける開発を終了しているが、当面の間はメーカーがメディアを販売し続ける限りは展開が終了することはないとのこと。一般に流通している最大容量は512 [[ギガバイト|GB]]である。2010年のCF5.0規格から48bit LBA (BigDrive) に対応しており、仕様上の最大容量は144 [[ペタバイト|PB]]になっている。
===デジタル一眼レフカメラとCFカード===
デジタルカメラが普及し始めた1990年代後半から2000年代前半にかけて、コンパクトフラッシュは[[スマートメディア]]と並んで代表的なメモリカードであった。その後、コンパクトデジタルカメラは、より小型のSDメモリカード・メモリースティックなどを使用するようになったが、それら小型メディアより高速かつ大容量であったため、[[デジタル一眼レフカメラ]]などの高級機器においては引き続きコンパクトフラッシュを使用するものが多かった。
その後、一部のデジタル一眼レフはCFとSDのデュアルスロットを備え、両者を併用できるようにした製品も存在した。しかし、SDメモリカードの更なる高速化と大容量化、より高速な規格(CFastやXQD)の登場もあって、2010年代半ば頃よりデジタル一眼レフ用のメディアはそれらに移行した。
==転送速度==
転送速度は[[レキサー・メディア]]が[[コンパクトディスク|CD]]の転送速度の1倍速である150 [[キロ#情報工学の分野における使用法|K]][[ビット毎秒#バイト毎秒|B/s]](1.2 [[メガ#情報工学の分野における使用法|M]][[ビット毎秒]])を等倍とすると制定しており、各社はこの表現を採用している。規格の改定のたびに、[[Advanced Technology Attachment#パラレルATA|パラレルATA]]規格の更新を取り入れている。CF Spec. Rev 6.0では、[[Advanced Technology Attachment#Ultra DMA転送モード|UDMA]] 7の最大1113倍速、167 MB/sの転送速度である。
PCカードアダプタを介して接続した場合、従来の16ビットPCカードスロットでは速度が遅いものしかないため(最高35倍速 5.3MB/s、一般に10倍速前後1 - 2 MB/s)、高速なCFカードはその性能を発揮できない。その場合は、[[CardBus]]アダプタ(バス速度444倍速66.6 MB/s、2007年現在実測260倍速39 MB/s)、または、[[ExpressCard]]アダプタ(2007年現在200倍速30 MB/s、2008年現在300倍速45 MB/s)を使用することで高速転送が可能となる。
[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]カードアダプタを介して接続した場合、USB 2.0 では最大60 MB/sとなり、超高速タイプ(90 MB/sから100 MB/s)のコンパクトフラッシュの性能が発揮できない。そのような場合は、USB 3.0対応のカードアダプタを使えば解決できる。
==コンパクトフラッシュメモリーカード==
本来のCF規格の目的である、[[フラッシュメモリ]]などを使った[[メモリーカード]]である。CF規格では「コンパクトフラッシュストレージカード ({{en|CompactFlash Storage Card}})」となっているが、ここでは一般に使われることの少ない「ストレージカード」との表現を避け、一般的な「メモリーカード」として表記する。
[[PCカードATA]]と[[68ピンATA]]との両用、5 V電源と3.3 V電源との両用、アドレス2 KB制限、電流容量5 V電源時100 mA・3.3 V電源時75 mAまでの消費電流制限など、[[PCカード]]の一部仕様のみを必須として一部仕様を制限して採用した簡略仕様となっている。外形寸法は42.8 mm×36.4 mm×3.3 mmのタイプ1と、42.8 mm×36.4 mm×5 mmのタイプ2の二種類が基本だが、CFスロットからはみ出す物や、はみ出した部分がさらに厚くなった物へも対応している。
規格上[[ファイルシステム]]形式は策定されておらず、CFAは[[File Allocation Table#FAT12|FAT12]]または[[File Allocation Table#FAT16|FAT16]]または[[File Allocation Table#FAT32|FAT32]]を推奨しているのみである。物理的にはカードリーダ/ライタがATA対応さえしていれば、CFメモリーカード側を[[File Allocation Table#FAT32|FAT32]]等、いかようにも初期化できる。ただしATAの各種[[容量の壁]]に注意して対応を確認する必要がある。CF+カードをCF+非対応の古いカードリーダ/ライタに装着すると、電源容量が足りずカードを認識しない場合や、認識しても想定外の動作をすることがある。近年はデータの大容量化に伴い、CF+規格でFAT32の読み書きに対応した製品が多く流通するようになっている。
===メモリ容量===
{| class="wikitable"
|+
!年
!容量
|-
|1994
|2MB
|-
|1996
|15MB(typo?)
|-
|1996から2000
|32、64、128、256、512MB
|-
|2002
|1GB
|-
|2004
|2GB
|-
|2006
|4、8GB
|-
|2007
|16GB
|-
|2008
|32GB
|-
|2009
|64GB
|-
|2010
|128GB
|-
|2012
|256GB
|-
|2014
|512GB
|}
==CF+カード==
[[画像:AX420S.jpg|thumb|CF Type I Extended 対応PHSデータ通信カード<br />([[ウィルコム]] [[AX420S]]、[[セイコーインスツル|SII]]製)]]
CFとして必須仕様の一部不採用や、電源容量などの拡張を採用できる、CF規格を拡張したCF+規格のカードが存在する。
どちらの電圧でも500 mAまでの電流容量の拡張や、片方の電圧のみの対応や、[[68ピンATA]]互換の不採用など、CF規格からの逸脱部分が追加定義された。外形寸法もCFタイプ1よりもさらに下側を1 mm以上厚く拡張された42.8 mm×36.4 mm×最小4.3 mmのCF+拡張タイプ1がある。CF+拡張タイプ1のスロットからはみ出す物や、はみ出した部分がさらに厚くなった物へも対応している。
*電流容量の500 mAまでの拡張。CFハードディスク、[[マイクロドライブ]]など消費電力のみでCF+になっている物もある。
*[[68ピンATA]]互換の[[TrueIDEモード]]の不採用。ATA互換で無いI/Oカードの全て。
*対応電源電圧3.3 Vのみのカード。一部PHSカードなどで消費電力を拡張制限内に抑えるために低電圧のみの採用など。
==CFastカード==
[[File:CFast Kontakte (cropped).jpg|thumb|[[スイスビット]] CFastのピン配置]]
'''CFast'''とは、CompactFlash Associationが策定した規格である。
*2014年9月の時点で仕様としてはCFast2.0となっている。
*外観:従来のCFカードと同様の36.4 mm×42.8 mm×3.3 mm
*[[インタフェース (情報技術)|インターフェース]]:SATA3([[シリアルATA]])6Gbps(転送レート6.0 Gb/s (600 MB/s)
*本体形状は同様でも従来のCFカードとの互換性はない。これはコネクター形状が変更されたためである。コネクタ内で曲がる可能性のあるピンを排除し、従来からの問題だった破損を防いでいる
*物理的に従来のCFカードと互換性がなくなったが、転送速度表記は従来と同様に倍速表記が使用されている。従来のCFカードでは1113倍速(x1113等の表記)が最大だったのに対し、Cfast2.0カードにおいては3333倍速(x3333等の表記で500 MB/s時)と大幅に向上している。
*CFastカードを採用した例として、[[キヤノン]]製の一部カメラ(ハイエンドビデオカメラやEOS-1D X Mark II等)がある。
== CFexpress ==
[[File:Transcend Information CFexpress card-top PNr°0910.jpg|thumb|180px|CFexpressカード]]
'''CFexpress''' (CFX) は、[[2016年]]9月に発表された[[PCI Express|PCIe]] 3.0と[[NVM Express|NVMe]] 1.2をベースとした規格である<ref name="CFexpress_1.0">{{Cite web|title=CFexpress 1.0 Press Release|url=http://www.compactflash.org/assets/docs/cfapress/cfexpress_1_0_press_release_2017417.pdf|publisher=CompactFlash Association|format=PDF|date=2017-04-18|accessdate=2018-06-29}}</ref>。[[2017年]]4月に公開されたCFexpress 1.0では、2レーンのPCIe 3.0を採用しており、最大転送速度2 GB/sに対応している<ref name="CFexpress_1.0" />。将来的には8レーンまで増やすことで8 GB/sまで対応可能である。[[XQDメモリーカード]]と上位互換性を保持している。
CFexpress1.0規格を採用した製品は発売されなかったが、2019年にCFexpress2.0が策定され、2020年よりカメラの最上位機種を手始めに各社より対応機器が続々と発売されている。そのため、一時期CFastとXQDに2分されたコンパクトフラッシュの規格はCFexpressに一本化されたと言える。
==規格のあゆみ==
{| class="wikitable"
|+
!Ver.
!年
!月
!
|-
|1.0
|[[1994年|1994]]
| rowspan="5" |?
|初リリース。[[Advanced Technology Attachment#PIO転送モード|PIOモード]]0 - 2(55倍速8.3 [[メガ|M]][[バイト毎秒|B/s]])。
|-
|1.1
| rowspan="2" |?
|コネクターの図面を追加。
|-
|1.2
|図面にミリメートル寸法から変換したインチ寸法を追加。
|-
|1.3
|[[1998年|1998]]
|CFタイプ2を追加。CFソケット・CFアダプターの図面を追加。
|-
|1.4
|[[1999年|1999]]
|CF+を追加。ATAコマンドを更新。CF+ & CompactFlashへの名称変更。[[消費電力]]と[[TrueIDEモード]]について。電源管理機能の設計図を追加。CFタイプ2ソケット、CFタイプ2アダプターを追加。CF/CF+タイプ1表面実装カードスロットの図面を更新。
|-
|2.0
|[[2003年|2003]]
| rowspan="2" |[[5月|5]]
|ATA-4に合わせた、[[Advanced Technology Attachment#PIO転送モード|PIOモード]]3と4(111倍速 16.6MB/s)やコマンドの追加更新。[[巡回冗長検査|CRC]][[誤り検出]]再送。CFタイプ2からPCMCIAタイプ2への変換アダプターを追加。著作権保護規格[[コピーガード|CPRM]]を追加。長い外形寸法を追加。CFアダプター配線表変更。
|-
|2.1
| rowspan="2" |[[2004年|2004]]
|TrueIDEモードに[[Advanced Technology Attachment#Multiword DMA転送モード|Multiword DMA]]0 - 2(111倍速 16.6MB/s)を追加。
|-
|3.0
|12
|TrueIDEモードに[[Advanced Technology Attachment#Ultra DMA転送モード|Ultra DMA]]0 - 4(444倍速66.6 MB/s)を追加。[[PCカード]]モードにPIO4 - 6相当(166倍速 25.0MB/s)とTrueIDEモードにPIO5と6(166倍速 25.0MB/s)を追加。TrueIDEモードに[[Advanced Technology Attachment#Multiword DMA転送モード|Multiword DMA]]3と4(166倍速 25.0MB/s)を追加。
|-
|3.1
| colspan="3" |?
|-
|4.0
|[[2006年|2006]]
|5
|[[PCカード]][[Advanced Technology Attachment#Ultra DMA転送モード|UDMA]]モード0 - 6(888倍速 133MB/s)とTrueIDEモードにUDMA5と6(888倍速 133MB/s)を追加。
|-
|4.1
|[[2007年|2007]]
| rowspan="2" |2
|?
|-
|5.0
| rowspan="2" |[[2010年|2010]]
|[[Advanced Technology Attachment#48bit LBA(BigDrive)|48bit LBA (BigDrive)]](最大容量144 PB)対応を追加。[[Quality of Service|QoS]]を追加。[[TRIM|Trim]]対応を追加。
|-
|6.0
|11
|[[Advanced Technology Attachment#Ultra DMA転送モード|UDMA]]モード7(1113倍速 167MB/s)を追加。Sanitizeコマンドを追加。
|}
== その他 ==
* [[日本IBM]]は[[1995年]]発売の[[Palm Top PC 110]]内蔵のリーダーに「'''スマート・ピコ・フラッシュ'''」という名を与えていた。
* 他のメモリーカードをCFカードスロットで利用するための変換アダプタも存在した。小型のメモリーカードである[[SDメモリーカード]]や[[メモリースティック#メモリースティック Duo|DuoサイズのMS]]や[[xDピクチャーカード]]はCFメモリーカードの大きさに変換するアダプタがある。大きめのメディアである[[メモリースティック]]や[[スマートメディア]]用のアダプタは、使用時のサイズがCFカードより大きい。
* PCカード規格と電気的な互換性があるため、CFカードの50ピンをPCカードの68ピンへ変換するのみの単純なアダプターをPCカードスロットに取り付けるだけで、CFカードを16bit PCカードとして利用することができた。
* 内蔵ハードディスク等で使用されている[[Advanced Technology Attachment#パラレルATA|パラレルATA]]と[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]上の互換性を持つため、コネクタの配線変換で[[IDE変換]]ができる。これを利用して、汎用の[[リムーバブルメディア]]とする以外にも、[[組み込みシステム|組み込み機器]]の起動[[ソリッドステートドライブ|メモリディスク]]としてや、[[デジタルオーディオプレーヤー]]の内蔵記憶装置としてなど、内蔵[[部品]]としても使われていた。またPCカード経由などでもハードディスクの代用として利用する場合もあった。[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]などへもIDE変換でパラレルATAや[[シリアルATA]]に直結するアダプタが有り、小容量の内蔵HDDの代替として、デジカメ用メディアとしての役目を終えたCFメモリーカードを1990年代製の古いPCの整備に使い回すこともあった。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[拡張カード]]
** [[PCカード]]
** [[ExpressCard]]
* [[Advanced Technology Attachment|ATA]]
* [[マイクロドライブ]]
* [[XQDメモリーカード]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:CompactFlash}}
* [http://www.compactflash.org/ CompactFlash Association]
* [http://pinouts.ws/compact-flash-pinout.html CompactFlash pinout]
{{メモリーカード}}
{{DEFAULTSORT:こんはくとふらつしゆ}}
[[Category:メモリーカード]]
[[Category:拡張カード]]
[[Category:登録商標]] | 2003-04-11T18:40:53Z | 2023-11-06T13:06:53Z | false | false | false | [
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"Template:Reflist",
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"Template:メモリーカード",
"Template:Otheruses"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5 |
6,545 | 四天王 | 四天王(してんのう、梵: Caturmahārāja[チャトゥル・マハーラージャ])は仏教における神々であり、六欲天の第1天、四大王衆天(しだいおうしゅてん、四王天、梵: Cāturmahārājika [チャートゥル・マハーラージカ])の主。四大王(しだいおう)ともいう。
東方の持国天(じこくてん)、南方の増長天(ぞうちょうてん)、西方の広目天(こうもくてん)、北方の多聞天(たもんてん)の四神。それぞれ須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護している。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で共に仏法を守護する。
須弥の四洲(東勝身洲=とうしょうしんしゅう、南贍部洲=なんせんぶしゅう、西牛貨洲=さいごけしゅう、北倶盧洲=ほっくるしゅう)を守護し、忉利天主・帝釈天の外臣である。この天に住む者の身長は半由旬、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当する。
四天王は早くから日本でも信仰されていた。『日本書紀』によれば仏教をめぐっておこされた蘇我馬子と物部守屋との戦いに参戦した聖徳太子は、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して摂津国玉造(大阪市天王寺区)に四天王寺(四天王大護国寺)を建立したとされる。
インドでは貴人の姿で表現されたが、日本では甲冑を着けて武器を持ち、邪鬼を踏みつける姿をとる。像は須弥壇の四隅にそれぞれ配置される。四天王像としては、東大寺の戒壇院のものが有名である。
ある分野で有力な4人の人物を「四天王」と表現する。徳川四天王、長船四天王、ものまね四天王、Vシネマ四天王、平成四天王(囲碁)など。 | [
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] | 四天王は仏教における神々であり、六欲天の第1天、四大王衆天の主。四大王(しだいおう)ともいう。 東方の持国天(じこくてん)、南方の増長天(ぞうちょうてん)、西方の広目天(こうもくてん)、北方の多聞天(たもんてん)の四神。それぞれ須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護している。須弥山頂上の忉利天(とうりてん)に住む帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で共に仏法を守護する。 | {{Otheruses|仏教における四天王||}}
{{Infobox Buddhist term
| title = 四天王
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| pi-Latn =
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| my = နတ်မင်းကြီးလေးပါး
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| tl-tglg =
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| vi = Tứ Thiên Vương, Tứ Đại Thiên Vương
}}
[[File:Four Guardian Kings in Burmese art.jpg|thumb|270px|ビルマの四護神を表した図]]
{{出典の明記|date=2017年10月22日 (日) 07:57 (UTC)}}
'''四天王'''(してんのう{{efn|「してんおう」の[[連声]]が「してんのう」<ref name="kotobank" />。}}、{{lang-sa-short|Caturmahārāja}}<ref name="Caturmaharaja_WL">[https://www.wisdomlib.org/definition/caturmaharaja Caturmaharaja - Wisdom Library]</ref>{{fontsize|77%|[チャトゥル・マハーラージャ]}})は[[仏教]]における神々であり、[[六欲天]]の第1天、[[四大王衆天]](しだいおうしゅてん、四王天、{{lang-sa-short|Cāturmahārājika}}<ref name="Caturmaharajika_WL">[https://www.wisdomlib.org/definition/caturmaharajika Caturmaharajika - Wisdom Library]</ref> {{fontsize|77%|[チャートゥル・マハーラージカ]}})の主<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B-74335|title=四天王(してんのう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-22}}</ref>。'''四大王'''(しだいおう)ともいう<ref name="kb681">{{Cite book |和書 |author=中村元 |date=2001-06 |title=広説佛教語大辞典 |publisher=東京書籍 |volume= |page=681 |isbn=}}</ref>。
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== 一覧 ==
* 東方[[持国天]]({{lang-sa-short|Dhṛtarāṣṭra}}) - 東勝身洲を守護する。[[ガンダルヴァ|乾闥婆]]、[[ピシャーチャ|毘舎遮]]を[[眷属]]とする。
* 南方[[増長天]]({{lang-sa-short|Virūḍhaka}}) - 南贍部洲を守護する。[[鳩槃荼]]、[[餓鬼|薜茘多]](へいれいた)を眷属とする。
* 西方[[広目天]]({{lang-sa-short|Virūpākṣa}}) - 西牛貨洲を守護する。[[ナーガ|龍神]]、[[ブータ|富単那]]を眷属とする。
* 北方[[多聞天]]({{lang-sa-short|Vaiśravaṇa}}) - 北倶盧洲を守護する。[[毘沙門天]]とも呼ぶ。原語の意訳が多聞天、音訳が毘沙門天<ref>中村元 『佛教語大辞典』 東京書籍、1981年。</ref>。[[夜叉]]、[[羅刹天|羅刹]]を眷属とする。[[七福神]]の内の一尊。
須弥の四洲(東勝身洲=とうしょうしんしゅう、南贍部洲=なんせんぶしゅう、西牛貨洲=さいごけしゅう、北倶盧洲=ほっくるしゅう)を守護し、忉利天主・帝釈天の外臣である。この天に住む者の身長は半[[由旬]]、寿命は500歳で、その一昼夜は人間界の50年に相当する。
== 日本での信仰 ==
{{出典の明記|date=2017年10月22日 (日) 07:57 (UTC)|section=1}}
四天王は早くから日本でも信仰されていた。『[[日本書紀]]』によれば仏教をめぐっておこされた[[蘇我馬子]]と[[物部守屋]]との戦いに参戦した[[聖徳太子]]は、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して[[摂津国]]玉造([[大阪市]][[天王寺区]])に[[四天王寺]](四天王大護国寺)を建立したとされる{{efn|のち、荒陵の現在地に移転。}}。
== 像容 ==
インドでは貴人の姿で表現されたが、日本では甲冑を着けて武器を持ち、邪鬼を踏みつける姿をとる<ref name="kotobank" />。像は須弥壇の四隅にそれぞれ配置される<ref name="kotobank" />。四天王像としては、[[東大寺]]の戒壇院のものが有名である<ref name="kotobank" />。
<gallery caption="[[高砂市]][[時光寺|時光寺(播州善光寺)]]の四天王" perrow="4">
Jikoji jikokuten.JPG|東方[[持国天]]
Jikoji zochoten.JPG|南方[[増長天]]
Jikoji komokuten.JPG|西方[[広目天]]
Jikoji tamonten.JPG|北方[[多聞天]]
</gallery>
<gallery caption="中国北京[[十方普覚寺|十方普覚寺(臥佛寺)]]の四天王" perrow="4">
北京十方普觉寺 持国天.JPG|東方[[持国天]]
北京十方普觉寺 增长天.JPG|南方[[増長天]]
Guangmutian, Shifangpujue Temple, Beijing, P.R.China.JPG|西方[[広目天]]
北京十方普觉寺 多闻天.JPG|北方[[多聞天]]
</gallery>
<gallery caption="中国北京[[大覚寺 (北京)|大覚寺]]の四天王" perrow="4">
2009.12.01 暘臺山大覺寺 44.JPG|東方[[持国天]]
2009.12.01 暘臺山大覺寺 41.JPG|南方[[増長天]]
2009.12.01 暘臺山大覺寺 42.JPG |西方[[広目天]]
2009.12.01 暘臺山大覺寺 43.JPG|北方[[多聞天]]
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<gallery caption="中国北京[[妙応寺 (北京)|妙応寺]]の四天王" perrow="4">
Dhritarastra at Miaoying Temple.JPG|東方[[持国天]]
Vidradhaka at Miaoying Temple.JPG|南方[[増長天]]
Virapaksa at Miaoying Temple.JPG|西方[[広目天]]
Vaisramana at Miaoying Temple.JPG|北方[[多聞天]]
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<gallery perrow="4" caption="香港[[西方寺 (香港)|西方寺]]の四天王">
ファイル:西方寺的東方持國天王.jpg|東方[[持国天]]
ファイル:西方寺的南方增長天王.jpg|南方[[増長天]]
ファイル:西方寺的西方廣目天王.jpg|西方[[広目天]]
ファイル:西方寺的北方多聞天王.jpg|北方[[多聞天]]
</gallery>
<gallery caption="韓国[[梵魚寺]]、[[修徳寺]]の四天王" perrow="4">
Korea-Busan-Beomeosa 6219-07 Guardian of the East.JPG|東方[[持国天]]
Korea-Busan-Beomeosa 6218-07 Guardian of the South.JPG|南方[[増長天]]
Guard statue in a Korean temple.jpg|西方[[広目天]]
Korea-Busan-Beomeosa 6217-07 Guardian of the North.JPG|北方[[多聞天]]
</gallery>
== 比喩としての用法 ==
ある分野で有力な4人の人物を「四天王」と表現する。[[徳川四天王]]、[[長船四天王]]、[[ものまね四天王]]、[[Vシネマ四天王]]、[[平成四天王]](囲碁)など。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{Notelist}}
'''出典'''
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Portal 仏教}}
* [[仏の一覧]]
* [[天王]]
* [[十二天]]
* [[十六善神]]
* [[三界]]
* [[天 (仏教)]]
* {{Intitle|四天王}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Shi Tenno}}
* [https://mk123456.web.fc2.com/sio.htm 四天王]
{{天}}
{{Buddhism2}}
{{Portal bar|仏教|宗教|美術}}
{{DEFAULTSORT:してんのう}}
[[Category:天部]]
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[[Category:仏教の名数4|てんのう]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B |
6,547 | 日本三景 | 日本三景(にほんさんけい)は、日本の3つの名勝地のことである。
日本三景は以下の3つの名勝地を指す(記載順は全国地方公共団体コードの順番による)。全て海(沿岸)にある風景となっており、各々古くから詩歌に詠まれ、絵画に描かれていた。
江戸時代前期の儒学者・林春斎が、寛永20年8月13日(1643年9月25日)に執筆した著書『日本国事跡考』の陸奥国のくだりにおいて、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀」(句読点等は筆者付記)と書き記した。これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる。
その後、元禄2年閏1月28日(1689年3月19日)に天橋立を訪れた儒学者・貝原益軒が、その著書『己巳紀行』(きしきこう)の中の丹波丹後若狭紀行において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記している。これが「日本三景」という言葉の文献上の初出とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されている。
日本三景を雪月花にあてる場合、「雪」は天橋立、「月」は松島、「花」は紅葉を花に見立てて宮島をあてている。
近年の年間観光客数は、松島が約370万人(奥松島や塩竈などを含む松島全体では622万人)、宮島が約309万人(対岸も含めた廿日市市全体では562万人)、天橋立が約267万人(阿蘇海に面する宮津市と与謝野町の合計は約371万人)となっている。
観光大使として、松島には「松島キャンペーンレディ」、天橋立には「プリンセス天橋立」、宮島には「宮島観光親善大使」がおり、日本三景共同キャンペーンの際などに一緒に活動している。
夏には、松島灯籠流し花火大会、宮津灯籠流し花火大会、宮島水中花火大会という海上花火が日本三景各地で開催され、多くの観光客を集める。
いずれも名物として牡蠣があるが、松島と宮島は冬が主なのに対し、天橋立は夏の岩ガキが主である。松島の牡蠣鍋クルーズや寿司(特定第3種漁港・塩釜漁港)、天橋立の松葉ガニやとり貝、宮島のもみじ饅頭やアナゴが訴求力のある食観光として知られる。
日本三景はいずれも1952年(昭和27年)11月22日に特別名勝に指定されている。日本三景は各々別々に世界遺産登録に動いたが、現時点では厳島神社(1996年(平成8年)12月登録)以外は登録に至っていない。
2006年(平成18年)7月5日に開催された日本三景観光連絡協議会の総会において、林春斎の誕生日が元和4年5月29日(1618年7月21日)であることに因み、7月21日を「日本三景の日」と制定した。
2007年(平成19年)4月、日本を訪れる外国人観光客向けに、ミシュラン実用旅行ガイド(MICHELIN Voyager Pratique Japon)が発刊された。これは「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の一環として、ミシュラン社や国土交通省などが連携したものである。日本三景では松島と宮島が単独の項目として記載され、各々三ツ星が3つずつ付いた。
2009年(平成21年)3月、日本を訪れる外国人観光客向けに、ミシュラン観光ガイドMICHELIN Green Guide Japon)が日本政府観光局の協力を得て発刊された。日本三景では松島と宮島が単独の項目として記載され、松島では、松島海岸地区に三ツ星3、二ツ星4、一ツ星8の計25、塩竈地区に二ツ星3の計6、全体で合計31の星が付いた。宮島では三ツ星3、二ツ星2、一ツ星3の計17の星が付いた。同年9月には英語版も発刊された。
日本三景としての知名度の高さはあれ、各地域では宿泊客数の減少に苦しんでいる。その打開策の1つとして、日本三景が持ち合わせていなかった温泉を開発する動きが近年起こっている。
天橋立では、1999年(平成11年)12月20日に天橋立温泉が開湯した。キャッチコピーは「神々の遊湯(あそびゆ)」。現在は旅館9軒、民宿2軒、外湯1軒で利用されている(一部の旅館は冷泉)。泉質は塩化物泉や単純温泉など。
宮島には、冷泉を加温して給湯する温泉があったが、30年前の公共下水道工事により途絶えた。2004年(平成16年)に新たにボーリングなどを行い、冷泉が復活した。現在は、旅館3軒が加温して給湯している。泉質は放射能泉。
松島では、仙台・宮城デスティネーションキャンペーンに合わせ、2008年(平成20年)8月5日に松島温泉が開湯した。キャッチコピーは「太古天泉」。泉質は単純温泉と塩化物泉。
1915年(大正4年)、日本三景にならって実業之日本社主催による日本新三景の選定が行われた。全国投票の結果、1916年(大正5年)に以下の3つが選ばれた。1918年(大正7年)にはこの3地に「『婦人世界』創刊10周年記念日本新三景碑」も建てられた。三保の松原は、2013年(平成25年)に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の一部として世界文化遺産に登録された。 | [
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"text": "日本三景を雪月花にあてる場合、「雪」は天橋立、「月」は松島、「花」は紅葉を花に見立てて宮島をあてている。",
"title": "概要"
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"text": "近年の年間観光客数は、松島が約370万人(奥松島や塩竈などを含む松島全体では622万人)、宮島が約309万人(対岸も含めた廿日市市全体では562万人)、天橋立が約267万人(阿蘇海に面する宮津市と与謝野町の合計は約371万人)となっている。",
"title": "観光"
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"text": "観光大使として、松島には「松島キャンペーンレディ」、天橋立には「プリンセス天橋立」、宮島には「宮島観光親善大使」がおり、日本三景共同キャンペーンの際などに一緒に活動している。",
"title": "観光"
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"text": "夏には、松島灯籠流し花火大会、宮津灯籠流し花火大会、宮島水中花火大会という海上花火が日本三景各地で開催され、多くの観光客を集める。",
"title": "観光"
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"text": "いずれも名物として牡蠣があるが、松島と宮島は冬が主なのに対し、天橋立は夏の岩ガキが主である。松島の牡蠣鍋クルーズや寿司(特定第3種漁港・塩釜漁港)、天橋立の松葉ガニやとり貝、宮島のもみじ饅頭やアナゴが訴求力のある食観光として知られる。",
"title": "観光"
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"text": "日本三景はいずれも1952年(昭和27年)11月22日に特別名勝に指定されている。日本三景は各々別々に世界遺産登録に動いたが、現時点では厳島神社(1996年(平成8年)12月登録)以外は登録に至っていない。",
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"text": "2006年(平成18年)7月5日に開催された日本三景観光連絡協議会の総会において、林春斎の誕生日が元和4年5月29日(1618年7月21日)であることに因み、7月21日を「日本三景の日」と制定した。",
"title": "観光"
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"text": "2007年(平成19年)4月、日本を訪れる外国人観光客向けに、ミシュラン実用旅行ガイド(MICHELIN Voyager Pratique Japon)が発刊された。これは「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の一環として、ミシュラン社や国土交通省などが連携したものである。日本三景では松島と宮島が単独の項目として記載され、各々三ツ星が3つずつ付いた。",
"title": "観光"
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"text": "2009年(平成21年)3月、日本を訪れる外国人観光客向けに、ミシュラン観光ガイドMICHELIN Green Guide Japon)が日本政府観光局の協力を得て発刊された。日本三景では松島と宮島が単独の項目として記載され、松島では、松島海岸地区に三ツ星3、二ツ星4、一ツ星8の計25、塩竈地区に二ツ星3の計6、全体で合計31の星が付いた。宮島では三ツ星3、二ツ星2、一ツ星3の計17の星が付いた。同年9月には英語版も発刊された。",
"title": "観光"
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"text": "日本三景としての知名度の高さはあれ、各地域では宿泊客数の減少に苦しんでいる。その打開策の1つとして、日本三景が持ち合わせていなかった温泉を開発する動きが近年起こっている。",
"title": "観光"
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"text": "天橋立では、1999年(平成11年)12月20日に天橋立温泉が開湯した。キャッチコピーは「神々の遊湯(あそびゆ)」。現在は旅館9軒、民宿2軒、外湯1軒で利用されている(一部の旅館は冷泉)。泉質は塩化物泉や単純温泉など。",
"title": "観光"
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"text": "宮島には、冷泉を加温して給湯する温泉があったが、30年前の公共下水道工事により途絶えた。2004年(平成16年)に新たにボーリングなどを行い、冷泉が復活した。現在は、旅館3軒が加温して給湯している。泉質は放射能泉。",
"title": "観光"
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"text": "松島では、仙台・宮城デスティネーションキャンペーンに合わせ、2008年(平成20年)8月5日に松島温泉が開湯した。キャッチコピーは「太古天泉」。泉質は単純温泉と塩化物泉。",
"title": "観光"
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"text": "1915年(大正4年)、日本三景にならって実業之日本社主催による日本新三景の選定が行われた。全国投票の結果、1916年(大正5年)に以下の3つが選ばれた。1918年(大正7年)にはこの3地に「『婦人世界』創刊10周年記念日本新三景碑」も建てられた。三保の松原は、2013年(平成25年)に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の一部として世界文化遺産に登録された。",
"title": "日本新三景"
}
] | 日本三景(にほんさんけい)は、日本の3つの名勝地のことである。 | [[Image:NihonSankei.png|thumb|right|300px|日本三景]]
'''日本三景'''(にほんさんけい)は、日本の3つの[[名勝地]]のことである。
== 概要 ==
{{座標一覧|section=概要}}
日本三景は以下の3つの名勝地を指す(記載順は全国地方公共団体コードの順番による)。全て[[海]](沿岸)にある風景となっており、各々古くから[[詩歌]]に詠まれ、[[絵画]]に描かれていた。
{| class="wikitable"
|+日本三景
!呼称
!所在地と地形的特徴
!位置
|-
![[松島]]
|[[宮城県]][[宮城郡]][[松島町]]を中心とした[[多島海]]
|{{ウィキ座標|38|22|10.9|N|141|3|50.7|E|region:JP|地図|name=日本三景 松島(中心点は五大堂)}}
|-
![[天橋立]]
|[[京都府]][[宮津市]]にある[[砂嘴]]
|{{ウィキ座標|35|34|12.4|N|135|11|31.1|E|region:JP|地図|name=日本三景 天橋立}}
|-
![[厳島|宮島]](厳島)
|[[広島県]][[廿日市市]]にある[[厳島神社]]を中心とした[[島]]
|{{ウィキ座標|34|17|45.6|N|132|19|11.4|E|region:JP|地図|name=日本三景 宮島(中心点は厳島神社)}}
|}
[[江戸時代]]前期の[[儒学者]]・[[林鵞峰|林春斎]]が、[[寛永]]20年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]([[1643年]][[9月25日]])に執筆した著書『日本国事跡考』の[[陸奥国]]のくだりにおいて、「'''松島'''、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與[[丹後国|丹後]]'''天橋立'''・[[安芸国|安藝]]'''嚴嶋'''爲<ins>三處奇觀</ins><ref group="※">京都大学附属図書館所蔵の『[[日本国事跡考]]』に記された返り点等に基く[[訓読]]:<br />{{Quotation|松島、{{読み仮名|此|こ}}の島{{読み仮名|之|の}}{{読み仮名|外|ほか}}に小島{{読み仮名|若干|そこばく}}{{読み仮名|有|あり}}、{{読み仮名|殆|ほと}}んど盆池月波{{読み仮名|之|の}}景の如し、境致{{読み仮名|之|の}}佳なる、丹後の天橋立・安芸厳島{{読み仮名|与|と}}三処の奇観{{読み仮名|為|なす}}|林春斎|日本国事跡考}}</ref>」([[句読点]]等は筆者付記)と書き記した<ref>[http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i191/image/01/i191s0047.html 日本国事跡考(47頁/80頁)]([[京都大学]]附属図書館所蔵)</ref>。これを端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる。
[[ファイル:Amanohashidate Three Views of Japan Stone Statue.jpg|thumb|right|260px|日本三景碑(天橋立)]]
その後、[[元禄]]2年[[閏]][[1月28日 (旧暦)|1月28日]]([[1689年]][[3月19日]])に天橋立を訪れた儒学者・[[貝原益軒]]が、その著書『己巳紀行』(きしきこう)の中の[[丹波国|丹波]]丹後[[若狭国|若狭]]紀行において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記している<ref>{{Cite journal|和書|author=長谷川成一 |title=近世丹後国「天橋立(あまのはしだて)」--名所・名勝の危機と景観保全の論理、神罰と民衆 |url=https://hdl.handle.net/10129/1308 |journal=文経論叢 |publisher=弘前大学人文学部 |year=1994 |month=feb |volume=29 |issue=3 |pages=93-124 |naid=110000399873 |issn=03854191}}</ref>。これが「日本三景」という言葉の文献上の初出とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されている<ref>[http://www.amanohashidate.jp/rekishi.html 宮津天橋立観光案内「歴史と文化」](天橋立観光協会)</ref>。
日本三景を[[雪月花]]にあてる場合、「[[雪]]」は天橋立<ref group="※">実際に{{PDFlink|[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/atlas/snow/snow_13.pdf 年最深積雪(1971年〜2000年の平年値)]}}の指標では、日本三景の中で天橋立が最も雪が多い。</ref>、「[[月]]」は松島、「[[花]]」は[[紅葉]]を花に見立てて宮島をあてている。
== 観光 ==
{| class="wikitable"
|+日本三景の主な観光施設
!!!主な眺望地!!主な[[神社]]!!主な[[寺院]]!![[水族館]]
|-
!松島
|[[松島四大観]]||[[陸奥国]][[一宮]]・[[鹽竈神社]]||[[瑞巌寺]]、[[五大堂]]、[[円通院 (宮城県松島町)|円通院]]||-<ref group="※">1927年(昭和2年)4月1日に開館した[[マリンピア松島水族館]]は、2015年(平成27年)5月10日に閉館した。飼育動物および飼育員は、仙台と松島とを結ぶ[[仙石線]]([[中野栄駅]])、[[仙台東部道路]]([[仙台港インターチェンジ|仙台港IC]])および[[三陸沿岸道路|三陸自動車道]]、[[国道45号]]、[[宮城県道23号仙台塩釜線]]に隣接する[[仙台うみの杜水族館]]が引き継いだ。</ref>
|-
!天橋立
|[[傘松公園|斜め一文字]]||[[丹後国]]一宮・[[籠神社]]||[[智恩寺 (宮津市)|智恩寺]]、[[成相寺]]||[[魚っ知館]]
|-
!宮島
|[[弥山 (広島県)|弥山]]||[[安芸国]]一宮・[[厳島神社]]||[[大聖院 (宮島)|大聖院]]、[[大願寺 (廿日市市)|大願寺]]、[[千畳閣]]||[[宮島水族館|みやじマリン]]
|}
近年の年間観光客数は、松島が約370万人<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kankochi/pdf/seibi_pdf07.pdf 伊達な広域観光圏整備計画]}}([[観光庁]]) 2007年の松島町のみの値。</ref>(奥松島や[[塩竈市|塩竈]]などを含む松島全体では622万人<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/kankou/statistics/H19%20%20gaiyou.pdf 観光統計概要 平成19年]}}(宮城県経済商工観光部観光課)</ref>)、宮島が約309万人<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kankochi/pdf/seibi_pdf29.pdf 広島・宮島・岩国地域観光圏整備計画]}}(観光庁) 2007年の廿日市市[[厳島|宮島町]]のみの値。</ref>(対岸も含めた廿日市市全体では562万人<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.hiroshima.lg.jp/www/contents/1214306270948/files/gaikou.pdf 平成19〔2007〕年 広島県観光客数の動向「第2-1 観光客の概況」]}}(広島県)</ref>)、天橋立が約267万人<ref>[http://www.pref.kyoto.jp/tokei/yearly/tokeisyo/tokeisyo200610.html 平成18年京都府統計書 第10章運輸・情報通信・観光「10-13.市町村別観光入込客数及び観光消費額」](京都府) 2006年の宮津市のみの値。</ref>([[阿蘇海]]に面する宮津市と[[与謝野町]]の合計は約371万人<ref>[http://www.pref.kyoto.jp/tokei/yearly/tokeisyo/tokeisyo200610.html 平成18年京都府統計書 第10章運輸・情報通信・観光「10-13.市町村別観光入込客数及び観光消費額」](京都府) 2006年の宮津市と与謝野町の合計値。</ref>)となっている。
[[観光大使]]として、松島には「松島キャンペーンレディ」、天橋立には「プリンセス天橋立」、宮島には「宮島観光親善大使」がおり、日本三景共同キャンペーンの際などに一緒に活動している。
夏には、[[松島灯籠流し花火大会]]、[[宮津灯籠流し花火大会]]、[[宮島水中花火大会]]という海上[[花火]]が日本三景各地で開催され、多くの観光客を集める。
いずれも名物として[[牡蠣]]があるが、松島と宮島は冬が主なのに対し、天橋立は夏の岩ガキが主である。松島の牡蠣鍋クルーズや[[寿司]]([[特定第3種漁港]]・[[塩釜漁港]])、天橋立の[[ズワイガニ|松葉ガニ]]や[[トリガイ|とり貝]]、宮島の[[もみじ饅頭]]や[[アナゴ]]が訴求力のある食観光として知られる。
=== 近況 ===
日本三景はいずれも[[1952年]]([[昭和]]27年)[[11月22日]]に[[特別名勝]]に指定されている。日本三景は各々別々に[[世界遺産]]登録に動いたが、現時点では[[厳島神社]]([[1996年]]([[平成]]8年)12月登録)以外は登録に至っていない。
[[2006年]](平成18年)[[7月5日]]に開催された日本三景観光連絡協議会の総会において、林春斎の[[誕生日]]が[[元和 (日本)|元和]]4年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1618年]]'''[[7月21日]]''')であることに因み、7月21日を「'''日本三景の日'''」と制定した<ref>[http://www.matsushima-kanko.com/news/detail.php?news=7 「日本三景の日」ついて](松島観光協会 2007年5月24日)</ref>。
[[2007年]](平成19年)4月、日本を訪れる外国人観光客向けに、[[ミシュランガイド#実用旅行ガイド|ミシュラン実用旅行ガイド]](''MICHELIN Voyager Pratique Japon'')が発刊された<ref>[http://www.michelin.co.jp/news/corporat/p1659.htm ミシュラン初の日本に関する実用旅行ガイド「MICHELIN Voyager Pratique Japon」いよいよ刊行へ](ミシュラン 2007年3月27日)</ref>。これは「[[ビジット・ジャパン・キャンペーン]]」の一環として、[[ミシュラン]]社や[[国土交通省]]などが連携したものである。日本三景では松島と宮島が単独の項目として記載され、各々三ツ星が3つずつ付いた。
[[2009年]](平成21年)3月、日本を訪れる外国人観光客向けに、[[ミシュランガイド#観光ガイド|ミシュラン観光ガイド]]''MICHELIN Green Guide Japon'')が[[国際観光振興機構|日本政府観光局]]の協力を得て発刊された<ref name="MGGJ">[http://www.michelin.co.jp/media_center/news/corporate/090131.html 日本に関する旅行ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」が初登場](ミシュラン 2009年1月31日)</ref>。日本三景では松島と宮島が単独の項目として記載され、松島では、松島海岸地区に三ツ星3、二ツ星4、一ツ星8の計25、[[塩竈市|塩竈]]地区に二ツ星3の計6、全体で合計31の星が付いた<ref name="stars">{{PDFlink|[http://www.michelin.co.jp/media_center/news/corporate/pdf/GVJ_list.pdf 「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」掲載地リスト]}}(ミシュラン 2009年1月31日)</ref>。宮島では三ツ星3、二ツ星2、一ツ星3の計17の星が付いた<ref name="stars"/>。同年9月には[[英語]]版も発刊された<ref name="MGGJ"/>。
=== 温泉・冷泉 ===
日本三景としての知名度の高さはあれ、各地域では宿泊客数の減少に苦しんでいる。その打開策の1つとして、日本三景が持ち合わせていなかった[[温泉]]を開発する動きが近年起こっている。
天橋立では、[[1999年]](平成11年)[[12月20日]]に[[天橋立温泉]]が開湯した。[[キャッチコピー]]は「神々の遊湯(あそびゆ)」。現在は旅館9軒、民宿2軒、外湯1軒で利用されている(一部の旅館は[[鉱泉|冷泉]])。[[泉質]]は[[塩化物泉]]や[[単純温泉]]など。
宮島には、冷泉を加温して給湯する温泉があったが、30年前の公共[[下水道]]工事により途絶えた。[[2004年]](平成16年)に新たに[[ボーリング]]などを行い、冷泉が復活した。現在は、旅館3軒が加温して給湯している。泉質は[[放射能泉]]<ref>[http://www.kinsuikan.jp/senshitsu.html 《温泉宿》の復活ものがたり](錦水館)</ref>。
松島では、[[仙台・宮城デスティネーションキャンペーン]]に合わせ、[[2008年]](平成20年)[[8月5日]]に[[松島温泉 (宮城県)|松島温泉]]が開湯した。キャッチコピーは「太古天泉」。泉質は単純温泉と塩化物泉。
== その他 ==
*[[小倉百人一首]]には、松島と天橋立を[[歌枕]]として読み込んだ[[和歌]]がある。
**松島:[[殷富門院大輔]] 「見せばやな [[雄島 (松島町)|雄島]]の[[海人|あま]]の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変わらず」(小倉百人一首90番) … 雄島は松島湾内にある[[霊場]]の島
**天橋立:[[小式部内侍]] 「[[大江山]] いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」(小倉百人一首60番)
*林春斎の言葉は各名勝地の記念碑に記されているが、全ての記念碑で紹介する順序が違っており、松島では原典通り東から「松島、天橋立、厳島」、厳島では西から「厳島、天橋立、松島」、天橋立では「天橋立、松島、厳島」と、それぞれ自らを三景の筆頭に置いている。
*[[日清戦争]]における[[大日本帝国海軍|海軍]]の主力[[巡洋艦]]であった[[松島型防護巡洋艦]]を'''三景艦'''と呼ぶ。建造された三隻が、「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」、「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」、「[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]」と、それぞれ日本三景に因んで命名されている。
== 日本新三景 ==
{{座標一覧|section=日本新三景}}
[[1915年]]([[大正]]4年)、日本三景にならって[[実業之日本社]]主催による'''日本新三景'''の選定が行われた。全国投票の結果、[[1916年]](大正5年)に以下の3つが選ばれた。[[1918年]](大正7年)にはこの3地に「『[[婦人世界]]』創刊10周年記念日本新三景碑」も建てられた<ref>[http://www.j-n.co.jp/company/trivia.html トリビア] [[実業之日本社]]</ref>。三保の松原は、[[2013年]](平成25年)に「[[富士山-信仰の対象と芸術の源泉]]」の一部として[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]に登録された。
{| class="wikitable"
|+日本新三景
!!!所在地と地形的特徴!!位置
|-
![[大沼 (七飯町)|大沼]](ポロトー)
|[[北海道]][[亀田郡]][[七飯町]]にある[[堰止湖]]。<br />[[北海道駒ヶ岳]]を[[借景]]する。||{{ウィキ座標|41|59|3.6|N|140|40|23.1|E|region:JP|地図|name=日本新三景 大沼(ポロトー)}}
|-
![[三保の松原]]
|[[静岡県]][[静岡市]][[清水区]]にある砂嘴。<br />[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]および[[伊豆半島]]を借景する。||{{ウィキ座標|34|59|43.7|N|138|31|28.9|E|region:JP|地図|name=日本新三景 三保の松原}}
|-
![[耶馬渓]]
|[[大分県]][[中津市]]にある[[渓谷]]||{{ウィキ座標|33|27|56.7|N|131|7|11.3|E|region:JP|地図|name=日本新三景 耶馬渓}}
|}
<gallery>
画像:Komagatake dusk.jpg|[[大沼 (七飯町)|大沼]](ポロトー)と[[北海道駒ヶ岳]]
画像:Mt Fuji at Mihonomatsubara.jpg|[[三保の松原]]と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]
画像:Kyoshuho.jpg|[[耶馬渓]]の競秀峰
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="※"|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
<!--
=== 参考文献 ===
-->
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
*[http://nihonsankei.jp/ 日本三景](日本三景観光連絡協議会)
{{日本三景}}
{{DEFAULTSORT:にほんさんけい}}
[[Category:日本の名数3|けい]]
[[Category:日本の名勝]]
[[category:日本の景観一覧]] | null | 2023-01-06T05:39:39Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:PDFlink",
"Template:日本三景",
"Template:座標一覧",
"Template:Quotation",
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"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E6%99%AF |
6,549 | 日本三名園 | 日本三名園(にほんさんめいえん)とは、優れた景勝を持つ三つの日本庭園、石川県金沢市の兼六園、岡山県岡山市の後楽園、茨城県水戸市の偕楽園の総称である。
「日本三名園」もしくは「三名園」という言葉がいつ頃から使われ始めたのかは不明であるが、文献上では1899年(明治32年)発行の「日本三名園之一 後楽園新圖」に既にこの言葉が使用されている。また 1904年(明治37年)に外国人向けに発行された写真集にもこの言葉が使われている。やや異なる言い回しの「日本三公園」を含めるならば、1891年(明治24年)8月、岡山の後楽園を訪れた正岡子規が記念写真の裏に「岡山後楽園 日本三公園ノ一」とメモしたものが存在する。
なおこの三園の選定理由として、いわゆる雪月花の雪に兼六園、月に後楽園、花に偕楽園を対応させたものであろうとする説がある。ただし、三園ともに江戸時代に造営された池泉回遊式の大名庭園であり、この「日本三名園」には日本庭園における他の形式である枯山水や露地(茶庭)など、池泉回遊式以外の形式のものは含まれていない。
なお、1910年(明治43年)に文部省から発行された『高等小学読本』巻一には、「・・・我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」とあり、高松市の栗林公園は日本三名園より優れていると記載されていた。 | [
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"text": "日本三名園(にほんさんめいえん)とは、優れた景勝を持つ三つの日本庭園、石川県金沢市の兼六園、岡山県岡山市の後楽園、茨城県水戸市の偕楽園の総称である。",
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] | 日本三名園(にほんさんめいえん)とは、優れた景勝を持つ三つの日本庭園、石川県金沢市の兼六園、岡山県岡山市の後楽園、茨城県水戸市の偕楽園の総称である。 | {{Maplink2|zoom=5|frame=yes|frame-align=right|frame-width=280|frame-height=220|frame-latitude=35.4291625|frame-longitude=137.1494844
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'''日本三名園'''(にほんさんめいえん)とは、優れた景勝を持つ三つの[[日本庭園]]、[[石川県]][[金沢市]]の[[兼六園]]、[[岡山県]][[岡山市]]の[[後楽園]]、[[茨城県]][[水戸市]]の[[偕楽園]]の総称である。
== 歴史 ==
「日本三名園」もしくは「三名園」という言葉がいつ頃から使われ始めたのかは不明であるが、文献上では[[1899年]]([[明治]]32年)発行の「日本三名園之一 後楽園新圖」に既にこの言葉が使用されている<ref>岡山県立図書館 デジタル岡山大百科で閲覧可能</ref>。また [[1904年]](明治37年)<ref>[http://jpninfo.com/50243 Japan Info(英語版)]</ref><ref>[http://gochagocha.cool.coocan.jp/Main/Sanmeien.htm なぜ後楽園が日本三名園に?]</ref>に外国人向けに発行された写真集にもこの言葉が使われている。やや異なる言い回しの「日本三公園」を含めるならば、[[1891年]](明治24年)8月、岡山の後楽園を訪れた[[正岡子規]]が記念写真の裏に「'''岡山後楽園 日本三公園ノ一'''」とメモしたものが存在する<ref>{{Cite web|和書|title=【知られざるニッポン vol.24】日本三名園に隠された「意外な事実」|url=https://tabi-mag.jp/3-great-gardens/|website=ニッポン旅マガジン|date=2017-02-16|accessdate=2019-04-27|language=ja|publisher=}}</ref>。
なおこの三園の選定理由として、いわゆる[[雪月花]]の[[雪]]に兼六園、[[月]]に後楽園、[[花]]に偕楽園を対応させたものであろうとする説がある。ただし、三園ともに江戸時代に造営された池泉回遊式の[[大名庭園]]であり、この「日本三名園」には日本庭園における他の形式である[[枯山水]]や[[露地|露地(茶庭)]]など、池泉回遊式以外の形式のものは含まれていない。
なお、[[1910年]](明治43年)に文部省から発行された『高等小学読本』巻一には、「・・・我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金沢ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ批ノ三公園ニ優レリ」とあり、[[高松市]]の[[栗林公園]]は日本三名園より優れていると記載されていた。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[日本三景]](雪・[[天橋立]]、月・[[松島]]、花・[[厳島|宮島]])
*[[回遊式庭園]]
*[[日本三大一覧]]
*[[栗林公園]]
== 外部リンク ==
*[https://tabi-mag.jp/3-great-gardens/ ニッポン旅マガジン(知られざるニッポンvol.24)]
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6,551 | 六歌仙 | 六歌仙()とは、『古今和歌集』の序文に記された六人の代表的な歌人のこと。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主の六人を指す。ただし「六歌仙」という名称そのものは後代になって付けられたものである。
『古今和歌集』は「仮名序」(仮名文の序)と「真名序」(漢文の序)というふたつの序文を持ち、仮名序は紀貫之、真名序は紀淑望の執筆とされる。それら序文のなかで和歌の歴史や享受について説いた部分に、「六歌仙」のことがいずれも取り上げられている。
仮名序には柿本人麿と山部赤人が登場して後、貫之たちが『古今和歌集』編纂に至るまでの間のことを、「こゝに、いにしへのことをも、うたの心をもしれる人、わづかにひとりふたり也き」と言い、また「いにしへの事をもうたをもしれる人、よむ人おほからず」とも述べ、「そのほかにちかき世にその名きこえたる人」として「六歌仙」について取り上げ、それらに対する批評を行なっている。真名序でも人麿と赤人の後に、「浮詞雲のごとくに興り、艶流泉のごとく湧く」といった世の中となり、「六歌仙」はその中でおおむね「古風を存する者」として批評をしている。仮名序は「六歌仙」について次のように述べる。
ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし。
ふんやのやすひでは、ことばはたくみにて、そのさま身におはず(負はず)。いはば、あき人(商人)のよききぬきたらん(着たらん)がごとし。
宇治山の僧きせんは、ことばかすかにして、はじめをはり(始め終り)、たしかならず。いはば、秋の月をみるに、あかつきの雲にあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず。
をののこまちは、いにしへのそとほりひめ(衣通姫)の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。
大伴のくろぬしは、そのさまいやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。
真名序の「六歌仙」に関わる部分は以下の通り(読み下し文)。
華山の僧正(遍照)は最も歌の体を得たり。然れども、其の詞華にして、実少なし。図画の好女の徒らに人の情を動かすが如し。
在原の中将の歌は、其の情余りありて、其の詞足らず。萎める花の彩色少なしといへども薫香あるがごとし。
文琳(康秀)は巧みに物を詠ず。然れども、其の体俗に近し。賈人の鮮やかなる衣を着たるがごとし。
宇治山の僧喜撰は、其の詞は華麗にして首尾停滞せり。秋月を望むに暁の雲に遇へるがごとし。
小野の小町が歌は、古の衣通姫の流なり。然れども、艶にして気力無し。病める婦(をんな)の花粉を着けたるがごとし。
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(つぎて)なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙(いや)し。田夫の花の前に息(やす)めるがごとし。
仮名序と真名序は柿本人麿と山部赤人を「うたのひじり」(歌聖)または「和歌の仙」とし、その後の歌人たちやその歌がたいしたものではないとの評価をしており、「六歌仙」もそれら歌人たちの中に含まれることから、人麿と赤人に比べてあまり良い評価はしていない。ただし「六歌仙」以外の歌人は名を上げて批評するにも値しないとしているので(仮名序「このほかの人々」および真名序「此の外、氏姓流れ聞こゆる者」以下の記述)、相対的に「六歌仙」をそれらよりも高く評価していることになる。
しかし、仮名序と真名序がどういった基準でもってこの六人を取り上げたのかは明らかではない。「六歌仙」と同時代に活躍した歌人の小野篁や在原行平は真名序に「野宰相」、「在納言」として取り上げられているものの、仮名序にはこの両名のことは全く触れられていない。また『古今和歌集』には遍照は17首、業平は30首、小町は18首の歌を収めているが、康秀は4首、黒主は3首、喜撰法師に至っては、「わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと ひとはいふなり」の1首しか採られておらず、しかもその評には「よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず」とあることも考え合わせると、「六歌仙」は必ずしも作歌の多さや知名度で選ばれたものとはいえない。これについて『古今集正義序注追考』(熊谷直好著)は、「六歌仙」とは当時歌人として巷間に知られ伝わっていた人々であり、仮名序はこの六人の名をそのまま取り上げただけに過ぎず、仮名序の作者とされる貫之が新たに選んだわけではないだろうと述べている。目崎徳衛は喜撰、康秀、黒主について、喜撰は遁世者として和歌をたしなむ者、康秀は「中央の下級官人」、黒主は「地方豪族」の代表・象徴として取り上げられたのではないかとする。
ほかには推理小説作家の高田崇史はその著書『QED 六歌仙の暗号』の中で、六歌仙はいずれも文徳天皇の後継者争いにおいて、紀氏の血を引く最有力候補だった惟喬親王を支持していた者たちで、六歌仙と親王の七人はやがて「七福神」として祀られるようになったのではないかと推察している。
なお「六歌仙」の名称は、現在のところ鎌倉時代初期にまでさかのぼることが確認されている。
後代「六歌仙」に倣い、6人を以って和歌の名人とすることが行なわれた。『袋草紙』には藤原範永、平棟仲、源頼実、源兼長、藤原経衡、源頼家の六人を「六人党」と称したと伝えている。「新六歌仙」というものもあり、これは藤原俊成、九条良経、慈円、藤原定家、藤原家隆、西行の六人のことである。
また女1人に男5人の集団も俗に「六歌仙」という。最も有名なのは二代目松林伯圓の講談や河竹黙阿弥作の『天衣紛上野初花』によっても知られる『天保六花撰』である。「六歌仙」は浮世絵の画題にもなっているが、これも「見立て」として江戸時代当時の風俗で6人の人物を描くといったものがある。
「六歌仙」は人形浄瑠璃や歌舞伎にも世界のひとつとして取り上げられている。以下その例をあげる。 | [
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] | 六歌仙とは、『古今和歌集』の序文に記された六人の代表的な歌人のこと。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主の六人を指す。ただし「六歌仙」という名称そのものは後代になって付けられたものである。 | {{Otheruses||歌舞伎および[[日本舞踊]]の演目|六歌仙容彩|[[日本]]の酒造メーカー|六歌仙 (酒造メーカー)}}
[[ファイル:Murasaki Shikibu with male court poets.png|thumb|300px|六歌仙の図、[[喜多川歌麿]]画。]]
{{読み仮名|'''六歌仙'''|ろっかせん}}とは、『[[古今和歌集]]』の序文に記された六人の代表的な[[歌人]]のこと。[[遍昭|僧正遍昭]]、[[在原業平]]、[[文屋康秀]]、[[喜撰|喜撰法師]]、[[小野小町]]、[[大伴黒主]]の六人を指す。ただし「六歌仙」という名称そのものは後代になって付けられたものである。
== 解説 ==
『古今和歌集』は「仮名序」([[仮名 (文字)|仮名]]文の序)と「真名序」([[漢文]]の序)というふたつの序文を持ち、仮名序は[[紀貫之]]、真名序は[[紀淑望]]の執筆とされる。それら序文のなかで和歌の歴史や享受について説いた部分に、「六歌仙」のことがいずれも取り上げられている。
仮名序には[[柿本人麻呂|柿本人麿]]と[[山部赤人]]が登場して後、貫之たちが『古今和歌集』編纂に至るまでの間のことを、「こゝに、いにしへのことをも、うたの心をもしれる人、わづかにひとりふたり也き」と言い、また「いにしへの事をもうたをもしれる人、よむ人おほからず」とも述べ、「そのほかにちかき世にその名きこえたる人」として「六歌仙」について取り上げ、それらに対する批評を行なっている。真名序でも人麿と赤人の後に、「浮詞雲のごとくに興り、艶流泉のごとく湧く」といった世の中となり、「六歌仙」はその中でおおむね「古風を存する者」として批評をしている。仮名序は「六歌仙」について次のように述べる。
{{quotation|…そのほかに、ちかき世に、その名きこえたる人は、すなはち僧正遍昭は、哥<small>(歌)</small>のさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑ<small>(絵)</small>にかけるをうな<small>(女)</small>を見て、いたづらに心をうごかすがごとし。
ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし。
ふんやのやすひでは、ことばはたくみにて、そのさま身におはず<small>(負はず)</small>。いはば、あき人<small>(商人)</small>のよききぬきたらん<small>(着たらん)</small>がごとし。
宇治山の僧きせんは、ことばかすかにして、はじめをはり<small>(始め終り)</small>、たしかならず。いはば、秋の月をみるに、あかつきの雲にあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず。
をののこまちは、いにしへのそとほりひめ<small>(衣通姫)</small>の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。
大伴のくろぬしは、そのさまいやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。
このほかの人々、その名きこゆる、野辺におふるかづらの、はひひろごり、はやしにしげき、このはのごとくに、おほかれど、うたとのみおもひて、そのさましらぬなるべし。|『古今和歌集』仮名序}}
真名序の「六歌仙」に関わる部分は以下の通り(読み下し文)。
{{quotation|…近代、古風を存する者、纔かに二、三人なり。然れども、長短同じからず。論じて以ちて弁ふべし。
華山の僧正<small>(遍照)</small>は最も歌の体を得たり。然れども、其の詞華にして、実少なし。図画の好女の徒らに人の情を動かすが如し。
在原の中将の歌は、其の情余りありて、其の詞足らず。萎める花の彩色少なしといへども薫香あるがごとし。
文琳<small>(康秀)</small>は巧みに物を詠ず。然れども、其の体俗に近し。賈人の鮮やかなる衣を着たるがごとし。
宇治山の僧喜撰は、其の詞は華麗にして首尾停滞せり。秋月を望むに暁の雲に遇へるがごとし。
小野の小町が歌は、古の衣通姫の流なり。然れども、艶にして気力無し。病める婦<small>(をんな)</small>の花粉を着けたるがごとし。
大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次<small>(つぎて)</small>なり。頗る逸興ありて、体甚だ鄙<small>(いや)</small>し。田夫の花の前に息<small>(やす)</small>めるがごとし。
此の外、氏姓流れ聞こゆる者、勝<small>(あ)</small>げて数ふべからず。其の大底<small>(おほむね)</small>皆艶なるを以ちて基とす。和歌の趣を知らざる者なり。|『古今和歌集』真名序<ref>以上引用は仮名序と真名序いずれも、『[[日本古典文学大系]]』8の『古今和歌集』より。ただし仮名序の「古注」と呼ばれる六歌仙の歌の部分は省き、真名序は読みやすさを考え適宜改行した。</ref>}}
仮名序と真名序は柿本人麿と山部赤人を「うたのひじり」(歌聖)または「和歌の仙」とし、その後の歌人たちやその歌がたいしたものではないとの評価をしており、「六歌仙」もそれら歌人たちの中に含まれることから、人麿と赤人に比べてあまり良い評価はしていない。ただし「六歌仙」以外の歌人は名を上げて批評するにも値しないとしているので(仮名序「このほかの人々」および真名序「此の外、氏姓流れ聞こゆる者」以下の記述)、相対的に「六歌仙」をそれらよりも高く評価していることになる。
しかし、仮名序と真名序がどういった基準でもってこの六人を取り上げたのかは明らかではない。「六歌仙」と同時代に活躍した歌人の[[小野篁]]や[[在原行平]]は真名序に「野宰相」、「在納言」として取り上げられているものの、仮名序にはこの両名のことは全く触れられていない。また『古今和歌集』には遍照は17首、業平は30首、小町は18首の歌を収めているが、康秀は4首、黒主は3首、喜撰法師に至っては、「わがいほは みやこのたつみ しかぞすむ よをうぢやまと ひとはいふなり」の1首しか採られておらず、しかもその評には「よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず」とあることも考え合わせると、「六歌仙」は必ずしも作歌の多さや知名度で選ばれたものとはいえない。これについて『古今集正義序注追考』(熊谷直好著)は、「六歌仙」とは当時歌人として巷間に知られ伝わっていた人々であり、仮名序はこの六人の名をそのまま取り上げただけに過ぎず、仮名序の作者とされる貫之が新たに選んだわけではないだろうと述べている。[[目崎徳衛]]は喜撰、康秀、黒主について、喜撰は遁世者として和歌をたしなむ者、康秀は「中央の下級官人」、黒主は「地方豪族」の代表・象徴として取り上げられたのではないかとする。
ほかには推理小説作家の[[高田崇史]]はその著書『[[QED 六歌仙の暗号]]』の中で、六歌仙はいずれも[[文徳天皇]]の後継者争いにおいて、[[紀氏]]の血を引く最有力候補だった[[惟喬親王]]を支持していた者たちで、六歌仙と親王の七人はやがて「[[七福神]]」として祀られるようになったのではないかと推察している。
なお「六歌仙」の名称は、現在のところ[[鎌倉時代]]初期にまでさかのぼることが確認されている<ref>『角川古語大辞典』(第五巻)、「ろくかせん」(六歌仙)の項。</ref>。
== 後世への影響 ==
後代「六歌仙」に倣い、6人を以って和歌の名人とすることが行なわれた。『[[袋草紙]]』には[[藤原範永]]、[[平棟仲]]、[[源頼実]]、源兼長、藤原経衡、[[源頼家 (摂津源氏)|源頼家]]の六人を「六人党」と称したと伝えている。「新六歌仙」というものもあり、これは[[藤原俊成]]、[[九条良経]]、[[慈円]]、[[藤原定家]]、[[藤原家隆 (従二位)|藤原家隆]]、[[西行]]の六人のことである。
また女1人に男5人の集団も俗に「六歌仙」という。最も有名なのは[[松林伯圓#二代目|二代目松林伯圓]]の[[講談]]や[[河竹黙阿弥]]作の『天衣紛上野初花』によっても知られる『[[天保六花撰]]』である。「六歌仙」は[[浮世絵]]の画題にもなっているが、これも「見立て」として江戸時代当時の風俗で6人の人物を描くといったものがある。
「六歌仙」は[[人形浄瑠璃]]や[[歌舞伎]]にも[[(曖昧さ回避)|世界]]のひとつとして取り上げられている。以下その例をあげる。
* 『七小町』 - 人形浄瑠璃。[[享保]]12年(1727年)、大坂竹本座初演。[[竹田出雲]]作。
* 『[[積恋雪関扉]]』 - 歌舞伎。[[天明]]4年(1784年)11月、江戸[[桐座]]初演。[[顔見世]]狂言『重重人重小町桜』(じゅうにひとえこまちざくら)の二番目大切(最後の幕)に出された[[常磐津節]]による所作事。
* 『[[六歌仙容彩]]』 - 歌舞伎。[[天保]]2年(1831年)3月、江戸[[中村座]]初演。大薩摩節、[[長唄]]、[[清元節]]による所作事。
[[ファイル:Gosôtei Hirosada 風流六歌仙 mfa.jpg|center|thumb|600px|「風流六歌仙」<small>(六歌仙容彩)</small> [[嘉永]]5年(1852年)1月、大坂[[中座|中の芝居]]。[[五粽亭広貞]]画。]]
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 佐伯梅友校注 『古今和歌集』〈『日本古典文学大系』8〉 岩波書店、1958年
* 久曽神昇 『三十六人集』〈『塙選書』4〉 塙書房、1960年 ※第二項 六歌仙(22頁)
* 佐佐木信綱編 『日本歌学大系』(第九巻) 風間書房、1965年 ※『古今集正義序注追考』所収
* 目崎徳衛 「国風文化の源流―六歌仙と宇多天皇」 久保田淳ほか編『新装版図説日本の古典4 古今集・新古今集』 集英社、1988年
== 関連項目 ==
* [[古今和歌集仮名序]]
* [[三十六歌仙]]
* [[日本の中古文学史]]
* [[積恋雪関扉]]
* [[六歌仙容彩]]
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6,552 | ADSL | ADSL(エーディーエスエル、Asymmetric Digital Subscriber Line:非対称デジタル加入者線)とは、デジタル加入者線(DSL)の一種である。
一般のアナログ電話回線(ツイストペアケーブル通信線路)を流用してブロードバンドインターネット接続サービスを提供することができる高速デジタルデータ通信技術若しくは電気通信役務であり、日本では2000年代前半に急速に普及した。
非対称(Asymmetric)とは、アップロードとダウンロードの理論上の通信速度が異なることを意味する。
ADSLの技術は1990年代にスタンフォード大学とベルコア社が提案したメタリックケーブルを利用した高速デジタルアクセス技術である。
ADSLは複数あるxDSL規格の1つである。xDSLの技術は大きく分けて上り信号と下り信号が同じだけの帯域幅を持つSDSL(Symmetric Digital Subscriber Line、対称デジタル加入者線)と上りと下りで帯域幅が異なるADSL(Asymmetric Digital Subscriber Line、非対称デジタル加入者線)に分けられ、またそれぞれの中でも細かな変調方式の違いやモデムチップメーカーの技術的な思惑の違い、技術革新による性能向上規格の登場、各国独自の既存電話事情、等によって多くの規格が乱立した。たとえば日本でのみ普及していたISDNの周波数帯とのノイズ干渉を避けるG.992(G.dmt/G.Lite)Annex C等が代表的である。
2010年頃から、ヨーロッパを中心に複数のSDSL回線を束ねて使用するEFM(Ethernet in the First Mile)という専用線サービスが普及しつつある。
ADSLの特徴として、一方の通信帯域を削ることでもう一方により大きな通信帯域を割り当てている(非対称)。通常は下り(ダウンリンク)の速度が上り(アップリンク)の速度よりも高速に設定されている。これは一般家庭などでのインターネット利用ではWebアクセスなどの用途が主となるため、ダウンリンクデータの容量がアップリンクデータに比べて遥かに多く、ダウンリンクを優先することで総合的にデータ通信速度を高速化するためである。
既設のツイストペアケーブル通信線路でアナログ固定電話による通話と同時に信号を伝送するため、音声周波数帯域(0.3 - 3.4kHz)を避けたより高く広い周波数帯域を使用し、複数の搬送波を利用したOFDMなどのデジタル変調を使用しADSLモデムで誤り検出訂正や回線にあわせた通信速度調整を行っている。そのため、従来の電話回線用モデムや低速仕様のISDNなどと比べて高速なデータ通信が可能である。
次の2種類の規格から提供が始まった。
次のようなものが拡張規格として定められている。
以下のような技術を用いることによりダウンリンク12, 24, 40Mbps、アップリンク3, 5Mbpsなどと高速化されていった。
また、アップリンクを低周波数側、ダウンリンクを高周波数側とすることで、送受信の分離(周波数分割複信)をしているものが多い。さらに、エコーキャンセラ(Echo Canceller)を使用し、アップリンクとダウンリンクの周波数をオーバーラップ(Over Lap)させ、ダウンリンクの安定化・高速化と共にアップリンクを高速化しているものもある。
ADSLモデムは、ADSL通信に用いられるデータ回線終端装置である。ADSL通信経路の両端末である利用場所と収容局双方に設置される装置で、一般的には利用場所側の装置をADSLモデムと称する。収容局側の装置は複数のADSLモデムの集合体で、DSLAMと称する。
モデムによってはIP電話用のアダプターとブロードバンドルーター機能を内蔵しているものもあり、ADSL信号でIP電話を利用することが可能な契約もある。
スプリッタは通話とデータ通信を同時に可能にするため、音声周波数帯を電話機・電話交換機へ、データ通信用の高周波数帯をADSLモデム・DSLAMへ、それぞれ周波数分割して接続するために用いられる機器で分波器と混合器の役割を持つ。こちらも利用場所と収容局双方に設置される。3つの接続口を持ち、加入者線からの配線をLINE端子、電話機をPHONE端子、ADSLモデムをMODEM端子に接続するのが一般的である。また、ADSLモデムに内蔵されている場合もある。
北米では積極的なADSLの導入により2000年には140万回線を超える普及となった。
アメリカでブロードバンド接続を提供している事業者は主に大手通信事業者とケーブルテレビ事業者である。ケーブルテレビ事業者がケーブルモデムを提供しているのに対し、大手通信事業者はADSL接続や光ファイバー、衛星接続を提供している。
OECDの統計によると、2015年6月現在、固定ブロードバンドの接続数(約1億252万回線)のうち、56.5%がケーブルモデム、29.7%がADSL、9.4%が光ファイバーであった。
2015年6月末現在、ブロードバンド加入者数(約2,626万)のうち、83.6%がADSLで、14.6%が超高速ブロードバンド(最大通信速度30Mbps以上)、残りが幹線が光化されていないケーブルや衛星回線等であった。ADSL加入者数は2014年第3四半期をピークに減少傾向にある。
日本では2000年代前半に、既設のメタル通信線が利用できることで急速に普及した。従来の公衆交換電話網を経由したダイヤルアップ接続による従量制通信料金でなく月額定額料金で提供され、常時接続という利用形態が普及したが、2000年代後半になると、携帯電話に代表される高速な移動系通信サービスの普及と光ファイバー(FTTH)による高速通信が主流になるにつれて利用者が減少しており、さらにPSTNの将来的なNGNへのマイグレーションに伴ってサービスの廃止が検討されるようになり、NTT東日本とNTT西日本は2017年11月30日、FTTHサービス「フレッツ光」提供エリアで、ADSLサービス「フレッツ・ADSL」の提供を2023年1月31日に終了すると発表した。
既設の公衆交換電話網のメタリック通信線によるアナログ固定電話回線にデジタル情報を重畳して家庭や小規模事業所からのブロードバンドインターネット接続に使用される。アナログ電話回線に重畳させて提供するものをタイプ1、重畳させずに提供するものをタイプ2という。
アナログ電話回線を使用するがデジタル情報による通信であるため、法的にはデジタル伝送路として扱われる。このため工事には電気通信設備工事担任者のデジタル通信もしくは総合通信が必要となる。
1997年4月に、伊那市有線放送農業協同組合にパラダイン製のADSLモデムを同社の従業員が持込み、有線放送電話網での接続実験を行った。8月27日に伊那xDSL利用実験連絡会が記者会見を行い、8月から9月にかけて伊那市有線放送農業協同組合でのxDSLの公開実験をすると発表した。その時の主な参加企業は、長野県のプロバイダー事業者として富士通長野システムエンジニアリング及び長野県協同電算、システム構築を担当した企業はKDDI研究所、数理技研、SunMicrosystems、xDSLの機材提供を行ったのは住友電気工業、住友電設、ソネット、パラダインジャパン、NECであった。
同年9月1日にJANISネット(株式会社長野県協同電算)が長野市の川中島町有線放送農業協同組合の有線放送電話網を使って下り最高1.5Mbps・上り最高272kbpsのサービスを始めたのが商業ADSLサービスの始めとされる。
東京めたりっく通信(後にソフトバンクへ吸収)は、1999年12月24日に新宿新南口のユースビル1階で、ADSL/SDSL接続サービスのデモ・センター「新宿めたりっくバー」を開設した。NTT電話網を利用した商用ADSLサービスは1999年12月20日にコアラが大分市の一部を対象に、次いで2000年1月に東京めたりっく通信によって東京23区内の一部を対象に開始(申し込みは1999年10月頃から)された。
2001年はブロードバンド元年といわれた。Yahoo!BBと組み合わせて使うIP電話のBBフォンがサービス開始となり、同事業者間で無料通話ができることからIP電話が広く認知されるようになった。2003年にIP電話で050番号が付番され、主にISP系のITSPの新規参入が顕著になる。
NTTがフレッツブランドでFTTHとADSLの2本立てでブロードバンド対応を進めた。イー・アクセス、アッカ・ネットワークス、Yahoo! BBなど主要な電気通信事業者も利用可能な地域を拡大した。総務省の発表によると2001年1月の時点では1万6194回線であったのが、2001年12月の時点で152万4348回線になり、2003年12月末には1000万回線を突破した。
2000年後半以降、ISP間でキャッシュバックや料金値下げなどで顧客を争奪する価格競争が発生しISPとADSL回線料金の合計(電話回線の基本料が別途必要)が月額3000円台前後へと低価格化が進み、ブロードバンド回線の主流となった。当初、電話局から1km以内ぐらいの地域であれば、下り公称帯域1.5Mbps、実効帯域でも1Mbps程度であった。その後、技術の向上により2005年には、電話局から数百Mという好条件であれば、下り帯域は100Mbpsを測定可能な場合があるまでに上昇している。
ADSLの利用者は2006年3月末の1452万件をピークに、FTTHの普及や携帯電話のインターネット接続の高速化及びWiMAXなどの高速無線インターネット接続の普及に伴って減少に転じ、最盛期の10%未満の131万件(2020年6月末現在)にまで減少している。固定系ブロードバンドサービスの契約数が4157万件にまで拡大する中で、DSLのシェアは最盛期には75%にまでなったものがもはや3.1%にまで低下している。設備の老朽化と規模の縮小による採算性の悪化から、サービス提供業者の統廃合が進んでいる。NTT系は2016年6月30日新規受付を終了し、2023年1月31日までに順次終了していくことを発表している。最後まで新規受付を継続していた大手のソフトバンクグループも、「Yahoo! BB ADSL」などの各種ADSLサービスについて、新規契約の受付については2019年2月28日で受付終了し、2020年3月より順次終了していき2024年3月末で提供終了することを発表している。
NTTはPSTNのマイグレーションを行っており、2025年までにメタルIP電話に切替える予定で計画を進行させている。ただし、電話局までのメタル回線そのものは残る予定なので、ADSLのサービスを提供している企業が技術的な問題や経営的な理由によりADSLサービスを終了しない限り、ADSLのサービスが提供され続ける可能性は残っている。
もっとも、NTT東西のメタル回線による固定電話は、利用頻度の激減と老朽化により、毎年1000億円規模の赤字を出している状況である。契約件数で1997年から2016年で6割以上の減少、通信回数で2000年から2015年で93%の減少、通信時間で2000年から2015年で97%の減少となっている。もはや、「固定電話市場は、事業者間の競争を促進するフェーズから、いかにコストをかけずにサービスを維持していくかというフェーズに移行した」と、NTTは宣言している。このまま採算が悪化していった場合には、新たな支援策が行われなければ、10年 - 20年という長期のスパンで見れば、必要な法改正をしたうえでメタル回線そのものが廃止される可能性がある点には留意が必要である。既に老朽化や災害で新規に回線設備を引直す場合には、メタル回線で敷設する義務はなくなっており、FTTHや無線による提供に切替えられる可能性があり、その場合にはその地域でのADSLの提供は終了する。
現在ADSLでも使用されているメタル回線そのものは整理統合を推進するものの、原則としてNTTは光ケーブルへの変更の強制は行っていない。これは、光ケーブルに変更することが物理的に困難なケースや、採算が取れないケースがあるためである。それらに対応するために、電話局側に電話交換機の代わりにIP電話のゲートウェイを設置することで、現在使用しているメタル回線と電話機をそのまま使用して、無償でNTTが自己都合に行う電話局内部の工事だけでIP電話に変更することになっている。課金の前提となるネットワークの形態の変更に伴って2024年頃に電話料金の体系の変更が予定されている。
光ケーブルへの変更の強制は、NTTを騙る悪徳代理店によるものなので注意が必要である。確かに、ADSLのサービスの終了そのものは、サービスを提供している企業の撤退により発生している。しかし、基本的にサービスの終了については文書による通知を行っている。よって、電話による光ケーブルへの変更の勧誘やサービス終了の通告は、詐欺や悪徳代理店による虚偽を疑った方が良い。電話による勧誘は、文書による証拠を残さないために行われる悪徳商法の常套手段である。
不安な場合は、電話回線についてはNTTに、ADSLのサービスについてはADSLサービスを提供している企業のサポートに直接問い合わせるのが良い。
悪質な勧誘行為への注意喚起がNTT東西より広報されている。古い回線の切替え、アナログ回線がデジタル回線になる、回線が使用できなくなるといった虚偽内容のセールストークに注意するよう呼び掛けている。
ADSLを始めとしたブロードバンドは基礎的電気通信役務として位置付けられておらず、あまねく全域(全ての市・町・村)で提供することが法的に義務づけられていないため、過疎地(町・山村・離島など)で利用できない状況と、それに伴う料金の地域格差拡大の恐れもある。
また、対応インターネットサービスプロバイダにおいても地域格差が生じている。例えばADSLを加入者接続に利用する場合、NTTなどのアクセスライン提供事業者が設置する相互接続点に専用線でサービス提供用サーバなどを接続しなければならない。これらの機器・回線を他の事業者の社屋に有料で設置するなど高額な費用が掛かる為、都市圏のプロバイダ以外の新規参入がしにくいという問題も抱えている。
加入者線路は音声などの低周波伝送を満たすシールドなしツイストペアケーブルを使用しており、これを高周波伝送に転用しているためその伝送特性が保証されておらず、速度や安定性などが設置条件によって大きく左右され、通信品質を保障することができない(ベストエフォート)。実際のところ、通常の使用環境では最良でも理論値の70〜80%程度となる。
ADSLの速度低下の主な要因としては次のものがある。影響が大きい場合は、速度低下のみならずADSL通信そのものを確立できない(「リンクアップ」しない)状況に至る。
しかしながら線路情報開示システムにアクセスして電話番号を入力すれば、電話局からの距離や回線損失などの回線の状況を知ることはできるものの(回線が光収容の場合はエラーになる)、実際には「契約可能区域」となっているにも係わらず、地方など交換局が疎になっている地域やノイズの多い地点などでは速度が大きく低下する又は接続できない地点が存在することもある。
ただ回線の通信速度が遅い問題や接続できない(リンクできない)問題はモデムの技術水準向上や各種の技術開発により、普及開始当初よりは大きく改善している。ADSLという技術自体が2000年代に入ってから実用化された通信方式として歴史が浅いこともあり、ADSLモデムのファームウェアを最新のバージョンに入れ替えることで、通信状況が改善されることも多い。
業者の中には通信速度が上がらない、通信できないにも係わらず解約に応じないと問題視されている事例もあり国会などでも取り上げられた。現在に於いても半ば強引な契約と顧客の知識不足が重なり、開通後に「速度が上がらない」などの苦情が絶えない。また広告での「最大速度は理論値であり、必ずしも仕様通りの速度が出ない」ことへの注意書きの扱いが小さいとして、業界へ公正取引委員会からの指導も入った。
数Mbpsといった高速での接続は収容局の周辺数kmに限定されることや、古いパソコンや初心者ユーザーにとってはオーバースペック(過剰性能)の場合もあり、2003年頃から下り1Mbps・上り512kbps程度の低速ながら低価格なサービスも登場した。
ADSLはFTTHと異なり電話線を利用するため、保安器がADSLに適合していないと電話やFAXを利用する時に一度回線が切断されてしまう。保安器を新しいものに替えれば問題はない。
日本方式のISDN(INS64)にはADSLを重畳して使用出来ないため、INS64をアナログ固定電話に切替える必要がある。インターネット回線の速度向上を主眼に切替えを行なう利用者が多いが、音声通話の面でサービス低下が顕在化する場合が多い。代表例はi・ナンバーにて複数番号を利用していた場合でアナログ固定電話へ切替えた後も回線数を維持する場合はダイヤルインを契約する、IP電話を契約するなどの追加費用が必要となる。
アナログ固定電話に比してINS64は提供される付加サービスが高機能であることや漏話と呼ばれる現象(他の電話線との間で、干渉により通話音声が互いに漏れる)が生じにくいなどの通話品質が高いため、アナログ固定電話への切替えを避け、タイプ2というADSL専用の回線を引込む場合もある。
なお、NTTはISDNの廃止時期を2025年としていたが、2024年1月に「ディジタル通信モード」が廃止されるもののISDNは継続となりADSLのほうが先に廃止となる。
光収容とは利用場所から収容局へ到るまでの伝送路において、電線そのままではなく途中で電話用の光ケーブルへ変換(収容)されていることを表す用語。対語はメタル収容。ADSLは音声通話帯域よりも高い周波数帯域をデジタル情報伝送に利用する技術であるが、電話用光ケーブルでの音声伝送は、光収容の機器が設計上その高い周波数帯域の伝送に配慮しておらず、光収容(音声多重化)の際には音声通話帯域のみを変換しそれ以外は不要帯域としてカットされてしまう。このため、伝送路の途中や電話局側末端で光収容されている加入者回線はADSL信号を局舎のDSLAMまで透過させることが出来ず、通信が成立しない。ただし、伝送路の途中で光ケーブルに変換される地点にDSLAMを設置することができればADSL通信が可能となる。
光収容加入者は残置されている空きのツイストペアケーブル(メタル回線)があった場合にのみ、加入者負担で収容替え工事を行った後でADSLの工事が可能である。しかしコンテナタイプの簡易局舎などで遠隔多重加入者線伝送装置(RT:Remote Terminal, RSBM:Remote SuBscriber Module)に接続されていたり、マンションなどの集合住宅で主配線盤に光ケーブルのみが引込まれているなど切替えが不可能でADSLが利用できない場合もある。
2000年代に入り幹線部分のメタル通信線路の新設が停止されているため、光収容加入者はさらに増加するものと考えられる。
ただし都市部などでは以前より普及しているCATVのインターネットサービスや、2004〜2005年辺りからの光ファイバー回線(FTTH/FTTx)の本格的展開普及により、ブロードバンド回線が引けない問題はおおむね解消されつつある(しかし集合住宅など、一部には依然としてその問題は残っている)。
アクセスラインのみ提供の電気通信事業者が行う回線サービスである場合(2006年現在、NTT東西のフレッツのみ)、あくまで加入者と電話局との端末装置同士で高速通信を実現するものである。この為、インターネットへの接続にはインターネットサービスプロバイダとの契約も必要である。また、プロバイダがADSL接続業も兼ねている契約形態でも加入者回線を使用するために、当然NTTなどの通信回線を保有する電気通信事業者と契約をしている必要がある。従って、計2種類の事業者と契約する必要があることになる。この煩雑さは、通信回線の保有とプロバイダ事業を合わせて行うCATVには無い部分である。ただしプロバイダ側がISPサービスの申し込みと同時にフレッツの申し込みを代行受付し、料金請求も合算して行っている場合もある(しかし契約はあくまでも2箇所である)。
ユーザー側から見た場合には、この契約の手続きを少しでも簡略化するためと、プロバイダ側のユーザー囲い込みも目的に、プロバイダがADSL接続業も兼ねている契約形態(Yahoo! BBやTNC「ADSLパワーライン」)やプロバイダが窓口となってADSL契約も一括して行う形態(ADSL提供業者がイー・アクセスやアッカ・ネットワークスの場合。ホールセール(wholesale=卸売)とも言う)もあり利用可能な地区の場合には「フレッツ・ADSL」料金+プロバイダ料金より総額料金が安く設定されているが、この場合にはADSL接続で複数のプロバイダを切替えて利用できない欠点がある。
直収電話に変更した場合には、系列企業のADSLサービスしか利用できないなどの制限がある。
サービス提供事業者は最盛期には数十社にも及んだが、2017年現在、フレッツADSLを利用しているISPと、ソフトバンク系列とその業務提携先とその他数社を除けば、事実上それらの大半はサービスを終了している。シェア的には、フレッツADSLの利用が3割、ソフトバンク系列が約6割で、全体の利用者が減少する中で、業界再編の影響とフレッツADSLの利用者の減少の方が比較的多いことから、ソフトバンク系列の利用者の割合が大きくなっている。既存業者のサービス終了などにより他社との契約でADSLの利用を継続しようとすると、事実上ソフトバンク系列のサービスしか選択肢がなくなってたが、遂にソフトバンク系列も2024年3月末までにサービスを順次終了する。
アクセスライン(接続サービス)を提供する業者は「ホールセール」(wholesale、卸売)とも言い、ADSL回線事業者が各プロバイダと提携し提携先プロバイダの一括サービスとしてプロバイダを窓口に契約する方式。 | [
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"text": "1997年4月に、伊那市有線放送農業協同組合にパラダイン製のADSLモデムを同社の従業員が持込み、有線放送電話網での接続実験を行った。8月27日に伊那xDSL利用実験連絡会が記者会見を行い、8月から9月にかけて伊那市有線放送農業協同組合でのxDSLの公開実験をすると発表した。その時の主な参加企業は、長野県のプロバイダー事業者として富士通長野システムエンジニアリング及び長野県協同電算、システム構築を担当した企業はKDDI研究所、数理技研、SunMicrosystems、xDSLの機材提供を行ったのは住友電気工業、住友電設、ソネット、パラダインジャパン、NECであった。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "同年9月1日にJANISネット(株式会社長野県協同電算)が長野市の川中島町有線放送農業協同組合の有線放送電話網を使って下り最高1.5Mbps・上り最高272kbpsのサービスを始めたのが商業ADSLサービスの始めとされる。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "東京めたりっく通信(後にソフトバンクへ吸収)は、1999年12月24日に新宿新南口のユースビル1階で、ADSL/SDSL接続サービスのデモ・センター「新宿めたりっくバー」を開設した。NTT電話網を利用した商用ADSLサービスは1999年12月20日にコアラが大分市の一部を対象に、次いで2000年1月に東京めたりっく通信によって東京23区内の一部を対象に開始(申し込みは1999年10月頃から)された。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2001年はブロードバンド元年といわれた。Yahoo!BBと組み合わせて使うIP電話のBBフォンがサービス開始となり、同事業者間で無料通話ができることからIP電話が広く認知されるようになった。2003年にIP電話で050番号が付番され、主にISP系のITSPの新規参入が顕著になる。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "NTTがフレッツブランドでFTTHとADSLの2本立てでブロードバンド対応を進めた。イー・アクセス、アッカ・ネットワークス、Yahoo! BBなど主要な電気通信事業者も利用可能な地域を拡大した。総務省の発表によると2001年1月の時点では1万6194回線であったのが、2001年12月の時点で152万4348回線になり、2003年12月末には1000万回線を突破した。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2000年後半以降、ISP間でキャッシュバックや料金値下げなどで顧客を争奪する価格競争が発生しISPとADSL回線料金の合計(電話回線の基本料が別途必要)が月額3000円台前後へと低価格化が進み、ブロードバンド回線の主流となった。当初、電話局から1km以内ぐらいの地域であれば、下り公称帯域1.5Mbps、実効帯域でも1Mbps程度であった。その後、技術の向上により2005年には、電話局から数百Mという好条件であれば、下り帯域は100Mbpsを測定可能な場合があるまでに上昇している。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ADSLの利用者は2006年3月末の1452万件をピークに、FTTHの普及や携帯電話のインターネット接続の高速化及びWiMAXなどの高速無線インターネット接続の普及に伴って減少に転じ、最盛期の10%未満の131万件(2020年6月末現在)にまで減少している。固定系ブロードバンドサービスの契約数が4157万件にまで拡大する中で、DSLのシェアは最盛期には75%にまでなったものがもはや3.1%にまで低下している。設備の老朽化と規模の縮小による採算性の悪化から、サービス提供業者の統廃合が進んでいる。NTT系は2016年6月30日新規受付を終了し、2023年1月31日までに順次終了していくことを発表している。最後まで新規受付を継続していた大手のソフトバンクグループも、「Yahoo! BB ADSL」などの各種ADSLサービスについて、新規契約の受付については2019年2月28日で受付終了し、2020年3月より順次終了していき2024年3月末で提供終了することを発表している。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "NTTはPSTNのマイグレーションを行っており、2025年までにメタルIP電話に切替える予定で計画を進行させている。ただし、電話局までのメタル回線そのものは残る予定なので、ADSLのサービスを提供している企業が技術的な問題や経営的な理由によりADSLサービスを終了しない限り、ADSLのサービスが提供され続ける可能性は残っている。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "もっとも、NTT東西のメタル回線による固定電話は、利用頻度の激減と老朽化により、毎年1000億円規模の赤字を出している状況である。契約件数で1997年から2016年で6割以上の減少、通信回数で2000年から2015年で93%の減少、通信時間で2000年から2015年で97%の減少となっている。もはや、「固定電話市場は、事業者間の競争を促進するフェーズから、いかにコストをかけずにサービスを維持していくかというフェーズに移行した」と、NTTは宣言している。このまま採算が悪化していった場合には、新たな支援策が行われなければ、10年 - 20年という長期のスパンで見れば、必要な法改正をしたうえでメタル回線そのものが廃止される可能性がある点には留意が必要である。既に老朽化や災害で新規に回線設備を引直す場合には、メタル回線で敷設する義務はなくなっており、FTTHや無線による提供に切替えられる可能性があり、その場合にはその地域でのADSLの提供は終了する。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "現在ADSLでも使用されているメタル回線そのものは整理統合を推進するものの、原則としてNTTは光ケーブルへの変更の強制は行っていない。これは、光ケーブルに変更することが物理的に困難なケースや、採算が取れないケースがあるためである。それらに対応するために、電話局側に電話交換機の代わりにIP電話のゲートウェイを設置することで、現在使用しているメタル回線と電話機をそのまま使用して、無償でNTTが自己都合に行う電話局内部の工事だけでIP電話に変更することになっている。課金の前提となるネットワークの形態の変更に伴って2024年頃に電話料金の体系の変更が予定されている。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "光ケーブルへの変更の強制は、NTTを騙る悪徳代理店によるものなので注意が必要である。確かに、ADSLのサービスの終了そのものは、サービスを提供している企業の撤退により発生している。しかし、基本的にサービスの終了については文書による通知を行っている。よって、電話による光ケーブルへの変更の勧誘やサービス終了の通告は、詐欺や悪徳代理店による虚偽を疑った方が良い。電話による勧誘は、文書による証拠を残さないために行われる悪徳商法の常套手段である。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "不安な場合は、電話回線についてはNTTに、ADSLのサービスについてはADSLサービスを提供している企業のサポートに直接問い合わせるのが良い。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "悪質な勧誘行為への注意喚起がNTT東西より広報されている。古い回線の切替え、アナログ回線がデジタル回線になる、回線が使用できなくなるといった虚偽内容のセールストークに注意するよう呼び掛けている。",
"title": "日本での状況"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ADSLを始めとしたブロードバンドは基礎的電気通信役務として位置付けられておらず、あまねく全域(全ての市・町・村)で提供することが法的に義務づけられていないため、過疎地(町・山村・離島など)で利用できない状況と、それに伴う料金の地域格差拡大の恐れもある。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また、対応インターネットサービスプロバイダにおいても地域格差が生じている。例えばADSLを加入者接続に利用する場合、NTTなどのアクセスライン提供事業者が設置する相互接続点に専用線でサービス提供用サーバなどを接続しなければならない。これらの機器・回線を他の事業者の社屋に有料で設置するなど高額な費用が掛かる為、都市圏のプロバイダ以外の新規参入がしにくいという問題も抱えている。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "加入者線路は音声などの低周波伝送を満たすシールドなしツイストペアケーブルを使用しており、これを高周波伝送に転用しているためその伝送特性が保証されておらず、速度や安定性などが設置条件によって大きく左右され、通信品質を保障することができない(ベストエフォート)。実際のところ、通常の使用環境では最良でも理論値の70〜80%程度となる。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ADSLの速度低下の主な要因としては次のものがある。影響が大きい場合は、速度低下のみならずADSL通信そのものを確立できない(「リンクアップ」しない)状況に至る。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "しかしながら線路情報開示システムにアクセスして電話番号を入力すれば、電話局からの距離や回線損失などの回線の状況を知ることはできるものの(回線が光収容の場合はエラーになる)、実際には「契約可能区域」となっているにも係わらず、地方など交換局が疎になっている地域やノイズの多い地点などでは速度が大きく低下する又は接続できない地点が存在することもある。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ただ回線の通信速度が遅い問題や接続できない(リンクできない)問題はモデムの技術水準向上や各種の技術開発により、普及開始当初よりは大きく改善している。ADSLという技術自体が2000年代に入ってから実用化された通信方式として歴史が浅いこともあり、ADSLモデムのファームウェアを最新のバージョンに入れ替えることで、通信状況が改善されることも多い。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "業者の中には通信速度が上がらない、通信できないにも係わらず解約に応じないと問題視されている事例もあり国会などでも取り上げられた。現在に於いても半ば強引な契約と顧客の知識不足が重なり、開通後に「速度が上がらない」などの苦情が絶えない。また広告での「最大速度は理論値であり、必ずしも仕様通りの速度が出ない」ことへの注意書きの扱いが小さいとして、業界へ公正取引委員会からの指導も入った。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "数Mbpsといった高速での接続は収容局の周辺数kmに限定されることや、古いパソコンや初心者ユーザーにとってはオーバースペック(過剰性能)の場合もあり、2003年頃から下り1Mbps・上り512kbps程度の低速ながら低価格なサービスも登場した。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ADSLはFTTHと異なり電話線を利用するため、保安器がADSLに適合していないと電話やFAXを利用する時に一度回線が切断されてしまう。保安器を新しいものに替えれば問題はない。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本方式のISDN(INS64)にはADSLを重畳して使用出来ないため、INS64をアナログ固定電話に切替える必要がある。インターネット回線の速度向上を主眼に切替えを行なう利用者が多いが、音声通話の面でサービス低下が顕在化する場合が多い。代表例はi・ナンバーにて複数番号を利用していた場合でアナログ固定電話へ切替えた後も回線数を維持する場合はダイヤルインを契約する、IP電話を契約するなどの追加費用が必要となる。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "アナログ固定電話に比してINS64は提供される付加サービスが高機能であることや漏話と呼ばれる現象(他の電話線との間で、干渉により通話音声が互いに漏れる)が生じにくいなどの通話品質が高いため、アナログ固定電話への切替えを避け、タイプ2というADSL専用の回線を引込む場合もある。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "なお、NTTはISDNの廃止時期を2025年としていたが、2024年1月に「ディジタル通信モード」が廃止されるもののISDNは継続となりADSLのほうが先に廃止となる。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "光収容とは利用場所から収容局へ到るまでの伝送路において、電線そのままではなく途中で電話用の光ケーブルへ変換(収容)されていることを表す用語。対語はメタル収容。ADSLは音声通話帯域よりも高い周波数帯域をデジタル情報伝送に利用する技術であるが、電話用光ケーブルでの音声伝送は、光収容の機器が設計上その高い周波数帯域の伝送に配慮しておらず、光収容(音声多重化)の際には音声通話帯域のみを変換しそれ以外は不要帯域としてカットされてしまう。このため、伝送路の途中や電話局側末端で光収容されている加入者回線はADSL信号を局舎のDSLAMまで透過させることが出来ず、通信が成立しない。ただし、伝送路の途中で光ケーブルに変換される地点にDSLAMを設置することができればADSL通信が可能となる。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "光収容加入者は残置されている空きのツイストペアケーブル(メタル回線)があった場合にのみ、加入者負担で収容替え工事を行った後でADSLの工事が可能である。しかしコンテナタイプの簡易局舎などで遠隔多重加入者線伝送装置(RT:Remote Terminal, RSBM:Remote SuBscriber Module)に接続されていたり、マンションなどの集合住宅で主配線盤に光ケーブルのみが引込まれているなど切替えが不可能でADSLが利用できない場合もある。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2000年代に入り幹線部分のメタル通信線路の新設が停止されているため、光収容加入者はさらに増加するものと考えられる。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ただし都市部などでは以前より普及しているCATVのインターネットサービスや、2004〜2005年辺りからの光ファイバー回線(FTTH/FTTx)の本格的展開普及により、ブロードバンド回線が引けない問題はおおむね解消されつつある(しかし集合住宅など、一部には依然としてその問題は残っている)。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "アクセスラインのみ提供の電気通信事業者が行う回線サービスである場合(2006年現在、NTT東西のフレッツのみ)、あくまで加入者と電話局との端末装置同士で高速通信を実現するものである。この為、インターネットへの接続にはインターネットサービスプロバイダとの契約も必要である。また、プロバイダがADSL接続業も兼ねている契約形態でも加入者回線を使用するために、当然NTTなどの通信回線を保有する電気通信事業者と契約をしている必要がある。従って、計2種類の事業者と契約する必要があることになる。この煩雑さは、通信回線の保有とプロバイダ事業を合わせて行うCATVには無い部分である。ただしプロバイダ側がISPサービスの申し込みと同時にフレッツの申し込みを代行受付し、料金請求も合算して行っている場合もある(しかし契約はあくまでも2箇所である)。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ユーザー側から見た場合には、この契約の手続きを少しでも簡略化するためと、プロバイダ側のユーザー囲い込みも目的に、プロバイダがADSL接続業も兼ねている契約形態(Yahoo! BBやTNC「ADSLパワーライン」)やプロバイダが窓口となってADSL契約も一括して行う形態(ADSL提供業者がイー・アクセスやアッカ・ネットワークスの場合。ホールセール(wholesale=卸売)とも言う)もあり利用可能な地区の場合には「フレッツ・ADSL」料金+プロバイダ料金より総額料金が安く設定されているが、この場合にはADSL接続で複数のプロバイダを切替えて利用できない欠点がある。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "直収電話に変更した場合には、系列企業のADSLサービスしか利用できないなどの制限がある。",
"title": "サービス提供上の問題点"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "サービス提供事業者は最盛期には数十社にも及んだが、2017年現在、フレッツADSLを利用しているISPと、ソフトバンク系列とその業務提携先とその他数社を除けば、事実上それらの大半はサービスを終了している。シェア的には、フレッツADSLの利用が3割、ソフトバンク系列が約6割で、全体の利用者が減少する中で、業界再編の影響とフレッツADSLの利用者の減少の方が比較的多いことから、ソフトバンク系列の利用者の割合が大きくなっている。既存業者のサービス終了などにより他社との契約でADSLの利用を継続しようとすると、事実上ソフトバンク系列のサービスしか選択肢がなくなってたが、遂にソフトバンク系列も2024年3月末までにサービスを順次終了する。",
"title": "日本国内でのサービス提供事業者"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "アクセスライン(接続サービス)を提供する業者は「ホールセール」(wholesale、卸売)とも言い、ADSL回線事業者が各プロバイダと提携し提携先プロバイダの一括サービスとしてプロバイダを窓口に契約する方式。",
"title": "日本国内でのサービス提供事業者"
}
] | ADSLとは、デジタル加入者線(DSL)の一種である。 一般のアナログ電話回線(ツイストペアケーブル通信線路)を流用してブロードバンドインターネット接続サービスを提供することができる高速デジタルデータ通信技術若しくは電気通信役務であり、日本では2000年代前半に急速に普及した。 非対称(Asymmetric)とは、アップロードとダウンロードの理論上の通信速度が異なることを意味する。 | '''ADSL'''(エーディーエスエル、'''A'''symmetric '''D'''igital '''S'''ubscriber '''L'''ine:非対称[[デジタル加入者線]])とは、[[デジタル加入者線]](DSL)の一種である。
[[電話網|一般のアナログ電話回線]]([[ツイストペアケーブル]][[通信線路]])を流用して[[ブロードバンドインターネット接続]]サービスを提供することができる高速[[デジタル]][[データ通信]]技術若しくは[[電気通信役務]]であり、日本では2000年代前半に急速に普及した。
非対称(Asymmetric)とは、アップロードとダウンロードの理論上の通信速度が異なることを意味する。
== 技術 ==
=== 概要 ===
ADSLの技術は1990年代に[[スタンフォード大学]]とベルコア社が提案したメタリックケーブルを利用した高速デジタルアクセス技術である<ref name="FUJITSU 2000">[http://img.jp.fujitsu.com/downloads/jp/jmag/vol51-6/paper13.pdf 「高速メタリックIPアクセスシステム:ADSL」(雑誌「FUJITSU 2000-11月号」)] 富士通</ref>。
ADSLは複数あるxDSL規格の1つである。xDSLの技術は大きく分けて上り信号と下り信号が同じだけの帯域幅を持つ'''SDSL'''(Symmetric Digital Subscriber Line、対称デジタル加入者線)と上りと下りで帯域幅が異なる'''ADSL'''(Asymmetric Digital Subscriber Line、非対称デジタル加入者線)に分けられ、またそれぞれの中でも細かな変調方式の違いやモデムチップメーカーの技術的な思惑の違い、技術革新による性能向上規格の登場、各国独自の既存電話事情、等によって多くの規格が乱立した。たとえば日本でのみ普及していたISDNの周波数帯とのノイズ干渉を避けるG.992(G.dmt/G.Lite)Annex C等が代表的である。
2010年頃から、ヨーロッパを中心に複数のSDSL回線を束ねて使用する'''EFM'''(Ethernet in the First Mile)という専用線サービスが普及しつつある。
[[ファイル:ADSL frequency plan.svg|thumb|350px|一般電話回線の周波数帯域の模式図。PSTNが音声部分、Upstreamが上り、Downstreamが下りに当たる。]]
ADSLの特徴として、一方の通信帯域を削ることでもう一方により大きな通信帯域を割り当てている(非対称)。通常は下り(ダウンリンク)の速度が上り(アップリンク)の速度よりも高速に設定されている。これは一般家庭などでの[[インターネット]]利用では[[World Wide Web|Web]]アクセスなどの用途が主となるため、ダウンリンクデータの容量がアップリンクデータに比べて遥かに多く、ダウンリンクを優先することで総合的に[[データ通信]]速度を高速化するためである。
既設の[[ツイストペアケーブル]][[通信線路]]でアナログ[[固定電話]]による通話と同時に信号を伝送するため、[[音]]声[[周波数]]帯域(0.3 - 3.4[[キロヘルツ|kHz]])を避けたより高く広い周波数帯域を使用し、複数の搬送波を利用した[[直交周波数分割多重方式|OFDM]]などの[[デジタル変調]]を使用しADSLモデムで[[誤り検出訂正]]や回線にあわせた通信速度調整を行っている。そのため、従来の[[電話回線]]用[[モデム]]や低速仕様の[[ISDN]]などと比べて高速なデータ通信が可能である。
=== 通信規格 ===
次の2種類の規格から提供が始まった。
;G.992.1(G.dmt)
:ダウンリンク8M[[ビット毎秒|bps]](148kHz - 1104kHzの帯域を利用)・アップリンク1Mbps(26kHz - 138kHzの帯域を利用)
;G.992.2(G.Lite)
:ダウンリンク1.5Mbps(148kHz - 552kHzの帯域を利用)・アップリンク512kbps(26kHz - 138kHzの帯域を利用)
次のようなものが拡張規格として定められている。
;Annex A
:北米向け。
;Annex B
:[[ヨーロッパ]]のエコーキャンセラ方式の[[ISDN#Euro-ISDN|Euro-ISDN]]と同時使用が可能。
;Annex C
:[[日本]]の[[時分割複信]]の[[ISDN#TCM-ISDN|TCM-ISDN]]との干渉を抑えるため、2つの伝送マップを持ち、ISDNの伝送方向に同期して切替える。
以下のような技術を用いることによりダウンリンク12, 24, 40Mbps、アップリンク3, 5Mbpsなどと高速化されていった。
;S=1/2 1/4 1/8 1/16
:誤り訂正ビット列を効率化する。
;フルビットローディング(full-bit loading)
:1つの搬送波の1回の変調で送信するビット数を11〜12から15ビットへと拡張する。
;ハイビットローディング(high-bit loading)
:1つの搬送波の1回の変調で送信するビット数を15ビット以上とする。
;ダブルスペクトラム方式(Double Spectrum)
:使用する周波数帯域を倍(最大2.2MHz)に拡張する。
;クワドラプルスペクトラム方式(Quadruple Spectrum)
:使用する周波数帯域を約4倍(最大3.75MHz)に拡張する。
また、アップリンクを低周波数側、ダウンリンクを高周波数側とすることで、送受信の分離([[周波数分割複信]])をしているものが多い。さらに、[[エコーキャンセラ]](Echo Canceller)を使用し、アップリンクとダウンリンクの周波数をオーバーラップ(Over Lap)させ、ダウンリンクの安定化・高速化と共にアップリンクを高速化しているものもある。
== 機器 ==
=== ADSLモデム ===
[[ファイル:NTT East ADSL modem-NVIII.jpg|thumb|right|ADSLモデムの一例]]
ADSL[[モデム]]は、ADSL通信に用いられる[[データ回線終端装置]]である。ADSL通信経路の両端末である利用場所と収容局双方に設置される装置で、一般的には利用場所側の装置をADSLモデムと称する。収容局側の装置は複数のADSLモデムの集合体で、DSLAMと称する。
モデムによっては[[VoIP#VoIPゲートウェイ|IP電話用のアダプター]]と[[ルーター#ブロードバンドルーター|ブロードバンドルーター]]機能を内蔵しているものもあり、ADSL信号で[[IP電話]]を利用することが可能な契約もある。
=== スプリッタ ===
[[スプリッタ]]は通話と[[データ通信]]を同時に可能にするため、音声周波数帯を[[電話機]]・[[電話交換機]]へ、データ通信用の高周波数帯をADSLモデム・DSLAMへ、それぞれ周波数分割して接続するために用いられる機器で[[分波器]]と[[混合器]]の役割を持つ。こちらも利用場所と収容局双方に設置される。3つの接続口を持ち、[[加入者線]]からの配線をLINE端子、電話機をPHONE端子、ADSLモデムをMODEM端子に接続するのが一般的である。また、ADSLモデムに内蔵されている場合もある。
== 欧米諸国での状況 ==
=== アメリカ合衆国 ===
北米では積極的なADSLの導入により2000年には140万回線を超える普及となった<ref name="FUJITSU 2000" />。
アメリカでブロードバンド接続を提供している事業者は主に大手通信事業者とケーブルテレビ事業者である<ref name="soumuUSA2017">[https://www.soumu.go.jp/g-ict/country/america/pdf/001.pdf アメリカ合衆国 通信] 総務省</ref>。ケーブルテレビ事業者がケーブルモデムを提供しているのに対し、大手通信事業者はADSL接続や光ファイバー、衛星接続を提供している<ref name="soumuUSA2017" />。
OECDの統計によると、2015年6月現在、固定ブロードバンドの接続数(約1億252万回線)のうち、56.5%がケーブルモデム、29.7%がADSL、9.4%が光ファイバーであった<ref name="soumuUSA2017" />。
=== フランス ===
2015年6月末現在、ブロードバンド加入者数(約2,626万)のうち、83.6%がADSLで、14.6%が超高速ブロードバンド(最大通信速度30Mbps以上)、残りが幹線が光化されていないケーブルや衛星回線等であった<ref name="soumuFrench2016">[https://www.soumu.go.jp/g-ict/country/french/detail.html#internet 世界情報通信事情 フランス] 総務省</ref>。ADSL加入者数は2014年第3四半期をピークに減少傾向にある<ref name="soumuFrench2016" />。
== 日本での状況 ==
日本では[[2000年代]]前半に、既設のメタル通信線が利用できることで急速に普及した。従来の公衆交換電話網を経由したダイヤルアップ接続による従量制通信料金でなく月額定額料金で提供され、常時接続という利用形態が普及したが、2000年代後半になると、携帯電話に代表される高速な移動系通信サービスの普及と光ファイバー(FTTH)による高速通信が主流になるにつれて利用者が減少しており、さらに[[公衆交換電話網|PSTN]]の将来的な[[Next Generation Network|NGN]]へのマイグレーションに伴ってサービスの廃止が検討されるようになり、[[東日本電信電話|NTT東日本]]と[[西日本電信電話|NTT西日本]]は2017年11月30日、FTTHサービス「フレッツ光」提供エリアで、ADSLサービス「フレッツ・ADSL」の提供を2023年1月31日に終了すると発表した。
既設の[[公衆交換電話網]]のメタリック通信線によるアナログ[[固定電話]]回線にデジタル情報を[[重畳]]して家庭や小規模事業所からの[[ブロードバンドインターネット接続]]に使用される。アナログ電話回線に重畳させて提供するものをタイプ1、重畳させずに提供するものをタイプ2という。
アナログ電話回線を使用するがデジタル情報による通信であるため、法的にはデジタル伝送路として扱われる。このため工事には[[電気通信設備工事担任者]]のデジタル通信もしくは総合通信が必要となる。
=== 実験〜サービス開始 ===
[[File:Place of origin "ADSL" in Japan.jpg|thumb|「日本におけるADSL発祥の地」記念碑伊那xDSL利用実験連絡会・いなあいネット2007年10月17日に10周年を記念し建立伊那市有線放送農業協同組合(いなあいネット)敷地内に建立]]
[[1997年]]4月に、[[伊那市有線放送農業協同組合]]にパラダイン製のADSLモデムを同社の従業員が持込み、[[有線放送電話]]網での接続実験を行った。[[8月27日]]に伊那xDSL利用実験連絡会が記者会見を行い、8月から9月にかけて[[伊那市有線放送農業協同組合]]でのxDSLの公開実験をすると発表した。その時の主な参加企業は、長野県のプロバイダー事業者として[[富士通長野システムエンジニアリング]]及び[[長野県協同電算]]、システム構築を担当した企業は[[KDDI研究所]]、数理技研、[[SunMicrosystems]]、xDSLの機材提供を行ったのは[[住友電気工業]]、[[住友電設]]、ソネット、パラダインジャパン、[[日本電気|NEC]]であった。
同年[[9月1日]]にJANISネット(株式会社[[長野県協同電算]])が[[長野市]]の川中島町有線放送農業協同組合の有線放送電話網を使って下り最高1.5Mbps・上り最高272kbpsのサービスを始めたのが商業ADSLサービスの始めとされる<ref>{{Cite news|url=https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/1999/0804/adsl.htm |title=長野県で国内初の商用ADSLインターネット接続サービス開始|publisher=INTERNET Watch|date=1999-08-04}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/special/312429.html |title=日本の商用ADSL、9月1日で10周年|publisher=INTERNET Watch|date=2009-09-02}}</ref>。
東京めたりっく通信(後に[[ソフトバンク]]へ吸収)は、1999年[[12月24日]]に[[新宿駅|新宿新南口]]のユースビル1階で、ADSL/SDSL接続サービスのデモ・センター「新宿めたりっくバー」を開設した。NTT電話網を利用した商用ADSLサービスは1999年12月20日に[[コアラ (企業)|コアラ]]が[[大分市]]の一部を対象に、次いで[[2000年]]1月に東京めたりっく通信によって[[特別区|東京23区内]]の一部を対象に開始(申し込みは1999年10月頃から)された。
=== 普及 ===
[[2001年]]はブロードバンド元年といわれた。[[Yahoo!BB]]と組み合わせて使う[[日本のIP電話|IP電話]]の[[Yahoo!BB#BBフォン|BBフォン]]がサービス開始となり、同事業者間で無料通話ができることからIP電話が広く認知されるようになった。2003年にIP電話で050番号が付番され、主にISP系のITSPの新規参入が顕著になる。
NTTが[[フレッツ]]ブランドでFTTHとADSLの2本立てでブロードバンド対応を進めた。[[Y!mobile|イー・アクセス]]、[[アッカ・ネットワークス]]、[[Yahoo! BB]]など主要な[[電気通信事業者]]も利用可能な地域を拡大した。[[総務省]]の発表によると2001年1月の時点では1万6194回線であったのが、2001年12月の時点で152万4348回線になり、[[2003年]]12月末には1000万回線を突破した。
2000年後半以降、ISP間でキャッシュバックや料金値下げなどで顧客を争奪する価格競争が発生しISPとADSL回線料金の合計(電話回線の基本料が別途必要)が月額3000円台前後へと低価格化が進み、ブロードバンド回線の主流となった。当初、電話局から1km以内ぐらいの地域であれば、下り公称帯域1.5Mbps、実効帯域でも1Mbps程度であった。その後、技術の向上により2005年には、電話局から数百Mという好条件であれば、下り帯域は100Mbpsを測定可能な場合があるまでに上昇している。
=== 終焉 ===
ADSLの利用者は2006年3月末の1452万件をピークに<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0609/12/news081.html |title=DSL契約者数、初の減少|publisher=ITmedia|date=2006-9-12|accessdate=2019-9-29}}</ref>、FTTHの普及や携帯電話のインターネット接続の高速化及び[[WiMAX]]などの高速無線インターネット接続の普及に伴って減少に転じ、最盛期の10%未満の131万件(2020年6月末現在)にまで減少している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban04_02000173.html |title=電気通信サービスの契約数及びシェアに関する四半期データの公表(令和2年度第1四半期(6月末))|publisher=総務省|date=2020-9-18|accessdate=2020-9-23}}</ref>。固定系ブロードバンドサービスの契約数が4157万件にまで拡大する中で、DSLのシェアは最盛期には75%にまでなったものがもはや3.1%にまで低下している。設備の老朽化と規模の縮小による採算性の悪化から、サービス提供業者の統廃合が進んでいる。NTT系は2016年6月30日新規受付を終了し、2023年1月31日までに順次終了していくことを発表している。最後まで新規受付を継続していた大手のソフトバンクグループも、「Yahoo! BB ADSL」などの各種ADSLサービスについて、新規契約の受付については2019年2月28日で受付終了し<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.softbank.jp/ybb/info/service/190115-001/ |title=ADSLサービスの新規お申し込み受付終了のご案内 |publisher=ソフトバンク|date=2019-01-15|accessdate=2019-01-15}}</ref>、2020年3月より順次終了していき2024年3月末で提供終了することを発表している<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.softbank.jp/corp/news/press/sbkk/2019/20190510_03/ |title=ADSLサービスの提供終了について |publisher=ソフトバンク|date=2019-05-10|accessdate=2019-05-10}}</ref>。
=== ADSLサービスに関する注意事項 ===
{{See also|公衆交換電話網#公衆交換電話網のIP網への円滑な移行}}
NTTはPSTNのマイグレーションを行っており、2025年までにメタルIP電話に切替える予定で計画を進行させている。ただし、電話局までのメタル回線そのものは残る予定なので、ADSLのサービスを提供している企業が技術的な問題や経営的な理由によりADSLサービスを終了しない限り、ADSLのサービスが提供され続ける可能性は残っている。
もっとも、NTT東西のメタル回線による固定電話は、利用頻度の激減と老朽化により、毎年1000億円規模の赤字を出している状況である。契約件数で1997年から2016年で6割以上の減少、通信回数で2000年から2015年で93%の減少、通信時間で2000年から2015年で97%の減少となっている<ref>{{Cite press release|和書|url=
http://www.ntt-east.co.jp/release/detail/pdf/20170406_01_01.pdf|title=固定電話のIP網移⾏後のサービス 及び移⾏スケジュールについて
|publisher=NTT西日本、NTT東日本|date=2017-4-6|accessdate=2017-4-6}}</ref>。もはや、「固定電話市場は、事業者間の競争を促進するフェーズから、いかにコストをかけずにサービスを維持していくかというフェーズに移⾏した」と、NTTは宣言している。このまま採算が悪化していった場合には、新たな支援策が行われなければ、10年 - 20年という長期のスパンで見れば、必要な法改正をしたうえでメタル回線そのものが廃止される可能性がある点には留意が必要である。既に老朽化や災害で新規に回線設備を引直す場合には、メタル回線で敷設する義務はなくなっており、FTTHや無線による提供に切替えられる可能性があり、その場合にはその地域でのADSLの提供は終了する。
現在ADSLでも使用されているメタル回線そのものは整理統合を推進するものの、原則としてNTTは光ケーブルへの変更の強制は行っていない。これは、光ケーブルに変更することが物理的に困難なケースや、採算が取れないケースがあるためである。それらに対応するために、電話局側に電話交換機の代わりにIP電話のゲートウェイを設置することで、現在使用しているメタル回線と電話機をそのまま使用して、無償でNTTが自己都合に行う電話局内部の工事だけでIP電話に変更することになっている。課金の前提となるネットワークの形態の変更に伴って2024年頃に電話料金の体系の変更が予定されている。
光ケーブルへの変更の強制は、NTTを騙る悪徳代理店によるものなので注意が必要である。確かに、ADSLのサービスの終了そのものは、サービスを提供している企業の撤退により発生している。しかし、基本的にサービスの終了については文書による通知を行っている。よって、電話による光ケーブルへの変更の勧誘やサービス終了の通告は、詐欺や悪徳代理店による虚偽を疑った方が良い。電話による勧誘は、文書による証拠を残さないために行われる悪徳商法の常套手段である。
不安な場合は、電話回線についてはNTTに、ADSLのサービスについてはADSLサービスを提供している企業のサポートに直接問い合わせるのが良い。
悪質な勧誘行為への注意喚起がNTT東西より広報されている<ref>{{Cite web|和書|title=固定電話のIP網移行に便乗した悪質な販売行為にご注意ください {{!}} お知らせ・報道発表 {{!}} 企業情報 {{!}} NTT東日本|url=https://www.ntt-east.co.jp/info/detail/171017_01.html|website=www.ntt-east.co.jp|accessdate=2019-08-13}}</ref>。古い回線の切替え、アナログ回線がデジタル回線になる、回線が使用できなくなるといった虚偽内容のセールストークに注意するよう呼び掛けている。
== サービス提供上の問題点 ==
{{出典の明記|date=2022年4月|section=1}}
=== 未提供地域の存在による格差 ===
ADSLを始めとした[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]は[[基礎的電気通信役務]]として位置付けられておらず、あまねく全域(全ての[[市町村|市・町・村]])で提供することが法的に義務づけられていないため、[[過疎地]]([[町]]・[[山村]]・[[離島]]など)で利用できない状況と、それに伴う料金の地域格差拡大の恐れもある。
また、対応[[インターネットサービスプロバイダ]]においても地域格差が生じている。例えばADSLを加入者接続に利用する場合、NTTなどのアクセスライン提供事業者が設置する相互接続点に[[専用線]]でサービス提供用[[サーバ]]などを接続しなければならない。これらの機器・回線を他の事業者の社屋に有料で設置するなど高額な費用が掛かる為、都市圏のプロバイダ以外の新規参入がしにくいという問題も抱えている。
{{See also|情報格差}}
=== 通信速度 ===
[[通信線路#加入者線路|加入者線路]]は音声などの低周波伝送を満たすシールドなし[[ツイストペアケーブル]]を使用しており、これを高周波伝送に転用しているためその伝送特性が保証されておらず、速度や安定性などが設置条件によって大きく左右され、通信品質を保障することができない([[ベストエフォート]])。実際のところ、通常の使用環境では最良でも理論値の70〜80%程度となる。
ADSLの速度低下の主な要因としては次のものがある。影響が大きい場合は、速度低下のみならずADSL通信そのものを確立できない(「リンクアップ」しない)状況に至る。
;[[通信線路]]の損失
*収容局に設置された端末装置([[DSLAM]])からの延長距離
:利用場所から局内端末装置までの距離が長いほど損失が大きくなり、通信速度が低下する。周波数の高い帯域ほど距離による影響が大きく、クワドラプルスペクトラム方式の場合は局内端末装置から1kmで理論値の半分にまで速度が落ちる。
:端末装置が置かれた電話局を[[公衆交換電話網#デジタル化時代の電話網|GC局]]というが、ある利用場所からの[[通信線路#加入者線路|加入者線路]]を収容している電話局([[公衆交換電話網#自動交換化時代のアナログ電話網|端局又はEO局]]という)が必ずしもGC局であるとは限らない。ADSLの普及が遅れている地域ではEO局からGC局までNTT東西によって内部中継されており、利用場所から局内端末装置までの総延長が長くなる傾向がある。なおEO局からGC局までの内部中継が光回線で行われている場合は後述の問題点「[[#光収容|光収容]]」に該当する。
*「ブリッジタップ」など、分岐接続の存在による信号減衰
*[[主配線盤]]・[[端子函]]などでの接触不良による[[電気抵抗]]増大
;外来[[ノイズ]]
*[[送電]]線・幹線[[道路]]・[[鉄道]]の[[架線]]などから放射される[[電磁波]]
*[[ラジオ|中波放送]](AMラジオ)や[[アマチュア無線]]などの「[[周波数]]が競合する[[電波]]」(専用の[[ノイズフィルター]]が市販されている。この問題は後の[[電力線搬送通信|PLC通信]]において[[ラジオ|中波放送]]と競合する周波数帯を使用しない事に反映されている)
*[[ツイストペアケーブル]]の同一クワッドの[[ISDN#TCM-ISDN|TCM-ISDN]]とADSLの周波数帯域重複(いわゆる「ISDNからのノイズ干渉」)
*電話回線への物理的接触(木の枝など)
しかしながら線路情報開示システム<ref>[http://www.ntt-east.co.jp/line-info/index.html 線路情報開示NTT東日本]・[http://www.ntt-west.co.jp/open/senro/senro_user_info.html 線路情報開示NTT西日本]</ref>にアクセスして電話番号を入力すれば、電話局からの距離や回線損失などの回線の状況を知ることはできるものの(回線が光収容の場合はエラーになる)、実際には「契約可能区域」となっているにも係わらず、地方など交換局が疎になっている地域やノイズの多い地点などでは速度が大きく低下する又は接続できない地点が存在することもある。
ただ回線の通信速度が遅い問題や接続できない(リンクできない)問題はモデムの技術水準向上や各種の技術開発により、普及開始当初よりは大きく改善している。ADSLという技術自体が[[2000年代]]に入ってから実用化された通信方式として歴史が浅いこともあり、ADSLモデムの[[ファームウェア]]を最新のバージョンに入れ替えることで、通信状況が改善されることも多い。
業者の中には通信速度が上がらない、通信できないにも係わらず解約に応じないと問題視されている事例もあり[[国会]]などでも取り上げられた。現在に於いても半ば強引な契約と顧客の知識不足が重なり、開通後に「速度が上がらない」などの苦情が絶えない。また広告での「最大速度は理論値であり、必ずしも仕様通りの速度が出ない」ことへの注意書きの扱いが小さいとして、業界へ[[公正取引委員会]]からの指導も入った。
{{See also|電気通信役務#日本の電気通信事業法における利用者保護}}
数Mbpsといった高速での接続は収容局の周辺数kmに限定されることや、古いパソコンや初心者ユーザーにとってはオーバースペック(過剰性能)の場合もあり、[[2003年]]頃から下り1Mbps・上り512kbps程度の低速ながら低価格なサービスも登場した。
=== 保安器 ===
ADSLはFTTHと異なり電話線を利用するため、[[保安器]]がADSLに適合していないと電話やFAXを利用する時に一度回線が切断されてしまう。保安器を新しいものに替えれば問題はない。
=== ISDNからADSLへの切替えに伴う通話サービス低下 ===
日本方式の[[ISDN]](INS64)にはADSLを[[重畳]]して使用出来ないため、INS64をアナログ[[固定電話]]に切替える必要がある。インターネット回線の速度向上を主眼に切替えを行なう利用者が多いが、[[音声通話]]の面でサービス低下が顕在化する場合が多い。代表例は[[i・ナンバー]]にて複数番号を利用していた場合でアナログ固定電話へ切替えた後も回線数を維持する場合は[[ダイヤルイン]]を契約する、[[IP電話]]を契約するなどの追加費用が必要となる。
アナログ固定電話に比してINS64は提供される[[電気通信役務|付加サービス]]が高機能であることや[[漏話]]と呼ばれる現象(他の電話線との間で、干渉により通話音声が互いに漏れる)が生じにくいなどの通話品質が高いため、アナログ固定電話への切替えを避け、タイプ2というADSL専用の回線を引込む場合もある。
なお、NTTはISDNの廃止時期を[[2025年]]としていたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000219502.pdf|title=電話網からIP網への円滑な移行に関する 取組状況について|publisher=総務省|date=2013-04-15|accessdate=2015-10-22}}</ref>、2024年1月に「ディジタル通信モード」が廃止されるもののISDNは継続となりADSLのほうが先に廃止となる<ref>[https://web116.jp/2024ikou/business.html 固定電話(加入電話・INSネット)のIP網移行 > 法人のお客さまへ] - NTT東日本</ref><ref>[https://www.ntt-west.co.jp/denwa/2024ikou/business.html 固定電話(加入電話・INSネット)のIP網移行 > 法人のお客さまへ] - NTT西日本</ref>。
=== 光収容 ===
[[光収容]]とは[[通信線路#加入者線路|利用場所から収容局へ到るまでの伝送路]]において、電線そのままではなく途中で電話用の[[光ケーブル]]へ変換(収容)されていることを表す用語。対語はメタル収容。ADSLは音声通話帯域よりも高い周波数帯域をデジタル情報伝送に利用する技術であるが、電話用光ケーブルでの音声伝送は、光収容の機器が設計上その高い周波数帯域の伝送に配慮しておらず、光収容(音声多重化)の際には音声通話帯域のみを変換しそれ以外は不要帯域としてカットされてしまう。このため、伝送路の途中や電話局側末端で光収容されている加入者回線はADSL信号を局舎のDSLAMまで透過させることが出来ず、通信が成立しない。ただし、伝送路の途中で光ケーブルに変換される地点にDSLAMを設置することができればADSL通信が可能となる。
光収容加入者は残置されている空きの[[ツイストペアケーブル]](メタル回線)があった場合にのみ、加入者負担で収容替え工事を行った後でADSLの工事が可能である。しかしコンテナタイプの簡易局舎などで遠隔多重加入者線伝送装置(RT:Remote Terminal, RSBM:Remote SuBscriber Module)に接続されていたり、[[マンション]]などの[[集合住宅]]で[[主配線盤]]に光ケーブルのみが引込まれているなど切替えが不可能でADSLが利用できない場合もある。
[[2000年代]]に入り幹線部分のメタル[[通信線路]]の新設が停止されているため、光収容加入者はさらに増加するものと考えられる。
ただし都市部などでは以前より普及している[[ケーブルテレビ|CATV]]のインターネットサービスや、[[2004年|2004]]〜[[2005年]]辺りからの光ファイバー回線([[FTTH]]/[[FTTx]])の本格的展開普及により、[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド回線]]が引けない問題はおおむね解消されつつある(しかし集合住宅など、一部には依然としてその問題は残っている)。
=== 複雑な利用者契約 ===
アクセスラインのみ提供の電気通信事業者が行う回線サービスである場合(2006年現在、[[NTTグループ|NTT東西]]のフレッツのみ)、あくまで加入者と電話局との端末装置同士で高速通信を実現するものである。この為、インターネットへの接続には[[インターネットサービスプロバイダ]]との契約も必要である。また、プロバイダがADSL接続業も兼ねている契約形態でも加入者回線を使用するために、当然NTTなどの通信回線を保有する電気通信事業者と契約をしている必要がある。従って、計2種類の事業者と契約する必要があることになる。この煩雑さは、通信回線の保有とプロバイダ事業を合わせて行う[[ケーブルテレビ|CATV]]には無い部分である。ただしプロバイダ側がISPサービスの申し込みと同時にフレッツの申し込みを代行受付し、料金請求も合算して行っている場合もある(しかし契約はあくまでも2箇所である)。
ユーザー側から見た場合には、この契約の手続きを少しでも簡略化するためと、プロバイダ側のユーザー囲い込みも目的に、プロバイダがADSL接続業も兼ねている契約形態(Yahoo! BBやTNC「ADSLパワーライン」)やプロバイダが窓口となってADSL契約も一括して行う形態(ADSL提供業者がイー・アクセスやアッカ・ネットワークスの場合。ホールセール(wholesale=[[卸売]])とも言う)もあり利用可能な地区の場合には「フレッツ・ADSL」料金+プロバイダ料金より総額料金が安く設定されているが、この場合にはADSL接続で複数のプロバイダを切替えて利用できない欠点がある。
直収電話に変更した場合には、系列企業のADSLサービスしか利用できないなどの制限がある。
{{See also|直収電話}}
== 日本国内でのサービス提供事業者 ==
{{出典の明記|date=2022年4月|section=1}}
サービス提供事業者は最盛期には数十社にも及んだが、2017年現在、フレッツADSLを利用しているISPと、ソフトバンク系列とその業務提携先とその他数社を除けば、事実上それらの大半はサービスを終了している。シェア的には、フレッツADSLの利用が3割、ソフトバンク系列が約6割で、全体の利用者が減少する中で、業界再編の影響とフレッツADSLの利用者の減少の方が比較的多いことから、ソフトバンク系列の利用者の割合が大きくなっている。既存業者のサービス終了などにより他社との契約でADSLの利用を継続しようとすると、事実上ソフトバンク系列のサービスしか選択肢がなくなってたが、遂にソフトバンク系列も2024年3月末までにサービスを順次終了する。
=== ADSLアクセスラインのみ提供 ===
*[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]] - [[フレッツ#フレッツ・ADSL|フレッツ・ADSL]]。山村部、離島を除く管轄地区のほぼ全域。ADSL接続サービスのみ提供。
:フレッツ・ADSLでは、モデム製造を[[2005年]]をもって終了しており、保守物品の在庫の枯渇が見込まれることから、「フレッツ光」提供可能地域で、フレッツ・ADSLの新規申し込みの受付を2016年6月30日をもって終了した<ref name="NE20150731">{{Cite press release|和書|url=http://www.ntt-east.co.jp/release/detail/20150731_02.html|title=「フレッツ・ADSL」の新規申込受付終了について|publisher=NTT東日本|date=2015-7-31|accessdate=2015-10-22}}</ref><ref name="NW20150731">{{Cite press release|和書|url=https://www.ntt-west.co.jp/news/1507/150731a.html|title=「フレッツ・ADSL」の新規申込受付終了について|publisher=NTT西日本|date=2015-7-31|accessdate=2015-10-22}}</ref>。
:2023年1月31日を以って、「フレッツ光」提供エリアにおいてフレッツ・ADSLをサービス提供を終了する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.ntt-east.co.jp/release/detail/20171130_01.html|title=「フレッツ光」提供エリアにおける「フレッツ・ADSL」の提供終了等について|publisher=NTT東日本|date=2017-11-30|accessdate=2017-11-30}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.ntt-west.co.jp/news/1711/171130a.html|title=「フレッツ光」提供エリアにおける「フレッツ・ADSL」の提供終了等について|publisher=NTT西日本|date=2017-11-30|accessdate=2017-11-30}}</ref>。
:ただし、2022年2月1日から2023年1月31日の間に「フレッツ光」提供可能になるエリアについては提供終了日は2025年1月31日となった<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.ntt-east.co.jp/release/detail/20220302_01.html|title=一部エリアにおける「フレッツ・ADSL」の提供終了日変更について|publisher=NTT東日本|date=2022-03-02|accessdate=2023-03-11}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.ntt-west.co.jp/news/2203/220302a.html|title=一部エリアにおける「フレッツ・ADSL」の提供終了日変更について|publisher=NTT西日本|date=2022-03-02|accessdate=2023-03-11}}</ref>。
{{See also|ブロードバンドインターネット接続#日本での展開}}
=== プロバイダがADSL回線事業者の窓口となる一括契約型 ===
アクセスライン(接続サービス)を提供する業者は「ホールセール」(wholesale、卸売)とも言い、ADSL回線事業者が各プロバイダと提携し提携先プロバイダの一括サービスとしてプロバイダを窓口に契約する方式。
*[[ソフトバンク]]
**イー・アクセス - 東京、名古屋、大阪周辺及び全国主要都市周辺を中心とした地区に限定。2013年1月よりソフトバンクの完全子会社で、[[ワイモバイル]]への商号変更を経て2015年にソフトバンクモバイル(現・シフトバンク)に合併。
**[[アッカ・ネットワークス]] - 東京、名古屋、大阪周辺及び全国主要都市周辺を中心とした地区に限定。後にイー・アクセスに吸収合併。アッカ・ネットワークス系のADSL接続サービスについては、2017年3月31日までに順次サービス終了。
**[[東北インテリジェント通信]] - 東北地方を中心とした地区に限定。2009年4月、イー・アクセスにADSL事業を譲渡。
*[[エネルギア・コミュニケーションズ]] - 中国地方を中心とした地区に限定。2015年3月31日までに順次サービス終了。
*[[STNet]] - 四国地方を中心とした地区に限定。2014年5月ごろ終了。
=== プロバイダとADSL回線事業を兼ねている形態 ===
*ソフトバンク
**[[Yahoo! BB]] - 自社でADSL接続サービスとプロバイダサービスを合わせて提供する。一部の山村部、離島(沖縄をのぞく)を除く全国。
**[[東京めたりっく通信]](現在:[[ソフトバンクBB]]) - [[1999年]]7月、日本で初めて電話線を利用したADSLサービスを提供(東京都内)。その後、ソフトバンクBBへ吸収合併された。
**[[平成電電]] - 電光石火。自社プロバイダ契約とセット。直収ADSL(でんわ石火)もある。[[2006年]]に破産、[[ソフトバンクテレコム|日本テレコム]](現在:[[ソフトバンク]])に事業譲渡された。
**JDSL - 日本テレコムが[[2001年]]から東京、名古屋、大阪周辺を対象に自社でADSL接続サービスとプロバイダ([[ODN]])サービスを合わせて提供していた。[[2002年]]に接続サービスはイー・アクセスに移管。
*直収ADSL
**Yahoo! BB おとくラインタイプ - アクセスラインが直収電話のソフトバンクテレコム「おとくライン」となる。050番号のIP電話サービスは利用できない。
**[[au one net]](旧DION)(メタルプラスネットDION ADSL50/10) - アクセスラインが[[直収電話]]の[[KDDI]]「メタルプラス」となる。050番号のIP電話サービスも利用可能。ただしKDDIはADSLサービスは未実施であり、イー・アクセス(現・[[ソフトバンクモバイル|ソフトバンク]])の設備を利用している。2015年9月30日サービス終了済み。
*地域ADSL事業者
**北海道
**東北
**関東
***[[TOKAIコミュニケーションズ]](@TCOM) - 旧名ビック東海。自社でADSL接続サービスとプロバイダサービスを合わせて提供する(提供は[[東京都]]、[[神奈川県]]、[[千葉県]]、[[埼玉県]]限定)。2023年11月30日までにADSLサービスを終了<ref>[https://service.t-com.ne.jp/net/adsl/ ADSL(T)コースサービス提供終了のお知らせ]</ref>。
**信越
***JANISネット(株式会社[[長野県協同電算]]) - 自社でADSL接続サービスとプロバイダサービスを合わせて提供する(提供は[[長野県]]限定)。
**東海
***[[TOKAI]](TNC「ADSLパワーライン」) - 自社でADSL接続サービスとプロバイダサービスを合わせて提供する(提供は[[静岡県]]限定)。
**関西
***関西ブロードバンド(h555.net) - 兵庫情報ハイウェイを利用したADSLサービスを提供する(提供は[[兵庫県]]限定)。
***みさとインターネット - 美里町ブロードバンド整備事業として、[[紀美野町]](旧[[美里町 (和歌山県)|美里町]])と[[株式会社IMS]]が共同でADSLサービスを提供する(提供は美里町限定)。
**中国・四国
**九州・沖縄
***[[コアラ (企業)|コアラ]](コアラADSL) - [[大分市]]及び[[福岡市]]の一部でサービスを提供。自社ADSLの他、NTT西日本地域全域のフレッツ・ADSLにも対応していた。2021年12月31日にADSLを含むすべてのインターネットサービスの提供を終了<ref>[https://qtmedia.co.jp/news/detail/73 弊社インターネットサービス等の提供終了について]</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[ブロードバンドインターネット接続]]
*[[情報格差]]
*[[FTTx|FTTR]]
*[[通信線路]] - [[光収容]] - [[主配線盤]] - [[端子函]] - [[保安器]] - [[ラストワンマイル]]
*[[ドライカッパ]]
== 外部リンク ==
*[https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/index.html 通信利用動向調査](総務省)
<!--宣伝の可能性あり
*{{Wayback|url=http://impromptu2.hp.infoseek.co.jp/index.html |title=ADSL各社比較と技術解説のページ |date=20100101000000}}-->
{{Internet access}}
{{デフォルトソート:えいていいえすえる}}
[[Category:インターネット接続]]
[[Category:有線通信]]
[[Category:頭字語|ADSL]]
[[sv:Digital Subscriber Line#ADSL]] | 2003-04-11T19:25:46Z | 2023-12-27T14:24:01Z | false | false | false | [
"Template:Cite news",
"Template:Cite press release",
"Template:Cite web",
"Template:Internet access",
"Template:See also",
"Template:出典の明記",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/ADSL |
6,553 | PCカード | PCカード(英: PC Card)とは、日米協調して規格統一を行ったパソコン用小型カード型インタフェース、およびその規格による拡張カードである。主に、ノートパソコンや小型の省スペース型デスクトップパソコンで利用される。PC向けインタフェース規格として初めて、本格的なプラグアンドプレイ、ホットスワップを実現した。
当初は「PCMCIAカード」「PCMCIAスロット」などと呼ばれたが、1993年に規格の統一呼称として「PCカード」が制定されたため、「PCMCIA」とは規格策定団体(のみ)を指すようになった。
PCIをベースに32ビット化されたPCカードをCardBus(カードバス)という。このため、従来のISAをベースにしたPCカード規格を区別するために後付けで16ビットPCカードと呼ぶ場合がある。また、コンパクトフラッシュは、16ビットPCカードを小型化したもので、サイズとピン数以外はほとんど同じ規格である。
後継規格としてExpressCardがあるが、これはUSB 2.0とPCI Expressをベースにしたもので、PCカードとの互換性はない。
1985年、日本電子工業振興協会 (JEIDA、当時)に、ICメモリカード技術専門委員会が設置され、規格仕様の検討が開始された。当時はまだノートパソコンは存在せず、主に電子手帳向けの規格だった。
1989年に、米国でパソコン用メモリーカードの規格統一のための組織、PCMCIA (Personal Computer Memory Card International Association) が設立されたのを受け、1990年にJEIDAの呼びかけで共同作業が開始され、JEIDAガイドラインVer4.0を基にして、PCMCIA Standard Release 1.0が発行された。当初は細部の互換性に欠けていたが、1993年PCカードガイドラインVersion4.2/PCMCIA Standard Release 2.1をもって互換性が得られ、統一呼称「PCカード/PC Card」とロゴマークが制定された。また、JEIDAガイドライン Ver.4.0以降、ATA/AIMS (Auto Indexing Mass Storage) などI/Oカード仕様も制定された。
1995年PC Card Standardとして統一規格が発行され、CardBus、3.3Vカード、マルチファンクションカードなど各種の新規格も盛り込まれた。
ICメモリカード技術専門委員会は、PCカード技術専門委員会に改組された後、JEIDAは現電子情報技術産業協会 (JEITA) に引き継がれている。
PCカードのサイズはクレジットカード大(長さ85.6mm×巾54.0mm)で、厚さにより以下のように分類される。
コネクタはカードの一端に設けられ、68ピンである。コネクタ部および側面ガイド部の厚さはすべて3.3mmであり、中央部の部品実装部分の厚さのみ異なる。Type IIIカードはType IIの厚さを上方向に倍にしたような形状である。そのため、Type IIスロットが上下に2つある場合、利用できることが多い。また、カード後部に突起部のあるカードや、外部機器との接続ケーブルのコネクタを備えたものも多い。専用の接続ケーブルを介さず、一般的な外部コネクタがカードと一体化したものはカプラレスとも呼称される。
PCカードには5V駆動のものと3.3V駆動のものがある。5Vのみ対応の本体に3.3Vカードを挿すと危険なので、コネクタ部側面に誤挿入防止キーが設けられている。同様にCardBus非対応のスロットにはCardBus専用のカードは差さらないようになっている(両対応カードは差せる)。またCardBusでは、電気的特性の安定化のため、コネクタ部上面に金色のグランドプレートと呼ばれる端子を備えている。
。
スロット側の形状もカードに合わせて決められている。入口にはふたが設けられているか、カードサイズの枠の形状をしたダミーカードを挿入するようになっており、PCカードを挿入していない状態における異物の侵入防止はじめ内部機構保護のための対策がとられている製品が一般的である。
Type IのカードはType IIのスロットに挿すことができる。また、Type II用スロットを重ねて設置することにより、Type I/IIカード最大2枚またはType IIIカード1枚を挿して使うことができ、ノートPCなどではこのようなスロットが一般的に採用されてきた。
しかし、2010年頃までには以下のような理由により、Type IIスロット1つのみを備えるケースが多くなっていた。
またかつてはThinkPadなどで、PCカードスロットを3つ設けた機種もあり、さらに、ドッキングステーションやポートリプリケーターを利用し、合計4つ利用できる機種もある。また、各社のPCI Expressに対応したチップセットを搭載したモデルでは、本体はPCカードスロットのみとし、ドッキングステーションにExpressCardスロットを持つものや、主にA4サイズ以上のモデルで、本体にPCカードとExpressCardの両スロットを備えるものがある。
通常、スロット横にはイジェクトボタンがあり、これを押すと挿入したPCカードが押し出され、取り外すことができる。また、機種によってはスライドスイッチ状になっているものもある。なお、PCカードのインタフェースポートやアンテナなど外部に露出している部分があれば、それをつまんでそのまま引き抜くこともできるが、カードに無理な力が加わるおそれもあるため、イジェクト機構を使うことが望ましい。 また、ノートPCをケースから出し入れする際に、イジェクトボタンが飛び出した状態になることがある。これに気付かずに無理な力が加わると、イジェクトボタンの破損に繋がるので、取扱いに注意を払う部分である。
一般にPCカードのドライバはいくつかの階層に分かれている。Windowsの普及によりこれらを意識する必要性は減っているが、Windows 9xでMS-DOS用ドライバで運用するときなどに理解が必要なケースもある。
ソケットサービスはPCカードスロットのコントローラチップを直接運用するもので、ハードウエアの違いを吸収する役割がある。カードサービスはPCカードとソケットサービスを仲介するドライバで、PCカードの使用するメモリアドレスなどのリソースを管理する。その上で各PCカードのイネーブラ(ドライバ)で認識させる形になる。サードパーティ製のPCカードスロット増設ボード製品の中にはソケットサービスのみが提供され、カードサービスはPC付属のドライバを使うような例もあるため、しばしばこれらを意識して区別する必要がある。
特にDOS上において特定のハードウエアを決め打ちすることで、これらのドライバを介さずに1つのドライバで特定のPCカードを半ば強制的に認識させるポイントイネーブラという形式のドライバもあるが、この場合は基本的にプラグアンドプレイに対応せず、他のPCカードとは併用できない。
先述の通り、ハードウエア面においてCardBusは32ビット、従来のPCカードは16ビットの規格と言える。CardBusスロットは従来の16ビットPCカードを利用することもできるが、逆に従来の16ビットPCカードスロットでCardBus専用カードを利用することはできないため、先述のように物理的に挿入できないようになっている。カードによってはスイッチ切り替えで両方に対応させた製品もあり、差し込み部分の物理形状は16ビットPCカードと互換だが、CardBus特有のグランドプレートも断片的な形状のものが設置されている。
デスクトップ機において本来PCIスロットを使うような新しい規格のデバイスは、PCカードにおいては基本的にCardBusで提供される形になる。例えば多くの場合においてUSBポートを増設するPCカードはカードバス専用であり、mobioのような16ビット規格のPCカードスロットしか備えないPCでUSBカードを利用することはできない。
CardBusスロットは従来の16ビットPCカードスロットと比べて信号線の総延長の制限が厳しくなっており、デスクトップ機などにCardBusスロットを増設するPCIカードはPCIブラケットに直接PCカードを差せるような形状が基本である。フラットケーブルを引き回してカードスロット部分をフロントベイまで延長するタイプの製品では、ハードウエアとしてはCardBusカードを挿入可能であっても16ビットPCカードしか動作保証されていないことがある。
Windows 9x系では、「システム」のプロパティで「パフォーマンス」タブにPCカードの項目があり、PCカードスロットが32ビットか否かが表示される。しかし紛らわしいことに、これは上記のCardBusか否かというハードウエアには全く関係が無い。ここで言うPCカードの32ビットとは、Windows 9xのネイティブドライバで動作していることを指し、使用しているドライバすなわちソフトウェア側の種別を表したものである。従来規格の16ビットPCカードスロットであっても32ビットOSであるWindows 9xではできるだけ32ビットドライバで運用すべきであるし、逆に32ビット規格であるCardBusスロットをリアルモード(すなわち16ビット)のドライバで運用することもできないわけではない。
この場合リアルモード(16ビット)とは、PCカードスロットのドライバがMS-DOS用のドライバをベースに動作している「MS-DOS互換モード」のデバイス状態を指す。したがってWindows NT系では16ビットのドライバは存在しない。リアルモードドライバで運用する場合にはデバイスマネージャでPCカードスロット(のネイティブドライバ)を無効に設定しておく形になり、無効になっているときはMS-DOS用ドライバの有無に関係なくシステムのプロパティではPCカードスロットがMS-DOS互換モードと表示される。MS-DOS用ドライバは一般にWindows 9xに付属するものではないため、必要であれば別途用意して組み込む必要がある。当然ながらWindowsネイティブドライバのほうが使い勝手がよく、PCカード側のドライバもWindows 9x用のものが利用できる。逆にPCカードスロットがリアルモードドライバ動作の場合はPCカード側のドライバもMS-DOS/Windows 3.1用ドライバを使用しなくてはならない。この場合はMS-DOS相当の段階で認識させるため、ホットプラグに対応しないものも多い。
Windows 9xをインストールするときに光学ドライブのような重要なストレージがPCカード経由で接続されている場合にはインストールが完了するまでMS-DOS用のドライバを使い続けなくてはならないため、PCカードスロットの32ビットドライバはインストールされない。この場合はインストール完了後に32ビットドライバに置き換えることが推奨されている。32ビットWindowsであえてリアルモードドライバを使用するケースとしては、Windows起動初期の段階から認識させる必要のある機器のほか、PCカード側で32ビットドライバが用意されていない場合なども挙げられる。例えばPC-9821Ne等に搭載されたJEIDA4.1/PCMCIA2.0規格のPCカードスロットの場合、Windows 95にはPCカードスロット側の32ビットネイティブドライバは用意されているものの、PCカード側の32ビットドライバがJEIDA4.2/PCMCIA2.1以降のPCカードスロットにしか対応していないというケースが少なくなかった。しかしMS-DOS/Windows 3.1用ドライバであればJEIDA4.1/PCMCIA2.0にも対応していたというPCカードもあるため、そのようなものはPCカードスロットをMS-DOS用ドライバで運用する形で利用できる可能性がある。このほか、DOS用ドライバとWindows用ドライバでは機能が異なるようなPCカードも挙げられる。一例としてPC-9800シリーズ用サウンドカードCF-VEW213P(パナソニック)やLPM-SU98(ロジテック)を例に取ると、DOS用イネーブラはFM音源だけを有効にするもので、Windows用ドライバはPCM音源だけを有効にする排他仕様である。このためWindows上でどうしてもFM音源を使用したい場合にはPCM音源の使用を諦めて、PCカードスロットともどもDOS用ドライバのみで認識させるしか方法が無かった。
以下のようなさまざまな用途のカードが市販されている。
初期のSRAMカードやリニアフラッシュメモリカードは主記憶上に直接配置できる構造になっているが、その後のコンパクトフラッシュ等のメモリカードはATAのインタフェースを経由する形でI/Oカードとして実装されているものが多い。
2006年時点では、各種デバイスの内蔵化やUSB2.0など、他のインタフェースの普及により、よく利用されるカードはメモリカードアダプタ、無線LAN、PHSデータカードなど、そのPCが発売当時に持っていなかったインタフェースの追加、増設用に限られてきている。また、一時期は、コンパクトフラッシュサイズも多かった。ネットブックなどには、内蔵スペースや重量の問題もあり、PCカードスロットは設けられることは少ないが、2009年以降は、15から16型のオールインワンノートパソコンでも省かれる例が見られるようになった。ただし、スロットが無い場合はUSB2.0はもちろん、eSATAなど、ひととおりの高速インタフェースや無線LANは完備していることが多い。
技術向上により、転送速度が、CardBusベースPCカードの転送速度 (132MB/s) を上回るようなインタフェースも出てきており、そのような場合はCardBusがボトルネックとなって性能をフルに生かせないため、シリアルATA/eSATA (150MB/s) のように性能ダウン覚悟で繋ぐカードとなったり、USB3.0 (600MB/s) のように発売されない可能性もある。このため、ノートPCでUSB3.0クラスの高速インタフェースを増設する可能性がある場合は、ExpressCardのPCI Expressタイプ対応機が必要である。なおExpressCardをCardBusスロットに接続する変換アダプタもあるが、一般に通信カードなどのUSB2.0タイプの信号線を利用したExpressCard専用であり、PCI Expressタイプの信号線を利用するUSB3.0のようなExpressCardは動作しない。 | [
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"text": "2006年時点では、各種デバイスの内蔵化やUSB2.0など、他のインタフェースの普及により、よく利用されるカードはメモリカードアダプタ、無線LAN、PHSデータカードなど、そのPCが発売当時に持っていなかったインタフェースの追加、増設用に限られてきている。また、一時期は、コンパクトフラッシュサイズも多かった。ネットブックなどには、内蔵スペースや重量の問題もあり、PCカードスロットは設けられることは少ないが、2009年以降は、15から16型のオールインワンノートパソコンでも省かれる例が見られるようになった。ただし、スロットが無い場合はUSB2.0はもちろん、eSATAなど、ひととおりの高速インタフェースや無線LANは完備していることが多い。",
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"text": "技術向上により、転送速度が、CardBusベースPCカードの転送速度 (132MB/s) を上回るようなインタフェースも出てきており、そのような場合はCardBusがボトルネックとなって性能をフルに生かせないため、シリアルATA/eSATA (150MB/s) のように性能ダウン覚悟で繋ぐカードとなったり、USB3.0 (600MB/s) のように発売されない可能性もある。このため、ノートPCでUSB3.0クラスの高速インタフェースを増設する可能性がある場合は、ExpressCardのPCI Expressタイプ対応機が必要である。なおExpressCardをCardBusスロットに接続する変換アダプタもあるが、一般に通信カードなどのUSB2.0タイプの信号線を利用したExpressCard専用であり、PCI Expressタイプの信号線を利用するUSB3.0のようなExpressCardは動作しない。",
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] | PCカードとは、日米協調して規格統一を行ったパソコン用小型カード型インタフェース、およびその規格による拡張カードである。主に、ノートパソコンや小型の省スペース型デスクトップパソコンで利用される。PC向けインタフェース規格として初めて、本格的なプラグアンドプレイ、ホットスワップを実現した。 | '''PCカード'''({{Lang-en-short|'''PC Card'''}})とは、日米協調して規格統一を行った[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用小型カード型[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]、およびその規格による[[拡張カード]]である。主に、[[ノートパソコン]]や小型の省スペース型[[デスクトップパソコン]]で利用される。PC向けインタフェース規格として初めて、本格的な[[プラグアンドプレイ]]、[[ホットスワップ]]を実現した。
== 概要 ==
当初は「PCMCIAカード」「PCMCIAスロット」などと呼ばれたが、1993年に規格の統一呼称として「PCカード」が制定されたため、「PCMCIA」とは規格策定団体(のみ)を指すようになった。
[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]をベースに32ビット化されたPCカードを'''CardBus'''('''カードバス''')という。このため、従来の[[Industry Standard Architecture|ISA]]をベースにしたPCカード規格を区別するために[[レトロニム|後付け]]で'''16ビットPCカード'''と呼ぶ場合がある。また、[[コンパクトフラッシュ]]は、16ビットPCカードを小型化したもので、サイズとピン数以外はほとんど同じ規格である。
後継規格として[[ExpressCard]]があるが、これは[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]] 2.0と[[PCI Express]]をベースにしたもので、PCカードとの互換性はない。
== 歴史 ==
[[ファイル:MOdrive and PC-Card.JPG|thumb|300px|PCカードドライブ(上部)が付いた[[光磁気ディスク|MO]]ドライブ]]
[[1985年]]、日本電子工業振興協会 (JEIDA、当時)に、ICメモリカード技術専門委員会が設置され、規格仕様の検討が開始された。当時はまだノートパソコンは存在せず、主に[[電子手帳]]向けの規格だった。
[[1989年]]に、[[アメリカ合衆国|米国]]でパソコン用[[メモリーカード]]の規格統一のための組織、'''PCMCIA''' (Personal Computer Memory Card International Association) が設立されたのを受け、[[1990年]]にJEIDAの呼びかけで共同作業が開始され、JEIDAガイドラインVer4.0を基にして、PCMCIA Standard Release 1.0が発行された。当初は細部の互換性に欠けていたが、[[1993年]]PCカードガイドラインVersion4.2/PCMCIA Standard Release 2.1をもって互換性が得られ、統一呼称「PCカード/PC Card」と[[ロゴマーク]]が制定された。また、JEIDAガイドライン Ver.4.0以降、[[Advanced Technology Attachment|ATA]]/AIMS (Auto Indexing Mass Storage) などI/Oカード仕様も制定された。
[[1995年]]PC Card Standardとして統一規格が発行され、CardBus、3.3Vカード、マルチファンクションカードなど各種の新規格も盛り込まれた。
ICメモリカード技術専門委員会は、PCカード技術専門委員会に改組された後、JEIDAは現[[電子情報技術産業協会]] (JEITA) に引き継がれている。
== 形状 ==
[[ファイル:PCCard-ExpressCard.png|thumb|300px|PCカード(下)と[[ExpressCard]]2種]]
PCカードのサイズはクレジットカード大(長さ85.6mm×巾54.0mm)で、厚さにより以下のように分類される。
; Type I (3.3mm)
: 主に[[SRAMカード]]、リニア[[フラッシュメモリ]]カードに使われる。ただし、この種のメモリカードがほとんど使われなくなったことと、Type IIとしても実用上問題ないことから、Type Iのカードはあまり見られなくなった。
; Type II (5mm)
: 主にATAフラッシュメモリカードや各種I/Oカードに使われる。Expressでは無いPCカードの多くはType IIである。
; Type III (10.5mm)
: 主にATA HDDカードに使われる。ただし、[[マイクロドライブ]]の登場後はほとんど使われなくなった。一部のネットワークカードで、[[Registered jack|モジュラープラグ]]用のジャックをカード後端に備えるべく、この形状を採用したものもある。
; Type IV(10.5mm超、非標準)
: 一部のHDDカードで使われていた。一般的ではなく、その後は全く使われていない。
[[コネクタ]]はカードの一端に設けられ、68ピンである。コネクタ部および側面ガイド部の厚さはすべて3.3mmであり、中央部の部品実装部分の厚さのみ異なる。Type IIIカードはType IIの厚さを上方向に倍にしたような形状である。そのため、Type IIスロットが上下に2つある場合、利用できることが多い。また、カード後部に突起部のあるカードや、外部機器との接続ケーブルのコネクタを備えたものも多い。専用の接続ケーブルを介さず、一般的な外部コネクタがカードと一体化したものはカプラレスとも呼称される。
PCカードには5V駆動のものと3.3V駆動のものがある。5Vのみ対応の本体に3.3Vカードを挿すと危険なので、コネクタ部側面に誤挿入防止キーが設けられている。同様にCardBus非対応のスロットにはCardBus専用のカードは差さらないようになっている(両対応カードは差せる)。またCardBusでは、電気的特性の安定化のため、コネクタ部上面に金色のグランドプレートと呼ばれる端子を備えている。
[[File:PCCard CardBus.jpg|thumb|300px|CardBus(右)にはグランドプレートがあるが16ビットPCカード(左)にはない]]<ref>[http://www.hirose.co.jp/catalogj_hp/j64009012.pdf 旧製品資料(PDF)] - [[ヒロセ電機]]</ref>。
[[スロット]]側の形状もカードに合わせて決められている。入口にはふたが設けられているか、カードサイズの枠の形状をした'''[[ダミー]]カード'''を挿入するようになっており、PCカードを挿入していない状態における異物の侵入防止はじめ内部機構保護のための対策がとられている製品が一般的である。
Type IのカードはType IIのスロットに挿すことができる。また、Type II用スロットを重ねて設置することにより、Type I/IIカード最大2枚またはType IIIカード1枚を挿して使うことができ、ノートPCなどではこのようなスロットが一般的に採用されてきた。
しかし、2010年頃までには以下のような理由により、Type IIスロット1つのみを備えるケースが多くなっていた。
* フラッシュメモリカードの大容量化や超小型HDDカードの登場に伴い、Type IIIカードを使うことがほとんどなくなったため。
* 各種デバイスの内蔵化や、USBなど他のインタフェースの普及により、PCカードを同時に2枚も使う必要性が減ったため。
** 特にカプラレスのPCカード同士ではコネクタ口が物理干渉しやすく、隣接するスロットに2枚同時に挿すこと自体が困難。
* 本体の薄型化のため。
またかつては[[ThinkPad]]などで、PCカードスロットを3つ設けた機種もあり、さらに、ドッキングステーションやポートリプリケーターを利用し、合計4つ利用できる機種もある。また、各社の[[PCI Express]]に対応した[[チップセット]]を搭載したモデルでは、本体はPCカードスロットのみとし、ドッキングステーションに[[ExpressCard]]スロットを持つものや、主にA4サイズ以上のモデルで、本体にPCカードとExpressCardの両スロットを備えるものがある。
通常、スロット横にはイジェクトボタンがあり、これを押すと挿入したPCカードが押し出され、取り外すことができる。また、機種によってはスライドスイッチ状になっているものもある。なお、PCカードのインタフェースポートやアンテナなど外部に露出している部分があれば、それをつまんでそのまま引き抜くこともできるが、カードに無理な力が加わるおそれもあるため、イジェクト機構を使うことが望ましい。
また、ノートPCをケースから出し入れする際に、イジェクトボタンが飛び出した状態になることがある。これに気付かずに無理な力が加わると、イジェクトボタンの破損に繋がるので、取扱いに注意を払う部分である。
== ソケットサービスとカードサービス ==
{{節スタブ|date=2019年2月}}
一般にPCカードのドライバはいくつかの階層に分かれている。Windowsの普及によりこれらを意識する必要性は減っているが、Windows 9xでMS-DOS用ドライバで運用するときなどに理解が必要なケースもある。
ソケットサービスはPCカードスロットのコントローラチップを直接運用するもので、ハードウエアの違いを吸収する役割がある<ref>{{Cite web|和書|url=http://yougo.ascii.jp/caltar/ソケットサービス|title=ソケットサービス|publisher=ASCII用語辞典|accessdate=2019-02-05}}</ref>。カードサービスはPCカードとソケットサービスを仲介するドライバで、PCカードの使用するメモリアドレスなどのリソースを管理する<ref>{{Cite web|和書|url=http://yougo.ascii.jp/caltar/カードサービス|title=カードサービス|publisher=ASCII用語辞典|accessdate=2019-02-05}}</ref>。その上で各PCカードのイネーブラ(ドライバ)で認識させる形になる。サードパーティ製のPCカードスロット増設ボード製品の中にはソケットサービスのみが提供され、カードサービスはPC付属のドライバを使うような例もあるため、しばしばこれらを意識して区別する必要がある。
特にDOS上において特定のハードウエアを決め打ちすることで、これらのドライバを介さずに1つのドライバで特定のPCカードを半ば強制的に認識させるポイントイネーブラという形式のドライバもあるが、この場合は基本的にプラグアンドプレイに対応せず、他のPCカードとは併用できない。
== 32ビット規格と16ビット規格 ==
=== CardBusか否か ===
先述の通り、ハードウエア面においてCardBusは32ビット、従来のPCカードは16ビットの規格と言える。CardBusスロットは従来の16ビットPCカードを利用することもできるが、逆に従来の16ビットPCカードスロットでCardBus専用カードを利用することはできないため、先述のように物理的に挿入できないようになっている。カードによってはスイッチ切り替えで両方に対応させた製品もあり、差し込み部分の物理形状は16ビットPCカードと互換だが、CardBus特有のグランドプレートも断片的な形状のものが設置されている。
デスクトップ機において本来PCIスロットを使うような新しい規格のデバイスは、PCカードにおいては基本的にCardBusで提供される形になる。例えば多くの場合においてUSBポートを増設するPCカードはカードバス専用であり、[[mobio]]のような16ビット規格のPCカードスロットしか備えないPCでUSBカードを利用することはできない。
CardBusスロットは従来の16ビットPCカードスロットと比べて信号線の総延長の制限が厳しくなっており、デスクトップ機などにCardBusスロットを増設するPCIカードはPCIブラケットに直接PCカードを差せるような形状が基本である。フラットケーブルを引き回してカードスロット部分をフロントベイまで延長するタイプの製品では、ハードウエアとしてはCardBusカードを挿入可能であっても16ビットPCカードしか動作保証されていないことがある。
=== Windowsネイティブドライバか否か ===
[[Windows 9x系]]では、「システム」のプロパティで「パフォーマンス」タブにPCカードの項目があり、PCカードスロットが32ビットか否かが表示される。しかし紛らわしいことに、これは上記のCardBusか否かというハードウエアには全く関係が無い。ここで言うPCカードの32ビットとは、Windows 9xのネイティブドライバで動作していることを指し、使用しているドライバすなわちソフトウェア側の種別を表したものである。従来規格の16ビットPCカードスロットであっても32ビットOSであるWindows 9xではできるだけ32ビットドライバで運用すべきであるし、逆に32ビット規格であるCardBusスロットをリアルモード(すなわち16ビット)のドライバで運用することもできないわけではない。
この場合リアルモード(16ビット)とは、PCカードスロットのドライバがMS-DOS用のドライバをベースに動作している「MS-DOS互換モード」のデバイス状態を指す。したがって[[Windows NT系]]では16ビットのドライバは存在しない。リアルモードドライバで運用する場合にはデバイスマネージャでPCカードスロット(のネイティブドライバ)を無効に設定しておく形になり、無効になっているときはMS-DOS用ドライバの有無に関係なくシステムのプロパティではPCカードスロットがMS-DOS互換モードと表示される。MS-DOS用ドライバは一般にWindows 9xに付属するものではないため、必要であれば別途用意して組み込む必要がある。当然ながらWindowsネイティブドライバのほうが使い勝手がよく、PCカード側のドライバもWindows 9x用のものが利用できる。逆にPCカードスロットがリアルモードドライバ動作の場合はPCカード側のドライバもMS-DOS/Windows 3.1用ドライバを使用しなくてはならない。この場合はMS-DOS相当の段階で認識させるため、ホットプラグに対応しないものも多い。
Windows 9xをインストールするときに光学ドライブのような重要なストレージがPCカード経由で接続されている場合にはインストールが完了するまでMS-DOS用のドライバを使い続けなくてはならないため、PCカードスロットの32ビットドライバはインストールされない。この場合はインストール完了後に32ビットドライバに置き換えることが推奨されている。32ビットWindowsであえてリアルモードドライバを使用するケースとしては、Windows起動初期の段階から認識させる必要のある機器のほか、PCカード側で32ビットドライバが用意されていない場合なども挙げられる。例えばPC-9821Ne等に搭載されたJEIDA4.1/PCMCIA2.0規格のPCカードスロットの場合、Windows 95にはPCカードスロット側の32ビットネイティブドライバは用意されているものの、PCカード側の32ビットドライバがJEIDA4.2/PCMCIA2.1以降のPCカードスロットにしか対応していないというケースが少なくなかった。しかしMS-DOS/Windows 3.1用ドライバであればJEIDA4.1/PCMCIA2.0にも対応していたというPCカードもあるため、そのようなものはPCカードスロットをMS-DOS用ドライバで運用する形で利用できる可能性がある。このほか、DOS用ドライバとWindows用ドライバでは機能が異なるようなPCカードも挙げられる。一例として[[PC-9800シリーズ]]用[[サウンドカード]]CF-VEW213P([[パナソニック]])やLPM-SU98([[ロジテック]])を例に取ると、DOS用イネーブラは[[FM音源]]だけを有効にするもので、Windows用ドライバは[[PCM音源]]だけを有効にする排他仕様である。このためWindows上でどうしてもFM音源を使用したい場合にはPCM音源の使用を諦めて、PCカードスロットともどもDOS用ドライバのみで認識させるしか方法が無かった。
== 用途 ==
以下のようなさまざまな用途のカードが市販されている。
* ストレージ系
** SRAM
** リニアフラッシュメモリ
** ATAフラッシュメモリ
** [[コンパクトフラッシュ]]、[[SDメモリーカード]]、[[メモリースティック]]など各種[[メモリーカード]]の[[メモリーカードリーダライタ|アダプタ]]
** ATA HDD
* シリアル系
** アナログ[[モデム]]
** [[ISDN]][[ターミナルアダプタ]]
** [[携帯電話]]・[[PHS]]・[[WiMAX]]などの回線を使用した[[データ通信カード]]
* インタフェース系
** [[Small Computer System Interface|SCSI]]
** [[Advanced Technology Attachment|ATAPI]]
** [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]
** [[IEEE 1394]]
** [[シリアルATA#eSATA|eSATA]]
** [[RS-232|RS-232C]]
** [[プリンタポート]]
** [[IEEE 488|GPIB]]
* ネットワーク系
** [[イーサネット]]
** [[トークンリング]]
** [[無線LAN]]
** [[Bluetooth]]
* マルチメディア系
** [[ワンセグチューナー]]
** [[ビデオカード]]
** [[ビデオキャプチャ]]
** [[サウンドカード]]
** [[ゲームポート]]
初期のSRAMカードやリニアフラッシュメモリカードは主記憶上に直接配置できる構造になっているが、その後のコンパクトフラッシュ等のメモリカードはATAのインタフェースを経由する形でI/Oカードとして実装されているものが多い。
2006年時点では、各種デバイスの内蔵化やUSB2.0など、他のインタフェースの普及により、よく利用されるカードはメモリカードアダプタ、無線LAN、PHSデータカードなど、そのPCが発売当時に持っていなかったインタフェースの追加、増設用に限られてきている。また、一時期は、コンパクトフラッシュサイズも多かった。[[ネットブック]]などには、内蔵スペースや重量の問題もあり、PCカードスロットは設けられることは少ないが、2009年以降は、15から16型のオールインワンノートパソコンでも省かれる例が見られるようになった。ただし、スロットが無い場合はUSB2.0はもちろん、[[シリアルATA|eSATA]]など、ひととおりの高速インタフェースや無線LANは完備していることが多い。
技術向上により、転送速度が、CardBusベースPCカードの転送速度 (132MB/s) を上回るようなインタフェースも出てきており、そのような場合はCardBusが[[ボトルネック]]となって性能をフルに生かせないため、シリアルATA/eSATA (150MB/s) のように性能ダウン覚悟で繋ぐカードとなったり、USB3.0 (600MB/s) のように発売されない可能性もある。このため、ノートPCでUSB3.0クラスの高速インタフェースを増設する可能性がある場合は、ExpressCardのPCI Expressタイプ対応機が必要である。なおExpressCardをCardBusスロットに接続する変換アダプタもあるが、一般に通信カードなどのUSB2.0タイプの信号線を利用したExpressCard専用であり、PCI Expressタイプの信号線を利用するUSB3.0のようなExpressCardは動作しない。
===画像===
<gallery>
Image:USB2.0 CardBus Controller.jpg|4ポート USB 2.0 カード
画像:PCMCIA-card-750px.jpg|無線LANカード
image:wlan.JPG|2.4GHz無線LANカード
Image:Echo Indigo IO.jpg|サウンドカード
Image:Buffalo IFC-SCD2.jpg|SCSI カード
Image:PC-Card Adapter26in1.jpg|[[メモリーカード]]アダプタ
</gallery>
== 規格 ==
* JEIDA1.0
* JEIDA2.0
* JEIDA3.0 : [[FM TOWNS]]、[[ネオジオ]]など - 「[[SRAMカード|ICメモリカード]]」スロット
* JEIDA4.0 / PCMCIA1.0 : FM TOWNS(II以降)、PC-9801NL、PC-98HA (HANDY98) など - メモリ空間拡張
* JEIDA4.1 / PCMCIA2.0 : [[PC-9821|PC-9821Ne]]、FM TOWNS II model SN、[[HP200LX]]など - [[Advanced Technology Attachment|ATA]]・I/Oカードに対応
* JEIDA4.2 / PCMCIA2.1 : PC-9821Np・PC-9801NL/A以降
* CardBus - バス幅を16ビットから32ビットに拡張したもの。
* CardBay - USB2.0やIEEE1394の規格を参考に開発されたCardBusの後継規格。ほとんど普及しなかった。
* {{仮リンク|Zoomed video port|en|Zoomed_video_portZVPort}}(ZV Port) - 動画用
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[ExpressCard]]
* [[レガシーデバイス]]
* [[モバイルブロードバンド]]
* [[ドングル]]
* [[モデム]]
* [[ラップトップ]]
* [[P2]] - [[SDメモリーカード]]をPCカード互換形状の筐体に搭載したもの。専用ドライバ必須
== 外部リンク ==
{{Commonscat|PC cards}}
* [https://www.hpcfactor.com/support/cesd/h/0037.asp Understanding PC Card, PCMCIA, Cardbus, 16-bit, 32-bit.]
* {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20080822091330/http://www.pcmcia.org/ |date=August 22, 2008 |title=PCMCIA official website }}
* [http://pcmcia-cs.sourceforge.net/ Linux PCMCIA Information Page (kernel 2.4 and earlier)]
* {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20111003223600/http://kernel.org:80/pub/linux/utils/kernel/pcmcia/pcmcia.html |date=October 3, 2011 |title=Linux Kernel 2.6 PCMCIA }}
* [http://tuxmobil.org/pcmcia_linux.html PCMCIA/CardBus Linux Status Survey]
* [http://pinouts.ws/pcmcia-pinout.html PCMCIA pinout]
* [https://pinouts.ru/Slots/PcCard_pinout.shtml PCMCIA (PC Card) pinout and signals]
* [https://www.sycard.com/pcard_qa.html Simple FAQ on PCMCIA & PC Card]
* [https://www.freebsd.org/doc/en_US.ISO8859-1/books/arch-handbook/pccard.html PC Card on FreeBSD]
* [https://www.freebsd.org/cgi/man.cgi?query=pccard&sektion=4&manpath=FreeBSD+10.3-RELEASE+and+Ports pccard(4) - FreeBSD manpage]
* [http://bxr.su/FreeBSD/sys/dev/pccard/ pccard(4) - FreeBSD implementation]
{{Computer-stub}}
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[[Category:拡張カード]] | 2003-04-11T20:08:35Z | 2023-09-29T06:19:16Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/PC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 |
6,554 | カタルーニャ語 | カタルーニャ語(カタルーニャご、català [kətəˈɫa])は、スペイン東部のカタルーニャ州に居住しているカタルーニャ人の言語。よく見られるカタロニア語という表記は地方名の英語名に由来する。インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。
カタルーニャ地方のほか、バレンシア州、バレアレス諸島州、アラゴン州のカタルーニャ州との境界地域、南フランス・ルシヨン地方(北カタルーニャ)、イタリア・サルデーニャ州アルゲーロ市などに話者がいる。
アンドラ公国では公用語になっており、またスペインではガリシア語、バスク語と並んで地方公用語(カタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島各自治州)となっている。なお、バレンシア州は同地で話されているこの言語の地域変種の名称を「バレンシア語」と規定しており、このことは同州で話されているこの言語を、カタルーニャ語のバレンシア方言であるか、バレンシア語であるかと言う議論に発展した。
スペイン語(カスティーリャ語)の方言と誤解されることも多いが、スペイン語とカタルーニャ語は親戚関係にある別言語である。
カタルーニャ語はヨーロッパの4か国で話されている(移民は除く):
カタルーニャ語は、ピレネー山脈東部の南北両側麓で話されていた俗ラテン語から派生している。ガロ=ロマンス語、イベロ=ロマンス語、北イタリアで話されていたガロ=イタリア語の特徴と原点を同じくする。アラゴン連合王国のレコンキスタによって、カタルーニャ語は南へ西へ広がり、バレンシア州やバレアレス諸島で話されるようになった。15世紀、バレンシア黄金時代にカタルーニャ語文学は頂点に達する。
しかし、ピレネー条約によってフランスへ割譲された北カタルーニャ(ルシヨン)ではカタルーニャ語の公での使用が禁止されてしまう。スペインにおいても、スペイン継承戦争の敗者であったカタルーニャでは、フェリペ5世が布告した新国家基本法によって、行政および教育の場でのカタルーニャ語使用が禁止された。
19世紀末にはカタルーニャ・ルネサンスと呼ばれる文芸復興運動(ラナシェンサ)が起こり、成果を見せた。20世紀初頭には、文法学者・言語学者プンペウ・ファブラが正書法、文法書、辞書を完成させ、現代カタルーニャ語の規範化に貢献した。
ところが、1936年に勃発したスペイン内戦と後のフランシスコ・フランコによる独裁政権により、地方語は激しい弾圧を受け、カタルーニャ語も公的な場から追放、プンペウ・ファブラも弾圧によりフランスへ亡命した。カタルーニャ語は、公の場ではFCバルセロナのホームスタジアムカンプ・ノウ内を除いて一切の使用が禁止され、再び暗黒時代に入る。
フランコ独裁後期、カタルーニャの民俗および宗教行事が再開され、これらの行事の際にカタルーニャ語を使用することが容認された。1975年11月のフランシスコ・フランコの死後、フアン・カルロス国王の治世下でスペインの民主化が進むなか、40年近くの間使用が禁止されていたカタルーニャ語も復権した。
言語学的には、ラテン語(より正確には俗ラテン語)から変化したロマンス語の一つで、歴史的関係により、南フランス(オクシタニア)の地方言語であるオクシタン語に近い。エスノローグの分類ではオクシタン語とともにオクシタニー・カタロニア語を構成するとしているが、言語学者にはこの説を支持していないものが多い。他のロマンス語と比較すると、カタルーニャ語には以下の特徴がある。 | [
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] | カタルーニャ語(カタルーニャご、català )は、スペイン東部のカタルーニャ州に居住しているカタルーニャ人の言語。よく見られるカタロニア語という表記は地方名の英語名に由来する。インド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。 カタルーニャ地方のほか、バレンシア州、バレアレス諸島州、アラゴン州のカタルーニャ州との境界地域、南フランス・ルシヨン地方(北カタルーニャ)、イタリア・サルデーニャ州アルゲーロ市などに話者がいる。 アンドラ公国では公用語になっており、またスペインではガリシア語、バスク語と並んで地方公用語(カタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島各自治州)となっている。なお、バレンシア州は同地で話されているこの言語の地域変種の名称を「バレンシア語」と規定しており、このことは同州で話されているこの言語を、カタルーニャ語のバレンシア方言であるか、バレンシア語であるかと言う議論に発展した。 スペイン語(カスティーリャ語)の方言と誤解されることも多いが、スペイン語とカタルーニャ語は親戚関係にある別言語である。 | {{出典の明記|date=2015年8月}}
{{Infobox Language
|name=カタルーニャ語
|nativename=català
|pronunciation=/kə.təˈɫa/, /ka.taˈla/
|familycolor=インド・ヨーロッパ
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|speakers=[[母語]]:約322万人<ref name="eurobarómetro">{{Cite report
|df = ja
|author = 欧州委員会
|authorlink = 欧州委員会
|title = Europeans and their Languages - Special Eurobarometer
|date = November 2005
|url = http://ec.europa.eu/public_opinion/archives/ebs/ebs_243_sum_en.pdf}}
ここに挙げた数字は欧州委員会によって2005年11月、12月に実施された言語調査に基づいている。同調査は15歳以上のものを対象としており、当時のスペインの該当人口は35,882,820人で(12頁)、カタルーニャ語(バレンシア語含む)母語話者率9%(2頁)より算出</ref>〜410万名<ref name="et">[http://www.ethnologue.com/language/cat カタルーニャ語][[エスノローグ]]</ref><BR>[[第二言語]]:510万名<ref name="et" />
|rank=93
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*{{flag|Andorra}}
*{{flag|Spain}}
**[[File:Flag of Catalonia.svg|border|25x20px]][[カタルーニャ州]]
**[[File:Flag of the Valencian Community (2x3).svg|border|25x20px]][[バレンシア州]]([[バレンシア語]])
**[[ファイル:Flag of the Balearic Islands.svg|border|25x20px]][[バレアレス諸島]]
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*{{flag|France}}
**[[File:Blason département fr Pyrénées-Orientales.svg|border|25x20px]][[ピレネー=オリアンタル県]]
*{{flag|Italy}}
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}}
'''カタルーニャ語'''(カタルーニャご、{{lang|ca|català}} {{IPA|kətəˈɫa}})は、[[スペイン]]東部の[[カタルーニャ州]]に居住している[[カタルーニャ人]]の[[言語]]。よく見られる'''カタロニア語'''という表記は地方名の英語名に由来する。[[インド・ヨーロッパ語族]][[イタリック語派]]に属する。
カタルーニャ地方のほか、[[バレンシア州]]、[[バレアレス諸島州]]、[[アラゴン州]]のカタルーニャ州との境界地域、南[[フランス]]・[[ルシヨン]]地方(北カタルーニャ)、[[イタリア]]・[[サルデーニャ]]州[[アルゲーロ]]市などに話者がいる。
[[アンドラ|アンドラ公国]]では[[公用語]]になっており、またスペインでは[[ガリシア語]]、[[バスク語]]と並んで地方公用語(カタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島各自治州)となっている。なお、バレンシア州は同地で話されているこの言語の地域変種の名称を「[[バレンシア語]]」と規定しており<ref>{{Cite web|url=http://www.congreso.es/consti/estatutos/estatutos.jsp?com=79&tipo=2&ini=1&fin=7&ini_sub=1&fin_sub=1|title=Estatuto de Autonomía de la Comunitat Valenciana|publisher=Congreso de los Diputados|language=スペイン語|accessdate=2015-08-24}}</ref>、{{要出典範囲|このことは同州で話されているこの言語を、カタルーニャ語のバレンシア方言であるか、バレンシア語であるかと言う議論に発展した。|date=2023年5月}}
[[スペイン語]](カスティーリャ語)の方言と誤解されることも多いが、スペイン語とカタルーニャ語は親戚関係にある別言語である<ref>{{Cite web|和書|title=「カタルーニャ語が第一言語」と「独立賛成派」どちらが多いか |url=http://www.newsweekjapan.jp/morimoto/2017/12/post.php |website=Newsweek日本版 |date=2017-12-01 |access-date=2023-04-15 |language=ja}}</ref>。
== 地理的分布 ==
[[画像: Domini lingüístic català.png|thumb|right|250px|カタルーニャ語が話されている地域。]]
カタルーニャ語はヨーロッパの4か国で話されている(移民は除く):
* [[アンドラ]]
** カタルーニャ語が話されている国のうち唯一国家の公用語とされている。43.8%の住民によって日常的に使われている。
* [[スペイン]]
** [[カタルーニャ州]]では[[カスティーリャ語]]、[[オクシタン語]]([[アラン語]])とともに公用語となっている。州内では様々な地理的変種([[方言]])が話されている。住民の47%が日常的に使用している。
** [[バレアレス諸島州]]でもカスティーリャ語とともに公用語となっている。州内で話される言語はカタルーニャ語の地理的変種である[[バレアレス諸島方言]]である。住民の46%によって日常的に話されている。
** [[バレンシア州]]のかなりの地域でカタルーニャ語の地理的変種(方言)が話されており、そこで話される言語は[[バレンシア語]]という公式名称でカスティーリャ語とともに公用語となっている。地域差があり、大きく分けて3つの下位変種が認められる。バレンシア州北部とカタルーニャ州南部で話されている言語はバレンシア遷移方言([[:ca:Valencià de transició|Valencià de transició]])と呼ばれる[[方言連続体]]となっている。この北部地域では40.1%の住民の日常使用言語となっている。また州全体では住民の25%が日常的に使用している。
** [[アラゴン州]]東部にあるラ・リテーラ([[:es:La Litera|La Litera]])、マタラーニャ([[:es:Matarraña|Matarraña]])地域とラ・リバゴルサ([[:es:La Ribagorza|La Ribagorza]])、バッホ・シンカ([[:es:Bajo Cinca|Bajo Cinca]])、バッホ・アラゴン([[:es:Bajo Aragón (comarca)|Bajo Aragón]])の各地域の自治体の半分により構成される帯状地域([[:es:Franja de Aragón|Franja de Aragón]])では住民の70%およそ30,000人によって話されている。アラゴン州ではカタルーニャ語は公用語として認められていないが、1990年以来州の立法においての認知を勝ち取った。2009年12月17日アラゴン州議会は[[アラゴン語]]とともにカタルーニャ語を、アラゴン州の言語として振興・発展させるための報告を承認した<ref>{{Cite web|url=http://bases.cortesaragon.es/bases/boca2.nsf/(D)/D32BD9C38C31E092C12576930032CF6D?OpenDocument|title=Dictamen de la Comisión de Educación, Cultura y Deporte sobre la Proposición de Ley de uso, protección y promoción de las lenguas propias de Aragón.|publisher=[[:es:Cortes de Aragón|Cortes de Aragón]]|language=スペイン語|accessdate=2015-08-24}}</ref>。
** [[ムルシア州]]では公用語ではないが、エル・カルチェ地域([[:es:El Carche|El Carche]])においてカタルーニャ語の地域変種つまりバレンシア語がおよそ500人の住民により話されている。
* [[フランス]]
** 現在はフランス領となっている北カタルーニャ([[:ca:Catalunya del Nord|Catalunya del Nord]])のルサリョー([[:ca:Rosselló|Rosselló]]、[[ルシヨン]])と[[サルダーニャ]]は1659年の[[ピレネー条約]]までは[[:es:Monarquía Hispánica|Monarquía Hispánica]](スペイン王国領)の一部分であった。カタルーニャ語は公用語ではなく、フランス語の圧力によって大きく後退しており、3.5%の住民によって日常的に使用されているにすぎない。
* [[イタリア]]
** [[サルデーニャ島]]の[[アルゲーロ|ラルゲー]]([[:ca:L'Alguer|L'Alguer]])では住民の13.9%によって話されている。イタリア国家は1999年の「歴史的な言語的マイノリティの保護に関する規則」により公共行政、教育制度、そしてRAIによるラジオおよびテレビ放送を開始した<ref>{{Cite web|url=http://www.camera.it/parlam/leggi/99482l.htm|title=Legge 15 Dicembre 1999, n. 482 " Norme in materia di tutela delle minoranze linguistiche storiche ".|publisher=Gazzetta Ufficiale n. 297 del 20 dicembre 1999|language=イタリアa語|accessdate=2015-08-24}}</ref>。
<!--L'Estat italià, en virtut de la "Norma en matèria de tutela de les minories lingüístiques històriques" de 1999, preveu l'ús de llengües com el català en l'administració pública, en el sistema educatiu així com la posada en marxa de transmissions radiotelevisives per part de la [[RAI]] sempre que l'estatut de llengua subjecta a tutela sigui sol·licitat al consell provincial per municipis en què ho sol·liciti el quinze per cent de la població. Anteriorment, el 1997, el Consell Regional de Sardenya havia reconegut la igualtat en dignitat de la [[llengua sarda]] amb la [[idioma italià|italiana]] a tota l'illa, així com amb altres llengües d'àmbit més reduït, entre les que cita el català, a la ciutat de l'Alguer.<ref> [http://www.regione.sardegna.it/j/v/86?v=9&c=72&s=1&file=1997026 Legge Regionale 1997.10.15, N. 26. ''Promozione i valorizzazione della cultura i della lingua della Sardegna''. Art 2.1, 2.4. Consiglio Regionale della Sardegna] </ref>La ciutat, per la seva banda, promulga la seva tutela i normalització en els seus estatuts de 2000.<ref> [Http://www.ciutatdelalguer.it/statuto.pdf'' Estatut Comunal''. Art.9. Ciutat de l'Alguer], 8 d'agost de 2000 (en català) </ref>
Una denominació que intenta englobar a tota aquesta àrea lingüística, no exempta de discussions pel caràcter ideològic que ha anat adquirint, és la de [[Països Catalans]], encunyada a la fi del segle XIX i popularitzada per [[Joan Fuster]] en la seva obra ''Nosaltres els valencians'' («Nosaltres els valencians», 1962).-->
== 歴史 ==
カタルーニャ語は、ピレネー山脈東部の南北両側麓で話されていた[[俗ラテン語]]から派生している。ガロ=ロマンス語、イベロ=ロマンス語、北イタリアで話されていたガロ=イタリア語の特徴と原点を同じくする。[[アラゴン連合王国]]の[[レコンキスタ]]によって、カタルーニャ語は南へ西へ広がり、バレンシア州やバレアレス諸島で話されるようになった。15世紀、バレンシア黄金時代にカタルーニャ語文学は頂点に達する。
しかし、[[ピレネー条約]]によってフランスへ割譲された北カタルーニャ([[ルシヨン]])ではカタルーニャ語の公での使用が禁止されてしまう。スペインにおいても、[[スペイン継承戦争]]の敗者であったカタルーニャでは、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が布告した新国家基本法によって、行政および教育の場でのカタルーニャ語使用が禁止された。
[[19世紀]]末にはカタルーニャ・ルネサンスと呼ばれる文芸復興運動(ラナシェンサ)が起こり、成果を見せた。20世紀初頭には、文法学者・言語学者[[プンペウ・ファブラ]]が正書法、文法書、辞書を完成させ、現代カタルーニャ語の規範化に貢献した。
ところが、[[1936年]]に勃発した[[スペイン内戦]]と後の[[フランシスコ・フランコ]]による独裁政権により、地方語は激しい弾圧を受け、カタルーニャ語も公的な場から追放、プンペウ・ファブラも弾圧によりフランスへ亡命した。カタルーニャ語は、公の場では[[FCバルセロナ]]のホームスタジアム[[カンプ・ノウ]]内を除いて一切の使用が禁止され、再び暗黒時代に入る。
フランコ独裁後期、カタルーニャの民俗および宗教行事が再開され、これらの行事の際にカタルーニャ語を使用することが容認された。[[1975年]]11月のフランシスコ・フランコの死後、[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス]][[国王]]の治世下でスペインの民主化が進むなか、40年近くの間使用が禁止されていたカタルーニャ語も復権した。
== 特徴 ==
言語学的には、[[ラテン語]](より正確には[[俗ラテン語]])から変化した[[ロマンス語]]の一つで、歴史的関係により、南フランス([[オクシタニア]])の地方言語である[[オクシタン語]]に近い。[[エスノローグ]]の分類ではオクシタン語とともに[[オクシタニー・カタロニア語]]を構成するとしているが、言語学者にはこの説を支持していないものが多い。他のロマンス語と比較すると、カタルーニャ語には以下の特徴がある。
*[[母音]]の数が8つと、[[スペイン語]](カスティーリャ語)よりも多い(ちなみに[[鼻母音]]は存在しない)。
*人名に前置する人称冠詞が存在する。
*他のイベロ・ロマンス語同様英語のbe動詞に相当する繋辞動詞として、ser(ésser)とestarを持つが、その使用はカスティーリャ語と若干異なる。
*[[フランス語]]([[オイル語]])の en や[[イタリア語]]([[中央イタリア方言]])の ne、あるいはフランス語の y やイタリア語の ci に相当する[[副詞的代名詞]]'''en'''、'''hi'''がある(現代スペイン語には存在しない)。
*多くのロマンス語で「行く」を意味する動詞と動詞の[[不定詞]]で、近接未来を表す動詞迂言形を構成する(仏語:aller + 動詞の不定詞、西語:ir a + 動詞の不定詞など)が、カタルーニャ語ではanar+動詞の不定詞で過去を表す。
*[[人称代名詞]]が me や te などではなく em や et(あるいは m'、t')といった、やや特徴的な形になる。
== 正書法と発音 ==
{{カタルーニャ語アルファベット}}
;母音
*a {{ipa|a}}
*e, è {{ipa|ɛ}}
*e, é {{ipa|e}}
*a, e が[[強勢]]のない位置に来ると {{ipa|ə}} になる。
*o, ò {{ipa|ɔ}}
*o, ó {{ipa|o}}
*o が強勢のない位置に来ると {{ipa|u}} になる。
*u {{ipa|u}}
*i /i/
;子音
*p {{ipa|p}}
*b, v {{ipa|b}}:カスティーリャ語とほぼ同じ。母音間で摩擦音化。語末では無声化する。
*t {{ipa|t}}
*tn, tm; tl, tll:t が鼻音、側面音に同化し、単一の長い子音になる
*d:母音間で摩擦音化。語末では無声化する。また語末で、-ld, -nd, -rds のつづりでは d のみ発音されない。
*c(a, o, u の前), qu(e, i の前){{ipa|k}}
*qu(a, o, u の前), qü(e, i の前){{ipa|kw}}
*c(e, i の前), ç(a, o, u の前、語末){{ipa|s}}
*g(a, o, u の前), gu(e, i の前){{ipa|g}}:母音間で摩擦音化。語末では無声化する。語末で、さらに n の後にある場合は発音されない。<!--ただし n は /ŋ/ と発音される?-->
*gu(a, o, u の前), gü(e, i の前){{ipa|gw}}
*g(e, i の前), j(a, o, u の前){{ipa|ʒ}}
*s {{ipa|s}}, 母音間で {{ipa|z}}
*母音後の ix {{ipa|ʃ}}
*tx,(母音後)ig {{ipa|tʃ}}
*tg(e, i の前), tj(a, o, u の前){{ipa|dʒ}}
*n {{ipa|n}}
*m {{ipa|m}}
*ny {{ipa|ɲ}}
*l {{ipa|l}}
*ŀl {{ipa|ll}}
*ll {{ipa|ʎ}}
*r {{ipa|ɾ}}:語末では発音されないことが多い。
*rr {{ipa|r}}
== 文法 ==
{{See|カタルーニャ語の文法}}
== 関連項目 ==
* [[カタルーニャ語の日本語表記]]
* [[カタルーニャ語の文法]]
* [[バレアレス諸島方言]]
* [[スペインの言語]]
* [[フランスの言語政策]]
* [[.cat]] - カタルーニャ語話者向けのトップレベルドメイン
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|author=[[田澤耕]]|year=1991|title=カタルーニャ語文法入門|publisher=大学書林|location=|isbn=|ref=harv}}
* {{Cite book|author=田澤耕|year=2010|title=ニューエクスプレスカタルーニャ語|publisher=白水社|location=|isbn=978-4-560-08533-2|ref=harv}}
== 外部リンク ==
{{Wikipedia|ca}}
*[http://www.catradio.com カタルーニャラジオ](RealAudioで生放送を聞くことができる)
*[http://www.rtvasa.ad/index.asp Ràdio i Televisió d'Andorra](アンドラの国営放送局)
*[http://www.tv3.cat/seccio/3alacarta TV3 Televisió de Catalunya, a la Carta](カタルーニャ自治州の州営放送局)
*[http://aprencatala.com/ Apren Català](カタルーニャ語がオンラインで勉強できる)
{{ロマンス諸語}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かたるうにやこ}}
[[Category:カタルーニャ語|*]]
[[Category:フランスの言語]]
[[Category:スペインの言語]]
[[Category:イタリアの言語]]
[[Category:アンドラの言語]]
[[Category:インド・ヨーロッパ語族]]
[[Category:ロマンス諸語]]
[[Category:地方言語]] | 2003-04-11T21:03:40Z | 2023-11-17T07:43:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3%E8%AA%9E |
6,555 | 同級生 | 同級生(どうきゅうせい)は、同じ学級の学生・生徒のこと。 | [
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] | 同級生(どうきゅうせい)は、同じ学級の学生・生徒のこと。 | '''同級生'''(どうきゅうせい)は、同じ[[学級]]の[[学生]]・[[生徒]]のこと。{{Main|級友}}<!--{{字引|date=2022年7月}}'''クラスメイト'''({{Lang-en-short|classmate}})とも呼ばれる。また、何らかの[[等級]]が同じである者に対して使われることもある。
これに対し、同[[学年]]でクラスが違う生徒は'''同期生'''という(ただし、辞書によってはこの意も「同級生」に含まれるとするものもある<ref name="daijirin">[http://dictionary.goo.ne.jp/jn/155388/meaning/m0u/ どうきゅうせい【同級生】の意味 - goo国語辞書]([[デジタル大辞林]]、[[goo国語辞書]])</ref>)。狭義では同じ学校に通っていた生徒同士だけを同期生と言うが(この意味では'''同窓生'''も用いられる)、広義では[[学齢]]が同じだけの場合や、[[職業]]に就いた年次が同じだけの場合も同期と呼ぶことがある(同期入社など)。
{{seealso|学年}} [[日本]]の[[義務教育]]では、[[4月2日]]から翌年[[4月1日]]生まれを学年の区切りとする([[飛び級]]や[[留年]]などは考えない)。「[[年齢計算ニ関スル法律]]」「[[学校教育法]]」を参照。-->
== 作品名 ==
* [[同級生 (1998年の映画)]] - 1998年のイギリス映画。
* [[同級生 (2008年の映画)]] - 鹿目けい子の小説を原作とした2008年の日本映画。
* [[同級生 (森昌子の曲)]] - 森昌子のシングル曲。
* [[同・級・生]] - 柴門ふみの漫画。また、これを原作とするテレビドラマ。
* [[同級生 (ゲーム)]] - エルフから発売されたアドベンチャーゲーム。
** [[同級生2]] - 上項ゲームの続編。
* [[同級生 (中村明日美子の漫画)]] - 中村明日美子の漫画。また、これを原作とするドラマCDと劇場アニメ。
<!--* [[同級生 (流田まさみの漫画)]] - [[流田まさみ]]の漫画。解除は記事作成後に -->
* [[同・級・生!!]] - 池山田剛の漫画。
* [[東野圭吾]]の小説。
* [[小栗旬]]の著書。
<!--
== 脚注 ==
<references />-->
== 関連項目 ==
* [[同窓生 (曖昧さ回避)]]
* [[クラスメイト]]
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[[Category:同名の作品]] | null | 2023-01-19T11:49:16Z | true | false | false | [
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6,556 | レースゲーム | レースゲーム(英: racing game)は、出来るだけ指示された目的地に速く到着できるかを競うゲームのジャンルである。すごろくなどのボードゲームやコンピュータゲームのジャンルではプレイヤーキャラクターの乗り物(無人(という設定)含む)を操縦し競走をおこなう。自動車やオートバイを筆頭に、自転車、船舶、飛行機、宇宙船、架空の乗り物などを操縦する。
コンピュータゲーム以前からすごろくやバックギャモンなどのレースゲームが存在している。これらはサイコロを振り、出た目の数だけコマを進め出来るだけ目的にゴール出来るかを競う。バックギャモンのように相手を妨害出来るルールのゲームも存在する。ただし、「すごろく」や「バックギャモン」などボードゲームとしてのレースゲームをコンピュータゲーム化した物はレースゲームとは呼ばれない(桃太郎電鉄シリーズはレースゲームでは無い。)。
アーケードや家庭用ゲームで幅広いジャンルを扱う大手ゲームメーカーの多くが、自社ブランドの元で独自にレースゲームを開発している。
F1等の実際のモータースポーツ、またそれらを題材とした漫画を原作とするもの、オリジナルの世界観におけるモータースポーツを表現したものに大分できる。なお、モータースポーツのモーターとは“生物以外の原動機すべて”を指す言葉なので、原動機付きの乗り物は二輪車や四輪車だけでなく、船舶や航空機などによる競技もモータースポーツに含まれる。また、国際自動車連盟ではレースに分類されないラリーやジムカーナ、ダートトライアルなどのモータースポーツを題材にした物もレースゲームに分類される。
実際のモータースポーツだけではなく、RC(ラジオコントロール)模型や、ミニ四駆やチョロQなどの模型によるレースもレースゲームに含まれる(『RCでGO!』など)。実車レースとは、視点(遠隔操作であるゆえに遠距離からのコース全体を眺める俯瞰視点になる)や重量感などが異なる。また、ミニ四駆は発進後は操縦できなくなるため、レースそのものは単なる結果表示で、そこに至るまでのチューニングがゲーム性の基幹となる。
『チョロQ (ゲーム)』は同名の玩具がゲームになったものだが、ゲーム内容は本格的なレースゲームであり、ボディやカスタムパーツも多く存在する。さらに、作品によっては内容にRPG的要素(マップ探索、ストーリーなど)が含まれているものもあり、そういった作品ではチョロQが実世界の人間と同等のポジションで登場する。
競馬やスキー、スプリント等のスポーツも、競技内容によってはレースゲームに該当するが、コンピュータゲームの世界ではモータースポーツ以外の競技はスポーツゲームとして区別されることが多い。ただし、純粋なスポーツとはかけ離れた内容である場合、レースゲームに分類されることもある。
なお、アーケードゲームではコックピット型の筐体を使用することで規制対象外機器とすることが出来るため、インカムや人気に関係なく、常に(ゲームセンター運営者にとって)一定のニーズがあるため、ゲームメーカーは定期的にレースゲームを供給している。
自動車以外のレースゲームには、鉄道車両を用いた『鉄1〜電車でバトル!〜』や、映画『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』のポッドレースを再現した『Star Wars Episode I: Racer』や『Star Wars: Racer Arcade』などといった例がある。
レースゲームによっては、一定時間までにチェックポイントやゴールラインを通過できなかった場合や、チェックポイントやゴールラインを通過した時点での順位が規定を下回った場合は、ミスもしくはゲームオーバーとなる場合もある。
プラットフォームの性能の向上や、ゲームソフトを供給するメディア(例:CD-ROM→DVD-ROM→BD-ROM)の大容量化で大量のデータが扱えることにより、現実的なシミュレーションが可能になってきておりドライビングシミュレーター、ライディングシミュレーターとのジャンル分けが曖昧になってきている。シミュレーションよりもゲームとしての楽しさを重視しているのが分類の決め手になるようである。乗り物の操縦方法は意図的に簡略化され、事故によるペナルティの軽減等の配慮がされている。また、『アウトラン』のように他の車両が障害物でしかなく、競争(レース)の要素が無いソフトも便宜上レースゲームに含まれている。
こうした分類の曖昧さにより、購入者は予想外の商品を手にする危険性があり、製作者側も不当な評価を下される例が後を絶たない。
主にスピードを競うが、ゲーム的な着想により運転の過激さや事故の派手さを競うなどの「非現実的な内容を売りにする」タイトルもレースゲームに含まれることがある。ドライバーが事故で飛び出したり、マシンのパーツが外れたり、マシンがボロボロになっていく様を楽しむ要素も内包する。
などが相当する。
かつてはレーザーディスクの映像を使用したレースゲームもあった。
上記のナンセンスレースゲームからさらに派生したもので、運転の過激さや事故の派手さを競うという点は共通するが、車そのもののスピード(純粋な最高速度)やゴールまでのタイム(またはミッションをクリアするまでのタイム)はあまり重視されない。
これらのタイトルはドライブ(ドライビング)アクションなどと呼ばれることが多い。
などが相当する。
アイテムや機体によるレース相手への直接攻撃が可能な、アクションゲーム的な対戦要素を含んだもの。
などが相当する。
レースゲームに登場する車両は、グラフィックの表現が乏しかった初期の頃は漠然とした「車」でしかなかったが、ハードウェアとソフトウェアの性能が向上したことにより、実際に存在する車をモデルとしていると容易に判別できる車両の登場するゲームが多くなった。
多数の実在の車両が登場することで話題を呼んだ『サイドバイサイド』(タイトー、1996年)以降、日本や海外の自動車メーカーから許諾(ライセンス)を得て実在する自動車そのものがゲームに登場することも多くなったが、“公道上では安全運転を”という自動車メーカーのポリシーに基づき、公道上でレースをしているという設定のゲームや危険走行を意図的に行うナンセンスレースゲームにはメーカーの許諾はされず、「コース上に看板を設置する」(『バトルギア』シリーズ)「高速道路が使命を終えたため、レース場として開放された」(『湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE』シリーズ)などといった架空の設定を設け、名目上レース場(公道コース)の体裁を作りメーカーの許諾を得ているものが多い。なお、『グランツーリスモ』シリーズには「正当なモータースポーツ」という認識があり、ゲーム中に登場する公道セクションも明確なクローズドコースとして設定されているため、多くの主要メーカーから支持されている。
しかし、それでもHonda/アキュラは基準が厳しく、レース参加車以外の車(いわゆるアザーカー)が登場するゲームに対しては基本的に許諾をしておらず、Honda・アキュラ車だけが登場しないレースゲームも少なくない(初期の首都高バトルシリーズでメーカーの許諾を得ていなかった頃にはNSX、インテグラ、シビックなどHonda車(がモデルと推測できる車)も多く登場していたが、首都高バトル01以降の作品ではメーカーから許諾を得て実名で車種が収録されるようになったため、許諾を得られないHonda車は一切登場しなくなった)。しかし、近年では公道が舞台で、かつアザーカーも登場している『Forza Horizon』シリーズ、『Need For Speed(2015)』、『アスファルト8:Airborne』などで許諾が下りたパターンもあり、レースゲームで実車を登場させる許諾の基準は明らかでない。
また自動車メーカーと独占契約を結んでいるゲーム会社もあり、他のゲーム会社がライセンス権を貸与するか、または独占契約が満了しない限りレースゲームに収録できないこともある(例:ポルシェとエレクトロニック・アーツ(2016年末に独占契約を終了)、フェラーリとマイクロソフト、トヨタとポリフォニー・デジタル(詳細は後述)など。前者はRUF、ゲンバラなどのチューニングメーカーでの収録をもって代替していた。)
2017年頃からトヨタ自動車の車種(主に過去の市販車)が多くのレースゲーム(『Forza Motorsport 7』『ニード・フォー・スピード ペイバック』『Project CARS2』など)に一切収録されない状況が続いていた。これに関して2019年8月に英国トヨタから「グランツーリスモSPORTを除いたレースゲームに収録を許諾をする予定はない」と発表されている。しかし、2019年11月に『Forza Horizon 4』、でトヨタブランドの市販車の再収録・復活をすることが発表された。他にも、「Assoluto Racing」でもトヨタ車が追加されている。
実在する車種をキャラクターとして採用する場合、「車体が横転する(特にオープンカー)」「現実なら致命的なレベルでボディが破損する」といった演出は、現在では許諾が下りない場合が多い。
実在の車両が登場するレースゲームの中で、特にメーカー側で挙動のリアルさを自称し、売りとしているレースゲームを挙げる。 | [
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"text": "レースゲームに登場する車両は、グラフィックの表現が乏しかった初期の頃は漠然とした「車」でしかなかったが、ハードウェアとソフトウェアの性能が向上したことにより、実際に存在する車をモデルとしていると容易に判別できる車両の登場するゲームが多くなった。",
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"text": "多数の実在の車両が登場することで話題を呼んだ『サイドバイサイド』(タイトー、1996年)以降、日本や海外の自動車メーカーから許諾(ライセンス)を得て実在する自動車そのものがゲームに登場することも多くなったが、“公道上では安全運転を”という自動車メーカーのポリシーに基づき、公道上でレースをしているという設定のゲームや危険走行を意図的に行うナンセンスレースゲームにはメーカーの許諾はされず、「コース上に看板を設置する」(『バトルギア』シリーズ)「高速道路が使命を終えたため、レース場として開放された」(『湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE』シリーズ)などといった架空の設定を設け、名目上レース場(公道コース)の体裁を作りメーカーの許諾を得ているものが多い。なお、『グランツーリスモ』シリーズには「正当なモータースポーツ」という認識があり、ゲーム中に登場する公道セクションも明確なクローズドコースとして設定されているため、多くの主要メーカーから支持されている。",
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"text": "しかし、それでもHonda/アキュラは基準が厳しく、レース参加車以外の車(いわゆるアザーカー)が登場するゲームに対しては基本的に許諾をしておらず、Honda・アキュラ車だけが登場しないレースゲームも少なくない(初期の首都高バトルシリーズでメーカーの許諾を得ていなかった頃にはNSX、インテグラ、シビックなどHonda車(がモデルと推測できる車)も多く登場していたが、首都高バトル01以降の作品ではメーカーから許諾を得て実名で車種が収録されるようになったため、許諾を得られないHonda車は一切登場しなくなった)。しかし、近年では公道が舞台で、かつアザーカーも登場している『Forza Horizon』シリーズ、『Need For Speed(2015)』、『アスファルト8:Airborne』などで許諾が下りたパターンもあり、レースゲームで実車を登場させる許諾の基準は明らかでない。",
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"text": "また自動車メーカーと独占契約を結んでいるゲーム会社もあり、他のゲーム会社がライセンス権を貸与するか、または独占契約が満了しない限りレースゲームに収録できないこともある(例:ポルシェとエレクトロニック・アーツ(2016年末に独占契約を終了)、フェラーリとマイクロソフト、トヨタとポリフォニー・デジタル(詳細は後述)など。前者はRUF、ゲンバラなどのチューニングメーカーでの収録をもって代替していた。)",
"title": "実在車種の登場"
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"text": "2017年頃からトヨタ自動車の車種(主に過去の市販車)が多くのレースゲーム(『Forza Motorsport 7』『ニード・フォー・スピード ペイバック』『Project CARS2』など)に一切収録されない状況が続いていた。これに関して2019年8月に英国トヨタから「グランツーリスモSPORTを除いたレースゲームに収録を許諾をする予定はない」と発表されている。しかし、2019年11月に『Forza Horizon 4』、でトヨタブランドの市販車の再収録・復活をすることが発表された。他にも、「Assoluto Racing」でもトヨタ車が追加されている。",
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"text": "実在する車種をキャラクターとして採用する場合、「車体が横転する(特にオープンカー)」「現実なら致命的なレベルでボディが破損する」といった演出は、現在では許諾が下りない場合が多い。",
"title": "実在車種の登場"
},
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"text": "実在の車両が登場するレースゲームの中で、特にメーカー側で挙動のリアルさを自称し、売りとしているレースゲームを挙げる。",
"title": "代表的なレースゲーム(アーケード、家庭用ゲーム)"
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] | レースゲームは、出来るだけ指示された目的地に速く到着できるかを競うゲームのジャンルである。すごろくなどのボードゲームやコンピュータゲームのジャンルではプレイヤーキャラクターの乗り物(無人含む)を操縦し競走をおこなう。自動車やオートバイを筆頭に、自転車、船舶、飛行機、宇宙船、架空の乗り物などを操縦する。 | {{出典の明記|date=2019年4月21日 (日) 01:05 (UTC)}}
[[File:Sega Rally.jpg|thumb|[[自動車]]を動かす[[アーケードゲーム|アーケード]]版[[セガラリー]]では、複数人が同時にプレイできる。]]
[[File:Supertuxkart 0.7.png|thumb|[[カートレーシング]]ゲーム [[SuperTuxKart]]]]
'''レースゲーム'''(英: racing game)は、出来るだけ指示された目的地に速く到着できるかを競う[[ゲーム]]のジャンルである。[[すごろく]]などの[[ボードゲーム]]や[[コンピュータゲームのジャンル]]ではプレイヤーキャラクターの[[乗り物]](無人(という設定)含む)を操縦し[[競走]]をおこなう。[[自動車]]や[[オートバイ]]を筆頭に、[[自転車]]、[[船舶]]、[[飛行機]]、[[宇宙船]]、架空の乗り物などを操縦する。<!--人を走らせる/陸上競技もレースと言えばレースだが:2023-7-->
== 概要 ==
コンピュータゲーム以前から[[すごろく]]や[[バックギャモン]]などのレースゲームが存在している。これらはサイコロを振り、出た目の数だけコマを進め出来るだけ目的にゴール出来るかを競う。バックギャモンのように相手を妨害出来るルールのゲームも存在する。ただし、「すごろく」や「バックギャモン」などボードゲームとしてのレースゲームをコンピュータゲーム化した物はレースゲームとは呼ばれない。
[[アーケードゲーム|アーケード]]や家庭用ゲームで幅広いジャンルを扱う大手ゲームメーカーの多くが、自社ブランドの元で独自にレースゲームを開発している。
[[フォーミュラ1|F1]]等の実際の[[モータースポーツ]]、またそれらを題材とした[[漫画]]を原作とするもの、オリジナルの世界観におけるモータースポーツを表現したものに大分できる。なお、モータースポーツの[[原動機|モーター]]とは“生物以外の原動機すべて”を指す言葉なので、原動機付きの乗り物は[[二輪車]]や[[四輪車]]だけでなく、[[船舶]]や[[航空機]]などによる競技も[[モータースポーツ]]に含まれる。また、[[国際自動車連盟]]ではレースに分類されない[[ラリー]]や[[ジムカーナ]]、[[ダートトライアル]]などのモータースポーツを題材にした物もレースゲームに分類される。
実際のモータースポーツだけではなく、[[RC]](ラジオコントロール)模型や、[[ミニ四駆]]や[[チョロQ]]などの模型によるレースもレースゲームに含まれる(『RCでGO!』など)。実車レースとは、視点(遠隔操作であるゆえに遠距離からのコース全体を眺める俯瞰視点になる)や重量感などが異なる。また、ミニ四駆は発進後は操縦できなくなるため、レースそのものは単なる結果表示で、そこに至るまでの[[チューニング]]がゲーム性の基幹となる。
『[[チョロQ (ゲーム)]]』は[[チョロQ|同名の玩具]]がゲームになったものだが、ゲーム内容は本格的なレースゲームであり、ボディやカスタムパーツも多く存在する。さらに、作品によっては内容に[[ロールプレイングゲーム|RPG]]的要素(マップ探索、ストーリーなど)が含まれているものもあり、そういった作品ではチョロQが実世界の人間と同等のポジションで登場する<ref>映画『[[カーズ (映画)]]』と同様の世界観。『チョロQHG4』の公式ホームページにも“あの映画「Cars」の原点となった〜”と記述されているが、真実か否かは定かではない。</ref>。
[[競馬]]や[[スキー]]、[[スプリント]]{{要曖昧さ回避|date=2018年10月}}等のスポーツも、競技内容によってはレースゲームに該当するが、コンピュータゲームの世界ではモータースポーツ以外の競技は[[スポーツゲーム]]として区別されることが多い。ただし、純粋なスポーツとはかけ離れた内容である場合、レースゲームに分類されることもある。
なお、アーケードゲームではコックピット型の筐体を使用することで規制対象外機器とすることが出来るため、インカムや人気に関係なく、常に(ゲームセンター運営者にとって)一定のニーズがあるため、ゲームメーカーは定期的にレースゲームを供給している。
自動車以外のレースゲームには、[[鉄道車両]]を用いた『[[鉄1〜電車でバトル!〜]]』や、映画『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]]』の[[ポッドレース]]を再現した『Star Wars Episode I: Racer』や『Star Wars: Racer Arcade』などといった例がある。
レースゲームによっては、一定時間までにチェックポイントやゴールラインを通過できなかった場合や、チェックポイントやゴールラインを通過した時点での順位が規定を下回った場合は、ミスもしくは[[ゲームオーバー]]となる場合もある。
<!--=== 競技の区分 ===
モータースポーツも含めた実際のスポーツの場合は、競技内容の区分として
*レース…複数の参加者が同一コース上で同時に順位を争い、最終的にゴールした時点の順位で勝敗を競う。
*ラリー…コマ地図の情報と指示速度に沿うように、指定されたコースを完走する競技。
*トライアル…記録そのもの(タイムや最高速度)を競う。
として区別される。
最終的に順位さえ確保できれば、絶対的な速度やタイムは問われない。
(この部分はモータースポーツの説明であり、レースゲームの説明ではないと思います。スポーツゲームのページにスポーツ“ゲーム”ではない説明はなかったと思います。)-->
==ジャンル分類法==
プラットフォームの性能の向上や、ゲームソフトを供給するメディア(例:[[CD-ROM]]→[[DVD-ROM]]→[[Blu-ray Disc|BD-ROM]])の大容量化で大量のデータが扱えることにより、現実的な[[シミュレーション]]が可能になってきており'''[[ドライビングシミュレーター]]'''、'''[[ライディングシミュレーター]]'''とのジャンル分けが曖昧になってきている。'''シミュレーションよりもゲームとしての楽しさを重視している'''のが分類の決め手になるようである。乗り物の操縦方法は意図的に簡略化され、事故によるペナルティの軽減等の配慮がされている。また、『[[アウトラン]]』のように他の車両が障害物でしかなく、競争(レース)の要素が無いソフトも便宜上レースゲームに含まれている。
こうした分類の曖昧さにより、購入者は予想外の商品を手にする危険性があり、製作者側も不当な評価を下される例が後を絶たない。
===ナンセンスレースゲーム===
主にスピードを競うが、ゲーム的な着想により'''運転の過激さや事故の派手さを競う'''などの「非現実的な内容を売りにする」タイトルもレースゲームに含まれることがある。ドライバーが事故で飛び出したり、マシンのパーツが外れたり、マシンがボロボロになっていく様を楽しむ要素も内包する。
*『[[スリルドライブ]]』シリーズ
*『[[ニード・フォー・スピード]]』シリーズ
*『[[バーンアウト (ゲーム)|バーンアウト]]』シリーズ
などが相当する。
=== 収録車種が架空の車種のレースゲーム ===
*『[[RacinGroovy]]』
*『[[モナコGP (ゲーム)|モナコGP]]』シリーズ
**『[[スーパーモナコGP]]』
**『[[アイルトン・セナ スーパーモナコGPII]]』
*『スピードキング-PS-』
*『[[サーキットビート]]』
*[[リッジレーサーシリーズ|『リッジレーサー』シリーズ]]
*『[[デイトナUSA]]』シリーズ
*『[[バーチャレーシング]]』
=== レーザーディスクを使用したレースゲーム ===
かつては[[レーザーディスク]]の映像を使用したレースゲームもあった。
{{Main|レーザーディスクゲーム|Category:レーザーディスクゲーム}}
=== ドライブアクション ===
上記のナンセンスレースゲームからさらに派生したもので、運転の過激さや事故の派手さを競うという点は共通するが、車そのもののスピード(純粋な最高速度)やゴールまでのタイム(またはミッションをクリアするまでのタイム)はあまり重視されない。
これらのタイトルは'''ドライブ(ドライビング)アクション'''などと呼ばれることが多い。
*『[[レースドライビン]]』 - ドライブシム要素の強い『[[ハードドライビン]]』からの続編。アクロバティックなコースはもとより路肩の牛等にもアザーフューチャーがある。
*『[[クレイジータクシー]]』シリーズ
*『[[スタントタイフーン]]』
*『[[ランナバウト (ゲーム)|ランナバウト]]』シリーズ
などが相当する。
=== バトルアクションレースゲーム ===
アイテムや機体によるレース相手への直接攻撃が可能な、アクションゲーム的な対戦要素を含んだもの。
*『[[コスモスサーキット]]』(アイテムではなく[[ミサイル]]で敵の車やコウモリを攻撃する)
*『[[ロードブラスター]]』(アイテムではなく[[スーパーチャージャー]]などで攻撃する)
*『[[ロードブラスターズ]]』(対戦要素はないがプレイヤーカーに銃器が搭載されており、砲台や敵車を攻撃。時間制限制のボムやマシンガン等のアイテムあり)
*[[F-ZEROシリーズ|『F-ZERO』シリーズ]]
*『[[スタジアムクロス]]』(アイテム制はないモトクロス題材。横に並んだバイクをロードラッシュの要領で攻撃できる)
*『[[ロードラッシュ]]』シリーズ(横に並んだバイクを攻撃する事で妨害。ステージ各節の賞金で自分のバイクをパワーアップしていく)
*[[マリオカートシリーズ|『マリオカート』シリーズ]]
*『[[ソニックドリフト]]』
**『[[ソニックドリフト2]]』
*『[[ソニックR]]』
*『ソニックライダーズ』シリーズ
**『[[ソニックライダーズ]]』
**『[[ソニックライダーズ シューティングスターストーリー]]』
**『[[ソニック フリーライダーデストラクションダービー]]』
*『[[チームソニックレーシング]]』
*『[[デストラクションダービー2]]』
*『[[クラッシュ・バンディクー レーシング]]』
**『[[クラッシュ・バンディクー 爆走!ニトロカート]]』
**『[[クラッシュ・バンディクー がっちゃんこワールド]]』
**『[[クラッシュ・バンディクーレーシング ブッとびニトロ!]]』
などが相当する。
== 実在車種の登場 ==
レースゲームに登場する車両は、グラフィックの表現が乏しかった初期の頃は漠然とした「車」でしかなかったが、[[ハードウェア]]と[[ソフトウェア]]の性能が向上したことにより、実際に存在する車をモデルとしていると容易に判別できる車両の登場するゲームが多くなった。
多数の実在の車両が登場することで話題を呼んだ『[[サイドバイサイド]]』(タイトー、1996年)以降、日本や海外の[[自動車メーカー]]から許諾(ライセンス)を得て実在する自動車そのものがゲームに登場することも多くなったが、“公道上では安全運転を”という自動車メーカーのポリシーに基づき、公道上でレースをしているという設定のゲームや危険走行を意図的に行うナンセンスレースゲームにはメーカーの許諾はされず、「コース上に看板を設置する」(『[[バトルギア]]』シリーズ)「高速道路が使命を終えたため、レース場として開放された」(『[[湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE]]』シリーズ)などといった架空の設定を設け、名目上[[公道コース#モータースポーツ|レース場(公道コース)]]の体裁を作りメーカーの許諾を得ているものが多い。なお、[[グランツーリスモシリーズ|『グランツーリスモ』シリーズ]]には「正当な[[モータースポーツ]]」という認識があり、ゲーム中に登場する公道セクションも明確なクローズドコースとして設定されているため、多くの主要メーカーから支持されている。
しかし、それでも[[本田技研工業|Honda]]/[[アキュラ]]は基準が厳しく、レース参加車以外の車(いわゆる[[アザーカー]])が登場するゲームに対しては基本的に許諾をしておらず、Honda・アキュラ車だけが登場しないレースゲームも少なくない(初期の[[首都高バトル]]シリーズでメーカーの許諾を得ていなかった頃には[[ホンダ・NSX|NSX]]、[[ホンダ・インテグラ|インテグラ]]、[[ホンダ・シビック|シビック]]などHonda車(がモデルと推測できる車)も多く登場していたが、[[首都高バトル01]]以降の作品ではメーカーから許諾を得て実名で車種が収録されるようになったため、許諾を得られないHonda車は一切登場しなくなった)。しかし、近年では公道が舞台で、かつアザーカーも登場している『[[Forza Horizon]]』シリーズ、『[[ニード・フォー・スピード (2015)|Need For Speed(2015)]]』、『[[アスファルト8:Airborne]]』などで許諾が下りたパターンもあり、レースゲームで実車を登場させる許諾の基準は明らかでない。
また自動車メーカーと独占契約を結んでいるゲーム会社もあり、他のゲーム会社がライセンス権を貸与するか、または独占契約が満了しない限りレースゲームに収録できないこともある(例:[[ポルシェ]]と[[エレクトロニック・アーツ]](2016年末に独占契約を終了)、[[フェラーリ]]と[[マイクロソフト]]、[[トヨタ自動車|トヨタ]]と[[ポリフォニー・デジタル]](詳細は後述)など。前者は[[RUFオートモービル|RUF]]、[[ゲンバラ]]などのチューニングメーカーでの収録をもって代替していた。)
2017年頃から[[トヨタ自動車]]の車種(主に過去の市販車)が多くのレースゲーム(『[[Forza Motorsport 7]]』『[[ニード・フォー・スピード ペイバック]]』『[[Project CARS2]]』など)に一切収録されない状況が続いていた。これに関して2019年8月に英国トヨタから「[[グランツーリスモSPORT]]を除いたレースゲームに収録を許諾をする予定はない」と発表されている<ref>https://twitter.com/ToyotaUK/status/1164177384599429121</ref>。しかし、2019年11月に『[[Forza Horizon 4]]』、でトヨタブランドの市販車の再収録・復活をすることが発表された<ref>https://twitter.com/ForzaMotorsport/status/1196868827646222337</ref>。他にも、「[[Assoluto Racing]]」でもトヨタ車が追加されている。
実在する車種をキャラクターとして採用する場合、「車体が横転する(特にオープンカー)」「現実なら致命的なレベルでボディが破損する」といった演出は、現在では許諾が下りない場合が多い。
==代表的なレースゲーム(アーケード、家庭用ゲーム)==
<!--タイトルは五十音順にソートする。-->
*『[[アウトモデリスタ]]』
*『[[アウトラン]]』シリーズ
*『[[アスファルト アーバン GT|アスファルト]]』シリーズ
*『[[頭文字D ARCADE STAGE|頭文字D]]』シリーズ
*『[[ウイニングラン (コンピューターゲーム)|ウイニングラン]]』シリーズ
*『[[エキサイト トラック]]』
*『[[エキサイトバイク]]』シリーズ
*『[[F-ZEROシリーズ|F-ZERO]]』シリーズ
*『[[街道バトルシリーズ|街道バトル]]』シリーズ
*『[[クレイジータクシー]]』シリーズ
*『[[コスモスサーキット]]』
*『[[関西精機製作所|ザ・ドライバー]]』 - レースとは言えないが、[[エレメカ]]時代のドライブゲームとして有名。
*『[[GT CUBE]]』シリーズ
*『[[GTI CLUB]]』シリーズ
*『[[GPワールド]]』
*『[[首都高バトルシリーズ|首都高バトル]]』シリーズ
*『[[スピードレース]]』シリーズ - 日本初のビデオゲーム式レースゲーム。
*『[[スリルドライブ]]』シリーズ
*『[[セガラリーチャンピオンシップ]]』
*『[[ソニックライダーズ]]』
*『[[チョロQ (ゲーム)|チョロQ]]』シリーズ - 一部レースゲーム以外のゲームも存在。
*『[[ツーリスト・トロフィー (ゲーム)|ツーリスト・トロフィー]]』
*『[[ディディーコングレーシング]]』
*『[[デイトナUSA]]』シリーズ
*『[[峠シリーズ]]』
*『[[峠MAXシリーズ|峠MAX]]』シリーズ
*『[[トップギア (ゲーム)|トップギア]]』
*『[[TrackMania]]』シリーズ
*『[[ドリフトスピリッツ]]』(ソーシャルアプリ)
*『[[ニード・フォー・スピード]]』シリーズ
*『[[ハードドライビン]]』
*『[[バーチャレーシング]]』
*『[[バーンアウト (ゲーム)|バーンアウト]]』シリーズ
*『[[爆走デコトラ伝説]]』シリーズ
*『[[バトルギア]]』シリーズ
*『[[ファイナルラップ]]』シリーズ
*『[[ファミリーサーキット]]』
*『[[V-Rallyシリーズ]]』
*『[[Forza Motorsport]]』シリーズ
*『[[プロジェクトゴッサム]]』シリーズ
*『[[ポールポジション (ゲーム)|ポールポジション]]』シリーズ
*『[[マッハライダー]]』
*『[[マリオカートシリーズ]]』
*『[[モナコGP (ゲーム)|モナコGP]]』シリーズ
*『[[MotorStorm 〜モーターストーム〜]]』
*『[[ランナバウト (ゲーム)|ランナバウト]]』シリーズ
*『[[リッジレーサー]]』シリーズ
*『[[レーザーグランプリ]]』
*『[[レースやり隊]]』(携帯アプリ)
*『[[ロードブラスター]]』
*『[[ワイプアウト (レースゲーム)|ワイプアウト]]』
*『[[湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNEシリーズ|湾岸ミッドナイト MAXIMUM TUNE]]』シリーズ
*『[[湾岸 Midnight Club]]』シリーズ
===挙動のリアルさを売りとしたレースゲーム===
実在の車両が登場するレースゲームの中で、特にメーカー側で挙動のリアルさを自称し、売りとしているレースゲームを挙げる。
*『[[DRIVING EMOTION TYPE-S]]』(発売:[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]、後の[[スクウェア・エニックス]])
*『[[バトルギア]]』シリーズ(発売:[[タイトー]])
*『[[F355チャレンジ]]』シリーズ(発売:[[セガ]])
*『[[ヘブンリーシンフォニー|Formula One World Championship 1993 Heavenly Symphony]]』(発売:セガ、開発:セガ、[[フジテレビ]])
*『[[Forza Motorsport]]』シリーズ(発売:[[マイクロソフト]]、開発:Turn10)
*『[[GTR2]]』(発売:[[ズー (会社)|ズー]])
*『[[Live for Speed]]』(発売:LFS開発チーム)
*『[[RACE The Official WTCC Game]]』(開発:SimBin)
*『[[rFactor]]』(発売:ISI)
*『[[エンスージア プロフェッショナル レーシング]]』(発売:[[コナミ]]、後の[[コナミデジタルエンタテインメント]])
*『[[グランツーリスモシリーズ]]』(発売:[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]、後の[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]]、開発:ポリフォニー・デジタル)
*:※[[運転免許試験場]]での採用実績もあり、[[ドライビングシミュレータ]]とする見解もある。
*『[[免許の鉄人]]』(発売:セガ)
*:※クリア後に発行される証明書を一部の[[自動車教習所]]に掲示すればある程度の実技教習が免除されるという特典が存在していた(現在では行われていない[https://allabout.co.jp/gm/gc/214605/])。
*『[[セガGT ホモロゲーションスペシャル]]』シリーズ(発売:セガ)
*『[[レースドライバーシリーズ]]』(開発:[[コードマスターズ]])
===レース主体だが、レースゲーム以外のジャンルのゲーム===
*『[[レーシングラグーン]]』(発売:[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]])
*:ジャンルは「ハイスピード・ドライヴィングRPG」
*『[[萌えろDownhill Night -峠最速伝説-]]』シリーズ(発売:[[TOP JAPAN]])
*『[[ドリフトシティ]]』(開発:[[NPLUTO]]、運営:[[アラリオ]])
*『[[ゼロヨンチャンプ]]』シリーズ(発売:[[メディアリング]])
*:基本はゼロヨン([[ドラッグレース]])が題材であるが、アドベンチャーパートとレースパートで進行する。
*『[[車なごコレクション]]』(運営:[[オートックワン]])
*:ジャンルはスゴロクとレースを組み合わせたもの。スマートフォン向けゲームアプリとして運営されていたが、2017年1月31日にサービス終了となった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[コンピューターゲーム]]
* [[ドライビングシミュレーター]]
* [[レースシミュレーション]]
{{コンピュータゲームのジャンル}}
{{Video-game-stub}}
{{DEFAULTSORT:れえすけえむ}}
[[Category:レースゲーム|*]]
[[Category:アクションゲーム|*れえすけえむ]] | 2003-04-12T01:04:53Z | 2023-12-17T13:51:42Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:要曖昧さ回避",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:コンピュータゲームのジャンル",
"Template:Video-game-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0 |
6,557 | アクションゲーム | アクションゲーム(action game)は、キャラクターの行動をボタンなどにより直接操作し、すばやくゲーム内の事象を制御する能力を競うコンピュータゲームのジャンルの一つ。後述する狭義の定義における略称は英語の頭3文字を取ってACT。ACGとも略される。後述する広義のアクションゲームは「リアルタイムゲーム」とも呼ばれる。
基本的には、ボタン操作などによって連動する人間や動物、ロボット、機械などの個体(プレイヤーキャラ)を動かすゲーム全般を指すので、非常に幅広いジャンルを内包する。さらに、プレイヤーキャラが存在する場所(ステージ)があり、プレイヤーキャラ以外に、ステージ上を動く存在(プレイヤーを攻撃する、援護する、無関係に動くなど)があり、それらは敵、ノンプレイヤーキャラクター(NPC)、罠、アイテムなどがある。コンピュータRPGとは対照的に、プレイヤーの技術力が直接プレイに影響する。
世界で最も売れた家庭用ゲームである『スーパーマリオブラザーズ』や『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』もこれに属する。統計においても、2015年の日本におけるゲームアプリ市場での年間ダウンロード数は8,630万回、家庭用ゲーム市場での年間販売本数は1,267万本でともに首位である。
テレビゲーム機が広まるより前から非電源式ゲームではアクションゲームという言葉が使われ、1960年発売の『人生ゲーム』のパッケージには「A FULL 3-D ACTION GAME」と記載され、盤面に動きがあったり小さめの玉を派手に動かしたり弾いたりするタイプのボードゲームで使われていた。アメリカでは1977年に登場のバリーの家庭用ゲーム機では「ACTION/SKILL」のジャンルが存在、1980年頃には「action game」が使用され、日本ではスタークラフトがパソコン雑誌に出稿した広告に遅くとも1982年前半頃には使われていた。言葉の使用はアドベンチャーゲームなど別ジャンルの登場により区別するために増えていったとみられる。
一般的には別ジャンルで呼ばれるゲームがアクションゲームとされていたことがあり、『ログイン』(アスキー91983年5月号で『ゼビウス』を「戦闘(アクション)ゲーム」とルビが振られ、1983年8月発売の『こんにちはマイコン』第2巻の目次にあるゲームジャンル紹介でアクションゲームを「スペースインベーダー等の、反射神経を競うゲーム」と説明していた。また「スポーツ、格闘技、レースを含む」とする説明が2017年時点でもあり、アクションに該当はするがレースゲームは素早い判断が必要な場合もあるがどれもアクションゲーム扱いはできず、この説明はリアルタイムゲームと混同しており、スポーツやレースのゲームはリアルタイムに行われることが少なくないが題材からしてリアルタイムで行われるのであってアクションゲームのためのリアルタイムとは限らないからである。タイニーPは操作に対して画面上の動きにフィクション性が強いほどアクションゲームらしく、このジャンルを「ビデオゲームの一種で、画面上のキャラクター等がプレイヤーの操作に即応して動き、その操作と動きとの関係に、漫画的な単純化や誇張が多く含まれているもの」とするのが実際に近い説明として提示しているが、きちんとしたシミュレーションはともかくリアルタイムなら多くが何らかのアクションゲームらしさがあるのはあまり否定できず、そう考えると新ジャンルが○○アクションゲームと呼ばれることに納得がいき、都合よく多用される言葉だとしている。
広義のアクションゲームの分類では、シューティングゲームやレースゲームなど、キャラクターの行動をボタンなどにより直接操作し、すばやくゲーム内の事象を制御する能力を競うもの全てが含まれる。狭義のアクションゲームとは次のものを指す。
これに加え、さらなる特徴を持つ作品は以下のように分類される。
他のゲームジャンルと複合しているもの。この記事ではアクション要素の強いものを扱う。
アクションゲームの狭義の定義では近縁、広義の定義では下位概念とされる。
派生ジャンルに属さない(狭義の)アクションゲームにはいくつかの欠かせない要素が存在する。
ステージには、プレイヤーキャラ以外の敵(モンスターやギャングなど)が存在することが多く、それらの敵を倒すために攻撃という動作が存在することが多い。
また、特に銃を模したコントローラで操作するアーケードゲームの場合、画面奥などからプレイヤーの視点に向かって飛んでくる敵の攻撃や障害物など、当たるとミス扱いするオブジェクトには、対象物の周りを赤くするといった方法でプレイヤーに知らされる。対象物を撃ち落とすか、当たらないように避ける行動をとることで回避できる。
プレイヤーの入力によらず、一定の速度でゲームが進行するものは、リアルタイム(即時)での対応が求められる。
アクションゲームの原型は、1972年に北米で発売されたアーケードゲーム『ポン』(アタリ)にさかのぼる。卓球を当時の技術でコンピュータ上に再現したシンプルなゲームだが、ピンポンを打ち返す際に角度や速度を変える戦略性が人々の心をひきつけ、大ヒットにつながった。その結果人気にあやかったコピーゲームが濫造されることとなり、1973年に日本で発売された『ポントロン』(セガ)と『エレポン』(タイトー)もその1つである。
1976年に北米で発売の『ブロッケード』(グレムリン・インダストリー)は初期のアクションゲームの1つである。ポンに類似した「パドルとボール」のゲームが氾濫していた中、動き続ける自機を操作して生き残りを競うこのゲームのヒットはアクションゲームに進化の先鞭を付け、以降着実に多様性を増していくこととなる。1979年に日本で発売された『ボムビー』(ナムコ)は、ブロックくずしとピンボールの組み合わせにカラー表示という当時は珍しい機能を搭載し、そのノウハウは翌1980年発売の『パックマン』に活かされている。
1980年にアーケードで発売の『パックマン』(ナムコ)は、画面内のドットを食べつつモンスターとの駆け引きも楽しめるゲーム性が人気を博し、業務用ゲームとしては異例の世界で28万台(正規品のみ)を出荷するギネス記録となった。日本でのブームは比較的早く終了したものの、北米では長く親しまれ3年後の1983年にはナムコ社のパックマン関連のロイヤリティ収入が60億円にものぼった。アニメ版やディスコサウンドでも大健闘し、コンピュータゲームのメディアミックス展開が有効であることを証明した。
1981年に発売された『ドンキーコング』(任天堂)は、ドンキーコングが投げるタルや敵キャラをマリオがジャンプで避けながら進み、さらわれた恋人を救出するゲームである。このゲームは、不良在庫となっていた『レーダースコープ』の在庫処分のため急きょ作られたものであったが、難易度の上下だけでなく異なる複数のステージを盛り込むという努力により当時のユーザーの心をつかんだ。後のドンキーコングシリーズ、マリオシリーズの基礎を築いたゲームでもある。
1983年に発売された『シンドバッドミステリー』(セガ)は、宝探しをテーマに据えることで推理と探索の要素を盛り込みアクションゲームに新風を吹き込んだ。地図上から宝の位置を推測し掘り出していくゲーム性はアクションアドベンチャーゲームの先駆けともいえるものである。また、この年は後に大ヒットとなる家庭用ゲーム機『ファミリーコンピュータ』(任天堂、以下ファミコン)が発売され、アクションゲームはアーケード・家庭用双方の市場で発展を続けていく。
1985年にファミコンで発売された『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)は、横スクロールにジャンプアクション、様々なパワーアップアイテム、豊富なステージと陽気なキャラクター・音楽が広く受け入れられ、最終的に日本で681万本、世界で4024万本の歴史的大ヒットを記録した。このゲームの登場により、着実に進化を続けたアクションゲームは一躍大人気ジャンルとなり、無数の派生ゲームが作られるようになった。
この時代は、2Dアクションに多様な分化が見られた1980年代後半と、2D対戦格闘ゲームのブームに支えられた1990年代前半に分けられる。
『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)の歴史的ヒットにより、アクションゲームはゲームジャンルの頂点に君臨するようになる。その中で多数の派生ジャンルが出現し、この時代は黄金期と言えるほどの繁栄を見た。1990年代に入ると2D対戦格闘ゲームが大ブームとなり、『ストリートファイターII』(1991年・カプコン)や『餓狼伝説 宿命の闘い』(1991年・SNK)を始めとしたタイトルが家庭用・アーケード問わず人気を博した。
1990年代も半ばを過ぎると、2D対戦格闘ゲームのブームは3D対戦格闘ゲームに移ったが、家庭用・アーケードともに操作の複雑化などで初心者離れが発生し人気は下降し始めた。またファミコン時代以来分化してきた2Dアクションは横スクロールを除きほぼ絶滅し、アクションゲームは大きな転換点を迎えた。時を同じくして、家庭用市場ではコンピュータRPG、アーケード市場ではメダルゲームや音楽ゲームなどが台頭し本ジャンルを圧迫するようになった。2000年頃になると一連の対戦格闘ゲームのブームは終息し、アーケード市場におけるアクションゲームはマニア層以外からの支持を失った。
この時代は、技術の進化にあわせて3Dアクションゲームが多く作られるようになった。1996年にNINTENDO64で発売された『スーパーマリオ64』(任天堂)は、立体空間でのグラフィックやアクション、視点操作のデファクトスタンダードとなり、本作の大ヒットが2Dアクションから3Dアクションへの大きな流れとなった。
21世紀に入ると、アーケード市場においてアクションゲームはあまり製作されなくなり、家庭用市場が発展の主軸となった。
ブームが終息した対戦格闘ゲームの製作数は大幅に減少したが、その穴を埋めるように3Dアクションゲームが人気を博すようになった。2001年にPlayStation 2で発売された『真・三國無双2』(コーエー)や『鬼武者』(カプコン)、2002年にPlayStation 2で発売された『キングダム ハーツ』(スクウェア)などがその最たる例である。世界では『グランド・セフト・オート』(Rockstar Games)に代表されるクライムアクションゲームがブームとなった。
一方で、2004年にはゲームボーイアドバンス向けに『ファミコンミニ』シリーズが発売され、すっかり下火になっていた2Dアクションの人気を後に再燃させる一因になった。2005年にPlayStation Portableで発売された『モンスターハンター ポータブル』(カプコン)は、雄大な世界観をバックに友達と協力し、大型モンスターを狩る楽しさが口コミで徐々に広まった。後にハンティングアクションという新しいジャンルを確立することになる。
この時代は、日本ではハンティングアクションが大きなムーブメントとなり、各々が携帯ゲーム機を持ち寄って狩りに出かけるスタイルが定着した。一方世界では引き続きクライムアクションが人気を維持した。2Dアクションの人気も復活し、手軽で簡単な操作が再評価された。2010年代に入るとスマートフォンゲーム市場の拡大が顕著となったが、移り変わりの激しい同市場にとってもアクションゲームは大きな存在であった。
ここ3年ほどの日本におけるアクションゲームは、家庭用市場ではプラットフォーマー(マリオ系)とハンティングアクションのブームが継続し、市場シェア1位を堅持している。スマートフォンゲーム市場では、2012年頃まで多数のヒット作が出現し市場をけん引してきた。しかしソフトの移り変わりの早さや、家庭用市場の大手2社が未参入・苦戦していること、ロールプレイングゲームが大ブームとなっている影響から、2014年の市場シェアはダウンロード数1位、金額ベース2位となっている。 | [
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"text": "アクションゲーム(action game)は、キャラクターの行動をボタンなどにより直接操作し、すばやくゲーム内の事象を制御する能力を競うコンピュータゲームのジャンルの一つ。後述する狭義の定義における略称は英語の頭3文字を取ってACT。ACGとも略される。後述する広義のアクションゲームは「リアルタイムゲーム」とも呼ばれる。",
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"text": "基本的には、ボタン操作などによって連動する人間や動物、ロボット、機械などの個体(プレイヤーキャラ)を動かすゲーム全般を指すので、非常に幅広いジャンルを内包する。さらに、プレイヤーキャラが存在する場所(ステージ)があり、プレイヤーキャラ以外に、ステージ上を動く存在(プレイヤーを攻撃する、援護する、無関係に動くなど)があり、それらは敵、ノンプレイヤーキャラクター(NPC)、罠、アイテムなどがある。コンピュータRPGとは対照的に、プレイヤーの技術力が直接プレイに影響する。",
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"text": "アクションゲームの原型は、1972年に北米で発売されたアーケードゲーム『ポン』(アタリ)にさかのぼる。卓球を当時の技術でコンピュータ上に再現したシンプルなゲームだが、ピンポンを打ち返す際に角度や速度を変える戦略性が人々の心をひきつけ、大ヒットにつながった。その結果人気にあやかったコピーゲームが濫造されることとなり、1973年に日本で発売された『ポントロン』(セガ)と『エレポン』(タイトー)もその1つである。",
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"text": "1976年に北米で発売の『ブロッケード』(グレムリン・インダストリー)は初期のアクションゲームの1つである。ポンに類似した「パドルとボール」のゲームが氾濫していた中、動き続ける自機を操作して生き残りを競うこのゲームのヒットはアクションゲームに進化の先鞭を付け、以降着実に多様性を増していくこととなる。1979年に日本で発売された『ボムビー』(ナムコ)は、ブロックくずしとピンボールの組み合わせにカラー表示という当時は珍しい機能を搭載し、そのノウハウは翌1980年発売の『パックマン』に活かされている。",
"title": "歴史"
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"text": "この時代は、技術の進化にあわせて3Dアクションゲームが多く作られるようになった。1996年にNINTENDO64で発売された『スーパーマリオ64』(任天堂)は、立体空間でのグラフィックやアクション、視点操作のデファクトスタンダードとなり、本作の大ヒットが2Dアクションから3Dアクションへの大きな流れとなった。",
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"text": "ブームが終息した対戦格闘ゲームの製作数は大幅に減少したが、その穴を埋めるように3Dアクションゲームが人気を博すようになった。2001年にPlayStation 2で発売された『真・三國無双2』(コーエー)や『鬼武者』(カプコン)、2002年にPlayStation 2で発売された『キングダム ハーツ』(スクウェア)などがその最たる例である。世界では『グランド・セフト・オート』(Rockstar Games)に代表されるクライムアクションゲームがブームとなった。",
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"text": "一方で、2004年にはゲームボーイアドバンス向けに『ファミコンミニ』シリーズが発売され、すっかり下火になっていた2Dアクションの人気を後に再燃させる一因になった。2005年にPlayStation Portableで発売された『モンスターハンター ポータブル』(カプコン)は、雄大な世界観をバックに友達と協力し、大型モンスターを狩る楽しさが口コミで徐々に広まった。後にハンティングアクションという新しいジャンルを確立することになる。",
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"text": "この時代は、日本ではハンティングアクションが大きなムーブメントとなり、各々が携帯ゲーム機を持ち寄って狩りに出かけるスタイルが定着した。一方世界では引き続きクライムアクションが人気を維持した。2Dアクションの人気も復活し、手軽で簡単な操作が再評価された。2010年代に入るとスマートフォンゲーム市場の拡大が顕著となったが、移り変わりの激しい同市場にとってもアクションゲームは大きな存在であった。",
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"text": "ここ3年ほどの日本におけるアクションゲームは、家庭用市場ではプラットフォーマー(マリオ系)とハンティングアクションのブームが継続し、市場シェア1位を堅持している。スマートフォンゲーム市場では、2012年頃まで多数のヒット作が出現し市場をけん引してきた。しかしソフトの移り変わりの早さや、家庭用市場の大手2社が未参入・苦戦していること、ロールプレイングゲームが大ブームとなっている影響から、2014年の市場シェアはダウンロード数1位、金額ベース2位となっている。",
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] | アクションゲームは、キャラクターの行動をボタンなどにより直接操作し、すばやくゲーム内の事象を制御する能力を競うコンピュータゲームのジャンルの一つ。後述する狭義の定義における略称は英語の頭3文字を取ってACT。ACGとも略される。後述する広義のアクションゲームは「リアルタイムゲーム」とも呼ばれる。 | {{Pathnav|frame=1|コンピュータゲームのジャンル}}
[[File:Street Fighter II arcade-20061027.jpg|thumb|[[アーケードゲーム]]で『[[ストリートファイターII]]』を遊ぶ]]
{{コンピュータゲームのサイドバー}}
'''アクションゲーム'''(action game)は、キャラクターの行動をボタンなどにより直接操作し、すばやくゲーム内の事象を制御する能力を競う[[コンピュータゲームのジャンル]]の一つ。後述する狭義の定義における略称は英語の頭3文字を取って'''ACT'''。'''ACG'''とも略される。後述する広義のアクションゲームは「リアルタイムゲーム」とも呼ばれる。
== 概要 ==
基本的には、ボタン操作などによって連動する人間や動物、ロボット、機械などの個体(プレイヤーキャラ)を動かすゲーム全般を指すので、非常に幅広いジャンルを内包する。さらに、プレイヤーキャラが存在する場所(ステージ)があり、プレイヤーキャラ以外に、ステージ上を動く存在(プレイヤーを攻撃する、援護する、無関係に動くなど)があり、それらは敵、[[ノンプレイヤーキャラクター]](NPC)、罠、アイテムなどがある。[[コンピュータRPG]]とは対照的に、プレイヤーの技術力が直接プレイに影響する。
世界で最も売れた家庭用ゲームである『[[スーパーマリオブラザーズ]]』や『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ (1991年のゲーム)|ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』もこれに属する。統計においても、2015年の日本におけるゲームアプリ市場での年間ダウンロード数は8,630万回<ref>『2016 CESAゲーム白書』 138頁</ref>、家庭用ゲーム市場での年間販売本数は1,267万本<ref>『2016 CESAゲーム白書』 150頁</ref>でともに首位である。
テレビゲーム機が広まるより前から非電源式ゲームではアクションゲームという言葉が使われ、1960年発売の『[[人生ゲーム]]』のパッケージには「A FULL 3-D ACTION GAME」と記載され、盤面に動きがあったり小さめの玉を派手に動かしたり弾いたりするタイプの[[ボードゲーム]]で使われていた<ref name="denfami1">{{Cite news|date=2017-11-17|title=ガンダムの名シーンが「シューティングゲーム」という言葉を生んだ!? アクション、シューティング…ゲームのジャンル分けの歴史を徹底考察! |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/171115 |accessdate=2020-04-27 |page=1 }}</ref>。アメリカでは1977年に登場の[[:en:Bally Manufacturing|バリー]]の家庭用ゲーム機では「ACTION/SKILL」のジャンルが存在、1980年頃には「action game」が使用され、日本では[[スタークラフト (ゲーム会社)|スタークラフト]]がパソコン雑誌に出稿した広告に遅くとも1982年前半頃には使われていた<ref name="denfami1" />。言葉の使用は[[アドベンチャーゲーム]]など別ジャンルの登場により区別するために増えていったとみられる<ref name="denfami1" />。
一般的には別ジャンルで呼ばれるゲームがアクションゲームとされていたことがあり、『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』(アスキー91983年5月号で『[[ゼビウス]]』を「戦闘(アクション)ゲーム」とルビが振られ、1983年8月発売の『[[こんにちはマイコン]]』第2巻の目次にあるゲームジャンル紹介でアクションゲームを「[[スペースインベーダー]]等の、反射神経を競うゲーム」と説明していた<ref name="denfami1" />。また「スポーツ、格闘技、レースを含む」とする説明が2017年時点でもあり、アクションに該当はするが[[レースゲーム]]は素早い判断が必要な場合もあるがどれもアクションゲーム扱いはできず、この説明はリアルタイムゲームと混同しており、スポーツやレースのゲームはリアルタイムに行われることが少なくないが題材からしてリアルタイムで行われるのであってアクションゲームのためのリアルタイムとは限らないからである<ref name="denfami2">{{Cite news|date=2017-11-17|title=ガンダムの名シーンが「シューティングゲーム」という言葉を生んだ!? アクション、シューティング…ゲームのジャンル分けの歴史を徹底考察! |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/171115/2 |accessdate=2020-04-27 |page=2 }}</ref>。タイニーPは操作に対して画面上の動きにフィクション性が強いほどアクションゲームらしく、このジャンルを「ビデオゲームの一種で、画面上のキャラクター等がプレイヤーの操作に即応して動き、その操作と動きとの関係に、漫画的な単純化や誇張が多く含まれているもの」とするのが実際に近い説明として提示しているが、きちんとしたシミュレーションはともかくリアルタイムなら多くが何らかのアクションゲームらしさがあるのはあまり否定できず、そう考えると新ジャンルが○○アクションゲームと呼ばれることに納得がいき、都合よく多用される言葉だとしている<ref name="denfami2" />。
== アクションゲームの分類 ==
広義のアクションゲームの分類では、[[シューティングゲーム]]やレースゲームなど、キャラクターの行動をボタンなどにより直接操作し、すばやくゲーム内の事象を制御する能力を競うもの全てが含まれる。狭義のアクションゲームとは次のものを指す。
* '''2Dアクションゲーム'''
** 固定画面アクション
** 横スクロール(横視点・サイドビューで画面スクロールするという意味であり、縦方向にスクロールする場面もある)
** 縦または全方向スクロール(真上視点・トップビューでスクロールする)
** クオータービューアクション(疑似的に3D感のある斜め視点)
** 探索型アクション(マップ探索やRPG要素も含み、アクションアドベンチャー・アクションRPG・メトロイドヴァニア等も内包する)
* '''3Dアクションゲーム'''
** 無双系アクション
** スラッシュアクション
** ハンティングアクション
** ソウルライク
**奥スクロール
**箱庭探索型アクション
これに加え、さらなる特徴を持つ作品は以下のように分類される。
=== 派生ジャンル ===
; [[プラットフォームゲーム]]
:
; [[対戦アクションゲーム]]
:
; [[対戦型格闘ゲーム]](2D・3D)
: [[格闘技]]、[[武道]]の試合や[[喧嘩]]、[[決闘]]をモチーフにしたもの。操作する対象(主に人間)が主に2人で戦うもの。ゲームを遊ぶ者が2人以上いることを想定している物。2人で対戦して遊ぶ場合が多い。eスポーツにおいてはメインジャンルとなっている。
; [[クライムアクションゲーム]]
: 主人公となる人物を操作し、[[殺人]]や[[窃盗]]など、[[犯罪|犯罪(クライム)]]行為が含まれるゲームをさす。代表的なものとしては、『[[グランド・セフト・オートシリーズ|グランド・セフト・オート(GTA)シリーズ]]』や、『[[ポスタル (ゲーム)|ポスタル]]』、『[[カーマゲドン]]』、『[[Mafia: The City of Lost Heaven|Mafia]]』、『[[DRIV3R]]』、『[[True Crime]]』などがこれに該当する。
; [[ステルスゲーム]]
:
; [[ドットイートゲーム]]
:
; [[ベルトスクロールアクションゲーム]]
:
; [[メトロイドヴァニア]]
: [[サイドビュー]]のマップ探索型2Dアクションゲームを指す俗称で、公式には「探索型アクション」などと称される。代表的な『[[メトロイド]]』シリーズ作品と『[[悪魔城ドラキュラ]]』(キャッスルヴァニア)シリーズの中のメトロイド型作品を合わせた造語。他に『[[ブラッドステインド:リチュアル・オブ・ザ・ナイト]]』や『{{仮リンク|ブラスフェマス|en|Blasphemous}}』などがこれに該当する。
=== 複合ジャンル ===
他のゲームジャンルと複合しているもの。この記事ではアクション要素の強いものを扱う。
; [[アクションロールプレイングゲーム]]
: [[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]](RPG)の要素が入っているもの。アクション要素とロールプレイング要素の比率はタイトルにより様々である。
; [[アクションアドベンチャーゲーム]]
: アクションゲームの中でも[[アドベンチャーゲーム]]の要素が強いものを指す。
; アクションシューティングゲーム
: 射撃をする動作が一定以上含まれるもの。扱う動作が似ているため識別の難しい作品も存在し、特に3Dグラフィックのものは[[サードパーソン・シューティングゲーム]]としばしば混同される。
=== 近縁のジャンル ===
アクションゲームの狭義の定義では近縁、広義の定義では下位概念とされる。
; [[シューティングゲーム]]
: 「[[射撃|撃つ(シューティング)]]」動作がゲーム上の主要な要素となっているもの。「撃つ」という動作の純粋度が高く、それ以外の複雑な要素を多く含まないものを特に指す。少数だが、アクションゲームと混合したものは'''シューティングアクション'''、もしくは'''アクションシューティング'''とも呼ばれる。
; [[レースゲーム]]
: 動かす主体を[[競走|競走(レース)]]させるもの。[[四輪車]]のレースが<!-- 殆ど -->多い。その他にも、[[オートバイ|バイク]]、[[飛行機]]、[[船]]、[[人間]]など、一定のコースを移動する速さを競うことが主目的になっているもの。ごく稀に暴力表現(轢き殺すなど)が含まれたゲームがある(『カーマゲドン』、『[[w:en:RoadKill (video game)|RoadKill]]』)。
; [[スポーツゲーム]]
: 実在する[[スポーツ]]([[野球]]・[[サッカー]]など)をモチーフにしたもの。
; [[アクションパズル]]
: [[パズルゲーム]]のカテゴリのひとつで、パズルのルールにアクション性のあるリアルタイム要素を合わせたもの。
; リズムアクション
: [[音楽ゲーム]]のカテゴリのひとつで、BGMに合わせてアクションを行うことで楽曲を擬似的に演奏する。
== アクションゲームの要素 ==
派生ジャンルに属さない(狭義の)アクションゲームにはいくつかの欠かせない要素が存在する。
; ジャンプ
: アクションゲームはその名の如く、人や物のアクション(動作)をモチーフにしており、その中でも画期的かつ代表的な動作は、'''ジャンプ'''である。ジャンプによって、ステージ上の構造とアクションの連動が増し、遊戯性が高まっている。現在までに多くのアクションゲームにジャンプは存在している。
; ステージ
* 横スクロール(2D)アクションゲーム
: サイドビュー(横視点)で、水平方向への移動を操作の基本とし、ゲーム上で表現される空間が2次元(2D)のみであった時代に確立されたもの。この中からジャンプというアクションが生み出された。2D・3D問わずこのゲームの派生系を、いわゆるアクションゲームということもできるため、英語では[[プラットフォーム・ゲーム]]またはプラットフォーマーと呼ばれる。
* 3Dアクションゲーム
: 前後左右、上下への移動ができ、現実の3次元(3D)空間に近いステージを表現し、その中での動作を可能にしたもの。
=== 視点 ===
; 一人称視点
: プレイヤーキャラの視界によって世界が表現される。臨場感は高いが、キャラの全身を直接見ることができない。接近時の位置関係がわかり辛く、ある程度の距離を置いての操作に向くことから、[[ファーストパーソン・シューティングゲーム]]などシューティングによく見られる。
; 三人称視点
: プレイヤーキャラの視界ではなく、外部の視点によって世界が表現される。キャラを動かすと視界も移動し、常にその周囲が表示される。視点の場所は、キャラの背面に固定され自動で動くタイプとプレイヤーが任意に操作できるタイプがある。
=== 攻撃 ===
ステージには、プレイヤーキャラ以外の敵(モンスターや[[ギャング]]など)が存在することが多く、それらの敵を倒すために攻撃という動作が存在することが多い。
また、特に銃を模した[[ゲームコントローラ|コントローラ]]で操作する[[アーケードゲーム]]の場合、画面奥などからプレイヤーの視点に向かって飛んでくる敵の攻撃や障害物など、当たるとミス扱いするオブジェクトには、対象物の周りを赤くするといった方法でプレイヤーに知らされる。対象物を撃ち落とすか、当たらないように避ける行動をとることで回避できる。
=== リアルタイム性 ===
プレイヤーの入力によらず、一定の速度でゲームが進行するものは、リアルタイム(即時)での対応が求められる。
== 歴史 ==
=== 黎明期(1972年 - 1979年) ===
アクションゲームの原型は、1972年に北米で発売された[[アーケードゲーム]]『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』([[アタリ (企業)|アタリ]])にさかのぼる。[[卓球]]を当時の技術でコンピュータ上に再現したシンプルなゲームだが、ピンポンを打ち返す際に角度や速度を変える戦略性が人々の心をひきつけ、大ヒットにつながった。その結果人気にあやかった[[コピーゲーム]]が濫造されることとなり、1973年に日本で発売された『ポントロン』([[セガ]])と『エレポン』([[タイトー]])もその1つである。
1976年に北米で発売の『[[ブロッケード]]』([[グレムリン・インダストリー]])は初期のアクションゲームの1つである。ポンに類似した「パドルとボール」のゲームが氾濫していた中、動き続ける自機を操作して生き残りを競うこのゲームのヒットはアクションゲームに進化の先鞭を付け、以降着実に多様性を増していくこととなる。1979年に日本で発売された『[[ジービー#ボムビー|ボムビー]]』([[バンダイナムコエンターテインメント|ナムコ]])は、[[ブロックくずし]]と[[ピンボール]]の組み合わせにカラー表示という当時は珍しい機能を搭載し、そのノウハウは翌1980年発売の『[[パックマン]]』に活かされている。
=== 成長期(1980年 - 1985年) ===
1980年にアーケードで発売の『パックマン』(ナムコ)は、画面内のドットを食べつつモンスターとの駆け引きも楽しめるゲーム性が人気を博し、業務用ゲームとしては異例の世界で28万台(正規品のみ)を出荷する[[ギネス世界記録|ギネス記録]]となった。日本でのブームは比較的早く終了したものの、北米では長く親しまれ3年後の1983年にはナムコ社のパックマン関連のロイヤリティ収入が60億円にものぼった。アニメ版やディスコサウンドでも大健闘し、コンピュータゲームのメディアミックス展開が有効であることを証明した。
1981年に発売された『[[ドンキーコング]]』([[任天堂]])は、[[ドンキーコング (ゲームキャラクター・初代)|ドンキーコング]]が投げるタルや敵キャラを[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]がジャンプで避けながら進み、さらわれた恋人を救出するゲームである。このゲームは、不良在庫となっていた『レーダースコープ』の在庫処分のため急きょ作られたものであったが、難易度の上下だけでなく異なる複数のステージを盛り込むという努力により当時のユーザーの心をつかんだ。後の[[ドンキーコングシリーズ]]、[[マリオシリーズ]]の基礎を築いたゲームでもある。
1983年に発売された『シンドバッドミステリー』(セガ)は、宝探しをテーマに据えることで推理と探索の要素を盛り込みアクションゲームに新風を吹き込んだ。地図上から宝の位置を推測し掘り出していくゲーム性は[[アクションアドベンチャーゲーム]]の先駆けともいえるものである。また、この年は後に大ヒットとなる[[コンシューマーゲーム|家庭用ゲーム]]機『[[ファミリーコンピュータ]]』(任天堂、以下ファミコン)が発売され、アクションゲームはアーケード・家庭用双方の市場で発展を続けていく。
1985年にファミコンで発売された『[[スーパーマリオブラザーズ]]』(任天堂)は、横スクロールにジャンプアクション、様々なパワーアップアイテム、豊富なステージと陽気なキャラクター・音楽が広く受け入れられ、最終的に日本で681万本、世界で4024万本の歴史的大ヒットを記録した。このゲームの登場により、着実に進化を続けたアクションゲームは一躍大人気ジャンルとなり、無数の派生ゲームが作られるようになった。
=== 黄金期(1986年 - 1994年) ===
この時代は、2Dアクションに多様な分化が見られた1980年代後半と、[[対戦型格闘ゲーム|2D対戦格闘ゲーム]]のブームに支えられた1990年代前半に分けられる。
『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)の歴史的ヒットにより、アクションゲームはゲームジャンルの頂点に君臨するようになる。その中で多数の派生ジャンルが出現し、この時代は黄金期と言えるほどの繁栄を見た。1990年代に入ると2D対戦格闘ゲームが大ブームとなり、『[[ストリートファイターII]]』(1991年・[[カプコン]])や『[[餓狼伝説|餓狼伝説 宿命の闘い]]』(1991年・[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]])を始めとしたタイトルが家庭用・アーケード問わず人気を博した。
; 横スクロール
: 1991年に[[メガドライブ]]で発売された『[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]』(セガ)は、先の展開を予測できない高速スクロールがユーザーに受け、世界で400万本を出荷するヒットとなった。
; 2D対戦格闘
: 初期の2D対戦格闘ゲームの名作として、1987年にアーケードで発売された『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』(カプコン)がある。後のシリーズとは筐体が異なることもあり、本作はどちらかと言えば[[体感ゲーム]]の色彩が濃いが、キャラクターが持つ迫力や動きは本ジャンルの基礎となった。
; 3D対戦格闘
: 1993年にアーケードで発売された『[[バーチャファイター]]』(セガ)は事前の評価が低かったものの、3Dポリゴンによる立体的なキャラクター・ステージが徐々に人気を集め、1994年に続編『[[バーチャファイター2]]』が発売されると一気に社会現象を引き起こした。『2』ではグラフィックが飛躍的に向上し、キャラクターの姿はなめらかでリアルなものへと進化した。
; ベルトアクション
: 本ジャンルの元祖である1986年にアーケードで発売の『[[熱血硬派くにおくん]]』([[テクノスジャパン]])は、日本の不良を題材にケンカを彷彿とされるアクションが人気を博した。
; アクションアドベンチャー
: 1986年にファミコンで発売の『[[ゼルダの伝説]]』(任天堂)は、綿密に練られた世界観と謎解き、アクションが好評で、日本で169万本、世界で651万本を出荷する大ヒットとなった。
; 縦スクロール
: 1989年にアーケードで発売された『[[ワルキューレの伝説]]』(ナムコ)は、主人公ワルキューレの魅力とグラフィック・音楽などが高水準でまとまっていたため高い評価を得た(なお『ワルキューレの伝説』は縦方向へのスクロールが主であるが、横方向にスクロールする場面も多数ある)。
; 固定画面アクション
: 1986年にアーケードで発売された『[[バブルボブル]]』(タイトー)は、泡で敵を閉じ込めて割るユニークなゲーム性で多くのファンを獲得した。
; ステルスゲーム
: 本ジャンルの元祖である1987年発売の『[[メタルギア]]』(コナミ)は、主人公スネークを操作して敵地に潜入し敵に見つからないように進むアクションが斬新で人気を博した。
; アクションシューティング
: 1987年にアーケードで発売の『[[魂斗羅]]』([[コナミ]])は、エイリアンの侵略をテーマに超人の主人公が織りなすアクションが好評でシリーズ化された。
=== 停滞期(1995年 - 2000年) ===
1990年代も半ばを過ぎると、2D対戦格闘ゲームのブームは3D対戦格闘ゲームに移ったが、家庭用・アーケードともに操作の複雑化などで初心者離れが発生し人気は下降し始めた。またファミコン時代以来分化してきた2Dアクションは横スクロールを除きほぼ絶滅し、アクションゲームは大きな転換点を迎えた。時を同じくして、家庭用市場では[[コンピュータRPG]]、アーケード市場では[[メダルゲーム]]や[[音楽ゲーム]]などが台頭し本ジャンルを圧迫するようになった。2000年頃になると一連の対戦格闘ゲームのブームは終息し、アーケード市場におけるアクションゲームはマニア層以外からの支持を失った。
この時代は、技術の進化にあわせて3Dアクションゲームが多く作られるようになった。1996年に[[NINTENDO64]]で発売された『[[スーパーマリオ64]]』(任天堂)は、立体空間でのグラフィックやアクション、視点操作の[[デファクトスタンダード]]となり、本作の大ヒットが2Dアクションから3Dアクションへの大きな流れとなった。
; 横スクロール
: 1995年にメガドライブで発売された『[[リスター・ザ・シューティングスター]]』(セガ)は、主人公リスターの手を用いた特徴的なアクションと多彩なステージが高い評価を得た。
; 2D対戦格闘
: 1997年にアーケードで発売された『[[ストリートファイターIII]]』(カプコン)は、キャラクター・時間軸の一新やブロッキングシステムの導入により鳴り物入りで登場したが、ブームの沈静化とプレイヤー間の格差がネックとなり当初は出遅れた。これを打開するためアップグレードが繰り返され、1999年発売の『3rd』は熱心なファンを中心に支持を固めることができた。
; 3D対戦格闘
: 1996年にアーケードで発売の『[[ソウルエッジ]]』(ナムコ)は、武器を用いた格闘アクションと斬新な操作システム、リングアウトの存在などが好評でシリーズ化された。
; ベルトアクション
: 1997年にアーケードで発売された『[[バトルサーキット]]』(カプコン)は、コミカルな世界観やキャラクターのパワーアップ・アップグレードによる戦略性がユーザーに受け、絶滅寸前だった同ジャンルの人気を支えた。
; 3Dアクション
: 1996年にアーケードで発売の『[[ダイナマイト刑事]]』(セガ)は、テロリストが立てこもるアメリカ・サンフランシスコを舞台に、主人公の刑事が様々な兵器を用いて戦うアクションが人気を博した。
; 対戦アクション
: 1999年にNINTENDO64で発売された『[[ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ]]』(任天堂)は、任天堂のキャラクターが乱闘を行う話題性と、複雑なコマンドを排除した明快な操作性が大ヒットにつながった。対戦格闘ゲームとは異なる、読みあいを軸とした様々なテクニックの応用が特徴である。
; アクションシューティング
: 1996年にアーケードで発売の『[[メタルスラッグ]]』(SNK)は、非常に細かく描かれたグラフィックと敵をひたすら倒していくわかりやすさ、多彩な乗り物と高い難易度が硬派なゲーマーを中心に支持された。
=== 転換期(2001年 - 2005年) ===
21世紀に入ると、アーケード市場においてアクションゲームはあまり製作されなくなり、家庭用市場が発展の主軸となった。
ブームが終息した対戦格闘ゲームの製作数は大幅に減少したが、その穴を埋めるように3Dアクションゲームが人気を博すようになった。2001年にPlayStation 2で発売された『[[真・三國無双2]]』([[コーエー]])や『[[鬼武者]]』(カプコン)、2002年にPlayStation 2で発売された『[[キングダム ハーツ]]』([[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]])などがその最たる例である。世界では『[[グランド・セフト・オートシリーズ|グランド・セフト・オート]]』([[Rockstar Games]])に代表される[[クライムアクションゲーム]]がブームとなった。
一方で、2004年にはゲームボーイアドバンス向けに『[[ファミコンミニ]]』シリーズが発売され、すっかり下火になっていた2Dアクションの人気を後に再燃させる一因になった。2005年にPlayStation Portableで発売された『[[モンスターハンター ポータブル]]』(カプコン)は、雄大な世界観をバックに友達と協力し、大型モンスターを狩る楽しさが口コミで徐々に広まった。後にハンティングアクションという新しいジャンルを確立することになる。
; 横スクロール
: この時期はゲームボーイアドバンスを中心にリメイク・移植作の発売が相次いだ。2004年にゲームボーイアドバンスで発売の『[[スーパーマリオブラザーズ|ファミコンミニ スーパーマリオブラザーズ]]』(任天堂)は、ジャンプやパワーアップアイテム、陽気な音楽といったスーパーマリオの原点が再び評価され、日本で138万本のヒットを記録した。
; 3Dアクション
: 2001年にPlayStation 2で発売された『[[デビルメイクライ]]』(カプコン)は、華麗にコンボを決めることで攻撃を評価するシステムが人気を博した。
; ハンティングアクション
: 2004年にPlayStation 2で発売の『[[モンスターハンター]]』(カプコン)は、レベル制の排除による敷居の低さと少人数のパーティー・短時間でクエストを遂行するインターネット協力プレイがユーザーの心をつかんだ。一方オフラインのみで遊ぶプレイヤーも多く、豪壮な世界観やハンター稼業を疑似体験できるリアルさも人気の秘訣だった。
; アクションシューティング
: 2001年にアーケードで発売された『[[機動戦士ガンダム 連邦vs.ジオン]]』([[バンダイ]])は、人気の高いガンダムを題材にしたこと、操作を可能な限り簡略化することで初心者でも容易に機体を動かせることがヒットにつながった。
; その他
: 2003年にゲームボーイアドバンスで発売された『[[メイド イン ワリオ]]』(任天堂)は、「瞬間アクション」と銘打った数秒で終わるミニゲームを多数収録し、手軽かつ短時間でも遊べるゲーム性が好評でシリーズ化された。
=== 中興期(2006年 - 2012年) ===
この時代は、日本ではハンティングアクションが大きなムーブメントとなり、各々が携帯ゲーム機を持ち寄って狩りに出かけるスタイルが定着した。一方世界では引き続きクライムアクションが人気を維持した。2Dアクションの人気も復活し、手軽で簡単な操作が再評価された。2010年代に入るとスマートフォンゲーム市場の拡大が顕著となったが、移り変わりの激しい同市場にとってもアクションゲームは大きな存在であった。
; 横スクロール
: 2007年にiアプリとして配信開始した『[[ワルキューレの栄光]]』(バンダイナムコゲームス)は、複雑な入力を排除した良好な操作性と多彩なBGMが評価された。
; ベルトアクション
: 2012年にニンテンドー3DSで発売された『[[閃乱カグラ Burst -紅蓮の少女達-]]』([[マーベラス (企業)|マーベラスAQL]])は、詳細なキャラクター設定と魅力的な少女達、ボタン連打により次々コンボが決まる爽快さが人気を博した。
; アクションシューティング
: 2012年にニンテンドー3DSで発売された『[[新・光神話 パルテナの鏡]]』(任天堂)は、ハイスピードに展開する奥の深いアクションと、弾く・止めるを基本とする独自のカメラ操作が評価された。
; アクションアドベンチャー
: 2012年にPlayStation 3で発売された『[[風ノ旅ビト]]』([[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|SCE]])は、はるか彼方にある山頂(ゴール)をめざして砂漠や遺跡、未知の生物の襲撃をくぐり抜ける果てしない冒険体験が高い評価を得た。
; その他
: 2012年にPlayStation 3で発売された『[[TOKYO JUNGLE]]』(SCE)は、人類が姿を消し廃墟となった東京を舞台に、多様な動物を操作して生き残りを競うアクションが好評を得た。
=== 現在(2013年 - ) ===
ここ3年ほどの日本におけるアクションゲームは、家庭用市場ではプラットフォーマー(マリオ系)とハンティングアクションのブームが継続し、市場シェア1位を堅持している。スマートフォンゲーム市場では、2012年頃まで多数のヒット作が出現し市場をけん引してきた<ref>“[http://appget.com/ranking/catalog/annually/free/android アプリゲット]”. [[スパイシーソフト]]. 2015年8月17日閲覧。</ref>。しかしソフトの移り変わりの早さや、家庭用市場の大手2社が未参入・苦戦していること、ロールプレイングゲームが大ブームとなっている影響から、2014年の市場シェアはダウンロード数1位、金額ベース2位となっている<ref>“[http://app.famitsu.com/20150210_491689/ ファミ通.com]”. KADOKAWA. 2015年8月17日閲覧。</ref>。
== 主なアクションゲーム ==
=== 主要シリーズ ===
* [[マリオシリーズ]](1981年 - )
* [[ソニックシリーズ]](1991年 - )
=== 2Dアクション ===
* [[アイスクライマー]](1985年)
* [[悪魔城ドラキュラ|悪魔城ドラキュラシリーズ]](1986年 - )
* [[イシターの復活]](1986年)
* [[海腹川背]](1994年)
* [[がんばれゴエモン|がんばれゴエモンシリーズ]](1986年 - )
* [[源平討魔伝]](1986年)
* [[忍 -SHINOBI-]](1987年)
** [[ザ・スーパー忍]](1989年)
** [[ザ・スーパー忍II]](1993年)
* [[クルクルランド]](1984年)
* [[サイバリオン]](1988年)
* [[スパルタンX (ゲーム)|スパルタンX]](1984年)
* [[スペランカー]](1983年)
* [[高橋名人の冒険島]](1986年)
* [[ディグダグ]](1982年)
* [[伝説のスタフィーシリーズ]](2002年 - )
* [[ドンキーコングシリーズ]](1981年 - )
* [[ニンジャウォーリアーズ]](1987年)
* [[忍者龍剣伝|忍者龍剣伝シリーズ]](1988年 - )
* [[バブルボブル]](1986年)
* [[バルーンファイト]](1984年)
* [[パルテナの鏡シリーズ]](1986年)
* [[ブラックドラゴン]](1987年)
* [[プリンス・オブ・ペルシャ]](1989年)
* [[星のカービィシリーズ]](1992年 - )
* [[ボナンザブラザーズ]](1990年)
* [[ポン (ゲーム)|ポン]](1972年)
* [[魔界村]](1985年 - )
* [[マジックソード]](1990年)
* [[ミスタードリラー]](1999年)
* [[迷宮組曲 ミロンの大冒険]](1986年)
* [[メイド イン ワリオシリーズ]](2003年 - )
* [[スーパーマリオ ヨッシーアイランド|ヨッシーアイランド]](1995年)
* [[ラリーX]](1980年)
* [[ロックマンシリーズ]](1987年 - )
* [[ワギャンランド|ワギャンランドシリーズ]](1989年 - )
* [[ワリオランド|ワリオランドシリーズ]](1994年 - )
* [[ワンダーモモ]](1987年)
==== 探索型アクション ====
* [[悪魔城ドラキュラ|悪魔城ドラキュラシリーズ]](1986年 - )
* [[ゲゲゲの鬼太郎 危機一髪!妖怪列島]](2003年)
* [[ブラッドステインド:リチュアル・オブ・ザ・ナイト]](2019年)
* [[星のカービィ 鏡の大迷宮]](2004年)
* [[メトロイドシリーズ]](1986年 - )
=== 3Dアクション ===
* [[アーマード・コアシリーズ]](1997年 - )
* [[ガチャフォース]](2003年)
* [[塊魂|塊魂シリーズ]](2004年 - )
* [[クラッシュ・バンディクーシリーズ]](1996年 - )
* [[サルゲッチュ|サルゲッチュシリーズ]](1999年 - )
* [[ZONE OF THE ENDERS|ZONE OF THE ENDERSシリーズ]](2001年 - )
* [[デッドライジング|デッドライジングシリーズ]](2006年 - )
* [[電脳戦機バーチャロン|電脳戦機バーチャロンシリーズ]](1995年 - )
* [[ナイツ (ゲーム)|ナイツシリーズ]](1996年 - )
* [[ビューティフル ジョー|ビューティフル ジョーシリーズ]](2004年 - )
* [[ブラストドーザー]](1997年)
* [[BLADESTORM 百年戦争]](2007年 - )
* [[ラチェット&クランク|ラチェット&クランクシリーズ]](2002年 - )
==== 無双系アクション ====
* [[うたわれるもの斬|うたわれるもの斬シリーズ]](2018年 - )
* [[仮面ライダー バトライド・ウォー|仮面ライダー バトライド・ウォーシリーズ]](2013年 - )
* [[銀魂乱舞]](2018年)
* [[聖闘士星矢戦記]](2011年)
* [[戦国BASARA|戦国BASARAシリーズ]](2005年 - )
* [[閃乱カグラ SHINOVI VERSUS -少女達の証明-|閃乱カグラVERSUSシリーズ]](2013年 - )
* [[超次元アクション ネプテューヌU]](2014年)
* [[テイルズ オブ ザ ヒーローズ ツインブレイヴ]](2012年)
* [[NARUTO -ナルト- (ゲーム)|NARUTO -ナルト- 疾風伝 ナルティメットインパクト]](2011年)
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜|薄桜鬼 幕末無双録]](2012年)
* [[バトル封神]](2002年)
* [[Fate/EXTELLA|Fate/EXTELLAシリーズ]](2016年 - )
* [[武装錬金|武装錬金 ようこそ パピヨンパークへ]](2007年)
* [[無双シリーズ]](1997年 - )
==== スラッシュアクション ====
* [[鬼武者|鬼武者シリーズ]](2001年 - )
* [[お姉チャンバラ|お姉チャンバラシリーズ]](2004年 - )
* [[デビルメイクライシリーズ]](2001年 - )
* [[ベヨネッタ|ベヨネッタシリーズ]](2009年 - )
* [[メタルギア ライジング リベンジェンス]](2013年)
==== ハンティングアクション ====
* [[モンスターハンターシリーズ]](2004年)
* [[ゴッドイーター|ゴッドイーターシリーズ]](2010年 - )
* [[討鬼伝|討鬼伝シリーズ]](2013年)
* [[SOUL SACRIFICE]](2013年)
* [[フリーダムウォーズ]](2014年)
* [[ラグナロクオデッセイ]](2012年)
* [[ナノダイバー]](2011年)
* [[ロード オブ アルカナ]](2010年)
* [[怪獣バスターズ]](2009年)
* [[エレメントハンター]](2009年)
* [[ファイナルファンタジー エクスプローラーズ]](2014年)
* [[ファンタシースターオンライン2]](2012年)
* [[進撃の巨人|進撃の巨人シリーズ]](2016年 - )
* [[真・三國無双 MULTI RAID|真・三國無双 MULTI RAIDシリーズ]](2009年 - )
* {{仮リンク|ウィッチャーシリーズ|en|The Witcher (video game series)}}(2007年)
* [[Horizon Zero Dawn]](2017年)
* [[Wild Hearts]] (2023年)
==== ソウルライク ====
* [[スター・ウォーズ ジェダイ:フォールン・オーダー]](2019年)
=== アクションシューティング ===
* [[ガンスターヒーローズ]](1993年)
* [[ガントレット (ゲーム)|ガントレット]](1985年)
* [[魂斗羅シリーズ]](1987年 - )
* [[機動戦士ガンダム vs.シリーズ]](2001年 - )
* [[スプラトゥーン|スプラトゥーンシリーズ]](2015年 - ) - [[サードパーソン・シューティングゲーム]]にも分類される
=== その他 ===
; 対戦型格闘
* [[ストリートファイターシリーズ]](1987年 - )
* [[ヴァンパイア (ゲーム)|ヴァンパイアシリーズ]](1994年 - )
; ベルトスクロールアクション
* [[ファイナルファイトシリーズ]](1989年 - )
; アクションロールプレイング
* [[キングダム ハーツ シリーズ]](2002年 - )
* [[スターオーシャンシリーズ]](1996年 - )
* [[ドラゴンクエストヒーローズ 闇竜と世界樹の城]](2015年)
* [[ドラゴンクエストヒーローズII 双子の王と予言の終わり]](2016年)
* [[ドラッグ オン ドラグーン シリーズ]](2003年 - )
* [[トリニティ ジルオール ゼロ]](2010年)
* [[ペルソナ5 スクランブル ザ ファントム ストライカーズ]](2020年)
* [[ディアブロ (ゲーム)|ディアブロシリーズ]](1996年 - )
* [[ドラッグ オン ドラグーン シリーズ#ニーア シリーズ|ニーア シリーズ]](2010年 - )
* [[Demon's Souls]](2009年 - )
* [[DARK SOULS|DARK SOULSシリーズ]](2011年 - )
* [[Bloodborne]](2015年)
* [[ロード オブ ザ フォールン]](2015年)
* [[仁王 (ゲーム)|仁王シリーズ]](2017年 - )
* [[The Surge]](2017年)
* [[CODE VEIN]](2019年)
; アクションアドベンチャー
* [[ゴッド・オブ・ウォー|ゴッド・オブ・ウォーシリーズ]](2005年 - )
* [[ゼルダの伝説シリーズ]](1986年 - )
* [[バンジョーとカズーイの大冒険|バンジョーとカズーイの大冒険シリーズ]](1998年 - )
* [[NINJA GAIDEN|NINJA GAIDENシリーズ]](2004年 - )
* [[バイオハザードシリーズ]](1996年 - )
* [[ディノクライシス|ディノクライシスシリーズ]](1999年 - )
* [[大神 (ゲーム)|大神シリーズ]](2006年 - )
* [[龍が如くシリーズ]](2005年 - )
* [[SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE]](2019年)
* [[新サクラ大戦]](2019年)
* [[Ghost of Tsushima]](2020年)
; ステルスゲーム
* [[アサシン クリードシリーズ]](2007年 - )
* [[天誅 (ゲーム)|天誅シリーズ]](1998年 - )
* [[メタルギアシリーズ]](1987年 - )
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2020年2月|section=1}}
* 『OLD GAMERS HISTORY アクションゲーム編 Vol.5』、ISBN 978-4-89610-149-2、メディアパル、2014年
* 『アクションゲームアーカイブス 青編』、ISBN 978-4-89610-123-2、メディアパル、2012年
* 『アクションゲームアーカイブス 赤編』、ISBN 978-4-89610-122-5、メディアパル、2012年
* 『アプリ攻略アイテムBOOK極』、ISBN 978-4-8002-3456-8、宝島社、2014年
* 『アクションゲームサイド Vol.1』、ISBN 978-4-89637-402-5、マイクロマガジン社、2012年
* 『アクションゲームサイド Vol.2』、ISBN 978-4-89637-429-2、マイクロマガジン社、2013年
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6,558 | ホラーゲーム | ホラーゲーム(英: Horror game/Scary game)は、プレイヤーに恐怖感を与えて楽しませるゲームのジャンルである。
これらのジャンルは体験型で生理的感情面に訴えるエンターテインメントであるホラーの性質上、コンピューターゲームとしてのホラーゲームが多いが、昔ながらの怪談にゲーム性や能動的課題解決のためのルールが与えられたものとして、テーブルトーク・ロールプレイングゲーム型のホラーゲームもいくつか存在する。
カードゲームやボードゲームにも、ホラー的なテーマを取り扱ったゲームが存在するが「プレイヤーに恐怖感を与える」にはシステムが不向きであるため、それらはホラーゲームには含まれない。
一般には過剰な残酷描写をもってユーザーにアピールする残酷ゲームというジャンルも存在するが、ホラーゲームでは恐怖心によってユーザーに緊張を強いるものであり、古典ホラー作品に見られる「未知の物」や「隠された謎」のほうが重要視される傾向があり、むしろ残酷な描写は避けられる傾向が見られる。
初期はバイオハザードシリーズやサイレントヒルシリーズのような洋風の雰囲気を持つゲームが多かったが、2000年以降は『零』や『SIREN』のように和風のホラーを題材としたゲームも多い。
最近では、携帯向けコンテンツとして上記の移植版を含め、様々なケータイホラーゲームも配信されている。
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] | ホラーゲームは、プレイヤーに恐怖感を与えて楽しませるゲームのジャンルである。 | {{出典の明記|date=2022年9月}}
'''ホラーゲーム'''({{lang-en-short|Horror game/Scary game}})は、プレイヤーに[[恐怖]]感を与えて楽しませる[[ゲーム]]のジャンルである。
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これらのジャンルは体験型で生理的感情面に訴える[[エンターテインメント]]である[[ホラー]]の性質上、[[コンピューターゲーム]]としてのホラーゲームが多いが、昔ながらの[[怪談]]にゲーム性や能動的課題解決のためのルールが与えられたものとして、[[テーブルトークRPG|テーブルトーク・ロールプレイングゲーム]]型のホラーゲームもいくつか存在する。
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== コンピュータゲームの例 ==
[[:Category:ホラーゲーム]]を参照。
== テーブルトークRPGの例 ==
*[[クトゥルフの呼び声 (TRPG)|クトゥルフの呼び声]]
*[[ゴーストハンターRPG]]
== 関連項目 ==
*[[サバイバルホラー]]
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6,560 | 電撃文庫 | 電撃文庫(でんげきぶんこ)は、KADOKAWAが発行している、日本の文庫レーベル。1993年6月、旧メディアワークスより創刊した後、株式会社アスキー・メディアワークスが引き継ぎ、2013年10月より現在の体制になる。
現在の編集部署は株式会社KADOKAWA出版事業グループ・電撃統括部・電撃メディアワークス編集部。
1992年10月、当時角川書店副社長であった角川歴彦は兄・角川春樹との内紛で角川書店から離れ、かつて社長を務めていた子会社角川メディアオフィスの社員とともにメディアワークスを設立し、「電撃」5誌を創刊した。そして、角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫と競争するためにも「新しい時代を生きる若者たちに斬新な作品を新たな文庫本として提供したい」歴彦は自ら指揮をとり、メディアワークスの若者向け文庫レーベルとして、角川スニーカー文庫の作家陣と作品群が移行する形で、1993年6月に創刊された。歴彦もまた、父・角川源義の書いた角川文庫発刊の辞と岩波文庫発刊の辞を繰り返し読み、「電撃文庫の創刊に際して」と書いて、岩波文庫から角川文庫に続く古い教養の歴史の系譜としたのです。
初回刊行タイトルは『漂流伝説 クリスタニア 1』(水野良)・『聖マリア修道院の怪談 極道くん漫遊記外伝』(中村うさぎ)・『ダーク・ウィザード 蘇りし闇の魔道士』(寺田憲史)・『瑠璃丸伝 当世のしのび草紙 1』(松枝蔵人)の4タイトル。創刊当初は角川スニーカー文庫を基盤に活動していた深沢美潮、中村うさぎ、あかほりさとるなどのベテラン作家陣による作品と、テレビゲーム・アニメ等のノベライズ・翻訳小説を中心に出版していたが、新人作家を積極的に発掘するため、1994年「電撃ゲーム3大賞」の小説部門扱いで「電撃ゲーム小説大賞」(2004年に「電撃小説大賞」と改称)が創設された。この新人賞からは、長期シリーズ化でレーベルの看板的作品となった『ブギーポップは笑わない』で第4回電撃ゲーム小説大賞を受賞した上遠野浩平、『アクセル・ワールド』で第15回電撃小説大賞を受賞した川原礫を筆頭に、高畑京一郎、古橋秀之、秋山瑞人、三雲岳斗、高橋弥七郎、成田良悟、支倉凍砂など多くの人気作家を輩出、レーベルの隆盛に貢献した。また、緒方剛志、黒星紅白、原田たけひと、灰村キヨタカなど、若手イラストレーターの登用も意欲的に行い、ライトノベルに於けるイラストレーションの世代交代を推し進めた。
レーベルの特徴は、初期は角川スニーカー文庫から枝分かれしたこともあり、それほど差異はなかったが、黒丸尚が翻訳したウィリアム・ギブスン、ルディー・ラッカーらのサイバーパンクSFを、よりコンピューター・ゲーム的なSFファンタジー小説として描いた第2回電撃ゲーム小説大賞受賞の『ブラックロッド』と、眉村卓などのジュブナイルSF小説を現代的にアップデートした『ブギーポップは笑わない』の金字塔的ヒットにより、過去のSFファンタジー小説や青春小説を青少年向けライトノベルとして現代的にアップデートする手法と路線が意識的に採られるようになった。
2000年代以降は電撃小説大賞出身のレーベル生え抜き作家によるオリジナル作品が中心となったが、上記の路線は1990年代後半から2000年代前半の時点では、SFや一般文芸などの既存ジャンルからほとんど無視されていたことが逆に幸いし、多種多様なタイプのヒット作が生まれ、少年向けライトノベルの代表的レーベルとして「ライトノベル」ジャンルでの国内最大シェアを維持している。この成功には、テレビアニメ化や『月刊コミック電撃大王』『月刊少年ガンガン』などでのコミカライズといった積極的なメディアミックス展開に加え、イベント開催、「電撃組」と呼ばれる書店への優先配本による効率化、書店での販促用ポストカードの配布など、多様な販売戦略も奏功した。
2000年代後半以降は有川浩や橋本紡など、一般文芸へ越境する作家も出てきたが、既にライトノベルでしか描けない小説ジャンルが確立されており、致命的なダメージには至っていない。
2020年現在、新刊の発売日は毎月10日で、月に10冊前後の新刊が発売されている。2004年10月発売の『キノの旅VIII the beautiful world』で通算1000タイトル、2010年9月発売の『ゴールデンタイム1 春にしてブラックアウト』で通算2000タイトル、2015年10月発売の『ヘヴィーオブジェクト 外なる神』で通算3000タイトルを記録した。2009年11月、総発行部数は累計1億冊を突破し、それを記念したキャンペーンが行われた。また、『とある魔術の禁書目録』(2010年10月)と『ソードアート・オンライン』(2014年7月)と『魔法科高校の劣等生』(2019年9月)は国内累計1000万部突破を達成している。
「電撃の単行本」として単行本(ハードカバー)形態で出版されるものもあり、初期の「電撃ゲーム小説大賞」受賞作品の刊行や、普段ライトノベルを読まない層を狙ったタイトルの発売が行われている。特に『図書館戦争』は新聞や雑誌の書評で大きな話題を呼んだ。2019年1月には、WEB系エンタメノベルを扱うサブレーベルとして「電撃の新文芸」が単行本(ソフトカバー)形態で創刊されたり、文庫形態では、2009年12月に姉妹レーベル的な存在として“非ラノベレーベル”を意識した新レーベル、「メディアワークス文庫」が創刊され、「電撃の単行本」で刊行されていた作家や、電撃文庫でも青年向け(ライト文芸)の傾向が強い作家が徐々に異動しているため、電撃文庫側の月刊刊行点数は若干減少傾向にある。
レーベルの雑誌媒体としては、1998年から『電撃hp』が刊行され、2007年に『電撃文庫MAGAZINE』へ継承されたが、2020年に休刊した。
2010年6月、第16回電撃小説大賞最終選考作として刊行した『俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長』が盗作と指摘され、絶版・回収措置が取られる不祥事が発生。全国紙でも報道された。
メディアワークスの出版物の販売業務委託先として主婦の友社から電撃文庫が発売されていた時期に、電撃ゲーム小説大賞受賞作品の一部などがハードカバーで出版されたこともある。一般層への普及を目指したと見られ、ハードカバー時に電撃のレーベルが付いていないが、発売後に電撃文庫として再出版されたものを、以下に、仮に「主婦の友社の単行本」と表記して挙げる。
電撃文庫のレーベルから出ているハードカバー単行本。挿絵の付くものもあるがアニメ調のものは少ない。サスペンスや恋愛小説が多い。『野性時代』などの一般文芸誌に広告が載ることもある。画集も含まれることがある。
イラストノベルという形態で書かれた作品のレーベル。電撃hpや電撃の缶詰などで告知され、通販限定販売がなされる。2008年現在、これにあたる作品は川上稔とさとやすの著作2点のみである。また、他に電撃文庫が出した通販限定本の例としては電撃ヴんこ等が挙げられる。
絵本形式の単行本であり、電撃文庫の既存作品のスピンオフが主だが、オリジナルの作品の出版もされている。
ページが絵ハガキになっていて、切り取って使用可能な「電撃ポストカード文庫」が1994年7月に3タイトル刊行されたが、以後はこのレーベルの新刊は発売されていない。
電撃文庫初期のメディアミックスの媒体としてラジオは多用されたが、ラジオ番組での宣伝やラジオドラマの制作は、テレビでのCMや映像化に比べて安価であったため盛んに行われた。
文化放送などで放送された、電撃ゲーム小説大賞とタイアップしたラジオ番組。
電撃小説大賞第1回と同じ年の1994年10月–12月、『電撃大賞クリス・クロス』として放送。1995年4月『電撃大作戦』として再開し、1996年4月『電撃大賞』としてリニューアル。2015年3月まで20年半の長きに渡り放送された。パーソナリティは男女1組で1年 - 数年程度で交代する。
番組内容は電撃小説大賞・電撃文庫と関連が薄いが、毎年2月(前年の電撃小説大賞受賞者の受賞作が電撃文庫から刊行される)には受賞者が出演し作品について語るほか、時たまおかゆまさき・時雨沢恵一など電撃作家がゲスト出演した。
2002年10月14日の電撃10年祭当日の13:00~16:00に文化放送で放送された特別番組。おたっきぃ佐々木と桑谷夏子をパーソナリティーに10年祭の会場である幕張メッセからの中継を交えて放送。
(でんげきフィフティーンバイフィフティーン)
2007年11月24日・25日の「電撃15年祭」に向け、ラジオ大阪・文化放送で放送された15分番組。
パーソナリティはフリーアナウンサーの荘口彰久。電撃作家や電撃アニメ出演声優などがゲスト出演した。
(でんげきトゥエンティバイトゥエンティ)
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電撃文庫公式サイトおよびニコニコアニメチャンネルで配信された。
2008年6月27日–2009年3月27日、毎週金曜夜更新の全38回(7月4日・1月2日は休止)。ニコニコアニメチャンネルではバックナンバーは全回聴取可能。
パーソナリティーは竹本英史(学園長)と喜多村英梨(生徒)。
電撃文庫、電撃文庫MAGAZINE、電撃学園RPG Cross of Venus の関連情報を届けるラジオ番組。番組放送中はスタジオ内の様子の写真がスライドショー形式で表示された。番組でメールを読まれたリスナーにはノベルティとして『学生証』が送られると番組内でアナウンスされていたが、実際には送られていない。
電撃文庫1億冊突破を記念して開始された。2009年9月10日より電撃文庫公式サイトで配信開始。
出演者はうえむらちか、明坂聡美、おかゆまさき、三木一馬、上坂すみれ。加えて毎回、電撃作家がゲスト出演する。 毎月10日更新。
2011年末に明坂聡美、上坂すみれが卒業。 2012年からは三澤紗千香の加入と、毎月10・25日更新となった。
2013年6月5日より、動画配信サービス「niconico」にて、有名作品や著名人などの連載小説を読むことができる「ニコニコ連載小説」というサービスで電撃文庫の書下ろし作品も掲載されていた。またそれに合わせて「ニコニコチャンネル」にて「電撃文庫チャンネル」が開設され、上記の「ニコニコ連載小説」の他にCM動画などが公開されている。電撃文庫20周年記念として展開されていたが2016年10月30日で終了した。
「niconico」とは小説の連載やCM動画の配信だけでなく、「多数決ドラマ」というユーザー参加型のメディアミックスでも協力関係にある。
「niconico」で電撃文庫20周年記念として配信されていた上記(#niconicoでの配信)の「電撃文庫チャンネル」があったが、そちらはすでに終了している。その後、2019年8月に「YouTube」にて同名の動画チャンネルが開設されている。YouTubeでの動画チャンネルではやはりCMをメインに投稿されていたが、PVの数も増えていって、2020年12月からは作品の一部を声優に朗読してもらう「【電撃文庫朗読してみた】」という企画も開始された。他にも関連ラジオのミニコーナー(声優ラジオのウラオモテ コーコーセーラジオ!出張版)の再配信や、声優の山下大輝と作家の駱駝の生放送動画番組「山下駱駝」のYouTube上での配信も行っている。 | [
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"text": "2007年11月24日・25日の「電撃15年祭」に向け、ラジオ大阪・文化放送で放送された15分番組。",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "パーソナリティはフリーアナウンサーの荘口彰久。電撃作家や電撃アニメ出演声優などがゲスト出演した。",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "(でんげきトゥエンティバイトゥエンティ)",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2012年10月20日・21日の「電撃20年祭」に向け、ラジオ大阪・文化放送で放送された20分番組。パーソナリティーは引き続き荘口彰久が担当。",
"title": "ラジオ番組"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "電撃文庫公式サイトおよびニコニコアニメチャンネルで配信された。",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "2008年6月27日–2009年3月27日、毎週金曜夜更新の全38回(7月4日・1月2日は休止)。ニコニコアニメチャンネルではバックナンバーは全回聴取可能。",
"title": "ラジオ番組"
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"text": "パーソナリティーは竹本英史(学園長)と喜多村英梨(生徒)。",
"title": "ラジオ番組"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "電撃文庫、電撃文庫MAGAZINE、電撃学園RPG Cross of Venus の関連情報を届けるラジオ番組。番組放送中はスタジオ内の様子の写真がスライドショー形式で表示された。番組でメールを読まれたリスナーにはノベルティとして『学生証』が送られると番組内でアナウンスされていたが、実際には送られていない。",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "電撃文庫1億冊突破を記念して開始された。2009年9月10日より電撃文庫公式サイトで配信開始。",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "出演者はうえむらちか、明坂聡美、おかゆまさき、三木一馬、上坂すみれ。加えて毎回、電撃作家がゲスト出演する。 毎月10日更新。",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2011年末に明坂聡美、上坂すみれが卒業。 2012年からは三澤紗千香の加入と、毎月10・25日更新となった。",
"title": "ラジオ番組"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2013年6月5日より、動画配信サービス「niconico」にて、有名作品や著名人などの連載小説を読むことができる「ニコニコ連載小説」というサービスで電撃文庫の書下ろし作品も掲載されていた。またそれに合わせて「ニコニコチャンネル」にて「電撃文庫チャンネル」が開設され、上記の「ニコニコ連載小説」の他にCM動画などが公開されている。電撃文庫20周年記念として展開されていたが2016年10月30日で終了した。",
"title": "niconicoでの配信"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「niconico」とは小説の連載やCM動画の配信だけでなく、「多数決ドラマ」というユーザー参加型のメディアミックスでも協力関係にある。",
"title": "niconicoでの配信"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "「niconico」で電撃文庫20周年記念として配信されていた上記(#niconicoでの配信)の「電撃文庫チャンネル」があったが、そちらはすでに終了している。その後、2019年8月に「YouTube」にて同名の動画チャンネルが開設されている。YouTubeでの動画チャンネルではやはりCMをメインに投稿されていたが、PVの数も増えていって、2020年12月からは作品の一部を声優に朗読してもらう「【電撃文庫朗読してみた】」という企画も開始された。他にも関連ラジオのミニコーナー(声優ラジオのウラオモテ コーコーセーラジオ!出張版)の再配信や、声優の山下大輝と作家の駱駝の生放送動画番組「山下駱駝」のYouTube上での配信も行っている。",
"title": "公式動画チャンネル"
}
] | 電撃文庫(でんげきぶんこ)は、KADOKAWAが発行している、日本の文庫レーベル。1993年6月、旧メディアワークスより創刊した後、株式会社アスキー・メディアワークスが引き継ぎ、2013年10月より現在の体制になる。 現在の編集部署は株式会社KADOKAWA出版事業グループ・電撃統括部・電撃メディアワークス編集部。 | {{Infobox publisher
| image = Dengeki Bunko.svg
| founded = {{start date and age|1993|6|}}
| founder = [[角川歴彦]]
| country = {{JPN}}
| distribution = {{Flagicon|JPN}} 日本
| genre = [[ライトノベル]]
| owner = [[KADOKAWA]]
}}
'''電撃文庫'''(でんげきぶんこ)は、[[KADOKAWA]]が発行している、[[日本]]の[[文庫本|文庫]]レーベル。1993年6月、旧[[メディアワークス]]より創刊した後、株式会社[[アスキー・メディアワークス]]が引き継ぎ、2013年10月より現在の体制になる{{Efn2|売却後の一時期はKADOKAWAが「ブランドカンパニー制」を採用していた事から、発行元は“ KADOKAWA アスキー・メディアワークスブランドカンパニー ”という形で記載されていた。現在はブランドカンパニー制が廃されているため、公式な表記から「アスキー・メディアワークス」は徐々に消えつつあり、2023年刊行分からはそれまで裏表紙に表記されていたAMWのロゴが削除されている。}}。
現在の編集部署は株式会社KADOKAWA出版事業グループ・電撃統括部・電撃メディアワークス編集部。
== 沿革・特色 ==
{{複数の問題|section=1
|出典の明記=2012年12月16日 (日) 05:44 (UTC)
|大言壮語=2012年12月16日 (日) 05:44 (UTC)
}}
1992年10月、当時[[角川書店]]副社長であった[[角川歴彦]]は兄・[[角川春樹]]との内紛で角川書店から離れ、かつて社長を務めていた子会社角川メディアオフィスの社員とともにメディアワークスを設立し、「電撃」5誌を創刊した。そして、[[角川スニーカー文庫]]や[[富士見ファンタジア文庫]]と競争するためにも「新しい時代を生きる若者たちに斬新な作品を新たな文庫本として提供したい」歴彦は自ら指揮をとり、メディアワークスの若者向け文庫レーベルとして、[[角川スニーカー文庫]]の作家陣と作品群が移行する形で、1993年6月に創刊された。歴彦もまた、父・[[角川源義]]の書いた[[角川文庫]]発刊の辞と[[岩波文庫]]発刊の辞を繰り返し読み、「電撃文庫の創刊に際して」と書いて、岩波文庫から角川文庫に続く古い教養の歴史の系譜としたのです<ref name="山中">{{Cite journal|和書|author=山中智省|title=ライトノベルという出版メディアの確立─一九九〇年代の電撃文庫の様相から─|journal= 目白大学人文学研究|issue=19|publisher=目白大学|date=2023-03-31|issn=1349-5186|pages=1-19|url=http://id.nii.ac.jp/1514/00001961/}}</ref>。
初回刊行タイトルは『[[クリスタニア#小説|漂流伝説 クリスタニア 1]]』([[水野良]])・『[[ゴクドーくん#ゴクドーくん漫遊記外伝|聖マリア修道院の怪談 極道くん漫遊記外伝]]』([[中村うさぎ]])・『[[寺田憲史#小説|ダーク・ウィザード 蘇りし闇の魔道士]]』([[寺田憲史]])・『瑠璃丸伝 当世のしのび草紙 1』([[松枝蔵人]])の4タイトル。創刊当初は[[角川スニーカー文庫]]を基盤に活動していた[[深沢美潮]]、中村うさぎ、[[あかほりさとる]]などのベテラン作家陣による作品と、[[テレビゲーム]]・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]等の[[小説化|ノベライズ]]・[[翻訳]]小説を中心に出版していたが、新人作家を積極的に発掘するため、1994年「[[電撃大賞|電撃ゲーム3大賞]]」の小説部門扱いで「[[電撃ゲーム小説大賞]]」(2004年に「電撃小説大賞」と改称)が創設された。この新人賞からは、長期シリーズ化でレーベルの看板的作品となった『[[ブギーポップシリーズ|ブギーポップは笑わない]]』で第4回電撃ゲーム小説大賞を受賞した[[上遠野浩平]]、『[[アクセル・ワールド]]』で第15回電撃小説大賞を受賞した[[川原礫]]を筆頭に、[[高畑京一郎]]、[[古橋秀之]]、[[秋山瑞人]]、[[三雲岳斗]]、[[高橋弥七郎]]、[[成田良悟]]、[[支倉凍砂]]など多くの人気作家を輩出、レーベルの隆盛に貢献した。また、[[緒方剛志]]、[[黒星紅白]]、[[原田たけひと]]、[[はいむらきよたか|灰村キヨタカ]]など、若手イラストレーターの登用も意欲的に行い、ライトノベルに於けるイラストレーションの世代交代を推し進めた。
レーベルの特徴は、初期は[[角川スニーカー文庫]]から枝分かれしたこともあり、それほど差異はなかったが、[[黒丸尚]]が翻訳した[[ウィリアム・ギブスン]]、[[ルディー・ラッカー]]らの[[サイバーパンク]]SFを、より[[コンピュータゲーム|コンピューター・ゲーム]]的なSFファンタジー小説として描いた第2回[[電撃ゲーム小説大賞]]受賞の『[[ブラックロッド]]』と、[[眉村卓]]などの[[ジュブナイル]][[サイエンス・フィクション|SF小説]]を現代的にアップデートした『ブギーポップは笑わない』の金字塔的ヒットにより、過去のSFファンタジー小説や青春小説を青少年向けライトノベルとして現代的にアップデートする手法と路線が意識的に採られるようになった。
2000年代以降は電撃小説大賞出身のレーベル生え抜き作家によるオリジナル作品が中心となったが、上記の路線は1990年代後半から2000年代前半の時点では、SFや一般文芸などの既存ジャンルからほとんど無視されていた{{Efn2|[[上遠野浩平]]が[[講談社]]「[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]」や[[早川書房]]「[[S-Fマガジン]]」で評価され、[[古橋秀之]]も後年、[[集英社]]へ移っているが、この二人ですら、純粋にSFや一般文芸としての評価は少なく、「[[セカイ系]]」なる揶揄混じりの評価であった。}}ことが逆に幸いし、多種多様なタイプのヒット作が生まれ、{{要出典範囲|少年向け[[ライトノベル]]の代表的レーベルとして|date=2019年6月}}「ライトノベル」ジャンルでの国内最大シェアを維持している。この成功には、テレビアニメ化や『[[月刊コミック電撃大王]]』『[[月刊少年ガンガン]]』などでのコミカライズといった積極的な[[メディアミックス]]展開に加え、イベント開催、「電撃組」と呼ばれる書店への優先配本による効率化、書店での販促用ポストカードの配布など、多様な販売戦略も奏功した。
2000年代後半以降は[[有川浩]]や[[橋本紡]]など、一般文芸へ越境する作家も出てきたが、既にライトノベルでしか描けない小説ジャンルが確立されており、致命的なダメージには至っていない。
2020年現在、新刊の発売日は毎月10日で、月に10冊前後の新刊が発売されている。2004年10月発売の『[[キノの旅]]VIII the beautiful world』で通算1000タイトル、2010年9月発売の『[[ゴールデンタイム (小説)|ゴールデンタイム]]1 春にしてブラックアウト』で通算2000タイトル、2015年10月発売の『[[ヘヴィーオブジェクト]] 外なる神』で通算3000タイトルを記録した。2009年11月、総発行部数は累計1億冊を突破し、それを記念したキャンペーンが行われた。また、『[[とある魔術の禁書目録]]』(2010年10月)と『[[ソードアート・オンライン]]』(2014年7月)と『[[魔法科高校の劣等生]]』(2019年9月)は国内累計1000万部突破を達成している。
「電撃の単行本」として単行本([[ハードカバー]])形態で出版されるものもあり、初期の「電撃ゲーム小説大賞」受賞作品の刊行や、普段ライトノベルを読まない層を狙ったタイトルの発売が行われている。特に『[[図書館戦争]]』は新聞や雑誌の書評で大きな話題を呼んだ。2019年1月には、WEB系エンタメノベルを扱うサブレーベルとして「[[電撃の新文芸]]」が単行本([[ペーパーバック|ソフトカバー]])形態で創刊されたり、文庫形態では、2009年12月に姉妹レーベル的な存在として“非ラノベレーベル”を意識した新レーベル、「[[メディアワークス文庫]]」が創刊され、「電撃の単行本」で刊行されていた作家や、電撃文庫でも青年向け([[ライト文芸]])の傾向が強い作家が徐々に異動しているため、電撃文庫側の月刊刊行点数は若干減少傾向にある。
レーベルの雑誌媒体としては、1998年から『[[電撃hp]]』が刊行され、2007年に『[[電撃文庫MAGAZINE]]』へ継承されたが、2020年に休刊した。
2010年6月、第16回電撃小説大賞最終選考作として刊行した『[[俺と彼女が魔王と勇者で生徒会長]]』が盗作と指摘され、絶版・回収措置が取られる不祥事が発生。全国紙でも報道された。
== 主な作品 ==
{{See|Category:電撃文庫}}
== 映像化作品 ==
=== アニメ化 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+ テレビアニメ
!作品
!放送年
!アニメーション制作
!備考
|-
|[[フォーチュン・クエスト]]([[フォーチュン・クエストL|アニメ]])
|1997年-1998年
|[[イージーフイルム]]
|
|-
| rowspan="2" |[[ブギーポップシリーズ|ブギーポップは笑わない]]([[ブギーポップは笑わない (アニメ)|アニメ]])
|2000年(第1作)
| rowspan="2" |[[マッドハウス]]
| rowspan="2" |
|-
|2019年(第2作)
|-
| rowspan="2" |[[キノの旅]]
|2003年(第1作)
|[[A.C.G.T]]
| rowspan="2" |映画あり
|-
|2017年(第2作)
|[[Lerche]]
|-
|[[住めば都のコスモス荘]]
|2003年
|[[ユーフォーテーブル]]
|
|-
|[[スターシップ・オペレーターズ]]
|2005年
|[[J.C.STAFF]]
|
|-
| rowspan="3" |[[灼眼のシャナ]]([[灼眼のシャナ (アニメ)|アニメ]])
|2005年-2006年(第1期)
| rowspan="3" |J.C.STAFF
| rowspan="3" |映画、OVAあり
|-
|2007年-2008年(第2期)
|-
|2011年-2012年(第3期)
|-
|[[いぬかみっ!]]
|2006年
|[[セブン・アークス]]
|映画あり
|-
|[[しにがみのバラッド。]]
|2006年
|[[グループ・タック]]
|
|-
|[[半分の月がのぼる空]]
|2006年
|グループ・タック
|
|-
|[[護くんに女神の祝福を!]]
|2006年-2007年
|[[ゼクシズ]]
|
|-
|[[バッカーノ!]]
|2007年
|[[ブレインズ・ベース]]
|<!--番外編OVA(テレビアニメのソフトの映像特典なので不可視化します)-->
|-
|[[一つの大陸の物語シリーズ]](アリソンとリリア)
|2008年
|[[マッドハウス]]
|
|-
|[[シゴフミ]]
|2008年
|J.C.STAFF
|メディアミックス作品 <!--OVA(テレビアニメのソフトの映像特典なので不可視化します)-->
|-
|[[我が家のお稲荷さま。]]
|2008年
|ZEXCS
|
|-
| rowspan="3" |[[狼と香辛料]]
|2008年(第1作第1期)
|[[イマジン (アニメ制作会社)|イマジン]]
| rowspan="3" |<!--OVA(書籍の購入特典なので不可視化します)-->
|-
|2009年(第1作第2期)
|ブレインズ・ベース<br />[[マーヴィージャック]]
|-
|2024年(第2作)
|[[パッショーネ (アニメ制作会社)|パッショーネ]]
|-
| rowspan="3" |[[とある魔術の禁書目録]]([[とある魔術の禁書目録 (アニメ)|アニメ]])
|2008年(第1期)
| rowspan="3" |J.C.STAFF
| rowspan="3" |[[劇場版 とある魔術の禁書目録 -エンデュミオンの奇蹟-|映画]]、<!--OVA(テレビアニメのソフトの映像特典なので不可視化します)、-->スピンオフあり
|-
|2010年(第2期)
|-
|2018年(第3期)
|-
|[[とらドラ!]]
|2008年-2009年
|J.C.STAFF
|<!--OVA(テレビアニメのソフトの映像特典なので不可視化します)-->
|-
| rowspan="2" |[[乃木坂春香の秘密]]
|2008年(第1期)
| rowspan="2" |[[ディオメディア]]
| rowspan="2" |OVAあり
|-
|2009年(第2期)
|-
|[[アスラクライン]]
|2009年(第1期、第2期)
|セブン・アークス
|
|-
|[[オオカミさんシリーズ]](オオカミさんと七人の仲間たち)
|2010年
|J.C.STAFF
|
|-
| rowspan="2" |[[俺の妹がこんなに可愛いわけがない]]([[俺の妹がこんなに可愛いわけがない (アニメ)|アニメ]])
|2010年(第1期)
|[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC Build]]
| rowspan="2" |
|-
|2013年(第2期)
|[[A-1 Pictures]]
|-
| rowspan="2" |[[デュラララ!!]]([[デュラララ!! (アニメ)|アニメ]])
|2010年(第1期)
|ブレインズ・ベース
| rowspan="2" |
|-
|2015年、2016年(第2期)
|[[朱夏]]
|-
|[[れでぃ×ばと!]]
|2010年
|XEBEC
|
|-
|[[神様のメモ帳]]
|2011年
|J.C.STAFF
|
|-
| rowspan="2" |[[境界線上のホライゾン]]
|2011年(第1期)
| rowspan="2" |[[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]
| rowspan="2" |
|-
|2012年(第2期)
|-
|[[C³ -シーキューブ-]]
|2011年
|[[SILVER LINK.]]
|
|-
|[[電波女と青春男]]
|2011年
|[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]]
|
|-
| rowspan="2" |[[ロウきゅーぶ!]]([[ロウきゅーぶ! (アニメ)|アニメ]])
|2011年(第1期)
|[[project No.9]]<br />[[スタジオブラン|Studio Blanc.]]
| rowspan="2" |<!--OVA(ゲームの購入特典なので不可視化します)-->
|-
|2013年(第2期)
|project No.9
|-
|[[アクセル・ワールド]]
|2012年
|サンライズ
|映画あり <!--OVA(ゲームの購入特典なので不可視化します)-->
|-
|[[さくら荘のペットな彼女]]
|2012年-2013年
|J.C.STAFF
|
|-
| rowspan="4" |[[ソードアート・オンライン]]([[ソードアート・オンライン (アニメ)|アニメ]])
|2012年(第1期)
| rowspan="4" |A-1 Pictures
| rowspan="4" |映画、スピンオフあり
|-
|2014年(第2期)
|-
|2018年(第3期)
|-
|2019年、2020年(第4期)
|-
|[[ゴールデンタイム (小説)|ゴールデンタイム]]
|2013年-2014年
|J.C.STAFF
|
|-
|[[ストライク・ザ・ブラッド]]([[ストライク・ザ・ブラッド (アニメ)|アニメ]])
|2013年-2014年
|SILVER LINK.<br />[[SILVER LINK.|CONNECT]]
|OVAあり
|-
| rowspan="2" |[[はたらく魔王さま!]]([[はたらく魔王さま! (アニメ)|アニメ]])
|2013年(第1期)
|[[WHITE FOX]]
| rowspan="2" |
|-
|2022年-2023年(第2期)
|[[Studio 3Hz]]
|-
|[[ブラック・ブレット]]
|2014年
|[[キネマシトラス]]<br />[[オレンジ (アニメ制作会社)|オレンジ]]
|
|-
| rowspan="4" |[[魔法科高校の劣等生]]([[魔法科高校の劣等生 (アニメ)|アニメ]])
|2014年(第1期)
|マッドハウス
| rowspan="4" |映画、スピンオフあり
|-
|2020年(第2期)
| rowspan="3" |[[エイトビット]]
|-
|2021年(追憶編)
|-
|2024年(第3期)
|-
|[[ヘヴィーオブジェクト]]
|2015年-2016年
|J.C.STAFF
|
|-
|[[ねじ巻き精霊戦記 天鏡のアルデラミン]]
|2016年
|マッドハウス
|
|-
|[[ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?]]
|2016年
|project No.9
|
|-
|[[エロマンガ先生]]([[エロマンガ先生 (アニメ)|アニメ]])
|2017年
|A-1 Pictures
|OVAあり
|-
|[[ゼロから始める魔法の書]]
|2017年
|WHITE FOX
|
|-
|[[天使の3P!]]
|2017年
|project No.9
|
|-
|[[青春ブタ野郎シリーズ]](青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない)
|2018年
|[[CloverWorks]]
|映画あり
|-
| rowspan="2" |[[ソードアート・オンライン オルタナティブ ガンゲイル・オンライン]]
|2018年(第1期)
| rowspan="2" |Studio 3Hz
| rowspan="2" |
|-
|{{TBA}}(第2期)
|-
|[[俺を好きなのはお前だけかよ]]
|2019年
|CONNECT
|OVAあり
|-
|[[ガーリー・エアフォース]]
|2019年
|[[サテライト (アニメ制作会社)|サテライト]]
|
|-
|[[安達としまむら]]
|2020年
|[[手塚プロダクション]]
|
|-
| rowspan="2" |[[魔王学院の不適合者 〜史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う〜]]
|2020年(第1期)
| rowspan="2" |SILVER LINK.
| rowspan="2" |
|-
|2023年-2024年(第2期)
|-
|[[86-エイティシックス-]]
|2021年
|A-1 Pictures
|
|-
|[[幼なじみが絶対に負けないラブコメ]]
|2021年
|[[動画工房]]
|
|-
| rowspan="2" |[[錆喰いビスコ]]
|2022年(第1期)
| rowspan="2" |OZ
| rowspan="2" |
|-
|{{TBA}}(第2期)
|-
|[[シャインポスト]]
|2022年
|[[スタジオKAI]]
|メディアミックス作品
|-
| rowspan="2" |[[Fate/strange Fake]]
|2023年(Whispers of Dawn)
| rowspan="2" |A-1 Pictures
| rowspan="2" |
|-
|{{TBA}}(シリーズ)
|-
|[[七つの魔剣が支配する]]
|2023年
|J.C.STAFF
|
|-
|[[豚のレバーは加熱しろ]]
|2023年
|project No.9
|
|-
|[[恋は双子で割り切れない]]
|2024年
|ROLL2
|
|-
|[[声優ラジオのウラオモテ]]
|2024年
|CONNECT
|
|-
|[[男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!)|男女の友情は成立する?(いや、しないっ!!)]]
|{{TBA}}
|J.C.STAFF
|
|-
|[[ユア・フォルマ]]
|{{TBA}}
|{{TBA}}
|
|}
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|+ OVA
!作品
!放送年
!アニメーション制作
!備考
|-
|[[イリヤの空、UFOの夏]]
|2005年
|[[東映アニメーション]]
|
|-
| rowspan="2" |[[撲殺天使ドクロちゃん]]
|2005年(第1期)
| rowspan="2" |[[ハルフィルムメーカー]]
| rowspan="2" |
|-
|2007年(第2期)
|-
|[[アラタなるセカイ]]
|2012年
|マッドハウス
|
|-
| rowspan="5" |ストライク・ザ・ブラッド
|2015年(第1期)
| rowspan="2" |SILVER LINK.<br />CONNECT
| rowspan="5" |
|-
|2016年-2017年(第2期)
|-
|2018年-2019年(第3期)
| rowspan="3" |CONNECT
|-
|2020年-2021年(第4期)
|-
|2022年(第5期)
|}
=== テレビドラマ化 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!作品
!放送年
!制作
!備考
|-
|半分の月がのぼる空
|2006年
|SFプランニング
|
|-
|しにがみのバラッド。
|2007年
|SFプランニング
|
|-
|[[ある日、爆弾がおちてきて]]
|2013年
|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]
|『[[世にも奇妙な物語]]』でドラマ化
|}
=== 実写映画化 ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!作品
!公開年
!監督
!配給
!備考
|-
|ブギーポップは笑わない
|2000年
|[[金田龍]]
|[[東映ビデオ]]
|
|-
|半分の月がのぼる空
|2010年
|[[深川栄洋]]
|[[IMJエンタテインメント]]
|
|-
|[[嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん]]
|2011年
|[[瀬田なつき]]
|[[角川映画]]
|
|}
=== アニメ化予定(企画段階含) ===
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!作品
!年
!アニメーション制作
!備考
|-
|[[ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います]]
|{{TBA}}
|{{TBA}}
|
|}
== 関連レーベルの作品 ==
=== ハードカバー ===
==== 主婦の友社の単行本 ====
メディアワークスの出版物の販売業務委託先として[[主婦の友社]]から電撃文庫が発売されていた時期に、[[電撃小説大賞|電撃ゲーム小説大賞]]受賞作品の一部などが[[ハードカバー]]で出版されたこともある。一般層への普及を目指したと見られ、ハードカバー時に電撃のレーベルが付いていないが、発売後に電撃文庫として再出版されたものを、以下に、仮に「主婦の友社の単行本」と表記して挙げる。
* [[クリス・クロス 混沌の魔王]]([[高畑京一郎]])
* [[タイム・リープ あしたはきのう]]([[高畑京一郎]])
* [[ブラックロッド]]([[古橋秀之]])
==== 電撃の単行本 ====
電撃文庫のレーベルから出ている[[ハードカバー]]単行本<ref>{{Cite web|和書|title=電撃文庫&hp|url=http://www.mediaworks.co.jp/users_s/d_hp/denkan/index.php|pub |accessdate=2023-07-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051231041428/http://www.mediaworks.co.jp/users_s/d_hp/denkan/index.php#10|archivedate=2005-12-31}}</ref>。挿絵の付くものもあるがアニメ調のものは少ない。サスペンスや恋愛小説が多い。『[[小説野性時代|野性時代]]』などの一般文芸誌に広告が載ることもある。画集も含まれることがある。
<!--
|(著者名)||(タイトル)||(刊行年月)||(文庫化)||(備考)
となっています。改行のため、行の前後に「|-」が必要です。
-->
{| class="wikitable" style="text-align:left;font-size:small ;white-space:nowrap"
!著者!!タイトル!!刊行年月!!文庫化!!備考
|-
|[[相原あきら]]||[[釘男]]||2008年6月||||
|-
|[[有川浩]]||[[塩の街]]||2007年6月||角川文庫||電撃文庫から、増補書下ろしを追加の上ハードカバー化。のち、角川文庫。
|-
|有川浩||[[空の中]]||2004年10月||角川文庫||
|-
|有川浩||[[海の底]]||2005年6月||角川文庫||
|-
|有川浩||[[図書館戦争]]シリーズ||2006年2月–2007年11月||角川文庫||イラスト:[[徒花スクモ]]、全4巻完結
|-
|有川浩||[[図書館戦争#別冊 図書館戦争|別冊 図書館戦争]]||2008年4月、8月||角川文庫||全2巻
|-
|[[綾崎隼]]||[[命の後で咲いた花]]||2013年1月||||イラスト:[[ワカマツカオリ]]
|-
|綾崎隼||レッドスワンの絶命||2015年3月||||イラスト:ワカマツカオリ
|-
|綾崎隼||レッドスワンの星冠||2015年7月||||イラスト:ワカマツカオリ
|-
|[[入間人間]]||[[僕の小規模な奇跡]]||2009年10月||メディアワークス文庫||
|-
|[[入間人間]]||ぼっちーズ||2010年11月||||イラスト:[[宇木敦哉]]
|-
|[[うえお久光]]||[[シフト-世界はクリアを待っている-]]||2005年7月、2006年6月||電撃文庫||2巻まで刊行後、電撃文庫で再刊。3巻以降、電撃文庫に移行。
|-
|[[壁井ユカコ]]||[[NO CALL NO LIFE]]||2006年8月||角川文庫||イラスト:[[鈴木次郎]]
|-
|壁井ユカコ||[[イチゴミルク ビターデイズ]]||2007年9月||角川文庫||
|-
|[[川上稔]]||[[連射王]]||2007年1月||電撃文庫||上下巻同時刊行
|-
|[[甲田学人]]||[[夜魔]]||2005年11月||電撃文庫・[[メディアワークス文庫]]||2レーベルに分冊で文庫化された
|-
|[[杉井光]]||[[終わる世界のアルバム]]||2010年10月||メディアワークス文庫||
|-
|[[橋本紡]]||[[猫泥棒と木曜日のキッチン]]||2005年8月||新潮文庫||角川文庫の複数作家アンソロジー『[[きみが見つける物語|きみが見つける物語 放課後編]]』に一部収録
|-
|橋本紡||[[半分の月がのぼる空#完全版 半分の月がのぼる空|完全版 半分の月がのぼる空]]||2010年4月||文春文庫||電撃文庫からのリメイク
|-
|[[深沢美潮]]||[[青の聖騎士伝説]]||2002年2月、2005年9月||||2巻まで刊行
|-
|[[古橋秀之]]||[[ソリッドファイター 完全版]]||2009年2月||||電撃十周年祭のグッズとして発売、書籍扱いではない
|-
|[[山科千晶]]||[[エンジェル・ウィスパー]]||2006年4月||メディアワークス文庫||
|}
=== 電撃イラストノベル ===
イラストノベルという形態で書かれた作品のレーベル。[[電撃hp]]や[[電撃の缶詰]]などで告知され、通販限定販売がなされる。2008年現在、これにあたる作品は[[川上稔]]と[[さとやす]]の著作2点のみである。また、他に電撃文庫が出した通販限定本の例としては[[電撃hp公式海賊本|電撃ヴんこ]]等が挙げられる。
* [[創雅都市S.F]](川上稔&さとやす)
* [[矛盾都市TOKYO]](川上稔&さとやす)
<!--「遭えば編するヤツら」はイラストノベルではなく、電撃別冊ノベルです。背表紙参照。-->
=== 電撃ビジュアルノベル ===
絵本形式の単行本であり、電撃文庫の既存作品のスピンオフが主だが、オリジナルの作品の出版もされている。
* [[キノの旅|キノの旅 -the Beautiful World- 記憶の国 -Their Memories-]] {{ISBN2|4-8402-2525-7}}
* キノの旅 -the Beautiful World- 旅人の話 -You- 【DVD付き限定】 {{ISBN2|4-8402-2897-3}}
* キノの旅 -the Beautiful World- 旅人の話 -You- 【通常・特典なし】 {{ISBN2|4-8402-3189-3}}
* キノの旅 -the Beautiful World- わたしの国 -Own Will- {{ISBN2|4-8402-4080-9}}
* 君と僕の歌 world's end {{ISBN2|4-8402-2527-3}}(著者:[[橋本紡]] イラスト:[[高野音彦]])
* [[しにがみのバラッド。|しにがみのバラッド。 momo the girl god of death "***girl***" ひとつのあいのうた。]] {{ISBN2|4-8402-2843-4}}
* [[キーリ]] -WILD AND DANDELION- {{ISBN2|4-8402-3190-7}}
* [[半分の月がのぼる空]] -one day- {{ISBN2|4-8402-3223-7}}
=== 電撃ポストカード文庫 ===
ページが絵ハガキになっていて、切り取って使用可能な'''「電撃ポストカード文庫」'''が[[1994年]]7月に3タイトル刊行されたが、以後はこのレーベルの新刊は発売されていない。
* [[サムライスピリッツ]]([[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]オフィシャル)
* [[バトルファイターズ 餓狼伝説]]([[大張正己]])
* PORTFOLIO イラストギャラリー'94(電撃文庫編集部)1993年に電撃文庫で刊行されたタイトルの表紙・口絵集。
===電撃ゲーム文庫===
{{main|電撃ゲーム文庫}}
===電撃G's文庫===
{{main|電撃G's文庫}}
=== 電撃CD文庫 ===
; 電撃CD文庫 ベストゲームセレクション
* [[卒業 〜Graduation〜|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション1 卒業―グラデュエーション 第1学期]](脚本:[[渡辺麻実]] 画・[[竹井正樹]]){{ISBN2|4-07-300280-5}}
* 電撃CD文庫 ベストゲームセレクション2 卒業―グラデュエーション 第2学期(脚本:渡辺麻実 画・竹井正樹){{ISBN2|4-07-300430-1}}
* 電撃CD文庫 ベストゲームセレクション3 卒業―グラデュエーション 第3学期(脚本:渡辺麻実 画・竹井正樹){{ISBN2|4-07-301078-6}}
* [[餓狼伝説|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション4 餓狼伝説 〜宿命の闘い〜復讐の狼]](画・[[大張正己]]){{ISBN2|4-07-300297-X}}
* 電撃CD文庫 ベストゲームセレクション5 餓狼伝説 〜宿命の闘い〜孤高の狼(画・大張正己){{ISBN2|4-07-300446-8}}
* [[エメラルドドラゴン|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション6 エメラルドドラゴン]](画・[[木村明広]]){{ISBN2|4-07-300647-9}}
* [[ファイアーエムブレム 旅立ちの章|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション7 ファイアーエムブレム 旅立ちの章]](脚本:[[あかほりさとる]] 画・[[中澤一登]]/[[臣士れい]]){{ISBN2|4-07-300908-7}}
* [[サムライスピリッツ|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション8 サムライスピリッツ 邪神復活之巻]](脚本:[[千葉克彦]] 演出:香西久){{ISBN2|4-07-300950-8}}
* 電撃CD文庫 ベストゲームセレクション9 サムライスピリッツ 秘宝流転之巻(脚本:千葉克彦 演出:香西久){{ISBN2|4-07-301428-5}}
* 電撃CD文庫 ベストゲームセレクション10 サムライスピリッツ 剣魔大戦之巻(脚本:千葉克彦 演出:香西久){{ISBN2|4-07-301983-X}}
* [[餓狼伝説2|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション11 餓狼伝説2 新たなる闘い]](画・[[大張正己]]){{ISBN2|4-07-301411-0}}
* [[餓狼伝説スペシャル|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション12 餓狼伝説スペシャル]](画・[[大張正己]]){{ISBN2|4-07-301888-4}}
* [[ザ・キング・オブ・ファイターズ#関連CDドラマ|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション13 ザ・キング・オブ・ファイターズ'94]](脚本:[[あみやまさはる]] 演出:鈴木久尋){{ISBN2|4-07-301500-1}}
* [[サムライスピリッツ|電撃CD文庫 ベストゲームセレクション14 真サムライスピリッツ 覇王丸地獄変]](脚本:[[千葉克彦]] 演出:香西久){{ISBN2|4-07-302340-3}}
; 電撃CD文庫EX
* 電撃CD文庫EX [[エメラルドドラゴン]] SFCゲームミュージックアルバム
* 電撃CD文庫EX [[ヴァンパイア (ゲーム)|ヴァンパイア 〜ザ ナイト ウォーリアーズ〜]]
; 電撃CD文庫SP
* 電撃CD文庫SP [[メビウスクライン]]II 胎動(画:[[麻宮騎亜]])
* 電撃CD文庫SP [[超人学園ゴウカイザー]]
; 電撃CD文庫スーパーサウンドコレクション
* 電撃CD文庫スーパーサウンドコレクション 声優への道HANDBOOK
=== 電撃の新文芸 ===
{{main|電撃の新文芸}}
== 関連ソフト ==
=== DS電撃文庫 ===
{{main|DS電撃文庫}}
=== 電撃学園RPG Cross of Venus ===
{{main|電撃学園RPG Cross of Venus}}
=== 電撃文庫 FIGHTING CLIMAX ===
{{main|電撃文庫 FIGHTING CLIMAX}}
== 関連出版物 ==
=== 折り込み広告 ===
* [[電撃の缶詰]] - 「電撃文庫 秋の祭典2010」にて電撃の缶詰コンプリート展が行われた。
=== 雑誌 ===
* [[電撃hp]](1998年 - 2007年、季刊のち隔月刊)
* [[電撃文庫MAGAZINE]](2007年 - 2020年、隔月刊)
=== 目録 ===
; 電撃文庫総合目録
: 2004年から隔年で発行され、書店や電撃文庫のイベントなどでこれといった価格はなく無料で配布されている。2010には、画集やビジュアルノベルなどの関連書籍、メディアワークス文庫の情報も掲載された。フルカラー、B5版のムック仕様になっている。2013は電撃文庫が創刊20年を迎えたことから、前年に続いて発行されて、クロスワードパズルが収録されキーワードがわかった者が専用サイトで回答するとスマートフォン用壁紙がプレゼントされた。通算3,000タイトルを突破した年の2015版を最後に配布されていない。
== 関連ツール ==
; 電撃ブートレッグ
: 2001年8月31日から電撃メンバーズ会員に配信しているメールマガジン。2018年8月10日で終了。
; 電撃文庫BBS
: 2004年から開設された[[電子掲示板|BBS]]。フリーBBSとネタバレBBSとがあった。2012年に閉鎖。
; 電撃モバイル
: 2008年からアスキー・メディアワークスが運営する携帯電話用の公式ウェブサイト。待受け、着ボイス、デコメ、ゲームアプリ等のコンテンツを配信している。For Android版は2011年から開始。'''電撃モバイルNEO'''として2012年10月20日にリニューアルした。
: 姉妹サイトに[[電撃G's magazine]]の『電撃G's モバイル』が存在する。
: 2015年に電撃文庫の公式サイトと一体化し、新たな電撃文庫のファンクラブサービス'''電撃文庫CLUB'''としてリニューアルされた。ファンクラブサービスのみ2018年8月9日終了。
; 電撃文庫もくろっく
: 2010年に「ぶっちぎりフェア2010」の一環で配信されたPC・ケータイ用のブログパーツ・デスクトップアクセサリ。『でんげきったー』Web版とも呼ばれる。利用無料。2014年サービス終了。
; 電撃文庫モバイルコレクション ~つなげよう!希望の絆!!~
: 2011年に配信されたメディアジャックフェアの一環の、日本全国地図を回遊したり、電撃の「希望の種」を育てたりして、フェア限定レアな電撃文庫の壁紙が入手できたアプリ。利用無料。期間限定で同年終了。
; 電撃スタンプカレンダー
: 2013年からリリースされたスマートフォン端末向けアプリで、主に電撃をはじめとした作品で毎日のスケジュール管理ができ、キャラクターの録り下ろしボイスも収録されている。利用無料の一部課金制。2016年現在では終了。
; 電撃文庫NEWS
: 2013年10月18日から配信されている『[[電撃の缶詰]]』の電子版。利用無料。2016年現在では終了。
; 電撃文庫パズルコレクション
: 2013年に配信された電撃文庫創刊20周年を記念したシンプルな操作性のパズルゲームでクリアするとその作品のカードが入手できた。利用無料の一部課金制。2014年サービス終了。
; 電撃公式アプリ
: 2017年に配信が開始された電撃文庫創刊25周年を記念した無料アプリ。「電撃文庫 秋の祭典」への応募や電撃文庫の情報配信など行われる。2018年現在は終了。
; 電撃ノベコミ
: 2021年に配信が開始された電撃文庫の小説とコミカライズが読めるアプリ。毎日7時、21時に各90ポイントずつ回復する「ノベルポイント」「マンガポイント」を使って、アプリ内のコンテンツをそれぞれ閲覧できる。
== ラジオ番組 ==
{{Infobox animanga/Header2}}
{{Infobox animanga/Radio
|タイトル=電撃大賞
|愛称=
|放送開始=1994年10月{{Efn2|『電撃大賞クリス・クロス』として}}
|放送終了=2015年3月{{Efn2|『電撃大賞』として}}
|放送局=[[文化放送]]
|放送時間=毎週土曜日26:00–26:30
|放送回数=
|放送形式=
|ネットワーク=[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]・[[大阪放送|ラジオ大阪]]
|パーソナリティ=[[花江夏樹]]・[[谷澤恵里香]]
|提供=アスキーメディアワークス
}}
{{Infobox animanga/Radio
|タイトル=DENGEKI 15×15
|愛称=
|放送開始=2007年9月2日
|放送終了=2007年11月20日
|放送局=[[大阪放送|ラジオ大阪]]
|放送時間=毎週日曜日26:00–24:15<br />(2007年9月2日 - 2007年9月30日)<br />毎週火曜日23:45–24:00<br />(2007年10月2日 - 2007年11月6日)<br />毎週火曜日23:30–24:00<br />(2007年11月13日 - 2007年11月20日)
|放送回数=全15回{{efn2|2007年11月13日 - 20日は2回連続放送}}
|放送形式=
|ネットワーク=[[文化放送]]・[[電撃15年祭]]公式サイト
|パーソナリティ=[[荘口彰久]]
}}
{{Infobox animanga/Radio
|タイトル=DENGEKI 20×20~電撃20年祭への道
|愛称=
|放送開始=2012年6月5日
|放送終了=2012年10月16日
|放送局=ラジオ大阪
|放送時間=毎週火曜日23:30–23:50
|放送回数=20回
|放送形式=
|ネットワーク=文化放送・[[電撃20年祭]]公式サイト
|パーソナリティ=荘口彰久
}}
{{Infobox animanga/Radio
|タイトル=<br />電撃文庫Webラジオ 喜多村市立竹本学園
|愛称=
|放送開始=2008年6月27日
|放送終了=2009年3月27日
|放送局=電撃文庫公式サイト<br />[[ニコニコアニメチャンネル]]
|放送時間=毎週金曜日19:00ごろ
|放送回数=全38回
|放送形式=
|パーソナリティ=[[竹本英史]]・[[喜多村英梨]]
|提供=[[アスキー・メディアワークス]]
|インターネット=1
}}
{{Infobox animanga/Radio
|タイトル=うぇぶらじ@電撃文庫
|愛称=うぇぶらじ
|放送開始=2009年9月10日
|放送終了=2018年10月25日
|放送局=電撃文庫公式サイト
|放送時間=毎月10日
|放送回数=
|放送形式=[[ストリーミング]]
|パーソナリティ=[[うえむらちか]]・[[明坂聡美]]<br />[[おかゆまさき]]・[[三木一馬]]
|アシスタント=[[上坂すみれ]]
|提供=アスキー・メディアワークス
|インターネット=1
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキポータル=[[Portal:ラジオ|ラジオ]]
}}
電撃文庫初期のメディアミックスの媒体としてラジオは多用されたが、ラジオ番組での宣伝やラジオドラマの制作は、テレビでのCMや映像化に比べて安価であったため盛んに行われた<ref>榎本秋『ライトノベル文学論』NTT出版、2008年、40頁</ref>。
=== 電撃大賞 ===
{{main|電撃大賞 (ラジオ番組)}}
[[文化放送]]などで放送された、電撃ゲーム小説大賞とタイアップしたラジオ番組。
[[電撃小説大賞]]第1回と同じ年の1994年10月–12月、『電撃大賞[[クリス・クロス 混沌の魔王|クリス・クロス]]』として放送。1995年4月『電撃大作戦』として再開し、1996年4月『電撃大賞』としてリニューアル。2015年3月まで20年半の長きに渡り放送された。パーソナリティは男女1組で1年 - 数年程度で交代する。
番組内容は電撃小説大賞・電撃文庫と関連が薄いが、毎年2月(前年の電撃小説大賞受賞者の受賞作が電撃文庫から刊行される)には受賞者が出演し作品について語るほか、時たま[[おかゆまさき]]・[[時雨沢恵一]]など電撃作家がゲスト出演した。
=== 電撃十年祭 アニメ&ゲーム秋の陣 ===
2002年10月14日の[[電撃10年祭]]当日の13:00~16:00に[[文化放送]]で放送された特別番組。[[おたっきぃ佐々木]]と[[桑谷夏子]]をパーソナリティーに10年祭の会場である[[幕張メッセ]]からの中継を交えて放送。
=== DENGEKI 15×15 ===
(でんげきフィフティーンバイフィフティーン)
2007年11月24日・25日の「[[電撃15年祭]]」に向け、[[大阪放送|ラジオ大阪]]・[[文化放送]]で放送された15分番組。
パーソナリティはフリー[[アナウンサー]]の[[荘口彰久]]。電撃作家や電撃アニメ出演声優などがゲスト出演した。
=== DENGEKI 20×20~電撃20年祭への道 ===
(でんげきトゥエンティバイトゥエンティ)
2012年10月20日・21日の「[[電撃20年祭]]」に向け、ラジオ大阪・文化放送で放送された20分番組。パーソナリティーは引き続き荘口彰久が担当。
=== 電撃文庫Webラジオ 喜多村市立竹本学園 ===
電撃文庫公式サイトおよび[[ニコニコアニメチャンネル]]で配信された。
2008年6月27日–2009年3月27日、毎週金曜夜更新の全38回(7月4日・1月2日は休止)。ニコニコアニメチャンネルでは[[バックナンバー]]は全回聴取可能。
パーソナリティーは[[竹本英史]](学園長)と[[喜多村英梨]](生徒)。
電撃文庫、[[電撃文庫MAGAZINE]]、[[電撃学園RPG Cross of Venus]] の関連情報を届けるラジオ番組。番組放送中はスタジオ内の様子の写真が[[スライドショー]]形式で表示された。番組でメールを読まれたリスナーにはノベルティとして『学生証』が送られると番組内でアナウンスされていたが、実際には送られていない。
==== ゲスト ====
{{dl2
| 2008年 |
* 第6回(8月8日) - [[おかゆまさき]]
* 第8回(8月22日) - [[後藤麻衣 (声優)|後藤麻衣]]
* 第11回(9月12日) - [[川上稔]]
* 第12回(9月19日) - [[入間人間]]
* 第20回(11月14日) - [[井口裕香]]
| 2009年 |
* 第29回(1月23日) - [[野中藍]]
* 第31回(2月6日) - 井口裕香
* 第35回(3月6日) - [[戸松遥]]
* 第37回(3月20日) - [[南里侑香]]
}}
=== うぇぶらじ@電撃文庫 ===
電撃文庫1億冊突破を記念して開始された。2009年9月10日より電撃文庫公式サイトで配信開始。
出演者は[[うえむらちか]]、[[明坂聡美]]、[[おかゆまさき]]、[[三木一馬]]、[[上坂すみれ]]。加えて毎回、電撃作家がゲスト出演する。
毎月10日更新。
2011年末に明坂聡美、上坂すみれが卒業。
2012年からは[[三澤紗千香]]の加入と、毎月10・25日更新となった。
{{main|うぇぶらじ@電撃文庫}}
{{荘口彰久}}
== niconicoでの配信==
2013年6月5日より、動画配信サービス「[[niconico]]」にて、有名作品や著名人などの連載小説を読むことができる「ニコニコ連載小説」というサービスで電撃文庫の書下ろし作品も掲載されていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://dengekionline.com/elem/000/000/649/649012/|title=『俺の妹』や『超電磁砲』『ロウきゅーぶ!』の特別編が楽しめる! “ニコニコ連載小説”本日よりサービス開始|publisher=電撃オンライン|date=2013-06-05|accessdate=2015-11-30}}</ref>。またそれに合わせて「[[ニコニコチャンネル]]」にて「電撃文庫チャンネル」が開設され、上記の「ニコニコ連載小説」の他にCM動画などが公開されている。電撃文庫20周年記念として展開されていたが2016年10月30日で終了した<ref>{{Cite web|和書|url=http://ln-news.com/archives/43825/post-43825/|title=『ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?』など21作品の特別編が公開されていた「電撃文庫チャンネル」が10月30日(日)で終了|publisher=ラノベニュースオンライン|date=2016-10-19|accessdate=2017-01-27}}</ref>。
「niconico」とは小説の連載やCM動画の配信だけでなく、「[[多数決ドラマ]]」というユーザー参加型のメディアミックスでも協力関係にある。
== 公式動画チャンネル==
「[[niconico]]」で電撃文庫20周年記念として配信されていた上記([[#niconicoでの配信]])の「電撃文庫チャンネル」があったが、そちらはすでに終了している。その後、2019年8月に「[[YouTube]]」にて同名の動画チャンネルが開設されている。YouTubeでの動画チャンネルではやはりCMをメインに投稿されていたが、PVの数も増えていって、2020年12月からは作品の一部を声優に朗読してもらう「'''【電撃文庫朗読してみた】'''」という企画も開始された<ref>{{Cite news|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000007847.000007006.html|title=新企画「電撃文庫朗読してみた」がスタート! 話題の作品を釘宮理恵、佐藤利奈ら豪華声優陣が朗読!!|work=PR TIMES|date=2020-12-20|accessdate=2021-01-22}}</ref>。他にも関連ラジオのミニコーナー([[声優ラジオのウラオモテ]] コーコーセーラジオ!出張版)の再配信や、声優の[[山下大輝]]と作家の[[駱駝 (小説家)|駱駝]]の生放送動画番組「山下駱駝」のYouTube上での配信も行っている。
== その他==
<!--電撃文庫コレクションフィギュア 、Palm Charactersシリーズの電撃文庫キャラクターズはメーカーが違う-->
;電撃ヒロインズ フィギュアコレクション
:2013年3月上旬に発売のアスキー・メディアワークス創立20周年記念に発売される[[トイズワークスコレクション#トイズワークスコレクションにいてんご|トイズワークスコレクションにいてんご]]20体セット。電撃文庫にかぎらず、この20年間にアスキー・メディアワークスが生み出した数多くのアニメから20作品をセレクト。
:原型製作・製造元は[[キャラアニ]](トイズワークス)によるもので、発売元はアスキー・メディアワークス。
:完全受注生産。
:*[[爆れつハンター#テレビアニメ|ショコラ・ミス]](1995年)、[[エルフを狩るモノたち|井上律子]](1996年)、[[クリスタニア#レジェンド・オブ・クリスタニア(OVA)|シェール/ピロテース]](1997年)、[[フォーチュン・クエストL|パステル]](1996年)、[[ブギーポップシリーズ#テレビアニメ|ブギーポップ]](2000年)
:*[[シスター・プリンセス|咲耶]](2001年)、[[あずまんが大王|春日歩]](2002年)、[[ぴたテン|美紗]](2002年)、[[キノの旅|キノ]](2003年)、[[GUNSLINGER GIRL|ヘンリエッタ]](2003年)
:*[[一撃殺虫!!ホイホイさん|ホイホイさん]](2004年)、[[苺ましまろ|松岡美羽]](2005年)、[[灼眼のシャナ (アニメ)|シャナ]](2005年)、[[狼と香辛料#テレビアニメ|ホロ]](2007年)、[[ケメコデラックス!|ケメコ]](2008年)、
:*[[とある魔術の禁書目録#テレビアニメ|インデックス]](2008年)、[[とらドラ!#テレビアニメ|逢坂大河]](2008年)、[[とある科学の超電磁砲|御坂美琴]](2009年)、[[俺の妹がこんなに可愛いわけがない (アニメ)|高坂桐乃]](2010年)、[[Baby Princess|ヒカル]](2010年)
== 関連項目 ==
* [[主婦の友社]] - 2002年まで電撃文庫の販売を担当。
** [[ヒーロー文庫]] - 同社が2012年に立ち上げたラノベレーベル。電撃文庫の販売で培ったノウハウも活かした。
* [[電撃の新文芸]]
* [[電撃小説大賞]]
* [[ライトノベルアワード]]
* [[文庫レーベル一覧]]
下記2項目は電撃文庫の各作品に登場する人気キャラクターたちがクロスオーバーするゲーム
* [[電撃学園RPG Cross of Venus]]
* [[電撃文庫 FIGHTING CLIMAX]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 外部リンク ==
* [https://dengekibunko.jp/ 電撃文庫]
* {{Twitter|bunko_dengeki}}
* {{カクヨムユーザー|dengekibunko}}
* {{YouTube|channel = UCoIkccJcBM1MBJEgQ4p5p7Q|電撃文庫チャンネル}}
* {{ウェブアーカイブ|deadlink=no|title=電撃文庫チャンネル(ニコニコチャンネル)|url=https://web.archive.org/web/20160413001934/https://ch.nicovideo.jp/dengeki-bunko|archiveurl=https://ch.nicovideo.jp/dengeki-bunko|archiveservice=インターネットアーカイブ|archivedate=2016-04-13}}
{{メディアワークス}}
{{DEFAULTSORT:てんけきふんこ}}
[[Category:電撃文庫|*]]
[[Category:アスキー・メディアワークスの出版物]]
[[Category:KADOKAWAの文庫本]]
[[Category:KADOKAWAのライトノベル]]
[[Category:ライトノベルレーベル]]
[[Category:1993年刊行開始の刊行物]] | 2003-04-12T02:13:29Z | 2023-12-31T01:02:30Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%92%83%E6%96%87%E5%BA%AB |
6,561 | 電撃小説大賞 | 電撃小説大賞()は、KADOKAWAの社内ブランドであるアスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)が1994年より主催する長編・短編小説の新人文学賞である。
ライトノベル系の新人賞では最多の応募数を誇っており、第20回(2012年募集開始)の応募総数は6554作品に達した。受賞作品は電撃文庫(一部はメディアワークス文庫・電撃の新文芸)にて出版される。出版社の強みを活かしてメディアミックス的な展開が多いのも特徴の1つである。
元々は電撃ゲーム3大賞の小説部門として「電撃ゲーム小説大賞」という名称だったが、第11回(2003年募集開始)に電撃ゲーム3大賞が「電撃3大賞」に改称したのに伴い「電撃小説大賞」と改称した。小説部門の「電撃小説大賞」・イラスト部門の「電撃イラスト大賞」・コミック部門の「電撃コミック大賞」の3部門は通称「電撃大賞」と呼ばれている。
電撃小説大賞は初回から長編小説・短編小説の両方を募集していたが、メディアワークス主催の短編小説賞としては他に、『電撃hp』で募集・発表された電撃hp短編小説賞(2000年 - 2006年)があった。この賞は電撃hp休刊に伴い、電撃文庫MAGAZINE賞として電撃小説大賞に一本化された。第30回(2022年募集開始)よりカクヨムからの応募が可能となった。第31回より電撃の新文芸賞が新たに追加された。
斜字は未刊行。()内は改題。後にシリーズ化された作品については、受賞作(第1巻)の刊行時サブタイトルは割愛している場合がある。また、最終選考者中でデビューした作家については本表より割愛している。
第1回に応募された短編作品の傑作選が刊行されている。
賞を受賞することはなかったが隠し玉として出版された本。 | [
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] | 電撃小説大賞は、KADOKAWAの社内ブランドであるアスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)が1994年より主催する長編・短編小説の新人文学賞である。 | {{出典の明記|date=2021年11月}}
{{Infobox Award
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| presenter = [[アスキー・メディアワークス]]
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|reward = [[#賞の種類|賞の種類]]参照
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}}
{{Portal 文学}}
{{読み仮名|'''電撃小説大賞'''|でんげきしょうせつたいしょう}}は、[[KADOKAWA]]の社内ブランドである[[アスキー・メディアワークス]](旧[[メディアワークス]])が[[1994年]]より主催する長編・短編小説の新人[[文学賞]]である{{Efn|ただし、募集要項では他社でプロデビューした経験のある作家の応募も可能とされている。}}。
== 概要 ==
[[ライトノベル]]系の新人賞では最多の応募数を誇っており<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/review/599949/a/|title=電撃小説大賞 注目の2作品を大解剖‼ ~『そして、遺骸が嘶く ―死者たちの手紙―』~|website=[[ダ・ヴィンチニュース]]|publisher=KADOKAWA|date=2020-03-08|accessdate=2021-11-12}}</ref>、第20回(2012年募集開始)の応募総数は6554作品に達した。受賞作品は[[電撃文庫]](一部は[[メディアワークス文庫]]・[[電撃の新文芸]])にて出版される。出版社の強みを活かして[[メディアミックス]]的な展開が多いのも特徴の1つである。
元々は[[電撃大賞|電撃ゲーム3大賞]]の小説部門として「'''電撃ゲーム小説大賞'''」という名称だったが、第11回(2003年募集開始)に電撃ゲーム3大賞が「電撃3大賞」に改称したのに伴い「'''電撃小説大賞'''」と改称した。小説部門の「電撃小説大賞」・イラスト部門の「[[電撃イラスト大賞]]」・コミック部門の「[[電撃コミック大賞]]」{{Efn|第12回から「電撃コミックグランプリ」として分離されていたが、第21回に電撃大賞に復帰した。}}の3部門は通称「[[電撃大賞]]」と呼ばれている。
電撃小説大賞は初回から長編小説・短編小説の両方を募集していたが、メディアワークス主催の短編小説賞としては他に、『[[電撃hp]]』で募集・発表された[[電撃hp短編小説賞]](2000年 - 2006年)があった。この賞は電撃hp休刊に伴い、[[電撃文庫MAGAZINE]]賞として電撃小説大賞に一本化された。第30回(2022年募集開始)より[[カクヨム]]からの応募が可能となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://kakuyomu.jp/info/entry/30th_dengekitaisho_kakuyomu_entry|title=「第30回電撃大賞 電撃小説大賞」にカクヨムからも応募できるようになりました|website=[[カクヨム]]|date=2022-05-10|accessdate=2022-05-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ln-news.com/articles/114043|title=第30回電撃大賞の作品募集が開始 小説部門では新たにWeb小説サイト「カクヨム」からの応募も可能に|website=[[ラノベニュースオンライン]]|date=2022-05-12|accessdate=2022-05-12}}</ref>。第31回より電撃の新文芸賞が新たに追加された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ln-news.com/articles/116761|title=第31回電撃大賞の作品募集が開始 新たに「電撃の新文芸賞」が追加|website=ラノベニュースオンライン|date=2023-05-12|accessdate=2023-05-13}}</ref>。
; 受賞者
: [[高畑京一郎]]、[[古橋秀之]]、[[上遠野浩平]]、[[阿智太郎]]、[[成田良悟]]、[[有川浩]]、[[川原礫]]等、多数の作家を輩出している。また受賞に至らなかった応募者を「拾い上げ」てデビューさせることも多く、[[秋山瑞人]]、[[時雨沢恵一]]、[[鎌池和馬]]、[[三上延]]、[[伏見つかさ]]等の人気作家を生み出している。
; その他
: かつてはアスキー・メディアワークス運営の同名のラジオ番組『[[電撃大賞]]』が放送されていたが、番組がもっていた同大賞の宣伝広報と言う目的は希薄化していた{{Efn|ただし、授賞式の司会を番組パーソナリティが務めたり、刊行に合わせて受賞者をゲストに招いたりするなど、完全に無関係となった訳ではなかった。}}。
== 選考委員 ==
* [[高千穂遙]](第1 - 3回)
* [[林海象]](第1 - 3回)
* [[矢野徹]](第1 - 3回)
* [[角川歴彦]](第1回)<ref group="肩書">第1回の時はメディアワークス社長。</ref>
* [[佐藤辰男]](第2 - 13回、第22 - 25回)<ref group="肩書">第2 - 13回の時はメディアワークス社長。</ref><ref group="肩書">第22回の時は、[[KADOKAWA・DWANGO]]代表取締役会長。</ref><ref group="肩書">第23 - 25回の時は、[[カドカワ株式会社]]代表取締役会長。</ref>
* [[安田均]](第3 - 13回)
* [[伊藤和典]](第5回)
* [[広井王子]](第5 - 9回)
* [[深沢美潮]](第5 - 10回)
* [[松本悟]](第7 - 8回)
* [[鈴木一智]](第8 - 24回)<ref group="肩書">第8 - 14回時、電撃文庫編集長。</ref><ref group="肩書">第15 - 16回の時は、アスキー・メディアワークス第2編集部部長・統括編集長。</ref><ref group="肩書">第17 - 20回の時は、アスキー・メディアワークス取締役・第2編集部総括編集長。</ref><ref group="肩書">第21回の時は、アスキー・メディアワークス副ブランドカンパニー長・第2編集部統括編集長。</ref><ref group="肩書">第22 - 24回の時は、アスキー・メディアワークス事業局 統括部長。</ref>
* [[高畑京一郎]](第10 - 24回)
* [[佐藤竜雄]](第14 - 24回)
* [[時雨沢恵一]](第14 - 24回)
* [[豊島雅郎]](第14 - 17回)<ref group="肩書">第14 - 17回の時は、[[アスミック・エース エンタテインメント]]社長。</ref>
* [[徳田直巳]](第19 - 21回)<ref group="肩書">第19回の時は、電撃文庫編集長・電撃文庫MAGAZINE編集長。</ref><ref group="肩書">第20 - 21回の時は、電撃文庫編集長。</ref>
* [[佐藤達郎]](第19 - 24回)<ref group="肩書">第19 - 24回の時は、メディアワークス文庫編集長。</ref>
* [[荒木美也子]](第20 - 22回)<ref group="肩書">第20 - 22回の時は、アスミック・エース エンタテインメント 企画・製作事業本部プロデューサー。</ref>
* [[三木一馬]](第22 - 23回)<ref group="肩書">第22 - 23回の時は、電撃文庫編集長・電撃文庫MAGAZINE編集長。</ref>
* [[神康幸]](第23 - 26回)<ref group="肩書">第23 - 26回の時は、映像プロデューサー・[[オフィスクレッシェンド]]取締役副社長。</ref>
* [[和田敦]](第23 - 25回)<ref group="肩書">第23 - 24回の時は、電撃文庫編集長・文庫プロデュース課編集長。</ref><ref group="肩書">第25回の時は、電撃文庫編集長。</ref>
* [[三雲岳斗]](第25回 - 30回)
* [[高林初]](第25回 - 27回)<ref group="肩書">第25回 - 27回の時は、メディアワークス文庫編集長。</ref>
* [[三上延]](第26回 - 30回)
* [[吉野弘幸 (脚本家)|吉野弘幸]](第26回 - 30回)<ref group="肩書">第26回 - 30回の時は、アニメーション脚本家。</ref>
* [[湯浅隆明]](第26回 - 27回)<ref group="肩書">第26回 - 27回の時は、電撃文庫統括編集長。</ref>
* [[小原信治]](第27回 - 30回)<ref group="肩書">第27回 - 30回の時は、放送作家・脚本家。</ref>
== 賞の種類 ==
* '''大賞''' - 正賞+副賞300万円
* '''金賞''' - 正賞+副賞100万円
* '''銀賞''' - 正賞+副賞50万円
* '''メディアワークス文庫賞''' - 正賞+副賞100万円(第16回より)
* '''電撃の新文芸賞''' - 正賞+副賞100万円(第31回より)
== 入賞作品 ==
''斜字''は未刊行。()内は改題。後にシリーズ化された作品については、受賞作(第1巻)の刊行時サブタイトルは割愛している場合がある。また、最終選考者中でデビューした作家については本表より割愛している。
{| class="wikitable"
!回(年)!!応募数!!賞!!タイトル<br />(刊行時表題)!!著者<br />(刊行時[[ペンネーム|筆名]])!!出典
|-
|rowspan="4" style="text-align:center"|第1回<br />([[1994年]])||rowspan="4" style="text-align:center"|656||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[五霊闘士オーキ伝]]||[[土門弘幸]]||rowspan="4" style="text-align:center"|<ref name="電撃文庫総合目録2015_58">『電撃文庫総合目録2015』(2015年10月4日発行)p.58</ref><ref name="電撃大賞歴代受賞者一覧">{{PDFlink|[https://dengekitaisho.jp/media-download/981/d3b789d64b7d9b27/ 電撃大賞歴代受賞者一覧]}}</ref>
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||夢か現か幻か<br />([[クリス・クロス 混沌の魔王]])||[[高畑京一郎]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[冒険商人アムラフィ]]||[[中里融司]]
|-
|[[雲ゆきあやし、雨にならんや]]<ref group="掲載元">短編、『[[#関連書籍|電撃短編傑作選]]』に収録。</ref>||[[坪田亮介]]
|-
|rowspan="3" style="text-align:center"|第2回<br />([[1995年]])||rowspan="3" style="text-align:center"|566||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[ブラックロッド]]||[[古橋秀之]]||rowspan="3" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||''やまいはちから 〜スペシャル・マン〜''||成重尚弘
|-
|''戸籍係の憂鬱''||茅本有里
|-
|rowspan="4" style="text-align:center"|第3回<br />([[1996年]])||rowspan="4" style="text-align:center"|953||rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||PANZERPOLIS-1935<br />([[機甲都市 伯林|パンツァーポリス1935]])||[[川上稔]]||rowspan="4" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|NANIWA捜神記||[[栗府二郎]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||''ダーク・アイズ''||[[天羽沙夜]]
|-
|''HOLOGRAM SEED''||[[茜屋まつり|雅彩人]]
|-
|rowspan="3" style="text-align:center"|第4回<br />([[1997年]])||rowspan="3" style="text-align:center"|869||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[ブギーポップシリーズ|ブギーポップは笑わない]]||[[上遠野浩平]]||rowspan="3" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||猫目狩り||[[橋本紡]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[僕の血を吸わないで]]||[[阿智太郎]]
|-
|rowspan="4" style="text-align:center"|第5回<br />([[1998年]])||rowspan="4" style="text-align:center"|996||style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||学園武芸長<br />(学園武芸帳「月に笑く」)||[[白井信隆]]||rowspan="4" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[コールド・ゲヘナ]]||[[三雲岳斗]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />特別賞||[[月と貴女に花束を]]||[[志村一矢]]
|-
|''ギミック・ハート''||七海純
|-
|rowspan="3" style="text-align:center"|第6回<br />([[1999年]])||rowspan="3" style="text-align:center"|1326||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||リングテイル<br />(リングテイル 勝ち君の戦)||[[円山夢久]]||rowspan="3" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[ダブルブリッド]]||[[中村恵里加]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[若草野球部狂想曲]]||[[一色銀河]]
|-
|rowspan="5" style="text-align:center"|第7回<br />([[2000年]])||rowspan="5" style="text-align:center"|1469||rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[天国に涙はいらない]]||[[佐藤ケイ]]||rowspan="5" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|平安京八卦<br />([[陰陽ノ京]])||[[渡瀬草一郎]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||魔法士物語<br />([[ウィザーズ・ブレイン]])||[[三枝零一]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||''王道楽土''||[[御堂彰彦]]
|-
|天剣王器<br />(天剣王器 Dual Lord, Reversion)||[[海羽超史郎]]
|-
|rowspan="5" style="text-align:center"|第8回<br />([[2001年]])||rowspan="5" style="text-align:center"|1647||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||大唐風雲記 長安の履児、虎の尾を履む<br />([[大唐風雲記|大唐風雲記 洛陽の少女]])||[[田村登正]]||rowspan="5" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||みークルズサジェスチョン ポリッシュアップルズ<br />([[悪魔のミカタ|悪魔のミカタ 魔法カメラ]])||[[うえお久光]]
|-
|無限大ゼロ<br />([[インフィニティ・ゼロ]])||[[有沢まみず]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||エクスターミネーターA/B<br />([[A/Bエクストリーム|A/Bエクストリーム CASE-314[エンペラー]]])||[[高橋弥七郎]]
|-
|我が町の吸血鬼<br />([[吸血鬼のおしごと]])||[[鈴木鈴]]
|-
|rowspan="5" style="text-align:center"|第9回<br />([[2002年]])||rowspan="5" style="text-align:center"|2080||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||死者たちは荒野に眠る<br />([[キーリ 死者たちは荒野に眠る]])||[[壁井ユカコ]]||rowspan="5" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[七姫物語]]||[[高野和]]
|-
|[[バッカーノ!|バッカーノ! The Rolling Bootlegs]]||[[成田良悟]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||sharp edge -knife which charms dutterfly-<br />([[シャープ・エッジ]])||[[坂入慎一]]
|-
|夜の妖精、鋼鉄の翼、たった一つの願い<br />(シルフィ・ナイト)||[[神野淳一]]
|-
|rowspan="5" style="text-align:center"|第10回<br />([[2003年]])||rowspan="5" style="text-align:center"|2015||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[塩の街 Wish on my precious]]||[[有川浩]]||rowspan="5" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[我が家のお稲荷さま。]]||[[柴村仁]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[先輩とぼく]]||[[沖田雅]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||逃がし屋 〜愚者達の結界〜<br />([[結界師のフーガ]])||[[水瀬葉月]]
|-
|おじいちゃんの宝箱<br />(シュプルのおはなし)||[[雨宮諒]]
|-
|rowspan="4" style="text-align:center"|第11回<br />([[2004年]])||rowspan="4" style="text-align:center"|総数 2603<br>長編 1587<br>短編 1016||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||少女禁猟区・世界で最後の1人+8<br />([[ルカ -楽園の囚われ人たち-]])||[[七飯宏隆]]||rowspan="4" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||ひかりのまち<br />(nerim's note ひかりのまち)||[[長谷川昌史]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[奇蹟の表現]]||[[結城充考]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||異常進化の世界で 〜 The Demon's Hand<br />([[シリアスレイジ]])||[[白川敏行]]
|-
|rowspan="5" style="text-align:center"|第12回<br />([[2005年]])||rowspan="5" style="text-align:center"|総数 3022<br>長編 1771<br>短編 1251||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[お留守バンシー]]||[[小河正岳]]||rowspan="5" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[哀しみキメラ]]||[[来楽零]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[狼と香辛料]]||[[支倉凍砂]]
|-
|[[火目の巫女]]||[[杉井光]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||超告白<ref group="掲載元">短編、『[[天使のレシピ]]』に収録。</ref>||[[御伽枕]]
|-
|rowspan="4" style="text-align:center"|第13回<br />([[2006年]])||rowspan="4" style="text-align:center"|総数 2931<br>長編 1698<br>短編 1233||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[ミミズクと夜の王]]||紅玉伊月<br />([[紅玉いづき]])||rowspan="4" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_58}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[世界平和は一家団欒のあとに]]||[[橋本和也 (作家)|橋本和也]]
|-
|もしも人工知能が世界を支配していた場合のシミュレーションケース1<br />([[扉の外]])||[[土橋真二郎]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||ケツバット女、笑う夏希。<br />(なつき☆フルスイング! ケツバット女、笑う夏希。)||[[樹戸英斗]]
|-
|rowspan="5" style="text-align:center"|第14回<br />([[2007年]])||rowspan="5" style="text-align:center"|総数 2943<br>長編 1703<br>短編 1240||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||放課後百物語<br />([[ほうかご百物語]])||[[峰守ひろかず]]||rowspan="5" style="text-align:center"|<ref name="電撃文庫総合目録2015_59">『電撃文庫総合目録2015』(2015年10月4日発行)p.59</ref>{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||君のための物語||[[水鏡希人]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||異界ノスタルジア<br />(under 異界ノスタルジア)||[[瀬那和章]]
|-
|押しかけラグナロク<br />([[藤堂家はカミガカリ]])||[[高遠豹介]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||[[葉桜が来た夏]]||[[夏海公司]]
|-
|rowspan="7" style="text-align:center"|第15回<br />([[2008年]])||rowspan="7" style="text-align:center"|総数 3541<br>長編 2238<br>短編 1303||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[アクセル・ワールド]]||[[川原礫]]||rowspan="7" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_59}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[パララバ -Parallel lovers-]]||四月十日<br />([[静月遠火]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||東京ヴァンパイア・ファイナンス||[[真藤順丈]]
|-
|[[ロウきゅーぶ!]]||[[蒼山サグ]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||語り部じんえい<br />([[神のまにまに!]])||[[山口幸三郎]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br />MAGAZINE賞||眼球奇譚<ref group="掲載元" name="電M">短編、[[電撃文庫MAGAZINE]]にて初出。同項の[[電撃文庫MAGAZINE#電撃文庫MAGAZINE賞|#電撃文庫MAGAZINE賞]]を参照。</ref>||[[鷹羽知]]
|-
|[[隙間女(幅広)|隙間女(幅広)]]<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[丸山英人]]
|-
|rowspan="8" style="text-align:center"|第16回<br />([[2009年]])||rowspan="8" style="text-align:center"|総数 4602<br>長編 2849<br>短編 1753||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[幕末魔法士]] -Mage Revolution-||[[田名部宗司]]||rowspan="8" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_59}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
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|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[ヴァンダル画廊街の奇跡]]||[[美奈川護]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[ご主人さん&メイドさま]]||[[榎木津無代]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br />文庫賞||〔映〕アムリタ||[[野﨑まど]]
|-
|太陽のあくび||有間香<br />([[有間カオル]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br />奨励賞||夏恋時雨<br />([[蒼空時雨]])||[[綾崎隼]]
|-
|空の彼方||[[菱田愛日]]
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br />MAGAZINE賞||精恋三国志<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[神谷一心|奈々愁仁子]]
|-
|rowspan="9" style="text-align:center"|第17回<br />([[2010年]])||rowspan="9" style="text-align:center"|総数 4842<br>長編 3181<br>短編 1661||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[シロクロネクロ]]||[[多宇部貞人]]||rowspan="9" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_59}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
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|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[青春ラリアット!!]]||[[蝉川タカマル]]
|-
|[[アイドライジング!]]||[[広沢サカキ]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||魔王城は六畳一間!<br />([[はたらく魔王さま!]])||[[和ヶ原聡司]]
|-
|アンチリテラルの数学<br />([[アンチリテラルの数秘術師]])||[[兎月山羊]]
|-
|rowspan="3" style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br />文庫賞||魚眼レンズ<br />(空をサカナが泳ぐ頃)||[[浅葉なつ]]
|-
|おちゃらけ!<br />(おちゃらけ王)||朽葉屋<br />([[朽葉屋周太郎]])
|-
|典医の女房<ref group="掲載元">短編、メディアワークス文庫公式サイトにて公開、『霧こそ闇の』に収録。</ref>||[[仲町六絵]]
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br />MAGAZINE賞||[[シースルー!?]]<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[天羽伊吹清]]
|-
|rowspan="8" style="text-align:center"|第18回<br />([[2011年]])||rowspan="8" style="text-align:center"|総数 5293<br>長編 3443<br>短編 1850||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[エスケヱプ・スピヰド]]||九丘望<br />([[九岡望]])||rowspan="8" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_59}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
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|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[あなたの街の都市伝鬼!]]||[[聴猫芝居]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||ウィザード&ウォーリアー・ウィズ・マネー||[[三河ごーすと]]
|-
|勇者には勝てない||[[来田志郎]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||侵略教師星人ユーマ||[[エドワード・スミス(日本の小説家)|エドワード・スミス]]
|-
|やまびこのいる窓<br />(月だけが、私のしていることを見おろしていた。)||[[成田名璃子]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||ミニッツ 〜一分間で世界を滅ぼす方法について〜<br />([[ミニッツ|ミニッツ 〜一分間の絶対時間〜]])||切小野よも治<br />([[乙野四方字]])
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br/>MAGAZINE賞||明日から俺らがやってきた<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[高樹凛]]
|-
|rowspan="8" style="text-align:center"|第19回<br />([[2012年]])||rowspan="8" style="text-align:center"|総数 6078<br>長編 4069<br>短編 2009||rowspan="2" style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||きじかくしの庭||[[桜井美奈]]||rowspan="8" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_59}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|ハロー、Mrマグナム<br />(アリス・リローデッド)||[[茜屋まつり]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||明日、僕は死ぬ。君は生き返る。<br />([[明日、ボクは死ぬ。キミは生き返る。]])||[[藤まる]]
|-
|エーコと【トオル】と部活の時間。||[[柳田狐狗狸]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[塔京ソウルウィザーズ]]||[[愛染猫太郎]]
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||玉響通り綾櫛横丁加納表具店<br />(路地裏のあやかしたち 綾櫛横丁加納表具店)||[[行田尚希]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||サマー・ランサー||[[天沢夏月]]
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br/>MAGAZINE賞||失恋探偵百瀬<br/>([[失恋探偵ももせ]])<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[岬鷺宮]]
|-
|rowspan="9" style="text-align:center"|第20回<br />([[2013年]])||rowspan="9" style="text-align:center"|総数 6554<br>長編 4576<br>短編 1978||rowspan="2" style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[ゼロから始める魔法の書]]||虎走こけた<br />([[虎走かける]])||rowspan="9" style="text-align:center"|{{R|電撃文庫総合目録2015_59}}{{R|電撃大賞歴代受賞者一覧}}
|-
|[[博多豚骨ラーメンズ]]<br />||木崎サキ<br />([[木崎ちあき]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||韻が織り成す召喚魔法||キミドリ<br />([[真代屋秀晃]])
|-
|三年B組 中崎くん(仮)<br />(僕が七不思議になったわけ)||小川博史<br />([[小川晴央]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||王手桂香取り!||[[青葉優一]]
|-
|放課後猥褻倶楽部<br />(思春期ボーイズ×ガールズ戦争)||[[亜紀坂圭春]]
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br />文庫賞||WORLD OF WORDS 神は世界を記述する<br />(C.S.T. 情報通信保安庁警備部)||[[十三湊 (作家)|十三湊]]
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br/>MAGAZINE賞||給食争奪戦<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[アズミ]]
|-
|style="background-color:#adff2f; text-align:center"|20回記念<br/>特別賞||水木しげ子さんと結ばれました||[[真坂マサル]]
|-
|rowspan="8" style="text-align:center"|第21回<br />([[2014年]])||rowspan="8" style="text-align:center"|総数 5055<br>長編 3524<br>短編 1531||rowspan="2" style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||陸なき惑星のパラスアテナ〜二少女漂流記〜<br />(ひとつ海のパラスアテナ)||鳩島すた<br />([[鳩見すた]])||rowspan="8" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/21.html|title=第21回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-01-07}}</ref>{{R|電撃文庫総合目録2015_59}}
|-
|φの方石<br />(φの方石 -白幽堂魔石奇譚-)||[[新田周右]]
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||運命に愛されてごめんなさい。||[[うわみくるま]]
|-
|rowspan="3" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||レトリカ・クロニクル 〜狼少女と嘘つき話術士〜<br />(レトリカ・クロニクル 嘘つき話術士と狐の師匠)||日向夏<br />([[森日向]])
|-
|[[マンガの神様 (ライトノベル)|マンガの神様]]||[[蘇之一行]]
|-
|イデオローグ<br />([[いでおろーぐ!]])||六郷橋港<br />([[椎田十三]])
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||[[ちょっと今から仕事やめてくる]]||[[北川恵海]]
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br/>MAGAZINE賞||バリアクラッカー<br />(バリアクラッカー 神の盾の光と影)<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[囲恭之介]]
|-
|rowspan="8" style="text-align:center"|第22回<br />([[2015年]])||rowspan="8" style="text-align:center"|総数 4580<br>長編 3169<br>短編 1411||rowspan="2" style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||ただ、それだけで良かったんです<br/>(ただ、それだけでよかったんです)||[[松村涼哉]]||rowspan="8" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/22.html|title=第22回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-01-07}}</ref>
|-
|トーキョー下町ゴールドクラッシュ!||[[角埜杞真]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||ヴァルハラの晩ご飯〜イノシシとドラゴンのブロシェット氷の泉に沢山のヤドリギを添えて〜<br/>(ヴァルハラの晩ご飯 〜イノシシとドラゴンの串料理(ブロシェット)〜)||[[三鏡一敏]]
|-
|壊れたジョーロは使えない<br/>([[俺を好きなのはお前だけかよ]])||[[駱駝 (小説家)|駱駝]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||背天紅路<br/>(血翼王亡命譚I -祈刀のアルナ-)||[[新八角]]
|-
|戦国えすぴゐ<br/>(恋するSP 武将系男子の守りかた)||A*sami<br/>([[結月あさみ]])
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||チョコレート・コンフュージョン||[[星奏なつめ]]
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br/>MAGAZINE賞||俺たち!! きゅぴきゅぴ♥Qピッツ!!<ref group="掲載元" name="電M"/>||[[涙爽創太]]
|-
|rowspan="8" style="text-align:center"|第23回<br />([[2016年]])||rowspan="8" style="text-align:center"|総数 4878<br>長編 3410<br>短編 1468||rowspan="2" style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[86-エイティシックス-]]||麻里アサト<br/>([[安里アサト]])||rowspan="8" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/23.html|title=第23回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-01-07}}</ref>
|-
|[[君は月夜に光り輝く]]||[[佐野徹夜]]
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[賭博師は祈らない]]||[[周藤蓮]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[キラプリおじさんと幼女先輩]]||[[岩沢藍]]
|-
|明治怪異新聞<br/>([[明治あやかし新聞|明治あやかし新聞 怠惰な記者の裏稼業]])||[[さとみ桜]]
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||[[キネマ探偵カレイドミステリー]]||[[斜線堂有紀]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||[[オリンポスの郵便ポスト]]||[[藻野多摩夫]]
|-
|[[ひきこもりの弟だった]]||[[葦舟ナツ]]
|-
|rowspan="7" style="text-align:center"|第24回<br />([[2017年]])||rowspan="7" style="text-align:center"|総数 5088||rowspan="2" style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[タタの魔法使い]]||[[うーぱー]]||rowspan="7" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/24.html|title=第24回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-01-07}}</ref>
|-
|ガラクタの王<br />([[この空の上で、いつまでも君を待っている]])||凩輪音<br />([[こがらし輪音]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[Hello,Hello and Hello]]||[[葉月文]]
|-
|[[世界の果てのランダム・ウォーカー]]||[[西条陽]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||[[錆喰いビスコ]]||[[瘤久保慎司]]
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||吉原百菓一口夢<br />([[吉原百菓ひとくちの夢]])||江中農<br />([[江中みのり]])
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||二代目 創風亭破楽語り<br />([[噺家ものがたり〜浅草は今日もにぎやかです〜]])||バスコ<br />([[村瀬健 (小説家)|村瀬健]])
|-
|rowspan="9" style="text-align:center"|第25回<br />([[2018年]])||rowspan="9" style="text-align:center"|総数 4843||style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[つるぎのかなた]]||[[渋谷瑞也]]||rowspan="9" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/25.html|title=第25回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-01-07}}</ref>
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||水無月のメモリー<br />([[リベリオ・マキナ ―《白檀式》水無月の再起動―]])||[[ミサキナギ]]
|-
|世界の果てではじまりを<br />([[鏡のむこうの最果て図書館 光の勇者と偽りの魔王]])||[[冬月いろり]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||ドミトリーで夕食を<br>([[ふしぎ荘で夕食を 〜幽霊、ときどき、カレーライス〜]])||[[村谷由香里]]
|-
|[[破滅の刑死者]]||ふくいけん<br>([[吹井賢]])
|-
|rowspan="3" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||[[逢う日、花咲く。]]||[[青海野灰]]
|-
|''鈍感主人公になれない俺の青春''||成瀬唯
|-
|シルバー・ブレット -SILVER BULLET-<br />([[マッド・バレット・アンダーグラウンド]])||[[野宮有]]
|-
|style="background-color:#cd853f; text-align:center"|電撃文庫<br />MAGAZINE賞||''折り鶴姫の計算資源''<ref group="掲載元" name="電M"/>||木田寒朗
|-
|rowspan="7" style="text-align:center"|第26回<br />([[2019年]])||rowspan="7" style="text-align:center"|総数 4607||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[声優ラジオのウラオモテ]]||[[二月公]]||rowspan="7" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/26.html|title=第26回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-01-07}}</ref>
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[豚のレバーは加熱しろ]]||境居卓真<br />([[逆井卓馬]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||灼華繚亂<br />([[少女願うに、この世界は壊すべき 〜桃源郷崩落〜]])||小林照<br />([[小林湖底]])
|-
|天国のラジオ<br />([[こわれたせかいの むこうがわ 〜少女たちのディストピア生存術〜]])||六導烈火<br />([[陸道烈夏]])
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||心は君を描くから<br />([[今夜、世界からこの恋が消えても]])||[[一条岬]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||そして、遺骸が嘶く<br />([[そして、遺骸が嘶く ―死者たちの手紙―]])||[[酒場御行]]
|-
|グラフィティ探偵――ブリストルのゴースト<br />([[オーバーライト ――ブリストルのゴースト]])||[[池田明季哉]]
|-
|rowspan="7" style="text-align:center"|第27回<br />([[2020年]])||rowspan="7" style="text-align:center"|総数 4355<br />長編 3183<br />短編 1172||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||ユア・フォルマ 電子犯罪捜査局<br />([[ユア・フォルマ]])||[[菊石まれほ]]||rowspan="7" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/27.html|title=第27回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-01-07}}</ref>
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||受付嬢ですが、定時で帰りたいのでボスをソロ討伐しようと思います<br />([[ギルドの受付嬢ですが、残業は嫌なのでボスをソロ討伐しようと思います]])||mato<br />([[香坂マト]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||Out Of The Woods<br />([[忘却の楽園 アルセノン覚醒]])||[[土屋瀧]]
|-
|[[インフルエンス・インシデント]]||[[駿馬京]]
|-
|rowspan="2" style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||それから俺はかっこいいバイクを買った<br />([[君と、眠らないまま夢をみる]])||[[遠野海人]]
|-
|はじめての夏、人魚に捧げるキャンバス<br />([[僕といた夏を、君が忘れないように。]])||[[国仲シンジ]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||モーンガータのささやき〜イチゴと逆さ十字架〜<br />([[ぼくらが死神に祈る日]])||[[川崎七音]]
|-
|rowspan="9" style="text-align:center"|第28回<br />([[2021年]])||rowspan="9" style="text-align:center"|総数 4411<br />長編 3255<br />短編 1156||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||[[姫騎士様のヒモ]]||[[白金透]]||rowspan="9" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/28.html|title=第28回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2022-06-26}}</ref>
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||百合少女は幸せになる義務があります<br />([[この△ラブコメは幸せになる義務がある。]])||神奈士郎<br />([[榛名千紘]])
|-
|[[エンド・オブ・アルカディア]]||[[蒼井祐人]]
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||[[きみは雪を見ることができない]]||オスタハーゲンの鍵<br />([[人間六度]])
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||特攻野郎Lチーム<br/>([[ミミクリー・ガールズ]])||[[ひたき]]
|-
|{{読み仮名|黄昏|たそがれ}}のブリュンヒルド<br />([[竜殺しのブリュンヒルド]])||[[東崎惟子]]
|-
|rowspan="3" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||''隣の席の雪本さんが異世界で王様やってるらしい。''||三木本柚希
|-
|アマルガム・ハウンド<br/>([[アマルガム・ハウンド 捜査局刑事部特捜班]])||[[駒居未鳥]]
|-
|[[夜もすがら青春噺し]]||[[夜野いと]]
|-
|rowspan="6" style="text-align:center"|第29回<br />([[2022年]])||rowspan="6" style="text-align:center"|総数 4128<br />長編 3041<br />短編 1087||style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||ドッペルゲンガーは恋をする<br />([[レプリカだって、恋をする。]])||[[榛名丼]]||rowspan="6" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/archive/29.html|title=第29回電撃大賞 受賞作品|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2022-12-10}}</ref>
|-
|rowspan="2" style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||[[ミリは猫の瞳のなかに住んでいる]]||[[四季大雅]]
|-
|[[勇者症候群]]||[[彩月レイ]]
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||賽の河原株式会社<br />([[さよなら、誰にも愛されなかった者たちへ]])||[[塩瀬まき]]
|-
|style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||マリーハウスにようこそ 〜ファンタジー世界の結婚相談所〜<br />([[クセつよ異種族で行列ができる結婚相談所 〜看板ネコ娘はカワイイだけじゃ務まらない〜]])||[[五月雨きょうすけ]]
|-
|style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||透過色彩のサイカ<br>([[君が死にたかった日に、僕は君を買うことにした]])||[[成東志樹]]
|-
|rowspan="9" style="text-align:center"|第30回<br />([[2023年]])||rowspan="9" style="text-align:center"|総数 4467<br />長編 3329<br />短編 1138||rowspan="2" style="background-color:#ffa500; text-align:center"|大賞||''魔女に首輪は付けられない''||夢見大蛇之介||rowspan="9" style="text-align:center"|<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekitaisho.jp/announce/entry-273.html|title=第30回電撃大賞 受賞作品発表!|電撃大賞|website=電撃大賞|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-10-08}}</ref>
|-
|''竜胆の乙女 / わたしの中で永久に光る''||fudaraku
|-
|style="background-color:#ffd700; text-align:center"|金賞||''歪み絶ちの殺人奴隷''||那西崇那
|-
|style="background-color:#40d0e0; text-align:center"|メディアワークス<br/>文庫賞||''残月ノ覚書 ―秦國博宝局心獣怪奇譚―''||羽洞はる彦
|-
|rowspan="2" style="background-color:#c0c0c0; text-align:center"|銀賞||''億千CRYSTAL''||長山久竜
|-
|''簡単なことだよ、愛しい人''||柳之助
|-
|rowspan="3" style="background-color:#90ee90; text-align:center"|選考委員<br/>奨励賞||''Bloodstained Princess''||畑リンタロウ
|-
|''フィギュアのお医者さん''||奈々宮熊財
|-
|''偽盲の君へ、不可視の僕より''||にのまえあきら
|}
== 関連書籍 ==
第1回に応募された短編作品の傑作選が刊行されている。
* 臥竜覚醒 電撃ゲーム小説大賞短編小説傑作選(1994年10月10日、電撃文庫、{{ISBN2|978-4-07-302110-0}})
** 「カース・チェィサー」風間圭之進
** 「嵐よ友よ恋人よ」福森大輔
** 「夢色天使」[[祭紀りゅーじ]]
** 「雲ゆきあやし、雨にならんや」坪田亮介 - 第1回銀賞受賞作品
** 解説:[[高千穂遙]]
賞を受賞することはなかったが隠し玉として出版された本。
* 僕たちにデスゲームが必要な理由 [[持田冥介]](2020年7月22日、メディアワークス文庫、{{ISBN2|978-4-04-913226-7}})
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 肩書 ===
{{Reflist|group="肩書"|40em}}
=== 掲載元 ===
{{Reflist|group="掲載元"|40em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|40em}}
== 関連項目 ==
* [[電撃大賞]]
** [[電撃イラスト大賞]]
** [[電撃コミック大賞]]
* [[電撃文庫MAGAZINE]] - 電撃文庫MAGAZINE賞受賞作が掲載される
* [[電撃hp短編小説賞]](2000年 - 2006年) - 現在は、電撃文庫MAGAZINE賞として電撃小説大賞に一本化されている
* [[電撃大賞 (ラジオ番組)]] - アスキー・メディアワークス提供のラジオ番組
== 外部リンク ==
* {{Official website|http://dengekitaisho.jp/}}
{{メディアワークス}}
{{DEFAULTSORT:てんけきしようせつたいしよう}}
[[Category:アスキー・メディアワークス]]
[[Category:KADOKAWA主催の賞]]
[[Category:ライトノベルの文学賞]]
[[Category:日本の公募新人文学賞]]
[[Category:電撃文庫|*しようせつたいしよう]]
[[Category:メディアワークス文庫|*てんけきしようせつたいしよう]]
[[Category:電撃の新文芸|*てんけきしようせつたいしよう]]
[[Category:カクヨム]]
[[Category:1994年開始のイベント]] | 2003-04-12T02:29:09Z | 2023-12-04T14:26:58Z | false | false | false | [
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6,562 | 遅延記憶装置 | 遅延記憶装置()とは、媒体が音波などを伝える際の遅れを利用し、信号を循環させ記憶装置として使用するものである。種類によっては、遅延線記憶装置(delay line memory)という。技術的にはレーダーで使う信号処理技術などから生まれたもので、黎明期のコンピュータ(真空管式コンピュータ)でよく使われた。
構成方法にもよるが、たとえば加算器に直列加算器が使えるなど、部品数を抑えて多くの情報を扱えるコンピュータを作ることができる、という利点がある。これは安上がりという点だけではなく、初期のコンピュータの多くが苦労した信頼性という点でも重要である。
黎明期のコンピュータで主記憶装置としてよく使われた遅延記憶装置が、水銀遅延線()である。アナログ信号処理デバイスとして使われていたものであるが、ディジタル計算機のための記憶装置としては、ENIACに関わったジョン・プレスパー・エッカートによる(ENIAC自体では、稼働初期の時点では本格的には使われていない)。水銀の中の超音波を利用する。英語 delay line memory から(delay memory とはしない)「遅延線」の語があるが、線というより管であることから水銀遅延管()とも呼ばれる。英語でも mercury delay tube としている例が見られる。(真空管と勘違いしないように)tank の語を使うことも見られる。
水銀を詰めた管の両端に圧電素子をとり付けた構造をしている。片方の素子に信号を入力し、圧電効果(逆圧電効果)による振動で超音波を発生させる。超音波は水銀を媒体として管の中を伝わり、反対側の圧電素子を振動させる。振動させられた圧電素子は圧電効果により電圧を誘起するため、ここから入力信号と同様の波形を持つ信号が取り出せる。これを増幅して再び入力側に戻すと、信号が循環して、記憶装置として使うことができる。この操作について当時の用語では、英語では regeneration、日本語では訳して「再生」などと表現されている。
水銀遅延線は初期のコンピュータに用いられ、EDSACやEDVAC、UNIVAC Iで採用された。また、日本初の電子式コンピュータ、FUJICにも水銀遅延線が使われている。
(なお、設計としては、片方を開放端か固定端として信号が反射するようにし、入力と取り出しを同じ側でおこなう、というものもありうる)
水銀以外に、記憶装置として使われた媒体としては、ETL Mark IIIなどで使われたガラス、磁性体(金属)ワイヤを使った磁歪遅延線、ETL Mark IVでタイミング調整用に使われ、HITAC 5020で(主記憶ではなく)レジスタに使われた、同軸ケーブル内を伝わる高周波信号の遅れを利用する電磁遅延線がある。固体遅延線や電磁遅延線は記憶以外に、アナログ時代にはフィルタの部品としてよく使われ、カラーテレビなどのために大量生産された電気部品でもある。HITAC 5020のそれには製造元である日立のテレビのものが使われた、という例もある(この信号処理についてはNTSC#ライン相関を利用したクシ形フィルタを参照。ディジタル信号処理では逆に、記憶装置を使って信号の遅延が実現されている)。固体遅延線は初期の電卓(例えば、OLYMPIA CD-400)でメモリとして使用された例もある。
また、循環型で大容量のレジスタを作るために、磁気ドラムのトラックの一部を遅延線のように使うという手法があり、日本ではマルス1で使われたという例がある。
変わったエピソードとしては、モーリス・ウィルクスによれば、水銀より安い媒体を1947年に検討していた際、アラン・チューリングがジンを提案した、というものがある。アルコールと水が、室温において温度係数がゼロになる割合で含まれているから、だという。遅延記憶装置において、温度変化により動作速度がズレることは問題であり、恒温槽を必要とした、といった話があるが、FUJICでは逆転の発想で、水銀遅延線を動作させるクロックの速度を温度に合わて調節する(計算機本体との同期は、記憶装置側をマスタークロックとする)ことにより解決している。
波の伝搬といったような物理現象を利用しているわけではないが、使い方としてはシフトレジスタも少し似ている。また近年の研究としては、NHK放送技術研究所による「微小磁区記録デバイス」は、磁性細線中を移動する磁区を利用するもので、遅延記憶装置に似ている。 | [
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] | 遅延記憶装置とは、媒体が音波などを伝える際の遅れを利用し、信号を循環させ記憶装置として使用するものである。種類によっては、遅延線記憶装置という。技術的にはレーダーで使う信号処理技術などから生まれたもので、黎明期のコンピュータ(真空管式コンピュータ)でよく使われた。 構成方法にもよるが、たとえば加算器に直列加算器が使えるなど、部品数を抑えて多くの情報を扱えるコンピュータを作ることができる、という利点がある。これは安上がりという点だけではなく、初期のコンピュータの多くが苦労した信頼性という点でも重要である。 | [[画像:Mercury memory.jpg|thumb|right|400px|UNIVAC Iの水銀遅延線(1951)]]
{{読み仮名|'''遅延記憶装置'''|ちえんきおくそうち}}とは、媒体が音波などを伝える際の遅れを利用し、信号を循環させ[[記憶装置]]として使用するものである。種類によっては、遅延線記憶装置(delay line memory)という。技術的には[[レーダー]]で使う信号処理技術などから生まれたもので、黎明期の[[コンピュータ]]([[真空管式コンピュータ]])でよく使われた。
構成方法にもよるが、たとえば加算器に[[加算器#直列加算器|直列加算器]]が使えるなど、部品数を抑えて多くの情報を扱えるコンピュータを作ることができる、という利点がある。これは安上がりという点だけではなく、初期のコンピュータの多くが苦労した信頼性という点でも重要である。
== 水銀遅延線 ==
黎明期のコンピュータで主記憶装置としてよく使われた遅延記憶装置が、{{読み仮名|'''水銀遅延線'''|すいぎんちえんせん}}である。アナログ信号処理デバイスとして使われていたものであるが、ディジタル計算機のための記憶装置としては、ENIACに関わった[[ジョン・プレスパー・エッカート]]による(ENIAC自体では、稼働初期の時点では本格的には使われていない)。[[水銀]]の中の[[超音波]]を利用する。英語 delay line memory から(delay memory とはしない)「遅延'''線'''」の語があるが、線というより管であることから{{読み仮名|'''水銀遅延管'''|すいぎんちえんかん}}とも呼ばれる。英語でも mercury delay tube としている例が見られる。(真空管と勘違いしないように<ref>『ウィルクス自伝』12章、p. 156</ref>)tank の語を使うことも見られる。
[[File:Delay line memory fr.svg]]
水銀を詰めた管の両端に[[圧電素子]]をとり付けた構造をしている。片方の素子に信号を入力し、[[圧電効果]](逆圧電効果)による[[振動]]で超音波を発生させる。超音波は水銀を媒体として管の中を伝わり、反対側の圧電素子を振動させる。振動させられた圧電素子は[[圧電効果]]により電圧を誘起するため、ここから入力信号と同様の波形を持つ信号が取り出せる。これを[[増幅]]して再び入力側に戻すと、信号が循環して、記憶装置として使うことができる。この操作について当時の用語では、英語では regeneration、日本語では訳して「再生」などと表現されている。
水銀遅延線は初期のコンピュータに用いられ、[[EDSAC]]や[[EDVAC]]、[[UNIVAC I]]で採用された。また、日本初の電子式コンピュータ、[[FUJIC]]にも水銀遅延線が使われている。
(なお、設計としては、片方を開放端か固定端として信号が反射するようにし、入力と取り出しを同じ側でおこなう、というものもありうる)
== その他の材料 ==
水銀以外に、記憶装置として使われた媒体としては、[[ETL Mark III]]などで使われたガラス<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0011.html 情報処理学会コンピュータ博物館] によれば金石舎研究所(後の[[京セラクリスタルデバイス]])の協力による開発</ref>、磁性体(金属)ワイヤを使った磁歪遅延線<ref>磁歪遅延線の解説と実装例(詳細不明)は、中野馨『脳をつくる』の pp. 137-138, p. 144 にある。</ref><ref>磁歪遅延線がETL Mark IVで使われたとしているウェブページがあるが、開発者の一人である[[高橋茂]]著『コンピュータ クロニクル』 p.14 には、トランジスタの速度を下げたため、動作速度を下げると容量的に不利な遅延線は止め、磁気ドラムを採用した、とある。</ref>、ETL Mark IVでタイミング調整用に使われ、[[HITAC]] 5020で(主記憶ではなく)レジスタに使われた、同軸ケーブル内を伝わる高周波信号の遅れを利用する電磁遅延線がある。固体遅延線や電磁遅延線は記憶以外に、アナログ時代にはフィルタの部品としてよく使われ、[[カラーテレビ]]などのために大量生産された電気部品でもある。HITAC 5020のそれには製造元である日立のテレビのものが使われた、という例もある(この信号処理については[[NTSC#ライン相関を利用したクシ形フィルタ]]を参照。ディジタル信号処理では逆に、記憶装置を使って信号の遅延が実現されている)。固体遅延線は初期の[[電卓]](例えば、OLYMPIA CD-400<ref>{{Cite web|url=http://www.johnwolff.id.au/calculators/Olympia/CD400/CD400.htm|access-date=2021-09-11|website=John Wolff's Web Museum|title=Olympia Model CD-400 Desk Calculator}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.calcuseum.com/SCRAPBOOK/BONUS/09671/1.htm|access-date=2021-09-11|website=CALCUSEUM|title=OLYMPIA: CD400}}</ref>)でメモリとして使用された例もある。
また、循環型で大容量のレジスタを作るために、[[磁気ドラムメモリ|磁気ドラム]]のトラックの一部を遅延線のように使うという手法があり、日本では[[マルス (システム)#マルス1|マルス1]]で使われたという例がある<ref>『日本のコンピュータの歴史』 pp. 155-172、第8章「MARS-1」</ref>。
変わったエピソードとしては、[[モーリス・ウィルクス]]によれば、水銀より安い媒体を1947年に検討していた際、[[アラン・チューリング]]が[[ジン (蒸留酒)|ジン]]を提案した、というものがある。アルコールと水が、室温において温度係数がゼロになる割合で含まれているから、だという<ref>『ACMチューリング賞講演集』 p. 235 。なお、『ウィルクス自伝』p. 169 によれば、精製された水銀ではなく商業用品質のものを使用したところ、タンク毎に音速が違うという問題が出た、とあり、媒体はそうなんでも良いというわけではない。同書 p. 176 にはおそらくこのチューリングの提案を指して「彼の能力の範囲外」という言葉があるので、独創的というよりは奇案に属するようである。</ref>。遅延記憶装置において、温度変化により動作速度がズレることは問題であり、恒温槽を必要とした、といった話があるが、[[FUJIC]]では逆転の発想で、水銀遅延線を動作させるクロックの速度を温度に合わて調節する(計算機本体との同期は、記憶装置側をマスタークロックとする)ことにより解決している<ref>『日本のコンピュータの歴史』(1985) p. 69</ref>。
波の伝搬といったような物理現象を利用しているわけではないが、使い方としては[[シフトレジスタ]]も少し似ている。また近年の研究としては、NHK放送技術研究所による「微小磁区記録デバイス」<ref>https://www.nhk.or.jp/strl/vision/r6/r6-2-1.htm</ref>は、磁性細線中を移動する磁区を利用するもので、遅延記憶装置に似ている。
== 注 ==
<references/>
== ギャラリー ==
<gallery>
File:FUJIC delay line memory 1956 National Museum of Nature and Science.jpg|[[FUJIC]]の水銀遅延線
File:EDSAC (8).jpg|[[EDSAC]]の水銀遅延線。写っている人物は[[モーリス・ウィルクス]]その人
File:Ultrasonicdelayline.jpg|固体遅延線の一例
File:Torsion wire delay line.jpg|磁歪遅延線の一例
</gallery>
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Delay lines|遅延線}}
{{DEFAULTSORT:ちえんきおくそうち}}
[[Category:記憶装置]]
[[Category:コンピュータ史]]
[[Category:水銀]]
[[Category:歴史上の電気機器]] | null | 2021-09-11T06:59:47Z | false | false | false | [
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"Template:Cite web",
"Template:Commonscat"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%85%E5%BB%B6%E8%A8%98%E6%86%B6%E8%A3%85%E7%BD%AE |
6,563 | 阿智太郎 | 阿智 太郎(あち たろう、1978年10月3日 - )は、日本の小説家、シナリオライター。長野県下伊那郡阿智村生まれ。主にライトノベルに分類される作品を発表している。
長野県飯田高等学校在学中は演劇部に所属し、脚本で活躍。在学中の1998年に『僕の血を吸わないで』で、第4回電撃ゲーム小説大賞で銀賞を受賞し、作家デビュー。受賞後アメリカ・イギリスに留学しながら『僕の血を吸わないで』『住めば都のコスモス荘』シリーズ等を執筆し、2000年に帰国。レッド・エンタテインメントに所属していたが現在はフリーランスで活動。シナリオライターとしてゲーム製作にかかわっている。
ペンネームの由来は、故郷である長野県阿智村から。著作は、主に電撃文庫(メディアワークス)で出版されていたが、他の出版社での作品も増えている。
また、主人公が小学生以下の物語(『不思議なドクロ ナンジャモンジャ』、『わが輩はヴィドック』)を書く時には、あちたろうとペンネームを平仮名にしていることがある。
BSデジタルラジオBSQR489の『あち・ゆき・まなびの僕らじ』(2000年12月8日 - 2002年6月28日)ではパーソナリティとして出演していた。
電撃文庫より
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] | 阿智 太郎は、日本の小説家、シナリオライター。長野県下伊那郡阿智村生まれ。主にライトノベルに分類される作品を発表している。 | {{存命人物の出典皆無|date=2022-11}}{{Infobox 作家
| name = 阿智太郎
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'''阿智 太郎'''(あち たろう、[[1978年]][[10月3日]] - )は、[[日本]]の[[小説家]]、[[シナリオライター]]。[[長野県]][[下伊那郡]][[阿智村]]生まれ。主に[[ライトノベル]]に分類される作品を発表している。
== 来歴 ==
[[長野県飯田高等学校]]在学中は演劇部に所属し、脚本で活躍。在学中の[[1998年]]に『[[僕の血を吸わないで]]』で、第4回[[電撃小説大賞|電撃ゲーム小説大賞]]で銀賞を受賞し、作家デビュー。受賞後[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]に留学しながら『僕の血を吸わないで』『[[住めば都のコスモス荘]]』シリーズ等を執筆し、[[2000年]]に帰国。[[レッド・エンタテインメント]]に所属していたが現在はフリーランスで活動。シナリオライターとしてゲーム製作にかかわっている。
[[ペンネーム]]の由来は、[[故郷]]である長野県[[阿智村]]から。著作は、主に[[電撃文庫]]([[メディアワークス]])で出版されていたが、他の出版社での作品も増えている。
また、主人公が[[小学生]]以下の物語(『不思議なドクロ ナンジャモンジャ』、『わが輩はヴィドック』)を書く時には、'''あちたろう'''とペンネームを平仮名にしていることがある。
[[BSデジタル音声放送|BSデジタルラジオ]][[BSQR489]]の『あち・ゆき・まなびの僕らじ』([[2000年]][[12月8日]] - [[2002年]][[6月28日]])ではパーソナリティとして出演していた。
==作品リスト==
=== 電撃文庫 ===
[[電撃文庫]]より
*[[僕の血を吸わないで]] (イラスト:[[宮須弥]]、全5巻)
*[[住めば都のコスモス荘]](イラスト:[[矢上裕]]、全6巻)
*九官鳥刑事 明日は我が身の九官鳥 ({{ISBN2|4-8402-1486-7}})
*おちゃらか駅前劇場 阿智太郎短編集 ({{ISBN2|4-8402-1596-0}})
*[[僕にお月様を見せないで]](イラスト:[[宮須弥]]、全10巻)
*[[なずな姫様SOS]](イラスト:[[椎名優]]、全2巻)
*:1巻には付録として、本作の原案となったラジオドラマ(『あち・ゆき・まなびの僕らじ』で放送)のダイジェスト版を収録したシングルCDがつく。
*[[いつもどこでも忍2ニンジャ|いつもどこでも忍²ニンジャ]](イラスト:[[宮須弥]]、全6巻)
*[[アークマ・デテクール|アークマ・デテクール 地下室の悪魔]]({{ISBN2|4-8402-2885-X}})
*[[オレ様はワルガキッド]](イラスト:[[ともぞ]]、全2巻)
*[[骸骨ナイフでジャンプ]](イラスト:[[宮須弥]]、全4巻)
*[[トラジマ!]](イラスト:[[立羽]]、全2巻)
*[[血吸村へようこそ]](イラスト:[[あらきかなお]]5巻まで)
*:[[電撃文庫MAGAZINE]]用に書き下ろした短編を改稿したもの。
*[[獣吾ドキドキプロジェクト!]](イラスト:[[天杉貴志]]、2巻まで)
*[[きわめて忍極]](イラスト:[[赤りんご]])
*[[勇者サマは13歳!]](イラスト:[[はちろく]])
* [[星空☆アゲイン ~君と過ごした奇跡のひと夏~]](イラスト:[[へちま]])
;文庫本未収録作品
*僕は角のない鬼([[電撃hp]] SPECIAL(2002年)に掲載)
*不思議なドクロ ナンジャモンジャ(あちたろう名義 電撃hp Vol22~30に掲載)
=== MF文庫J ===
[[MF文庫J]]より
*[[陰からマモル!]](全12巻)(イラスト:[[まだらさい]])
*[[もっと!陰からマモル!]]([[MF文庫J]])(2巻まで)(イラスト:まだらさい)
*[[魔界ヨメ!]](全5巻)(イラスト:[[x6suke]])
*[[ツノありっ! 風香先輩は△△を隠す]](イラスト:[[なるみゆう|鳴海ゆう]])
=== その他 ===
*やぶっ蚊BOYチッチ(ウェブサイト REDチャンネルに掲載)
*[[わが輩はヴィドック]](あちたろう名義 カラフル文庫〔[[ジャイブ]]〕1~2巻 )
*まじかる☆マオ(あちたろう名義 [[角川つばさ文庫]] 2013年9月)
=== 漫画原作 ===
*[[僕の血を吸わないで ザ・コミック]] (作画:宮須弥)[[メディアワークス]]/電撃文庫(コミックだが、原作と同じレーベルから発売) ISBN 4840220948
*[[住めば都のコスモス荘]](作画:矢上裕、全3巻)メディアワークス/電撃コミックス
*:[[電撃アニマガ|電撃Animation magazine]](2000年7月号~2001年5月号);[[月刊電撃コミックガオ!]](2003年4月号付録、2003年7月号~2004年4月号)連載
*[[陰からマモル!#漫画|陰からマモル!]](作画:[[まだらさい]]、既刊7巻)[[メディアファクトリー]]/[[MFコミックス]]・アライブシリーズ
*:[[月刊コミックアライブ]]連載中
*[[かの女は忍具ムスメ!]](作画:[[板場広志]]、全4巻)[[白泉社]]/ジェッツコミックス
*:[[ヤングアニマル嵐]]
=== ゲームシナリオ ===
*[[ぼくらはカセキホリダー]]([[ニンテンドーDS|DS]]用ソフト、メーカー:[[任天堂]])
*[[スーパーカセキホリダー]]([[ニンテンドーDS|DS]]用ソフト、メーカー:[[任天堂]])
*カセキホリダームゲンギア(3DS用ソフト、メーカー:任天堂)
*[[カスタムビートバトル ドラグレイド]](DS用ソフト、メーカー:[[バンプレスト]])
*[[カスタムビートバトル ドラグレイド2]](DS用ソフト、メーカー:[[バンダイナムコゲームス]])
*[[サモンナイトX 〜Tears Crown〜]](DS用ソフト、メーカー:[[バンダイナムコゲームス]])
*[[俺達の世界わ終っている。]] (PS Vita用ソフト、メーカー:[[レッド・エンタテインメント]])
*境界領域(チャットアプリ風スマホゲーム、メーカーシルバースタージャパン)
=== ドラマCDシナリオ ===
*[[嘘つきボーイフレンド~本気のボーイフレンド~]]
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:あち たろう}}
[[Category:日本の小説家]]
[[Category:日本のライトノベル作家]]
[[Category:フリーライター]]
[[Category:日本のコンピュータゲームシナリオライター]]
[[Category:レッド・エンタテインメント|人あち たろう]]
[[Category:長野県飯田高等学校出身の人物]]
[[Category:長野県出身の人物]]
[[Category:1978年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-04-12T04:02:49Z | 2023-08-18T05:01:55Z | false | false | false | [
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6,565 | 渡瀬草一郎 | 渡瀬 草一郎(わたせ そういちろう、1978年 - )は、日本のライトノベル作家。神奈川県出身、横浜市在住。二松学舎大学卒。代表作に『空ノ鐘の響く惑星で』がある。
小説家になろうでは「猫神信仰研究会」名義である。
1978年に東京で生まれ、横浜で育つ。二松学舎大学在学中には、散文サークルを友人とともに立ち上げるなどの活動を行っていた。6年ほどのアマチュア生活の後、2000年に『平安京八卦』(出版時タイトルは『陰陽ノ京』)で第7回電撃ゲーム小説大賞の金賞を受賞し、2001年に同作でデビューを果たす。2004年度には母校である二松学舎大学にて臨時講師に就任し、教鞭をとった。 | [
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] | 渡瀬 草一郎は、日本のライトノベル作家。神奈川県出身、横浜市在住。二松学舎大学卒。代表作に『空ノ鐘の響く惑星で』がある。 小説家になろうでは「猫神信仰研究会」名義である。 | '''渡瀬 草一郎'''(わたせ そういちろう、[[1978年]] - )は、[[日本]]の[[ライトノベル]]作家。[[神奈川県]]出身、[[横浜市]]在住。[[二松学舎大学]]卒。代表作に『[[空ノ鐘の響く惑星で]]』がある。
[[小説家になろう]]では「猫神信仰研究会」名義である。
== 来歴 ==
1978年に東京で生まれ、横浜で育つ。[[二松学舎大学]]在学中には、散文サークルを友人とともに立ち上げるなどの活動を行っていた。6年ほどのアマチュア生活の後、[[2000年]]に『平安京八卦』(出版時タイトルは『[[陰陽ノ京]]』)で第7回[[電撃ゲーム小説大賞]]の金賞を受賞し、[[2001年]]に同作でデビューを果たす。2004年度には母校である[[二松学舎大学]]にて臨時講師に就任し、教鞭をとった。
== 作品 ==
=== シリーズ ===
* [[陰陽ノ京]]
* [[パラサイトムーン]](2001年5月 電撃文庫)
* [[空ノ鐘の響く惑星で]]
* [[輪環の魔導師]]
* ストレンジムーン
*# 宝石箱に映る月(2013年6月 電撃文庫)
*# 月夜に踊る獣の夢(2013年11月 電撃文庫)
*# 夢達が眠る宝石箱(2014年6月 電撃文庫)
*[[ソードアート・オンライン オルタナティブ クローバーズ・リグレット]]
=== ノンシリーズ ===
* 源氏物の怪語り(2012年1月 メディアワークス文庫)
* [[ワールド エンド エクリプス]] 天穹の軍師(2015年12月 電撃文庫)- 原作:[[セガゲームス]]
* 妖姫ノ夜 月下ニ契リテ幽世ヲ駆ケル(2019年9月 電撃文庫)- 原題は「夜霧と今夜の化猫堂」
* 吾輩は猫魔導師である キジトラ・ルークの快適チート猫生活 1(2021年8月 [[サーガフォレスト]])- 猫神信仰研究会名義
=== 未単行本化 ===
* 残酷劇の夜 - 「[[電撃hp]] Vol.30」(2004年6月 [[メディアワークス]])/再録:『[[電撃コラボレーション]] MW号の悲劇』(2008年9月 電撃文庫)
* カガミのムコウ - 「電撃hp SPECIAL 2005 SPRING」(2005年3月 メディアワークス)/再録:『電撃コラボレーション 最後の鐘が鳴るとき』(2008年10月 電撃文庫)
* Who write it?「まじょるか。」 - 「電撃hp Vol.37」(2005年9月 メディアワークス)
* 空ノ鐘の響く放課後 - 「[[電撃hp公式海賊本#電撃hPa|電撃hPa]]」(2005年10月 メディアワークス)
* 聖夜ノ鐘の響く放課後 - 「[[電撃hp公式海賊本#電撃BUNKOYOMI|電撃BUNKOYOMI]]」(2006年11月 メディアワークス)
* 空の鐘の響くステージで! - 「[[電撃hp公式海賊本#電撃AprilFool|電撃April Fool]]」(2007年4月 メディアワークス)
* [[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第5シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]] 妖怪横丁 サイドストーリー 第4回 コタロウの鈴(2007年5月 [[東映アニメーション]])
* ゲゲゲの鬼太郎 妖怪横丁 サイドストーリー 第8回 雨宿りのバス停(2007年6月 東映アニメーション)
* ゲゲゲの鬼太郎 妖怪横丁 サイドストーリー 第12回 鬼さん、こちら(2007年7月 東映アニメーション)
* 蟻地獄の巣 - 「[[電撃文庫MAGAZINE]] Vol.1」(2008年5月 [[アスキー・メディアワークス]])
* 空のウタカタ - 「電撃文庫MAGAZINE Vol.4」(2008年11月 アスキー・メディアワークス)
* 輪環の魔導師・ディアルゴの聖女 前編 - 「電撃文庫MAGAZINE Vol.5」(2008年12月 アスキー・メディアワークス)
* 輪環の魔導師・ディアルゴの聖女 後編 - 「電撃文庫MAGAZINE Vol.6」(2009年2月 アスキー・メディアワークス)
* 4月、それは――地球侵略の季節 春うららの地球侵略 - 「電撃文庫MAGAZINE Vol.7」(2009年4月 アスキー・メディアワークス)
* 猫缶の魔術師 - 「電撃“にせ”ん!!」(2010年9月 アスキー・メディアワークス)
* 名探偵コヨミ/まだらのねこ - 『[[ソードアート・オンライン|ソードアート・オンライン IF 公式小説アンソロジー]]』(2023年11月 電撃文庫)
== その他 ==
* [[デュラララ!!]]の登場人物である渡草三郎の名前のモデルとなっている。
* 2010年7月18日に観測された[[彩雲]]を自身が撮影した写真が、読売新聞に掲載された<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20100718-OYT1T00541.htm 暑さにうんざり、空見上げたら7色の雲!] YOMIURI ONLINE 2010年7月18日</ref>。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ライトノベル作家一覧]]
==外部リンク==
* [http://sou1ya.o.oo7.jp/ 草一屋]
* {{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/sou1ya/ |title=草一屋 |date=20040124042008}}
* {{Twitter|sou1rou}}
* {{小説家になろうマイページ|2006691|猫神信仰研究会}}
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[[Category:日本の小説家]]
[[Category:日本のライトノベル作家]]
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[[Category:二松學舍大学出身の人物]]
[[Category:神奈川県出身の人物]]
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6,566 | アダム・スミス | アダム・スミス(Adam Smith、1723年6月5日 - 1790年7月17日)は、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者である。「経済学の父」と呼ばれる。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『道徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)などがある。
スミスが生きた18世紀のイギリス社会は政治の民主化、近代西欧科学の普及と技術革新、経済の発展といった「啓蒙の世紀」であった一方で、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えた世紀でもあった。光と闇の両側面を持つ18世紀イギリス社会はアダム・スミスの思想に大きく影響したとされる。
アダム・スミスは1723年にスコットランドの海沿いの町カコーディに生まれた。
スミスはグラスゴー大学でスコットランド啓蒙の中心人物であった哲学者フランシス・ハッチソン(1694 - 1746)の下で道徳哲学を学んでいる。ハチソンはフーゴー・グロティウス(1683 - 1645)やサミュエル・プーフェンドルフ(1632 - 1694)らの自然法思想を継承する道徳哲学者であり、スミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている。
グラスゴー大学卒業後、イングランド国教会の聖職者を目指すスコットランド人学生のために設けられた奨学金(Snell Exhibition)を受けて、オックスフォード大学のベイリオル・カレッジに進み、6年間ギリシアやローマの古典について学ぶが、それは主に独学によるものだった。その後中途退学しスコットランドに戻る。
1748年にケイムズ卿ヘンリー・ホームや母方の家族などの支援を受けて、エディンバラで法律家などの市民を対象とした文学・修辞学と法学、歴史などの講義を始めた。
1751年にはグラスゴー大学の論理学教授に就任し、翌年道徳哲学教授に転任した。スミスの講義は、先任のハッチソンにならい、ラテン語ではなく英語で行われた。
1758年には学部長に選出されるなど、大学にも積極的に関与した。スミスはのちにこのグラスゴー大学の時代を、「私のこれまでの人生の中で最も幸せで名誉のある時期であった」と振り返っている。スミスは1750年頃に哲学者ヒュームと出会い、ヒュームが他界する1776年まで親交を続け、『人間本性論』に代表されるヒュームの啓蒙思想からも大きな影響を受けている。他にも、ジョセフ・ブラックやジェームズ・ワット、ロバート・フーリスなどと、幅広い交友関係を持った。
1759年には主著『道徳感情論』を出版した。
1764年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド貴族ヘンリー・スコットの家庭教師としておよそ3年間フランスやスイスを旅行した。この間スミスは、ヴォルテール(1715 - 1771)、ケネー(1694 - 1774)、テュルゴー(1727 - 1781)などのフランス啓蒙思想の重鎮とも交流を持った。この旅行の間に南仏トゥールーズに滞在した際、ヴォルテールらの新教徒カラスの再審請求を求める運動に出会い、のちに『道徳感情論』の第六版でこの問題について言及した。
イギリス帰国後は執筆活動に専念し、1776年に主著『国富論』を出版した。その後1778年にはスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任した。
1790年にエディンバラで67歳で病死した。スミスは生前「法と統治の一般原理と歴史」に関する書物を出す計画があったが、死の数日前に友人に命じてほぼ全ての草稿を焼却させてしまった。焼却されずに残った草稿はスミスの死後、『哲学論文集』(1795)として出版された。また、1895年にはグラスゴー大学時代の学生がとった講義ノートが見つかっており、『法学講義』として後に公刊された。
『道徳感情論』は、スミスがグラスゴー大学の教壇に立っていた時期に書かれた本であり、1759年に出版された。スミスは生涯に『道徳感情論』と『国富論』という2冊しか書物を遺していないが、『国富論』が経済学に属する本であるのに対して『道徳感情論』は倫理学に関する本とされる。
今日のような秩序だった社会において人々は法の下で安心して安全な生活を送ることができるが、その根幹には人間のどのような本性があるのだろうか。『道徳感情論』において、スミスはこの問題に応えようと試みた。スミスの師であるフランシス・ハッチソンがこうした社会秩序が人間のひとつの特殊な感情に起因すると考えたのに対し、スミスは社会秩序が人間のさまざまな感情が作用し合った結果として形成されると考えていた。『道徳感情論』の原題The Theory of Moral SentimentsのSentimentsが単数形ではなく複数形であるのも、こうしたスミスの思想が反影されている。
『道徳感情論』においてスミスが社会秩序の要因と考えた感情とは、端的に言えば同感(英: symphathy)である。スミスが重要視した同感とは、他人の感情および行為の適切性(英: property)を評価する能力であり、こうしたスミスの思想は現代の神経科学者や行動経済学者からも注目されている。
スミスは、同感を通じて人々が自身の感情や行為が評価されていることを意識し、是認されることを望み否認されることを嫌っていると考えた。しかし、現実社会にはしばしば他人の間にも利害対立があるから、人々が自身の感情や行為の適切性を測るためには利害対立から独立した中立的な基準が必要である。スミスはこの基準を公平な観察者(英: impartial spectator)と呼び、人々が具体的な誰かの視線ではなく胸中の公平な観察者の視線を意識しながら行動していると考えた。
ただし、偶然(英: fortune)の下では、公平な観察者の評価と世間の評価とが異なる場合がある。スミスはこのような不規則性(英: irregularity)が社会的に重要な意味があると考え、偶然の下で公平な観察者の評価を重視する行為者を賢人(英: wise man)、世間の評価を重視する行為者を弱い人(英: weal man)と呼んだ。人間は自己統制(英: self-command)によって胸中の公平な観察者の声に従おうとするが、激しい情念の下では自己欺瞞によって公平な観察者の声を無視しようとする矛盾した存在である。
『道徳感情論』は自愛心を主張するものとしてグラスゴー大学におけるスミスの後任者トマス・リードなどによって非難され、かつてはスミスの主著として読まれることも少なかった。
スミスは前著『道徳感情論』の巻末で、次の著作は「法と統治の一般理論」に関するものだと宣言していたが、それを部分的に実行したのが『国富論』である。
「天文学の歴史により例証された哲学的論究を指導し方向づける諸原理」とはスミスの初期の著作である。スミスの死後発見され、青年時代に完成されたものとして『哲学論文集』に所収された。
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] | アダム・スミスは、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者である。「経済学の父」と呼ばれる。スコットランド生まれ。主著に倫理学書『道徳感情論』(1759年)と経済学書『国富論』(1776年)などがある。 | {{other people|哲学者|イングランドのサッカー選手|アダム・スミス (1991年生のサッカー選手)}}
{{Infobox 哲学者
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| image_caption = アダム・スミスの肖像
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| notable_ideas = [[古典派経済学]]、近代[[自由市場]]、[[分業]]、「[[見えざる手]]」、[[労働価値説]]、[[絶対優位]]
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| influenced = [[フレデリック・バスティア]]、[[ミルトン・フリードマン]]、[[フリードリヒ・ハイエク]]、[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]]、[[マレー・ロスバード]]、[[アイン・ランド]]、[[ポール・クルーグマン]]、[[:en:Thomas Sowell|Thomas Sowell]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|G.W.F.ヘーゲル]]、[[トーマス・ホジスキン]]、[[ジョン・メイナード・ケインズ]]、[[トマス・ロバート・マルサス]]、[[カール・マルクス]]、[[デヴィッド・リカード]]、[[アンリ・ド・サン=シモン]]、[[ジャン=バティスト・セイ]]、[[アメリカ合衆国建国の父]]、[[ノーム・チョムスキー]]、[[ヘンリー・ジョージ]]など
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}}
'''アダム・スミス'''(Adam Smith、[[1723年]][[6月5日]]{{refnest|group=注釈|この日は洗礼日。}} - [[1790年]][[7月17日]]<ref name=":1">{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/スミス-84943 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-28 }}</ref>)は、[[イギリス]]の[[哲学者]]、[[倫理学者]]、[[経済学者]]である。「経済学の父」と呼ばれる<ref name=":1" />。[[スコットランド]]生まれ。主著に倫理学書『[[道徳情操論|道徳感情論]]』(1759年)と経済学書『[[国富論]]』(1776年){{sfn|堂目|2008|p=i}}{{refnest|group=注釈|原題は''An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations''。『富国論』、『諸国民の富』などとも訳される(ex. 大河内一男監訳『国富論III』中公文庫、p.465)。}}などがある。
== 生涯 ==
=== 時代背景 ===
スミスが生きた18世紀のイギリス社会は政治の民主化、近代西欧科学の普及と技術革新、経済の発展といった「啓蒙の世紀」であった一方で、格差と貧困、財政難と戦争といった深刻な社会問題を抱えた世紀でもあった。光と闇の両側面を持つ18世紀イギリス社会はアダム・スミスの思想に大きく影響したとされる{{sfn|堂目|2008|pp=3-15}}。
=== 略歴 ===
アダム・スミスは1723年に[[スコットランド]]の海沿いの町[[カコーディ]]に生まれた{{sfn|堂目|2008|p=16}}。
スミスは[[グラスゴー大学]]で'''[[スコットランド啓蒙]]'''の中心人物であった哲学者[[フランシス・ハッチソン]](1694 - 1746)の下で道徳哲学を学んでいる{{sfn|坂本|2014|p=122}}。ハチソンは[[フーゴー・グロティウス]](1683 - 1645)や[[サミュエル・プーフェンドルフ]](1632 - 1694)らの[[自然法|自然法思想]]を継承する道徳哲学者であり、スミスもこれらの思想的潮流から大きな影響を受けている{{sfn|堂目|2008|pp=17-18}}。
グラスゴー大学卒業後、イングランド国教会の聖職者を目指すスコットランド人学生のために設けられた奨学金(Snell Exhibition)を受けて、[[オックスフォード大学]]の[[ベリオール・カレッジ (オックスフォード大学)|ベイリオル・カレッジ]]に進み、6年間ギリシアやローマの古典について学ぶが、それは主に独学によるものだった<ref name=":0">{{Cite web|title=Adam Smith {{!}} Biography, Books, & Facts|url=https://www.britannica.com/biography/Adam-Smith|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2021-10-27|language=en}}</ref>{{sfn|坂本|2014|p=123}}。その後中途退学しスコットランドに戻る{{sfn|堂目|2008|p=16}}。
1748年にケイムズ卿ヘンリー・ホームや母方の家族などの支援を受けて、[[エディンバラ]]で法律家などの市民を対象とした[[文学]]・修辞学と[[法学]]、歴史などの講義を始めた<ref name=":0" />{{sfn|坂本|2014|p=123}}{{sfn|根岸|1983|p=33}}。
1751年にはグラスゴー大学の論理学教授に就任し、翌年[[道徳哲学]]教授に転任した{{sfn|堂目|2008|p=16}}{{sfn|坂本|2014|p=123}}。スミスの講義は、先任のハッチソンにならい、ラテン語ではなく英語で行われた<ref name=":0" />。
1758年には学部長に選出されるなど、大学にも積極的に関与した<ref name=":0" />。スミスはのちにこのグラスゴー大学の時代を、「私のこれまでの人生の中で最も幸せで名誉のある時期であった」と振り返っている<ref name=":0" />。<!--1740年に[[オックスフォード大学]]に入学するが、1746年に退学。-->スミスは1750年頃に哲学者[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]と出会い、ヒュームが他界する1776年まで親交を続け、『[[人間本性論]]』に代表されるヒュームの啓蒙思想からも大きな影響を受けている{{sfn|堂目|2008|pp=18-19}}。他にも、[[ジョゼフ・ブラック|ジョセフ・ブラック]]や[[ジェームズ・ワット]]、ロバート・フーリスなどと、幅広い交友関係を持った<ref name=":0" />。
1759年には主著『[[道徳感情論]]』を出版した{{sfn|堂目|2008|p=i}}。
1764年にグラスゴー大学を辞職すると、スコットランド貴族[[ヘンリー・スコット (第3代バクルー公爵)|ヘンリー・スコット]]の[[家庭教師]]としておよそ3年間[[フランス]]や[[スイス]]を旅行した{{sfn|堂目|2008|p=16}}{{sfn|坂本|2014|p=132}}。この間スミスは、[[ヴォルテール]](1715 - 1771)、[[フランソワ・ケネー|ケネー]](1694 - 1774)、[[ジャック・テュルゴー|テュルゴー]](1727 - 1781)などのフランス啓蒙思想の重鎮とも交流を持った{{sfn|堂目|2008|p=19}}。この旅行の間に南仏トゥールーズに滞在した際、ヴォルテールらの新教徒カラスの再審請求を求める運動に出会い、のちに『道徳感情論』の第六版でこの問題について言及した{{sfn|坂本|2014|p=132}}。
[[File:Smith - Inquiry into the nature and causes of the wealth of nations, 1922 - 5231847.tif|thumb|''Inquiry into the nature and causes of the wealth of nations'', 1922]]
イギリス帰国後は執筆活動に専念し、1776年に主著『[[国富論]]』を出版した。その後1778年にはスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任した{{sfn|堂目|2008|p=16}}。
1790年にエディンバラで67歳で病死した{{sfn|堂目|2008|p=16}}。スミスは生前「法と統治の一般原理と歴史」に関する書物を出す計画があったが、死の数日前に友人に命じてほぼ全ての草稿を焼却させてしまった{{sfn|堂目|2008|pp=19-20}}。焼却されずに残った草稿はスミスの死後、『哲学論文集』(1795)として出版された{{sfn|堂目|2008|p=20}}。また、1895年にはグラスゴー大学時代の学生がとった講義ノートが見つかっており、『法学講義』として後に公刊された{{sfn |アダム・スミス|2005| p=3-4}}。
=== 年譜 ===
* 1723年 [[スコットランド]]カコーディに生まれる{{sfn|堂目|2008|p=16}}
* {{要出典範囲|1740年|date=2016-3}} [[オックスフォード大学]]に入学
* {{要出典範囲|1746年|date=2016-3}} オックスフォード大学を退学
* 1748年 [[エディンバラ大学]]で[[文学]]と[[法学]]の講義を始める{{sfn|根岸|1983|p=33}}
* 1750年 哲学者[[デイヴィッド・ヒューム]]との親交が始まる{{sfn|堂目|2008|pp=18-19}}
* 1751年 [[グラスゴー大学]][[論理学]]教授に就任{{sfn|堂目|2008|p=16}}
* 1752年 同大[[道徳哲学]]教授に転任{{sfn|堂目|2008|p=16}}
* 1759年 『[[道徳感情論]]』を出版{{sfn|堂目|2008|p=i}}
* 1763年 グラスゴー大学を辞職
* 1763年 - 1766年 貴族に家庭教師として同行しフランスやスイスを遊学{{sfn|堂目|2008|p=16}}
* 1776年 『[[国富論]]』を出版
* 1778年 スコットランド関税委員に就任{{sfn|堂目|2008|p=16}}
* 1787年 グラスゴー大学名誉総長に就任{{sfn|堂目|2008|p=16}}
* 1790年 [[エディンバラ]]で病死、遺言によりほぼ全ての草稿は焼却される{{sfn|堂目|2008|pp=19-20}}
* 1795年 焼却されずに残った草稿が『哲学論文集』として出版{{sfn|堂目|2008|p=20}}
* 1895年 グラスゴー大学時代にスミスの講義を受講した学生のノートが発見される{{sfn |アダム・スミス|2005| p=3-4}}
== 思想 ==
=== 道徳感情論 ===
{{main|道徳情操論}}
『[[道徳感情論]]』は、スミスが[[グラスゴー大学]]の教壇に立っていた時期に書かれた本であり、1759年に出版された{{sfn|堂目|2008|p=25}}。スミスは生涯に『道徳感情論』と『国富論』という2冊しか書物を遺していないが、『国富論』が[[古典派経済学|経済学]]に属する本であるのに対して『道徳感情論』は[[倫理学]]に関する本とされる{{sfn|堂目|2008|p=i}}。
今日のような秩序だった社会において人々は法の下で安心して安全な生活を送ることができるが、その根幹には人間のどのような本性があるのだろうか。『道徳感情論』において、スミスはこの問題に応えようと試みた{{sfn|堂目|2008|p=26}}。スミスの師である[[フランシス・ハッチソン]]がこうした社会秩序が人間のひとつの特殊な感情に起因すると考えたのに対し、スミスは社会秩序が人間のさまざまな感情が作用し合った結果として形成されると考えていた。『道徳感情論』の原題''The Theory of Moral Sentiments''の''Sentiments''が単数形ではなく複数形であるのも、こうしたスミスの思想が反影されている{{sfn|堂目|2008|pp=26-27}}。
『道徳感情論』においてスミスが社会秩序の要因と考えた感情とは、端的に言えば'''同感'''({{lang-en-short|''symphathy''}})である。スミスが重要視した同感とは、他人の感情および行為の適切性({{lang-en-short|''property''}})を評価する能力であり、こうしたスミスの思想は現代の[[神経科学者]]や[[行動経済学者]]からも注目されている{{sfn|堂目|2008|pp=288-289}}。
スミスは、同感を通じて人々が自身の感情や行為が評価されていることを意識し、是認されることを望み否認されることを嫌っていると考えた{{sfn|堂目|2008|p=32}}。しかし、現実社会にはしばしば他人の間にも利害対立があるから、人々が自身の感情や行為の適切性を測るためには利害対立から独立した中立的な基準が必要である。スミスはこの基準を'''公平な観察者'''({{lang-en-short|''impartial spectator''}})と呼び、人々が具体的な誰かの視線ではなく胸中の[[公平な観察者]]の視線を意識しながら行動していると考えた{{sfn|堂目|2008|pp=34-36}}。
ただし、'''偶然'''({{lang-en-short|''fortune''}})の下では、公平な観察者の評価と世間の評価とが異なる場合がある。スミスはこのような'''不規則性'''({{lang-en-short|''irregularity''}})が社会的に重要な意味があると考え、偶然の下で公平な観察者の評価を重視する行為者を'''賢人'''({{lang-en-short|''wise man''}})、世間の評価を重視する行為者を'''弱い人'''({{lang-en-short|''weal man''}})と呼んだ{{sfn|堂目|2008|pp=44-51}}。人間は'''自己統制'''({{lang-en-short|''self-command''}})によって胸中の公平な観察者の声に従おうとするが、激しい情念の下では'''自己欺瞞'''によって公平な観察者の声を無視しようとする矛盾した存在である{{sfn|堂目|2008|pp=54-55}}。
『道徳感情論』は自愛心を主張するものとして[[グラスゴー大学]]におけるスミスの後任者[[トマス・リード]]などによって非難され、かつてはスミスの主著として読まれることも少なかった{{sfn|アダム・スミス|p=ii|訳序}}。
=== 国富論 ===
{{main|国富論}}
スミスは前著『道徳感情論』の巻末で、次の著作は「法と統治の一般理論」に関するものだと宣言していたが、それを部分的に実行したのが『国富論』である{{sfn|アダム・スミス|p=419|訳者解説}}。
=== 天文学の歴史により例証された哲学的論究を指導し方向づける諸原理 ===
「天文学の歴史により例証された哲学的論究を指導し方向づける諸原理」とはスミスの初期の著作である{{sfn|根岸|1983|p=33}}。スミスの死後発見され、青年時代に完成されたものとして『哲学論文集』に所収された{{sfn|アダム・スミス|2012|p=430|訳者解説}}。
スミスは当時の[[自然哲学]]ないし[[自然科学]]の頂点にあった[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[力学]]や[[天文学]]に深い関心と造詣を示しており、本論文において自然科学と道徳哲学の間の類推を行っている{{sfn|根岸|1983|p=33}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=20em}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=アダム・スミス|translator=[[水田洋]]|title=法学講義|year=2005|series=岩波文庫|publisher=岩波書店|isbn=978-4003410585| ref = harv}}
*{{Cite book|和書|author=アダム・スミス|translator=アダム・スミスの会|title=アダム・スミス法学講義|year=2012|publisher=名古屋大学出版会|isbn=978-4-8158-0699-6}}
*{{Cite|和書|first=卓生|last=堂目|author=堂目卓生|authorlink=堂目卓生|title=アダム・スミス-『道徳感情論』と『国富論』の世界|year=2008|series=|publisher=[[中公新書]]|isbn=978-4121019363|}}
*{{Cite|和書|first=達哉|last=坂本|title=社会思想の歴史 マキャベリからロールズまで|year=2014|publisher=名古屋大学出版会|isbn=978-4-8158-0770-2}}
<!--*{{Cite book|和書|author=ジェイムズ・バカン|translator=山岡洋一|title=真説 アダム・スミス-その生涯と思想をたどる|year=2009|publisher=日経BP社|isbn=978-4822247492|}}-->
<!--* {{Cite book|和書|author=西部邁|authorlink=西部邁|year=2004|title=学問|chapter=96 アダム・スミス|publisher=講談社|pages=311-313|isbn=4-06-212369-X}}-->
* {{Citation| 和書
| first = 隆
| last = 根岸
| author-link = 根岸隆
| title = 経済学の歴史
| publisher = 東洋経済新報社
| series = スタンダード経済学シリーズ
| issue = 初版
| year = 1983
| isbn = 978-4492814529
}}
== 関連文献 ==
*{{Cite|和書|first=洋|last=水田|title=アダム・スミス論集|year=2009|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=9784623054787}}
*{{Cite|和書|first=怜|last=山崎|title=アダム・スミス|year=2005|publisher=研究社|isbn=9784327352165}}
*{{Citebook|和書|first=ニコラス|last=フィリップソン|others=永井大輔訳|title=アダム・スミスとその時代|year=2014|publisher=白水社|isbn=9784560083697}}
*ジェシー・ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』村井章子訳、[[早川書房]]、2022年。ISBN 978-4152100856
*『アダム・スミス イギリス思想家書簡集』篠原久・只腰親和・野原慎司訳、[[名古屋大学出版会]]、2022年。ISBN 9784815811075
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Adam Smith}}
* [[道徳情操論]](道徳感情論)
* [[国富論]]
* [[絶対優位]] - アダム・スミスによって提唱された{{要出典|date=2017-3}}。
* [[貨幣経済]]
* [[古典派経済学]]
* [[近代経済学]]
* [[オックスフォード大学の人物一覧]]
* [[石川暎作]] - 日本での最初の『国富論』全訳に着手した(cf. 大河内一男監訳『国富論III』中公文庫、pp.455-458)。
* [[アダム・スミス大学]]
* [[神の見えざる手]]
* [[レッセフェール]]
== 外部リンク ==
* {{PDFlink|[http://www.ibiblio.org/ml/libri/s/SmithA_MoralSentiments_p.pdf The Theory of Moral Semtiments]}} {{en icon}} 「[[道徳情操論]]」原文
* {{PDFlink|[http://www.ibiblio.org/ml/libri/s/SmithA_WealthNations_p.pdf An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations]}} {{en icon}} 「[[国富論]]」原文
* {{Cite book |title=Adam Smith (1723–1790) |url=http://www.econlib.org/library/Enc/bios/Smith.html |work=[[The Concise Encyclopedia of Economics]] |edition=2nd |series=[[Library of Economics and Liberty]] |publisher=[[Liberty Fund]] |year=2008 }}
* [http://www.adamsmith.org/adam-smith/ Adam Smith] at the [[Adam Smith Institute]]
* {{OL author|OL39302A}}
* {{Curlie|Science/Social_Sciences/Economics/People/Smith,_Adam}}
* {{Gutenberg author | id=Smith,+Adam | name=Adam Smith}}
* {{Internet Archive author |name=Adam Smith|sname=Adam Smith |sopt=t}}
* {{Librivox author |id=395}}
* [http://www.earlymoderntexts.com Contains ''The Theory of Moral Sentiments'', slightly modified for easier reading]
* [http://www.treasurytoday.com/asa Adam Smith Awards] at Treasury Today
* [http://mruniversity.com/courses/great-economists-classical-economics-and-its-forerunners ''Wealth of Nations'' lecture by Economist Tyler Cowen], May 2013
* [http://www.theeuropeanlibrary.org/tel4/newspapers/search?query=%22adam%20smith%22 References to Adam Smith in historic European newspapers]
* {{Kotobank|スミス(Adam Smith)}}
{{社会哲学と政治哲学}}
{{経済学}}
{{Normdaten}}
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[[Category:アダム・スミス|*]]
[[Category:18世紀スコットランドの哲学者]]
[[Category:18世紀の論理学者]]
[[Category:18世紀の経済学者]]
[[Category:スコットランドの経済学者]]
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[[Category:エディンバラ王立協会フェロー]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9 |
6,567 | ホアハオ教 | ホアハオ教(ホアハオきょう、ベトナム語:Đạo Hòa Hảo / 道和好)は、ベトナムの仏教系新宗教である。
1939年、教祖のフイン・フー・ソー(ベトナム語版)(黄富楚:1919年 - 1947年)がメコン・デルタの安江省新州鎮にある和好(ホアハオ)村で創立した。正式な名称はホアハオ仏教(ベトナム語:Phật giáo Hòa Hảo / 佛教和好)だが、教祖であるソーの生地の名前を取ってホアハオ教と呼び習わすことが多い。ソーは病人を治す術があると信じられ、メコン・デルタでは50万人の信者をもつといわれるほど急拡大し、仏印進駐の際には日本軍を歓迎した。ソーが1947年にベトミン(ベトナム独立同盟会)に殺害されたこともあって、インドシナ戦争、ベトナム戦争を通じて反共主義を貫いた。このためベトナム統一後は圧迫を受けたが、近年のドイモイ(刷新)政策の一環によって布教も公に認められるようになり、現在では100万から300万の信者がいると言われている。
19世紀頃、メコン・デルタで信仰を集めていた仏教の一派であるブ・ソン・キ・フォン教(ベトナム語版、英語版)(宝山奇香教)の影響が濃く、教義としては仏教を基礎に置くものの『人』となるべく修行するために仏法の修行を位置付けるところは儒教の影響が濃い。また先祖供養や仏と共に自然の神を祀る「トン・ティエン=通天」の祭壇を崇めるなど土着宗教と融合している側面もある。寺院に僧侶を置かず、仏像の代わりに紫色の布を信仰の対象とするのもホアハオ教の特徴である。 | [
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] | ホアハオ教は、ベトナムの仏教系新宗教である。 | '''ホアハオ教'''(ホアハオきょう、{{vie|v='''Đạo Hòa Hảo'''|hn='''道和好'''}})は、[[ベトナム]]の[[仏教]]系[[新宗教]]である。
==概説==
[[1939年]]、[[教祖]]の{{仮リンク|フイン・フー・ソー|vi|Huỳnh Phú Sổ}}(黄富楚:[[1919年]] - [[1947年]])が[[メコン・デルタ]]の[[アンザン省|安江省]][[タンチャウ|新州鎮]]にある和好(ホアハオ)村で創立した。正式な名称は'''ホアハオ仏教'''({{vie|v='''Phật giáo Hòa Hảo'''|hn='''佛教和好'''}})だが、教祖であるソーの生地の名前を取ってホアハオ教と呼び習わすことが多い。ソーは病人を治す術があると信じられ、メコン・デルタでは50万人の信者をもつといわれるほど急拡大し、[[仏印進駐]]の際には[[日本軍]]を歓迎した。ソーが[[1947年]]に[[ベトミン]](ベトナム独立同盟会)に殺害されたこともあって、[[第一次インドシナ戦争|インドシナ戦争]]、[[ベトナム戦争]]を通じて[[反共主義]]を貫いた。このためベトナム統一後は圧迫を受けたが、近年の[[ドイモイ]](刷新)政策の一環によって布教も公に認められるようになり、現在では100万から300万の[[信者]]がいると言われている。
[[19世紀]]頃、メコン・デルタで信仰を集めていた仏教の一派である{{仮リンク|ブ・ソン・キ・フォン教|vi|Đạo Bửu Sơn Kỳ Hương|en|Đạo Bửu Sơn Kỳ Hương}}('''宝山奇香教''')の影響が濃く、[[教義]]としては仏教を基礎に置くものの『人』となるべく修行するために仏法の修行を位置付けるところは[[儒教]]の影響が濃い。また[[先祖供養]]や[[仏]]と共に自然の神を祀る「トン・ティエン=通天」の祭壇を崇めるなど土着宗教と融合している側面もある。[[寺院]]に[[僧|僧侶]]を置かず、[[仏像]]の代わりに紫色の布を信仰の対象とするのもホアハオ教の特徴である。
== 画像 ==
<gallery>
Phật giáo Hòa Hảo.png|ホアハオ教の[[シンボル]]
Duc_huynh_phu_so.jpg|教祖のフイン・フー・ソー
Hoa Hao flag.svg|ホアハオ教団の[[民兵]]が用いた旗([[1939年]] - [[1975年]])
ChândungHuỳnhGiáoChủ.jpg|祭壇に飾られているフイン・フー・ソーの肖像
Tổ đình PGHH.jpg|ホアハオ教の寺院と[[パゴダ]]([[仏塔]])
</gallery>
==関連項目==
*[[カオダイ教]]
==外部リンク==
* [http://hoahao.org/ :: Hoa Hao ::]
* [http://hoahaobuddhism.org/ To Dinh PGHH - PGHH - Prophet Huynh Phu So - hoahaobuddhism.org - phatgiaohoahao.org]
* {{kotobank}}
{{vietnam-stub}}
{{Reli-stub}}
{{新宗教}}
{{Normdaten}}
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[[Category:ベトナムの新宗教]]
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6,568 | 世界宇宙飛行の日 | 世界宇宙飛行の日(せかいうちゅうひこうのひ、英:International Day of Human Space Flight)は、1961年4月12日、世界初の人を乗せた人工衛星ヴォストーク1号がソビエト連邦によって打ち上げられたことを記念する記念日。国際連合総会が2011年4月7日に決議し、4月12日が世界宇宙旅行の日に制定された。
このとき、人類で初めて宇宙に行ったユーリ・ガガーリンの、「地球は青かった」の言葉は、世界に残る名言になっている。
また、NASAのスペースシャトル『コロンビア』の最初のフライトも20年後の1981年4月12日に打ち上げられているが、これは当初の打ち上げ予定から2日延期された結果、偶然4月12日になったものである。 | [
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] | 世界宇宙飛行の日は、1961年4月12日、世界初の人を乗せた人工衛星ヴォストーク1号がソビエト連邦によって打ち上げられたことを記念する記念日。国際連合総会が2011年4月7日に決議し、4月12日が世界宇宙旅行の日に制定された。 このとき、人類で初めて宇宙に行ったユーリ・ガガーリンの、「地球は青かった」の言葉は、世界に残る名言になっている。 また、NASAのスペースシャトル『コロンビア』の最初のフライトも20年後の1981年4月12日に打ち上げられているが、これは当初の打ち上げ予定から2日延期された結果、偶然4月12日になったものである。 | [[File:The Soviet Union 1964 CPA 3014 stamp (Space Exploration. Gagarin and Vostok 1).jpg|thumb|ソ連の切手(1964年)]]
{{出典明記|date=2019-04-13}}
'''世界宇宙飛行の日'''(せかいうちゅうひこうのひ、英:International Day of Human Space Flight)は、[[1961年]][[4月12日]]、世界初の人を乗せた[[人工衛星]][[ヴォストーク1号]]が[[ソビエト連邦]]によって打ち上げられたことを記念する[[記念日]]。[[国際連合総会]]が2011年4月7日に[[国際連合決議|決議]]し、4月12日が世界宇宙旅行の日に制定された<ref>{{Cite web|title=International Day of Human Space Flight|url=https://www.un.org/en/observances/human-spaceflight-day|website=United Nations|accessdate=2020-04-12|language=en|first=United|last=Nations}}</ref>。
このとき、人類で初めて[[宇宙]]に行った[[ユーリ・ガガーリン]]の、「''地球は青かった''」の言葉は、世界に残る名言になっている。
また、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[スペースシャトル]]『[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]』の[[STS-1|最初のフライト]]も20年後の[[1981年]]4月12日に打ち上げられているが、これは当初の打ち上げ予定から2日延期された結果、偶然4月12日になったものである。
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
* [[ユーリーズナイト]]
* [[宇宙飛行士の日]]
* [[日本の記念日一覧]]
{{デフォルトソート:せかいうちゆうひこうのひ}}
[[Category:有人宇宙飛行]]
[[Category:4月の記念日]]
[[Category:国連の日]] | 2003-04-12T05:18:55Z | 2023-09-10T19:45:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E3%81%AE%E6%97%A5 |
6,569 | ボン教 | ボン教(ボンきょう、チベット語: བོན་code: bo is deprecated 〈チベット語ラテン翻字: bon〉、ラサ方言 IPA: [phø̃̀])はチベットの民族宗教である。ポン教(ポンきょう)とも表記・呼称される。
今日においても独自の教団が存在する。
一般のチベット人にとってボン(བོན་, bon)とは、漠然とチベットの仏教伝来以前の土着の宗教を指す場合と、「ユンドゥン・ボン」(གཡུང་དྲུང་བོན་, g.yung drung bon, 永遠のボン)を自称する宗教・宗派を指す場合とがある。文献資料は仏教伝来以後のものしか存在していないが、敦煌文献から8-10世紀のチベットの古代宗教についてある程度研究されている。それによると初期の文献においてボンとは組織的な宗教の呼称ではなく一種の祭司のことを指しており、古代チベット王国(吐蕃)ではボンとシェンという祭司が祭祀を執り行っていた。宗教はチュー(法、慣習)で、ラチュー(lha chos, 神の法)とミチュー(mi chos, 人の法)とが区別されていた。ラチューは時にはボン教、時には仏教のことを指し、後者のミチューが仏教伝来やボン教成立に先行する土着宗教であった。後世の人々はこの古代宗教をボンと呼んだが、仏教布教前のチベット人が古来の祭祀や神話をボンと呼んでいたとは考えにくく、成立宗教としてのボン教は11世紀頃に姿を現し、組織されていったと考えられている。経緯としては760年前後、数十年前に伝来した仏教と古来の祭祀・神話の対立が始まり、840年代のランタルマ王の時代にそうした対立が一因となって吐蕃王朝が滅びる。王家の保護を失った仏教は表面上衰退するが、有力氏族の家系に引き継がれ、11世紀に再び盛んとなる。この時期にボン教の宗教としての整備が進んでいった。11世紀以降に出現した初期のボン教文献は、主としてテルトン(埋蔵教発掘者)によってもたらされたもので、それぞれテルマ(過去に埋蔵されたものをテルトンが再発見したとされる文献)やニェンギュー(snyan brgyud, 口頭伝承を筆記したとされる文献)に分類される。
ボン教徒は、ボン教の中に取り込まれた古いアニミズム宗教である「原始的なボン」、ボン教徒がブッダと崇めるシェンラプ・ミウォが創始した宗教伝統である「ユンドゥン・ボン」、儀礼面で仏教の影響を受けた「新しいボン」とを区別する。ユンドゥン・ポンも用語の面などで仏教の影響を受けているが、ボン教徒は仏教とは異なる独自の思想であることを自負している。
ボン教に古くから伝わる神話によると世界の起源は双子である。宇宙や神、人類などは2つの光線または2つの白い卵と黒い卵から誕生したとされている。白い卵から神と人間の父であるシバ・サンボ・ベンチが生まれ、天と地の神であるシバ・サンボ・ベンチの子孫が、人間になったものを生み出したとされる。黒い卵からは悪魔と破壊の父が生まれた。一部の人達は、これをマニ教の先駆けであるズルワーン教の影響とも考えている。
ユンドゥン・ボン(永遠のボン)は、古代に伝わり、現在まで連綿と続いていると、ボン教徒たち自身によって信じられている宗教である。
その起源は相当古くに遡り、ユンドゥン・ボンはその開祖であるトンパ・シェンラプによってチベット西方のタジク(ペルシア方面のこと)やシャンシュンからもたらされた教えであるとボン教徒は信じている。実際にはボン教とチベット仏教は相互に影響しながら発展してきた歴史があり、それぞれのなかに互いの影響を見てとることができる。
ボン教はその体系を構築する際にインドで発生した仏教の用語を用いたため、チベットの宗教としての独自性のない「剽窃者」の烙印を押されてきた。しかし、その経典の中身をよく見てみると、インド仏教思想の枠の中では収まらないことが明らかになりつつある。またチベット文化の源泉のひとつとして、仏教の中には見当たらない独特の要素をもっていることが指摘されている。こうした事情から今日、ボン教はチベット学や中央アジア史の最も先進的な研究対象のひとつと考えられている。ただし、一般にチベット仏教に由来しない民俗・信仰を「ボン教」としてひとくくりに認識しがちであるが、数ある民間宗教と厳密な意味でのボン教は区別するべきである。
ボン教教団の総本山はメンリ僧院(英語版)(སྨན་རི་、sman ri)。その他にチベット内に存在する主な僧院としては、ユンドゥリン僧院、ナルシ僧院がある。総本山のメンリ僧院は現在、北インドにその機能を移している。
チベット仏教のニンマ派(古派)との相互影響が指摘されている。ゾクチェンという瞑想が伝えられていることも、ニンマ派と共通する点である。両者のゾクチェンの用語は基本的に同じものであるが、その系譜や見解は異なる。
伝承では、チベットの西方にあるという神秘の国オルモ・ルンリン('ol-mo lung-ring)のトンパ・シェンラプを始祖とする。
インド起源の仏教では「右繞」(うにょう)すなわち時計回りに巡って行くことを善しとするが、ボン教には「左繞」(さにょう)すなわち左廻りを善しとする。このようなささいな相違に加え、最も異なるのはその相承系譜である。ボン教とチベット仏教の関係は、いわば「仲の良い双子の兄弟」に例えることが可能である。
「それがチベット語で“チュー”と呼ばれようが、“ボン”と呼ばれようが、ダルマのことを特にボン教徒は宗派の派閥のことだとは思っていない。ダルマとは根源的な真実をそのまま表したもののことであり、時代と歴史を通じて何度も繰り返し述べられてきたもののことなのだ。根源的な真実のことばかりか、永遠の真実のことなのだ。ダルマとはただ単に特定の時代、つまり紀元前6世紀の北インドで生み出されたもののことだけを意味しない」 John Reynolds, Yungdrung Bon, The Eternal Tradition,7. | [
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] | ボン教はチベットの民族宗教である。ポン教(ポンきょう)とも表記・呼称される。 今日においても独自の教団が存在する。 | [[ファイル:Narshi Gonpa Ngawa Sichuan China.jpg|サムネイル|250ピクセル|ボン教寺院(四川省)]]
'''ボン教'''(ボンきょう、{{翻字併記|bo|བོན་|bon}}、ラサ方言 [[国際音声記号|IPA]]: [pʰø̃̀])は[[チベット]]の民族宗教である。'''ポン教'''(ポンきょう)とも表記・呼称される。
今日においても独自の教団が存在する。
== 概説 ==
一般のチベット人にとって'''ボン'''({{Large|བོན་}}, {{ラテン翻字|bo|bon}})とは、漠然とチベットの仏教伝来以前の土着の宗教を指す場合と、「ユンドゥン・ボン」({{Large|གཡུང་དྲུང་བོན་}}, {{ラテン翻字|bo|g.yung drung bon}}, 永遠のボン)を自称する宗教・宗派を指す場合とがある<ref>三宅 2004, p. 230</ref>。文献資料は仏教伝来以後のものしか存在していないが、[[敦煌文献]]から8-10世紀のチベットの古代宗教についてある程度研究されている<ref>エリアーデ & 鶴岡 2000, p. 124.</ref>。それによると初期の文献においてボンとは組織的な宗教の呼称ではなく一種の祭司のことを指しており、古代チベット王国([[吐蕃]])ではボンとシェンという祭司が祭祀を執り行っていた<ref>Van Schaik 2011, p. 24.</ref>。宗教はチュー(法、慣習)で、ラチュー({{ラテン翻字|bo|lha chos}}, 神の法)とミチュー({{ラテン翻字|bo|mi chos}}, 人の法)とが区別されていた。ラチューは時にはボン教、時には仏教のことを指し、後者のミチューが仏教伝来やボン教成立に先行する土着宗教であった<ref>エリアーデ & 鶴岡 2000, p. 125.</ref>。後世の人々はこの古代宗教をボンと呼んだが、仏教布教前のチベット人が古来の祭祀や神話をボンと呼んでいたとは考えにくく、成立宗教としてのボン教は11世紀頃に姿を現し、組織されていったと考えられている。経緯としては760年前後、数十年前に伝来した仏教と古来の祭祀・神話の対立が始まり、840年代のランタルマ王の時代にそうした対立が一因となって吐蕃王朝が滅びる。王家の保護を失った仏教は表面上衰退するが、有力氏族の家系に引き継がれ、11世紀に再び盛んとなる。この時期にボン教の宗教としての整備が進んでいった<ref>Van Schaik 2011, p. 99.</ref>。11世紀以降に出現した初期のボン教文献は、主としてテルトン([[テルマ (宗教)|埋蔵教発掘者]])によってもたらされたもので、それぞれ[[テルマ (宗教)|テルマ]](過去に埋蔵されたものをテルトンが再発見したとされる文献)やニェンギュー({{ラテン翻字|bo|snyan brgyud}}, 口頭伝承を筆記したとされる文献)に分類される。
ボン教徒は、ボン教の中に取り込まれた古い[[アニミズム]]宗教である「原始的なボン」、ボン教徒が[[仏陀|ブッダ]]と崇める[[シェンラプ・ミウォ]]が創始した宗教伝統である「ユンドゥン・ボン」、儀礼面で仏教の影響を受けた「新しいボン」とを区別する<ref>森孝彦 2007, pp. 236-237.</ref>。ユンドゥン・ポンも用語の面などで仏教の影響を受けているが、ボン教徒は仏教とは異なる独自の思想であることを自負している。
ボン教に古くから伝わる神話によると世界の起源は双子である。宇宙や神、人類などは2つの光線または2つの白い卵と黒い卵から誕生したとされている。白い卵から神と人間の父であるシバ・サンボ・ベンチが生まれ、天と地の神であるシバ・サンボ・ベンチの子孫が、人間になったものを生み出したとされる。黒い卵からは悪魔と破壊の父が生まれた。一部の人達は、これを[[マニ教]]の先駆けである[[ズルワーン教]]の影響とも考えている。
== ユンドゥン・ボン ==
{{出典の明記|date=2014年3月|section=1}}
'''ユンドゥン・ボン'''(永遠のボン)は、古代に伝わり、現在まで連綿と続いていると、ボン教徒たち自身によって信じられている宗教である。
=== 起源 ===
その起源は相当古くに遡り、ユンドゥン・ボンはその開祖である[[トンパ・シェンラプ]]によってチベット西方のタジク([[ペルシア]]方面のこと)や[[シャンシュン王国|シャンシュン]]からもたらされた教えであるとボン教徒は信じている。実際にはボン教と[[チベット仏教]]は相互に影響しながら発展してきた歴史があり、それぞれのなかに互いの影響を見てとることができる。
=== 特徴 ===
ボン教はその体系を構築する際に[[インド]]で発生した仏教の用語を用いたため、チベットの宗教としての独自性のない「剽窃者」の烙印を押されてきた。しかし、その経典の中身をよく見てみると、インド仏教思想の枠の中では収まらないことが明らかになりつつある。またチベット文化の源泉のひとつとして、仏教の中には見当たらない独特の要素をもっていることが指摘されている。こうした事情から今日、ボン教はチベット学や中央アジア史の最も先進的な研究対象のひとつと考えられている。ただし、一般にチベット仏教に由来しない[[民俗学|民俗]]・信仰を「ボン教」としてひとくくりに認識しがちであるが、数ある民間宗教と厳密な意味でのボン教は区別するべきである。
ボン教教団の総本山は{{仮リンク|メンリ僧院|en|Menri Monastery}}({{Large|སྨན་རི་}}、{{ラテン翻字|bo|sman ri}})。その他にチベット内に存在する主な僧院としては、ユンドゥリン僧院、ナルシ僧院がある。総本山のメンリ僧院は現在、[[北インド]]にその機能を移している。
[[チベット仏教]]の[[ニンマ派]](古派)との相互影響が指摘されている。[[ゾクチェン]]という瞑想が伝えられていることも、ニンマ派と共通する点である。両者のゾクチェンの用語は基本的に同じものであるが、その系譜や見解は異なる。
[[伝承]]では、チベットの西方にあるという神秘の国オルモ・ルンリン({{Unicode|'ol-mo lung-ring}})の[[トンパ・シェンラプ]]を始祖とする。
インド起源の仏教では「右繞」(うにょう)すなわち時計回りに巡って行くことを善しとするが、ボン教には「左繞」(さにょう)すなわち左廻りを善しとする。このようなささいな相違に加え、最も異なるのはその相承系譜である。ボン教とチベット仏教の関係は、いわば「仲の良い双子の兄弟」に例えることが可能である。
「それがチベット語で“チュー”と呼ばれようが、“ボン”と呼ばれようが、ダルマのことを特にボン教徒は宗派の派閥のことだとは思っていない。ダルマとは根源的な真実をそのまま表したもののことであり、時代と歴史を通じて何度も繰り返し述べられてきたもののことなのだ。根源的な真実のことばかりか、永遠の真実のことなのだ。ダルマとはただ単に特定の時代、つまり紀元前6世紀の北インドで生み出されたもののことだけを意味しない」 John Reynolds, Yungdrung Bon, The Eternal Tradition,7.
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=三宅伸一郎|authorlink=三宅伸一郎 |year=2004 |title=チベットを知るための50章 |others=[[石濱裕美子]]編著 |publisher=[[明石書店]] |chapter=第37章 仏教国で生き続けたマージナルな宗教―ボン教 |isbn=4750318957 }}
*{{Cite book|和書|author1=デイヴィッド・スネルグローヴ (en)|authorlink1=:en:David Snellgrove|author2=ヒュー・リチャードソン (en)|authorlink2=:en:Hugh Edward Richardson|translator=[[奥山直司]] |title=チベット文化史 |year=2003 |publisher=[[春秋社]] |isbn=4393112326}}
*{{Cite book|和書|author=ミルチア・エリアーデ|authorlink=ミルチア・エリアーデ |translator=[[鶴岡賀雄]] |year=2000 |title=世界宗教史6 |publisher=[[筑摩書房]] |series=[[ちくま学芸文庫]] |chapter=第三十九章 チベットの宗教 |isbn=4480085661 }}
*{{Cite book|author=[[:en:Sam van Schaik|Sam van Schaik]] |year=2011 |title=Tibet: A History |publisher=Yale University Press}}
*{{Cite book|和書|author=シャルザ・タシ・ギャルツェン (en)|authorlink=:en:Shardza Tashi Gyaltsen |others=ロポン・テンジン・ナムダク ([[:en:Lopön Tenzin Namdak|en]]) 解説 |translator=[[森孝彦]] |title=智恵のエッセンス: ボン教のゾクチェンの教え |year=2007 |publisher=春秋社 |isbn=9784393135303}}
*{{Cite book|author=Tenzin Namdak |title=Bonpo Dzogchen teachings |year=2006 |publisher=Vajra Publications |isbn=978-99946-720-5-9}}
*{{Cite book|author=Samten Gyaltsen Karmay ([[:en:Samten Gyaltsen Karmay|en]]) |author2=Yoshihiko Nagano ([[長野泰彦]]) |title=The Call of the Blue Cuckoo: An Anthology of Nine Bonpo Texts on Myths and Rituals |year=2002 |publisher=National Museum of Ethnology |isbn=490190602X |series=Senri ethnological reports 32. Bon studies 6}}
*[http://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase/publication/thematic/20090423 『チベット ポン教の神がみ』]、[[国立民族学博物館]]編、千里文化財団、2009年。ISBN 9784915606618。
*{{Cite book|和書|author= 光嶌督|authorlink=光嶌督|year = 1992|title = ボン教学統の研究|publisher = 風響社|isbn = 4938718901}}
== 関連項目 ==
* [[九寨溝]] - 多くの観光客が訪問するボン教地域
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* {{Kotobank}}
* [https://bonjapan.jimdofree.com/{{urlencode:チベットのボン教とは}}/ チベットのボン教とは](箱寺先生のちいさな瞑想教室)
* [http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/thematic/tibet/index 企画展「チベット ポン教の神がみ」]([[国立民族学博物館]])
{{Reli-stub}}
{{チベット関連の項目}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほんきよう}}
[[Category:ボン教|*]]
[[Category:各種の宗教]]
[[Category:チベット文化]]
[[Category:ヒマラヤの宗教]] | 2003-04-12T05:24:14Z | 2023-12-21T15:23:25Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%B3%E6%95%99 |
6,570 | 電撃ゲーム文庫 | 電撃ゲーム文庫(でんげきゲームぶんこ、Dengeki Game Bunko)は、アスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)発行の文庫レーベルである。同社のライトノベル系文庫レーベル・電撃文庫のサブレーベルに当たる。
当初は1994年創刊のテーブルトークRPG関連を主とした文庫レーベルであったが、1997年9月を最後に発売は途絶えてしまう。その後、1999年12月よりコンピュータゲームの小説化を中心に発行されている。この両者は、レーベルの性格や背表紙の色が違っており、同名の別々のレーベルと捉えるのが一般的である。
白抜きの稲妻を円で囲んだロゴと、背表紙が黄色に統一されているのが特徴。TSR(タクティカル・スタディーズ・ルールズ、1997年にウィザーズ・オブ・ザ・コーストに吸収合併)の「ダンジョンズ&ドラゴンズ」やグループSNEの「央華封神RPG」「クリスタニアRPG」のガイドブックやリプレイが中心であった。
テレビゲーム・コンピュータゲーム等を原作とする小説や、ゲームの制作者のインタビューなどが出版されている。電撃文庫から派生し、奥付など基本的なスタイルは電撃文庫と同じだが、青・赤・緑の三色の稲妻を重ねたロゴと、本の背表紙が青いのが特徴。また、一部の女性向けのゲームを扱ったタイトルでは背表紙がピンク色主体とされているものもある。
なお、2007年9月新刊の小説化作品『ななついろ★ドロップス pure!!』が親レーベルの電撃文庫より刊行されており、電撃ゲーム文庫レーベルは縮小傾向にある。『ガンパレード・マーチ 逆襲の刻 極東終戦』(2010年8月)→『探偵オペラ ミルキィホームズ 〜overture〜』(2010年12月)→『ガンパレード・マーチ2K』(2011年3月)と、数か月に1冊という刊行ペースが続いている。 | [
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] | 電撃ゲーム文庫は、アスキー・メディアワークス(旧メディアワークス)発行の文庫レーベルである。同社のライトノベル系文庫レーベル・電撃文庫のサブレーベルに当たる。 当初は1994年創刊のテーブルトークRPG関連を主とした文庫レーベルであったが、1997年9月を最後に発売は途絶えてしまう。その後、1999年12月よりコンピュータゲームの小説化を中心に発行されている。この両者は、レーベルの性格や背表紙の色が違っており、同名の別々のレーベルと捉えるのが一般的である。 | {{出典の明記|date=2020年6月29日 (月) 13:48 (UTC)}}
'''電撃ゲーム文庫'''(でんげきゲームぶんこ、''Dengeki Game Bunko'')は、[[アスキー・メディアワークス]](旧[[メディアワークス]])発行の[[文庫本|文庫]]レーベルである。同社の[[ライトノベル]]系文庫レーベル・[[電撃文庫]]のサブレーベルに当たる。
当初は[[1994年]]創刊の[[テーブルトークRPG]]関連を主とした文庫レーベルであったが、[[1997年]]9月を最後に発売は途絶えてしまう。その後、[[1999年]]12月より[[コンピュータゲーム]]の[[小説化]]を中心に発行されている。この両者は、レーベルの性格や背表紙の色が違っており、同名の別々のレーベルと捉えるのが一般的である。
== 旧・電撃ゲーム文庫(1994 - 1997) ==
白抜きの稲妻を円で囲んだロゴと、背表紙が黄色に統一されているのが特徴。[[TSR (ゲーム出版社)|TSR]](タクティカル・スタディーズ・ルールズ、1997年に[[ウィザーズ・オブ・ザ・コースト]]に吸収合併)の「[[ダンジョンズ&ドラゴンズ]]」や[[グループSNE]]の「[[央華封神RPG]]」「[[クリスタニアRPG]]」のガイドブックや[[リプレイ (TRPG)|リプレイ]]が中心であった。
== 電撃ゲーム文庫(1999 - ) ==
[[テレビゲーム]]・[[コンピュータゲーム]]等を原作とする小説や、ゲームの制作者のインタビューなどが出版されている。[[電撃文庫]]から派生し、奥付など基本的なスタイルは電撃文庫と同じだが、青・赤・緑の三色の稲妻を重ねたロゴと、本の背表紙が青いのが特徴。また、一部の女性向けのゲームを扱ったタイトルでは背表紙がピンク色主体とされているものもある。
なお、[[2007年]]9月新刊の小説化作品『[[ななついろ★ドロップス|ななついろ★ドロップス pure!!]]』が親レーベルの電撃文庫より刊行されており、電撃ゲーム文庫レーベルは縮小傾向にある。『[[高機動幻想ガンパレード・マーチ (小説)|ガンパレード・マーチ 逆襲の刻 極東終戦]]』([[2010年]]8月)→『[[探偵オペラ ミルキィホームズ 〜overture〜]]』(2010年12月)→『ガンパレード・マーチ2K』([[2011年]]3月)と、数か月に1冊という刊行ペースが続いている。
== 関連項目 ==
* [[文庫レーベル一覧]]
{{DEFAULTSORT:てんけきけえむふんこ}}
[[Category:電撃ゲーム文庫|*]]
[[Category:アスキー・メディアワークスの出版物]]
[[Category:KADOKAWAの文庫本|廃]]
[[Category:KADOKAWAのライトノベル|廃]]
[[Category:ライトノベルレーベル|廃]]
[[Category:1994年刊行開始の刊行物]]
[[Category:1997年刊行終了の刊行物]]
[[Category:1999年刊行開始の刊行物]] | 2003-04-12T05:27:04Z | 2023-10-04T08:13:54Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%92%83%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%96%87%E5%BA%AB |
6,571 | 日本の哲学者 | 日本の哲学者(にほんのてつがくしゃ)一覧を姓の50音順に挙げる(日本に在住し日本語で発表・著述する/した外国人哲学者を含む)。 | [
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] | 日本の哲学者(にほんのてつがくしゃ)一覧を姓の50音順に挙げる(日本に在住し日本語で発表・著述する/した外国人哲学者を含む)。 | '''日本の哲学者'''(にほんのてつがくしゃ)一覧を姓の50音順に挙げる(日本に在住し日本語で発表・著述する/した外国人[[哲学]]者を含む)。
==あ行==
*[[赤間啓之]]
*[[浅井茂紀]]
*[[浅野俊哉]]
*[[東浩紀]]
*[[阿部次郎]]
*[[伊藤徹 (哲学者)]]
*[[井上円了]]
*[[井上庄七]]
*[[岩崎武雄]]
*[[石黒ひで]]
*[[市井三郎]]
*[[一ノ瀬正樹]]
*[[井筒俊彦]]
*[[出隆]]
*[[今道友信]]
*[[入不二基義]]
*[[上野修 (哲学者)|上野修]]
*[[鵜飼哲]]
*[[上田閑照]]
*[[上山春平]]
*[[梅原猛]]
*[[梅本克己]]
*[[大西祝]]
*[[大庭健]]
*[[大橋容一郎]]
*[[大峯顕]]
*[[大森荘蔵]]
*[[小川仁志]]
*[[小澤静男]]
*[[小原国芳]]
*[[小原信]]
*[[小浜善信]]
*[[澤瀉久敬]]
==か行==
*[[加國尚志]]
*[[梯明秀]]
*[[片岡一竹]]
*[[加地大介]]
*[[加藤尚武]]
*[[金森修]]
*[[河村次郎]]
*[[川本隆史]]
*[[神崎繁]]
*[[木田元]]
*[[清真人]]
*[[九鬼周造]]
*[[久野収]]
*[[久保陽一]]
*[[桑木厳翼]]
*[[桑木務]]
*[[合田正人]]
*[[小寺慶昭]]
*[[小林紀由]]
*[[高坂正顕]]
*[[高山岩男]]
==さ行==
*[[斎藤忍随]]
*[[左右田喜一郎]]
*[[坂部恵]]
*[[坂本百大]]
*[[志筑忠雄]]
*[[渋谷理江]]
*[[清水正徳 (哲学者)|清水正徳]]
*[[下村寅太郎]]
*[[菅原潤]]
==た行==
*[[高島明]]
*[[高橋里美]]
*[[高橋昌一郎]]
*[[高橋哲哉]]
*[[高橋隆雄]]
*[[高間直道]]
*[[滝浦静雄]]
*[[滝沢克己]]
*[[田口寛治]]
*[[竹内良知]]
*[[竹内芳郎]]
*[[竹田青嗣]]
*[[武市健人]]
*[[田島正樹]]
*[[田中煕]]
*[[田中美知太郎]]
*[[田辺元]]
*[[田畑稔]]
*[[丹治信春]]
*[[手川誠士郎]]
*[[鶴見俊輔]]
*[[円谷裕二]]
*[[アルフォンス・デーケン]]
*[[土屋俊]]
*[[土井虎賀寿]]
*[[戸坂潤]]
*[[朝永三十郎]]
==な行==
*[[永井均]]
*[[中島義道]]
*[[仲正昌樹]]
*[[中村隆文]]
*[[中村元 (哲学者)|中村元]]
*[[中村雄二郎]]
*[[西川富雄]]
*[[西晋一郎]]
*[[西田幾多郎]]
*[[西谷修]]
*[[西谷啓治]]
*[[西潟春輝]][https://www.okinawachaosunion.org/]
*[[新田義弘]]
*[[野家啓一]]
*[[野矢茂樹]]
*[[野田又夫]]
==は行==
*[[橋本峰雄]]
*[[長谷正當]]
*[[服部健二]]
*[[久松真一]]
*[[廣川洋一]]
*[[廣松渉]]
*[[広瀬巌]]
*[[藤沢令夫]]
*[[舩山信一]]
*[[古川賢]]
*[[波多野精一]]
==ま行==
*[[松本寿一]]
*[[三島憲一]]
*[[三木清]]
*[[宮内璋]]
*[[宮本久雄]]
*[[麥谷邦夫]]
*[[務台理作]]
*[[村田純一]]
*[[森信三]]
*[[森岡正博]]
*[[森村修]]
*みしゃーる
==や行==
*[[やすいゆたか]]
*[[山口一郎 (哲学者)|山口一郎]]
*[[山内志朗]]
*[[山口恵照]]
*[[山口和子]]
*[[山本健造]]
*[[山本耕平 (哲学者)|山本耕平]]
*[[山本哲士]]
==ら行==
*[[クラウス・リーゼンフーバー]]
*[[良知力]]
==わ行==
*[[和辻哲郎]]
*[[渡邊二郎]]
*[[鷲田清一]]
*[[渡邊博]] - 科学哲学、科学史。中央大学文学部教授。
==関連項目==
*[[人名一覧]]
**[[思想家一覧]]
*[[科学史#科学史家]]
[[Category:日本の哲学|*てつかくしや]]
[[Category:日本の哲学者|*]]
[[Category:学者の人名一覧|にほんのてつかくしや]] | null | 2023-04-02T06:57:24Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85 |
6,572 | 格子間領域 | 格子間領域(こうしかんりょういき, Interstitial region)あるいは原子間領域とはマフィンティンポテンシャルにおいて、マフィンティン半径の外側(マフィンティン球外)の領域のことである。この領域のポテンシャルは一定値をとる(つまり平ら)。その値は、APW法ではゼロであるが、手法によっては(例:LMTO法)、それ以外の値をとる場合もある。 | [
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] | 格子間領域あるいは原子間領域とはマフィンティンポテンシャルにおいて、マフィンティン半径の外側(マフィンティン球外)の領域のことである。この領域のポテンシャルは一定値をとる(つまり平ら)。その値は、APW法ではゼロであるが、手法によっては、それ以外の値をとる場合もある。 | {{出典の明記|date=2021年4月6日 (火) 11:07 (UTC)}}
'''格子間領域'''(こうしかんりょういき, Interstitial region)あるいは'''原子間領域'''とは[[マフィンティンポテンシャル]]において、[[マフィンティン半径]]の外側(マフィンティン球外)の領域のことである。この領域のポテンシャルは一定値をとる(つまり平ら)。その値は、[[APW法]]ではゼロであるが、手法によっては(例:[[LMTO法]])、それ以外の値をとる場合もある。
== 関連項目 ==
*[[第一原理バンド計算]]
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[[Category:バンド計算]] | null | 2021-04-06T11:07:15Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E5%AD%90%E9%96%93%E9%A0%98%E5%9F%9F |
6,577 | 寿老人 | 寿老人(じゅろうじん)は道教の神仙(神)。中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身とされる。七福神の一柱。
真言(サンスクリット)は、「オン バザラユセイ ソワカ」(普賢菩薩の延命呪と同じ)。
酒を好み頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入る。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。 | [
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'''寿老人'''(じゅろうじん)は[[道教]]の[[仙人|神仙]]([[神]])<ref name="T">真野隆也 『タオの神々』 [[新紀元社]]</ref>。中国の伝説上の人物。[[南極老人]]星([[カノープス]])の化身とされる<ref name="T" />。[[七福神]]の一柱<ref name="T" />。
[[真言]]([[サンスクリット]])は、「オン バザラユセイ ソワカ」([[普賢菩薩]]の延命呪と同じ)。
[[酒]]を好み頭の長い長寿の神とされる<ref name="T" />。[[日本]]では七福神として知られているが、[[福禄寿]]はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は[[猩猩]]が入る<ref>錦織亮介 『天部の仏像事典』 東京美術</ref>。寿老人は不死の[[霊薬]]を含んでいる[[ヒョウタン|瓢箪]]を運び、長寿と自然との調和のシンボルである[[シカ|牡鹿]]を従えている<ref name="T" />。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の[[モモ|桃]]を持っている<ref name="T" />。
== 出典 ==
{{Reflist}}
{{Commonscat|Jurōjin}}
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[[Category:道教の神]]
[[Category:七福神]]
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6,578 | カノープス | カノープス(Canopus)は、りゅうこつ座α星、りゅうこつ座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。太陽を除くとシリウスに次いで全天で2番目に明るい恒星である。
赤緯マイナス52度42分に位置するため、南半球では容易に観測できるが、北半球では原理的には北緯37度18分(=90度-52度42分)度以北では南中時でも地平線の下に隠れて見ることができない。ただし、大気を通るときの屈折があるため、北限はわずかに北上する。日本では東北地方南部より南の地域でしか見ることはできない。角度では可能とされる地域であっても、北緯36度の東京の地表では南の地平線近く2度程度、北緯35度の京都でも3度程度の高さにしか上らず、地上からの光害や、大気を通る距離も長いため全天でシリウスに次いで明るいとは思えないほどに減光して赤くなり、見つけることはより困難となる。本州より南に位置する九州地方では本州よりは高い位置に観測でき、九州南部の鹿児島県鹿児島では6度程度、南西諸島の沖縄県那覇では10度程度の高さまでのぼる。さらに南緯37度18分以南、たとえばオーストラリアのメルボルンなどでは、一年中地平線下に沈むことのない周極星になる。
日本の宇宙探査機「さきがけ」や「すいせい」では、姿勢制御のためのスター・トラッカーの対象としてカノープスが使われた。
カノープスは太陽のおよそ8倍の質量を持つ恒星で、輝巨星または超巨星に分類され、光度は太陽の1万倍かそれ以上に達する。干渉法では半径は太陽のおよそ70倍と測定されている。地球からの距離は約310光年である。かつては200光年から1200光年まで距離の推定値に大きな幅があったが、ヒッパルコス衛星による高精度の年周視差測定から上記の値が得られた。スペクトル型はA9II、F0II、F0Ibなどが与えられている。
カノープスは恒星が寿命末期に辿る進化段階のうちブルーループと呼ばれる段階にある。ブルーループは赤色巨星分枝段階を終えた恒星が漸近巨星分枝に入って再び(広義の)赤色巨星に変化するまでの間に一時的に有効温度が高くなる段階で、太陽質量の数倍以上の質量を持つ恒星でしか見られない現象である。
学名はα Carinae(略称は「α Car」、読み方は「アルファ・カリーナエ」)。固有名のカノープス、カノプス (Canopus) は、古代ギリシャ語の単語の一つで、紀元前2世紀頃にギリシャに伝わった後に翻訳されずに使われた Κανωβος という言葉に由来する。言葉自体にエジプトの影響が見られるとされる。2016年6月30日、国際天文学連合の恒星の固有名に関するワーキンググループは、Canopus をりゅうこつ座α星の固有名として正式に承認した。
カノープスは、トロイア戦争時のスパルタ王メネラーオスの船の水先案内人、操舵手の名に由来するという説がある。ストラボンやコノンの伝えるところによれば、トロイア戦争の後にヘレネーを連れて帰還する途中でメネラーオスの艦隊は難破してしまい、カノープスは辿り着いた先のエジプトで蛇に噛まれて死んだ、とされる。
日本では、房総半島の沿岸部での別名として「布良星」(めらぼし)という呼び名がある。布良は房総半島の南端にある漁港であり、この方向に見える星という意味合いがある。その他にも、南の空にちょっと上ってすぐ沈むので「○○の横着星」(○○には、観測地点よりも少し南の地名が入る)などの呼び名がある。
ヒンドゥー教では、リシ(聖仙)の一人から名を取ってアガスティヤ(Agastya)と呼ぶ。
高度の低さから赤みがかって見えることから、中国の伝説では寿老人の星、南極老人星(なんきょくろうじんせい、七福神の福禄寿と寿老人の原型)とされる。単に老人星、寿星とも言う。また、戦争や騒乱時にはこの星は見えず、天下が泰平になると見えるとの俗信があり、この星が現れると人々は競って幸福と長寿を祈ったという。 | [
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"text": "高度の低さから赤みがかって見えることから、中国の伝説では寿老人の星、南極老人星(なんきょくろうじんせい、七福神の福禄寿と寿老人の原型)とされる。単に老人星、寿星とも言う。また、戦争や騒乱時にはこの星は見えず、天下が泰平になると見えるとの俗信があり、この星が現れると人々は競って幸福と長寿を祈ったという。",
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] | カノープス(Canopus)は、りゅうこつ座α星、りゅうこつ座で最も明るい恒星で全天21の1等星の1つ。太陽を除くとシリウスに次いで全天で2番目に明るい恒星である。 | {{Otheruses|星}}
{{天体 基本
| 幅 =300px
| 色 = 恒星
| 和名 = カノープス{{R|nao_ac|tenmon2014}}、カノプス{{R|Hara}}
| 英名 = [[:en:Canopus|Canopus]]{{R|Kunitzsch|iaucsn}}
| 画像ファイル = Canopus.jpg
| 画像サイズ =280px
| 画像説明 = [[国際宇宙ステーション]]から撮影されたカノープス(2003年2月)
| 画像背景色 =
| 仮符号・別名 = りゅうこつ座α星{{R|simbad}}
| 星座 = [[りゅうこつ座]]
| 視等級 = -0.74{{R|simbad}}
| 視直径 =
| 変光星型 =
| 分類 =
}}
{{天体 位置
| 色 =恒星
| 元期 = [[J2000.0]]{{R|simbad}}
| 赤経 = {{RA|06|23|57.10988}}{{R|simbad}}
| 赤緯 = {{DEC|-52|41|44.3810}}{{R|simbad}}
| 視線速度 =20.30km/s{{R|simbad}}
| 固有運動 = [[赤経]]: 19.93 [[秒 (角度)|ミリ秒]]/年{{R|simbad}}<br />[[赤緯]]: 23.24 [[秒 (角度)|ミリ秒]]/年{{R|simbad}}
| parallax = 10.55
| p_error = 0.56
| parallax_footnote = {{R|simbad}}
| 赤方偏移 = 0.000068{{R|simbad}}
| 絶対等級2 =-5.624
| 星図位置画像 = Carina constellation map.png
| 位置画像left=83.2
| 位置画像top=25.5
| 画像説明 = カノープスの位置
}}
{{天体 物理
| 色 =恒星
| 赤道直径 =
| 直径 =
| 半径 =71 {{±|4}} [[太陽半径|''R''<sub>☉</sub>]]{{R|Cru13}}
| 表面積 =
| 体積 =
| 質量 = 8.0 {{±|0.3}} [[太陽質量|''M''<sub>☉</sub>]]{{R|Cru13}}
| 自転速度 = 8.0 km/s
| スペクトル分類 = A9II{{R|simbad}}, F0II{{R|Dom08}}{{R|Cru13}}, F0Ib{{R|Dom08}}
| 光度 = 10,700 {{±|1,000}} [[太陽光度|L{{sub|⊙}}]]{{R|Cru13}}<ref group="注">出典中の値は常用対数表示で4.03±0.04。</ref>
| 有効温度 = 7,557 {{±|35}} [[ケルビン|K]]{{R|Kov07}}
| 最小表面温度 =
| 平均表面温度 =
| 最大表面温度 =
| 色指数_BV =+0.15{{R|yale}}
| 色指数_UB =+0.10{{R|yale}}
| 色指数_RI =+0.18{{R|yale}}
| 金属量2 =太陽の90%
| 年齢 =
}}
{{天体 別名称
| 色 = 恒星
| 別名称 = 南極老人星<br />布良星、Agastya<br />[[基本星表|FK5]] 245{{R|simbad}}<br />[[ヘンリー・ドレイパーカタログ|HD]] 45348{{R|simbad}}, [[ヒッパルコスカタログ|HIP]] 30438{{R|simbad}}<br />[[輝星星表|HR]] 2326{{R|simbad}}, [[スミソニアン天文台星表|SAO]] 234480{{R|simbad}}
}}
{{天体 終了
| 色 = 恒星
}}
'''カノープス'''{{R|nao_ac|tenmon2014}}({{lang|la|Canopus}})は、'''りゅうこつ座α星'''、[[りゅうこつ座]]で最も明るい[[恒星]]で全天21の[[1等星]]の1つ。[[太陽]]を除くと[[シリウス]]に次いで全天で2番目に明るい恒星である。
== 観測と利用 ==
[[ファイル:Canopus seen from Tokyo.jpg|thumb|left|250px|東京から見たカノープス(2009年12月)]]
[[赤緯]]マイナス52度42分に位置するため、南半球では容易に観測できるが、北半球では原理的には北緯37度18分(=90度-52度42分)度以北では南中時でも地平線の下に隠れて見ることができない。ただし、大気を通るときの屈折があるため、北限はわずかに北上する{{R|astroarts2017}}。日本では[[東北地方]]南部より南の地域でしか見ることはできない。角度では可能とされる地域であっても、北緯36度の[[東京]]の地表では南の[[地平線]]近く2度程度、北緯35度の[[京都]]でも3度程度の高さにしか上らず、地上からの[[光害]]や、[[大気]]を通る距離も長いため全天でシリウスに次いで明るいとは思えないほどに[[減光]]して赤くなり、見つけることはより困難となる。本州より南に位置する[[九州|九州地方]]では[[本州]]よりは高い位置に観測でき、九州南部の[[鹿児島県]][[鹿児島市|鹿児島]]では6度程度、[[南西諸島]]の[[沖縄県]][[那覇市|那覇]]では10度程度の高さまでのぼる。さらに南緯37度18分以南、たとえば[[オーストラリア]]の[[メルボルン]]などでは、一年中地平線下に沈むことのない[[周極星]]になる。
日本の[[宇宙探査機]]「[[さきがけ (探査機)|さきがけ]]」や「[[すいせい]]」では、[[姿勢制御]]のためのスター・トラッカーの対象としてカノープスが使われた{{R|NISHIMURAMATSUO1986}}。
== 天体としての性質 ==
カノープスは太陽のおよそ8倍の質量を持つ恒星で{{R|Cru13}}、[[輝巨星]]または[[超巨星]]に分類され{{R|Dom08}}、光度は太陽の1万倍かそれ以上に達する{{R|Dom08}}{{R|Cru13}}。[[干渉法]]では半径は太陽のおよそ70倍と測定されている{{R|Dom08}}{{R|Cru13}}。[[地球]]からの距離は約310[[光年]]である。かつては200光年から1200光年まで距離の推定値に大きな幅があったが、[[ヒッパルコス衛星]]による高精度の年周視差測定から上記の値が得られた。[[スペクトル分類|スペクトル型]]はA9II{{R|simbad}}、F0II{{R|Dom08}}{{R|Cru13}}、F0Ib{{R|Dom08}}などが与えられている。
カノープスは恒星が寿命末期に辿る[[恒星進化論|進化段階]]のうち[[ブルーループ]]と呼ばれる段階にある{{R|Dom08}}。ブルーループは[[赤色巨星分枝]]段階を終えた恒星が[[漸近巨星分枝]]に入って再び(広義の)[[赤色巨星]]に変化するまでの間に一時的に[[有効温度]]が高くなる段階で、太陽質量の数倍以上の質量を持つ恒星でしか見られない現象である。
== 名称 ==
学名はα Carinae(略称は「α Car」、読み方は「アルファ・カリーナエ」)。固有名の'''カノープス'''{{R|nao_ac|tenmon2014}}、'''カノプス'''{{R|Hara}} ('''Canopus'''{{R|Kunitzsch|iaucsn}}) は、古代ギリシャ語の単語の一つで、紀元前2世紀頃にギリシャに伝わった後に翻訳されずに使われた {{lang|grc|''Κανωβος''}} という言葉に由来する{{R|Kunitzsch}}。言葉自体に[[エジプト]]の影響が見られるとされる{{R|Kunitzsch}}。2016年6月30日、[[国際天文学連合]]の恒星の固有名に関するワーキンググループは、{{lang|la|''Canopus''}} をりゅうこつ座α星の固有名として正式に承認した{{R|iaucsn}}。
カノープスは、[[トロイア戦争]]時の[[スパルタ]]王[[メネラーオス]]の船の[[水先人|水先案内人]]、[[操舵手]]の名に由来するという説がある{{R|Hara|Ridpath}}。[[ストラボン]]や[[コノン (アテナイ)|コノン]]の伝えるところによれば、[[トロイア戦争]]の後に[[ヘレネー]]を連れて帰還する途中でメネラーオスの艦隊は難破してしまい、カノープスは辿り着いた先のエジプトで蛇に噛まれて死んだ、とされる{{R|Ridpath}}。
[[日本]]では、房総半島の沿岸部での別名として「布良星」(めらぼし)という呼び名がある。[[布良]]は房総半島の南端にある漁港であり、この方向に見える星という意味合いがある{{R|Hara}}。その他にも、南の空にちょっと上ってすぐ沈むので「○○の横着星」(○○には、観測地点よりも少し南の地名が入る)などの呼び名がある。
{{Seealso|[[星・星座に関する方言#りゅうこつ座|カノープス(りゅうこつ座)の方言]]}}
[[ヒンドゥー教]]では、[[リシ]](聖仙)の一人から名を取って[[アガスティヤ]]({{lang|skt-latn|Agastya}})と呼ぶ{{R|Allen}}。
=== 南極老人星 ===
{{Main|南極老人}}
高度の低さから赤みがかって見えることから、[[中国]]の伝説では[[寿老人]]の星、'''[[南極老人|南極老人星]]'''(なんきょくろうじんせい、[[七福神]]の[[福禄寿]]と[[寿老人]]の原型)とされる{{R|Hara}}<ref>{{Cite web|和書|title="星に願いを" ~カノープスを見よう~ {{!}} お知らせ |url=http://www.fukuokacity-kagakukan.jp/ |website=福岡市科学館 |accessdate=2022-04-06 |language=ja}}</ref>。単に老人星、寿星とも言う{{R|Hara}}。また、戦争や騒乱時にはこの星は見えず、天下が泰平になると見えるとの[[俗信]]があり、この星が現れると人々は競って幸福と長寿を祈ったという{{R|dokyo1}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em|refs=
<ref name="simbad">{{cite web
| title=Results for NAME CANOPUS
| work=SIMBAD Astronomical Database
| url=https://simbad.u-strasbg.fr/simbad/sim-id?Ident=name+canopus
| accessdate=2021-03-02}}</ref>
<ref name="yale">{{Cite journal
|last1=Hoffleit |first1=D. |last2=Warren |first2=W. H., Jr.
|date=1995-11 |title=Bright Star Catalogue, 5th Revised Ed.
|work=VizieR On-line Data Catalog: V/50 |bibcode=1995yCat.5050....0H|
|url=https://vizier.cds.unistra.fr/viz-bin/VizieR-5?-ref=VIZ5a76628e9487&-out.add=.&-source=V/50/catalog&recno=2326}}</ref>
<ref name="Hara">{{Cite |和書
|author=原恵
|title=星座の神話 - 星座史と星名の意味
|publisher=恒星社厚生閣
|date=2007-02-28
|edition=新装改訂版第4刷
|pages=82-83
|isbn=978-4-7699-0825-8
|ref=harv}}</ref>
<ref name="Kunitzsch">{{Cite book
|author=Paul Kunitzsch
|authorlink=パウル・クーニッチ
|coauthor=Tim Smart
|title=A Dictionary of Modern star Names: A Short Guide to 254 Star Names and Their Derivations
|publisher=Sky Pub. Corp.
|year=2006
|page=25
|isbn=978-1-931559-44-7}}</ref>
<ref name="Allen">{{Cite web
|author=Richard Hinckley Allen
|title=Star Names - Their Lore and Meaning
|publisher=Bill Thayer
|url=http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Gazetteer/Topics/astronomy/_Texts/secondary/ALLSTA/Argo_Navis*.html
|accessdate=2014-12-16}}</ref>
<ref name="Ridpath">{{Cite web
|author=Ian Ridpath
|title=Star Tales - Carina
|url=http://www.ianridpath.com/startales/carina.htm
|accessdate=2014-12-16}}</ref>
<ref name="iaucsn">{{Cite web
|url=https://www.pas.rochester.edu/~emamajek/WGSN/IAU-CSN.txt
|title=IAU Catalog of Star Names
|publisher=[[国際天文学連合]]
|accessdate=2016-12-13}}</ref>
<ref name="astroarts2017">{{Cite web|和書
|url=https://www.astroarts.co.jp/special/2017canopus/index-j.shtml
|title=カノープスを見よう(2017年)
|publisher=[[アストロアーツ]] |accessdate=2017-12-15}}</ref>
<ref name="nao_ac">{{Cite web|和書
|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/stars.html
|title=おもな恒星の名前
|work=こよみ用語解説
|publisher=[[国立天文台]]
|accessdate=2018-11-14}}</ref>
<ref name="dokyo1">{{Cite book
|和書 |last= |first= |author= |year=1992 |title=道教の本 |publisher=[[Gakken|学研]] |page=68 |quote= }}</ref>
<ref name="tenmon2014">{{cite book|和書
|title=天文年鑑2016年版
|publisher=[[誠文堂新光社]]|page=295|date=2015-11-26|isbn=978-4-416-11545-9}}</ref>
<ref name="Dom08">{{cite journal | authors=Dominiciano de Souza, A. et al. |date=2008 |title=Diameter and photospheric structures of Canopus from AMBER/VLTI interferometry | journal=A&A |volume=489 |pages=L5 |bibcode=2008A&A...489L...5D}}</ref>
<ref name="Cru13">{{cite journal | authors=Cruzalebes, P. et al. |date=2013 |title=Fundamental parameters of 16 late-type stars derived from their angular diameter measured with VLTI/AMBER | journal=MNRAS |volume=434 |pages=437 |bibcode=2013MNRAS.434..437C}}</ref>
<ref name="Kov07">{{cite journal | author=Kovtyukh, V. V. |date=2007-05-26 |title=High-precision effective temperatures of 161 FGK supergiants from line-depth ratios | journal=MNRAS |volume=378 |pages=617 |bibcode= |doi=10.1111/j.1365-2966.2007.11804.x}}</ref>
<ref name="NISHIMURAMATSUO1986">{{cite journal
|author1=西村敏充|author2=松尾弘毅|author3=二宮敬虔|author4=上杉邦憲
|title=さきがけ(1985-01-A)」および「すいせい(1985-073-A)」の宇宙航行
|journal=日本航空宇宙学会誌|volume=34|issue=391|year=1986|pages=401-414|issn=0021-4663
|doi=10.2322/jjsass1969.34.401}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[カノプス壺]] 名前の由来が共にトロイア戦争時のスパルタ王メネラーオス王の水先案内人に因む。
* [[明るい恒星の一覧]]
{{一等星}}
{{デフォルトソート:かのふす}}
[[Category:1等星]]
[[Category:りゅうこつ座]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:恒星の固有名]] | 2003-04-12T08:13:28Z | 2023-11-02T02:20:18Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%B9 |
6,579 | 開発途上国 | 開発途上国(かいはつとじょうこく、英: developing country)は、経済発展や工業力などの水準が先進国に比べて低く、経済成長の途上にある国を指す。発展途上国(はってんとじょうこく)、または単に途上国(とじょうこく)とも言われる。一般的には、経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)が作成する「援助受取国・地域リスト」(DACリスト)第I部に記載されている国や地域が該当する。
東南アジア、南アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカ、NIS諸国の国々に多い。近年の急速な経済成長から新興国や新興工業経済地域と称される国がある一方で、後発開発途上国に指定される国もあり、一言で「開発途上国」と称しても国のあり方は多様である。
1970年代以前は、後進国、未開発国などと呼ばれていたが、1980年代頃から開発途上国、もしくは発展途上国という呼び方が一般的になった。呼び方の変更に伴い、低開発国という呼び方も日本では使用されなくなったが、低開発国を意味する英語表現は現在も国際連合ばかりでなく日本の外務省でも英語のままで使用されている。とりわけ、後発開発途上国を区別する文脈の中で用いられる。
開発途上国と一括りにしても大きな差がある。一般的に言われる新興国と後発開発途上国(貧困国)とでは、現況や抱える問題が違い、両者の格差は拡大傾向にある。前者では、先進国の製造業が安価な労働力を求めて進出してきたことにより、国民所得の向上、教育水準の向上が進み、国力を増大させることも多い。それに対して後者では一次産品に強く依存した経済や、戦乱や災害に伴う労働力人口の減少の影響が深刻で、その中でも才知ある人材が他国へ流出していることなど、将来の展望に不安が多い。また開発途上国の中には、人口の急増により、労働力人口に対して十分な雇用を創出できず、失業者や不完全就労者の増加に苦しむ国々も多い。このため社会問題の一角として称されている。
第二次世界大戦が終結して間もない1950年代前半頃までは、アメリカ合衆国およびイギリスやフランスなど西ヨーロッパや北ヨーロッパの一部の国(そのほとんどは戦勝国か中立国であった)を除いて、他の国家はどこも国民所得の水準が低かったと思われる。
また、ヨーロッパにおいては戦勝国であってもその多くが戦火に見舞われたため、自国のインフラストラクチャーの復興に経済の多くを割かれ、アジアやアフリカに持つ植民地の運営を行う余裕を持てなかったことや、これらの植民地の多くも戦火に見舞われ、戦中統治する国がめまぐるしく変わったことなどで、多くの植民地において独立の気運が高まり、戦後まもなくフィリピンやインド、パキスタンなどの多くのアジア諸国が独立を果たした。
この頃は、戦後まもなく独立を果たしたこれらのアジア諸国の平均国民所得より、戦火に見舞われなかった一部のアフリカ諸国(そのほとんどは独立していなかった)の平均国民所得のほうが高かった。
その後、ドイツや日本、イタリアなどの旧枢軸国で急速な経済成長が起きた。続いて1960年代からブラジルやメキシコ、一部の東南アジア諸国などでの経済成長が始まった。またこの頃はアフリカやアジアにおいて宗主国から独立する国が相次いだ。宗主国から独立した植民地諸国だったが、いくつかの国では内戦や同時期に独立を果たした隣国との紛争が勃発し、発展の制約となった。
1970年代、石油危機を境に資源ナショナリズムを強めた産油国が莫大なオイルマネーにより経済発展を遂げた。この頃、対外債務を生成して資本輸入による工業化を図っていたメキシコやブラジルなどが、原材料価格高騰により変調をきたし対外債務問題を発生させた。
対外債務問題は、1970年代末から1980年代初めにアメリカの金融政策により起きた世界的な金利上昇により解決不能となり、途上国諸国(特に南米諸国)は返済計画のリスケジューリングを受け、厳しい再建の時代を迎えた。
一方、直接投資を導入した東アジア・東南アジア諸国は高い経済成長を維持。1980年代に本格化する日本企業の工場移転などで急速に工業化が進んだ。金利を高めに維持して、外資を導入し資本蓄積をすすめる成長システムは世界から注目を集めた。しかし、1990年代半ばにアメリカがドル高政策を行い、同様の成長システムへと転換したことから競合が起き、1997年には大幅な通貨切り下げに見舞われ成長システムは破綻した(アジア通貨危機)。
1970年代始め頃からはソ連の経済成長が鈍化したものと考えられており、東欧の衛星諸国も成長鈍化に見舞われたものと思われる。1980年代末に東欧革命が連続的に起き、欧州を東西に分けていた壁が消滅した時点においては、西欧諸国と決定的に経済格差が生まれていた。
以下のリストは、世界銀行によって開発途上国と評価された国(一部地域)である。
アメリカ合衆国はWTOで「発展途上国」として優遇措置を受けている国家で、メキシコ、韓国、トルコといったG20・OECD加盟国、ブルネイ、香港、クウェート、マカオ、カタール、シンガポール、アラブ首長国連邦の購買力平価ベースで一人当たりの国内総生産で世界トップ10のうち7つ、36中3のOECD諸国を超える対外投資とGDP・軍事費世界2位の中国を実際の経済状況を考慮すると上記12ヵ国・地域という途上国というには豊かなところが発展途上国の優遇で恩恵を受け続けるのは世界貿易に弊害があるので除外するWTOの改革を要求している。アメリカは上記の国・地域をWTOの規則に基づく最も基本的な規則を遵守しないための言い訳として開発途上国の地位を使用していると批判している。
また、中国は国連加盟国の7割も占める発展途上国の投票ブロックであるG77プラス中国を通じて「発展途上国の代表」という立場を利用してWTOなどで国際的な影響力を行使してきたことが指摘されている。 | [
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"text": "また、中国は国連加盟国の7割も占める発展途上国の投票ブロックであるG77プラス中国を通じて「発展途上国の代表」という立場を利用してWTOなどで国際的な影響力を行使してきたことが指摘されている。",
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] | 開発途上国は、経済発展や工業力などの水準が先進国に比べて低く、経済成長の途上にある国を指す。発展途上国(はってんとじょうこく)、または単に途上国(とじょうこく)とも言われる。一般的には、経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)が作成する「援助受取国・地域リスト」(DACリスト)第I部に記載されている国や地域が該当する。 東南アジア、南アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカ、NIS諸国の国々に多い。近年の急速な経済成長から新興国や新興工業経済地域と称される国がある一方で、後発開発途上国に指定される国もあり、一言で「開発途上国」と称しても国のあり方は多様である。 | [[File:IMF advanced economies and UN least developed countries.svg|thumb|300px|[[国際通貨基金]]と[[国際連合]]による分類{{legend|#00B9FA|[[先進国]]}}{{legend|#FFB219|'''開発途上国'''}}{{legend|#FF562F|[[後発開発途上国]]}}{{legend|#B9B9B9|データなし}}]]
'''開発途上国'''(かいはつとじょうこく、{{Lang-en-short|developing country}})は、[[経済発展]]や[[工業]]力などの水準が[[先進国]]に比べて低く、[[経済成長]]の途上にある[[国]]を指す。'''発展途上国'''(はってんとじょうこく)、または単に'''途上国'''(とじょうこく)とも言われる。一般的には、[[経済協力開発機構]](OECD)の[[開発援助委員会]](DAC)が作成する「援助受取国・地域リスト」(DACリスト)第I部に記載されている国や地域が該当する。
[[東南アジア]]、[[南アジア]]、[[中東]]、[[アフリカ]]、[[ラテンアメリカ]]、[[NIS諸国]]の国々に多い。近年の急速な経済成長から'''[[新興国]]'''や'''[[新興工業経済地域]]'''と称される国がある一方で、'''[[後発開発途上国]]'''に指定される国もあり、一言で「開発途上国」と称しても国のあり方は多様である。
== 概要 ==
[[1950年代]]以前は、'''後進国'''<ref group="注釈">{{Lang-en-short|backwards country}}、英語の{{Lang|en|backwards}}には後ろ向きに進む・後退するという意もある。</ref>、'''未開発国'''<ref group="注釈">{{Lang-en-short|undeveloped country}}</ref>などと呼ばれていたが、[[1958年]]に成立した[[第2次岸内閣]]において第7代[[経済企画庁]][[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|長官]]を務めた[[世耕弘一]](後に[[近畿大学]]を創設)が、官僚の作成した[[政府四演説|経済演説]]の草案に対し、「後進国」との表記が相手を見下す印象があったことからこれを別の語に置き換えるよう指示を出し、「低開発国」に修正された<ref>[https://www.sankei.com/article/20190301-2I7X4PBDS5JLZKMWP24YFTCSLM/2/] jpx.co.jp 2023年12月30日閲覧。</ref>。
この問題意識をきっかけとし、[[1980年代]]頃から開発途上国、もしくは発展途上国という呼び方が一般的になった。呼び方の変更に伴い、低開発国という呼び方は[[日本]]では使用されなくなったが、低開発国を意味する英語表現<ref group="注釈">{{Lang-en-short|less developed countries}}</ref>は現在も[[国際連合]]ばかりでなく日本の[[外務省]]でも英語のままで使用されている。とりわけ、後発開発途上国を区別する文脈の中で用いられる。
開発途上国と一括りにしても大きな差がある。一般的に言われる新興国と後発開発途上国([[貧困国]])とでは、現況や抱える問題が違い、両者の格差は拡大傾向にある。前者では、[[先進国]]の[[製造業]]が安価な[[労働]]力を求めて進出してきたことにより、[[国民所得]]の向上、[[教育]]水準の向上が進み、[[国力]]を増大させることも多い。それに対して後者では[[第一次産業|一次産品]]に強く依存した経済や、[[戦乱]]や[[災害]]に伴う労働力人口の減少の影響が深刻で、その中でも[[頭脳流出|才知ある人材が他国へ流出]]していることなど、将来の展望に不安が多い。また開発途上国の中には、[[人口爆発|人口の急増]]により、労働力人口に対して十分な[[雇用]]を創出できず、[[失業者]]や不完全就労者の増加に苦しむ国々も多い。このため[[社会問題]]の一角として称されている。
== 歴史 ==
[[第二次世界大戦]]が終結して間もない[[1950年代]]前半頃までは、[[アメリカ合衆国]]および[[イギリス]]や[[フランス]]など[[西ヨーロッパ]]や[[北ヨーロッパ]]の一部の国(そのほとんどは戦勝国か[[中立国]]であった)を除いて、他の国家はどこも国民所得の水準が低かったと思われる。
また、ヨーロッパにおいては戦勝国であってもその多くが戦火に見舞われたため、自国の[[インフラストラクチャー]]の復興に経済の多くを割かれ、[[アジア]]や[[アフリカ]]に持つ[[植民地]]の運営を行う余裕を持てなかったことや、これらの植民地の多くも戦火に見舞われ、戦中統治する国がめまぐるしく変わったことなどで、多くの植民地において[[独立]]の気運が高まり、戦後まもなく[[フィリピン]]や[[インド]]、[[パキスタン]]などの多くのアジア諸国が独立を果たした。
この頃は、戦後まもなく独立を果たしたこれらのアジア諸国の平均国民所得より、戦火に見舞われなかった一部のアフリカ諸国(そのほとんどは独立していなかった)の平均国民所得のほうが高かった。
その後、[[ドイツ]]や[[日本]]、[[イタリア]]などの旧[[枢軸国]]で急速な経済成長が起きた。続いて[[1960年代]]から[[ブラジル]]や[[メキシコ]]、一部の[[東南アジア]]諸国などでの経済成長が始まった。またこの頃はアフリカやアジアにおいて[[宗主国]]から独立する国が相次いだ。宗主国から独立した植民地諸国だったが、いくつかの国では[[内戦]]や同時期に独立を果たした隣国との紛争が勃発し、発展の制約となった。
1970年代、[[オイルショック|石油危機]]を境に[[資源ナショナリズム]]を強めた[[産油国]]が莫大な[[オイルマネー]]により経済発展を遂げた。この頃、[[対外債務]]を生成して資本輸入による[[工業化]]を図っていたメキシコやブラジルなどが、原材料価格高騰により変調をきたし対外債務問題を発生させた。
対外債務問題は、1970年代末から1980年代初めにアメリカの[[金融政策]]により起きた世界的な金利上昇により解決不能となり、途上国諸国(特に南米諸国)は返済計画のリスケジューリングを受け、厳しい再建の時代を迎えた。
一方、直接投資を導入した[[東アジア]]・[[東南アジア]]諸国は高い経済成長を維持。1980年代に本格化する日本企業の工場移転などで急速に工業化が進んだ。金利を高めに維持して、外資を導入し資本蓄積をすすめる成長システムは世界から注目を集めた。しかし、[[1990年代]]半ばにアメリカがドル高政策を行い、同様の成長システムへと転換したことから競合が起き、[[1997年]]には大幅な通貨切り下げに見舞われ成長システムは破綻した([[アジア通貨危機]])。
1970年代始め頃からはソ連の経済成長が鈍化したものと考えられており、東欧の衛星諸国も成長鈍化に見舞われたものと思われる。1980年代末に[[東欧革命]]が連続的に起き、欧州を東西に分けていた壁が消滅した時点においては、西欧諸国と決定的に経済格差が生まれていた。
== 開発途上国・地域のリスト ==
以下のリストは、[[世界銀行]]によって開発途上国と評価された国(一部地域)である<ref>[http://data.worldbank.org/about/country-classifications/country-and-lending-groups Country and Lending Groups] 世界銀行の公式ホームページ</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:85%"
!地域!!開発途上国・地域
|-
|[[東アジア]]・[[太平洋]]||{{Div col|colwidth=12em}}
* {{Flagicon|American Samoa}} [[アメリカ領サモア]]
* {{Flagicon|Cambodia}} [[カンボジア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国">[[後発開発途上国]]でもある。</ref>
* {{Flagicon|China}} [[中華人民共和国]]
* {{Flagicon|Fiji}} [[フィジー]]
* {{Flagicon|Indonesia}} [[インドネシア]]
* {{Flagicon|Kiribati}} [[キリバス]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|North Korea}} [[朝鮮民主主義人民共和国]]
* {{Flagicon|Laos}} [[ラオス]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Malaysia}} [[マレーシア]]
* {{Flagicon|Marshall Islands}} [[マーシャル諸島]]
* {{Flagicon|Micronesia}} [[ミクロネシア連邦]]
* {{Flagicon|Mongolia}} [[モンゴル国|モンゴル]]
* {{Flagicon|Myanmar}} [[ミャンマー]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Nauru}} [[ナウル]]
* {{Flagicon|Papua New Guinea}} [[パプアニューギニア]]
* {{Flagicon|Philippines}} [[フィリピン]]
* {{Flagicon|Samoa}} [[サモア]]<ref group="注釈">かつて後発開発途上国に指定されていたが、[[2014年]]に指定を解除された。</ref>
* {{Flagicon|Solomon Islands}} [[ソロモン諸島]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Thailand}} [[タイ王国|タイ]]
* {{Flagicon|Timor-Leste}} [[東ティモール]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Tuvalu}} [[ツバル]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Tonga}} [[トンガ]]
* {{Flagicon|Vanuatu}} [[バヌアツ]]<ref group="注釈">かつて後発開発途上国に指定されていたが、[[2020年]]に指定を解除された。</ref>
* {{Flagicon|Vietnam}} [[ベトナム]]
{{Div col end}}
|-
|[[ヨーロッパ]]・[[中央アジア]]||{{Div col|colwidth=12em}}
* {{Flagicon|Albania}} [[アルバニア]]
* {{Flagicon|Armenia}} [[アルメニア]]
* {{Flagicon|Azerbaijan}} [[アゼルバイジャン]]
* {{Flagicon|Belarus}} [[ベラルーシ]]
* {{Flagicon|Bosnia and Herzegovina}} [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]
* {{Flagicon|Bulgaria}} [[ブルガリア]]
* {{Flagicon|Georgia}} [[ジョージア (国)|ジョージア]]
* {{Flagicon|Kazakhstan}} [[カザフスタン]]
* {{Flagicon|Kosovo}} [[コソボ]]
* {{Flagicon|Kyrgyzstan}} [[キルギス]]
* {{Flagicon|Moldova}} [[モルドバ]]
* {{Flagicon|Montenegro}} [[モンテネグロ]]
* {{Flagicon|Macedonia}} [[北マケドニア]]
* {{Flagicon|Romania}} [[ルーマニア]]
* {{Flagicon|Russia}} [[ロシア]]
* {{Flagicon|Serbia}} [[セルビア]]
* {{Flagicon|Tajikistan}} [[タジキスタン]]
* {{Flagicon|Turkey}} [[トルコ]]
* {{Flagicon|Turkmenistan}} [[トルクメニスタン]]
* {{Flagicon|Ukraine}} [[ウクライナ]]
* {{Flagicon|Uzbekistan}} [[ウズベキスタン]]
{{Div col end}}
|-
|[[ラテンアメリカ]]・[[カリブ海地域]]||{{Div col|colwidth=12em}}
* {{Flagicon|Belize}} [[ベリーズ]]
* {{Flagicon|Bolivia}} [[ボリビア]]
* {{Flagicon|Brazil}} [[ブラジル]]
* {{Flagicon|Colombia}} [[コロンビア]]
* {{Flagicon|Costa Rica}} [[コスタリカ]]
* {{Flagicon|Cuba}} [[キューバ]]
* {{Flagicon|Dominica}} [[ドミニカ国]]
* {{Flagicon|Dominican Republic}} [[ドミニカ共和国]]
* {{Flagicon|Ecuador}} [[エクアドル]]
* {{Flagicon|El Salvador}} [[エルサルバドル]]
* {{Flagicon|Grenada}} [[グレナダ]]
* {{Flagicon|Guatemala}} [[グアテマラ]]
* {{Flagicon|Guyana}} [[ガイアナ]]
* {{Flagicon|Haiti}} [[ハイチ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Honduras}} [[ホンジュラス]]
* {{Flagicon|Jamaica}} [[ジャマイカ]]
* {{Flagicon|Mexico}} [[メキシコ]]
* {{Flagicon|Nicaragua}} [[ニカラグア]]
* {{Flagicon|Paraguay}} [[パラグアイ]]
* {{Flagicon|Peru}} [[ペルー]]
* {{Flagicon|Saint Lucia}} [[セントルシア]]
* {{Flagicon|Saint Vincent and the Grenadines}} [[セントビンセント・グレナディーン]]
* {{Flagicon|Suriname}} [[スリナム]]
* {{Flagicon|Venezuela}} [[ベネズエラ]]
{{Div col end}}
|-
|[[中東]]・[[北アフリカ]]||{{Div col|colwidth=12em}}
* {{Flagicon|Algeria}} [[アルジェリア]]
* {{Flagicon|Djibouti}} [[ジブチ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Egypt}} [[エジプト]]
* {{Flagicon|Iran}} [[イラン]]
* {{Flagicon|Iraq}} [[イラク]]
* {{Flagicon|Jordan}} [[ヨルダン]]
* {{Flagicon|Lebanon}} [[レバノン]]
* {{Flagicon|Libya}} [[リビア]]
* {{Flagicon|Morocco}} [[モロッコ]]
* {{Flagicon|Syria}} [[シリア]]
* {{Flagicon|Tunisia}} [[チュニジア]]
* {{Flagicon|Palestine}} [[パレスチナ]]
* {{Flagicon|Yemen}} [[イエメン]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
{{Div col end}}
|-
|[[南アジア]]||{{Div col|colwidth=12em}}
* {{Flagicon|Afghanistan}} [[アフガニスタン]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Bangladesh}} [[バングラデシュ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Bhutan}} [[ブータン]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|India}} [[インド]]
* {{Flagicon|Maldives}} [[モルディブ]]<ref group="注釈">かつて後発開発途上国に指定されていたが、[[2011年]]に指定を解除された。</ref>
* {{Flagicon|Nepal}} [[ネパール]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Pakistan}} [[パキスタン]]
* {{Flagicon|Sri Lanka}} [[スリランカ]]
{{Div col end}}
|-
|[[サブサハラアフリカ]]||{{Div col|colwidth=12em}}
* {{Flagicon|Angola}} [[アンゴラ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Benin}} [[ベナン]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Botswana}} [[ボツワナ]]<ref group="注釈">かつて後発開発途上国に指定されていたが、[[1994年]]に指定を解除された。</ref>
* {{Flagicon|Burkina Faso}} [[ブルキナファソ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Burundi}} [[ブルンジ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Cameroon}} [[カメルーン]]
* {{Flagicon|Cape Verde}} [[カーボベルデ]]<ref group="注釈">かつて後発開発途上国に指定されていたが、[[2007年]]に指定を解除された。</ref>
* {{Flagicon|Central African Republic}} [[中央アフリカ共和国]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Chad}} [[チャド]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Comoros}} [[コモロ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Democratic Republic of the Congo}} [[コンゴ民主共和国]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Congo}} [[コンゴ共和国]]
* {{Flagicon|Côte d'Ivoire}} [[コートジボワール]]
* {{Flagicon|Equatorial Guinea}} [[赤道ギニア]]<ref group="注釈">かつて後発開発途上国に指定されていたが、[[2017年]]に指定を解除された。</ref>
* {{Flagicon|Eritrea}} [[エリトリア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Eswatini}} [[エスワティニ]]
* {{Flagicon|Ethiopia}} [[エチオピア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Gabon}} [[ガボン]]
* {{Flagicon|Gambia}} [[ガンビア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Ghana}} [[ガーナ]]
* {{Flagicon|Guinea}} [[ギニア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Guinea-Bissau}} [[ギニアビサウ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Kenya}} [[ケニア]]
* {{Flagicon|Lesotho}} [[レソト]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Liberia}} [[リベリア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Madagascar}} [[マダガスカル]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Malawi}} [[マラウイ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Mali}} [[マリ共和国|マリ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Mauritania}} [[モーリタニア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Mauritius}} [[モーリシャス]]
* {{Flagicon|Mozambique}} [[モザンビーク]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Namibia}} [[ナミビア]]
* {{Flagicon|Niger}} [[ニジェール]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Nigeria}} [[ナイジェリア]]
* {{Flagicon|Rwanda}} [[ルワンダ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Sao Tome and Principe}} [[サントメ・プリンシペ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Senegal}} [[セネガル]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Sierra Leone}} [[シエラレオネ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Somalia}} [[ソマリア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|South Africa}} [[南アフリカ共和国]]
* {{Flagicon|South Sudan}} [[南スーダン]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Sudan}} [[スーダン]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Tanzania}} [[タンザニア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Togo}} [[トーゴ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Uganda}} [[ウガンダ]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Zambia}} [[ザンビア]]<ref group="注釈" name="後発開発途上国" />
* {{Flagicon|Zimbabwe}} [[ジンバブエ]]
{{Div col end}}
|}
== 問題 ==
アメリカ合衆国はWTOで「発展途上国」として優遇措置を受けている国家で、[[メキシコ]]、[[大韓民国|韓国]]、[[トルコ]]といったG20・[[経済協力開発機構|OECD]]加盟国、[[ブルネイ]]、[[香港]]、[[クウェート]]、[[マカオ]]、[[カタール]]、[[シンガポール]]、[[アラブ首長国連邦]]の購買力平価ベースで一人当たりの[[国内総生産]]で世界トップ10のうち7つ、36中3のOECD諸国を超える対外投資とGDP・軍事費世界2位の[[中華人民共和国|中国]]を実際の経済状況を考慮すると上記12ヵ国・地域という途上国というには豊かなところが発展途上国の優遇で恩恵を受け続けるのは世界貿易に弊害があるので除外するWTOの改革を要求している。アメリカは上記の国・地域をWTOの規則に基づく最も基本的な規則を遵守しないための言い訳として開発途上国の地位を使用していると批判している<ref>{{Cite web|title=Memorandum on Reforming Developing-Country Status in the World Trade Organization|url=https://www.whitehouse.gov/presidential-actions/memorandum-reforming-developing-country-status-world-trade-organization/|website=The White House|accessdate=2019-07-27|language=en-US}}</ref>。
また、中国は国連加盟国の7割も占める発展途上国の投票ブロックである[[G77|G77プラス中国]]を通じて「発展途上国の代表」という立場を利用してWTOなどで国際的な影響力を行使してきたことが指摘されている<ref>Group of 77 and China (2001), “Declaration by the Group of 77 and China on the FourthWTO Ministerial Conference at Doha, Qatar”,Geneva, October 22.</ref><ref>Group of 77 and China (2003), “Declaration by the Group of 77 and China on the FifthWTO Ministerial Conference”</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「発展途上国」中国と「大国」中国|url=http://ieei.or.jp/2010/12/column101215/|website=国際環境経済研究所|accessdate=2019-07-27|language=en-US}}</ref><ref>Gang Chen, China’s Climate Policy (London: Routledge, 2012), p.6.</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[77ヶ国グループ]]
* [[BRICs]]
* [[G15]]
* [[G20]]
* [[NIS諸国]]
* [[第三世界]]
* [[南北問題]]
* [[南南問題]]
* [[新興工業経済地域]](新興工業国)
* [[新興国]]
* [[先進国]]
* [[経済協力開発機構|OECD]]
* [[後発開発途上国]]
* [[内陸開発途上国]]
* [[小島嶼開発途上国]]
* [[開発経済学]]
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20100710032201/http://nantokashinakya.jp/ なんとかしなきゃ!プロジェクト 公式サイト]
* {{PDFlink|[https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jbic/report/handbook/pdf/09.pdf 開発途上国の分類 JICA]}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かいはつとしようこく}}
[[Category:国の分類 (経済システム別)]]
[[Category:国際開発]]
[[Category:経済地理学]]
[[Category:国際援助]]
[[Category:婉曲法]] | 2003-04-12T08:52:42Z | 2023-12-29T16:54:00Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%99%BA%E9%80%94%E4%B8%8A%E5%9B%BD |
6,581 | 桜花賞 | 桜花賞()は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
正賞は内閣総理大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。
中央競馬の牝馬三冠競走(桜花賞・優駿牝馬・秋華賞)の第一関門となっている。また、5着までの馬には優駿牝馬(オークス)の優先出走権が与えられる。
1939年にイギリスの「1000ギニー」を範として、最もスピードのある優秀な牝馬の選定、および優秀な繁殖牝馬を発掘するためのレースとして4歳(現3歳)牝馬限定の競走「中山四歳牝馬特別(なかやまよんさいひんばとくべつ)」を創設。東京優駿競走・阪神優駿牝馬(現:優駿牝馬)・横浜農林省賞典四歳呼馬(現:皐月賞)・京都農林省賞典四歳呼馬(現:菊花賞)とともにクラシック競走のひとつとされた。
太平洋戦争の戦局悪化による中断を経て、戦後の1947年からは名称を「桜花賞」に変更して京都競馬場で施行。1950年から阪神競馬場での施行となり、以降は延期開催時および代替開催時を除き阪神競馬場での施行が定着している。距離は1947年以降1600mで施行しており、コースは2007年以降、前年に新設された外回りコースとなっている。
1995年より指定交流競走とされ、地方競馬所属馬も出走可能になった。2004年から外国産馬も出走可能になり、2010年からは国際競走に指定され、外国馬も出走可能になった。
1984年よりグレード制を導入、GIに格付けされた。しかし当時の格付け表記が国際基準を満たしていなかったため国内限定の格付けとされ、日本がパートI国に昇格した2007年から2009年は「JpnI」に表記を変更。国際競走に指定された2010年より、国際格付のGIに改められた。
以下の内容は、2023年現在のもの。
出走資格:サラ系3歳牝馬(出走可能頭数:最大18頭)
負担重量:定量(55kg)
出馬投票を行った馬のうち優先出走権(次節参照)を持つ馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の多い順に出走できる。
出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる。
JRA所属馬・地方競馬所属馬は、下表のトライアル競走で所定の成績を収めた馬に優先出走権が付与される。
地方競馬所属馬は、上記のほかJRAの2歳GI競走(阪神ジュベナイルフィリーズ・朝日杯フューチュリティステークス・ホープフルステークス)、またはJRAで行われる芝の3歳重賞競走を優勝した馬にも出走資格が与えられる。
2023年の1着賞金は1億3000万円で、以下2着5200万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1300万円。
コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。タイム中のRはレコードタイム。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
競走名は第5回まで「中山四歳牝馬特別」、第6回は「能力検定競走」、第7回以降は「桜花賞」。
競走馬の強さを数値化したものをレーティングと呼ぶ。2001年以降、世界共通の方式によるレーティングが行われ、発表されている。レーティングは各馬の強さを表すほか、競走の上位4着までのレートの平均値を「レースレート」と言い、その競走がどの程度レベルが高いものだったかの指標となる。レースレートの結果によって、その競走の格付けが変動する場合がある。
公表されているレーティングに従うと、2001年から2023年までで最もレベルが高かった年は2021年(113.50)で、最も強い優勝馬は2020年のデアリングタクトと2023年のリバティアイランド(共に116)ということになる。また、最もレベルが低かったのは2015年(105.00)、それにつぐのが2007年(105.25)である。ただし、2007年の優勝馬のレートは111、2015年は112であり、歴代の優勝馬のなかでも上位にはいる。レースのレベルが低かっただけであり、個々の出走馬のレーティングとは異なる。 | [
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"text": "1939年にイギリスの「1000ギニー」を範として、最もスピードのある優秀な牝馬の選定、および優秀な繁殖牝馬を発掘するためのレースとして4歳(現3歳)牝馬限定の競走「中山四歳牝馬特別(なかやまよんさいひんばとくべつ)」を創設。東京優駿競走・阪神優駿牝馬(現:優駿牝馬)・横浜農林省賞典四歳呼馬(現:皐月賞)・京都農林省賞典四歳呼馬(現:菊花賞)とともにクラシック競走のひとつとされた。",
"title": "概要"
},
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"text": "太平洋戦争の戦局悪化による中断を経て、戦後の1947年からは名称を「桜花賞」に変更して京都競馬場で施行。1950年から阪神競馬場での施行となり、以降は延期開催時および代替開催時を除き阪神競馬場での施行が定着している。距離は1947年以降1600mで施行しており、コースは2007年以降、前年に新設された外回りコースとなっている。",
"title": "概要"
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"text": "1995年より指定交流競走とされ、地方競馬所属馬も出走可能になった。2004年から外国産馬も出走可能になり、2010年からは国際競走に指定され、外国馬も出走可能になった。",
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"text": "1984年よりグレード制を導入、GIに格付けされた。しかし当時の格付け表記が国際基準を満たしていなかったため国内限定の格付けとされ、日本がパートI国に昇格した2007年から2009年は「JpnI」に表記を変更。国際競走に指定された2010年より、国際格付のGIに改められた。",
"title": "概要"
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"text": "以下の内容は、2023年現在のもの。",
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"text": "出走資格:サラ系3歳牝馬(出走可能頭数:最大18頭)",
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"text": "負担重量:定量(55kg)",
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"text": "出馬投票を行った馬のうち優先出走権(次節参照)を持つ馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の多い順に出走できる。",
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"text": "出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる。",
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"text": "JRA所属馬・地方競馬所属馬は、下表のトライアル競走で所定の成績を収めた馬に優先出走権が付与される。",
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"text": "地方競馬所属馬は、上記のほかJRAの2歳GI競走(阪神ジュベナイルフィリーズ・朝日杯フューチュリティステークス・ホープフルステークス)、またはJRAで行われる芝の3歳重賞競走を優勝した馬にも出走資格が与えられる。",
"title": "概要"
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"text": "2023年の1着賞金は1億3000万円で、以下2着5200万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1300万円。",
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"text": "コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。タイム中のRはレコードタイム。",
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"text": "優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。",
"title": "歴代優勝馬"
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"text": "競走名は第5回まで「中山四歳牝馬特別」、第6回は「能力検定競走」、第7回以降は「桜花賞」。",
"title": "歴代優勝馬"
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"text": "競走馬の強さを数値化したものをレーティングと呼ぶ。2001年以降、世界共通の方式によるレーティングが行われ、発表されている。レーティングは各馬の強さを表すほか、競走の上位4着までのレートの平均値を「レースレート」と言い、その競走がどの程度レベルが高いものだったかの指標となる。レースレートの結果によって、その競走の格付けが変動する場合がある。",
"title": "桜花賞の記録"
},
{
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"text": "公表されているレーティングに従うと、2001年から2023年までで最もレベルが高かった年は2021年(113.50)で、最も強い優勝馬は2020年のデアリングタクトと2023年のリバティアイランド(共に116)ということになる。また、最もレベルが低かったのは2015年(105.00)、それにつぐのが2007年(105.25)である。ただし、2007年の優勝馬のレートは111、2015年は112であり、歴代の優勝馬のなかでも上位にはいる。レースのレベルが低かっただけであり、個々の出走馬のレーティングとは異なる。",
"title": "桜花賞の記録"
}
] | 桜花賞は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 正賞は内閣総理大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。 | {{Otheruses|日本中央競馬会が施行する桜花賞|その他の桜花賞|桜花賞 (曖昧さ回避)}}
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = {{Nowrap|桜花賞<br>Oka Sho(Japanese 1000 Guineas)<ref name="IFHA"/>}}
|画像 = [[File:Liberty Island Oka Sho 2023(IMG1).jpg|280px]]
|画像説明 = 第83回桜花賞([[2023年]][[4月9日]])<br />優勝馬:[[リバティアイランド]]<br />(鞍上:[[川田将雅]])
|開催国 = {{JPN}}
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|競馬場 = [[阪神競馬場]]
|第一回施行日 =
|創設 = 1939年4月9日
|年次 = 2023
|距離 = 1600m
|格付け = {{GI}}
|1着賞金 = 1億4000万円
|賞金総額 =
|条件 = [[サラブレッド|サラ]]系3歳牝馬(国際)(指定)
|負担重量 = 定量(55kg)
|出典 = <ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin2" />
}}
{{読み仮名|'''桜花賞'''|おうかしょう}}は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[阪神競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。
正賞は[[内閣総理大臣賞]]、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin2" />。
== 概要 ==
中央競馬の[[三冠 (競馬)#3歳|牝馬三冠]]競走(桜花賞・[[優駿牝馬]]・[[秋華賞]])の第一関門となっている<ref name="特別レース名解説" />。また、5着までの馬には[[優駿牝馬]](オークス)の優先出走権が与えられる<ref name="特別レース名解説" />{{Refnest|group=注|2018年から<ref name="result2018" />。2017年までは4着以内の馬に優先出走権が与えられていた<ref name="result2017" />。}}。
1939年にイギリスの「[[1000ギニー]]」を範として、最もスピードのある優秀な牝馬の選定、および優秀な繁殖牝馬を発掘するためのレースとして4歳(現3歳)牝馬限定の競走「'''中山四歳牝馬特別'''(なかやまよんさいひんばとくべつ)」を創設<ref name="JRA注目"/><ref name="nk_rg"/>。[[東京優駿|東京優駿競走]]・阪神優駿牝馬(現:[[優駿牝馬]])・横浜農林省賞典四歳呼馬(現:[[皐月賞]])・京都農林省賞典四歳呼馬(現:[[菊花賞]])とともに[[クラシック (競馬)|クラシック競走]]のひとつとされた。
[[太平洋戦争]]の戦局悪化による中断を経て、戦後の1947年からは名称を「桜花賞」に変更して[[京都競馬場]]で施行<ref name="JRA注目" />。1950年から阪神競馬場での施行<ref name="JRA注目" />となり、以降は延期開催時および代替開催時を除き阪神競馬場での施行が定着している。距離は1947年以降1600mで施行しており、コースは[[2007年]]以降、前年に新設された外回りコースとなっている。
1995年より[[指定交流競走]]とされ、[[地方競馬]]所属馬も出走可能になった<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。2004年から[[外国産馬]]も出走可能になり<ref name="result2004" />、2010年からは[[国際競走]]に指定され、[[外国馬]]も出走可能になった<ref name="result2010" />。
1984年より[[グレード制]]を導入、GI<ref group="注" name="grade">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付けされた。しかし当時の格付け表記が国際基準を満たしていなかったため国内限定の格付けとされ、日本がパートI国に昇格した2007年から2009年は「JpnI」に表記を変更<ref name="result2007" />。国際競走に指定された2010年より、国際格付のGIに改められた<ref name="result2010" />。
=== 競走条件 ===
以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin2" />のもの。
出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]3歳牝馬(出走可能頭数:最大18頭)
* JRA所属馬
* 地方競馬所属馬(後述)
* 外国調教馬
負担重量:定量(55kg){{Refnest|group=注|第2回から第6回は57kgだった。<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />}}
出馬投票を行った馬のうち優先出走権(次節参照)を持つ馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の多い順に出走できる<ref group="注">複数の馬が同じ収得賞金で並び出走制限頭数を超えた場合は、対象となる馬の中から抽選で出走馬を決定する。</ref>。
=== 優先出走権 ===
出馬投票を行った外国馬は、優先出走できる<ref name="一般事項" />。
JRA所属馬・地方競馬所属馬は、下表のトライアル競走で所定の成績を収めた馬に優先出走権が付与される<ref name="一般事項" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!競走名!!格!!競馬場!!距離!!必要な着順
|-
|[[チューリップ賞]]||GII||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝1600m||3着以内
|-
|[[アネモネステークス]]||L||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝1600m||2着以内
|-
|[[フィリーズレビュー]]||GII||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝1400m||3着以内
|}
地方競馬所属馬は、上記のほかJRAの2歳GI競走([[阪神ジュベナイルフィリーズ]]・[[朝日杯フューチュリティステークス]]・[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]])、またはJRAで行われる芝の3歳重賞競走を優勝した馬にも出走資格が与えられる<ref name="ステップ競走" /><ref name="一般事項" />。
=== 賞金 ===
2023年の1着賞金は1億3000万円で、以下2着5200万円、3着3300万円、4着2000万円、5着1300万円<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2023hanshin2" />。
== 歴史 ==
=== 年表 ===
* 1939年 - 4歳牝馬限定の競走「馬事国防献金競走 中山四歳牝馬特別」を創設。中山競馬場・芝1800mで施行<ref name="JRA注目" /><ref>『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』、311頁。</ref>。
* 1944年 - 「能力検定競走」として、東京競馬場・芝1800mで施行、勝馬投票券は発売せず<ref>『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』、316頁。</ref>。
* 1945年 - 太平洋戦争の影響で中止。
* 1947年 - 名称を「'''櫻花󠄁賞'''」に変更、施行場も京都競馬場・芝外回り1600mに変更<ref>『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』、317-327頁</ref><ref name="JRA注目" />。
* 1950年 - 施行場を阪神競馬場・芝1600mに変更<ref name="JRA注目" />。 これ以降、阪神競馬場での施行が定着。
* 1957年 - 名称を「'''桜花賞'''」に変更<ref>『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』、328頁</ref>。
* 1967年 - [[全学共闘会議]]の争議のため、4月最終週に順延し、施行場も京都競馬場に変更。また同じ理由で延期した中山競馬場での皐月賞と同日施行となり、史上初にして史上唯一の同一日での八大競走開催となった<ref group="注">前日には天皇賞・春が京都競馬場で開催されていたので、2日連続で八大競走を同一競馬場で施行していたが、これも史上初でまた史上唯一のことであった。</ref>。
* 1972年 - 流行性[[馬インフルエンザ]]の影響で、5月に順延して施行。
* 1984年 - グレード制導入、GI<ref group="注" name="grade" />に格付け<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。
* 1995年 - [[指定交流競走]]となり、地方所属馬も出走が可能になる。
* 2001年 - [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「3歳牝馬」に変更。
* 2004年 - 外国産馬が出走可能になる<ref name="result2004" />。
* 2007年 - 格付表記をJpnIに変更<ref name="result2007" />。
* 2010年
** [[国際競走]]に指定され、外国調教馬・外国産馬が合わせて最大9頭まで出走可能となる<ref name="result2010" />。
** 格付表記をGI(国際格付)に変更<ref name="result2010" />。
* 2020年 - [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]](COVID-19)の感染拡大防止のため、「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<ref name="jranews040201" />。
* 2021年 - [[ソダシ]]が白毛馬として初の優勝<ref name="result2021" />。
== 歴代優勝馬 ==
コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。タイム中の<span style="color:red">R</span>はレコードタイム。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
競走名は第5回まで「中山四歳牝馬特別」、第6回は「能力検定競走」、第7回以降は「桜花賞」<ref name="JRA注目" />。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||style="white-space:nowrap"|1939年4月9日||中山||1800m||[[ソールレデイ]]||牝3||style="white-space:nowrap"|2:02 4/5||[[石毛彦次郎]]||田村仁三郎||豊島美王麿
|-
|style="text-align:center"|第2回||1940年4月7日||中山||1800m||[[タイレイ]]||牝3||1:56 4/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉|尾形景造]]||[[シンボリ牧場|和田孝一郎]]
|-
|style="text-align:center"|第3回||1941年4月20日||中山||1800m||[[ブランドソール]]||牝3||1:54 2/5||[[阿部正太郎]]||[[田中和一郎]]||[[加藤雄策]]
|-
|style="text-align:center"|第4回||1942年5月3日||中山||1800m||[[バンナーゴール]]||牝3||1:55 4/5||style="white-space:nowrap"|[[宮沢今朝太郎]]||秋山辰治||白岩浅次郎
|-
|style="text-align:center"|第5回||1943年5月9日||中山||1800m||[[ミスセフト]]||牝3||1:55 1/5||[[佐藤勇 (競馬)|佐藤勇]]||[[伊藤勝吉]]||[[小西松太郎]]
|-
|style="text-align:center"|第6回||1944年6月4日||東京||1800m||[[ヤマイワイ]]||牝3||1:55 0/5||[[前田長吉]]||尾形景造||山口勝蔵
|-
|style="text-align:center"|第7回||1947年5月4日||京都||1600m||[[ブラウニー (競走馬)|ブラウニー]]||牝3||1:42 2/5||[[武田文吾]]||[[武輔彦]]||仙石襄
|-
|style="text-align:center"|第8回||1948年5月9日||京都||1600m||[[ハマカゼ]]||牝3||1:41 1/5||[[松本実 (競馬)|松本実]]||[[増本勇]]||相部藤次郎
|-
|style="text-align:center"|第9回||1949年5月1日||京都||1600m||[[ヤシマドオター]]||牝3||1:40 3/5||[[八木沢勝美]]||尾形藤吉||小林庄平
|-
|style="text-align:center"|第10回||1950年5月3日||阪神||1600m||[[トサミツル]]||牝3||1:40 2/5||[[境勝太郎]]||[[星川泉士]]||斉藤健二郎
|-
|style="text-align:center"|第11回||1951年4月22日||阪神||1600m||[[ツキカワ]]||牝3||1:39 1/5||[[清田十一]]||伊藤勝吉||仁木清七
|-
|style="text-align:center"|第12回||1952年4月13日||阪神||1600m||[[スウヰイスー]]||牝3||1:38 3/5||保田隆芳||[[松山吉三郎]]||[[高峰三枝子]]
|-
|style="text-align:center"|第13回||1953年4月19日||阪神||1600m||カンセイ||牝3||1:39 4/5||[[森安弘昭|森安弘明]]||尾形藤吉||川端佳夫
|-
|style="text-align:center"|第14回||1954年4月30日||阪神||1600m||[[ヤマイチ (競走馬)|ヤマイチ]]||牝3||1:40 2/5||八木沢勝美||尾形藤吉||[[永田雅一]]
|-
|style="text-align:center"|第15回||1955年4月10日||阪神||1600m||[[ヤシマベル]]||牝3||1:38 3/5||清田十一||伊藤勝吉||小林庄平
|-
|style="text-align:center"|第16回||1956年3月25日||阪神||1600m||[[ミスリラ]]||牝3||1:40 4/5||[[柴田不二男]]||[[諏訪佐市]]||浅野国次郎
|-
|style="text-align:center"|第17回||1957年3月31日||阪神||1600m||[[ミスオンワード]]||牝3||1:38 4/5||[[栗田勝]]||武田文吾||[[樫山純三]]
|-
|style="text-align:center"|第18回||1958年3月23日||阪神||1600m||[[ホウシユウクイン]]||牝3||1:38 3/5||[[上田三千夫]]||[[上田武司 (競馬)|上田武司]]||[[上田清次郎]]
|-
|style="text-align:center"|第19回||1959年3月29日||阪神||1600m||[[キヨタケ]]||牝3||1:39 3/5||[[蛯名武五郎]]||[[藤本冨良]]||六郎田雅喜
|-
|style="text-align:center"|第20回||1960年3月27日||阪神||1600m||[[トキノキロク]]||牝3||1:40.5||[[杉村一馬]]||[[松田由太郎]]||桶谷辰造
|-
|style="text-align:center"|第21回||1961年4月2日||阪神||1600m||[[スギヒメ]]||牝3||1:38.3||諏訪真||諏訪佐市||小杉咲枝
|-
|style="text-align:center"|第22回||1962年4月1日||阪神||1600m||[[ケンホウ]]||牝3||1:38.9||[[野平好男]]||藤本冨良||長山善建
|-
|style="text-align:center"|第23回||1963年3月31日||阪神||1600m||[[ミスマサコ]]||牝3||1:40.1||[[瀬戸口勉]]||上田武司||上田清次郎
|-
|style="text-align:center"|第24回||1964年4月5日||阪神||1600m||[[カネケヤキ]]||牝3||1:41.1||[[野平祐二]]||[[杉浦照]]||金指吉昭
|-
|style="text-align:center"|第25回||1965年4月4日||阪神||1600m||[[ハツユキ]]||牝3||1:38.5||[[加賀武見]]||[[中村広]]||玉島章子
|-
|style="text-align:center"|第26回||1966年4月10日||阪神||1600m||[[ワカクモ]]||牝3||1:39.5||杉村一馬||杉村政春||[[吉田牧場 (北海道)|吉田一太郎]]
|-
|style="text-align:center"|第27回||1967年4月30日||京都||1600m||[[シーエース]]||牝3||1:38.8||[[高橋成忠]]||[[高橋直]]||藤田宗平
|-
|style="text-align:center"|第28回||1968年4月14日||阪神||1600m||[[コウユウ]]||牝3||1:37.6||[[清水出美]]||星川泉士||高木茂
|-
|style="text-align:center"|第29回||1969年4月13日||阪神||1600m||[[ヒデコトブキ]]||牝3||1:36.6||[[久保敏文]]||[[伊藤修司]]||伊藤英夫
|-
|style="text-align:center"|第30回||1970年4月5日||阪神||1600m||[[タマミ]]||牝3||1:37.9||高橋成忠||[[坂本栄三郎]]||坂本栄蔵
|-
|style="text-align:center"|第31回||1971年4月18日||阪神||1600m||[[ナスノカオリ]]||牝3||1:39.9||[[嶋田功]]||[[稲葉幸夫]]||[[河野洋平|那須野牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第32回||1972年5月21日||阪神||1600m||[[アチーブスター]]||牝3||1:37.6||[[武邦彦]]||[[田之上勲]]||[[山本信行 (馬主)|山本信行]]
|-
|style="text-align:center"|第33回||1973年4月8日||阪神||1600m||[[ニットウチドリ]]||牝3||1:35.4||[[横山富雄]]||八木沢勝美||鎌田三郎
|-
|style="text-align:center"|第34回||1974年4月7日||阪神||1600m||[[タカエノカオリ]]||牝3||1:37.0||武邦彦||[[佐々木猛]]||飛渡三代治
|-
|style="text-align:center"|第35回||1975年4月6日||阪神||1600m||[[テスコガビー]]||牝3||1:34.9||[[菅原泰夫]]||[[仲住芳雄]]||長島忠雄
|-
|style="text-align:center"|第36回||1976年4月11日||阪神||1600m||[[テイタニヤ]]||牝3||1:36.7||嶋田功||稲葉幸夫||原八衛
|-
|style="text-align:center"|第37回||1977年4月10日||阪神||1600m||[[インターグロリア]]||牝3||1:37.5||[[福永洋一]]||[[柳田次男]]||[[松岡正雄]]
|-
|style="text-align:center"|第38回||1978年4月9日||阪神||1600m||[[オヤマテスコ]]||牝3||1:36.9||福永洋一||[[山本正司]]||加藤泰章
|-
|style="text-align:center"|第39回||1979年4月8日||阪神||1600m||[[ホースメンテスコ]]||牝3||1:41.0||[[佐々木晶三]]||[[中村武志 (競馬)|中村武志]]||古橋貞臣
|-
|style="text-align:center"|第40回||1980年4月6日||阪神||1600m||[[ハギノトップレディ]]||牝3||1:36.2||[[上野清章|伊藤清章]]||伊藤修司||[[日隈広吉]]
|-
|style="text-align:center"|第41回||1981年4月5日||阪神||1600m||[[ブロケード]]||牝3||1:41.3||[[柴田政人]]||[[高松邦男]]||[[伊達秀和]]
|-
|style="text-align:center"|第42回||1982年4月11日||阪神||1600m||[[リーゼングロス]]||牝3||1:36.3||[[清水英次]]||[[新関力]]||三島武
|-
|style="text-align:center"|第43回||1983年4月10日||阪神||1600m||[[シャダイソフィア]]||牝3||1:40.5||[[猿橋重利]]||[[渡辺栄]]||[[吉田善哉]]
|-
|style="text-align:center"|第44回||1984年4月8日||阪神||1600m||[[ダイアナソロン]]||牝3||1:36.1||[[田原成貴]]||[[中村好夫]]||大島秀元
|-
|style="text-align:center"|第45回||1985年4月7日||阪神||1600m||[[エルプス]]||牝3||1:36.9||[[木藤隆行]]||[[久恒久夫]]||小畑安雄
|-
|style="text-align:center"|第46回||1986年4月6日||阪神||1600m||[[メジロラモーヌ]]||牝3||1:35.8||[[河内洋]]||[[奥平真治]]||[[メジロ牧場|(有)メジロ牧場]]
|-
|style="text-align:center"|[[第47回桜花賞|'''第47回''']]||1987年4月12日||阪神||1600m||[[マックスビューティ]]||牝3||1:35.1||田原成貴||[[伊藤雄二]]||[[田所祐]]
|-
|style="text-align:center"|第48回||1988年4月10日||阪神||1600m||[[アラホウトク]]||牝3||1:34.8||河内洋||[[庄野穂積]]||(有)アラキファーム
|-
|style="text-align:center"|第49回||1989年4月9日||阪神||1600m||[[シャダイカグラ]]||牝3||1:37.5||[[武豊]]||伊藤雄二||米田茂
|-
|style="text-align:center"|第50回||1990年4月8日||阪神||1600m||[[アグネスフローラ]]||牝3||1:37.1||河内洋||[[長浜博之]]||[[渡辺孝男 (実業家)|渡辺孝男]]
|-
|style="text-align:center"|[[第51回桜花賞|'''第51回''']]||1991年4月7日||京都||1600m||[[シスタートウショウ]]||牝3||1:33.8||[[角田晃一]]||[[鶴留明雄]]||[[藤田正明|トウショウ産業(株)]]
|-
|style="text-align:center"|第52回||1992年4月12日||阪神||1600m||[[ニシノフラワー]]||牝3||1:37.5||河内洋||松田正弘||[[西山正行]]
|-
|style="text-align:center"|第53回||1993年4月11日||阪神||1600m||[[ベガ (競走馬)|ベガ]]||牝3||1:37.2||武豊||[[松田博資]]||[[吉田和子 (社台グループ)|吉田和子]]
|-
|style="text-align:center"|第54回||1994年4月10日||阪神||1600m||[[オグリローマン]]||牝3||1:36.4||武豊||瀬戸口勉||[[小栗孝一]]
|-
|style="text-align:center"|第55回||1995年4月9日||京都||1600m||[[ワンダーパヒューム]]||牝3||1:34.4||田原成貴||[[領家政蔵]]||山本信行
|-
|style="text-align:center"|第56回||1996年4月7日||阪神||1600m||[[ファイトガリバー]]||牝3||1:34.4||田原成貴||[[中尾謙太郎]]||品川昇
|-
|style="text-align:center"|第57回||1997年4月6日||阪神||1600m||[[キョウエイマーチ]]||牝3||1:36.9||[[松永幹夫]]||[[野村彰彦]]||松岡留枝
|-
|style="text-align:center"|第58回||1998年4月12日||阪神||1600m||[[ファレノプシス (競走馬)|ファレノプシス]]||牝3||1:34.0||武豊||[[浜田光正]]||[[ノースヒルズ|(有)ノースヒルズマネジメント]]
|-
|style="text-align:center"|第59回||1999年4月11日||阪神||1600m||[[プリモディーネ]]||牝3||1:35.5||[[福永祐一]]||[[西橋豊治]]||伊達秀和
|-
|style="text-align:center"|第60回||2000年4月9日||阪神||1600m||[[チアズグレイス]]||牝3||1:34.9||松永幹夫||[[山内研二]]||北村キヨ子
|-
|style="text-align:center"|第61回||2001年4月8日||阪神||1600m||[[テイエムオーシャン]]||牝3||1:34.4||[[本田優]]||[[西浦勝一]]||[[竹園正繼]]
|-
|style="text-align:center"|第62回||2002年4月7日||阪神||1600m||[[アローキャリー]]||牝3||1:34.3||[[池添謙一]]||山内研二||矢野秀春
|-
|style="text-align:center"|第63回||2003年4月13日||阪神||1600m||[[スティルインラブ]]||牝3||1:33.9||[[幸英明]]||[[松元省一]]||(有)ノースヒルズマネジメント
|-
|style="text-align:center"|第64回||2004年4月11日||阪神||1600m||[[ダンスインザムード]]||牝3||1:33.6||武豊||[[藤沢和雄]]||[[社台レースホース|(有)社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center"|第65回||2005年4月10日||阪神||1600m||[[ラインクラフト]]||牝3||1:33.5||福永祐一||瀬戸口勉||[[大澤繁昌]]
|-
|style="text-align:center"|第66回||2006年4月9日||阪神||1600m||[[キストゥヘヴン]]||牝3||1:34.6||[[安藤勝己]]||[[戸田博文]]||吉田和子
|-
|style="text-align:center"|第67回||2007年4月8日||阪神||1600m||[[ダイワスカーレット]]||牝3||1:33.7||安藤勝己||[[松田国英]]||[[大城敬三]]
|-
|style="text-align:center"|第68回||2008年4月13日||阪神||1600m||[[レジネッタ]]||牝3||1:34.4||[[小牧太]]||[[浅見秀一]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|第69回||2009年4月12日||阪神||1600m||[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]||牝3||1:34.0||安藤勝己||松田博資||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第70回||2010年4月11日||阪神||1600m||[[アパパネ]]||牝3||1:33.3||[[蛯名正義]]||[[国枝栄]]||[[金子真人|金子真人ホールディングス(株)]]
|-
|style="text-align:center"|第71回||2011年4月10日||阪神||1600m||[[マルセリーナ]]||牝3||1:33.9||安藤勝己||松田博資||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|第72回||2012年4月8日||style="white-space:nowrap"|阪神||1600m||[[ジェンティルドンナ]]||牝3||1:34.6||[[岩田康誠]]||[[石坂正]]||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第73回||2013年4月7日||阪神||1600m||[[アユサン]]||牝3||1:35.0||[[クリスチャン・デムーロ|C.デムーロ]]||[[手塚貴久]]||[[星野壽市]]
|-
|style="text-align:center"|第74回||2014年4月13日||阪神||1600m||[[ハープスター]]||牝3||1:33.3||[[川田将雅]]||松田博資||[[キャロットファーム|(有)キャロットファーム]]
|-
|style="text-align:center"|第75回||2015年4月12日||阪神||1600m||[[レッツゴードンキ]]||牝3||1:36.0||岩田康誠||[[梅田智之]]||[[廣崎利洋]]
|-
|style="text-align:center"|第76回||2016年4月10日||阪神||1600m||[[ジュエラー]]||牝3||1:33.4||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[藤岡健一]]||[[青山洋一]]
|-
|style="text-align:center"|第77回||2017年4月9日||阪神||1600m||[[レーヌミノル]]||牝3||1:34.5||池添謙一||[[本田優]]||[[吉岡實]]
|-
|style="text-align:center"|第78回||2018年4月8日||阪神||1600m||[[アーモンドアイ]]||牝3||1:33.1||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||国枝栄||(有)[[シルクレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第79回||2019年4月7日||阪神||1600m||[[グランアレグリア]]||牝3||1:32.7||C.ルメール||[[藤沢和雄]]||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第80回||2020年4月12日||阪神||1600m||[[デアリングタクト]]||牝3||1:36.1||[[松山弘平]]||[[杉山晴紀]]||(株)[[ノルマンディーサラブレッドレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第81回||2021年4月11日||阪神||1600m||[[ソダシ]]||牝3||<span style="color:red">R1:31.1</span>||[[吉田隼人 (競馬)|吉田隼人]]||[[須貝尚介]]||金子真人ホールディングス(株)
|-
|style="text-align:center"|第82回||2022年4月10日||阪神||1600m||[[スターズオンアース]]||牝3||1:32.9||川田将雅||[[高柳瑞樹]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|'''[[第83回桜花賞|第83回]]'''||2023年4月9日||阪神||1600m||[[リバティアイランド]]||牝3||1:32.1||川田将雅||[[中内田充正]]||(有)サンデーレーシング
|}
== 桜花賞の記録 ==
* レースレコード - 1:31.1(第81回優勝馬ソダシ)<ref name="レースレコード" />
** 優勝タイム最遅記録 - 1:42 2/5(第7回優勝馬ブラウニー)<ref>阪神移転後は1:41.3(第41回優勝馬ブロゲート)、グレード制導入後は1:37.5(第49回優勝馬シャダイカグラ、第52回優勝馬ニシノフラワー)</ref>
* 最多優勝騎手 - 5勝
** 武豊(第49回・第53回・第54回・第58回・第64回)
* 同一騎手の最多連覇記録 - 2連覇(過去6名)
** 福永洋一(第37回・第38回)
** 武豊(第53回・第54回)
** 田原成貴(第55回・第56回)
** 安藤勝己(第66回・第67回)
** クリストフ・ルメール(第78回・第79回)
** 川田将雅(第82回・第83回)
* 最多優勝調教師 - 5勝
** 尾形藤吉(第2回・第6回・第9回・第13回・第14回)
* 同一調教師の最多連覇記録 - 2連覇
** 尾形藤吉(第13回・第14回)
* 最多優勝馬主 - 4勝
**(有)社台レースホース(第64回・第68回・第71回・第82回)、(有)サンデーレーシング(第69回・第72回・第79回・第83回)
* 最多勝利種牡馬 - 5勝
** [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](第71回・第72回・第73回・第74回・第79回)
=== レーティング ===
競走馬の強さを数値化したものをレーティングと呼ぶ。2001年以降、世界共通の方式によるレーティングが行われ、発表されている。レーティングは各馬の強さを表すほか、競走の上位4着までのレートの平均値を「レースレート」と言い、その競走がどの程度レベルが高いものだったかの指標となる。レースレートの結果によって、その競走の格付けが変動する場合がある。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!年次!!レースレート!!優勝馬レート!!出典
|-
|2001||106.00||111||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2001/april.html#3 |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2002||106.00||109||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2002/april.html#2 |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2003||105.75||109||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2003/april.html#9 |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2004||105.50||111||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2004/april.html#7 |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2005||107.00||109||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2005/april.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2006||106.00||108||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2006/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2007||105.25||111||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2007/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2008||106.50||107||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2008/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2009||107.75||112||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2009/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2010||107.75||110||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2010/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2011||107.25||110||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2011/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2012||107.75||110||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2012/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2013||106.75||110||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2013/04-g1.html|title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2014||110.50||113||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2014/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2015||105.00||112||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2015/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2016||109.00||112||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2016/04-g1.html |title=重賞競走・オープン特別競走レーティング(JRA・地方)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2017||111.00||112||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2017/04-g1.html |title=2017年4月GI 重賞競走・オープン特別競走レーティング|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2018||110.50||115||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2018/04-g1.html |title=2018年4月GI 重賞競走・オープン特別競走レーティング|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2019||111.25||115||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2019/04-g1.html |title=2019年4月GI 重賞競走・オープン特別競走レーティング|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2020||110.25||'''116'''||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2020/04-g1.html |title=2020年4月GI 重賞競走・オープン特別競走レーティング|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2021||'''113.50'''||115||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2021/04-g1.html |title=2021年4月GI 重賞競走・オープン特別競走レーティング|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月3日}}</ref>
|-
|2022||110.75||112||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2022/04-g1.html |title=2022年4月GI 重賞競走・オープン特別競走レーティング|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年4月18日}}</ref>
|-
|2023||112.50||'''116'''||<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/ranking/jyusyo/2023/04-g1.html |title=2023年4月GI 重賞競走・オープン特別競走レーティング|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年4月13日}}</ref>
|}
公表されているレーティングに従うと、2001年から2023年までで最もレベルが高かった年は2021年(113.50)で、最も強い優勝馬は2020年の[[デアリングタクト]]と2023年の[[リバティアイランド]](共に116)ということになる。また、最もレベルが低かったのは2015年(105.00)、それにつぐのが2007年(105.25)である。ただし、2007年の優勝馬のレートは111、2015年は112であり、歴代の優勝馬のなかでも上位にはいる。レースのレベルが低かっただけであり、個々の出走馬のレーティングとは異なる。
== フォトギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Fight Galiver 19960407.jpg|1996年優勝馬[[ファイトガリバー]]
ファイル:The 69th Oka Sho 20090412.jpg|2009年優勝馬[[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]
ファイル:The 70th OKa Sho 20100411R1.jpg|2010年優勝馬[[アパパネ]]
ファイル:Marcellina20110410.jpg|2011年優勝馬[[マルセリーナ]]
ファイル:Gentildonna20120408(1).jpg|2012年優勝馬[[ジェンティルドンナ]]
ファイル:Ayusan-20130407.JPG|2013年優勝馬[[アユサン]]
ファイル:Harp-Star Ouka-Sho 2014(IMG2).jpg|2014年優勝馬[[ハープスター]]
File:Let's-Go-Donki Ouka-Sho 2015(IMG1).jpg|2015年優勝馬[[レッツゴードンキ]]
File:Jeweler Ouka Sho 2016(IMG1).jpg|2016年優勝馬[[ジュエラー]]
file:Reine Minoru Ouka Sho 2017(IMG1).jpg|2017年優勝馬[[レーヌミノル]]
File:Almond Eye Ouka Sho 2018(IMG1).jpg|2018年優勝馬[[アーモンドアイ]]
File:Gran Alegria Ouka Syo 2019.jpg|2019年優勝馬[[グランアレグリア]]
File:Sodashi Ouka Sho 2021(IMG1).jpg|2021年優勝馬[[ソダシ]]
File:Stars on Earth Oka Sho 2022 (IMG1).jpg|2022年優勝馬[[スターズオンアース]]
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞競走成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会 |year=1996 |chapter=桜花賞 |pages=309-405 |ref=中央競馬全重賞競走成績集}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="IFHA">{{Cite web|url=https://www.ifhaonline.org/default.asp?section=Racing&area=8&racepid=75608 |title=Oka Sho– Japanese One Thousand Guineas|publisher=IFHA(国際競馬統括機関連盟)|accessdate=2022年3月29日}}</ref>
<ref name="nk_rg">{{Cite web|和書|url=http://race.netkeiba.com/?pid=special&id=0042 |title=桜花賞レースガイド|work=netkeiba.com|accessdate=2014年7月2日}}</ref>
<ref name="jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kansai.pdf#page=13 |title=重賞競走一覧(レース別・関西)|page=13|year=2023|publisher=[[日本中央競馬会]]|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023hanshin2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/hanshin2.pdf |title=令和5年第2回阪神競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0408_1/race.html |title=レースについて:桜花賞 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0209.pdf#page=4 |title=2023年度第2回阪神競馬特別レース名解説|page=4|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="ステップ競走">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/kakuchi.pdf |title=[地]が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和5年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=競馬番組一般事項|publisher=日本中央競馬会|year=2023|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="中央競馬全重賞競走成績集">『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』</ref>
<ref name="result2004">[[#JRA年度別全成績2004|2004年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="result2007">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2han.pdf#page=80 |title=第2回 阪神競馬成績集計表|year=2007|publisher=日本中央競馬会|pages=1046-1071|accessdate=2016年4月4日}}(索引番号:09071)</ref>
<ref name="result2010">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2han.pdf#page=80 |title=第2回 阪神競馬成績集計表|year=2010|publisher=日本中央競馬会|pages=1084-1086|accessdate=2016年4月4日}}(索引番号:09070)</ref>
<ref name="result2017">[[#JRA年度別全成績2017|2017年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="result2018">[[#JRA年度別全成績2018|2018年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="result2021">[[#JRA年度別全成績2021|2021年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="レースレコード">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/record/gi.html |title=中央競馬レコードタイム GIレース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年4月12日}}</ref>
<ref name="jranews040201">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202004/040201.html |title=4月19日(日曜)までの中央競馬の開催等について|publisher=日本中央競馬会|date=2020年4月2日|accessdate=2020年6月18日}}</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* 『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』第1回{{~}}第55回
* JRA年度別全成績
** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-2hanshin6.pdf#page=6 |title=第2回 阪神競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2023年4月12日|ref=JRA年度別全成績2023}}(索引番号:09071)
** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-2hanshin6.pdf#page=6 |title=第2回 阪神競馬 第6日|publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2022年4月12日|ref=JRA年度別全成績2022}}(索引番号:09071)
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** (2004年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/2-han.pdf#page=80 |title=第2回 阪神競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|pages=1074-1075|accessdate=2016年4月4日|ref=JRA年度別全成績2004}}(索引番号:09071)
** (2003年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/2-han.pdf#page=81 |title=第2回 阪神競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|pages=1069-1070|accessdate=2016年4月4日}}(索引番号:09071)
** (2002年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/2-han.pdf#page=79 |title=第2回 阪神競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|pages=1033-1034|accessdate=2016年4月4日}}(索引番号:09071)
* 『優駿』1990年4月号、69頁 発行:日本中央競馬会(1939年 - 1989年)
* 『日本の競馬 総合ハンドブック2013』 51頁 発行:一般社団法人中央競馬振興会(1939年 - 2012年、馬主名義除く)
* netkeiba.comより(最新閲覧日 2023年4月12日)
** {{Netkeiba-raceresult|1986|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1987|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1988|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1989|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1990|09030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1991|08030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|09030610}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|08040610}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|09020610}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|09020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|09020611}}
* JBISサーチより(最新閲覧日 2017年4月10日)
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== 関連項目 ==
* [[中央競馬クラシック三冠]]
* [[中央競馬クラシック競走優勝馬一覧]]
*[[忘れな草賞]](桜花賞を目指して調整してきたものの、出走に必要な獲得賞金が足りず、この競走に出走する陣営が多かったことから、「残念桜花賞」の俗称がある。)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Oka Sho}}
* [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0409_1/ データ分析:桜花賞 今週の注目レース] - 日本中央競馬会
{{中央競馬の重賞競走}}
{{八大競走}}
{{アメリカ競馬三冠}}
{{デフォルトソート:おうかしよう}}
[[Category:桜花賞|*]]
[[Category:阪神競馬場の競走]]
[[Category:1939年開始のイベント]] | 2003-04-12T09:10:24Z | 2023-12-13T17:57:09Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1%E8%B3%9E |
6,582 | 中山グランドジャンプ | 中山グランドジャンプ(なかやまグランドジャンプ)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(J・GI)である。競馬番組表での名称は「農林水産省賞典 中山グランドジャンプ (のうりんすいさんしょうしょうてん なかやまグランドジャンプ)」と表記される。略称は「中山GJ」。
正賞は農林水産大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。
当時の中山競馬倶楽部理事長であった肥田金一郎が、東京優駿 (日本ダービー)に匹敵する中山競馬場の名物レースを開催する目的で1934年12月に「大障害特別」を創設、これが本競走の前身である。第2回から春・秋の年2回施行となった。
その後、度重なる名称変更を経て1948年秋より「中山大障害」の名称で定着していたが、1999年に障害競走改革の一環としてグレード制が導入された際、中山大障害 (春)がリニューアルされ現名称となり、あわせて最高峰のJ・GIに格付けされた。第1回の距離は中山大障害と同じ芝4100mだったが、第3回より芝4250mに変更され、現在に至る。
2000年から2010年までは国際招待競走であったが、2011年より国際競走へ変更され、JRAによる招待および費用の負担は廃止された。
2023年現在、障害重賞競走では唯一第11競走(メインレース)で施行される競走となっている。
以下の内容は、2023年現在のもの。
出走資格:サラ系障害4歳以上 (出走可能頭数:最大16頭)
負担重量:定量 (4歳62kg、5歳以上63kg、牝馬2kg減)
外国馬を除く出馬投票を行った馬から「通算の収得賞金」+「過去1年の収得賞金」+「過去2年のJ・GI競走の収得賞金」の大きい順に出走馬を決定する。
2023年の1着賞金は6600万円で、以下2着2600万円、3着1700万円、4着990万円、5着660万円。
中山競馬場の障害コース・襷コース (大障害コース)を周回し、直線は芝コースを使用。全体の距離は4250m。
第3コーナー付近からスタートし、まず順回りで4分の3周(この間に4回の飛越と1回の昇り降りがある)。向正面から年に2回しか使われない大障害コースに入り、大竹柵を飛越して逆回りに変わる。第4コーナーから第3コーナーを通って(1回ずつの飛越と昇り降りがある)再び大障害コースに入り、大生垣を飛越。再び順回りに戻る。ここまでは中山大障害と同じコースであるが、第2コーナーを過ぎた向正面から中山大障害と異なり芝外回りコースに進入し、第3コーナーにかけての2つと最後の直線に1つ設けられた障害を飛越してゴールする。
中山競馬場の襷コースは「大障害コース」とも呼ばれ、大竹柵と大生垣の障害が設けられている。大障害コースは本競走と中山大障害の時のみ使用され、他の障害に比べ幅・高さともに大きい。
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] | 中山グランドジャンプ(なかやまグランドジャンプ)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(J・GI)である。競馬番組表での名称は「農林水産省賞典 中山グランドジャンプ」と表記される。略称は「中山GJ」。 正賞は農林水産大臣賞、日本馬主協会連合会会長賞。 | {{競馬の競走
|馬場 = 障害
|競走名 = 中山グランドジャンプ<br>{{Lang|en|Nakayama Grand Jump}}
|画像 = [[File:第25回(2023年) 中山グランドジャンプ.jpg|300px]]
|画像説明 = 第25回中山グランドジャンプ<br />優勝馬:イロゴトシ <br />鞍上:[[黒岩悠]]
|開催国 = {{JPN}}
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|開催地 = [[中山競馬場]]
|創設 = 1999年4月11日<ref>[http://db.netkeiba.com/?pid=race_list&word=%5E%C3%E6%BB%B3%A5%B0%A5%E9%A5%F3%A5%C9%A5%B8%A5%E3%A5%F3%A5%D7 netkeiba.com・レース詳細検索/中山グランドジャンプ]</ref>
|年次 = 2023
|距離 = 芝4250m
|格付け = J・GI
|1着賞金 = 6600万円
|賞金総額 =
|条件 = [[サラブレッド|サラ]]系障害4歳以上 (国際)
|負担重量 = {{Nowrap|定量 (4歳62kg、5歳以上63kg、牝馬2kg減)}}
|出典 = <ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama3" />
}}
'''中山グランドジャンプ'''(なかやまグランドジャンプ)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[中山競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け#サラブレッド系種の平地競走以外の格付け|J・GI]])である。競馬番組表での名称は「'''[[農林水産大臣賞典|農林水産省賞典]] 中山グランドジャンプ''' (のうりんすいさんしょうしょうてん なかやまグランドジャンプ)」と表記される<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama3" />。略称は「中山GJ」<ref>{{Cite web|和書|title=【本日の注目ポイント】オジュウチョウサンが中山GJの5連覇に挑む {{!}} 最新競馬ニュース|url=https://dir.netkeiba.com/keiba/news/news_preview.html?no=170129|website=netkeiba.com|accessdate=2020年4月18日}}</ref>。
正賞は[[農林水産大臣]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama3" />。
== 概要 ==
[[File:Oju Chosan Nakayama Grand Jump 2022(IMG1).jpg|200px|thumb|第24回中山グランドジャンプ<br />優勝馬:オジュウチョウサン <br />鞍上:石神深一]]
[[File:Oju Chosan Nakayama Grand Jump 2022(IMG2).jpg|200px|thumb|中山グランドジャンプの優勝レイ (2022年)]]
当時の[[中山競馬倶楽部]]理事長であった[[肥田金一郎]]が、[[東京優駿]] (日本ダービー)に匹敵する中山競馬場の名物レースを開催する目的で1934年12月に「大障害特別」を創設、これが本競走の前身である<ref name="JRA注目" />。第2回から春・秋の年2回施行となった<ref name="JRA注目" />。
その後、度重なる名称変更を経て1948年秋より「[[中山大障害]]」の名称で定着していた<ref name="JRA注目" />が、1999年に障害競走改革の一環としてグレード制が導入された際、中山大障害 (春)がリニューアル<ref name="JRA注目" />され現名称となり、あわせて最高峰のJ・GIに格付けされた<ref name="JRA注目" />。第1回の距離は中山大障害と同じ芝4100mだったが、第3回より芝4250mに変更され、現在に至る<ref name="特別レース名解説" />。
2000年から2010年までは[[招待競走 (競馬)|国際招待競走]]であったが、2011年より[[国際競走]]へ変更<ref name="JRA注目" />され、JRAによる招待および費用の負担は廃止された。
2023年現在、障害重賞競走では唯一第11競走(メインレース)で施行される競走となっている<ref name="bangumi_2023nakayama3" />{{Refnest|group=注|中山大障害は第10競走<ref name="bangumi_2023nakayama5" />、新潟ジャンプステークス、小倉サマージャンプは第4競走<ref name="bangumi_2023niigata2" /><ref name="bangumi_2023kokura2" />、東京ハイジャンプは第9競走<ref name="bangumi_2023tokyo4" />、その他の障害重賞競走は第8競走で施行されている<ref name="bangumi_2023hanshin1-2" /><ref name="bangumi_2023kyoto1-2" /><ref name="bangumi_2023tokyo3" /><ref name="bangumi_2023hanshin4" /><ref name="bangumi_2023kyoto3" />。}}。
=== 競走条件 ===
以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama3" />のもの。
出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]障害4歳以上 (出走可能頭数:最大16頭)
* JRA所属馬
* 外国調教馬 (優先出走)
負担重量:定量 (4歳62kg、5歳以上63kg、[[牝馬]]2kg減)
* 第1回は4歳61kg・5歳以上62kg・牝馬2kg減、第2回は4歳62kg・5歳以上63kg・牝馬2kg減、第3回〜第12回は4歳61.5kg・5歳以上63.5kg・牝馬2kg減、第13回は3歳61.5kg・4歳以上63.5kg・牝馬2kg減だった<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" /><ref name="result2011" />。
外国馬を除く出馬投票を行った馬から「通算の収得賞金」+「過去1年の収得賞金」+「過去2年のJ・GI競走の収得賞金」の大きい順に出走馬を決定する<ref name="競馬番組一般事項 " />。
=== 賞金 ===
2023年の1着賞金は6600万円で、以下2着2600万円、3着1700万円、4着990万円、5着660万円<ref name="jusyo_kanto" /><ref name="bangumi_2023nakayama3" />。
=== コース ===
中山競馬場の障害コース・襷コース (大障害コース)を周回し、直線は芝コースを使用。全体の距離は4250m<ref group="注">芝コースにおける移動柵の設定がCコースの場合、4260mになる。2011年のみ採用された。{{See also|#歴史}}</ref>。
第3コーナー付近からスタートし、まず順回りで4分の3周(この間に4回の飛越と1回の昇り降りがある)。向正面から年に2回しか使われない大障害コースに入り、大竹柵を飛越して逆回りに変わる。第4コーナーから第3コーナーを通って(1回ずつの飛越と昇り降りがある)再び大障害コースに入り、大生垣を飛越。再び順回りに戻る。ここまでは[[中山大障害]]と同じコースであるが、第2コーナーを過ぎた向正面から中山大障害と異なり芝外回りコースに進入し、第3コーナーにかけての2つと最後の直線に1つ設けられた障害を飛越してゴールする。
{{See also|中山競馬場#障害コース}}
==== 大障害 ====
[[ファイル:Grand Brush09.JPG|thumb|大竹柵]]
[[ファイル:Grand Hedge004.JPG|thumb|大生垣]]
中山競馬場の襷コースは「大障害コース」とも呼ばれ、大竹柵と大生垣の障害が設けられている。大障害コースは本競走と中山大障害の時のみ使用され、他の障害に比べ幅・高さともに大きい。
===== 大竹柵 =====
スタートから5番目に飛越する障害。高さ160cm・幅205cm・竹柵部分の高さ140cm<ref name="course_nakayama" />。
===== 大生垣 =====
スタートから7番目に飛越する障害。高さ160cm・幅240cm・生垣の高さ140cm<ref name="course_nakayama" />。前面土塁部分に赤レンガのデザインが施されている。
== 歴史 ==
* 1999年 - 5歳以上の馬による障害の重賞 (J・GI)として創設<ref name="JRA注目" />。
* 2000年 - 国際招待競走となり、外国調教馬が8頭まで出走可能となる<ref name="JRA注目" />。
* 2001年
** [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「4歳以上」に変更。
** 施行距離を障害芝4250mに変更<ref name="JRA注目" />。
* 2011年
** 出走条件を国際競走に変更<ref name="JRA注目" />。
** [[東日本大震災]]の影響により7月に延期される。
** 芝Cコースでの開催となったため、障害芝4260mで施行。
* 2020年 - 新型コロナウイルス感染症([[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]])の流行により、「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として実施<ref name="jranews040201" />。
=== 歴代優勝馬 ===
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
距離のコース種別は、最後の直線コースを走行する際の馬場で記述する。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||1999年4月11日||中山||芝4100m||[[メジロファラオ]]||牡6||JRA||4:56.2||[[大江原隆]]||[[大久保洋吉]]||[[メジロ牧場|メジロ商事]](株)
|-
|style="text-align:center"|第2回||2000年4月15日||中山||芝4100m||[[ゴーカイ]]||牡7||JRA||4:43.1||[[横山義行]]||[[郷原洋行]]||吉橋計
|-
|style="text-align:center"|第3回||2001年4月14日||中山||芝4250m||ゴーカイ||牡8||JRA||4:52.3||横山義行||郷原洋行||吉橋計
|-
|style="text-align:center"|第4回||2002年4月13日||中山||芝4250m||[[セントスティーヴン]]<ref name="JRA注目" />||騸8||[[オーストラリア|AUS]]||4:50.9||[[クレイグ・ソーントン|C.ソーントン]]||[[ジョン・ウィーラー (調教師)|J.ウィーラー]]||J.ウィーラー
|-
|style="text-align:center"|第5回||2003年4月19日||中山||芝4250m||[[ビッグテースト]]||牡5||JRA||4:48.9||[[常石勝義]]||[[中尾正]]||(有)[[ビッグ (馬主)|ビッグ]]
|-
|-
|style="text-align:center"|第6回||2004年4月17日||中山||芝4250m||[[ブランディス (競走馬)|ブランディス]]||騸7||JRA||4:47.0||[[大江原隆]]||[[藤原辰雄]]||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第7回||2005年4月16日||中山||芝4250m||[[カラジ]]||騸10||AUS<ref name="JRA注目" />||4:50.4||[[ブレット・スコット|B.スコット]]||[[エリック・マスグローヴ|E.マスグローヴ]]||P.モーガン
|-
|style="text-align:center"|第8回||2006年4月15日||中山||芝4250m||カラジ||騸11||AUS||4:50.8||B.スコット||E.マスグローヴ||P.モーガン
|-
|style="text-align:center"|第9回||2007年4月14日||中山||芝4250m||カラジ||騸12||AUS||4:50.4||B.スコット||E.マスグローヴ||P.モーガン
|-
|style="text-align:center"|第10回||2008年4月19日||中山||芝4250m||[[マルカラスカル]]||牡6||JRA||4:57.7||[[西谷誠]]||[[増本豊]]||[[河長産業|河長産業 (株)]]
|-
|style="text-align:center"|第11回||2009年4月18日||中山||芝4250m||[[スプリングゲント]]||牡9||JRA||4:49.1||[[白浜雄造]]||[[野村彰彦]]||加藤春夫
|-
|style="text-align:center"|第12回||2010年4月17日||中山||芝4250m||[[メルシーモンサン]]||牡5||JRA||5:03.5||[[高野容輔]]||[[武宏平]]||[[永井康郎]]
|-
|style="text-align:center"|第13回||2011年7月2日||中山||芝4260m||[[マイネルネオス]]||牡8||JRA||4:51.6||[[柴田大知]]||[[稲葉隆一]]||(株)[[サラブレッドクラブ・ラフィアン]]
|-
|style="text-align:center"|第14回||2012年4月14日||中山||芝4250m||[[マジェスティバイオ]]||牡5||JRA||5:02.9||柴田大知||[[田中剛]]||バイオ
|-
|style="text-align:center"|第15回||2013年4月13日||中山||芝4250m||[[ブラックステアマウンテン]]||騸8||[[アイルランド|IRE]]<ref name="JRA注目" />||4:50.5||[[ルビー・ウォルシュ|R.ウォルシュ]]||W.マリンズ||S.リッチー
|-
|style="text-align:center"|第16回||2014年4月19日||中山||芝4250m||[[アポロマーベリック]]||牡5||JRA||4:50.7||[[五十嵐雄祐]]||[[堀井雅広]]||[[アポロサラブレッドクラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第17回||2015年4月18日||中山||芝4250m||[[アップトゥデイト]]||牡5||JRA||4:46.6||[[林満明]]||[[佐々木晶三]]||今西和雄
|-
|style="text-align:center"|第18回||2016年4月16日||中山||芝4250m||[[オジュウチョウサン]]||牡5||JRA||4:49.4||[[石神深一]]||[[和田正一郎]]||(株)[[長山尚義|チョウサン]]
|-
|style="text-align:center"|第19回||2017年4月15日||中山||芝4250m||オジュウチョウサン||牡6||JRA||4:50.8||石神深一||和田正一郎||(株)チョウサン
|-
|style="text-align:center"|第20回||2018年4月14日||中山||芝4250m||オジュウチョウサン||牡7||JRA|| <span style="color:darkred"> R4:43.0 </span> ||石神深一||和田正一郎||(株)チョウサン
|-
|style="text-align:center"|第21回||2019年4月13日||中山||芝4250m||オジュウチョウサン||牡8||JRA||4:47.6||石神深一||和田正一郎||(株)チョウサン
|-
|style="text-align:center"|第22回||2020年4月18日||中山||芝4250m||オジュウチョウサン||牡9||JRA||5:02.9||石神深一||和田正一郎||(株)チョウサン
|-
|style="text-align:center"|第23回||2021年4月17日||中山||芝4250m||[[メイショウダッサイ]]||牡8||JRA||4:50.1||[[森一馬 (競馬)|森一馬]]||[[飯田祐史]]||[[松本好雄]]
|-
|style="text-align:center"|第24回||2022年4月16日||中山||芝4250m||オジュウチョウサン||牡11||JRA||4:52.3||石神深一||和田正一郎||(株)チョウサン
|-
|style="text-align:center"|第25回||2023年4月15日||中山||芝4250m||[[イロゴトシ]]||牡6||JRA||4:54.1||[[黒岩悠]]||[[牧田和弥]]||内田玄祥
|}
== 中山グランドジャンプの記録 ==
* レースレコード - 4分43秒0(2018年・オジュウチョウサン)
** 優勝タイム最遅記録 - 5分3秒5(2010年・メルシーモンサン)
* 最年長優勝馬 - 12歳(2007年・カラジ)
* 最多優勝馬 - 6回(2016〜2020年、2022年・オジュウチョウサン)
* 最多優勝騎手 - 6回(2016〜2020年、2022年・石神深一)
* 最多優勝調教師 - 6回(2016〜2020年、2022年・和田正一郎)
== 外国調教馬の成績 ==
{{Main|海外調教馬による日本への遠征#中山グランドジャンプ}}
== 脚注・出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 参考文献 ===
* {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞競走成績集【障害・廃止競走編】|chapter=農林水産省賞典中山グランドジャンプ(J・GI)|publisher=日本中央競馬会|page=23-170|year=2006|ref=中央競馬全重賞競走成績集}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="中央競馬全重賞競走成績集">『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【障害・廃止重賞編】]]』</ref>
<ref name="result2011">[[#JRA年度別全成績2011|2011年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=12 |title=重賞競走一覧 (レース別・関東)|page=12|year=2023|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月10日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023nakayama3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/nakayama3.pdf |title=令和5年第3回中山競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月10日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023nakayama5">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/nakayama5.pdf |title=令和5年第5回中山競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月10日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023hanshin1-2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/hanshin1-2.pdf |title=令和5年第1回阪神競馬番組(第7~12日)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月10日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023kyoto1-2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/kyoto1-2.pdf |title=令和5年第1回京都競馬番組(第7~12日)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月10日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023tokyo3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/tokyo3.pdf |title=令和5年第3回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023niigata2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/niigata2.pdf |title=令和5年第2回新潟競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023kokura2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/kokura2.pdf |title=令和5年第2回小倉競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月10日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023hanshin4">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/hanshin4.pdf |title=令和5年第4回阪神競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023tokyo4">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/tokyo4.pdf |title=令和5年第4回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="bangumi_2023kyoto3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/kyoto3.pdf |title=令和5年第2回京都競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2023/0306.pdf#page=4 |title=2023年度第3回中山競馬特別レース名解説|page=4|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0415_1/race.html |title=レースについて:中山グランドジャンプ 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="course_nakayama">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/nakayama/course.html |title=中山競馬場 (コース紹介)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2016年4月11日}}</ref>
<ref name="競馬番組一般事項 ">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=令和4年度競馬番組一般事項|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref>
<ref name="jranews040201">{{Cite web|和書|url=http://jra.jp/news/202004/040201.html |title=4月19日(日曜)までの中央競馬の開催等について|publisher=日本中央競馬会|date=2020年4月2日|accessdate=2020年6月20日}}</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* 『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【障害・廃止重賞編】]]』第1回 - 第7回
* JRA年度別全成績
** (2023年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2023年9月11日}} (索引番号:08083)
** (2022年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2022年5月2日}} (索引番号:08083)
** (2021年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2021年4月18日}} (索引番号:08083)
** (2020年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年6月20日}} (索引番号:08083)
** (2019年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年3月17日}} (索引番号:09083)
** (2018年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2020年3月17日}} (索引番号:09083)
** (2017年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2017年4月16日}} (索引番号:09083)
** (2016年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年4月18日}} (索引番号:09083)
** (2015年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2015/2015-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:09083)
** (2014年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2014/2014-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年4月11日|ref=JRA年度別全成績2014}} (索引番号:09083)
** (2013年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2013/2013-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:09083)
** (2012年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2012/2012-3nakayama7.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2011年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2011/2011-3nakayama5.pdf#page=6 |title=第3回 中山競馬 第5日|publisher=日本中央競馬会|page=6|accessdate=2016年4月11日|ref=JRA年度別全成績2011}} (索引番号:17059)
** (2010年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-3nakayama7.pdf#page=11 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2009年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-3nakayama7.pdf#page=11 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:09083)
** (2008年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2008/2008-3nakayama7.pdf#page=11 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2007年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2007-3nakayama7.pdf#page=11 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2006年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/2006-3nakayama7.pdf#page=11 |title=第3回 中山競馬 第7日|publisher=日本中央競馬会|page=11|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2005年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/3naka.pdf#page=91 |title=第3回 中山競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=975-977|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2004年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/3-naka.pdf#page=92 |title=第3回 中山競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=978-981|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2003年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/4-naka.pdf#page=91 |title=第4回 中山競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=973-974|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
** (2002年) {{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/2-naka.pdf#page=91 |title=第2回 中山競馬成績集計表|publisher=日本中央競馬会|pages=937-939|accessdate=2016年4月11日}} (索引番号:08083)
* netkeiba.comより (最終閲覧日:2020年6月20日)
** {{Netkeiba-raceresult|1999|06030610}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|06020711}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|06040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|06030511}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|06030511}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|06030711}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|06030711}}
* JBISサーチより (最終閲覧日:2020年6月20日)
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6,584 | 地方競馬 | 地方競馬()とは、日本で勝馬投票券の発売を伴う競馬における法令上の興行形式のひとつである。本記事では主に日本の地方自治体等(都道府県、市区町村など)が主催する競馬(平地競走)について詳述しているが、外国における比較的小規模の競馬についても触れる。
1948年7月に制定された競馬法の下で地方公共団体によって主催される公営競技であり、日本中央競馬会(JRA)の主催する「中央競馬」と対をなす法令用語となっている。2013年4月現在は14の主催者により全国17か所の競馬場(開催が行われていないものも含む)で平地競走とばんえい競走が施行され、競馬法に基づく地方共同法人の地方競馬全国協会(NAR)がこれを統括する。
戦前の公認競馬から国営競馬を経て、政府によって出資される特殊法人である日本中央競馬会によって施行されている現在も国庫への納付金を課せられている中央競馬に対して、現在の地方競馬は都道府県ないしは競馬場が所在する総務大臣が指定した市町村、または左記の地方公共団体で構成される一部事務組合が施行する競馬である。
2014年現在、日本での馬券発売を伴う競馬全体において在籍頭数のおよそ6割、競走数の約8割を占める。勝馬投票券における払戻率は70〜80%であり、その収益は主催自治体の畜産の振興、社会福祉の増進、医療の普及、教育文化の発展、スポーツの振興、災害の復興に充てられるほか、競馬を主催していない地方公共団体に対しても地方公共団体金融機構の貸付金利引き下げによって還元される。また、地方競馬全国協会を通じても広く馬の改良増殖や畜産振興のために用いられている。しかしながら、1990年代以降は景気後退や娯楽の多様化などによって開催成績は低迷を続け、競馬事業を廃止する自治体も現れている。
戦前は草競馬と蔑まれた地方競馬も、戦後の一時期は平日開催が可能でかつ開催数が多いことが追い風となり好景気を迎えたこともあった。開催数が多いことで賞金総額は国営競馬の2倍近くとなり、1950年にはダービーの有力候補や天皇賞好走馬(エゾテッサン、二着入線後に失格)が続々と地方競馬入りするといったこともあったが、中央競馬の巻き返しにより再び人気は逆転していった。激しい淘汰の時代を経て、2011年には主催団体が15にまで減少。売り上げは3314億円まで減少した。その後2013年に福山競馬が廃止されたものの、JRAのIPAT投票での発売開始や日本経済の好転に伴って売り上げが急激に回復し、中にはバブル期を上回る過去最高の売り上げを記録する競馬場も出てきている。2022年度の全国総売上は1兆703億5968万3860円に達し、史上初めて1兆円を超えた。
競走馬の登録は地方競馬全国協会が行い、競走馬の格付け(クラス分け)は各主催者(地区)の区分によって行われる。格付けは各馬がレースで獲得した本賞金に各主催者(地区)が定める補正を行った番組賞金によって定められ、各主催者(地区)とも3段階(A・B・C)の大区分を基本としているが、各主催者(地区)ごとに年齢・収得賞金・着順のポイント換算など基準は異なる。主催者(地区)によっては前述の大区分に数字を組み合わせ、「A1・A2・B1...」のように細分化されることもある。兵庫県競馬組合は競走馬の格付けに独自のポイント制を採用している。南関東地区でも2024年1月1日から番組賞金に代わってポイント積算方式を全面導入することが発表され、2歳馬については2023年4月1日から先行導入が開始されている。
なお、中央競馬における初出走馬にはゲート試験が課せられているが、地方競馬ではそれに加えて基準タイム以上で模擬競走を走破する能力試験が行われるほか、転入馬や長期休養明けの競走馬には同様の調教試験が実施される。
調教師や騎手など競馬関係者の免許は地方競馬全国協会より付与され、免許試験も地方競馬全国協会が行う。騎手や調教師の養成や研修を行う施設として、栃木県に地方競馬教養センターがある(ばんえいの養成は行っていない)。ただし、厩務員はJRA競馬学校の卒業が義務づけられている中央競馬と異なり、地方競馬の場合は特別な試験を必要とせず、厩務員を希望する者は各地方競馬の厩舎(調教師)と直接雇用契約を結ぶ。開催執務を担う人材は、各主催者の職員が地方競馬教養センターで研修を受けるなどして業務に就いているほか、主催者の要請に応じて一部は地方競馬全国協会からも派遣されている。
騎手は原則として必ずいずれかの競馬場の厩舎に所属することとされているが、南関東公営競馬(浦和・大井・船橋・川崎)と兵庫県競馬組合(園田・姫路)では、所定の要件を満たした騎手に限って特定の厩舎に所属しない「騎手会所属騎手(中央競馬のフリー騎手に相当)」の制度を導入している。
騎手がレースの際に着用する勝負服は、原則として騎手ごとに固有の服色(騎手服)であるが、ホッカイドウ競馬と南関東公営競馬では例外的に馬主固有の服色(馬主服)を着用しての騎乗を認めている場合もある。なお、中央競馬は馬主服が原則のため、地方競馬の騎手が中央競馬で騎乗する場合も馬主服を着用する。また、地方競馬の競走馬が中央競馬で行われる交流競走(後述)に出走する際、馬主が日本中央競馬会に登録されていない場合は「交流服」と呼ばれる専用の服が日本中央競馬会より貸与される。
騎手は原則として所属する競馬場(地区)内のみでの騎乗となるが、2000年代以降は他地区の地方競馬で期間限定騎乗を行ったり、重賞競走でスポット騎乗を行うなど、活躍の場が広がりつつある。このほか、2007年の倉兼育康を先駆者として、韓国競馬への遠征を行う騎手も現れるようになった。また、多くの女性騎手が各地の地方競馬で活躍していることも特徴となっている。
馬主の審査・登録も地方競馬全国協会が日本中央競馬会とは別に行っており、必要とされる所得額は個人馬主の場合で500万円以上となっている。
地方競馬の平地競走は1周850メートル以上の走路でサラブレッド系の馬によって行われ、スタートからゴールまでのスピードを競う。ばんえい競走は日本で生まれた独自の競走形態で、体重1トン前後の重種馬が騎手とおもりを載せた鉄製のそりをひき、途中に2つの障害(台形状の小さな山)を設けた直線200mのセパレートコースでパワーとスピードを競う。
地方競馬の競馬番組は「2歳」「3歳」「一般(3歳以上の古馬)」の年齢区分で番組編成が行われ、各馬の格付け(前述)に基いて出走可能なレースが決められる。
重賞競走は各主催者(地区)が個別に定めた独自のグレード表記を行うところもあるほか、中央競馬と地方競馬の所属に関わらず出走できるダート交流重賞は日本グレード格付け管理委員会の承認を受けた格付表記(国際競走はG表記、日本調教馬限定競走はJpn表記)が用いられ、「ダートグレード競走」として総称される。このほか、中央競馬の下級条件馬が出走する「条件交流競走」や地方競馬のみの全国交流競走、さらには地域限定の交流競走や騎手のみの交流競走も幅広く行われている。大井競馬場では、韓国馬事会(KRA)との国際交流競走を2013年より2016年までの4回実施した。
また、複数の重賞競走をシリーズ化した競走も行われ、一部のシリーズ戦は着順に応じたポイント等で各馬の順位を決め、上位馬にボーナス賞金を与えている。全国規模でのシリーズ競走は以下の通り。
騎手交流競走には、以下のようなシリーズ戦がある。
ホッカイドウ競馬では馬産地に近い特性を生かし、1着馬の馬主または生産牧場へ副賞として特定種牡馬の種付権を与える「スタリオンシリーズ競走」を行っている。その後、岩手や東海地区・兵庫でも「HITスタリオンシリーズ」の名称で行われるようになった。また一部の競馬場では、数万円程度の協賛金と副賞を提供することで、競走の冠命名権などのサービスを含んだ個人協賛競走を行うことができる。
全国規模の表彰として地方競馬全国協会がNARグランプリを1990年度より行っているほか、日本プロスポーツ協会の加盟団体として日本プロスポーツ大賞での受賞資格を有する。また、南関東地区が優秀騎手・功労調教師らの表彰を行い、兵庫県競馬組合が別途年度代表馬や各部門賞を選定しているなど、各主催者・地区単位でも独自の表彰制度を設けている。岩手県競馬組合では、馬事文化賞の表彰も行われている。
地方競馬を開催できる競馬場は、以下の17ヶ所。ただし2018年時点で、中京競馬場、札幌競馬場は中央競馬の開催のみが行われており、中京は2003年以降、札幌は2010年以降地方競馬の開催がなく、実質休止の状態である。
地方競馬は競馬法および競馬法施行規則により年間開催回数と1開催あたりの開催日数、1日あたりの競走回数が定められている。1回の開催における開催日数は6日を超えず、1日の競走回数は12を超えない。1回の開催における日取りは、連続する12日間の範囲内の日取りとする。年間開催回数については下表で定められた回数を超えない。ただし、施設改善もしくは公益性の高い事業に対する財源確保を目的に開催回数上限を超えて「特別競馬」を3開催(最大18日)を上限に開催することが認められている。
2022年度実績(2022年4月 - 2023年3月)
同一県内・同一主催者による売上は合算している。
地方競馬全体の売上は1991年の9862億3944万9300円をピークに下降していたが、2010年代から次第に回復して2022年度は史上最高となる1兆703億5968万3860円となった。なお、インターネット投票を含む電話投票が全体の89.9%を占めている。
2015年4月現在、後述の10方式が設定されている。南関東や東海・北陸といった地区単位での相互発売や広域場間場外発売の設定によって、自場以外で施行されている勝馬投票券の購入も可能である。各主催者がそれぞれ場外発売所を設けているほか、地方競馬全国協会と全国公営競馬主催者協議会が出資する日本レーシングサービスがBAOOの名称で各地に場外発売所を展開している。電話・インターネット投票については、東京都競馬によって運営されるSPAT4、旧来の各主催者ごとの電話投票網を統合したD-netを引き継いだオッズパーク、インターネット投票専業で新規参入した楽天競馬が存在するほか、中央競馬の電話投票システム「IPAT」でも地方競馬の競走を一部購入可能となっている(地方競馬IPAT)。
日本においては中世以来、祭りの中で神社などに即席の直線馬場を設けて2頭の馬を競わせる形式の競馬が全国各地で広く行われていた。こうした祭典競馬・花競馬と呼ばれる日本古来の競馬に対して、1860年代より横浜や神戸の外国人居留地においてイギリスを起源とする西洋式の競馬が行われるようになる。これは1870年の陸軍による招魂社競馬を皮切りに日本人によっても執り行われ、不平等条約改正を目指す日本政府によって、日本が西洋諸国と同等の文明国となった象徴として喧伝された。そして祭典競馬がその様式を模するなどして、全国各地で次第に洋式競馬が行われるようになっていく。
そして1910年に競馬規程が改正された際に、祭典などの娯楽のために競馬を行うことが法的に認められるとともに、地方長官による許可と賞品・開催費の補助のもとで畜産組合らが競馬を施行することができるとされた。続く1923年の競馬法においては政府が公認した競馬倶楽部による公認競馬のみが競馬を施行し馬券発売を行うことができるとされたが、各地の畜産組合による競馬の中にも公認競馬に倣って入場券による景品競馬のみならず、馬券の発売を実施するものが多く現れるようになる。しかしながら、これは同時に山師的な主催者による競馬場の過剰なまでの増加や、入場券の制限が公然と破られるなどの問題を引き起こした。そしてこうした競馬を政府の統制下に置くために、ついに地方競馬規則(1927年8月27日 農林・内務省令)が施行されるに至るのである。この中では地方長官の許可のもとで各地の畜産組合、畜産組合連合会、馬匹改良を目的とする団体が競馬を施行することができるとされ、またその統一的な規定が定められた。法令用語としての地方競馬の呼称はここに始まる。
1927年秋に52主催者59競馬場で始まった地方競馬は、公認競馬を含めた競馬熱の高まりの中で順調に開催成績を伸ばしていく。公式には禁じられていたが、実際には公認競馬との間で人馬の流動性も高かった。また地方競馬規則の制定に先立つ1926年には大日本産馬会、日本乗馬協会、帝国運送協会の3団体とその関連組織が合同し、馬事関連の全国的な組織である帝国馬匹協会が創設されていた。これが地方競馬主催者の全国的な連絡組織として機能し、馬名の登録や騎手の講習も実施している。
このようにして、地方競馬はその法的な地位を得た。一方で、これは軍馬用途を目的とした馬匹の改良と馬事思想の普及という国策と関連したものであり、農林省や陸軍省からそれ自体は軍馬には向かないサラブレッドによる競馬は公認競馬に譲り、地方競馬ではより軍馬に適したアングロアラブ・アングロノルマンによる競馬を、さらには平地競走ではなく障害競走や速歩競走を行うべきという意見が当初から出されている。1933年には地方競馬規則が大幅に改正され、一定以上の売上規模がある主催者はその売上の一部を馬匹改良・馬事に関わる施設のために支出すること、出走を内国産馬に限ること、速歩競走を重視することが定められた。また1936年に公認競馬側が日本競馬会に統合されると、相互の交流は一層厳しく統制された。
そして日中戦争の勃発とそれによる軍馬需要の急激な増大を背景に、1939年7月3日より新たに軍馬資源保護法が施行される。これによってそれまで地方競馬とされてきた競馬は馬券発売を認められた軍用保護馬鍛錬競走へと移行し、「国防上特ニ必要トスル馬ノ資質ノ向上ヲ図リ軍馬資源ノ充実ヲ期スルコト」がその目的となった。これによって当時100を越えていた地方競馬場の多くが閉鎖され、都道府県ごとに存在した畜産組合連合会35団体のもとで37個へと集約される。売上金の一部を国庫へ納入する機能を有していた軍用保護馬鍛錬中央会がこれを統括し、のちに太平洋戦争が勃発するとこれは国家総動員法体制下で帝国馬匹協会、大日本騎道会とともに日本馬事会へと統合された。この鍛錬競走は、いよいよ戦局が悪化する1944年末まで続く。
第二次世界大戦終結後、軍馬資源保護法ならびに国家総動員法が廃止されたことで、地方競馬はその法的根拠をふたたび喪失した。しかしながら、早くも1945年秋には静岡県で法的根拠を持たない闇競馬が行われるや、地方競馬の開催を望む機運は全国へと波及していく。また1946年春になると、農林省ら中央政府の黙認下で地方長官の認可と条例をもとに競馬を施行し、その売上の5%前後を戦災復興や海外引揚者への支援金のため地方自治体へ寄付する事例も多く見られるようになった。また北海道においては、進駐していたアメリカ軍第11空挺師団がアメリカ独立記念日を祝うために競馬の施行を北海道馬匹組合連合会に要請。1946年7月6日から進駐軍競馬として競馬が再開されることとなり、札幌、函館、室蘭の3都市で施行されている。
そして1946年11月20日、ようやくこの無法状態に終止符を打つべく地方競馬法が施行される。これは戦前の地方競馬規則と同様に馬匹組合・馬匹組合連合会が競馬を施行することを認めるものであり、その中央団体として中央馬事会が置かれた。鍛錬競走時代に引き続き馬券の発売も認められたほか、配当の上限も従来の10倍から100倍へと引き上げられている。また戦前に引き続きサラブレッド・アングロアラブら軽種馬を中心としていた日本競馬会に対し、各地の農業生産と密着した実用馬を用いることが打ち出され、民主化の世相を反映しその収益の使途も各馬匹組合連合会および中央馬事会の裁量に任されていた。しかしながらこれらの馬連競馬は闇競馬時代からの連続性が強く、また敗戦直後の社会情勢もあって競馬場での騒擾事件が頻発する。
1947年7月、連合国軍最高司令官総司令部より日本競馬会及び上記の中央馬事会、馬匹組合連合会が、「競馬事業を独占している独占機関である」との通告がもたらされる。GHQが志向していたであろう完全な民営化、そしてそれがもたらすと考えられた反社会的勢力の競馬へのさらなる蔓延を防ぐため、同年12月23日の閣議決定において、従来の公認競馬は国営化、馬連競馬は公営化し都道府県にこれを委ねることが決定された。各地の馬連は1948年春の開催を強行するなどの抵抗を続けたが解散・資産の委譲を迫られ、中央馬事会も1948年7月に解散を余儀なくされる。
そして1948年7月、競馬法が成立。これによって馬連競馬の資産及び開催権は都道府県、競馬場が所在する市町村、そして地方財政委員会が別途指定した戦災復興の中で自主財源不足に苦しむ市町村へと移り、地方競馬は現在まで続く公営競技へと大きな転換を果たすこととなる。
競馬法が施行された1948年、公営競技へ移行し競馬を施行した地方競馬場は全国で61箇所存在した。だが当然ながら、公営化によって当時の地方競馬が抱えていた問題が一挙に解決するはずもない。馬資源の不足は深刻であった。中間種が競走に盛んに用いられ、馬籍登録を偽った競走馬が蔓延したほか、北海道では輓馬を平地競走で走らせるような奇策すら取られた。また競馬法が成立したのとほぼ時を同じくして、自転車競技法が国会を通過。11月には小倉競輪場で日本初となる競輪が開催されると、この戦後生まれの公営競技は大衆から爆発的な人気を獲得する。その後も1950年には小型自動車競走法によってオートレースが、1951年にはモーターボート競走法に基づき競艇が開始され、それぞれ順調に売上を伸ばしていった。一方で戦前以来の旧態依然とした施設に頼る各地の地方競馬場は開催成績が低迷し、急速にその数を減らしていく。
こうした中にあって、いち早く隆盛を見せたのは関東地方の競馬場だった。1947年の浦和競馬場を皮切りに、のちに南関東公営競馬を構成する4競馬場は交通の利便性が高い土地へと移転を進める。これによる順調な売上の増加を背景にスターティングゲートの導入や大井による豪サラ輸入のような先進的な施策を進め、国営・中央競馬へ移籍し大競走を制しうるような名馬が数多く現れるに至った。なによりもアングロアラブ競馬においては、質・量ともに国営・中央競馬を凌ぐ堂々たる繁栄をみせている。また、北海道ではその地理的条件から、道内の各競馬場を人馬ともに関係者が渡り歩くジプシー競馬とも呼ばれる興行形態が長く残った。ばんえい競馬が公営競技として根付きはじめたほか、戦前以来の十勝におけるアングロノルマン生産を背景に、速歩競走が1960年代初頭まで重要な地位を占めた。関西方面へ目を移すと、大井と同じく豪サラを導入した兵庫競馬は、その扱いに慣れないところにコースの手狭さもあって故障馬が続出。頭数の少なさから競走が成り立たず、みすみす国営競馬への流出を許してしまった経験から、以後はアングロアラブ専業の競馬場としてアラブのメッカへの道を歩む。大阪競馬場・春木競馬場では障害競走が人気を博し、紀三井寺は北海道を始めとする冬期休催競馬場の出稼ぎ先として独自の存在価値を見出した。そのほかの地区においても徐々に施設の近代化が図られ、1970年には大井競馬場でのちに中央競馬へ移籍すると社会現象を巻き起こすハイセイコーがデビューを迎える。このアイドルホースの登場による第一次競馬ブームによって、全国的に開催成績も上向いていった。
ただし、長沼弘毅を委員長として1961年2月に組織された公営競技調査会の答申は大筋として公営競技の現状維持を定めるものであったが、その中では馬・馬主の登録や地方競馬の騎手免許、専門職員の養成・派遣を全国一元的に統括するとともに、その利益を広く畜産振興のために還元する組織を設立することが求められていた。これを受けて1962年に特殊法人である地方競馬全国協会が設立され、競走馬の登録や騎手・調教師免許の管理は各主催者からこちらへと一元化されている。1963年には新人騎手などの育成を行うために、栃木県那須塩原市に地方競馬騎手教養所が完成した。
一方で、戦後直後の社会情勢下で公営の競馬を開催するにあたっては、必然的に地元のボスたちとの接触が不可欠である。兵庫のように馬主らによって組織された振興会が競馬の開催業務に深く関わるなど、公営化されたといっても組織としての透明性が長らく不十分な地域も存在した。騎手や調教師、厩務員への反社会的勢力の浸透も避けられず、1960年代から1980年代にかけて競馬法違反容疑で逮捕・追放された事例は全国的に数多い。競馬場内におけるノミ屋・コーチ屋の跋扈も問題であった。また黒い霧事件を契機に一般社会においても注目を集めた公営競技を取り巻く黒い影の存在は、少しでも怪しい競走が行われた場合に、ファンが八百長を声高に叫び容易に暴徒化する環境を生み出していく。とりわけ、その被害規模の大きさに加えて著名馬が関係していたこともあって、園田事件は現在に至るまでも語り継がれ、兵庫県競馬組合の運営に影を落としている。革新自治体における公営競技に対する風当たりも激しく、1964年に大阪競馬場、1974年に春木競馬場が廃止されているほか、大井競馬場においても1972年度をもって東京都が開催権を返上し、特別区競馬組合単独での主催となっている。道営競馬にて、1人当たりの馬券購入額を5000円に制限するような奇策が採用されたことすらあった。
そしてオイルショック後の社会情勢も影響し、1970年後半に入ると地方競馬の開催成績はふたたび全国的に伸び悩む。公営競技としての財政貢献もままならないとなれば、各地で競馬場の存廃までも含めた議論が進められることになった。そして1980年代中ごろから、それぞれの主催者が智恵を絞り、様々な振興策を打ち出していく。ただでさえ減少した入場者を不快にすること甚だしかったノミ屋・コーチ屋は、1985年からの全国的な清浄化作戦によって競馬場内から可能な限り閉め出された。顧客の利便性を高めるために、電話投票の導入や昼休みのサラリーマンを狙った外向き発売口の設置、県内・地区単位での相互場外販売の試みが始まったのもこの時期である。中でも岩手県競馬組合は最新鋭の映像伝送システムを駆使したテレトラックと呼ばれる場外網を構築し、急激に売上を伸ばしていった。1986年には、大井競馬場において日本初となるナイター競馬トゥインクルレースが行われている。それでも、大胆な振興策を実施するだけの体力を有していなかった主催者の開催成績は低迷し、なかでも1988年には紀三井寺競馬場が廃止へと追い込まれている。
また、古くから各地の競馬場間を移籍する馬は数多く存在したが、他地区との間で直接の交流はほとんどないに等しかった。それが、1972年に南関東におけるアングロアラブ古馬最高の競走であったアラブ大賞典が全日本アラブ大賞典として、翌1973年には園田競馬場で3歳馬の楠賞が楠賞全日本アラブ優駿として、それぞれ地方競馬全国交流競走化を果たす。これによって、各地区の代表馬がそれぞれのプライドを賭けて、鎬を削り合う舞台が産まれることになった。中央競馬との間でも1973年より中央側で地方競馬招待競走が、大井競馬場で中央競馬招待競走が隔年で交互に施行されていたが、1986年からは帝王賞が距離を2000mに短縮された上で、中央競馬招待・地方競馬全国交流競走となった。中央競馬側でもオールカマーが開放されたほか、ジャパンカップにも地方競馬所属馬の招待枠が設けられていた時期があり、1985年には船橋所属のロツキータイガーが2着と健闘している。
1987年、笠松競馬場でのちに第二次競馬ブームを牽引するオグリキャップがデビューを迎える。これ以前から続いていたバブル景気による経済状態の好転もあって、地方競馬の開催成績もようやく上向きをみせた。1989年には生産者らの団体が主体となって、ホッカイドウ競馬にてブリーダーズゴールドカップが設立されている。また騎手招待競走のような企画・交流競走も華々しく行われ、1988年には兵庫県競馬組合が通算2000勝以上の名手たちが高額賞金を賭けて戦うゴールデンジョッキーカップを創設。1989年から1993年にかけては、国外からも招待騎手を招いたインターナショナルクイーンジョッキーシリーズが開催されている。各主催者だけでなく、地方競馬全国協会も1990年からは地方競馬全体の表彰としてNARグランプリを開催し、従来の機関誌『地方競馬』が一般競馬ファンも対象とした『Furlong』へと衣替えするなど、時代に合わせた広報活動へと転換していく。
一方で、オグリキャップやオグリローマン、イナリワンのような傑出馬を輩出しながらも、活躍の場を求めて中央競馬への移籍を許してしまったことは、地方競馬関係者からすればその心境は複雑であった。また、中央競馬の側も国際化な日本競馬の地位向上において、地方競馬との協調を進める必要に迫られたことから、1995年より中央競馬と地方競馬の間で交流元年と呼称される、相互交流の大幅拡大が実施されることになった。多くの地方競馬場にて中央競馬所属馬が出走可能な指定交流競走と、日本中央競馬会が賞金の90%を援助し、1着馬に中央競馬で施行される条件戦のうち特別指定競走への出走権利を付与するとともに中央競馬への転入を優遇するJRA3歳認定競走が設けられた。また、各ブロックの代表選定競走を勝利するなどした馬には中央競馬の最高格付け競走たるGI競走に向けた前哨戦への出走権が与えられ、さらにはそこで好走することでGI競走本体へも出走する道が開かれた。果たして、この交流元年初年度から笠松所属のライデンリーダーが、桜花賞のトライアル競走である4歳牝馬特別で勝利。本番の桜花賞こそ4着だったものの、中央競馬の3歳牝馬クラシック3戦全てに出走を果たしている。1996年には日本中央競馬会、地方競馬全国協会、全国公営競馬主催者協議会によってダート競走格付け委員会が組織され、翌1997年より中央競馬・地方競馬を横断した重賞競走の格付けであるダートグレード競走制度が導入された。2001年からは、全国の地方競馬場での持ち回り開催となるJBC競走が創設されている。
そして1999年、中央競馬の東京競馬場で開催されたフェブラリーステークスを岩手所属のメイセイオペラが制し、地方競馬所属馬による中央競馬開催GI初制覇を達成した。同年にはレジェンドハンターがデイリー杯3歳ステークスを逃げ切り、本番の朝日杯3歳ステークスでも2着。2004年にはホッカイドウ競馬で認定厩舎制度を利用したコスモバルクが、中央3歳牡馬クラシック戦線へ有力馬の1頭として参戦し人気を集めた。その後も果敢に芝路線への挑戦を続け、シンガポールのクランジ競馬場で開催された国際GIであるシンガポール航空インターナショナルカップを制する快挙を成し遂げている。
しかしながら、バブル崩壊後の経済情勢は、地方競馬の開催成績を直撃した。1991年に9862億円でピークを迎えた地方競馬全体の売上は、2000年には5605億円まで激減する。巨額の累積赤字を積み上げた各地の主催者は一転して賞典費を始めとする経営コスト削減に回るが、それが馬資源の流出や厩舎関係者の士気低下を招くことで競走自体の魅力が乏しくなり、ますます開催成績が悪化するという悪循環に陥っていった。また、中央・地方併せて2001年には46競走まで拡大したダートグレード競走だが、その賞金水準の高さに比して売上額は芳しくなく、地方競馬にとってのカンフル剤とはならなかった。高崎競馬場や新潟公営などでは入場者数増加の振興策の一環として、日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所を場内で併設することが行われた。だがその結果として、目の前で行われている生の競走ではなく、僅かな手数料収入しか得られない中央競馬の中継映像へ多くの顧客が群がるという、悲劇的な光景も見られたという。
また、西日本を中心に専業の競馬場も存在するなど、長らく地方競馬の歴史を支えてきたアングロアラブ競馬だが、1995年の中央競馬における廃止に続いて、1980年代から在厩数の減少に悩んでいた南関東の競馬場がその廃止を決定する。交流元年後はサラブレッドによる相互交流の機運が高まったこともあって、アラブのメッカを誇った兵庫県競馬組合も1999年にサラブレッドの導入を発表。最終的に、2009年9月27日に福山競馬場で施行された「開設60周年 アラブ特別レジェンド賞」をもって、日本国内におけるアングロアラブ系単独競走は姿を消している。
そして2001年、大分県の中津競馬場が、21億円の累積赤字を理由に廃止されることが主催者の中津市より発表される。その後、中津競馬場では廃止に伴う競馬場関係者の補償金を巡って労働争議が紛糾するが、ともかくもこの中津を皮切りとして、全国的に競馬主催者の撤退が相次いでいった。翌2002年8月には日本一小さな競馬場として知られた島根県益田市の益田競馬場が廃止となり、2003年から2006年にかけて足利・高崎・宇都宮の北関東公営競馬が壊滅。東北地区では、2002年にすでに前年より三条競馬場での開催を中止していた新潟県競馬が完全に廃止され、翌2003年には作家山口瞳が愛したことで知られた上山競馬場からも競走馬が姿を消した。かつては地方競馬の優等生と謳われた岩手競馬すらも、開催成績の低迷に加えて、1996年に移転した新盛岡競馬場の建設費を巡る巨額の債務によって破綻的な経営状況へと陥り、2007年には一時廃止が確実視された。1989年より4市による北海道市営競馬組合として主催されてきたばんえい競馬についても、2006年に帯広市を除く構成地方公共団体が撤退し、単独の開催へ縮小することで辛くも存続している。
また、地方競馬から中央競馬の競走への遠征馬に騎乗する騎手は当日の他の競走にも騎乗できたことから、地方競馬の名手たちが中央競馬においてもその腕前を披露する機会を得ることになった。そして地方競馬の未来がかくも不安定な状況にあっては、一般的な注目度・金銭的な待遇ともに恵まれた中央競馬への移籍を望む騎手が現れることも自然な流れである。2001年、長らく笠松競馬場のリーディングジョッキーとして知られた安藤勝己が、中央競馬の騎手免許試験を受験することを発表した。この年こそ一次試験で不合格となったが、すでにその実力が中央競馬のファンにも知れ渡っていた安藤勝己が免許を取得できなかったことは各方面からの非難を呼んだ。そして翌2002年には通称アンカツルールと呼ばれた「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」の一次試験を免除する規定が設けられたこともあって、見事に合格。地方競馬全国協会は騎手免許の中央・地方重複所有を監督官庁である農林水産省へ要請したが認められず、2003年3月より安藤勝己は中央競馬所属騎手として再出発を果たした。以後も各地区のリーディング級騎手による中央競馬騎手免許試験の受験が相次ぎ、また地方競馬内でも比較的余裕のある競馬場への移籍を望む事例がみられるようになった。
2004年、疲弊する地方競馬を中心とした日本競馬の構造改革を目指して競馬法が改正され、勝馬投票券発売業務を始めとする競馬の実施にあたる業務の大半を民間業者へ委託可能となった。そして早速、2004年限りでの廃止が決定していた高崎競馬場について、当時新進気鋭のIT系若手経営者として知られ、熱心な競馬ファンでもあったライブドア社長堀江貴文が、インターネットを通じた馬券発売を中心とした再建策を持ち上げる。2005年には、ソフトバンクの子会社であるソフトバンク・プレイヤーズが、日本レーシングサービスが所有していた南関東を除く地方競馬の統合電話投票システムであるD-netを買収し、翌2006年4月よりオッズパークとしてリニューアル。同社はまた、帯広市主催のばんえい競馬の一部業務委託も2011年度まで担っている。一方で南関東公営競馬は東京都競馬がシステムを管理する自前の電話投票システムSPAT4を有していたが、別途2006年3月末に楽天との間でインターネットを通じた勝馬投票券発売業務の提携を発表。他の主催者もこれに追随し、2007年2月より楽天競馬として業務を開始した。
こうした勝馬投票券発売業務の委託は10%以上の高額な手数料による収益性低下の問題を孕んでいたものの、その利便性の高さから総売上に占める電話投票の割合は着実に増加していった。なかでも高知県競馬組合はハルウララの登場と関係者の必死の努力によってギリギリで廃止を免れる状況が続いていたが、インターネット投票の顧客を狙って2009年より冬期も含めた通年ナイター開催である夜さ恋(よさこい)ナイターを開始。後述する日本中央競馬会の電話投票システムでの発売もあって、大きく経営を安定化させることに成功している。このようにナイター開催化の流れは全国的に顕著であり、同じく2009年から門別もナイター化し、2012年からは園田競馬場も限定的ながらナイター開催を行っている。こうした中で地方競馬の開催成績は2000年代半ばから微減で推移してきたが、それでも2011年には荒尾競馬場が、2013年には福山競馬場が廃止となった。
2000年代の後半に入るとインターネット発売や広域場間場外発売の拡大もあって、従来から進められていたダービーWeekを始めとする全国規模のシリーズ競走の企画運営や交流競走路線の整備が、一層の進展を見せてきた。また小泉構造改革に伴う特殊法人改革によって、地方競馬全国協会は2008年より地方共同法人へと移行する。この際にその業務に「競馬活性化事業及び競走馬生産振興事業に対する補助」が加えられ、農林水産大臣の認可を受けた認定競馬活性化計画に基づき、地方競馬全国協会が各主催者や業務受託業者を支援することが可能となった。そして日本中央競馬会からの交付金も用いて整備が進められた地方競馬共同トータリゼータシステムによって、2012年10月からは地方競馬IPATとして中央競馬の電話投票システムを通じた地方競馬の発売を開始。また同じシステムを通じて地方競馬場やその場外勝馬投票券発売所で中央競馬の馬券を発売するJ-PLACEも拡大し、その手数料収入が一部の地方競馬主催者にとっては重要な収益の柱となっている。
これらの施策が実を結び、地方競馬の売上は下げ止まりの傾向を示している。川崎競馬では平成25年(2013年)度の一般会計決算で累積赤字をすべて解消し黒字に転じたほか、ばんえい競馬も平成25年(2013年)度・平成26年(2014年)度の2年連続で売得金(売上)が前年度比110%以上となっている。 また、長年下落傾向にあった競走賞金も徐々に回復に転じ、各競馬場において重賞競走の新設や賞金増額などの施策が講じられるようにもなった。
2022年、JRAと連携して大規模なダート競走の大規模な体系整備が2023年より実施されることが発表された。中央馬に対する地方馬の戦力の増強、ダートグレード競走の国際格付け取得が最終的な目標とされている。
整備内容
詳細は3歳ダート三冠を参照。
詳細はネクストスター (競馬の競走名)を参照。
2歳馬競走に対する変更は2023年、3歳馬や古馬競走に対する変更は2024年から適応される。
また、地方馬の戦力の増強を目的とした、上記以外にも本賞の増額や競走体系・負担重量の整備、優勝馬への報奨金などのダートグレード競走への奨励策、国際競走化やより上の格付け取得、レースレーティングの向上を目的とした、海外出走馬の受け入れ体制の整備などが施行される予定であり、2028年から段階的にダートグレード「Jpn」の廃止も行われる。
こういった改革を受けて各地域の競馬運営組織でも競走の見直しが行われており、近辺地域における3歳秋の頂点決定戦だった岩手のダービーグランプリの終了や兵庫地域では楠賞や兵庫三冠の検討がされている。
以下の表は2021年度それぞれの格付けの施行順となっている。
※川崎記念は2024年度より開催時期を4月上旬に移設予定。
※ジャパンダートダービーは2024年度の3歳ダート3冠競走の創設に伴い名称を「ジャパンダートクラシック」に変更の上、10月上旬に移設予定。
先述でも述べたが、2024年度に3歳ダート3冠競走の創設のためジャパンダートダービーを除いた現南関東三冠競走が全てJpnIに昇格する。また2歳路線や古馬の体系整備を行うため短距離路線において新たにJpnIが定められる。
※羽田盃・東京ダービーは南関東重賞格付けがSIである。また、さきたま杯がJpnIに昇格するため南関東全ての競馬場にJpnIが定められる。
上述の通り、地方競馬とは日本国内における法令用語である。だが、日本国外の競馬についても、その施行形態や開催規模などによって、地方競馬に近い形で呼ばれているか、翻訳・紹介にあたって地方競馬の語を充てる事例が存在する。これは必ずしも、日本における地方競馬と質的に同等というわけではない。
フランスの競馬においては、フランスギャロとシュヴァルフランセによって施行されるパリ地区を除く、地方競馬協会(Société de courses de Province)が施行する競馬が地方地区(地方競馬)とされる。全国に200を越える地方競馬協会が存在し、その施設は多くの場合地方自治体の所有である。全国で10個の地方連合会によって束ねられたこれらの地方競馬は、パリ地区も含めた全国組織であるフランス競馬全国連合を通じて、審判や発走などの開催執務を担う人員や放映機材の支援、フランス場外馬券発売公社(PMU)の収益からの資金援助を受ける。一方で、PMUでの発売を受けられない零細地方競馬協会については開催成績が低迷し、競馬を廃止する地方自治体も現れている。
オーストラリアの競馬は連邦を構成する各州及び特別地域ごとに根拠法が制定され、それに基づいて大小数百の競馬主催者が存在している。これはその賞金額などによって3つのカテゴリーに分類され、上からそれぞれ都市競馬(Metropolitan)、地方競馬(Provincial)、田舎競馬(Country)と呼ばれている。ただし、カテゴリーの間で相互の出走の制限などは存在せず、あくまで主催者の相対的な位置付けに過ぎない。
ウルグアイには14の競馬場が存在するが、そのうち首都モンテビデオ郊外に存在するマローニャス競馬場(Hipódromo de Maroñas)以外の競馬場を地方(Interior)とする。チリの競馬においては、各競馬主催者は法的には同等であるが、記録・統計上は首都サンティアゴの2団体とビニャ・デル・マールに存在するバルパライーソ・スポーティングクラブの3主催者が中央、それ以外は地方とされる。 | [
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"text": "地方競馬()とは、日本で勝馬投票券の発売を伴う競馬における法令上の興行形式のひとつである。本記事では主に日本の地方自治体等(都道府県、市区町村など)が主催する競馬(平地競走)について詳述しているが、外国における比較的小規模の競馬についても触れる。",
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"text": "1948年7月に制定された競馬法の下で地方公共団体によって主催される公営競技であり、日本中央競馬会(JRA)の主催する「中央競馬」と対をなす法令用語となっている。2013年4月現在は14の主催者により全国17か所の競馬場(開催が行われていないものも含む)で平地競走とばんえい競走が施行され、競馬法に基づく地方共同法人の地方競馬全国協会(NAR)がこれを統括する。",
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"text": "戦前の公認競馬から国営競馬を経て、政府によって出資される特殊法人である日本中央競馬会によって施行されている現在も国庫への納付金を課せられている中央競馬に対して、現在の地方競馬は都道府県ないしは競馬場が所在する総務大臣が指定した市町村、または左記の地方公共団体で構成される一部事務組合が施行する競馬である。",
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"text": "2014年現在、日本での馬券発売を伴う競馬全体において在籍頭数のおよそ6割、競走数の約8割を占める。勝馬投票券における払戻率は70〜80%であり、その収益は主催自治体の畜産の振興、社会福祉の増進、医療の普及、教育文化の発展、スポーツの振興、災害の復興に充てられるほか、競馬を主催していない地方公共団体に対しても地方公共団体金融機構の貸付金利引き下げによって還元される。また、地方競馬全国協会を通じても広く馬の改良増殖や畜産振興のために用いられている。しかしながら、1990年代以降は景気後退や娯楽の多様化などによって開催成績は低迷を続け、競馬事業を廃止する自治体も現れている。",
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"text": "戦前は草競馬と蔑まれた地方競馬も、戦後の一時期は平日開催が可能でかつ開催数が多いことが追い風となり好景気を迎えたこともあった。開催数が多いことで賞金総額は国営競馬の2倍近くとなり、1950年にはダービーの有力候補や天皇賞好走馬(エゾテッサン、二着入線後に失格)が続々と地方競馬入りするといったこともあったが、中央競馬の巻き返しにより再び人気は逆転していった。激しい淘汰の時代を経て、2011年には主催団体が15にまで減少。売り上げは3314億円まで減少した。その後2013年に福山競馬が廃止されたものの、JRAのIPAT投票での発売開始や日本経済の好転に伴って売り上げが急激に回復し、中にはバブル期を上回る過去最高の売り上げを記録する競馬場も出てきている。2022年度の全国総売上は1兆703億5968万3860円に達し、史上初めて1兆円を超えた。",
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"text": "競走馬の登録は地方競馬全国協会が行い、競走馬の格付け(クラス分け)は各主催者(地区)の区分によって行われる。格付けは各馬がレースで獲得した本賞金に各主催者(地区)が定める補正を行った番組賞金によって定められ、各主催者(地区)とも3段階(A・B・C)の大区分を基本としているが、各主催者(地区)ごとに年齢・収得賞金・着順のポイント換算など基準は異なる。主催者(地区)によっては前述の大区分に数字を組み合わせ、「A1・A2・B1...」のように細分化されることもある。兵庫県競馬組合は競走馬の格付けに独自のポイント制を採用している。南関東地区でも2024年1月1日から番組賞金に代わってポイント積算方式を全面導入することが発表され、2歳馬については2023年4月1日から先行導入が開始されている。",
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"text": "なお、中央競馬における初出走馬にはゲート試験が課せられているが、地方競馬ではそれに加えて基準タイム以上で模擬競走を走破する能力試験が行われるほか、転入馬や長期休養明けの競走馬には同様の調教試験が実施される。",
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"text": "調教師や騎手など競馬関係者の免許は地方競馬全国協会より付与され、免許試験も地方競馬全国協会が行う。騎手や調教師の養成や研修を行う施設として、栃木県に地方競馬教養センターがある(ばんえいの養成は行っていない)。ただし、厩務員はJRA競馬学校の卒業が義務づけられている中央競馬と異なり、地方競馬の場合は特別な試験を必要とせず、厩務員を希望する者は各地方競馬の厩舎(調教師)と直接雇用契約を結ぶ。開催執務を担う人材は、各主催者の職員が地方競馬教養センターで研修を受けるなどして業務に就いているほか、主催者の要請に応じて一部は地方競馬全国協会からも派遣されている。",
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"text": "騎手は原則として必ずいずれかの競馬場の厩舎に所属することとされているが、南関東公営競馬(浦和・大井・船橋・川崎)と兵庫県競馬組合(園田・姫路)では、所定の要件を満たした騎手に限って特定の厩舎に所属しない「騎手会所属騎手(中央競馬のフリー騎手に相当)」の制度を導入している。",
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"text": "騎手がレースの際に着用する勝負服は、原則として騎手ごとに固有の服色(騎手服)であるが、ホッカイドウ競馬と南関東公営競馬では例外的に馬主固有の服色(馬主服)を着用しての騎乗を認めている場合もある。なお、中央競馬は馬主服が原則のため、地方競馬の騎手が中央競馬で騎乗する場合も馬主服を着用する。また、地方競馬の競走馬が中央競馬で行われる交流競走(後述)に出走する際、馬主が日本中央競馬会に登録されていない場合は「交流服」と呼ばれる専用の服が日本中央競馬会より貸与される。",
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"text": "騎手は原則として所属する競馬場(地区)内のみでの騎乗となるが、2000年代以降は他地区の地方競馬で期間限定騎乗を行ったり、重賞競走でスポット騎乗を行うなど、活躍の場が広がりつつある。このほか、2007年の倉兼育康を先駆者として、韓国競馬への遠征を行う騎手も現れるようになった。また、多くの女性騎手が各地の地方競馬で活躍していることも特徴となっている。",
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"text": "馬主の審査・登録も地方競馬全国協会が日本中央競馬会とは別に行っており、必要とされる所得額は個人馬主の場合で500万円以上となっている。",
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"text": "地方競馬の平地競走は1周850メートル以上の走路でサラブレッド系の馬によって行われ、スタートからゴールまでのスピードを競う。ばんえい競走は日本で生まれた独自の競走形態で、体重1トン前後の重種馬が騎手とおもりを載せた鉄製のそりをひき、途中に2つの障害(台形状の小さな山)を設けた直線200mのセパレートコースでパワーとスピードを競う。",
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"text": "地方競馬の競馬番組は「2歳」「3歳」「一般(3歳以上の古馬)」の年齢区分で番組編成が行われ、各馬の格付け(前述)に基いて出走可能なレースが決められる。",
"title": "概要"
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"text": "重賞競走は各主催者(地区)が個別に定めた独自のグレード表記を行うところもあるほか、中央競馬と地方競馬の所属に関わらず出走できるダート交流重賞は日本グレード格付け管理委員会の承認を受けた格付表記(国際競走はG表記、日本調教馬限定競走はJpn表記)が用いられ、「ダートグレード競走」として総称される。このほか、中央競馬の下級条件馬が出走する「条件交流競走」や地方競馬のみの全国交流競走、さらには地域限定の交流競走や騎手のみの交流競走も幅広く行われている。大井競馬場では、韓国馬事会(KRA)との国際交流競走を2013年より2016年までの4回実施した。",
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"text": "また、複数の重賞競走をシリーズ化した競走も行われ、一部のシリーズ戦は着順に応じたポイント等で各馬の順位を決め、上位馬にボーナス賞金を与えている。全国規模でのシリーズ競走は以下の通り。",
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"text": "騎手交流競走には、以下のようなシリーズ戦がある。",
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"text": "ホッカイドウ競馬では馬産地に近い特性を生かし、1着馬の馬主または生産牧場へ副賞として特定種牡馬の種付権を与える「スタリオンシリーズ競走」を行っている。その後、岩手や東海地区・兵庫でも「HITスタリオンシリーズ」の名称で行われるようになった。また一部の競馬場では、数万円程度の協賛金と副賞を提供することで、競走の冠命名権などのサービスを含んだ個人協賛競走を行うことができる。",
"title": "概要"
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"text": "全国規模の表彰として地方競馬全国協会がNARグランプリを1990年度より行っているほか、日本プロスポーツ協会の加盟団体として日本プロスポーツ大賞での受賞資格を有する。また、南関東地区が優秀騎手・功労調教師らの表彰を行い、兵庫県競馬組合が別途年度代表馬や各部門賞を選定しているなど、各主催者・地区単位でも独自の表彰制度を設けている。岩手県競馬組合では、馬事文化賞の表彰も行われている。",
"title": "概要"
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"text": "地方競馬を開催できる競馬場は、以下の17ヶ所。ただし2018年時点で、中京競馬場、札幌競馬場は中央競馬の開催のみが行われており、中京は2003年以降、札幌は2010年以降地方競馬の開催がなく、実質休止の状態である。",
"title": "競馬場"
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"text": "地方競馬は競馬法および競馬法施行規則により年間開催回数と1開催あたりの開催日数、1日あたりの競走回数が定められている。1回の開催における開催日数は6日を超えず、1日の競走回数は12を超えない。1回の開催における日取りは、連続する12日間の範囲内の日取りとする。年間開催回数については下表で定められた回数を超えない。ただし、施設改善もしくは公益性の高い事業に対する財源確保を目的に開催回数上限を超えて「特別競馬」を3開催(最大18日)を上限に開催することが認められている。",
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"text": "2022年度実績(2022年4月 - 2023年3月)",
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"text": "同一県内・同一主催者による売上は合算している。",
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"text": "地方競馬全体の売上は1991年の9862億3944万9300円をピークに下降していたが、2010年代から次第に回復して2022年度は史上最高となる1兆703億5968万3860円となった。なお、インターネット投票を含む電話投票が全体の89.9%を占めている。",
"title": "競馬場"
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"text": "2015年4月現在、後述の10方式が設定されている。南関東や東海・北陸といった地区単位での相互発売や広域場間場外発売の設定によって、自場以外で施行されている勝馬投票券の購入も可能である。各主催者がそれぞれ場外発売所を設けているほか、地方競馬全国協会と全国公営競馬主催者協議会が出資する日本レーシングサービスがBAOOの名称で各地に場外発売所を展開している。電話・インターネット投票については、東京都競馬によって運営されるSPAT4、旧来の各主催者ごとの電話投票網を統合したD-netを引き継いだオッズパーク、インターネット投票専業で新規参入した楽天競馬が存在するほか、中央競馬の電話投票システム「IPAT」でも地方競馬の競走を一部購入可能となっている(地方競馬IPAT)。",
"title": "勝馬投票券"
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"text": "日本においては中世以来、祭りの中で神社などに即席の直線馬場を設けて2頭の馬を競わせる形式の競馬が全国各地で広く行われていた。こうした祭典競馬・花競馬と呼ばれる日本古来の競馬に対して、1860年代より横浜や神戸の外国人居留地においてイギリスを起源とする西洋式の競馬が行われるようになる。これは1870年の陸軍による招魂社競馬を皮切りに日本人によっても執り行われ、不平等条約改正を目指す日本政府によって、日本が西洋諸国と同等の文明国となった象徴として喧伝された。そして祭典競馬がその様式を模するなどして、全国各地で次第に洋式競馬が行われるようになっていく。",
"title": "歴史"
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"text": "そして1910年に競馬規程が改正された際に、祭典などの娯楽のために競馬を行うことが法的に認められるとともに、地方長官による許可と賞品・開催費の補助のもとで畜産組合らが競馬を施行することができるとされた。続く1923年の競馬法においては政府が公認した競馬倶楽部による公認競馬のみが競馬を施行し馬券発売を行うことができるとされたが、各地の畜産組合による競馬の中にも公認競馬に倣って入場券による景品競馬のみならず、馬券の発売を実施するものが多く現れるようになる。しかしながら、これは同時に山師的な主催者による競馬場の過剰なまでの増加や、入場券の制限が公然と破られるなどの問題を引き起こした。そしてこうした競馬を政府の統制下に置くために、ついに地方競馬規則(1927年8月27日 農林・内務省令)が施行されるに至るのである。この中では地方長官の許可のもとで各地の畜産組合、畜産組合連合会、馬匹改良を目的とする団体が競馬を施行することができるとされ、またその統一的な規定が定められた。法令用語としての地方競馬の呼称はここに始まる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1927年秋に52主催者59競馬場で始まった地方競馬は、公認競馬を含めた競馬熱の高まりの中で順調に開催成績を伸ばしていく。公式には禁じられていたが、実際には公認競馬との間で人馬の流動性も高かった。また地方競馬規則の制定に先立つ1926年には大日本産馬会、日本乗馬協会、帝国運送協会の3団体とその関連組織が合同し、馬事関連の全国的な組織である帝国馬匹協会が創設されていた。これが地方競馬主催者の全国的な連絡組織として機能し、馬名の登録や騎手の講習も実施している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "このようにして、地方競馬はその法的な地位を得た。一方で、これは軍馬用途を目的とした馬匹の改良と馬事思想の普及という国策と関連したものであり、農林省や陸軍省からそれ自体は軍馬には向かないサラブレッドによる競馬は公認競馬に譲り、地方競馬ではより軍馬に適したアングロアラブ・アングロノルマンによる競馬を、さらには平地競走ではなく障害競走や速歩競走を行うべきという意見が当初から出されている。1933年には地方競馬規則が大幅に改正され、一定以上の売上規模がある主催者はその売上の一部を馬匹改良・馬事に関わる施設のために支出すること、出走を内国産馬に限ること、速歩競走を重視することが定められた。また1936年に公認競馬側が日本競馬会に統合されると、相互の交流は一層厳しく統制された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "そして日中戦争の勃発とそれによる軍馬需要の急激な増大を背景に、1939年7月3日より新たに軍馬資源保護法が施行される。これによってそれまで地方競馬とされてきた競馬は馬券発売を認められた軍用保護馬鍛錬競走へと移行し、「国防上特ニ必要トスル馬ノ資質ノ向上ヲ図リ軍馬資源ノ充実ヲ期スルコト」がその目的となった。これによって当時100を越えていた地方競馬場の多くが閉鎖され、都道府県ごとに存在した畜産組合連合会35団体のもとで37個へと集約される。売上金の一部を国庫へ納入する機能を有していた軍用保護馬鍛錬中央会がこれを統括し、のちに太平洋戦争が勃発するとこれは国家総動員法体制下で帝国馬匹協会、大日本騎道会とともに日本馬事会へと統合された。この鍛錬競走は、いよいよ戦局が悪化する1944年末まで続く。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦終結後、軍馬資源保護法ならびに国家総動員法が廃止されたことで、地方競馬はその法的根拠をふたたび喪失した。しかしながら、早くも1945年秋には静岡県で法的根拠を持たない闇競馬が行われるや、地方競馬の開催を望む機運は全国へと波及していく。また1946年春になると、農林省ら中央政府の黙認下で地方長官の認可と条例をもとに競馬を施行し、その売上の5%前後を戦災復興や海外引揚者への支援金のため地方自治体へ寄付する事例も多く見られるようになった。また北海道においては、進駐していたアメリカ軍第11空挺師団がアメリカ独立記念日を祝うために競馬の施行を北海道馬匹組合連合会に要請。1946年7月6日から進駐軍競馬として競馬が再開されることとなり、札幌、函館、室蘭の3都市で施行されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "そして1946年11月20日、ようやくこの無法状態に終止符を打つべく地方競馬法が施行される。これは戦前の地方競馬規則と同様に馬匹組合・馬匹組合連合会が競馬を施行することを認めるものであり、その中央団体として中央馬事会が置かれた。鍛錬競走時代に引き続き馬券の発売も認められたほか、配当の上限も従来の10倍から100倍へと引き上げられている。また戦前に引き続きサラブレッド・アングロアラブら軽種馬を中心としていた日本競馬会に対し、各地の農業生産と密着した実用馬を用いることが打ち出され、民主化の世相を反映しその収益の使途も各馬匹組合連合会および中央馬事会の裁量に任されていた。しかしながらこれらの馬連競馬は闇競馬時代からの連続性が強く、また敗戦直後の社会情勢もあって競馬場での騒擾事件が頻発する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1947年7月、連合国軍最高司令官総司令部より日本競馬会及び上記の中央馬事会、馬匹組合連合会が、「競馬事業を独占している独占機関である」との通告がもたらされる。GHQが志向していたであろう完全な民営化、そしてそれがもたらすと考えられた反社会的勢力の競馬へのさらなる蔓延を防ぐため、同年12月23日の閣議決定において、従来の公認競馬は国営化、馬連競馬は公営化し都道府県にこれを委ねることが決定された。各地の馬連は1948年春の開催を強行するなどの抵抗を続けたが解散・資産の委譲を迫られ、中央馬事会も1948年7月に解散を余儀なくされる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "そして1948年7月、競馬法が成立。これによって馬連競馬の資産及び開催権は都道府県、競馬場が所在する市町村、そして地方財政委員会が別途指定した戦災復興の中で自主財源不足に苦しむ市町村へと移り、地方競馬は現在まで続く公営競技へと大きな転換を果たすこととなる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "競馬法が施行された1948年、公営競技へ移行し競馬を施行した地方競馬場は全国で61箇所存在した。だが当然ながら、公営化によって当時の地方競馬が抱えていた問題が一挙に解決するはずもない。馬資源の不足は深刻であった。中間種が競走に盛んに用いられ、馬籍登録を偽った競走馬が蔓延したほか、北海道では輓馬を平地競走で走らせるような奇策すら取られた。また競馬法が成立したのとほぼ時を同じくして、自転車競技法が国会を通過。11月には小倉競輪場で日本初となる競輪が開催されると、この戦後生まれの公営競技は大衆から爆発的な人気を獲得する。その後も1950年には小型自動車競走法によってオートレースが、1951年にはモーターボート競走法に基づき競艇が開始され、それぞれ順調に売上を伸ばしていった。一方で戦前以来の旧態依然とした施設に頼る各地の地方競馬場は開催成績が低迷し、急速にその数を減らしていく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "こうした中にあって、いち早く隆盛を見せたのは関東地方の競馬場だった。1947年の浦和競馬場を皮切りに、のちに南関東公営競馬を構成する4競馬場は交通の利便性が高い土地へと移転を進める。これによる順調な売上の増加を背景にスターティングゲートの導入や大井による豪サラ輸入のような先進的な施策を進め、国営・中央競馬へ移籍し大競走を制しうるような名馬が数多く現れるに至った。なによりもアングロアラブ競馬においては、質・量ともに国営・中央競馬を凌ぐ堂々たる繁栄をみせている。また、北海道ではその地理的条件から、道内の各競馬場を人馬ともに関係者が渡り歩くジプシー競馬とも呼ばれる興行形態が長く残った。ばんえい競馬が公営競技として根付きはじめたほか、戦前以来の十勝におけるアングロノルマン生産を背景に、速歩競走が1960年代初頭まで重要な地位を占めた。関西方面へ目を移すと、大井と同じく豪サラを導入した兵庫競馬は、その扱いに慣れないところにコースの手狭さもあって故障馬が続出。頭数の少なさから競走が成り立たず、みすみす国営競馬への流出を許してしまった経験から、以後はアングロアラブ専業の競馬場としてアラブのメッカへの道を歩む。大阪競馬場・春木競馬場では障害競走が人気を博し、紀三井寺は北海道を始めとする冬期休催競馬場の出稼ぎ先として独自の存在価値を見出した。そのほかの地区においても徐々に施設の近代化が図られ、1970年には大井競馬場でのちに中央競馬へ移籍すると社会現象を巻き起こすハイセイコーがデビューを迎える。このアイドルホースの登場による第一次競馬ブームによって、全国的に開催成績も上向いていった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ただし、長沼弘毅を委員長として1961年2月に組織された公営競技調査会の答申は大筋として公営競技の現状維持を定めるものであったが、その中では馬・馬主の登録や地方競馬の騎手免許、専門職員の養成・派遣を全国一元的に統括するとともに、その利益を広く畜産振興のために還元する組織を設立することが求められていた。これを受けて1962年に特殊法人である地方競馬全国協会が設立され、競走馬の登録や騎手・調教師免許の管理は各主催者からこちらへと一元化されている。1963年には新人騎手などの育成を行うために、栃木県那須塩原市に地方競馬騎手教養所が完成した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "一方で、戦後直後の社会情勢下で公営の競馬を開催するにあたっては、必然的に地元のボスたちとの接触が不可欠である。兵庫のように馬主らによって組織された振興会が競馬の開催業務に深く関わるなど、公営化されたといっても組織としての透明性が長らく不十分な地域も存在した。騎手や調教師、厩務員への反社会的勢力の浸透も避けられず、1960年代から1980年代にかけて競馬法違反容疑で逮捕・追放された事例は全国的に数多い。競馬場内におけるノミ屋・コーチ屋の跋扈も問題であった。また黒い霧事件を契機に一般社会においても注目を集めた公営競技を取り巻く黒い影の存在は、少しでも怪しい競走が行われた場合に、ファンが八百長を声高に叫び容易に暴徒化する環境を生み出していく。とりわけ、その被害規模の大きさに加えて著名馬が関係していたこともあって、園田事件は現在に至るまでも語り継がれ、兵庫県競馬組合の運営に影を落としている。革新自治体における公営競技に対する風当たりも激しく、1964年に大阪競馬場、1974年に春木競馬場が廃止されているほか、大井競馬場においても1972年度をもって東京都が開催権を返上し、特別区競馬組合単独での主催となっている。道営競馬にて、1人当たりの馬券購入額を5000円に制限するような奇策が採用されたことすらあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "そしてオイルショック後の社会情勢も影響し、1970年後半に入ると地方競馬の開催成績はふたたび全国的に伸び悩む。公営競技としての財政貢献もままならないとなれば、各地で競馬場の存廃までも含めた議論が進められることになった。そして1980年代中ごろから、それぞれの主催者が智恵を絞り、様々な振興策を打ち出していく。ただでさえ減少した入場者を不快にすること甚だしかったノミ屋・コーチ屋は、1985年からの全国的な清浄化作戦によって競馬場内から可能な限り閉め出された。顧客の利便性を高めるために、電話投票の導入や昼休みのサラリーマンを狙った外向き発売口の設置、県内・地区単位での相互場外販売の試みが始まったのもこの時期である。中でも岩手県競馬組合は最新鋭の映像伝送システムを駆使したテレトラックと呼ばれる場外網を構築し、急激に売上を伸ばしていった。1986年には、大井競馬場において日本初となるナイター競馬トゥインクルレースが行われている。それでも、大胆な振興策を実施するだけの体力を有していなかった主催者の開催成績は低迷し、なかでも1988年には紀三井寺競馬場が廃止へと追い込まれている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "また、古くから各地の競馬場間を移籍する馬は数多く存在したが、他地区との間で直接の交流はほとんどないに等しかった。それが、1972年に南関東におけるアングロアラブ古馬最高の競走であったアラブ大賞典が全日本アラブ大賞典として、翌1973年には園田競馬場で3歳馬の楠賞が楠賞全日本アラブ優駿として、それぞれ地方競馬全国交流競走化を果たす。これによって、各地区の代表馬がそれぞれのプライドを賭けて、鎬を削り合う舞台が産まれることになった。中央競馬との間でも1973年より中央側で地方競馬招待競走が、大井競馬場で中央競馬招待競走が隔年で交互に施行されていたが、1986年からは帝王賞が距離を2000mに短縮された上で、中央競馬招待・地方競馬全国交流競走となった。中央競馬側でもオールカマーが開放されたほか、ジャパンカップにも地方競馬所属馬の招待枠が設けられていた時期があり、1985年には船橋所属のロツキータイガーが2着と健闘している。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1987年、笠松競馬場でのちに第二次競馬ブームを牽引するオグリキャップがデビューを迎える。これ以前から続いていたバブル景気による経済状態の好転もあって、地方競馬の開催成績もようやく上向きをみせた。1989年には生産者らの団体が主体となって、ホッカイドウ競馬にてブリーダーズゴールドカップが設立されている。また騎手招待競走のような企画・交流競走も華々しく行われ、1988年には兵庫県競馬組合が通算2000勝以上の名手たちが高額賞金を賭けて戦うゴールデンジョッキーカップを創設。1989年から1993年にかけては、国外からも招待騎手を招いたインターナショナルクイーンジョッキーシリーズが開催されている。各主催者だけでなく、地方競馬全国協会も1990年からは地方競馬全体の表彰としてNARグランプリを開催し、従来の機関誌『地方競馬』が一般競馬ファンも対象とした『Furlong』へと衣替えするなど、時代に合わせた広報活動へと転換していく。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一方で、オグリキャップやオグリローマン、イナリワンのような傑出馬を輩出しながらも、活躍の場を求めて中央競馬への移籍を許してしまったことは、地方競馬関係者からすればその心境は複雑であった。また、中央競馬の側も国際化な日本競馬の地位向上において、地方競馬との協調を進める必要に迫られたことから、1995年より中央競馬と地方競馬の間で交流元年と呼称される、相互交流の大幅拡大が実施されることになった。多くの地方競馬場にて中央競馬所属馬が出走可能な指定交流競走と、日本中央競馬会が賞金の90%を援助し、1着馬に中央競馬で施行される条件戦のうち特別指定競走への出走権利を付与するとともに中央競馬への転入を優遇するJRA3歳認定競走が設けられた。また、各ブロックの代表選定競走を勝利するなどした馬には中央競馬の最高格付け競走たるGI競走に向けた前哨戦への出走権が与えられ、さらにはそこで好走することでGI競走本体へも出走する道が開かれた。果たして、この交流元年初年度から笠松所属のライデンリーダーが、桜花賞のトライアル競走である4歳牝馬特別で勝利。本番の桜花賞こそ4着だったものの、中央競馬の3歳牝馬クラシック3戦全てに出走を果たしている。1996年には日本中央競馬会、地方競馬全国協会、全国公営競馬主催者協議会によってダート競走格付け委員会が組織され、翌1997年より中央競馬・地方競馬を横断した重賞競走の格付けであるダートグレード競走制度が導入された。2001年からは、全国の地方競馬場での持ち回り開催となるJBC競走が創設されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "そして1999年、中央競馬の東京競馬場で開催されたフェブラリーステークスを岩手所属のメイセイオペラが制し、地方競馬所属馬による中央競馬開催GI初制覇を達成した。同年にはレジェンドハンターがデイリー杯3歳ステークスを逃げ切り、本番の朝日杯3歳ステークスでも2着。2004年にはホッカイドウ競馬で認定厩舎制度を利用したコスモバルクが、中央3歳牡馬クラシック戦線へ有力馬の1頭として参戦し人気を集めた。その後も果敢に芝路線への挑戦を続け、シンガポールのクランジ競馬場で開催された国際GIであるシンガポール航空インターナショナルカップを制する快挙を成し遂げている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、バブル崩壊後の経済情勢は、地方競馬の開催成績を直撃した。1991年に9862億円でピークを迎えた地方競馬全体の売上は、2000年には5605億円まで激減する。巨額の累積赤字を積み上げた各地の主催者は一転して賞典費を始めとする経営コスト削減に回るが、それが馬資源の流出や厩舎関係者の士気低下を招くことで競走自体の魅力が乏しくなり、ますます開催成績が悪化するという悪循環に陥っていった。また、中央・地方併せて2001年には46競走まで拡大したダートグレード競走だが、その賞金水準の高さに比して売上額は芳しくなく、地方競馬にとってのカンフル剤とはならなかった。高崎競馬場や新潟公営などでは入場者数増加の振興策の一環として、日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所を場内で併設することが行われた。だがその結果として、目の前で行われている生の競走ではなく、僅かな手数料収入しか得られない中央競馬の中継映像へ多くの顧客が群がるという、悲劇的な光景も見られたという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、西日本を中心に専業の競馬場も存在するなど、長らく地方競馬の歴史を支えてきたアングロアラブ競馬だが、1995年の中央競馬における廃止に続いて、1980年代から在厩数の減少に悩んでいた南関東の競馬場がその廃止を決定する。交流元年後はサラブレッドによる相互交流の機運が高まったこともあって、アラブのメッカを誇った兵庫県競馬組合も1999年にサラブレッドの導入を発表。最終的に、2009年9月27日に福山競馬場で施行された「開設60周年 アラブ特別レジェンド賞」をもって、日本国内におけるアングロアラブ系単独競走は姿を消している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "そして2001年、大分県の中津競馬場が、21億円の累積赤字を理由に廃止されることが主催者の中津市より発表される。その後、中津競馬場では廃止に伴う競馬場関係者の補償金を巡って労働争議が紛糾するが、ともかくもこの中津を皮切りとして、全国的に競馬主催者の撤退が相次いでいった。翌2002年8月には日本一小さな競馬場として知られた島根県益田市の益田競馬場が廃止となり、2003年から2006年にかけて足利・高崎・宇都宮の北関東公営競馬が壊滅。東北地区では、2002年にすでに前年より三条競馬場での開催を中止していた新潟県競馬が完全に廃止され、翌2003年には作家山口瞳が愛したことで知られた上山競馬場からも競走馬が姿を消した。かつては地方競馬の優等生と謳われた岩手競馬すらも、開催成績の低迷に加えて、1996年に移転した新盛岡競馬場の建設費を巡る巨額の債務によって破綻的な経営状況へと陥り、2007年には一時廃止が確実視された。1989年より4市による北海道市営競馬組合として主催されてきたばんえい競馬についても、2006年に帯広市を除く構成地方公共団体が撤退し、単独の開催へ縮小することで辛くも存続している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、地方競馬から中央競馬の競走への遠征馬に騎乗する騎手は当日の他の競走にも騎乗できたことから、地方競馬の名手たちが中央競馬においてもその腕前を披露する機会を得ることになった。そして地方競馬の未来がかくも不安定な状況にあっては、一般的な注目度・金銭的な待遇ともに恵まれた中央競馬への移籍を望む騎手が現れることも自然な流れである。2001年、長らく笠松競馬場のリーディングジョッキーとして知られた安藤勝己が、中央競馬の騎手免許試験を受験することを発表した。この年こそ一次試験で不合格となったが、すでにその実力が中央競馬のファンにも知れ渡っていた安藤勝己が免許を取得できなかったことは各方面からの非難を呼んだ。そして翌2002年には通称アンカツルールと呼ばれた「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」の一次試験を免除する規定が設けられたこともあって、見事に合格。地方競馬全国協会は騎手免許の中央・地方重複所有を監督官庁である農林水産省へ要請したが認められず、2003年3月より安藤勝己は中央競馬所属騎手として再出発を果たした。以後も各地区のリーディング級騎手による中央競馬騎手免許試験の受験が相次ぎ、また地方競馬内でも比較的余裕のある競馬場への移籍を望む事例がみられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2004年、疲弊する地方競馬を中心とした日本競馬の構造改革を目指して競馬法が改正され、勝馬投票券発売業務を始めとする競馬の実施にあたる業務の大半を民間業者へ委託可能となった。そして早速、2004年限りでの廃止が決定していた高崎競馬場について、当時新進気鋭のIT系若手経営者として知られ、熱心な競馬ファンでもあったライブドア社長堀江貴文が、インターネットを通じた馬券発売を中心とした再建策を持ち上げる。2005年には、ソフトバンクの子会社であるソフトバンク・プレイヤーズが、日本レーシングサービスが所有していた南関東を除く地方競馬の統合電話投票システムであるD-netを買収し、翌2006年4月よりオッズパークとしてリニューアル。同社はまた、帯広市主催のばんえい競馬の一部業務委託も2011年度まで担っている。一方で南関東公営競馬は東京都競馬がシステムを管理する自前の電話投票システムSPAT4を有していたが、別途2006年3月末に楽天との間でインターネットを通じた勝馬投票券発売業務の提携を発表。他の主催者もこれに追随し、2007年2月より楽天競馬として業務を開始した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "こうした勝馬投票券発売業務の委託は10%以上の高額な手数料による収益性低下の問題を孕んでいたものの、その利便性の高さから総売上に占める電話投票の割合は着実に増加していった。なかでも高知県競馬組合はハルウララの登場と関係者の必死の努力によってギリギリで廃止を免れる状況が続いていたが、インターネット投票の顧客を狙って2009年より冬期も含めた通年ナイター開催である夜さ恋(よさこい)ナイターを開始。後述する日本中央競馬会の電話投票システムでの発売もあって、大きく経営を安定化させることに成功している。このようにナイター開催化の流れは全国的に顕著であり、同じく2009年から門別もナイター化し、2012年からは園田競馬場も限定的ながらナイター開催を行っている。こうした中で地方競馬の開催成績は2000年代半ばから微減で推移してきたが、それでも2011年には荒尾競馬場が、2013年には福山競馬場が廃止となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2000年代の後半に入るとインターネット発売や広域場間場外発売の拡大もあって、従来から進められていたダービーWeekを始めとする全国規模のシリーズ競走の企画運営や交流競走路線の整備が、一層の進展を見せてきた。また小泉構造改革に伴う特殊法人改革によって、地方競馬全国協会は2008年より地方共同法人へと移行する。この際にその業務に「競馬活性化事業及び競走馬生産振興事業に対する補助」が加えられ、農林水産大臣の認可を受けた認定競馬活性化計画に基づき、地方競馬全国協会が各主催者や業務受託業者を支援することが可能となった。そして日本中央競馬会からの交付金も用いて整備が進められた地方競馬共同トータリゼータシステムによって、2012年10月からは地方競馬IPATとして中央競馬の電話投票システムを通じた地方競馬の発売を開始。また同じシステムを通じて地方競馬場やその場外勝馬投票券発売所で中央競馬の馬券を発売するJ-PLACEも拡大し、その手数料収入が一部の地方競馬主催者にとっては重要な収益の柱となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "これらの施策が実を結び、地方競馬の売上は下げ止まりの傾向を示している。川崎競馬では平成25年(2013年)度の一般会計決算で累積赤字をすべて解消し黒字に転じたほか、ばんえい競馬も平成25年(2013年)度・平成26年(2014年)度の2年連続で売得金(売上)が前年度比110%以上となっている。 また、長年下落傾向にあった競走賞金も徐々に回復に転じ、各競馬場において重賞競走の新設や賞金増額などの施策が講じられるようにもなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2022年、JRAと連携して大規模なダート競走の大規模な体系整備が2023年より実施されることが発表された。中央馬に対する地方馬の戦力の増強、ダートグレード競走の国際格付け取得が最終的な目標とされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "整備内容",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "詳細は3歳ダート三冠を参照。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "詳細はネクストスター (競馬の競走名)を参照。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2歳馬競走に対する変更は2023年、3歳馬や古馬競走に対する変更は2024年から適応される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、地方馬の戦力の増強を目的とした、上記以外にも本賞の増額や競走体系・負担重量の整備、優勝馬への報奨金などのダートグレード競走への奨励策、国際競走化やより上の格付け取得、レースレーティングの向上を目的とした、海外出走馬の受け入れ体制の整備などが施行される予定であり、2028年から段階的にダートグレード「Jpn」の廃止も行われる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "こういった改革を受けて各地域の競馬運営組織でも競走の見直しが行われており、近辺地域における3歳秋の頂点決定戦だった岩手のダービーグランプリの終了や兵庫地域では楠賞や兵庫三冠の検討がされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "以下の表は2021年度それぞれの格付けの施行順となっている。",
"title": "GI・JpnI競走"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "※川崎記念は2024年度より開催時期を4月上旬に移設予定。",
"title": "GI・JpnI競走"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "※ジャパンダートダービーは2024年度の3歳ダート3冠競走の創設に伴い名称を「ジャパンダートクラシック」に変更の上、10月上旬に移設予定。",
"title": "GI・JpnI競走"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "先述でも述べたが、2024年度に3歳ダート3冠競走の創設のためジャパンダートダービーを除いた現南関東三冠競走が全てJpnIに昇格する。また2歳路線や古馬の体系整備を行うため短距離路線において新たにJpnIが定められる。",
"title": "GI・JpnI競走"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "※羽田盃・東京ダービーは南関東重賞格付けがSIである。また、さきたま杯がJpnIに昇格するため南関東全ての競馬場にJpnIが定められる。",
"title": "GI・JpnI競走"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "上述の通り、地方競馬とは日本国内における法令用語である。だが、日本国外の競馬についても、その施行形態や開催規模などによって、地方競馬に近い形で呼ばれているか、翻訳・紹介にあたって地方競馬の語を充てる事例が存在する。これは必ずしも、日本における地方競馬と質的に同等というわけではない。",
"title": "日本国外における地方競馬"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "フランスの競馬においては、フランスギャロとシュヴァルフランセによって施行されるパリ地区を除く、地方競馬協会(Société de courses de Province)が施行する競馬が地方地区(地方競馬)とされる。全国に200を越える地方競馬協会が存在し、その施設は多くの場合地方自治体の所有である。全国で10個の地方連合会によって束ねられたこれらの地方競馬は、パリ地区も含めた全国組織であるフランス競馬全国連合を通じて、審判や発走などの開催執務を担う人員や放映機材の支援、フランス場外馬券発売公社(PMU)の収益からの資金援助を受ける。一方で、PMUでの発売を受けられない零細地方競馬協会については開催成績が低迷し、競馬を廃止する地方自治体も現れている。",
"title": "日本国外における地方競馬"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "オーストラリアの競馬は連邦を構成する各州及び特別地域ごとに根拠法が制定され、それに基づいて大小数百の競馬主催者が存在している。これはその賞金額などによって3つのカテゴリーに分類され、上からそれぞれ都市競馬(Metropolitan)、地方競馬(Provincial)、田舎競馬(Country)と呼ばれている。ただし、カテゴリーの間で相互の出走の制限などは存在せず、あくまで主催者の相対的な位置付けに過ぎない。",
"title": "日本国外における地方競馬"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ウルグアイには14の競馬場が存在するが、そのうち首都モンテビデオ郊外に存在するマローニャス競馬場(Hipódromo de Maroñas)以外の競馬場を地方(Interior)とする。チリの競馬においては、各競馬主催者は法的には同等であるが、記録・統計上は首都サンティアゴの2団体とビニャ・デル・マールに存在するバルパライーソ・スポーティングクラブの3主催者が中央、それ以外は地方とされる。",
"title": "日本国外における地方競馬"
}
] | 地方競馬とは、日本で勝馬投票券の発売を伴う競馬における法令上の興行形式のひとつである。本記事では主に日本の地方自治体等(都道府県、市区町村など)が主催する競馬(平地競走)について詳述しているが、外国における比較的小規模の競馬についても触れる。 | {{読み仮名|'''地方競馬'''|ちほうけいば}}とは、日本で[[勝馬投票券]]の発売を伴う[[競馬]]における法令上の興行形式のひとつである。本記事では主に日本の地方自治体等(都道府県、市区町村など)が主催する競馬(平地競走)について詳述しているが、外国における比較的小規模の競馬についても触れる。
[[ファイル:Tokyo Grand Prix 2005.jpg|thumb|right|平地競走のレース風景(第51回[[東京大賞典]]、[[2005年]])]]
== 概要 ==
1948年7月に制定された[[競馬法]]の下で[[地方公共団体]]によって主催される[[公営競技]]<ref name="NAR_about" />であり、[[日本中央競馬会]](JRA)の主催する「'''[[中央競馬]]'''」と対をなす法令用語となっている<ref name="keibaho0105"/>。2013年4月現在は14の主催者により全国17か所の競馬場(開催が行われていないものも含む)<ref name="NAR_about" />で[[平地競走]]と[[ばんえい競走]]が施行され<ref name="NAR_race" />、競馬法に基づく[[地方共同法人]]の[[地方競馬全国協会]](NAR)がこれを統括する。
戦前の[[公認競馬]]から[[国営競馬]]を経て、政府によって出資される[[特殊法人]]である日本中央競馬会によって施行されている現在も国庫への納付金を課せられている中央競馬に対して、現在の地方競馬は[[都道府県]]ないしは競馬場が所在する[[総務大臣]]が指定した市町村、または左記の[[地方公共団体]]で構成される[[一部事務組合]]が施行する[[競馬]]である<ref group="注">甚大な戦災・天災被害を被った地方公共団体も競馬を施行することができるほか、[[特別区]]については例外措置として総務大臣の指定市同等として扱われる。</ref><ref name="keibaho0102"/>。
2014年現在、日本での馬券発売を伴う競馬全体において在籍頭数のおよそ6割、競走数の約8割を占める<ref group="注">地方競馬側はばんえい競馬のものも含める。</ref><ref name="jratousuu"/><ref name="jrakaisuu"/><ref name="narh25"/>。[[勝馬投票券]]における払戻率は70〜80%であり<ref name="narkojo"/><ref name="keibahohusoku04"/>、その収益は主催自治体の畜産の振興、社会福祉の増進、医療の普及、教育文化の発展、スポーツの振興、災害の復興に充てられるほか<ref name="keibaho2309"/>、競馬を主催していない地方公共団体に対しても[[地方公共団体金融機構]]の貸付金利引き下げによって還元される<ref name="kokyokinyu"/>。また、地方競馬全国協会を通じても広く馬の改良増殖や畜産振興のために用いられている<ref name="nar"/>。しかしながら、1990年代以降は景気後退や娯楽の多様化などによって開催成績は低迷を続け、競馬事業を廃止する自治体も現れている<ref name="chihokeibashi05151"/>。
戦前は草競馬と蔑まれた地方競馬も、戦後の一時期は平日開催が可能でかつ開催数が多いことが追い風となり好景気を迎えたこともあった。開催数が多いことで賞金総額は国営競馬の2倍近くとなり、1950年にはダービーの有力候補や天皇賞好走馬(エゾテッサン、二着入線後に失格)が続々と地方競馬入りするといったこともあった<ref>「国営を追い越す地方競馬 ファンの人気移る 有力馬も続々登録替え」『日本経済新聞』昭和25年11月17日</ref>が、中央競馬の巻き返しにより再び人気は逆転していった。激しい淘汰の時代を経て、2011年には主催団体が15にまで減少。売り上げは3314億円まで減少した。その後2013年に福山競馬が廃止されたものの、JRAのIPAT投票での発売開始や日本経済の好転に伴って売り上げが急激に回復し、中にはバブル期を上回る過去最高の売り上げを記録する競馬場も出てきている。2022年度の全国総売上は1兆703億5968万3860円に達し、史上初めて1兆円を超えた<ref>[https://www.nikkansports.com/keiba/news/202303310002114.html 22年度の地方競馬総売得金が初の1兆円超え、1日平均の8億円も過去最高記録を更新] - 日刊スポーツ、2023年3月31日、2023年4月1日閲覧</ref>。
=== 競走馬の登録・格付け ===
[[File:Senor best 20140101.JPG|thumb|right|平地最多出走回数記録を更新した[[セニョールベスト]]]]
競走馬の登録は地方競馬全国協会が行い<ref name="nar" />、競走馬の格付け(クラス分け)は各主催者(地区)の区分によって行われる。格付けは各馬がレースで獲得した本賞金に各主催者(地区)が定める補正を行った'''番組賞金'''によって定められ、各主催者(地区)とも3段階(A・B・C)の大区分を基本としているが、各主催者(地区)ごとに年齢・収得賞金・着順のポイント換算など基準は異なる。主催者(地区)によっては前述の大区分に数字を組み合わせ、「A1・A2・B1…」のように細分化されることもある<ref name="kakuduke"/>。[[兵庫県競馬組合]]は競走馬の格付けに独自のポイント制を採用している<ref name="sonodakakuduke"/>。南関東地区でも2024年1月1日から番組賞金に代わってポイント積算方式を全面導入することが発表され、2歳馬については2023年4月1日から先行導入が開始されている<ref>[https://www.nankankeiba.com/news_kiji/13427.do 南関東4競馬場における番組編成のための新たな格付制度の導入(格付ポイント制)および2歳馬の先行導入に関わるお知らせ] - 南関東4競馬場、2023年2月20日配信・閲覧</ref>。
{{See also|日本の競馬の競走体系#地方競馬}}
なお、中央競馬における初出走馬にはゲート試験が課せられているが<ref name="gatejra"/>、地方競馬ではそれに加えて基準タイム以上で模擬競走を走破する'''[[能力試験]]'''{{Refnest|group="注"|ばんえい・岩手では「能力検査<ref name="能力検査(ばんえい)" /><ref name="能力検査(岩手)" />」、ホッカイドウ競馬では「競走能力・発走調教検査<ref name=noken_hokkaido />」、大井では「能力・調教試験<ref name=noken_oi />」と呼称され、主催者により名称は異なる。}}が行われる<ref name="kayokonoushi"/>ほか、転入馬や長期休養明けの競走馬には同様の'''調教試験'''が実施される<ref name="kuribayashi"/>。
=== 調教師・騎手・馬主 ===
[[File:Manabu-Tanaka20110815.jpg|thumb|right|父[[田中道夫]]と同じ勝負服を受け継いだ[[田中学]]騎手]]
[[調教師]]や[[騎手]]など競馬関係者の免許は地方競馬全国協会より付与され<ref name="nar" />、免許試験も地方競馬全国協会が行う<ref name="NAR_work" />。騎手や調教師の養成や研修を行う施設として、[[栃木県]]に[[地方競馬教養センター]]がある(ばんえいの養成は行っていない)<ref name="chihokeibashi05354"/>。ただし、[[厩務員]]は[[競馬学校|JRA競馬学校]]の卒業が義務づけられている中央競馬と異なり、地方競馬の場合は特別な試験を必要とせず、厩務員を希望する者は各地方競馬の[[厩舎]](調教師)と直接雇用契約を結ぶ<ref name="NAR_work" />。開催執務を担う人材は、各主催者の職員が[[地方競馬教養センター]]で研修を受けるなどして業務に就いているほか、主催者の要請に応じて一部は地方競馬全国協会からも派遣されている<ref name="chihokeibashi05354"/>。
騎手は原則として必ずいずれかの競馬場の厩舎に所属することとされている<ref name="NAR_work" />が、[[南関東公営競馬]](浦和・大井・船橋・川崎)と兵庫県競馬組合(園田・姫路)では、所定の要件を満たした騎手に限って特定の厩舎に所属しない「[[騎手会所属騎手]](中央競馬のフリー騎手に相当)」の制度を導入している<ref name="騎手会所属騎手" /><ref>[https://www.daily.co.jp/horse/local/2022/04/21/0015237715.shtml 【地方競馬】兵庫競馬でも騎手会所属制度 広瀬航がフリー第1号] - デイリースポーツ(神戸新聞社)、2022年4月21日配信、2022年4月26日閲覧</ref>。
騎手がレースの際に着用する[[勝負服 (競馬)|勝負服]]は、原則として騎手ごとに固有の服色('''[[勝負服 (競馬)#地方競馬|騎手服]]''')である<ref name="kawasakikishuhuku"/>が、ホッカイドウ競馬と南関東公営競馬では例外的に馬主固有の服色(馬主服)を着用しての騎乗を認めている場合もある<ref name="HR_umanushifuku" />。なお、中央競馬は馬主服が原則のため、地方競馬の騎手が中央競馬で騎乗する場合も馬主服を着用する。また、地方競馬の競走馬が中央競馬で行われる交流競走(後述)に出走する際、馬主が日本中央競馬会に登録されていない場合は「交流服」と呼ばれる専用の服が日本中央競馬会より貸与される<ref name="用語辞典_貸服" />。
騎手は原則として所属する競馬場(地区)内のみでの騎乗となるが、2000年代以降は他地区の地方競馬で[[期間限定騎乗騎手|期間限定騎乗]]を行ったり、重賞競走でスポット騎乗を行うなど、活躍の場が広がりつつある<ref name="chihokeibashi05098"/>。このほか、2007年の[[倉兼育康]]を先駆者として、[[韓国の競馬|韓国競馬]]への遠征を行う騎手も現れるようになった{{Refnest|group="注"|倉兼はその後も遠征を繰り返し、2014年には[[ソウル競馬場]]の最優秀騎手に選出されている<ref name="narkorea"/><ref name="kurakanekorea"/>。}}。また、多くの女性騎手が各地の地方競馬で活躍していることも特徴となっている<ref name="NAR_work" />。
[[馬主]]の審査・登録も地方競馬全国協会が日本中央競馬会とは別に行っており<ref name="nar" />、必要とされる所得額は個人馬主の場合で500万円以上となっている{{Refnest|group="注"|そのほか、所得が500万円以下の場合でも、資産の状況などによっては登録となる場合があるとされている<ref name="umanushi"/>。}}<ref name="umanushi"/>。
=== 競走・競馬番組 ===
[[ファイル:Kanesa-black 2013obihirokinen.jpg|thumb|right|ばんえい競走で第2障害を越えるばん馬(第35回[[帯広記念]]・[[カネサブラック]])]]
[[File:Love Michan 20091216W1.jpg|thumb|right|[[地方競馬スーパースプリントシリーズ]]の最終戦である[[習志野きらっとスプリント]]を三連覇した[[ラブミーチャン]]]]
地方競馬の平地競走は1周850メートル以上の走路でサラブレッド系の馬によって行われ、スタートからゴールまでのスピードを競う<ref name="NAR_race" />。ばんえい競走は日本で生まれた独自の競走形態で、体重1トン前後の重種馬が騎手とおもりを載せた鉄製のそりをひき、途中に2つの障害(台形状の小さな山)を設けた直線200mのセパレートコースでパワーとスピードを競う<ref name="NAR_race" />。
地方競馬の競馬番組は「2歳」「3歳」「一般(3歳以上の古馬)」の年齢区分で番組編成が行われ、各馬の格付け(前述)に基いて出走可能なレースが決められる<ref name="kakuduke"/><ref group="注">ばんえい競走においては、「2歳」「3歳」「3歳以上」ではなく「2歳」「3・4歳」「3歳以上」の区分が用いられる。[[ばんえい競走#公営競技のクラス編成]]を参照。</ref>。
重賞競走は各主催者(地区)が個別に定めた独自のグレード表記を行うところもある<ref name="南関東格付" />ほか、中央競馬と地方競馬の所属に関わらず出走できるダート交流重賞は[[日本グレード格付け管理委員会]]の承認を受けた格付表記(国際競走はG表記、日本調教馬限定競走はJpn表記)が用いられ、「[[ダートグレード競走]]」として総称される<ref name="NAR_GDR" />。このほか、中央競馬の下級条件馬が出走する「条件交流競走」や地方競馬のみの全国交流競走、さらには地域限定の交流競走や騎手のみの交流競走も幅広く行われている<ref name="NAR_koryu" />。大井競馬場では、[[韓国馬事会]](KRA)との国際交流競走を2013年より2016年までの4回実施した<ref name="日韓交流競走" />。
また、複数の重賞競走をシリーズ化した競走も行われ、一部のシリーズ戦は着順に応じたポイント等で各馬の順位を決め、上位馬にボーナス賞金を与えている。全国規模でのシリーズ競走は以下の通り。
* '''[[ダービーシリーズ]]'''<ref name="derbyweek2014"/> - 各地の8競馬場で行われる「ダービー(3歳馬のチャンピオン決定戦)」を短期集中施行(2006年から2023年まで)。
* '''[[GRANDAME-JAPAN]]'''<ref name="grandam2014"/> - 世代別(2歳・3歳・古馬)の牝馬重賞シリーズ戦。ポイント上位馬にはボーナス賞金を授与。
* '''[[未来優駿]]'''<ref name="mirai2014"/> - 秋に行われる各地の2歳馬による主要競走を短期集中施行。
* '''[[地方競馬スーパースプリントシリーズ]]'''<ref name="sss2014"/> - 1000m以下の短距離競走で構成されるシリーズ戦。各地区ごとに予選となるトライアル競走を行い、それらの上位馬で行われるファイナル([[習志野きらっとスプリント]])でチャンピオンを決定する。
* '''[[3歳秋のチャンピオンシップ]]'''<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keiba.go.jp/3saiaki2020/|title=3歳秋のチャンピオンシップ2020|publisher=地方競馬全国協会|accessdate=2021-01-28}}</ref> - 各地の3歳馬限定重賞競走を戦った有力馬が盛岡競馬場で実施される[[ダービーグランプリ]]へ集い、地方競馬の3歳チャンピオンを争う。ボーナス賞金のほか、JBC出走奨励金の制度もある<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keiba.go.jp/topics/2020/10/0418250714963.html|title=3歳秋のチャンピオンシップ2020 フレッチャビアンカ(岩手)に地方競馬全国協会競走振興事業としてボーナス賞金支給|publisher=地方競馬全国協会|date=2020-10-04|accessdate=2021-01-28}}</ref>(2017年から2023年まで)。
騎手交流競走には、以下のようなシリーズ戦がある。
* '''[[地方競馬ジョッキーズチャンピオンシップ]]'''<ref>[https://www.keiba.go.jp/sjt2015/gaiyou.html スーパージョッキーズトライアル2015特設サイト(シリーズ概要)] - 地方競馬全国協会、2015年6月14日閲覧</ref> - 中央競馬で行われる「[[ワールドオールスタージョッキーズ]](2014年までは[[ワールドスーパージョッキーズシリーズ]]<ref name="ssj2014"/>)」に出場する地方競馬代表騎手の選抜を目的とした競走シリーズ戦。
* '''[[ゴールデンジョッキーカップ]]'''<ref name="ゴールデンジョッキーカップ" /> - 通算2000勝以上を記録した地方競馬・中央競馬の騎手のみで争われる競走シリーズ。
* '''[[佐々木竹見カップ ジョッキーズグランプリ]]'''<ref name="takemicup" /> - 地方競馬の騎手として通算7151勝(ほか中央競馬で2勝)などの記録をもち、「'''鉄人'''」「'''地方競馬の至宝'''」の異名もつけられた[[佐々木竹見]]の功績を称え、地方競馬・中央競馬の代表騎手を招待して行われる競走シリーズ。
* '''[[全日本新人王争覇戦]]'''<ref name="全日本新人王争覇戦" /> - 地方競馬・中央競馬からデビュー3年以内の若手騎手が集い、新人王の称号をかけて争う競走シリーズ。
* '''[[レディースジョッキーズシリーズ]]''' - 地方競馬の女性騎手のみで争われる競走シリーズ(2006年 - 2011年、2021年 - )。
* '''[[レディスヴィクトリーラウンド]]'''<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keiba.go.jp/lvr2020/|title=LVRレディスヴィクトリーラウンド2020|publisher=地方競馬全国協会|accessdate=2021-01-28}}</ref> - 2016年から2020年まで開催された地方競馬の女性騎手のみで争われる競走シリーズ。
[[ホッカイドウ競馬]]では馬産地に近い特性を生かし、1着馬の馬主または生産牧場へ副賞として特定[[種牡馬]]の種付権を与える「'''[[ホッカイドウ競馬#その他の競走|スタリオンシリーズ競走]]'''」を行っている<ref name="hokkaidosta2014"/>。その後、岩手や東海地区・兵庫でも「[[HITスタリオンシリーズ]]」の名称で行われるようになった<ref name="HIT2014"/>。また一部の競馬場では、数万円程度の協賛金と副賞を提供することで、競走の冠命名権などのサービスを含んだ'''[[個人協賛競走]]'''を行うことができる。
=== 表彰制度 ===
全国規模の表彰として地方競馬全国協会が'''[[NARグランプリ]]'''を1990年度より行っている<ref name="nar2014"/>ほか、[[日本プロスポーツ協会]]の加盟団体として'''[[日本プロスポーツ大賞]]'''での受賞資格を有する<ref name="prosports"/>。また、[[南関東公営競馬|南関東地区]]が優秀騎手・功労調教師らの表彰を行い<ref name="nankan2014"/>、[[兵庫県競馬組合]]が別途年度代表馬や各部門賞を選定している<ref name="hyogo2014"/>など、各主催者・地区単位でも独自の表彰制度を設けている。[[岩手県競馬組合]]では、馬事文化賞の表彰も行われている<ref name="iwate2014"/>。
== 競馬場 ==
=== 地方競馬を開催可能な競馬場 ===
地方競馬を開催できる競馬場は、以下の17ヶ所<ref name="NAR_about" /><ref name="narkkeibazyo"/>。ただし2018年時点で、中京競馬場、札幌競馬場は中央競馬の開催のみが行われており、中京は2003年以降、札幌は2010年以降地方競馬の開催がなく、実質休止の状態である。
{| class="wikitable"
!地区!!都道府県!!所在地!!競馬場名!!主催者・通称!!所属
|-
|rowspan="3"|[[北海道]]||rowspan="3"|[[北海道]]||[[帯広市]]
![[帯広競馬場]]
|[[帯広市]](業務委託:株式会社コンピューター・ビジネスほか)<br>通称:[[ばんえい競走|ばんえい競馬(ばんえい十勝)]]||ばんえい
|-
|[[沙流郡]][[日高町 (北海道)|日高町]]
![[門別競馬場]]
|rowspan="2"|[[北海道]](業務委託:北海道軽種馬振興公社)<br>通称:[[ホッカイドウ競馬]]||rowspan="2"|北海道
|-
|[[札幌市]][[中央区 (札幌市)|中央区]]
![[札幌競馬場]]
|-
|rowspan="2"|[[東北地方|東北]]||rowspan="2"|[[岩手県]]||[[盛岡市]]
![[盛岡競馬場]]
|rowspan="2"|[[岩手県競馬組合]]<br>([[岩手県]]、[[盛岡市]]、[[奥州市]])||rowspan="2"|岩手
|-
|[[奥州市]]
![[水沢競馬場]]
|-
|rowspan="4"|[[南関東]]||[[埼玉県]]||[[さいたま市]][[南区 (さいたま市)|南区]]
![[浦和競馬場]]
|[[埼玉県浦和競馬組合]]<br>([[埼玉県]]、[[さいたま市]])
||浦和
|-
|[[千葉県]]||[[船橋市]]・[[習志野市]]
![[船橋競馬場]]
|[[千葉県競馬組合]]<br>([[千葉県]]、[[船橋市]]、[[習志野市]])
||船橋
|-
|[[東京都]]||[[品川区]]
![[大井競馬場]]
|[[特別区競馬組合]]<br>([[特別区|東京都特別区]])<br>通称:{{Lang|ja-Latn|TOKYO}} {{Lang|en|CITY}} {{Lang|ja-Latn|KEIBA}}(TCK)
||大井
|-
|[[神奈川県]]||[[川崎市]][[川崎区]]
![[川崎競馬場]]
|[[神奈川県川崎競馬組合]]<br>([[神奈川県]]、[[川崎市]])
||川崎
|-
|rowspan="2"|[[北陸地方|北陸]]||rowspan="2"|[[石川県]]||rowspan="2"|[[金沢市]]
!rowspan="2"|[[金沢競馬場]]
|[[石川県]]([[石川県競馬事業局]])||rowspan="2"|金沢
|-
|[[金沢市]]
|-
|rowspan="3"|[[東海地方|東海]]||[[岐阜県]]||[[羽島郡]][[笠松町]]・[[岐南町]]
![[笠松競馬場]]
|[[岐阜県地方競馬組合]]<br>([[岐阜県]]、[[笠松町]]、[[岐南町]])
||笠松
|-
|rowspan="2"|[[愛知県]]||[[弥富市]]
![[名古屋競馬場]]
|rowspan="2"|[[愛知県競馬組合]]<br>([[愛知県]]、[[名古屋市]]、[[豊明市]])||rowspan="2"|愛知
|-
|[[豊明市]]・[[名古屋市]][[緑区 (名古屋市)|緑区]]
![[中京競馬場]]
|-
|rowspan="2"|[[近畿]]||rowspan="2"|[[兵庫県]]||[[尼崎市]]
![[園田競馬場]]
|rowspan="2"|[[兵庫県競馬組合]]<br>([[兵庫県]]、[[尼崎市]]、[[姫路市]])||rowspan="2"|兵庫
|-
|[[姫路市]]
![[姫路競馬場]]
|-
|[[四国]]||[[高知県]]||[[高知市]]
![[高知競馬場]]
|[[高知県競馬組合]]<br>([[高知県]]、[[高知市]])
||高知
|-
|[[九州]]||[[佐賀県]]||[[鳥栖市]]
![[佐賀競馬場]]
|[[佐賀県競馬組合]]<br>([[佐賀県]]、[[鳥栖市]])
||佐賀
|}
{{Main2|休止中または廃止された競馬場は[[日本の廃止・休止競馬場一覧]]を}}
<gallery>
Morioka Racecouse homestraight.JPG|地方競馬で唯一、ダートコースと芝コースを備える[[盛岡競馬場]]
Ohi Racecourse 001.jpg|ナイター開催が行われる大井競馬場
</gallery>
=== 開催回数 ===
地方競馬は競馬法および競馬法施行規則により年間開催回数と1開催あたりの開催日数、1日あたりの競走回数が定められている。1回の開催における開催日数は6日を超えず、1日の競走回数は12を超えない。1回の開催における日取りは、連続する12日間の範囲内の日取りとする。年間開催回数については下表で定められた回数を超えない<ref name="keibahosekouhyou1"/>。ただし、施設改善もしくは公益性の高い事業に対する財源確保を目的に開催回数上限を超えて「特別競馬」を3開催(最大18日)を上限に開催することが認められている<ref name="keibahosekoufusoku4"/>。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!都道府県!!年間開催回数
|-
|北海道<br />(ホッカイドウ競馬・ばんえい競馬の合計)||43回
|-
|兵庫||29回
|-
|愛知||28回
|-
|岩手、東京、石川、岐阜、佐賀||21回
|-
|高知||19回
|-
|神奈川||15回
|-
|埼玉、千葉||13回
|-
|その他の府県||4回
|}
=== 各競馬場の売上 ===
2022年度実績(2022年4月 - 2023年3月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiba.go.jp/pdf/association/year2204-2303.pdf |title=地方競馬開催成績 令和4年4月 〜 令和5年3月次 |access-date=2023/07/11 |publisher=地方競馬全国協会(NAR)}}</ref>)
同一県内・同一主催者による売上は合算している。
{| class="wikitable"
|+2022年度実績
!順位!!競馬場!!総売得金!!前年比!!前年順位
|-
|1位||[[大井競馬場]]||195,457,236,170円||106.9%||1位
|-
|rowspan="3"|2位||[[園田競馬場]]||101,270,654,500円||95.5%||rowspan="3"|2位
|-
|[[姫路競馬場]]||{{0}}21,176,747,600円||117.7%
|-
|[[兵庫県競馬組合|兵庫県]] 計||122,447,402,100円||98.7%
|-
|3位||[[川崎競馬場]]||106,327,905,000円||109.4%||3位
|-
|4位||[[船橋競馬場]]||{{0}}94,739,607,600円||106.8%||5位
|-
|5位||[[高知競馬場]]||{{0}}94,608,061,600円||99.6%||4位
|-
|6位||[[名古屋競馬場]]||{{0}}76,233,183,900円||120.5%||7位
|-
|7位||[[佐賀競馬場]]||{{0}}68,282,059,400円||108.3||8位
|-
|rowspan="3"|8位||[[盛岡競馬場]]||{{0}}41,549,302,300円||120.4%||rowspan="3"|9位
|-
|[[水沢競馬場]]||{{0}}26,100,461,600円||115.3%
|-
|[[岩手県競馬組合|岩手県]] 計||{{0}}67,649,763,900円||118.4%
|-
|9位||[[浦和競馬場]]||{{0}}66,379,223,190円||100.2%||6位
|-
|10位||[[帯広競馬場]]([[ばんえい競走|ばんえい]])||{{0}}55,418,302,600円||107.2%||11位
|-
|11位||[[門別競馬場]]||{{0}}52,725,791,700円||101.7%||10位
|-
|12位||[[笠松競馬場]]||{{0}}42,655,089,900円||200.0%<ref group="注">所属騎手、調教師などが[[競馬法]]で禁止されている[[勝馬投票券]]の購入し[[国税局]]から申告漏れを指摘されたという報道を受けて、事実調査のために2021年1月19日から9月初めまで競馬開催を中止したため、前年は例年の半分程度しか開催していない。詳細は[[笠松競馬場#不祥事・事故・事件|笠松競馬場]]の項参照。</ref>||13位
|-
|13位||[[金沢競馬場]]||{{0}}27,436,056,800円||88.3%||12位
|-
|colspan="2"|合計||1,070,359,683,860円||107.8%||-
|}
地方競馬全体の売上は1991年の9862億3944万9300円<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=見えてきた1兆円超え - 斎藤修 {{!}} 競馬コラム|url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=48643|website=netkeiba.com|accessdate=2021-04-28|language=ja}}</ref>をピークに下降していたが、2010年代から次第に回復して2022年度は史上最高となる1兆703億5968万3860円となった<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=地方競馬の売り上げが1兆円超え…史上最高記録を更新 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=226758 |website=netkeiba.com |access-date=2023-07-11 |language=ja}}</ref>。なお、インターネット投票を含む電話投票が全体の89.9%を占めている。
== 勝馬投票券 ==
=== 発売 ===
[[File:Offtkourakuen.jpg|right|thumb|[[特別区競馬組合]]の場外施設・[[offt後楽園]]([[東京都]][[文京区]])]]
{{See also|1=場外勝馬投票券発売所#地方競馬の場外勝馬投票券発売所|2=電話投票#地方競馬の電話投票システム}}
2015年4月現在、後述の10方式が設定されている<ref name="narbaken"/>。[[南関東公営競馬|南関東]]や東海・北陸といった地区単位での相互発売や広域場間場外発売の設定によって、自場以外で施行されている勝馬投票券の購入も可能である。各主催者がそれぞれ[[場外勝馬投票券発売所|場外発売所]]を設けているほか、[[地方競馬全国協会]]と[[全国公営競馬主催者協議会]]が出資する[[日本レーシングサービス]]が'''BAOO'''の名称で各地に[[場外勝馬投票券発売所|場外発売所]]を展開している<ref name="baoo"/>。[[電話投票|電話・インターネット投票]]については、[[東京都競馬]]によって運営される[[SPAT4]]、旧来の各主催者ごとの電話投票網を統合した[[D-net]]を引き継いだ[[オッズパーク]]、インターネット投票専業で新規参入した[[楽天競馬]]が存在するほか、中央競馬の電話投票システム「IPAT」でも地方競馬の競走を一部購入可能となっている(地方競馬IPAT)<ref name="naripat"/>。
=== 発売種類 ===
* [[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝式]]
* [[投票券 (公営競技)#複勝式|複勝式]]
* [[投票券 (公営競技)#枠|枠番号二連勝複式]](枠複)
* 枠番号二連勝単式(枠単) - [[南関東公営競馬|南関東]]・[[金沢競馬場|金沢]]のみ設定
* [[投票券 (公営競技)#普通二連勝複式|普通馬番号二連勝複式]](馬複、普通馬複)
* [[投票券 (公営競技)#二連勝単式|馬番号二連勝単式]](馬単)
* [[投票券 (公営競技)#拡大二連勝複式|拡大馬番号二連勝複式]](ワイド)
* [[投票券 (公営競技)#三連勝複式|馬番号三連勝複式]](3連複)
* [[投票券 (公営競技)#三連勝単式|馬番号三連勝単式]](3連単)
* [[投票券 (公営競技)#重勝式|重勝式]] - インターネット投票のみ
** 5重勝単勝式 - [[ばんえい競走|ばんえい競馬]]・[[岩手県競馬組合|岩手]]・[[笠松競馬場|笠松]]・[[兵庫県競馬組合|兵庫]]・[[佐賀競馬場|佐賀]]で設定
** 7重勝単勝式 - ばんえい競馬・[[佐賀競馬場|佐賀]]で設定
** 3重勝馬番号二連勝単式 - [[ホッカイドウ競馬|北海道]]・[[南関東公営競馬|南関東]]で設定
== 歴史 ==
=== 公営化以前 ===
{{Main2|戦前の歴史については[[競馬の歴史 (日本)#地方競馬へ繋がる流れ]]を}}
==== 祭典競馬と地方競馬 ====
[[File:昭和9年4月30日気仙沼競馬河北新報記事.jpg|300px|right|thumb|昭和9年4月30日、気仙沼での花競馬の様子]]
日本においては中世以来、祭りの中で神社などに即席の直線馬場を設けて2頭の馬を競わせる形式の競馬が全国各地で広く行われていた<ref name="chihokeibashi0101"/>。こうした'''[[祭典競馬]]'''・'''花競馬'''と呼ばれる日本古来の競馬に対して、1860年代より[[横浜市|横浜]]や[[神戸市|神戸]]の[[外国人居留地]]において[[イギリスの競馬|イギリス]]を起源とする西洋式の競馬が行われるようになる<ref group="注">これを[[居留地競馬]]と総称する。当該項目も参照。</ref><ref name="tachikawa01"/>。これは1870年の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]による[[招魂社競馬]]を皮切りに日本人によっても執り行われ<ref name="chihokeibashi0103"/>、[[不平等条約]]改正を目指す日本政府によって、日本が西洋諸国と同等の[[文明国]]となった象徴として喧伝された<ref name="tachikawa01"/>。そして祭典競馬がその様式を模するなどして、全国各地で次第に洋式競馬が行われるようになっていく<ref name="chihokeibashi0103"/>。
そして1910年に[[競馬規程]]が改正された際に、祭典などの娯楽のために競馬を行うことが法的に認められるとともに<ref group="注">「第一条 競馬ハ民法第三十四条ニヨリ設立シタル競馬会ニアラザレバコレヲ行ウコトヲ得ズ但シ祭典等ニ際シモツパラ娯楽ノタメニスルモノハコノ限リニアラズ」。</ref><ref name="keibahoki01"/>、[[地方長官]]による許可と賞品・開催費の補助のもとで畜産組合らが競馬を施行することができるとされた<ref group="注">「畜産組合法ニヨル組合マタハ馬匹ノ改良増殖ヲ目的トスル団体ハ前各条ニヨラズ地方長官(東京ニアリテハ警視総監)ノ許可ヲ得テ競馬ヲ行ウコトヲ得前項ノ競馬ニシテ第五条、第九条、第十四条乃至第十六条ノ規定ヲ準用スルモノニアリテハ地方長官ノ請求ニヨリ必要ト認ムルトキハ馬政長官ハ開催補助金マタハ、賞金、賞品モシクハ賞状ヲ下付マタハ授与スルコトヲ得」。当時は馬券発売が禁止された「[[補助金競馬]]」の時代であるため。</ref><ref name="keibahoki23"/><ref name="chihokeibashi0112"/>。続く1923年の[[競馬法#旧競馬法|競馬法]]においては政府が公認した[[競馬倶楽部]]による[[公認競馬]]のみが競馬を施行し[[勝馬投票券|馬券発売]]を行うことができるとされたが、各地の畜産組合による競馬の中にも[[公認競馬]]に倣って入場券による[[景品競馬]]<ref group="注">入場券に付属する投票券の投票をもって馬券に替え、的中者に景品を贈呈するシステム。1競走につき1枚が原則とされ、客は2レース以上購入する場合いったん退場し再度入場券を購入し直す建前となっていた。</ref>のみならず、馬券の発売を実施するものが多く現れるようになる<ref name="chihokeibashi0114"/>。しかしながら、これは同時に山師的な主催者による競馬場の過剰なまでの増加や、入場券の制限が公然と破られるなどの問題を引き起こした。そしてこうした競馬を政府の統制下に置くために、ついに'''[[地方競馬規則]]'''([[1927年]][[8月27日]] [[農林省 (日本)|農林]]・[[内務省 (日本)|内務]][[省令]])が施行されるに至るのである<ref name="ogino115"/>。この中では[[地方長官]]の許可のもとで各地の畜産組合、畜産組合連合会、馬匹改良を目的とする団体が競馬を施行することができるとされ、またその統一的な規定が定められた<ref group="注">これはコースを1周1000m以上の円周形に限るなど、施設面で相応の高い水準を要求する物であった。そのため従来の祭典競馬の中には、「地方競馬」の範疇外でその後も継続して行われたものも多い(「地方競馬規則第30条」には、祭典のための競馬はこれを適用しないとの規定がある)。山陰地方においては、1960年代までその事例が確認されている。また、ばんえい競馬は未だ地方競馬の範疇には含まれることなく、草競馬の形態を余儀なくされた。なお、''[[宮城県における花競馬]]も参照''。</ref><ref name="chihokeibashi0121"/><ref name="masuda"/>。法令用語としての'''地方競馬'''の呼称はここに始まる<ref name="chihokeibashi0121"/>。
1927年秋に52主催者59競馬場で始まった地方競馬は、[[公認競馬]]を含めた競馬熱の高まりの中で順調に開催成績を伸ばしていく。公式には禁じられていたが、実際には[[公認競馬]]との間で人馬の流動性も高かった<ref name="chihokeibashi0153"/>。また[[地方競馬規則]]の制定に先立つ1926年には大日本産馬会、日本乗馬協会、帝国運送協会の3団体とその関連組織が合同し、馬事関連の全国的な組織である[[帝国馬匹協会]]が創設されていた。これが地方競馬主催者の全国的な連絡組織として機能し、馬名の登録や騎手の講習も実施している<ref name="chihokeibashi0146"/>。
==== 軍部の統制 ====
[[File:Kinko toga.jpg|300px|left|thumb|[[錦江作戦]]のため[[泗水]]を渡河する砲兵部隊と軍馬]]このようにして、地方競馬はその法的な地位を得た<ref group="注">ただしその根拠が法律でなく省令に留まったことから、馬券発売が不可能であるなどの不満は残った。そのため一部の有力地方競馬場の関係者はしばしば「地方競馬法」の制定を求める陳情を行うこととなる。</ref><ref name="chihokeibashi0125"/>。一方で、これは'''[[軍馬]]用途を目的とした馬匹の改良と馬事思想の普及'''という国策と関連したものであり、[[農林省 (日本)|農林省]]や[[陸軍省]]からそれ自体は軍馬には向かない[[サラブレッド]]による競馬は[[公認競馬]]に譲り、地方競馬ではより軍馬に適した[[アングロアラブ]]・[[アングロノルマン]]による競馬を、さらには[[平地競走]]ではなく[[障害競走]]や[[速歩競走]]を行うべきという意見が当初から出されている<ref name="ogino115"/><ref name="chihokeibashi0125"/>。1933年には[[地方競馬規則]]が大幅に改正され、一定以上の売上規模がある主催者はその売上の一部を馬匹改良・馬事に関わる施設のために支出すること、出走を[[内国産馬]]に限ること、速歩競走を重視することが定められた<ref name="ogino160"/>。また1936年に[[公認競馬]]側が[[日本競馬会]]に統合されると、相互の交流は一層厳しく統制された<ref name="chihokeibashi0169"/>。
そして[[日中戦争]]の勃発とそれによる軍馬需要の急激な増大を背景に、[[1939年]][[7月3日]]より新たに[[軍馬資源保護法]]が施行される。これによってそれまで地方競馬とされてきた競馬は馬券発売を認められた'''軍用保護馬鍛錬競走'''へと移行し、「''国防上特ニ必要トスル馬ノ資質ノ向上ヲ図リ軍馬資源ノ充実ヲ期スルコト''」がその目的となった<ref name="gunba01"/>。これによって当時100を越えていた地方競馬場の多くが閉鎖され、[[都道府県]]ごとに存在した畜産組合連合会35団体のもとで37個へと集約される<ref name="chihokeibashi0169"/>。売上金の一部を国庫へ納入する機能を有していた[[軍用保護馬鍛錬中央会]]がこれを統括し<ref name="ogino160"/>、のちに[[太平洋戦争]]が勃発するとこれは[[国家総動員法]]体制下で[[帝国馬匹協会]]、大日本騎道会とともに[[日本馬事会]]へと統合された<ref name="chihokeibashi0196"/>。この鍛錬競走は、いよいよ戦局が悪化する1944年末まで続く<ref name="chihokeibashi0183"/>。
==== 闇競馬から馬連競馬へ ====
[[第二次世界大戦]]終結後、[[軍馬資源保護法]]ならびに[[国家総動員法]]が廃止されたことで、地方競馬はその法的根拠をふたたび喪失した。しかしながら、早くも1945年秋には[[静岡県]]で法的根拠を持たない'''[[闇競馬]]'''が行われるや、地方競馬の開催を望む機運は全国へと波及していく<ref name="tachikawa02023"/>。また1946年春になると、[[農林省 (日本)|農林省]]ら中央政府の黙認下で[[地方長官]]の認可と条例をもとに競馬を施行し、その売上の5%前後を戦災復興や海外引揚者への支援金のため地方自治体へ寄付する事例も多く見られるようになった<ref group="注">後述する地方競馬法が議案を通過してから実際の施行までの2ヶ月余りの間に、こうした闇競馬はさらに急増した。</ref><ref name="tachikawa02023"/>。また北海道においては、進駐していたアメリカ軍第11空挺師団が[[アメリカ独立記念日]]を祝うために競馬の施行を北海道馬匹組合連合会に要請。1946年7月6日から'''[[進駐軍競馬]]'''として競馬が再開されることとなり、[[札幌市|札幌]]、[[函館市|函館]]、[[室蘭市|室蘭]]の3都市で施行されている<ref group="注">こうした進駐軍の関連した闇競馬開催は、[[岡山県]]におけるイギリス軍の事例、[[岩手県]]における[[一條友吉]]による競馬再開の動きなど、全国で複数例が確認できる。</ref><ref name="tachikawa02165"/><ref name="okayama"/><ref name="iwateichijo"/>。
そして1946年11月20日、ようやくこの無法状態に終止符を打つべく'''[[地方競馬法]]'''が施行される<ref name="chihokeibashi01139"/>。これは戦前の[[地方競馬規則]]と同様に馬匹組合・馬匹組合連合会が競馬を施行することを認めるものであり<ref group="注">当初は北海道内3カ所、他の都府県で1カ所のみに制限されていたが、1947年の改正で倍増された。</ref><ref name="chihokeibashi01139"/>、その中央団体として[[中央馬事会]]が置かれた。鍛錬競走時代に引き続き馬券の発売も認められたほか、配当の上限も従来の10倍から100倍へと引き上げられている<ref name="chihokeibashi01139"/>。また戦前に引き続き[[サラブレッド]]・[[アングロアラブ]]ら軽種馬を中心としていた[[日本競馬会]]に対し、各地の農業生産と密着した実用馬を用いることが打ち出され<ref group="注">これに付随し、従来の駆歩、速歩、障害に加えて[[ばんえい競走|輓曳]]が法的にその地位を認められた。</ref><ref name="chihokeibashi01139"/>、[[民主化]]の世相を反映しその収益の使途も各馬匹組合連合会および[[中央馬事会]]の裁量に任されていた<ref name="tachikawa02209"/>。しかしながらこれらの'''馬連競馬'''は闇競馬時代からの連続性が強く、また敗戦直後の社会情勢もあって競馬場での騒擾事件が頻発する<ref name="chihokeibashi01139"/>。
==== GHQと競馬法成立 ====
[[File:GHQ building circa 1950.JPG|right|thumb|[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が使用していた[[第一生命館]]]]
1947年7月、[[連合国軍最高司令官総司令部]]より[[日本競馬会]]及び上記の[[中央馬事会]]、馬匹組合連合会が、「'''競馬事業を独占している独占機関である'''」との通告がもたらされる<ref group="注">日本馬事会らが戦前の軍馬養成のための国策機関であったことも影響したとされる。</ref><ref name="ogino160"/><ref name="tachikawa02317"/>。GHQが志向していたであろう完全な民営化、そしてそれがもたらすと考えられた[[暴力団|反社会的勢力]]の競馬へのさらなる蔓延を防ぐため、同年12月23日の閣議決定において、従来の[[公認競馬]]は[[国営競馬|国営化]]、馬連競馬は公営化し[[都道府県]]にこれを委ねることが決定された<ref name="tachikawa02317"/>。各地の馬連は1948年春の開催を強行するなどの抵抗を続けたが解散・資産の委譲を迫られ、[[中央馬事会]]も1948年7月に解散を余儀なくされる<ref name="chihokeibashi01160"/>。
そして1948年7月、'''[[競馬法]]'''が成立。これによって馬連競馬の資産及び開催権は[[都道府県]]、競馬場が所在する[[市町村]]、そして[[地方財政委員会]]が別途指定した戦災復興の中で自主財源不足に苦しむ[[市町村]]へと移り、地方競馬は現在まで続く'''[[公営競技]]'''へと大きな転換を果たすこととなる<ref name="chihokeibashi02001"/>。
=== 公営化後 ===
==== 戦後派として ====
[[File:Statue_of_Haiseiko_001ja.jpg|thumb|left|[[ハイセイコー]]像(北海道新冠町)]]
[[競馬法]]が施行された1948年、[[公営競技]]へ移行し[[競馬]]を施行した地方競馬場は全国で61箇所存在した<ref name="chihokeibashi02018"/>。だが当然ながら、公営化によって当時の地方競馬が抱えていた問題が一挙に解決するはずもない。馬資源の不足は深刻であった。[[ウマ#種類・分類、品種|中間種]]が競走に盛んに用いられ、馬籍登録を偽った競走馬が蔓延したほか、[[北海道]]では[[輓馬]]を[[平地競走]]で走らせるような奇策すら取られた<ref name="kitano72"/>。また[[競馬法]]が成立したのとほぼ時を同じくして、[[自転車競技法]]が国会を通過。11月には[[小倉競輪場]]で日本初となる[[競輪]]が開催されると、この戦後生まれの[[公営競技]]は大衆から爆発的な人気を獲得する。その後も1950年には[[小型自動車競走法]]によって[[オートレース]]が、1951年には[[モーターボート競走法]]に基づき[[競艇]]が開始され、それぞれ順調に売上を伸ばしていった<ref name="miyoshi48"/>。一方で戦前以来の旧態依然とした施設に頼る各地の地方競馬場は開催成績が低迷し、急速にその数を減らしていく<ref group="注">[[奈良競馬場]]のように、競輪場へ施設が転用された事例も存在する。</ref><ref name="chihokeibashi02032"/>。
こうした中にあって、いち早く隆盛を見せたのは関東地方の競馬場だった。1947年の[[浦和競馬場]]を皮切りに、のちに[[南関東公営競馬]]を構成する4競馬場は交通の利便性が高い土地へと移転を進める。これによる順調な売上の増加を背景に[[発馬機|スターティングゲート]]の導入や[[大井競馬場|大井]]による[[豪サラ]]輸入のような先進的な施策を進め、[[国営]]・[[中央競馬]]へ移籍し大競走を制しうるような名馬が数多く現れるに至った。なによりも[[アングロアラブ]]競馬においては、質・量ともに[[国営競馬|国営]]・[[中央競馬]]を凌ぐ堂々たる繁栄をみせている<ref name="chihokeibashi02059"/>。また、[[北海道]]ではその地理的条件から、道内の各競馬場を人馬ともに関係者が渡り歩く'''ジプシー競馬'''とも呼ばれる興行形態が長く残った<ref group="注">競馬関係者とその家族にとってこうした根無し草のような生活は負担が重く、のちの[[門別競馬場|門別軽種馬トレーニングセンター]]開設へと繋がる。</ref><ref name="kitano147"/>。[[ばんえい競馬]]が公営競技として根付きはじめたほか<ref group="注">草輓馬時代の円形コースから、直線コースへの転換が代表。とはいえ、創成期のころのばんえいは専業者は馬・騎手共に1割ほどで、残りは農業・運搬従事者の副業や家畜商が主だった。完全なプロ化を達成するのは1970年代まで待たねばならない。</ref><ref name="kitano88"/>、戦前以来の[[十勝]]における[[アングロノルマン]]生産を背景に<ref group="注">戦後は[[スタンダードブレッド]]が用いられた。</ref>、[[速歩競走]]が1960年代初頭まで重要な地位を占めた<ref name="kitano98"/>。関西方面へ目を移すと、[[大井競馬場|大井]]と同じく[[豪サラ]]を導入した[[兵庫県競馬組合|兵庫競馬]]は、その扱いに慣れないところにコースの手狭さもあって故障馬が続出。頭数の少なさから競走が成り立たず、みすみす[[国営競馬]]への流出を許してしまった経験から<ref name="hyogobasyu222"/>、以後は[[アングロアラブ]]専業の競馬場として'''アラブのメッカ'''への道を歩む<ref name="hyogobasyu84"/><ref name="chihokeibashi02488"/>。[[大阪競馬場]]・[[春木競馬場]]では[[障害競走]]が人気を博し、[[紀三井寺競馬場|紀三井寺]]は北海道を始めとする冬期休催競馬場の出稼ぎ先として独自の存在価値を見出した<ref name="chihokeibashi02480"/>。そのほかの地区においても徐々に施設の近代化が図られ<ref name="chihokeibashi02087"/>、1970年には[[大井競馬場]]でのちに[[中央競馬]]へ移籍すると社会現象を巻き起こす'''[[ハイセイコー]]'''がデビューを迎える。このアイドルホースの登場による'''[[競馬ファン|第一次競馬ブーム]]'''によって、全国的に開催成績も上向いていった<ref name="chihokeibashi04001"/>。
ただし、[[長沼弘毅]]を委員長として1961年2月に組織された'''公営競技調査会'''の答申は大筋として[[公営競技]]の現状維持を定めるものであったが、その中では馬・馬主の登録や地方競馬の騎手免許、専門職員の養成・派遣を全国一元的に統括するとともに、その利益を広く畜産振興のために還元する組織を設立することが求められていた<ref group="注">そのほか、競馬場の所在地でない市町村の戦災指定市が有していた開催権の廃止が答申され、数度の延長を経ながら1968年をもって廃止されている。</ref><ref name="chihokeibashi02094"/>。これを受けて1962年に[[特殊法人]]である'''[[地方競馬全国協会]]'''が設立され、[[競走馬]]の登録や[[騎手]]・[[調教師]]免許の管理は各主催者からこちらへと一元化されている<ref name="chihokeibashi02147"/>。1963年には新人騎手などの育成を行うために、[[栃木県]][[那須塩原市]]に[[地方競馬教養センター|地方競馬騎手教養所]]が完成した<ref name="chihokeibashi02147"/>。
==== 黒い霧の時代から改革へ ====
[[File:Ooi Racecourse Paddock and L-WING.jpg|thumb|left|トゥインクル開催の[[大井競馬場]]パドック]]
一方で、戦後直後の社会情勢下で公営の競馬を開催するにあたっては、必然的に地元の'''ボス'''たちとの接触が不可欠である<ref name="miyoshi44"/>。兵庫のように馬主らによって組織された振興会が競馬の開催業務に深く関わるなど、公営化されたといっても組織としての透明性が長らく不十分な地域も存在した<ref name="hyogobasyu74"/>。騎手や調教師、厩務員への[[暴力団|反社会的勢力]]の浸透も避けられず、1960年代から1980年代にかけて[[競馬法]]違反容疑で逮捕・追放された事例は全国的に数多い。競馬場内における[[ノミ屋]]・[[コーチ屋]]の跋扈も問題であった。また[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]を契機に一般社会においても注目を集めた[[公営競技]]を取り巻く黒い影の存在は、少しでも怪しい競走が行われた場合に、ファンが[[八百長]]を声高に叫び容易に暴徒化する環境を生み出していく<ref name="miyoshi128"/>。とりわけ、その被害規模の大きさに加えて著名馬が関係していたこともあって、'''[[園田事件]]'''は現在に至るまでも語り継がれ、[[兵庫県競馬組合]]の運営に影を落としている<ref name="kakuremeiba21"/><ref name="chihokeibashi04303"/>。[[革新自治体]]における[[公営競技]]に対する風当たりも激しく、1964年に[[大阪競馬場]]、1974年に[[春木競馬場]]が廃止されているほか<ref name="chihokeibashi02463"/>、[[大井競馬場]]においても1972年度をもって[[東京都]]が開催権を返上し、[[特別区競馬組合]]単独での主催となっている<ref name="chihokeibashi02177"/>。[[ホッカイドウ競馬|道営競馬]]にて、1人当たりの馬券購入額を5000円に制限するような奇策が採用されたことすらあった<ref group="注">ただし現場における実効性は薄く、数年で廃止となっている。</ref><ref name="kitano209"/>。
そして[[オイルショック]]後の社会情勢も影響し、1970年後半に入ると地方競馬の開催成績はふたたび全国的に伸び悩む<ref name="chihokeibashi04036"/>。[[公営競技]]としての財政貢献もままならないとなれば、各地で競馬場の存廃までも含めた議論が進められることになった<ref name="chihokeibashi04077"/>。そして1980年代中ごろから、それぞれの主催者が智恵を絞り、様々な振興策を打ち出していく。ただでさえ減少した入場者を不快にすること甚だしかった[[ノミ屋]]・[[コーチ屋]]は、1985年からの全国的な清浄化作戦によって競馬場内から可能な限り閉め出された<ref name="chihokeibashi040100"/>。顧客の利便性を高めるために、電話投票の導入や昼休みのサラリーマンを狙った外向き発売口の設置、県内・地区単位での相互場外販売の試みが始まったのもこの時期である<ref name="chihokeibashi040780"/><ref name="chihokeibashi040111"/>。中でも[[岩手県競馬組合]]は最新鋭の映像伝送システムを駆使した'''テレトラック'''と呼ばれる場外網を構築し、急激に売上を伸ばしていった<ref name="chihokeibashi040106"/>。1986年には、[[大井競馬場]]において日本初となる[[ナイター競走|ナイター競馬]]'''トゥインクルレース'''が行われている<ref name="chihokeibashi040120"/>。それでも、大胆な振興策を実施するだけの体力を有していなかった主催者の開催成績は低迷し、なかでも1988年には[[紀三井寺競馬場]]が廃止へと追い込まれている<ref name="chihokeibashi04028"/>。
また、古くから各地の競馬場間を移籍する馬は数多く存在したが、他地区との間で直接の交流はほとんどないに等しかった。それが、1972年に[[南関東公営競馬|南関東]]における[[アングロアラブ]]古馬最高の競走であった[[全日本アラブ大賞典|アラブ大賞典]]が'''[[全日本アラブ大賞典]]'''として、翌1973年には[[園田競馬場]]で3歳馬の[[楠賞全日本アラブ優駿|楠賞]]が'''[[楠賞全日本アラブ優駿]]'''として、それぞれ地方競馬全国交流競走化を果たす。これによって、各地区の代表馬がそれぞれのプライドを賭けて、鎬を削り合う舞台が産まれることになった<ref name="chihokeibashi04011"/>。[[中央競馬]]との間でも1973年より中央側で[[地方競馬招待競走]]が、[[大井競馬場]]で[[中央競馬招待競走]]が隔年で交互に施行されていたが、1986年からは[[帝王賞]]が距離を2000mに短縮された上で、中央競馬招待・地方競馬全国交流競走となった。[[中央競馬]]側でも[[オールカマー]]が開放されたほか<ref group="注">1986年には[[愛知県競馬組合]]所属の[[ジュサブロー]]が、1991年には[[大井競馬場]]所属の[[ジョージモナーク]]が制している。</ref>、[[ジャパンカップ]]にも地方競馬所属馬の招待枠が設けられていた時期があり、1985年には[[船橋競馬場|船橋]]所属の[[ロツキータイガー]]が2着と健闘している<ref name="chihokeibashi04011"/>。
==== オグリキャップの登場と交流元年 ====
[[File:Meisei Opera 20000220R1.jpg|thumb|right|2000年の[[フェブラリーステークス]]に出走した際の[[メイセイオペラ]]。鞍上は[[菅原勲]]騎手]]
1987年、[[笠松競馬場]]でのちに'''[[競馬ファン|第二次競馬ブーム]]'''を牽引する'''[[オグリキャップ]]'''がデビューを迎える。これ以前から続いていた[[バブル景気]]による経済状態の好転もあって、地方競馬の開催成績もようやく上向きをみせた<ref name="chihokeibashi05018"/>。1989年には生産者らの団体が主体となって、[[ホッカイドウ競馬]]にて'''[[ブリーダーズゴールドカップ]]'''が設立されている<ref name="chihokeibashi040189"/>。また[[騎手招待競走]]のような企画・交流競走も華々しく行われ、1988年には[[兵庫県競馬組合]]が通算2000勝以上の名手たちが高額賞金を賭けて戦う[[ゴールデンジョッキーカップ]]を創設<ref name="chihokeibashi040209"/>。1989年から1993年にかけては、国外からも招待騎手を招いた[[インターナショナルクイーンジョッキーシリーズ]]が開催されている<ref group="注">[[益田競馬場|益田]]の[[吉岡牧子]]騎手が1989〜1991年と3年連続で総合優勝を果たしている。</ref><ref name="chihokeibashi05027"/>。各主催者だけでなく、[[地方競馬全国協会]]も1990年からは地方競馬全体の表彰として'''[[NARグランプリ]]'''を開催し、従来の機関誌『地方競馬』が一般競馬ファンも対象とした『'''[[ハロン (雑誌)|Furlong]]'''』へと衣替えするなど、時代に合わせた広報活動へと転換していく<ref name="chihokeibashi05104"/><ref name="chihokeibashi05361"/>。
一方で、[[オグリキャップ]]や[[オグリローマン]]、[[イナリワン]]のような傑出馬を輩出しながらも、活躍の場を求めて[[中央競馬]]への移籍を許してしまったことは、地方競馬関係者からすればその心境は複雑であった。また、[[中央競馬]]の側も国際化な日本競馬の地位向上において、地方競馬との協調を進める必要に迫られたことから<ref group="注">その一例として、[[中央競馬]]単体で競走数全体に占める重賞競走の割合の高さが問題となったこと、上限のある競走数に対して競走馬数の増加が限界に達していたことが挙げられる。</ref><ref name="chihokeibashi05023"/>、1995年より[[中央競馬]]と地方競馬の間で'''交流元年'''と呼称される、相互交流の大幅拡大が実施されることになった<ref group="注">ただし、これ以前にも1992年よりローカル競馬場で[[中央競馬のオープン特別競走#中央地方指定交流競走|オープン特別の地方競馬招待競走]]が新たに設けられ、1994年には新設されたダート重賞である[[平安ステークス]]が地方競馬招待競走に指定されるなど、[[中央競馬]]側の解放は断続的に続いていた。[[愛知県競馬組合]]所属の[[トミシノポルンガ]]がテレビ愛知オープンを勝ち、平安ステークスでも3着となっている。</ref><ref name="furlong199403"/><ref name="jbis0000218761"/>。多くの地方競馬場にて中央競馬所属馬が出走可能な'''[[指定交流競走]]'''と<ref group="注">交流競走補助金として、[[日本中央競馬会]]より本賞金総額の50%が交付される。</ref><ref name="chihokeibashi05100"/>、[[日本中央競馬会]]が賞金の90%を援助し、1着馬に[[中央競馬]]で施行される条件戦のうち'''[[競馬番組#現在の所属による制限|特別指定競走]]'''への出走権利を付与するとともに[[中央競馬]]への転入を優遇する'''[[JRA2歳認定競走|JRA3歳認定競走]]'''が設けられた<ref name="chihokeibashi05097"/>。また、各ブロックの代表選定競走を勝利するなどした馬には[[中央競馬]]の最高格付け競走たるGI競走に向けた前哨戦への出走権が与えられ<ref group="注">一部のブロックは、選定競走を経ずに直接出走が可能だったほか、[[東京優駿]]と[[優駿牝馬]]については、[[皐月賞]]・[[桜花賞]]4着以内で出走権を得ることができる。また、[[宝塚記念]]は地方競馬側から候補馬を推薦したうえで、[[日本中央競馬会]]側の推薦委員会に委ねるとしている。[[有馬記念]]については、GI競走3着以内の戦績が求められていた。</ref>、さらにはそこで好走することでGI競走本体へも出走する道が開かれた<ref name="furlong199404"/>。果たして、この交流元年初年度から[[笠松競馬場|笠松]]所属の'''[[ライデンリーダー]]'''が、[[桜花賞]]の[[トライアル競走]]である[[フィリーズレビュー|4歳牝馬特別]]で勝利。本番の[[桜花賞]]こそ4着だったものの、[[中央競馬]]の3歳牝馬クラシック3戦全てに出走を果たしている<ref name="chihokeibashi05097"/>。1996年には[[日本中央競馬会]]、[[地方競馬全国協会]]、全国公営競馬主催者協議会によって'''ダート競走格付け委員会'''が組織され、翌1997年より[[中央競馬]]・地方競馬を横断した重賞競走の格付けである'''[[ダートグレード競走]]'''制度が導入された<ref name="chihokeibashi05100"/>。2001年からは、全国の地方競馬場での持ち回り開催となる'''[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBC競走]]'''が創設されている<ref name="chihokeibashi05070"/>。
そして1999年、[[中央競馬]]の[[東京競馬場]]で開催された[[フェブラリーステークス]]を[[岩手県競馬組合|岩手]]所属の[[メイセイオペラ]]が制し、地方競馬所属馬による中央競馬開催GI初制覇を達成した。同年には[[レジェンドハンター]]が[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]を逃げ切り、本番の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]でも2着<ref name="jbis0000314816"/>。2004年には[[ホッカイドウ競馬]]で'''[[厩舎#外厩制|認定厩舎制度]]'''を利用した[[コスモバルク]]が、[[三冠 (競馬)|中央3歳牡馬クラシック戦線]]へ有力馬の1頭として参戦し人気を集めた。その後も果敢に芝路線への挑戦を続け、[[シンガポールの競馬|シンガポール]]の[[クランジ競馬場]]で開催された国際GIである[[シンガポール航空インターナショナルカップ]]を制する快挙を成し遂げている<ref name="chihokeibashi05137"/>。
{{Main2|中央競馬と地方競馬の交流については[[日本の競馬#中央競馬と地方競馬の交流]]を}}
==== 相次ぐ危機 ====
[[File:Chihokeiba1980-2008bar.jpg|thumb|right|地方競馬の開催成績が最初のピークを迎えた1980年を100とした場合の、地方競馬全体・中央競馬・地方競馬各地区の1985年・1991年・2000年・2008年の開催成績。1980・1985年分の地方競馬開催成績については年度単位。2008年の地方競馬開催成績は、廃止された競馬場も含まれる]]
[[File:Katsumi-Ando20110410.jpg|thumb|right|中央移籍後、2011年の[[桜花賞]]を制した際の[[安藤勝己]]騎手]]
しかしながら、[[バブル崩壊]]後の経済情勢は、地方競馬の開催成績を直撃した<ref name="chihokeibashi05018"/>。1991年に9862億円でピークを迎えた地方競馬全体の売上は、2000年には5605億円まで激減する<ref name="chihokeibashi05470"/>。巨額の累積赤字を積み上げた各地の主催者は一転して賞典費を始めとする経営コスト削減に回るが、それが馬資源の流出や厩舎関係者の士気低下を招くことで競走自体の魅力が乏しくなり、ますます開催成績が悪化するという悪循環に陥っていった<ref name="umaya77"/>。また、中央・地方併せて2001年には46競走まで拡大した[[ダートグレード競走]]だが、その賞金水準の高さに比して売上額は芳しくなく、地方競馬にとってのカンフル剤とはならなかった<ref name="nomoken1115"/>。[[高崎競馬場]]や[[新潟県競馬組合|新潟公営]]などでは入場者数増加の振興策の一環として、[[日本中央競馬会]]の[[場外勝馬投票券発売所]]を場内で併設することが行われた。だがその結果として、目の前で行われている生の競走ではなく、僅かな手数料収入しか得られない[[中央競馬]]の中継映像へ多くの顧客が群がるという、悲劇的な光景も見られたという<ref name="chihokeibashi05156"/><ref name="pusan1519"/>。
また、西日本を中心に専業の競馬場も存在するなど、長らく地方競馬の歴史を支えてきた[[アングロアラブ]]競馬だが、1995年の[[中央競馬]]における廃止に続いて、1980年代から在厩数の減少に悩んでいた[[南関東公営競馬|南関東]]の競馬場がその廃止を決定する<ref name="furlong199707"/>。交流元年後は[[サラブレッド]]による相互交流の機運が高まったこともあって、アラブのメッカを誇った[[兵庫県競馬組合]]も1999年に[[サラブレッド]]の導入を発表<ref name="umaya194"/>。最終的に、2009年9月27日に[[福山競馬場]]で施行された「開設60周年 アラブ特別レジェンド賞」をもって、日本国内におけるアングロアラブ系単独競走は姿を消している<ref name="nar090928"/>。
そして2001年、大分県の[[中津競馬場]]が、21億円の累積赤字を理由に廃止されることが主催者の[[中津市]]より発表される<ref name="chihokeibashi05151"/>。その後、[[中津競馬場]]では廃止に伴う競馬場関係者の補償金を巡って労働争議が紛糾するが<ref name="nakatsuootsuki"/>、ともかくもこの[[中津競馬場|中津]]を皮切りとして、全国的に競馬主催者の撤退が相次いでいった<ref name="chihokeibashi05151"/>。翌2002年8月には日本一小さな競馬場として知られた[[島根県]][[益田市]]の[[益田競馬場]]が廃止となり<ref name="chihokeibashi051560"/>、2003年から2006年にかけて[[足利競馬場|足利]]・[[高崎競馬場|高崎]]・[[宇都宮競馬場|宇都宮]]の[[北関東公営競馬]]が壊滅<ref name="chihokeibashi051568"/>。東北地区では、2002年にすでに前年より[[三条競馬場]]での開催を中止していた[[新潟県競馬組合|新潟県競馬]]が完全に廃止され<ref name="chihokeibashi05156"/>、翌2003年には作家[[山口瞳]]が愛したことで知られた[[上山競馬場]]からも競走馬が姿を消した<ref name="chihokeibashi051563"/>。かつては'''地方競馬の優等生'''と謳われた[[岩手県競馬組合|岩手競馬]]すらも、開催成績の低迷に加えて、1996年に移転した新[[盛岡競馬場]]の建設費を巡る巨額の債務によって破綻的な経営状況へと陥り、2007年には一時廃止が確実視された<ref name="chihokeibashi05205"/>。1989年より4市による[[北海道市営競馬組合]]として主催されてきた[[ばんえい競馬]]についても、2006年に[[帯広市]]を除く構成[[地方公共団体]]が撤退し、単独の開催へ縮小することで辛くも存続している<ref name="chihokeibashi05194"/>。
また、地方競馬から[[中央競馬]]の競走への遠征馬に騎乗する騎手は当日の他の競走にも騎乗できたことから、地方競馬の名手たちが中央競馬においてもその腕前を披露する機会を得ることになった。そして地方競馬の未来がかくも不安定な状況にあっては、一般的な注目度・金銭的な待遇ともに恵まれた[[中央競馬]]への移籍を望む騎手が現れることも自然な流れである。2001年、長らく[[笠松競馬場]]のリーディングジョッキーとして知られた'''[[安藤勝己]]'''が、[[中央競馬]]の騎手免許試験を受験することを発表した。この年こそ一次試験で不合格となったが、すでにその実力が[[中央競馬]]のファンにも知れ渡っていた[[安藤勝己]]が免許を取得できなかったことは各方面からの非難を呼んだ。そして翌2002年には通称'''アンカツルール'''と呼ばれた「'''過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手'''」の一次試験を免除する規定が設けられたこともあって、見事に合格。[[地方競馬全国協会]]は騎手免許の中央・地方重複所有を監督官庁である[[農林水産省]]へ要請したが認められず、2003年3月より[[安藤勝己]]は[[中央競馬]]所属騎手として再出発を果たした。以後も各地区のリーディング級騎手による[[中央競馬]]騎手免許試験の受験が相次ぎ、また地方競馬内でも比較的余裕のある競馬場への移籍を望む事例がみられるようになった<ref name="chihokeibashi05098"/>。
==== 生き残りに向けて ====
[[File:Mombetsu Racecourse Polaris Dome 20090813.jpg|thumb|left|[[門別競馬場]]のポラリスドーム]]
2004年、疲弊する地方競馬を中心とした日本競馬の構造改革を目指して[[競馬法]]が改正され、勝馬投票券発売業務を始めとする競馬の実施にあたる業務の大半を民間業者へ委託可能となった<ref name="chihokeibashi05007"/>。そして早速、2004年限りでの廃止が決定していた[[高崎競馬場]]について、当時新進気鋭のIT系若手経営者として知られ、熱心な競馬ファンでもあった[[ライブドア]]社長[[堀江貴文]]が、[[インターネット]]を通じた馬券発売を中心とした再建策を持ち上げる<ref group="注">この再建計画それ自体は、競馬主催者である[[群馬県]]によってその見通しの甘さを指摘され採用には至らなかった</ref><ref name="nomoken1122"/>。2005年には、[[ソフトバンク]]の子会社であるソフトバンク・プレイヤーズが、[[日本レーシングサービス]]が所有していた[[南関東公営競馬|南関東]]を除く地方競馬の統合[[電話投票]]システムである[[D-net]]を買収し、翌2006年4月より'''[[オッズパーク]]'''としてリニューアル<ref name="chihokeibashi05084"/>。同社はまた、[[帯広市]]主催の[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]の一部業務委託も2011年度まで担っている。一方で[[南関東公営競馬]]は[[東京都競馬]]がシステムを管理する自前の[[電話投票]]システム'''[[SPAT4]]'''を有していたが、別途2006年3月末に[[楽天グループ|楽天]]との間で[[インターネット]]を通じた勝馬投票券発売業務の提携を発表。他の主催者もこれに追随し、2007年2月より'''[[楽天競馬]]'''として業務を開始した<ref name="chihokeibashi05084"/>。
こうした勝馬投票券発売業務の委託は10%以上の高額な手数料による収益性低下の問題を孕んでいたものの、その利便性の高さから総売上に占める電話投票の割合は着実に増加していった<ref name="chihokeibashi05084"/><ref name="chihokeibashi05020"/>。なかでも[[高知県競馬組合]]は'''[[ハルウララ]]'''の登場と関係者の必死の努力によってギリギリで廃止を免れる状況が続いていたが、インターネット投票の顧客を狙って2009年より冬期も含めた通年ナイター開催である'''夜さ恋(よさこい)ナイター'''を開始。後述する[[日本中央競馬会]]の[[電話投票]]システムでの発売もあって、大きく経営を安定化させることに成功している<ref name="kudo"/>。このようにナイター開催化の流れは全国的に顕著であり、同じく2009年から[[門別競馬場|門別]]もナイター化し<ref name="chihokeibashi05180"/>、2012年からは[[園田競馬場]]も限定的ながらナイター開催を行っている<ref name="sonokin"/>。こうした中で地方競馬の開催成績は2000年代半ばから微減で推移してきたが、それでも2011年には[[荒尾競馬場]]が<ref name="araowebfurlong"/>、2013年には[[福山競馬場]]が廃止となった<ref name="araoyomiuri"/>。
2000年代の後半に入るとインターネット発売や広域場間場外発売の拡大もあって、従来から進められていた'''[[ダービーWeek]]'''を始めとする全国規模のシリーズ競走の企画運営や交流競走路線の整備が、一層の進展を見せてきた。また[[聖域なき構造改革|小泉構造改革]]に伴う[[特殊法人]]改革によって、[[地方競馬全国協会]]は2008年より[[地方共同法人]]へと移行する。この際にその業務に「'''競馬活性化事業及び競走馬生産振興事業に対する補助'''」が加えられ、[[農林水産大臣]]の認可を受けた'''認定競馬活性化計画'''に基づき、[[地方競馬全国協会]]が各主催者や業務受託業者を支援することが可能となった<ref name="chihokeibashi05375"/>。そして[[日本中央競馬会]]からの交付金も用いて整備が進められた'''地方競馬共同トータリゼータシステム'''によって<ref name="chihokeibashi05067"/>、2012年10月からは'''地方競馬IPAT'''として[[中央競馬]]の[[電話投票]]システムを通じた地方競馬の発売を開始<ref name="naripat"/>。また同じシステムを通じて地方競馬場やその[[場外勝馬投票券発売所]]で[[中央競馬]]の馬券を発売する'''J-PLACE'''も拡大し<ref group="注">同じ地方競馬の施設を使用する場合でも、中央競馬のシステムに直接接続する場合はWINSとして扱われている。</ref><ref name="jplace"/>、その手数料収入が一部の地方競馬主催者にとっては重要な収益の柱となっている<ref name="nagoyakuroji"/>。
これらの施策が実を結び、地方競馬の売上は下げ止まりの傾向を示している<ref name="dairy20150615" />。川崎競馬では平成25年(2013年)度の一般会計決算で累積赤字をすべて解消し黒字に転じた<ref name="sponichi20150109" />ほか、ばんえい競馬も平成25年(2013年)度・平成26年(2014年)度の2年連続で売得金(売上)が前年度比110%以上となっている<ref name="dairy20150615" /><ref name=NAR_2013seiseki /><ref name=NAR_2014seiseki />。
また、長年下落傾向にあった競走賞金も徐々に回復に転じ、各競馬場において重賞競走の新設や賞金増額などの施策が講じられるようにもなった。
==== ダート体系整備 ====
[[2022年]]、JRAと連携して大規模なダート競走の大規模な体系整備が[[2023年]]より実施されることが発表された。<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202211/112802.html |title=全日本的なダート競走の体系整備 |access-date=2023-10-08 |publisher=日本中央競馬会}}</ref>中央馬に対する地方馬の戦力の増強、ダートグレード競走の国際格付け取得が最終的な目標とされている。<ref name=":2" />
'''整備内容'''<ref name=":2" />
* 3歳ダート三冠として、[[羽田盃]]・[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]・[[ジャパンダートダービー|ジャパンダートクラシック]](現ジャパンダートダービー)の3競走をGI級レースとして整備、[[不来方賞]]の新設を含めるトライアルレースの設定をする。また、3歳(牝馬)三冠や春秋古馬三冠と同様特別賞が設定されており、8,000万円が予定されている。
詳細は''[[3歳ダート三冠]]''を参照。
* 3歳馬の春季短距離路線の頂点を決める競走として、[[兵庫チャンピオンシップ]]を1,400mに変更。
* 兵庫チャンピオンシップに向けて、2歳秋を対象とした8地方競馬場での競走、3歳秋を対象とした4ブロックでの競走をダート短距離の重賞級認定競走[[ネクストスター (競馬の競走名)|ネクストスター]]として設定する。また、これらの競走は地方競馬所属のみが参戦が可能となる。{{Efn2|ダート適性馬の地方競馬への早期入厩を促進を目的としている。}}
詳細は''[[ネクストスター (競馬の競走名)]]''を参照。
* 2・3歳短距離路線の充実を目的に、[[北海道スプリントカップ]]を8月中旬の3歳限定戦に、[[エーデルワイス賞]]を10月末 - 11月上旬に変更する。{{Efn2|前者は3歳馬の短距離路線賞金獲得の機会増加、後者は2歳馬短距離路線の充実を目的としている。}}
* 古馬短距離路線の整備を目的とした、[[さきたま杯]]の短距離の春頂点決定戦への位置づけ、同競走と[[かきつばた記念]]の整備。
* 古馬中距離路線の重賞競走のローテーション調整と整備。[[ダイオライト記念]]、[[川崎記念]]、[[名古屋グランプリ]]、[[名古屋大賞典]]が対象。
* 古馬牝馬路線の上半期頂点決定戦として[[エンプレス杯]]の時期変更と整備。各地区から同競走へ向かう体系作りを目的に、[[クイーン賞]]、[[兵庫女王盃]](前身[[TCK女王盃]])、[[ブリーダーズゴールドカップ]]の時期変更をする。
* 3歳牝馬路線の上半期目標として[[マリーンカップ]]の時期変更、整備。優勝馬は[[JBCレディスクラシック]]の優先出走権が得られる。
2歳馬競走に対する変更は2023年、3歳馬や古馬競走に対する変更は2024年から適応される。
また、地方馬の戦力の増強を目的とした、上記以外にも本賞の増額や競走体系・負担重量の整備、優勝馬への報奨金などのダートグレード競走への奨励策、国際競走化やより上の格付け取得、レースレーティングの向上を目的とした、海外出走馬の受け入れ体制の整備などが施行される予定であり、2028年から段階的にダートグレード「Jpn」の廃止も行われる。
こういった改革を受けて各地域の競馬運営組織でも競走の見直しが行われており、近辺地域における3歳秋の頂点決定戦だった岩手の[[ダービーグランプリ]]の終了や兵庫地域では[[楠賞]]や[[三冠 (競馬)|兵庫三冠]]の検討がされている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH306O30Q2A131C2000000/ |title=国際競走化目指した壮大な改革 ダート競走の体系整備 |access-date=2023-10-08 |publisher=日本経済新聞}}</ref>
== GI・JpnI競走 ==
以下の表は2021年度それぞれの格付けの施行順となっている。
<!-- データの整合性を常時保たせることが困難なため、詳細なデータについては各項目に譲る。 -->
=== GI ===
{| class="wikitable"
!!!競走名!!備考!!出走可能性齢
|-
|1||'''[[東京大賞典]]'''||1年を締め括る総決算||3歳以上
|}
=== JpnI ===
{| class="wikitable"
!!!競走名!!備考!!出走可能性齢
|-
|1||'''[[川崎記念]]'''||年始ダートチャンピオン決定戦||4歳以上
|-
|2||'''[[かしわ記念]]'''||春のマイルチャンピオン決定戦||4歳以上
|-
|3||'''[[帝王賞]]'''||上半期総決算||4歳以上
|-
|4||'''[[ジャパンダートダービー]]'''||3歳ダートチャンピオン決定戦・南関東三冠最終戦||3歳
|-
|5||'''[[マイルチャンピオンシップ南部杯]]'''||秋のマイルチャンピオン決定戦||3歳以上
|-
|6||'''[[全日本2歳優駿]]'''||2歳ダートチャンピオン決定戦||2歳
|}
※川崎記念は2024年度より開催時期を4月上旬に移設予定<ref>[https://jra.jp/news/202211/112802.html 全日本的なダート競走の体系整備] - 日本中央競馬会、2022年11月28日配信・閲覧</ref>。
※ジャパンダートダービーは2024年度の[[3歳ダート三冠|3歳ダート3冠]]競走の創設に伴い名称を「ジャパンダートクラシック」に変更の上、10月上旬に移設予定。
==== JBC競走 ====
{| class="wikitable"
!!!競走名!!備考!!出走可能性齢
|-
|1||'''[[JBCレディスクラシック]]'''||JBC牝馬チャンピオン決定戦||3歳以上・牝馬
|-
|2||'''[[JBCスプリント]]'''||JBC短距離チャンピオン決定戦||3歳以上
|-
|3||'''[[JBCクラシック]]'''||JBCダートチャンピオン決定戦||3歳以上
|}
==== 2024年度よりJpnIに昇格する競走 ====
先述でも述べたが、2024年度に3歳ダート3冠競走の創設のためジャパンダートダービーを除いた現南関東三冠競走が全てJpnIに昇格する。また2歳路線や古馬の体系整備を行うため短距離路線において新たにJpnIが定められる。
{| class="wikitable"
!!!競走名!!備考!!出走可能性齢
|-
|1||'''[[羽田盃]]'''||現南関東三冠第1戦||3歳
|-
|2||'''[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]'''||現南関東三冠第2戦||3歳
|-
|3||'''[[さきたま杯]]'''||JpnIIからの昇格。6月中旬に行われる予定||3歳以上
|}
※羽田盃・東京ダービーは南関東重賞格付けがSIである。また、さきたま杯がJpnIに昇格するため南関東全ての競馬場にJpnIが定められる。
== 日本国外における地方競馬 ==
上述の通り、地方競馬とは日本国内における法令用語である。だが、日本国外の競馬についても、その施行形態や開催規模などによって、地方競馬に近い形で呼ばれているか、翻訳・紹介にあたって地方競馬の語を充てる事例が存在する。これは必ずしも、日本における地方競馬と質的に同等というわけではない。
=== フランス ===
[[フランスの競馬]]においては、[[フランスギャロ]]と[[シュヴァルフランセ]]によって施行される[[パリ]]地区を除く、地方競馬協会(Société de courses de Province)が施行する競馬が地方地区(地方競馬)とされる。全国に200を越える地方競馬協会が存在し、その施設は多くの場合[[地方政府|地方自治体]]の所有である。全国で10個の地方連合会によって束ねられたこれらの地方競馬は、[[パリ]]地区も含めた全国組織であるフランス競馬全国連合を通じて、審判や発走などの開催執務を担う人員や放映機材の支援、[[フランス場外馬券発売公社]](PMU)の収益からの資金援助を受ける<ref group="注">フランスにおいては、パリ地区・地方地区の別なく場内と場外における馬券の発売をそれぞれフランス場内馬券発売公社(PMH)と[[フランス場外馬券発売公社|PMU]]が担っている。なお、地方地区への競馬生産協同基金には、パリ地区での収益が含まれる。</ref>。一方で、[[フランス場外馬券発売公社|PMU]]での発売を受けられない零細地方競馬協会については開催成績が低迷し、競馬を廃止する地方自治体も現れている<ref name="koyama"/><ref name="kaigaidokuhon80"/>。
=== オーストラリア ===
[[オーストラリアの競馬]]は[[オーストラリア|連邦]]を構成する[[オーストラリアの州と特別地域|各州及び特別地域]]ごとに根拠法が制定され、それに基づいて大小数百の競馬主催者が存在している。これはその賞金額などによって3つのカテゴリーに分類され、上からそれぞれ都市競馬(Metropolitan)、地方競馬(Provincial)、田舎競馬(Country)と呼ばれている。ただし、カテゴリーの間で相互の出走の制限などは存在せず、あくまで主催者の相対的な位置付けに過ぎない<ref name="marikoaustralia"/><ref name="kaigaidokuhon40"/>。
=== 南米諸国 ===
[[ウルグアイ]]には14の競馬場が存在するが、そのうち首都[[モンテビデオ]]郊外に存在するマローニャス競馬場([[:es:Hipódromo de Maroñas|Hipódromo de Maroñas]])以外の競馬場を地方(Interior)とする<ref name="kaigaidokuhon2151"/>。[[チリの競馬]]においては、各競馬主催者は法的には同等であるが、記録・統計上は首都[[サンティアゴ (チリ)|サンティアゴ]]の2団体と[[ビニャ・デル・マール]]に存在するバルパライーソ・スポーティングクラブの3主催者が中央、それ以外は地方とされる<ref name="kaigaidokuhon2157"/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|30em|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|23em|refs=
<ref name="keibaho0105">「競馬法」第1条第5項</ref>
<ref name="keibaho0102">「競馬法」第1条第2項</ref>
<ref name="keibaho2309">「競馬法」第23条第9項</ref>
<ref name="keibahohusoku04">「競馬法附則抄」第4条</ref>
<ref name="keibahosekouhyou1">「競馬法施行規則」第29条。</ref>
<ref name="keibahosekoufusoku4">「競馬法施行規則」附則4〜5。</ref>
<ref name="narbaken">Keiba.go.jp, [https://www.keiba.go.jp/qa.html#6 地方競馬情報サイト FAQ 馬券の種類を教えて!](2020年2月2日閲覧)。</ref>
<ref name="kokyokinyu">地方公共団体金融機構、「[http://www.jfm.go.jp/about/contribution.html 公営競技納付金]」(2015年2月15日閲覧)。</ref>
<ref name="narkojo">Keiba.go.jp, [https://www.keiba.go.jp/whatsnew/140303_whatsnew.html 地方競馬の払戻率の設定について](2014年11月23日閲覧)。</ref>
<ref name="nar">Keiba.go.jp, [https://www.keiba.go.jp/association/index.html 地方競馬全国協会 概要](2020年2月2日閲覧)。</ref>
<ref name="narkkeibazyo">Keiba.go.jp, [https://www.keiba.go.jp/guide/ 競馬場紹介](2020年2月2日閲覧)。</ref>
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<ref name=NAR_2014seiseki>{{PDFLink|[https://www.keiba.go.jp/nar/pdf-result/year1404-1503.pdf 地方競馬開催成績(平成26年4月 - 平成27年3月次)]}} - 地方競馬全国協会、2015年6月20日閲覧</ref>
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* {{Cite book|和書
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}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|National Association of Racing|地方競馬}}
* [[地方競馬全国協会]]
* [[地方競馬教養センター]](栃木県)
* [[中央競馬]]
* [[日本プロスポーツ協会]]
* [[日本の競馬]]
* [[競馬の開催]]
* [[競馬番組]]
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** [[ダートグレード競走]]
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* [[たいようのマキバオー]]([[つの丸]]の作品)
== 外部リンク ==
* [https://www.keiba.go.jp/ 地方競馬全国協会公式WEBサイト]
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6,585 | 三冠 (競馬) | 競馬における三冠(さんかん、Triple Crown)とは競馬の競走のうち特定の3競走を指す。
一般に1シーズンの間、この3競走すべてに優勝した馬を三冠馬と呼ぶ。
「Triple Crown」という表現はアメリカでケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスの3競走を制覇したものを表現するために生まれたものとされ、それがイギリスにも伝わって、2000ギニーステークス、ダービーステークス、セントレジャーステークスの3競走を「Triple Crown」と言うようになったと主張されている。
しかし、実際にはアメリカの三冠が成立する遥か以前からイギリスやニュージーランドでは、イギリスの三冠を指して「Triple Crown」という用語が使用されていた。
イギリスのクラシック競走体系を導入した日本では、「三冠」という表現は「クラシック競走」である3競走(皐月賞、東京優駿、菊花賞)の総称として使われてきた。日本では狭義の「三冠」として、この3競走、もしくはこの3競走に相当する3つの競走を特別に「三冠」と表現する。
広義には、「特定の(重要な)3競走」を「三冠(Triple Crown、triple crown)」と表現することもある(牝馬三冠については「Triple Tiara」と表現されることもある(後述参照))。本項では、こうした用法も含めて「三冠(Triple Crown)」と表現される競走を扱う。
19世紀のイギリスでは、18世紀に創設されたダービーステークス、オークスステークス、セントレジャーステークスを「三大競走(Three Great Races)」と呼ぶようになった。
19世紀の半ばには、ウェストオーストラリアンやグラディアトゥールが、2000ギニーステークス(1809年創設)と、ダービーステークス、セントレジャーステークスの3競走を制すると、3歳の一流馬はこの3競走を目標にするのが慣例となっていった。
これに牝馬の1000ギニーステークス、オークスステークスを加えた5競走が、「イギリスクラシック(“British Classics”)」と呼ばれるようになった。
初めて三冠(Triple Crown)という表現が用いられたのは、1930年のアメリカと考えられている。この年、ギャラントフォックスがケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスを勝つと、アメリカの競馬新聞「デイリーレーシングフォーム」のコラムニスト、チャールズ・ハットン(Charles Hatton)が記事中で「Triple Crown」と用いたのが、はっきりと判っている最初の例とされている。このとき、ハットンは19世紀のイギリスのウェストオーストラリアンを引き合いに出した。ウェストオーストラリアンは2000ギニーステークス、ダービーステークス、セントレジャーステークスを勝っており、いまでは「初代の三冠馬」とされている。
一方、アメリカの新聞「ニューヨーク・タイムズ」はこの定説を認めながらも、これより早く、少なくとも1923年から「三冠(Triple Crown)」という語を使用していたと主張している。
と、主張されることもあるが、実際にはアメリカよりもイギリスクラシックの「三冠(Triple Crown)」の方が用語としては先行している。例えば、ニュージーランドのオークランド・スター紙やリトルトンタイムズ紙は、1897年にガルティーモアがイギリスクラシック三冠達成の際に、「Triple Crown」を達成したと伝えている。1886年のオーモンド三冠達成の際にも、ニュージーランド・ヘラルド紙が「Triple Crown」を用いている。1886年にイギリスで発行された「Horse-Racing in France - A History 1886」でもグラディアトゥールの節で、「Triple Crown」が用いられている。
1935年に、アメリカではオマハがケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスを勝ち、イギリスではバーラムが2000ギニーステークス、ダービーステークス、セントレジャーステークスを勝った。「デイリーレーシングフォーム」によれば、この頃からアメリカやイギリスで「三冠(Triple Crown)」という表現が普及した。
これとは別に、特定の3戦をまとめて「三冠」と称する場合もある。たとえば、イギリスの代表的な古馬戦のゴールドカップ、グッドウッドカップ、ドンカスターカップの3つのカップ戦を「長距離三冠(Stayers' Triple Crown)」と呼ぶようになった。
旧ソビエト連邦では、2歳馬の最大の競走「МИカリーニン記念」、3歳馬の最大の競走「ソビエト・ダービー(ボリショイ・フシエソユツニー賞)」、古馬の最大の競走「ソビエト社会主義共和国賞」を全て勝つと「三冠」と言われる。
日本では、シンザンが1964年に史上2頭目の日本三冠馬となった。シンザンはその後、有馬記念と天皇賞(秋)を制したことから「五冠馬」と呼ばれるようになった。これに倣い、1984年に三冠を達成し、その後に有馬記念(2回)、天皇賞、ジャパンカップを勝ったシンボリルドルフは「七冠馬」と呼ばれるようになった。後にディープインパクトも「七冠馬」と呼ばれている。また、牝馬三冠に加えてジャパンカップやドバイターフ等を勝利したアーモンドアイは「九冠馬」と呼ばれることがある。
かつては、競走馬の成長にしたがって異なる距離で行われる「三冠」戦を勝ち抜くことは、それ自体が能力の証であり、高い価値を有するとみなされてきた。
ヨーロッパ、特にパート1国の間では、近年、国境を越えた競走馬の移動が容易になると、国内にとどまらずに、それぞれの競走馬の適性や能力に応じて多国間を渡り歩くことが当たり前になった。その結果として、これらの国々では、一国内だけの「三冠」戦はおしなべて実際的な価値を持たなくなった。いくつかの競馬主催者は特定の競走をシリーズ化し、「三冠」を達成したり、連戦で良績をあげたものに特別な報奨金制度を用意するなどして様々な「三冠」の価値を維持・創出しようとしている。
日本には、中央競馬(JRA)と地方競馬(各地方の主催者が施行)が併存し、それぞれ独自の競走体系を持っているため多種多様な三冠が存在する。
競馬が行われるような時代には、アイルランドはイギリスの一地方(または植民地)とされてきた。19世紀から20世紀にかけて、イギリスの三冠戦を模した競走がアイルランドでも創設された。しかし、これらを勝つような力がある一流馬は、より高い賞金や権威を求めてイギリスの三冠戦に転戦するため、敢えてアイルランドの三冠戦を連戦するようなものは多くはない。
フランスでは自国の3歳馬のための伝統的な主要戦として、プール・デッセ・デ・プーラン、リュパン賞、ジョッケクルブ賞、ロワイヤルオーク賞という4つの大競走による「四冠」体制をとっていた。このほか、春には3歳馬の国際競走パリ大賞典がある。これらのうちプール・デッセ・デ・プーランを2000ギニーに、ジョッケクルブ賞をダービーに、ロワイヤルオーク賞をセントレジャーに見立てて、この3戦を「フランス三冠(Triple Crown)」と称していた。しかし、ロワイアルオーク賞は後から創設された凱旋門賞に有力馬が参戦するようになり、アイルランド同様に3歳限定から古馬に解放された。更に、プール・デッセ・デ・プーランやリュパン賞で好走したフランス馬がイギリスのダービーを目指すようになったことでフランス3冠は形骸化していた。
2005年、フランスギャロはロワイアルオーク賞の代わりにパリ大賞典を三冠の第3ラウンドと定め、ジョッケクルブ賞もイギリスダービーと棲み分けを行うため2100mに距離短縮した。これにより施行時期を英愛よりも短く、凱旋門賞と整合性が取れるようにした。
アメリカクラシック三冠の最大の特徴はケンタッキーダービーからプリークネスステークスまで中1週、プリークネスステークスからベルモントステークスまで中2週とわずか5週間で終わってしまうキャンペーンの短さにある。二冠を達成する馬は比較的多いものの、三冠を達成するのは困難で、1978年から2015年まで35年以上にわたって三冠馬は誕生していなかった。このため、ふつうはケンタッキーダービーかプリークネスステークスのいずれか一方を目標とし、楽に勝てれば次を狙うが、消耗が大きい場合には普通は休養をとり、三冠戦のあとに行われるトラヴァーズステークスへ向かう。
アルゼンチンは、20世紀にフランス式の競走体系を導入し、四冠制を採用した。
このシステムは中距離に比重をおき、1600mのポージャ・デ・ポトリロス、2000mのジョッキークラブ大賞、2500mのナシオナル大賞(アルゼンチンダービー)、3000mのカルロスペレグリーニ大賞の4戦で形成されていた。ただし四冠目のカルロスペレグリーニ大賞は3歳以上にも出走資格がある。
「三冠(Triple Crown)」シリーズと銘打った高額賞金戦が設けられている。
トリプルクラウンシリーズと銘打って様々な路線に「三冠」が設けられている。
シンガポールと同様にトリプルクラウンシリーズが設けられている。
かつては州毎に三冠体系を設定していたが、こちらは現存しない。1999年に競馬運営企業のヒューメレラ(Phumelela)社が三冠を設定すると、その年にHorse Chestnutがこれを達成した。しかしこの制度はしばらくすると廃れた。2004/05シーズンにも新たな三冠ボーナスが企画されたが1シーズン限りで終わった。
世界的に三冠馬同士の直接対決の事例は十数例と極めて少ないが、牝馬による三冠馬を含めて日本語の信頼及び検証が可能な文献で記録に残されているものとしては、ブラジルとアメリカ合衆国、日本の3国の事例がある。本節ではその三冠馬対決の全記録を記す。 | [
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"text": "2005年、フランスギャロはロワイアルオーク賞の代わりにパリ大賞典を三冠の第3ラウンドと定め、ジョッケクルブ賞もイギリスダービーと棲み分けを行うため2100mに距離短縮した。これにより施行時期を英愛よりも短く、凱旋門賞と整合性が取れるようにした。",
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"text": "アメリカクラシック三冠の最大の特徴はケンタッキーダービーからプリークネスステークスまで中1週、プリークネスステークスからベルモントステークスまで中2週とわずか5週間で終わってしまうキャンペーンの短さにある。二冠を達成する馬は比較的多いものの、三冠を達成するのは困難で、1978年から2015年まで35年以上にわたって三冠馬は誕生していなかった。このため、ふつうはケンタッキーダービーかプリークネスステークスのいずれか一方を目標とし、楽に勝てれば次を狙うが、消耗が大きい場合には普通は休養をとり、三冠戦のあとに行われるトラヴァーズステークスへ向かう。",
"title": "世界各国の三冠競走"
},
{
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"text": "アルゼンチンは、20世紀にフランス式の競走体系を導入し、四冠制を採用した。",
"title": "世界各国の三冠競走"
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"text": "このシステムは中距離に比重をおき、1600mのポージャ・デ・ポトリロス、2000mのジョッキークラブ大賞、2500mのナシオナル大賞(アルゼンチンダービー)、3000mのカルロスペレグリーニ大賞の4戦で形成されていた。ただし四冠目のカルロスペレグリーニ大賞は3歳以上にも出走資格がある。",
"title": "世界各国の三冠競走"
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"text": "「三冠(Triple Crown)」シリーズと銘打った高額賞金戦が設けられている。",
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},
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"text": "トリプルクラウンシリーズと銘打って様々な路線に「三冠」が設けられている。",
"title": "世界各国の三冠競走"
},
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"text": "シンガポールと同様にトリプルクラウンシリーズが設けられている。",
"title": "世界各国の三冠競走"
},
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"text": "かつては州毎に三冠体系を設定していたが、こちらは現存しない。1999年に競馬運営企業のヒューメレラ(Phumelela)社が三冠を設定すると、その年にHorse Chestnutがこれを達成した。しかしこの制度はしばらくすると廃れた。2004/05シーズンにも新たな三冠ボーナスが企画されたが1シーズン限りで終わった。",
"title": "世界各国の三冠競走"
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"text": "世界的に三冠馬同士の直接対決の事例は十数例と極めて少ないが、牝馬による三冠馬を含めて日本語の信頼及び検証が可能な文献で記録に残されているものとしては、ブラジルとアメリカ合衆国、日本の3国の事例がある。本節ではその三冠馬対決の全記録を記す。",
"title": "三冠馬同士の直接対決"
}
] | 競馬における三冠とは競馬の競走のうち特定の3競走を指す。 一般に1シーズンの間、この3競走すべてに優勝した馬を三冠馬と呼ぶ。 | {{Otheruses|各国の競馬における三冠|中央競馬における三冠|中央競馬クラシック三冠}}
{{複数の問題
|出典の明記 = 2015年6月
|独自研究 = 2015年6月
}}
[[競馬]]における'''三冠'''(さんかん、'''Triple Crown''')とは[[競馬の競走]]のうち特定の3競走を指す。
一般に1シーズンの間、この3競走すべてに優勝した馬を'''三冠馬'''と呼ぶ。
== 略史 ==
「Triple Crown」という表現はアメリカで[[ケンタッキーダービー]]、[[プリークネスステークス]]、[[ベルモントステークス]]の3競走を制覇したものを表現するために生まれたものとされ、それがイギリスにも伝わって、[[2000ギニーステークス]]、[[ダービーステークス]]、[[セントレジャーステークス]]の3競走を「Triple Crown」と言うようになったと主張されている<ref name="DRF_20120605"/><ref name="NYTblog_20080424"/>。
しかし、実際にはアメリカの三冠が成立する遥か以前からイギリスやニュージーランドでは、イギリスの三冠を指して「Triple Crown」という用語が使用されていた<ref name="名前なし-1">[https://paperspast.natlib.govt.nz/newspapers/NZH18860911.2.39]</ref><ref name="名前なし-2">Robert Black, Horse-racing in France - a history, S. Low, Marston, Searle, & Rivington in London, 1886, p. 152.</ref>。
イギリスのクラシック競走体系を導入した日本では、「三冠」という表現は「クラシック競走」である3競走([[皐月賞]]、[[東京優駿]]、[[菊花賞]])の総称として使われてきた。日本では狭義の「三冠」として、この3競走、もしくはこの3競走に相当する3つの競走を特別に「三冠」と表現する<ref>[http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/0419_1/playback.html 第75回皐月賞(プレイバック)] - [[日本中央競馬会]]、2015年</ref>。
広義には、「特定の(重要な)3競走」を「三冠(Triple Crown、triple crown)」と表現することもある(牝馬三冠については「Triple Tiara」と表現されることもある([[#アメリカ|後述]]参照))。本項では、こうした用法も含めて「三冠(Triple Crown)」と表現される競走を扱う。<!--この部分は「この記事ではこうしますよ」という宣言部であり、要出典をつけるというのは不適当です。-->
=== イギリスの「三大競走」と「クラシック」 ===
19世紀のイギリスでは、18世紀に創設されたダービーステークス、[[オークスステークス]]、セントレジャーステークスを「三大競走('''Three Great Races''')」と呼ぶようになった<ref name="CP_11-13">『CLASSIC PEDIGREES 1776-2005』p11 - 13</ref>。
19世紀の半ばには、[[ウェストオーストラリアン (競走馬)|ウェストオーストラリアン]]や[[グラディアトゥール]]が、2000ギニーステークス(1809年創設)と、ダービーステークス、セントレジャーステークスの3競走を制すると、3歳の一流馬はこの3競走を目標にするのが慣例となっていった<ref name="CP_11-13"/>。
これに牝馬の[[1000ギニーステークス]]、オークスステークスを加えた5競走が、「イギリスクラシック(“'''British Classics'''”)」と呼ばれるようになった<ref name="CP_11-13"/>。
=== 表現の起源 ===
初めて三冠(Triple Crown)という表現が用いられたのは、1930年のアメリカと考えられている。この年、[[ギャラントフォックス]]がケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスを勝つと、アメリカの[[競馬新聞]]「[[デイリーレーシングフォーム]]」のコラムニスト、チャールズ・ハットン(Charles Hatton)が記事中で「Triple Crown」と用いたのが、はっきりと判っている最初の例とされている。このとき、ハットンは19世紀のイギリスのウェストオーストラリアンを引き合いに出した。ウェストオーストラリアンは2000ギニーステークス、ダービーステークス、セントレジャーステークスを勝っており、いまでは「初代の三冠馬」とされている<ref name="DRF_20120605">[http://www.drf.com/news/triple-crown-familiar-term-around-world デイリーレーシングフォームHP 2012年6月5日付]「Triple Crown familiar term around the world」</ref><ref name="NYTblog_20080424"/>。
一方、アメリカの新聞「[[ニューヨーク・タイムズ]]」はこの定説を認めながらも、これより早く、少なくとも1923年から「三冠(Triple Crown)」という語を使用していたと主張している<ref name="NYTblog_20080424">[http://therail.blogs.nytimes.com/2008/04/24/origins-of-triple-crown/?_r=0 Origins of Triple Crown] [[ニューヨーク・タイムズ]]紙公式ブログ 2008年4月24日付。2013年11月28日閲覧。</ref>。
と、主張されることもあるが、実際にはアメリカよりもイギリスクラシックの「三冠(Triple Crown)」の方が用語としては先行している。例えば、ニュージーランドのオークランド・スター紙やリトルトンタイムズ紙は、1897年に[[ガルティーモア]]がイギリスクラシック三冠達成の際に、「Triple Crown」を達成したと伝えている<ref>[https://paperspast.natlib.govt.nz/newspapers/AS18970911.2.24.8]</ref>。1886年の[[オーモンド]]三冠達成の際にも、ニュージーランド・ヘラルド紙が「Triple Crown」を用いている<ref name="名前なし-1"/>。1886年にイギリスで発行された「Horse-Racing in France - A History 1886」でも[[グラディアトゥール]]の節で、「Triple Crown」が用いられている<ref name="名前なし-2"/>。
1935年に、アメリカでは[[オマハ (競走馬)|オマハ]]がケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスを勝ち、イギリスでは[[バーラム (競走馬)|バーラム]]が2000ギニーステークス、ダービーステークス、セントレジャーステークスを勝った。「デイリーレーシングフォーム」によれば、この頃からアメリカやイギリスで「三冠(Triple Crown)」という表現が普及した<ref name="DRF_20120605"/>。
=== 派生した用法 ===
これとは別に、特定の3戦をまとめて「三冠」と称する場合もある。たとえば、イギリスの代表的な[[馬齢|古馬]]戦の[[ゴールドカップ]]、[[グッドウッドカップ]]、[[ドンカスターカップ]]の3つのカップ戦を「長距離三冠(Stayers' Triple Crown)」と呼ぶようになった<ref name="Ascot">[http://www.horse-racing.co.uk/races/ascot-gold-cup.php アスコットゴールドカップの歴史] 2013年11月28日閲覧。</ref>。
旧[[ソビエト連邦]]では、2歳馬の最大の競走「МИカリーニン記念」、3歳馬の最大の競走「ソビエト・ダービー(ボリショイ・フシエソユツニー賞)」、古馬の最大の競走「ソビエト社会主義共和国賞」を全て勝つと「三冠」と言われる<ref>『サラブレッド血統事典』山野浩一・著、二見書房・刊、1991年(第6版)p86 - 95</ref>。
=== 日本の「五冠」「七冠」 ===
日本では、[[シンザン]]が1964年に史上2頭目の日本三冠馬となった。シンザンはその後、[[有馬記念]]と[[天皇賞(秋)]]を制したことから「五冠馬」と呼ばれるようになった<ref>{{Cite web |date=2012-07-29 |url=http://www.keibabook.co.jp/homepage/topics/topicsinfo_new.aspx?subsystem=0&kind=0&category=00&filename=KON23288 |title=五冠馬シンザンの墓碑が完成 |publisher=競馬ブック |accessdate=2017-10-15}}</ref>。これに倣い、1984年に三冠を達成し、その後に有馬記念(2回)、天皇賞、[[ジャパンカップ]]を勝った[[シンボリルドルフ]]は「七冠馬」と呼ばれるようになった<ref>{{Cite web |url=http://www.jra.go.jp/150th/rp/23.html |title=顕彰馬 紹介 - 七冠馬 シンボリルドルフ |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2017-10-15}}</ref>。後に[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]も「七冠馬」と呼ばれている。また、牝馬三冠に加えてジャパンカップや[[ドバイターフ]]等を勝利した[[アーモンドアイ]]は「九冠馬」と呼ばれることがある<ref>{{Cite web|title=9冠馬アーモンドアイの真の強さとは― {{!}} 競馬ニュース|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=180672|website=netkeiba.com|accessdate=2021-04-28|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2021/01/07/kiji/20210106s00004048433000c.html|website=www.sponichi.co.jp|accessdate=2021-04-28|title=20年度JRA賞年度代表馬はアーモンドアイ!3歳3冠2頭相手に“圧勝”で2度目の受賞|publisher=sponichi}}</ref>。
== 世界各国の三冠競走 ==
かつては、競走馬の成長にしたがって異なる距離で行われる「三冠」戦を勝ち抜くことは、それ自体が能力の証であり、高い価値を有するとみなされてきた<ref name="kk_EUR">『海外競馬完全読本』p18 - 57「ヨーロッパ」</ref><ref name="YK_108">『アーバンダート百科』p130「国際レースの活発化で役割を終えた、欧米の三冠体系」</ref>。
ヨーロッパ、特にパート1国の間では、近年、国境を越えた競走馬の移動が容易になると、国内にとどまらずに、それぞれの競走馬の適性や能力に応じて多国間を渡り歩くことが当たり前になった。その結果として、これらの国々では、一国内だけの「三冠」戦はおしなべて実際的な価値を持たなくなった。いくつかの競馬主催者は特定の競走をシリーズ化し、「三冠」を達成したり、連戦で良績をあげたものに特別な報奨金制度を用意するなどして様々な「三冠」の価値を維持・創出しようとしている<ref name="kk_EUR"/><ref name="YK_108"/>。
=== 日本 ===
{{出典の明記| section = yes| date = 2018年4月13日 (金) 17:18 (UTC)}}
日本には、中央競馬(JRA)と地方競馬(各地方の主催者が施行)が併存し、それぞれ独自の競走体系を持っているため多種多様な三冠が存在する。
==== 中央競馬の3歳三冠 ====
{{Further|中央競馬クラシック三冠}}
* '''クラシック三冠'''(1939 - )<ref>[http://www.jra.go.jp/topics/video/vg_race/g1_kikukasho/g1_kikukasho_02.html JRA公式HP 三冠馬物語・歴代の三冠馬]</ref> - [[皐月賞]]、 [[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]、 [[菊花賞]]
:達成馬は[[セントライト]](1941年)、[[シンザン]](1964年)、[[ミスターシービー]](1983年)、[[シンボリルドルフ]](1984年、'''無敗''')、[[ナリタブライアン]](1994年)、[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](2005年、'''無敗''')、[[オルフェーヴル]](2011年)、[[コントレイル (競走馬)|コントレイル]](2020年、'''無敗''')の8頭。<!-- ←各馬、各当該競走の項目から[[WP:V]]を満たす!! -->
*'''牝馬三冠'''(1970 - )<ref>[http://www.jra.go.jp/150th/rp/17.html JRA公式HP 牝馬三冠 メジロラモーヌ]</ref> - [[桜花賞]]、[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]、[[秋華賞]]
**1970 - 1975:桜花賞、優駿牝馬、[[ビクトリアカップ]]
**1976 - 1995:桜花賞、優駿牝馬、[[エリザベス女王杯]]<!--1952年まで優駿牝馬は秋に施行されていたので、春は桜花賞・東京優駿、秋は優駿牝馬に出走することが容易だった。-->
:達成馬は[[メジロラモーヌ]](1986年)、[[スティルインラブ]](2003年)、[[アパパネ]](2010年)、[[ジェンティルドンナ]](2012年)、[[アーモンドアイ]](2018年)、[[デアリングタクト]](2020年、'''無敗''')、[[リバティアイランド]](2023年)の7頭。その他、牝馬三冠競走の整備以前である1943年に東京優駿・優駿牝馬・菊花賞{{Refnest|group="注"|1943年当時は、東京優駿が東京優駿競走、優駿牝馬が阪神優駿牝馬、菊花賞が京都農商省賞典四歳呼馬という名称だった。いずれも距離は現行のものと同じであるが、施行地に関しては優駿牝馬が現在[[東京競馬場]]施行なのに対して、1943年は[[京都競馬場]]<ref group="注">阪神競馬場([[鳴尾競馬場]])は[[大日本帝国海軍|海軍]]に基地として接収されていた。</ref>で施行した。}}を制覇した牝馬[[クリフジ]]を「変則三冠」と呼ぶことがある<ref>{{Cite web |url=https://uma-furusato.com/search_horse/0000453424.html |title=クリフジ |publisher=競走馬のふるさと案内所 |accessdate=2023-10-05}}</ref>。
==== ダートグレード競走の3歳三冠 ====
{{Further|3歳ダート三冠}}
* '''3歳ダート三冠'''(2024 - )<ref>[https://jra.jp/news/202206/062001.html 3歳ダート三冠競走を中心とした2・3歳馬競走の体系整備](日本中央競馬会)</ref> - [[羽田盃]]、[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]、[[ジャパンダートダービー|ジャパンダートクラシック]]
:2024年から新たに整備される三冠競走。[[南関東公営競馬|南関東公営]]の地方重賞である羽田盃、東京ダービーとJRA所属馬も出走可能な[[ダートグレード競走]]の[[ジャパンダートダービー]]によって構成されていた[[#南関東三冠|南関東三冠]]を前身とし、南関東所属馬のみならずJRA・他地区所属馬も全ての対象レースに出走できる国内統一の3歳ダート三冠として整備される。
==== 地方競馬の世代別三冠 ====
*'''北海道三冠'''(1980 - )<ref>[https://www.keiba.go.jp/furlong/2013/tokusyu/dw_data/130604.html NAR公式HP 第41回北海優駿]</ref> - [[北斗盃]]、[[北海優駿]]、[[王冠賞]]
:[[ホッカイドウ競馬]]の3歳三冠競走。2010年から2014年まで、これら3競走はそれぞれ1200m・2000m・2600mで施行されており、三冠で大きく条件が異なっていたが<ref>{{Cite web|url=https://www.keiba.go.jp/furlong/2014/tokusyu/dw_data/dw140603.html|title=【ダービーウイーク特集】第42回 北海優駿(ダービー)|work=web Furlong 2014|publisher=[[地方競馬全国協会]]|accessdate=2015-03-25}}</ref>、2015年からそれぞれ1600m・2000m・1800mで施行されている<ref>{{Cite web|url=http://www.hokkaidokeiba.net/hkj/etc/h26/H27jyuusyoukyousou.pdf|title=平成27年度 重賞競走体系一覧|publisher=ホッカイドウ競馬|accessdate=2015-03-24}}</ref>。施行が[[門別競馬場]]に一本化される以前は施行場も複数にまたがっていた。詳細は各競走の記事を参照。
:達成馬はトヨクラダイオー(1981年)、モミジイレブン(1999年)、ミヤマエンデバー(2001年)、[[クラキンコ]](2010年)<ref name="web-furlong-20100906">{{Cite web|url=https://www.keiba.go.jp/furlong/2010/closeup_data/100906.html|title=【クローズアップ】クラキンコ、史上初「牝馬で三冠制覇!」|work=[[ハロン (雑誌)|web Furlong]] 2010|publisher=[[地方競馬全国協会]]|date=2010-09-06|accessdate=2015-09-19}}</ref>、[[リンゾウチャネル]](2019年)、[[ラッキードリーム]](2021年)、[[ベルピット]](2023年)の7頭<ref>{{Cite web|url=https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=201908010001016&year=2019&month=08&day=01|title=【リンゾウチャネルV 9年ぶり道営3冠馬/王冠賞|work=極ウマ・プレミアム|publisher=日刊スポーツ|date=2019-08-01|accessdate=2019-08-05}}</ref>。このうちクラキンコは牝馬による達成<ref name="web-furlong-20100906" />。
*'''ばんえい2歳三冠'''<ref name="名前なし-3"/> - [[ナナカマド賞]]、[[ヤングチャンピオンシップ]]、[[イレネー記念]]
:[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]の2歳馬による三冠競走。「新馬三冠」ともいう<ref>{{Cite web|date=2012|url=http://www.banei-keiba.or.jp/bgsite/irene2012/starting.html|title=重賞特設ページ 【第43回イレネー記念】出走予定馬|language=日本語|work=ばんえい十勝|publisher=[[帯広市]]|accessdate=2012-11-13}}</ref>。2008年に成立。ばんえい競馬は4月から3月までを1つの年度としており、イレネー記念は3月に施行され「明け3歳馬」による競走となる。
:達成馬は[[センゴクエース]](2014年)の1頭<ref>{{Cite web|url=http://www.tokachi.co.jp/banei/2015/3/entry_1634.php|title=センゴクエース史上初3冠達成 ばんえいイレネー記念|work=ばんえい十勝劇場|publisher=[[十勝毎日新聞]]|date=2015-03-09|accessdate=2015-05-31}}</ref>。
*'''ばんえい3歳三冠'''<ref name="名前なし-3">[http://www.banei-keiba.or.jp/racemenu/jyusyouschedule.html ばんえい競馬公式サイト(2013年度重賞競走体系図)] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130609200613/http://www.banei-keiba.or.jp/racemenu/jyusyouschedule.html|date=2013年6月9日}}</ref> - [[ばんえい大賞典]]、[[ばんえい菊花賞]]、[[ばんえいダービー]]
:ばんえい競馬の3歳馬による三冠競走。
:達成馬は[[ハクリュウ (競走馬)|ハクリュウ]](1975年)、[[マルトダンサー]](1980年)、[[ウンカイ]](1997年)、[[ヨコハマボーイ]](2001年)、[[メムロボブサップ]](2019年)の5頭。
*'''ばんえい4歳三冠'''<ref name="名前なし-3"/> - [[柏林賞]]、[[銀河賞]]、[[天馬賞]]
:日本の他の競馬では見られない4歳限定の三冠競走である。2007年成立。ばんえい競馬は4月から3月までを1つの年度としており、天馬賞は1月に施行され「明け5歳馬」による競走となる。
:達成馬はホクショウユウキ(2013年<ref>{{Cite web|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=82983|title=ホクショウユウキが史上初の4歳重賞3冠達成/天馬賞・ばんえい|work=[[netkeiba.com]]|date=2014-01-03|accessdate=2014-02-14}}</ref>)、センゴクエース(2016年<ref>{{Cite web|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=117861|title=センゴクエース快勝で4歳3冠達成!/天馬賞・ばんえい|work=[[netkeiba.com]]|date=2017-01-03|accessdate=2017-01-03}}</ref>)、メムロボブサップ(2021年)。
*'''岩手2歳三冠'''(2005 - )<ref name="名前なし-4"/> - [[若駒賞 (岩手競馬)|若駒賞]]、[[南部駒賞]]、[[金杯 (岩手競馬)|(水沢)金杯]]
:[[岩手県競馬組合|岩手競馬]]の2歳馬による三冠競走。
:達成馬は[[ワタリシンセイキ]](2008年)と[[ベストマイヒーロー]](2010年)の2頭。ワタリシンセイキはこの活躍が認められ、2歳馬ながら[[岩手県競馬組合|岩手競馬]]年度代表馬に選出された。
*'''岩手3歳三冠'''(2007 - )<ref name="名前なし-4">[http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/data/r-sys/index10.html 岩手競馬公式HP 2010年度 岩手競馬重賞特別競走体系]</ref> - [[ダイヤモンドカップ]]、[[東北優駿]]、[[不来方賞]]
**2007 - 2009:[[阿久利黒賞]]・[[ダイヤモンドカップ]]・不来方賞
**2010 - 2018:ダイヤモンドカップ・不来方賞・[[ダービーグランプリ]]
:岩手競馬の2歳馬による三冠競走。2000年から距離別体系の導入で牝馬限定戦をのぞき7つの重賞競走(スプリント2競走、マイル2競走、クラシックディスタンス3競走)が組まれたことで三冠という概念はなくなったが、競走体系を見直した2007年から上記の競走で三冠制度を導入し、対象競走の優勝馬馬主に特別奨励金(ボーナス)が支給されることになった。2007〜2009年はダイヤモンドカップ・不来方賞に加えて従来11月に行われていた阿久利黒賞を5月に移行して三冠競走を形成していたが、2008年に休止したダービーグランプリを2010年に復活させ上記3競走を「三冠レース」として設定したため阿久利黒賞は対象競走から外れる形となった。なお、不来方賞は2004年から地方競馬全国交流競走であったが、ダービーグランプリが2010年から地方競馬全国交流競走として設定されたため、2010年からはダービーグランプリの岩手所属馬限定トライアル競走となった。2019年からは16年ぶりに水沢競馬場で復活した東北優駿が入り、ダービーグランプリが外れた。2024年からは不来方賞がジャパンダートクラシック(大井)の前哨戦となり、あわせてダートグレード競走(JpnII格付)となり、JRA所属馬も出走可能となる。
:達成馬はセイントセーリング(2007年)、[[ロックハンドスター]](2010年)の2頭。
*'''岩手3歳牝馬三冠'''(2020 - ) - [[日高賞|留守杯日高賞]]、[[ひまわり賞 (岩手競馬)|ひまわり賞]]、[[OROオータムティアラ]]
:岩手競馬の3歳牝馬による三冠競走。
*'''南関東牝馬三冠'''(1987 - )<ref>[http://uma-furusato.com/i_search/detail_horse/_id_0000762859 競走馬のふるさと案内所公式HP チャームアスリープ]</ref><ref name="nar20060615">{{Cite web|date=2006-06-15|url=http://www.keiba.go.jp/topics/2006/0615.html|title=TOPICS 2006「チャームアスリープ(船橋)南関東牝馬3冠達成!」|language=日本語|publisher=[[地方競馬全国協会]]|accessdate=2012-09-30}}</ref> - [[桜花賞 (浦和競馬)|(浦和)桜花賞]]、[[東京プリンセス賞]]、[[関東オークス]]
:[[南関東公営競馬]]の3歳牝馬三冠競走。1987年に東京プリンセス賞の創設によって成立。[[浦和競馬場|浦和]]、大井、[[川崎競馬場|川崎]]を転戦し、アメリカンスタイルの短期連戦型となっている。関東オークスは2000年からダートグレード競走(GIII→GII→JpnII格付)となり、JRA所属馬も出走可能である。
:達成馬は[[チャームアスリープ]](2006年)<ref name="nar20060615" />の1頭。
*'''金沢三冠'''(1993 - ) - [[北日本新聞杯]]、[[MRO金賞]]、[[サラブレッド大賞典 (金沢競馬)|サラブレッド大賞典]]
**1993 - 2004:北日本新聞杯、[[サラブレッドチャレンジカップ]]、サラブレッド大賞典
:[[石川県競馬事業局|金沢競馬]]の3歳三冠競走。2017年より[[石川ダービー]]が加わり、金沢四冠となる(牝馬の場合は[[加賀友禅賞]]を優勝して五冠)。
:達成馬はプライムキング(1996年)、ノーブルシーズ(2008年)の2頭。
*'''東海三冠'''(1977 - )<ref name="p473" /> - [[駿蹄賞]]、[[東海ダービー]]、[[岐阜金賞]]
:[[岐阜県地方競馬組合|名古屋競馬]]と[[岐阜県地方競馬組合|笠松競馬]]の3歳三冠競走。東海ダービーは1996年から2004年の間、[[名古屋優駿]]と名称を変えて行われた(1997年から2004年までダートグレード競走(GIII格付)でJRA所属馬も出走可能)。
:達成馬はイズミダッパー(1980年)、ゴールドレット(1982年)、サブリナチェリー(1993年)<ref>{{Cite news|url=http://www.gifu-np.co.jp/blog/keiba/KI20170609.shtml|title=ドリームズライン2冠|newspaper=岐阜新聞Web|date=2017-06-09|accessdate=2017-10-14}}</ref>、ドリームズライン(2017年)、タニノタビト(2022年)<ref>{{Cite web |title=2番人気タニノタビトが史上5頭目の東海3歳三冠の快挙【中日スポーツ杯・岐阜金賞】:中日スポーツ・東京中日スポーツ |url=https://www.chunichi.co.jp/article/533103 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2022-08-27 |language=ja}}</ref>の5頭。
*'''名古屋三冠'''(2015 - )<ref>{{Cite web|url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=49843&rf=kslp |title=強豪が集結した地方全国交流の三冠目を制したことの価値 |publisher=netkeiba.com |date=2021-10-12 |accessdate=2021-10-13}}</ref> - 駿蹄賞、東海ダービー、[[秋の鞍 (名古屋競馬)|秋の鞍]]
:東海三冠のうち、[[笠松競馬場|笠松]]施行の岐阜金賞を[[名古屋競馬場|名古屋]]施行の秋の鞍(全国交流)と入れ替えたもの。
:達成馬はエムエスクイーン(2019年)、[[トミケンシャイリ]](2021年)<ref group="注">トミケンシャイリは、[[岐阜県地方競馬組合]]の一連の不祥事による笠松競馬開催自粛のため岐阜金賞が同年は施行されず、東海三冠に挑戦することが叶わなかった。</ref>の2頭。
*'''兵庫三冠'''(2000 - ) <ref>[http://www.keiba.go.jp/topics/2007/0202.html NAR公式HP 兵庫3冠馬ロードバクシンの引退式を実施]</ref> - [[菊水賞]]、[[兵庫チャンピオンシップ]]、[[兵庫ダービー|兵庫(園田)ダービー]]
:[[園田競馬場]]、[[姫路競馬場]]([[兵庫県競馬組合]])の3歳三冠競走。2000年のみ兵庫チャンピオンシップの代わりに[[六甲盃]]であったが、兵庫チャンピオンシップも行われたので事実上の四冠競走であった。4月から6月に1レースずつ施行されるアメリカンスタイルで、[[園田オータムトロフィー]]創設まで長らく3歳馬限定の重賞は秋には存在していなかった。兵庫チャンピオンシップは2000年からダートグレード競走(GIII→GII→JpnII格付)となり、JRA所属馬も出走可能である。なお、2024年から兵庫チャンピオンシップは距離が短縮され1400mでの施行となり、JRAも含めた3歳ダート短距離競走の頂点的な扱いとなるため、引き続き「兵庫三冠」に組み入れられるかは未定である。
:達成馬は[[ロードバクシン]](2001年)の1頭。
*'''高知三冠'''(1997 - )<ref>暫定出典[http://blog.oddspark.com/akami/2009/10/post_571.html オッズ・パーク内 高崎競馬の元騎手のブログ 高知3冠馬!!!]</ref> - [[黒潮皐月賞]]、[[高知優駿]](黒潮ダービー)、[[黒潮菊花賞]]
:[[高知県競馬組合|高知けいば]]の3歳三冠競走。
:達成馬はカイヨウジパング(1998年)、オオギリセイコー(2000年)、グランシング(2009年)、ユメノホノオ(2023年)の4頭。
*'''佐賀競馬3歳三冠''' - [[佐賀皐月賞]]、九州ダービー栄城賞、ロータスクラウン賞
**-2011:荒尾ダービー、九州ダービー栄城賞、ロータスクラウン賞
**2012-2017:[[飛燕賞]]、九州ダービー栄城賞、ロータスクラウン賞
:[[佐賀県競馬組合|佐賀競馬]]の3歳三冠競走。九州3歳三冠ともいう。
:達成馬はエスワンプリンス(2012年)、スーパージンガ(2019年)<ref>{{Cite news|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=159788|title=【佐賀・ロータスクラウン賞】スーパージンガが九州3歳三冠達成!/地方競馬レース結果|work=netkeiba.com|date=2019-09-01|accessdate=2019-09-02}}</ref>、トゥルスウィー(2021年)の3頭。
==== その他 ====
*'''JRA秋古馬三冠'''<ref>[http://jra-van.jp/fun/tokusyu/111030_01.html JRA-VAN 天皇賞(秋)2011年]</ref> - [[天皇賞|天皇賞(秋)]]、[[ジャパンカップ]]、[[有馬記念]]
:秋の10 - 12月の関東各施行の最終日に行われる3歳以上の牡馬・牝馬が出走できる3つの主要[[競馬の競走格付け|GI]]を同一年に制することをいう。中央競馬を主催する[[日本中央競馬会]](JRA)はこの三冠に正式な呼称を設けていないが、JRAの子会社が運営する競馬情報サービス[[JRA-VAN]]では「秋古馬三冠路線」と称している。
:達成馬は[[テイエムオペラオー]](2000年)<ref>なお、この年の3競走の2着は全て[[メイショウドトウ]]</ref>、[[ゼンノロブロイ]]<ref>{{Cite web |title=ゼンノロブロイが老衰で死す 「秋の古馬王道」を3連勝 04年、サンデーサイレンス産駒として初の年度代表馬:中日スポーツ・東京中日スポーツ |url=https://www.chunichi.co.jp/article/537522 |website=中日スポーツ・東京中日スポーツ |access-date=2022-09-02 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=ゼンノロブロイが死ぬ 22歳 04年秋に古馬王道G1を3連勝 |url=https://hochi.news/articles/20220902-OHT1T51056.html |website=スポーツ報知 |date=2022-09-02 |access-date=2022-09-02 |language=ja}}</ref>(2004年)。
:2000年からこの3つの競走を同一年に制した場合に、褒賞金が贈られるようになった。内国産馬2億円、外国産馬1億円交付されている。上記2頭がこの褒賞金を獲得している。
*'''JRA春古馬三冠''' - [[大阪杯]]、[[天皇賞(春)]]、[[宝塚記念]]
:2017年より産経大阪杯が大阪杯としてGIに昇格したのをきっかけに上記の三競走を同一年に制することをいう。
:同一年に制した場合には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が贈られる。
*'''岩手古馬三冠'''<ref name="名前なし-4"/> - [[シアンモア記念]]、[[みちのく大賞典]]、[[桐花賞]]
:2008年度より3歳と古馬の三冠指定競走が設定され、達成すると主催者より馬主に対して奨励金(ボーナス)300万円が与えられる(3歳三冠についても達成すると与えられる)。なお、古馬三冠については2007年に同年年度代表馬[[テンショウボス]]が達成している。ただし、岩手古馬三冠指定競走が設定される前の2007年と2008年ではシアンモア記念の代わりに[[北上川大賞典]]であった。
=== イギリス ===
{{Further|イギリスクラシック三冠}}
*'''クラシック三冠'''<ref name="bluebook">{{Cite web |url=https://www.tjcis.com/pdf/icsc23/EndMaterial2023.pdf |format=PDF |title=Excellence Data by Country for 2022 |work=2023 International Cataloguing Standards Book |publisher=International Federation of Horseracing Authorities |accessdate=2023-08-27}}</ref> - [[2000ギニーステークス]]、[[ダービーステークス]]、[[セントレジャーステークス]]
*'''牝馬クラシック三冠'''<ref name="bluebook" /> - [[1000ギニーステークス]]、[[オークスステークス]]、セントレジャーステークス
<!--
*'''長距離三冠'''<ref name="Ascot"/>{{出典無効|date=2023-10-06|2023年現在リンク先に三冠の記述見当たらず}} - [[ゴールドカップ]]、[[グッドウッドカップ]]、[[ドンカスターカップ]]
:達成馬は[[アイソノミー|Isonomy]](1879年)、[[アリシドン|Alycidon]](1949年)、Souepi(1953年)、Le Moss(1979年・1980年)、Longboat(1986年)、Double Trigger(1995年)、[[ストラディバリウス (競走馬)|Stradivarius]](2019年)。
:[[馬齢|古馬]]による三冠競走である。この3競走はどれも200年近い歴史を持ち、古くは非常に重要で価値の高い競走だった。
-->
<!--THE STAYERS' TRIPLE CROWN,JOHN WHITE,2009 という本も出版されている。紛らわしいがTriple Crown Stayersというゲームがあるようだ。-->
<!--
*スプリント三冠{{要出典|date=2013年11月}} - [[ジュライカップ]]、[[ナンソープステークス]]、[[スプリントカップ]]
-->
<!--triple crown July Nunthorpeで検索してもそれらしいものは該当しない。-->
<!--
*マイル三冠{{要出典|date=2013年11月}} - [[ロッキンジステークス]]、[[サセックスステークス]]、[[クイーンエリザベス2世ステークス]]
-->
<!--triple crown Lockinge Sussexで検索してもそれらしいものは該当しない。-->
=== アイルランド ===
競馬が行われるような時代には、アイルランドはイギリスの一地方(または植民地)とされてきた。19世紀から20世紀にかけて、イギリスの三冠戦を模した競走がアイルランドでも創設された。しかし、これらを勝つような力がある一流馬は、より高い賞金や権威を求めてイギリスの三冠戦に転戦するため、敢えてアイルランドの三冠戦を連戦するようなものは多くはない<ref name="DRF_20120605"/>。
*'''3歳三冠'''<ref name="DRF_20120605"/><ref name="bluebook" /> - [[アイリッシュ2000ギニー]]、[[アイリッシュダービー]]、[[アイリッシュセントレジャー]]
:達成馬はMuseum([[1935年]])、Windsor Slipper(1942年)。
:1962年に国内の競走体系の改変があり、アイリッシュ2000ギニーはヨーロッパ主要競馬施行国の2000ギニーの後に、アイリッシュダービーもヨーロッパ各地のダービーの後に行われるようになった。この結果、アイリッシュ2000ギニーには各地の2000ギニー好走馬が集まり、アイリッシュダービーには各地のダービー好走馬が集まるようになった。1983年には、「クラシック競走に出走できるのは特定の年齢の馬だけに限定する」という不文律を破ってセントレジャーを4歳以上の古馬にも開放した。このため、「三冠戦」としてはほとんど機能していない<ref name="DRF_20120605"/>。
*'''3歳牝馬三冠'''<ref name="bluebook" /> - [[アイリッシュ1000ギニー]]、[[アイリッシュオークス]]、アイリッシュセントレジャー
:達成馬なし。
:牡馬同様、「三冠戦」としてはほとんど機能していない。
=== フランス ===
フランスでは自国の3歳馬のための伝統的な主要戦として、[[プール・デッセ・デ・プーラン]]、[[リュパン賞]]、[[ジョッケクルブ賞]]、[[ロワイヤルオーク賞]]という4つの大競走による「四冠」体制をとっていた。このほか、春には3歳馬の国際競走[[パリ大賞典]]がある。これらのうちプール・デッセ・デ・プーランを2000ギニーに、ジョッケクルブ賞をダービーに、ロワイヤルオーク賞をセントレジャーに見立てて、この3戦を「フランス三冠(Triple Crown)」と称していた<ref>[http://www.france-galop.com/All-the-races.233+M52087573ab0.0.html?&course_id=9129&no_cache=1&numero_id=24 フランスギャロ公式HP ロワイヤルオーク賞の歴史] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131203022236/http://www.france-galop.com/All-the-races.233+M52087573ab0.0.html?&course_id=9129&no_cache=1&numero_id=24 |date=2013年12月3日 }}、[http://www.france-galop.com/All-the-races.233+M52087573ab0.0.html?&course_id=9143&no_cache=1&numero_id=7 フランスギャロ公式HP パリ大賞典賞の歴史] 2013年11月28日閲覧。</ref><ref name="DRF_20120605"/>。しかし、ロワイアルオーク賞は後から創設された[[凱旋門賞]]に有力馬が参戦するようになり、アイルランド同様に3歳限定から古馬に解放された。更に、プール・デッセ・デ・プーランやリュパン賞で好走したフランス馬がイギリスのダービーを目指すようになったことでフランス3冠は形骸化していた。
2005年、フランスギャロはロワイアルオーク賞の代わりにパリ大賞典を三冠の第3ラウンドと定め<ref>{{Cite web|url=https://www.france-galop.com/en/content/grand-prix-de-paris-history-monument-made-france|title=Grand Prix de Paris History: A monument made in France|accessdate=20210704}}</ref>、ジョッケクルブ賞もイギリスダービーと棲み分けを行うため2100mに距離短縮した。これにより施行時期を英愛よりも短く、凱旋門賞と整合性が取れるようにした。
*'''3歳三冠'''<ref name=":0">[http://www.tbheritage.com/Portraits/RayondOr.html サラブレッドヘリテイジ レイヨンドール] 2013年11月30日閲覧。</ref> - [[プール・デッセ・デ・プーラン]]、[[ジョッケクルブ賞]]、[[パリ大賞典]]
:* -2005年:プール・デッセ・デ・プーラン、ジョッケクルブ賞、[[ロワイヤルオーク賞]]
:達成馬はZut(1879年)、Perth(1899年)。
:1979年にロワイヤルオーク賞は4歳以上の古馬にも開放された。現在の距離体系になった2005年以降、三冠を達成した競走馬は存在しない。なお、Perthは旧三冠競走に加えてパリ大賞典も勝利している。
*'''3歳牝馬三冠'''<ref>『フランス競馬百年史』p18</ref> - [[プール・デッセ・デ・プーリッシュ]]、[[ディアヌ賞]]、[[ヴェルメイユ賞]]
:達成馬はSemendria(1900年)、La Camargo(1901年)、Pearl Cap(1931年)、Nikellora(1945年)、Corteira(1948年)、[[アレフランス|Allez France]](1973年)、[[ザルカヴァ|Zarkava]](2008年)。
:ヴェルメイユ賞は2004年から4歳牝馬に、2006年からは5歳以上の牝馬にも開放された。
*'''2歳三冠'''<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Brantome.html サラブレッド・ヘリテイジ ブラントーム]“French juvenile "Triple Crown"”2013年11月30日閲覧。</ref> - [[モルニ賞]]、[[ジャン・リュック・ラガルデール賞]]、[[クリテリウム・アンテルナシオナル (競馬のレース)|クリテリウム・アンテルナシオナル]]
:達成馬は[[ブラントーム (競走馬)|Brantôme]](1933年)。
=== ドイツ ===
*'''ドイツ3歳三冠'''(Dreifache Krone)<ref name="bluebook" /><ref>[http://www.galopp-sieger.de/galoppsieger/pferd_html?pschl=K%F6nigsstuhlDschingis ギャロップジーガー ケーニッヒシュトゥール] 2013年11月30日閲覧。“der "Dreifachen Krone" in Deutschland”</ref> - [[メールミュルヘンスレネン]](ドイツ2000ギニー)、[[ドイチェスダービー]]、[[ドイチェスセントレジャー]]
:達成馬は[[ケーニヒスシュトゥール (競走馬)|Königsstuhl]](1979年)。現在ではドイチェスセントレジャー(2005年にG3降格、2007年に古馬開放)に出走する有力馬が少なく、ほとんど機能していない。
=== イタリア ===
*'''イタリア3歳三冠'''<ref>『凱旋門賞の歴史』第2巻p56</ref> - [[:en:Premio Parioli|パリオーリ賞]]、[[デルビーイタリアーノ]]、[[:en:St. Leger Italiano|セントレジャーイタリアーノ]]
:達成馬は[[ハリーオン系#ニコロデラルカ|Niccolo Dell'Arca]](1941年)、Gladiolo(1946年)、[[ボッティチェッリ (競走馬)|Botticelli]](1954年)。
=== アメリカ ===
{{Further|アメリカクラシック三冠}}
アメリカクラシック三冠の最大の特徴は[[ケンタッキーダービー]]から[[プリークネスステークス]]まで[[ローテーション (競馬)|中1週]]、プリークネスステークスから[[ベルモントステークス]]まで中2週とわずか5週間で終わってしまうキャンペーンの短さにある。二冠を達成する馬は比較的多いものの、三冠を達成するのは困難で、1978年から2015年まで35年以上にわたって三冠馬は誕生していなかった。このため、ふつうはケンタッキーダービーかプリークネスステークスのいずれか一方を目標とし、楽に勝てれば次を狙うが、消耗が大きい場合には普通は休養をとり、三冠戦のあとに行われる[[トラヴァーズステークス]]へ向かう<ref>『アーバンダート百科』p128</ref>。
*'''アメリカクラシック三冠'''<ref name="bluebook" /> - [[ケンタッキーダービー]]、[[プリークネスステークス]]、[[ベルモントステークス]]
:達成馬は[[サーバートン|Sir Barton]](1919年)、[[ギャラントフォックス|Gallant Fox]](1930年)、[[オマハ (競走馬)|Omaha]](1935年)、[[ウォーアドミラル|War Admiral]](1937年)、[[ワーラウェイ|Whirlaway]](1941年)、[[カウントフリート|Count Fleet]](1943年)、[[アソールト|Assault]](1946年)、[[サイテーション (競走馬)|Citation]](1948年)、[[セクレタリアト|Secretariat]](1973年)、[[シアトルスルー|Seattle Slew]](1977年)、[[アファームド|Affirmed]](1978年)、[[アメリカンファラオ|American Pharoah]](2015年)、[[ジャスティファイ|Justify]](2018年)の13頭。
*'''ニューヨーク牝馬三冠'''([[:en:American Triple Tiara of Thoroughbred Racing|American Triple Tiara]]) - [[エイコーンステークス]]、[[コーチングクラブアメリカンオークス]](CCAオークス)、[[アラバマステークス]]
** -2002:エイコーンステークス、[[マザーグースステークス]]、CCAオークス
** 2003-2006:エイコーンステークス、CCAオークス、アラバマステークス
** 2007-2009:エイコーンステークス、マザーグースステークス、CCAオークス
:達成馬は[[:en:Dark Mirage|Dark Mirage]](1968年)、[[シュヴィー|Shuvee]](1969年)、[[クリスエヴァート|Chris Evert]](1974年)、[[ラフィアン|Ruffian]](1975年)、[[デヴォナデール|Davona Dale]](1979年)、[[:en:Mom's Command|Mom's Command]](1985年)、[[:en:Open Mind (horse)|Open Mind]](1989年)、[[スカイビューティ|Sky Beauty]](1993年)の8頭。
:牡馬三冠の「トリプルクラウン」にちなみ、こちらは'''トリプルティアラ'''({{Lang|en|Triple Tiara}})とも呼ばれる。すべて[[ニューヨーク州]]の[[競馬場]]で施行される競走であるため「ニューヨーク牝馬三冠」と呼ばれるが、同国を代表する牝馬三冠戦として「アメリカ牝馬三冠」の呼称が使われる場合もある<ref>{{Cite web |url=https://helloracefans.com/races/triple-tiara/ |title=The Triple Tiara |access-date=2023-04-06 |publisher=Hello Race Fans}}</ref>。
:2002年まではすべて[[ベルモントパーク競馬場]]で施行されるエイコーンステークス、マザーグースステークス、CCAオークスの3競走で構成されており上記の三冠達成はすべてこの期間になされたものである。2003年に主催元である[[:en:New York Racing Association|ニューヨーク競馬協会]]によって三冠体系が改定され、エイコーンステークスの代わりに[[サラトガ競馬場]]のアラバマステークスが新たに加わりマザーグースステークスを第1戦、コーチングクラブアメリカンオークスを第2戦、アラバマステークスで第3戦と制定されていた。当時達成馬には200万ドルのボーナスが用意されていたが改定後に達成した馬はなく2005年にボーナスは打ち切られ、2007年からはレース構成も2002年までのものに戻された。2010年からはマザーグースステークスが外れてアラバマステークスが再度三冠に復帰し、CCAオークスの施行もサラトガ競馬場に移行した。なお、2002年以前に期間外にエイコーンステークス、CCAオークス、アラバマステークスの3競走すべてに優勝した馬はShuvee(1969年)、Mom's Command(1985年)、Open Mind(1989年)、[[スカイビューティ|Sky Beauty]](1993年)がいる。
*'''ニューヨークハンデキャップ三冠'''([[:en:New York Handicap Triple|New York Handicap Triple]]) - [[メトロポリタンハンデキャップ (アメリカ合衆国)|メトロポリタンハンデキャップ]]、[[ブルックリンハンデキャップ]]、[[サバーバンハンデキャップ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.bloodhorse.com/horse-racing/articles/233820/fit-to-fight-was-fit-for-a-handicap-triple-crown |title=Fit to Fight Was Fit For a Handicap Triple Crown |access-date=2023-04-06 |publisher=BloodHorse}}</ref>
:達成馬は[[ウィスクブルーム]](1913年)、[[トムフール]](1953年)、[[ケルソ]](1961年)、[[:en:Fit to Fight|Fit to Fight]](1984年)。
:ニューヨーク州で行われる古馬競走の、主要なハンデキャップ戦3競走による三冠戦。現在は意義が薄れ、ブルックリン・サバーバンの2競走はG2へと格下げされている。
*'''ニューヨーク3歳芝三冠''' - [[ベルモントダービーインビテーショナルステークス|ベルモントダービー]]、[[サラトガダービー]]、[[ジョッキークラブダービー]]<ref>{{Cite web|url=https://www.bloodhorse.com/horse-racing/articles/232056/nyra-unveils-turf-triple-series-for-3yos-3yo-fillies|title=NYRA Unveils Turf Triple Series for 3YOs, 3YO Fillies|accessdate=2019-02-14|date=2019-02-13|publisher=bloodhorse.com}}</ref>
:ベルモントダービー・サラトガダービー(2021年以降)はG1、ジョッキークラブダービーはG3。
*'''ニューヨーク3歳牝馬芝三冠''' - [[ベルモントオークスインビテーショナルステークス|ベルモントオークス]]、[[サラトガオークス]]、[[ジョッキークラブオークス]]
:ベルモントオークスはG1、サラトガオークスとジョッキークラブオークスはG3。
=== カナダ ===
*'''三冠'''<ref name="DRF_20120605"/><ref name="bluebook" /> - [[キングスプレート]]、[[プリンスオブウェールズステークス (カナダ)|プリンスオブウェールズステークス]]、[[ブリーダーズステークス]]
:1959年に創設された、[[カナダ]]産馬による3歳馬限定の三冠戦。カナダ産馬限定戦のため、いずれも格付けは持たない。
:達成馬はニュープロヴィデンス(1959年)、ケンボラ(1963年)、[[ウィズアプルーヴァル]](1989年)、[[イズヴェスティア]](1990年)、[[ダンススマートリー]](牝馬、1991年)、ペテスキー(1993年)、ワンド(2003年)。制定前の3競走制覇馬は[[クイーンズウェイ (競走馬)|クイーンズウェイ]](牝馬、1932年)、アーチワース(1939年)、オトモスト(1946年)、エースマリン(1955年)、カナディアンチャンプ(1956年)。
*'''牝馬三冠'''<ref name="bluebook" /> - [[ウッドバインオークス]]、[[バイソンシティステークス]]、[[ワンダーウェアステークス]]
:カナダ産馬による3歳牝馬限定の三冠戦。牡馬のものと同じく、格付けは持たない。達成馬はSealy Hill(2007年)。
*'''トロッター三冠''' - [[ハンブルトニアン]]、[[:en:Yonkers Trot|ヨンカーズトロット]]、[[:en:Kentucky Futurity|ケンタッキーフューチュリティ]]
:[[w:Triple Crown of Harness Racing for Trotters|英語版:Triple Crown of Harness Racing for Trotters]]を参照。
:トロッターの三冠。[[スタンダードブレッド]]によって行われる。[[繋駕速歩競走]]の項を参照。
:達成馬はScott Frost([[1955年]])、Speedy Scot([[1963年]])、Ayres([[1964年]])、Nevele Pride([[1968年]])、Lindy's Pride([[1969年]])、Super Bowl([[1972年]])、[[ウィンドソングズレガシー|Windsong's Legacy]](2004年)、Glidemaster([[2006年]])。
*{{要出典範囲|'''ペーサー三冠''' - [[リトルブラウンジャグ (競馬のレース)|リトルブラウンジャグ]]、[[:en:Kentucky Futurity|ケインペース]]、[[:en:Messenger Stakes|メッセンジャーステークス]]|date=2015年6月}}
:{{要出典範囲|[[w:Triple Crown of Harness Racing for Pacers|英語版:Triple Crown of Harness Racing for Pacers]]を参照。|date=2015年6月}}
:{{要出典範囲|ペーサーの三冠。スタンダードブレッドによって行われる。[[繋駕速歩競走]]の項を参照。|date=2015年6月}}
:{{要出典範囲|達成馬はAdios Butler([[1959年]])、Bret Hanover([[1965年]])、Romeo Hanover([[1966年]])、Rum Customer([[1968年]])、Most Happy Fella([[1970年]])、Niatross([[1980年]])、Ralph Hanover([[1983年]])、Western Dreamer(1997年)、Blissful Hall(1999年)、No Pan Intended(2003年) 。|date=2015年6月}}
=== ブラジル ===
*'''サンパウロ地区三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="kk_BRZ">『海外競馬完全読本』p142,p154 - 156「ブラジル」</ref> - イピランガ大賞(Grande Premio Ipiranga)、サンパウロジョッキークラブ大賞(Grande Premio Jockey Club de São Paulo)、[[ダービーパウリスタ大賞]]
:コンサグラサン大賞(Grande Premio Consagração、芝3000m)を含めた四冠体制だったが、2006年にコンサグラサン大賞は古馬の出走が可能になり、G2に格下げされたため、現在は三冠となっている。
:達成馬は[[ファーウェル|Farwell]](1959年)、Giant(1967年)、Cacique Negro(1989年)。
:三冠になってからの達成馬にはRoxinho(2001年)。
*'''リオデジャネイロ地区三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="kk_BRZ"/> - リオデジャネイロ州大賞(Grande Premio Estado do Rio de Janeiro)、フランシスコパウラマチャド大賞(Grande Premio Francisco Eduardo de Paula Machado)、[[クルセイ・ド・スル賞]](Grande Premio Cruzeiro do Sul)
:達成馬はTalvez(1940年)、Criolan(1941年)、Quiproquó(1952年)、 Timão (1955年)、[[エスコリアル|Escorial]](1959年)、African Boy(1979年)、Old Master(1984年)、Itajara(1987年)、Groove(1996年)、Super Power(2000年)、Plenty Of Kicks(2012年)、Bal a Bali(2014年)
:当初はフランシスコパウラマチャド大賞の代わりにブラジルジョッキークラブ大賞。
=== アルゼンチン ===
アルゼンチンは、20世紀にフランス式の競走体系を導入し、四冠制を採用した<ref name="p303">『競馬の世界史』p303</ref>。
このシステムは中距離に比重をおき、1600mの[[ポージャ・デ・ポトリロス]]、2000mの[[ジョッキークラブ大賞 (アルゼンチン)|ジョッキークラブ大賞]]、2500mの[[ナシオナル大賞]](アルゼンチンダービー)、3000mの[[カルロスペレグリーニ大賞]]の4戦で形成されていた。ただし四冠目のカルロスペレグリーニ大賞は3歳以上にも出走資格がある。
*'''アルゼンチン3歳四冠'''<ref name="p303" /> - ポージャ・デ・ポトリロス、ジョッキークラブ大賞、ナシオナル大賞、カルロスペレグリーニ大賞
:カルロスペレグリーニ大賞は1980年に2400mに短縮された。
:四冠を制覇したのは、9頭(Pippermint、Old Man、Botafogo、Rico、Mineral、Yatasto、Manantial、[[フォルリ (競走馬)|Forli]]、Telescopico)で、ほかに牝馬のラミシオン(La Mission)が牝馬路線三冠とカルロスペレグリーニ大賞を勝っている。
*三冠<ref name="bluebook" /> - [[ポージャ・デ・ポトリロス]]、[[ジョッキークラブ大賞 (アルゼンチン)|ジョッキークラブ大賞]]、[[ナシオナル大賞]]
:四冠達成したもの以外で三冠馬は、Melgarejo(1906年)、Chopp(1908年)、Silfo(1934年)、Sorteado(1938年)、Embrujo(1939年)、Tatan(1955年)、Gobernado(1964年)、El Serrano(1986年)、Refinado Tom(1996年)。
=== ペルー ===
*'''ペルー三冠'''<ref name="bluebook" /><ref>『奇跡の名馬』p46 - 48「リオパリャンガ」</ref> - ポリャデポトリリョス(Clasico Polla de Potrillos)、リカルドオルティスデゼバリョース大賞(Clasico Ricardo Ortiz de Zevallos)、[[ダービーナシオナル (ペルー)|ダービーナシオナル]]
:ダートの三冠体系。1955年の[[リオパリャンガ]]が達成。さらに芝コースのナシオナル大賞アウグストB.レギーア(Clasico Gran Premio Nacional-Augusto B.Leguia)を勝つと四冠となり、1973年にサントリン(Santorín)が達成した<ref>『海外競馬完全読本』p143、p160 - 161「ペルーの競馬」</ref>。
=== チリ ===
*'''ナシオナル三冠'''<ref name="bluebook" /><ref>『海外競馬完全読本』海外競馬編集部・編、東邦出版・刊、2006、p136 - 147,p157 - 159</ref> - エル・エンサーヨ、チリセントレジャー、[[エルダービー]]
:異なる3団体が1戦ずつ行う三冠戦。10月のエルエンサーヨ(芝2400m)、12月のチリセントレジャー(ダート2200m)、2月のエルダービー(芝2400m)の3戦。これまでに12頭が達成<ref>『奇跡の名馬』要目和明・大岡賢一郎・著、パレード・刊、2010、p313 - 316</ref>。詳細は[[チリの競馬]]参照。
=== オーストラリア ===
*'''オーストラリア三冠'''<ref>[http://www.races.com.au/races/triple-crown/australian-triple-crown/ オーストラリア三冠] 2013年11月30日閲覧。</ref>('''シドニー三冠''')<ref>[http://www.smh.com.au/news/sport/horseracing/metal-bender-poised-to-join-greats-in-derby/2009/04/10/1239223048208.html シドニー・モーニング・ヘラルド紙HP 2009年4月11日付 Metal Bender poised to join greats in derby]</ref> - [[ランドウィックギニーズ]](以前は[[:en:Canterbury Guineas|カンタベリーギニーズ]])、[[ローズヒルギニー]]、[[オーストラリアンダービー]]
:達成馬はMoorland (1943/1944年)、Martello Towers (1959/1960年)、Imagele (1973/1974年)、Octagonal (1995/1996年)、It's A Dundeel(2012/2013年)
*'''2歳三冠'''<ref>Huxley, Dennis, Miller’s Guide, Sporting records, 2009/2010, Miller’s Guide P/L, Moonee Ponds</ref> - [[ゴールデンスリッパーステークス]]、[[サイアーズプロデュースステークス]]、[[シャンペンステークス (オーストラリア)|シャンペンステークス]]
:2歳秋(おもに4月)に行われる、[[ニューサウスウェールズ州]]の2歳短距離三冠。1200[[メートル|m]]→1400m→1600mと距離が伸びていく。Dance Heroの年は3連闘、長くても中1週ずつの施行と、[[オセアニア]]特有の非常に短いレース間隔が特徴。
:達成馬はBaguette('''無敗''' [[1970年]])、Luskin Star([[1977年]])、Tierce([[1991年]])、Burst('''牝馬''' [[1992年]])、Dance Hero([[2004年]])、Pierro('''無敗''' [[2012年]])。
=== ニュージーランド ===
*'''ホークスベイ三冠'''(Hawke's Bay Triple Crown)<ref>[http://www.hawkesbayracing.co.nz/events/view/4 ホークスベイ競馬会公式HP チャレンジステークス] 2013年11月30日閲覧。</ref><ref>[http://www.hawkesbayracing.co.nz/events/view/20 ホークスベイ競馬会公式HP ウィンザーパークプレート] 2013年11月30日閲覧。</ref><ref>[http://www.thoroughbrednews.com.au/international/default.aspx?id=54522 サラブレッドニュース 2011年8月2日付 スプリングクラシックのスポンサー決まる] 2013年11月30日閲覧</ref> - [[チャレンジステークス (ニュージーランド)|チャレンジステークス]]、[[ウィンザーパークプレート]]、[[スプリングクラシック]]
=== 韓国 ===
*'''韓国三冠'''<ref name="bluebook" /> - KRAカップマイル({{Lang|ko|KRA컵마일}})、[[コリアンダービー]]({{Lang|ko|코리안더비}})、農林畜産食品部長官杯({{Lang|ko|농림부장관배}})
:達成馬は、[[ジェイエスホールド|J.S.Hold]](2007年)<ref>{{Cite news|author=홍성필|title=마지막 관문 농림부장관배서 우승 질주 미국서도 11마리만 배출 '귀중한 성과'|url=http://sports.hankooki.com/lpage/race/200710/sp2007102007023258880.htm|language=韓国語|publisher=hankooki.com|date=2007-10-20|accessdate=2015-04-21}}</ref>、[[パワーブレイド|Power Blade]](2016年)<ref>{{Cite news|title=Power Blade Wins The Korean Triple Crown|url=https://korearacing.live/2016/07/17/power-blade-wins-the-korean-triple-crown/|language=英語|Horse Racing in Korea|date=2016-07-17|accessdate=2016-09-06}}</ref>。2007年の一冠目はトゥクソム杯({{Lang|ko|뚝섬배}})<ref>{{Cite news|author=권순옥|url=http://news.krj.co.kr/news_synthesis/news_synthesis_view.phtml?category_id=202003&web_mode=&page=&view_id=20070000036|title=2007 경마 대장정, 오늘 팡파르!!|language=韓国語|publisher=krj.co.kr|date=2007-01-06|accessdate=2015-04-21}}</ref>だったが、2008年に馬齢条件をKRAカップマイル({{Lang|ko|KRA컵마일}})と入れ替えた。
=== 香港 ===
*'''香港トリプルクラウンシリーズ'''<ref name="bluebook" /><ref name="kk_HKG">『海外競馬完全読本』p104 - 105</ref>(3歳上) - [[香港スチュワーズカップ]](董事盃)、[[香港ゴールドカップ]](香港金盃)、[[香港チャンピオンズ&チャターカップ]](香港冠軍曁遮打盃)
:1991/92年シーズンに創設された、3歳以上馬によるシリーズ。2競走を勝つと200万香港ドル、3競走を勝つと500万香港ドルが与えられる<ref name="kk_HKG"/>。達成馬は[[リヴァーヴァードン|River Verdon]](翠河 1994年)。
*'''チャンピオンスプリントシリーズ'''<ref name="kk_HKG"/> - [[センテナリースプリントカップ]](百週年紀念短途盃)、[[チェアマンズスプリントプライズ]](主席短途獎)、[[クイーンズシルヴァージュビリーカップ]](女皇銀禧紀念盃)
:1993/94年シーズンの創設から1998/99年まではハッピーヴァレートロフィー(跑馬地錦標)、センテナリーカップ(百週年紀念盃)、チェアマンズプライズ(主席獎)が香港短距離三冠とされ、年をまたいで行われる形になっていた。2000年から2005年まではボーヒニアスプリントトロフィー(洋紫荊短途錦標)、センテナリースプリントカップ(2001年にセンテナリーカップから改称)、チェアマンズスプリントプライズ(2001年にチェアマンズプライズから改称)の3競走。
:達成馬は[[ミスターバイタリティ|Mr. Vitality]](活力先生 1995/1996年)、Grand Delight(喜勁寶 2003年)、[[サイレントウィットネス|Silent Witness]](精英大師 2004年・2005年)。2006年に現在の3競走に改定されてからの達成馬はなし。
*'''香港クラシック三冠シリーズ'''(4歳) - [[香港クラシックマイル]]、[[香港クラシックカップ]]、[[香港ダービー]]
:達成馬はRapper Dragon(佳龍駒 2017年)、[[ゴールデンシックスティ|Golden Sixty]](金鎗六十 2020年)
=== マカオ ===
「三冠(Triple Crown)」シリーズと銘打った高額賞金戦が設けられている。
*'''マカオ三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="MJC_itiran">[http://www.mjc.mo/race_en/info/cuprace_r.php MJC公式HP カップ戦一覧] 2013年12月2日閲覧。</ref> - マカオギニーズ、マカオダービー、マカオ金杯
:初戦のマカオギニーズは3・4歳馬、国内最高賞金のマカオダービーは4歳馬、マカオ金杯は全年齢対象となっている。
=== シンガポール ===
トリプルクラウンシリーズと銘打って様々な路線に「三冠」が設けられている。
*'''3歳以上・シンガポール三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="kk_SGP">『海外競馬完全読本』p106 - 107、シンガポール</ref> - [[ラッフルズカップ]]、[[クイーンエリザベス2世カップ (シンガポール)|クイーンエリザベス2世カップ]]、[[シンガポールゴールドカップ]]
*'''スプリント三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="kk_SGP"/> - [[ロケットマンスプリント]]、[[マーライオントロフィー]]、[[ライオンシティカップ]]
*'''4歳三冠'''<ref name="bluebook" /> - [[シルヴァーボウル]]、[[スチュワーズカップ (シンガポール)|スチュワーズカップ]]、[[シンガポールダービー]]
=== マレーシア ===
シンガポールと同様にトリプルクラウンシリーズが設けられている。
*'''セランゴール三冠'''<ref>{{Cite web |url=https://www.selangorturfclub.com/racing-in-general/triple-crown-series/ |title=Triple Crown Series |publisher=Selangor Turf Club |accessdate=2023-10-05}}</ref> - トゥンクゴールドカップ(芝1200m)、セランゴールゴールドカップ(芝1600m)、ピアラ・エマス・スルタン・セランゴール(芝2000m)
=== インド ===
*'''インド三冠'''<ref name="bluebook" /> - インド2000ギニー、インドダービー、インドセントレジャー
*'''インド牝馬三冠'''<ref name="bluebook" /> - インド1000ギニー、インドオークス、インドダービー
*この他、各競馬場主催者による三冠競走がいくつか存在する。
=== トルコ ===
*'''サラブレッド三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="tjk">{{Cite web |url=https://www.tjk.org/TR/Yetistiricilik/Static/Page/TripleCrown |title=Triple Crown Nedir ?
|publisher=Jockey Club of Turkey |language=トルコ語 |accessdate=2023-07-23}}</ref> - エルケック・タイ・デネメ(トルコ2000ギニー)またはディシ・タイ・デネメ(トルコ1000ギニー)のいずれかひとつ、[[ガジ賞]](ガジ・ダービー、トルコダービー)、アンカラ賞(アンカラステークス、トルコセントレジャー)
:トルコ内国産の3歳牡牝馬の三冠。2023年の競馬施行規則<ref name="tjk2">{{Cite web |url=https://medya-cdn.tjk.org/medyaftp/docs/2023genelhukumler.pdf |title=2023 Yılı At Yarışları Genel Hükümleri |publisher=Jockey Club of Turkey |language=トルコ語 |format=PDF |accessdate=2023-07-23}}</ref>ではガジ賞(トルコのサラブレッド競走で賞金最高額)の1着賞金と同額の報奨金が与えられる。エルケック・タイ・デネメとディシ・タイ・デネメは同日に施行され、それぞれ3歳牡馬限定、3歳牝馬限定のためどちらかの勝利が条件となる。なお、トルコにはオークスに当たるクラシック競走としてクスラック賞があるが、牝馬の三冠競走としては扱われない。
:達成馬はSadettin(1970年)、[[ミニモ|Minimo]](1971年。唯一の牝馬)、[[カライェル|Karayel]](1973年)、Seren I(1983年)、Uğurtay(1985年)、Hafız(1986年)、[[ボールドパイロット|Bold Pilot]](1996年)、[[グランドエキノクス|Grand Ekinoks]](2001年)。
*'''アラブ三冠'''<ref name="tjk" /> - トルコ大国民議会賞、ニーボル賞、ヴェリエフェンディ賞
:[[アラブ種|純血アラブ]]による三冠。2023年の競馬施行規則<ref name="tjk2" />ではトルコ共和国賞(トルコのアラブ競走で賞金最高額)の1着賞金と同額の報奨金が与えられる。ニーボル賞以外の2競走は5歳以上の古馬も出走できるが、三冠達成を認められるには4歳時に3競走を全勝しなければならない(アラブの競走馬のデビューはサラブレッドより1年遅れの3歳)。また、トルコ大国民議会賞はトルコ内国産馬限定競走のため、内国産のアラブしか達成できない。
:達成馬なし。
=== 南アフリカ ===
*'''南アフリカ三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="Book511">『週刊競馬ブック』2014年5月11日号p100</ref> - ハウテンギニー、サウスアフリカンクラシック、[[サウスアフリカンダービー]]
:達成馬はHorse Chestnut(1999年)、Louis The King(2014年)<ref name="Book511"/>。
*'''牝馬三冠'''<ref name="bluebook" /><ref name="umajin">[http://uma-jin.net/pc/column/columnDetail.do?charaId=40&pcId=787 【世界の競馬】この秋、日本で牝馬三冠馬対決が実現!?]</ref> - ハウテンフィリーズギニー、サウスアフリカンフィリーズクラシック、サウスアフリカンオークス
:達成馬は[[イググ|Igugu]](2011年)<ref name="umajin"/>、Cherry On The Top(2013年)<ref>{{Cite web|title=CHERRY ON THE TOP TRIUMPHS IN SA OAKS AND TRIPLE TIARA|url=https://www.summerhill.co.za/blog/2013/4/27/cherry-on-the-top-triumphs-in-sa-oaks-and-triple-tiara.html|website=Summerhill Stud|accessdate=2020-06-06|language=en-GB}}</ref>、Summer Pudding(2020年)<ref>{{Cite web|title=https://twitter.com/racingguru/status/1269251924827820032|url=https://twitter.com/racingguru/status/1269251924827820032|website=Twitter|accessdate=2020-06-06|language=ja}}</ref>、War Of Athena(2021年)<ref>{{Cite web|title=https://twitter.com/racingguru/status/1378339256943382529|url=https://twitter.com/racingguru/status/1378339256943382529|website=Twitter|accessdate=2021-04-03|language=ja}}</ref>
かつては州毎に三冠体系を設定していたが、こちらは現存しない。1999年に競馬運営企業のヒューメレラ(Phumelela)社が三冠を設定すると、その年に[[ホースチェスナット|Horse Chestnut]]がこれを達成した。しかしこの制度はしばらくすると廃れた。2004/05シーズンにも新たな三冠ボーナスが企画されたが1シーズン限りで終わった<ref name="kb_SAF">『海外競馬完全読本』p166</ref>。
*'''ビッグ3'''<ref name="kb_SAF"/> - [[サマーカップ (南アフリカ)|サマーカップ]]、[[J&Bメット]](J&B Met Stakes、J&B Metropolitan Stakes)、[[ダーバンジュライ]]
:南アフリカの三大都市ヨハネスブルグ、ケープタウン、ダーバンの各都市の代表的な競走。芝2000mのサマーカップ、芝2000mのJ&Bメット、芝2200mのダーバンジュライの3競走だが、{{citation needed|100年以上の南アフリカの競馬の歴史上、達成した馬はいない|date=july 2015}}。
=== ジンバブエ ===
*'''ジンバブエ3歳三冠'''<ref>『海外競馬完全読本』p168</ref> - ジンバブエギニー、BAMMジンバブエ2000、ジンバブエダービー
:ジンバブエの3歳三冠は、ジンバブエギニー(芝1600m)、ジンバブエ2000(芝2000m)、ジンバブエダービー(芝2400m)とされている。
== 消滅した三冠競走 ==
=== 日本 ===
{{出典の明記| section = yes| date = 2018年4月13日 (金) 17:18 (UTC)}}
*'''旧3歳ダート三冠'''(1996 - 1998)<ref name="yusyun199609">{{Cite journal|和書|month=9|year=1996|title=JRA News『4歳ダート三冠馬に三冠ボーナス』|journal=[[優駿]]|page=155|publisher=[[日本中央競馬会]]}}</ref> - [[ユニコーンステークス]]、[[スーパーチャンピオンシップ|スーパーダートダービー]]、ダービーグランプリ
:1996年、[[ジャパンブリーダーズカップ協会]]により上記3競走をすべて勝った競走馬の馬主、調教師、生産者、父馬(種牡馬)の所有者を対象とする総額2000万円の「三冠ボーナス」が制定された。
:1999年、7月中旬に統一GI[[ジャパンダートダービー]]が新設され、それにともないスーパーダートダービーは南関東のローカル重賞に格下げされ名称も[[スーパーチャンピオンシップ]]となった。2001年からはユニコーンステークスも三冠の1つ目ではなく、ジャパンダートダービーのステップ競走となっている。
:達成馬なし。2005年に[[カネヒキリ]]がユニコーンステークス、ジャパンダートダービー、ダービーグランプリをすべて制したが、三冠馬と呼ばれることはない。
*'''地方交流三冠'''<ref name="furlong199104">{{Cite journal|和書|month=4|year=1991|title=トピックス『〈ブリーダーズ協会〉1億円ボーナス実施』|journal=ハロン|page=59|publisher=地方競馬全国協会}}</ref> - [[帝王賞]]、[[オールカマー]]、[[ブリーダーズゴールドカップ]]
:1991年以降、上記3競走をすべて勝った競走馬には、ジャパンブリーダーズカップ協会から1億円のボーナスが贈られることになっていたが達成馬なし。ブリーダーズゴールドカップは2014年に出走条件を変更し、3歳以上の牝馬限定戦となっている。
*{{Anchors|南関東三冠}}<!--3歳ダート三冠からページ内リンクを張るためのアンカーです。-->'''南関東3歳三冠'''(1964 - 2023)<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/data/column/column_vol10/ 東京シティ競馬公式HP 南関東初の3冠馬ヒカルタカイ]</ref><ref name="p473">『奇跡の名馬』p473</ref>
:[[南関東公営競馬]]のサラブレッド系3歳馬による三冠競走。1964年成立。全レースが[[大井競馬場]]で施行される競走である。2024年から[[3歳ダート三冠|(新)3歳ダート三冠]]へと発展的に解消される。
:達成馬は[[ヒカルタカイ]](1967年)、[[ゴールデンリボー]](1975年)、[[ハツシバオー]](1978年)、[[サンオーイ]](1983年)、[[ハナキオー]](1986年)、[[ロジータ]](1989年、唯一の牝馬による達成)、[[トーシンブリザード]](2001年、'''無敗''')、[[ミックファイア]](2023年、'''無敗''')の8頭。トーシンブリザードは[[ジャパンダートダービー]]も優勝しているため、[[四冠馬]]と呼ばれることもある。
:南関東3歳三冠は以下のように競走体系がたびたび変動している。
:*1964 - 1965年:[[羽田盃]](1800m)、[[東京ダービー (競馬)|東京都ダービー]](2000m)、[[東京王冠賞]](2000m)
::羽田盃と東京都ダービーは春に、東京王冠賞は秋に施行するヨーロピアンスタイルであった。
:*1966年:羽田盃(1800m)、東京ダービー(2000m)、東京王冠賞(2000m)
::東京都ダービーを東京ダービーに名称変更。
:*1967 - 1979年:羽田盃(2000m)、東京ダービー(2400m)、東京王冠賞(2400m)
::3競走とも距離延長。
:*1980 - 1995年:羽田盃(2000m)、東京ダービー(2400m)、東京王冠賞(2600m)
::東京王冠賞が距離延長。
:*1996 - 1998年:羽田盃(1600m)、東京王冠賞(2000m)、東京ダービー(2400m)
::東京王冠賞が春に移動し、三冠すべてを春に行うアメリカンスタイルとなった。あわせて羽田盃と東京王冠賞が距離短縮。
:*1999 - 2001年:羽田盃(1600m)、東京王冠賞(1800m)、東京ダービー(2000m)
::東京王冠賞と東京ダービーが距離短縮になり、東京ダービーの後に[[ダートグレード競走]]のジャパンダートダービーが新設される。
:*2002 - 2023年:羽田盃(1800m)、東京ダービー(2000m)、ジャパンダートダービー(2000m)
::東京王冠賞が休止され、羽田盃が東京王冠賞の距離を引き継ぐ形で1800mに距離延長<ref group="注">なお、羽田盃は2002年と2003年のみ、大井競馬場のスタンド改築の関係で1790mで行われた。</ref>。
*'''ホッカイドウ競馬2歳三冠'''(2007 - 2019)<ref>[http://www.hokkaidokeiba.net/kaisai/g_race/index.php ホッカイドウ競馬重賞体系]</ref> - [[栄冠賞]]、[[ブリーダーズゴールドジュニアカップ]]、[[北海道2歳優駿]]
:[[ホッカイドウ競馬]]の[[サラブレッド]]系2歳馬による三冠競走。北海道2歳優駿は1997年から2019年までダートグレード競走(GIII→JpnIII格付)でJRA所属馬も出走可能。
:達成馬なし。
*'''ばんえい牝馬三冠'''(2007 - 2010) - [[黒ユリ賞]]、[[ばんえいプリンセス賞]]、[[ばんえいオークス]]
:ばんえい競馬の3歳牝馬による三冠競走。
:達成馬は[[ニシキエース (2005年生)|ニシキエース]](2008年)の1頭。
*'''北海道アラブ三冠'''(1980 - 1996)<ref name="furlong199410">{{Cite journal|和書|author=北海道競馬事務所|month=10|year=1994|title=トピックス『11年ぶりに3冠馬誕生』|journal=ハロン|page=60|publisher=地方競馬全国協会}}</ref> - 北海盃、帝冠賞、アラブ優駿
:ホッカイドウ競馬のアラブ系3歳馬による三冠競走。
:達成馬は[[バンガードライデン]]([[せん馬|騸馬]] 1983年)<ref name="furlong199410" />、ミヤコスイセイ(1994年)<ref name="furlong199410" />の2頭。
*'''岩手アラブ三冠'''(1984 - 1999) - ビクトリーカップ、北日本アラブ優駿、[[日高賞]]
:岩手競馬のアラブ系3歳馬による三冠競走。一般的にはほとんど三冠と称されることはない。
:達成馬は[[テツトテンプー]](1984年)、ワダリンホー(1985年)、ジョセツローゼン(1995年)の3頭。
*'''上山三冠'''(1992 - 2002) - さつき賞(旧:上山王冠賞→日本海賞)、こまくさ賞(上山ダービー)、すみれ賞(旧:紅葉賞)
:[[上山競馬場|上山競馬]]のサラブレッド系3歳馬による三冠競走。1992年に上山王冠賞が創設されて成立した<ref>{{Cite journal|和書|author=斎藤修|date=2001-07|title=地方競馬のクラシック路線とダービー|journal=ハロン|volume=12|issue=7|pages=62 - 63|publisher=地方競馬全国協会}}</ref>。岩手・山形・新潟持ち回りで施行されていた[[東北優駿]]については上山三冠に含まない。上山競馬が廃止された2003年はさつき賞・こまくさ賞だけ実施された。
:達成馬なし。
*'''上山アラブ三冠'''(1978 - 2002) - スズラン賞(旧:さくらんぼ賞)、ひまわり賞(旧:上山アラブ王冠)、コスモス賞(旧:菊花賞)
:上山競馬のアラブ系3歳馬による三冠競走。
:達成馬はカウンターアタック(1994年)の1頭。
*'''新潟三冠'''(1983 - 2002) - 新潟皐月賞、新潟ダービー(旧:新潟優駿)、青山記念
:[[新潟県競馬組合|新潟県競馬]]のサラブレッド系3歳馬による三冠競走。成立以前は新潟優駿と青山記念の間に重賞競走として出塚記念が行われていたが、勝ち馬には青山記念への出走権が与えれなかった。出塚記念を廃止し、新潟皐月賞を新設することで三冠が成立。
:達成馬なし。
*'''新潟アラブ三冠'''(1988 - 2000) - 新潟卯月賞、新潟アラブ優駿、アラブ王冠
:新潟県競馬のアラブ系3歳馬による三冠競走。
:達成馬はアサクラドラゴン(1988年)の1頭。
*'''北関東三冠'''<ref>{{Cite web|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=27995|title=北関東3冠馬フジエスミリオーネが福山へ|publisher=netkeiba.com|accessdate=2017-2-15}}</ref>(2000 - 2004<ref>{{Cite web|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=8549|title=宇都宮競馬、56年の歴史に幕引き|publisher=netkeiba.com|accessdate=2017-2-15}}</ref>) - [[北関東皐月賞]]、[[北関東ダービー (競馬)|北関東ダービー]]、[[北関東菊花賞]]
:[[北関東公営競馬]]([[宇都宮競馬場]]、[[足利競馬場]]、[[高崎競馬場]])のサラブレッド系3歳馬による三冠競走。
:達成馬は[[フジエスミリオーネ]](宇都宮)の1頭<ref>{{Cite web|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=7530|title=フジエスミリオーネ北関東3冠制覇|publisher=netkeiba.com|accessdate=2017-2-15}}</ref>。
*'''栃木三冠'''( - 1999) - しもつけ皐月賞、とちぎダービー、しもつけ菊花賞
:1999年まで[[栃木県]]の2競馬場(宇都宮、足利)で開催されていた三冠競走。
:達成馬は[[サラノオー]](1981年)、[[カネユタカオー]](1991年)、[[ベラミロード]](1999年、牝馬)の3頭。
*'''高崎三冠'''( - 1999) - 高崎皐月賞、高崎ダービー、北関東菊花賞
:1999年まで[[群馬県]]の競馬場(高崎)で開催されていた三冠競走。
<!--『奇跡の名馬』p471にはミサトメモリーを「変則高崎三冠馬」としています。ただしどの競走のことかは明記していません。-->
*'''北関東アラブ三冠'''(1995 - 1997) - [[華厳賞]](宇都宮)、[[とちぎアラブ王冠]](宇都宮)、[[北関東アラブチャンピオン]](高崎)
:北関東公営競馬(宇都宮競馬場、足利競馬場、高崎競馬場)のアラブ系3歳馬による三冠競走。かつては重賞競走として高崎でアラブ4歳チャンピオン、足利で朝顔賞も行われていたが1993年で廃止され三冠が成立。だが三冠と称されることはなく、三冠馬も皆無。1998年から[[華厳賞]]が格下げされたため成立した期間はわずかだった。
*'''南関東アラブ三冠'''(1956 - 1993) - [[千鳥賞]]、[[アラブダービー]]、[[アラブ王冠賞]]
:南関東公営競馬のアラブ系3歳馬による三冠競走。サラブレッド牡馬の南関東三冠と同様、すべて大井競馬場で施行される競走であった。
:南関東地区所属のアラブ系競走馬の減少にともない1993年に千鳥賞、アラブ王冠賞が廃止。三冠としての競走体系が消滅した。1996年には大井競馬場のアラブ系単独の競走そのものが廃止となり、この年をもって残るアラブダービーも廃止となった。
:達成馬は、セカンドホーリ(1969年)、[[ホクトライデン]](1975年)、ガバナースカレー(1978年、牝馬)、ケイワイホマレ(1982年)、ゴールデンビクター(1985年)、タイヨウペガサス(1986年)、オタルホーマー(1988年)、[[トチノミネフジ]](1993年)の7頭<ref group="注">三冠成立以前に、それぞれの競走をタカラガワが優勝している(1960年)が、セカンドホーリが三冠を達成した1969年の[[公営日本一]]選出において、セカンドホーリが「アラブ初の三冠馬」として触れられている。(啓衆社『啓修地方競馬』1970年2月号、6頁)</ref>。
*'''東海アラブ三冠'''(1995 - 2003) - [[帝冠賞]]、アラブ王冠、アラブダービー
:名古屋競馬場、笠松競馬場のアラブ系3歳馬による三冠競走。1995年成立。2003年廃止。東海地区の三冠定義、ローカルグレードについては上記の東海三冠を参照。1994年までは笠松競馬場で岐阜銀賞が行われていた。達成馬はいないが、参考までに1994年以前、上記3つを制した馬としては[[カヅミネオン]](1989年)、[[スズノキャスター]](1991年)の2頭。
*'''兵庫アラブ三冠'''( - 2001)
** - 1999:[[菊水賞]]・[[楠賞全日本アラブ優駿]]・[[六甲盃]]
**2000 - 2001:[[フクパーク記念]]・楠賞全日本アラブ優駿・[[姫山菊花賞]]
:兵庫県([[園田競馬場]]、[[姫路競馬場]])のアラブ系3歳馬による三冠競走。1985年から1995年まで楠賞全日本アラブ優駿はJRA所属のアラブ系3歳馬も出走可能であった。菊水賞はサラブレッドの三冠競走に転換されている。
:達成馬は[[アサヒマロツト]](1970年)、[[ケイエスヨシゼン]]<ref group="注">『奇跡の名馬』p472でケイエスヨシゼンを「三冠馬」としている。ただし、どの競走をもって三冠とするかは明記されていない。</ref>(1996年)の2頭。
*'''福山アラブ三冠'''<ref>『奇跡の名馬』p475</ref>(1974 - 2007) - [[福山ダービー]]、鞆の浦賞、[[アラブ王冠]]
:[[福山競馬場]]のアラブ系3歳馬による三冠競走。福山での本格的なサラブレッド系競走馬の導入、またアラブ系競走馬の減少もあり、2007年に福山ダービーと鞆の浦賞がサラ系競走へ転換されたために三冠としての競走体系が消滅、残されたアラブ王冠も2008年に競走名を[[福山王冠]]と改めたうえでサラ系競走へ転換された。
:達成馬はテルステイツ(1980年)、ウインホープ(1981年)、マグニカチドキ(1983年)、サワトヨキング(1984年)、[[ローゼンホーマ]](1986年)、ハイセンプー(1991年)、ユノワンサイド(2001年)の7頭。
*'''福山三冠'''(2008 - 2013) - [[福山ダービー]]、鞆の浦賞、[[福山王冠]]
:[[福山競馬場]]のサラブレッド系3歳馬による三冠競走。それまでに行われた[[アングロアラブ|アラブ]]系3歳馬の三冠競走から2008年にサラブレッド系3歳馬の三冠競走に転換したが、競走体系はそのままで、[[アラブ王冠]]の名称が福山王冠に変更されただけである。
:達成馬なし。
*'''高知アラブ三冠'''(1997 - 2004) - [[マンペイ記念]]、南国優駿(アラブダービー)、荒鷲賞
:高知競馬場のアラブ系3歳馬による三冠競走。
:達成馬なし。
*'''九州三冠'''(2001 - 2011) - [[荒尾ダービー]]、[[九州ダービー栄城賞]]、[[ロータスクラウン賞]](旧:九州菊花賞)
:[[九州]]地区のサラブレッド系3歳馬による三冠競走。[[荒尾競馬場]]の廃止にともない消滅。
:達成馬はカシノオウサマ(2002年)の1頭。
*'''小倉三冠'''<ref name="jra2007">{{Cite web|date=2007-07-30|url=http://www.jra.go.jp/topics/column/meibamen/2007/tme07_0730.html|title=心に残る名勝負・名場面「メイショウカイドウ VS ワンモアチャッター」|language=日本語|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2013-06-01}}</ref>(廃止) - [[小倉大賞典]]、[[北九州記念]]、[[小倉記念]]
:[[小倉競馬場]]で施行される古馬による平地競走の重賞。呼称のみであり、達成ボーナスなどは制定されていない。
:達成馬は[[アトラス (競走馬)|アトラス]]<ref name="jra2007" />(1967年北九州記念、1968年小倉大賞典、1969年小倉記念)、[[ロッコーイチ]]<ref name="jra2007" />(1974年北九州記念、1975年小倉記念・小倉大賞典)、[[ミヤジマレンゴ]]<ref name="jra2007" />(1976年北九州記念・小倉記念、1978年小倉大賞典)、[[メイショウカイドウ]]<ref name="jra2007" />(2004年・2005年小倉記念、2005年小倉大賞典・北九州記念)が達成した。
:アトラスは<!-- [[小倉2歳ステークス|小倉3歳ステークス]]も優勝しており 当時は重賞ではない -->当時小倉競馬場で行われていた重賞をすべて優勝している。また、メイショウカイドウは2005年に同一年制覇を成し遂げている<ref name="jra2007" />。{{citation needed|中央競馬の場内放送でも、小倉競馬場で[[誘導馬]]となったメイショウカイドウが登場した際に「小倉三冠馬」と紹介した|date=july 2015}}。
:2006年、北九州記念の施行[[距離 (競馬)|距離]]がそれまでの1800mから1200mに大きく短縮されたことにより「小倉三冠」の呼称は使われなくなった。
=== イギリス ===
*'''BHBサマー三冠'''<ref>[http://www.bhb.co.uk/cms/breedingexisting/news_features32.asp BHB公式HP SUMMER TRIPLE CROWN AND GRAND SLAM]</ref> - [[コロネーションカップ]]・オークスステークス・ダービーステークス・[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]]のうちいずれか1戦、[[エクリプスステークス]]、[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]
:[[英国競馬公社]](BHB)が2003年に創設した、夏季に行われる主要競走で設定された「三冠」報奨制度である。一冠目はコロネーションカップ・オークスステークス・ダービーステークス・プリンスオブウェールズステークスのいずれかを勝てばよい。三冠達成報酬は100万[[スターリング・ポンド|ポンド]]。さらにBHBサマー三冠達成馬が同年の[[インターナショナルステークス]]に優勝すると'''BHBグランドスラム'''となり、ボーナス500万ポンドが支払われることになっていた。現在は廃止されている。
:達成馬なし。
=== 東ドイツ ===
*'''東ドイツ三冠'''<ref>[http://www.bauwissen-online.de/Premium/Derby_DDR.pdf 東ドイツダービー歴代勝馬] 2013年11月30日閲覧。</ref> - 3歳春季ツフト賞(Frühjahrszuchtpreis der Dreijährigen)、東ドイツダービー(Derby der DDR)、3歳秋季大賞典(Großer Herbstpreis der Dreijährigen)
:達成馬はFaktotum、Gidron、ロンバー(Lomber)の3頭。
=== ソビエト連邦 ===
*'''旧ソビエト連邦三冠''' - МИカリーニン記念、ボリショイ・フシエソユツニー賞(Bolszoj Vsiesoyuzny Priz、ソビエト・ダービー)<ref>[http://www.bloodlines.net/TB/RaceResults/RUS/RUS-BolszojVserossijskiPriz.htm ロシアダービー勝馬一覧] 2013年11月29日閲覧。</ref>、ソビエト社会主義共和国賞<ref name="denII_anilin">『伝説の名馬PartII』山野浩一・著、中央競馬ピーアール・センター・刊、1994、p86 - 95</ref>
:МИカリーニン記念は2歳馬最大の競走。ボリショイ・フシエソユツニー賞(ソビエト・ダービー)は3歳馬の競走。ソビエト社会主義共和国賞はモスクワで行われる古馬の競走。
:達成馬は、1963年から1965年にかけて達成した[[アニリン (競走馬)|アニリン]]などで、アニリン以前には[[第二次世界大戦]]前の達成馬が2頭いる<ref name="denII_anilin"/>。
== 異説 ==
=== 欧州 ===
*'''欧州三冠'''<ref>{{Cite news|url=https://g-journal.jp/2021/07/post_240571.html |title=「欧州三冠」が有名なのは意外にも日本だけ!? 同年に無敗達成はわずか1頭のみ、サンデーサイレンス最大のライバルといわれた馬のあまりにも淋しい悲劇 |author=黒井零 |newspaper=GJ |publisher=サイゾー |date=2021-07-27 |accessdate=2021-10-13}}</ref> - ダービーステークス、[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]、[[凱旋門賞]]
:達成馬は[[ミルリーフ|Mill Reef]](1971年)、[[ラムタラ|Lammtarra]](1995年)。
:ヨーロッパの3大レースを制した馬に対する便宜的な呼称であり、日本でのみ使用されている。
=== フランス ===
*'''3歳三冠'''(異説) - [[リュパン賞]]、ジョッケクルブ賞、パリ大賞典
:[[JRA賞馬事文化賞]]を受賞した『サラブレッドの誕生』([[山野浩一]])p120では、「イギリスとは違った三冠体制」としてリュパン賞、ジョッケクルブ賞、パリ大賞典の3競走をあげる。著者によれば、プール・デッセ・デ・プーランやロワイヤルオーク賞のようなイギリスの2000ギニー、セントレジャーを模した競走もあるけども、これらは「イギリスで書かれたフランスの競馬に関する記述では、これらのレースがあたかもフランス競馬の根幹となる大レースのように書かれていて、日本でもイギリスの書物だけでフランス競馬を知って誤解している人も多かった」とする。
:達成馬はStuart(1888年)、[[アジャックス (フランスの競走馬)|Ajax]](1904年)、Hotweed(1929年)、Mieuxce(1936年)、Clairvoyant(1937年)、Le Pacha(1941年)、Charlottesville(1960年)。2005年にリュパン賞が廃止された。
<!--『フランス競馬百年史』『凱旋門賞の歴史』で1904年、1929年、1936年、1937年、1941年、1960年を確認しましたが、「パリ三冠」は出てきません-->
<!--『サラブレッドの世界』『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』でStuart、Ajax、Hotweed、Mieuxce、Clairvoyant、Le Pacha、Charlottevilleについての記述を確認しましたが「パリ三冠」は出てきません。-->
<!--山野氏の『サラブレッドの誕生』を出典として、リュパン賞、ジョッケクルブ賞、パリ大賞典の「三冠」を残します。ただ、外れたプールデッセもロワイヤルオーク賞も、ロンシャンでやるわけですし、ジョッケクルブ賞のシャンティイはパリ近郊とはいえ、オワーズ県というパリの隣の地域でして、それを「パリ三冠」と呼ぶのはおかしいでしょう。-->
== 三冠馬同士の直接対決 ==
{{See also|中央競馬クラシック三冠#三冠馬同士の対決}}
世界的に三冠馬同士の直接対決の事例は十数例と極めて少ないが、牝馬による三冠馬を含めて日本語の信頼及び検証が可能な文献で記録に残されているものとしては、ブラジルとアメリカ合衆国、日本の3国の事例がある<ref name="gendai20201127">日刊ゲンダイ 2020年11月27日号(2020年11月26日発行)</ref>。本節ではその三冠馬対決の全記録を記す<ref name="gendai20201127" />。
{| class="wikitable"
!rowspan="2"|年!!rowspan="2"|競走名!!colspan="2"|1頭目!!colspan="2"|2頭目!!colspan="2"|3頭目!!rowspan="2"|備考
|-
!馬名!!{{Nowrap|着順}}!!馬名!!{{Nowrap|着順}}!!馬名!!{{Nowrap|着順}}
|-
|{{Nowrap|1960}}||{{BRA}}<br>[[ブラジル大賞|第28回ブラジル大賞]]||[[ファーウェル]]||1||[[エスコリアル]]||2||-||-||
|-
|rowspan="2"|1978||{{Nowrap|{{USA}}<br>[[マールボロカップインビテーショナルハンデキャップ|第6回マールボロカップインビテーショナルハンデキャップ]]}}||[[シアトルスルー]]||1||[[アファームド]]||2||-||-||
|-
|{{USA}}<br>[[ジョッキークラブゴールドカップステークス|第60回ジョッキークラブゴールドカップステークス]]||シアトルスルー||2||アファームド||5||-||-||勝ち馬:[[エクセラー]]
|-
|rowspan="2"|1984||{{JPN}}<br>[[第4回ジャパンカップ]]||[[シンボリルドルフ]]||3||{{Nowrap|[[ミスターシービー]]}}||10||-||-||勝ち馬:[[カツラギエース]]
|-
|{{JPN}}<br>[[第29回有馬記念]]||シンボリルドルフ||1||ミスターシービー||3||-||-||
|-
|1985||{{JPN}}<br>[[天皇賞(春)|第91回天皇賞・春]]||シンボリルドルフ||1||ミスターシービー||5||-||-||
|-
|2012||{{JPN}}<br>[[第32回ジャパンカップ]]||{{Nowrap|[[ジェンティルドンナ]]}}||1||[[オルフェーヴル]]||2||-||-||
|-
|2020||{{JPN}}<br>[[第40回ジャパンカップ]]||[[アーモンドアイ]]||1||[[コントレイル (競走馬)|コントレイル]] ||2||{{Nowrap|[[デアリングタクト]]}}||3||日本初の三冠馬3頭による対決
|}
== 参考文献 ==
*『CLASSIC PEDIGREES 1776-2005』Michael Church編、Raceform刊、2005
*『海外競馬完全読本』海外競馬編集部・編、[[東邦出版]]・刊、2006、ISBN 978-4809405242
*『サラブレッドの誕生』、[[山野浩一]]、[[朝日選書]]、1990
*『アーバンダート百科』山野浩一・著、[[国書刊行会]]・刊、2003
*『競馬の世界史』[[ロジャー・ロングリグ]]・著、[[原田俊治]]・訳、[[日本中央競馬会弘済会]]・刊、1976
*『サラブレッドの世界』[[サー・チャールズ・レスター]]著、[[佐藤正人]]訳、[[サラブレッド血統センター]]刊、1971
*『フランス競馬百年史』 [[ギイ・チボー]]・著、[[真田昌彦]]・訳、財団法人[[競馬国際交流協会]]・刊、2004
*『凱旋門賞の歴史』第2巻(1952 - 1964)[[アーサー・フィッツジェラルド]]・著、[[草野純]]・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、1996
*『競馬百科』日本中央競馬会・編、みんと・刊、1976
*『奇跡の名馬』[[要目和明]]・[[大岡賢一郎]]・著、パレード・刊、2010
*『最新名馬の血統 種牡馬系統のすべて』山野浩一著、[[明文社]]刊、1970、1982
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
*[[二冠馬]]
*[[四冠馬]]
*[[クラシック (競馬)]]
{{アメリカ競馬三冠}}
{{DEFAULTSORT:さんかん}}
[[Category:競走馬]]
[[Category:競馬の名数|3 さんかん]]
[[Category:競馬の競走]]
[[Category:スポーツの名数3|かんけいは]]
[[Category:競馬用語]] | 2003-04-12T09:37:12Z | 2023-12-11T11:02:18Z | false | false | false | [
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"Template:アメリカ競馬三冠",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%A0_(%E7%AB%B6%E9%A6%AC) |
6,586 | 猩猩緋 | 猩猩緋(しょうじょうひ、猩々緋)、猩々緋色(しょうじょうひいろ)は、臙脂(えんじ)色と区別するために付けられた色名で、色彩は赤みの強い赤紫色。
ポルトガルやスペインとの南蛮貿易の舶来品で知られる色で、室町時代後期以降に流行する。特に戦国時代、武士は南蛮貿易で入手した猩々緋色の羅紗(らしゃ)の生地で陣羽織などを仕立て、珍重された色である。
色彩の対比 - 標準的な赤色 - 猩々緋色
色名の由来は、能の演目『猩々』の役者の面や装束が鮮やかな赤色・緋色のため、その印象が強かったことに加えて、舶来品への想像が重なり、猩々緋の色合いを「猩々の血を材料にしているからだ」などと人々が揶揄し、この名前で呼びならわすようになった。
猩々は中国古典に登場する架空の生き物であって、猩々の血はあくまで作り話であり、実際の原料は昆虫のケルメス、あるいはコチニールカイガラムシかエンジ虫(ラックスラック)によって染めたと考えられている。
羅紗は舶来品の稀少価値から室町 - 安土桃山 - 江戸時代と高級品とした紡毛織物だが、中でも猩々緋の羅紗は織田信長や豊臣秀吉など名のある武士が陣羽織に仕立て愛用したため、権力や権威を表わす最上の高級品として扱われた。
江戸時代では淀屋という商人が買い集めた猩々緋の羅紗を、幕府が没収することもあったといわれ、正徳2年(1712年)成立の『和漢三才図会』では猩々緋の羅紗を「猩々皮」と記し紹介している。19世紀(江戸時代)の現存品では、猩々緋の火消し装束や女性用の火事装束の羽織・胸当て・袴・頭巾などを東京国立博物館が所蔵し、当時の遺風を伝えている。
羅紗と共に主に武士の間で好まれ、陣羽織への使用が代表例となっているが、江戸時代以降も今日まで引き続き装束や和服で用いられ、猩々緋は日本の伝統色の1つとなっている。 | [
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] | 猩猩緋(しょうじょうひ、猩々緋)、猩々緋色(しょうじょうひいろ)は、臙脂(えんじ)色と区別するために付けられた色名で、色彩は赤みの強い赤紫色。 ポルトガルやスペインとの南蛮貿易の舶来品で知られる色で、室町時代後期以降に流行する。特に戦国時代、武士は南蛮貿易で入手した猩々緋色の羅紗(らしゃ)の生地で陣羽織などを仕立て、珍重された色である。 色彩の対比 - 標準的な赤色 - 猩々緋色 | {{色}}
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'''猩猩緋'''(しょうじょうひ、猩々緋)、'''猩々緋色'''(しょうじょうひいろ)は、[[えんじ色|臙脂(えんじ)色]]と区別するために付けられた[[色名]]で、色彩は赤みの強い赤紫色<ref name=ayh1>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%8C%A9%E3%80%85%E7%B7%8B/ 「百科事典 日本大百科全書・ニッポニカ (猩々緋(しょうじょうひ)」] 小学館 2013年9月28日閲覧</ref>。
ポルトガルやスペインとの[[南蛮貿易]]の舶来品で知られる色で、室町時代後期以降に流行する。特に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、武士は南蛮貿易で入手した猩々緋色の[[ラシャ|羅紗]](らしゃ)の生地で[[陣羽織]]などを仕立て、珍重された色である。
色彩の対比 - 標準的な赤色 - 猩々緋色
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== 歴史 ==
[[ファイル:Periodo edo, jinbaon, XVIII sec.JPG|thumb|190px|猩猩緋羅紗地葵紋付陣羽織(東京国立博物館蔵)]]
色名の由来は、[[能]]の演目『[[猩々]]』の役者の面や装束が鮮やかな赤色・緋色のため、その印象が強かったことに加えて<ref name=ayh2>[http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=I393 「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」] 東京国立博物館 2013年9月28日閲覧</ref>、舶来品への想像が重なり、猩々緋の色合いを「猩々の血を材料にしているからだ」などと人々が揶揄し、この名前で呼びならわすようになった<ref name=ayh1/>。
猩々は[[中国]]古典に登場する[[架空]]の生き物であって、猩々の血はあくまで作り話であり、実際の原料は昆虫の[[ケルメス]]<ref name=ayh3>吉岡幸雄「日本の色辞典」 2000年 紫紅社</ref>、あるいは[[コチニールカイガラムシ]]かエンジ虫(ラックスラック)によって染めたと考えられている<ref name=ayh1/>。
羅紗は舶来品の稀少価値から[[室町時代|室町]] - [[安土桃山時代|安土桃山]] - [[江戸時代]]と高級品とした紡毛織物だが、中でも猩々緋の羅紗は[[織田信長]]や[[豊臣秀吉]]など名のある武士が陣羽織に仕立て愛用したため、権力や権威を表わす最上の高級品として扱われた<ref name=ayh4>「世界大百科事典(日本の毛織物)」 2006年 平凡社</ref>。
江戸時代では淀屋という商人が買い集めた猩々緋の羅紗を、幕府が没収することもあったといわれ、[[正徳 (日本)|正徳2年]](1712年)成立の『[[和漢三才図会]]』では猩々緋の羅紗を「猩々皮」と記し紹介している<ref name=ayh4/>。[[19世紀]](江戸時代)の現存品では、猩々緋の[[火消し]]装束や女性用の火事装束の羽織・胸当て・袴・頭巾などを[[東京国立博物館]]が所蔵し、当時の遺風を伝えている。
羅紗と共に主に武士の間で好まれ、陣羽織への使用が代表例となっているが、江戸時代以降も今日まで引き続き装束や和服で用いられ、猩々緋は日本の伝統色の1つとなっている。
== 美術品 ==
[[File:Jinbaori with crossed scythes design on scarlet wool ground 3.jpg|thumb|300px|伝・小早川秀秋所用の猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織([[重要文化財]]、東京国立博物館所蔵)]]
;「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」(しょうじょうひらしゃじちがいがまもよう)東京国立博物館([[重要文化財]])
:安土桃山時代 - [[小早川秀秋]]が所用した陣羽織<ref name=ayh2/>。表地に猩々緋の羅紗を用いた[[袷]]で、背表には敵を倒す尚武的な意義と[[諏訪明神]]への信仰から「違い鎌」紋が、[[アップリケ|切嵌・切付]]によって施されている<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index 「国指定文化財等データベース(緋地羅紗違鎌文陣羽織)」] 文化庁 2013年9月29日閲覧</ref>。
;「緋地羅紗合羽」(ひじらしゃかっぱ)もりおか歴史文化館(重要文化財)
:安土桃山時代 - 猩々緋の羅紗を用いた羽織形の上着<ref name=ayh6>[https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index 「国指定文化財等データベース(緋地羅紗合羽)」] 文化庁 2013年9月29日閲覧</ref>。裾や角袖が[[ボタン (服飾)|ボタン]]で取り外し可能となった珍しい意向に、ボタン・[[金モール]]は西洋的な装飾の趣もみえ異国趣味を表わしている<ref name=ayh6/>。
;「猩々緋羅紗地鯉模様火消装束」(しょうじょうひらしゃじこいもよう)東京国立博物館
:江戸時代 - 羽織・胸当・袴・頭巾の火消し装束。
;「猩々緋羅紗地波鯉模様火事装束(女性用)」(しょうじょうひらしゃじなみにこいもよう)東京国立博物館
:江戸時代 - 羽織・胸当・袴・頭巾の[[火事装束]]。防火衣ではなく、[[火災]]が起きた際の避難用として[[大名]]奥方が着用する。
;「猩々俳陣羽織」(しょうじょうひじんばおり)東京国立博物館
:江戸時代 - [[小堀政一|小堀遠州]]が所有した陣羽織。
;「猩々緋地応龍波涛文様陣羽織」東京国立博物館
:江戸時代 - [[狂言師|御狂言師]](女性舞踊家)の[[坂東三津江]]が所有した陣羽織。
== 猩々緋の扱われている文学作品 ==
; 『形』([[菊池寛]])
: いつも猩々緋の陣羽織を着て暴れ周り、敵に恐れられていた武士が、初陣の名づけ子に懇願されて猩々緋の陣羽織を貸し、別のいでたちで出陣する。すると、いつもと勝手が違い、逃げ回るはずの雑兵たちが勇敢に立ち向かうため思いのほか苦戦する。彼が「形」の力に気づいたときは既に遅く、なんということも無い雑兵の一撃によって武者は絶命してしまう。
== 近似色 ==
*[[赤]]
*[[緋色]]
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
{{色名}}
*[[色]]
*[[色名一覧]]
*[[日本の伝統色]]
*[[日本の色の一覧]]
== 外部リンク ==
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card4306.html 形(青空文庫)]
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6,588 | クレオパトラ7世 | クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語: Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philopator, 紀元前69年 - 紀元前30年、古代エジプトプトレマイオス朝ファラオ(女王)。
一般的に「クレオパトラ」と言えば彼女を指すことが多く、プトレマイオス朝の最後の女王で、ガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られる。プトレマイオス朝自体がアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世による支配から始まったため、クレオパトラもギリシア系である。
「クレオパトラ」は、古代ギリシア語クレオパトロス(父の栄光)の女性形である。「絶世の美女」として知られる。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説がある(#人物節を参照)が、妹のアルシノエ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。
なお、アレクサンドリアを襲った365年のクレタ地震のため、当時の史料は残っておらず、プルタルコスやスエトニウスら後世の歴史家による記録に負うが、その正確性には疑問が残る。
父は紀元前80年 - 紀元前58年および紀元前55年 - 紀元前51年のファラオであるプトレマイオス12世(アウレテス)。プトレマイオス朝末期の王家の系図に不備があるため、母は特定できていない。
クレオパトラ5世、クレオパトラ6世、あるいは氏名不詳の女性の説がある。クレオパトラ5世はプトレマイオス12世のきょうだいまたはいとこであり、ベレニケ4世を産んだことは分かっているが、クレオパトラが生まれた紀元前69年頃以降の記録がない。
クレオパトラ6世は紀元前58年にプトレマイオス12世がエジプトから追放された後にエジプトを統治した人物であるが、5世と同一人物とする説と5世の長女とする説がある。ストラボンはプトレマイオス12世の娘をベレニケ4世、クレオパトラ7世、アルシノエ4世としており、前説の場合これと一致する。後説はポルピュリオスの記述によるもので、この場合プトレマイオス12世の追放に関連したため系図から抹消されたと考えられる。
他の人物として、歴史家ヴェルナー・フスは、紀元前69年頃にプトレマイオス12世はクレオパトラ5世と離婚してメンフィスの有力な家系の女性と結婚しており、この女性がクレオパトラ7世の母としている。
弟にプトレマイオス13世、プトレマイオス14世がおり、何れもクレオパトラと結婚して共同統治を行っている。
共和政ローマはエジプト産の穀物を必要としており、セレウコス朝シリアの攻撃を受けたプトレマイオス6世がローマに助けを求めて以降、プトレマイオス朝はその影響下に入っていた。エジプトは当時有数の小麦生産地であり、その販売をプトレマイオス朝が独占していた。後のアウグストゥス時代には、毎年ローマ市の4ヶ月分を賄っていたという。更にはパピルス、ガラス、織物生産地でもあった。これらのことから、プトレマイオス朝は当時世界でも最も裕福であったと予想する学者もいる。
プトレマイオス11世は、紀元前80年にルキウス・コルネリウス・スッラによって玉座に上ったものの同年中に民衆に殺害され、11世の従兄弟でクレオパトラの父であるプトレマイオス12世がローマに無断で即位した。12世は地位の安定のためグナエウス・ポンペイウスを頼ったが、直接介入を渋られたため、紀元前60年に三頭政治が始まると、その一角であるカエサルを買収し、やっと正式に王位が認められた。しかしこの買収にかかった費用を増税でまかなったため、紀元前58年に反乱が起こり、ポンペイウスを頼ってローマ市へ亡命した。このとき一人の娘を伴ったとされ、その場合クレオパトラである可能性を主張する近年の研究者がいる。(アテネで発見された石碑に刻まれた"Liviaの王女"についての文面があり、それが若きクレオパトラである可能性を主張するもの。)
アレクサンドリアではクレオパトラ6世やその死後ベレニケ4世が摂政の座についたが、紀元前57年、ローマで12世の復位計画が立てられた。これをポンペイウス派が行う陰謀もあったものの頓挫し、結局紀元前55年、シリア属州担当プロコンスル(前執政官)アウルス・ガビニウスと共にアレクサンドリアに舞い戻った12世は、ベレニケ4世を処刑し復位した。しかしながら、亡命中の生活費と政界工作費で莫大な借金を背負うことになった。この戦いに参加した、若きマルクス・アントニウスはベレニケ4世の夫であるアルケラウスの戦死の際に、王に相応しい葬いをしたとして評価された。この時期に、クレオパトラとアントニウスは出会っているという説もある。
紀元前51年、クレオパトラが18歳の時に父が逝去すると、父の遺言によって弟のプトレマイオス13世と共同で王位に就いた。
プトレマイオス朝はギリシア系であったが、紀元前217年のラフィアの戦い以降、エジプト人の存在感が増し、ギリシア人のエジプト化が進んでいた。一方、歴代王は統治に無関心で、エジプト人による反乱も起っていた。クレオパトラはエジプト人との宥和のため、自らエジプト文化を取り込もうとしていたとも考えられている。プルタルコスによれば、彼女の声は甘く楽器のようで、多数の言語を自在に操り、これまでの王たちとは違ってエジプト語も習得していたという。クレオパトラは古くから民衆に親しまれていたイシスと同一視して描かれることもあり、そのことからも、宥和政策を採っていたことが推測される。プトレマイオス2世の妻アルシノエ2世がイシスとして描かれていた前例があり、それを再現したのではないかとも考えられている。
紀元前49年3月3日、キケロよりアッティクスへ
この頃にはカエサルとポンペイウスの対立は避けられないものになっていた。紀元前49年1月1日にカエサルがその軍団を解散しなければ追放処分にすることが元老院で決議されていたが、カエサルはこれを無視して軍を率いてルビコン川を渡った。ポンペイウスはローマ市を捨て、さらに両執政官と共にギリシアへと渡っていった。アッピアノスによれば、レバント(東部地中海沿岸地方)のほぼ全ての国がポンペイウスを支援し、中には王自ら参戦する国もあったという。クレオパトラも60隻の船を供出したが、戦闘には参加しなかった。ポンペイウスはデュッラキウムに本陣を据えて軍勢を集め、一方のカエサルはヒスパニアのポンペイウス派を潰して回り、ローマ市へ帰還すると翌年の執政官に選出された。
カエサルはポンペイウスに攻撃を仕掛けたが一時敗退し(デュッラキウムの戦い)、それをポンペイウスが追撃したもののカエサルに撃退され(ファルサルスの戦い)、海へと逃れた。
同じ頃クレオパトラは、妹アルシノエ4世とも対立していただけでなく、共同統治を嫌ったプトレマイオス13世によって紀元前48年にアレクサンドリアから追放された。アッピアノスによれば、追放されたクレオパトラはシリアで軍勢を集め、対する13世はペルシウム付近で彼女を待ち受けていたが、そこへポンペイウスが逃れてきたという。
ポンペイウスを追撃するカエサルはアレクサンドリアを訪れ、エジプト人を信用していなかった彼は、追放されていたクレオパトラを召喚した。カエサルは52才、クレオパトラは21才であった。
プルタルコスによると、カエサルに召喚された女王は、シチリア人のアポロドロスという者と夜陰に乗じて忍び込み、寝具袋に入った彼女を友人に縛らせ、カエサルの元に運ばせたといい、この大胆なクレオパトラに魅せられたカエサルは、きょうだいであるプトレマイオス13世との仲を取り持ったという。寝具ではなく絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多い(古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があり、クレオパトラは宝物ではなく自らの身体を贈ったのだとする)が、史料では確認できない。
しかし、クレオパトラがカエサルの愛人となったことを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれる。結局カエサルはローマに敵対するプトレマイオス13世を攻め殺し、アルシノエ4世を捕らえることに成功した。クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治という形で復位したが、実質は彼女一人による統治で、紀元前47年にカエサルの子カエサリオンを産んでいる。クレオパトラは、カエサリオンを産むことでローマによるプトレマイオス朝の属州化防止や、自己の地位安定を計ったのではないかとも考えられる。
紀元前46年7月、カエサルはローマ市へ戻り、凱旋式を4度にわたって挙行した。この頃完成したカエサルのフォルムにはクレオパトラの黄金像が立てられたが、これはウェヌス神殿のすぐ側であり、問題視された。クレオパトラは、プトレマイオス14世とカエサリオンと共にカエサルのティベリス川沿いの別荘に滞在し、カエサルとのスキャンダルが噂された。この間キケロらローマの有力者と面会したようである。
紀元前44年6月13日、キケロよりアッティクスへ
カエサルは紀元前47年に独裁官任期を10年延長され、さらに紀元前44年2月には永久独裁官となっていたが、同年3月15日に暗殺(英語版)された。クレオパトラの希望とは裏腹に、カエサリオンは彼の後継者とはなりえず、カエサルは実の大甥(カエサルの妹の孫で姪の子)で養子のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(オクタウィアヌス、後のアウグストゥス)を後継者と定めていた。クレオパトラは帰国したが、すぐにプトレマイオス14世が逝去した。彼女による毒殺説もあるが、彼の後はカエサリオンに継がせた(プトレマイオス15世)。
紀元前42年のフィリッピの戦いでは、第二回三頭政治側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援した。戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。これに対して、クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる。エフェソスにいたアルシノエ4世は紀元前41年にアントニウスによって殺された。
アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、クレオパトラと結婚した。紀元前39年には双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオス(英語版)とクレオパトラ・セレネ、紀元前36年にはもう一人の男の子プトレマイオス・ピラデルポス(英語版)が誕生している。アレクサンドリアから帰ってこないアントニウスはローマでの評判を落とす一方だった。アントニウスの場合も、カエサルとの間に子を作ったのと同じ理由が考えられるが、今回はプトレマイオス朝の領土をも獲得している。
アントニウスは紀元前36年にクレオパトラの支援を得てパルティア遠征を行ったが、惨敗を喫した。
アントニウスは紀元前34年に執政官に選出されたが初日に辞任し、アルメニア王国(アルタクシアス朝)に復讐するためニコポリスに現れると、国王アルタウァスデス2世を騙して捕虜とした。アルメニアを占領したアントニウスは大量の財宝と捕虜と共にアレクサンドリアに凱旋し、クレオパトラとの間の子らに、東方世界を分割して与えることを約束した。
プルタルコスによれば、アントニウスがローマ市民に人気のあったオクタウィアを離縁したこと、あまりにもエジプト風に染まってしまったことをオクタウィアヌスによってプロパガンダに利用され、クレオパトラはローマの敵に仕立て上げられていったという。クレオパトラはカエサリオンをカエサルの後継者として宣伝し、アントニウスもその保護者としての立場を強調していた。それに対してオクタウィアヌスは、彼らとの対立が決定的になると、後継者は自分であることを強調し、執政官としてクレオパトラという外敵を排除する立場を明確にしたといい、同時代の記録では、豊かなエジプトの女王の脅威に立ち向かうオクタウィアヌスという東西対決の形が見られるという。
紀元前31年にアンヴラキコス湾に集結したオクタウィアヌス軍とクレオパトラ・アントニウス連合軍であったが、古代の記録によれば、9月2日、突如としてクレオパトラが戦線離脱し、アントニウスも味方を置いてそれを追ったために敗北したことになっており、あたかも全責任はクレオパトラにあるかのようである。この海戦に関して様々な説があるが、学者も東西どちらを専門にしているかで意見が分かれている。しかし、東側の圧倒的な経済力を背景に、有能な指揮官であったアントニウスとクレオパトラが、何も出来ずに敗退したとするのは不可解であると言える。
同時代人でかろうじて信頼出来そうなホラティウスの『エボディ』などからは、オクタウィアヌスが勝利したことは読み取れるものの、オクタウィアヌス本人による『業績録』にすらアクティウムに関する記述はなく、その存在すら疑われるほどで、ただクレオパトラが敵視されていたことだけは分かるという。当時の東西の経済格差からいって、内乱の続いたイタリアを立て直すため、アントニウスを単独で支えることが可能であったエジプトを奪う必要があり、クレオパトラが敵視されたのではないかとも考えられる。対してアントニウスとクレオパトラは、海上封鎖を続け敵が自滅を待つ消極策を採っていたものの、それに対する危機感から団結した西方が予想外に手強く、封鎖を破られたのではないかとする説もある
帰国したクレオパトラ7世はオクタウィアヌスとの外交交渉を試みるものの、条件面などで折り合いがつかず失敗に終わった。この結果、カエサリオンを国外へ逃がすことを決意し、実行に移した。しかし、ローマ軍はアレクサンドリアにまで到達し、アントニウスは残存する全軍を率いて決戦を挑むが、海軍の寝返りなどで失敗した。そして、紀元前30年8月1日、アントニウスはクレオパトラ7世が自分を裏切ったと思い込んでいたところに届けられたクレオパトラ7世死去の報告(ただし、これは誤報)に接して自殺を図る。それを知ったクレオパトラ7世の指示により、アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられたが、息を引き取った。
8月29日、オクタウィアヌスは捕虜となったクレオパトラ7世が自殺することを警戒し、厳重な監視下に置いていたが、クレオパトラ7世自身はオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(乳房か腕)を噛ませて自殺したとも伝えられている。オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。
エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる可能性があったカエサリオンを呼び戻して殺害し、プトレマイオス朝を滅ぼした。そして、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地(アエギュプトゥス)とした。しかし、クレオパトラがアントニウスともうけていた3人の子供たちは、オクタウィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、養育された。
※1の3人は兄弟
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"text": "しかし、クレオパトラがカエサルの愛人となったことを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれる。結局カエサルはローマに敵対するプトレマイオス13世を攻め殺し、アルシノエ4世を捕らえることに成功した。クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治という形で復位したが、実質は彼女一人による統治で、紀元前47年にカエサルの子カエサリオンを産んでいる。クレオパトラは、カエサリオンを産むことでローマによるプトレマイオス朝の属州化防止や、自己の地位安定を計ったのではないかとも考えられる。",
"title": "生涯"
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"text": "紀元前46年7月、カエサルはローマ市へ戻り、凱旋式を4度にわたって挙行した。この頃完成したカエサルのフォルムにはクレオパトラの黄金像が立てられたが、これはウェヌス神殿のすぐ側であり、問題視された。クレオパトラは、プトレマイオス14世とカエサリオンと共にカエサルのティベリス川沿いの別荘に滞在し、カエサルとのスキャンダルが噂された。この間キケロらローマの有力者と面会したようである。",
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"text": "紀元前44年6月13日、キケロよりアッティクスへ",
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"text": "カエサルは紀元前47年に独裁官任期を10年延長され、さらに紀元前44年2月には永久独裁官となっていたが、同年3月15日に暗殺(英語版)された。クレオパトラの希望とは裏腹に、カエサリオンは彼の後継者とはなりえず、カエサルは実の大甥(カエサルの妹の孫で姪の子)で養子のガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(オクタウィアヌス、後のアウグストゥス)を後継者と定めていた。クレオパトラは帰国したが、すぐにプトレマイオス14世が逝去した。彼女による毒殺説もあるが、彼の後はカエサリオンに継がせた(プトレマイオス15世)。",
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"text": "紀元前42年のフィリッピの戦いでは、第二回三頭政治側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援した。戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラ7世に出頭を命じた。これに対して、クレオパトラ7世はアプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる。エフェソスにいたアルシノエ4世は紀元前41年にアントニウスによって殺された。",
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"text": "アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、クレオパトラと結婚した。紀元前39年には双子の男女のアレクサンドロス・ヘリオス(英語版)とクレオパトラ・セレネ、紀元前36年にはもう一人の男の子プトレマイオス・ピラデルポス(英語版)が誕生している。アレクサンドリアから帰ってこないアントニウスはローマでの評判を落とす一方だった。アントニウスの場合も、カエサルとの間に子を作ったのと同じ理由が考えられるが、今回はプトレマイオス朝の領土をも獲得している。",
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"text": "アントニウスは紀元前36年にクレオパトラの支援を得てパルティア遠征を行ったが、惨敗を喫した。",
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"text": "アントニウスは紀元前34年に執政官に選出されたが初日に辞任し、アルメニア王国(アルタクシアス朝)に復讐するためニコポリスに現れると、国王アルタウァスデス2世を騙して捕虜とした。アルメニアを占領したアントニウスは大量の財宝と捕虜と共にアレクサンドリアに凱旋し、クレオパトラとの間の子らに、東方世界を分割して与えることを約束した。",
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"text": "プルタルコスによれば、アントニウスがローマ市民に人気のあったオクタウィアを離縁したこと、あまりにもエジプト風に染まってしまったことをオクタウィアヌスによってプロパガンダに利用され、クレオパトラはローマの敵に仕立て上げられていったという。クレオパトラはカエサリオンをカエサルの後継者として宣伝し、アントニウスもその保護者としての立場を強調していた。それに対してオクタウィアヌスは、彼らとの対立が決定的になると、後継者は自分であることを強調し、執政官としてクレオパトラという外敵を排除する立場を明確にしたといい、同時代の記録では、豊かなエジプトの女王の脅威に立ち向かうオクタウィアヌスという東西対決の形が見られるという。",
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"text": "紀元前31年にアンヴラキコス湾に集結したオクタウィアヌス軍とクレオパトラ・アントニウス連合軍であったが、古代の記録によれば、9月2日、突如としてクレオパトラが戦線離脱し、アントニウスも味方を置いてそれを追ったために敗北したことになっており、あたかも全責任はクレオパトラにあるかのようである。この海戦に関して様々な説があるが、学者も東西どちらを専門にしているかで意見が分かれている。しかし、東側の圧倒的な経済力を背景に、有能な指揮官であったアントニウスとクレオパトラが、何も出来ずに敗退したとするのは不可解であると言える。",
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"text": "同時代人でかろうじて信頼出来そうなホラティウスの『エボディ』などからは、オクタウィアヌスが勝利したことは読み取れるものの、オクタウィアヌス本人による『業績録』にすらアクティウムに関する記述はなく、その存在すら疑われるほどで、ただクレオパトラが敵視されていたことだけは分かるという。当時の東西の経済格差からいって、内乱の続いたイタリアを立て直すため、アントニウスを単独で支えることが可能であったエジプトを奪う必要があり、クレオパトラが敵視されたのではないかとも考えられる。対してアントニウスとクレオパトラは、海上封鎖を続け敵が自滅を待つ消極策を採っていたものの、それに対する危機感から団結した西方が予想外に手強く、封鎖を破られたのではないかとする説もある",
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"text": "帰国したクレオパトラ7世はオクタウィアヌスとの外交交渉を試みるものの、条件面などで折り合いがつかず失敗に終わった。この結果、カエサリオンを国外へ逃がすことを決意し、実行に移した。しかし、ローマ軍はアレクサンドリアにまで到達し、アントニウスは残存する全軍を率いて決戦を挑むが、海軍の寝返りなどで失敗した。そして、紀元前30年8月1日、アントニウスはクレオパトラ7世が自分を裏切ったと思い込んでいたところに届けられたクレオパトラ7世死去の報告(ただし、これは誤報)に接して自殺を図る。それを知ったクレオパトラ7世の指示により、アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられたが、息を引き取った。",
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"text": "8月29日、オクタウィアヌスは捕虜となったクレオパトラ7世が自殺することを警戒し、厳重な監視下に置いていたが、クレオパトラ7世自身はオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(乳房か腕)を噛ませて自殺したとも伝えられている。オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。",
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"text": "エジプトを征服したオクタウィアヌスは、紀元前30年、「カエサルの後継者」となる可能性があったカエサリオンを呼び戻して殺害し、プトレマイオス朝を滅ぼした。そして、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地(アエギュプトゥス)とした。しかし、クレオパトラがアントニウスともうけていた3人の子供たちは、オクタウィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、養育された。",
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"text": "※1の3人は兄弟",
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"title": "登場作品"
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] | クレオパトラ7世フィロパトル(ギリシア語: Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ, ラテン語: Cleopatra VII Philopator, 紀元前69年 - 紀元前30年、古代エジプトプトレマイオス朝ファラオ。 一般的に「クレオパトラ」と言えば彼女を指すことが多く、プトレマイオス朝の最後の女王で、ガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスらとのロマンスで知られる。プトレマイオス朝自体がアレクサンドロス3世の部下プトレマイオス1世による支配から始まったため、クレオパトラもギリシア系である。 「クレオパトラ」は、古代ギリシア語クレオパトロスの女性形である。「絶世の美女」として知られる。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説があるが、妹のアルシノエ4世の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。 なお、アレクサンドリアを襲った365年のクレタ地震のため、当時の史料は残っておらず、プルタルコスやスエトニウスら後世の歴史家による記録に負うが、その正確性には疑問が残る。 | {{redirect|クレオパトラ}}
{{Pharaoh Infobox
|名前 = クレオパトラ7世フィロパトル
|Alt = {{lang|el|Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ}}
|Image = Kleopatra-VII.-Altes-Museum-Berlin1.jpg
|Caption = クレオパトラ7世頭部(紀元前40年頃、[[ベルリン美術館]]蔵)
|統治期間 = [[紀元前51年]] - [[紀元前30年]]
|王朝 = [[プトレマイオス朝]]
|共同統治者 = [[プトレマイオス12世]]([[紀元前51年]])<br>[[プトレマイオス13世]]([[紀元前51年]] - [[紀元前47年]])<br>[[プトレマイオス14世]]([[紀元前47年]] - [[紀元前44年]])<br>[[カエサリオン|プトレマイオス15世カエサリオン]]([[紀元前44年]] - [[紀元前30年]])
|前王 = [[プトレマイオス12世]]
|次王 = [[アウグストゥス]]([[ローマ皇帝]])
|Horus=Wer(et) neb(et), neferu akh(et) seh{{Sfnp|Lundström|2011}}
|HorusHiero=<hiero>wr:r-nb-nfr-nfr-nfr-H2:x-O22</hiero>
|Horustranslit=wr(.t)-nb(.t)-nfr.w Ax(.t)-zH
|Horustrans=The great Lady of perfection, excellent in counsel
|ホルス名備考=<hr />ホルス名(2):'''Weret, tut en ites'''<br/><hiero>wr*t:r-t:W:t-A53-n:X2*t:z</hiero>
翻字:''wr.t-twt.n-it=s''<br/>
翻訳:The great one and the (very) image of her father
|Nomen=Qlupadra netjeret meret ites{{Sfnp|Lundström|2011}}
|NomenHiero=<hiero>q:l-W:p-d:r-A-t:H8-nTr-t:H8-R7:t-z:N36</hiero>
|Nomentranslit=qlwpdrA, nTr.t-mr(.t)-it=s{{Sfnp|Lundström|2011}}
|Nomentrans=The goddess Cleopatra, who is beloved of her father
|配偶者 = [[プトレマイオス13世]]<br>[[プトレマイオス14世]]<br>[[マルクス・アントニウス]]
|子女 = [[カエサリオン|プトレマイオス15世カエサリオン]]<br/>{{仮リンク|アレクサンドロス・ヘリオス|en|Alexander Helios}}<br/>[[クレオパトラ・セレネ2世]]<br/>{{仮リンク|プトレマイオス・ピラデルポス|en|Ptolemy Philadelphus (son of Cleopatra)}}
|父 = [[プトレマイオス12世]]
|母 = [[クレオパトラ5世]]/6世もしくは別の女性
|生年 = [[紀元前69年]]<br>[[アレクサンドリア]]
|没年 = [[紀元前30年]](満39歳没)<br>、[[アレクサンドリア]]
|埋葬地 = 不明。[[タップ・オシリス・マグナ神殿]]?<br>[[クレオパトラ7世とマルクス・アントニウスの墓|クレオパトラの墓]]?
|記念物 = [[デンデラ神殿複合体#ハトホル神殿|ハトホル神殿]]
}}
'''クレオパトラ7世フィロパトル'''({{lang-el|Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ}}, {{lang-la|Cleopatra VII Philopator}}, [[紀元前69年]] - [[紀元前30年]]{{Efn|死亡した日にちに関しては8月10日、8月12日、8月29日、8月30日<ref>{{Cite web |title=Cleopatra {{!}} Biography, Beauty, History, Death, & Facts {{!}} Britannica |url=https://www.britannica.com/biography/Cleopatra-queen-of-Egypt |website=www.britannica.com |access-date=2023-04-02 |language=en}}</ref>と諸説ある。{{Harv|Skeat|1953}}はエジプト学者のArthur Weigallが書籍"Life and Times of Cleopatra"の中でクレオパトラの死を8月29日に同定していることに対して、まったく歴史的な誤りだと反論しており、代わりに8月12日(Historical Julian Calender, [[ユリウス暦]])・8月10日 (Current Roman Calender, [[グレゴリオ暦]])を提唱している。他の説に関しては[[:en:Death_of_Cleopatra#Date_of_death|英語版の記述]]も参照されたい。}}、[[古代エジプト]][[プトレマイオス朝]][[ファラオ|ファラオ(女王)]]。
一般的に「クレオパトラ」と言えば彼女を指すことが多く、プトレマイオス朝の最後の女王で、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]や[[マルクス・アントニウス]]らとのロマンスで知られる{{Sfnp|物應|2006|p=1}}。プトレマイオス朝自体が[[アレクサンドロス3世]]の部下[[プトレマイオス1世]]による支配から始まったため、クレオパトラも[[ギリシア]]系である{{Sfnp|物應|2006|p=3}}。
「クレオパトラ」は、[[古代ギリシア語]][[Wikt:en:Κλεόπατρος|クレオパトロス]](父の栄光)の女性形である。「絶世の美女」として知られる。ただし、クレオパトラの肖像は治世当時、アントニウスが発行したとされている硬貨に横顔が残されているのみであり、この評価は後世の作り話だとの説がある([[#人物]]節を参照)が、妹の[[アルシノエ4世]]の復元図から姉のクレオパトラも美しかったとする説もある。
なお、[[アレクサンドリア]]を襲った365年の[[クレタ地震 (365年)|クレタ地震]]のため、当時の史料は残っておらず、[[プルタルコス]]や[[スエトニウス]]ら後世の歴史家による記録に負うが、その正確性には疑問が残る{{Sfnp|物應|2006|p=1}}。
== 出自 ==
[[ファイル:Marcus Antonius - Cleopatra 32 BC 90020163.jpg|250px|thumb|[[紀元前32年]]頃鋳造された銀貨。左がクレオパトラ、右が裏面のアントニウス]]
父は[[紀元前80年]] - [[紀元前58年]]および[[紀元前55年]] - [[紀元前51年]]のファラオである[[プトレマイオス12世]](アウレテス)。プトレマイオス朝末期の王家の系図に不備があるため、母は特定できていない。
[[クレオパトラ5世]]<ref>Grant(1972), p. 4</ref>、クレオパトラ6世{{Sfnp|物應|2006|p=6}}、あるいは氏名不詳の女性の説がある。クレオパトラ5世はプトレマイオス12世のきょうだいまたはいとこであり、[[ベレニケ4世]]を産んだことは分かっているが、クレオパトラが生まれた紀元前69年頃以降の記録がない。
クレオパトラ6世は紀元前58年にプトレマイオス12世がエジプトから追放された後にエジプトを統治した人物であるが、5世と同一人物とする説と5世の長女とする説がある。[[ストラボン]]はプトレマイオス12世の娘をベレニケ4世、クレオパトラ7世、アルシノエ4世としており<ref>[[ストラボン]]『[[地理誌]]』、17.1.11</ref>、前説の場合これと一致する。後説は[[テュロスのポルピュリオス|ポルピュリオス]]の記述によるもので<ref>Whitehorne, p. 182</ref>、この場合プトレマイオス12世の追放に関連したため系図から抹消されたと考えられる。
他の人物として、歴史家ヴェルナー・フスは、紀元前69年頃にプトレマイオス12世はクレオパトラ5世と離婚してメンフィスの有力な家系の女性と結婚しており、この女性がクレオパトラ7世の母としている<ref>Huß (2001) p. 679</ref>。
弟に[[プトレマイオス13世]]、[[プトレマイオス14世]]がおり、何れもクレオパトラと結婚して共同統治を行っている。
== 生涯 ==
=== 即位までのエジプトの状況 ===
[[共和政ローマ]]はエジプト産の穀物を必要としており、[[セレウコス朝シリア]]の攻撃を受けた[[プトレマイオス6世]]がローマに助けを求めて以降、プトレマイオス朝はその影響下に入っていた{{Sfnp|物應|2006|pp=24–25}}。エジプトは当時有数の小麦生産地であり、その販売をプトレマイオス朝が独占していた。後の[[アウグストゥス]]時代には、毎年[[ローマ]]市の4ヶ月分を賄っていたという。更には[[パピルス]]、[[ガラス]]、[[織物]]生産地でもあった。これらのことから、プトレマイオス朝は当時世界でも最も裕福であったと予想する学者もいる{{Sfnp|大西|1977|pp=707–710}}。
[[プトレマイオス11世]]は、[[紀元前80年]]に[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]によって玉座に上ったものの同年中に民衆に殺害され、11世の従兄弟でクレオパトラの父である[[プトレマイオス12世]]がローマに無断で即位した。12世は地位の安定のため[[グナエウス・ポンペイウス]]を頼ったが、直接介入を渋られたため、[[紀元前60年]]に[[三頭政治]]が始まると、その一角であるカエサルを買収し、やっと正式に王位が認められた。しかしこの買収にかかった費用を増税でまかなったため、[[紀元前58年]]に反乱が起こり、ポンペイウスを頼ってローマ市へ亡命した{{Sfnp|物應|2006|pp=26–28}}。このとき一人の娘を伴ったとされ、その場合クレオパトラである可能性を主張する近年の研究者がいる<ref>Roller (2010), p. 22.</ref>。(アテネで発見された石碑に刻まれた"Liviaの王女"についての文面があり、それが若きクレオパトラである可能性を主張するもの。)
アレクサンドリアではクレオパトラ6世やその死後ベレニケ4世が[[摂政]]の座についたが、[[紀元前57年]]、ローマで12世の復位計画が立てられた。これをポンペイウス派が行う陰謀もあったものの頓挫し、結局[[紀元前55年]]、[[シリア属州]]担当[[プロコンスル]](前執政官){{Sfnp|Broughton|1952|p=218}}[[アウルス・ガビニウス]]と共にアレクサンドリアに舞い戻った12世は、ベレニケ4世を処刑し復位した。しかしながら、亡命中の生活費と政界工作費で莫大な借金を背負うことになった{{Sfnp|物應|2006|pp=28–29}}。この戦いに参加した、若きマルクス・アントニウスはベレニケ4世の夫であるアルケラウスの戦死の際に、王に相応しい葬いをしたとして評価された。この時期に、クレオパトラとアントニウスは出会っているという説もある。
[[File:Giovanni Battista Tiepolo, The Meeting of Antony and Cleopatra, mid 1740s, NGA 73842.jpg|left|thumb|200px|[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]『アントニウスとクレオパトラの出会い』([[1740年代]])[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)]]]]
=== 即位 ===
[[紀元前51年]]、クレオパトラが18歳の時に父が逝去すると、父の遺言によって弟のプトレマイオス13世と共同で王位に就いた{{Sfnp|物應|2006|pp=29–30}}。
プトレマイオス朝はギリシア系であったが、[[紀元前217年]]の[[ラフィアの戦い]]以降、エジプト人の存在感が増し、ギリシア人のエジプト化が進んでいた。一方、歴代王は統治に無関心で、エジプト人による反乱も起っていた。クレオパトラはエジプト人との宥和のため、自らエジプト文化を取り込もうとしていたとも考えられている{{Sfnp|物應|2006|pp=8–10}}。[[プルタルコス]]によれば、彼女の声は甘く楽器のようで、多数の言語を自在に操り、これまでの王たちとは違ってエジプト語も習得していたという<ref>プルタルコス『対比列伝』アントニウス、27</ref>。クレオパトラは古くから民衆に親しまれていた[[イシス]]と同一視して描かれることもあり、そのことからも、宥和政策を採っていたことが推測される。[[プトレマイオス2世]]の妻[[アルシノエ2世]]がイシスとして描かれていた前例があり、それを再現したのではないかとも考えられている{{Sfnp|物應|2006|pp=17–19}}。
=== ローマ内戦 ===
{{see also|ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)}}
{{Quote|
紀元前49年3月3日、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]より[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]へ
先日の君の手紙からすると、まだ彼らが会談して和解する可能性を信じているようだね。しかしその可能性は低いと思う。もし会談があったとしても、ポンペイウスがなんらかの協定を結ぶとは思えないんだよ。|キケロ『アッティクス宛書簡』8.15.3<ref>キケロ『アッティクス宛書簡』8.15.3</ref>}}
この頃にはカエサルとポンペイウスの対立は避けられないものになっていた。[[紀元前49年]]1月1日にカエサルがその軍団を解散しなければ追放処分にすることが元老院で決議されていたが、カエサルはこれを無視して軍を率いて[[ルビコン川]]を渡った。ポンペイウスはローマ市を捨て、さらに両執政官と共に[[ギリシア]]へと渡っていった{{Sfnp|エヴァリット|2006|pp=305–311}}。[[アッピアノス]]によれば、[[レバント]](東部[[地中海]]沿岸地方)のほぼ全ての国がポンペイウスを支援し、中には王自ら参戦する国もあったという。クレオパトラも60隻の船を供出したが、戦闘には参加しなかった<ref>アッピアノス『内乱記』2.71</ref>。ポンペイウスは[[ドゥラス|デュッラキウム]]に本陣を据えて軍勢を集め、一方のカエサルは[[ヒスパニア]]のポンペイウス派を潰して回り、ローマ市へ帰還すると翌年の執政官に選出された{{Sfnp|エヴァリット|2006|pp=318–319}}。
カエサルはポンペイウスに攻撃を仕掛けたが一時敗退し([[デュッラキウムの戦い]])、それをポンペイウスが追撃したもののカエサルに撃退され([[ファルサルスの戦い]])、海へと逃れた{{Sfnp|エヴァリット|2006|pp=320–324}}。
同じ頃クレオパトラは、妹アルシノエ4世とも対立していただけでなく、共同統治を嫌ったプトレマイオス13世によって[[紀元前48年]]にアレクサンドリアから追放された{{Sfnp|物應|2006|p=6}}。アッピアノスによれば、追放されたクレオパトラはシリアで軍勢を集め、対する13世は[[ペルシウム]]付近で彼女を待ち受けていたが、そこへポンペイウスが逃れてきたという<ref>アッピアノス『内乱記』2.84</ref>。
ポンペイウスを追撃するカエサルはアレクサンドリアを訪れ、エジプト人を信用していなかった彼は、追放されていたクレオパトラを召喚した。カエサルは52才、クレオパトラは21才であった{{Sfnp|物應|2006|pp=29–31}}。
=== カエサルとの出会い ===
[[ファイル:Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Gerome.jpg|200px|thumb|絨毯の中からカエサルの前へ現れるクレオパトラ<br>''"Cléopâtre et César"'' [[ジャン=レオン・ジェローム]]画、1886年]]
プルタルコスによると、カエサルに召喚された女王は<ref>プルタルコス『対比列伝』カエサル、48.9</ref>、[[シキリア|シチリア人]]のアポロドロスという者と夜陰に乗じて忍び込み、寝具袋に入った彼女を友人に縛らせ、カエサルの元に運ばせたといい、この大胆なクレオパトラに魅せられたカエサルは、きょうだいであるプトレマイオス13世との仲を取り持ったという<ref>プルタルコス『対比列伝』カエサル、49.1-3</ref>。寝具ではなく絨毯に包んで届けさせたと説明されることが多い(古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があり、クレオパトラは宝物ではなく自らの身体を贈ったのだとする)が、史料では確認できない。
しかし、クレオパトラがカエサルの愛人となったことを知ったプトレマイオス13世は「怒り心頭に発し、王冠をはずし、地面に叩きつけた」といわれる。結局カエサルはローマに敵対するプトレマイオス13世を攻め殺し、アルシノエ4世を捕らえることに成功した{{Sfnp|物應|2006|p=6}}。クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と結婚し、共同統治という形で復位したが、実質は彼女一人による統治で、紀元前47年にカエサルの子[[カエサリオン]]を産んでいる{{Sfnp|物應|2006|pp=6–7}}。クレオパトラは、カエサリオンを産むことでローマによるプトレマイオス朝の属州化防止や、自己の地位安定を計ったのではないかとも考えられる{{Sfnp|物應|2006|p=31}}。
紀元前46年7月、カエサルはローマ市へ戻り、凱旋式を4度にわたって挙行した。この頃完成したカエサルの[[フォルム]]にはクレオパトラの黄金像が立てられたが、これは[[ウェヌス]]神殿のすぐ側であり、問題視された。クレオパトラは、プトレマイオス14世とカエサリオンと共にカエサルの[[ティベリス川]]沿いの別荘に滞在し、カエサルとのスキャンダルが噂された。この間キケロらローマの有力者と面会したようである。
{{Quote|
紀元前44年6月13日、キケロよりアッティクスへ
カエサルの別荘にいた時の女王の傲慢さときたら、思い出したくもない。だから私はもう一切関わりたくない。|キケロ『アッティクス宛書簡』15.15<ref>キケロ『アッティクス宛書簡』15.15</ref>}}
=== カエサル死後 ===
カエサルは[[紀元前47年]]に[[独裁官]]任期を10年延長され{{Sfnp|エヴァリット|2006|pp=346–348}}、さらに[[紀元前44年]]2月には永久独裁官となっていたが、同年3月15日に{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺事件|en|Assassination of Julius Caesar|label=暗殺|redirect=1}}された。クレオパトラの希望とは裏腹に、カエサリオンは彼の後継者とはなりえず、カエサルは実の[[続柄#大甥・大姪|大甥]](カエサルの妹の孫で姪の子)で養子の[[アウグストゥス|ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス]](オクタウィアヌス、後のアウグストゥス)を後継者と定めていた。クレオパトラは帰国したが、すぐにプトレマイオス14世が逝去した。彼女による毒殺説もあるが、彼の後はカエサリオンに継がせた(プトレマイオス15世)。
[[紀元前42年]]の[[フィリッピの戦い]]では、[[三頭政治|第二回三頭政治]]側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていた[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]らの勢力を支援した。戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側の[[マルクス・アントニウス]]はクレオパトラ7世に出頭を命じた。これに対して、クレオパトラ7世は[[アプロディーテー]]のように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭した。逆にアントニウスを自らの宴席へ招待するなどし、瞬く間にアントニウスを魅惑したといわれる<ref>プルタルコス『対比列伝』アントニウス伝</ref>。[[エフェソス]]にいたアルシノエ4世は[[紀元前41年]]にアントニウスによって殺された。
アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、クレオパトラと結婚した。[[紀元前39年]]には双子の男女の{{仮リンク|アレクサンドロス・ヘリオス|en|Alexander Helios}}と[[クレオパトラ・セレネ]]、[[紀元前36年]]にはもう一人の男の子{{仮リンク|プトレマイオス・ピラデルポス|en|Ptolemy Philadelphus (son of Cleopatra)}}が誕生している。アレクサンドリアから帰ってこないアントニウスはローマでの評判を落とす一方だった{{Sfnp|物應|2006|p=7}}。アントニウスの場合も、カエサルとの間に子を作ったのと同じ理由が考えられるが、今回はプトレマイオス朝の領土をも獲得している{{Sfnp|物應|2006|pp=31–32}}。
アントニウスは紀元前36年にクレオパトラの支援を得て[[パルティア]]遠征を行ったが、惨敗を喫した。
アントニウスは[[紀元前34年]]に執政官に選出されたが初日に辞任し、[[アルメニア王国]]([[アルタクシアス朝]])に復讐するためニコポリスに現れると、国王[[アルタウァスデス2世]]を騙して捕虜とした。アルメニアを占領したアントニウスは大量の財宝と捕虜と共にアレクサンドリアに凱旋し、クレオパトラとの間の子らに、東方世界を分割して与えることを約束した<ref>[[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』49.39-41</ref>。
プルタルコスによれば、アントニウスがローマ市民に人気のあったオクタウィアを離縁したこと、あまりにもエジプト風に染まってしまったことをオクタウィアヌスによってプロパガンダに利用され、クレオパトラはローマの敵に仕立て上げられていったという{{Sfnp|物應|2006|pp=32–33}}。クレオパトラはカエサリオンをカエサルの後継者として宣伝し、アントニウスもその保護者としての立場を強調していた。それに対してオクタウィアヌスは、彼らとの対立が決定的になると、後継者は自分であることを強調し、執政官としてクレオパトラという外敵を排除する立場を明確にしたといい{{Sfnp|山本|2014|pp=10–11}}、同時代の記録では、豊かなエジプトの女王の脅威に立ち向かうオクタウィアヌスという東西対決の形が見られるという{{Sfnp|大西|1977|pp=691–692}}。
[[File:Guercino (Giovanni Francesco Barbieri) - Cleopatra and Octavian - Google Art Project.jpg|thumb|left|200px|[[グエルチーノ]]『クレオパトラとオクタウィアヌス』(1640年)クンストパラスト美術館([[デュッセルドルフ]])]]
=== アクティウムの海戦 ===
{{main|アクティウムの海戦}}
[[紀元前31年]]に[[アンヴラキコス湾]]に集結したオクタウィアヌス軍とクレオパトラ・アントニウス連合軍であったが、古代の記録によれば、[[9月2日]]、突如としてクレオパトラが戦線離脱し、アントニウスも味方を置いてそれを追ったために敗北したことになっており、あたかも全責任はクレオパトラにあるかのようである{{Sfnp|大西|1977|pp=693–694}}。この海戦に関して様々な説があるが、学者も東西どちらを専門にしているかで意見が分かれている。しかし、東側の圧倒的な経済力を背景に、有能な指揮官であったアントニウスとクレオパトラが、何も出来ずに敗退したとするのは不可解であると言える{{Sfnp|大西|1977|pp=694–696}}。
同時代人でかろうじて信頼出来そうな[[ホラティウス]]の『エボディ』などからは、オクタウィアヌスが勝利したことは読み取れるものの、オクタウィアヌス本人による『業績録』にすらアクティウムに関する記述はなく、その存在すら疑われるほどで、ただクレオパトラが敵視されていたことだけは分かるという{{Sfnp|大西|1977|pp=698–701}}。当時の東西の経済格差からいって、内乱の続いた[[イタリア]]を立て直すため、アントニウスを単独で支えることが可能であったエジプトを奪う必要があり、クレオパトラが敵視されたのではないかとも考えられる。対してアントニウスとクレオパトラは、海上封鎖を続け敵が自滅を待つ消極策を採っていたものの、それに対する危機感から団結した西方が予想外に手強く、封鎖を破られたのではないかとする説もある{{Sfnp|大西|1977|pp=702–705}}
=== 最期 ===
{{See also|{{仮リンク|クレオパトラ7世の死|en|Death of Cleopatra|redirect=1}}}}
{{独自研究|date=2023年4月|section=1}}
[[File:Guido Cagnacci 003.jpg|thumb|250px|クレオパトラの死(瀕死のクレオパトラ)<br>[[グイド・カニャッチ]]、1658年]]
[[ファイル:The Death of Cleopatra arthur.jpg|thumb|250px|クレオパトラの死<br>レジナルド・アーサー 1892年]]
帰国したクレオパトラ7世はオクタウィアヌスとの外交交渉を試みるものの、条件面などで折り合いがつかず失敗に終わった。この結果、カエサリオンを国外へ逃がすことを決意し、実行に移した。しかし、ローマ軍はアレクサンドリアにまで到達し、アントニウスは残存する全軍を率いて決戦を挑むが、海軍の寝返りなどで失敗した。そして、[[紀元前30年]][[8月1日]]、アントニウスはクレオパトラ7世が自分を裏切ったと思い込んでいたところに届けられたクレオパトラ7世死去の報告(ただし、これは誤報)に接して自殺を図る。それを知ったクレオパトラ7世の指示により、アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラ7世のところにつれてこられたが、息を引き取った。
[[8月29日]]、オクタウィアヌスは捕虜となったクレオパトラ7世が自殺することを警戒し、厳重な監視下に置いていたが、クレオパトラ7世自身はオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。贈答品のイチジクに忍ばせていた[[アスプコブラ|コブラ]]に身体([[乳房]]か[[腕]])を噛ませて自殺したとも伝えられている。オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。
エジプトを征服したオクタウィアヌスは、[[紀元前30年]]、「カエサルの後継者」となる可能性があったカエサリオンを呼び戻して殺害し、プトレマイオス朝を滅ぼした。そして、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地([[アエギュプトゥス]])とした。しかし、クレオパトラがアントニウスともうけていた3人の子供たちは、オクタウィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、養育された。
== 人物 ==
{{独自研究|date=2016年1月|section=1}}
* 歴史家[[プルタルコス]]は『[[対比列伝]]』において、オクタウィアヌスの姉でアントニウスの妻のオクタウィアが、その両者の関係修復に尽力し、夫が不在の家を守りつつ、更に子弟の教育にも力を入れるのに対して、クレオパトラは徹頭徹尾、エジプトと自己の保身と愛のため、カエサル、ポンペイウス、アントニウスと駆け引きを繰り広げる自己中心的な人物として描いており、[[ゲーオア・ブランデス]]は彼女を、「女の中の女、典型的[[イヴ]]」と評している{{Sfnp|三戸|1994|pp=77–78}}。
* [[フランス]]の[[哲学者]][[ブレーズ・パスカル]]は、クレオパトラがその美貌と色香でカエサルやアントニウスを翻弄したとして、「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、歴史が変わっていた」と評した。
* 後世の多くの人から世界で最も美しい女性であったと認識され、「絶世の美女」として美女の代名詞になっている人物である。そのため、「実は美人ではなかった」という見解がたびたび研究者によって発表されている。2007年にも、イギリスのBBCニュースで話題になった<ref>[http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/tyne/6357311.stm BBCニュース Coin shows Cleopatra's ugly truth]</ref>。
* {{要出典範囲|エジプトの女王だったということで、映画や挿絵などでは肌の色の濃いエキゾチックな美女といった容姿で描かれることが多いが、プトレマイオス朝はギリシア人の家系であったので彼女の容貌はギリシャ的であり、同時代のクレオパトラの肖像としては、ギリシア風の巻き毛スタイルとエジプト風のおかっぱスタイルの両方が残っている|date=2023年3月}}。2023年、[[Netflix]]の[[ドキュメンタリー]]『[[:en:African_Queens_(TV_series)|African Queens]]』のシーズン2で[[黒人]]女優の{{仮リンク|アデール・ジェームズ|en|Adele James}}をクレオパトラ役に出演させたが、[[考古省|エジプト考古省]]は「史実改ざん」としてNetflixに抗議し、[[考古学最高評議会]]の事務総長も「エジプトの多くの専門家が『([[マケドニア (ギリシャ)|マケドニア・ギリシャ系]]の)クレオパトラは肌の色が白く、[[ギリシャ人]]の特徴がある』との意見で一致している」と述べた<ref>{{Cite web |title=A Black Queen Cleopatra? Egyptians lash out at Netflix’s depiction - National {{!}} Globalnews.ca |url=https://globalnews.ca/news/9659942/black-cleopatra-netflix-egypt/ |website=Global News |access-date=2023-06-30 |language=en-US |date=April 28, 2023}}</ref><ref>{{Cite news |title=Whose Queen? Netflix and Egypt Spar Over an African Cleopatra. |url=https://www.nytimes.com/2023/05/10/world/middleeast/cleopatra-netflix-race-egypt.html |work=The New York Times |date=2023-05-10 |access-date=2023-06-30 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Vivian |last=Yee}}</ref>。
* [[トルコ]]の[[エフェソス]]において、妹[[アルシノエ4世]]のものと考えられる墓所と遺骨が発見されたとの説もあるが、クレオパトラ自身の墓はまだ発見されていない<ref name=nhk20090802>[[2009年]][[8月2日]]に放送された[[NHKスペシャル]]「シリーズ・エジプト発掘 第3集『クレオパトラ 妹の墓が語る悲劇』」で取り上げられた。</ref>。近年になって、アレクサンドリア郊外に存在していた[[タップ・オシリス・マグナ神殿]]の地下深くにあるとみられる[[クレオパトラ7世とマルクス・アントニウスの墓|クレオパトラの墓]]にクレオパトラが埋葬されたとする仮説があり、[[考古最高評議会|エジプト考古最高評議会]]の[[ザヒ・ハワス]]議長(当時)や[[ドミニカ共和国]]出身の刑事弁護士・考古学者{{仮リンク|キャサリン・マルティネス|en|Kathleen Martinez}}の指揮の下、発掘調査が行われている。
* クレオパトラは後世[[ダンテ]]の[[抒情詩]]『[[神曲]]』では愛欲の罪により[[地獄]]で苦しむ設定となっている<ref> http://shutou.jp/post-863/</ref>。
== 系譜 ==
{{競走馬血統表
|name = クレオパトラ7世
|mlin = [[プトレマイオス朝]]
|inbr = <small>
*プトレマイオス9世 2×2・3=75%
*プトレマイオス8世 3・3×3・3・4・4=75%
*クレオパトラ3世 3・3×3・3・4・4=75%
*プトレマイオス5世 4・5・5・4・5・5×4・5・5・5・6・6・5・6・6=50%
*クレオパトラ1世 4・5・5・4・5・5×4・5・5・5・6・6・5・6・6=50%</small>
|f = [[プトレマイオス12世]]
|m = [[クレオパトラ5世]]/6世(異説有り)
|ff = '''[[プトレマイオス9世]]'''
|fm = [[クレオパトラ4世]]
|mf = '''プトレマイオス9世'''
|mm = 未確定([[ベレニケ3世]]または未知の愛人)※括弧内ベレニケ3世の血統
|fff = '''[[プトレマイオス8世]]'''<small>(※1)</small>
|ffm = '''[[クレオパトラ3世]]'''
|fmf = '''プトレマイオス8世'''
|fmm = '''クレオパトラ3世'''
|mff = '''プトレマイオス8世'''
|mfm = '''クレオパトラ3世'''
|mmf = ('''プトレマイオス9世''')
|mmm = ([[クレオパトラ・セレネ1世]])
|ffff = [[プトレマイオス5世]]
|fffm = [[クレオパトラ1世]]
|ffmf = [[プトレマイオス6世]]<small>(※1)</small>
|ffmm = [[クレオパトラ2世]]<small>(※1)</small>
|fmff = プトレマイオス5世
|fmfm = クレオパトラ1世
|fmmf = プトレマイオス6世
|fmmm = クレオパトラ2世
|mfff = プトレマイオス5世
|mffm = クレオパトラ1世
|mfmf = プトレマイオス6世
|mfmm = クレオパトラ2世
|mmff = ('''プトレマイオス8世''')
|mmfm = ('''クレオパトラ3世''')
|mmmf = ('''プトレマイオス8世''')
|mmmm = ('''クレオパトラ3世''')
|comment = ※1の3人は兄弟
}}
== 登場作品 ==
=== 小説 ===
* [[テオフィル・ゴーティエ]]『クレオパトラの夜』{{要出典|date=2023年6月}}{{疑問点|date=2023年6月|title=「テオフィル・ゴーティエ」の項にある『『或る夜のクレオパトラ』(Une nuit de Cléopâtre, 1838)のことか?』}}
* [[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]『{{仮リンク|エジプトの夜|ru|Египетские ночи}}』(1837年)
* テオフィル・ゴーティエ『{{仮リンク|クレオパトラの一夜|fr|Une nuit de Cléopâtre}}』(1838年)<ref>{{Cite journal|和書|author=永井久美子 |date=2020-12-24 |url=https://doi.org/10.15083/00080062 |title=「世界三大美人」言説の生成 : オリエンタルな美女たちへの願望 |journal=Humanities Center Booklet |ISSN=2434-9852 |publisher=東京大学連携研究機構ヒューマニティーズセンター |volume=6 |pages=1-40 |doi=10.15083/00080062 |hdl=2261/00080062 |id={{CRID|1390290699730824320}}}}</ref>
* [[宮尾登美子]]『クレオパトラ』(1996年<ref>{{Cite book|和書 |title=クレオパトラ |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002528300-00 |publisher=朝日新聞社 |date=1996 |location=東京 |first=宮尾 |last=登美子 |volume=上}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=クレオパトラ |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002528301-00 |publisher=朝日新聞社 |date=1996 |location=東京 |first=宮尾 |last=登美子 |volume=下}}</ref>)
* [[楠木誠一郎]]『クレオパトラと名探偵! : タイムスリップ探偵団古代エジプトへ』(2017年)<ref>{{Cite book |title=クレオパトラと名探偵! : タイムスリップ探偵団古代エジプトへ |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I028658878-00 |publisher=講談社 |date=2017 |location=東京 |first=楠木 |last=誠一郎, 1960- |first2=たはら |last2=ひとえ}}</ref>
=== 戯曲 ===
* [[シェイクスピア]]『[[アントニーとクレオパトラ]]』
* [[ジョージ・バーナード・ショー]]『シーザーとクレオパトラ』
=== 音楽作品 ===
*[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]:[[オペラ]]『[[エジプトのジュリアス・シーザー]]』
*[[エクトル・ベルリオーズ]]:[[カンタータ]]『クレオパトラの死』
*ベッルーティ:『クレオパトラの死と変容』([[マンドリンオーケストラ]])
*[[バド・パウエル]]:『[[クレオパトラの夢]]』
=== 実写映画 ===
[[File:Burton Taylor Cleopatra.jpg|thumb|250px|1963年の映画『[[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]]』より、エリザベス・テイラー(クレオパトラ7世)と[[リチャード・バートン]](アントニウス)]]
* [[アントニーとクレオパトラ (1913年の映画)|アントニーとクレオパトラ]](1913年) - イタリア映画。1914年日本公開。演:{{仮リンク|ジョヴァンナ・テリビリ=ゴンザレス|it|Gianna Terribili-Gonzales}}。
* [[シーザーの御代]](1917年) - フォックス映画が製作した映画。1922年日本公開。演:[[セダ・バラ]]。
* [[クレオパトラ (1934年の映画)|クレオパトラ]](1934年) - [[パラマウント映画]]が製作した映画。演:[[クローデット・コルベール]]。
* [[シーザーとクレオパトラ]](1945年) - イギリス映画。演:[[ヴィヴィアン・リー]]。
* [[ナイルの妖女クレオパトラ]](1953年) - 演:[[ロンダ・フレミング]]。日本ではDVDスルー。
* [[:it:Due notti con Cleopatra|Due notti con Cleopatra]](1954年) - 演:[[ソフィア・ローレン]]。日本未公開。
* [[クレオパトラ (1959年の映画)|クレオパトラ]](1959年) - イタリアのアレキサンドラ・プロで製作された映画。演:[[リンダ・クリスタル]]。
* [[妖姫クレオパトラ]](1962年) - イタリア映画。演:[[パスカル・プティ]]。
* [[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]](1963年) - [[20世紀フォックス]]が製作した映画。配給会社を危うく潰し掛けたことで有名。演:[[エリザベス・テイラー]]。
* [[アントニーとクレオパトラ (1972年の映画)|アントニーとクレオパトラ]](1972年) - [[ウィリアム・シェイクスピア]]の同名戯曲の映画化作品。演:[[ヒルデガード・ニール]]。
* ''[[:fr:Deux Heures moins le quart avant Jésus-Christ|Deux Heures moins le quart avant Jésus-Christ]]''(1982年) - 演:Mimi Coutelier。日本未公開。
* [[妖艶妃クレオパトラ]](1985年) - イタリア映画。演:[[マルチェラ・ペトレッリ]]。
* [[ミッション・クレオパトラ]](2002年) - フランス映画。演:[[モニカ・ベルッチ]]。後述の漫画「アステリックスとクレオパトラ」を原作とする<ref>{{Cite web |title=ミッション・クレオパトラ (2002):あらすじ・キャストなど作品情報|シネマトゥデイ |url=https://www.cinematoday.jp/movie/T0001827 |website=シネマトゥデイ |access-date=2023-06-03 |language=ja}}</ref>。
=== テレビドラマ ===
* {{仮リンク|レジェンド・オブ・エジプト|en|Cleopatra (miniseries)|label=レジェンド・オブ・エジプト(テレビ放映邦題:クレオパトラ)}}(1999年) - 米国のテレビムービー。演:[[レオノア・ヴァレラ]]
* [[アフリカン・クイーンズ:クレオパトラ]](2023年) - [[NetflixオリジナルTV番組の一覧|NetflixオリジナルTV番組]]。演:[[アデル・ジェームズ]]<ref>{{Cite web |title=Watch Queen Cleopatra {{!}} Netflix Official Site |url=https://www.netflix.com/title/81230204 |website=www.netflix.com |access-date=2023-05-01 |language=en}}</ref>
=== 漫画・アニメ ===
* {{仮リンク|アステリックスとクレオパトラ|fr|Astérix et Cléopâtre}} - [[1969年]]。『[[アステリックス]]』シリーズの第6作。
* [[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]] - [[虫プロダクション]]が[[1970年]]に製作した劇場用長編アニメーション映画。クレオパトラの[[声優|声]]は[[中山千夏]]が演じた。コミカライズ版([原案・監修][[手塚治虫]]、[漫画][[坂口尚]])もある<ref>{{Cite web |title=メディア芸術データベース ラボ版プロトタイプ |url=https://mediag.bunka.go.jp/madb_lab/prototype/id/M523563 |website=mediag.bunka.go.jp |access-date=2022-12-23}}</ref>。
* クレオパトラ - [[里中満智子]]による漫画<ref>{{Cite web |title=クレオパトラ - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M270168 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2022-12-23}}</ref>。[[1975年]]、『[[少女フレンド]]』([[講談社]])誌上(8号 - 11号)で発表。
** 全1巻 [[1976年]]6月発行、ISBN 9784061097001<ref>{{Cite book |title=クレオパトラ |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000098-I000080755-00 |publisher=講談社 |date=1976-06-15 |location=東京 |first=里中満智子 |last=著}}</ref>
* 20世紀のクレオパトラ - [[坂本ミドリ]]。1975年、[[若木書房]]<ref>{{Cite book |title=20世紀のクレオパトラ |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000800280-00 |publisher=若木書房 |date=1975 |location=東京 |first=坂本 |last=ミドリ}}</ref><ref>{{Cite web |title=くだん書房 |url=http://www.kudan.jp/nikki/nikki1407-09.html |website=www.kudan.jp |access-date=2023-05-03}}</ref>。
* [[妖女伝説#砂漠の女王|砂漠の女王]] - [[星野之宣]]による漫画で連作短編『[[妖女伝説]]』の中で[[1979年]]から[[1988年]]にかけて10年にわたり書き継がれた作品<ref>{{Cite web |title=妖女伝説 2 {{!}} 星野之宣 – 小学館コミック |url=https://shogakukan-comic.jp/book?jdcn=091874050000d0000000 |website=shogakukan-comic.jp |access-date=2022-12-23 |language=ja}}</ref>。クレオパトラが「バア転生の秘法」を用いて、古代パレスチナの王女[[サロメ (ヘロディアの娘)|サロメ]]、[[パルミラ帝国]]の女王[[ゼノビア]]といった砂漠の女王として転生を繰り返し、数奇な運命をたどってゆく。
* [[新竹取物語 1000年女王|1000年女王]](劇場版) - [[松本零士]]原作。[[1982年]]。[[楊貴妃]]、[[卑弥呼]]とともに、歴代の1000年女王として登場する。原作の漫画版にもわずかながら登場。
* アントニーとクレオパトラ - [[谷口敬]]作画、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェークスピア]]原作。[[1989年]]、[[桜桃書房]]<ref>{{Cite book |title=アントニーとクレオパトラ |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000098-I000149758-00 |publisher=桜桃書房 |date=1989-04-15 |last=谷口敬 |first2=シェークスピア |last2=原作}}</ref>。
* クレオパトラ : 古代エジプトの最後の女王 - [[千明初美]]作画、[[柳川創造]]シナリオ。[[1995年]]、『学習漫画 世界の歴史』シリーズ([[集英社]])。ISBN 9784082400316<ref>{{Cite book |title=クレオパトラ : 古代エジプトの最後の女王 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002449691-00 |publisher=集英社 |date=1995 |location=東京 |first=千明 |last=初美, 1951- |first2=柳川 |last2=創造, 1925-}}</ref>
* クレオパトラ - [[黒田かすみ]]。[[1996年]]、[[角川書店]]。ISBN 9784048527101<ref>{{Cite web |title=クレオパトラ - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M291606 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-05-02}}</ref>
* クレオパトラ女王 : 古代エジプト最後の女王 - [[梶川卓郎]]作画、[[近藤二郎]]監修。[[2011年]]、『学習まんが人物館』シリーズ([[小学館]])<ref>{{Cite web |title=小学館版 学習まんが人物館 クレオパトラ女王 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09270027 |website=小学館 |access-date=2022-12-23 |language=ja}}</ref>。ISBN 9784092700277
* クレオパトラ : 古代エジプト王朝最後の女王 - [[ねこだす]]。2012年、『週刊 マンガ世界の偉人』シリーズ([[朝日新聞出版]])。<ref>{{Cite book |title=週刊 マンガ世界の偉人 6号 |url=https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=13534 |language=ja}}</ref>ISBN 9784023320147<ref>{{Cite book |title=週刊マンガ世界の偉人 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000098-I000269585-00 |publisher=朝日新聞出版 |first=山口正 |last=監修}}</ref>
* クレオパトラ - [[叶精作]]作画、[[倉科遼]]原作。[[2012年]]-[[2013年]]、『世界女帝列伝』シリーズ([[グループ・ゼロ]])。全7巻。<ref>{{Cite book |title=世界女帝列伝 クレオパトラ 7 |url=https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00ARF7ML8?ref_=dbs_p_pwh_rwt_anx_cl_2&storeType=ebooks |publisher=グループ・ゼロ |date=2012-12-01 |first=遼 |last=倉科 |first2=精作 |last2=叶}}</ref><ref>{{Cite web |title=クレオパトラ~世界女帝列伝(フルカラー) 1巻 |無料試し読みなら漫画(マンガ)・電子書籍のコミックシーモア |url=https://www.cmoa.jp/title/40350/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-05-02}}</ref>
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** 4巻 2021年3月発行、ISBN 9784801972339<ref>{{Cite book |title=クレオパトラな日々 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I031325858-00 |publisher=竹書房 |date=2021 |location=東京 |first=柳原 |last=満月}}</ref>
* クレオパトラ:古代エジプト最後の女王 - [[笹原智映]]作画、[[阪本浩]]監修。[[2018年]]、『角川まんが学習シリーズ まんが人物伝』。ISBN 9784041051467<ref>{{Cite book |title=クレオパトラ : 古代エジプト最後の女王 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I029338811-00 |publisher=KADOKAWA |date=2018 |location=東京 |first=阪本 |last=浩, 1954- |first2=笹原 |last2=智映}}</ref>
* クレオパトラ : 強く生きた古代エジプトの女王! - [[佐々木メエ]]作画、[[金治直美]]文、[[近藤二郎]]監修。2018年、『やさしく読めるビジュアル伝記』([[学研プラス]])。ISBN 9784052048241<ref>{{Cite book |title=クレオパトラ : 強く生きた古代エジプトの女王! |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I028936762-00 |publisher=学研プラス |date=2018 |location=東京 |first=金治 |last=直美, 1957- |first2=佐々木 |last2=メエ |first3=近藤 |last3=二郎, 1951-}}</ref>
*[[パトラと鉄十字]] - [[真鍋譲治]]による漫画。[[2019年]] - [[2022年]]、『[[月刊キスカ]]』([[竹書房]])にて連載された。
** 1巻 2019年12月発行、ISBN 9784801967861<ref>{{Cite web |title=パトラと鉄十字1 - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M815713 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-05-01}}</ref>
** 2巻 2020年6月発行、ISBN 9784801969865<ref>{{Cite web |title=パトラと鉄十字2 - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M820962 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-05-01}}</ref>
** 3巻 2020年12月発行、ISBN 9784801971431<ref>{{Cite web |title=パトラと鉄十字3 - メディア芸術データベース |url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/M829772 |website=mediaarts-db.bunka.go.jp |access-date=2023-05-01}}</ref>
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** 5巻 2023年4月発行、ISBN 9784801980280<ref>{{Cite book |title=パトラと鉄十字 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000067-I000673228-00 |publisher=竹書房 |date=2023-04-06 |last=真鍋譲治}}</ref>
* だって私、クレオパトラですから! - [[森園みるく]]。[[2022年]] - 、[[KADOKAWA]]、タテスクコミック<ref>{{Cite book |title=だって私、クレオパトラですから!【タテスク】 |url=https://comic.k-manga.jp/title/168979/pv}}</ref><ref>{{Cite web |title=だって私、クレオパトラですから!【タテスク】 |url=https://comic-walker.com/jp/contents/detail/KDCW_TS01203405010000_68/ |website=ComicWalker - 人気マンガが無料で読める! |access-date=2023-06-01 |language=ja}}</ref>
=== 絵本 ===
* クレオパトラ - [[山口菜]]作画、[[清水あゆこ]]文、[[齋藤孝 (教育学者)|齋藤孝]]監修。[[2023年]]、『はじめての伝記えほん』シリーズ([[ポプラ社]])。ISBN 978-4-591-17476-0<ref>{{Cite web |title=クレオパトラ |url=https://www.poplar.co.jp/book/search/result/archive/3058005.html |website=ポプラ社 |access-date=2023-05-02}}</ref>
=== ミュージカル ===
* [[松竹歌劇団]]・1981年『[[新竹取物語 1000年女王#演劇|新竹取物語 1000年女王]]』([[藤川洋子]])
* [[宝塚歌劇団]]・1986年花組『真紅なる海に祈りを』([[秋篠美帆]])
* 宝塚歌劇団・2006年月組『暁のローマ』([[城咲あい]])
* 宝塚歌劇団・2021年花組『アウグストゥス -尊厳ある者-』([[凪七瑠海]])
=== バレエ ===
*[[Kバレエカンパニー]]・2017年『クレオパトラ』- 演出・振付・台本:[[熊川哲也]]、音楽:[[カール・ニールセン]]<ref>{{Cite web |title=公演記録 - Daiwa House PRESENTS Tetsuya Kumakawa K-BALLET COMPANY Autumn Tour 2017 CLEOPATRA|バレエアーカイブ |url=https://ballet-archive.tosei-showa-music.ac.jp/stages/view/20421 |website=ballet-archive.tosei-showa-music.ac.jp |access-date=2023-03-08 |language=ja}}</ref>。
=== 演劇 ===
* [[花組芝居]]・1997年『悪女クレオパトラ』([[加納幸和]]) - 演出・脚本:加納幸和、アートディレクター:[[辻村ジュサブロー]]<ref>{{Cite web |url=https://hanagumi.ne.jp/reki/29/h_patla2.html |title=悪女クレオパトラ ==PRESS RELEASE== |access-date=2023年6月1日}}</ref><ref>{{Cite web |title=花組芝居「花博&悪女クレオパトラ」 |url=https://hanagumi.ne.jp/reki/0/?offset=10 |website=hanagumi.ne.jp |access-date=2023-06-01}}</ref>
* [[TremendousCircus]]・2021年『Femiking』 - 演出:[[田中円]] [[知乃]]、脚本:田中円<ref>{{Cite web |title=『Femiking』2021年11月12日(金)~14日(日) |url=http://tremendous.jp/femiking/ |website=TremendousCircus公式HP |access-date=2023-06-01 |language=ja}}</ref>
=== ゲーム ===
* [[アサシン クリード オリジンズ]](声:[[雨宮天]]) - [[ユービーアイソフト]]より[[2017年]]10月に発売された[[ステルスゲーム]]。主人公の支援者として登場。
* [[シヴィライゼーション#シヴィライゼーションVI|Civilization 6]] - エジプト文明の指導者として登場。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
=== 日本語文献 ===
* {{Cite book|和書|ref={{sfnref|エヴァリット|2006}}|first=アントニー|last=エヴァリット|title=キケロ もうひとつのローマ史|translator=[[高田康成]]| publisher=[[白水社]]|year=2006|ISBN=9784560026212}}
*{{Cite journal|和書|author=大西陸子|title=<論説>アクティウムの海戦再考|journal=史林|publisher=史学研究会 |year=1977|volume=60 |issue=5 |pages=690-720 |url=https://hdl.handle.net/2433/238377|doi=10.14989/shirin_60_690|accessdate=2022-3-28 |ref={{SfnRef|大西|1977}}}}
* {{Cite journal|和書|author=三戸祥子 |date=1994-12 |url=https://doi.org/10.51095/kiyo.29.02 |title=クレオパトラ,不滅の美と誇り |journal=広島文教女子大学紀要 |ISSN=0919181X |publisher=広島文教女子大学 : 広島文教女子大学短期大学部 |volume=29 |pages=77-93 |doi=10.51095/kiyo.29.02 |naid=120005762553 |CRID=1390294252778161408 |accessdate=2023-10-10 |ref={{SfnRef|三戸|1994}}}}
* {{Cite thesis|和書|accessdate=2022-06-03|ref={{sfnref|物應|2006}}|author=物應忠|title=クレオパトラと共和政ローマ |degree=兵庫教育大学 修士論文 |year=2006 |url=https://hdl.handle.net/10132/1577}}
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=== 外国語文献 ===
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* {{Citation|last=Skeat|first=T. C.|author-link=Theodore Cressy Skeat|title=The Last Days of Cleopatra: A Chronological Problem|journal=The Journal of Roman Studies|volume=43|issue=1–2|year=1953|jstor=297786|pages=98–100|doi=10.2307/297786|ref={{Sfnref|Skeat|1953}}}}
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=== 古代文献 ===
* [[アッピアノス]]『内乱記』
* [[プルタルコス]]『[[対比列伝|英雄伝]]』
* [[ストラボン]]『[[地理誌]]』
* [[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』
* [[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]『アッティクス宛書簡』
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Cleopatra VII of Egypt}}
* [[クレオパトラの死 (曖昧さ回避)]]
* [[アントニーとクレオパトラ (曖昧さ回避)]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|クレオパトラ}}
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{{s-hou|[[プトレマイオス朝|プトレマイオス家]]|紀元前69年|1月|紀元前30年|8月12日}}
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[[Category:クレオパトラ7世|*]]
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6,589 | プトレマイオス朝 | 紀元前235年頃のプトレマイオス朝の領域
緑色のコイレ・シリアは後にセレウコス朝に奪われる
プトレマイオス朝(プトレマイオスちょう、古代ギリシア語: Πτολεμαῖοι、Ptolemaioi、紀元前305年 - 紀元前30年)は、グレコ・マケドニア人を中核とした古代エジプトの王朝。アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者(ディアドコイ)となったラゴスの子プトレマイオス(1世)によって打ち立てられた。建国者の父親の名前からラゴス朝とも呼ばれ、セレウコス朝やアンティゴノス朝とともに、いわゆるヘレニズム国家の一つに数えられる。首都アレクサンドリアは古代地中海世界の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられたムセイオンと付属の図書館(アレクサンドリア図書館)を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的にはシリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。この王朝が残したロゼッタ・ストーンは近代のエジプト語解読のきっかけを作った。
ローマが地中海で存在感を増してくると、プトレマイオス朝はその影響を大きく受け、ローマ内の政争に関与すると共に従属国的な色彩を強めていった。実質的な最後の王となったクレオパトラ7世はローマの有力政治家ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスと結んで生き残りを図ったが、アントニウス軍と共にオクタウィアヌスと戦ったアクティウムの海戦での敗北後、自殺(英語版)に追い込まれた。プトレマイオス朝の領土はローマに接収され、帝政の開始と共に皇帝属州のアエギュプトゥスが設立された。
マケドニア王国の王、アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は、当時西アジアの大半とエジプトを支配していたハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を征服するべく、前334年に東方遠征に出発し、その途上、前332年にはエジプトに入り、これを無血平定した。彼はファロス島の対岸、ナイルデルタ西端の地点が良港であると見て、建築家デイノクラティスに都市計画を命じたという。こうしてアレクサンドリア市の建設が始まった。この都市はその後エジプト最大の都市へと発展し、プトレマイオス朝の王都として機能するようになる。アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にあるアメン神(ゼウスと同一視された)の聖所シワ・オアシスを訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる。
アレクサンドロス3世は前331年4月にエジプトを離れてハカーマニシュ朝の残された領土の征服に向かい、生前にエジプトに戻ることはなかった。彼は前331年10月のガウガメラの戦いで勝利し、逃亡したハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)は部下の裏切りによって殺害された。その後、ハカーマニシュ朝の領土のほとんど全てをアレクサンドロス3世が征服したが、彼は前323年にバビロン市で病没した。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス、古代ギリシア語: χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった。他、メレアゲルやレオンナトス、アンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、そしてラゴスの子プトレマイオス(1世)らも有力な将軍の列に加わっていた。
プトレマイオスはマケドニアの貴族ラゴス(英語版)とアルシノエ(英語版)の間の子である。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王フィリッポス2世の妾であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人(ヘタイロイ)として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった。
エジプトはギリシア人であるナウクラティスのクレオメネスの管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われたバビロン会議の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したのに対し、プトレマイオスはアンティゴノス、ヘレスポントスを支配するリュシマコス、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共にメンフィスに作った仮墓に埋葬した。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「セマ」に安置され、水晶の棺に納められたという。また、西方のギリシア人植民市キュレネも征服してリビュア方面を確保した。ペルディッカスは前321年にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したがナイル川の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された。
ペルディッカスの死後、シリアのトリパラディソスで会議がもたれ、改めて各ディアドコイの領土の配分が話し合われた。この会議でもプトレマイオスはエジプトの支配権を維持した。長老格のアンティパトロスがペルディッカスに代わってアリダイオスとアレクサンドロス4世の後見を任されたが、前319年にアンティパトロスが死んだ後その地位を継承したポリュペルコンに反対して各ディアドコイたちが同盟を結び、プトレマイオスもこれに加わった。以降、アンティゴノス、カルディアのエウメネス、セレウコス、リュシマコス、アンティパトロスの子カッサンドロスと言ったディアドコイ諸侯たちとの間で同盟と対立が繰り返され、アレクサンドロス3世の帝国は次第に分割されて行くことになる。
以降の戦いで中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子デメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)である。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えたカッサンドロス、バビロニアを追われたセレウコス、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し、シリアおよび海上でデメトリオスと戦った。プトレマイオスはこの過程で、前310年に海路でギリシアに遠征し小アジア南岸のリュキア、カリア、キュクラデス諸島の他、一時的ながらペロポネソス半島の一部を支配下に置いた。しかし、前306年にはサラミスの海戦でデメトリオスに敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した(アンティゴノス朝)。
キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた。これを挽回するために彼がロドスを抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲(ロドス包囲戦)の末にデメトリオス軍を撃退した。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(Sōtēr、救世主)と渾名されることになる。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した。
前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世がセレウコス1世、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍に敗れ戦死すると、それに乗じたプトレマイオス1世はアラドスとダマスカス以南のシリア、およびリュキア、キリキア、ピシディアの一部を支配下に置いた。一方、アジアではリュシマコスをも滅ぼしたセレウコス1世(セレウコス朝)がシリアからインダス川に至る広大な地域を支配下に置いて覇者となった。デメトリオス1世はマケドニアに渡り再起を図った。やがて、彼の息子のアンティゴノス2世(アンティゴノス・ゴナタス)がマケドニア本国にアンティゴノス朝を確立していく。プトレマイオス朝はこのセレウコス朝やアンティゴノス朝と共にヘレニズム王朝の1つに数えられ、これらと東地中海地域の覇権を巡って争った。
プトレマイオス1世は前283年に死去し、その前に共同統治者となっていた息子のプトレマイオス2世(フィラデルフォス、在位:前285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し、彼と続くプトレマイオス3世の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる。
プトレマイオス2世は父王の死後セレウコス朝と激しい争いを繰り広げた。前281年にセレウコス1世がプトレマイオス・ケラウノスに暗殺された後、セレウコス朝の支配者となったアンティオコス1世は、プトレマイオス朝の勢力を弱めようと画策し、キュレネの統治者マガス(英語版)に働きかけ、彼を臣下のギリシア人たちと共にプトレマイオス2世から離反させた。マガスはプトレマイオス2世の異父兄弟であり、プトレマイオス1世によってキュレネの支配者とされていた人物である。また、アンティオコス1世の娘アパマ(アパメー)と結婚していた。さらに前274年から前271年にかけて、第一次シリア戦争が戦われた。シリアに侵攻したプトレマイオス2世は敗れたが、この戦争自体は痛み分けに終わった。続いて10年後にはセレウコス朝の新王アンティオコス2世との間で第二次シリア戦争が勃発し、プトレマイオス2世はシリア、小アジア方面で大幅な後退を余儀なくされた。以降数世紀にわたって繰り返しシリア戦争が両王朝の間で戦われることになる。
また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立するアテナイやその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、スパルタを中心としたギリシアのポリス連合との間でクレモニデス戦争が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたるアルシノエ2世の息子プトレマイオスをマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった。
こうした軍事上の失敗のために、東地中海におけるプトレマイオス朝の影響力は一時低下したものの、プトレマイオス2世統治下におけるエジプトの繁栄は多くの史料によって明らかになっている。彼は支配地であるエジプトから得られる豊かな収入を用いて壮大な宮殿、神殿を建設し、またムセイオンにアレクサンドリア図書館として名高い図書館を建設して各地から優れた学者を招聘した。このムセイオンの付属図書館は一説には50万とも70万とも言われる蔵書を抱え、ギリシア語の古典の校正や研究など、古典古代の学術発展に大きな影響を残すことになる。アレクサンドロス3世以来続けられてきた都市アレクサンドリアの建設自体もプトレマイオス2世時代にはほぼ完成するにいたり、地中海最大の都市・学芸の中心として多くの著作家たちの語り草となるようになった。
また、王朝の権威を高めるための王室崇拝儀礼もプトレマイオス2世の時代に大きく整備された。父プトレマイオス1世を「救済神」(テオス=ソテル、Theos Sōtēr)としたのを皮切りに、母ベレニケ1世も死後神々の座に加えた。さらに妻とした実姉アルシノエ2世も「弟を愛する女神」(テア=フィラデルフォス、Thea Philadelphus)として神格化し、その死後には自らを妻とともに「姉弟の神々」(テオイ=アデルフォイ、Theoi Adelphoi)として神の座に加えた。こうして王が神として統治するエジプトの伝統がプトレマイオス朝の支配に適合するように調整された。このようなプトレマイオス2世の処置はその後のプトレマイオス朝の王たちの範となった。以降プトレマイオス王家では兄弟姉妹婚と生前から神として崇拝を受けることが慣例となる。
前246年、父の跡を継いで王位についたプトレマイオス3世(エウエルゲテス、在位:前246年-前222年)は、父王の代に離反していたキュレネの奪回に取り組んだ。キュレネを支配していたマガスは娘のベレニケ2世をプトレマイオス3世と結婚させる予定でいたが、マガスの死後、その妻アパマはベレニケ2世の結婚相手としてアンティゴノス・ゴナタスの弟デメトリオス(英語版)(美男王)を希望した。しかしベレニケ2世はデメトリオスを暗殺し、自らはプトレマイオス3世と結婚する道を選んだ。これによってキュレネ市はプトレマイオス朝の支配に復したが、キュレナイカの他の都市は反抗したため、結局軍事的処置によって再征服が行われた。同時に、東方では前246年以降、セレウコス朝の領土奥深くへ進軍した(第三次シリア戦争)。アッピアノスの記録によれば、この戦争はセレウコス朝の王アンティオコス2世に嫁いでいたプトレマイオス3世の姉妹ベレニケが、別の妻ラオディケに息子もろとも殺害されたことに対する報復として始まったという。プトレマイオス3世はそれに先立ってアンティオコス2世がラオディケに毒殺された際にベレニケから支援を求められアンティオキアへと進軍していたが、到着した時には既にベレニケ母子も殺害された後であり、そのままアンティオキアを攻略して戦争に突入した。
この第三次シリア戦争において、プトレマイオス3世はプトレマイオス朝の王としては対セレウコス朝の戦いで最大の成功を収めた。彼はシリア地方を席巻し、メソポタミアを突き抜けてバビロニアまで進軍した。バビロン市の包囲では現地軍の頑強な抵抗に合い、激しい戦闘が繰り広げられたことが現地の楔形文字史料である『バビロニア年代誌』の記録によって明らかとなっている。この年代誌は結末の部分が欠落しており、エジプト軍が最終的にバビロンの占領に成功したのかどうか不明瞭である。プトレマイオス朝が建設した戦勝記念碑文では、バビロニア、小アジアに加えバクトリア、ペルシア、メディアなど、セレウコス朝の全領土における成功が宣言されているが、これが事実であるかどうかも不明である。単純な事実としてはこの戦争の終結後間もなく、セレウコス朝はバビロニアとシリアの支配を回復している。しかしそれでもなお、小アジアのエーゲ海沿岸部やシリア南部(コイレ・シリア)、そしてさらにセレウコス朝の首都アンティオキアの外港セレウキア・ピエリア(英語版)までもがプトレマイオス朝の支配下に残った。
プトレマイオス3世はこの戦争の後は大規模な対外遠征は行っていないが、それでもさらなる勢力拡張を目指して、アテナイやアカイア同盟などギリシアの政情に介入を繰り返し、またアテナイの外港ペイライエウスに駐留していたアンティゴノス朝の軍団を撤退させた。これに対してアテナイは市民団の13番目の「部族」として「プトレマイス」を新設するという栄誉で応えた。
伝統的な見解では最初の3代の治世が終わった後、プトレマイオス朝は領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などのため徐々に衰退へ向かっていったとされている。プトレマイオス4世(在位:前222/221年-前204年)は、父を殺害して即位したことに対する皮肉から「フィロパトル(Philopator、父を愛する者)という異名が与えられている。彼は即位に伴う流血とその放蕩な生活ぶりで名を知られている。父親の他、即位してから1年のうちに、母ベレニケ2世と弟マグス、叔父リュシマコスを殺害し、アレクサンドリアのギリシア人ソシビオスに唆されて遊蕩にふける生活を送るようになったという。
プトレマイオス4世が即位して間もなく重大な問題となったのが同時期にセレウコス朝で新たに即位したアンティオコス3世(大王、在位:前223年-前187年)の脅威であった。プトレマイオス朝の王位継承に伴う混乱を好機と見たアンティオコス3世は、前219年に第三次シリア戦争で失ったコイレ・シリアとセレウキア・ピエリアの奪還を目指して侵攻を開始し、第四次シリア戦争が勃発した。初年度のうちに全シリアがセレウコス朝の手に落ちたが、プトレマイオス4世はエジプト本国への攻撃を阻止することに成功し、さらに現地エジプト人2万人を軍隊に編入するという改革を実施することで軍団を強化した。そして前217年にヘレニズム時代最大規模の会戦であるラフィアの戦いでセレウコス朝の軍隊を撃破することに成功し、セレウキア・ピエリアを除くコイレ・シリアを奪回した上で講和を結んだ。
しかし、この勝利の後のエジプト国内での反乱が、財政の悪化と共にプトレマイオス朝にとって重い負担となった。反乱が頻発した背景には、軍隊の一員として大きな役割を果たしたエジプト人たちがある種の民族主義的な自意識を獲得し、中央政府の支配に復さなくなったとする見解が(古典古代から)伝統的に採用されている。このような見解は現在では批判が行われているが、原因は別としても前207/205年頃にはテーベを中心とする上エジプトが将軍ハロンノフリス(ヒュルゴナフォル)とカロンノフリス親子を戴いてプトレマイオス朝から離反し、深刻な脅威をもたらした(南部大反乱)。
この反乱の発生直後、プトレマイオス4世が死亡して僅か6歳のプトレマイオス5世(在位:前204年-前180年)が即位し、実権は延臣のソシビオスとアガトクレスが握った。しかし老齢のソシビオスは間もなく死亡し、アガトクレスも前203年には軍のクーデターにより殺害された。幼少の王の即位と混乱を好機と見たセレウコス朝のアンティオコス3世と前202年にコイレ・シリアに侵入して第五次シリア戦争が勃発した。前202年までにはエジプトとの境界に至る全シリアがセレウコス朝の支配下に入り、同時にアンティゴノス朝のフィリッポス5世もセレウコス朝に同調し、エーゲ海のプトレマイオス朝の支配地であったキュクラデス諸島やミレトスに攻撃をかけて、他のギリシア人ポリスもろとも、これを占領した。
拡大するアンティゴノス朝の脅威に晒され、敗戦と内乱の渦中にあるプトレマイオス朝の支援も当てにできなくなったエーゲ海のギリシア人ポリス、ロドス、ビュザンティオン、キオス、そしてペルガモン王国のアッタロス1世らは対アンティゴノス朝の同盟を結ぶと共に、第二次ポエニ戦争に勝利して地中海に覇権を確立しつつあったローマの支援を求めた。ローマはギリシア情勢に介入し、前197年のキュノスケファライの戦いでアンティゴノス朝の軍団を打ち破ってギリシアにおけるアンティゴノス朝の領土を独立させ、同国の外交権を剥奪した。続いてギリシアへと勢力を拡張しようとしたセレウコス朝のアンティオコス3世も前191年のテルモピュライの戦い(英語版)と前190年のマグネシアの戦いでローマに敗れ、東地中海におけるローマの影響力は一挙に拡大した。
こうした政治的動向の中で、プトレマイオス朝も次第にローマとの関わりを拡大させていく。ローマはこの時、プトレマイオス朝に対して好意的であり、アンティゴノス朝に対してプトレマイオス朝の領土に手を出さないよう警告を出した。しかしプトレマイオス朝はローマとセレウコス朝の和約においては何ら関与することができず、地中海における影響力の低下は明らかであった。国内では政権を握ったアカルナニア人アリストメネスが前196年にメンフィスでプトレマイオス5世の宣布式を執り行ない、国内の支持を集めるため土地の授与や免税などが宣言された。この宣言文が刻まれた石碑が1799年に発見されており、現在はロゼッタ・ストーンの名で知られている。これはエジプト語の解読に決定的な役割を果たすことになる。また、セレウコス朝との関係を改善すべくアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世との婚姻も結ばれた。これらを通じて国内外の情勢が安定したことで、南部の反乱対応に注力することが可能となり、プトレマイオス5世は前186年に南部の反乱を鎮圧することに成功した。
前180年、プトレマイオス5世が死去するとプトレマイオス6世(在位:前180年-前145年)が父親と同じく幼くして即位した。当初は母クレオパトラ1世が後見を務めていたが、彼女が死去すると、成長したプトレマイオス6世は第五次シリア戦争で失ったコイレ・シリアを奪回するべく前170年にシリアへ侵攻した(第六次シリア戦争)。しかしペルシウム近郊で大敗を喫し、セレウコス朝の王アンティオコス4世に捕らえられた。この結果エジプトでは新たに弟のプトレマイオス8世(在位:前170年-前163年)が擁立された。
アンティオコス4世はプトレマイオス6世を傀儡とすることを目論んだため、庇護下に置いたプトレマイオス6世がナイルデルタを、プトレマイオス8世がメンフィス以南を統治するという形でエジプトが分割した。しかし自立を目指すプトレマイオス6世はプトレマイオス8世と同盟を結びローマの支援の下でセレウコス朝の軛からの脱却を図った。これに対してアンティオコス4世はキュプロス島を占領するとともにエジプトに侵攻してメンフィスを占領しアレクサンドリアを包囲した。窮地に陥ったプトレマイオス朝はローマの元老院に仲裁を求め、ローマは元コンスルのガイウス・ポピリウス・ラエナスらを特使として派遣した。エジプトでアンティオコス4世と面会したポピリウスは、セレウコス朝のキュプロス島とエジプトからの撤退を強硬に要求し、これに屈したアンティオコス4世は本国へと撤退した。これは東地中海の支配者としてのローマの力を示すエピソードとなった。
プトレマイオス6世はエジプト王の地位を認められたが、共通の利害で結ばれていたプトレマイオス6世とプトレマイオス8世の関係は、セレウコス朝の脅威が去ったことですぐに対立へと変わった。プトレマイオス8世はエジプト王位を主張し、前163年にローマに自らの地位の承認を求めた。交渉の末、かつてプトレマイオス1世の息子マガスがキュレネを分割した前例に倣い、プトレマイオス6世がエジプト王、プトレマイオス8世がキュレネ王とすることが定められた。しかしプトレマイオス8世がこれに満足することはなく、彼はローマに自ら出向いてキュプロス島の領有権をも主張した。ローマの元老院は彼の主張を認め、キュプロス島が平和的にプトレマイオス8世に譲渡されるべきであると宣言したが、プトレマイオス6世はこれを拒否し、ローマも直接的な介入を行わなかったため、この宣言は履行されなかった。前156年から前155年にかけて、プトレマイオス6世はプトレマイオス8世を暗殺する挙に出たが失敗し、負傷したプトレマイオス8世は再びローマに出向いて自らの傷を見せて庇護を求め、またローマ人の好意を確かなものにするために、後継者無く自分が死んだ場合にはキュレネの王国をローマ人に遺贈するという遺言状を書いた。こうしてローマとの関係を強化したプトレマイオス8世はキュプロス島の武力占領を試みたが、敗れて捕らえられた。しかし、ローマを恐れたプトレマイオス6世はプトレマイオス8世の罪を問うことなく釈放し、キュレネに帰した。
前145年、プトレマイオス6世はセレウコス朝に嫁がせていた娘のクレオパトラ・テアが宮廷紛争で窮地に陥ったのを助けるため出兵したが、重傷を負い、程なくして死亡した。寡婦となったプトレマイオス6世の妻クレオパトラ2世は息子のプトレマイオス(7世、在位:前145年)を王として擁立した。しかし、プトレマイオス8世はこれを好機としてエジプトに侵攻しアレクサンドリアを占領した。クレオパトラ2世は息子の助命と引き換えにプトレマイオス8世との結婚を承諾し、ここにプトレマイオス8世(復辟、在位:前145年-前116年)、クレオパトラ2世、プトレマイオス7世の共同統治体制が成立することになった。しかし実際には婚礼の当日にプトレマイオス7世は殺害された。そしてさらに、プトレマイオス8世がクレオパトラ2世の娘クレオパトラ3世とも結婚し王妃とすると、この母娘の間にも激しい対立が生じ、宮廷闘争は民衆をも巻き込んで激化した。
即位の経緯からプトレマイオス8世はエジプト本国で人気が無く、同情も手伝って民衆はクレオパトラ2世への支持を強めた。前132年にクレオパトラ2世が民衆を扇動して暴動を起こさせると、プトレマイオス8世はクレオパトラ3世と共にエジプトを脱出してキュプロス島へと逃れた。プトレマイオス8世は報復のためにクレオパトラ2世との間に儲けた息子プトレマイオス・メンフィティスを殺害してバラバラにした遺骸を彼女に送り付けたという。この事件は激しい報復合戦を産み、当時の世相は「蛮風(Amixia)」という表現で記憶された。2年に及ぶ内戦の末、クレオパトラ2世はセレウコス朝の王デメトリオス2世を頼ってシリアに亡命し、プトレマイオス8世が完全なエジプト王位を回復した。彼はクレオパトラ2世に組したギリシア人組合に報復的な処置をとると共に、アレクサンドリアに在住していた学者や知識人にも不信の念を向け、これを恐れた学者たちがアレクサンドリアから去っていった。一方で前118年には大赦令が発布され、内乱の混乱を収める努力もなされた。
プトレマイオス8世が前116年に死去した後、プトレマイオス朝はその滅亡まで慢性的な内紛と分裂に苦しみ、しかもプトレマイオス8世のように、それを収拾することのできる強力な支配者を見ることもなかった。遺言によってエジプトの支配権を継承したのはプトレマイオス8世の妻クレオパトラ3世であり、彼女は息子のプトレマイオス9世(在位:前116年-前110年、前109年-前107年、前88年-前81年)に王位を授けたが、彼は弟のプトレマイオス10世(在位:前110年-前109年、前107年-前88年)と激しい権力闘争を繰り広げた。そしてプトレマイオス9世は間もなく母親殺しを図ったとして地位を追われ前106年キュプロス島へ逃亡した。これはクレオパトラ3世がプトレマイオス10世を溺愛していたため、彼に王位を与えるための謀略であったとも言われている。クレオパトラ3世は息子のプトレマイオス10世と結婚したが、その溺愛にもかかわらず前101年にプトレマイオス10世によって殺害されたと言われている。その後も兄弟は争いを続け、前88年にプトレマイオス10世が殺害されたことでプトレマイオス9世の勝利が確定した。
この争いの最中、キュレネではプトレマイオス8世の庶子プトレマイオス・アピオンがキュレネ王を名乗ってプトレマイオス朝の支配から離れた。彼は父親と同じく後継者無きまま死亡した際にはその領土をローマ人に譲渡するという遺言を作成してローマの支持を得たが、実際に後継者の無いまま死去したためキュレネはローマに贈与されることとなった。キュレナイカの各都市は各々自由都市を宣言しローマの元老院がそれを承認したが、当初はローマは直接統治には乗り出さなかった。その後前87年から前86年にかけてキュレナイカで内紛が発生すると、キュレネ人たちはローマの有力者スッラの配下ルクッルスに秩序の回復を求め、キュレナイカは実際にローマの統治下に入っていった。そして前74年、ローマ元老院はキュレナイカ属州の設立を決議し、以降キュレナイカは完全にプトレマイオス朝の支配を離れた。
前80年にプトレマイオス10世が死亡した際、彼は王位を娘のベレニケ3世に譲り、その夫に甥のプトレマイオス11世(在位:前80年)を据えたが、彼はベレニケ3世を疎んじて結婚後僅か1ヶ月で彼女を殺害した。しかしこれに憤激した民衆によってプトレマイオス11世もその僅か19日後に殺害された。この事件によってプトレマイオス朝の嫡出男子が存在しなくなったため、プトレマイオス9世の庶子でポントス王国に送られていたプトレマイオス12世(在位:前80年-前58年)が呼び戻されてエジプト王として、また同名の弟プトレマイオス(英語版)がキュプロス王に即位した。素行不良の上、権力基盤が脆弱だったプトレマイオス12世はローマの支持に全面的に依存しており、そのためにローマの政界有力者への贈賄と献金に狂奔した。しかし度重なる献金とそのための重税に不満が高まり、そして前58年のローマによるキュプロス島併合を黙認し弟を見捨てたことが契機となってアレクサンドリアで暴動が発生し、ロドスへと逃亡を余儀なくされた。
この頃までに既にアンティゴノス朝はローマに滅ぼされており、前70年にはポントス王国(第三次ミトリダテス戦争)、前63年にはセレウコス朝もローマの軍門に下った。これによってプトレマイオス朝は東地中海でローマの直接支配下に無い唯一の国となる。
王が不在となったエジプトではプトレマイオス12世の娘ベレニケ4世(在位:前58年-前55)が旧セレウコス朝の王子で従兄弟でもあるセレウコス・キュビオクサテスと結婚したが、結婚3日目には彼を殺害し、次いでポントス王ミトリダテス6世の息子と称するアルケラオスと結婚して共同統治者とした。ローマに救援を求めたプトレマイオス12世は、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスの副官の同行の下で前55年にアレクサンドリアに戻り、以降ローマ軍の将校が指揮するガリア人とゲルマニア人の部隊が護衛としてアレクサンドリアに駐屯した。この処置によってプトレマイオス朝は実質的にローマの保護国となった。
前51年、プトレマイオス12世が死去した時、その息子プトレマイオス13世はまだ10歳であった。そのため17歳になる娘のクレオパトラ7世(在位:前51年-前30年)がプトレマイオス13世との結婚を条件に王位についた。このクレオパトラ7世はその美貌と才知によって名高く、数々の伝説的な逸話が現代に至るまで伝えられている。単にクレオパトラと言った場合には通常、このクレオパトラ7世を指す。
間もなくプトレマイオス13世の側近たちはクレオパトラ7世の排除を画策し暗殺を試みたが、彼女はこれを察知してコイレ・シリアへと逃れた。おりしも、ローマで第一回三頭政治を担っていたうちの一人、マルクス・リキニウス・クラッススがパルティア(アルシャク朝)との戦争で落命し、残されたユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスが対立していた。前48年、ポンペイウスは敗れエジプトに逃れたが、カエサルの歓心を買おうとしたプトレマイオス13世の側近によって殺害された。カエサルはエジプトを訪れたが、ポンペイウスの殺害という処置は寧ろ彼を怒らせた。そしてこの時、クレオパトラ7世はカエサルに接近し(絨毯にくるまれてカエサルの下に運ばせたという逸話で知られる)その支持を獲得することに成功した。プトレマイオス13世と側近たちは民衆を扇動して暴動を起こし宮殿を襲わせたが、ローマ軍が投入されて鎮圧された。この混乱の中でプトレマイオス13世も殺害され、クレオパトラ7世は別の弟プトレマイオス14世と再婚した。一連の戦乱の中でアレクサンドリアの図書館も炎上破壊され、そこに伝存されていた著作の数々も焼失したと言われる。
カエサルと関係を持ったクレオパトラ7世は息子のカエサリオン(プトレマイオス・カエサル)を儲け、後にローマで元老院立ち合いの下カエサルに認知された。その後カエサルが各地に戦いに向かう際、クレオパトラ7世はローマで彼の帰りを待ち、カエサルの別荘は一種の宮廷のような様相を呈した。しかしローマ市民のカエサリオンに対する視線は冷たく、前44年にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス(ブルータス)らに暗殺されたためエジプトへと帰国し、夫のプトレマイオス14世を廃してカエサリオンをプトレマイオス15世(前44年-前30年)として王位につけた。
前42年にフィリッピの戦いでブルトゥスらを破ったオクタウィアヌス、マルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスは第二回三頭政治を開始した。このうちアントニウスは前41年夏に軍事費の調達に協力を求めるためクレオパトラ7世をキリキアのタルススに招聘し、そこでクレオパトラ7世に惚れ込みアレクサンドリアへ向かったと言われる。2人はこの地で遊興と祭典の日々を送り、人々はこの二人をディオニュソス=オシリスとアフロディテ=イシスに例えた。間もなくアントニウスはパルティアとの戦争のためにエジプトを離れ、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚したが、シリアでの防衛任務を部下に任せた後オクタウィアをイタリアへ帰らせ、クレオパトラ7世をアンティオキアに呼び寄せた。クレオパトラ7世はアントニウスがエジプトを離れる前に彼の子を懐妊しており、その双子の子供アレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネを伴ってアントニウスの下へ向かった。
アントニウスはプトレマイオス朝に対しコイレ・シリアの大部分とキリキアの一部、キュプロス島を与えた。これは単に愛人であるクレオパトラ7世への贈与というのみならず、自勢力として組み込んだプトレマイオス朝に軍船の建造のための木材を供給するための処置でもあった。前34年秋には、アントニウスを新たなディオニュソス、クレオパトラ7世を新たなイシス、そして彼らの間に生まれた3人の子(3人目はプトレマイオス・フィラデルフォス)がローマの征服地の王として君臨することを宣言する祭儀がアレクサンドリアで催されたという。さらに前32年にはアントニウスとオクタウィアの正式な離縁が伝えられたが、これによりオクタウィアヌスとの対立は決定的となり、アントニウスはクレオパトラ7世を同盟者としてオクタウィアヌスと対峙することになった。アントニウスが元老院や民会の承認を経ずに行った領土贈与行為はオクタウィアヌスに恰好の宣伝材料を提供し、アントニウスの遺言状において彼が相続人としてクレオパトラ7世との子供を指名していたと伝えられたことと合わせローマ市民の憤激を呼んだ。
前31年、オクタウィアヌスは正式にアントニウス討伐に乗り出したが、アントニウスを反逆者と名指しするのは避け、クレオパトラ7世に対して宣戦した。同年9月2日に戦われたアクティウムの海戦でアントニウス、クレオパトラ7世は敗れ去り、前30年にはアレクサンドリアがオクタウィアヌス軍によって占領された。クレオパトラ7世はオクタウィアヌスの懐柔を試みたが、その見込みがないことを悟ると自殺した。プトレマイオス15世(カエサリオン)はオクタウィアヌスによって処刑され、ここにプトレマイオス朝は滅亡した。アントニウスとクレオパトラ7世の間の息子たちは消息不明となり、クレオパトラ・セレネはマウレタニア王ユバ2世に嫁いだ。
以降、エジプトはローマの皇帝属州アエギュプトゥスとしてアウグストゥス(オクタウィアヌス)以降のローマ皇帝を財政的に支え、ローマ市民のパンとサーカスを保証していくことになる。
プトレマイオス朝は伝統的に、整然とした官僚制と社会の細部にわたる統制によって繁栄した中央集権的国家として描かれてきた。20世紀の代表的なヘレニズム時代研究者の1人であるウォールバンク(英語版)はプトレマイオス朝の統治を「官僚主義的中央集権制の大規模な実験と描写されて良いものだが、それはまた商取引を統制し、経済を国家権力に従属させることによって、貴金属を蓄積することを狙いとしていた限り、重商主義のそれでもあった。」と評しており、19世紀から20世紀にかけてヘレニズム時代研究をリードしたターン(英語版)は、統計と戸籍を作り整然と徴税を行う強力な官僚機構、国家管理の事業や王領地と4種に分類される贈与地からなる土地制度などを通じ、国家が各種の産業や徴税を隈なく監督するプトレマイオス朝の制度を描いている。20世紀半ば頃まで想定されていたこのようなプトレマイオス朝の姿は近年の研究によってほぼ否定されており、現在では上記のような説明は行われない。
セレウコス朝やアンティゴノス朝に代表されるヘレニズム王国は、多様な歴史的伝統を保有する地域を支配するため、現地の様々な伝統的支配機構を温存したモザイク状の国家を形成していたことが知られている。そしてプトレマイオス朝もまた、中央集権国家という伝統的なイメージとは異なり、地域ごとに中央政府による統制力の差が大きく、神殿などエジプトの伝統的な支配機構を取り込みながら支配を行っていたことが明らかとなっている。その官僚組織も、整然とした中央集権体制を構築するためよりも、むしろ流入したギリシア人、マケドニア人に対して便宜を図るために拡充されていったものであり、厳密に整理されたものではなく、各官僚が利益を求める中でその日その日の不定形な活動の集合体に過ぎなかったと考えられている。
プトレマイオス朝の支配を特徴付けるのは上部構造として支配者たるマケドニア人の王家(プトレマイオス家)を戴き、ギリシア人・マケドニア人が社会の中枢を担い、人口の多くを占めるエジプト人を支配していたことがある。プトレマイオス朝の王たちはエジプトの言語を理解せず、エジプト語を話すことができたのは歴代の中でもクレオパトラ7世だけであったとも言われている。
このような王国を安定的に支配するためには、重装歩兵戦術や「宗教」・文化を共有するグレコ・マケドニア系人材の恒常的な招致が必要であった。また、軍事的才覚や政治力を備えたギリシア本土の有力者の中からプトレマイオス朝へと訪れた人々は王のフィロイ(友人)として側近となり国家統治の基盤となった。アレクサンドリアのムセイオンを始めとした学者・知識人に対する保護もまたこれと同じ文脈で行われたものと見られる。こうしたギリシア人人材の確保策もまた、他のヘレニズム王国と共通する特徴でもあり、プトレマイオス朝がエーゲ海域に影響力を保持し続けようとした理由の一つであるとも考えられる。プトレマイオス朝時代にはギリシア本土からの移住や戦争捕虜などを通じて、多数のギリシア人軍事植民者がエジプトに流入していたことが確認されている。初期にはこの流入したギリシア人兵士たちに報酬として与える土地を確保し、国力自体を増大させるために大規模な開墾事業が行われた。
一方でギリシア人・マケドニア人とエジプト人の関係は単純な支配者と被支配者という構図だけで説明できるものでもなかったことが明らかとなっている。エジプト人は既に数千年の伝統を持つ高度な行政文化を持つ人々であり、プトレマイオス王家はエジプトの伝統的な組織に対して十分な配慮をする必要があった。新王国時代以来、上エジプトで支配的地位を持っていたアメン大神殿は常に油断のならない強力な勢力であったし、下エジプト最大の伝統信仰の拠点であったメンフィスのプタハ神殿の大神官家系はプトレマイオス朝初期から王家と密接な関係を築いていた。前2世紀には王国の中枢部や軍においてもエジプト人が多数進出しており、エジプト人の出自でありながら、ギリシア的教養を身に着け、状況に応じてエジプト人としてもギリシア人としても振舞うような人々の存在も確認されている。ギリシア語でエジプト国家の創建以来の歴史を書き、現在に至るまで使用される30の王朝の区分を構築した歴史家マネトもまた、ギリシア語を身に着けたエジプト人の神官でありプトレマイオス王家に仕えた人物であった。
ただし、こうした状況にもかかわらず、また有力な家系を含めエジプト人とギリシア人・マケドニア人との間で縁戚関係が持たれた例も知られるにもかかわらず、プトレマイオス朝の治世中にギリシア人とエジプト人のコミュニティが融合し同化することはなく、別々の存在として存続していた。
特にポリュビオスがラフィアの戦いにおけるエジプト人兵士の動員が彼らに自信を与え、それが南部大反乱の遠因となり王国の統一に深刻な問題をもたらしたという記録を残していることなどから、近現代の学者はギリシア人・マケドニア人の支配者に対するエジプト人の民族主義的な抵抗や自意識の存在を想定しもしたが、上記のような研究の進展によって、このような一面的な理解は大きく修正されつつある。
エジプトでは先王朝時代(前32世紀頃以前)または、古王国(前27世紀頃-前22世紀頃)の頃からノモス(セパト)と呼ばれる州が設置されていた。このノモスは新王国(前16世紀頃-前11世紀頃)時代までに上エジプト22州、下エジプト20州程度に整理され、プトレマイオス朝もこの制度を受け継いだ。現在、エジプト語に由来するセパト(spȝt)ではなく、ギリシア語由来のノモス(古希: νόμος)の語が普及しているのはプトレマイオス朝とローマ支配時代に使用された経緯による。
ヘレニズム諸王国の王たちはグレコ・マケドニア系入植者のための都市を熱心に建設したが、プトレマイオス朝統治下のエジプトにおいては、新たに建設された「ギリシア的な」意味での都市は首都アレクサンドリアの他には上エジプト支配の拠点として作られたプトレマイスのみであり、ギリシア系入植者はエジプト人の集落に割当地(クレーロス、古希: κλῆρος)を付与されて、エジプト人の集落に分住させられる形態を基本とした。
当時の集落形態についてはファイユーム地方を除き情報が乏しい。しかしアルシノエ2世にちなんでアルシノイテス州とも呼ばれたファイユームは豊富な古代のパピルス文書が発見されている。上エジプトと下エジプトの接点に近いファイユーム地方ではギリシア人の入植が大規模に行われ、それに伴う堤防の建設や干拓などの大規模な水利事業、その建設のため労働管理などについて詳細が知られている。ファイユームの開発は中王国(前21世紀頃-前18世紀頃)にも手を付けられていたが、本格的に行われたのはプトレマイオス朝時代であり、その集中的な開発によって生産性の高い広大な農地が広がった。こうした農地は短冊状に整然と区画されており、ファイユームのフィラデルフィアなど居住地もギリシア式に格子状に整備されていた痕跡が確認されている。ファイユーム社会は当時のエジプト社会の標準的な姿ではなかったであろうが(経済節も参照)、詳細な農村生活を復元可能であり非常に重要である。
プトレマイオス朝は従来のエジプトには無かったいくつかの経済システムを導入、または発展させた。その一つが貨幣の発展である。エジプトに貨幣が導入されたのはハカーマニシュ朝時代前後(第29王朝)のことであるが、プトレマイオス朝期に至って貨幣は完全に定着した。プトレマイオス朝では金貨、銀貨、銅貨(青銅貨)が鋳造されたが、実際に流通したのは銀貨と銅貨のみであった。プトレマイオス朝の貨幣は当時標準的であったテトラドラクマ貨(約17グラム)ではなく、キュレネで使用されていた、これよりも3グラムほど軽いフェニキアの標準に近い重量が使用された。発見されたパピルス文書の記録から、プトレマイオス朝はエジプトにおける外国貨幣の流通を認めず、持ち込まれた貨幣は銀行(両替商)を通じてエジプト貨に両替することを義務付けていたとされる。
当時のエジプトで貨幣が流通していたのは実質的には都市部のみであり、全体としては未だ物々交換が取引の中心であった。このため、徴税においては古くからの伝統の通り、コムギなど農産物による物納が行われていたが、広範囲において効率的な徴税を行うために「徴税権」の売却益を王朝の収入源とする手法がとられた。これはギリシアで発案された手法を導入したもので、領土内の一定の地域での徴税で期待できる物品に相当する価格で、「徴税権」を商人や有力者に売却して貨幣を納入させる方法であった。「徴税権」を買い取った商人や組織は、各地の実情に従って税を物納で(支払った貨幣よりも余分に)徴収し、「徴税権」の買収に使用した費用と利益を確保した。こうして未だ貨幣が浸透していない地域からも貨幣による徴税が効率的に可能となった。この手法は後のローマ帝国時代にも継承された。
また、既に述べた通り、上エジプトと下エジプトの結節点そばにあるファイユーム地方では、ギリシア系植民者のために大規模な開発が行われた。モエリス湖(現:カルーン湖)を中心とした広大な沼沢地が広がっていたファイユーム地方は中王国時代に一時開発が行われていたが、より本格的な開発はプトレマイオス朝時代のものである。この開発はファイユーム地方の景観に決定的な影響を及ぼし、干拓によってモエリス湖の水位が大幅に低下して湖底に農業用地が広げられていった。ファイユーム地方からは日常生活や裁判、契約、決済、労働管理などに関わる多数のパピルス文書が発見されており、当時の生活と干拓事業の具体的な姿について、古代世界において他に類を見ない詳細な情報が得られている。これらによれば、ファイユームの干拓・水利事業は王権による主導で実施され、それに必要な様々な作業や堤防の監視などは請負制で契約される労働者が担った。作業に必要な各種の道具は公的機関から必要数が貸し出され、またこの時期に鉄製農具が普及したことが作業を進める上で大きく役立った。ただし、労働者の給与は残存する史料による限り極めて低く、この労働参与は実質的には強制労働に近いものであったとする見解もある。
農産物も変化し、ファイユームでは古代エジプトにおいて長く普及していたオリュラ(エンマーコムギ)にかわってデュラムコムギの導入が進み急速に置き換わっていった。ギリシア人たちの生活に不可欠であったワインの生産とそれに必要なブドウの栽培も拡大した。各種の油については王室による独占管理が志向され、ゴマ油、ひまし油や、亜麻の種、ベニバナといった油の採集に使用できる作物の生産と取引には事細かに規制がかけられた。ギリシア人たちに珍重されていたオリーヴの栽培は上手くいかなかったらしく、導入が遅れた上にローマ時代にかけて生産量は漸減した。
こうした経済や法令に関わる詳細かつ豊富な史料から、かつては管理の行き届いた中央集権国家というプトレマイオス朝の姿が描かれていた。しかし、プトレマイオス朝時代の文書記録はその多くがファイユームという一地方から得られたものであり、しかもこの地が当時新しく開拓されギリシア人の集中的な移住先となっていた極めて特殊な地方であることから、ファイユームから得られる情報をエジプト全域における標準的なものとして援用することはできないという見解が現在では一般的である。事実として、当時の行政機構が緻密に設計されたというよりは入植ギリシア人の利益を保証するために拡大してきたと見られることや、エジプト人の伝統的な拠点であるテーベ周辺やエドフから得られる史料からは、ギリシア人入植地が広がっていたファイユームとは異なり、王朝による統制がつとめて間接的なものに留まっていた可能性が示されており、新たなプトレマイオス朝社会の姿が模索されている。
ヘレニズム時代は古代世界における学問の革新的成果が多数生み出された時代であった。そしてとりわけ、プトレマイオス1世からプトレマイオス2世の時代に整備されたアレクサンドリアのムセイオンと付属図書館はこの学術発展の潮流の中の中心であった。プトレマイオス朝の惜しみない支援に惹かれたギリシアの学者たちは大挙してアレクサンドリアへと渡った。現代の物理学者スティーヴン・ワインバーグはその様を20世紀におけるヨーロッパからアメリカへの人の流れに例えている。
政策的な支援と豊富な資金、そして各地から集まった学者たちによる研究によって多くの分野において特筆すべき成果が生み出され、後世に重大な影響を残した。アレクサンドリアでまず研究が奨励されたのは古典文献の蒐集と校訂といった文献学的な研究であった。エフェソスのゼノドトスやビュザンティオンのアリストファネス、サモトラケのアリスタルコスと言った学者らによって進められたホメロスの研究(ホメロス問題も参照)を始めとして、現代に伝わる古代ギリシア時代の文学作品の多くはアレクサンドリアで行われた研究と整理の結果を通したものである。具体例としては例えば、ホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』を現在のような24巻本に校訂したのはアレクサンドリア図書館の初代館長とされるエフェソスのゼノドトスであると伝えられており、また完本が現存する最古の歴史書とされるヘロドトスの『歴史』が現在の9巻構成にまとめられたのもアレクサンドリアにおいてであった。
こうした文学的研究の他にアレクサンドリアで隆盛を迎えたのが各種の「科学」(これは現代的な意味での科学ではないが)の研究であった。当時ギリシア世界の学問の中心地はアレクサンドリアの他にアテナイやミレトスがあったが、それぞれの知的風土には大きな違いがあった。アレクサンドリアにおける学問の特徴は、ギリシア世界で盛んであった万物の根源についての思索などの包括的な問題の研究ではなく、観察によって成果を得ることができる具体的な事象の研究が重視されたことであった。この知的風土の下、光学、流体静力学、そして特に天文学が特筆すべき発達を遂げた。当時のアレクサンドリアで活躍した主要な天文学者には、初めての学術的な太陽や月の大きさと地球からの距離の計算(それは不正確であったものの)を行ったサモスのアリスタルコスや、日食を利用して月までの距離の計算精度を大幅に高めたヒッパルコス、地球の大きさを計算したエラトステネスなどがいる。
アレクサンドリアにおける天文学の伝統はプトレマイオス朝滅亡後のローマ時代にも引き継がれ、古代から中世にかけての天文学に決定的な影響を与えるクラウディオス・プトレマイオスを輩出することになる。彼の研究は後世の天動説の理論的基盤を形成した。また、プトレマイオスのそれとは異なり、後世に受け継がれることはなかったものの、サモスのアリスタルコスは地動説に通じる事実(太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽を周回している)に気付いていたことを示す記録も残されている。
光学(光の性質)の研究も当時盛んに行われた。この分野もまた、当時アレクサンドリアで活動した数学者エウクレイデス(ユークリッド)の研究にまで遡る。彼は幾何学の公理、諸定理の証明などを述べた数学書『原論』の著者として名高く、ムセイオンにおいて数学科を設立したとも言われる人物である。ユークリッド幾何学に名を残しているように、エウクレイデスの数学・幾何学分野における後世への影響は巨大であるが、透視図法について述べた『オプティカ(英語版)』などの著作もあり、光の反射の研究においても大きな足跡を残している。
ただし、このような重要性、知名度に反して、こうした学問の中心となるべきムセイオンの付属図書館の運営実態については多くのことが不明である。図書館自体についての同時代史料はほとんど無く、現代に伝わる情報は数世紀後のローマ時代の著述家による信憑性の低い情報に由来しており、運営実態や建物の立地、規模などについても確実な情報は得られない。この図書館に資料を集めるため、アレクサンドリアに入港した船舶から本が見つかった場合には没収して写本を作成し、持ち主には写本の方を返却したという逸話や、アテナイから保証金と引き換えに悲劇のテキストを取り寄せ、やはり写本を作成してそれを返却したという逸話は、アレクサンドリア図書館の蒐集活動を象徴する話として良く知られている。しかしこれらの話も紀元後2世紀の医師ガレノスの記録に登場するものであり、真実であるという確証を得ることは不可能である。
プトレマイオス朝の軍隊は、エジプトの膨大な資源と対外環境に適応する能力の恵みを受け、ヘレニズム時代に地中海世界の最も強力な軍隊の一つとして評価されている。プトレマイオス朝の軍隊は最初は主にディアドコイ戦争以来、セレウコス朝に対抗して防御的な目的を遂行した。プトレマイオス3世の治世までエジプト軍の活動はアナトリア、南部トラキア、エーゲ海の諸島、クレタ島に及び、キレナイカ、コイレ・シリア、キプロス島に対するプトレマイオス朝の支配的な影響力を拡張させるのに役立った。軍隊はエジプトを保護する機能を維持しながら領土を確保し、首都アレクサンドリア、ナイル川デルタのペルシウム、上エジプトのエレファンティネに主な駐屯地があった。また、プトレマイオス朝はエジプトでの統制を確保するために軍隊に大きく依存した。兵士たちは王室近衛隊の多くの部隊に服務しており、反乱と簒奪に備えて動員され、二つとも次第に普遍化していった。「マキモイ(Machimoi)」と呼ばれたエジプト人の下級兵士は、官吏の警護や徴税を助けるために召集された。
プトレマイオス朝は、その治世を通じて職業軍人(傭兵も含む)と新兵で構成された常備軍を維持した。エジプトの支配権を固めるため、プトレマイオス1世はギリシア人、傭兵、エジプト人、さらには戦争捕虜まで募集した軍隊に依存し、彼らはかなりの知略と適応力を示した。プトレマイオス朝の軍隊は多様性に特徴があり、その構成員の民族的起源や国籍に関する記録が残されている。エジプト本国他にもマケドニア、トラキア、ギリシア本土、エーゲ海、小アシア、キレナイカなどから兵士が募集された。前2世紀から1世紀にかけて重なる戦争と拡張、ギリシア系移住民の減少と共にエジプト人が軍隊で占める割合と依存度が高まったが、ギリシア系移住民は依然として王室近衛隊と高位将校団において特権的な地位を維持した。エジプト人は王朝初期から軍隊に存在していたが、不誠実という評判と地域の反乱に同調する傾向のためしばしば無視されたり、不信を受けた。それでも、エジプト人は勇敢な戦士とみなされ、前3世紀初めにプトレマイオス5世の改革を期して将校や騎兵隊員としてよく登用され始めた。また、エジプト軍人は一般住民に比べて高い社会・経済的地位を享受することができた。
信頼でき、忠誠な軍人を確保するために王朝は豊かな財政資源と富に対するエジプトの歴史的評判を活用するいくつかの戦略を開発した。その一環として展開された宣伝は、詩人のテオクリトスが「プトレマイオスは自由人が持つことができる最上の雇用人だ」と主張したことからも証明されている。傭兵たちは現金と穀物の配給を受ける形で給料をもらった。前3世紀にプトレマイオス軍の歩兵は、約1ドラクマ銀貨の手当を毎日もらったと伝える。このような条件は東地中海各地から新兵を引き入れ、彼らは「給料をもらう外国人」という意味の「ミストフォロイ・ゼノイ(misthophoroi xenoi)」とも呼ばれた。前2世紀から1世紀に至ると、ミストフォロイは主にエジプト国内で募集された。また、職業軍人には割り当て地という意味の「クレーロイ(kleroi、クレーロスの複数形)」が私有地として与えられ、その土地から産出された生産物を給料に代替するという屯田方式の制度が運営された。クレーロイは軍隊の階級や部隊、宿舎(stathmoi)や地域民の居住地によって様々な形で散在していた。遅くとも前230年頃になると、このような私有地はエジプト出身の下級歩兵のマキモイにも提供された。クレーロイの提供は広範囲に行われた。騎兵隊員は少なくとも70アローラの土地を受け取ることができ、歩兵隊員は25-30アローラ、マキモイは一つの家族が生活できる基準に当する5アローラを受けた。プトレマイオス軍での服務が持つ高い収益性の性質は、王朝への忠誠を保障するのに効果的だったと見られる。軍隊の暴動や反乱は珍しく、反乱に加わった兵士たちも土地の下賜と異なるインセンティブにより懐柔されたりした。
他のヘレニズム国家と同様、プトレマイオス軍はマケドニアの教理と組織を承継した。アレクサンドロス大王時代の騎兵は、戦術と数的な面でより大きな役割を担い、ファランクスは歩兵の主力として機能した。プトレマイオス軍の多民族的な性格は、公認された組織の原則だった。兵士たちは出身地域別に訓練を受けたり、作戦に投入された。概してクレタ人は弓手、リビア人は重装歩兵、トラキア人は騎兵として服務した。部隊の編成と武装も民族別に行われた。しかし、実戦では様々な民族の兵士が一緒に戦うよう訓練され、グレコ・マケドニア人将校の一元化された指揮は、ある程度の結束と調整が可能にしてくれてラフィアの戦いでプトレマイオス軍の士気を維持し、戦闘欲を高めるのに多大な役割を果たした。
一部の歴史家はプトレマイオス朝のエジプトが海軍力の伝統的な様式を革新したおかげで地中海の制海権を掌握し、歴代統治者が前例のない方式により権力と影響力を行使できたと描写する。キプロス島、クレタ島、エーゲ海の諸島、トラキアなどの東地中海全域にエジプトの領土と封臣たちが散在しており、セレウコス朝とマケドニアからこれを防御するためにも大規模な海軍を必要とした。一方、エジプト海軍は収益性のよい海上貿易を保護したり、ナイル川に沿って海賊を掃討する任務も務めた。プトレマイオス朝の海軍の起源と伝統はアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争が起こった前320年頃にさかのぼる。多くのディアドコイがエーゲ海と東地中海の制海権をめぐって争うと、プトレマイオス1世はエジプト本土を防御し、外部からの侵入に備えて自分の支配権を強固にする過程で海軍を創設した。プトレマイオス1世を始めとする王朝の歴代統治者は、ギリシアやアジアに陸上帝国を建設するよりも、海軍力を増強させて海外に進出することを好んだ。前306年にサラミスの海戦で大敗したにもかかわらず、エジプト海軍は以後の数十年間、エーゲ海と東地中海における支配的な軍事力となった。プトレマイオス2世はエジプトを同地域の最も優れた海軍大国にするという父王の政策を継承した。彼の治世にエジプト海軍はヘレニズム世界の最大規模に成長し、古代に製作された最大の戦艦の一部も保有していた。第一次シリア戦争期にエジプト海軍はセレウコス朝とマケドニア海軍を撃退させ、エーゲ海と東地中海を掌握した。クレモニデス戦争でもエジプトはマケドニアを封鎖し、ギリシャ本土に対するアンティゴノス朝の野心を牽制することに成功した。
絶頂期であったプトレマイオス2世の時代にエジプト海軍は336隻の戦艦で構成され、輸送船と同盟国の艦船まで含めておよそ4千隻以上の艦船を保有していたとされる。このような大規模の艦隊を維持するのにかかった多くの費用はエジプトの莫大な富と資源によって裏付けられた。海軍の主要基地はアレクサンドリアとキプロスのネアパフォスにあった。エジプト海軍は東地中海、エーゲ海、レバント海、ナイル川などの各地で活動したほか、インド洋方面に向けた紅海にても定期的にパトロールを行った。このため海軍はアレクサンドリア艦隊、エーゲ海艦隊、紅海艦隊、ナイル川艦隊にそれぞれ編成された。第二次シリア戦争が始まると、エジプト海軍は一連の敗北を経験し、海外領土の喪失とともに制海権が緩んだことで、海軍の軍事的な重要性もまた低下した。その後、2世紀にわたってエジプト海軍は海上路の保護や海賊の掃討を中心に運営されてから、末期にローマ帝国が台頭する中にクレオパトラ7世によって部分的に復活した。エジプト海軍はアクティウムの海戦に参加したが、致命的な惨敗を喫し、王朝の滅亡と同時に消滅した。
歴史上のあらゆる国家と同様にプトレマイオス朝においても「宗教」、神々への崇拝は重要な意義を持っていた。プトレマイオス朝の「宗教」にはそれを特徴づける複数の要因があった。1つは伝統的なギリシア人たちの共同体にとって欠かす事ができなかった神々への崇拝であり、いま1つは長い伝統を持ち、また「並外れて信心深い」(ヘロドトス)と評される土着のエジプト人たちの神々である。さらにヘレニズム時代に東地中海のマケドニア系王朝の全てで進行していた支配者崇拝の隆盛が大きな影響を及ぼした。
プトレマイオス朝時代に導入された新たな神として代表的なものがセラピス(サラピス)である。セラピス神はより古い時代にエジプトに移住したギリシア人たちの間で信仰されていた習合神オセラピス神(オシリス=アピス)の神格に起源を持ち、一般的にはプトレマイオス1世時代にエジプトにおけるセラピス崇拝が確立されたと言われている。各種の伝承はこの神の神性の創出と導入が宮廷主導で行われたことを示しており、アレクサンドリアに建設されたセラピス神殿(英語版)(セラペイオン/セラペウム)がその信仰の中心となった。この神はしばしば国家神としてギリシア人とエジプト人の双方から崇拝を受け、その融和と結束を図るために創造されたと言われる。しかし、実際にはセラピス崇拝はほとんどギリシア人の間でのみ見られるもので、エジプト人の間でそれが進んで崇拝されていた痕跡は乏しく、エジプトの地方にその信仰が浸透するのはローマ時代に入ってからである。このことから、恐らくセラピス神崇拝の確立の本来的な理由はギリシア人とエジプト人の統合を促すことではなかった。それはむしろ古くからエジプトに在住していたギリシア人たちの神を中核に据えることで、プトレマイオス朝の建国に伴って新たに移住してきたギリシア人たち(彼らもまた多様な背景を持ち、単純に一括りの存在ではなかった)がエジプトに住むギリシア人として共有できる神格を作り出すことにあったと考えられる。実際にセラピスに対する儀礼はつとめてギリシア的な作法に従っており、その図像はゼウスのそれとほとんど区別がつかないものであった。つまりこの神は、名前こそエジプトに起源を持つものの、それ以外全くギリシア的な神であり、ギリシアとエジプトの混交や一体化を示す要素は見られない。
ヘレニズム時代を特徴付ける宗教的行為に、ポリスが生前からマケドニア系王朝の支配者を神の如き存在として崇拝する慣行がある。プトレマイオス朝の王たちもまたロドスを始めとしたギリシア人のポリスから神として祭儀を受けた。エジプトでは古くから王が神として崇められて来たが、このような慣行はエジプトの伝統ではなく、マケドニア系の諸王国とギリシア人ポリスの相互関係、そしてギリシアにおける伝統の中から現れてきたものとされている。古代ギリシアにおいては元来、ポリスの創建者や独裁者からの解放者、戦死者などを「英雄」として崇め、神、または半神として祭儀を捧げる習慣があった。このことからドイツの神学者ハンス・ヨセフ・クラウク(英語版)はギリシア人の精神的世界において、人は神の位階に昇ることが可能であり、「神々と人間との境界」には抜け穴があったとしている。この様な崇拝は存命中の人物に対しても適用されるようになった。文献的な実例として存命中の人が神格化される最古の例は、前405年にペロポネソス戦争で活躍したスパルタの将軍リュサンドロスが神として祭られたものである。神格化の対象となった人物は救済者(σωτήρ、Sōtēr)や恩恵者(Εὐεργέτης、Euergétēs)といった観念によって崇拝された。そして、ギリシアを征服したフィリッポス2世やアレクサンドロス3世といったマケドニアの王たちが自身の神格化された地位を要求したか、あるいはそれを要求していると考えたギリシア人の諸ポリスがこれに迎合して利益を得ようと図ったことによって、こうした王に対する神格化が常態化していったと考えられる。
マケドニア系の諸王朝は上記のようなギリシア人のポリスとマケドニア王の関係性を継承していた。プトレマイオス朝におけるこの支配者祭儀の端緒となったのは、ディアドコイ戦争中の前305年から行われたアンティゴノス朝のデメトリオス・ポリオルケテスによるロドス市の包囲である。この戦いでロドスは、プトレマイオス1世の多大な支援の結果、攻撃を防ぎきることに成功した。ロドス人はプトレマイオス1世の貢献を称え、リビュアのアメン(アモン)神にプトレマイオス1世を神として祭ることの是非を問うと、可との神託が下りたので、ロドス市内にプトレマイオンという聖域を設定して巨大な列柱館を建設した。そしてプトレマイオス1世に対して神に対するのと同様の祭儀が捧げられた。
実際に文献史料においてプトレマイオス1世が明確に神とされたことが確認できるのはその死後のことであるが、プトレマイオス1世自身が発行したコインにおいて自らをゼウス神を連想させる姿で描かせていることから、彼が自身の神格化を積極的に推し進めていたことがわかる。同様の支配者祭儀はプトレマイオス2世時代以降も、ギリシアのポリスとプトレマイオス朝の関係においてポリス側が「自発的に」王を神として祭るという体裁を重視して継続された。
ギリシア人ポリスとの関係性とは別に、プトレマイオス朝の王たちは統治を安定させるための手段として、時々の政治情勢に対応しながら自らの神格化を継続的に行った。初代プトレマイオス1世以来、オリュンポスの神々に擬せられていたことが、貨幣学の成果や彫像などによって明らかとなっている。既に述べたようにプトレマイオス1世はゼウスと同一視された例が複数確認されており、プトレマイオス2世とその妻・姉のアルシノエ2世はゼウスとヘラに見立てられていた。さらにプトレマイオス2世をヘラクレスやアポロンに見立てる彫刻や文学作品が残されており、プトレマイオス3世、4世の時代にはヘリオス、ポセイドン、ヘルメス、アルテミスもまた王と同定された。プトレマイオス5世以降には、オリュンポスの神々のイメージは後退し、変わってホルスやオシリスといったエジプトの神々との同定も行われるようになった。
こうした神々の中でも特に重要視されたのがディオニュソスである。ディオニュソスは当時東地中海各地で人気を高めており、プトレマイオス朝においては初期の頃から王朝のシンボルであった。オリュンポスの神々のイメージが使用されなくなった後もディオニュソスと王との同定は強力に継続し、やがてプトレマイオス12世の時代には、王はディオニュソス神そのものとして「ネオス・ディオニュソス」とまで呼ばれるようになった。プトレマイオス2世時代に創設された王朝の祭祀プトレマイエイア祭は、ギリシア世界においてオリュンピアの祭典と同格の地位を与えられ、祭典中には贅を尽くしてディオニュソスの神話が再現された。
こうした支配者として受ける祭儀、王と神とのイメージの重ね合わせを通じて、早くもプトレマイオス2世の治世には、故プトレマイオス1世が「救済神」(テオス=ソテル、Theos Sōtēr)として明確に神格化され。プトレマイオス2世自身と妻・姉アルシノエ2世は生前の内に明確に神であることが明示された。この生前の神格化はこれ以来王朝が滅亡するまで継続した。
プトレマイオス朝の王たちはエジプト土着の伝統的な神々への祭祀を継続し、各神殿の守護者として振る舞った。ホルス、アヌビス、バステト、セクメトといった古い神々はなお人々の崇拝を受け続けており、また、メンフィスのプタハ神殿やテーベのアメン神殿は旧時代から変わらず、最も強力な在地勢力を形成していた。
プトレマイオス朝時代も伝統的建築様式に従ってエジプトの全土に神殿が建設されており、これらは現代に残る古代エジプトの宗教的建造物の中でもっとも保存状態が良好な一群を形成している。そのいくつかは古代エジプト時代を通じても最大規模のものであり、プトレマイオス3世時代に建設されたエドフ神殿やフィラエ島のイシス神殿、デンデラのハトホル神殿などが今なお往時の姿を留めている。そこに描かれた王の姿は完全に伝統的なエジプトの様式に依っており、プトレマイオス朝の王たちがマアト(秩序)を維持するエジプトのファラオとして振舞っていたことを示す。
エジプトの神々の中にはプトレマイオス朝や後のローマ時代の思想的潮流と結びつき、またギリシアの神々のイメージも付与されて、広く地中海全域で信仰されるに至るものもあらわれた。その代表格はオシリス神の妻、かつホルス神の母である女神イシスであり、他にハルポクラテスや聖牛アピスの信仰も広まった。イシスの神格はギリシアの女神アフロディテなどのイメージと重ね合わされることで著しく拡大し、セラピスのように全くギリシア的な姿に写されてエーゲ海沿岸のポリスで崇拝された。こうしたエジプトに由来し、ギリシア的な改変を施された神々は、後のローマ時代の宗教の発達に少なからず影響を与えることになる。
プトレマイオス朝はユダヤ教の発展の重要な舞台であった。コイレ・シリアをはじめとして、プトレマイオス朝の領域には相当数のユダヤ人が居住しており、また貢納の義務を負ってはいたものの、エルサレムを中核とするコイレ・シリア(パレスチナ)のユダヤ人たちの共同体は、ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)以来の自治的単位(ユダイア)を維持していた。ユダヤ人たちの統治は大祭司と長老会議(ギリシア風にGerousiaと呼ばれた)が行っており、王に対する税を徴収する義務も大祭司が負った。
自発的な移動、または強制移住、あるいはその両方によってエジプト本国、特にアレクサンドリアにユダヤ人達が移住した。アレクサンドリアのユダヤ人知識階層はプトレマイオス朝時代に支配的地位にあったギリシア人の社会との関わりを求め、ヘレニズム文化を摂取しギリシア語を用いるようになっていった。彼らは、もはやヘブライ語を理解できない同胞たちのためか、あるいはギリシア系知識人に対してユダヤの歴史の古さ、あるいは優越性を訴えるためか、ユダヤ教の聖典(『旧約聖書』)のギリシア語訳を行うことを決意した。このアレクサンドリアで作成されたと見られるギリシア語訳聖書は今日、一般に『七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)』と呼ばれている。この七十人訳版は、明らかに読者の中にギリシアの知識人がいることを想定し、地名を極めて説明的に翻訳する他(ヘブライ語の音をそのままギリシア語風の発音にするのではなく、地名の語源をギリシア語訳する)、ヘブライ語版の「原文」に様々な意訳を行って、ギリシア人の宗教的習慣への配慮や、ユダヤ人の起源の古さ、偉大さを強調するような一種の「改変」が施されている。この『七十人訳聖書』は後世の宗教思想に大きな影響を残し、後の初期キリスト教の著作家たちの中から、「翻訳版」というよりももはや「聖書」そのものとして扱う人物すら出すようになる。
在位年が重複している箇所はすべて複数のファラオによる共同統治である。 | [
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"text": "紀元前235年頃のプトレマイオス朝の領域",
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"text": "緑色のコイレ・シリアは後にセレウコス朝に奪われる",
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"text": "プトレマイオス朝(プトレマイオスちょう、古代ギリシア語: Πτολεμαῖοι、Ptolemaioi、紀元前305年 - 紀元前30年)は、グレコ・マケドニア人を中核とした古代エジプトの王朝。アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者(ディアドコイ)となったラゴスの子プトレマイオス(1世)によって打ち立てられた。建国者の父親の名前からラゴス朝とも呼ばれ、セレウコス朝やアンティゴノス朝とともに、いわゆるヘレニズム国家の一つに数えられる。首都アレクサンドリアは古代地中海世界の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられたムセイオンと付属の図書館(アレクサンドリア図書館)を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的にはシリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。この王朝が残したロゼッタ・ストーンは近代のエジプト語解読のきっかけを作った。",
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"text": "ローマが地中海で存在感を増してくると、プトレマイオス朝はその影響を大きく受け、ローマ内の政争に関与すると共に従属国的な色彩を強めていった。実質的な最後の王となったクレオパトラ7世はローマの有力政治家ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスと結んで生き残りを図ったが、アントニウス軍と共にオクタウィアヌスと戦ったアクティウムの海戦での敗北後、自殺(英語版)に追い込まれた。プトレマイオス朝の領土はローマに接収され、帝政の開始と共に皇帝属州のアエギュプトゥスが設立された。",
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"text": "マケドニア王国の王、アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は、当時西アジアの大半とエジプトを支配していたハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を征服するべく、前334年に東方遠征に出発し、その途上、前332年にはエジプトに入り、これを無血平定した。彼はファロス島の対岸、ナイルデルタ西端の地点が良港であると見て、建築家デイノクラティスに都市計画を命じたという。こうしてアレクサンドリア市の建設が始まった。この都市はその後エジプト最大の都市へと発展し、プトレマイオス朝の王都として機能するようになる。アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にあるアメン神(ゼウスと同一視された)の聖所シワ・オアシスを訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる。",
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"text": "アレクサンドロス3世は前331年4月にエジプトを離れてハカーマニシュ朝の残された領土の征服に向かい、生前にエジプトに戻ることはなかった。彼は前331年10月のガウガメラの戦いで勝利し、逃亡したハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)は部下の裏切りによって殺害された。その後、ハカーマニシュ朝の領土のほとんど全てをアレクサンドロス3世が征服したが、彼は前323年にバビロン市で病没した。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス、古代ギリシア語: χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった。他、メレアゲルやレオンナトス、アンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、そしてラゴスの子プトレマイオス(1世)らも有力な将軍の列に加わっていた。",
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"text": "プトレマイオスはマケドニアの貴族ラゴス(英語版)とアルシノエ(英語版)の間の子である。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王フィリッポス2世の妾であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人(ヘタイロイ)として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった。",
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"text": "エジプトはギリシア人であるナウクラティスのクレオメネスの管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われたバビロン会議の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したのに対し、プトレマイオスはアンティゴノス、ヘレスポントスを支配するリュシマコス、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共にメンフィスに作った仮墓に埋葬した。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「セマ」に安置され、水晶の棺に納められたという。また、西方のギリシア人植民市キュレネも征服してリビュア方面を確保した。ペルディッカスは前321年にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したがナイル川の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された。",
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"text": "ペルディッカスの死後、シリアのトリパラディソスで会議がもたれ、改めて各ディアドコイの領土の配分が話し合われた。この会議でもプトレマイオスはエジプトの支配権を維持した。長老格のアンティパトロスがペルディッカスに代わってアリダイオスとアレクサンドロス4世の後見を任されたが、前319年にアンティパトロスが死んだ後その地位を継承したポリュペルコンに反対して各ディアドコイたちが同盟を結び、プトレマイオスもこれに加わった。以降、アンティゴノス、カルディアのエウメネス、セレウコス、リュシマコス、アンティパトロスの子カッサンドロスと言ったディアドコイ諸侯たちとの間で同盟と対立が繰り返され、アレクサンドロス3世の帝国は次第に分割されて行くことになる。",
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"text": "以降の戦いで中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子デメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)である。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えたカッサンドロス、バビロニアを追われたセレウコス、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し、シリアおよび海上でデメトリオスと戦った。プトレマイオスはこの過程で、前310年に海路でギリシアに遠征し小アジア南岸のリュキア、カリア、キュクラデス諸島の他、一時的ながらペロポネソス半島の一部を支配下に置いた。しかし、前306年にはサラミスの海戦でデメトリオスに敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した(アンティゴノス朝)。",
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"text": "キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた。これを挽回するために彼がロドスを抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲(ロドス包囲戦)の末にデメトリオス軍を撃退した。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(Sōtēr、救世主)と渾名されることになる。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した。",
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"text": "前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世がセレウコス1世、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍に敗れ戦死すると、それに乗じたプトレマイオス1世はアラドスとダマスカス以南のシリア、およびリュキア、キリキア、ピシディアの一部を支配下に置いた。一方、アジアではリュシマコスをも滅ぼしたセレウコス1世(セレウコス朝)がシリアからインダス川に至る広大な地域を支配下に置いて覇者となった。デメトリオス1世はマケドニアに渡り再起を図った。やがて、彼の息子のアンティゴノス2世(アンティゴノス・ゴナタス)がマケドニア本国にアンティゴノス朝を確立していく。プトレマイオス朝はこのセレウコス朝やアンティゴノス朝と共にヘレニズム王朝の1つに数えられ、これらと東地中海地域の覇権を巡って争った。",
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"text": "プトレマイオス1世は前283年に死去し、その前に共同統治者となっていた息子のプトレマイオス2世(フィラデルフォス、在位:前285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し、彼と続くプトレマイオス3世の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる。",
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"text": "プトレマイオス2世は父王の死後セレウコス朝と激しい争いを繰り広げた。前281年にセレウコス1世がプトレマイオス・ケラウノスに暗殺された後、セレウコス朝の支配者となったアンティオコス1世は、プトレマイオス朝の勢力を弱めようと画策し、キュレネの統治者マガス(英語版)に働きかけ、彼を臣下のギリシア人たちと共にプトレマイオス2世から離反させた。マガスはプトレマイオス2世の異父兄弟であり、プトレマイオス1世によってキュレネの支配者とされていた人物である。また、アンティオコス1世の娘アパマ(アパメー)と結婚していた。さらに前274年から前271年にかけて、第一次シリア戦争が戦われた。シリアに侵攻したプトレマイオス2世は敗れたが、この戦争自体は痛み分けに終わった。続いて10年後にはセレウコス朝の新王アンティオコス2世との間で第二次シリア戦争が勃発し、プトレマイオス2世はシリア、小アジア方面で大幅な後退を余儀なくされた。以降数世紀にわたって繰り返しシリア戦争が両王朝の間で戦われることになる。",
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"text": "また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立するアテナイやその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、スパルタを中心としたギリシアのポリス連合との間でクレモニデス戦争が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたるアルシノエ2世の息子プトレマイオスをマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった。",
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"text": "こうした軍事上の失敗のために、東地中海におけるプトレマイオス朝の影響力は一時低下したものの、プトレマイオス2世統治下におけるエジプトの繁栄は多くの史料によって明らかになっている。彼は支配地であるエジプトから得られる豊かな収入を用いて壮大な宮殿、神殿を建設し、またムセイオンにアレクサンドリア図書館として名高い図書館を建設して各地から優れた学者を招聘した。このムセイオンの付属図書館は一説には50万とも70万とも言われる蔵書を抱え、ギリシア語の古典の校正や研究など、古典古代の学術発展に大きな影響を残すことになる。アレクサンドロス3世以来続けられてきた都市アレクサンドリアの建設自体もプトレマイオス2世時代にはほぼ完成するにいたり、地中海最大の都市・学芸の中心として多くの著作家たちの語り草となるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "また、王朝の権威を高めるための王室崇拝儀礼もプトレマイオス2世の時代に大きく整備された。父プトレマイオス1世を「救済神」(テオス=ソテル、Theos Sōtēr)としたのを皮切りに、母ベレニケ1世も死後神々の座に加えた。さらに妻とした実姉アルシノエ2世も「弟を愛する女神」(テア=フィラデルフォス、Thea Philadelphus)として神格化し、その死後には自らを妻とともに「姉弟の神々」(テオイ=アデルフォイ、Theoi Adelphoi)として神の座に加えた。こうして王が神として統治するエジプトの伝統がプトレマイオス朝の支配に適合するように調整された。このようなプトレマイオス2世の処置はその後のプトレマイオス朝の王たちの範となった。以降プトレマイオス王家では兄弟姉妹婚と生前から神として崇拝を受けることが慣例となる。",
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"text": "前246年、父の跡を継いで王位についたプトレマイオス3世(エウエルゲテス、在位:前246年-前222年)は、父王の代に離反していたキュレネの奪回に取り組んだ。キュレネを支配していたマガスは娘のベレニケ2世をプトレマイオス3世と結婚させる予定でいたが、マガスの死後、その妻アパマはベレニケ2世の結婚相手としてアンティゴノス・ゴナタスの弟デメトリオス(英語版)(美男王)を希望した。しかしベレニケ2世はデメトリオスを暗殺し、自らはプトレマイオス3世と結婚する道を選んだ。これによってキュレネ市はプトレマイオス朝の支配に復したが、キュレナイカの他の都市は反抗したため、結局軍事的処置によって再征服が行われた。同時に、東方では前246年以降、セレウコス朝の領土奥深くへ進軍した(第三次シリア戦争)。アッピアノスの記録によれば、この戦争はセレウコス朝の王アンティオコス2世に嫁いでいたプトレマイオス3世の姉妹ベレニケが、別の妻ラオディケに息子もろとも殺害されたことに対する報復として始まったという。プトレマイオス3世はそれに先立ってアンティオコス2世がラオディケに毒殺された際にベレニケから支援を求められアンティオキアへと進軍していたが、到着した時には既にベレニケ母子も殺害された後であり、そのままアンティオキアを攻略して戦争に突入した。",
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"text": "この第三次シリア戦争において、プトレマイオス3世はプトレマイオス朝の王としては対セレウコス朝の戦いで最大の成功を収めた。彼はシリア地方を席巻し、メソポタミアを突き抜けてバビロニアまで進軍した。バビロン市の包囲では現地軍の頑強な抵抗に合い、激しい戦闘が繰り広げられたことが現地の楔形文字史料である『バビロニア年代誌』の記録によって明らかとなっている。この年代誌は結末の部分が欠落しており、エジプト軍が最終的にバビロンの占領に成功したのかどうか不明瞭である。プトレマイオス朝が建設した戦勝記念碑文では、バビロニア、小アジアに加えバクトリア、ペルシア、メディアなど、セレウコス朝の全領土における成功が宣言されているが、これが事実であるかどうかも不明である。単純な事実としてはこの戦争の終結後間もなく、セレウコス朝はバビロニアとシリアの支配を回復している。しかしそれでもなお、小アジアのエーゲ海沿岸部やシリア南部(コイレ・シリア)、そしてさらにセレウコス朝の首都アンティオキアの外港セレウキア・ピエリア(英語版)までもがプトレマイオス朝の支配下に残った。",
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"text": "プトレマイオス3世はこの戦争の後は大規模な対外遠征は行っていないが、それでもさらなる勢力拡張を目指して、アテナイやアカイア同盟などギリシアの政情に介入を繰り返し、またアテナイの外港ペイライエウスに駐留していたアンティゴノス朝の軍団を撤退させた。これに対してアテナイは市民団の13番目の「部族」として「プトレマイス」を新設するという栄誉で応えた。",
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"text": "伝統的な見解では最初の3代の治世が終わった後、プトレマイオス朝は領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などのため徐々に衰退へ向かっていったとされている。プトレマイオス4世(在位:前222/221年-前204年)は、父を殺害して即位したことに対する皮肉から「フィロパトル(Philopator、父を愛する者)という異名が与えられている。彼は即位に伴う流血とその放蕩な生活ぶりで名を知られている。父親の他、即位してから1年のうちに、母ベレニケ2世と弟マグス、叔父リュシマコスを殺害し、アレクサンドリアのギリシア人ソシビオスに唆されて遊蕩にふける生活を送るようになったという。",
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"text": "プトレマイオス4世が即位して間もなく重大な問題となったのが同時期にセレウコス朝で新たに即位したアンティオコス3世(大王、在位:前223年-前187年)の脅威であった。プトレマイオス朝の王位継承に伴う混乱を好機と見たアンティオコス3世は、前219年に第三次シリア戦争で失ったコイレ・シリアとセレウキア・ピエリアの奪還を目指して侵攻を開始し、第四次シリア戦争が勃発した。初年度のうちに全シリアがセレウコス朝の手に落ちたが、プトレマイオス4世はエジプト本国への攻撃を阻止することに成功し、さらに現地エジプト人2万人を軍隊に編入するという改革を実施することで軍団を強化した。そして前217年にヘレニズム時代最大規模の会戦であるラフィアの戦いでセレウコス朝の軍隊を撃破することに成功し、セレウキア・ピエリアを除くコイレ・シリアを奪回した上で講和を結んだ。",
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"text": "しかし、この勝利の後のエジプト国内での反乱が、財政の悪化と共にプトレマイオス朝にとって重い負担となった。反乱が頻発した背景には、軍隊の一員として大きな役割を果たしたエジプト人たちがある種の民族主義的な自意識を獲得し、中央政府の支配に復さなくなったとする見解が(古典古代から)伝統的に採用されている。このような見解は現在では批判が行われているが、原因は別としても前207/205年頃にはテーベを中心とする上エジプトが将軍ハロンノフリス(ヒュルゴナフォル)とカロンノフリス親子を戴いてプトレマイオス朝から離反し、深刻な脅威をもたらした(南部大反乱)。",
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"text": "この反乱の発生直後、プトレマイオス4世が死亡して僅か6歳のプトレマイオス5世(在位:前204年-前180年)が即位し、実権は延臣のソシビオスとアガトクレスが握った。しかし老齢のソシビオスは間もなく死亡し、アガトクレスも前203年には軍のクーデターにより殺害された。幼少の王の即位と混乱を好機と見たセレウコス朝のアンティオコス3世と前202年にコイレ・シリアに侵入して第五次シリア戦争が勃発した。前202年までにはエジプトとの境界に至る全シリアがセレウコス朝の支配下に入り、同時にアンティゴノス朝のフィリッポス5世もセレウコス朝に同調し、エーゲ海のプトレマイオス朝の支配地であったキュクラデス諸島やミレトスに攻撃をかけて、他のギリシア人ポリスもろとも、これを占領した。",
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"text": "拡大するアンティゴノス朝の脅威に晒され、敗戦と内乱の渦中にあるプトレマイオス朝の支援も当てにできなくなったエーゲ海のギリシア人ポリス、ロドス、ビュザンティオン、キオス、そしてペルガモン王国のアッタロス1世らは対アンティゴノス朝の同盟を結ぶと共に、第二次ポエニ戦争に勝利して地中海に覇権を確立しつつあったローマの支援を求めた。ローマはギリシア情勢に介入し、前197年のキュノスケファライの戦いでアンティゴノス朝の軍団を打ち破ってギリシアにおけるアンティゴノス朝の領土を独立させ、同国の外交権を剥奪した。続いてギリシアへと勢力を拡張しようとしたセレウコス朝のアンティオコス3世も前191年のテルモピュライの戦い(英語版)と前190年のマグネシアの戦いでローマに敗れ、東地中海におけるローマの影響力は一挙に拡大した。",
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"text": "こうした政治的動向の中で、プトレマイオス朝も次第にローマとの関わりを拡大させていく。ローマはこの時、プトレマイオス朝に対して好意的であり、アンティゴノス朝に対してプトレマイオス朝の領土に手を出さないよう警告を出した。しかしプトレマイオス朝はローマとセレウコス朝の和約においては何ら関与することができず、地中海における影響力の低下は明らかであった。国内では政権を握ったアカルナニア人アリストメネスが前196年にメンフィスでプトレマイオス5世の宣布式を執り行ない、国内の支持を集めるため土地の授与や免税などが宣言された。この宣言文が刻まれた石碑が1799年に発見されており、現在はロゼッタ・ストーンの名で知られている。これはエジプト語の解読に決定的な役割を果たすことになる。また、セレウコス朝との関係を改善すべくアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世との婚姻も結ばれた。これらを通じて国内外の情勢が安定したことで、南部の反乱対応に注力することが可能となり、プトレマイオス5世は前186年に南部の反乱を鎮圧することに成功した。",
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"text": "前180年、プトレマイオス5世が死去するとプトレマイオス6世(在位:前180年-前145年)が父親と同じく幼くして即位した。当初は母クレオパトラ1世が後見を務めていたが、彼女が死去すると、成長したプトレマイオス6世は第五次シリア戦争で失ったコイレ・シリアを奪回するべく前170年にシリアへ侵攻した(第六次シリア戦争)。しかしペルシウム近郊で大敗を喫し、セレウコス朝の王アンティオコス4世に捕らえられた。この結果エジプトでは新たに弟のプトレマイオス8世(在位:前170年-前163年)が擁立された。",
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"paragraph_id": 27,
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"text": "アンティオコス4世はプトレマイオス6世を傀儡とすることを目論んだため、庇護下に置いたプトレマイオス6世がナイルデルタを、プトレマイオス8世がメンフィス以南を統治するという形でエジプトが分割した。しかし自立を目指すプトレマイオス6世はプトレマイオス8世と同盟を結びローマの支援の下でセレウコス朝の軛からの脱却を図った。これに対してアンティオコス4世はキュプロス島を占領するとともにエジプトに侵攻してメンフィスを占領しアレクサンドリアを包囲した。窮地に陥ったプトレマイオス朝はローマの元老院に仲裁を求め、ローマは元コンスルのガイウス・ポピリウス・ラエナスらを特使として派遣した。エジプトでアンティオコス4世と面会したポピリウスは、セレウコス朝のキュプロス島とエジプトからの撤退を強硬に要求し、これに屈したアンティオコス4世は本国へと撤退した。これは東地中海の支配者としてのローマの力を示すエピソードとなった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス6世はエジプト王の地位を認められたが、共通の利害で結ばれていたプトレマイオス6世とプトレマイオス8世の関係は、セレウコス朝の脅威が去ったことですぐに対立へと変わった。プトレマイオス8世はエジプト王位を主張し、前163年にローマに自らの地位の承認を求めた。交渉の末、かつてプトレマイオス1世の息子マガスがキュレネを分割した前例に倣い、プトレマイオス6世がエジプト王、プトレマイオス8世がキュレネ王とすることが定められた。しかしプトレマイオス8世がこれに満足することはなく、彼はローマに自ら出向いてキュプロス島の領有権をも主張した。ローマの元老院は彼の主張を認め、キュプロス島が平和的にプトレマイオス8世に譲渡されるべきであると宣言したが、プトレマイオス6世はこれを拒否し、ローマも直接的な介入を行わなかったため、この宣言は履行されなかった。前156年から前155年にかけて、プトレマイオス6世はプトレマイオス8世を暗殺する挙に出たが失敗し、負傷したプトレマイオス8世は再びローマに出向いて自らの傷を見せて庇護を求め、またローマ人の好意を確かなものにするために、後継者無く自分が死んだ場合にはキュレネの王国をローマ人に遺贈するという遺言状を書いた。こうしてローマとの関係を強化したプトレマイオス8世はキュプロス島の武力占領を試みたが、敗れて捕らえられた。しかし、ローマを恐れたプトレマイオス6世はプトレマイオス8世の罪を問うことなく釈放し、キュレネに帰した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "前145年、プトレマイオス6世はセレウコス朝に嫁がせていた娘のクレオパトラ・テアが宮廷紛争で窮地に陥ったのを助けるため出兵したが、重傷を負い、程なくして死亡した。寡婦となったプトレマイオス6世の妻クレオパトラ2世は息子のプトレマイオス(7世、在位:前145年)を王として擁立した。しかし、プトレマイオス8世はこれを好機としてエジプトに侵攻しアレクサンドリアを占領した。クレオパトラ2世は息子の助命と引き換えにプトレマイオス8世との結婚を承諾し、ここにプトレマイオス8世(復辟、在位:前145年-前116年)、クレオパトラ2世、プトレマイオス7世の共同統治体制が成立することになった。しかし実際には婚礼の当日にプトレマイオス7世は殺害された。そしてさらに、プトレマイオス8世がクレオパトラ2世の娘クレオパトラ3世とも結婚し王妃とすると、この母娘の間にも激しい対立が生じ、宮廷闘争は民衆をも巻き込んで激化した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "即位の経緯からプトレマイオス8世はエジプト本国で人気が無く、同情も手伝って民衆はクレオパトラ2世への支持を強めた。前132年にクレオパトラ2世が民衆を扇動して暴動を起こさせると、プトレマイオス8世はクレオパトラ3世と共にエジプトを脱出してキュプロス島へと逃れた。プトレマイオス8世は報復のためにクレオパトラ2世との間に儲けた息子プトレマイオス・メンフィティスを殺害してバラバラにした遺骸を彼女に送り付けたという。この事件は激しい報復合戦を産み、当時の世相は「蛮風(Amixia)」という表現で記憶された。2年に及ぶ内戦の末、クレオパトラ2世はセレウコス朝の王デメトリオス2世を頼ってシリアに亡命し、プトレマイオス8世が完全なエジプト王位を回復した。彼はクレオパトラ2世に組したギリシア人組合に報復的な処置をとると共に、アレクサンドリアに在住していた学者や知識人にも不信の念を向け、これを恐れた学者たちがアレクサンドリアから去っていった。一方で前118年には大赦令が発布され、内乱の混乱を収める努力もなされた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 31,
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"text": "プトレマイオス8世が前116年に死去した後、プトレマイオス朝はその滅亡まで慢性的な内紛と分裂に苦しみ、しかもプトレマイオス8世のように、それを収拾することのできる強力な支配者を見ることもなかった。遺言によってエジプトの支配権を継承したのはプトレマイオス8世の妻クレオパトラ3世であり、彼女は息子のプトレマイオス9世(在位:前116年-前110年、前109年-前107年、前88年-前81年)に王位を授けたが、彼は弟のプトレマイオス10世(在位:前110年-前109年、前107年-前88年)と激しい権力闘争を繰り広げた。そしてプトレマイオス9世は間もなく母親殺しを図ったとして地位を追われ前106年キュプロス島へ逃亡した。これはクレオパトラ3世がプトレマイオス10世を溺愛していたため、彼に王位を与えるための謀略であったとも言われている。クレオパトラ3世は息子のプトレマイオス10世と結婚したが、その溺愛にもかかわらず前101年にプトレマイオス10世によって殺害されたと言われている。その後も兄弟は争いを続け、前88年にプトレマイオス10世が殺害されたことでプトレマイオス9世の勝利が確定した。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
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"text": "この争いの最中、キュレネではプトレマイオス8世の庶子プトレマイオス・アピオンがキュレネ王を名乗ってプトレマイオス朝の支配から離れた。彼は父親と同じく後継者無きまま死亡した際にはその領土をローマ人に譲渡するという遺言を作成してローマの支持を得たが、実際に後継者の無いまま死去したためキュレネはローマに贈与されることとなった。キュレナイカの各都市は各々自由都市を宣言しローマの元老院がそれを承認したが、当初はローマは直接統治には乗り出さなかった。その後前87年から前86年にかけてキュレナイカで内紛が発生すると、キュレネ人たちはローマの有力者スッラの配下ルクッルスに秩序の回復を求め、キュレナイカは実際にローマの統治下に入っていった。そして前74年、ローマ元老院はキュレナイカ属州の設立を決議し、以降キュレナイカは完全にプトレマイオス朝の支配を離れた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "前80年にプトレマイオス10世が死亡した際、彼は王位を娘のベレニケ3世に譲り、その夫に甥のプトレマイオス11世(在位:前80年)を据えたが、彼はベレニケ3世を疎んじて結婚後僅か1ヶ月で彼女を殺害した。しかしこれに憤激した民衆によってプトレマイオス11世もその僅か19日後に殺害された。この事件によってプトレマイオス朝の嫡出男子が存在しなくなったため、プトレマイオス9世の庶子でポントス王国に送られていたプトレマイオス12世(在位:前80年-前58年)が呼び戻されてエジプト王として、また同名の弟プトレマイオス(英語版)がキュプロス王に即位した。素行不良の上、権力基盤が脆弱だったプトレマイオス12世はローマの支持に全面的に依存しており、そのためにローマの政界有力者への贈賄と献金に狂奔した。しかし度重なる献金とそのための重税に不満が高まり、そして前58年のローマによるキュプロス島併合を黙認し弟を見捨てたことが契機となってアレクサンドリアで暴動が発生し、ロドスへと逃亡を余儀なくされた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 34,
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"text": "この頃までに既にアンティゴノス朝はローマに滅ぼされており、前70年にはポントス王国(第三次ミトリダテス戦争)、前63年にはセレウコス朝もローマの軍門に下った。これによってプトレマイオス朝は東地中海でローマの直接支配下に無い唯一の国となる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
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"text": "王が不在となったエジプトではプトレマイオス12世の娘ベレニケ4世(在位:前58年-前55)が旧セレウコス朝の王子で従兄弟でもあるセレウコス・キュビオクサテスと結婚したが、結婚3日目には彼を殺害し、次いでポントス王ミトリダテス6世の息子と称するアルケラオスと結婚して共同統治者とした。ローマに救援を求めたプトレマイオス12世は、ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスの副官の同行の下で前55年にアレクサンドリアに戻り、以降ローマ軍の将校が指揮するガリア人とゲルマニア人の部隊が護衛としてアレクサンドリアに駐屯した。この処置によってプトレマイオス朝は実質的にローマの保護国となった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 36,
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"text": "前51年、プトレマイオス12世が死去した時、その息子プトレマイオス13世はまだ10歳であった。そのため17歳になる娘のクレオパトラ7世(在位:前51年-前30年)がプトレマイオス13世との結婚を条件に王位についた。このクレオパトラ7世はその美貌と才知によって名高く、数々の伝説的な逸話が現代に至るまで伝えられている。単にクレオパトラと言った場合には通常、このクレオパトラ7世を指す。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "間もなくプトレマイオス13世の側近たちはクレオパトラ7世の排除を画策し暗殺を試みたが、彼女はこれを察知してコイレ・シリアへと逃れた。おりしも、ローマで第一回三頭政治を担っていたうちの一人、マルクス・リキニウス・クラッススがパルティア(アルシャク朝)との戦争で落命し、残されたユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスが対立していた。前48年、ポンペイウスは敗れエジプトに逃れたが、カエサルの歓心を買おうとしたプトレマイオス13世の側近によって殺害された。カエサルはエジプトを訪れたが、ポンペイウスの殺害という処置は寧ろ彼を怒らせた。そしてこの時、クレオパトラ7世はカエサルに接近し(絨毯にくるまれてカエサルの下に運ばせたという逸話で知られる)その支持を獲得することに成功した。プトレマイオス13世と側近たちは民衆を扇動して暴動を起こし宮殿を襲わせたが、ローマ軍が投入されて鎮圧された。この混乱の中でプトレマイオス13世も殺害され、クレオパトラ7世は別の弟プトレマイオス14世と再婚した。一連の戦乱の中でアレクサンドリアの図書館も炎上破壊され、そこに伝存されていた著作の数々も焼失したと言われる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "カエサルと関係を持ったクレオパトラ7世は息子のカエサリオン(プトレマイオス・カエサル)を儲け、後にローマで元老院立ち合いの下カエサルに認知された。その後カエサルが各地に戦いに向かう際、クレオパトラ7世はローマで彼の帰りを待ち、カエサルの別荘は一種の宮廷のような様相を呈した。しかしローマ市民のカエサリオンに対する視線は冷たく、前44年にカエサルがマルクス・ユニウス・ブルトゥス(ブルータス)らに暗殺されたためエジプトへと帰国し、夫のプトレマイオス14世を廃してカエサリオンをプトレマイオス15世(前44年-前30年)として王位につけた。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "前42年にフィリッピの戦いでブルトゥスらを破ったオクタウィアヌス、マルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスは第二回三頭政治を開始した。このうちアントニウスは前41年夏に軍事費の調達に協力を求めるためクレオパトラ7世をキリキアのタルススに招聘し、そこでクレオパトラ7世に惚れ込みアレクサンドリアへ向かったと言われる。2人はこの地で遊興と祭典の日々を送り、人々はこの二人をディオニュソス=オシリスとアフロディテ=イシスに例えた。間もなくアントニウスはパルティアとの戦争のためにエジプトを離れ、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚したが、シリアでの防衛任務を部下に任せた後オクタウィアをイタリアへ帰らせ、クレオパトラ7世をアンティオキアに呼び寄せた。クレオパトラ7世はアントニウスがエジプトを離れる前に彼の子を懐妊しており、その双子の子供アレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネを伴ってアントニウスの下へ向かった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "アントニウスはプトレマイオス朝に対しコイレ・シリアの大部分とキリキアの一部、キュプロス島を与えた。これは単に愛人であるクレオパトラ7世への贈与というのみならず、自勢力として組み込んだプトレマイオス朝に軍船の建造のための木材を供給するための処置でもあった。前34年秋には、アントニウスを新たなディオニュソス、クレオパトラ7世を新たなイシス、そして彼らの間に生まれた3人の子(3人目はプトレマイオス・フィラデルフォス)がローマの征服地の王として君臨することを宣言する祭儀がアレクサンドリアで催されたという。さらに前32年にはアントニウスとオクタウィアの正式な離縁が伝えられたが、これによりオクタウィアヌスとの対立は決定的となり、アントニウスはクレオパトラ7世を同盟者としてオクタウィアヌスと対峙することになった。アントニウスが元老院や民会の承認を経ずに行った領土贈与行為はオクタウィアヌスに恰好の宣伝材料を提供し、アントニウスの遺言状において彼が相続人としてクレオパトラ7世との子供を指名していたと伝えられたことと合わせローマ市民の憤激を呼んだ。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "前31年、オクタウィアヌスは正式にアントニウス討伐に乗り出したが、アントニウスを反逆者と名指しするのは避け、クレオパトラ7世に対して宣戦した。同年9月2日に戦われたアクティウムの海戦でアントニウス、クレオパトラ7世は敗れ去り、前30年にはアレクサンドリアがオクタウィアヌス軍によって占領された。クレオパトラ7世はオクタウィアヌスの懐柔を試みたが、その見込みがないことを悟ると自殺した。プトレマイオス15世(カエサリオン)はオクタウィアヌスによって処刑され、ここにプトレマイオス朝は滅亡した。アントニウスとクレオパトラ7世の間の息子たちは消息不明となり、クレオパトラ・セレネはマウレタニア王ユバ2世に嫁いだ。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "以降、エジプトはローマの皇帝属州アエギュプトゥスとしてアウグストゥス(オクタウィアヌス)以降のローマ皇帝を財政的に支え、ローマ市民のパンとサーカスを保証していくことになる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝は伝統的に、整然とした官僚制と社会の細部にわたる統制によって繁栄した中央集権的国家として描かれてきた。20世紀の代表的なヘレニズム時代研究者の1人であるウォールバンク(英語版)はプトレマイオス朝の統治を「官僚主義的中央集権制の大規模な実験と描写されて良いものだが、それはまた商取引を統制し、経済を国家権力に従属させることによって、貴金属を蓄積することを狙いとしていた限り、重商主義のそれでもあった。」と評しており、19世紀から20世紀にかけてヘレニズム時代研究をリードしたターン(英語版)は、統計と戸籍を作り整然と徴税を行う強力な官僚機構、国家管理の事業や王領地と4種に分類される贈与地からなる土地制度などを通じ、国家が各種の産業や徴税を隈なく監督するプトレマイオス朝の制度を描いている。20世紀半ば頃まで想定されていたこのようなプトレマイオス朝の姿は近年の研究によってほぼ否定されており、現在では上記のような説明は行われない。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "セレウコス朝やアンティゴノス朝に代表されるヘレニズム王国は、多様な歴史的伝統を保有する地域を支配するため、現地の様々な伝統的支配機構を温存したモザイク状の国家を形成していたことが知られている。そしてプトレマイオス朝もまた、中央集権国家という伝統的なイメージとは異なり、地域ごとに中央政府による統制力の差が大きく、神殿などエジプトの伝統的な支配機構を取り込みながら支配を行っていたことが明らかとなっている。その官僚組織も、整然とした中央集権体制を構築するためよりも、むしろ流入したギリシア人、マケドニア人に対して便宜を図るために拡充されていったものであり、厳密に整理されたものではなく、各官僚が利益を求める中でその日その日の不定形な活動の集合体に過ぎなかったと考えられている。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝の支配を特徴付けるのは上部構造として支配者たるマケドニア人の王家(プトレマイオス家)を戴き、ギリシア人・マケドニア人が社会の中枢を担い、人口の多くを占めるエジプト人を支配していたことがある。プトレマイオス朝の王たちはエジプトの言語を理解せず、エジプト語を話すことができたのは歴代の中でもクレオパトラ7世だけであったとも言われている。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "このような王国を安定的に支配するためには、重装歩兵戦術や「宗教」・文化を共有するグレコ・マケドニア系人材の恒常的な招致が必要であった。また、軍事的才覚や政治力を備えたギリシア本土の有力者の中からプトレマイオス朝へと訪れた人々は王のフィロイ(友人)として側近となり国家統治の基盤となった。アレクサンドリアのムセイオンを始めとした学者・知識人に対する保護もまたこれと同じ文脈で行われたものと見られる。こうしたギリシア人人材の確保策もまた、他のヘレニズム王国と共通する特徴でもあり、プトレマイオス朝がエーゲ海域に影響力を保持し続けようとした理由の一つであるとも考えられる。プトレマイオス朝時代にはギリシア本土からの移住や戦争捕虜などを通じて、多数のギリシア人軍事植民者がエジプトに流入していたことが確認されている。初期にはこの流入したギリシア人兵士たちに報酬として与える土地を確保し、国力自体を増大させるために大規模な開墾事業が行われた。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "一方でギリシア人・マケドニア人とエジプト人の関係は単純な支配者と被支配者という構図だけで説明できるものでもなかったことが明らかとなっている。エジプト人は既に数千年の伝統を持つ高度な行政文化を持つ人々であり、プトレマイオス王家はエジプトの伝統的な組織に対して十分な配慮をする必要があった。新王国時代以来、上エジプトで支配的地位を持っていたアメン大神殿は常に油断のならない強力な勢力であったし、下エジプト最大の伝統信仰の拠点であったメンフィスのプタハ神殿の大神官家系はプトレマイオス朝初期から王家と密接な関係を築いていた。前2世紀には王国の中枢部や軍においてもエジプト人が多数進出しており、エジプト人の出自でありながら、ギリシア的教養を身に着け、状況に応じてエジプト人としてもギリシア人としても振舞うような人々の存在も確認されている。ギリシア語でエジプト国家の創建以来の歴史を書き、現在に至るまで使用される30の王朝の区分を構築した歴史家マネトもまた、ギリシア語を身に着けたエジプト人の神官でありプトレマイオス王家に仕えた人物であった。",
"title": "社会と制度"
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"paragraph_id": 48,
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"text": "ただし、こうした状況にもかかわらず、また有力な家系を含めエジプト人とギリシア人・マケドニア人との間で縁戚関係が持たれた例も知られるにもかかわらず、プトレマイオス朝の治世中にギリシア人とエジプト人のコミュニティが融合し同化することはなく、別々の存在として存続していた。",
"title": "社会と制度"
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"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "特にポリュビオスがラフィアの戦いにおけるエジプト人兵士の動員が彼らに自信を与え、それが南部大反乱の遠因となり王国の統一に深刻な問題をもたらしたという記録を残していることなどから、近現代の学者はギリシア人・マケドニア人の支配者に対するエジプト人の民族主義的な抵抗や自意識の存在を想定しもしたが、上記のような研究の進展によって、このような一面的な理解は大きく修正されつつある。",
"title": "社会と制度"
},
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"paragraph_id": 50,
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"text": "エジプトでは先王朝時代(前32世紀頃以前)または、古王国(前27世紀頃-前22世紀頃)の頃からノモス(セパト)と呼ばれる州が設置されていた。このノモスは新王国(前16世紀頃-前11世紀頃)時代までに上エジプト22州、下エジプト20州程度に整理され、プトレマイオス朝もこの制度を受け継いだ。現在、エジプト語に由来するセパト(spȝt)ではなく、ギリシア語由来のノモス(古希: νόμος)の語が普及しているのはプトレマイオス朝とローマ支配時代に使用された経緯による。",
"title": "社会と制度"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ヘレニズム諸王国の王たちはグレコ・マケドニア系入植者のための都市を熱心に建設したが、プトレマイオス朝統治下のエジプトにおいては、新たに建設された「ギリシア的な」意味での都市は首都アレクサンドリアの他には上エジプト支配の拠点として作られたプトレマイスのみであり、ギリシア系入植者はエジプト人の集落に割当地(クレーロス、古希: κλῆρος)を付与されて、エジプト人の集落に分住させられる形態を基本とした。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "当時の集落形態についてはファイユーム地方を除き情報が乏しい。しかしアルシノエ2世にちなんでアルシノイテス州とも呼ばれたファイユームは豊富な古代のパピルス文書が発見されている。上エジプトと下エジプトの接点に近いファイユーム地方ではギリシア人の入植が大規模に行われ、それに伴う堤防の建設や干拓などの大規模な水利事業、その建設のため労働管理などについて詳細が知られている。ファイユームの開発は中王国(前21世紀頃-前18世紀頃)にも手を付けられていたが、本格的に行われたのはプトレマイオス朝時代であり、その集中的な開発によって生産性の高い広大な農地が広がった。こうした農地は短冊状に整然と区画されており、ファイユームのフィラデルフィアなど居住地もギリシア式に格子状に整備されていた痕跡が確認されている。ファイユーム社会は当時のエジプト社会の標準的な姿ではなかったであろうが(経済節も参照)、詳細な農村生活を復元可能であり非常に重要である。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝は従来のエジプトには無かったいくつかの経済システムを導入、または発展させた。その一つが貨幣の発展である。エジプトに貨幣が導入されたのはハカーマニシュ朝時代前後(第29王朝)のことであるが、プトレマイオス朝期に至って貨幣は完全に定着した。プトレマイオス朝では金貨、銀貨、銅貨(青銅貨)が鋳造されたが、実際に流通したのは銀貨と銅貨のみであった。プトレマイオス朝の貨幣は当時標準的であったテトラドラクマ貨(約17グラム)ではなく、キュレネで使用されていた、これよりも3グラムほど軽いフェニキアの標準に近い重量が使用された。発見されたパピルス文書の記録から、プトレマイオス朝はエジプトにおける外国貨幣の流通を認めず、持ち込まれた貨幣は銀行(両替商)を通じてエジプト貨に両替することを義務付けていたとされる。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "当時のエジプトで貨幣が流通していたのは実質的には都市部のみであり、全体としては未だ物々交換が取引の中心であった。このため、徴税においては古くからの伝統の通り、コムギなど農産物による物納が行われていたが、広範囲において効率的な徴税を行うために「徴税権」の売却益を王朝の収入源とする手法がとられた。これはギリシアで発案された手法を導入したもので、領土内の一定の地域での徴税で期待できる物品に相当する価格で、「徴税権」を商人や有力者に売却して貨幣を納入させる方法であった。「徴税権」を買い取った商人や組織は、各地の実情に従って税を物納で(支払った貨幣よりも余分に)徴収し、「徴税権」の買収に使用した費用と利益を確保した。こうして未だ貨幣が浸透していない地域からも貨幣による徴税が効率的に可能となった。この手法は後のローマ帝国時代にも継承された。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "また、既に述べた通り、上エジプトと下エジプトの結節点そばにあるファイユーム地方では、ギリシア系植民者のために大規模な開発が行われた。モエリス湖(現:カルーン湖)を中心とした広大な沼沢地が広がっていたファイユーム地方は中王国時代に一時開発が行われていたが、より本格的な開発はプトレマイオス朝時代のものである。この開発はファイユーム地方の景観に決定的な影響を及ぼし、干拓によってモエリス湖の水位が大幅に低下して湖底に農業用地が広げられていった。ファイユーム地方からは日常生活や裁判、契約、決済、労働管理などに関わる多数のパピルス文書が発見されており、当時の生活と干拓事業の具体的な姿について、古代世界において他に類を見ない詳細な情報が得られている。これらによれば、ファイユームの干拓・水利事業は王権による主導で実施され、それに必要な様々な作業や堤防の監視などは請負制で契約される労働者が担った。作業に必要な各種の道具は公的機関から必要数が貸し出され、またこの時期に鉄製農具が普及したことが作業を進める上で大きく役立った。ただし、労働者の給与は残存する史料による限り極めて低く、この労働参与は実質的には強制労働に近いものであったとする見解もある。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "農産物も変化し、ファイユームでは古代エジプトにおいて長く普及していたオリュラ(エンマーコムギ)にかわってデュラムコムギの導入が進み急速に置き換わっていった。ギリシア人たちの生活に不可欠であったワインの生産とそれに必要なブドウの栽培も拡大した。各種の油については王室による独占管理が志向され、ゴマ油、ひまし油や、亜麻の種、ベニバナといった油の採集に使用できる作物の生産と取引には事細かに規制がかけられた。ギリシア人たちに珍重されていたオリーヴの栽培は上手くいかなかったらしく、導入が遅れた上にローマ時代にかけて生産量は漸減した。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "こうした経済や法令に関わる詳細かつ豊富な史料から、かつては管理の行き届いた中央集権国家というプトレマイオス朝の姿が描かれていた。しかし、プトレマイオス朝時代の文書記録はその多くがファイユームという一地方から得られたものであり、しかもこの地が当時新しく開拓されギリシア人の集中的な移住先となっていた極めて特殊な地方であることから、ファイユームから得られる情報をエジプト全域における標準的なものとして援用することはできないという見解が現在では一般的である。事実として、当時の行政機構が緻密に設計されたというよりは入植ギリシア人の利益を保証するために拡大してきたと見られることや、エジプト人の伝統的な拠点であるテーベ周辺やエドフから得られる史料からは、ギリシア人入植地が広がっていたファイユームとは異なり、王朝による統制がつとめて間接的なものに留まっていた可能性が示されており、新たなプトレマイオス朝社会の姿が模索されている。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ヘレニズム時代は古代世界における学問の革新的成果が多数生み出された時代であった。そしてとりわけ、プトレマイオス1世からプトレマイオス2世の時代に整備されたアレクサンドリアのムセイオンと付属図書館はこの学術発展の潮流の中の中心であった。プトレマイオス朝の惜しみない支援に惹かれたギリシアの学者たちは大挙してアレクサンドリアへと渡った。現代の物理学者スティーヴン・ワインバーグはその様を20世紀におけるヨーロッパからアメリカへの人の流れに例えている。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "政策的な支援と豊富な資金、そして各地から集まった学者たちによる研究によって多くの分野において特筆すべき成果が生み出され、後世に重大な影響を残した。アレクサンドリアでまず研究が奨励されたのは古典文献の蒐集と校訂といった文献学的な研究であった。エフェソスのゼノドトスやビュザンティオンのアリストファネス、サモトラケのアリスタルコスと言った学者らによって進められたホメロスの研究(ホメロス問題も参照)を始めとして、現代に伝わる古代ギリシア時代の文学作品の多くはアレクサンドリアで行われた研究と整理の結果を通したものである。具体例としては例えば、ホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』を現在のような24巻本に校訂したのはアレクサンドリア図書館の初代館長とされるエフェソスのゼノドトスであると伝えられており、また完本が現存する最古の歴史書とされるヘロドトスの『歴史』が現在の9巻構成にまとめられたのもアレクサンドリアにおいてであった。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "こうした文学的研究の他にアレクサンドリアで隆盛を迎えたのが各種の「科学」(これは現代的な意味での科学ではないが)の研究であった。当時ギリシア世界の学問の中心地はアレクサンドリアの他にアテナイやミレトスがあったが、それぞれの知的風土には大きな違いがあった。アレクサンドリアにおける学問の特徴は、ギリシア世界で盛んであった万物の根源についての思索などの包括的な問題の研究ではなく、観察によって成果を得ることができる具体的な事象の研究が重視されたことであった。この知的風土の下、光学、流体静力学、そして特に天文学が特筆すべき発達を遂げた。当時のアレクサンドリアで活躍した主要な天文学者には、初めての学術的な太陽や月の大きさと地球からの距離の計算(それは不正確であったものの)を行ったサモスのアリスタルコスや、日食を利用して月までの距離の計算精度を大幅に高めたヒッパルコス、地球の大きさを計算したエラトステネスなどがいる。",
"title": "社会と制度"
},
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"paragraph_id": 61,
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"text": "アレクサンドリアにおける天文学の伝統はプトレマイオス朝滅亡後のローマ時代にも引き継がれ、古代から中世にかけての天文学に決定的な影響を与えるクラウディオス・プトレマイオスを輩出することになる。彼の研究は後世の天動説の理論的基盤を形成した。また、プトレマイオスのそれとは異なり、後世に受け継がれることはなかったものの、サモスのアリスタルコスは地動説に通じる事実(太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽を周回している)に気付いていたことを示す記録も残されている。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "光学(光の性質)の研究も当時盛んに行われた。この分野もまた、当時アレクサンドリアで活動した数学者エウクレイデス(ユークリッド)の研究にまで遡る。彼は幾何学の公理、諸定理の証明などを述べた数学書『原論』の著者として名高く、ムセイオンにおいて数学科を設立したとも言われる人物である。ユークリッド幾何学に名を残しているように、エウクレイデスの数学・幾何学分野における後世への影響は巨大であるが、透視図法について述べた『オプティカ(英語版)』などの著作もあり、光の反射の研究においても大きな足跡を残している。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ただし、このような重要性、知名度に反して、こうした学問の中心となるべきムセイオンの付属図書館の運営実態については多くのことが不明である。図書館自体についての同時代史料はほとんど無く、現代に伝わる情報は数世紀後のローマ時代の著述家による信憑性の低い情報に由来しており、運営実態や建物の立地、規模などについても確実な情報は得られない。この図書館に資料を集めるため、アレクサンドリアに入港した船舶から本が見つかった場合には没収して写本を作成し、持ち主には写本の方を返却したという逸話や、アテナイから保証金と引き換えに悲劇のテキストを取り寄せ、やはり写本を作成してそれを返却したという逸話は、アレクサンドリア図書館の蒐集活動を象徴する話として良く知られている。しかしこれらの話も紀元後2世紀の医師ガレノスの記録に登場するものであり、真実であるという確証を得ることは不可能である。",
"title": "社会と制度"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝の軍隊は、エジプトの膨大な資源と対外環境に適応する能力の恵みを受け、ヘレニズム時代に地中海世界の最も強力な軍隊の一つとして評価されている。プトレマイオス朝の軍隊は最初は主にディアドコイ戦争以来、セレウコス朝に対抗して防御的な目的を遂行した。プトレマイオス3世の治世までエジプト軍の活動はアナトリア、南部トラキア、エーゲ海の諸島、クレタ島に及び、キレナイカ、コイレ・シリア、キプロス島に対するプトレマイオス朝の支配的な影響力を拡張させるのに役立った。軍隊はエジプトを保護する機能を維持しながら領土を確保し、首都アレクサンドリア、ナイル川デルタのペルシウム、上エジプトのエレファンティネに主な駐屯地があった。また、プトレマイオス朝はエジプトでの統制を確保するために軍隊に大きく依存した。兵士たちは王室近衛隊の多くの部隊に服務しており、反乱と簒奪に備えて動員され、二つとも次第に普遍化していった。「マキモイ(Machimoi)」と呼ばれたエジプト人の下級兵士は、官吏の警護や徴税を助けるために召集された。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝は、その治世を通じて職業軍人(傭兵も含む)と新兵で構成された常備軍を維持した。エジプトの支配権を固めるため、プトレマイオス1世はギリシア人、傭兵、エジプト人、さらには戦争捕虜まで募集した軍隊に依存し、彼らはかなりの知略と適応力を示した。プトレマイオス朝の軍隊は多様性に特徴があり、その構成員の民族的起源や国籍に関する記録が残されている。エジプト本国他にもマケドニア、トラキア、ギリシア本土、エーゲ海、小アシア、キレナイカなどから兵士が募集された。前2世紀から1世紀にかけて重なる戦争と拡張、ギリシア系移住民の減少と共にエジプト人が軍隊で占める割合と依存度が高まったが、ギリシア系移住民は依然として王室近衛隊と高位将校団において特権的な地位を維持した。エジプト人は王朝初期から軍隊に存在していたが、不誠実という評判と地域の反乱に同調する傾向のためしばしば無視されたり、不信を受けた。それでも、エジプト人は勇敢な戦士とみなされ、前3世紀初めにプトレマイオス5世の改革を期して将校や騎兵隊員としてよく登用され始めた。また、エジプト軍人は一般住民に比べて高い社会・経済的地位を享受することができた。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "信頼でき、忠誠な軍人を確保するために王朝は豊かな財政資源と富に対するエジプトの歴史的評判を活用するいくつかの戦略を開発した。その一環として展開された宣伝は、詩人のテオクリトスが「プトレマイオスは自由人が持つことができる最上の雇用人だ」と主張したことからも証明されている。傭兵たちは現金と穀物の配給を受ける形で給料をもらった。前3世紀にプトレマイオス軍の歩兵は、約1ドラクマ銀貨の手当を毎日もらったと伝える。このような条件は東地中海各地から新兵を引き入れ、彼らは「給料をもらう外国人」という意味の「ミストフォロイ・ゼノイ(misthophoroi xenoi)」とも呼ばれた。前2世紀から1世紀に至ると、ミストフォロイは主にエジプト国内で募集された。また、職業軍人には割り当て地という意味の「クレーロイ(kleroi、クレーロスの複数形)」が私有地として与えられ、その土地から産出された生産物を給料に代替するという屯田方式の制度が運営された。クレーロイは軍隊の階級や部隊、宿舎(stathmoi)や地域民の居住地によって様々な形で散在していた。遅くとも前230年頃になると、このような私有地はエジプト出身の下級歩兵のマキモイにも提供された。クレーロイの提供は広範囲に行われた。騎兵隊員は少なくとも70アローラの土地を受け取ることができ、歩兵隊員は25-30アローラ、マキモイは一つの家族が生活できる基準に当する5アローラを受けた。プトレマイオス軍での服務が持つ高い収益性の性質は、王朝への忠誠を保障するのに効果的だったと見られる。軍隊の暴動や反乱は珍しく、反乱に加わった兵士たちも土地の下賜と異なるインセンティブにより懐柔されたりした。",
"title": "軍事"
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{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "他のヘレニズム国家と同様、プトレマイオス軍はマケドニアの教理と組織を承継した。アレクサンドロス大王時代の騎兵は、戦術と数的な面でより大きな役割を担い、ファランクスは歩兵の主力として機能した。プトレマイオス軍の多民族的な性格は、公認された組織の原則だった。兵士たちは出身地域別に訓練を受けたり、作戦に投入された。概してクレタ人は弓手、リビア人は重装歩兵、トラキア人は騎兵として服務した。部隊の編成と武装も民族別に行われた。しかし、実戦では様々な民族の兵士が一緒に戦うよう訓練され、グレコ・マケドニア人将校の一元化された指揮は、ある程度の結束と調整が可能にしてくれてラフィアの戦いでプトレマイオス軍の士気を維持し、戦闘欲を高めるのに多大な役割を果たした。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "一部の歴史家はプトレマイオス朝のエジプトが海軍力の伝統的な様式を革新したおかげで地中海の制海権を掌握し、歴代統治者が前例のない方式により権力と影響力を行使できたと描写する。キプロス島、クレタ島、エーゲ海の諸島、トラキアなどの東地中海全域にエジプトの領土と封臣たちが散在しており、セレウコス朝とマケドニアからこれを防御するためにも大規模な海軍を必要とした。一方、エジプト海軍は収益性のよい海上貿易を保護したり、ナイル川に沿って海賊を掃討する任務も務めた。プトレマイオス朝の海軍の起源と伝統はアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争が起こった前320年頃にさかのぼる。多くのディアドコイがエーゲ海と東地中海の制海権をめぐって争うと、プトレマイオス1世はエジプト本土を防御し、外部からの侵入に備えて自分の支配権を強固にする過程で海軍を創設した。プトレマイオス1世を始めとする王朝の歴代統治者は、ギリシアやアジアに陸上帝国を建設するよりも、海軍力を増強させて海外に進出することを好んだ。前306年にサラミスの海戦で大敗したにもかかわらず、エジプト海軍は以後の数十年間、エーゲ海と東地中海における支配的な軍事力となった。プトレマイオス2世はエジプトを同地域の最も優れた海軍大国にするという父王の政策を継承した。彼の治世にエジプト海軍はヘレニズム世界の最大規模に成長し、古代に製作された最大の戦艦の一部も保有していた。第一次シリア戦争期にエジプト海軍はセレウコス朝とマケドニア海軍を撃退させ、エーゲ海と東地中海を掌握した。クレモニデス戦争でもエジプトはマケドニアを封鎖し、ギリシャ本土に対するアンティゴノス朝の野心を牽制することに成功した。",
"title": "軍事"
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{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "絶頂期であったプトレマイオス2世の時代にエジプト海軍は336隻の戦艦で構成され、輸送船と同盟国の艦船まで含めておよそ4千隻以上の艦船を保有していたとされる。このような大規模の艦隊を維持するのにかかった多くの費用はエジプトの莫大な富と資源によって裏付けられた。海軍の主要基地はアレクサンドリアとキプロスのネアパフォスにあった。エジプト海軍は東地中海、エーゲ海、レバント海、ナイル川などの各地で活動したほか、インド洋方面に向けた紅海にても定期的にパトロールを行った。このため海軍はアレクサンドリア艦隊、エーゲ海艦隊、紅海艦隊、ナイル川艦隊にそれぞれ編成された。第二次シリア戦争が始まると、エジプト海軍は一連の敗北を経験し、海外領土の喪失とともに制海権が緩んだことで、海軍の軍事的な重要性もまた低下した。その後、2世紀にわたってエジプト海軍は海上路の保護や海賊の掃討を中心に運営されてから、末期にローマ帝国が台頭する中にクレオパトラ7世によって部分的に復活した。エジプト海軍はアクティウムの海戦に参加したが、致命的な惨敗を喫し、王朝の滅亡と同時に消滅した。",
"title": "軍事"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "歴史上のあらゆる国家と同様にプトレマイオス朝においても「宗教」、神々への崇拝は重要な意義を持っていた。プトレマイオス朝の「宗教」にはそれを特徴づける複数の要因があった。1つは伝統的なギリシア人たちの共同体にとって欠かす事ができなかった神々への崇拝であり、いま1つは長い伝統を持ち、また「並外れて信心深い」(ヘロドトス)と評される土着のエジプト人たちの神々である。さらにヘレニズム時代に東地中海のマケドニア系王朝の全てで進行していた支配者崇拝の隆盛が大きな影響を及ぼした。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝時代に導入された新たな神として代表的なものがセラピス(サラピス)である。セラピス神はより古い時代にエジプトに移住したギリシア人たちの間で信仰されていた習合神オセラピス神(オシリス=アピス)の神格に起源を持ち、一般的にはプトレマイオス1世時代にエジプトにおけるセラピス崇拝が確立されたと言われている。各種の伝承はこの神の神性の創出と導入が宮廷主導で行われたことを示しており、アレクサンドリアに建設されたセラピス神殿(英語版)(セラペイオン/セラペウム)がその信仰の中心となった。この神はしばしば国家神としてギリシア人とエジプト人の双方から崇拝を受け、その融和と結束を図るために創造されたと言われる。しかし、実際にはセラピス崇拝はほとんどギリシア人の間でのみ見られるもので、エジプト人の間でそれが進んで崇拝されていた痕跡は乏しく、エジプトの地方にその信仰が浸透するのはローマ時代に入ってからである。このことから、恐らくセラピス神崇拝の確立の本来的な理由はギリシア人とエジプト人の統合を促すことではなかった。それはむしろ古くからエジプトに在住していたギリシア人たちの神を中核に据えることで、プトレマイオス朝の建国に伴って新たに移住してきたギリシア人たち(彼らもまた多様な背景を持ち、単純に一括りの存在ではなかった)がエジプトに住むギリシア人として共有できる神格を作り出すことにあったと考えられる。実際にセラピスに対する儀礼はつとめてギリシア的な作法に従っており、その図像はゼウスのそれとほとんど区別がつかないものであった。つまりこの神は、名前こそエジプトに起源を持つものの、それ以外全くギリシア的な神であり、ギリシアとエジプトの混交や一体化を示す要素は見られない。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "ヘレニズム時代を特徴付ける宗教的行為に、ポリスが生前からマケドニア系王朝の支配者を神の如き存在として崇拝する慣行がある。プトレマイオス朝の王たちもまたロドスを始めとしたギリシア人のポリスから神として祭儀を受けた。エジプトでは古くから王が神として崇められて来たが、このような慣行はエジプトの伝統ではなく、マケドニア系の諸王国とギリシア人ポリスの相互関係、そしてギリシアにおける伝統の中から現れてきたものとされている。古代ギリシアにおいては元来、ポリスの創建者や独裁者からの解放者、戦死者などを「英雄」として崇め、神、または半神として祭儀を捧げる習慣があった。このことからドイツの神学者ハンス・ヨセフ・クラウク(英語版)はギリシア人の精神的世界において、人は神の位階に昇ることが可能であり、「神々と人間との境界」には抜け穴があったとしている。この様な崇拝は存命中の人物に対しても適用されるようになった。文献的な実例として存命中の人が神格化される最古の例は、前405年にペロポネソス戦争で活躍したスパルタの将軍リュサンドロスが神として祭られたものである。神格化の対象となった人物は救済者(σωτήρ、Sōtēr)や恩恵者(Εὐεργέτης、Euergétēs)といった観念によって崇拝された。そして、ギリシアを征服したフィリッポス2世やアレクサンドロス3世といったマケドニアの王たちが自身の神格化された地位を要求したか、あるいはそれを要求していると考えたギリシア人の諸ポリスがこれに迎合して利益を得ようと図ったことによって、こうした王に対する神格化が常態化していったと考えられる。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "マケドニア系の諸王朝は上記のようなギリシア人のポリスとマケドニア王の関係性を継承していた。プトレマイオス朝におけるこの支配者祭儀の端緒となったのは、ディアドコイ戦争中の前305年から行われたアンティゴノス朝のデメトリオス・ポリオルケテスによるロドス市の包囲である。この戦いでロドスは、プトレマイオス1世の多大な支援の結果、攻撃を防ぎきることに成功した。ロドス人はプトレマイオス1世の貢献を称え、リビュアのアメン(アモン)神にプトレマイオス1世を神として祭ることの是非を問うと、可との神託が下りたので、ロドス市内にプトレマイオンという聖域を設定して巨大な列柱館を建設した。そしてプトレマイオス1世に対して神に対するのと同様の祭儀が捧げられた。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "実際に文献史料においてプトレマイオス1世が明確に神とされたことが確認できるのはその死後のことであるが、プトレマイオス1世自身が発行したコインにおいて自らをゼウス神を連想させる姿で描かせていることから、彼が自身の神格化を積極的に推し進めていたことがわかる。同様の支配者祭儀はプトレマイオス2世時代以降も、ギリシアのポリスとプトレマイオス朝の関係においてポリス側が「自発的に」王を神として祭るという体裁を重視して継続された。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ギリシア人ポリスとの関係性とは別に、プトレマイオス朝の王たちは統治を安定させるための手段として、時々の政治情勢に対応しながら自らの神格化を継続的に行った。初代プトレマイオス1世以来、オリュンポスの神々に擬せられていたことが、貨幣学の成果や彫像などによって明らかとなっている。既に述べたようにプトレマイオス1世はゼウスと同一視された例が複数確認されており、プトレマイオス2世とその妻・姉のアルシノエ2世はゼウスとヘラに見立てられていた。さらにプトレマイオス2世をヘラクレスやアポロンに見立てる彫刻や文学作品が残されており、プトレマイオス3世、4世の時代にはヘリオス、ポセイドン、ヘルメス、アルテミスもまた王と同定された。プトレマイオス5世以降には、オリュンポスの神々のイメージは後退し、変わってホルスやオシリスといったエジプトの神々との同定も行われるようになった。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "こうした神々の中でも特に重要視されたのがディオニュソスである。ディオニュソスは当時東地中海各地で人気を高めており、プトレマイオス朝においては初期の頃から王朝のシンボルであった。オリュンポスの神々のイメージが使用されなくなった後もディオニュソスと王との同定は強力に継続し、やがてプトレマイオス12世の時代には、王はディオニュソス神そのものとして「ネオス・ディオニュソス」とまで呼ばれるようになった。プトレマイオス2世時代に創設された王朝の祭祀プトレマイエイア祭は、ギリシア世界においてオリュンピアの祭典と同格の地位を与えられ、祭典中には贅を尽くしてディオニュソスの神話が再現された。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "こうした支配者として受ける祭儀、王と神とのイメージの重ね合わせを通じて、早くもプトレマイオス2世の治世には、故プトレマイオス1世が「救済神」(テオス=ソテル、Theos Sōtēr)として明確に神格化され。プトレマイオス2世自身と妻・姉アルシノエ2世は生前の内に明確に神であることが明示された。この生前の神格化はこれ以来王朝が滅亡するまで継続した。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝の王たちはエジプト土着の伝統的な神々への祭祀を継続し、各神殿の守護者として振る舞った。ホルス、アヌビス、バステト、セクメトといった古い神々はなお人々の崇拝を受け続けており、また、メンフィスのプタハ神殿やテーベのアメン神殿は旧時代から変わらず、最も強力な在地勢力を形成していた。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 79,
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"text": "プトレマイオス朝時代も伝統的建築様式に従ってエジプトの全土に神殿が建設されており、これらは現代に残る古代エジプトの宗教的建造物の中でもっとも保存状態が良好な一群を形成している。そのいくつかは古代エジプト時代を通じても最大規模のものであり、プトレマイオス3世時代に建設されたエドフ神殿やフィラエ島のイシス神殿、デンデラのハトホル神殿などが今なお往時の姿を留めている。そこに描かれた王の姿は完全に伝統的なエジプトの様式に依っており、プトレマイオス朝の王たちがマアト(秩序)を維持するエジプトのファラオとして振舞っていたことを示す。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "エジプトの神々の中にはプトレマイオス朝や後のローマ時代の思想的潮流と結びつき、またギリシアの神々のイメージも付与されて、広く地中海全域で信仰されるに至るものもあらわれた。その代表格はオシリス神の妻、かつホルス神の母である女神イシスであり、他にハルポクラテスや聖牛アピスの信仰も広まった。イシスの神格はギリシアの女神アフロディテなどのイメージと重ね合わされることで著しく拡大し、セラピスのように全くギリシア的な姿に写されてエーゲ海沿岸のポリスで崇拝された。こうしたエジプトに由来し、ギリシア的な改変を施された神々は、後のローマ時代の宗教の発達に少なからず影響を与えることになる。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "プトレマイオス朝はユダヤ教の発展の重要な舞台であった。コイレ・シリアをはじめとして、プトレマイオス朝の領域には相当数のユダヤ人が居住しており、また貢納の義務を負ってはいたものの、エルサレムを中核とするコイレ・シリア(パレスチナ)のユダヤ人たちの共同体は、ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)以来の自治的単位(ユダイア)を維持していた。ユダヤ人たちの統治は大祭司と長老会議(ギリシア風にGerousiaと呼ばれた)が行っており、王に対する税を徴収する義務も大祭司が負った。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "自発的な移動、または強制移住、あるいはその両方によってエジプト本国、特にアレクサンドリアにユダヤ人達が移住した。アレクサンドリアのユダヤ人知識階層はプトレマイオス朝時代に支配的地位にあったギリシア人の社会との関わりを求め、ヘレニズム文化を摂取しギリシア語を用いるようになっていった。彼らは、もはやヘブライ語を理解できない同胞たちのためか、あるいはギリシア系知識人に対してユダヤの歴史の古さ、あるいは優越性を訴えるためか、ユダヤ教の聖典(『旧約聖書』)のギリシア語訳を行うことを決意した。このアレクサンドリアで作成されたと見られるギリシア語訳聖書は今日、一般に『七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)』と呼ばれている。この七十人訳版は、明らかに読者の中にギリシアの知識人がいることを想定し、地名を極めて説明的に翻訳する他(ヘブライ語の音をそのままギリシア語風の発音にするのではなく、地名の語源をギリシア語訳する)、ヘブライ語版の「原文」に様々な意訳を行って、ギリシア人の宗教的習慣への配慮や、ユダヤ人の起源の古さ、偉大さを強調するような一種の「改変」が施されている。この『七十人訳聖書』は後世の宗教思想に大きな影響を残し、後の初期キリスト教の著作家たちの中から、「翻訳版」というよりももはや「聖書」そのものとして扱う人物すら出すようになる。",
"title": "「宗教」と王権"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "在位年が重複している箇所はすべて複数のファラオによる共同統治である。",
"title": "歴代ファラオ"
}
] | プトレマイオス朝は、グレコ・マケドニア人を中核とした古代エジプトの王朝。アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者(ディアドコイ)となったラゴスの子プトレマイオス(1世)によって打ち立てられた。建国者の父親の名前からラゴス朝とも呼ばれ、セレウコス朝やアンティゴノス朝とともに、いわゆるヘレニズム国家の一つに数えられる。首都アレクサンドリアは古代地中海世界の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられたムセイオンと付属の図書館(アレクサンドリア図書館)を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的にはシリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。この王朝が残したロゼッタ・ストーンは近代のエジプト語解読のきっかけを作った。 ローマが地中海で存在感を増してくると、プトレマイオス朝はその影響を大きく受け、ローマ内の政争に関与すると共に従属国的な色彩を強めていった。実質的な最後の王となったクレオパトラ7世はローマの有力政治家ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスと結んで生き残りを図ったが、アントニウス軍と共にオクタウィアヌスと戦ったアクティウムの海戦での敗北後、自殺に追い込まれた。プトレマイオス朝の領土はローマに接収され、帝政の開始と共に皇帝属州のアエギュプトゥスが設立された。 | {{基礎情報 過去の国
|日本語国名 = プトレマイオス朝エジプト
|公式国名 = {{native name|el|Πτολεμαϊκὴ βασιλεία}}
|位置画像 = Ptolemaic Kingdom III-II century BC - en.svg
|位置画像説明 = <p align="left">紀元前235年頃のプトレマイオス朝の領域</p><p align="left">緑色の[[コイレ・シリア]]は後にセレウコス朝に奪われる</p>
|首都 = [[アレクサンドリア]]
|公用語 = [[古代ギリシア語]]<br>[[古代エジプト語]]
|建国時期 = [[紀元前305年|前305年]]
|亡国時期 = [[紀元前30年|前30年]]
|先代1 = アルゲアス朝
|先旗1 = vergiasun.svg
|先旗1縁 = no
|次代1 = アエギュプトゥス
|次旗1 = Vexilloid_of_the_Roman_Empire.svg
|次旗1縁 = no
|元首等肩書 = [[ファラオ]]
|元首等氏名1 = [[プトレマイオス1世|プトレマイオス1世<br/>ソテル]]
|元首等年代始1 = 前305年
|元首等年代終1 = 前283年
|元首等氏名2 = [[プトレマイオス3世|プトレマイオス3世<br/>エウエルゲテス]]
|元首等年代始2 = 前246年
|元首等年代終2 = 前222年
|元首等氏名3 = [[クレオパトラ7世|クレオパトラ7世<br/>フィロパトル]]
|元首等年代始3 = 前51年
|元首等年代終3 = 前30年
|元首等氏名4 = [[プトレマイオス15世|プトレマイオス15世カエサル]]
|元首等年代始4 = 前44年
|元首等年代終4 = 前30年
|変遷1= 建国
|変遷年月日1= 前305年
|変遷2= [[シリア戦争 (プトレマイオス朝)|シリア戦争]]
|変遷年月日2= 前274年-前168年
|変遷3= [[アクティウムの海戦]]
|変遷年月日3= 前31年9月2日
|変遷4= 滅亡
|変遷年月日4= 前30年
}}
{{古代エジプトの王朝}}
'''プトレマイオス朝'''(プトレマイオスちょう、{{lang-grc|{{unicode|Πτολεμαῖοι}}}}、''Ptolemaioi''、[[紀元前305年]] - [[紀元前30年]])は、[[マケドニア人|グレコ・マケドニア人]]を中核とした[[古代エジプト]]の王朝。[[アレクサンドロス3世]](大王)の死後、その後継者([[ディアドコイ]])となったラゴスの子[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]](1世)によって打ち立てられた。建国者の父親の名前から'''ラゴス朝'''とも呼ばれ、[[セレウコス朝]]や[[アンティゴノス朝]]とともに、いわゆる[[ヘレニズム]]国家の一つに数えられる。首都[[アレクサンドリア]]は古代[[地中海世界]]の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられた[[ムセイオン]]と付属の図書館([[アレクサンドリア図書館]])を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的には[[歴史的シリア|シリア]]を巡ってセレウコス朝と、[[エーゲ海]]の島々や[[キプロス島|キュプロス島]]を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。この王朝が残した[[ロゼッタ・ストーン]]は近代の[[エジプト語]]解読のきっかけを作った。
[[共和制ローマ|ローマ]]が地中海で存在感を増してくると、プトレマイオス朝はその影響を大きく受け、ローマ内の政争に関与すると共に従属国的な色彩を強めていった。実質的な最後の王となった[[クレオパトラ7世]]はローマの有力政治家[[ユリウス・カエサル]]や[[マルクス・アントニウス]]と結んで生き残りを図ったが、アントニウス軍と共に[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]と戦った[[アクティウムの海戦]]での敗北後、{{仮リンク|クレオパトラ7世の死|en|Death of Cleopatra|label=自殺}}に追い込まれた。プトレマイオス朝の領土はローマに接収され、[[帝政ローマ|帝政]]の開始と共に[[皇帝属州]]の[[アエギュプトゥス]]が設立された。
== 歴史 ==
=== アレクサンドロス3世とディアドコイ ===
{{Quote box
| quote = アレクサンドロスは[[リビュア]]なるアモン(アメン)に詣でたいという強い願望にとりつかれた。ひとつにはこの神に託宣を受けるためだった。アモンの神託は決して過つことがなく、[[ペルセウス]]は[[ポリュデクテス]]の命令で[[ゴルゴーン|ゴルゴ]]退治に遣わされたさいに、また[[ヘラクレス]]もリビュアに[[アンタイオス]]を訪ね、[[ブシリス]]をエジプトに訪れた折りに、いずれもここで託宣をうかがったと伝えられていたからだ。それにアレクサンドロスにはペルセウスやヘラクレスと張りあう気持があった。彼はこのふたりの英雄の末裔であったし、また伝説がヘラクレスやペルセウスの出生をゼウスに結びつけているように、彼自身は自分の生まれをアモンに結びつけていたからでもある。
| source=-アッリアノス『アレクサンドロス大王<br>東征記』第3巻§3<ref name="アッリアノスp191">[[#アッリアノス|アッリアノス]]『アレクサンドロス大王東征記』第3巻§3、大牟田訳 p.191</ref>
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| width = 23em
}}
[[マケドニア王国]]の王、[[アレクサンドロス3世]](大王、在位:前336年-前323年)は、当時西アジアの大半とエジプトを支配していた[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)を征服するべく、前334年に東方遠征に出発し<ref name="森谷2000p7">[[#森谷 2000|森谷 2000]], p. 7</ref>、その途上、前332年にはエジプトに入り、これを無血平定した<ref name="桜井1997p191">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 191</ref><ref name="森谷2000p6">[[#森谷 2000|森谷 2000]], p. 6</ref>。彼は[[ファロス島]]の対岸、[[ナイルデルタ]]西端の地点が良港であると見て、建築家[[デイノクラティス]]に都市計画を命じたという<ref name="アバディ1991p20">[[#エル=アバディ 1991|エル=アバディ 1991]], p. 20</ref><ref name="山花2010p158">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 158</ref>。こうして[[アレクサンドリア]]市の建設が始まった<ref name="アバディ1991p20"/><ref name="山花2010p158"/>。この都市はその後エジプト最大の都市へと発展し、プトレマイオス朝の王都として機能するようになる。アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にある[[アメン]]神([[ゼウス]]と同一視された)の聖所[[シワ・オアシス]]を訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる<ref name="山花2010p158"/>。
アレクサンドロス3世は前331年4月にエジプトを離れてハカーマニシュ朝の残された領土の征服に向かい<ref name="森谷2000p150">[[#森谷 2000|森谷 2000]], p. 150</ref>、生前にエジプトに戻ることはなかった。彼は前331年10月の[[ガウガメラの戦い]]で勝利し、逃亡したハカーマニシュ朝の王[[ダレイオス3世|ダーラヤワウ3世]](ダレイオス3世)は部下の裏切りによって殺害された<ref name="桜井1997p192">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 192</ref>。その後、ハカーマニシュ朝の領土のほとんど全てをアレクサンドロス3世が征服したが、彼は前323年に[[バビロン]]市で病没した<ref name="桜井1997p193_194">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 193_194</ref>。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者([[ディアドコイ]])たるを主張して争った。一連の戦いは[[ディアドコイ戦争]]と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相([[千人隊長|キリアルコス]]、{{lang-grc|{{Unicode|χιλίαρχος}}}})の[[ペルディッカス]]、有力な将軍であった[[クラテロス]]、遠征中にマケドニア本国を任されていた[[アンティパトロス]]らであった<ref name="シャムー2011pp59_60">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 59-60</ref>。他、[[メレアゲル]]や[[レオンナトス]]、[[アンティゴノス1世|アンティゴノス・モノフタルモス]](隻眼のアンティゴノス)、そしてラゴスの子プトレマイオス(1世)らも有力な将軍の列に加わっていた<ref name="ウォールバンク1988p62">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 62</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。
プトレマイオスはマケドニアの貴族{{仮リンク|ラゴス (プトレマイオス1世の父)|label=ラゴス|en|Lagus}}と{{仮リンク|アルシノエ (プトレマイオス1世の母)|label=アルシノエ|en|Arsinoe of Macedon}}の間の子である<ref name="松原2010pプトレマイオス">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], pp. 1033-1038 「プトレマイオス(エジプト王室の)」の項目より</ref>。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|フィリッポス2世]]の[[妾]]であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人([[ヘタイロイ]])として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった<ref name="松原2010pプトレマイオス"/>。
エジプトはギリシア人である[[ナウクラティスのクレオメネス]]の管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われた[[バビロン会議]]の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄[[ピリッポス3世|アリダイオス]]と遺児[[アレクサンドロス4世]]を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したのに対し、プトレマイオスはアンティゴノス、[[ヘレスポントス]]を支配する[[リュシマコス]]、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref><ref name="シャムー2011pp59_60"/>、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した<ref name="ウォールバンク1988p139">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 139</ref>。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共に[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]に作った仮墓に埋葬した<ref name="シャムー2011p64">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 64</ref><ref name="ウォールバンク1988p65">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 65</ref>。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「[[セマ]]」に安置され、[[水晶]]の棺に納められたという<ref name="山花2010p163">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 163</ref>。また、西方のギリシア人植民市[[キュレネ]]も征服して[[キレナイカ|リビュア]]方面を確保した<ref name="山花2010p166">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 166</ref>。ペルディッカスは前321年{{efn2|ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが<ref name="ウォールバンク1988p66">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 66</ref>、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。}}にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したが[[ナイル川]]の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された<ref name="シャムー2011p65">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 65</ref><ref name="ウォールバンク1988p66"/>。
=== 王朝の建設 ===
[[ファイル:Ptolemy I Soter Louvre Ma849.jpg|thumb|left|[[プトレマイオス1世|ラゴスの子プトレマイオス]](1世)像。]]
ペルディッカスの死後、シリアの[[トリパラディソスの軍会|トリパラディソスで会議]]がもたれ、改めて各ディアドコイの領土の配分が話し合われた<ref name="シャムー2011p65"/>。この会議でもプトレマイオスはエジプトの支配権を維持した<ref name="シャムー2011p65"/>。長老格のアンティパトロスがペルディッカスに代わってアリダイオスとアレクサンドロス4世の後見を任されたが、前319年にアンティパトロスが死んだ後その地位を継承した[[ポリュペルコン]]に反対して各ディアドコイたちが同盟を結び、プトレマイオスもこれに加わった<ref name="シャムー2011p67">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 67</ref>。以降、アンティゴノス、[[カルディアのエウメネス]]、セレウコス、リュシマコス、アンティパトロスの子[[カッサンドロス]]と言ったディアドコイ諸侯たちとの間で同盟と対立が繰り返され、アレクサンドロス3世の帝国は次第に分割されて行くことになる<ref name="ウォールバンク1988pp62_81">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], pp. 62-81</ref><ref name="シャムー2011pp59_95">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 59-95</ref>。
以降の戦いで中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス・ポリオルケテス]](都市攻囲者デメトリオス)である<ref name="シャムー2011p71">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 71</ref>。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えた[[カッサンドロス]]、[[バビロニア]]を追われた[[セレウコス1世|セレウコス]]、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し<ref name="シャムー2011p72">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 72</ref>、シリアおよび海上でデメトリオスと戦った<ref name="ウォールバンク1988p74">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 74</ref>。プトレマイオスはこの過程で、前310年に海路でギリシアに遠征し小アジア南岸の[[リュキア]]、[[カリア]]、[[キュクラデス諸島]]の他、一時的ながら[[ペロポネソス半島]]の一部を支配下に置いた<ref name="波部2014p108">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 108</ref>。しかし、前306年には[[サラミスの海戦 (紀元前306年)|サラミスの海戦]]でデメトリオスに敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した([[アンティゴノス朝]])<ref name="シャムー2011p76">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 76</ref>。
キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた<ref name="シャムー2011p77">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 77</ref>。これを挽回するために彼が[[ロドス]]を抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲([[ロドス包囲戦]])の末にデメトリオス軍を撃退した<ref name="シャムー2011p77"/>。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(''Sōtēr''、救世主)と渾名されることになる<ref name="シャムー2011p77"/>。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した<ref name="ウォールバンク1988p76">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 76</ref>。
前301年の[[イプソスの戦い]]でアンティゴノス1世がセレウコス1世、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍に敗れ戦死すると、それに乗じたプトレマイオス1世は[[アルワード島|アラドス]]と[[ダマスカス]]以南のシリア、およびリュキア、[[キリキア]]、[[ピシディア]]の一部を支配下に置いた<ref name="ウォールバンク1988p79">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 79</ref>。一方、アジアではリュシマコスをも滅ぼしたセレウコス1世([[セレウコス朝]])がシリアから[[インダス川]]に至る広大な地域を支配下に置いて覇者となった<ref name="ウォールバンク1988p80">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 80</ref>。デメトリオス1世はマケドニアに渡り再起を図った<ref name="ウォールバンク1988p80"/>。やがて、彼の息子の[[アンティゴノス2世]](アンティゴノス・ゴナタス)がマケドニア本国に[[アンティゴノス朝]]を確立していく。プトレマイオス朝はこのセレウコス朝やアンティゴノス朝と共に[[ヘレニズム]]王朝の1つに数えられ、これらと東地中海地域の覇権を巡って争った。
=== 王朝の完成 ===
[[ファイル:PtolemaicEmpire.png|thumb|right|300px|[[紀元前300年]]頃のプトレマイオス朝の領土(青)]]
プトレマイオス1世は前283年に死去し<ref name="シャムー2011p100">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 100</ref>、その前に共同統治者となっていた息子の[[プトレマイオス2世]](フィラデルフォス、在位:前285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した<ref name="シャムー2011p101">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 101</ref>。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し<ref name="シャムー2011p101"/>、彼と続く[[プトレマイオス3世]]の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる<ref name="シャムー2011p101"/><ref name="拓殖1982p24">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 24</ref><ref name="波部2014p16">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 16</ref>。
プトレマイオス2世は父王の死後セレウコス朝と激しい争いを繰り広げた。前281年にセレウコス1世が[[プトレマイオス・ケラウノス]]{{efn2|プトレマイオス・ケラウノスはプトレマイオス1世の息子であり、プトレマイオス2世の異母兄弟にあたる。父王との対立からエジプトを離れ、リュシマコスの庇護下にあった。リュシマコスがセレウコス1世に敗れた後、プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス1世を暗殺した。}}に暗殺された後、セレウコス朝の支配者となった[[アンティオコス1世ソテル|アンティオコス1世]]は、プトレマイオス朝の勢力を弱めようと画策し、キュレネの統治者{{仮リンク|マガス (キュレネ王)|label=マガス|en|Magas of Cyrene}}に働きかけ、彼を臣下のギリシア人たちと共にプトレマイオス2世から離反させた<ref name="シャムー2011p101"/>。マガスはプトレマイオス2世の異父兄弟であり、プトレマイオス1世によってキュレネの支配者とされていた人物である。また、アンティオコス1世の娘アパマ(アパメー)と結婚していた<ref name="シャムー2011p102">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 102</ref>{{efn2|離反したマガスはエジプトの支配権の奪取をも試みたが失敗した<ref name="シャムー2011p101"/>。エジプトとキュレネが[[砂漠]]で隔てられていて双方とも有効な攻撃が困難であったことも手伝い、結局両者は妥協して相互の干渉を控えることになった<ref name="シャムー2011p101"/>。}}。さらに前274年から前271年にかけて、[[第一次シリア戦争]]が戦われた<ref name="シャムー2011p102"/>。シリアに侵攻したプトレマイオス2世は敗れたが、この戦争自体は痛み分けに終わった<ref name="シャムー2011p102"/>。続いて10年後にはセレウコス朝の新王[[アンティオコス2世テオス|アンティオコス2世]]との間で[[第二次シリア戦争]]が勃発し、プトレマイオス2世はシリア、小アジア方面で大幅な後退を余儀なくされた<ref name="シャムー2011p102"/>。以降数世紀にわたって繰り返し[[シリア戦争 (プトレマイオス朝)|シリア戦争]]が両王朝の間で戦われることになる。
また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立する[[アテナイ]]やその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした<ref name="波部2014pp79_87">[[#波部 2014|波部 2014]], pp. 79-87</ref><ref name="シャムー2011p102"/>。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、[[スパルタ]]を中心としたギリシアのポリス連合との間で[[クレモニデス戦争]]が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した<ref name="波部2014p88">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 88</ref><ref name="ターン1987p21">[[#ターン 1987|ターン 1987]], p. 21</ref>{{efn2|ターン 1987の記述ではクレモニデス戦争の期間は前266年-前262年。}}。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたる[[アルシノエ2世]]の息子[[プトレマイオス (リュシマコスの息子)|プトレマイオス]]をマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる<ref name="波部2014p96">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 96</ref>{{efn2|アルシノエ2世はプトレマイオス1世と妻[[ベレニケ1世]]の娘でありプトレマイオス2世にとって同母姉にあたる。彼女は当初リュシマコスと結婚したが、リュシマコスの死後エジプトに戻っており、姉弟であるプトレマイオス2世と結婚した。従ってリュシマコスとアルシノエ2世の息子プトレマイオスはプトレマイオス2世の義理の息子にあたる。プトレマイオス3世はプトレマイオス2世の実子であり、アルシノエ2世の子プトレマイオスとは別人である<ref name="シャムー2011p104">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 104</ref><ref name="拓殖1982p25">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 25</ref>。}}。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった<ref name="波部2014p88"/><ref name="ターン1987p21"/><ref name="シャムー2011p103">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 103</ref>。
[[ファイル:PHAROS2013-3000x2250.jpg|thumb|left|ファロス島の大灯台の想像図。]]
こうした軍事上の失敗のために、東地中海におけるプトレマイオス朝の影響力は一時低下したものの、プトレマイオス2世統治下におけるエジプトの繁栄は多くの史料によって明らかになっている<ref name="シャムー2011p104"/>。彼は支配地であるエジプトから得られる豊かな収入を用いて壮大な宮殿、神殿を建設し、また[[ムセイオン]]に[[アレクサンドリア図書館]]として名高い図書館を建設して各地から優れた学者を招聘した<ref name="シャムー2011p104"/>{{efn2|[[アレクサンドリア図書館]]の建設を行った王についてはプトレマイオス1世とプトレマイオス2世のいずれであるか確実にはっきりとはしない。[[モスタファ・エル=アバディ]]は現存史料からいずれの建設ともみなしうるが、従来プトレマイオス2世に帰されていたその業績は近年ではプトレマイオス1世のものとする方向に傾いていると述べる<ref name="アバディ1991p66">[[#エル=アバディ 1991|エル=アバディ 1991]], p. 66</ref>。しかし、[[フランソワ・シャムー]]<ref name="シャムー2011p104"/>や[[本村凌二]]<ref name="本村1997p203">[[#桜井 1997|桜井 1997]], p. 203</ref>など、多くの書籍でプトレマイオス2世の創建という前提で叙述が行われていることから、本文ではプトレマイオス2世の建設とする見解に依った。}}。このムセイオンの付属図書館は一説には50万とも70万とも言われる蔵書を抱え、ギリシア語の古典の校正や研究など、古典古代の学術発展に大きな影響を残すことになる<ref name="本村1997p203"/>。アレクサンドロス3世以来続けられてきた都市アレクサンドリアの建設自体もプトレマイオス2世時代にはほぼ完成するにいたり、地中海最大の都市・学芸の中心として多くの著作家たちの語り草となるようになった<ref name="アバディ1991p24">[[#エル=アバディ 1991|エル=アバディ 1991]], p. 24</ref><ref name="拓殖1982p29">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 29</ref>。
また、王朝の権威を高めるための王室崇拝儀礼もプトレマイオス2世の時代に大きく整備された。父プトレマイオス1世を「救済神」(テオス=ソテル、''Theos Sōtēr'')としたのを皮切りに、母ベレニケ1世も死後神々の座に加えた<ref name="拓殖1982p27">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 27</ref>。さらに妻とした実姉[[アルシノエ2世]]も「弟を愛する女神」(テア=フィラデルフォス、''Thea Philadelphus'')として神格化し、その死後には自らを妻とともに「姉弟の神々」(テオイ=アデルフォイ、''Theoi Adelphoi'')として神の座に加えた<ref name="拓殖1982p27"/><ref name="シャムー2011p105">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 105</ref>。こうして王が神として統治するエジプトの伝統がプトレマイオス朝の支配に適合するように調整された<ref name="シャムー2011p105"/>。このようなプトレマイオス2世の処置はその後のプトレマイオス朝の王たちの範となった。以降プトレマイオス王家では兄弟姉妹婚と生前から神として崇拝を受けることが慣例となる<ref name="拓殖1982p28">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 28</ref><ref name="シャムー2011p105"/>。
=== プトレマイオス3世の征服活動 ===
{{Quote box
| quote = 大王プトレマイオスは父方にはゼウスの子ヘラクレスの子孫より、母方にはゼウスの子ディオニュソスの子孫より生まれし、テオイ・ソテレス(救済神)たるプトレマイオス(一世)と王妃ベレニケ(一世)の子、テオイ・アデルフォイ(愛姉神)たる王プトレマイオス(二世)と王妃アルシノエ(二世)の子にして、父より(中略)王国を受け継ぎ、(中略)アジアへ遠征した。彼は[[ユーフラテス川|エウフラテス河]]のこちら側(西岸)の地域、[[パンピュリア]]、[[イオニア]]、[[ヘレスポントス]]、[[トラキア]]にわたる全地域と、これらの地域の全軍とインド象の支配者となり、これらの全地域における領主を従属させ、エウフラテス河を渡り、彼自身、[[バビロニア]]、[[スシアナ]]、[[ペルシア|ペルシス]]、[[メディア王国|メディア]]、そして[[バクトリア]]にいたるあらゆる地域において、ペルシア人によってエジプトから持ち去られた、いかなる聖物を彼自身が探し出し、この地域から得られた他の財宝とともに、エジプトへと回復し、(ユーフラテス)河に沿って兵を帰還させた(以下、欠損)
| source=-プトレマイオス朝の第三次シリア戦争戦勝記念碑文<ref>[[#波部 2014|波部 2014]], pp. 192-193の引用より孫引き</ref>
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}}
前246年、父の跡を継いで王位についた[[プトレマイオス3世]](エウエルゲテス、在位:前246年-前222年)は、父王の代に離反していたキュレネの奪回に取り組んだ。キュレネを支配していたマガスは娘の[[ベレニケ2世]]をプトレマイオス3世と結婚させる予定でいたが、マガスの死後、その妻アパマはベレニケ2世の結婚相手としてアンティゴノス・ゴナタスの弟{{仮リンク|デメトリオス (美男王)|label=デメトリオス|en|Demetrius the Fair}}(美男王)を希望した<ref name="シャムー2011p105"/>。しかしベレニケ2世はデメトリオスを暗殺し、自らはプトレマイオス3世と結婚する道を選んだ<ref name="シャムー2011p105"/>。これによってキュレネ市はプトレマイオス朝の支配に復したが、キュレナイカの他の都市は反抗したため、結局軍事的処置によって再征服が行われた<ref name="シャムー2011p105"/>。同時に、東方では前246年以降、セレウコス朝の領土奥深くへ進軍した([[第三次シリア戦争]])。[[アッピアノス]]の記録によれば、この戦争はセレウコス朝の王アンティオコス2世に嫁いでいたプトレマイオス3世の姉妹[[ベレニケ (アンティオコス2世の妻)|ベレニケ]]が、別の妻[[ラオディケ (アンティオコス2世の妻)|ラオディケ]]に息子もろとも殺害されたことに対する報復として始まったという<ref name="アッピアノス§65">[[#アッピアノス|アッピアノス]]『シリア戦争』No.13§65</ref><ref name="シャムー2011p107">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 107</ref>。プトレマイオス3世はそれに先立ってアンティオコス2世がラオディケに毒殺された際にベレニケから支援を求められアンティオキアへと進軍していたが、到着した時には既にベレニケ母子も殺害された後であり、そのままアンティオキアを攻略して戦争に突入した<ref name="クレイトン1999p269">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 269</ref>。
この第三次シリア戦争において、プトレマイオス3世はプトレマイオス朝の王としては対セレウコス朝の戦いで最大の成功を収めた。彼はシリア地方を席巻し、[[メソポタミア]]を突き抜けて[[バビロニア]]まで進軍した<ref name="シャムー2011p107"/>。バビロン市の包囲では現地軍の頑強な抵抗に合い、激しい戦闘が繰り広げられたことが現地の[[楔形文字]]史料である『[[バビロニア年代誌]]』の記録によって明らかとなっている<ref name="BHCP11">[[#BHCP11|『バビロニア年代誌』BHCP11]]</ref>{{efn2|プトレマイオス3世自身は本国での反乱のために帰国しており、バビロンを攻撃したのは代理の将軍である<ref name="BHCP11"/>。}}。この年代誌は結末の部分が欠落しており、エジプト軍が最終的にバビロンの占領に成功したのかどうか不明瞭である<ref name="BHCP11サマリー">[[#BHCP11|『バビロニア年代誌』BHCP11]]、訳者サマリーより</ref>。プトレマイオス朝が建設した戦勝記念碑文では、バビロニア、小アジアに加え[[バクトリア]]、[[ペルシア]]、[[メディア王国|メディア]]など、セレウコス朝の全領土における成功が宣言されているが<ref name="シャムー2011p107"/><ref name="波部2014pp192_193">[[#波部 2014|波部 2014]], pp. 192-193</ref>、これが事実であるかどうかも不明である。単純な事実としてはこの戦争の終結後間もなく、セレウコス朝はバビロニアとシリアの支配を回復している<ref name="シャムー2011p107"/>。しかしそれでもなお、小アジアのエーゲ海沿岸部やシリア南部([[コイレ・シリア]])、そしてさらにセレウコス朝の首都[[アンティオキア]]の外港{{仮リンク|セレウキア・ピエリア|en|Seleucia Pieria}}までもがプトレマイオス朝の支配下に残った<ref name="シャムー2011p107"/><ref name="波部2014p183">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 183</ref>。
プトレマイオス3世はこの戦争の後は大規模な対外遠征は行っていないが<ref name="シャムー2011p108">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 108</ref>、それでもさらなる勢力拡張を目指して、アテナイや[[アカイア同盟]]などギリシアの政情に介入を繰り返し、またアテナイの外港[[ペイライエウス]]に駐留していたアンティゴノス朝の軍団を撤退させた<ref name="シャムー2011p108"/>。これに対してアテナイは市民団の13番目の「部族」として「プトレマイス」を新設するという栄誉で応えた<ref name="シャムー2011p108"/>。
=== 後期 ===
{{Quote box
| quote = エジプトではプトレマイオス(引用注:4世)が全く異なった状態にあった。即ち、近親殺しで王国を手に入れ、両親を殺したのに加えて、さらに兄弟をも殺害して、彼は、あたかも事がうまく運んだかのように思って贅沢に身を任せ、また、王宮全体も王のやり方に従ったのである。その結果、幕僚や長官たちだけでなく、全軍隊も軍事に精励するのをやめて、安逸と無為でだれ切り、腐り果てた。
| source=-ポンペイウス・トログス、ユスティヌス抄録『地中海世界史』第30巻§1<ref name="ユスティヌス1998第30巻§1">[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]『地中海世界史』第30巻§1, 合阪訳p. 349</ref>
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}}
伝統的な見解では最初の3代の治世が終わった後、プトレマイオス朝は領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などのため徐々に衰退へ向かっていったとされている<ref name="波部2014p18">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 18</ref><ref name="シャムー2011p108"/><ref name="山花2010p169">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 169</ref>{{efn2|[[波部雄一郎]]は著作において、反乱や内紛は最盛期とされる最初の3代の時代にも見られることや、近親婚や暗君の統治による内政の混乱という見解が古典古代の著作家による視点を受け継いだものであることに触れ、このような一面的な解釈には再考の余地があると指摘している<ref name="波部2014pp18_21">[[#波部 2014|波部 2014]], pp. 18-21</ref>。ただし、波部自身も「プトレマイオス五世以降の王朝が、シリア、小アジア沿岸部、エーゲ海の領土の相次ぐ喪失により、ギリシア世界に進出し、政治的影響力を行使する地理的条件を失ったことは事実である」と述べており、またプトレマイオス朝史を前期と後期に分ける区分を用いてもいる<ref name="波部2014pp18_21"/>。従って本文では伝統的な見解に従った。}}。[[プトレマイオス4世]](在位:前222/221年-前204年{{efn2|name="プトレマイオス4世在位"|プトレマイオス4世の在位年は参考文献によって表記が一定しない。本文は波部2014に依った。具体的には次の通りである。前222/221年-前204<ref name="波部2014p287">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 287</ref>、前221-前204<ref name="松原2010pプトレマイオス朝系図">[[#松原 2010|西洋古典学事典]],p. 1436「プトレマイオス朝エジプト王家の系図」より</ref><ref name="ユスティヌス1998p343注釈4">[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注4</ref>、前221-前203<ref name="拓殖1982p25"/>、前222-前206<ref name="山花2010pp169_170">[[#山花 2010|山花 2010]], pp. 169-170</ref>、前222-前205<ref name="クレイトン1999p266">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 265</ref>。}})は、父を殺害して即位したことに対する皮肉から「フィロパトル(''Philopator''、父を愛する者)という異名が与えられている<ref name="ユスティヌス1998p343注釈5">[[#ユスティヌス 1998|ユスティヌス]]、『地中海世界史』第29巻, 合阪訳p. 343, 訳注5</ref>。彼は即位に伴う流血とその放蕩な生活ぶりで名を知られている。父親の他、即位してから1年のうちに、母[[ベレニケ2世]]と弟[[マグス]]、叔父[[リュシマコス (プトレマイオス3世の弟)|リュシマコス]]を殺害し、アレクサンドリアのギリシア人[[ソシビオス]]に唆されて遊蕩にふける生活を送るようになったという<ref name="シャムー2011p145">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 145</ref><ref name="クレイトン1999p270">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 270</ref><ref name="山花2010pp169_170"/>{{efn2|実際にはプトレマイオス4世は王朝の影響力を強化すべく活動しており、また彼がその顕示欲から遂行したとされる大型軍船の建造などの事業も、国威発揚のための努力ともとることができる。また彼の時代には特に大きな領土の喪失もなく、彼の治世以降をプトレマイオス朝衰退の時代とする観点は見直すべきとする見解もある<ref name="波部2014pp18_21"/>}}。
プトレマイオス4世が即位して間もなく重大な問題となったのが同時期にセレウコス朝で新たに即位した[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]](大王、在位:前223年-前187年)の脅威であった。プトレマイオス朝の王位継承に伴う混乱を好機と見たアンティオコス3世は、前219年に第三次シリア戦争で失ったコイレ・シリアとセレウキア・ピエリアの奪還を目指して侵攻を開始し、[[第四次シリア戦争]]が勃発した<ref name="シャムー2011p145"/>。初年度のうちに全シリアがセレウコス朝の手に落ちたが、プトレマイオス4世はエジプト本国への攻撃を阻止することに成功し、さらに現地エジプト人2万人を軍隊に編入するという改革を実施することで軍団を強化した<ref name="シャムー2011p146">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 146</ref>。そして前217年にヘレニズム時代最大規模の会戦である[[ラフィアの戦い]]でセレウコス朝の軍隊を撃破することに成功し、セレウキア・ピエリアを除くコイレ・シリアを奪回した上で講和を結んだ<ref name="シャムー2011p146"/><ref name="山花2010p170">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 170</ref><ref name="波部2014p238">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 238</ref>。
{{Quote box
| quote = プトレマイオス(四世)のところでは、この(ラピアの戦いの)すぐあと、エジプト人との戦争が勃発した。この王はアンティオコス(引用注:3世)との戦争に備えてエジプト人に武器を与えていたのだが、これはその場面に限っていえば首肯できる方法ではあっても、将来のためにはつまづきの石となった。というのもラピアの勝利によって自信をふくらませたエジプト人たちは、もはやおとなしく命令に忍従するのをいさぎよしとせず、自分の力で身を守ることのできる人間として、それにふさわしい指導役の人物を求めるようになったのである。この要求はしばらくのちに実現することになる{{efn2|このポリュビオスの見解は近現代の学者に大きな影響を与えている。しかし、現在ではエジプト人の反乱をラフィアの戦いでの貢献による自己意識の向上と言った要素に求める見解や、エジプト人を単なる被支配者層とみなす見解は見直しを迫られている。詳細は[[#グレコ・マケドニア人とエジプト人]]を参照。}}。
| source=-ポリュビオス『歴史』第5巻§107<ref name="ポリュビオス第5巻§107">[[#ポリュビオス 2007|ポリュビオス]]『歴史』第5巻§107, 城江訳、p. 276</ref>
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}}
しかし、この勝利の後のエジプト国内での反乱が、財政の悪化と共にプトレマイオス朝にとって重い負担となった<ref name="シャムー2011p147">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 147</ref>。反乱が頻発した背景には、軍隊の一員として大きな役割を果たしたエジプト人たちがある種の民族主義的な自意識を獲得し、中央政府の支配に復さなくなったとする見解が(古典古代から)伝統的に採用されている<ref name="波部2014pp18_21"/><ref name="シャムー2011p146"/><ref name="ウォールバンク1988p167">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 167</ref>。このような見解は現在では批判が行われているが<ref name="波部2014pp18_21"/>、原因は別としても前207/205年頃には[[テーベ]]を中心とする[[上エジプト]]が将軍[[ハロンノフリス]](ヒュルゴナフォル)と[[カロンノフリス]]親子を戴いてプトレマイオス朝から離反し、深刻な脅威をもたらした(南部大反乱)<ref name="周藤2014ap6">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 6</ref><ref name="シャムー2011p147"/><ref name="波部2014p238"/>{{efn2|この反乱の発生年次についても、参考文献の間で一致しないため次にまとめる。各出典でこの反乱の発生日時には次の年が割り当てられている。前207年<ref name="シャムー2011p147"/>、前206年<ref name="周藤2014ap1">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 1</ref>、前205年<ref name="波部2014p238"/>。}}。
この反乱の発生直後、プトレマイオス4世が死亡して僅か6歳の[[プトレマイオス5世]](在位:前204年-前180年)が即位し、実権は延臣のソシビオスと[[アガトクレス (プトレマイオス朝)|アガトクレス]]が握った<ref name="周藤2014ap9">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 9</ref>。しかし老齢のソシビオスは間もなく死亡し、アガトクレスも前203年には軍のクーデターにより殺害された<ref name="周藤2014ap9"/><ref name="山花2010p170"/>。幼少の王の即位と混乱を好機と見たセレウコス朝のアンティオコス3世と前202年にコイレ・シリアに侵入して[[第五次シリア戦争]]が勃発した<ref name="シャムー2011p150">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 150</ref>。前202年までにはエジプトとの境界に至る全シリアがセレウコス朝の支配下に入り、同時にアンティゴノス朝の[[ピリッポス5世|フィリッポス5世]]もセレウコス朝に同調し、エーゲ海のプトレマイオス朝の支配地であった[[キュクラデス諸島]]や[[ミレトス]]に攻撃をかけて、他のギリシア人ポリスもろとも、これを占領した<ref name="シャムー2011p150"/>。
=== ローマの拡張 ===
拡大するアンティゴノス朝の脅威に晒され、敗戦と内乱の渦中にあるプトレマイオス朝の支援も当てにできなくなったエーゲ海のギリシア人ポリス、[[ロドス]]、[[ビュザンティオン]]、[[キオス島|キオス]]、そして[[ペルガモン王国]]の[[アッタロス1世]]らは対アンティゴノス朝の同盟を結ぶと共に、[[第二次ポエニ戦争]]に勝利して地中海に覇権を確立しつつあったローマの支援を求めた<ref name="シャムー2011p151">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 151</ref>。ローマはギリシア情勢に介入し、前197年の[[キュノスケファライの戦い (紀元前197年)|キュノスケファライの戦い]]でアンティゴノス朝の軍団を打ち破ってギリシアにおけるアンティゴノス朝の領土を独立させ、同国の外交権を剥奪した<ref name="シャムー2011p152">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 152</ref><ref name="本村1997p277">[[#本村 1997a|本村 1997a]], p. 203</ref>。続いてギリシアへと勢力を拡張しようとしたセレウコス朝のアンティオコス3世も前191年の{{仮リンク|テルモピュライの戦い (前191年)|label=テルモピュライの戦い|en|Battle of Thermopylae (191 BC)}}と前190年の[[マグネシアの戦い]]でローマに敗れ、東地中海におけるローマの影響力は一挙に拡大した<ref name="シャムー2011pp158_159">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 158-159</ref>。
[[ファイル:Rosetta Stone.JPG|thumb|right|ロゼッタ・ストーン。[[大英博物館]]収蔵]]
こうした政治的動向の中で、プトレマイオス朝も次第にローマとの関わりを拡大させていく。ローマはこの時、プトレマイオス朝に対して好意的であり、アンティゴノス朝に対してプトレマイオス朝の領土に手を出さないよう警告を出した<ref name="周藤2014ap10">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], p. 10</ref>。しかしプトレマイオス朝はローマとセレウコス朝の和約においては何ら関与することができず、地中海における影響力の低下は明らかであった<ref name="周藤2014ap10"/>。国内では政権を握った[[アカルナニア]]人[[アリストメネス (プトレマイオス朝)|アリストメネス]]が前196年に[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]でプトレマイオス5世の宣布式{{efn2|王が自力で統治可能な年齢に達した事を公布する儀式<ref name="ポリュビオス2011p495注釈7">[[#ポリュビオス 2011|ポリュビオス]]、『歴史3』第18巻, 城江訳、p. 495, 訳注7</ref>。}}を執り行ない、国内の支持を集めるため土地の授与や免税などが宣言された<ref name="周藤2014ap10"/><ref name="山花2010p170"/>。この宣言文が刻まれた石碑が[[1799年]]に発見されており、現在は'''[[ロゼッタ・ストーン]]'''の名で知られている<ref name="山花2010p170"/>。これは[[エジプト語]]の解読に決定的な役割を果たすことになる<ref name="山花2010p171">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 171</ref><ref name="クレイトン1999p271">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 271</ref>。また、セレウコス朝との関係を改善すべくアンティオコス3世の娘[[クレオパトラ1世]]との婚姻も結ばれた<ref name="山花2010p171"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。これらを通じて国内外の情勢が安定したことで、南部の反乱対応に注力することが可能となり、プトレマイオス5世は前186年に南部の反乱を鎮圧することに成功した<ref name="周藤2014app7,12">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]], pp. 7,12</ref><ref name="ウォールバンク1988p167"/>。
前180年、プトレマイオス5世が死去すると[[プトレマイオス6世]](在位:前180年-前145年)が父親と同じく幼くして即位した<ref name="山花2010p172">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 172</ref><ref name="クレイトン1999p271"/>。当初は母クレオパトラ1世が後見を務めていたが、彼女が死去すると、成長したプトレマイオス6世は第五次シリア戦争で失ったコイレ・シリアを奪回するべく前170年にシリアへ侵攻した([[第六次シリア戦争)]]<ref name="クレイトン1999p271"/>。しかし[[ペルシウム]]近郊で大敗を喫し、セレウコス朝の王[[アンティオコス4世エピファネス|アンティオコス4世]]に捕らえられた<ref name="シャムー2011p170">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 170</ref><ref name="山花2010p172"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。この結果エジプトでは新たに弟の[[プトレマイオス8世]](在位:前170年-前163年)が擁立された<ref name="クレイトン1999p271"/>。
アンティオコス4世はプトレマイオス6世を傀儡とすることを目論んだため、庇護下に置いたプトレマイオス6世がナイルデルタを、プトレマイオス8世がメンフィス以南を統治するという形でエジプトが分割した<ref name="クレイトン1999p271"/>。しかし自立を目指すプトレマイオス6世はプトレマイオス8世と同盟を結びローマの支援の下でセレウコス朝の軛からの脱却を図った<ref name="クレイトン1999p271"/><ref name="シャムー2011p170"/>。これに対してアンティオコス4世はキュプロス島を占領するとともにエジプトに侵攻してメンフィスを占領しアレクサンドリアを包囲した<ref name="クレイトン1999p271"/><ref name="シャムー2011p170"/>。窮地に陥ったプトレマイオス朝はローマの元老院に仲裁を求め、ローマは元[[コンスル]]の[[ガイウス・ポピリウス・ラエナス]]らを特使として派遣した<ref name="シャムー2011p170"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。エジプトでアンティオコス4世と面会したポピリウスは、セレウコス朝のキュプロス島とエジプトからの撤退を強硬に要求し、これに屈したアンティオコス4世は本国へと撤退した<ref name="シャムー2011p170"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。これは東地中海の支配者としてのローマの力を示すエピソードとなった<ref name="シャムー2011p170"/><ref name="クレイトン1999p271"/>。
プトレマイオス6世はエジプト王の地位を認められたが<ref name="クレイトン1999p272">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 272</ref>、共通の利害で結ばれていたプトレマイオス6世とプトレマイオス8世の関係は、セレウコス朝の脅威が去ったことですぐに対立へと変わった<ref name="シャムー2011p190">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 190</ref>。プトレマイオス8世はエジプト王位を主張し、前163年にローマに自らの地位の承認を求めた<ref name="シャムー2011p190"/>。交渉の末、かつてプトレマイオス1世の息子マガスがキュレネを分割した前例に倣い、プトレマイオス6世がエジプト王、プトレマイオス8世がキュレネ王とすることが定められた<ref name="シャムー2011p190"/>。しかしプトレマイオス8世がこれに満足することはなく、彼はローマに自ら出向いてキュプロス島の領有権をも主張した<ref name="シャムー2011p190"/>。ローマの元老院は彼の主張を認め、キュプロス島が平和的にプトレマイオス8世に譲渡されるべきであると宣言したが、プトレマイオス6世はこれを拒否し、ローマも直接的な介入を行わなかったため、この宣言は履行されなかった<ref name="シャムー2011p190"/>。前156年から前155年にかけて、プトレマイオス6世はプトレマイオス8世を暗殺する挙に出たが失敗し、負傷したプトレマイオス8世は再びローマに出向いて自らの傷を見せて庇護を求め、またローマ人の好意を確かなものにするために、後継者無く自分が死んだ場合にはキュレネの王国をローマ人に遺贈するという遺言状を書いた<ref name="シャムー2011p190"/>。こうしてローマとの関係を強化したプトレマイオス8世はキュプロス島の武力占領を試みたが、敗れて捕らえられた<ref name="シャムー2011p191">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 191</ref>。しかし、ローマを恐れたプトレマイオス6世はプトレマイオス8世の罪を問うことなく釈放し、キュレネに帰した<ref name="シャムー2011p191"/>。
前145年、プトレマイオス6世はセレウコス朝に嫁がせていた娘の[[クレオパトラ・テア]]が宮廷紛争で窮地に陥ったのを助けるため出兵したが、重傷を負い、程なくして死亡した<ref name="シャムー2011p191"/><ref name="山花2010p173">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 173</ref>。寡婦となったプトレマイオス6世の妻[[クレオパトラ2世]]は息子のプトレマイオス(7世、在位:前145年)を王として擁立した<ref name="シャムー2011p191"/><ref name="山花2010p173"/>。しかし、プトレマイオス8世はこれを好機としてエジプトに侵攻しアレクサンドリアを占領した<ref name="シャムー2011p191"/><ref name="山花2010p173"/>。クレオパトラ2世は息子の助命と引き換えにプトレマイオス8世との結婚を承諾し、ここにプトレマイオス8世(復辟、在位:前145年-前116年)、クレオパトラ2世、プトレマイオス7世の共同統治体制が成立することになった<ref name="シャムー2011p192">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 192</ref><ref name="山花2010p173"/>{{efn2|山花はプトレマイオス8世と結婚したクレオパトラはクレオパトラ・テアであるとし、プトレマイオス7世はクレオパトラ・テアの息子であるとしているが、他の全ての参考文献と矛盾するため本文では採用していない<ref name="山花2010p173"/>。}}。しかし実際には婚礼の当日にプトレマイオス7世は殺害された<ref name="シャムー2011p192"/><ref name="山花2010p173"/>。そしてさらに、プトレマイオス8世がクレオパトラ2世の娘[[クレオパトラ3世]]とも結婚し王妃とすると、この母娘の間にも激しい対立が生じ、宮廷闘争は民衆をも巻き込んで激化した<ref name="シャムー2011p192"/><ref name="クレイトン1999p274">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 274</ref><ref name="拓殖1982p34">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 34</ref>。
即位の経緯からプトレマイオス8世はエジプト本国で人気が無く、同情も手伝って民衆はクレオパトラ2世への支持を強めた<ref name="シャムー2011p193">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 193</ref><ref name="クレイトン1999p274"/>。前132年にクレオパトラ2世が民衆を扇動して暴動を起こさせると、プトレマイオス8世はクレオパトラ3世と共にエジプトを脱出してキュプロス島へと逃れた<ref name="シャムー2011p193"/><ref name="クレイトン1999p274"/>。プトレマイオス8世は報復のためにクレオパトラ2世との間に儲けた息子[[プトレマイオス・メンフィティス]]を殺害してバラバラにした遺骸を彼女に送り付けたという<ref name="シャムー2011p193"/>。この事件は激しい報復合戦を産み、当時の世相は「蛮風(''Amixia'')」という表現で記憶された<ref name="シャムー2011p193"/>。2年に及ぶ内戦の末、クレオパトラ2世はセレウコス朝の王{{仮リンク|デメトリオス2世 (セレウコス朝)|label=デメトリオス2世|en|Demetrius II Nicator}}を頼ってシリアに亡命し、プトレマイオス8世が完全なエジプト王位を回復した<ref name="シャムー2011p194">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 194</ref>。彼はクレオパトラ2世に組したギリシア人組合に報復的な処置をとると共に、アレクサンドリアに在住していた学者や知識人にも不信の念を向け、これを恐れた学者たちがアレクサンドリアから去っていった<ref name="シャムー2011p194"/>。一方で前118年には大赦令が発布され、内乱の混乱を収める努力もなされた<ref name="シャムー2011p196">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 196</ref>。
=== 慢性的な内紛とローマへの従属 ===
プトレマイオス8世が前116年に死去した後、プトレマイオス朝はその滅亡まで慢性的な内紛と分裂に苦しみ、しかもプトレマイオス8世のように、それを収拾することのできる強力な支配者を見ることもなかった。遺言によってエジプトの支配権を継承したのはプトレマイオス8世の妻クレオパトラ3世であり、彼女は息子の[[プトレマイオス9世]](在位:前116年-前110年、前109年-前107年、前88年-前81年)に王位を授けたが、彼は弟の[[プトレマイオス10世]](在位:前110年-前109年、前107年-前88年)と激しい権力闘争を繰り広げた。そしてプトレマイオス9世は間もなく母親殺しを図ったとして地位を追われ前106年キュプロス島へ逃亡した<ref name="クレイトン1999p275">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 275</ref>。これはクレオパトラ3世がプトレマイオス10世を溺愛していたため、彼に王位を与えるための謀略であったとも言われている<ref name="クレイトン1999p275"/>。クレオパトラ3世は息子のプトレマイオス10世と結婚したが、その溺愛にもかかわらず前101年にプトレマイオス10世によって殺害されたと言われている<ref name="クレイトン1999p275"/><ref name="シャムー2011p200">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 200</ref>。その後も兄弟は争いを続け、前88年にプトレマイオス10世が殺害されたことでプトレマイオス9世の勝利が確定した<ref name="クレイトン1999p275"/><ref name="シャムー2011p200"/>。
この争いの最中、キュレネではプトレマイオス8世の庶子[[プトレマイオス・アピオン]]がキュレネ王を名乗ってプトレマイオス朝の支配から離れた<ref name="シャムー2011p200"/>。彼は父親と同じく後継者無きまま死亡した際にはその領土をローマ人に譲渡するという遺言を作成してローマの支持を得たが、実際に後継者の無いまま死去したためキュレネはローマに贈与されることとなった<ref name="シャムー2011p200"/>。キュレナイカの各都市は各々自由都市を宣言しローマの元老院がそれを承認したが、当初はローマは直接統治には乗り出さなかった<ref name="シャムー2011p201">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 201</ref>。その後前87年から前86年にかけてキュレナイカで内紛が発生すると、キュレネ人たちはローマの有力者[[スッラ]]の配下[[ルキウス・リキニウス・ルクッルス|ルクッルス]]に秩序の回復を求め、キュレナイカは実際にローマの統治下に入っていった<ref name="シャムー2011p201"/>。そして前74年、ローマ元老院は[[キュレナイカ属州]]の設立を決議し、以降キュレナイカは完全にプトレマイオス朝の支配を離れた<ref name="シャムー2011p201"/>。
[[ファイル:Roman Empire in 44 BC.png|thumb|left|前44年のローマ。]]
前80年にプトレマイオス10世が死亡した際、彼は王位を娘の[[ベレニケ3世]]に譲り、その夫に甥の[[プトレマイオス11世]](在位:前80年)を据えたが、彼はベレニケ3世を疎んじて結婚後僅か1ヶ月で彼女を殺害した<ref name="クレイトン1999p275"/>。しかしこれに憤激した民衆によってプトレマイオス11世もその僅か19日後に殺害された<ref name="クレイトン1999p275"/>。この事件によってプトレマイオス朝の嫡出男子が存在しなくなったため、プトレマイオス9世の庶子で[[ポントス王国]]に送られていた[[プトレマイオス12世]](在位:前80年-前58年)が呼び戻されてエジプト王として、また同名の弟{{仮リンク|プトレマイオス (キュプロス王)|label=プトレマイオス|en|Ptolemy of Cyprus}}がキュプロス王に即位した<ref name="クレイトン1999p276">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 276</ref><ref name="シャムー2011p220">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 220</ref>。素行不良の上、権力基盤が脆弱だったプトレマイオス12世はローマの支持に全面的に依存しており、そのためにローマの政界有力者への贈賄と献金に狂奔した<ref name="クレイトン1999p276"/><ref name="シャムー2011p220"/>。しかし度重なる献金とそのための重税に不満が高まり、そして前58年のローマによるキュプロス島併合を黙認し弟を見捨てたことが契機となってアレクサンドリアで暴動が発生し、ロドスへと逃亡を余儀なくされた<ref name="クレイトン1999p276"/><ref name="シャムー2011p220"/>。
この頃までに既にアンティゴノス朝はローマに滅ぼされており、前70年には[[ポントス王国]]([[第三次ミトリダテス戦争]])、前63年にはセレウコス朝もローマの軍門に下った<ref name="シャムー2011pp210_219">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 210-219</ref>。これによってプトレマイオス朝は東地中海でローマの直接支配下に無い唯一の国となる<ref name="シャムー2011p219">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 219</ref>。
王が不在となったエジプトではプトレマイオス12世の娘[[ベレニケ4世]](在位:前58年-前55)が旧セレウコス朝の王子で従兄弟でもある[[セレウコス・キュビオクサテス]]と結婚したが、結婚3日目には彼を殺害し、次いでポントス王[[ミトリダテス6世]]の息子と称するアルケラオスと結婚して共同統治者とした<ref name="クレイトン1999p276"/><ref name="松原2010pベレニーケー">[[#松原 2010|西洋古典学事典]], pp. 1146-1147 「ベレニーケー」の項目より</ref>。ローマに救援を求めたプトレマイオス12世は、ローマの将軍[[グナエウス・ポンペイウス]]の副官の同行の下で前55年にアレクサンドリアに戻り、以降ローマ軍の将校が指揮する[[ガリア人]]と[[ゲルマン人|ゲルマニア人]]の部隊が護衛としてアレクサンドリアに駐屯した<ref name="シャムー2011p220">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 220</ref><ref name="クレイトン1999p276"/>{{efn2|松原『西洋古典学事典』<ref name="松原2010pベレニーケー"/>はベレニケ4世とアルケラオスの統治は6ヶ月間であり、プトレマイオス12世の帰還に伴って殺害されたとしているが、他の出典がプトレマイオス12世の帰還を共通して前55年としているため本文はそれに従った。}}。この処置によってプトレマイオス朝は実質的にローマの保護国となった<ref name="シャムー2011p220"/>。
=== 滅亡 ===
前51年、プトレマイオス12世が死去した時、その息子[[プトレマイオス13世]]はまだ10歳であった。そのため17歳になる娘の[[クレオパトラ7世]](在位:前51年-前30年)がプトレマイオス13世との結婚を条件に王位についた<ref name="シャムー2011p221">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 221</ref>。このクレオパトラ7世はその美貌と才知によって名高く、数々の伝説的な逸話が現代に至るまで伝えられている<ref name="シャムー2011p221"/>。単にクレオパトラと言った場合には通常、このクレオパトラ7世を指す。
[[ファイル:Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Gerome.jpg|200px|thumb|19世紀の想像画に描かれた、絨毯にくるまれてカエサルの前へ訪れたクレオパトラ。[[ジャン=レオン・ジェローム]]作、1886年]]
間もなくプトレマイオス13世の側近たちはクレオパトラ7世の排除を画策し暗殺を試みたが、彼女はこれを察知してコイレ・シリアへと逃れた<ref name="クレイトン1999p277">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 277</ref><ref name="シャムー2011p223">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 223</ref>。おりしも、ローマで[[第一回三頭政治]]を担っていたうちの一人、[[マルクス・リキニウス・クラッスス]]が[[パルティア]](アルシャク朝)との戦争で落命し、残された[[ユリウス・カエサル]]とグナエウス・ポンペイウスが対立していた<ref name="シャムー2011p222">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 222</ref>。前48年、ポンペイウスは敗れエジプトに逃れたが、カエサルの歓心を買おうとしたプトレマイオス13世の側近によって殺害された<ref name="シャムー2011p223"/>。カエサルはエジプトを訪れたが、ポンペイウスの殺害という処置は寧ろ彼を怒らせた。そしてこの時、クレオパトラ7世はカエサルに接近し(絨毯にくるまれてカエサルの下に運ばせたという逸話で知られる)その支持を獲得することに成功した<ref name="シャムー2011p223"/>。プトレマイオス13世と側近たちは民衆を扇動して暴動を起こし宮殿を襲わせたが、ローマ軍が投入されて鎮圧された。この混乱の中でプトレマイオス13世も殺害され、クレオパトラ7世は別の弟[[プトレマイオス14世]]と再婚した<ref name="シャムー2011p223"/>。一連の戦乱の中でアレクサンドリアの図書館も炎上破壊され、そこに伝存されていた著作の数々も焼失したと言われる<ref name="シャムー2011p223"/>。
カエサルと関係を持ったクレオパトラ7世は息子の[[カエサリオン]](プトレマイオス・カエサル)を儲け、後にローマで元老院立ち合いの下カエサルに認知された<ref name="シャムー2011p224">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 224</ref><ref name="本村1997p310">[[#本村 1997b|本村 1997b]], p. 310</ref>。その後カエサルが各地に戦いに向かう際、クレオパトラ7世はローマで彼の帰りを待ち、カエサルの別荘は一種の宮廷のような様相を呈した<ref name="シャムー2011p224"/>。しかしローマ市民のカエサリオンに対する視線は冷たく、前44年にカエサルが[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]](ブルータス)らに暗殺されたためエジプトへと帰国し、夫のプトレマイオス14世を廃してカエサリオンをプトレマイオス15世(前44年-前30年)として王位につけた<ref name="シャムー2011p225">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 225</ref><ref name="山花2010p183">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 183</ref>。
前42年に[[フィリッピの戦い]]でブルトゥスらを破った[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]、[[マルクス・アントニウス]]、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]は[[第二回三頭政治]]を開始した。このうちアントニウスは前41年夏に軍事費の調達に協力を求めるためクレオパトラ7世を[[キリキア]]の[[タルスス]]に招聘し、そこでクレオパトラ7世に惚れ込みアレクサンドリアへ向かったと言われる<ref name="シャムー2011p226">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 226</ref><ref name="山花2010p183"/>。2人はこの地で遊興と祭典の日々を送り、人々はこの二人を[[ディオニューソス|ディオニュソス]]=[[オシリス]]と[[アフロディテ]]=[[イシス]]に例えた<ref name="シャムー2011p227">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 227</ref>。間もなくアントニウスはパルティアとの戦争のためにエジプトを離れ、オクタウィアヌスの姉[[小オクタウィア|オクタウィア]]と結婚したが、シリアでの防衛任務を部下に任せた後オクタウィアをイタリアへ帰らせ、クレオパトラ7世を[[アンティオキア]]に呼び寄せた<ref name="シャムー2011p227"/>。クレオパトラ7世はアントニウスがエジプトを離れる前に彼の子を懐妊しており、その双子の子供[[アレクサンドロス・ヘリオス]]と[[クレオパトラ・セレネ]]を伴ってアントニウスの下へ向かった<ref name="シャムー2011p227"/>。
アントニウスはプトレマイオス朝に対しコイレ・シリアの大部分とキリキアの一部、キュプロス島を与えた<ref name="シャムー2011p228">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 228</ref><ref name="本村1997p316">[[#本村 1997b|本村 1997b]], p. 316</ref>。これは単に愛人であるクレオパトラ7世への贈与というのみならず、自勢力として組み込んだプトレマイオス朝に軍船の建造のための木材を供給するための処置でもあった<ref name="シャムー2011p228"/>。前34年秋には、アントニウスを新たなディオニュソス、クレオパトラ7世を新たなイシス、そして彼らの間に生まれた3人の子(3人目は[[プトレマイオス・フィラデルフォス]])がローマの征服地の王として君臨することを宣言する祭儀がアレクサンドリアで催されたという<ref name="シャムー2011p229">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 229</ref>。さらに前32年にはアントニウスとオクタウィアの正式な離縁が伝えられたが、これによりオクタウィアヌスとの対立は決定的となり、アントニウスはクレオパトラ7世を同盟者としてオクタウィアヌスと対峙することになった<ref name="シャムー2011p228"/><ref name="本村1997p316"/>。アントニウスが[[元老院 (ローマ)|元老院]]や[[民会 (ローマ)|民会]]の承認を経ずに行った領土贈与行為はオクタウィアヌスに恰好の宣伝材料を提供し、アントニウスの遺言状において彼が相続人としてクレオパトラ7世との子供を指名していたと伝えられたことと合わせローマ市民の憤激を呼んだ<ref name="シャムー2011p230">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 230</ref><ref name="本村1997p316"/>。
前31年、オクタウィアヌスは正式にアントニウス討伐に乗り出したが、アントニウスを反逆者と名指しするのは避け、クレオパトラ7世に対して宣戦した<ref name="本村1997p316"/>。同年9月2日に戦われた[[アクティウムの海戦]]でアントニウス、クレオパトラ7世は敗れ去り、前30年にはアレクサンドリアがオクタウィアヌス軍によって占領された<ref name="シャムー2011p230"/><ref name="本村1997p316"/>。クレオパトラ7世はオクタウィアヌスの懐柔を試みたが、その見込みがないことを悟ると自殺した<ref name="シャムー2011p232">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 232</ref><ref name="本村1997p317">[[#本村 1997b|本村 1997b]], p. 317</ref>。プトレマイオス15世(カエサリオン)はオクタウィアヌスによって処刑され、ここにプトレマイオス朝は滅亡した<ref name="シャムー2011p232"/><ref name="本村1997p317"/><ref name="クレイトン1999p278">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 278</ref>。アントニウスとクレオパトラ7世の間の息子たちは消息不明となり、クレオパトラ・セレネは[[マウレタニア]]王[[ユバ2世]]に嫁いだ<ref name="シャムー2011p233">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 233</ref><ref name="山花2010p185">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 185</ref>。
以降、エジプトはローマの皇帝属州[[アエギュプトゥス]]として[[アウグストゥス]](オクタウィアヌス)以降のローマ皇帝を財政的に支え、ローマ市民の[[パンとサーカス]]を保証していくことになる<ref name="クレイトン1999p279">[[#クレイトン 1999|クレイトン 1999]], p. 279</ref>。
== 社会と制度 ==
プトレマイオス朝は伝統的に、整然とした官僚制と社会の細部にわたる統制によって繁栄した中央集権的国家として描かれてきた<ref name="森谷1997p123">[[#森谷 1997|森谷 1997]], p. 1997</ref><ref name="周藤2014bp19">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 19</ref>。20世紀の代表的なヘレニズム時代研究者の1人である{{仮リンク|フランク・ウィリアム・ウォールバンク|label=ウォールバンク|en|F. W. Walbank}}はプトレマイオス朝の統治を「官僚主義的中央集権制の大規模な実験と描写されて良いものだが、それはまた商取引を統制し、経済を国家権力に従属させることによって、貴金属を蓄積することを狙いとしていた限り、[[重商主義]]のそれでもあった。」と評しており<ref name="ウォールバンク1988p145">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 145</ref>、19世紀から20世紀にかけてヘレニズム時代研究をリードした{{仮リンク|ウィリアム・ウッドソープ・ターン|label=ターン|en|William Woodthorpe Tarn}}は、統計と戸籍を作り整然と徴税を行う強力な官僚機構、国家管理の事業や王領地と4種に分類される贈与地からなる土地制度などを通じ、国家が各種の産業や徴税を隈なく監督するプトレマイオス朝の制度を描いている<ref name="ターン1987pp161_186">[[#ターン 1987|ターン 1987]], pp. 161-186</ref>。20世紀半ば頃まで想定されていたこのようなプトレマイオス朝の姿は近年の研究によってほぼ否定されており、現在では上記のような説明は行われない<ref name="森谷1997p123"/><ref name="周藤2014bp19"/><ref name="波部2014p43">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 43</ref><ref name="高橋2004pp148_149">[[#高橋 2004|高橋 2004]], pp. 148-149</ref>。
セレウコス朝やアンティゴノス朝に代表されるヘレニズム王国は、多様な歴史的伝統を保有する地域を支配するため、現地の様々な伝統的支配機構を温存したモザイク状の国家を形成していたことが知られている。そしてプトレマイオス朝もまた、中央集権国家という伝統的なイメージとは異なり、地域ごとに中央政府による統制力の差が大きく、神殿などエジプトの伝統的な支配機構を取り込みながら支配を行っていたことが明らかとなっている<ref name="波部2014p44">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 44</ref>。その官僚組織も、整然とした中央集権体制を構築するためよりも、むしろ流入したギリシア人、マケドニア人に対して便宜を図るために拡充されていったものであり、厳密に整理されたものではなく、各官僚が利益を求める中でその日その日の不定形な活動の集合体に過ぎなかったと考えられている<ref name="森谷1997p123"/><ref name="波部2014p43"/>。
=== グレコ・マケドニア人とエジプト人 ===
{{Multiple image
|total_width=350
|image1=Bust of Cleopatra VII - Altes Museum - Berlin - Germany 2017.jpg
|image2=Denderah3 Cleopatra Cesarion.jpg
|footer=ローマで作成されたクレオパトラ7世頭像(左、[[ベルリン]]の[[旧博物館 (ベルリン)|旧博物館]]収蔵)とエジプトの伝統的な様式で描かれたクレオパトラ7世とカエサリオン(右、[[デンデラ神殿複合体]])
}}
プトレマイオス朝の支配を特徴付けるのは上部構造として支配者たるマケドニア人の王家(プトレマイオス家)を戴き、ギリシア人・マケドニア人が社会の中枢を担い、人口の多くを占めるエジプト人を支配していたことがある。プトレマイオス朝の王たちはエジプトの言語を理解せず、[[エジプト語]]を話すことができたのは歴代の中でも[[クレオパトラ7世]]だけであったとも言われている<ref name="クレイトン1999p278"/><ref name="ウィルキンソン2015p425">[[#ウィルキンソン 2015|ウィルキンソン 2015]], p. 425</ref>。
このような王国を安定的に支配するためには、[[重装歩兵]]戦術や「宗教」・文化を共有するグレコ・マケドニア系人材の恒常的な招致が必要であった。また、軍事的才覚や政治力を備えたギリシア本土の有力者の中からプトレマイオス朝へと訪れた人々は王のフィロイ(友人)として側近となり国家統治の基盤となった<ref name="波部2014p52">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 52</ref>。アレクサンドリアのムセイオンを始めとした学者・知識人に対する保護もまたこれと同じ文脈で行われたものと見られる<ref name="波部2014p52"/>。こうしたギリシア人人材の確保策もまた、他のヘレニズム王国と共通する特徴でもあり、プトレマイオス朝がエーゲ海域に影響力を保持し続けようとした理由の一つであるとも考えられる<ref name="波部2014p52"/>。プトレマイオス朝時代にはギリシア本土からの移住や戦争捕虜などを通じて、多数のギリシア人軍事植民者がエジプトに流入していたことが確認されている<ref name="波部2014p52">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 52</ref>。初期にはこの流入したギリシア人兵士たちに報酬として与える土地を確保し、国力自体を増大させるために大規模な開墾事業が行われた<ref name="周藤2014bpp136_145">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 136-145</ref>。
一方でギリシア人・マケドニア人とエジプト人の関係は単純な支配者と被支配者という構図だけで説明できるものでもなかったことが明らかとなっている<ref name="高橋2004p156">[[#高橋 2004|高橋 2004]], p. 156</ref>。エジプト人は既に数千年の伝統を持つ高度な行政文化を持つ人々であり、プトレマイオス王家はエジプトの伝統的な組織に対して十分な配慮をする必要があった。新王国時代以来、[[上エジプト]]で支配的地位を持っていた[[アメン]]大神殿は常に油断のならない強力な勢力であったし<ref name="マニング2012p151">[[#マニング 2012|マニング 2012]], p. 151</ref>、下エジプト最大の伝統信仰の拠点であった[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]の[[プタハ]]神殿の大神官家系はプトレマイオス朝初期から王家と密接な関係を築いていた<ref name="櫻井2012p23">[[#櫻井 2012|櫻井 2012]], p. 23</ref>。前2世紀には王国の中枢部や軍においてもエジプト人が多数進出しており<ref name="森谷1997p123"/>、エジプト人の出自でありながら、ギリシア的教養を身に着け、状況に応じてエジプト人としてもギリシア人としても振舞うような人々の存在も確認されている<ref name="高橋2004p156"/>。ギリシア語でエジプト国家の創建以来の歴史を書き、現在に至るまで使用される30の王朝の区分を構築した歴史家[[マネト]]もまた、ギリシア語を身に着けたエジプト人の神官でありプトレマイオス王家に仕えた人物であった<ref name="ウィルキンソン2015p421">[[#ウィルキンソン 2015|ウィルキンソン 2015]], p. 421</ref>。
ただし、こうした状況にもかかわらず、また有力な家系を含めエジプト人とギリシア人・マケドニア人との間で縁戚関係が持たれた例も知られるにもかかわらず{{efn2|例えば、メンフィスのプタハ大神官の家系にはプトレマイオス王家の王女が輿入れした例がある<ref name="櫻井2012p28">[[#櫻井 2012|櫻井 2012]], p. 28</ref>。}}、プトレマイオス朝の治世中にギリシア人とエジプト人のコミュニティが融合し同化することはなく、別々の存在として存続していた<ref name="森谷1997p123"/>。
特にポリュビオスがラフィアの戦いにおけるエジプト人兵士の動員が彼らに自信を与え、それが南部大反乱の遠因となり王国の統一に深刻な問題をもたらしたという記録を残していることなどから、近現代の学者はギリシア人・マケドニア人の支配者に対するエジプト人の民族主義的な抵抗や自意識の存在を想定しもしたが、上記のような研究の進展によって、このような一面的な理解は大きく修正されつつある<ref name="周藤2014bpp312_317">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 312-317</ref><ref name="森谷1997p123"/><ref name="高橋2004p156"/>。
=== 地方統治 ===
{{see also|ノモス (エジプト)}}
エジプトでは[[エジプト先王朝時代|先王朝時代]](前32世紀頃以前)または、[[エジプト古王国|古王国]](前27世紀頃-前22世紀頃)の頃から[[ノモス (エジプト)|ノモス]](セパト)と呼ばれる州が設置されていた<ref name="古谷野2003p260">古谷野 2003, p. 260</ref>。このノモスは[[エジプト新王国|新王国]](前16世紀頃-前11世紀頃)時代までに[[上エジプト]]22州、下エジプト20州程度に整理され<ref name="古谷野2003p260"/><ref name="周藤2014bp131">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 131</ref>、プトレマイオス朝もこの制度を受け継いだ。現在、エジプト語に由来するセパト(''{{Lang|egy-Latn|spȝt}}'')ではなく、ギリシア語由来のノモス(''{{lang-grc-short|{{unicode|νόμος}}}}'')の語が普及しているのはプトレマイオス朝とローマ支配時代に使用された経緯による<ref name="古谷野2003p260"/>。
ヘレニズム諸王国の王たちはグレコ・マケドニア系入植者のための都市を熱心に建設したが、プトレマイオス朝統治下のエジプトにおいては、新たに建設された「ギリシア的な」意味での都市は首都アレクサンドリアの他には上エジプト支配の拠点として作られた[[プトレマイス (上エジプト)|プトレマイス]]のみであり、ギリシア系入植者はエジプト人の集落に割当地([[クレーロス]]、{{lang-grc-short|{{unicode|κλῆρος}}}})を付与されて、エジプト人の集落に分住させられる形態を基本とした<ref name="周藤2014bp134">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 134</ref><ref name="マニング2012p151"/>。
当時の集落形態については[[ファイユーム]]地方を除き情報が乏しい<ref name="周藤2014bp134"/>。しかしアルシノエ2世にちなんでアルシノイテス州とも呼ばれたファイユームは豊富な古代の[[パピルス]]文書が発見されている<ref name="周藤2014bpp136_145"/>。上エジプトと下エジプトの接点に近いファイユーム地方ではギリシア人の入植が大規模に行われ、それに伴う堤防の建設や干拓などの大規模な水利事業、その建設のため労働管理などについて詳細が知られている<ref name="周藤2014bpp136_145">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 136-145</ref>。ファイユームの開発は[[エジプト中王国|中王国]](前21世紀頃-前18世紀頃)にも手を付けられていたが、本格的に行われたのはプトレマイオス朝時代であり、その集中的な開発によって生産性の高い広大な農地が広がった<ref name="周藤2014bpp136_145"/>。こうした農地は短冊状に整然と区画されており、ファイユームのフィラデルフィアなど居住地もギリシア式に格子状に整備されていた痕跡が確認されている<ref name="周藤2014bpp135,136_145">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 135, 136-145</ref>。ファイユーム社会は当時のエジプト社会の標準的な姿ではなかったであろうが([[#経済|経済]]節も参照)、詳細な農村生活を復元可能であり非常に重要である<ref name="周藤2014bpp136_145"/>。
=== 経済 ===
[[File:Part.of.p.oxy.246.png|thumb|[[オクシリンコス・パピルス|オクシュリンコスで発見されたプトレマイオス朝時代のパピルス文書]]。宰相[[アポロニオス (プトレマイオス朝)|アポロニオス]]の執事[[ゼノン (プトレマイオス朝)|ゼノン]]が残した、いわゆる[[ゼノン文書]]の一部。]]
プトレマイオス朝は従来のエジプトには無かったいくつかの経済システムを導入、または発展させた。その一つが[[貨幣]]の発展である。エジプトに貨幣が導入されたのはハカーマニシュ朝時代前後([[エジプト第29王朝|第29王朝]])のことであるが<ref name="山花2010p201">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 201</ref><ref name="エジプト百科事典交易">エジプト百科事典, p. 178-179,「交易」の項目より</ref>、プトレマイオス朝期に至って貨幣は完全に定着した<ref name="山花2010p201"/><ref name="エジプト百科事典交易"/>。プトレマイオス朝では金貨、銀貨、銅貨(青銅貨)が鋳造されたが、実際に流通したのは銀貨と銅貨のみであった<ref name="山花2010p201"/>。プトレマイオス朝の貨幣は当時標準的であったテトラドラクマ貨(約17グラム)ではなく、[[キュレネ]]で使用されていた、これよりも3グラムほど軽い[[フェニキア]]の標準に近い重量が使用された<ref name="ウォールバンク1988p146">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 146</ref><ref name="山花2010p201"/>。発見されたパピルス文書の記録から、プトレマイオス朝はエジプトにおける外国貨幣の流通を認めず、持ち込まれた貨幣は銀行(両替商)を通じてエジプト貨に両替することを義務付けていたとされる<ref name="山花2010p201"/><ref name="ウォールバンク1988p147">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 147</ref>。
当時のエジプトで貨幣が流通していたのは実質的には都市部のみであり、全体としては未だ物々交換が取引の中心であった<ref name="山花2010p202">[[#山花 2010|山花 2010]], p. 202</ref>。このため、徴税においては古くからの伝統の通り、[[コムギ]]など農産物による物納が行われていたが、広範囲において効率的な徴税を行うために「徴税権」の売却益を王朝の収入源とする手法がとられた<ref name="山花2010p202"/>。これはギリシアで発案された手法を導入したもので、領土内の一定の地域での徴税で期待できる物品に相当する価格で、「徴税権」を商人や有力者に売却して貨幣を納入させる方法であった<ref name="山花2010p202"/>。「徴税権」を買い取った商人や組織は、各地の実情に従って税を物納で(支払った貨幣よりも余分に)徴収し、「徴税権」の買収に使用した費用と利益を確保した<ref name="山花2010p202"/>。こうして未だ貨幣が浸透していない地域からも貨幣による徴税が効率的に可能となった<ref name="山花2010p202"/>。この手法は後のローマ帝国時代にも継承された<ref name="山花2010p202"/>。
また、[[#グレコ・マケドニア人とエジプト人|既に述べた通り]]、[[上エジプト]]と[[下エジプト]]の結節点そばにある[[ファイユーム]]地方では、ギリシア系植民者のために大規模な開発が行われた<ref name="周藤2014bp136">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 136</ref>。モエリス湖(現:[[カルーン湖]])を中心とした広大な沼沢地が広がっていたファイユーム地方は[[エジプト中王国|中王国]]時代に一時開発が行われていたが、より本格的な開発はプトレマイオス朝時代のものである<ref name="周藤2014bp137">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 137</ref>。この開発はファイユーム地方の景観に決定的な影響を及ぼし、[[干拓]]によってモエリス湖の水位が大幅に低下して湖底に農業用地が広げられていった<ref name="周藤2014bp137"/>。ファイユーム地方からは日常生活や裁判、契約、決済、労働管理などに関わる多数のパピルス文書が発見されており、当時の生活と干拓事業の具体的な姿について、古代世界において他に類を見ない詳細な情報が得られている<ref name="周藤2014bp137"/><ref name="高橋2017p32">[[#高橋 2017|高橋 2017]], p. 32</ref>。これらによれば、ファイユームの干拓・水利事業は王権による主導で実施され、それに必要な様々な作業や堤防の監視などは請負制で契約される労働者が担った<ref name="周藤2014bp138">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 138</ref>。作業に必要な各種の道具は公的機関から必要数が貸し出され、またこの時期に鉄製農具が普及したことが作業を進める上で大きく役立った<ref name="周藤2014bp138"/>。ただし、労働者の給与は残存する史料による限り極めて低く、この労働参与は実質的には強制労働に近いものであったとする見解もある<ref name="周藤2014bp138"/>。
農産物も変化し、ファイユームでは古代エジプトにおいて長く普及していたオリュラ([[エンマーコムギ]])にかわって[[デュラムコムギ]]の導入が進み急速に置き換わっていった<ref name="周藤2014bp140">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 140</ref>。ギリシア人たちの生活に不可欠であった[[ワイン]]の生産とそれに必要な[[ブドウ]]の栽培も拡大した<ref name="周藤2014bp140"/>。各種の油については王室による独占管理が志向され、[[ゴマ油]]、[[ひまし油]]や、[[亜麻]]の種、[[ベニバナ]]といった油の採集に使用できる作物の生産と取引には事細かに規制がかけられた<ref name="ウォールバンク1988p155">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 155</ref><ref name="周藤2014bp140"/>。ギリシア人たちに珍重されていた[[オリーヴ]]の栽培は上手くいかなかったらしく、導入が遅れた上にローマ時代にかけて生産量は漸減した<ref name="周藤2014bp141">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 141</ref>。
こうした経済や法令に関わる詳細かつ豊富な史料から、かつては管理の行き届いた中央集権国家というプトレマイオス朝の姿が描かれていた。しかし、プトレマイオス朝時代の文書記録はその多くがファイユームという一地方から得られたものであり、しかもこの地が当時新しく開拓されギリシア人の集中的な移住先となっていた極めて特殊な地方であることから、ファイユームから得られる情報をエジプト全域における標準的なものとして援用することはできないという見解が現在では一般的である<ref name="波部2014p44">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 44</ref><ref name="森谷1997p123"/><ref name="周藤2014bp19"/><ref name="高橋2004pp148_149"/><ref name="石田2017pp83_84">[[#石田 2007|石田 2007]], pp. 83-84</ref>。事実として、当時の行政機構が緻密に設計されたというよりは入植ギリシア人の利益を保証するために拡大してきたと見られることや、エジプト人の伝統的な拠点である[[テーベ]]周辺や[[エドフ]]から得られる史料からは、ギリシア人入植地が広がっていたファイユームとは異なり、王朝による統制がつとめて間接的なものに留まっていた可能性が示されており、新たなプトレマイオス朝社会の姿が模索されている<ref name="波部2014p44"/><ref name="森谷1997p123"/><ref name="周藤2014bp19"/><ref name="高橋2004pp148_149"/><ref name="石田2017pp83_84"/>。
=== 学問 ===
{{see also|ムセイオン|アレクサンドリア図書館}}
[[ファイル:ancientlibraryalex.jpg|thumb|left|アレクサンドリア図書館を描いた19世紀の想像図。]]
ヘレニズム時代は古代世界における学問の革新的成果が多数生み出された時代であった<ref name="シャムー2011pp495_496">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 495-496</ref><ref name="ワインバーグ2016p56">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], p. 56</ref>。そしてとりわけ、プトレマイオス1世からプトレマイオス2世の時代に整備されたアレクサンドリアの[[ムセイオン]]と付属図書館はこの学術発展の潮流の中の中心であった<ref name="ワインバーグ2016p56"/><ref name="シャムー2011pp507_509">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 507-509</ref>。プトレマイオス朝の惜しみない支援に惹かれたギリシアの学者たちは大挙してアレクサンドリアへと渡った<ref name="ワインバーグ2016p57">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], p. 57</ref><ref name="ウォールバンク1988p250">[[#ウォールバンク 1988|ウォールバンク 1988]], p. 250</ref>。現代の物理学者[[スティーヴン・ワインバーグ]]はその様を20世紀における[[ヨーロッパ]]から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への人の流れに例えている<ref name="ワインバーグ2016p57"/>。
政策的な支援と豊富な資金、そして各地から集まった学者たちによる研究によって多くの分野において特筆すべき成果が生み出され、後世に重大な影響を残した。アレクサンドリアでまず研究が奨励されたのは古典文献の蒐集と校訂といった文献学的な研究であった<ref name="周藤2014bp17">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 17</ref><ref name="ウォールバンク1988p250"/><ref name="ワインバーグ2016p57"/>。[[エフェソスのゼノドトス]]や[[ビュザンティオンのアリストファネス]]、[[サモトラケのアリスタルコス]]と言った学者らによって進められた[[ホメーロス|ホメロス]]の研究([[ホメーロス問題|ホメロス問題]]も参照)を始めとして、現代に伝わる古代ギリシア時代の文学作品の多くはアレクサンドリアで行われた研究と整理の結果を通したものである<ref name="周藤2014bp17"/><ref name="ウォールバンク1988p250"/>。具体例としては例えば、ホメロスの叙事詩『[[イリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』を現在のような24巻本に校訂したのはアレクサンドリア図書館の初代館長とされるエフェソスのゼノドトスであると伝えられており、また完本が現存する最古の歴史書とされる[[ヘロドトス]]の『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』が現在の9巻構成にまとめられたのもアレクサンドリアにおいてであった<ref name="ベリー1966p39">[[#ベリー 1966|ベリー 1966]], p. 39</ref>。
こうした文学的研究の他にアレクサンドリアで隆盛を迎えたのが各種の「科学」(これは現代的な意味での科学ではないが)の研究であった<ref name="ワインバーグ2016p58">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], p. 58</ref>。当時ギリシア世界の学問の中心地はアレクサンドリアの他に[[アテナイ]]や[[ミレトス]]があったが、それぞれの知的風土には大きな違いがあった。アレクサンドリアにおける学問の特徴は、ギリシア世界で盛んであった万物の根源についての思索などの包括的な問題の研究ではなく、観察によって成果を得ることができる具体的な事象の研究が重視されたことであった<ref name="ワインバーグ2016p58"/>。この知的風土の下、[[光学]]、[[流体静力学]]、そして特に[[天文学]]が特筆すべき発達を遂げた<ref name="ワインバーグ2016p58"/>。当時のアレクサンドリアで活躍した主要な天文学者には、初めての学術的な[[太陽]]や[[月]]の大きさと地球からの距離の計算(それは不正確であったものの)を行った[[アリスタルコス|サモスのアリスタルコス]]や、[[日食]]を利用して月までの距離の計算精度を大幅に高めた[[ヒッパルコス]]、地球の大きさを計算した[[エラトステネス]]などがいる<ref name="ワインバーグ2016pp94_111">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], pp. 94-111</ref>。
アレクサンドリアにおける天文学の伝統はプトレマイオス朝滅亡後のローマ時代にも引き継がれ、古代から中世にかけての天文学に決定的な影響を与える[[クラウディオス・プトレマイオス]]を輩出することになる<ref name="ワインバーグ2016pp124-129">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], pp. 124-129</ref>。彼の研究は後世の[[天動説]]の理論的基盤を形成した<ref name="ワインバーグ2016pp124-129"/>。また、プトレマイオスのそれとは異なり、後世に受け継がれることはなかったものの、サモスのアリスタルコスは[[地動説]]に通じる事実(太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽を周回している)に気付いていたことを示す記録も残されている<ref name="ワインバーグ2016pp94_111"/>。
光学(光の性質)の研究も当時盛んに行われた。この分野もまた、当時アレクサンドリアで活動した数学者[[エウクレイデス]](ユークリッド)の研究にまで遡る<ref name="ワインバーグ2016p61">[[#ワインバーグ 2016|ワインバーグ 2016]], p. 61</ref>。彼は[[幾何学]]の[[公理]]、諸[[定理]]の証明などを述べた数学書『[[ユークリッド原論|原論]]』の著者として名高く、ムセイオンにおいて[[数学]]科を設立したとも言われる人物である<ref name="ワインバーグ2016p61"/>。[[ユークリッド幾何学]]に名を残しているように、エウクレイデスの数学・幾何学分野における後世への影響は巨大であるが、[[透視図法]]について述べた『{{仮リンク|オプティカ|en|Euclid's Optics}}』などの著作もあり、光の[[反射 (物理学)|反射]]の研究においても大きな足跡を残している<ref name="ワインバーグ2016p61"/>。
ただし、このような重要性、知名度に反して、こうした学問の中心となるべきムセイオンの付属図書館の運営実態については多くのことが不明である<ref name="周藤2014bp94">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 94</ref>。図書館自体についての同時代史料はほとんど無く、現代に伝わる情報は数世紀後のローマ時代の著述家による信憑性の低い情報に由来しており、運営実態や建物の立地、規模などについても確実な情報は得られない<ref name="周藤2014bpp95-100">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 95-100</ref>。この図書館に資料を集めるため、アレクサンドリアに入港した船舶から本が見つかった場合には没収して写本を作成し、持ち主には写本の方を返却したという逸話や、アテナイから保証金と引き換えに悲劇のテキストを取り寄せ、やはり写本を作成してそれを返却したという逸話は、アレクサンドリア図書館の蒐集活動を象徴する話として良く知られている<ref name="周藤2014bpp95-100"/>。しかしこれらの話も紀元後2世紀の医師[[ガレノス]]の記録に登場するものであり、真実であるという確証を得ることは不可能である<ref name="周藤2014bpp95-100"/>。
== 軍事 ==
[[ファイル:NileMosaicOfPalestrinaSoldiers.jpg|thumb|right|250px|パレストリーナのナイル・モザイク画に描かれたプトレマイオス軍の兵士。]]
プトレマイオス朝の軍隊は、エジプトの膨大な資源と対外環境に適応する能力の恵みを受け、ヘレニズム時代に地中海世界の最も強力な軍隊の一つとして評価されている。プトレマイオス朝の軍隊は最初は主にディアドコイ戦争以来、セレウコス朝に対抗して防御的な目的を遂行した。プトレマイオス3世の治世までエジプト軍の活動は[[アナトリア]]、南部[[トラキア]]、[[エーゲ海]]の諸島、[[クレタ島]]に及び、[[キレナイカ]]、[[コイレ・シリア]]、[[キプロス島]]に対するプトレマイオス朝の支配的な影響力を拡張させるのに役立った。軍隊はエジプトを保護する機能を維持しながら領土を確保し、首都アレクサンドリア、[[ナイル川デルタ]]の[[ペルシウム]]、上エジプトの[[エレファンティネ島|エレファンティネ]]に主な駐屯地があった。また、プトレマイオス朝はエジプトでの統制を確保するために軍隊に大きく依存した。兵士たちは王室近衛隊の多くの部隊に服務しており、反乱と簒奪に備えて動員され、二つとも次第に普遍化していった。「マキモイ(Machimoi)」と呼ばれたエジプト人の下級兵士は、官吏の警護や徴税を助けるために召集された<ref name="フィッシャー・ボヴェ2015"">フィッシャー・ボヴェ 2015</ref><ref>フィッシャー・ボヴェ.“Egyptian Warriors: The Machimoi of Herodotus and the Ptolemaic Army,” Classical Quarterly 63 (2013): 209–236, 222–223.</ref>。
=== 陸軍 ===
プトレマイオス朝は、その治世を通じて[[職業軍人]]([[傭兵]]も含む)と新兵で構成された[[常備軍]]を維持した。エジプトの支配権を固めるため、プトレマイオス1世はギリシア人、傭兵、エジプト人、さらには戦争捕虜まで募集した軍隊に依存し、彼らはかなりの知略と適応力を示した<ref name="フィッシャー・ボヴェ2015">フィッシャー・ボヴェ 2015</ref>。プトレマイオス朝の軍隊は多様性に特徴があり、その構成員の民族的起源や国籍に関する記録が残されている<ref>Sean Lesquier, ''Les institutions militaires de l’Egypte sous les Lagides'' (Paris: Ernest Leroux, 1911);</ref>。エジプト本国他にもマケドニア、トラキア、ギリシア本土、エーゲ海、小アシア、キレナイカなどから兵士が募集された<ref>Roger S. Bagnall, “The Origins of Ptolemaic Cleruchs,” ''Bulletin of the American Society of Papyrology'' 21 (1984): 7–20, 16–18.</ref>。前2世紀から1世紀にかけて重なる戦争と拡張、ギリシア系移住民の減少と共にエジプト人が軍隊で占める割合と依存度が高まったが、ギリシア系移住民は依然として王室近衛隊と高位将校団において特権的な地位を維持した。エジプト人は王朝初期から軍隊に存在していたが、不誠実という評判と地域の反乱に同調する傾向のためしばしば無視されたり、不信を受けた<ref>Heinz Heinen, ''Heer und Gesellschaft im Ptolemäerreich'', in ''Vom hellenistischen Osten zum römischen Westen: Ausgewählte Schriften zur Alten Geschichte''. Steiner, Stuttgart 2006, {{ISBN2|3-515-08740-0}}, pp. 61–84.</ref>。それでも、エジプト人は勇敢な戦士とみなされ、前3世紀初めにプトレマイオス5世の改革を期して将校や[[騎兵]]隊員としてよく登用され始めた。また、エジプト軍人は一般住民に比べて高い社会・経済的地位を享受することができた<ref name="フィッシャー・ボヴェ2013">フィッシャー・ボヴェ 2013</ref>。
信頼でき、忠誠な軍人を確保するために王朝は豊かな財政資源と富に対するエジプトの歴史的評判を活用するいくつかの戦略を開発した。その一環として展開された宣伝は、詩人の[[テオクリトス]]が「プトレマイオスは自由人が持つことができる最上の雇用人だ」と主張したことからも証明されている<ref name="フィッシャー・ボヴェ2015">フィッシャー・ボヴェ 2015</ref>。傭兵たちは現金と穀物の配給を受ける形で給料をもらった。前3世紀にプトレマイオス軍の[[歩兵]]は、約1[[ドラクマ]][[銀貨]]の手当を毎日もらったと伝える。このような条件は東地中海各地から新兵を引き入れ、彼らは「給料をもらう外国人」という意味の「ミストフォロイ・ゼノイ(misthophoroi xenoi)」とも呼ばれた。前2世紀から1世紀に至ると、ミストフォロイは主にエジプト国内で募集された。また、職業軍人には割り当て地という意味の「クレーロイ(kleroi、[[クレーロス]]の複数形)」が私有地として与えられ、その土地から産出された生産物を給料に代替するという[[屯田]]方式の制度が運営された。クレーロイは軍隊の階級や部隊、宿舎(stathmoi)や地域民の居住地によって様々な形で散在していた。遅くとも前230年頃になると、このような私有地はエジプト出身の下級歩兵のマキモイにも提供された<ref name="フィッシャー・ボヴェ2015">フィッシャー・ボヴェ 2015</ref>。クレーロイの提供は広範囲に行われた。騎兵隊員は少なくとも70アローラ{{efn2|aroura/arourae、古代エジプトの面積単位。1アローラ当たり2,756m2}}の土地を受け取ることができ、歩兵隊員は25-30アローラ、マキモイは一つの家族が生活できる基準に当する5アローラを受けた。プトレマイオス軍での服務が持つ高い収益性の性質は、王朝への忠誠を保障するのに効果的だったと見られる。軍隊の暴動や反乱は珍しく、反乱に加わった兵士たちも土地の下賜と異なる[[インセンティブ (経済学)|インセンティブ]]により懐柔されたりした<ref>Michel M. Austin, ''The Hellenistic World from Alexander to the Roman Conquest: A Selection of Ancient Sources in Translation'' (Cambridge: Cambridge University Press, 2006) #283, l. 20.</ref>。
他のヘレニズム国家と同様、プトレマイオス軍はマケドニアの教理と組織を承継した<ref>Nick Sekunda, “Military Forces. A. Land Forces,” in ''The Cambridge History of Greek and Roman Warfare'' (Cambridge: Cambridge University Press, 2007)</ref>。アレクサンドロス大王時代の騎兵は、戦術と数的な面でより大きな役割を担い、[[ファランクス]]は歩兵の主力として機能した。プトレマイオス軍の多民族的な性格は、公認された組織の原則だった。兵士たちは出身地域別に訓練を受けたり、作戦に投入された。概してクレタ人は[[射手|弓手]]、リビア人は[[重装歩兵]]、トラキア人は騎兵として服務した<ref name="フィッシャー・ボヴェ2015">フィッシャー・ボヴェ 2015</ref>。部隊の編成と武装も民族別に行われた。しかし、実戦では様々な民族の兵士が一緒に戦うよう訓練され、グレコ・マケドニア人将校の一元化された指揮は、ある程度の結束と調整が可能にしてくれて[[ラフィアの戦い]]でプトレマイオス軍の士気を維持し、戦闘欲を高めるのに多大な役割を果たした<ref name="フィッシャー・ボヴェ2015">フィッシャー・ボヴェ 2015</ref>。
=== 海軍 ===
一部の歴史家はプトレマイオス朝のエジプトが海軍力の伝統的な様式を革新したおかげで地中海の制海権を掌握し、歴代統治者が前例のない方式により権力と影響力を行使できたと描写する。キプロス島、クレタ島、エーゲ海の諸島、トラキアなどの東地中海全域にエジプトの領土と封臣たちが散在しており、セレウコス朝とマケドニアからこれを防御するためにも大規模な海軍を必要とした。一方、エジプト海軍は収益性のよい海上貿易を保護したり、ナイル川に沿って海賊を掃討する任務も務めた<ref>''[https://books.google.com/books?id=86MaBQAAQBAJ&pg=PA6&lpg=PA6&dq=ptolemaic+navy&source=bl&ots=LLxndukPpx&sig=ACfU3U3QOBMBdo72FP7ljXQVTsH8JSYGkg&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwijm4Cs__LpAhXnUd8KHZE0D0c4ChDoATAEegQIChAB#v=onepage&q=ptolemaic%20navy&f=false The Ptolemies, the Sea and the Nile: Studies in Waterborne Power],'' edited by Kostas Buraselis, Mary Stefanou, Dorothy J. Thompson, Cambridge University Press, pp. 12–13.</ref>。プトレマイオス朝の海軍の起源と伝統はアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争が起こった前320年頃にさかのぼる。多くのディアドコイがエーゲ海と東地中海の制海権をめぐって争うと<ref name="auto">Robinson, Carlos. Francis. (2019). "Queen Arsinoë II, the Maritime Aphrodite and Early Ptolemaic Ruler Cult". Chapter: Naval Power, the Ptolemies and the Maritime Aphrodite. pp.79–94. A thesis submitted for the degree of Master of Philosophy. University of Queensland, Australia.</ref>、プトレマイオス1世はエジプト本土を防御し、外部からの侵入に備えて自分の支配権を強固にする過程で海軍を創設した。プトレマイオス1世を始めとする王朝の歴代統治者は、ギリシアやアジアに陸上帝国を建設するよりも、海軍力を増強させて海外に進出することを好んだ<ref name="名前なし-1">Robinson. pp.79-94.</ref>。前306年にサラミスの海戦で大敗したにもかかわらず、エジプト海軍は以後の数十年間、エーゲ海と東地中海における支配的な軍事力となった。プトレマイオス2世はエジプトを同地域の最も優れた海軍大国にするという父王の政策を継承した。彼の治世にエジプト海軍はヘレニズム世界の最大規模に成長し、古代に製作された最大の戦艦の一部も保有していた<ref name="名前なし-1"/>。第一次シリア戦争期にエジプト海軍はセレウコス朝とマケドニア海軍を撃退させ、エーゲ海と東地中海を掌握した。[[クレモニデス戦争]]でもエジプトはマケドニアを封鎖し、ギリシャ本土に対するアンティゴノス朝の野心を牽制することに成功した<ref>Muhs, Brian. (2019). "The Ancient Egyptian economy, 3000–30 BCE". Chapter 7: The Ptolemaic Period. Cambridge University Press</ref>。
絶頂期であったプトレマイオス2世の時代にエジプト海軍は336隻の戦艦で構成され<ref name="Muhs">Muhs.</ref>、輸送船と同盟国の艦船まで含めておよそ4千隻以上の艦船を保有していたとされる<ref name="Muhs"/>。このような大規模の艦隊を維持するのにかかった多くの費用はエジプトの莫大な富と資源によって裏付けられた<ref name="Muhs"/>。海軍の主要基地はアレクサンドリアとキプロスの[[パフォス|ネアパフォス]]にあった。エジプト海軍は東地中海、エーゲ海、[[レバント海]]、ナイル川などの各地で活動したほか、[[インド洋]]方面に向けた[[紅海]]にても定期的にパトロールを行った。このため海軍はアレクサンドリア艦隊、エーゲ海艦隊、紅海艦隊、ナイル川艦隊にそれぞれ編成された。第二次シリア戦争が始まると、エジプト海軍は一連の敗北を経験し、海外領土の喪失とともに制海権が緩んだことで、海軍の軍事的な重要性もまた低下した。その後、2世紀にわたってエジプト海軍は海上路の保護や海賊の掃討を中心に運営されてから、末期にローマ帝国が台頭する中にクレオパトラ7世によって部分的に復活した。エジプト海軍は[[アクティウムの海戦]]に参加したが、致命的な惨敗を喫し、王朝の滅亡と同時に消滅した。
== 「宗教」と王権 ==
歴史上のあらゆる国家と同様にプトレマイオス朝においても「宗教」、神々への崇拝は重要な意義を持っていた。プトレマイオス朝の「宗教」にはそれを特徴づける複数の要因があった。1つは伝統的なギリシア人たちの共同体にとって欠かす事ができなかった神々への崇拝であり<ref name="周藤2014bp105">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 105</ref><ref name="シャムー2011pp455-459">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], pp. 455-459</ref>、いま1つは長い伝統を持ち、また「並外れて信心深い」(ヘロドトス)と評される土着のエジプト人たちの神々である<ref name="周藤2014bp105"/>。さらにヘレニズム時代に東地中海のマケドニア系王朝の全てで進行していた支配者崇拝の隆盛<ref name="周藤2014bp106">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 106</ref>が大きな影響を及ぼした。
=== セラピス ===
[[ファイル:Serapis Pio-Clementino Inv689 n2.jpg|thumb|right|カラトス(''calathos''、円筒形の籠、ラテン語ではモディウス)を乗せたセラピス(サラピス)の胸像。ローマ時代のコピー。]]
プトレマイオス朝時代に導入された新たな神として代表的なものが[[セラピス]](サラピス)である<ref name="周藤2014bpp114_115">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 114-115</ref>。セラピス神はより古い時代にエジプトに移住したギリシア人たちの間で信仰されていた習合神[[オセラピス]]神([[オシリス]]=[[アピス]])の神格に起源を持ち、一般的にはプトレマイオス1世時代にエジプトにおけるセラピス崇拝が確立されたと言われている<ref name="周藤2014bpp114_115"/><ref name="シャムー2011p475">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 475</ref>。各種の伝承はこの神の神性の創出と導入が宮廷主導で行われたことを示しており<ref name="周藤2014bpp116_117">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 116-117</ref>、アレクサンドリアに建設された{{仮リンク|アレクサンドリアのセラペウム|label=セラピス神殿|en|Serapeum of Alexandria}}(セラペイオン/セラペウム)がその信仰の中心となった<ref name="周藤2014bpp116_117"/>。この神はしばしば国家神としてギリシア人とエジプト人の双方から崇拝を受け、その融和と結束を図るために創造されたと言われる<ref name="周藤2014bp119">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 119</ref>。しかし、実際にはセラピス崇拝はほとんどギリシア人の間でのみ見られるもので、エジプト人の間でそれが進んで崇拝されていた痕跡は乏しく、エジプトの地方にその信仰が浸透するのはローマ時代に入ってからである<ref name="周藤2014bpp119_120">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 119-120</ref>。このことから、恐らくセラピス神崇拝の確立の本来的な理由はギリシア人とエジプト人の統合を促すことではなかった。それはむしろ古くからエジプトに在住していたギリシア人たちの神を中核に据えることで、プトレマイオス朝の建国に伴って新たに移住してきたギリシア人たち(彼らもまた多様な背景を持ち、単純に一括りの存在ではなかった)がエジプトに住むギリシア人として共有できる神格を作り出すことにあったと考えられる<ref name="周藤2014bpp119_120"/><ref name="シャムー2011pp455-459"/>。実際にセラピスに対する儀礼はつとめてギリシア的な作法に従っており、その図像はゼウスのそれとほとんど区別がつかないものであった<ref name="シャムー2011p476">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 476</ref>。つまりこの神は、名前こそエジプトに起源を持つものの、それ以外全くギリシア的な神であり、ギリシアとエジプトの混交や一体化を示す要素は見られない<ref name="シャムー2011pp455-459"/>。
=== 支配者祭儀 ===
{{Quote box
| quote = 現実に恩恵を提供した者たちには、ほとんどの場合、正当に栄誉が払われたが、恩恵を提供する潜在力を持つ人物に対しても、栄誉は払われた。この「恩恵」には、今この瞬間に行われたものであれ、過去に行われたものであれ、救助({{lang|el|σωτήρία}})、あるいは生命や富、また簡単には手に入らない品々などの保存が含まれる(中略)その栄誉を構成していたのは、犠牲、韻文または散文による(文学的)記念碑、名誉職である公的役職、(劇場の)最高席、墓、彫像、公的祝宴、一片の土地、あるいは-蛮族の行っているような-地に伏しての拝礼({{lang|el|προσκυνήσεις}})、そして恍惚状態での歓呼({{lang|el|έκστάσεις}})-要するに、その対象である個人が価値ある物と認めているものであった。
| source=-アリストテレス『弁論術』1.5.9<ref>[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 43 の引用より孫引き</ref>
| align = left
| width = 23em
}}
ヘレニズム時代を特徴付ける宗教的行為に、[[ポリス]]が生前からマケドニア系王朝の支配者を神の如き存在として崇拝する慣行がある<ref name="周藤2014bp106"/>。プトレマイオス朝の王たちもまたロドスを始めとしたギリシア人のポリスから神として祭儀を受けた。エジプトでは古くから王が神として崇められて来たが、このような慣行はエジプトの伝統ではなく、マケドニア系の諸王国とギリシア人ポリスの相互関係、そしてギリシアにおける伝統の中から現れてきたものとされている<ref name="周藤2014bp106"/><ref name="クラウク2019p39">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 39</ref>。古代ギリシアにおいては元来、ポリスの創建者や独裁者からの解放者、戦死者などを「英雄」として崇め、神、または半神として祭儀を捧げる習慣があった<ref name="クラウク2019p41">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 41</ref>。このことから[[ドイツ]]の神学者{{仮リンク|ハンス・ヨセフ・クラウク|en|Hans-Josef Klauck}}はギリシア人の精神的世界において、人は神の位階に昇ることが可能であり、「神々と人間との境界」には抜け穴があったとしている<ref name="クラウク2019pp40_41">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], pp. 40-41</ref>。この様な崇拝は存命中の人物に対しても適用されるようになった。文献的な実例として存命中の人が神格化される最古の例は、前405年に[[ペロポネソス戦争]]で活躍した[[スパルタ]]の将軍[[リュサンドロス (提督)|リュサンドロス]]が神として祭られたものである<ref name="周藤2014bp106"/><ref name="クラウク2019p32">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 32</ref>。神格化の対象となった人物は[[ソテル|救済者]]({{lang|el|σωτήρ}}、''Sōtēr'')や[[エウエルゲテス|恩恵者]]({{lang|el|Εὐεργέτης}}、''Euergétēs'')といった観念によって崇拝された<ref name="クラウク2019p43">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 43</ref>。そして、ギリシアを征服した[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|フィリッポス2世]]や[[アレクサンドロス3世]]といったマケドニアの王たちが自身の神格化された地位を要求したか、あるいはそれを要求していると考えたギリシア人の諸ポリスがこれに迎合して利益を得ようと図ったことによって、こうした王に対する神格化が常態化していったと考えられる<ref name="周藤2014bp119">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 119</ref><ref name="クラウク2019pp45_46">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 45-46</ref>。
マケドニア系の諸王朝は上記のようなギリシア人のポリスとマケドニア王の関係性を継承していた。プトレマイオス朝におけるこの支配者祭儀の端緒となったのは、[[ディアドコイ戦争]]中の前305年から行われたアンティゴノス朝のデメトリオス・ポリオルケテスによるロドス市の包囲である。この戦いでロドスは、プトレマイオス1世の多大な支援の結果、攻撃を防ぎきることに成功した<ref name="周藤2014bp111">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 111</ref>。ロドス人はプトレマイオス1世の貢献を称え、リビュアのアメン(アモン)神にプトレマイオス1世を神として祭ることの是非を問うと、可との神託が下りたので、ロドス市内にプトレマイオンという聖域を設定して巨大な列柱館を建設した。そしてプトレマイオス1世に対して神に対するのと同様の祭儀が捧げられた<ref name="周藤2014bp111"/>。
実際に文献史料においてプトレマイオス1世が明確に神とされたことが確認できるのはその死後のことであるが<ref name="周藤2014bp112">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 112</ref><ref name="拓殖1982p27"/>、プトレマイオス1世自身が発行したコインにおいて自らをゼウス神を連想させる姿で描かせていることから、彼が自身の神格化を積極的に推し進めていたことがわかる<ref name="周藤2014bp112"/>。同様の支配者祭儀はプトレマイオス2世時代以降も、ギリシアのポリスとプトレマイオス朝の関係においてポリス側が「自発的に」王を神として祭るという体裁を重視して継続された<ref name="周藤2014bp113">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], p. 113</ref>。
==== 王の神格化 ====
[[ファイル:Dionysos Louvre Ma87 n2.jpg|thumb|right|ディオニュソス像。[[ヘレニズム]]時代の作品のローマ時代のコピー。手足は18世紀の修復。]]
ギリシア人ポリスとの関係性とは別に、プトレマイオス朝の王たちは統治を安定させるための手段として、時々の政治情勢に対応しながら自らの神格化を継続的に行った。初代プトレマイオス1世以来、[[オリュンポス十二神|オリュンポス]]の神々に擬せられていたことが、[[貨幣学]]の成果や彫像などによって明らかとなっている<ref name="波部2014p187">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 187</ref>。既に述べたようにプトレマイオス1世はゼウスと同一視された例が複数確認されており、プトレマイオス2世とその妻・姉のアルシノエ2世はゼウスと[[ヘーラー|ヘラ]]に見立てられていた<ref name="波部2014p188">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 188</ref>。さらにプトレマイオス2世を[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]や[[アポローン|アポロン]]に見立てる彫刻や文学作品が残されており、プトレマイオス3世、4世の時代には[[ヘーリオス|ヘリオス]]、[[ポセイドーン|ポセイドン]]、[[ヘルメス]]、[[アルテミス]]もまた王と同定された<ref name="波部2014p188"/>。プトレマイオス5世以降には、オリュンポスの神々のイメージは後退し、変わって[[ホルス]]や[[オシリス]]といったエジプトの神々との同定も行われるようになった<ref name="波部2014p190">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 190</ref>。
こうした神々の中でも特に重要視されたのが[[ディオニューソス|ディオニュソス]]である。ディオニュソスは当時東地中海各地で人気を高めており、プトレマイオス朝においては初期の頃から王朝のシンボルであった<ref name="波部2014p200">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 200</ref>。オリュンポスの神々のイメージが使用されなくなった後もディオニュソスと王との同定は強力に継続し<ref name="波部2014p190"/>、やがてプトレマイオス12世の時代には、王はディオニュソス神そのものとして「ネオス・ディオニュソス」とまで呼ばれるようになった<ref name="波部2014pp190,200">[[#波部 2014|波部 2014]], pp. 190, 200</ref>。プトレマイオス2世時代に創設された王朝の祭祀[[プトレマイエイア祭]]は、ギリシア世界において[[オリュンピア]]の祭典と同格の地位を与えられ<ref name="波部2014pp132_133">[[#波部 2014|波部 2014]], p. 133</ref>、祭典中には贅を尽くしてディオニュソスの神話が再現された<ref name="波部2014pp124_126">[[#波部 2014|波部 2014]], pp. 124-126</ref>。
こうした支配者として受ける祭儀、王と神とのイメージの重ね合わせを通じて、早くもプトレマイオス2世の治世には、故プトレマイオス1世が「救済神」(テオス=ソテル、''Theos Sōtēr'')として明確に神格化され<ref name="拓殖1982p27">[[#拓殖 1982|拓殖 1982]], p. 27</ref>。プトレマイオス2世自身と妻・姉[[アルシノエ2世]]は生前の内に明確に神であることが明示された<ref name="クラウク2019p63">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 63</ref><ref name="拓殖1982p27"/><ref name="シャムー2011p105"/>。この生前の神格化はこれ以来王朝が滅亡するまで継続した<ref name="クラウク2019p63"/>。
=== エジプトの神々 ===
[[ファイル:GD-EG-Edfou015.JPG|thumb|right|プトレマイオス朝時代に建造された[[エドフ神殿]]の[[ホルス]]像。]]
プトレマイオス朝の王たちはエジプト土着の伝統的な神々への祭祀を継続し、各神殿の守護者として振る舞った。[[ホルス]]、[[アヌビス]]、[[バステト]]、[[セクメト]]といった古い神々はなお人々の崇拝を受け続けており<ref name="長谷川2014pp67_68">[[#長谷川 2014|長谷川 2014]], pp. 67-68</ref>、また、[[メンフィス (エジプト)|メンフィス]]の[[プタハ]]神殿やテーベの[[アメン]]神殿は旧時代から変わらず、最も強力な在地勢力を形成していた<ref name="櫻井2016">[[#櫻井 2012|櫻井 2016]]</ref><ref name="周藤2014a">[[#周藤 2014a|周藤 2014a]]</ref><ref name="周藤2014bpp312_330">[[#周藤 2014b|周藤 2014b]], pp. 312-330</ref><ref name="石田2004">石田 2004</ref>。
プトレマイオス朝時代も伝統的建築様式に従ってエジプトの全土に神殿が建設されており、これらは現代に残る古代エジプトの宗教的建造物の中でもっとも保存状態が良好な一群を形成している<ref name="ウィルキンソン2002p27">[[#ウィルキンソン 2002|ウィルキンソン 2002]], p. 27</ref><ref name="スペンサー2009p66">[[#スペンサー 2009|スペンサー 2009]], p. 66</ref>。そのいくつかは古代エジプト時代を通じても最大規模のものであり、プトレマイオス3世時代に建設された[[エドフ神殿]]や[[フィラエ島]]の[[フィラエ神殿|イシス神殿]]、[[デンデラ]]の[[デンデラ神殿複合体|ハトホル神殿]]などが今なお往時の姿を留めている<ref name="スペンサー2009p66"/>。そこに描かれた王の姿は完全に伝統的なエジプトの様式に依っており、プトレマイオス朝の王たちが[[マアト]](秩序)を維持するエジプトの[[ファラオ]]として振舞っていたことを示す<ref name="スペンサー2009p66"/><ref name="ウィルキンソン2002p27"/><ref name="周藤2014bpp312_330"/>。
エジプトの神々の中にはプトレマイオス朝や後のローマ時代の思想的潮流と結びつき、またギリシアの神々のイメージも付与されて、広く地中海全域で信仰されるに至るものもあらわれた。その代表格は[[オシリス]]神の妻、かつ[[ホルス]]神の母である女神[[イシス]]であり、他に[[ハルポクラテス]]や聖牛[[アピス]]の信仰も広まった<ref name="小川1982p132">[[#小川 1982|小川 1982]], p. 132</ref>。イシスの神格はギリシアの女神[[アフロディテ]]などのイメージと重ね合わされることで著しく拡大し<ref name="小川1982"/>、セラピスのように全くギリシア的な姿に写されてエーゲ海沿岸のポリスで崇拝された<ref name="シャムー2011p477">[[#シャムー 2011|シャムー 2011]], p. 477</ref>。こうしたエジプトに由来し、ギリシア的な改変を施された神々は、後のローマ時代の宗教の発達に少なからず影響を与えることになる<ref name="小川1982">[[#小川 1982|小川 1982]]</ref>。
=== ユダヤ教 ===
プトレマイオス朝は[[ユダヤ教]]の発展の重要な舞台であった。コイレ・シリアをはじめとして、プトレマイオス朝の領域には相当数の[[ユダヤ人]]が居住しており<ref name="クラウク2019p64">[[#クラウク 2019|クラウク 2019]], p. 64</ref>、また貢納の義務を負ってはいたものの、[[エルサレム]]を中核とするコイレ・シリア([[パレスチナ]])のユダヤ人たちの共同体は、[[アケメネス朝|ハカーマニシュ朝]](アケメネス朝)以来の自治的単位(ユダイア)を維持していた<ref name="シュテルン、サフライ1977p17">[[#シュテルン、サフライ 1977|シュテルン、サフライ 1977]], p. 17</ref>。ユダヤ人たちの統治は大祭司と長老会議(ギリシア風にGerousiaと呼ばれた)が行っており、王に対する税を徴収する義務も大祭司が負った<ref name="シュテルン、サフライ1977p17"/>。
自発的な移動、または強制移住、あるいはその両方によってエジプト本国、特にアレクサンドリアにユダヤ人達が移住した<ref name="シュテルン、サフライ1977p33">[[#シュテルン、サフライ 1977|シュテルン、サフライ 1977]], p. 33</ref><ref name="秦2018pp11_16">[[#秦 2018|秦 2018]], pp. 11-16</ref>。アレクサンドリアのユダヤ人知識階層はプトレマイオス朝時代に支配的地位にあったギリシア人の社会との関わりを求め、ヘレニズム文化を摂取しギリシア語を用いるようになっていった<ref name="秦2018pp17_18">[[#秦 2018|秦 2018]], pp. 17-18</ref>。彼らは、もはや[[ヘブライ語]]を理解できない同胞たちのためか、あるいはギリシア系知識人に対してユダヤの歴史の古さ、あるいは優越性を訴えるためか、ユダヤ教の聖典(『[[旧約聖書]]』)のギリシア語訳を行うことを決意した<ref name="秦2018p35">[[#秦 2018|秦 2018]], p. 35</ref>。このアレクサンドリアで作成されたと見られるギリシア語訳聖書は今日、一般に『[[七十人訳聖書]](セプトゥアギンタ)』と呼ばれている{{efn2|七十人訳という名称は、72人の翻訳者によって72日間で完成したとする伝説による<ref name="コトバンク七十人訳聖書">[[#コトバンク|コトバンク]]、「七十人訳聖書」の項目より</ref>。}}。この七十人訳版は、明らかに読者の中にギリシアの知識人がいることを想定し、地名を極めて説明的に翻訳する他(ヘブライ語の音をそのままギリシア語風の発音にするのではなく、地名の語源をギリシア語訳する<ref name="秦2018p52">[[#秦 2018|秦 2018]], p. 52</ref>)、ヘブライ語版の「原文」に様々な意訳を行って、ギリシア人の宗教的習慣への配慮や、ユダヤ人の起源の古さ、偉大さを強調するような一種の「改変」が施されている<ref name="秦2018pp44_132">[[#秦 2018|秦 2018]], pp. 44-132</ref>。この『七十人訳聖書』は後世の宗教思想に大きな影響を残し、後の[[初期キリスト教]]の著作家たちの中から、「翻訳版」というよりももはや「聖書」そのものとして扱う人物すら出すようになる<ref name="秦2018p202">[[#秦 2018|秦 2018]], p. 202</ref>。
== 歴代ファラオ ==
在位年が重複している箇所はすべて複数のファラオによる共同統治である。
{| class="wikitable"
|-
! width="200px" | ファラオ
! width="100px" | 画像
! width="400px" | 続柄・備考
! width="150px" | 在位
|-
| [[プトレマイオス1世]]
| [[File: Ptolemy I as Pharaoh of Egypt.jpg|100px]]
| 初代。
| {{Small|前}}305−{{Small|前}}283年
|-
| [[プトレマイオス2世]]
| [[File:Oktadrachmon Ptolemaios II Arsinoe II.jpg|100px]]
| プトレマイオス1世とベレニケ1世の子。
| {{Small|前}}285−{{Small|前}}246年
|-
| [[プトレマイオス3世]]
| [[File:Ptolemy III Euergetes.jpg |100px]]
| プトレマイオス2世とアルシノエ1世の子。
| {{Small|前}}246−{{Small|前}}222年
|-
| [[プトレマイオス4世]]
| [[File:Octadrachm Ptolemy IV BM CMBMC33.jpg|100px]]
| プトレマイオス3世とベレニケ2世の子。
| {{Small|前}}222/221−{{Small|前}}204年{{efn2|name="プトレマイオス4世在位"}}
|-
| [[プトレマイオス5世]]
| [[File:Tetradrachm Ptolemy V.jpg|100px]]
| プトレマイオス3世とアルシノエ3世の子。
| {{Small|前}}204−{{Small|前}}180年
|-
| [[プトレマイオス6世]]
| [[File:PtolemyVIPhilometor.jpg|100px]]
| プトレマイオス5世とクレオパトラ1世の子。
| {{Small|前}}180−{{Small|前}}164年
|-
| [[プトレマイオス8世]]
| [[File:Ptolemy VIII - silver didrachma - líc.jpg|100px]]
| プトレマイオス6世及びクレオパトラ2世の同母弟。兄姉と共同統治。
| {{Small|前}}170−{{Small|前}}163年
|-
| プトレマイオス6世
| [[File:PtolemyVIPhilometor.jpg|100px]]
| 復位。
| {{Small|前}}163−{{Small|前}}145年
|-
| [[プトレマイオス7世]]
| [[File:Coin_of_Ptolemy_VII_Neos_Philopator.jpg|100px]]
| プトレマイオス6世の子。8世に殺害されたとされる。
| {{Small|前}}145年
|-
| プトレマイオス8世
| [[File:Ptolemy VIII - silver didrachma - líc.jpg|100px]]
|
| {{Small|前}}145−{{Small|前}}116年
|-
| [[プトレマイオス9世]]
| [[File:PtolemyIX-StatueHead_MuseumOfFineArtsBoston.png|100px]]
| プトレマイオス8世とクレオパトラ3世の子。
| {{Small|前}}116−{{Small|前}}110年
|-
| [[プトレマイオス10世]]
| [[File:Ptolemy X Alexander I Louvre Ma970.jpg|100px]]
| プトレマイオス9世の同母弟。母クレオパトラ3世に擁立されるが、対立し廃位。
| {{Small|前}}110−{{Small|前}}109年
|-
| プトレマイオス9世
| [[File:PtolemyIX-StatueHead_MuseumOfFineArtsBoston.png|100px]]
| 復位。母クレオパトラ3世により廃位。
| {{Small|前}}109−{{Small|前}}107年
|-
| プトレマイオス10世
| [[File:Ptolemy X Alexander I Louvre Ma970.jpg|100px]]
| 復位。母クレオパトラ3世を暗殺し、[[ベレニケ3世]]と結婚。
| {{Small|前}}107−{{Small|前}}88年
|-
| プトレマイオス9世
| [[File:PtolemyIX-StatueHead_MuseumOfFineArtsBoston.png|100px]]
| 弟プトレマイオス10世の死により復位。
| {{Small|前}}88−{{Small|前}}81年
|-
| [[ベレニケ3世]]{{Small| (女王)}}
| [[File:Berenice III.jpg|100px]]
| プトレマイオス9世とクレオパトラ・セレネ1世の娘。プトレマイオス10世の后。のちにプトレマイオス11世と強制的に結婚させられ、その19日後に殺される。
| {{Small|前}}81−{{Small|前}}80年
|-
| [[プトレマイオス11世]]
| [[File:Ptolemaeus XI.png|100px]]
| プトレマイオス10世の子。ベレニケ3世殺害に怒った群衆により虐殺される。在位80日。プトレマイオス朝直系最後の王。
| {{Small|前}}80年
|-
| [[プトレマイオス12世]]
| [[File:Ptolemy XII Auletes Louvre Ma3449.jpg|100px]]
| プトレマイオス9世の子。
| {{Small|前}}80−{{Small|前}}58年
|-
| [[ベレニケ4世]]{{Small| (女王)}}
|
| プトレマイオス12世とクレオパトラ5世 (6世) の娘。父の国外追放後、母と共同統治。
| {{Small|前}}58−{{Small|前}}55年
|-
| プトレマイオス12世
| [[File:Ptolemy XII Auletes Louvre Ma3449.jpg|100px]]
| 復位。娘ベレニケ4世を処刑。
| {{Small|前}}55−{{Small|前}}51年
|-
| [[クレオパトラ7世]]{{Small| (女王)}}
| [[File:Kleopatra-VII.-Altes-Museum-Berlin1.jpg|100px]]
| ベレニケ4世の妹。一般に'''クレオパトラ'''として知られる女王。
| {{Small|前}}51−{{Small|前}}30年
|-
| [[プトレマイオス13世]]
| [[File:Portrait_of_Ptolemy_XIII_Theos_Philopator.jpg|100px]]
| クレオパトラ7世の弟であり夫。後に両者は対立した。
| {{Small|前}}51−{{Small|前}}47年
|-
| [[プトレマイオス14世]]
| [[File:Ptolemy XIV.jpg|100px]]
| クレオパトラ7世とプトレマイオス13世の弟。
| {{Small|前}}47−{{Small|前}}44年
|-
| [[カエサリオン|プトレマイオス15世]](カエサリオン)
| [[File:Denderah3 Cleopatra Cesarion.jpg|100px]]
| クレオパトラ7世と[[ユリウス・カエサル]]の子。3歳のときクレオパトラ7世が共同統治者に指名。プトレマイオス朝最後の王。
| {{Small|前}}44−{{Small|前}}30年
|}
== 系図 ==
{{familytree/start|style=font-size:75%}}
{{familytree |border=1| Ant | | Lag |y| AoM | | | | | | | | |Ant=[[マケドニア王国|マケドニア]]将軍<br />[[アンティパトロス]]|Lag=マケドニア貴族<br />{{仮リンク|ラゴス (プトレマイオス1世の父)|label=プトレマイオス1世|en|Lagus}}|AoM=アルシノエ }}
{{familytree |border=1| |!| | | | | |!| | | | | | | | | | | |}}
{{familytree |border=1| Eur |y|~|~|P01 |~|y|~|B01 |y| nmM |Eur={{仮リンク|エウリュディケー (エジプト)|en|Eurydice of Egypt|label=エウリュディケー}}|P01='''[[プトレマイオス1世]]'''<br />(在位 前305年 - 前285年)|B01='''[[ベレニケ1世]]'''<br />(? - 前285年)|nmM=フィリッポス<br>マケドニア貴族|boxstyle_P01=background-color: #ddf;|boxstyle_B01=background-color: #fdd;}}
{{familytree |border=1| | | |!| | | | | |,|^|-|-|.| |!| | | |}}
{{familytree |border=1| | | |!| Lys |~|A02 |7| |!| MoC | | |Lys=[[リュシマコス]]|A02=[[アルシノエ2世]]<br />(前277年 - 前270/268年)|MoC=[[キュレネ]]王<br />{{仮リンク|マガス (キュレネ)|label=マガス|en|Magas of Cyrene}}|boxstyle_A02=background-color: #fdd;}}
{{familytree |border=1| | | |!| |!| | | | | |:| |!| |!| | | |}}
{{familytree |border=1| | | |!|A01 |~|~|y|~|A|P02 |!| | | |A01=[[アルシノエ1世]]<br />(前284年 - 前274年)|P02='''[[プトレマイオス2世]]'''<br />(前285年 - 前246年)|boxstyle_A01=background-color: #fdd;|boxstyle_P02=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1| |,|-|^|-|.| | | |!| | | | | |!| | | |}}
{{familytree |border=1| PtK | | Mel | |P03 |~|y|~|B02 | | |PtK=マケドニア王<br />[[プトレマイオス・ケラウノス]]|Mel=マケドニア王<br />[[メレアグロス (マケドニア王) |メレアグロス]]|B02=[[ベレニケ2世]]<br />(前244年 - 前222年)|P03='''[[プトレマイオス3世]]'''<br />(前246年 - 前222年)|boxstyle_P03=background-color: #ddf;|boxstyle_B02=background-color: #fdd;}}
{{familytree |border=1| | | | | | | | | | |,|-|^|-|.| | | | |}}
{{familytree |border=1| | | | | | SA3 | |A03 |y|P04 | | | |SA3=[[セレウコス朝|シリア]]王<br />[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]|A03=[[アルシノエ3世]]<br />(前220年 - 前204年)|P04='''[[プトレマイオス4世]]'''<br />(前222/221年 - 前204年)|boxstyle_A03=background-color: #fdd;|boxstyle_P04=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1| | | | | | |!| | | | | |!| | | | | | |}}
{{familytree |border=1| | | | | |C01 |~|y|~|P05 | | | | | |C01=[[クレオパトラ1世]]<br />(前193年 - 前176年)|P05='''[[プトレマイオス5世]]'''<br />(前204年 - 前180年)|boxstyle_C01=background-color: #fdd;|boxstyle_P05=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1| |,|-|-|-|-|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | |}}
{{familytree |border=1| |!| |F|~|y|~|~|C02 |y|P06 | | | | |C02=[[クレオパトラ2世]]<br />(前173年 - 前164年、前163年 - 前127年、前124年 - 前116年)|P06='''[[プトレマイオス6世]]'''<br />(前180年 - 前164年、前163年 - 前145年)|boxstyle_C02=background-color: #fdd;|boxstyle_P06=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1|P08 |C|PtM | | |,|-|^|-|v|-|-|-|.| |P08='''[[プトレマイオス8世]]'''<br />(前171年 - 前163年、前145年 - 前131年、前145年 - 前131年)|PtM=[[プトレマイオス・メンフィティス]]<br />(前131年)|boxstyle_P08=background-color: #ddf;|boxstyle_PtM=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1| | | |L|~|~|y|~|C03 | |P07 | | ClT |C03=[[クレオパトラ3世]]<br />(前142年 - 前131年、前142年 - 前131年)|P07='''[[プトレマイオス7世]]'''<br />(前145年)||ClT=[[クレオパトラ・テア]]|boxstyle_C03=background-color: #fdd;|boxstyle_P07=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1| | |,|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|-|-|.| | |}}
{{familytree |border=1|C04 |y|~|P09 |~|y|C05 |7| |F|P10 |C04=[[クレオパトラ4世]]<br />(前116年 - 前115年)|P09='''[[プトレマイオス9世]]'''<br />(前116年 - 前110年、前109年 - 前107年、前88年 - 前81年)|C05=[[クレオパトラ・セレネ1世|クレオパトラ・セレネ]]<br />(クレオパトラ5世説あり、前115年 - 前107年)|P10='''[[プトレマイオス10世]]'''<br />(前110年 - 前109年、前107年 - 前88年)|boxstyle_B03=background-color: #fdd;|boxstyle_C04=background-color: #fdd;|boxstyle_P09=background-color: #ddf;|boxstyle_C05=background-color: #fdd;|boxstyle_P10=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1| | | |!| | |!| | |!| | | |D|y|J| | | |}}
{{familytree |border=1| | |,|'| | |!| | |`|.| | |:|`|.| | | |}}
{{familytree |border=1| |P12 |y|C06 | |B03 |~|A|P11 | | |P12='''[[プトレマイオス12世]]'''<br />(前80年 - 前58年、前55年 - 前51年)|C06='''[[クレオパトラ5世|クレオパトラ5(6)世]]'''※<br />(前79年 - 前57年)|B03='''[[ベレニケ3世]]'''<br />(前81年 - 前80年)|P11='''[[プトレマイオス11世]]'''<br />(前80年)|boxstyle_P12=background-color: #ddf;|boxstyle_C06=background-color: #fdd;|boxstyle_B03=background-color: #fdd;|boxstyle_P11=background-color: #ddf;}}
{{familytree |border=1| | |!| |)|-|-|-|.| | | | | | | | | | |}}
{{familytree |border=1| | |!|B04 | |C06 | | | | | | | | | |B04=[[ベレニケ4世]]<br />(前58年 - 前55年)|C06=[[クレオパトラ5世|クレオパトラ6世]]<br />(※と同一人物説あり、?年 - 前57年)|boxstyle_B04=background-color: #fdd;|boxstyle_C06=background-color: #fdd;}}
{{familytree |border=1| |,|^|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | |}}
{{familytree |border=1|A04 | |P13 |7| |!| |F|P14 | | | | |P13='''[[プトレマイオス13世]]'''<br />(前51年 - 前47年)|P14='''[[プトレマイオス14世]]'''<br />(前47年 - 前44年)|A04='''[[アルシノエ4世]]'''<br />(前48年 - 前47年)|boxstyle_P13=background-color: #ddf;|boxstyle_P14=background-color: #ddf;|boxstyle_A04=background-color: #fdd;}}
{{familytree |border=1| | | | | | | |D|C07 |C| | | | | | | |C07='''[[クレオパトラ7世]]'''<br />(前51年 - 前30年)|boxstyle_C07=background-color: #fdd;}}
{{familytree |border=1| | GJC |~|y|~|J| | | |L|~|y|~| MaA | |GJC=[[共和政ローマ|ローマ]]独裁官<br />[[ガイウス・ユリウス・カエサル|ユリウス・カエサル]]|MaA=ローマ軍人<br />[[マルクス・アントニウス]]}}
{{familytree |border=1| | | | | |!| | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| |}}
{{familytree |border=1| | | | |P15 | | AlH | | ClS | | PtP |P15='''[[カエサリオン|プトレマイオス15世]]'''<br />(カエサリオン、前44年 - 前30年)|AlH={{仮リンク|アレクサンドロス・ヘリオス|en|Alexander Helios}}|ClS=[[クレオパトラ・セレネ2世|クレオパトラ・セレネ]]|PtP={{仮リンク|プトレマイオス・フィラデルフォス|en|Ptolemy Philadelphus (Cleopatra)}}|boxstyle_P15=background-color: #ddf;}}
{{familytree/end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
=== 史料 ===
* {{Cite book |和書 |author=アッリアノス|authorlink=アッリアノス |translator=[[大牟田章]] |title=アレクサンドロス大王東征記 上 |series=[[岩波文庫]] 上・下|publisher=[[岩波書店]] |date=2001-6 |isbn=978-4-00-334831-4 |ref=アッリアノス}}ISBN 978-4-00-334832-1。下巻にインド誌
* {{Cite web|和書|author=[[アッピアノス]] |url=https://www.livius.org/sources/content/appian/appian-the-syrian-wars/ |title=シリア戦争 |publisher=livius.org |accessdate=2019-5|ref=アッピアノス }}(英訳)
* {{Cite web |author= |date=2019-4|url=https://www.livius.org/sources/content/mesopotamian-chronicles-content/bchp-11-invasion-of-ptolemy-iii-chronicle/ |title=BCHP11 |publisher=livius.org |accessdate=2019-5|ref=BCHP11 }}(英訳)
* {{Cite book |和書 |author=ポリュビオス|authorlink=ポリュビオス |translator=[[城江良和]] |title=[[歴史 (ポリュビオス)|歴史]] 2 |publisher=[[京都大学学術出版会]] |series=[[西洋古典叢書]] |date=2007-9 |isbn=978-4-87698-169-4 |ref=ポリュビオス 2007 }}
* {{Cite book |和書 |author=ポリュビオス|authorlink=ポリュビオス |translator=城江良和 |title=歴史 3 |publisher=京都大学学術出版会 |series=西洋古典叢書 |date=2011-10 |isbn=978-4-87698-192-2 |ref=ポリュビオス 2011 }}
* {{Cite book |和書 |author1=ポンペイウス・トログス|authorlink1=グナエウス・ポンペイウス・トログス|author2=ユスティヌス 抄録|authorlink2=ユニアヌス・ユスティヌス|translator=合阪學 |title=地中海世界史 |publisher=京都大学学術出版会 |series=西洋古典叢書 |date=1998-1 |isbn=978-4-87698-156-4 |ref=ユスティヌス 1998 }}
=== 書籍・論文 ===
* {{Cite journal |和書 |author=[[石田真衣]] |date=2007 |title=プトレマイオス朝エジプトにおける在地社会の変容--エドフの事例を中心に |journal=奈良史学 |volume=25) |pages=83-103 |publisher=[[奈良大学|奈良大学史学会]] |naid=120002677218 |url=http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN10086451-20080100-1004 |accessdate=2019-5 |ref=石田 2007}}
* {{Cite book |和書 |author=小川英雄|authorlink=小川英雄 |chapter=2 ミトラス・イシス・サバシオスの崇拝 |title=オリエント史講座 3 渦巻く諸宗教 |pages=116-136|publisher=[[学生社]] |date=1982-3 |isbn=978-4-311-50903-2 |ref=小川 1982 }}
* {{Cite book |和書 |author=本村凌二|authorlink=本村凌二 |chapter=7 地中海の覇者へ |title=ギリシアとローマ |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |pages=246-281 |series=世界の歴史 5 |date=1997-10 |isbn=978-4-12-403405-9 |ref=本村 1997a }}
* {{Cite book |和書 |author=本村凌二|authorlink=本村凌二 |chapter=8 第一人者とローマの運命 |title=ギリシアとローマ |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |pages=282-320 |series=世界の歴史 5 |date=1997-10 |isbn=978-4-12-403405-9 |ref=本村 1997b }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[櫻井かおり]] |date=2016 |title=プトレマイオス朝最末期におけるメンフィスのプタハ神官団 : BM EA 184の再考察 |journal=史友 |volume=48 |pages=23-35 |publisher=[[青山学院大学|青山学院大学史学会]] |naid=40020838248 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40020838248 |accessdate=2019-5 |ref=櫻井 2012}}
* {{Cite book |和書 |author=桜井真理子|authorlink=桜井真理子 |chapter=5 ギリシアからローマへ |title=ギリシアとローマ |series=世界の歴史5 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |pages=163-206 |date=1997-10 |isbn=978-4-12-403405-9 |ref=桜井 1997 }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[周藤芳幸]] |date=2014-3 |title=南部エジプト大反乱と東地中海世界 |journal=名古屋大学文学部研究論集 |volume=60 |pages=1-16 |publisher=[[名古屋大学|名古屋大学文学部]] |naid=120005418049|doi=10.18999/jouflh.60.1|url=https://doi.org/10.18999/jouflh.60.1 |accessdate=2019-5 |ref=周藤 2014a}}
* {{Cite book |和書 |author=周藤芳幸|authorlink=周藤芳幸 |title=ナイル世界のヘレニズム - エジプトとギリシアの遭遇 - |publisher=[[名古屋大学|名古屋大学出版会]] |date=2014-11 |isbn=978-4-8158-0785-6 |ref=周藤 2014b }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[高橋亮介]] |date=2004 |title=プトレマイオス朝エジプト研究の新動向 -J. Manning, ''Land and Power in Ptolemaic Egypt'' の到達点- |journal=オリエント |volume=47 |issue=1 |pages=148-159 |publisher=[[日本オリエント学会]] |doi=10.5356/jorient.47.148 |url=https://doi.org/10.5356/jorient.47.148|accessdate=2019-5 |ref=高橋 2004}}
* {{Cite journal |和書 |author=[[高橋亮介]] |date=2004 |title=ギリシア・ローマ期ファイユームをいかに捉えるか : 環境史研究の一動向 (特集 環境・農業生産・記録管理 : 文書史料に基づくエジプト環境史の構築) |journal=イスラーム地域研究ジャーナル |volume=9 |pages=32-44 |publisher=[[早稲田大学|早稲田大学イスラーム地域研究機構]] |naid=120006028260 |url=https://hdl.handle.net/2065/00052244 |accessdate=2019-6 |ref=高橋 2017}}
* {{Cite book |和書 |author=拓殖一雄|authorlink=拓殖一雄 |chapter=エジプトの支配者たち |title=オリエント史講座 3 渦巻く諸宗教 |publisher=[[学生社]] |pages=17-48 |date=1982-3 |isbn=978-4-311-50903-2 |ref=拓殖 1982 }}
* {{Cite book |和書 |author=長谷川奏|authorlink=長谷川奏 |title=図説 地中海文明史の考古学 |date=2014-5 |publisher=[[彩流社]] |isbn=978-4-7791-2016-9 |ref=長谷川 2014}}
* {{Cite book |和書 |author=秦剛平|authorlink=秦剛平 |title=七十人訳ギリシア語聖書入門 |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |date=2018-6 |isbn=978-4-06-512094-1 |ref=秦 2018 }}
* {{Cite book |和書 |author=波部雄一郎|authorlink=波部雄一郎 |title=プトレマイオス王国と東地中海世界 |publisher=[[関西学院大学|関西学院大学出版会]] |date=2014-1 |isbn=978-4-86283-152-1 |ref=波部 2014 }}
* {{Cite book |和書 |author=松原國師|authorlink=松原國師 |title=西洋古典学事典 |date=2010-6 |publisher=[[京都大学|京都大学出版会]] |isbn=978-4-87698-925-6 |ref=松原 2010}}
* {{Cite book |和書 |author=森谷公俊|authorlink=森谷公俊 |chapter=IG ヘレニズム 4 ヘレニズム諸国家 |title=西洋古代史研究入門 |date=1997-3 |publisher=[[東京大学]]出版会 |isbn=978-4-13-022016-3 |ref=森谷 1997}}
* {{Cite book |和書 |author=森谷公俊|authorlink=森谷公俊 |title=アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像 |date=2000-10 |publisher=[[講談社]] |series=講談社選書メチエ |isbn=978-4-06-258197-4 |ref=森谷 2000}}
* {{Cite book |和書 |author=山花京子|authorlink=山花京子 |title=古代エジプトの歴史 - 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで - |publisher=[[慶應義塾大学|慶應義塾大学出版会]] |date=2010-9 |isbn=978-4-7664-1765-4 |ref=山花 2010 }}
* {{Cite book |和書 |author=モスタファ・エル=アバディ|authorlink=モスタファ・エル=アバディ |translator=[[松本慎二]] |title=古代アレクサンドリア図書館 よみがえる知の宝庫 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |date=1991-1 |series=[[中公新書]] 1007 |isbn=978-4-12-101007-0 |ref= エル=アバディ 1991 }}
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・バグネル・ベリー|authorlink=ジョン・バグネル・ベリー |translator=[[高山一十]] |title=古代ギリシアの歴史家たち |publisher=[[修文館]] |date=1966-4 |isbn=978-4-87964-025-3 |ref=ベリー 1966 }}(1990年4月改訂版)
* {{Cite book |和書 |author={{仮リンク|ハンス・ヨセフ・クラウク|en|Hans-Josef Klauck}} |translator=[[小川陽]]監訳、[[河野克也]]、[[前川裕]] |title=初期キリスト教の宗教的背景 下巻 |publisher=[[日本基督教団|日本キリスト教団出版局]] |date=2019-1 |isbn=978-4-8184-0969-9 |ref=クラウク 2019 }}
* {{Cite book |和書 |author=ピーター・クレイトン|authorlink=ピーター・クレイトン |others=[[吉村作治]]監修、[[藤沢邦子]]訳 |title=古代エジプトファラオ歴代誌 |publisher=[[創元社]] |date=1999-04 |isbn=978-4-422-21512-9 |ref=クレイトン 1999 }}
* {{Cite journal |和書 |author=[[ジョー・マニング|J.G. マニング]] |translator=[[周藤芳幸]]、[[柴田淑枝]] |date=2012-2|title=プトレマイス : プトレマイオス朝の失われた都市 |journal=メタプティヒアカ:名古屋大学大学院文学研究科教育研究推進室年報 |volume=6 |pages=145-166 |publisher=[[名古屋大学|名古屋大学大学院文学研究科教育研究推進室]] |naid=120005619539 |url=https://doi.org/10.18999/meta.6.145 |accessdate=2019-5 |ref=マニング 2012}}
* {{Cite book |和書 |author=フランソワ・シャムー|authorlink=フランソワ・シャムー |translator=[[桐村泰次]] |title=ヘレニズム文明 |publisher=[[諭創社]] |date=2011-3 |isbn=978-4-8460-0840-6 |ref=シャムー 2011}}
* {{Cite book |和書 |author=A.J.スペンサー |others=[[近藤二郎]]監訳、[[小林朋則]]訳 |title=図説 大英博物館古代エジプト史 |publisher=[[原書房]] |date=2009-06 |isbn=978-4-562-04289-0 |ref=スペンサー 2009 }}
* {{Cite book |和書 |author1=メナヘム・シュテルン|authorlink1=メナヘム・シュテルン|author2=シュムエル・サフライ|authorlink2=シュムエル・サフライ|translator=[[石田友雄]] |title=ユダヤ民族史 2 古代編 Ⅱ|publisher=[[六興出版]] |date=1977-02 |asin=B000J8ELL2 |ref=シュテルン、サフライ 1977 }}
* {{Cite book |和書 |author=ウィリアム・ウッドソープ・ターン|authorlink=ウィリアム・ウッドソープ・ターン |translator=[[角田有智子]] |translator2=[[中井義明]] |title=ヘレニズム文明 |publisher=[[思索社]] |date=1987-1 |isbn=978-4-7835-1127-4 |ref=ターン 1987 }}
* {{Cite book |和書 |author=スティーヴン・ワインバーグ|authorlink=スティーヴン・ワインバーグ |translator=[[赤根洋子]] |other=[[大栗博司]]解説 |title=科学の発見 |publisher=[[文藝春秋]] |date=2016-5 |isbn=978-4-16-390457-3 |ref=ワインバーグ 2016 }}
* {{Cite book |和書 |author=トビー・ウィルキンソン|authorlink=トビー・ウィルキンソン |others=内田杉彦訳 |title=図説 古代エジプト人物列伝 |publisher=[[悠書館]] |date=2015-1 |isbn=978-4-903487-97-7 |ref=ウィルキンソン 2015 }}
* {{Cite book |和書 |author=リチャード・ハーバード・ウィルキンソン|authorlink=リチャード・ハーバード・ウィルキンソン | translator=[[内田杉彦]] |title=古代エジプト神殿大百科 |publisher=[[東洋書林]] |date=2002-9 |isbn=978-4-88721-580-1 |ref=ウィルキンソン 2002 }}
* {{Cite book |和書 |author=フランク・ウィリアム・ウォールバンク|authorlink=フランク・ウィリアム・ウォールバンク |translator=[[小河陽]] |title=ヘレニズム世界 |publisher=[[教文館]] |date=1988-1 |isbn=978-4-7642-6606-3 |ref=ウォールバンク 1988}}
=== ウェブ出典 ===
* {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%BA%E8%A8%B3%E8%81%96%E6%9B%B8-283032|title=コトバンク 七十人訳聖書|access-date=2019-06-03|ref=コトバンク}}
* {{Cite web|author=[[クリステル・フィッシャー・ボヴェ]]|title=The Ptolemaic Army|date=2015-3|url=https://www.oxfordhandbooks.com/view/10.1093/oxfordhb/9780199935390.001.0001/oxfordhb-9780199935390-e-75|access-date=2020-06-08|isbn=978-0-19-993539-0 |ref=フィッシャー・ボヴェ 2015}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ptolemaic dynasty|プトレマイオス朝}}
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[[Category:プトレマイオス朝|*]]
[[Category:古代エジプトの王朝]] | 2003-04-12T12:16:46Z | 2023-10-29T06:39:52Z | false | false | false | [
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6,592 | 郵政省 | 郵政省(ゆうせいしょう、Ministry of Posts and Telecommunications, MPT。ただし設置当初の英称はMinistry of Postal Services)は、かつて存在した日本の行政機関である。国家行政組織法と郵政省設置法に基づき、郵便事業・郵便貯金事業・簡易保険事業ならびに電気通信・電波・放送に関する行政を取扱っていた。長は郵政大臣。2001年(平成13年)1月6日に行われた中央省庁再編によって総務省と郵政事業庁となった。
設置当初は、港区飯倉町(現在の麻布台)に所在した1930年(昭和5年)竣工の逓信省貯金局庁舎を、引き続き郵政本省庁舎として使用した。なお、設置以前の1945年(昭和20年)、東京大空襲で被災した麻布台ヒルズ郵便局がこの庁舎に仮住まいの後、正式に入居している。
俗称については、外苑東通りを介した反対側の駐日ロシア帝国大使館一帯の地名である「狸穴」と呼ばれ、他の省庁が集積している霞が関へ行くのにバスを使わなければならなかったこと、三公社五現業のひとつである郵政三事業を取扱う「現業官庁」であったが故、「三流(もしくは四流)官庁」「狸穴の田舎者」と揶揄され、中央省庁の中でも格下に見られていた不遇な時代が長く続いた。
しかし、後に内閣総理大臣にまで上り詰めた田中角栄が郵政大臣に就任したことを契機として、本省は1969年(昭和44年)7月に霞が関(日本郵政ビルを経て現・環境省庁舎)へ移転した。1984年(昭和59年)7月、電気通信政策局・電波監理局の二つだった政策担当局を、情報化社会の到来とともに、通信政策局・電気通信局・放送行政局のテレコム三局に拡充させ、電気通信・電波放送行政を担う省庁として、「現業官庁」から「政策官庁」への脱皮として注目されるようになった。これにより、産業の育成を目的とする通商産業省と、情報通信分野における主導権争いを演じた。
本省が霞が関へ移転した後も、飯倉の旧本省庁舎は、長きに渡り「飯倉分館」として本省(後の郵政事業庁、日本郵政公社)の一部部局、地方支分部局(関東郵政監察局)及び施設等機関(郵政研究所)の執務場所として使用され続けたほか、一時は国土庁(当時)や総務省関東総合通信局の一部部局が入居していた時期もあった。
しかし、東京都千代田区大手町にあった日本郵政公社東京支社(旧東京郵政局)が2005年(平成17年)5月に飯倉分館に移転、この建物を東京支社社屋として使用することとなったため、「飯倉分館」としての役目は終えたが、建物自体は民営化された後2019年(平成31年)まで、「日本郵政グループ飯倉ビル」として大部分を日本郵便株式会社東京支社として使用され続けていた。
その後、日本郵政グループ・森ビル等で構成する虎ノ門・麻布台地区市街地再開発組合が当地を含む一帯を再開発する 「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業(麻布台ヒルズ)」の開始に伴い、2018年(平成30年)11月19日にビル内の麻布郵便局が麻布台1-7-3に移転したのを肇めに、日本郵便東京支社が赤坂1-14-14の第35興和ビルに(専用郵便番号も〒106-8797から、赤坂局管内に移転した為〒107-8797に変更)、東京共通事務集約センターは中野区の落合郵便局内(専用郵便番号は〒161-8797)にそれぞれ移転した。
2019年3月、清水建設が解体作業に着手、同年8月5日に再開発事業が着工し、2023年11月に森JPタワーが開業した。
かつて郵政省の管轄だったが現在は下記の関連病院となっている。
上記の郵政省管轄の病院と同様、元々は旧・逓信省の下で発足した経緯があり、逓信省が2分省化された際に以下の病院は電気通信省の管轄とされたものであり、のちに同省の公社化に伴って日本電信電話公社(電電公社)附属病院となった。ただし、一部の病院に関しては電気通信省または電電公社時代に設立されたものもあるが、名称は他の病院と同様に「逓信病院」を名乗っていた。
札幌逓信病院は郵政省が設置した札幌(南)逓信病院とは別の病院である。同様に、京都南逓信病院も郵政省に属した京都逓信病院とは別の病院である。
高松逓信病院は電気通信省時代に、東北逓信病院・東海逓信病院・関東逓信病院は電電公社発足後に設立された病院であり、いずれも旧逓信省・郵政省には属した事がない。
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] | 郵政省は、かつて存在した日本の行政機関である。国家行政組織法と郵政省設置法に基づき、郵便事業・郵便貯金事業・簡易保険事業ならびに電気通信・電波・放送に関する行政を取扱っていた。長は郵政大臣。2001年(平成13年)1月6日に行われた中央省庁再編によって総務省と郵政事業庁となった。 | {{Otheruses|[[日本国政府]]に以前存在した[[官庁]]|[[アメリカ合衆国連邦政府]]で廃止された省庁|アメリカ合衆国郵政省}}
{{行政官庁
|国名 = {{JPN}}
|正式名称 = 郵政省
|公用語名=ゆうせいしょう|英名=Ministry of Posts and Telecommunications|紋章 = Postal Mark (Japan).svg
|紋章サイズ = 100px
|画像 = Japan-Post-01.jpg
|画像サイズ = 250px
|画像説明 = 旧郵政省本庁舎
|主席閣僚職名 = [[郵政大臣|大臣]]
|主席閣僚氏名 = [[小沢佐重喜]](初代)<br/>[[片山虎之助]](最後)
|次席閣僚職名 =
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|上部組織 =上部組織
|上部組織概要 =
|下部組織1 = [[内部部局]]
|下部組織概要1 = [[大臣官房]] <br>[[郵便|郵務局]]<br>[[郵便貯金|貯金局]]<br>[[簡易保険|簡易保険局]]<br>通信政策局<br>[[電気通信局]]<br>放送行政局
|所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[飯倉 (東京都港区)|飯倉町]](現[[麻布台]])→<br>[[東京都]][[千代田区]][[霞が関]]一丁目3番2号
|位置 = <small>{{ウィキ座標2段度分秒|35|40|16.8|N|139|45|2.8|E|region:JP|display=inline,title}}</small>
|定員 = 30万3,911人<br>うち内部部局:2,591人<br>施設等機関:3,538人<br>地方支分部局:297,782人<br>1999年(平成11年)3月末時点
|年間予算 = 一般会計 881億4,300万円<br>1998年度(平成10年度)
|会計年度 =
|根拠法令=[[郵政省設置法]]|設置年月日 = [[1949年]](昭和24年)
|改称年月日 =
|廃止年月日=[[2001年]](平成13年)|前身 = [[逓信省]]
|後身 = [[総務省]]・[[郵政事業庁]]
|ウェブサイト = 閉鎖
|その他 =
}}
'''郵政省'''(ゆうせいしょう、Ministry of Posts and Telecommunications, MPT<ref>{{Cite web|title=2001 WHITE PAPER Information and Communications in Japan|url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/eng/WP2001/chapter-3.pdf|format=PDF|page=63|publisher=総務省|accessdate=2020-9-30}}</ref>。ただし設置当初の英称はMinistry of Postal Services<ref>{{Cite journal |title=The Ministry of Postal Services Establishment Law|date=1948-12-15 |publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]|journal=OFFICIAL GAZETTE|issue=EXTRA No. 45|page=1}}</ref><ref group="注">電気通信監督行政及び電波監理行政を新たに所管した1952年に直ちに英称が変更されたわけでなく、翌年以降も "Ministry of Postal Services" の英称が使われた文献がある。たとえば、{{Cite journal|title=PREFACE|author=Shogo Amari|journal=Journal of the Radio Research Laboratories|Volume=1|issue=1|url=https://www.nict.go.jp/publication/journal/01/001/Journal_Vol01_No001_index.pdf|format=PDF|page=2|date=1954-3|publisher=郵政省[[通信総合研究所|電波研究所]]}}</ref>)は、かつて存在した[[日本の行政機関]]である。[[国家行政組織法]]と郵政省設置法に基づき<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%83%B5%E6%94%BF%E7%9C%81-144776#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典] [[コトバンク]]. 2019年2月23日閲覧。</ref>、[[郵便]]事業・[[郵便貯金]]事業・[[簡易保険]]事業ならびに[[電気通信]]・[[電波]]・[[放送]]に関する行政を取扱っていた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%83%B5%E6%94%BF%E7%9C%81-144776#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉] [[コトバンク]]. 2019年2月23日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%83%B5%E6%94%BF%E7%9C%81-144776#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版] [[コトバンク]]. 2019年2月23日閲覧。</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%83%B5%E6%94%BF%E7%9C%81-144776#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 精選版 日本国語大辞典] [[コトバンク]]. 2019年2月23日閲覧。</ref>。長は[[郵政大臣]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%83%B5%E6%94%BF%E5%A4%A7%E8%87%A3-650877#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 ゆうせい‐だいじん イウセイ‥【郵政大臣】 - 精選版 日本国語大辞典] [[コトバンク]]. 2019年2月23日閲覧。</ref>。[[2001年]]([[平成]]13年)[[1月6日]]に行われた[[中央省庁再編]]によって[[総務省]]と[[郵政事業庁]]となった。
== 来歴 ==
* [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]] - [[逓信省]]の二省(郵電)分離に伴い、[[電気通信省]]とともに'''郵政省'''が設置された<ref>同年3月31日法律第6号「郵政省設置法の一部を改正する法律」</ref>。
* [[1952年]](昭和27年)[[8月1日]] - 電気通信省の[[日本電信電話公社]]への移行、[[総理府]][[電波監理委員会]]の廃止に伴い、電気通信監督行政、電波監理行政を新たに所管した。
* 2001年(平成13年)[[1月6日]] - [[中央省庁再編]]の実施に伴い、郵便・簡易保険・貯金の各事業を[[郵政事業庁]]へ分割。情報通信部門と[[郵政行政局|郵政企画管理局]]とを[[自治省]]・[[総務庁]]と統合。[[総務省]]が発足し、郵政省は廃止された。
==旧本庁舎(飯倉ビル)と沿革==
[[ファイル:Azabu Post Office.JPG|250px|サムネイル|設立当初の郵政省本庁舎(2019年に解体) ]]
設置当初は、[[港区 (東京都)|港区]]飯倉町(現在の[[麻布台]])に所在した[[1930年]](昭和5年)竣工の逓信省貯金局庁舎を、引き続き郵政本省庁舎として使用した。なお、設置以前の[[1945年]]([[昭和]]20年)、[[東京大空襲]]で被災した[[麻布台ヒルズ郵便局|麻布郵便局]]がこの庁舎に仮住まいの後、正式に入居している。{{main|麻布台ヒルズ郵便局#旧局舎(飯倉ビル)|逓信省#本省所在地の変遷}}
俗称については、[[外苑東通り]]を介した反対側の駐日ロシア帝国大使館一帯の地名である「{{ルビ|狸穴|まみあな}}」と呼ばれ、他の省庁が集積している[[霞が関]]へ行くのに[[都営バス|バス]]を使わなければならなかったこと、[[三公社五現業]]のひとつである郵政三事業を取扱う「[[現業]]官庁」であったが故、「三流(もしくは四流)官庁」「{{ルビ|狸穴|まみあな}}の[[田舎]]者」と揶揄され、中央省庁の中でも格下に見られていた不遇な時代が長く続いた。{{see also|都営バス新宿支所#63系統|都営バス港南支所#62系統}}
しかし、後に[[内閣総理大臣]]にまで上り詰めた[[田中角栄]]が郵政大臣に就任したことを契機として、本省は[[1969年]](昭和44年)7月に霞が関(日本郵政ビルを経て現・[[環境省]]庁舎)へ移転した。1984年(昭和59年)7月、電気通信政策局・電波監理局の二つだった政策担当局を、[[情報化社会]]の到来とともに、通信政策局・電気通信局・放送行政局のテレコム三局に拡充させ、電気通信・電波放送行政を担う省庁として、「現業官庁」から「政策官庁」への脱皮として注目されるようになった。これにより、産業の育成を目的とする[[経済産業省|通商産業省]]と、情報通信分野における主導権争いを演じた。{{see also|田中角栄#閣僚・党幹部を歴任|経済産業省#概説}}
本省が霞が関へ移転した後も、飯倉の旧本省庁舎は、長きに渡り「飯倉分館」として本省(後の[[郵政事業庁]]、[[日本郵政公社]])の一部部局、[[地方支分部局]](関東郵政監察局)及び[[施設等機関]]([[郵政総合研究所|郵政研究所]])の執務場所として使用され続けたほか、一時は[[国土庁]](当時)や[[総務省]][[総合通信局|関東総合通信局]]の一部部局が入居していた時期もあった。
しかし、東京都[[千代田区]][[大手町 (千代田区)|大手町]]にあった日本郵政公社東京支社(旧東京郵政局)が2005年([[平成]]17年)5月に飯倉分館に移転、この建物を東京支社社屋として使用することとなったため、「飯倉分館」としての役目は終えたが、建物自体は[[郵政民営化|民営化]]された後[[2019年]](平成31年)まで、「日本郵政グループ飯倉ビル」として大部分を日本郵便株式会社東京支社として使用され続けていた。
その後、日本郵政グループ・[[森ビル]]等で構成する虎ノ門・麻布台地区市街地再開発組合が当地を含む一帯を再開発する 「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業([[麻布台ヒルズ]])」の開始に伴い、[[2018年]](平成30年)11月19日にビル内の麻布郵便局が麻布台1-7-3に移転した<ref>[https://www.post.japanpost.jp/notification/storeinformation/detail/index.php?id=3624 移転:麻布郵便局(東京都)・日本郵便(株)開局情報]</ref>のを肇めに、日本郵便東京支社が赤坂1-14-14の第35興和ビルに(専用郵便番号も〒10'''6'''-8797から、[[赤坂郵便局|赤坂局]]管内に移転した為〒10'''7'''-8797に変更)、東京共通事務集約センターは[[中野区]]の[[落合郵便局 (東京都)|落合郵便局]]内(専用郵便番号は〒161-8797)にそれぞれ移転した。
2019年3月、[[清水建設]]が解体作業に着手、同年8月5日に再開発事業が着工し<ref>[https://www.mori.co.jp/company/press/release/2019/08/20190822110000003927.html 「虎ノ門・麻布台プロジェクト」始動] - 森ビル・ニュースリリース(2019年8月22日)</ref>、2023年11月に[[麻布台ヒルズ森JPタワー|森JPタワー]]が開業した<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20231124-OYT1T50177/|title=「麻布台ヒルズ」開業、ハルカス抜き「高さ日本一」の森JPタワー中核…年間来場者3千万人見込み|newspaper=[[読売新聞]]|date=2023-11-24|accessdate=2023-12-24}}</ref>。
== 組織 ==
=== 幹部 ===
* [[郵政大臣]]
* 郵政[[政務次官#総括政務次官|総括政務次官]]
* 郵政[[政務次官]]
* [[郵政省#郵政事務次官|郵政事務次官]]
* [[郵政省#郵政審議官|郵政審議官]]<ref>平成8年(1996年)4月17日法律第30号「郵政省設置法の一部を改正する法律」</ref>
=== 内部部局 ===
* [[大臣官房]] - 秘書課、総務課、主計課、企画課、人事部、財務部、施設部、国際部、[[郵政監察制度|首席監察官]]
** 人事部 - 管理課、人事課、要員給与課
** 財務部 - 企画課、資材課、情報システム課
** 施設部 - 管理課、建築企画課、建築業務課、設備課
** 国際部 - 国際政策課、国際経済課、国際協力課
* 郵務局 - 総務課、企画課、経営計画課、営業課、国際課、輸送企画課、機械情報システム課、集配業務課
* 貯金局 - 総務課、経営企画課、経営計画課、業務課、営業課、資金運用課、電子計算計画課
* 簡易保険局 - 総務課、企画業務課、経営計画課、営業計画課、資金運用課、経営数理課、加入者福祉企画課、電子計算システム課
* 通信政策局 - 総務課、政策課、通信事業振興課、地域通信振興課、技術政策課、通信規格課、技術開発推進課、情報企画課、宇宙通信政策課
* [[電気通信局]] - 総務課、電気通信事業部、電波部
** 電気通信事業部 - 事業政策課、業務課、データ通信課、電気通信技術システム課、高度通信網振興課
** 電波部 - 計画課、電波利用企画課、基幹通信課、移動通信課、衛星移動通信課、電波環境課
* 放送行政局 - 総務課、放送政策課、放送技術政策課、地上放送課、衛星放送課、国際・特別地上放送課、有線放送課
=== 審議会等 ===
* 郵政審議会
* 簡易生命保険審議会
* 電気通信審議会
* 電波監理審議会
* 電気通信技術審議会
=== 施設等機関 ===
* 郵政研究所 - 2003年(平成15年)4月1日に郵政事業の調査研究機能は[[日本郵政公社|公社]]の[[郵政総合研究所]]、情報通信政策の調査研究機能は[[情報通信政策研究所]]へ引き継がれた)
* 病院及び診療所
* 職員訓練所(郵政研修所、[[郵政大学校]]、電気通信研修所)
* [[通信総合研究所]](旧・[[逓信省]]電気試験所→郵政省電波研究所、現在の独立行政法人[[情報通信研究機構]])
=== 地方支分部局 ===
* 地方郵政監察局
* 地方郵政局
** [[貯金事務センター]](旧・地方貯金局)
** [[簡易保険事務センター]](旧・地方簡易保険局)
* 地方電気通信監理局
* 沖縄郵政管理事務所
* [[郵便局]]
== 郵政事務次官 ==
{| class="wikitable"
|-
! 氏名
! 在任期間
! 前職
! 退任後の役職
|-
| [[大野勝三]]
| 1949(昭和24).6.1 - 1954(昭和29).2.1
|
| [[国際電信電話]]社長<br />[[エフエム東京]]社長
|-
| 中村俊一
| 1954(昭和29).2.1 - 1955(昭和30).8.9
| 経理局長
|
|-
| [[宮本武夫]]
| 1955(昭和30).8.9 - 1956(昭和31).9.21
| 大臣官房人事部長
|
|-
| [[小野吉郎]]
| 1956(昭和31).9.21 - 1959(昭和34).4.24
| 簡易保険局長
| [[日本放送協会|NHK]]会長
|-
| [[加藤桂一]]
| 1959(昭和34).4.24 - 1961(昭和36).6.16
| 貯金局長
| [[簡易保険福祉事業団|簡易保険郵便年金福祉事業団]]理事長
|-
| [[大塚茂]]
| 1961(昭和36).6.16 - 1962(昭和37).5.15
| 貯金局長
| [[新東京国際空港公団]]総裁
|-
| [[西村尚治]]
| 1962(昭和37).5.15 - 1964(昭和39).6.26
| 郵務局長
| [[参議院|参議院議員]]<br />[[総理府]]総務長官・[[沖縄開発庁]]長官
|-
| [[佐方信博]]
| 1964(昭和39).6.26 - 1965(昭和40).6.1
| 郵務局長
| [[富士重工業]]副社長
|-
| [[田中鎮雄]]
| 1965(昭和40).6.1 - 1966(昭和41).7.1
| 簡易保険局長
|
|-
| [[長田裕二]]
| 1966(昭和41).7.1 - 1967(昭和42).7.28
| 郵務局長
| 参議院議員<br />[[科学技術庁]]長官、参議院議長
|-
| [[浅野賢澄]]
| 1967(昭和42).7.28 - 1969(昭和44).11.21
| 電波監理局長
| [[フジテレビジョン|フジテレビ]]社長、会長
|-
| [[曾山克巳]]
| 1969(昭和44).11.21 - 1971(昭和46).7.2
| 郵務局長
| [[日本電気|NEC]]副社長<br />[[エフエムジャパン]]社長
|-
| [[竹下一記]]
| 1971(昭和46).7.2 - 1973(昭和48).7.13
| 郵務局長
| 簡易保険郵便年金福祉事業団理事長<br />[[熊本県民テレビ]]社長、会長
|-
| [[溝呂木繁]]
| 1973(昭和48).7.13 - 1975(昭和50).7.15
| 郵務局長
| [[WOWOW|日本衛星放送]]社長
|-
| [[石井多加三]]
| 1975(昭和50).7.15 - 1977(昭和52).7.19
| 郵務局長
| 郵便貯金振興会理事長<br />[[国際電信電話]]社長
|-
| [[廣瀬弘]]
| 1977(昭和52).7.19 - 1978(昭和53).7.1
| 郵務局長
| [[日本郵便逓送]]社長<br />[[情報通信研究機構|通信・放送衛星機構]]理事長
|-
| [[神山文男]]
| 1978(昭和53).7.1 - 1980(昭和55).4.8
| 郵務局長
| 簡易保険郵便年金福祉事業団理事長<br />[[テレビユー福島]]社長
|-
| [[淺尾宏]]
| 1980(昭和55).4.8 - 1982(昭和57).7.7
| 簡易保険局長
| 郵便貯金振興会理事長<br />簡易保険郵便年金福祉事業団理事長
|-
| [[守住有信]]
| 1982(昭和57).7.7 - 1984(昭和59).8.21
| 電気通信政策局長
| 郵便貯金振興会理事長<br />参議院議員
|-
| [[小山森也]]
| 1984(昭和59).8.21 - 1986(昭和61).6.17
| 電気通信局長
| [[情報通信研究機構|通信・放送機構]]理事長
|-
| [[沢田茂生|澤田茂生]]
| 1986(昭和61).6.17 - 1988(昭和63).6.3
| 電気通信局長
| [[日本電信電話]]会長
|-
| [[奥山雄材]]
| 1988(昭和63).6.3 - 1989(平成元).6.30
| 電気通信局長
| [[簡易保険福祉事業団]]理事長<br />[[第二電電]]会長兼社長、[[ディーディーアイ]]社長<br>[[KDDI]]社長、[[電気通信事業者協会]]会長
|-
| [[塩谷稔]]
| 1989(平成元).6.30 - 1990(平成2).6.29
| 電気通信局長
| (財)日本データ通信協会理事長
|-
| [[中村泰三 (官僚)|中村泰三]]
| 1990(平成2).6.29 - 1992(平成4).6.23
| 通信政策局長
| 簡易保険福祉事業団理事長<br />国際電信電話会長
|-
| [[森本哲夫]]
| 1992(平成4).6.23 - 1993(平成5).7.1
| 電気通信局長
| 通信・放送機構理事長
|-
| [[白井太]]
| 1993(平成5).7.1 - 1994(平成6).7.1
| 電気通信局長
| 簡易保険福祉事業団理事長<br />通信・放送機構理事長
|-
| [[松野春樹]]
| 1994(平成6).7.1 - 1996(平成8).7.1
| 電気通信局長
| (財)日本データ通信協会理事長<br />日本電信電話副社長
|-
| [[五十嵐三津雄]]
| 1996(平成8).7.1 - 1998(平成10).6.19
| 電気通信局長
| 簡易保険福祉事業団理事長<br />[[KDDI]]代表取締役会長
|-
| [[谷公士]]
| 1998(平成10).6.19 - 2001(平成13).1.5
| 電気通信局長
| [[人事院]]総裁
|-
|}
== 郵政審議官 ==
{| class="wikitable"
|-
! 氏名
! 在任期間
! 前職
! 退任後の役職
|-
| [[山口憲美]]
| 1996(平成8).7.1 - 1997(平成9).7.4
| 通信政策局長
| [[宇宙通信]]副社長<br />日本電子総合サービス社長
|-
| [[楠田修司]]
| 1997(平成9).7.4 - 1998(平成10).6.19
| 放送行政局長
| [[J-WAVE]]社長、会長
|-
| [[長谷川憲正]]
| 1998(平成10).6.19 - 1999(平成11).7.6
| 郵務局長
| 駐[[フィンランド]]兼[[エストニア]]特命全権大使<br />参議院議員、[[総務大臣政務官]]
|-
| [[品川萬里]]
| 1999(平成11).7.6 - 2000(平成12).6.27
| 放送行政局長
| [[NTTデータ]]副社長<br />[[郡山市|郡山市長]]
|-
| [[濱田弘二]]
| 2000.(平成12)6.27 - 2001(平成13).1.5
| 郵務局長
| [[総務審議官#国際担当|総務審議官(国際担当)]]
|-
|}
==中央省庁再編後の組織の変遷==
===郵政行政===
;総務省の内部部局「[[郵政企画管理局]]」
:郵政事業における制度の企画立案、経営の基本的事項等に関することを所掌。
:[[2003年]](平成15年)[[4月1日]]の日本郵政公社設立とともに名称を「[[郵政行政局]]」と改め、併せて規模が縮小された。
;総務省の外局「[[郵政事業庁]]」
:郵政事業の実施に関することを所掌。
:2003年(平成15年)4月1日に国が設置する特殊法人「日本郵政公社」として総務省より独立し、2007年(平成19年)10月1日には[[日本郵政|日本郵政グループ]]として民営化された。
;総務省「郵政公社統括官」
:郵政事業庁を日本郵政公社へと円滑に移行するため、公社設立までの時限で局長級の郵政公社統括官が置かれた。
;総務省の内部部局 「[[郵政行政部]]」
:情報流通行政局の下部組織として発足
===電気通信・放送行政===
;総務省の内部部局「[[情報通信政策局]]」
:通信政策局と放送行政局の統合により発足。のちに再編。
;総務省の内部部局「[[総合通信基盤局]]」
:電気通信局と大臣官房国際部の統合により発足。
;総務省の内部部局 「[[情報通信国際戦略局]]」
:情報通信政策局と総合通信基盤局国際部の統合により発足。[[2017年]]に廃止され、[[国際戦略局]]が新たに発足した。
;総務省の内部部局 「[[情報流通行政局]]」
:情報通信政策局と郵政行政局の統合により発足。
==関連施設==
かつて郵政省の管轄だったが現在は下記の関連病院となっている。
===日本郵政(JP)===
====現存====
*[[東京逓信病院]]
==== 廃止 ====<!-- 全て日本郵政グループに移管後に譲渡ないし閉鎖 -->
*札幌(南)逓信病院 - 2017年(平成29年)に事業譲渡し、現[[晴生会さっぽろ南病院]]
*仙台逓信病院 - 2015年(平成27年)に事業譲渡し、現[[イムス明理会仙台総合病院]]
*横浜逓信病院 - 2017年(平成29年)に事業譲渡し、現[[済生会神奈川県病院|済生会東神奈川リハビリテーション病院]]<!-- 済生会神奈川県病院におけるリハビリ専門の付属施設 -->
*新潟逓信病院 - 2015年(平成27年)に事業譲渡し、現[[新潟万代病院]]
*富山逓信病院 - 2019年(平成31年)に事業譲渡し、現[[富山市立富山まちなか病院]]
*名古屋逓信病院 - 2019年(平成31年)に事業譲渡し、現[[AOI名古屋病院]]
*京都逓信病院 - 2022年(令和4年)に事業譲渡し、現[[京都新町病院]]
*[[大阪北逓信病院]] - 2016年(平成28年)に閉鎖
*神戸逓信病院 - 2015年(平成27年)に事業譲渡し、現[[神戸平成病院]]
*徳島逓信病院 - 2017年(平成29年)に事業譲渡し、現[[徳島平成病院]]
*広島逓信病院 - 2022年(令和4年)に事業譲渡し、現[[広島はくしま病院]]
*福岡逓信病院 - 2019年(平成31年)に事業譲渡し、現[[福岡中央病院]]
*鹿児島逓信病院 2017年(平成29年)に[[国立病院機構]][[国立病院機構鹿児島医療センター|鹿児島医療センター]]と機能統合して閉鎖
===郵政省以外の逓信病院===
上記の郵政省管轄の病院と同様、元々は旧・逓信省の下で発足した経緯があり、逓信省が2分省化された際に以下の病院は[[電気通信省]]の管轄とされたものであり、のちに同省の公社化に伴って[[日本電信電話公社]](電電公社)附属病院となった。ただし、一部の病院に関しては電気通信省または電電公社時代に設立されたものもあるが、名称は他の病院と同様に「逓信病院」を名乗っていた。
*札幌逓信病院(現・[[NTT東日本札幌病院]])
*東北逓信病院(現・[[東北医科薬科大学若林病院]])
*関東逓信病院(現・[[NTT東日本関東病院]])
*長野逓信病院(現・[[朝日ながの病院]])
*伊豆逓信病院(現・[[NTT東日本伊豆病院]])
*東海逓信病院(現・[[NTT西日本東海病院|大須病院]])
*金沢逓信病院(現・[[恵寿金沢病院]])
*大阪逓信病院(現・[[第二大阪警察病院]])
*京都南逓信病院(現・[[洛和会東寺南病院]])
*高松逓信病院(現・オリーブ高松メディカルクリニック)
*松山逓信病院(現・[[松山まどんな病院]])
*長崎逓信病院(現在は閉院)
*熊本逓信病院(現・[[くまもと森都総合病院]])
札幌逓信病院は郵政省が設置した札幌(南)逓信病院とは別の病院である。同様に、京都南逓信病院も郵政省に属した京都逓信病院とは別の病院である。
高松逓信病院は電気通信省時代に、東北逓信病院・東海逓信病院・関東逓信病院は電電公社発足後に設立された病院であり、いずれも旧逓信省・郵政省には属した事がない。
ただし、13病院とも、電電公社およびNTTグループの企業立病院の時代から、郵政省職員の利用が可能であった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[郵便]]
* [[郵便局]]
* [[郵政監察制度]]
* [[郵政事業庁]]
* [[日本郵政公社]]
* [[日本郵政]]
* [[日本放送協会]]
* [[無線従事者]]
* [[わが旅わが心]] - 郵政省単独提供で、1981年9月まで[[フジテレビジョン|フジテレビ]]にて毎週日曜9時台前半に放送されていた、ミュージシャンによる紀行番組。
* [[鶴瓶上岡パペポTV]] - かつて[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]で放送されていたトーク番組。長らく郵政省が単独提供→筆頭スポンサーとなっていたため、[[ふるさと小包]]の懸賞を実施していた。1992年3月をもってスポンサーと懸賞の商品は[[中納言 (海鮮料理)|中納言]]に交代。
== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.mpt.go.jp/ |title=公式ウェブサイト |date=19970706225720 }}
{{中央省庁(中央省庁再編前)}}
{{総務省}}
{{日本郵政グループ}}
{{authority control}}
{{デフォルトソート:ゆうせいしよう}}
[[Category:郵政省|*]]
[[Category:1949年設立の政府機関]]
[[Category:2001年廃止の政府機関]]
[[Category:日本の郵便史]] | 2003-04-12T12:33:16Z | 2023-12-30T15:17:25Z | false | false | false | [
"Template:日本郵政グループ",
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