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1394年
1394年(1394 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1394年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1394}} {{year-definition|1394}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明徳]]5年、[[応永]]元年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2054年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[洪武]]27年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[李成桂|太祖]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3727年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[光泰]]7年 * [[仏滅紀元]] : 1936年 - 1937年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 796年 - 797年 * [[ユダヤ暦]] : 5154年 - 5155年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1394|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[李氏朝鮮]]初代国王の[[李成桂]]が[[開城]]から現在の[[ソウル]]に遷都{{要出典|date=2021-04}}。 == 誕生 == {{see also|Category:1394年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月1日]](明徳5年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - [[一休宗純]]、[[室町時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]] (* [[1481年]]) * [[2月3日]] - [[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]、[[ノーサンバランド伯]](+ [[1455年]]) * [[3月4日]] - [[エンリケ航海王子]]、[[ポルトガル王国]]の王族、初代[[ヴィゼウ]]公(+ [[1460年]]) * [[3月22日]] - [[ウルグ・ベク]]、[[ティムール朝]]の第4代君主(+ [[1449年]]) * [[3月23日]](明徳5年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) - [[大内持世]]、室町時代の[[守護大名]]、[[大内氏]]の第12代当主(+ [[1441年]]) * [[6月4日]] - [[フィリッパ・オブ・イングランド]]、[[デンマーク]]・[[スウェーデン]]・[[ノルウェー]]王[[エーリク7世 (デンマーク王)|エーリク・ア・ポンメルン]]の王妃(+ [[1430年]]) * [[7月12日]]応永元年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) - [[足利義教]]、[[室町幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1441年]]) * [[11月24日]] - [[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ド・ヴァロワ]]、[[フランス王国]]の王族、[[オルレアン公]](+ [[1465年]]) * [[7月]] - [[ジェームズ1世 (スコットランド王)|ジェームズ1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1437年]]) * [[足利義嗣]]、室町時代の[[武将]](+ [[1418年]]) * [[大内持盛]]、室町時代の武将、[[長門国]][[守護職]](+ [[1433年]]) * [[九条満家]]、室町時代の[[公卿]]、[[関白]](+ [[1449年]]) * [[ジョン・フォーテスキュー]]、[[イギリス]]の[[法学者]]、[[政治家]](+ [[1480年]]) * [[宝山乾珍]]、室町時代の僧(+ [[1422年]]) == 死去 == {{see also|Category:1394年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]](明徳5年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[相良前頼]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[室町時代]]の[[武将]]、[[相良氏]]の第7代当主(* 生年未詳) * [[3月24日]] - [[コンスタンス・オブ・カスティル]]、[[ランカスター公]][[ジョン・オブ・ゴーント]]の2番目の妃(* [[1354年]]) * [[4月7日]](明徳5年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[北郷久秀]]、南北朝時代、室町時代の武将、[[北郷氏]]の第3代当主(* 生年未詳) * [[5月18日]](応永元年[[4月18日 (旧暦)|4月18日]]) - [[日代]]、[[鎌倉時代]]、南北朝時代の[[日蓮宗]]の[[僧]](* [[1294年]]) * [[6月4日]] - [[メアリー・ド・ブーン]]、[[イングランド王国|イングランド王]][[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]の最初の妃(* [[1368年]]) * [[6月7日]] - [[アン・オブ・ボヘミア]]、イングランド王[[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の最初の妃(* [[1366年]]) * [[7月11日]](応永元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[武田氏信]]、南北朝時代、室町時代の武将、[[守護大名]]、[[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]の初代当主(* 生年未詳) * [[8月12日]](応永元年[[7月15日 (旧暦)|7月15日]])? - [[源資子]]、[[崇光天皇]]の後宮(* 生年未詳) * [[8月27日]](応永元年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[長慶天皇]]、南北朝時代の第98代、[[南朝 (日本)|南朝]]第3代[[天皇]](* [[1343年]]) * [[9月16日]] - [[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]、[[対立教皇]](* [[1342年]]) * [[11月17日]](応永元年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]) - [[上杉憲方]]、南北朝時代、室町時代の武将、[[関東管領]](* [[1335年]]) * [[上杉憲孝]]、南北朝時代、室町時代の武将(* [[1366年]]) * [[恭譲王]]、第34代[[高麗王]](* [[1345年]]) * [[武田信成]]、南北朝時代、室町時代の武将、[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]の第11代当主(* 生年未詳) * [[陳芸宗]]、[[ベトナム]]の[[陳朝]]の第9代[[皇帝]](* 生年未詳) * [[ジョン・ホークウッド]]、[[イングランド]]出身の[[コンドッティエーレ]](* [[1320年]]) * [[ムハンマド3世 (トゥグルク朝)|ムハンマド3世]]、[[トゥグルク朝]]の第4代君主(* 生年未詳) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1394}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1394ねん}} [[Category:1394年|*]]
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6,081
1481年
1481年(1481 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1481年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1481}} {{year-definition|1481}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文明 (日本)|文明]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2141年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[成化]]17年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]12年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3814年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪徳 (黎朝)|洪徳]]12年 * [[仏滅紀元]] : 2023年 - 2024年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 885年 - 886年 * [[ユダヤ暦]] : 5241年 - 5242年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1481|Type=J|表題=可視}} == できごと == *[[田屋川原の戦い]] == 誕生 == {{see also|Category:1481年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月15日]](文明12年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[足利義澄]]、[[室町幕府]]第11代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1511年]]) * [[7月1日]] - [[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスチャン2世]]、[[オルデンブルグ朝|オレンボー朝]]の[[デンマーク]]王、[[ノルウェー]]王、[[スウェーデン]]王(+ [[1559年]]) * [[9月27日]] - [[カジミール (ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯)|カジミール]]、[[バイロイト侯領|ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]](+ [[1527年]]) * [[快翁龍喜]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[僧]](+ [[1569年]]) * [[ガロファロ]]、[[イタリア]]の[[ルネサンス]]期[[フェラーラ派]]の[[画家]](+ [[1559年]]) * [[高橋弘厚]]、戦国時代の[[武将]](+ [[1529年]]) * [[徳大寺維子]]、[[関白]]の[[近衛尚通]]の[[北政所]]([[正室]])(+ [[1566年]]) * [[バルダッサーレ・ペルッツィ]]、イタリアのルネサンス期の画家、[[建築家]](+ [[1536年]]) * [[松平元心]]、戦国時代の武将、[[五井松平家]]の第2代当主(+ [[1562年]]) == 死去 == {{see also|Category:1481年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月30日]]([[文明 (日本)|文明]]13年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]) - [[一条兼良]]、[[公卿]]・[[摂政]][[関白]](* [[1402年]]) * [[8月28日]] - [[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]]<ref>クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、335頁</ref>、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王(* [[1432年]])  * [[12月12日]](文明13年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]) - [[一休宗純]]、[[臨済宗]][[臨済宗大徳寺派|大徳寺派]]の[[僧侶]](* [[1394年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1481}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}} {{デフォルトソート:1481ねん}} [[Category:1481年|*]]
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6,082
1420年
1420年(1420 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1420年(1420 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "死去" } ]
1420年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1420}} {{year-definition|1420}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[応永]]27年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2080年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[永楽 (明)|永楽]]18年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[世宗 (朝鮮王)|世宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3753年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎餓]] : [[永天]]元年 ** [[范玉]] : [[永寧 (范玉)|永寧]]4年 * [[仏滅紀元]] : 1962年 - 1963年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 822年 - 823年 * [[ユダヤ暦]] : 5180年 - 5181年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1420|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[応永の飢饉]]が発生。 * [[紫禁城]]が完成。 * [[イングランド王国]]が[[パリ]]を占領。 == 誕生 == {{see also|Category:1420年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月23日]] - [[イジー (ボヘミア王)|イジー]]、[[ボヘミア|ボヘミア王]] (+ [[1471年]]) * [[5月2日]] (応永27年[[3月20日 (旧暦)|3月20日]]) - [[大内教弘]]、[[室町時代]]の[[守護大名]]、[[大内氏]]第13代当主 (+ [[1465年]]) * [[宇都宮等綱]]、室町時代の[[武将]]、[[下野国|下野]][[宇都宮氏]]第14代当主 (+ [[1460年]]) * [[佐竹義俊]]、室町時代の武将、[[佐竹氏]]第12代当主 (+ [[1477年]]) * [[雪舟]]、室町時代に活躍した[[水墨画]]家・[[禅僧]] (+ [[1506年]]) * [[武田信賢]]、室町時代の[[守護大名]]、[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]第2代当主 (+ [[1471年]]) * [[アゴスティーノ・バルバリーゴ]]、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の元首([[ドージェ]]) (+ [[1501年]]) * [[結城持朝]]、室町時代の武将、[[下総国|下総]][[結城氏]]第12代当主 (+ [[1441年]]) == 死去 == {{see also|Category:1420年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[6月2日]] (応永27年[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]) - [[一条実秋]]、[[室町時代]]の[[公卿]] (* 生年未詳) * [[6月11日]] - [[ヨハン3世 (ニュルンベルク城伯)|ヨハン3世]]、[[ホーエンツォレルン家]][[ニュルンベルク城伯]] (* [[1369年]]) * [[8月9日]] - [[ピエール・ダイイ]]、[[フランス]]の[[神学者]] (* [[1351年]]) * [[11月3日]] (応永27年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]) - [[聖冏]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、室町時代の[[浄土宗]]の[[僧]] (* [[1341年]]) * [[エルジュビェタ・グラノフスカ]]、[[ポーランド王国|ポーランド国王]][[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ2世]]の3番目の妃 (* [[1372年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1420}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=15|年代=1400}} {{デフォルトソート:1420ねん}} [[Category:1420年|*]]
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6,085
予後不良 (競馬)
競馬における予後不良()とは、主に競走馬が競走中や調教中などに何らかの原因で主に脚部等に故障を発生させた際など回復が極めて困難で、薬物を用いた安楽死の処置が適当であると獣医師が診断した状態を言う。 転じて、競走馬への安楽死処置そのものに対する婉曲的表現として用いられる場合も多い。特に、競走中の骨折等を原因として予後不良に至る場合は「パンク(する)」と表現されてきた。 競走馬の多くを占めるサラブレッドの脚部は骨折、ヒビなどの故障が発生しやすく、「ガラスの脚」と形容されるほどである。品種によって馬の体重は異なるが、軽種馬であるサラブレッドの場合でも 400 - 600キログラム程度となり、静止して立っている状態でも足1本あたり100キログラム以上の負荷が掛かることになる。 下肢部に骨折やヒビなどの故障が発生した馬は、その自重を他の健全肢で支えなければならないため、過大な負荷から健全肢にも負重性蹄葉炎()や蹄叉腐爛()といった病気を発症する。そのため、病状が悪化すると自力で立つことが不可能となり、最終的には死へ到る。 治療法としては、下肢部の負荷を和らげるため、胴体をベルトで吊り上げたり、水中による浮力を利用するためプール等を用いる方法がある。しかし、必要な治療費や治療期間中の飼育費など金銭面での負担が莫大になり、また、上述した負重性蹄葉炎などの問題から生存率が高くないなどリスクも大きい。このため大多数の競走馬は予後不良と診断された直後に安楽死の処置が取られ処分される。 安楽死の手段としては薬殺が一般的である。獣医師による麻酔薬、筋弛緩剤や心停止薬の投与により殺処分が行われる。かつては国により銃による射殺も行われた。明治時代には馬場で観客の目の前で拳銃による銃殺が行われたこともある(後節個別の事例参照)。 日本の場合は、火葬されたのちに馬頭観音に供養される。かつては殺処分された馬を馬肉に転用することもあったが、現在では予後不良の場合はほぼ全て薬殺処分を行っているため、食品の安全衛生管理上市場に流通することはない。 処置後の効果が得られない、また手術に成功しても術後のストレス(侵襲)と、それによって発生する二次的な疾病が大きな壁となる場合がある。 予後不良の診断が、のちに変更されるケースも稀にある。2006年(平成18年)第2回中山競馬7日目(3月18日)9レース隅田川特別で右前浅屈腱断裂を発症して競走を中止したロードスフィーダは、最初予後不良と診断されたが、後日診断内容が競走能力喪失に変更になった。なお、骨折、急性心不全などを起こして、診断前に競馬場内で死亡する場合、JRAの公式記録では「予後不良」ではなく単なる「死亡」となっている(例:後述のコスモサンビーム、スキルヴィングなど)。 これらの例とは逆に、重度の故障から回復した馬にはビンゴガルー、ヤマニングローバル、サクラローレル、トシザブイ、ミルリーフ、ヌレイエフなどがいる。 日本国外でのレースへの出走や、輸出入などで競走馬を空輸する場合、輸送中に暴れることは少ないが、万一空輸中に暴れ、馬および航空機にとって危険な状態と判断された場合は予後不良と同じ措置が採られる。航空機を用いた競走馬の長距離国際航空輸送のノウハウがまだ確立されていなかった時代のエピソードではあるが、1958年(昭和33年)にダービー馬ハクチカラが米国遠征を敢行した際、輸送に使用されたチャーター機の機長には拳銃の所持が許可され、万一馬が暴れて手に負えなくなった場合には、機長の権限として馬を射殺してもよいとされ、関係者もこれに同意して航空機に搭乗させたことは有名である。 ここでは日本のGI(級)競走優勝馬について述べる。 シンボリインディはゲート入り後にゲートの下を潜り抜けてしまって故障を発生したという稀なケースである。 ナスノコトブキ、テンポイント、サクラスターオーの3頭は予後不良の診断が下ったが、馬主サイドの意向により治療が行われた。しかし、ナスノコトブキとテンポイントは療養中に衰弱死、サクラスターオーは約5ヶ月の闘病の末に別の箇所を骨折し、安楽死の措置が執られている。 なお、コスモサンビーム(2003年朝日杯フューチュリティステークス優勝馬)は、2006年の阪急杯で急性心不全を発症し競走を中止したが、安楽死の措置に至らず、その場で死亡している(この場合、競走成績の記事などにおいては「予後不良」ではなく「死亡」と明記される)。同様に2023年青葉賞優勝馬のスキルヴィングも次走の第90回東京優駿で急性心不全を発症し、入線したもののゴール後にその場で死亡した為JRAの記事には「死亡」と明記されている。 また、上述のレース中の事故の他、調教中や放牧中の事故で予後不良になったケースが存在する(例:ジョワドヴィーヴル、アウォーディー、シャケトラ、スノーフォール、ヴァイスメテオール、アスクビクターモア)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "競馬における予後不良()とは、主に競走馬が競走中や調教中などに何らかの原因で主に脚部等に故障を発生させた際など回復が極めて困難で、薬物を用いた安楽死の処置が適当であると獣医師が診断した状態を言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "転じて、競走馬への安楽死処置そのものに対する婉曲的表現として用いられる場合も多い。特に、競走中の骨折等を原因として予後不良に至る場合は「パンク(する)」と表現されてきた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "競走馬の多くを占めるサラブレッドの脚部は骨折、ヒビなどの故障が発生しやすく、「ガラスの脚」と形容されるほどである。品種によって馬の体重は異なるが、軽種馬であるサラブレッドの場合でも 400 - 600キログラム程度となり、静止して立っている状態でも足1本あたり100キログラム以上の負荷が掛かることになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "下肢部に骨折やヒビなどの故障が発生した馬は、その自重を他の健全肢で支えなければならないため、過大な負荷から健全肢にも負重性蹄葉炎()や蹄叉腐爛()といった病気を発症する。そのため、病状が悪化すると自力で立つことが不可能となり、最終的には死へ到る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "治療法としては、下肢部の負荷を和らげるため、胴体をベルトで吊り上げたり、水中による浮力を利用するためプール等を用いる方法がある。しかし、必要な治療費や治療期間中の飼育費など金銭面での負担が莫大になり、また、上述した負重性蹄葉炎などの問題から生存率が高くないなどリスクも大きい。このため大多数の競走馬は予後不良と診断された直後に安楽死の処置が取られ処分される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "安楽死の手段としては薬殺が一般的である。獣医師による麻酔薬、筋弛緩剤や心停止薬の投与により殺処分が行われる。かつては国により銃による射殺も行われた。明治時代には馬場で観客の目の前で拳銃による銃殺が行われたこともある(後節個別の事例参照)。", "title": "殺処分の方法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本の場合は、火葬されたのちに馬頭観音に供養される。かつては殺処分された馬を馬肉に転用することもあったが、現在では予後不良の場合はほぼ全て薬殺処分を行っているため、食品の安全衛生管理上市場に流通することはない。", "title": "殺処分の方法" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "処置後の効果が得られない、また手術に成功しても術後のストレス(侵襲)と、それによって発生する二次的な疾病が大きな壁となる場合がある。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "予後不良の診断が、のちに変更されるケースも稀にある。2006年(平成18年)第2回中山競馬7日目(3月18日)9レース隅田川特別で右前浅屈腱断裂を発症して競走を中止したロードスフィーダは、最初予後不良と診断されたが、後日診断内容が競走能力喪失に変更になった。なお、骨折、急性心不全などを起こして、診断前に競馬場内で死亡する場合、JRAの公式記録では「予後不良」ではなく単なる「死亡」となっている(例:後述のコスモサンビーム、スキルヴィングなど)。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これらの例とは逆に、重度の故障から回復した馬にはビンゴガルー、ヤマニングローバル、サクラローレル、トシザブイ、ミルリーフ、ヌレイエフなどがいる。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本国外でのレースへの出走や、輸出入などで競走馬を空輸する場合、輸送中に暴れることは少ないが、万一空輸中に暴れ、馬および航空機にとって危険な状態と判断された場合は予後不良と同じ措置が採られる。航空機を用いた競走馬の長距離国際航空輸送のノウハウがまだ確立されていなかった時代のエピソードではあるが、1958年(昭和33年)にダービー馬ハクチカラが米国遠征を敢行した際、輸送に使用されたチャーター機の機長には拳銃の所持が許可され、万一馬が暴れて手に負えなくなった場合には、機長の権限として馬を射殺してもよいとされ、関係者もこれに同意して航空機に搭乗させたことは有名である。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ここでは日本のGI(級)競走優勝馬について述べる。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "シンボリインディはゲート入り後にゲートの下を潜り抜けてしまって故障を発生したという稀なケースである。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ナスノコトブキ、テンポイント、サクラスターオーの3頭は予後不良の診断が下ったが、馬主サイドの意向により治療が行われた。しかし、ナスノコトブキとテンポイントは療養中に衰弱死、サクラスターオーは約5ヶ月の闘病の末に別の箇所を骨折し、安楽死の措置が執られている。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、コスモサンビーム(2003年朝日杯フューチュリティステークス優勝馬)は、2006年の阪急杯で急性心不全を発症し競走を中止したが、安楽死の措置に至らず、その場で死亡している(この場合、競走成績の記事などにおいては「予後不良」ではなく「死亡」と明記される)。同様に2023年青葉賞優勝馬のスキルヴィングも次走の第90回東京優駿で急性心不全を発症し、入線したもののゴール後にその場で死亡した為JRAの記事には「死亡」と明記されている。", "title": "個別の事例" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、上述のレース中の事故の他、調教中や放牧中の事故で予後不良になったケースが存在する(例:ジョワドヴィーヴル、アウォーディー、シャケトラ、スノーフォール、ヴァイスメテオール、アスクビクターモア)。", "title": "個別の事例" } ]
競馬における予後不良とは、主に競走馬が競走中や調教中などに何らかの原因で主に脚部等に故障を発生させた際など回復が極めて困難で、薬物を用いた安楽死の処置が適当であると獣医師が診断した状態を言う。 転じて、競走馬への安楽死処置そのものに対する婉曲的表現として用いられる場合も多い。特に、競走中の骨折等を原因として予後不良に至る場合は「パンク(する)」と表現されてきた。
[[競馬]]における{{読み仮名|'''予後不良'''|よごふりょう}}とは、主に[[競走馬]]が競走中や[[調教]]中などに何らかの原因で主に脚部等に故障を発生させた際など回復が極めて困難で、薬物を用いた[[安楽死]]の処置が適当であると[[獣医師]]が診断した状態を言う。<!--第2義--> 転じて、競走馬への[[安楽死]]処置そのものに対する婉曲的表現として用いられる場合も多い。特に、競走中の[[骨折]]等を原因として予後不良に至る場合は「'''パンク'''(する)」と表現されてきた。<!--第3義--> == 概要 == 競走馬の多くを占める[[サラブレッド]]の脚部は骨折、ヒビなどの故障が発生しやすく、「[[ガラス]]の脚」と形容されるほどである。品種によって[[ウマ|馬]]の体重は異なるが、[[軽種馬]]であるサラブレッドの場合でも 400 - 600[[キログラム]]程度となり、静止して立っている状態でも足1本あたり100キログラム以上の負荷が掛かることになる。 下肢部に骨折やヒビなどの故障が発生した馬は、その自重を他の健全[[脚|肢]]で支えなければならないため、過大な負荷から健全肢にも負重性{{読み仮名|[[蹄葉炎]]|ていよう えん}}や{{読み仮名|[[蹄叉腐爛]]|ていしゃふらん、ていさ ふらん}}といった病気を発症する。そのため、病状が悪化すると自力で立つことが不可能となり、最終的には死へ到る。 治療法としては、下肢部の負荷を和らげるため、[[胴体]]をベルトで吊り上げたり、水中による[[浮力]]を利用するため[[プール]]等を用いる方法がある。しかし、必要な治療費や治療期間中の飼育費など金銭面での負担が莫大になり、また、上述した負重性蹄葉炎などの問題から生存率が高くないなど[[リスク]]も大きい。このため大多数の競走馬は予後不良と[[診断]]された直後に安楽死の処置が取られ処分される。 == 殺処分の方法 == {{出典の明記|date=2022年1月|section=1}}安楽死の手段としては[[薬殺]]が一般的である。[[獣医師]]による[[麻酔|麻酔薬]]、[[筋弛緩剤]]や[[心停止|心停止薬]]の投与により殺処分が行われる。かつては国により[[銃殺|銃による射殺]]<!--※本来、包括的記事「射殺」の立項が望まれる-->も行われた。明治時代には馬場で観客の目の前で拳銃による銃殺が行われたこともある(後節個別の事例参照)。 [[日本]]の場合は、[[火葬]]されたのちに[[馬頭観音]]に[[供養]]される。かつては殺処分された馬を[[馬肉]]に転用することもあったが、現在では予後不良の場合はほぼ全て薬殺処分を行っているため、[[食品衛生法|食品の安全衛生管理上]][[市場]]に[[流通]]することはない。 == 個別の事例 == === 日本での公認競馬初期の特殊な事例 === ;ベンテン号:[[1907年]]([[明治]]40年)12月7日、[[目黒競馬場]]開設初日の第5競走でベンテン号はレース途中に足を怪我する。明らかに治る見込みのない怪我で、ベンテン号はその場で銃殺された。当時は日本の競馬黎明期で競馬運営を知っている日本人は少なかったので[[横浜競馬場]]から指導に来ていた外国人による処置である。馬の足を縛り間近からピストルで2発、眉間に打ち込み観客の目の前で馬場は血に染まったという。この光景を見ていた観客の中には婦人客も多く、また[[清]]の皇族もいたという。東京朝日新聞は、馬を苦しみから救うために殺処分すること自体は仕方ないとしても、大勢の観客の目の前で銃殺が行われたことを非行であると非難している<ref name=asahi19331208>東京朝日新聞明治40年12月8日</ref>。 === 手が施された末に苦しんだ後、安楽死の判断が下された馬 === 処置後の効果が得られない、また手術に成功しても術後のストレス([[侵襲]])と、それによって発生する二次的な疾病が大きな壁となる場合がある。 ;[[テンポイント]]:[[1978年]]([[昭和]]53年)1月、当時のスターホースであった[[テンポイント]]が競走中に骨折し、予後不良と診断された際、ファンや馬主の助命の嘆願、[[テレビ]]や[[新聞]]報道による世間からの大きな反響もあり、安楽死の処分を採らずに、当時前代未聞の大[[手術]]を施したのち、1か月半あまりの闘病生活を送った。しかし、最終的には致命的な[[蹄葉炎]]を発症、[[衰弱死]]した。このテンポイントの一件は競走馬の治療の是非に対する議論を巻き起こした。他方、これによって得られた[[データ]]はその後の競走馬のみならず、[[動物園]]などで[[飼育]]される[[ウマ目]]全般に関する動物医療の技術向上に大いに寄与することとなった。また、[[サクラスターオー]]も左前脚に重度の骨折を発症し、同様に闘病生活を送ったが、立ち上がろうとして右前脚を[[脱臼]]して立ち上がれなくなったため、関係者がやむなく安楽死の措置を執った。{{main|テンポイント#手術・闘病生活|第25回日本経済新春杯#テンポイントのその後}} ;[[サンエイサンキュー]]:[[1992年]]([[平成]]4年)に[[札幌記念]]を優勝したサンエイサンキューは同年の[[有馬記念]]を競走中に骨折し競走中止。本来であれば予後不良になるはずだったが馬主がサンエイサンキューを繁殖牝馬にしたいと要望した事により、延命措置が試みられたが、最終的に[[蹄葉炎]]も併発した後に、安楽死になる事は無かったが[[1994年]](平成6年)に心臓麻痺を起こし死亡した。{{main|サンエイサンキュー#闘病生活|サンエイサンキュー#過酷なローテーションと故障発症}} ;[[バーバロ]]:[[2006年]]([[平成]]18年)にはこの年の[[ケンタッキーダービー]]馬[[バーバロ]]が[[プリークネスステークス]]で重度の[[骨折#骨折線の数による分類|粉砕骨折]]を発症、かつて行われたことが無いと言われる大がかりな手術を行い、その時点では一命を取り留めたものの、闘病生活の中でテンポイントと同様に蹄葉炎を発症、最終的には翌[[2007年]](平成19年)1月に安楽死の措置が執られた<ref>{{Cite web |title=Barbaro euthanized after months-long fight for survival |url=https://www.espn.com/sports/horse/news/story?id=2747087 |website=ESPN.com |date=2007-01-29 |access-date=2023-10-02 |language=en |archive-url=https://web.archive.org/web/20180415033820/https://www.espn.com/sports/horse/news/story?id=2747087 |archive-date=2018-04-15 |url-status=live}}</ref>。 ;[[マティリアル]]:予後不良に相当する骨折で闘病生活を送ったものの、[[ストレス (生体)|ストレス]]などから下肢部以外に疾病を併発して、死亡するケースも存在する。著名なのはサクラスターオーの同期・[[マティリアル]]で、[[1989年]](平成元年)の[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデキャップ]]において右前第一指節種子骨を[[複雑骨折]]、症状は重かったが[[馬主|オーナー]]の意向で手術が行われた。その手術自体は成功したものの、それから3日後、マティリアルは術後の痛みに耐えかねて馬房内で暴れ、ストレス性の[[出血性大腸炎]]を発症した。大量に[[下血]]して回復の見込みが立たなくなり、安楽死の措置を執ることとなったが、措置を実行する前にマティリアルは[[ショック|出血性ショック]]で死亡した。 ;[[アドマイヤキッス]]:[[2008年]](平成20年)の京都牝馬ステークスで骨折<ref>{{Cite web|和書|title=重賞4勝のアドマイヤキッスが骨折 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=26540 |website=netkeiba.com |access-date=2023-10-02 |language=ja |date=2008-02-27}}</ref>した[[アドマイヤキッス]]は、やはり当初の手術こそ成功したものの、その後、馬房内で暴れて骨折した箇所をさらに[[骨折#開放性による分類|開放骨折]]し、安楽死措置が執られた<ref>{{Cite web|和書|title=アドマイヤキッスが急死 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=26689 |website=netkeiba.com |access-date=2023-10-02 |language=ja |date=2008-03-05}}</ref>。{{要出典範囲|暴れた原因について[[新聞]]などは[[疝痛]]を発症した可能性を報じている。|date=2023年10月}} === 予後不良の診断後、覆った例 === 予後不良の診断が、のちに変更されるケースも稀にある。[[2006年]](平成18年)第2回[[中山競馬場|中山競馬]]7日目([[3月18日]])9レース隅田川特別で右前浅屈腱断裂を発症して競走を中止したロードスフィーダは、最初予後不良と診断されたが、後日診断内容が競走能力喪失に変更になった。なお、骨折、[[急性心不全]]などを起こして、診断前に競馬場内で死亡する場合、[[日本中央競馬会|JRA]]の公式記録では「予後不良」ではなく単なる「死亡」となっている(例:後述のコスモサンビーム、スキルヴィングなど){{r|JRA}}。 === 回復した事例 === これらの例とは逆に、重度の故障から回復した馬には[[ビンゴガルー]]、[[ヤマニングローバル]]、[[サクラローレル]]、[[トシザブイ]]、[[ミルリーフ]]、[[ヌレイエフ]]などがいる。 === 航空機輸送で航空機長の判断で行われる可能性について === 日本国外でのレースへの出走や、[[輸出入]]などで競走馬を[[運輸業|空輸]]する場合、輸送中に暴れることは少ないが、万一空輸中に暴れ、馬および[[航空機]]にとって危険な状態と判断された場合は予後不良と同じ措置が採られる。航空機を用いた競走馬の長距離国際航空輸送の[[手続き的知識|ノウハウ]]がまだ確立されていなかった時代のエピソードではあるが、[[1958年]](昭和33年)にダービー馬[[ハクチカラ]]が[[アメリカ合衆国|米国]]遠征を敢行した際、輸送に使用された[[チャーター便|チャーター機]]の[[機長]]には[[拳銃]]の所持が許可され、万一馬が暴れて手に負えなくなった場合には、機長の権限として馬を射殺してもよいとされ、関係者もこれに同意して航空機に搭乗させたことは有名である。 === 競走中の事故が原因で予後不良となった競走馬 === {{see also|Category:現役中に死亡した競走馬}} ==== 日本 ==== ここでは日本の[[グレード制|GI]](級)競走優勝馬について述べる。 <!--現在のGI競走のグレード制格付け前の優勝馬も含む--><!--死亡年順--> {|class="wikitable" ! 馬名 || 主な勝鞍 || 故障レース || 故障内容・経過 |- | [[ナスノコトブキ]] || [[1966年]][[菊花賞]] || [[1967年]][[天皇賞(春)]] || 左第三中足骨[[骨折]]等 |- | [[キーストン]] || [[1965年]][[東京優駿]] || 1967年[[阪神大賞典]] || 左第一指関節完全[[脱臼]] |- | [[ハマノパレード]] || [[1973年]][[宝塚記念]] || [[第3回高松宮杯|1973年高松宮杯]] || 左前種子骨[[骨折#骨折線の数による分類|粉砕骨折]]等 |- | [[キシュウローレル]] || [[1972年]][[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]] || [[1974年]][[京都牝馬ステークス|京都牝馬特別]] || 左第一指関節開放脱臼 |- | [[テンポイント]] || [[1975年]]阪神3歳ステークス、[[1977年]]天皇賞(春)、[[有馬記念]] || [[第25回日本経済新春杯|1978年日経新春杯]] || 左後第三中足骨開放骨折、第一趾骨複骨折 |- | [[キングスポイント]] || 1982年[[中山グランドジャンプ|中山大障害(春)]]、[[中山大障害|中山大障害(秋)]] || 1984年中山大障害(春) || 右足根骨粉砕骨折 |- | [[シャダイソフィア]] || 1983年[[桜花賞]] || 1985年[[スワンステークス]] || 左第一指関節開放脱臼 |- | [[ノアノハコブネ]] || 1985年[[優駿牝馬]] || 1985年阪神大賞典 || 寛骨骨折 |- | [[サクラスターオー]] || 1987年[[皐月賞]]、菊花賞 || [[第32回有馬記念|1987年有馬記念]] || 左前脚繋靱帯断裂、第一指関節脱臼等 |- | [[ライスシャワー]] || 1992年菊花賞、1993年、1995年天皇賞(春) || [[第36回宝塚記念|1995年宝塚記念]] || 左第一指関節開放脱臼 |- | [[ワンダーパヒューム]] || 1995年桜花賞 || 1996年京都牝馬特別 || 左第一指関節脱臼等 |- | [[ホクトベガ]] || 1993年[[エリザベス女王杯]]ほか || 1997年[[ドバイワールドカップ]] || 左前腕節部複雑骨折 |- | [[サイレンススズカ]] || 1998年宝塚記念 || [[第118回天皇賞|1998年天皇賞(秋)]] || 左手根骨粉砕骨折 |- | [[シンボリインディ]] || 1999年[[NHKマイルカップ]] || 2001年[[ダービー卿チャレンジトロフィー]]発走前 || 右下腿骨[[骨折#開放性による分類|開放骨折]] |- | [[ビッグウルフ]] || 2003年[[ジャパンダートダービー]] || 2005年[[園田金盃]] || 左前脚開放骨折 |- | [[マジェスティバイオ]] || 2011年[[中山大障害]]、2012年[[中山グランドジャンプ]] || 2013年[[イルミネーションジャンプステークス]] || 右前浅屈腱断裂 |- | [[アポロマーベリック]] || 2013年中山大障害、2014年中山グランドジャンプ || 2015年中山大障害 || 左第三中手骨開放骨折 |} シンボリインディはゲート入り後にゲートの下を潜り抜けてしまって故障を発生したという稀なケースである。 ナスノコトブキ、テンポイント、サクラスターオーの3頭は予後不良の診断が下ったが、馬主サイドの意向により治療が行われた。しかし、ナスノコトブキとテンポイントは療養中に衰弱死、サクラスターオーは約5ヶ月の闘病の末に別の箇所を骨折し、安楽死の措置が執られている。 なお、[[コスモサンビーム]](2003年[[朝日杯フューチュリティステークス]]優勝馬)は、2006年の[[阪急杯]]で[[急性心不全]]を発症し競走を中止したが、安楽死の措置に至らず、その場で死亡している(この場合、競走成績の記事などにおいては「予後不良」ではなく「死亡」と明記される)<ref>{{Cite news|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=12316 |title=コスモサンビーム、急性心不全で死亡|publisher= netkeiba.com|date= 2006-02-26}}</ref>。同様に2023年[[青葉賞]]優勝馬の[[スキルヴィング]]も次走の[[第90回東京優駿]]で急性心不全を発症し、入線したもののゴール後にその場で死亡した為JRAの記事には「死亡」と明記されている<ref>{{Cite web|和書|title=開催競馬場・今日の出来事(5月28日(日曜)) |url=https://jra.jp/news/202305/052805.html |website=jra.jp |access-date=2023-09-26 |language=ja |publisher=日本中央競馬会 |date=2023-05-28 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230528103310/https://jra.jp/news/202305/052805.html |url-status=live |archive-date=2023-05-28 |quote=11R 2番 スキルヴィング(C.ルメール騎手) 競走中に急性心不全を発症(死亡)}}</ref>。 また、上述のレース中の事故の他、調教中や放牧中の事故で予後不良になったケースが存在する(例:[[ジョワドヴィーヴル]]、[[アウォーディー]]、[[シャケトラ]]、[[スノーフォール]]、[[ヴァイスメテオール]]、[[アスクビクターモア]])。 ==== 日本調教馬以外で有名な例 ==== * [[ラフィアン]]([[1972年]][[三冠 (競馬)#アメリカ|ニューヨーク牝馬三冠]]ほか)[[1972年]]に[[フーリッシュプレジャー]]との[[マッチレース]]途中で故障(左前種子骨粉砕骨折)。本馬の一件以降、アメリカでは公式のマッチレースは開催されていない(非公式マッチレースは1試合のみ)。 * [[ジョージワシントン]]([[2006年]][[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]ほか) - [[2007年]][[ブリーダーズカップ・クラシック]]で故障(右前管骨開放骨折等)。 * リワイルディング([[2011年]][[ドバイシーマクラシック]]、[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]])- [[2011年]]キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで故障。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|refs= <ref name="JRA">{{Cite web|和書 | url = http://www.jra.go.jp/news/201911/112405.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20191204130519/jra.go.jp/news/201911/112405.html | title = 開催競馬場・今日の出来事(11月24日(日曜)) | website = www.jra.go.jp | publisher = [[日本中央競馬会]] | date = Nov 2019 | accessdate = 2020-4-28 | archivedate = 2019-12-4 | deadlinkdate = 2022年9月16日 }}</ref> }} == 参考文献 == {{参照方法|date=2017年9月|section=1}} * [[大川慶次郎]]、他 『サラブレッド 101頭の死に方』(復刊) [[徳間書店]]〈[[徳間文庫]]〉、1999年、{{ISBN2|4-19-891185-1}}。 * 大川慶次郎、他 『サラブレッド 101頭の死に方 (2)』 [[アスペクト (企業)|アスペクト]]、1997年、ISBN 4-89366-875-7。 {{DEFAULTSORT:よこふりよう}} [[Category:競馬用語]] [[Category:獣医学]]
2003-04-04T13:47:07Z
2023-12-10T08:18:15Z
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君が代
『君が代』(きみがよ)は、日本の国歌である。10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」 を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌 となった。1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。 その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用され、1930年(昭和5年)には国歌とされて定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。 「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている。 これが私撰(紀貫之撰集)の『新撰和歌』や朗詠のために藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(11世紀成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、酒宴の際に歌われる歌ともされたものである。9世紀にあって光孝天皇が僧正遍昭の長寿を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって君主・天皇を指すとは限らなかった。 すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、物語、御伽草子、謡曲、小唄、浄瑠璃から歌舞伎、浮世草子、狂歌など多岐にわたり、また箏曲、長唄、常磐津、さらには碓挽歌、舟歌、盆踊り唄、祭礼歌、琵琶歌から乞食の門付など、きわめて広範囲に及んでいる。「君が代は千代に八千代に」の歌が、安土桃山時代の隆達にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである。 国歌としては、1869年(明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている。1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。そのテーマは皇統の永続性とされる。 日本の国歌の歌詞およびその表記は、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)別記第二では以下の通りである。 「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代の民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある。 イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語に翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する: Thousands of years of happy reign be thine; Rule on, my lord, till what are pebbles now By age united to mighty rocks shall grow Whose venerable sides the moss doth line. (→汝の治世が幸せな数千年であるように われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生える日まで) 香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。 歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない。 我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)。 『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である。 なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた。 万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である。 後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる。 『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている。 「君が代」は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などでは言葉をかえて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』(南北朝時代〜室町時代初期成立)では宴会の席で朝比奈三郎義秀が「君が代」を謡い舞う例、『義経記』(室町時代前期成立)でも静御前が源頼朝の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる。 『曽我物語』巻第六「辯才天の御事」 『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」 安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで隆達節の巻頭に載っており、同じ歌は米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、地歌、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した。 16世紀の薩摩国の戦国武将島津忠良(日新斎)は、家督をめぐる内紛を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、琵琶を改造して材料も改め、撥も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした。そして、武士の倫理を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧淵脇了公に曲をつけさせ、琵琶歌「いろは歌」として普及させた。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである。 蓬莱山 「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった。なかでも、大山弥助(のちの大山巌)の歌声は素晴らしかったといわれる。 「君が代」は、江戸城大奥で元旦早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた。これは、御台所(正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし」に髪型を結い、装束を身に付けて緋毛氈の敷かれた廊下を渡り、部屋に置かれた盥(たらい)のなかの3つの白い石にろうそくを灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いはほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった。盥には、小石3個のほかユズリハと裏白、田作りが丁重に飾られていた。 1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。 当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門とはかり、薩摩琵琶歌の「蓬萊山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。ただし澤鑑之丞が当時フェントンの接遇係の一人であった原田宗介から聞いた話では、軍上層部にフェントンの意見を問い合わせたところ、会議中で取り合ってもらえず、接遇係たちに対応が任された。この際、静岡藩士の乙骨太郎乙が大奥で行われた正月の儀式「おさざれ石」で使用された古歌を提案し、原田が『蓬莱山』と共通しているとしてこの歌をフェントンに伝えたという経緯となる。 同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)を設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。翌年1870年(明治3年)8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏される。同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。 国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍省軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」の以下の部分でもうかがえる。 「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "national anthem" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。 この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された。翌年1877年に西南戦争が起こり、その間にフェントンは任期を終えて帰国した。 1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊、宮内省伶人長林廣守、前年来日したドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトの4名が任命された。採用されたのは林廣守が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林廣季と宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した。 改訂版「君が代」は、明治13年10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日の天長節には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった。 海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲による現行の「君が代」の成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる。 1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省音楽取調掛によって編集され、翌年、刊行された。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった。曲も英国人ウェッブ(英語版)が作曲した別曲で、小学校では当初こちらが教えられた。 第二十三 君が代 また、陸軍省もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた。1882年(明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された。 1888年(明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した。1889年(明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年12月29日「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった。 礼式曲「君が代」の普及は、1890年(明治23年)の『教育勅語』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた。1891年(明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この儀式では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた。 1893年(明治26年)8月12日、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示した。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している。「君が代」は、作曲者は林廣守、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされ、4分の4拍子であるが休符は使用されなかった。 官報第3337號文󠄁部省吿示第三號小學校󠄁ニ於󠄁テ祝󠄀日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞竝樂譜別册ノ通󠄁撰定ス朙治二十六年八月󠄁十二日 文󠄁部大臣井上毅 1897年(明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、紀元節、天長節、一月一日には児童が学校に参集して斉唱され、また、日清戦争(1894年 - 1895年)・日露戦争(1904年 - 1905年)による国威発揚にともなって国民間に普及していった。1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している。ただし、明治時代にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の祭日の歌にすぎなかった。 1912年(大正元年)8月9日、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。 第一號 君カ代 天皇及󠄁皇族ニ對スル禮式及󠄁一月一日、紀元節󠄁、天長節󠄁、明治節󠄁ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ揭揚降󠄁下スルトキ 軍艦旗の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し日没時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、海上自衛隊でも引き継がれている。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている。 「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎やスポーツ関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに昭和10年代に入るとこの傾向はいっそう顕著となった。 1936年(昭和11年)に文部大臣となった平生釟三郎は、ある日、造船所の見習職工に『君が代』の歌詞を漢字入りで書かせたところ、同音異義語を充てる者(例:岩音)や誤字が多かったことに気がついた。国歌の歌詞を発音のみで覚え、意味を理解していないのは問題だとして、尋常小学校の教科書に君が代を掲載するよう指示を出した。 その後、小学校の国定修身教科書に歌詞が掲載されるようになり、「私たち臣民が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)として君が代を歌う意味も掲載されるようになった。また、1941年(昭和16年)に設立された国民学校の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期には、大伴家持の和歌に1937年(昭和12年)に信時潔が曲をつけた「海行かば」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された。 第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め、1946年(昭和21年)11月3日の日本国憲法公布記念式典で昭和天皇・香淳皇后出御のもと「君が代」が斉唱された。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した。 また、「君が代」に代わるものとして、1946年、毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年(昭和23年)には朝日新聞社と民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者は日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた。1951年1月、日本教職員組合(日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞、小杉誠治作曲)もつくられた。しかし、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった。 GHQ占領下の学校・教育現場では、1946年(昭和21年)の国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されていた。しかし、文部省の天野貞祐文部大臣による国民の祝日に関する「談話」などから、1950年(昭和25年)10月17日に「学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することを推奨する」との通達が全国の教育委員会へ行われており、主権回復後の1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱が義務付けられている。 「君が代」は事実上の国歌として長らく演奏されてきたが、法的に根拠がないことから法制化が進み、1999年(平成11年)8月9日、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が成立し、13日に公布(号外第156号)され、即日施行された。日本国政府の公式見解は、国旗国歌法案が提出された際の平成11年6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した。 なお、同法案は衆議院で賛成403、反対86(投票総数489)で平成11年7月22日に、参議院では賛成166、反対71(投票総数237)で平成11年8月9日に、それぞれ賛成多数で可決された。 国旗及び国歌に関する法律 この「別記第二」として掲載されているハ調の「君が代」の楽譜には、テンポの指定や強弱記号がなく、また、本来6カ所あるべきスラーが付されていないなど、不完全なものであった。 「君が代」は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査 において、対象者の76.6パーセントが「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5パーセントだった。 なお、日本コロムビアから発売した「君が代」を収録したCDは1999年までの10年間に全種累計で約10万枚を売り上げ、キングレコードから発売した「君が代」を含むCD『世界の国歌』は改訂盤が発売されるごとに毎回1万数千枚を売り上げている(1999年時点)。 国歌としては最短のもののひとつである。曲についてはウガンダの国歌のメロディーは8小節(不完全小節を含まず)であり、君が代の11小節よりも短く、演奏時間も30秒程度である。ただし同国歌の歌詞には2番と3番があり、1番に続いて歌われることもあるため、この場合は君が代よりも長くなる。歌詞についてもほとんどの国歌より短いが、スペイン、サンマリノ、ボスニア・ヘルツェゴビナおよびコソボの国歌は公式な歌詞を持たないため、単純に比較することはできない。 拍子は4分の4拍子である。 調子は、雅楽の六調子のうち呂旋に属する壱越調である。現行「君が代」は、1880年(明治13年)の初演の際の楽譜(「大日本礼式」)では変ロ調であったが、1893年(明治26年)の「祝日大祭日歌詞竝樂譜」以降はハ調となっている。 1888年(明治21年)のエッケルト編曲「大日本礼式」におけるテンポは、♩=70(1分間に四分音符70拍)と設定されていた。このテンポで演奏すると、演奏時間はだいたい37秒となる。1912年(大正元年)の「儀制ニ関スル海軍軍楽譜」別冊収載の「海軍儀制曲総譜」の「君が代」にはテンポ表示がなく、Larghetto(ややおそく)の速度標語が記載されている。1893年(明治26年)8月の文部省告示「祝日大祭日歌詞竝楽譜」では、♩=69であった。 ♩=60で演奏した場合、1拍を1秒とすると44秒となる。旧海軍では軍艦旗を掲揚降下する際、信号ラッパ譜の「君が代」(国歌の「君が代」とは別の曲、#関連する楽曲節の楽譜とサウンドファイルを参照)を45秒で吹奏しており、同じ港湾に軍楽隊が乗り込んだ旗艦が停泊していた場合、国歌の「君が代」もラッパ譜の「君が代」と同じく45秒で演奏していた。これは、習慣となったものであり、明文化された資料等は確認されていない。なお、♩=50で演奏すると52秒かかり、NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポとなる。 近代オリンピックにおいては、2014年ソチオリンピック以降、表彰式で流される君が代(演奏:読売日本交響楽団)が1分20秒に及ぶスローテンポとなったが、これは2012年頃、国際オリンピック委員会(IOC)が国旗掲揚のときに統一感を出すためにと、演奏時間を60 - 90秒に収めた国歌音源を提出するよう指示したことに対し、日本オリンピック委員会(JOC)が応えたことによるという。しかし、2016年リオデジャネイロオリンピックの際に選手から「(長くて)歌いづらかった」と不満が出たことなどから、2018年平昌オリンピックまでに音源が差し替えられ、1分4秒の長さに変更された。 作曲家の團伊玖磨は晩年に、国歌の必要条件として、短い事、エスニックである事、好戦的でない事の3条件を挙げ、イギリス国歌、ドイツ国歌、「君が代」の3つが白眉であると評した。なお、「君が代」については同時に、「音楽として、歌曲としては変な曲だが国歌としては最適な曲である。」と記した。 中田喜直、水谷川忠俊ら多くの作曲家から、歌詞と旋律が一致していないことが指摘されている。詳しくは中田喜直#人物も参照 2018年に英国のテレグラフ紙が、同年のサッカーワールドカップ出場32か国の国歌ランキングを発表し「堂々と、洗練された、叙情的」として14位としている。 九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している。 あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という 花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや 志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで 今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ 上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。 なお、『太平記』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。 『古今和歌集』収載「我が君は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「読人知らず」とされているが、実際の詠み人は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師だったとする説がある。それによれば、当時は位が低かったために「読人知らず」として扱われたが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなったというものである。 また、上述の堯智『古今和歌集陰名作者次第』では、この歌の詠み人は橘清友ではないかとしている。 1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している。それによれば、 君が代 である。このうち二番は源頼政のよんだ歌、三番は光孝天皇の大嘗祭に奉られた歌である。 「君が代」は現在に至るまで幅広い著名人によって歌唱・演奏されている。 かつての日本ではスポーツの開幕などで君が代の演奏や独唱が行われる機会が少なかったが、TUBEの前田亘輝が1993年5月15日にJリーグ開幕戦で披露した頃から定着し始め、著名人による独奏や演奏の機会が増加している。 また、君が代の演奏を音楽媒体等に収録して発売した例として以下が挙げられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『君が代』(きみがよ)は、日本の国歌である。10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」 を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌 となった。1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用され、1930年(昭和5年)には国歌とされて定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "これが私撰(紀貫之撰集)の『新撰和歌』や朗詠のために藤原公任が撰した『和漢朗詠集』(11世紀成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、酒宴の際に歌われる歌ともされたものである。9世紀にあって光孝天皇が僧正遍昭の長寿を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって君主・天皇を指すとは限らなかった。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、物語、御伽草子、謡曲、小唄、浄瑠璃から歌舞伎、浮世草子、狂歌など多岐にわたり、また箏曲、長唄、常磐津、さらには碓挽歌、舟歌、盆踊り唄、祭礼歌、琵琶歌から乞食の門付など、きわめて広範囲に及んでいる。「君が代は千代に八千代に」の歌が、安土桃山時代の隆達にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "国歌としては、1869年(明治2年)、軍楽隊教官だったイギリス人ジョン・ウィリアム・フェントンが日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている。1880年(明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。そのテーマは皇統の永続性とされる。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本の国歌の歌詞およびその表記は、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)別記第二では以下の通りである。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代の民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語に翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する:", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Thousands of years of happy reign be thine; Rule on, my lord, till what are pebbles now By age united to mighty rocks shall grow Whose venerable sides the moss doth line. (→汝の治世が幸せな数千年であるように われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生える日まで)", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。", "title": "歌詞" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「君が代」は朗詠に供されたほか、鎌倉時代以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などでは言葉をかえて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』(南北朝時代〜室町時代初期成立)では宴会の席で朝比奈三郎義秀が「君が代」を謡い舞う例、『義経記』(室町時代前期成立)でも静御前が源頼朝の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "『曽我物語』巻第六「辯才天の御事」", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで隆達節の巻頭に載っており、同じ歌は米国ボストン美術館蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、地歌、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "16世紀の薩摩国の戦国武将島津忠良(日新斎)は、家督をめぐる内紛を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、琵琶を改造して材料も改め、撥も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした。そして、武士の倫理を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧淵脇了公に曲をつけさせ、琵琶歌「いろは歌」として普及させた。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "蓬莱山", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、薩摩藩家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、郷中教育という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった。なかでも、大山弥助(のちの大山巌)の歌声は素晴らしかったといわれる。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "「君が代」は、江戸城大奥で元旦早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた。これは、御台所(正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「おすべらかし」に髪型を結い、装束を身に付けて緋毛氈の敷かれた廊下を渡り、部屋に置かれた盥(たらい)のなかの3つの白い石にろうそくを灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いはほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった。盥には、小石3個のほかユズリハと裏白、田作りが丁重に飾られていた。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門とはかり、薩摩琵琶歌の「蓬萊山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。ただし澤鑑之丞が当時フェントンの接遇係の一人であった原田宗介から聞いた話では、軍上層部にフェントンの意見を問い合わせたところ、会議中で取り合ってもらえず、接遇係たちに対応が任された。この際、静岡藩士の乙骨太郎乙が大奥で行われた正月の儀式「おさざれ石」で使用された古歌を提案し、原田が『蓬莱山』と共通しているとしてこの歌をフェントンに伝えたという経緯となる。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)を設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。翌年1870年(明治3年)8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏される。同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍省軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」の以下の部分でもうかがえる。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は \"national anthem\" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため \"national anthem\" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された。翌年1877年に西南戦争が起こり、その間にフェントンは任期を終えて帰国した。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊、宮内省伶人長林廣守、前年来日したドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトの4名が任命された。採用されたのは林廣守が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林廣季と宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "改訂版「君が代」は、明治13年10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日の天長節には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲による現行の「君が代」の成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省音楽取調掛によって編集され、翌年、刊行された。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった。曲も英国人ウェッブ(英語版)が作曲した別曲で、小学校では当初こちらが教えられた。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第二十三 君が代", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、陸軍省もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた。1882年(明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1888年(明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した。1889年(明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年12月29日「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "礼式曲「君が代」の普及は、1890年(明治23年)の『教育勅語』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた。1891年(明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この儀式では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1893年(明治26年)8月12日、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示した。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している。「君が代」は、作曲者は林廣守、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされ、4分の4拍子であるが休符は使用されなかった。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "官報第3337號文󠄁部省吿示第三號小學校󠄁ニ於󠄁テ祝󠄀日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞竝樂譜別册ノ通󠄁撰定ス朙治二十六年八月󠄁十二日 文󠄁部大臣井上毅", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1897年(明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、紀元節、天長節、一月一日には児童が学校に参集して斉唱され、また、日清戦争(1894年 - 1895年)・日露戦争(1904年 - 1905年)による国威発揚にともなって国民間に普及していった。1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している。ただし、明治時代にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の祭日の歌にすぎなかった。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1912年(大正元年)8月9日、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "第一號 君カ代 天皇及󠄁皇族ニ對スル禮式及󠄁一月一日、紀元節󠄁、天長節󠄁、明治節󠄁ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ揭揚降󠄁下スルトキ", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "軍艦旗の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し日没時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、海上自衛隊でも引き継がれている。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている。", "title": "礼式曲「君が代」制定までの歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎やスポーツ関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに昭和10年代に入るとこの傾向はいっそう顕著となった。 1936年(昭和11年)に文部大臣となった平生釟三郎は、ある日、造船所の見習職工に『君が代』の歌詞を漢字入りで書かせたところ、同音異義語を充てる者(例:岩音)や誤字が多かったことに気がついた。国歌の歌詞を発音のみで覚え、意味を理解していないのは問題だとして、尋常小学校の教科書に君が代を掲載するよう指示を出した。 その後、小学校の国定修身教科書に歌詞が掲載されるようになり、「私たち臣民が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)として君が代を歌う意味も掲載されるようになった。また、1941年(昭和16年)に設立された国民学校の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された。日中戦争から太平洋戦争にかけての時期には、大伴家持の和歌に1937年(昭和12年)に信時潔が曲をつけた「海行かば」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め、1946年(昭和21年)11月3日の日本国憲法公布記念式典で昭和天皇・香淳皇后出御のもと「君が代」が斉唱された。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「星条旗よ永遠なれ」が演奏された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、「君が代」に代わるものとして、1946年、毎日新聞社が文部省の後援と日本放送協会の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「新日本の歌」(土井一郎作詞、福沢真人作曲)がつくられ、1948年(昭和23年)には朝日新聞社と民主政治教育連盟が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「こゝろの青空」(阿部勇作詞、東辰三作曲)がつくられた。前者は日本コロムビアより、後者は日本ビクターより、それぞれレコード化されるなどして普及が図られた。1951年1月、日本教職員組合(日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した国民歌として「緑の山河」(原泰子作詞、小杉誠治作曲)もつくられた。しかし、1951年(昭和26年)9月のサンフランシスコ平和条約以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "GHQ占領下の学校・教育現場では、1946年(昭和21年)の国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されていた。しかし、文部省の天野貞祐文部大臣による国民の祝日に関する「談話」などから、1950年(昭和25年)10月17日に「学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することを推奨する」との通達が全国の教育委員会へ行われており、主権回復後の1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱が義務付けられている。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「君が代」は事実上の国歌として長らく演奏されてきたが、法的に根拠がないことから法制化が進み、1999年(平成11年)8月9日、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が成立し、13日に公布(号外第156号)され、即日施行された。日本国政府の公式見解は、国旗国歌法案が提出された際の平成11年6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、同法案は衆議院で賛成403、反対86(投票総数489)で平成11年7月22日に、参議院では賛成166、反対71(投票総数237)で平成11年8月9日に、それぞれ賛成多数で可決された。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "国旗及び国歌に関する法律", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "この「別記第二」として掲載されているハ調の「君が代」の楽譜には、テンポの指定や強弱記号がなく、また、本来6カ所あるべきスラーが付されていないなど、不完全なものであった。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "「君が代」は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査 において、対象者の76.6パーセントが「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5パーセントだった。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "なお、日本コロムビアから発売した「君が代」を収録したCDは1999年までの10年間に全種累計で約10万枚を売り上げ、キングレコードから発売した「君が代」を含むCD『世界の国歌』は改訂盤が発売されるごとに毎回1万数千枚を売り上げている(1999年時点)。", "title": "国歌「君が代」の成立" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "国歌としては最短のもののひとつである。曲についてはウガンダの国歌のメロディーは8小節(不完全小節を含まず)であり、君が代の11小節よりも短く、演奏時間も30秒程度である。ただし同国歌の歌詞には2番と3番があり、1番に続いて歌われることもあるため、この場合は君が代よりも長くなる。歌詞についてもほとんどの国歌より短いが、スペイン、サンマリノ、ボスニア・ヘルツェゴビナおよびコソボの国歌は公式な歌詞を持たないため、単純に比較することはできない。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "拍子は4分の4拍子である。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "調子は、雅楽の六調子のうち呂旋に属する壱越調である。現行「君が代」は、1880年(明治13年)の初演の際の楽譜(「大日本礼式」)では変ロ調であったが、1893年(明治26年)の「祝日大祭日歌詞竝樂譜」以降はハ調となっている。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1888年(明治21年)のエッケルト編曲「大日本礼式」におけるテンポは、♩=70(1分間に四分音符70拍)と設定されていた。このテンポで演奏すると、演奏時間はだいたい37秒となる。1912年(大正元年)の「儀制ニ関スル海軍軍楽譜」別冊収載の「海軍儀制曲総譜」の「君が代」にはテンポ表示がなく、Larghetto(ややおそく)の速度標語が記載されている。1893年(明治26年)8月の文部省告示「祝日大祭日歌詞竝楽譜」では、♩=69であった。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "♩=60で演奏した場合、1拍を1秒とすると44秒となる。旧海軍では軍艦旗を掲揚降下する際、信号ラッパ譜の「君が代」(国歌の「君が代」とは別の曲、#関連する楽曲節の楽譜とサウンドファイルを参照)を45秒で吹奏しており、同じ港湾に軍楽隊が乗り込んだ旗艦が停泊していた場合、国歌の「君が代」もラッパ譜の「君が代」と同じく45秒で演奏していた。これは、習慣となったものであり、明文化された資料等は確認されていない。なお、♩=50で演奏すると52秒かかり、NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポとなる。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "近代オリンピックにおいては、2014年ソチオリンピック以降、表彰式で流される君が代(演奏:読売日本交響楽団)が1分20秒に及ぶスローテンポとなったが、これは2012年頃、国際オリンピック委員会(IOC)が国旗掲揚のときに統一感を出すためにと、演奏時間を60 - 90秒に収めた国歌音源を提出するよう指示したことに対し、日本オリンピック委員会(JOC)が応えたことによるという。しかし、2016年リオデジャネイロオリンピックの際に選手から「(長くて)歌いづらかった」と不満が出たことなどから、2018年平昌オリンピックまでに音源が差し替えられ、1分4秒の長さに変更された。", "title": "楽曲" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "作曲家の團伊玖磨は晩年に、国歌の必要条件として、短い事、エスニックである事、好戦的でない事の3条件を挙げ、イギリス国歌、ドイツ国歌、「君が代」の3つが白眉であると評した。なお、「君が代」については同時に、「音楽として、歌曲としては変な曲だが国歌としては最適な曲である。」と記した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "中田喜直、水谷川忠俊ら多くの作曲家から、歌詞と旋律が一致していないことが指摘されている。詳しくは中田喜直#人物も参照", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2018年に英国のテレグラフ紙が、同年のサッカーワールドカップ出場32か国の国歌ランキングを発表し「堂々と、洗練された、叙情的」として14位としている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している。", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、『太平記』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "『古今和歌集』収載「我が君は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「読人知らず」とされているが、実際の詠み人は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師だったとする説がある。それによれば、当時は位が低かったために「読人知らず」として扱われたが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなったというものである。", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また、上述の堯智『古今和歌集陰名作者次第』では、この歌の詠み人は橘清友ではないかとしている。", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)2月26日の閣議で松永光文部大臣は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している。それによれば、", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "君が代", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "である。このうち二番は源頼政のよんだ歌、三番は光孝天皇の大嘗祭に奉られた歌である。", "title": "君が代に関する諸説" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "「君が代」は現在に至るまで幅広い著名人によって歌唱・演奏されている。 かつての日本ではスポーツの開幕などで君が代の演奏や独唱が行われる機会が少なかったが、TUBEの前田亘輝が1993年5月15日にJリーグ開幕戦で披露した頃から定着し始め、著名人による独奏や演奏の機会が増加している。", "title": "歌唱・演奏した著名人" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また、君が代の演奏を音楽媒体等に収録して発売した例として以下が挙げられる。", "title": "歌唱・演奏した著名人" } ]
『君が代』(きみがよ)は、日本の国歌である。10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」 を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌 となった。1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。 その後1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それをドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが西洋和声により編曲したものが、1893年(明治26年)の文部省文部大臣井上毅の告示以降、儀式に使用され、1930年(昭和5年)には国歌とされて定着した。1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に日本の国歌として法制化された。
{{Infobox anthem |題名= 君が代 |画像= Kimigayo.svg |画像サイズ= 250px |画像代替= 「君が代」の楽譜 |画像説明= 「君が代」の楽譜([[国旗及び国歌に関する法律]]による) |採用対象= 国 |採用共同体= {{JPN}} |作詞者= 古歌 |作詞時期= 『[[古今和歌集]]』初出 |作曲者= [[林廣守]]、[[奥好義]]、[[フランツ・エッケルト]] (編曲) |作曲時期= |採用時期= [[1880年]]([[明治]]13年)[[10月26日]](非公式)<br/>[[1888年]](明治21年)(対外正式公布)<br/>[[1999年]]([[平成]]11年)[[8月13日]](立法化) |採用終了= |試聴= Kimi ga Yo instrumental.ogg |試聴タイトル= 君が代:様々な楽器による演奏 }} {{ external media | align = right | width = 350px | video1 = {{YouTube|moVFvkdgbQ0|日本代表 国歌「君が代」【ラグビーワールドカップ】歌詞付き}}(ラグビーワールドカップ公式YouTubeチャンネルによる動画) | video2 = {{YouTube|zATKOOKNzN8|「君が代」独唱・斉唱 陛下の即位を祝う国民祭典6(19/11/09)}}(テレビ朝日公式YouTubeチャンネルによる動画) | video3 = {{YouTube|WBxuVC1D1po|君が代発祥の寺で『初代君が代』を演奏}}(朝日新聞社公式YouTubeチャンネルによる動画) }} 『'''君が代'''』(きみがよ)は、[[日本]]の[[国歌]]である。[[10世紀]]初頭における最初の[[勅撰和歌集]]である『[[古今和歌集]]』の「[[よみ人しらず|読人知らず]]」の[[和歌]]を初出としている<ref name="takahashi475">[[#高橋|高橋(1979)pp.475-476]]</ref><ref name="Br">[[#TBS|『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典2』(1973)p.282]]</ref>。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」<ref name="Br" /> を歌ったものだが、転じて「[[天皇制|天皇の治世]]」を奉祝する歌<ref name="Br" /><ref name="Wr">[[#山住|『世界大百科事典 7』(1988)山住「君が代」p.134]]</ref> となった。[[1869年]]([[明治]]2年)に[[薩摩琵琶]]の『蓬莱山』にある「君が代」を[[歌詞]]として選んだ歌が原型となっている。 その後[[1880年]]([[明治]]13年)に[[宮内省]]雅楽課が[[メロディ|旋律]]を改めて付け直し、それを[[ドイツ人]]の音楽教師[[フランツ・エッケルト]]が[[和声|西洋和声]]により[[編曲]]したものが、[[1893年]]([[明治]]26年)の[[文部省]]文部大臣[[井上毅]]の告示以降<ref name="inoue">『[{{NDLDC|2946301/6}} 1893年8月12日官報]』</ref>、儀式に使用され、[[1930年]]([[昭和]]5年)には国歌とされて{{efn|文部省『[{{NDLDC|3572326}} 合唱 国歌 君が代(一)]』及(二)。[[日本コロムビア]]。}}定着した<ref name="takahashi475" />。[[1999年]]([[平成]]11年)に「[[国旗及び国歌に関する法律]]」で正式に日本の国歌として法制化された<ref name="imsdf">[https://web.archive.org/web/20170331035500/https://www.mod.go.jp/msdf/tokyoband/gallery/download/kimigayo.html 海上自衛隊東京音楽隊「国歌『君が代』について」]</ref>。 == 歌詞 == {{Wikisource|君が代|君が代の歌詞と楽譜}} 「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて[[苔]]のむすまで」は、10世紀に編纂された勅撰和歌集『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌を初出としている<ref name=takahashi475/><ref name="Wr"/><ref name=ozawamatsuda148>[[#小沢松田|小沢正夫・松田成穂校注『古今和歌集』(2000)p.148]]</ref>。 これが私撰([[紀貫之]]撰集)の『[[新撰和歌]]』や[[朗詠]]のために[[藤原公任]]が撰した『[[和漢朗詠集]]』([[11世紀]]成立)などにも収められ、祝賀の歌とされ、朗詠にも供され、[[酒宴]]の際に歌われる歌ともされたものである<ref name="takahashi475" /><ref name="Wr" /><ref name="谷">[[#谷|谷(2008)p. 181]]</ref>。[[9世紀]]にあって[[光孝天皇]]が[[遍昭|僧正遍昭]]の[[長寿]]を祝って「君が八千代」としているように、「君」は広く用いる言葉であって[[君主]]・[[天皇]]を指すとは限らなかった<ref name="takahashi475" /><ref name="saeki_169">[[#佐伯|佐伯梅友校注『古今和歌集』(1958)p.169]]</ref>。 すなわち、「我が君」とは祝賀を受ける人を指しており、「君が代」は天皇にあっては「天皇の治世」を意味しているが、一般にあってはこの歌を受ける者の長寿を祝う意味であった<ref name="takahashi475" /><ref name="Br" /><ref name="saeki_169" />。この歌が利用された範囲は、歴史的にみれば、[[物語]]、[[御伽草子]]、[[謡曲]]、[[小唄]]、[[浄瑠璃]]から[[歌舞伎]]、[[浮世草子]]、[[狂歌]]など多岐にわたり、また[[箏曲]]、[[長唄]]、[[常磐津]]、さらには[[挽歌|碓挽歌]]、[[舟歌]]、[[盆踊り]]唄、[[祭礼]]歌、[[琵琶]]歌から[[乞食]]の[[門付]]など、きわめて広範囲に及んでいる<ref name="takahashi475" /><ref name="Br" />。「君が代は千代に八千代に」の歌が、[[安土桃山時代]]の[[隆達]]にあっては恋の小唄であることは広く知られるところである<ref name="kawaguchi_8">[[#川口久|川口久雄『和漢朗詠集』解説(1965)pp.8-44]]</ref>。 国歌としては、[[1869年]]([[明治]]2年)、[[軍楽隊]]教官だったイギリス人[[ジョン・ウィリアム・フェントン]]が日本に国歌がないのを残念に思い、練習生を介して作曲を申し出たことを始まりとしている<ref name=takahashi475/><ref name="Wr"/>。[[1880年]](明治13年)、法律では定められなかったが、事実上の国歌として礼式曲「君が代」が採用された。そのテーマは皇統の永続性とされる<ref name="Wr"/><ref name=shillony30>[[#シロニー|シロニー(2003)p.30]]</ref>。 日本の国歌の歌詞およびその表記は、「[[国旗及び国歌に関する法律]]」(国旗国歌法)別記第二では以下の通りである<ref group="注釈">国旗国歌法の表記では「いわお」([[巌]])や「こけ」([[苔]])はひらがな。[[歴史的仮名遣|歴史的仮名遣い]]では、「巌」の仮名書きは「いはほ」である。</ref>。 <center>{{Cquote|{{big|{{ruby-ja|君|きみ}}が{{ruby-ja|代|よ}}は<p> {{ruby-ja|千代|ちよ}}に{{ruby-ja|八千代|やちよ}}に<p> {{ruby-ja|細石|さざれいし}}の<p> {{ruby-ja|巌|いわお}}となりて<p> {{ruby-ja|苔|こけ}}の{{ruby-ja|生|む}}すまで}}}}</center> [[ファイル:Shimogamo-Sazareishi-M1641.jpg|thumb|250px|[[さざれ石]]、京都の賀茂御祖神社。]] 「[[さざれ石]]のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに[[苔]]がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである<ref name="saeki_169"/>。同様の表現は『[[梁塵秘抄]]』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる<ref name="shida_341">[[#志田|志田延義校注『梁塵秘抄』(1965)p.341]]</ref><ref group="注釈">『古今和歌集』巻十九雑体の部の長歌の前に「短歌」と誤り記して以来、長歌を短歌、短歌を長歌と呼ぶことがなされ、その呼び方が歌謡名に用いられたものと考えられる。「そよ」は囃し詞。[[#志田|志田延義校注『梁塵秘抄』(1965)pp.340-341]]</ref>。一方では、小石が成長して巨岩になるという[[古代]]の[[民間信仰]]にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある<ref name="kawaguchi_283">[[#川口久|川口久雄『和漢朗詠集』補注(1965)p.283]]</ref><ref group="注釈">原文は「陛下御宇、于今九載。仁流秋津洲之外、惠茂筑波山之陰。淵變爲瀨之聲、寂々閉口、'''砂長爲岩之頌、洋々滿耳'''。」。[[#佐伯|佐伯梅友校注『古今和歌集』「真名序」(1958)p.341]]</ref>。 [[ファイル:Basil Hall Chamberlain.jpg|thumb|250px|バジル・ホール・チェンバレン]] イギリスの日本研究家[[バジル・ホール・チェンバレン]]は、この歌詞を[[英語]]に[[翻訳]]した<ref name="odagiri">[[#小田切|小田切『国歌君が代の研究』(1965)]]</ref>。チェンバレンの訳を以下に引用する<ref>{{cite book|year=1935|author=Frederic De Garis|title=We Japanese: Being Descriptions of Many of the Customs, Manners, Ceremonies, Festivals, Arts and Crafts of the Japanese, Besides Numerous Other Subjects|volume=1|page=5|publisher=Yamagata Press|url=https://www.google.co.jp/books/edition/We_Japanese/PFsuAQAAIAAJ?hl=ja&gbpv=1&bsq=%22Thousands+of+years+of+happy+reign+be+thine%22&dq=%22Thousands+of+years+of+happy+reign+be+thine%22}}</ref>: {{Poemquote|text= {{lang|en|''Thousands of years of happy reign be thine;'' ''Rule on, my lord, till what are pebbles now'' ''By age united to mighty rocks shall grow'' ''Whose venerable sides the moss doth line.''}} {{翻訳|''{{ruby-ja|汝|なんじ}}の治世が幸せな数千年であるように'' ''われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが'' ''時代を経て、あつまりて大いなる岩となり'' ''神さびたその側面に苔が{{ruby-ja|生|は}}える日まで''}}<ref>チェンバレン英詞の和訳:[[#シロニー|シロニー(2003)p.30]]</ref> }} [[香港]][[日本占領時期の香港|日本占領時期]]には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。 {{Quote|{{Lang|zh-HK|皇祚連綿兮久長<br>萬世不變兮悠長<br>小石凝結成巖兮<br>更巖生綠苔之祥}}<hr>{{ruby-ja|皇祚|こうそ}}{{ruby-ja|連綿|れんめん}}として久しく長し<br>{{ruby-ja|万世|ばんせい}}変はらず{{ruby-ja|悠|はる}}かに長し<br>小石は凝結して{{ruby-ja|巌|いわお}}と成り<br>更に巌は{{ruby-ja|緑苔|りょくたい}}の{{ruby-ja|祥|さいわい}}を生ず}} == 礼式曲「君が代」制定までの歴史 == === 和歌としての君が代 === ==== テキスト ==== 歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない<ref name="Wr"/><ref name="saeki_169"/>。 <poem style="margin-left:1em">'''我が君は 千代にやちよに さざれ{{ruby|石|し}}の 巌となりて 苔のむすまで'''</poem> 文献にみえる完全な一致は、[[朗詠]]のための秀句や和歌を集めた『[[和漢朗詠集]]』の[[鎌倉時代]]初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)<ref name="Wr"/><ref name="谷"/><ref name="teruoka1991">[[#暉峻|暉峻(1991)]]</ref><ref name="sdf2000">{{Cite video|和書|people=陸上自衛隊中央音楽隊、他(演奏)|year=2000|title=君が代のすべて(KICG 3074)|url=https://amazon.jp/dp/B00005HM29|publisher=キングレコード|location=日本}}</ref>。 『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い<ref name="谷"/>。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『[[古今和歌六帖]]』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある<ref name="wada1998">[[#和田|和田(1998)]]</ref>。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている<ref name=chiba238>[[#千葉|千葉(2005)pp.238-239]]</ref>。朗詠は、[[西洋音楽]]やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と[[旋律]]が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から[[歌詞]]を聴きとることは至難である<ref name=miyagawa>[http://www.geocities.jp/polaris721/amato-network-miyagawa01.htm 水谷川忠俊「雅楽研究 君が代の秘密」]</ref>。 なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた<ref name="wada1998"/>。 ==== 解釈 ==== [[万葉集]]などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない<ref name="saeki_169"/>。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、[[松田武夫]]によれば[[光孝天皇]]、[[藤原基経]]、[[醍醐天皇]]の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である<ref name="goto1974">[[#後藤|後藤(1974)]]</ref>。その祝いの内容は、ほとんどが[[算賀]]であるが出生慶賀もある<ref name="goto1974"/>。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である<ref name="goto1974"/>。 後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『[[続群書類従]]』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、[[万治]]元年([[1658年]])のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、[[17世紀]]半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる<ref name="koyama1941"/><ref>{{Cite book|和書|author=全国大学国語国文学会|year=1960|title=国語国文学研究史大成7 古今集 新古今集|publisher=三省堂|location=日本}}</ref>。 『古今和歌集』に限らず、[[勅撰集]]に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と[[大嘗祭]]和歌になっていくからである。こういった傾向は[[院政期]]に入って顕著になってくるもので王朝が[[摂関政治]]の否定、そして[[武家]]勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている<ref name="goto1974"/>。 === 諸文芸・諸芸能と「君が代」 === 「君が代」は[[朗詠]]に供されたほか、[[鎌倉時代]]以降急速に庶民に広まり、賀歌に限らない多様な用いられ方がなされるようになった。仏教の[[延年舞]]にはそのまま用いられているし、[[田楽]]・[[猿楽]]・[[謡曲]]などでは言葉をかえて引用された<ref name=yamadatakao>[[#山田孝|山田孝雄(1956)9章・10章]]</ref>。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『[[曽我物語]]』([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]〜[[室町時代]]初期成立)では宴会の席で[[朝比奈義秀|朝比奈三郎義秀]]が「君が代」を謡い舞う例<ref name="soga_257"/>、『[[義経記]]』(室町時代前期成立)でも[[静御前]]が[[源頼朝]]の前で賀歌「君が代」を舞う例を見ることができる<ref name=yamadatakao/><ref name="gikeiki_296"/>。 {{quotation| 『曽我物語』巻第六「辯才天の御事」<ref name="soga_257">[[#曽我|市古貞次・大島建彦校注『曽我物語』(1966)p.257]]</ref> :「何とやらん、御座敷しづまりたり。うたゑや、殿ばら、はやせや、まはん」とて、すでに座敷を立ちければ、面々にこそはやしけれ。 :義秀、拍子をうちたてさせ、「君が代は千代に八千代にさゞれ石の」としおりあげて、「巌となりて苔のむすまで」と、ふみしかくまふてまはりしに… }} {{quotation| 『義経記』巻第六「静若宮八幡宮へ参詣の事」<ref name="gikeiki_296">[[#義経|岡見正雄校注『義経記』(1959)p.296]]</ref> :静「君が代の」と上げたりければ、人々これを聞きて「情けなき祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、 ::しづやしづ賤のおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな ::吉野山 嶺の白雪踏み分けて 入りにし人のあとぞ恋しき }} 安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては、性をも含意した「君が代は千代にやちよにさゞれ石の岩ほと成りて苔のむすまで」のかたちで[[隆達節]]の巻頭に載っており、同じ歌は米国[[ボストン美術館]]蔵「京都妓楼遊園図」[六曲一双、紙本着彩、17世紀後半、作者不詳]上にもみられる<ref name=kawaguchikazuya>[[#川口和|川口和也(2005) 3章「封印された『君が代』」]]</ref>。祝いの歌や相手を思う歌として小唄、長唄、[[地歌]]、浄瑠璃、[[仮名草子]]、浮世草子、[[読本]]、祭礼歌、盆踊り、舟歌、[[薩摩琵琶]]、門付等に、あるときはそのままの形で、あるときは歌詞をかえて用いられ、この歌詞は庶民層にも広く普及した<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/><ref name="Wr"/><ref name=yamadatakao/>。 [[16世紀]]の[[薩摩国]]の[[戦国武将]][[島津忠良]](日新斎)は、[[家督]]をめぐる[[内紛]]を収めたのち、急増した家臣団を結束させるための精神教育に注力し、[[琵琶]]を改造して材料も改め、[[撥]]も大型化し、奏法もまったく変えて勇壮果敢な音の鳴る薩摩琵琶とした<ref name="oda_99">[[#小田|小田(2018)pp.99-109]]</ref>。そして、武士の[[倫理]]を歌った自作の47首に軍略の助言も求めた盲目の僧[[淵脇了公]]に曲をつけさせ、琵琶歌「[[いろは歌]]」として普及させた<ref name="oda_99"/>。島津日新斎作詞・淵脇了公作曲の琵琶歌「蓬莱山」の歌詞は、以下のようなものである<ref name="oda_99"/>。 {{quotation| 蓬莱山 :目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に :不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ :君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで :命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへば :また堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば :千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ :下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ :君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と :国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして :鳥もなかなか驚くようぞ なかりける }} 「君が代」を詠み込んだこの琵琶歌は、[[薩摩藩]]家中における慶賀の席ではつきものの曲として歌われ、[[郷中教育]]という一種の集団教育も相まって、この曲を歌えない薩摩藩士はほとんどいなかった<ref name="oda_99"/>。なかでも、大山弥助(のちの[[大山巌]])の歌声は素晴らしかったといわれる<ref name="oda_99"/>。 「君が代」は、[[江戸城]][[大奥]]で[[元旦]]早朝におこなわれる「おさざれ石」の儀式でも歌われた<ref name="oda_116">[[#小田|小田(2018)pp.116-138]]</ref>。これは、[[御台所]](正室)が正七ツ(午前4時)に起床し、時間をかけて洗面・化粧・「[[おすべらかし]]」に髪型を結い、装束を身に付けて[[緋]][[毛氈]]の敷かれた[[廊下]]を渡り、部屋に置かれた[[盥]](たらい)のなかの3つの白い石に[[ろうそく]]を灯し、中年寄が一礼して「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と上の句を吟唱すると、御台所が「いはほとなりて苔のむすまで」と下の句を応え、御台所の右脇にいた中臈が石に水を注ぐという女性だけの「浄めの儀式」であった<ref name="oda_116"/>。盥には、小石3個のほか[[ユズリハ]]と裏白、[[田作り]]が丁重に飾られていた<ref name="oda_116"/><ref group="注釈">ユズリハは、若葉が伸びてから古い葉が落ちる[[常緑植物|常緑樹]]であることから、子女の成長を見届けて親が身を引くというめでたい植物とされ、古来[[正月飾り]]に用いられた。「裏白」とは、裏の白い大型の[[シダ]]のことで裏返しても心が白いという潔白さの証しであると同時に[[ヒトの髪の色#白髪|白髪]]になるまでの長寿を意味する[[縁起物]]であった。「田作り」は、[[カタクチイワシ]]を干したもので、田に蒔けば高級[[飼料]]となることから豊作祈願として用いられてきた。[[#小田|小田(2018)pp.125-127]]</ref>。 === 礼式曲「君が代」の成立 === {{Wikisource|君が代|歌詞}} [[ファイル:Kimigayo-1.jpg|thumb|250px|「國歌君ヶ代発祥之地」碑 ---- [[薩摩バンド]]が寄宿していた横浜[[妙香寺 (横浜市)|妙香寺]]境内に建つ]] <div class="thumb tright"> {| class="wikitable" style="float:right; margin-left:1em; width:15em; text-align:center;" |style="background-color:#fff"|フェントン作曲の「君が代」<ref>{{Cite book|和書|editor=東京日日通信社 |chapter=国歌『君が代』の由来|title=現代音楽大観 |publisher=日本名鑑協会 |year=1927 |page=2 |doi=10.11501/1173920}}([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1173920/1/16 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>{{Cite book|和書|author=小田切信夫 |title=国歌君が代講話 |publisher=共益商社書店 |year=1929 |page=25 |doi=10.11501/1188362}}([https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1188362/1/46 オンライン版当該ページ]、国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><br /><br /> <score raw="1" sound="1"> \header { tagline = ##f } \score { \new Staff \with{ \magnifyStaff #4/5 }{ \key f \major \once \omit Score.MetronomeMark \tempo 2 = 60 \time 4/4 \override Score.SpacingSpanner #'common-shortest-duration = #(ly:make-moment 1 4) \new Voice { \relative c'' {c2 a d g, a g c f, f' d c a f g a1 a2 g d' c d c g'^\markup{ \left-align \italic \bold " f"} f d^\markup{ \left-align \italic \bold " p"} f a, c4( bes) a2 g f1\fermata \bar "|."} \addlyrics {\override Lyrics.LyricText.font-size = #-2 き み が よ は ち よ に や ち よ に さ ざ れ い し の いわ お と な り て こけ の むー す ま で} } } \layout {indent = 0\mm line-width = 110\mm} \midi {} }</score> |}</div> [[1869年]]([[明治]]2年)4月、イギリス公使[[ハリー・パークス]]より[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エディンバラ公アルフレッド]]([[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった<ref name="oda_109">[[#小田|小田(2018)pp.109-115]]</ref>。その接待掛に対し[[イギリス]]公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長[[ジョン・ウィリアム・フェントン]]が、日本に[[国歌]]がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た<ref name=takahashi475/><ref name="teruoka1991"/><ref name="oda_116"/>。 当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの[[大山巌]])は、大隊長[[野津鎮雄]]と鹿児島少参事[[大迫喜左衛門]]とはかり、[[薩摩琵琶]]歌の「[[蓬萊山]]」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した<ref name="teruoka1991"/><ref name="oda_116"/><ref name="naitou1997">[[#内藤|内藤(1997)]]</ref>。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された<ref name="oda_116"/>。ただし[[澤鑑之丞]]が当時フェントンの接遇係の一人であった[[原田宗介]]から聞いた話では、軍上層部にフェントンの意見を問い合わせたところ、会議中で取り合ってもらえず、接遇係たちに対応が任された。この際、[[静岡藩]]士の[[乙骨太郎乙]]が大奥で行われた正月の儀式「おさざれ石」で使用された古歌を提案し、原田が『蓬莱山』と共通しているとしてこの歌をフェントンに伝えたという経緯となる<ref>澤鑑之丞『海軍七十年史談』「国歌「君が代」の歌詞選出の由来」、339~343頁</ref>。 同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が[[横浜港|横浜]]に呼び寄せられ、[[薩摩バンド]]([[薩摩藩]]軍楽隊)を設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、[[妙香寺 (横浜市)|妙香寺]]で猛練習をおこなった<ref name="oda_151">[[#小田|小田(2018)pp.151-167]]</ref>。翌年1870年(明治3年)[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏される<ref name="oda_151"/>。同年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]、東京・[[越中島]]において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された<ref name=takahashi475/><ref name=imsdf/><ref name="oda_168">[[#小田|小田(2018)pp.168-178]]</ref>。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の[[鎌田真平]]はじめ不満の声が多かった<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/><ref name="Wr"/>。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。 [[国歌]] ({{Lang|en|national anthem}}) は近代西洋において生まれ、日本が[[開国]]した[[幕末]]の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、[[1876年]](明治9年)に海軍楽長の[[中村祐庸]]が[[海軍省]]軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」の以下の部分でもうかがえる<ref name=takahashi475/><ref name="Wr"/><ref name=chiba238/>。 「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」<ref name="koyama1941">[[#小山|小山(1941)]]</ref>。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えば[[スペイン]]国歌の「[[国王行進曲]]」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "{{Lang|en|national anthem}}" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対する[[大和言葉|やまと言葉]]の歌([[詩]])という意味で使われていたため "{{Lang|en|national anthem}}" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった<ref name="koyama1941"/>。 この意見にもとづき、宮中の詠唱する[[音節]]を尊重して改訂する方向で[[宮内省]]と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/><ref name=imsdf/>。翌年[[1877年]]に[[西南戦争]]が起こり、その間にフェントンは任期を終えて帰国した。 [[ファイル:Curt-Netto-Japanese-National-Hymn-Coverdesign-1880.jpg|thumb|250px|"{{Lang|en|Japanese National hymn}}(日本の礼式曲)"譜面の表紙 ---- 伊勢の[[夫婦岩]]をデザイン。作曲者としてエッケルトの名がみえる。[[クルト・ネットー]]作(1880年)]] [[1880年]](明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長[[四元義豊]]、宮内省伶人長[[林廣守]]、前年来日した[[ドイツ人]]で海軍軍楽教師の[[フランツ・エッケルト]]の4名が任命された<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/>。採用されたのは林廣守が[[雅楽]]の[[壱越調]][[旋律]]の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男[[林廣季]]と宮内省[[宮内庁式部職|式部職]]雅樂課の伶人[[奥好義]]がつけた[[旋律]]をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/>。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風[[和声]]を付けて吹奏楽用に編曲した<ref name=takahashi475/><ref name="teruoka1991"/><ref name="sdf2000"/><ref name=chiba238/><ref name="naitou1997"/>。<!-- なお、改訂された「君が代」の第2主題は、[[ヨーゼフ・シュトラウス]]が[[1862年]]([[文久]]2年)に作曲した『[[日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)|日本行進曲]]』にも「日本の旋律」として登場しており、この部分については古くから伝わる旋律を採り入れたものと考えられる。/ コメントアウト。このような説が確かにありましたが、それを否定する内容の学術論文が発表されています。この記事の[[#関連する楽曲]]、より詳しくは[[日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)]]の現時点での最新版 [[特別:固定リンク/75736530]] をお読みください。--> 改訂版「君が代」は、明治13年[[10月25日]]に試演され、翌[[10月26日|26日]]に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年[[11月3日]]の[[天長節]]には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/><ref name="Wr"/><ref name="sdf2000"/><ref name="naitou1997"/>。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった<ref name=imsdf/>。 海軍省所蔵の[[1880年]](明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲による現行の「君が代」の成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる<ref name="wada1998"/>。 [[1881年]](明治14年)に最初の[[唱歌 (教科)|唱歌]]の教科書である『小学唱歌集 初編』が[[文部省]][[音楽取調掛]]によって編集され、翌年、刊行された<ref name="Wr"/>。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった<ref name="oda_231">[[#小田|小田(2018)pp.231-236]]</ref>。曲も英国人{{仮リンク|サミュエル・ウェッブ|en|Samuel Webbe|label=ウェッブ}}が作曲した別曲で、[[小学校]]では当初こちらが教えられた<ref name="Br"/><ref name="oda_231"/>。 {{quotation| 第二十三 君が代 :一 ::君が代は ちよにやちよに ::さゞれいしの 巌となりて ::こけのむすまで うごきなく ::常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ :二 ::君が代は 千尋(ちひろ)の底の ::さゞれいしの 鵜のゐる磯と ::あらはるゝまで かぎりなき ::みよの栄を ほぎたてまつる }} また、[[陸軍省]]もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇[[行幸]]の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた<ref name="oda_231"/>。[[1882年]](明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった<ref name="Wr"/>。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった<ref name="Wr"/>。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された<ref name="Wr"/>。 [[1888年]](明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/><ref name="Wr"/>。[[1889年]](明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年[[12月29日]]「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた<ref name="Wr"/>。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった<ref name="Wr"/>。 礼式曲「君が代」の普及は、[[1890年]](明治23年)の『[[教育勅語]]』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた<ref name="Wr"/>。[[1891年]](明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この[[儀式]]では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた<ref name="Wr"/>。 {{Wikisource|祝日大祭日歌詞並楽譜|祝日大祭日歌詞竝樂譜}} [[1893年]](明治26年)[[8月12日]]、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を[[官報]]に告示した<ref name="Br"/><ref name="Wr"/><ref name="sdf2000"/><ref name="yugari2004">[[#弓狩|弓狩(2004)]]</ref>。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している<ref name=takahashi475/><ref group="注釈">「君が代」「勅語奉答」「一月一日」「元始祭」「紀元節」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」の8曲。</ref>。「君が代」は、作曲者は[[林廣守]]、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされ<ref name=imsdf/><ref name="yugari2004"/>、[[拍子|4分の4拍子]]であるが[[休符]]は使用されなかった<ref name="inoue" />。 {{quotation| {{kyujitai|{{Larger|[[官報]]第3337號}}<br>文&#xE0101;部省吿示第三號<br>小學校&#xE0101;ニ於&#xE0101;テ祝&#xe0100;日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌<br>詞竝樂譜<br>別册ノ通&#xe0101;撰定ス<br><br>朙治二十六年八月&#xe0101;十二日 [[文部大臣|文&#xe0101;部大臣]][[井上毅]]}} }} [[1897年]](明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された<ref name="oda_231"/>。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、[[紀元節]]、[[天長節]]、[[一月一日]]には児童が学校に参集して斉唱され、また、[[日清戦争]]([[1894年]] - [[1895年]])・[[日露戦争]]([[1904年]] - [[1905年]])による国威発揚にともなって国民間に普及していった<ref name="Wr"/><ref name="oda_231"/>。[[1903年]](明治36年)に[[ドイツ]]で行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している<ref name="kindaichi">金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。{{Full citation needed|date=2020年11月}}</ref>。ただし、[[明治時代]]にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の[[祭日]]の歌にすぎなかった<ref name=takahashi475/>。 [[1912年]]([[大正]]元年)[[8月9日]]、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、[[1914年]](大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている<ref name=imsdf/><ref name="sdf2000"/>。 {{quotation| {{kyujitai|第一號 君カ代 天皇及&#xE0101;皇族ニ對スル禮式及&#xE0101;一月一日、紀元節&#xe0101;、天長節&#xe0101;、明治節&#xe0101;ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ揭揚降&#xE0101;下スルトキ}} }} [[軍艦旗]]の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し[[日没]]時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、[[海上自衛隊]]でも引き継がれている<ref name=imsdf/><ref group="注釈">[[1961年]](昭和36年)[[1月18日]]制定の「儀礼曲の統一に関する通達」に、「海軍禮式令」同様の規定がある。</ref>。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている<ref name=imsdf/>。 == 国歌「君が代」の成立 == === 第二次世界大戦前 === 「君が代」は、正式な国歌ではなかったものの、国際的な賓客の送迎や[[スポーツ]]関係などで国歌に準じて演奏・歌唱されることが多くなり、とくに[[昭和10年代]]に入るとこの傾向はいっそう顕著となった<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/>。 1936年(昭和11年)に文部大臣となった[[平生釟三郎]]は、ある日、[[造船所]]の見習職工に『君が代』の歌詞を漢字入りで書かせたところ、[[同音異義語]]を充てる者(例:岩音)や誤字が多かったことに気がついた。国歌の歌詞を発音のみで覚え、意味を理解していないのは問題だとして、[[尋常小学校]]の教科書に君が代を掲載するよう指示を出した<ref>国歌「君が代」の意味、教科書で教える『読売新聞』昭和11年7月2日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p712)</ref>。 その後、小学校の国定[[修身]]教科書に歌詞が掲載されるようになり、「私たち[[臣民]]が『君が代』を歌ふときには、天皇陛下の万歳を祝ひ奉り、皇室の御栄を祈り奉る心で一ぱいになります。」(『小学修身書』巻四)として君が代を歌う意味も掲載されるようになった。また、[[1941年]](昭和16年)に設立された[[国民学校]]の修身教科書でも「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」(国民学校4年用国定修身教科書『初等科修身二』)と記された<ref name="Wr"/><ref name=ozaki260>[[#尾崎|尾崎(1991)p.260]]</ref>。[[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]にかけての時期には、[[大伴家持]]の和歌に[[1937年]](昭和12年)に[[信時潔]]が曲をつけた「[[海行かば]]」も第二国歌のような扱いを受け、様々な場面で演奏・唱和された<ref name="hori25">[[#堀|堀(2001)pp.25-26]]</ref>。 === 第二次世界大戦後 === [[戦後|第二次世界大戦後]]には、[[連合国軍総司令部]](GHQ)が日本を占領し、[[日の丸]]掲揚禁止とともに、「君が代」斉唱を全面的に禁止した{{Sfn|大西|2009|p=81}}。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め{{Sfn|大西|2009|p=81}}、[[1946年]]([[昭和]]21年)[[11月3日]]の[[日本国憲法]]公布記念式典で[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]出御のもと「君が代」が斉唱された<ref name="gentosha">[[辻田真佐憲]]『[https://www.gentosha.jp/articles/-/4019 戦時下を「君が代」はいかに生き延びたか 第2回「君が代」が迎えた敗戦]』([[幻冬舎]]plus)</ref>。しかし、半年後の[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく[[憲法普及会]]が選定した[[国民歌]]「[[われらの日本]]」(作詞・[[土岐善麿]]、作曲・信時潔)が代用曲として演奏され、天皇還御の際には「[[星条旗よ永遠なれ]]」が演奏された<ref name="gentosha" />。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「[[国体]]」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。たとえば[[読売新聞]]は[[1948年]](昭和23年)[[1月25日]]の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない」とした上で「新国歌が作られなくてはならない」と主張した<ref>{{cite news|newspaper=[[読売新聞]] 朝刊|title=國民に歌を與えよ|date=1948-01-25|page=1}}</ref>。 また、「君が代」に代わるものとして、[[1946年]]、[[毎日新聞社]]が文部省の後援と[[日本放送協会]]の協賛を受けて募集・制作した新憲法公布記念国民歌「[[新日本の歌]]」([[土井一郎]]作詞、[[福沢真人]]作曲)がつくられ、[[1948年]](昭和23年)には[[朝日新聞社]]と[[民主政治教育連盟]]が日本放送協会の後援を受けて募集・制作した国民愛唱の歌「[[こゝろの青空]]」([[阿部勇]]作詞、[[東辰三]]作曲)がつくられた。前者は[[日本コロムビア]]より、後者は[[日本ビクター]]より、それぞれ[[レコード]]化されるなどして普及が図られた<ref name="gentosha"/>。1951年1月、[[日本教職員組合]](日教組)が「君が代」に代わる「新国歌」として公募・選定した[[国民歌]]として「[[緑の山河]]」([[原泰子]]作詞、[[小杉誠治]]作曲)もつくられた。しかし、[[1951年]](昭和26年)9月の[[サンフランシスコ平和条約]]以降は、礼式の際などに、再び「君が代」が国歌に準じて演奏されることが多くなった<ref name=takahashi475/><ref name="Br"/>。 GHQ占領下の学校・教育現場では、[[1946年]](昭和21年)の国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されていた。しかし、[[文部省]]の[[天野貞祐]][[文部大臣]]による国民の[[祝日]]に関する「談話」などから、[[1950年]](昭和25年)[[10月17日]]に「学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することを推奨する」との通達が全国の[[教育委員会]]へ行われており、[[主権回復の日|主権回復]]後の[[1958年]](昭和33年)[[学習指導要領]]に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから{{sfn|小野|2001|p=141}}、学校で再び[[日の丸]]掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する[[日本教職員組合]]等との対立が始まった。その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい([[1978年]])」、「[[入学式]]や[[卒業式]]などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする([[1989年]])」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱が義務付けられている<ref>[http://www.geocities.co.jp/freedom_national_flag/shiryou8.htm 「日の丸」「君が代」に関する戦後年表]</ref>。 [[ファイル:国旗及び国歌に関する法律.jpg|thumb|400px|官報「国旗及び国歌に関する法律」]] 「君が代」は事実上の国歌として長らく演奏されてきたが、法的に根拠がないことから法制化が進み、[[1999年]](平成11年)[[8月9日]]、「国旗及び国歌に関する法律」([[国旗国歌法]])が成立し、13日に[[公布]](号外第156号)され、即日[[施行]]された<ref name=imsdf/>。[[日本国政府]]の公式見解は、国旗国歌法案が提出された際の平成11年[[6月11日]]の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の[[6月29日]]に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した<ref>[http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/tisikii-kimigayokaisyaku.htm 「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈] {{Wayback|url=http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/tisikii-kimigayokaisyaku.htm |date=20100909211922 }}([http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/ 「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン] {{Wayback|url=http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/ |date=20091202103609 }})</ref>。 なお、同法案は[[衆議院]]で賛成403、反対86(投票総数489)で平成11年[[7月22日]]に、[[参議院]]では賛成166、反対71(投票総数237)で平成11年[[8月9日]]に、それぞれ賛成多数で可決された。 {{quotation| [[国旗及び国歌に関する法律]] : 第二条 国歌は、君が代とする。 : 2,君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。 }} この「別記第二」として掲載されているハ調の「君が代」の楽譜には、[[テンポ]]の指定や強弱記号がなく、また、本来6カ所あるべき[[スラー]]が付されていないなど、不完全なものであった<ref name=imsdf/>。 === 現状 === {{Main|日本における国旗国歌問題}} 「君が代」は、[[国旗及び国歌に関する法律|国旗国歌法]]によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、[[1974年]]([[昭和]]49年)[[12月]]に実施された[[内閣府]]・[[政府広報]]室の[[世論調査]]<ref group="注釈">[[新情報センター]]が委託を受け調査した。</ref> において、対象者の76.6パーセントが「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5パーセントだった<ref> {{Cite press release |和書|url = https://www8.cao.go.jp/survey/s49/S49-12-49-14.html |title = 年号制度・国旗・国歌に関する世論調査 |language = [[日本語]] |publisher = [[内閣府]]・[[政府広報室]] |date = 1974年 |accessdate = 2010年7月31日 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090123121340/https://www8.cao.go.jp/survey/s49/S49-12-49-14.html |archivedate = 2009年1月23日 |deadurl = yes }} </ref>。 なお、[[日本コロムビア]]から発売した「君が代」を収録したCDは[[1999年]]までの10年間に全種累計で約10万枚を売り上げ<ref name=zakzak990723>[https://web.archive.org/web/20030404121640/https://www.zakzak.co.jp/geino/n_July99/nws4093.html 法制化で注目!君が代CDブレーク?]、ZAKZAK、1999年7月23日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>、[[キングレコード]]から発売した「君が代」を含むCD『世界の国歌』は改訂盤が発売されるごとに毎回1万数千枚を売り上げている(1999年時点)<ref name=zakzak990723 />。 == 楽曲 == <score raw="1" sound="1"> \header { tagline = ##f } \score { \new Staff \with{ \magnifyStaff #4/5 }{ \time 4/4 \override Score.SpacingSpanner #'common-shortest-duration = #(ly:make-moment 1 4) \new Voice { \relative c' { d c d e | g e d2 | e4 g a g8 a | d4 b a g |\break e g a2 | d4 c d2 | e,4 g a g | e4. g8 d2 |\break a'4 c d2 | c4 d a g | a g8 e d2 \bar "|." } \addlyrics { \override Lyrics.LyricText.font-size = #-1 き み が ー よ ー は ち よ に ー ー や ち よ に さ ざ れ い し の い わ お と な り て こ け の む ー す ー ま ー ー で } } } \layout {indent = 0\mm line-width = 90\mm} \midi {\tempo 4 = 60} }</score>[[File:Kimigayo-Anthem-Japan-Sheet-Music-1888.png|thumb|君が代の音楽シート(1888年)]]国歌としては最短のもののひとつである。曲については[[おおウガンダ、美しき地|ウガンダの国歌]]のメロディーは8小節([[弱起|不完全小節]]を含まず)であり、君が代の11小節よりも短く、演奏時間も30秒程度である<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=xHr7VjUVIfA Uganda National Anthem]</ref>。ただし同国歌の歌詞には2番と3番があり、1番に続いて歌われることもあるため、この場合は君が代よりも長くなる。歌詞についてもほとんどの国歌より短いが、[[国王行進曲|スペイン]]、[[サンマリノの国歌|サンマリノ]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ国歌|ボスニア・ヘルツェゴビナ]]および[[ヨーロッパ (歌)|コソボ]]の国歌は公式な歌詞を持たないため、単純に比較することはできない。 === 拍子と調子 === 拍子は4分の4拍子である。 調子は、[[雅楽]]の六調子のうち呂旋に属する[[壱越調]]である。現行「君が代」は、[[1880年]](明治13年)の初演の際の楽譜(「大日本礼式」)では[[変ロ長調|変ロ調]]であったが、1893年(明治26年)の「祝日大祭日歌詞竝樂譜」以降は[[ハ長調|ハ調]]となっている<ref name=imsdf/>。 === テンポと演奏時間 === [[1888年]](明治21年)のエッケルト編曲「大日本礼式」におけるテンポは、♩=70(1分間に四分音符70拍)と設定されていた<ref name=imsdf/>。このテンポで演奏すると、演奏時間はだいたい37秒となる。[[1912年]](大正元年)の「儀制ニ関スル海軍軍楽譜」別冊収載の「海軍儀制曲総譜」の「君が代」には[[テンポ]]表示がなく、[[wikt:larghetto|Larghetto]](ややおそく)の速度標語が記載されている<ref name=imsdf/>。[[1893年]](明治26年)8月の文部省告示「祝日大祭日歌詞竝楽譜」では、♩=69であった<ref name=imsdf/>{{Refnest|group="注釈"|振り子式[[メトロノーム]]の目盛りに70がなく、69の次が72であったことから最近似の数値を採用したものと考えられる<ref>[https://www.mod.go.jp/msdf/tokyoband/gallery/download/kimigayo.html 海上自衛隊東京音楽隊「国歌『君が代』について」]</ref>。}}。 ♩=60で演奏した場合、1拍を1秒とすると44秒となる<ref name=imsdf/>。旧海軍では[[軍艦旗]]を掲揚降下する際、[[信号ラッパ]]譜の「君が代」(国歌の「君が代」とは別の曲、[[#関連する楽曲]]節の楽譜とサウンドファイルを参照)を45秒で吹奏しており、同じ港湾に軍楽隊が乗り込んだ[[旗艦]]が停泊していた場合、国歌の「君が代」もラッパ譜の「君が代」と同じく45秒で演奏していた<ref name=imsdf/>。これは、習慣となったものであり、明文化された資料等は確認されていない<ref name=imsdf/>。なお、♩=50で演奏すると52秒かかり、[[日本放送協会|NHK]]の[[テレビ]]・[[ラジオ]]放送終了時に演奏されるテンポとなる。 [[近代オリンピック]]においては、[[2014年ソチオリンピック]]以降、表彰式で流される君が代(演奏:[[読売日本交響楽団]])が1分20秒に及ぶスローテンポとなったが<ref name=imsdf/><ref name=netlabo20160809>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1608/09/news148.html リオ五輪の「君が代」に内村選手「すごくゆっくり」 JOC「実は意図してテンポを遅くした」] (ねとらぼ [[2016年]][[8月9日]])</ref>、これは[[2012年]]頃、[[国際オリンピック委員会]](IOC)が国旗掲揚のときに統一感を出すためにと、演奏時間を60 - 90秒に収めた国歌音源を提出するよう指示したことに対し、[[日本オリンピック委員会]](JOC)が応えたことによるという<ref name=netlabo20160809/>。しかし、[[2016年リオデジャネイロオリンピック]]の際に選手から「(長くて)歌いづらかった」と不満が出たことなどから、[[2018年平昌オリンピック]]までに音源が差し替えられ、1分4秒の長さに変更された<ref>{{Cite web|和書|title=高藤直寿選手が金メダル1号、「君が代」が短いことに気づいた? 変遷の歴史|website=[[朝日新聞グローブ|朝日新聞GLOBE+]]|date=2021-07-25|url=https://globe.asahi.com/article/14402654|accessdate=2021-07-28}}</ref>。 == 評価 == [[作曲家]]の[[團伊玖磨]]は晩年に、国歌の[[必要条件]]として、'''短い事'''、'''エスニックである事'''、'''好戦的でない事'''の3条件を挙げ、[[女王陛下万歳|イギリス国歌]]、[[ドイツの歌|ドイツ国歌]]、「君が代」の3つが[[白眉]]であると評した<ref name=kemuri145>[[#團2|團『しっとりパイプのけむり』p. 145]]</ref>。なお、「君が代」については同時に、「音楽として、歌曲としては変な曲だが国歌としては最適な曲である。」と記した<ref name=kemuri145/>。 [[中田喜直]]、[[水谷川忠俊]]ら多くの作曲家から、歌詞と旋律が一致していないことが指摘されている<ref name=miyagawa/>。詳しくは[[中田喜直#人物]]も参照 2018年に英国の[[デイリー・テレグラフ|テレグラフ]]紙が、[[2018 FIFAワールドカップ|同年のサッカーワールドカップ]]出場32か国の国歌ランキングを発表し「堂々と、洗練された、叙情的」として'''14位'''としている。 == 君が代に関する諸説 == === 「九州王朝」起源説による解釈 === [[九州王朝説]]を唱えた[[古田武彦]]は自ら[[邪馬台国|邪馬壹国]]の領域と推定している[[糸島半島]]や近隣の[[博多湾]]一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している<ref name="sanka1990">[[#古田|古田(1990)]]</ref><ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jwagakim/jwagaki.html 参考:独創古代|君が代の源流]</ref>。 * 「君が代」は、[[金印]]([[漢委奴国王印]])が発見された[[福岡県]]・[[志賀島]]にある[[志賀海神社]]において、[[神功皇后]]の[[三韓征伐|三韓出兵]]の際、[[志賀海神社]]の社伝によると、その食前において山誉の神事を奉仕したことにより、[[神功皇后]]よりこの神事を「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよ」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nponia.com/page40-fukuoka.htm |title=参考:NPO法人無形民俗文化財アーカイブズ|福岡県の指定・選択無形民俗文化財リスト |accessdate=2016年1月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160130220329/http://www.nponia.com/page40-fukuoka.htm |archivedate=2016年1月30日 |deadlinkdate=2019年4月 }}</ref> と庇護され今に伝承されている4月と11月の祭礼([[山誉め祭]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=kZsv8hmljyc 参考:YouTube動画|志賀島 志賀海神社 山誉め祭]</ref><ref>[http://www.sikanosima.jp/event-maturi/yamafome08/index.html 参考:志賀海神|社山誉祭]</ref>)にて以下のような[[神楽歌]]として古くから伝わっている。(後述する『[[太平記]]』にも、この舞が[[神功皇后]]の[[三韓征伐|三韓出兵]]以前より伝わる神事(舞い)と推察される記述が存在する。) * なお、この山誉め祭は、[[民俗学]]的に価値のある神事として、福岡県の県指定の[[有形民俗文化財]]<ref>[http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/item_id:101211 参考:福岡市の文化財|山ほめ祭]</ref> に指定されている。 {{Quotation|君が<ruby>代<rp>(</rp><rt>だい</rt><rp>)</rp></ruby>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ<ruby>身<rp>(</rp><rt>み</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>骸<rp>(</rp><rt>がい</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby>命<rp>(</rp><rt>いのち</rt><rp>)</rp></ruby> <ruby>千<rp>(</rp><rt>せん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>歳<rp>(</rp><rt>ざい</rt><rp>)</rp></ruby>という 花こそ 咲いたる 沖の<ruby>御<rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>津<rp>(</rp><rt>づ</rt><rp>)</rp></ruby>の汐早にはえたらむ<ruby>釣<rp>(</rp><rt>つる</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>尾<rp>(</rp><rt>お</rt><rp>)</rp></ruby>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや 志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで 今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ いるかよ いるか 汐早のいるか <ruby>磯<rp>(</rp><rt>いそ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby>良<rp>(</rp><rt>ら</rt><rp>)</rp></ruby>が崎に 鯛釣るおきな|山誉め祭|神楽歌}} * [[糸島半島#歴史|糸島]]・[[博多湾]]一帯には、[[東公園 (福岡市)#公園の概要|千代の松原]]の「[[千代町|千代]]」、伊都国の王墓とされる[[平原遺跡]]の近隣に[[細石神社]]の「さざれ石」、細石神社の南側には「[[井原鑓溝遺跡]]」や「[[井原山]]」など地元住民が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また[[若宮神社 (糸島市)|若宮神社]]には苔牟須売神([[コケムスメ]])が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。 * [[細石神社]]の祭神は「盤長姫([[イワナガヒメ]])」と妹の「木花咲耶姫([[コノハナノサクヤビメ]])」、[[若宮神社 (糸島市)|若宮神社]]の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における[[天孫降臨]]した瓊瓊杵尊([[ニニギ]]ノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。 上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」([[阿曇磯良]])もしくは別名「[[筑紫の君]]」([[九州王朝説|九州王朝]]の君主)と推定。 * 『[[古今和歌集]]』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、[[古今和歌集]]が[[醍醐天皇]]の勅命によって編まれた『[[勅撰和歌集]]』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『[[平家物語]]』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『[[千載和歌集]]』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、[[紀貫之]]は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。 * [[糸島半島#歴史|糸島]]・[[博多湾]]一帯<ref>[http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jwagakim/jwagamap.html l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸]</ref> は参考資料<ref>馬場崎正博, 宗琢万, 河口洋一 ほか、「[https://doi.org/10.2208/proer.34.97 歴史的視点から見た干潟環境の変化と人との係わりに関する研究 福岡・今津干潟を例に]」 環境システム研究論文集 2006年 34巻 p.97-103, {{doi|10.2208/proer.34.97}}</ref>」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「若宮神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと推定している。 なお、『[[太平記]]』には、「君が代」が奉納される山誉め祭の神楽とも関係する、阿曇磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記述が存在する。 * [[神功皇后]]は[[三韓征伐|三韓出兵]]の際に諸神を招いたが、[[海底]]に住む阿度部の磯良だけは、[[顔]]に[[アワビ]]や[[カキ (貝)|カキ]]がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで[[住吉三神|住吉神]]は海中に舞台を構えて『'''磯良が好む舞を奏して誘い出すと'''』、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠([[日本神話]]の[[山幸彦と海幸彦|海幸山幸神話]]にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。 * 海人族安雲氏の本拠である[[福岡県]]の[[志賀海神社]]の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。[[北九州市]]の[[関門海峡]]に面する[[和布刈神社]]は、三韓出兵からの帰途、磯良の[[和魂・荒魂|奇魂・幸魂]]を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。 === 作詞者について === 『古今和歌集』収載「我が君は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「読人知らず」とされているが、実際の詠み人は[[文徳天皇]]の第一皇子[[惟喬親王]]に仕えていたとある[[木地師]]だったとする説がある。それによれば、当時は位が低かったために「読人知らず」として扱われたが、この詞が[[朝廷 (日本)|朝廷]]に認められたことから、詞の着想元となった[[さざれ石]]にちなみ「[[藤原朝臣石位左衛門]]」の名を賜ることとなったというものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yoshimura-zouen.co.jp/zouengijutu/isigumi/sazareisi/|title=さざれ石|website=株式会社吉村造園|accessdate=2020-11-27}}</ref>。 また、上述の堯智『古今和歌集陰名作者次第』では、この歌の詠み人は[[橘清友]]ではないかとしている<ref name="koyama1941"/>。 === 松永文相報告 === [[1985年]](昭和60年)[[2月26日]]の閣議で[[松永光]][[文部大臣]]は文部省の調査で「君が代」には3番まで歌詞があると報告している<ref name=mizoguchi106>[[#溝口|溝口(2005)pp.106-109]]</ref>。それによれば、 {{quotation| 君が代 :一 ::君が代は 千代に八千代に さゞれ石の ::巌となりて 苔の生すまで :二 ::君が代は 千尋の底の さゞれ石の ::鵜のゐる磯と あらはるるまで :三 ::君が代は 限りもあらじ 長浜の ::真砂の数は よみつくすとも }} である。このうち二番は[[源頼政]]のよんだ歌、三番は光孝天皇の[[大嘗祭]]に奉られた歌である<ref name=mizoguchi106/>。 == 歌唱・演奏した著名人 == 「君が代」は現在に至るまで幅広い著名人によって歌唱・演奏されている。 かつての日本ではスポーツの開幕などで君が代の演奏や独唱が行われる機会が少なかったが、[[TUBE]]の[[前田亘輝]]が1993年5月15日に[[1993年Jリーグ開幕節|Jリーグ開幕戦]]で披露した<ref name="zakzak990723" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.gekisaka.jp/news/detail/?40325-21190-fl|title=川淵名誉会長がTUBE前田氏と談笑|website=ゲキサカ|date=2008-07-29|accessdate=2020-07-20}}</ref>頃から定着し始め、著名人による独奏や演奏の機会が増加している。 また、君が代の演奏を音楽媒体等に収録して発売した例として以下が挙げられる。 <!--あ行--> <!--わ行--> * [[忌野清志郎]] Little Screaming Revue - 1999年のアルバム『[[冬の十字架]]』に収録。パンクロック調にアレンジされた。本来は[[ポリドール]]からのリリース予定であったが、この曲のアレンジに関して忌野とポリドール上層部が衝突。自主レーベルSWIM RECORDSからのリリースとなった<ref>[http://www.kiyoshiro.co.jp/release/index.html 地味変|RELEASE|ALBUM]</ref>。 *<!--か行--><!--さ行-->[[宇宿允人]](指揮)、フロイデフィルハーモニー(演奏) - 2004年8月録音。2007年発売のCD『宇宿允人の世界23』に[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番ニ短調op.125「合唱付き」]]とともに収録<ref>[https://artist.cdjournal.com/d/masato-usuki-in-concert-23---beetoven-symphonie-/4107081652 宇宿允人の世界23~ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱つき」他 宇宿允人 / フロイデフィルハーモニー]、CDジャーナル。- 2017年2月6日閲覧。</ref>。ムック本『別冊正論24 再認識「終戦」』付録CDにも収録されている<ref>[https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20150725/enn1507251511010-n1.htm 世界で最も美しい宇宿允人の「君が代」オーケストラ演奏]、ZAKZAK、2015年7月25日。</ref>。 * [[サザンオールスターズ]] - 2000年発売のライブ・ビデオ『[[シークレットライブ'99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町]]』に収録<ref name="kimigayo 1">[https://southernallstars.jp/mob/titl/titlShw.php?site=SASJP&ima=3105&cd=VIVL-248&search_cate=V シークレットライブ '99 SAS 事件簿 in 歌舞伎町] SOUTHERN ALL STARS OFFICIAL SITE</ref>。 * <!--た行-->[[デーモン閣下]] - アルバム『[[うただま]]』に収録。 * [[東儀秀樹]] - 1997年発売のアルバム『幻奏譜』に収録。 *<!--な行-->[[長渕剛]] - 2013年発売のDVD『THE TRUTH』DISC3に収録<ref>2013年のライブビデオ「THE TRUTH」DISC3 Stay Alive Live at Osaka-jo Hall 2012.10.21より。</ref>。 *<!--は行-->[[八十八ヶ所巡礼 (バンド)|八十八ヶ所巡礼]] - アルバム『八+八』収録「日本」の冒頭でアレンジして使っている。 * [[平井堅]] - 2003年発売のDVD『MTV UNPLUGGED Ken Hirai』に収録<ref>[https://tower.jp/item/1046990/MTV-UNPLUGGED-KEN-HIRAI 平井堅/MTV UNPLUGGED KEN HIRAI]タワーレコードオンライン 2021年12月17日閲覧</ref>。 * [[藤山一郎]] - 2000年発売のCD『君が代のすべて』([[キングレコード]])に収録。 *<!--ま行--><!--や行-->[[矢野顕子]] - 1976年発売のライブアルバム『[[長月 神無月]]』に収録。 * [[吉川久子]] - 2021年7月18日に自身のYouTubeチャンネルにてフルートで演奏された音源を配信<ref>[https://m.youtube.com/watch?v=SHuFV-mGNGs 「君が代」吉川久子]YouTube 2021年7月18日配信 2021年10月24日閲覧。</ref>。 == 関連する楽曲 == <div class="thumb right"> {| class="wikitable" style="float:right; margin-left:1.5em; width:15em; text-align:center; font-size:x-small;" |- |style="background-color:#fff" | '''1885年制定の信号ラッパ譜『君が代』'''{{en| [[移調楽器#移調楽器の例|(in G)]]}}<br /> <score raw="1" sound="1"> \header { tagline = ##f } \score { \new Staff \with{ \magnifyStaff #2/3 }{ \transposition g % ← G管のビューグルを想定 \once \omit Score.MetronomeMark \tempo 4 = 54 % ← midiの演奏テンポ \time 4/4 %\set Staff.midiInstrument = #"trumpet" \override Score.SpacingSpanner #'common-shortest-duration = #(ly:make-moment 1 4) \new Voice { \relative c' { c4 g'4 c8 c8 e4 c,4 g'4 c8 c8 e4 e8 e8 g4 e8 e8 g4 e8 c16 e16 g8 g,8 e'8 c16 c16 c4 g'8 g,16 g16 g8 g8 e'8 c8 e8 c8 g'8 g,16 g16 g8 g8 e'8 c8 e8 c8 c,4 g'4 c8 c8 e4 c,4 g'4 c8 c8 e4 e8 e8 g4 e8 e8 g4 e8 c16 e16 g8 g,8 e'8 c16 c16 \once \omit Score.MetronomeMark \tempo 4 = 27 c4 \bar "|." } } } \layout {indent = 0\mm line-width = 78\mm} \midi {} }</score> |- |[[ビューグル|信号ラッパ]]譜の『君が代』<ref name="陸海軍1897_p1">{{Cite book|和書|title=陸海軍喇叭譜|chapter=君ケ代|author=相沢富蔵(編)|publisher=厚生堂|year=1897 |page=1}} ([[国立国会図書館#電子図書館事業|国立国会図書館デジタルコレクション]]で公開されている'''[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/855031/3 オンライン版]'''、2019年6月4日閲覧)</ref><ref name="陸軍1941_p34">{{Cite book|和書|title=軍隊喇叭、喇叭鼓隊教本|chapter=陸軍喇叭譜|author=管楽研究会(編)|publisher=管楽研究会|year=1941|page=34}} (国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている'''[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1121236/21 オンライン版]'''、2019年6月4日閲覧)</ref>([[大日本帝国陸軍|旧日本陸軍]]<ref name="陸海軍1897_p1" /><ref name="陸軍1941_p34" /><ref name="野ばら社1934-附p3">{{Cite book|和書|chapter=陸軍喇叭譜 敬禮ノ部 君カ代 |title=標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜 |publisher=[[野ばら社]]|year=1934 |page=附録3}}</ref>・[[大日本帝国海軍|海軍]]<ref name="陸海軍1897_p1" /><ref name="野ばら社1934-附p18">{{Cite book|和書|chapter=海軍喇叭譜 禮式ノ部 君ガ代 |title=標準軍歌集 : 附録・陸海軍喇叭譜 |publisher=[[野ばら社]]|year=1934 |page=附録18}}</ref> および[[海上自衛隊]]<ref name="朝日20180721" /> が使用) |}</div> {{External media |topic='''[[山口常光]]作曲の信号ラッパ譜『君が代』''' |audio1=[https://www.mod.go.jp/gsdf/fan/sound/download/kimigayo_rappa.mp3 kimigayo_rappa.mp3] - 陸上自衛隊公式ウェブサイト<ref name="陸自" />にて公開}} * [[君が代行進曲]] * 唱歌版君が代 * 箏曲・君が代変奏曲([[宮城道雄]]作曲) * [[ビューグル|信号ラッパ]]譜・君が代 - 以下の2曲が存在 #1885年に制定されて[[日本軍|旧日本陸海軍]]がかつて使用し、現在は[[海上自衛隊]]が使用している曲<ref name="朝日20180721">{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASL6Z43QCL6ZPITB00N.html |author=佐々木康之 |title=自衛艦に響くラッパ君が代 130年前の譜、呉港で今も |website=[[朝日新聞|朝日新聞デジタル]] |date=2018-07-21 |accessdate=2019-06-04}}</ref>(右の譜例と試聴用サウンドファイル参照) #[[山口常光]]作曲で、[[陸上自衛隊]]<!-- と、おそらく[[航空自衛隊]] / 出典が見つからないためコメントアウト -->が使用している曲<ref name="陸自">{{Cite web|和書|url=https://www.mod.go.jp/gsdf/fan/sound/index.html |title=陸上自衛隊:サウンド |website=[[陸上自衛隊]]公式ウェブサイト |accessdate=2019-06-04}}</ref>(右の試聴用外部メディア参照) * 皇子さま([[久保田宵二]]作詞、[[佐々木すぐる]]作曲) - [[上皇明仁]]が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。 * 『7つの連合国国歌によるパラフレーズ』作品96([[アレクサンドル・グラズノフ]]) - 第1次世界大戦の連合国7か国(ロシア、セルビア、モンテネグロ、フランス、イギリス、ベルギー、日本)の国歌が使用されている<ref>{{IMSLP2|work=Paraphrase on the Hymns of the Allies, Op.96 (Glazunov, Aleksandr)|cname=『7つの連合国国歌によるパラフレーズ』}}</ref>。 * 『[[日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)|日本行進曲]]』 - [[ヨーゼフ・シュトラウス]]が1862年に作曲した行進曲。この曲の第2主題が改訂版の『君が代』(1880年)からの引用ではないかという説があったものの、第2主題は1800年前後に出版された複数の書籍に掲載されていた旋律であることが判明している([[日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)#主題の引用元]]を参照)。 * 『[[皇軍万歳]]』-日本の軍歌、曲の終わりに君が代のメロディが使用されている * 『行進曲「日本海海戦」』-軍歌「日本海海戦」の行進曲編曲版。トリオに君が代が使用されている。 == 参考音源 == {{Commons|Kimi ga yo}} {{Multi-listen start}} {{Multi-listen item|filename=Kimi ga Yo 1930.ogg|title=君が代:演奏(前半)と歌唱(後半)。|description= 「君が代」(キングレコード、K1-A。1930年) |format=[[OGG]] }} {{Multi-listen item|filename=Kimi ga Yo instrumental.ogg|title=君が代:演奏のみ。|description=[[アメリカ海軍]]軍楽隊による。|format=[[OGG]] }} {{Multi-listen end}} ; {{Audio|Kimigayo70.mid}} : 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。 ; {{Audio|Kimigayo60.mid}} : 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。 ; {{Audio|Kimigayo50.mid}} : 君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == === 書籍 === * {{Cite book|和書|author1=阿部勘一|authorlink1=阿部勘一|author2=細川周平|authorlink2=細川周平|author3=塚原康子|authorlink3=塚原康子|author4=東谷護|authorlink4=東谷護|author5=高澤智昌|authorlink5=高澤智昌|chapter=|editor=|year=2001|month=12|title=ブラスバンドの社会史-軍楽隊から歌伴へ|publisher=[[青弓社]]|series=青弓社ライブラリー|isbn=4-7872-3192-8|ref=社会史}} ** {{Cite book|和書|author=塚原康子|chapter=第3章 軍楽隊と戦前の大衆音楽|editor=|year=2001|month=|title=ブラスバンドの社会史-軍楽隊から歌伴へ|publisher=青弓社|series=|isbn=4-7872-3192-8|ref=塚原}} * {{Cite book|和書|author1=市古貞次|authorlink1=市古貞次|author2=大島建彦校注|authorlink2=大島建彦|chapter=|editor=|year=1966|month=1|title=日本古典文学大系88 曽我物語|publisher=[[岩波書店]]|ref=曽我}} * {{Cite book|和書|author=尾崎ムゲン|authorlink=尾崎ムゲン|year=1991|month=4|title=戦後教育史論 民主主義教育の陥穽|publisher=[[インパクト出版会]]|isbn=978-4755400216|ref=尾崎}} * {{Cite book|和書|author1=小沢正夫|authorlink1=小沢正夫 (国文学者)|author2=松田成穂|title=古今和歌集 新編日本古典文学全集|year=2000|month=3|publisher=[[小学館]]|location=日本|language=日本語|isbn=978-4096580110|chapter=古今和歌集 巻第七|ref=小沢松田}} * {{Cite book|和書|author=小田切信夫|authorlink=小田切信夫|year=1965|title=国歌君が代の研究|publisher=[[平凡社]]|ref=小田切}} * {{Cite book|和書|author=小田豊二|authorlink=小田豊二|year=2018|month=3|title=初代「君が代」|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4-560-09627-7|ref=小田}} * {{Cite book|和書|author=岡見正雄校注|authorlink=岡見正雄|chapter=|editor=|year=1959|month=5|title=日本古典文学大系37 義経記|publisher=岩波書店|ref=義経}} * {{Cite book|和書|author=川口和也|authorlink=川口和也|year=2005|title=「君が代」の履歴書|publisher=[[批評社]]|isbn=4-8265-0425-X|ref=川口和}} * {{Cite book|和書|author=川口久雄校注|authorlink=川口久雄|chapter=和漢朗詠集|editor=|year=1965|month=1|title=日本古典文学大系73 和漢朗詠集・梁塵秘抄|publisher=岩波書店|ref=川口久}} * {{Cite book|和書|editor1=金田一春彦|editor1-link=金田一春彦|editor2=安西愛子|editor2-link=安西愛子|chapter=|year=1977|month=|title=日本の唱歌 上 明治篇|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文庫]]|isbn=4061313681|ref=金田一}} * {{Cite book|和書|editor=金田一春彦、安西愛子|chapter=|year=1979|month=|title=日本の唱歌 中 大正・昭和篇|publisher=講談社|series=講談社文庫|isbn=406131369X|ref=}} * {{Cite book|和書|editor=金田一春彦、安西愛子|chapter=|year=1982|month=|title=日本の唱歌 下 学生歌・軍歌・宗教歌篇|publisher=講談社|series=講談社文庫|isbn=4061313703|ref=}} * {{Cite book|和書|author=小山作之助|authorlink=小山作之助|year=1941|title=国歌君が代の由来|publisher=小山真津|id={{doi|10.11501/1265270}}|ref=小山}}(非売品) * {{Cite book|和書|author=佐伯梅友校注|authorlink=佐伯梅友|chapter=|editor=|year=1958|month=3|title=日本古典文学大系8 古今和歌集|publisher=岩波書店|ref=佐伯}} * {{Cite book|和書|author=志田延義校注|authorlink=志田延義|chapter=梁塵秘抄|editor=|year=1965|month=1|title=日本古典文学大系73 和漢朗詠集・梁塵秘抄|publisher=岩波書店|ref=志田}} * {{Cite book|和書|author=ベン=アミー・シロニー|authorlink=ベン=アミー・シロニー|translator=大谷堅志郎|title=母なる天皇:女性的君主制の過去・現在・未来|year=2003|month=1|publisher=講談社|location=日本|language=日本語|isbn=4062116758|chapter=第8章1 日本王朝の太古的古さ|ref=シロニー}} * {{Cite book|和書|author=高橋磌一|authorlink=高橋磌一|chapter=君が代|editor=日本歴史大辞典編集委員会|year=1979|month=11|title=日本歴史大辞典第3巻 かた-き|publisher=[[河出書房新社]]|ref=高橋}} * {{Cite book|和書|author=谷知子|authorlink=谷知子|year=2008|title=天皇たちの和歌|publisher=角川学芸出版|location=日本|isbn=9784047034211|ref=谷}} * {{Cite book|和書|author=團伊玖磨|authorlink=團伊玖磨|chapter=|editor=|year=1999|month=7|title=私の日本音楽史 異文化との出会い|publisher=[[NHK出版]]|series=NHKライブラリー|isbn=4-14-084101-X|ref=團}} * {{Cite book|和書|author=團伊玖磨|chapter=|editor=|year=1999|month=|title=しっとりパイプのけむり|publisher=[[朝日新聞社]]|series=|isbn=4022574607|ref=團2}} * {{Cite book|和書|author=千葉優子|authorlink=千葉優子|chapter=|editor=|year=2005|month=3|title=日本音楽がわかる本|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=4-276-13314-9|ref=千葉}} * {{Cite book|和書|author=暉峻康隆|authorlink=暉峻康隆|year=1991|title=日の丸・君が代の成り立ち|publisher=岩波書店|location=日本|series=[[岩波ブックレット]]|isbn=9784000031271|ref=暉峻}} * {{Cite book|和書|author=内藤孝敏|authorlink=内藤孝敏|year=1997|title=三つの君が代 - 日本人の音と心の深層|publisher=中央公論社|location=日本|isbn=9784120026546|ref=内藤}} * {{Cite book|和書|author=藤田友治ほか|authorlink=藤田友治|editor=藤田友治+歴史・哲学研究所|year=2005|month=1|title=「君が代」の起源|publisher=[[明石書店]]|isbn=4-7503-2037-4}} ** {{Cite book|和書|author=藤田友治|chapter=「君が代」の二重構造|year=2005|title=「君が代」の起源|publisher=明石書店|isbn=4-7503-2037-4|ref=藤田}} ** {{Cite book|和書|author=溝口貞彦|authorlink=溝口貞彦|chapter=「君が代」考|year=2005|title=「君が代」の起源|publisher=明石書店|isbn=4-7503-2037-4|ref=溝口}} * {{Cite book|和書|author=古田武彦|authorlink=古田武彦|year=1990|title=君が代は九州王朝の讃歌|publisher=[[新泉社]]|location=日本|isbn= 4787790129|ref=古田}} * {{Cite book|和書|author=堀雅昭|authorlink=堀雅昭|year=2001|month=3|title=戦争歌(いくさうた)が映す近代|publisher=[[葦書房]]|isbn= 4751208012|ref=堀}} * {{Cite book|和書|author=山住正己|authorlink=山住正己|chapter=君が代|editor=平凡社|editor-link=平凡社|year=1988|month=3|title=世界大百科事典7 キセ - キン|series=|publisher=平凡社|isbn=4-582-02200-6|ref=山住}} * {{Cite book|和書|author=山田孝雄|authorlink=山田孝雄|year=1956|title=君が代の歴史|publisher=[[宝文館出版]]|location=日本|isbn=|ref=山田孝}} * {{Cite book|和書|author=弓狩匡純|authorlink=弓狩匡純|year=2004|title=国のうた|publisher=[[文藝春秋]]|location=日本|isbn=9784163659909|ref=弓狩}} * {{Cite book|和書|author1=和田信二郎|authorlink1=和田信二郎|year=1998|title=君が代と萬歳|publisher=ミュージアム図書|isbn=4-944113-27-7|ref=和田|date=|accessdate=}} - 光風館書店([[1934年]](昭和9年)刊)の復刊。 * {{Cite book|和書|author=|translator=|editor=フランク・B・ギブニー|chapter=君が代|year=1973|month=6|title=[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典2|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|ref=TBS}} === 雑誌論文 === * {{cite journal|和書|url=https://hdl.handle.net/11094/10124 |title=わが国の国旗・国歌の歴史的意義とその法的位置づけ|author=大西斎 |journal=国際公共政策研究 |volume=14 |number=1 |pages=77- 90 |date=2009-09 |publisher=大阪大学大学院国際公共政策研究科 |naid=40016868513 |ncid=AA1115271X |ref={{SfnRef|大西|2009}}}} * {{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.15113/00013343 |title=国旗・国歌法の立法過程の検討 : 憲法学の立場から |author=小野善康|format=PDF|journal=アルテス リベラレス (岩手大学人文社会科学部紀要)|volume=68 |pages=139-169 |date=2001-06 |publisher=岩手大学人文社会科学部 |doi=10.15113/00013343 |ref={{SfnRef|小野|2001}}|year=|access-date=2020年3月26日}} * {{cite|和書|title=定家八代抄賀歌に関する一考察|author=後藤重郎|journal=(東京大学国語国文学会)国語と国文学|volume=51 |number=6 |pages=1-16 |date=1974-06|publisher=[[至文堂]]|naid=40001293612 |ref=後藤}} === その他 === * 『君が代のすべて』キングレコード、2000年 == 関連項目 == * [[妙香寺 (横浜市)]] - 君が代発祥地 * [[さざれ石]] - [[伊吹山]]、[[姉川]]、旧[[春日村 (岐阜県)]]を参照。 * [[海行かば]] - [[太平洋戦争]]時に良く歌われた[[国民歌]]。 * [[君が代行進曲]] - 君が代をマーチに編曲した行進曲 * [[まるや君が代]] - 新潟県の麺類のブランド * [[万世一系]] 下記の放送局では、放送開始・終了時の[[局名告知]]として君が代と[[日章旗|日の丸]]を使用している。 * [[NHK総合テレビジョン]](NHK総合) - 放送開始・終了時の局名告知のBGMとして君が代を使用している。かつては、[[NHK教育テレビジョン]](NHK Eテレ)でも本曲が使用されていた。(なお現在Eテレにおいても総合テレビジョン同様国歌が流れる。) * [[テレビ大分]](TOS、[[日本テレビ系列]]・[[フジテレビ系列]]の[[クロスネット局]]) - 1980年代から1990年代中盤まで局名告知のBGMとして使用していた。 * [[テレビ熊本]](TKU・フジテレビ系列) - 開局時から1980年代始めまで局名告知のBGMとして使用していた。 * [[ニッポン放送]](JOLF) - 1954年(昭和29年)7月15日の開局時より放送開始時の局名告知のBGMとして使用している。 * [[福井放送]](FBC • 日本テレビ系列) - 一時期、ラジオで使用されたことがある。 * [[関西テレビ放送]](KTV • フジテレビ系列) - 1960年代の一時期、オープニングで使用された。 == 外部リンク == * [https://www8.cao.go.jp/chosei/kokkikokka/kokkikokka.html 「国旗・国歌」について] - [[内閣府]] * [https://www.mod.go.jp/msdf/tokyoband/kimigayo.html 国歌「君が代」について] - [[音楽隊 (海上自衛隊)|海上自衛隊東京音楽隊]] * [https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/11583 「君が代」の歴史的変遷 2019/07/05 吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)] - [[同志社女子大学]] <!-- * [http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906.htm 文部科学省 報道発表 学校における国旗及び国歌に関する指導について] サイトマップへ転送される為コメントアウト --> {{アジアの国歌}} {{日本の音楽}} {{日本関連の項目}} {{Portal bar|日本|音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きみかよ}} [[Category:君が代|*]] [[Category:日本の国の象徴|*こつか]] [[Category:アジアの国歌]] [[Category:楽曲 き|みかよ]] [[Category:和歌]] [[Category:古今和歌集]]
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日本の銀行一覧
日本の銀行一覧(にほんのぎんこういちらん)は、日本国内に本店・在日支店を置く銀行を一覧にしたものである。 なお、下記のカテゴリページにおいて、各分類別の銀行一覧を参照できる。 過去に存在した銀行については、下記のカテゴリページを参照。 ※ 銀行名の前の数字は、「統一金融機関コード」。ただし本記事の正確性を保証するものではなく、取引に利用する際には必ず金融機関にて確認されたい。 2000年のジャパンネット銀行以後、新規に設立された銀行。何らかの特定業務に特化している。 太字の信託銀行はいわゆるリテール系信託(予定を含む。)
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日本の銀行一覧(にほんのぎんこういちらん)は、日本国内に本店・在日支店を置く銀行を一覧にしたものである。
{{Pathnav|銀行の一覧|frame=1}} '''日本の銀行一覧'''(にほんのぎんこういちらん)は、[[日本]]国内に本店・在日支店を置く[[銀行]]を一覧にしたものである。 == 概要 == なお、下記のカテゴリページにおいて、各分類別の銀行一覧を参照できる。 * [[:Category:日本の銀行]] ** [[:Category:都市銀行]] ** [[:Category:地方銀行]] ** [[:Category:第二地方銀行]] ** [[:Category:新たな形態の銀行]] ** [[:Category:信託銀行]] ** [[:Category:政策金融機関]](政府系金融機関) 過去に存在した銀行については、下記のカテゴリページを参照。 * [[:Category:かつて存在した日本の銀行]] ※ 銀行名の前の数字は、「[[統一金融機関コードの一覧|統一金融機関コード]]」。ただし本記事の正確性を保証するものではなく、取引に利用する際には必ず金融機関にて確認されたい。 <!-- (この記事は[[Wikipedia:完璧なスタブ記事|書きかけ]]です。項目の追加も見込まれますし、より細かく分類する必要も検討すべきです) --><!-- 金融庁の免許・登録業者一覧 https://www.fsa.go.jp/menkyo/menkyoj/ginkou.pdf に区分を合わせました。 --> == 中央銀行 == * 0000 [[日本銀行]] - 日銀 == 普通銀行 == === 都市銀行 === * 0001 [[みずほ銀行]] - MHBK * 0005 [[三菱UFJ銀行]] - MUFG * 0009 [[三井住友銀行]] - SMBC * 0010 [[りそな銀行]] * 0017 [[埼玉りそな銀行]] === 地方銀行 === ==== 北海道(北海道財務局) ==== * 0116 [[北海道銀行]](北海道) - 道銀 ==== 東北(東北財務局) ==== * 0117 [[青森銀行]](青森県) - あおぎん * 0118 [[みちのく銀行]](青森県) - みち銀、みちのく * 0119 [[秋田銀行]](秋田県) - あきぎん * 0120 [[北都銀行]](秋田県) * 0121 [[荘内銀行]](山形県) - 荘銀 * 0122 [[山形銀行]](山形県) - 山銀、やまぎん * 0123 [[岩手銀行]](岩手県) - いわぎん * 0124 [[東北銀行]](岩手県) - とうぎん * 0125 [[七十七銀行]](宮城県)- しちしち * 0126 [[東邦銀行]](福島県) ==== 関東甲信越(関東財務局) ==== * 0128 [[群馬銀行]](群馬県) - 群銀、ぐんぎん、GB * 0129 [[足利銀行]](栃木県) - あしぎん、足銀 * 0130 [[常陽銀行]](茨城県) - 常銀、じょうぎん、常陽 * 0131 [[筑波銀行]](茨城県) * 0133 [[武蔵野銀行]](埼玉県) - むさしの、武銀 * 0134 [[千葉銀行]](千葉県) - ちばぎん * 0135 [[千葉興業銀行]](千葉県) - ちば興銀、こうぎん、ちばこうぎん * 0137 [[きらぼし銀行]](東京都)-きらぼし * 0138 [[横浜銀行]](神奈川県) - 浜銀、はまぎん * 0140 [[第四北越銀行]](新潟県) * 0142 [[山梨中央銀行]](山梨県) - 中銀 * 0143 [[八十二銀行]](長野県)- はちに ==== 北陸(北陸財務局) ==== * 0144 [[北陸銀行]](富山県) - ほくぎん * 0145 [[富山銀行]](富山県) * 0146 [[北國銀行]](石川県)- 北國、ほっこく * 0147 [[福井銀行]](福井県) - 福銀 ==== 東海(東海財務局) ==== * 0149 [[静岡銀行]](静岡県) - しずぎん * 0150 [[スルガ銀行]](静岡県) * 0151 [[清水銀行]](静岡県) * 0152 [[大垣共立銀行]](岐阜県) - OKB * 0153 [[十六銀行]](岐阜県) * 0154 [[三十三銀行]](三重県) * 0155 [[百五銀行]](三重県) ==== 近畿(近畿財務局) ==== * 0157 [[滋賀銀行]](滋賀県) - しがぎん * 0158 [[京都銀行]](京都府) - 京銀 * 0159 [[関西みらい銀行]](大阪府) * 0161 [[池田泉州銀行]](大阪府) * 0162 [[南都銀行]](奈良県) * 0163 [[紀陽銀行]](和歌山県) * 0164 [[但馬銀行]](兵庫県) - 但銀 ==== 中国(中国財務局) ==== * 0166 [[鳥取銀行]](鳥取県) - とりぎん * 0167 [[山陰合同銀行]](島根県) - ごうぎん * 0168 [[中国銀行 (日本)|中国銀行]](岡山県) - 中銀 * 0169 [[広島銀行]](広島県) - ひろぎん * 0170 [[山口銀行]](山口県) - 山銀、やまぎん ==== 四国(四国財務局)==== * 0172 [[阿波銀行]](徳島県) - あわぎん、阿波銀 * 0173 [[百十四銀行]](香川県) * 0174 [[伊予銀行]](愛媛県) - いよぎん、伊予銀 * 0175 [[四国銀行]](高知県) - 四銀 ==== 九州・沖縄 ==== ===== 福岡財務支局管轄 ===== * 0177 [[福岡銀行]](福岡県) - 福銀、ふくぎん * 0178 [[筑邦銀行]](福岡県) - 筑銀 * 0190 [[西日本シティ銀行]](福岡県) - 西銀、西日本シ銀、シティ銀 * 0191 [[北九州銀行]](福岡県) * 0179 [[佐賀銀行]](佐賀県) - 佐銀 * 0181 [[十八親和銀行]](長崎県) ===== 九州財務局管轄 ===== * 0182 [[肥後銀行]](熊本県) - 肥銀、ひぎん * 0183 [[大分銀行]](大分県) - 大銀、だいぎん * 0184 [[宮崎銀行]](宮崎県) - 宮銀、みやぎん * 0185 [[鹿児島銀行]](鹿児島県) - 鹿銀、かぎん ===== 内閣府沖縄総合事務局財務部管轄 ===== * 0187 [[琉球銀行]](沖縄県) - りゅうぎん * 0188 [[沖縄銀行]](沖縄県) - 沖銀、おきぎん === 第二地方銀行 === ==== 北海道 ==== * 0501 [[北洋銀行]](北海道) - 北洋 ==== 東北 ==== * 0508 [[きらやか銀行]](山形県) * 0509 [[北日本銀行]](岩手県) - きたぎん * 0512 [[仙台銀行]](宮城県) * 0513 [[福島銀行]](福島県) * 0514 [[大東銀行]](福島県) ==== 関東甲信越 ==== * 0516 [[東和銀行]](群馬県) * 0517 [[栃木銀行]](栃木県) - 栃銀 * 0522 [[京葉銀行]](千葉県)- アルファバンク * 0525 [[東日本銀行]](東京都) * 0526 [[東京スター銀行]](東京都) * 0530 [[神奈川銀行]](神奈川県)- かなぎん * 0532 [[大光銀行]](新潟県) - たいこう * 0533 [[長野銀行]](長野県)- ながぎん ==== 北陸 ==== * 0534 [[富山第一銀行]](富山県) * 0537 [[福邦銀行]](福井県) ==== 東海 ==== * 0538 [[静岡中央銀行]](静岡県) - しずちゅう * 0542 [[愛知銀行]](愛知県) - 愛銀 * 0543 [[名古屋銀行]](愛知県) - 名銀 * 0544 [[中京銀行]](愛知県) ==== 近畿 ==== * 0562 [[みなと銀行]](兵庫県) ==== 中国 ==== * 0565 [[島根銀行]](島根県) * 0566 [[トマト銀行]](岡山県) * 0569 [[もみじ銀行]](広島県) * 0570 [[西京銀行]](山口県) ==== 四国 ==== * 0572 [[徳島大正銀行]](徳島県) * 0573 [[香川銀行]](香川県)- 香銀、かぎん * 0576 [[愛媛銀行]](愛媛県) - ひめぎん * 0578 [[高知銀行]](高知県) - 高銀、こうぎん ==== 九州・沖縄 ==== * 0582 [[福岡中央銀行]](福岡県)- ふくちゅう * 0583 [[佐賀共栄銀行]](佐賀県) - きょうぎん * 0585 [[長崎銀行]](長崎県)- ちょうぎん * 0587 [[熊本銀行]](熊本県)- くまぎん * 0590 [[豊和銀行]](大分県) * 0591 [[宮崎太陽銀行]](宮崎県) * 0594 [[南日本銀行]](鹿児島県) - 南銀、なんぎん * 0596 [[沖縄海邦銀行]](沖縄県) - かいぎん === 新たな形態の銀行 === [[2000年]]のジャパンネット銀行以後、新規に設立された銀行。何らかの特定業務に特化している。 ==== ネット銀行 ==== * 0033 [[PayPay銀行]](旧ジャパンネット銀行) - [[ヤフー (企業)|ヤフー]]と[[三井住友フィナンシャルグループ]]による合弁。 * 0035 [[ソニー銀行]]([[ソニーフィナンシャルホールディングス]]) * 0036 [[楽天銀行]]([[楽天グループ|楽天]]グループ) * 0038 [[住信SBIネット銀行]] - [[住友信託銀行]]と[[SBIホールディングス]]による合弁。 * 0039 [[auじぶん銀行]] - [[三菱UFJ銀行]]と[[KDDI]]による合弁。 * 0041 [[大和ネクスト銀行]]([[大和証券グループ本社]]) * 0043 [[みんなの銀行]] - [[ふくおかフィナンシャルグループ]]が設立。全てのサービスがスマートフォンで完結する銀行となっている。 * 0044 [[UI銀行]] - [[東京きらぼしフィナンシャルグループ]]が設立。 * 0310 [[GMOあおぞらネット銀行]]([[あおぞら銀行]]子会社) ===== 流通系 ===== * 0034 [[セブン銀行]] - [[セブン&アイ・ホールディングス]]の店舗内のATMの設置・運営と、個人の決済業務を主体とする。[[現金自動預け払い機|ATM]]網の全国展開。 * 0040 [[イオン銀行]] - [[イオン (企業)|イオングループ]]店舗に[[インストアブランチ]]という形で一般に言う支店(有人拠点)を設け、多くの店舗に多機能ATMを設置。[[ショッピングセンター]]利用の個人を対象。 * 0042 [[ローソン銀行]] - [[ローソン]]店舗内に設置。キャッシュレスサービスに重点。 === かつての長期信用銀行・商工組合中央金庫(LONGS加盟行) === * 0397 [[SBI新生銀行]]([[2004年]][[4月1日]]、普通銀行に転換) * 0398 [[あおぞら銀行]]([[2006年]]4月1日、普通銀行に転換) * 2004 [[商工組合中央金庫]] <!--LONGS加盟行というのであれば商工中金を含むが、長期信用銀行というくくりでは新生銀行は当てはまらないし、かといって都市銀行ではないし、統一金融機関コードの変更もなされていない--> === ゆうちょ銀行 === * 9900 [[ゆうちょ銀行]] === 外国銀行の日本現地法人 === * 0472 [[SBJ銀行]] - [[新韓銀行]]を中核とする 「新韓金融グループ」 の日本現地法人。 == 信託銀行 == 太字の信託銀行はいわゆるリテール系信託(予定を含む。) * 0288 '''[[三菱UFJ信託銀行]]'''([[三菱UFJフィナンシャル・グループ]]傘下) * 0289 '''[[みずほ信託銀行]]'''([[みずほフィナンシャルグループ]]傘下) * 0294 '''[[三井住友信託銀行]]'''([[三井住友トラスト・ホールディングス]]傘下) * 0295 [[バンク・オブ・ニューヨーク・メロン|ニューヨークメロン信託銀行]] * 0297 [[日本マスタートラスト信託銀行]] * 0299 [[ステート・ストリート|ステート・ストリート信託銀行]] * 0300 '''[[SMBC信託銀行]]'''([[三井住友フィナンシャルグループ]]) * 0304 '''[[野村信託銀行]]''' ([[野村ホールディングス]]) * 0307 '''[[オリックス銀行]]''' (オリックス信託銀行から商号変更、[[オリックス (企業)|オリックス]]グループ) * 0311 [[農中信託銀行]] ([[農林中央金庫]]子会社) * 0320 [[新生信託銀行]] ([[SBI新生銀行]]子会社) * 0321 [[日証金信託銀行]] ([[日本証券金融|日証金]]子会社) * 0324 [[日本カストディ銀行]] == 政策金融機関(政府系金融機関) == * 9930 [[日本政策投資銀行]] * 9932 [[日本政策金融公庫]] * 9933 [[国際協力銀行]] * 9944 [[沖縄振興開発金融公庫]] * 9940 [[地方公共団体金融機構]] * {{0000}} [[住宅金融支援機構]] == 継承銀行 == * 2213 [[整理回収機構]] == 在日外国銀行 == * 0401 {{Flagicon|USA}}[[シティバンク、エヌ・エイ (在日支店)|シティバンク、エヌ・エイ東京支店]] * 0402 {{Flagicon|USA}}[[JPモルガン・チェース|JPモルガン・チェース銀行]] * 0403 {{Flagicon|USA}}[[バンク・オブ・アメリカ|バンク・オブ・アメリカ・エヌ・エイ]] * 0411 {{Flagicon|HKG}}[[香港上海銀行]] * 0413 {{Flagicon|GBR}}[[スタンダードチャータード銀行]] * 0414 {{Flagicon|GBR}}[[バークレイズ]] * 0415 {{Flagicon|GBR}}[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド|ロイヤル・バンク・オブスコットランド・ピーエルシー]] * 0421 {{Flagicon|FRA}}[[クレディ・アグリコル・コーポレート・アンド・インベストメント・バンク|クレディ・アグリコル銀行]] * 0423 {{Flagicon|KOR}}[[KEBハナ銀行|ハナ銀行]] * 0424 {{Flagicon|IND}}[[インド銀行|バンク・オブ・インディア]] * 0425 {{Flagicon|ROC}}[[兆豊国際商業銀行|兆豐國際商業銀行]] * 0426 {{Flagicon|THA}}[[バンコク銀行|バンコック銀行]] * 0429 {{Flagicon|INA}}{{仮リンク|バンクネガラインドネシア|en|Bank Negara Indonesia}} * 0430 {{Flagicon|GER}}[[ドイツ銀行]] * 0432 {{Flagicon|BRA}}[[ブラジル銀行]] * 0438 {{Flagicon|SIN}}[[ユナイテッド・オーバーシーズ銀行]] * 0439 {{Flagicon|SUI}}[[UBS|ユービーエス]] * 0443 {{Flagicon|FRA}}[[BNPパリバ|ビー・エヌ・ピー・パリバ銀行]] * 0444 {{Flagicon|SIN}}[[華僑銀行|オーバーシー・チャイニーズ銀行]] * 0445 {{Flagicon|FRA}}[[ソシエテ・ジェネラル]]銀行 * 0456 {{Flagicon|FRA}}[[ユバフーアラブ・フランス連合銀行]] * 0458 {{Flagicon|SIN}}[[DBS銀行]] * 0459 {{Flagicon|PAK}}{{仮リンク|パキスタン・ナショナル銀行|en|National Bank of Pakistan}} * 0460 {{Flagicon|SUI}}[[クレディ・スイス]]銀行 * 0461 {{Flagicon|GER}}[[コメルツ銀行]] * 0468 {{Flagicon|IND}}[[インドステイト銀行]] * 0471 {{Flagicon|CAN}}[[カナダ・ロイヤル銀行|カナダロイヤル銀行]] * 0477 {{Flagicon|KOR}}[[ウリィ銀行]] * 0482 {{Flagicon|NED}}[[INGグループ|アイエヌジーバンク エヌ・エイ]] * 0484 {{Flagicon|AUS}}[[ナショナルオーストラリア銀行|ナショナル・オーストラリア銀行]] * 0485 {{Flagicon|AUS}}[[オーストラリア・ニュージーランド銀行]] * 0487 {{Flagicon|AUS}}[[オーストラリア・コモンウェルス銀行]] * 0489 {{Flagicon|CHN}}[[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]] * 0495 {{Flagicon|USA}}[[ステート・ストリート]]銀行 * 0498 {{Flagicon|KOR}}[[中小企業銀行]] * 0603 {{Flagicon|KOR}}[[韓国産業銀行]] * 0607 {{Flagicon|ROC}}[[彰化銀行|彰化商業銀行]] * 0608 {{Flagicon|USA}}[[ウェルズ・ファーゴ]]銀行 * 0611 {{Flagicon|ROC}}[[第一銀行 (台湾)|第一商業銀行]] * 0612 {{Flagicon|ROC}}[[台湾銀行]] * 0615 {{Flagicon|CHN}}[[交通銀行]] * 0616 {{Flagicon|PHI}}[[メトロポリタン銀行]] * 0617 {{Flagicon|PHI}}{{仮リンク|フィリピン・ナショナル・バンク|en|Philippine National Bank}} * 0619 {{Flagicon|CHN}}[[中国工商銀行]] * 0621 {{Flagicon|ROC}}[[中国信託銀行|中國信託商業銀行]] * 0623 {{Flagicon|ITA}}[[インテーザ・サンパオロ]]・エッセ・ピー・ア * 0624 {{Flagicon|KOR}}[[KB国民銀行|國民銀行]] * 0625 {{Flagicon|CHN}}[[中国建設銀行]] * 0627 {{Flagicon|ESP}}[[ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行]] * 0630 {{Flagicon|CHN}}[[中国農業銀行]] * 0631 {{Flagicon|ROC}}[[台新國際商業銀行]] * 0632 {{Flagicon|ROC}}[[玉山銀行]] * 0633 {{Flagicon|ROC}}[[台湾中小企業銀行]] * 0634 {{Flagicon|BEL}}[[ユーロクリア]]・バンク・エスアー・エヌヴェー == 関連項目 == * [[全国銀行協会]] * [[全国地方銀行協会]] * [[第二地方銀行協会]] * [[信託協会]] * [[日本の信用金庫一覧]] * [[日本の信用組合一覧]] * [[労働金庫]] * [[JAバンク]] * [[JFマリンバンク]] == 外部リンク == * [https://www.fsa.go.jp/menkyo/menkyo.html 免許・許可・登録等を受けている業者一覧] - [[金融庁]] * [https://www.zenginkyo.or.jp/ 全国銀行協会] * [https://www.chiginkyo.or.jp/ 全国地方銀行協会] * [https://www.dainichiginkyo.or.jp/ 第二地方銀行協会] * [https://www.shintaku-kyokai.or.jp/ 信託協会] {{アジアの題材|銀行の一覧}} [[Category:日本企業の一覧 (分野別)|きんこう]] [[Category:日本の銀行|*いちらん]] [[Category:銀行の一覧|にほん]] [[Category:施設の一覧|にほんのきんこう]]
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エルフ (ブランド)
エルフ(仏: élf)及び株式会社エルフは、かつて存在した東京都中野区に拠点を置いていたアダルトゲームブランド及び制作会社である。 代表作は『ドラゴンナイト』シリーズ、『同級生』シリーズ、『下級生』シリーズ、『伊頭家』シリーズなど。 1989年4月に、有限会社キララ(現・株式会社F&C)のブランド・フェアリーテールからシナリオの蛭田昌人、原画の阿比留壽浩、プログラマの金尾淳が独立する形となり、東京都世田谷区で創業した。ただし、ブランドとしてはそれ以前から活動しており、デビュー作の『ドキドキ!シャッターチャンス!!』は1988年12月に発売されている。ブランド名の由来は妖精のエルフから。同業他社と比べて殊更チラリズムに力を入れた作品が非常に多く、むやみに「あれれ」と叫ぶキャラクターや明るくスケベな主人公、美形だが嫌味な金持ち御曹司のライバルキャラなどを頻繁に登場させるといった特徴がある。 『ドラゴンナイト』でジャンルに囚われない作風と、グラフィックの流麗さで業界外からも注目を受けた。『同級生』の大ヒットで業界トップクラスのブランドとなり、当時は「東のエルフ、西のアリス」と謳われた。1992年には姉妹ブランドのシルキーズ (SILKY'S) を発足し、エルフとはやや毛色の異なる作品を次々と発表していく。 『同級生』以降、竹井正樹や横田守といったアニメーター経験者や門井亜矢らなど外注原画家指向により活躍の場を失った阿比留は退社し、ミンクを起ち上げる。また、横田も『遺作』を最後に袂を分かち、Teriosを発足させる。 同時期、シーズウェアで『DESIRE』や『EVE burst error』を発表し、人気を得ていた剣乃ゆきひろ(菅野ひろゆき)を内部スタッフとして招致し、取締役に迎える。剣乃による『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』もまた、ユーザーからの評価や売上で共に大きな実績を残した。 1990年代後半には、ライセンス許諾の形でコンシューマ市場に参入。NECアベニューやバンプレストなどにより移植された代表作数本は、計約40万本を売り上げる。また、2006年には、バンプレストからiモード用のゲームアプリ『エルフオールスター雀』がリリースされた。 また、18歳未満購入禁止の制限枠(18禁枠)を設けてアダルトゲームからの移植を容認する方針を示したセガサターン(以降、「SS」と記述)へは自社移植の形でも参入した。その発売作品の多くがあまり間を置かずにほぼ同じ内容のWindows 95版も発売されていることから、逆移植を参入当初より視野に入れたものだったことが窺える。後にセガが18禁枠を撤廃した時を境に、SSへの自社移植からは撤退した。 剣乃は諸事情から『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』のSSへの自社移植完了を待たずに退社。ペンネームを菅野ひろゆきに戻して株式会社アーベルを起ち上げている。 2000年夏には、看板ソフトのほとんどをディレクションしてきた蛭田が代表取締役の座を下田篤に譲って引退。なお、エルフ設立当初から蛭田は3期12年で退任する予定だったという。 以後は企画や開発の中心を、外部ライターとのコラボレーションに移行していくこととなる。 過去に販売した作品のリメイクや最新のOSへの移植にも取り組んでおり、2004年から2007年にかけて『WORDS WORTH』や『SHANGRLIA』、『ドラゴンナイト4』などがリメイクされている。2008年からは、DMMによる過去作のダウンロード販売も実施し、『同級生』や『下級生』などのDOS時代オリジナルの復刻版も発売されている。 2006年に新ブランド「BANANA Shu-Shu」を設立し、同年8月25日に『たまたま 〜となりの彼女は声優のたまご。たまたま生まれた恋のたまごが...』を発売した。同ブランドは2008年1月31日に解散している。 2008年以降の作品は、土天冥海のシナリオによる寝取り・寝取られ物が中心となった。 2014年1月、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』の権利をMAGES.へ譲渡。 2014年6月には、シルキーズの『愛姉妹IV 悔しくて気持ち良かったなんて言えない』を最後にエルフとシルキーズのスタッフほぼ全員が独立し、シルキーズプラスを設立した。 2016年3月1日、同月末日をもって公式サイトを閉鎖する旨を発表し、4月1日付でユーザーサポートと問い合わせのページを残してサイトが閉鎖された。それ以降、『同級生』や『ドラゴンナイト』などのシリーズタイトルを引き継いだ新作や『同級生〜Another World〜』、『ドラゴンナイト5』等それらに関係するブラウザゲームについては、DMM GAMESが権利を有している。 2017年3月1日、同年3月25日を以てユーザーサポートと問い合わせのページを終了すると発表し、3月25日に公式サイトを完全に閉鎖した。 エルフ・シルキーズの多くの作品の販売は、DMM GAMESにより継続されている。ただし、MAGES.に譲渡されている『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』など権利がDMM以外が保有している物はDMMでは販売されていない。 ※印は成人向けと局部に修正を入れるなどした一般向けの2種類が発売された。 括弧内は許諾先。 外注として参加した人物や退社した人物も含む。
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エルフ及び株式会社エルフは、かつて存在した東京都中野区に拠点を置いていたアダルトゲームブランド及び制作会社である。 代表作は『ドラゴンナイト』シリーズ、『同級生』シリーズ、『下級生』シリーズ、『伊頭家』シリーズなど。
{{出典の明記|date=2019年8月}} {{基礎情報 会社 |社名 = 株式会社エルフ |英文社名 = ELF Co.,Ltd. |ロゴ = [[File:ELF Corporation logo.png|160px]] |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = |国籍 = {{JPN}} |郵便番号 = 164-0001 |本社所在地 = [[東京都]][[中野区]]中野4丁目3番1号 |設立 = [[1989年]][[4月]] |業種 = 5250 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = [[アダルトゲーム]]の[[企画]]・[[開発]]・[[販売]] |代表者 = 下田篤([[代表取締役]]) |資本金 = |売上高 = |総資産 = |従業員数 = |決算期 = |主要株主 = |主要子会社 = |関係する人物 = [[#主な元スタッフ]]を参照 |外部リンク = }} {{美少女ゲームブランド |ブランド名 = エルフ |企業名 = 株式会社エルフ |代表者 = 下田篤 |関連ブランド = [[シルキーズ]]<br />[[#イエローピッグ|イエローピッグ]]<br />[[#BANANA shu-shu|BANANA shu-shu]] |主要人物 = |デビュー作 = ドキドキ!シャッターチャンス!! |デビュー作発売日 = [[1988年]][[12月8日]] |最終作 = 麻呂の患者はガテン系3 完結編 |最終作発売日 = [[2015年]][[10月15日]] |URL = |サイト名 = }} '''エルフ'''({{lang-fr-short|élf}})及び'''株式会社エルフ'''は、かつて存在した[[東京都]][[中野区]]に拠点を置いていた[[アダルトゲーム]]ブランド及び制作会社である。 代表作は『[[ドラゴンナイト]]』シリーズ、『[[同級生 (ゲーム)|同級生]]』シリーズ、『[[下級生 (ゲーム)|下級生]]』シリーズ、『伊頭家』シリーズなど。 == 沿革・概要 == [[1989年]][[4月]]に、有限会社キララ(現・株式会社[[F&C]])のブランド・[[フェアリーテール (ブランド)|フェアリーテール]]から[[シナリオ]]の[[蛭田昌人]]、[[原画]]の阿比留壽浩、[[プログラマ]]の金尾淳が独立する形となり、[[東京都]][[世田谷区]]で創業した。ただし、ブランドとしてはそれ以前から活動しており、デビュー作の『ドキドキ!シャッターチャンス!!』は[[1988年]][[12月]]に発売されている。 {{Quote|“エルフ”という社名については、代表取締役に就任した蛭田氏による「長命の妖精族(エルフ)にあやかって」(『パソコンパラダイス』1992年12月号)というインタビューでの発言が知られているが、実際には立ち上げ前の宴席で、語感がいいということで金尾氏が提案したものらしい。|森瀬繚|https://www.famitsu.com/news/202310/08318863.html}} 同業他社と比べて殊更[[チラリズム]]に力を入れた作品が非常に多く、むやみに「あれれ」と叫ぶキャラクターや明るくスケベな主人公、美形だが嫌味な金持ち御曹司のライバルキャラなどを頻繁に登場させるといった特徴がある。 『[[ドラゴンナイト]]』でジャンルに囚われない作風と、グラフィックの流麗さで業界外からも注目を受けた。『[[同級生 (ゲーム)|同級生]]』の大ヒットで業界トップクラスのブランドとなり、当時は「東のエルフ、西の[[アリスソフト|アリス]]」と謳われた。[[1992年]]には姉妹ブランドの[[シルキーズ]] (SILKY'S) を発足し、エルフとはやや毛色の異なる作品を次々と発表していく。 『同級生』以降、[[竹井正樹]]や[[横田守]]といったアニメーター経験者や[[門井亜矢]]らなど外注原画家指向により活躍の場を失った阿比留は退社し、[[ミンク (企業)|ミンク]]を起ち上げる。また、横田も『[[遺作 (ゲーム)|遺作]]』を最後に袂を分かち、[[Terios]]を発足させる。 同時期、[[シーズウェア]]で『[[DESIRE (ゲーム)|DESIRE]]』や『[[EVE burst error]]』を発表し、人気を得ていた剣乃ゆきひろ([[菅野ひろゆき]])を内部スタッフとして招致し、[[取締役]]に迎える。剣乃による『[[この世の果てで恋を唄う少女YU-NO]]』もまた、ユーザーからの評価や売上で共に大きな実績を残した。 [[1990年代]]後半には、[[ライセンス]]許諾の形で[[コンシューマ]]市場に参入。[[NECアベニュー]]や[[バンプレスト]]などにより移植された代表作数本は、計約40万本を売り上げる。また、[[2006年]]には、バンプレストから[[iモード]]用のゲームアプリ『エルフオールスター雀』がリリースされた。 また、18歳未満購入禁止の制限枠(18禁枠)を設けてアダルトゲームからの移植を容認する方針を示した[[セガサターン]](以降、「SS」と記述)へは自社移植の形でも参入した。その発売作品の多くがあまり間を置かずにほぼ同じ内容の[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]版も発売されていることから、[[アダルトゲーム#移植と逆移植|逆移植]]を参入当初より視野に入れたものだったことが窺える。後に[[セガ]]が18禁枠を撤廃した時を境に、SSへの自社移植からは撤退した。 剣乃は諸事情から『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』のSSへの自社移植完了を待たずに退社。ペンネームを菅野ひろゆきに戻して株式会社[[アーベル (ゲーム会社)|アーベル]]を起ち上げている。 [[2000年]]夏には、看板ソフトのほとんどをディレクションしてきた蛭田が[[代表取締役]]の座を下田篤に譲って引退。なお、エルフ設立当初から蛭田は3期12年で退任する予定だったという<ref>[[PC Angel neo|PC Angel]]2000年6月号掲載の下田へのインタビュー記事による。</ref>。 以後は企画や開発の中心を、外部ライターとのコラボレーションに移行していくこととなる。 ; 例 : [[あかほりさとる]]とのコラボによる『[[らいむいろ戦奇譚]]』。 : [[河野一二三]]が代表を務めるゲームディベロッパー・[[ヌードメーカー]]との提携による『[[御神楽少女探偵団|新・御神楽少女探偵団]]』、『AVキング』。 : 『[[下級生2]]』における[[原田宇陀児]]へのシナリオ依頼。なお、原田は途中で降板した。 : [[団鬼六]]原作の小説『[[花と蛇]]』を原作とする同名ゲームの発表。 過去に販売した作品の[[リメイク]]や最新の[[オペレーティングシステム|OS]]への移植にも取り組んでおり、[[2004年]]から[[2007年]]にかけて『[[ワーズ・ワース|WORDS WORTH]]』や『SHANGRLIA』、『[[ドラゴンナイト4]]』などがリメイクされている。[[2008年]]からは、[[DMM.com|DMM]]による過去作の[[ダウンロード販売]]も実施し、『[[同級生 (ゲーム)|同級生]]』や『[[下級生 (ゲーム)|下級生]]』などの[[MS-DOS|DOS]]時代オリジナルの復刻版も発売されている。 [[2006年]]に新ブランド「'''BANANA Shu-Shu'''」を設立し、同年[[8月25日]]に『[[たまたま 〜となりの彼女は声優のたまご。たまたま生まれた恋のたまごが…]]』を発売した。同ブランドは[[2008年]][[1月31日]]に解散している。 [[2008年]]以降の作品は、土天冥海のシナリオによる寝取り・寝取られ物が中心となった。 2014年1月、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』の権利を[[MAGES.]]へ譲渡<ref>[https://www.famitsu.com/news/201412/29068836.html 『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』“フルリメイク”の真相とは? 浅田誠プロデューサーを直撃!] - ファミ通.com 2014年12月29日閲覧</ref>。 [[2014年]]6月には、シルキーズの『[[愛姉妹#愛姉妹IV 悔しくて気持ち良かったなんて言えない|愛姉妹IV 悔しくて気持ち良かったなんて言えない]]』を最後にエルフとシルキーズのスタッフほぼ全員が独立し、[[シルキーズプラス]]を設立した<ref>[http://www.silkysplus.jp/contact/contact00.html 独立に関するお問い合わせについて] - シルキーズプラス公式ホームページ 2014年7月12日閲覧</ref>。 [[2016年]][[3月1日]]、同月末日をもって公式サイトを閉鎖する旨を発表し、[[4月1日]]付でユーザーサポートと問い合わせのページを残してサイトが閉鎖された。それ以降、『同級生』や『ドラゴンナイト』などのシリーズタイトルを引き継いだ新作や『同級生〜Another World〜』、『ドラゴンナイト5』等それらに関係するブラウザゲームについては、[[DMM.com|DMM GAMES]]が権利を有している。 [[2017年]][[3月1日]]、同年[[3月25日]]を以てユーザーサポートと問い合わせのページを終了すると発表し、3月25日に公式サイトを完全に閉鎖した。 エルフ・シルキーズの多くの作品の販売は、DMM GAMESにより継続されている。ただし、MAGES.に譲渡されている『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』など権利がDMM以外が保有している物はDMMでは販売されていない。 == 作品一覧 == === パソコンゲーム === ※印は成人向けと局部に修正を入れるなどした一般向けの2種類が発売された。 ==== シリーズもの ==== * '''[[ドラゴンナイト|ドラゴンナイトシリーズ]]''' ** [[1989年]][[11月1日]] - ドラゴンナイト ** [[1990年]][[11月30日]] - {{仮リンク|ドラゴンナイトII|en|Dragon Knight II}} ** [[1991年]][[12月14日]] - {{仮リンク|ドラゴンナイトIII|en|Knights of Xentar}}※(「[[沙織事件]]」によって発売が延期された作品) ** [[1994年]][[2月25日]] - [[ドラゴンナイト4]]([[MS-DOS|DOS]]版) *** [[2007年]][[6月29日]] - ドラゴンナイト4([[Microsoft Windows|Windows]]版) * '''FOXYシリーズ''' ** [[1990年]][[2月6日]] - FOXY ** [[1991年]][[4月4日]] - FOXY2 * '''DE・JAシリーズ''' ** [[1990年]][[6月15日]] - DE・JA ** [[1992年]][[6月25日]] - DE・JA2※ ** [[2004年]][[5月28日]] - DE・JA マルチパック * '''SHANGRLIA(シャングリラ)シリーズ''' ** [[1991年]][[8月28日]] - SHANGRLIA(DOS版、Windows版は『[[エルフ大人の缶詰]]』に同梱) ** [[1993年]][[9月30日]] - SHANGRLIA2(DOS版、Windows版は『エルフ大人の缶詰』に同梱) ** [[2005年]][[9月30日]] - シャングリラ マルチパック * '''エルフオールスターズ脱衣雀シリーズ''' ** [[1992年]][[11月13日]] - [[雀JAKA雀]]※(『エルフオールスターズ脱衣雀』のベースになった作品) ** [[2000年]][[3月30日]] - [[エルフオールスターズ脱衣雀]] ** [[2001年]][[11月22日]] - [[エルフオールスターズ脱衣雀2]] ** [[2006年]][[3月31日]] - [[エルフオールスターズ脱衣雀3]] * '''同級生シリーズ''' ** [[1992年]][[12月17日]] - [[同級生 (ゲーム)|同級生]](DOS版) *** [[1999年]][[8月27日]] - 同級生(Windows版) ** [[1995年]][[1月31日]] - [[同級生2]](DOS版) *** [[1997年]][[8月29日]] - 同級生2(Windows版) * '''METAL EYE(メタル・アイ)シリーズ''' ** [[1993年]][[4月28日]] - METAL EYE ** [[1994年]][[8月31日]] - METAL EYE2 * '''伊頭家シリーズ'''(おやぢシリーズ) ** [[1995年]][[8月25日]] - [[遺作 (ゲーム)|遺作]](DOS版) *** [[1997年]][[5月30日]] - 遺作(Windows版) *** [[1999年]][[2月26日]] - 遺作(リニューアル版) *** [[2000年]][[3月1日]] - 遺作([[Macintosh]]版) ** [[1998年]][[3月27日]] - [[臭作]] *** [[1999年]][[12月24日]] - 臭作(Macintosh版) ** [[2001年]][[3月30日]] - [[鬼作]] *** [[2001年]][[6月4日]] - 鬼畜探偵禿作(ファンディスク) * '''下級生シリーズ''' ** [[1996年]][[6月7日]] - [[下級生 (ゲーム)|下級生]](DOS版) *** [[1998年]][[6月26日]] - 下級生(Windows版) *** [[2000年]][[6月23日]] - 下級生(Macintosh版) ** [[1998年]][[7月24日]] - 下級生スクリーンセーバーコレクション(R指定) ** [[2004年]][[8月27日]] - [[下級生2]] * '''河原崎家の一族シリーズ''' ** [[1997年]][[10月1日]] - [[河原崎家の一族]](Windows版。DOS版は[[シルキーズ]]販売) ** [[2003年]][[6月6日]] - [[河原崎家の一族2]] *** [[2010年]][[2月26日]] - 河原崎家の一族2 完全版(ダウンロード版は[[2009年]][[4月23日]]に発売) ** [[2003年]][[10月24日]] - 野々村病院の人々・河原崎家の一族 マルチパック * '''あしたの雪之丞シリーズ''' ** [[2001年]][[8月31日]] - [[あしたの雪之丞]] ** [[2002年]][[9月27日]] - [[あしたの雪之丞|勝 あしたの雪之丞2]] * '''らいむいろシリーズ''' ** [[2002年]][[12月13日]] - [[らいむいろ戦奇譚|らいむいろ戦奇譚 〜明治日本、乙女 防人ス。〜]] ** [[2003年]][[8月29日]] - [[らいむいろ戦奇譚#らいむいろ雀奇譚|らいむいろ雀奇譚 〜明治日本、乙女 先ヅモス。〜]] ** [[2004年]][[12月24日]] - [[らいむいろ戦奇譚#らいむいろ流奇譚X|らいむいろ流奇譚X CROSS 〜恋、教ヘテクダサイ。〜]] ** [[2004年]][[12月24日]] - らいむいろプレミアムセット * '''ガテン系シリーズ''' ** [[2011年]][[12月8日]] - [[ボクの彼女はガテン系/彼女がした事、僕がされた事/巨乳妻完全捕獲計画/ボクの妻がアイツに寝取られました。]](DMMダウンロード専売) ** [[2013年]][[4月25日]] - 麻呂の患者はガテン系(DMMダウンロード専売) ** 2013年[[8月8日]] - 麻呂の患者はガテン系2(DMMダウンロード専売) ** 2013年8月8日 - 麻呂の患者はガテン系 1&2合体版(DMMダウンロード専売) ** [[2015年]][[10月15日]] - 麻呂の患者はガテン系3 完結編(DMMダウンロード専売) ==== その他のタイトル ==== * [[1988年]][[12月8日]] - ドキドキ!シャッターチャンス!! ** 1989年[[2月8日]] - ドキドキ!シャッターチャンス!! 別売データ集(#1 女子校パート2、#2 看護婦編、#3 バスガイド編) * 1989年[[3月13日]] - PRIVATE SCHOOL * 1989年[[6月20日]] - [[Angel Hearts (ゲーム)|Angel Hearts]] * 1989年[[7月13日]] - PINKY・PONKY(3部作:〜びゅうてぃふる・どりぃむ〜、〜とわいらいと・げーむす〜、〜ばとる・らばぁす〜) * 1989年[[9月15日]] - RUNRUN狂走曲 * 1990年[[5月15日]] - RAY-GUN * 1991年[[6月13日]] - [[ELLE (アダルトゲーム)|ELLE]] ** 2000年[[9月29日]] - [[ELLE (アダルトゲーム)#〔él〕|〔él〕]](『ELLE』のリメイク作品) * 1992年[[3月18日]] - 天神乱魔※ * 1993年[[7月22日]] - [[ワーズ・ワース|WORDS WORTH]](DOS版) ** 1999年[[3月25日]] - WORDS WORTH(Windows 95版) * 1995年[[5月19日]] - エルフスクリーンセーバーコレクション Volume.1 * 1996年[[9月27日]] - [[野々村病院の人々]](Windows版。DOS版はシルキーズ販売) ** 2003年[[10月24日]] - 野々村病院の人々・[[河原崎家の一族]] マルチパック * 1996年[[12月26日]] - [[この世の果てで恋を唄う少女YU-NO]](DOS版。Windows版は『エルフ大人の缶詰』に同梱) * 1999年[[11月26日]] - Refrain Blue(リフレインブルー) * 1999年[[12月24日]] - [[恋姫|恋姫 〜K・O・I・H・I・M・E〜]](Windows版。DOS版はシルキーズ販売) * 2000年[[5月26日]] - [[愛姉妹 二人の果実]](Windows版。DOS版はシルキーズ販売) * 2000年[[7月19日]] - [[BE-YOND]](Windows版。DOS版はシルキーズ販売) * 2000年[[12月22日]] - [[エルフ大人の缶詰]] * 2002年[[3月29日]] - 百鬼 〜淫黙された廃墟〜 * 2003年[[12月26日]] - [[御神楽少女探偵団|新・御神楽少女探偵団]]([[ヌードメーカー]]との共作) * 2005年[[8月5日]] - [[花と蛇#アダルトゲーム|花と蛇]]([[団鬼六]]の[[官能小説]]のゲーム化) * 2006年1月27日 - AVキング ADULT VIDEO KING(ヌードメーカーとの共作) * [[2008年]][[3月28日]] - 媚肉の香り ネトリネトラレヤリヤラレ ** 2008年[[6月27日]] - 番外編 由紀の香り・律子の溜息 ** 2010年[[3月26日]] - 媚肉の香り ネイキッド * 2009年[[8月28日]] - 若妻万華鏡 アニメーション追加版 + 夫の前で●されて… アニメーション追加 完全版(後述のイエローピッグから発売された2作品のバンドル廉価版) * [[2010年]][[11月26日]] - 人間デブリ コンナジブンニダレガシタ? === コンシューマーゲーム === ==== ライセンス許諾 ==== 括弧内は許諾先。 * ドラゴンナイト(タイトルは『ドラゴンナイト&グラフィティ』) ** 1995年[[3月31日]] - [[PCエンジン]]([[NECアベニュー]]) * ドラゴンナイトII ** 1992年[[8月7日]] - PCエンジン(NECアベニュー) * ドラゴンナイトIII ** 1994年[[7月22日]] - PCエンジン(NECアベニュー) * ドラゴンナイト4 ** 1996年[[12月27日]] - [[スーパーファミコン]]([[バンプレスト]]) ** 1997年[[2月7日]] - [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]](バンプレスト) ** 1997年[[3月28日]] - [[PC-FX]]([[インターチャネル・ホロン|NECインターチャネル]]) * DE・JA ** 1996年[[7月12日]] - PCエンジン(NECインターチャネル) * 同級生 ** 1995年[[11月23日]] - PCエンジン(NECアベニュー) ** 1996年[[8月9日]] - [[セガサターン]](NECインターチャネル) * 同級生2 ** 1996年[[8月9日]] - PC-FX(NECアベニュー) ** 1997年[[7月11日]] - セガサターン(NECインターチャネル) ** 1997年[[8月7日]] - PlayStation(バンプレスト) ** 1997年[[12月1日]] - スーパーファミコン(バンプレスト) ==== 自社移植 ==== * 野々村病院の人々 ** 1996年[[4月26日]] - [[セガサターン]]への自社移植作品第1弾。元は[[シルキーズ]]ブランドの[[パソコンゲーム]]作品。 * 下級生 ** 1997年[[4月25日]] - セガサターン。 * この世の果てで恋を唄う少女YU-NO ** 1997年[[12月4日]] - セガサターン。 * 雀級生 〜コスプレ★パラダイス〜 ** 2001年[[4月27日]]- [[ゲームボーイ]]への自社参入作品第1弾。厳密には移植ではなく、『同級生』と『下級生』から選抜されたヒロイン達を[[麻雀]]で負かし、[[コスプレ]]させるというオリジナル作品。 *** [[任天堂]]のゲーム機では、バンプレストなどの移植担当の会社を介さずにエルフ直々リリースするという珍しいケース。 *** [[柴田亜美]]は[[ファミ通]]の連載漫画『[[ドキばぐ]]』のエルフ取材回でこのソフトを取り上げた際、「アダルトゲームメーカーがお子様もやってるゲームボーイにリリースするな!」と冗談を交えたツッコミを入れている。 * らいむいろ戦奇譚☆純 ** 2004年[[3月25日]] - [[PlayStation 2]]への自社参入作品第1弾。[[角川書店]]が発売を担当した。 === 他ブランド === ; {{Anchors|イエローピッグ}}イエローピッグ :* 2005年[[2月25日]] - 若妻万華鏡 〜奥さん、ちょっとバッグの中を見せてもらいますよ 〜 :* 2006年[[7月28日]] - 夫の前で犯されて… ; {{Anchors|BANANA shu-shu}}BANANA shu-shu :* 2006年[[8月25日]] - [[たまたま 〜となりの彼女は声優のたまご。たまたま生まれた恋のたまごが…]] :* 2006年[[12月22日]] - たまたまクリスマスBOX ; {{Anchors|SILKY'S}}SILKY'S : [[シルキーズ]]を参照。 == 主な元スタッフ == 外注として参加した人物や退社した人物も含む。 * 代表取締役社長 ** 下田篤 * シナリオ ** モーニング息子、 ** 米倉懺悔 ** 土天冥海 === 退社したスタッフ === * シナリオ ** [[蛭田昌人]] - 創業者で、元社長・元顧問。 ** 井上啓二 - 退社後はフリーに。 ** [[菅野ひろゆき|剣乃ゆきひろ]] - 『[[アーベル (ゲーム会社)|アーベル]]』初代代表。故人。 ** 藤海琢樹 - 現『[[Navel]]』所属。 * [[キャラクターデザイン]]・[[原画]] ** 阿比留壽浩 - 創業スタッフ。現『[[ミンク (企業)|ミンク]]』代表。 === 外注スタッフ === * シナリオ ** [[河野一二三]] - [[ヌードメーカー]]代表。 ** 貫田将文 - ヌードメーカープランナー。 ** [[あかほりさとる]] - [[小説家]]。 * [[キャラクターデザイン]]・[[原画]]。 ** [[堀部秀郎]] - [[イラストレーター]]。故人。 ** [[門井亜矢]] - [[漫画家]]・イラストレーター。 ** [[横田守]] - 契約打ち切り。[[有限会社]][[スタジオライン]]及びそのアダルトゲームブランド[[Terios]]代表。 ** [[七瀬葵|ながせまゆ]] - 漫画家・イラストレーター。『あしたの雪之丞』シリーズに参加。 ** [[渡辺真由美]] - [[アニメーター]]。 ** [[川合正起]] - イラストレーター。 ** [[竹井正樹]] - アニメーター・イラストレーター。有限会社ZEUS代表後、現在はフリーに。 ** 本田直樹 - イラストレーター。元[[アボガドパワーズ]]所属スタッフ、同ブランド解散後に[[らいむいろ戦奇譚|『らいむいろ』シリーズ]]に参加。 ** [[りんしん]] - アニメーター。 ** [[さめだ小判]] - イラストレーター・漫画家。 ** 田島直 - アニメーター・イラストレーター。 ** [[市川小紗]] - 元アニメーター。 * 作曲 ** 国枝学 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [http://bilist.dailybells.co.uk/ Bi_List] - 美少女ゲームの20世紀 == 外部リンク == * {{Wayback|url=https://www.elf-game.co.jp/|title=エルフ 公式サイト|date=20160320124512}} * [https://dlsoft.dmm.co.jp/list/article=maker/id=58356/ DMM GAMES(エルフ)] * {{Mediaarts-db}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えるふ}} [[Category:エルフ (ゲーム会社)|*]] [[Category:かつて存在した日本のコンピュータゲームメーカー]] [[Category:アダルトゲームブランドの歴史]] [[Category:DMM.com]] [[Category:中野区の企業]] [[Category:1989年設立の企業]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%95_(%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89)
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宿曜道
宿曜道()とは、平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、密教の一分野として日本へもたらされた占星術の一種。密教占星術、宿曜占星術などともいう。 その内容は、インド占星術(ギリシャ由来の西洋占星術とインド古来の月占星術が習合し独自に発展したもの)、道教由来の天体神信仰、陰陽五行説等が習合した雑多なものである。基本的に、北斗七星・九曜・十二宮・二十七宿または二十八宿などの天体の動きや七曜の曜日の巡りによってその直日を定め、それが凶であった場合は、その星の神々を祀る事によって運勢を好転させようとする。 所依の教典は、『宿曜経』・『梵天火羅九曜』・『七曜星辰別行法』などである。三九秘宿という独特の技法があり、これを簡略化したものが、一般に「宿曜占星術」として流布している。 密教では、造像・修法・灌頂などを行う際には吉日良辰を選ぶこととされており、一行の『大日経疏』では、吉日良辰の選定は阿闍梨の資質が問われる大切な作業とされていた。 そのために、空海・円仁・円珍らが『宿曜経』を日本に請来し、仁観が深く研究した。957年(天徳元年)、日延が呉越より符天暦を持ち帰ったことによりその研究が盛んになり、法蔵が応和元年(963年)に時の村上天皇の御本命供の期日を巡って陰陽道の賀茂保憲と論争を行っており、この時期に日本の宿曜道が確立したと見られている。なお、『二中歴』では法蔵をもって日本の宿曜道の祖としている。こうした経緯から宿曜師は密教僧である例が多く、誕生月日などを元にして星占いを行ってその結果を記した「宿曜勘文」を作成したり、長徳元年(995年)には、興福寺の仁宗に対して暦道と共同で暦を作成するようにという「造暦宣旨」が下されている(興福寺は法相宗であるが、この時代には真言宗との関係も強かったとされる)。ただし、長暦2年(1038年)に暦道と宿曜道との全面対立により宿曜道側が造暦から撤退しているが、以後も日食・月食の発生日時や大月・小月や閏月を巡って暦道と激しく争った。また、宿曜勘文などや星供・祭供などの祈祷の奉仕を通じて権力者と結びついて、法隆寺や西大寺などの別当に任命される者もいた。平安時代後期には能算・明算父子が活躍して白河天皇や摂関家に仕え、続く平安時代末期には天台宗の流れを汲む珍賀と興福寺及び真言宗の流れを汲む慶算という2名の優れた宿曜師が出現して互いに技術を磨きながら権力者と連携して勢力を争い、一族・門人によって流派が形成される程であった。だが、南北朝時代以後の貴族社会の衰退とともに宿曜道も没落の道を辿り、長寛3年(1165年)に珍賀が創建して宿曜道の拠点となった北斗降臨院が応永24年(1417年)に焼失すると、以後歴史から姿を消すこととなる。
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宿曜道とは、平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、密教の一分野として日本へもたらされた占星術の一種。密教占星術、宿曜占星術などともいう。
{{出典の明記|date=2019-10-07}} {{読み仮名|'''宿曜道'''|すくようどう}}とは、[[平安時代]]、[[空海]]をはじめとする留学僧らにより、[[密教]]の一分野として[[日本]]へもたらされた[[占星術]]の一種。'''密教占星術'''、'''宿曜占星術'''などともいう。 == 概要 == その内容は、[[インド占星術]](ギリシャ由来の[[西洋占星術]]とインド古来の月占星術が習合し独自に発展したもの)、[[道教]]由来の天体神信仰、[[陰陽五行説]]等が習合した雑多なものである。基本的に、[[北斗七星]]・[[九曜]]・[[十二宮]]・[[二十七宿]]または[[二十八宿]]などの天体の動きや[[七曜]]の[[曜日]]の巡りによってその[[直日]]を定め、それが凶であった場合は、その星の神々を祀る事によって運勢を好転させようとする。 所依の教典は、『[[宿曜経]]』・『[[梵天火羅九曜]]』・『[[七曜星辰別行法]]』などである。[[三九秘宿]]という独特の技法があり、これを簡略化したものが、一般に「宿曜占星術」として流布している。 [[密教]]では、造像・修法・灌頂などを行う際には吉日良辰を選ぶこととされており、[[一行]]の『[[大日経疏]]』では、吉日良辰の選定は[[阿闍梨]]の資質が問われる大切な作業とされていた。 そのために、[[空海]]・[[円仁]]・[[円珍]]らが『宿曜経』を日本に請来し、[[仁観]]が深く研究した。[[957年]]([[天徳 (日本)|天徳]]元年)、[[日延]]が[[呉越]]より[[符天暦]]を持ち帰ったことによりその研究が盛んになり、[[法蔵 (日本)|法蔵]]が[[応和]]元年([[963年]])に時の[[村上天皇]]の[[御本命供]]の期日を巡って[[陰陽道]]の[[賀茂保憲]]と論争を行っており、この時期に日本の宿曜道が確立したと見られている。なお、『[[二中歴]]』では法蔵をもって日本の宿曜道の祖としている。こうした経緯から宿曜師は密教僧である例が多く、誕生月日などを元にして星占いを行ってその結果を記した「宿曜勘文」を作成したり、[[長徳]]元年([[995年]])には、[[興福寺]]の[[仁宗 (僧)|仁宗]]に対して[[陰陽寮]]が教える[[暦道]]と共同で暦を作成するようにという「造暦宣旨」が下されている(興福寺は[[法相宗]]であるが、この時代には[[真言宗]]との関係も強かったとされる)。しかし、この頃輸入された[[符天暦]]の計算方法を取り入れた宿曜道側が、[[長暦]]2年([[1038年]])に暦道を批判し、造暦から撤退してしまったが、以後も[[日食]]・[[月食]]の発生日時や[[大月]]・[[小月]]や[[閏月]]を巡って暦道と激しく争った。また、宿曜勘文などや[[星まつり|星供]]・祭供などの祈祷の奉仕を通じて権力者と結びついて、[[法隆寺]]や[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]などの[[別当]]に任命される者も出ている。平安時代後期には[[能算]]・[[明算 (宿曜師)|明算]]父子が活躍して[[白河天皇]]や[[摂関家]]に仕え、続く平安時代末期には[[天台宗]]の流れを汲む[[珍賀]]と興福寺及び真言宗の流れを汲む[[慶算]]という2名の優れた宿曜師が出現して互いに技術を磨きながら権力者と連携して勢力を争い、一族・門人によって流派が形成される程であった。だが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以後の貴族社会の衰退とともに宿曜道も没落の道を辿り、[[長寛]]3年([[1165年]])に珍賀が創建して宿曜道の拠点となった[[北斗降臨院]]が[[応永]]24年([[1417年]])に焼失すると、以後歴史から姿を消すこととなる。 == その他 == * 『[[源氏物語]]』「桐壺」にも、主人公・[[光源氏]]が誕生した際、宿曜師(「宿曜のかしこき道の人」)にその運命を占わせる場面が出てくる。 * 鎌倉期の[[藤原頼経]]は、[[珍誉]]という宿曜師を重用しており、[[御所]]地の選定も行わせている<ref>『歴史読本 5月号 特集 徹底検証!黒田官兵衛』 [[新人物往来社]] 2013年 p.274 </ref>。 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * [[山下克明]]「宿曜道の形成と展開」(『平安時代の宗教文化と陰陽道』(岩田書院、1996年) ISBN 978-4-900697-65-2 所収) == 関連項目 == * [[宿曜占星術]] * [[陰陽道]] * [[符天暦]] * [[禄命]] * [[星まつり]] == 外部リンク == * {{kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)|宿曜道}} {{星座占い}} {{Normdaten}}[https://yakumoin.net/ 宿曜占星術 八雲院] [https://fs-astrology-members.com/ 宿曜占星術+news|空海が広めた人の統計学] [https://syukuyo.com/ 宿曜秘宝協会] [https://kosei-do.co.jp/fortune/uranai.php 宿曜占星術 光晴堂] {{DEFAULTSORT:すくようとう}} [[Category:宿曜道|*]] [[Category:占星術]] [[Category:曜日]] [[Category:密教]] [[Category:日本の天文学史]]
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第一原理経路積分分子動力学法
第一原理経路積分分子動力学法(、英: First-principles path-integral molecular dynamics method)とは、経路積分手法と第一原理分子動力学法とを、融合(統合)した手法。 水素のような非常に軽い元素は、原子核(この場合はプロトン、つまり陽子のこと)自身が持つ量子効果を無視できない場合が出てくる。この量子効果を記述するために経路積分法を用いる。適用されるのは、水素のような軽元素以外に、固体内でのミューオンの挙動などを記述する場合にも用いられる。
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第一原理経路積分分子動力学法(だいいちげんりけいろせきぶんぶんしどうりきがくほう、とは、経路積分手法と第一原理分子動力学法とを、融合した手法。 水素のような非常に軽い元素は、原子核自身が持つ量子効果を無視できない場合が出てくる。この量子効果を記述するために経路積分法を用いる。適用されるのは、水素のような軽元素以外に、固体内でのミューオンの挙動などを記述する場合にも用いられる。
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遺伝
遺伝(いでん、英: heredity)は、生殖によって、親から子へと形質が伝わる現象のことであり、生物の基本的な性質の一つである。素朴な意味では、親子に似通った点があれば、「遺伝によるものだ」、という言い方をする。しかし生命現象としての遺伝は、後天的な母子感染による疾患や、非物質的情報伝達(学習など)による行動の類似化などを含まない。 遺伝現象は、人間の親子関係や栽培植物、家畜やペットの育種などを通じて意識され、そのような中で、単にすべての形質が親から子に伝わるものではなく、伝わりにくい形質や、何世代かをおいて出現する形質があることなど、さまざまな不思議な点があることが意識されるようになり、科学的な解明が始められた。また、品種改良などにおいては、経験則の下で進められていたものに、はっきりした理屈が与えられれば、さらに発展が見込めることなど、実用的必要性もあった。そういう中から遺伝学が発展してきたものである。 グレゴール・ヨハン・メンデルによる遺伝法則の発見によって遺伝子の存在が示唆された。後に染色体がその担体であり、娘細胞へ分配されることにより遺伝情報が伝わることが示された。つまり細胞の核が遺伝子を擁して細胞を統括する。核以外に存在する遺伝因子による現象を細胞質遺伝という。 現在では遺伝子は核酸(DNAもしくはRNA)の機能的単位を示すものとして事実上定義される。このため、遺伝子≠遺伝情報 であることには注意が必要である。遺伝子はあくまで遺伝情報の数ある担体の一つ、である(2015現在の現代科学においてはその中でも最重要の担体ではあろうとは考えられている)。遺伝子ではない遺伝情報の担体としては、プリオン、ウイロイドなどが分かり易い例としてあげられるであろう。 実際、近年の学生向けの生物学や入門書などでは、分子生物学的な研究の進展にしたがって、遺伝について遺伝子を用いた分子レベルの解説が中心となっている。だが、学問的に厳密に言えば、遺伝子以外の要素によって起きる、親子間の何らかの性質の継承も、研究者間では扱われることがあるのである。上に挙げたプリオン、ウイロイド以外にも、例えば母体が持つ細胞が直接に子へと移るキメラ現象(やマイクロキメリズム)もまた、それなりに研究されている。つまり、遺伝の実相というのは、必ずしも入門者向けの教科書で描かれる遺伝子がらみの説明だけで終わるような単純なものではなく、もう少し複雑な面もある、ということがすでに明らかになっているのである(エピジェネティック現象も参照)。 なお遺伝は、親と同一の形の子供を作る働きであるが、他方、生物は長い年月の中では、次第にその姿を変化させる。この変化を「進化」と呼ぶ。この両者、つまり《同一性》と《変化》は一見矛盾する。それに説明を与えようとしたのが進化論である。生物の形質の変化に関しては、多くの人々が様々な理論を提唱してきた歴史がある。ラマルクは、用不用説を唱え、チャールズ・ダーウィンはその用不用説を支持しつつも、自説の説明のために遺伝の研究の必要を感じ、ハトの遺伝を研究した。ダーウィンは遺伝のしくみに関する説としてパンゲン説を唱えたが、後にそれは否定されることになった。 ラマルクによって提唱された獲得形質に関して、分子生物学の研究結果より新たな事実が明らかになった。2014年、スイスのチューリッヒ大学のIsabelle M. Mansuyらは、遺伝子発現を制御しているマイクロRNAと呼ばれる小さな核酸分子が、遺伝に深く関与していることを発見した。彼女らは、雄のマウスに過度なストレスを与えることで、そのマウスのマイクロRNAの発現量を乱した。その結果、マイクロRNAの発現量の乱されたマウスは異常行動を示すようになった。このマウスを雌のマウスと交配させ、子マウスを生ませた。驚くべきことに、この子マウスは父親マウスと同様に異常行動を示した。つまり、父親マウスの精子中に存在している異常な発現量のマイクロRNAが子マウスに伝わり、異常な子マウスが誕生した。このことから、父親マウスが獲得した形質が、マイクロRNAを介して子に伝わったといえる。さらに、この現象は孫マウスにも観察された。これらの事実から、これまで遺伝についてはDNAが中心であると考えられており父親の経験した獲得形質が子供や孫に伝わらないとされていたが、マイクロRNAを通じて父親の経験は子孫に伝わることが明らかになった。つまり、このことはラマルクの用不用説を強く支持する根拠となり得る。DNA。
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遺伝は、生殖によって、親から子へと形質が伝わる現象のことであり、生物の基本的な性質の一つである。素朴な意味では、親子に似通った点があれば、「遺伝によるものだ」、という言い方をする。しかし生命現象としての遺伝は、後天的な母子感染による疾患や、非物質的情報伝達(学習など)による行動の類似化などを含まない。
{{otheruses||斉藤和義の曲|遺伝 (斉藤和義の曲)|言語学の概念|遺伝的関係 (言語学)}} '''遺伝'''(いでん、{{lang-en-short|heredity}}<ref>{{Cite book|和書 |author=文部省|authorlink=文部省 |coauthors = [[日本遺伝学会]] |title = 学術用語集 遺伝学編 |edition = 増訂版 |url = http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi |year = 1993 |publisher = [[丸善]] |isbn = 4-621-03805-2 |page = }}</ref>)は、[[生殖]]によって、[[親]]から[[子]]へと[[形質]]が伝わる[[現象]]のことであり、[[生物]]の基本的な[[性質]]の一つである。素朴な意味では、[[親子]]に似通った点があれば、「遺伝によるものだ」、という言い方をする。しかし生命現象としての遺伝は、後天的な[[母子感染]]による[[疾患]]や、非物質的情報伝達([[学習]]など)による[[行動]]の類似化などを含まない。 {{wt|遺伝}} == 概要 == 遺伝現象は、[[人間]]の親子関係や[[栽培植物]]、[[家畜]]や[[ペット]]の[[育種]]などを通じて意識され、そのような中で、単にすべての形質が親から子に伝わるものではなく、伝わりにくい形質や、何世代かをおいて出現する形質があることなど、さまざまな不思議な点があることが意識されるようになり、[[科学]]的な解明が始められた。また、[[品種改良]]などにおいては、経験則の下で進められていたものに、はっきりした理屈が与えられれば、さらに発展が見込めることなど、実用的必要性もあった。そういう中から[[遺伝学]]が発展してきたものである。 [[グレゴール・ヨハン・メンデル]]による[[メンデルの法則|遺伝法則]]の発見によって[[遺伝子]]の存在が示唆された。後に[[染色体]]がその[[担体]]であり、[[娘細胞]]へ分配されることにより[[遺伝情報]]が伝わることが示された。つまり[[細胞]]の[[細胞核|核]]が遺伝子を擁して細胞を統括する。核以外に存在する遺伝因子による現象を[[細胞質遺伝]]という。 現在では遺伝子は[[核酸]]([[DNA]]もしくは[[RNA]])の機能的単位を示すものとして事実上定義される。このため、遺伝子≠遺伝情報 であることには注意が必要である。遺伝子はあくまで遺伝情報の数ある担体の一つ、である(2015現在の現代科学においてはその中でも最重要の担体ではあろうとは考えられている)。遺伝子ではない遺伝情報の担体としては、[[プリオン]]、[[ウイロイド]]などが分かり易い例としてあげられるであろう。 実際、近年の学生向けの[[生物学]]や入門書などでは、分子生物学的な研究の進展にしたがって、遺伝について遺伝子を用いた分子レベルの解説が中心となっている<ref>サダヴァ, デイヴィッドほか著(2010)『カラー図解アメリカ版大学生物学の教科書 第2巻 分子遺伝学 (ブルーバックス)』(石崎泰樹・丸山敬監訳翻訳)講談社.</ref>。だが、学問的に厳密に言えば、遺伝子以外の要素によって起きる、親子間の何らかの性質の継承も、研究者間では扱われることがあるのである。上に挙げたプリオン、ウイロイド以外にも、例えば母体が持つ細胞が直接に子へと移る[[キメラ]]現象(や[[マイクロキメリズム]])もまた、それなりに研究されている。つまり、遺伝の実相というのは、必ずしも入門者向けの教科書で描かれる遺伝子がらみの説明だけで終わるような単純なものではなく、もう少し複雑な面もある、ということがすでに明らかになっているのである([[エピジェネティクス|エピジェネティック]]現象も参照)。 なお遺伝は、親と<u>同一</u>の形の子供を作る働きであるが、他方、生物は長い年月の中では、次第にその姿を<u>変化</u>させる。この変化を「[[進化]]」と呼ぶ。この両者、つまり《同一性》と《変化》は一見矛盾する。それに説明を与えようとしたのが[[進化論]]である。生物の形質の変化に関しては、多くの人々が様々な理論を提唱してきた歴史がある。[[ジャン=バティスト・ラマルク|ラマルク]]は、[[用不用説]]を唱え、[[チャールズ・ダーウィン]]はその用不用説を支持しつつも、自説の説明のために遺伝の研究の必要を感じ、[[ハト]]の遺伝を研究した。ダーウィンは遺伝のしくみに関する説として[[パンゲン説]]を唱えたが、後にそれは否定されることになった。 ラマルクによって提唱された獲得形質に関して、分子生物学の研究結果より新たな事実が明らかになった。2014年、スイスのチューリッヒ大学のIsabelle M. Mansuyらは、遺伝子発現を制御している[[マイクロRNA]]と呼ばれる小さな核酸分子が、遺伝に深く関与していることを発見した<ref>Katharina Gapp, Ali Jawaid, Peter Sarkies, Johannes Bohacek, Pawel Pelczar, Julien Prados, Laurent Farinelli, Eric Miska & Isabelle M Mansuy. Implication of sperm RNAs in transgenerational inheritance of the effects of early trauma in mice. Nature Neuroscience 17, 667–669 (2014). </ref>。彼女らは、雄のマウスに過度なストレスを与えることで、そのマウスのマイクロRNAの発現量を乱した。その結果、マイクロRNAの発現量の乱されたマウスは異常行動を示すようになった。このマウスを雌のマウスと交配させ、子マウスを生ませた。驚くべきことに、この子マウスは父親マウスと同様に異常行動を示した。つまり、父親マウスの精子中に存在している異常な発現量のマイクロRNAが子マウスに伝わり、異常な子マウスが誕生した。このことから、父親マウスが獲得した形質が、マイクロRNAを介して子に伝わったといえる。さらに、この現象は孫マウスにも観察された。これらの事実から、これまで遺伝についてはDNAが中心であると考えられており父親の経験した獲得形質が子供や孫に伝わらないとされていたが、マイクロRNAを通じて父親の経験は子孫に伝わることが明らかになった。つまり、このことはラマルクの用不用説を強く支持する根拠となり得る。DNA。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|Heredity}} * [[遺伝学]] * [[遺伝子型]] * [[表現型]] * [[隔世遺伝]] * [[母性遺伝]] * [[獲得形質]] * [[遺伝的アルゴリズム]] * [[優性の法則]] * [[劣化#i遺伝的劣化]] * [[日本遺伝学会]] * [[先天性]] * [[優生学]] {{Genetics}} {{家族}} {{Biosci-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いでん}} [[Category:遺伝学|いでん]] [[Category:和製漢語]] [[Category:生命]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E4%BC%9D
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ビデオテープレコーダ
ビデオテープレコーダー(英: video tape recorder、VTR)とは映像信号(ビデオ信号)を記録するテープレコーダーである。アンペックス(AMPEX)社がアメリカ合衆国で商標として用いたことや家庭に普及したのはカセットテープ型だったことから、家庭用のビデオデッキなどの呼称としてはVCRと表記されることもある。 ビデオテープレコーダの歴史は全般にわたってビデオテープへの記録の歴史である。アンペックスが最初に商業的に成功したビデオテープレコーダであるAmpex VRX-1000を1956年に発売した。これは2" Quadruplex フォーマットで2インチ(5.1cm)幅のテープを使用しており、価格は当時50,000ドルで導入は大規模のテレビ局や大きな製作会社に限られた。1963年、フィリップスがビジネス及び家庭ユーザー向けにEL3400 1"ヘリカルスキャンレコーダを、ソニーが最初のオープンリール式VTRであるPV-100をビジネス・医療・航空業界・教育用に発売した。当時の価格は12,000ドルで、対米向け主体。トランジスタ化により放送用の50分の1の容積にし、ヘッドは従来の5倍の1000時間に耐えるようにし、スチル(静止)機能を搭載した。ソニーのCV-2000は1965年4月に価格19万8000円という当時としては驚異的な安さで売り出された世界最初の家庭向けとして発売されたビデオデッキで、重量15kg、消費電力は60wだった。アンペックスとRCAは1965年、独自仕様のオープンリール式モノクロVTRを1,000ドル以下で家庭用市場に続いた。 交換式ビデオカセットの開発は続き消費者向けではオープンリール式を置き換えた。4トラックオーディオカートリッジが1962年、コンパクトカセットとインスタマチックフィルムカートリッジが1963年、8トラックが1965年、そしてSuper 8が家庭用映画カートリッジとして1966年に発売された。 Uマチックは、世界初の商業用ビデオカセットフォーマットである。1969年10月、ソニーがビデオカセットの試作機を発表。1970年3月にソニー・松下電器産業・日本ビクターと海外メーカー5社によりU規格として規格統一が合意され、生産が開始された。Uマチックは1971年9月東京で発表ののち、正式に販売が開始された。 カートリッジは後のVHSカセットより大きく似ており、3/4インチ(1.9cm)幅のテープを使用して最大60分再生でき、後には90分に拡大された。ソニーは同様に新しいテープを使用したVP-1100 ビデオカセットプレイヤーと、VO-1700 ビデオカセットレコーダーを発売した。 Uマチックはその使いやすさにより、日本と北米においてたちまち他のビデオシステムを時代遅れにし、テレビのニュースや学校や商業において幅広く使用されたが、値段はTV/VTR一式で1,395ドル(2005年の価値に換算して6,362ドル)で家庭用としては高価すぎ、個人での所有は芸能関係者などに限られた。 1970年、フィリップスは家庭用ビデオカセットフォーマットを開発した。紛らわしくもフィリップスはそのフォーマットを「VCR」と名づけた。そのため、後に最初のレコーダの機種番号である「N1500」と呼ばれている。 同社はフォーマットの開発にあたってグルンディッヒとレーベの支援を受け、正方形のカートリッジと半インチ(1.3cm)幅のテープを使用して同軸リールにマウントする形を採用した。記録時間は1時間だった。 最初の機種はイギリスで1972年に販売され、回転ダイヤル式のタイマーがつけられていた。600ポンド(2,087ドル、日本円では当時のレート(1ドル=308円)で約64万円)近い価格は高すぎて家庭用としては失敗した。デジタルタイマー式のN1502が1975年に続いた。1977年には同じテープで長時間再生可能な新型で互換性を持つVCR-LPもしくはN1700が発売され、学校や大学向けに販売された。 Avcoのカートリビジョンシステムは、TVセット(テレビ受像機)とVCRを組み合わせた装置で、1972年、カートリッジ・テレビジョン社が1,350ドルで販売した。 正方形のカートリビジョンカセットは正方形で、フィリップスのVCRフォーマットのように、2個の2分の1インチ幅のテープが互いの上にマウントされ、録画時間の上限は114分であった。 このシステムにおいては、人気のある映画を既に録画されたテープをメールオーダーで借りることができた。 初期のビデオデッキは全て地上アナログチューナーのみ内蔵。BSアナログ放送開始後はBSアナログチューナー内蔵モデルも併売されていた(初期のBSアナログ内蔵機はBSアンテナ端子が入力のみで、BSアナログチューナー内蔵テレビと接続する場合は分配器が必要だったが、のちにBS-IF出力端子が標準装備されたので分配器は不要となった)。 さらに1992年以降製造のBSアナログ内蔵ビデオでは、BSアナログハイビジョン放送を簡易的に視聴可能な「M-Nコンバータ」を接続するための「AFC入力端子」が標準装備されていたが(一部のメーカーからは、M-Nコンバータ内蔵VTRも発売された)、2000年以降製造のBSアナログ内蔵ビデオはAFC入力端子を廃止し、(WOWOW視聴用BSデコーダーを繋ぐための)「検波&ビットストリーム入出力端子」のみ搭載となっていた(のちにBSアナログハイビジョン放送は2007年9月30日をもって終了)。 地上アナログアンテナ端子は初期はVHF・UHF別々入出力(VHF端子は初期がケーブル直ネジ止め式で後期はプラグ式。UHF端子はネジ止め式)だったが、1990年以降発売の機種はプラグ式VU混合入出力が標準規格となった。 チャンネル設定の場合、アナログVHFとアナログBSの各チャンネルは工場出荷時に設定済み。アナログUHFチャンネルを初期の機種では1局ずつ手動選局して合わせていたが、地域や機種によっては自動微調整では調整し切れないことも多くユーザーの目で映像を観ながらダイヤルやボタンで手動調整する煩わしさを解消するため1990年以降製造機種では設定画面を見ながら数字を書き換え、画面も書き換えた数字に連動して変わる方式へ変更。1993年以降の機種では画面での手動設定に加え、居住地の市外局番或いは各メーカーが独自に指定した居住地地域番号を入力すると居住地で視聴可能なチャンネルが自動設定される方式も登場した。なおGコード予約機能搭載機種の場合、「ガイドチャンネル」を正しく設定しないと目的のチャンネル・番組のGコードによる予約録画が出来ない(NHKは全国共通で総合「80」・教育「90」。民放はアナログ親局番号をガイドチャンネルとして割り当てている)。加えて1990年以降製造の機種ではNHK教育テレビの正午(午後0時)の時報に合わせてビデオ本体時計のズレを自動修正する「自動時刻合わせ(ジャストクロック、※又はぴったり時計)」機能が加わり、時刻合わせ時に自動時刻修正チャンネルを居住地のNHK教育テレビに合わせるとこの機能が動作する。ただし地上デジタルが始まってからNHK教育テレビは(タイムラグが発生する関係で)時報放送を廃止したので、この「ぴったり時計」機能は現在使用不可となった。 BSデジタルが開始された2000年以降もVTR単体機に(地上・BS・110度CS)デジタルチューナーが搭載されることはなく、アナログチューナーのみ搭載のVTR単体機およびS-VHS・W-VHS・D-VHS機は2007年頃までに生産終了。現在はBDレコーダーおよびDVDレコーダーの中にVHS一体型機が存在するのみとなっている(発売当初はWチューナー機もあったが、現在発売中の機種は全てシングルチューナーで裏録およびVHSへの直接録画は不可、ただし「SQPB」機能によりS-VHSソフトは簡易再生可、D-VHSソフトは再生不可)。 かつては各メーカーが(一部上位機にのみ)テレビ受像機との連動録再機能(「システムコントロール」、「コンピュリンク」など)を搭載しており、特にBSアナログチューナー非搭載機とBSアナログチューナー内蔵テレビとの組み合わせではテレビ側のBS予約情報が接続したビデオに(システムコントロールコード経由で)転送される「BSタイマーコントロール」機能搭載の機種が販売されていた。現在の連動録再機能は「Irシステム」やHDMI連動(「ビエラリンク」など)が主役になっている(ただしビデオ機能に対しての連動録再は「Irシステム」のみ)。 ただしこれら連動録再機能は全て「(原則として)連動録再機能を搭載した同一メーカー同士の機種をメーカー指定の専用連動ケーブルで繋がないと動作しない」仕組みとなっており、同じ連動録再機能を有する機種でも組み合わせメーカーが異なる場合は正常に動作しなかったり誤動作する場合がある。さらにIrシステムおよびHDMI連動はデジタルテレビと組み合わせ録画機のメーカーおよび年式により使える機能数が異なる。 デジタル放送が始まると録画媒体は従来のビデオテープからDVD、そしてHDD・BDへ移行。これら記録媒体のほうがビデオテープより省スペースで保管でき、かつ操作性・画質・音質も従来のビデオデッキより格段に向上したことから、ビデオデッキ単体機は2007年頃までに生産終了、S-VHSソフトは全て「SQPB」による簡易再生のみ可能(画質はVHSと同じ)。S-VHS機の生産も2007年頃までに完全終了した(VHS一体型BD/DVDレコーダーにおけるW-VHS・D-VHSソフトの再生は不可)。
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ビデオテープレコーダーとは映像信号(ビデオ信号)を記録するテープレコーダーである。アンペックス(AMPEX)社がアメリカ合衆国で商標として用いたことや家庭に普及したのはカセットテープ型だったことから、家庭用のビデオデッキなどの呼称としてはVCRと表記されることもある。
{{Redirect|VTR}} '''ビデオテープレコーダー'''({{Lang-en-short|video tape recorder}}、VTR)とは[[映像信号]](ビデオ信号)を記録する[[テープレコーダー]]である。[[アンペックス]](AMPEX)社が[[アメリカ合衆国]]で商標として用いたことや家庭に普及したのは[[カセットテープ]]型だったことから、家庭用の'''ビデオデッキ'''などの呼称としては'''VCR'''<ref group="注">{{Lang-en-short|video cassette recorder}}</ref>と表記されることもある。 [[Image:Sony WV-DR7 SVHS & DV & Mini DV Video Cassete Recoder.jpg|thumb|250px|家庭用VTRの1機種、[[ソニー]]WV-DR7。標準/Mini DV&SVHS-ET 両対応据置式ダブルデッキ(1999年)]] == 家庭用VTRの例 == === アナログ記録 === *1/2インチ **[[統一I型]] **ソニーCV方式 **松下電器方式 **シバデン方式 **日本ビクター方式 **その他 *1/4インチ **アカイ方式 **フナイ方式 *[[Uマチック]] *[[VHS]]、[[VHS-C]]、[[S-VHS]]、[[S-VHS-C]] *[[W-VHS]] *[[8ミリビデオ]]、[[Hi8]] *[[ベータマックス]](ハイバンドベータ、ED-Beta) *[[Vコード]]、VコードII([[東芝]]、[[三洋電機]]) *[[VX方式|VX]]([[パナソニック四国エレクトロニクス|松下寿]]) *[[CVC]]([[船井電機]]、[[キヤノン]]) *[[カートリビジョン]](Avco) *ビデオカートリッジ(EIAJa型) *VK方式 *VCR方式 *VCC *セレクタビジョン *インスタントビジョン === アナログ記録(音声はデジタル記録) === *S-VHS DA *8ミリビデオ、Hi8([[PCM]]オプション) === デジタル記録 === *[[DV (ビデオ規格)|DV]](標準DV、MiniDV)、[[HDV]] *[[D-VHS]] *[[Digital8]] *[[MICROMV]] == 放送用・業務用VTRの例 == === アナログ記録 === *[[2インチVTR|2インチ]]、ソニーPV方式 *[[1インチVTR|1インチ]] *[[U規格]]、{{Lang|en|U-matic SP}} *[[BETACAM]]、BETACAM-SP *[[M規格]] *[[MII]] *[[1インチ・アナログ・ハイビジョンVTR]] *{{Lang|en|[[UNIHI]]}}(アナログハイビジョンVCR) === デジタル記録 === *[[D1-VTR|D1]] *[[D2-VTR|D2]] *[[D3-VTR|D3]] *[[D5-VTR|D5]] *[[D6-VTR|D6]] *D7([[DVCPRO]]) *[[D9-VTR|D9]]({{Lang|en|Digital-S}}) *D10([[MPEG IMX]]) *[[Digital BETACAM]] *[[HDCAM]]、{{Lang|en|[[HDCAM SR]]}} *[[BETACAM-SX]] *[[DVCAM]] *[[1インチ・ハイビジョン・デジタルVTR]] == 歴史 == === 初期の機材とフォーマット === ビデオテープレコーダの歴史は全般にわたってビデオテープへの記録の歴史である。アンペックスが最初に商業的に成功したビデオテープレコーダである{{Lang|en|Ampex}} VRX-1000を[[1956年]]に発売した。これは[[2インチVTR|{{Lang|en|2" Quadruplex}}]] フォーマットで2インチ(5.1cm)幅のテープを使用しており<ref>[http://www.cedmagic.com/history/ampex-commercial-vtr-1956.html Ampex VRX-1000 - The First Commercial Videotape Recorder]</ref>、価格は当時50,000[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]で導入は大規模のテレビ局や大きな製作会社に限られた<ref>[http://www.labguysworld.com/VTR_BirthOf.htm {{Lang|en|Charles P. Ginsburg, The Birth of Video Recording}}]</ref>。[[1963年]]、[[フィリップス]]がビジネス及び家庭ユーザー向けにEL3400 [[1インチVTR|1"]][[ヘリカルスキャン]]レコーダを、[[ソニー]]が最初の[[オープンリール]]式VTRであるPV-100をビジネス・医療・航空業界・教育用に発売した<ref>[http://www.sony.net/Fun/SH/1-11/h1.html {{Lang|en|The Airborne VTR}}] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090907081817/http://sony.net/Fun/SH/1-11/h1.html |date=2009年9月7日 }}</ref>。当時の価格は12,000ドルで、対米向け主体。トランジスタ化により放送用の50分の1の容積にし、ヘッドは従来の5倍の1000時間に耐えるようにし、スチル(静止)機能を搭載した<ref>『[[サンデー毎日]]』[[1962年]][[9月16日]]号p22、「小型テレビ録画装置お目見得」</ref>。ソニーの[[CV-2000]]は[[1965年]]4月に価格19万8000円という当時としては驚異的な安さで売り出された世界最初の家庭向けとして発売されたビデオデッキで、重量15kg、消費電力は60wだった<ref>[http://www.smecc.org/sony_cv_series_video.htm {{Lang|en|Sony CV Series Video}}]</ref>。アンペックスと[[RCA]]は1965年、独自仕様のオープンリール式モノクロVTRを1,000ドル以下で家庭用市場に続いた。 交換式ビデオカセットの開発は続き消費者向けではオープンリール式を置き換えた。[[4トラック]]オーディオカートリッジが[[1962年]]、[[コンパクトカセット]]と[[インスタマチック]]フィルム[[カートリッジ]]が1963年、[[8トラック]]が1965年、そして[[スーパー8mmフィルム|{{Lang|en|Super 8}}]]が家庭用映画カートリッジとして[[1966年]]に発売された。 ==== Sony Uマチック ==== {{Main|Uマチック}} Uマチックは、世界初の商業用ビデオカセットフォーマットである。[[1969年]]10月、ソニーがビデオカセットの試作機を発表。[[1970年]]3月にソニー・[[パナソニック|松下電器産業]]・[[日本ビクター]]と海外メーカー5社により[[U規格]]として規格統一が合意され、生産が開始された。[[Uマチック]]は[[1971年]]9月東京で発表ののち、正式に販売が開始された<ref>{{Cite web|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/CorporateInfo/History/SonyHistory/2-01.html |title=第1章 ビデオもカセットに <ビデオカセット> |accessdate=2023-11-20 }}</ref>。 カートリッジは後のVHSカセットより大きく似ており、3/4インチ(1.9cm)幅のテープを使用して最大60分再生でき、後には90分に拡大された。ソニーは同様に新しいテープを使用したVP-1100 ビデオカセットプレイヤーと、VO-1700 ビデオカセットレコーダーを発売した。 Uマチックはその使いやすさにより、日本と北米においてたちまち他のビデオシステムを時代遅れにし、テレビのニュースや学校や商業において幅広く使用されたが、値段はTV/VTR一式で1,395ドル([[2005年]]の価値に換算して6,362ドル)<ref group="注">日本円に換算すると、1971年時点(1ドル=360円)では約50万円、2005年時点(1ドル=105円で計算)では約67万円。</ref>で家庭用としては高価すぎ<ref>{{Lang|en|Sony sold 15,000 U-matic machines in the U.S. in its first year. "Television on a Disk"}}、タイム誌、1972年9月18日</ref>、個人での所有は芸能関係者などに限られた。 ==== フィリップス VCR フォーマット ==== <!--{{Main|ビデオカセット記録}}--> [[ファイル:N1500 v2.jpg|right|thumb|220px|木製外装のN1500ビデオレコーダ]] 1970年、フィリップスは家庭用ビデオカセットフォーマットを開発した。紛らわしくもフィリップスはそのフォーマットを「VCR」と名づけた。そのため、後に最初のレコーダの機種番号である「N1500」と呼ばれている。 同社はフォーマットの開発にあたって[[グルンディッヒ]]と[[レーベ]]の支援を受け、正方形のカートリッジと半インチ(1.3cm)幅のテープを使用して同軸リールにマウントする形を採用した。記録時間は1時間だった。 最初の機種はイギリスで[[1972年]]に販売され、回転ダイヤル式のタイマーがつけられていた。600[[スターリング・ポンド|ポンド]](2,087ドル、日本円では当時のレート(1ドル=308円)で約64万円)近い価格は高すぎて家庭用としては失敗した。デジタルタイマー式のN1502が[[1975年]]に続いた。[[1977年]]には同じテープで長時間再生可能な新型で互換性を持つVCR-LPもしくはN1700が発売され、学校や大学向けに販売された。 ==== Avco カートリビジョン ==== {{Main|カートリビジョン}} [[:en:Avco|Avco]]の[[カートリビジョン]]システムは、TVセット(テレビ受像機)とVCRを組み合わせた装置で、[[1972年]]、カートリッジ・テレビジョン社が1,350ドルで販売した。 正方形のカートリビジョンカセットは正方形で、フィリップスのVCRフォーマットのように、2個の2分の1インチ幅のテープが互いの上にマウントされ、録画時間の上限は114分であった。 このシステムにおいては、人気のある映画を既に録画されたテープをメールオーダーで借りることができた。 == 内蔵チューナー == 初期のビデオデッキは全て地上アナログチューナーのみ内蔵。BSアナログ放送開始後はBSアナログチューナー内蔵モデルも併売されていた<ref group="注">[[1990年代]]後半には「(BSアナログあるいはBSデジタル内蔵テレビでなく地上アナログのみ内蔵のテレビと組み合わせている場合でも)地上アナログ放送を録画中にBSアナログ放送をビデオチューナーで視聴可能な“BSモニター機能”」を搭載したBSアナログビデオが一時期発売されていた(BSアナログ放送を録画中にビデオチューナーで別のBSアナログチャンネル視聴は不可)。</ref>(初期のBSアナログ内蔵機はBSアンテナ端子が入力のみで、BSアナログチューナー内蔵テレビと接続する場合は分配器が必要だったが、のちに[[中間周波数#衛星放送・通信衛星|BS-IF]]出力端子が標準装備されたので分配器は不要となった<ref group="注">ただしBS・110度CSデジタル内蔵テレビとBSアナログ内蔵録画機を組み合わせる場合、BSアナログ内蔵録画機の「BS-IF出力端子」は110度CSデジタル(2150MHz)に非対応であるため、そちらからテレビの「BS・110度CSデジタルアンテナ入力」端子に繋ぐとBS・110度CSデジタルが映らない場合がある。よって(BSアナログ内蔵録画機とBS・110度CS内蔵テレビを組み合わせる場合は)市販の110度CSデジタル対応分配器を用い、直接テレビの110度CSデジタル端子へ接続するのが望ましい。なおデジタルチューナー内蔵録画機のBSアンテナ入出力は全て110度CS対応なので、地上・BS・110度CSデジタルテレビとは従来のBSアナログ録画機と同様の方法でアンテナ接続可。</ref>)。 さらに[[1992年]]以降製造のBSアナログ内蔵ビデオでは、BSアナログハイビジョン放送を簡易的に視聴可能な「M-Nコンバータ」を接続するための「AFC入力端子」が標準装備されていたが(一部のメーカーからは、M-Nコンバータ内蔵VTRも発売された)、[[2000年]]以降製造のBSアナログ内蔵ビデオはAFC入力端子を廃止し、([[WOWOW]]視聴用BSデコーダーを繋ぐための)「検波&ビットストリーム入出力端子」のみ搭載となっていた(のちにBSアナログハイビジョン放送は[[2007年]][[9月30日]]をもって終了)<ref group="注">現在のデジタル放送有料チャンネル視聴は局側と契約して視聴料金を支払うのみで可(ただし[[B-CASカード]]が必要)となっており、アナログ時代のデコーダー類は一切不要である。</ref>。 地上アナログアンテナ端子は初期は[[超短波|VHF]]・[[極超短波|UHF]]別々入出力(VHF端子は初期がケーブル直ネジ止め式で後期はプラグ式。UHF端子はネジ止め式)だったが、1990年以降発売の機種はプラグ式VU混合入出力が標準規格となった。 チャンネル設定の場合、アナログVHFとアナログBSの各チャンネルは工場出荷時に設定済み。アナログUHFチャンネルを初期の機種では1局ずつ手動選局して合わせていたが、地域や機種によっては自動微調整では調整し切れないことも多くユーザーの目で映像を観ながらダイヤルやボタンで手動調整する煩わしさを解消するため1990年以降製造機種では設定画面を見ながら数字を書き換え、画面も書き換えた数字に連動して変わる方式へ変更。[[1993年]]以降の機種では画面での手動設定に加え、居住地の[[市外局番]]或いは各メーカーが独自に指定した居住地地域番号を入力すると居住地で視聴可能なチャンネルが自動設定される方式も登場した。なお[[Gコード]]予約機能搭載機種の場合、「ガイドチャンネル」を正しく設定しないと目的のチャンネル・番組のGコードによる予約録画が出来ない<ref group="注">現在は「電子番組表([[Gガイド]])」に取って代わられ、録画したい番組を番組表から選んで録画モードを設定するのみで予約が完了し、番組延長や突発的な番組変更にも対応するので従来のGコードやフリーセット方式より録画予約が簡単で、ガイドチャンネル設定も不要。なお現在発売されているデジタルチューナー内蔵録画機の直接記録媒体はHDD主体となっており、BD/DVDおよびVHSへの録画はHDDよりダビングするかたちとなる機種がほとんどである。</ref>(NHKは全国共通で総合「80」・教育「90」。民放はアナログ親局番号をガイドチャンネルとして割り当てている<ref group="注">市外局番チャンネル設定一覧表に非掲載の地域ではガイドチャンネルを手動設定。なおIAT[[岩手朝日テレビ]]は[[紫波新山|アナログ親局]]チャンネル番号「31」だが、ガイドチャンネルは隣接県のAAB[[秋田朝日放送]]との重複を避けるため、親局チャンネル番号と異なる「20」が割り当てられている。同様に、GYT[[とちぎテレビ]]も[[宇都宮タワー|アナログ親局]]チャンネル番号「31」だが、ガイドチャンネルは隣接県のTUF[[テレビユー福島]]との重複を避けるため、親局チャンネル番号と異なる「23」が割り当てられている。KSB[[瀬戸内海放送]]は[[前田山送信所|旧アナログ親局]]のチャンネル番号「33」をガイドチャンネルとしている。</ref>)。加えて1990年以降製造の機種では[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の正午(午後0時)の[[時報]]に合わせてビデオ本体時計のズレを自動修正する「自動時刻合わせ(ジャストクロック、※又はぴったり時計)」機能が加わり、時刻合わせ時に自動時刻修正チャンネルを居住地のNHK教育テレビに合わせるとこの機能が動作する<ref group="注">メモリー用バックアップバッテリーも内蔵され、工場出荷時から1年間或いは5年間は電源プラグを抜いたり停電があっても時刻合わせ・チャンネル・予約録画日時などの再設定が不要。ただし「ぴったり時計」機能は「誤差が2分以内となっている場合」に限り動作するので、誤差が3分以上ある場合、および(メモリー用バックアップバッテリーの有効期限切れで)時計が「0:00」の点滅表示となっている場合は従来通り手動修正する(時刻設定で「自動時刻チャンネル」項が「-」表示になっている時、[[選抜高等学校野球大会|春]]・[[全国高等学校野球選手権大会|夏]]の[[日本の高校野球|高校野球]]期間中など時報自体が流れないとき、時報が流れる時間に機器の電源が入っているときも「ぴったり時計」は動作しない)。</ref>。ただし[[地上デジタルテレビ放送|地上デジタル]]が始まってからNHK教育テレビは(タイムラグが発生する関係で)時報放送を廃止したので、この「ぴったり時計」機能は現在使用不可となった<ref group="注">デジタルチューナー内蔵録画機では「ぴったり時計」機能がアナログ録画機より進化。デジタル放送経由で正確な時刻情報が自動送信されるので時計精度はアナログ録画機より向上し、時刻ズレが極めて発生しにくくなっている(電源プラグを抜いたり停電があっても手動時刻設定は不要)。</ref>。 [[日本における衛星放送|BSデジタル]]が開始された2000年以降もVTR単体機に(地上・BS・110度CS)[[デジタルチューナー]]が搭載されることはなく、アナログチューナーのみ搭載のVTR単体機およびS-VHS・W-VHS・D-VHS機は2007年頃までに生産終了<ref group="注">デジタル放送を[[i-LINK]]ケーブル経由でハイビジョン録画可能なビデオデッキも登場したが、i-LINKビデオにデジタルチューナーは非搭載で、対応機が少なく高価だったことから量産はされず発売期間は短かった。なおデジタルチューナー内蔵録画機およびデジタルテレビの上位機は現在でもi-LINK端子搭載機が発売されている。</ref>。現在は[[BDレコーダー]]および[[DVDレコーダー]]の中にVHS一体型機が存在するのみとなっている(発売当初はWチューナー機もあったが、現在発売中の機種は全てシングルチューナーで裏録およびVHSへの直接録画は不可、ただし「SQPB」機能によりS-VHSソフトは簡易再生可、D-VHSソフトは再生不可<ref group="注">全機種「光デジタル音声出力端子」を標準装備(BD/DVD単体機のうち一部上級機は同軸デジタル出力端子も併載)。(AVデジタルアンプやコードレスサラウンドヘッドホン等の)光デジタル入力端子付機器と接続すれば(従来のBSアナログ内蔵高級機になかった機能として)デジタル3波放送全て・BD/DVD/CDのみならず、VHS音声や地上アナログ放送もCD並みの高音質で再生される(アナログ録画機のうちVTR単体機には光デジタル音声出力端子が基本的に非搭載。BSアナログ内蔵ビデオおよびS-VHSの一部上位機において光デジタル音声出力搭載機が発売されていたが、その大半はBSアナログ放送の音声のみを出力し、地上アナログとVHS/S-VHS再生音は光デジタル端子から出力されずアナログ音声端子からのみ出力されるタイプだった。BSアナログ内蔵テレビにも[[1980年代]]後半から1990年代前半にかけて発売された上位機には光デジタル出力端子搭載機があったが、そちらもBSアナログ放送のみを出力するタイプだった)。</ref>)。 かつては各メーカーが(一部上位機にのみ)テレビ受像機との連動録再機能(「システムコントロール」、「コンピュリンク」など)を搭載しており、特にBSアナログチューナー非搭載機とBSアナログチューナー内蔵テレビとの組み合わせではテレビ側のBS予約情報が接続したビデオに(システムコントロールコード経由で)転送される「BSタイマーコントロール」機能搭載の機種が販売されていた。現在の連動録再機能は「[[Irシステム]]」やHDMI連動(「[[ビエラリンク]]」など)が主役になっている(ただしビデオ機能に対しての連動録再は「Irシステム」のみ)<ref group="注">2000年代末になるとテレビ番組録画の主役は画質・音質が従来のAV接続よりはるかに良く操作・接続も簡単な[[HDMI]]連動([[ビエラリンク]]など)にほぼ完全移行してきたため、IrシステムやAV接続の地位は次第に低下。2010年以降製造のデジタルテレビ受像機はIrシステム・モニター出力・[[S端子|S2/S1映像入出力]]・側面ビデオ入力の各端子を全廃し、かつ従来型AV入力端子の数も大幅削減する機種が急増。これにより([[2010年]]以降製造の)最新型デジタルテレビと(アナログチューナーのみ搭載の)従来型録画機を組み合わせた場合は(アナログチューナーのみ内蔵の録画機は)再生専用となりデジタル放送の録画ができなくなる(デジタルチューナー内蔵録画機とHDMI接続した場合のみデジタル放送録画が可能となる)他、入力端子数削減により繋げる(HDMI非搭載の)従来型AV機器が少なくなるので、端子がすぐ塞がりやすくなる。また従来型アナログテレビ受像機で引き続き(外付デジタルチューナーを繋いで)地デジを視聴する場合、録画も可能な[[BDレコーダー]]や[[DVDレコーダー]]のほうが安上がりである(故障したアナログテレビ受像機をリサイクルに出してデジタルテレビに買い換えた場合、他にデジタルチューナー非内蔵機器がない限り録画機能なしの単体デジタルチューナーは無用の長物となる)。</ref>。 ただしこれら連動録再機能は全て「(原則として)連動録再機能を搭載した同一メーカー同士の機種をメーカー指定の専用連動ケーブルで繋がないと動作しない」仕組みとなっており、同じ連動録再機能を有する機種でも組み合わせメーカーが異なる場合は正常に動作しなかったり誤動作する場合がある。さらにIrシステムおよびHDMI連動はデジタルテレビと組み合わせ録画機のメーカーおよび年式により使える機能数が異なる。 == DVDレコーダー登場後 == デジタル放送が始まると録画媒体は従来の[[ビデオテープ]]から[[DVD]]、そして[[ハードディスクドライブ|HDD]]・[[Blu-ray Disc|BD]]へ移行。これら記録媒体のほうがビデオテープより省スペースで保管でき、かつ操作性・画質・音質も従来の[[ビデオデッキ]]より格段に向上したことから、ビデオデッキ単体機は2007年頃までに生産終了、[[S-VHS]]ソフトは全て「SQPB」による簡易再生のみ可能(画質はVHSと同じ)。S-VHS機の生産も2007年頃までに完全終了した(VHS一体型BD/DVDレコーダーにおけるW-VHS・D-VHSソフトの再生は不可)。 <!-- 現在はDVDレコーダーに[[VHS]]一体型機が存在するのみである(登場当初の機種はVHSへの直接録画もできたが、現在発売中の機種はVHSへの直接録画ができずHDDへ録画してからビデオテープ及びディスクにダビングするものがほとんどである)。さらにチューナーは当初Wチューナー(2番組同時録画)モデルもあったが、現在発売中のモデルはほとんどシングルチューナーの(デジタル・アナログ各1系統しかない)ため裏録(2番組以上の同時録画)はできない。 --> == 参考文献 == * ジェームズ ラードナー(著)、西岡幸一(翻訳):「ファースト・フォワード アメリカを変えてしまったVTR」、パーソナルメディア刊、ISBN 978-4893620392(1988年8月)。 * 中川靖造(著):「ドキュメント日本の磁気記録開発 オーディオとビデオに賭けた男たち」、ダイヤモンド社刊、ISBN 978-4478380055(1984年1月)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[磁気テープ]] * [[ビデオ信号記録装置]] * [[ビデオカメラ]] * [[パナソニックのVTRの歴史]] * [[テレビデオ]] * [[ビデオ戦争]] * [[RCA端子]] * [[S端子]] * [[くし形フィルタ]] * [[VHS]]・[[S-VHS]]・[[W-VHS]]・[[D-VHS]] * [[2011年問題 (日本のテレビジョン放送)]] * [[薄型テレビ]] * [[日本の地上デジタルテレビ放送]] * [[NHK番組発掘プロジェクト]] - 視聴者から、それらのテープで録画された[[昭和40年]]~[[1985年|60年]]以内のNHKの地上波の番組と[[平成5年]]以前に放映された衛星放送番組の情報提供を求めている。 == 外部リンク == * [https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/equipments/ NHK番組発掘プロジェクト通信 懐かしの名機] {{Normdaten}} [[Category:ビデオ・ハードウェア|*]] [[Category:ビデオテープ|*]]
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アムシャ・スプンタ
アムシャ・スプンタ (Aməša Spənta) は、ゾロアスター教において最高神アフラ・マズダーに従う七人の善神。その名は「不滅の聖性」を意味する。なお、スプンタ・マンユはアフラ・マズダーと同一視されることがあり、その場合は六人と数えられる。 極めて抽象的、教理的な神格のため、中世以降はあまり信仰されなくなり、ゾロアスター教においての信仰は、ヤザタに取って代わられた。 本来はゾロアスター教よりも古いペルシャ土着の神々の中で、人類の守護者とされたものが取り入れられたとされる。
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アムシャ・スプンタ は、ゾロアスター教において最高神アフラ・マズダーに従う七人の善神。その名は「不滅の聖性」を意味する。なお、スプンタ・マンユはアフラ・マズダーと同一視されることがあり、その場合は六人と数えられる。 極めて抽象的、教理的な神格のため、中世以降はあまり信仰されなくなり、ゾロアスター教においての信仰は、ヤザタに取って代わられた。 本来はゾロアスター教よりも古いペルシャ土着の神々の中で、人類の守護者とされたものが取り入れられたとされる。
{{出典の明記|date=2015年11月8日 (日) 14:02 (UTC)}} {{Zoroastrianism}} '''アムシャ・スプンタ''' ({{lang|ae|Aməša Spənta}}) は、[[ゾロアスター教]]において最高神[[アフラ・マズダー]]に従う七人の善神。その名は「'''不滅の聖性'''」を意味する。なお、スプンタ・マンユはアフラ・マズダーと同一視されることがあり、その場合は六人と数えられる。 極めて抽象的、教理的な神格のため、中世以降はあまり信仰されなくなり、ゾロアスター教においての信仰は、[[ヤザタ]]に取って代わられた。 本来はゾロアスター教よりも古い[[ペルシャ]]土着の神々の中で、人類の守護者とされたものが取り入れられたとされる。 == 善神 == * [[スプンタ・マンユ]](Spənta Mainyu) * [[ウォフ・マナフ]](Vohu Manah) * [[アシャ・ワヒシュタ|アシャ(・ワヒシュタ)]](Aša Vahišta) * [[スプンタ・アールマティ|(スプンタ・)アールマティ]](Spənta Ārmaiti) * [[フシャスラ・ワルヤ|クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ)]](Χšaθra Vairya) * [[ハルワタート]](Haurvatāt) * [[アムルタート]](Amərətāt) == 悪神 == * [[アンラ・マンユ]] (Angra Mainyu) - 善神[[スプンタ・マンユ]]に対抗する魔王であり、別の解釈では最高神アフラ・マズダーに対抗する、魔王の中の魔王 * [[アカ・マナフ]] (Aka Manah) - アムシャ・スプンタの[[ウォフ・マナフ]]と対抗する魔王 * [[ドゥルジ]] (Druj) - 善神[[アシャ・ワヒシュタ]]の敵対者 * [[タローマティ]] (Tarōmaiti) - [[スプンタ・アールマティ|スプンター・アールマティ]]と対抗する魔王 * [[サルワ]](サウルウァ) (Saurva) - [[フシャスラ・ワルヤ]]と対抗する魔王。[[インド神話]]の暴風神[[ルドラ]](別名サルワ、後の破壊神[[シヴァ]])のゾロアスター教での姿 * [[タルウィ]] (Taurvi) - [[ハルワタート]]と対抗する魔王 * [[ザリチュ]] (Zairic) - [[アムルタート]]と対抗する魔王 {{Myth-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あむしやすふんた}} [[Category:アムシャ・スプンタ|*]] [[Category:ゾロアスター教の神]] [[ar:سنبلة (شهر)]] [[ckb:خەرمانان]] [[glk:شهریور]] [[mzn:کرچه ما]] [[ps:وږی(مياشت)]]
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大アルカナ
大アルカナ(だいアルカナ、major arcana)は、タロットの一組78枚のうち22枚を構成する寓意画が描かれたカードを指す。 「アルカナ」とはラテン語でarcanum=アルカーヌムの複数形arcanaであり、「机の引き出し」の意味から引き出しに「隠されたもの」を指し、さらに転じて「秘密」「神秘」などの意味になった。タロットを神秘的なものと見るようになった19世紀頃から使われ始めた言葉で、ゲーム用具としてのタロットでは、単に「切り札(英語: trump、フランス語: atout など)」と呼ばれる。ただし神秘主義に基づいて創作されたタロット・カードであってもアレイスター・クロウリーの「トートのタロット」のように "TRUMP" という言葉を使っている例はある。 「愚者」のカードを切り札に含めるかどうかは地域差があり、フランスでは切り札とは独立したカードとしているが、オーストリアなど中央ヨーロッパでは22番目の切り札としている。神秘主義に基づく創作系のタロット・カードにおいても、「愚者」を大アルカナに含めるかどうかは説が分かれている(後述)。また「星」から「世界」までの5枚のカードは「アリエ」(ラテン語で「天」の意味)と呼ばれ、切り札の中でも最強のものとされた。 枚数が22枚であることから、神秘主義者らによってヘブライ文字22文字やセフィロト(生命の木)の22本の経路と関連づけて解釈される事が多い。しかしヘブライ文字と22枚のカードのどれとどれを関係付けるかは複数の説がある。
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大アルカナは、タロットの一組78枚のうち22枚を構成する寓意画が描かれたカードを指す。
{{出典の明記|date=2019年9月}} '''大アルカナ'''(だいアルカナ、''major arcana'')は、[[タロット]]の一組78枚のうち22枚を構成する寓意画が描かれたカードを指す。 == 概要 == 「アルカナ」とは[[ラテン語]]で'''arcanum'''=アルカーヌムの複数形arcanaであり、「机の引き出し」の意味から引き出しに「隠されたもの」を指し、さらに転じて「秘密」「[[神秘]]」などの意味になった。タロットを神秘的なものと見るようになった[[19世紀]]頃から使われ始めた言葉で、ゲーム用具としてのタロットでは、単に「[[切り札]]({{lang-en|trump}}、{{lang-fr|atout}} など)」と呼ばれる。ただし神秘主義に基づいて創作されたタロット・カードであっても[[アレイスター・クロウリー]]の「トートのタロット」のように "TRUMP" という言葉を使っている例はある。 「[[愚者]]」のカードを切り札に含めるかどうかは地域差があり、[[フランス]]では切り札とは独立したカードとしているが、[[オーストリア]]など[[中央ヨーロッパ]]では22番目の切り札としている。神秘主義に基づく創作系のタロット・カードにおいても、「愚者」を大アルカナに含めるかどうかは説が分かれている(後述)。また「星」から「世界」までの5枚のカードは「アリエ」(ラテン語で「天」の意味)と呼ばれ、切り札の中でも最強のものとされた。 == ヘブライ文字との関係 == 枚数が22枚であることから、[[神秘主義]]者らによって[[ヘブライ文字]]22文字や[[生命の樹 (旧約聖書)|セフィロト]](生命の木)の22本の経路と関連づけて解釈される事が多い。しかしヘブライ文字と22枚のカードのどれとどれを関係付けるかは複数の説がある<ref group="注釈">セフィロトの経路とカードの関係についてもその組み合わせは多くの説がある。</ref>。 == 意味解釈 == *カードの順番配列にはいくつもの説がある。この表の順番配列は[[ウェイト版タロット]]である。 **[[アーサー・エドワード・ウェイト]]は、8番を力、11番を正義にして、旧来の順番を入れ替えた<ref group="注釈">入れ替えた理由は、占星術との関係からみてカードが12星座の順に並ぶように考慮したためであるが、アレイスター・クロウリーはその件について「良くないことだ」として非難している。</ref>とされるが、最初にこの入れ替えをしたのはウェイトではない。[[ウェイト版タロット]]が有名になったため、この入れ替えはウェイト式と認識されるようになったのである。以後、英米ではそれに倣うカードが多く創作されたため、世界のタロットカードには旧来の順番に従うものとウェイト版タロットのものとの二大系列ができた<ref group="注釈">誤った表現が散見されるが、8番と11番が入れ替わったものが全て「黄金の夜明け団」の系統というわけではなく、逆に「黄金の夜明け団」と関係したものでもマルセイユ版と同様の伝統的な順番になっているものもある。小アルカナの数札に付与された絵柄についても然り。これらの特徴は「黄金の夜明け団」の影響ではなく、「ウェイト版」の影響というのが実態に即して適切である。</ref>。伝統的な[[マルセイユ版タロット]]は前者(旧来の順番に従うもの)に属する。 **「愚者」のカードは番号が与えられず無記のままかもしくは22番であったのを、フランスの[[エッティラ]]は大アルカナ21枚と切り離し小アルカナの後ろに置いて78番とした<ref group="注釈">エッティラは愚者のカードを大アルカナでも小アルカナでもない第三のカテゴリーと考えたか、あるいは大アルカナと小アルカナの区別を認めなかったのか、いずれかであるが、このような考えは以後のオカルチストらには踏襲されず、以下のほとんどの研究家たちは愚者のカードを大アルカナに含めている。</ref>。[[パピュス]]は愚者を21番、世界を22番とした<ref group="注釈">「愚者」を「審判」と「世界」の間に置く並べ順は、各カードに対応させたヘブライ文字のアルファベット順に合わせたものである。</ref>。英国のウェイトが初めて愚者を0番としたとの説があるがこれは誤りで、正しくはアントワーヌ・[[クール・ド・ジェブラン]]である。現在では愚者のカードはそのタロットによって、0番、21番、22番、無記の4種類のタロットがある(愚者を21番とする場合は世界を22番とする)。また8番と11番の位置の如何にかかわらず、愚者のカードの位置は、冒頭(1番の前)に配されるもの、大アルカナの最後(21番の後、小アルカナの前)に配されるもの、20番と21番の間に配されるもの、小アルカナも含めた全カードの最後に配されるもの、と4種類のデッキがある<ref group="注釈">ウェイトは0番(愚者)を初めて20番と21番の間に置いたとの説があるがこれは誤りで、ウェイトは0番(愚者)を大アルカナの最初に置いた。初めて20番と21番の間に置いたのはパピュスである。</ref>。 *この表の「意味」の項の説明はウェイトの[[タロット図解]]に基づく<ref group="注釈">マルセイユ版などに基づく伝統的な解釈とは大きく食い違っている部分があるので注意が必要である。</ref>。 *この表にあげた[[西洋占星術]]の[[星座]]と[[惑星]]との関連の項は、あくまで一例であり、参考としてあげたまでである。カードと占星術の関係をどうあてはめるかは18世紀の[[エッティラ]]の説を最初とし、それ以降、現代に至るまで欧米日の神秘家たちによる数多くの説<ref group="注釈">大雑把には7系統、細かい違いも数えれば22もの説がある。パピュスの説は[[カバラ]]文献の『[[形成の書]]』に基づくとの説があるが誤りで、エッティラの説を微修正したものである。また「[[黄金の夜明け団]]」の説の説では7惑星12星座が19枚の大アルカナに配当され、残る3枚が水火風の3元素に対応しているが、この3枚の元素カードに天海冥の3惑星を当てたのは[[ポール・フォスター・ケース]]である。ほとんどが欧米人であるが日本では[[辛島宜夫]]と[[アレクサンドリア木星王]]の2大タロット師が有名である。辛島の説は[[メアリー・ベックウィズ・コーエン]]の説を独自に修正したもの、木星王は[[C・C・ザイン]]の説を微修正して採用していた。日本では他に[[アビーネ藍]]、[[エトワール舟黎]]、[[弦エニシ]]もそれぞれ独自説だが、ともに辛島の説を微修正したものである。アビーネ藍は二つの説を紹介しておりもう一つは[[スニー・イデルス]]の説を微修正したものである。</ref>が存在するので、注意が必要である<small>(詳細はそれぞれのカードの頁を参照)</small>。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:smaller" |- ! 番号 !! タイトル !! 意味 !! 占星術{{smaller|(一例)}} |- |0<br/>''(22,21,無番号)''||'''[[愚者]]'''([[ジプシー]]、[[道化師]]、[[物質主義者]])||夢想・愚行・極端・熱狂||[[火星]] |- |1||'''[[魔術師 (タロット)|魔術師]]'''([[異教徒]]、[[奇術師]]、[[賢者]]、[[せむし]]、[[道士]]、[[香具師]])||意志・手腕・外交||[[水星]] |- |2||'''[[女教皇]]'''([[イヴ|イブ]]、女司祭、隠されたイシス、[[ユーノー|ジュノー]])||秘密・神秘・英知||[[土星]] |- |3||'''[[女帝 (タロット)|女帝]]'''(現われたイシス、[[皇后]]、[[大地]]、[[ウェヌス|ビーナス]])||実り・行動・月日の長さ・未知||[[金星]] |- |4||'''[[皇帝 (タロット)|皇帝]]'''([[オシリス]]、[[元首]]、ジプシーの王、立方体の石)||統治・堅固さ・防御・同盟||[[木星]] |- |5||'''[[教皇 (タロット)|教皇]]'''([[司祭|司祭長]]、ジプシープリンス、[[法王]]、法の審判)||信条・社会性・恵みと有徳||02[[金牛宮]] |- |6||'''[[恋人 (タロット)|恋人]]'''([[ヘルメース|エルメス]]、[[エロース|エロス]]、[[結婚]]、二つの道、優柔不断、[[愛]])||魅力・愛美||03[[双児宮]] |- |7||'''[[戦車 (タロット)|戦車]]'''([[凱旋]]、[[勝利]]の王、[[征服者]])||援軍・摂理・勝利・復讐||09[[人馬宮]] |- |8<br/>''(11)''||'''[[力 (タロット)|力]]'''([[力士|女力士]]、[[剛毅]]、[[説得]]、[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]、[[勇気]])||力・勇気・寛大・名誉||05[[獅子宮]] |- |9||'''[[隠者 (タロット)|隠者]]'''([[賢者]]、[[反逆者]]、[[老人]])||深慮・忠告を受ける・崩壊||11[[宝瓶宮]] |- |10||'''[[運命の輪]]'''(運命の車、[[革命]]、[[幸運|幸運神]]、[[時代]]、報い、[[輪]])||幸運・転機・向上||06[[処女宮]] |- |11<br/>''(8)''||'''[[正義 (タロット)|正義]]'''(裁判の女神、主席判事、[[正義の女神]]、[[バランス]])||平等・正しさ・正当な判決||07[[天秤宮]] |- |12||'''[[吊された男|吊るされた男]]'''([[死刑囚]]、[[使徒]]、[[殉教者]]、処刑台、吊るし人)||英知・慎重・試練・直観||12[[双魚宮]] |- |13||'''[[死神 (タロット)|死神]]'''([[時間]]、不死性、[[霊魂]])<br/><small>''※無記名の場合アリ''</small>||停止・損失・死と再生||08[[天蝎宮]] |- |14||'''[[節制 (タロット)|節制]]'''([[グレートマザー]]、[[大天使]]、天界の女王、閃き)||調整・中庸・倹約・管理||04[[巨蟹宮]] |- |15||'''[[悪魔 (タロット)|悪魔]]'''([[黒魔術師]]、[[サタン]]、[[情欲]]、[[堕天使]]、[[バフォメット]])||暴力・激烈・宿命・黒魔術||10[[磨羯宮]] |- |16||'''[[塔 (タロット)|塔]]'''([[稲妻]]、神の家、[[神罰]]、[[バベルの塔]]、脆さ、落雷の塔)||悲嘆・災難・不名誉・転落||01[[白羊宮]] |- |17||'''[[星 (タロット)|星]]'''([[希望]]、賢人の星、[[シリウス]]、[[時間]])||希望と吉兆・瞑想・放棄||[[星]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}} |- |18||'''[[月 (タロット)|月]]'''([[黄昏]]、[[ヘカテー|ヘカテ]]、[[魔王]]、[[夢]]、[[霊界]])||隠れた敵・幻想・欺瞞・失敗||[[月]] |- |19||'''[[太陽 (タロット)|太陽]]'''([[インスピレーション]]、[[赤ん坊]]、永遠の青春、[[双子]])||物質的な幸福・幸運な結婚||[[太陽]] |- |20||'''[[審判 (タロット)|審判]]'''([[名誉]]、[[復活]]、[[最後の審判]]、[[永遠]]、[[怒りの日]]、[[石棺]])||復活・位置の変化・更新||---- |- |21<br/>''(22)''||'''[[世界 (タロット)|世界]]'''([[宇宙]]、[[帰還]]、[[真実]]、[[大地]]、[[地球]]、[[導師]]、[[ソピアー|ソフィア]])||完成・約束された成功・旅||<small>([[黄道12宮]])</small> |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[タロット]] * [[タロット占い]] * [[小アルカナ]] * [[占い]] * [[トランプ]] == 外部リンク == *[http://trionfi.com/0/i/c/ALL-78/ Tarot Iconography /en] *Tarots history [http://www.tarocchi1.com tarocchi] University of Pisa research {{Tarot}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たいあるかな}} [[Category:大アルカナ|*]] [[ko:타로#메이저 아르카나]]
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小アルカナ
小アルカナ(しょうアルカナ、minor arcana)とは、タロットの一組78枚のうち、56枚を構成する組を言う。 タロットから、小アルカナのみを抜き出したのがトランプの原型であるとも、逆にトランプが先にあって、後に大アルカナが加えられて現在のタロットになったとも言われている。タロットとトランプとの関連性は皆無、とする説もある。 黄金の夜明け団の解釈では、カバラの創造論でいう「セフィロト」と関連づけられており、占い上の意味も、各セフィロトとその占星術的象徴との関連でつけられている。 小アルカナは、以下の四つの組 (スート suits)に分かれる。 さらに各スートは、以下のように分類されて構成される。 プレイング・カードの四スート(スペード、ハート、ダイヤ、クラブ)との対応関係については以下のような説がある。 小アルカナ各カードの、占い上の主な意味は以下の通り。下記の( )内は対応する四大元素を示す。 (アーサー・エドワード・ウェイトの『タロット図解』による)
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小アルカナとは、タロットの一組78枚のうち、56枚を構成する組を言う。
'''小アルカナ'''(しょうアルカナ、''minor arcana'')とは、[[タロット]]の一組78枚のうち、56枚を構成する組を言う。 ==概要== {{複数の問題|section=1 |独自研究=2017年5月10日 (水) 01:56 (UTC) |出典の明記=2017年5月10日 (水) 01:56 (UTC) }} タロットから、小アルカナのみを抜き出したのが[[トランプ]]の原型であるとも、逆にトランプが先にあって、後に[[大アルカナ]]が加えられて現在のタロットになったとも言われている。タロットとトランプとの関連性は皆無、とする説もある。 [[黄金の夜明け団]]の解釈では、[[カバラ]]の創造論でいう「[[生命の樹 (旧約聖書)#セフィロトの樹|セフィロト]]」と関連づけられており、[[占い]]上の意味も、各セフィロトとその[[占星術]]的象徴との関連でつけられている。 ==カードの分類== 小アルカナは、以下の四つの組 (スート suits)に分かれる。 * [[ワンド (タロット)|棒(杖)]] wands (batons) * [[ソード (タロット)|剣]] swords * [[カップ (タロット)|聖杯]] cups * [[コイン (タロット)|硬貨(護符)]] coins (pentacles) さらに各スートは、以下のように分類されて構成される。 * 数札 pip cards … 1から10までの数字を示す札 * 人物札 court cards … 4枚の人物を示す札 ** 小姓 page ** 騎士 knight ** 女王 queen ** 王 king [[トランプ|プレイング・カード]]の四[[スート]]([[スペード (シンボル)|スペード]]、[[ハート (シンボル)|ハート]]、[[ダイヤ (シンボル)|ダイヤ]]、[[クラブ (シンボル)|クラブ]])との対応関係については以下のような説がある<ref>{{Cite book|和書|author=伊泉龍一 |year=2004 |title=タロット大全 - 歴史から図像まで |publisher=紀伊國屋書店 |page=308}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ! タロットのスート !! 棒 !! 聖杯 !! 剣 !! 硬貨 |- ! 現在の主流 | クラブ || ハート || スペード || ダイヤ |- ! ウェイト『タロット図解』 | ダイヤ || ハート || クラブ || スペード |- ! {{仮リンク|黄金の夜明け団の暗号文書|en|Cipher Manuscripts}} | ダイヤ || ハート || スペード || クラブ |} ==カードの意味== 小アルカナ各カードの、占い上の主な意味は以下の通り。下記の( )内は対応する[[四大元素]]を示す。<BR> ([[アーサー・エドワード・ウェイト]]の『[[タロット図解]]』による) {| class=wikitable |- !&nbsp;!!棒([[火]])!!聖杯([[水]])!!剣([[風]])!!硬貨([[地]]) |- |'''1'''(Ace) |創造力<br>出発点 |喜び<br>満足 |力の勝利<br>愛や憎しみにおける大きな力 |完全な満足<br>金 |- |'''2''' |財産<br>荘厳さ<br>領主 |愛<br>友情<br>一致 |均衡<br>条件付きの調和 |陽気さ<br>文書によるニュース・メッセージ |- |'''3''' |確立された力<br>交易<br>ビジネス上の協力 |豊か<br>幸福<br>成就<br>治癒 |撤退<br>断絶<br>悲しみ |技芸<br>取引<br>熟練工 |- |'''4''' |仕事の完成<br>休息<br>平和 |倦怠<br>飽食<br>混ぜ合わされた快楽 |退却<br>隠遁<br>墓<br>棺 |所有の保証<br>自ら所有するものへの執着<br>贈り物 |- |'''5''' |熱心な競争<br>スポーツ |損失<br>期待したほどではない遺産 |堕落<br>廃止<br>損失 |物質的な面でのトラブル |- |'''6''' |勝利者<br>大ニュースの到着 |過去を振り返る<br>幸福 楽しみ |仕事をやりこなす<br>仲介者<br>得策 |成功<br>贈り物 |- |'''7''' |勇気<br>ディスカッション<br>交渉 |幻想<br>ある程度の成功、ただし永続的なものではない |企画<br>計画 |金銭<br>ビジネス<br>交易 |- |'''8''' |活動性<br>素早さ |成功の放棄<br>謙遜 |拘束された力<br>非難<br>悪いニュース |職人気質<br>準備 |- |'''9''' |抑圧された状況における強さ |物質的安寧<br>満足 |失望<br>幻滅 |物質的な豊かさ<br>達成 |- |'''10''' |抑圧<br>多すぎる財産 |満足<br>人間愛と友情の完全さ |荒廃<br>苦痛 |利益<br>財産 家族 |- |'''小姓'''<br>([[英語|en]])Page<br>([[イタリア語|it]])Fante |若い男性<br>忠実<br>外交使節<br>郵便 |勉強熱心な若者<br>熟考 |監視<br>警戒<br>スパイ<br>試験 |精励勤勉<br>学生 |- |'''騎士'''<br>(en)Knight<br>(it)Cavallo |出発<br>親しみやすい若者 |到着<br>発展<br>提案<br>鼓舞 |勇ましさ<br>激怒 |有用<br>財産<br>責任<br>廉直 |- |'''女王'''<br>(en)Queen<br>(it)Regina |田舎の女性<br>親しみやすく貞淑<br>尊敬できる |善良で公正な女性<br>幸福<br>叡智 |貞淑で悲しみ多き女性<br>未亡人<br>喪失 |富<br>寛大<br>安全 |- |'''王'''<br>(en)King<br>(it)Re |田舎の男性<br>正直<br>良心的 |公正な男性<br>創造的知性 |裁判官<br>正義<br>権威<br>命令 |実際的な知性<br>ビジネス<br>成功 |} ==脚注== {{Reflist}} ==関連項目== * [[タロット]] * [[タロット占い]] * [[大アルカナ]] * [[トランプ]] * [[占い]] ==外部リンク== *[http://trionfi.com/0/i/c/ALL-78/ Iconography of Tarot cards / many examples /en] *Tarots history [http://www.tarocchi1.com tarocchi] University of Pisa research {{Tarot}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しようあるかな}} [[Category:小アルカナ|*]] [[ko:타로#마이너 아르카나]]
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イーサネット
イーサネット (Ethernet) は、家庭・企業・データセンターなどで使用されるコンピューターネットワークにおいて、LANやWANを構成する有線ローカルエリアネットワークの主流な通信規格である。その技術仕様はIEEE 802.3で規定されている。 初期の同軸ケーブルによるLANから発展を続け、ツイストペアケーブル・光ファイバーケーブルを主に用いた有線LANの技術の進歩に合わせて、より通信速度が高速な、新たな規格が登場し続けている。 今日では世界中のLANの多くがイーサネットを採用し、より広い範囲のネットワークであるMANやWANでも一部の技術は「広域イーサネット」という名称でイーサネット規格が取り込まれている。 大小さまざまな組織でパソコン、ワークステーション、サーバー、大容量データストレージデバイスをサポートするために不可欠なものとなっている。 イーサネットではOSI参照モデルの下位2つの層である物理層とデータリンク層に関して規定しており、2021年現在ではTCP/IPと組み合わせて利用される。物理層は伝送速度の違いや物理的な仕様により多種の規格に分かれるが、データリンク層は新旧の規格同士や無線LANとの間にも互換性がある。 名称の「イーサ」(ether)は、古典物理の時代に光の媒質として宇宙の隅々まで満たしているのではないかと考えられた仮想の物質「エーテル」(Ether、Aether) から付けられた。 通信速度は、1980年代初期の10メガビット・イーサネットから始まり、2000年代にはその10倍の伝送速度を持つ100メガビット・イーサネット、100倍の伝送速度を持つギガビット・イーサネットが普及している。さらに、10ギガビット・イーサネット(10GbE)や100ギガビット・イーサネット(100GbE)などがIEEEで策定されている。 日本では、「Ethernet」、「イーサネット」は富士フイルムビジネスイノベーション(旧:富士ゼロックス)が商標登録している。 イーサネットの発想の原点はハワイ大学のノーマン・エイブラムソン教授が開発した「ALOHAシステム」と言われている。ハワイ諸島の島々を4,800ビット/秒の無線によるネットワークで結ぶシステムであった。 最初のイーサネットはALOHAシステムのアイデアに基づいており、1972年 - 1973年にかけて、米ゼロックスのパロアルト研究所 (PARC) においてロバート・メトカーフを中心に開発された。1973年5月22日、特許として登録したため、この日がイーサネットの誕生日とされる。発明当初の伝送速度は2.94Mbpsで、これは当時開発中のコンピュータ XeroxのAltoのベース・クロック5.88MHzに合わせたためだとされている。ゼロックス社はその後、特許を開放してオープンな規格とし、インテルとDECを開発に加えて、1979年、3社の頭文字をとってDIX仕様を制定する。伝送速度は10Mbpsだった。翌年の1980年には、この仕様をIEEE 802委員会に「Ethernet 1.0規格」として提出・公開した。このオープン規格に対して世界中の企業・技術者が技術の仕様策定と製品の開発に加わり、様々な商品が生み出されていった。メトカーフ自身もゼロックス社を退社して米3Com社を創設し、このネットワーク製品開発競争を主導していった。1980年代当時は、米IBM社が「トークンリング」を、米Apple ComputerがAppleTalkという「ローカルトーク」をそれぞれネットワーク製品として強力に推進していたが、結局、規格を公開して多くの賛同者を得たイーサネットが勝ち残った。 1982年に提案された「Ethernet 2.0規格」を基に、1983年に「IEEE 802.3 CSMA/CD」として策定された。これは、50Ω同軸一芯ケーブルを利用したバス型トポロジーを持ち、半二重通信で10Mbpsを達成したもので、直径1cmの堅く重たいケーブルを用いており、後に「10BASE5」と名付けられた。これに続いて同軸ケーブルの径を細くして軽量で引き回しを容易にした10BASE2のThin Ethernetケーブル、10BROAD36の75Ω同軸ケーブル、FOIRLでマルチモード光ファイバーケーブルが伝送媒体として使われるようになった。それから電話の配線に用いられていた非シールドの撚り()合わせた対の銅線を採用した1BASE5 (StarLAN(英語版))が提案され、これを原型として定着した10BASE-TではUTPケーブルが使われるようになり、物理的構成でもスター型トポロジーが採られるようになった。 初期の10メガビット・イーサネットの時代は、OS側でのネットワーク・サポートは限定的であり、PCではNovell社のNetWareやマイクロソフトのLAN Managerといった専用ソフトを購入しないとファイル共有といった基本的な機能すら得られなかった。(ワークステーションとしては、例えばSun社のNFSがあった。) 1980年代から1990年代にかけては、ネットワーク・インターフェース・カード (NIC) やイーサネット・カードと呼ばれるISA/EISA/NESA/PCI形式のドーターカードがPCのオプションとして別売されることが多く、これをPCのマザーボードに差し込んでイーサネット環境を利用できた。 2000年代前半にはチップセットに最初からイーサネットのLAN機能が回路の一部に含まれ、マザーボード上にイーサネットのジャックが装備されるようになった。この頃にはイーサネットの機能実装が当たり前になるとともに、イーサネットという規格の用語名そのものを使うことがまれになった(単にネットワーク・インターフェースと呼ばれることが多くなった)。2015年現在では、家庭用・業務用問わずネットワーク・ポートを最初から2つ持つマザーボードも容易に入手できるようになった。 イーサネットは、OSI参照モデルにおけるレイヤー1の物理層およびレイヤー2のデータリンク層を規定するものであり、IEEEによりIEEE 802.3としてその技術仕様が公開されている。物理層はその伝送媒体が有線に限定されており、無線媒体における通信規格はIEEE 802.11、IEEE 802.15などで別途規定されている。 イーサネットの物理層は、初期のものとその後の拡張されたものとでは、仕様や電気的構成が大きく異なる。一方でデータリンク層は、ジャンボフレームやVLANによる拡張はあるものの、基本的には信号的な互換性があり、メディアコンバータや無線LANなどのネットワーク機器を用いて各規格を繋ぎ合わせることで、相互にデータをやりとりすることができる。 イーサネットでは元の送信すべき通信データをデータリンク層がまず一定の長さ以下の決められた形式をもつデータの塊に分割する。このデータの塊のそれぞれをイーサネットフレーム、または単にフレームと呼ぶ。データは物理層で物理信号に変換されて伝送路上で送受され、常にフレームの形で伝送路を流れている。通信データがフレーム単位に分割されているために、ネットワーク機器は一時には一定以下の長さのフレームのデータを扱うだけで済むので、情報転送に関わる全ての処理は非常に単純な作業の繰り返しに帰着する。 イーサネットの接続構成は、PCやルータ等のノード、スイッチングハブなどのネットワーク機器、ケーブルなどの伝送媒体から成る。各ノードのネットワークインタフェースは各端末同士を識別するための固有値を持ち、これをMACアドレスと呼ぶ。ノードは自身や宛先のMACアドレス情報をフレームに含めて送信し、スイッチングハブや端末ノードはそのアドレス情報に基づいて受信や中継処理を行う。 イーサネットでは、OSI参照モデルの物理層・データリンク層をさらに細分化したモデルを用いてその仕様を明確化し、物理媒体に依存しない柔軟性を持たせている。レイヤー間接続は階層モデルと異なる実装でもよいが、互換性のある設計が求められる。 レイヤー1にあたる物理層では、イーサネットフレームと相互変換される電気信号や光信号の物理仕様を規定している。この処理デバイスをPHYと呼ぶ。 1983年に規定された初期のものは、同軸ケーブルによるバス型構成で半二重通信を可能にしたものである。その後、ツイストペアケーブルや光ファイバーケーブルが使われるようになると、スター型構成による接続が基本となった。さらに、1Gbps以上の通信規格が登場してからは、通信開始前のリンク確立時にオートネゴシエーションが必須となり、全二重通信が前提となっている。 信号伝送に用いられる変調方式は、ほとんどがベースバンド伝送であるが、初期にはブロードバンド伝送を行う方式があった。ベースバンド伝送では、10BASExではマンチェスタ符号、100BASE-TXでは4b/5bとMLT-3(英語版)、1000BASE-Tでは8B/1Q4 (4D-PAM5)、1000BASE-Xでは8b/10bなど、それぞれの物理媒体・通信速度に適した変調が用いられる。さらに、10Gbps以上の通信規格では、符号化にあたり誤り訂正を付加するものがある。 レイヤー2にあたるデータリンク層では、送信するフレームの作成や受信したフレームの解釈に関する作業を規定している。このプロトコルまたは処理部をMACと呼ぶ。 データリンク層は、IEEE 802全体に渡ってLLCとMACの2つの副層に分かれており、イーサネットは、このうちのMAC副層のみを主対象として取り扱っている。 ネットワーク端末であるイーサネット通信装置は、データを送信するために、まず元データをいくつかの塊(ペイロード)に分割し、46–1500オクテット(バイト)の大きさに分ける。データリンク層では、このペイロードの前後にアドレスやチェックシーケンスなどの付加情報を加え、以下のようなフレームを完成させる。 このフレームは物理層で物理信号に変換され送信される。 フレームを連続して送付する場合は、96ビット分のフレーム間隔を空けて送信することが規定されている。 イーサネット通信装置は受信データを物理層で受け取り、フレームとして再構成する。 端末ノードは、自分のMACアドレスが「宛先MACアドレス」でなければそのまま破棄する。フレーム全体からFCSを切り出して計算し、誤りがあれば伝送誤りとして破棄する。また、ペイロードの長さが46-1500オクテットの範囲外となる場合も破棄する。破棄がなければペイロード部分を上位レイヤーへ渡し1フレームの受信作業は終わる。破棄された受信フレームについては、イーサネットで再送処理は用意されていない。一般的に上位レイヤーは多くのネットワークではTCP/IP規格が使用されており、イーサネットで破棄がある場合はTCPからの指示で再送要求を送ることができる。 スイッチングハブなどのネットワーク機器では、FCSやペイロード長に異常があれば破棄するのは端末ノードと同様であるが、受信フレームから送信元アドレスを読み取り、それぞれ接続されたポートごとに所属する端末のMACアドレスを一覧リストとして保持している。フレーム受信する度に宛先アドレスをアドレス一覧リストから高速で比較して転送先を決定している。 こういったレイヤー2スイッチング・ハブの動作はIEEE 802.1Dで規定されており、全ての速度・形式のイーサネット規格で同一である。 イーサネットを構成するための機器及びケーブルについて説明する。 イーサネットの中継を行う機器は、その接続構成や役割によって4つに大別される。 イーサネットの接続に用いられる伝送媒体として、以下のものがある。 導線を筒状の導体で覆ったケーブル。初期イーサネットである10BASE5・10BASE2では、共に50Ωインピーダンスの同軸ケーブルが使用された。10BASE5は直径10mmの通称Thick Ethernetケーブル(またはイエローケーブル)を使用している。後発の10BASE2ではRG-58(英語版)タイプの通称Thin Ethernetケーブルを使用し、直径5mmに改善されている。10BROAD36ではRF接続による通信路としてケーブルテレビで用いられる75Ωインピーダンスの同軸ケーブルが用いられた。 10GBASE-CX4や100GBASE-CR4では、データセンター内の高速短距離用途で2芯同軸ケーブル(Twinaxケーブル)が用いられ、主にダイレクトアタッチケーブルの着脱モジュールとして実装されている。 光信号を伝送するケーブル。多くは送受信号用に2本を用いるが、異なる2つの波長信号を1ケーブル内で同時に送受する方式もある。 短距離用にマルチモードファイバー(MMF)、長距離用にシングルモードファイバー(SMF)を使用する。 10BASE-F、100BASE-FX、1000BASE-SX/LX、10GBASE-SR/LR/ER、100GBASE-Rなどで使われる。イーサネットの光ファイバー通信におけるケーブルは、おおむねファイバーチャネルやSONET/SDHで用いられている技術を踏襲し、以下のようにISO 11801で仕様が規定されているものを用いる。1kmあたりの減衰量や帯域幅などの信号特性によってカテゴリに分類されており、特にMMFは通信速度向上に伴い上位のケーブル仕様が要求される。 撚り対線()による平衡接続で100Ωの特性インピーダンスを持つ銅線ケーブル。特に4対8線で両端にオス型8P8C(通称RJ-45)コネクタのついたものが最も多く使用され、一般に「LANケーブル」と呼ばれる。圧接工具を使えば容易に任意の長さのケーブルにコネクタを接続することもできる。ケーブルには配線構成によっていくつかの種類がある。 通信媒体・伝送速度の違いにより多種の物理層仕様が規定されている。主要な規格名のおおむねの付け方を以下に示す。 ( 10 100 1000 10 G 40 G 100 G ) ( B A S E B R O A D P A S S ) ( − T − X − R e t c ) {\displaystyle \left({\begin{aligned}&10\\&100\\&1000\\&10\mathrm {G} \\&40\mathrm {G} \\&100\mathrm {G} \end{aligned}}\right)\left({\begin{aligned}&\mathrm {BASE} \\&\mathrm {BROAD} \\&\mathrm {PASS} \end{aligned}}\right)\left({\begin{aligned}&\mathrm {-T} \\&\mathrm {-X} \\&\mathrm {-R} \\&\mathrm {etc} \end{aligned}}\right)} 例えば「10BASE-T」は、「10」で10Mbpsの転送速度、「BASE」でベースバンド伝送、「T」でツイストペアケーブルを使用することを意味する。
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"通信速度は、1980年代初期の10メガビット・イーサネットから始まり、2000年代にはその10倍の伝送速度を持つ100メガビット・イーサネット、100倍の伝送速度を持つギガビット・イーサネットが普及している。さらに、10ギガビット・イーサネット(10GbE)や100ギガビット・イーサネット(100GbE)などがIEEEで策定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では、「Ethernet」、「イーサネット」は富士フイルムビジネスイノベーション(旧:富士ゼロックス)が商標登録している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イーサネットの発想の原点はハワイ大学のノーマン・エイブラムソン教授が開発した「ALOHAシステム」と言われている。ハワイ諸島の島々を4,800ビット/秒の無線によるネットワークで結ぶシステムであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "最初のイーサネットはALOHAシステムのアイデアに基づいており、1972年 - 1973年にかけて、米ゼロックスのパロアルト研究所 (PARC) においてロバート・メトカーフを中心に開発された。1973年5月22日、特許として登録したため、この日がイーサネットの誕生日とされる。発明当初の伝送速度は2.94Mbpsで、これは当時開発中のコンピュータ XeroxのAltoのベース・クロック5.88MHzに合わせたためだとされている。ゼロックス社はその後、特許を開放してオープンな規格とし、インテルとDECを開発に加えて、1979年、3社の頭文字をとってDIX仕様を制定する。伝送速度は10Mbpsだった。翌年の1980年には、この仕様をIEEE 802委員会に「Ethernet 1.0規格」として提出・公開した。このオープン規格に対して世界中の企業・技術者が技術の仕様策定と製品の開発に加わり、様々な商品が生み出されていった。メトカーフ自身もゼロックス社を退社して米3Com社を創設し、このネットワーク製品開発競争を主導していった。1980年代当時は、米IBM社が「トークンリング」を、米Apple ComputerがAppleTalkという「ローカルトーク」をそれぞれネットワーク製品として強力に推進していたが、結局、規格を公開して多くの賛同者を得たイーサネットが勝ち残った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1982年に提案された「Ethernet 2.0規格」を基に、1983年に「IEEE 802.3 CSMA/CD」として策定された。これは、50Ω同軸一芯ケーブルを利用したバス型トポロジーを持ち、半二重通信で10Mbpsを達成したもので、直径1cmの堅く重たいケーブルを用いており、後に「10BASE5」と名付けられた。これに続いて同軸ケーブルの径を細くして軽量で引き回しを容易にした10BASE2のThin Ethernetケーブル、10BROAD36の75Ω同軸ケーブル、FOIRLでマルチモード光ファイバーケーブルが伝送媒体として使われるようになった。それから電話の配線に用いられていた非シールドの撚り()合わせた対の銅線を採用した1BASE5 (StarLAN(英語版))が提案され、これを原型として定着した10BASE-TではUTPケーブルが使われるようになり、物理的構成でもスター型トポロジーが採られるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "初期の10メガビット・イーサネットの時代は、OS側でのネットワーク・サポートは限定的であり、PCではNovell社のNetWareやマイクロソフトのLAN Managerといった専用ソフトを購入しないとファイル共有といった基本的な機能すら得られなかった。(ワークステーションとしては、例えばSun社のNFSがあった。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", 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イーサネット (Ethernet) は、家庭・企業・データセンターなどで使用されるコンピューターネットワークにおいて、LANやWANを構成する有線ローカルエリアネットワークの主流な通信規格である。その技術仕様はIEEE 802.3で規定されている。
{{IPstack}} '''イーサネット''' (Ethernet) は、家庭・企業・データセンターなどで使用される[[コンピュータネットワーク|コンピューターネットワーク]]において、LANやWANを構成する[[有線通信|有線]][[ローカルエリアネットワーク]]の主流な[[通信プロトコル|通信規格]]である。その技術仕様は[[IEEE 802.3]]で規定されている。 == 概要 == [[ファイル:イーサネットの発展グラフ.PNG|サムネイル|362ピクセル|イーサネットの発展 下の小さな箱は元ライバル達<ref name="日経ネットワーク200510"/>]] 初期の[[同軸ケーブル]]によるLANから発展を続け、[[ツイストペアケーブル]]・[[光ファイバー]]ケーブルを主に用いた有線LANの技術の進歩に合わせて、より通信速度が高速な、新たな規格が登場し続けている。 今日では世界中のLANの多くがイーサネットを採用し、より広い範囲のネットワークである[[Metropolitan Area Network|MAN]]や[[Wide Area Network|WAN]]でも一部の技術は「[[広域イーサネット]]」という名称でイーサネット規格が取り込まれている。 大小さまざまな組織で[[パソコン]]、[[ワークステーション]]、[[サーバ|サーバー]]、大容量データストレージデバイスをサポートするために不可欠なものとなっている<ref name=":0">{{Cite book|title=Foundations of modern networking : SDN, NFV, QoE, IoT, and Cloud|url=https://www.worldcat.org/oclc/927715441|location=Indianapolis, Indiana|isbn=978-0-13-417547-8|oclc=927715441|others=Agboma, Florence,, Jelassi, Sofiene,|last=Stallings, William,}}</ref>。 イーサネットでは[[OSI参照モデル]]の下位2つの層である[[物理層]]と[[データリンク層]]に関して規定しており、2021年現在では[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]と組み合わせて利用される。物理層は伝送速度の違いや物理的な仕様により多種の規格に分かれるが、データリンク層は新旧の規格同士や[[無線LAN]]との間にも[[互換性]]がある。 名称の「イーサ」(ether)は、古典物理の時代に光の媒質として宇宙の隅々まで満たしているのではないかと考えられた仮想の物質「[[エーテル (物理)|エーテル]]」(Ether、Aether) から付けられた<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20131127/520968/ イーサネット40年の技術] - [[ITpro]](2013年12月9日).2013年12月12日閲覧。</ref>。 通信速度は、1980年代初期の[[10メガビット・イーサネット]]から始まり、2000年代にはその10倍の伝送速度を持つ[[100メガビット・イーサネット]]、100倍の伝送速度を持つ[[ギガビット・イーサネット]]が普及している<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/fnetwork/survey/survey11/network01.html @IT Master of IP Network 第11回 読者調査結果 ~無線LAN/ギガビット・イーサネットの導入状況は?~](2003-12-25)</ref>。さらに、[[10ギガビット・イーサネット]](10GbE)や[[100ギガビット・イーサネット]](100GbE)などが[[IEEE]]で策定されている<ref>[https://standards.ieee.org/standard/802_3-2012.html IEEE 802.3-2012]</ref>。 日本では、「Ethernet」、「イーサネット」は[[富士フイルムビジネスイノベーション|富士フイルムビジネスイノベーション(旧:富士ゼロックス)]]が[[商標]]登録している<ref>日本の商標は[https://www.j-platpat.inpit.go.jp/ 特許情報プラットフォーム]で検索できる。なお、「Ethernet」を含む商標には他社が登録しているものも存在する。</ref>。 == 歴史 == [[ファイル:10Base5transcievers.jpg|サムネイル|10BASE5(太い黄色ケーブル)、10BASE2(細い黒色ケーブル)の[[トランシーバ (ネットワーク機器)|トランシーバー]]、[[ケーブル]]、タッピングツール等]] [[ファイル:AUI connector DA-15.jpg|サムネイル|トランシーバ接続インタフェース(1980年代)<br /> AUI ([[Attachment Unit Interface]]) コネクター(上:オス、下:メス)]] イーサネットの発想の原点はハワイ大学の[[ノーマン・エイブラムソン]]教授が開発した「[[ALOHAnet|ALOHAシステム]]」と言われている。ハワイ諸島の島々を4,800ビット/秒の無線によるネットワークで結ぶシステムであった<ref name="日経ネットワーク200510">日経ネットワーク2005年10月号「継承されるもの,生み出されたもの」</ref>。 最初のイーサネットはALOHAシステムのアイデアに基づいており、[[1972年]] - [[1973年]]にかけて、米[[ゼロックス]]の[[パロアルト研究所]] (PARC) において[[ロバート・メトカーフ]]を中心に開発された。1973年[[5月22日]]、[[特許]]として登録したため、この日がイーサネットの誕生日とされる。発明当初の伝送速度は2.94Mbpsで、これは当時開発中のコンピュータ Xeroxの[[Alto]]のベース・[[クロック]]5.88MHzに合わせたためだとされている。ゼロックス社はその後、特許を開放してオープンな規格とし、[[インテル]]と[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]を開発に加えて、[[1979年]]、3社の頭文字をとってDIX仕様を制定する。伝送速度は10Mbpsだった。翌年の[[1980年]]には、この仕様を[[IEEE 802委員会]]に「Ethernet 1.0規格」として提出・公開した。このオープン規格に対して世界中の企業・技術者が技術の仕様策定と製品の開発に加わり、様々な商品が生み出されていった。メトカーフ自身もゼロックス社を退社して米[[3Com]]社を創設し、このネットワーク製品開発競争を主導していった。1980年代当時は、米[[IBM]]社が「[[トークンリング]]」を、米[[Apple|Apple Computer]]が[[AppleTalk]]という「ローカルトーク」をそれぞれネットワーク製品として強力に推進していたが、結局、規格を公開して多くの賛同者を得たイーサネットが勝ち残った<ref>日経ネットワーク2005年10月号「イーサネット技術読本」p131</ref>。 [[1982年]]に提案された「Ethernet 2.0規格」を基に、[[1983年]]に「[[IEEE 802.3]] [[CSMA/CD]]」として策定された。これは、50Ω同軸一芯ケーブルを利用した[[バス (コンピュータ)#バス型トポロジー|バス型トポロジー]]を持ち、半二重通信で10Mbpsを達成したもので、直径1cmの堅く重たいケーブルを用いており、後に「[[10BASE5]]」と名付けられた。これに続いて同軸ケーブルの径を細くして軽量で引き回しを容易にした[[10BASE2]]のThin Ethernetケーブル、10BROAD36の75Ω同軸ケーブル、FOIRLでマルチモード光ファイバーケーブルが伝送媒体として使われるようになった。それから電話の配線に用いられていた非シールドの{{読み仮名|撚り|より}}合わせた対の銅線を採用した1BASE5 ({{仮リンク|StarLAN|en|StarLAN}})が提案され、これを原型として定着した[[10BASE-T]]では[[UTPケーブル]]が使われるようになり、物理的構成でも[[ネットワーク・トポロジー|スター型トポロジー]]が採られるようになった。 初期の[[10メガビット・イーサネット]]の時代は、OS側でのネットワーク・サポートは限定的であり、PCでは[[ノベル (企業)|Novell]]社の[[NetWare]]や[[マイクロソフト]]の[[LAN Manager]]といった専用ソフトを購入しないとファイル共有といった基本的な機能すら得られなかった。([[ワークステーション]]としては、例えば[[サン・マイクロシステムズ|Sun]]社の[[Network File System|NFS]]があった。) 1980年代から1990年代にかけては、[[ネットワークカード|ネットワーク・インターフェース・カード (NIC) やイーサネット・カード]]と呼ばれる[[Industry Standard Architecture|ISA]]/[[Extended Industry Standard Architecture|EISA]]/[[New Extend Standard Architecture|NESA]]/[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]形式の[[拡張カード|ドーターカード]]がPCのオプションとして別売されることが多く、これをPCのマザーボードに差し込んでイーサネット環境を利用できた。 2000年代前半には[[チップセット]]に最初からイーサネットのLAN機能が回路の一部に含まれ、マザーボード上にイーサネットのジャックが装備されるようになった。この頃にはイーサネットの機能実装が当たり前になるとともに、イーサネットという規格の用語名そのものを使うことがまれになった(単にネットワーク・インターフェースと呼ばれることが多くなった)。2015年現在では、家庭用・業務用問わずネットワーク・ポートを最初から2つ持つマザーボードも容易に入手できるようになった。 == 通信技術 == イーサネットは、[[OSI参照モデル]]におけるレイヤー1の[[物理層]]およびレイヤー2の[[データリンク層]]を規定するものであり、[[IEEE]]により[[IEEE 802.3]]としてその技術仕様が公開されている<ref>[http://grouper.ieee.org/groups/802/3/ IEEE 802.3 ETHERNET] {{en icon}}</ref>。物理層はその伝送媒体が有線に限定されており、無線媒体における通信規格は[[IEEE 802.11]]、[[IEEE 802.15]]などで別途規定されている。 イーサネットの物理層は、初期のものとその後の拡張されたものとでは、仕様や電気的構成が大きく異なる。一方で[[データリンク層]]は、[[ジャンボフレーム]]や[[VLAN]]による拡張はあるものの、基本的には信号的な互換性があり、[[メディアコンバータ]]や[[無線LAN]]などのネットワーク機器を用いて各規格を繋ぎ合わせることで、相互にデータをやりとりすることができる。 イーサネットでは元の送信すべき通信データをデータリンク層がまず一定の長さ以下の決められた形式をもつデータの塊に分割する。このデータの塊のそれぞれを[[イーサネットフレーム]]、または単にフレームと呼ぶ。データは物理層で物理信号に変換されて伝送路上で送受され、常にフレームの形で伝送路を流れている。通信データがフレーム単位に分割されているために、ネットワーク機器は一時には一定以下の長さのフレームのデータを扱うだけで済むので、情報転送に関わる全ての処理は非常に単純な作業の繰り返しに帰着する。 イーサネットの接続構成は、PCや[[ルータ]]等の[[ノード (ネットワーク)|ノード]]、[[スイッチングハブ]]などのネットワーク機器、[[ケーブル]]などの伝送媒体から成る。各ノードの[[ネットワークインタフェース]]は各端末同士を識別するための固有値を持ち、これを[[MACアドレス]]と呼ぶ。ノードは自身や宛先のMACアドレス情報をフレームに含めて送信し、スイッチングハブや端末ノードはそのアドレス情報に基づいて受信や中継処理を行う。 [[ファイル:レイヤー1とレイヤー2の範囲.PNG|サムネイル|800ピクセル|center|レイヤー1(物理層)では電気信号が処理され、レイヤー2([[データリンク層]])では[[スイッチング・ハブ]]が[[イーサネットフレーム]]を中継する。]] === 初期の実装 === [[ファイル:Bustopologie.png|サムネイル|初期のイーサネット構成、端末が1つのバスを共有する]] [[ファイル:HUB SWITCH 6.jpg|サムネイル|主流のイーサネット構成、各端末はスイッチングハブとのみ全二重通信し衝突が発生しない]] ; [[CSMA/CD]] : 初期イーサネットを特徴づけるものとして採用された制御方式。複数の端末を1本の共有バスで接続する[[バス (コンピュータ)#バス型トポロジー|バス型構成]]では、1つの端末からの送出信号はバス上の全端末へ届き、信号内容に応じて必要な端末のみがそれを処理する。複数の端末がほぼ同時に送信するとバス上の信号を正しく読み取れなくなる。これを衝突(コリジョン)と呼び、CSMA/CDではバス上の衝突検出時に送信を中断し待機後にフレームを再送することで対応している<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 4.1.2</ref>。 ; [[衝突ドメイン]](コリジョン・ドメイン、コリジョン・セグメント、レイヤー1・セグメントとも) : バス上を同じデータが到達するネットワーク範囲。衝突検出の物理的な制約によって最大伝送路長が規定されている。機器間の距離が規定より長い場合、データリンクを確立できない可能性がある。 : 規定以上の長さの伝送路が必要な場合は[[リピータ]]または[[リピータハブ]](多ポートのリピータ)により延長することができる。さらに[[ブリッジ (ネットワーク機器)|ブリッジ]]や[[スイッチングハブ]](多ポート化のブリッジ)の登場により衝突ドメインの分断が可能となった。 ; [[複信|全二重通信と半二重通信]] :* 全二重通信: 1つの伝送路上の端末間で、常時、送信と受信が同時に可能なもの。電話などが該当する。 :* 半二重通信: 各端末が送信か受信のどちらか一方を切り替えながらでしか行えないもの。CSMA/CDが該当する。 : 端末やネットワーク機器が自分の発した信号さえ把握していれば、受信信号から送信信号(とノイズ)だけをフィルタすることは可能であり、伝送信号の反射成分を消し去る[[エコーキャンセラ]]技術によって全二重通信が可能となった。端末と[[スイッチングハブ]]との接続のみで構成される全二重通信のイーサネットが主流となってからは衝突が発生しなくなり、CSMA/CDは廃れている。 == 階層モデル == {| class="wikitable floatright" style="font-size:85%; max-width:35em;" |+ 表: イーサネットの階層モデル (100Mbps以上)<ref name="architecure"/> |- | rowspan=2 style="background-color:white;" | レイヤー2:<br/>[[データリンク層]] ! [[論理リンク制御|LLC]] | ''Logical Link Control''<br/> [[ネットワーク層|レイヤー3]]の複数のプロトコルと相互通信を行う。これはイーサネットの範囲外で、[[IEEE 802.2]]で規定される。 |- ! [[媒体アクセス制御|MAC]] | ''Medium Access Control''<br/> [[イーサネットフレーム]]の処理。初期のものでは[[CSMA/CD]]処理も含む。 |- | rowspan=2 style="background-color:white; white-space:nowrap;" | レイヤー間接続 ! RS | ''Reconciliation Sublayer''<br/> 物理層からのエラー通知処理、フレームデータのシリアル・パラレル変換処理。 |- ! [[Media-independent interface|MII]] | ''Medium Independent Interface''<br/> MACと物理層間の接続バス。速度に応じてGMII, XGMIIなどと名称が変わる。 |- | rowspan=3 style="background-color:white;" | レイヤー1:<br/>[[物理層]] ! PCS | ''Physical Coding Sublayer''<br/> リンク確立判断([[オートネゴシエーション]]、速度補償)、[[伝送路符号]]処理、スクランブル処理。 |- ! PMA | ''Physical Medium Attachment''<br/> [[シリアル通信|シリアル]]・[[パラレル通信|パラレル]]変換処理、オクテット同期、スクランブル処理。 |- ! [[物理媒体依存副層|PMD]] | ''Physical Medium Dependent''<br/>物理信号処理。[[SFPトランシーバ]]などの実装がある。 |- | style="background-color:white;" | ! [[Medium-dependent interface|MDI]] | ''Medium dependent Interface''<br/> [[ケーブル]]と接続される。 |} イーサネットでは、[[OSI参照モデル]]の物理層・データリンク層をさらに細分化したモデルを用いてその仕様を明確化し、物理媒体に依存しない柔軟性を持たせている。レイヤー間接続は階層モデルと異なる実装でもよいが、互換性のある設計が求められる<ref name="architecure">IEEE 802.3-2018, Clause 1.1.3</ref>。 === 物理層 === レイヤー1にあたる物理層では、イーサネットフレームと相互変換される電気信号や光信号の物理仕様を規定している。この処理デバイスを[[PHY (チップ)|PHY]]と呼ぶ。 1983年に規定された初期のものは、[[同軸ケーブル]]によるバス型構成で半二重通信を可能にしたものである<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 8</ref>。その後、[[ツイストペアケーブル]]や[[光ファイバー]]ケーブルが使われるようになると、[[ネットワーク・トポロジー|スター型構成]]による接続が基本となった<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 12.2, 15.1</ref>。さらに、1Gbps以上の通信規格が登場してからは、通信開始前のリンク確立時に[[オートネゴシエーション]]が必須となり、[[複信|全二重通信]]が前提となっている<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 40</ref>。 信号伝送に用いられる[[変調]]方式は、ほとんどが[[ベースバンド伝送]]であるが、初期にはブロードバンド伝送を行う方式があった<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 11</ref>。ベースバンド伝送では、10BASExでは[[マンチェスタ符号]]<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 7.3.1</ref>、100BASE-TXでは[[4B5B符号化|4b/5b]]と{{仮リンク|MLT-3|en|MLT-3}}<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 24.1.4.1</ref>、1000BASE-Tでは8B/1Q4 ([[パルス変調|4D-PAM5]])<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 40.1.3.1</ref>、1000BASE-Xでは[[8b/10b]]<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 36.2.4</ref>など、それぞれの物理媒体・通信速度に適した変調が用いられる。さらに、10Gbps以上の通信規格では、符号化にあたり[[誤り訂正]]を付加するものがある<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 74</ref>。 {{see also|#ケーブル|#物理層の規格仕様}} <!-- 【CSMA/CDなどの記述はMAC機能であるため[[#通信技術]]および[[CSMA/CD]]に移植, 要出典:IEEE 802.3, 4.2.3あたり】 --> === データリンク層 === レイヤー2にあたるデータリンク層では、送信するフレームの作成や受信したフレームの解釈に関する作業を規定している。このプロトコルまたは処理部を[[媒体アクセス制御|MAC]]と呼ぶ。 データリンク層は、[[IEEE 802]]全体に渡ってLLCとMACの2つの副層に分かれており、イーサネットは、このうちのMAC副層のみを主対象として取り扱っている。 {{See also|[[論理リンク制御|LLC]]|[[媒体アクセス制御|MAC]]}} ==== フレームの送信 ==== {{main|イーサネットフレーム}} ネットワーク端末であるイーサネット通信装置は、データを送信するために、まず元データをいくつかの塊([[ペイロード (コンピュータ)|ペイロード]])に分割し、46–1500[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]](バイト)<ref>ここでは8ビットのことをバイトとは言わずに通信分野用語である[[オクテット (コンピュータ)|オクテット]]と表している。これは1バイトが必ずしも8ビットではないシステムも存在した経緯による。また、[[ジャンボフレーム]]をサポートするネットワークを用いればより大きいサイズに分割することもできる。</ref>の大きさに分ける。データリンク層では、このペイロードの前後にアドレスやチェックシーケンスなどの付加情報を加え、以下のようなフレームを完成させる<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 3.1.1</ref>。 * 宛先MACアドレス: 6オクテット * 送信元MACアドレス: 6オクテット * ([[VLAN]]: 4オクテット) * [[EtherType]]: 2オクテット * [[ペイロード (コンピュータ)|ペイロード]]: 46–1500オクテット * [[Frame check sequence|FCS]]: 4オクテット (エラー検出用チェックシーケンス) このフレームは物理層で物理信号に変換され送信される。 フレームを連続して送付する場合は、96ビット分の[[パケット間隔|フレーム間隔]]を空けて送信することが規定されている<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 4.2.3.2</ref>。 <!--【フレーム書式の[[イーサネットフレーム]]に移植, 要出典: IEEE 802.3, 4.2.5, 3.2, Fig. 4-3-aあたり, DIX規格は要調査】 --> ==== フレームの受信 ==== イーサネット通信装置は受信データを物理層で受け取り、フレームとして再構成する。 端末ノードは、自分のMACアドレスが「宛先MACアドレス」でなければそのまま破棄する。フレーム全体から[[Frame check sequence|FCS]]を切り出して計算し、誤りがあれば伝送誤りとして破棄する。また、ペイロードの長さが46-1500オクテットの範囲外となる場合も破棄する。破棄がなければペイロード部分を上位レイヤーへ渡し1フレームの受信作業は終わる<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 4.2.4</ref>。破棄された受信フレームについては、イーサネットで再送処理は用意されていない。一般的に上位レイヤーは多くのネットワークでは[[TCP/IP]]規格が使用されており、イーサネットで破棄がある場合はTCPからの指示で再送要求を送ることができる。 [[スイッチングハブ]]などのネットワーク機器では、FCSやペイロード長に異常があれば破棄するのは端末ノードと同様であるが、受信フレームから送信元アドレスを読み取り、それぞれ接続されたポートごとに所属する端末のMACアドレスを一覧リストとして保持している。フレーム受信する度に宛先アドレスをアドレス一覧リストから高速で比較して転送先を決定している<ref>IEEE 802.1D-2004, Clause 6.6</ref>。 こういったレイヤー2スイッチング・ハブの動作は[[IEEE 802.1D]]で規定されており、全ての速度・形式のイーサネット規格で同一である。 <!--【フレーム長の記述は[[イーサネットフレーム]]に移植、要出典: IEEE 802.3, 4.2.3.3, 3.2.7あたり】 --> == 機器及びケーブル == [[ファイル:Ethernet Connection.jpg|サムネイル|[[ノートパソコン]]に接続されたイーサネット用のツイストペアケーブル。]] [[ファイル:Ethernet port.jpg|サムネイル|一般的なイーサネット用の接続ポート([[RJ-45]])]] イーサネットを構成するための機器及びケーブルについて説明する。 === 機器 === イーサネットの中継を行う機器は、その接続構成や役割によって4つに大別される。 ; [[リピータ]] : [[物理層]]をサポートする機器。物理信号を中継・再生し、ネットワークを延長する。 ; [[ハブ (ネットワーク機器)|リピータハブ]](ダムハブ、カスケードハブ、ハブとも) : [[物理層]]をサポートする機器。リピータを多ポート化したもの。複数の端末と接続し物理信号の中継・再生を行う。 ; [[ブリッジ (ネットワーク機器)|ブリッジ]] : [[データリンク層]]をサポートする機器。イーサネットフレームを[[MACアドレス]]に基づいて中継する。 ; [[スイッチングハブ]](レイヤー2スイッチ、LANスイッチ、スイッチ、ハブとも) : [[データリンク層]]をサポートする機器。ブリッジを多ポート化したもの、またはリピータハブにブリッジの機能を持たせたもの。複数の端末と接続しイーサネットフレームを[[MACアドレス]]に基づいて中継する。最も代表的なイーサネットのネットワーク機器。 === ケーブル === イーサネットの接続に用いられる伝送媒体として、以下のものがある。 ==== 同軸ケーブル ==== {{see also|同軸ケーブル}} 導線を筒状の導体で覆ったケーブル。初期イーサネットである10BASE5・10BASE2では、共に50Ωインピーダンスの[[同軸ケーブル]]が使用された。10BASE5は直径10mmの通称Thick Ethernetケーブル(またはイエローケーブル)を使用<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 8.8.8.1</ref>している。後発の10BASE2では{{仮リンク|RG-58|en|RG-58}}タイプの通称Thin Ethernetケーブルを使用し、直径5mmに改善されている<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 10.5.1</ref>。10BROAD36では[[RF接続]]による通信路として[[ケーブルテレビ]]で用いられる75Ωインピーダンスの同軸ケーブルが用いられた。 10GBASE-CX4や100GBASE-CR4では、データセンター内の高速短距離用途で2芯同軸ケーブル(Twinaxケーブル)<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 54.6, Clause 92</ref>が用いられ、主にダイレクトアタッチケーブルの着脱モジュールとして実装されている。 ==== 光ファイバーケーブル ==== {{see also|光ファイバー}} 光信号を伝送するケーブル。多くは送受信号用に2本を用いるが、異なる2つの波長信号を1ケーブル内で同時に送受する方式もある。 短距離用にマルチモードファイバー(MMF)、長距離用にシングルモードファイバー(SMF)を使用する。 * MMF: 芯線(コア)が太いもの。曲げに強く、伝送損失が大きい。安価。 * SMF: 芯線(コア)が細いもの。曲げに弱く、伝送損失が小さい。高価。 10BASE-F、100BASE-FX、1000BASE-SX/LX、10GBASE-SR/LR/ER、100GBASE-Rなどで使われる。イーサネットの光ファイバー通信におけるケーブルは、おおむね[[ファイバーチャネル]]や[[SONET/SDH]]で用いられている技術を踏襲し、以下のように[[ISO 11801]]で仕様が規定されているものを用いる<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 38.3, 38.4, 52.14</ref>。1kmあたりの減衰量や帯域幅などの信号特性によってカテゴリに分類されており、特にMMFは通信速度向上に伴い上位のケーブル仕様が要求される。 {| class="wikitable" style="white-space:nowrap;" |+ ファイバーケーブル規格一覧 ! モード !! カテゴリ !! コア/クラッド径<br/>[μm] !! 減衰量<br/>[dB/km] !! 全モード帯域幅<br/>(850nm波長) !! イーサネットでの主な利用 !! 備考 |- | rowspan=4 | MMF || OM1 || 62.5/125 || 3.5 || 200 MHz・km || [[100メガビット・イーサネット|100BASE-FX]]: 2km<br/>[[ギガビット・イーサネット|1000BASE-SX]]: 275m<br/>[[10ギガビット・イーサネット|10GBASE-SR]]: 26m || 25G以上は非対応 |- | OM2 || 50/125 || 3.5 || 500 MHz・km || 100BASE-FX: 2km<br/>1000BASE-SX/LX: 550m<br/>10GBASE-SR: 82m || 25G以上は非対応 |- | OM3 || 50/125 || 3.0 || 1500 MHz・km || 10GBASE-SR: 300m<br/>[[100ギガビット・イーサネット|100GBASE-SR4/2]]: 75m<br/>[[100ギガビット・イーサネット|100GBASE-SR10]]: 100m || |- | OM4 || 50/125 || 3.0 || 3500 MHz・km || 10GBASE-SR: 400m<br/>100GBASE-SR4/2: 100m<br/>100GBASE-SR10: 150m || |- | rowspan=2 | SMF || OS1 || 9/125 || 1.0 || - || rowspan=2 | 100BASE-FX: 20km<br/>[[ギガビット・イーサネット|1000BASE-LX]]: 5km<br/>[[10ギガビット・イーサネット|10GBASE-LR]]: 10km<br/> [[10ギガビット・イーサネット|10GBASE-ER]]: 40km<br/>[[100ギガビット・イーサネット|100GBASE-LR4]]: 10km<br/> [[100ギガビット・イーサネット|100GBASE-ER4]]: 40km || |- | OS2 || 9/125 || 0.4 || - || |} ==== ツイステッド・ペア・ケーブル ==== {{see also|ツイストペアケーブル}} {{読み仮名|撚り対線|よりついせん}}による[[平衡接続]]で100Ωの[[特性インピーダンス]]を持つ銅線ケーブル。特に4対8線で両端にオス型[[8P8C]](通称[[Registered jack|RJ-45]])コネクタのついたものが最も多く使用され、一般に「LANケーブル」と呼ばれる。[[圧接端子|圧接工具]]を使えば容易に任意の長さのケーブルにコネクタを接続することもできる。ケーブルには配線構成によっていくつかの種類がある。 ; カテゴリによる分類 : 転送速度に応じた周波数特性を満たすケーブルがカテゴリとして分類されている。[[TIA/EIA-568-B|TIA/EIA-568]]および[[ISO/IEC 11801]]など複数の規格で横断的に仕様が規定されており、カテゴリ1, 2, 3, 4, 5, 5e, 6, 6A, 7, 7A, 8 の名称が広く用いられている<ref name="iso11801">ISO/IEC 11801-1:2017 - クラスA, B, C, D, E, E<sub>A</sub>, F, F<sub>A</sub>, I, II がそれぞれ Cat.1, 2, 3/4, 5(e), 6, 6A, 7, 7A, 8.1, 8.2 に相当する。</ref><ref name="tia568">TIA/EIA-568-C.2-1 - Cat.3, 5e, 6, 6A, 8.1 が定義されている。</ref>。「Cat.5」や「Cat.5e」などのカテゴリ略称が用いられる。 ; シールドの有無による分類 :* UTP (Unshielded twisted pair): ノイズシールドのないもの。 :* STP (Shielded twisted pair): ノイズシールドのあるもの。高い周波数特性を持っているが、機器にアース線を取り付けるなど[[接地]]の必要があり、既存のUTPを単純にSTPに置き換えることはできないことが多いため、特にカテゴリ6A以上を用いる場合は注意を要する。 ; ピン接続による分類 :* ストレートケーブル: 両端のコネクタが同じピン番号同士で接続されているもの。通常使うケーブル。 :* [[イーサネット・クロスオーバー・ケーブル|クロスケーブル]]: 両端コネクタの送受ピンが交差接続されているもの。旧型の機器などで、ハブを複数台カスケード接続する場合や、端末同士を1対1で接続する場合に用いられた。[[1000BASE-T]]以降ではほとんど場合、[[medium-dependent interface|Auto MDI/MDI-X]]と呼ばれる送受ピン自動判別機能が機器に備わっている<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 40.4.4</ref>ため、クロスケーブルは必要がない。 <!-- 【カテゴリ一覧表は[[ツイストペアケーブル]]に移動】 --> == 物理層の規格仕様 == 通信媒体・伝送速度の違いにより多種の物理層仕様が規定されている。主要な規格名のおおむねの付け方を以下に示す<ref>IEEE 802.3-2018, Clause 1.2.3</ref>。 <math> \left( \begin{align}&10\\&100\\&1000\\&10\mathrm{G}\\&40\mathrm{G}\\&100\mathrm{G}\end{align} \right) \left( \begin{align}&\mathrm{BASE}\\&\mathrm{BROAD}\\&\mathrm{PASS}\end{align} \right) \left( \begin{align}&\mathrm{-T}\\&\mathrm{-X}\\&\mathrm{-R}\\&\mathrm{etc}\end{align} \right) </math> * '''10/100/1000/10G/100G'''など → 通信速度。末尾にGがあればGbps、なければMbps。 * '''BASE/BROAD/PASS''' → 伝送方式。それぞれ[[ベースバンド伝送]]、ブロードバンド伝送、パスバンド伝送。 * '''「-」以降''' → 伝送媒体または符号化方式。 ** '''-T/T1''': [[ツイストペアケーブル]]。それぞれ通常のもの、シングルペア。 ** '''-V/S/D/F/L/E/Z''': [[光ファイバー]]。それぞれ距離長が短い順。 ** '''-B''': 1芯双方向[[光ファイバー]]。 ** '''-P''': [[受動光ネットワーク]]。 ** '''-RH''': [[光ファイバー#プラスチック製・光ファイバー|プラスチック光ファイバー]]。 ** '''-C''': 2芯[[同軸ケーブル]]。 ** '''-K''': [[バックプレーン]](基板上配線)。 ** 末尾の'''X/R/W''': (主に[[光ファイバー]]における)[[伝送路符号|符号化]]方式。「X」は[[8b/10b|8b/10b変換]]または[[4B5B符号化|4b/5b変換]](100Mbpsの場合)。「R」は[[線形帰還シフトレジスタ#デジタル放送/通信での利用|スクランブル処理]]。「W」は[[SONET/SDH]]対応。 ** 末尾の'''数字''': 距離長またはレーン(並行伝送路)数。 例えば「10BASE-T」は、「10」で10Mbpsの転送速度、「BASE」で[[ベースバンド伝送]]、「T」で[[ツイストペアケーブル]]を使用することを意味する。 {| class="wikitable" |+ イーサネット規格一覧 ! !! [[ツイストペアケーブル|ツイストペア]] !! [[光ファイバ]] !! [[同軸ケーブル|同軸]] !! [[バックプレーン]] |- ! 10M未満 | [[10メガビット・イーサネット#1BASE5|1BASE5]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-PX|2BASE-TL]] || || || |- ! [[10メガビット・イーサネット|10Mbps]] | [[10メガビット・イーサネット#10BASE-T|10BASE-T]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-PX|10PASS-TS]]<br/>[[ツイストペアケーブル#シングルペア規格|10BASE-T1S]]<br/>[[ツイストペアケーブル#シングルペア規格|10BASE-T1L]] | [[10メガビット・イーサネット#10BASE-FL|10BASE-FL]]<br/>[[10メガビット・イーサネット#10BASE-FB|10BASE-FB]]<br/>[[10メガビット・イーサネット#10BASE-FP|10BASE-FP]] | [[10メガビット・イーサネット#10BASE2|10BASE2]]<br/>[[10メガビット・イーサネット#10BASE5|10BASE5]]<br/>[[10メガビット・イーサネット#10BROAD36|10BROAD36]] | |- ! [[100メガビット・イーサネット|100Mbps]] | [[100メガビット・イーサネット#100BASE-TX|100BASE-TX]]<br/>[[100メガビット・イーサネット#100BASE-T4|100BASE-T4]]<br/>[[100メガビット・イーサネット#100BASE-T2|100BASE-T2]]<br/>[[100メガビット・イーサネット#100BASE-T1|100BASE-T1]] | [[100メガビット・イーサネット#100BASE-FX|100BASE-FX]] || || |- ! [[ギガビット・イーサネット|1Gbps]] | [[ギガビット・イーサネット#1000BASE-T|1000BASE-T]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-T1|1000BASE-T1]]<br/>([[ギガビット・イーサネット#1000BASE-TX|1000BASE-TX]])<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-CX|1000BASE-CX]] | [[ギガビット・イーサネット#1000BASE-SX|1000BASE-SX]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-LX|1000BASE-LX]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-LX10|1000BASE-LX10]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-BX10|1000BASE-BX10]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-PX|1000BASE-PX]]<br/>[[ギガビット・イーサネット#1000BASE-RH|1000BASE-RH]] | | 1000BASE-KX |- ! [[マルチギガビット・イーサネット|2.5Gbps]] | 2.5GBASE-T<br/>2.5GBASE-T1 || || || 2.5GBASE-KX |- ! [[マルチギガビット・イーサネット|5Gbps]] | 5GBASE-T<br/>5GBASE-T1 || || || 5GBASE-KR |- ! [[10ギガビット・イーサネット|10Gbps]] | [[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-T|10GBASE-T]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-T1|10GBASE-T1]] | [[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-SR|10GBASE-SR]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-LR|10GBASE-LR]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-ER|10GBASE-ER]]<br/>([[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-ER|10GBASE-ZR]])<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-W|10GBASE-SW]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-W|10GBASE-LW]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-W|10GBASE-EW]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-LX4|10GBASE-LX4]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-LRM|10GBASE-LRM]]<br/>[[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-PR|10GBASE-PR]]<br/>10GBASE-BR40 | [[10ギガビット・イーサネット#10GBASE-CX4|10GBASE-CX4]]<br/>([[10ギガビット・イーサネット#10GSFP+Cu|10GBASE-CR]])<br/>10GPASS-XR | 10GBASE-KR<br/>10GBASE-KX4 |- ! [[100ギガビット・イーサネット|25Gbps]] | [[100ギガビット・イーサネット#ツイストペアケーブル|25GBASE-T]] | 25GBASE-SR<br/>25GBASE-LR<br/>25GBASE-ER<br/>25GBASE-BR40<br/>25GBASE-PQ | 25GBASE-CR<br/>25GBASE-CR-S | 25GBASE-KR<br/>25GBASE-KR-S |- ! 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[[テラビット・イーサネット|400Gbps]] | | 400GBASE-VR4<br/>400GBASE-SR4<br/>400GBASE-SR4.2<br/>400GBASE-SR8<br/>400GBASE-SR16<br/>400GBASE-DR4<br/>400GBASE-FR4<br/>400GBASE-LR4-6<br/>400GBASE-LR8<br/>400GBASE-ER8<br/>400GBASE-ZR | 400GBASE-CR4 | 400GBASE-KR4 |} == 出典 == * 日経ネットワーク2002年2月号「初めてのギガビット・イーサネット」 * 日経ネットワーク2003年7月号「レイヤーで知る通信のしくみ」 * 日経ネットワーク2005年11月号「発展過程で明らかになったイーサネットの本質」 * 日経ネットワーク2005年12月号「CSMA/CDの意味と意義」 * {{Cite book|和書|author=ネットワークマガジン編集部|date=2007-09|title=ゼロからはじめるスイッチ&ルータ増補・新装版|publisher=アスキー|series=アスキームック|isbn=978-4-7561-5004-2}} {{reflist|35em}} == 関連項目 == * [[ブリッジ (ネットワーク機器)|ブリッジ]] - イーサネット接続の基本要素 * [[アークネット]] - イーサネット以外のLAN方式 * [[トークンリング]] - イーサネット以外のLAN方式 * [[IEEE 802.3]] - イーサネットの標準化委員会 * [[イーサチャンネル]] - 複数の物理的リンクを1つの論理的なリンクにする技術。 == 外部リンク == {{Commons&cat}} * [https://standards.ieee.org/standard/802_3-2018.html IEEEのサイト] {{en icon}} * {{Wayback |url=http://www.ethermanage.com/ethernet/ethernet.html |title=最初のプレゼンで使われた絵 |date=20020402185525 }} * {{Kotobank}} {{イーサネット}} {{Basic computer components}} {{OSI}} {{IEEE standards}} {{Telecommunications}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いいさねつと}} [[Category:イーサネット|*]] [[Category:IEEE 802|03]] [[Category:有線通信]]
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遺伝情報
遺伝情報()は、遺伝現象によって親から子に伝わる情報。DNAの塩基配列情報だけではなくその修飾や、母性mRNA・蛋白質なども含む。いわゆる遺伝子は遺伝情報の担体(遺伝因子)のひとつである。現在では遺伝子がその生物もしくは病原のほとんどの遺伝情報を担っていると考えられている。プリオン、ウイロイドなども遺伝子ではない遺伝因子の分かり易い例としてあげられるであろう。 一般的にはゲノムDNAに書き込まれた塩基配列の情報のことと同義的に使われることが多い。様々な生物種の全ての核酸塩基配列を解読する、ゲノムプロジェクトが進行している。核酸塩基配列の調査は法医学でも用いられるようになってきている。バイオテクノロジーの発達により遺伝子診断などが可能になってきた現在では、個人の遺伝情報の公開や漏洩(ろうえい)などによる倫理的な問題も指摘されている。
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遺伝情報は、遺伝現象によって親から子に伝わる情報。DNAの塩基配列情報だけではなくその修飾や、母性mRNA・蛋白質なども含む。いわゆる遺伝子は遺伝情報の担体(遺伝因子)のひとつである。現在では遺伝子がその生物もしくは病原のほとんどの遺伝情報を担っていると考えられている。プリオン、ウイロイドなども遺伝子ではない遺伝因子の分かり易い例としてあげられるであろう。 一般的にはゲノムDNAに書き込まれた塩基配列の情報のことと同義的に使われることが多い。様々な生物種の全ての核酸塩基配列を解読する、ゲノムプロジェクトが進行している。核酸塩基配列の調査は法医学でも用いられるようになってきている。バイオテクノロジーの発達により遺伝子診断などが可能になってきた現在では、個人の遺伝情報の公開や漏洩(ろうえい)などによる倫理的な問題も指摘されている。
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九州
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学、交通などの分野では九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島、および沖縄県を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照) 九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は約1,257万人(2023年)、沖縄県を含めた8県総人口は約1,404万人(2023年)である。都道府県の人口一覧#推計人口(最新)(右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。 九州を大きく二つに分けると、北部九州と南九州に分ける場合と、東九州(日豊)と西九州(筑肥)に分ける場合がある。北部九州と南九州の中間となる地域を中九州ということもある。ただし、これらの地域区分は使用される側によって大きく変化する(詳細は北部九州・南九州を参照)。 中央に九州山地が形成されている。その中核をなす阿蘇山は東西18キロメートル (km) 、南北25 kmにも及ぶ世界最大級のカルデラを持つ。九州の地形は大きく3つに分けることができ、北部と中部の境界は松山-伊万里構造線で、中部と南部の境界は中央構造線の一部である臼杵-八代構造線で分けることができる。北部は比較的なだらかな山地、南部は白亜紀から第三紀にかけて生成された付加体であるため北部とは全く異なった地質であり、比較的険阻な山地になっている。また、中部は数十万年前まで瀬戸内海の延長の海で分かれており、それが阿蘇山の数回にわたる噴火によって溶岩で埋まり、一つの島になった。 尚、以下の項目では九州本島ではなく、九州地方に属するものを挙げる。 九州地方は、日本の地域の中では小笠原諸島に次いで温暖な地域である。鹿児島県の奄美地方以南の地域と、種子島・屋久島地方以北の地域では平均気温が大きく違う。 九州島や種子島・屋久島以北の島嶼部は、夏は暑く降水量が多い。冬は寒さを感じるほどに気温が下がり、雪が降る。域内の南北で大きな気温の差は1~2°Cほどしかない。 九州山地周辺(熊本県阿蘇地方・大分県の西部・宮崎県の北部山間部)では積雪は珍しくなく、年に数日は真冬日となるため希に根雪になることもある。しかし暖かい日もあるため中国地方以東とは異なり豪雪地帯は存在せず、積雪は比較的少ない方である。 南部の太平洋沿岸に当たる大分県の南部・宮崎県・鹿児島県の大隅地方、種子島・屋久島地方は夏に降水量が多い太平洋側気候の南海型で、台風の襲来も多く、鹿児島県は1951年(昭和26年)以降の台風上陸数が日本一である。その中でも日本列島に大きな被害をもたらした台風として「枕崎台風」「ルース台風」「洞爺丸台風」「台風13号(1993年)」「台風16号(2004年)」などがある。冬の気候も温暖で降雪することもほとんどなく、晴天の日が多い。夏から秋にかけては台風の影響を受けるため「台風銀座」と呼ばれる。 福岡県の北九州地方の瀬戸内側と大分県の北部・中部は瀬戸内海式気候の特徴を持ち、降水量が多い梅雨時を除けば九州の中では降水量が少ない地域(大分市の年間降水量:約1,680 mm)であるが、それでも関東以北の東日本太平洋側と比べると多い。特に、北九州地方では九州型の影響との遷移地域で梅雨時の降水量が非常に多い。なお、冬季は曇天が多く降雪することも珍しくない。大分県中部では太平洋側気候の南海型ほど影響がないものの、梅雨時の降水量と秋雨や台風の接近による降水量もやや多いなど山口県の東部以東の瀬戸内海式気候の地域と比べると、夏季の降水量が少ないという特徴は薄くなっている。冬季の大分県北部、中部では、雲が九州山地に遮られるために晴天の日が多い。積雪はどの地域でも少ないが、九州山地にあたる地域ではやや多くなる。 福岡県の北九州地方の大部分を除く地域・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県の西部・鹿児島県の薩摩地方は太平洋側気候(九州型)で、夏は降水量がかなり多く、特に華南、南西諸島からの熱帯モンスーン気団による湿舌などの影響を直接受けやすい初夏から梅雨時に降水量が非常に多くなり、しばしば大きな被害をもたらす。なお、秋雨時の降水量は少ない。冬は降水量が比較的多いが、1 mm以上の降水が観測される降水日数の最多月は日本海側気候のように冬季(1・2・12月のいずれか)ではなく、他太平洋側気候各地と同様に春季 - 秋期(3 - 11月のいずれか)で、年間降水量が少なく、冬は北西からの季節風の影響を受けるため曇天が多いなど島根県の石見地方や山口県の北部と似た気候が現れる。一方で、朝鮮半島のある関係で降雪日数は福岡市で約17日と東京・大阪よりは多いが、積雪は少なく首都圏・京阪神などと同じように5 cm程度の積雪でも大雪とみなされるために交通機関が麻痺してしまう。台風の影響は東シナ海側から朝鮮半島、日本海側を進んだ場合に降水量が多くなる傾向がある。 奄美地方以南の地域は南日本気候(南西諸島気候)で、大東諸島を除きどの島でも年間降水量は2,000 mm以上と多く、一年中降雨がある。台風の接近が多く、時々強い台風が襲来して被害をもたらす。年間の気温の差が小さく1年を通して気温が高い。降雪の記録は過去に数回しかない。また一日の気温差も小さい。盛夏時は晴天の日が多く日照時間も非常に多いが、にわか雨が多い。なお、冬季は北西からの季節風で曇天と雨天が多く日照時間も少ない。梅雨時の降水量は九州本島程ではないがかなり多い。 日本は6,852の島で構成される島国であるが、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び「八つの島」の総称としている(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )。 その『古事記』での九州の呼称表記は「筑紫島(つくしのしま)」である。 『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記しており、その中に筑紫国、火国、豊国、日向国、熊襲国が現われる。 16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物においては、明確に「九州」という名称を見出すことができる。しかしこの名称がいつ生まれたか正確な時代は不明である。鎌倉時代後期に作成された吾妻鏡の元暦2年(1185年)2月13日と2月14日の記事では、源範頼が「九州」を攻めようとしていることが記載されている。もともと中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、九州とは9つの国という意味ではなく、天下のことを指す(参考:九州 (中国))が、平安時代後期に朝廷が発した保元新制で使われている「九州」の意味も、こちらである。また新羅の九州の実例もある。 一般に「九州」とは、令制国の西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9国の総称とされている。四国と同じ理屈で、九国(きゅうこく、くこく)とも呼ばれたといわれる。 この令制国に基づく定義では、九州島の九国と、この九国に編入された周辺の附属島嶼が「九州」の範囲となる。ただし周辺の島嶼が九国の令制国に編入された時期はそれぞれ異なるため、歴史を通し一義的な範囲には定まらない。 このように編入時期が異なる事による意識および解釈の差が存しうるが、少なくとも一度も編入された事がない壱岐、対馬、および沖縄県の領域は、令制国上の「九州」には含まれないことになる(なお、奄美群島は日本本土における廃藩置県・府県合併および琉球処分の後に大隅国《鹿児島県》に編入されたため、行政区分としての「九州」に組み込まれたのはそれ以降である)。さらに後述の太平洋戦争終戦後のアメリカ統治時期も令制国の範囲に変更はないので、この定義に変化はない事になる。 上記九国とともに対馬、壱岐を含む西海道は、九国二島、九州二島とも呼ばれた。また、西海道の別名として鎮西とも呼ばれていた。 廃藩置県・府県合併以降 は、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の8県を指して「九州地方」とされ、これにより令制国上の「九州」には含まれなかった対馬・壱岐・奄美群島・沖縄県の領域をも含む事となった。 一方、単に「九州」とする場合はそのうち沖縄県を除いた7県がその対象とされる。よって、令制国上の「九州」と比較すると対馬・壱岐・奄美群島が加わる事となった。 トカラ列島の一部、奄美群島および沖縄県の領域は太平洋戦争終戦後、アメリカに占領され日本に返還されるまでの間に一時的に日本の施政権が停止されるが、実質的取扱(実効支配)はともかく、「九州」の範囲に影響を与えたことはない。(なお、トカラ列島は上三島が日本に残留し、下七島が施政権停止されたため、両者間で地方公共団体が分離される事となった。) 以上のように単に「九州」と言うと西海道九国の領域、あるいは廃藩置県・府県合併以降の7県(福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県)の領域を指す。いっぽう「九州地方」に沖縄県を含める百科事典が多いが、実際には沖縄県を含めた8県の場合は「九州・沖縄地方」との呼び方が使われている。 歴史上も、「九州地方」などと言う地方区分の概念が導入されたのは廃藩置県後の明治時代以降であると考えられる(それ以前は令制国による区分であった)。なお、近現代の法令上、行政上の区分は、個別の法制度に基づくため、必ずしもこれらとは一致しない。例として九州総合通信局の管轄範囲に沖縄県は含まれない。行政機関の地方支分部局や企業の営業地域などでは沖縄県を九州地方に含む場合も多く、あるいは沖縄を含むことを明示するために「九州・沖縄地方」と表現する場合が一般的である。 例として『NHK年鑑』では見出しを「九州」とする一方で、本文中では「九州・沖縄」と表現している。テレビ番組としては九州朝日放送制作のブロックネット番組「スーパーJチャンネル九州・沖縄」などがある。 また、本州に位置する山口県は、令制国は山陽道の周防国、長門国に属し中国地方に区分されるが、北九州地方(かつての豊前国)に地理的にも近く歴史的な縁の深いこともあり、山口県を便宜上の同一区分に含めることもある。その場合は明示して「九州・山口地方」と表現する。 北部九州では、長崎県の入口遺跡や福岡県の、辻田遺跡の中期旧石器時代石器群等が挙げられる。日本の東北地方の中期旧石器時代の石器と形態的に同じであり、現時点では西日本で最も古い石器の一群である。 南九州の現鹿児島県からは、上場遺跡が発掘されている。 これは日本初の旧石器時代の住居跡の発見例であり、ナイフ形石器文化→細石器文化への移りかわりや、爪形文土器と細石器の関係が層位的に確認された3万年前から1万年の間に5時期の生活の跡が確認された遺跡である。 九州の縄文文化は、草創期から早期にかけては他の地域に先がけて目覚ましい発達がみられる。 佐賀県の「最古の湿地性貝塚」である東名遺跡や長崎県佐世保市の泉福寺洞窟からは世界最古級の豆粒文土器が出土している他、鹿児島県では9500年前の「日本最古の村」とされる上野原遺跡や栫ノ原遺跡等、日本最古級最大級の遺跡が発掘されている。 2021年5月に宮崎県都城市山之口町の「相原第1遺跡」で縄文時代早期(約11000年前)の集落跡が見つかった。この集落跡より古い地層からも石器や土坑が発見された事から旧石器時代までさかのぼる可能性が高いとしている。 約7300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文文化は壊滅的な被害を受けたと予想され、前期から中期にかけて衰退しているが、後期から晩期にかけて再興している。 北部九州では全国でも稀である多数の装飾品を纏って埋葬された女性人骨など20体以上が発掘された山鹿貝塚や、牡蠣殻の仮面などが発掘された阿高黒橋貝塚などがあり、九州独特の文化を形成していた。 古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表、#歴史書における呼称)。 3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった。 続日本紀によるとヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古天皇17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、弘仁15年/天長元年(824年)以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。 なお古代九州には7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。 中世には、博多が自治都市として栄える。摂津国の渡辺氏の分流の松浦氏の一族や、藤原純友の乱において勲功のあった大蔵春実、橘公頼などの子孫が土着し、在地の豪族となる。 平家の勢力圏であり、九州の武家は平家方に属したが、治承・寿永の乱(源平合戦)の趨勢から菊池氏や松浦氏をはじめ諸氏は源氏方に寝返り、鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭に補任される。 しかし、九州の武家は親平家方であったため、源頼朝は「戦後処理」として、九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の少弐氏や島津氏、大友氏を守護として九州に送り、これらの「下り衆」が勢力を強め、菊池氏や松浦氏、秋月氏などの在地の武家を抑え、その後の九州の武家の中枢となる。 鎌倉時代には2度に渡る元寇があり、少弐氏など北九州の武士を中心に撃退した後に、それまでの異国警固番役に代わり鎮西探題が設置される。 元弘元年(1331年)に京都において後醍醐天皇が元弘の変で蜂起すると、少弐氏や大友氏などが鎮西探題の北条英時を攻撃する。鎌倉幕府が滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が成立し、後に足利尊氏は新政から離反し、尊氏は京都での戦いに敗れて九州へ逃れる。少弐氏らは尊氏を迎え、宮方の菊池武敏らを多々良浜の戦いで破る。尊氏は九州で体勢を整えた後に一色範氏・仁木義長らを足利勢力として残し、京都に上り、室町幕府を開く。 後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れて南朝を開き、宮方の武将に自身の皇子を奉じさせて各地で南朝勢力の集結を呼びかけ、九州には懐良親王が宇都宮貞泰に守られて派遣され、菊池氏に奉じられる。懐良親王は明から倭寇鎮圧の要請のために派遣された使者を迎え、「日本国王」として冊封されて明の権威を背景に勢力を広める。また、足利家では観応の擾乱と呼ばれる内紛が発生し、尊氏の側室の子である足利直冬が九州で尊氏と敵対して戦う。 中央では南朝勢力は衰微し、幼い3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が今川貞世を九州の南朝勢力討伐のために派遣すると懐良親王も博多、大宰府を追われ、貞世の働きで九州の南朝勢力は鎮圧される。貞世は九州で独自の勢力を築いたため義満に排除され、その後は大内氏が台頭する。寧波の乱で細川氏を破った大内氏と博多の商人により大陸との貿易を独占する。 応仁の乱以後は少弐氏は衰退し、戦国時代には大友氏、大内氏、島津氏などが戦国大名に成長する。天文12年(1543年)、種子島にポルトガル人により日本に初めて鉄砲が伝わる。南蛮貿易の中心地となり、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠などのキリシタン大名も生まれる。 主要な戦国大名 近世には豊臣秀吉の九州征伐を経て豊臣政権下に組み込まれ、北九州は秀吉による朝鮮出兵である文禄・慶長の役の拠点であった。 江戸時代には幕藩体制の確立に伴い薩摩藩、佐賀藩、福岡藩、熊本藩、対馬藩をはじめとする諸藩が成立する。江戸時代の鎖国体制下では平戸・出島などが対外交易の入り口となり、長崎奉行所がおかれた。 江戸前期には島原の乱が発生する。 幕末には薩摩藩などが明治維新を主導する雄藩となった。 「九国」、九州および「九州地方」の地名に関連した年表。 第一次産業では、農業、漁業、林業 がバランスよく九州各県に広く分布しており、出荷額も多い。温暖な気候を利用して筑紫平野では米、オオムギ、小麦の二毛作が展開される。宮崎平野ではビニールハウスを利用した野菜の促成栽培が行われている。加えて熱帯・亜熱帯地域が原産のサツマイモ、マンゴー、ブンタン、バナナなどの生産も行われている。鹿児島県や宮崎県南西部には稲作には不向きなシラス台地が広がり、畜産が盛んである。 第二次産業では、北九州工業地帯を中心に、歴史的に鉄鋼、石炭などの素材産業やエネルギー産業が盛んであった。また、三菱重工業や佐世保重工業(長崎県)などの造船業に代表される重工業も盛んであるほか、久留米市ではブリヂストンといったゴム工業、大牟田市は三池炭鉱の石炭を中心とした化学工業、延岡市では旭化成が石油化学を中心とした化学工業が発展してきた。また、1980年代には、IT産業の進出により、半導体分野での世界シェアは1割を占めるまでになり、「シリコンアイランド」と呼ばれた。さらに1990年代からは、トヨタ自動車・日産自動車・ダイハツ工業・ホンダなど自動車メーカーの工場の立地が進み、濃尾地方に次ぐ国内の自動車製造拠点となり、先に「シリコンアイランド」と呼ばれていた経緯から「カーアイランド」と呼ばれる事もあった(一時期の台数ベース世界シェアは1.9%)。 唐津焼・有田焼・伊万里焼などに代表される陶磁器生産が17世紀から伝わっていることから窯業も盛んである。北九州市に本社を置くTOTOはトイレ等衛生機器のトップ企業である。 九州の産業生産額に占める第三次産業の割合が高く、九州全域を市場として発展している。 九州での卸売業は福岡県が中心となっており、九州全体の卸売業年間販売額の62.5 %は福岡県内である。小売業では全般的に零細店舗や百貨店が低迷する一方、大型店の増加がみられる。また、九州ではドラッグストアの売上高、店舗数の増加が日本全国的にみても大きい特徴がある。 金融の分野では、都市銀行の店舗は少なく、各県に地方銀行の本店があり、地域に根ざした営業網を展開している。また、不良債権を抱え、経営困難に陥った地方銀行の救済を目的に、資金力のある地銀による吸収合併が進んでおり、九州管内での業界再編が行われている。ふくおかフィナンシャルグループは親和銀行や熊本ファミリー銀行を傘下に入れ、西日本シティ銀行は長崎銀行を傘下に入れた。また山口県に地盤がある山口フィナンシャルグループ傘下の山口銀行が北九州地方に攻勢をかけており、2011年(平成23年)10月には北九州銀行が山口銀行の北九州地区部門から分割・設立するなど北九州地方の動きが活発である。 情報通信業では、ITソフトウェア関連のサービス業が伸びており、その多くが福岡市内に集積している。 位置的に朝鮮半島や中国、東南アジアなどに近く、特にアジアとの貿易や輸送が盛んである。 ※順位・人口・割合のデータは2023年10月1日現在。 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人] 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人] 沖縄県含む九州8県の主要都市を掲載する。データは2023年10月1日現在。 専用鉄道#九州地方も参照 定期路線が就航する空港は、九州本島内で福岡県には福岡空港と北九州空港の2か所あり、その他の各県にも1か所は存在するなど比較的早期から整備が進められており、東京や大阪を中心とした本州への便は山陽新幹線と激しく競合している。また、鉄道では行きにくい四国や北海道と九州を結ぶ空路や、沖縄本島と九州島内各地への空路、九州島内相互間の空路もある。離島にも空港が整備され、九州本島と離島を結ぶ空路も多く利用されている。 地理的に大韓民国や中華人民共和国など東アジア、東南アジアの周辺国が東京や大阪よりも近いこともあり、九州本島ではすべての県に韓国への便があり、最大規模の福岡空港では周辺国や東南アジア・ハワイ・ヨーロッパ方面への便もある。 九州出身の著名人は以下のリストを参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで、その南西部に位置する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "地質学や考古学、交通などの分野では九州島という名称も使用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "九州とその付随する島、および沖縄県を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照)", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "九州には7つの地方公共団体(県)があり、7県総人口は約1,257万人(2023年)、沖縄県を含めた8県総人口は約1,404万人(2023年)である。都道府県の人口一覧#推計人口(最新)(右表 九州地方のデータ参照)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "九州を大きく二つに分けると、北部九州と南九州に分ける場合と、東九州(日豊)と西九州(筑肥)に分ける場合がある。北部九州と南九州の中間となる地域を中九州ということもある。ただし、これらの地域区分は使用される側によって大きく変化する(詳細は北部九州・南九州を参照)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中央に九州山地が形成されている。その中核をなす阿蘇山は東西18キロメートル (km) 、南北25 kmにも及ぶ世界最大級のカルデラを持つ。九州の地形は大きく3つに分けることができ、北部と中部の境界は松山-伊万里構造線で、中部と南部の境界は中央構造線の一部である臼杵-八代構造線で分けることができる。北部は比較的なだらかな山地、南部は白亜紀から第三紀にかけて生成された付加体であるため北部とは全く異なった地質であり、比較的険阻な山地になっている。また、中部は数十万年前まで瀬戸内海の延長の海で分かれており、それが阿蘇山の数回にわたる噴火によって溶岩で埋まり、一つの島になった。 尚、以下の項目では九州本島ではなく、九州地方に属するものを挙げる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "九州地方は、日本の地域の中では小笠原諸島に次いで温暖な地域である。鹿児島県の奄美地方以南の地域と、種子島・屋久島地方以北の地域では平均気温が大きく違う。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "九州島や種子島・屋久島以北の島嶼部は、夏は暑く降水量が多い。冬は寒さを感じるほどに気温が下がり、雪が降る。域内の南北で大きな気温の差は1~2°Cほどしかない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "九州山地周辺(熊本県阿蘇地方・大分県の西部・宮崎県の北部山間部)では積雪は珍しくなく、年に数日は真冬日となるため希に根雪になることもある。しかし暖かい日もあるため中国地方以東とは異なり豪雪地帯は存在せず、積雪は比較的少ない方である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "南部の太平洋沿岸に当たる大分県の南部・宮崎県・鹿児島県の大隅地方、種子島・屋久島地方は夏に降水量が多い太平洋側気候の南海型で、台風の襲来も多く、鹿児島県は1951年(昭和26年)以降の台風上陸数が日本一である。その中でも日本列島に大きな被害をもたらした台風として「枕崎台風」「ルース台風」「洞爺丸台風」「台風13号(1993年)」「台風16号(2004年)」などがある。冬の気候も温暖で降雪することもほとんどなく、晴天の日が多い。夏から秋にかけては台風の影響を受けるため「台風銀座」と呼ばれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "福岡県の北九州地方の瀬戸内側と大分県の北部・中部は瀬戸内海式気候の特徴を持ち、降水量が多い梅雨時を除けば九州の中では降水量が少ない地域(大分市の年間降水量:約1,680 mm)であるが、それでも関東以北の東日本太平洋側と比べると多い。特に、北九州地方では九州型の影響との遷移地域で梅雨時の降水量が非常に多い。なお、冬季は曇天が多く降雪することも珍しくない。大分県中部では太平洋側気候の南海型ほど影響がないものの、梅雨時の降水量と秋雨や台風の接近による降水量もやや多いなど山口県の東部以東の瀬戸内海式気候の地域と比べると、夏季の降水量が少ないという特徴は薄くなっている。冬季の大分県北部、中部では、雲が九州山地に遮られるために晴天の日が多い。積雪はどの地域でも少ないが、九州山地にあたる地域ではやや多くなる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "福岡県の北九州地方の大部分を除く地域・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県の西部・鹿児島県の薩摩地方は太平洋側気候(九州型)で、夏は降水量がかなり多く、特に華南、南西諸島からの熱帯モンスーン気団による湿舌などの影響を直接受けやすい初夏から梅雨時に降水量が非常に多くなり、しばしば大きな被害をもたらす。なお、秋雨時の降水量は少ない。冬は降水量が比較的多いが、1 mm以上の降水が観測される降水日数の最多月は日本海側気候のように冬季(1・2・12月のいずれか)ではなく、他太平洋側気候各地と同様に春季 - 秋期(3 - 11月のいずれか)で、年間降水量が少なく、冬は北西からの季節風の影響を受けるため曇天が多いなど島根県の石見地方や山口県の北部と似た気候が現れる。一方で、朝鮮半島のある関係で降雪日数は福岡市で約17日と東京・大阪よりは多いが、積雪は少なく首都圏・京阪神などと同じように5 cm程度の積雪でも大雪とみなされるために交通機関が麻痺してしまう。台風の影響は東シナ海側から朝鮮半島、日本海側を進んだ場合に降水量が多くなる傾向がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "奄美地方以南の地域は南日本気候(南西諸島気候)で、大東諸島を除きどの島でも年間降水量は2,000 mm以上と多く、一年中降雨がある。台風の接近が多く、時々強い台風が襲来して被害をもたらす。年間の気温の差が小さく1年を通して気温が高い。降雪の記録は過去に数回しかない。また一日の気温差も小さい。盛夏時は晴天の日が多く日照時間も非常に多いが、にわか雨が多い。なお、冬季は北西からの季節風で曇天と雨天が多く日照時間も少ない。梅雨時の降水量は九州本島程ではないがかなり多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本は6,852の島で構成される島国であるが、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び「八つの島」の総称としている(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その『古事記』での九州の呼称表記は「筑紫島(つくしのしま)」である。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記しており、その中に筑紫国、火国、豊国、日向国、熊襲国が現われる。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物においては、明確に「九州」という名称を見出すことができる。しかしこの名称がいつ生まれたか正確な時代は不明である。鎌倉時代後期に作成された吾妻鏡の元暦2年(1185年)2月13日と2月14日の記事では、源範頼が「九州」を攻めようとしていることが記載されている。もともと中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、九州とは9つの国という意味ではなく、天下のことを指す(参考:九州 (中国))が、平安時代後期に朝廷が発した保元新制で使われている「九州」の意味も、こちらである。また新羅の九州の実例もある。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一般に「九州」とは、令制国の西海道のうち筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9国の総称とされている。四国と同じ理屈で、九国(きゅうこく、くこく)とも呼ばれたといわれる。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この令制国に基づく定義では、九州島の九国と、この九国に編入された周辺の附属島嶼が「九州」の範囲となる。ただし周辺の島嶼が九国の令制国に編入された時期はそれぞれ異なるため、歴史を通し一義的な範囲には定まらない。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このように編入時期が異なる事による意識および解釈の差が存しうるが、少なくとも一度も編入された事がない壱岐、対馬、および沖縄県の領域は、令制国上の「九州」には含まれないことになる(なお、奄美群島は日本本土における廃藩置県・府県合併および琉球処分の後に大隅国《鹿児島県》に編入されたため、行政区分としての「九州」に組み込まれたのはそれ以降である)。さらに後述の太平洋戦争終戦後のアメリカ統治時期も令制国の範囲に変更はないので、この定義に変化はない事になる。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "上記九国とともに対馬、壱岐を含む西海道は、九国二島、九州二島とも呼ばれた。また、西海道の別名として鎮西とも呼ばれていた。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "廃藩置県・府県合併以降 は、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の8県を指して「九州地方」とされ、これにより令制国上の「九州」には含まれなかった対馬・壱岐・奄美群島・沖縄県の領域をも含む事となった。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、単に「九州」とする場合はそのうち沖縄県を除いた7県がその対象とされる。よって、令制国上の「九州」と比較すると対馬・壱岐・奄美群島が加わる事となった。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "トカラ列島の一部、奄美群島および沖縄県の領域は太平洋戦争終戦後、アメリカに占領され日本に返還されるまでの間に一時的に日本の施政権が停止されるが、実質的取扱(実効支配)はともかく、「九州」の範囲に影響を与えたことはない。(なお、トカラ列島は上三島が日本に残留し、下七島が施政権停止されたため、両者間で地方公共団体が分離される事となった。)", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "以上のように単に「九州」と言うと西海道九国の領域、あるいは廃藩置県・府県合併以降の7県(福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県)の領域を指す。いっぽう「九州地方」に沖縄県を含める百科事典が多いが、実際には沖縄県を含めた8県の場合は「九州・沖縄地方」との呼び方が使われている。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "歴史上も、「九州地方」などと言う地方区分の概念が導入されたのは廃藩置県後の明治時代以降であると考えられる(それ以前は令制国による区分であった)。なお、近現代の法令上、行政上の区分は、個別の法制度に基づくため、必ずしもこれらとは一致しない。例として九州総合通信局の管轄範囲に沖縄県は含まれない。行政機関の地方支分部局や企業の営業地域などでは沖縄県を九州地方に含む場合も多く、あるいは沖縄を含むことを明示するために「九州・沖縄地方」と表現する場合が一般的である。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "例として『NHK年鑑』では見出しを「九州」とする一方で、本文中では「九州・沖縄」と表現している。テレビ番組としては九州朝日放送制作のブロックネット番組「スーパーJチャンネル九州・沖縄」などがある。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、本州に位置する山口県は、令制国は山陽道の周防国、長門国に属し中国地方に区分されるが、北九州地方(かつての豊前国)に地理的にも近く歴史的な縁の深いこともあり、山口県を便宜上の同一区分に含めることもある。その場合は明示して「九州・山口地方」と表現する。", "title": "九州の範囲" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "北部九州では、長崎県の入口遺跡や福岡県の、辻田遺跡の中期旧石器時代石器群等が挙げられる。日本の東北地方の中期旧石器時代の石器と形態的に同じであり、現時点では西日本で最も古い石器の一群である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "南九州の現鹿児島県からは、上場遺跡が発掘されている。 これは日本初の旧石器時代の住居跡の発見例であり、ナイフ形石器文化→細石器文化への移りかわりや、爪形文土器と細石器の関係が層位的に確認された3万年前から1万年の間に5時期の生活の跡が確認された遺跡である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "九州の縄文文化は、草創期から早期にかけては他の地域に先がけて目覚ましい発達がみられる。 佐賀県の「最古の湿地性貝塚」である東名遺跡や長崎県佐世保市の泉福寺洞窟からは世界最古級の豆粒文土器が出土している他、鹿児島県では9500年前の「日本最古の村」とされる上野原遺跡や栫ノ原遺跡等、日本最古級最大級の遺跡が発掘されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2021年5月に宮崎県都城市山之口町の「相原第1遺跡」で縄文時代早期(約11000年前)の集落跡が見つかった。この集落跡より古い地層からも石器や土坑が発見された事から旧石器時代までさかのぼる可能性が高いとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "約7300年前の鬼界カルデラの大噴火で南九州の縄文文化は壊滅的な被害を受けたと予想され、前期から中期にかけて衰退しているが、後期から晩期にかけて再興している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "北部九州では全国でも稀である多数の装飾品を纏って埋葬された女性人骨など20体以上が発掘された山鹿貝塚や、牡蠣殻の仮面などが発掘された阿高黒橋貝塚などがあり、九州独特の文化を形成していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表、#歴史書における呼称)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった。 続日本紀によるとヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古天皇17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、弘仁15年/天長元年(824年)以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお古代九州には7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "中世には、博多が自治都市として栄える。摂津国の渡辺氏の分流の松浦氏の一族や、藤原純友の乱において勲功のあった大蔵春実、橘公頼などの子孫が土着し、在地の豪族となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "平家の勢力圏であり、九州の武家は平家方に属したが、治承・寿永の乱(源平合戦)の趨勢から菊池氏や松浦氏をはじめ諸氏は源氏方に寝返り、鎌倉幕府の鎮西御家人となり地頭に補任される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "しかし、九州の武家は親平家方であったため、源頼朝は「戦後処理」として、九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国御家人の少弐氏や島津氏、大友氏を守護として九州に送り、これらの「下り衆」が勢力を強め、菊池氏や松浦氏、秋月氏などの在地の武家を抑え、その後の九州の武家の中枢となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "鎌倉時代には2度に渡る元寇があり、少弐氏など北九州の武士を中心に撃退した後に、それまでの異国警固番役に代わり鎮西探題が設置される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "元弘元年(1331年)に京都において後醍醐天皇が元弘の変で蜂起すると、少弐氏や大友氏などが鎮西探題の北条英時を攻撃する。鎌倉幕府が滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が成立し、後に足利尊氏は新政から離反し、尊氏は京都での戦いに敗れて九州へ逃れる。少弐氏らは尊氏を迎え、宮方の菊池武敏らを多々良浜の戦いで破る。尊氏は九州で体勢を整えた後に一色範氏・仁木義長らを足利勢力として残し、京都に上り、室町幕府を開く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れて南朝を開き、宮方の武将に自身の皇子を奉じさせて各地で南朝勢力の集結を呼びかけ、九州には懐良親王が宇都宮貞泰に守られて派遣され、菊池氏に奉じられる。懐良親王は明から倭寇鎮圧の要請のために派遣された使者を迎え、「日本国王」として冊封されて明の権威を背景に勢力を広める。また、足利家では観応の擾乱と呼ばれる内紛が発生し、尊氏の側室の子である足利直冬が九州で尊氏と敵対して戦う。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "中央では南朝勢力は衰微し、幼い3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が今川貞世を九州の南朝勢力討伐のために派遣すると懐良親王も博多、大宰府を追われ、貞世の働きで九州の南朝勢力は鎮圧される。貞世は九州で独自の勢力を築いたため義満に排除され、その後は大内氏が台頭する。寧波の乱で細川氏を破った大内氏と博多の商人により大陸との貿易を独占する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "応仁の乱以後は少弐氏は衰退し、戦国時代には大友氏、大内氏、島津氏などが戦国大名に成長する。天文12年(1543年)、種子島にポルトガル人により日本に初めて鉄砲が伝わる。南蛮貿易の中心地となり、大友義鎮、有馬晴信、大村純忠などのキリシタン大名も生まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "主要な戦国大名", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "近世には豊臣秀吉の九州征伐を経て豊臣政権下に組み込まれ、北九州は秀吉による朝鮮出兵である文禄・慶長の役の拠点であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "江戸時代には幕藩体制の確立に伴い薩摩藩、佐賀藩、福岡藩、熊本藩、対馬藩をはじめとする諸藩が成立する。江戸時代の鎖国体制下では平戸・出島などが対外交易の入り口となり、長崎奉行所がおかれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "江戸前期には島原の乱が発生する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "幕末には薩摩藩などが明治維新を主導する雄藩となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "「九国」、九州および「九州地方」の地名に関連した年表。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "第一次産業では、農業、漁業、林業 がバランスよく九州各県に広く分布しており、出荷額も多い。温暖な気候を利用して筑紫平野では米、オオムギ、小麦の二毛作が展開される。宮崎平野ではビニールハウスを利用した野菜の促成栽培が行われている。加えて熱帯・亜熱帯地域が原産のサツマイモ、マンゴー、ブンタン、バナナなどの生産も行われている。鹿児島県や宮崎県南西部には稲作には不向きなシラス台地が広がり、畜産が盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "第二次産業では、北九州工業地帯を中心に、歴史的に鉄鋼、石炭などの素材産業やエネルギー産業が盛んであった。また、三菱重工業や佐世保重工業(長崎県)などの造船業に代表される重工業も盛んであるほか、久留米市ではブリヂストンといったゴム工業、大牟田市は三池炭鉱の石炭を中心とした化学工業、延岡市では旭化成が石油化学を中心とした化学工業が発展してきた。また、1980年代には、IT産業の進出により、半導体分野での世界シェアは1割を占めるまでになり、「シリコンアイランド」と呼ばれた。さらに1990年代からは、トヨタ自動車・日産自動車・ダイハツ工業・ホンダなど自動車メーカーの工場の立地が進み、濃尾地方に次ぐ国内の自動車製造拠点となり、先に「シリコンアイランド」と呼ばれていた経緯から「カーアイランド」と呼ばれる事もあった(一時期の台数ベース世界シェアは1.9%)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "唐津焼・有田焼・伊万里焼などに代表される陶磁器生産が17世紀から伝わっていることから窯業も盛んである。北九州市に本社を置くTOTOはトイレ等衛生機器のトップ企業である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "九州の産業生産額に占める第三次産業の割合が高く、九州全域を市場として発展している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "九州での卸売業は福岡県が中心となっており、九州全体の卸売業年間販売額の62.5 %は福岡県内である。小売業では全般的に零細店舗や百貨店が低迷する一方、大型店の増加がみられる。また、九州ではドラッグストアの売上高、店舗数の増加が日本全国的にみても大きい特徴がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "金融の分野では、都市銀行の店舗は少なく、各県に地方銀行の本店があり、地域に根ざした営業網を展開している。また、不良債権を抱え、経営困難に陥った地方銀行の救済を目的に、資金力のある地銀による吸収合併が進んでおり、九州管内での業界再編が行われている。ふくおかフィナンシャルグループは親和銀行や熊本ファミリー銀行を傘下に入れ、西日本シティ銀行は長崎銀行を傘下に入れた。また山口県に地盤がある山口フィナンシャルグループ傘下の山口銀行が北九州地方に攻勢をかけており、2011年(平成23年)10月には北九州銀行が山口銀行の北九州地区部門から分割・設立するなど北九州地方の動きが活発である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "情報通信業では、ITソフトウェア関連のサービス業が伸びており、その多くが福岡市内に集積している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "位置的に朝鮮半島や中国、東南アジアなどに近く、特にアジアとの貿易や輸送が盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "※順位・人口・割合のデータは2023年10月1日現在。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "沖縄県含む九州8県の主要都市を掲載する。データは2023年10月1日現在。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "専用鉄道#九州地方も参照", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "定期路線が就航する空港は、九州本島内で福岡県には福岡空港と北九州空港の2か所あり、その他の各県にも1か所は存在するなど比較的早期から整備が進められており、東京や大阪を中心とした本州への便は山陽新幹線と激しく競合している。また、鉄道では行きにくい四国や北海道と九州を結ぶ空路や、沖縄本島と九州島内各地への空路、九州島内相互間の空路もある。離島にも空港が整備され、九州本島と離島を結ぶ空路も多く利用されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "地理的に大韓民国や中華人民共和国など東アジア、東南アジアの周辺国が東京や大阪よりも近いこともあり、九州本島ではすべての県に韓国への便があり、最大規模の福岡空港では周辺国や東南アジア・ハワイ・ヨーロッパ方面への便もある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "九州出身の著名人は以下のリストを参照。", "title": "出身者" } ]
九州(きゅうしゅう)は、日本列島を構成する島の一つで、その南西部に位置する。 北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。 地質学や考古学、交通などの分野では九州島という名称も使用される。 九州とその付随する島、および沖縄県を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791メートル (m) で、大分県の九重連山・中岳の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936 mで、鹿児島県の屋久島・宮之浦岳の標高である。(「#地理」および「日本の地理・九州」を参照)
{{Otheruses||古代中国全土の[[通称|雅称]]|九州 (中国)}} {{Infobox 島 | 島名 = 九州 | 画像 = [[File:Topographic_map_of_Kyushu.png|300px]] | 画像説明 = 九州の起伏図 | 座標 = | 面積 = 36,782.37<ref name="island">{{Cite web|和書|date=2016-10-01|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201610/f3_shima.pdf|title=平成28年全国都道府県市区町村別面積調 島面積|format=PDF|publisher=[[国土地理院]]|accessdate=2017-02-27}}</ref> | 周囲 = 3,888<ref name="toukei2014">『日本統計年鑑 平成26年』(2013年)p.17 - [[1986年]]([[昭和]]61年)、[[海上保安庁]]による計測。</ref> | 標高 = 1,791 | 最高峰 = [[中岳 (九重山)|中岳]]([[大分県]][[竹田市]]) | 最大都市 = [[福岡市]] | 諸島 = [[日本列島]] | 海域 = | 国 = {{JPN}} }} {| class="infobox bordered" style="width: 15%;" |colspan="2" style="text-align: center; background-color: red;"|'''九州地方'''のデータ |- | colspan="2" style="text-align: center; background-color: #f69;" |7県の合計 |- |style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|面積 |style="text-align: right;"|'''42,231.48'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] <ref name="H27">{{Cite web|和書|date=2015-10-01|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201510/ichiran.pdf|title=平成27年全国都道府県市区町村別面積調 都道府県別面積|format=PDF|publisher=[[国土地理院]]|page=5|accessdate=2016-02-29}}</ref><br/>(2015年10月1日) |- |style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|[[推計人口]] |style="text-align: right;"|'''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/福岡県|福岡県}} + {{自治体人口/佐賀県|佐賀県}} + {{自治体人口/長崎県|長崎県}} + {{自治体人口/熊本県|熊本県}} + {{自治体人口/大分県|大分県}} + {{自治体人口/宮崎県|宮崎県}} + {{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}} }}}}'''人<br/>({{自治体人口/福岡県|date}}) |- |style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|[[人口密度]] |style="text-align: right;"|'''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/福岡県|福岡県}} + {{自治体人口/佐賀県|佐賀県}} + {{自治体人口/長崎県|長崎県}} + {{自治体人口/熊本県|熊本県}} + {{自治体人口/大分県|大分県}} + {{自治体人口/宮崎県|宮崎県}} + {{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}) / 42190.9 round 1}}}}'''人/km²<br/>({{自治体人口/福岡県|date}}) |- | colspan="2" style="text-align: center; background-color: #f69;" |8県([[沖縄県]]含む)の合計 |- |style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|面積 |style="text-align: right;"|'''44,512.60'''km<sup>2</sup> <ref name="H27"/><br/>(2015年10月1日) |- |style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|推計人口 |style="text-align: right;"|'''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/福岡県|福岡県}} + {{自治体人口/佐賀県|佐賀県}} + {{自治体人口/長崎県|長崎県}} + {{自治体人口/熊本県|熊本県}} + {{自治体人口/大分県|大分県}} + {{自治体人口/宮崎県|宮崎県}} + {{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}} + {{自治体人口/沖縄県|沖縄県}} }}}}'''人<br/>({{自治体人口/福岡県|date}}) |- |style="text-align: center; background-color: #f0f0f0"|人口密度 |style="text-align: right;"|'''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/福岡県|福岡県}} + {{自治体人口/佐賀県|佐賀県}} + {{自治体人口/長崎県|長崎県}} + {{自治体人口/熊本県|熊本県}} + {{自治体人口/大分県|大分県}} + {{自治体人口/宮崎県|宮崎県}} + {{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}} + {{自治体人口/沖縄県|沖縄県}}) / 44471.47 round 1}}}}'''人/km²<br/>({{自治体人口/福岡県|date}}) |- | colspan="2" style="text-align: center; background-color: #f69;" |位置 |- | colspan="2" style="text-align: center; font-size: smaller" |[[ファイル:Kyushu_Region_in_Japan_(extended).svg|right|300px|九州地方の位置]] |} '''九州'''(きゅうしゅう)は、[[日本列島]]を構成する[[島]]の一つで<ref name="islands" group="注">'''[[島国]]''' ([[領土]]がすべて'''[[島]]'''から成る国)である[[日本]]を構成する6,852の[[島]]に対する『[[国土交通省]]』による区分け ⇒ 6,852島('''[[本土]]'''5島・'''[[離島]]'''6,847島)。&#x3C;出典&#x3E;『国土交通省』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識)[http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/ritoutoha.html] 2009年11月27日閲覧。<br />ただし、'''[[島]]'''について地理学上はこのような分類・区分けはない。</ref>、その南西部に位置する。 [[北海道]]・[[本州]]・[[四国]]とともに主要4島の一つでもあり<ref>【参考】 [[島国一覧]]('''[[領土]]'''がすべて'''[[島]]'''で構成される国)</ref>、この中では3番目に大きい島で<ref group="注">[http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201310/shima.pdf 平成25年10月1日時点の島面積より] [[国土地理院]] (注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「[[沖縄本島]]」の正式名称)</ref><ref name="10islands" group="注">【参考】 日本の[[島]]の面積順上位10島 ⇒ [[本州]]、[[北海道]]、'''九州'''、[[四国]]、[[択捉島]]、[[国後島]]、[[沖縄本島]]、[[佐渡島]]、[[奄美大島]]、[[対馬]]。<br /> [出典] [[国立天文台]] (編)[[理科年表]] 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。</ref>、[[世界]]の島の中では、[[スピッツベルゲン島]]([[ノルウェー]])に次ぐ第37位の大きさである。<ref group="注">世界の'''[[島]]'''の面積順位より抜粋、出典 [[:en:List of islands by area|List of islands by area]] ([[島]]:[[オーストラリア大陸]]の面積未満で、四方を水域に囲まれる陸地) : 第1位 [[グリーンランド]] ---- : 第6位 [[スマトラ島]] ([[インドネシア共和国]]) : 第7位 '''[[本州]]''' : 第8位 [[ビクトリア島]] ([[カナダ]]) '''*''' 人口1,707人(2001年) : 第9位 [[グレートブリテン島]] ([[イギリス]]([[イングランド]]・[[スコットランド]]・[[ウェールズ]])) ---- : 第20位 [[アイルランド島]] ([[アイルランド共和国]]および[[イギリス]]([[北アイルランド]])) : 第21位 '''[[北海道]]''' : 第27位 [[デヴォン島]] ([[カナダ]]) '''*''' 世界最大の[[無人島]] ---- : 第36位 [[スピッツベルゲン島]] ([[ノルウェー]]) : 第37位 '''九州''' ---- : 第49位 [[バナナル島]] ([[ブラジル]]) '''*''' 世界最大の川の中の[[島]] : 第50位 '''[[四国]]'''</ref> [[地質学]]や[[考古学]]、[[交通機関|交通]]などの分野では'''九州島'''という名称も使用される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sci.u-toyama.ac.jp/earth/staff_personal_old/dyna_at.html|title=地球ダイナミクス講座|publisher=[[竹内章 (地質学者)|竹内 章]] [[富山大学]][[理学部]][[教授]]|accessdate=2009年4月}}</ref><ref>{{Cite book|title=本州島東北部の弥生社会誌|Author=[[高瀬克範]]|publisher=[[六一書房]]|date=2004年6月|isbn=978-4947743220}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=高速バス路線・時刻検索(福岡県内・下関/九州島内)|高速バス情報|バス情報|西鉄グループ |url=https://www.nishitetsu.jp/bus/highwaybus/rosen/ |website=西鉄グループ |access-date=2023-08-17 |language=ja}}</ref>。 九州とその付随する[[島]]、および[[沖縄県]]を合わせて九州地方(きゅうしゅうちほう)と言う。九州の最高標高は1,791[[メートル]] (m) で、[[大分県]]の[[九重連山]]・[[中岳 (九重山)|中岳]]の標高である。また、九州地方の最高標高は1,936&nbsp;mで、[[鹿児島県]]の[[屋久島]]・[[宮之浦岳]]の標高である。(「[[#地理]]」および「[[日本の地理#九州|日本の地理・九州]]」を参照) == 概要 == 九州には7つの[[地方公共団体]]([[都道府県|県]])があり、7県総人口は約1,257万人(2023年)、[[沖縄県]]を含めた8県総人口は約1,404万人(2023年)である。[[都道府県の人口一覧#推計人口(最新)]](右表 九州地方のデータ参照) 九州の古代の呼称は、「'''筑紫島'''」・「'''筑紫洲'''」(つくしのしま)である([[#歴史書における呼称]])。 == 地理 == [[ファイル:Geofeatures map of Kyushu Japan ja.svg|240px|thumb|九州島の主要地形]] [[ファイル:Kyushu-Japan-ISS-Space.png|thumb|240px|[[国際宇宙ステーション]]から見た九州]] [[ファイル:Kyushu-jp.png|200px|thumb|九州の地図]] [[ファイル:Kyushu_s.png|200px|thumb|九州]] === 地形 === {{main2|九州とその周辺|日本の地理#九州|南西諸島|日本の地理#南西諸島}} 九州を大きく二つに分けると、'''[[北部九州]]'''と'''[[南九州]]'''に分ける場合と、'''[[東九州]]'''([[日豊]])と'''[[西九州]]'''(筑肥)に分ける場合がある。北部九州と南九州の中間となる地域を'''[[中九州]]'''ということもある。ただし、これらの地域区分は使用される側によって大きく変化する(詳細は[[北部九州]]・[[南九州]]を参照)。<!--補足:各地域の地域区分は曖昧であり確定不能。なお、国土交通省の定義に関しては北部九州・南九州の項目に移しました。理由については[[ノート:九州]]・[[ノート:南九州]]参照--> 中央に[[九州山地]]が形成されている。その中核をなす[[阿蘇山]]は東西18[[キロメートル]] (km) 、南北25&nbsp;kmにも及ぶ世界最大級の[[カルデラ]]を持つ。九州の地形は大きく3つに分けることができ、北部と中部の境界は松山-伊万里構造線で、中部と南部の境界は[[中央構造線]]の一部である臼杵-八代構造線で分けることができる。北部は比較的なだらかな山地、南部は[[白亜紀]]から[[第三紀]]にかけて生成された[[付加体]]であるため北部とは全く異なった地質であり、比較的険阻な山地になっている。また、中部は数十万年前まで[[瀬戸内海]]の延長の海で分かれており、それが阿蘇山の数回にわたる[[噴火]]によって[[溶岩]]で埋まり、一つの島になった。 尚、以下の項目では九州本島ではなく、九州地方に属するものを挙げる。 === 平野・台地 === *平野:[[福岡平野]]・[[筑紫平野]]([[佐賀平野]]・筑後平野)・[[熊本平野]]・[[八代平野]]・[[大分平野]]・[[中津平野]]・[[宮崎平野]]・[[川内平野]] *台地:[[平尾台|カルスト台地]]、[[シラス台地]] === 山地 === *山地:[[筑紫山地]]([[筑肥山地]]・[[脊振山地]])・[[九州山地]] *山脈:[[九重山]](九重連山)・[[阿蘇山]](阿蘇五岳)・[[雲仙岳]](三岳五峰)・[[霧島山]](霧島連山) *山:[[英彦山]]・[[九千部山]]・[[久住山]]・[[大船山 (大分県)|大船山]](九重連山)・ [[中岳 (九重山)|中岳]](九重連山)・[[由布岳]]・[[天山 (佐賀県)|天山]]・[[多良岳]]・[[雲仙普賢岳]]・[[中岳 (阿蘇山)|中岳]](阿蘇連山)・[[国見岳 (熊本県・宮崎県)|国見岳]]・[[祖母山]]・[[傾山]]・[[大崩山]]・[[韓国岳]](霧島連山)・[[桜島]](御岳)・[[開聞岳]]・[[宮之浦岳]]([[屋久島]])・[[永田岳]]([[屋久島]]) === 高地・盆地 === *高原:[[久住高原]]・[[えびの高原]] *草原:[[草千里ヶ浜]] *湿原:[[タデ原湿原]]、[[樫原湿原]] *盆地:[[人吉盆地]](球磨盆地)・[[大口盆地]]・[[都城盆地]]・[[日田盆地]]・[[由布院盆地]]・[[玖珠盆地]] === 半島 === *半島:[[糸島半島]]・[[東松浦半島]]・[[北松浦半島]]・[[西彼杵半島]]・[[島原半島]]・[[宇土半島]]・[[国東半島]]・[[佐賀関半島]]・[[四浦半島]]・[[鶴見半島]]・[[大隅半島]]・[[薩摩半島]] === 河川 === *河川:[[筑後川]]・[[遠賀川]]・[[松浦川]]・[[嘉瀬川]]・[[山国川]]・[[球磨川]]・[[緑川]]・[[白川 (熊本県)|白川]]・[[大分川]]・[[大野川]]・[[番匠川]]・[[川内川]]・[[大淀川]] *湖:[[池田湖]] *渓谷:[[藤河内渓谷]]・[[菊池渓谷]]・矢谷渓谷 *峡谷:[[高千穂峡]] *滝:[[轟峡]]・[[鍋ヶ滝]]・[[原尻の滝]]・[[慈恩の滝]]・[[黄牛の滝]]・[[暁嵐の滝]]・[[高千穂峡|真名井の滝]]・[[曽木の滝]] *地熱帯:小松地獄・[[別府地獄めぐり|別府地獄]]・[[雲仙温泉#雲仙地獄|雲仙地獄]] === 主な島嶼 === ;福岡県 *[[沖ノ島]]・[[大島 (福岡県)|大島]]・[[能古島]]・[[玄界島]] ;佐賀県 *[[小川島]]・[[加唐島]]・[[馬渡島]]・[[いろは島]] ;長崎県 *[[対馬]]・[[壱岐島]]・[[平戸島]]・[[的山大島]]・[[生月島]]・[[鷹島 (長崎県)|鷹島]]・[[福島 (長崎県)|福島]]・[[大島 (長崎県西海市)|大島]]・[[蛎浦島]]・[[松島 (長崎県)|松島]]・[[箕島 (長崎県)|箕島]] *[[五島列島]] **[[中通島]]・[[若松島]]・[[奈留島]]・[[久賀島]]・[[福江島]]・[[宇久島]]・[[小値賀島]] ;熊本県 *[[天草諸島]] **[[上島 (天草諸島)|天草上島]]・[[下島 (天草諸島)|天草下島]]・[[戸馳島]]・[[維和島]]・[[大矢野島]]・[[御所浦島]] ;大分県 *[[姫島 (大分県)|姫島]]・[[大入島]] ;鹿児島県 *[[天草諸島]] **[[長島 (鹿児島県)|長島]]・[[獅子島]] *[[甑島列島]] **[[上甑島]]・[[中甑島]]・[[下甑島]] *[[大隅諸島]] **[[種子島]]・[[屋久島]]・[[黒島 (鹿児島県)|黒島]]・[[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]・[[竹島 (鹿児島県)|竹島]]・[[口永良部島]] *[[吐噶喇列島]] **[[口之島]]・[[中之島 (鹿児島県)|中之島]]・[[諏訪之瀬島]]・[[悪石島]]・[[小宝島]]・[[宝島]] *[[奄美群島]] **[[奄美大島]]・[[加計呂麻島]]・[[喜界島]]・[[徳之島]]・[[沖永良部島]]・[[与論島]] === 海 === *海:[[太平洋]]・[[日本海]]・[[東シナ海]]・[[有明海]]・[[八代海]] *海峡:[[関門海峡]]・[[対馬海峡]]・[[壱岐水道]]・[[豊予海峡]]・[[大隅海峡]]・種子島海峡・甑島海峡 *灘:[[響灘]]・[[玄界灘]]・[[天草灘]]・[[角力灘]](すもうなだ)・[[日向灘]]・[[周防灘]] *湾:[[博多湾]]・[[大村湾]]・[[別府湾]]・[[鹿児島湾]]・[[佐伯湾]] === 気候 === 九州地方は、日本の地域の中では[[小笠原諸島]]に次いで温暖な地域である。[[鹿児島県]]の[[奄美地方]]以南の地域と、種子島・屋久島地方以北の地域では平均気温が大きく違う。 ; 九州島や種子島・屋久島以北 九州島や種子島・屋久島以北の島嶼部は、[[夏]]は暑く[[降水量]]が多い。[[冬]]は寒さを感じるほどに気温が下がり、雪が降る。域内の南北で大きな[[気温]]の差は1~2℃ほどしかない。 九州山地周辺([[熊本県]][[阿蘇郡|阿蘇地方]]・[[大分県]]の西部・[[宮崎県]]の北部山間部)では積雪は珍しくなく、年に数日は真冬日となるため希に[[根雪]]になることもある。しかし暖かい日もあるため[[中国地方]]以東とは異なり[[豪雪地帯]]は存在せず、積雪は比較的少ない方である。 南部の太平洋沿岸に当たる[[大分県]]の南部・[[宮崎県]]・[[鹿児島県]]の大隅地方、種子島・屋久島地方は夏に降水量が多い[[太平洋側気候]]の南海型で、[[台風]]の襲来も多く、鹿児島県は[[1951年]]([[昭和]]26年)以降の台風上陸数が日本一である。その中でも日本列島に大きな被害をもたらした台風として「[[枕崎台風]]」「[[ルース台風]]」「[[洞爺丸台風]]」「[[平成5年台風第13号|台風13号(1993年)]]」「[[平成16年台風第16号|台風16号(2004年)]]」などがある。冬の気候も温暖で降雪することもほとんどなく、晴天の日が多い。夏から秋にかけては台風の影響を受けるため「'''[[台風銀座]]'''」と呼ばれる。 [[福岡県]]の[[北九州地区|北九州地方]]の瀬戸内側と[[大分県]]の北部・中部は[[瀬戸内海式気候]]の特徴を持ち、降水量が多い梅雨時を除けば九州の中では降水量が少ない地域([[大分市]]の年間降水量:約1,680&nbsp;[[ミリメートル|mm]])であるが、それでも関東以北の東日本太平洋側と比べると多い。特に、北九州地方では九州型の影響との遷移地域で梅雨時の降水量が非常に多い。なお、冬季は曇天が多く降雪することも珍しくない。大分県中部では太平洋側気候の南海型ほど影響がないものの、梅雨時の降水量と[[秋雨]]や台風の接近による降水量もやや多いなど山口県の東部以東の瀬戸内海式気候の地域と比べると、夏季の降水量が少ないという特徴は薄くなっている。冬季の大分県北部、中部では、雲が九州山地に遮られるために晴天の日が多い。積雪はどの地域でも少ないが、九州山地にあたる地域ではやや多くなる。 福岡県の北九州地方の大部分を除く地域・[[佐賀県]]・[[長崎県]]・[[熊本県]]・大分県の西部・鹿児島県の薩摩地方は太平洋側気候(九州型)で、夏は降水量がかなり多く、特に華南、南西諸島からの熱帯モンスーン気団による湿舌などの影響を直接受けやすい初夏から梅雨時に降水量が非常に多くなり、しばしば大きな被害をもたらす。なお、秋雨時の降水量は少ない。冬は降水量が比較的多いが、1&nbsp;mm以上の降水が観測される降水日数の最多月は[[日本海側気候]]のように冬季(1・2・12月のいずれか)ではなく、他太平洋側気候各地と同様に春季 - 秋期(3 - 11月のいずれか)で、年間降水量が少なく、冬は北西からの季節風の影響を受けるため曇天が多いなど[[島根県]]の石見地方や山口県の北部と似た気候が現れる。一方で、[[朝鮮半島]]のある関係で降雪日数は福岡市で約17日と東京・大阪よりは多いが、積雪は少なく[[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[京阪神]]などと同じように5&nbsp;[[センチメートル|cm]]程度の積雪でも大雪とみなされるために交通機関が麻痺してしまう。台風の影響は東シナ海側から朝鮮半島、日本海側を進んだ場合に降水量が多くなる傾向がある。 ; 奄美以南 奄美地方以南の地域は[[南日本気候]](南西諸島気候)で、[[大東諸島]]を除きどの島でも年間降水量は2,000&nbsp;mm以上と多く、一年中降雨がある。台風の接近が多く、時々強い台風が襲来して被害をもたらす。年間の気温の差が小さく1年を通して気温が高い。降雪の記録は過去に数回しかない。また一日の気温差も小さい。盛夏時は晴天の日が多く日照時間も非常に多いが、にわか雨が多い。なお、冬季は北西からの季節風で曇天と雨天が多く日照時間も少ない。梅雨時の降水量は九州本島程ではないがかなり多い。 == 九州の範囲 == === 歴史書における呼称 === {{main|国産み}} [[日本]]は6,852の[[島]]で構成される[[島国]]であるが<ref name="islands" group="注" />、[[日本]]最古の[[歴史書]] 『[[古事記]]』 ([[和銅]]5年([[712年]])献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び「八つの[[島]]」の総称としている(登場順に現代の呼称表記で、[[淡路島|淡路(あわじ)]]、[[四国]]、[[隠岐諸島|隠岐(おき)]]、九州、[[壱岐島|壱岐(いき)]]、[[対馬|対馬(つしま)]]、[[佐渡島|佐渡]]、[[本州]] )。 その『古事記』での九州の呼称表記は「'''筑紫島'''(つくしのしま)」である<ref>伊東ひとみ『地名の謎を解く』新潮社、2017年、10頁</ref>。 『[[日本書紀]]』([[養老]]4年([[720年]])完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「'''筑紫洲'''(つくしのしま)」と表記しており、その中に[[筑紫国]]、[[火国]]、[[豊国]]、[[日向国]]、[[熊襲国]]が現われる。 === 「九州」の由来 === {{See also|九州王朝説#九州}} <!--可能性についての言及者の情報や、出典元(何の書籍)の情報が不明です。出典提示をお願いします(2018年11月、一旦コメントアウト)--[[8世紀]]初めに[[王維]]が[[阿倍仲麻呂]]の送別の宴で君の帰る、「九州とはどこに合ってどれほど遠いのか?」と詩に歌っており当時、既に九州が地方名として使われていた可能性がある<ref>「送祕書晁監還日本國 積水不可極 安知滄海東 九州何處遠 萬里若乘空 向國惟看日 歸帆但風 鰲身映天黑 魚眼射波紅 鄕樹扶桑外 主人孤島中 別離方異域 音信若爲通」「秘書晁監の日本国に還るを送る 積水 極む可からず 安んぞ 滄海の東を知らんや 九州 何れの處か遠き 万里 空に乗ずるが若し 国に向かって惟だ日を看 帰帆は但だ風に信すのみ 鰲身は天に映じて黒く 魚眼は波を射て紅なり 鄕樹は扶桑の外 主人は孤島の中  別離 方に域を異にす 音信 若爲ぞ 通ぜんや」</ref>。-->[[16世紀]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を描いた[[軍記物語]]として知られる『[[陰徳太平記]]』([[享保]]2年([[1717年]]出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような[[近世]]の書物においては、明確に「'''九州'''」という名称を見出すことができる。しかしこの名称がいつ生まれたか正確な時代は不明である。鎌倉時代後期に作成された[[吾妻鏡]]の[[元暦]]2年([[1185年]])[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]と[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]の記事では、[[源範頼]]が「九州」を攻めようとしていることが記載されている。もともと中国では[[周]]代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、九州とは9つの国という意味ではなく、天下のことを指す(参考:[[九州 (中国)]])が、平安時代後期に朝廷が発した[[保元新制]]で使われている「九州」の意味も、こちらである。また[[新羅#九州|新羅の九州]]の実例もある<ref>古田武彦著『失われた九州王朝』朝日新聞 (1993/01)ISBN 4022607505 p330</ref>。 === 令制国上の「九州」 === 一般に「九州」とは、[[令制国]]の[[西海道]]のうち[[筑前国]]・[[筑後国]]・[[肥前国]]・[[肥後国]]・[[豊前国]]・[[豊後国]]・[[日向国]]・[[大隅国]]・[[薩摩国]]の9[[令制国|国]]の総称とされている<ref name="Shogakan">「九州地方」『日本地名大百科』小学館、1996年、380-381頁。</ref>。[[四国]]と同じ理屈で、'''九国'''(きゅうこく、くこく)とも呼ばれたといわれる。 この令制国に基づく定義では、九州島の九国と、この九国に編入された周辺の附属島嶼が「九州」の範囲となる。ただし周辺の島嶼が九国の令制国に編入された時期は'''それぞれ異なる'''ため、歴史を通し一義的な範囲には定まらない。 * [[対馬国]]と[[壱岐国]]は九国に編入された事は一度もない。 * [[五島列島]]は[[値嘉島]]として876年に肥前国より一時分立するが、それ以降は肥前国である。 * [[大隅諸島]]の[[種子島]]・[[屋久島]]は702年に[[多禰国]]として分立するが824年以降大隅国に編入されている。 * [[トカラ列島]](十島)は1227年(鎌倉時代)に薩摩国へ編入された(のち大隅国)。 * [[奄美群島]]は[[1879年]]([[明治]]12年)4月に大隅国(鹿児島県)へ編入。それまでは名目上[[琉球王国|琉球]]の領域とされていた。 * [[沖縄県]]の領域は、[[琉球王国]]時代と以前は元より、そもそも令制国に編入された事は一度もない。 このように編入時期が異なる事による意識および解釈の差が存しうるが、少なくとも一度も編入された事がない壱岐、対馬、および沖縄県の領域は、令制国上の「九州」には含まれないことになる(なお、奄美群島は日本本土における[[廃藩置県]]・府県合併および[[沖縄県の歴史|琉球処分]]の後に大隅国《鹿児島県》に編入されたため、行政区分としての「九州」に組み込まれたのはそれ以降である)。さらに後述の[[太平洋戦争]]終戦後のアメリカ統治時期も令制国の範囲に変更はないので、この定義に変化はない事になる。 上記九国とともに対馬、壱岐を含む西海道は、'''九国二島'''、'''九州二島'''とも呼ばれた。また、西海道の別名として'''[[鎮西]]'''とも呼ばれていた。 === 近現代の「九州」 === [[廃藩置県]]・府県合併以降<ref group="注">佐賀・宮崎の両県が再置または分立され現在の状態になったのは、1883年(明治16年)以降である。</ref> は、[[福岡県]]、[[佐賀県]]、[[長崎県]]、[[熊本県]]、[[大分県]]、[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]、[[沖縄県]]の'''8[[都道府県|県]]'''を指して「'''九州地方'''」とされ<ref name="世界大百科事典 188-189頁">『世界大百科事典 7』、188-189頁。</ref>、これにより令制国上の「九州」には含まれなかった[[対馬]]・[[壱岐島|壱岐]]・[[奄美群島]]・沖縄県の領域をも含む事となった。 一方、単に「'''九州'''」とする場合はそのうち沖縄県を除いた'''7県'''がその対象とされる<ref>「九州」『コンサイス日本地名事典』三省堂、第4版、1998年、396頁</ref>。よって、令制国上の「九州」と比較すると[[対馬]]・[[壱岐島|壱岐]]・[[奄美群島]]が加わる事となった。 トカラ列島の一部、奄美群島および沖縄県の領域は[[太平洋戦争]]終戦後、アメリカに占領され日本に返還されるまでの間に一時的に日本の施政権が停止されるが、実質的取扱(実効支配)はともかく、「九州」の範囲に影響を与えたことはない。(なお、トカラ列島は[[上三島]]が日本に残留し、[[トカラ列島|下七島]]が施政権停止されたため、両者間で地方公共団体が分離される事となった。) === 九州・沖縄地方 === 以上のように単に「'''九州'''」と言うと西海道九国の領域、あるいは[[廃藩置県]]・府県合併以降の7県([[福岡県]]、[[佐賀県]]、[[長崎県]]、[[熊本県]]、[[大分県]]、[[宮崎県]]、[[鹿児島県]])の領域を指す。いっぽう「'''九州地方'''」に'''沖縄県を含める'''百科事典が多いが<ref name="Shogakan" /><ref name="世界大百科事典 189頁">『世界大百科事典 7』、189頁。</ref><ref group="注">「九州地方」『コンサイス日本地名事典』三省堂、第4版、1998年、396頁。本来の範囲は「九州」と同じく7県としているが、現在は実質的に沖縄県を含めた8県が「九州地方」の範囲である、と解説している。</ref>、実際には沖縄県を含めた8県の場合は「九州・沖縄地方」との呼び方が使われている。 歴史上も、「九州地方」などと言う[[地方区分]]の概念が導入されたのは[[廃藩置県]]後の[[明治|明治時代]]以降であると考えられる(それ以前は[[令制国]]による区分であった)。なお、近現代の法令上、行政上の区分は、個別の法制度に基づくため、必ずしもこれらとは一致しない。例として[[九州総合通信局]]の管轄範囲に沖縄県は含まれない。[[日本の行政機関|行政機関]]の[[地方支分部局]]や企業の営業地域などでは沖縄県を九州地方に含む場合も多く、あるいは沖縄を含むことを明示するために「'''九州・沖縄地方'''」と表現する場合が一般的である。 例として『[[日本放送協会|NHK年鑑]]』では見出しを「九州」とする一方で、本文中では「九州・沖縄」と表現している。テレビ番組としては[[九州朝日放送]]制作のブロックネット番組「[[スーパーJチャンネル九州・沖縄]]」などがある。 また、[[本州]]に位置する[[山口県]]は、令制国は[[山陽道]]の[[周防国]]、[[長門国]]に属し[[中国地方]]に区分されるが、北九州地方(かつての[[豊前国]])に地理的にも近く歴史的な縁の深いこともあり、山口県を便宜上の同一区分に含めることもある。その場合は'''明示して'''「'''[[九州・山口地方]]'''」と表現する<ref group="注">[[産経新聞西部本部]]では「九州・山口特別版」を発行している。[[朝日新聞西部本社]]・[[毎日新聞西部本社]]・[[読売新聞西部本社]]発行の新聞記事中でも「九州・山口」は用いられる。テレビ番組としてはブロックネット番組「[[アサデス。|アサデス。九州・山口]]」がある。</ref>。 ; 「九州」に沖縄県を含む例 :*[[警察庁]] [[九州管区警察局]] :*[[総務省]] [[中央選挙管理会]] [[衆議院]][[比例九州ブロック]] :*[[法務省]] 福岡[[矯正管区]]、九州[[地方更生保護委員会]](那覇分室)、[[福岡入国管理局]](那覇支局) :*[[公安調査庁]] 九州[[公安調査局]] :*[[林野庁]] [[九州森林管理局]] :*[[厚生労働省]] [[九州厚生局]](沖縄麻薬取締支所) :*[[中央労働委員会]] 九州地方事務所(沖縄分室) :*[[門司地方海難審判所]](那覇支所)一部山口県も含む :*[[環境省]] [[九州地方環境事務所]] :*[[防衛省]] [[西部方面隊|陸上自衛隊西部方面隊]] :*[[福岡高等裁判所]]([[福岡高等裁判所那覇支部|那覇支部]]) ; 「九州」に山口県を含む例 :*[[水産庁]] 九州[[漁業調整事務所]] :*[[国土交通省]] [[九州地方整備局]](港湾空港部のみ[[下関市]]を管轄している) :*[[気象庁]] [[福岡管区気象台]] :*[[SUNQパス]](利用可能な地区に下関市が含まれる) ; 「九州」に沖縄県・山口県を含んだ9県とする例 :*[[九州地方知事会]] == 歴史 == === 先史 === === 旧石器時代=== 北部九州では、[[長崎県]]の[[入口遺跡]]や[[福岡県]]の、[[辻田遺跡]]の中期旧石器時代石器群等が挙げられる。日本の[[東北地方]]の中期旧石器時代の石器と形態的に同じであり、現時点では西日本で最も古い石器の一群である。 南九州の現[[鹿児島県]]からは、[[上場遺跡]]が発掘されている。 これは日本初の旧石器時代の住居跡の発見例であり、[[ナイフ形石器]]文化→[[細石器]]文化への移りかわりや、[[爪形文土器]]と細石器の関係が層位的に確認された3万年前から1万年の間に5時期の生活の跡が確認された遺跡である。 === 縄文時代 === 九州の縄文文化は、草創期から早期にかけては他の地域に先がけて目覚ましい発達がみられる。 [[佐賀県]]の「最古の湿地性貝塚」である[[東名遺跡]]や[[長崎県]]佐世保市の[[泉福寺洞窟]]からは世界最古級の[[豆粒文土器]]が出土している他、[[鹿児島県]]では9500年前の「日本最古の村」とされる[[上野原遺跡]]や[[栫ノ原遺跡]]等、日本最古級最大級の遺跡が発掘されている。 [[2021年]]5月に[[宮崎県]][[都城市]][[山之口町]]の「相原第1遺跡」で縄文時代早期(約11000年前)の集落跡が見つかった。この集落跡より古い地層からも石器や土坑が発見された事から[[旧石器時代]]までさかのぼる可能性が高いとしている<ref>{{Cite web|和書|title=都城に縄文時代早期の集落跡 「南九州で貴重な遺跡」:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASP5V6V2CP5VTNAB00B.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-11-11|language=ja}}</ref>。 約7300年前の[[鬼界カルデラ]]の大噴火で南九州の縄文文化は壊滅的な被害を受けたと予想され、前期から中期にかけて衰退しているが、後期から晩期にかけて再興している。 北部九州では全国でも稀である多数の装飾品を纏って埋葬された女性人骨など20体以上が発掘された[[山鹿貝塚]]や、牡蠣殻の仮面などが発掘された[[阿高黒橋貝塚]]などがあり、九州独特の文化を形成していた。 === 古代 === [[古代]]では、九州本島は、「'''筑紫島・筑紫洲'''(つくしのしま)」([[古事記]]・[[日本書紀]])と呼ばれていた([[国産み#比較表]]、[[#歴史書における呼称]])。 3世紀には[[魏志倭人伝|『魏志』倭人伝]]に書かれているように小国([[伊都国]]・[[奴国]]など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは[[県主]](あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には[[筑紫国]](北部)・[[豊国]](東部)・[[肥国]](中部)・[[熊襲国]](南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった<ref group="注">古事記・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に筑紫島(九州)は、四面をもって生まれたとされる。<br />次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。</ref>。 [[続日本紀]]によると[[ヤマト政権]]が[[律令制]]を取り入れるにあたって[[西海道]]の一部となり、筑紫は[[筑前国]]・[[筑後国]]、豊国は[[豊前国]]・[[豊後国]]、肥国は[[肥前国]]・[[肥後国]]に分割され[[日向国]]の7国と島嶼部の[[壱岐国]]・[[対馬国]]の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の[[推古天皇]]17年([[609年]])の記事に肥後國の記載あり)、[[弘仁]]15年/[[天長]]元年([[824年]])以後は[[大隅国]]・[[薩摩国]]を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、[[斉明天皇]]の時に、[[百済]]復興の戦に備えるために筑紫国[[朝倉橘広庭宮|朝倉宮]]に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の[[太宰府市]]には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて[[大宰府]]が設置された。また、[[天智天皇]]2年([[663年]])の[[白村江の戦い]]以降に筑紫に[[水城]]や[[大野城 (筑前国)|大野城]]を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。 なお古代九州には[[7世紀]]末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説([[九州王朝説]])もある。 * [[吉野ヶ里遺跡]] * [[海人族]] * [[熊襲]]・[[隼人]] * [[防人]] === 中世 === [[中世]]には、[[博多]]が[[自治都市]]として栄える。[[摂津国]]の[[渡辺氏]]の分流の[[松浦氏]]の一族や、[[藤原純友]]の乱において勲功のあった[[大蔵春実]]、[[橘公頼]]などの子孫が土着し、在地の豪族となる。 [[平家]]の勢力圏であり、九州の武家は平家方に属したが、[[治承・寿永の乱]](源平合戦)の趨勢から[[菊池氏]]や[[松浦氏]]をはじめ諸氏は源氏方に寝返り、[[鎌倉幕府]]の鎮西[[御家人]]となり[[地頭]]に補任される。 しかし、九州の武家は親平家方であったため、[[源頼朝]]は「戦後処理」として、九州の在地武家を抑えこむため、新しく東国[[御家人]]の[[少弐氏]]や[[島津氏]]、[[大友氏]]を守護として九州に送り、これらの「下り衆」が勢力を強め、菊池氏や松浦氏、[[秋月氏]]などの在地の武家を抑え、その後の九州の武家の中枢となる。 [[鎌倉時代]]には2度に渡る[[元寇]]があり、少弐氏など北九州の武士を中心に撃退した後に、それまでの[[異国警固番役]]に代わり[[鎮西探題]]が設置される。 [[元弘]]元年([[1331年]])に京都において[[後醍醐天皇]]が[[元弘の変]]で蜂起すると、[[少弐氏]]や[[大友氏]]などが[[鎮西探題]]の[[北条英時]]を攻撃する。[[鎌倉幕府]]が滅亡後に後醍醐天皇の[[建武の新政]]が成立し、後に[[足利尊氏]]は新政から離反し、尊氏は京都での戦いに敗れて九州へ逃れる。少弐氏らは尊氏を迎え、宮方の[[菊池武敏]]らを[[多々良浜の戦い]]で破る。尊氏は九州で体勢を整えた後に[[一色範氏]]・[[仁木義長]]らを足利勢力として残し、京都に上り、[[室町幕府]]を開く。 後醍醐天皇は吉野([[奈良県]])に逃れて[[南朝 (日本)|南朝]]を開き、宮方の武将に自身の皇子を奉じさせて各地で南朝勢力の集結を呼びかけ、九州には[[懐良親王]]が[[宇都宮貞泰]]に守られて派遣され、[[菊池氏]]に奉じられる。懐良親王は[[明]]から[[倭寇]]鎮圧の要請のために派遣された使者を迎え、「[[日本国王]]」として冊封されて明の権威を背景に勢力を広める。また、足利家では[[観応の擾乱]]と呼ばれる内紛が発生し、尊氏の側室の子である[[足利直冬]]が九州で尊氏と敵対して戦う。 中央では南朝勢力は衰微し、幼い3代将軍[[足利義満]]を補佐した[[細川頼之]]が[[今川貞世]]を九州の南朝勢力討伐のために派遣すると懐良親王も博多、大宰府を追われ、貞世の働きで九州の南朝勢力は鎮圧される。貞世は九州で独自の勢力を築いたため義満に排除され、その後は[[大内氏]]が台頭する。[[寧波の乱]]で[[細川氏]]を破った[[大内氏]]と[[博多]]の商人により大陸との貿易を独占する。 [[応仁の乱]]以後は少弐氏は衰退し、戦国時代には大友氏、大内氏、島津氏などが[[戦国大名]]に成長する。[[天文 (日本)|天文]]12年([[1543年]])、[[種子島]]に[[ポルトガル]]人により日本に初めて[[鉄砲]]が伝わる。[[南蛮貿易]]の中心地となり、[[大友義鎮]]、[[有馬晴信]]、[[大村純忠]]などの[[キリシタン大名]]も生まれる。 主要な戦国大名 {{Col-begin}} * [[城井氏]]([[豊前国]]) * [[大友氏]]([[豊後国]]) * [[少弐氏]](筑前国、肥前国) * [[宗像大宮司氏|宗像氏]]([[筑前国]]) * [[立花氏]](筑前国、筑後国) * [[秋月氏]](筑前国) * [[蒲池氏]]([[筑後国]]) * [[龍造寺氏]]([[肥前国]]) * [[松浦氏]](肥前国) * [[大村氏]](肥前国) * [[肥前有馬氏|有馬氏]](肥前国) * [[宗氏]]([[対馬国]]) * [[菊池氏]]([[肥後国]]) * [[阿蘇氏]](肥後国) * [[隈部氏]](肥後国) * [[名和氏]](肥後国) * [[相良氏]](肥後国) * [[伊東氏]]([[日向国]]) * [[肝付氏]]([[大隅国]]) * [[島津氏]]([[薩摩国]]) {{Col-end}} === 近世 === 近世には[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]を経て豊臣政権下に組み込まれ、北九州は秀吉による朝鮮出兵である[[文禄・慶長の役]]の拠点であった。 江戸時代には幕藩体制の確立に伴い[[薩摩藩]]、[[佐賀藩]]、[[福岡藩]]、[[熊本藩]]、[[対馬藩]]をはじめとする諸藩が成立する。江戸時代の[[鎖国]]体制下では[[平戸]]・[[出島]]などが対外交易の入り口となり、[[長崎奉行所]]がおかれた。 江戸前期には[[島原の乱]]が発生する。 幕末には薩摩藩などが明治維新を主導する雄藩となった。 === 近代 === * [[官営八幡製鐵所|八幡製鉄所]]、[[筑豊炭鉱]]、[[三井三池炭鉱|三池炭鉱]]、[[佐世保鎮守府]]、[[長崎造船所]] * [[九州帝国大学]]、[[熊本洋学校]] === 年表 === 「九国」、九州および「九州地方」の地名に関連した年表。 * 7世紀ごろ - 掖玖・夜勾、海見、多禰島、度感などが史記に見える<ref name=":0">蟹江征治著、宇野俊一、小林達雄、竹内誠、大石学、佐藤和彦、鈴木靖民、濱田隆士、三宅明正編『日本全史(ジャパン・クロニック)』([[講談社]]、[[1990年]])109頁参照。</ref><ref name=":0" group="注">この時期の南西諸島は未開の先史時代であるうえ、朝廷や周辺のヤマト(大和)諸国からの認識も疎かであったと考えられ、特定の島に比定することは困難を伴う。(「阿古奈波」は沖縄本島に比定)</ref> *[[7世紀]]中葉 - [[律令制]]の成立 *[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])ごろ - [[隼人の反乱]]を契機として、唱更国(のちの[[薩摩国]])が[[日向国]]から分立される形で設置<ref>『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。</ref>。 * 大宝2年(702年) - [[種子島]]・[[屋久島]]に[[多禰国]]が設置。 *大宝4年([[704年]]) - 唱更国から薩'''麻'''国に改称。8世紀半ばに薩摩国となる。 * [[和銅]]6年([[713年]]) - [[大隅国]]が日向国から分離。「九国」が揃う。 *8世紀ごろ - 信覚、球美、阿児奈波などが史記に見える<ref name=":0" /><ref name=":0" group="注" /> *[[弘仁]]15年/[[天長]]元年([[824年]]) - 多禰国を大隅国に併合。 *1227年 - [[トカラ列島]](十島)が薩摩国へ編入。 *[[慶長]]14年([[1609年]]) - [[薩摩藩]]が[[琉球王国]]に侵攻、間接統治に組み込む<ref name="世界大百科事典 189頁" />。 * 慶長18年([[1613年]]) - 薩摩藩が奄美に代官所を置く。 *[[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]。数次に渡り名称や領域は異動。 * 明治5年([[1872年]]) - 琉球王国を廃し、[[琉球藩]]を置く。 *[[1879年]](明治12年) - 奄美が大隅国に編入、[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]となる。[[トカラ列島]](十島)が薩摩国へ編入<!-- 新旧歴合一により、*これ以降*西暦先行表記とする --> *1879年 - 琉球藩を廃し[[沖縄県]]を設置([[琉球処分]])。 *[[1883年]] - [[佐賀県]]が[[長崎県]]より、[[宮崎県]]が[[鹿児島県]]より、それぞれ分立して再置、現状となる。 *[[1897年]] - トカラ列島十島が[[令制国]]上で、[[薩摩国]][[川辺郡 (鹿児島県)|川辺郡]]から[[大隅国]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]へ再編。 *[[1945年]]([[昭和]]20年) - [[太平洋戦争]]終戦。トカラ列島下七島および[[奄美群島]]以南の[[南西諸島]]がアメリカ統治下におかれた。 * [[1946年]] - [[SCAPIN]]-677により、トカラ列島下七島および奄美群島以南の南西諸島が日本から公式に行政分離され、施政権が停止される(故に九州地方としての行政権も停止)。トカラ列島上三島は十島村(じっとうそん)として日本に存置。<!-- 施政権が一時的に停止されたと言うのが政府公式見解であり、行政権も一時停止と考えるのが相当。すなわち「九州」や「九州地方」の範囲が(少なくとも公的には)変化したと見るべきではなく、以下その見解により記述する。(なお、北方領土政府公式見解もこの立場である)。唯一の例外は、上三島と下七島が行政分離(自治体分立)されたトカラ列島である。 --> * [[1952年]] - [[サンフランシスコ講和条約]]発効。同年、トカラ列島下七島が日本に復帰、行政権再開。上三島は[[三島村]]、下七島は[[十島村]](としまむら)として分立。 *[[1953年]] - 奄美群島が日本に復帰、行政権再開。 * [[1972年]] - [[沖縄返還]]。行政権再開<ref name="世界大百科事典 189頁" />。 == 経済 == {{main|日本の経済#各産業の概況}} === 第一次産業 === [[第一次産業]]では、[[農業]]、[[漁業]]、[[林業]] がバランスよく九州各県に広く分布しており、出荷額も多い。温暖な気候を利用して筑紫平野では[[米]]、[[オオムギ]]、[[コムギ|小麦]]の[[二毛作]]が展開される。宮崎平野では[[ビニールハウス]]を利用した野菜の[[促成栽培]]が行われている。加えて[[熱帯]]・[[亜熱帯]]地域が原産の[[サツマイモ]]、[[マンゴー]]、[[ブンタン]]、[[バナナ]]などの生産も行われている。鹿児島県や宮崎県南西部には稲作には不向きなシラス台地が広がり、畜産が盛んである。 === 第二次産業 === [[第二次産業]]では、[[北九州工業地帯]]を中心に、歴史的に[[鉄鋼]]、[[石炭]]などの素材産業やエネルギー産業が盛んであった。また、[[三菱重工業]]や[[佐世保重工業]](長崎県)などの[[造船業]]に代表される重工業も盛んであるほか、[[久留米市]]では[[ブリヂストン]]といったゴム工業、[[大牟田市]]は[[三井三池炭鉱|三池炭鉱]]の石炭を中心とした[[化学工業]]、[[延岡市]]では[[旭化成]]が石油化学を中心とした化学工業が発展してきた。また、[[1980年代の日本|1980年代]]には、[[情報技術|IT]]産業の進出により、[[半導体]]分野での世界シェアは1割を占めるまでになり、「[[シリコンアイランド]]」と呼ばれた。さらに[[1990年代の日本|1990年代]]からは、[[トヨタ自動車]]・[[日産自動車]]・[[ダイハツ工業]]・[[ホンダ]]など[[自動車]]メーカーの工場の立地が進み、[[濃尾平野|濃尾地方]]に次ぐ国内の自動車製造拠点となり、先に「シリコンアイランド」と呼ばれていた経緯から「カーアイランド」と呼ばれる事もあった(一時期の台数ベース世界シェアは1.9%)。 [[唐津焼]]・[[有田焼]]・[[伊万里焼]]などに代表される陶磁器生産が[[17世紀]]から伝わっていることから[[窯業]]も盛んである。北九州市に本社を置く[[TOTO (企業)|TOTO]]はトイレ等衛生機器のトップ企業である。 === 第三次産業 === 九州の産業生産額に占める[[第三次産業]]の割合が高く、九州全域を市場として発展している。<!--とりわけ福岡県の全産業に占めるシェアは高く、同県の卸売業の年間販売額は全国第4位、九州全体の60.6%を占めるなど、九州における第三次産業の割合の高さの一因となっている。--> 九州での[[卸売|卸売業]]は福岡県が中心となっており、九州全体の卸売業年間販売額の62.5 %は福岡県内である{{Sfn|野澤ほか|2012|pp=92-93}}。[[小売|小売業]]では全般的に零細店舗や百貨店が低迷する一方、大型店の増加がみられる{{Sfn|野澤ほか|2012|pp=93-95}}。また、九州では[[ドラッグストア]]の売上高、店舗数の増加が日本全国的にみても大きい特徴がある{{Sfn|野澤ほか|2012|pp=96}}。 金融の分野では、[[都市銀行]]の店舗は少なく、各県に[[地方銀行]]の本店があり、地域に根ざした営業網を展開している。また、[[不良債権]]を抱え、経営困難に陥った地方銀行の救済を目的に、資金力のある地銀による[[合併 (企業)#吸収合併・新設合併|吸収合併]]が進んでおり、九州管内での業界再編が行われている。[[ふくおかフィナンシャルグループ]]は[[親和銀行]]や[[熊本ファミリー銀行]]を傘下に入れ、[[西日本シティ銀行]]は[[長崎銀行]]を傘下に入れた。また山口県に地盤がある[[山口フィナンシャルグループ]]傘下の[[山口銀行]]が北九州地方に攻勢をかけており、[[2011年]]([[平成]]23年)10月には[[北九州銀行]]が山口銀行の北九州地区部門から分割・設立するなど北九州地方の動きが活発である。 情報通信業では、{{要出典範囲|date=2012年3月|[[情報技術|IT]][[ソフトウェア]]関連のサービス業が伸びており}}、その多くが福岡市内に集積している。 === 域内総生産 === <ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h17/main.html 平成17年度県民経済計算について] 九州経済産業局調査</ref> * 平成19年度の九州の域内総生産は48兆6825億円である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h19/main.html 平成19年度県民経済計算] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101220043131/http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h19/main.html |date=2010年12月20日 }}</ref>。これは[[G20]]参加国の[[サウジアラビア]]や[[アルゼンチン]]よりも大きく、世界で25位以内の「国」に相当する経済規模を有している<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/weodata/index.aspx World Economic Outlook Database]</ref>。 * 都道府県 ** 福岡県 18兆840億円 ** 佐賀県 2兆935億円 ** 長崎県 4兆379億円 ** 熊本県 5兆708億円 ** 大分県 4兆473億円 ** 宮崎県 3兆560億円 ** 鹿児島県5兆357億円 * 政令指定都市 ** 福岡市7兆197億円、北九州市 3兆523億円、熊本市 2兆1507億円 === 交易 === 位置的に[[朝鮮半島]]や[[中華人民共和国|中国]]、[[東南アジア]]などに近く、特に[[アジア]]との[[貿易]]や輸送が盛んである。 == 人口 == {{Location map+|Japan Kyushu|width=300|float=right|caption=九州7県|places= {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.55|long=130.4|marksize=0|position=right|label=[[福岡県]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.3|long=129.85|marksize=0|position=right|label=[[佐賀県]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=32.7|long=129.2|marksize=0|position=right|label=[[長崎県]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=32.7|long=130.6|marksize=0|position=right|label=[[熊本県]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.05|long=131.2|marksize=0|position=right|label=[[大分県]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=32.3|long=131.1|marksize=0|position=right|label=[[宮崎県]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=31.75|long=130.2|marksize=0|position=right|label=[[鹿児島県]]}} }} === 九州7県の人口 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:90%" |- !class="unsortable" style="width: 25%;"|都道府県番号 !class="unsortable" style="width: 25%;"|都道府県名 !style="width: 10%;"|全国順位 !style="width: 25%;"|人口(人) !style="width: 15%;"|割合(%) |- |style="text-align: center;"|JP-40 |style="text-align: center;"|[[福岡県]] |style="text-align: right;"|9 |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{自治体人口/福岡県|福岡県}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/福岡県|福岡県}}/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |- |style="text-align: center;"|JP-41 |style="text-align: center;"|[[佐賀県]] |style="text-align: right;"|42 |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |- |style="text-align: center;"|JP-42 |style="text-align: center;"|[[長崎県]] |style="text-align: right;"|27 |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{自治体人口/長崎県|長崎県}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/長崎県|長崎県}}/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |- |style="text-align: center;"|JP-43 |style="text-align: center;"|[[熊本県]] |style="text-align: right;"|23 |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{自治体人口/熊本県|熊本県}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/熊本県|熊本県}}/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |- |style="text-align: center;"|JP-44 |style="text-align: center;"|[[大分県]] |style="text-align: right;"|33 |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{自治体人口/大分県|大分県}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/大分県|大分県}}/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |- |style="text-align: center;"|JP-45 |style="text-align: center;"|[[宮崎県]] |style="text-align: right;"|36 |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |- |style="text-align: center;"|JP-46 |style="text-align: center;"|[[鹿児島県]] |style="text-align: right;"|24 |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |- | |style="text-align: center;"|合計 | |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}}}}} |style="text-align: right;"|{{formatnum:{{#expr:(({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}})/({{自治体人口/福岡県|福岡県}}+{{自治体人口/佐賀県|佐賀県}}+{{自治体人口/長崎県|長崎県}}+{{自治体人口/熊本県|熊本県}}+{{自治体人口/大分県|大分県}}+{{自治体人口/宮崎県|宮崎県}}+{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島県}}))*100 round 1}}}} |} ※順位・人口・割合のデータは{{自治体人口/福岡県|date}}現在。 === 年齢構成 === {{九州地方/5歳階級別人口}} === 主要都市 === {{Location map+|Japan Kyushu|width=300|float=right|caption=九州の主要都市|places= {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.606|long=130.414|position=left|label_size=90|label=[[福岡市|福岡]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.876|long=130.865|position=right|label_size=80|label=[[北九州市|北九州]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.317|long=130.507|position=right|label_size=70|label=[[久留米市|久留米]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.250|long=130.299|position=left|label_size=90|label=[[佐賀市|佐賀]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=32.736|long=129.876|position=left|label_size=90|label=[[長崎市|長崎]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.182|long=129.713|position=left|label_size=70|label=[[佐世保市|佐世保]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=32.793|long=130.730|position=right|label_size=90|label=[[熊本市|熊本]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=33.235|long=131.602|position=right|label_size=90|label=[[大分市|大分]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=31.914|long=131.425|position=right|label_size=90|label=[[宮崎市|宮崎]]}} {{Location map~|Japan Kyushu|lat=31.551|long=130.552|position=right|label_size=90|label=[[鹿児島市|鹿児島]]}} }} 沖縄県含む九州8県の主要都市を掲載する。データは{{自治体人口/福岡県|date}}現在。 {| class="infobox" style="text-align:center; width:100%; margin-right:10px; font-size:100%" ! colspan="10" style="background:#e9e9e9; padding:0.3em; line-height:1.2em;"| '''九州地方の主要都市''' |- !rowspan=30| [[File:20100720 Fukuoka 3704.jpg|150px]]<br /><small>福岡市</small><br />[[File:Kurosaki-Kitakyushu.jpg|150px]]<br /><small>北九州市</small><br /> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 !rowspan=21| [[File:Kumamoto Castle 37n4272.jpg|150px]]<br /><small>熊本市</small><br />[[File:Sakurajima n700.jpg|150px]]<br /><small>鹿児島市</small><br /> |- | style="background:#f0f0f0"| 1 ||align=center | '''[[福岡市]]''' || {{Flagicon|福岡県}}[[福岡県]] || {{formatnum:{{自治体人口/福岡県|福岡市}}}}人 || 11 ||align=center | '''[[佐賀市]]''' || {{Flagicon|佐賀県}}[[佐賀県]] || {{formatnum:{{自治体人口/佐賀県|佐賀市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 2 ||align=center | '''[[北九州市]]''' || {{Flagicon|福岡県}}福岡県 || {{formatnum:{{自治体人口/福岡県|北九州市}}}}人 || 12 ||align=center | '''[[都城市]]''' || {{Flagicon|宮崎県}}宮崎県 || {{formatnum:{{自治体人口/宮崎県|都城市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 3 ||align=center | '''[[熊本市]]''' || {{Flagicon|熊本県}}[[熊本県]] || {{formatnum:{{自治体人口/熊本県|熊本市}}}}人 || 13 ||align=center | '''[[沖縄市]]''' || {{Flagicon|沖縄県}}沖縄県 || {{formatnum:{{自治体人口/沖縄県|沖縄市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 4 ||align=center | '''[[鹿児島市]]''' || {{Flagicon|鹿児島県}}[[鹿児島県]] || {{formatnum:{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島市}}}}人 || 14 ||align=center | '''[[諫早市]]''' || {{Flagicon|長崎県}}長崎県 || {{formatnum:{{自治体人口/長崎県|諫早市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 5 ||align=center | '''[[大分市]]''' || {{Flagicon|大分県}}[[大分県]] || {{formatnum:{{自治体人口/大分県|大分市}}}}人 || 15 ||align=center | '''[[うるま市]]''' || {{Flagicon|沖縄県}}沖縄県 || {{formatnum:{{自治体人口/沖縄県|うるま市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 6 ||align=center | '''[[宮崎市]]''' || {{Flagicon|宮崎県}}[[宮崎県]] || {{formatnum:{{自治体人口/宮崎県|宮崎市}}}}人 || 16 ||align=center | '''[[飯塚市]]''' || {{Flagicon|福岡県}}福岡県 || {{formatnum:{{自治体人口/福岡県|飯塚市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 7 ||align=center | '''[[長崎市]]''' || {{Flagicon|長崎県}}[[長崎県]] || {{formatnum:{{自治体人口/長崎県|長崎市}}}}人 || 17 ||align=center | '''[[霧島市]]''' || {{Flagicon|鹿児島県}}鹿児島県 || {{formatnum:{{自治体人口/鹿児島県|霧島市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 8 ||align=center | '''[[那覇市]]''' || {{Flagicon|沖縄県}}[[沖縄県]] || {{formatnum:{{自治体人口/沖縄県|那覇市}}}}人 || 18 ||align=center | '''[[八代市]]''' || {{Flagicon|熊本県}}熊本県 || {{formatnum:{{自治体人口/熊本県|八代市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 9 ||align=center | '''[[久留米市]]''' || {{Flagicon|福岡県}}福岡県 || {{formatnum:{{自治体人口/福岡県|久留米市}}}}人 || 19 ||align=center | '''[[延岡市]]''' || {{Flagicon|宮崎県}}宮崎県 || {{formatnum:{{自治体人口/宮崎県|延岡市}}}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 10 ||align=center | '''[[佐世保市]]''' || {{Flagicon|長崎県}}長崎県 || {{formatnum:{{自治体人口/長崎県|佐世保市}}}}人 || 20 ||align=center | '''[[唐津市]]''' || {{Flagicon|佐賀県}}佐賀県 || {{formatnum:{{自治体人口/佐賀県|唐津市}}}}人 |} {{Clear}} ;[[政令指定都市]] : 福岡市({{formatnum:{{自治体人口/福岡県|福岡市}}}}人)・北九州市({{formatnum:{{自治体人口/福岡県|北九州市}}}}人)・熊本市({{formatnum:{{自治体人口/熊本県|熊本市}}}}人) ;[[中核市]] : 鹿児島市({{formatnum:{{自治体人口/鹿児島県|鹿児島市}}}}人)・大分市({{formatnum:{{自治体人口/大分県|大分市}}}}人)・宮崎市({{formatnum:{{自治体人口/宮崎県|宮崎市}}}}人)・長崎市({{formatnum:{{自治体人口/長崎県|長崎市}}}}人)・那覇市({{formatnum:{{自治体人口/沖縄県|那覇市}}}}人)・久留米市({{formatnum:{{自治体人口/福岡県|久留米市}}}}人)・佐世保市({{formatnum:{{自治体人口/長崎県|佐世保市}}}}人) ;[[特例市|施行時特例市]] : 佐賀市({{formatnum:{{自治体人口/佐賀県|佐賀市}}}}人) == 教育 == === 国立大学 === {{Col-begin}} {{Col-break}} * 福岡県 ** [[九州大学]] ** [[福岡教育大学]] ** [[九州工業大学]] * 佐賀県 ** [[佐賀大学]] {{Col-break}} * 長崎県 ** [[長崎大学]] * 熊本県 ** [[熊本大学]] {{Col-break}} * 大分県 ** [[大分大学]] * 宮崎県 ** [[宮崎大学]] {{Col-break}} * 鹿児島県 ** [[鹿児島大学]] ** [[鹿屋体育大学]] {{Col-break}} * 沖縄県 ** [[琉球大学]] ** [[沖縄科学技術大学院大学]] {{Col-end}} === 公立大学 === {{Col-begin}} {{Col-break}} * 福岡県 ** [[福岡県立大学]] ** [[九州歯科大学]] ** [[北九州市立大学]] ** [[福岡女子大学]] * 長崎県 ** [[長崎県立大学]] {{Col-break}} * 熊本県 ** [[熊本県立大学]] * 大分県 ** [[大分県立看護科学大学]] * 宮崎県 ** [[宮崎公立大学]] ** [[宮崎県立看護大学]] {{Col-break}} * 沖縄県 ** [[沖縄県立看護大学]] ** [[沖縄県立芸術大学]] ** [[名桜大学]] {{Col-end}} === 私立大学 === {{Col-begin}} {{Col-break}} * 福岡県 ** [[九州共立大学]] ** [[九州国際大学]] ** [[九州産業大学]] ** [[九州情報大学]] ** [[九州女子大学]] ** [[九州栄養福祉大学]] ** [[近畿大学]]産業理工学部 ** [[久留米大学]] ** [[久留米工業大学]] ** [[国際医療福祉大学]]福岡リハビリテーション学部 ** [[サイバー大学]] ** [[産業医科大学]] ** [[西南学院大学]] ** [[西南女学院大学]] ** [[聖マリア学院大学]] ** [[第一薬科大学]] ** [[筑紫女学園大学]] ** [[帝京大学]]福岡医療技術学部 ** [[東和大学]] ** [[中村学園大学]] ** [[西日本工業大学]] ** [[日本赤十字九州国際看護大学]] ** [[福岡大学]] ** [[福岡医療福祉大学]] ** [[福岡経済大学]] ** [[福岡工業大学]] ** [[福岡歯科大学]] ** [[福岡女学院大学]] ** [[福岡国際大学]] ** [[保健医療経営大学]] ** [[早稲田大学]][[大学院]] {{Col-break}} * 佐賀県 ** [[西九州大学]] * 長崎県 ** [[活水女子大学]] ** [[長崎総合科学大学]] ** [[長崎国際大学]] ** [[鎮西学院大学]] ** [[長崎純心大学]] ** [[長崎外国語大学]] * 熊本県 ** [[九州看護福祉大学]] ** [[九州ルーテル学院大学]] ** [[東海大学]] ** [[熊本学園大学]] ** [[熊本保健科学大学]] ** [[尚絅大学]] ** [[崇城大学]] ** [[平成音楽大学]] {{Col-break}} * 大分県 ** [[日本文理大学]] ** [[別府大学]] ** [[立命館アジア太平洋大学]](APU) * 宮崎県 ** [[南九州大学]] ** [[宮崎国際大学]] ** [[宮崎産業経営大学]] ** [[九州保健福祉大学]] * 鹿児島県 ** [[鹿児島国際大学]] ** [[鹿児島純心女子大学]] ** [[志學館大学]] ** [[第一工業大学]] * 沖縄県 ** [[沖縄大学]] ** [[沖縄キリスト教学院大学]] ** [[沖縄国際大学]] {{Col-end}} === 高等専門学校 === {{Col-begin}} {{Col-break}} * 福岡県 ** [[北九州工業高等専門学校]] ** [[久留米工業高等専門学校]] ** [[有明工業高等専門学校]] * 長崎県 ** [[佐世保工業高等専門学校]] {{Col-break}} * 熊本県 ** [[熊本高等専門学校]] *** [[熊本電波工業高等専門学校]](熊本キャンパス) *** [[八代工業高等専門学校]](八代キャンパス) * 大分県 ** [[大分工業高等専門学校]] {{Col-break}} * 宮崎県 ** [[都城工業高等専門学校]] * 鹿児島県 ** [[鹿児島工業高等専門学校]] * 沖縄県 ** [[沖縄工業高等専門学校]] {{Col-end}} == 文化 == === 名所・史跡・観光 === {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[佐多岬]] * [[高崎山]] * [[都井岬]] * [[志賀島]] * [[能古島]] * [[大入島]] * [[桜島]] * [[霧島神宮]] * [[宗像大社]] * [[筥崎宮]] * [[香椎宮]] * [[元寇防塁]] * [[観世音寺]] * [[太宰府天満宮]] * [[聖福寺 (福岡市)|聖福寺]] * [[高良大社]] {{Col-break}} * [[風浪宮]] * [[宇佐神宮]] * [[住吉神社 (福岡市)|住吉神社]] * [[祐徳稲荷神社]] * [[吉野ヶ里遺跡]] * [[西都原古墳群]] * [[九十九島 (西海国立公園)|九十九島]] * [[熊本城]] * [[屋形石の七ツ釜]] * [[唐津城]] * [[波戸岬]] * [[虹の松原]] * [[光明寺 (太宰府市)|光明寺]] * [[名護屋城]] * [[水前寺成趣園]] * [[壱岐島]] * [[今村天主堂]] * [[水ノ子島灯台]] {{Col-end}} === 国立施設 === * [[九州国立博物館]] * [[国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館]] === 野球場 === * [[福岡PayPayドーム]] * [[北九州市民球場]] * [[佐賀県立森林公園野球場|さがみどりの森球場]] * [[長崎県営野球場|長崎ビッグNスタジアム]] * [[鹿児島県立鴨池野球場|平和リース球場(鹿児島)]] * [[サンマリンスタジアム宮崎]] * [[藤崎台県営野球場|リブワーク藤崎台球場(熊本)]] * [[大洲総合運動公園硬式野球場|別大興産スタジアム(大分)]] * [[那覇市営奥武山野球場|沖縄セルラースタジアム那覇]] === サッカー場(陸上競技場) === * [[鳥栖スタジアム|駅前不動産スタジアム(鳥栖)]] * [[東平尾公園博多の森球技場|ベスト電器スタジアム(福岡)]] * [[ミクニワールドスタジアム北九州]] * [[大分スポーツ公園総合競技場|レゾナックドーム大分]] * [[熊本県民総合運動公園陸上競技場|えがお健康スタジアム(熊本)]] * [[長崎県立総合運動公園陸上競技場|トランスコスモススタジアム長崎]] * [[鹿児島県立鴨池陸上競技場|白波スタジアム(鹿児島)]] * [[ユニリーバスタジアム新富|ユニリーバスタジアム新富(宮崎)]] * [[沖縄県総合運動公園陸上競技場|タピック県総ひやごんスタジアム(沖縄)]] === 遊園地等 === * [[ハウステンボス]] * [[グリーンランド (遊園地)|グリーンランド]] * [[城島高原パーク]] * [[ハーモニーランド|サンリオキャラクターパークハーモニーランド]] * [[ラクテンチ|別府ラクテンチ]] * [[肥前夢街道]] * [[メルヘン村|森の遊園地メルヘン村]] * [[だざいふ遊園地]] * ダグリ岬遊園地 === 地域文化 === * [[九州方言]] * [[九州男児]] == 交通 == === 鉄道・軌道([[ケーブルカー]]を除く) === {{See also|九州の鉄道|専用鉄道#九州地方}} ; 新幹線 : [[九州旅客鉄道|JR九州]]本社直轄の[[九州新幹線]]と、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[西日本旅客鉄道福岡支社|福岡支社]]管轄の[[山陽新幹線]]の一部とが存在する。 : 九州新幹線の開通区間は現在、[[九州新幹線|鹿児島ルート]]の[[鹿児島中央駅]]~[[博多駅]]と[[西九州新幹線|西九州新幹線(長崎ルート)]]の[[長崎駅]]~[[武雄温泉駅]]である。[[山陽新幹線]]との間で鹿児島中央駅~[[新大阪駅]]間の直通列車が運転されている。また、西九州新幹線の武雄温泉駅~[[新鳥栖駅]]間は計画中であり現在は[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急方式]]で運行をしている。 ; 在来線 : 山陽新幹線の[[回送線]]を旅客線化した[[博多南線]](JR西日本福岡支社の管轄)以外の在来線は全てJR九州が管理している。 ; [[公営交通]] : 九州で唯一[[日本の地下鉄|地下鉄]]事業を行う事業者として[[福岡市交通局]](福岡市営地下鉄)が存在するほか、[[路面電車|軌道]]事業を行う事業者として[[熊本市交通局]]、[[鹿児島市交通局]]が存在する。 ; [[私鉄]] : [[大手私鉄]]の一つである西日本鉄道(西鉄)が福岡県下に路線網をもつほか、福岡県、長崎県、熊本県に中小私鉄4事業者が存在する。なお、これには組織上[[第三セクター]]であるものの、慣例的に一般私鉄に分類される島原鉄道を含む(詳細については[[島原鉄道]]を参照)。 ; [[第三セクター鉄道]] : 第三セクター鉄道としては、[[東九州]]の大分・宮崎県を除いた5県に7事業者9路線が存在する。都市交通の整備のため建設された北九州高速鉄道以外は、いずれも[[日本国有鉄道|国鉄]]・JRの赤字路線や[[在来線#並行在来線|並行在来線]]を転換開業したものである。 ; 鉄道・軌道事業者の一覧 ''[[専用鉄道#九州地方]]も参照'' {{Col-begin}} {{Col-break}} * [[九州旅客鉄道|JR九州]] * [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]([[山陽新幹線]]・[[博多南線]]) * [[西日本鉄道]] * [[福岡市交通局]]([[福岡市地下鉄]]) * [[北九州高速鉄道|北九州モノレール]] * [[筑豊電気鉄道]] * [[平成筑豊鉄道]] * [[甘木鉄道]] * [[長崎電気軌道]] {{Col-break}} * [[松浦鉄道]] * [[島原鉄道]] * [[熊本市交通局]] * [[熊本電気鉄道]] * [[肥薩おれんじ鉄道]] 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地理的に[[大韓民国]]や[[中華人民共和国]]など[[東アジア]]、[[東南アジア]]の周辺国が東京や大阪よりも近いこともあり、九州本島ではすべての県に韓国への便があり、最大規模の福岡空港では周辺国や東南アジア・ハワイ・ヨーロッパ方面への便もある。 == スポーツ == === 本拠地を置くチーム・団体 === * [[野球]]:[[福岡ソフトバンクホークス]]([[日本プロ野球]][[パシフィック・リーグ]])、[[火の国サラマンダーズ]]、[[大分B-リングス]]、[[北九州下関フェニックス]]、[[宮崎サンシャインズ]]([[九州アジアリーグ]]) * [[サッカー]]:[[サガン鳥栖]]、[[ギラヴァンツ北九州]]、[[V・ファーレン長崎]]、[[大分トリニータ]]、[[ロアッソ熊本]]、[[アビスパ福岡]]、[[鹿児島ユナイテッドFC]]、[[テゲバジャーロ宮崎]]、[[FC琉球]]([[日本プロサッカーリーグ]])、[[ホンダロックサッカー部]]、[[ヴェルスパ大分]]([[日本フットボールリーグ|JFL]])、[[福岡J・アンクラス]]([[日本女子サッカーリーグ]]) * [[ラグビーフットボール|ラグビー]]:[[九州電力キューデンヴォルテクス]]([[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]]) * [[バレーボール]]:[[大分三好ヴァイセアドラー]]([[V.LEAGUE]]男子)、[[福岡ウイニングスピリッツ]]([[V.LEAGUE]]男子)、[[久光製薬スプリングス]]([[V.LEAGUE]]女子) * [[バスケットボール]]:[[熊本ヴォルターズ]]、[[琉球ゴールデンキングス]]、[[ライジングゼファーフクオカ]]、[[長崎ヴェルカ]]、[[佐賀バルーナーズ]]([[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]])、[[鹿児島レブナイズ]]([[ジャパン・バスケットボールリーグ|B3.LEAGUE]]) * [[ハンドボール]]:[[トヨタ紡織九州レッド・トルネード]]([[日本ハンドボールリーグ]]男子)、[[オムロンピンディーズ]]、[[ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング BLUE SAKUYA]]([[日本ハンドボールリーグ]]女子) * 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四国
四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである。 北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり、この中では最も小さい。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。面積は18,297.78kmで、世界の島の中では、ブラジルのバナナル島に次ぐ第50位の大きさである。 四国とその付随する島(小豆島、大三島、大島、中島、伯方島、豊島など)を合わせて「四国地方(しこくちほう)」と言う。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「四国本土(しこくほんど)」あるいは「四国島(しこくとう)」と呼ぶこともある。(日本の地理・四国、日本の地域・四国地方も参照) 四国には徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの県があり、4県の総人口は約357万人(2023年時点)であり横浜市(約377万人)より少ない。(表右下 四国地方も参照) 四国の古代の呼称は、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」(いよのふたなのしま)である。 四国地方を構成する4県の中で、徳島県・香川県・愛媛県は島内交流と合わせて、本州四国連絡橋(本四架橋)もあり本州との交流も盛んである。 西南部除く四国全域は近畿地方の影響力を文化的に強く受けているが、東部の徳島県は政治・経済においても影響が顕著である。北東部の香川県は文化・経済の両面で岡山県とのつながりも深いが、高松自動車道と神戸淡路鳴門自動車道の開通以降は徳島県同様近畿地方との交流もより活発になっている。西部の愛媛県は広島県や九州の大分県との交流が見られる。一方で高知県は陸路が険しく船での往来が発達した関係上、古くから上方、京都、近世は江戸からの影響も強く、政治・文化的な中央への意識が高いとも言われている。近年は高速道路網の発達により、四国内指向が強まっている。 空海が拓いた四国巡礼・八十八箇所はお遍路さんで有名。 日本の主要4島の中で、唯一政令指定都市が存在しない。 神々による日本の創造の過程を記した『古事記』の国産み神話では、四国は淡路島に続き、日本列島で二番目に創造された島であるという。古事記には「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と記されている。また『日本書紀』では「四国」を「伊予二名洲(いよのふたなのしま)」と表記している。よって古代においては、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」、または単に、「伊予島」・「伊予洲」(いよのしま、いよしま)、「二名島」・「二名洲」(ふたなのしま、ふたなしま)」などと呼ばれた(「フタナ」は二並びの意)。 近世以降は、五畿七道の南海道のうち、紀伊国と淡路国を除いた阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから、「四国」と呼ばれた。歴史書ではないが、16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年)出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物において、明確に「四国」という名称を見出すことができる。 約1900万年前の日本列島の誕生に伴い、四国の前身が誕生した。瀬戸内海を挟んで、近畿地方・山陽地方・九州に三方を囲まれた位置にある。島の中部には、各県を分断するような形で四国山地や讃岐山脈の山々がそびえており、この地形が近年まで各地域間の交流を困難にしていた。 中央構造線が吉野川北岸から佐田岬半島にかけて東西に貫いている。構造線以北の内帯(西南日本内帯)に当たる地方では、中生層・古生層とこれを貫く火成岩が分布している。構造線以南の外帯(西南日本外帯)に当たる地方では、北側から南側にかけて中生層・古生層が形成された順に配列している。 日本の島の中では九州に次ぐ第4位、世界の島の中ではブラジルのバナナル島に次ぐ第50位の面積を持つ。最高標高は、石鎚山の天狗岳(愛媛県)の1,982 m。 地質学的には、四国は北からおもに三波川帯(ほぼ吉野川がある)、秩父帯(四国山地)、四万十層(四万十川)がほぼ東西に分布し、その間を中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線が走っている。 徳島県の吉野川流域以北、香川県全域、愛媛県東予地方、中予地方の、瀬戸内海に面した北側は、瀬戸内海式気候に属する温暖少雨な気候であり、台風等の直撃も比較的少ない。そのため、オリーブやミカンの栽培が盛んである。その反面、大規模な河川は太平洋や紀伊水道に流れ込む形となっているため、水資源に恵まれず、過去幾度かの渇水に見舞われてきた。このため、満濃池を初めとするため池が多数造られている。その中でも特に、香川県は古来から水不足に悩まされ続けており、渇水対策として吉野川の水を送水するための香川用水が建設されている。 冬から春にかけて、中国大陸から流入する黄砂がしばしば観測される。冬は小雨や小雪(みぞれ)の降る日もあるが、基本的に晴天が多い。平野部では大雪になることはほとんどないが、山間部では気温が低く冬は積雪も多い。なお、太平洋高気圧に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「凪」や、四国山地越えのフェーン現象に伴う気流の影響で、猛暑日や熱帯夜になる日も少なくない。 徳島県のほとんどの地域や、愛媛県南予地方・高知県全域の太平洋に面した南側は、太平洋側気候に属している。太平洋沖合を流れる黒潮の影響を受けて冬でも温暖で、一部で無霜地帯が存在する。春の訪れが早く本土で最初の桜の開花宣言が高知市または宇和島市となることも少なくない。そのため、特に高知県では促成栽培が盛んであったり、プロ野球チームのキャンプ地になったりと、温暖な気候を生かした産業や行事が発達している。 年間降水量が多いことから林業も盛んであるが、一方で高知県の室戸岬と足摺岬では、台風が来襲しやすいことから「台風銀座」と呼ばれている。このため「室戸台風」などの大型台風が直撃し、洪水などの被害を受けている。なお「室戸台風」では、室戸岬上陸時の中心気圧は911.6hPaであり、日本本土に上陸した台風のなかで観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風だった。これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録(台風の正式な統計は1951年(昭和26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱い)として、いまだに破られていない。また、愛媛県南予地方および高知県幡多地方では、冬は関門海峡からの季節風の影響で曇りや雨、雪の日が他の太平洋側の地域に比べると多くなっている。 四国は、畿内から南西側に位置しており、海路で移動するために、五畿七道では南紀や淡路島と一緒に南海道に含まれていた。近畿・九州航路の要所であった四国の西北部に位置する伊予国の道後温泉などは、舒明天皇や斉明天皇の入浴記録(日本書紀)があるほか、山部赤人・額田王の来浴記録(万葉集)もあるなど、古くから栄えていたと思われる。 平氏が都落ちした際、安徳天皇を擁して屋島を一時的な本拠地としたため、この地で源平両軍が争った。室町時代は細川氏が讃岐・阿波・土佐の三国を、河野氏が伊予をそれぞれ守護した。 戦国時代の四国の大名としては、三好を拠点とし阿波国から山城国にわたる8国を支配圏に収めた三好長慶、「土佐の小京都」とも呼ばれている中村を拠点とした土佐一条氏、伊予国道後の湯築城を本拠とした水軍を有する河野氏、讃岐の香川氏、土佐国の四国の覇者である長宗我部元親などが高名であるが、長い騒乱の末に収束に向かい、一時は長宗我部氏が四国を統一したものの、やがて豊臣秀吉により平定された。土佐の大名であった長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍につき改易された。 江戸時代になると、それまで四国各地を治めていた戦国大名は四国から駆逐され、幕府徳川氏の信任厚い諸将がこの地に封じられることになった。初め、讃岐に生駒氏、阿波に蜂須賀氏、土佐を山内氏と一国一円支配を許したが、のちに生駒氏が騒動を起こして改易されると讃岐は二分割統治された。伊予は初めから小大名が配置され、一国統治はされなかった。なお、瀬戸内海の小豆島と塩飽諸島は天領として倉敷代官所の支配下に置かれた。 四国の代表的な藩には、阿波国と淡路国を稲田氏の知行地とする蜂須賀氏の徳島藩、水戸徳川家の分家の高松藩、山内氏が治める土佐藩、加藤氏や久松松平家(親藩)などが領した伊予松山藩、仙台伊達氏の分家が治める宇和島藩などであった。 幕末維新において土佐藩が終始政局に関わり続け、土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介で薩長同盟がなった。戊辰戦争においても土佐藩は官軍として各地を転戦し功を挙げた。明治期の自由民権運動も元土佐藩士板垣退助らが中心として起こった。それ以前に金陵会議(四国会議)が土佐藩から提唱され、四国をまとめ上げる力となったが、わずか数年で解散を命ぜられた。愛媛県から正岡子規なる文豪が輩出され、明治文化に貢献した。 歴史的には全県が畿内との繋がりの強い地域であったが、陸路交流の活発化と海路交流の衰退により徳島県は近畿地方と、香川県は岡山県と、愛媛県は広島県との経済活動も多くなっている。特に徳島県沿岸部は、日常的に京阪神との経済交流が盛んであり、影響が大きい。太平洋に面し三方を山に囲まれる高知県は特に対外的経済交流が活発な地域はなかった。 近年は高速道路網の整備により島内での交流が高知県を含め各県大幅に増加し、2010年現在では本州ではなく島内での経済的交流が最も盛んとなっている。 2017年(平成29年度)の四国四県の域内総生産は、名目で14兆5820億5000万円であり、全国の総生産(日本のGDP)に占める経済規模は2.60%だった。これを他の都道府県と比べると、茨城県(13.8兆円)より大きく、静岡県(17.3兆円)より小さい。また、1人当たり県民所得は四県全てにおいて日本の1人当たり平均所得を下回っていた。 四国瀬戸内海側は太平洋ベルト地帯に位置しており、坂出市・丸亀市・四国中央市・新居浜市・西条市・今治市および松山市などを中心に、瀬戸内工業地域が形成されている。徳島市と西条市は、新産業都市建設促進法に基づいて指定される新産業都市(工業開発の拠点地域)であった。 ※順位・人口・割合は令和2(2020)年国勢調査による。 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人] 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人] 2010年国勢調査時の四国における自治体は95市町村であるが、そのうち2005年国勢調査と比べ人口が増加したのは8市町のみでそれ以外の87市町村は全て減少している。そのため四国全体はもとより、県単位でも4県全てで減少となっている。県別にみると最も減少率が高いのは高知県の▽4.00%で、以下、徳島県▽3.02%、愛媛県▽2.47%、香川県▽1.64%と続く。逆に、増加した自治体は香川県の3市町、徳島県の3町、愛媛県および高知県のそれぞれ1市である。県庁所在地別では増加したのが高松市と松山市のみで北四国と南四国で明暗が分かれる形になったが、徳島県の増加3町はいずれも徳島市に隣接したベッドタウンである。県庁所在地以外では徳島県の上記3町のほか、香川県第二の都市である丸亀市とそこに隣接する綾歌郡宇多津町、高知県香南市で人口が増加した。愛媛県では県庁所在地である松山市以外で人口が増加した市町村は存在しなかった。 最も減少率が高い高知県土佐郡大川村は唯一の▽20%越えとなっているほか、上位6位までが全て高知県の自治体となっている。その他の減少率が高い自治体には、概ね南四国の太平洋沿岸や中央部の四国山地に位置する自治体が多い。 厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』で、2045年の四国4県の総人口は282万3千人で、15年に比べて102万3千人(26%)減少することがわかった。ただ40年時点では前回推計を上回り300万人台を維持するなど減少ペースに緩和傾向も見られる。 同研究所は人口推計を5年ごとにまとめて公表している。全国の総人口に占める四国4県の比率は15年の3.0%から45年には2.7%に低下する。4県では高知県が鳥取県に次いで全国で下から2番目(15年時点は同3番目)になる。近年の出生率の改善傾向を背景に、前回調査時より人口減少ペースが鈍化する傾向が見られた。四国全体では40年時点の人口は前回調査の295万5千人よりも5万1千人多かった。香川が4万2千人、愛媛が6千人、徳島が3千人それぞれ上回った。一方、高知は71人とわずかながら前回を下回った。 地域による格差も目立つ。45年と15年の人口を比べると、高松市が1割減にとどまるほか、瀬戸大橋周辺の自治体の減少率は小さい。徳島市のベッドタウンである徳島県北島町は四国で唯一増加する見通し。一方、中山間地では高知県大豊町が7割減、愛媛県久万高原町が6割強の減少を見込む。 四国には突出して大きな都市がなく、地形的制約から各県に独立した都市圏が存在する。また、古くから海上交通が盛んであったため、各地ともに対岸との交流も盛んである。 四国地方を便宜的に2つの地域に分ける場合がある。 どの出発地からも対四国内への流動が最も多く、全体の流動数に占める割合は最低でも50%、最高で95%を占めている。四国内の県庁所在地別では、特に高松市が位置する香川東部が目的地として全てで首位となっているほか、四国外との流動では、徳島が神戸、香川東部が岡山県南、松山および高知が東京23区が最も多くなっている。全ての出発地別からは5位以内に香川東部・高知中央、6位以内に香川西部、8位以内に新居浜、11位以内に松山、12位以内に東京23区・大阪・岡山県南、14位以内に徳島を四国内全ての出発地が目的地としている。 かつては、「徳島は近畿(大阪・神戸)を向き、高松は岡山を向き、松山は広島を向き、そして高知は太平洋(または東京)を向いている」と言われ、「四国は一つ一つ」などと風刺されることもあった。しかし、20世紀末から高速道路網の整備によって四国内の相互交流が深まり、21世紀初頭にはそれまで盛んだった本州の都市を凌駕するに至った。 1990年(平成2年)時点での状況は徳島、高松、松山とも四国外との交流人口の方が多く、高知のみ四国内との交流の方が多かったが、流動数自体が非常に少なかった。四国外との繋がりでは徳島が京阪神、香川東部が岡山県南、松山が広島・大阪、八幡浜が大分といった地域と強く、特に香川東部と岡山県南との流動数は他に突出して多かった。 1990年(平成2年)と2010年(平成22年)の変化では、四国全域で四国内の相互交流が非常に活発になったこと、目的地としての流動が香川東部に集中することにより同地域が交流の中心としての性格を強めたことが挙げられる。また大きな変化として香川東部における徳島と岡山県南の関係性が逆転し、さらにその数も1990年の岡山県南よりも2010年の徳島の方が多く、圧倒的な差がついている。 この他にも、高速道路の最大志向先(最も多くの車両が目指す目的地)は四国各県とも高松であり、四国地方では高松を中心とした相互交流が根付いている。このように地域ブロックの代表的な都市に人の流れが集中し、中心性を高める傾向は年々顕著になっている(詳細は#高速道路を参照)。 四国島内の交流に関して、高速道路のエックスハイウェイ化以後は四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)の発足などによって、より一体感を強める傾向にあり、各県それぞれの歴史や役割を生かした連携を深める段階に入っている。今後、四国4県が一つの地域として一体となった文化・経済活動や観光誘致が進んでいくと予想されている(「青い国四国」キャンペーンなどの実績もある)。 都市雇用圏に拠る「都市圏」は以下の通り。※2010年(平成22年)国勢調査基準 国勢調査において総務省統計局の定義する都市圏としては松山都市圏が四国で唯一掲載されている。その他、東瀬戸経済圏(瀬戸内をはさむ地域を経済的に一体としてみる統計上の呼称)などがある。 2000年(平成12年)調査から2005年(平成17年)調査では各都市圏の枠組みが変化する事例が見られた。具体的には、平成の大合併によって郊外自治体が中心市に編入されたり、丸亀都市圏のようにモータリゼーションの浸透による他都市の郊外化で都市圏自体が消滅したり、逆に西条都市圏のように既存の都市圏から離脱して新たな都市圏を形成する自治体も見られた。 四国には飛び抜けて大きな都市はないが、4つの県庁所在地に人口がある程度集中し、各県におけるプライメイトシティとなっている。 その他は中規模な都市であり、人口10万人を超える市でさえ長らく新居浜市と今治市の2都市しかなかった。 平成の大合併の結果、松山市が50万人、高松市が40万人の大台に乗り、新たに西条市と丸亀市が10万人を超え、今治市も17万人に増大した。 しかし、人口動態は松山市と高松市と丸亀市が横ばいであるものの、その他の都市は、大きく減少してしまっている。 上記以外の県庁所在地 各県の表示順は以下のようにさまざまな表示順が存在する。(当事典では地方公共団体コードの表示順を使用) 高松市と松山市の間では以前から「四国の中心都市」という座を巡って論争が繰り返されているが、特に近年は道州制に伴う州都(道都。以下では「道都」と表記する)の誘致に関連した論争が激化している。以下の都市がそれぞれ中心とされ、競合している。(→四国の道州制論議、日本の道州制論議) 本州四国連絡橋公団の交通量のページ 四国は、古くから、畿内から地理的には比較的近距離に位置しながら、船での移動を余儀なくされていた。かつては大阪府の深日から船で淡路島の洲本市へ渡り、淡路鉄道などを利用して洲本から福良まで淡路島内を移動、福良から船やフェリーで、鳴門へ渡るというのが最も一般的なルートであった。これに関連して、淡路島の名の由来の一説に、阿波へ行くみちの意味で「阿波路島」だとする説もある。 島民が本州と往来する場合は、瀬戸内海に架橋されるまで、船舶を用いるのが常であった(昭和に入ってからは航空路も)。 海が本州との往来を不便にしていた一方で、陸においてはこの島の地形が島内の往来を阻んだ。四国を横断するように四国山地が走っており、長大トンネルの土木技術が確立するまで鉄道や道路の整備は困難を極めた。 鉄道交通は当初本州の山陽本線に連絡する形で伊予鉄道や讃岐鉄道などが建設され、その後各県ごとに土佐電気鉄道や徳島鉄道などの路線が整備されてゆき、各県の県庁所在地がお互いに鉄道で移動できるようになったのは昭和初期になった頃である。 20世紀に入って鉄道が整備されるにつれ、四国内・本州双方に対する交通至便性から高松市に企業の四国支店等が置かれた。20世紀末頃からは四国内の高速道路網の急速な進展や3本の本州四国連絡橋が架けられたこともあってモータリゼーションが進行し、長距離移動手段の中心がそれまでの鉄道から自家用車や高速バスへ変化した。このことにより京阪神・淡路島に近い鳴門市が再び交通の要衝となりつつある。一方で、フェリーは高速バスに客を取られたために21世紀に入ってからは縮小や廃止が相次いだ。 なお、四国4県の「全自動車に対する軽自動車の保有シェア」(2016年3月末現在、全国平均39.0%)は51.0%と、地方別では唯一半数を超えている。軽自動車は、普通車と比べて安価な料金設定になっており、おおむね普通車よりも燃費も良いため、四国ではマイカー移動が交通手段として定着している。 全国平均と比較した四国全体の傾向として、公共交通機関(鉄道・電車、バス、ハイヤー・タクシー)の割合が極端に低く、相対的に人力系(徒歩、自転車)と自家用車系(自家用自動車、オートバイ)の占める割合が高くなっている。徳島市はその傾向が最も顕著で、高知市は四国の平均値に近似している。松山市は人力系の割合が比較的高く、公共交通機関の割合も平均よりは高いほか、自家用車系に関してはオートバイの割合が突出して高い一方で、自家用車割合の低さがそれを相殺しているため、結果自家用車系の割合が4県中最も低くなっている。特徴的なのが高松市で、自家用車系の割合は四国各地と同様に高いばかりか最高値を示している一方、四国全体の傾向とは逆に公共交通機関の割合も高いばかりかこれも最高値を示し、人力系割合の低さを吸収する結果となっている。また、高松市の公共交通機関の割合は鉄道に大きく偏っており、バスおよびタクシーの割合は最低となっている。 JR四国は、高松と松山・高知・徳島の都市間を結ぶ各線と岡山を結ぶ瀬戸大橋線をメインルートとする。電化区間は予讃線の高松 - 松山 - 伊予市と瀬戸大橋線、土讃線の多度津 - 琴平。複線区間は予讃線の高松 - 多度津と瀬戸大橋線の一部のみである。 日本の主要4島の中で唯一新幹線が走行していない。 国鉄時代、比較的早期に無煙化(蒸気機関車からディーゼル車輌へ置換)し、自動信号化が推進されたが、その後は設備や施設の改善が後回しにされ、国鉄末期まで四国島内の国鉄線に電化区間が存在しなかった。2006年現在でも、香川県と愛媛県を結ぶ予讃線の一部など、積極的に電化・高速化促進した区間を除いて、島内のほとんどのJR線は未だ電化されていない。 また、電化区間の一部のトンネルでは車幅制限のため、本州規格の車両が使えず、本州線との直通運転に不都合が生じていたり、単線区間が多いにもかかわらず、過度の輸送量増加によって生じたダイヤの過密傾向の弊害で、多くの待避線に常に交換や優等待ちの列車を待避させており、これ以上のダイヤの過密化に拍車を掛ける高速化は好ましくないなど、解決しなければならない難問が山積していた。 民営化後、各都市間の路線は順次高速化されたが、山がちな地形による線形の悪さと、単線のために増発ができないことなどから、年々整備の進む高速道路網を利用した高速バスに対抗できなくなりつつある。また、もともと海運が盛んな上に、鉄道の本四連絡が1経路であるのに対し、道路は3経路あり、観光ルートが分散されたこともあり、各交通機関との競争は非常に激しい。 抜本的な高速化として四国新幹線計画があり、2011年以降、基礎調査の結果を受けて、整備計画への格上げを求める誘致活動が活発化している(詳細は四国新幹線のページを参照)。早ければ、37年にリニア中央新幹線の新大阪駅延伸が実現し、三大都市圏が一体化した「スーパーメガリージョン」の形成が見込まれる。四国新幹線整備促進期成会では、これに合わせて2037年の四国新幹線開業を目指している。 香川・愛媛・高知の各県にある私鉄各線は県都の近郊輸送を担っている(徳島県には第三セクターではない純粋の民営鉄道路線は存在しない)。 本州四国連絡橋として、鳴門市〜神戸市、坂出市〜倉敷市、今治市〜尾道市の3本のルートがある。このうち、瀬戸大橋が鉄道(複線直流電化)と高速道路の併用橋であり、大鳴門橋は将来的に併用できる設計になっている。その他は道路専用橋である。また、瀬戸内しまなみ海道(尾道・今治ルート)には、歩行者・自転車・原動機付自転車(125cc以下)の専用道路も併設されている。 当初は、最初に完成し、宇高連絡船(2019年休止)があったことなどから瀬戸大橋が本四間の基幹ルートとして位置付けられていたが、その後は全線完成した神戸鳴門ルートに本州・四国間の流動が移動しつつある。これは、日本の主要な大都市圏のほとんどが四国以東の地域に位置しており、大都市圏の一つである京阪神に神戸淡路鳴門自動車道が最短距離で直結していることが、大きな要因として挙げられる。 なお、上記3ルート以外に本四間の県境断面を持つ道路として、広島・愛媛県境を跨ぐ岡村大橋が存在する。これは広島県の離島架橋事業である安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道)の一部であり、本州へは接続されているものの、四国本土へは接続されていない。ただし、本州と四国地方を接続していることには違いないため、「裏しまなみ海道」や「第4の本四架橋ルート」と冗談交じりに呼ばれることがある。 四国は、国内で高速道路の整備が特に遅れた地方であった。四国で最初に高速道路が計画されたのは徳島自動車道であり、最初の開通は1985年、松山自動車道の三島川之江IC〜土居IC間である(沿道には四国における高速道路発祥の地と書かれた看板がある)。その1986年度末における高速道路整備率は、全国が34%であったのに対し、四国は2%と非常に低い水準であった。 以後、急速に整備が進んだ結果、2000年には四国4県庁所在地が高速道路で結ばれる「エックスハイウェイ」が完成、2002年度末には整備率が66%に達し、遂に全国水準の63%を上回った。現在は松山自動車道の南予方面への延伸、高知自動車道の高知県西部方面への延伸、四国横断自動車道の徳島県南部方面への延伸(鳴門JCT〜阿南IC)、そのほか高速道路空白地帯解消のため阿南安芸自動車道や高知松山自動車道等の建設工事が順次進められており、「四国8の字ネットワーク」を目指している。 高速道路網の整備はモータリゼーションの進行と相まって、それまで沈黙状態であった四国内の相互交流を活発化させる結果となった。1990年時点における高松市と松山市を出発地とする最大流動先はそれぞれ四国外の都市(岡山市、広島市)であったが、1995年以降は四国内の都市(徳島市、高知市)に変わり、同様に徳島市と高知市も全体の流動数そのものが四国内に向けて増加している。 当初は、これら高速道路網充実の副作用としてストロー効果による大阪都市圏への経済流出の可能性が指摘され、実際に大阪圏へ直通する神戸淡路鳴門自動車道が開通した徳島県では、同圏への高速バスの利用が伸び、2008年2月時点で一日300便が運行されるなどしている。しかし、この現象はフェリーと2002年に廃止された徳島飛行場伊丹便利用者が高速バスへ移行した結果であり、大阪圏への流動数全体は横ばいか年々減少し、逆に香川県への流動が年々増加している。これと同じ懸念は高松道板野IC〜高松中央IC開通した当時の香川県でも指摘され、実際に高速バスの神戸・大阪便が需要を高めているが、大阪圏への流動自体は横ばいであり、1990年まで圧倒的多数であった岡山県への流動が激減し、徳島県への流動が激増してそれを上回っている。 同時に発生している現象として、四国全体の人の流れが高松市へ集中し始めており、その中心性を年々高める傾向にある。その理由としてはやはり高速道路網の充実とモータリゼーションの進行が挙げられ、例えば1990年の徳島における最大志向先は京阪神であったものが、1999年調査時には高松へと変化した。 徳島・松山・高松・高知の4県庁所在地を結ぶ国道11号・国道32号・国道33号・国道55号・国道56号などが道路網の中核を成す。また国道28号・国道30号・国道317号が本州四国連絡橋を通じて本州と、国道197号が国道九四フェリーを通じて九州との間を結んでいる。 山地を通る路線には未整備のものが多く、国道193号・国道439号などのように国道とは思えない隘路・悪路を抱えた路線も残存している(しばしば「酷道」などと揶揄される)。山地が多いことや内陸部に人口が少ないことなどもあり、全般に四国の道路整備率は他の地方に比べ低い。 四国に一桁国道は存在せず、最も若い数字を持つ路線は国道11号である。二桁国道は11号と28号の他はすべて30番台と50番台、三桁国道はすべて190番台と300番台、400番台になっている。200番台の国道は1つも存在しない。 昭和40年代の観光宣伝において、四国の主要観光地を効率よく回遊するルート提案として、松山市-高知市-高松市をつなぐルート(国道32号、国道33号)が考えられ、ちょうどアルファベットの「V」字状であるため、V字ルートと呼ばれるようになった。 律令時代には南海道の一角であり、船で移動する地方であった。近代以降も同様の状態が続いたが、本州四国連絡橋の供用により定期旅客航路は激減した。 本四架橋ができるまでは、本州との大量輸送手段は船舶しかなく、また、四国内のJRは単線区間が多く運行本数に限界があることや、新幹線へは岡山駅での乗り換えを強いられることもあり、従来から航空需要は高く、4県の県庁所在地近郊には中型機以上の航空機が離着陸できる空港が整備されている。国内線では、安定的に強い需要がある東京便は全空港から就航しているほか、特に周辺都市から地理的に遠距離である松山や高知では山陽新幹線や高速バスを利用すると所要時間が大幅に伸びることから、三大都市圏や九州といった近距離便にも路線を持っている。一方国際線では、高知と徳島からの定期便は無いが、高松からソウル・上海・台湾、松山から上海・ソウルといったアジア便が就航している。なお、高松空港と徳島飛行場の直線距離は約55km、徳島飛行場と関西国際空港は約65km、高松空港と岡山空港は約62kmと近接している。 愛媛県西南部・高知県西南部は東京式アクセントだが、それ以外は四国の広域において京阪式アクセントや垂井式アクセントが用いられ、香川県を中心に愛媛東部・徳島西部では讃岐式アクセントが用いられている。全体的に関西方言との共通点が多く、瀬戸内に面した地域では語彙・語法面で中国方言との共通点も多い。一方、愛媛県南予地方~高知県西部の渭南地域は関西色も薄く、四国の中でも独特な方言を有する。 西条祭り、金刀比羅例大祭などは神事が主体の祭り、阿波踊り、よさこい祭りなどは踊りが主体の祭りである。四国三大祭が有名であるが、踊りが主体の四国四大祭も知られている。 各県には固有の名産品や郷土料理が多数存在する。県域をまたぐ名産品はうどん、和三盆などがある。また、全国で販売している食品としてはポカリスエット、ポンジュースなどが代表的である。各県の名産品・郷土料理等は各県の項を参照。 四国を代表する観光地の栗林公園(特別名勝)と日本三古湯の道後温泉(道後温泉本館は重要文化財)はミシュランガイドで3つ星に選定されている。 神社・仏閣では江戸時代以前より全国からの参拝者を集める金刀比羅宮(こんぴらさん)や四国八十八箇所霊場があり、地元住民によりお遍路さん(巡礼者)をもてなすお接待文化が根付いている。四国八十八箇所霊場と遍路道については近年、世界遺産としての登録を目指す活動が行われている。 城では現存12天守のうち、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の4つが四国にあり、この他にも日本三大水城の今治城、高松城などがある。 鉄道では四万十川沿いを走る予土線3兄弟や、予讃線の伊予灘ものがたり、伊予鉄道の「坊っちゃん列車」などの観光列車が運行されている。この他自然が豊かな四国には祖谷渓など景勝地も多く存在する(自然景勝地については地理の項目も参照)。 下記記載のうち、運営・所属選手ともプロフェッショナルのチームはサッカーのJリーグ、バスケットボールのBリーグ、野球の四国アイランドリーグplusに所属する各チーム。 四国出身の著名人は以下のリストを参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり、この中では最も小さい。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。面積は18,297.78kmで、世界の島の中では、ブラジルのバナナル島に次ぐ第50位の大きさである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "四国とその付随する島(小豆島、大三島、大島、中島、伯方島、豊島など)を合わせて「四国地方(しこくちほう)」と言う。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「四国本土(しこくほんど)」あるいは「四国島(しこくとう)」と呼ぶこともある。(日本の地理・四国、日本の地域・四国地方も参照)", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "四国には徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの県があり、4県の総人口は約357万人(2023年時点)であり横浜市(約377万人)より少ない。(表右下 四国地方も参照)", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "四国の古代の呼称は、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」(いよのふたなのしま)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "四国地方を構成する4県の中で、徳島県・香川県・愛媛県は島内交流と合わせて、本州四国連絡橋(本四架橋)もあり本州との交流も盛んである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西南部除く四国全域は近畿地方の影響力を文化的に強く受けているが、東部の徳島県は政治・経済においても影響が顕著である。北東部の香川県は文化・経済の両面で岡山県とのつながりも深いが、高松自動車道と神戸淡路鳴門自動車道の開通以降は徳島県同様近畿地方との交流もより活発になっている。西部の愛媛県は広島県や九州の大分県との交流が見られる。一方で高知県は陸路が険しく船での往来が発達した関係上、古くから上方、京都、近世は江戸からの影響も強く、政治・文化的な中央への意識が高いとも言われている。近年は高速道路網の発達により、四国内指向が強まっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "空海が拓いた四国巡礼・八十八箇所はお遍路さんで有名。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本の主要4島の中で、唯一政令指定都市が存在しない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "神々による日本の創造の過程を記した『古事記』の国産み神話では、四国は淡路島に続き、日本列島で二番目に創造された島であるという。古事記には「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」と記されている。また『日本書紀』では「四国」を「伊予二名洲(いよのふたなのしま)」と表記している。よって古代においては、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」、または単に、「伊予島」・「伊予洲」(いよのしま、いよしま)、「二名島」・「二名洲」(ふたなのしま、ふたなしま)」などと呼ばれた(「フタナ」は二並びの意)。", "title": "歴史書における呼称" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近世以降は、五畿七道の南海道のうち、紀伊国と淡路国を除いた阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから、「四国」と呼ばれた。歴史書ではないが、16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年)出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物において、明確に「四国」という名称を見出すことができる。", "title": "歴史書における呼称" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "約1900万年前の日本列島の誕生に伴い、四国の前身が誕生した。瀬戸内海を挟んで、近畿地方・山陽地方・九州に三方を囲まれた位置にある。島の中部には、各県を分断するような形で四国山地や讃岐山脈の山々がそびえており、この地形が近年まで各地域間の交流を困難にしていた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "中央構造線が吉野川北岸から佐田岬半島にかけて東西に貫いている。構造線以北の内帯(西南日本内帯)に当たる地方では、中生層・古生層とこれを貫く火成岩が分布している。構造線以南の外帯(西南日本外帯)に当たる地方では、北側から南側にかけて中生層・古生層が形成された順に配列している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本の島の中では九州に次ぐ第4位、世界の島の中ではブラジルのバナナル島に次ぐ第50位の面積を持つ。最高標高は、石鎚山の天狗岳(愛媛県)の1,982 m。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "地質学的には、四国は北からおもに三波川帯(ほぼ吉野川がある)、秩父帯(四国山地)、四万十層(四万十川)がほぼ東西に分布し、その間を中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線が走っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "徳島県の吉野川流域以北、香川県全域、愛媛県東予地方、中予地方の、瀬戸内海に面した北側は、瀬戸内海式気候に属する温暖少雨な気候であり、台風等の直撃も比較的少ない。そのため、オリーブやミカンの栽培が盛んである。その反面、大規模な河川は太平洋や紀伊水道に流れ込む形となっているため、水資源に恵まれず、過去幾度かの渇水に見舞われてきた。このため、満濃池を初めとするため池が多数造られている。その中でも特に、香川県は古来から水不足に悩まされ続けており、渇水対策として吉野川の水を送水するための香川用水が建設されている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "冬から春にかけて、中国大陸から流入する黄砂がしばしば観測される。冬は小雨や小雪(みぞれ)の降る日もあるが、基本的に晴天が多い。平野部では大雪になることはほとんどないが、山間部では気温が低く冬は積雪も多い。なお、太平洋高気圧に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「凪」や、四国山地越えのフェーン現象に伴う気流の影響で、猛暑日や熱帯夜になる日も少なくない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "徳島県のほとんどの地域や、愛媛県南予地方・高知県全域の太平洋に面した南側は、太平洋側気候に属している。太平洋沖合を流れる黒潮の影響を受けて冬でも温暖で、一部で無霜地帯が存在する。春の訪れが早く本土で最初の桜の開花宣言が高知市または宇和島市となることも少なくない。そのため、特に高知県では促成栽培が盛んであったり、プロ野球チームのキャンプ地になったりと、温暖な気候を生かした産業や行事が発達している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "年間降水量が多いことから林業も盛んであるが、一方で高知県の室戸岬と足摺岬では、台風が来襲しやすいことから「台風銀座」と呼ばれている。このため「室戸台風」などの大型台風が直撃し、洪水などの被害を受けている。なお「室戸台風」では、室戸岬上陸時の中心気圧は911.6hPaであり、日本本土に上陸した台風のなかで観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風だった。これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録(台風の正式な統計は1951年(昭和26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱い)として、いまだに破られていない。また、愛媛県南予地方および高知県幡多地方では、冬は関門海峡からの季節風の影響で曇りや雨、雪の日が他の太平洋側の地域に比べると多くなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "四国は、畿内から南西側に位置しており、海路で移動するために、五畿七道では南紀や淡路島と一緒に南海道に含まれていた。近畿・九州航路の要所であった四国の西北部に位置する伊予国の道後温泉などは、舒明天皇や斉明天皇の入浴記録(日本書紀)があるほか、山部赤人・額田王の来浴記録(万葉集)もあるなど、古くから栄えていたと思われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "平氏が都落ちした際、安徳天皇を擁して屋島を一時的な本拠地としたため、この地で源平両軍が争った。室町時代は細川氏が讃岐・阿波・土佐の三国を、河野氏が伊予をそれぞれ守護した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "戦国時代の四国の大名としては、三好を拠点とし阿波国から山城国にわたる8国を支配圏に収めた三好長慶、「土佐の小京都」とも呼ばれている中村を拠点とした土佐一条氏、伊予国道後の湯築城を本拠とした水軍を有する河野氏、讃岐の香川氏、土佐国の四国の覇者である長宗我部元親などが高名であるが、長い騒乱の末に収束に向かい、一時は長宗我部氏が四国を統一したものの、やがて豊臣秀吉により平定された。土佐の大名であった長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍につき改易された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "江戸時代になると、それまで四国各地を治めていた戦国大名は四国から駆逐され、幕府徳川氏の信任厚い諸将がこの地に封じられることになった。初め、讃岐に生駒氏、阿波に蜂須賀氏、土佐を山内氏と一国一円支配を許したが、のちに生駒氏が騒動を起こして改易されると讃岐は二分割統治された。伊予は初めから小大名が配置され、一国統治はされなかった。なお、瀬戸内海の小豆島と塩飽諸島は天領として倉敷代官所の支配下に置かれた。 四国の代表的な藩には、阿波国と淡路国を稲田氏の知行地とする蜂須賀氏の徳島藩、水戸徳川家の分家の高松藩、山内氏が治める土佐藩、加藤氏や久松松平家(親藩)などが領した伊予松山藩、仙台伊達氏の分家が治める宇和島藩などであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "幕末維新において土佐藩が終始政局に関わり続け、土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介で薩長同盟がなった。戊辰戦争においても土佐藩は官軍として各地を転戦し功を挙げた。明治期の自由民権運動も元土佐藩士板垣退助らが中心として起こった。それ以前に金陵会議(四国会議)が土佐藩から提唱され、四国をまとめ上げる力となったが、わずか数年で解散を命ぜられた。愛媛県から正岡子規なる文豪が輩出され、明治文化に貢献した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "歴史的には全県が畿内との繋がりの強い地域であったが、陸路交流の活発化と海路交流の衰退により徳島県は近畿地方と、香川県は岡山県と、愛媛県は広島県との経済活動も多くなっている。特に徳島県沿岸部は、日常的に京阪神との経済交流が盛んであり、影響が大きい。太平洋に面し三方を山に囲まれる高知県は特に対外的経済交流が活発な地域はなかった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "近年は高速道路網の整備により島内での交流が高知県を含め各県大幅に増加し、2010年現在では本州ではなく島内での経済的交流が最も盛んとなっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年度)の四国四県の域内総生産は、名目で14兆5820億5000万円であり、全国の総生産(日本のGDP)に占める経済規模は2.60%だった。これを他の都道府県と比べると、茨城県(13.8兆円)より大きく、静岡県(17.3兆円)より小さい。また、1人当たり県民所得は四県全てにおいて日本の1人当たり平均所得を下回っていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "四国瀬戸内海側は太平洋ベルト地帯に位置しており、坂出市・丸亀市・四国中央市・新居浜市・西条市・今治市および松山市などを中心に、瀬戸内工業地域が形成されている。徳島市と西条市は、新産業都市建設促進法に基づいて指定される新産業都市(工業開発の拠点地域)であった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "※順位・人口・割合は令和2(2020)年国勢調査による。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2010年国勢調査時の四国における自治体は95市町村であるが、そのうち2005年国勢調査と比べ人口が増加したのは8市町のみでそれ以外の87市町村は全て減少している。そのため四国全体はもとより、県単位でも4県全てで減少となっている。県別にみると最も減少率が高いのは高知県の▽4.00%で、以下、徳島県▽3.02%、愛媛県▽2.47%、香川県▽1.64%と続く。逆に、増加した自治体は香川県の3市町、徳島県の3町、愛媛県および高知県のそれぞれ1市である。県庁所在地別では増加したのが高松市と松山市のみで北四国と南四国で明暗が分かれる形になったが、徳島県の増加3町はいずれも徳島市に隣接したベッドタウンである。県庁所在地以外では徳島県の上記3町のほか、香川県第二の都市である丸亀市とそこに隣接する綾歌郡宇多津町、高知県香南市で人口が増加した。愛媛県では県庁所在地である松山市以外で人口が増加した市町村は存在しなかった。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最も減少率が高い高知県土佐郡大川村は唯一の▽20%越えとなっているほか、上位6位までが全て高知県の自治体となっている。その他の減少率が高い自治体には、概ね南四国の太平洋沿岸や中央部の四国山地に位置する自治体が多い。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所が発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』で、2045年の四国4県の総人口は282万3千人で、15年に比べて102万3千人(26%)減少することがわかった。ただ40年時点では前回推計を上回り300万人台を維持するなど減少ペースに緩和傾向も見られる。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "同研究所は人口推計を5年ごとにまとめて公表している。全国の総人口に占める四国4県の比率は15年の3.0%から45年には2.7%に低下する。4県では高知県が鳥取県に次いで全国で下から2番目(15年時点は同3番目)になる。近年の出生率の改善傾向を背景に、前回調査時より人口減少ペースが鈍化する傾向が見られた。四国全体では40年時点の人口は前回調査の295万5千人よりも5万1千人多かった。香川が4万2千人、愛媛が6千人、徳島が3千人それぞれ上回った。一方、高知は71人とわずかながら前回を下回った。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "地域による格差も目立つ。45年と15年の人口を比べると、高松市が1割減にとどまるほか、瀬戸大橋周辺の自治体の減少率は小さい。徳島市のベッドタウンである徳島県北島町は四国で唯一増加する見通し。一方、中山間地では高知県大豊町が7割減、愛媛県久万高原町が6割強の減少を見込む。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "四国には突出して大きな都市がなく、地形的制約から各県に独立した都市圏が存在する。また、古くから海上交通が盛んであったため、各地ともに対岸との交流も盛んである。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "四国地方を便宜的に2つの地域に分ける場合がある。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "どの出発地からも対四国内への流動が最も多く、全体の流動数に占める割合は最低でも50%、最高で95%を占めている。四国内の県庁所在地別では、特に高松市が位置する香川東部が目的地として全てで首位となっているほか、四国外との流動では、徳島が神戸、香川東部が岡山県南、松山および高知が東京23区が最も多くなっている。全ての出発地別からは5位以内に香川東部・高知中央、6位以内に香川西部、8位以内に新居浜、11位以内に松山、12位以内に東京23区・大阪・岡山県南、14位以内に徳島を四国内全ての出発地が目的地としている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "かつては、「徳島は近畿(大阪・神戸)を向き、高松は岡山を向き、松山は広島を向き、そして高知は太平洋(または東京)を向いている」と言われ、「四国は一つ一つ」などと風刺されることもあった。しかし、20世紀末から高速道路網の整備によって四国内の相互交流が深まり、21世紀初頭にはそれまで盛んだった本州の都市を凌駕するに至った。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)時点での状況は徳島、高松、松山とも四国外との交流人口の方が多く、高知のみ四国内との交流の方が多かったが、流動数自体が非常に少なかった。四国外との繋がりでは徳島が京阪神、香川東部が岡山県南、松山が広島・大阪、八幡浜が大分といった地域と強く、特に香川東部と岡山県南との流動数は他に突出して多かった。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)と2010年(平成22年)の変化では、四国全域で四国内の相互交流が非常に活発になったこと、目的地としての流動が香川東部に集中することにより同地域が交流の中心としての性格を強めたことが挙げられる。また大きな変化として香川東部における徳島と岡山県南の関係性が逆転し、さらにその数も1990年の岡山県南よりも2010年の徳島の方が多く、圧倒的な差がついている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この他にも、高速道路の最大志向先(最も多くの車両が目指す目的地)は四国各県とも高松であり、四国地方では高松を中心とした相互交流が根付いている。このように地域ブロックの代表的な都市に人の流れが集中し、中心性を高める傾向は年々顕著になっている(詳細は#高速道路を参照)。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "四国島内の交流に関して、高速道路のエックスハイウェイ化以後は四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)の発足などによって、より一体感を強める傾向にあり、各県それぞれの歴史や役割を生かした連携を深める段階に入っている。今後、四国4県が一つの地域として一体となった文化・経済活動や観光誘致が進んでいくと予想されている(「青い国四国」キャンペーンなどの実績もある)。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "都市雇用圏に拠る「都市圏」は以下の通り。※2010年(平成22年)国勢調査基準", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "国勢調査において総務省統計局の定義する都市圏としては松山都市圏が四国で唯一掲載されている。その他、東瀬戸経済圏(瀬戸内をはさむ地域を経済的に一体としてみる統計上の呼称)などがある。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)調査から2005年(平成17年)調査では各都市圏の枠組みが変化する事例が見られた。具体的には、平成の大合併によって郊外自治体が中心市に編入されたり、丸亀都市圏のようにモータリゼーションの浸透による他都市の郊外化で都市圏自体が消滅したり、逆に西条都市圏のように既存の都市圏から離脱して新たな都市圏を形成する自治体も見られた。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "四国には飛び抜けて大きな都市はないが、4つの県庁所在地に人口がある程度集中し、各県におけるプライメイトシティとなっている。 その他は中規模な都市であり、人口10万人を超える市でさえ長らく新居浜市と今治市の2都市しかなかった。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "平成の大合併の結果、松山市が50万人、高松市が40万人の大台に乗り、新たに西条市と丸亀市が10万人を超え、今治市も17万人に増大した。 しかし、人口動態は松山市と高松市と丸亀市が横ばいであるものの、その他の都市は、大きく減少してしまっている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "上記以外の県庁所在地", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "各県の表示順は以下のようにさまざまな表示順が存在する。(当事典では地方公共団体コードの表示順を使用)", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "高松市と松山市の間では以前から「四国の中心都市」という座を巡って論争が繰り返されているが、特に近年は道州制に伴う州都(道都。以下では「道都」と表記する)の誘致に関連した論争が激化している。以下の都市がそれぞれ中心とされ、競合している。(→四国の道州制論議、日本の道州制論議)", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "本州四国連絡橋公団の交通量のページ", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "四国は、古くから、畿内から地理的には比較的近距離に位置しながら、船での移動を余儀なくされていた。かつては大阪府の深日から船で淡路島の洲本市へ渡り、淡路鉄道などを利用して洲本から福良まで淡路島内を移動、福良から船やフェリーで、鳴門へ渡るというのが最も一般的なルートであった。これに関連して、淡路島の名の由来の一説に、阿波へ行くみちの意味で「阿波路島」だとする説もある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "島民が本州と往来する場合は、瀬戸内海に架橋されるまで、船舶を用いるのが常であった(昭和に入ってからは航空路も)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "海が本州との往来を不便にしていた一方で、陸においてはこの島の地形が島内の往来を阻んだ。四国を横断するように四国山地が走っており、長大トンネルの土木技術が確立するまで鉄道や道路の整備は困難を極めた。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "鉄道交通は当初本州の山陽本線に連絡する形で伊予鉄道や讃岐鉄道などが建設され、その後各県ごとに土佐電気鉄道や徳島鉄道などの路線が整備されてゆき、各県の県庁所在地がお互いに鉄道で移動できるようになったのは昭和初期になった頃である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "20世紀に入って鉄道が整備されるにつれ、四国内・本州双方に対する交通至便性から高松市に企業の四国支店等が置かれた。20世紀末頃からは四国内の高速道路網の急速な進展や3本の本州四国連絡橋が架けられたこともあってモータリゼーションが進行し、長距離移動手段の中心がそれまでの鉄道から自家用車や高速バスへ変化した。このことにより京阪神・淡路島に近い鳴門市が再び交通の要衝となりつつある。一方で、フェリーは高速バスに客を取られたために21世紀に入ってからは縮小や廃止が相次いだ。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "なお、四国4県の「全自動車に対する軽自動車の保有シェア」(2016年3月末現在、全国平均39.0%)は51.0%と、地方別では唯一半数を超えている。軽自動車は、普通車と比べて安価な料金設定になっており、おおむね普通車よりも燃費も良いため、四国ではマイカー移動が交通手段として定着している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "全国平均と比較した四国全体の傾向として、公共交通機関(鉄道・電車、バス、ハイヤー・タクシー)の割合が極端に低く、相対的に人力系(徒歩、自転車)と自家用車系(自家用自動車、オートバイ)の占める割合が高くなっている。徳島市はその傾向が最も顕著で、高知市は四国の平均値に近似している。松山市は人力系の割合が比較的高く、公共交通機関の割合も平均よりは高いほか、自家用車系に関してはオートバイの割合が突出して高い一方で、自家用車割合の低さがそれを相殺しているため、結果自家用車系の割合が4県中最も低くなっている。特徴的なのが高松市で、自家用車系の割合は四国各地と同様に高いばかりか最高値を示している一方、四国全体の傾向とは逆に公共交通機関の割合も高いばかりかこれも最高値を示し、人力系割合の低さを吸収する結果となっている。また、高松市の公共交通機関の割合は鉄道に大きく偏っており、バスおよびタクシーの割合は最低となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "JR四国は、高松と松山・高知・徳島の都市間を結ぶ各線と岡山を結ぶ瀬戸大橋線をメインルートとする。電化区間は予讃線の高松 - 松山 - 伊予市と瀬戸大橋線、土讃線の多度津 - 琴平。複線区間は予讃線の高松 - 多度津と瀬戸大橋線の一部のみである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本の主要4島の中で唯一新幹線が走行していない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "国鉄時代、比較的早期に無煙化(蒸気機関車からディーゼル車輌へ置換)し、自動信号化が推進されたが、その後は設備や施設の改善が後回しにされ、国鉄末期まで四国島内の国鉄線に電化区間が存在しなかった。2006年現在でも、香川県と愛媛県を結ぶ予讃線の一部など、積極的に電化・高速化促進した区間を除いて、島内のほとんどのJR線は未だ電化されていない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "また、電化区間の一部のトンネルでは車幅制限のため、本州規格の車両が使えず、本州線との直通運転に不都合が生じていたり、単線区間が多いにもかかわらず、過度の輸送量増加によって生じたダイヤの過密傾向の弊害で、多くの待避線に常に交換や優等待ちの列車を待避させており、これ以上のダイヤの過密化に拍車を掛ける高速化は好ましくないなど、解決しなければならない難問が山積していた。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "民営化後、各都市間の路線は順次高速化されたが、山がちな地形による線形の悪さと、単線のために増発ができないことなどから、年々整備の進む高速道路網を利用した高速バスに対抗できなくなりつつある。また、もともと海運が盛んな上に、鉄道の本四連絡が1経路であるのに対し、道路は3経路あり、観光ルートが分散されたこともあり、各交通機関との競争は非常に激しい。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "抜本的な高速化として四国新幹線計画があり、2011年以降、基礎調査の結果を受けて、整備計画への格上げを求める誘致活動が活発化している(詳細は四国新幹線のページを参照)。早ければ、37年にリニア中央新幹線の新大阪駅延伸が実現し、三大都市圏が一体化した「スーパーメガリージョン」の形成が見込まれる。四国新幹線整備促進期成会では、これに合わせて2037年の四国新幹線開業を目指している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "香川・愛媛・高知の各県にある私鉄各線は県都の近郊輸送を担っている(徳島県には第三セクターではない純粋の民営鉄道路線は存在しない)。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "本州四国連絡橋として、鳴門市〜神戸市、坂出市〜倉敷市、今治市〜尾道市の3本のルートがある。このうち、瀬戸大橋が鉄道(複線直流電化)と高速道路の併用橋であり、大鳴門橋は将来的に併用できる設計になっている。その他は道路専用橋である。また、瀬戸内しまなみ海道(尾道・今治ルート)には、歩行者・自転車・原動機付自転車(125cc以下)の専用道路も併設されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "当初は、最初に完成し、宇高連絡船(2019年休止)があったことなどから瀬戸大橋が本四間の基幹ルートとして位置付けられていたが、その後は全線完成した神戸鳴門ルートに本州・四国間の流動が移動しつつある。これは、日本の主要な大都市圏のほとんどが四国以東の地域に位置しており、大都市圏の一つである京阪神に神戸淡路鳴門自動車道が最短距離で直結していることが、大きな要因として挙げられる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "なお、上記3ルート以外に本四間の県境断面を持つ道路として、広島・愛媛県境を跨ぐ岡村大橋が存在する。これは広島県の離島架橋事業である安芸灘諸島連絡架橋(安芸灘とびしま海道)の一部であり、本州へは接続されているものの、四国本土へは接続されていない。ただし、本州と四国地方を接続していることには違いないため、「裏しまなみ海道」や「第4の本四架橋ルート」と冗談交じりに呼ばれることがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "四国は、国内で高速道路の整備が特に遅れた地方であった。四国で最初に高速道路が計画されたのは徳島自動車道であり、最初の開通は1985年、松山自動車道の三島川之江IC〜土居IC間である(沿道には四国における高速道路発祥の地と書かれた看板がある)。その1986年度末における高速道路整備率は、全国が34%であったのに対し、四国は2%と非常に低い水準であった。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "以後、急速に整備が進んだ結果、2000年には四国4県庁所在地が高速道路で結ばれる「エックスハイウェイ」が完成、2002年度末には整備率が66%に達し、遂に全国水準の63%を上回った。現在は松山自動車道の南予方面への延伸、高知自動車道の高知県西部方面への延伸、四国横断自動車道の徳島県南部方面への延伸(鳴門JCT〜阿南IC)、そのほか高速道路空白地帯解消のため阿南安芸自動車道や高知松山自動車道等の建設工事が順次進められており、「四国8の字ネットワーク」を目指している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "高速道路網の整備はモータリゼーションの進行と相まって、それまで沈黙状態であった四国内の相互交流を活発化させる結果となった。1990年時点における高松市と松山市を出発地とする最大流動先はそれぞれ四国外の都市(岡山市、広島市)であったが、1995年以降は四国内の都市(徳島市、高知市)に変わり、同様に徳島市と高知市も全体の流動数そのものが四国内に向けて増加している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "当初は、これら高速道路網充実の副作用としてストロー効果による大阪都市圏への経済流出の可能性が指摘され、実際に大阪圏へ直通する神戸淡路鳴門自動車道が開通した徳島県では、同圏への高速バスの利用が伸び、2008年2月時点で一日300便が運行されるなどしている。しかし、この現象はフェリーと2002年に廃止された徳島飛行場伊丹便利用者が高速バスへ移行した結果であり、大阪圏への流動数全体は横ばいか年々減少し、逆に香川県への流動が年々増加している。これと同じ懸念は高松道板野IC〜高松中央IC開通した当時の香川県でも指摘され、実際に高速バスの神戸・大阪便が需要を高めているが、大阪圏への流動自体は横ばいであり、1990年まで圧倒的多数であった岡山県への流動が激減し、徳島県への流動が激増してそれを上回っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "同時に発生している現象として、四国全体の人の流れが高松市へ集中し始めており、その中心性を年々高める傾向にある。その理由としてはやはり高速道路網の充実とモータリゼーションの進行が挙げられ、例えば1990年の徳島における最大志向先は京阪神であったものが、1999年調査時には高松へと変化した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "徳島・松山・高松・高知の4県庁所在地を結ぶ国道11号・国道32号・国道33号・国道55号・国道56号などが道路網の中核を成す。また国道28号・国道30号・国道317号が本州四国連絡橋を通じて本州と、国道197号が国道九四フェリーを通じて九州との間を結んでいる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "山地を通る路線には未整備のものが多く、国道193号・国道439号などのように国道とは思えない隘路・悪路を抱えた路線も残存している(しばしば「酷道」などと揶揄される)。山地が多いことや内陸部に人口が少ないことなどもあり、全般に四国の道路整備率は他の地方に比べ低い。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "四国に一桁国道は存在せず、最も若い数字を持つ路線は国道11号である。二桁国道は11号と28号の他はすべて30番台と50番台、三桁国道はすべて190番台と300番台、400番台になっている。200番台の国道は1つも存在しない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "昭和40年代の観光宣伝において、四国の主要観光地を効率よく回遊するルート提案として、松山市-高知市-高松市をつなぐルート(国道32号、国道33号)が考えられ、ちょうどアルファベットの「V」字状であるため、V字ルートと呼ばれるようになった。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "律令時代には南海道の一角であり、船で移動する地方であった。近代以降も同様の状態が続いたが、本州四国連絡橋の供用により定期旅客航路は激減した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "本四架橋ができるまでは、本州との大量輸送手段は船舶しかなく、また、四国内のJRは単線区間が多く運行本数に限界があることや、新幹線へは岡山駅での乗り換えを強いられることもあり、従来から航空需要は高く、4県の県庁所在地近郊には中型機以上の航空機が離着陸できる空港が整備されている。国内線では、安定的に強い需要がある東京便は全空港から就航しているほか、特に周辺都市から地理的に遠距離である松山や高知では山陽新幹線や高速バスを利用すると所要時間が大幅に伸びることから、三大都市圏や九州といった近距離便にも路線を持っている。一方国際線では、高知と徳島からの定期便は無いが、高松からソウル・上海・台湾、松山から上海・ソウルといったアジア便が就航している。なお、高松空港と徳島飛行場の直線距離は約55km、徳島飛行場と関西国際空港は約65km、高松空港と岡山空港は約62kmと近接している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "愛媛県西南部・高知県西南部は東京式アクセントだが、それ以外は四国の広域において京阪式アクセントや垂井式アクセントが用いられ、香川県を中心に愛媛東部・徳島西部では讃岐式アクセントが用いられている。全体的に関西方言との共通点が多く、瀬戸内に面した地域では語彙・語法面で中国方言との共通点も多い。一方、愛媛県南予地方~高知県西部の渭南地域は関西色も薄く、四国の中でも独特な方言を有する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "西条祭り、金刀比羅例大祭などは神事が主体の祭り、阿波踊り、よさこい祭りなどは踊りが主体の祭りである。四国三大祭が有名であるが、踊りが主体の四国四大祭も知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "各県には固有の名産品や郷土料理が多数存在する。県域をまたぐ名産品はうどん、和三盆などがある。また、全国で販売している食品としてはポカリスエット、ポンジュースなどが代表的である。各県の名産品・郷土料理等は各県の項を参照。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "四国を代表する観光地の栗林公園(特別名勝)と日本三古湯の道後温泉(道後温泉本館は重要文化財)はミシュランガイドで3つ星に選定されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "神社・仏閣では江戸時代以前より全国からの参拝者を集める金刀比羅宮(こんぴらさん)や四国八十八箇所霊場があり、地元住民によりお遍路さん(巡礼者)をもてなすお接待文化が根付いている。四国八十八箇所霊場と遍路道については近年、世界遺産としての登録を目指す活動が行われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "城では現存12天守のうち、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の4つが四国にあり、この他にも日本三大水城の今治城、高松城などがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "鉄道では四万十川沿いを走る予土線3兄弟や、予讃線の伊予灘ものがたり、伊予鉄道の「坊っちゃん列車」などの観光列車が運行されている。この他自然が豊かな四国には祖谷渓など景勝地も多く存在する(自然景勝地については地理の項目も参照)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "下記記載のうち、運営・所属選手ともプロフェッショナルのチームはサッカーのJリーグ、バスケットボールのBリーグ、野球の四国アイランドリーグplusに所属する各チーム。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "四国出身の著名人は以下のリストを参照。", "title": "出身者" } ]
四国(しこく)は、日本列島を構成する島の一つである。 北海道・本州・九州とともに主要4島の一つでもあり、この中では最も小さい。最高標高は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の両白山地三ノ峰 (2128m) 以西の西日本では最も高い。面積は18,297.78km2で、世界の島の中では、ブラジルのバナナル島に次ぐ第50位の大きさである。 四国とその付随する島(小豆島、大三島、大島、中島、伯方島、豊島など)を合わせて「四国地方(しこくちほう)」と言う。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「四国本土(しこくほんど)」あるいは「四国島(しこくとう)」と呼ぶこともある。(日本の地理・四国、日本の地域・四国地方も参照) 四国には徳島県、香川県、愛媛県、高知県の4つの県があり、4県の総人口は約357万人(2023年時点)であり横浜市(約377万人)より少ない。 四国の古代の呼称は、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」(いよのふたなのしま)である。
{{Infobox 島 | 島名 = 四国 | 画像 = [[ファイル:Japan Shikoku Region.png|280px]] | 画像説明 = 四国及びその周辺([[瀬戸内海]]) | 座標 = | 面積 = 18,297.78<ref name="island2016">{{Cite web|和書 |date=2016-10-01 |url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201610/f3_shima.pdf |title=平成28年全国都道府県市区町村別面積調 島面積 |format=PDF |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2017-02-27}}</ref> | 周囲 = 2,091<ref name="toukei2014">『日本統計年鑑 平成26年』(2013年)p.17 - [[1986年]]([[昭和]]61年)、[[海上保安庁]]による計測。</ref> | 標高 = 1,982 | 最高峰 = [[石鎚山]]([[愛媛県]][[西条市]]) | 最大都市 = [[松山市]] | 諸島 = [[日本列島]] | 海域 = [[太平洋]] | 国 = {{JPN}}<br> {{flagcountry|徳島県}}<br> {{flagcountry|香川県}}<br> {{flagcountry|愛媛県}}<br> {{flagcountry|高知県}} |人口=約357万人(2023年)}} {{Infobox |bodyclass = bordered |abovestyle = background-color:#90c;text-align:center |above = '''四国地方のデータ''' |headerstyle = background-color:#c9f |header1 = 4県の合計 |label2 = 国 |data2 = {{JPN}} |label3 = 面積 |data3 = '''18,803.41'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref>{{Cite web|和書 |date=2015-10-01 |url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201510/ichiran.pdf |title=平成27年全国都道府県市区町村別面積調 都道府県別面積 |format=PDF |publisher=[[国土地理院]] |page=5 |accessdate=2016-02-29}}</ref><br>(2015年10月1日) |label4 = [[推計人口]] |data4 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/徳島県|徳島県}} + {{自治体人口/香川県|香川県}} + {{自治体人口/愛媛県|愛媛県}} + {{自治体人口/高知県|高知県}} }}}}'''人<br>({{自治体人口/徳島県|date}}) |label5 = [[人口密度]] |data5 = '''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/徳島県|徳島県}} + {{自治体人口/香川県|香川県}} + {{自治体人口/愛媛県|愛媛県}} + {{自治体人口/高知県|高知県}}) / 18807.10 round 1}}}}'''人/km<sup>2</sup><br>({{自治体人口/徳島県|date}}) |header6 = 位置 |data7 = [[ファイル:Japan Shikoku Region large.png|center|280px|四国の位置]] }} [[ファイル:Sicocu-miti.png|サムネイル|450px|四国内の高速道路網(緑線)および本四架橋を含む県境をまたぐ大規模架橋(青線)。赤星および赤丸は人口上位10都市]] '''四国'''(しこく)は、[[日本列島]]を構成する[[島]]の一つである<ref name="islands">'''[[島国]]''' ('''[[領土]]'''がすべて'''[[島]]'''から成る国)である'''[[日本]]'''を構成する'''6,852'''の'''[[島]]'''に対する『'''[[国土交通省]]'''』による区分け ⇒ '''6,852島'''('''[[本土]]5島'''・'''[[離島]]6,847島''')。<出典>『'''国土交通省'''』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識)[http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/ritoutoha.html] 2009年11月27日閲覧。 ただし、'''[[島]]'''について地理学上はこのような分類・区分けはない。</ref>。 [[北海道]]・[[本州]]・[[九州]]とともに主要4島の一つでもあり<ref>【参考】 [[島国一覧]]('''[[領土]]'''がすべて'''[[島]]'''で構成される国)</ref>、この中では最も小さい<ref name="japan-islands">{{PDFlink|[http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/201310/shima.pdf '''平成25年10月1日時点の島面積より''']}} [[国土地理院]](注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「[[沖縄本島]]」の正式名称)</ref><ref name="10islands">【参考】 '''日本の[[島]]の面積順に上位10島''' ⇒ [[本州]]、[[北海道]]、[[九州]]、'''四国'''、[[択捉島]]、[[国後島]]、[[沖縄本島]]、[[佐渡島]]、[[奄美大島]]、[[対馬]]。 [出典] [[国立天文台]] (編)'''[[理科年表]]''' 平成19年版 P565、ISBN 4621077635。</ref>。最高[[標高]]は石鎚山の1,982mで、福井・石川・岐阜県境の[[両白山地]][[三ノ峰 (両白山地)|三ノ峰]] (2128m) 以西の西日本では最も高い。[[面積]]は18,297.78km<sup>2</sup>で{{R|island2016}}、[[世界]]の[[島]]の中では、[[ブラジル]]の[[バナナル島]]に次ぐ第50位の大きさである<ref name="world-islands">世界の'''[[島]]'''の面積順位より抜粋、出典 '''[[:en:List of islands by area|List of islands by area]]'''('''[[島]]''':[[オーストラリア大陸]]の面積未満で、四方を'''水域'''に囲まれる陸地) :第1位 [[グリーンランド]] ------------------------- :第6位 [[スマトラ島]]([[インドネシア共和国]]) :第7位 '''[[本州]]''' :第8位 [[ビクトリア島]]([[カナダ]])'''*''' 人口1,707人(2001年) :第9位 [[グレートブリテン島]] ([[イギリス]]([[イングランド]]・[[スコットランド]]・[[ウェールズ]])) ------------------------- :第20位 [[アイルランド島]]([[アイルランド共和国]]および[[イギリス]]([[北アイルランド]])) :第21位 '''[[北海道]]''' :第27位 [[デヴォン島]]([[カナダ]])'''*''' 世界最大の[[無人島]] ------------------------- :第36位 [[スピッツベルゲン島]] ([[ノルウェー]]) :第37位 '''[[九州]]''' ------------------------- :第49位 [[バナナル島]]([[ブラジル]])'''*''' 世界最大の川の中の[[島]] :第50位 '''四国'''</ref>。 四国とその付随する島([[小豆島]]、[[大三島]]、[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]、[[中島 (愛媛県)|中島]]、[[伯方島]]、[[豊島 (香川県)|豊島]]など)を合わせて「'''四国地方'''(しこくちほう)」と言う<ref>【参考】 国土地理院 '''[https://www.gsi.go.jp/sikoku/menseki.html 四国地方の主な島の面積]'''。なお、四国4県を四国地方とする見解もある。『日本地名大百科』小学館 1996年 p.554 ISBN 4-09-523101-7</ref>。これら付随する島を含めないことを強調したい場合、「'''四国本土'''(しこくほんど)」あるいは「'''四国島'''(しこくとう)」と呼ぶこともある。<br>''([[日本の地理#四国|日本の地理・四国]]、[[日本の地域]]・四国地方も参照)'' 四国には[[徳島県]]、[[香川県]]、[[愛媛県]]、[[高知県]]の4つの[[県]]があり、4県の総人口は約357万人(2023年時点)であり[[横浜市]](約377万人)より少ない<ref group="注">【参考】 四国4県の総人口は、おおむね、都道府県人口順位第10位[[静岡県]]の人口約358万人に相当する([[都道府県の人口一覧#外部リンク]])。</ref>。(表右下 四国地方も参照) 四国の古代の呼称は、「'''伊予之二名島'''」・「'''伊予二名洲'''」(いよのふたなのしま)である。 == 概要 == 四国地方を構成する4県の中で、徳島県・香川県・愛媛県は島内交流と合わせて、[[本州四国連絡橋]](本四架橋)もあり[[本州]]との交流も盛んである。 西南部除く四国全域は[[近畿地方]]の影響力を文化的に強く受けているが、東部の徳島県は[[政治]]・[[経済]]においても影響が顕著である。北東部の香川県は文化・経済の両面で岡山県とのつながりも深いが、[[高松自動車道]]と[[神戸淡路鳴門自動車道]]の開通以降は徳島県同様近畿地方との交流もより活発になっている。西部の愛媛県は広島県や[[九州]]の大分県との交流が見られる。{{要出典範囲|一方で高知県は陸路が険しく船での往来が発達した関係上、古くから上方、京都、近世は江戸からの影響も強く、政治・文化的な中央への意識が高いとも言われている。近年は高速道路網の発達により、四国内指向が強まっている|date=2018年4月}}。 [[空海]]が拓いた四国[[巡礼]]・[[四国八十八箇所|八十八箇所]]は[[お遍路さん]]で有名。 日本の主要4島の中で、唯一[[政令指定都市]]が存在しない。 == 歴史書における呼称 == {{main|国産み}} 神々による日本の創造の過程を記した『[[古事記]]』の[[国産み]][[神話]]では、四国は[[淡路島]]に続き、[[日本列島]]で二番目に創造された島であるという<ref name="ito10">伊東ひとみ『地名の謎を解く』新潮社、2017年、10頁</ref>。古事記には「'''伊予之二名島'''(いよのふたなのしま)」と記されている<ref name="ito10" />。また『[[日本書紀]]』では「四国」を「'''伊予二名洲'''(いよのふたなのしま)」と表記している。よって[[古代]]においては、「伊予之二名島」・「伊予二名洲」、または単に、「伊予島」・「伊予洲」(いよのしま、いよしま)、「二名島」・「二名洲」(ふたなのしま、ふたなしま)」などと呼ばれた(「フタナ」は二並びの意)。 [[近世]]以降は、[[五畿七道]]の[[南海道]]のうち、[[紀伊国]]と[[淡路国]]を除いた[[阿波国]]・[[讃岐国]]・[[伊予国]]・[[土佐国]]の'''4つの[[令制国]]'''が存在したことから、「四国」と呼ばれた。歴史書ではないが、[[16世紀]]の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を描いた[[軍記物語]]として知られる『[[陰徳太平記]]』([[享保]]2年([[1717年]])出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような[[近世]]の書物において、明確に「四国」という名称を見出すことができる。 == 地理 == [[ファイル:Chugoku-Region-Shikoku-Japan-ISS-Space.png|thumb|250px|[[国際宇宙ステーション]]から見た[[中国地方]]と四国]] 約1900万年前の日本列島の誕生に伴い、四国の前身が誕生した。[[瀬戸内海]]を挟んで、近畿地方・[[山陽地方]]・九州に三方を囲まれた位置にある。島の中部には、各県を分断するような形で[[四国山地]]や[[讃岐山脈]]の山々がそびえており、この地形が近年まで各地域間の交流を困難にしていた。 [[中央構造線]]が[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]北岸から[[佐田岬半島]]にかけて東西に貫いている。構造線以北の内帯(西南日本内帯)に当たる地方では、[[中生層]]・[[古生層]]とこれを貫く[[火成岩]]が分布している。構造線以南の外帯(西南日本外帯)に当たる地方では、北側から南側にかけて中生層・古生層が形成された順に配列している。 [[日本]]の[[島]]の中では[[九州]]に次ぐ第4位{{R|japan-islands}}、世界の島の中では[[ブラジル]]の[[バナナル島]]に次ぐ第50位の面積を持つ{{R|world-islands}}。最高標高は、[[石鎚山]]の天狗岳(愛媛県)の1,982 m。 {{See also|日本列島#成り立ち|日本の地理#四国}} === 広袤(こうぼう) === {{Col-begin}} {{Col-break}} {{座標一覧|節=広袤(こうぼう)}} 四国本土の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは254.04[[キロメートル|km]]、南北の長さは186.21kmである。 {{Col-end}} {|border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="0" style="font-size:small;text-align:center" |- | ||北端<br>{{ウィキ座標度分秒|34|24|1|N|134|8|11|E|type:landmark_region:JP|name=四国最北端}}<br>↑|| |- |西端<br>{{ウィキ座標度分秒|33|20|38|N|132|0|52|E|type:landmark_region:JP|name=四国最西端}}←||中心点<br>{{ウィキ座標度分秒|33|33|39|N|133|22|56.5|E|type:landmark_region:JP|name=四国中心点}}||東端<br>→{{ウィキ座標度分秒|33|50|2|N|134|45|1|E|type:landmark_region:JP|name=四国最東端}} |- | ||↓<br>南端<br>{{ウィキ座標度分秒|32|43|17|N|133|0|26|E|type:landmark_region:JP|name=四国最南端}}|| |} === 地形 === [[ファイル:Geofeatures map of Shikoku Japan ja.svg|サムネイル|300px|四国の主要地形]] [[ファイル:20050825ishizuchi.JPG|サムネイル|300px|西日本最高峰[[石鎚山]](四国山地)]] [[ファイル:Tosashimizu Ashizuri Cape 1.jpg|サムネイル|300px|四国最南端[[足摺岬]]]] [[ファイル:Naruto Whirlpools taken 4-21-2008.jpg|300px|サムネイル|[[鳴門の渦潮]]]] [[ファイル:Shimanto River And Iwama Bridge 1.JPG|300px|サムネイル|[[四万十川]]]] ==== 海 ==== *[[瀬戸内海]]:徳島県・香川県・愛媛県 **[[播磨灘]]:徳島県・香川県 **[[燧灘]]:香川県・愛媛県 **[[来島海峡]]:愛媛県 **[[斎灘]]:愛媛県 **[[伊予灘]]:愛媛県 **[[鳴門海峡]]:徳島県 **[[紀伊水道]]:徳島県 *[[豊予海峡]]:愛媛県 *[[豊後水道]]:愛媛県 *[[宇和海]]:愛媛県 *[[太平洋]]:徳島県・愛媛県・高知県 **[[橘湾 (徳島県)|橘湾]]:徳島県 **[[土佐湾]]:高知県 **[[宿毛湾]]:高知県 ==== 山地・山岳 ==== *[[四国山地]] **[[石鎚山]](1982m、[[西日本]]最高峰):愛媛県 **[[剣山]] (1955m、徳島県最高峰):徳島県 **[[次郎笈]] (1930m):徳島県 **[[瓶ヶ森]] (1896m):愛媛県・高知県 **[[三嶺]] (1893m、高知県最高峰):徳島県・高知県 **[[一ノ森]] (1880m):徳島県 **[[筒上山]] (1860m):愛媛県・高知県 **[[笹ヶ峰]] (1859m):愛媛県・高知県 **[[ちち山]] (1855m):愛媛県・高知県 **[[矢筈山 (三好市・つるぎ町)|矢筈山]] (1848m):徳島県 **[[天狗塚]] (1812m):徳島県 **[[白髪山 (高知県香美市)|白髪山]] (1770m):高知県 **[[伊予富士]] (1756m):愛媛県・高知県 **[[石立山]] (1707m):徳島県 **[[烏帽子山 (徳島県)|烏帽子山]] (1670m):徳島県 **[[高城山 (徳島県)|高城山]] (1630m):徳島県 **[[雲早山]] (1496m):徳島県 **[[皿ヶ嶺]] (1271m):愛媛県 **[[高越山]] (1133m):徳島県 **[[障子山]] (885m):愛媛県 **[[中津峰山]] (773m):徳島県 **[[谷上山]] (455m):愛媛県 **[[行道山]] (373m):愛媛県 **[[眉山]](290m):徳島県 *[[讃岐山脈]] **[[竜王山 (讃岐山脈)|竜王山]] (1060m、香川県最高峰):徳島県・香川県 **[[大川山]] (1043m):徳島県・香川県 **[[大滝山 (讃岐山脈)|大滝山]] (946m):徳島県・香川県 **[[大麻山]] (538m):徳島県 *[[高縄山地]] **[[東三方ヶ森]] (1233m):愛媛県 **[[明神ヶ森]] (1217m):愛媛県 **[[福見山]] (1053m):愛媛県 **[[楢原山]] (1041m):愛媛県 **[[高縄山]] (986m):愛媛県 **[[北三方ヶ森]] (977m):愛媛県 **[[大月山]] (953m):愛媛県 **[[ヨソ山]] (927m):愛媛県 **[[岩伽羅山]] (696m):愛媛県 **[[杉立山]] (668m):愛媛県 **[[観音山 (松山市)|観音山]] (518m):愛媛県 **[[倉谷山 (愛媛県)|倉谷山]] (410m):愛媛県  **[[笠松山]] (357m):愛媛県 **[[世田山]] (339m):愛媛県 **[[宝ヶ峯 (愛媛県)|宝ヶ峯]] (284m):愛媛県 **[[芝ヶ峠]] (281m):愛媛県 **[[淡路ヶ峠]] (273m):愛媛県 ==== 河川・湖沼 ==== *[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]水系(四国三郎):高知県→徳島県 **[[銅山川 (四国)|銅山川]](伊予川):愛媛県→徳島県 **[[祖谷川]]:徳島県 **[[松尾川 (徳島県)|松尾川]]:徳島県 **[[貞光川]]:徳島県 **[[穴吹川]]:徳島県 **[[鮎喰川]]:徳島県 **[[飯尾川]]:徳島県 **[[旧吉野川]]:徳島県 **[[今切川]]:徳島県 **[[新町川]]:徳島県 **[[園瀬川]]:徳島県 **[[池田ダム|池田湖]](ダム湖):徳島県 **[[柳瀬ダム|金砂湖]](ダム湖):愛媛県 **[[早明浦ダム|さめうら湖]](ダム湖):高知県 *[[那賀川]]水系:徳島県 **[[坂州木頭川]]:徳島県 **[[桑野川]]:徳島県 *[[勝浦川]]:徳島県 *[[海部川]]:徳島県 *[[土器川]]:香川県 *[[綾川]]:香川県 *[[香東川]]:香川県 *[[肱川]]:愛媛県 *[[重信川]]水系:愛媛県 **[[石手川]]:愛媛県 **[[小野川 (愛媛県)|小野川]]:愛媛県 **[[石手川ダム|白鷺湖]](ダム湖):愛媛県 *[[蒼社川]]水系:愛媛県 **[[玉川ダム (愛媛県)|玉川湖]](ダム湖):愛媛県 *[[物部川]]:高知県 *[[鏡川]]:徳島県 *[[仁淀川]]水系:愛媛県→高知県 **[[長者川]]:高知県 **[[上八川川]]:高知県 **[[大渡ダム|茶霧湖]](ダム湖):高知県 *[[四万十川]]水系:高知県 **[[梼原川]]:高知県 **[[広見川]]:愛媛県→高知県 **[[黒尊川]]:高知県 *[[海老ヶ池]]:徳島県- 四国唯一の天然湖沼<ref>田中(2004年)p.294</ref> *[[満濃池]]:香川県 *[[内場ダム|内場池]]:香川県 ==== 平野・高原 ==== *[[徳島平野]]:徳島県 *[[那賀川平野]](阿南平野):徳島県 *[[讃岐平野]]:香川県 *[[松山平野]]:愛媛県 *[[今治平野]]:愛媛県 *[[新居浜平野]]:愛媛県 *[[高知平野]]:高知県 *[[中村平野]]:高知県 *[[大川原高原]]:徳島県 *[[塩塚高原]]:徳島県・愛媛県 *[[久万高原]]:愛媛県 *[[五段高原]]:愛媛県・高知県 *[[天狗高原]]:愛媛県・高知県 ==== 岬 ==== *[[蒲生田岬]]:徳島県 *[[佐田岬]]:愛媛県 *[[室戸岬]]:高知県 *[[足摺岬]]:高知県 *[[竹居観音岬]]:香川県 ==== 半島 ==== *[[高縄半島]] *[[佐田岬半島]] *[[由良半島]] *[[荘内半島]] *足摺半島 ==== 島嶼 ==== ;瀬戸内海 *[[大毛島]] *[[島田島]] *[[高島 (徳島県)|高島]] *[[備讃諸島]] **[[小豆島]] **[[大島 (香川県高松市)|大島]] **[[豊島 (香川県)|豊島]] **[[男木島]] **[[女木島]] **[[直島]] **[[与島]] **[[櫃石島]] **[[本島 (香川県)|本島]] **[[広島 (香川県)|広島]] **[[手島 (香川県)|手島]] **[[粟島 (香川県)|粟島]] **[[高見島]] **[[佐柳島]] *[[芸予諸島]] **[[大島 (愛媛県今治市)|大島]] **[[伯方島]] **[[大三島]] **[[岩城島]] **[[生名島]] **[[佐島 (上島諸島)|佐島]] **[[弓削島]] *[[防予諸島]] **[[興居島]] **[[釣島]] **[[睦月島]] **[[由利島]] **[[中島 (愛媛県)|中島]] **[[怒和島]] **[[二神島]] **[[津和地島]] *[[青島 (愛媛県)|青島]] ;太平洋 *[[小勝島]] *[[大島 (徳島県)|大島]] *[[出羽島]] *[[伊島 (阿南市)|伊島]] *[[九島]] *[[大島 (愛媛県八幡浜市)|大島]] *[[戸島 (愛媛県)|戸島]] *[[日振島]] *[[北条鹿島]] *[[沖の島 (高知県)|沖の島]] === 地質 === [[地質学]]的には、四国は北からおもに[[三波川帯]](ほぼ[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]がある)、[[秩父帯]]([[四国山地]])、[[四万十層群|四万十層]]([[四万十川]])がほぼ東西に分布し、その間を[[中央構造線]]、[[御荷鉾構造線]]、[[仏像構造線]]が走っている<ref>[http://www.nishida-s.com/main/categ3/22mtl-tokushima-ehime-kouchi/ 中央構造線の旅(4)-徳島県・愛媛県・高知県----山の自然学シリーズ(12)]</ref><ref>[https://www.skr.mlit.go.jp/kasen/ikkyu/chisitu/f_chisitu.html 四国の地質(四国の一級水系)] 国土交通省四国地方整備局河川部、2021年1月17日閲覧</ref>。 === 気候 === ;瀬戸内海地方 徳島県の[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]流域以北、香川県全域、愛媛県[[東予地方]]、[[中予地方]]の、[[瀬戸内海]]に面した北側は、[[瀬戸内海式気候]]に属する温暖少雨な気候であり、[[台風]]等の直撃も比較的少ない。そのため、[[オリーブ]]や[[ミカン]]の栽培が盛んである。その反面、大規模な[[川|河川]]は[[太平洋]]や[[紀伊水道]]に流れ込む形となっているため、水資源に恵まれず、過去幾度かの渇水に見舞われてきた。このため、[[満濃池]]を初めとする[[ため池]]が多数造られている。その中でも特に、香川県は古来から水不足に悩まされ続けており、渇水対策として[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]の水を送水するための[[香川用水]]が建設されている。 冬から春にかけて、[[中国大陸]]から流入する[[黄砂]]がしばしば観測される。冬は[[雨|小雨]]や[[雪|小雪]]([[みぞれ]])の降る日もあるが、基本的に晴天が多い。平野部では大雪になることはほとんどないが、山間部では気温が低く冬は積雪も多い。なお、[[太平洋高気圧]]に覆われる夏季には瀬戸内海沿岸特有の「[[凪]]」や、四国山地越えの[[フェーン現象]]に伴う気流の影響で、[[猛暑日]]や[[熱帯夜]]になる日も少なくない。 <!--個人の主観による独自研究は載せないこと!--> ;太平洋側 徳島県のほとんどの地域や、愛媛県[[南予地方]]・高知県全域の[[太平洋]]に面した南側は、[[太平洋側気候]]に属している。太平洋沖合を流れる[[黒潮]]の影響を受けて冬でも温暖で、一部で無霜地帯が存在する。春の訪れが早く本土で最初の[[ソメイヨシノ|桜]]の開花宣言が[[高知市]]または[[宇和島市]]となることも少なくない。そのため、特に高知県では[[促成栽培]]が盛んであったり、[[プロ野球]]チームの[[キャンプ]]地になったりと、温暖な気候を生かした産業や行事が発達している。 年間[[降水量]]が多いことから[[林業]]も盛んであるが、一方で高知県の[[室戸岬]]と[[足摺岬]]では、[[台風]]が来襲しやすいことから「'''[[台風銀座]]'''」と呼ばれている。このため「[[室戸台風]]」などの大型台風が直撃し、[[洪水]]などの被害を受けている。なお「室戸台風」では、室戸岬上陸時の中心気圧は911.6[[ヘクトパスカル|hPa]]であり、日本本土に上陸した台風のなかで観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風だった。これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録(台風の正式な統計は[[1951年]]([[昭和]]26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱い)として、いまだに破られていない。また、愛媛県南予地方および高知県[[幡多郡|幡多地方]]では、冬は関門海峡からの季節風の影響で曇りや雨、雪の日が他の太平洋側の地域に比べると多くなっている。 == 歴史 == {{節スタブ}} [[ファイル:Tyousokabe Mototika.jpg|220px|サムネイル|四国の覇者、[[長宗我部元親]]]] === 古代 === 四国は、[[畿内]]から南西側に位置しており、海路で移動するために、[[五畿七道]]では[[南紀]]や[[淡路島]]と一緒に[[南海道]]に含まれていた。[[近畿]]・[[九州]]航路の要所であった四国の西北部に位置する[[伊予国]]の[[道後温泉]]などは、[[舒明天皇]]や[[斉明天皇]]の入浴記録([[日本書紀]])があるほか、[[山部赤人]]・[[額田王]]の来浴記録([[万葉集]])もあるなど、古くから栄えていたと思われる。<!--また、海路での移動と、[[四国山地]]の険しさから、[[伊予国]]と[[土佐国]]は[[流刑]]地にされていた。--> === 中世 === [[平氏]]が都落ちした際、[[安徳天皇]]を擁して[[屋島]]を一時的な本拠地としたため、この地で源平両軍が争った。[[室町時代]]は[[細川氏]]が讃岐・阿波・土佐の三国を、[[河野氏]]が伊予をそれぞれ守護した。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の四国の大名としては、[[三好市|三好]]を拠点とし[[阿波国]]から[[山城国]]にわたる8国を支配圏に収めた[[三好長慶]]、「土佐の[[小京都]]」とも呼ばれている[[中村市|中村]]を拠点とした[[土佐一条氏]]、[[伊予国]][[道後温泉|道後]]の[[湯築城]]を本拠とした[[水軍]]を有する河野氏、讃岐の[[香川氏]]、[[土佐国]]の四国の覇者である[[長宗我部元親]]などが高名であるが、長い騒乱の末に収束に向かい、一時は[[長宗我部氏]]が四国を統一したものの、やがて[[豊臣秀吉]]により平定された。土佐の大名であった[[長宗我部盛親]]は[[関ヶ原の戦い]]で西軍につき改易された。 === 近世 === [[ファイル:Kochi Castle09.JPG|thumb|220px|[[高知城]](国の[[史跡]])]] [[江戸時代]]になると、それまで四国各地を治めていた[[戦国大名]]は四国から駆逐され、幕府徳川氏の信任厚い諸将がこの地に封じられることになった。初め、讃岐に生駒氏、阿波に蜂須賀氏、土佐を山内氏と一国一円支配を許したが、のちに生駒氏が騒動を起こして改易されると讃岐は二分割統治された。伊予は初めから小大名が配置され、一国統治はされなかった。なお、瀬戸内海の小豆島と塩飽諸島は天領として倉敷代官所の支配下に置かれた。 四国の代表的な藩には、[[阿波国]]と[[淡路島|淡路国]]を稲田氏の知行地とする[[蜂須賀氏]]の[[徳島藩]]、[[水戸徳川家]]の分家の[[高松藩]]、[[土佐山内氏|山内氏]]が治める[[土佐藩]]、[[加藤氏]]や[[久松氏|久松松平家]](親藩)などが領した[[伊予松山藩]]、[[仙台市|仙台]][[伊達氏]]の分家が治める[[宇和島藩]]などであった。 === 近代 === 幕末維新において土佐藩が終始政局に関わり続け、土佐藩出身の[[坂本龍馬]]らの仲介で[[薩長同盟]]がなった。[[戊辰戦争]]においても土佐藩は官軍として各地を転戦し功を挙げた。明治期の[[自由民権運動]]も元土佐藩士[[板垣退助]]らが中心として起こった。それ以前に[[金陵会議]](四国会議)が土佐藩から提唱され、四国をまとめ上げる力となったが、わずか数年で解散を命ぜられた。愛媛県から[[正岡子規]]なる文豪が輩出され、明治文化に貢献した。 == 経済 == 歴史的には全県が畿内との繋がりの強い地域であったが、陸路交流の活発化と海路交流の衰退により徳島県は[[近畿地方]]と、香川県は[[岡山県]]と、愛媛県は[[広島県]]との経済活動も多くなっている。特に徳島県沿岸部は、日常的に[[京阪神]]との経済交流が盛んであり、影響が大きい。太平洋に面し三方を山に囲まれる高知県は特に対外的経済交流が活発な地域はなかった。 近年は高速道路網の整備により島内での交流が高知県を含め各県大幅に増加し、2010年現在では本州ではなく島内での経済的交流が最も盛んとなっている<ref>{{Cite web|和書|title=四国内の相互交流量を分析してわかった3つのこと|url=http://giantech.jp/2015/08/17/traffic-interchange-in-shikoku-area/|website=いきてま@えひめ|date=2015-08-17|accessdate=2020-05-28|language=ja|first=Takeshi|last=Kakeda}}</ref>。 === 域内総生産 === [[2017年]]([[平成]]29年度)の四国四県の域内総生産は、名目で14兆5820億5000万円であり<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/main_h28.html 県民経済計算(平成18年度 - 平成29年度)(2008SNA、平成23年基準計数)]</ref>、全国の総生産(日本の[[国内総生産|GDP]])に占める経済規模は2.60%だった。これを他の都道府県と比べると、[[茨城県]](13.8兆円)より大きく、[[静岡県]](17.3兆円)より小さい。また、1人当たり県民所得は四県全てにおいて日本の1人当たり平均所得を下回っていた。 {| class="wikitable" style="text-align:right" |+ 平成29年度(2017) 四国各県の県民経済計算 ! 地域 !! 県内総生産(千円) !! 県民所得(千円) !! 1人当たり県民所得(千円) |- ! {{flag|徳島県}} | 3,156,884 || 2,297,253 || 3,091 |- ! {{flag|香川県}} | 3,845,915 || 2,919,952 || 3,018 |- ! {{flag|愛媛県}} | 5,149,797 || 3,739,076 || 2,741 |- ! {{flag|高知県}} | 2,429,454 || 1,891,510 || 2,650 |- ! 四国 | 14,582,050 || 10,847,791 || 2,863 |- ! 全国 | 561,523,371 || 418,620,499 || 3,304 |} === 工業 === 四国瀬戸内海側は[[太平洋ベルト]]地帯に位置しており、[[坂出市]]・[[丸亀市]]・[[四国中央市]]・[[新居浜市]]・[[西条市]]・[[今治市]]および[[松山市]]などを中心に、[[瀬戸内工業地域]]が形成されている。[[徳島市]]と[[西条市]]は、[[新産業都市建設促進法]]に基づいて指定される[[新産業都市]](工業開発の拠点地域)であった。 {| class="wikitable" style="text-align:right" |+ 製造品出荷額等<br>(2020年工業統計)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/kougyo/result-2/r02/kakuho/chiiki/index.html|title=工業統計調査 2020年確報 地域別統計表|publisher=[[経済産業省]]|date=2021-08-25|accessdate=2022-06-02}}</ref> ! 地域 !! 製造品出荷額等<br>(万円) |- |align=center|'''四国'''||951,405,331 |- |align=left|'''{{flag|愛媛県}}'''||430,881,751 |- |align=left|'''{{flag|香川県}}'''||271,158,324 |- |align=left|'''{{flag|徳島県}}'''||190,812,585 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Imabari Ehime.svg|border|25x20px]] [[今治市]]||105,397,628 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Niihama, Ehime.svg|border|25x20px]] [[新居浜市]]||85,002,404 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Saijō, Ehime.svg|border|25x20px]] [[西条市]]||79,470,089 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Shikokuchūō, Ehime.svg|border|25x20px]] [[四国中央市]]||66,913,950 |- |align=left|'''{{flag|高知県}}'''||58,552,671 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Anan, Tokushima.svg|border|25x20px]] [[阿南市]]||49,126,650 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Matsuyama, Ehime.svg|border|25x20px]] [[松山市]]||44,038,026 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Tokushima, Tokushima.svg|border|25x20px]] [[徳島市]]||41,907,259 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Naoshima, Kagawa.svg|border|25x20px]] [[香川郡]][[直島町]]||41,627,305 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Sakaide, Kagawa.svg|border|25x20px]] [[坂出市]]||40,527,486 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Takamatsu, Kagawa.svg|border|25x20px]] [[高松市]]||37,131,277 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Marugame, Kagawa.svg|border|25x20px]] [[丸亀市]]||29,500,730 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Naruto, Tokushima.svg|border|25x20px]] [[鳴門市]]||25,312,328 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Mitoyo, Kagawa.svg|border|25x20px]] [[三豊市]]||24,925,452 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Kanonji, Kagawa.svg|border|25x20px]] [[観音寺市]]||20,364,189 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Kochi, Kochi.svg|border|25x20px]] [[高知市]]||17,781,694 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Nankoku, Kochi.svg|border|25x20px]] [[南国市]]||10,592,009 |- |align=left|[[ファイル:Flag of Matsushige, Tokushima.svg|border|25x20px]] [[板野郡]][[松茂町]]||9,462,325 |} == 人口 == === 各県の人口 === {| class="sortable wikitable" style="text-align:right" !都道府県名 ![[ISO 3166-2:JP|ISO 3166-2]] !全国順位 ![[都道府県の人口一覧|人口]] !全国割合 !四国割合 |- !{{flag|徳島県}} |JP-36 |style="text-align:right"|44 |style="text-align:right"|719,559 |style="text-align:right"|0.57% |style="text-align:right"|19.47% |- !{{flag|香川県}} |JP-37 |style="text-align:right"|39 |style="text-align:right"|950,244 |style="text-align:right"|0.75% |style="text-align:right"|25.71% |- !{{flag|愛媛県}} |JP-38 |style="text-align:right"|28 |style="text-align:right"|1,334,841 |style="text-align:right"|1.05% |style="text-align:right"|36.11% |- !{{flag|高知県}} |JP-39 |style="text-align:right"|45 |style="text-align:right"|691,527 |style="text-align:right"|0.54% |style="text-align:right"|18.71% |- !colspan="3"|合計 |style="text-align:right"|3,696,171 |style="text-align:right"|2.93% |style="text-align:right"|100.00% |} ※順位・人口・割合は令和2(2020)年国勢調査による<ref>{{Cite web|和書 |url = https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2020/kekka.html |title = 令和2年国勢調査 |publisher = [[総務省]][[統計局]] |accessdate = 2023-08-24 }}</ref>。 === 年齢構成 === {{四国地方/5歳階級別人口}} === 人口の増減 === 2010年[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]時の四国における自治体は95市町村であるが、そのうち2005年国勢調査と比べ人口が増加したのは8市町のみでそれ以外の87市町村は全て減少している。そのため四国全体はもとより、県単位でも4県全てで減少となっている。県別にみると最も減少率が高いのは高知県の▽4.00%で、以下、徳島県▽3.02%、愛媛県▽2.47%、香川県▽1.64%と続く。逆に、増加した自治体は香川県の3市町、徳島県の3町、愛媛県および高知県のそれぞれ1市である。県庁所在地別では増加したのが[[高松市]]と[[松山市]]のみで[[北四国]]と[[南四国]]で明暗が分かれる形になったが、徳島県の増加3町はいずれも[[徳島市]]に隣接したベッドタウンである。県庁所在地以外では徳島県の上記3町のほか、香川県第二の都市である[[丸亀市]]とそこに隣接する[[綾歌郡]][[宇多津町]]、高知県[[香南市]]で人口が増加した。愛媛県では県庁所在地である松山市以外で人口が増加した市町村は存在しなかった。 最も減少率が高い高知県[[土佐郡]][[大川村]]は唯一の▽20%越えとなっているほか、上位6位までが全て高知県の自治体となっている。その他の減少率が高い自治体には、概ね南四国の[[太平洋]]沿岸や中央部の[[四国山地]]に位置する自治体が多い。 ;増加自治体 *[[宇多津町]]+5.58%、[[北島町]]+4.61%、[[藍住町]]+3.26%、[[松茂町]]+0.96%、[[香南市]]+0.86%、[[松山市]]+0.45%、[[丸亀市]]+0.35%、[[高松市]]+0.31% ;減少自治体(▽20%以上) * [[大川村]]▽23.61% ;減少自治体(▽10%-▽19%) *[[大豊町]]▽14.08%、[[檮原町]]▽13.86%、[[馬路村]]▽13.42%、[[室戸市]]▽13.04%、[[東洋町]]▽12.97%、[[那賀町]]▽12.88%、[[神山町]]▽12.80%、[[三好市]]▽12.17%、[[久万高原町]]▽11.89%、[[仁淀川町]]▽11.53%、[[美波町]]▽11.01%、[[つるぎ町]]▽10.51%、[[牟岐町]]▽10.48%、[[大月町]]▽10.16%、[[伊方町]]▽10.03% ;減少自治体(▽5%-▽9%) *[[安田町]]▽9.92%、[[愛南町]]▽9.67%、[[田野町]]▽9.39%、[[海陽町]]▽9.22%、[[中土佐町]]▽8.85%、[[上勝町]]▽8.80%、[[四万十町]]▽8.74%、[[勝浦町]]▽8.54%、[[越知町]]▽8.31%、[[内子町]]▽8.03%、[[黒潮町]]▽7.97%、[[土庄町]]▽7.85%、[[日高村]]▽7.60%、[[佐那河内村]]▽7.57%、[[北川村]]▽7.51%、[[いの町]]▽7.41%、[[宿毛市]]▽7.32%、[[琴平町]]▽7.26%、[[土佐清水市]]▽7.24%、[[大洲市]]▽7.15%、[[三原村]]▽7.02%、[[八幡浜市]]▽7.01%、[[松野町]]▽6.67%、[[津野町]]▽6.63%、[[鬼北町]]▽6.43%、[[東かがわ市]]▽6.41%、[[小豆島町]]▽6.40%、[[西予市]]▽6.38%、[[本山町]]▽6.20%、[[美馬市]]▽6.02%、[[直島町]]▽6.02%、[[土佐町]]▽5.92%、[[宇和島市]]▽5.85%、[[上島町]]▽5.56%、[[四万十市]]▽5.23%、[[須崎市]]▽5.15% ;減少自治体(▽4%以下) *[[奈半利町]]▽4.96%、[[さぬき市]]▽4.94%、[[香美市]]▽4.93%、[[善通寺市]]▽4.73%、[[阿波市]]▽4.45%、[[土佐市]]▽4.42%、[[今治市]]▽4.28%、[[まんのう町]]▽4.07%、'''高知県'''▽4.00%、[[安芸市]]▽3.94%、[[綾川町]]▽3.91%、[[観音寺市]]▽3.89%、[[吉野川市]]▽3.85%、[[芸西村]]▽3.80%、[[三豊市]]▽3.75%、[[伊予市]]▽3.74%、[[東みよし町]]▽3.72%、[[小松島市]]▽3.56%、[[佐川町]]▽3.43%、'''徳島県'''▽3.02%、[[上板町]]▽3.02%、[[坂出市]]▽2.87%、[[四国中央市]]▽2.87%、[[鳴門市]]▽2.67%、[[南国市]]▽2.53%、[[阿南市]]▽2.49%、'''愛媛県'''▽2.47%、[[砥部町]]▽1.98%、[[板野町]]▽1.91%、[[新居浜市]]▽1.79%、'''香川県'''▽1.64%、[[高知市]]▽1.60%、[[徳島市]]▽1.23%、[[三木町]]▽1.13%、[[西条市]]▽1.13%、[[松前町 (愛媛県)|松前町]]▽0.67%、[[多度津町]]▽0.49%、[[石井町]]▽0.44%、[[東温市]]▽0.07% *データ出典:[http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020101.do?_toGL08020101_ 平成22年国勢調査] ====将来展望==== [[厚生労働省]]の[[国立社会保障・人口問題研究所]]が発表した『日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)』で、2045年の四国4県の総人口は282万3千人で、15年に比べて102万3千人(26%)減少することがわかった。ただ40年時点では前回推計を上回り300万人台を維持するなど減少ペースに緩和傾向も見られる。 同研究所は人口推計を5年ごとにまとめて公表している。全国の総人口に占める四国4県の比率は15年の3.0%から45年には2.7%に低下する。4県では高知県が鳥取県に次いで全国で下から2番目(15年時点は同3番目)になる。近年の出生率の改善傾向を背景に、前回調査時より人口減少ペースが鈍化する傾向が見られた。四国全体では40年時点の人口は前回調査の295万5千人よりも5万1千人多かった。香川が4万2千人、愛媛が6千人、徳島が3千人それぞれ上回った。一方、高知は71人とわずかながら前回を下回った。 地域による格差も目立つ。45年と15年の人口を比べると、高松市が1割減にとどまるほか、瀬戸大橋周辺の自治体の減少率は小さい。徳島市のベッドタウンである徳島県北島町は四国で唯一増加する見通し。一方、中山間地では高知県大豊町が7割減、愛媛県久万高原町が6割強の減少を見込む<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28825960Q8A330C1LA0000/ |title=四国4県人口 45年に26%減少 減少ペース 緩和傾向も 厚労省推計 |access-date=2022-04-28}}</ref>。 == 地域 == 四国には突出して大きな都市がなく、[[#地理|地形的制約]]から各県に独立した[[都市雇用圏|都市圏]]が存在する。また、古くから海上交通が盛んであったため、各地ともに対岸との交流も盛んである。 四国地方を便宜的に2つの地域に分ける場合がある。 *[[北四国]](瀬戸内海側。香川県・愛媛県)と[[南四国]](太平洋側。徳島県・高知県) *[[東四国]](東部。徳島県・香川県)と[[西四国]](西部。高知県・愛媛県) === 各地域とのつながり === どの出発地からも対四国内への流動が最も多く、全体の流動数に占める割合は最低でも50%、最高で95%を占めている。四国内の県庁所在地別では、特に高松市が位置する香川東部が目的地として全てで首位となっているほか、四国外との流動では、徳島が神戸、香川東部が岡山県南、松山および高知が東京23区が最も多くなっている。全ての出発地別からは5位以内に香川東部・高知中央、6位以内に香川西部、8位以内に新居浜、11位以内に松山、12位以内に東京23区・大阪・岡山県南、14位以内に徳島を四国内全ての出発地が目的地としている。 かつては、「[[徳島市|徳島]]は[[近畿地方|近畿]]([[大阪市|大阪]]・[[神戸市|神戸]])を向き、[[高松市|高松]]は[[岡山市|岡山]]を向き、[[松山市|松山]]は[[広島市|広島]]を向き、そして[[高知市|高知]]は[[太平洋]](または[[東京都|東京]])を向いている」と言われ、「四国は一つ一つ」などと風刺されることもあった。しかし、20世紀末から高速道路網の整備によって四国内の相互交流が深まり、21世紀初頭にはそれまで盛んだった本州の都市を凌駕するに至った。 1990年(平成2年)時点での状況は徳島、高松、松山とも四国外との交流人口の方が多く、高知のみ四国内との交流の方が多かったが、流動数自体が非常に少なかった。四国外との繋がりでは徳島が京阪神、香川東部が岡山県南、松山が広島・大阪、八幡浜が大分といった地域と強く、特に香川東部と岡山県南との流動数は他に突出して多かった。 1990年(平成2年)と2010年(平成22年)の変化では、四国全域で四国内の相互交流が非常に活発になったこと、目的地としての流動が香川東部に集中することにより同地域が交流の中心としての性格を強めたことが挙げられる。また大きな変化として香川東部における徳島と岡山県南の関係性が逆転し、さらにその数も1990年の岡山県南よりも2010年の徳島の方が多く、圧倒的な差がついている。 <div style="overflow:auto"><table> <tr><td> {|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small" |+2010年(平成22年) 全交通機関の生活圏別年間流動先の順位(県境を越えた移動)(単位:千人)<ref name="旅客純流動データ2010">[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/soukou/sogoseisaku_soukou_fr_000010.html 国土交通省・第5回全国幹線旅客純流動データ]</ref> |- ! nowrap="nowrap" rowspan="2" |出発地→<br>↓目的地<br>順位!!colspan="3"|徳島県!!colspan="2"|香川県!!colspan="5"|愛媛県!!colspan="4"|高知県 |- !徳島!!三好!!南部!!東部!!西部!!松山!!新居浜!!今治!!宇和島!!八幡浜!!中央!!幡多!!高幡!!安芸 |-style="background-color:#fff" !1 |style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>405万7||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>99万2||style="background-color:#fc9"|高知安芸<br>24万6||style="background-color:#cff"|徳島<br>390万3||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>182万8||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>73万7||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>199万2||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>13万6||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>98万5||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>12万4||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>73万7||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>119万5||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>29万6||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>28万3 |-style="background-color:#fff" !2 |style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>92万1||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>33万3||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>22万2|| style="background-color:#fcf" nowrap="nowrap" |岡山県南<br>138万5||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>93万6||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>61万3||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>81万2||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>11万4||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>29万8||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>9万8||style="background-color:#ffc"|松山<br>68万0||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>5万8||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>6万3||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>6万1 |-style="background-color:#fff" !3 |style="background-color:#fc9"|高知中央<br>54万1||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>31万5||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>16万8||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>79万2|| style="background-color:#cff"|徳島<br>88万1||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>48万9|| style="background-color:#fc9"|高知中央<br>54万4||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>11万2|| style="background-color:#fc9"|高知中央<br>13万5||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>8万1||style="background-color:#cff"|徳島<br>56万8||style="background-color:#ffc"|松山<br>4万1||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>5万7||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>5万6 |-style="background-color:#fff" !4 |style="background-color:#ffc"|新居浜<br>37万6||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>26万7||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>2万6||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>66万7 ||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>70万3|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>28万1||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>30万1||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>7万0||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>2万1||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>8万1||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>51万8||style="background-color:#cff"|徳島<br>2万8||style="background-color:#cff"|徳島<br>4万8||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>1万7 |-style="background-color:#fff" !5 |style="background-color:#ffc"|松山<br>29万9||style="background-color:#ffc"|松山<br>6万6||大阪<br>2万1||style="background-color:#ffc"|松山<br>63万9||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>52万6||style="background-color:#cff"|徳島<br>25万8||style="background-color:#cff"|徳島<br>28万4||style="background-color:#cff"|徳島<br>6万1||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>1万8||style="background-color:#fcf"|大分<br>6万2||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>51万5||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>2万0||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>4万7||style="background-color:#cff"|徳島<br>1万6 |-style="background-color:#fff" !6 |神戸<br>23万4||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万7|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万8||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>49万4||style="background-color:#ffc"|松山<br>49万2||style="background-color:#fcf"|広島<br>25万1||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>12万5|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>5万3||style="background-color:#fcf"|大分<br>1万5||style="background-color:#cff"|徳島<br>4万4||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>26万6||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>1万6||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>4万3||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>1万5 |-style="background-color:#fff" !7 |style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>22万5||style="background-color:#ffc"|今治<br>1万5||神戸<br>1万7|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>36万7||style="background-color:#ffc"|今治<br>17万1||大阪<br>14万6|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>8万4||style="background-color:#fcf"|広島<br>2万8|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万3||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万9|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>19万1|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万3||style="background-color:#ffc"|松山<br>1万6|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万1 |-style="background-color:#fff" !8 |大阪<br>21万7||大阪<br>1万3||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>1万7||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>31万9|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>12万1||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>13万9||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>5万4||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>2万0||style="background-color:#fcf"|広島<br>1万2|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万8||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>13万4||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>9|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万2||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万1 |-style="background-color:#fff" !9 | nowrap="nowrap" |東京23区<br>20万9||style="background-color:#fcf"| 広島<br>8||東大阪<br>1万3||大阪<br>24万3||大阪<br>10万2||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>10万2||style="background-color:#fc9"|高知安芸<br>5万3||大阪<br>1万8||style="background-color:#fc9"|高知安芸<br>1万2||大阪<br>1万6||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>12万3||style="background-color:#ffc"|今治<br>9||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>8||style="background-color:#ffc"|松山<br>1万1 |-style="background-color:#fff" !10 |淡路<br>12万9||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>8||兵庫尼崎<br>1万3||style="background-color:#fcf"|広島<br>17万4||style="background-color:#fcf"|広島<br>8万1||横浜<br>9万9||大阪<br>4万8||神戸<br>1万4|| style="background-color:#fcf"|福岡<br>9||style="background-color:#fcf"|広島<br>1万6||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>11万0||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>8||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>6||大阪<br>7 |-style="background-color:#fff" !11 |兵庫尼崎<br>10万0||style="background-color:#fc9"|高知安芸<br>6||style="background-color:#ffc"|松山<br>1万2||神戸<br>14万8||神戸<br>7万3||style="background-color:#fcf"|福岡<br>7万7||style="background-color:#fcf"|広島<br>3万8||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>1万3||大阪<br>8||style="background-color:#fcf"|福岡<br>1万1||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>9万7||大阪<br>4||大阪<br>5||神戸<br>7 |-style="background-color:#fff" !12 |京都<br>9万6|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>5||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万1 ||style="background-color:#ffc"|今治<br>13万2||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>6万2||千葉<br>7万5||神戸<br>2万7||埼玉浦和<br>1万2||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>8||style="background-color:#fcf"|静岡西部<br>9||大阪<br>9万1||大阪豊中<br>4||京都<br>4||東大阪<br>3 |-style="background-color:#fff" !13 |堺<br>8万6||東京多摩<br>5||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>1万1||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>11万1||大阪豊中<br>4万8||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>7万2||東大阪<br>2万1||横浜<br>1万0||神戸<br>7||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>8||style="background-color:#fcf"|広島<br>7万0||埼玉浦和<br>3||大阪豊中<br>4||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>3 |-style="background-color:#fff" !14 |大阪豊中<br>7万6||兵庫尼崎<br>4||沖縄南部<br>1万0||京都<br>9万9||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>4万8||神戸<br>6万9||愛知豊田<br>1万8||東大阪<br>8||style="background-color:#cff"|徳島<br>7||東京多摩<br>7||横浜<br>6万0||東京多摩<br>3||兵庫播磨<br>4||style="background-color:#ffc"|今治<br>3 |-style="background-color:#fff" !15 |東大阪<br>6万4||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>4||京都<br>8||堺<br>9万5||東大阪<br>4万4||京都<br>5万4||兵庫尼崎<br>1万7||東京多摩<br>6||堺<br>4||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>7||style="background-color:#ffc"|今治<br>5万3||堺<br>3||style="background-color:#ffc"|今治<br>3||その他<br>3以下 |- !合計 |873万8||210万5||90万0||1118万5||677万4||448万5||473万9||79万9||161万8||68万0||502万4||145万6||64万6||53万7 |- !人口当たり |13.8||46.8||8.3||18.8||16.8||6.9||14.6||4.6||13.0||4.3||9.1||15.4||10.5||10.0 |- !rowspan="2"|うち<br>対四国内 |638万6||201万1||70万8||724万8||499万2||231万1||406万2||40万2||147万6||44万5||366万7||138万0||58万2||46万7 |- |73.1%||95.5%||78.7%||64.8%||73.7%||51.5%||85.7%||50.3%||91.2%||65.4%||73.0%||94.8%||90.1%||87.0% |- !rowspan="2"|うち<br>対大都市 |172万9||5万4||13万4||184万5||74万5||124万8||42万1||18万2||7万1||9万3||90万6||5万2||4万2||4万6 |- |19.8%||2.6%||14.9%||16.5%||11.0%||27.8%||8.9%||22.8%||4.4%||13.7%||18.0%||3.6%||6.5%||8.6% |- !rowspan="2"|うち<br>対他地方 |61万8||3万9||5万2||208万6||103万4||92万1||25万5||20万9||6万6||13万8||44万4||2万0||1万7||2万0 |- |7.1%||1.9%||5.8%||18.6%||15.3%||20.5%||5.4%||26.2%||4.1%||20.3%||8.8%||1.4%||2.6%||3.7% |- !rowspan="2"| !!徳島!!三好!!南部!!東部!!西部!!松山!!新居浜!!今治!!宇和島!!八幡浜!!中央!!幡多!!高幡!!安芸 |- !colspan="3"|徳島県!!colspan="2"|香川県!!colspan="5"|愛媛県!!colspan="4"|高知県 |} *「合計」は生活圏間ではなく県境を越えた人数。 *「人口当たり」は合計を人口で割った数で、この数値が高いほど日常的に県境を越えた交流が多いことを示す。 </td> <td nowrap="nowrap"> ;色分け *{{color|#cff|■}}:[[徳島県]] *{{color|#cf9|■}}:[[香川県]] *{{color|#ffc|■}}:[[愛媛県]] *{{color|#fc9|■}}:[[高知県]] *{{color|#fcf|■}}:その他地方 *{{color|white|■}}:[[三大都市圏]] </td> <td nowrap="nowrap"> ;生活圏区分 - 2010年(平成22年)国勢調査 *'''徳島''':[[徳島市]]、[[鳴門市]]、[[小松島市]]、[[吉野川市]]、[[阿波市]]、[[美馬市]]、[[勝浦郡]]、[[名東郡]]、[[名西郡]]、[[板野郡]]、[[美馬郡]] **人口:63万2078人、面積:1,803.31km<sup>2</sup>、人口密度:350.5人 / km<sup>2</sup> *'''徳島三好''':[[三好市]]、[[三好郡]] **人口:4万4995人、面積:844.03km<sup>2</sup>、人口密度:53.3人 / km<sup>2</sup> *'''徳島南部''':[[阿南市]]、[[那賀郡]]、[[海部郡 (徳島県)|海部郡]] **人口:10万8418人、面積:1,499.33km<sup>2</sup>、人口密度:72.3人 / km<sup>2</sup> *'''香川東部''':[[高松市]]、[[さぬき市]]、[[東かがわ市]]、[[小豆郡]]、[[木田郡]]、[[香川郡]]、[[綾歌郡]]([[宇多津町]]を除く) **人口:59万3743人、面積:1,057.07km<sup>2</sup>、人口密度:561.7人 / km<sup>2</sup> *'''香川西部''':[[丸亀市]]、[[坂出市]]、[[善通寺市]]、[[観音寺市]]、[[三豊市]]、[[綾歌郡]]([[綾川町]]を除く)、[[仲多度郡]] **人口:40万2099人、面積:819.46km<sup>2</sup>、人口密度:490.7人 / km<sup>2</sup> *'''松山''':[[松山市]]、[[伊予市]]、[[東温市]]、[[上浮穴郡]]、[[伊予郡]] **人口:65万2485人、面積:1,540.52km<sup>2</sup>、人口密度:423.5人 / km<sup>2</sup> *'''新居浜''':[[新居浜市]]、[[西条市]]、[[四国中央市]] **人口:32万4013人、面積:1,163.87km<sup>2</sup>、人口密度:278.4人 / km<sup>2</sup> *'''今治''':[[今治市]]、[[越智郡]] **人口:17万4180人、面積:450.31km<sup>2</sup>、人口密度:386.8人 / km<sup>2</sup> *'''宇和島''':[[宇和島市]]、[[北宇和郡]]、[[南宇和郡]] **人口:12万4281人、面積:1,049.57km<sup>2</sup>、人口密度:118.4人 / km<sup>2</sup> *'''八幡浜''':[[八幡浜市]]、[[大洲市]]、[[西予市]]、[[喜多郡]]、[[西宇和郡]] **人口:15万6534人、面積:1,473.91km<sup>2</sup>、人口密度:106.2人 / km<sup>2</sup> *'''高知中央''':[[高知市]]、[[南国市]]、[[土佐市]]、[[香南市]]、[[香美市]]、[[長岡郡]]、[[土佐郡]]、[[吾川郡]]、[[高岡郡]]([[佐川町]]、[[越知町]]、[[日高村]]) **人口:55万5072人、面積:3,008.77km<sup>2</sup>、人口密度:184.5人 / km<sup>2</sup> *'''高知幡多''':[[宿毛市]]、[[土佐清水市]]、[[四万十市]]、[[幡多郡]] **人口:9万4402人、面積:1,561.97km<sup>2</sup>、人口密度:60.4人 / km<sup>2</sup> *'''高知高幡''':[[須崎市]]、[[高岡郡]](高知中央の区域を除く) **人口:6万1406人、面積:1,405.44km<sup>2</sup>、人口密度:43.7人 / km<sup>2</sup> *'''高知安芸''':[[室戸市]]、[[安芸市]]、[[安芸郡 (高知県)|安芸郡]] **人口:5万3576人、面積:1,128.98km<sup>2</sup>、人口密度:47.5人 / km<sup>2</sup> </td> </tr> </table> </div> <div class="NavFrame" style="overflow:auto"> <div class="NavHead">2005年(平成17年) 全交通機関の生活圏別年間流動先の順位</div> <div class="NavContent"><table style="text-align:left"> <tr><td> {|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small" |+2005年(平成17年) 全交通機関の生活圏別年間流動先の順位(県境を越えた移動)(単位:千人)<ref name="旅客純流動データ">[https://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/jyunryuudou/download.html 国土交通省・全国幹線旅客純流動データ]</ref> |- ! nowrap="nowrap" rowspan="2" |出発地→<br>↓目的地<br>順位!!colspan="3"|徳島県!!colspan="2"|香川県!!colspan="5"|愛媛県!!colspan="4"|高知県 |- !徳島!!三好!!南部!!東部!!西部!!松山!!新居浜!!今治!!宇和島!!八幡浜!!中央!!幡多!!高幡!!安芸 |-style="background-color:#fff" !1 |style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>369万5||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>65万3||style="background-color:#fc9"|高知安芸<br>48万9||style="background-color:#cff"|徳島<br>369万6||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>270万2||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>91万9||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>269万4 ||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>13万5||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>122万7||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>7万4||style="background-color:#ffc"|松山<br>92万0||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>122万6||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>22万0||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>48万9 |-style="background-color:#fff" !2 |style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>79万1||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>60万7||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>23万1|| style="background-color:#fcf" nowrap="nowrap" |岡山県南<br>133万8||style="background-color:#cff"|徳島<br>79万0||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>82万1||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>99万5||style="background-color:#fcf"|広島<br>13万5||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>22万0||style="background-color:#fcf"|大分<br>7万3||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>71万9||style="background-color:#ffc"|松山<br>11万4||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>5万7||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>4万5 |-style="background-color:#fff" !3 |style="background-color:#fc9"|高知中央<br>54万8||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>28万4||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>19万5||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>99万2|| style="background-color:#cff" nowrap="nowrap" |徳島三好<br>65万1||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>55万9||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>71万2||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>13万2||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>9万3||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>6万9||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>71万2||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>4万9||style="background-color:#ffc"|松山<br>5万0||style="background-color:#cff"|徳島<br>4万5 |-style="background-color:#fff" !4 |style="background-color:#ffc"|新居浜<br>45万2||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>23万8||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>4万7||style="background-color:#ffc"|松山<br>81万9||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>62万2||style="background-color:#fcf"|広島<br>46万7||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>60万7||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>10万9||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>5万0||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>4万2||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>59万7||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>3万5||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>4万0||style="background-color:#ffc"|松山<br>3万7 |-style="background-color:#fff" !5 |大阪<br>34万0||style="background-color:#ffc"|松山<br>5万4||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>3万9||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>71万9||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>59万7||style="background-color:#cff"|徳島<br>31万2||style="background-color:#cff"|徳島<br>45万2||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>10万5||大阪豊中<br>2万9||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>4万0||style="background-color:#cff"|徳島<br>54万9||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>2万9||style="background-color:#cff"|徳島<br>2万6||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>2万1 |-style="background-color:#fff" !6 |style="background-color:#ffc"|松山<br>31万2||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>2万9||大阪<br>3万5||大阪<br>37万0||style="background-color:#ffc"|松山<br>55万9|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>27万2||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>16万1||style="background-color:#cff"|徳島<br>7万1||style="background-color:#cff"|徳島<br>2万8||style="background-color:#cff"|徳島<br>2万9||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>28万4||style="background-color:#ffc"|今治<br>2万3||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>2万5||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>1万8 |-style="background-color:#fff" !7 | nowrap="nowrap" |東京23区<br>19万9||大阪<br>2万2||神戸<br>2万1|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>32万4||大阪<br>14万9||大阪<br>17万8||大阪<br>14万6||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>5万9||大阪<br>2万5||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>2万6||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>23万1||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>1万3||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>2万5||大阪<br>1万0 |-style="background-color:#fff" !8 |神戸<br>17万9||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>1万3||堺<br>2万1||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>23万7||style="background-color:#ffc"|今治<br>13万1||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>16万8|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>11万3|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>4万4||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>2万3||style="background-color:#fcf"|広島<br>2万2|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>16万8||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>1万3||style="background-color:#ffc"|今治<br>2万4|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>9 |-style="background-color:#fff" !9 |淡路<br>16万0||神戸<br>1万1||style="background-color:#ffc"|松山<br>2万0||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>19万6|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>11万0||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>11万4||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>5万0||大阪<br>4万1||style="background-color:#fcf"|大分<br>2万0||大阪<br>2万1||style="background-color:#fcf" | 岡山県南<br>13万5|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万3||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>1万6 ||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>8 |-style="background-color:#fff" !10 |style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>12万4||大阪豊中<br>1万1|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万9||神戸<br>17万1||神戸<br>8万6||横浜<br>11万4||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>4万7||千葉<br>4万0||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>1万6||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>1万6||大阪<br>12万7||大阪<br>1万3||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万0||style="background-color:#fcf"|福岡<br>6 |-style="background-color:#fff" !11 |堺<br>11万2||愛知豊田<br>9||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>1万6||style="background-color:#fcf"|広島<br>15万0||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>7万4||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>9万0||千葉船橋<br>5万1||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>2万4||style="background-color:#fcf"|広島<br>1万5|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万5||大阪<br>12万7||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万2|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>7||style="background-color:#fcf"|福岡<br>6 |-style="background-color:#fff" !12 |大阪豊中<br>9万4|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>8||大阪豊中<br>1万2||style="background-color:#ffc"|今治<br>13万4||style="background-color:#fcf"|広島<br>7万3||大阪豊中<br>7万2||神戸<br>4万6||横浜<br>2万4||堺<br>1万2||京都<br>1万4||style="background-color:#ffc"|今治<br>10万9||style="background-color:#fcf"|大分佐伯<br>1万2||大阪<br>5||兵庫尼崎<br>4 |-style="background-color:#fff" !13 |京都<br>8万0||大阪<br>7||愛知豊田<br>1万1||大阪豊中<br>10万6||兵庫播磨<br>5万0||style="background-color:#fcf"|福岡<br>7万1||style="background-color:#fcf"|広島<br>4万2||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>2万3|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万1||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>1万3||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>9万3||千葉船橋<br>1万2||大阪豊中<br>5||rowspan="3"|その他<br>3以下 |-style="background-color:#fff" !14 |兵庫尼崎<br>7万8||京都<br>7||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万0||京都<br>10万5||横浜<br>4万9||神戸<br>6万8||堺<br>3万5||神戸<br>2万2||style="background-color:#fcf"|静岡東部<br>9||堺<br>9||style="background-color:#fcf"|広島<br>7万5||style="background-color:#fcf"|福岡<br>1万0||堺<br>4 |-style="background-color:#fff" !15 |兵庫播磨<br>7万7||兵庫尼崎<br>6||兵庫播磨<br>1万0||兵庫尼崎<br>9万4||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>4万2||堺<br>6万3||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>3万5||大阪豊中<br>2万0||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>8||神戸<br>8||神戸<br>7万3||style="background-color:#cff"|徳島<br>9||その他<br>3以下 |- !合計 |882万0||203万2||134万2||1147万0||744万9 ||581万0||682万5||121万5||191万2||59万6||586万1||169万1||55万7||74万4 |- !人口当たり |13.7||40.9||11.7||19.1||18.1||8.9||20.7||6.7||14.4||3.5||10.3||15.7||9.3||12.8 |- !rowspan="2"|うち<br>対四国内 |600万7||186万5||104万9||706万6||559万9||288万6||558万8||50万6||164万7||27万0||428万2||151万3||48万6||66万2 |- |68.4%||91.9%||78.8%||62.4%||75.4%||50.3%||82.0%||41.8%||86.9%||45.4%||73.2%||89.5%||87.4%||88.9% |- !rowspan="2"|うち<br>対大都市 |212万4||11万6||22万9||208万9||85万5||147万6||79万3||32万4||13万1||13万7||101万1||10万8||4万6||5万3 |- |24.2%||5.7%||17.2%||18.4%||11.5%||25.7%||11.6%||26.8%||6.9%||23.0%||17.3%||6.4%||8.3%||7.1% |- !rowspan="2"|うち<br>対他地方 |64万7||4万7||5万1||217万4||96万9||136万8||43万0||37万6||11万2||17万9||55万1||6万6||2万3||2万5 |- |7.4%||2.3%||3.8%||19.2%||13.1%||23.8%||6.3%||31.1%||5.9%||30.1%||9.4%||3.9%||4.1%||3.4% |- !rowspan="2"| !!徳島!!三好!!南部!!東部!!西部!!松山!!新居浜!!今治!!宇和島!!八幡浜!!中央!!幡多!!高幡!!安芸 |- !colspan="3"|徳島県!!colspan="2"|香川県!!colspan="5"|愛媛県!!colspan="4"|高知県 |} *「合計」は生活圏間ではなく県境を越えた人数。 *「人口当たり」は合計を人口で割った数で、この数値が高いほど日常的に県境を越えた交流が多いことを示す。 </td> <td nowrap="nowrap"> ;色分け *{{color|#cff|■}}:徳島県 *{{color|#cf9|■}}:香川県 *{{color|#ffc|■}}:愛媛県 *{{color|#fc9|■}}:高知県 *{{color|#fcf|■}}:その他地方 *{{color|white|■}}:[[三大都市圏]] </td> <td nowrap="nowrap"> ;生活圏区分 - 2005年(平成17年)国勢調査 *'''徳島''':[[徳島市]]、[[鳴門市]]、[[小松島市]]、[[吉野川市]]、[[阿波市]]、[[美馬市]]、[[勝浦郡]]、[[名東郡]]、[[名西郡]]、[[板野郡]]、[[美馬郡]] **人口:64万5900人、面積:1,802.05km<sup>2</sup>、人口密度:421.8人 / km<sup>2</sup> *'''徳島三好''':[[三好市]]、[[三好郡]] **人口:4万9729人、面積:844.03km<sup>2</sup>、人口密度:58.9人 / km<sup>2</sup> *'''徳島南部''':[[阿南市]]、[[那賀郡]]、[[海部郡 (徳島県)|海部郡]] **人口:11万4321人、面積:1,499.25km<sup>2</sup>、人口密度:104.5人 / km<sup>2</sup> *'''香川東部''':[[高松市]]、[[さぬき市]]、[[東かがわ市]]、[[小豆郡]]、[[木田郡]]、[[香川郡]]、[[綾歌郡]]([[宇多津町]]を除く) **人口:60万1432人、面積:782.52km<sup>2</sup>、人口密度:515.7人 / km<sup>2</sup> *'''香川西部''':[[丸亀市]]、[[坂出市]]、[[善通寺市]]、[[観音寺市]]、[[三豊市]]、[[綾歌郡]]([[綾川町]]を除く)、[[仲多度郡]] **人口:41万968人、面積:819.45km<sup>2</sup>、人口密度:873.1人 / km<sup>2</sup> *'''松山''':[[松山市]]、[[伊予市]]、[[東温市]]、[[上浮穴郡]]、[[伊予郡]] **人口:65万3642人、面積:1,540.36km<sup>2</sup>、人口密度:404.8人 / km<sup>2</sup> *'''新居浜''':[[新居浜市]]、[[西条市]]、[[四国中央市]] **人口:33万177人、面積:1,163.43km<sup>2</sup>、人口密度:324.2人 / km<sup>2</sup> *'''今治''':[[今治市]]、[[越智郡]] **人口:18万2081人、面積:450.07km<sup>2</sup>、人口密度:340.6人 / km<sup>2</sup> *'''宇和島''':[[宇和島市]]、[[北宇和郡]]、[[南宇和郡]] **人口:13万3202人、面積:1,049.43km<sup>2</sup>、人口密度:117.3人 / km<sup>2</sup> *'''八幡浜''':[[八幡浜市]]、[[大洲市]]、[[西予市]]、[[喜多郡]]、[[西宇和郡]] **人口:16万8713人、面積:1,473.83km<sup>2</sup>、人口密度:141.8人 / km<sup>2</sup> *'''高知中央''':[[高知市]]、[[南国市]]、[[土佐市]]、[[香南市]]、[[香美市]]、[[長岡郡]]、[[土佐郡]]、[[吾川郡]]、[[高岡郡]]([[佐川町]]、[[越知町]]、[[日高村]]) **人口:57万302人、面積:3,008.75km<sup>2</sup>、人口密度:252.5人 / km<sup>2</sup> *'''高知幡多''':[[宿毛市]]、[[土佐清水市]]、[[四万十市]]、[[幡多郡]] **人口:10万7747人、面積:1,925.88km<sup>2</sup>、人口密度:62.0人 / km<sup>2</sup> *'''高知高幡''':[[須崎市]]、[[高岡郡]](高知中央の区域を除く) **人口:5万9903人、面積:1,041.46km<sup>2</sup>、人口密度:64.2人 / km<sup>2</sup> *'''高知安芸''':[[室戸市]]、[[安芸市]]、[[安芸郡 (高知県)|安芸郡]] **人口:5万8340人、面積:1,128.92km<sup>2</sup>、人口密度:57.0人 / km<sup>2</sup> </td> </tr> </table> </div></div> <div class="NavFrame" style="overflow:auto"> <div class="NavHead">1990年(平成2年) 全交通機関の生活圏別年間流動先の順位</div> <div class="NavContent"><table style="text-align:left"> <tr><td> {|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small" |+1990年(平成2年) 全交通機関の生活圏別年間流動先の順位(県境を越えた移動)(単位:千人){{R|旅客純流動データ}} |- ! nowrap="nowrap" rowspan="2" |出発地→<br>↓目的地<br>順位!!colspan="3"|徳島県!!colspan="2"|香川県!!colspan="5"|愛媛県!!colspan="4"|高知県 |- !徳島!!三好!!南部!!東部!!西部!!松山!!新居浜!!今治!!宇和島!!八幡浜!!中央!!幡多!!高幡!!安芸 |-style="background-color:#fff" !1 |style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>131万6||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>43万8||style="background-color:#fc9"|高知安芸<br>26万1||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>221万8||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>137万8||style="background-color:#fcf"|広島<br>35万6||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>170万0||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>10万4||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>106万0||style="background-color:#fcf"|大分<br>11万5||style="background-color:#ffc"|松山<br>38万2||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>90万6||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>10万1||style="background-color:#cff"|徳島南部<br>19万2 |-style="background-color:#fff" !2 |淡路<br>71万6||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>2万77||style="background-color:#ffc"|松山<br>4万7||style="background-color:#cff"|徳島<br>144万0||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>91万5||大阪<br>31万4||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>40万7||style="background-color:#fcf"|広島<br>10万0||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>12万5||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>6万5||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>24万0||style="background-color:#ffc"|松山<br>11万9||style="background-color:#ffc"|松山<br>3万3||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>5万6 |-style="background-color:#fff" !3 |大阪<br>41万3||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>26万5||大阪<br>4万0||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>60万2||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>48万5||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>31万1||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>35万0||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>9万3 ||style="background-color:#fc9"|高知高幡<br>8万7||style="background-color:#fcf"|広島<br>3万7|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>18万8||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>7万1||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>3万0||大阪<br>1万6 |-style="background-color:#fff" !4 |style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>25万4||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>13万3||大阪豊中<br>1万8||大阪<br>42万6||style="background-color:#cff"|徳島<br>23万7||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>31万1||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>14万8||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>7万5||style="background-color:#fcf"|大分<br>3万2|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>2万4||大阪<br>17万5||style="background-color:#ccff99"| 香川西部<br>4万9||style="background-color:#fcf"|大分日田<br>1万5||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>1万4 |-style="background-color:#fff" !5 | nowrap="nowrap" |東京23区<br>24万8||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>10万0||兵庫尼崎<br>1万8|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>37万5||大阪<br>21万5||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>29万5||style="background-color:#fcf"|石川加賀<br>8万4||大阪<br>5万3||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>2万6||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>2万1||style="background-color:#cff"|徳島<br>16万7||style="background-color:#fcf"|大分<br>4万8|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万2||兵庫尼崎<br>1万2 |-style="background-color:#fff" !6 |style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>19万7||淡路<br>4万4||奈良<br>1万6||style="background-color:#fcf"|広島<br>37万3||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>21万0||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>23万6||大阪<br>8万0|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>4万9||style="background-color:#fcf"|広島<br>2万5||大阪<br>1万6||style="background-color:#ffc"|今治<br>12万9||style="background-color:#fcf"|佐世保<br>3万0||大阪<br>1万0||style="background-color:#fcf"|大分<br>9 |-style="background-color:#fff" !7 |style="background-color:#ffc"|松山<br>18万5||京都北部<br>2万9||東大阪<br>1万5||style="background-color:#ffc"|松山<br>26万4||style="background-color:#ffc"|松山<br>15万9|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>22万9||style="background-color:#fcf"|広島<br>8万0||神戸<br>4万2||大阪<br>2万3||神戸<br>1万5||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>12万4||大阪<br>2万9||style="background-color:#fcf"|静岡中部<br>9||東大阪<br>8 |-style="background-color:#fff" !8 |岐阜加茂<br>13万7||style="background-color:#ffc"|松山<br>2万2||神戸<br>1万3||神戸<br>19万8||東大阪<br>13万8||style="background-color:#fcf"|福岡<br>21万1||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>6万2||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>4万1||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>2万2||style="background-color:#fcf"|沖縄南部<br>1万5||神戸<br>12万3|| 福岡<br>2万0||style="background-color:#fcf"|大分<br>8||神戸<br>7 |-style="background-color:#fff" !9 |神戸<br>12万7|| 大阪豊中<br>1万1||淡路<br>1万3||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>18万2|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>12万5||兵庫播磨<br>16万5|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>5万3||大阪豊中<br>3万8||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>1万5||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>1万4||style="background-color:#ccff99"|香川西部<br>10万6||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>1万8||大阪豊中<br>6||style="background-color:#fcf"|沖縄南部<br>7 |-style="background-color:#fff" !10 |和歌山<br>11万4||大阪<br>9||style="background-color:#ccff99"|香川東部<br>1万3||style="background-color:#ffc"|今治<br>16万4||style="background-color:#fcf"|広島<br>9万4||京都<br>12万6||堺<br>5万2||京都<br>2万8|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万2||style="background-color:#fcf"|北九州<br>1万2||style="background-color:#fcf"|広島<br>10万3||style="background-color:#ffc"|八幡浜<br>1万4||style="background-color:#fcf"|岩手盛岡<br>6||大阪豊中<br>7 |-style="background-color:#fff" !11 |兵庫尼崎<br>11万0|| nowrap="nowrap" |東京多摩<br>6||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>1万2||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>16万3||大阪豊中<br>8万1||神戸<br>11万7||大阪豊中<br>4万1||style="background-color:#fcf"|大分<br>2万6||style="background-color:#fcf"|宮崎<br>1万0||堺<br>1万0 ||style="background-color:#ffc"|新居浜<br>9万8|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万0||style="background-color:#fcf"|鳥取西部<br>6|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>6 |-style="background-color:#fff" !12 |大阪豊中<br>10万6||堺<br>5||style="background-color:#fc9"|高知中央<br>1万2||兵庫尼崎<br>14万9||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>7万7||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>11万5||奈良<br>3万7||奈良<br>2万4||北九州<br>9||東大阪<br>1万0||style="background-color:#ffc"|宇和島<br>9万5||北九州<br>8||堺<br>4||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>5 |-style="background-color:#fff" !13 |堺<br>9万6||東大阪<br>4|| nowrap="nowrap" |東京23区<br>1万0||大阪豊中<br>14万1||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>6万8||淡路<br>10万8||style="background-color:#cff"|徳島<br>3万6||堺<br>1万9||堺<br>8||京都<br>1万0||style="background-color:#cff"|徳島三好<br>8万5||rowspan="3"|その他<br>7以下 ||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>4||奈良<br>5 |-style="background-color:#fff" !14 |東大阪<br>9万6||兵庫尼崎<br>4||堺<br>1万0||兵庫播磨<br>11万9||兵庫播磨<br>6万5||style="background-color:#cff"|徳島<br>9万9||兵庫尼崎<br>3万2||style="background-color:#fcf"|鳥取中部<br>1万6||奈良<br>6||千葉船橋<br>9||style="background-color:#fcf"|熊本<br>6万5|| style="background-color:#ffc"|今治<br>4||埼玉浦和<br>5 |-style="background-color:#fff" !15 |京都<br>7万4||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>4||style="background-color:#ffc"|今治<br>8||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>10万6||style="background-color:#fc9"|高知幡多<br>5万7||大阪豊中<br>9万7||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>3万0||兵庫尼崎<br>1万6||style="background-color:#fcf"|広島備後<br>6||style="background-color:#fcf"|岡山県南<br>8||大阪豊中<br>6万2||その他<br>3以下||その他<br>4以下 |- !合計 |524万4||137万5||59万4||928万7||506万7||474万2||347万2||90万4||153万5||47万1||333万6||143万6||29万0||38万6 |- !人口当たり |8.1||23.7||4.8||15.4||12.0||7.6||10.2||4.5||9.8||2.5||5.9||12.0||4.0||5.4 |- !rowspan="2"|うち<br>対四国内 |188万0||113万5||35万8||290万9||266万3||112万7||256万6||17万2||132万0||10万2||134万5||111万0||16万8||26万6 |- |35.9%||82.5%||60.3%||31.3%||52.6%||23.8%||73.9%||19.0%||86.0%||21.7%||40.3%||77.3%||57.9%||68.9% |- !rowspan="2"|うち<br>対大都市 |265万8||13万1||20万4||264万1||102万2||186万6||46万4||35万1||8万3||13万5||111万2||11万6||5万1||8万6 |- |50.7%||9.5%||34.3%||28.4%||20.2%||39.4%||13.4%||38.8%||5.4%||28.7%||33.3%||8.1%||17.6%||22.3% |- !rowspan="2"|うち<br>対他地方 |70万6||10万9||3万2||373万7||138万2||174万9||44万2||38万1||13万2||23万4||87万9||21万0||7万1||3万4 |- |13.5%||7.9%||5.4%||40.2%||27.3%||36.9%||12.7%||42.1%||8.6%||49.7%||26.3%||14.6%||24.5%||8.8% |- !rowspan="2"| !!徳島!!三好!!南部!!東部!!西部!!松山!!新居浜!!今治!!宇和島!!八幡浜!!中央!!幡多!!高幡!!安芸 |- !colspan="3"|徳島県!!colspan="2"|香川県!!colspan="5"|愛媛県!!colspan="4"|高知県 |} *「合計」は生活圏間ではなく県境を越えた人数。 *「人口当たり」は合計を人口で割った数で、この数値が高いほど日常的に県境を越えた交流が多いことを示す。 </td> <td nowrap="nowrap"> ;色分け *{{color|#cff|■}}:徳島県 *{{color|#cf9|■}}:香川県 *{{color|#ffc|■}}:愛媛県 *{{color|#fc9|■}}:高知県 *{{color|#fcf|■}}:その他地方 *{{color|white|■}}:[[三大都市圏]] </td> <td nowrap="nowrap"> ;生活圏区分 - 1990年(平成2年)国勢調査 *'''徳島''':[[徳島市]]、[[鳴門市]]、[[小松島市]]、[[勝浦郡]]、[[名東郡]]、[[名西郡]]、[[板野郡]]、[[美馬郡]]、[[麻植郡]]、[[阿波郡]] **人口:64万9260人、面積:1800.22km<sup>2</sup>、人口密度:360.7人 / km<sup>2</sup> *'''徳島三好''':[[三好郡]] **人口:5万8127人、面積:844.19km<sup>2</sup>、人口密度:68.9人 / km<sup>2</sup> *'''徳島南部''':[[阿南市]]、[[那賀郡]]、[[海部郡 (徳島県)|海部郡]] **人口:12万4211人、面積:1498.81km<sup>2</sup>、人口密度:82.9人 / km<sup>2</sup> *'''香川東部''':[[高松市]]、[[大川郡]]、[[小豆郡]]、[[木田郡]]、[[香川郡]]、[[綾歌郡]]([[綾歌町]]、[[飯山町 (香川県)|飯山町]]、[[宇多津町]]を除く) **人口:60万2124人、面積:1056.38km<sup>2</sup>、人口密度:570.0人 / km<sup>2</sup> *'''香川西部''':[[丸亀市]]、[[坂出市]]、[[善通寺市]]、[[観音寺市]]、[[綾歌郡]]([[綾上町]]、[[綾南町]]、[[国分寺町 (香川県)|国分寺町]]を除く)、[[仲多度郡]]、[[三豊郡]] ** 人口:42万1288人、面積:818.48km<sup>2</sup>、人口密度:514.7人 / km<sup>2</sup> *'''松山''':[[松山市]]、[[伊予市]]、[[北条市]]、[[温泉郡]]、[[上浮穴郡]]、[[伊予郡]] **人口:62万2142人、面積:1679.39km<sup>2</sup>、人口密度:370.5人 / km<sup>2</sup> *'''新居浜''':[[新居浜市]]、[[西条市]]、[[川之江市]]、[[伊予三島市]]、[[東予市]]、[[宇摩郡]]、[[周桑郡]] **人口:34万1933人、面積:1162.54km<sup>2</sup>、人口密度:294.1人 / km<sup>2</sup> *'''今治''':[[今治市]]、[[越智郡]] **人口:20万1946人、面積:449.10km<sup>2</sup>、人口密度:449.7人 / km<sup>2</sup> *'''宇和島''':[[宇和島市]]、[[北宇和郡]]、[[南宇和郡]] **人口:15万6824人、面積:1049.01km<sup>2</sup>、人口密度:149.5人 / km<sup>2</sup> *'''八幡浜''':[[八幡浜市]]、[[大洲市]]、[[喜多郡]]、[[西宇和郡]]、[[東宇和郡]] **人口:19万2180人、面積:1333.53 km<sup>2</sup>、人口密度:144.1人 / km<sup>2</sup> *'''高知中央''':[[高知市]]、[[南国市]]、[[土佐市]]、[[長岡郡]]、[[土佐郡]]、[[吾川郡]]、[[高岡郡]]([[佐川町]]、[[越知町]]、[[日高村]]) **人口:56万0814人、面積:2902.21km<sup>2</sup>、人口密度:193.2人 / km<sup>2</sup> *'''高知幡多''':[[中村市]]、[[宿毛市]]、[[土佐清水市]]、[[幡多郡]] **人口:12万0163人、面積:1925.37 km<sup>2</sup>、人口密度:62.4人 / km<sup>2</sup> *'''高知高幡''':[[須崎市]]、[[高岡郡]](高知中央の区域を除く) **人口:7万2775人、面積:1147.53km<sup>2</sup>、人口密度:63.4人 / km<sup>2</sup> *'''高知安芸''':[[室戸市]]、[[安芸市]]、[[安芸郡 (高知県)|安芸郡]] **人口:7万1282人、面積:1128.84km<sup>2</sup>、人口密度:63.1人 / km<sup>2</sup> </td> </tr> </table> </div></div> この他にも、[[日本の高速道路|高速道路]]の最大志向先(最も多くの車両が目指す目的地)は四国各県とも高松であり、四国地方では高松を中心とした相互交流が根付いている。このように地域ブロックの代表的な都市に人の流れが集中し、中心性を高める傾向は年々顕著になっている<ref name="ブロック集中">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/monitoring/system/contents/09/9-2-4.pdf 国土交通省・圏域形成の動向]}}</ref>(詳細は[[#高速道路]]を参照)。 四国島内の交流に関して、高速道路の[[エックスハイウェイ]]化以後は四国アイランドリーグ(現・[[四国アイランドリーグplus]])の発足などによって、より一体感を強める傾向にあり、各県それぞれの歴史や役割を生かした連携を深める段階に入っている。今後、四国4県が一つの地域として一体となった文化・経済活動や観光誘致が進んでいくと予想されている(「青い国四国」[[キャンペーン]]などの実績もある)。 === 都市圏 === [[都市雇用圏]]に拠る「都市圏」は以下の通り<ref>{{Cite web|和書 |date = 2015-02 |url = http://www.data.go.jp/data/dataset/meti_20151013_0075 |title = 地域経済の将来動向分析に関する調査研究 |format = |publisher = 経済産業省 |accessdate = 2018-03-17 }}</ref>。※[[2010年]](平成22年)[[国勢調査]]基準 #[[高松都市圏]]:{{郡データ換算|香川県|高松市|坂出市|丸亀市|善通寺市|さぬき市|東かがわ市|三木町|宇多津町|綾川町|琴平町|多度津町|まんのう町|宇多津町}} #[[松山圏|松山都市圏]]:{{郡データ換算|愛媛県|松山市|伊予市|東温市|松前町|砥部町}} #[[徳島都市圏]]:{{郡データ換算|徳島県|徳島市|鳴門市|小松島市|阿南市|吉野川市|阿波市|勝浦町|佐那河内村|石井町|神山町|那賀町|美波町|松茂町|北島町|藍住町|板野町|上板町}} #[[高知都市圏]]:{{郡データ換算|高知県|高知市|南国市|土佐市|香南市|香美市|いの町|佐川町|越知町|日高村}} #[[新居浜都市圏]]:{{郡データ換算|愛媛県|新居浜市|西条市}} #[[今治都市圏]]:{{郡データ換算|愛媛県|今治市}} #[[宇和島圏|宇和島都市圏]]:{{郡データ換算|愛媛県|宇和島市|松野町|鬼北町}} #[[宇摩圏|四国中央都市圏]]:{{郡データ換算|愛媛県|四国中央市}} #[[四万十都市圏]]:{{郡データ換算|高知県|四万十市|宿毛市|大月町|三原村|黒潮町}} #[[八幡浜・大洲圏|八幡浜都市圏]]:{{郡データ換算|愛媛県|八幡浜市|伊方町}} 国勢調査において[[総務省]][[統計局]]の定義する[[都市圏 (総務省)|都市圏]]としては松山都市圏が四国で唯一掲載されている。その他、[[東瀬戸経済圏]](瀬戸内をはさむ地域を経済的に一体としてみる統計上の呼称)などがある。 2000年(平成12年)調査から2005年(平成17年)調査では各都市圏の枠組みが変化する事例が見られた。具体的には、平成の大合併によって郊外自治体が中心市に編入されたり、丸亀都市圏のようにモータリゼーションの浸透による他都市の郊外化で都市圏自体が消滅したり、逆に西条都市圏のように既存の都市圏から離脱して新たな都市圏を形成する自治体も見られた。 === 主要都市 === ;四国地方4県の主要都市を掲載する。 {| class="infobox" style="text-align:center; width:100%; margin-right:10px; font-size:100%" ! colspan="10" style="background:#e9e9e9; padding:0.3em; line-height:1.2em;"| '''四国地方の主要都市''' |- !rowspan=30| [[File:Views from Matsuyama Castle (Iyo) 20170123-5.jpg|150px]]<br /><small>[[ファイル:Flag of Matsuyama, Ehime.svg|border|25x20px]] [[松山市]]</small><br />[[File:Takamatsu-M3687.jpg|150px]]<br /><small>[[ファイル:Flag of Takamatsu, Kagawa.svg|border|25x20px]] [[高松市]]</small><br /> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 !rowspan=21| [[File:View from Kochi Castle Keep Tower 20170122-1.jpg|150px]]<br /><small>[[ファイル:Flag of Kochi, Kochi.svg|border|25x20px]] [[高知市]]</small><br />[[File:Tokushima City Shiroyama distant view.JPG|150px]]<br /><small>[[ファイル:Flag of Tokushima, Tokushima.svg|border|25x20px]] [[徳島市]]</small><br /> |- | style="background:#f0f0f0"| 1 ||align=left | [[ファイル:Flag of Matsuyama, Ehime.svg|border|25x20px]] '''[[松山市]]''' || {{Flag|愛媛県}} || align=right|{{自治体人口/愛媛県|松山市}}人 || 11 ||align=left | [[ファイル:Flag of Anan, Tokushima.svg|border|25x20px]] '''[[阿南市]]''' || {{Flag|徳島県}} || align=right|{{自治体人口/徳島県|阿南市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 2 ||align=left | [[ファイル:Flag of Takamatsu, Kagawa.svg|border|25x20px]] '''[[高松市]]''' || {{Flag|香川県}} || align=right|{{自治体人口/香川県|高松市}}人 || 12 ||align=left | [[ファイル:Flag of Mitoyo, Kagawa.svg|border|25x20px]] '''[[三豊市]]''' || {{Flag|香川県}} || align=right|{{自治体人口/香川県|三豊市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 3 ||align=left | [[ファイル:Flag of Kochi, Kochi.svg|border|25x20px]] '''[[高知市]]''' || {{Flag|高知県}} || align=right|{{自治体人口/高知県|高知市}}人 || 13 ||align=left | [[ファイル:Flag of Kanonji, Kagawa.svg|border|25x20px]] '''[[観音寺市]]''' || {{Flag|香川県}} || align=right|{{自治体人口/香川県|観音寺市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 4 ||align=left | [[ファイル:Flag of Tokushima, Tokushima.svg|border|25x20px]] '''[[徳島市]]''' || {{Flag|徳島県}} || align=right|{{自治体人口/徳島県|徳島市}}人 || 14 ||align=left | [[ファイル:Flag of Naruto, Tokushima.svg|border|25x20px]] '''[[鳴門市]]''' || {{Flag|徳島県}} || align=right|{{自治体人口/徳島県|鳴門市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 5 ||align=left | [[ファイル:Flag of Imabari Ehime.svg|border|25x20px]] '''[[今治市]]''' || {{Flag|愛媛県}} || align=right|{{自治体人口/愛媛県|今治市}}人 || 15 ||align=left | [[ファイル:Flag of Sakaide, Kagawa.svg|border|25x20px]] '''[[坂出市]]''' || {{Flag|香川県}} || align=right|{{自治体人口/香川県|坂出市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 6 ||align=left | [[ファイル:Flag of Niihama, Ehime.svg|border|25x20px]] '''[[新居浜市]]''' || {{Flag|愛媛県}} || align=right|{{自治体人口/愛媛県|新居浜市}}人 || 16 ||align=left | [[ファイル:Flag of Sanuki, Kagawa.svg|border|25x20px]] '''[[さぬき市]]''' || {{Flag|香川県}} || align=right|{{自治体人口/香川県|さぬき市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 7 ||align=left | [[ファイル:Flag of Marugame, Kagawa.svg|border|25x20px]] '''[[丸亀市]]''' || {{Flag|香川県}} || align=right|{{自治体人口/香川県|丸亀市}}人 || 17 ||align=left | [[ファイル:Flag of Nankoku, Kochi.svg|border|25x20px]] '''[[南国市]]''' || {{Flag|高知県}} || align=right|{{自治体人口/高知県|南国市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 8 ||align=left | [[ファイル:Flag of Saijō, Ehime.svg|border|25x20px]] '''[[西条市]]''' || {{Flag|愛媛県}} || align=right|{{自治体人口/愛媛県|西条市}}人 || 18 ||align=left | [[ファイル:Flag of Ōzu, Ehime.svg|border|25x20px]] '''[[大洲市]]''' || {{Flag|愛媛県}} || align=right|{{自治体人口/愛媛県|大洲市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 9 ||align=left | [[ファイル:Flag of Shikokuchūō, Ehime.svg|border|25x20px]] '''[[四国中央市]]''' || {{Flag|愛媛県}} || align=right|{{自治体人口/愛媛県|四国中央市}}人 || 19 ||align=left | [[ファイル:Flag of Yoshinogawa, Tokushima.svg|border|25x20px]] '''[[吉野川市]]''' || {{Flag|徳島県}} || align=right|{{自治体人口/徳島県|吉野川市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 10 ||align=left | [[ファイル:Flag of Uwajima, Ehime.svg|border|25x20px]] '''[[宇和島市]]''' || {{Flag|愛媛県}} || align=right|{{自治体人口/愛媛県|宇和島市}}人 || 20 ||align=left | [[ファイル:Flag of Komatsushima, Tokushima.svg|border|25x20px]] '''[[小松島市]]''' || {{Flag|徳島県}} || align=right|{{自治体人口/徳島県|小松島市}}人 |} {{Clear}} 四国には飛び抜けて大きな都市はないが、4つの[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]に人口がある程度集中し、各県における[[プライメイトシティ]]となっている。 その他は中規模な都市であり、人口10万人を超える市でさえ長らく新居浜市と今治市の2都市しかなかった。 : [[平成の大合併]]の結果、松山市が50万人、高松市が40万人の大台に乗り、新たに西条市と丸亀市が10万人を超え、今治市も17万人に増大した。 しかし、人口動態は松山市と高松市と丸亀市が横ばいであるものの、その他の都市は、大きく減少してしまっている。 ;[[政令指定都市]] *該当市無し ;[[中核市]] *[[松山市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛媛県|松山市}}}}人)・[[高松市]]({{formatnum:{{自治体人口/香川県|高松市}}}}人)・[[高知市]]({{formatnum:{{自治体人口/高知県|高知市}}}}人) ;[[特例市|施行時特例市]] *該当市無し ;その他 上記以外の県庁所在地 *[[徳島市]]({{formatnum:{{自治体人口/徳島県|徳島市}}}}人) === 各県の表示順 === 各県の表示順は以下のようにさまざまな表示順が存在する。(当事典では地方公共団体コードの表示順を使用) *[[全国地方公共団体コード]]での表記。これが主に公式に用いられる。 **徳島県 (36), 香川県 (37), 愛媛県 (38), 高知県 (39) の順。 *[[宇高連絡船]]開設以降、長年に亙って香川県が四国の玄関口であったという理由で、香川始まりの表記 **香川県、徳島県、高知県、愛媛県の順。- 時計回り([[日本の郵便番号|郵便番号]]上二桁が順に76〜79) **香川県、愛媛県、高知県、徳島県の順。- 反時計回り([[エヌ・ティ・ティ・ドコモ四国]]など) **香川県、徳島県、愛媛県、高知県の順。- 北から **香川県、愛媛県、徳島県、高知県の順。- 北からを意図したが、愛媛県と徳島県の位置関係を誤解したのかもしれない。 *4県庁所在地の人口規模順 **愛媛県、香川県、高知県、徳島県の順。 *その他 **愛媛県、香川県、徳島県、高知県の順。- 時計回り([[NHK松山放送局]]の天気予報) === 四国の「中心」 === [[高松市]]と[[松山市]]の間では以前から「四国の中心都市」という座を巡って論争が繰り返されているが、特に近年は[[道州制]]に伴う[[州都]](道都。以下では「道都」と表記する)の誘致に関連した論争が激化している。以下の都市がそれぞれ中心とされ、競合している。(→[[四国の道州制論議]]、[[日本の道州制論議]]) ==== 四国の中央 ==== ; 徳島県[[三好市]] : 昔から[[交通]]の要衝であったことから「四国のへそ」と呼ばれる。[[三好市]][[池田町 (徳島県)|池田町]]を縦断する[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]には、それに因んだ名称の[[橋]]が架かっている([[池田へそっ湖大橋]]、[[国道32号|四国中央橋]]など)。三好市[[山城町 (徳島県)|山城町]]では、高知県から流れてきた吉野川に、愛媛県から流れて来た[[銅山川 (四国)|銅山川]]が合流する。[[昭和]]初期には[[タバコ]]産業で繁栄しており、四国を代表する都市の一つであった。 ; 愛媛県[[四国中央市]][[ファイル:Iyo-Mishima view.jpg|サムネイル|240px|四国中央市(旧川之江市地区)の市街地]] : 四国4県庁所在地を結ぶ[[高速道路]]網・[[エックスハイウェイ]]のX字が交差する位置に当たる点、徳島と松山から等距離に位置する点、また合併当時、愛媛県を含む4県と接する唯一の自治体であった点から、合併の際に命名された(現在は三好市も同様に四国4県と接する自治体である)。将来、道州制が施行された際の道都を目指している。また、四国中央市に隣接し、より大きな人口を持つ愛媛県新居浜市も州都を目指している。 ==== 四国の玄関 ==== ; 徳島県[[鳴門市]][[ファイル:Ohnaruto Bridge.jpg|サムネイル|240px|大鳴門橋]] : 明石海峡大橋開通後、[[鳴門海峡]]に架かる[[大鳴門橋]]の交通量は瀬戸大橋を上回るようになり、新たな四国の玄関としての側面を持ち始めている。3ルートから四国入りする場合、兵庫以西(中国・九州)と兵庫以東(前者以外)の人口を比べると17%:83%であり、圧倒的に神戸鳴門ルートを選択する場面が多くなる。[[神戸淡路鳴門自動車道]]の全通直後では、[[鳴門インターチェンジ|鳴門IC]]付近にある徳島トラックステーションを利用する[[貨物自動車|トラック]]の増加が目立った。また京阪神方面への[[高速バス]]は一端は年々増加、屈指の[[ドル箱]]路線までに成長していたが、近年は[[ETC割引制度#生活対策|ETC大幅割引]]の影響で減便・廃止が出始めている<ref name="T20100115">[http://www.topics.or.jp/localNews/news/2010/01/2010_126352033565.html 鳴門-阪神線21日廃止 高速バス路線で初、「1000円」影響]{{リンク切れ|date=2015年2月}}([[徳島新聞]] [[2010年]][[1月15日]])</ref><ref name="A20100116">[http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000001001160003 高速バス廃止相次ぐ 「上限千円」が影響]{{リンク切れ|date=2015年2月}}([[朝日新聞]] 2010年[[1月16日]])</ref><ref name="T20100122">{{cite | url = http://www.topics.or.jp/localNews/news/2010/01/2010_126412346131.html | title = 鳴門-阪神線が廃止 高速バス、他社も路線削減の動き | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100126095138/http://www.topics.or.jp/localNews/news/2010/01/2010_126412346131.html | archivedate=2010年1月26日 | publisher = 徳島新聞 | date = 2010-01-22 }}</ref>。近年では、四国の高速道路網が充実してきたことから、松山市、[[高知市]]や高松市を出発して[[京阪神]]や[[首都圏 (日本)|首都圏]]へ向かう高速バスや[[農産物]]を積んだトラックが、鳴門を通過するケースが顕著になってきた。今後、徳島県内の高速道路の整備や4車線化が進めば、鳴門が四国の玄関口としてさらに重要な場所になる可能性もある。なお、宇高連絡船が開設される以前の本四間の移動は、[[大阪府]]の[[深日]]から船で[[淡路島]]の[[洲本市]]へ渡り、[[淡路交通|淡路鉄道]]などを利用して洲本から福良まで淡路島内を移動、福良から船や[[フェリー]]で鳴門へ渡るというのが最も一般的なルートであった(福良・鳴門間は日本最古のフェリー航路)。そういう意味では「鳴門が新たな四国の玄関口になった」というよりも、「鳴門が再び四国の玄関口になった」といえる。 [http://www.hsba.go.jp/traffic.htm 本州四国連絡橋公団の交通量のページ] ; 香川県[[坂出市]]、[[宇多津町]][[ファイル:Great Seto Bridge-Rikujyo01.jpg|サムネイル|240px|瀬戸大橋と、袂に広がる番の洲工業地帯(坂出市)]] : 瀬戸大橋開通で、高松に代わる新たな四国の玄関口として注目された。橋の開通と併せて、[[新宇多津都市]]などの大規模開発が当時の[[バブル景気]]の中で進められたが、その後の[[明石海峡大橋]]の開通で、自動車による流動が[[神戸淡路鳴門自動車道|神戸鳴門ルート]]に移動する傾向が見られている。しかし鉄道では現在も四国の玄関として、車窓では高層ビルも姿を見せている。 ; 愛媛県[[今治市]] : 上記2ルートに比べ本四間県境断面での交通量は劣るが、[[瀬戸内しまなみ海道]]によって本州と接続している。また、しまなみ海道以外にも[[安芸灘とびしま海道]]が広島県との県境断面を有しており、四国で唯一本州に至る道路を複数持つ。古くは瀬戸内海の航路の中心地として栄えたが、本四架橋の建設、航路の再編などにより港の付近が活力を失っている。また、大規模な合併により、周辺部は過疎の進行が激しい。人口は四国内では大きい方で、県庁所在地を除く自治体としては最大、また工業出荷額も四国最大である。[[海運]]・[[造船]]業は国内有数の規模がある。 ==== 四国最大の都市 ==== ; 香川県[[高松市]][[ファイル:Takamatsu symbol tower05s3000.jpg|サムネイル|240px|旧高松桟橋駅構内を再開発した高松市のサンポート地区]] : [[本州]]と近距離にあることや、かつて[[宇高連絡船]]が運航していたことから、現在でも[[高等裁判所]]や[[高等検察庁]]などの[[官庁]]の[[地方支分部局]](四国を管轄する出先機関)のほとんどが集まっている(一部[[松山市]]や[[高知市]]に所在する)。また、四国全域を営業区域とする[[四国電力]]や[[四国旅客鉄道|JR四国]]などの企業の本社や、全国的な大企業の四国本社・支社・支店なども高松市に立地することが多い。しかし、[[1988年]](昭和63年)[[4月10日]]の[[瀬戸大橋]]開通や[[1998年]](平成10年)[[4月5日]]の[[明石海峡大橋]]の開通による物流網の変化で、四国の玄関口としての機能は変化しつつあり、官庁や企業の管轄エリアが[[中国・四国地方]]に拡大した結果、高松における拠点が縮小傾向にある。 : 近年{{いつ|date=2015年4月}}では、[[サンポート高松]]建設や[[高松中央商店街|丸亀町商店街]]の[[都市再開発|再開発]]事業での『[[丸亀町グリーン]]』の建設、[[道州制]]施行後の州都の誘致によって、拠点都市の座を確固たるものにしようとしている。平成の大合併時には周辺の町を編入し人口42万を抱える都市となり、[[都市雇用圏]]における都市圏人口も四国最大の84万人である([[中国・四国地方|中四国]]においても第3位の人口規模)。また、[[栗林公園]]は[[ミシュランガイド#観光ガイド|『ミシュラン・グリーン・ガイド・ジャポン』]]に最高評価の3つ星に選定されている。 ; 愛媛県[[松山市]][[ファイル:Matsuyamashi080602.JPG|サムネイル|240px|松山市の中心部(一番町)]] : [[夏目漱石]]の小説「[[坊っちゃん]]」の舞台である松山市は、元より四国最大の人口を抱える都市であったが、平成の大合併により人口51万人を突破しており四国で唯一、[[総務省]][[統計局]]により[[都市圏 (総務省)|都市圏]]と規定された[[松山都市圏]](72万人)を形成している([[中国・四国地方|中四国]]においても第3位の人口規模)。国の出先機関としては[[四国総合通信局]]が存在し、これに関連して企業分野においてもNTTグループの四国支店、日本郵便グループの四国支店、[[NHK松山放送局]](四国地方の基幹局)などが立地している。 : [[松山空港]]の旅客利用者数・貨物取扱数・運航路線数は最多であり、[[中四国地方]]で見た場合も最多となっている<ref>{{Cite press release | 和書 | title = 管内空港の利用状況概況集計表(平成26年(2014年)度速報値) | publisher = 国土交通省大阪航空局 | url = https://ocab.mlit.go.jp/about/total/report/pdf/h26syuukei.pdf | format = PDF | accessdate = 2017-10-31 }}</ref>。鉄道駅における利用者数もJR四国・私鉄を含めて[[伊予鉄道]]の[[松山市駅]]が四国最多となっており、松山市における明確な拠点を形成している。海上交通も盛んで、[[松山港]]には、広島・九州各地から旅客船が就航している<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.kankoko.com/contents/timetable.html | title = 時刻表 >>松山観光港ターミナル | publisher = [[松山観光港]] | accessdate = 2015-11-08 }}</ref>。 : また観光面においては、[[ミシュランガイド#観光ガイド|『ミシュラン・グリーン・ガイド・ジャポン』]]において最高評価の3つ星に選定された、日本最古の[[道後温泉本館]]<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.mcvb.jp/kankou/dougoonsen.html | title = 道後温泉|歴史&文化|観光情報|公益財団法人 松山観光コンベンション協会 ~笑顔あふれるパワースポット松山へようこそ!~ | accessdate=2017-10-31 | publisher = 公益財団法人 松山観光コンベンション協会 }}</ref><ref group="注">道後温泉自体も2つ星に選定されている。</ref>や、2つ星に選定されている[[現存天守#現存12天守|現存12天守]]の一つである[[松山城 (伊予国)|松山城]]などで有名な[[観光都市]]があり、国からは法令で[[国際観光文化都市]]の指定を受けている。 : 2010年代になってからは市街地の再開発が行われ、ホテルの建設<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20150520/news20150520530.html |title = 松山・大街道ラフォーレ跡 新ホテル8月8日開業 |publisher = [[愛媛新聞]] |accessdate = 2015-11-08 }}</ref>や[[松山駅 (愛媛県)|JR松山駅]]周辺の高架整備<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.pref.ehime.jp/chu52146/tetsudoukoukahp/tetsudoukouka/ |title = 松山外環状道路 |publisher = 松山河川国道事務所 |accessdate = 2015-11-08 }}</ref>、[[松山外環状道路|外環状道路]]の延伸<ref>{{Cite web|和書 |url = https://www.skr.mlit.go.jp/matsuyam/road/sotokanjou/ |title = JR松山駅付近連続立体交差事業 |publisher = 愛媛県 |accessdate = 2015-11-08 }}</ref>が進んでいる。また、路面電車の[[松山空港]]方面への延伸計画<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.city.matsuyama.ehime.jp/shisei/machizukuri/matsuyamaeki/totikukakuseiri/densya.html#cms42C44 |title = 幹線道路・路面電車計画 |publisher = [[松山市]] |accessdate = 2015-11-08 }}</ref>が本格化するなど四国最大の観光都市としての都市機能充実が図られている。 == 教育 == === 国立大学 === *[[徳島大学]] *[[鳴門教育大学]] *[[香川大学]] *[[愛媛大学]] *[[高知大学]] === 公立大学 === *[[香川県立保健医療大学]] *[[愛媛県立医療技術大学]] *[[高知工科大学]] *[[高知県立大学]] === 私立大学 === *[[四国大学]] *[[徳島文理大学]] *[[四国学院大学]] *[[高松大学]] *[[聖カタリナ大学]] *[[松山大学]] *[[松山東雲女子大学]] *[[高知学園大学]] === 高等専門学校 === *[[阿南工業高等専門学校]] *[[香川高等専門学校]] *[[新居浜工業高等専門学校]] *[[弓削商船高等専門学校]](商船高専) *[[高知工業高等専門学校]] == 交通 == {{See also|Category:四国地方の交通}} 四国は、古くから、[[畿内]]から地理的には比較的近距離に位置しながら、[[船]]での移動を余儀なくされていた。かつては[[大阪府]]の[[深日]]から船で[[淡路島]]の[[洲本市]]へ渡り、[[淡路鉄道]]などを利用して洲本から[[福良_(南あわじ市)|福良]]まで淡路島内を移動、福良から船やフェリーで、[[鳴門市|鳴門]]へ渡るというのが最も一般的なルートであった{{要出典|date=2015年4月}}。これに関連して、淡路島の名の由来の一説に、[[阿波国|阿波]]へ行くみちの意味で「阿波路島」だとする説もある{{要出典|date=2015年4月}}。 島民が[[本州]]と往来する場合は、[[瀬戸内海]]に架橋されるまで、船舶を用いるのが常であった([[昭和]]に入ってからは[[航空路]]も)。 [[海]]が本州との往来を不便にしていた一方で、[[陸]]においてはこの島の地形が島内の往来を阻んだ。四国を横断するように[[四国山地]]が走っており、長大[[トンネル]]の土木技術が確立するまで鉄道や道路の整備は困難を極めた。 [[鉄道|鉄道交通]]は当初[[本州]]の[[山陽本線]]に連絡する形で[[伊予鉄道]]や[[讃岐鉄道]]などが建設され、その後各県ごとに[[土佐電気鉄道]]や[[徳島鉄道]]などの路線が整備されてゆき、各県の県庁所在地がお互いに鉄道で移動できるようになったのは[[昭和]]初期になった頃である{{要出典|date=2015年4月}}。 [[20世紀]]に入って鉄道が整備されるにつれ、四国内・本州双方に対する交通至便性から[[高松市]]に企業の四国支店等が置かれた。20世紀末頃からは四国内の[[高速道路]]網の急速な進展や3本の[[本州四国連絡橋]]が架けられたこともあって[[モータリゼーション]]が進行し、長距離移動手段の中心がそれまでの鉄道から[[自家用自動車|自家用車]]や[[高速バス]]へ変化した。このことにより京阪神・淡路島に近い[[鳴門市]]が再び交通の要衝となりつつある。一方で、[[フェリー]]は高速バスに客を取られたために[[21世紀]]に入ってからは縮小や廃止が相次いだ。 [[ファイル:Ownership rate of K cars 2016.png|サムネイル|都道府県別の軽自動車保有比率(2016年3月末)]] なお、四国4県の「[[軽自動車#特徴|全自動車に対する軽自動車の保有シェア]]」(2016年3月末現在、全国平均39.0%)は51.0%と、地方別では唯一半数を超えている<ref name="K2016">[http://www.zenkeijikyo.or.jp/statistics/ken_share/1603ken_share4.htm 2016年3月末現在軽三・四輪車県別保有台数と保有シェア](社団法人全国軽自動車協会連合会)</ref>。[[軽自動車]]は、普通車と比べて安価な料金設定になっており、おおむね普通車よりも[[燃費]]も良いため、四国ではマイカー移動が交通手段として定着している。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+四国および周辺県の県庁所在地における通勤・通学に用いる交通手段(2010年国勢調査) |- !rowspan="2"|都市名!!colspan="3" style="border-bottom:none"|人力系!!colspan="5" style="border-bottom:none"|公共交通機関!!colspan="3" style="border-bottom:none"|自家用車系!!rowspan="2"|その他!!rowspan="2"|出典 |- !徒歩!!自転車!!style="border-top:none"| !!鉄道!!乗合バス!!貸切バス!!タクシー!!style="border-top:none"| !!自家用車!!オートバイ!!style="border-top:none"| |- !徳島市 |5.51%||26.13%||31.64%||{{color|blue|1.54%}}||2.58%||0.40%||0.24%||{{color|blue|4.76%}}||57.31%||{{color|blue|6.21%}}||63.52%||5.06%||<ref>{{Cite web|和書 |date = 2010-10-01 |url = https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001039689&cycle=&layout=datalist |title = 平成22年国勢調査、従業地・通学地による人口・産業等集計(人口の男女、年齢、就業者の産業(大分類))、都道府県結果、36徳島県 |publisher = 総務省統計局 (e-Stat) |accessdate = 2014-03-10 }}</ref> |- !高松市 |5.44%||{{color|blue|23.43%}}||{{color|blue|28.87%}}||{{color|red|7.95%}}||{{color|blue|1.82%}}||{{color|red|0.41%}}||{{color|blue|0.16%}}||{{color|red|10.34%}}||{{color|red|57.45%}}||6.60%||{{color|red|64.05%}}||3.17%||<ref>{{Cite web|和書 |date = 2010-10-01 |url = https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001039690&cycle=&layout=datalist |title = 平成22年国勢調査、従業地・通学地による人口・産業等集計(人口の男女、年齢、就業者の産業(大分類))、都道府県結果、37香川県 |publisher = 総務省統計局 (e-Stat) |accessdate = 2014-03-10 }}</ref> |- !松山市 |{{color|red|6.31%}}||{{color|red|27.80%}}||34.11%||5.59%||2.36%||{{color|blue|0.34%}}||0.29%||8.58%||{{color|blue|45.14%}}||{{color|red|15.03%}}||{{color|blue|60.17%}}||3.54%||<ref>{{Cite web|和書 |date = 2010-10-01 |url = https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001039691&cycle=&layout=datalist |title = 平成22年国勢調査、従業地・通学地による人口・産業等集計(人口の男女、年齢、就業者の産業(大分類))、都道府県結果、38愛媛県 |publisher = 総務省統計局 (e-Stat) |accessdate = 2014-03-10 }}</ref> |-style="border-bottom:3px solid" !高知市 |{{color|blue|4.98%}}||27.24%||32.22%||3.42%||{{color|red|2.81%}}||0.37%||{{color|red|0.38%}}||6.98%||52.30%||10.83%||63.13%||4.28%||<ref>{{Cite web|和書 |date = 2010-10-01 |url = https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001039692&cycle=&layout=datalist |title = 平成22年国勢調査、従業地・通学地による人口・産業等集計(人口の男女、年齢、就業者の産業(大分類))、都道府県結果、39高知県 |publisher = 総務省統計局 (e-Stat) |accessdate = 2014-03-10 }}</ref> |- !岡山市 |5.02%||24.85%||29.87%||7.45%||4.63%||0.43%||0.23%||12.74%||56.91%||4.43%||61.34%||3.76%||<ref>{{Cite web|和書 |date = 2010-10-01 |url = https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001039686&cycle=&layout=datalist |title = 平成22年国勢調査、従業地・通学地による人口・産業等集計(人口の男女、年齢、就業者の産業(大分類))、都道府県結果、33岡山県 |publisher = 総務省統計局 (e-Stat) |accessdate = 2014-03-10 }}</ref> |-style="border-bottom: 3px solid #00f" !広島市 |8.60%||21.20%||29.80%||17.16%||13.54%||1.06%||0.44%||32.20%||35.61%||8.86%||44.47%||5.53%||<ref>{{Cite web|和書 |date = 2010-10-01 |url = https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001039687&cycle=&layout=datalist |title = 平成22年国勢調査、従業地・通学地による人口・産業等集計(人口の男女、年齢、就業者の産業(大分類))、都道府県結果、34広島県 |publisher = 総務省統計局 (e-Stat) |accessdate = 2014-03-10 }}</ref> |- !全国 |6.88%||15.98%||22.86%||24.82%||7.40%||1.14%||0.22%||33.58%||47.51%||3.87%||51.38%||4.38%||<ref>{{Cite web|和書 |date = 2010-10-01 |url = https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?tclass=000001039652&cycle=&layout=datalist |title = 平成22年国勢調査、従業地・通学地による人口・産業等集計(人口の男女、年齢、就業者の産業(大分類))、都道府県結果、全国結果 |publisher = 総務省統計局 (e-Stat) |accessdate = 2014-03-10 }}</ref> |} 全国平均と比較した四国全体の傾向として、[[公共交通機関]]([[鉄道]]・[[電車]]、[[バス (交通機関)|バス]]、[[ハイヤー]]・[[タクシー]])の割合が極端に低く、相対的に人力系([[歩行|徒歩]]、[[自転車]])と自家用車系([[自家用自動車]]、[[オートバイ]])の占める割合が高くなっている。徳島市はその傾向が最も顕著で、高知市は四国の平均値に近似している。松山市は人力系の割合が比較的高く、公共交通機関の割合も平均よりは高いほか、自家用車系に関してはオートバイの割合が突出して高い一方で、自家用車割合の低さがそれを相殺しているため、結果自家用車系の割合が4県中最も低くなっている。特徴的なのが高松市で、自家用車系の割合は四国各地と同様に高いばかりか最高値を示している一方、四国全体の傾向とは逆に公共交通機関の割合も高いばかりかこれも最高値を示し、人力系割合の低さを吸収する結果となっている。また、高松市の公共交通機関の割合は鉄道に大きく偏っており、バスおよびタクシーの割合は最低となっている。 === 鉄道 === [[ファイル:Series8000-Yosan-Line.jpg|サムネイル|240px|松山 - 岡山・高松を結ぶ予讃線の特急[[しおかぜ (列車)|しおかぜ]]・[[いしづち (列車)|いしづち]]]] [[ファイル:Kochi sta01s3872.jpg|サムネイル|240px|土讃線[[高知駅]]のドームに覆われたホーム]] {{See also|四国の鉄道|四国の鉄道路線}} [[四国旅客鉄道|JR四国]]は、高松と松山・高知・徳島の都市間を結ぶ各線と岡山を結ぶ[[瀬戸大橋線]]をメインルートとする。[[鉄道の電化|電化]]区間は[[予讃線]]の高松 - 松山 - 伊予市と瀬戸大橋線、[[土讃線]]の多度津 - 琴平。[[複線]]区間は予讃線の高松 - 多度津と瀬戸大橋線の一部のみである。 日本の主要4島の中で唯一[[新幹線]]が走行していない。 [[日本国有鉄道|国鉄]]時代、比較的早期に無煙化(蒸気機関車からディーゼル車輌へ置換)し、自動信号化が推進されたが、その後は設備や施設の改善が後回しにされ、国鉄末期まで四国島内の国鉄線に電化区間が存在しなかった。2006年現在でも、香川県と愛媛県を結ぶ[[予讃線]]の一部など、積極的に電化・高速化促進した区間を除いて、島内のほとんどのJR線は未だ電化されていない。 また、電化区間の一部のトンネルでは車幅制限のため、本州規格の車両が使えず、本州線との直通運転に不都合が生じていたり、単線区間が多いにもかかわらず、過度の輸送量増加によって生じたダイヤの過密傾向の弊害で、多くの待避線に常に交換や優等待ちの列車を待避させており、これ以上のダイヤの過密化に拍車を掛ける高速化は好ましくないなど、解決しなければならない難問が山積していた。 民営化後、各都市間の路線は順次高速化されたが、山がちな地形による線形の悪さと、単線のために増発ができないことなどから、年々整備の進む[[高速道路]]網を利用した[[高速バス]]に対抗できなくなりつつある。また、もともと海運が盛んな上に、鉄道の本四連絡が1経路であるのに対し、道路は3経路あり、観光ルートが分散されたこともあり、各交通機関との競争は非常に激しい。 抜本的な高速化として四国新幹線計画があり、2011年以降、[[四国新幹線#%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E8%AA%BF%E6%9F%BB|基礎調査]]の結果を受けて、整備計画への格上げを求める誘致活動が活発化している(詳細は[[四国新幹線]]のページを参照)。早ければ、37年にリニア[[中央新幹線]]の[[新大阪駅]]延伸が実現し、[[三大都市圏]]が一体化した「スーパーメガリージョン」の形成が見込まれる。四国新幹線整備促進期成会では、これに合わせて2037年の四国新幹線開業を目指している。 香川・愛媛・高知の各県にある私鉄各線は県都の近郊輸送を担っている(徳島県には[[第三セクター]]ではない純粋の民営鉄道路線は存在しない)。 *JR四国の路線名において、[[令制国]]名が使われていない県は徳島県だけである。[[予讃線]]、[[土讃線]]や[[予土線]]があっても、「阿讃線」や「阿予線」という路線名は存在しない。[[徳島駅|徳島]]〜[[高松駅 (香川県)|高松]]間鉄道の名称は「[[高徳線]]」である。 *[[室戸岬]]方面へ向かう路線として、第三セクターが運営する[[阿佐海岸鉄道阿佐東線]]と[[土佐くろしお鉄道阿佐線]](ごめん・なはり線)が敷設されているが、両線は繋がっていない。 ;[[四国旅客鉄道]] {{Col-begin}} {{Col-break}} *[[内子線]] *[[高徳線]] *[[徳島線]] {{Col-break}} *[[土讃線]] *[[鳴門線]] *[[本四備讃線]]([[瀬戸大橋線]]) {{Col-break}} *[[牟岐線]] *[[予讃線]] *[[予土線]] {{Col-end}} ;私鉄・第三セクター線 {{Col-begin}} {{Col-break}} *[[阿佐海岸鉄道]] **[[阿佐海岸鉄道阿佐東線|阿佐東線]] *[[伊予鉄道]] **[[伊予鉄道高浜線|高浜線]] **[[伊予鉄道横河原線|横河原線]] **[[伊予鉄道郡中線|郡中線]] *(伊予鉄道松山市内線) **[[伊予鉄道城北線|城北線]] **[[伊予鉄道城南線|城南線]] **[[伊予鉄道本町線|本町線]] **[[伊予鉄道大手町線|大手町線]] **[[伊予鉄道花園線|花園線]] {{Col-break}} *[[高松琴平電気鉄道]] **[[高松琴平電気鉄道琴平線|琴平線]] **[[高松琴平電気鉄道志度線|志度線]] **[[高松琴平電気鉄道長尾線|長尾線]] *[[土佐くろしお鉄道]] **[[土佐くろしお鉄道中村線|中村線]] **[[土佐くろしお鉄道宿毛線|宿毛線]] **[[土佐くろしお鉄道阿佐線|阿佐線]](ごめん・なはり線) *[[とさでん交通]] **[[土佐電気鉄道伊野線|伊野線]] **[[土佐電気鉄道後免線|後免線]] **[[土佐電気鉄道桟橋線|桟橋線]] {{Col-end}} [[ファイル:Iyo railway train 612.jpg|サムネイル|240px|四国初の鉄道路線である伊予鉄道高浜線を走る[[伊予鉄道610系電車|610系電車]]]] [[ファイル:Iyotetsu-Moha2100 Moha5000.jpg|サムネイル|240px|伊予鉄道市内線(城南線)を走る[[伊予鉄道モハ2100形電車|2100形電車]](左)[[伊予鉄道モハ5000形電車|5000形電車]](右)]] [[ファイル:Kotoden-Type1100-1103.jpg|サムネイル|240px|高松琴平電気鉄道の本線格である琴平線を走る[[高松琴平電気鉄道1100形電車|1100形電車]](元[[京王5000系電車 (初代)|京王初代5000系]])]] [[ファイル:Tosadentetsu 735 stuttgart.jpg|サムネイル|240px|とさでん交通桟橋線はりまや橋付近を走る[[シュトゥットガルト路面電車GT4形電車|735形電車]](元ドイツ・シュトゥットガルト市電)]] ;[[未成線]](計画中もしくは過去に計画のあった路線) *[[阿佐線]] [[土佐くろしお鉄道阿佐線|阿佐線]]奈半利〜[[阿佐海岸鉄道阿佐東線|阿佐東線]]甲浦間 *[[宿毛線]] [[土佐くろしお鉄道宿毛線|宿毛線]]宿毛〜[[予讃線]]宇和島間 *[[四国新幹線]] === バス === {{See also|四国地方の乗合バス事業者}} ; 高速路線 : 本四架橋(後述)や島内の高速道路の整備により、各県都間や島内と本州を結ぶ路線が多数開設されている。 : 特に徳島や高松と京阪神を結ぶ高速バス路線は日本でも屈指のドル箱路線に成長しており、日中毎時3〜4本ほどの便が設定されている。 : しかし、近年はETC大幅割引の影響で減便や廃止が出始めている{{R|T20100115|A20100116|T20100122}}。 ; 一般路線 : 好調な高速バスに対して、香川県の多度津以西では全てのバス路線が廃止されるなど、各都市内の一般バス路線は厳しい状況に置かれていると言える。 : しかしながら、愛媛県内と徳島近郊に限った場合は、東予やしまなみ海道沿いでは[[瀬戸内運輸]](と子会社の[[瀬戸内海交通]])が、中予では四国で唯一[[オムニバスタウン]]に指定されている松山市を中心に伊予鉄バスが、南予では[[宇和島自動車]]と[[伊予鉄南予バス]]が、徳島近郊では[[徳島バス]]や[[徳島市交通局|徳島市営バス]]などがそれぞれ高頻度のサービスを展開している。 : また他県でも自治体の補助による[[コミュニティバス]]路線の開設など、少しずつではあるが四国の一般路線バス事情も改善されてきている。 {{Gallery |ファイル:JRsikokubus aeroking BKG-MU66JS.jpg|愛媛・香川と関東を結ぶJR四国バスのドリーム高松・松山号 |ファイル:ことでんバス.jpg|高松市に本社を置くことでんバスの中型ノンステップバス |ファイル:伊予鉄南予バス「道後エクスプレスふくおか号」 5388.jpg|松山市に本社を置く伊予鉄バスの高速路線バス |ファイル:Iyotetsu Bus at Mitsu Station.jpg|伊予鉄バスの路線バス |ファイル:Kochi Tobu Kotsu Gotogoto No.1 1.JPG|高知東部交通の観光用ボンネットバス・ゴトゴト1号 }} === 本四架橋 === [[ファイル:Big Naruto Bridge04n3872.jpg|サムネイル|300px|大鳴門橋]] [[ファイル:Seto Bri1original.jpg|300px|サムネイル|瀬戸大橋(岩黒島橋、櫃石島橋)]] [[ファイル:Kurushimakaikyou ohashi01.jpg|300px|サムネイル|来島海峡大橋]] [[ファイル:Okamura Ohashi2.jpg|300px|サムネイル|岡村大橋]] [[本州四国連絡橋]]として、[[鳴門市]]〜[[神戸市]]、[[坂出市]]〜[[倉敷市]]、[[今治市]]〜[[尾道市]]の3本のルートがある。このうち、[[瀬戸大橋]]が鉄道(複線直流電化)と高速道路の併用橋であり、[[大鳴門橋]]は将来的に併用できる設計になっている。その他は道路専用橋である。また、[[瀬戸内しまなみ海道]](尾道・今治ルート)には、歩行者・自転車・原動機付自転車(125cc以下)の専用道路も併設されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jb-honshi.co.jp/customer_index/guide/zihodo/ |title=自転車歩行者道|publisher=本州四国連絡高速道路|accessdate=2021-1-17}}</ref>。 当初は、最初に完成し、[[宇高連絡船]](2019年休止)があったことなどから瀬戸大橋が本四間の基幹ルートとして位置付けられていたが、その後は全線完成した神戸鳴門ルートに本州・四国間の流動が移動しつつある。これは、日本の主要な[[大都市]]圏のほとんどが四国以東の地域に位置しており、大都市圏の一つである[[京阪神]]に[[神戸淡路鳴門自動車道]]が最短距離で直結していることが、大きな要因として挙げられる。 *[[神戸淡路鳴門自動車道]](神戸鳴門ルート) **[[明石海峡大橋]] **[[大鳴門橋]] **[[撫養橋]] *[[瀬戸中央自動車道]](児島坂出ルート) **[[下津井瀬戸大橋]] **[[櫃石島橋]] **[[岩黒島橋]] **[[与島橋]] **[[北備讃瀬戸大橋]] **[[南備讃瀬戸大橋]] *[[西瀬戸自動車道]](尾道今治ルート、[[瀬戸内しまなみ海道]]) **[[新尾道大橋]] **[[因島大橋]] **[[生口橋]] **[[多々羅大橋]] **[[大三島橋]] **[[伯方・大島大橋]]([[伯方橋]]、[[大島大橋 (愛媛県)|大島大橋]]) **[[来島海峡大橋]]([[来島海峡第一大橋]]・[[来島海峡第二大橋]]・[[来島海峡第三大橋]]) なお、上記3ルート以外に本四間の県境断面を持つ道路として、広島・愛媛県境を跨ぐ[[岡村大橋]]が存在する。これは広島県の離島架橋事業である[[安芸灘諸島連絡架橋]](安芸灘とびしま海道)の一部であり、本州へは接続されているものの、四国本土へは接続されていない。ただし、本州と四国地方を接続していることには違いないため、「裏しまなみ海道」や「第4の本四架橋ルート」と冗談交じりに呼ばれることがある。 *[[安芸灘諸島連絡架橋]](安芸灘とびしま海道) **[[安芸灘大橋]] **[[蒲刈大橋]] **[[豊島大橋]] **[[豊浜大橋]] **[[平羅橋]] **[[中の瀬戸大橋]] **[[岡村大橋]] === 道路網 === ==== 高速道路 ==== 四国は、国内で[[高速道路]]の整備が特に遅れた地方であった。四国で最初に高速道路が計画されたのは[[徳島自動車道]]であり、最初の開通は[[1985年]]、[[松山自動車道]]の[[三島川之江インターチェンジ|三島川之江IC]]〜[[土居インターチェンジ|土居IC]]間である(沿道には四国における高速道路発祥の地と書かれた看板がある)。その1986年度末における高速道路整備率は、全国が34%であったのに対し、四国は2%と非常に低い水準であった<ref name="鉄道活性化">{{Cite web|和書 |author = 四国旅客鉄道株式会社 |date = 2006-11-14 |url = https://www.mlit.go.jp/singikai/koutusin/koutu/chiiki/3/images/04.pdf |title = 四国地域における鉄道等の活性化について |format = PDF |publisher = 国土交通省・交通政策審議会地域公共交通部会 |accessdate = 2010-12-08 }}</ref>。 以後、急速に整備が進んだ結果、[[2000年]]には四国4[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]が高速道路で結ばれる「'''[[エックスハイウェイ]]'''」が完成、[[2002年]]度末には整備率が66%に達し、遂に全国水準の63%を上回った<ref>{{Cite web|和書 |date = 2002-11 |url = http://www.jiti.co.jp/graph/kouji/jh-sikoku/jh-sikoku.htm |title = 四国を一つに結ぶ循環型ネットワークの構築を目指し整備が進む四国の高速道路 |publisher = 建設グラフ |accessdate = 2010-12-08 }}{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。現在は松山自動車道の南予方面への延伸、[[高知自動車道]]の高知県西部方面への延伸、[[四国横断自動車道]]の徳島県南部方面への延伸([[鳴門ジャンクション|鳴門JCT]]〜[[阿南インターチェンジ|阿南IC]])、そのほか高速道路空白地帯解消のため[[阿南安芸自動車道]]や[[高知松山自動車道]]等の建設工事が順次進められており、「'''[[四国8の字ネットワーク]]'''」を目指している。 高速道路網の整備は[[モータリゼーション]]の進行と相まって、それまで沈黙状態であった四国内の相互交流を活発化させる結果となった。1990年時点における高松市と松山市を出発地とする最大流動先はそれぞれ四国外の都市(岡山市、広島市)であったが、1995年以降は四国内の都市(徳島市、高知市)に変わり、同様に徳島市と高知市も全体の流動数そのものが四国内に向けて増加している{{R|旅客純流動データ}}。 当初は、これら高速道路網充実の副作用として[[ストロー効果]]による[[大阪都市圏]]への経済流出の可能性が指摘され、実際に大阪圏へ直通する[[神戸淡路鳴門自動車道]]が開通した徳島県では、同圏への高速バスの利用が伸び、2008年2月時点で一日300便が運行されるなどしている<ref>{{cite news |title = |author = |newspaper = 徳島新聞 |date = 2008-02-07 |url = |accessdate = }}</ref>。しかし、この現象はフェリーと2002年に廃止された[[徳島飛行場]][[大阪国際空港|伊丹便]]利用者が高速バスへ移行した結果であり{{R|鉄道活性化}}、大阪圏への流動数全体は横ばいか年々減少し、逆に香川県への流動が年々増加している{{R|旅客純流動データ}}。これと同じ懸念は[[高松自動車道|高松道]][[板野インターチェンジ|板野IC]]〜[[高松中央インターチェンジ|高松中央IC]]開通した当時の香川県でも指摘され、実際に高速バスの神戸・大阪便が需要を高めているが、大阪圏への流動自体は横ばいであり、1990年まで圧倒的多数であった岡山県への流動が激減し、徳島県への流動が激増してそれを上回っている{{R|旅客純流動データ}}。 同時に発生している現象として、四国全体の人の流れが高松市へ集中し始めており、その中心性を年々高める傾向にある{{R|ブロック集中}}。その理由としてはやはり高速道路網の充実とモータリゼーションの進行が挙げられ、例えば1990年の徳島における最大志向先は京阪神であったものが、1999年調査時には高松へと変化した<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/soukou/nisou-saishuu/nisousaishuu-1.pdf 国土交通省・交通からみた国土の現状と課題]}}</ref>。 *'''2022年3月末現在開通している区間''' {|class="wikitable" |+[[高速自動車国道]](A路線)と[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]](A'路線) !営業路線名!!構成するA路線またはA'路線(斜体)!!供用区間 |- |{{Ja Exp Route Sign|E11}} [[高松自動車道]] |[[四国横断自動車道]] |[[鳴門インターチェンジ|鳴門IC]]〜[[川之江ジャンクション|川之江JCT]]、 [[坂出ジャンクション|坂出JCT]]~[[坂出インターチェンジ|坂出IC]](坂出支線) |- |{{Ja Exp Route Sign|E11}}/{{Ja Exp Route Sign|E32}} [[徳島自動車道]] |四国横断自動車道、[[四国縦貫自動車道]] |[[鳴門ジャンクション|鳴門JCT]]〜[[川之江東ジャンクション|川之江東JCT]] |- |{{Ja Exp Route Sign|E32}}/{{Ja Exp Route Sign|E56}} [[高知自動車道]] |四国横断自動車道、四国縦貫自動車道、''[[須崎道路]]''、''[[窪川佐賀道路]]''、''[[中村宿毛道路]]'' |川之江JCT〜[[四万十町中央インターチェンジ|四万十町中央IC]]、 [[四万十町西インターチェンジ|四万十町西IC]]〜[[黒潮拳ノ川インターチェンジ|黒潮拳ノ川IC]]、 [[四万十インターチェンジ|四万十IC]]〜[[宿毛和田インターチェンジ|宿毛和田IC]] |- |{{Ja Exp Route Sign|E11}}/{{Ja Exp Route Sign|E56}} [[松山自動車道]] |四国横断自動車道、四国縦貫自動車道、''[[大洲道路]]''、''[[宇和島道路]]'' |川之江JCT〜[[津島岩松インターチェンジ|津島岩松IC]] |- |{{Ja Exp Route Sign|E55}} [[徳島南部自動車道]] |四国横断自動車道 |[[徳島ジャンクション|徳島JCT]]〜[[徳島津田インターチェンジ|徳島津田IC]] |} {|class="wikitable" |+[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|一般国道の自動車専用道路]](B路線)と[[本州四国連絡道路]] !路線名!!事業箇所名または補足!!供用区間 |- |{{Ja Exp Route Sign|E76}} [[今治小松自動車道]]([[国道196号|一般国道196号]]) |[[今治小松道路]] |[[今治湯ノ浦インターチェンジ|今治湯ノ浦IC]]〜[[いよ小松ジャンクション|いよ小松JCT]] |- |{{Ja Exp Route Sign|E55}} [[高知東部自動車道]]([[国道55号|一般国道55号]]) |[[高知南国道路]]、[[南国安芸道路]] |[[高知ジャンクション|高知JCT]]〜[[高知龍馬空港インターチェンジ|高知龍馬空港IC]]、 [[香南のいちインターチェンジ|香南のいちIC]]〜[[芸西西インターチェンジ|芸西西IC]] |- |{{Ja Exp Route Sign|E28}} [[神戸淡路鳴門自動車道]]([[国道28号|一般国道28号]]) |(神戸・鳴門ルート) |[[垂水ジャンクション|垂水JCT]]〜鳴門IC<ref name="kaitu">便宜上四国外の部分についても表記している。</ref> |- |{{Ja Exp Route Sign|E30}} [[瀬戸中央自動車道]]([[国道30号|一般国道30号]]) |(児島・坂出ルート、[[瀬戸大橋]]) |[[早島インターチェンジ|早島IC]]〜[[坂出インターチェンジ|坂出IC]]{{R|kaitu}} |- |{{Ja Exp Route Sign|E76}} [[西瀬戸自動車道]]([[国道317号|一般国道317号]]) |(尾道・今治ルート、愛称:瀬戸内しまなみ海道) |[[西瀬戸尾道インターチェンジ|西瀬戸尾道IC]]〜[[今治インターチェンジ|今治IC]]{{R|kaitu}} |} {|class="wikitable" |+[[高速道路ナンバリング]]が振られている[[地域高規格道路]] !路線名!!供用区間 |- |{{Ja Exp Route Sign|E55}} [[阿南安芸自動車道]] |[[小野インターチェンジ (徳島県)|小野IC]]〜[[日和佐出入口]]、[[柏木インターチェンジ|柏木IC]]〜[[芝崎インターチェンジ|芝崎IC]] |} ==== 一般国道 ==== [[徳島市|徳島]]・[[松山市|松山]]・[[高松市|高松]]・[[高知市|高知]]の4県庁所在地を結ぶ[[国道11号]]・[[国道32号]]・[[国道33号]]・[[国道55号]]・[[国道56号]]などが道路網の中核を成す。また[[国道28号]]・[[国道30号]]・[[国道317号]]が[[本州四国連絡橋]]を通じて本州と、[[国道197号]]が[[国道九四フェリー]]を通じて九州との間を結んでいる。 山地を通る路線には未整備のものが多く、[[国道193号]]・[[国道439号]]などのように国道とは思えない[[隘路]]・悪路を抱えた路線も残存している(しばしば「[[酷道]]」などと揶揄される)。山地が多いことや内陸部に人口が少ないことなどもあり、{{要出典範囲|全般に四国の[[道路整備率]]は他の地方に比べ低い|date=2015年4月}}。 四国に一桁国道は存在せず、最も若い数字を持つ路線は国道11号である。二桁国道は11号と28号の他はすべて30番台と50番台、三桁国道はすべて190番台と300番台、400番台になっている。200番台の国道は1つも存在しない。 {|class="wikitable sortable" style="text-align:center" |+四国の一般国道一覧 !国道名!!起点!!主な<br>経由地!!終点!![[指定区間]]!!総延長<ref name="douronenpou">{{Cite web|和書 |url = https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-data/tokei-nen/ |title = 道路統計年報2014 道路の現況 |publisher = [[国土交通省]] |accessdate = 2015-04-22 |ref = douronenpo }}</ref><br>(km)!!実延長{{R|douronenpou}}<br>(km)!!実延長<br>割合 |- |'''[[国道11号]]''' |[[徳島市]]||[[高松市]]||[[松山市]]||全線||style="text-align:right"|272.7||style="text-align:right"|272.7||style="text-align:right"|100.00% |- |'''''[[国道28号]]''''' |[[神戸市]]||[[洲本市]]||徳島市||海上を除く全線||style="text-align:right"|194.6||style="text-align:right"|157.8||style="text-align:right"|81.09% |- |'''''[[国道30号]]''''' |[[岡山市]]||[[玉野市]]||高松市||海上を除く全線||style="text-align:right"|97.4||style="text-align:right"|59.9||style="text-align:right"|61.50% |- |'''[[国道32号]]''' |高松市||[[三好市]]||[[高知市]]||全線||style="text-align:right"|143.5||style="text-align:right"|139.7||style="text-align:right"|97.35% |- |'''[[国道33号]]''' |高知市||[[仁淀川町]]||松山市||全線||style="text-align:right"|129.3||style="text-align:right"|126.2||style="text-align:right"|97.60% |- |'''[[国道55号]]''' |徳島市||[[室戸市]]||高知市||全線||style="text-align:right"|241.1||style="text-align:right"|232.4||style="text-align:right"|96.39% |- |'''[[国道56号]]''' |高知市||[[宇和島市]]||松山市||全線||style="text-align:right"|336.2||style="text-align:right"|332.5||style="text-align:right"|98.90% |- |'''[[国道192号]]''' |[[西条市]]||三好市||徳島市||全線||style="text-align:right"|140.1||style="text-align:right"|96.8||style="text-align:right"|69.09% |- |[[国道193号]] |高松市||[[美馬市]]||[[海陽町]]||重複区間||style="text-align:right"|160.3||style="text-align:right"|149.5||style="text-align:right"|93.26% |- |[[国道194号]] |高知市||[[いの町]]||西条市||重複区間||style="text-align:right"|88.9||style="text-align:right"|76.9||style="text-align:right"|86.50% |- |[[国道195号]] |高知市||[[那賀町]]||徳島市||重複区間||style="text-align:right"|178.3||style="text-align:right"|152.3||style="text-align:right"|85.42% |- |'''[[国道196号]]''' |松山市||今治市||[[小松町 (愛媛県)|小松町]]||全線||style="text-align:right"|81.7||style="text-align:right"|81.7||style="text-align:right"|100.00% |- |''[[国道197号]]'' |高知市||[[大洲市]]||[[大分市]]||重複区間||style="text-align:right"|275.7||style="text-align:right"|204.7||style="text-align:right"|74.25% |- |'''''[[国道317号]]''''' |松山市||今治市||[[尾道市]]||今治市-尾道市||style="text-align:right"|192.1||style="text-align:right"|175.1||style="text-align:right"|91.15% |- |[[国道318号]] |徳島市||[[吉野川市]]||[[東かがわ市]]||重複区間||style="text-align:right"|43.7||style="text-align:right"|23.8||style="text-align:right"|54.46% |- |'''[[国道319号]]''' |[[坂出市]]||三好市||[[四国中央市]]||坂出市-三好市||style="text-align:right"|131.1||style="text-align:right"|61.3||style="text-align:right"|46.76% |- |[[国道320号]] |[[宿毛市]]||宇和島市||[[鬼北町]]||重複区間||style="text-align:right"|90.6||style="text-align:right"|36.1||style="text-align:right"|39.85% |- |[[国道321号]] |[[四万十市]]||[[土佐清水市]]||宿毛市||なし||style="text-align:right"|84.2||style="text-align:right"|84.2||style="text-align:right"|100.00% |- |[[国道377号]] |[[鳴門市]]||[[琴平町]]||[[観音寺市]]||重複区間||style="text-align:right"|120.9||style="text-align:right"|62.3||style="text-align:right"|51.53% |- |[[国道378号]] |[[伊予市]]||[[八幡浜市]]||宇和島市||なし||style="text-align:right"|123.5||style="text-align:right"|117.8||style="text-align:right"|95.38% |- |[[国道380号]] |八幡浜市||大洲市||[[久万高原町]]||重複区間||style="text-align:right"|66.6||style="text-align:right"|22.3||style="text-align:right"|33.48% |- |[[国道381号]] |[[須崎市]]||[[四万十町]]||宇和島市||なし||style="text-align:right"|113.6||style="text-align:right"|71.1||style="text-align:right"|62.59% |- |''[[国道436号]]'' |[[姫路市]]||[[小豆島町]]||高松市||重複区間||style="text-align:right"|99.8||style="text-align:right"|33.6||style="text-align:right"|33.67% |- |''[[国道437号]]'' |松山市||[[周防大島町]]||[[岩国市]]||なし||style="text-align:right"|87.5||style="text-align:right"|62.0||style="text-align:right"|70.86% |- |[[国道438号]] |徳島市||[[つるぎ町]]||坂出市||重複区間||style="text-align:right"|175.0||style="text-align:right"|172.0||style="text-align:right"|98.29% |- |[[国道439号]] |徳島市||[[土佐町]]||四万十市||重複区間||style="text-align:right"|348.1||style="text-align:right"|242.3||style="text-align:right"|69.61% |- |[[国道440号]] |松山市||[[久万高原町]]||[[檮原町]]||重複区間||style="text-align:right"|89.3||style="text-align:right"|35.3||style="text-align:right"|39.53% |- |[[国道441号]] |大洲市||鬼北町||四万十市||なし||style="text-align:right"|114.6||style="text-align:right"|97.4||style="text-align:right"|84.99% |- |[[国道492号]] |高松市||美馬市||[[大豊町]]||重複区間||style="text-align:right"|133.5||style="text-align:right"|30.7||style="text-align:right"|23.00% |- |[[国道493号]] |高知市||[[奈半利町]]||東洋町||重複区間||style="text-align:right"|112.6||style="text-align:right"|49.5||style="text-align:right"|43.96% |- |[[国道494号]] |松山市||仁淀川町||須崎市||重複区間||style="text-align:right"|114.4||style="text-align:right"|80.6||style="text-align:right"|70.45% |- |colspan="8" style="text-align:left;font-size:smaller"| ※'''太字'''は非重複の単独区間において[[指定区間]]が存在する路線。※''斜線''は四国外と結ばれている路線。<br>※指定区間項の「重複区間」とは他国道との重複区間のみが指定区間になっている路線で、単独区間に限れば「なし」と同義。 |} ==== V字ルート ==== 昭和40年代の[[観光]]宣伝において、四国の主要観光地を効率よく回遊するルート提案として、[[松山市]]-[[高知市]]-[[高松市]]をつなぐルート([[国道32号]]、[[国道33号]])が考えられ、ちょうどアルファベットの「V」字状であるため、V字ルートと呼ばれるようになった。 === 航路 === [[ファイル:Sunflower Ivory.jpg|サムネイル|200px|九州から松山を経由して大阪へ就航していた[[関西汽船]]。同社は四国が関わる多くの航路の運営に関わった。]] [[ファイル:FERRY_BIZAN-20160505-02.jpg|サムネイル|200px|徳島と東京・北九州航路に就航している[[オーシャントランス|オーシャン東九フェリー]]]] [[ファイル:Zuikou JAPAN.jpg|サムネイル|200px|芸予航路に就航している[[高速船]]「[[スーパージェット]]」]] [[律令制|律令時代]]には'''[[南海道]]'''の一角であり、船で移動する地方であった。近代以降も同様の状態が続いたが、[[本州四国連絡橋]]の供用により定期旅客航路は激減した。 ;主要航路 *[[宇高航路]] **岡山県玉野市の[[宇野港]]と香川県高松市の[[高松港]]を結ぶ。かつては主要航路だったが2020年現在は運航を休止している。 *香川県と関西を結ぶ航路 **[[高松東港]]〜(一部[[坂手港]])〜[[神戸港]]([[ジャンボフェリー]]) **[[福田港 (香川県)|福田港]]〜[[姫路港]]([[四国フェリー|小豆島フェリー]]) *[[小豆島]]と岡山県を結ぶ航路 **[[土庄港]]〜[[新岡山港]]([[四国フェリー|小豆島フェリー]]、[[両備フェリー]]) **[[土庄港]]〜[[豊島 (香川県)|唐櫃港]]〜[[豊島 (香川県)|家浦港]]〜[[宇野港]]([[小豆島豊島フェリー]]) **[[小豆島|大部港]]〜[[日生港]]([[瀬戸内観光汽船]]) *東京と徳島および九州を結ぶ航路 **[[東京港]]〜[[徳島港]]〜[[新門司港]]([[オーシャン東九フェリー]]) *阿紀航路 **徳島県と和歌山県を結ぶ航路。四国東部においては[[神戸淡路鳴門自動車道]]が全通するまで本州へ渡る主要ルートの一つとして使われた。現在は[[徳島小松島港|徳島港]]と[[和歌山下津港|和歌山港]]を結ぶ[[南海フェリー]]がこの航路を受け継いでいる。 *阿摂航路 **徳島県と大阪府、兵庫県を結ぶ航路。古くから徳島と大阪を直接結ぶ航路として繁栄したが、[[神戸淡路鳴門自動車道]]の全通に伴い全ての航路が廃止された。 *愛媛県と関西を結ぶ航路 **[[東予港]]〜[[大阪南港]] **[[新居浜東港]]〜[[神戸港]] *愛媛県と広島県を結ぶ航路(芸予航路) **[[松山港]]〜[[呉港]]〜[[広島港]] *愛媛県と山口県を結ぶ航路 **[[松山港]]〜[[柳井港]] *四国と九州を結ぶ航路 **[[松山港]]〜[[小倉港]] **[[八幡浜港]]〜[[臼杵港]] **[[八幡浜港]]〜[[別府港]] **[[三崎港]]〜[[佐賀関港]] **[[宿毛湾港]]〜[[佐伯港]] === 空港 === [[ファイル:Matsuyama Airport(MYJ)3.JPG|サムネイル|200px|四国最多の旅客数である松山空港]] [[本四架橋]]ができるまでは、本州との大量輸送手段は船舶しかなく、また、四国内のJRは単線区間が多く運行本数に限界があることや、[[新幹線]]へは[[岡山駅]]での乗り換えを強いられることもあり、従来から航空需要は高く、4県の県庁所在地近郊には中型機以上の航空機が離着陸できる[[空港]]が整備されている。国内線では、安定的に強い需要がある東京便は全空港から就航しているほか、特に周辺都市から地理的に遠距離である松山や高知では[[山陽新幹線]]や[[高速バス]]を利用すると所要時間が大幅に伸びることから、三大都市圏や九州といった近距離便にも路線を持っている。一方国際線では、高知と徳島からの定期便は無いが、高松からソウル・上海・台湾、松山から上海・ソウルといったアジア便が就航している。なお、[[高松空港]]と[[徳島飛行場]]の直線距離は約55km、徳島飛行場と[[関西国際空港]]は約65km、高松空港と[[岡山空港]]は約62kmと近接している。 <!--この表は一覧であり、順位でありません。出典元に変更が無い限り独自の基準で変更しないでください。--> {|class="wikitable" |+2022年度 四国地方の旅客数別空港一覧<ref>{{Cite web |url=https://www.mlit.go.jp/koku/content/001628630.xlsx |title=暦年・年度別空港管理状況調書(H25~R4) |access-date=2023-12-28 |publisher=[[国土交通省]][[航空局]] |format=xlsx}}</ref> |- |rowspan="2" style="text-align:center;background-color:#fc9"|'''[[空港]]''' |rowspan="2" style="text-align:center;background-color:#f96"|'''旅客合計''' |colspan="2" style="text-align:center;background-color:#a4aaf9"|'''国内線''' |colspan="2" style="text-align:center;background-color:#ccf"|'''国際線''' |- |style="text-align:center;background-color:#ccc"|旅客数 |style="text-align:center"|定期便 |style="text-align:center;background-color:#ccc"|旅客数 |style="text-align:center"|定期便 |- |style="text-align:center;background-color:#fff"|[[高松空港|高松]] |style="text-align:right;background-color:#ffc"|136<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}7786人</span> |style="text-align:right"|133<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}0398人</span> |style="font-size:smaller"|'''[[東京国際空港|羽田]]・[[成田国際空港|成田]]'''・[[那覇空港|那覇]] |style="text-align:right"|3<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}7388人</span> |style="font-size:smaller"|[[仁川国際空港|ソウル]]・[[上海浦東国際空港|上海]]・[[台湾桃園国際空港|台湾]] |- |style="text-align:center;background-color:#fff"|[[松山空港|松山]] |style="text-align:right;background-color:#ffc"|223<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}5579人</span> |style="text-align:right"|223<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}1880人</span> |style="font-size:smaller"|'''羽田・成田・[[中部国際空港|中部]]・[[大阪国際空港|伊丹]]・[[関西国際空港|関西]]'''・[[福岡空港|福岡]]・[[鹿児島空港|鹿児島]]・那覇 |style="text-align:right"|<span style="font-size:smaller">3699人</span> |style="font-size:smaller"|ソウル・上海 |- |style="text-align: center;background-color:#fff"|[[高知空港|高知]] |style="text-align: right;background-color:#ffc"|130<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}9656人</span> |style="text-align:right"|130<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}9656人</span> |style="font-size:smaller"|'''羽田・[[名古屋飛行場|名古屋]]・伊丹'''・福岡 |style="text-align:right"|<span style="font-size:smaller">0人</span> |- |style="text-align:center;background-color:#fff"|[[徳島飛行場|徳島]] |style="text-align:right;background-color:#ffc"|83<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}9629人</span> |style="text-align:right"|83<span style="font-size:smaller">{{sup|万}}9163人</span> |style="font-size:smaller"|'''羽田'''・福岡 |style="text-align:right"|<span style="font-size:smaller">466人</span> |} *[[チャーター便]]の旅客数含む *[[三大都市圏]]への便は'''太字''' *全国の空港の乗降客数は[[日本の空港#統計情報]]参照 *二種:高松空港・松山空港・高知空港(高知龍馬空港) *[[自衛隊]]と共用:徳島飛行場 == 文化 == === 方言 === {{Main|四国方言}} 愛媛県西南部・高知県西南部は[[東京式アクセント]]だが、それ以外は四国の広域において[[京阪式アクセント]]や[[垂井式アクセント]]が用いられ、香川県を中心に愛媛東部・徳島西部では[[讃岐式アクセント]]が用いられている。全体的に[[関西方言]]との共通点が多く、瀬戸内に面した地域では語彙・語法面で[[中国方言]]との共通点も多い。一方、愛媛県南予地方~高知県西部の[[渭南 (四国西南部)|渭南地域]]は関西色も薄く、四国の中でも独特な方言を有する。 *[[阿波弁]]:アクセント・言い回しとも四国方言の中でも最も[[関西方言]]の影響が強い(但し、アクセントは近世の関西で用いられていた昔の[[京阪式アクセント]]である)。徳島では大阪のテレビが広く受信できることも、関西との近接性を促進していると思われる。一方で池田など県西部では讃岐弁の影響が強く、[[讃岐式アクセント]]が用いられる。 *[[讃岐弁]]: アクセントに特徴があり、いわゆる京阪式の主流とは異なる。中世に上方で使用されていたアクセントが独自変化したものとされている([[讃岐式アクセント]])。語彙・語法は中国方言との共通点も多い。 *[[伊予弁]]:西条など東予地方は[[讃岐式アクセント]]、松山など中予地方は現代関西とほぼ共通する[[京阪式アクセント]]、宇和島など南予地方は[[東京式アクセント]]と、多様性に富んでいる。讃岐弁同様に語彙・語法は中国方言との共通点も多い。南予の方言は近畿的要素が薄くまた高知県西部の[[幡多弁]]との共通点が多い為、南予弁と幡多弁をまとめて渭南方言(四国西南部方言)と呼ばれる事もある。 *[[土佐弁]]:阿波弁と同様に近世の関西で用いられていた昔の[[京阪式アクセント]]を強く保持している。語彙・語法の面で他の四国方言とは異なり、特徴的な言い回しが多い。 *[[幡多弁]]:[[東京式アクセント]]が用いられる。語彙なども土佐弁にはない独特なものも多い。高知県西部([[幡多郡]]および[[四万十市]]などの旧幡多郡地域)に分布し、愛媛県南予地方の方言との共通点も多い為、両者の方言とまとめて扱われる事もある。 === 祭り === [[ファイル:Awa-odori 2008 Tokushima.jpg|サムネイル|200px|阿波踊り]] [[ファイル:Yosakoi performers.jpg|サムネイル|200px|よさこい祭り]] [[ファイル:Niihamataikomaturi0%C9%A8.jpg|サムネイル|200px|新居浜太鼓祭り]] [[西条祭り]]、[[金刀比羅例大祭]]などは神事が主体の祭り、阿波踊り、よさこい祭りなどは踊りが主体の祭りである。[[四国三大祭]]が有名であるが、踊りが主体の[[四国四大祭]]も知られている。 *四国三大祭 **[[阿波踊り]]:徳島県[[徳島市]]、[[鳴門市]]他 **[[よさこい祭り]]:高知県[[高知市]] **[[新居浜太鼓祭り]]:愛媛県[[新居浜市]] *四国四大祭 ** 阿波踊り:徳島県徳島市、鳴門市他 **よさこい祭り:高知県高知市 **[[さぬき高松まつり]]:香川県[[高松市]] **[[松山まつり]]:愛媛県[[松山市]] *その他 **[[金刀比羅例大祭]]:香川県[[仲多度郡]][[琴平町]] **[[豊浜ちょうさ祭]]:香川県[[観音寺市]] **[[おんまく]]:愛媛県[[今治市]] **[[和霊大祭]]:愛媛県[[宇和島市]] **[[松山秋祭り]]:愛媛県松山市 **[[西条祭り]]:愛媛県[[西条市]] **[[土居太鼓祭り]]:愛媛県[[四国中央市]] [[ファイル:Iyo-Kasuri 2(Matsuyama City).JPG|サムネイル|200px|伊予絣]] === 伝統工芸 === {| |徳島県||香川県||愛媛県||高知県 |- |style="vertical-align:top"| *[[藍染め]] *[[大谷焼]] |style="vertical-align:top"| *[[丸亀うちわ]] *[[香川漆器]] *[[讃岐円座]] |style="vertical-align:top"| *[[砥部焼]] *[[菊間瓦]] *[[桜井漆器]] *[[伊予竹工芸]] *[[姫だるま]] *[[大洲和紙]] *[[伊予絣]] |style="vertical-align:top"| *[[土佐和紙]] *[[土佐打刃物]] *[[土佐珊瑚細工]] *[[土佐硯]] *[[フラフ]] *[[土佐凧]] |} [[ファイル:shoyuudon.jpg|サムネイル|160px|[[讃岐うどん]](生醤油)]] === 食文化 === 各県には固有の名産品や郷土料理が多数存在する。県域をまたぐ名産品は[[うどん]]、[[和三盆]]などがある。また、全国で販売している食品としては[[ポカリスエット]]、[[ポンジュース]]などが代表的である。各県の名産品・郷土料理等は各県の項を参照。 *[[徳島県#農林水産業|徳島県の食品]] *[[香川県#食文化|香川県の食品]] *[[愛媛県#農業|愛媛県の食品]] *[[高知県#食品|高知県の食品]] {{See also|日本の郷土料理一覧#徳島県|[[:Category:四国地方の食文化]]}} === 主な名所・史跡 === [[ファイル:Ritsurin.JPG|200px|サムネイル|栗林公園]] [[ファイル:Dōgo Onsen.jpg|200px|サムネイル|道後温泉本館]] 四国を代表する観光地の[[栗林公園]]([[特別名勝]])と[[日本三古湯]]の[[道後温泉]]([[道後温泉本館]]は重要文化財)はミシュランガイドで3つ星に選定されている。 [[神社]]・[[仏閣]]では江戸時代以前より全国からの参拝者を集める[[金刀比羅宮]](こんぴらさん)や[[四国八十八箇所]]霊場があり、地元住民によりお遍路さん(巡礼者)をもてなすお接待文化が根付いている。四国八十八箇所霊場と[[遍路道]]については近年、[[世界遺産]]としての登録を目指す活動が行われている<ref>[https://88sekaiisan.org/council/ 協議会について|四国遍路] 四国遍路世界遺産登録推進協議会</ref>。 [[日本の城|城]]では[[現存天守|現存12天守]]のうち、[[丸亀城]]、[[松山城 (伊予国)|松山城]]、[[宇和島城]]、[[高知城]]の4つが四国にあり、この他にも日本三大水城の[[今治城]]、[[高松城 (讃岐国)|高松城]]などがある。 ;日本百名城 {{Columns-list|2| *[[徳島城]] *高松城 *丸亀城 *今治城 *[[湯築城]] *松山城 *[[大洲城]] *高知城 }} 鉄道では四万十川沿いを走る[[予土線]]3兄弟や、[[予讃線]]の[[伊予灘ものがたり]]、[[伊予鉄道]]の「坊っちゃん列車」などの観光列車が運行されている。この他自然が豊かな四国には[[祖谷渓]]など景勝地も多く存在する(自然景勝地については地理の項目も参照)。 == スポーツ == 下記記載のうち、運営・所属選手ともプロフェッショナルのチームはサッカーのJリーグ、バスケットボールのBリーグ、野球の四国アイランドリーグplusに所属する各チーム。 === アイスホッケー === ;[[Jアイス・ウエスト・ディビジョン]](西日本リーグ) *[[香川アイスフェローズ]]([[高松市]]) === サッカー === {{Col-begin}} {{Col-break}} ;[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] *[[徳島ヴォルティス]]([[鳴門市]]) *[[愛媛FC]]([[松山市]]) *[[カマタマーレ讃岐]]([[丸亀市]]) *[[FC今治]]([[今治市]]) ;[[日本フットボールリーグ]] *[[高知ユナイテッドSC]] ;[[日本女子サッカーリーグ]] *[[愛媛FCレディース]] {{Col-break}} ;[[四国サッカーリーグ|四国リーグ]] *FC徳島(徳島市) *[[アルヴェリオ高松]](高松市) *[[多度津FC]]([[多度津町]]) *[[llamas高知FC]](高知市) *[[レベニロッソNC]](新居浜市) {{Col-end}} === ソフトボール === {{Col-begin}} {{Col-break}} ;男子西日本リーグ *[[ジェイテクト]] *[[高知パシフィックウェーブ]] {{Col-break}} ;女子リーグ *[[大鵬薬品]] *[[伊予銀行]] {{Col-end}} === バスケットボール === ;[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]](Bリーグ) *[[香川ファイブアローズ]](高松市) *[[愛媛オレンジバイキングス]](松山市) ;男子[[地域リーグ (バスケットボール)|地域リーグ]](中四国九州リーグ) *四国電力バスケットボール部(高松市) *東レ愛媛バスケットボール部(松前町) *小豆島ストーンズ(土庄町) ;女子地域リーグ(西日本リーグ) *今治オレンジブロッサム(今治市) === バドミントン === ;[[バドミントン日本リーグ|日本リーグ]]女子2部 *[[百十四銀行]](高松市) === バレーボール === ;[[チャレンジリーグ (バレーボール)|チャレンジリーグ]](女子) *[[健祥会]]([[徳島市]]) *[[四国Eighty 8 Queen]](高松市) === ハンドボール === ;女子実業団 *[[香川銀行チームハンド|香川銀行TH]](高松市) === ホッケー === {{Col-begin}} {{Col-break}} ;西日本リーグ(男子) *[[三菱化学坂出]]([[坂出市]]) {{Col-break}} ;関西リーグ *[[徳島クラブ]](徳島市) *[[阿南クラブ]]([[阿南市]]) *[[高知クラブ]](高知市) {{Col-end}} === 野球 === {{Col-begin}} {{Col-break}} ;[[四国アイランドリーグplus]] *[[徳島インディゴソックス]](徳島市) *[[香川オリーブガイナーズ]](高松市) *[[愛媛マンダリンパイレーツ]](松山市) *[[高知ファイティングドッグス]](高知市) {{Col-break}} ;[[社会人野球]] *[[徳島野球倶楽部]](徳島市) *[[JR四国硬式野球部|JR四国]](高松市) *[[アークバリア硬式野球部|アークバリア]](高松市) *[[松山フェニックス]](松山市) *[[四国銀行硬式野球部|四国銀行]](高知市) {{Col-end}} === ラグビー === ;[[トップウェスト]] *[[善通寺自衛隊]]([[善通寺市]]) === 陸上競技 === {{Col-begin}} {{Col-break}} ;[[駅伝競走|駅伝]](男子) *[[大塚製薬]](鳴門市) *[[四国電力]](高松市) {{Col-break}} ;[[駅伝競走|駅伝]](女子) *[[四国電力]](高松市) {{Col-end}} == 出身者 == 四国出身の著名人は以下のリストを参照。 *[[徳島県出身の人物一覧]] *[[香川県出身の人物一覧]] *[[愛媛県出身の人物一覧]] *[[高知県出身の人物一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 実際に参考にした文献一覧 --> *[[総務省]][[統計局]] 『第六十三回 日本統計年鑑 平成26年』 総務省統計局、2013年。 *田中正明 『日本湖沼誌2』 [[名古屋大学出版会]]、2004年。ISBN 4-8158-0492-3 == 関連項目 == {{Commons|Category:Shikoku}} {{Wikivoyage|ja:四国地方}} {{osm box|r|1847663}} {{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[ファイル:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}} *[[長宗我部元親]] *[[南海道]] *[[中国・四国地方]] *[[瀬戸内地方]] *[[瀬戸内工業地域]] *[[四国八十八箇所]] *[[四国村]](四国民家博物館) *[[四国のみち]] *[[死国]] - 四国八十八ヶ所を舞台とした文芸・映画作品 *[[四国 (タイタン)|四国]] - [[土星]]の衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]にある地名。2005年8月、四国に形が似ていることから命名された。 *[[四国 (小惑星)|四国]] (4223 Shikoku) - 1988年に発見された[[小惑星]]。四国にちなんで命名された。 *四国 - [[予讃線]]でかつて運行されていた[[急行列車]]。[[いしづち (列車)]]を参照。 *[[日本の地理]]、[[日本の地域]] *[[日本]]、[[日本列島]]、[[本土]]、[[離島]]、[[四島]] *[[島]]、[[島国]]<!-- *[[都道府県の人口一覧]]--> {{ウィキトラベル インライン|四国地方|四国地方}} === その他日本の主な島 === *[[北海道]] *[[本州]] *[[九州]] *[[沖縄本島|沖縄島]] (通称名である[[沖縄本島]]の正式名称) == 外部リンク == * {{Kotobank|四国地方}} {{日本関連の項目}} {{日本の地域}} {{Normdaten}} {{coord|33|45|N|133|30|E|region:JP_type:isle_scale:2500000|display=title}} {{デフォルトソート:しこく}} [[Category:四国地方|*]] [[Category:日本の地域ブロック|しこくちほう]] [[Category:日本の島|*03しこく]] [[Category:日本の名数4|こく]] [[Category:中国・四国地方|*]]
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280年
280年(280 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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220年
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北陸地方
北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部の日本海に面した地域を指す名称である。畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。 現代においては北陸道と同じ範囲である新潟県、富山県、石川県、福井県の4県、あるいは新潟県を除く3県のことを指すことが多い。範囲を明確に指す場合、前者は「北陸4県」または「新潟県を含む北陸地方」、後者は「北陸3県」などと表現されることがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。 本項では以下、特記の無い限り、北陸地方の範囲を北陸道(北陸4県)の範囲として扱う。 北陸地方の範囲は、新潟県から福井県まで東西におよそ400kmあり、細く長い。歴史的に古代の「越国」と呼ばれた地方を多く含み、若狭国から越後国までの範囲におよぶ。明治時代頃までは「ほくろく」と読まれていた。この北陸地方の道路を指して「越路」「北陸道」と呼ぶ事もある。 中央省庁各省の出先機関の管轄範囲は北陸地方を一律に管轄区域としているものばかりではない。新潟県は関東の一部あるいは関東甲信越、信越などとする例がある。福井県は近畿とする例がある。 スポーツ大会や国政選挙では人口が比較的少ないため長野県を含めた北信越地方(北陸信越)として組み合わせることが多い。 雪国として有名な地方である。シベリア寒気団が山脈にぶつかることで冬の大雪と春からの雪解け水をもたらす日本海側気候を呈している。特に新潟県南魚沼市や上越市の周辺は、日本で五指に入る豪雪地帯となっており、スキー場が多く立地している。越後湯沢や妙高高原など、大規模なスキー場も集中する。沿岸部と内陸部では積雪量に大きな差がある。代表的な山麓として、日本三名山に数えられる、立山連峰(富山県)と白山(石川県・福井県)が挙げられる。 北陸地方が被害を受けた自然災害。()内は主な被災県。 北陸地方は、「日本海沿岸の地方勢力」として、他の地方からは半ば独立した歴史を歩んで来た。 古代の北陸地方は越国(こしのくに)や陸道(くぬがのみち)と呼ばれており地方勢力の一つであった。「越国」とあるが中央勢力の影響圏外であり資料が少なく、統一された国家であったかは不明である。伝説の大蛇「八岐大蛇」が越国から現れたと伝えられ、出雲王権の特徴である四隅突出型墳丘墓が富山県や福井県などに見られることや、出雲崎(新潟県中部)などの地名の名残から、出雲文化の影響が強く見られる。 ヤマト王権の大彦命が越国を鎮めると、次第に中央集権の枠組みに取り込まれていく。古代には北から高志深江国造、久比岐国造、佐渡国造(新潟県)、伊彌頭国造(富山県)、能頭国造、羽咋国造、加宜国造、加我国造、高志国造、江沼国造(石川県)、三国国造、角鹿国造、若狭国造(福井県)が設置された。ヤマト王権が中央集権型統一国家を成立させると、中央である畿内を防衛するため周辺に関所が設置された。当時の東方を守る三関は、「東海道の鈴鹿関(鈴鹿峠)」「東山道の不破関(関ヶ原)」「北陸道の愛発関(愛発山)」を指していたので、律令時代には、若狭国(嶺南)から東の日本海沿岸が越国と見なされていた。 越国は、ヤマト王権の勢力に組み込まれると詳細に3つの領域に区分された。令制国の国府所在地を見ると、越前国は武生、越中国は伏木(高岡市北部)、越後国は直江津(上越市北部)に当たる。この国府所在地の位置により、当時のヤマト王権の支配領域は、東は概ね新潟県の上越地方までで、それ以北は領土外であった。しかし、後に支配領域を伸ばすと、天険たる鼠ヶ関と越後山脈が北陸道の北限となり、越国から分離される形で出羽国が設置された。越前国から分離した能登国成立の時期に開山し室町時代末期まで巨大な宗教都市として勢力を誇った平泉寺はこの時代の独立した集団として捉えられる。 親鸞が直江津に流刑され、蓮如が教団を拡大し、北陸地方は浄土真宗の地盤となり、仏教勢力が力を揮う事になった。その頂点が加賀の一向一揆、越中の一向一揆であり、この他にも永平寺などの有名寺院が立地するようになった。浄土教を批判した日蓮も佐渡に流刑された。 戦国時代の北陸地方は、越後国は長尾氏、越中国は神保氏と椎名氏、能登国は畠山氏、加賀国は一向一揆、越前国は朝倉氏が支配し、上杉謙信と一向一揆は激しく争った(尻垂坂の戦い)。本能寺の変以後は、上杉景勝(上越)、新発田重家(下越)、佐々成政(富山)、前田利家(金沢)、柴田勝家(福井)などの本拠地となった。 江戸時代になると、幕藩体制が敷かれ富山(越中)は能登とともに加賀藩の直接的、間接的支配下にあり、政治的な影響下にあった。「加賀百万石」と呼ばれた前田氏の加賀藩を初めとして、前田氏の分家に当たる富山藩、越前松平氏の福井藩、牧野氏の長岡藩などが有名である。浄土真宗への帰依が深い北陸では堕胎・間引きを忌んだ事などから、人口増加率が高く全国に移住者を出し続けた。 収穫された米を近畿へ運ぶための海上交通として多くの北前船が就航した。江戸時代の北陸道は「北国街道」と呼ばれ、善光寺参拝の道でもあった。 幕末になり、開国を迎えると、新潟が開港五港の一つとなって盛え始める。長岡藩など奥羽越列藩同盟に加わる藩が現れ、戊辰戦争では薩長軍と敵対したが、敗北した。 江戸幕府が崩壊し、明治政府が中央集権国家を成立させると、廃藩置県で多くの県が成立した。 現在の新潟県には、新潟県(下越地方)、相川県(佐渡島)、柏崎県(中越地方と上越地方)が分立したが、1873年6月10日には新潟県に編入された。現在の北陸3県には、新川県(現富山県)や石川県や足羽県(嶺北)が分立したが、1876年8月21日には全て石川県に編入された。しかし、各地の分県運動の結果、1881年2月7日には石川県から嶺北が福井県として分離され、1883年には石川県から旧新川県が富山県として分離された。嶺南は、1876年8月21日以後は滋賀県に編入されたが、1881年2月7日には滋賀県から分離されて福井県に編入された。 北海道開拓では、比較的人口が多く、さらに雪国の環境として適性のあった北陸出身者が多数移住し、実に全体の数の3割以上を占めた。 明治に入ると鉄道が建設され、東京を中心にした陸上交通網が整備された為、江戸時代まで交通網の主演だった北前船は衰えた。この為、明治以後は陸上交通が中心の経済体制が築かれて行った。 かつて北陸地方は国内でも有数の人口を持つ地方であり、1876年の金沢市の人口は全国5位で横浜市・広島市より多く、1945年時点でも新潟県の人口が全国7位だったが、太平洋ベルト地帯を中心とした国土軸から漏れた結果、過疎化が顕在化した。しかし、新潟県出身の田中角栄政権下で「太平洋ベルト地帯との格差の是正」が謳われ、上越新幹線・北陸新幹線・北陸自動車道等が計画され、北陸工業地域も形成された。特に新幹線の建設については角栄の政治力が関与したという見方も強い。これ以後は、それまでの「農業地域」から、「農工折衷型の地域」に変わり、日本海側最大規模の工業地域を持つようになった。さらに田中政権は電源三法を制定、原発銀座の基礎を作った。 佐渡や富山・石川など北陸西部は西日本の鰤文化圏の性質を持つ一方で、新潟県下越地方・中越地方は東日本の鮭文化圏の性質が強い。 北陸地方の主要都市を掲載する。 2007年度の北陸地方4県の県内総生産の合計は21兆6509億円である。これはアラブ首長国連邦のGDPにほぼ匹敵しており、世界で35位前後の「国」に相当する経済規模を有している。 豊富な雪解け水を利用したかんがい用水を整備し、海岸のラグーン(潟)を干拓した広大な土地は、日本の代表的な穀倉地帯となっていて、コシヒカリなどの稲作がさかんである。それに伴い日本酒の醸造元も多く存在する。地域を象徴する「越(こし)」を冠する銘柄が目立つ。水産資源としてブリやカニが水揚げされ、富山湾では定置網漁が盛な漁場として知られている。 石油の輸入が本格化する以前は、水を利用した水力発電を開発した北陸地方が多くの電力を必要とする重工業に有利だった。水資源自体の価値と賃金の安さも相まって北陸工業地域として富山湾沿岸や上越市周辺を中心に発達した。現在でも北陸電力は全国でもトップクラスの安さで電力を供給している。また豊富な水資源自体も工業、特に半導体産業等に有利となっている。金沢の金箔、鯖江の眼鏡に代表されるような軽工業や冬の副業として発達した漆器、織物、そして和紙などの伝統工芸も多い。 近年の減反政策とモータリゼーションを反映してロードサイドショップなどの商業地の郊外への分散化が著しい。大規模な郊外型ショッピングセンターの進出は、関東地方に次ぐ規模となっている。 新潟県、石川県には日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの通称「4大キー局」の各民放系列局がある。富山県は4大キー局のうちテレビ朝日系列の局がなく3局がある。福井県は4大キー局のうちテレビ朝日系列(厳密には日本テレビ系列メインのクロスネットとして存在)とTBS系列の局がなく2局がある。いずれの県にもテレビ東京系列のローカル局はない。北陸地方でこれら系列の放送を視聴するにはケーブルテレビ、衛星放送などを利用する必要がある。一部の地域では他県の越境電波を利用でき、新潟県では関東地方の放送局を、富山県では石川県や新潟県の放送局を、福井県では石川県や近畿地方の放送局を受信できる場合がある。 交通史については北陸道の記事を参照。 主な路線を記載 ここでは北陸地方を管轄する主な官公庁の出先機関を取り上げる。 北陸地方の各県の経済動向や人的動向、交通網をみると、東部の新潟県については関東甲信越や信越地方と言うように関東地方や長野県方面との結びつきが大きいのに対し、西部の3県(富山県・石川県・福井県)はこの3県での結びつきの他に近畿地方や中京圏とのつながりが大きい。特に北陸本線の特急サンダーバードによって直接アクセスが可能な京都・大阪などの関西圏との結びつきが大きい。北陸新幹線の延伸開業以前は関西志向が強かったが、2015年の北陸新幹線延伸開業によって関東からのアクセスが大幅に向上し、関西の影響力は相対的に低下した。 3県は企業などの管轄では西日本または中日本のエリアに含まれることが多い(JR西日本・NEXCO中日本・NTT西日本・北陸電力など)。新潟県上越地方(県南部)も西日本・中日本の一部として扱われることがあり、北陸新幹線の糸魚川駅と大糸線末端区間はJR西日本の金沢支社であるほか、上越市には中部電力の発電所がある。静岡県を含めて中日本として一体化している東海地方(静岡県・愛知県・岐阜県・三重県)とは異なり、新潟県の大部分は東日本として扱われている(JR東日本・NEXCO東日本・NTT東日本・東北電力)。 上記のように現代において4県の一体性は必ずしも高くはない。そのためこの西部3県のみを指して「北陸3県」と称する例が見られる。富山県・石川県・福井県においては、単に北陸と言う場合、北陸3県を指すことも多く、「北陸初」や「北陸最大級」といった表現における北陸とはこの3県のみを指す例が多い。 以下では、この北陸3県(富山県・石川県・福井県)のつながりについて特筆する。 北陸3県では、県庁所在地である富山市・金沢市・福井市が、それぞれの県での中心都市となっている。富山は重工業を中心として経済力が発達しており、金沢は観光と商業が発達、福井は軽工業が発達している。市町村人口は46万人の金沢市が最大である。全国から企業が進出し、北陸3県内で物販・サービスなどの業務を集約する場合は金沢市あるいは富山市に拠点を置く場合が多い。業種によっては他に拠点を置くこともあり、福井市には旭化成・東レ・飛島建設などが拠点を置いている。また、北陸3県の主要企業である北陸電力・北陸銀行は富山市に本店を置いており、金沢市に一極集中しているわけではない。 また北陸3県振興の試みとして、富山県・石川県・福井県と、各県での最有力紙である北日本新聞・北國新聞・福井新聞が共同で「ネクスト北陸キャンペーン実行委員会」を組織し、毎年3県全てでパネル討論会などを行っている。同様に北陸3県と北陸経済連合会、北陸電力が北陸イメージアップ推進会議を設立し、対外的な北陸のイメージアップの調査・実践を試みている。 富山県・石川県・福井県でそれぞれテレビ、新聞、雑誌などのメディアが分かれていて、北陸3県全体を対象にする媒体はあまり多くないものの、様々な形態で番組の共同制作や企画ネットが行われている。 全国紙は地理的な関係で多くは大阪本社製作のものが配送されているが、読売新聞のみ東京本社(実際の発行所は北陸支社=高岡市 福井県は大阪本社管轄)の分が使われている。また朝日新聞も1989年9月から2011年3月までは富山県に限り東京本社(実際の印刷は名古屋本社が担当)の管轄だったが、2011年4月より大阪本社管轄に変更となった。 北陸3県を対象とする番組および番組内の企画として以下のようなものがある。 この他、フジネットワーク(FNS)加盟の北陸3県の3局(富山テレビ・石川テレビ・福井テレビ)が共同制作する番組も不定期に放送されている。 北陸3県をエリアとする雑誌として『自然人』(橋本確文堂)が2017年12月まで年4回発行されていた。No.55で休刊。 北陸3県全地域共通の銀行サービスは、長い間北陸銀行(富山県富山市)のみであったが、2005年9月26日に、富山第一銀行、北國銀行(石川県金沢市)、福井銀行が、3行間でのATM・CD利用手数料無料提携及び3行とのビジネスマッチング、ビジネスセミナーなどを行う業務提携、FITネットを開始した。2007年10月には、FITネットが時間外、休日を含め完全無料化することに対抗し、2007年5月22日に福邦銀行と北陸銀行は、同10月を目処にATMの相互無料開放をすると発表した。 北陸銀行は2003年5月30日、北陸3県に本社を置くまたは進出する企業の株式に投資をする金融商品、北陸3県応援ファンドを開始した。これに対し福井銀行、北國銀行、富山第一銀行は、FITネット・三県応援ファンドの募集を2005年11月15日から開始した。FITネット・三県応援ファンドは、80%がソブリン債など、20%が北陸3県に本社を置くまたは、進出などで雇用を創出している企業に投資される。 北陸3県は発電所の建設に適した立地に恵まれ発電所が多く存在している。その内、関西電力は黒部川・庄川を中心に北陸3県では25か所の水力発電所(富山県24・福井県1)と、福井県の若狭地方にある美浜・高浜・大飯の各原子力発電所を運営している。 若狭地方は、上記の関西電力の3つの原子力発電所の他、敦賀市に日本原子力発電の敦賀発電所や、日本原子力研究開発機構の有する高速増殖炉もんじゅ・新型転換炉ふげん(現在は運転終了・廃炉作業中)などがあるため、別名「原発銀座」とも言われている。また、北陸電力(富山県富山市)も石川県に志賀原子力発電所を運営している。 この他、日本で唯一市営の発電事業を行う金沢市企業局が犀川水系で、電源開発が手取川・九頭竜川水系で水力発電を行っている。 北陸電力の電気料金は日本でもトップクラスの安さで(電力小売り自由化以前は、最安値)、アルミ産業をはじめとする製造業が北陸に拠点を置く理由となっている。一般家庭の電気消費量も高く、富山が全国1位となっている。さらに余剰電力を隣接する関西電力と中部電力(愛知県名古屋市)に売却している。 有効求人倍率・女性就業率が高く、通勤時間が短い傾向にある。 一向一揆の拠点であった北陸3県では浄土真宗・浄土宗系への信仰心が際立って高く、「真宗王国」とも呼ばれる。 かつて全国有数の人口があった理由として、信仰熱心な影響で北陸3県・新潟では間引きが少なかったことが挙げられる。 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人] 年齢5歳階級別人口 2003年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部の日本海に面した地域を指す名称である。畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現代においては北陸道と同じ範囲である新潟県、富山県、石川県、福井県の4県、あるいは新潟県を除く3県のことを指すことが多い。範囲を明確に指す場合、前者は「北陸4県」または「新潟県を含む北陸地方」、後者は「北陸3県」などと表現されることがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本項では以下、特記の無い限り、北陸地方の範囲を北陸道(北陸4県)の範囲として扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "北陸地方の範囲は、新潟県から福井県まで東西におよそ400kmあり、細く長い。歴史的に古代の「越国」と呼ばれた地方を多く含み、若狭国から越後国までの範囲におよぶ。明治時代頃までは「ほくろく」と読まれていた。この北陸地方の道路を指して「越路」「北陸道」と呼ぶ事もある。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中央省庁各省の出先機関の管轄範囲は北陸地方を一律に管轄区域としているものばかりではない。新潟県は関東の一部あるいは関東甲信越、信越などとする例がある。福井県は近畿とする例がある。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "スポーツ大会や国政選挙では人口が比較的少ないため長野県を含めた北信越地方(北陸信越)として組み合わせることが多い。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "雪国として有名な地方である。シベリア寒気団が山脈にぶつかることで冬の大雪と春からの雪解け水をもたらす日本海側気候を呈している。特に新潟県南魚沼市や上越市の周辺は、日本で五指に入る豪雪地帯となっており、スキー場が多く立地している。越後湯沢や妙高高原など、大規模なスキー場も集中する。沿岸部と内陸部では積雪量に大きな差がある。代表的な山麓として、日本三名山に数えられる、立山連峰(富山県)と白山(石川県・福井県)が挙げられる。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "北陸地方が被害を受けた自然災害。()内は主な被災県。", "title": "自然地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "北陸地方は、「日本海沿岸の地方勢力」として、他の地方からは半ば独立した歴史を歩んで来た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古代の北陸地方は越国(こしのくに)や陸道(くぬがのみち)と呼ばれており地方勢力の一つであった。「越国」とあるが中央勢力の影響圏外であり資料が少なく、統一された国家であったかは不明である。伝説の大蛇「八岐大蛇」が越国から現れたと伝えられ、出雲王権の特徴である四隅突出型墳丘墓が富山県や福井県などに見られることや、出雲崎(新潟県中部)などの地名の名残から、出雲文化の影響が強く見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ヤマト王権の大彦命が越国を鎮めると、次第に中央集権の枠組みに取り込まれていく。古代には北から高志深江国造、久比岐国造、佐渡国造(新潟県)、伊彌頭国造(富山県)、能頭国造、羽咋国造、加宜国造、加我国造、高志国造、江沼国造(石川県)、三国国造、角鹿国造、若狭国造(福井県)が設置された。ヤマト王権が中央集権型統一国家を成立させると、中央である畿内を防衛するため周辺に関所が設置された。当時の東方を守る三関は、「東海道の鈴鹿関(鈴鹿峠)」「東山道の不破関(関ヶ原)」「北陸道の愛発関(愛発山)」を指していたので、律令時代には、若狭国(嶺南)から東の日本海沿岸が越国と見なされていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "越国は、ヤマト王権の勢力に組み込まれると詳細に3つの領域に区分された。令制国の国府所在地を見ると、越前国は武生、越中国は伏木(高岡市北部)、越後国は直江津(上越市北部)に当たる。この国府所在地の位置により、当時のヤマト王権の支配領域は、東は概ね新潟県の上越地方までで、それ以北は領土外であった。しかし、後に支配領域を伸ばすと、天険たる鼠ヶ関と越後山脈が北陸道の北限となり、越国から分離される形で出羽国が設置された。越前国から分離した能登国成立の時期に開山し室町時代末期まで巨大な宗教都市として勢力を誇った平泉寺はこの時代の独立した集団として捉えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "親鸞が直江津に流刑され、蓮如が教団を拡大し、北陸地方は浄土真宗の地盤となり、仏教勢力が力を揮う事になった。その頂点が加賀の一向一揆、越中の一向一揆であり、この他にも永平寺などの有名寺院が立地するようになった。浄土教を批判した日蓮も佐渡に流刑された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "戦国時代の北陸地方は、越後国は長尾氏、越中国は神保氏と椎名氏、能登国は畠山氏、加賀国は一向一揆、越前国は朝倉氏が支配し、上杉謙信と一向一揆は激しく争った(尻垂坂の戦い)。本能寺の変以後は、上杉景勝(上越)、新発田重家(下越)、佐々成政(富山)、前田利家(金沢)、柴田勝家(福井)などの本拠地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "江戸時代になると、幕藩体制が敷かれ富山(越中)は能登とともに加賀藩の直接的、間接的支配下にあり、政治的な影響下にあった。「加賀百万石」と呼ばれた前田氏の加賀藩を初めとして、前田氏の分家に当たる富山藩、越前松平氏の福井藩、牧野氏の長岡藩などが有名である。浄土真宗への帰依が深い北陸では堕胎・間引きを忌んだ事などから、人口増加率が高く全国に移住者を出し続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "収穫された米を近畿へ運ぶための海上交通として多くの北前船が就航した。江戸時代の北陸道は「北国街道」と呼ばれ、善光寺参拝の道でもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "幕末になり、開国を迎えると、新潟が開港五港の一つとなって盛え始める。長岡藩など奥羽越列藩同盟に加わる藩が現れ、戊辰戦争では薩長軍と敵対したが、敗北した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "江戸幕府が崩壊し、明治政府が中央集権国家を成立させると、廃藩置県で多くの県が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "現在の新潟県には、新潟県(下越地方)、相川県(佐渡島)、柏崎県(中越地方と上越地方)が分立したが、1873年6月10日には新潟県に編入された。現在の北陸3県には、新川県(現富山県)や石川県や足羽県(嶺北)が分立したが、1876年8月21日には全て石川県に編入された。しかし、各地の分県運動の結果、1881年2月7日には石川県から嶺北が福井県として分離され、1883年には石川県から旧新川県が富山県として分離された。嶺南は、1876年8月21日以後は滋賀県に編入されたが、1881年2月7日には滋賀県から分離されて福井県に編入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "北海道開拓では、比較的人口が多く、さらに雪国の環境として適性のあった北陸出身者が多数移住し、実に全体の数の3割以上を占めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "明治に入ると鉄道が建設され、東京を中心にした陸上交通網が整備された為、江戸時代まで交通網の主演だった北前船は衰えた。この為、明治以後は陸上交通が中心の経済体制が築かれて行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "かつて北陸地方は国内でも有数の人口を持つ地方であり、1876年の金沢市の人口は全国5位で横浜市・広島市より多く、1945年時点でも新潟県の人口が全国7位だったが、太平洋ベルト地帯を中心とした国土軸から漏れた結果、過疎化が顕在化した。しかし、新潟県出身の田中角栄政権下で「太平洋ベルト地帯との格差の是正」が謳われ、上越新幹線・北陸新幹線・北陸自動車道等が計画され、北陸工業地域も形成された。特に新幹線の建設については角栄の政治力が関与したという見方も強い。これ以後は、それまでの「農業地域」から、「農工折衷型の地域」に変わり、日本海側最大規模の工業地域を持つようになった。さらに田中政権は電源三法を制定、原発銀座の基礎を作った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "佐渡や富山・石川など北陸西部は西日本の鰤文化圏の性質を持つ一方で、新潟県下越地方・中越地方は東日本の鮭文化圏の性質が強い。", "title": "文化・方言" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "北陸地方の主要都市を掲載する。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2007年度の北陸地方4県の県内総生産の合計は21兆6509億円である。これはアラブ首長国連邦のGDPにほぼ匹敵しており、世界で35位前後の「国」に相当する経済規模を有している。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "豊富な雪解け水を利用したかんがい用水を整備し、海岸のラグーン(潟)を干拓した広大な土地は、日本の代表的な穀倉地帯となっていて、コシヒカリなどの稲作がさかんである。それに伴い日本酒の醸造元も多く存在する。地域を象徴する「越(こし)」を冠する銘柄が目立つ。水産資源としてブリやカニが水揚げされ、富山湾では定置網漁が盛な漁場として知られている。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "石油の輸入が本格化する以前は、水を利用した水力発電を開発した北陸地方が多くの電力を必要とする重工業に有利だった。水資源自体の価値と賃金の安さも相まって北陸工業地域として富山湾沿岸や上越市周辺を中心に発達した。現在でも北陸電力は全国でもトップクラスの安さで電力を供給している。また豊富な水資源自体も工業、特に半導体産業等に有利となっている。金沢の金箔、鯖江の眼鏡に代表されるような軽工業や冬の副業として発達した漆器、織物、そして和紙などの伝統工芸も多い。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "近年の減反政策とモータリゼーションを反映してロードサイドショップなどの商業地の郊外への分散化が著しい。大規模な郊外型ショッピングセンターの進出は、関東地方に次ぐ規模となっている。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "新潟県、石川県には日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの通称「4大キー局」の各民放系列局がある。富山県は4大キー局のうちテレビ朝日系列の局がなく3局がある。福井県は4大キー局のうちテレビ朝日系列(厳密には日本テレビ系列メインのクロスネットとして存在)とTBS系列の局がなく2局がある。いずれの県にもテレビ東京系列のローカル局はない。北陸地方でこれら系列の放送を視聴するにはケーブルテレビ、衛星放送などを利用する必要がある。一部の地域では他県の越境電波を利用でき、新潟県では関東地方の放送局を、富山県では石川県や新潟県の放送局を、福井県では石川県や近畿地方の放送局を受信できる場合がある。", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "交通史については北陸道の記事を参照。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "主な路線を記載", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ここでは北陸地方を管轄する主な官公庁の出先機関を取り上げる。", "title": "行政機関等の管轄" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "北陸地方の各県の経済動向や人的動向、交通網をみると、東部の新潟県については関東甲信越や信越地方と言うように関東地方や長野県方面との結びつきが大きいのに対し、西部の3県(富山県・石川県・福井県)はこの3県での結びつきの他に近畿地方や中京圏とのつながりが大きい。特に北陸本線の特急サンダーバードによって直接アクセスが可能な京都・大阪などの関西圏との結びつきが大きい。北陸新幹線の延伸開業以前は関西志向が強かったが、2015年の北陸新幹線延伸開業によって関東からのアクセスが大幅に向上し、関西の影響力は相対的に低下した。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "3県は企業などの管轄では西日本または中日本のエリアに含まれることが多い(JR西日本・NEXCO中日本・NTT西日本・北陸電力など)。新潟県上越地方(県南部)も西日本・中日本の一部として扱われることがあり、北陸新幹線の糸魚川駅と大糸線末端区間はJR西日本の金沢支社であるほか、上越市には中部電力の発電所がある。静岡県を含めて中日本として一体化している東海地方(静岡県・愛知県・岐阜県・三重県)とは異なり、新潟県の大部分は東日本として扱われている(JR東日本・NEXCO東日本・NTT東日本・東北電力)。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "上記のように現代において4県の一体性は必ずしも高くはない。そのためこの西部3県のみを指して「北陸3県」と称する例が見られる。富山県・石川県・福井県においては、単に北陸と言う場合、北陸3県を指すことも多く、「北陸初」や「北陸最大級」といった表現における北陸とはこの3県のみを指す例が多い。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "以下では、この北陸3県(富山県・石川県・福井県)のつながりについて特筆する。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "北陸3県では、県庁所在地である富山市・金沢市・福井市が、それぞれの県での中心都市となっている。富山は重工業を中心として経済力が発達しており、金沢は観光と商業が発達、福井は軽工業が発達している。市町村人口は46万人の金沢市が最大である。全国から企業が進出し、北陸3県内で物販・サービスなどの業務を集約する場合は金沢市あるいは富山市に拠点を置く場合が多い。業種によっては他に拠点を置くこともあり、福井市には旭化成・東レ・飛島建設などが拠点を置いている。また、北陸3県の主要企業である北陸電力・北陸銀行は富山市に本店を置いており、金沢市に一極集中しているわけではない。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また北陸3県振興の試みとして、富山県・石川県・福井県と、各県での最有力紙である北日本新聞・北國新聞・福井新聞が共同で「ネクスト北陸キャンペーン実行委員会」を組織し、毎年3県全てでパネル討論会などを行っている。同様に北陸3県と北陸経済連合会、北陸電力が北陸イメージアップ推進会議を設立し、対外的な北陸のイメージアップの調査・実践を試みている。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "富山県・石川県・福井県でそれぞれテレビ、新聞、雑誌などのメディアが分かれていて、北陸3県全体を対象にする媒体はあまり多くないものの、様々な形態で番組の共同制作や企画ネットが行われている。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "全国紙は地理的な関係で多くは大阪本社製作のものが配送されているが、読売新聞のみ東京本社(実際の発行所は北陸支社=高岡市 福井県は大阪本社管轄)の分が使われている。また朝日新聞も1989年9月から2011年3月までは富山県に限り東京本社(実際の印刷は名古屋本社が担当)の管轄だったが、2011年4月より大阪本社管轄に変更となった。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "北陸3県を対象とする番組および番組内の企画として以下のようなものがある。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この他、フジネットワーク(FNS)加盟の北陸3県の3局(富山テレビ・石川テレビ・福井テレビ)が共同制作する番組も不定期に放送されている。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "北陸3県をエリアとする雑誌として『自然人』(橋本確文堂)が2017年12月まで年4回発行されていた。No.55で休刊。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "北陸3県全地域共通の銀行サービスは、長い間北陸銀行(富山県富山市)のみであったが、2005年9月26日に、富山第一銀行、北國銀行(石川県金沢市)、福井銀行が、3行間でのATM・CD利用手数料無料提携及び3行とのビジネスマッチング、ビジネスセミナーなどを行う業務提携、FITネットを開始した。2007年10月には、FITネットが時間外、休日を含め完全無料化することに対抗し、2007年5月22日に福邦銀行と北陸銀行は、同10月を目処にATMの相互無料開放をすると発表した。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "北陸銀行は2003年5月30日、北陸3県に本社を置くまたは進出する企業の株式に投資をする金融商品、北陸3県応援ファンドを開始した。これに対し福井銀行、北國銀行、富山第一銀行は、FITネット・三県応援ファンドの募集を2005年11月15日から開始した。FITネット・三県応援ファンドは、80%がソブリン債など、20%が北陸3県に本社を置くまたは、進出などで雇用を創出している企業に投資される。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "北陸3県は発電所の建設に適した立地に恵まれ発電所が多く存在している。その内、関西電力は黒部川・庄川を中心に北陸3県では25か所の水力発電所(富山県24・福井県1)と、福井県の若狭地方にある美浜・高浜・大飯の各原子力発電所を運営している。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "若狭地方は、上記の関西電力の3つの原子力発電所の他、敦賀市に日本原子力発電の敦賀発電所や、日本原子力研究開発機構の有する高速増殖炉もんじゅ・新型転換炉ふげん(現在は運転終了・廃炉作業中)などがあるため、別名「原発銀座」とも言われている。また、北陸電力(富山県富山市)も石川県に志賀原子力発電所を運営している。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この他、日本で唯一市営の発電事業を行う金沢市企業局が犀川水系で、電源開発が手取川・九頭竜川水系で水力発電を行っている。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "北陸電力の電気料金は日本でもトップクラスの安さで(電力小売り自由化以前は、最安値)、アルミ産業をはじめとする製造業が北陸に拠点を置く理由となっている。一般家庭の電気消費量も高く、富山が全国1位となっている。さらに余剰電力を隣接する関西電力と中部電力(愛知県名古屋市)に売却している。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "有効求人倍率・女性就業率が高く、通勤時間が短い傾向にある。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "一向一揆の拠点であった北陸3県では浄土真宗・浄土宗系への信仰心が際立って高く、「真宗王国」とも呼ばれる。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "かつて全国有数の人口があった理由として、信仰熱心な影響で北陸3県・新潟では間引きが少なかったことが挙げられる。", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]", "title": "北陸3県について" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2003年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]", "title": "北陸3県について" } ]
北陸地方(ほくりくちほう)は、本州中央部の日本海に面した地域を指す名称である。畿内から見て北方にある五畿七道の北陸道に由来し、中世以前では、この地域を北国(ほっこく)と称していた。 現代においては北陸道と同じ範囲である新潟県、富山県、石川県、福井県の4県、あるいは新潟県を除く3県のことを指すことが多い。範囲を明確に指す場合、前者は「北陸4県」または「新潟県を含む北陸地方」、後者は「北陸3県」などと表現されることがある。北陸3県の繋がりについては「北陸3県について」の節を参照。 本項では以下、特記の無い限り、北陸地方の範囲を北陸道(北陸4県)の範囲として扱う。
{{Redirect|北陸}} {{Infobox |bodyclass = bordered |abovestyle = background-color:#ff4400; text-align:center; |above = '''北陸地方'''のデータ |headerstyle = background-color: orange |header1 = 4県の合計 |label2 = [[国]] |data2 = {{JPN}} |label3 = [[面積]] |data3 = '''25,205.60'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] |label4 = [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]人口 |data4 = '''5,444,797'''[[人]]<br />(2010年10月1日) |label5 = [[推計人口]] |data5 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/新潟県|新潟県}} + {{自治体人口/富山県|富山県}} + {{自治体人口/石川県|石川県}} + {{自治体人口/福井県|福井県}} }}}}'''人<br />(直近の統計<ref name="Pop" group="†">統計日は、新潟県が{{自治体人口/新潟県|date}}、富山県が{{自治体人口/富山県|date}}、石川県が{{自治体人口/石川県|date}}、福井県が{{自治体人口/福井県|date}}。</ref>) |label6 = [[人口密度]] |data6 = '''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/新潟県|新潟県}} + {{自治体人口/富山県|富山県}} + {{自治体人口/石川県|石川県}} + {{自治体人口/福井県|福井県}}) / 25205.60 round 1}}}}'''人/km<sup>2</sup><br />(直近の統計<ref name="Pop" group="†"/>) |data7 = [[File:Japan Hokuriku Region1 large.png|280px|center|北陸地方]]北陸4県の範囲 |header8 = 3県の合計 |label9 = 国 |data9 = {{JPN}} |label10 = 面積 |data10 = '''12,622.14'''km<sup>2</sup> |label11 = 国勢調査人口 |data11 = '''3,069,875'''人<br />(2010年10月1日) |label12 = 推計人口 |data12 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/富山県|富山県}} + {{自治体人口/石川県|石川県}} + {{自治体人口/福井県|福井県}} }}}}'''人<br />(直近の統計<ref name="Pop" group="†"/>) |label13 = 人口密度 |data13 = '''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/富山県|富山県}} + {{自治体人口/石川県|石川県}} + {{自治体人口/福井県|福井県}}) / 12622.14 round 1}}}}'''人/km<sup>2</sup><br />(直近の統計<ref name="Pop" group="†"/>) |data14 = [[File:Japan Hokuriku Region2 large.png|280px|center|北陸地方]]北陸3県の範囲 }} '''北陸地方'''(ほくりくちほう)は、[[本州]]中央部の[[日本海]]に面した[[日本の地域|地域]]を指す名称である。[[畿内]]から見て北方にある[[五畿七道]]の[[北陸道]]に由来し、[[中世]]以前では、この地域を'''北国'''(ほっこく)と称していた。 現代においては北陸道と同じ範囲である[[新潟県]]、[[富山県]]、[[石川県]]、[[福井県]]の4県<ref name="daihyakka">『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.1041 ISBN 4-09-523101-7</ref>、あるいは新潟県を除く3県のことを指す<ref name="daihyakka"/>ことが多い。範囲を明確に指す場合、前者は「'''北陸4県'''」または「新潟県を含む北陸地方<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160723/ddl/k15/040/097000c 北陸で 夏本番 川辺に笑顔! /新潟](毎日新聞、2016年7月23日){{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>」、後者は「'''北陸3県'''」などと表現されることがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000184682 |title=北陸4県という言い方はおかしいのではないか。 |accessdate=2023-10-02|author=石川県立図書館 |date=2015-12-01 |website=レファレンス協同データベース |publisher=国立国会図書館 }}</ref>。北陸3県の繋がりについては「[[#北陸3県について|北陸3県について]]」の節を参照。 本項では以下、特記の無い限り、北陸地方の範囲を北陸道(北陸4県)の範囲として扱う。 == 範囲 == 北陸地方の範囲は、[[新潟県]]から[[福井県]]まで東西におよそ400kmあり、細く長い。歴史的に古代の「[[越国]]」と呼ばれた地方を多く含み、[[若狭国]]から[[越後国]]までの範囲におよぶ。明治時代頃までは「ほくろく」と読まれていた。この北陸地方の道路を指して「越路」「[[北陸道]]」と呼ぶ事もある。 [[中央省庁]]各省の出先機関の管轄範囲は北陸地方を一律に管轄区域としているものばかりではない<ref group="†">実際の管轄範囲は、[[地方支分部局#地方支分部局の一覧]]に記載されている各地方支分部局のリンク先を参照。</ref>。新潟県は[[関東地方|関東]]の一部あるいは[[広域関東圏|関東甲信越]]、[[信越地方|信越]]などとする例がある。福井県は[[近畿地方|近畿]]とする例がある。 スポーツ大会や国政選挙では人口が比較的少ないため[[長野県]]を含めた[[北信越地方]](北陸信越)として組み合わせることが多い。 == 自然地理 == {{File clip | Geofeatures map of Chubu Japan ja.svg | width = 400 | 0 | 0 | 25 | 0 | w = 1080 | h = 1200 | 北陸地方の主要地形}} [[ファイル:NiigataCityOpenData denen005.jpg|thumb|[[越後平野]]]] [[ファイル:Toyamaken-top.JPG|thumb|[[立山連峰]](飛騨山脈)]] [[ファイル:Mikata five lakes 20110505 - panoramio.jpg|thumb|[[三方五湖]]]] 雪国として有名な地方である。シベリア寒気団が山脈にぶつかることで冬の大雪と春からの雪解け水をもたらす[[日本海側気候]]を呈している。特に[[新潟県]][[南魚沼市]]や[[上越市]]の周辺は、日本で五指に入る[[豪雪地帯]]となっており、[[スキー場]]が多く立地している。[[湯沢町|越後湯沢]]や[[妙高市|妙高高原]]など、大規模なスキー場も集中する。沿岸部と内陸部では積雪量に大きな差がある。代表的な山麓として、[[三霊山|日本三名山]]に数えられる、[[立山連峰]](富山県)と[[白山]](石川県・福井県)が挙げられる。 *[[山脈]]:[[越後山脈]]、[[三国山脈]]、[[飛騨山脈]]([[親不知]])、[[飛騨高地]]、[[両白山地]] *[[山]]:[[弥彦山]]、[[苗場山]]、[[妙高山]]、[[立山]]、[[剱岳]]、[[薬師岳]]、[[黒部五郎岳]]、[[初雪山]]、[[白馬岳]]、[[五竜岳]]、[[鹿島槍ヶ岳]]、[[呉羽丘陵|呉羽山]]、[[白木峰]]、[[金剛堂山]]、[[医王山]]、[[白山]]、[[能郷白山]] *[[川]]:[[阿賀野川]]、[[信濃川]]、[[姫川]]、[[黒部川]]、[[片貝川]]、[[早月川]]、[[常願寺川]]、[[神通川]]、[[庄川]]、[[小矢部川]]、[[手取川]]、[[犀川 (石川県)|犀川]]、[[九頭竜川]]、[[北川]] *[[平野]]:[[越後平野]]、[[高田平野]]、[[富山平野]]、[[射水平野]]、[[砺波平野]]、[[邑知潟平野]]、[[金沢平野]]、[[福井平野]] *[[盆地]]:[[十日町盆地]]、[[六日町盆地]]、[[大野盆地]] *[[湾]]:[[富山湾]]、[[七尾湾]]、[[九十九湾]]、[[若狭湾]]([[敦賀湾]]、[[世久見湾]]、[[矢代湾]]、[[小浜湾]]、[[高浜湾]]、[[内浦湾]]) *[[湖沼]]:[[加茂湖]]、[[佐潟]]、[[ミクリガ池]]、[[新湯]]、[[釜池]]、[[縄ヶ池]]、[[木場潟]]、[[柴山潟]]、[[北潟湖]]、[[三方五湖]]、[[刈込池]] === 自然災害 === 北陸地方が被害を受けた自然災害。()内は主な被災県。 ;地震 *1586年1月18日 [[天正地震]](M8.1 死者多数)(北陸全域) *1640年11月23日 [[大聖寺地震]](M6 死者多数)(福井・石川) *1662年6月16日 [[寛文近江・若狭地震|近江若狭地震]](M7.6 死者800人)(福井) *1666年2月1日 [[越後高田地震]](M6.4 死者1,500人)(新潟) *1714年4月28日 [[信濃小谷地震]](M6.4 死者100人)(富山・新潟) *1751年5月21日 [[越後・越中地震]](M7.0 - 7.4 死者1,541人)(新潟) *1828年12月18日 [[越後三条地震]](M6.9 死者1,681人)(新潟) *1858年2月26日 [[飛越地震]](M7.1 死者209人)(福井・石川・富山) *1891年10月28日 [[濃尾地震]](M8.0 死者約7,300人)(福井) *1948年6月28日 [[福井地震]](M7.1 死者3,769人)(福井) *1952年3月7日 [[大聖寺沖地震]](M6.5 死者7人)(福井・石川) *1961年8月19日 [[北美濃地震]](M7 死者8人)(福井・石川) *1963年3月27日 [[越前岬沖地震]](M6.9 死者なし)(福井) *1964年6月16日 [[新潟地震]](M7.5 死者26人)(新潟) *1993年2月7日 [[能登半島沖地震]](M6.6 死者なし)(石川) *2004年10月23日 [[新潟県中越地震]](M6.8 死者67人)(新潟) *2007年3月25日 [[能登半島地震]](M6.9 死者1人)(石川・富山) *2007年7月16日 [[新潟県中越沖地震]](M6.8 死者15人)(新潟) ;気象災害 *1961年9月15日 - 17日 [[第2室戸台風]](北陸全域) *1962年12月 - 翌2月 [[昭和38年1月豪雪]](北陸全域) *1963年7月17日 - 20日 [[昭和39年7月山陰北陸豪雨]](石川・富山) *1965年9月13日 - 15日 [[奥越豪雨]](福井) *1967年8月26日 - 29日 [[羽越豪雨]](新潟) *1980年12月 - 翌3月 [[五六豪雪]](北陸全域) *1983年12月 - 翌3月 [[昭和59年豪雪]](北陸全域) *2004年7月12日 - 13日 [[平成16年7月新潟・福島豪雨]](新潟) *2004年7月17日 - 18日 [[平成16年7月福井豪雨]](福井) *2005年12月 - 翌2月 [[平成18年豪雪]](福井・新潟) *2006年7月15日 - 24日 [[平成18年7月豪雨]](福井・石川) == 歴史 == 北陸地方は、「日本海沿岸の地方勢力」として、他の地方からは半ば独立した歴史を歩んで来た。 === 古代 === 古代の北陸地方は'''[[越国]]'''(こしのくに)や'''陸道'''(くぬがのみち)と呼ばれており地方勢力の一つであった。「越国」とあるが中央勢力の影響圏外であり資料が少なく、統一された国家であったかは不明である。伝説の大蛇「[[八岐大蛇]]」が越国から現れたと伝えられ、[[出雲王権]]の特徴である[[四隅突出型墳丘墓]]が富山県や福井県などに見られることや、[[出雲崎町|出雲崎]](新潟県中部)などの地名の名残から、出雲文化の影響が強く見られる。 [[ヤマト王権]]の[[大彦命]]が越国を鎮めると、次第に[[中央集権]]の枠組みに取り込まれていく。古代には北から[[高志深江国造]]、[[久比岐国造]]、[[佐渡国造]](新潟県)、[[伊彌頭国造]](富山県)、[[能頭国造]]、[[羽咋国造]]、[[加宜国造]]、[[加我国造]]、[[高志国造]]、[[江沼国造]](石川県)、[[三国国造]]、[[角鹿国造]]、[[若狭国造]](福井県)が設置された。ヤマト王権が中央集権型統一国家を成立させると、中央である[[畿内]]を防衛するため周辺に[[関所]]が設置された。当時の東方を守る[[関所|三関]]は、「[[東海道]]の'''[[鈴鹿関]]([[鈴鹿峠]])'''」「[[東山道]]の'''[[不破関]]([[関ヶ原宿|関ヶ原]])'''」「[[北陸道]]の'''[[愛発関]](愛発山)'''」を指していたので、律令時代には、[[若狭国]]([[嶺南]])から東の[[日本海]]沿岸が越国と見なされていた。 越国は、ヤマト王権の勢力に組み込まれると詳細に3つの領域に区分された。[[令制国]]の[[国府]]所在地を見ると、[[越前国]]は[[武生市|武生]]、[[越中国]]は[[伏木町|伏木]]([[高岡市]]北部)、[[越後国]]は[[直江津市|直江津]]([[上越市]]北部)に当たる。この国府所在地の位置により、当時のヤマト王権の支配領域は、東は概ね新潟県の[[上越地方]]までで、それ以北は領土外であった。しかし、後に支配領域を伸ばすと、天険たる[[鼠ヶ関]]と[[越後山脈]]が[[北陸道]]の北限となり、越国から分離される形で[[出羽国]]が設置された。越前国から分離した[[能登国]]成立の時期に開山し[[室町時代]]末期まで巨大な宗教都市として勢力を誇った[[平泉寺]]はこの時代の独立した集団として捉えられる。 === 中世 === ;[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]まで [[親鸞]]が[[直江津市|直江津]]に[[流刑]]され、[[蓮如]]が教団を拡大し、北陸地方は[[浄土真宗]]の地盤となり、[[仏教]]勢力が力を揮う事になった。その頂点が[[加賀一向一揆|加賀の一向一揆]]、[[越中一向一揆|越中の一向一揆]]であり、この他にも[[永平寺]]などの有名寺院が立地するようになった。[[浄土教]]を批判した[[日蓮]]も佐渡に流刑された。 ;[[戦国時代 (日本)|戦国時代]] 戦国時代の北陸地方は、越後国は[[長尾氏]]、越中国は[[神保氏]]と[[椎名氏]]、能登国は[[畠山氏]]、加賀国は[[一向一揆]]、越前国は[[朝倉氏]]が支配し、[[上杉謙信]]と一向一揆は激しく争った([[尻垂坂の戦い]])。[[本能寺の変]]以後は、[[上杉景勝]]([[上越市|上越]])、[[新発田重家]]([[下越地方|下越]])、[[佐々成政]]([[富山県|富山]])、[[前田利家]]([[金沢市|金沢]])、[[柴田勝家]]([[福井市|福井]])などの本拠地となった。 === 江戸時代 === [[ファイル:Kitamaekan01s3900.jpg|thumb|北前船(複製)]] ;[[江戸時代]] 江戸時代になると、[[幕藩体制]]が敷かれ富山(越中)は能登とともに加賀藩の直接的、間接的支配下にあり、政治的な影響下にあった。「加賀百万石」と呼ばれた[[前田氏]]の[[加賀藩]]を初めとして、前田氏の分家に当たる[[富山藩]]、[[越前松平氏]]の[[福井藩]]、[[牧野氏]]の[[越後長岡藩|長岡藩]]などが有名である。浄土真宗への帰依が深い北陸では堕胎・間引きを忌んだ事などから、人口増加率が高く全国に移住者を出し続けた<ref>中川正「[http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2002apr/tokushu/ 関東における北陸人集落の繁栄]」『とやま経済月報』平成14年3月号</ref>。 収穫された米を[[近畿地方|近畿]]へ運ぶための海上交通として多くの[[北前船]]が就航した。<!--江戸時代の代表的な港町としては[[直江津市|直江津]]が有名である。※北前船の寄港地リストにないのでコメントアウトしました。書くとしたら室町以前か?-->江戸時代の北陸道は「[[北陸道#道(みち)としての北陸道|北国街道]]」と呼ばれ、[[善光寺]]参拝の道でもあった。 ;[[幕末]] 幕末になり、開国を迎えると、[[新潟市|新潟]]が開港五港の一つとなって盛え始める。[[越後長岡藩|長岡藩]]など[[奥羽越列藩同盟]]に加わる藩が現れ、[[戊辰戦争]]では[[薩長]]軍と敵対したが、敗北した。 === 明治維新から太平洋戦争まで === [[江戸幕府]]が崩壊し、[[明治政府]]が[[中央集権]]国家を成立させると、[[廃藩置県]]で多くの県が成立した。 現在の新潟県には、[[新潟県]]([[下越地方]])、[[相川県]]([[佐渡島]])、[[柏崎県]]([[中越地方]]と[[上越地方]])が分立したが、[[1873年]][[6月10日]]には[[新潟県]]に編入された。現在の北陸3県には、[[新川県]](現[[富山県]])や[[石川県]]や[[足羽県]]([[嶺北]])が分立したが、[[1876年]][[8月21日]]には全て[[石川県]]に編入された。しかし、各地の分県運動の結果、1881年2月7日には石川県から[[嶺北]]が[[福井県]]として分離され、1883年には石川県から旧新川県が[[富山県]]として分離された。[[嶺南]]は、1876年8月21日以後は[[滋賀県]]に編入されたが、1881年2月7日には滋賀県から分離されて福井県に編入された。 北海道開拓では、比較的人口が多く、さらに雪国の環境として適性のあった北陸出身者が多数移住し、実に全体の数の3割以上を占めた<ref>[http://www.otarucci.jp/kiseki/kiseki-10c.html 明治25年至同29年府県別北海道移住者人員] この4年間で35% 道庁殖民部拓殖課『明治29年来住戸口表』{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>。 [[明治]]に入ると[[鉄道]]が建設され、[[東京市|東京]]を中心にした陸上交通網が整備された為、江戸時代まで交通網の主演だった[[北前船]]は衰えた。この為、明治以後は陸上交通が中心の経済体制が築かれて行った。 === 太平洋戦争後 === ;[[昭和]] かつて北陸地方は国内でも有数の人口を持つ地方であり、[[1876年]]の[[金沢市]]の人口は全国5位で[[横浜市]]・[[広島市]]より多く<ref>[https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1538633347201/index.html 山陰中央新報社|第1部 格差の象徴 (1)プロローグ] [[山陰中央新報社]]{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>、[[1945年]]時点でも[[新潟県]]の人口が全国7位だったが<ref>[[都道府県の人口一覧]]</ref>、[[太平洋ベルト]]地帯を中心とした国土軸から漏れた結果、[[過疎]]化が顕在化した。しかし、新潟県出身の[[田中角栄]]政権下で「[[太平洋ベルト]]地帯との格差の是正」が謳われ、[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[北陸自動車道]]等が計画され、[[北陸工業地域]]も形成された。特に[[新幹線]]の建設については角栄の政治力が関与したという見方も強い<ref>[https://www.huffingtonpost.jp/2015/02/22/hokuriku-shinkansen-must-know_n_6730870.html 北陸新幹線、いくらかかった? 知っておきたい「そもそも」のこと] [[ハフポスト]]</ref><ref>[https://www.sanin-chuo.co.jp/www/contents/1539149827889/index.html 山陰中央新報社|第1部 格差の象徴 (2)絵に描いた餅] [[山陰中央新報社]]{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>。これ以後は、それまでの「農業地域」から、「農工折衷型の地域」に変わり、日本海側最大規模の工業地域を持つようになった。さらに田中政権は[[電源三法]]を制定、原発銀座の基礎を作った<ref>[[住友陽文]]「[http://www.fragment-group.com/kaku-kaken/pdf/ss3-sumitomo.pdf 戦後日本政治史のなかの原発問題]」</ref>。 ==文化・方言== ===食文化=== 佐渡や富山・石川など北陸西部は西日本の鰤文化圏の性質を持つ一方で、新潟県下越地方・中越地方は東日本の鮭文化圏の性質が強い<ref>{{Cite journal|和書|author=本間伸夫、新宮璋一、石原和夫、佐藤恵美子|date=1990-03|title=東西食文化の日本海側の接点に関する研究(III) : 年取り魚と昆布巻|journal=県立新潟女子短期大学研究紀要|volume=27|pages=75-82|url=http://id.nii.ac.jp/1661/00000604/}}</ref>。 === 建築、住居 === {{節スタブ|date=2022年9月}} [[File:珠洲市川浦町 - panoramio.jpg|thumb|能登や佐渡、富山、新潟県上中越沿岸部などで広く見られる、黒い釉薬の[[瓦]]]] [[File:Escapement street of Takada.jpg|thumb|[[雁木造]]]] [[File:TonamiHeiya Kanjouji.jpg|thumb|[[散居村]]]] * [[雁木造]] * [[散居村]] ===方言=== *[[北奥羽方言]] - 新潟県[[下越地方|下越]]([[阿賀野川]]以北) *[[越後方言]] - 新潟県[[上越地方|上越]]、[[中越地方|中越]]、下越(阿賀野川以南) *[[北陸方言]] - 新潟県西端、[[佐渡島|佐渡]]、富山県、石川県、福井県[[嶺北]] *[[近畿方言]] - 福井県[[嶺南]] == 人口 == {| class="wikitable" |+2020年[[国勢調査 (日本)|国勢調査]] |- ! 都道府県名 ! 順位 ! 人口 ! 割合 |- | 新潟県 | 15 | style="text-align:right" | 2,201,272 | 1.74% |- | 富山県 | 37 | style="text-align:right" | 1,034,814 | 0.82% |- | 石川県 | 33 | style="text-align:right" | 1,132,526 | 0.89% |- | 福井県 | 43 | style="text-align:right" | 766,863 | 0.6% |- | colspan="2" | 合計 | style="text-align:right" | 5,135,475 | 4.05% |} === 主要都市 === <gallery> File:Bandaibashi-Bridge 20130929.JPG|[[新潟市]] File:Kohrinbo crossing.jpg|[[金沢市]] File:1 Minatoirifunechō, Toyama-shi, Toyama-ken 930-0805, Japan - panoramio.jpg|[[富山市]] File:福井駅.jpg|[[福井市]] File:長岡駅 タクシープール・駅前.jpg|[[長岡市]] File:Takada station square.JPG|[[上越市]] </gallery> 北陸地方の主要都市を掲載する。 * [[政令指定都市]] : [[新潟市]]({{formatnum:{{自治体人口/新潟県|新潟市}}}}人) * [[中核市]] : [[金沢市]]({{formatnum:{{自治体人口/石川県|金沢市}}}}人)、[[富山市]]({{formatnum:{{自治体人口/富山県|富山市}}}}人)、[[福井市]]({{formatnum:{{自治体人口/福井県|福井市}}}}人) * [[特例市|施行時特例市]] : [[長岡市]]({{formatnum:{{自治体人口/新潟県|長岡市}}}}人)、[[上越市]]({{formatnum:{{自治体人口/新潟県|上越市}}}}人) * その他、人口10万人以上の都市 : [[高岡市]]({{formatnum:{{自治体人口/富山県|高岡市}}}}人)、[[白山市]]({{formatnum:{{自治体人口/石川県|白山市}}}}人)、[[小松市]]({{formatnum:{{自治体人口/石川県|小松市}}}}人)  === 都市圏 === * [[都市雇用圏]](2015年[[国勢調査 (日本)|国勢調査]]時点の10%都市圏) <div style="clear: left; float: left;"> {| class="wikitable" style="clear: left; float: left;" |- ! style="background::#a4aaf9;"| 順位 ! style="background::#a4aaf9;"| 都市雇用圏 ! style="background::#a4aaf9;"| 人口 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|16 | style="text-align: center;"|[[富山都市圏]] | style="text-align: right;"|106{{sup|万}}6328 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|17 | style="text-align: center;"|[[新潟都市圏]] | style="text-align: right;"|106{{sup|万}}0013 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|26 | style="text-align: center;"|[[金沢都市圏]] | style="text-align: right;"|74{{sup|万}}7780 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|32 | style="text-align: center;"|[[福井都市圏]] | style="text-align: right;"|64{{sup|万}}6813 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|54 | style="text-align: center;"|[[長岡都市圏]] | style="text-align: right;"|35{{sup|万}}6767 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|78 | style="text-align: center;"|[[上越都市圏]] | style="text-align: right;"|23{{sup|万}}0186 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|82 | style="text-align: center;"|[[小松都市圏]] | style="text-align: right;"|22{{sup|万}}2986 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|85 | style="text-align: center;"|[[三条都市圏]] | style="text-align: right;"|21{{sup|万}}5037 |} </div> <div style="float: left;"> {| class="wikitable" style="clear: left; float: left;" |- ! style="background::#a4aaf9;"| 順位 ! style="background::#a4aaf9;"| 都市雇用圏 ! style="background::#a4aaf9;"| 人口 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|- | style="text-align: center;"|[[柏崎都市圏]] | style="text-align: right;"|9{{sup|万}}1608 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|- | style="text-align: center;"|[[敦賀都市圏]] | style="text-align: right;"|7{{sup|万}}6079 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|- | style="text-align: center;"|[[七尾都市圏]] | style="text-align: right;"|7{{sup|万}}2896 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|- | style="text-align: center;"|[[村上都市圏]] | style="text-align: right;"|6{{sup|万}}8274 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|- | style="text-align: center;"|[[十日町都市圏]] | style="text-align: right;"|6{{sup|万}}4946 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|- | style="text-align: center;"|[[小浜都市圏]] | style="text-align: right;"|5{{sup|万}}3252 |- | style="text-align:center; background:#d6deff;"|- | style="text-align: center;"|[[糸魚川都市圏]] | style="text-align: right;"|4{{sup|万}}4162 |} </div> {{clearleft}} == 産業 == 2007年度の北陸地方4県の県内総生産の合計は21兆6509億円である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/main_h21.html 平成19年度県民経済計算]</ref>。これは[[アラブ首長国連邦]]の[[国内総生産|GDP]]にほぼ匹敵しており、世界で35位前後の「国」に相当する経済規模を有している<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/weodata/index.aspx World Economic Outlook Database]</ref>。 === 農業 === 豊富な[[雪]]解け水を利用した[[灌漑|かんがい]][[用水]]を整備し、[[海岸]]の[[ラグーン]](潟)を[[干拓]]した広大な[[土地]]は、[[日本]]の代表的な[[穀物|穀倉地帯]]となっていて、[[コシヒカリ]]などの[[稲作]]がさかんである。それに伴い[[日本酒]]の[[醸造]]元も多く存在する。地域を象徴する「越(こし)」を冠する[[銘柄]]が目立つ。水産資源として[[ブリ]]や[[ズワイガニ|カニ]]が水揚げされ、富山湾では定置網漁が盛な漁場として知られている。 === 工業 === [[ファイル:Kanazawa Gold Factory.jpg|thumb|金箔]] [[石油]]の[[輸入]]が本格化する以前は、水を利用した[[水力発電]]を開発した北陸地方が多くの[[電力]]を必要とする[[重工業]]に有利だった。水資源自体の価値と賃金の安さも相まって[[北陸工業地域]]として[[富山湾]]沿岸や[[上越市]]周辺を中心に発達した。現在でも北陸電力は全国でもトップクラスの安さで電力を供給している<ref name="enecho">{{PDFlink|[http://www.enecho.meti.go.jp/info/committee/denkijigyo/kanshi3/s3.pdf 電気料金(一般電気事業者間比較)]}}{{リンク切れ|date=2023年2月}} 電気事業便覧</ref>。また豊富な水資源自体も工業、特に半導体産業等に有利となっている。[[金沢市|金沢]]の[[金箔]]、[[鯖江市|鯖江]]の[[眼鏡]]に代表されるような[[軽工業]]や[[冬]]の[[副業]]として発達した[[漆器]]、[[織物]]、そして[[和紙]]などの[[伝統工芸]]も多い。 === 商業 === {{要出典範囲|date=2016年5月|近年の[[減反政策]]と[[モータリゼーション]]を反映して[[ロードサイドショップ]]などの[[商業]]地の[[郊外]]への分散化が著しい。大規模な郊外型[[ショッピングセンター]]の進出は、[[関東地方]]に次ぐ規模となっている。}} === マスコミ === ;地上波テレビ局 {{main|日本のテレビジョン放送局#広域放送または県域放送}} {| class="wikitable" style="font-size:small" !colspan="2"|[[放送]]エリア||style="white-space:nowrap"|[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]<br />(NHK G)||style="white-space:nowrap"|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列<br />(NNN・NNS)!!style="white-space:nowrap"|[[テレビ朝日]]系列<br />(ANN)!!style="white-space:nowrap"|[[TBSテレビ|TBS]]系列<br />(JNN)!!style="white-space:nowrap"|[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列<br />(FNN・FNS) |- !colspan="2"|[[新潟県]] |[[NHK新潟放送局]]<br />'''1'''||[[テレビ新潟放送網]]<br />(TeNY) '''4'''||[[新潟テレビ21]]<br />(UX) '''5'''||[[新潟放送]]<br />(BSN) '''6'''||[[NST新潟総合テレビ]]<br />(NST) '''8''' |- !colspan="2"|[[富山県]] |[[NHK富山放送局]]<br />'''3'''||[[北日本放送]]<br />(KNB) '''1'''||||[[チューリップテレビ]]<br />(TUT) '''6'''||[[富山テレビ放送]]<br />(BBT) '''8''' |- !colspan="2"|[[石川県]] |[[NHK金沢放送局]]<br />'''1'''||[[テレビ金沢]]<br />(KTK) '''4'''||[[北陸朝日放送]]<br />(HAB) '''5'''||[[北陸放送]]<br />(MRO) '''6'''||[[石川テレビ放送]]<br />(ITC) '''8''' |- !colspan="2"|[[福井県]] |[[NHK福井放送局]]<br />'''1'''||[[福井放送]]<br />(FBC) '''7'''||||||[[福井テレビジョン放送]]<br />(FTB) '''8''' |} 新潟県、石川県には[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[テレビ朝日]]、[[TBSテレビ|TBS]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の通称「[[キー局|4大キー局]]」の各民放系列局がある。富山県は4大キー局のうちテレビ朝日系列の局がなく3局がある。福井県は4大キー局のうちテレビ朝日系列(厳密には日本テレビ系列メインのクロスネットとして存在)とTBS系列の局がなく2局がある。いずれの県にも[[テレビ東京]]系列のローカル局はない。北陸地方でこれら系列の放送を視聴するには[[ケーブルテレビ]]、[[衛星放送]]などを利用する必要がある。一部の地域では他県の越境電波を利用でき、新潟県では関東地方の放送局を、富山県では石川県や新潟県の放送局を、福井県では石川県や近畿地方の放送局を受信できる場合がある。 === 電力 === * [[一般送配電事業者]] ** [[東北電力ネットワーク]] - 新潟県 ** [[北陸電力送配電]] - 富山県、石川県、福井県(嶺北、嶺南のうち[[敦賀市]]) ** [[関西電力送配電]] - 福井県(嶺南のうち敦賀市を除く) *家庭用電源[[商用電源周波数|周波数]] ** 50Hz - 新潟県(妙高市と糸魚川市の一部、佐渡市を除く) ** 60Hz - 新潟県(妙高市と糸魚川市の一部、佐渡市)、富山県、石川県、福井県 === 電話 === * 電話番号の[[日本の市外局番|市外局番]](当記事では便宜上、市外局番に国内開放番号「0」を付して表示する) ** 023番台 - 新潟県(村上市の一部) ** 024番台 - 新潟県(魚沼市の一部) ** 025番台 - 新潟県(村上市、魚沼市、妙高市のそれぞれ一部を除く) ** 026番台 - 新潟県(妙高市の一部)、富山県(中新川郡の一部) ** 076番台 - 富山県(中新川郡の一部を除く)、石川県、福井県(あわら市の一部) ** 077番台 - 福井県(あわら市の一部を除く) === 郵便 === * [[日本の郵便番号|郵便番号]]の地域番号(上2桁) ** 95 - 新潟県の北部 ** 94 - 新潟県の中部、西部(妙高市の一部を除く) ** 38 - 新潟県(妙高市の一部) ** 93 - 富山県、石川県(七尾市、宝達志水町のそれぞれ一部) ** 92 - 石川県(七尾市、宝達志水町のそれぞれ一部を除く)、福井県(あわら市の一部) ** 91 - 福井県(あわら市の一部を除く) == 交通 == <!--各県共通の代表的な交通機関のみを記載しています。更新時の人的負担も考え項目追加は十分検討してください。--> [[ファイル:Ainokaze-Toyama Series521-AK02.jpg|thumb|[[あいの風とやま鉄道線]]]] [[ファイル:Niigata West Port 2019.jpg |thumb|[[新潟港]]西港区]] 交通史については[[北陸道]]の記事を参照。 === 鉄道・道路 === 主な路線を記載 * [[東日本旅客鉄道]] [[上越新幹線]]、[[北陸新幹線]]、[[信越本線]]、[[羽越本線]] * [[西日本旅客鉄道]] 北陸新幹線、[[北陸本線]]、[[高山本線]] * [[えちごトキめき鉄道]] [[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]、[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]] * [[あいの風とやま鉄道線]] * [[IRいしかわ鉄道線]] * [[国道8号]] * 開通している[[高速自動車国道]] ** [[北陸自動車道]]、[[日本海東北自動車道]]、[[磐越自動車道]]、[[関越自動車道]]、[[上信越自動車道]]、[[東海北陸自動車道]]、[[舞鶴若狭自動車道]] * その他 ** [[新潟県#交通|新潟県の交通]] ** [[富山県#交通|富山県の交通]] ** [[石川県#交通|石川県の交通]] ** [[福井県#交通|福井県の交通]] === 港 === * [[新潟港]](新潟県、[[特定重要港湾]]、[[中核国際港湾]]) * [[直江津港]](新潟県、[[重要港湾]]) * [[両津港]](新潟県、重要港湾) * [[小木港]](新潟県、重要港湾) * [[伏木富山港]](富山県、特定重要港湾) * [[七尾港]](石川県、重要港湾) * [[金沢港]](石川県、重要港湾) * [[敦賀港]](福井県、重要港湾) === 空港 === {| class="wikitable" |- style="background-color: #a4aaf9;" | rowspan="2" style="text-align: center; background-color: #fc9;" |'''[[空港]]''' | rowspan="2" style="text-align: center; background-color: #f96;" |'''旅客合計''' | colspan="2" style="text-align: center;" |'''国内線''' | colspan="2" style="text-align: center; background-color: #ccf;" |'''国際線''' |- | style="text-align: center; background-color: #ccc;" |旅客数 | style="text-align: center;" |定期便 | style="text-align: center; background-color: #ccc;" |旅客数 | style="text-align: center;" |定期便 |- | style="text-align: center; background-color: #fff;" |[[小松飛行場|小松]] | style="text-align: right; background-color: #ffc;" |114<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>3850人</span> | style="text-align: right;" |114<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>3850人</span> | style="font-size: smaller;" |[[新千歳空港|新千歳]]・[[仙台空港|仙台]]・'''[[東京国際空港|東京]]'''・<br />'''[[成田国際空港|成田]]'''・[[福岡空港|福岡]]・[[那覇空港|那覇]] | style="text-align: right;" |<span style="font-size: smaller;">0人</span> | style="font-size: smaller;" |[[仁川国際空港|ソウル]]・[[上海浦東国際空港|上海]]・[[台湾桃園国際空港|台北]]・香港 |- | style="text-align: center; background-color: #fff;" |[[富山空港|富山]] | style="text-align: right; background-color: #ffc;" |25<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>1509人</span> | style="text-align: right;" |25<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>1509人</span> | style="font-size: smaller;" |新千歳・'''東京''' | style="text-align: right;" |<span style="font-size: smaller;">0人</span> | style="font-size: smaller;" |台北・[[大連周水子国際空港|大連]]・上海 |- | style="text-align: center; background-color: #fff;" |[[新潟空港|新潟]] | style="text-align: right; background-color: #ffc;" |81<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>906人</span> | style="text-align: right;" |80<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>4381人</span> | style="font-size: smaller;" |新千歳・佐渡・'''成田・<br />[[中部国際空港|中部]]・[[名古屋飛行場|名古屋]]・[[大阪国際空港|大阪]]・[[関西国際空港|関西]]'''・<br />'''[[神戸空港|神戸]]'''・福岡・那覇 | style="text-align: right;" |<span style="font-size: smaller;">6525人</span> | style="font-size: smaller;" |ソウル・上海・[[ハルビン太平国際空港|ハルビン]]・<br />台北・[[グアム国際空港|グアム]]・香港・ウラジオストク ・ハバロフスク |- | style="text-align: center; background-color: #fff;" |[[能登空港|能登]] | style="text-align: right; background-color: #ffc;" |11<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>1212人</span> | style="text-align: right;" |11<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>1212人</span> | style="font-size: smaller;" |'''東京''' | style="text-align: right; font-size: smaller;" |0人 |- |- | style="text-align: center; background-color: #fff;" |[[佐渡空港|佐渡]] | style="text-align: right; background-color: #ffc;" |<span style="font-size: smaller;">0人</span> | style="text-align: right;" |<span style="font-size: smaller;">0人</span> | style="font-size: smaller;" |— | style="text-align: right; font-size: smaller;" |0人 |- |- | style="text-align: center; background-color: #fff;" |[[福井空港|福井]] | style="text-align: right; background-color: #ffc; font-size: smaller;" |0人 | style="text-align: right; font-size: smaller;" |0人 |- | style="text-align: right; font-size: smaller;" |0人 |- |} *出典は[[国土交通省]]航空局・[https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000185.html 空港管理状況調書](2022年度) *[[チャーター便]]の旅客数を含む。 *[[三大都市圏]]への便は'''太字'''。 *全国の空港の乗降客数は[[日本の空港#統計情報]]を参照。 === 都道府県間流動 === *2010年度<ref>[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/soukou/sogoseisaku_soukou_fr_000009.html 都道府県間流動表 居住地-旅行先 【交通機関別流動表】] 全交通機関、年間データ利用</ref> <div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:福井県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |1 |石川県 | style="text-align:right;" |358.2 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |2 |京都府 | style="text-align:right;" |257.6 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |3 |滋賀県 | style="text-align:right;" |160.6 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |4 |大阪府 | style="text-align:right;" |55.7 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |5 |東京都 | style="text-align:right;" |54.2 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |6 |愛知県 | style="text-align:right;" |50.6 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |7 |富山県 | style="text-align:right;" |49.7 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |8 |兵庫県 | style="text-align:right;" |29.4 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |9 |岐阜県 | style="text-align:right;" |24.5 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |10 |三重県 | style="text-align:right;" |8.5 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:石川県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |1 |富山県 | style="text-align:right;" |573.4 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |2 |福井県 | style="text-align:right;" |383.6 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |3 |岐阜県 | style="text-align:right;" |93.4 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |4 |東京都 | style="text-align:right;" |75.8 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |5 |大阪府 | style="text-align:right;" |58.6 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |6 |京都府 | style="text-align:right;" |51.7 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |7 |愛知県 | style="text-align:right;" |51.0 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |8 |滋賀県 | style="text-align:right;" |33.4 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |9 |長野県 | style="text-align:right;" |25.9 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |10 |新潟県 | style="text-align:right;" |20.6 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:富山県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |1 |石川県 | style="text-align:right;" |701.0 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |2 |長野県 | style="text-align:right;" |190.5 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |3 |岐阜県 | style="text-align:right;" |166.1 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |4 |新潟県 | style="text-align:right;" |98.3 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |5 |東京都 | style="text-align:right;" |87.5 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |6 |大阪府 | style="text-align:right;" |56.4 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |7 |愛知県 | style="text-align:right;" |49.9 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |8 |京都府 | style="text-align:right;" |47.3 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |9 |福井県 | style="text-align:right;" |42.7 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |10 |神奈川県 | style="text-align:right;" |15.5 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:新潟県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #feebcb;" | style="text-align:center;" |1 |東京都 | style="text-align:right;" |319.0 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |2 |長野県 | style="text-align:right;" |251.9 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align:center;" |3 |福島県 | style="text-align:right;" |146.7 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |4 |群馬県 | style="text-align:right;" |119.0 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |5 |富山県 | style="text-align:right;" |79.5 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |6 |埼玉県 | style="text-align:right;" |78.3 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |7 |千葉県 | style="text-align:right;" |62.2 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |8 |神奈川県 | style="text-align:right;" |47.7 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |9 |石川県 | style="text-align:right;" |30.2 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align:center;" |10 |山形県 | style="text-align:right;" |26.5 |} </div>{{clear|left}} *2015年度<ref>[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/soukou/sogoseisaku_soukou_fr_000018.html 都道府県間流動表 居住地-旅行先 利用交通機関別] 全交通機関、年間データ利用</ref> <div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:福井県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |1 |石川県 | style="text-align:right;" |479.8 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |2 |滋賀県 | style="text-align:right;" |265.0 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |3 |京都府 | style="text-align:right;" |205.4 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |4 |大阪府 | style="text-align:right;" |89.8 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |5 |富山県 | style="text-align:right;" |86.9 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |6 |東京都 | style="text-align:right;" |51.8 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |7 |愛知県 | style="text-align:right;" |50.3 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |8 |岐阜県 | style="text-align:right;" |40.5 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |9 |兵庫県 | style="text-align:right;" |20.9 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |10 |三重県 | style="text-align:right;" |12.5 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:石川県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |1 |富山県 | style="text-align:right;" |724.8 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |2 |福井県 | style="text-align:right;" |328.5 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |3 |東京都 | style="text-align:right;" |113.4 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |4 |愛知県 | style="text-align:right;" |77.9 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |5 |岐阜県 | style="text-align:right;" |72.2 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |6 |大阪府 | style="text-align:right;" |60.9 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |7 |京都府 | style="text-align:right;" |43.4 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |8 |新潟県 | style="text-align:right;" |39.6 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |9 |長野県 | style="text-align:right;" |31.5 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |10 |滋賀県 | style="text-align:right;" |21.3 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:富山県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |1 |石川県 | style="text-align:right;" |845.7 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |2 |岐阜県 | style="text-align:right;" |172.1 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |3 |東京都 | style="text-align:right;" |133.2 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |4 |新潟県 | style="text-align:right;" |87.4 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |5 |長野県 | style="text-align:right;" |69.2 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |6 |福井県 | style="text-align:right;" |58.9 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |7 |愛知県 | style="text-align:right;" |41.5 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |8 |大阪府 | style="text-align:right;" |32.2 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align:center;" |9 |京都府 | style="text-align:right;" |24.6 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |10 |千葉県 | style="text-align:right;" |23.1 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top: white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 居住地:新潟県 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- |順|| 旅行先 || 万人/年 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align:center;" |1 |長野県 | style="text-align:right;" |407.8 |-style="background-color: #feebcb;" | style="text-align:center;" |2 |東京都 | style="text-align:right;" |343.1 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align:center;" |3 |福島県 | style="text-align:right;" |190.7 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |4 |群馬県 | style="text-align:right;" |171.3 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |5 |富山県 | style="text-align:right;" |104.7 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |6 |埼玉県 | style="text-align:right;" |88.2 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |7 |千葉県 | style="text-align:right;" |78.2 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |8 |神奈川県 | style="text-align:right;" |73.0 |-style="background-color: #ffebcb;" | style="text-align:center;" |9 |栃木県 | style="text-align:right;" |51.8 |-style="background-color: #ffffcc;" | style="text-align:center;" |10 |石川県 | style="text-align:right;" |39.1 |} </div>{{clear|left}} *旅行先上位10都府県のみ記載 *北陸4県は「{{Color|#ffffcc|■}}」、関東地方は「{{Color|#ffebcb|■}}」、[[甲信地方]]・[[東海地方]]は「{{Color|#d6deff|■}}」、三重県を除く[[近畿地方]]は「{{Color|#f0f0f0|■}}」、それ以外は白地。 == 行政機関等の管轄 == ここでは北陸地方を管轄する主な官公庁の出先機関を取り上げる。 ; [[総合通信局]]([[総務省]]) * [[信越総合通信局]]:新潟県 * [[北陸総合通信局]]:富山県・石川県・福井県 ; [[財務局]]([[財務省 (日本)|財務省]])・[[国税局]]([[国税庁]]) * [[関東財務局]]・[[関東信越国税局]]:新潟県 * [[北陸財務局]]・[[金沢国税局]]:富山県・石川県・福井県 ; [[地方整備局]]([[国土交通省]]) * [[地方整備局#北陸地方整備局|北陸地方整備局]]:新潟県・富山県・石川県、福井県の一部(港湾空港部のみ) * [[近畿地方整備局]]:福井県(前述の部門を除く) ; [[地方運輸局]](国土交通省) * [[北陸信越運輸局]]:新潟県・富山県・石川県 * [[中部運輸局]]:福井県 ; 経済産業局([[経済産業省]]) * 関東経済産業局:新潟県 * 中部経済産業局:富山県・石川県(電気事業のみ福井県の東部を含む) * 近畿経済産業局:福井県(電気事業のみ東部を除く) ; [[地方厚生局]]([[厚生労働省]]) * [[関東信越厚生局]]:新潟県 * [[東海北陸厚生局]]:富山県・石川県 * [[近畿厚生局]]:福井県 ; [[地方農政局]]([[農林水産省]]) * [[北陸農政局]]:新潟県・富山県・石川県・福井県 ; 環境事務所([[環境省]]) * [[関東地方環境事務所]]:新潟県 * [[中部地方環境事務所]]:富山県・石川県・福井県 ; [[海上保安本部]]([[海上保安庁]]) * [[第九管区海上保安本部]]:新潟県・富山県・石川県 * [[第八管区海上保安本部]]:福井県 ; [[管区警察局]]([[警察庁]]) * [[関東管区警察局]]:新潟県 * [[中部管区警察局]]:富山県・石川県・福井県 ; [[森林管理局]]([[林野庁]]) * [[関東森林管理局]]:新潟県 * [[中部森林管理局]]:富山県 * [[近畿中国森林管理局]]:石川県・福井県 ; [[高等裁判所]]・[[高等検察庁]] * [[東京高等裁判所]]・[[東京高等検察庁]]:新潟県 * [[名古屋高等裁判所金沢支部]]・[[名古屋高等検察庁金沢支部]]:富山県・石川県・福井県 ; [[日本銀行]]支店 * 新潟支店:新潟県 * 金沢支店:富山県・石川県・福井県 == 北陸3県について == 北陸地方の各県の経済動向や人的動向、交通網をみると、東部の新潟県については[[広域関東圏|関東甲信越]]や[[信越地方]]と言うように[[関東地方]]や[[長野県]]方面との結びつきが大きいのに対し、西部の3県(富山県・石川県・福井県)はこの3県での結びつきの他に[[近畿地方]]や[[中京圏]]とのつながりが大きい。特に[[北陸本線]]の[[特別急行列車|特急]][[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]によって直接アクセスが可能な[[京都市|京都]]・[[大阪市|大阪]]などの[[関西]]圏との結びつきが大きい。[[北陸新幹線]]の延伸開業以前は関西志向が強かったが、[[2015年]]の北陸新幹線延伸開業によって関東からのアクセスが大幅に向上し、関西の影響力は相対的に低下した。 3県は企業などの管轄では[[西日本]]または[[中日本]]のエリアに含まれることが多い([[西日本旅客鉄道|JR西日本]]・[[中日本高速道路|NEXCO中日本]]・[[NTT西日本]]・[[北陸電力]]など)。新潟県[[上越地方]](県南部)も西日本・中日本の一部として扱われることがあり、北陸新幹線の[[糸魚川駅]]と[[大糸線]]末端区間はJR西日本の[[西日本旅客鉄道金沢支社|金沢支社]]であるほか、[[上越市]]には[[中部電力]]の[[上越火力発電所|発電所]]がある。[[静岡県]]を含めて[[中日本]]として一体化している[[東海地方]](静岡県・[[愛知県]]・[[岐阜県]]・[[三重県]])とは異なり、新潟県の大部分は[[東日本]]として扱われている([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東日本高速道路|NEXCO東日本]]・[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[東北電力]])。 上記のように現代において4県の一体性は必ずしも高くはない。そのためこの西部3県のみを指して「'''北陸3県'''」と称する例が見られる。富山県・石川県・福井県においては、単に北陸と言う場合、北陸3県を指すことも多く、「北陸初」や「北陸最大級」といった表現における北陸とはこの3県のみを指す例が多い<ref group="†">新潟県には[[日本三大花火大会]]の[[長岡まつり]]があるが、石川県[[川北町]]の[[川北まつり]]では打ち上げ花火10,000発程度の時代(2004年まで 川北まつり資料参照)からすでに「北陸最大級」の表現を使用している。</ref><ref group="†">新潟県の[[アルビレックス新潟]]が[[Jリーグ]]に参加しているにもかかわらず、北陸3県で初めてのJリーグクラブとなった[[カターレ富山]]は、Jリーグ公式サイトや地元紙の[[北日本新聞]]で「北陸初」と言及されている([http://www.j-league.or.jp/club/2009newclub/ 新規入会クラブ紹介:2009シーズン Jリーグ公式サイト] 2009年作成 2009年7月18日閲覧)([https://web.archive.org/web/20080610061331/http://www.kitanippon.co.jp/contents/appear/22/ Jに挑む カターレ富山の戦士(特集:富山)] 北日本新聞社 2008年作成 2009年7月18日閲覧 2008年6月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])。</ref><ref group="†">同様に北陸3県で初めての[[プロスポーツ]]チームとなった[[富山グラウジーズ]]は、[[bjリーグ]]公式サイトなどで「北陸初」と言及されている。</ref>。 以下では、この北陸3県(富山県・石川県・福井県)のつながりについて特筆する。 === 概要 === 北陸3県では、[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である[[富山市]]・[[金沢市]]・[[福井市]]が、それぞれの県での中心都市となっている。富山は重工業を中心として経済力が発達しており、金沢は観光と商業が発達、福井は軽工業が発達している。市町村人口は46万人の金沢市が最大である<ref group="†">ただし、[[都市雇用圏]]の比較では、[[金沢都市圏]]より[[富山都市圏]](高岡市等を含む)の方が人口・経済規模ともに大きい。</ref>。全国から企業が進出し、北陸3県内で物販・サービスなどの業務を集約する場合は金沢市あるいは富山市に拠点を置く場合が多い。業種によっては他に拠点を置くこともあり、福井市には[[旭化成]]・[[東レ]]・[[飛島建設]]などが拠点を置いている。また、北陸3県の主要企業である[[北陸電力]]・[[北陸銀行]]は富山市に本店<!--北陸電力も北陸銀行も「本社」ではなく「本店」が正しい。それぞれの公式サイトなどを参照のこと。-->を置いており、金沢市に一極集中しているわけではない。 また北陸3県振興の試みとして、富山県・石川県・福井県と、各県での最有力紙である[[北日本新聞]]・[[北國新聞]]・[[福井新聞]]が共同で「ネクスト北陸キャンペーン実行委員会」を組織し、毎年3県全てでパネル討論会などを行っている。同様に北陸3県と[[北陸経済連合会]]、[[北陸電力]]が北陸イメージアップ推進会議を設立し、対外的な北陸のイメージアップの調査・実践を試みている。 === メディア === 富山県・石川県・福井県でそれぞれテレビ、新聞、雑誌などのメディアが分かれていて、北陸3県全体を対象にする媒体はあまり多くないものの、様々な形態で番組の共同制作や企画ネットが行われている。 ;新聞 全国紙は地理的な関係で多くは大阪本社製作のものが配送されているが、[[読売新聞]]のみ[[読売新聞東京本社|東京本社]](実際の発行所は[[読売新聞北陸支社|北陸支社]]=[[高岡市]] [[福井県]]は大阪本社管轄)の分が使われている。また[[朝日新聞]]も[[1989年]][[9月]]から[[2011年]][[3月]]までは[[富山県]]に限り[[朝日新聞東京本社|東京本社]](実際の印刷は[[朝日新聞名古屋本社|名古屋本社]]が担当)の管轄だったが、2011年[[4月]]より[[朝日新聞大阪本社|大阪本社]]管轄に変更となった。 ;ラジオ局・地上波テレビ局 北陸3県を対象とする番組および番組内の企画として以下のようなものがある。 * [[北陸ネット3県ポン]] - 北日本放送・北陸放送・福井放送 * 北陸3県イイトコどり〜 - 北日本放送([[いっちゃん★KNB]])・[[テレビ金沢]]([[となりのテレ金ちゃん]])・福井放送([[おじゃまっテレ ワイド&ニュース]])の共同企画 * [[金とく]] 北陸スペシャル - [[NHK富山放送局]]・[[NHK金沢放送局]]・[[NHK福井放送局]]<ref group="†">北陸地方にある[[日本放送協会|NHK]]の各放送局では、各地域のローカルニュースを融通し合っており、朝や夕方の時間帯の番組で近県のニュースを伝えている。</ref> この他、[[フジネットワーク]](FNS)加盟の北陸3県の3局([[富山テレビ放送|富山テレビ]]・[[石川テレビ放送|石川テレビ]]・[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]])が共同制作する番組も不定期に放送されている。 ;情報誌 北陸3県をエリアとする雑誌として『自然人』(橋本確文堂)が2017年12月まで年4回発行されていた。No.55で休刊。 === 金融機関 === 北陸3県全地域共通の銀行サービスは、長い間[[北陸銀行]](富山県富山市)のみであったが、[[2005年]][[9月26日]]に、[[富山第一銀行]]、[[北國銀行]](石川県金沢市)、[[福井銀行]]が、3行間での[[現金自動預け払い機|ATM]]・[[現金自動預け払い機|CD]]利用手数料無料提携及び3行とのビジネスマッチング、ビジネスセミナー<ref>[https://web.archive.org/web/20070928004105/http://www.fukuibank.co.jp/news/2007/fitnet.html 「FITネットビジネスセミナー」の三行共同開催について] 福井銀行 2007年2月20日(2007年9月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>などを行う[[業務提携]]、[[FITネット]]を開始した<ref>[https://web.archive.org/web/20051127115645/http://www.hokkokubank.co.jp/news/2005/050926_a.html 富山第一銀行・北國銀行・福井銀行の「FITネット」業務提携の締結について] 北國銀行 2005年9月26日(2005年11月27日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。2007年10月には、FITネットが時間外、休日を含め完全無料化することに対抗し、2007年5月22日に[[福邦銀行]]と北陸銀行は、同10月を目処にATMの相互無料開放をすると発表した<ref>[https://web.archive.org/web/20070820025505/http://www.fukuho.co.jp/topics/h190522.html 福邦銀行発表] 2007年5月22日。閲覧:2007年8月9日(2007年8月20日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070705052929/http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20070523/4925.html 福邦銀行(福井)とATM提携 北銀・10月めど相互無料化] 北日本新聞 2007年5月23日付(2007年7月5日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 北陸銀行は[[2003年]][[5月30日]]、北陸3県に[[本社]]を置くまたは進出する企業の[[株式]]に[[投資]]をする[[金融商品]]、北陸3県応援ファンドを開始した<ref>「「北陸3県応援ファンド」の窓口販売開始について」北陸銀行 2003年5月16日</ref>。これに対し福井銀行、北國銀行、富山第一銀行は、FITネット・三県応援ファンドの募集を[[2005年]][[11月15日]]から開始した<ref>{{Cite web|和書|title=福井銀行の現況 2010.3|url=http://www.fukuibank.co.jp/ir/financial/disclosure/pdf/disc/2010_03/disc201003.pdf|page=4|publisher=福井銀行|format=pdf|accessdate=2014-01-25}}{{リンク切れ|date=2023年2月}}</ref>。FITネット・三県応援ファンドは、80%が[[ソブリン債]]など、20%が北陸3県に本社を置くまたは、進出などで[[雇用]]を創出している企業に投資される<ref>{{Cite web|和書|title=投資家の皆様へ FITネット・三県応援ファンド(毎月分配型)|url=https://www.daiwa-am.co.jp/funds/doc_open/fund_doc_open.php?code=3047&type=6|publisher=大和投資信託|format=pdf|accessdate=2014-01-26}}</ref>。 === 電力 === 北陸3県は発電所の建設に適した立地に恵まれ発電所が多く存在している。その内、[[関西電力]]は[[黒部川]]・[[庄川]]を中心に北陸3県では25か所の[[水力発電|水力発電所]](富山県24・福井県1<ref group="†">九頭竜川水系の市荒川発電所(福井県[[吉田郡]][[永平寺町]])</ref>)と、福井県の若狭地方にある[[美浜発電所|美浜]]・[[高浜発電所|高浜]]・[[大飯発電所|大飯]]の各[[原子力発電所]]を運営している。 若狭地方は、上記の関西電力の3つの原子力発電所の他、敦賀市に[[日本原子力発電]]の[[敦賀発電所]]や、[[日本原子力研究開発機構]]の有する[[高速増殖炉]][[もんじゅ]]・[[新型転換炉]][[ふげん]](現在は運転終了・[[廃炉]]作業中)などがあるため、別名「'''原発銀座'''」とも言われている。また、[[北陸電力]](富山県富山市)も石川県に[[志賀原子力発電所]]を運営している。 この他、日本で唯一市営の発電事業を行う[[金沢市企業局]]が[[犀川 (石川県)|犀川]]水系で、[[電源開発]]が[[手取川]]・[[九頭竜川]]水系で水力発電を行っている。 北陸電力の電気料金は日本でもトップクラスの安さで(電力小売り自由化以前は、最安値<ref name="enecho"/>)、アルミ産業をはじめとする製造業が北陸に拠点を置く理由となっている。一般家庭の電気消費量も高く、富山が全国1位となっている。さらに余剰電力を隣接する関西電力と[[中部電力]]([[愛知県]][[名古屋市]])に売却している。 === 雇用 === [[有効求人倍率]]・女性就業率が高く、通勤時間が短い傾向にある<ref>「[https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/koyou/ippan/2005/04/sankou7.html 厚生労働省:都道府県別有効求人倍率の推移[季調値](含パート)]」、厚生労働省、2005年</ref><ref>「[https://www.mhlw.go.jp/houdou/2005/03/h0328-7a.html#zu2-17 平成16年版 働く女性の実情]」、厚生労働省、2005年</ref><ref>「平成15年住宅・土地統計調査」、総務省統計局、2004年</ref>。 === 経済団体 === * [[北陸経済連合会]](北陸3県の経済団体等で構成) * 北陸環境共生会議(北陸3県と北陸経済連合会で構成) * 北陸国際投資交流促進会議(北陸3県・北陸電力・北陸経済連合会・[[中小企業基盤整備機構]]) * 北陸環日本海経済交流促進協議会(北陸3県・[[経済産業省|中部経済産業局・近畿経済産業局]]・[[福井大学]]・[[金沢大学]]・[[富山大学]]) === 宗教 === [[一向一揆]]の拠点であった北陸3県では[[浄土真宗]]・[[浄土宗]]系への信仰心が際立って高く<ref>[http://honkawa2.sakura.ne.jp/7770.html 図録▽都道府県民の信仰(都道府県宗教マップ)] 社会実情データ図録</ref>、「'''真宗王国'''」とも呼ばれる<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/94937 【石川】真宗王国「御影」が礎 教如、北陸に大量授与:北陸中日新聞Web]</ref>。 かつて全国有数の人口があった理由として、信仰熱心な影響で北陸3県・新潟では[[間引き]]が少なかったことが挙げられる<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/1167/2 なぜ新潟や石川が「人口日本一」だったのか? 都道府県の人口推移から見る、日本近代化の歴史(2/4) | ねとらぼ調査隊:2ページ目]</ref>。 === 年齢構成 === <div style="width: 50%; float: left;"><!-- 1pix=1,000x0.43 --> 年齢5歳階級別人口<br /> 2004年10月1日現在推計人口<br /> 総計 [単位 千人] {| |- ! 年齢 ! 人口 |- |0〜4歳 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g01.png]] 144 |- |5〜9 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 149 |- |10〜14 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 149 |- |15〜19 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] 168 |- |20〜24 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] 169 |- |25〜29 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 208 |- |30〜34 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]] 221 |- |35〜39 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g01.png]] 189 |- |40〜44 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 185 |- |45〜49 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] 192 |- |50〜54 |[[ファイル:g100.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] 247 |- |55〜59 |[[ファイル:g100.png]] 234 |- |60〜64 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] 200 |- |65〜69 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] 181 |- |70〜74 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 174 |- |75〜79 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g01.png]] 142 |- |80歳以上 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]] 172 |} </div> <div style="width: 50%; float: left"> 年齢5歳階級別人口<br /> 2003年10月1日現在推計人口<br /> 男女別 [単位 千人] {| |- ! style="text-align: right;"|男 ! style="text-align: center;"|年齢 ! 女 |- | style="text-align: right;"|74 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|0〜4歳 |[[ファイル:r30.png]] 70 |- | style="text-align: right;"|76 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|5〜9 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r01.png]] 73 |- | style="text-align: right;"|77 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g03.png]] | style="text-align: center;"|10〜14 |[[ファイル:r30.png]] 72 |- | style="text-align: right;"|86 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|15〜19 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r05.png]] 82 |- | style="text-align: right;"|89 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]] | style="text-align: center;"|20〜24 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 80 |- | style="text-align: right;"|107 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|25〜29 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r03.png]] 101 |- | style="text-align: right;"|112 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]] | style="text-align: center;"|30〜34 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r01.png]] 109 |- | style="text-align: right;"|94 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]] | style="text-align: center;"|35〜39 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]] 95 |- | style="text-align: right;"|92 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|40〜44 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 93 |- | style="text-align: right;"|95 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]] | style="text-align: center;"|45〜49 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r01.png]] 97 |- | style="text-align: right;"|122 [[ファイル:g50.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|50〜54 |[[ファイル:r50.png]][[ファイル:r03.png]] 125 |- | style="text-align: right;"|116 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|55〜59 |[[ファイル:r50.png]] 118 |- | style="text-align: right;"|97 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g01.png]] | 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実際に参考にした文献一覧 --> == 関連項目 == {{See also|Category:北陸地方}} *[[中部地方]] *[[北信越地方]] *[[信越地方]] *[[上信越]] *[[環日本海]] *[[日本海側]] *[[出羽国]] *[[北陸地方の超高層建築物の一覧|北陸地方]]・[[甲信越地方の超高層建築物の一覧]] *[[道の駅一覧 北陸地方]]・[[道の駅一覧 近畿地方|近畿地方]] {{日本の地域}} {{Normdaten}} {{coord|37|54|58|N|139|02|11|E|type:adm1st_source:itwiki_region:JP|display=title}} {{DEFAULTSORT:ほくりくちほう}} [[Category:中部地方]] [[Category:北陸地方|*]]
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北陸 (曖昧さ回避)
北陸(ほくりく)は、日本の地方区分である中部地方のうち日本海側に面する地域の地方名および関連する事象。
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北陸(ほくりく)は、日本の地方区分である中部地方のうち日本海側に面する地域の地方名および関連する事象。 北陸地方 - 日本の地方区分で新潟県・富山県・石川県・福井県の4県の総称。地理の教科書などにみられる地理学で用いられる。 北陸道 - 古代日本の行政区画である五畿七道のひとつ。 北陸 (列車) - 東日本旅客鉄道、西日本旅客鉄道、日本国有鉄道が上越線、北陸本線経由で運行していた寝台列車。 北陸自動車道 - 新潟県新潟市江南区の新潟中央ジャンクション(JCT)から滋賀県米原市の米原JCTへ至る高速道路(高速自動車国道) 北陸中学校・高等学校 - 福井県福井市にある中高一貫教育の私立中学校・高等学校。
'''北陸'''(ほくりく)は、[[日本]]の地方区分である[[中部地方]]のうち[[日本海]]側に面する地域の地方名および関連する事象。 *[[北陸地方]] - 日本の地方区分で[[新潟県]]・[[富山県]]・[[石川県]]・[[福井県]]の4県の総称。[[地理 (科目)|地理]]の[[教科書]]などにみられる[[地理学]]で用いられる。 *[[北陸道]] - 古代日本の[[行政区画]]である[[五畿七道]]のひとつ。 *[[北陸 (列車)]] - [[東日本旅客鉄道]]、[[西日本旅客鉄道]]、[[日本国有鉄道]]が[[上越線]]、[[北陸本線]]経由で運行していた[[寝台列車]]。 *[[北陸自動車道]] - [[新潟県]][[新潟市]][[江南区 (新潟市)|江南区]]の[[新潟中央ジャンクション]](JCT)から[[滋賀県]][[米原市]]の[[米原ジャンクション|米原JCT]]へ至る[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]]) *[[北陸中学校・高等学校]] - [[福井県]][[福井市]]にある中高一貫教育の私立中学校・高等学校。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:ほくりく}}
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東海 (曖昧さ回避)
東海(とうかい)は、日本・海外各地の地名、駅名、学校名、企業名など。
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東海(とうかい)は、日本・海外各地の地名、駅名、学校名、企業名など。
'''東海'''(とうかい)は、日本・海外各地の地名、駅名、学校名、企業名など。 == 日本の地名 == * [[東海地方]] * [[東海道]] ** [[五畿七道]]の一つ。[[三重県]]から[[茨城県]]に至る[[太平洋]]沿岸の地域。 ** 江戸時代の[[五街道]]の一つ。 * [[愛知県]][[東海市]]。 * 愛知県[[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]][[名古屋市道東海橋線|東海通]]。 * [[茨城県]][[那珂郡]][[東海村]]。 * [[東京都]][[大田区]][[東海 (大田区)|東海]]。大井埠頭の南部を成しており、大田市場や首都高速道路[[東海ジャンクション (東京都)|東海ジャンクション]]などが存在する。 * 日本の別称として使われる場合もある。 * 狭義に[[三重県]]以東の[[太平洋]]沿岸部。たとえば[[石川啄木]]は[[北海道]][[函館市]]の大森浜で「東海の小島の磯の白砂に 我泣き濡れて蟹と戯る」の句を詠んだと伝えられる。この「東海」は太平洋ないし日本を指すとされる。 == 漢字圏(日本以外)の地名 == * [[台湾]]の地名(トンハイ) ** 屏東県[[枋寮郷]]東海村。 * [[中華人民共和国]]の地名(トンハイ) ** 江蘇省連雲港市[[東海県]]。 ** [[:zh:东海街道|東海街道]] (曖昧さ回避) ** [[:zh:东海镇|東海鎮]] (曖昧さ回避) * [[大韓民国]]の地名(トンヘ) ** 江原特別自治道[[東海市 (江原特別自治道)|東海市]]。 ** [[新羅]]時代の地名。現在の慶尚北道[[慶州市]]陽北面の日本海沿岸付近で文武王の墓所である大王岩や感恩寺が設けられた。 == 海域名 == * [[東海地方]]の太平洋沿岸([[駿河湾]]など)の海の通称。東海沖などと言う用法で使われる。 * [[太平洋]]の[[オーストラリア]]や[[ニュージーランド]]、および日本を含む[[東アジア]]の国々による異称の一つ。 ** [[愛国行進曲]]において「見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば」と歌われている。 * [[東シナ海]](東支那海)の中国における名称(Donghai=トンハイ)。同様に南シナ海は南海と呼ばれる。 * [[南シナ海]]のベトナムにおける名称({{lang|vi|Đông Hải}}=ドンハイ。{{lang|vi|Biển Đông}}=ビエンドン、{{lang|vi|Nam Hải}}=ナムハイなどとも)。 * [[日本海]]の韓国、[[北朝鮮]]における呼称の一つ(トンヘ)。([[日本海呼称問題]]も参照) * [[バルト海]]の日本・中国などでの古称。ドイツ・デンマークなどで(現地語で)「東の海」と呼ばれることから。 * [[死海]]の聖書における呼称。 * [[大西洋]]の[[アメリカ合衆国]]における異称の一つ。 == 学校名 == * [[学校法人東海学園]]([[東海学園大学]] / [[東海中学校・高等学校]] / [[東海学園高等学校]]) * [[学校法人東海大学]](日本:[[東海大学]](旧[[九州東海大学]]・旧[[北海道東海大学]]の2校も統合) / [[東海大学短期大学部]]、[[東海大学医療技術短期大学]]、[[東海大学福岡短期大学]]、その他附属教育機関) ** [[FM東海]] 同学校法人が設立したFMラジオ局。現在のエフエム東京の前身。 * [[東海大学 (台湾)]](台湾・台中市) * [[東海高等学校 (曖昧さ回避)]] * [[東海中学校 (曖昧さ回避)]] == その他 == * 月の海の一つ → [[東の海]] * [[東海 (列車)]]。[[2007年]]([[平成]]19年)3月17日まで、[[東海道本線]][[東京駅]]~[[静岡駅]]間を走っていた[[特別急行列車]]。 * [[東海 (航空機)]]。[[第二次世界大戦]]時の[[日本海軍]]の陸上対潜哨戒機。 * [[東海ステークス]]。[[中京競馬場]]で行われる[[中央競馬|競馬]]の競走。 * [[東海 (小惑星)]] * [[東海艦隊]] * 日本人の[[姓]]のひとつ。 * YouTuber[[東海オンエア]]の略称。 == 関連項目 == * {{Prefix|東海}} * {{intitle|東海}} * '''東海''' - [[西海]] - [[南海]] - [[北海 (曖昧さ回避)|北海]] * [[トーカイ (曖昧さ回避)]] * [[東海寺]] * [[東海駅 (曖昧さ回避)]] * [[海東]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:とうかい}} [[Category:日本の地名]] [[Category:同名の地名]] [[Category:日本語の姓]]
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東海地方
東海地方(とうかいちほう)は、本州中央部に位置し太平洋に面する地域である。 一般的には愛知県、岐阜県、三重県、静岡県の4県を指すが、「中部日本南部の太平洋沿岸地方の称」で、通常、静岡・愛知・三重と岐阜の一部を指すとする文献や、五畿七道の東海道として岐阜県(五畿七道の東山道)を除く本州中央部太平洋側の地方である「静岡、愛知、三重の東海3県」とする文献など、東海地方の範囲は固定されていない。 愛知県名古屋の民放各局は放送エリアの関係上、静岡県を除く3県(中京圏とも呼ばれる名古屋市を中心とした名古屋都市圏に含まれる県)を「東海地方」「東海3県」などと表現する(詳しくは「東海3県」の項目を参照)。省庁の出先機関では静岡県は関東に含まれる場合がある。 名称は、五畿七道の東海道に由来してこのように呼ばれている。 東海地方は、古代の東海道とは異なる。東海道は広大で、甲斐国(現在の山梨県)をも含み、東は関東東岸まで伸びる。一方、東海地方のうち、岐阜県(美濃国・飛騨国)は東山道、三重県東紀州(紀伊国の一部)は南海道であり、東海道ではない。 愛知県、岐阜県、静岡県は中部地方に属し、三重県は近畿地方に属する。 岐阜県の飛騨は中央高地地方、三重県の伊賀は関西地方としてそれぞれ扱われ、東海地方からは除かれることもある。 地質的には、糸魚川静岡構造線(糸静線)や中央構造線が縦断している。東部から北部にかけて富士山、赤石山脈、木曽山脈、飛騨山脈など火山活動や造山運動により形成された中央高地と接し、南は太平洋に面している。岐阜県北部(主に飛騨地方)は造山活動によって形成された中央高地の一部で、飛騨山脈など日本有数の山岳地帯となっている。 沿岸がプレート境界になっているため、東海地震や東南海地震などの警戒区域になっている。南東端の伊豆半島は火山活動と海面の上昇で形成されたリアス式海岸に山地が迫った地形である。伊豆半島の西側に広がる駿河湾岸は火山活動や造山運動により形成された山岳地帯を狩野川、富士川、安倍川、大井川といった大河川の浸食作用で形成された小規模な平野が分断している。駿河湾の西側の遠州灘沿岸部および三河湾沿岸部は駿河湾岸より火山活動や造山活動の停止が比較的早かったため、海面の下降により形成された台地が広がっている。伊勢湾沿岸は木曽三川などの河川の堆積作用により、濃尾平野や伊勢平野などの大規模な平野が広がっている。志摩半島から熊野灘沿岸はリアス式海岸となっている。 三重県から愛知県、静岡県の沿岸が太平洋側気候、三重県の伊賀と岐阜県の大部分が内陸性気候、岐阜県西濃から飛騨地方が日本海側気候である。濃尾平野の夏は高温多湿で、全国でも有数の酷暑地帯である。冬は、濃尾平野で伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹くため、体感温度が北日本並みにまで低下する日がある。強い冬型の気圧配置になると、岐阜県関ケ原町付近で伊吹山地と鈴鹿山脈の間が途切れている為雪雲の通り道になる事もあり、岐阜県西濃や愛知県西部、三重県北部などに大雪を降らせることがある。近年の稀有な記録的大雪例として、1995年(平成7年)12月25日から12月27日にかけての寒波で、三重県四日市市で最深積雪53cm、1996年(平成8年)1月9日から1月10日にかけての寒波で、岐阜県岐阜市で最深積雪48cmの大雪を記録した。他にも2005年と2014年に名古屋市でも最深積雪23cmを記録している。岐阜県と静岡県の一部は豪雪地帯に指定されているところがある。三重県南部は雨の多い地域で、台風が頻繁に通過することから「台風銀座」と呼ばれている。また、静岡県は東日本で最も台風上陸数が多い。 歴史地理学的な東海地方は、木曽三川と富士川の間の東海道沿線のうち、愛知県の全域と静岡県の富士川以西に当たり、畿内政権の領土になった三重県と、関東の諸政権の領土になった静岡県東部とに挟まれた範囲である。次第に、鈴鹿関から箱根関の間へと拡大していった。 平野部は、比較的温暖な気候のため、登呂遺跡に見られるように、古代から人類の定住が見られた。特に濃尾平野においては、弥生人の勢力が強くあらわれている。一宮市にある西上免遺跡などに大規模な前方後方形墳丘墓が建設されたなど、前方後方墳は伊勢湾岸一体から誕生し、全国へ広がったと考えられている。律令制の五畿七道で東海道が整備されたが、律令時代は大陸との外交がメインとなっていたため山陽道が大動脈の時代であった。当時の東海道は、関東などの東国から畿内や北九州などの西国へ向かう防人の通行路であり、東海道は字義通り、「東へ通じる海の道」であった。 戦国時代から江戸時代にかけては、木曽三川と富士川の間は、特に「海道」と呼ばれていた。主な用例として、「海道下り」、「海道一の大親分(清水次郎長)」などがある。 関東と畿内との間の「廊下地帯」として、鎌倉時代以降に権力者から重視された。かつて源義朝は京都での内部抗争の末に、伊豆国の蛭ヶ小島に流刑された。最期の地も知多半島で迎えている。後に、子の源頼朝が鎌倉幕府を開くと、富士川以東は鎌倉幕府の領土となった。 戦国時代になり戦国大名が濫立すると、東海道は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」などの大規模合戦が繰り広げられ、権力争いの場となった。中でも、現在の愛知県に当たる尾張国と三河国の2地域からは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった「三英傑」の他、多くの藩祖となる大名を輩出した。また駿河国の駿府(静岡)は、今川義元と徳川家康の本拠地となった。 江戸時代になると、江戸(東京)と京都を結ぶ「東海道五十三次」が整備され、その往来は日本最大規模の大動脈となった。この東海道沿線の中には、駿府・掛川・濱松・吉田・岡崎・桑名など、宿場町や城下町から発達した都市も多い。 明治維新で中央集権体制が成立すると、名古屋が地方統治の拠点となり、それ以降は政府機関が集中するようになった。又、廃藩置県期の東海地方には、名古屋県・額田県・豊橋県・浜松県・静岡県・足柄県などが分立していたが、1876年(明治9年)8月以後は愛知県と静岡県に削減。さらにこの時、静岡県域だった伊豆諸島が1878年2月に東京府に移管され、現在に至っている。1889年(明治22年)2月には東海道本線が開業し、天竜川と木曽三川の間の地域は、綿織物工業の中心地となった。 明治時代以降、名古屋市を中心とする中京地方で製糸・紡績業などが盛んになり、昭和に入ると鉄鋼・機械工業などが集積して「中京工業地帯」が形成される。そのため戦前・戦時中にかけては軍需産業の重要拠点となるが、戦後になると自動車産業を主とした機械工業へと転換を遂げ、日本最大の工業集積地帯となる。また第二次世界大戦後の高度経済成長期には、静岡県地域にも「東海工業地域」が形成されるようになる。 近年では、各務原市の航空宇宙産業などの新たなる分野の産業も発達した地域となっている。 越県合併で福井県大野郡石徹白村と長野県木曽郡山口村の村域がそれぞれ岐阜県郡上市・中津川市へ加わったため、埋立地を除いた区域の面積が昭和戦前期より若干増加した。 太平洋ベルト上に位置しており、日本を代表する工業地帯が形成されている。このうち、愛知県及び三重県北部を中京工業地帯、静岡県の主に臨海部一帯を東海工業地域と呼ぶ。 2007年(平成19年)度の東海地方(4県)の県内総生産の合計は69兆6929億円である。日本のGDPの約13%を占めており、世界の国のGDPと比較しても、20番以内に入る経済体である。サウジアラビアやアルゼンチンなど一部のG20加盟国の国より経済規模が大きい。中京圏の中枢である名古屋市を筆頭に、多くの工業都市が連なって産業と人口が集積していることから、首都圏の中枢である東京都区部から近畿圏の中枢である大阪市にかけての都市群を「東海道メガロポリス」ということもある。 自動車産業が地域経済の中心となっており、トヨタ自動車(豊田市)とスズキ(浜松市中区)の2社はこの地域に本社を構えるほか、デンソーやアイシン(刈谷市)などの自動車関連企業の本社や工場、鈴鹿サーキット(鈴鹿市)や富士スピードウェイ(小山町)などの自動車関連のレジャー施設などが集積している。これらの特徴もあってモータリゼーションが日本で最も発達した地域でもあり、自家用車の保有台数は日本有数の高さである。 その反面、鉄道輸送力は関東、関西に対して劣っているほか、名鉄の一部路線の廃線をはじめとする鉄道・バスの存続問題などが叫ばれている。 また、日本一の自動車保有台数を誇っている愛知県の交通事故死亡者数は、2005年 - 2018年(平成17年 - 30年)まで16年連続ワーストワンである。 静岡県は東海ではなく関東に含まれる場合がある。 東海地方(東海4県)が国政選挙、スポーツ競技の地方予選大会などで、地方(地域)区分や名称として使用される具体例として次のようなものがある。 次のグラフは愛知県・岐阜県・三重県・静岡県の人口を合計した。 年齢5歳階級別人口 2003年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人] 年齢5歳階級別人口 2003年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人] 東海四県(静岡県、愛知県、三重県、岐阜県)の主要都市を掲載する。 中部と小牧の両空港(飛行場)はIATA公認により、マルチエアポートとしての対応がなされている。
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"平野部は、比較的温暖な気候のため、登呂遺跡に見られるように、古代から人類の定住が見られた。特に濃尾平野においては、弥生人の勢力が強くあらわれている。一宮市にある西上免遺跡などに大規模な前方後方形墳丘墓が建設されたなど、前方後方墳は伊勢湾岸一体から誕生し、全国へ広がったと考えられている。律令制の五畿七道で東海道が整備されたが、律令時代は大陸との外交がメインとなっていたため山陽道が大動脈の時代であった。当時の東海道は、関東などの東国から畿内や北九州などの西国へ向かう防人の通行路であり、東海道は字義通り、「東へ通じる海の道」であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "戦国時代から江戸時代にかけては、木曽三川と富士川の間は、特に「海道」と呼ばれていた。主な用例として、「海道下り」、「海道一の大親分(清水次郎長)」などがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "関東と畿内との間の「廊下地帯」として、鎌倉時代以降に権力者から重視された。かつて源義朝は京都での内部抗争の末に、伊豆国の蛭ヶ小島に流刑された。最期の地も知多半島で迎えている。後に、子の源頼朝が鎌倉幕府を開くと、富士川以東は鎌倉幕府の領土となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "戦国時代になり戦国大名が濫立すると、東海道は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」などの大規模合戦が繰り広げられ、権力争いの場となった。中でも、現在の愛知県に当たる尾張国と三河国の2地域からは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった「三英傑」の他、多くの藩祖となる大名を輩出した。また駿河国の駿府(静岡)は、今川義元と徳川家康の本拠地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "江戸時代になると、江戸(東京)と京都を結ぶ「東海道五十三次」が整備され、その往来は日本最大規模の大動脈となった。この東海道沿線の中には、駿府・掛川・濱松・吉田・岡崎・桑名など、宿場町や城下町から発達した都市も多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "明治維新で中央集権体制が成立すると、名古屋が地方統治の拠点となり、それ以降は政府機関が集中するようになった。又、廃藩置県期の東海地方には、名古屋県・額田県・豊橋県・浜松県・静岡県・足柄県などが分立していたが、1876年(明治9年)8月以後は愛知県と静岡県に削減。さらにこの時、静岡県域だった伊豆諸島が1878年2月に東京府に移管され、現在に至っている。1889年(明治22年)2月には東海道本線が開業し、天竜川と木曽三川の間の地域は、綿織物工業の中心地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "明治時代以降、名古屋市を中心とする中京地方で製糸・紡績業などが盛んになり、昭和に入ると鉄鋼・機械工業などが集積して「中京工業地帯」が形成される。そのため戦前・戦時中にかけては軍需産業の重要拠点となるが、戦後になると自動車産業を主とした機械工業へと転換を遂げ、日本最大の工業集積地帯となる。また第二次世界大戦後の高度経済成長期には、静岡県地域にも「東海工業地域」が形成されるようになる。 近年では、各務原市の航空宇宙産業などの新たなる分野の産業も発達した地域となっている。 越県合併で福井県大野郡石徹白村と長野県木曽郡山口村の村域がそれぞれ岐阜県郡上市・中津川市へ加わったため、埋立地を除いた区域の面積が昭和戦前期より若干増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "太平洋ベルト上に位置しており、日本を代表する工業地帯が形成されている。このうち、愛知県及び三重県北部を中京工業地帯、静岡県の主に臨海部一帯を東海工業地域と呼ぶ。", "title": "経済と交通問題" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)度の東海地方(4県)の県内総生産の合計は69兆6929億円である。日本のGDPの約13%を占めており、世界の国のGDPと比較しても、20番以内に入る経済体である。サウジアラビアやアルゼンチンなど一部のG20加盟国の国より経済規模が大きい。中京圏の中枢である名古屋市を筆頭に、多くの工業都市が連なって産業と人口が集積していることから、首都圏の中枢である東京都区部から近畿圏の中枢である大阪市にかけての都市群を「東海道メガロポリス」ということもある。", "title": "経済と交通問題" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "自動車産業が地域経済の中心となっており、トヨタ自動車(豊田市)とスズキ(浜松市中区)の2社はこの地域に本社を構えるほか、デンソーやアイシン(刈谷市)などの自動車関連企業の本社や工場、鈴鹿サーキット(鈴鹿市)や富士スピードウェイ(小山町)などの自動車関連のレジャー施設などが集積している。これらの特徴もあってモータリゼーションが日本で最も発達した地域でもあり、自家用車の保有台数は日本有数の高さである。", "title": "経済と交通問題" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その反面、鉄道輸送力は関東、関西に対して劣っているほか、名鉄の一部路線の廃線をはじめとする鉄道・バスの存続問題などが叫ばれている。", "title": "経済と交通問題" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、日本一の自動車保有台数を誇っている愛知県の交通事故死亡者数は、2005年 - 2018年(平成17年 - 30年)まで16年連続ワーストワンである。", "title": "経済と交通問題" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "静岡県は東海ではなく関東に含まれる場合がある。", "title": "省庁の出先機関" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "東海地方(東海4県)が国政選挙、スポーツ競技の地方予選大会などで、地方(地域)区分や名称として使用される具体例として次のようなものがある。", "title": "地方名称の使用例" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "次のグラフは愛知県・岐阜県・三重県・静岡県の人口を合計した。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2003年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2003年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "東海四県(静岡県、愛知県、三重県、岐阜県)の主要都市を掲載する。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "中部と小牧の両空港(飛行場)はIATA公認により、マルチエアポートとしての対応がなされている。", "title": "交通" } ]
東海地方(とうかいちほう)は、本州中央部に位置し太平洋に面する地域である。 一般的には愛知県、岐阜県、三重県、静岡県の4県を指すが、「中部日本南部の太平洋沿岸地方の称」で、通常、静岡・愛知・三重と岐阜の一部を指すとする文献や、五畿七道の東海道として岐阜県(五畿七道の東山道)を除く本州中央部太平洋側の地方である「静岡、愛知、三重の東海3県」とする文献など、東海地方の範囲は固定されていない。 愛知県名古屋の民放各局は放送エリアの関係上、静岡県を除く3県(中京圏とも呼ばれる名古屋市を中心とした名古屋都市圏に含まれる県)を「東海地方」「東海3県」などと表現する(詳しくは「東海3県」の項目を参照)。省庁の出先機関では静岡県は関東に含まれる場合がある。
{{redirect|東海}} {{混同|x1=[[南関東]]から[[近畿地方]]までの|東海道}} {{Infobox |bodyclass = bordered |abovestyle = background-color:#f96; text-align:center; |above = '''東海地方'''のデータ |headerstyle = background-color: #fc6 |header1 = 4県の合計 |label2 = [[国]] |data2 = {{JPN}} |label3 = [[面積]] |data3 = '''29,316.53''' [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] |label4 = [[推計人口]] |data4 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/岐阜県|岐阜県}} + {{自治体人口/静岡県|静岡県}} + {{自治体人口/愛知県|愛知県}} + {{自治体人口/三重県|三重県}} }}}}'''[[人]]<br />(直近の統計<ref group="注釈" name="pop">統計日は、岐阜県が{{自治体人口/岐阜県|date}}、静岡県が{{自治体人口/静岡県|date}}、愛知県が{{自治体人口/愛知県|date}}、三重県が{{自治体人口/三重県|date}}。</ref>) |label5 = [[人口密度]] |data5 = '''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/岐阜県|岐阜県}} + {{自治体人口/静岡県|静岡県}} + {{自治体人口/愛知県|愛知県}} + {{自治体人口/三重県|三重県}}) / 29316.53 round 1}}}}'''人/km<sup>2</sup><br />(直近の統計<ref group="注釈" name="pop"/>) |header6 = 位置 |data7 = [[File:Japan Tōkai Region large.png|center|280px|東海地方の位置]] }} '''東海地方'''(とうかいちほう)は、中部地方・近畿地方において[[本州]]中央部に位置し[[太平洋]]に面する[[日本の地域|地域]]の名称として扱われる。 一般的には[[愛知県]]、[[岐阜県]]、[[三重県]]、[[静岡県]]の4県を指すとされるが、「中部日本南部の太平洋沿岸地方の称」で、通常、静岡・愛知・三重と岐阜の一部を指すとする文献<ref>広辞苑第7版、2018年1月、[[新村出]]編、岩波書店</ref>や、[[五畿七道]]の[[東海道]]として岐阜県(五畿七道の[[東山道]])を除く本州中央部太平洋側の地方である「静岡、愛知、三重の[[東海3県]]」とする文献<ref>現代国語例解辞典、1985年4月、[[林巨樹]]編、小学館</ref>など、特にその範囲は固定しているわけでもない。 愛知県[[名古屋市|名古屋]]の[[民間放送|民放]]各局は放送エリアの関係上、静岡県を除く3県([[中京圏]]とも呼ばれる名古屋市を中心とした[[名古屋都市圏]]に含まれる県)を「東海地方」「東海3県」などと表現する(詳しくは「'''[[東海3県]]'''」の項目を参照)。省庁の出先機関では静岡県は[[関東]]に含まれる場合がある。 ==概要== ===名前の由来=== 名称は、[[五畿七道]]の[[東海道]]に由来してこのように呼ばれている<ref name="daihyakka">『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.768 ISBN 4-09-523101-7</ref>。 == 地理 == ===東海の範囲=== 東海地方は、古代の[[東海道]]とは異なる。東海道は広大で、[[甲斐国]](現在の[[山梨県]])をも含み、東は[[関東地方|関東]]東岸まで伸びる。一方、東海地方のうち、岐阜県([[美濃国]]・[[飛騨国]])は[[東山道]]、三重県[[東紀州]]([[紀伊国]]の一部)は[[南海道]]であり、東海道には含まれない。 愛知県、岐阜県、静岡県は[[中部地方]]に属し、三重県は[[近畿地方]]に属する。 岐阜県の[[飛騨国|飛騨]]は[[中央高地|中央高地地方]]、三重県の[[伊賀]]は[[関西|関西地方]]としてそれぞれ扱われ、東海地方に含まれない場合もある。 === 地形 === {{File clip | Geofeatures map of Chubu Japan ja.svg | width = 340 | 44 | 15 | 0 | 20 | w = 1080 | h = 1200 | 東海地方の主要地形(三重県を除く)}} {{File clip | Geofeatures map of Kansai Japan ja.svg | width = 220 | 20 | 0 | 10 | 45 | w = 1100 | h = 1100 | 三重県の主要地形}} 地質的には、[[糸魚川静岡構造線]](糸静線)や[[中央構造線]]が縦断している。東部から北部にかけて[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]、[[赤石山脈]]、[[木曽山脈]]、[[飛騨山脈]]など[[火山]]活動や[[隆起と沈降|造山運動]]により形成された[[中央高地]]と接し、南は太平洋に面している。[[岐阜県]]北部(主に[[飛騨地方]])は造山活動によって形成された中央高地の一部で、飛騨山脈など日本有数の山岳地帯となっている。 沿岸がプレート境界になっているため、[[東海地震]]や[[東南海地震]]などの警戒区域になっている。南東端の[[伊豆半島]]は火山活動と海面の上昇で形成された[[リアス式海岸]]に山地が迫った地形である。伊豆半島の西側に広がる[[駿河湾]]岸は火山活動や造山運動により形成された山岳地帯を[[狩野川]]、[[富士川]]、[[安倍川]]、[[大井川]]といった大河川の浸食作用で形成された小規模な平野が分断している。駿河湾の西側の[[遠州灘]]沿岸部および[[三河湾]]沿岸部は駿河湾岸より火山活動や造山活動の停止が比較的早かったため、海面の下降により形成された[[台地]]が広がっている。[[伊勢湾]]沿岸は[[木曽三川]]などの河川の堆積作用により、[[濃尾平野]]や[[伊勢平野]]などの大規模な平野が広がっている。[[志摩半島]]から[[熊野灘]]沿岸はリアス式海岸となっている。 <!--並び順は愛知県・岐阜県・三重県・静岡県へ--> ====山地==== ;主な山脈 * [[山脈]]・[[山地]]:[[木曽山脈]]・[[飛騨山脈]]・[[飛騨高地]]・[[両白山地]]・[[伊吹山地]]・[[鈴鹿山脈]]・[[布引山地]]・[[紀伊山地]]・[[天子山地]]・[[身延山地]]・[[赤石山脈]] ;主な山 * [[山]]:[[茶臼山 (愛知県・長野県)|茶臼山]]・[[鳳来寺山]]・[[恵那山]]・[[御嶽山]]・[[乗鞍岳]]・[[焼岳]]・[[穂高岳]]・[[槍ヶ岳]]・[[笠ヶ岳]]・[[黒部五郎岳]]・[[白山]]・[[大日ヶ岳]]・[[伊吹山]]・[[御在所岳]]・[[朝熊山]]・[[大台ヶ原山]]・[[天城山]]・[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]・[[間ノ岳]]・[[塩見岳]]・[[荒川岳]](悪沢岳)・[[赤石岳]]・[[聖岳]]・[[光岳]]・[[秋葉山 (静岡県)|秋葉山]]<!--日本百名山は漏らさず記述--> ;主な高原 * [[高原]]:[[美濃三河高原]] ====河川==== ;主な川 * [[川]]:[[庄内川]]・[[矢作川]]・[[豊川]]・[[木曽川]]・[[長良川]]・[[揖斐川]]・[[神通川]](河口は[[富山県]])・[[庄川]](河口は富山県)・[[石徹白川]]([[九頭竜川]]水系)・[[鈴鹿川]]・[[雲出川]]・[[櫛田川]]・[[宮川 (三重県)|宮川]]・[[熊野川]]・[[木津川 (京都府)|木津川]]([[淀川]]水系)・[[狩野川]]・[[富士川]]・[[安倍川]]・[[大井川]]・[[菊川]]・[[天竜川]]<!--一級水系の本川(木曽三川は例外)、本川が東海地方以外のみを流れる場合は最大支流のみ水系名と併せて記載--> ====湖沼==== ;主な湖 * [[湖沼]]:[[浜名湖]]・[[油ヶ淵]]<!--人造湖以外を記述--> ====海岸==== ;主な湾 * [[海]]:[[三河湾]]・[[伊勢湾]]・[[駿河湾]] * [[灘]]:[[熊野灘]]・[[相模湾|相模灘]]・[[遠州灘]] ====島嶼==== * [[半島]]:[[渥美半島]]・[[知多半島]]・[[紀伊半島]]・[[志摩半島]]・[[伊豆半島]] * [[島]]:[[佐久島]]・[[日間賀島]]・[[篠島]]・[[神島 (三重県)|神島]]・[[答志島]]・[[菅島]]・[[賢島]]・[[初島]] ====土地==== * [[平野]]:[[岡崎平野]]・[[豊橋平野]]・[[濃尾平野]]・[[伊勢平野]]・[[静岡平野]]・[[浜松平野]] * [[台地]]:[[各務原台地]]・[[牧之原台地]]・[[磐田原台地]]・[[三方原|三方原台地]] * [[盆地]]:[[東濃盆地]]・[[高山盆地]]・[[古川国府盆地]]・[[上野盆地]] ====景勝地==== *海岸:[[伊良湖岬]]・[[二見浦]]・[[大王崎]]・[[英虞湾]]・[[鬼ヶ城]]・[[城ヶ崎海岸]]・[[石廊崎]]・[[三保の松原]]・[[御前崎]]・[[中田島砂丘]] *山岳・渓谷:[[鳳来峡]]・[[三ヶ根山]]・[[香嵐渓]]・[[付知峡]]・[[恵那峡]]・[[中山七里]]・[[平湯大滝]]・[[宇津江四十八滝]]・[[日本ライン]]・[[金華山 (岐阜県)|金華山]]・[[揖斐峡]]・[[養老の滝]]・[[宇賀渓]]・[[石水渓]]・[[岩倉峡]]・[[青山高原]]・[[赤目四十八滝]]・[[香肌峡]]・[[瀞峡]]・[[河津七滝]]・[[大室山 (静岡県)|大室山]]・[[白糸の滝 (静岡県)|白糸の滝]]・[[日本平]]・[[寸又峡]] === 気候 === 三重県から愛知県、静岡県の沿岸が[[太平洋側気候]]、三重県の[[伊賀]]と岐阜県の大部分が[[内陸性気候]]、岐阜県西濃から[[飛騨地方]]が[[日本海側気候]]である。[[濃尾平野]]の[[夏]]は高温多湿で、全国でも有数の酷暑地帯である。[[冬]]は、濃尾平野で[[伊吹おろし]]という乾燥した冷たい風が吹くため、体感温度が北日本並みにまで低下する日がある。強い冬型の気圧配置になると、岐阜県[[関ケ原町]]付近で伊吹山地と鈴鹿山脈の間が途切れている為雪雲の通り道になる事もあり、岐阜県西濃や愛知県西部、三重県[[北勢|北部]]などに[[大雪]]を降らせることがある。近年の稀有な記録的大雪例として、[[1995年]](平成7年)[[12月25日]]から[[12月27日]]にかけての[[寒波]]で、三重県[[四日市市]]で最深積雪53[[センチメートル|cm]]、[[1996年]](平成8年)[[1月9日]]から[[1月10日]]にかけての寒波で、岐阜県[[岐阜市]]で最深積雪48cmの大雪を記録した。他にも[[2005年]]と[[2014年]]に名古屋市でも最深積雪23cmを記録している。岐阜県と静岡県の一部は[[豪雪地帯]]に指定されているところがある。三重県南部は雨の多い地域で、台風が頻繁に通過することから「'''[[台風銀座]]'''」と呼ばれている。また、静岡県は[[東日本]]で最も台風上陸数が多い。 == 歴史 == [[歴史地理学]]的な東海地方は、[[木曽三川]]と[[富士川]]の間の[[東海道]]沿線のうち、愛知県の全域と静岡県の富士川以西に当たり、[[畿内]]政権の領土になった[[三重県]]と、関東の諸政権の領土になった静岡県東部とに挟まれた範囲である。次第に、[[鈴鹿関]]から[[箱根関]]の間へと拡大していった。 === 古代 === [[平野]]部は、比較的温暖な気候のため、[[登呂遺跡]]に見られるように、古代から人類の定住が見られた。特に[[濃尾平野]]においては、[[弥生人]]の勢力が強くあらわれている。[[一宮市]]にある[[西上免遺跡]]などに大規模な前方後方形墳丘墓が建設されたなど、[[前方後方墳]]は伊勢湾岸一体から誕生し、全国へ広がったと考えられている。[[律令制]]の[[五畿七道]]で[[東海道]]が整備されたが、律令時代は[[大陸]]との外交がメインとなっていたため[[山陽道]]が大動脈の時代であった。当時の東海道は、関東などの東国から畿内や[[北部九州|北九州]]などの西国へ向かう[[防人]]の通行路であり、東海道は字義通り、「'''東'''へ通じる'''海'''の道」であった。 === 中世から近世まで === [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]にかけては、木曽三川と富士川の間は、特に「'''海道'''」と呼ばれていた。主な用例として、「''海道下り''」、「''海道一の大親分''([[清水次郎長]])」などがある。 [[関東地方|関東]]と[[畿内]]との間の「''[[廊下|廊下地帯]]''」として、[[鎌倉時代]]以降に権力者から重視された。かつて[[源義朝]]は[[京都]]での内部抗争の末に、[[伊豆国]]の[[蛭ヶ小島]]に[[流罪|流刑]]された。最期の地も[[知多半島]]で迎えている。後に、子の[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を開くと、富士川以東は鎌倉幕府の領土となった。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になり[[戦国大名]]が濫立すると、東海道は、「[[桶狭間の戦い]]」や「[[長篠の戦い]]」「[[小牧・長久手の戦い]]」「[[関ヶ原の戦い]]」などの大規模合戦が繰り広げられ、権力争いの場となった。中でも、現在の[[愛知県]]に当たる[[尾張国]]と[[三河国]]の2地域からは、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]といった「[[三英傑]]」の他、多くの藩祖となる大名を輩出した。また[[駿河国]]の[[駿府]](静岡)は、[[今川義元]]と徳川家康の本拠地となった。 [[江戸時代]]になると、[[江戸]]([[東京都|東京]])と[[京都]]を結ぶ「[[東海道五十三次]]」が整備され、その往来は日本最大規模の大動脈となった。この東海道沿線の中には、[[府中宿 (東海道)|駿府]]・[[掛川宿|掛川]]・[[浜松宿|濱松]]・[[吉田宿|吉田]]・[[岡崎宿|岡崎]]・[[桑名宿|桑名]]など、[[宿場町]]や[[城下町]]から発達した都市も多い。 === 近代以降 === [[明治維新]]で[[中央集権]]体制が成立すると、[[名古屋市|名古屋]]が地方統治の拠点となり、それ以降は政府機関が集中するようになった。又、[[廃藩置県]]期の東海地方には、[[名古屋県]]・[[額田県]]・[[豊橋県]]・[[浜松県]]・[[静岡県]]・[[足柄県]]などが分立していたが、[[1876年]](明治9年)8月以後は[[愛知県]]と静岡県に削減。さらにこの時、静岡県域だった[[伊豆諸島]]が[[1878年]]2月に[[東京府]]に移管され、現在に至っている。<br />[[1889年]](明治22年)2月には[[東海道本線]]が開業し、[[天竜川]]と[[木曽三川]]の間の地域は、[[綿織物]]工業の中心地となった。 明治時代以降、名古屋市を中心とする[[中京大都市圏|中京地方]]で[[製糸]]・[[紡績]]業などが盛んになり、昭和に入ると[[鉄鋼]]・[[機械]]工業などが集積して「[[中京工業地帯]]」が形成される。そのため戦前・戦時中にかけては[[軍需産業]]の重要拠点となるが、戦後になると[[自動車]]産業を主とした機械工業へと転換を遂げ、日本最大の工業集積地帯となる。また[[第二次世界大戦]]後の[[高度経済成長]]期には、静岡県地域にも「[[東海工業地域]]」が形成されるようになる。<br /> 近年では、各務原市の[[航空宇宙産業]]などの新たなる分野の産業も発達した地域となっている。<br /> 越県合併で[[石徹白村|福井県大野郡石徹白村]]と[[山口村 (長野県)|長野県木曽郡山口村]]の村域がそれぞれ岐阜県郡上市・中津川市へ加わったため、埋立地を除いた区域の面積が昭和戦前期より若干増加した。 == 経済と交通問題 == [[File:Ise Bay and Yokkaichi, Mie from Mount Gozaisho 2011-10-02.jpg|thumb|200px|left|夜明け前の[[伊勢湾|伊勢湾岸]]の夜景]] [[File:Mount Fuji and Port of Shimizu from Nihondaira.jpg|thumb|200px|right|[[日本平]]から望む[[静岡市]][[清水区]]にある[[清水港]]と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]]] [[太平洋ベルト]]上に位置しており、日本を代表する[[工業地帯]]が形成されている。このうち、愛知県及び三重県北部を[[中京工業地帯]]、静岡県の主に臨海部一帯を[[東海工業地域]]と呼ぶ。 [[2007年]](平成19年)度の東海地方(4県)の県内総生産の合計は69兆6929億円である。日本の[[国内総生産|GDP]]の約13%を占めており、世界の国のGDPと比較しても、20番以内に入る経済体である。[[サウジアラビア]]や[[アルゼンチン]]など一部の[[G20]]加盟国の国より経済規模が大きい。[[中京圏]]の中枢である[[名古屋市]]を筆頭に、多くの[[工業都市]]が連なって産業と人口が集積していることから、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の中枢である[[東京都区部]]から[[近畿圏]]の中枢である[[大阪市]]にかけての都市群を「[[東海道メガロポリス]]」ということもある。 [[自動車産業]]が地域経済の中心となっており、[[トヨタ自動車]]([[豊田市]])と[[スズキ (企業)|スズキ]]([[浜松市]][[中区 (浜松市)|中区]])の2社はこの地域に本社を構えるほか、[[デンソー]]や[[アイシン]]([[刈谷市]])などの自動車関連企業の本社や工場、[[鈴鹿サーキット]]([[鈴鹿市]])や[[富士スピードウェイ]]([[小山町]])などの自動車関連のレジャー施設などが集積している。これらの特徴もあって[[モータリゼーション]]が日本で最も発達した地域でもあり、自家用車の保有台数は日本有数の高さである。 その反面、鉄道輸送力は関東、関西に対して劣っているほか、[[名古屋鉄道|名鉄]]の一部路線の[[廃線]]をはじめとする鉄道・バスの存続問題などが叫ばれている。 また、日本一の自動車保有台数を誇っている[[愛知県]]の[[交通事故]]死亡者数は、2005年 - 2018年(平成17年 - 30年)まで16年連続ワーストワンである。 ==省庁の出先機関== 静岡県は東海ではなく関東に含まれる場合がある。 *[[財務省]] ([[東海財務局]])愛知・岐阜・三重・静岡 *[[国税庁]] ([[名古屋国税局]])愛知・岐阜・三重・静岡 *[[総務省]] ([[東海総合通信局]])愛知・岐阜・三重・静岡 *([[名古屋地方気象台]])愛知・岐阜・三重・静岡 *[[国土交通省]] ([[中部地方整備局]])愛知・岐阜・三重・静岡 *国土交通省 ([[中部運輸局]])愛知・岐阜・三重・静岡・福井 *([[名古屋税関]])愛知・岐阜・三重・静岡・長野 *[[厚生労働省]] ([[東海北陸厚生局]])愛知・岐阜・三重・静岡・石川・富山 *[[法務省]] ([[名古屋法務局]])愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山 ([[東京法務局]])静岡 **([[名古屋出入国在留管理局]])愛知・岐阜・三重・静岡・福井・石川・富山 **([[名古屋矯正管区]])愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山 ([[東京矯正管区]])静岡 *[[公安調査庁]] ([[中部公安調査局]])愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山 ([[関東公安調査局]])静岡 *[[管区警察局]] ([[中部管区警察局]])愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山 ([[関東管区警察局]])静岡 *[[農林水産省]] ([[東海農政局]])愛知・岐阜・三重 ([[関東農政局]])静岡 *[[警察庁]] ([[中部管区警察局]])愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山 ([[関東管区警察局]])静岡 *[[経済産業省]] ([[中部経済産業局]])愛知・岐阜・三重・石川・富山 ([[関東経済産業局]])静岡 *[[林野庁]] ([[中部森林管理局]])愛知・岐阜・三重・長野・富山 ([[関東森林管理局]])静岡 *([[名古屋高等検察庁]])愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山 ([[東京高等検察庁]]) 静岡 *([[名古屋高等裁判所]])愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山 ([[東京高等裁判所]]) 静岡 *[[環境省]] ([[中部地方環境事務所]])愛知・岐阜・福井・石川・富山、三重の一部・長野の一部・新潟の一部・群馬の一部 ([[関東地方環境事務所]])静岡 ==地方名称の使用例== 東海地方(東海4県)が国政選挙、スポーツ競技の地方予選大会などで、地方(地域)区分や名称として使用される具体例として次のようなものがある。 * [[国民体育大会]] 東海ブロック大会 * [[高野連]]春季・秋季東海大会 ** [[選抜高等学校野球大会|センバツ高校野球]]の出場枠の東海ブロック * [[全国高等学校体育連盟|高体連]]加盟競技の東海大会 * [[全国中学校体育大会|中総体]]開催競技の東海大会 * [[サッカー]][[地域リーグ (サッカー)|地域リーグ]]の[[東海社会人サッカーリーグ]]、東海クラブユースサッカー連盟 * [[衆議院議員総選挙]][[比例東海ブロック]]([https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/senkyo/shu_teisu/pdf/map.pdf 参考]) == 人口 == {| class="wikitable" |- style="white-space: nowrap;" ! ISO 3166-2 ! 都道府県名 ! 順位 ! 人口 ! 割合 |- | style="text-align: center;"|JP-23 | style="text-align: center;"|愛知県 | style="text-align: right;"|4 | style="text-align: right;"|7,161,891 | style="text-align: right;"|5.60% |- | style="text-align: center;"|JP-21 | style="text-align: center;"|岐阜県 | style="text-align: right;"|17 | style="text-align: right;"|2,115,336 | style="text-align: right;"|1.70% |- | style="text-align: center;"|JP-24 | style="text-align: center;"|三重県 | style="text-align: right;"|22 | style="text-align: right;"|1,864,185 | style="text-align: right;"|1.50% |- | style="text-align: center;"|JP-22 | style="text-align: center;"|静岡県 | style="text-align: right;"|10 | style="text-align: right;"|3,792,982 | style="text-align: right;"|3.00% |- ! colspan="3"|合計 | style="text-align: right;"|14,934,394 | style="text-align: right;"|11.80% |} * 順位・人口・割合は2003年10月1日のデータによる。 === 年齢構成 === 次のグラフは愛知県・岐阜県・三重県・静岡県の人口を合計した。 <div style="width: 50%; float: left;"><!-- 1pix=1,000x0.095 --> 年齢5歳階級別人口<br /> 2003年10月1日現在推計人口<br /> 総計 [単位 千人] {| |- ! 年齢 ! 人口 |- |0 - 4歳 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 729 |- |5 - 9 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]] 742 |- |10 - 14 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 729 |- |15 - 19 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] 814 |- |20 - 24 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]] 897 |- |25 - 29 |[[ファイル:g100.png]][[ファイル:g01.png]] 1070 |- |30 - 34 |[[ファイル:g100.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g01.png]] 1177 |- |35 - 39 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] 1015 |- |40 - 44 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] 924 |- |45 - 49 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]] 905 |- |50 - 54 |[[ファイル:g100.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] 1150 |- |55 - 59 |[[ファイル:g100.png]][[ファイル:g03.png]] 1091 |- |60 - 64 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]] 987 |- |65 - 69 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g30.png]] 848 |- |70 - 74 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] 705 |- |75 - 79 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g01.png]] 538 |- |80歳以上 |[[ファイル:g50.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] 601 |} </div> <div style="width: 50%; float: left;"> 年齢5歳階級別人口<br /> 2003年10月1日現在推計人口<br /> 男女別 [単位 千人] {| |- ! style="text-align: right;"|男 ! style="text-align: center;"|年齢 ! 女 |- | style="text-align: right;"|375 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]] | style="text-align: center;"|0 - 4歳 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r03.png]] 354 |- | style="text-align: right;"|380 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|5 - 9 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 362 |- | style="text-align: right;"|374 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]] | style="text-align: center;"|10 - 14 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r03.png]] 355 |- | style="text-align: right;"|418 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|15 - 19 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r01.png]][[ファイル:r01.png]] 396 |- | style="text-align: right;"|463 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]] | style="text-align: center;"|20 - 24 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r01.png]] 434 |- | style="text-align: right;"|546 [[ファイル:g50.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|25 - 29 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 524 |- | style="text-align: right;"|601 [[ファイル:g50.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|30 - 34 |[[ファイル:r50.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 576 |- | style="text-align: right;"|520 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|35 - 39 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r01.png]][[ファイル:r01.png]] 495 |- | style="text-align: right;"|469 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|40 - 44 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r03.png]] 455 |- | style="text-align: right;"|457 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g03.png]] | style="text-align: center;"|45 - 49 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r01.png]][[ファイル:r01.png]] 448 |- | style="text-align: right;"|576 [[ファイル:g50.png]][[ファイル:g03.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|50 - 54 |[[ファイル:r50.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 574 |- | style="text-align: right;"|545 [[ファイル:g50.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|55 - 59 |[[ファイル:r50.png]][[ファイル:r01.png]] 546 |- | style="text-align: right;"|489 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|60 - 64 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r01.png]][[ファイル:r01.png]] 498 |- | style="text-align: right;"|410 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g03.png]] | style="text-align: center;"|65 - 69 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r01.png]] 438 |- | style="text-align: right;"|328 [[ファイル:g30.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|70 - 74 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r05.png]] 377 |- | style="text-align: right;"|232 [[ファイル:g10.png]][[ファイル:g10.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|75 - 79 |[[ファイル:r10.png]][[ファイル:r10.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 306 |- | style="text-align: right;"|189 [[ファイル:g10.png]][[ファイル:g05.png]][[ファイル:g01.png]][[ファイル:g01.png]] | style="text-align: center;"|80歳以上 |[[ファイル:r30.png]][[ファイル:r05.png]][[ファイル:r03.png]][[ファイル:r01.png]] 412 |} </div>{{clear|left}} * データ出典:[https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2003np/index.html 第10表/都道府県、 年齢(5歳階級)、 男女別人口-総人口]<br />(総務省統計局) === 主要都市 === 東海四県([[静岡県]]、[[愛知県]]、[[三重県]]、[[岐阜県]])の主要都市を掲載する。 ; [[政令指定都市]] * [[名古屋市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|名古屋市}}}}人) * [[浜松市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|浜松市}}}}人) * [[静岡市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|静岡市}}}}人) <gallery> File:Nagoya TV Tower from Oasis 21 s2.JPG|[[名古屋市]] File:Hamamatsu near city hall.JPG|[[浜松市]] File:Aoba Symbol Road 01.jpg|[[静岡市]] </gallery> ; [[中核市]] * [[豊田市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|豊田市}}}}人) * [[岐阜市]]({{formatnum:{{自治体人口/岐阜県|岐阜市}}}}人) * [[岡崎市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|岡崎市}}}}人) * [[一宮市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|一宮市}}}}人) * [[豊橋市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|豊橋市}}}}人) <gallery> File:Toyota Sangokan exterior ac (4).jpg|[[豊田市]] File:Gifu City Tower 43 and Gifu Sky Wing 37 from Gifu Station.JPG|[[岐阜市]] File:Okazaki-Myodaibashi-5659.jpg|[[岡崎市]] File:Civic Complex Building in front of Owari-Ichinomiya Station ac (5).jpg|[[一宮市]] File:160321 Toyohashi Station Toyohashi Aichi pref Japan13n.jpg|[[豊橋市]] </gallery> ;[[特例市|施行時特例市]]、[[都道府県庁所在地|県都]] * [[春日井市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|春日井市}}}}人) * [[四日市市]]({{formatnum:{{自治体人口/三重県|四日市市}}}}人) * [[津市]]({{formatnum:{{自治体人口/三重県|津市}}}}人) * [[富士市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|富士市}}}}人) * [[沼津市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|沼津市}}}}人) <gallery> File:Clinic Mall Kachigawa.JPG|[[春日井市]] File:四日市ふれあいモール.jpg|[[四日市市]] File:Mie prefectural road No.19 start.jpg|[[津市]] File:Fujicity office01.JPG|[[富士市]] File:Kano rever and Onari bridge.jpg|[[沼津市]] </gallery> == 教育 == === 国立大学 === ;[[愛知県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[愛知教育大学]] ||[[File:Aichi University of Education main gate ac.JPG|100px]] |[[愛知県]][[刈谷市]] |刈谷キャンパス |- |[[豊橋技術科学大学]] ||[[File:Toyohashi University of Technology 120825.jpg|100px]] |[[愛知県]][[豊橋市]] |豊橋キャンパス |- |[[名古屋大学]] ||[[File:名古屋大学 - panoramio (26).jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[千種区]] |東山キャンパス |- |[[名古屋工業大学]] ||[[File:名古屋工業大学 - panoramio (3).jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[昭和区]] |御器所キャンパス |} ;[[静岡県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[静岡大学]] ||[[File:Shizuokauniv4.jpg|100px]] |[[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]] |静岡キャンパス |- |[[浜松医科大学]] ||[[File:Hamamatsu-idai.jpg|100px]] |[[静岡県]][[浜松市]][[東区 (浜松市)|東区]] |浜松キャンパス |} ;[[岐阜県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[岐阜大学]] ||[[File:Gifu-u snow.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[岐阜市]] |柳戸キャンパス |} ;[[三重県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[三重大学]] |[[File:MieDai Garden.jpg|100px]] |[[三重県]][[津市]] |上浜キャンパス |} ===公立大学=== ;[[愛知県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[愛知県立大学]] |[[File:Aichi-pu.jpg|100px]] |[[愛知県]][[長久手市]] |長久手キャンパス<br>守山キャンパス<br>ウィンクあいちサテライトキャンパス |- |[[愛知県立看護大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[守山区]] |守山キャンパス<br>名駅サテライト |- |[[愛知県立芸術大学]] |[[File:Aichi Prefectural University of Fine Arts and Music 150713.JPG|100px]] |[[愛知県]][[長久手市]] |長久手キャンパス<br>豊田市藤沢アートハウス<br>栄サテライトギャラリー |- |[[名古屋市立大学]] |[[File:Nagoya City University Takiko Campus.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[瑞穂区]] |桜山(川澄)キャンパス<br>田辺通キャンパス<br>滝子(山の畑)キャンパス<br>北千種キャンパス |} ;[[静岡県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[静岡県立大学]] |[[File:Yada Campus University of Shizuoka cropped 1 Yada Campus University of Shizuoka rotated Yada Campus University of Shizuoka 20080220.jpg|100px]] |[[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]] |谷田キャンパス<br>小鹿キャンパス |- |[[静岡文化芸術大学]] |[[File:Shizuoka University of Art and Culture 1.jpg|100px]] |[[静岡県]][[浜松市]][[中区 (浜松市)|中区]] |浜松キャンパス |} ;[[岐阜県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[岐阜県立看護大学]] |[[File:Gifu College of Nursing1.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[羽島市]] |羽島キャンパス |- |[[岐阜薬科大学]] |[[File:Gifu Pharmaceutical University1.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[岐阜市]] |岐阜キャンパス<br>三田洞キャンパス |- |[[情報科学芸術大学院大学]] |[[File:Softpia Japan Workshop 24.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[大垣市]] |大垣キャンパス |} ;[[三重県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[三重県立看護大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[三重県]][[津市]] |夢が丘キャンパス |} ===私立大学=== ;[[愛知県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[愛知大学]] |[[File:University Memorial Hall of Aichi University 100822.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]] |豊橋キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>車道キャンパス |- |[[愛知医科大学]] |[[File:Aichi Medical University - 深志.jpg|100px]] |[[愛知県]][[長久手市]] |長久手キャンパス<br>名古屋メディカルクリニック |- |[[愛知学院大学]] |[[画像:愛知学院大学100周年記念講堂.jpg|100px]] |[[愛知県]][[日進市]] |日進キャンパス<br>楠元キャンパス<br>末盛キャンパス<br>名城公園キャンパス |- |[[愛知学泉大学]] |[[File:Aichi-Gakusen-University-4.jpg|100px]] |[[愛知県]][[岡崎市]] |岡崎キャンパス<br>豊田キャンパス |- |[[愛知工科大学]] |[[File:Aichi University of Technology (from entrance).jpg|100px]] |[[愛知県]][[蒲郡市]] |蒲郡キャンパス |- |[[愛知工業大学]] |[[File:Aichi Institute of Technology Motoyama Campus 20160525-01.jpg|100px]] |[[愛知県]][[豊田市]] |八草キャンパス<br>本山キャンパス<br>自由ヶ丘キャンパス |- |[[愛知産業大学]] |[[File:Aichi-Sangyo-University-1.jpg|100px]] |[[愛知県]][[岡崎市]] |原山キャンパス |- |[[愛知淑徳大学]] |[[File:愛知淑徳大学.jpg|100px]] |[[愛知県]][[長久手市]] |長久手キャンパス<br>星が丘キャンパス |- |[[愛知新城大谷大学]] |[[File:Aichi Shinshiro Otani University (2013.08.15) 2.jpg|100px]] |[[愛知県]][[新城市]] |[[2013年]]閉学 |- |[[愛知東邦大学]] |[[File:Aichi Toho University.JPG|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[名東区]] |名古屋キャンパス |- |[[愛知文教大学]] |[[File:Aichi Bunkyo University.JPG|100px]] |[[愛知県]][[小牧市]] |小牧キャンパス |- |[[愛知みずほ大学]] |[[File:Aichi Mizuho Junior College in Nogoya, Japan.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[瑞穂区]] |名古屋キャンパス |- |[[一宮研伸大学]] |[[File:Ichinomiya kenshin College.jpg|100px]] |愛知県[[一宮市]] |一宮キャンパス |- |[[桜花学園大学]] |[[File:Ohkagakuen University.JPG|100px]] |[[愛知県]][[豊明市]] |名古屋キャンパス |- |[[岡崎女子大学]] |[[File:Okazaki-Women's-University-1.jpg|100px]] |[[愛知県]][[岡崎市]] |岡崎キャンパス |- |[[金城学院大学]] |[[File:Kinjyo Gakuin University 20150921.JPG|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[守山区]] |大森キャンパス |- |[[至学館大学]] |[[File:Shigakkan University1.JPG|100px]] |[[愛知県]][[大府市]] |大府キャンパス |- |[[修文大学]] |[[File:Shubun University ac.jpg|100px]] |[[愛知県]][[一宮市]] |一宮キャンパス |- |[[椙山女学園大学]] |[[File:Sugiyama Jogakuen Daigaku-University Hoshigaoka Campus 20160815-06.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[千種区]] |星が丘キャンパス<br>日進キャンパス |- |[[星城大学]] |[[File:Seijoh University.jpg|100px]] |[[愛知県]][[東海市]] |東海キャンパス<br>名古屋リハビリテーション学院 |- |[[大同大学]] |[[File:Daido University Takiharu Campus 20090401.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[南区 (名古屋市)|南区]] |滝春学舎<br>白水学舎 |- |[[中京大学]] |[[File:Chukyo University 3952134708 6b8e6c45bf.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[昭和区]] |名古屋キャンパス<br>豊田キャンパス |- |[[中部大学]] ||[[File:Chubu1hs.jpg|100px]] |[[愛知県]][[春日井市]] |春日井キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>恵那キャンパス |- |[[東海学園大学]] |[[File:Tokaigakuen University Main Gate(2017).jpg|100px]] |[[愛知県]][[みよし市]] |三好キャンパス<br>名古屋キャンパス |- |[[同朋大学]] |[[File:DOHO UNIVERSIY.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]] |名古屋キャンパス |- |[[豊田工業大学]] |[[File:Toyota Technological Institute (2016.04.17).JPG|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[天白区]] |名古屋キャンパス<br>シカゴ校 |- |[[豊橋創造大学]] |[[File:Toyohashi Sozo University.jpg|100px]] |[[愛知県]][[豊橋市]] |豊橋キャンパス |- |[[名古屋音楽大学]] |[[File:Nagoya College of Music Building C 20151024.JPG|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]] |名古屋キャンパス |- |[[名古屋外国語大学]] |[[File:NUFS.jpg|100px]] |[[愛知県]][[日進市]] |日進キャンパス |- |[[名古屋学院大学]] |[[File:Nagoya-Gakuin-University Nagoya-campas.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[熱田区]] |名古屋キャンパス<br>瀬戸キャンパス |- |[[名古屋学芸大学]] |[[File:Nagoya gakugei daigaku.jpg|100px]] |[[愛知県]][[日進市]] |日進キャンパス |- |[[名古屋経済大学]] |[[File:Nagoya Keizai University.jpg|100px]] |[[愛知県]][[犬山市]] |犬山キャンパス<br>名駅サテライトキャンパス |- |[[名古屋芸術大学]] |[[File:Nagoya university of arts east.jpg|100px]] |[[愛知県]][[北名古屋市]] |東(師勝)キャンパス<br>西(徳重)キャンパス |- |[[名古屋産業大学]] |[[File:NSU&NMJC Building No1&3.JPG|100px]] |[[愛知県]][[尾張旭市]] |尾張旭キャンパス<br>大曽根サテライトキャンパス |- |[[名古屋商科大学]] |[[File:Nucb 1.jpg|100px]] |[[愛知県]][[日進市]] |日進キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>東京丸の内キャンパス<br>大阪うめきたキャンパス |- |[[名古屋女子大学]] |[[File:Nagoya Women's University Shioji Campus 20131209.JPG|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[瑞穂区]] |汐路学舎 |- |[[名古屋造形大学]] |[[File:Nagoya Zokei University.JPG|100px]] |[[愛知県]][[小牧市]] |小牧キャンパス |- |[[名古屋文理大学]] |[[File:Nagoya Bunri University ac (1).jpg|100px]] |[[愛知県]][[稲沢市]] |稲沢キャンパス<br>名古屋キャンパス |- |[[南山大学]] |[[File:Nanzan b.jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[昭和区]] |名古屋キャンパス<br>瀬戸キャンパス<br>伊勢海浜センター |- |[[日本赤十字豊田看護大学]] |[[File:Japanese Red Cross Toyota College of Nursing.jpg|100px]] |[[愛知県]][[豊田市]] |豊田キャンパス |- |[[日本福祉大学]] |[[File:Nihon Fukushi University 01.JPG|100px]] |[[愛知県]][[知多郡]][[美浜町 (愛知県)|美浜町]] |美浜キャンパス<br>半田キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>東海キャンパス |- |[[人間環境大学]] |[[File:University of Human Environments 3.jpg|100px]] |[[愛知県]][[岡崎市]] |岡崎キャンパス<br>大府キャンパス |- |[[藤田医科大学]] |[[File:Fujita health university main gate.jpg|100px]] |[[愛知県]][[豊明市]] |豊明キャンパス<br>[[藤田医科大学ばんたね病院|ばんたね病院]]<br>[[藤田医科大学七栗記念病院|七栗記念病院]] |- |[[名城大学]] |[[File:名城大学 - panoramio (2).jpg|100px]] |[[愛知県]][[名古屋市]][[天白区]] |天白キャンパス<br>八事キャンパス<br>ナゴヤドーム前キャンパス |} ;[[静岡県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[国際医療福祉大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[栃木県]][[大田原市]] |熱海キャンパス |- |[[静岡英和学院大学]] |[[File:ShizuokaEiwaGakuin-Univ.jpg|100px]] |[[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]] |静岡キャンパス |- |[[静岡産業大学]] |[[File:Shizuoka-Sangyo-Univ-Iwata-2014072101.jpg|100px]] |[[静岡県]][[磐田市]] |磐田キャンパス<br>藤枝キャンパス |- |[[静岡福祉大学]] |[[File:Campus or SUW.jpg|100px]] |[[静岡県]][[焼津市]] |焼津キャンパス |- |[[静岡理工科大学]] |[[File:SIST.jpg|100px]] |[[静岡県]][[袋井市]] |豊沢キャンパス |- |[[順天堂大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[東京都]][[文京区]] |三島キャンパス |- |[[聖隷クリストファー大学]] |[[File:Seirei college1.JPG|100px]] |[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]] |浜松キャンパス |- |[[常葉大学]] |[[File:Tokoha Gakuen Univ.jpg|100px]] |[[静岡県]][[静岡市]][[葵区]] |静岡瀬名学舎<br>静岡水落学舎<br>浜松キャンパス<br>富士キャンパス |- |[[東海大学]] |[[File:東海大学海洋科学博物館 - panoramio.jpg|100px]] |[[東京都]][[渋谷区]] |清水キャンパス |- |[[東京女子医科大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[東京都]][[新宿区]] |大東キャンパス |- |[[日本大学]] |[[File:Nihon University Mishima Eki Kitaguchi Campus.JPG|100px]] |[[東京都]][[千代田区]] |三島キャンパス |- |[[浜松大学]] |[[File:Hamamatsu Univ.JPG|100px]] |[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]] |常葉大学浜松キャンパスへと名称変更 |- |[[浜松学院大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[静岡県]][[浜松市]][[中区 (浜松市)|中区]] |布橋キャンパス<br>住吉キャンパス |- |[[光産業創成大学院大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[静岡県]][[浜松市]][[西区 (浜松市)|西区]] |浜松キャンパス |- |[[富士常葉大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[静岡県]][[富士市]] |常葉大学富士キャンパスへと名称変更 |- |[[法政大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[東京都]][[千代田区]] |静岡サテライトキャンパス |- |[[放送大学学園#組織|放送大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]] |浜松サテライトスペース<br>三島静岡学習センター |} ;[[岐阜県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[朝日大学]] |[[File:Asahi University.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[瑞穂市]] |穂積キャンパス<br>朝日大学病院 |- |[[岐阜医療科学大学]] |[[File:Gifu University of Medical Science01.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[関市]] |関キャンパス<br>可児キャンパス |- |[[岐阜経済大学]] |[[File:GifuKeizaiUniversity1.JPG|100px]] |[[岐阜県]][[大垣市]] |大垣キャンパス |- |[[岐阜聖徳学園大学]] |[[File:Gifu Shotoku Gakuen University1.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[岐阜市]] |岐阜キャンパス<br>羽島キャンパス |- |[[岐阜女子大学]] |[[File:Gifu Womans Univ2.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[岐阜市]] |岐阜キャンパス |- |[[中京学院大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[岐阜県]][[中津川市]] |中津川キャンパス<br>瑞浪キャンパス |- |[[中部大学]] |[[File:Chubu University Foreign Student Dormitory.jpg|100px]] |[[愛知県]][[春日井市]] |恵那キャンパス |- |[[中部学院大学]] |[[File:Chubugakuin University Seki2007-1.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[関市]] |関キャンパス<br>各務原キャンパス |- |[[東海学院大学]] |[[File:Tokai Gakuin University2008-1.jpg|100px]] |[[岐阜県]][[各務原市]] |各務原キャンパス |} ;[[三重県]] {| class="wikitable" !style="width:12.0em;"|大学名 !style="width:6.0em;"|画像 !style="width:16.0em;"|本部所在地 !style="width:20.0em;"|備考 |- |[[皇學館大学]] |[[File:Kogakkan University Main Building.jpg|100px]] |[[三重県]][[伊勢市]] |伊勢学舎<br>名張学舎 |- |[[四日市大学]] |[[File:Yokkaichi Univ. 01.jpg|100px]] |[[三重県]][[四日市市]] |四日市キャンパス |- |[[四日市看護医療大学]] |[[File:Yokkaichi Nursing and Medical Care University in Sep. 2013.jpg|100px]] |[[三重県]][[四日市市]] |四日市キャンパス |- |[[三重中京大学]] |[[File:Miechukyo gate.JPG|100px]] |[[三重県]][[松阪市]] |[[2013年]]閉学 |- |[[鈴鹿大学]] |[[File:Suzuka Univ., CKK20115-C13-21.jpg|100px]] |[[三重県]][[鈴鹿市]] |郡山キャンパス |- |[[鈴鹿医療科学大学]] |[[File:Suzuka University of Medical Science Shiroko Campus 20100312.jpg|100px]] |[[三重県]][[鈴鹿市]] |千代崎キャンパス<br>白子キャンパス |} === 高等専門学校 === ===国立=== ;[[岐阜県]] *[[岐阜工業高等専門学校]] ;[[静岡県]] *[[沼津工業高等専門学校]] ;[[愛知県]] *[[豊田工業高等専門学校]] ;[[三重県]] *[[鳥羽商船高等専門学校]] *[[鈴鹿工業高等専門学校]] == 交通 == === 空港 === * 旅客数、着陸回数は[[国土交通省]]航空局・{{XLSlink|[https://www.mlit.go.jp/common/001305338.xlsx 平成30年空港管理状況調書]}}より * 全国の空港の乗降客数は「[[日本の空港#統計情報]]」を参照のこと。 <!--公共用飛行場を港格別に記載--> ; 第一種空港 * [[中部国際空港]](セントレア・中部空港) ; 第三種空港 * [[静岡空港]](富士山静岡空港) ; その他公共用飛行場 * [[名古屋飛行場]](名古屋空港・小牧空港) ; 公共用ヘリポート * [[静岡ヘリポート]](1,776回) <gallery widths="200" style="font-size:90%;"> Nagoya Airport view from promenade.jpg|[[中部国際空港]]<br />(セントレア・中部空港) ShizuokaAirport.jpg|[[静岡空港]]<br />(富士山静岡空港) 6 COLORS Fuji Dream Airlines Embraer 170、175 NKM (16651148451).jpg|[[名古屋飛行場]]<br />(名古屋空港・小牧空港) </gallery> 中部と小牧の両空港(飛行場)は[[IATA]]公認により、[[マルチエアポート]]としての対応がなされている。 === 鉄道・軌道 === ; JR {| |valign=top| ; [[東海旅客鉄道]](JR東海) : [[File:Shinkansen jrc.svg|16px]] [[東海道新幹線]] : {{JR海駅番号|CA}} [[東海道本線]]([[熱海駅]] - [[米原駅]]間) : {{JR海駅番号|CB}} [[御殿場線]] : {{JR海駅番号|CC}} [[身延線]] : {{JR海駅番号|CD}} [[飯田線]] : {{JR海駅番号|CE}} [[武豊線]] : {{JR海駅番号|CF}} [[中央本線]] : {{JR海駅番号|CG}} [[高山本線]] : {{JR海駅番号|CI}} [[太多線]] : {{JR海駅番号|CJ}} [[関西本線]]([[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]以東) : {{Color|orange|■}} [[紀勢本線]] : {{Color|orange|■}} [[参宮線]] : {{Color|orange|■}} [[名松線]] |valign=top| ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) : [[File:JR JT line symbol.svg|15px]] [[東海道本線]]([[熱海駅]]以東) : [[File:JR JT line symbol.svg|15px]] [[伊東線]] ; [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) : {{JR西路線記号|K|V}} 関西本線(亀山駅以西) : {{JR西路線記号|K|C}} [[草津線]]([[柘植駅]]) ; [[日本貨物鉄道]](JR貨物) : {{Color|#2d86bd|■}} [[名古屋港線]](貨物) : {{Color|navy|■}} [[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|西名古屋港線]](貨物) : {{Color|#2d86bd|■}} [[稲沢線]](貨物) |} <gallery style="font-size:90%;"> JR Central kuha312-5013.jpg|[[東海旅客鉄道]] JRE EC185 1635M Izutaga 20140313.JPG|[[東日本旅客鉄道]] JRW Kiha 120 Kansai Main Line local 2015-06-23.jpg|[[西日本旅客鉄道]] Tokai-dori.jpg|[[日本貨物鉄道]] </gallery> ; 公営交通 ; [[名古屋市交通局]]([[名古屋市営地下鉄]]) : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]] : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meiko Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]] : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]] : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]] : [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Kamiiida Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]] <gallery style="font-size:90%;"> 名古屋市交通局N1000形.jpg|[[名古屋市交通局]] </gallery> ; 私鉄<!--大手→中小--> {| |valign=top| ; [[名古屋鉄道]](名鉄) :{{名鉄駅番号|NH}} [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]] :{{名鉄駅番号|TK}} [[名鉄豊川線|豊川線]] :{{名鉄駅番号|GN}} [[名鉄西尾線|西尾線]] :{{名鉄駅番号|GN}} [[名鉄蒲郡線|蒲郡線]] :{{名鉄駅番号|MY}} {{名鉄駅番号|MU}} [[名鉄三河線|三河線]] :{{名鉄駅番号|TT}} [[名鉄豊田線|豊田線]] :{{名鉄駅番号|TA}} [[名鉄常滑線|常滑線]] :{{名鉄駅番号|TA}} [[名鉄空港線|空港線]] :{{名鉄駅番号|CH}} [[名鉄築港線|築港線]] :{{名鉄駅番号|KC}} [[名鉄河和線|河和線]] :{{名鉄駅番号|KC}} [[名鉄知多新線|知多新線]] :{{名鉄駅番号|ST}} [[名鉄瀬戸線|瀬戸線]] :{{名鉄駅番号|TB}} [[名鉄津島線|津島線]] :{{名鉄駅番号|TB}} {{名鉄駅番号|BS}} [[名鉄尾西線|尾西線]] :{{名鉄駅番号|IY}} [[名鉄犬山線|犬山線]] :{{名鉄駅番号|KG}} [[名鉄各務原線|各務原線]] :{{名鉄駅番号|HM}} [[名鉄広見線|広見線]] :{{名鉄駅番号|KM}} [[名鉄小牧線|小牧線]] :{{名鉄駅番号|TH}} [[名鉄竹鼻線|竹鼻線]] :{{名鉄駅番号|TH}} [[名鉄羽島線|羽島線]] ;[[近畿日本鉄道]](近鉄) :{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]] :{{近鉄駅番号|K}} [[近鉄湯の山線|湯の山線]] :{{近鉄駅番号|L}} [[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]] :{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] :{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄山田線|山田線]] :{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄鳥羽線|鳥羽線]] :{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄志摩線|志摩線]] |valign=top| ; [[伊豆急行]] :{{color|deepskyblue|■}} [[伊豆急行線]] ; [[伊豆箱根鉄道]] :{{Color|blue|■}} [[伊豆箱根鉄道駿豆線|駿豆線]] :{{Color|gray|■}} [[伊豆箱根鉄道十国鋼索線|十国鋼索線]] ; [[岳南電車]] :{{Color|#ff4f00|■}} [[岳南電車岳南線|岳南線]] ; [[静岡鉄道]] :{{color|deepskyblue|■}} [[静岡鉄道静岡清水線|静岡清水線]] ; [[大井川鐵道]](大鉄) :{{Color|red|■}} [[大井川鐵道大井川本線|大井川本線]] :{{Color|red|■}} [[大井川鐵道井川線|井川線]] ; [[遠州鉄道]](遠鉄) :{{Color|red|■}} [[遠州鉄道鉄道線|鉄道線]](西鹿島線) ; [[豊橋鉄道]](豊鉄) :{{Color|#006666|■}} [[豊橋鉄道渥美線|渥美線]] :{{Color|#006666|■}} [[豊橋鉄道東田本線|東田本線]] ; [[東海交通事業]] :{{Color|#ff6600|■}} [[東海交通事業城北線|城北線]] ; [[西濃鉄道]] : {{Color|black|■}} [[西濃鉄道市橋線|市橋線]](貨物) ; [[養老鉄道]] :{{Color|forestgreen|■}} [[養老鉄道養老線|養老線]] ; [[三岐鉄道]] : {{Color|#ffd400|■}} [[三岐鉄道三岐線|三岐線]] : {{Color|#ffd400|■}} [[三岐鉄道北勢線|北勢線]] |} <gallery style="font-size:90%;"> Meitetsu 2000 series 013.JPG|[[名古屋鉄道]] KINTETSU50000 20140121A.jpg|[[近畿日本鉄道]] Izu Kyuko 2100 series.jpg|[[伊豆急行]] Izuhakone-Image.jpg|[[伊豆箱根鉄道]] Gakunan 7003 emu 2006-01-07.jpg|[[岳南電車]] Shizuoka Railway A3001 A3002 20171119.jpg|[[静岡鉄道]] C5644-Kanaya.JPG|[[大井川鐵道]] Enshu Railway Line 2003.JPG|[[遠州鉄道]] 豊橋鉄道1800系.jpg|[[豊橋鉄道]] Jyohoku line 20160719A.jpg|[[東海交通事業]] SeinoRailwayDD402.JPG|[[西濃鉄道]] Yoro Line 620.jpg|[[養老鉄道]] 0903150740 hobo sangi S751.jpg|[[三岐鉄道]] </gallery> ; 第三セクター<!--国鉄転換→私鉄転換→新線→臨海--> {| |valign=top| ;[[天竜浜名湖鉄道]](THR) :{{Color|green|■}} [[天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線|天竜浜名湖線]] ;[[愛知環状鉄道]](愛環) :{{Color|#2536a1|■}} [[愛知環状鉄道線]] ;[[明知鉄道]] :{{Color|black|■}} [[明知鉄道明知線|明知線]] ; [[長良川鉄道]] :{{Color|#ff1493|■}} [[長良川鉄道越美南線|越美南線]] ; [[樽見鉄道]] :{{Color|#00b2e5|■}} [[樽見鉄道樽見線|樽見線]] ; [[伊勢鉄道]] :{{Color|#0000ff|■}} [[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]] ; [[伊賀鉄道]] :{{Color|#703664|■}} [[伊賀鉄道伊賀線|伊賀線]] ;[[四日市あすなろう鉄道]] :{{Color|#00a0e8|■}} [[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]] :{{Color|#00a0e8|■}} [[四日市あすなろう鉄道八王子線|八王子線]] |valign=top| ; [[名古屋臨海高速鉄道]] : {{Color|navy|■}} [[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|西名古屋港線(あおなみ線)]] ; [[愛知高速交通]] : {{Color|navy|■}} [[愛知高速交通東部丘陵線|東部丘陵線(リニモ)]] ; [[名古屋ガイドウェイバス]] : {{Color|navy|■}} [[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]]) ; [[名古屋臨海鉄道]] : {{Color|black|■}} [[名古屋臨海鉄道東築線|東築線]](貨物) : {{Color|black|■}} [[名古屋臨海鉄道東港線|東港線]](貨物) : {{Color|black|■}} [[名古屋臨海鉄道南港線|南港線]] (貨物) : {{Color|black|■}} [[名古屋臨海鉄道汐見町線|汐見町線]](貨物) : {{Color|black|■}} [[名古屋臨海鉄道昭和町線|昭和町線]](貨物) ; [[衣浦臨海鉄道]] : {{Color|black|■}} [[衣浦臨海鉄道半田線|半田線]](貨物) : {{Color|black|■}} [[衣浦臨海鉄道碧南線|碧南線]](貨物) |} <gallery style="font-size:90%;"> TH3501.JPG|[[天竜浜名湖鉄道]] Aikan 2000 series EMU 011.JPG|[[愛知環状鉄道]] Akechi Railway Taisyo roman.JPG|[[明知鉄道]] 長良川鉄道観光列車ながら2号車(鮎号).jpg|[[長良川鉄道]] Tarumi-Himo330-701.jpg|[[樽見鉄道]] Ise Railway-ISEiii.JPG|[[伊勢鉄道]] Iga-Tetsudou200Series02.JPG|[[伊賀鉄道]] Series260.jpg|[[四日市あすなろう鉄道]] Aonami Line Type 1000.jpg|[[名古屋臨海高速鉄道]] Linimo approaching Banpaku Kinen Koen, towards Fujigaoka Station.jpg|[[愛知高速交通]] Nagoya Guideway Bus-G-13.jpg|[[名古屋ガイドウェイバス]] Nakorin nanko ND60.jpg|[[名古屋臨海鉄道]] Kinuura Rinkai KE65.jpg|[[衣浦臨海鉄道]] </gallery> === 主な道路 === [[File:Satta yukei.jpg|thumb|200 px|[[薩埵峠]]から見た[[東名高速道路]]と[[国道1号]]と[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]]] [[File:Komaki Junction002.jpg|thumb|200 px|[[小牧ジャンクション|小牧JCT]]]] ;高速道路 <!--高規格幹線道路のみ--> {{colbegin|2}} * [[東名高速道路]] * [[中央自動車道]] * [[名神高速道路]] * [[東名阪自動車道]] * [[名阪国道]] * [[伊勢自動車道]] * [[紀勢自動車道]] * 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小豆島
小豆島(しょうどしま)は、瀬戸内海・播磨灘にある島。行政区分は香川県小豆郡に属し、小豆島町、土庄町の2町からなり、人口は2万5881人(2020年度推計)。近年、人口が減少の一途をたどっており、2013年6月24日に隣接する沖之島とあわせて、国土交通省より「離島振興法」の指定を受けた。離島振興法の活用で、今後10年間の人口減少率を10%以内に抑えることを目指す。 古代には「あずきしま」と呼ばれ、その後、中世までは「しょうずしま」と呼ばれた。素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブなどの生産が盛んであり、いずれも日本有数の生産地となっている。特にオリーブは国内栽培の発祥地として広く知られる。また、小説『二十四の瞳』の作者壺井栄の故郷としても知られ、小豆島をロケ地として、同小説はこれまで2回映画化された。 小豆島は、香川県の県庁所在地高松市の約20km北東沖に位置し、同県最大の島である。 正確には二つの島で、両島間にはギネスブック認定の世界で最も幅の狭い土渕海峡(最狭幅は9.93メートル)があるが古くから橋で陸続きであり、慣例的に一つの地域として扱われている。特に区別する際には小さい方の島(海峡を挟んで西側の島)を前島(まえじま)と呼ぶこともある。 瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の面積で、日本の島においては19番目の大きさである。横に向いた牛が西を見ているような特徴的な形で海岸線は変化に富み、多数の半島と入江がある。南側には池田湾、内海湾がある。温暖な瀬戸内海式気候を活かし、オリーブやミカン、スモモなどの栽培が行なわれている。 本州島、四国島から橋梁、トンネルなどでつながっていない非架橋の島としては、瀬戸内海で最多の人口を有する島である。また、2013年時点では空路が存在しないため、船でしか渡れない離島としては日本国内で最多の人口を有する島である。一日に発着するフェリーの本数は日本有数である。 2013年6月23日までは面積100km以上の非架橋有人島(北方4島を除く)としては、(沖縄県の離島振興も含め)離島振興法などのいずれの振興法も指定を受けていない日本で唯一の例だった。同年6月24日から国土交通省よりの離島振興法の指定を受けた。離島振興法を活用することにより、2023年までの人口減少率を10%以内に抑えることを目指している。 島の中心部には、瀬戸内海の島で一番高い山である星ヶ城(ほしがじょう、817m)があり、瀬戸大橋と大鳴門橋、明石海峡大橋を同時に見渡せる。 寒霞渓を始めとする渓谷・自然が瀬戸内海国立公園に指定されている。 この島の生物相は、「天然の博物館」と呼ばれるほど生物の種類に富んでいる。島内には江戸時代、猪による農業被害を防ぐためしし垣が島内を一周するように120キロメートルにわたり築かれた。島内の猪は明治初期に発生した豚熱でほぼ絶滅したが、近年は農作物が荒らされるようになり、2019年度には2039頭が捕獲された。 海底地形の理由から電力の開通以来、2016年4月の電力自由化の前は全域が中国電力の供給区域となっていた。 小豆島で話される方言は讃岐弁に分類され、東讃の言葉に近いとされるが、東讃では代表的な讃岐弁「〜やけん・やきん(=〜だから)」を用いないなど異なる面も多い。かつての地理的な影響から上方の方言・中国方言等の語彙等も多く見られる。小豆島の島内でも地域により言葉が若干異なり、アクセントに関しても旧池田町付近は高松式、旧内海町北部は観音寺式、南部は本島式、土庄町は土庄式と差異がある。なお「しょうどしま」は、香川県主部も含め「しょ」にアクセントを置いて発音されるように聞こえる。 小豆島について文献に見える最古の記録は『古事記』の国産みの段で、伊邪那岐命と伊邪那美命のまぐわいにより「小豆島」(あずきしま)、亦の名を「大野手比売」(おおぬでひめ、おおぬてひめ、大鐸姫、阿豆枳島神社の祭神)が生まれたと記述されている。「おおぬでひめ」の「鐸」は銅鐸のことで、実際に三五郎池の西側から銅鐸が出土している。 小豆島は古代から吉備国児島郡に属し、吉備国が分割された後も備前国に属すなど、中世までは本州側の行政区画に組み込まれていた。平安時代初期からは皇室の御料地となるが、1347年(貞和3年)にはそれまで南朝に呼応して島を支配していた飽浦信胤が細川師氏に攻められて倒されて以後、島は細川氏領となり皇室領は解体された。またこの細川氏は讃岐国守護であり、この時から政治的な支配者という側面では本州側の手を離れ、四国側に移っている。 実質的にはこの時(1347年(貞和3年))から小豆島は讃岐国へと所属が変わっているが、書簡などに見られる名称に讃岐国あるいは讃州という呼称は定着せず、依然として備前国という呼称が用いられていた。このような状態は江戸時代の1689年(元禄2年)の文書まで見られたが、以降、宝永年間からはようやく讃岐国あるいは讃州という呼称が定着し、備前国という表示は行われなくなった。 小豆島は大阪以西における海上交通の要衝地であるため、1585年(天正13年)に豊臣秀吉の蔵入地(直轄領、後の天領)になって以降、その重要性から時の中央政権が直接領有する時代が続いた。 大坂の陣後、江戸幕府が大坂城を再建するにあたって新しい石垣を造営するために西国の諸大名は幕府の許可を得て小豆島の各地に石丁場を設置した。記録で知られるところでは福岡藩黒田家、熊本藩加藤家、小倉藩(後に熊本藩)細川家、竹田藩中川家、安濃津藩藤堂家、松江藩堀尾家、柳川藩田中家、佐賀藩鍋島家、広島藩浅野家の石丁場が知られている。石丁場は公儀普請の際に当時の島の代官であった小堀政一(没後は大坂町奉行・大坂舟奉行に権限を移管)の許可を得て初めて石を切りだせることになっていたが、良質な石を得られる場所は貴重であったために諸大名はいつ生じるかも分からない公儀普請に備えて石丁場を保持し続けた。石丁場を持っていた大名が改易になると新領主がその石丁場を継承することもあったが、そうした大名が現れなかった石丁場では公儀の許可を得た商人による請負に転換され、そうした場所では限定的ながら商用に用いることも許されることになった。 江戸時代初期までの間は小豆島が4つの庄に分かれたうち、池田地区は池田荘(池田郷)となる。そののち、小豆郡のうち東部三郷(草加部、福田、大部)は江戸幕府直轄の天領(倉敷代官所管轄)として、池田地区とも幕府の天領地となる。西部六郷は津山藩領として統治された。また天保年間、池田郷は津山藩の領地となる。明治初期には廃藩置県により小豆島は倉敷県に属したが、その後は香川県に属する。一時は香川県が統廃合を繰り返したため、名東県、愛媛県と所属を香川県と一にするが、最終的には香川県となる。 現在も土庄町が岡山県津山市と歴史友好都市交流を行うのを始め、香川県はもとより岡山県側の岡山市、玉野市、倉敷市、備前市、兵庫県赤穂市、姫路市など瀬戸内海北岸地域との結びつきも深い。 近世 近代・現代 小豆島は全域が香川県小豆郡に属し、土庄町と小豆島町の2町がそれぞれ存在する。人口・面積とも最大は小豆島町であるが、島の玄関口であり多くの商業施設や県出先機関が所在するのは土庄町である。また、土庄町は小豆島本体以外に豊島も町域に含んでいる。小豆島町は平成の大合併によって池田町と内海町が合併して新設されたもので、それまでは半世紀にわたって長らく3町体制が続いていた。平成の大合併では土庄町も含めた3町で合併協議会が進行していたが、町役場の位置をめぐって土庄町と残り2町が対立し、最終的に土庄町が離脱した。 島嶼地域であるが、3万人近い人口を擁しており、土庄町を中心にある程度チェーン店が立地している。コンビニエンスストアは2023年8月時点でセブン-イレブンが6店舗営業している。島内ではこのほか、ファミリーレストラン1軒が23時まで営業を行なっている。1979年1月にはモスバーガー小豆島店が同社の100店舗目として全国でも比較的早期に開店したが、2001年以降に閉店している。 島内の金融機関は香川県系の銀行と各郵便局にあるゆうちょ銀行が存在する。2013年まではサンクスがコンビニとして営業していたもののコンビニATMがなかったため、島内における時間外引き出しは不可能であった。2013年3月8日にセブン-イレブンが開店するのに伴い、セブン銀行のATM(現金自動預け払い機)も設置され、この状態は解消された。 1974年7月と1976年9月に記録的な集中豪雨を記録し、島内にある山地が崩壊。1974年には死者29名・全半壊家屋128戸、1976年には死者39名・全半壊家屋406戸を記録した。その中で1976年の災害は島内のいくつかの山地が崩壊し、山麓の扇状地に位置していた島の西側に位置する石場・東側に位置する小豆島町(旧内海町)橘地区などの集落は土石流の直撃を受けた場所が多く、惨憺たる状況であった。石場地区では土石流が流下し、家屋を押し潰していき、海岸沿いの道路は寸断され、田畑などの農作物がマサ(花崗岩砂)によって影響が出た。また、橘地区では背後の山地に崩壊地が多発し、土石流が川を伝っていき、勢いを増した水が鉄砲水となって流下し、扇状地上の集落を襲った。災害後は山腹崩壊を生じた部分に砂防工事が行われ、コンクリート堰堤が構築された。 1970年1月12日、池田町の山林から出火。同月14日には約540ha以上の森林に延焼する大規模な山火事となった。 車両乗船可能なフェリーを運航している。便数は四国側の高松港へ発着するものが最も多く、小豆島から行き来する際に利便性が高い。そのほか、本州側からは新岡山港、宇野港、姫路港、神戸港からのフェリーが現在運航している。また、瀬戸内国際芸術祭(トリエンナーレ)期間中は直島、犬島、豊島などその他の島嶼部への臨時便が出る。 太字の会社は旅客専用の高速船の運航もある。運賃は大人1人当たりの片道旅客運賃。 なおかつては小豆島バスも路線を引いていたが、のち観光バスのみになり現在は撤退している。
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"paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "小豆島は大阪以西における海上交通の要衝地であるため、1585年(天正13年)に豊臣秀吉の蔵入地(直轄領、後の天領)になって以降、その重要性から時の中央政権が直接領有する時代が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "大坂の陣後、江戸幕府が大坂城を再建するにあたって新しい石垣を造営するために西国の諸大名は幕府の許可を得て小豆島の各地に石丁場を設置した。記録で知られるところでは福岡藩黒田家、熊本藩加藤家、小倉藩(後に熊本藩)細川家、竹田藩中川家、安濃津藩藤堂家、松江藩堀尾家、柳川藩田中家、佐賀藩鍋島家、広島藩浅野家の石丁場が知られている。石丁場は公儀普請の際に当時の島の代官であった小堀政一(没後は大坂町奉行・大坂舟奉行に権限を移管)の許可を得て初めて石を切りだせることになっていたが、良質な石を得られる場所は貴重であったために諸大名はいつ生じるかも分からない公儀普請に備えて石丁場を保持し続けた。石丁場を持っていた大名が改易になると新領主がその石丁場を継承することもあったが、そうした大名が現れなかった石丁場では公儀の許可を得た商人による請負に転換され、そうした場所では限定的ながら商用に用いることも許されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "江戸時代初期までの間は小豆島が4つの庄に分かれたうち、池田地区は池田荘(池田郷)となる。そののち、小豆郡のうち東部三郷(草加部、福田、大部)は江戸幕府直轄の天領(倉敷代官所管轄)として、池田地区とも幕府の天領地となる。西部六郷は津山藩領として統治された。また天保年間、池田郷は津山藩の領地となる。明治初期には廃藩置県により小豆島は倉敷県に属したが、その後は香川県に属する。一時は香川県が統廃合を繰り返したため、名東県、愛媛県と所属を香川県と一にするが、最終的には香川県となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "現在も土庄町が岡山県津山市と歴史友好都市交流を行うのを始め、香川県はもとより岡山県側の岡山市、玉野市、倉敷市、備前市、兵庫県赤穂市、姫路市など瀬戸内海北岸地域との結びつきも深い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "近世", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "近代・現代", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "小豆島は全域が香川県小豆郡に属し、土庄町と小豆島町の2町がそれぞれ存在する。人口・面積とも最大は小豆島町であるが、島の玄関口であり多くの商業施設や県出先機関が所在するのは土庄町である。また、土庄町は小豆島本体以外に豊島も町域に含んでいる。小豆島町は平成の大合併によって池田町と内海町が合併して新設されたもので、それまでは半世紀にわたって長らく3町体制が続いていた。平成の大合併では土庄町も含めた3町で合併協議会が進行していたが、町役場の位置をめぐって土庄町と残り2町が対立し、最終的に土庄町が離脱した。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "島嶼地域であるが、3万人近い人口を擁しており、土庄町を中心にある程度チェーン店が立地している。コンビニエンスストアは2023年8月時点でセブン-イレブンが6店舗営業している。島内ではこのほか、ファミリーレストラン1軒が23時まで営業を行なっている。1979年1月にはモスバーガー小豆島店が同社の100店舗目として全国でも比較的早期に開店したが、2001年以降に閉店している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "島内の金融機関は香川県系の銀行と各郵便局にあるゆうちょ銀行が存在する。2013年まではサンクスがコンビニとして営業していたもののコンビニATMがなかったため、島内における時間外引き出しは不可能であった。2013年3月8日にセブン-イレブンが開店するのに伴い、セブン銀行のATM(現金自動預け払い機)も設置され、この状態は解消された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1974年7月と1976年9月に記録的な集中豪雨を記録し、島内にある山地が崩壊。1974年には死者29名・全半壊家屋128戸、1976年には死者39名・全半壊家屋406戸を記録した。その中で1976年の災害は島内のいくつかの山地が崩壊し、山麓の扇状地に位置していた島の西側に位置する石場・東側に位置する小豆島町(旧内海町)橘地区などの集落は土石流の直撃を受けた場所が多く、惨憺たる状況であった。石場地区では土石流が流下し、家屋を押し潰していき、海岸沿いの道路は寸断され、田畑などの農作物がマサ(花崗岩砂)によって影響が出た。また、橘地区では背後の山地に崩壊地が多発し、土石流が川を伝っていき、勢いを増した水が鉄砲水となって流下し、扇状地上の集落を襲った。災害後は山腹崩壊を生じた部分に砂防工事が行われ、コンクリート堰堤が構築された。", "title": "災害" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1970年1月12日、池田町の山林から出火。同月14日には約540ha以上の森林に延焼する大規模な山火事となった。", "title": "災害" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "車両乗船可能なフェリーを運航している。便数は四国側の高松港へ発着するものが最も多く、小豆島から行き来する際に利便性が高い。そのほか、本州側からは新岡山港、宇野港、姫路港、神戸港からのフェリーが現在運航している。また、瀬戸内国際芸術祭(トリエンナーレ)期間中は直島、犬島、豊島などその他の島嶼部への臨時便が出る。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "太字の会社は旅客専用の高速船の運航もある。運賃は大人1人当たりの片道旅客運賃。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なおかつては小豆島バスも路線を引いていたが、のち観光バスのみになり現在は撤退している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "", "title": "小豆島を舞台にした作品" } ]
小豆島(しょうどしま)は、瀬戸内海・播磨灘にある島。行政区分は香川県小豆郡に属し、小豆島町、土庄町の2町からなり、人口は2万5881人(2020年度推計)。近年、人口が減少の一途をたどっており、2013年6月24日に隣接する沖之島とあわせて、国土交通省より「離島振興法」の指定を受けた。離島振興法の活用で、今後10年間の人口減少率を10%以内に抑えることを目指す。 古代には「あずきしま」と呼ばれ、その後、中世までは「しょうずしま」と呼ばれた。素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブなどの生産が盛んであり、いずれも日本有数の生産地となっている。特にオリーブは国内栽培の発祥地として広く知られる。また、小説『二十四の瞳』の作者壺井栄の故郷としても知られ、小豆島をロケ地として、同小説はこれまで2回映画化された。
{{Otheruses|香川県に属する島|その他|小豆島 (曖昧さ回避)}} {{Infobox 島 | 島名 = 小豆島 | 画像 = [[ファイル:Syodoshima landsat.jpg|300px]]<br />小豆島の衛星写真 | 緯度度 = 34 | 緯度分 = 30 | 緯度秒 = 49 | 経度度 = 134 | 経度分 = 17 | 経度秒 = 8 | 面積 = 153.30<!--([[国土地理院]])--> | 周囲 = 126 | 標高 = 816.7<!--([[国土地理院]])--> | 海域 = [[瀬戸内海]]([[播磨灘]]) | 国 = {{JPN}}([[香川県]][[小豆郡]]) | 最大都市 = [[小豆島町]] |地図 = {{Location map|Japan Kagawa Prefecture#Japan|relief=1|float=center|label=小豆島}} |OSMズーム = 9 }} [[ファイル:Shodoshima Island Kagawa Japan.jpg|thumb|right|300px|北東方向より見た小豆島]] [[ファイル:Syoudosima01.jpg|thumb|right|300px|[[四国]]最北端の竹居観音から見る小豆島]] '''小豆島'''(しょうどしま)は、[[瀬戸内海]]・[[播磨灘]]にある[[島]]。行政区分は[[香川県]][[小豆郡]]に属し<ref group="注釈">小豆島の西方3.7kmに位置する[[豊島 (香川県)|豊島]]も、行政区分は香川県小豆郡に属す。</ref>、[[小豆島町]]、[[土庄町]]の2町からなり、人口は2万5881人(2020年度[[推計人口|推計]])。近年、人口が減少の一途をたどっており、2013年6月24日に隣接する[[沖之島 (香川県)|沖之島]]とあわせて、[[国土交通省]]より「[[離島振興法]]」の指定を受けた<ref group="注釈">[[瀬戸内海]]では他に[[大崎上島]](広島県)、[[直島]](香川県)などが[[離島振興法]]の指定を受けている。</ref>。 古代には「あずきしま」と呼ばれ、その後、中世までは「しょうずしま」と呼ばれた<ref>『[[日本歴史地名大系]]』[[平凡社]]{{Full|date=2015年10月}}。</ref>。[[素麺]]、[[醤油]]、[[佃煮]]、[[胡麻油]]、[[オリーブ]]などの生産が盛んであり、いずれも日本有数の生産地となっている。特にオリーブは国内栽培の発祥地として広く知られる<ref>[https://www.my-kagawa.jp/feature/olive110/quality うどん県旅ネット]「オリーブの歴史と品質」2020年2月2日閲覧</ref>。また、小説『[[二十四の瞳]]』の作者[[壺井栄]]の故郷としても知られ<ref group="注釈"> [[1952年]]([[昭和]]27年)に発表された'''小説'''の『[[二十四の瞳]]』では、冒頭に「'''瀬戸内海べりの一寒村'''」とあるだけで、全編にわたって具体的な地名は示されず、「離島」か「本土」かも示していない。しかし、2年後の[[1954年]](昭和29年)公開の'''映画'''『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』では、舞台を、作者の故郷である香川県の小豆島と設定した。</ref>、小豆島を[[ロケーション撮影|ロケ]]地として、同小説はこれまで2回映画化された。 == 地理 == {| class="wikitable" width="400px" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0" |- | align=center|<div style="width:400px;float:center;margin:0;position:relative;">[[ファイル:Harima-Nada 1.png|400px]] <!--地名--> <div style="position:absolute;left:215px;top:8px;font-size:12px">[[姫路市|{{Color|white|姫路}}]]</div> <div style="position:absolute;left:270px;top:180px;font-size:12px">[[淡路島|{{Color|white|淡路島}}]]</div> <div style="position:absolute;left:80px;top:280px;font-size:12px">[[四国|{{Color|white|四国}}]]</div> <div style="position:absolute;left:150px;top:80px;font-size:12px">[[家島諸島|{{Color|white|家島諸島}}]]</div> <div style="position:absolute;left:70px;top:130px;font-size:12px">'''{{Color|white|小豆島}}'''</div> <div style="position:absolute;left:300px;top:85px;font-size:10px">[[明石海峡|{{Color|aqua|明石海峡]]}}</div> <div style="position:absolute;left:170px;top:140px;font-size:12px">[[播磨灘|{{Color|aqua|播磨灘}}]]</div> <div style="position:absolute;left:345px;top:170px;font-size:10px">[[大阪湾|{{Color|aqua|大阪湾}}]]</div> <div style="position:absolute;left:190px;top:250px;font-size:10px">[[鳴門海峡|{{Color|aqua|鳴門海峡}}]]</div> <div style="position:absolute;left:290px;top:285px;font-size:10px">[[紀伊水道|{{Color|aqua|紀伊水道]]}}</div> </div> |- |<small>[[ランドサット]]7号 (Landsat 7) が撮影した小豆島周辺海域。<br/>※表示環境によっては文字がずれることがあります。</small> |} [[ファイル:Shōdoshima Relief Map, SRTM-1.jpg|thumb|地形図]] [[ファイル:Shodoshima Olive Park Shodo Island Japan14bs3.jpg|thumb|オリーブ林と内海湾]] 小豆島は、香川県の県庁所在地[[高松市]]の約20[[キロメートル|km]]北東沖に位置し、同県最大の島である<ref>{{Cite web|和書|url= https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/6_other/shimap/shimaindex_kaga.htm|title=香川県のしまっぷ|publisher=[[海上保安庁]]|accessdate=2020-8-15}}</ref>。 正確には二つの島で、両島間には[[ギネス世界記録|ギネスブック]]認定の世界で最も幅の狭い[[土渕海峡]](最狭幅は9.93メートル)があるが古くから橋で陸続きであり、慣例的に一つの地域として扱われている。特に区別する際には小さい方の島(海峡を挟んで西側の島)を前島(まえじま)と呼ぶこともある。 [[瀬戸内海]]では[[淡路島]]に次いで2番目の面積で、日本の島においては19番目の大きさである。横に向いた[[ウシ|牛]]が西を見ているような特徴的な形で海岸線は変化に富み、多数の[[半島]]と[[入江]]がある。南側には池田湾、内海湾がある。温暖な[[瀬戸内海式気候]]を活かし、[[オリーブ]]や[[ウンシュウミカン|ミカン]]、[[スモモ]]などの栽培が行われている。 [[本州|本州島]]、[[四国|四国島]]から橋梁、トンネルなどでつながっていない非架橋の島としては、[[瀬戸内海]]で最多の人口を有する島である。また、2023年時点では空路が存在しないため、船でしか渡れない離島としては日本国内で最多の人口を有する島である。一日に発着する[[フェリー]]の本数は日本有数である。 2013年6月23日までは面積100[[平方キロメートル|km{{sup|2}}]]以上の非架橋有人島([[北方地域|北方4島]]を除く)としては、([[沖縄県]]の離島振興も含め)[[離島振興法]]などのいずれの振興法も指定を受けていない日本で唯一の例だった。同年6月24日から[[国土交通省]]よりの離島振興法の指定を受けた。離島振興法を活用することにより、2023年までの人口減少率を10%以内に抑えることを目指している<ref name="四国新聞130625">2013年6月25日『[[四国新聞]]』記事より。</ref>。 島の中心部には、瀬戸内海の島で一番高い山である[[星ヶ城]](ほしがじょう、817m)があり、[[瀬戸大橋]]と[[大鳴門橋]]、[[明石海峡大橋]]を同時に見渡せる。 * 面積153.30km{{sup|2}}([[国土地理院]]のデータによる) * 海岸線の長さ126km [[寒霞渓]]を始めとする渓谷・自然が[[瀬戸内海国立公園]]に指定されている。 この島の[[生物相]]は、「天然の[[博物館]]」と呼ばれるほど[[生物多様性|生物の種類に富んでいる]]。島内には江戸時代、[[猪]]による農業被害を防ぐため[[しし垣]]が島内を一周するように120キロメートルにわたり築かれた。島内の猪は[[明治]]初期に発生した[[豚熱]]でほぼ絶滅したが、近年は農作物が荒らされるようになり、2019年度には2039頭が捕獲された<ref>しし垣 小豆島ぐるり 後世に/江戸時代の土壁 獣から農作物守る/香川「考える会」認知度向上へ調査取り組む『[[日本農業新聞]]』2020年10月29日</ref>。 海底地形の理由から電力の開通以来、2016年4月の電力自由化の前は全域が[[中国電力]]の供給区域となっていた。 小豆島で話される[[方言]]は[[讃岐弁]]に分類され、[[東讃]]の言葉に近いとされるが、東讃では代表的な讃岐弁「〜やけん・やきん(=〜だから)」を用いないなど異なる面も多い。かつての地理的な影響から[[上方]]の方言・[[中国方言]]等の語彙等も多く見られる。小豆島の島内でも地域により言葉が若干異なり、アクセントに関しても旧[[池田町 (香川県)|池田町]]付近は高松式、旧[[内海町 (香川県)|内海町]]北部は[[観音寺市|観音寺]]式、南部は本島式、[[土庄町]]は土庄式と差異がある。なお「しょうどしま」は、香川県主部も含め「しょ」にアクセントを置いて発音されるように聞こえる。 == 歴史 == 小豆島について文献に見える最古の記録は『[[古事記]]』の[[国産み]]の段で、[[伊邪那岐命]]と[[伊邪那美命]]のまぐわいにより「小豆島」(あずきしま)、亦の名を「[[大野手比売]]」(おおぬでひめ、おおぬてひめ、大鐸姫、阿豆枳島神社の[[祭神]])が生まれたと記述されている。「おおぬでひめ」の「鐸」は[[銅鐸]]のことで、実際に三五郎池の西側から銅鐸が出土している。 小豆島は古代から[[吉備国]][[児島郡]]に属し、吉備国が分割された後も[[備前国]]に属すなど、中世までは本州側の行政区画に組み込まれていた。[[平安時代]]初期からは[[皇室]]の[[御料地]]となるが、1347年([[貞和]]3年)にはそれまで[[南朝 (日本)|南朝]]に呼応して島を支配していた[[飽浦信胤]]が[[細川師氏]]に攻められて倒されて以後、島は[[細川氏]]領となり[[皇室領]]は解体された。またこの細川氏は[[讃岐国]][[守護]]であり、この時から政治的な支配者という側面では本州側の手を離れ、四国側に移っている<ref>{{Cite book|和書 |author=角川日本地名大辞典編纂委員会|authorlink=角川日本地名大辞典|date= 1985-09|title= 角川日本地名大辞典37 香川県|publisher= [[角川書店]]|page= 419|id= |isbn= 978-4-04-001370-1 |ref = {{SfnRef|地名大辞典|1985}} }}</ref>。 実質的にはこの時(1347年(貞和3年))から小豆島は讃岐国へと所属が変わっているが、書簡などに見られる名称に讃岐国あるいは讃州という呼称は定着せず、依然として備前国という呼称が用いられていた。このような状態は[[江戸時代]]の1689年([[元禄]]2年)の文書まで見られたが、以降、[[宝永]]年間からはようやく讃岐国あるいは讃州という呼称が定着し、備前国という表示は行われなくなった{{Sfn|地名大辞典|1985|p=420}}。 小豆島は[[大阪]]以西における海上交通の要衝地であるため、1585年([[天正]]13年)に[[豊臣秀吉]]の[[蔵入地]](直轄領、後の[[天領]])になって以降、その重要性から時の中央政権が直接領有する時代が続いた。 [[大坂の陣]]後、[[江戸幕府]]が[[大坂城]]を再建するにあたって新しい[[石垣]]を造営するために西国の諸大名は幕府の許可を得て小豆島の各地に[[採石場|石丁場]]を設置した。記録で知られるところでは[[福岡藩]]黒田家、[[熊本藩]]加藤家、[[小倉藩]](後に[[熊本藩]])細川家、[[竹田藩]]中川家、[[安濃津藩]]藤堂家、[[松江藩]]堀尾家、[[柳川藩]]田中家、[[佐賀藩]]鍋島家、[[広島藩]]浅野家の石丁場が知られている。石丁場は[[公儀普請]]の際に当時の島の[[代官]]であった[[小堀政一]](没後は[[大坂町奉行]]・[[大坂舟奉行]]に権限を移管)の許可を得て初めて石を切りだせることになっていたが、良質な石を得られる場所は貴重であったために諸大名はいつ生じるかも分からない公儀普請に備えて石丁場を保持し続けた。石丁場を持っていた大名が[[改易]]になると新領主がその石丁場を継承することもあったが、そうした大名が現れなかった石丁場では公儀の許可を得た商人による請負に転換され、そうした場所では限定的ながら商用に用いることも許されることになった<ref>橋詰茂「東瀬戸内海島嶼部における大坂城築城後の石の搬出 -小豆島を事例として-」『戦国・近世初期 西と東の地域社会』橋詰茂 編、岩田書院、2019年6月。ISBN 978-4-86602-074-7 P481-507.</ref>。   {| class="wikitable" |+江戸時代後期の領有状況 |- ! 地区 !! 1708年(宝永5年)-<br />1712年([[正徳 (日本)|正徳]]2年) !! 1721年([[享保]]6年)-<br />1739年([[元文]]4年) !! 1740年(元文5年)-<br />1829年([[文政]]12年) !! 1830年([[天保]]元年)-<br />1837年(天保8年) !! 1838年(天保9年)-<br />[[明治維新]] |- ! 池田村 | rowspan="9" | 幕府領<br />([[高松藩]][[預地]]) || rowspan="9" | 幕府領<br />(高松藩預地) || rowspan="9" | 幕府領<br />([[倉敷代官所]]など) || rowspan="6" | 幕府領<br />([[倉敷]]代官所など) || rowspan="6" | [[津山藩]]領 |- ! 土庄村 |- ! 淵崎村 |- ! 上庄村 |- ! 肥土山村 |- ! 小海村 |- ! 草加部村 | rowspan="3" | 幕府領<br />([[伊予松山藩]]預地) || rowspan="3" | 幕府領<br />(倉敷代官所など) |- ! 福田村 |- ! 大部村 |- |} 江戸時代初期までの間は小豆島が4つの庄に分かれたうち、池田地区は池田荘(池田郷)となる。そののち、小豆郡のうち東部三郷(草加部、福田、大部)は江戸幕府直轄の天領(倉敷代官所管轄)として、池田地区とも幕府の天領地となる。西部六郷は津山藩領として統治された。また天保年間、池田郷は[[津山藩]]の領地となる。[[明治]]初期には[[廃藩置県]]により小豆島は[[倉敷県]]に属したが、その後は香川県に属する。一時は香川県が統廃合を繰り返したため、[[名東県]]、[[愛媛県]]と所属を香川県と一にするが、最終的には香川県となる。 現在も土庄町が[[岡山県]][[津山市]]と歴史友好都市交流を行うのを始め、香川県はもとより岡山県側の[[岡山市]]、[[玉野市]]、[[倉敷市]]、[[備前市]]、[[兵庫県]][[赤穂市]]、[[姫路市]]など瀬戸内海北岸地域との結びつきも深い。 === 年表 === '''近世''' * 1585年、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[小西行長]]に小豆島1万[[石 (単位)|石]]を与える。 * 1586年、小西行長が[[グレゴリオ・デ・セスペデス]][[神父]]を島に派遣し、[[キリスト教]]が伝わる。 * 1588年、天領になる。 * 1598年、[[伊勢参り]]に行った島民が[[三輪素麺|三輪の素麺]]作りを学び、島独特の手延べそうめんを作り上げる(小豆島そうめんの起こり)。 * 1620年、[[大坂城]]修復の際、小豆島より多くの石が採られ運ばれる。 * 1637年、[[肥前]]島原で発生した[[島原の乱]]で多くの農民が殺害されたため、小豆島からも[[島原半島]]南部に移住が行われる。その際に手延べそうめん技術も島原に移入され、現代では[[長崎県]][[南島原市]]は手延べそうめん製造でライバルとなっている。 * 1686年、島の[[仏教]][[僧侶]]により、[[小豆島八十八ヶ所|小豆島八十八ヶ所霊場]]が整備される。 * 1804年、高橋文右衛門が島外へ向けて[[醤油]]の製造販売を開始(小豆島醤油産業の起こり) * 1858年、加登屋製油所が創業(現在の[[かどや製油]])。 '''近代・現代''' * 1907年、「[[丸金醤油|丸金醤油株式会社]]」設立(現在は[[ジャパン・フード&リカー・アライアンス]])。 * 1908年、西村地区にてオリーブの栽培が開始される(小豆島オリーブ産業の起こり)。 * 1934年、寒霞渓(神懸山)が日本初の国立公園([[瀬戸内海国立公園]])に指定される。 * 1945年、武部吉次が島外へ向けて[[佃煮]](葉柄佃煮)の製造販売を開始(小豆島佃煮産業の起こり) * 1954年、小豆島を舞台とした映画『二十四の瞳』が公開、大ヒットとなり観光ブームが訪れる。 * 1957年、小豆郡大部村が土庄町に編入。これより小豆島は土庄町、池田町、内海町の3町体制となる。 * 1974年、7月6日から7日にかけて[[梅雨前線]]による[[集中豪雨]]。島の東側で[[土石流]]や山腹崩壊などの[[土砂災害]]が頻発して、死者・行方不明者27人、負傷者10人<ref>「土石流、家をなぎ倒す 瀬戸内3島 逃げる背に迫る岩」『朝日新聞』昭和44年(1974年)7月8日朝刊、15版、11面</ref>。 * 1989年、[[ギリシャ]]の[[ミロス島]]と姉妹島提携を結ぶ。 * 2006年、池田町、内海町が合併。小豆島町となり、小豆島は2町体制となる。 * 2010年より3年ごとに瀬戸内国際芸術祭が開催される。 * 2013年、[[離島振興法]]により離島振興の対象地域となる。 == 行政 == 小豆島は全域が[[香川県]][[小豆郡]]に属し、[[土庄町]]と[[小豆島町]]の2町がそれぞれ存在する。人口・面積とも最大は小豆島町であるが、島の玄関口であり多くの商業施設や県出先機関が所在するのは土庄町である。また、土庄町は小豆島本体以外に[[豊島 (香川県)|豊島]]も町域に含んでいる。小豆島町は[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]によって[[池田町 (香川県)|池田町]]と[[内海町 (香川県)|内海町]]が合併して新設されたもので、それまでは半世紀にわたって長らく3町体制が続いていた。[[平成の大合併]]では土庄町も含めた3町で合併協議会が進行していたが、町役場の位置をめぐって土庄町と残り2町が対立し、最終的に土庄町が離脱した。 == 経済 == === 商業 === 島嶼地域であるが、3万人近い人口を擁しており、土庄町を中心にある程度チェーン店が立地している。[[コンビニエンスストア]]は2023年8月時点で[[セブン-イレブン]]が6店舗営業している。島内ではこのほか、[[ファミリーレストラン]]1軒が23時まで営業を行なっている。1979年1月には[[モスバーガー]]小豆島店が同社の100店舗目として全国でも比較的早期に開店したが、2001年以降に閉店している。 ; 主な商業施設 * オリーブタウン ** [[DCM (企業)|DCM]]小豆島店 ** [[マルヨシセンター]]土庄店 ** [[マツヤデンキ]]小豆島店 ** [[レディ薬局|くすりのレディ]]小豆島店 ** [[ジョイフル]]小豆島店 ** [[メガネの三城|パリミキ]]土庄店 * [[セブン-イレブン]]小豆島土庄町店、小豆島土庄港店、小豆島オリーブタウン店、小豆島池田店、小豆島内海店、小豆島馬木店 * [[マルナカ (チェーンストア)|マルナカ]]新土庄店、内海店 * [[マルヨシセンター]]内海店 * [[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]]土庄店 * [[ザグザグ]]土庄店・内海店 * [[しまむら|ファッションセンターしまむら]]土庄店 * [[宮脇書店]]土庄マルナカ店 * [[大創産業|ダイソー]]小豆島土庄店 * [[ダイレックス (ディスカウントストア)|ダイレックス]]土庄店 * [[コスモス薬品|ドラッグコスモス]]土庄店 * 土庄港観光センター === 金融機関 === 島内の金融機関は香川県系の銀行と各郵便局にある[[ゆうちょ銀行]]が存在する。2013年までは[[サンクス (コンビニエンスストア)|サンクス]]がコンビニとして営業していたものの[[コンビニATM]]がなかったため、島内における時間外引き出しは不可能であった。2013年3月8日にセブン-イレブンが開店するのに伴い、[[セブン銀行]]のATM(現金自動預け払い機)も設置され、この状態は解消された。 * [[百十四銀行]]土庄支店・内海支店(店舗外ATM:単独5か所、共同1か所) * [[香川銀行]]小豆島支店・内海支店(店舗外ATM:単独1か所) * [[四国労働金庫]]内海出張所(店舗外ATM:単独1か所) * [[高松信用金庫]]土庄支店(店舗外ATM:単独1か所) * [[香川県信用組合]]土庄支店 * [[香川県信用農業協同組合連合会|JAバンク香川]]土庄支店・蒲生出張所・西出張所・大鐸支店・四海支店・福田支店・北浦支店・大部支店・西村支店・草壁支店・内海支店・苗羽支店・池田支店・二生出張所・三都出張所(店舗外ATM:単独10か所) * [[郵便局]]17か所(うち[[簡易郵便局]]2か所) ** 郵便局における土日祝のATM取り扱いは土庄郵便局のみ。 * セブン銀行ATM6か所 === 産業 === [[File:Olive Grove in Shodoshima 02.jpg|thumb|小豆島の[[オリーブ]]畑]] * [[観光産業]]…『[[二十四の瞳]]』の映画化以降、観光客が増え、1972年には150万人が島に訪れた<ref>『[[世界大百科事典]]』、平凡社{{Full|date=2015年10月}}。</ref>。 * [[醤油]]([[盛田]]など、小豆島町) * [[佃煮]](日本有数の生産地) * [[そうめん]](「島の光」、日本三大そうめんの一つ) * [[ごま油]]([[かどや製油]]、土庄町) * [[オリーブ]](日本初。100年以上の歴史を持ち、国内最大の生産量) * [[石材業]]([[花崗岩]]が中心) * [[漁業]] * [[造船]]・船舶修繕業([[香川船渠]]など) == 災害 == ===土砂災害=== 1974年7月と1976年9月に記録的な集中豪雨を記録し、島内にある山地が崩壊。1974年には死者29名・全半壊家屋128戸、1976年には死者39名・全半壊家屋406戸を記録した。<!--1974年7月の災害に詳しい人執筆お願いします。-->その中で1976年の災害は島内のいくつかの山地が崩壊し、山麓の扇状地に位置していた島の西側に位置する石場・東側に位置する[[小豆島町]](旧[[内海町 (香川県)|内海町]])橘地区などの[[集落]]は土石流の直撃を受けた場所が多く、惨憺たる状況であった。石場地区では土石流が流下し、家屋を押し潰していき、海岸沿いの道路は寸断され、田畑などの農作物がマサ([[花崗岩]]砂)によって影響が出た。また、橘地区では背後の山地に崩壊地が多発し、土石流が川を伝っていき、勢いを増した水が鉄砲水となって流下し、[[扇状地]]上の集落を襲った。災害後は山腹崩壊を生じた部分に砂防工事が行われ、[[コンクリート]]堰堤が構築された。 ===山火事=== [[1970年]][[1月12日]]、池田町の山林から出火。同月14日には約540ha以上の森林に延焼する大規模な[[山火事]]となった<ref>「小豆島で五百ヘクタール焼く 自衛隊も出動 強風・水不足が災い」『[[中國新聞]]』昭和46年1月14日 15面</ref>。 == 姉妹島 == [[ファイル:Shodoshima Olive Park Shodo Island Japan21bs3.jpg|thumb|[[小豆島オリーブ公園]](小豆島町西村)のギリシャ風車。ミロス島との友好の証として1992年に建てられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.olive-pk.jp/map/windmill.html|title=ギリシャ風車|publisher=[[道の駅小豆島オリーブ公園]]|accessdate=2021-8-12}}</ref>。]] * {{Flagicon|Greece}}[[ミロス島]]([[ギリシャ]]) ** [[1989年]]([[平成]]元年)[[10月8日]] - 小豆島とミロス島が姉妹島提携<ref name="clair-1466">{{Cite web|和書|url=http://www.clair.or.jp/j/exchange/shimai/data/detail/1466|title=当該提携の概要 小豆島2町 ミロス|work=姉妹(友好)提携情報|publisher=[[自治体国際化協会]]|accessdate=2020-1-15}}</ref><ref name="emb-shodo">{{Cite web|和書|url=https://www.gr.emb-japan.go.jp/portal/jp/relations/shodo.html|title= 香川県小豆島 - ミロス島|publisher=[[在ギリシャ日本国大使館]]|accessdate=2020-1-15}}</ref>。 :1973年、堀本文治([[小豆島バス]]社長)が観光施設「太陽の丘ピースパーク」(小豆島町安田。1973年開園、2004年以後休業状態)にギリシャ風の「オリーブ神殿」と「平和の鐘」を建立した<ref name="emb-shodo"/>。この「平和の鐘」の絵葉書を見たギリシャのウミガメ保護活動家{{仮リンク|リリー・ヴェニゼロス|nl|Lily Venizelos|el|Λίλυ Βενιζέλου|label=リリー・E・ベニセロス}}(地中海海亀協会メンバー)が、鐘楼の頂塔(オリーブの花をあしらったもの)がウミガメに似ていることに愛着を感じ、1988年に香川県知事を通じて小豆島と地中海の島との姉妹島提携を提起、当時の[[小豆郡]]3町(土庄町・池田町・内海町)の町長・議会も提案を受け入れた。ギリシャ側の提携先としては、ギリシャの当時の観光大臣の助言などによりミロス島が選ばれた<ref name="emb-shodo"/>。1989年6月、3町議会および[[小豆地区広域行政事務組合|広域行政]]議会において「ミロス島との姉妹島提携」を議決し、10月にミロス島代表団を小豆島に迎えて提携議定書調印式が行われた<ref name="clair-1466"/><ref name="emb-shodo"/>。なお、提携当時はミロス島側にも2市町(ミロス市・アダマンタス町{{enlink|Adamantas}})があったが、合併により現在はミロス市1市になっている<ref name="clair-1466"/>。交流基盤として1990年<ref name="clair-1466"/>に小豆島国際友好協会が設立され、子供のホームステイなどの事業が行われている<ref name="emb-shodo"/>。 == 名所・観光スポット == [[ファイル:201211Kankakei Shodoshima Kagawa pref Japan10s4.jpg|thumb|[[寒霞渓]]]] [[ファイル:Angel Road Shodo Island Japan01s3.jpg|thumb|[[エンジェルロード]]]] [[ファイル:Hishio-no-sato Shodo Island Kagawa pref Japan01n.jpg|thumb|[[醤の郷]]]] * [[二十四の瞳映画村]] - 映画『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』(1987年版)の[[映画|オープンセット]]を改築、保存した建物など。 ** [[壺井栄文学館]] * [[二十四の瞳映画村|岬の分教場]] - 旧苗羽小学校田浦[[分校]]校舎。『二十四の瞳』の舞台。島内に残る唯一の初期小学校校舎。 * [[平和の群像]] - 『二十四の瞳』の先生と生徒達の銅像。[[土庄港]]にある。 * [[寒霞渓]] - [[瀬戸内海国立公園]]、国の[[名勝]]に指定、日本三大渓谷の一つ。[[寒霞渓ロープウェイ|ロープウェイ]]があり、その絶景は[[四国八十八景]]78番選定。 ** [[星ヶ城|星ヶ城山]] - 瀬戸内海最高峰(817m)。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に、南朝方の[[飽浦信胤|佐々木三郎左衛門尉飽浦信胤]]により築城した[[星ヶ城|星ヶ城址]]がある。 ** [[寒霞渓|紅雲亭]] ** [[寒霞渓|四方指]]展望台 - 小豆島で2番目に高い[[三角点]](776m)近傍にある展望台。[[四国八十八景]]77番選定。 ** [[寒霞渓|美しの原高原]] * [[銚子渓]] - 滝の素晴らしい渓谷。 ** [[銚子渓|銚子渓自然動物園(お猿の国)]] * [[エンジェルロード]] - 「[[恋人の聖地]]」認定。[[四国八十八景]]76番選定。[[潮汐|潮の満ち引き]]によって道が現れたり消えたりする、人気の観光、恋愛スポット。 * [[大坂城残石記念公園]] - 史跡博物館、[[道の駅]]、みなとオアシスの施設機能を備えた公園 * [[天狗岩丁場跡]] - 石切丁場としては日本唯一の指定史跡。大阪城築城の際、[[黒田藩]]によって開かれた。 * [[小豆島シーサイドゴルフクラブ]] - 小豆島で唯一のリゾートゴルフコース。全ホール瀬戸内海の絶景を眺めながらラウンドできるのが特徴。 * [[小豆島オリーブ公園]] - オリーブ記念館、ギリシア[[風車]]、サンオリーブ([[小豆島温泉]])、[[道の駅小豆島オリーブ公園|道の駅]]など * [https://shl-olive.co.jp/olivestories/taijyu/ 樹齢千年オリーブ大樹]日本で唯一、世界でも希少なオリーブの樹 * [[道の駅小豆島ふるさと村]] - 巨大かぼちゃコンテストの全国大会である[[日本一どでカボチャ大会]]の大会会場にもなっている。 ** 手延そうめん館 * [[醤の郷]] - 近代醤油蔵建築の日本最大の集積地。[[近代化産業遺産]]12件、国の[[登録有形文化財]]90件を含む醤油蔵、諸味蔵、佃煮工場が並ぶ。 ** [[マルキン忠勇|マルキン醤油]]記念館 * [[迷路のまち]] **[[西光寺 (香川県土庄町)|西光寺]] - [[小豆島八十八箇所]]札所 ** [[小豆島尾崎放哉記念館]]  ** 妖怪美術館 - アーティストの柳生忠平をはじめ世界中のさまざまなアーティストがつくった現代の妖怪が800体以上集められている美術館 ** 小野川直樹美術館 - 折り鶴アーティスト小野川直樹の作品を展示した美術館 * [[土渕海峡]] - 世界一狭い[[海峡]]。 * [[池田の桟敷]] - 国の[[重要有形民俗文化財]] * [[中山千枚田]] - 小豆島唯一の[[棚田]]、[[蛍]]の里としても有名。 * [[双子浦]] - 海と入江と島の織り成す絶景。[[応神天皇]]の旧跡地でもある。 * [[地蔵崎灯台]] - 四国十景・讃岐百景に指定。 * [[高見山公園]] * 花寿波島 * こぼれ美島 * [[小豆島温泉]] * 小豆島オートビレッジYOSHIDA - [[温泉]]施設、オートキャンプ場。 ;かつて存在した施設など * [[小豆島孔雀園]] == 社寺 == * [[小豆島八十八ヶ所霊場]](島四国八十八ヶ所) - 年間、数万人もの巡礼者が島を訪れる。 * [[真言宗]]別格本山[[弘法の滝護国寺]] - 日本でも屈指の霊泉(弘法の滝)が境内奥地より涌出している。小豆島町中山2599。 * 恵門の滝・石門・清滝・笠滝 - 小豆島山岳霊場のうち[[不動明王]]を祀る。 * 皇子神社の社叢 - 国指定の[[天然記念物]]。 * 渕崎八幡神社 - 戦没[[陸軍特別幹部候補生]]の碑がある。 * [[小豆島大観音]] * [[オリーブ神社]] * [[鹿島明神社]] * 富岡八幡神社 == イベント == *[[瀬戸内国際芸術祭]](3年ごと) *瀬戸内海タートル・フルマラソン全国大会 *小豆島オリーブマラソン全国大会 *小豆島まつり == 交通 == [[ファイル:Tonosho port02s3200.jpg|thumb|[[土庄港]]]] [[ファイル:Ikeda Port Shodo Island Kagawa pref Japan01s3.jpg|thumb|[[池田港 (香川県)|池田港]]]] [[ファイル:Sakate port, zenkei-3.jpg|thumb|220px|right|[[坂手港]]]] === 小豆島への交通 === 車両乗船可能な[[フェリー]]を運航している。便数は四国側の[[高松港]]へ発着するものが最も多く、小豆島から行き来する際に利便性が高い。そのほか、本州側からは[[岡山港|新岡山港]]、[[宇野港]]、[[姫路港]]、[[神戸港]]からのフェリーが現在運航している。また、瀬戸内国際芸術祭(トリエンナーレ)期間中は[[直島]]、[[犬島]]、[[豊島 (香川県)|豊島]]などその他の島嶼部への臨時便が出る。 '''太字'''の会社は旅客専用の高速船の運航もある。運賃は大人1人当たりの片道旅客運賃。 ; 香川県本土(四国) # [[四国フェリー|四国フェリー・小豆島フェリー]]:高松港-[[土庄港]](フェリー15往復/日、60分、700円)(高速船16往復/日、30分、1190円)※高速船1便は夜間便を含む。(夜間便は新型コロナウイルスにより運休中)フェリーは旅客乗船不可の危険物指定便を含む。 # [[国際両備フェリー]]:高松港-[[池田港 (香川県)|池田港]](11往復/日、60分、700円) # [[ジャンボフェリー]]:[[高松港#高松東港|高松東港]] - [[坂手港]](平日2.5往復/日、土曜・休日3往復/日、70分、700円) ※高松 - 神戸航路のフェリーが寄港 ; 岡山県 # 国際両備フェリー・四国フェリー:[[岡山港|新岡山港]] - 土庄港(8往復/日、70分、1200円) # [[小豆島豊島フェリー]]:宇野港 - 土庄港(7往復/日、89分、1260円)※[[豊島 (香川県)|豊島]]経由 ; 兵庫県 # 小豆島フェリー:[[姫路港|姫路(飾磨)港]] - [[福田港 (香川県)|福田港]](7往復/日、100分、1710円) # [[ジャンボフェリー]]:[[神戸港]] - [[坂手港]](平日3往復/日、土曜・休日4往復/日、180分、1990円(土曜・休日は500円、深夜便は500円(土曜・休日は1000円)を加算 ※神戸 - 高松航路のフェリーが寄港 ; 休廃止航路 # [[セラヴィ観光汽船]]:[[神戸港]]・[[中突堤中央ターミナル]]-坂手港(高速船「[[ラ・ベルメール]]」) # [[関西汽船]]:大阪南港-坂手港(季節運航) - [[さんふらわあ]]中九州航路の[[間合い運用|間合いで運航]]していたがジャンボフェリーの就航により取りやめ #[[小豆島エンジェルライン]]:高松港 - [[土庄東港]](高速船9往復/日、30分、1000円)※高速艇のみ。便含む。2012年4月23日開設するも2013年5月10日休止<ref>{{Cite web|和書|date = 2013-04-09 |url = http://wwwtb.mlit.go.jp/shikoku/newsrelease/2013/2013-0409-1504.pdf |title = 小豆島エンジェルライン株式会社の事業休止について |publisher = [[国土交通省]][[四国運輸局]] |format = PDF |accessdate = 2015-10-07 }}</ref>。事業会社も破産した<ref>{{Cite web|和書|date = 2013-06-10 |url = http://bankruptcy-japan.info/?p=4326 |title = 小豆島エンジェルライン株式会社(香川県小豆郡)破産手続き開始 |publisher = ジャパンビジネスレポート |accessdate = 2015-10-07}}</ref>。 #[[内海フェリー]]:高松港 - 草壁港(高速船5往復/日、45分) # 内海フェリー:高松港-[[草壁港]](フェリー5往復/日、70分、700円)※フェリーは旅客乗船不可の危険物指定便を含む。国際両備フェリーが買収したが、赤字により航路廃止 # [[瀬戸内観光汽船]]:日生港 - [[大部港]](4往復/日、60分、1160円)コロナ禍や燃料高騰による赤字により航路廃止 === 島内での交通 === * [[小豆島オリーブバス]] - 土庄港のターミナルを起点とした路線が運行している。 *: 坂手線、南廻り福田線(池田港・草壁港を経て福田港)、田ノ浦映画村線、四海線、西浦線、北廻り福田線(大部を経て福田港)、中山線、寒霞渓急行線、三都線(小豆島町 町営バス) * 小豆島交通 - [[定期観光バス]]・貸切バス・タクシー * タクシー * レンタカー * レンタバイク * レンタサイクル * [[寒霞渓ロープウェイ]] なおかつては[[小豆島バス]]も路線を引いていたが、のち観光バスのみになり現在は撤退している。 === 道路 === * [[国道436号]]:[[姫路市]] -(フェリー) - 福田港 - 草壁港 - 池田港 - 土庄港 -(フェリー) - [[高松市]] * [[香川県道26号土庄福田線]]:福田港 - 大部港 - 土庄 * [[香川県道27号土庄神懸線]] * [[香川県道28号坂手港線]] * [[香川県道29号寒霞渓公園線]] * [[香川県道31号嶮岨山線]] * [[香川県道246号福田港神懸線]] * [[香川県道248号橘大角坂手港線]] * [[香川県道249号田浦坂手港線]] * [[香川県道250号三都港平木線]] * [[香川県道251号蒲野西村線]] * [[香川県道252号上庄池田線]] * [[香川県道253号屋形崎小江渕崎線]] * [[香川県道254号本町小瀬土庄港線]] * [[香川県道268号神の浦吉野線]] == 出身者 == === 政財界 === * [[木下尚慈]](実業家・[[ユニリーバ・ジャパン]]元社長) * [[中川晋]]([[日清食品]]社長) === 軍人 === * [[高橋坦]](陸軍中将、[[梅津・何応欽協定]]成立に尽力)土庄町長浜 === 学術 === * [[浜田寿美男]](発達心理学者) * [[村崎サイ]]([[徳島文理大学]]創立者) * [[黒川知文]]([[神学者]]・[[牧師]]) === 文化・芸術 === * [[壺井栄]]([[作家]]・[[詩人]]) * [[壺井繁治]](詩人) * [[黒島伝治]](作家) * [[山本崇一朗]](漫画家) === 芸能・報道機関 === * [[石倉三郎]]([[俳優]]・[[タレント]]・元[[コント・レオナルド]]) * [[正司敏江]]([[漫才師]]) * [[中田ボタン]](漫才師) * [[伊藤君子]]([[ジャズ]]シンガー) * [[高橋薫子]]([[クラシック音楽|クラシック]] [[ソプラノ]]歌手) * [[山口喜久一郎 (アナウンサー)|山口喜久一郎]]([[テレビ西日本]][[アナウンサー]]) * [[ヨシケン]]([[ロック (音楽)|ロック]]シンガー) * [[勝詩]]([[シンガーソングライター]]) === スポーツ === * [[石床幹雄]](元[[プロ野球選手]]、[[1965年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|第1回ドラフト]][[阪神タイガース|阪神]]1位) * [[村上義則]](元プロ野球選手、[[中日ドラゴンズ|中日]]) * [[鳥坂九十九]](元プロ野球選手、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]・[[読売ジャイアンツ|巨人]]) * [[児玉広志]]([[競輪選手]]) * [[佐竹功年]]([[社会人野球]]選手、[[トヨタ自動車硬式野球部|トヨタ自動車]]) * [[関口将平]](元[[アトランタ・ブレーブス]]マイナー契約) * [[琴勇輝一巖]]([[大相撲]]・[[佐渡ヶ嶽部屋]]、島出身者で初めての[[関取]]) == 小豆島を舞台にした作品 == === 小説・詩集 === * [[二十四の瞳]](小説、[[壺井栄]]) * [[母のない子と子のない母と]](小説、壺井栄) * [[大空]]([[俳句]]集、[[尾崎放哉]]) * [[海も暮れきる]]([[伝記]]小説、[[吉村昭]]) * [[小豆島殺人事件]](小説、[[中町信]]) * [[僕の行く道]](小説、[[新堂冬樹]]) * [[八日目の蝉]](小説、[[角田光代]]) * [[二十五の瞳]](小説、[[樋口毅宏]]) * [[おまめごとの島]](小説、[[中澤日菜子]]) === 映画 === ; 壺井栄原作による映画 * [[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]](〈[[松竹]]〉1954年、[[映画監督|監督]]:[[木下惠介]] / 1987年、監督:[[朝間義隆]]) * [[母のない子と子のない母と]](〈[[劇団民藝]]〉1952年、監督:[[若杉光夫]]) * [[女の暦]](〈[[新東宝]]〉1954年、監督:[[久松静児]]) * [[小さな花の物語]](〈松竹〉1961年、監督:[[川頭義郎]]) * [[純愛物語草の実]](〈[[東映]]〉1962年、監督:[[村山新治]]) * [[あすの花嫁]](〈[[日活]]〉1962年、監督:[[野村孝]]) ; 壺井栄原作以外の映画 * [[馬鹿っちょ出船]](〈松竹〉1965年、監督:[[桜井秀雄]]) * [[風の子どものように]](〈グループ風土舎〉1992年、監督:[[瀬藤祝]]) * [[ぼくとママの黄色い自転車]](〈[[ティ・ジョイ]]〉2009年、監督:[[河野圭太]])原作は『僕の行く道』 * [[八日目の蝉]](〈松竹〉2011年、監督:[[成島出]]) * [[瀬戸内海賊物語]](〈松竹〉2014年、監督:[[大森研一]]) * しまこと小豆島(※短編映画 2016年、監督:香西志帆) * 劇場版『[[からかい上手の高木さん (アニメ)|からかい上手の高木さん]]』(2022年、監督:[[赤城博昭]]) === 島内でロケが行われた映画 === * [[獄門島 (1949年の映画)|獄門島]](〈[[東横映画]]〉1949年、監督:[[松田定次]]) * [[博徒七人]](〈東映〉1966年、監督:[[小沢茂弘]]) * [[釣りバカ日誌]](〈松竹〉1988年、監督:[[栗山富夫]]) * [[男はつらいよ|男はつらいよ「寅次郎の縁談」]](〈松竹〉1993年、監督:山田洋次) * [[魔女の宅急便]](〈東映〉2014年、監督:[[清水崇]]) * [[バースデーカード]](〈東映〉2016年、監督:[[吉田康弘 (映画監督)|吉田康弘]]) * [[8年越しの花嫁 キミの目が覚めたなら|8年越しの花嫁 奇跡の実話]](〈松竹〉2017年、監督:[[瀬々敬久]]) * [[明日へ 戦争は罪悪である]](〈明日へ 戦争は罪悪である製作委員会〉 2017年、監督:[[藤嘉行]]) * [[喜劇 愛妻物語]](2020年、[[バンダイナムコ]]アーツ、原作・脚本・監督 [[足立紳]]) === テレビドラマ・広告など === *[[あしたの風]] (1962年、[[NHK連続テレビ小説]]) *[[痛快あばれはっちゃく]] ([[テレビ朝日]]) **第20話「笑え!オリーブの島マルヒ作戦 」(1983年8月13日) **第21話「独占!海の宝物マルヒ作戦」(1983年8月20日) * [[海も暮れきる~小豆島の放哉~]] (1986年1月、[[NHK総合]]) * [[グッド★コンビネーション]](2001年、NHK総合・[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK衛星第二]]) * [[京都地検の女 シーズン3 最終回スペシャル・鶴丸検事、20年目の運命の再会…同級生は殺人犯で被害者!?チェッカーズの名曲が暴く家庭崩壊の秘密と嘘]](テレビドラマ、2006年6月) * [[さすらい署長 風間昭平⑥ ~さぬき・金毘羅殺人事件~]](テレビドラマ、2007年4月) * [[京都殺人案内 夢の祇園・花暦の殺意!だらりの帯が涙に濡れた幻の舞妓16年目の恩讐の夜!]](テレビドラマ、2008年7月) * [[八日目の蝉]]([[テレビドラマ]]2010年3月 - 5月) * [[ラブレター (2008年のテレビドラマ)|ラブレター]](テレビドラマ、2008年11月 - 2009年2月) * [[遺品整理人・谷崎藍子〜死者が遺したメッセージ〜]](テレビドラマ、2010年5月) * [[おふくろ先生のゆうばり診療日記#おふくろ先生の診療日記3|おふくろ先生の診療日記3 瀬戸内・小豆島編]](テレビドラマ、2010年9月) * [[新 京都殺人案内]](テレビドラマ、2018年2月) * [[痛快!ビッグダディ]] 12 - 19(テレビ番組、2011年10月 - 2013年4月) * [[JR四国]]四国へ恋 二人で恋 [[コマーシャルメッセージ|CM]](1991年) * [[ダイハツ工業]]「日本のどこかで」CMシリーズ(2012年) * [[トヨタ・パッソ]]アズキマイカ色 CM(2012年) * [[かどや製油]] CM(2023年) * [[レディースアートネイチャー]] CM(2023年) * [[海の上の診療所]](テレビドラマ、2013年) * [[Nのために]](テレビドラマ、2014年) * [[表参道高校合唱部!]](テレビドラマ、2015年) * からかい上手の高木さん(テレビドラマ、2024年〈予定〉) === 歌 === * [[小豆島の乙女]](作詞:[[石本美由起]]/作曲:[[宮本栄一]]/編曲:[[上原げんと]]/唄:[[コロムビア・ローズ]]、1956年) * [[オリーブの唄]](作詞:[[河西新太郎]]/作曲:[[服部良一]]/唄:[[二葉あき子]]、1957年) * [[波止場しぐれ]](作詞:[[吉岡治]] 作曲:[[岡千秋]]/唄:[[石川さゆり]]、1985年) * [[おばあちゃんのひとりごと]](作詞:[[中塚政子]]/作曲・唄:[[河島英五]]、1988年) * [[瀬戸内 小豆島]](作詞:[[たきのえいじ]] 作曲:[[弦哲也]]/唄:[[水森かおり]]、2020年) * まっすぐ(作詞、作曲、歌:[[大原ゆい子]]、2022年) === アニメ・漫画・ゲーム === * [[あまつみそらに!]]([[アダルトゲーム]]、2010年) * [[鬼ごっこ!]](2011年)-作中の「美夜島」のモデルは[[直島]]だが[[エンジェルロード]]などが登場する。 * [[うどんの国の金色毛鞠]]([[漫画]]第3、4巻、2012年 -) * [[からかい上手の高木さん (アニメ)|からかい上手の高木さん]](アニメ:2018・2019・2022年、劇場版:2022年)<ref group="注釈"> 原作では小豆島が舞台だと明言されて無いが、作者の[[山本崇一朗]]が小豆島出身であり、アニメの作中において小豆島に実在する街並みが登場している。</ref> == その他 == *1950年代に[[名古屋鉄道]]が[[愛知県]][[三河湾]]沖の[[沖島 (愛知県)|沖島]]を開発するにあたり、小豆島島内のニホンザル36頭を捕獲して沖島で放し飼いを行った<ref>{{Cite book|和書|author=西尾市史編さん委員会(編)|year=2013|title=幡豆町史 本文編3 近代・現代|publisher=西尾市|pages=316-317}}</ref>。以後沖島は「猿が島」として1990年代まで[[三河湾国定公園]]の観光地の一つとして賑わった。 *[[2019年]]に、[[中華人民共和国]]の個人や企業が、小豆島を[[商標]]登録する申請が相次ぎ、香川県が異議を申し立てるケースが相次いでいる<ref>[https://www.sankei.com/article/20191229-TGHYWX7AM5KSLCRITZVZ7H47FQ/ 「小豆島」なぜ商標申請? 中国で知名度低い地名標的]『[[産経新聞]]』2019年12月29日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author= 池田碩|authorlink=池田碩 |title = 花崗岩地形の世界 |date = 1988-06-15 |publisher = [[古今書院]] |isbn = 4772216790 }} == 外部リンク == {{Commonscat|Shodo Island}} ; 公式 * [https://www.town.tonosho.kagawa.jp/ 土庄町(香川県小豆郡)] * [https://www.town.shodoshima.lg.jp/ 小豆島町(香川県小豆郡、2006年3月21日合併)] ** [https://web.archive.org/web/20070922185300/http://www.town.shodoshima.lg.jp/uchinomi/ 旧・内海町(香川県小豆郡)] ** [http://www.town.shodoshima.lg.jp/ikeda/ 旧・池田町(香川県小豆郡)] ; 観光 * [https://shodoshima.or.jp/ 小豆島観光協会-小豆島の観光施設・宿泊施設・お土産情報を探すなら] * [https://shodoshima.npnp.jp/ 小豆島物語 - 瀬戸内に浮かぶオリーブの郷 - オフィシャルサイト] ; その他 * {{Osmrelation|4671549}} * {{Googlemap|小豆島}} {{日本の指定離島}} {{Japan-geo-stub}}{{authority control}} {{デフォルトソート:しようとしま}} [[Category:小豆島|*]] [[Category:香川県の島]] [[Category:瀬戸内海の島]] [[Category:瀬戸内海国立公園]] [[category:小豆島町の地理]] [[category:土庄町の地理]] [[Category:瀬戸内国際芸術祭]]
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国土地理院
国土地理院(、英: Geospatial Information Authority of Japan)は、日本の行政機関のひとつ。国土交通省設置法及び測量法に基づき測量行政を司る国土交通省の特別の機関である。 本機関は日本の地理空間情報当局および国家地図作成機関(英語版)に当たる。 日本国内における「すべての測量の基礎となる測量」(基本測量)を自ら実施し国家座標の維持管理を行うほか、国土地理院以外の国の行政機関や公共団体が実施する公共測量の指導・助言を行う。また、地理空間情報の国際標準化や国際連合地名標準化会議・地理学的名称に関する国連専門家グループなどの国際会合への参画、宇宙測地や重力測定の国際的事業への参画など、国家地図作成機関としての国際協力も担っている。また、測量士試験、測量士補試験、測量士登録行政も行っている。 一般に国の基本図である「地形図」の発行元として知られ、この基礎データベースである電子国土基本図を基に測定・公表される「全国都道府県市区町村別面積調」は、地方交付税法に規定する、地方行政に要する経費の測定単位に関する数値の算定基礎として用いられている。また、災害対策基本法第2条第3号及び武力攻撃事態法第2条第4号に規定する指定行政機関として、地震・火山噴火等の災害時や武力攻撃事態等において、地形図や空中写真をはじめとする地理空間情報の提供のほか、GNSS測量や合成開口レーダーによる地殻変動の観測などによる災害観測も行う。 1869年6月(明治2年5月)設立の民部官庶務司戸籍地図掛を行政組織の起源とするが、近代政府としての測量・地図に関する制度的な嚆矢としては、行政官が府県・諸侯に対して発した1868年(明治元年)12月24日の沙汰にまで遡ることができる。戸籍地図掛は翌1870年(明治3年)には民部省地理司へと拡充し、翌1871年(明治4年)の民部省廃止に伴い測量地図作成業務は新設された工部省測量司に、同じく戸籍業務は大蔵省租税寮へ移管。内務省設置の1873年(明治6年)の翌年1月には、太政官達により、同省に地理寮が発足した。その後、同年8月発布の太政官達により、測量司(元工部省)及び太政官正院内史地誌課の業務等を移管統合しつつ、1877年(明治10年)に太政官達第3号により「内務省地理局」と改称され、全国大三角測量と地籍調査の実施を主要業務とした。 一方で、1871年(明治4年)7月、兵部省に「機務密謀ニ参畫シ地圖政誌ヲ編輯シ並ニ間諜通報等ノ事ヲ掌ル」ことを目的に陸軍参謀局が設けられ、「平時ニ在リ是ヲ諸地方ニ分遣シ地理ヲ測量セシメ地圖ヲ製スルノ用ニ供スル事」として間諜隊が置かれた。翌年の2月に兵部省が陸軍・海軍両省に分割された際には陸軍省参謀局として存置されたが、1873年(明治6年)4月、「陸軍文庫・測量地圖・繪圖彫刻・兵史並兵家政誌蒐輯」を掌る陸軍省第六局(翌年再び参謀局と改称)となった。さらに、1878年(明治11年)12月、陸軍省参謀局の廃止と参謀本部設置を機に、同部の地図課・測量課として拡充・改称された。 このように、一時期日本における測地測量は内務省地理局と参謀本部測量課により二元的に実施されてきたが、1884年(明治17年)6月26日、一連の太政官達によって地理行政の業務が整理され、内務省地理局から大三角測量業務を参謀本部に移管、以後、同局の主な業務は地誌編纂中心に縮小されたこれに伴い参謀本部の地図課・測量課は「測量局」へと拡充(1884年9月)、さらに参謀本部の一局から分離され陸地測量部として本部長直属の独立官庁となるのは1888年(明治21年)5月である。全国規模の陸地部における測量を統括するという原則は第二次世界大戦終戦時まで継続され、1945年(昭和20年)には東京大空襲を受けて各部署毎に長野県松本盆地に分散疎開した。 終戦直後、参謀本部第二部参謀・渡邊正少佐の「戦後の復興にも地図作成機関が必要」として文民組織へのいち早い切り替えの努力により、「内務省官制中改正ノ件」(昭和20年勅令第502号)の制定・施行により、陸地測量部令の廃止とともに陸地測量部は消滅、終戦2週間後の1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省地理調査所が新たに発足。貴重な資料・機器は、多くが戦後の混乱による散逸から免れた。翌年には、疎開先の長野県から千葉県千葉市稲毛(旧千葉陸軍戦車学校跡地)に移る(再移転は後述)。1948年(昭和23年)1月1日に建設院地理調査所、続けて同年7月10日に建設省地理調査所となり、1960年(昭和35年)7月1日に現在の国土地理院と改称された。 その後、1984年(昭和59年)7月1日、国家行政組織法の改正により建設省の特別の機関に位置づけられ、更に中央省庁再編に伴い国土交通省の特別の機関となり現在に至っている。 本院は筑波研究学園都市内の茨城県つくば市北郷1番にある。1979年(昭和54年)に東京・目黒から現在地(当時は筑波郡谷田部町)に移転した。1996年(平成8年)6月1日に、地図や測量について親しめるような施設「地図と測量の科学館」を開館させた。 国土地理院の内部組織は一般的に、法律の国土交通省設置法、政令の国土交通省組織令および省令の国土地理院組織規則が階層的に規定している。 (茨城県つくば市北郷1番) 国土地理院の幹部は以下のとおりである。幹部名簿には、事務官と技官の別の記載があり、総務部(広報広聴室長を除く)、主任監査官、監査官、適正業務管理官及び各地方測量部の管理課長は事務官、他のすべての幹部は技官である。 なお、院長に直属する参事官は、国土地理院組織規則(平成13年国土交通省令第20号)では、他の中央官庁における参事官(課長級)と同様、国土地理院の所掌事務に関する重要事項の企画及び立案に参画する(第3条)とされる。ただ、建制順では院長の次に位置し、英訳名称も Deputy Director General(副院長)となっている。 島名や海峡名などについて、国土地理院と海上保安庁とが協議して名称を固定している。日本ではこの名称を「正式名」と呼ぶことになっている。場合によっては、住民も自治体も通常用いない名称がこの正式名として定められる場合がある(例:屋代島(俗称:周防大島))。 山名などについてはこのような制度はない。 国土交通省の該当の項を参照
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国土地理院(こくどちりいん、は、日本の行政機関のひとつ。国土交通省設置法及び測量法に基づき測量行政を司る国土交通省の特別の機関である。 本機関は日本の地理空間情報当局および国家地図作成機関に当たる。
{{行政官庁 |国名 = {{JPN}} |正式名称 = 国土地理院 |公用語名 = こくどちりいん |英名=Geospatial Information Authority of Japan|紋章 =国土地理院.svg |紋章サイズ = 350px |画像 = kokudochiriin.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = 国土地理院庁舎 |主席閣僚職名 = 院長 |主席閣僚氏名 = 大木章一 |次席閣僚職名 = [[参事官]] |次席閣僚氏名 = 東出成記 |補佐官職名 = 総務部長 |補佐官氏名 = 沓掛誠 |次官職名 = 企画部長 |次官氏名 = 河瀬和重 |上部組織 = 上部組織 |上部組織概要 = [[国土交通省]] |下部組織1 = 内部部局 |下部組織概要1 = {{ublist|総務部|企画部|測地部|地理空間情報部|基本図情報部|応用地理部|測地観測センター|地理地殻活動研究センター}} |下部組織2 = 地方機関 |下部組織概要2 = {{ublist|地方測量部(9箇所)|沖縄支所}} |下部組織3 = |下部組織概要3 = |下部組織4 = |下部組織概要4 = |下部組織5 = |下部組織概要5 = |下部組織6 = |下部組織概要6 = |所在地 = {{color|red|〒}}305-0811<br>[[茨城県]][[つくば市]][[北郷 (つくば市)|北郷]]1番 |位置 = {{coord|36|6|16.5|N|140|5|4.5|E|scale:10000|}} |定員 = 646人(2023年度予算定員)<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2023/dlpdf/DL202311001.pdf 令和5年度一般会計予算]}} 財務省</ref> |年間予算 = 86億6643万4千円<ref name="予算" /> |会計年度 = 2023 |根拠法令=[[国土交通省設置法]]|設置年月日 = [[1869年]]([[明治]]2年)6月 |改称年月日 = [[1960年]]([[昭和]]35年)7月1日 |前身 = [[民部官]]庶務司[[戸籍]][[地図]]掛([[内務省 (日本)|内務省]]地理局)<br>[[太政官]]政表課<br>[[兵部省]]陸軍参謀局[[スパイ|間諜]]隊([[参謀本部 (日本)|参謀本部]][[陸地測量部]])<br>[[工部省]][[測量]]司<br>地理調査所 |ウェブサイト = {{official website|name=国土地理院}} |その他 = }} {{読み仮名|'''国土地理院'''|こくどちりいん|{{lang-en-short|Geospatial Information Authority of Japan}}}}は、[[日本]]の[[日本の行政機関|行政機関]]のひとつ。[[国土交通省設置法]]及び[[測量法]]に基づき[[測量]]行政を司る[[国土交通省]]の[[特別の機関]]である。 本[[機関 (法)|機関]]は日本の地理空間情報当局および{{ill2|国家地図作成機関|en|National mapping agency}}に当たる。 == 概要 == 日本国内における「すべての測量の基礎となる測量」([[基本測量]])を自ら実施し[[国家座標]]の維持管理を行うほか、国土地理院以外の国の[[行政機関]]や[[公共団体]]が実施する[[公共測量]]の指導・助言を行う。また、[[地理空間情報]]の国際[[標準化]]や[[国際連合地名標準化会議]]・[[地理学的名称に関する国連専門家グループ]]などの国際会合への参画、宇宙測地や[[重力]]測定の国際的事業への参画など、[[国家地図作成機関]]としての国際協力も担っている。また、[[測量士]]試験、[[測量士補]]試験、測量士登録行政も行っている。 一般に国の基本図である「[[地形図]]」の発行元として知られ、この基礎[[データベース]]である[[電子国土基本図]]<ref group="注">電子国土基本図は、[[ベース・レジストリ]]([[デジタル社会形成基本法]]第31条に規定する「公的基礎情報データベース」)に指定されている。</ref>を基に測定・公表される「[[全国都道府県市区町村別面積調]]」<ref group="注">[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO-title.htm 全国都道府県市区町村別面積調] - [https://www.gsi.go.jp/ 国土地理院]</ref>は、[[地方交付税法]]に規定する、地方行政に要する経費の測定単位に関する数値の算定基礎として用いられている。また、[[災害対策基本法]]第2条第3号及び[[武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律|武力攻撃事態法]]第2条第4号に規定する指定行政機関として、[[地震]]・[[火山]][[噴火]]等の[[災害]]時や[[有事法制|武力攻撃事態]]等において、地形図や[[空中写真]]をはじめとする[[地理空間情報]]の提供のほか、[[衛星測位システム|GNSS]]測量や[[合成開口レーダー]]による[[地殻変動]]の観測などによる災害観測も行う。 == 沿革 == [[File:IJA General Staff HQ.jpg|right|300px|thumb|[[桜田門]]から望む陸地測量部庁舎は明治14年落成。([[ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ|カッペレッティ]]設計、撮影は明治末期)。<br /> '''画面左''':陸地測量部はこの建物3階の一部に参謀本部の伴属諸課として間借りしていた{{Efn2|建物自体は[[西南戦争]]後に着工、明治14年に落成。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]として供用中の明治27年、[[明治東京地震]]により若干の被害を受け、修理している。参謀本部は明治31年に完成した新館に転出した。}}。明治31年以降は陸地測量部がほぼ全面的に占用するに至った。<br /> '''画面右''':新館は参謀本部の移転先。]] [[Image:État-major japon.jpg|right|300px|thumb|陸地測量部正面。[[ファサード]]のデザインから、明治27年[[明治東京地震]]による修築以前と推定。]] === 明治から戦前、戦中まで === [[File:Japan Vertical Datum 201001.jpg|right|300px|thumb|[[日本水準原点標庫]]。陸地測量部時代に建設され、国土地理院に継承。今なお公的機能を有する建築物。([[重要文化財]])]] [[1869年]]6月(明治2年5月)設立の[[民部官]]庶務司[[戸籍]][[地図]]掛を行政組織の起源とするが、近代政府としての測量・地図に関する制度的な嚆矢としては、行政官が府県・諸侯に対して発した1868年([[明治元年]])12月24日の沙汰{{Efn2|明治元年12月24日付の府県・諸侯宛ての行政官沙汰は、凡例等について詳細に指示した上で管轄地図を調製させる旨であった{{cite document|和書|date= 1868-12-24|title= 行政官沙汰|NDLDC=787948/261}}。}}にまで遡ることができる。[[戸籍]]地図掛は翌[[1870年]](明治3年)には[[民部省]]地理司へと拡充し、翌[[1871年]](明治4年)の民部省廃止に伴い測量地図作成業務は新設された[[工部省]]測量司に、同じく[[戸籍]]業務は[[大蔵省]]租税寮へ移管。[[内務省 (日本)|内務省]]設置の[[1873年]](明治6年)の翌年1月には、[[太政官達]]<ref>{{cite document|和書|date= 1874年(明治7年)1月|title=太政官達 |quote= 大蔵省中戸籍、[[土木]]、[[駅逓]]ノ三寮及租税寮中地理、勧農ノ事務ヲ内務省ニ交割セシム|NDLDC= 787954/254}}</ref>により、同省に[[地理寮]]が発足した。その後、同年8月発布の太政官達<ref>{{cite document|和書|title= 太政官達 |quote= 内務省中測量司ヲ廃シ地理寮ヘ量地課ヲ置キ内史所管[[地誌]]課ヲ地理寮ニ併ス |NDLDC = 787954/280}}</ref>により、測量司(元工部省){{Efn2|明治4年8月14日設置。元[[工部省]]管轄、内務省発足に伴い引き継ぐ。}}及び[[太政官]][[正院]]内史地誌課{{Efn2|起源は明治4年6月8日設置の太政官政表課。}}の業務等を移管統合しつつ、1877年(明治10年)に[[太政官]]達第3号<ref>{{cite document|和書|title= 各省中諸寮ヲ廃シ局ヲ設ケシム|NDLDC=787957/111|publisher= 太政官|number=3}}</ref>により「内務省地理局」と改称され、全国大[[三角測量]]と[[地籍調査]]の実施を主要業務とした。 一方で、1871年(明治4年)7月、[[兵部省]]に「機務密謀ニ参畫シ地圖政誌ヲ編輯シ並ニ[[スパイ|間諜]]通報等ノ事ヲ掌ル」ことを目的に陸軍参謀局が設けられ、「平時ニ在リ是ヲ諸地方ニ分遣シ地理ヲ測量セシメ地圖ヲ製スルノ用ニ供スル事」として間諜隊が置かれた。翌年の2月に兵部省が[[陸軍省|陸軍]]・[[海軍省|海軍]]両省に分割された際には[[陸軍省]]参謀局として存置されたが、1873年(明治6年)4月、「陸軍[[文庫]]・測量地圖・繪圖[[彫刻]]・兵史並[[兵家]]政誌蒐輯」を掌る陸軍省第六局(翌年再び参謀局と改称)となった。さらに、1878年(明治11年)12月、陸軍省参謀局の廃止と[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]設置を機に、同部の地図課・測量課として拡充・改称された<ref>[{{NDLDC|787951/393}}][{{NDLDC|787951/404}}][{{NDLDC|787953/594}}][{{NDLDC|787954/449}}][{{NDLDC|787964/290}}][{{NDLDC|787964/291}}]</ref>。 このように、一時期日本における測地測量は内務省地理局と参謀本部測量課により二元的に実施されてきたが、1884年(明治17年)6月26日、一連の[[太政官]]達{{Efn2|太政官達の1件目、1884年(明治17年)6月26日実施の地理行政の整理のため、内務省地理局の大三角測量業務を終了。「内務省所属大三角測量事務ヲ参謀本部ニ引渡」太政官達の2件目、1884年(明治17年)6月26日実施の地理行政の整理に備えて参謀本部に大三角測量業務を移管。「内務省所属大三角測量事務ヲ参謀本部ニ請取」}}によって地理行政の業務が整理され、[[内務省 (日本)|内務省]]地理局から大三角測量業務を参謀本部に移管、以後、同局の主な業務は地誌編纂中心に縮小されたこれに伴い参謀本部の地図課・測量課は「測量局」へと拡充(1884年9月)、さらに参謀本部の一局から分離され[[陸地測量部]]として本部長直属の独立官庁となるのは1888年(明治21年)5月{{Efn2|陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)により制定された。}}である。全国規模の陸地部における測量を統括するという原則は[[第二次世界大戦]][[終戦]]時まで継続され、1945年(昭和20年)には[[東京大空襲]]を受けて各部署毎に[[長野県]][[松本盆地]]に分散疎開した<ref>{{cite journal|和書|author= 金窪敏知|doi=10.11212/jjca.52.1_13 |title= 陸地測量部から地理調査所へ|journal= 地図 |date= 2014年 |volume= 52| number= 1 |pages= 1_13-1_18}}</ref>。 ==== 陸地測量部発足以前 ==== * 1869年(明治2年) **4月 - [[民部官]]に庶務司[[戸籍]][[地図]]掛が設置される。[[地誌]]の[[編纂]]と[[地理]]資料の収集にあたる。 **7月 - 民部官が廃止され民部省となる。 * 1870年(明治3年)7月 - 民部省庶務司[[戸籍]][[地図]]掛が廃止され、民部省地理司測量掛、図籍掛、戸籍掛を設置。 * 1871年(明治4年)7月 - [[兵部省]]陸軍参謀局に間諜隊を設置。[[地理]]調査と[[地図編集]]を担当。 * 1871年(明治4年)9月 - [[工部省]]に測量司が設置される。[[測量]]、地図作製を担う部門が整備される。 * 1872年(明治5年) **2月 - 兵部省が陸軍省及び[[海軍省]]に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。 **3月 - 工部省測量司が[[東京府]]下で[[三角測量]]を開始。 **5月 - 工部省測量司が[[皇居]]測量を開始。 * 1874年(明治7年) **1月 - 工部省測量司が[[内務省 (日本)|内務省]]に移管され、すぐに地理寮量地局に改組される。 **12月 - 内務省地理寮が[[御殿山 (品川区)|御殿山]]で[[金星の太陽面通過|金星日面通過]]観測を行う。 * 1875年(明治8年)7月 - 内務省庁舎が焼失し、ほとんどの地図原図、測量野帳、測量器機を失う。 * 1875年(明治8年) - 内務省地理寮量地局が[[関東地方]]全域の大三角測量事業(一等三角測量)を開始。 * 1877年(明治10年)1月 - 内務省地理寮が廃止され、内務省地理局が設置される。測量・地図作成・地誌編纂にあたる。 * 1878年(明治11年) - [[陸軍省]]参謀局が廃止され[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]が設置。 * 1879年(明治12年) - 参謀本部が全国測量計画を策定。 * 1883年(明治16年) - 参謀本部が一等三角測量、[[一等水準測量]]を開始。 * 1884年(明治17年) **6月 - 内務省地理局所管の陸上測量業務が[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]へ移管。 **9月 - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の地図課・測量課を合せて測量局設置。新たに三角測量課、地形測量課を設置。 ==== 参謀本部 陸地測量部 ==== * 1888年(明治21年)5月 - 陸地測量部条例が公布。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]][[陸地測量部]]が発足。三角、地形、製図の3科と修技所を置く。 * 1891年(明治24年) - 東京[[三宅坂]][[参謀本部 (日本)|参謀本部]]内に[[日本水準原点]]を設置。 * 1892年(明治25年) - 東京[[麻布]]に[[日本経緯度原点]]を設置([[国立天文台|東京天文台]]子午環中心)。 * 1910年(明治43年) - [[地形図#2万5千分1地形図|2万5千分1地形図]]の作成を開始。 * 1915年(大正4年) - 一等三角測量が完了(明治成果)。 * 1924年(大正13年) - 全国[[5万分1地形図]]がほぼ完了(陸測の5万)。 * 1938年(昭和13年) - 国内の2万5千分1地形図の作成を中断。 * 1941年(昭和16年)4月 - 昭和16年勅令第505号により陸地測量部条例が全部改正。陸地測量部令となる。三角科が第一科、地形科が第二科、製図科が第三科、修技所が教育部となる。 * 1944年(昭和19年)4月 - [[杉並区]]の[[明治大学]]予科校舎に疎開。 * 1945年(昭和20年) - 長野県[[中信地方]]に[[疎開]]。([[波田村]]、[[梓村]]、[[塩尻町]]、[[明盛村]]温明の各[[国民学校]]) **5月 - [[陸地測量部]][[三宅坂]]庁舎が[[空襲]]により焼失。 === 終戦後 === 終戦直後、参謀本部第二部参謀・[[渡邊正]]少佐の「戦後の復興にも地図作成機関が必要」として文民組織へのいち早い切り替えの努力により<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/WNEW/koohou/450-5.htm|title=渡邊正氏に国土地理院長から感謝状 |author= 地理情報部 |website= 国土地理院広報 |date= 2005年12月 |accessdate=2014-08-06 <!-- 20140806090859 -->}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title= 地図の読み方事典 | publisher= 東京堂出版 |pages= 164-165}}</ref>、「内務省官制中改正ノ件」(昭和20年勅令第502号)の制定・[[施行]]により、陸地測量部令{{Efn2|昭和16年勅令第505号(1941年)。明治21年5月勅令第25号(1889年)の全面改正。}}の[[廃止]]とともに陸地測量部は消滅、[[終戦の日|終戦]]2週間後の1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省'''地理調査所'''が新たに発足。貴重な資料・機器は、多くが戦後の混乱による散逸から免れた。翌年には、疎開先の[[長野県]]から[[千葉県]][[千葉市]][[稲毛区|稲毛]](旧[[千葉陸軍戦車学校]]跡地)に移る(再移転は[[#建設省 地理調査所|後述]])。1948年(昭和23年)1月1日に[[建設院]]地理調査所<ref>1947年(昭和22年)12月26日法律第237号「建設院設置法」</ref>、続けて同年7月10日に[[建設省]]地理調査所<ref>1948年(昭和23年)7月8日法律第113号「建設省設置法」</ref>となり、1960年(昭和35年)7月1日に現在の'''国土地理院'''と改称された<ref>1960年(昭和35年)7月1日法律第115号「建設省設置法の一部を改正する法律」</ref>。 その後、1984年(昭和59年)7月1日、[[国家行政組織法]]の改正により建設省の特別の機関に位置づけられ、更に[[中央省庁再編]]に伴い国土交通省の特別の機関となり現在に至っている。 本院は[[筑波研究学園都市]]内の[[茨城県]][[つくば市]][[北郷 (つくば市)|北郷]]1番にある。1979年(昭和54年)に東京・[[目黒 (目黒区)|目黒]]から現在地(当時は[[筑波郡]][[谷田部町]])に移転した。1996年(平成8年)6月1日に、地図や測量について親しめるような施設「[[地図と測量の科学館]]」を開館させた{{sfn|長岡|1997|p=42}}{{sfn|日本測量協会|1996|p=34-35}}。 ==== 内務省 地理調査所 ==== *1945年(昭和20年)8月31日 - [[内務省 (日本)|内務省]][[官制]]が改正され、地理調査所の設置が決定。陸地測量部令は廃止され、[[陸地測量部]]が消滅。9月1日に地理調査所が暫定的に3課制(企画、測量、地図)で発足。 *1946年(昭和21年)7月 - [[長野県]][[松本市]]郊外から[[千葉市]]黒砂町の[[千葉陸軍戦車学校|旧陸軍戦車学校跡地]]に移転(稲毛庁舎)。 *1947年(昭和22年) **[[南海地震]]による[[基準点]]の復旧測量を契機として、定期的な[[基準点]]の改測を開始。測地網の方位規正を目的として、[[三角点]]で[[天文経緯度]]観測を実施。 **[[カスリーン台風]]による[[水害]]調査([[洪水]]痕跡調査)を行う。 **地理調査所国分寺分室に技術員教育所が臨時に設置され、翌年から技術者教育が再開される。 ==== 建設省 地理調査所 ==== *1948年(昭和23年) **7月10日 - [[建設省]]が発足し、[[建設省]]地理調査所(同省の[[附属機関]])となる。庶務、測量、地図、印刷の4部15課と東京支所の編成となる。 **[[市町村]]別の[[面積]]測定を再開。 *1949年(昭和24年)6月3日 - [[測量法]]が[[公布]]される。 *1950年(昭和25年) - 2万5千分1地形図の作成を再開。全国[[地磁気]]測量を開始。高知[[験潮場]]の開設を機に、全国各地に[[験潮場]]が新規開設され始める。 *1951年(昭和26年)7月 - [[地籍調査]]の実施を決めた12道県に地理調査所の支所を設置。四等三角測量・二等多角測量を実施。 *1952年(昭和27年) - 国内[[重力]]測量を開始。 *1953年(昭和28年) - 基本測量長期計画を告示(昭和28&ndash;37年度まで)。2万5千分1地形図による全国の平地部全域の整備、空中写真測量の実施などを明確化。以降、約10年ごとに改定。新たな20万分1[[地勢図]]の整備を開始。[[月]]による[[天体|星]]の[[掩蔽]](えんぺい)観測を開始。 *1954年(昭和29年) **4月 - 地理調査所の支所を7つの地域ブロックに集約。地方ブロックに係る測量全般を実施する機関となる。 **5月 - 「主要自然地域名称図」を印刷。20万分1またはそれより小縮尺の地図に注記する[[山地]]・[[平野]]などの自然地名を統一化。 *1955年(昭和30年) - [[湖沼]]調査を開始。1万分1[[湖沼]]図の整備を開始。[[千葉県]][[君津町]](現 [[君津市]])[[鹿野山]]に、[[地磁気]]絶対観測室を設置。 *1956年(昭和31年) **[[南極地域観測隊|南極観測]]事業に参加。地球物理観測と地図作成を主務として、測地・地形観測要員が参加。 **6月 - 測量第1部・測量第2部を廃し、測地部・測図部に改編。写真測量による地図作成が実用・本格化。 *1957年(昭和32年) - 技術員教育所が建設研修所測量研修部となる。 *1958年(昭和33年)7月 - [[千葉県]][[千葉市]]から東京都目黒区の駒沢練兵場跡地へ庁舎を移転(東山庁舎)。東京支所が三宅坂に移転して関東支所に改称。 *1960年(昭和35年)4月 - [[水害]][[予防]]対策土地条件調査(現 土地条件調査)を開始。洪水[[地形分類]]図(現 2万5千分1[[地形分類|土地条件図]])と地盤高及び水防要図の整備を開始。 ==== 建設省 国土地理院 ==== *1960年(昭和35年) **7月1日 - 地理調査所から国土地理院に改称(英称は Geographical Survey Institute のまま変更なし)。支所もまた地方測量部に改称。 **国土地理院として初の測量用航空機「くにかぜ」を導入。当初の運用は防衛庁[[海上自衛隊]][[岩国教育航空隊]]により行われる。 **国土基本図事業の開始。全国的な空中写真の撮影を再開。大縮尺地図整備を進める。 *1962年(昭和37年) - [[鹿野山]]測地観測所を設置。職員が常駐し本格的な[[天文現象|天文]]・[[地磁気]]・[[重力]]などの連続観測を行う。 *1963年(昭和38年) - 測量用航空機「くにかぜ」の運用が[[海上自衛隊]]宇都宮教育航空群へ移管される。 *1964年(昭和39年) **第二次基本測量長期計画を告示(昭和39&ndash;49年度まで)。2万5千分1地形図の全国整備などを明確化。 **[[人工衛星]]観測を開始。 **写真図の作成を開始。 *1965年(昭和40年) - [[土地利用]]調査を開始。2万5千分1[[土地利用]]図の整備を開始。 *1969年(昭和44年) - [[地震予知連絡会]]を設置。 *1972年(昭和47年) - [[海岸|沿岸]]海域基礎調査を開始。沿岸海域地形図、[[領海|沿岸海域]]土地条件図の整備を開始。 *1973年(昭和48年) - 測量用[[航空機「くにかぜ」]]の運用が[[海上自衛隊]]徳島教育航空群第202教育航空隊へ移管される。 *1974年(昭和49年) - 精密測地網測量を開始。 *1979年(昭和54年) - [[東京都]][[目黒区]]から茨城県[[筑波郡]][[谷田部町]](現 [[つくば市]])へ庁舎を移転。火山基本図の整備を開始。 *1981年(昭和56年) - [[超長基線電波干渉法|VLBI]]装置(可搬型VLBI観測装置)を導入。 *1983年(昭和58年) - 2万5千分1地形図全国整備が完了(一部[[離島]]を除く)。1万分1地形図の整備を開始。測量用航空機「[[くにかぜ]]」が退役し、「[[くにかぜII]]」を運用開始。 *1984年(昭和59年)7月1日 - [[建設省]]の[[特別の機関]]となる。 *1989年(平成元年) - 国土基本図データベース作成事業の開始。火山土地条件図の整備を開始。 *1993年(平成5年) - [[南関東]]・[[東海地方|東海]]地域に[[電子基準点]]を設置。 *1994年(平成6年) - 全国[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]連続観測施設の運用を開始。 *1995年(平成7年) - GIS基盤情報整備事業の開始。[[都市圏活断層図]](現 活断層図)の整備を開始。 *1996年(平成8年)6月1日 - [[地図と測量の科学館]]が開館。 *1998年(平成10年) - つくばVLBI観測局を国土地理院構内に設置。[[地球地図]]の整備を開始。 ==== 国土交通省 国土地理院 ==== *2001年(平成13年) **1月6日 - [[国土交通省]]発足、同省の特別の機関となる。[[災害対策基本法]]に基づく指定行政機関となる。 **6月12日 - [[測量法]]改正(日本測地系から[[世界測地系]]に移行)。 *2002年(平成14年) - [[電子基準点]]網の全国整備が完了。 *2003年(平成15年) - [[電子国土Webシステム]](現 地理院地図)の運用を開始。数値地図25000(空間データ基盤)の全国整備が完了。 *2007年(平成19年) - [[測量法]]改正(測量成果の活用促進)。測量用航空機「[[くにかぜII]]」に航空測量用デジタル航空カメラ「Ultra Cam D」が導入される。 **5月30日 - [[地理空間情報活用推進基本法]]が公布される。 *2009年(平成21年) - 測量用航空機「[[くにかぜII]]」が退役し、「[[くにかぜIII]]」を運用開始。航空機用合成開口レーダー(SAR)装置の導入等による搭載機材の大型化に伴い機体を[[セスナ 208|セスナ208]]に変え、運用もそれまでの[[防衛省]]から民間委託となり、[[共立航空撮影]]により運用される。 *2010年(平成22年)4月1日 - 国土地理院の英称を Geospatial Information Authority of Japan に変更(略称は GSI のまま変更なし)。 *2011年(平成23年) - [[東北地方太平洋沖地震]]の影響で[[日本経緯度原点]]及び[[日本水準原点]]の原点数値を改正。 *2012年(平成24年) - [[明治]]期の[[低湿地]]データの整備を開始。地震による[[液状化現象|液状化]]発生に関与する、過去の[[土地利用]]を再現。 *2013年(平成25年)7月 - [[地理院地図]]の運用を開始。 *2014年(平成26年) ** 電子地形図25000及び2万5千分1地形図の[[領土]]全域の整備が完了。 ** 「全国都道府県市区町村別面積調」の計測基図を紙の地形図から[[電子国土基本図]]のデジタルデータへと変更。 *2015年(平成27年) - 電子地形図20万、数値地図(国土基本情報20万)の全国整備が完了。 *2016年(平成28年) **3月10日 - 国土地理院ランドバードを発足。[[無人航空機]](UAV)を使った測量を支援。 **5月1日 - 石岡VLBI観測施設が本格運用を開始。 *2017年(平成29年) **2月22日 - [[指定緊急避難場所]]データを[[地理院地図]]から公開。 **3月14日 - [[地理院地図]]Globeを正式公開。[[地理院地図]]の[[3次元]]表示が可能に。 **3月15日 - 日本[[重力]]基準網2016(JGSN2016)を公表。日本の重力値の基準を40年ぶりに更新。 *2018年(平成30年) - [[ビッグデータ]]を用いた地形図([[登山道]])の修正を開始。 *2019年(令和元年) **3月 - [[自然災害伝承碑]]の地図記号を制定。6月には地理院地図に、9月には2万5千分1地形図にそれぞれ掲載開始。 **7月22日 - 日本全国の重力網を構築する[[航空重力測量]]が開始される。航空機の運用は民間委託され、「[[くにかぜIII]]」を運用している[[共立航空撮影]]の航空機により測定が開始される。 *2020年(令和2年)4月1日 - 民間等が設置するGNSS連続観測局について、国土地理院がその性能に応じて級別に登録する制度を開始。 *2021年(令和3年)5月26日 - [[電子国土基本図]]が[[ベース・レジストリ]]([[デジタル社会形成基本法]]第31条に規定する「公的基礎情報データベース」)に指定される<ref>{{Cite web|和書|url=https://cio.go.jp/sites/default/files/uploads/documents/SpecifyingBaseRegistry.pdf |title=ベース・レジストリの指定について |date=2021-05-26 |author=[[内閣官房情報通信技術総合戦略室|内閣官房情報通信技術(IT)総合戦略室]] |format=PDF |accessdate=2021-10-18}}</ref>。 *2022年(令和4年)2月1日 - 国家座標の認証に係る指針<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gsi.go.jp/common/000238043.pdf |title=国家座標の認証に係る指針 |date=2022-02-01 |author=国土地理院 |format=PDF |accessdate=2023-02-28}}</ref>を公表。 *2023年(令和5年) **2月28日 - [[日本国]]に属する[[島]]の計数結果を国土地理院として初めて公表<ref>{{Cite web|和書|title=Q2.16:日本の島の数は? |url=https://www.gsi.go.jp/kohokocho/FAQ2.html#Q2.16 |work=国土の情報に関するQ&A |publisher=国土地理院 |accessdate=2023-02-28}}</ref>。これにより、令和6年版の[[日本統計年鑑]]および[[理科年表]]の該当部分をそれぞれ改訂。 **3月28日 - [[人工衛星]]搭載の[[合成開口レーダー#干渉合成開口レーダー|干渉合成開口レーダー]][[時系列解析]]による日本全国の変動[[分布図]]を公表。 **12月1日 - [[宇宙航空研究開発機構]]と共同で、[[国際GNSS事業]]の解析センターの一つとして参画し、[[測位衛星]]の精密な[[軌道暦]]の算出を開始。 == 組織 == {{Wikify|date=2018年11月|section=1}} 国土地理院の内部組織は一般的に、[[法律]]の[[国土交通省設置法]]、[[政令]]の国土交通省組織令および[[省令]]の国土地理院組織規則が階層的に規定している。 === 本院 === (茨城県つくば市北郷1番) {{div col}} * 院長 ** 参事官 * 総務部 - [[測量法]]の施行に関する事務、事務全般に関する業務を行う。 ** 総務課 ** 政策課 ** 人事課 ** 会計課 ** 契約課 ** 厚生課 ** 広報広聴室 * 企画部 - 事業計画・研究開発計画の企画・立案、[[公共測量]]の指導・助言、測量の技術・管理の改善に関する事務、[[国際協力]]・[[国際交流|交流]]に関する業務、[[防災]]に関する企画・立案等を行う。 ** 企画調整課 ** 技術管理課 ** 測量指導課 ** 国際課 ** 地理空間情報企画課 ** 防災推進室 * 測地部 - [[基本測量]]における測地測量([[点の記|基準点]]測量)、[[地殻変動|地殻活動]]の異常な地域における[[地殻変動|地殻活動]]の観測、[[地磁気]]測量、[[重力]]測量及び[[ジオイド]]測量、[[超長基線電波干渉法|超長基線測量]]等を行う。 ** 計画課 ** 測地基準課 ** 物理測地課 ** 宇宙測地課 * 地理空間情報部 - [[地理空間情報]]の管理・提供・地域連携、[[電子国土|地理院地図(電子国土Web)]]等に関する[[情報通信]]システムの開発等を行う。 ** 企画調査課 ** 情報企画課 ** 情報サービス課 ** 情報普及課 ** 情報システム課 * 基本図情報部 - 国土の[[地形図|地図]]の作成、[[地名]]等の資料の収集・処理、陸地の面積の測定、[[基盤地図情報]]の整備、[[空中写真]]の整備・更新、[[写真測量法|写真測量]]・[[リモートセンシング]]の測図技術に関する業務等を行う。 ** 管理課 ** 国土基本情報課 ** 基本図課 ** 地名情報課 ** 画像調査課 ** 地図情報技術開発室 * 応用地理部 - 低地・火山・活断層・湖沼等の地理に関する調査図([[地形分類]]等)の作成、防災及び環境保全に必要な[[地理空間情報]]の整備等を行う。 ** 企画課 ** 地理調査課 ** 地理情報処理課 * 測地観測センター -[[電子基準点]]の運用、[[地殻変動]]の連続観測、測地に関する[[人工衛星]]情報の収集・解析・管理・提供、[[験潮場|験潮]]等を行う。 ** 衛星測地課 ** 電子基準点課 ** 地殻監視課 * 地理殻活動研究センター - [[地殻変動]]、宇宙測地及び地理情報解析に関する基礎的な研究を行う。 ** 研究管理課 ** 地殻変動研究室 ** 宇宙測地研究室 ** 地理情報解析研究室 {{div col end}} === 地方測量部及び支所 === * 北海道地方測量部 (北海道[[札幌市]][[北区 (札幌市)|北区]]8条西2-1-1) ** 管轄:北海道 * 東北地方測量部(宮城県[[仙台市]][[宮城野区]]五輪1-3-15) ** 管轄:青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県 * 関東地方測量部(東京都[[千代田区]][[九段南]]1-1-15) ** 管轄:茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県、長野県 * 北陸地方測量部(富山県[[富山市]][[牛島新町 (富山市)|牛島新町]]11-7) ** 管轄:新潟県、富山県、石川県、福井県 * 中部地方測量部(愛知県[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[三の丸 (名古屋市)|三の丸]]2-5-1) ** 管轄:岐阜県、静岡県、愛知県、[[三重県]] * 近畿地方測量部(大阪府[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[大手前]]4-1-76) ** 管轄:滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県 * 中国地方測量部(広島県[[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[八丁堀 (広島市)|上八丁堀]]6-30) ** 管轄:鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県 * 四国地方測量部(香川県[[高松市]][[サンポート高松|サンポート]]3-33) ** 管轄:徳島県、香川県、愛媛県、高知県 * 九州地方測量部(福岡県[[福岡市]][[博多区]][[博多駅東]]2-11-1) ** 管轄:福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県 * 沖縄支所(沖縄県[[那覇市]]樋川1-15-15) ** 管轄:沖縄県 === その他施設 === {{Div col}} * 石岡測地観測局(茨城県[[石岡市]]) * 水沢測地観測所(岩手県[[奥州市]]) * 鹿野山測地観測所(千葉県[[君津市]]) * 東海機動観測基地(静岡県[[掛川市]]) * [[地図と測量の科学館]] (茨城県つくば市) * 忍路験潮場(北海道[[小樽市]][[忍路]]) * 奥尻験潮場(北海道[[奥尻郡]][[奥尻町]]) * 浅虫験潮場(青森県[[青森市]]浅虫) * 男鹿験潮場(秋田県[[男鹿市]]戸賀塩浜) * 鼠ケ関験潮場(山形県[[鶴岡市]][[鼠ヶ関]]) * 飛島験潮場(山形県[[酒田市]]飛島) * 相馬験潮場(福島県[[相馬市]]原釜) * 勝浦験潮場(千葉県[[勝浦市]]興津) * 油壺験潮場(神奈川県[[三浦市]]三崎町) * 小木験潮場(新潟県[[佐渡市]]) * 柏崎験潮場(新潟県[[柏崎市]]鯨波) * 三国験潮場(福井県[[坂井市]]三国町) * 輪島験潮場(石川県[[輪島市]]輪島崎町) * 伊東験潮場(静岡県[[伊東市]]富戸) * 田子験潮場(静岡県[[賀茂郡]][[西伊豆町]]) * 焼津験潮場(静岡県[[焼津市]]中港) * 鬼崎験潮場(愛知県[[常滑市]][[港町 (常滑市)|港町]]) * 海南験潮場(和歌山県[[海南市]]冷水) * 田後験潮場(鳥取県[[岩美郡]][[岩美町]]) * 須佐験潮場(山口県[[萩市]]) * 久礼験潮場(高知県[[高岡郡]][[中土佐町]]) * 仮屋験潮場(佐賀県[[東松浦郡]][[玄海町]]) * 細島験潮場(宮崎県[[日向市]]細島町) * 阿久根験潮場(鹿児島県[[阿久根市]]波留) * 沖縄験潮場(沖縄県[[南城市]]){{Div col end}} == 幹部 == 国土地理院の幹部は以下のとおりである<ref name="kanbu">[https://www.gsi.go.jp/common/000250795.pdf 国土地理院幹部一覧(令和5年7月4日現在)] 国土地理院</ref>。幹部名簿には、事務官と技官の別の記載があり、総務部(広報広聴室長を除く)、主任監査官、監査官、適正業務管理官及び各地方測量部の管理課長は事務官、他のすべての幹部は技官<ref name="kanbu" />である。 なお、院長に直属する参事官は、国土地理院組織規則(平成13年国土交通省令第20号)では、他の中央官庁における[[参事官]](課長級)と同様、国土地理院の所掌事務に関する重要事項の企画及び立案に参画する(第3条)とされる。ただ、建制順では院長の次に位置し、英訳名称も Deputy Director General(副院長)となっている。 * 院長:大木 章一 * 参事官:東出 成記 * 総務部長:沓掛 誠 * 企画部長:河瀬 和重 * 測地部長:山際 敦史 * 地理空間情報部長:飯田 洋 * 基本図情報部長:長谷川 裕之 * 応用地理部長:門脇 利広 * 測地観測センター長:宮川 康平 * 地理殻活動研究センター長:山後 公二 == 地形等の正式名 == [[島]]名や[[海峡]]名などについて、国土地理院と[[海上保安庁]]とが協議して名称を固定している。日本ではこの名称を「正式名」と呼ぶことになっている。場合によっては、住民も[[地方公共団体|自治体]]も通常用いない名称がこの正式名として定められる場合がある(例:[[屋代島]](俗称:周防大島))。 [[山]]名などについてはこのような制度はない。 == 所管法人・財政・職員 == [[国土交通省]]の該当の項を参照 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 金窪敏知、「[https://doi.org/10.11212/jjca.52.1_13 陸地測量部から地理調査所へ]」 『地図』 2014 52巻 1号 p.1_13-1_18, {{doi|10.11212/jjca.52.1_13}} * 長岡正利(1997)"国土地理院に「地図と測量の科学館」―平成8年6月1日開館―"びぶろす(国立国会図書館協力部).'''48'''(2):42-45. *[[日本測量協会]](1996)"地図と測量の科学館が6月にオープン!"測量(日本測量協会).'''46'''(5):34-37. * 斉藤敏夫、佐藤侊、師橋辰夫(1977)、「[https://doi.org/10.11212/jjca1963.15.3_1 明治初期測量史試論 伊能忠敬から近代測量の確立まで]」 『地図』 1977年 15巻 3号 p.1-13, {{doi|10.11212/jjca1963.15.3_1}} * 清水靖夫(1968)、「[https://doi.org/10.11212/jjca1963.6.3_1 内務省地理局『東京実測全図』について]」 『地図』 1968年 6巻 3号 p.1-6, {{doi|10.11212/jjca1963.6.3_1}} == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2018年11月|section=1}} {{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}} {{Div col}} * [[電子国土]] * [[地形図]] * [[日本経緯度原点]] * [[日本水準原点]] * [[三角点]] - [[電子基準点]] * [[水準点]] * [[点の記]] * [[測地系]] * [[超長基線電波干渉法]] * [[測量の日]] * [[TC-90 (航空機)|UC-90測量機 くにかぜII]] * [[地震予知連絡会]] * [[劒岳 点の記]] * [[地球地図]] * [[くにかぜII]] * [[日本の行政機関]] {{Div col end}} == 外部リンク == {{Wikinews|国土地理院が地図記号のデザインを公募}} {{Commonscat|Geospatial Information Authority of Japan}} * {{Official website}} * {{Twitter|GSI_chiriin}} * {{Twitter|gsi_cyberjapan|地理院地図}} * {{Twitter|gsi_oyochiri|国土地理院応用地理部}} * {{Twitter|GSI_Research|国土地理院地理地殻活動研究センター}} * {{YouTube|channel=UCJY_QJ1IuHO8j_WvPqNEK6g}} * {{GitHub|gsi-cyberjapan}} * {{Facebook|gsi.saiyo|採用担当}} {{国土交通省}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくとちりいん}} [[Category:国土交通省]] [[Category:国土地理院|*]] [[Category:特別の機関]] [[Category:つくば市の研究所]] [[Category:災害対策基本法指定行政機関]] [[Category:測量]] [[Category:日本の地図]]
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淡路島
淡路島(あわじしま)は、瀬戸内海東部に位置する島。日本国内では島としては主要4島を含め11番目に面積が大きく、瀬戸内海では最大面積の島で、人口は離島の中では最も多い約12万人。令制国の淡路国の主要国域を占める。近畿地方の兵庫県に属し、現在は北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市で区分される。日本神話の国産みの島としても知られる。 古代より淡路国として存在し、江戸時代には蜂須賀家が阿波国とともに領した。淡路洲本城主である筆頭家老稲田家と蜂須賀家との対立に端を発した庚午事変の発生により、廃藩置県では徳島県ではなく兵庫県に編入された。気候が温暖で、農業が盛ん。特に酪農やタマネギ栽培がよく知られる。第二次世界大戦中までは、要塞地であったため、観光地として発展することはなかった。しかし、1950年に国立公園に編入されて以降、鳴門と抱き合わせでクローズアップされ出した。2016年以降は、パソナグループ、さらに飲食業のバルニバービがこれまで「西浦」と呼ばれ開発から放置されてきた西側海岸に目を付け、播磨灘の美しい夕日を目玉に観光開発を進め、観光施設が相次いで出現。賑わいを見せ始めた。 北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が広がっている。 グアム島やシンガポール島とほぼ同じ面積を有し、日本国内では主要4島、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬についで第11位の面積を持ち、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位(約12万人)である。 大阪湾、播磨灘、紀伊水道に四周を囲まれ、北端の松帆崎で明石海峡に、南東端の生石鼻で紀淡海峡に、南西端の門崎(とさき)で鳴門海峡にのぞむ。本州四国連絡道路の神戸・鳴門ルートで本州・四国と繋がっており、1985年に大鳴門橋、1998年に明石海峡大橋が完成して南北が地続きとなった。 北部と南部の淡路山地と中南部の淡路平野に分けられ、北東部と南部の山地急斜面は海岸まで迫る。また周囲の主な属島には紀淡海峡の成ヶ島、紀伊水道の沼島がある。 全島が瀬戸内海式気候(年間平均気温約16°C、年間降水量約1300mm)の区分に属する(諭鶴羽山地以南では南海型太平洋側気候の特徴も少し混じる)。このため多くの農業用ため池があり、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にある。 近代以降もダム建設が行われてきたが、1999年(平成11年)12月に明石海峡大橋に架設された口径450mmの2条の水道管による本土導水が開始された。台風銀座であり第2室戸台風をはじめ、多くの台風が通過しており、淡路島を通過した台風は京阪神に甚大な被害を与えたものも多い。 以下の分類は『土地分類図(地形分類図)経済企画庁総合開発局 昭和49年(1974年)発行』による。 『記紀』の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島である。『古事記』では淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま、あわじのほのさわけのしま)と記される。 『先代旧事本紀』「国造本紀」には、仁徳天皇の御代に淡道国造が設置されたとの記述があり、『日本書紀』では淡路洲と記される。海人族とされる阿曇浜子によって水軍が形成され、初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られる。また反正天皇は淡路島で生まれたとされる。 古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いだとされる。『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。 江戸時代になり徳川家康は大坂の陣で貢献した蜂須賀氏に従来の阿波国に加えて淡路国を加増した。その際、蜂須賀家の家祖蜂須賀正勝(子六)と義兄弟の契りを結び蜂須賀家の家臣となっていた稲田植元、その子の稲田示植、そして孫の稲田植次の活躍が特に大きかったため、徳川家康の命により稲田氏が淡路一国を支配する城代に代々任じられることになった。 ただし蜂須賀家にとって稲田氏はあくまで一家臣に過ぎず、しかし稲田氏では代を重ねるごとに徐々に蜂須賀家からの独立意識が芽生え、次第に軋轢が生じるようになる。明治維新では、佐幕であった蜂須賀家に対し、稲田氏は倒幕・新政府側に立って活動した。それにもかかわらず家臣は士族ではなく卒族とされた(陪臣とみなされた)ために、稲田氏側は淡路を阿波藩から分藩独立することを画策した。その動きに対し庚午事変(稲田騒動)で蜂須賀家側が一方的に稲田氏側を殺傷したことより確執は決定的なものとなった。それが遠因となり、1868年に初代兵庫県知事となっていた伊藤博文が大きな領域を望んだこともあり、1876年に淡路は阿波と分かれて兵庫県に編入されることになった。以来、兵庫五国の一角として発展している。 兵庫県は地方自治法に基づく支庁として、淡路島全域を管轄する淡路県民局を洲本市に設置している。 1965年(昭和40年)以降、洲本市・津名郡・三原郡の1市10町体制が続いていたが、市町村合併によって、2005年(平成17年)1月11日には三原郡4町(緑町・三原町・西淡町・南淡町)が南あわじ市に、同4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が淡路市となった。残る五色町は2006年(平成18年)2月11日に洲本市と合併し、新たに洲本市となった。これらの合併により現在の淡路島は、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市体制となっている。淡路島全体で一つの市となる構想や動きもあったが、実現しなかった。 衆議院の小選挙区は「兵庫県第9区」(上記3市ならびに明石市)であるほか、兵庫県議会の選挙区は各市ごとの選挙区(それぞれ定数1)である。人口は、昭和30年代には20万人を超えていたが現在では約12万人である。 淡路島の南北に神戸淡路鳴門自動車道が縦断する。島北東部の大阪湾に面する海岸線に沿って国道28号が走り、津名港がある。このうち、南東部の洲本市周辺の洲本平野から南西部の南あわじ市(旧南淡町)へ通じる部分を四国街道と呼ぶ。 島北西部の播磨灘に面する海岸線に沿って、南あわじ市で三原平野西部を縦断する兵庫県道31号福良江井岩屋線が走っている。かつて島内には1922年(大正11年)から1966年(昭和41年)にかけて洲本と福良をむすぶ淡路交通鉄道線が存在したが、以降は路線バスに置き換えられており、鉄道路線はなくなった。 市外局番は島内全域0799であるが、淡路市(津名MA)と洲本市・南あわじ市(洲本MA)との相互通話には市外局番が必要である。MA(単位料金区域)の統合は現在実施されていない(2009年現在、全島でMA統合が実施されたのは2005年6月の佐渡島のみである)。 自動車のナンバープレートは「神戸ナンバー」(神戸運輸監理部兵庫陸運部魚崎庁舎)である。 1877年に安倍喜平によって淡路新聞が発行された。地域紙としては極めて早い時期に誕生したものといわれており、昭和50年代まで刊行された。 島内にコミュニティ放送は無いが、2018年10月よりインターネットラジオのエフエム・ギグ淡路島にんぎゃかステーションが開局している。 一般的な都市圏の定義については都市圏を参照のこと。 都市雇用圏(10% 通勤圏)の変遷 島内には伝統芸能や農業から生まれた民間信仰、独特の習俗などが多く残っている。ここではその内の一部をリストアップする。 総生産額は4426億円。就業割合は1次産業が6.0%、2次産業が27.4%、3次産業が66.6%で、1次産業の割合が県平均 (0.6%) を大きく上回っている(2003年)。 淡路島の中心地である洲本市は、かつて鐘淵紡績洲本工場(カネボウ)の企業城下町であった。淡路島には1896年創業の淡路紡績があった。鐘淵紡績(カネボウ)は1900年(明治33年)に淡路紡績を買収し、関西の拠点として洲本工場を開設した。1950年(昭和25年)には従業員数4200人を超えるまでに成長したが、その後の経済構造の変化により洲本工場は縮小の道を辿り1985年(昭和60年)に綿紡事業に終止符をうち、新たに発足したカネボウ電子へ移管され、そして1986年(昭和61年)に紡績操業を停止するに至った。カネボウの歴史の中で洲本工場は、綿紡織事業を手掛けてきた工場として最長(87年)の歴史をもつ。 現在跡地は洲本市新都心ゾーンとしてイオン洲本ショッピングセンター、エディオン(ミドリ電化洲本店)、兵庫県立淡路医療センター(兵庫県立淡路病院を移転)、洲本市文化体育館、洲本健康福祉館、みなと銀行洲本支店等が立地し、洲本市民広場として整備されたエリアに点在する洲本市立図書館や洲本アルチザンスクエア、淡路ごちそう館「御食国」等は、鐘淵紡績洲本工場の近代建築を再生した施設として注目されている。 農家戸数は8,775戸。生産額は369億円。1888年に兵庫県はアメリカからタマネギの種を直輸入して農家に配布し、旧賀集村での栽培をきっかけに南部を中心に栽培が普及し一大たまねぎ産地となった。昭和40年代から三毛作が行われており、水稲 - レタス - レタスの作付けの割合が42.6%で最も多く、次いで水稲 - レタス - タマネギが25.7%となっている(2005年)。 作付面積 農畜産品の県内出荷額比率の大きいもの(2004年度) 5t未満の小型船と養殖漁業が中心で、生産額は153億円、漁獲量は18,378t(2004年) 年間の観光客数は1,062万人(2004年)。豊かな自然や食の宝庫であるなど、観光資源は豊富である(古くから淡路国は食の宝庫として知られ、御食国として皇室・朝廷に御食料を貢いだとされる)。 一宮中学校・岩屋中学校・津名中学校・東浦中学校・北淡中学校 洲浜中学校・青雲中学校・由良中学校・安乎中学校・五色中学校 広田中学校 南淡中学校・三原中学校・西淡中学校・倭文中学校・沼島中学校 津名東小学校・石屋小学校・浦小学校・大町小学校・学習小学校・釜口小学校・一宮小学校・塩田小学校・志筑小学校・多賀小学校・中田小学校・北淡小学校 洲本第一小学校・洲本第二小学校・洲本第三小学校・大野小学校・加茂小学校・中川原小学校・安乎小学校・由良小学校・都志小学校・鮎原小学校・鳥飼小学校・広石小学校・堺小学校 広田小学校 市小学校・榎列小学校・神代小学校・三原志知小学校・阿万小学校・賀集小学校・北阿万小学校・湊小学校・松帆小学校・福良小学校・辰美小学校・八木小学校・倭文小学校・西淡志知小学校・沼島小学校 徒歩で橋を渡って出入りすることはできないため、歩行者はバスやタクシー、もしくは船舶を利用する必要がある。 本州と四国を結ぶ神戸淡路鳴門自動車道が淡路島を縦断しており、北は明石海峡大橋で本州に、南は大鳴門橋で四国に連絡している。本州(特に京阪神)と四国を結ぶ高速バスも多数設定されている。淡路島北端部にある淡路SAおよび隣接する淡路ハイウェイオアシスは観覧車や展望台が併設された大規模な休憩施設であり、淡路島の新たな観光スポットとなっている。明石海峡大橋と大鳴門橋はいずれも自動車専用道路であるため、徒歩・軽車両・原付・小型自動二輪・ミニカーいずれも通行できない。 タクシーを利用する場合は降車時タクシーメーターに表示された料金の他に神戸淡路鳴門自動車道の通行料を往復分支払う必要がある。 本州・四国 - 淡路島間には以下の会社によって高速バスが運行されている。各社とも明石海峡大橋経由(本州 - 淡路島間)で利用可能。大鳴門橋経由は淡路交通(淡路島 - 徳島県間)とフットバス(淡路島 - 香川県間)のみ利用可能。 2010年11月15日を最後に明石淡路フェリー(たこフェリー)が休止したことにより、淡路島と外部を結ぶ航路は約7年間にわたり明石港 - 岩屋港間の高速船「淡路ジェノバライン」のみとなった。淡路ジェノバラインに載せることができる車両は自転車のみであるため、自転車を除く軽車両・原付・小型自動二輪車・ミニカーが自走で淡路島へ出入りする手段はなくなっていたが、橋が通行不能になった場合や原付や125cc以下の小型自動二輪車の通行手段を確保するため、兵庫県、明石市、洲本市、南あわじ市、淡路市でつくる「明石海峡海上交通に関する協議会」で国からの補助を受け淡路市が新造船「まりん・あわじ」を導入することが決まり、淡路ジェノバラインに運航を委託する形で2015年8月2日から就航、同年9月23日から原付・小型自動二輪車の航送を開始した。2017年7月9日から2018年7月13日まで関西国際空港 - 洲本港間に「淡路関空ライン」が就航していた。 四国新幹線は淡路島を経由して走らせる計画であるが、建設計画は具体化してない。大鳴門橋は新幹線走行を前提に鉄道道路併用橋として建設されたものの、当初の四国新幹線構想が経由を予定した明石海峡大橋は道路専用橋として建設された。2020年代時点の四国新幹線構想では代替として紀淡トンネルを経由する前提であるが、建設促進運動でも四国島内と大阪を結ぶ区間の優先順位は低いとされている。実現したのは下記の淡路鉄道のみである。 路線は淡路島を東西に横断する形で敷設された。日本の北海道・本州・九州・四国の主要な四島をのぞいた島における鉄道路線は、(中州など四島から直通するものをのぞいて)第二次世界大戦後はこの淡路島のみであった(洲本駅の駅舎がバスターミナルとして利用されるなど、今なお当時の面影が残る)。このほか、岩屋 - 志筑 - 洲本や志筑 - 江井を結ぶ淡路快速交通計画が存在したり、前記の淡路交通の区間を含む形での「本四淡路線」(須磨 - 淡路島 - 鳴門)が鉄道敷設法別表に掲載された(兵庫県須磨附近ヨリ淡路国岩屋附近ニ至ル鉄道 及福良ヨリ徳島県鳴門附近ニ至ル鉄道・淡路国岩屋ヨリ洲本ヲ経テ福良ニ至ル鉄道)が、「本四淡路線」については四国新幹線に計画が吸収された。 ※発表年順
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "淡路島(あわじしま)は、瀬戸内海東部に位置する島。日本国内では島としては主要4島を含め11番目に面積が大きく、瀬戸内海では最大面積の島で、人口は離島の中では最も多い約12万人。令制国の淡路国の主要国域を占める。近畿地方の兵庫県に属し、現在は北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市で区分される。日本神話の国産みの島としても知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古代より淡路国として存在し、江戸時代には蜂須賀家が阿波国とともに領した。淡路洲本城主である筆頭家老稲田家と蜂須賀家との対立に端を発した庚午事変の発生により、廃藩置県では徳島県ではなく兵庫県に編入された。気候が温暖で、農業が盛ん。特に酪農やタマネギ栽培がよく知られる。第二次世界大戦中までは、要塞地であったため、観光地として発展することはなかった。しかし、1950年に国立公園に編入されて以降、鳴門と抱き合わせでクローズアップされ出した。2016年以降は、パソナグループ、さらに飲食業のバルニバービがこれまで「西浦」と呼ばれ開発から放置されてきた西側海岸に目を付け、播磨灘の美しい夕日を目玉に観光開発を進め、観光施設が相次いで出現。賑わいを見せ始めた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が広がっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "グアム島やシンガポール島とほぼ同じ面積を有し、日本国内では主要4島、択捉島、国後島、沖縄本島、佐渡島、奄美大島、対馬についで第11位の面積を持ち、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位(約12万人)である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大阪湾、播磨灘、紀伊水道に四周を囲まれ、北端の松帆崎で明石海峡に、南東端の生石鼻で紀淡海峡に、南西端の門崎(とさき)で鳴門海峡にのぞむ。本州四国連絡道路の神戸・鳴門ルートで本州・四国と繋がっており、1985年に大鳴門橋、1998年に明石海峡大橋が完成して南北が地続きとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "北部と南部の淡路山地と中南部の淡路平野に分けられ、北東部と南部の山地急斜面は海岸まで迫る。また周囲の主な属島には紀淡海峡の成ヶ島、紀伊水道の沼島がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "全島が瀬戸内海式気候(年間平均気温約16°C、年間降水量約1300mm)の区分に属する(諭鶴羽山地以南では南海型太平洋側気候の特徴も少し混じる)。このため多くの農業用ため池があり、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にある。 近代以降もダム建設が行われてきたが、1999年(平成11年)12月に明石海峡大橋に架設された口径450mmの2条の水道管による本土導水が開始された。台風銀座であり第2室戸台風をはじめ、多くの台風が通過しており、淡路島を通過した台風は京阪神に甚大な被害を与えたものも多い。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "以下の分類は『土地分類図(地形分類図)経済企画庁総合開発局 昭和49年(1974年)発行』による。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『記紀』の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島である。『古事記』では淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま、あわじのほのさわけのしま)と記される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『先代旧事本紀』「国造本紀」には、仁徳天皇の御代に淡道国造が設置されたとの記述があり、『日本書紀』では淡路洲と記される。海人族とされる阿曇浜子によって水軍が形成され、初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られる。また反正天皇は淡路島で生まれたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いだとされる。『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "江戸時代になり徳川家康は大坂の陣で貢献した蜂須賀氏に従来の阿波国に加えて淡路国を加増した。その際、蜂須賀家の家祖蜂須賀正勝(子六)と義兄弟の契りを結び蜂須賀家の家臣となっていた稲田植元、その子の稲田示植、そして孫の稲田植次の活躍が特に大きかったため、徳川家康の命により稲田氏が淡路一国を支配する城代に代々任じられることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ただし蜂須賀家にとって稲田氏はあくまで一家臣に過ぎず、しかし稲田氏では代を重ねるごとに徐々に蜂須賀家からの独立意識が芽生え、次第に軋轢が生じるようになる。明治維新では、佐幕であった蜂須賀家に対し、稲田氏は倒幕・新政府側に立って活動した。それにもかかわらず家臣は士族ではなく卒族とされた(陪臣とみなされた)ために、稲田氏側は淡路を阿波藩から分藩独立することを画策した。その動きに対し庚午事変(稲田騒動)で蜂須賀家側が一方的に稲田氏側を殺傷したことより確執は決定的なものとなった。それが遠因となり、1868年に初代兵庫県知事となっていた伊藤博文が大きな領域を望んだこともあり、1876年に淡路は阿波と分かれて兵庫県に編入されることになった。以来、兵庫五国の一角として発展している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "兵庫県は地方自治法に基づく支庁として、淡路島全域を管轄する淡路県民局を洲本市に設置している。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1965年(昭和40年)以降、洲本市・津名郡・三原郡の1市10町体制が続いていたが、市町村合併によって、2005年(平成17年)1月11日には三原郡4町(緑町・三原町・西淡町・南淡町)が南あわじ市に、同4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が淡路市となった。残る五色町は2006年(平成18年)2月11日に洲本市と合併し、新たに洲本市となった。これらの合併により現在の淡路島は、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市体制となっている。淡路島全体で一つの市となる構想や動きもあったが、実現しなかった。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "衆議院の小選挙区は「兵庫県第9区」(上記3市ならびに明石市)であるほか、兵庫県議会の選挙区は各市ごとの選挙区(それぞれ定数1)である。人口は、昭和30年代には20万人を超えていたが現在では約12万人である。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "淡路島の南北に神戸淡路鳴門自動車道が縦断する。島北東部の大阪湾に面する海岸線に沿って国道28号が走り、津名港がある。このうち、南東部の洲本市周辺の洲本平野から南西部の南あわじ市(旧南淡町)へ通じる部分を四国街道と呼ぶ。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "島北西部の播磨灘に面する海岸線に沿って、南あわじ市で三原平野西部を縦断する兵庫県道31号福良江井岩屋線が走っている。かつて島内には1922年(大正11年)から1966年(昭和41年)にかけて洲本と福良をむすぶ淡路交通鉄道線が存在したが、以降は路線バスに置き換えられており、鉄道路線はなくなった。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "市外局番は島内全域0799であるが、淡路市(津名MA)と洲本市・南あわじ市(洲本MA)との相互通話には市外局番が必要である。MA(単位料金区域)の統合は現在実施されていない(2009年現在、全島でMA統合が実施されたのは2005年6月の佐渡島のみである)。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "自動車のナンバープレートは「神戸ナンバー」(神戸運輸監理部兵庫陸運部魚崎庁舎)である。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1877年に安倍喜平によって淡路新聞が発行された。地域紙としては極めて早い時期に誕生したものといわれており、昭和50年代まで刊行された。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "島内にコミュニティ放送は無いが、2018年10月よりインターネットラジオのエフエム・ギグ淡路島にんぎゃかステーションが開局している。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一般的な都市圏の定義については都市圏を参照のこと。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "都市雇用圏(10% 通勤圏)の変遷", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "島内には伝統芸能や農業から生まれた民間信仰、独特の習俗などが多く残っている。ここではその内の一部をリストアップする。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "総生産額は4426億円。就業割合は1次産業が6.0%、2次産業が27.4%、3次産業が66.6%で、1次産業の割合が県平均 (0.6%) を大きく上回っている(2003年)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "淡路島の中心地である洲本市は、かつて鐘淵紡績洲本工場(カネボウ)の企業城下町であった。淡路島には1896年創業の淡路紡績があった。鐘淵紡績(カネボウ)は1900年(明治33年)に淡路紡績を買収し、関西の拠点として洲本工場を開設した。1950年(昭和25年)には従業員数4200人を超えるまでに成長したが、その後の経済構造の変化により洲本工場は縮小の道を辿り1985年(昭和60年)に綿紡事業に終止符をうち、新たに発足したカネボウ電子へ移管され、そして1986年(昭和61年)に紡績操業を停止するに至った。カネボウの歴史の中で洲本工場は、綿紡織事業を手掛けてきた工場として最長(87年)の歴史をもつ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "現在跡地は洲本市新都心ゾーンとしてイオン洲本ショッピングセンター、エディオン(ミドリ電化洲本店)、兵庫県立淡路医療センター(兵庫県立淡路病院を移転)、洲本市文化体育館、洲本健康福祉館、みなと銀行洲本支店等が立地し、洲本市民広場として整備されたエリアに点在する洲本市立図書館や洲本アルチザンスクエア、淡路ごちそう館「御食国」等は、鐘淵紡績洲本工場の近代建築を再生した施設として注目されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "農家戸数は8,775戸。生産額は369億円。1888年に兵庫県はアメリカからタマネギの種を直輸入して農家に配布し、旧賀集村での栽培をきっかけに南部を中心に栽培が普及し一大たまねぎ産地となった。昭和40年代から三毛作が行われており、水稲 - レタス - レタスの作付けの割合が42.6%で最も多く、次いで水稲 - レタス - タマネギが25.7%となっている(2005年)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "作付面積", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "農畜産品の県内出荷額比率の大きいもの(2004年度)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "5t未満の小型船と養殖漁業が中心で、生産額は153億円、漁獲量は18,378t(2004年)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "年間の観光客数は1,062万人(2004年)。豊かな自然や食の宝庫であるなど、観光資源は豊富である(古くから淡路国は食の宝庫として知られ、御食国として皇室・朝廷に御食料を貢いだとされる)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一宮中学校・岩屋中学校・津名中学校・東浦中学校・北淡中学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "洲浜中学校・青雲中学校・由良中学校・安乎中学校・五色中学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "広田中学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "南淡中学校・三原中学校・西淡中学校・倭文中学校・沼島中学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "津名東小学校・石屋小学校・浦小学校・大町小学校・学習小学校・釜口小学校・一宮小学校・塩田小学校・志筑小学校・多賀小学校・中田小学校・北淡小学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "洲本第一小学校・洲本第二小学校・洲本第三小学校・大野小学校・加茂小学校・中川原小学校・安乎小学校・由良小学校・都志小学校・鮎原小学校・鳥飼小学校・広石小学校・堺小学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "広田小学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "市小学校・榎列小学校・神代小学校・三原志知小学校・阿万小学校・賀集小学校・北阿万小学校・湊小学校・松帆小学校・福良小学校・辰美小学校・八木小学校・倭文小学校・西淡志知小学校・沼島小学校", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "徒歩で橋を渡って出入りすることはできないため、歩行者はバスやタクシー、もしくは船舶を利用する必要がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "本州と四国を結ぶ神戸淡路鳴門自動車道が淡路島を縦断しており、北は明石海峡大橋で本州に、南は大鳴門橋で四国に連絡している。本州(特に京阪神)と四国を結ぶ高速バスも多数設定されている。淡路島北端部にある淡路SAおよび隣接する淡路ハイウェイオアシスは観覧車や展望台が併設された大規模な休憩施設であり、淡路島の新たな観光スポットとなっている。明石海峡大橋と大鳴門橋はいずれも自動車専用道路であるため、徒歩・軽車両・原付・小型自動二輪・ミニカーいずれも通行できない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "タクシーを利用する場合は降車時タクシーメーターに表示された料金の他に神戸淡路鳴門自動車道の通行料を往復分支払う必要がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "本州・四国 - 淡路島間には以下の会社によって高速バスが運行されている。各社とも明石海峡大橋経由(本州 - 淡路島間)で利用可能。大鳴門橋経由は淡路交通(淡路島 - 徳島県間)とフットバス(淡路島 - 香川県間)のみ利用可能。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2010年11月15日を最後に明石淡路フェリー(たこフェリー)が休止したことにより、淡路島と外部を結ぶ航路は約7年間にわたり明石港 - 岩屋港間の高速船「淡路ジェノバライン」のみとなった。淡路ジェノバラインに載せることができる車両は自転車のみであるため、自転車を除く軽車両・原付・小型自動二輪車・ミニカーが自走で淡路島へ出入りする手段はなくなっていたが、橋が通行不能になった場合や原付や125cc以下の小型自動二輪車の通行手段を確保するため、兵庫県、明石市、洲本市、南あわじ市、淡路市でつくる「明石海峡海上交通に関する協議会」で国からの補助を受け淡路市が新造船「まりん・あわじ」を導入することが決まり、淡路ジェノバラインに運航を委託する形で2015年8月2日から就航、同年9月23日から原付・小型自動二輪車の航送を開始した。2017年7月9日から2018年7月13日まで関西国際空港 - 洲本港間に「淡路関空ライン」が就航していた。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "四国新幹線は淡路島を経由して走らせる計画であるが、建設計画は具体化してない。大鳴門橋は新幹線走行を前提に鉄道道路併用橋として建設されたものの、当初の四国新幹線構想が経由を予定した明石海峡大橋は道路専用橋として建設された。2020年代時点の四国新幹線構想では代替として紀淡トンネルを経由する前提であるが、建設促進運動でも四国島内と大阪を結ぶ区間の優先順位は低いとされている。実現したのは下記の淡路鉄道のみである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "路線は淡路島を東西に横断する形で敷設された。日本の北海道・本州・九州・四国の主要な四島をのぞいた島における鉄道路線は、(中州など四島から直通するものをのぞいて)第二次世界大戦後はこの淡路島のみであった(洲本駅の駅舎がバスターミナルとして利用されるなど、今なお当時の面影が残る)。このほか、岩屋 - 志筑 - 洲本や志筑 - 江井を結ぶ淡路快速交通計画が存在したり、前記の淡路交通の区間を含む形での「本四淡路線」(須磨 - 淡路島 - 鳴門)が鉄道敷設法別表に掲載された(兵庫県須磨附近ヨリ淡路国岩屋附近ニ至ル鉄道 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淡路島(あわじしま)は、瀬戸内海東部に位置する島。日本国内では島としては主要4島を含め11番目に面積が大きく、瀬戸内海では最大面積の島で、人口は離島の中では最も多い約12万人。令制国の淡路国の主要国域を占める。近畿地方の兵庫県に属し、現在は北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市で区分される。日本神話の国産みの島としても知られる。 古代より淡路国として存在し、江戸時代には蜂須賀家が阿波国とともに領した。淡路洲本城主である筆頭家老稲田家と蜂須賀家との対立に端を発した庚午事変の発生により、廃藩置県では徳島県ではなく兵庫県に編入された。気候が温暖で、農業が盛ん。特に酪農やタマネギ栽培がよく知られる。第二次世界大戦中までは、要塞地であったため、観光地として発展することはなかった。しかし、1950年に国立公園に編入されて以降、鳴門と抱き合わせでクローズアップされ出した。2016年以降は、パソナグループ、さらに飲食業のバルニバービがこれまで「西浦」と呼ばれ開発から放置されてきた西側海岸に目を付け、播磨灘の美しい夕日を目玉に観光開発を進め、観光施設が相次いで出現。賑わいを見せ始めた。
{{Infobox 島 | 島名 = 淡路島 | 画像 = {{画像地図_淡路島}}<br />[[ランドサット7号]] (Landsat 7) | 座標 ={{ウィキ座標|34|22|18.4|N|134|49|56.85|E|scale:1000000_region:JP|北緯34度09分 - 34度36分<br />東経134度39分 - 135度01分}} | 面積 = 592.55<ref>{{PDFlink|[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20141001.pdf 島面積 平成26年10月1日時点]}} 国土地理院</ref> | 周囲 = 203 | 標高 = 608<ref>[https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html 日本の主な山岳標高] - 国土地理院</ref> | 最高峰 = [[諭鶴羽山]] | 海域 = [[瀬戸内海]] | 国 = {{JPN}} | 最大都市 = [[南あわじ市]] | 地図 = {{location map | Japan | label = 淡路島 | position = left | lat_deg = 34 | lat_min = 23 | lat_sec = 30 | lat_dir = N | lon_deg = 134 | lon_min = 50 | lon_sec = 30 | lon_dir = E | mark = Cercle rouge 100%.svg | marksize = 10 | width = 200 | float = left | caption = 淡路島の位置 | relief = 1 }} |地図2 = Japan Hyogo#Japan }} '''淡路島'''(あわじしま)は、[[瀬戸内海]]東部に位置する[[島]]。日本国内では島としては主要4島を含め11番目に[[面積]]が大きく、瀬戸内海では最大面積の島で<ref name="tabata" />、人口は離島の中では最も多い約12万人<ref>[https://web.pref.hyogo.lg.jp/ac02/kids_area_aw.html 淡路(あわじ):3市 人口:124,921人(兵庫県推計人口 令和4年4月1日現在)]</ref>。[[令制国]]の[[淡路国]]の主要国域を占める。[[近畿地方]]の[[兵庫県]]に属し、現在は北から[[淡路市]]・[[洲本市]]・[[南あわじ市]]の3市で区分される。[[日本神話]]の[[国産み]]の島としても知られる。 古代より淡路国として存在し、江戸時代には[[蜂須賀氏]|蜂須賀家]]が阿波国とともに領した。[[洲本城|淡路洲本城]]主である筆頭家老[[稲田氏|稲田家]]と蜂須賀家との対立に端を発した[[庚午事変]]の発生により、廃藩置県では徳島県ではなく兵庫県に編入された。[[気候]]が温暖で、[[農業]]が盛ん。特に[[酪農]]や[[タマネギ]]栽培がよく知られる。[[第二次世界大戦]]中までは、[[要塞]]地であったため、[[観光地]]として発展することはなかった。しかし、[[1950年]]に[[国立公園]]に編入されて以降、[[鳴門]]と抱き合わせでクローズアップされ出した。[[2016年]]以降は、[[パソナ]]グループ、さらに飲食業の[[バルニバービ]]がこれまで「西浦」と呼ばれ開発から放置されてきた西側海岸に目を付け、[[播磨灘]]の美しい[[夕日]]を目玉に観光開発を進め、観光施設が相次いで出現。賑わいを見せ始めた<ref name="seto">『瀬戸内海の旅』([[現代教養文庫]])1961年10月31日発行</ref><ref name="kobe">{{Cite web|和書|date=2021-7-28|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202107/0014541365.shtml|title=「西浦」改め「西海岸」!? 淡路島の農漁村エリアがおしゃれリゾート地に進化中|publisher=神戸新聞NEXT|accessdate=2021-11-30}}</ref><ref name="prt">{{Cite web|和書|date=|url=https://prtimes.jp/story/detail/4zrEM1AtQr2|title=バルニバービが淡路島でエリア開発をするワケ。淡路島西海岸沿いエリア開発プロジェクト「AWAJI NORTH WEST」がいよいよ始動|publisher=prtimes story|accessdate=2021-11-30}}</ref>。 == 概要 == 北東から南西へかけて細長く伸びる淡路島は南北約53km、東西約22km、周囲約203kmで、北部では幅5kmから8kmと細く南部で幅が広がっている<ref name="chikei">{{Cite web|和書 |title=兵庫県南部地震に伴う淡路島北部地域の地形変化 |url=https://www.gsi.go.jp/REPORT/JIHO/vol83-6.html|year=1995 |publisher=国土地理院 |accessdate=2010-12-07}}</ref>。 [[グアム]]島や[[シンガポール島]]とほぼ同じ面積を有し、日本国内では主要4島、[[択捉島]]、[[国後島]]、[[沖縄本島]]、[[佐渡島]]、[[奄美大島]]、[[対馬]]についで第11位の面積を持ち<ref>[[国立天文台]](編) 平成19年 [[理科年表]] p.565 ISBN 4621077635 - ただし本土4島を除く。</ref>、人口では主要4島以外では沖縄本島に次いで第2位(約12万人)である。 [[大阪湾]]、[[播磨灘]]、[[紀伊水道]]に四周を囲まれ、北端の[[松帆崎]]で[[明石海峡]]に、南東端の[[生石鼻]]で[[紀淡海峡]]に、南西端の門崎(とさき)で[[鳴門海峡]]にのぞむ。[[本州四国連絡道路]]の神戸・鳴門ルートで[[本州]]・[[四国]]と繋がっており、1985年に大鳴門橋、1998年に明石海峡大橋が完成して南北が地続きとなった<ref name="tabata">{{Cite journal|和書|author=田畑暁生 |title=淡路島における市町村合併と地域情報化政策 |url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005361 |journal=神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要 |issn=1882-2851 |publisher=神戸大学大学院人間発達環境学研究科 |year=2013 |month=sep |volume=7 |issue=1 |pages=51-61 |naid=110009632655 |doi=10.24546/81005361}}</ref>。 北部と南部の淡路山地と中南部の淡路平野に分けられ、北東部と南部の山地急斜面は海岸まで迫る。また周囲の主な属島には紀淡海峡の[[成ヶ島]]、紀伊水道の[[沼島]]がある。 == 気候 == 全島が[[瀬戸内海式気候]](年間平均気温約16℃、年間降水量約1300mm)の区分に属する([[諭鶴羽山地]]以南では南海型[[太平洋側気候]]の特徴も少し混じる)。このため多くの農業用[[ため池]]があり<ref>{{Cite journal|和書|author=福家徹也 |date=2013-03 |url=https://hdl.handle.net/10236/10968 |title=ため池の周辺土地利用の変遷と推移の関係性について : 香川県高松市の事例研究 |journal=KGPS review : Kwansei Gakuin policy studies review |volume=19 |pages=31-34 |hdl=10236/10968 |id={{CRID|1050564288429367936}} |access-date=2023-06-08}}</ref>、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にある<ref>{{PDFlink|{{Cite web|和書 |title=洲本川水系河川整備計画(案) |url=https://web.archive.org/web/20110513084709/http://web.pref.hyogo.jp/contents/000114394.pdf |date=2008-11 |publisher=兵庫県 |accessdate=2010-12-09}}|3.42[[メビバイト|MiB]]}}</ref><ref name="nourin">{{PDFlink|{{Cite web|和書 |title=淡路地域農林水産ビジョン |url=https://web.archive.org/web/20110501181655/http://hatosyogyo.web.infoseek.co.jp/awaji/htm/nourinhonbun.pdf |date=2006-03 |publisher=兵庫県淡路県民局 |accessdate=2010-12-09}}|7.28MiB}}</ref>。 近代以降も[[ダム]]建設が行われてきたが、[[1999年]]([[平成]]11年)12月に[[明石海峡大橋]]に架設された口径450mmの2条の[[水道管]]による本土導水が開始された<ref>{{PDFlink|{{Cite web|和書 |title=事業について |url=http://awaji-suido.jp/data/jigyo/jigyo-02.pdf |year=2005 |publisher=淡路広域水道企業団 |accessdate=2010-12-17}}|454[[キビバイト|KiB]]}}</ref>。[[台風銀座]]であり[[第2室戸台風]]をはじめ、多くの台風が通過しており、淡路島を通過した台風は[[京阪神]]に甚大な被害を与えたものも多い。 == 地理 == [[ファイル:Awajishima Relief Map, SRTM.jpg|thumb|150px|淡路島の地形図]] === 地形と植生 === 以下の分類は『土地分類図(地形分類図)経済企画庁総合開発局 [[昭和]]49年([[1974年]])発行』による<ref>{{Cite web|和書 |title=20万分の1土地分類基本調査及び土地保全基本調査 > 兵庫県 地形分類図 |url=http://tochi.mlit.go.jp/tockok/inspect/landclassification/land/20-1/28.html |publisher=国土交通省 土地・水資源局 国土調査課 |accessdate=2010-12-12}}</ref>。 ; 淡路山地 : 淡路島北部と南部に分かれる[[地塁|地塁山地]]。[[砂岩]]・[[礫岩]]・[[頁岩]]で形成される。[[諭鶴羽山]]・[[柏原山]]・[[先山]]の3峰は「淡路三山」と呼ばれる。 : 森林面積は島の総面積の51.7%を占め、北淡山地と諭鶴羽山地に[[スギ]]・[[ヒノキ]]の人工林があるがその比率は8.6%にすぎず、[[ウバメガシ]]・[[シイ]]・[[ヤマモモ]]などの[[照葉樹林]]が広がる<ref name="nourin" />。また諭鶴羽山には県内一の[[アカガシ]]の[[極相]]林が見られる。 :; 津名山地 :: 島の北部、明石海峡から淡路平野までの山地。多くの[[活断層]]と[[撓曲]]が見られ南部より北部のほうが起伏が大きい。[[白亜紀]]の[[花崗岩]]の上に大阪層群が覆う<ref name="chikei" />。平地が少ないため中部東側の海岸には淡路市の市街地が南北に伸び、埋立地が造成され、西側海岸には[[棚田]]が見られる。 ::; 北淡山地 ::: [[標高]]522m の[[妙見山]]を主峰とする津名山地北部。北東の[[六甲山]]へ伸びて六甲・淡路断層帯を形成している。 ::; 千山山地 ::: 標高448mの[[先山]](淡路富士)を主峰とする起伏の小さな津名山地南部。東側に先山断層が通る。 ::; [[津名丘陵]] ::: 千山山地の西側、[[播磨灘]]に面した丘陵。志筑断層で北淡山地と分けられる。[[ファイル:Yuzuruha_Mts_1.jpg|thumb|諭鶴羽山地]] :; [[諭鶴羽山地]] :: 島の中南部、淡路平野から紀伊水道までの起伏の大きな山地。白亜紀の花崗岩の上に[[和泉層群]]が覆う。東部に標高569mの[[柏原山]]、中部に標高525mの[[兜布丸山]](かぶとやま)、西部に標高608mで淡路島最高峰の[[諭鶴羽山]]がある。兜布丸山は[[洲本川]]の、諭鶴羽山は[[三原川 (兵庫県)|三原川]]の水源である。諭鶴羽山地の南側は[[中央構造線]]の断層崖のため急斜面になっていて<ref name="chikei" />、みかん・ビワが栽培されるほか、[[スイセン|水仙]]の自生地がある。 :; 西淡山地 :: 三原平野の西部、鳴門海峡との間にある[[海抜]]200m級の山地。標高265mの南辺山など<ref name="chikei" />。 ; 淡路平野 : 島の中南部、大阪湾へ注ぐ洲本川河口から播磨灘へ注ぐ三原川河口へかけて島を南北に分かつ[[沖積平野]]<ref name="chikei" />。 :; [[洲本平野]] :: 洲本川が流れ、[[三角州|河口洲]]に洲本市の人口密集地が広がる。 :; [[三原平野]] :: [[三原川]]が流れ、[[水稲]]や[[タマネギ]]・[[レタス]]など[[路地野菜]]の栽培地が広がる。 ::; 諭鶴羽北麓台地 ::: 三原平野南部から諭鶴羽山地北部へかけての[[砂礫質]]の台地。 ::; 吹上低地 ::: 吹上浜で紀伊水道、鳴門海峡にのぞむ。 [[ファイル:Akashi Bridge.JPG|thumb|明石海峡大橋]] [[ファイル:The whirling current in Naruto.JPG|thumb|鳴門の渦潮]] === 海峡 === ; [[明石海峡]] : 北端の松帆崎と、本州の[[兵庫県]][[明石市]]の間にある海峡。峡間は3.6km。潮流が早く、古くから海の難所である。全長3,911mの世界最長の[[吊橋]]「[[明石海峡大橋]]」が架けられているほか、高速船「[[淡路ジェノバライン]]」が運航。 ; [[紀淡海峡]](友ヶ島水道) : 南東端の生石鼻と、本州の[[和歌山県]][[和歌山市]]の間にある海峡。峡間は約11km。海峡内に4つの島があり、最も広い淡路島 - [[友ヶ島]]間でも4.7kmである。航路などはない。費用対効果の面から今後も往来実現の可能性は低い。 ; [[鳴門海峡]] : 南西端の門崎と、四国の徳島県[[大毛島]]北東部の孫崎の間にある海峡。峡間は約1.4km。激しい[[潮流]]のため海の難所である。全長1,629mの吊橋「[[大鳴門橋]]」が架けられている。架橋にともない航路は廃止された。[[名勝]]に指定されている鳴門<ref>[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2481 国指定文化財等データベース:主情報詳細]</ref>では、瀬戸内海と外海(太平洋側)の潮位差により起こる「[[鳴門の渦潮]]」が著名。淡路島からは観潮船「[http://www.uzu-shio.com/ うずしおクルーズ咸臨丸・日本丸]」が毎日運航、間近で渦潮を体感することができる。なお、大鳴門橋には渦潮見物のための遊歩道「[[渦の道]]」が併設されているが、入口が四国側のみ、淡路島側からは利用不可。 == 歴史 == === 古代 === 『[[記紀]]』の[[日本列島]]の[[国産み]]の[[神話]]では、淡路島は[[イザナギ|伊弉諾尊]](いざなぎのみこと)・[[イザナミ|伊弉冉尊]](いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島である。『[[古事記]]』では'''淡道之穂之狭別島'''(あはぢのほのさわけのしま、あわじのほのさわけのしま)と記される<ref>伊東ひとみ『地名の謎を解く』新潮社、2017年、10頁</ref>。 『[[先代旧事本紀]]』「国造本紀」には、[[仁徳天皇]]の御代に[[淡道国造]]が設置されたとの記述があり、『[[日本書紀]]』では'''淡路洲'''と記される。[[海人族]]とされる[[阿曇浜子]]によって[[水軍]]が形成され、初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの[[皇后]]の記載も見られる。また[[反正天皇]]は淡路島で生まれたとされる。 古代から[[平安時代]]まで[[御食国]](みけつくに)として[[皇室]]・[[朝廷 (日本)|朝廷]]に[[贄]](にえ)を貢いだとされる。『[[延喜式]]』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。 === 近世 === 江戸時代になり[[徳川家康]]は大坂の陣で貢献した[[蜂須賀氏]]に従来の阿波国に加えて淡路国を加増した。その際、蜂須賀家の家祖[[蜂須賀正勝]](子六)と義兄弟の契りを結び蜂須賀家の家臣となっていた[[稲田植元]]、その子の[[稲田示植]]、そして孫の[[稲田植次]]の活躍が特に大きかったため、徳川家康の命により稲田氏が淡路一国を支配する城代に代々任じられることになった。 ただし蜂須賀家にとって稲田氏はあくまで一家臣に過ぎず、しかし稲田氏では代を重ねるごとに徐々に蜂須賀家からの独立意識が芽生え、次第に軋轢が生じるようになる。明治維新では、佐幕であった蜂須賀家に対し、稲田氏は倒幕・新政府側に立って活動した。それにもかかわらず家臣は士族ではなく卒族とされた(陪臣とみなされた)ために、稲田氏側は淡路を阿波藩から分藩独立することを画策した。その動きに対し[[庚午事変]](稲田騒動)で蜂須賀家側が一方的に稲田氏側を殺傷したことより確執は決定的なものとなった。それが遠因となり、[[1868年]]に初代兵庫県知事となっていた[[伊藤博文]]が大きな領域を望んだこともあり、[[1876年]]に淡路は阿波と分かれて[[兵庫県]]に編入されることになった。以来、兵庫五国の一角として発展している。 === 年表 === * 1871年12月26日 - [[名東県]]が成立(阿波国・讃岐国・淡路国) * 1876年8月21日 - 兵庫県に編入 * 1940年2月11日 - 洲本町の市制施行により洲本市が成立 * 1970年9月16日 - [[昭和40年台風第23・24・25号|台風25号]]の接近に伴う[[集中豪雨]]で[[三原川 (兵庫県)|三原川]]、[[洲本川]]など島内の河川が氾濫。7000戸以上が床上・床下浸水<ref>「淡路島で七千戸以上が浸水」『朝日新聞』昭和45(1970年)9月17日朝刊、14版、15面</ref>。 *1995年1月17日 - 淡路島北部([[明石海峡]]付近)を[[震源]]とする[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])が発生。[[震度7]]の激震を観測した島の北部を中心に甚大な被害を受けた。この[[地震]]によって[[野島断層]]という[[地震断層]]が出現した。 * 2005年1月11日 - 南部の4町の合併で南あわじ市が誕生。 * 2005年4月1日 - 北部の5町の合併で淡路市が誕生。 * 2013年4月13日 - [[震度6弱]]の[[淡路島地震]]が発生。兵庫県南部地震の[[震源域]]に隣接していた<ref>[[理科年表]](2022年)「日本付近のおもな被害地震年代表」</ref>。 == 行政 == {| class="infobox bordered" style="width:300px" | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0; width: 90px;"|地方 | [[近畿地方]] |- | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|都道府県 | [[兵庫県]] |- | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|[[市町村]] | [[淡路市]]・[[洲本市]]・[[南あわじ市]] |- | style="text-align: center; background-color: #f0f0f0;"|総人口 | 126,980人(2020年10月1日)<ref>国勢調査による。淡路市41,967人、洲本市41,236人、南あわじ市43,777人(ただし沼島の人口360人を差し引いた。)</ref> |} 兵庫県は[[地方自治法]]に基づく[[支庁]]として、淡路島全域を管轄する[[淡路県民局]]を洲本市に設置している。 [[1965年]]([[昭和]]40年)以降、[[洲本市]]・[[津名郡]]・[[三原郡]]の1市10町体制が続いていたが、[[市町村合併]]によって、[[2005年]]([[平成]]17年)1月11日には三原郡4町([[緑町]]・[[三原町]]・[[西淡町]]・[[南淡町]])が[[南あわじ市]]に、同4月1日には津名郡[[五色町]]を除く津名郡5町([[淡路町]]・[[北淡町]]・[[東浦町 (兵庫県)|東浦町]]・[[一宮町 (兵庫県津名郡)|一宮町]]・[[津名町]])が[[淡路市]]となった。残る五色町は[[2006年]](平成18年)2月11日に洲本市と合併し、新たに[[洲本市]]となった。これらの合併により現在の淡路島は、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市体制となっている。淡路島全体で一つの市となる構想や動きもあったが、実現しなかった<ref>[http://muratopia.org/Awaji/city4.html 拝啓 淡路島合併論にご関心の皆さんへ]</ref><ref>[http://awaji-jc.sakura.ne.jp/2011/rizicho_blog.php?eid=00015 淡路島一市フォーラム~淡路は一つ 未来の淡路島のために~]</ref><ref>[http://hirokei.seesaa.net/article/230580686.html 洲本市議会議員、広田恵三の「洲本市」を考えるブログ]</ref><ref>[http://monyuukai.blog123.fc2.com/blog-entry-168.html 淡路市長 門康彦ブログ「淡路島一市について。」]</ref>。 [[衆議院]]の小選挙区は「[[兵庫県第9区]]」(上記3市ならびに[[明石市]])であるほか、[[兵庫県議会]]の選挙区は各市ごとの選挙区(それぞれ定数1)である。人口は、昭和30年代には20万人を超えていたが<ref>[https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/soumu/awajishimajinkousuii.html 淡路島の総人口推移]</ref>現在では約12万人である。 <gallery> Awaji in Hyogo Prefecture Ja.svg|淡路市 Sumoto in Hyogo Prefecture Ja.svg|洲本市 Minamiawaji in Hyogo Prefecture Ja.svg|南あわじ市 </gallery> == 地域 == 淡路島の南北に[[神戸淡路鳴門自動車道]]が縦断する。島北東部の大阪湾に面する海岸線に沿って[[国道28号]]が走り、津名港がある。このうち、南東部の洲本市周辺の洲本平野から南西部の南あわじ市(旧[[南淡町]])へ通じる部分を四国街道と呼ぶ。 島北西部の播磨灘に面する海岸線に沿って、南あわじ市で三原平野西部を縦断する[[兵庫県道31号福良江井岩屋線]]が走っている。かつて島内には[[1922年]]([[大正]]11年)から[[1966年]]([[昭和]]41年)にかけて洲本と[[福良 (南あわじ市)|福良]]をむすぶ[[淡路交通]][[淡路鉄道|鉄道線]]が存在したが、以降は[[路線バス]]に置き換えられており、[[鉄道路線]]はなくなった。 [[市外局番]]は'''島内全域0799'''であるが、淡路市(津名[[単位料金区域|MA]])と洲本市・南あわじ市(洲本MA)との相互通話には市外局番が必要である。[[単位料金区域|MA]](単位料金区域)の統合は現在実施されていない(2009年現在、全島でMA統合が実施されたのは2005年6月の[[佐渡島]]のみである)。 自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]は「神戸ナンバー」([[神戸運輸監理部]]兵庫陸運部魚崎庁舎)である。 === メディア === 1877年に安倍喜平によって淡路新聞が発行された。地域紙としては極めて早い時期に誕生したものといわれており、昭和50年代まで刊行された<ref name="tabata" />。 島内に[[コミュニティ放送]]は無いが、[[2018年]]10月より[[インターネットラジオ]]の[[エフエム・ギグ]]淡路島にんぎゃかステーション<ref>[https://fmgig-awaji.jimdofree.com/ fmGIG淡路島にんぎゃかSTATION]</ref>が開局している。 === 「10% 都市圏(通勤圏)」 === ''一般的な都市圏の定義については[[都市圏]]を参照のこと。'' '''[[都市雇用圏]](10% 通勤圏)の変遷''' * 10% 通勤圏に入っていない[[地方公共団体|自治体]]は、各統計年の欄で灰色かつ「-」で示す。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |-style="border-bottom:solid 3px #666;" !style="background-color:#{{都市圏Color|自治体}}; width:6em;"|[[地方公共団体|自治体]]<br />('80) !style="background-color:#{{都市圏Color|年}}; width:8em;"|1980年 !style="background-color:#{{都市圏Color|年}}; width:8em;"|1990年 !style="background-color:#{{都市圏Color|年}}; width:8em;"|2000年 !style="background-color:#{{都市圏Color|年}}; width:8em;"|2005年 !style="background-color:#{{都市圏Color|年}}; width:8em;"|2010年 !style="background-color:#{{都市圏Color|年}}; width:8em;"|2015年 !style="background-color:#{{都市圏Color|自治体}}; width:6em;"|自治体<br />(現在) |- |style="background-color:#{{都市圏Color|青}};"|[[淡路町]] |{{都市圏|神戸|4=神戸都市圏}} |{{都市圏|神戸}} |{{都市圏|神戸}} |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |rowspan="11" style="background-color:#{{都市圏Color|圏}};"|{{都市圏|洲本|14|3547}} |rowspan="11" style="background-color:#{{都市圏Color|圏}};"|{{都市圏|洲本|13|5147}} |rowspan="5" style="background-color:#{{都市圏Color|青}};"|[[淡路市]] |- |style="background-color:#{{都市圏Color|青}};"|[[東浦町 (兵庫県)|東浦町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |- |style="background-color:#{{都市圏Color|青}};"|[[北淡町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |- |style="background-color:#{{都市圏Color|青}};"|[[一宮町 (兵庫県津名郡)|一宮町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |rowspan="5" style="background-color:#{{都市圏Color|圏}};"|{{都市圏|洲本|8|4436}} |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |- |style="background-color:#{{都市圏Color|青}};"|[[津名町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |rowspan="4" style="background-color:#{{都市圏Color|圏}};"|{{都市圏|洲本|7|6523}} |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |- |style="background-color:#{{都市圏Color|黄}};"|[[五色町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |rowspan="2" style="background-color:#{{都市圏Color|圏}};"|{{都市圏|洲本|5|0030}} |rowspan="2" style="background-color:#{{都市圏Color|黄}};"|'''[[洲本市]]''' |- |style="background-color:#{{都市圏Color|黄}};"|'''[[洲本市]]''' |rowspan="2" style="background-color:#{{都市圏Color|圏}};"|{{都市圏|洲本|4|9640}} |- |style="background-color:#{{都市圏Color|緑}};"|[[緑町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |rowspan="4" style="background-color:#{{都市圏Color|緑}};"|[[南あわじ市]] |- |style="background-color:#{{都市圏Color|緑}};"|[[三原町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |- |style="background-color:#{{都市圏Color|緑}};"|[[西淡町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |- |style="background-color:#{{都市圏Color|緑}};"|[[南淡町]] |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |style="background-color:#{{都市圏Color|灰}};"| - |} == 文化 == 島内には伝統芸能や農業から生まれた民間信仰、独特の習俗などが多く残っている。ここではその内の一部をリストアップする<ref>{{PDFlink|{{Cite web|和書 |title=淡路の伝統芸能と文化 |url=https://web.archive.org/web/20110513084606/http://web.pref.hyogo.jp/contents/000060464.pdf |date=2004-03 |publisher=兵庫県淡路県民局・兵庫県立淡路文化会館 |accessdate=2010-12-14}}|4.28MiB}}</ref>。 === 伝統芸能 === * 淡路[[人形浄瑠璃]] - [[室町時代]]末期に南あわじ市市三條で始まったとされる。三条八幡神社に発祥の地の碑がある。現在残っている人形座は淡路人形浄瑠璃資料館の市村六之丞座と人形浄瑠璃館(大鳴門橋記念館)の淡路人形座の二つ。また島内の小中高校の各郷土芸能部や淡路人形浄瑠璃青年研究会などが後継団体となって保存している。1976年(昭和51年)国の[[重要無形民俗文化財]]に指定。 * [[だんじり]] - 淡路のだんじりは赤い布団を5枚重ねた「布団だんじり」が特徴である。他にも「つかいだんじり」、「投げだんじり」や「舟だんじり」などがあり、他府県からの見物客も多い。 * 五尺踊り - 縄騒動で処刑された才蔵らの命日、3月23日に南あわじ市の広田八幡宮・大宮寺の「天明志士の碑」の前で奉納される。 * 阿万の風流大踊小踊 - 南あわじ市阿万上町の亀岡八幡神社に伝わる。大踊は室町時代末期から、小踊は江戸時代中頃から。<!--国の重要無形民俗文化財への指定を2011年1月21日に文化審議会が答申、出典は広報南あわじ(2011.2.1)No.73南あわじ市総務部情報課--> === 民俗信仰 === * [[粥占]]祭 - 洲本市の厳島神社、淡路市一宮多賀の[[伊弉諾神宮]]。 * [[御田植]]神事 - 洲本市の栢野森住吉神社、淡路市一宮多賀の伊弉諾神宮。 * [[庚申待|庚申講]] - 島内全域。 * 社日ッツァン - 民間信仰。淡路市(旧[[北淡町]])。 * ヤマドッサン - 田の神・山の神・年神である尉と姥をヤマドッサンと呼び、正月9日にお迎えして豊作を祈る。淡路市舟木地区。 * [[先山#団子ころがし|団子ころがし]] - 死者の五七日忌(35日)に団子を山上から谷に向かって投げる供養行事。先山や妙見山、地蔵山、開鏡山、愛宕山など。 * [[芝右衛門狸]] - 芝右衛門狸、柴右衛門狸(しばえもんたぬき、しばえもんだぬき)、日本三名狸に数えられている。 ===スポーツイベント=== *[[淡路島女子駅伝競走大会]] *[[淡路駅伝競走大会]] *[[淡路国生みマラソン]]<ref>[http://kuniumi-marathon.com/ 淡路国生みマラソン]</ref> *[[すもとマラソン]]<ref>[http://www.city.sumoto.lg.jp/sumotorun/ すもとマラソン]</ref> *[[淡路島たまねぎリレーマラソン]] *[[淡路島ロングライド150]]<ref>[http://www.awajishima-longride.jp/ 淡路島ロングライド]</ref> == 経済 == 総生産額は4426[[億]][[円 (通貨)|円]]。就業割合は1次産業が6.0%、2次産業が27.4%、3次産業が66.6%で、1次産業の割合が県平均 (0.6%) を大きく上回っている(2003年)<ref name="nourin" />。 === 製造業 === [[ファイル:三洋電機洲本事業所.JPG|thumb|パナソニック(三洋電機)洲本事業所]] * [[パナソニックエナジー社洲本工場]] (旧[[三洋電機]]モバイルエナジーカンパニー本社) * 三洋エナジー南淡、三洋エナジー東浦 * [[東洋合成工業]]淡路工場 * ワールドインダストリーファブリック([[ワールド (企業)|ワールド]]の関連会社) * [[山本光学]]淡路工場、北淡工場 * [[ダントーホールディングス]] * [[パイオニア (パチスロ)]] * [[栗之浦ドック]]淡路工場(南あわじ造船) * 淡路マテリア * [[イズミフードマシナリ]] * 大昭和精機 * ミツ精機・ミツテック * ムネ製薬 * 三和製作所 * [[森長組]] * [[プライミクス]] [[ファイル:Sumoto Artisan Square Sumoto Awaji Island Japan07n.jpg|thumb|[[洲本アルチザンスクエア]]]] *旧[[鐘淵紡績洲本工場]] 淡路島の中心地である[[洲本市]]は、かつて[[鐘淵紡績洲本工場]]([[カネボウ (1887-2008)|カネボウ]])の企業城下町であった。淡路島には1896年創業の[[淡路紡績]]があった<ref name="tabata" />。鐘淵紡績(カネボウ)は1900年(明治33年)に淡路紡績を買収し、関西の拠点として洲本工場を開設した。1950年(昭和25年)には従業員数4200人を超えるまでに成長したが、その後の経済構造の変化により洲本工場は縮小の道を辿り1985年(昭和60年)に綿紡事業に終止符をうち、新たに発足した[[カネボウ電子]]へ移管され、そして1986年(昭和61年)に紡績操業を停止するに至った。カネボウの歴史の中で洲本工場は、綿紡織事業を手掛けてきた工場として最長(87年)の歴史をもつ。 現在跡地は洲本市新都心ゾーンとして[[イオン洲本ショッピングセンター]]、[[エディオン]](ミドリ電化洲本店)、[[兵庫県立淡路医療センター]]([[兵庫県立淡路病院]]を移転)、[[洲本市文化体育館]]、[[洲本健康福祉館]]、[[みなと銀行]]洲本支店等が立地し、[[洲本市民広場]]として整備されたエリアに点在する[[洲本市立図書館]]や[[洲本アルチザンスクエア]]、[[旧鐘紡洲本第3工場汽缶室|淡路ごちそう館「御食国」]]等は、鐘淵紡績洲本工場の近代建築を再生した施設として注目されている。 === 地場産業 === *[[線香]] *[[淡路瓦]](いぶし瓦) *[[真珠]]核(明石海峡大橋の愛称の元となった)<ref name="nourin" /><ref>{{Cite web|和書 |title=淡路島の特産品 |url=http://www.awaji-navi.jp/about_awaji.php?type=2 |publisher=淡路島観光協会 |accessdate=2010-12-08}}</ref>。 === 農業 === 農家戸数は8,775戸。生産額は369億円。1888年に兵庫県はアメリカから[[タマネギ]]の種を直輸入して農家に配布し、旧[[賀集村]]での栽培をきっかけに南部を中心に栽培が普及し一大たまねぎ産地となった<ref name="tabata" />。昭和40年代から[[二毛作|三毛作]]が行われており、[[水稲]] - [[レタス]] - レタスの作付けの割合が42.6%で最も多く、次いで水稲 - レタス - タマネギが25.7%となっている(2005年)<ref name="nourin" />。 '''作付面積''' * 水稲 - 4380&nbsp;[[ヘクタール|ha]]([[キヌヒカリ]]が74%を占める) * タマネギ - 1946&nbsp;ha(国内シェア9.3%、淡路島たまねぎ<ref group="注釈">[[地域団体商標]]登録済み</ref>) * レタス - 1220&nbsp;ha * 果樹 - 367&nbsp;ha([[ウンシュウミカン]]・[[ビワ]]・[[ナルトオレンジ]]など) '''農畜産品の県内出荷額比率の大きいもの'''(2004年度) * 肉用牛 - 36.0%(飼育頭数21,800頭、[[淡路ビーフ]]) ** 繁殖和牛 - 61.0% * 乳牛 * [[草花|花き]] - 33.8%([[カーネーション]]は全国シェア9.5%) === 水産業 === 5t未満の小型船と養殖漁業が中心で、生産額は153億円、漁獲量は18,378t(2004年) *主な漁港 **[[岩屋港]]([[淡路市]]) **[[由良港 (兵庫県)|由良港]]([[洲本市]]) **[[福良港]]([[南あわじ市]]) *名産 **[[ちりめんじゃこ]]・[[イカナゴ]] - 10,343t(全国シェア8.7%) **[[ワカメ]] - 2,884t **[[海苔]] - 4億8,800万枚 **[[鱧]]、[[タコ|蛸]]、[[鯛]] === 観光業 === 年間の観光客数は1,062万人(2004年)。豊かな自然や食の宝庫であるなど、観光資源は豊富である(古くから[[淡路国]]は食の宝庫として知られ、[[御食国]]として皇室・朝廷に御食料を貢いだとされる)。 *観光名所 **[[兵庫県立あわじ花さじき]] **[[国営明石海峡公園]] **[[江埼灯台]] **[[徳島藩松帆台場跡|松帆砲台跡]] **[[由良要塞]] **[[五斗長垣内遺跡]] **パルシェ 香りの館・香りの湯 **[[伊弉諾神宮]] **[[厳島神社 (洲本市)|厳島神社]] **[[淡路国分寺]] **[[大和大国魂神社]] **[[自凝島神社]] **[[諭鶴羽神社]] **[[護国寺 (南あわじ市)|護国寺]] **[[本福寺 (淡路市)|本福寺]] **[[淡路ワールドパークONOKORO]] **たこせんべいの里、産直淡路島赤い屋根 **[[養宜館]] **[[洲本温泉]] **[[洲本市民広場]]の近代化産業遺産 ***[[洲本アルチザンスクエア]]、[[洲本市立図書館|洲本図書館]]、[[旧鐘紡洲本第3工場汽缶室|御食国]]、[[旧鐘紡洲本工場原綿倉庫|旧鐘紡原綿倉庫]] **淡路ファームパーク イングランドの丘 **淡路島牧場 **[[灘黒岩水仙郷]] **[[立川水仙郷]] **[[平和観音寺]] **淡路人形座 **観潮船(うずしおクルーズ「咸臨丸・日本丸」)-淡路島[[福良港]]から出港している大型観潮船 **淡路島うずしおの郷 **[[兵庫県立淡路島公園]] **[[アワイチ]] **[[瀬戸内海国立公園]] *** [[明石海峡]] *** [[常隆寺山]] *** [[大浜海岸 (洲本市)|大浜海岸]] *** [[洲本城]](三熊山) *** [[先山#千光寺|先山千光寺]] *** [[五色浜]] *** [[慶野松原]] *** [[諭鶴羽山]] *** [[鳴門海峡]] === 主な金融機関 === *[[淡路信用金庫]] *[[淡陽信用組合]] *[[三井住友銀行]](洲本支店) *[[みなと銀行]](岩屋支店、津名支店、洲本支店、南あわじ支店) *[[関西みらい銀行]](淡路島支店) *[[徳島大正銀行]](洲本支店、南あわじ支店) *[[ゆうちょ銀行]] *[[近畿労働金庫]](洲本支店) *[[淡路日の出農業協同組合]] *[[あわじ島農業協同組合]] *[[なぎさ信用漁業協同組合連合会]](淡路島支店) == 教育 == === 大学 === *[[兵庫県立大学]] 淡路緑景観キャンパス(大学院緑環境景観マネジメント研究科([[兵庫県立淡路景観園芸学校]])) *[[関西看護医療大学]](看護学部、大学院[[看護学研究科]]) *[[吉備国際大学]](農学部(元・地域創成農学部)) ==== 大学附属施設 ==== *[[神戸大学]] 大学院海事科学研究科附属国際海事教育センター海洋実習施設 *神戸大学 内海域環境教育研究センター *[[芦屋大学]] 淡路島臨海セミナーセンター === 専修学校 === *関西総合リハビリテーション専門学校 *平成淡路看護専門学校 === 高等学校・私立中学校 === *[[兵庫県立洲本高等学校]] *[[兵庫県立津名高等学校]] *[[兵庫県立淡路三原高等学校]] *[[兵庫県立洲本実業高等学校]] *[[兵庫県立淡路高等学校]] *[[学校法人柳学園|蒼開中学校・高等学校]] *[[AIE国際高等学校]] *[[相生学院高等学校]] 洲本校 *[[神村学園]]高等部 淡路島学習センター === 特別支援学校 === *[[兵庫県立あわじ特別支援学校]] === 公立中学校 === ;[[淡路市]]立 [[淡路市立一宮中学校|一宮中学校]]・[[淡路市立岩屋中学校|岩屋中学校]]・[[淡路市立津名中学校|津名中学校]]・[[淡路市立東浦中学校|東浦中学校]]・[[淡路市立北淡中学校|北淡中学校]] ;[[洲本市]]立 [[洲本市立洲浜中学校|洲浜中学校]]・[[洲本市立青雲中学校|青雲中学校]]・[[洲本市立由良中学校|由良中学校]]・[[洲本市立安乎中学校|安乎中学校]]・[[洲本市立五色中学校|五色中学校]] ;南あわじ市・洲本市小中学校組合立 [[南あわじ市・洲本市小中学校組合立広田中学校|広田中学校]] ;[[南あわじ市]]立 [[南あわじ市立南淡中学校|南淡中学校]]・[[南あわじ市立三原中学校|三原中学校]]・[[南あわじ市立西淡中学校|西淡中学校]]・[[南あわじ市立倭文中学校|倭文中学校]]・[[南あわじ市立沼島中学校|沼島中学校]] === 公立小学校 === ;[[淡路市]]立 [[淡路市立津名東小学校|津名東小学校]]・[[淡路市立石屋小学校|石屋小学校]]・[[淡路市立浦小学校|浦小学校]]・[[淡路市立大町小学校|大町小学校]]・[[淡路市立学習小学校|学習小学校]]・[[淡路市立釜口小学校|釜口小学校]]・[[淡路市立一宮小学校|一宮小学校]]・[[淡路市立塩田小学校|塩田小学校]]・[[淡路市立志筑小学校|志筑小学校]]・[[淡路市立多賀小学校|多賀小学校]]・[[淡路市立中田小学校|中田小学校]]・[[淡路市立北淡小学校|北淡小学校]] ;[[洲本市]]立 [[洲本市立洲本第一小学校|洲本第一小学校]]・[[洲本市立洲本第二小学校|洲本第二小学校]]・[[洲本市立洲本第三小学校|洲本第三小学校]]・[[洲本市立大野小学校|大野小学校]]・[[洲本市立加茂小学校|加茂小学校]]・[[洲本市立中川原小学校|中川原小学校]]・[[洲本市立安乎小学校|安乎小学校]]・[[洲本市立由良小学校|由良小学校]]・[[洲本市立都志小学校|都志小学校]]・[[洲本市立鮎原小学校|鮎原小学校]]・[[洲本市立鳥飼小学校|鳥飼小学校]]・[[洲本市立広石小学校|広石小学校]]・[[洲本市立堺小学校|堺小学校]] ;南あわじ市・洲本市小中学校組合立 [[南あわじ市・洲本市小中学校組合立広田小学校|広田小学校]] ;[[南あわじ市]]立 [[南あわじ市立市小学校|市小学校]]・[[南あわじ市立榎列小学校|榎列小学校]]・[[南あわじ市立神代小学校|神代小学校]]・[[南あわじ市立三原志知小学校|三原志知小学校]]・[[南あわじ市立阿万小学校|阿万小学校]]・[[南あわじ市立賀集小学校|賀集小学校]]・[[南あわじ市立北阿万小学校|北阿万小学校]]・[[南あわじ市立湊小学校|湊小学校]]・[[南あわじ市立松帆小学校|松帆小学校]]・[[南あわじ市立福良小学校|福良小学校]]・[[南あわじ市立辰美小学校|辰美小学校]]・[[南あわじ市立八木小学校|八木小学校]]・[[南あわじ市立倭文小学校|倭文小学校]]・[[南あわじ市立西淡志知小学校|西淡志知小学校]]・[[南あわじ市立沼島小学校|沼島小学校]] == 交通 == 徒歩で橋を渡って出入りすることはできないため、歩行者は[[バス (交通機関)|バス]]や[[タクシー]]、もしくは船舶を利用する必要がある。 === 道路 === 本州と四国を結ぶ[[神戸淡路鳴門自動車道]]が淡路島を縦断しており、北は[[明石海峡大橋]]で[[本州]]に、南は[[大鳴門橋]]で[[四国]]に連絡している。本州(特に京阪神)と四国を結ぶ高速バスも多数設定されている。淡路島北端部にある[[淡路SA]]および隣接する[[淡路ハイウェイオアシス]]は[[観覧車]]や展望台が併設された大規模な休憩施設であり、淡路島の新たな観光スポットとなっている。明石海峡大橋と大鳴門橋はいずれも[[自動車専用道路]]であるため、徒歩・軽車両・原付・小型自動二輪・ミニカーいずれも通行できない。 タクシーを利用する場合は降車時[[タクシーメーター]]に表示された料金の他に神戸淡路鳴門自動車道の通行料を往復分支払う必要がある。 本州・四国 - 淡路島間には以下の会社によって[[高速バス]]が運行されている。各社とも明石海峡大橋経由(本州 - 淡路島間)で利用可能。大鳴門橋経由は淡路交通(淡路島 - 徳島県間)<ref>[[徳島飛行場|徳島空港]]発着路線は[[みなと観光バス (南あわじ市)]]も</ref>とフットバス(淡路島 - [[香川県]]間)のみ利用可能。 *淡路島発着 **[[淡路交通]]・[[神姫バス]] **[[本四海峡バス]]・[[西日本ジェイアールバス]] **[[みなと観光バス (南あわじ市)]] *本州と四国を結んで且つ淡路島にも停車 **本四海峡バス・[[徳島バス]] - 淡路島に停車するのは[[関西国際空港]]リムジンバス([[関西空港交通]]・[[南海バス]]と共同運行)・[[阿波エクスプレス京都号]](西日本ジェイアールバス・[[ジェイアール四国バス]]・[[京阪バス]]と共同運行)のみ。 **[[高松エクスプレス]](フットバス) **[[四国高速バス]] - 名古屋発着便のみ [[ファイル:明淡高速船.JPG|thumb|淡路ジェノバライン(岩屋港 2006年)]] === 航路 === 2010年11月15日を最後に[[明石淡路フェリー]](たこフェリー)が休止したことにより、淡路島と外部を結ぶ航路は約7年間にわたり[[明石港]] - [[岩屋港]]間の高速船「[[淡路ジェノバライン]]」のみとなった。淡路ジェノバラインに載せることができる車両は自転車のみであるため、自転車を除く軽車両・原付・小型自動二輪車・ミニカーが自走で淡路島へ出入りする手段はなくなっていたが、橋が通行不能になった場合や原付や125cc以下の小型自動二輪車の通行手段を確保するため、兵庫県、明石市、洲本市、南あわじ市、淡路市でつくる「明石海峡海上交通に関する協議会」で国からの補助を受け淡路市が新造船「[[まりん・あわじ]]」を導入することが決まり<ref>{{Cite news|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201401/0006650819.shtml |title=100トン級高速旅客船 15年夏、明石‐淡路間に就航へ|work=神戸新聞NEXT |date=2014-01-20 |accessdate=2015-06-24}}</ref>、淡路ジェノバラインに運航を委託する形で2015年8月2日から就航、同年9月23日から原付・小型自動二輪車の航送を開始した<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20150619-YIYRIGQM7JJW5GL42OOME57EFE/ |title=新高速船「まりん・あわじ」、125cc以下のバイク積載OK |work=産経ニュース|date=2015-06-19 |accessdate=2015-06-24}}</ref>。2017年7月9日から2018年7月13日まで[[関西国際空港]] - [[洲本港]]間に「[[淡路関空ライン]]」が就航していた。 === 鉄道 === [[四国新幹線]]は淡路島を経由して走らせる計画であるが、建設計画は具体化してない。大鳴門橋は新幹線走行を前提に[[鉄道道路併用橋]]として建設されたものの、当初の四国新幹線構想が経由を予定した明石海峡大橋は道路専用橋として建設された。2020年代時点の四国新幹線構想では代替として[[紀淡トンネル]]を経由する前提であるが、建設促進運動でも四国島内と大阪を結ぶ区間の優先順位は低いとされている<ref>{{Cite news|url=https://trafficnews.jp/post/122690/3|title=「四国新幹線」予定地を自転車道に? 大鳴門橋の「鉄道のための空間」なぜ残っていたか|author= 宮武和多哉|newspaper=乗りものニュース|date=2022-11-06|accessdate=2023-10-15}}</ref>。実現したのは下記の淡路鉄道のみである。 * [[淡路鉄道]] [[洲本駅|洲本]] - [[福良バスターミナル#福良駅|福良]]間 1966年(昭和41年)廃止(軌間1,067mmの電化された鉄道) 路線は淡路島を東西に横断する形で敷設された。日本の[[北海道]]・[[本州]]・[[九州]]・[[四国]]の主要な四島をのぞいた[[島]]における鉄道路線は、([[中州]]など四島から直通するものをのぞいて)[[第二次世界大戦]]後はこの淡路島のみであった<ref group="注釈">第二次世界大戦終結まではこのほかに[[沖縄県]]([[沖縄本島]]など。また[[南大東島]]のものは戦後も[[1983年]](昭和58年)まで運行。→[[沖縄県の鉄道]]を参照)、そして[[外地]]と呼ばれた[[太平洋戦争]]前の日本領である[[台湾]]・[[樺太]]がある。</ref>(洲本駅の駅舎がバスターミナルとして利用されるなど、今なお当時の面影が残る)。このほか、{{要出典範囲|岩屋 - [[志筑 (淡路市)|志筑]] - 洲本や志筑 - 江井を結ぶ[[淡路快速交通]]計画が存在したり|date=2022-11}}、前記の淡路交通の区間を含む形での「本四淡路線」(須磨 - 淡路島 - 鳴門)が[[鉄道敷設法別表一覧|鉄道敷設法別表]]に掲載された([[鉄道敷設法別表一覧#第86号ノ2|兵庫県須磨附近ヨリ淡路国岩屋附近ニ至ル鉄道 及福良ヨリ徳島県鳴門附近ニ至ル鉄道]]・[[鉄道敷設法別表一覧#第87号|淡路国岩屋ヨリ洲本ヲ経テ福良ニ至ル鉄道]])が、「本四淡路線」については四国新幹線に計画が吸収された。 == 出身人物 == <!-- 以下は50音順です --> * [[赤松瞭]](元[[プロ野球選手]]) <!--* [[秋葉魔王]]([[漫画家]])--> * [[生田勝義]]([[刑法学|刑法学者]]、[[立命館大学]]名誉教授) * [[一宮政吉]]([[牧師]]) * [[大内義一 (英文学者)|大内義一]]([[米文学|米文学者]]、[[早稲田大学]]名誉教授) * [[岡本亮一]]([[俳優]]) * [[菅達長]]([[戦国武将]]) * [[小泉哲三]]([[実業家]]) * [[須賀不二男]]([[俳優]]) * [[高見勝利]]([[法学者]]、[[上智大学]]教授・[[北海道大学]]名誉教授) * [[竹本春子太夫]]([[義太夫節]]の[[太夫]]) * [[やまねあやの]]([[漫画家]]・[[イラストレーター]]) * [[山本隆造]](元[[プロ野球選手]]・[[プロ野球審判員]]) * [[湯浅真由美]]([[ナレーター]]) * [[吉田兵次]]([[文楽]]の人形遣い) === 淡路市 === {{main|[[淡路市#出身人物|淡路市出身人物]]}} <!-- 以下は50音順です --> * [[井植歳男]]([[実業家]]、[[三洋電機]]創業者) * [[植村文楽軒]]([[江戸時代]]後期の[[文楽座]]創業者・[[文楽]]始祖者) * [[太田實 (実業家)|太田實]]([[内務官僚]]・[[衆議院議員]]・[[実業家]]) * [[大鳴門灘右エ門 (2代)|大鳴門灘右エ門]]([[大相撲力士]]、[[大関]]・[[八角 (相撲)|八角]]) * [[かみじょうたけし]]([[ピン芸人]]) * [[久住章]]([[左官職人]]) * 久住有生(左官職人) * [[笹野高史]]([[俳優]]) * [[志田重男]]([[社会運動家]]、[[所感派]]幹部・[[日本共産党(解放戦線)]]創設者) * [[四宮米蔵]](江戸時代後期の[[囲碁棋士]]・[[真剣師|賭碁師]]) * [[鈴木重胤]](江戸時代後期の[[国学者]]) * 高田ふーみん([[クリエイター]]、[[YouTuber]]) * [[近本光司]](プロ野球選手、[[阪神タイガース]]) * [[長田あつし]]([[演歌歌手]]・元[[殿さまキングス]]) * [[中田修]]([[精神医学者]]、[[東京医科歯科大学]]名誉教授) * [[八陣信蔵]]([[大相撲力士]]、[[大坂相撲]]初代[[横綱#非公認横綱|横綱]]・[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]) * [[原健三郎]]([[衆議院議員]]当選20回、[[労働大臣]]・[[衆議院議長]]を歴任) * [[正本順三]]([[高分子化学|高分子化学者]]、[[紫綬褒章]]受章) * [[村西良太]](プロ野球選手、[[オリックス・バファローズ]]) * [[八尾善四郎]](実業家、[[兵庫運河]]完成に貢献) * [[山口春吉]]([[ヤクザ]]、[[山口組]]初代組長) * [[山本大貴 (内野手)|山本大貴]](アマチュア野球選手、元高校通算本塁打記録保持者) * [[渡瀬恒彦]]([[俳優]]、出生地は[[島根県]][[安来市]]) * [[渡哲也]]([[俳優]]、出生地は[[島根県]][[安来市]]) === 洲本市 === {{main|[[洲本市#出身人物|洲本市出身人物]]}} <!-- 以下は50音順です --> * [[阿久悠]]([[作家]]・[[作詞家]]、映画「[[瀬戸内少年野球団]]」の原作本も執筆) * [[朝比奈彩]]([[モデル (職業)|モデル]]・[[タレント]]) * [[石本秀雄]](映画[[撮影技師]]) * [[岩野泡鳴]]([[小説家]]・[[詩人]]、[[自然主義文学]]五大作家の一人) * [[大槻憲二]]([[精神分析家]]・[[心理学者]]・[[文芸評論家]]) * [[岡本帰一]]([[童画家]]) * [[奥野高廣]]([[歴史学者]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]研究者) * [[北山修]]([[精神医学者]]・[[精神分析学者]]・[[ミュージシャン]]・[[作詞家]]、[[九州大学]]名誉教授・[[日本精神分析学会]]元会長、[[ザ・フォーク・クルセダーズ]]のメンバー) * [[吉山明兆]]([[室町時代]]の[[画僧]]) * [[キムラ緑子]]([[俳優|女優]]) * [[錦城山勇吉]](元[[大相撲力士]]、[[大関]]) * [[白川芝山]](江戸時代後期の[[南画家]]・[[書家]]) * [[鈴木清 (医学者)|鈴木清]]([[解剖学者]]、鈴木氏鍍銀法の発明者) * [[須田匡昇]]([[総合格闘家]]、元[[修斗]]世界[[ライトヘビー級]]王者・元SuperBrawl世界[[ミドル級]]王者) * 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[[アートディンク]]が開発・販売している[[経営シミュレーションゲーム]]。収録シナリオの一つである「蘇る鉄道」は淡路島をモデルとしている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[ファイル:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}} * [[兵庫県南部地震]] * [[阪神淡路大震災]] * [[淡路島地震]] * [[吹き戻し]] * [[淡路弁]] * [[淡路国]] * [[淡路 (大阪市)]] * [[淡路市]] * [[南海道]] * [[南あわじ市]] * [[洲本市]] * [[洲本温泉と淡路島の観光]]([[サンテレビジョン|サンテレビ]]) * [[オノゴロ島]] * [[あわじ型掃海艦]] ** [[あわじ]] <!-- 接触地が淡路島なだけ。日航123便事故が下田にリンク不要なのと同理由 * [[全日空機淡路島空中接触事故]] --> == 外部リンク == {{Commonscat|Awaji_Island}} {{wikivoyage|Awaji_Island|淡路島{{en icon}}}} * [https://web.pref.hyogo.lg.jp/area/awaji/ 兵庫県淡路県民局] * [https://www.awajishima-kanko.jp/ 淡路島観光ガイド・あわじナビ] - 淡路島観光協会 * [http://www.m-awaji.jp/ 南あわじ市商工会 大好き!!淡路島] * {{osmrelation|4730658}} * {{Googlemap|淡路島}} * {{ウィキトラベル インライン|淡路島|淡路島}} {{Normdaten}} {{coord|34|23|N|134|50|E|display=title}} {{デフォルトソート:あわししま}} [[Category:淡路島|*]] [[Category:淡路国]] [[Category:兵庫県の島]] [[Category:瀬戸内海の島]] [[Category:大阪湾]]
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大三島
大三島(おおみしま)は、愛媛県今治市に属する芸予諸島の中の1つの有人島。愛媛県の最北に位置し、同県に属する島の中では最大である。大山祇神社がある「神の島」として知られている。 伊予国風土記(逸文)には「御嶋」として現われる。一方、「大三島」の名は古くは鎌倉時代の文献に見えるが、これは島内にある大山祇神社(中世は三嶋大明神または三嶋社、大三島宮など)のことである。江戸期には島名と徐々に区別されなくなっていった。、 2020年の第21回国勢調査時点で4,963人。 過疎や高齢化による人口減少が激しいが、近年は移住者が増加しており、2021年には島外から80人の移住者があった。定住率も高いという。 国宝の島として知られる。神の島として魚類を採ることは長らく禁忌とされていたことから、漁業は盛んではない。 古くは入り江の一帯に大山祇神社の社殿が営まれていた。 14世紀に確立した四国八十八ヶ所の本札所として瀬戸内海および四国地方で宮島と並び隆盛していた大山積神社(大山祇神社)が選ばれ、本式の遍路は、両方の円明寺(53番札所と54番札所)を四国側のかがり火(円い明かり)として大三島に渡っていたとみられる。 松山藩領となっていた。また、大山祇神社の門前町として宮浦が発展していた。 愛媛県今治市に所属する。2005年1月16日に今治市などとの平成の大合併による新設合併により新・今治市の一部となった。それまでは島の西半分が大三島町、東半分が上浦町の2町に行政区分が分かれていた。 大山祇神社のある宮浦地区が島の観光の中心となっている。付近には旅館や土産物店、飲食店も数軒ずつ立地し、芸予諸島の中では生口島・瀬戸田と並ぶ一大観光拠点となっている。国の名勝に指定されている。 しまなみ海道の開通とともに島の東部にインターチェンジができたことから、インターチェンジのある多々羅(たたら)地区には多々羅しまなみ公園、芸術会館、多々羅温泉、しまなみドームなどの観光関連施設が旧・上浦町により整備されている。 リゾート開発構想が華やかなりし頃(総合保養地域整備法など参照)は「えひめ瀬戸内リゾート開発構想」の一つの重点整備地区として大手企業によるリゾート開発構想も打ち上げられたが、バブル崩壊とともに大手企業は用地取得、開発着手の前に事実上開発構想を断念・撤退し、地道な取組みに戻った。 今日では、地域資源を生かしたグリーンツーリズムや修学旅行・合宿の誘致など地道な観光振興が行われている。 日本遺産の36番「"日本最大の海賊"の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊"Murakami KAIZOKU"の記憶-」の構成要素42のうち5項目が大三島にある。
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大三島(おおみしま)は、愛媛県今治市に属する芸予諸島の中の1つの有人島。愛媛県の最北に位置し、同県に属する島の中では最大である。大山祇神社がある「神の島」として知られている。 伊予国風土記(逸文)には「御嶋」として現われる。一方、「大三島」の名は古くは鎌倉時代の文献に見えるが、これは島内にある大山祇神社(中世は三嶋大明神または三嶋社、大三島宮など)のことである。江戸期には島名と徐々に区別されなくなっていった。、
{{Infobox 島 |島名=大三島 |画像= Oomisima20210427 1.jpg |画像説明 = 大山祇神社 拝殿(重要文化財) | 緯度度 = 34 | 緯度分 = 14 | 緯度秒 = 43 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 133 |経度分 = 0 | 経度秒 = 38.8 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP-38 |面積=64.54 |周囲=88.8 |標高=437 |海域=[[瀬戸内海]] |国=[[日本]]([[愛媛県]]) |地図 = {{Location map|Japan Ehime Prefecture#Japan|relief=1|float=center|label=大三島}} |OSMズーム = 10 }} {{osm box|r|8095804}} '''大三島'''(おおみしま)は、[[愛媛県]][[今治市]]に属する[[芸予諸島]]の中の1つの有人島。愛媛県の最北に位置し、同県に属する島の中では最大である。[[大山祇神社]]がある「[[神]]の島」として知られている。 伊予国風土記(逸文)には「御嶋」として現われる。一方、「大三島」の名は古くは鎌倉時代の文献に見えるが、これは島内にある[[大山祇神社]](中世は三嶋大明神または三嶋社、大三島宮など)のことである。江戸期には島名と徐々に区別されなくなっていった。、 == 自然 == [[File:Cape Tottori from ship of Omishima Ferry.jpg|thumb|250px|大三島最北端の鳥取岬]] * [[愛媛県]]に属する面積64.54[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]([[国土地理院]]のデータによる)の[[島]]。 * 気候 - 温暖少雨 * 山 - [[鷲ヶ頭山]](わしがとうさん) 437m * 川 - 河川はいずれも小規模である。水資源に恵まれないことから島嶼部としては珍しく台(うてな)川にダム([[台ダム]])が整備され、大三島だけでなく隣の[[伯方島]]および[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]に[[西瀬戸自動車道]](しまなみ海道)の橋に併設された導水管を通じて給水されている。 * 植生 - 島内は元々ハゲ山が多く植生は乏しかった。現在ある森林の殆どは明治以降の人工林である。有史以前は、[[ウバメガシ]]・[[トベラ]]・[[クスノキ]]を中心とした植生が広がっていたものと考えられている。現在でも神社にはクスノキやウバメガシの古木が残っており、特に「大山祇神社のクスノキ群」は原始林社叢の楠群として、国の[[天然記念物]]に指定されている。 [[File:大三島位置図.png|thumb|none|400px|大三島の位置とアクセス。緑線がしまなみ海道、青線が主要な航路<br /> 本州(中国地方西部除く)や四国から上陸する場合、[[西瀬戸自動車道|瀬戸内しまなみ海道]]を使うのが最も早い。[[広島市]]方面からアクセスする場合、[[竹原市]]から[[大三島フェリー]]を使うのも便利である。また、[[呉市]]から[[安芸灘とびしま海道]]で[[岡村島]]まで渡り、[[大三島ブルーライン]]・[[今治市営渡船]]を使って来ることもできる。]] == 人口 == 2020年の第21回国勢調査時点で4,963人<ref name=ktr02>[https://www.city.imabari.ehime.jp/simingamannaka/tokei/r03/02.pdf ]</ref>。 過疎や高齢化による人口減少が激しいが、近年は移住者が増加しており、2021年には島外から80人の移住者があった<ref name=iyo>[https://goodway.co.jp/fip/htdocs/jo33wd2gy-303/?block_id=303&active_action=journal_view_main_detail&post_id=371802&comment_flag=1 ]</ref>。定住率も高いという<ref name=iyo />。 == 歴史 == [[国宝]]の島<ref group="注釈">国宝8点・重要文化財472点で、国宝・重要文化財となっている武具甲冑類の8割を所蔵していることから</ref>として知られる。神の島として[[魚類]]を採ることは長らく[[タブー|禁忌]]とされていたことから、[[漁業]]は盛んではない。 ;中世以前 古くは入り江の一帯に大山祇神社の社殿が営まれていた。 ;中世 14世紀に確立した[[四国八十八ヶ所]]の本札所として瀬戸内海および四国地方で[[宮島]]と並び隆盛していた大山積神社([[大山祇神社]])が選ばれ、本式の遍路は、両方の円明寺(53番札所と54番札所)を四国側のかがり火(円い明かり)として大三島に渡っていたとみられる。 ;近世 [[伊予松山藩|松山藩]]領となっていた。また、大山祇神社の門前町として宮浦が発展していた。 * [[安永 (元号)|安永]]4年(1775年) - 宮浦本川の河道付け替え工事を開始。 :生じた土砂により肥海新田の開発(安永7年完成)が行われ、宮浦発展の基礎が築かれた。このほか、宮浦新田の開発が始まる(安永5年完成)。 * 安永9年(1780年) - 松山藩が御垂金(今日でいう補助金)を支給し、宮浦本川の改良によって生じた新しい参道への町家の進出を奨励する(安永9年には38軒に達した)。 * 寛政12年(1800年) - 『四国遍礼名所図会』によると、大三島の町は広く繁昌の地で上方より芝居が来ていて遊所があると記されている。 ;近代 * [[1874年]]([[明治]]7年) - 大三島郵便局開設 * [[1876年]](明治9年) - 曙学校開設 * [[1905年]](明治38年) - 宮浦本川の洪水により多くの被害を出す。 * [[1909年]](明治42年) - 造林が行われる。 * [[1912年]](明治45年 / [[大正]]元年) - 宮浦施業森林組合・宮浦村造林組合創設{{要出典|date=2010年7月|title=日付を明示して元号の問題を解決してください。}} * [[1912年]](明治45年 / 大正元年) - [[宮浦港 (今治市)|宮浦港]]への汽船が就航。{{要出典|date=2010年7月|title=日付を明示して元号の問題を解決してください。}} * [[1926年]]([[大正]]15年) - 大山祇神社に宝物館を設置<ref name="名前なし-1">[http://www2.kokugakuin.ac.jp/museum/jinja/37/37_ooyama2.html 神社博物館事典(國學院大學サイト)]</ref>。 * [[1931年]](昭和6年) - 宮浦-井口間の峠越の道路が開通。 * [[1934年]](昭和9年) - 造林計画がほぼ完了する。 * [[1947年]](昭和22年) - 人口がピークに達する。23,398人 * [[1948年]](昭和23年) - [[愛媛県立大三島高等学校]]開校 * [[1951年]](昭和26年) - 宮浦港港務所設置 * [[1953年]](昭和28年) - 大山祇神社本殿の修理工事が落成。 * [[1962年]](昭和37年) - 大山祇神社宝物館の紫陽殿が落成<ref name="名前なし-1"/>。 * [[1971年]](昭和46年) - 海事博物館落成 * [[1971年]](昭和46年) - 宮浦港港務所改築 * [[1973年]](昭和48年) - 民俗資料館落成 * [[1975年]](昭和50年) - 宮浦港への高速艇の就航開始。 * [[1979年]](昭和54年) - 大三島と[[伯方島]]を結ぶ[[大三島橋]]が開通。 * [[1991年]]([[平成]]3年) - [[台ダム]]完成 * [[1999年]](平成11年) - 大三島と[[広島県]][[生口島]]を結ぶ[[多々羅大橋]]が開通。 == 行政 == [[愛媛県]][[今治市]]に所属する。[[2005年]][[1月16日]]に今治市などとの[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]による新設合併により新・今治市の一部となった。それまでは島の西半分が[[大三島町]]、東半分が[[上浦町 (愛媛県)|上浦町]]の2町に行政区分が分かれていた。 == 経済・産業 == ;第一次産業 :[[ミカン]]を中心とした農業が主たる産業だが、[[オレンジ]]輸入自由化等により不振となり、近年では[[イチゴ]]等の栽培も小規模ながら行われている。かつては[[除虫菊]]の栽培が盛んであった。瀬戸内の島嶼であることから平地が乏しく、また水資源にも恵まれていないため米作条件を満たせていないことから、盛んではない。 ;製造業 :小規模ながら[[造船所]]、船体ブロック工場、縫製工場などがある。 :「伯方の塩」のブランド名で知られる[[伯方塩業]](本社・松山市)の製塩工場が近年立地している。なお、戦中までは島の東岸に[[石油備蓄基地]]があった。 ; 商業 :大山祇神社の参道である宮浦商店街があるものの、しまなみ海道の開通などもあり、参拝客の多くが宮浦港を利用する船客から自動車での来訪に移行したため沈滞している。また、島内の[[過疎|過疎化]]もこれに拍車をかけている。 == 教育 == ;小学校 *[[今治市立大三島小学校]] *今治市立上浦小学校 :市の統廃合の検討対象に挙がっているが、島で1校と通学区域範囲が広範囲となり、また旧大三島町の区域では2004年度に1校に統合して間もないこともあり、懸念が広がっている。 ;中学校 *今治市立大三島中学校(上浦中学校と大三島中学校が統合。旧上浦中校舎を利用し、平成27年4月開校) ;高等学校 *[[愛媛県立今治北高等学校大三島分校]] ;かつて存在した学校 *上浦町立盛小学校 *上浦町立井口小学校 *上浦町立瀬戸崎小学校 *大三島町立大三島北小学校 **大三島町立鏡小学校(大三島北小学校へ統合) **大三島町立宮浦小学校(大三島北小学校へ統合) *大三島町立大三島南小学校 **大三島町立岡山小学校(大三島南小学校へ統合) **大三島町立口総小学校(大三島南小学校へ統合) **大三島町立宗方小学校(大三島南小学校へ統合) **今治市立大三島中学校(上浦中学校と統合) **今治市立上浦中学校(大三島中学校と統合) == 観光 == 大山祇神社のある宮浦地区が島の観光の中心となっている。付近には旅館や土産物店、飲食店も数軒ずつ立地し、芸予諸島の中では[[生口島]]・[[瀬戸田町|瀬戸田]]と並ぶ一大観光拠点となっている。国の[[名勝]]に指定されている。 しまなみ海道の開通とともに島の東部にインターチェンジができたことから、インターチェンジのある多々羅(たたら)地区には多々羅しまなみ公園、芸術会館、多々羅温泉、しまなみドームなどの観光関連施設が旧・上浦町により整備されている。 リゾート開発構想が華やかなりし頃([[総合保養地域整備法]]など参照)は「[[えひめ瀬戸内リゾート開発構想]]」の一つの重点整備地区として大手企業によるリゾート開発構想も打ち上げられたが、バブル崩壊とともに大手企業は用地取得、開発着手の前に事実上開発構想を断念・撤退し、地道な取組みに戻った。 今日では、[[地域資源]]を生かした[[アグリツーリズム|グリーンツーリズム]]や修学旅行・合宿の誘致など地道な観光振興が行われている。 == 文化 == === 日本遺産 === [[日本遺産]]の36番「"日本最大の海賊"の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊"Murakami KAIZOKU"の記憶-」の構成要素42のうち5項目が大三島にある。 * 大三島:国名勝 * 大山祇神社の文化財:国宝・国重文・国天然記念物 * 大山祇神社の法楽連歌:国重文(典籍) * [[甘崎城]]跡:県史跡 * 伝村上吉継墓と明光寺:未指定 === 水軍にちなむ伝説・遺跡 === [[File:Oomisima20210427 4.jpg|thumb|300px|大三島の鶴姫公園に立つ鶴姫(左)とその恋人・越智安成(右)の像<ref>[https://www.iyokannet.jp/spot/3955 鶴姫公園 いよ観ネット] - 愛媛県観光物産協会、2021年5月4日閲覧。</ref>]] * [[鶴姫 (大三島)|鶴姫]]伝説 : 鶴姫は大山祇神社の大祝職を務めた大祝家の女性で、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に大三島を攻めた[[大内氏]]を撃退したとされる。現在は大三島観光のコンテンツとして利用されるが、知名度が上がったのは1966年以降であり、その実在性をめぐり疑問や指摘、批判も挙がっている。 * [[甘崎城]]跡 : 大三島の東岸の沖合いにある[[水軍]]の出城跡。[[天智天皇]]の頃、[[唐]]の侵攻に備えて造られた日本最古の水軍城と伝えられる。近世には、[[藤堂高虎]]の弟が居留したといわれている。居館のものとみられる柱跡が見られる。戦後すぐまでは周辺で[[アサリ]]がたくさん採れ、今日でも干潮時には大三島から砂州を伝って歩いていくことができる。 === いも地蔵 === [[File:Oomisima20210427 3.jpg|thumb|いも地蔵(向雲寺)]] :[[下見吉十郎]]は薩摩国からサツマイモの種芋を持ち帰り栽培に成功して島の農民に配って栽培法を伝授し飢饉から島民を救った。 [[下見吉十郎]]を参照。 == 名所・名産 == [[File:Oomisima20210427 2.jpg|thumb|藤棚(大三島藤公園)]] * 名所 ** [[大山祇神社]] - 日本総鎮守、伊予国一宮。 ** [[東円坊]] - かつては四国五十五番の本札所であり、[[大山祇神社|大山積神]]の本地仏である[[大通智勝如来|大通智勝仏]]がいる<ref>現地から徒歩7分の所に大三島町文化財保護審議会が平成13年3月設置の看板より</ref>。 ** [[向雲寺]] - 最初に大山積神を奉祀した元宮である横殿の本地仏を祀った大通庵と<ref>現地看板より</ref>いも地蔵堂がある。 ** [[大三島橋]]、[[多々羅大橋]] ** [[道の駅]][[道の駅しまなみの駅御島|しまなみの駅御島]] ** [[台海岸]]海水浴場 - テレビドラマ「[[がんばっていきまっしょい]]」ロケ地(劇中では艇庫があった)。 ** しまなみふれあい交流館(旧・[[上浦町立盛小学校]]) ** しまなみドーム ** 上浦芸術会館 ** [[村上三島記念館]] ** [[今治市大三島美術館|大三島美術館]] ** [[ところミュージアム大三島]] ** [[今治市伊東豊雄建築ミュージアム|伊東豊雄建築ミュージアム]] ** [[岩田健]]母と子のミュージアム ** 大三島藤公園 ** 多々羅しまなみ公園 ** 大三島ふるさと憩いの家 - 映画『[[船を降りたら彼女の島]]』ロケ地(劇中では「民宿・波の穂」として登場)。 ** [[多々羅温泉]] ** [[マーレ・グラッシア大三島]] ** [[瓢箪島]] - [[ひょっこりひょうたん島]]のモデルとなった島 * イベント ** 三島水軍鶴姫まつり * 名産 ** 農産物 - [[ウンシュウミカン]]、[[ハッサク]]、[[ネーブルオレンジ]]、[[イヨカン]]、[[イチゴ]]、[[キウイフルーツ]] ** 海産物 - [[ヒラメ]]、[[ハマグリ]]、[[クルマエビ]] ** 加工品 - かんきつゼリー、神島まんじゅう、いも吉まんじゅう == 交通 == === 道路 === [[File:Tataraoohasi20210427 1.jpg|thumb|道の駅 多々羅しまなみ公園]] * [[高速道路]] ** [[西瀬戸自動車道]](通称:しまなみ海道) *** [[大三島インターチェンジ|大三島IC]] *** [[上浦パーキングエリア|上浦PA]] : [[本州四国連絡道路]]の一つである、西瀬戸自動車道が通る。[[大三島橋]]で[[伯方島]]と、[[多々羅大橋]]で[[生口島]]と結ばれている。 * [[国道]] ** [[国道317号]] * [[都道府県道|県道]] ** [[愛媛県道21号大三島上浦線]](島の中央を東西に横断する道路) ** [[愛媛県道51号大三島環状線]](島を一周する道路) *(関前諸島架橋構想) **[[安芸灘とびしま海道]]と[[瀬戸内しまなみ海道]]を接続し、[[呉市|呉]]への最短ルートを形成する構想。隣接する[[関前諸島]]への架橋が[[広島県]]と[[愛媛県]]により構想されている。 === バス === * しまなみ海道の開通とともに[[大三島インターチェンジ|大三島BS]]から[[広島バスセンター|広島]]、[[福山市|福山]]へのバス「[[しまなみライナー]]」が運行されており、広島県側の島との往来は「しまなみライナー」を利用するしかない。 * 宮浦からは、[[今治市|今治]]、[[松山市駅|松山]]行きのバスが運行されている。 * 島内の路線は[[瀬戸内運輸]]と地元自治体の出資による[[瀬戸内海交通]]が運行しており、後者の車体カラーなどは瀬戸内運輸と似通ったデザインである。便数は多くない。 === 船舶 === * [[宮浦港 (今治市)|宮浦港]] ** かつて竹原-宮浦-波方などのフェリーが運航していたが、しまなみ海道の開通によって廃止。 * [[宗方漁港]] ** 今治港 - '''宗方港''' - [[木江港]] ** '''宗方港''' - [[岡村港]] ** 今治港 - '''宗方港''' - 大下港 - 小大下港 - 岡村港(旅客のみ) **岡村港の属する岡村島は[[広島県]]側のとびしま海道の起点であり、この航路は[[西瀬戸自動車道|しまなみ海道]]と[[安芸灘諸島連絡架橋|とびしま海道]]を接続している * [[盛漁港]] ** 盛港 - [[忠海港]] ※一部、[[大久野島]](おおくのじま)へ寄港。 *** この航路は愛媛県島しょ部から[[本州]]への最短ルート。 * [[上浦港]] ** 井口港 *** 大三島の東岸にある井ノ口港は、古くから漁業と海運業を中心とした海上交通基地や荒天時における一時避難港の役割を担ってきた。1999年のしまなみ海道の開通までは対岸の垂水地区(生口島、広島県瀬戸田町)と結ぶフェリー便や[[盛漁港|盛港]](大三島の北端)を経由して[[忠海港]](広島県竹原市)への航路があったが、しまなみ海道の開通により廃止された。かつてフェリー航路があった関係で井ノ口港には待合所のほかフェリー乗船車用の待機レーンがあり、かつての名残りを留めている。 *** 2008年10月15日を以って、三原観光汽船とほうらい汽船が共同運航していた[[三原港]]-[[瀬戸田港]]-井口港の航路のうち、瀬戸田港-井口港間は廃止された。 *** しまなみ海道をはさんで南側に多々羅しまなみ公園(特産品販売施設・飲食店を含む)が整備されたほか北側には運動公園も整備され、観光クルーズ船や遊漁船の運航等の観光・レクリエーション拠点施設としての役割も担いつつある。ただ島には大きな産業もないため物流港湾としての利用が減少しているほか、設備の老朽化や船舶大型化への対応などの問題がある。 *** なお港のある地区は「井口」(いのくち)であるが、正式な港湾の名前としては「'''井ノ口港'''」と「ノ」が間に入る。ただ、土木行政関係者以外は地元では一般に「'''井口港'''」と呼び、表記される(港の看板もそうなっている)。 == 出身者 == * [[下見吉十郎|下見吉十郎秀譽]]:江戸時代の[[農学者]]。大三島に甘藷を広めた「伊予の三農」の一人。中世期の伊予国の豪族[[河野氏]]の子孫という。 * [[浅野三智]]:大三島万福寺元住職、仏教学者。日本[[エスペラント]]運動の発展に寄与 * [[香川末光]]:[[歌人]] * [[香川美人]]:[[歌人]] * [[藤原与一]]:[[言語学者]]・[[方言学]]者、[[広島大学]]名誉教授。今治市大三島図書館に寄贈図書を中心とした「与一文庫」がある。 * [[村上三島]]:日本の[[書家]]、[[勲三等旭日中綬章]]受賞、(上浦町) * [[藤田省三 (思想史家)|藤田省三]]:[[思想史家]]・[[政治学者]]、[[丸山眞男]]の弟子、[[法政大学]]元教授 * [[菅良二]]:前[[今治市]]長 * [[高木伸三]]:元[[浜松市教育委員会]][[教育長]] * [[藤原健]]:[[格闘家]] * [[金子美奈]]:[[北陸朝日放送]][[アナウンサー]] * [[美甘子]]:歴史アイドル == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{commonscat|Ōmishima}} * [[日本国指定名勝の一覧]] == 外部リンク == * {{国指定文化財等データベース|401|2547|大三島}} *[{{NDLDC|917265}} 『大三島の宝器と三島水軍』 藤田政助 編 (大三島宮保勝会, 1926)] *{{osmrelation|4673653}} * {{Kotobank}} {{芸予諸島}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおみしま}} [[Category:大三島|*]] [[Category:芸予諸島]] [[Category:愛媛県の島]] [[Category:今治市の地理]] [[Category:しまなみ海道|島04おおみしま]] [[Category:愛媛県にある国指定の名勝]]
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ウィリアムズF1
ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(英: Williams Grand Prix Engineering Limited)は、1977年から活動しているイギリスのレーシングコンストラクター。特にF1レーシング・チームとしての活動が知られる。 創設者は、フランク・ウィリアムズおよびパトリック・ヘッド。2020年にウィリアムズ家が経営権を手放し、現在は米国の投資会社「ドリルトン・キャピタル」がオーナーを務めている。 1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2019年時点)を獲得している。フェラーリ、マクラーレンと並び、F1を代表する名門チームである。 チームとしては「頑固なエンジニア集団」と表現されたこともあるように保守的な手法をとることが多い。実際、1980年代前半の車作りは保守的で、同時期の優勝経験のあるチームの中ではカーボンファイバーモノコックの導入やターボエンジンへの切り替えは後発の部類となった。一方でタイトルスポンサーとしてキヤノンおよびロスマンズと契約していた時代には、多くのチャレンジを行っている。エンジン面ではターボエンジンでは当時F1の実績がないに等しかったホンダ製や自然吸気エンジンではF1で採用例がなかったV10で設計されたルノー製の採用などは、当時としては異例の決断でもあった。また、シャシー面ではフェラーリの次にセミオートマチックトランスミッションを採用し、ロータスと同時期にアクティブサスペンションを実戦投入し、それが失敗したにもかかわらず、開発を続け、1992年には完成の域に達して時のシーズンを圧倒。同時にルノーV10の採用をきっかけに後のトータルパッケージの概念の先便となるなど、1990年代前半の開発競争をリードした。他にも、ドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある。 チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針のため、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかった年が数回ある。またドライバーに対してドライな態度を取る事も目立ち、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。 2020年夏まではチーム株式の過半数をオーナーのフランク・ウィリアムズが所有しており、チーム関係者のパトリック・ヘッドや、アメリカの病院経営者であるブラッド・ホリンガーといった人物も大株主に名前を連ねていた他、元ウィリアムズのエグゼクティブディレクターで現在はメルセデスAMG F1のチーム代表を務めるトト・ヴォルフも株主の1人であった。 2020年8月21日にプレスリリースを発表。5月下旬に始まった戦略的な見直しによって導き出された結論により、ドリルトン・キャピタルに買収されたことが明らかになった。なお、ドリルトン・キャピタルによれば今後もチーム名とシャシー名は今まで通り”ウイリアムズ”と”FW”を使い続けるといい、「ウイリアムズの遺産を尊重し、維持することの重要性を認識している」としてファクトリーを含むチーム本社のグローブからの移転も計画していない。9月3日にはフランク・ウィリアムズを筆頭とする取締役が解任され、ドリルトン・キャピタルの会長マイケル・サベージらが新たに取締役に就任したことが発表され、ウィリアムズ家はチーム経営から離脱した。これにより家族経営のプライベーターチームとしてのウィリアムズの歴史に終止符が打たれることになった。 マスコミでの日本語の表記は、昔から小文字を使わない「ウイリアムズ」が多い。 1977年、自ら興したフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを手放したフランク・ウィリアムズは、エンジニアのパトリック・ヘッドとともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」として再出発した。この年は一時的なつなぎとしてマーチ・761を購入して参戦した。 マーチのマシンで参戦し、1978年からのフル参戦の体制を整えるべくチームは奔走。ヘッドは部下のフランク・ダーニー、ニール・オートレイ、ロス・ブラウンらを指揮して、強力な技術部門を構築。フランクはサウジアラビア航空の後援を受け、オーストラリア人ドライバーのアラン・ジョーンズと契約し、独立したチームとしてフル参戦できる環境を整えた。そして、1978年、再出発の純粋な第一号となるウィリアムズ・FW06を手にフル参戦を果たす。チームとしてグラウンド・エフェクト理論の研究が済んでいなかったことや資金不足から同マシンはあえて保守的な設計を取っていたが、第15戦の2位表彰台を含む計3回入賞を記録し、コンストラクターズランキング9位となった。 1979年、チームはサウジアラビア航空やアルビラッド、TAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。その際、フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたと言われている。この年の第5戦から研究を重ねて完成させたFW07を投入。そして、第9戦イギリスGPでクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でさらに4勝を記録した。 そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。 1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムのネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。 1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。 1983年は旧シャーシ熟成型となるFW08Cで参戦し、勝利はロズベルグによるモナコGPでの1勝のみに終わるが、同年にエンジンサプライヤーとして15年ぶりにF1活動を再開したホンダと交渉を開始し、6月には契約締結に成功。以後はV6ターボエンジンを搭載する新シャーシの開発に注力。1983年の最終戦にてFW09をデビューさせる。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年のアメリカGP(ダラス)で酷暑のレースをロスベルグが制し、ホンダエンジンとしては17年ぶりとなるF1での勝利をものにした。この1984年よりロズベルグが仲介役となり新たにウィリアムズの大口スポンサーとなったインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)は、80年代を通して長らく円形のロゴをウィリアムズのフロントノーズに載せ続けることとなった。 1985年にはキヤノンとのメインスポンサー契約が成立。ジャック・ラフィーのリジェ移籍が決まった為、ルノーのデレック・ワーウィックに獲得オファーをするも、ルノー残留を望んだワーウィックに断られたため、ロータスでピーター・ウォーと不仲となり放出されたナイジェル・マンセルを獲得しロズベルグとのコンビとなった。FW10は第5戦からホンダの新設計エンジン「RA165E」を搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPがF1初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。ホンダ・ターボの初期開発を支えたロズベルグはマクラーレンへの移籍が決まり、4年在籍したウィリアムズを去った。 1986年、2度のワールドチャンピオン経験者であるネルソン・ピケが加入。この時点でマンセルはまだ前年の1勝のみであり、ピケは完全No.1待遇でウィリアムズと契約した。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。この背景は、契約上ではピケがNo.1ドライバーとして加入したにもかかわらず、それに反発するようにチームが自国ドライバーのマンセルを優遇し、両ドライバーの険悪な関係を招いた。また、チームオーナーのフランクが交通事故により脊椎骨折の重傷を負い、下半身麻痺となり車椅子での生活を余儀なくされた。それでも車椅子姿でチームの指揮を執ったが、定期的な療養が必要であったため、リーダーとしてチーム内の混乱を収める余裕がなかった。さらに、フランクも含めウィリアムズ側がマンセルを支持していたのに対し、エンジンを供給するホンダはピケのウィリアムズ加入を推薦したことやその条件としてピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していたこともこの混乱に拍車をかけた。ピケはこの2年後に受けたインタビューにて「契約から半年後にはチームとのNo.1待遇の約束は反故にされ状況が難しくなった。マンセルは1986年のブランズハッチで優勝して、その翌週にフェラーリからマンセルを獲得したいと声がかかった。するとフランク(・ウィリアムズ)は、急にマンセルに多くのことを約束して、ウィリアムズに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。No.1のはずの僕はアクティブ・サスのテストドライバーに成り下がってしまった。サス開発のテスト走行を全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中してて良いなんてことを承服できるわけがない。」とこの年の内情を述べている。 こうしたチーム内の混乱を突かれ、最終戦オーストラリアGPではマクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンをさらわれてしまった。最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームとされた2人ともドライバーズ・チャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力の分散を真っ先に挙げた。 1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを実戦投入し、イタリアGPで勝利している。しかしマンセルを優遇するチームへの不満が募ったピケはロータスへの移籍が決定。さらにホンダがピケと入れ替わる形で日本人である中嶋悟の起用を打診するもウィリアムズ側がそれを拒否するなどホンダとの関係も急速に悪化し、ホンダは供給先をロータスとマクラーレンの2チームに変更してウィリアムズへのエンジン供給を同年限りで打ち切ることを発表。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。 ホンダターボを失った1988年は、ノンターボのジャッドエンジンを搭載したFW12で参戦。マンセルが2回2位を獲得したものの、ジャッドエンジンの信頼力不足、アクティブサスの熟成不足により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降はノーマルサスペンションに戻す羽目になり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。なお、ウィリアムズがジャッドCVの供給を受けるため必要とした費用はホンダが肩代わりした。契約期間を1年早く打ち切った穴埋めの一部であった。 マンセルはシーズン終了後フェラーリへ移籍した。 1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。ルノーエンジンとFW12シャシーのマッチングも良く、ジャッドとは比較にならない程の戦闘力に高まり、マンセルの後任となったティエリー・ブーツェンが雨のカナダGPで当時の最遅初優勝記録という形で優勝。カナダと同じく雨での開催だった最終戦オーストラリアGPもブーツェンが制し、シーズン2勝を挙げた。 1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスの不調の責任を取らされる形で放出された前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイとすぐさま交渉し契約に成功。堅実な性格のヘッドとの異なる個性が融合したFW14が生み出される。 マンセルが3年ぶりにチーム復帰した1991年、ニューマシンFW14は開幕戦から速さを見せたが、シーズン前半はセミオートマチックトランスミッションのトラブルが多発。その後マクラーレンを急追するも、チームのピットでのミスなどもあり、タイトルを逃した。 1992年はアクティブサスペンションやトラクションコントロールを搭載したハイテクマシン、FW14Bが他チームを圧倒する速さで開幕から1-2フィニッシュでの連勝を重ねる。計10勝を挙げ、マンセルのワールドチャンピオンと共にコンストラクターズタイトルも獲得した。しかし、マンセルはチームとの契約更新を巡る関係悪化から突如F1引退を表明(後にアメリカのCARTへ転向)、5年在籍したパトレーゼもチームの方針に対して嫌気が差し、ベネトンへ移籍した。 1993年はFW14Bの正常進化形であるFW15Cを投入、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格したデイモン・ヒルがコンビを組んだ。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは"0"と"2"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する"0"ではなく"2"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは後半戦にかけて初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。このシーズンを持ってメインスポンサーだったキヤノン、およびキャメルとの関係が終了。1985年から使われていた「青・黄・白・赤」のカラーリングも見納めになった。 1994年はロスマンズが新たにメインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していたアイルトン・セナが加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定しているとさえ言われたが、ハイテクデバイス禁止を受けてデザインされたFW16は極端に不安定な特性をもち、ベネトンのミハエル・シューマッハに開幕連勝を許す。さらに第3戦サンマリノGPではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察は過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーのデビッド・クルサードが昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。突如としてエースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPでの直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。 1995年はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、シューマッハとロス・ブラウンの作戦に翻弄されたり、チームやドライバーのミス、FW17の信頼性に難があったことなどが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを奪われる結果に終わる。ヒルは「ウィリアムズは勝つ為なら手段を選ばないチームではなかった」「ベネトンは実質的にミハエル・シューマッハーのワンマンチームだから、彼を徹底的にマークすれば当然勝機は増す。でもウイリアムズはそう言う戦い方を選ばない矜持を持っていた」と当時を語っている。またこの年を以って、1978年以来のディドコットからグローブに本拠を移転している。 1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴが加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組む。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得しあわや優勝と言う電撃的デビューを飾る。FW18が16戦12勝を挙げるほど他チームを圧倒する戦闘力を誇ったこともあり、チャンピオン争いはヒルとヴィルヌーヴの一騎打ちとなる。最終戦日本GPでヒルは史上初の親子二代チャンピオンを決定するも契約延長交渉が決裂、マンセル同様にチャンピオンがチームを去ることになった。そしてこの一件がニューウェイの堪忍袋の緒が切れる最後の一押しとなってしまい(これに関する事前の相談もなかった)、後述の理由もあり、ニューウェイはマクラーレンへの移籍を決断することとなった。 このヒルの解雇劇についてあまり語られておらず、本人も当時はこの件について語りたくないと沈黙し、後年のインタビューでいくつか語ったものの、詳細は不明である。これに関して書かれた当時の記事の内容では、契約金の交渉が行われていないことからウィリアムズはヒルの放出を内定している可能性があり、ヒルが大きく譲歩しないと残留は難しい考えられ、当時のストーブリーグの噂でもヒルが1997年もウィリアムズ残留できるか怪しいという見解が占めていた。また、ウィリアムズから見れば、1994年と1995年はヒルがドライバーズタイトル獲得の可能性があったにもかかわらず、ミハエル・シューマッハに敗れる結果になったことから今年度で見切りをつけることにしたという見方もあった。他にもフレンツェンの起用に関しては、フジテレビの1996年のF1総集編にて将来のエンジン獲得に有利なドライバーとしてフレンツェンを起用するというフランクのコメントがナレーションで語られたぐらいである。また、専門誌の考察として、1994年にセナがチームに対しを1995年のドライバーとしてフレンツェンの起用を提案していたという噂があり、チームはそれをここにきて実現することを選んだという解説をしている(1996年時点では一連のウィリアムズの動きからBMWが将来的に参戦するのではという噂話にとどまっており、BMWがウィリアムズとエンジン供給の契約締結とその期間が2000年からの長期契約であることが発表されたのは1997年9月になってからである)。 この時期の出来事について後年のインタビューでいくつか語られており、ヒルに関しては、1997年の契約がないことについてチームから詳細な説明はなかったと語り、ヒル自身は契約金に関しては弁護士に任せていたため、契約金に関する問題に関しては自身の関わっていなかったとコメント。むしろ、この年(1996年)の好成績は(ヒルを放出する予定であった)ウィリアムズ側にとっては予想外で行き詰まってしまったのだろうと語っている。フランクは、ニューウェイのチームの株式保有に関して難色を示したことが結果的にニューウェイ離脱を招いたとして自分のミスだったとも認めている。ただし、ニューウェイはチーム側がドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。その背景には1992年のチームとマンセルを巡る一連の出来事を受け、それ以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でもテスト走行の結果で見切るはずだったヴィルヌーヴを起用し、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はフレンツェンを獲得すると事後報告されたため、そのやり方に嫌気がさし、チームにこれ以上留まらないことを決断した。そんな時期にメルセデスエンジンの開発を担当するイルモアの代表者マリオ・イリエン(マーチ時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われた、と語っている。一方でヘッドはニューウェイがマクラーレン代表のロン・デニスと交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明。それで半ば諦めたと語っている。 どのような経緯があったとしても、後年フランク・ウィリアムズ自身が「ヒル放出」を「あれは大きな失敗だったな」と認めるほどであり、FW19での活躍を最後にBMWのワークスエンジンを得るまで一旦チームは低迷期に入ることとなる。 翌1997年はヒルに替わりハインツ・ハラルド・フレンツェンが加入。だが、ニューウェイは最後の仕事としてFW19の完成を確認したところでそれ以降の開発作業に関与しないとして出社を拒否。そのため、チームとの間で法廷闘争にまで発展。チーム内の混乱はあったが、FW19が依然優位というのが大方の予想であった。ところが、ヒルやニューウェイといったマシンに精通した人材に一時的に穴が開いてしまったことにより、マシンのセッティングに苦慮し、チームの戦略ミスなどもあって、ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいタイトル争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーは予定通りF1から撤退、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。 1998年はスポンサーブランドがロスマンズからウィンフィールドに変更され、FW20は同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。1997年9月には2000年からBMWのエンジン供給契約が締結されたことが正式発表されていた。その間の空白期間は元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていたメカクロームで参戦することとなり、ルノーエンジンという点では変わりなかったが、その内容は前年のルノーRS9(1997年型)を改修したカスタマー供給であった。そのうえ、ニューウェイが去ったこともあり、マシン開発におけるレギュレーション変更の対応に後手に回り、シャシーの戦闘力不足に悩んだ。最終的にはチームとしては1988年以来の未勝利に終わり、コンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、移籍したヒルが第13戦ベルギーGPで初勝利をプレゼントしたジョーダン・グランプリに肉薄されてしまった。シーズン終了後にはヴィルヌーヴとフレンツェンは揃ってチームを離脱した。 1999年はエンジン名をスーパーテック(供給はメカクローム)とし、5年ぶりのF1復帰となるCARTチャンピオンアレッサンドロ・ザナルディとフレンツェンと入れ替わりでジョーダンから加入したラルフ・シューマッハのラインナップとなったが、タイトル争いどころかレースでの優勝争いからも遠ざかった。鳴り物入りで加入したザナルディは精彩を欠き、第13戦イタリアGPで予選4位を獲得したこと以外は振るわず、結果的に1ポイントも獲得できなかった。シューマッハも第14戦ヨーロッパGPで一時首位を走行するなど健闘は見せたものの、優勝争いには絡めなかった。結局この年はジョーダンとスチュワートに抜かれコンストラクターズ5位に終わり、1988年以来11年ぶりにトップ4陥落の屈辱を味わった。 発表された通り、ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰したBMWと提携。ル・マン24時間レースでの共同プロジェクトを経て、2000年より2004年までの長期契約を締結した。登録名はBMWウィリアムズF1 (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった。2000年はシューマッハと、テストで抜擢した新人ジェンソン・バトンのコンビで戦い、シューマッハが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。 2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。シューマッハが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入したファン・パブロ・モントーヤも初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。2002年はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが5連続を含む7ポールポジションを獲得。タイトルを獲得した1997年に次ぐ成績となるコンストラクターズ2位を獲得を果たした。 2003年は序盤戦は低迷するも、FW25の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(シューマッハ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争い、順位こそ前年に準じた位置であったが、ポイント面ではBMWエンジン時代として最高の成績を記録し、1997年以来最も両タイトルに近づいた年となった。また、好調だったことによりBMWとの関係性も極めて良く、シーズン中の6月にはBMWとのエンジン供給契約が2009年まで延長されることが発表された。 この年を最後にパトリック・ヘッドがテクニカルディレクターを退き、後任にサム・マイケルが就任する新体制となり翌年を迎える移行期となるが、結果的にこの2003年を最後にタイトル争いに関わることがなくなり、チームの凋落が表面化していくこととなる。 2004年はサム・マイケルがTDとして挑む新体制であったが、FW26の特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年をもってモントーヤとシューマッハは両名揃ってチームを離脱。モントーヤはマクラーレン、シューマッハはトヨタに移籍した。このうち、シューマッハは後年にウィリアムズ時代について「技術レベルについては素晴らしいレーシングチームだと思う」と断わりを入れた上で、「フランク・ウィリアムズによるチームの管理方法は、常に上から強いプレッシャーをかけるものだった」「あのチームのマネージメントスタイルには間違っていることがすごく多かった」と6年在籍したチームの内情を批判的に述べている。 2005年シーズンはドライバーを一新してマーク・ウェバーとニック・ハイドフェルドが加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への方針を巡ってBMWとの関係は悪化。BMWはザウバーを買収してコンストラクターとして参戦することを決意したことから、ウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなり、結果的にワークスエンジンとして供給された最後のシーズンとなった。また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。 BMWとの離別後はトヨタやホンダとの交渉が噂されたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年はコスワースと契約し、自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤメーカーもミシュランからブリヂストンへ変更された。ドライバーはウェバーが残留し、GP2初代チャンピオンであり、かつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子であるニコ・ロズベルグを起用した。 開幕戦でロズベルグがデビュー戦でファステストラップを記録するなど出だしは悪くなかったが、ワークスチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの信頼性不足でリタイヤが多く、現体制になって以来最悪のコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えた。 2007年にはトヨタと契約し、2009年までカスタマーエンジンの供給を受けることになった。AT&Tがメインスポンサーになり、チーム名はAT&Tウィリアムズ (AT&T Williams) とされた。ドライバーはロズベルグが残留し、3rdドライバーのアレクサンダー・ヴルツがレースドライバーに昇格した。最終戦のブラジルGPではヴルツのF1引退を受け、トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム出身の中嶋一貴(中嶋悟の息子)がF1デビューした。マクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い、最終的にトヨタを上回るコンストラクターズランキング4位を獲得した。 2008年はチーム創設30周年にあたり、シーズン中に出走500回(トルコGP)、決勝レース50000周回(スペインGP)を達成した。ドライバーは3年目のロズベルグとレギュラーに昇格した中嶋という、ヒル・ヴィルヌーヴ以来の二世コンビ。ロズベルグが2度表彰台を獲得したものの入賞の機会は少なく、コンストラクターズランキング8位に後退した。また、2009年に導入されるKERSの開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得し、「ウィリアムズ・ハイブリッド・パワー」に改称してチームファクトリーに移転した。 2009年は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることはなかった。 トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日にカスタマー供給の打ち切りが発表され、2009年末に契約を前倒しして終了する形となった。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。 2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた。 10年ほどスポンサーを務めたアリアンツが離脱・新興メルセデスGPのスポンサーとなった。 2010年に投入したマシンFW32ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードでブラウンGPからルーベンス・バリチェロを起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格したニコ・ヒュルケンベルグとなった。テスト・ドライバーにはバルテリ・ボッタスと新しく契約した。ブラジルGPにてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦アブダビGP終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された。 2008年末からの金融危機が原因でRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド)が、オランダの家電機器メーカーのフィリップスが、それぞれスポンサーを降りた。 2011年シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任としてベネズエラ人ドライバーのパストール・マルドナドを起用することを発表し、これに伴いPDVSA(ベネズエラ国営石油会社)などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる)ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日にフランクフルト証券取引所に株式を上場することを発表した。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。 この年は自社製超コンパクトギアボックス(十分な信頼性は確保されていた)以外に目立った体制変更はなかったが、5ポイント・コンストラクターズランキング9位という2006年以上の不振のシーズンとなった(2006年当時のポイントシステムに換算するとこの年のウィリアムズはノーポイントである)。このためテクニカルディレクターのサム・マイケルを始めとする首脳陣が責任を取る形でチームを離脱。またフランク・ウィリアムズと共に同チームを長年率いたパトリック・ヘッドも関連会社の運営に専念することになりF1の現場を離れた。さらに過去5年にわたりメインスポンサーを務めたAT&Tが2011年末をもって降りた。 2012年シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている。ドライバーはバリチェロに代わりブルーノ・セナが起用された。また同年4月1日付でフランク・ウィリアムズはF1チームの取締役から退くことになった(ただし引き続きチーム代表を務め、役員会議には出席を続けるとのこと)。ウィリアムズ家の代表として、役員会には引き続きフランクの娘クレアが出席する。彼女はチームの広報部門に10年務めており、今回ドミニク・ライリーの退社を受けてマーケティング&コミュニケーションディレクターに昇進した。第2戦マレーシアGP終了後の3月26日、フランク・ウィリアムズの後継者と見なされていたアダム・パーが3月30日付でウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズPLCを退職することを発表。これを受け、ディアジオの前CFOで現在WPGHと2つのFTSE100企業の非常勤取締役を務めるニック・ロースが非総裁(Non-Executive Chairman、非常勤会長)に就任。支配株主のフランク・ウィリアムズが、株主で非常勤取締役のトト・ヴォルフ、経営最高責任者のアレックス・バーンズ、残りの取締役のサポートを受けながら会社の監督を続けていく。第5戦スペインGPでは、パストール・マルドナドが自身初のポールポジションを獲得。決勝ではスタート時にフェルナンド・アロンソに抜かれ2位となったものの、ピットストップのタイミングが功を奏し1位に逆転。後半では2位となったアロンソからの追随をも守りきり、ウィリアムズにとって8シーズン・7年半ぶりとなる優勝を獲得した。しかし、レース終了後の優勝祝いの最中にガレージの燃料庫から出火、火災が発生という災難に見舞われた。幸いに命に関わるような重篤な負傷者はいなかったもののFIAによると、この火災で3チームの計31人が負傷したとのこと。貴重なデータを収めたコンピューターも廃棄となり、それらについて当面は他チームから借り受けて運用することになった。その後、マルドナドは光る速さは持っていたものの、安定性に欠けていたが終盤には再び安定したドライビングをし、セナはマルドナドほどの速さはなかったものの予選下位から追い上げる粘り強さやクレバーな走りで中団争いをすることもしばしばあり、76ポイントでランキング8位となった。同年11月にマルドナドの2013年の残留と、リザーブドドライバーだったバルテリ・ボッタスをレギュラードライバーとして起用することが発表された。 2013年、フランク・ウィリアムズの後継者と目されていたトト・ヴォルフがメルセデスチーム代表に就任したことからウィリアムズとの関係を次第に解消する動きに出る(2016年3月に全株式を手放した)。マシンは一転して2年前の性能に逆戻りしたかのような戦闘力に苦労する事となった。予選最高位はカナダでのマルドナド13位、ボッタス3位、決勝はマルドナドが第10戦ハンガリーGPの10位、ボッタスが第18戦アメリカGPの8位で、チーム成績は2年前の5ポイント・9位と同じになった。8月にパット・シモンズがチーフテクニカルオフィサーに就任した。シーズン終盤にマルドナドはチーム離脱を表明、ロータスへの移籍を発表した。 2014年からF1のエンジンレギュレーションが大きく変更されることから、2013年5月にウィリアムズは、2014年より新たにメルセデスからエンジン供給を受けることを発表した。メルセデスはウィリアムズにエンジン及びエネルギー回生システム(ERS)を含むパワーユニット(PU)を供給するが、トランスミッションはウィリアムズが独自開発する。ドライバーは残留したボッタスとフェラーリからフェリペ・マッサが移籍。テスト段階では従来の紺ベースだったが、マルティーニ・エ・ロッシとの大型スポンサー契約がまとまり、チーム名や塗装にマルティーニの意向が反映され、白地に赤青ストライプが車体に描かれた。2008年を最後に離れていたペトロブラスがブラジル人のマッサ加入に伴いスポンサーに復帰。マルドナドが離脱したもののPDVSAは契約期間が残っていた為に残り期間のスポンサー料が違約金として支払われ、BMWエンジンを失って以後、最も潤沢な資金を得てシーズンに臨む事となった。それでもフェラーリの半分の年間予算である。 開幕戦オーストラリアGPではボッタスが前年を上回る5位入賞を果たし、開幕戦の段階で前年の成績を上回った。続く第2戦マレーシアGP、第3戦バーレーンGPでもマッサ7位、ボッタス8位の2戦連続のダブル入賞が続く。第8戦オーストリアGPの予選ではマッサがポールポジション(PP)、ボッタスが2番手とフロントローを独占した。ウィリアムズのPPは2012年第5戦以来となるが、フロントローを2台独占したのは2003年フランスGP以来の11年ぶりの出来事であった。なお、マッサ自身にとっても2008年ブラジルGP以来6年ぶりのPP獲得であった。決勝は序盤トップと2位を先行したが、ピット作戦でメルセデス勢に逆転を許しマッサ4位、ボッタス3位初表彰台という結果となった。次戦イギリスGPではボッタスが14番手スタートながらも決勝で2位表彰台を獲得。また、最終戦のアブダビGPではダブルポイントの効果もあり、2台で66ポイントを獲得。これにより、1レースで獲得したポイントが最も多いチームとしての記録を残した。この年はフェラーリとロータスの不振もあったが、未勝利ながらも年間ランキング3位と2003年以来の好成績をあげトップチーム返り咲きを果たしたと思われた。 2015年もボッタス、マッサのコンビで参戦。第7戦カナダGPでボッタスが、続く第8戦オーストリアGPでマッサが表彰台を獲得する。第9戦イギリスGPではマッサ、ボッタス共に2列目につけ、ロケットスタートでメルセデスを抜き去り1-2体制でレースを進めていた。しかしピット作戦でメルセデス2台に逆転されると、終盤に雨が降り出した際にウェットタイヤへ交換するタイミングを誤り、フェラーリのセバスチャン・ベッテルにも逆転されマッサ4位、ボッタス5位に終わった。 シーズンを通してメルセデス、フェラーリの後塵を拝するレースが多かったものの、レッドブルの不振もあり、コンストラクターズは前年と変わらず3位、個人ランキングではボッタス5位、マッサ6位となり、結果だけ見れば、前年に近い成績でシーズンを終えた。だが、総獲得ポイントは減少し、前年がチームとして全戦入賞を果たしたのに対し、今季は入賞を逃したGPいくつかあり、さらに表彰台も両ドライバーとも3位表彰台2回ずつに留まるなど(前年は2位表彰台も記録していた)、少なからず成績が下がった。この時期最強とされていたメルセデスPUを搭載していたため、下位チームに対しては優勢を保っていたものの、この年優勝したチームには後れを取っており、それが反映したような成績となってしまった。そして、この年以降、チームの位置付けは、相対的に下がってゆくこととなる。 2016年もドライバーは変わらず。第5戦までは2015年と同じような成績であったが、4月の段階で前年型よりマシンの戦闘力が後退しているコメントが発せられ、シーズンが進むにつれてポイントを獲得するのが精一杯という状況になっていき、メルセデス、レッドブル、フェラーリから大きく差をつけられた。表彰台もカナダGPでのボッタスの3位のみとなり、同じメルセデス製PUを使用するフォース・インディアが3位を2度獲得したこともあり、コンストラクターズ5位に後退した。イタリアGPでマッサがこの年で限りで引退することを発表した。また、テクニカルディレクターのパット・シモンズがこの年をもってチームを離脱。 2017年は「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」としてのF1参戦40周年を迎えることから、順番通りのFW39ではなくシャシー名称を「FW40」とした。ドライバーは当初、マッサの引退を受け、ボッタスの残留と前年ウィリアムズのリザーブドライバーを務めていたランス・ストロールの昇格を発表していた。ところが、前年度王者のニコ・ロズベルグの電撃的引退に伴いボッタスがメルセデスに移籍したため、その影響でマッサは引退を撤回して引き続きウィリアムズで走ることとなった。ストロールには父親であるローレンス・ストロールによる資金提供が強く関わっているとの声が強く、ウィリアムズの資金難を示唆していた。なお、ウィリアムズで10代のドライバーが走るのは史上初のことである。メルセデスを離脱したパディ・ロウがチーフテクニカルオフィサー(CTO)に、前年末にフェラーリを離脱したディルク・デ・ビアが空力責任者にそれぞれ就任し技術陣の強化を行った。 ストロールは開幕3戦はリタイアとなるが、初の母国レースとなる第7戦カナダGPで9位入賞を果たすと、次のアゼルバイジャンGPでは3位に入り、初の表彰台に立った。オーストリアGPでは予選ではマッサ17位、ストロール18位と低迷するも決勝ではマッサ9位、ストロール10位にまで追い上げ今シーズン初のダブル入賞を果たした。ハンガリーGPはマッサが体調不良を訴え欠場したため、リザーブドライバーのポール・ディ・レスタが代走を務めた。チームとしては第2戦と第5戦以外で入賞し、時のトップ3チーム(メルセデス、フェラーリ、レッドブル)以外のドライバーとしてストロールが1回だけだが表彰台に上がったものの、ダブル入賞の回数が大幅に減り(前年10回、今季3回)、ランキングこそ昨年の5位と変わりはなかったが4位のフォース・インディアにはダブルスコアを付けられる結果となった。また、マッサはシーズン後半に改めて引退を表明した。 2018年1月16日、ストロールの残留とセルゲイ・シロトキンの起用、そしてロバート・クビサのリザーブ兼開発ドライバー就任が発表された。開幕を前に、2014年からタイトルスポンサーとなっていたマルティーニが2018年をもって契約終了となることが発表された。マルティーニは25歳以上のドライバーを起用することを要望していた(マッサが2017年に引退を撤回した要因の一つでもあった)が、ストロールは19歳、シロトキンは22歳と条件を満たしておらず、今回のドライバー選択が契約終了の一因ではないかとの見方をされていたが、クレア・ウィリアムズはこれを否定している。パディ・ロウの手による新車FW41に期待が高まったものの空力に問題を抱え、5月にはチーフデザイナーのエド・ウッドと空力責任者のディルク・デ・ビアが相次いで離脱し、パフォーマンスエンジニアリング責任者のロブ・スメドレーもシーズン終了をもって離脱する事態に陥った。そのため、戦闘力強化の一環で自社開発を続けて来たトランスミッションもメルセデスからの供給に切り替える報道が出るほどであり、入賞したのはストロールが第4戦アゼルバイジャンGPで挙げた8位とダブル入賞を果たした第14戦イタリアGPの2戦(イタリアGPのダブル入賞のうち、シロトキンの入賞は上位のドライバーが失格になったこともあってのものであった)のみで、コンストラクターズランキング最下位へと転落した。そんななか、ストロール家率いるコンソーシアムが破産宣告を受けたフォース・インディアを買収し、ランス・ストロールも同チームから名称を変更したレーシング・ポイントへ移籍。シロトキンも持参金が用意できなかったことや資金難の影響で交代させられる形となり、わずか1年でF1から去ることとなった。 2019年、前年の予告通りマルティーニとの契約が終了したため、今期は携帯電話会社の「ROKiT(ロキット)」と新たなタイトルスポンサー契約を結び、『ロキット・ウィリアムズ・レーシング』の名でエントリー。リザーブドライバーのクビサが正ドライバーに昇格して9年ぶりにF1復帰、メルセデスのリザーブドライバーを務めた新人ジョージ・ラッセルとのコンビとなる。新車FW42は合同実走テストに2日半参加できず大幅なハンデとなり、開幕1週間前にCTOのパディ・ロウが事実上更迭された。開幕戦オーストラリアではクビサ、ラッセル共々予選・決勝共に最下位に甘んじ、その後のレースでも下位に低迷。チームは人員の再編を行い、パトリック・ヘッドがコンサルタントとして8年ぶりにF1へ復帰、アダム・カーターがデザイン責任者の役割を引き継いだ。第11戦ドイツGPでクビサが10位となりノーポイントは免れたが、上位のドライバーのペナルティによる繰り上がりでの入賞であった。結局、ドイツGPの入賞で獲得した1ポイントがシーズン唯一のポイントとなり自力入賞は一度もないままシーズンを終えた。7月にROKiTと2023年まで、9月にメルセデスPUと2025年までの長期契約をまとめた。シンガポールGP記者会見でクビサがチーム離脱を発表した。また、今シーズンの成績によってチームのマシン開発の迷走が指摘されるようになる。 2020年、ドライバーはラッセルが残留し、リザーブドライバーを務めていたニコラス・ラティフィが昇格。技術部門も刷新され、レッドブルからデイビッド・ワーナー、ルノーからジョナサン・カーターが移籍してチーフデザイナー、副チーフデザイナー兼デザイン部門責任者にそれぞれ就任し、デザイン部門のアダム・カーターがチーフエンジニアに就任。マクラーレンからサイモン・ロバーツをマネージングディレクターに迎えた。今季はクラッシュテストの素早い合格やマシンの戦闘力の改善の成功の兆しなど、明るいニュースもあった。ところが、世界的な問題による開幕延期に伴い、チームの資金難に拍車がかかることとなった。プレシーズンテストの頃でさえ、深刻な資金難に陥っており、関連会社のウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングの株式を前年末に過半数売却し参戦用の資金を確保。ラティフィの起用は金銭面が理由ではないとしながらも、彼が関連するスポンサーが多数参加しており、それを否定することもできなかった。そのうえ、シーズンが凍結されていることにより、レースで得られる収入が一時的に消滅してしまったため、施設や歴代マシンなどを担保に運営資金の緊急調達に迫られる事態となった。それに追い打ちをかけるかのように、チームからタイトルスポンサーのROKiTが5月29日付で契約が即時終了されたことが発表され、その分の収入も喪失。そのため、チーム株式の過半数あるいはチーム自体の売却を検討し始める事態となった。 2020年8月21日、アメリカの投資企業ドリルトン・キャピタル(Dorilton Capital)に1億5200万ユーロ(約190億円)でチームを売却したことを発表した。チームのオーナーシップはドリルトン・キャピタルに移るが、チームはグローブの拠点に留まり、ウィリアムズとしてF1への参戦は続ける。そして9月初頭の第8戦イタリアGPをもって、フランク・ウィリアムズら首脳陣が正式に退任。43年に及ぶウィリアムズ家の運営に終止符が打たれた。後任のチーム代表には、残留したマネージングディレクターのサイモン・ロバーツが臨時で務める。 今季は予選Q2に何戦か進出し、特にラッセルが複数回Q2進出を達成したが、予選Q3進出までは至らなかった。決勝はラッセル1度、ラティフィ3度の11位の記録が最高位であり、チーム史上初(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代は除く)の年間無得点に終わった。 2021年、ドライバーは両名とも継続。新型コロナウイルス感染拡大の影響により、今季は前年型シャシーの継続の決定。その関係でフロア後部に新たな規制の追加とトークン制による開発制限が導入され、チームは今季のマシンをFW43Bと命名して参戦する。元フォルクスワーゲン・マクラーレンのヨースト・カピートを最高経営責任者(CEO)に招聘したほか、テクニカルディレクターにはフランソワ=グザビエ・ドゥメゾンを起用した。後にロバーツの離脱に伴い、カビートが正式にチーム代表となった。 ラッセルが第10戦オーストリアGPで、ウィリアムズチームとして2018年第14戦イタリアグランプリ以来のQ3進出を果たし、9番手を獲得(前のマシンのペナルティによる順位変動により8番手スタート)。決勝では10位入賞も目前まで迫ったが、タイヤが限界を迎え、11位完走に終わった。 第12戦ハンガリーGPでは、予選こそ両者ともにQ1敗退となったものの、決勝では1周目に起きた前方での多重クラッシュをかいくぐり、ラティフィとラッセルが共に入賞を記録。さらに2位のセバスチャン・ベッテルの失格により順位変動により、ラティフィ7位、ラッセル8位のダブル入賞を記録することとなり、チームとしては2018年第14戦イタリアGP以来のダブル入賞となった。第12戦ベルギーGPではウエットコンディション下で行われた予選においてラッセルが最終的に2番手を獲得。決勝は荒天で最終的に中止となったが、ハーフポイントレースの要件を満たした形かつほぼ決勝開始時の順位のまま終了。その結果、ラッセルが2位、ラティフィが9位となった。また、ベルギーGPの結果に関してはラッセルが2014年オーストリアグランプリ以来のフロントロー獲得(ただし、グリッドペナルティなどの順位変動も含めば2017年イタリアグランプリにランス・ストロールがそれによる繰り上がりの形で2番手を獲得している)と2017年アゼルバイジャングランプリ以来の表彰台入りを記録することとなった。その後、ラッセルが第14戦と第15戦で入賞しポイントを加算。第16戦以降は入賞できなかったが、自チームより下の2チームがウィリアムズの獲得ポイントを上回れなかったため、最終的にコンストラクターズ8位でシーズンを終えた。なお、この年の11月28日にはフランク・ウィリアムズが亡くなっている。 2022年、ラティフィが残留するが、ラッセルがメルセデスに移籍したため、F1へ復帰するアレクサンダー・アルボンが加入。新車FW44はこのシーズンから27年間付けていたセナのSマークを外すことが決定している。またギアボックスは自社製をやめメルセデス供給とした。FW44は開幕時点では開口部が非常に大きく後部を丸ごと削った独特なサイドポッドだったが、成績は低調。第10戦からは一般的なサイドポッドに変更。この年は散発的に9位・10位入賞したもののコンストラクターズ順位も再び最下位(10位)に転落した。 2023年に向けては、ラティフィがチームを離脱し、後任には2022年のFIA F2選手権でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したローガン・サージェントを起用。また2022年12月には、チーム代表のカピート、テクニカルディレクターのドゥメゾンの離脱も発表された。新代表には元メルセデスのジェームス・ボウルズがついた。2023シーズンは、前年に比べるとマシン性能も向上。特に高速サーキットではストレートスピードの速さが光り、開幕戦バーレーンGPではアレクサンダー・アルボン10位入賞し1ポイントを獲得した。第9戦カナダGPではアレクサンダー・アルボンが安定した走りを見せ7位入賞し6ポイントを獲得した。その後もアレクサンダー・アルボンが第11戦イギリスGPで8位入賞、第14戦オランダGPで8位入賞、第15戦イタリアGPで7位入賞、第18戦カタールGPスプリントで7位入賞、第19戦アメリカGPでは、ルイス・ハミルトンとシャルル・ルクレールの失格により9位入賞と入賞、第20戦メキシコGPで9位入賞と入賞を重ねている。ローガン・サージェントは第19戦アメリカGPでルイス・ハミルトンとシャルル・ルクレールの失格により10位入賞しF1キャリア初のポイントを地元アメリカで獲得した。合計で28ポイントを獲得しコンストラクターズランキング7位となっている。 2024年もアルボンとサージェントのコンビで戦うこととなる。 ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。 なおウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングについては、2022年1月にオーストラリアの鉄鉱業企業、フォーテスキュー・メタルズ・グループに約1億6400万ポンドで売却しており、グループから外れている。 かつては、レギュラードライバーは30歳代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、ザウバーやミナルディ、ジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてデビッド・クルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、ジェンソン・バトン、ファン・パブロ・モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、パストール・マルドナド、バルテリ・ボッタス、ランス・ストロール、セルゲイ・シトロキン、ジョージ・ラッセル、ニコラス・ラティフィ、ローガン・サージェントがいる。 このうちヴィルヌーヴ、バトン、ロズベルグはワールドチャンピオンを獲得している。しかし2010年代になるとチームの財政的な運営状態が厳しくなり、ストロールの起用を筆頭にチームに資金をもたらす「ペイドライバー」の起用を優先することが増えてきている。 なお、1983年にイギリスF3参戦中のアイルトン・セナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。ただし、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーとしての起用は見送られた。 歴代のウィリアムズドライバーの中で10名がウィリアムズでF1初勝利を達成している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング(英: Williams Grand Prix Engineering Limited)は、1977年から活動しているイギリスのレーシングコンストラクター。特にF1レーシング・チームとしての活動が知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "創設者は、フランク・ウィリアムズおよびパトリック・ヘッド。2020年にウィリアムズ家が経営権を手放し、現在は米国の投資会社「ドリルトン・キャピタル」がオーナーを務めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2019年時点)を獲得している。フェラーリ、マクラーレンと並び、F1を代表する名門チームである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "チームとしては「頑固なエンジニア集団」と表現されたこともあるように保守的な手法をとることが多い。実際、1980年代前半の車作りは保守的で、同時期の優勝経験のあるチームの中ではカーボンファイバーモノコックの導入やターボエンジンへの切り替えは後発の部類となった。一方でタイトルスポンサーとしてキヤノンおよびロスマンズと契約していた時代には、多くのチャレンジを行っている。エンジン面ではターボエンジンでは当時F1の実績がないに等しかったホンダ製や自然吸気エンジンではF1で採用例がなかったV10で設計されたルノー製の採用などは、当時としては異例の決断でもあった。また、シャシー面ではフェラーリの次にセミオートマチックトランスミッションを採用し、ロータスと同時期にアクティブサスペンションを実戦投入し、それが失敗したにもかかわらず、開発を続け、1992年には完成の域に達して時のシーズンを圧倒。同時にルノーV10の採用をきっかけに後のトータルパッケージの概念の先便となるなど、1990年代前半の開発競争をリードした。他にも、ドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針のため、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかった年が数回ある。またドライバーに対してドライな態度を取る事も目立ち、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2020年夏まではチーム株式の過半数をオーナーのフランク・ウィリアムズが所有しており、チーム関係者のパトリック・ヘッドや、アメリカの病院経営者であるブラッド・ホリンガーといった人物も大株主に名前を連ねていた他、元ウィリアムズのエグゼクティブディレクターで現在はメルセデスAMG F1のチーム代表を務めるトト・ヴォルフも株主の1人であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2020年8月21日にプレスリリースを発表。5月下旬に始まった戦略的な見直しによって導き出された結論により、ドリルトン・キャピタルに買収されたことが明らかになった。なお、ドリルトン・キャピタルによれば今後もチーム名とシャシー名は今まで通り”ウイリアムズ”と”FW”を使い続けるといい、「ウイリアムズの遺産を尊重し、維持することの重要性を認識している」としてファクトリーを含むチーム本社のグローブからの移転も計画していない。9月3日にはフランク・ウィリアムズを筆頭とする取締役が解任され、ドリルトン・キャピタルの会長マイケル・サベージらが新たに取締役に就任したことが発表され、ウィリアムズ家はチーム経営から離脱した。これにより家族経営のプライベーターチームとしてのウィリアムズの歴史に終止符が打たれることになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "マスコミでの日本語の表記は、昔から小文字を使わない「ウイリアムズ」が多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1977年、自ら興したフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを手放したフランク・ウィリアムズは、エンジニアのパトリック・ヘッドとともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」として再出発した。この年は一時的なつなぎとしてマーチ・761を購入して参戦した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "マーチのマシンで参戦し、1978年からのフル参戦の体制を整えるべくチームは奔走。ヘッドは部下のフランク・ダーニー、ニール・オートレイ、ロス・ブラウンらを指揮して、強力な技術部門を構築。フランクはサウジアラビア航空の後援を受け、オーストラリア人ドライバーのアラン・ジョーンズと契約し、独立したチームとしてフル参戦できる環境を整えた。そして、1978年、再出発の純粋な第一号となるウィリアムズ・FW06を手にフル参戦を果たす。チームとしてグラウンド・エフェクト理論の研究が済んでいなかったことや資金不足から同マシンはあえて保守的な設計を取っていたが、第15戦の2位表彰台を含む計3回入賞を記録し、コンストラクターズランキング9位となった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1979年、チームはサウジアラビア航空やアルビラッド、TAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。その際、フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたと言われている。この年の第5戦から研究を重ねて完成させたFW07を投入。そして、第9戦イギリスGPでクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でさらに4勝を記録した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムのネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1983年は旧シャーシ熟成型となるFW08Cで参戦し、勝利はロズベルグによるモナコGPでの1勝のみに終わるが、同年にエンジンサプライヤーとして15年ぶりにF1活動を再開したホンダと交渉を開始し、6月には契約締結に成功。以後はV6ターボエンジンを搭載する新シャーシの開発に注力。1983年の最終戦にてFW09をデビューさせる。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年のアメリカGP(ダラス)で酷暑のレースをロスベルグが制し、ホンダエンジンとしては17年ぶりとなるF1での勝利をものにした。この1984年よりロズベルグが仲介役となり新たにウィリアムズの大口スポンサーとなったインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)は、80年代を通して長らく円形のロゴをウィリアムズのフロントノーズに載せ続けることとなった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1985年にはキヤノンとのメインスポンサー契約が成立。ジャック・ラフィーのリジェ移籍が決まった為、ルノーのデレック・ワーウィックに獲得オファーをするも、ルノー残留を望んだワーウィックに断られたため、ロータスでピーター・ウォーと不仲となり放出されたナイジェル・マンセルを獲得しロズベルグとのコンビとなった。FW10は第5戦からホンダの新設計エンジン「RA165E」を搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPがF1初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。ホンダ・ターボの初期開発を支えたロズベルグはマクラーレンへの移籍が決まり、4年在籍したウィリアムズを去った。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1986年、2度のワールドチャンピオン経験者であるネルソン・ピケが加入。この時点でマンセルはまだ前年の1勝のみであり、ピケは完全No.1待遇でウィリアムズと契約した。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。この背景は、契約上ではピケがNo.1ドライバーとして加入したにもかかわらず、それに反発するようにチームが自国ドライバーのマンセルを優遇し、両ドライバーの険悪な関係を招いた。また、チームオーナーのフランクが交通事故により脊椎骨折の重傷を負い、下半身麻痺となり車椅子での生活を余儀なくされた。それでも車椅子姿でチームの指揮を執ったが、定期的な療養が必要であったため、リーダーとしてチーム内の混乱を収める余裕がなかった。さらに、フランクも含めウィリアムズ側がマンセルを支持していたのに対し、エンジンを供給するホンダはピケのウィリアムズ加入を推薦したことやその条件としてピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していたこともこの混乱に拍車をかけた。ピケはこの2年後に受けたインタビューにて「契約から半年後にはチームとのNo.1待遇の約束は反故にされ状況が難しくなった。マンセルは1986年のブランズハッチで優勝して、その翌週にフェラーリからマンセルを獲得したいと声がかかった。するとフランク(・ウィリアムズ)は、急にマンセルに多くのことを約束して、ウィリアムズに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。No.1のはずの僕はアクティブ・サスのテストドライバーに成り下がってしまった。サス開発のテスト走行を全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中してて良いなんてことを承服できるわけがない。」とこの年の内情を述べている。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "こうしたチーム内の混乱を突かれ、最終戦オーストラリアGPではマクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンをさらわれてしまった。最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームとされた2人ともドライバーズ・チャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力の分散を真っ先に挙げた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを実戦投入し、イタリアGPで勝利している。しかしマンセルを優遇するチームへの不満が募ったピケはロータスへの移籍が決定。さらにホンダがピケと入れ替わる形で日本人である中嶋悟の起用を打診するもウィリアムズ側がそれを拒否するなどホンダとの関係も急速に悪化し、ホンダは供給先をロータスとマクラーレンの2チームに変更してウィリアムズへのエンジン供給を同年限りで打ち切ることを発表。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ホンダターボを失った1988年は、ノンターボのジャッドエンジンを搭載したFW12で参戦。マンセルが2回2位を獲得したものの、ジャッドエンジンの信頼力不足、アクティブサスの熟成不足により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降はノーマルサスペンションに戻す羽目になり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。なお、ウィリアムズがジャッドCVの供給を受けるため必要とした費用はホンダが肩代わりした。契約期間を1年早く打ち切った穴埋めの一部であった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "マンセルはシーズン終了後フェラーリへ移籍した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。ルノーエンジンとFW12シャシーのマッチングも良く、ジャッドとは比較にならない程の戦闘力に高まり、マンセルの後任となったティエリー・ブーツェンが雨のカナダGPで当時の最遅初優勝記録という形で優勝。カナダと同じく雨での開催だった最終戦オーストラリアGPもブーツェンが制し、シーズン2勝を挙げた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスの不調の責任を取らされる形で放出された前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイとすぐさま交渉し契約に成功。堅実な性格のヘッドとの異なる個性が融合したFW14が生み出される。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "マンセルが3年ぶりにチーム復帰した1991年、ニューマシンFW14は開幕戦から速さを見せたが、シーズン前半はセミオートマチックトランスミッションのトラブルが多発。その後マクラーレンを急追するも、チームのピットでのミスなどもあり、タイトルを逃した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1992年はアクティブサスペンションやトラクションコントロールを搭載したハイテクマシン、FW14Bが他チームを圧倒する速さで開幕から1-2フィニッシュでの連勝を重ねる。計10勝を挙げ、マンセルのワールドチャンピオンと共にコンストラクターズタイトルも獲得した。しかし、マンセルはチームとの契約更新を巡る関係悪化から突如F1引退を表明(後にアメリカのCARTへ転向)、5年在籍したパトレーゼもチームの方針に対して嫌気が差し、ベネトンへ移籍した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1993年はFW14Bの正常進化形であるFW15Cを投入、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格したデイモン・ヒルがコンビを組んだ。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは\"0\"と\"2\"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する\"0\"ではなく\"2\"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは後半戦にかけて初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。このシーズンを持ってメインスポンサーだったキヤノン、およびキャメルとの関係が終了。1985年から使われていた「青・黄・白・赤」のカラーリングも見納めになった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1994年はロスマンズが新たにメインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していたアイルトン・セナが加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定しているとさえ言われたが、ハイテクデバイス禁止を受けてデザインされたFW16は極端に不安定な特性をもち、ベネトンのミハエル・シューマッハに開幕連勝を許す。さらに第3戦サンマリノGPではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察は過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーのデビッド・クルサードが昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。突如としてエースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPでの直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1995年はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、シューマッハとロス・ブラウンの作戦に翻弄されたり、チームやドライバーのミス、FW17の信頼性に難があったことなどが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを奪われる結果に終わる。ヒルは「ウィリアムズは勝つ為なら手段を選ばないチームではなかった」「ベネトンは実質的にミハエル・シューマッハーのワンマンチームだから、彼を徹底的にマークすれば当然勝機は増す。でもウイリアムズはそう言う戦い方を選ばない矜持を持っていた」と当時を語っている。またこの年を以って、1978年以来のディドコットからグローブに本拠を移転している。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴが加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組む。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得しあわや優勝と言う電撃的デビューを飾る。FW18が16戦12勝を挙げるほど他チームを圧倒する戦闘力を誇ったこともあり、チャンピオン争いはヒルとヴィルヌーヴの一騎打ちとなる。最終戦日本GPでヒルは史上初の親子二代チャンピオンを決定するも契約延長交渉が決裂、マンセル同様にチャンピオンがチームを去ることになった。そしてこの一件がニューウェイの堪忍袋の緒が切れる最後の一押しとなってしまい(これに関する事前の相談もなかった)、後述の理由もあり、ニューウェイはマクラーレンへの移籍を決断することとなった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このヒルの解雇劇についてあまり語られておらず、本人も当時はこの件について語りたくないと沈黙し、後年のインタビューでいくつか語ったものの、詳細は不明である。これに関して書かれた当時の記事の内容では、契約金の交渉が行われていないことからウィリアムズはヒルの放出を内定している可能性があり、ヒルが大きく譲歩しないと残留は難しい考えられ、当時のストーブリーグの噂でもヒルが1997年もウィリアムズ残留できるか怪しいという見解が占めていた。また、ウィリアムズから見れば、1994年と1995年はヒルがドライバーズタイトル獲得の可能性があったにもかかわらず、ミハエル・シューマッハに敗れる結果になったことから今年度で見切りをつけることにしたという見方もあった。他にもフレンツェンの起用に関しては、フジテレビの1996年のF1総集編にて将来のエンジン獲得に有利なドライバーとしてフレンツェンを起用するというフランクのコメントがナレーションで語られたぐらいである。また、専門誌の考察として、1994年にセナがチームに対しを1995年のドライバーとしてフレンツェンの起用を提案していたという噂があり、チームはそれをここにきて実現することを選んだという解説をしている(1996年時点では一連のウィリアムズの動きからBMWが将来的に参戦するのではという噂話にとどまっており、BMWがウィリアムズとエンジン供給の契約締結とその期間が2000年からの長期契約であることが発表されたのは1997年9月になってからである)。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この時期の出来事について後年のインタビューでいくつか語られており、ヒルに関しては、1997年の契約がないことについてチームから詳細な説明はなかったと語り、ヒル自身は契約金に関しては弁護士に任せていたため、契約金に関する問題に関しては自身の関わっていなかったとコメント。むしろ、この年(1996年)の好成績は(ヒルを放出する予定であった)ウィリアムズ側にとっては予想外で行き詰まってしまったのだろうと語っている。フランクは、ニューウェイのチームの株式保有に関して難色を示したことが結果的にニューウェイ離脱を招いたとして自分のミスだったとも認めている。ただし、ニューウェイはチーム側がドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。その背景には1992年のチームとマンセルを巡る一連の出来事を受け、それ以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でもテスト走行の結果で見切るはずだったヴィルヌーヴを起用し、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はフレンツェンを獲得すると事後報告されたため、そのやり方に嫌気がさし、チームにこれ以上留まらないことを決断した。そんな時期にメルセデスエンジンの開発を担当するイルモアの代表者マリオ・イリエン(マーチ時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われた、と語っている。一方でヘッドはニューウェイがマクラーレン代表のロン・デニスと交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明。それで半ば諦めたと語っている。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "どのような経緯があったとしても、後年フランク・ウィリアムズ自身が「ヒル放出」を「あれは大きな失敗だったな」と認めるほどであり、FW19での活躍を最後にBMWのワークスエンジンを得るまで一旦チームは低迷期に入ることとなる。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "翌1997年はヒルに替わりハインツ・ハラルド・フレンツェンが加入。だが、ニューウェイは最後の仕事としてFW19の完成を確認したところでそれ以降の開発作業に関与しないとして出社を拒否。そのため、チームとの間で法廷闘争にまで発展。チーム内の混乱はあったが、FW19が依然優位というのが大方の予想であった。ところが、ヒルやニューウェイといったマシンに精通した人材に一時的に穴が開いてしまったことにより、マシンのセッティングに苦慮し、チームの戦略ミスなどもあって、ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいタイトル争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーは予定通りF1から撤退、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1998年はスポンサーブランドがロスマンズからウィンフィールドに変更され、FW20は同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。1997年9月には2000年からBMWのエンジン供給契約が締結されたことが正式発表されていた。その間の空白期間は元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていたメカクロームで参戦することとなり、ルノーエンジンという点では変わりなかったが、その内容は前年のルノーRS9(1997年型)を改修したカスタマー供給であった。そのうえ、ニューウェイが去ったこともあり、マシン開発におけるレギュレーション変更の対応に後手に回り、シャシーの戦闘力不足に悩んだ。最終的にはチームとしては1988年以来の未勝利に終わり、コンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、移籍したヒルが第13戦ベルギーGPで初勝利をプレゼントしたジョーダン・グランプリに肉薄されてしまった。シーズン終了後にはヴィルヌーヴとフレンツェンは揃ってチームを離脱した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1999年はエンジン名をスーパーテック(供給はメカクローム)とし、5年ぶりのF1復帰となるCARTチャンピオンアレッサンドロ・ザナルディとフレンツェンと入れ替わりでジョーダンから加入したラルフ・シューマッハのラインナップとなったが、タイトル争いどころかレースでの優勝争いからも遠ざかった。鳴り物入りで加入したザナルディは精彩を欠き、第13戦イタリアGPで予選4位を獲得したこと以外は振るわず、結果的に1ポイントも獲得できなかった。シューマッハも第14戦ヨーロッパGPで一時首位を走行するなど健闘は見せたものの、優勝争いには絡めなかった。結局この年はジョーダンとスチュワートに抜かれコンストラクターズ5位に終わり、1988年以来11年ぶりにトップ4陥落の屈辱を味わった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "発表された通り、ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰したBMWと提携。ル・マン24時間レースでの共同プロジェクトを経て、2000年より2004年までの長期契約を締結した。登録名はBMWウィリアムズF1 (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった。2000年はシューマッハと、テストで抜擢した新人ジェンソン・バトンのコンビで戦い、シューマッハが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。シューマッハが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入したファン・パブロ・モントーヤも初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。2002年はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが5連続を含む7ポールポジションを獲得。タイトルを獲得した1997年に次ぐ成績となるコンストラクターズ2位を獲得を果たした。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2003年は序盤戦は低迷するも、FW25の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(シューマッハ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争い、順位こそ前年に準じた位置であったが、ポイント面ではBMWエンジン時代として最高の成績を記録し、1997年以来最も両タイトルに近づいた年となった。また、好調だったことによりBMWとの関係性も極めて良く、シーズン中の6月にはBMWとのエンジン供給契約が2009年まで延長されることが発表された。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この年を最後にパトリック・ヘッドがテクニカルディレクターを退き、後任にサム・マイケルが就任する新体制となり翌年を迎える移行期となるが、結果的にこの2003年を最後にタイトル争いに関わることがなくなり、チームの凋落が表面化していくこととなる。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2004年はサム・マイケルがTDとして挑む新体制であったが、FW26の特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年をもってモントーヤとシューマッハは両名揃ってチームを離脱。モントーヤはマクラーレン、シューマッハはトヨタに移籍した。このうち、シューマッハは後年にウィリアムズ時代について「技術レベルについては素晴らしいレーシングチームだと思う」と断わりを入れた上で、「フランク・ウィリアムズによるチームの管理方法は、常に上から強いプレッシャーをかけるものだった」「あのチームのマネージメントスタイルには間違っていることがすごく多かった」と6年在籍したチームの内情を批判的に述べている。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2005年シーズンはドライバーを一新してマーク・ウェバーとニック・ハイドフェルドが加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への方針を巡ってBMWとの関係は悪化。BMWはザウバーを買収してコンストラクターとして参戦することを決意したことから、ウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなり、結果的にワークスエンジンとして供給された最後のシーズンとなった。また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "BMWとの離別後はトヨタやホンダとの交渉が噂されたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年はコスワースと契約し、自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤメーカーもミシュランからブリヂストンへ変更された。ドライバーはウェバーが残留し、GP2初代チャンピオンであり、かつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子であるニコ・ロズベルグを起用した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "開幕戦でロズベルグがデビュー戦でファステストラップを記録するなど出だしは悪くなかったが、ワークスチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの信頼性不足でリタイヤが多く、現体制になって以来最悪のコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2007年にはトヨタと契約し、2009年までカスタマーエンジンの供給を受けることになった。AT&Tがメインスポンサーになり、チーム名はAT&Tウィリアムズ (AT&T Williams) とされた。ドライバーはロズベルグが残留し、3rdドライバーのアレクサンダー・ヴルツがレースドライバーに昇格した。最終戦のブラジルGPではヴルツのF1引退を受け、トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム出身の中嶋一貴(中嶋悟の息子)がF1デビューした。マクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い、最終的にトヨタを上回るコンストラクターズランキング4位を獲得した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2008年はチーム創設30周年にあたり、シーズン中に出走500回(トルコGP)、決勝レース50000周回(スペインGP)を達成した。ドライバーは3年目のロズベルグとレギュラーに昇格した中嶋という、ヒル・ヴィルヌーヴ以来の二世コンビ。ロズベルグが2度表彰台を獲得したものの入賞の機会は少なく、コンストラクターズランキング8位に後退した。また、2009年に導入されるKERSの開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得し、「ウィリアムズ・ハイブリッド・パワー」に改称してチームファクトリーに移転した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2009年は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることはなかった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日にカスタマー供給の打ち切りが発表され、2009年末に契約を前倒しして終了する形となった。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "10年ほどスポンサーを務めたアリアンツが離脱・新興メルセデスGPのスポンサーとなった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2010年に投入したマシンFW32ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードでブラウンGPからルーベンス・バリチェロを起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格したニコ・ヒュルケンベルグとなった。テスト・ドライバーにはバルテリ・ボッタスと新しく契約した。ブラジルGPにてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦アブダビGP終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2008年末からの金融危機が原因でRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド)が、オランダの家電機器メーカーのフィリップスが、それぞれスポンサーを降りた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2011年シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任としてベネズエラ人ドライバーのパストール・マルドナドを起用することを発表し、これに伴いPDVSA(ベネズエラ国営石油会社)などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる)ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日にフランクフルト証券取引所に株式を上場することを発表した。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この年は自社製超コンパクトギアボックス(十分な信頼性は確保されていた)以外に目立った体制変更はなかったが、5ポイント・コンストラクターズランキング9位という2006年以上の不振のシーズンとなった(2006年当時のポイントシステムに換算するとこの年のウィリアムズはノーポイントである)。このためテクニカルディレクターのサム・マイケルを始めとする首脳陣が責任を取る形でチームを離脱。またフランク・ウィリアムズと共に同チームを長年率いたパトリック・ヘッドも関連会社の運営に専念することになりF1の現場を離れた。さらに過去5年にわたりメインスポンサーを務めたAT&Tが2011年末をもって降りた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2012年シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている。ドライバーはバリチェロに代わりブルーノ・セナが起用された。また同年4月1日付でフランク・ウィリアムズはF1チームの取締役から退くことになった(ただし引き続きチーム代表を務め、役員会議には出席を続けるとのこと)。ウィリアムズ家の代表として、役員会には引き続きフランクの娘クレアが出席する。彼女はチームの広報部門に10年務めており、今回ドミニク・ライリーの退社を受けてマーケティング&コミュニケーションディレクターに昇進した。第2戦マレーシアGP終了後の3月26日、フランク・ウィリアムズの後継者と見なされていたアダム・パーが3月30日付でウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズPLCを退職することを発表。これを受け、ディアジオの前CFOで現在WPGHと2つのFTSE100企業の非常勤取締役を務めるニック・ロースが非総裁(Non-Executive Chairman、非常勤会長)に就任。支配株主のフランク・ウィリアムズが、株主で非常勤取締役のトト・ヴォルフ、経営最高責任者のアレックス・バーンズ、残りの取締役のサポートを受けながら会社の監督を続けていく。第5戦スペインGPでは、パストール・マルドナドが自身初のポールポジションを獲得。決勝ではスタート時にフェルナンド・アロンソに抜かれ2位となったものの、ピットストップのタイミングが功を奏し1位に逆転。後半では2位となったアロンソからの追随をも守りきり、ウィリアムズにとって8シーズン・7年半ぶりとなる優勝を獲得した。しかし、レース終了後の優勝祝いの最中にガレージの燃料庫から出火、火災が発生という災難に見舞われた。幸いに命に関わるような重篤な負傷者はいなかったもののFIAによると、この火災で3チームの計31人が負傷したとのこと。貴重なデータを収めたコンピューターも廃棄となり、それらについて当面は他チームから借り受けて運用することになった。その後、マルドナドは光る速さは持っていたものの、安定性に欠けていたが終盤には再び安定したドライビングをし、セナはマルドナドほどの速さはなかったものの予選下位から追い上げる粘り強さやクレバーな走りで中団争いをすることもしばしばあり、76ポイントでランキング8位となった。同年11月にマルドナドの2013年の残留と、リザーブドドライバーだったバルテリ・ボッタスをレギュラードライバーとして起用することが発表された。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2013年、フランク・ウィリアムズの後継者と目されていたトト・ヴォルフがメルセデスチーム代表に就任したことからウィリアムズとの関係を次第に解消する動きに出る(2016年3月に全株式を手放した)。マシンは一転して2年前の性能に逆戻りしたかのような戦闘力に苦労する事となった。予選最高位はカナダでのマルドナド13位、ボッタス3位、決勝はマルドナドが第10戦ハンガリーGPの10位、ボッタスが第18戦アメリカGPの8位で、チーム成績は2年前の5ポイント・9位と同じになった。8月にパット・シモンズがチーフテクニカルオフィサーに就任した。シーズン終盤にマルドナドはチーム離脱を表明、ロータスへの移籍を発表した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2014年からF1のエンジンレギュレーションが大きく変更されることから、2013年5月にウィリアムズは、2014年より新たにメルセデスからエンジン供給を受けることを発表した。メルセデスはウィリアムズにエンジン及びエネルギー回生システム(ERS)を含むパワーユニット(PU)を供給するが、トランスミッションはウィリアムズが独自開発する。ドライバーは残留したボッタスとフェラーリからフェリペ・マッサが移籍。テスト段階では従来の紺ベースだったが、マルティーニ・エ・ロッシとの大型スポンサー契約がまとまり、チーム名や塗装にマルティーニの意向が反映され、白地に赤青ストライプが車体に描かれた。2008年を最後に離れていたペトロブラスがブラジル人のマッサ加入に伴いスポンサーに復帰。マルドナドが離脱したもののPDVSAは契約期間が残っていた為に残り期間のスポンサー料が違約金として支払われ、BMWエンジンを失って以後、最も潤沢な資金を得てシーズンに臨む事となった。それでもフェラーリの半分の年間予算である。 開幕戦オーストラリアGPではボッタスが前年を上回る5位入賞を果たし、開幕戦の段階で前年の成績を上回った。続く第2戦マレーシアGP、第3戦バーレーンGPでもマッサ7位、ボッタス8位の2戦連続のダブル入賞が続く。第8戦オーストリアGPの予選ではマッサがポールポジション(PP)、ボッタスが2番手とフロントローを独占した。ウィリアムズのPPは2012年第5戦以来となるが、フロントローを2台独占したのは2003年フランスGP以来の11年ぶりの出来事であった。なお、マッサ自身にとっても2008年ブラジルGP以来6年ぶりのPP獲得であった。決勝は序盤トップと2位を先行したが、ピット作戦でメルセデス勢に逆転を許しマッサ4位、ボッタス3位初表彰台という結果となった。次戦イギリスGPではボッタスが14番手スタートながらも決勝で2位表彰台を獲得。また、最終戦のアブダビGPではダブルポイントの効果もあり、2台で66ポイントを獲得。これにより、1レースで獲得したポイントが最も多いチームとしての記録を残した。この年はフェラーリとロータスの不振もあったが、未勝利ながらも年間ランキング3位と2003年以来の好成績をあげトップチーム返り咲きを果たしたと思われた。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2015年もボッタス、マッサのコンビで参戦。第7戦カナダGPでボッタスが、続く第8戦オーストリアGPでマッサが表彰台を獲得する。第9戦イギリスGPではマッサ、ボッタス共に2列目につけ、ロケットスタートでメルセデスを抜き去り1-2体制でレースを進めていた。しかしピット作戦でメルセデス2台に逆転されると、終盤に雨が降り出した際にウェットタイヤへ交換するタイミングを誤り、フェラーリのセバスチャン・ベッテルにも逆転されマッサ4位、ボッタス5位に終わった。 シーズンを通してメルセデス、フェラーリの後塵を拝するレースが多かったものの、レッドブルの不振もあり、コンストラクターズは前年と変わらず3位、個人ランキングではボッタス5位、マッサ6位となり、結果だけ見れば、前年に近い成績でシーズンを終えた。だが、総獲得ポイントは減少し、前年がチームとして全戦入賞を果たしたのに対し、今季は入賞を逃したGPいくつかあり、さらに表彰台も両ドライバーとも3位表彰台2回ずつに留まるなど(前年は2位表彰台も記録していた)、少なからず成績が下がった。この時期最強とされていたメルセデスPUを搭載していたため、下位チームに対しては優勢を保っていたものの、この年優勝したチームには後れを取っており、それが反映したような成績となってしまった。そして、この年以降、チームの位置付けは、相対的に下がってゆくこととなる。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2016年もドライバーは変わらず。第5戦までは2015年と同じような成績であったが、4月の段階で前年型よりマシンの戦闘力が後退しているコメントが発せられ、シーズンが進むにつれてポイントを獲得するのが精一杯という状況になっていき、メルセデス、レッドブル、フェラーリから大きく差をつけられた。表彰台もカナダGPでのボッタスの3位のみとなり、同じメルセデス製PUを使用するフォース・インディアが3位を2度獲得したこともあり、コンストラクターズ5位に後退した。イタリアGPでマッサがこの年で限りで引退することを発表した。また、テクニカルディレクターのパット・シモンズがこの年をもってチームを離脱。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2017年は「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」としてのF1参戦40周年を迎えることから、順番通りのFW39ではなくシャシー名称を「FW40」とした。ドライバーは当初、マッサの引退を受け、ボッタスの残留と前年ウィリアムズのリザーブドライバーを務めていたランス・ストロールの昇格を発表していた。ところが、前年度王者のニコ・ロズベルグの電撃的引退に伴いボッタスがメルセデスに移籍したため、その影響でマッサは引退を撤回して引き続きウィリアムズで走ることとなった。ストロールには父親であるローレンス・ストロールによる資金提供が強く関わっているとの声が強く、ウィリアムズの資金難を示唆していた。なお、ウィリアムズで10代のドライバーが走るのは史上初のことである。メルセデスを離脱したパディ・ロウがチーフテクニカルオフィサー(CTO)に、前年末にフェラーリを離脱したディルク・デ・ビアが空力責任者にそれぞれ就任し技術陣の強化を行った。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ストロールは開幕3戦はリタイアとなるが、初の母国レースとなる第7戦カナダGPで9位入賞を果たすと、次のアゼルバイジャンGPでは3位に入り、初の表彰台に立った。オーストリアGPでは予選ではマッサ17位、ストロール18位と低迷するも決勝ではマッサ9位、ストロール10位にまで追い上げ今シーズン初のダブル入賞を果たした。ハンガリーGPはマッサが体調不良を訴え欠場したため、リザーブドライバーのポール・ディ・レスタが代走を務めた。チームとしては第2戦と第5戦以外で入賞し、時のトップ3チーム(メルセデス、フェラーリ、レッドブル)以外のドライバーとしてストロールが1回だけだが表彰台に上がったものの、ダブル入賞の回数が大幅に減り(前年10回、今季3回)、ランキングこそ昨年の5位と変わりはなかったが4位のフォース・インディアにはダブルスコアを付けられる結果となった。また、マッサはシーズン後半に改めて引退を表明した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2018年1月16日、ストロールの残留とセルゲイ・シロトキンの起用、そしてロバート・クビサのリザーブ兼開発ドライバー就任が発表された。開幕を前に、2014年からタイトルスポンサーとなっていたマルティーニが2018年をもって契約終了となることが発表された。マルティーニは25歳以上のドライバーを起用することを要望していた(マッサが2017年に引退を撤回した要因の一つでもあった)が、ストロールは19歳、シロトキンは22歳と条件を満たしておらず、今回のドライバー選択が契約終了の一因ではないかとの見方をされていたが、クレア・ウィリアムズはこれを否定している。パディ・ロウの手による新車FW41に期待が高まったものの空力に問題を抱え、5月にはチーフデザイナーのエド・ウッドと空力責任者のディルク・デ・ビアが相次いで離脱し、パフォーマンスエンジニアリング責任者のロブ・スメドレーもシーズン終了をもって離脱する事態に陥った。そのため、戦闘力強化の一環で自社開発を続けて来たトランスミッションもメルセデスからの供給に切り替える報道が出るほどであり、入賞したのはストロールが第4戦アゼルバイジャンGPで挙げた8位とダブル入賞を果たした第14戦イタリアGPの2戦(イタリアGPのダブル入賞のうち、シロトキンの入賞は上位のドライバーが失格になったこともあってのものであった)のみで、コンストラクターズランキング最下位へと転落した。そんななか、ストロール家率いるコンソーシアムが破産宣告を受けたフォース・インディアを買収し、ランス・ストロールも同チームから名称を変更したレーシング・ポイントへ移籍。シロトキンも持参金が用意できなかったことや資金難の影響で交代させられる形となり、わずか1年でF1から去ることとなった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2019年、前年の予告通りマルティーニとの契約が終了したため、今期は携帯電話会社の「ROKiT(ロキット)」と新たなタイトルスポンサー契約を結び、『ロキット・ウィリアムズ・レーシング』の名でエントリー。リザーブドライバーのクビサが正ドライバーに昇格して9年ぶりにF1復帰、メルセデスのリザーブドライバーを務めた新人ジョージ・ラッセルとのコンビとなる。新車FW42は合同実走テストに2日半参加できず大幅なハンデとなり、開幕1週間前にCTOのパディ・ロウが事実上更迭された。開幕戦オーストラリアではクビサ、ラッセル共々予選・決勝共に最下位に甘んじ、その後のレースでも下位に低迷。チームは人員の再編を行い、パトリック・ヘッドがコンサルタントとして8年ぶりにF1へ復帰、アダム・カーターがデザイン責任者の役割を引き継いだ。第11戦ドイツGPでクビサが10位となりノーポイントは免れたが、上位のドライバーのペナルティによる繰り上がりでの入賞であった。結局、ドイツGPの入賞で獲得した1ポイントがシーズン唯一のポイントとなり自力入賞は一度もないままシーズンを終えた。7月にROKiTと2023年まで、9月にメルセデスPUと2025年までの長期契約をまとめた。シンガポールGP記者会見でクビサがチーム離脱を発表した。また、今シーズンの成績によってチームのマシン開発の迷走が指摘されるようになる。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2020年、ドライバーはラッセルが残留し、リザーブドライバーを務めていたニコラス・ラティフィが昇格。技術部門も刷新され、レッドブルからデイビッド・ワーナー、ルノーからジョナサン・カーターが移籍してチーフデザイナー、副チーフデザイナー兼デザイン部門責任者にそれぞれ就任し、デザイン部門のアダム・カーターがチーフエンジニアに就任。マクラーレンからサイモン・ロバーツをマネージングディレクターに迎えた。今季はクラッシュテストの素早い合格やマシンの戦闘力の改善の成功の兆しなど、明るいニュースもあった。ところが、世界的な問題による開幕延期に伴い、チームの資金難に拍車がかかることとなった。プレシーズンテストの頃でさえ、深刻な資金難に陥っており、関連会社のウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングの株式を前年末に過半数売却し参戦用の資金を確保。ラティフィの起用は金銭面が理由ではないとしながらも、彼が関連するスポンサーが多数参加しており、それを否定することもできなかった。そのうえ、シーズンが凍結されていることにより、レースで得られる収入が一時的に消滅してしまったため、施設や歴代マシンなどを担保に運営資金の緊急調達に迫られる事態となった。それに追い打ちをかけるかのように、チームからタイトルスポンサーのROKiTが5月29日付で契約が即時終了されたことが発表され、その分の収入も喪失。そのため、チーム株式の過半数あるいはチーム自体の売却を検討し始める事態となった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2020年8月21日、アメリカの投資企業ドリルトン・キャピタル(Dorilton Capital)に1億5200万ユーロ(約190億円)でチームを売却したことを発表した。チームのオーナーシップはドリルトン・キャピタルに移るが、チームはグローブの拠点に留まり、ウィリアムズとしてF1への参戦は続ける。そして9月初頭の第8戦イタリアGPをもって、フランク・ウィリアムズら首脳陣が正式に退任。43年に及ぶウィリアムズ家の運営に終止符が打たれた。後任のチーム代表には、残留したマネージングディレクターのサイモン・ロバーツが臨時で務める。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "今季は予選Q2に何戦か進出し、特にラッセルが複数回Q2進出を達成したが、予選Q3進出までは至らなかった。決勝はラッセル1度、ラティフィ3度の11位の記録が最高位であり、チーム史上初(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代は除く)の年間無得点に終わった。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2021年、ドライバーは両名とも継続。新型コロナウイルス感染拡大の影響により、今季は前年型シャシーの継続の決定。その関係でフロア後部に新たな規制の追加とトークン制による開発制限が導入され、チームは今季のマシンをFW43Bと命名して参戦する。元フォルクスワーゲン・マクラーレンのヨースト・カピートを最高経営責任者(CEO)に招聘したほか、テクニカルディレクターにはフランソワ=グザビエ・ドゥメゾンを起用した。後にロバーツの離脱に伴い、カビートが正式にチーム代表となった。 ラッセルが第10戦オーストリアGPで、ウィリアムズチームとして2018年第14戦イタリアグランプリ以来のQ3進出を果たし、9番手を獲得(前のマシンのペナルティによる順位変動により8番手スタート)。決勝では10位入賞も目前まで迫ったが、タイヤが限界を迎え、11位完走に終わった。 第12戦ハンガリーGPでは、予選こそ両者ともにQ1敗退となったものの、決勝では1周目に起きた前方での多重クラッシュをかいくぐり、ラティフィとラッセルが共に入賞を記録。さらに2位のセバスチャン・ベッテルの失格により順位変動により、ラティフィ7位、ラッセル8位のダブル入賞を記録することとなり、チームとしては2018年第14戦イタリアGP以来のダブル入賞となった。第12戦ベルギーGPではウエットコンディション下で行われた予選においてラッセルが最終的に2番手を獲得。決勝は荒天で最終的に中止となったが、ハーフポイントレースの要件を満たした形かつほぼ決勝開始時の順位のまま終了。その結果、ラッセルが2位、ラティフィが9位となった。また、ベルギーGPの結果に関してはラッセルが2014年オーストリアグランプリ以来のフロントロー獲得(ただし、グリッドペナルティなどの順位変動も含めば2017年イタリアグランプリにランス・ストロールがそれによる繰り上がりの形で2番手を獲得している)と2017年アゼルバイジャングランプリ以来の表彰台入りを記録することとなった。その後、ラッセルが第14戦と第15戦で入賞しポイントを加算。第16戦以降は入賞できなかったが、自チームより下の2チームがウィリアムズの獲得ポイントを上回れなかったため、最終的にコンストラクターズ8位でシーズンを終えた。なお、この年の11月28日にはフランク・ウィリアムズが亡くなっている。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2022年、ラティフィが残留するが、ラッセルがメルセデスに移籍したため、F1へ復帰するアレクサンダー・アルボンが加入。新車FW44はこのシーズンから27年間付けていたセナのSマークを外すことが決定している。またギアボックスは自社製をやめメルセデス供給とした。FW44は開幕時点では開口部が非常に大きく後部を丸ごと削った独特なサイドポッドだったが、成績は低調。第10戦からは一般的なサイドポッドに変更。この年は散発的に9位・10位入賞したもののコンストラクターズ順位も再び最下位(10位)に転落した。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2023年に向けては、ラティフィがチームを離脱し、後任には2022年のFIA F2選手権でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したローガン・サージェントを起用。また2022年12月には、チーム代表のカピート、テクニカルディレクターのドゥメゾンの離脱も発表された。新代表には元メルセデスのジェームス・ボウルズがついた。2023シーズンは、前年に比べるとマシン性能も向上。特に高速サーキットではストレートスピードの速さが光り、開幕戦バーレーンGPではアレクサンダー・アルボン10位入賞し1ポイントを獲得した。第9戦カナダGPではアレクサンダー・アルボンが安定した走りを見せ7位入賞し6ポイントを獲得した。その後もアレクサンダー・アルボンが第11戦イギリスGPで8位入賞、第14戦オランダGPで8位入賞、第15戦イタリアGPで7位入賞、第18戦カタールGPスプリントで7位入賞、第19戦アメリカGPでは、ルイス・ハミルトンとシャルル・ルクレールの失格により9位入賞と入賞、第20戦メキシコGPで9位入賞と入賞を重ねている。ローガン・サージェントは第19戦アメリカGPでルイス・ハミルトンとシャルル・ルクレールの失格により10位入賞しF1キャリア初のポイントを地元アメリカで獲得した。合計で28ポイントを獲得しコンストラクターズランキング7位となっている。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2024年もアルボンとサージェントのコンビで戦うこととなる。", "title": "チームの歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。", "title": "F1以外の活動" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "なおウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングについては、2022年1月にオーストラリアの鉄鉱業企業、フォーテスキュー・メタルズ・グループに約1億6400万ポンドで売却しており、グループから外れている。", "title": "F1以外の活動" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "かつては、レギュラードライバーは30歳代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、ザウバーやミナルディ、ジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてデビッド・クルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、ジェンソン・バトン、ファン・パブロ・モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、パストール・マルドナド、バルテリ・ボッタス、ランス・ストロール、セルゲイ・シトロキン、ジョージ・ラッセル、ニコラス・ラティフィ、ローガン・サージェントがいる。 このうちヴィルヌーヴ、バトン、ロズベルグはワールドチャンピオンを獲得している。しかし2010年代になるとチームの財政的な運営状態が厳しくなり、ストロールの起用を筆頭にチームに資金をもたらす「ペイドライバー」の起用を優先することが増えてきている。", "title": "新人の登竜門" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "なお、1983年にイギリスF3参戦中のアイルトン・セナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。ただし、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーとしての起用は見送られた。", "title": "新人の登竜門" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "歴代のウィリアムズドライバーの中で10名がウィリアムズでF1初勝利を達成している。", "title": "ウィリアムズでF1初勝利を記録したドライバー" } ]
ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングは、1977年から活動しているイギリスのレーシングコンストラクター。特にF1レーシング・チームとしての活動が知られる。 創設者は、フランク・ウィリアムズおよびパトリック・ヘッド。2020年にウィリアムズ家が経営権を手放し、現在は米国の投資会社「ドリルトン・キャピタル」がオーナーを務めている。
{{F1コンストラクター | コンストラクター名 = ウィリアムズ・メルセデス<br />[[ファイル:Mini Free Logo Williams.png|20px]] {{Flagicon|GBR}} {{lang|en|Williams}} | エントリー名 = ウィリアムズ・レーシング<br />[[ファイル:Williams Racing 2022 logo.svg|180px]] | チームロゴ画像 = | チーム国籍 = {{GBR}} | チーム本拠地 = {{GBR}}<br />({{ENG}})<br />[[オックスフォードシャー|オックスフォード州]]<br />[[グローヴ (オックスフォードシャー)|グローヴ]] | チーム代表者 = [[マシュー・サベージ]]{{small|(ドリルトン・キャピタル会長)}}<br />[[ジェームス・ボウルズ]]{{small|(チーム代表)}} | テクニカルディレクター = [[パット・フライ]]([[最高技術責任者|CTO]]) | 2023ドライバー = 23. {{Flagicon|THA}} [[アレクサンダー・アルボン]]<br/> 2. {{Flagicon|USA}} [[ローガン・サージェント]] | 2023テストドライバー = TBA | 2023シャーシ = [[ウィリアムズ・FW45|FW45]] | 2023エンジン = [[メルセデスAMG]] M14 E Performance | 2023タイヤ = [[ピレリ]] | 参戦年度 = 1977- | 出走回数 = ''チームとして''<br />781 (779スタート)<br />''コンストラクターとして''<br />760 (758スタート)<!-- 2020年初期値 720 (719スタート) --> | コンストラクターズタイトル = 9 ([[1980年のF1世界選手権|1980]], [[1981年のF1世界選手権|1981]], [[1986年のF1世界選手権|1986]], [[1987年のF1世界選手権|1987]], [[1992年のF1世界選手権|1992]], [[1993年のF1世界選手権|1993]], [[1994年のF1世界選手権|1994]], [[1996年のF1世界選手権|1996]], [[1997年のF1世界選手権|1997]]) | ドライバーズタイトル = 7 ([[1980年のF1世界選手権|1980]], [[1982年のF1世界選手権|1982]], [[1987年のF1世界選手権|1987]], [[1992年のF1世界選手権|1992]], [[1993年のF1世界選手権|1993]], [[1996年のF1世界選手権|1996]], [[1997年のF1世界選手権|1997]]) | 優勝回数 = 114<!-- 2021年初期値 114 --> | 通算獲得ポイント = 3,614<!-- 2021年初期値 3,591 --> | 表彰台回数 = 313<!-- 2021年初期値 312 --> | ポールポジション = 128<!-- 2021年初期値 128 --> | ファステストラップ = 133<!-- 2021年初期値 133 --> | F1デビュー戦 = ''チームとして''<br />[[1977年スペイングランプリ|1977年スペインGP]]<br />''コンストラクターとして''<br />[[1978年アルゼンチングランプリ|1978年アルゼンチンGP]]<ref>[http://www.fia.com/sport/Championships/F1/F1_Entry_List/Season_2007/entry.html FIAによる2007年エントリーリスト]によると、[[1978年]]アルゼンチングランプリとなっている。これは、同一人物による運営ではあるものの、[[ウォルター・ウルフ・レーシング|ウルフ]]に買収されるまでとその後新規に設立した現在のウィリアムズを別記録としていることによる。</ref> | 初勝利 = [[1979年イギリスグランプリ|1979年イギリスGP]] | 前年度 = 2022 | 前年度順位 = 10位 (8ポイント) | 最新レース = [[2023年アブダビグランプリ|2023年最終戦アブダビGP]] }} '''ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング'''({{lang-en-short|Williams Grand Prix Engineering Limited}})は、[[1977年]]から活動している[[イギリス]]のレーシングコンストラクター。特に[[フォーミュラ1|F1]]レーシング・チームとしての活動が知られる。 創設者は、[[フランク・ウィリアムズ]]および[[パトリック・ヘッド]]。[[2020年]]にウィリアムズ家が経営権を手放し、現在は米国の投資会社「ドリルトン・キャピタル」がオーナーを務めている。 == 概要 == 1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2019年時点)を獲得している。[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]、[[マクラーレン]]と並び、[[フォーミュラ1|F1]]を代表する名門チームである。 チームとしては「頑固なエンジニア集団」と表現されたこともあるように保守的な手法をとることが多い。実際、1980年代前半の車作りは保守的で<ref>ただし、再出発直後の1978年から83年までに関しては資金や研究不足であえて技術的な冒険をする余裕がなかった面もある。</ref>、同時期の優勝経験のあるチームの中ではカーボンファイバーモノコックの導入や[[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンへの切り替えは後発の部類となった。一方でタイトルスポンサーとして[[キヤノン]]および[[ロスマンズ]]と契約していた時代には、多くのチャレンジを行っている。エンジン面ではターボエンジンでは当時F1の実績がないに等しかったホンダ製や自然吸気エンジンではF1で採用例がなかったV10で設計されたルノー製の採用などは、当時としては異例の決断でもあった。また、シャシー面ではフェラーリの次に[[セミオートマチックトランスミッション]]を採用し、ロータスと同時期に[[アクティブサスペンション]]を実戦投入し、それが失敗したにもかかわらず、開発を続け、1992年には完成の域に達して時のシーズンを圧倒。同時にルノーV10の採用をきっかけに後のトータルパッケージの概念の先便となるなど、1990年代前半の開発競争をリードした。他にも、ドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある<ref>『[[GRAND PRIX SPECIAL]]』([[ソニー・マガジンズ]])2008年8月号 p.23</ref><ref>『GRAND PRIX SPECIAL』がドライバーに対する筆記テストの有無について取材したところ、フェラーリ・[[BMWザウバー]]の2チームは「ノーコメント」、残る7チームは「筆記テストは行っていない」と答えている。</ref>。 チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針のため、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかった年が数回ある。またドライバーに対してドライな態度を取る事も目立ち、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。 2020年夏まではチーム株式の過半数をオーナーの[[フランク・ウィリアムズ]]が所有しており、チーム関係者の[[パトリック・ヘッド]]や、アメリカの病院経営者である[[ブラッド・ホリンガー]]といった人物も大株主に名前を連ねていた他、元ウィリアムズのエグゼクティブディレクターで現在は[[メルセデスAMG F1]]のチーム代表を務める[[トト・ヴォルフ]]も株主の1人であった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/590267?all |title = メルセデスF1代表ウォルフが古巣ウイリアムズの株式5パーセントを購入 |publisher = autosport web |date = 2020-06-09 |accessdate = 2020-06-27}}</ref>。 2020年8月21日にプレスリリースを発表。5月下旬に始まった戦略的な見直しによって導き出された結論により、ドリルトン・キャピタルに買収されたことが明らかになった。なお、ドリルトン・キャピタルによれば今後もチーム名とシャシー名は今まで通り”ウイリアムズ”と”FW”を使い続けるといい、「ウイリアムズの遺産を尊重し、維持することの重要性を認識している」としてファクトリーを含むチーム本社のグローブからの移転も計画していない<ref name="aquisituon"/>。9月3日にはフランク・ウィリアムズを筆頭とする取締役が解任され、ドリルトン・キャピタルの会長マイケル・サベージらが新たに取締役に就任したことが発表され<ref name="dorilton"/>、ウィリアムズ家はチーム経営から離脱した。これにより家族経営のプライベーターチームとしてのウィリアムズの歴史に終止符が打たれることになった。 マスコミでの日本語の表記は、昔から小文字を使わない「ウ'''イ'''リアムズ」が多い。 == チームの歴史 == === 1966年〜1976年 チーム創設と苦闘時代 === {{Main|フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ}} === 1977年〜1983年 再出発から頂点へ === [[ファイル:Frank Williams Formula One.jpg|left|thumb|130px|創設者フランク・ウィリアムズ]] [[ファイル:Williams FW06.jpg|thumb|200px|FW06・フォード]] [[ファイル:Williams F1 FW07 Crop.jpg|200px|right|thumb|FW07・フォード]] {{F1|1977}}、自ら興したフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを手放したフランク・ウィリアムズは、エンジニアの[[パトリック・ヘッド]]とともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「'''ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング'''」として再出発した。この年は一時的なつなぎとして[[マーチ・761]]を購入して参戦した。 マーチのマシンで参戦し、{{F1|1978}}からのフル参戦の体制を整えるべくチームは奔走。ヘッドは部下の[[フランク・ダーニー]]、[[ニール・オートレイ]]、[[ロス・ブラウン]]らを指揮して、強力な技術部門を構築。フランクは[[サウジアラビア航空]]の後援を受け、[[オーストラリア]]人ドライバーの[[アラン・ジョーンズ]]と契約し、独立したチームとしてフル参戦できる環境を整えた。そして、{{F1|1978}}、再出発の純粋な第一号となる[[ウィリアムズ・FW06]]を手にフル参戦を果たす。チームとして[[グラウンド・エフェクト・カー|グラウンド・エフェクト]]理論の研究が済んでいなかったことや資金不足から同マシンはあえて保守的な設計を取っていたが、第15戦の2位表彰台を含む計3回入賞を記録し、コンストラクターズランキング9位となった。 {{F1|1979}}、チームは[[サウジアラビア航空]]や[[アルビラッド]]、[[テクニーク・ダバンギャルド|TAG]]など複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。その際、フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたと言われている。この年の第5戦から研究を重ねて完成させた[[ウィリアムズ・FW07|FW07]]を投入。そして、第9戦[[1979年イギリスグランプリ|イギリスGP]]で[[クレイ・レガツォーニ]]がチーム初勝利を挙げ、残り6戦でさらに4勝を記録した。 そして、{{F1|1980}}には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、[[アラン・ジョーンズ]]をドライバーズチャンピオンへと導いた。 {{F1|1981}}にはジョーンズと[[カルロス・ロイテマン]]により2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、[[ブラバム]]の[[ネルソン・ピケ]]に最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。 {{F1|1982}}はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成された[[ウィリアムズ・FW08|FW08]]を駆る[[ケケ・ロズベルグ]]が堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。 === 1984年〜1987年 ホンダとの提携 === [[ファイル:Williams FW11B Honda.jpg|thumb|200px|right|キヤノンカラーにICIロゴのFW11B・ホンダ]] {{F1|1983}}は旧シャーシ熟成型となる[[ウィリアムズ・FW08|FW08C]]で参戦し、勝利はロズベルグによるモナコGPでの1勝のみに終わるが、同年にエンジンサプライヤーとして15年ぶりにF1活動を再開した[[ホンダF1|ホンダ]]と交渉を開始し、6月には契約締結に成功<ref name="F1sokuho">[https://f1sokuho.mopita.com/free/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&pass=&page=news/sp/body&no=91832&topics_type= 名車列伝 スピリット201C] [[F1速報]]</ref>。以後は[[V型6気筒|V6]][[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンを搭載する新シャーシの開発に注力。[[1983年南アフリカグランプリ|1983年の最終戦]]にて[[ウィリアムズ・FW09|FW09]]をデビューさせる。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり<ref>初めて知ったホンダ・エンジンの実態 [[桜井淑敏]]著 ゼロからの挑戦 110頁 [[祥伝社]] 1989年11月発行</ref>、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、{{F1|1984}}の[[1984年アメリカグランプリ|アメリカGP]](ダラス)で酷暑のレースをロスベルグが制し、ホンダエンジンとしては17年ぶりとなるF1での勝利をものにした。この1984年よりロズベルグが仲介役となり新たにウィリアムズの大口スポンサーとなった[[インペリアル・ケミカル・インダストリーズ]](ICI)<ref>ケケのフロム・ザ・コクピット 第1回 オートスポーツ No.394 29頁 三栄書房 1984年5月1日発行</ref>は、80年代を通して長らく円形のロゴをウィリアムズのフロントノーズに載せ続けることとなった。 {{F1|1985}}には[[キヤノン]]とのメインスポンサー契約が成立。[[ジャック・ラフィー]]のリジェ移籍が決まった為、ルノーの[[デレック・ワーウィック]]に獲得オファーをするも、ルノー残留を望んだワーウィックに断られたため<ref>Driverインタビュー デレック・ワーウィック「ルノー入りが飛躍のきっかけになった」オートスポーツ 三栄書房 1984年</ref>、[[チーム・ロータス|ロータス]]で[[ピーター・ウォー]]と不仲となり放出された[[ナイジェル・マンセル]]を獲得しロズベルグとのコンビとなった。[[ウィリアムズ・FW10|FW10]]は第5戦からホンダの新設計エンジン「[[ホンダ・RA165E|RA165E]]」を搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPがF1初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。ホンダ・ターボの初期開発を支えたロズベルグはマクラーレンへの移籍が決まり、4年在籍したウィリアムズを去った。 {{F1|1986}}、2度のワールドチャンピオン経験者である[[ネルソン・ピケ]]が加入。この時点でマンセルはまだ前年の1勝のみであり、ピケは完全No.1待遇でウィリアムズと契約した。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。この背景は、契約上ではピケがNo.1ドライバーとして加入したにもかかわらず、それに反発するようにチームが自国ドライバーのマンセルを優遇し、両ドライバーの険悪な関係を招いた。また、チームオーナーのフランクが交通事故により脊椎骨折の重傷を負い<ref>F.ウイリアムズ氏 交通事故で重傷 [[オートスポーツ]] No.445 53頁 [[三栄書房]] 1986年5月1日発行</ref>、下半身麻痺となり[[車椅子]]での生活を余儀なくされた。それでも車椅子姿でチームの指揮を執ったが、定期的な療養が必要であったため、リーダーとしてチーム内の混乱を収める余裕がなかった。さらに、フランクも含めウィリアムズ側がマンセルを支持していたのに対し、エンジンを供給するホンダはピケのウィリアムズ加入を推薦したことやその条件としてピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していたこともこの混乱に拍車をかけた。ピケはこの2年後に受けたインタビューにて「契約から半年後にはチームとのNo.1待遇の約束は反故にされ状況が難しくなった。マンセルは[[1986年イギリスグランプリ|1986年のブランズハッチ]]で優勝して、その翌週に[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]からマンセルを獲得したいと声がかかった。するとフランク(・ウィリアムズ)は、急にマンセルに多くのことを約束して、ウィリアムズに残ってくれと懇願した。それから僕には多くの腹の立つ出来事が起こり始めた。No.1のはずの僕はアクティブ・サスのテストドライバーに成り下がってしまった。サス開発のテスト走行を全てこっちにやらせて、もう一人はレースだけに集中してて良いなんてことを承服できるわけがない。」とこの年の内情を述べている<ref name="gpx88_r0_piquet">注目の7人に聞く ネルソン・ピケ F1GPX1988開幕直前号 10ページ 山海堂</ref>。 こうしたチーム内の混乱を突かれ、[[1986年オーストラリアグランプリ|最終戦オーストラリアGP]]では[[マクラーレン]]の[[アラン・プロスト]]にドライバーズチャンピオンをさらわれてしまった。最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームとされた2人ともドライバーズ・チャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力の分散を真っ先に挙げた<ref name="gpx87bra">No.2ストーリー 2番目の男がトップを打ち破るとき [[GPX (雑誌)|F1GPX]] 1987ブラジルGP速報版 27-28ページ [[山海堂 (出版社)|山海堂]] 1987年4月30日発行</ref>。 {{F1|1987}}はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、[[ロータス・99T|ロータス]]に続いて[[アクティブサスペンション]]を実戦投入し、[[1987年イタリアグランプリ|イタリアGP]]で勝利している。しかしマンセルを優遇するチームへの不満が募ったピケはロータスへの移籍が決定。さらにホンダがピケと入れ替わる形で日本人である[[中嶋悟]]の起用を打診するもウィリアムズ側がそれを拒否するなどホンダとの関係も急速に悪化し、ホンダは供給先をロータスとマクラーレンの2チームに変更してウィリアムズへのエンジン供給を同年限りで打ち切ることを発表<ref>ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表「マクラーレンは将来思考のあるチーム」桜井総監督、記者の質問に答える GPX 1987イタリア 31頁 山海堂</ref>。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。 === 1988年 ジャッド時代 === ホンダターボを失った{{F1|1988}}は、ノンターボの[[ジャッド]]エンジンを搭載した[[ウィリアムズ・FW12|FW12]]で参戦。マンセルが2回2位を獲得したものの、ジャッドエンジンの信頼力不足、アクティブサスの熟成不足により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降はノーマルサスペンションに戻す羽目になり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。なお、ウィリアムズがジャッドCVの供給を受けるため必要とした費用はホンダが肩代わりした。契約期間を1年早く打ち切った穴埋めの一部であった<ref>1000分の1秒のヒーロー列伝 車体番号が語る名マシンの一生 FILE.48 WILLIAMS FW12-1 [[GRAND PRIX SPECIAL|F1グランプリ特集]] vol.57 127-131頁 1994年3月16日発行</ref>。 マンセルはシーズン終了後フェラーリへ移籍した。 === 1989年〜1997年 ルノーとの黄金期 === {{F1|1989}}にターボ禁止・[[自然吸気|NA]]統一が導入されると[[ルノーF1|ルノー]]と契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。ルノーエンジンとFW12シャシーのマッチングも良く、ジャッドとは比較にならない程の戦闘力に高まり、マンセルの後任となった[[ティエリー・ブーツェン]]が雨の[[1989年カナダグランプリ|カナダGP]]で当時の最遅初優勝記録という形で優勝{{efn2|この記録は[[ミカ・ハッキネン]]が[[1997年ヨーロッパグランプリ|1997年ヨーロッパGP]]の出走95戦(エントリー99戦目)で塗り替えた。現在は [[セルジオ・ペレス]]の190戦目([[2020年サヒールグランプリ|2020年サヒールGP]])が最遅記録。}}。カナダと同じく雨での開催だった[[1989年オーストラリアグランプリ|最終戦オーストラリアGP]]もブーツェンが制し、シーズン2勝を挙げた。 {{F1|1990}}には[[リカルド・パトレーゼ]]が[[1990年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]で久々の優勝をし、ブーツェンも[[1990年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]でポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中には[[マーチ・エンジニアリング#レイトンハウスとのジョイント|レイトンハウス]]の不調の責任を取らされる形で放出された前衛的な空力設計者[[エイドリアン・ニューウェイ]]とすぐさま交渉し契約に成功。堅実な性格のヘッドとの異なる個性が融合した[[ウィリアムズ・FW14|FW14]]が生み出される。 [[ファイル:Williams FW14B.jpg|thumb|200px|right|FW14B・ルノー(1992年)]] マンセルが3年ぶりにチーム復帰した{{F1|1991}}、ニューマシンFW14は開幕戦から速さを見せたが、シーズン前半は[[セミオートマチックトランスミッション]]のトラブルが多発。その後マクラーレンを急追するも、チームのピットでのミスなどもあり、タイトルを逃した。 {{F1|1992}}はアクティブサスペンション<ref group="注">商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた。</ref>や[[トラクションコントロール]]を搭載したハイテクマシン、[[ウィリアムズ・FW14|FW14B]]が他チームを圧倒する速さで開幕から1-2フィニッシュでの連勝を重ねる。計10勝を挙げ、マンセルのワールドチャンピオンと共にコンストラクターズタイトルも獲得した。しかし、マンセルはチームとの契約更新を巡る関係悪化から突如F1引退を表明(後にアメリカの[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]へ転向)、5年在籍したパトレーゼもチームの方針に対して嫌気が差し、ベネトンへ移籍した。 [[ファイル:Williams FW15C front-right Donington Grand Prix Collection.jpg|thumb|200px|right|FW15C・ルノー(1993年)]] {{F1|1993}}はFW14Bの正常進化形である[[ウィリアムズ・FW15C|FW15C]]<ref group="注">当初は1992年シーズン途中にFW15の投入を予定していたが、FW14Bでも十分な戦闘力であったため見送り、1993年度レギュレーションに合わせたFW15Cとして投入した。</ref>を投入、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格した[[デイモン・ヒル]]がコンビを組んだ{{Refnest|当初はプロストのチームメイトとして[[ミカ・ハッキネン]]と契約したが、フランク・ウィリアムズがマンセル,プロスト,セナによるシート交渉の多忙さから1993年シーズンのエントリー申請期限日を失念、申請し損ねてしまったため、ウィリアムズが93年に参戦するには他の全チームの再承認が必要となる事態となった。ハッキネンを取り返したかった[[ピーター・コリンズ (F1監督)|ピーター・コリンズ]]([[チーム・ロータス|ロータス]])が再承認に応じなかったため、ウィリアムズはハッキネンを諦めることとなったという報道と<ref>『[[F1速報]]』7/16号「フランスGP号」第9巻13号、[[ニューズ出版]]、1998年7月16日発行、39頁。</ref>、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズはハッキネンを手放す意思はなかったが、金銭的条件([[移籍金]]6億円)次第では応じようと目論むもウィリアムズ側がその条件を受け入れるつもりはなく、結局1992年12月14日にデイモン・ヒルとの契約を発表したという報道がある<ref>「“フライング・フィン”飛んでしまったマクラーレン」『[[F1グランプリ特集]]』 1993年4月号、第5巻4号、[[ソニー・マガジンズ]]、79 - 81頁。</ref>。}}。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは"0"と"2"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する"0"ではなく"2"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは後半戦にかけて初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。このシーズンを持ってメインスポンサーだったキヤノン、および[[キャメル (たばこ)|キャメル]]との関係が終了。1985年から使われていた「青・黄・白・赤」のカラーリングも見納めになった。 [[ファイル:1994Williams-RenaultFW16B.jpg|thumb|200px|right|FW16・ルノー、ウィリアムズの1990年代を象徴する[[ロスマンズ]]カラー]] {{F1|1994}}は[[ロスマンズ]]が新たにメインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していた[[アイルトン・セナ]]が加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定しているとさえ言われたが、ハイテクデバイス禁止を受けてデザインされた[[ウィリアムズ・FW16|FW16]]は極端に不安定な特性をもち、[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]の[[ミハエル・シューマッハ]]に開幕連勝を許す。さらに第3戦[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]ではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察は過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーの[[デビッド・クルサード]]が昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。突如としてエースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦[[1994年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]での直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。 {{F1|1995}}はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、シューマッハと[[ロス・ブラウン]]の作戦に翻弄されたり、チームやドライバーのミス、[[ウィリアムズ・FW17|FW17]]の信頼性に難があったことなどが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを奪われる結果に終わる。ヒルは「ウィリアムズは勝つ為なら手段を選ばないチームではなかった」「ベネトンは実質的にミハエル・シューマッハーのワンマンチームだから、彼を徹底的にマークすれば当然勝機は増す。でもウイリアムズはそう言う戦い方を選ばない矜持を持っていた」と当時を語っている<ref>[https://www.as-web.jp/f1/530658?all 1996年のF1王者デイモン・ヒルに聞くウイリアムズFW18。「少しも複雑じゃないところが最大の美徳」] auto sport web 2019年10月10日、同11月13日閲覧。</ref>。またこの年を以って、1978年以来のディドコットからグローブに本拠を移転している。 [[ファイル:1996_Williams-Renault_FW_cropped.jpg|thumb|200px|right|FW18・ルノー(1996年)]] {{F1|1996}}はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンの[[ジャック・ヴィルヌーヴ]]が加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組む。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得しあわや優勝と言う電撃的デビューを飾る。[[ウィリアムズ・FW18|FW18]]が16戦12勝を挙げるほど他チームを圧倒する戦闘力を誇ったこともあり、チャンピオン争いはヒルとヴィルヌーヴの一騎打ちとなる。最終戦日本GPでヒルは史上初の親子二代チャンピオンを決定するも契約延長交渉が決裂、マンセル同様にチャンピオンがチームを去ることになった。そしてこの一件がニューウェイの堪忍袋の緒が切れる最後の一押しとなってしまい(これに関する事前の相談もなかった)<ref name="sportiva_suzuka1996_4">[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2018/08/21/_split_1996/index_4.php いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 4ページ目] Web Sportiva([[集英社]]) 2018年8月21日。</ref><ref>『[[GPX (雑誌)|GPX(F1 Grand Prix Xpress)]]』 BELGIUM GP [[山海堂 (出版社)|山海堂]]、30-31頁、1997年。</ref>、後述の理由もあり、ニューウェイはマクラーレンへの移籍を決断することとなった。 このヒルの解雇劇についてあまり語られておらず、本人も当時はこの件について語りたくないと沈黙し<ref name="AS+F-F1-1996総集編"/>、後年のインタビューでいくつか語ったものの、詳細は不明である。これに関して書かれた当時の記事の内容では<ref name="AS+F-F1-1996総集編">『AS+F F1 1996 総集編』、三栄書房、 106頁。</ref>、契約金の交渉が行われていないことからウィリアムズはヒルの放出を内定している可能性があり、ヒルが大きく譲歩しないと残留は難しい考えられ<ref name="AS+F-F1-1996総集編"/>、当時のストーブリーグの噂でもヒルが1997年もウィリアムズ残留できるか怪しいという見解が占めていた<ref name="sportiva_suzuka1996_1">[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2018/08/21/_split_1996/index.php いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 1ページ目] Web Sportiva([[集英社]])(2018年8月21日)2022年5月2日閲覧。</ref>。また、ウィリアムズから見れば、1994年と1995年はヒルがドライバーズタイトル獲得の可能性があったにもかかわらず、[[ミハエル・シューマッハ]]に敗れる結果になったことから今年度で見切りをつけることにしたという見方もあった<ref>『AS+F F1 1996 総集編』、三栄書房、 72頁。</ref>。他にもフレンツェンの起用に関しては、フジテレビの1996年の[[F1総集編]]にて将来のエンジン獲得に有利なドライバーとしてフレンツェンを起用するというフランクのコメントがナレーションで語られたぐらいである。また、専門誌の考察として、1994年にセナがチームに対しを1995年のドライバーとしてフレンツェンの起用を提案していたという噂があり、チームはそれをここにきて実現することを選んだという解説をしている<ref name="AS+F-F1-1996総集編"/>(1996年時点では一連のウィリアムズの動きから[[BMW]]が将来的に参戦するのではという噂話にとどまっており、BMWがウィリアムズとエンジン供給の契約締結とその期間が{{f1|2000}}からの長期契約であることが発表されたのは1997年9月になってからである<ref name="名前なし-1">『F1速報 1997 総集編 』、三栄書房、 130頁。</ref><ref group="注">フレンツェンは1998年でウィリアムズを離脱したため、契約した前後には在籍していたものの、供給が開始された年には全く関係ない状態であった。また、彼は{{f1|1999}}にジョーダンでのチームメイトとしてヒルを圧倒したが、両者の関係は良好であった。</ref>)。 この時期の出来事について後年のインタビューでいくつか語られており、ヒルに関しては<ref name="www.as-web.jp20191010p2">[https://www.as-web.jp/f1/530658/2 1996年のF1王者デイモン・ヒルに聞くウイリアムズFW18。「少しも複雑じゃないところが最大の美徳」]www.as-web.jp(2019年10月10日)2022年5月2日閲覧。</ref>、1997年の契約がないことについてチームから詳細な説明はなかったと語り、ヒル自身は契約金に関しては弁護士に任せていたため、契約金に関する問題に関しては自身の関わっていなかったとコメント<ref name="www.as-web.jp20191010p2"/>。むしろ、この年(1996年)の好成績は(ヒルを放出する予定であった)ウィリアムズ側にとっては予想外で行き詰まってしまったのだろうと語っている<ref name="www.as-web.jp20191010p2"/>。フランクは、ニューウェイのチームの株式保有に関して難色を示したこと<ref>{{Cite news|author= |url=http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/71437.html |title=ニューイ離脱を悔やむウィリアムズ代表 |publisher=ESPN F1 |date=2012-02-27 |accessdate=2020-03-22}}</ref>が結果的にニューウェイ離脱を招いたとして自分のミスだったとも認めている。ただし、ニューウェイ<ref>『GP CAR STORY Vol. 29 Williams FW18』(サンエイムック) 、22-27頁、2019年。</ref>はチーム側がドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。その背景には1992年のチームとマンセルを巡る一連の出来事を受け、それ以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でもテスト走行の結果で見切るはずだったヴィルヌーヴを起用し<ref group="注">[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]王者ヴィルヌーヴのF1参戦については、[[バーニー・エクレストン]]からフランクに働きかけがあったといわれる。</ref>、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はフレンツェンを獲得すると事後報告されたため、そのやり方に嫌気がさし、チームにこれ以上留まらないことを決断した。そんな時期に[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]エンジンの開発を担当する[[イルモア]]の代表者[[マリオ・イリエン]]([[マーチ・エンジニアリング|マーチ]]時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われた、と語っている<ref>『GPX』 Australian GP issue/210、山海堂、15頁、1998年。</ref>。一方でヘッドはニューウェイがマクラーレン代表の[[ロン・デニス]]と交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明。それで半ば諦めたと語っている<ref>『GP CAR STORY Vol. 29 Williams FW18』(サンエイムック) 、42頁、2019年。</ref>。 どのような経緯があったとしても、後年フランク・ウィリアムズ自身が「ヒル放出」を'''「あれは大きな失敗だったな」'''と認める<ref>{{Cite journal|和書|journal=F1 RACING 日本版 |issue = 2008年7月号|publisher=三栄書房|page=36|title=質問があるなら直に訊け:フランク・ウィリアムズ}}</ref>ほどであり、[[ウィリアムズ・FW19|FW19]]での活躍を最後にBMWのワークスエンジンを得るまで一旦チームは低迷期に入ることとなる<ref name="sportiva_suzuka1996_4"/>。 翌{{F1|1997}}はヒルに替わり[[ハインツ・ハラルド・フレンツェン]]が加入。だが、ニューウェイは最後の仕事としてFW19の完成を確認したところでそれ以降の開発作業に関与しないとして出社を拒否。そのため、チームとの間で法廷闘争にまで発展<ref>{{Cite journal|和書|journal=GPX|issue=MONACO GP|publisher=山海堂|page=28|year=1997}}</ref>。チーム内の混乱はあったが、FW19が依然優位というのが大方の予想であった。ところが、ヒルやニューウェイといったマシンに精通した人材に一時的に穴が開いてしまったことにより、マシンのセッティングに苦慮し<ref>『F1 RACING 日本版』2010年3月号 三栄書房、31頁</ref>、チームの戦略ミス<ref group="注">[[1997年モナコグランプリ|モナコGP]]と[[1997年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]ではウェット路面でのタイヤ選択を誤り、シューマッハに勝利を許した。</ref>などもあって、ヴィルヌーブと[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]のシューマッハの激しいタイトル争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーは予定通りF1から撤退、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。 === 1998年〜1999年 ワークスエンジン不在の苦戦 === [[ファイル:Jacques Villeneuve 1998 Italy.jpg|thumb|200px|[[ウィンフィールド (タバコ)|ウィンフィールド]]カラーに衣替えしたFW20・メカクローム]] {{F1|1998}}はスポンサーブランドがロスマンズから[[ウィンフィールド (たばこ)|ウィンフィールド]]に変更され、[[ウィリアムズ・FW20|FW20]]は同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。1997年9月には2000年から[[BMW]]のエンジン供給契約が締結されたことが正式発表されていた<ref name="名前なし-1"/>。その間の空白期間は元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていた[[ルノーF1|メカクローム]]で参戦することとなり、ルノーエンジンという点では変わりなかったが、その内容は前年のルノーRS9(1997年型)を改修したカスタマー供給であった。そのうえ、ニューウェイが去ったこともあり、マシン開発におけるレギュレーション変更の対応に後手に回り、シャシーの戦闘力不足に悩んだ。最終的にはチームとしては1988年以来の未勝利に終わり、コンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、移籍したヒルが[[1998年ベルギーグランプリ|第13戦ベルギーGP]]で初勝利をプレゼントした[[ジョーダン・グランプリ]]に肉薄されてしまった。シーズン終了後にはヴィルヌーヴとフレンツェンは揃ってチームを離脱した。 {{F1|1999}}はエンジン名を[[ルノーF1|スーパーテック]](供給はメカクローム)とし、5年ぶりのF1復帰となるCARTチャンピオン[[アレッサンドロ・ザナルディ]]とフレンツェンと入れ替わりでジョーダンから加入した[[ラルフ・シューマッハ]]のラインナップとなったが、タイトル争いどころかレースでの優勝争いからも遠ざかった。鳴り物入りで加入したザナルディは精彩を欠き、[[1999年イタリアグランプリ|第13戦イタリアGP]]で予選4位を獲得したこと以外は振るわず、結果的に1ポイントも獲得できなかった。シューマッハも[[1999年ヨーロッパグランプリ|第14戦ヨーロッパGP]]で一時首位を走行するなど健闘は見せたものの、優勝争いには絡めなかった。結局この年はジョーダンとスチュワートに抜かれコンストラクターズ5位に終わり、1988年以来11年ぶりにトップ4陥落の屈辱を味わった。 {{-}} === 2000年〜2005年 BMWとのワークス期 === [[ファイル:J p montoya usgp 2004.jpg|thumb|200px|right|FW26・BMW<br />いわゆる「セイウチノーズ」のマシン]] 発表された通り、ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰した[[BMW]]と提携。[[ル・マン24時間レース]]での共同プロジェクトを経て、{{F1|2000}}より2004年までの長期契約を締結した。登録名は'''BMWウィリアムズF1''' (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった<ref group="注">スポンサー各社のロゴもこの配色に統一され、通常は赤い[[バドワイザー]]のロゴも紺色とされていた。唯一の例外は当初一番の有力スポンサーだった[[コンパック]]で、ロゴの輪郭部分のみ通常のロゴのカラーである赤が入れられていた。しかしのちに[[ヒューレット・パッカード]]に買収され「HP」のロゴが表示されるようになり、その例外も消滅した</ref>。2000年はシューマッハと、テストで抜擢した新人[[ジェンソン・バトン]]のコンビで戦い、シューマッハが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。 {{F1|2001}}には同じく復帰した[[ミシュラン]]タイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。シューマッハが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入した[[ファン・パブロ・モントーヤ]]も初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。{{F1|2002}}はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが5連続を含む7ポールポジションを獲得。タイトルを獲得した1997年に次ぐ成績となるコンストラクターズ2位を獲得を果たした。 {{F1|2003}}は序盤戦は低迷するも、[[ウィリアムズ・FW25|FW25]]の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(シューマッハ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争い、順位こそ前年に準じた位置であったが、ポイント面ではBMWエンジン時代として最高の成績を記録し、1997年以来最も両タイトルに近づいた年となった。また、好調だったことによりBMWとの関係性も極めて良く、シーズン中の6月にはBMWとのエンジン供給契約が2009年まで延長されることが発表された<ref>[https://www.webcg.net/articles/-/16295 F1、ウィリアムズとBMWが契約延長]www.webcg.net(2003年6月30日)2022年5月2日閲覧。</ref>。 この年を最後に[[パトリック・ヘッド]]がテクニカルディレクターを退き、後任に[[サム・マイケル]]が就任する新体制となり翌年を迎える移行期となるが、結果的にこの2003年を最後にタイトル争いに関わることがなくなり、チームの凋落が表面化していくこととなる。 {{F1|2004}}はサム・マイケルがTDとして挑む新体制であったが、[[ウィリアムズ・FW26|FW26]]の特異なハイノーズ(通称「[[セイウチ]]ノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年をもってモントーヤとシューマッハは両名揃ってチームを離脱。モントーヤはマクラーレン、シューマッハはトヨタに移籍した。このうち、シューマッハは後年にウィリアムズ時代について「技術レベルについては素晴らしいレーシングチームだと思う」と断わりを入れた上で、「フランク・ウィリアムズによるチームの管理方法は、常に上から強いプレッシャーをかけるものだった」「あのチームのマネージメントスタイルには間違っていることがすごく多かった」と6年在籍したチームの内情を批判的に述べている<ref>[http://www.topnews.jp/2020/06/03/news/f1/188955.html ラルフ・シューマッハー「ウィリアムズ再建の鍵は設立者ファミリーが完全に身を引くこと」]F1 TOPNEWS 2020年6月3日</ref>。 {{F1|2005}}シーズンはドライバーを一新して[[マーク・ウェバー]]と[[ニック・ハイドフェルド]]が加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への方針を巡ってBMWとの関係は悪化。BMWは[[ザウバー]]を買収してコンストラクターとして参戦することを決意したことから、ウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなり、結果的にワークスエンジンとして供給された最後のシーズンとなった。また、この2年に渡り[[B・A・R]]との間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。 === 2006年 「プライベーターチーム」として === [[ファイル:Nico Rosberg Canada 2006.jpg|thumb|200px|right|[[ウィリアムズ・FW28|FW28]]・コスワース]] BMWとの離別後はトヨタやホンダとの交渉が噂されたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる{{F1|2006}}は[[コスワース]]と契約し、自動車メーカーの[[ワークス・チーム|ワークス]]化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤメーカーも[[ミシュラン]]から[[ブリヂストン]]へ変更された。ドライバーはウェバーが残留し、[[GP2]]初代チャンピオンであり、かつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子である[[ニコ・ロズベルグ]]を起用した。 開幕戦でロズベルグがデビュー戦で[[ファステストラップ]]を記録するなど出だしは悪くなかったが、ワークスチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの信頼性不足でリタイヤが多く、現体制になって以来最悪のコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えた。 === 2007年〜2009年 トヨタとの提携 === [[ファイル:Kazuki Nakajima 2007 Brazil free practice.jpg|thumb|200px|right|トヨタエンジン搭載の[[ウィリアムズ・FW27|FW27]] 中嶋車]] {{F1|2007}}には[[トヨタF1|トヨタ]]と契約し、2009年までカスタマーエンジンの供給を受けることになった。[[AT&T]]がメインスポンサーになり、チーム名は'''AT&Tウィリアムズ''' (AT&T Williams) とされた。ドライバーはロズベルグが残留し、3rdドライバーの[[アレクサンダー・ヴルツ]]がレースドライバーに昇格した。最終戦のブラジルGPではヴルツのF1引退を受け、[[トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム]]出身の[[中嶋一貴]]([[中嶋悟]]の息子)がF1デビューした。マクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い、最終的にトヨタを上回るコンストラクターズランキング4位を獲得した。 {{F1|2008}}はチーム創設30周年にあたり、シーズン中に出走500回([[2008年トルコグランプリ|トルコGP]])、決勝レース50000周回([[2008年スペイングランプリ|スペインGP]])を達成した<ref group="注">これらの記録は、1977年創設、1978年から参戦したウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングの成績であり、1973年、1974年に参戦したイソ-ウィリアムズと1975年、1976年の旧ウイリアムズ([[ウルフ]]に売却)、1977年のマーチのシャシーで参戦した分は入っていない。</ref>。ドライバーは3年目のロズベルグとレギュラーに昇格した中嶋という、ヒル・ヴィルヌーヴ以来の二世コンビ。ロズベルグが2度表彰台を獲得したものの入賞の機会は少なく、コンストラクターズランキング8位に後退した。また、2009年に導入される[[運動エネルギー回生システム|KERS]]の開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得し、「ウィリアムズ・ハイブリッド・パワー」に改称してチームファクトリーに移転した。 {{F1|2009}}は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることはなかった。 トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日にカスタマー供給の打ち切りが発表され<ref group="注">そのトヨタだが、当初はリーマンショックに端を発する経済状況悪化による業績悪化を受け、コスト削減のためにカスタマー供給の打ち切りを発表しただけだったが、最終戦後に2009年を以てF1から撤退することを発表された。</ref>、2009年末に契約を前倒しして終了する形となった。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。 2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた<ref>[http://www.thisislondon.co.uk/standard-business/article-23886083-struggling-williams-sale-of-stake-was-10-percent.do Struggling Williams' sale of stake was 10%](this is london)</ref>。 10年ほどスポンサーを務めた[[アリアンツ]]が離脱・新興[[メルセデスAMG F1|メルセデスGP]]のスポンサーとなった。 === 2010年〜2011年 再度コスワースへ === [[ファイル:Nico Hulkenberg 2010 Malaysia 2nd Free Practice.jpg|thumb|right|200px|[[ニコ・ヒュルケンベルグ]]がドライブする[[ウィリアムズ・FW32|FW32]]([[2010年マレーシアグランプリ|2010年マレーシアGP]])]] {{F1|2010}}に投入したマシン[[ウィリアムズ・FW32|FW32]]ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードで[[メルセデスAMG F1|ブラウンGP]]から[[ルーベンス・バリチェロ]]を起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格した[[ニコ・ヒュルケンベルグ]]となった。テスト・ドライバーには[[バルテリ・ボッタス]]と新しく契約した。[[2010年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]にてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦[[2010年アブダビグランプリ|アブダビGP]]終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された<ref>[http://www.topnews.jp/2010/11/16/news/f1/drivers/nico-hulkenberg/27726.html ウィリアムズ、ニコ・ヒュルケンベルグの離脱を発表](F1TopNews.JP)</ref>。 2008年末からの金融危機が原因でRBS([[ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド]])<ref>{{Cite news | url = http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/02/26/207402/ | title = RBS ウィリアムズとの提携は来年限り | publisher = GPupdate.net | date = 2009-02-26| accessdate = 2009-02-26}}</ref>が、オランダの家電機器メーカーの[[フィリップス]]<ref>{{Cite news | url = http://f1-gate.com/williams/f1_9856.html | title = フィリップス、ウィリアムズのスポンサーを終了 | publisher = F1 Gate.com | date = 2010-11-06| accessdate = 2010-11-07}}</ref>が、それぞれスポンサーを降りた。 {{F1|2011}}シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任として[[ベネズエラ人]]ドライバーの[[パストール・マルドナド]]を起用することを発表し、これに伴いPDVSA([[ベネズエラ国営石油会社]])などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる<ref>[http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/40399.html ウィリアムズ、上場でスポンサー減少か] - ESPN F1・2011年2月10日</ref>)ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日に[[フランクフルト証券取引所]]に株式を上場することを発表した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2011020700818 F1ウィリアムズが上場へ=独フランクフルト市場] - 時事通信・2011年2月7日</ref>。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。 この年は自社製超コンパクトギアボックス(十分な信頼性は確保されていた)以外に目立った体制変更はなかったが、5ポイント・コンストラクターズランキング9位という2006年以上の不振のシーズンとなった(2006年当時のポイントシステムに換算するとこの年のウィリアムズはノーポイントである)。このためテクニカルディレクターのサム・マイケルを始めとする首脳陣が責任を取る形でチームを離脱。またフランク・ウィリアムズと共に同チームを長年率いたパトリック・ヘッドも関連会社の運営に専念することになりF1の現場を離れた<ref>[http://www.gpupdate.net/ja/f1-news/272271/ ヘッド「F1離脱はウィリアムズにとってベスト」] - GPUpdate.net・2011年11月28日</ref>。さらに過去5年にわたりメインスポンサーを務めたAT&Tが2011年末をもって降りた。 === 2012年〜2013年 ウィリアムズ・ルノー復活 === [[ファイル:Valtteri Bottas 2013 Malaysia FP1.jpg|thumb|200px|[[バルテリ・ボッタス]]がドライブする[[ウィリアムズ・FW35|FW35]]([[2013年マレーシアグランプリ|2013年マレーシアGP]])]] {{F1|2012}}シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%82%a6%e3%82%a4%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%82%ba%e3%83%bb%e3%83%ab%e3%83%8e%e3%83%bc%e5%be%a9%e6%b4%bb%ef%bc%81-2012%e5%b9%b4%e3%81%8b%e3%82%892%e5%b9%b4%e5%a5%91%e7%b4%84 ウイリアムズ・ルノー復活! 2012年から2年契約](オートスポーツweb 2011年7月4日)</ref>。ドライバーはバリチェロに代わり[[ブルーノ・セナ]]が起用された。また同年4月1日付でフランク・ウィリアムズはF1チームの取締役から退くことになった(ただし引き続きチーム代表を務め、役員会議には出席を続けるとのこと)。ウィリアムズ家の代表として、役員会には引き続きフランクの娘クレアが出席する。彼女はチームの広報部門に10年務めており、今回ドミニク・ライリーの退社を受けてマーケティング&コミュニケーションディレクターに昇進した<ref>[http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/71784.html ウィリアムズ卿、取締役退任へ](ESPN F1 F1ニュース、速報 2012年3月2日)</ref>。第2戦[[マレーシアグランプリ|マレーシアGP]]終了後の3月26日、フランク・ウィリアムズの後継者と見なされていた[[アダム・パー]]が3月30日付でウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズPLCを退職することを発表。これを受け、[[ディアジオ]]の前CFOで現在WPGHと2つのFTSE100企業の非常勤取締役を務めるニック・ロースが非総裁(Non-Executive Chairman、非常勤会長)に就任。支配株主のフランク・ウィリアムズが、株主で非常勤取締役のトト・ヴォルフ、経営最高責任者のアレックス・バーンズ、残りの取締役のサポートを受けながら会社の監督を続けていく<ref>[http://f1-gate.com/williams/f1_14785.html アダム・パー、ウィリアムズを退職](F1-Gate.com 2012年3月26日)</ref>。第5戦[[スペイングランプリ|スペインGP]]では、パストール・マルドナドが自身初のポールポジションを獲得。決勝ではスタート時に[[フェルナンド・アロンソ]]に抜かれ2位となったものの、ピットストップのタイミングが功を奏し1位に逆転。後半では2位となったアロンソからの追随をも守りきり、ウィリアムズにとって8シーズン・7年半ぶりとなる優勝を獲得した。しかし、レース終了後の優勝祝いの最中にガレージの燃料庫から出火、火災が発生という災難に見舞われた。幸いに命に関わるような重篤な負傷者はいなかったもののFIAによると、この火災で3チームの計31人が負傷したとのこと。貴重なデータを収めたコンピューターも廃棄となり、それらについて当面は他チームから借り受けて運用することになった。その後、マルドナドは光る速さは持っていたものの、安定性に欠けていたが終盤には再び安定したドライビングをし、セナはマルドナドほどの速さはなかったものの予選下位から追い上げる粘り強さやクレバーな走りで中団争いをすることもしばしばあり、76ポイントでランキング8位となった。同年11月にマルドナドの2013年の残留と、リザーブドドライバーだったバルテリ・ボッタスをレギュラードライバーとして起用することが発表された<ref name="2013_drivers">{{Cite news | url = http://f1-gate.com/williams/f1_17511.html| title = ウィリアムズ、パストール・マルドナドとバルテリ・ボッタスの起用を発表| publisher = F1 gate.com| date = 2012-11-28 | accessdate = 2012-11-29}}</ref>。 {{F1|2013}}、フランク・ウィリアムズの後継者と目されていたトト・ヴォルフがメルセデスチーム代表に就任したことからウィリアムズとの関係を次第に解消する動きに出る(2016年3月に全株式を手放した)。マシンは一転して2年前の性能に逆戻りしたかのような戦闘力に苦労する事となった。予選最高位はカナダでのマルドナド13位、ボッタス3位、決勝はマルドナドが第10戦[[2013年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]の10位、ボッタスが第18戦[[2013年アメリカグランプリ|アメリカGP]]の8位で、チーム成績は2年前の5ポイント・9位と同じになった。8月に[[パット・シモンズ]]がチーフテクニカルオフィサーに就任した<ref>"[http://www.topnews.jp/2013/08/22/news/f1/teams/williams/94756.html ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A]". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。</ref>。シーズン終盤にマルドナドはチーム離脱を表明、[[ロータスF1チーム|ロータス]]への移籍を発表した。 === 2014年〜 メルセデスとの提携 === [[ファイル:Felipe Massa 2014 China Race.jpg|200px|thumb|[[フェリペ・マッサ]]がドライブする[[ウィリアムズ・FW36|FW36]]([[2014年中国グランプリ|2014年中国GP]])]] {{F1|2014}}からF1のエンジンレギュレーションが大きく変更されることから、2013年5月にウィリアムズは、2014年より新たにメルセデスからエンジン供給を受けることを発表した<ref>[http://f1-gate.com/williams/f1_19565.html ウィリアムズ、メルセデスとの長期エンジン契約を発表] - F1-Gate.com・2013年5月30日</ref>。メルセデスはウィリアムズにエンジン及び[[運動エネルギー回生システム|エネルギー回生システム]](ERS)を含むパワーユニット(PU)を供給するが、トランスミッションはウィリアムズが独自開発する。ドライバーは残留したボッタスとフェラーリから[[フェリペ・マッサ]]が移籍。テスト段階では従来の紺ベースだったが、[[マルティーニ・エ・ロッシ]]との大型スポンサー契約がまとまり、チーム名や塗装にマルティーニの意向が反映され、白地に赤青ストライプが車体に描かれた。2008年を最後に離れていた[[ペトロブラス]]が[[ブラジル人]]のマッサ加入に伴いスポンサーに復帰。マルドナドが離脱したもののPDVSAは契約期間が残っていた為に残り期間のスポンサー料が違約金として支払われ、BMWエンジンを失って以後、最も潤沢な資金を得てシーズンに臨む事となった。それでもフェラーリの半分の年間予算<ref>[http://ja.espnf1.com/forceindia/motorsport/story/176783.html 財政的なアンバランスを指摘するマルヤ](ESPN F1)</ref>である。 [[2014年オーストラリアグランプリ|開幕戦オーストラリアGP]]ではボッタスが前年を上回る5位入賞を果たし、開幕戦の段階で前年の成績を上回った。続く[[2014年マレーシアグランプリ|第2戦マレーシアGP]]、[[2014年バーレーングランプリ|第3戦バーレーンGP]]でもマッサ7位、ボッタス8位の2戦連続のダブル入賞が続く。[[2014年オーストリアグランプリ|第8戦オーストリアGP]]の予選ではマッサがポールポジション(PP)、ボッタスが2番手とフロントローを独占した。ウィリアムズのPPは2012年第5戦以来<ref group="注">ただし、2012年第5戦のポールポジションは繰り上げによるものであるため、純粋に自力で獲得したポールポジションは2010年第18戦以来となる。</ref>となるが、フロントローを2台独占したのは[[2003年フランスグランプリ|2003年フランスGP]]以来の11年ぶりの出来事であった。なお、マッサ自身にとっても[[2008年ブラジルグランプリ|2008年ブラジルGP]]以来6年ぶりのPP獲得であった<ref>{{Cite news | url = http://f1-gate.com/massa/f1_24129.html| title = フェリペ・マッサ、6シーズンぶりのポールポジション獲得に“感動的”| publisher = F1-gate.com| date = 2014-06-22| accessdate = 2014-06-25}}</ref>。決勝は序盤トップと2位を先行したが、ピット作戦でメルセデス勢に逆転を許しマッサ4位、ボッタス3位初表彰台という結果となった。次戦イギリスGPではボッタスが14番手スタートながらも決勝で2位表彰台を獲得。また、最終戦の[[2014年アブダビグランプリ|アブダビGP]]ではダブルポイントの効果もあり、2台で66ポイントを獲得。これにより、1レースで獲得したポイントが最も多いチームとしての記録を残した。この年はフェラーリとロータスの不振もあったが、未勝利ながらも年間ランキング3位と2003年以来の好成績をあげトップチーム返り咲きを果たしたと思われた。 [[ファイル:Valtteri Bottas 070615.jpg|thumbnail|right|200px|バルテリ・ボッタスがドライブする[[ウィリアムズ・FW37|FW37]]([[2015年カナダグランプリ|2015年カナダGP]])]] {{F1|2015}}もボッタス、マッサのコンビで参戦。第7戦[[2015年カナダグランプリ|カナダGP]]でボッタスが、続く第8戦[[2015年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]でマッサが表彰台を獲得する。第9戦[[2015年イギリスグランプリ|イギリスGP]]ではマッサ、ボッタス共に2列目につけ、ロケットスタートでメルセデスを抜き去り1-2体制でレースを進めていた。しかしピット作戦でメルセデス2台に逆転されると、終盤に雨が降り出した際にウェットタイヤへ交換するタイミングを誤り、フェラーリの[[セバスチャン・ベッテル]]にも逆転されマッサ4位、ボッタス5位に終わった。 シーズンを通してメルセデス、フェラーリの後塵を拝するレースが多かったものの、レッドブルの不振もあり、コンストラクターズは前年と変わらず3位、個人ランキングではボッタス5位、マッサ6位となり、結果だけ見れば、前年に近い成績でシーズンを終えた。だが、総獲得ポイントは減少し、前年がチームとして全戦入賞を果たしたのに対し、今季は入賞を逃したGPいくつかあり、さらに表彰台も両ドライバーとも3位表彰台2回ずつに留まるなど(前年は2位表彰台も記録していた)、少なからず成績が下がった。この時期最強とされていたメルセデスPUを搭載していたため、下位チームに対しては優勢を保っていたものの、この年優勝したチームには後れを取っており、それが反映したような成績となってしまった。そして、この年以降、チームの位置付けは、相対的に下がってゆくこととなる。 {{F1|2016}}もドライバーは変わらず。第5戦までは2015年と同じような成績であったが、4月の段階で前年型よりマシンの戦闘力が後退しているコメント<ref>[http://www.topnews.jp/2016/04/08/news/f1/137515.html ボッタス「今のウィリアムズでは勝てない」]www.topnews.jp(2016年4月8日)2022年5月2日閲覧。</ref><ref>[http://www.topnews.jp/2016/04/21/news/f1/138375.html フェリペ・マッサ「ウィリアムズは3強に後れをとっている」]www.topnews.jp(2016年4月21日)2022年5月2日閲覧。</ref>が発せられ、シーズンが進むにつれてポイントを獲得するのが精一杯という状況になっていき、メルセデス、レッドブル、フェラーリから大きく差をつけられた。表彰台も[[2016年カナダグランプリ|カナダGP]]でのボッタスの3位のみとなり、同じメルセデス製PUを使用するフォース・インディアが3位を2度獲得したこともあり、コンストラクターズ5位に後退した。[[2016年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でマッサがこの年で限りで引退することを発表した。また、テクニカルディレクターのパット・シモンズがこの年をもってチームを離脱<ref>{{Cite news | url = http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/232261.html | title = シモンズが今年末でウィリアムズ離脱 | publisher = ESPN F1 | date = 2016-12-21 | accessdate = 2016-12-24}}</ref>。 [[ファイル:Felipe Massa 2017 Catalonia test (27 Feb-2 Mar) Day 1 1.jpg|thumb|right|200px|最終年となったマッサがドライブする[[ウィリアムズ・FW40|FW40]]]] {{F1|2017}}は「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」としてのF1参戦40周年を迎えることから、順番通りのFW39ではなくシャシー名称を「[[ウィリアムズ・FW40|FW40]]」とした<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/62227?all |title = 幻の「FW39」。F1参戦40周年のウイリアムズ、来季はシャシー名のしきたり破る |publisher = AUTO SPORT web |date = 2016-11-02 |accessdate = 2016-11-02}}</ref>。ドライバーは当初、マッサの引退を受け、ボッタスの残留と前年ウィリアムズのリザーブドライバーを務めていた[[ランス・ストロール]]の昇格を発表していた<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/62532?all |title = 【正式発表】ウイリアムズ、マッサの後任に18歳ストロールを起用。ボッタスの残留も確定 |publisher = AUTO SPORT web |date = 2016-11-03 |accessdate = 2016-11-04}}</ref>。ところが、前年度王者の[[ニコ・ロズベルグ]]の電撃的引退に伴いボッタスがメルセデスに移籍したため、その影響でマッサは引退を撤回して引き続きウィリアムズで走ることとなった<ref>{{Cite web|和書|url = http://f1-gate.com/mercedes-benz/f1_34502.html | title = メルセデス、バルテリ・ボッタスの起用を正式発表 |publisher = F1-Gate.com |date = 2017-01-17 |accessdate = 2017-01-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url =http://f1-gate.com/williams/f1_34501.html | title = ウィリアムズ、バルテリ・ボッタスに代えてフェリペ・マッサの起用を発表 | |publisher = F1-Gate.com |date = 2017-01-16 |accessdate = 2017-01-17}}</ref>。ストロールには父親である[[ローレンス・ストロール]]による資金提供が強く関わっているとの声が強く、ウィリアムズの資金難を示唆していた。なお、ウィリアムズで10代のドライバーが走るのは史上初のことである。メルセデスを離脱した[[パディ・ロウ]]が[[最高技術責任者|チーフテクニカルオフィサー(CTO)]]に<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/87896?all |title = パディ・ロウがウイリアムズの取締役に就任へ。メルセデスF1から人員引き抜き、体制強化か |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-02-02 |accessdate = 2017-02-05}}</ref>、前年末に[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]を離脱した[[ディルク・デ・ビア]]が空力責任者にそれぞれ就任し技術陣の強化を行った<ref>{{Cite web|和書|url = http://f1-gate.com/williams/f1_34856.html |title = ウィリアムズ、ディルク・デ・ビアが空力責任者に就任 |publisher = F1-Gate.com |date = 2017-02-17 |accessdate = 2017-03-03}}</ref>。 ストロールは開幕3戦はリタイアとなるが、初の母国レースとなる第7戦[[2017年カナダグランプリ|カナダGP]]で9位入賞を果たすと、次の[[2017年アゼルバイジャングランプリ|アゼルバイジャンGP]]では3位に入り、初の表彰台に立った。[[2017年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]では予選ではマッサ17位、ストロール18位と低迷するも決勝ではマッサ9位、ストロール10位にまで追い上げ今シーズン初のダブル入賞を果たした。[[2017年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]はマッサが体調不良を訴え欠場したため、リザーブドライバーの[[ポール・ディ・レスタ]]が代走を務めた<ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/williams/f1_37816.html |title= ウィリアムズ、体調不良のマッサに代えてポール・ディ・レスタを起用 |publisher = F1-Gate.com | date = 2017-07-29 |accessdate = 2017-07-29}}</ref>。チームとしては第2戦と第5戦以外で入賞し、時のトップ3チーム(メルセデス、フェラーリ、レッドブル)以外のドライバーとしてストロールが1回だけだが表彰台に上がったものの、ダブル入賞の回数が大幅に減り(前年10回、今季3回)、ランキングこそ昨年の5位と変わりはなかったが4位のフォース・インディアにはダブルスコアを付けられる結果となった。また、マッサはシーズン後半に改めて引退を表明した<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/177762?all |title = マッサ、2017年末でのF1引退を発表。ウイリアムズのドライバー選考は大詰めに |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-11-05 |accessdate = 2017-11-08}}</ref>。 [[ファイル:Sirotkin Williams FW41 Testing Barcelona.jpg|thumb|right|200px|期待外れに終わった[[ウィリアムズ・FW41|FW41]]]] {{F1|2018}}1月16日、ストロールの残留と[[セルゲイ・シロトキン]]の起用、そして[[ロバート・クビサ]]のリザーブ兼開発ドライバー就任が発表された<ref>{{Cite web |url = http://www.williamsf1.com/racing/news/2018/01/sergeysirotkintojoinlancestrollin2018publisher |publisher= williamsf1.com |date = 2018-01-16 |title = CONFIRMS SERGEY SIROTKIN TO JOIN LANCE STROLL IN 2018 |accessdate = 2018-02-17}}</ref>。開幕を前に、{{F1|2014}}からタイトルスポンサーとなっていたマルティーニが2018年をもって契約終了となることが発表された。マルティーニは25歳以上のドライバーを起用することを要望していた(マッサが2017年に引退を撤回した要因の一つでもあった)が、ストロールは19歳、シロトキンは22歳と条件を満たしておらず、今回のドライバー選択が契約終了の一因ではないかとの見方をされていたが、クレア・ウィリアムズはこれを否定している<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/343089?all |title = マルティーニがウイリアムズとのタイトルスポンサー契約を終了。F1から撤退へ |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2018-02-28 |accessdate = 2018-03-01}}</ref>。パディ・ロウの手による新車[[ウィリアムズ・FW41|FW41]]に期待が高まったものの空力に問題を抱え<ref>"[http://www.as-web.jp/f1/369302?all ウイリアムズF1、シーズン中盤までにパフォーマンスを向上させるべくリカバリープログラムを開始"]. AUTOSPOTweb(2018年5月15日). 2018年5月16日閲覧。</ref>、5月にはチーフデザイナーのエド・ウッドと空力責任者のディルク・デ・ビアが相次いで離脱し<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/367705?all |title = ウイリアムズF1の古参チーフデザイナーがチームを離脱 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2018-05-11 |accessdate = 2018-06-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/williams/f1_42808.html |title = ウィリアムズ、空力責任者のディルク・デ・ビアがチームを離脱 |publisher = F1-Gate.com |date = 2018-05-31 |accessdate = 2018-06-11}}</ref>、パフォーマンスエンジニアリング責任者のロブ・スメドレーもシーズン終了をもって離脱する事態に陥った<ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/williams/f1_45833.html |title = ウィリアムズ、ロブ・スメドレーのチーム離脱を発表 |publisher = F1-Gate.com |date = 2018-11-06 |accessdate = 2018-11-12}}</ref>。そのため、戦闘力強化の一環で自社開発を続けて来たトランスミッションもメルセデスからの供給に切り替える報道<ref>[https://carview.yahoo.co.jp/news/motorsports/20180808-10332439-carview/ ウイリアムズF1、メルセデスとのギヤボックス契約を検討も、ハース&フェラーリタイプの広範提携には消極的] Carview 2018年8月8日、同9月6日閲覧。</ref>が出るほどであり、入賞したのはストロールが第4戦[[2018年アゼルバイジャングランプリ|アゼルバイジャンGP]]で挙げた8位とダブル入賞を果たした第14戦[[2018年イタリアグランプリ|イタリアGP]]の2戦(イタリアGPのダブル入賞のうち、シロトキンの入賞は上位のドライバーが失格になったこともあってのものであった)のみで、コンストラクターズランキング最下位へと転落した。そんななか、ストロール家率いる[[コンソーシアム]]が破産宣告を受けた[[フォース・インディア]]を買収し、ランス・ストロールも同チームから名称を変更した[[レーシング・ポイント]]へ移籍。シロトキンも持参金が用意できなかったことや資金難の影響で交代させられる形となり、わずか1年でF1から去ることとなった。 [[ファイル:FIA F1 Austria 2019 Nr. 88 Kubica 2.jpg|thumb|right|200px|低迷が続いた[[ウィリアムズ・FW42|FW42]]]] {{F1|2019}}、前年の予告通りマルティーニとの契約が終了したため、今期は携帯電話会社の「ROKiT(ロキット)」と新たなタイトルスポンサー契約を結び、『ロキット・ウィリアムズ・レーシング』の名でエントリー<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/williams-new-car-color-launch/4335707/ |title=ウイリアムズ、新マシンのカラーリング発表。ROKiTがタイトルスポンサーに |publisher=motorsport.com |date=2019-02-12 |accessdate=2019-02-12 }}</ref>。リザーブドライバーのクビサが正ドライバーに昇格して9年ぶりにF1復帰、メルセデスのリザーブドライバーを務めた新人[[ジョージ・ラッセル (レーシングドライバー)|ジョージ・ラッセル]]とのコンビとなる。新車[[ウィリアムズ・FW42|FW42]]は合同実走テストに2日半参加できず大幅なハンデとなり、開幕1週間前にCTOのパディ・ロウが事実上更迭された<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/459099?all |title = 苦境続くウイリアムズF1、技術責任者パディ・ロウの休職を発表 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2019-03-07 |accessdate = 2019-03-09}}</ref>。開幕戦オーストラリアではクビサ、ラッセル共々予選・決勝共に最下位に甘んじ、その後のレースでも下位に低迷。チームは人員の再編を行い、[[パトリック・ヘッド]]がコンサルタントとして8年ぶりにF1へ復帰、アダム・カーターがデザイン責任者の役割を引き継いだ<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/williams-brings-back-co-founder-head-in-consultancy-role/4361174/ |title = パトリック・ヘッド、ウイリアムズに復帰。チーム再編のコンサルタントに就任 |publisher = motorsport.com |date = 2019-03-30 |accessdate = 2019-03-30}}</ref>。第11戦[[2019年ドイツグランプリ|ドイツGP]]でクビサが10位となりノーポイントは免れたが、上位のドライバーのペナルティによる繰り上がりでの入賞であった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/507530?all |title = クビサがF1復帰後初入賞「9年ぶりのF1ウエットレース。とにかく確実に完走することを目指した」:ウイリアムズ ドイツGP |publisher = autosport web |date = 2019-07-29 |accessdate = 2019-08-02}}</ref>。結局、ドイツGPの入賞で獲得した1ポイントがシーズン唯一のポイントとなり自力入賞は一度もないままシーズンを終えた。7月にROKiTと2023年まで、9月にメルセデスPUと2025年までの長期契約をまとめた。シンガポールGP記者会見でクビサがチーム離脱を発表した。また、今シーズンの成績によってチームのマシン開発の迷走が指摘されるようになる。 {{F1|2020}}、ドライバーはラッセルが残留し、リザーブドライバーを務めていた[[ニコラス・ラティフィ]]が昇格<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/558169?all |title = ルーキーのラティフィ、F1でラッセルと再戦へ「彼と戦うことをとても楽しみにしている」 |publisher = autosport web |date = 2020-01-16 |accessdate = 2020-03-01}}</ref>。技術部門も刷新され、[[レッドブル・レーシング|レッドブル]]からデイビッド・ワーナー、[[ルノーF1|ルノー]]からジョナサン・カーターが移籍してチーフデザイナー、副チーフデザイナー兼デザイン部門責任者にそれぞれ就任し、デザイン部門のアダム・カーターがチーフエンジニアに就任<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/561087?all |title = 最下位からの脱出目指すウイリアムズF1、レッドブル&ルノーのデザイナーを引き抜き |publisher = autosport web |date = 2020-01-29 |accessdate = 2020-03-01}}</ref>。マクラーレンからサイモン・ロバーツをマネージングディレクターに迎えた<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/williams-appoints-roberts-as-f1-managing-director/4791118/ |title = ウイリアムズのマネージングディレクターに元マクラーレンCOOが就任。技術部門も統括 |publisher = motorsport.com |date = 2020-05-12 |accessdate = 2020-06-27}}</ref>。今季はクラッシュテストの素早い合格<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/558771?all |title = ウイリアムズF1の2020年型シャシーがクラッシュテストに合格「プレシーズンテストに間に合う」と自信 |publisher = autosport web |date = 2020-01-17 |accessdate = 2020-03-31}}</ref>やマシンの戦闘力の改善の成功の兆しなど<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/russell-williams-still-the-slowest-car-in-2020/4705157/ |title = ウイリアムズ、復活の兆し見せるもラッセルは慎重姿勢「まだ僕たちが一番遅い」 |publisher = motorsport.com |date = 2020-03-01 |accessdate = 2020-03-31}}</ref>、明るいニュースもあった。ところが、[[2020年のF1世界選手権#開催予定地|世界的な問題による開幕延期]]に伴い、チームの資金難に拍車がかかることとなった。プレシーズンテストの頃でさえ、深刻な資金難に陥っており、関連会社のウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングの株式を前年末に過半数売却し<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/williams-agrees-sale-of-williams-advanced-engineering-stake/4616489/ |title = ウイリアムズ、フォーミュラEのバッテリーなど手掛けた関連会社を売却へ |publisher = motorsport.com |date = 2019-12-25 |accessdate = 2020-04-11}}</ref>参戦用の資金を確保。ラティフィの起用は金銭面が理由ではないとしながらも、彼が関連するスポンサーが多数参加しており<ref>[https://formula1-data.com/article/williams-welcomes-royal-bank-of-canada-for-2020 ウィリアムズF1に更なる”ラティフィ・マネー”、カナダロイヤル銀行が新たなスポンサーに]formula1-data.com(2020年1月13日)2020年3月31日閲覧</ref>、それを否定することもできなかった。そのうえ、シーズンが凍結されていることにより、レースで得られる収入が一時的に消滅してしまったため、施設や歴代マシンなどを担保に運営資金の緊急調達<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/williams-secures-refinancing-after-engineering-division-sale/4779500/ |title = ウイリアムズF1、施設や歴代マシンを担保に新規融資を確保 |publisher = motorsport.com |date = 2020-04-11 |accessdate = 2020-04-11}}</ref>に迫られる事態となった。それに追い打ちをかけるかのように、チームからタイトルスポンサーのROKiTが5月29日付で契約が即時終了されたことが発表され、その分の収入も喪失。そのため、チーム株式の過半数あるいはチーム自体の売却を検討し始める事態<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/588573?all |title = ウイリアムズがF1チーム売却を検討と発表。タイトルスポンサー『ROKiT』は契約終了 |publisher = autosport web |date = 2020-05-29 |accessdate = 2020-05-30}}</ref>となった。 === 2020年〜 チーム売却、新たな体制に === {{節stub}} 2020年8月21日、アメリカの投資企業[[ドリルトン・キャピタル]][https://www.doriltoncapital.com/](Dorilton Capital)に1億5200万ユーロ(約190億円)でチームを売却したことを発表した<ref name="aquisituon">{{Cite web |url = https://www.williamsf1.com/news/2020/08/williams-racing-is-acquired-by-dorilton-capital |title = Williams Racing is acquired by Dorilton Capital |publisher = Williams Racing Official Website |date = 2020-08-21 |accessdate = 2020-08-25}}</ref>。チームのオーナーシップはドリルトン・キャピタルに移るが、チームはグローブの拠点に留まり、ウィリアムズとしてF1への参戦は続ける<ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/williams/f1_58023.html |title = ウィリアムズF1、チームの売却金額は約190億円 |publisher = F1-Gate,com |date = 2020-08-21 |accessdate = 2020-08-25}}</ref>。そして9月初頭の[[2020年イタリアグランプリ|第8戦イタリアGP]]をもって、フランク・ウィリアムズら首脳陣が正式に退任<ref name="dorilton">{{Cite web|和書|url=https://formula1-data.com/article/williams-new-board-after-williams-family-retirement |title=ウィリアムズF1、クレアとフランク含む5名の取締役が退任…ドリルトンから後任 |publisher=Formula1-data.com |date=2020/9/4 |accessdate=2020/9/9 }}</ref>。43年に及ぶウィリアムズ家の運営に終止符が打たれた。後任のチーム代表には、残留したマネージングディレクターのサイモン・ロバーツが臨時で務める<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.as-web.jp/f1/622138?all |title=ウイリアムズF1、マネージングディレクターのサイモン・ロバーツを臨時チーム代表に起用 |publisher=autosport web |date=2020/9/8 |accessdate=2020/9/9 }}</ref>。 今季は予選Q2に何戦か進出し、特にラッセルが複数回Q2進出を達成したが<ref>[https://formula1-data.com/article/george-russell-wins-his-36th-consecutive-qualifying-against-teammates 無敗のジョージ・ラッセル、錚々たる歴代王者の仲間入り!F1史上3番目の対チームメイト予選成績36連勝を達成]formula1-data.com(2020年11月29日)2021年9月1日閲覧。</ref>、予選Q3進出までは至らなかった。決勝はラッセル1度、ラティフィ3度の11位の記録が最高位であり、チーム史上初(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代は除く)の年間無得点に終わった。 {{F1|2021}}、ドライバーは両名とも継続。[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響により、今季は前年型シャシーの継続の決定。その関係でフロア後部に新たな規制の追加とトークン制による開発制限が導入<ref>[https://www.as-web.jp/f1/668494?all 【連載解説】2021年F1新技術レギュレーション(1)開発凍結パーツとトークン制度]www.as-web.jp(2021年2月11日)2021年8月30日閲覧。</ref>され、チームは今季のマシンをFW43Bと命名して参戦する。元[[フォルクスワーゲン]]・[[マクラーレン]]の[[ヨースト・カピート]]を[[最高経営責任者]](CEO)に招聘したほか、テクニカルディレクターには[[フランソワ=グザビエ・ドゥメゾン]]を起用した<ref name=as221213>[https://www.as-web.jp/f1/890765?all ウイリアムズF1、チーム代表カピートとテクニカルディレクターの退任を発表。後任は後日明らかに] - オートスポーツ・2022年12月13日</ref>。後にロバーツの離脱に伴い、カビートが正式にチーム代表となった。 ラッセルが第10戦[[2021年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]で、ウィリアムズチームとして2018年[[2018年イタリアグランプリ|第14戦イタリアグランプリ]]以来のQ3進出を果たし、9番手を獲得(前のマシンのペナルティによる順位変動により8番手スタート)<ref>[https://www.as-web.jp/f1/715570? ラッセル、ウイリアムズで予選9番手の快挙「ミディアムタイヤでQ3進出。久々にテンションが上がった!」F1第9戦] autosport web(2021年7月4日)2021年8月30日閲覧。</ref>。決勝では10位入賞も目前まで迫ったが、タイヤが限界を迎え、11位完走に終わった<ref>[https://www.as-web.jp/f1/716208?all ラッセル「アロンソを抑え続けるのは不可能だった。僅差で入賞を逃し本当に悔しい」:ウイリアムズ F1第9戦決勝] autosport web(2021年7月6日)2021年8月30日閲覧。</ref>。 第12戦[[2021年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]では、予選こそ両者ともにQ1敗退となったものの、決勝では1周目に起きた前方での多重クラッシュをかいくぐり、ラティフィとラッセルが共に入賞を記録。さらに2位の[[セバスチャン・ベッテル]]の失格により順位変動により、ラティフィ7位、ラッセル8位のダブル入賞を記録することとなり<ref>[https://www.as-web.jp/f1/724533?all ウイリアムズがダブル入賞「長く苦しい時期だった。言葉が見つからない」とラッセル/F1第11戦]www.as-web.jp(2021年8月2日)2021年8月30日閲覧。</ref>、チームとしては2018年第14戦イタリアGP以来のダブル入賞となった<ref group="注">この時は前の順位のマシンの失格による繰り上がりで得た結果でもあるため、「2台とも入賞圏内で完走」したのは[[2017年マレーシアグランプリ]]以来となる。</ref>。第12戦[[2021年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]ではウエットコンディション下で行われた予選においてラッセルが最終的に2番手を獲得<ref>[https://www.as-web.jp/f1/733566 F1 Topic:「失うモノは何もない」一か八かの作戦で予選2番手を獲得したラッセルとウイリアムズ]www.as-web.jp(2021年8月29日)2021年8月30日閲覧。</ref>。決勝は荒天で最終的に中止となったが、ハーフポイントレースの要件を満たした形かつほぼ決勝開始時の順位のまま終了。その結果、ラッセルが2位、ラティフィが9位となった<ref>[https://www.as-web.jp/f1/734085 ラッセルが2位でF1初ポディウム「変な経緯であっても、表彰台は表彰台」ウイリアムズ/F1第12戦]www.as-web.jp(2021年8月30日)2021年8月30日閲覧。</ref>。また、ベルギーGPの結果に関してはラッセルが[[2014年オーストリアグランプリ]]以来のフロントロー獲得(ただし、グリッドペナルティなどの順位変動も含めば[[2017年イタリアグランプリ]]に[[ランス・ストロール]]がそれによる繰り上がりの形で2番手を獲得している)と[[2017年アゼルバイジャングランプリ]]以来の表彰台入りを記録することとなった。その後、ラッセルが第14戦と第15戦で入賞しポイントを加算。第16戦以降は入賞できなかったが、自チームより下の2チームがウィリアムズの獲得ポイントを上回れなかったため、最終的にコンストラクターズ8位でシーズンを終えた。なお、この年の11月28日にはフランク・ウィリアムズが亡くなっている<ref>{{Cite web|title=Legendary F1 team boss Sir Frank Williams dies, aged 79 {{!}} Formula 1®|url=https://www.formula1.com/en/latest/article.breaking-legendary-f1-team-boss-sir-frank-williams-dies-aged-79.mCPM4nj5n62elIhFoPhtv.html|website=www.formula1.com|accessdate=2022-08-09|language=en}}</ref><ref name="MScom-211129">{{cite news|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/legendary-f1-team-boss-sir-frank-williams-dies-aged-79/6829638/|title=ウイリアムズ創設者、フランク・ウイリアムズ亡くなる。享年79|author=Jonathan Noble|date=2021-11-29|publisher=Motorsport.com|accessdate=2022-08-09}}</ref>。 {{F1|2022}}、ラティフィが残留するが、ラッセルがメルセデスに移籍したため、F1へ復帰する[[アレクサンダー・アルボン]]が加入。新車[[ウィリアムズ・FW44|FW44]]はこのシーズンから27年間付けていたセナのSマークを外すことが決定している<ref>[https://www.as-web.jp/f1/784733?all ウイリアムズF1、2022年型『FW44』からアイルトン・セナのロゴを外すことを決定]www.as-web.jp(2022年2月16日)2022年2月16日閲覧。</ref>。またギアボックスは自社製をやめメルセデス供給とした。FW44は開幕時点では開口部が非常に大きく後部を丸ごと削った独特なサイドポッドだったが、成績は低調。第10戦からは一般的なサイドポッド<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/revealed-how-williams-f1-update-isnt-just-a-red-bull-clone/10330757/ レッドブルにもフェラーリにも似ている? ウイリアムズがアルボン車を大幅アップデート] - motorsports.com・2022年07月01日</ref>に変更。この年は散発的に9位・10位入賞したもののコンストラクターズ順位も再び最下位(10位)に転落した。 {{F1|2023}}に向けては、ラティフィがチームを離脱し、後任には[[2022年のFIA F2選手権]]でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した[[ローガン・サージェント]]を起用<ref>[https://www.as-web.jp/f1/885460?all ウイリアムズF1、ローガン・サージェントの起用を発表。8年ぶりのアメリカ人F1ドライバーが誕生] - オートスポーツ・2022年11月21日</ref>。また2022年12月には、チーム代表のカピート、テクニカルディレクターのドゥメゾンの離脱も発表された<ref name=as221213 />。新代表には元メルセデスの[[ジェームス・ボウルズ]]がついた。2023シーズンは、前年に比べるとマシン性能も向上。特に高速サーキットではストレートスピードの速さが光り、開幕戦バーレーンGPでは[[アレクサンダー・アルボン]]10位入賞し1ポイントを獲得した。第9戦カナダGPではアレクサンダー・アルボンが安定した走りを見せ7位入賞し6ポイントを獲得した。その後もアレクサンダー・アルボンが第11戦イギリスGPで8位入賞、第14戦オランダGPで8位入賞、第15戦イタリアGPで7位入賞、第18戦カタールGPスプリントで7位入賞。第19戦アメリカGPでは、[[ルイス・ハミルトン]]と[[シャルル・ルクレール (レーシングドライバー)|シャルル・ルクレール]]の失格により9位入賞、第20戦メキシコGPで9位入賞と入賞を重ねている。[[ローガン・サージェント]]は第19戦アメリカGPで[[ルイス・ハミルトン]]と[[シャルル・ルクレール (レーシングドライバー)|シャルル・ルクレール]]の失格により10位入賞しF1キャリア初のポイントを地元アメリカで獲得した。合計で28ポイントを獲得しコンストラクターズランキング7位となっている。 {{F1|2024}}もアルボンとサージェントのコンビで戦うこととなる。 == F1以外の活動 == ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。 [[file:MG Metro 6R4 - Race Retro 2008 04.jpg|200px|thumb|right|MG・メトロ6R4]] [[file:Alain Menu 1996 BTCC cropped.jpg|thumb|right|200px|BTCCのルノー・ラグナ]] [[File:BMW V12 LM - Tom Kristensen, Steve Soper & Hans-Joachim Stuck at the 1998 Le Mans (51840387643).jpg|thumb|right|BMW・V12 LM]] * [[グループB]]規定の[[MG・メトロ6R4]]の開発に参画。自然吸気エンジンでパワーこそライバルに劣ったが、高い空力性能を持っていた。最高成績は1985年RACラリーの3位。欧州ラリークロス選手権にも持ち込まれ、1992年のディヴィジョン2チャンピオンを獲得している。 * [[DTM]]/[[国際ツーリングカー選手権|ITC]]の[[オペル・カリブラ|オペル・カリブラ4×4]]の開発に1995年から参画。同年メルセデスを破ってチャンピオンを獲得した。 * [[BTCC]](英国ツーリングカー選手権)の[[ルノー・ラグナ]]を開発し、「ウィリアムズ・ルノー・ディーラー・レーシング」として参戦。激戦区だった当時に2度もチャンピオンを獲得した。 * [[「ル・マン」プロトタイプ|LMP]]1規定の[[プロトタイプレーシングカー]]である[[BMW・V12 LM]]の開発に参画。実働部隊の[[シュニッツァー・モータースポーツ]]によって、[[1998年のル・マン24時間レース]]に参戦した。同マシンのエボリューションモデル、[[BMW・V12 LMR|V12 LMR]]は[[1999年]]の[[セブリング12時間レース]]と[[1999年のル・マン24時間レース|ル・マン24時間レース]]で総合優勝を果たしている。 * [[国際自動車連盟]](FIA)が[[2009年]]から復活させた[[フォーミュラ2#FIA F2選手権|FIA F2選手権]](F2)用のシャーシ設計を行い、2009年[[3月2日]]に[[ブランズ・ハッチ]]で[[ウィリアムズ・JPH01]]を発表した<ref>[http://f1-gate.com/other/f1_2945.html F2マシン「ウィリアムズJPH01」発表](F1-Gate.com)</ref>。またF2のシリーズチャンピオンにはウィリアムズのF1マシンをテストする機会が与えられ<ref>[http://sports.jp.msn.com/article/article.aspx?genreid=13&articleid=346260 新設のF2王者、ウィリアムズのF1テスト参加へ] - MSNスポーツ</ref>、2009年は[[アンディ・ソウセック]]、2010年は[[ディーン・ストーンマン]]が起用された。 * 2009年に開発していたフライホイール式KERSを、[[ポルシェ・911 GT3#997 GT3 R ハイブリッド(2010–2011)|ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッド]]に提供したほか<ref>[http://www.topnews.jp/2010/02/12/news/f1/teams/williams/9514.html ウィリアムズ、ポルシェにKERS技術を提供](F1TopNews.JP)</ref>、[[2012年]]に[[アウディ]]がル・マン24時間に投入した[[アウディ・R18|R18 e-tron クワトロ]]にも提供<ref>[http://www.williamshybridpower.com/news/36-press-releases/137-williams-hybrid-power-chosen-as-supplier-by-audi-sport Williams Hybrid Power Chosen As Supplier By Audi Sport] - Williams Hybrid Power・2012年3月1日</ref>。同年の[[2012年のル・マン24時間レース|ル・マン24時間レース]]で総合優勝を飾った。 * 2013年には関連会社のウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングが、[[ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル]](NISMO)と高性能スポーツカーの共同開発を行うことで合意。2014年より順次[[日産自動車|日産]]車をベースとした高性能市販車をリリースするとしていたが<ref>[http://jp.autoblog.com/2013/06/27/williams-and-nismo-to-collaborate-in-the-development-of-high-performance-road-cars/ F1のウイリアムズとニスモが技術提携を発表! 協力して日産車ベースの高性能モデル開発へ!] - autoblog日本版・2013年6月28日</ref>、実際には発売に至っていない。 * [[ジャガーランドローバー]](JLR)とも提携関係にあり、2010年にジャガーブランドでハイブリッドスポーツカー『C-X75』を共同開発しているほか<ref>[http://www.jaguar.co.jp/about-jaguar/concept-cars/cx75.html C-X75] - Jaguar Japan</ref>、2016年からは共同で[[フォーミュラE]]へ参戦する<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%82%b8%e3%83%a3%e3%82%ac%e3%83%bc%e3%80%8cfe%e3%81%a7%e3%81%ae%e6%88%90%e5%8a%9f%e3%81%ab%e3%81%af%e3%82%a6%e3%82%a4%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%a0%e3%82%ba%e3%81%8c%e9%8d%b5%e3%80%8d ジャガー「FEでの成功にはウイリアムズが鍵」] - オートスポーツ・2015年12月17日</ref>。 * [[フォーミュラE]](2017 - 2018シーズンまで)や[[エクストリームE]]といった[[電気自動車]](EV)によるレースシリーズでも、ウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリング製のバッテリーが採用される例が多い。 なお[[ウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリング]]については、2022年1月にオーストラリアの鉄鉱業企業、[[フォーテスキュー・メタルズ・グループ]]に約1億6400万ポンドで売却しており、グループから外れている<ref>[https://www.autocar.co.uk/car-news/business-tech%2C-development-and-manufacturing/metals-giant-buys-williams-advanced Metals giant buys Williams Advanced Engineering for £164m] - AUTOCAR・2022年1月24日</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://f1-gate.com/williams/f1_66970.html |title=ウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングの売却が252億円で成立 |access-date=2022年1月26日 |publisher=f1-gate.com}}</ref>。 == 新人の登竜門 == かつては、レギュラードライバーは30歳代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、[[ザウバー]]や[[ミナルディ]]、[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]ほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてデビッド・クルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、ジェンソン・バトン、ファン・パブロ・モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、パストール・マルドナド、バルテリ・ボッタス、ランス・ストロール、セルゲイ・シトロキン、ジョージ・ラッセル、ニコラス・ラティフィ、ローガン・サージェントがいる。 このうちヴィルヌーヴ、バトン、ロズベルグはワールドチャンピオンを獲得している。しかし2010年代になるとチームの財政的な運営状態が厳しくなり、ストロールの起用を筆頭にチームに資金をもたらす「ペイドライバー」の起用を優先することが増えてきている。 なお、1983年にイギリス[[フォーミュラ3|F3]]参戦中のアイルトン・セナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。ただし、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーとしての起用は見送られた。 == ウィリアムズでF1初勝利を記録したドライバー == 歴代のウィリアムズドライバーの中で10名がウィリアムズでF1初勝利を達成している。 * [[ケケ・ロズベルグ]]…1982年スイスGP * [[ナイジェル・マンセル]]…1985年ヨーロッパGP(当時の最遅初勝利記録。続く南アフリカGPも連勝) * [[ティエリー・ブーツェン]]…1989年カナダGP(当時の最遅初勝利記録) * [[デイモン・ヒル]]…1993年ハンガリーGP(続くベルギーGP、イタリアGPも制し3連勝) * [[デビッド・クルサード]]…1995年ポルトガルGP * [[ジャック・ヴィルヌーヴ]]…1996年ヨーロッパGP(デビュー4戦目での初勝利) * [[ハインツ・ハラルド・フレンツェン]]…1997年サンマリノGP * [[ラルフ・シューマッハ]]…2001年サンマリノGP(ウィリアムズ3年半ぶりの勝利) * [[ファン・パブロ・モントーヤ]]…2001年イタリアGP * [[パストール・マルドナド]]…2012年スペインGP(ウィリアムズ7年半ぶりの勝利にして2022年時点でのウィリアムズ最終優勝) == ウィリアムズでドライバーズタイトルを獲得したドライバー == * [[アラン・ジョーンズ]](1980年)- 翌年もチームに残留。 * [[ケケ・ロズベルグ]](1982年)- 翌年もチームに残留。 * [[ネルソン・ピケ]](1987年)- 翌年は[[チーム・ロータス|ロータス]]に移籍。 * [[ナイジェル・マンセル]](1992年) - その年をもってF1から引退(後に一時的に復帰)。 * [[アラン・プロスト]](1993年)- その年をもってF1から引退。 * [[デイモン・ヒル]](1996年) - 翌年は[[アロウズ]]に移籍。 * [[ジャック・ヴィルヌーヴ]](1997年)- 翌年もチームに残留。 <gallery widths="120px" heights="180px"> Alan Jones 1980.jpg|アラン・ジョーンズ Anefo 932-2378 Keke Rosberg, Zandvoort, 03-07-1982.jpg|ケケ・ロズベルグ Piquet a Monza 1983.JPG|ネルソン・ピケ NigelMansell.jpg|ナイジェル・マンセル Alain Prost 1989 Belgian GP podium.jpg|アラン・プロスト Damon Hill juillet 1995.jpg|デイモン・ヒル Jacques Villeneuve 2002.jpg|ジャック・ヴィルヌーヴ </gallery> == 変遷表 == {| style="padding: 5px; border: 1px solid gray; border-image: none; font-size: 80%;" cellspacing="0" cellpadding="3" bgcolor="#f7f8ff" |- bgcolor="#efefef" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! 燃料<br />オイル ! ドライバー ! ランキング ! ポイント ! 優勝数 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1969年のF1世界選手権|1969年]] | [[フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ]] | [[ブラバム]][[ブラバム・BT26|BT26A]] | {{Dunlop}} | [[フォード・モーター|フォード]][[フォード・コスワース・DFVエンジン|DFV]]<br />(3.0L [[V型8気筒|V8]]) | [[ガルフ・オイル|ガルフ]] | [[ピアス・カレッジ]] | - | - | - |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1970年のF1世界選手権|1970年]] | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | [[デ・トマソ]][[デ・トマソ・505/38|505/38]] | {{Dunlop}}{{Goodyear}} | フォードDFV | [[BP (企業)|BP]] | ピアス・カレッジ<br />''[[ブライアン・レッドマン]]''<br />''[[ティム・シェンケン]]'' | - | - | - |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1971年のF1世界選手権|1971年]] | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | [[マーチ・エンジニアリング|マーチ]][[マーチ・701|701]]<br />マーチ[[マーチ・711|711]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | [[モチュール]] | [[アンリ・ペスカロロ]]<br />[[ジャン・マックス]] | - | - | - |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1972年のF1世界選手権|1972年]] | チーム・ウィリアムズ・[[モチュール]] | マーチ711<br />マーチ[[マーチ・721|721]]<br />([[ポリスティル|ポリトイ]])[[ポリトイ・FX3|FX-3]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | モチュール | アンリ・ペスカロロ<br />[[カルロス・パーチェ]] | NC | 0 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1973年のF1世界選手権|1973年]] | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | ([[イソ (自動車)|イソ]]-[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]])<br />FX-3B<br />[[イソ-マールボロ・IR|IR]] | {{Firestone}} | フォードDFV | [[フィナ]] | アンリ・ペスカロロ<br />[[ハウデン・ガンリー]]<br />''[[ジャッキー・イクス]]'' | 10位 | 2 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1974年のF1世界選手権|1974年]] | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | (イソ-マールボロ)<br />[[ウィリアムズ・FW|FW01,FW02,FW03]] | {{Firestone}} | フォードDFV | フィナ | [[アルトゥーロ・メルツァリオ]]<br />[[ジャック・ラフィット]] | 10位 | 4 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1975年のF1世界選手権|1975年]] | フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ | FW02,FW03<br />[[ウィリアムズ・FW04|FW04]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | フィナ | アルトゥーロ・メルツァリオ<br />ジャック・ラフィット | 9位 | 6 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1976年のF1世界選手権|1976年]] | [[ウォルター・ウルフ・レーシング|ウルフ]]-ウィリアムズ・レーシング<br /> ''Mapfre-Williams(FW04)'' | (ウルフ-ウィリアムズ)<br />FW04<br />[[ウィリアムズ・FW05|FW05]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | フィナ | ジャッキー・イクス<br />アルトゥーロ・メルツァリオ<br />''[[クリス・エイモン]]''<br />''[[ワーウィック・ブラウン]]''<br />''[[ハンス・ビンダー]]'' | NC | 0 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1977年のF1世界選手権|1977年]] | ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング<br /> ''Jolly Club of Switzerland(FW04)'' | マーチ[[マーチ・761|761]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | [[テキサコ]] | [[パトリック・ネーヴェ]] | - | - | - |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1978年のF1世界選手権|1978年]] | ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング | [[ウィリアムズ・FW06|FW06]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | テキサコ | [[アラン・ジョーンズ]] | 9位 | 11 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1979年のF1世界選手権|1979年]] | アルビラド-[[サウディア]]・レーシング・チーム | FW06<br />[[ウィリアムズ・FW07|FW07]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | [[モービル (ブランド)|モービル]] | アラン・ジョーンズ<br />[[クレイ・レガッツォーニ]] | 2位 | 75 | 5 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1980年のF1世界選手権|1980年]] | アルビラド・ウィリアムズ・レーシング・チーム<br /> [[RAM (F1)|''RAM/Penthouse-Rizla Racing(FW07)'']]<br /> ''RAM/Rainbow Jeans Racing(FW07)''<br /> ''RAM/Williams Grand Prix Engineering(FW07)''<br /> ''Brands Hatch Racing(FW07)'' | FW07,FW07B | {{Goodyear}} | フォードDFV | モービル | '''アラン・ジョーンズ'''<br />[[カルロス・ロイテマン]] | '''1位''' | '''120''' | 6 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1981年のF1世界選手権|1981年]] | アルビラド・ウィリアムズ・レーシング・チーム<br />[[テクニーク・ダバンギャルド|TAG]]・ウィリアムズ・レーシング・チーム | FW07C | {{Michelin}}{{Goodyear}} | フォードDFV | モービル | アラン・ジョーンズ<br />カルロス・ロイテマン | '''1位''' | '''95''' | 4 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1982年のF1世界選手権|1982年]] | TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム | FW07C<br />[[ウィリアムズ・FW08|FW08]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | モービル | '''[[ケケ・ロズベルグ]]'''<br />カルロス・ロイテマン<br />''[[マリオ・アンドレッティ]]''<br />[[デレック・デイリー]] | 4位 | 58 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1983年のF1世界選手権|1983年]] | TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム | FW08C<br />[[ウィリアムズ・FW09|FW09]] | {{Goodyear}} | フォードDFV,[[フォード・コスワース・DFVエンジン#DFY|DFY]]<br />[[ホンダF1|ホンダ]]RA163E<br />(1.5L [[V型6気筒|V6]][[ターボチャージャー|ターボ]]) | モービル | ケケ・ロズベルグ<br />ジャック・ラフィット | 4位(フォード)<br />11位(ホンダ) | 36<br />2 | 1<br />0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1984年のF1世界選手権|1984年]] | ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング | FW09,FW09B | {{Goodyear}} | ホンダRA164E | モービル | ケケ・ロズベルグ<br />ジャック・ラフィット | 6位 | 25.5 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1985年のF1世界選手権|1985年]] | [[キヤノン]]・ウィリアムズ・ホンダ・チーム | [[ウィリアムズ・FW10|FW10]] | {{Goodyear}} | ホンダRA164E,RA165E | モービル | [[ナイジェル・マンセル]]<br />ケケ・ロズベルグ | 3位 | 71 | 4 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1986年のF1世界選手権|1986年]] | キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム | [[ウィリアムズ・FW11|FW11]] | {{Goodyear}} | ホンダRA166E | モービル | ナイジェル・マンセル<br />[[ネルソン・ピケ]] | '''1位''' | '''141''' | 9 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1987年のF1世界選手権|1987年]] | キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム | FW11B | {{Goodyear}} | ホンダRA167E | モービル | ナイジェル・マンセル<br />'''ネルソン・ピケ'''<br />''[[リカルド・パトレーゼ]]'' | '''1位''' | '''137''' | 9 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1988年のF1世界選手権|1988年]] | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | [[ウィリアムズ・FW12|FW12]] | {{Goodyear}} | [[ジャッド]]CV<br />(3.5L V8) | モービル | ナイジェル・マンセル<br />リカルド・パトレーゼ<br />''[[マーティン・ブランドル]]''<br />''[[ジャン=ルイ・シュレッサー]]'' | 7位 | 20 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1989年のF1世界選手権|1989年]] | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW12C<br />[[ウィリアムズ・FW13|FW13]] | {{Goodyear}} | [[ルノーF1|ルノー]]RS1<br />(3.5L [[V型10気筒|V10]]) | [[トタル|エルフ]] | [[ティエリー・ブーツェン]]<br />リカルド・パトレーゼ | 2位 | 77 | 2 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1990年のF1世界選手権|1990年]] | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW13B | {{Goodyear}} | ルノーRS2 | エルフ | ティエリー・ブーツェン<br />リカルド・パトレーゼ | 4位 | 57 | 2 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1991年のF1世界選手権|1991年]] | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | [[ウィリアムズ・FW14|FW14]] | {{Goodyear}} | ルノーRS3 | エルフ | ナイジェル・マンセル<br />リカルド・パトレーゼ | 2位 | 125 | 7 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1992年のF1世界選手権|1992年]] | キヤノン・ウィリアムズ・チーム | FW14B | {{Goodyear}} | ルノーRS3C,RS4 | エルフ | '''ナイジェル・マンセル'''<br />リカルド・パトレーゼ | '''1位''' | '''164''' | 10 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1993年のF1世界選手権|1993年]] | キヤノン・ウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW15C|FW15C]] | {{Goodyear}} | ルノーRS5 | エルフ | '''[[アラン・プロスト]]'''<br />[[デイモン・ヒル]] | '''1位''' | '''168''' | 10 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1994年のF1世界選手権|1994年]] | [[ロスマンズ]]・ウィリアムズ・ルノー | [[ウィリアムズ・FW16|FW16,FW16B]] | {{Goodyear}} | ルノーRS6 | エルフ | [[アイルトン・セナ]]<br />デイモン・ヒル<br />''[[デビッド・クルサード]]''<br />''ナイジェル・マンセル'' | '''1位''' | '''118''' | 7 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1995年のF1世界選手権|1995年]] | ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー | [[ウィリアムズ・FW17|FW17,FW17B]] | {{Goodyear}} | ルノーRS7<br />(3.0L V10) | エルフ | デイモン・ヒル<br />デビッド・クルサード | 2位 | 112 | 6 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1996年のF1世界選手権|1996年]] | ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー | [[ウィリアムズ・FW18|FW18]] | {{Goodyear}} | ルノーRS8 | エルフ | '''デイモン・ヒル'''<br />[[ジャック・ヴィルヌーヴ]] | '''1位''' | '''175''' | 12 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1997年のF1世界選手権|1997年]] | ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー | [[ウィリアムズ・FW19|FW19]] | {{Goodyear}} | ルノーRS9 | [[カストロール]] | '''ジャック・ヴィルヌーヴ'''<br />ハインツ・ハラルド・フレンツェン | '''1位''' | '''123''' | 8 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[1998年のF1世界選手権|1998年]] | [[:en:Winfield (cigarette)|ウィンフィールド]]・ウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW20|FW20]] | {{Goodyear}} | [[メカクローム]]CG01<br />(3.0L V10) | カストロール<br />[[ペトロブラス]] | ジャック・ヴィルヌーヴ<br />ハインツ・ハラルド・フレンツェン | 3位 | 38 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[1999年のF1世界選手権|1999年]] | ウィンフィールド・ウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW21|FW21]] | {{Bridgestone}} | [[ルノーF1|スーパーテック]]FB01<br />(3.0L V10) | カストロール<br />ペトロブラス | [[ラルフ・シューマッハ]]<br />[[アレッサンドロ・ザナルディ]] | 5位 | 35 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2000年のF1世界選手権|2000年]] | BMW・ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW22|FW22]] | {{Bridgestone}} | [[BMW]] E41<br />(3.0L V10) | カストロール<br />ペトロブラス | ラルフ・シューマッハ<br />[[ジェンソン・バトン]] | 3位 | 36 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2001年のF1世界選手権|2001年]] | BMW・ウイリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW23|FW23]] | {{Michelin}} | BMW P80 | カストロール<br />ペトロブラス | ラルフ・シューマッハ<br />[[ファン・パブロ・モントーヤ]] | 3位 | 80 | 4 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2002年のF1世界選手権|2002年]] | BMW・ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW24|FW24]] | {{Michelin}} | BMW P82 | カストロール<br />ペトロブラス | ラルフ・シューマッハ<br />ファン・パブロ・モントーヤ | 2位 | 92 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2003年のF1世界選手権|2003年]] | BMW・ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW25|FW25]] | {{Michelin}} | BMW P83 | カストロール<br />ペトロブラス | ファン・パブロ・モントーヤ<br />ラルフ・シューマッハ<br />''[[マルク・ジェネ]]'' | 2位 | 144 | 4 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2004年のF1世界選手権|2004年]] | BMW・ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW26|FW26]] | {{Michelin}} | BMW P84 | カストロール<br />ペトロブラス | ファン・パブロ・モントーヤ<br />ラルフ・シューマッハ<br />''マルク・ジェネ''<br />''[[アントニオ・ピッツォニア]]'' | 4位 | 88 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2005年のF1世界選手権|2005年]] | BMW・ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW27|FW27]] | {{Michelin}} | BMW P84/5 | カストロール<br />ペトロブラス | [[マーク・ウェバー]]<br />[[ニック・ハイドフェルド]]<br />''アントニオ・ピッツォニア'' | 5位 | 66 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2006年のF1世界選手権|2006年]] | ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW28|FW28]] | {{Bridgestone}} | [[コスワース]][[コスワースCA2006|CA2006]]<br />(2.4L V8) | カストロール<br />ペトロブラス | マーク・ウェバー<br />[[ニコ・ロズベルグ]] | 8位 | 11 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2007年のF1世界選手権|2007年]] | [[AT&T]]ウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW29|FW29]] | {{Bridgestone}} | [[トヨタF1|トヨタ]]RVX-07<br />(2.4L V8) | ペトロブラス | ニコ・ロズベルグ<br />[[アレクサンダー・ヴルツ]]<br />''[[中嶋一貴]]'' | 4位 | 33 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2008年のF1世界選手権|2008年]] | AT&Tウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW30|FW30]] | {{Bridgestone}} | トヨタRVX-08 | ペトロブラス | ニコ・ロズベルグ<br />中嶋一貴 | 8位 | 26 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2009年のF1世界選手権|2009年]] | AT&Tウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW31|FW31]] | {{Bridgestone}} | トヨタRVX-09 | - | ニコ・ロズベルグ<br />中嶋一貴 | 7位 | 34.5 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2010年のF1世界選手権|2010年]] | AT&Tウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW32|FW32]] | {{Bridgestone}} | コスワースCA2010<br />(2.4L V8) | - | [[ルーベンス・バリチェロ]]<br />[[ニコ・ヒュルケンベルグ]] | 7位 | 69 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2011年のF1世界選手権|2011年]] | AT&Tウィリアムズ | [[ウィリアムズ・FW33|FW33]] | {{Pirelli}} | コスワースCA2011 | - | ルーベンス・バリチェロ<br />[[パストール・マルドナド]] | 7位 | 5 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2012年のF1世界選手権|2012年]] | ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW34|FW34]] | {{Pirelli}} | ルノーRS27-2012<br />(2.4L V8) | [[トタル]] | パストール・マルドナド<br />[[ブルーノ・セナ]] | 8位 | 76 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2013年のF1世界選手権|2013年]] | ウィリアムズF1チーム | [[ウィリアムズ・FW35|FW35]] | {{Pirelli}} | ルノーRS27-2013 | トタル | パストール・マルドナド<br />[[バルテリ・ボッタス]] | 9位 | 5 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2014年のF1世界選手権|2014年]] | ウィリアムズ・[[マルティーニ・エ・ロッシ|マルティーニ・レーシング]] | [[ウィリアムズ・FW36|FW36]] | {{Pirelli}} | [[メルセデスAMG F1|メルセデス]]PU106A Hybrid<br />(1.6L V6ターボ) | [[ペトロナス]] | [[フェリペ・マッサ]]<br />バルテリ・ボッタス | 3位 | 320 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2015年のF1世界選手権|2015年]] | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW37|FW37]] | {{Pirelli}} | メルセデスPU106B Hybrid | ペトロナス | フェリペ・マッサ<br />バルテリ・ボッタス | 3位 | 257 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2016年のF1世界選手権|2016年]] | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW38|FW38]] | {{Pirelli}} | メルセデスPU106C Hybrid | ペトロナス | フェリペ・マッサ<br />バルテリ・ボッタス | 5位 | 138 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2017年のF1世界選手権|2017年]] | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW40|FW40]] | {{Pirelli}} | メルセデスM08 EQ Power+ | ペトロナス | フェリペ・マッサ<br />[[ランス・ストロール]]<br />''[[ポール・ディ・レスタ]]'' | 5位 | 83 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2018年のF1世界選手権|2018年]] | ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW41|FW41]] | {{Pirelli}} | メルセデスM09 EQ Power+ | ペトロナス | ランス・ストロール<br />[[セルゲイ・シロトキン]] | 10位 | 7 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2019年のF1世界選手権|2019年]] | ロキット・ウィリアムズ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW42|FW42]] | {{Pirelli}} | メルセデスM10 EQ Power+ | ペトロナス | [[ロバート・クビサ]]<br />[[ジョージ・ラッセル (レーシングドライバー)|ジョージ・ラッセル]] | 10位 | 1 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2020年のF1世界選手権|2020年]] | ウィリアムズ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW43|FW43]] | {{Pirelli}} | メルセデスM11 EQ Performance | ペトロナス | ジョージ・ラッセル<br />[[ニコラス・ラティフィ]]<br />''[[ジャック・エイトケン]]'' | 10位 | 0 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2021年のF1世界選手権|2021年]] | ウィリアムズ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW43|FW43B]] | {{Pirelli}} | メルセデスM12 E Performance | ペトロナス | ジョージ・ラッセル<br />ニコラス・ラティフィ | 8位 | 23 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#efefef" | [[2022年のF1世界選手権|2022年]] | ウィリアムズ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW44|FW44]] | {{Pirelli}} | メルセデスM13 E Performance | ペトロナス | ニコラス・ラティフィ<br />[[アレクサンダー・アルボン]]<br/>[[ニック・デ・フリース]] | 10位 | 8 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#f5f5f5" ! bgcolor="#efefef" | [[2023年のF1世界選手権|2023年]] | ウィリアムズ・レーシング | [[ウィリアムズ・FW45|FW45]] | {{Pirelli}} | メルセデスM14 E Performance | ペトロナス | アレクサンダー・アルボン<br />[[ローガン・サージェント]] | 7位 | 28 | 0 |} * '''太字'''はチャンピオンを獲得したドライバー * ''斜体''になっているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載) * ''斜体''になっているドライバーはスポット参戦など<!--不完全--> == 車両ギャラリー == *'''フラットノーズ型#1'''(1973年 - 1978年) <gallery widths="180px" heights="120px"> Gijs van Lennep 1973 Dutch GP 3 (cropped).jpg|[[イソ-マールボロ・IR|IR]] [[フォード・コスワース・DFVエンジン|フォード]] Van Lennep at 1974 Dutch Grand Prix (3).jpg|[[ウィリアムズ・FW|FW]] フォード Jacques Laffite and Jean-Pierre Jarier 1975 Watkins Glen.jpg|[[ウィリアムズ・FW04|FW04]] フォード Wolf Williams FW05 Goodwood FoS 2010 01.jpg|[[ウィリアムズ・FW05|FW05]] フォード Williams FW06 front-right 2017 Williams Conference Centre 1.jpg|[[ウィリアムズ・FW06|FW06]] フォード </gallery> *'''グラウンドエフェクト型#1'''(1979年 - 1982年) <gallery widths="180px" heights="120px"> Williams FW07 front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW07|FW07]] フォード Williams FW07B front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|FW07B フォード Williams FW07C, Peter Sowerby, GB (17.06.2007).jpg|FW07C フォード Williams FW08 2008 Silverstone Classic.jpg|[[ウィリアムズ・FW08|FW08]] フォード Williams-Ford Cosworth FW08, 2016 Autosport Show, NEC Birmingham, 16th January (28688080344).jpg|FW08ノーウイング フォード </gallery> *'''フラットノーズ型#2'''(1983年 - 1994年) <gallery widths="180px" heights="120px"> Williams FW08C Mont-Tremblant 03.JPG|[[ウィリアムズ・FW08|FW08]]C フォード Williams FW09 Honda Collection Hall.jpg|[[ウィリアムズ・FW09|FW09]] [[ホンダF1|ホンダ]] Williams FW10 Honda Collection Hall.jpg|[[ウィリアムズ・FW10|FW10]] ホンダ Williams FW11 Honda Collection Hall.jpg|[[ウィリアムズ・FW11|FW11]] ホンダ Williams FW11B Honda.jpg|FW11B ホンダ Nigel Mansell 1988 Canada 2.jpg|[[ウィリアムズ・FW12|FW12]] [[ジャッド]] Williams FW12B (Mansell) front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|FW12B ジャッド WilliamsFW12PatreseExhSinsheim.JPG|FW12C [[ルノーF1|ルノー]] Williams FW13 front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW13|FW13]] ルノー Williams FW13B front-right 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW13|FW13]]B ルノー Williams FW14 front-right 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW14|FW14]] ルノー Williams FW14B (35029084126).jpg|FW14B ルノー Williams FW15C front-right Donington Grand Prix Collection.jpg|[[ウィリアムズ・FW15C|FW15C]] ルノー Williams FW16 front-left 2017 Williams Conference Centre 2.jpg|[[ウィリアムズ・FW16|FW16]] ルノー Williams FW16B front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|FW16B ルノー </gallery> *'''ハイノーズ型'''(1995年 - 2013年) <gallery widths="180px" heights="120px"> Williams FW17 front-right 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW17|FW17]] ルノー 1996 Williams-Renault FW cropped.jpg|[[ウィリアムズ・FW18|FW18]] ルノー Williams FW19 front-left 2017 Williams Conference Centre 1.jpg|[[ウィリアムズ・FW19|FW19]] ルノー Williams FW20 front-right 2017 Williams Conference Centre 2.jpg|[[ウィリアムズ・FW20|FW20]] [[メカクローム]] Williams FW21 front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW21|FW21]] [[メカクローム|スーパーテック]] Williams FW22 front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW22|FW22]] [[BMW]] BMW-Williams FW23-05 (31713121893).jpg|[[ウィリアムズ・FW23|FW23]] BMW Williams FW24 front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW24|FW24]] BMW Williams FW25 front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW25|FW25]] BMW Williams FW26 Canada GP 2004.jpg|[[ウィリアムズ・FW26|FW26]]ウォラスノーズ BMW Williams FW26 front-right Donington Grand Prix Collection.jpg|FW26B BMW Williams FW27 front-left 2017 Williams Conference Centre.jpg|[[ウィリアムズ・FW27|FW27]] BMW Nico Rosberg 2006 Canada 2.jpg|[[ウィリアムズ・FW28|FW28]] [[コスワース]] Alex Wurz 2007 Britain 3.jpg|[[ウィリアムズ・FW29|FW29]] [[トヨタF1|トヨタ]] Kazuki Nakajima 2008 Britain.jpg|[[ウィリアムズ・FW30|FW30]] トヨタ Nakajima Barcelona 2009 testing.jpg|[[ウィリアムズ・FW31|FW31]] トヨタ Barrichello Bahrain 2010.jpg|[[ウィリアムズ・FW32|FW32]] コスワース Rubens Barrichello 2011 Malaysia FP1.jpg|[[ウィリアムズ・FW33|FW33]] コスワース Valtteri Bottas 2012 Malaysia FP1 2.jpg|[[ウィリアムズ・FW34|FW34]] ルノー Valtteri Bottas 2013 Catalonia test (19-22 Feb) Day 2-2.jpg|[[ウィリアムズ・FW35|FW35]] ルノー </gallery> *'''パワーユニット型'''(2014年 - 2021年) <gallery widths="180px" heights="120px"> Felipe Massa 2014 China Race.jpg|[[ウィリアムズ・FW36|FW36]] [[メルセデスAMG F1|メルセデス]] Valtteri Bottas 2015 Malaysia FP2 2.jpg|[[ウィリアムズ・FW37|FW37]] メルセデス Valtteri Bottas 2016 Malaysia FP2.jpg|[[ウィリアムズ・FW38|FW38]] メルセデス Felipe Massa 2017 Malaysia FP2 1.jpg|[[ウィリアムズ・FW40|FW40]] メルセデス FIA F1 Austria 2018 Nr. 18 Stroll.jpg|[[ウィリアムズ・FW41|FW41]] メルセデス FIA F1 Austria 2019 Nr. 88 Kubica 1.jpg|[[ウィリアムズ・FW42|FW42]] メルセデス George Russell 2020 Tuscan Grand Prix - race day.jpg|[[ウィリアムズ・FW43|FW43]] メルセデス FIA F1 Austria 2021 Nr. 6 Latifi.jpg|[[ウィリアムズ・FW43|FW43B]] メルセデス </gallery> *'''グラウンドエフェクト型#2'''(2022年 - ) <gallery widths="180px" heights="120px"> FIA F1 Austria 2022 Nr. 6 Latifi.jpg|[[ウィリアムズ・FW44|FW44]] メルセデス FIA F1 Austria 2023 Nr. 23 (1).jpg|[[ウィリアムズ・FW45|FW45]] メルセデス </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|WilliamsF1}} [[ファイル:Williams fw15 goodwood 2011.jpg|thumb|200px|right|ボディとリアウィングに「SEGA」のロゴを貼った、1993年のFW15C]] * [[モータースポーツ]] * [[F1世界チャンピオンの一覧]] * [[F1コンストラクターの一覧]] * [[AT&T]] * [[セガ]] - 1993年のスポンサー。但し、日本法人ではなく、イギリス法人がスポンサードした。FW15Cにボディとリアウィングの部分にSEGAのロゴとセガの看板キャラクター、[[ソニック・ザ・ヘッジホッグ]]を貼り付けた。またドライバー側面にペダルに足を置く絵をスポンサーロゴとしていた。 * [[ディドコット]] - 創業当初のファクトリーの所在地。 == 外部リンク == * {{Official website|https://www.williamsf1.com/}} * {{Facebook|WilliamsF1Team|Williams Martini Racing}} * {{Twitter|WilliamsRacing|WILLIAMS RACING}} {{ウィリアムズ}} {{F1チーム}} {{F1コンストラクターズチャンピオン}} {{デフォルトソート:ういりあむす}} [[Category:イギリスのレーシングチーム]] [[Category:F1コンストラクター]] [[Category:フランクフルト証券取引所上場企業]]
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マクラーレン
マクラーレン・レーシング(McLaren Racing Limited)は、1963年にブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チーム。 1966年よりF1に参戦し続けている。1970年にブルース・マクラーレンの事故死後はテディ・メイヤーがチーム運営を引き継ぎ、1980年にロン・デニスが率いる「プロジェクトフォー(英語版)」と合併した。 2017年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともにフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位の記録を持ち、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。 その他のレースカテゴリーでは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Can-Am)において1967年から1971年にかけ5年連続でタイトルを獲得した。インディ500、ル・マン24時間レースにおいても優勝を記録している。インディカー・シリーズに2017年のインディ500より他チームとのジョイント(共同チーム)体制によりスポット参戦を開始し、2020年シーズンよりシュミット・ピーターソン・モータースポーツとのジョイントによるチーム「アロー・マクラーレンSP」としてフル参戦を開始。2021年シーズンにはパトリシオ・オワードが2勝を挙げ、最終戦までチャンピオンを争い、ランキング3位となっている。2022年からは電気自動車によるオフロードレースであるエクストリームEにも参戦している。 2017年現在、世界三大レースである「モナコGP、ル・マン24時間レース、インディ500」の全てを制したコンストラクター(車体製造者)としても知られている(他にはメルセデスのみ)。 タイトルスポンサーはヤードレー(1972年 - 1974年)→マールボロ(1974年 - 1996年)→ウエスト(1997年 - 2005年シーズン半ば)→ボーダフォン(2007年 - 2013年)と変遷しているが、現在はタイトルスポンサーが不在のため、正式エントリー名は「マクラーレンF1チーム(McLaren F1 Team)」となっている。 1963年、ブルース・マクラーレン、テディ・メイヤー、テイラー・アレクサンダーらにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングを設立。当初はタスマンシリーズなどにクーパーを走らせていた。 アメリカにおいては、M23ベースに、DFVのターボ版DFXに換装したM24を市販。マクラーレン・ワークスのジョニー・ラザフォードを退け~ペンスキーチームのトム・スニーバがチャンピオンを獲得した。 2007年7月、フェラーリの元チーフメカニックであるナイジェル・ステップニーがチームから技術に関する秘密情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括するマイク・コフランに提供したとされる疑惑である。 フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局が捜査を進めていた。その中で家宅捜索に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録されたディスクが発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。 イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年から1971年まで、車体はマクラーレンのコーポレートカラーであるパパイヤオレンジに塗られていた。 1972年からはヤードレイ化粧品がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。 その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られたカラーリングが長らく用いられた。このカラーリングの赤の部分は、1974年と1975年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビや写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。 1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマールボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は各GPごとに行われていた。 2015年、エンジンサプライヤーがメルセデスからホンダへ変更されたことに伴い、第5戦スペインGPからグラファイトグレーを基調とした新カラーリングに変更された。 2016年11月にロン・デニスが退陣したことに伴い、翌2017年からオレンジを基調としたカラーリングが復活した。2018年のMCL33では1968年から1971年と同じパパイヤオレンジが採用された。 上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代などに分けることが可能であるが、半世紀の歴史の中では例外もあり、1978年終盤の北米ラウンド2戦と1979年にロングビーチで開催されたアメリカ西GPではマールボロと同じくフィリップ・モリス傘下のビール会社レーベンブロイ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。 マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いていた。 フェラーリのように、新人ドライバーを起用することはめったに無かったが、2007年にハミルトン、2014年にマグヌッセン、2016年にバンドーン(翌年にフル参戦)、2019年にノリス、2023年にピアストリと、近年ではルーキードライバーを起用することが増えてきている。2000年代以前には1995年ケビンの父・ヤンを1戦だけの代役として起用したこともある。 *太字はドライバーズタイトル獲得者 *斜体になっているドライバーはスポット参戦など *枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載) (主な会社のみ) マクラーレンは1980年代からデータ分析による効率化を徹底しており、レーシングカーやドライバーに取り付けたセンサーからリモートでデータを転送し、リアルタイムで分析する移動体テレメトリーシステムを採用している。 テレメトリーシステムには1997年から技術提携関係にあるドイツのソフトウェア大手SAPの高速データ処理プラットフォーム「SAP HANA」を使用して、タイヤ交換や部品交換が必要なタイミングを計算し、マシンを最適な状態に保つようにしている。 このシステムから得られた情報によって勝敗の90%がレース終了前に予測できるようになった。
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マクラーレン・レーシングは、1963年にブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チーム。
{{Otheruses|F1コンストラクターのマクラーレン|マクラーレンのロードカー部門|マクラーレン・オートモーティブ|その他}} {{F1コンストラクター | コンストラクター名 = マクラーレン・メルセデス<br />{{Flagicon|GBR}} {{lang|en|McLaren}}[[File:Mini Free Logo McLaren.png|25px]] | エントリー名 = マクラーレン・フォーミュラ1チーム<br />[[File:McLaren Racing logo.png|180px]] | チームロゴ画像 = | チーム国籍 = {{GBR}} | チーム本拠地 = {{ENG}}<br />[[サリー (イングランド)|サリー州]][[ウォキング]] | チーム代表者 = [[ザク・ブラウン]]<small>([[最高経営責任者|CEO]])</small><br />[[アンドレア・ステラ]]<small>(チーム代表)<br />[[ブルース・マクラーレン]]<small>(創設者)</small> | テクニカルディレクター = [[ピーター・プロドロモウ]]<small>(エアロ)</small><br />[[デビッド・サンチェス (モータースポーツ)|デビッド・サンチェス]]<small>(車両)</small><br />[[ロブ・マーシャル (モータースポーツ)|ロブ・マーシャル]]<small>(デザイン)</small> | 2023ドライバー = 81. {{Flagicon|AUS}} [[オスカー・ピアストリ]]<br/> 4. {{flagicon|GBR}} [[ランド・ノリス]] | 2023テストドライバー = {{flagicon|ESP}} [[アレックス・パロウ]]<br/> {{flagicon|GER}} [[ミック・シューマッハ]]<br> {{Flagicon|BRA}} [[フェリペ・ドルゴヴィッチ]] <br/> {{Flagicon|BEL}} [[ストフェル・バンドーン]] | 2023シャーシ = [[マクラーレン・MCL60|MCL60]] | 2023エンジン = [[メルセデスAMG F1|メルセデス]] M14 E Performance | 2023タイヤ = [[ピレリ]] | 参戦年度 = 1966- | 出走回数 = 928 (924スタート) <!-- 2020年初期値 867 (863スタート) --> | コンストラクターズタイトル = 8 ([[1974年のF1世界選手権|1974]], [[1984年のF1世界選手権|1984]], [[1985年のF1世界選手権|1985]], [[1988年のF1世界選手権|1988]], [[1989年のF1世界選手権|1989]], [[1990年のF1世界選手権|1990]], [[1991年のF1世界選手権|1991]] ,[[1998年のF1世界選手権|1998]]) | ドライバーズタイトル = 12 ([[1974年のF1世界選手権|1974]], [[1976年のF1世界選手権|1976]], [[1984年のF1世界選手権|1984]], [[1985年のF1世界選手権|1985]], [[1986年のF1世界選手権|1986]], [[1988年のF1世界選手権|1988]], [[1989年のF1世界選手権|1989]], [[1990年のF1世界選手権|1990]], [[1991年のF1世界選手権|1991]], [[1998年のF1世界選手権|1998]], [[1999年のF1世界選手権|1999]], [[2008年のF1世界選手権|2008]]) | 優勝回数 = 183 <!-- 2022年初期値 183 --> | 通算獲得ポイント = 6273.5 <!-- 2022年初期値 5,830.5 --> | 表彰台回数 = 503 <!-- 2022年初期値 493 --> | ポールポジション = 156 <!-- 2022年初期値 156 --> | ファステストラップ = 164<ref group="注釈">[[1970年南アフリカグランプリ|1970年南アフリカGP]]に[[ジョン・サーティース]]が自身のチーム([[サーティース]])で記録した1回を除く。</ref> <!-- 2022年初期値 160 --> | F1デビュー戦 = [[1966年モナコグランプリ|1966年モナコGP]] | 初勝利 = [[1968年ベルギーグランプリ|1968年ベルギーGP]] | 前年度 = 2022 | 前年度順位 = 5位 (159ポイント) | 最新レース = [[2023年アブダビグランプリ|2023年最終戦アブダビGP]] }} '''マクラーレン・レーシング'''('''McLaren Racing Limited''')は、[[1963年]]に[[ブルース・マクラーレン]]により設立されたイギリスのレーシング・チーム。 <!---グループCEOは(TBA)、チーム代表は(TBA)。---> == 概要 == [[ファイル:McLarenBruce.jpg|thumb|140px|left|創設者の[[ブルース・マクラーレン]]]] [[1966年のF1世界選手権|1966年]]よりF1に参戦し続けている。{{F1|1970}}にブルース・マクラーレンの事故死後は[[テディ・メイヤー]]がチーム運営を引き継ぎ、{{F1|1980}}に[[ロン・デニス]]が率いる「{{仮リンク|プロジェクトフォー・レーシング|en|Project Four Racing|label=プロジェクトフォー}}」と合併した。 {{f1|2017}}シーズン終了時点で、[[グランプリ (モータースポーツ)|グランプリ]]における優勝回数、[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|ドライバーズタイトル]]獲得回数、ともに[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]に次ぐ歴代2位、[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]獲得回数ではフェラーリと[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]に次ぐ歴代3位の記録を持ち、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。 その他のレースカテゴリーでは、[[カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ]](Can-Am)において[[1967年]]から[[1971年]]にかけ5年連続でタイトルを獲得した。[[インディ500]]、[[ル・マン24時間レース]]においても優勝を記録している。[[インディカー・シリーズ]]に[[2017年のインディ500]]より他チームとのジョイント(共同チーム)体制によりスポット参戦を開始し、[[2020年のインディカー・シリーズ|2020年シーズン]]より[[シュミット・ピーターソン・モータースポーツ]]とのジョイントによるチーム「[[アロー・エレクトロニクス|アロー]]・マクラーレンSP」としてフル参戦を開始。[[2021年のインディカー・シリーズ|2021年シーズン]]には[[パトリシオ・オワード]]が2勝を挙げ、最終戦までチャンピオンを争い、ランキング3位となっている。2022年からは[[電気自動車]]によるオフロードレースである[[エクストリームE]]にも参戦している。 2017年現在、[[世界三大レース]]である「[[モナコグランプリ|モナコGP]]、[[ル・マン24時間レース]]、[[インディ500]]」の全てを制した[[コンストラクター]](車体製造者)としても知られている(他には[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]のみ)。 タイトルスポンサーは[[ヤードレー・オブ・ロンドン|ヤードレー]]([[1972年のF1世界選手権|1972年]] - [[1974年のF1世界選手権|1974年]]<ref group="注釈" name="Yardley1974">1974年からマールボロがタイトルスポンサーとなるが、1974年は3台体制のうちヤードレイ車も1台のみ参戦した</ref>)→[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]](1974年 - [[1996年のF1世界選手権|1996年]])→[[ウエスト (たばこ)|ウエスト]]([[1997年のF1世界選手権|1997年]] - [[2005年のF1世界選手権|2005年]]シーズン半ば)→[[ボーダフォン]]([[2007年のF1世界選手権|2007年]] - [[2013年のF1世界選手権|2013年]])と変遷しているが、現在はタイトルスポンサーが不在のため<ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/mclaren/f1_40198.html |title = マクラーレン、2018年もタイトルスポンサーを獲得できず |publisher = F1-Gate.com |date = 2017-12-20 |accessdate = 2017-12-20}}</ref>、正式エントリー名は「マクラーレンF1チーム('''McLaren F1 Team''')」<ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/mclaren/f1_40198.html |title = トロ・ロッソ、2018年は「レッドブル・トロロッソ・ホンダ」としてF1参戦 |publisher = F1-Gate.com |date = 2017-12-10 |accessdate = 2017-12-10}}</ref>となっている。 {{-}} == 歴史 == === 1960年代 === [[ファイル:McLaren M2B Donington.jpg|thumb|right|200px|マクラーレン最初のF1マシン[[マクラーレン・M2B|M2B]] (フォード)]] [[ファイル:McLarenBruce19690801.jpg|thumb|right|200px|[[マクラーレン・M7A|M7A]]をドライブするブルース([[1969年ドイツグランプリ|1969年ドイツGP]])]] [[1963年]]、[[ブルース・マクラーレン]]、[[テディ・メイヤー]]、テイラー・アレクサンダーらにより、'''ブルース・マクラーレン・モーターレーシング'''を設立。当初は[[タスマンシリーズ]]などに[[クーパー・カー・カンパニー|クーパー]]を走らせていた<ref name="Zenshi1966-1970P29">「F1全史 1966-1970」([[ニューズ出版]]) P.29</ref>。 ;{{F1|1966}} :[[1966年モナコグランプリ|モナコGP]]でF1デビュー。ブルースのみの1カーエントリーで[[マクラーレン・M2B|M2B]]を使用。エンジンは[[フォード・インディアナポリスエンジン|フォード・DOHCコンペティションエンジン]] (V型8気筒) と{{仮リンク|スクーデリア・セレニッシマ|label=セレニッシマ・M166エンジン|en|Scuderia Serenissima}} (V型8気筒) を併用<ref name="Zenshi1966-1970P29" />。 ;{{F1|1967}} :この年もブルースのみの1カーエントリー。新車開発の遅れから、シーズン序盤は[[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]]の旧型2L [[V型8気筒|V8]]エンジンを搭載した[[マクラーレン・M4B|M4B]](元は[[フォーミュラ2|F2]]用マシンのM4A)、シーズン中盤は[[オール・アメリカン・レーサーズ|イーグル]]のマシンを走らせた。BRMの新型V12エンジンが搭載された新車[[マクラーレン・M5A|M5A]]が登場したのはシーズン後半の[[1967年カナダグランプリ|カナダGP]]となった<ref>「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.50-51</ref>。 :マクラーレンはF1に参戦するかたわら、[[デニス・ハルム]]とのコンビでM1B(1966年)とM6A(1967年)を駆り、[[カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ|Can-Am]]にも参戦した。 ;{{F1|1968}} :この年より2台をエントリーし、Can-Amのデニス・ハルムをF1チームにも加える。開幕戦は前年のM5Aを使用したが、第2戦[[1968年スペイングランプリ|スペインGP]]から[[フォード・コスワース・DFVエンジン]]を搭載した[[マクラーレン・M7A|M7A]]を使用する。[[ブランズ・ハッチ]]で開催された非選手権で優勝を飾るとともに、第4戦[[1968年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]でF1初優勝を遂げた。ハルムも[[1968年イタリアグランプリ|イタリアGP]]と[[1968年カナダグランプリ|カナダGP]]で連勝(カナダGPではチーム初のワン・ツー・フィニッシュを飾った)し、コンストラクターズランキング2位と大きく躍進した。シーズン終盤にはイーグルの[[ダン・ガーニー]]がM7Aを使用した。また、この年のCan-Amでハルムがチャンピオンを獲得している。 ;{{F1|1969}} :ブルースは入賞8回でランキング3位。ハルムは最終戦[[1969年メキシコグランプリ|メキシコGP]]で優勝し、Can-AmではM8Bを駆り年間2位となる。マシンは主に前年のM7Aを継続使用したが、F5000用マシンM10Aを流用したM7Cや、[[四輪駆動]]の[[マクラーレン・M9A|M9A]]も使用している<ref>「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.90</ref>。 {{-}} === 1970年代 === [[File:McLarenM8D.jpg|thumb|right|200px|マクラーレン・M8D]] ;{{F1|1970}} :[[6月2日]]、[[グッドウッド・サーキット]]でCan-Am用の新車M8Dをテストドライブしていたチームのボス、ブルース・マクラーレンがマシントラブルが原因で起きたクラッシュにより死亡<ref name="Mclaren">Mclaren: The Grand Prix, CanAm and Indy Cars., Doug Nye, Hazleton Publishing, ISBN 0-905138-54-6</ref>。この事件はチームにとって巨大な痛手であったが、チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、引き続き、Can-Am、F1、[[フォーミュラ2|F2]]、[[インディ500]]、F5000などへの参戦を継続し、いずれのカテゴリーにおいても目覚しい活躍を見せた。 :この年、F1では新車[[マクラーレン・M14A|M14A]]を使用。これとは別に、スポーツカーレース用に開発された[[アルファロメオ]]V8エンジンをM7D(M7Aを改変)およびM14D(M14Aを改変)に搭載した。ドライバーは当初ハルムとブルース・マクラーレンが引き続き務めていたが、ブルースの死後は旧友だったガーニーがF1とCan-Amにスポット参戦したのち、新人[[ピーター・ゲシン]]が起用された。アルファロメオエンジン搭載車は主に[[アンドレア・デ・アダミッチ]]がドライブした<ref>「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.111</ref>。Can-Amではハルムがチャンピオンに返り咲く活躍を見せた<ref>「F1全史 1966-1970」(ニューズ出版) P.102</ref>。 ;{{F1|1971}} [[File:McLaren-Cosworth M19A - Flickr - Supermac1961.jpg|thumb|right|200px|マクラーレン・コスワースM19A]] :ドライバーはハルムとゲシンが残留。シーズン半ばに[[ジャッキー・オリバー]]が加わったが、ゲシンはBRMへ移籍した。新車[[マクラーレン・M19A|M19A]]のデビュー戦となる開幕戦[[1971年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]で、ハルムは優勝目前まで行きながらマシントラブルで6位<ref>「F1全史 1971-1975」(ニューズ出版) P.22</ref>。結局この年は表彰台に立つことはできず、コンストラクターズランキング6位に終わった。 ;{{F1|1972}} :ドライバーはハルムが残留し、前年のCan-Amチャンピオンの[[ピーター・レブソン]]が8年ぶりにF1復帰。レブソンがアメリカのレース日程とバッティングした時は[[ブライアン・レッドマン]]が代走を務めた。最終戦[[1972年アメリカグランプリ|アメリカGP]]では[[ジョディ・シェクター]]がスポット参戦でF1デビューを果たした。マシンは前年のM19Aおよびその改良版のM19Cを使用。この年から[[ヤードレー・オブ・ロンドン|ヤードレー]]化粧品がスポンサーとなり、カラーリングがオレンジからホワイトに変更された。レブソンが[[1972年カナダグランプリ|カナダGP]]でチーム初のポールポジションを獲得。ハルムが[[1972年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]で優勝。チームとしては表彰台圏内11回(ハルムが7回、レブソンが4回)を記録。コンストラクターズランキング3位に浮上した。 :F1以外では[[ペンスキー・レーシング|ペンスキー]]チームの[[マーク・ダナヒュー]]の手により、コンストラクター(車体製造者)として[[インディ500]]初優勝を遂げた。そして同年末には充分な成果を残したCan-Amから撤退し、以後はF1とインディに集中することを決めた。 ;{{F1|1973}} :ドライバーはハルムとレブソンが残留、シェクターも引き続きスポット参戦。[[1973年ドイツグランプリ|ドイツGP]]のみ[[ジャッキー・イクス]]もスポット参戦した。序盤はM19Cを使用したが、第3戦[[1973年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]から[[ゴードン・コパック]]設計のくさび形マシン[[マクラーレン・M23|M23]]が登場し、このGPでハルムが85戦目にしてキャリア初の[[ポールポジション]]を獲得(決勝は5位入賞)。レブソンは2勝([[1973年イギリスグランプリ|イギリスGP]]と[[1973年カナダグランプリ|カナダGP]])を挙げた。シェクターは5戦ノーポイントに終わったが、南アフリカGPと[[1973年フランスグランプリ|フランスGP]]ではトップを走る好走を見せた。コンストラクターズランキングは前年と同じ3位となった。 ;{{F1|1974}} [[ファイル:Emerson Fittipaldi McLaren M23 1974 Britain.jpg|right|thumb|200px|マールボロカラーに塗られた[[マクラーレン・M23|M23]]でチャンピオンを獲得した[[エマーソン・フィッティパルディ]]([[1974年イギリスグランプリ|1974年イギリスGP]])]] :[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]と契約し、以降「マールボロカラー=マクラーレン」という関係は長期にわたって続くこととなった。この年は3台体制を敷き、残留したハルムと[[チーム・ロータス|ロータス]]から移籍した[[エマーソン・フィッティパルディ]]がマールボロカラーで出走し、3台目は前年同様ヤードレーカラーを纏い、[[マイク・ヘイルウッド]]がドライブした。ヘイルウッドが[[1974年ドイツグランプリ|ドイツGP]]で負傷した後は、[[デイビッド・ホッブス]]と[[ヨッヘン・マス]]が代走を務めた。ちなみにこの2社とも以前はBRMをスポンサードしていた。フィッティパルディと[[クレイ・レガツォーニ]](フェラーリ)とのタイトル争いは最終戦までもつれ込んだが、フィッティパルディが2年ぶり2度目のドライバーズタイトル(マクラーレンとしては初)を獲得するとともに、初のコンストラクターズタイトルを獲得した。ハルムは開幕戦[[1974年アルゼンチングランプリ|アルゼンチンGP]]で勝利するが、この年をもってF1を引退した。 :一方、インディ500においても[[ジョニー・ラザフォード]]によって2度目の優勝が果たされ(マクラーレン「チーム」としてはインディ500初優勝)、このふたつのカテゴリーを同じ年に制したのは、{{F1|1965}}の[[チーム・ロータス|ロータス]]に次ぐ2例目となる結果を残した。 ;{{F1|1975}} :ドライバーはフィッティパルディが残留、前年終盤に加わったマスとの2台体制。フィッティパルディはしぶとく入賞を重ねるも、フェラーリの[[ニキ・ラウダ]]のスピードに付いていくことができず2勝止まりで2位。チームメイトのマスは[[1975年スペイングランプリ|スペインGP]]で初勝利を挙げた。コンストラクターズランキングは3位に後退。 ;{{F1|1976}} :ドライバーはマスが残留、フィッティパルディに代わり[[ジェームス・ハント]]が加入。M23は4年目となったが依然戦闘力が高く、シーズン途中に投入した[[マクラーレン・M26|M26]]は[[1976年オランダグランプリ|オランダGP]]でマスが出走した1戦のみにとどまった。この年もラウダが選手権をリードしていったが、第10戦[[1976年ドイツグランプリ|ドイツGP]]でラウダが瀕死の重傷を負ってからはハントが勝利とポイントを重ねていき、チャンピオン争いは最終戦[[1976年F1世界選手権イン・ジャパン|F1世界選手権イン・ジャパン]]までもつれ込んだ。雨で混乱したレースとなった中でハントは3位に入賞し、ポイントでラウダを逆転して王座を獲得した。 :インディ500においてまたもジョニー・ラザフォードにより、マクラーレン製シャシーとして3度目、マクラーレンチームとしては2度目となる優勝を遂げた。 ;{{F1|1977}} :ハントとマスのコンビは変わらず。[[ジル・ヴィルヌーヴ]]が[[1977年イギリスグランプリ|イギリスGP]]で、[[ブルーノ・ジャコメリ]]が[[1977年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でそれぞれスポット参戦及びF1デビューを果たした。M23も既に時代遅れになりつつあり、前年登場したM26をシーズン半ばから実戦投入した。ハントはM26で3勝(イギリスGP、[[1977年アメリカグランプリ|アメリカ東GP]]、[[1977年日本グランプリ (4輪)|日本GP]])したが、チャンピオン争いには加われなかった。 アメリカにおいては、M23ベースに、DFVのターボ版DFXに換装したM24を市販。マクラーレン・ワークスのジョニー・ラザフォードを退け~ペンスキーチームのトム・スニーバがチャンピオンを獲得した。 ;{{F1|1978}} :ハントは残留、マスに代わり[[パトリック・タンベイ]]が加入。ジャコメリも数戦出走した。前年同様M26を使用するが、この年のF1を席巻した[[ロータス・79]]をはじめとした[[グラウンド・エフェクト・カー]]の台頭により急速に戦闘力を落としていき、表彰台は[[1978年フランスグランプリ|フランスGP]]の1回のみに終わり、コンストラクターズランキングも8位と低迷した。 ;{{F1|1979}} :タンベイは残留、ハントに代わり[[ジョン・ワトソン (レーサー)|ジョン・ワトソン]]が加入。マクラーレン初のグラウンド・エフェクト・カーとなる[[マクラーレン・M28|M28]]を投入し、M28B、M28Cと改変していくがいずれも失敗に終わり、[[1979年イギリスグランプリ|イギリスGP]]から[[マクラーレン・M29|M29]]を投入したが、低迷を脱することはできなかった。 :この年をもって、参戦意義が薄くなったとしてインディ500から撤退した。 {{-}} === 1980年代 === ==== 1980年 - 1984年 ==== ;{{F1|1980}} [[Image:Ron Dennis 1990 USA.jpg|thumb|130px|ロン・デニス(1990年)]] :ワトソンは残留、タンベイに代わり新人[[アラン・プロスト]]が加入。前年型のM29を改良したM29B、M29Cでシーズンを戦い、後半には旧チームとしては最終型の[[マクラーレン・M30|M30]]を1台投入した。プロストは開幕2戦で連続入賞を果たしたが、マシンの競争力、信頼性は決して高くはなく、第3戦[[1980年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]では、走り出して最初のコーナーでフロントサスペンションマウントが破損するなど、トラブルが度々発生した。マシントラブルによるクラッシュでプロストがケガを負うこともあった(プロストがケガで欠場した[[1980年アメリカ西グランプリ|アメリカ西GP]]は[[スティーブン・サウス]]が代走)<ref name=Mclaren />。シーズン終了後、それまでのマクラーレンと、[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]の後ろ盾を元に[[ロン・デニス]]の[[フォーミュラ2|F2]]チーム「プロジェクトフォー」が合併、長年に続くデニス主導のチーム体制が構築された。プロストは複数年契約をチームと結んでいたが、「合併でできた新チームは従来のチームとは別のチーム」という論理で契約を破棄し、[[ルノーF1|ルノー]]へ移籍した。 ;{{F1|1981}} :[[ジョン・バーナード]]の設計により[[炭素繊維強化プラスチック|カーボンファイバー]]製の[[モノコック]]を採用した初のF1マシン、[[マクラーレン・MP4/1|MP4/1]]を出走させた。このモノコックは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[ユタ州]]の[[ソルトレイクシティ]]にある[[ハーキュリーズ (化学会社)|ハーキュリーズ]]が実際の製造を請け負った<ref name=Mclaren />。車両は広く「マクラーレン」と呼ばれるが、この「MP4」は「Marlboro Project 4」の略称である<ref name=Mclaren />(現在では「McLaren Project 4」の略称とも言われる)。プレス発表時のマシン名表記は"Marlboro MP4/1"とされ、シーズン中盤からはノーズに「Marlboro MP4」というロゴステッカーが貼られた。このMP4/1で戦闘力を取り戻し、ワトソンが[[1981年イギリスグランプリ|イギリスGP]]でチームに4年ぶりの優勝をもたらした。チームメイトの[[アンドレア・デ・チェザリス]]は経験不足からクラッシュを度々起こしたが、無傷の生還を繰り返すことで皮肉にもカーボンファイバーモノコックの安全性を証明することになった。 ;{{F1|1982}} :1979年途中でF1を引退していた元[[ブラバム]]の[[ニキ・ラウダ]]を復帰させることに成功。前年に登場したMP4/1を改良した[[マクラーレン・MP4/1#MP4/1B|MP4/1B]]を使用し、ワトソンとともに4勝をあげトップチームへの復帰を果たした。シーズン終了後、[[テディ・メイヤー]]の持つ株を買い取りデニスがチームの実権を掌握する。 ;{{F1|1983}} :フラットボトム規制に伴い改変された[[マクラーレン・MP4/1#MP4/1C|MP4/1C]]を使用したが、もはやノンターボのDFVや[[フォード・コスワース・DFVエンジン#DFY|DFY]]では[[ターボチャージャー|ターボ]]エンジンには対抗できず、第2戦[[1983年アメリカ西グランプリ|アメリカ西GP]]でワトソンが優勝した1勝<ref group="注釈">予選ではワトソン22位、ラウダ23位と後方に沈んだが、決勝では追走に次ぐ追走でワトソンが優勝、ラウダが2位となり、ワン・ツー・フィニッシュを達成した</ref>のみで、第5戦[[1983年モナコグランプリ|モナコGP]]では2台とも予選落ちとなってしまった。[[テクニーク・ダバンギャルド|TAG]]の協力を得て<ref group="注釈">TAGは1980年からウィリアムズをスポンサードしていたが、ロン・デニスは[[マンスール・オジェ]]にチーム株式の保有を持ちかけ、TAGとマクラーレンによる新組織「TAG Turbo Engines」が設立された。以後、現在までマンスール・オジェは株式を保有し続けている。</ref>、[[ポルシェ]]がターボエンジンを開発することになり、第12戦[[1983年オランダグランプリ|オランダGP]]からTAGの[[バッジネーム]]を付けたポルシェ1.5リッター[[V型6気筒|V6]]ターボエンジンを搭載した[[マクラーレン・MP4/1#MP4/1E|MP4/1E]]が投入され、ラウダは同マシンをドライブ。ワトソンも次戦[[1983年イタリアグランプリ|イタリアGP]]からMP4/1Eをドライブした。残りのレースは、結果的に来シーズンの準備となった。1987年まで使用されるこのエンジンは、マクラーレンからオーダーされるかたちで設計・製作されたので外形寸法などもバーナードから厳密に指定され、車体デザインの自由度を広げる面でも大きく貢献した。 ;{{F1|1984}} [[ファイル:Lauda McLaren MP4-2 1984 Dallas F1.jpg|right|thumb|200px|MP4/2を駆るニキ・ラウダ([[1984年アメリカグランプリ|アメリカGP]],ダラス)]] :完全新設計の[[マクラーレン・MP4/2|MP4/2]]シャシーを投入。ラウダのチームメイトとしてプロストが4シーズンぶりに復帰。[[F1世界チャンピオンの一覧|ドライバーズタイトル]]争いはこの二人によって繰り広げられ、全16戦のうちラウダが5勝、プロストが7勝の計12勝をあげた。最終的にラウダがプロストを史上僅差の0.5ポイント差で下し、自身7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。マクラーレンにとってドライバーズタイトルは[[ジェームス・ハント]]以来8年ぶりで、[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]は10年ぶり2度目であった。ちなみにマクラーレンはレースのたびに、ふたりのドライバーがマシンを壊すことなくピットに戻ってくるので、シャシーにかけていた保険を解約した<ref>アラン・ヘンリー 『ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン』 森岡茂憲訳、[[ソニー・マガジンズ]]、1991年、129頁。</ref>。なお、4シーズンに渡ってタイヤ供給を受けていた[[ミシュラン]]が、このシーズンでF1から撤退した。 {{-}} ==== 1985年 - 1989年 ==== [[ファイル:ProstAlain McLarenMP4-2B 1985.jpg|thumb|right|200px|1985年、MP4/2Bで初のチャンピオンを獲得したアラン・プロスト([[1985年ドイツグランプリ|ドイツGP]])]] ;{{F1|1985}} :前年に引き続きコンストラクターズチャンピオンを獲得した。ドライバーズチャンピオンは、フェラーリの[[ミケーレ・アルボレート]]との争いを制したプロストが初めて獲得した。この年、キャラミで行われた南アフリカグランプリにて投入された[[マクラーレン・MP4/2|MP4/2B]]の6号車が、完全にマクラーレンのファクトリーで自製された初のモノコックである<ref name=Mclaren />。[[1985年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]では腕を負傷したラウダに代わってワトソンが2年ぶりに復帰した<ref group="注釈">前年のドライバーズチャンピオン以外でカーナンバー1を使用した最後のケースとなった</ref>。この年をもってラウダが2度目の(そして最後の)引退を表明した。 ;{{F1|1986}} :コンストラクターズタイトルは[[ホンダF1|ホンダ]]エンジンを搭載した[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]に奪われたが、同チームの[[ナイジェル・マンセル]]と[[ネルソン・ピケ]]の確執の間隙を突き、プロストが最終戦で7ポイント差を逆転して2年連続ドライバーズタイトルを獲得した。引退したラウダに代わって[[ケケ・ロズベルグ]]がウィリアムズから移籍したが未勝利に終わり、同年をもって引退。 ;{{F1|1987}} :タイトルは獲得できなかったが、プロストが3勝を上げた。新たなチームメイトの[[ステファン・ヨハンソン]]は2位2回を含む表彰台5回に終わった。シーズン途中の[[1987年イタリアグランプリ|イタリアGP]]で翌年の体制発表を行い、ホンダエンジンの獲得と[[アイルトン・セナ]]のチーム加入を公表した<ref>ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表「マクラーレンは将来思考のあるチーム」桜井総監督、記者の質問に答える [[GPX (雑誌)|GPX]] 1987年イタリア 31頁 [[山海堂 (出版社)|山海堂]]</ref>。前年6月にデニスとプロストが来日してホンダ側にエンジン供給を要請したが、既にホンダはウィリアムズと[[チーム・ロータス|ロータス]]の2チームへのエンジン供給を決めた後だったため実現せず、2年越しとなる契約締結だった<ref>「F1走る魂」([[海老沢泰久]]著、[[文藝春秋]])pp.308 - 309)</ref>。なおポルシェは、自社製のV12自然吸気エンジンをマクラーレンに提案しているが、新設計のV12ではなく、この年に使用されたV6ターボエンジンからターボを取り外し、V6を2つつなぎ合わせてV12とした設計でもあったため、チーム側は拒否しポルシェとの契約を打ち切っている。このポルシェのV12エンジンは1991年に[[アロウズ|フットワーク]]が[[アロウズ・A11|FA11C]]及び[[フットワーク・FA12|FA12]]に搭載し参戦した。 ;{{F1|1988}} [[File:Ayrton Senna 1988 Canada.jpg|thumb|right|200px|1988年、ホンダエンジンを得て16戦中15勝を果たしたMP4/4([[1988年カナダグランプリ|カナダGP]]でのアイルトン・セナ)]] :プロストとセナのラインナップと新設計の[[マクラーレン・MP4/4|MP4/4]]シャシー、ホンダターボエンジンとの組み合わせは16戦中15勝<ref group="注釈">チームとしての年間最多勝記録は2014年に[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]が16勝するまで、エンジンサプライヤーとしての年間最多勝記録は1995年に[[ルノーF1|ルノー]]が16勝するまで破られなかった。</ref>という圧倒的な成績を残し、コンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得した。唯一優勝を逃した[[1988年イタリアグランプリ|イタリアGP]]はプロストがエンジントラブル、セナはトップを走りながら、終盤周回遅れの[[ジャン=ルイ・シュレッサー]]と接触してストップ(完走扱い)したというものであった。この年は[[ポールポジション]]も15回獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し134ポイントもの差をつけた。 ;{{F1|1989}} [[ファイル:MP4-5.jpg|thumb|right|200px|MP4/5・ホンダ(1989年)]] :ターボエンジンが全面禁止されたことにより、ホンダは自然吸気[[V型10気筒|V10]]エンジンを投入。前年同様の布陣でダブルタイトルを獲得するが、深刻な問題が発生した。前年の第13戦[[1988年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]でのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年の[[1989年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]の「オープニングラップの1コーナーを制した者が優勝の権利を有し、それ以降は追越しをしない」という[[紳士協定]]を巡る出来事やその後に起きたやり取りによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなった。これがシーズン途中でプロストがチーム離脱を決断させる事実上の引き金となったが、それ以外にも両者が起こした言動で衝突しあったことやプロストの言動を巡るチームとの関係悪化も少なからず影響した。その後、プロストがタイトルに王手をかける中で迎えた第15戦[[1989年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では[[シケイン]]でお互いに道を譲らずに接触し、両者のマシンはストップ。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議によりシケイン不通過(後に[[押しがけ]]に変更)との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これにより最終戦を待たずしてプロストの3度目のチャンピオンが決まった。 {{-}} === 1990年代 === ==== 1990年 - 1994年 ==== ;{{F1|1990}} :プロストが[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]へ移籍したため、フェラーリから[[ゲルハルト・ベルガー]]をセナのチームメイトに迎えシーズンを戦った。だが、ハンドリング性能で優位性を築いたフェラーリに苦しめられ、タイトル争いは前年同様に第15戦[[1990年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]まで持ち込まれ、ここでコンストラクターとドライバーの両タイトルを確定させた。しかし、[[1990年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]のレース内容はセナとプロストの接触事故による共倒れ、フェラーリのダブルリタイアという形で両タイトル争いの決着がつくという後味の悪い面もあった。 ;{{F1|1991}} [[ファイル:Ayrton Senna 1991 United States GP.jpg|thumb|right|200px|[[マクラーレン・MP4/6|MP4/6]]に乗る[[アイルトン・セナ]](1991年)]] :ホンダが前年から開発していた[[V型12気筒|V12]]エンジンを導入し、空力やシャシー開発の遅れのテコ入れとしてライバルのフェラーリから加入したアンリ・デュランによって一定の改善が図られたマシンでシーズンを戦った。その結果、フェラーリの不振もありセナが当時の新記録となる開幕4連勝を達成。しかし、[[ルノーF1|ルノー]]V10エンジンを搭載し、空力の鬼才と称された[[エイドリアン・ニューウェイ]]がデザインした[[ウィリアムズ・FW14|FW14]]を擁するウィリアムズは、その4連勝の間、マシントラブルが続いたものの、予選でのフロントロー獲得や決勝でマクラーレンの脅威になる存在感を見せ、シーズン中盤から戦闘力を増して猛追撃を開始。こうした状況に至って、マクラーレンはシーズン途中で[[アクティブサスペンション]]と[[セミオートマチックトランスミッション]]の開発に着手した。序盤戦に広げた差を詰められながらもウィリアムズ陣営のトラブルやミスにも助けられる形で結果的に逃げ切る形となり、第15戦[[1991年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]でセナが2年連続のドライバーズタイトルを獲得<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/the-v12-experiment-that-powered-senna-to-his-final-f1-title/5097140/ V12で王者になったのは実はひとりだけ……セナ&MP4/6の物語]jp.motorsport.com(2021年1月20日)2021年5月29日閲覧。</ref>。コンストラクターズタイトルも、最終戦[[1991年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]までもつれたものの4年連続で獲得した<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/how-senna-won-his-greatest-f1-title/5178776/ アイルトン・セナが獲得した3つのタイトル。彼にとって最高のシーズンは1991年?]jp.motorsport.com(2021年1月30日)2021年5月29日閲覧。</ref>。 :この年、チームの無線は[[暗号|スクランブル]]がかかっていたはずであるが、[[1991年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]のチェッカー後のセナの声が地元テレビ局によって傍受されたことはチームサイドに衝撃を与え、翌年から使用する予定だった[[ケンウッド]]の無線をこの年の日本GPから前倒しして使用し始めることとなった。 :[[後藤治]]が[[本田技研工業|ホンダ]]を退社し、マクラーレンに移籍。同社でロン・デニスに次ぐエグゼクティブ・エンジニアに就任する。 ;{{F1|1992}} :体制そのものは前年と同じ布陣で、序盤戦を前年の改良型[[マクラーレン・MP4/6|MP4/6B]]で戦った後に新型[[マクラーレン・MP4/7A|MP4/7A]]を出す予定だったが、ウィリアムズ側も前年のFW14元来の空力性能とルノーV10エンジンのトータルバランスの良さに加え、アクティブサスペンションなどのハイテク装備を搭載した改良型[[ウィリアムズ・FW14B|FW14B]]を満を持して投入、その戦闘力に完全に圧倒される。第3戦[[1992年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]で、マクラーレン初のハイテク搭載車としてセミオートマチックトランスミッション、F1では初となる「[[ドライブ・バイ・ワイヤ]]」と呼ばれるコンピューター制御のアクセルシステムを導入したMP4/7Aを予定より前倒しで投入するも全く歯が立たなかったばかりか、V8エンジンながらも秀でた空力とハンドリング性能を誇った[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]勢から突き上げられるレースも多かった。数年来のエンジンパワーで空力性能の弱点を補う手法が通用しなくなった年となり、16戦中5勝(セナ3勝/ベルガー2勝)を挙げるも両タイトルいずれも逃した。この年をもってホンダは10年間に渡った第2期F1活動の終了を発表し撤退。またベルガーは古巣フェラーリへの移籍を発表した。ホンダの撤退をデニスが知らされてから約10ヶ月の猶予がありながら、マクラーレンが翌年使うエンジンは決まらぬままシーズンを終えたことはF1パドック関係者の多くが驚いたが、デニスはウィリアムズに勝利をもたらしたルノーV10エンジンの獲得を第一希望としており、ルノーとの契約を持つ[[リジェ]]をチームごと買収することも画策していた<ref name="mcl92off">マクラーレン、ルノー獲得ならず 93年のプログラムに遅れ [[F1速報]] テスト情報号 33頁 1993年2月12日発行</ref>。しかしルノーが基本条件として要求した[[エルフ・アキテーヌ|エルフ]]ガソリンの使用を、長年の大口パートナーである[[シェル (企業)|シェル]]を持つデニスはどうしても飲むことが出来ず、ルノー獲得を断念せざるを得なかった<ref name="mcl92off" />。デニスは[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]が積むことが決まった[[ブライアン・ハート (企業)|ハート]]V10の横取りや、[[ランボルギーニ]]V12の搭載も模索するが、1993年2月になってもまだエンジン契約を確定できなかったことで、マシンの基本パッケージを造ることが出来ず大きなマイナスとなった<ref name="mcl92off" />。 ;{{F1|1993}} [[ファイル:AyrtonSennaAtHockheimGP1993.jpg|thumb|right|200px|フォードHBエンジンを使用した[[マクラーレン・MP4/8|MP4/8]]で力走するセナ([[1993年ドイツグランプリ|ドイツGP]])]] :エンジンは結局カスタマー仕様の[[フォード・コスワース・HBエンジン]]を搭載することとなった。ドライバーは[[チャンプカー|CART]]のチャンピオンである[[マイケル・アンドレッティ]]と、[[チーム・ロータス|ロータス]]から移籍してきた[[ミカ・ハッキネン]]が加入。前年は休養して満を持してウィリアムズから復帰したプロストが圧倒的有利とされる中、セナは休養するという話もあったが、結局開幕前に参戦することが決まった(ハッキネンはセナが戻った場合、テストドライバーとなる契約であった)。その後、セナは第8戦の[[1993年フランスグランプリ|フランスGP]]まではレース毎に参戦契約を交わしていた。[[フォード・モーター|フォード]][[ワークス・チーム|ワークス]]仕様のエンジンを独占供給されていた[[ベネトン・フォーミュラ|ベネトン]]に対し、カスタマー仕様のHBエンジンでパフォーマンスも劣っていた<ref group="注釈">1992年末においてはウィリアムズと同スペックのルノーV10エンジン獲得のために[[リジェ]]の完全買収や[[ブライアン・ハート (企業)|ハート]]V10エンジンを獲得する計画もあったが、いずれも計画破談となっている(93年版「F-1大百科」([[ケイブンシャ]]))。</ref>。ロン・デニスの政治力で第9戦からはベネトンと同じワークス仕様のエンジン供給契約を結んだ結果、セナとも第9戦以降の全戦出場の契約を結んだ。 :この年の[[マクラーレン・MP4/8|MP4/8]]は大幅な空力面の改良を施し、ハイテク装備もウィリアムズほどではないが他のチーム以上の性能の物を投入。前年までのホンダV12エンジンに比べて軽量なエンジンとなったことによってマシンの重量バランスの改善に繋がり、前年よりは戦闘力が向上した。だが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるフォードエンジンのパワー差と空力性能面でも依然としてウィリアムズとの差は大きかった。結果的にセナ一人で前年と同じ年間5勝を挙げた。最終戦の[[1993年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]ではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止した。コンストラクターズランキングもベネトンとの争いを制してウィリアムズに次ぐ2位となった。 :アンドレッティは開幕戦からリタイアが続き、シーズン終盤の第13戦[[1993年イタリアグランプリ|イタリアGP]]での3位表彰台を最後にチームを離脱して[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ帰国、これを受けてテストドライバーを務めていたハッキネンが残りの3レースを走る事になった。ハッキネンは復帰初戦となった第14戦[[ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]でいきなりセナを予選で上回り、第15戦[[1993年日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]でも自身初の3位表彰台を得て、ウィリアムズへの移籍が決まったセナ離脱後の翌年以降のエースに伸し上ることとなった。 :シーズン中にはアメリカのビッグ3の一つである[[クライスラー]]社からの依頼でクライスラーV12エンジン([[ランボルギーニ]]エンジンをこのテスト用に改良したもの)をテストしたが、「あくまでも依頼されたテスト走行」と言う位置づけであったことに加え、同時期に[[プジョー]]から多額の契約金付きの契約オファーがあったため、そちらを優先して契約を結んだ。 ;{{F1|1994}} [[ファイル:Hakkinen Silverstone1994.jpg|right|thumb|200px|MP4/9を駆るハッキネン(イギリスGP 3位入賞)]] :ハッキネンはエースとして残留するが、セカンドドライバーが中々決まらず<ref group="注釈">当初は[[ジョニー・ハーバート]]にオファーをかけたが、ロータスの[[ピーター・コリンズ (F1監督)|ピーターコリンズ]]が長期契約の解除を認めず破談、他にも[[デレック・ワーウィック]]や[[ミケーレ・アルボレート]]等も候補に上がり、新たにエンジン供給先となったプジョーは[[フィリップ・アリオー]]の起用を希望していた。</ref>、結局開幕直前の2月末になって[[マーティン・ブランドル]]が新たに加わった。MP4/8のデザインを踏襲した[[マクラーレン・MP4/9|MP4/9]]に、前年のフォード・コスワースからワークスの[[プジョー]]エンジンに乗せ換えた。前半戦はエンジンの信頼性が低く頻発するエンジントラブルによって苦しめられ、第5戦[[1994年スペイングランプリ|スペインGP]]ではハッキネンがトップを走っていたが、[[エンジンブロー]]でリタイアした。第7戦[[1994年フランスグランプリ|フランスGP]]では、よりによってプジョーにとっては同国のライバルであるルノーの看板の前で2台ともエンジンブローを起こし、[[1994年イギリスグランプリ|イギリスGP]]ではスタート直後に、ブランドルがエンジンブローとなるなど散々な結果であった。これに業を煮やしたチームは複数年契約だったプジョーとの契約をわずか1年で破棄する事を決断、翌年は[[イルモア]]が開発する[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]エンジンへと変更することをシーズン終了前に発表し、2シーズン連続のエンジンサプライヤーの交代となった。後半戦からは信頼性も上がり表彰台にも8回上がったが、1980年以来14年ぶりの「未勝利」に終わる。 {{-}} ==== 1995年 - 1999年 ==== ;{{F1|1995}} [[ファイル:Mika Hakkinen 1995 Britain 2.jpg|thumb|200px|right|MP4/10Bを駆るハッキネン([[1995年イギリスグランプリ|イギリスGP]])]] :ハッキネンが残留し、そのチームメイトに[[デビッド・クルサード]]を迎える予定だったが、所属チームのウィリアムズが提訴し裁判の結果残留が決定。そのウィリアムズを追われた[[ナイジェル・マンセル]]と契約を結ぶが、コックピットが狭いことを理由にマンセルは開幕から2戦は参戦せず、チームは代わりに[[マーク・ブランデル]]をレース毎の契約で乗せることとした。マンセルは第3戦[[サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]と第4戦[[スペイングランプリ|スペインGP]]で走ったが、予選で[[ミカ・ハッキネン]]より遅く、決勝でもそれぞれ10位とリタイアに終わったのを最後にマンセルはチームを離脱し事実上の引退となった。元々デニスとマンセルは「'''犬猿の仲'''」であったが、セナの死やプロスト引退でのF1人気の低下を危惧したメイン[[スポンサー]]である[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]やFIA会長(当時)の[[バーニー・エクレストン]]らの意向が働くなどの政治的要因での加入であったとされ、シーズン開幕以前の段階で多くのF1関係者が早期に破局すると予想していた。 :[[マクラーレン・MP4/10|MP4/10]]はエアインテーク上にセンターウィングを搭載し、当時としてはユニークなデザインをしたマシンであった。メルセデスエンジンとのマッチングや空力が弱く、戦闘力不足はウィリアムズ、ベネトン、フェラーリと比べると明らかで、シーズン中に[[マクラーレン・MP4/10#マクラーレン・MP4/10B|MP4/10B]]、[[マクラーレン・MP4/10#マクラーレン・MP4/10C|MP4/10C]]とモディファイされた。またこのメルセデスへのエンジン変更により、ガソリンも[[ロイヤル・ダッチ・シェル|シェル]]から[[エクソン・モービル|モービル]]に変更した。 :ハッキネンが[[虫垂炎]]になり、第15戦[[1995年パシフィックグランプリ|パシフィックGP]]ではテストドライバーの[[ヤン・マグヌッセン]]を起用した。マグヌッセンにとっては、マクラーレンでのレース出場はこの1戦のみであった。第16戦[[1995年日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]では復帰したハッキネンが2位入賞した。しかしハッキネンは、最終戦[[1995年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]の予選中、パンクが原因でコンクリートウォールに激突し、選手生命を左右しかねない重傷を負った。ハッキネンを治療に専念させるため、アラン・プロストがアドバイザー兼テストドライバーとして迎え入れられた。 ;{{F1|1996}} :1月のテストを、ウィリアムズから移籍してきた[[デビッド・クルサード]]とアドバイザーであるプロストで進めていた。[[ミカ・ハッキネン]]も2月に戻ってきて3か月ぶりにドライブし、いきなりフェラーリの[[ミハエル・シューマッハ]]を凌ぐタイムを叩き出し、速さを示した<ref> 『[[AS+F]] - '96年開幕直前号』 [[三栄書房]]、1996年、4-5頁。</ref>。ハッキネンが開幕戦から参戦できる目処もつき、ハッキネンとクルサードのドライバーズラインナップになった。このコンビは2001年まで続く。[[マクラーレン・MP4/11|MP4/11]]は前半戦でハンドリングに悩まされたが、後半戦からサーキットによりショートホイールベース仕様の[[マクラーレン・MP4/11#マクラーレン・MP4/11B|MP4/11B]]を投入した。信頼性の向上で完走と入賞数は増えたものの、依然として速さに課題を残すシーズンとなった。 :このシーズンをもって23年間メインスポンサーだったマールボロが、フェラーリへスポンサードを1本化するに伴ってマクラーレンとの契約を終了、慣れ親しまれた「赤・白」のカラーリングも見納めとなった。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、ウィリアムズの[[デイモン・ヒル]]が加入するという移籍話も出てきたが、結局第15戦[[1996年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]でマクラーレンはハッキネンの残留を発表した<ref> 『AS+F - '96年ポルトガルGP号』 三栄書房、1996年、18-19頁。</ref>。 :ウィリアムズのチーフデザイナーであった[[エイドリアン・ニューウェイ]]が、ヒル解雇決定に抗議したことやチーム方針を巡って対立したことから11月にウィリアムズから離脱、マクラーレンとの契約を締結する。しかしウィリアムズは契約が残っていることを訴えて法廷闘争に持ち込んだ。その影響でニューウェイはいつからマクラーレンに加入できるかは流動的となった。 ;{{F1|1997}} :[[インペリアル・タバコ]]の[[ドイツ]]向けブランドである[[ウエスト (たばこ)|ウエスト]]がタイトルスポンサーとなった。この年の[[マクラーレン・MP4-12|MP4-12]]より、車体形式番号の表記の区切りが従来のスラッシュ「/」からハイフン「-」に変更されている。開幕戦オーストラリア・第13戦[[1997年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でクルサードが、最終戦[[1997年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]でハッキネンが[[フォーミュラ1|F1]]で初優勝し、年間で計3勝をあげた。その一方でハッキネンがトップを走っていた第9戦[[1997年イギリスグランプリ|イギリスGP]]、第14戦[[1997年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]、そして4年ぶりに[[ポールポジション]](ハッキネンが獲得)に返り咲いている第15戦[[1997年ルクセンブルクグランプリ|ルクセンブルクGP]]とメルセデスエンジンのトラブルによりリタイアをし、信頼性に課題を残すシーズンとなった。 :技術陣では契約上の問題をクリアしたニューウェイがテクニカル・ディレクターとして第11戦[[1997年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]から加入。その後、マシン開発に拍車がかかり、翌年への明るい材料となった。 :シーズン終了後に[[グッドイヤー]]が「1998年をもってF1から撤退する」と発表したため、同年まであった同社とのタイヤ供給契約を破棄し、1997年12月のテストから[[ブリヂストン]]タイヤへ変更することになった。 ;{{F1|1998}} :前年の12月から、今シーズン仕様の各パーツを載せた[[マクラーレン・MP4-12|MP4-12B]]は、ブリヂストンタイヤへの習熟も兼ねて約8,000kmを走りこみ、[[マクラーレン・MP4-13#開発|ブレーキ・ステアリング・システム]]などを搭載した[[マクラーレン・MP4-13|MP4-13]]への開発に繋げた。開幕戦[[1998年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]では1-2フィニッシュして「3位以下を周回遅れにする」圧倒的な戦闘力を見せる。しかし第2戦[[1998年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]のレーススチュワードはフェラーリからの抗議を認め、ブレーキ・ステアリング・システムを使用禁止とした(マクラーレン側は開幕前に[[国際自動車連盟|FIA]]の技術部門から事前に[[F1レギュレーション|レギュレーション]]違反ではないと承認を貰っていた)。 :ブリヂストンタイヤを装着するマクラーレン・メルセデスを駆るハッキネンと、グッドイヤータイヤを装着するフェラーリを駆る[[ミハエル・シューマッハ]]の対決が話題を呼び、最終戦[[1998年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]まで、もつれ込む展開となった。最終的にはハッキネンが8勝、クルサードが1勝をあげ、1991年以来の[[F1世界チャンピオンの一覧|ドライバーズタイトル]]&[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]を獲得した。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルと初物づくしのシーズンとなった。 ;{{F1|1999}} [[ファイル:Mika Hakkinen 1999 Canada.jpg|right|thumb|200px|MP4-14を駆るハッキネン([[1999年カナダグランプリ|カナダGP]])]] :予選ではハッキネンが全16戦中ポールポジションを11回獲得し、決勝ではハッキネンが5勝、クルサードが2勝をあげたものの、[[マクラーレン・MP4-14|MP4-14]]の信頼性不足に悩まされ、ピット作業やチーム戦略のミスが重なり、苦戦を強いられた。また、フェラーリが第8戦[[1999年イギリスグランプリ|イギリスGP]]まではミハエル・シューマッハ(このGPでのクラッシュでシューマッハは両足骨折の重傷を負い、タイトル争いから脱落)、第9戦[[1999年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]から[[エディー・アーバイン]]と、優先するドライバーを明確に決定していたことに対し、マクラーレンではチャンピオンになったハッキネンとクルサードを第14戦[[1999年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]まで、平等に扱う戦略を採っていた。結果的にオーストリアGPと第12戦[[1999年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]で両者接触を招き、特にオーストリアGPではこれが響いてアーバインに優勝をさらわれることとなった。第15戦[[1999年マレーシアグランプリ|マレーシアGP]]で決勝後、フェラーリが競技審査委員会からディフレクターの寸法違反で一旦失格になり、ハッキネンのワールドチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンが決まったかに見えたが、5日後のパリで開かれたFIAの国際控訴裁判所でフェラーリの逆転無罪となる。そのため、タイトル争いは最終戦[[1999年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]までもつれ、アーバインに4ポイント差であったハッキネンが逆転優勝し2年連続のワールドチャンピオンに輝いたものの、クルサードはスプーン・コーナーの手前でスピンしてフロントウィングとサスペンションを破損してリタイア。コンストラクターズタイトルは確実にポイントを稼ぎ続けたフェラーリに奪われてしまった。 {{-}} === 2000年代 === ==== 2000年 - 2004年 ==== ;{{F1|2000}} [[ファイル:Hakkinen.jpg|right|thumb|200px|MP4-15を駆るハッキネン([[2000年アメリカグランプリ|アメリカGP]])]] :[[マクラーレン・MP4-15|MP4-15]]を使用したこのシーズン、3連覇を狙うハッキネンは開幕戦[[2000年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]と第2戦[[2000年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]でメカニカルトラブルを被り、ポイント獲得に出遅れた。また、オーストラリアGPでのスタートの速さについてフェラーリから抗議が出て、第4戦[[2000年イギリスグランプリ|イギリスGP]]から電子制御系の新ルールが施行され、メルセデスエンジンの燃費悪化に繋がり、柔軟なピットストップ作戦が取れなくなった<ref> 『[[F1倶楽部]]』 [[双葉社]]、34号、2000年、98頁。</ref>。そして、フェラーリはマクラーレンとは違い、明確にミハエル・シューマッハをNo.1体制にして戦い、[[フェラーリ・F1-2000|F1-2000]]の速さと信頼性で着実に勝ち星を上げ、ポイントを積み重ねていた。クルサードはメカニカルトラブル1回、失格1回以外は完走する安定した走りをしたため、中盤戦はハッキネンよりポイント数を上回り、一時期シューマッハのライバルと見られていた。ハッキネンは第8戦[[2000年カナダグランプリ|カナダGP]]終了時点で、ポイントリーダーのシューマッハに最大24ポイント差をつけられていたが、シューマッハが第9戦[[2000年フランスグランプリ|フランスGP]]をメカニカルトラブル、第10戦[[2000年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]と第11戦[[2000年ドイツグランプリ|ドイツGP]]で接触事故による計3戦連続リタイアをしている間に、クルサードと共にシューマッハとの差を縮めていた。第12戦[[2000年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]開始時点では1位シューマッハ56ポイント、2位クルサードとハッキネンが54ポイントで同点、4位[[ルーベンス・バリチェロ]]46ポイントと、鎬を削り合っている状況であった。ハンガリーGPと第13戦[[2000年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]でハッキネンが連勝し、第14戦[[2000年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でシューマッハが勝利し、ハッキネンが2位、クルサードとバリチェロは接触でリタイアし、タイトル争いはハッキネンとシューマッハの二人に絞られていた。しかし第15戦[[2000年アメリカグランプリ|アメリカGP]]でシューマッハが勝利し、ハッキネンのほうは痛恨のエンジントラブルでリタイアとなり、シューマッハはハッキネンに8ポイント差をつけてポイントリーダーに返り咲いた。残り2戦でこの差が響き、[[F1世界チャンピオンの一覧|ドライバーズタイトル]]と[[F1コンストラクターズチャンピオンの一覧|コンストラクターズタイトル]]をフェラーリに奪い取られた。 :増大するテストワークの負荷を分散するためとレギュラードライバーが欠場したときの対策のため、サードドライバーとして[[オリビエ・パニス]]の加入は、[[マクラーレン・MP4-15|MP4-15]]の開発に貢献と効果をもたらした。1997年よりブリヂストンを使用し、またレギュラードライバー時代の豊富な経験もあるパニスは、チームに膨大な情報をもたらした。パニスは翌2001年のレギュラーシートを[[B・A・R]]に確保するという、当時としては珍しいキャリアを築くことに成功した。当時、レギュラードライバーからテストドライバーになったドライバーが、再度レギュラードライバーになることは珍しいことであった。マクラーレンのテストドライバーは、翌2002年は[[アレクサンダー・ヴルツ]]、2003年には[[ペドロ・デ・ラ・ロサ]]が担当し、強力な布陣を敷くことに成功した。 ;{{F1|2001}} [[ファイル:Mika Hakkinen 2001 Canada.jpg|thumb|200px|right|[[カナダグランプリ|カナダGP]] MP4-16を駆る[[ミカ・ハッキネン]]]] :新[[F1レギュレーション|レギュレーション]]施行により、フロントウィングの搭載位置が5センチメートル上昇・ロールフープの強化・耐サイドインパクト強化・[[機関 (機械)|エンジン]]の[[シリンダーブロック]]に[[ベリリウム|ベリリウム合金]]の使用禁止<ref group="注釈" name="ex01">メルセデスエンジンの[[シリンダーブロック]]は、軽量な[[ベリリウム|ベリリウム合金]]を使用していたが、フェラーリが「ベリリウム合金は人体に有害である」という抗議をして、使用禁止となった。</ref>など、昨シーズンの[[マクラーレン・MP4-15|MP4-15]]が[[マクラーレン・MP4-13|MP4-13]]や[[マクラーレン・MP4-14|MP4-14]]の発展型であったのに対して、[[マクラーレン・MP4-16|MP4-16]]は完全に新設計されたマシンであった。 :開幕戦[[2001年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]ではハッキネンがサスペンショントラブルにより、3年連続の開幕戦[[棄権#スポーツ|リタイア]]で始まった。デニスは作戦上ハッキネンが勝てたレースと語っているが<ref> 『GPX』 オーストラリアGP号、山海堂、2001年、10頁。</ref>、後にハッキネンはこの事故で引退について初めて考えたと吐露している<ref name="2001asff1sohshu"> 『2001F1総集編 - AS+F増刊』 三栄書房、2001年、30-34頁、110-111頁。</ref>。ここからハッキネンは第10戦[[2001年フランスグランプリ|フランスGP]]までに、2戦に1回の割合でメカニカルトラブルを被り、チャンピオンシップ争いから脱落した。結果的にハッキネンは第15戦[[2001年イタリアグランプリ|イタリアGP]]で休養宣言を行った。 :クルサードは[[2001年モナコグランプリ|モナコGP]]でポールポジションを獲得したが、ラウンチコントロールのトラブルで最後尾からのスタートとなった。中盤戦まではこれ以外にメカニカルトラブルもなく2勝してポイントを重ねたが、速さでミハエル・シューマッハに差をつけられた。第11戦[[2001年イギリスグランプリ|イギリスGP]]で[[ジョーダン・グランプリ|ジョーダン]]の[[ヤルノ・トゥルーリ]]との接触事故でリタイアしたことにより、クルサードはタイトル争いから脱落した。最終戦[[日本グランプリ (4輪)|日本GP]]ではハッキネンに順位を譲られ3位入賞し、フェラーリのバリチェロと争っていたドライバーズランキング2位を手に入れた。10度の表彰台を得て自身最高のドライバーズランキング2位となったものの、チャンピオンのミハエル・シューマッハには、ほぼダブルスコアの大差をつけられた。 :前シーズンで[[航空力学|エアロダイナミクス]]担当の[[アンリ・デュラン]]と、[[複合材料|コンポジット]]担当の[[スティーブ・ニコルズ]]がチームを去り、[[テクニカルディレクター (スポーツ)#モータースポーツ|テクニカル・ディレクター]]のエイドリアン・ニューウェイが、友人でもある[[ジャガー・レーシング|ジャガー]]のチーム代表兼[[最高経営責任者|CEO]]の[[ボビー・レイホール]]に誘われ、ジャガーと契約した。デニスはニューウェイを説得し、ジャガーへの移籍を翻意させることに成功したが、その間にマシン開発が停滞したこともフェラーリに独走された要因の一つとなった<ref name="2001asff1sohshu" />。 ;{{F1|2002}} :{{要出典範囲|フェラーリに対するにあたって同じタイヤで戦ってはアドバンテージが少ないとの判断から|date=2009年12月}}、この年からタイヤメーカーをブリヂストンから[[フランス]]の[[ミシュラン]]へ変更したが、苦戦を強いられた。またハッキネンの後任として後輩の[[キミ・ライコネン]]を抜擢したが、{{要出典範囲|前年からのチーム内の乱れが尾を引き|date=2020年5月}}、車の本格的な熟成作業はヨーロッパラウンドに入ってからになった。この年は[[2002年モナコグランプリ|モナコGP]]でクルサードが挙げた1勝にとどまり、タイトル争いに加わることができなかった。前年に休養宣言していたハッキネンは、第12戦[[2002年ドイツグランプリ|ドイツGP]]で正式に引退を発表した。 ;{{F1|2003}} :この年からミシュランタイヤ専用とも言える「[[マクラーレン・MP4-18|MP4-18]]」を投入するはずであったが、テストでの不具合の頻発によりマシン開発に遅れが生じて開幕戦に間に合わない事態となったため、前年型の改良版「[[マクラーレン・MP4-17#MP4-17D|MP4-17D]]」を投入し、MP4-18の開発が完了するまでの間をそれで乗り切る決断をした。最大のライバルのフェラーリが新車の開発トラブルで第5戦までそれを投入できなかったことやウィリアムズが出遅れたことも手伝い、開幕戦をクルサード、第2戦をライコネンが勝利する展開となった。一方でマシンのほうは、MP4-18はFIAの義務付けるクラッシュテストも通過することが出来ない状況も続いたため、そちらに見切りをつけてお蔵入りとなり、MP4-17Dの改良を進めることとなった。だが、クルサードが新予選方式([[スーパーポール]]方式)に対応できず、下位のグリッドに沈み、追い上げるも表彰台は遠く、コンストラクターズ争いでは足を引っ張ることとなる。一方、ライコネンがわずか1勝ながらしぶとくポイントを稼ぎ、最終戦までシューマッハを追い詰め、ドライバーズランキングではわずか2ポイント差のランキング2位の成績を収めた。また、シーズン途中ではあったがデ・ラ・ロサを臨時でテストした後にフルタイムテストドライバー契約を結び、ヴルツとの2名によるテストチーム体制を整えている。 ;{{F1|2004}} [[ファイル:Mclaren_racing_usgp_2004.jpg|thumb|right|200px|[[2004年アメリカグランプリ|2004年アメリカGP]](キミ・ライコネン)]] :前年と同じ体制で、昨年デビューするはずだった幻のMP4-18の設計思想も反映し、新ルールにあわせて設計した[[マクラーレン・MP4-19|MP4-19]]を投入するが、MP4-18が持っていた弱点はMP4-19では改善出来ておらず(純粋な新車が間に合わなかったため基本的にMP4-19はMP4-18と同じ車であったと後にエイドリアン・ニューウェイが語っている)、第11戦のイギリスGPでようやく本来の新車が「MP4-19B」としてデビューした。これはマクラーレンのチーム関係者も、チームが2年連続で新車開発に失敗した結果である、と後に認めている。このイギリスGPでライコネンがシーズン初の表彰台に登りその後も表彰台に登るが、優勝はベルギーGPの1勝にとどまり、コンストラクターズランキングは3位から5位へと後退した。クルサードはこの年、一度も表彰台に登ることなく9年間在籍したチームを去り、翌年から[[ジャガー・レーシング|ジャガー]]を買収のうえで参戦を開始する[[レッドブル・レーシング|レッドブル]]へ移籍した。 {{-}} ==== 2005年 - 2009年 ==== ;{{F1|2005}} :ライコネンのチームメイトに[[ファン・パブロ・モントーヤ]]を迎える。シーズン当初は信頼性不足などで出遅れたが、ヨーロッパラウンド以降は、[[ルノーF1|ルノー]]の[[フェルナンド・アロンソ]]と激しいタイトル争いを繰り広げる。[[マクラーレン・MP4-20|MP4-20]]は[[2005年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]から[[2005年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]までの6連勝を含む、1989年以来となる2桁勝利の10勝を挙げる(ライコネン7勝、モントーヤ3勝)。しかし、ライコネンを襲った4度のエンジントラブルをはじめ、信頼性の低さはいかんともし難く、結果としては惜しくもチームもライコネンもランキング2位に終わってしまった。 :この年は、前年コンストラクターズランキングを5位で終えたため、金曜日のフリー走行でサードカーを走らせる権利を得て、デ・ラ・ロサとヴルツがグランプリにより交替で担当した。レギュラードライバーのモントーヤがテニス中に肩を負傷するというアクシデントに見舞われたわれたため、[[2005年バーレーングランプリ|バーレーンGP]]、[[2005年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]の2戦をそれぞれデ・ラ・ロサ、ヴルツが代役として出場し、バーレーンでデ・ラ・ロサは5位入賞を遂げるとともにファステストラップを記録し、サンマリノではレース後の繰上げではあるがヴルツが3位入賞した。 :第13戦の[[2005年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]の金曜日(7月29日)をもって、1997年以来のタイトルスポンサーであったウエストとの契約を終了した。これはヨーロッパにおけるタバコ広告規制の強化を受けてのものである。7月30日以降のカラーリングは、それまでタバコ広告禁止国で開催されるGPで用いた手法と同様に、従来「West」のロゴがあったサイドポンツーン、ノーズ、コクピットサイド、レーシングスーツ、ヘルメットにはドライバーの名前をオリジナルデザインで表記し、チームスタッフには「West」のロゴ表記が消されたウエアとスーツが支給された。 :テクニカルディレクターであったニューウェイもシーズン終了後にレッドブルへ移籍。 ;{{F1|2006}} :2005年の[[ドイツツーリングカー選手権|DTM]]チャンピオン、[[ゲイリー・パフェット]]がテストドライバーに加わることになり、それに伴って5年間という長期にわたってテストドライバーを務めたヴルツがウィリアムズのテストドライバーとして移籍した。 :2005年のマシンMP4-20が圧倒的な速さを誇っていたこともあり、シーズン開幕前はライコネン&マクラーレンはこの年のチャンピオンの筆頭候補であった。しかし前年までの3.0リッターV10から2.4リッターV8へのエンジンルール変更にメルセデスが対応しきれず、更にこの年のマシン[[MP4-21]]自体もニューウェイが去った影響からか熟成が進まず、前年にタイトルを争ったルノーとフェラーリの後塵を拝することとなった。ライコネンが3度のポールポジションを獲得するなど時折速さも見せ、結果としてはコンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、1996年以来10年ぶりのシーズン未勝利に終わってしまった。 :モントーヤがF1に嫌気がさしたため[[7月9日]]、翌[[2007年]]からはアメリカの[[NASCAR]]シリーズへ移籍(チームは[[チップ・ガナッシ・レーシング]])することを発表。[[2006年アメリカグランプリ|アメリカGP]]を最後にF1から去った。テストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサが[[2006年フランスグランプリ|フランスGP]]よりレギュラードライバーとして、シーズンの残りのレースに参戦した。 ;{{F1|2007}} [[ファイル:Fernando Alonso 2007.jpg|thumb|200px|アロンソ駆るMP4-22(第2戦[[2007年マレーシアグランプリ|マレーシアGP]])]] :ライコネンがフェラーリへ移籍。代わりにルノーから2005年、2006年のワールドチャンピオンの[[フェルナンド・アロンソ]]が加入し、チームメイトとして2006年の[[GP2]]チャンピオンの[[ルイス・ハミルトン]]がF1デビューを果たすことになった。マクラーレンのドライバーが2名とも同時に入れ替わるのは初のことである。またメインスポンサーがイギリスの携帯電話会社の[[ボーダフォン]]になった。 :開幕戦はライコネンに敗れるが、アロンソ、ハミルトン共に[[MP4-22]]の速さを発揮し2006年の不振からの復活をアピールした。続く第2戦[[2007年マレーシアグランプリ|マレーシアGP]]では見事フェラーリを破り、[[2005年ブラジルグランプリ|2005年ブラジルGP]]以来の1-2フィニッシュを達成した。第13戦の[[2007年イタリアグランプリ|イタリアGP]]終了時までは、ドライバーズポイントで1位と2位、コンストラクターズポイントでも首位に立っており、特にコンストラクターズについてはほぼ手中に収めかけていた。 :しかしシーズンが進むにつれて、アロンソ、ハミルトンのチームメイト間の確執が現れるようになり、[[2007年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]の予選で暫定ポールポジションのアロンソがピットストップ時間を稼いだことで、ハミルトンが最後のアタックが出来なかった件に対し、アロンソは5グリッド降格、チームにはハンガリーGPでのコンストラクターズポイントは加算されないというペナルティを受けた。 :更に[[#マクラーレンの産業スパイ疑惑|後述の産業スパイ事件]]発覚によりコンストラクターズランキングから除外されたうえ、巨額の罰金を科せられた。残されたドライバーズタイトルは、ハミルトンが首位のまま[[2007年中国グランプリ|中国GP]]を迎え、結果次第ではハミルトンのチャンピオンが確定するところだったがキャリア初のリタイアを喫する。そして最終戦の[[2007年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]でランキング3位にいたライコネンに両ドライバーとも1点差で逆転チャンピオン獲得を許してしまう。このレースではウィリアムズと[[BMWザウバー]]の給油装置から、測定した燃料温度が低すぎる事実にもかかわらず、両チームにペナルティを科さないというスチュワードの裁定に対してマクラーレンはFIA国際控訴裁判所に控訴した。<ref>[http://www.fia.com/mediacentre/Press_Releases/FIA_Sport/2007/October/231007-01.html McLaren Appeal]- (FIAプレスリリース 2007年10月23日)</ref>11月15日、測定された燃料温度および大気温について疑いがあることから、両チームにペナルティを科さないことを決定しマクラーレンの控訴を却下した<ref>[http://www.fia.com/mediacentre/Press_Releases/FIA_Sport/2007/November/161107-01.html DECISION OF THE INTERNATIONAL COURT OF APPEAL]- (FIAプレスリリース 2007年11月16日)</ref>。入賞者の[[ニコ・ロズベルグ]](ウィリアムズ)、[[ニック・ハイドフェルド]](BMWザウバー)、[[ロバート・クビサ]](BMWザウバー)などが失格になるとライコネン(フェラーリ)でなくハミルトンがドライバーズチャンピオンになるとわかったうえでの控訴だといわれていることから、このことに対してマクラーレンに在籍していたアラン・プロストやニキ・ラウダは、ロン・デニス代表とマクラーレンを同年の“最大の悪あがき王”と批判した。しかし、マクラーレンCEOの[[マーティン・ウィットマーシュ]]は「ドライバーズチャンピオンのためではなく、燃料規則の明確化および規約の一貫性のために我々はこの控訴を提出した<ref>[http://www.autosport.com/news/report.php/id/63995 McLaren still hope for fuel rules clarity]- (autosport.com 2007年11月16日記事)</ref>」と語った。 {{-}} ;{{F1|2008}} [[File:Lewis hamilton - 2008 Melb GP.jpg|thumb|right|200px|2008年にチャンピオンを獲得した[[ルイス・ハミルトン]](同年の開幕戦[[2008年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]にて)]] :ドライバーは、ハミルトンが残留、アロンソは2年契約の2年目だったが契約解除となり古巣のルノーへ復帰、代わりに前年ルノーに所属していた[[ヘイキ・コバライネン]]が加入した。テストドライバーは、引き続きデ・ラ・ロサとパフェット。コバライネンは2008年シーズン中に2009年もマクラーレンに残留することが発表された。 :新車([[マクラーレン・MP4-23|MP4-23]])の発表会は、初めてドイツの[[シュトゥットガルト]]のメルセデス本社で行われた。 :2008年シーズンは、ハミルトンとフェラーリのフェリペ・マッサとの熾烈なチャンピオン争いが繰り広げられたが、最終戦の[[2008年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]でハミルトンが最終ラップで劇的な形のドライバーズタイトルを1ポイント差で手にする(チームとしては1999年以来のチャンピオン輩出)。コンストラクターズランキングは2位。 :11月に、[[フォース・インディア]]がマクラーレンとの技術提携を結んだことが発表された(2009年シーズンより、エンジン類の供給もフェラーリからメルセデスにスイッチすることが決定している)。 ;{{F1|2009}} :新車の[[マクラーレン・MP4-24|MP4-24]]の発表会で、ロン・デニスがチーム代表から退くことが発表された。後任は前CEOのウィットマーシュ<ref name="Ron Dennis">[http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/01/16/205843/ デニス 代表職を退任](GPUPDATE.net)</ref>。しかし、デニスは今後もチームに深く関わっていくつもりであることを宣言、レース界からの引退は否定した。 :開幕戦[[2009年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]でのセーフティカー先導中にハミルトンが[[ヤルノ・トゥルーリ]]を追い抜いた件について、「当時の無線記録及びメディアへの発言」と「スチュワードからの事情聴取」で、逆とも言える説明を行う。事情聴取時点では全無線記録が参照できなかったため、一旦はマクラーレン・ハミルトン側の主張が認められたが、後に無線記録が証拠として検証されスチュワードへの偽証・ミスリードが発覚。オーストラリアGPの結果から抹消された。 :この件で、マクラーレンチームとしては事情聴取に出席した[[デイブ・ライアン]]を翌週停職処分。同時に事情聴取に出席していたハミルトンは「スチュワードへの情報提供を控えるようにライアンから言われた」と説明、それ以上の処分・ペナルティはなかった。 :その後、4月29日にパリでWMSCの臨時会議が開かれ、「ペナルティは3戦のグランプリ出場停止とする。ただし、今後12か月において、この件に関して新たな証拠が発見された場合、もしくはチームによってさらなるインターナショナル・スポーティングコードの151c項違反が行われた場合のみに適応する。」との裁定を下した<ref>[http://www.fia.com/en-GB/mediacentre/pressreleases/wmsc/2009/Pages/wmsc_290409.aspx World Motor Sport Council - Decision]- (FIAプレスリリース 2009年4月29日)</ref>。 :[[4月16日]]にマクラーレングループ全体の再編が発表され、市販車部門である[[マクラーレン・オートモーティブ]]がグループから離脱し、さらにデニスが同社の会長に就任しレース部門から完全に引退することが明らかにされた<ref name="pr20090416">[http://www.mclaren.com/latestnews/mclaren-news.php?article=277 McLaren restructures Group to create independent McLaren Automotive company] - 公式プレスリリース(2009年4月16日)</ref>。レース部門のCEOにはウィットマーシュが返り咲く。 :開幕からしばらくは[[マクラーレン・MP4-24|MP4-24]]に競争力がなく、表彰台に上がれないレースが続いたが、大幅なアップデートを行った[[2009年ドイツグランプリ|ドイツGP]]から競争力を取り戻し、[[2009年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]と[[2009年シンガポールグランプリ|シンガポールGP]]でハミルトンが優勝。最終的にコンストラクターズランキングはフェラーリを抑えて3位となった。 :[[11月16日]]に[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]がプレスリリースを発表し、[[ブラウンGP]]の76.1%の株式を取得、2010年より[[メルセデスAMG F1|メルセデスGP]]として参戦する事を発表した。それに伴いメルセデスとマクラーレンのパートナーシップは解消されるが、新たに{{F1|2015}}までのエンジン供給契約が発表された。 === 2010年代 === ==== 2010年 - 2014年 ==== ;{{F1|2010}} [[File:McLaren_duo_1-2_finish_2010_Canada_(cropped).jpg|thumb|200px|[[2010年カナダグランプリ]]ワンツーフィニッシュを飾り、ランデブー走行を行う]] :ドライバーはハミルトンが残留、コバライネンに代わって前年度チャンピオンの[[ジェンソン・バトン]]が加入した<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/3159.html| title = マクラーレン、バトン獲得を正式発表| publisher = espnf1.com| date = 2010-11-19| accessdate = 2018-11-17}}</ref>。 :革新的なシステムである[[Fダクト]]を搭載した[[マクラーレン・MP4-25|MP4-25]]は高速サーキットで戦闘力を発揮し、ライバルチームの注目の的となった<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/10762.html| title = FIA、マクラーレンのウィングを許可| publisher = espnf1.com| date = 2010-03-11| accessdate = 2018-11-17}}</ref>。シーズン序盤は予選で上位につけることに苦労していたが、難しいコンディションを読みきったバトンが2勝をあげる。その後[[レッドブル・レーシング|レッドブル]]の同士討ちを尻目に[[2010年トルコグランプリ|トルコ]]、そして[[2010年カナダグランプリ|カナダ]]でハミルトンが2連勝を挙げポイントリーダーになり<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/canada/motorsport/story/20282.html| title = ハミルトンがドライバーズ選手権首位に浮上| publisher = espnf1.com| date = 2010-06-14| accessdate = 2018-11-17}}</ref>、中盤以降までシーズンをリードした。しかし、シーズンもうひとつのトレンドであった、[[レッドブル・RB6|レッドブルRB6]]が搭載する[[ディフューザー (自動車)#ブロウンディフューザー|ブロウンディフューザー]]の開発に苦しみ失速<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/22752.html| title = アップデートを取り外したマクラーレン| publisher = espnf1.com| date = 2010-07-10| accessdate = 2018-11-17}}</ref>。最終的にドライバーズランキングではハミルトンが4位(3勝)、バトンが5位(2勝)となり、コンストラクターズランキングは2位となった。 ;{{F1|2011}} [[File:2011_Canadian_GP_-_Winner_(cropped).jpg|thumb|200px|[[2011年カナダグランプリ]]で大逆転勝利を収めたバトン]] :ドライバーは引き続きハミルトンとバトン。 :開幕前のテストでは走行距離を稼ぐことができずレッドブルやフェラーリに対して劣勢であるとの見方も存在した<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%80%8c%e4%bb%8a%e3%82%aa%e3%83%95%e3%81%af%e9%81%8e%e5%8e%bb20%e5%b9%b4%e3%81%a7%e6%9c%80%e6%82%aa%e3%81%ae%e7%8a%b6%e6%b3%81%e3%81%a0%e3%81%a3%e3%81%9f%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%83%9e%e3%82%af%e3%83%a9 「今オフは過去20年で最悪の状況だった」とマクラーレン] AUTOSPORT.web(2011年4月21日)2020年10月18日閲覧。</ref>。ハミルトンは[[2011年中国グランプリ|第3戦中国GP]]でコース上で首位のベッテルを逆転し、シーズン初優勝を飾った。バトンは[[2011年カナダグランプリ|第7戦カナダGP]]<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/canada/motorsport/story/51479.html| title = 劇的な展開を制したのはバトン| publisher = espnf1.com| date = 2011-06-13| accessdate = 2018-11-17}}</ref>と[[2011年ハンガリーグランプリ|第11戦ハンガリーGP]]で優勝。ベッテルの戴冠レースとなった[[2011年日本グランプリ (4輪)|第15戦日本GP]]でバトンが3勝目をあげ、シーズン12回の表彰台獲得という成績でフェラーリのアロンソとレッドブルの[[マーク・ウェバー]]とのドライバーズランキング2位争いを制する結果となった。ハミルトンは計3勝も含めた表彰台6回を記録したものの、そのドライビングを危険として非難する意見も出た<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/51574.html| title = FIAにハミルトンへの行動を要求するラウダ| publisher = espnf1.com| date = 2011-06-13| accessdate = 2018-11-17}}</ref>。コンストラクターズランキングはレッドブルに次ぐ2位となった。 ;{{F1|2012}} [[File:2012_German_GP_-_Lewis.jpg|thumb|200px|[[2012年ドイツグランプリ]].]] :ドライバーは引き続きハミルトンとバトン。 :開幕前のテストから好調が伝えられていた<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/71498.html| title = タイトルへ絶好調のマクラーレン| publisher = espnf1.com| date = 2012-02-28| accessdate = 2018-11-17}}</ref>。開幕直後の2レースでは2戦連続でフロントローを独占。決勝も開幕戦[[2012年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]にてバトンが優勝し、ハミルトンも3位となった<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/australia/motorsport/story/73392.html| title = バトンが今季初レースを制す| publisher = espnf1.com| date = 2012-03-18| accessdate = 2018-11-17}}</ref>。ハミルトンも[[2012年カナダグランプリ|第7戦カナダGP]]でシーズン初優勝を飾ったが、第4戦から第10戦の間は成績不振に陥った<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/80041.html| title = 後退を止めろとマクラーレンコンビ| publisher = espnf1.com| 2012-05-28| accessdate = 2018-11-01}}</ref>。その後、大型アップデート投入した[[2012年ドイツグランプリ|第10戦ドイツGP]]から再びペースを取り戻すと、夏休みを挟んで[[2012年ハンガリーグランプリ|第11戦ハンガリーGP]]から[[2012年イタリアグランプリ|第13戦イタリアGP]]までチームとして3連勝を達成した。[[2012年アメリカグランプリ|第19戦アメリカGP]]でハミルトンが、[[2012年ブラジルグランプリ|最終戦ブラジルGP]]ではバトンが勝利を飾り最後の2戦を連勝でシーズンを終えた。 :同シーズンはチームとしてタイトル獲得も視野に入っていたが、様々な要因が重なり、タイトル獲得の可能性を失うこととなった。マシン自体の速さもデータによっては[[マクラーレン・MP4-27]]は最速マシンという評価もあり<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/97068.html| title = 2012年最速マシンはマクラーレン| publisher = espnf1.com| 2012-12-06| accessdate = 2018-11-17}}</ref>、実際、予選成績(ポールポジション8回)や獲得した表彰台の回数(7勝も含めた計13回)ではレッドブル(ポールポジション6回、表彰台7勝も含めた計11回)を上回っていた。だが、前半戦はピット作業のミス<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/76801.html| title = ハミルトン、ピットストップ問題の調査を要請| publisher = espnf1.com| 2012-04-23| accessdate = 2018-11-17}}</ref>で少なくないポイントを失い、中盤戦に入ると信頼性トラブル<ref>{{Cite news| url = http://f1sokuho.mopita.com/pc/free/index.php?page=news/sp/body&no=72272| title = バトン「マクラーレンvsロータスの戦いを予想していた」| publisher = f1sokuho.mopita.com| 2012-12-21| accessdate = 2018-11-17}}</ref>でもポイントを失った。両ドライバーはこれで失ったポイントの影響もあるが、バトンのほうは今季のピレリタイヤの扱いに苦しみ、特に予選ではQ3進出(10番手以内)に入れないGPもあった。また、サマーブレイクまでの前半戦でノーポイントのレースが複数回あったことが響いて、サマーブレイク前の第11戦の段階で事実上タイトル候補から脱落<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/86655.html| title = アロンソにタフな戦いを予測するバトン| publisher = espnf1.com| 2012-08-20| accessdate = 2018-11-01}}</ref>。ハミルトンはタイヤの問題には苦しまず、サマーブレイク後もタイトル候補に名を連ねていたが、トップを快走していた第14戦シンガポールGP<ref>{{Cite news| url = http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/89807.html| title = ハミルトン、楽な勝利を逃してがっくり| publisher = espnf1.com| 2012-09-24| accessdate = 2018-11-20}}</ref>のリタイヤによって事実上タイトル争いから脱落した。成績面では、[[2012年シンガポールグランプリ|第14戦シンガポールGP]]以降のフライアウェイ戦以降の失速が大きく響いて、最終的にドライバーズランキングではハミルトンが4位、バトンが5位。コンストラクターズでは3位となった。 ;{{F1|2013}} [[File:Sergio Perez 2013 Malaysia FP2.jpg|thumb|right|200px|[[セルジオ・ペレス]]がドライブする[[マクラーレン・MP4-28|MP4-28]]([[2013年マレーシアグランプリ|2013年マレーシアGP]])]] :ハミルトンが[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]へ移籍し、代わりに[[ザウバー]]から[[セルジオ・ペレス]]が加入。またスポンサー面でもボーダフォンが同年限りでのスポンサード終了を発表する一方で<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%83%9e%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%80%81%e3%83%9c%e3%83%bc%e3%83%80%e3%83%95%e3%82%a9%e3%83%b3%e3%81%a8%e3%81%ae%e5%a5%91%e7%b4%84%e7%b5%82%e4%ba%86%e3%82%92%e7%99%ba%e8%a1%a8 マクラーレン、ボーダフォンとの契約終了を発表] - オートスポーツ・2013年3月14日</ref>、[[メキシコ]]人であるペレスの支援目的で[[テルメックス]]などメキシコ系企業が新たに加わるなど、チームラインナップに大きく変化が見られた。 :また同年5月には、2015年まで契約が残っていたメルセデスとのエンジン供給契約を1年前倒しして2014年一杯で終了し、2015年からはホンダエンジンの供給を受けることを発表した。ホンダは2008年の撤退以来7年ぶりの復帰となる。 :この年はバトンが最終戦[[2013年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]で記録した4位が最高で、表彰台がゼロとなる1980年以来の不振に終わった。コンストラクターズランキングではレッドブルが独走し、メルセデス、フェラーリ、[[ロータスF1チーム|ロータス]]が2位争いをする一方で、マクラーレンは大差をつけられた5位であった。ドライバーズランキングではバトンが9位、ペレスが11位。なお、完走扱いを含め、両ドライバーとも全戦完走を果たした。 :シーズン終盤の11月、ペレスがわずか1年でチームを離脱<ref>{{cite news|url=http://f1-gate.com/perez/f1_21630.html|title=セルジオ・ペレス、マクラーレン離脱を発表|publisher=F1-Gate.com|date=2013-11-14|accessdate=2013-12-01}}</ref>、後任として育成ドライバーの[[ケビン・マグヌッセン]]を起用することが発表された<ref>{{cite news|url=http://f1-gate.com/mclaren/f1_21639.html|title=マクラーレン、ケビン・マグヌッセンの起用を正式発表|publisher=F1-Gate.com|date=2013-11-15|accessdate=2013-12-01}}</ref>。ウィットマーシュによると新人であるマグヌッセンの下積みとして下位チームのシートを探したものの、あるチームに契約を破棄され、ペレスを放出してマグヌッセンを自チームに起用せざるを得なかったとコメント<ref>{{cite news|url=http://www.topnews.jp/2013/11/26/news/f1/teams/force-india/100644.html|title=マグヌッセンと契約破棄したチームがあるとウィットマーシュ|publisher=TopNews|date=2013-11-26|accessdate=2013-12-01}}</ref>。後にマグヌッセンが2019年7月のインタビューでロン・デニスが2014年に復帰した関係で当初2014年にデビューする予定であった[[フォース・インディア]]との契約がなくなってしまいマクラーレンからデビューすることになったという経緯を明かしている(結果的にそのシートをペレスが手にする形となった<ref>[https://www.as-web.jp/f1/499708?all マグヌッセン、2014年にマクラーレンからF1デビューしたことを後悔。「フォース・インディアに加入していたらよかった」]www.as-web.jp(2019年7月8日)2020年7月23日閲覧。</ref>)。 ;{{F1|2014}} :[[1月16日]]、ロン・デニスがマクラーレン・グループのCEOに復帰し、F1チームをその権限下に置くことを発表<ref name=as140117>[https://www.as-web.jp/past/%e3%83%ad%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%83%87%e3%83%8b%e3%82%b9%e3%81%8c%e3%83%9e%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%83%b3f1%e9%83%a8%e9%96%80%e3%81%ae%e3%83%9c%e3%82%b9%e3%81%ab%e5%be%a9%e5%b8%b0 ロン・デニスがマクラーレンF1部門のボスに復帰] - オートスポーツ・2014年1月17日</ref>。さらに2013年まで[[ロータスF1チーム|ロータス]]のチーム代表であった[[エリック・ブーリエ]]がレーシングディレクターとしてチームに加入することが発表された。正式加入は2月3日<ref>{{ citenews | url = http://f1-gate.com/mclaren/f1_22271.html| title = エリック・ブーリエ、マクラーレンのレーシングディレクターに就任| publisher = F1-gate.com | date = 2014-01-29 | accessdate = 2014-02-01}}</ref>。当面チームは、チームCOOのジョナサン・ニールとブーリエが共同で代表を務める<ref>[http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/146135.html 事実上のチーム代表だとブーリエ] - ESPN F1・2014年2月21日</ref>。一方で前チーム代表のウィットマーシュについては、チームのWebサイトから名前が消え事実上更迭されたものの去就が不明となっていたが<ref>[http://f1-gate.com/mclaren/f1_22611.html マーティン・ウィットマーシュ、マクラーレンでの将来はいまだ不明] - F1-gate.com・2014年3月6日</ref>、同年8月に正式に離脱が公表された<ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%82%a6%e3%82%a3%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%81%8c%e6%ad%a3%e5%bc%8f%e3%81%ab%e3%83%9e%e3%82%af%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%92%e9%9b%a2%e8%84%b1 ウィットマーシュが正式にマクラーレンを離脱] - オートスポーツ・2014年8月27日</ref>。 :ドライバーはバトンが残留。パートナーはペレスに代わりケビン・マグヌッセンが起用された。またリザーブドライバーとして[[ストフェル・バンドーン]]が起用された<ref>[http://www.f1fanatic.co.uk/2014/01/23/vandoorne-gets-mclaren-reserve-role/ Vandoorne gets McLaren reserve role] - F1 Fanatic・2014年1月23日</ref>。 :この年は開幕戦[[2014年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]こそマグヌッセンが2位、バトンが3位と2人のドライバーが[[2012年ブラジルグランプリ|2012年ブラジルGP]]以来となる表彰台を獲得するも、2戦目以降はバトンの4位が最高で表彰台圏内に入ることなくシーズンが終了した。 :7月には最古参のスポンサーである[[ヒューゴ・ボス]]がメルセデスの支援に切り替えると発表された。 :シーズン終了後の[[12月11日]]、フェラーリからアロンソが8年ぶりにマクラーレン復帰が決定した。なお、マグヌッセンはリザーブドライバーとして残留。 ==== 2015年 - 2019年 ==== ;{{F1|2015}} [[File:McLaren duo 2015 Malaysia Race.jpg|thumb|right|200px|[[2015年マレーシアグランプリ|2015年マレーシアGP]]でのアロンソ(No.14)とバトン(No.22)]] :ドライバーはバトンが残留。フェラーリからアロンソが2007年以来のチーム復帰。前年、レギュラードライバーだったマグヌッセンはリザーブドライバーとなった。また、[[運動エネルギー回生システム|パワーユニット]](Power Unit, '''PU''') は20年間使用し続けたメルセデスから予定通りホンダへと変更された。ホンダのF1復帰は2008年以来、マクラーレンがホンダエンジンを搭載するのは1992年以来となる。 :だが、2014年アブダビGP後に行われた2日間の公式テストでは、試験走行も兼ねて2014年型のマシンを改造してホンダPUを搭載して参加したが、トラブルが頻発して2日間合わせて数周しか走れず終わった<ref>[http://www.topnews.jp/2014/11/27/news/f1/120169.html マクラーレン・ホンダ「慌てる必要はない」]www.topnews.jp(2014年11月27日)2021年5月27日閲覧。</ref>。また、シーズン前となる2月に行われた開幕前テスト12日間のうち、[[ヘレス・サーキット]]での4日間のテストでは、V6ターボエンジンと[[運動エネルギー回生システム|ERSシステム]]の調整とトラブルに苦しみ、テスト成績では最下位を記録<ref>[http://www.topnews.jp/2015/02/06/news/f1/121944.html 【ヘレステストまとめ】昨年より信頼性・タイムともに向上。ホンダにとっては厳しいスタート]www.topnews.jp(2015年2月6日)2021年5月27日閲覧。</ref>。[[カタロニア・サーキット]]での8日間のテスト<ref group="注釈"">連日での8日間ではなく、連日4日間のテストを休憩日もはさんで2回行われた。</ref>ではへレスでのテストと比べれば走行距離を延ばすことに成功したものの、テストでの成績は下位に沈むこととなった<ref>[http://www.topnews.jp/2015/03/03/news/f1/122740.html 【2015年プレシーズンテストまとめ】本命メルセデスAMG、追い上げるフェラーリ、苦難のマクラーレン・ホンダ]www.topnews.jp(2015年3月3日)2021年5月27日閲覧。</ref>。そのため、テストの段階で少なくともチームは序盤戦は苦戦するというコメント<ref>[http://www.topnews.jp/2015/02/10/news/f1/122022.html マクラーレン・ホンダ、開幕戦では「完走」が現実的目標]www.topnews.jp(2015年2月10日)2021年5月27日閲覧。</ref><ref>[http://www.topnews.jp/2015/03/02/news/f1/122703.html 【マクラーレン・ホンダ】シーズン序盤の苦戦は不可避か]www.topnews.jp(2015年3月2日)2021年5月27日閲覧。</ref>を残していたが、第三者は今シーズンは苦戦するだろうという見方<ref>[http://www.topnews.jp/2015/01/09/news/f1/121166.html アロンソは今年も苦戦を強いられるだろうとヤルノ・トゥルーリ]www.topnews.jp(2015年1月9日)2021年5月27日閲覧。</ref><ref>[http://www.topnews.jp/2015/02/06/news/f1/121952.html 今年のマクラーレン・ホンダには期待できないとベテラン記者たち]www.topnews.jp(2015年2月6日)2021年5月27日閲覧。</ref>が大勢を占めていた。 :迎えた開幕戦では信頼性重視でパワーを抑えて出走する事態となり<ref>[http://www.topnews.jp/2015/03/25/news/f1/123704.html マクラーレン・ホンダ、頼みは高性能シャシー]www.topnews.jp(2015年3月25日)2021年5月27日閲覧。</ref>、その影響もあり、開幕から3戦連続の2台とも予選Q1落ち。決勝も何とか完走しているという状況であった。だが、そんな中でもモナコGPでバトンがホンダエンジン勢として初入賞<ref>[http://www.topnews.jp/2015/05/25/news/f1/126123.html 【マクラーレン・ホンダ】「初ポイント獲得は大きな弾み」ジェンソン・バトン/F1モナコGP決勝]www.topnews.jp(2015年5月25日)2021年5月27日閲覧。</ref>を決めると、イギリスでアロンソが初入賞<ref>[http://www.topnews.jp/2015/07/06/news/f1/127661.html 【マクラーレン・ホンダ】「10位はフェルナンドの粘りがあってこそ」エリック・ブーリエ/F1イギリスGP決勝]www.topnews.jp(2015年7月6日)2021年5月27日閲覧。</ref>を果たし、ハンガリーでは悲願のダブル入賞<ref>[http://www.topnews.jp/2015/07/27/news/f1/128287.html 【マクラーレン・ホンダ】「あらためてファンへの感謝を表したい」/F1ハンガリーGP決勝]www.topnews.jp(2015年7月27日)2021年5月27日閲覧。</ref>を決めた。 :ただ、[[2015年カナダグランプリ|カナダGP]]ではアロンソがチームからの(パワー不足のため)燃料をセーブせよという無線の指示に「こんなドライビングを強いられるなんて、まるでアマチュアのようじゃないか。」と苛立ち<ref>[http://www.topnews.jp/2015/06/09/news/f1/126700.html 「まるでアマチュアだ!」それでもマクラーレン・ホンダ移籍に悔いはないとアロンソ]www.topnews.jp(2015年6月9日)2021年5月27日閲覧。</ref>を見せ、[[2015年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]でもアロンソが無線で「[[GP2]]エンジン!」とパワー不足のエンジンの不満を無線を通じて漏らしたという言動<ref name="2015日本GPアロンソ">[http://www.topnews.jp/2015/09/27/news/f1/130303.html アロンソ悔しさを爆発「GP2エンジンだ!本当に恥ずかしい」]www.topnews.jp(2015年9月27日)2021年5月27日閲覧。</ref>から、少なくともアロンソはフラストレーションが溜まっていることが度々示唆されていた。また、バトンも擁護するコメント<ref>[http://www.topnews.jp/2015/05/09/news/f1/125313.html 【マクラーレン・ホンダ】「2月のテストのときとは比べ物にならない」ジェンソン・バトン/F1スペインGP1日目]www.topnews.jp(2015年5月9日)2021年5月27日閲覧。</ref>をしていたものの、悲観的なコメント<ref>[http://www.topnews.jp/2015/06/20/news/f1/126996.html 【マクラーレン・ホンダ】「学ぶためのレース」ジェンソン・バトン/F1オーストリアGP1日目]www.topnews.jp(2015年6月20日)2021年5月27日閲覧。</ref>も多かった。最終的にはコンストラクターズランキング9位とチーム創立以来ワーストの結果となってしまった。 :このような結果となった理由としては、車体設計において空力的メリットを得るために車体後部をタイトに絞り込んだ「サイズゼロ」コンセプトを導入した影響と指摘されることが多い<ref name="ホンダサイズゼロ"/><ref name="ホンダのMGU-H">[https://formula1-data.com/glossary/car/body/mgu-h MGU-H(信頼性を欠いたホンダのMGU-H)]formula1-data.com 2021年5月27日閲覧。</ref>。少なくとも、これに合わせて小型化が優先された影響でパワー不足の原因<ref name="ホンダサイズゼロ">"[http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201509240004-spnavi?p=2 ホンダ“サイズゼロ”に未来はあるか 元フェラーリ浜島裕英が今季戦いを解説 (page2/2)]". スポーツナビ. (2015年9月24日)2020年2月15日閲覧</ref>や開発による性能向上の際に構造に起因する制限が生じた<ref name="ホンダのMGU-H"/>と言われている。また、この関係で冷却不足といったエンジン側のトラブルの頻発の一因<ref>"[https://www.as-web.jp/past/%e3%83%9b%e3%83%b3%e3%83%80%e3%80%8cf1%e6%8c%91%e6%88%a6%e3%81%af%e6%83%b3%e5%83%8f%e4%bb%a5%e4%b8%8a%e3%81%ab%e5%9b%b0%e9%9b%a3%e3%80%8d%e8%8b%a6%e6%88%a6%e3%81%ae%e5%8e%9f%e5%9b%a0%e8%aa%9e%e3%82%8b?all ホンダ「F1挑戦は想像以上に困難」苦戦の原因語る]"オートスポーツweb (2015年8月6日)2020年2月15日閲覧</ref>になったとも言われる。 :他にも、シャシー関連で言えば、マクラーレンが仕上げたシャシーも性能不足な兆候があり、バトンがスペインGP後のインタビューでハンドリングの悪さ<ref>[http://www.topnews.jp/2015/05/12/news/f1/125554.html アロンソ、ネガティブなコメントを行ったバトンを擁護]www.topnews.jp(2015年5月21日)2021年5月27日閲覧。</ref>を口にしていた。また、日本GPでアロンソはエンジンを批判をしたが、この発言前に「本当に恥ずかしい」<ref name="2015日本GPアロンソ"/>とPUではなく、マシン全体の不満も発しており、チームもハンガリーGP後のコメントにて今季のシャシーに課題があることを一応認めていた<ref>[http://www.topnews.jp/2015/08/28/news/f1/128962.html 【マクラーレン・ホンダ】現在の成績はパワーユニットのせいだけではない]www.topnews.jp(2015年8月28日)2021年5月27日閲覧。</ref>。実際、シャシーのドラッグ(空気抵抗)が大きいがゆえに最高速が伸びないこと<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2015/09/09/f1_95/index_4.php 【F1】ホンダ総責任者が語る「ストレートで伸びない3つの理由」]sportiva.shueisha.co.jp(2015年9月9日)2021年5月28日閲覧。</ref>や[[鈴鹿サーキット]]のように車体側の性能も問われる場面でシャシーの完成度が良くないことが見え隠れする<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2015/09/29/f1_96/index_3.php 【F1】鈴鹿だからこそ浮き彫りとなった「ホンダの実力」]sportiva.shueisha.co.jp(2015年9月29日)2021年5月28日閲覧。</ref>など、マクラーレンのメディア戦略も含め、ホンダ側ばかり批判されている状況であったが、シャシーの問題も存在していた。 :また、エンジン関連では、ICE(内燃機関)の部分の改良は何とか進んだが<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2015/12/30/f1_102/index_4.php ホンダが現実を思い知らされた今季F1の「ターニングポイント」]sportiva.shueisha.co.jp(2015年12月30日)2021年5月28日閲覧。</ref>、サイズゼロの影響でERS関連の開発に難航し<ref>[http://www.topnews.jp/2015/06/16/news/f1/126867.html 【ホンダF1】予想以上に困難だったパワーユニットへの挑戦]www.topnews.jp(2015年6月16日)2021年5月27日閲覧。</ref><ref>[http://www.topnews.jp/2016/02/02/news/f1/133968.html 【ホンダF1】全力でばん回 光明は見えてきた]www.topnews.jp(2015年2月2日)2021年5月27日閲覧。</ref>、サマーブレイクの取材にて開発の見通しが甘かったことを認めるコメント<ref>[http://www.topnews.jp/2015/08/06/news/f1/128369.html 【ホンダF1】ここまで苦戦するとは想像していなかった]www.topnews.jp(2015年8月6日)2021年5月27日閲覧。</ref>を残していた。ただし、この年はトークンシステムにより条件付きで開発された改良型エンジンの投入自体は可能であった<ref>[http://www.topnews.jp/2015/02/23/news/f1/122435.html 【マクラーレン・ホンダ】エンジン開発凍結に関する「いいニュースと悪いニュース」]www.topnews.jp(2015年2月23日)2021年5月27日閲覧。</ref>。しかし、ヘレスでのテストの段階でこの問題点が判明したからといっても、ホモロゲーションの規定の影響とこの制度上、シーズン中の一部改良程度は認められていたがエンジンの再設計は事実上禁止されており、2016年に行われたターボの大型化など<ref>"[http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/214109.html Honda、コンセプト維持のままターボの大型化を目指す]". ESPN F1.(2016年1月13日)2020年2月15日閲覧</ref><ref>[http://www.topnews.jp/2016/02/17/news/f1/134256.html 【ホンダF1】パワーは向上も課題は信頼性か?]www.topnews.jp(2016年2月17日)2021年5月27日閲覧。</ref>の根本的な改良などの対応は事実上できない仕組みとなっていたため、相対的に不利になってしまった面<ref name="マクラーレン・ホンダ総括編(1)"/><ref name="ホンダF1特集:パート2/5"/>もあった。 :この失敗は前例として[[フェラーリ・F14 T|2014年のフェラーリ]]があり、2014年シーズン後にエンジンのコンパクト化によるパワー不足の発生<ref>“[https://www.as-web.jp/past/%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%83%aa%e3%80%81%e5%95%8f%e9%a1%8c%e3%81%a0%e3%82%89%e3%81%91%e3%81%aepu%e3%81%ae%e5%bc%b1%e7%82%b9%e5%85%8b%e6%9c%8d%e3%81%b8%e5%8a%aa%e5%8a%9b?all フェラーリ、“問題だらけのPU”の弱点克服へ努力]”AUTOSPORT Web (2015年1月30日)2020年2月15日閲覧</ref>とパワー不足を埋め合わせるほどの空力的アドバンテージ<ref>“[http://ja.espnf1.com/ferrari/motorsport/story/171333.html マルモリーニがフェラーリを批判]”. ESPN F1 (204年8月19日)2020年2月15日閲覧</ref>はなかったとコメントし、現に[[フェラーリ・SF15-T|2015年のフェラーリ]]はすべての設計を一新。PUのパワーと信頼性を重視し、それに合わせてシャシーを設計するという方針へ転換している。そのため、後年の記事<ref name="マクラーレン・ホンダ総括編(1)">{{Cite web|和書|url =https://www.as-web.jp/f1/190436/2 |title = マクラーレン・ホンダF1辛口コラム総括編(1)ホンダの最大の過ちは「傲慢」で「無知」な初動 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-12-23 |accessdate = 2020-02-15}}</ref><ref name="ホンダF1特集:パート2/5">[http://www.topnews.jp/2020/01/01/news/f1/187246.html 【ホンダF1特集:パート2/5】ホンダの楽観視と準備不足]www.topnews.jp(2020年1月1日)2020年2月15日閲覧</ref>で、マクラーレンとホンダ共にマシン開発の認識の甘さを指摘する声もある。 :同年限りでリサーブドライバーを務めていたマグヌッセンがチームを去りルノーへ移籍<ref>[http://www.topnews.jp/2015/10/17/news/f1/131229.html 【マクラーレン・ホンダ】ケビン・マグヌッセンの離脱を正式発表]www.topnews.jp(2015年10月17日)2021年5月27日閲覧。</ref>。この年をもってポルシェ時代からチームのスポンサーを続けていた[[タグ・ホイヤー]]がレッドブルにスポンサー先を変更した。一方で翌年から[[モエ・エ・シャンドン]]がスポンサーとなり、「CHANDON」のロゴを掲示することになった。 ;{{F1|2016}} [[File:Fernando Alonso 2016 Malaysia Q1.jpg|thumb|right|200px|[[2016年マレーシアグランプリ|2016年マレーシアGP]]の予選に挑むアロンソ]] :ドライバーはアロンソとバトンが残留。 :前年の開幕前の[[カタロニア・サーキット]]でのテスト内容や前年型のマシンに比べれば、信頼性や性能は改善<ref>[https://www.as-web.jp/f1/2817 バトン「ホンダに過去14カ月で最大の進歩感じた」と称賛]www.as-web.jp(2016年3月3日)2021年5月28日閲覧。</ref><ref>[https://www.as-web.jp/past/%e3%80%8c%e3%83%9b%e3%83%b3%e3%83%80%e3%81%afers%e3%81%ae%e5%95%8f%e9%a1%8c%e3%82%92%e8%a7%a3%e6%b1%ba%e3%80%8d%e3%82%a2%e3%83%ad%e3%83%b3%e3%82%bd%e3%82%82%e9%80%b2%e6%ad%a9%e8%aa%8d%e3%82%81?all 「ホンダはERSの問題を解決」アロンソも進歩認める]www.as-web.jp(2016年3月3日)2021年5月28日閲覧。</ref>。ある程度順調にテストを行いを終えた<ref>[http://www.topnews.jp/2016/02/25/news/f1/134783.html ペドロ・デ・ラ・ロサ「マクラーレン・ホンダは今年も勝てない」]www.topnews.jp(2016年2月25日)2021年5月28日閲覧。</ref>。 :開幕戦[[2016年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]でアロンソが[[エステバン・グティエレス]]との接触で大クラッシュを喫し<ref>[https://www.as-web.jp/f1/4854 アロンソ、大クラッシュを語る「生きていることに感謝。母に早く無事を知らせたかった」]www.as-web.jp(2016年3月20日)2021年5月27日閲覧。</ref>、次戦[[2016年バーレーングランプリ|バーレーンGP]]前の検査では回復が不十分と判断されドクターストップがかかり<ref>[http://www.topnews.jp/2016/03/31/news/f1/136871.html 【マクラーレン・ホンダ】大クラッシュのアロンソにドクターストップ、バーレーンGP欠場が決定]www.topnews.jp(2016年3月31日)2021年5月27日閲覧。</ref>、リザーブドライバーの[[ストフェル・バンドーン]]が代走することになった<ref>[https://www.as-web.jp/f1/7192 バンドーン「急な電話であたふた。日本からのフライト中に勉強した」]www.as-web.jp(2016年4月2日)2021年5月27日閲覧。</ref>。同GPがデビュー戦となったバンドーンが10位入賞を果たし<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/remembering-f1s-most-recent-super-sub/4776798/?filters%5Bdriver%5D%5B0%5D%5Btitle%5D=%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB+%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%B3&filters%5Bdriver%5D%5B0%5D%5Bvalue%5D=19415 光り輝く”最後の”スーパー代役ドライバー:16年バーレーン、バンドーンの衝撃]jp.motorsport.com(2020年4月5日)2021年5月27日閲覧。</ref>、チームに今シーズン初のポイントをもたらした。なお、アロンソは第3戦[[2016年中国グランプリ|中国GP]]で復帰を果たしている。[[2016年ロシアグランプリ|第4戦ロシアGP]]では2台とも予選Q2落ちではあったが、アロンソが6位、バトンが10位となり今季初のダブル入賞を果たした<ref>[http://www.topnews.jp/2016/05/02/news/f1/138872.html 【マクラーレン・ホンダ】アロンソ6位、バトン10位のダブル入賞/F1ロシアGP決勝レース]www.topnews.jp(2016年5月2日)2021年5月28日閲覧。</ref>。第5戦[[2016年スペイングランプリ|スペインGP]]ではアロンソがマクラーレン・ホンダ復活後初のQ3進出を果たした<ref>[https://www.as-web.jp/f1/15864 マクラーレン「長かった…24回目にして予選トップ10入りを果たし安堵」/スペイン土曜]www.as-web.jp(2016年5月15日)2021年5月28日閲覧。</ref>(決勝はバトン9位入賞のみ)。第9戦[[2016年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]では、天候がめまぐるしく変わる中で、バトンが予選5位を獲得し前車2台のペナルティにより3番手スタートとなった(決勝は6位入賞)<ref>[https://www.as-web.jp/f1/26924 バトン「僕にとってはポールのようなもの。3番グリッドは運でも5位は実力」:マクラーレン・ホンダ オーストリア土曜]www.as-web.jp(2016年7月3日)2021年5月28日閲覧。</ref>。第11戦[[2016年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]では復活後初となるアロンソとバトンが揃ってQ3進出を果たした(決勝はアロンソの7位入賞のみ)<ref>[https://www.as-web.jp/f1/32355 マクラーレン「大混乱の2時間を見事に戦い抜いたふたり。明日はダブル入賞狙う」/ハンガリー土曜]www.as-web.jp(2016年7月24日)2021年5月28日閲覧。</ref>。また、[[2016年イタリアグランプリ|イタリアGP]]ではポイントこそ獲得できなかったものの、アロンソがファステストラップを記録<ref>[https://www.as-web.jp/f1/43497 アロンソ「残り7戦、状況は一変する。終盤はフェラーリと戦えるはず」:イタリア日曜]www.as-web.jp(2016年9月5日)2021年5月28日閲覧。</ref>した。また、イタリアGPの前後にてバンドーンの起用に伴いバトンがリザーブドライバーへ降格する形の契約となったことを発表<ref>[https://www.as-web.jp/f1/42947?all マクラーレンが異例の「3人体制」を発表、バンドーン昇格でバトンはリザーブに]www.as-web.jp(2016年9月4日)2021年5月28日閲覧。</ref>。これにより、バトンは事実上引退することとなった。最終的な成績はコンストラクターズランキング6位を獲得。ドライバーズランキングはアロンソ10位、バトン15位となった。 [[File:Ron Dennis 2016 Goodwood Festival of Speed.jpg|thumb|130px|勇退したロン・デニス(2016年)]] :一方で前年型よりマシンの戦闘力は向上したが、チーム運営の混乱やマシンも含めた開発部門の課題も生じていた。運営面では2009年を以てレース部門から離れ、2012年にはマクラーレングループから一歩身を引いた立場にとなった[[ロン・デニス]]だったが、2014年にグループのトップへ復帰。だが、復帰後の手腕を不安視する声<ref>[http://www.topnews.jp/2015/05/20/news/f1/125795.html マクラーレン内に不協和音?]www.topnews.jp(2015年5月20日)2021年5月28日閲覧。</ref><ref>[http://www.topnews.jp/2015/07/02/news/f1/127454.html マクラーレンの不振は「傲慢(ごうまん)」な姿勢によるものだと元F1チーム代表]www.topnews.jp(2015年7月2日)2021年5月28日閲覧。</ref>もあり、最終的には11月15日に行われた株主総会によって、マクラーレン・テクノロジー・グループの会長兼CEOを解任が決定<ref name="ロン・デニス正式解任">{{ citenews | url = http://www.topnews.jp/2016/11/16/news/f1/149565.html | title = 【マクラーレン公式声明】ロン・デニス正式解任 複雑な体制のまま来季へ | publisher = www.topnews.jp| date = 2016-11-16 | accessdate = 2021-05-28}}</ref>。後任のCEOが決まるまでの運営は多数株主から成る執行委員会が暫定的に引き継ぐことが発表された<ref name="ロン・デニス正式解任"/>。同月21日、[[ザク・ブラウン]]がエグゼクティブディレクターの職に就くことに同意し、翌月正式に就任すると発表した<ref>{{ citenews | url = http://www.as-web.jp/f1/67897?all | title = 【正式発表】マクラーレン、渦中のザック・ブラウンと契約もロン・デニスの後任は別 | publisher = AUTOSPORTweb | date = 2016-11-22 | accessdate = 2016-11-26}}</ref>。なお翌年デニスは手持ちのチームの株式を全て売却し、37年に及ぶマクラーレンとの関係を完全に解消した<ref>[http://www.topnews.jp/2017/06/30/news/f1/160904.html 【マクラーレン】ロン・デニスとの完全決別が確定]www.topnews.jp(2017年6月30日)2021年5月28日閲覧。</ref>。 :マシン開発の方は、テストにおいて研究開発を優先した影響で製造計画に遅れが生じたという理由で、実戦で使用する予定のパーツのテストができないままテストを終えたこと<ref>[https://www.as-web.jp/f1/2223 マクラーレン「パーツ完成遅れ実戦仕様走れず」]www.as-web.jp(2016年3月5日)2021年5月28日閲覧。</ref>を始め、セットアップの変更などで好転しない状況<ref>[https://www.as-web.jp/f1/18309 マクラーレンはモナコへの自信を見せるも、周囲からは懐疑的な見方]www.as-web.jp(2016年5月28日)2021年5月28日閲覧。</ref><ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2016/06/01/post_45/index_3.php ダブル入賞にだまされるな。モナコで露呈したホンダの厳しい現実]sportiva.shueisha.co.jp(2016年6月1日)2021年5月28日閲覧。</ref>やマシンのダウンフォースの不安定な症状<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2016/10/12/f1_split/index_3.php F1ホンダ、鈴鹿で惨敗。パワー不足はエンジンだけのせいなのか?]sportiva.shueisha.co.jp(2016年10月12日)2021年5月28日閲覧。</ref><ref>[https://www.as-web.jp/f1/55856/2 F1 Topic:入賞を重ねてきたマクラーレン・ホンダが鈴鹿で低迷した理由とは]www.as-web.jp(2016年10月13日)2021年5月28日閲覧。</ref><ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2016/11/03/___split___f1/index_3.php F1ホンダを襲う「高地の呪い」。ターボ改善も、今度は空力がダメだ]sportiva.shueisha.co.jp(2016年11月3日)2021年5月28日閲覧。</ref>といったシャシーの課題が今シーズンも残っていた。また、レース運営の課題<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2016/04/20/post_38/index_4.php ホンダを覆う「どんよりした空気」。2台完走もドライバーは不満顔]sportiva.shueisha.co.jp(2016年4月20日)2021年5月28日閲覧。</ref><ref>[https://www.as-web.jp/f1/26932 アロンソ「小学校レベルのミス。中古タイヤを装着されて驚いた」:マクラーレン・ホンダ オーストリア土曜]www.as-web.jp(2016年7月3日)2021年5月28日閲覧。</ref>もあった。 :10月末に翌年から燃料メーカーが[[エクソンモービル|モービル]]から[[BP (企業)|BP]]/[[カストロール]]になると噂<ref>[https://www.as-web.jp/f1/60702?all F1 Topic:エクソンモービルを奪われたマクラーレンは“やむを得ず”BPへスイッチ]www.as-web.jp(2016年10月29日)2021年5月28日閲覧。</ref>が報じられていたが、シーズン終了後の12月にレッドブルがモービルと契約を結んだことを発表<ref>[https://www.as-web.jp/f1/70434?all 【正式】マクラーレン、長年のパートナー、エクソンモービルを失う。レッドブルとの契約が発表]www.as-web.jp(2016年12月2日)2021年5月28日閲覧。</ref>。それにより、チームはこの時点で最も大口のスポンサーでもあった燃料メーカーの支援も失うこととなった。 ;{{F1|2017}} :アロンソが残留し、バンドーンがレギュラーに昇格。引退したバトンはアンバサダーというかたちでチームに残留。元チャンピオンの[[ミカ・ハッキネン]]がアンバサダーとしてチームに復帰した。ロン・デニスの離脱に伴い、マシン名称がMP4からMCLに変更され「[[マクラーレン・MCL32|MCL32]]」となった。なお、燃料メーカーがモービルに代わり、[[BP (企業)|BP]]/[[カストロール]]となる。 :プレシーズンテストだが、PUの設計を見直したことも影響しマシントラブルが頻発<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3-%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%8C%E3%81%BB%E3%81%A9%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%AB%E7%80%95%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%89%8D%E7%B7%A8-883392/883392/ 【F1】マクラーレン・ホンダはどれほどの危機に瀕しているのか:前編]jp.motorsport.com(2017年3月17日)2020年10月23日閲覧。</ref>。この状況にはマクラーレン側も苛立ち<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3-%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E9%99%90%E7%95%8C%E3%81%AB%E8%BF%91%E3%81%84-%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AA%E3%81%97%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A6-915472/915472/?filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Btitle%5D=%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3&filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Bvalue%5D=10 【F1】マクラーレン、ホンダとの関係を”懸念”「限界に近い」]jp.motorsport.com(2017年6月8日)2020年10月23日閲覧。</ref>を隠せなかった。開幕戦[[2017年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]ではアロンソがサスペンションのトラブルでリタイアするまで入賞圏内の10位を走っていたが、アロンソは「通常のコースなら僕たちはもっとも遅いだろう」と酷評している<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/102585?all |title = アロンソ「マクラーレン・ホンダF1は純粋なパフォーマンスでは最下位」。元ボスが同情的発言 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-03-26 |accessdate = 2018-06-28}}</ref>。[[4月12日]]、アロンソは[[インディ500]]への参戦を表明し、日程が重なる第6戦[[2017年モナコグランプリ|モナコGP]]はバトンが代走を務めることになった<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/109117?all |title = マクラーレン・ホンダF1、モナコ欠場のアロンソ代役にバトンを起用 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-04-14 |accessdate = 2017-04-14}}</ref>。その直後の第3戦[[2017年バーレーングランプリ|バーレーンGP]]以降もホンダPUも含めたマシントラブルに悩まされ続け、唯一[[2017年スペイングランプリ|スペインGP]]でアロンソが予選7番手を獲得する結果を残すも決勝では接触などで順位を落としてしまい12位フィニッシュ。スペインGPまでの間、ノーポイントだったうえ、同GPでザウバーが入賞したことでこの時点で唯一のノーポイントのチームとなってしまった。アロンソが欠場したモナコGPは予選でバンドーンとバトンが揃ってQ3に進出したが、決勝は両者リタイアで終わり、2015年のチームワーストを更新する開幕6戦ノーポイントとなった。ここまで入賞のチャンスはあったが、マシントラブルで逃していた中、第8戦[[2017年アゼルバイジャングランプリ|アゼルバイジャンGP]]でアロンソが9位に入り、ようやくシーズン初ポイントを獲得した。 [[File:Fernando Alonso 2017 Catalonia test (27 Feb-2 Mar) Day 1.jpg|thumb|200px|PUを一新した MCL32]] :だが、シーズンが進むにつれ、マクラーレン側は擁護するコメントより<ref>[https://formula1-data.com/article/belgium-preview-alonso-2017 アロンソ「マクラーレン・ホンダは徐々に強さを増している」F1ベルギーGP 2017《preview》] FORMULA1-DATA 2018年6月28日閲覧</ref>、批判や現状に不満を抱えていることを示すコメントが目立つようになり<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3-%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%82%82%E8%B5%B7%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%81%AB-%E6%B0%97%E3%81%AB%E5%85%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84-917785/917785/?filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Btitle%5D=%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3&filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Bvalue%5D=10 【F1】マクラーレン、またも起きたホンダのトラブルに「気に入らない」]jp.motorsport.com(2017年6月12日)2020年10月23日閲覧。</ref>、アロンソからは度々厳しいコメントが出された<ref name="2017ベルギーGPコメント">[https://formula1-data.com/article/belgium-day2-alonso-2017 アロンソ「ホンダエンジンでなければ楽勝でフロントローだったはず」F1ベルギーGP 2017《予選後》] FORMULA1-DATA 2018年6月28日閲覧</ref>。また、こういった動きが出る前からマクラーレンもPU変更に着手する<ref>{{Cite web|和書|url = https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2017/09/16/___split_30/index_3.php |title = 飛び交う噂の真相は?ホンダとマクラーレンが決別したホントの理由 |publisher = sportiva.shueisha.co.jp |date = 2017-09-16 |accessdate = 2019-01-19}}</ref>。当初はホンダとザウバーが仮契約を結んだことを受け<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/103933?all |title = 【正式発表】『ザウバー・ホンダ』誕生。マクラーレンに加え、2018年からのF1パワーユニット供給契約を締結 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-04-30 |accessdate = 2018-06-29}}</ref>、これに合わせてマクラーレンもホンダと手を切ると噂されていたが、ザウバーはギアボックス供給問題などのマシン開発に影響が出るリスクを許容できなかったため<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/125018?all |title = 【F1 Topic:日本人ドライバー、ギヤボックス供給問題などザウバー・ホンダに関する3つの疑問 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-05-26 |accessdate = 2018-06-29}}</ref>、ホンダとの契約を破棄。その後、他のPUの供給を打診するも、メルセデスとフェラーリはこれを拒否。残るは[[ルノーF1|ルノー]]のみだったが、すでにルノーは3チームに供給しておりレギュレーションにより3チームを超えて供給することが制限されているため、ルノーが4チームへの供給に難色を示したこともあって供給を受けるには他のチームがルノーとの契約を破棄する必要があった。しかし[[スクーデリア・トロ・ロッソ|トロ・ロッソ]]がホンダPUを搭載するとの噂が流れると、そのトロ・ロッソが現在契約しているルノーPUをマクラーレンが手に入れることができる可能性が出てきた。しかしルノー側はトロ・ロッソとの契約終了の代わりに[[カルロス・サインツJr.]]の獲得を要求したこともあり<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84jr-%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%81%B8%E7%A7%BB%E7%B1%8D%E3%81%8B-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%81%AEpu%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%82%82%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E3%81%B8-951243/2127260/ サインツJr.、ルノー移籍へ? マクラーレンとホンダの問題も解決か]jp.motorsport.com(2017年9月10日)2020年10月23日閲覧。</ref>、状況が複雑化。そして第14戦[[2017年シンガポールグランプリ|シンガポールグランプリ]]のフリー走行1回目の後に、[[ホンダF1|ホンダ]]との契約を2017年いっぱいで解消することが発表され、同時に2018年から3年間、ルノーとのカスタマー契約を締結したことが発表された(同時にサインツのルノーへの「[[レンタル移籍]]」、トロ・ロッソの2018年からのホンダとのワークス契約の締結を発表)。パワーユニット変更を発表したシンガポールGPと次の[[2017年マレーシアグランプリ|マレーシアGP]]でバンドーンが7位入賞を果たした。アロンソは終盤3戦で連続入賞を果たし、辛うじてバンドーンのポイントを上回った。 :かつて一時代を築いた「マクラーレン・ホンダ」の再現はならず、3年で幕を閉じるという結果に終わった。シーズン終了後のブーリエの当時のコメントによれば、プレシーズンテスト終了の段階で2016年シーズンの結果より後退することが避けられないと判断し<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/188830?all |title = マクラーレンF1ボス、「ホンダとともに勝つという夢」を諦めた瞬間を語る |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-12-15 |accessdate = 2017-12-30}}</ref>、契約打ち切りの方針を決意したと語っている。ただし、後年のホンダへのインタビューによれば<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/840090 ホンダとレッドブルが密になった日。マクラーレン離別に知られざる経緯。]number.bunshun.jp(2019年7月21日)2020年10月23日閲覧。</ref>、もともとの契約は3年+2年オプション付きの契約という内容であったため、厳密にいえば、オプション契約の権利を行使せず所定の契約期間で終了したという定義になるため、予定を繰り上げて契約破棄されたわけではないとコメントしている。 :この年、不振が目立った理由についていくつかあるが、ホンダ関連では、PUが不調に陥った一因としてオシレーション(共振)があり、これについてマクラーレンはエンジン側の問題としていたが、ホンダ側はテスト時の不調からでマクラーレン製ギアボックスに問題があるという説を抱いていた<ref>[https://www.as-web.jp/f1/103530?all F1 Topic:ホンダPU、振動問題の主因はマクラーレンのギヤボックスか?]www.as-web.jp(2017年3月30日)2020年2月9日閲覧</ref>。だが、その件について検証することがなかったため、明確な原因は特定されなかったものの、ギアボックスが原因のトラブルはシーズン中にいくつか発生していた<ref>[https://www.as-web.jp/f1/135121 F1 Topic:ホンダPUのアップデートのチャンスを奪ったギヤボックストラブル]www.as-web.jp(2017年6月24日)2021年9月20日閲覧。</ref><ref name="アゼルバイジャンギアボックス"/>。 :マクラーレン関連では、そもそも、2015年と2016年もシャシーに問題を抱えており、この時期はまだ問題を認めていたのだが、この年はアロンソの発言を筆頭にシャシー側に問題ないという強気の発言が目立った<ref name="2017ベルギーGPコメント"/>。だが、ギアボックスを含めたマクラーレン側が担当する箇所の技術的な問題も少なからず発生しており<ref group="注釈">開幕戦のリタイアはサスペンショントラブルであり、ホンダではなくマクラーレンが担当するパーツが原因のリタイアである。</ref><ref>[https://formula1-data.com/article/australia-day3-mclaren-2017 マクラーレン「車体の至る所に損傷・トラブルを抱えていた」2017年F1オーストラリアGP決勝後コメント]formula1-data.com(2017年3月26日)2021年9月20日閲覧。</ref><ref name="アゼルバイジャンギアボックス">[https://formula1-data.com/article/mclaren-said-problem-is-gearbox トラブルの原因はエンジンではなく”ギアボックス”、とマクラーレン]formula1-data.com(2017年6月24日)2021年5月29日閲覧。</ref>、マクラーレン側も万全とは言えず、その状況をめぐって第三者から苦言を呈された。バーニー・エクレストンは「いろんなことがうまくいかなかったのはホンダのせいではない。マクラーレンのせいだ」と指摘。「毎日毎日、彼らは協力して働くのではなく、あらゆることで戦いをしかけていた。愚かなことだ」とマクラーレン側の態度を批判<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/160438?all |title = 「悪いのはホンダではない」。エクレストンがマクラーレンF1を非難。ルノーでの成功に懐疑的 |publisher = AUTOSPORTweb |accessdate = 2017-09-13}}</ref>。また、ホンダに対しPUの設計に条件をつけたことで生じた問題を軽視し、ホンダの財政支援やマクラーレンの要求に応えたPUのメリットを軽視する姿勢を批判した記事<ref name="2017-12-30">{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/191416/2 |title = マクラーレン・ホンダF1辛口コラム総括編(2)ホンダに依存しながら侮辱し続けたマクラーレンの咎 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-12-30 |accessdate = 2017-12-30}}</ref>。マシンのセットアップが「どれだけ速くするか」ではなく「どれだけ乗りやすくするか」という事が優先されたり、コーナリングセクターのためにストレートスピードを妥協するセッティングになっていた事を公にしないなど<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/motorsports/motorsports/2017/11/15/___split_44/index.php ウイング立てて直線伸びず。なのにアロンソはホンダ批判という理不尽] Sportiva・2017年11月15日</ref>、この時期のマクラーレン側も多くの問題を抱えていることを示唆する兆候はいくつか見られたのだが、不振の責任をアロンソの政治的発言<ref>[https://formula1-data.com/article/alonso-interview-after-test2-day2 ブチギレの真相 : アロンソ記者会見「僕にはどうすることもできない」] FORMULA1-DATA</ref><ref>[http://www.topnews.jp/2020/01/01/news/f1/187248.html 【ホンダF1特集:パート3/5】アロンソの忠誠心の欠如]www.topnews.jp(2020年1月1日)2020年2月9日閲覧</ref>も利用して、2015年からのマクラーレン・ホンダ時代の不振はホンダ側が原因と思わせる誘導をしたメディア戦略により、その指摘は覆い隠された。 :そして、ブーリエがPU変更しただけで成績が改善するというコメント<ref>{{Cite news |title=ホンダとルノーの差は1秒あるとマクラーレン |url=http://www.topnews.jp/2018/02/05/news/f1/166878.html |publisher=Topnews |date=2018-02-05 |accessdate=2020-02-09}}</ref>のように一種の楽観論が目立った。ただ、ホンダも見通しの甘さがあったのも事実<ref>{{Cite web|和書|url =http://www.as-web.jp/f1/190436?all |title = マクラーレン・ホンダF1辛口コラム総括編(1)ホンダの最大の過ちは「傲慢」で「無知」な初動 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-12-23 |accessdate = 2020-02-09}}</ref><ref name="ホンダF1特集:パート2/5"></ref>であったため、曲がりなりにも根拠のある楽観論がチーム内に蔓延する形となった。だが、2020年2月にロス・ブラウンがホンダPUと決別しなければチームは自らの問題点を検証しなかったという総括のコメント<ref>[https://formula1-data.com/article/breaking-with-honda-made-mclaren-aware-of-his-shortcomings ホンダとの決別なくしてマクラーレンが自らの欠点を認識する事はなかった、とロス・ブラウン]formula1-data.com(2020年2月8日)2020年2月9日閲覧</ref>をしたように、チーム内の問題に向き合わず、全ての問題をホンダに押し付けたツケを2018年に支払うこととなった。 :アロンソが参戦するインディ500は、[[アンドレッティ・オートスポーツ]]の協力の下「マクラーレン・ホンダ・アンドレッティ」のエントリー名で戦うことになった。形は大きく異なるが、1979年以来38年ぶりにインディ500でマクラーレンの名が復活することになった。アロンソは初参戦で予選5番手となり、決勝でも27周でラップリーダーとなったが、ここでもエンジントラブルが発生しリタイアとなった。 ;{{F1|2018}} [[File:2018 Japanese Grand Prix Norris (31662861328).jpg|thumb|200px|不振に終わったルノーエンジン搭載車 MCL33]] :ドライバーはアロンソとバンドーンが残留。燃料メーカーは[[ペトロブラス]]とスポンサー契約。開幕前のテストではシャシー関連のトラブルが多く、前年ではホンダPUのせいだとしたオシレーションの問題がルノー勢の中でマクラーレンにだけ発生したうえ<ref name="as-web.jp/f1/351009/2">[https://www.as-web.jp/f1/351009 F1 Topic:昨年のマクラーレンのトラブルはホンダPUだけが原因だったのか] auto sport web・2018年3月21日</ref>、初歩的なトラブルもあり<ref>[https://www.as-web.jp/f1/342658?all アロンソのホイール脱落、マクラーレンF1が原因を説明。「大事件ではない」] AUTOSPORTweb 2018年2月27日。</ref>、アロンソは記録上は速さを見せたものの、満足な周回をこなせなせずにテストを終えた。そのため、この時点でマクラーレンに対し疑念を抱くコメント<ref name="as-web.jp/f1/351009/2"></ref>もあった。 :テストでの不振から迎えた開幕戦[[2018年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]であったが、アロンソが5位、バンドーンが9位とダブル入賞。第5戦まで連続入賞を果たしホンダPU時代には考えられなかった好走をみせる。チームが本命と称する「Bスペック」を導入した第5戦でアロンソがシーズン初のQ3進出を達成した。そのため、前年比では成績は大きく向上したものの、優勝争いには遠く、同じルノーPUを積むレッドブルには大きな差をつけられていた。チームも前年の豪語から一転して予防線を張るような発言<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/367500?all |title = 新ノーズ投入のマクラーレンF1「スペインのアップデートは長い開発プランの一部」 |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2018-05-11 |accessdate = 2018-05-27}}</ref><ref>[https://www.as-web.jp/f1/380499?all マクラーレン、“期待外れ”の2018年型マシンの開発を諦めず。「今後のためにも問題の解決が重要」] AUTOSPORTweb (2018年6月16日)2018年6月20日閲覧</ref>が増え、チームの公式Twitterにも世界中のファンから不振に対する批判の声が続出<ref>{{Cite web|和書|url = https://formula1-data.com/article/followers-censure-mclaren-f1-team-at-france |title = マクラーレンF1に批判殺到…ファンの不満爆発「遅いのはホンダのせいじゃなかった…騙された」 |publisher = FORMULA1 DATA |date = 2018-06-25 |accessdate = 2018-08-28}}</ref>。ドライバーからもアロンソは2015年日本GPでPUを酷評した無線の場面だけメディアに取り上げられたが、その前のやり取りでマシンの性能の低さを嘆いていた<ref name="2015日本GPアロンソ"/>。2017年はマクラーレン寄りの発言が目立っていたが、同年のアゼルバイジャンGP後に上位争いの可能性がないことを嘆く形でチームへくぎを刺したり<ref>[https://www.as-web.jp/f1/135687 アロンソ「本当なら勝つべきレース」。望外の入賞もペース不足を嘆く/F1アゼルバイジャンGP]www.as-web.jp(2017年6月26日)2021年9月20日閲覧</ref>、マレーシアGP後に2018年はレッドブルと比較されることになるというコメント<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/167422?all |title = アロンソ「ルノーPU搭載でマクラーレンの真価が分かる」。レッドブルF1との直接対決は大きなプレッシャーに |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-10-26 |accessdate = 2018-06-28}}</ref>をするなど、別の一面も見せていた。そのため、フランスGP予選の終了後にはアロンソがマシンのパフォーマンスに不満を訴えた<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.topnews.jp/2018/06/24/news/f1/171569.html |title = アロンソ「マクラーレンはレースするたびに遅くなる」 |publisher = Topnews |date = 2018-06-24 |accessdate = 2018-06-27}}</ref>。バンドーンもスペインGPのリタイアをきっかけにチームの擁護はしなくなり<ref>[https://www.as-web.jp/f1/372941?all バンドーン「扱いづらいマシンに苦労。Q1落ちを避けるためには完璧な仕事をする必要がある」:マクラーレン F1モナコGP木曜] AUTOSPORTweb 2018年5月25日。</ref>、モナコGPではレース戦略について批判した他、マシントラブルがバンドーンに集中したことでマシンを酷評する発言が目立っていた<ref>[https://www.as-web.jp/f1/403661?all バンドーン、トラブル続きで苛立ち。「まともに走れるマシンを用意してから、ノリスとの比較をすべき」:F1ベルギーGP金曜] AUTOSPORTweb 2018年8月25日。</ref>。 [[File:Zak Brown and Eric Boullier 2015 McLaren MP4-16A shakedown (21381246506).jpg|thumb|200px|更迭されたエリック・ブーリエ(左) 右はザク・ブラウン]] :シーズン中、元代表のウィットマーシュはチーム内に不協和音が生じているとする一部報道を認めた上で、「マクラーレンは取り組み方を大きく変える必要がある。主要メンバー間に政治的なしがらみが多過ぎる。私は、彼らの多くはチームを去るべきだと思っている」とコメント<ref>[http://www.topnews.jp/2018/06/19/news/f1/171386.html マクラーレンに内紛?チームスタッフたちが元チーム代表に接触]www.topnews.jp(2018年6月19日)2021年5月28日閲覧。</ref>。前年まで在籍していたバトンも「非常に良いシーズンを送っている」と前置きした上で「“F1でベストのシャシー”と豪語したことで、期待外れの印象を与えている」と指摘している<ref>[http://www.as-web.jp/f1/366958?all バトン「マクラーレンは“シャシーではベスト”と豪語すべきではなかった」] AUTOSPORTweb 2018年5月9日。</ref>。 :7月4日、レーシングディレクターのブーリエが更迭され、[[ジル・ド・フェラン]]がスポーティングディレクターとしてチームを統括することが発表された<ref>[https://formula1-data.com/article/eric-boullier-quits-mclaren マクラーレンF1、エリック・ブーリエの更迭を発表…成績不振からの脱却目指し首脳陣を再編] FORMULA1-DATA 2018年7月4日。</ref>。8月14日、アロンソは「2019年シーズンはF1に参戦しない」ことを表明し、今季限りのマクラーレン離脱が確定。F1に復帰する意志はないと表明<ref>[https://formula1-data.com/article/alonso-say-right-now-goodbye-f1 フェルナンド・アロンソ、将来的な復帰の可能性を否定「F1とはこれでお別れ、さようならだ」] FORMULA1-DATA 2018/08/26。</ref>しながらも、後日「F1引退」という表現は用いずに将来のF1復帰の可能性に含みを持たせる言動<ref>[http://www.as-web.jp/f1/400241?all アロンソ、17年のF1キャリアに区切りも、将来の復帰の可能性残す] - オートスポーツ(2018年8月15日)2018年8月15日閲覧</ref>が続いており、シーズン中は[[2019年のF1世界選手権]]に参戦しないことを明言しただけにとどまり、チームもアンバサダー兼リザーブドライバーとして残留することとなった。 :8月16日、アロンソの後任に[[カルロス・サインツJr.|カルロス・サインツ]]の起用が発表。9月3日には[[ストフェル・バンドーン]]の当季限りでの放出と、その後任として[[ランド・ノリス]]の起用<ref>[https://formula1-data.com/article/ando-norris-to-drive-for-mclaren-from-2019 マクラーレンF1、育成傘下のランド・ノリス起用を正式発表。バンドーンの後任として2019年から] FORMULA1-DATA 2018/09/03。</ref>が相次いで発表された。 :チームがサマーブレイクを目安に翌シーズンのマシン開発に軸足を移したことで後半戦失速したことも含め、ランキング6位はホンダPUを搭載した過去3シーズンの最高成績となる2016年を完全に上回ることはできなかったが、前年と比べれば大きく向上し、PUの交換先となったランキング9位のトロ・ロッソとの対決という意味では勝利している。 ;{{f1|2019}} [[File:Carlos Sainz-Mclaren-2019 (1).jpg|thumb|200px|昨年から向上した MCL34]] :ドライバーは発表されていた通り、[[カルロス・サインツJr.|カルロス・サインツ]]と[[ランド・ノリス]]のコンビとなる。アロンソはチームアンバサダーとして残留し、2年間のテストドライバー契約を結んだ<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/456825?all |title = マクラーレン、アロンソのF1テスト起用を発表。「チームを復活に導く重要な存在」としてアンバサダー契約結ぶ |publisher = auto sport web |date = 2019-02-28 |accessdate = 2019-05-29}}</ref>。開幕後の[[3月25日]]に[[ジェームス・キー]]が[[スクーデリア・トロ・ロッソ|トロ・ロッソ]]から移籍し、テクニカルディレクターに就任した<ref>{{Cite web|和書|url= https://jp.motorsport.com/f1/news/toro-rosso-mclaren-finally-reach-agreement-on-key/4342539/ |title= トロロッソとマクラーレン、ジェームス・キーの移籍に合意 |publisher= motorsport.com |date= 2019-02-23 |accessdate = 2019-02-24}}</ref>。2017年までポルシェで[[FIA 世界耐久選手権|世界耐久選手権(WEC)]]のLMP1プログラムを率いていた[[アンドレアス・ザイドル]]が[[5月1日]]にマネージングディレクターに就任した<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.as-web.jp/f1/479455?all |title= マクラーレンF1の新マネージングディレクター、ザイドルがスペインGPから指揮を開始 |publisher= auto sport web |date= 2019-05-10 |accessdate = 2019-05-11}}</ref>。 :スポンサーは[[コカ・コーラ]]が前年終盤から継続しているほか、バージボード上部とフロント翼端板に[[ブリティッシュ・アメリカン・タバコ]](BAT)が宣伝プログラム「A Better Tomorrow」のロゴを掲載。タバコ広告が厳しいオーストラリアは[[セブン-イレブン]]を掲載・これは置換えに限らない大口スポンサーだったが、他のレースでもスポットスポンサーに場所を空け渡す場合が多い。 :若手ドライバーのコンビや前年のマシンの完成度からあまり注目されておらず、サインツからは厳しい1年となるというコメントをしていたが<ref>[http://www.topnews.jp/2018/11/09/news/f1/175695.html カルロス・サインツ「来年もマクラーレンのポジションは今とあまり変わらないはず」]www.topnews.jp(2018年11月9日)2021年9月20日閲覧。</ref>、テストでは好調な結果を残した<ref>[https://formula1-data.com/article/preseason-test-day6-mclaren-2019 テスト6日目最速のカルロス・サインツ「2019年のルノーF1エンジンは大きく前進」]formula1-data.com(2019年2月28日)2021年9月20日閲覧。</ref>。開幕戦ではノリスがキャリア及び今季チーム初の予選Q3進出を達成。決勝こそサインツのマシントラブルによるリタイアも含め<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/sainz-forced-to-take-second-mgu-k-after-melbourne-failure/4360227/ サインツJr.、早速2基目のMGU-K投入……「回生システムが僕たちの弱点」] jp.motorsport.com (2019年3月29日)2019年4月3日閲覧。</ref>、ノーポイントに終わるが、第2戦ではチームとしては久々となる2台そろっての予選Q3進出を達成<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/sainz-bahrain-result-unthinkable-three-months-ago/4362056/ Q3ダブル進出のマクラーレンに復活の兆し? レッドブルに肉薄] jp.motorsport.com (2019年3月31日)2019年4月3日閲覧。</ref>。同決勝ではノリスが6位となり、今季のチーム及び自身のキャリア初入賞を飾った。また、第4戦では[[2018年アゼルバイジャングランプリ]]以来のダブル入賞を達成。また、サマーブレイク前の第12戦の結果により、前年のポイント及び入賞数を上回った。更に第16戦でのダブル入賞により、コンストラクターズのポイントが2014年以来の100ポイント超えも記録した。 :特に第20戦では、サインツがPUトラブルで予選に出走できず最後尾スタートとなり、決勝は1ストップ戦略で猛追し4位まで挽回。そんななか、3位の[[ルイス・ハミルトン]]が接触の責を問われたタイムペナルティにより降格。その結果、表彰式には間に合わなかったものの(この背景はサインツがDRSの使用が禁止された区間でそれを起動させた規則違反の審議が行われたため、一旦チェッカーフラッグを受けた順番で式典が行われたからである<ref>[http://ja.espnf1.com/brazil/motorsport/story/258423.html サインツに処分が科されなかった理由]ja.espnf1.com(2019年11月19日)2020年02月09日閲覧</ref>)、サインツが3位に繰り上がり、自身初の表彰台とチームとしては2014年開幕戦以来の表彰台獲得となった<ref>[https://formula1-data.com/article/mclaren-get-first-podium-since-2014 マクラーレン、2014年以来初の表彰台…カルロス・サインツが最後尾から3位の快挙「超嬉しい!」]formula1-data.com(2019年11月18日)2020年02月09日閲覧</ref> :結果だけ見れば、{{F1|2012}}のコンストラクターズ3位を最後にコンストラクターズ5位以下まで沈みつづけていたなかでの、今季のコンストラクターズ4位や繰り上げという形での1回だけであるが表彰台を獲得したシーズンとなった。チームとしてみれば、今季のマシン開発にサマーブレイク後から軸足を移したことが功を奏したこともあるが、ザイドル曰く、マシンが向上した要因は「昨シーズン途中に加わった[[パット・フライ]]と[[アンドレア・ステラ]]による設計プロセスの改善が大きい」とコメントしたように<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/stella-fry-key-to-mclaren-resurgence-say-team-chiefs/4516281/ |title=マクラーレン、躍進のキーマンは“途中加入”のスタッフ? |publisher=motorsport.com |date=2019/08/22 |accessdate=2020/02/09 }}</ref>、2019年に向けマシン開発の体制見直し<ref>[https://www.as-web.jp/f1/452916?all 【津川哲夫の2019私的新車チェック:マクラーレン】名門復活に向けて今年最大級のコンセプト変更。トレンドと伝統が融合した意欲作]www.as-web.jp(2019年2月17日)2020年3月10日閲覧</ref>および開発の方向性の明確化<ref>[https://www.as-web.jp/f1/570888?all 躍進を支えた明確な空力コンセプト。マクラーレンMCL35はトレンドに独自のアイデア追加/全チーム戦力分析(4)]www.as-web.jp(2020年3月4日)2020年3月10日閲覧</ref>など、マシンの開発能力が改善した結果としている。他にも、ロン・デニス退陣以降、チームのリーダーシップが欠如しており、ザイドルから見ても、物事が政治的になっており、マネジメント体制に問題があったとコメント<ref name="復活の狼煙">{{Cite web|和書|url=https://formula1-data.com/article/mclaren-seidl-took-politics-out-of-team |title=マクラーレンF1、復活の狼煙上げる選手権4位…新任ザイドルによる”政治の排除”と”目標の再調整” |publisher=Formula1-data |date=2019/12/10 |accessdate=2020/02/09 }}</ref>。ブラウンも2018年12月にも類似のコメントしていたが<ref>[https://www.as-web.jp/f1/436989?all 2018年シーズン不振のマクラーレンF1。要因は「一貫したリーダーシップの欠如」とチーム代表]www.as-web.jp(2018年12月6日)2020年3月10日閲覧</ref>、改めてチームのマネジメント体制に問題があったとコメントしており<ref name="復活の狼煙"/>、両者その点が解決できたことも大きいとしている。ただし、今季はタイヤ規格の変更<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-teams-reject-return-to-2018-spec-tyres/4484080/ |title = F1タイヤを2018年仕様に戻す案は廃案に。5チームが反対票を投じる |publisher = motorsport.com |date = 2019-06-29 |accessdate = 2020-02-09}}</ref>などの今年行われたレギュレーションの変更<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/red-bull-weaknesses-a-legacy-of-front-wing-rules-verstappen/4479409/ |title=今季のレッドブルの苦戦は“新フロントウイング規定”が原因? フェルスタッペン語る |publisher=motorsport.com |date=2019/06/22 |accessdate=2020/02/09}}</ref>に苦戦しているチームが多かったため、これをうまく乗り越えた結果でもあった。 :シーズン終盤に大口のスポンサー・[[ペトロブラス]]との契約解消<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/mclaren-and-petrobras-terminate-sponsorship-deal/4593047/ |title=マクラーレン、ペトロブラスとの提携・スポンサー契約解消を発表 |publisher=motorsport.com |date=2019/11/05 |accessdate=2019/11/06 }}</ref>。2021年より再びメルセデス製PUの供給を受ける事が決定した<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/mclaren-mercedes-deal-leaves-us-nowhere-to-hide/4553916/ 復活目指すマクラーレン、メルセデスとの再提携で「隠れるところをなくす」] jp.motorsport.com 2019年10月7日、同11月4日閲覧。</ref>。 :チームのアンバサダーとして残っていたアロンソだが、同年4月の[[2019年バーレーングランプリ|バーレーンGP]]後に行われた合同テストで[[マクラーレン・MCL34|MCL34]]のハンドルを握る<ref>[http://ja.espnf1.com/mclaren/motorsport/story/252652.html アロンソ、バーレーンでF1テスト復帰!]ja.espnf1.com(2019年3月29日)2020年2月09日閲覧</ref>など、WECのトヨタチームとの活動を並行しつつ、チーム活動に参加した。そして、アロンソの[[インディ500]]再挑戦に向けて{{仮リンク|カーリン・モータースポーツ|en|Carlin Motorsport}}と技術提携を結ぶものの、マクラーレン独自の体制で参戦<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/indycar/news/alonso-too-early-to-judge-if-mclaren-chevrolet-is-competitive/4375397/ |title = マクラーレン単独でのインディ500は”新たな挑戦”。アロンソ「得られることは大きいはず」 |publisher = motorsport.com |date = 2019-04-25 |accessdate = 2019-05-29}}</ref>。しかし、プラクティスでのクラッシュなどでマシンが仕上がらず予選落ちを喫した<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/indycar/news/de-ferran-apologizes-for-mclaren-failure-at-indy/4392137/ |title = ジル・ド・フェラン、マクラーレンの予選落ちに「チームとファン、アロンソに申し訳ない」 |publisher = motorsport.com |date = 2019-05-20 |accessdate = 2019-05-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/indycar/news/mclaren-will-consider-strategic-alliance-for-indy-500-return/4397073/ |title = 失意のマクラーレン、インディ500復帰の際は”何らかの戦略的提携”を検討 |publisher = motorsport.com |date = 2019-05-27 |accessdate = 2019-05-29}}</ref>。最終的には2020年1月をもってアロンソとの契約は更新せず、予定通り契約は終了<ref>[https://formula1-data.com/article/fernando-alonso-breaks-mclaren-relationship フェルナンド・アロンソ、長年に渡るマクラーレンとの関係を清算…アンバサダー契約更新せず]formula1-data.com(2020年1月25日)2020年02月09日閲覧</ref>した。 === 2020年代 === ==== 2020年 - ==== ;{{f1|2020}} :ドライバーおよび体制面では変更はなし。しいていえば、前年にシーズンと並行して行われた新体制への移行が完了し、この体制で迎える初のシーズンとなる。 :前年の進化型<ref>[https://formula1-data.com/article/mclaren-launch-2020-f1-car-mcl35 マクラーレンF1、2020年新車「MCL35」を世界初公開…コンストラクター4位死守目指す]formula1-data.com(2020年2月13日)2021年5月20日閲覧。</ref>という位置づけであるが、細かな改良<ref>[https://www.as-web.jp/f1/565214?all 【津川哲夫のF1新車初見チェック】マクラーレンが独特な昨年型から王道路線へ。ワークスルノーとの対決がとにかく楽しみ]www.as-web.jp(2020年2月15日)2021年5月20日閲覧。</ref><ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/the-changes-aimed-at-keeping-mclaren-ahead-of-the-midfield/4725707/?filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Btitle%5D=%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3&filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Bvalue%5D=10 F1メカ解説|マクラーレン、ベスト・オブ・ザ・レストを確保するための積極開発]jp.motorsport.com(2020年3月8日)2021年5月20日閲覧。</ref>を加えており、プレシーズンテストでは好調なコメント<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/norris-says-2020-mclaren-is-less-on-edge/4728484/?filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Btitle%5D=%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3&filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Bvalue%5D=10 マクラーレン、仕上がりは上々? 「MCL35は“トゲ”の少ないマシン」とノリス]jp.motorsport.com(2020年3月9日)2021年5月20日閲覧。</ref><ref>[https://formula1-data.com/article/preseason-test-fastest-laps-2020 2020年 F1バルセロナテスト:グラフで振り返る最速ラップと総周回数]formula1-data.com(2020年3月3日)2021年5月20日閲覧。</ref>を残してテストを終えた。 :開幕戦となる予定だった[[2020年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]ではチームスタッフが[[2019新型コロナウイルス]](COVID-19)に感染したことによりレースから撤退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://formula1-data.com/article/mclaren-withdraws-from-2020-f1-australian-gp |title=マクラーレン、F1オーストラリアGPを棄権…スタッフが新型コロナウイルス検査で陽性 |publisher=aformula1-data.com|date=2020-03-12 |accessdate=2021-05-20}}</ref>。これを受け、同GPは中止となった<ref >{{Cite web|和書|url=https://jp.motorsport.com/f1/news/f1-2020-rd1-australia-GP-cancell-official/4744372/ |title=F1オーストラリアGPの中止が正式に発表。F1チームスタッフの新型コロナ感染を受け |publisher=motorsport.com |date=2020-03-13 |accessdate=2021-05-20}}</ref>。その後[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|コロナウイルスの世界的流行]]の影響が深刻化し、F1は休止状態となった。そして、4カ月遅れの開幕戦となった[[2020年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]では、決勝はサバイバルレースとなり、2台とも常時入賞圏内をキープ。そんななか、終盤4位を走行していたノリスだったが、2位のハミルトンがレース中の接触の責を問われ、5秒のタイムペナルティ加算が確定。それを受け、ノリスはペースアップし、最終ラップでファステストラップを記録した結果、その5秒圏内に入ることに成功し、繰り上げという形ではあるが3位表彰台を獲得<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/norris-has-made-next-step-as-a-driver-mclaren/4827211/ 初表彰台ノリスの、衝撃的最終ラップ……マクラーレン「彼は明らかに成長した」]jp.motorsport.com(2020年7月7日)2021年5月20日閲覧。</ref>。チームとしては、ノリスのキャリア初の表彰台獲得を含めたダブル入賞でスタートを切ることとなった<ref>[https://formula1-data.com/article/austria-day3-mclaren-2020 コンスト2位発進!開幕W入賞とノリスの初表彰台に沸くマクラーレン]formula1-data.com(2020年7月6日)2021年5月20日閲覧。</ref>。また、第8戦[[2020年イタリアグランプリ|イタリアGP]]ではサインツが3番手を獲得<ref>[https://formula1-data.com/article/italy-day2-mclaren-2020 カルロス・サインツ、モンツァで今季2度目の3番手「レッドブル・ホンダに勝てるとは…」マクラーレン快進撃の理由は?]formula1-data.com(2020年9月6日)2021年5月20日閲覧。</ref>。決勝ではメルセデス勢が結果的に失速。そして、赤旗中断からの再スタート後は2位を走行し、自身のキャリア初優勝およびチームとしても2012年ブラジルGP以来の優勝も射程にとらえたが、首位の[[ピエール・ガスリー]]とのマッチレースに敗れ2位に終わった<ref>[https://www.as-web.jp/f1/621891?all サインツ2位「あと1周あればガスリーをとらえることができたかも」マクラーレン【F1第8戦】]www.as-web.jp(2020年9月7日)2021年5月20日閲覧。</ref>。それでも、シーズンに複数回表彰台を獲得したのは2012年以来の成績となる。 :シーズン全体の成績だが、チーム側はパフォーマンスを安定させることに苦労しているというコメントをしていたものの<ref>[https://formula1-data.com/article/70th-anniversary-day2-mclaren-2020 マクラーレン︰お熱いのがお嫌い?冷却に問題抱え急遽ボディーワークを変更 / F1-70周年記念GP《予選》2020]formula1-data.com(2020年8月9日)2020年8月10日閲覧。</ref><ref>[https://www.as-web.jp/f1/626547?all F1中団トップを目指すマクラーレン代表「一貫したパフォーマンスを発揮できないことが今の問題点」]www.as-web.jp(2020年9月22日)2021年5月20日閲覧。</ref><ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/mclaren-wind-sensitivity-issue-with-2020-f1-car-sucks/4887338/?filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Btitle%5D=%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3&filters%5Bteam%5D%5B0%5D%5Bvalue%5D=10 マクラーレン、コンストラクターズ3位死守の鍵は“風に敏感なマシン”の改善?]jp.motorsport.com(2020年10月8日)2021年5月20日閲覧。</ref>、チームとして入賞を逃したのは第10戦ロシアGPのみで、それ以外のGPではすべてポイントを獲得<ref name="mclaren_renault-2020">[https://www.formula1.com/en/results.html/2020/team/mclaren_renault.html 2020 Constructor Standings: McLaren Renault]www.formula1.com 2021年5月20日閲覧。</ref>。また、ピット作業ミスによるタイムロス<ref>[https://www.as-web.jp/f1/600455?all マクラーレンF1代表、タイヤ交換時のミスを謝罪「渋滞のなかに送り出すことになってしまった」]www.as-web.jp(2020年7月15日)2021年5月20日閲覧。</ref><ref>[https://www.as-web.jp/f1/610912?all サインツJr.「ホイールガンのトラブルで、それまでの努力が水の泡に」:マクラーレン F1第5戦決勝]www.as-web.jp(2020年8月11日)2021年5月20日閲覧。</ref>、PUトラブル<ref>[https://www.as-web.jp/f1/634811?all スパでサインツJr.を襲ったPUトラブルがノリスにも発生。イグニッションの問題でリタイアに]www.as-web.jp(2020年10月14日)2021年5月20日閲覧。</ref>や接触事故などの不運<ref>[https://www.as-web.jp/f1/607581?all サインツJr.「突然タイヤが壊れて最終周にピットイン。本当に残念で悔しい」:マクラーレン F1第4戦決勝]www.as-web.jp(2020年8月4日)2021年5月20日閲覧。</ref><ref>[https://formula1-data.com/article/portugal-day3-norris-2020 金輪際二度とストロールには近づかない、とランド・ノリス…過去から何も学んでいないと批判]formula1-data.com(2020年10月26日)2021年5月20日閲覧。</ref>で失ったポイントもあるが、最終的な成績は2012年以来となるコンストラクターズ3位獲得となっている<ref name="mclaren_renault-2020"/>。 :7月28日にマクラーレンはガルフ・オイルと新たなパートナーシップ契約を結んだことを発表<ref>[https://formula1-data.com/article/gulf-ith-mclaren-to-announce-multi-year-partnership F1を代表するアイコニックな「Gulf」が復活、マクラーレンとの複数年契約を発表]www.as-web.jp(2020年7月28日)2021年5月20日閲覧。</ref>。それ以降に行われたGPではマシンおよびウェアにてガルフのロゴを掲載して出走した。 ;{{f1|2021}} :[[ダニエル・リカルド]]がルノー(同年からはアルピーヌ)から加入<ref>[https://formula1-data.com/article/mclaren-f1-sign-daniel-ricciardo 速報:マクラーレンF1、ダニエル・リカルドとの契約を正式発表…サインツは離脱]formula1-data.com(2020年5月14日)2021年5月20日閲覧</ref>。パワーユニットは2014年まで供給を受けていたメルセデスに変更された。 :シーズンの成績だが、ノリスは第2戦[[2021年エミリア・ロマーニャグランプリ|エミリア・ロマーニャGP]]で3位となり、今季初の表彰台を獲得<ref>[http://www.topnews.jp/2021/04/19/news/f1/196306.html 【マクラーレン】3位表彰台のノリス「すごくハッピーだよ」/F1エミリア・ロマーニャGP]www.topnews.jp(2021年4月19日)2021年9月13日閲覧。</ref>。他にも前半戦に当たる第5戦[[2021年モナコグランプリ|モナコGP]]と第9戦[[2021年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]でも3位表彰台を獲得<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/norris-fending-off-perez-for-monaco-podium-was-stressful/6514604/?filters%5Bdriver%5D%5B0%5D%5Btitle%5D=%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89+%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%82%B9&filters%5Bdriver%5D%5B0%5D%5Bvalue%5D=289316 モナコ3位のランド・ノリス、終盤ペレスの猛攻は「“抜けない”のは分かってても緊張した」]jp.motorsport.com(2021年5月25日)2021年9月13日閲覧。</ref><ref>[https://www.as-web.jp/f1/716133?all ノリス3位「メルセデスと戦えるほどレースペースが速かった」マクラーレン/F1第9戦決勝]www.as-web.jp(2021年7月5日)2021年9月13日閲覧。</ref>。さらに第9戦の予選で[[フロントロー]]の2番手を獲得し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.as-web.jp/f1/715583|title=ノリスが予選2番手、マクラーレンが9年ぶりのフロントロウ「PPから0.05秒差だなんて最高にハッピー」F1第9戦|publisher=auto sport Web|date=2021-07-04|accessdate=2021-09-13}}</ref>、第15戦[[2021年ロシアグランプリ|ロシアGP]]ではウェットとドライが混在する難しいコンディションのなか、予選Q3終盤の接戦の末、キャリア初のポールポジション(PP)を獲得した<ref>[https://formula1-data.com/article/russia-qualifying-digest-2021 ランド・ノリスが”リスク”冒して初PP「自信は…なかった!」ホンダ最上位は9番手ペレス / F1ロシアGP《予選》結果とダイジェスト]formula1-data.com(2021年9月25日)2021年9月26日閲覧。</ref>。リカルドの方はシーズン前半となる第11戦[[2021年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]までの間はノリスと比べれば苦戦している印象が目立ったが<ref>[https://formula1-data.com/article/why-daniel-ricciardo-is-struggling-at-mclaren-and-not-renault 名手ダニエル・リカルドに一体何が…ルノー移籍で苦労せずマクラーレンで苦しみ続けている理由]formula1-data.com(2021年7月11日)2021年9月13日閲覧。</ref><ref>[https://www.as-web.jp/f1/730129?all マクラーレンF1のリカルド、スランプ脱出への期待とプレッシャーの中、後半戦へ]www.as-web.jp(2021年8月22日)2021年9月13日閲覧。</ref>、後半戦となる第12戦[[2021年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]での予選4番手の獲得<ref>[https://www.as-web.jp/f1/733525/2 F1第12戦ベルギーGP予選トップ10ドライバーコメント(2)]www.as-web.jp(2021年8月29日)2021年9月13日閲覧。</ref>。第14戦[[2021年イタリアグランプリ|イタリアGP]]では予選は最終的にフロントローの2番手スタートとなり、決勝はスタートダッシュを決めて首位へ浮上。レース中はセーフティカー導入や2位以下の揺さぶりにも動じず、冷静に後続とのギャップをコントロールし、リカルドとしては今季初の表彰台を[[2018年モナコグランプリ]]以来3年半振りとなる優勝という結果を残した<ref>[https://formula1-data.com/article/italy-day3-ricciardo-2021 ダニエル・リカルド、苦悩の3年半を経て掴んだ渇望の勝利「辛い事もあったけど結局は俺、F1が好きなんだなぁって」]formula1-data.com(2021年9月13日)2021年9月13日閲覧。</ref>。今季のリカルドの優勝とノリスのPP獲得という記録は、チームとしても[[2012年ブラジルグランプリ]]以来となる9年ぶりの記録となったうえ、第14戦をノリスが2位に入ったことにより、[[2010年カナダグランプリ]]以来となるチームのワンツーフィニッシュも記録する結果となった。しかし、第15戦以降はサマーブレイク前の勢いがなくなり、特に第18戦からの3連戦では4ポイントの獲得で終わるという結果となるなど急失速<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/mclaren-f1-triple-header-points-haul-painful/6814378/ マクラーレン、悪夢のような3連戦……獲得ポイント僅か”4”で、ランキング3位遠のく]jp.motorsport.com(2021年11月24日)2022年1月1日閲覧。</ref>。この年のコンストラクターズ3位争いのライバルとなったフェラーリに後半戦で逆転される形となり、コンストラクターズ4位でシーズンを終えた。 :マシンのカラーリングだが、パパイヤオレンジとブルーの組み合わせは配色も含め変更されていないが、モナコGPでは戦略的パートナーシップを締結しているガルフのロゴの配色を意識したカラーリングに<ref>[https://formula1-data.com/article/mclaren-and-gulf-unveil-limited-edition-monaco-gp-livery マクラーレン、F1モナコGPにガルフカラーのMCL35Mを投入]formula1-data.com(2021年5月17日)2021年9月13日閲覧。</ref>、アブダビGPではBATの電子たばこ『Vuse』とのコラボレーションによるスペシャルカラーリングに変更して出走した<ref>[https://formula1-data.com/article/abudhabi-preview-mclaren-2021 マクラーレンMCL35M、F1アブダビGPで一戦限りのスペシャルカラー]formula1-data.com(2021年12月9日)2022年1月1日閲覧。</ref>。 ;{{f1|2022}} :ドライバーおよび体制面に変更なし。そのうち、ノリスに関しては前年のモナコGP前となる5月19日、チームからノリスと2022年以降の複数年契約を締結したことが発表されていたが<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.as-web.jp/f1/699518?all |title = ランド・ノリス、マクラーレンF1と複数年契約を締結。2022年以降もリカルドとのペアを継続へ |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2021-05-19 |accessdate = 2022-02-10}}</ref>、シーズン開幕前の2月9日、ノリスと新たに4年間の契約(2025年末までの契約)を締結したことが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://formula1-data.com/article/lando-norris-extends-contract-with-mclaren-f1-until-2025 |title=ランド・ノリス、マクラーレンF1との契約を2025年まで延長 |accessdate=2022-02-09 |publisher=Fomula1-Data |date=2022-02-10}}</ref>。スポンサーには新たに[[Google]]が加わり、同年より採用される[[BBS (自動車部品メーカー)|BBS]]製ホイールのカバーが[[Google Chrome]]のアイコンと同様のデザインとなった<ref>[https://www.as-web.jp/f1/793534?all マクラーレンF1、Googleと大規模パートナーシップ契約を締結。ホイールカバーが『Chrome』カラーに] - オートスポーツ・2022年3月17日</ref>。 ;{{f1|2023}} :ドライバーはノリスが残留する一方でリカルドが放出され、後任には[[アルピーヌ・アカデミー]]出身の[[オスカー・ピアストリ]]を起用。同年のマシン・MCL60は開幕時点ではグリッド後方に沈み、低迷から抜け出せない状態であったことから、チームは3月にデザインチームの大幅な体制変更を発表。テクニカルディレクターの[[ジェームス・キー]]が更迭・解雇され、今後は空力担当の[[ピーター・プロドロモウ]]、デザイン担当の[[ニール・ホールデイ]]に加え、カーコンセプトおよびパフォーマンス担当として元フェラーリの[[デイビッド・サンチェス]](実際のチーム加入は2024年になる)を招聘し三頭体制で開発を行うこととなった<ref>[https://www.as-web.jp/f1/920700?all マクラーレンF1が技術部門体制を一新。TDジェームズ・キーが離脱、フェラーリからサンチェスが加入] - オートスポーツ・2023年3月24日</ref>。また4月にはドライバー育成プログラムについても体制を変更し、80年代にマクラーレンでテストドライバー経験のある[[エマニュエル・ピロ]]が責任者に就任した<ref>[https://jp.motorsport.com/f1/news/pirro-to-lead-updated-mclaren-f1-young-driver-programme/10459200/ マクラーレン、ドライバー育成の体制一新。ル・マンで活躍した元F1ドライバーのエマニュエル・ピロが責任者に] - motorsport.com 2023年4月22日</ref>。 :MCL60についても急ピッチでアップデートの開発が進められ、第10戦[[2023年イギリスグランプリ|イギリス]]ではそのアップデートパッケージが大当たりし、ノリスが2位表彰台、ピアストリも4位に入り、久々の好走を見せた。 == マクラーレンの産業スパイ疑惑 == {{F1|2007}}7月、フェラーリの元チーフ[[整備士|メカニック]]である[[ナイジェル・ステップニー]]がチームから[[技術]]に関する<!--機密←私企業の問題なので秘密に訂正。-->[[秘密]]情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括する[[マイク・コフラン]]に提供したとされる疑惑である。 フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局が[[捜査]]を進めていた。その中で家宅[[捜索]]に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録された[[ディスク]]が発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。 *7月12日 - FIAはフェラーリの機密情報が何者かに持ち出され、マクラーレン側に極秘に提供されたとする事実を[[告発]]した。マクラーレン側は疑惑の関与を否定した。 *7月26日 - 世界モータースポーツ評議会 (WMSC) に公聴会が開かれた後、評議が行われ、国際競技コードの第151c条に違反しているが機密情報が使用された証拠がないため、証拠不十分としてマクラーレンに対するペナルティは課されないことが決まった<ref>[http://www.fia.com/mediacentre/Press_Releases/FIA_Sport/2007/July/260707-01.html World Motor Sport Council - Decision]- (FIAプレスリリース 2007年7月26日)</ref>。 *9月5日 - FIAは166ページに及ぶ疑惑に関する新たな証拠を提出、WMSCが関係者を招集し公聴会の開催を決定する。 *9月13日 - WMSCが公聴会を開き、その後再審理を行われた結果、以下の処分がFIAから発表された<ref>[http://www.fia.com/mediacentre/Press_Releases/FIA_Sport/2007/September/130907-02.htm WORLD MOTOR SPORT COUNCIL]- (FIAプレスリリース 2007年9月13日)</ref>。 **2007年のコンストラクターズポイント剥奪、今シーズンの残りのレースもポイントを獲得できない。 **ポイント剥奪によって失われる収支を含め、1億ドル(約114億円)相当の罰金を課す。 **チームのドライバーに対しては証拠提出の見返りとしてペナルティを科さない([[フェルナンド・アロンソ]]と[[ルイス・ハミルトン]]の二人のドライバーズポイントはそのまま保持。残りのレースで獲得したポイントも通常通り加算される)。 **WMSCは、2008年のマクラーレンの車体に関する技術レポートを受け取り、2007年12月の会議の中でチームの[[2008年]]シーズンに関する制裁措置を行うかを決定する(マクラーレンは次シーズンの車体にフェラーリが使用している技術を一切使用していないことを証明しなければならない)。最悪の場合、1シーズン出場停止になる可能性もある。 *10月24日 - マクラーレンが受け取るはずだった賞金やテレビ分配金が1億ドルから差し引かれ、罰金額が「5000万ドル(約75億円)以上」に減額された<ref>"[http://www.carview.co.jp/news/4/56790/ マクラーレンの罰金は5000万ドル程度に]".carview.(2007年10月26日)2013年1月18日閲覧。</ref>。 *12月7日 - WMSCは、FIA技術部門にマクラーレンの2008年マシンにフェラーリの機密情報が組み込まれていないかどうかを調査させ、詳細な報告書を提出させた。これにより、マクラーレンの新マシンの合法性に関する裁定が下される予定であったが、WMSCは2008年2月14日に開催されるWMSCの臨時総会において、マクラーレンやフェラーリをはじめ、他のチームにも、報告書に対する意見を発表するチャンスを与えるべきであると判断した。 *12月13日 - マクラーレンCEO・マーティン・ウィットマーシュはマクラーレンの2008年マシン(MP4-23)にフェラーリの機密情報が含まれる予定だったことを認め、それを謝罪し、2008年マシンの一部開発凍結の話し合いをする内容の書簡をWMSCとマックス・モズレー宛てに送った。<ref>[http://www.autosport.com/news/report.php/id/64370 The full letter from McLaren to the FIA]- (autosport.com 2007年12月13日記事)</ref> *12月18日 - WMSCはFIA会長マックス・モズレーの提案をうけ2008年2月14日に予定されていた公聴会を中止することで同意した。 == カラーリング == イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年から1971年まで、車体はマクラーレンのコーポレートカラーであるパパイヤオレンジに塗られていた。 1972年からは[[ヤードレー・オブ・ロンドン|ヤードレイ化粧品]]がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。 その後、[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]とのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られたカラーリングが長らく用いられた<ref group="注釈" name="Yardley1974" />。このカラーリングの赤の部分は、1974年と1975年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビや写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。 1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「'''シルバー・アロー'''」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマールボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は各GPごとに行われていた。 2015年、エンジンサプライヤーがメルセデスからホンダへ変更されたことに伴い、第5戦[[2015年スペイングランプリ|スペインGP]]から[[グラファイト]]グレーを基調とした新カラーリング<ref>[http://www.honda.co.jp/F1/news2015/22/ MP4-30の新しいカラーリングを公開] - 本田技研工業・2015年5月7日</ref>に変更された。 2016年11月にロン・デニスが退陣したことに伴い、翌2017年からオレンジを基調としたカラーリングが復活した<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.as-web.jp/f1/93557?all |title = カラーリング一新。マクラーレン・ホンダF1、新車『MCL32』をアンベイル |publisher = AUTOSPORTweb |date = 2017-02-24 |accessdate = 2017-02-25}}</ref>。2018年の[[マクラーレン・MCL33|MCL33]]では1968年から1971年と同じパパイヤオレンジが採用された<ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/mclaren/mcl33_41094.html |title = マクラーレン MCL33 : ルノー製PUに合わせてコンセプトを進化 |publisher = F1-Gate.com |date = 2018-02-23 |accessdate = 2018-02-25}}</ref>。 === 例外 === 上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代などに分けることが可能であるが、半世紀の歴史の中では例外もあり、1978年終盤の北米ラウンド2戦と1979年にロングビーチで開催された[[アメリカグランプリ|アメリカ西GP]]ではマールボロと同じく[[フィリップ・モリス]]傘下の[[ビール]]会社[[レーベンブロイ]](Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。 マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いていた。 <gallery> ファイル:McLaren M7A.jpg|1968年のM7A 初期のニュージーランドナショナルカラー ファイル:McLaren MP4-13A.jpg|1998年のMP4-13A シーズン開始前のプロトタイプマシンで暫定カラーとしてニュージーランドナショナルカラーを復活させている ファイル:McLaren M23 (Emerson Fittipaldi) - 001.jpg|M23 1973年-1978年のマシンで初期の'''マールボロカラー''' ファイル:McLaren MP4.jpg|1981年のMP4 MP4ナンバーの最初のマシン マールボロカラーの基本的なデザインが完成している。 ファイル:Mp4-6AyrtonSennaHCH.jpg|MP4/6 1991年のマクラーレン・ホンダ ファイル:McLaren Mercedes MP4-12.jpg|MP4-12 1997年のマシンでマクラーレンにとって最初の'''シルバー・アロー''' ファイル:McLaren F1 Racer.jpg|2005年のMP4-20 タバコ規制が厳しくなってきたため従来WESTが入る位置がドライバーの名前になっている ファイル:Jp montoya cheste 2006-02.jpg|2006年のMP4-21 F1カーとしては珍しいメッキ仕様のカラーリングをまとっている。翌年からのタバコスポンサーの完全規制によってWESTが抜けた ファイル:Alonso Spain 2015.jpg|2015年のMP4-30 ホンダとのコンビ復活に伴い、グラファイトグレーを基調とした新カラーリングに変更 ファイル:Fernando Alonso 2017 Malaysia FP2 2.jpg|2017年のMCL32 ロン・デニスの退陣により、カラーリングをオレンジに一新 ファイル:Stoffel Vandoorne-Test Days 2018 Circuit Barcelona (3).jpg|2018年のMCL33 ニュージーランドナショナルカラーが復活 </gallery> == マクラーレンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー == *[[エマーソン・フィッティパルディ]](1974年) *[[ジェームス・ハント]](1976年) *[[ニキ・ラウダ]](1984年) *[[アラン・プロスト]](1985年、1986年、1989年) *[[アイルトン・セナ]](1988年、1990年、1991年) *[[ミカ・ハッキネン]](1998年、1999年) *[[ルイス・ハミルトン]](2008年) <gallery widths="120px" heights="180px"> Reutemann y Fittipaldi - El Gráfico 2781 3.jpg|エマーソン・フィッティパルディ J. Hunt in 1977 (cropped).jpg|ジェームス・ハント Persconferentie autocoureurs Lauda en Prost op Schiphol in behalen van resp. 1e , Bestanddeelnr 933-1303.jpg|ニキ・ラウダ Alain Prost in 1985 (cropped).jpg|アラン・プロスト Ayrton Senna Imola 1989 (cropped).jpg|アイルトン・セナ Mika Haekkinen 2006.jpg|ミカ・ハッキネン Hamilton 2008 Singapore GP 1.jpg|ルイス・ハミルトン </gallery> == 新人ドライバーの起用 == フェラーリのように、新人ドライバーを起用することはめったに無かったが、2007年にハミルトン、2014年にマグヌッセン、2016年にバンドーン(翌年にフル参戦)、2019年にノリス、2023年にピアストリと、近年ではルーキードライバーを起用することが増えてきている。2000年代以前には1995年ケビンの父・ヤンを1戦だけの代役として起用したこともある。 == 変遷表 == === F1 === {| style="padding: 5px; border: 1px solid gray; border-image: none; font-size: 80%;" cellspacing="0" cellpadding="3" bgcolor="#f7f8ff" |- bgcolor="#EFEFEF" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! 燃料・オイル ! ドライバー ! ランキング ! ポイント ! 優勝数 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1966}} | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | [[マクラーレン・M2B|M2B]] | {{Firestone}} | [[フォード・モーター|フォード]]406<br />(3.0L [[V型8気筒|V8]])<br />[[スクーデリア・セレニッシマ|セレニッシマ]]M166<br />(3.0L V8) | [[ロイヤル・ダッチ・シェル|シェル]]? | [[ブルース・マクラーレン]] | 9位(フォード)<br />12位(セレニッシマ) | 2<br />1 | 0<br />0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1967}} | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | [[マクラーレン・M4B|M4B]]<br />[[マクラーレン・M5A|M5A]] | {{Goodyear}} | [[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]] P56<br />(2.0L V8)<br />BRM P142<br />(3.0L [[V型12気筒|V12]]) | シェル | ブルース・マクラーレン | 8位 | 3 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1968}} | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング<br />*''[[ヨアキム・ボニエ|Joakim Bonnier Racing Team]]'' (M5A)<br />*''[[オール・アメリカン・レーサーズ|Anglo American Racers]]'' (M7A) | M5A<br />[[マクラーレン・M7A|M7A]] | {{Goodyear}} | BRM P142<br />(3.0L V12)<br />[[フォード・モーター|フォード]][[フォード・コスワース・DFVエンジン|DFV]]<br />(3.0L V8) | シェル<br />[[ガルフ・オイル|ガルフ]] | [[デニス・ハルム]]<br />ブルース・マクラーレン<!-- 以下プライベーター<br />''[[ヨアキム・ボニエ]]''<br />''[[ダン・ガーニー]]''--> | 2位(フォード)<br />10位(BRM) | 48<br />3 | 3<br />0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1969}} | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング<br />*''Team Lawson'' (M7A)<br />*''Antique Automobiles / Colin Crabbe Racing'' (M7B) | M7A<br />M7B<br />M7C<br />[[マクラーレン・M9A|M9A]] | {{Goodyear}}{{Dunlop}} | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム<br />ブルース・マクラーレン<br />[[デレック・ベル]]<!-- 以下プライベーター<br />''[[ベイシル・ファン・ルーエン]]''<br />''[[ビック・エルフォード]]''--> | 5位 | 38(40) | 1 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1970}} | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング<br />*''[[サーティース|Team Surtees]]'' (M7C)<br />*''[[ヨアキム・ボニエ|Ecurie Bonnier]]'' (M7C) | M7C<br />[[マクラーレン・M14A|M14A]]<br />M7D<br />M14D | {{Goodyear}}{{Firestone}} | フォードDFV<br />(3.0L V8)<br />[[アルファロメオ]]Tipo33/3<br />(3.0L V8) | ガルフ | デニス・ハルム<br />ブルース・マクラーレン<br />[[ピーター・ゲシン]]<br />''ダン・ガーニー''<br />[[アンドレア・デ・アダミッチ]]<br />''[[ナンニ・ギャリ]]''<!-- 以下プライベーター<br />''[[ジョン・サーティース]]''<br />''ヨアキム・ボニエ''--> | 5位(フォード)<br />NC(アルファロメオ) | 35<br />0 | 0<br />0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1971}} | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング<br />*''Ecurie Bonnier'' (M7C)<br />*''Penske-White Racing'' (M19A) | M14A<br />[[マクラーレン・M19A|M19A]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム<br />[[ピーター・ゲシン]]<br />''[[ジャッキー・オリバー]]''<!-- 以下プライベーター<br />''ヨアキム・ボニエ''<br />''[[ヘルムート・マルコ]]''<br />''[[マーク・ダナヒュー]]''--> | 6位 | 10 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1972}} | [[ヤードレー・オブ・ロンドン|ヤードレー]]・チーム・マクラーレン | M19A<br />M19C | {{Goodyear}} | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム<br />[[ピーター・レブソン]]<br />''[[ブライアン・レッドマン]]''<br />''[[ジョディー・シェクター]]'' | 3位 | 47(49) | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1973}} | ヤードレー・チーム・マクラーレン | M19A<br />M19C<br />[[マクラーレン・M23|M23]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | ガルフ | デニス・ハルム<br />ピーター・レブソン<br />ジョディー・シェクター<br />''[[ジャッキー・イクス]]'' | 3位 | 58 | 3 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1974}}<!-- この年のワークスは3台体制で、フィッティパルディとハルムがマールボロ、3台目(ヘイルウッド、マス、ホッブス)がヤードレーのスポンサードで出場した。 --> | [[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]・チーム・テキサコ<br />ヤードレー・チーム・マクラーレン<br />* ''Scribante Lucky Strike Racing'' (M23) | M23 | {{Goodyear}} | フォードDFV | [[テキサコ]] | '''[[エマーソン・フィッティパルディ]]'''<br />デニス・ハルム<br />[[マイク・ヘイルウッド]]<br />''[[ヨッヘン・マス]]''<br />''[[デイビッド・ホッブス]]''<!-- 以下プライベーター<br />''[[デイブ・チャールトン]]''--> | '''1位''' | '''73'''(75) | '''4''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1975}} | マールボロ・チーム・テキサコ<br />*''Lucky Strike Racing'' (M23) | M23 | {{Goodyear}} | フォードDFV | テキサコ | エマーソン・フィッティパルディ<br />ヨッヘン・マス<!-- 以下プライベーター<br />''デイブ・チャールトン''--> | 3位 | 53 | 3 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1976}} | マールボロ・チーム・マクラーレン | M23<br />[[マクラーレン・M26|M26]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | テキサコ | '''[[ジェームス・ハント]]'''<br />ヨッヘン・マス | 2位 | 74(75) | '''6''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1977}} | マールボロ・チーム・マクラーレン<br />*''Chesterfield Racing'' (M23)<br />*''Iberia Airlines'' (M23) | M23<br />M26 | {{Goodyear}} | フォードDFV | テキサコ | ジェームス・ハント<br />ヨッヘン・マス<br />''[[ジル・ヴィルヌーヴ]]''<br />[[ブルーノ・ジャコメリ]]''<!-- 以下プライベーター<br />''[[ブレット・ランガー]]''<br />''[[エミリオ・デ・ヴィロタ]]''--> | 3位 | 60 | 3 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1978}} | マールボロ・チーム・マクラーレン<br />*''Liggett Group/BS Fabrications'' (M23, M26)<br />*''Centro Asegurador F1'' (M23)<br />*''Melchester Racing'' (M23) | M26 | {{Goodyear}} | フォードDFV | テキサコ | ジェームス・ハント<br />[[パトリック・タンベイ]]<br />ブルーノ・ジャコメリ<!-- 以下プライベーター<br />''ブレット・ランガー''<br />''[[ネルソン・ピケ]]''<br />''エミリオ・デ・ヴィロタ''<br />''[[トニー・トリマー]]''--> | 8位 | 15 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1979}} | マールボロ・チーム・マクラーレン<br />*''Lowenbrau Team McLaren'' (M23) | M26<br />[[マクラーレン・M28|M28<br />M28B<br />M28C]]<br />[[マクラーレン・M29|M29]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | [[カストロール]] | [[ジョン・ワトソン (レーサー)|ジョン・ワトソン]]<br />パトリック・タンベイ | 7位 | 15 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1980}} | マールボロ・チーム・マクラーレン | M29B<br />M29C<br />[[マクラーレン・M30|M30]] | {{Goodyear}} | フォードDFV | カストロール | ジョン・ワトソン<br />[[アラン・プロスト]]<br />''[[スティーブン・サウス]]'' | 9位 | 11 | 0 |- bgcolor="#EFEFEF" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! 燃料・オイル ! ドライバー ! ランキング ! ポイント ! 優勝数 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1981年のF1世界選手権|1981年]] | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | M29C<br />M29F<br />[[マクラーレン・MP4/1|MP4/1]] | {{Michelin}} | フォードDFV | [[ユニパート]] | ジョン・ワトソン<br />[[アンドレア・デ・チェザリス]] | 6位 | 28 | 1 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1982}} | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/1B | {{Michelin}} | フォードDFV | ユニパート | [[ニキ・ラウダ]]<br />ジョン・ワトソン | 2位 | 69 | '''4''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1983}} | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/1C<br />MP4/1E | {{Michelin}} | フォード[[フォード・コスワース・DFVエンジン|DFY]]<br />(3.0L V8)<br />[[テクニーク・ダバンギャルド|TAG]] TTE PO1<br />(1.5L [[V型6気筒|V6]][[ターボチャージャー|ターボ]]) | ユニパート | ニキ・ラウダ<br />ジョン・ワトソン | 5位(フォード)<br />NC(TAG) | 34<br />0 | 1<br />0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1984}} | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | [[マクラーレン・MP4/2|MP4/2]] | {{Michelin}} | TAG TTE PO1 | シェル | '''ニキ・ラウダ'''<br />アラン・プロスト | '''1位''' | '''143.5''' | '''12''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1985}} | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2B | {{Goodyear}} | TAG TTE PO1 | シェル | ニキ・ラウダ<br />'''アラン・プロスト'''<br />''ジョン・ワトソン'' | '''1位''' | '''90''' | '''6''' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1986}} | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | MP4/2C | {{Goodyear}} | TAG TTE PO1 | シェル | '''アラン・プロスト'''<br />[[ケケ・ロズベルグ]] | 2位 | 96 | 4 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1987}} | マールボロ・マクラーレン・インターナショナル | [[マクラーレン・MP4/3|MP4/3]] | {{Goodyear}} | TAG TTE PO1 | シェル | アラン・プロスト<br />[[ステファン・ヨハンソン]] | 2位 | 76 | 3 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1988}} | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | [[マクラーレン・MP4/4|MP4/4]] | {{Goodyear}} | [[ホンダF1|ホンダ]]RA168E<br />(1.5L V6ターボ) | シェル | アラン・プロスト<br />'''[[アイルトン・セナ]]''' | '''1位''' | '''199''' | '''15''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1989}} | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | [[マクラーレン・MP4/5|MP4/5]] | {{Goodyear}} | ホンダRA109E<br />(3.5L [[V型10気筒|V10]]) | シェル | アイルトン・セナ<br />'''アラン・プロスト''' | '''1位''' | '''141''' | '''10''' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1990}} | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/5B | {{Goodyear}} | ホンダRA100E | シェル | '''アイルトン・セナ'''<br />[[ゲルハルト・ベルガー]] | '''1位''' | '''121''' | '''6''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1991}} | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | [[マクラーレン・MP4/6|MP4/6]] | {{Goodyear}} | ホンダRA121E<br />(3.5L V12) | シェル | '''アイルトン・セナ'''<br />ゲルハルト・ベルガー | '''1位''' | '''139''' | '''8''' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1992}} | ホンダ・マールボロ・マクラーレン | MP4/6B<br />[[マクラーレン・MP4/7A|MP4/7A]] | {{Goodyear}} | ホンダRA122E,RA122E/B | シェル | アイルトン・セナ<br />ゲルハルト・ベルガー | 2位 | 99 | 5 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1993}} | マールボロ・マクラーレン・フォード | [[マクラーレン・MP4/8|MP4/8]] | {{Goodyear}} | フォード[[フォード・コスワース・HBエンジン|HB]]5,7,8<br />(3.5L V8) | シェル | アイルトン・セナ<br />[[マイケル・アンドレッティ]]<br />''[[ミカ・ハッキネン]]'' | 2位 | 84 | 5 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1994}} | マールボロ・マクラーレン・プジョー | [[マクラーレン・MP4/9|MP4/9]] | {{Goodyear}} | [[プジョー]]A6<br />(3.5L V10) | シェル | ミカ・ハッキネン<br />[[マーティン・ブランドル]]<br />''[[フィリップ・アリオー]]'' | 4位 | 42 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1995}} | マールボロ・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4/10|MP4/10<br />MP4/10B<br />MP4/10C]] | {{Goodyear}} | [[メルセデスAMG F1|メルセデス]]FO110<br />(3.0L V10) | [[モービル (ブランド)|モービル]] | ミカ・ハッキネン<br />[[マーク・ブランデル]]<br />''[[ナイジェル・マンセル]]''<br />''[[ヤン・マグヌッセン]]'' | 4位 | 30 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1996}} | マールボロ・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4/11|MP4/11]] | {{Goodyear}} | メルセデスFO110 | モービル | ミカ・ハッキネン<br />[[デビッド・クルサード]] | 4位 | 49 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1997}} | [[ウエスト (たばこ)|ウェスト]]・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-12|MP4-12]] | {{Goodyear}} | メルセデスFO110E,<br />メルセデスFO110F | モービル | ミカ・ハッキネン<br />デビッド・クルサード | 4位 | 63 | 3 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1998}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-13|MP4-13]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO110G | モービル | '''ミカ・ハッキネン'''<br />デビッド・クルサード | '''1位''' | '''156''' | '''9''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|1999}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-14|MP4-14]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO110H | モービル | '''ミカ・ハッキネン'''<br />デビッド・クルサード | 2位 | 124 | '''7''' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2000}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-15|MP4-15]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO110J | モービル | ミカ・ハッキネン<br />デビッド・クルサード | 2位 | 152 | 7 |- bgcolor="#EFEFEF" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! 燃料・オイル ! ドライバー ! ランキング ! ポイント ! 優勝数 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2001}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-16|MP4-16]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO110K | モービル | ミカ・ハッキネン<br />デビッド・クルサード | 2位 | 102 | 4 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2002}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-17|MP4-17]] | {{Michelin}} | メルセデスFO110L | モービル | デビッド・クルサード<br />[[キミ・ライコネン]] | 3位 | 65 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2003}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | MP4-17D | {{Michelin}} | メルセデスFO110M | モービル | デビッド・クルサード<br />キミ・ライコネン | 3位 | 142 | 2 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2004}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-19|MP4-19<br />MP4-19B]] | {{Michelin}} | メルセデスFO110Q | モービル | デビッド・クルサード<br />キミ・ライコネン | 5位 | 69 | 1 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2005}} | ウェスト・マクラーレン・メルセデス<br />チーム・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-20|MP4-20]] | {{Michelin}} | メルセデスFO110R | モービル | キミ・ライコネン<br />[[ファン・パブロ・モントーヤ]]<br />''[[ペドロ・デ・ラ・ロサ]]''<br />''[[アレクサンダー・ヴルツ]]'' | 2位 | 182 | '''10''' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2006}} | チーム・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-21|MP4-21]] | {{Michelin}} | メルセデスFO108S<br />(2.4L V8) | モービル | キミ・ライコネン<br />ファン・パブロ・モントーヤ<br />ペドロ・デ・ラ・ロサ | 3位 | 110 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2007}} | [[ボーダフォン]]・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-22|MP4-22]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO108T | モービル | [[フェルナンド・アロンソ]]<br />[[ルイス・ハミルトン]] | EX | 0(203) | 8 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2008}} | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-23|MP4-23]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO108V | モービル | '''ルイス・ハミルトン'''<br />[[ヘイキ・コバライネン]] | 2位 | 151 | 6 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2009}} | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-24|MP4-24]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO108W | モービル | ルイス・ハミルトン<br />ヘイキ・コバライネン | 3位 | 71 | 2 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2010}} | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-25|MP4-25]] | {{Bridgestone}} | メルセデスFO108X | モービル | [[ジェンソン・バトン]]<br />ルイス・ハミルトン | 2位 | 454 | 5 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2011}} | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-26|MP4-26]] | {{Pirelli}} | メルセデスFO108Y | モービル | ジェンソン・バトン<br />ルイス・ハミルトン | 2位 | 497 | 6 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2012}} | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-27|MP4-27]] | {{Pirelli}} | メルセデスFO108Z | モービル | ジェンソン・バトン<br />ルイス・ハミルトン | 3位 | 378 | '''7''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2013}} | ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-28|MP4-28]] | {{Pirelli}} | メルセデスFO108F | モービル | ジェンソン・バトン<br />[[セルジオ・ペレス]] | 5位 | 122 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2014}} | マクラーレン・メルセデス | [[マクラーレン・MP4-29|MP4-29]] | {{Pirelli}} | メルセデスPU106A Hybrid<br />(1.6L V6ターボ) | モービル | ジェンソン・バトン<br />[[ケビン・マグヌッセン]] | 5位 | 181 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2015}} | マクラーレン・ホンダ | [[マクラーレン・MP4-30|MP4-30]] | {{Pirelli}} | ホンダRA615H<br />(1.6L V6ターボ) | モービル | フェルナンド・アロンソ<br />ジェンソン・バトン<br />''[[ケビン・マグヌッセン]]'' | 9位 | 27 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2016}} | マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム | [[マクラーレン・MP4-31|MP4-31]] | {{Pirelli}} | ホンダRA616H | モービル | フェルナンド・アロンソ<br />ジェンソン・バトン<br />''[[ストフェル・バンドーン]]'' | 6位 | 76 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2017}} | マクラーレン・ホンダ・フォーミュラ1・チーム | [[マクラーレン・MCL32|MCL32]] | {{Pirelli}} | ホンダRA617H | [[BP (企業)|BP]]/カストロール | フェルナンド・アロンソ<br />ストフェル・バンドーン<br />''ジェンソン・バトン'' | 9位 | 30 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2018}} | マクラーレンF1チーム | [[マクラーレン・MCL33|MCL33]] | {{Pirelli}} | [[ルノーF1|ルノー]]R.E.18<br />(1.6L V6ターボ) | BP/カストロール | フェルナンド・アロンソ<br />ストフェル・バンドーン | 6位 | 62 | 0 |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2019}} | マクラーレンF1チーム | [[マクラーレン・MCL34|MCL34]] | {{Pirelli}} | ルノーE-Tech 19 | BP/カストロール | [[カルロス・サインツJr.]]<br />[[ランド・ノリス]] | 4位 | 145 | 0 |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2020}} | マクラーレンF1チーム | [[マクラーレン・MCL35|MCL35]] | {{Pirelli}} | ルノーE-Tech 20 | BP/カストロール | カルロス・サインツJr.<br />ランド・ノリス | 3位 | 202 | 0 |- bgcolor="#EFEFEF" |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2021}} | マクラーレンF1チーム | [[マクラーレン・MCL35|MCL35M]] | {{Pirelli}} | [[メルセデスAMG F1|メルセデスAMG]] M12 E Performance | BP/カストロール | [[ダニエル・リカルド]]<br />ランド・ノリス | 4位 | 275 | 1 |- bgcolor="#EFEFEF" |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2022}} | マクラーレンF1チーム | [[マクラーレン・MCL36|MCL36]] | {{Pirelli}} | [[メルセデスAMG F1|メルセデスAMG]] M13 E Performance | BP/カストロール | ダニエル・リカルド<br />ランド・ノリス | 5位 | 159 | 0 |- bgcolor="#EFEFEF" |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| {{F1|2023}} | マクラーレンF1チーム | [[マクラーレン・MCL60|MCL60]] | {{Pirelli}} | [[メルセデスAMG F1|メルセデスAMG]] M14 E Performance | BP/カストロール | ランド・ノリス<br />[[オスカー・ピアストリ]] | 4位 | 302 | 0 |- bgcolor="#EFEFEF" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! 燃料・オイル ! ドライバー ! ランキング ! ポイント ! 優勝数 |} <nowiki>*</nowiki>太字はドライバーズタイトル獲得者<br /> <nowiki>*</nowiki>斜体になっているドライバーはスポット参戦など<!--不完全--><br /> <nowiki>*</nowiki>枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)<br /> === Can-Am === {| style="padding: 5px; border: 1px solid gray; border-image: none; font-size: 95%;" cellspacing="0" cellpadding="3" bgcolor="#f7f8ff" |- bgcolor="#EFEFEF" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! 燃料・オイル ! ドライバー |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1966年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M1A,M1B.M1C | {{Goodyear}} | [[シボレー]] | [[STP]] | [[ブルース・マクラーレン]]<br />[[デニス・ハルム]] |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1967年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M6A | {{Goodyear}} | シボレー | STP | '''ブルース・マクラーレン'''<br />デニス・ハルム |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1968年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8A | {{Goodyear}} | シボレー | STP | ブルース・マクラーレン<br />'''デニス・ハルム''' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1969年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8B | {{Goodyear}} | シボレー | STP | '''ブルース・マクラーレン'''<br />デニス・ハルム |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1970年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8C,M8D | {{Goodyear}} | シボレー | STP | ブルース・マクラーレン<br />'''デニス・ハルム'''<br />[[ピーター・レブソン]] |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1971年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M8C,M8F | {{Goodyear}} | シボレー | STP | デニス・ハルム<br />'''ピーター・レブソン''' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1972年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M20 | {{Goodyear}} | シボレー | [[ガルフ・オイル|ガルフ]] | デニス・ハルム<br />ピーター・レブソン |} === インディカー === {| style="padding: 5px; border: 1px solid gray; border-image: none; font-size: 95%;" cellspacing="0" cellpadding="3" bgcolor="#f7f8ff" |- bgcolor="#EFEFEF" ! 年 ! エントリー名 ! 車体型番 ! タイヤ ! エンジン ! ドライバー |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1970年のUSACチャンピオンシップ|1970年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M15 | {{Goodyear}} | オッフェンハウザー | *''[[ピーター・レブソン]]''<br />*''[[カール・ウイリアムズ]]''<br />*''[[ブルース・マクラーレン]]''<br />*''[[デニス・ハルム]]''<br />*''[[クリス・エイモン]]'' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1971年のUSACチャンピオンシップ|1971年]] | ブルース・マクラーレン・モーターレーシング | M16A | {{Goodyear}} | オッフェンハウザー | *''ピーター・レブソン''<br />*''デニス・ハルム''<br />*''[[ゴードン・ジョンコック]]'' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1972年のUSACチャンピオンシップ|1972年]] | チーム・マクラーレン | M16A、M16B | {{Goodyear}} | オッフェンハウザー | ゴードン・ジョンコック<br />*''ピーター・レブソン'' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1973年のUSACチャンピオンシップ|1973年]] | チーム・マクラーレン | M16C | {{Goodyear}} | オッフェンハウザー | [[ジョニー・ラザフォード]]<br />*''ピーター・レブソン'' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1974年のUSACチャンピオンシップ|1974年]] | チーム・マクラーレン | M16C/D | {{Goodyear}} | オッフェンハウザー | ジョニー・ラザフォード<br />*''デビッド・ホッブス'' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1975年のUSACチャンピオンシップ|1975年]] | チーム・マクラーレン | M16E | {{Goodyear}} | オッフェンハウザー | ジョニー・ラザフォード |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1976年のUSACチャンピオンシップ|1976年]] | チーム・マクラーレン | M16E | {{Goodyear}} | オッフェンハウザー | ジョニー・ラザフォード |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1977年のUSACチャンピオンシップ|1977年]] | チーム・マクラーレン | M24 | {{Goodyear}} | [[コスワース]] | ジョニー・ラザフォード |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1978年のUSACチャンピオンシップ|1978年]] | チーム・マクラーレン | M24B | {{Goodyear}} | コスワース | ジョニー・ラザフォード |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[1979年のインディカー・シーズン|1979年]] | チーム・マクラーレン | M24B | {{Goodyear}} | コスワース | ジョニー・ラザフォード |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2017年のインディカー・シリーズ|2017年]] | マクラーレン・[[本田技研工業|ホンダ]]・[[アンドレッティ・オートスポーツ|アンドレッティ]] | [[ダラーラ]]DW12 | {{Firestone}} | [[ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント|ホンダ]] | *''[[フェルナンド・アロンソ]]'' |- style="vertical-align: top;" bgcolor="#F5F5F5" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2019年のインディカー・シリーズ|2019年]] | マクラーレン・レーシング<ref group="注釈">[[カーリン・モータースポーツ|カーリン]]とジョイント参戦</ref> | ダラーラDW12 | {{Firestone}} | [[シボレー]] | *''フェルナンド・アロンソ'' |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2020年のインディカー・シリーズ|2020年]] | アロー・マクラーレン[[シュミット・ピーターソン・モータースポーツ|SP]] | ダラーラDW12 | {{Firestone}} | シボレー | [[パトリシオ・オワード]]<br />[[オリバー・アスキュー]]<br />*''フェルナンド・アロンソ''<br />*[[エリオ・カストロネベス]] |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2021年のインディカー・シリーズ|2021年]] | アロー・マクラーレンSP | ダラーラDW12 | {{Firestone}} | シボレー | パトリシオ・オワード<br />[[フェリックス・ローゼンクヴィスト]]<br />*[[ファン・パブロ・モントーヤ]]<br />*オリバー・アスキュー<br />*[[ケビン・マグヌッセン]] |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2022年のインディカー・シリーズ|2022年]] | アロー・マクラーレンSP | ダラーラDW12 | {{Firestone}} | シボレー | パトリシオ・オワード<br />フェリックス・ローゼンクヴィスト<br />*ファン・パブロ・モントーヤ |- style="vertical-align: top;" ! bgcolor="#EFEFEF"| [[2023年のインディカー・シリーズ|2023年]] | アロー・マクラーレン | ダラーラDW12 | {{Firestone}} | シボレー | パトリシオ・オワード<br />フェリックス・ローゼンクヴィスト<br />[[アレクサンダー・ロッシ]]<br/>*[[トニー・カナーン]] |} *チームとしての参戦に限る。マクラーレン製シャシーを購入して参戦したチームは除く *<nowiki>*</nowiki>印のついたドライバーはスポット参戦など<!--不完全--> == 資本 == *F1以外の活動は別会社が行っており、持ち株会社{{仮リンク|マクラーレン・グループ|en|McLaren Group}}を構成している。 *2000年1月、当時メルセデス・ベンツの親会社であった[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー・クライスラー]]が、グループの所有権を40%取得。事実上、マクラーレン・グループはダイムラー・クライスラーグループの一員となっている。残りの60%をロン・デニスと[[サウジアラビア]]人の大富豪である[[マンスール・オジェ]]が所有してきたが、ダイムラー・クライスラーがこの残りの60%の株式を取得し、メルセデス・ベンツが単独でのF1参戦を目指しているのではという噂が根強かった。 *2007年1月にバーレーン王国所有の[[:en:Mumtalakat_Holding_Company|バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニー]]がロン・デニスとマンスール・オジェの保有する株式のそれぞれの半数を取得した。この結果、ダイムラー・クライスラーが40%・バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーが30%・ロン・デニスとマンスール・オジェが15%ずつと保有比率が変化している。 *2009年11月にメルセデス・ベンツとマクラーレンのパートナーシップ解消が発表されたことに伴い、メルセデス保有分の40%の株式については2011年までにマクラーレン側が買い戻すことが発表されている。なお買い戻し価格や、買い戻した後の株式の扱いについては公表されていない。なおマクラーレン側の買い戻しの結果、2010年3月現在でメルセデス側の持株比率は約11%にまで低下している<ref>[http://f1.as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=25586 マクラーレン、メルセデスから29パーセントの株式を買い戻し] - as-web.jp・2010年3月19日</ref>。 *2016年11月にロン・デニスの退陣が決まった時点の株式保有比率は、デニスとオジェが25%、マムタラカトが50%となっていた<ref name="ESPN20161116-2" />が、デニスは翌2017年6月に全株式を売却した<ref>{{Cite web|和書|url = https://f1-gate.com/mclaren/f1_37332.html |title = マクラーレン、ロン・デニスの離脱でグループを再編 |publisher = F1-Gate.com |date = 2017-07-01 |accessdate = 2017-12-16}}</ref>。 *2020年6月時点の株式保有比率はマムタラカト56%、マンスール・オジェ14%、{{仮リンク|マイケル・ラティフィ|en|Michael Latifi}}(同年から[[ウィリアムズF1]]の正ドライバーを務める[[ニコラス・ラティフィ]]の父)10%で、残る20%が少数株主となっている<ref>{{Cite web|和書|url = https://jp.motorsport.com/f1/news/mclaren-open-to-sale-of-f1-team-shares-to-raise-finance/4808433/ |title = マクラーレン、資金調達のため株式を最大30%売却? 新型コロナで財政面に打撃 |publisher = motorsport.com |date = 2020-06-18 |accessdate = 2020-06-19}}</ref>。 == マクラーレン・グループ == (主な会社のみ) *[[マクラーレン・オートモーティブ]](McLaren Automotive) *マクラーレン・マーケティング (McLaren Marketing) :[[1987年]]に設立。マーケティング、メディア対応などを担当。 === 過去のグループ会社 === *マクラーレン・コンポジット (McLaren Composites) :[[1993年]]に設立。自動車などに用いる、高機能素材の開発・生産を担当。[[マクラーレン・F1]]や[[メルセデス・ベンツ・SLRマクラーレン]]などを担当した。2004年にマクラーレン・エレクトロニック・システムズと合併した。 *[[マクラーレン・エレクトロニック・システムズ]] (McLaren Electronic Systems) :モータースポーツ向け電子制御システムの開発、製造。旧称は'''TAGエレクトロニクス'''、'''TAGエレクトロニック・システムズ'''。 :[[2008年]]より[[マイクロソフト]]と共同で、F1に参戦する全車に搭載が義務付けられる[[エレクトロニックコントロールユニット|ECU]]の供給を行っているほか、[[2012年]]からは[[NASCAR]]・[[スプリントカップシリーズ]]や[[インディカー・シリーズ]]にもECUの供給を行っている。 :後に社名を'''マクラーレン・アプライド'''に改めたが、[[2021年]]に投資ファンドに売却された。 == 移動体テレメトリーシステム == マクラーレンは1980年代からデータ分析による効率化を徹底しており、レーシングカーやドライバーに取り付けたセンサーからリモートでデータを転送し、リアルタイムで分析する移動体テレメトリーシステムを採用している。<ref name=":0">[http://enterprisezine.jp/dbonline/detail/3992 マクラーレンもより速く! HANAが加速するのはデータベースだけじゃない - SAPPHIRE NOW 2012 2日目基調講演]</ref><ref name=":1">[https://www.sapjp.com/blog/archives/15167 マクラーレン・ホンダのレーサー、ジェンソン・バトンがSAPジャパンに登場 – F1レースに起きたデジタル変革とは –] </ref> テレメトリーシステムには1997年から技術提携関係にあるドイツのソフトウェア大手[[SAP (企業)|SAP]]の高速データ処理プラットフォーム「[[SAP HANA]]」を使用して、タイヤ交換や部品交換が必要なタイミングを計算し、マシンを最適な状態に保つようにしている。<ref name=":0" /><ref name=":1" /> このシステムから得られた情報によって勝敗の90%がレース終了前に予測できるようになった。<ref>[https://www.sapjp.com/blog/archives/3631 マクラーレンとメルセデスAMGが実践!超膨大センサーデータのリアルタイム解析による予見分析]</ref> == 車両ギャラリー == *'''葉巻型'''(1966年 - 1973年) <gallery widths="180px" heights="120px"> McLaren M2B front-left Donington Grand Prix Collection.jpg|M2B [[フォード・モーター|フォード]] F1 maclaren m7a 1968-aa maclaren.jpg|[[マクラーレン・M5A|M5A]] [[ブリティッシュ・レーシング・モータース|BRM]] Te Papa - Formula 1 - Flickr - 111 Emergency (14).jpg|[[マクラーレン・M7A|M7A]] [[フォード・コスワース・DFVエンジン|フォード]] Vic Elford McLaren M7B Germany 1969.jpg|M7B フォード 2014-03-04 Geneva Motor Show 1407.JPG|M7C フォード Rétromobile 2017 - McLaren M9A - 1969 - 001.jpg|[[マクラーレン・M9A|M9A]] フォード Rétromobile 2011 - Mc Laren M14 - 1970 - 002.jpg|[[マクラーレン・M14A|M14A]] フォード 1971 Peter Gethin, McLaren.jpg|[[マクラーレン・M19A|M19A]] フォード Yardley McLaren M19C.jpg|M19C フォード </gallery> *'''フラットノーズ型#1'''(1973年 - 1978年) <gallery widths="180px" heights="120px"> 1973 Mclaren Ford M23.jpg|[[マクラーレン・M23|M23]] フォード McLaren M23 garage 2008 Goodwood.jpg|M23B フォード McLaren M23 (Emerson Fittipaldi) - 001.jpg|M23C フォード James Hunt - McLaren M23 (6707990279).jpg|M23D フォード McLaren M23 at 2006 Monterey Historic.jpg|M23E フォード McLaren M26 Donington.jpg|[[マクラーレン・M26|M26]] フォード </gallery> *'''グラウンドエフェクト型#1'''(1979年 - 1982年) <gallery widths="180px" heights="120px"> McLaren M28.jpg|[[マクラーレン・M28|M28]] フォード McLaren M29.jpg|[[マクラーレン・M29|M29]] フォード McLaren M30 Mont-Tremblant 2009.jpg|[[マクラーレン・M30|M30]] フォード McLaren MP4.jpg|[[マクラーレン・MP4/1|MP4/1]] フォード John Watson McLaren MP4-1B 2018 British Grand Prix (43693763322).jpg|MP4/1B フォード </gallery> *'''フラットノーズ型#2'''(1983年 - 1994年) <gallery widths="180px" heights="120px"> McLaren MP4-1C.jpg|[[マクラーレン・MP4/1|MP4/1]]C フォード McLaren MP4-2.jpg|[[マクラーレン・MP4/2|MP4/2]] [[テクニーク・ダバンギャルド|TAG]][[ポルシェ]] McLaren-TAG Porsche MP4 2 Alain Prost first Formula 1 championship year (6283361872).jpg|MP4/2B TAGポルシェ McLaren MP4-2C front-right Porsche Museum.jpg|MP4/2C TAGポルシェ McLaren MP4-3.jpg|[[マクラーレン・MP4/3|MP4/3]] TAGポルシェ McLaren MP4-4 front-left 2012 Autosport International.jpg|[[マクラーレン・MP4/4|MP4/4]] [[ホンダF1|ホンダ]] McLaren MP4-5 (Senna) front-left Honda Collection Hall.jpg|[[マクラーレン・MP4/5|MP4/5]] ホンダ McLaren MP4-5B front-right Honda Collection Hall.jpg|MP4/5B ホンダ McLaren MP4-6 and Honda RA121E engine Honda Collection Hall.jpg|[[マクラーレン・MP4/6|MP4/6]] ホンダ McLaren MP4-7 left Honda Collection Hall.jpg|[[マクラーレン・MP4/7A|MP4/7A]] ホンダ Mclaren mp4 8.jpg|[[マクラーレン・MP4/8|MP4/8]] フォード Mclaren 03.jpg|[[マクラーレン・MP4/9|MP4/9]] [[プジョー]] </gallery> *'''ハイノーズ型'''(1995年 - 2013年) <gallery widths="180px" heights="120px"> McLaren MP4-10B front-left Donington Grand Prix Collection.jpg|[[マクラーレン・MP4/10|MP4/10]] [[メルセデスAMG F1|メルセデス]] McLaren MP4-11.JPG|[[マクラーレン・MP4/11|MP4/11]] メルセデス McLaren MP4-12 front-left Donington Grand Prix Collection.jpg|[[マクラーレン・MP4-12|MP4-12]] メルセデス Mika Häkkinen McLaren-Mercedes MP4-13 Techno Classica Essen 2018 (3).jpg|[[マクラーレン・MP4-13|MP4-13]] メルセデス McLaren MP4-14 (36452478806).jpg|[[マクラーレン・MP4-14|MP4-14]] メルセデス Paris - Retromobile 2014 - McLaren-Mercedes MP4-15 - 2000 - 002.jpg|[[マクラーレン・MP4-15|MP4-15]] メルセデス McLaren MP4-16A 2015 McLaren MP4-16A shakedown (21220157539).jpg|[[マクラーレン・MP4-16|MP4-16]] メルセデス McLaren MP4-17 front-left Donington Grand Prix Collection.jpg|[[マクラーレン・MP4-17|MP4-17]] メルセデス McLaren MP4-17 of David Coulthard, 2002.jpg|MP4-17D メルセデス McLaren-Mercedes MP4-19 - Flickr - andrewbasterfield.jpg|[[マクラーレン・MP4-19|MP4-19]] メルセデス McLaren F1 Racer.jpg|[[マクラーレン・MP4-20|MP4-20]] メルセデス Pedro de la Rosa 2006 Brazil.jpg|[[マクラーレン・MP4-21|MP4-21]] メルセデス McLaren-Mercedes MP4-22.jpg|[[マクラーレン・MP4-22|MP4-22]] メルセデス The Race begins 26th Sept 2008 (2841772751).jpg|[[マクラーレン・MP4-23|MP4-23]] メルセデス Hamilton McLaren MP4-24.jpg|[[マクラーレン・MP4-24|MP4-24]] メルセデス Jenson Button Bahrain 2010 cropped.jpg|[[マクラーレン・MP4-25|MP4-25]] メルセデス Lewis Hamilton 2011 Malaysia Qualify.jpg|[[マクラーレン・MP4-26|MP4-26]] メルセデス 2012 German GP - 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1991年日本GPから2019年まで無線機材を供給していた。 *[[ヒューゴ・ボス]] - 1980年代より2014年までチームユニフォームを供給していた。 *[[ヤマザキマザック]] - [[工作機械]]の納入で[http://www.mazak.jp/cgi-bin/infoeditor/index.cgi?action=data_view&session=&mode=topics&datakey=1388125333&param_repartition=&temp_name= 1999年よりオフィシャルサプライヤー契約を結んでいる。]。 *[[集英社]] - 1990年から1991年までのスポンサー。[[週刊少年ジャンプ]]のロゴをノーズの先端に貼り付けていた。 *[[古墳GALのコフィー]] - コフィーのママが元マクラーレンホンダのピットクルーとして世界を回っていた設定になっている *[[高級オーディオ]] - かつて'''Tag Mclaren Audio'''というブランドでオーディオ機器を販売していた。 *マールボロ・プロジェクト・フォー→マクラーレン・プロジェクト・フォー ('''MP4''')<br>'''Marlboro Project Four'''→'''McLaren Project Four''' **[[マールボロ (たばこ)]] == 外部リンク == *{{Official website|http://www.mclaren.com/formula1/}} *{{Twitter|McLarenF1|McLaren}} {{マクラーレン}} {{F1チーム}} {{2022年-23年フォーミュラE出走ドライバー}} {{F1コンストラクターズチャンピオン}} {{インディカー・シリーズのチーム}} {{自動車}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:まくらあれん}} [[Category:マクラーレン・グループ]] [[Category:F1コンストラクター]] [[Category:フォーミュラEチーム]] [[Category:イギリスのレーシングチーム]] [[Category:サリーの企業]] [[Category:ウォキング]]
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ファン・マヌエル・ファンジオ
ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ(Juan Manuel Fangio Déramo, 1911年6月24日 - 1995年7月17日)は、アルゼンチンのレーシングカー・ドライバーである。F1において5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていた。 ニックネームはエル・チュエコ(スペイン語で「がに股」の意味)。 首都ブエノスアイレスから350km離れたバルカルセ (Balcarce) で、イタリア系移民二世として生まれる。父親はペンキ職人で、6人きょうだいの四男が6月24日の「聖ヨハネ (San Juan Bautista) の日」に生まれたことから「ファン」と名付けた。 幼い頃から機械いじりが好きで、13歳になると地元の修理工場で整備工として働き始める。また、サッカーが得意で、プレースタイルから「エル・チュエコ(がに股)」というあだ名を付けられた。軍隊で兵役を務め終えると独立し、自分の修理工場で自動車を改造して、1934年からレースに出場するようになった。 主に南米で行われていた長距離ロードレースで活躍し、1940年にはブエノスアイレスとペルーのリマを往復する約9,500kmのグランプレミオ・デル・ノルテで優勝。1940年と1941年にはアルゼンチンの国内選手権を制した。当時のライバルはガルベス兄弟(オスカルとフアン)で、ファンジオ派とガルベス派のファンが対立するほど人気は高かった。しかし、第二次世界大戦の余波は南米にも及び、1942年以降のレースは中止された。 1947年から国内でレース活動を再開すると、ヨーロッパからゲスト参戦したアキーレ・ヴァルツィ、ジャン=ピエール・ウィミィーユらと競い合い、本場ヨーロッパで実力を試す希望を持つようになる。 1948年10月、ブエノスアイレスからベネズエラのカラカスを目指すツーリスモ・カレテラのレースに出走していたファンジオは、内乱の影響で急遽夜間のスタートとなったリマ~トゥンベス(ペルー)のステージにおいて、濃霧の中でオーバースピードでコーナーに進入したことが原因で転落。ファンジオは首を負傷した上、コ・ドライバーを務めていた2歳下の同郷の友人、ダニエル・ウルティアが車外に投げ出されて死亡する事故となり、大きなショックを受けたファンジオは一時は引退も考えた。その後立ち直ったファンジオはペロン政権の後援を受けて自動車クラブのメンバーとしてオスカルらとヨーロッパへ渡り、1949年はサンレモGP、ポーGP、マルセイユGP、モンツァGPなどで連勝を重ね、国際的な一流ドライバーと見なされるようになった。 1950年はアルファロメオと契約し、新たに開幕したF1世界選手権に参戦する。第2戦モナコGPで初優勝し、ベルギーGPとフランスGPを連勝してポイントをリードしたが、最終戦イタリアGPでリタイアしてチームメイトのジュゼッペ・ファリーナに初代チャンピオンの座を譲った。 1951年は後半戦調子を上げてきたフェラーリ勢との争いになった。フェラーリのエース、アルベルト・アスカリとの一騎打ちで迎えた最終戦スペインGPは、フェラーリのタイヤ選択ミスにも助けられ、見事にワールドチャンピオンを獲得した。 1952年は、アルファロメオが撤退してシートを失った上に、非選手権レースで大事故に遭遇する。アイルランドでレースをした翌日モンツァGPに出場するため、パリからミラノまで夜通し運転してレースに強行出場した結果、クラッシュして頸部を骨折し半年間の療養生活を送る。引退も噂されたが、1953年にはマセラティから復帰を果たし、最終戦イタリアGPでは、2年間無敗を続けたフェラーリを止める復活勝利を挙げた。 1954年は、マセラティで開幕2連勝した後、フランスGPより参戦を開始したメルセデスへ移籍。デビュー戦をポール・トゥ・ウィンで飾ると、シーズン9戦中6勝を記録して2度目のワールドチャンピオンを獲得した。しかし、ドイツGPでは可愛がっていた後輩のオノフレ・マリモンが事故死し、大きな精神的ショックを受けた。 1955年も7戦中4勝を挙げて、自身3度目のタイトルを獲得した。イギリスGPではスターリング・モスの地元初優勝を祝う余裕も見せた。一方、ル・マン24時間レースでは観客80名以上が死亡するモータースポーツ史上最悪のクラッシュに遭遇し、事故死したピエール・ルヴェーの後方で間一髪危機をまぬがれた。メルセデスチームがレース撤退を決めた直後、憔悴した自身の姿を捉えた写真が残されている。 メルセデスのレース活動休止により、1956年にはフェラーリへ移籍。最終戦イタリアGPで、チームメイトのピーター・コリンズからチャンスを譲られる形で、自身4度目のチャンピオンを獲得する(後述)。しかし、オーナーのエンツォ・フェラーリとの関係はギクシャクし、1年限りでチームを去った。 1957年はマセラティに復帰し、4年連続のチャンピオンに輝くこととなった。この年はドイツGPの伝説的勝利(後述)を含め圧倒的な強さをみせ、出場したレースではリタイア1回を除くと、全てが優勝または2位でフィニッシュした。未だ実力はトップレベルだったが、全てやり遂げたという達成感からレース出場回数を減らしていく。 1958年はインディ500に初挑戦し、練習走行でルーキーテストを通過したが、公式予選には出走しなかった。F1はマセラティがワークス活動を休止したマセラティから2戦のみにスポット参戦。フランスGPを4位で終えた後、47歳でF1からの引退を表明した。 引退後は母国でメルセデス・ベンツ車のディーラーを経営し、メルセデスとの深い関係は生涯続いた。晩年はパガーニのアドバイザーとして、オーナー兼デザイナーのオラツィオ・パガーニにメルセデス・ベンツ製エンジンの搭載を進言し、交渉面での便宜を図った。パガーニ・ゾンダの限定モデル"Roadster F"に付けられた"F"は、ファンジオの名から敬意を表して名付けられたものである。 1990年、国際モータースポーツ殿堂に殿堂入り。1995年7月17日、居住地ブエノスアイレスで84歳で死去。「アルゼンチンの英雄」として多大なる敬愛を受けていたこともあり、国葬という形で手厚く葬られた。 彼のレースにおける輝かしい軌跡は、"Fangio(邦題名『グレート・ドライバー』)"と題してドキュメンタリー映画化されている。自身が出場した数々のレースやインタビュー映像の他、1970年代後半までのF1名勝負や悲惨なアクシデントシーンなど、当時の貴重な映像も収録されている。 なお、同姓同名の甥もレーサーとなり、1980年代から1990年代にオール・アメリカン・レーサーズの主力としてIMSAやCARTで活躍した。彼は実子ではないが「ファン・マヌエル・ファンジオ2世(Juan Manuel Fangio II ) 」というレーシングネームを使用した。 F1通算24勝は1968年にジム・クラークが更新するまで個人最多勝記録であった。不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回もミハエル・シューマッハに抜かれたが、46歳での最年長チャンピオンという記録は未だ破られていない(最年長優勝はルイジ・ファジオーリの53歳)。第二次世界大戦前のドライバー中心で始まった草創期のF1ではこの年齢は珍しくなかったが、ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代でもあった。 参戦51戦中24勝で勝率47.1%という記録は、極端に参戦数の少ないドライバーを除くと、圧倒的な数字である。数々のF1の記録を更新してきたミハエル・シューマッハをもってしても、最後までチャンピオン争いをした一度目の引退時における勝率が36.7%であり、シューマッハに次ぐ勝利数のプロストとセナはともに25.5%であることから見ても、ファンジオの勝率は、F1草創期であるとは言え群を抜いている。後続のドライバーたちが安定した体制(フェラーリやマクラーレンなど)で数字を伸ばしたのに対し、ファンジオは8年間に4チームを渡り歩いていた。 また、その紳士的な人柄でライバルや後輩から尊敬を集めていた。F1引退レースとなった1958年フランスグランプリでは、優勝したマイク・ホーソーンが敬意を評してファンジオを周回遅れにせず、ゴールまで後方に従ったというエピソードもあった。没後もなおファンジオは根強く支持されている。 危機回避能力が極めて高いことで知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故から一人だけ事態を見抜いてたびたび危機を回避している。 1958年2月、ファンジオはノンタイトル戦のキューバグランプリに出場するためキューバの首都ハバナを訪れたが、フィデル・カストロ指揮下の「7月26日運動」のメンバーにより、宿泊先のホテルでピストルを突きつけられ、車で連れ去られた。組織の目的はキューバグランプリを開催するバティスタ政権の面目を潰すことにあり、ファンジオは隠れ家で手厚くもてなされた末に無事解放された。 隠れ家での滞在中、実行犯たちはファンジオの人柄に魅了され、ファンジオの方もストックホルム症候群のような連帯感を抱くことになった。キューバ革命の成就を経て、ファンジオがこの世を去るまで両者の親交は続いたという。
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"tag": "p", "text": "危機回避能力が極めて高いことで知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故から一人だけ事態を見抜いてたびたび危機を回避している。", "title": "特筆されるレース" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1958年2月、ファンジオはノンタイトル戦のキューバグランプリに出場するためキューバの首都ハバナを訪れたが、フィデル・カストロ指揮下の「7月26日運動」のメンバーにより、宿泊先のホテルでピストルを突きつけられ、車で連れ去られた。組織の目的はキューバグランプリを開催するバティスタ政権の面目を潰すことにあり、ファンジオは隠れ家で手厚くもてなされた末に無事解放された。", "title": "誘拐事件" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "隠れ家での滞在中、実行犯たちはファンジオの人柄に魅了され、ファンジオの方もストックホルム症候群のような連帯感を抱くことになった。キューバ革命の成就を経て、ファンジオがこの世を去るまで両者の親交は続いたという。", "title": "誘拐事件" } ]
ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモは、アルゼンチンのレーシングカー・ドライバーである。F1において5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは2003年にミハエル・シューマッハに破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていた。 ニックネームはエル・チュエコ(スペイン語で「がに股」の意味)。
{{スペイン語圏の姓名|ファンヒオ|デラモ}} {{F1ドライバー | 氏名 = ファン・マヌエル・ファンジオ<br>Juan Manuel Fangio | Image = Juan Manuel Fangio (circa 1952).jpg | image_size = 220px | 説明 = ファン・マヌエル・ファンジオ (1952年) | フルネーム = ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ<br>Juan Manuel Fangio Deramo | 国籍 = {{ARG}} | 出身地 = 同・[[ブエノスアイレス州]][[バルカルセ (ブエノスアイレス州)|バルカルセ]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1911|6|24|no}} | 死没地 = {{ARG}}<br>同・[[ブエノスアイレス]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1911|6|24|1995|7|17}} | 年 = 1950-1951,1953-1958 | 所属チーム = '50-'51 [[アルファロメオ]]<br>'53,'54,'57-'58 [[マセラティ]]<br>'54,'55 [[メルセデスAMG F1|メルセデス]]<br>'56 [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] | 出走回数 = 52 (51スタート) | タイトル = 5 ([[1951年のF1世界選手権|1951]],[[1954年のF1世界選手権|1954]],[[1955年のF1世界選手権|1955]],[[1956年のF1世界選手権|1956]],[[1957年のF1世界選手権|1957]]) | 優勝回数 = 24 | 表彰台回数 = 35 | 通算獲得ポイント = 245 (277 {{分数|9|14}}) | ポールポジション = 29 | ファステストラップ = 23 | 初戦 = [[1950年イギリスグランプリ|1950年イギリスGP]] | 初勝利 = [[1950年モナコグランプリ|1950年モナコGP]] | 最終勝利 = [[1957年ドイツグランプリ|1957年ドイツGP]] | 最終戦 = [[1958年フランスグランプリ|1958年フランスGP]] }} '''ファン・マヌエル・ファンジオ・デラモ'''('''Juan Manuel Fangio Déramo''', [[1911年]][[6月24日]] - [[1995年]][[7月17日]])は、[[アルゼンチン]]のレーシングカー・ドライバーである。[[フォーミュラ1|F1]]において5回のワールドチャンピオンに輝いているが、これは[[2003年]]に[[ミハエル・シューマッハ]]に破られるまで、46年間も史上最多記録を誇っていた。 ニックネームは'''エル・チュエコ'''([[スペイン語]]で「がに股」の意味)。 == 来歴 == === 生い立ち === 首都ブエノスアイレスから350km離れたバルカルセ{{enlink|Balcarce, Buenos Aires|Balcarce}}で、イタリア系移民二世として生まれる。父親はペンキ職人で、6人きょうだいの四男が[[6月24日]]の「[[洗礼者ヨハネ|聖ヨハネ]] (San Juan Bautista) の日」に生まれたことから「ファン」と名付けた<ref>『ファンジオ自伝』、13頁。</ref>。 幼い頃から機械いじりが好きで、13歳になると地元の修理工場で整備工として働き始める。また、サッカーが得意で、プレースタイルから「エル・チュエコ(がに股)」というあだ名を付けられた<ref>『ファンジオ自伝』、15頁。</ref>。軍隊で[[兵役]]を務め終えると独立し、自分の修理工場で自動車を改造して、[[1934年]]からレースに出場するようになった。 === ヨーロッパ進出 === 主に南米で行われていた長距離ロードレースで活躍し、1940年にはブエノスアイレスと[[ペルー]]の[[リマ]]を往復する約9,500kmのグランプレミオ・デル・ノルテで優勝。1940年と1941年にはアルゼンチンの国内選手権を制した。当時のライバルはガルベス兄弟([[オスカル・ガルベス|オスカル]]とフアン)で、ファンジオ派とガルベス派のファンが対立するほど人気は高かった。しかし、[[第二次世界大戦]]の余波は南米にも及び、1942年以降のレースは中止された。 1947年から国内でレース活動を再開すると、ヨーロッパからゲスト参戦した[[アキーレ・ヴァルツィ]]、[[ジャン=ピエール・ウィミィーユ]]らと競い合い、本場ヨーロッパで実力を試す希望を持つようになる。 1948年10月、ブエノスアイレスからベネズエラのカラカスを目指す[[ツーリスモ・カレテラ]]のレースに出走していたファンジオは、内乱の影響で急遽夜間のスタートとなったリマ~[[トゥンベス]](ペルー)のステージにおいて、濃霧の中でオーバースピードでコーナーに進入したことが原因で転落。ファンジオは首を負傷した上、コ・ドライバーを務めていた2歳下の同郷の友人、ダニエル・ウルティアが車外に投げ出されて死亡する事故となり<ref>{{Cite web |url=http://www.motorsportmemorial.org/focus.php?db=ct&n=1340 |title=Motorsport Memorial - Daniel Urrutia |access-date=2022-08-09 |publisher=Motorsport Memorial}}</ref>、大きなショックを受けたファンジオは一時は引退も考えた。その後立ち直ったファンジオは[[フアン・ペロン|ペロン]]政権の後援を受けて自動車クラブのメンバーとしてオスカルらとヨーロッパへ渡り、1949年はサンレモGP、ポーGP、マルセイユGP、モンツァGPなどで連勝を重ね、国際的な一流ドライバーと見なされるようになった。 === 5度のF1ワールドチャンピオン === {{f1|1950}}は[[アルファロメオ]]と契約し、新たに開幕したF1世界選手権に参戦する。第2戦[[1950年モナコグランプリ|モナコGP]]で初優勝し、[[1950年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]と[[1950年フランスグランプリ|フランスGP]]を連勝してポイントをリードしたが、最終戦[[1950年イタリアグランプリ|イタリアGP]]でリタイアしてチームメイトの[[ジュゼッペ・ファリーナ]]に初代チャンピオンの座を譲った。 {{f1|1951}}は後半戦調子を上げてきた[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]勢との争いになった。フェラーリのエース、[[アルベルト・アスカリ]]との一騎打ちで迎えた最終戦[[1951年スペイングランプリ|スペインGP]]は、フェラーリのタイヤ選択ミスにも助けられ、見事にワールドチャンピオンを獲得した。 {{f1|1952}}は、アルファロメオが撤退してシートを失った上に、非選手権レースで大事故に遭遇する。[[アイルランド]]でレースをした翌日モンツァGPに出場するため、[[パリ]]から[[ミラノ]]まで夜通し運転してレースに強行出場した結果、クラッシュして頸部を骨折し半年間の療養生活を送る。引退も噂されたが、1953年には[[マセラティ]]から復帰を果たし、最終戦[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]では、2年間無敗を続けたフェラーリを止める復活勝利を挙げた。 [[ファイル:Großer Preis von Europa -1954 Nürburgring, Juan Manuel Fangio, Mercedes (3)x.JPG|thumb|left|240px|1954年、[[メルセデス・ベンツ・W196]]に乗り[[ニュルブルクリンク]]を走行するファンジオ]] {{f1|1954}}は、マセラティで開幕2連勝した後、[[1954年フランスグランプリ|フランスGP]]より参戦を開始した[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]へ移籍。デビュー戦をポール・トゥ・ウィンで飾ると、シーズン9戦中6勝<ref name="indy">当時F1世界選手権にカウントされていた[[インディ500]]には参加していない。</ref>を記録して2度目のワールドチャンピオンを獲得した。しかし、[[1954年ドイツグランプリ|ドイツGP]]では可愛がっていた後輩の[[オノフレ・マリモン]]が事故死し、大きな精神的ショックを受けた。 {{F1|1955}}も7戦中4勝<ref name="indy"/>を挙げて、自身3度目のタイトルを獲得した。[[1955年イギリスグランプリ|イギリスGP]]では[[スターリング・モス]]の地元初優勝を祝う余裕も見せた。一方、[[1955年のル・マン24時間レース|ル・マン24時間レース]]では観客80名以上が死亡するモータースポーツ史上最悪のクラッシュに遭遇し、事故死した[[ピエール・ルヴェー]]の後方で間一髪危機をまぬがれた。メルセデスチームがレース撤退を決めた直後、憔悴した自身の姿を捉えた写真が残されている。 メルセデスのレース活動休止により、{{f1|1956}}にはフェラーリへ移籍。最終戦[[1956年イタリアグランプリ|イタリアGP]]で、チームメイトの[[ピーター・コリンズ]]からチャンスを譲られる形で、自身4度目のチャンピオンを獲得する(後述)。しかし、オーナーの[[エンツォ・フェラーリ]]との関係はギクシャクし、1年限りでチームを去った。 {{f1|1957}}はマセラティに復帰し、4年連続のチャンピオンに輝くこととなった。この年はドイツGPの伝説的勝利(後述)を含め圧倒的な強さをみせ、出場したレースではリタイア1回を除くと、全てが優勝または2位でフィニッシュした。未だ実力はトップレベルだったが、全てやり遂げたという達成感からレース出場回数を減らしていく。 {{f1|1958}}は[[インディ500]]に初挑戦し、練習走行でルーキーテストを通過したが、公式予選には出走しなかった。F1はマセラティがワークス活動を休止したマセラティから2戦のみにスポット参戦。フランスGPを4位で終えた後、47歳でF1からの引退を表明した。 === 引退後 === 引退後は母国でメルセデス・ベンツ車のディーラーを経営し、メルセデスとの深い関係は生涯続いた。晩年は[[パガーニ・アウトモビリ|パガーニ]]のアドバイザーとして、オーナー兼デザイナーのオラツィオ・パガーニにメルセデス・ベンツ製エンジンの搭載を進言し、交渉面での便宜を図った。[[パガーニ・ゾンダ]]の限定モデル"Roadster F"に付けられた"F"は、ファンジオの名から敬意を表して名付けられたものである。 1990年、[[国際モータースポーツ殿堂]]に殿堂入り。1995年7月17日、居住地ブエノスアイレスで84歳で死去。「アルゼンチンの英雄」として多大なる敬愛を受けていたこともあり、[[国葬]]という形で手厚く葬られた。 彼のレースにおける輝かしい軌跡は、"Fangio(邦題名『グレート・ドライバー』)"と題してドキュメンタリー映画化されている。自身が出場した数々のレースやインタビュー映像の他、1970年代後半までのF1名勝負や悲惨なアクシデントシーン<ref>[[1967年モナコグランプリ]]での[[ロレンツォ・バンディーニ]]死亡事故や、[[1977年南アフリカグランプリ]]での[[トム・プライス]]死亡事故など。また本文中にもある1955年のル・マン24時間レースで発生した大事故では、その映像に加え本人による模型を用いた解説シーンがある。</ref>など、当時の貴重な映像も収録されている。 なお、同姓同名の甥もレーサーとなり、1980年代から1990年代に[[オール・アメリカン・レーサーズ]]の主力として[[国際モータースポーツ協会|IMSA]]や[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]で活躍した。彼は実子ではないが「[[ファン・マヌエル・ファンジオ2世]]([[:en:Juan Manuel Fangio II|''Juan Manuel Fangio II'']] ) 」というレーシングネームを使用した。 == 業績 == [[ファイル:Juan Manuel Fangio statue Mercedes-Benz Museum.jpg|thumb|right|180px|[[シュトゥットガルト]]のメルセデス・ベンツ博物館にあるファンジオ像]] F1通算24勝は[[1968年]]に[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]が更新するまで個人最多勝記録であった。不滅と言われたワールドチャンピオン獲得5回もミハエル・シューマッハに抜かれたが、46歳での最年長チャンピオンという記録は未だ破られていない(最年長優勝は[[ルイジ・ファジオーリ]]の53歳)。[[第二次世界大戦]]前のドライバー中心で始まった草創期のF1ではこの年齢は珍しくなかったが、ドライバーの事故死の危険が極めて高かった時代でもあった。 参戦51戦中24勝で勝率47.1%という記録は、極端に参戦数の少ないドライバーを除くと、圧倒的な数字である。数々のF1の記録を更新してきたミハエル・シューマッハをもってしても、最後までチャンピオン争いをした一度目の引退時における勝率が36.7%であり、シューマッハに次ぐ勝利数の[[アラン・プロスト|プロスト]]と[[アイルトン・セナ|セナ]]はともに25.5%であることから見ても、ファンジオの勝率は、F1草創期であるとは言え群を抜いている。後続のドライバーたちが安定した体制(フェラーリや[[マクラーレン]]など)で数字を伸ばしたのに対し、ファンジオは8年間に4チームを渡り歩いていた。 また、その紳士的な人柄でライバルや後輩から尊敬を集めていた。F1引退レースとなった1958年フランスグランプリでは、優勝した[[マイク・ホーソーン]]が敬意を評してファンジオを周回遅れにせず、ゴールまで後方に従ったというエピソードもあった。没後もなおファンジオは根強く支持されている。 == 特筆されるレース == 危機回避能力が極めて高いことで知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故から一人だけ事態を見抜いてたびたび危機を回避している<ref name="newhighspeeddriving-140">『新ハイスピード・ドライビング』p.140。</ref>。 ;[[1950年モナコグランプリ]] :1周目にタバココーナーで多重接触事故が発生し、リタイアしたマシン10台がコースを塞いだ。先頭のファンジオはその状況を知らないまま2周目に入ったが、事故現場のブラインドコーナー手前で減速し、もらい事故を回避した。ファンジオは観客の視線が自分ではなくコースの方を向いていることに気付き、咄嗟にコース上の危険な状況を察知したという<ref>『F1倶楽部 vol.6 モナコグランプリ物語』 双葉社、1994年、43 - 44頁。</ref>。 ;[[1953年イタリアグランプリ]] :[[モンツァ・サーキット]]にて最終周回の直線で先行していた[[アルベルト・アスカリ]]と[[ジュゼッペ・ファリーナ]]は遅い車に邪魔されて2台ともクラッシュしたが、そのすぐ後ろを入っていたファンジオは一瞬で事態を見抜き、衝突を避けて優勝した<ref name="newhighspeeddriving-140" />。 ;[[1955年のル・マン24時間レース]] :[[ピエール・ルヴェー]]の[[メルセデス・ベンツ]]がランス・マックリンのヒーレーに追突してコースを飛び出して観客80人を死亡させる大混乱の中、そのすぐ後ろを走っていた<ref name="newhighspeeddriving-140" />にもかかわらず、ルヴェーが手を挙げたのを見て危険を察知<ref name="deathrace-167">『死のレース 1955年 ルマン』p.167。</ref>、マックリンのヒーレーとホーソーンの[[ジャガー・Dタイプ]]の間に僅かな空間を見つけ<ref name="deathrace-167" />その隙間を縫って間一髪でもらい事故を回避した<ref name="newhighspeeddriving-140" />。ファンジオのメルセデス・ベンツには[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]の緑色のペイントが付着していた<ref name="deathrace-167" />。この大惨事によって精神的に大きなショックを受けたファンジオは、これ以後生涯一度たりともル・マン24時間レースに出走する事はなかった。 ;[[1955年イギリスグランプリ]] :[[メルセデスAMG F1|メルセデス]]時代、ファンジオと若き[[スターリング・モス]]は理想的な師弟関係を築いた。モスはファンジオの後衛を務め、ファンジオ-モスの順でワンツーフィニッシュを重ねたが、モスの地元イギリスグランプリだけは逆になった。レース中、モスは手で追い抜くよう合図したが、ファンジオは抜こうとせず、モスがF1初優勝を達成した。レース後、モスが譲ってくれたことに礼を述べると、ファンジオは「違うよ、君が速かったんだ」とだけ答えた。 ;[[1956年イタリアグランプリ]] :チャンピオン決定戦となった最終戦イタリアグランプリで、ファンジオはマシントラブルに見舞われピットに戻った。当時のルールではマシンの乗換えが認められたが、[[ルイジ・ムッソ]]は[[チームオーダー]]を無視した。しかしフェラーリの同僚[[ピーター・コリンズ]]は自らのタイトルの権利を捨ててファンジオにマシンを譲り、ファンジオが3連覇を達成するという美談があった(当時の規定では、1台を2人のドライバーが乗り継いでゴールした場合、得点が半分ずつ得られたため)。 ;[[1957年モナコグランプリ]] :2周目、まだスタート直後で全車が一団となって走っている中で先頭のスターリング・モスが障壁に衝突し、続いていた[[マイク・ホーソーン]]とピーター・コリンズが避けきれずに多重衝突となり3台の車でほとんどコースが塞がった中、すぐ後ろを走っていたにもかかわらず[[マセラティ]]を巧みに操り危機を切り抜け優勝した<ref name="newhighspeeddriving-140" />。 ;[[1957年ドイツグランプリ]] [[ファイル:Juan Manuel Fangio Nurburgring 1957.jpg|thumb|right|160px|ニュルブルクリンクで優勝したファンジオ]] :ファンジオのレースキャリアの中でも、この年の[[ニュルブルクリンク]]でのドイツグランプリはベストレースと評される。 :マセラティチームは燃料再給油・タイヤ交換作戦を計画し、ファンジオは充分なリードを築いてからピットインしたが、ピット作業に手間取って首位から3位に転落した。コース復帰後もペースが上がらないのを見たフェラーリチームは、1、2位のドライバーに安全に順位をキープするためペースダウンの指示を送った。 :しかし、これは逆転を狙うファンジオが仕掛けた「罠」であった。ファンジオは猛烈なペースアップを開始し、40秒近くあったフェラーリ勢との差をみるみる縮めた。全長が23km近くあるニュルブルクリンクでは1周の間に先行車との差を大きく詰めることが可能であり、かつオンボード無線機が存在しない当時、フェラーリ陣営のドライバーがファンジオの猛烈な追い上げを知る術はピットから示されるサインボードしかなかった。慌てたフェラーリ陣営は再度のペースアップを指示するも、集中力を極限まで高めたファンジオは残り2周で2台をかわし、奇跡的な逆転勝利を挙げた。 :ファンジオは予選で前年の[[ポールポジション]]タイムを26秒短縮していたが、レース中の[[ファステストラップ]]はそれよりも8秒早かった。名だたる難コースでの追走は神懸り的とも伝えられ、後に自身も「あのレースではかなりの危険を冒した」と述懐している。 == 誘拐事件 == [[1958年]]2月、ファンジオはノンタイトル戦のキューバグランプリに出場するため[[キューバ]]の首都[[ハバナ]]を訪れたが、[[フィデル・カストロ]]指揮下の「7月26日運動」のメンバーにより、宿泊先のホテルでピストルを突きつけられ、車で連れ去られた<ref>[http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/story/43519.html 特集:1958年キューバGP] - ESPN F1(2011年3月18日)</ref>。組織の目的はキューバグランプリを開催する[[フルヘンシオ・バティスタ|バティスタ]]政権の面目を潰すことにあり、ファンジオは隠れ家で手厚くもてなされた末に無事解放された。 隠れ家での滞在中、実行犯たちはファンジオの人柄に魅了され、ファンジオの方も[[ストックホルム症候群]]のような連帯感を抱くことになった。[[キューバ革命]]の成就を経て、ファンジオがこの世を去るまで両者の親交は続いたという。 == レース戦績 == === 第2次世界大戦後のグランプリ・シーズン === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! エントラント ! シャシー ! エンジン ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 |- ! [[1948年のグランプリ・シーズン|1948年]] ! [[ゴルディーニ|エキップ・ゴルディーニ]] ! [[ゴルディーニ|シムカ・ゴルディーニ]] [[シムカ・ゴルディーニ Type 11|T11]] ! [[ゴルディーニ|シムカ・ゴルディーニ]] 1.4 [[直列4気筒|L4]] | [[1948年モナコグランプリ|MON]] | [[1948年スイスグランプリ|SUI]] |bgcolor="#EFCFFF"| [[1948年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> | [[1948年イタリアグランプリ|ITA]] | [[1948年イギリスグランプリ|GBR]] |- ! [[1949年のグランプリ・シーズン|1949年]] ! [[アルゼンチン自動車クラブ|アウトモヴィリ・クラブ・アルヘンティーノ]] ! [[マセラティ]] [[マセラティ・4CLT|4CLT/48]] ! [[マセラティ]] 4CLT 1.5 [[直列4気筒|L4]][[スーパーチャージャー|s]] | [[1949年イギリスグランプリ|GBR]] |bgcolor="#EFCFFF"| [[1949年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> | [[1949年スイスグランプリ|SUI]] |bgcolor="#EFCFFF"| [[1949年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> | [[1949年イタリアグランプリ|ITA]] |- |} * '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:Motorsport driver results legend|key]]) === F1 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! エントラント ! シャシー ! エンジン ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! WDC ! [[F1世界選手権ポイントシステム|ポイント]] |- ! [[1950年のF1世界選手権|1950年]] !rowspan="2" | [[アルファロメオ]] ! [[アルファロメオ・158|158]] !rowspan="2" | [[アルファロメオ]] 158 1.5 [[直列8気筒|L8]][[スーパーチャージャー|s]] |bgcolor="#EFCFFF"| [[1950年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1950年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>1</small> | [[1950年のインディ500|500]] |bgcolor="#EFCFFF"| '''[[1950年スイスグランプリ|SUI]]'''<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#FFFFBF"| [[1950年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>1</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1950年フランスグランプリ|FRA]]'''''<br /><small>1</small> |bgcolor="#EFCFFF"| '''''[[1950年イタリアグランプリ|ITA]]'''''<br /><small>Ret<sup>*</sup></small> | | | | |bgcolor="#DFDFDF"| '''2位''' |bgcolor="#DFDFDF"| '''27''' |- ! [[1951年のF1世界選手権|1951年]] ! [[アルファロメオ・158|159]] |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1951年スイスグランプリ|SUI]]'''''<br /><small>1</small> | [[1951年のインディ500|500]] |bgcolor="#CFCFFF"| '''''[[1951年ベルギーグランプリ|BEL]]'''''<br /><small>9</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1951年フランスグランプリ|FRA]]'''''<br /><small>1<sup>*</sup></small> |bgcolor="#DFDFDF"| [[1951年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>2</small> |bgcolor="#DFDFDF"| ''[[1951年ドイツグランプリ|GER]]''<br /><small>2</small> |bgcolor="#EFCFFF"| '''[[1951年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#FFFFBF"| ''[[1951年スペイングランプリ|ESP]]''<br /><small>1</small> | | | |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |bgcolor="#FFFFBF"| '''31<br>(37)''' |- ! [[1953年のF1世界選手権|1953年]] !rowspan="2" | [[マセラティ]] ! [[マセラティ・A6GCM|A6GCM]] ! [[マセラティ]] A6 2.0 [[直列6気筒|L6]] |bgcolor="#EFCFFF"| [[1953年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>Ret</small> | [[1953年のインディ500|500]] |bgcolor="#EFCFFF"| [[1953年オランダグランプリ|NED]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#EFCFFF"| '''[[1953年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>Ret<sup>*</sup></small> |bgcolor="#DFDFDF"| ''[[1953年フランスグランプリ|FRA]]''<br /><small>2</small> |bgcolor="#DFDFDF"| [[1953年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>2</small> |bgcolor="#DFDFDF"| [[1953年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>2</small> |bgcolor="#DFFFDF"| '''[[1953年スイスグランプリ|SUI]]'''<br /><small>4<sup>*</sup></small> |bgcolor="#FFFFBF"| ''[[1953年イタリアグランプリ|ITA]]''<br /><small>1</small> | | |bgcolor="#DFDFDF"| '''2位''' |bgcolor="#DFDFDF"| '''28<br>(29 {{分数|1|2}})''' |- !rowspan="2" | [[1954年のF1世界選手権|1954年]] ! [[マセラティ・250F|250F]] ! [[マセラティ]] 250F1 2.5 [[直列6気筒|L6]] |bgcolor="#FFFFBF"| [[1954年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>1</small> | [[1954年のインディ500|500]] |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1954年ベルギーグランプリ|BEL]]'''''<br /><small>1</small> | | | | | | | | |rowspan="2" bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |rowspan="2" bgcolor="#FFFFBF"| '''42<br>(57 {{分数|1|7}})''' |- !rowspan="2" | [[メルセデスAMG F1|ダイムラー・ベンツ]] ([[メルセデスAMG F1|メルセデス]]) !rowspan="2" | [[メルセデス・ベンツ・W196|W196]] !rowspan="2" | [[メルセデスAMG F1|メルセデス]] M196 2.5 [[直列8気筒|L8]] | | | |bgcolor="#FFFFBF"| '''[[1954年フランスグランプリ|FRA]]'''<br /><small>1<sup>†</sup></small> |bgcolor="#DFFFDF"| '''''[[1954年イギリスグランプリ|GBR]]'''''<br /><small>4<sup>†</sup></small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''[[1954年ドイツグランプリ|GER]]'''<br /><small>1</small> |bgcolor="#FFFFBF"| ''[[1954年スイスグランプリ|SUI]]''<br /><small>1</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''[[1954年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>1<sup>†</sup></small> |bgcolor="#FFDF9F"| [[1954年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>3</small> | | |- ! [[1955年のF1世界選手権|1955年]] |bgcolor="#FFFFBF"| [[1955年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>1</small> |bgcolor="#EFCFFF"| '''''[[1955年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>Ret</small> | [[1955年のインディ500|500]] |bgcolor="#FFFFBF"| ''[[1955年ベルギーグランプリ|BEL]]''<br /><small>1</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''[[1955年オランダグランプリ|NED]]'''<br /><small>1</small> |bgcolor="#DFDFDF"| [[1955年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>2</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''[[1955年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>1<sup>†</sup></small> | | | | |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |bgcolor="#FFFFBF"| '''40<br>(41)''' |- ! [[1956年のF1世界選手権|1956年]] ! [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] ! [[ランチア・D50|D50]] ! [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] DS50 2.5 [[V型8気筒|V8]] |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1956年アルゼンチングランプリ|ARG]]'''''<br /><small>1<sup>*</sup></small> |bgcolor="#DFDFDF"| '''''[[1956年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>2<sup>*</sup></small> | [[1956年のインディ500|500]] |bgcolor="#EFCFFF"| '''[[1956年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#DFFFDF"| '''''[[1956年フランスグランプリ|FRA]]'''''<br /><small>4</small> |bgcolor="#FFFFBF"| [[1956年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>1</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1956年ドイツグランプリ|GER]]'''''<br /><small>1</small> |bgcolor="#DFDFDF"| '''[[1956年イタリアグランプリ|ITA]]'''<br /><small>2<sup>*</sup></small> | | | |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |bgcolor="#FFFFBF"| '''30<br>(33)''' |- ! [[1957年のF1世界選手権|1957年]] ! [[マセラティ]] !rowspan="2" | [[マセラティ・250F|250F]] !rowspan="2" | [[マセラティ]] 250F1 2.5 [[直列6気筒|L6]] |bgcolor="#FFFFBF"| [[1957年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>1</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1957年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>1</small> | [[1957年のインディ500|500]] |bgcolor="#FFFFBF"| '''[[1957年フランスグランプリ|FRA]]'''<br /><small>1</small> |bgcolor="#EFCFFF"| [[1957年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#FFFFBF"| '''''[[1957年ドイツグランプリ|GER]]'''''<br /><small>1</small> |bgcolor="#DFDFDF"| '''[[1957年ペスカーラグランプリ|PES]]'''<br /><small>2</small> |bgcolor="#DFDFDF"| [[1957年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>2</small> | | | |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |bgcolor="#FFFFBF"| '''40<br>(46)''' |- !rowspan="3" | [[1958年のF1世界選手権|1958年]] ! スクーデリア・スッド・アメリカーナ ([[マセラティ]]) |bgcolor="#DFFFDF"| '''''[[1958年アルゼンチングランプリ|ARG]]'''''<br /><small>4</small> | [[1958年モナコグランプリ|MON]] | [[1958年オランダグランプリ|NED]] | | | | | | | | !rowspan="3" | 14位 !rowspan="3" | 7 |- ! ノバイ・オート・エアー・コンディショナー ! 500F ! [[ノバイ・エンジン|ノバイ]] 3.0 [[直列8気筒|L8]][[スーパーチャージャー|s]] | | | |bgcolor="#FFCFCF"| [[1958年のインディ500|500]]<br /><small>DNQ</small> | | | | | | | |- ! ファン・マヌエル・ファンジオ ([[マセラティ]]) ! [[マセラティ・250F|250F]] ! [[マセラティ]] 250F1 2.5 [[直列6気筒|L6]] | | | | | [[1958年ベルギーグランプリ|BEL]] |bgcolor="#DFFFDF"| [[1958年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>4</small> | [[1958年イギリスグランプリ|GBR]] | [[1958年ドイツグランプリ|GER]] | [[1958年ポルトガルグランプリ|POR]] | [[1958年イタリアグランプリ|ITA]] | [[1958年モロッコグランプリ|MOR]] |- |} * '''太字'''は[[ポールポジション]]、''斜字''は[[ファステストラップ]]。([[:Template:F1 driver results legend 2|key]]) * <sup>*</sup> : 同じ車両を使用したドライバーに順位とポイントが配分された。 * <sup>†</sup> : Car ran with streamlined, full-width bodywork. === ル・マン24時間レース === {| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center" ! 年 ! チーム ! コ・ドライバー ! 車両 ! クラス ! 周回数 ! 総合<br>順位 ! クラス<br>順位 |- ! [[1950年のル・マン24時間レース|1950年]] |align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ゴルディーニ|オートモビル・ゴルディーニ]] |align="left" | {{flagicon|ARG}} [[ホセ・フロイラン・ゴンザレス]] |align="left" | [[ゴルディーニ・T15S]] | S3.0 | 95 | DNF | DNF |- ! [[1951年のル・マン24時間レース|1951年]] |align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ルイ・ロジェ]] |align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ルイ・ロジェ]] |align="left" | [[タルボ (自動車メーカー)|タルボ・ラーゴ T26C]] |rowspan="2" | S5.0 | 92 | DNF | DNF |- ! [[1953年のル・マン24時間レース|1953年]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[アルファコルセ|S.P.A.アルファロメオ]] |align="left" | {{flagicon|ARG}} [[オノフレ・マリモン]] |align="left" | [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 3000 CM]] | 22 | DNF | DNF |- ! [[1955年のル・マン24時間レース|1955年]] |align="left" | {{flagicon|GER}} [[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー・ベンツAG]] |align="left" | {{flagicon|GBR}} [[スターリング・モス]] |align="left" | [[メルセデス・ベンツ・300SLR|メルセデス・ベンツ 300 SLR]] | S3.0 | 134 | DNF | DNF |- |} === セブリング12時間レース === {| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center" ! 年 ! チーム ! コ・ドライバー ! 車両 ! クラス ! 周回数 ! 総合<br>順位 ! クラス<br>順位 |- ! [[1954年のセブリング12時間レース|1954年]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ランチア|スクーデリア・ランチアCo.]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[エウジェニオ・カステロッティ]] |align="left" | [[ランチア・D24]] |rowspan="3" | S5.0 | 51 | DNF | DNF |- ! [[1956年のセブリング12時間レース|1956年]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[スクーデリア・フェラーリ]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[エウジェニオ・カステロッティ]] |align="left" | [[フェラーリ・モンツァ|フェラーリ・860 モンツァ]] | 194 |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |- ! [[1957年のセブリング12時間レース|1957年]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[マセラティ|マセラティ・ファクトリー]] |align="left" | {{flagicon|FRA}} [[ジャン・ベーラ]] |align="left" | [[マセラティ・450S]] | 197 |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |- |} === スパ24時間レース === {| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center" ! 年 ! チーム ! コ・ドライバー ! 車両 ! クラス ! 周回数 ! 総合<br>順位 ! クラス<br>順位 |- ! [[1953年のスパ・フランコルシャン24時間レース|1953年]] | {{flagicon|ITA}} [[アルファコルセ|S.P.A.アルファロメオ]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[コンサルヴォ・サネージ]] | [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 3000 CM Spider]] | S | 5 | DNF | DNF |- |} === ミッレミリア === {| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center" ! 年 ! チーム ! コ・ドライバー/ナビゲーター ! 車両 ! クラス ! 総合<br>順位 ! クラス<br>順位 |- ! [[1950年のミッレミリア|1950年]] |align="center" | - |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[アウグスト・ザナルディ]] |align="left" | [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 2500 Competizione]] | S+2.0 |bgcolor="#FFDF9F"| '''3位''' |bgcolor="#FFDF9F"| '''3位''' |- ! [[1952年のミッレミリア|1952年]] |align="center" | - |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ジュリオ・サラ]] |align="left" | [[アルファロメオ・1900|アルファロメオ・1900 Sprint]] | GT2.0 | 22位 | 7位 |- ! [[1953年のミッレミリア|1953年]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[アルファコルセ|S.P.A.アルファロメオ]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ジュリオ・サラ]] |align="left" | [[アルファロメオ・6C|アルファロメオ・6C 3000 CM]] |rowspan="3" | S+2.0 |bgcolor="#DFDFDF"| '''2位''' |bgcolor="#DFDFDF"| '''2位''' |- ! [[1955年のミッレミリア|1955年]] |align="left" | {{flagicon|GER}} [[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー・ベンツAG]] |align="center" | - |align="left" | [[メルセデス・ベンツ・300SLR|メルセデス・ベンツ 300 SLR]] |bgcolor="#DFDFDF"| '''2位''' |bgcolor="#DFDFDF"| '''2位''' |- ! [[1956年のミッレミリア|1956年]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[スクーデリア・フェラーリ]] |align="center" | - |align="left" | [[フェラーリ・290 MM]] | 4位 | 4位 |- |} === カレラ・パナメリカーナ === {| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center" ! 年 ! チーム ! コ・ドライバー/ナビゲーター ! 車両 ! クラス ! 総合<br>順位 ! クラス<br>順位 |- ! [[1953年のカレラ・パナメリカーナ|1953年]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ランチア|スクーデリア・ランチア]] |align="left" | {{flagicon|ITA}} [[ジーノ・ブロンツォーニ]] |align="left" | [[ランチア・D24|ランチア・D24 Pinin Farina]] | S+1.6 |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |bgcolor="#FFFFBF"| '''1位''' |- |} === インディアナポリス500 === {| class="wikitable" style="font-size: 80%; text-align:center" ! 年 ! シャシー ! エンジン ! スタート ! フィニッシュ ! チーム |- | [[1958年のインディ500|1958年]] | [[カーティス・クラフト]] | [[ノバイ・エンジン|ノバイ]] |colspan="2" bgcolor="#FFCFCF"| DNQ | [[ノバイ・エンジン|ノバイ・オート・エアー・コンディショナー]] |- |} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *ファン・マヌエル・ファンジオ/マルチェロ・ジャンベルトーネ共著、[[高斎正]]訳 『ファンジオ自伝』 [[二玄社]] 1974年(原題:''My Twenty Years of Racing'' ) *[[ポール・フレール]]著、[[小林彰太郎]]・武田秀夫訳 『新ハイスピード・ドライビング』 二玄社 ISBN 4-544-04044-2 *マーク・カーン著、相原俊樹訳 『死のレース 1955年 ルマン』 二玄社 ISBN 4-544-04043-4 == 関連項目 == {{commons&cat|Juan Manuel Fangio}} * [[モータースポーツ]] * [[F1世界チャンピオンの一覧]] * [[ドライバー一覧]] * [[F1ドライバーの一覧]] * [[国際モータースポーツ殿堂]] == 外部リンク == * [http://www.formula1.com/teams_and_drivers/hall_of_fame/268/ HALL OF FAME Juan Manuel Fangio] - F1公式サイト(英語) {{S-start}} {{s-sports}} {{succession box|title=[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]|years=[[1951年のF1世界選手権|1951年]]|before=[[ジュゼッペ・ファリーナ]]|after=[[アルベルト・アスカリ]]}} {{succession box|title=[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]|years=[[1954年のF1世界選手権|1954年]]-[[1957年のF1世界選手権|1957年]]|before=[[アルベルト・アスカリ]]|after=[[マイク・ホーソーン]]}} {{S-end}} {{アルファロメオ (F1)}} {{マセラティ (F1)}} {{メルセデス・グランプリ}} {{スクーデリア・フェラーリ}} {{F1ドライバーズチャンピオン}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふあんしお ふあんまぬえる}} [[Category:アルゼンチンのF1ドライバー]] [[Category:アルファロメオのF1ドライバー]] [[Category:マセラティのF1ドライバー]] [[Category:メルセデスのF1ドライバー]] [[Category:フェラーリのF1ドライバー]] [[Category:グランプリドライバー (1949年以前)]] [[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]] [[Category:スポーツカー世界選手権のドライバー]] [[Category:セブリング12時間勝者]] [[Category:米国自動車殿堂殿堂者]] [[Category:イタリア系アルゼンチン人]] [[Category:ブエノスアイレス出身の人物]] [[Category:1911年生]] [[Category:1995年没]]
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アラン・プロスト
アラン・マリー・パスカル・プロスト(Alain Marie Pascal Prost, 1955年2月24日 - )は、アルメニア系フランス人の元レーシングドライバー。1985年・1986年・1989年・1993年と4度のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた。愛称は「プロフェッサー」。 1999年に国際モータースポーツ殿堂(The International Motorsports Hall of Fame)入り。レーシングドライバーのニコラ・プロストは長男。 現役時にはその走りから「プロフェッサー」の異名をもっていた。ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナとは、1980年代から1990年代前半のF1を代表するドライバーとして、纏めて「四強」「ビッグ4」「F1四天王」等と称される。特に、再三チャンピオン争いを演じたセナとのライバル関係は度々話題に挙がり、日本では2人の対決は「セナ・プロ対決」と呼ばれた。 F1で通算51勝をあげており、2001年にミハエル・シューマッハが更新するまで最多勝記録であり、2020年現在では歴代4位。通算4度のドライバーズチャンピオン獲得は、シューマッハの7回、ルイス・ハミルトンの7回、ファン・マヌエル・ファンジオの5回に次いで、歴代4位の記録である。現在、フランス人で唯一のF1ドライバーズチャンピオンでもある。 フランス中部ロワール県の小さな町の、家具などを作る大工の子として生まれる。少年期は地元のプロサッカークラブ・ASサンテティエンヌを応援しプロサッカー選手になることを夢見てサッカーに明け暮れる毎日だった。14歳の時、休日に家族で訪れたニースでたまたま遊びで乗ったゴーカートがモーターレーシングの最初の一歩となった。 1972年にヨーロッパ・ジュニア・カート選手権でチャンピオンに輝くなど、1974年までに、フランス及びヨーロッパの幾つかのジュニアカート選手権で優勝。1975年には、フランスのシニアカート選手権を制覇。 1976年にジュニアフォーミュラに転向しフォーミュラ・ルノー・フランス選手権に参戦。全13戦中ガス欠でリタイアした最終戦を除いた12戦で勝利を挙げ、ポール・ポジション(以下:PP)6回、ファステストラップ(以下:FL)11回の成績でチャンピオンを獲得。1977年には、フォーミュラ・ルノー・ヨーロッパ選手権にステップアップし、6勝・3PP・7FLとここでもチャンピオンを獲得した。またこの年はノガロとエストリルでF2にもスポット参戦し、それぞれ10位・リタイアという結果を残している。 1978年、ヨーロッパF3選手権にマルティニMk21B・ルノーで参戦したが、全11戦中1勝、1PP・1FL・3リタイア(原因は全てエンジントラブル)と振るわず、ポーで行われたF2にもシェブロンB40・ハートで出走したが、こちらもエンジントラブルでリタイアであった。この年はフランスF3選手権にも参戦し、こちらではチャンピオンを獲得している。1979年、前年に引き続きヨーロッパF3にマルティニMk27・ルノーで参戦。全13戦中9勝、4ポールポジション、8ファステストラップでチャンピオンを獲得した。この年にもフランスF3選手権に参戦し、これを連覇している。 F3でチャンピオンとなったプロストは、母国のF1チーム・リジェに入ることを憧れており、1979年途中でリジェのレギュラーであるパトリック・デパイユがハンググライダー事故により長期欠場を強いられていた状況下でもあり、実際にギ・リジェと交渉も持ったが、リジェが「F3卒業したてでは、他にもジャッキー・イクスも乗りたいと言っているし、候補は多くいる。」と、プロストは多額のシート料を要求され、願いは叶いそうになかった。そこに、F3で9勝と圧勝したプロストの戦績にマールボロが興味を持ち、スポンサーをしていたマクラーレンでポール・リカール・サーキットをテスト走行する機会を設けた。そのテストで同じく有望な若手として参加していたケビン・コーガンより速かっただけでなく、レギュラードライバーであるジョン・ワトソンよりも速いタイムで走ったことから、マクラーレンは1980年のレギュラードライバーとしてプロストとの契約を申し出た。 開幕戦アルゼンチンGPにて、マクラーレン・M29でF1デビュー。予選12位から決勝6位と、デビュー戦での入賞を果たす。続く第2戦ブラジルGPでも5位に入った他、第8戦イギリスGPで6位、第11戦オランダGPで新シャシーM30をドライブし6位と、当時低迷期だったマクラーレンにおいて4度の入賞を記録し、ランキングは15位。チームメイトの先輩ジョン・ワトソンに対し、予選では13勝1敗と大きく勝ち越した。 チーム低迷期だったことから、シャシーが開幕時のM29、第5戦からM29C、第11戦からM30と変更続きで、信頼性不足でもありマシン側に起因する事故も数回経験し第3戦南アフリカGPでは予選初日にサスペンショントラブルでクラッシュし左手首を骨折してしまい同GP決勝と第4戦アメリカ西グランプリを欠場、最終戦アメリカ東グランプリ(ワトキンス・グレン)でも予選でクラッシュに見舞われプロストは頭部に強い衝撃を受けたため決勝を欠場している。 マクラーレンとは複数年契約がなされていたが、この年地元フランスのルノー・ワークスからオファーを受けて移籍を決意。マクラーレンにはロン・デニスが合流した直後で組織改革が進められている状況だったことから、「これまでのチーム・マクラーレンと、デニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で、契約を破棄した。 第3戦アルゼンチンGPにて3位となり、初表彰台を獲得。第8戦の母国フランスGPでは、予選3位からFLをマークしての初優勝を達成した。その後、第12戦オランダGPと第13戦イタリアGPを連勝するなど、計6度の表彰台でランキング5位となった。 一方でマシントラブルの多さにも悩まされ、表彰台に立った6レース以外は全てリタイアであった。 開幕戦南アフリカGP・第2戦ブラジルGPと2連勝を果たし、タイトル争いで先行したが、マシンの信頼性不足や自身のミスにより、以降の7戦中5回のリタイアなど入賞すらできないレースが続く。予選では5回のPPを含め、フロントローを9回獲得する速さを見せたが、結局優勝は序盤の2回のみ、最終的なランキングは4位に留まりチャンピオン獲得はならなかった。 また、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執が噂され、第11戦フランスGPでは、タイトルの可能性のあったプロストを先行させるようチームオーダーが出ていたが、アルヌーはこれを無視して優勝、プロストは2位に終わった。 この年、共に親友であったフェラーリのジル・ヴィルヌーヴとディディエ・ピローニのチームメイト同士の確執、その結末としてのヴィルヌーヴの事故死、また、ピローニを再起不能へ追い込んだ雨の事故といった出来事が、その後のレース人生に影響を与えた。 第3戦の母国フランスGPで、シーズン初勝利をPP、FL、優勝のハットトリックで達成すると、第6戦ベルギーGPでポールトゥウィンを飾るなど4戦連続で表彰台を獲得し、タイトル争いをリードする。以降も第9戦イギリスGP、第11戦オーストリアGPで優勝するなど、ブラバムのネルソン・ピケに対し、オーストリアGP終了時点では14ポイントのリードを築いていた。 しかし第12戦オランダGPにて、42周目にピケへの追い抜きを試みて接触し、シーズン初リタイアを喫す。ここから流れが変わってしまい、続く第13戦イタリアGPはリタイア、第14戦ヨーロッパGPは2位に終わり、この2戦を連勝したピケに2ポイント差にまで詰め寄られる。迎えた最終戦南アフリカGPでも流れを変えることはできず、見せ場のないままレース前半にリタイア。3位でフィニッシュしたピケに逆転され、2ポイント差でチャンピオンを逃した。 (特殊燃料の使用疑惑など)ブラバムの戦闘力向上に対してルノーは手をこまねいていたが、チームは敗戦の原因をプロストに転嫁。フランス国内でもバッシングを受け、チームを去ると共に家族揃ってスイスへ移住する。これにロン・デニスがアプローチしたことで、古巣マクラーレンへの復帰を決めた。 既に2度のドライバーズチャンピオンを獲得していたニキ・ラウダがチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった。予選では16戦中15戦でラウダを上回るなど、純粋な速さでは圧倒したが、タイトル争いはプロストが勝てば次はラウダ、ラウダが勝てば次はプロストと常に一進一退の緊迫した展開となった。 しかし確実に上位入賞しポイントを稼ぐラウダが次第に差を広げ、プロストは第14戦イタリアGPをリタイアした時点で自力チャンピオンの可能性を失う。それでも第15戦ヨーロッパGPで優勝し望みを繋ぎ、3.5ポイント差を追う状況で最終戦ポルトガルGPを迎えた。自身が優勝しラウダが3位以下なら逆転チャンピオンという条件の中、ラウダが予選で11位に埋もれ、プロストは予選2位でフロントローを得た。決勝でもプロストはレースの大半をリードしての優勝を飾ったが、対するラウダは後方グリッドからファステスト・ラップを出しながらの追い上げとなり、ファイナルラップで2位に浮上しチェッカーを受ける。その結果0.5ポイント差という、史上最小得点差でプロストはチャンピオンを逃した。この年のシーズン7勝は、当時歴代1位タイの記録だった(対するラウダは5勝)。また、プロストのF1キャリアで唯一の「年間を通しての総獲得ポイントでチームメイトに負けた」シーズンとなった(1988年はアイルトン・セナにチャンピオンの座を取られているが、当時は有効ポイント制(1988年の場合は、16戦中11戦のポイントが採用)が採用されていた為、年間を通しての総獲得ポイントではプロストが105ポイント、セナが94ポイントで、プロストの方が11ポイント多い) この年までのプロストは、予選から速さを前面に押し出す激しいスタイルだったが、2年連続僅差でチャンピオンを逃したこと、特にこの年ラウダの決勝レースに照準を合わせた走りの強さを身をもって体感したことが教訓となり、後のドライビングスタイルに大きく影響したシーズンとなった。 また結果論ではあるが、第6戦モナコGPでの行為が、チャンピオン争いに影響したとしばしば話題に上がることとなった。豪雨となったレースで、プロストは危険なコンディションであるためにレースの早期終了をアピール。規定周回数以下でレースは打ち切りとなり、優勝したプロストには本来の半分の4.5ポイントが与えられた。しかし、もしそのままレースが続行されていれば、猛追していたアイルトン・セナとステファン・ベロフに仮に抜かれていたとしても、正規のポイントならば2位でも6ポイントを獲得でき、ラウダを抑えてチャンピオンを獲得していたことになるためである。 開幕戦ブラジルGPで優勝し幸先の良いスタートを切る。ラウダには前年までの強さは見られず、この年をもって引退。チャンピオン争いはフェラーリのミケーレ・アルボレートとの一騎打ちとなる。共に安定した成績を収めており、シーズン開始から中盤にかけては、アルボレートがランキングトップに立つこともあるなど、ポイント数は拮抗していたが、第12戦イタリアGP以降アルボレートの成績は突如乱れ、終盤5戦は全てノーポイントに終わる。これに対しプロストは、特に中盤から後半戦で着実にポイントを重ねたためこの差が明暗を分け、最終的には5勝を含め11回の表彰台を獲得し、20ポイント差でチャンピオンを獲得。フランス人として初の栄誉となった。 第3戦サンマリノGPでシーズン初勝利を記録し、第4戦モナコGPでも連勝となった。この年はウィリアムズ・ホンダ勢のマンセル、ピケとのチャンピオン争いとなり、特に中盤以降ウィリアムズ優勢の中でシーズンが進むが、第6戦カナダGPからの4戦連続表彰台、ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦オーストリアGPでの優勝など確実に結果を残し、チャンピオンの可能性を残したまま最終戦オーストラリアGPを迎えた。 プロストはこの段階でランキング2位の64ポイントを獲得しており、ランキング首位のマンセル(70ポイント)に6ポイント差をつけられており、オーストラリアGPでマンセルを逆転してチャンピオンとなるには「プロスト自身が優勝し、かつマンセルが4位以下」という同年これまでの成績を鑑みれば極めて不利な条件が付いていた。レースでもゲルハルト・ベルガーと接触し32周目に予定外のピットインを強いられるなど苦しい展開となったが、この際プロストのタイヤの摩耗が予想を下回っていたため、グッドイヤーのタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝え、これがレース終盤の争いに影響を及ぼす。 まず63周目にそれまでトップを独走していたチームメイトのケケ・ロズベルグの右リアタイヤがバーストしリタイアすると、64周目に代わってトップに立ったマンセルも左リアタイヤをバーストさせリタイアとなった。これによりグッドイヤーから「ピケのタイヤを交換した方がいい。安全を保障できない」と言われたウィリアムズ・ホンダ陣営は65周目にマンセルに代わってトップに立ったピケのタイヤ交換を急遽行い、この間にプロストが首位に立った。その後、燃費に問題を抱えたマシンでピケの猛追を抑えたプロストがそのまま優勝し、6ポイント差を逆転しチャンピオンとなった。2年連続王座は1959年と1960年のジャック・ブラバム以来26年ぶりの快挙だった。 開幕戦ブラジルGPを制し、第3戦ベルギーGPでは同僚・ステファン・ヨハンソンとの1-2フィニッシュでシーズン2勝目を挙げランキングトップに立つなど好調な序盤だったが、前年と同じくウィリアムズのピケとマンセルがホンダ・ターボパワーの優位を生かしシーズンを支配した。プロストは年間3勝を上げたものの、搭載するTAGポルシェエンジンとホンダエンジンとのパワー差から苦戦を強いられ、ランキングは4位に留まった。しかし、第12戦ポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身の通算28勝目となり、1973年にジャッキー・スチュワートが記録した最多優勝回数27を14年ぶりに更新しF1史上最多勝利者となった。また、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14戦メキシコGPまでタイトルの可能性を残していた。 第15戦日本GPでは、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾(26位)まで順位を落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース中35周目にプロストが記録したファステストラップ1分43秒844は、優勝したフェラーリのベルガーのベストラップ1分45秒540より1.7秒も速いものだった。ジャーナリストのアラン・ヘンリーはこの時の走りを絶賛し、「すでにチャンピオンの可能性も無く、チームリーダーとしての自尊心だけが原動力であり、彼には何の見返りがなくても恐ろしく速く走る能力があることを証明した。」と称えた。 1987年イタリアグランプリ開催中の9月4日、来季からのマクラーレンとホンダの提携が発表され、翌年からプロストもホンダパワーで戦えることになった。 ホンダ・RA168Eエンジンに合わせて開発したニューマシンMP4/4を投入。チームメイトにはロータスからアイルトン・セナが加入。この年、マクラーレンは開幕から11連勝する新記録を樹立し、プロストとセナ2人で全16戦中15勝を挙げるなどシーズンを完全に席巻した。加えて15勝中の10勝は1-2フィニッシュであり、3位以下を全て周回遅れにするレースもあるなど他を圧倒したシーズンだった。 チーム体制がジョイントNo.1だった為、2人は毎戦のようにバトルを繰り広げ、ポイントは分散した。チャンピオン争いの最中だった第13戦ポルトガルGPでは、赤旗再スタートの直後にプロストがセナに幅寄せを行い、1周目終了のメインストレートではセナが報復するかのように幅寄せを行った。これを機に、それまで良好な関係を築いていたセナとの間に溝が出来始める。タイトル争いは終盤までもつれ込むが、第15戦日本GPでセナに抜かれて2位に終わり、そのままセナの初タイトル獲得が決定した。プロストは16戦中優勝7回・2位7回と安定した成績を残し、総獲得ポイントではセナを11ポイント上回っていたが、当時の有効ポイント制により王座を逃す結果となった。 ターボエンジンからNA(自然吸気)エンジンへとレギュレーションが改革されたこの年も、マクラーレン・MP4/5は全16戦中10勝をあげる高い戦闘力を持っていたが、チームメイトであるセナとの確執は、この年の第2戦サンマリノGPに決定的となる。フェラーリのベルガークラッシュ炎上事故後の再スタート前にセナとプロストの間には、『スタート直後の最初のコーナーを抜けるまではお互い勝負しない』という「紳士協定」が結ばれていた。スタートで先行したプロストではあったが、最初のコーナーをタンブレロとするかトサとするかで2人の解釈に齟齬が生じ、セナはトサコーナーであっさりとプロストを抜き去ってしまった(1回目のスタート時はセナが先行したため問題は発生しなかった)。紳士協定を反故にしたとして怒ったプロストは、3位までの入賞者に義務づけられている記者会見をボイコットして自家用ヘリでサーキットを去り、後日罰金を科せられた。 チーム崩壊を恐れたロン・デニス(デニスはこの紳士協定を関知していなかった)を交えた翌週の三者会談で、セナは「紳士協定は1回目のスタートのみ」「協定はトサ・コーナー入り口のブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニスに促され、最後は渋々ながら非を認め謝罪、これにより両者は一旦和解した。しかし、今度は「和解時の話し合いの内容を口外しない」という紳士協定をプロストが破り、セナの不誠実さに対する非難を交えながら仏紙レキップの記者にリーク。2人の溝はいよいよ埋められないものとなって行く。 その後、デニスの説得にもかかわらず、プロストはシーズン中盤の地元フランスGPを前にマクラーレン離脱を発表、決勝レースでは一度もトップを譲らず完勝する。ルノーエンジンを擁するウィリアムズから巨額の契約金をオファーされるが、最終的にフェラーリへの移籍を決断。フェラーリの地元イタリアGPを前に正式発表し、そのレースでも優勝を飾る。ホンダの記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリアの観衆に熱烈歓迎されるプロストにより達成という結果になった。この際、表彰式の時に契約上チームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、デニスが不快感を示した。また、度重なるエンジン待遇差別発言に業を煮やしていたホンダの怒りも頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告してきた。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」するとともに、ホンダにも謝罪した。 日本GPの予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストはウィングを若干寝かせストレートでのスピードを伸ばすセッティング変更を、ダミーグリッド上で決断する。 決勝レースでは、スタートでセナの前に出たプロストは、セナがコーナーで接近しても直線で引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回の最終コーナー手前のシケイン、イン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーにアプローチしたプロストが接触し、両者は並んでコース上に停止。即座にマシンを降りたプロストはコントロールタワーへ向かい、接触の原因はセナの無謀な追い越しにあると非難した。一方コースに復帰しトップでチェッカーを受けたセナは、レース後に「コース復帰時のシケイン不通過」を理由に失格の裁定を下された。これに対して多くのドライバーから「シケインを通過できなかったとき、マシンをUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコースに復帰したセナの行為を危険と見なすのはおかしい」という抗議がなされたため、セナの失格の理由は「押しがけ(これは元々レギュレーションで禁止されている)」に変更された。 接触をめぐり、プロストとセナのどちらが悪いかでメディアやファンの間で論争が続いた。プロストはレース前にメディアに対して「セナに対してもうドアは開けない(譲らない)」と宣言しており、それを実行した形となった。2週間後の最終戦オーストラリアGP決勝は「豪雨のため危険すぎる」としてプロストは棄権したが、タイトルを争うセナが雨中で他車に追突しリタイア、ノーポイントに終わったために日本GPでのセナの裁定結果を待たずに、3度目のワールドチャンピオンを獲得した。 プロストはチャンピオンに与えられるカーナンバー"1"を手土産にフェラーリに移籍、ナイジェル・マンセルをチームメイトとしてマクラーレンに残ったセナと3年連続でチャンピオン争いを繰り広げることとなる。 ニューマシンフェラーリ641で迎えた開幕戦アメリカGPは散々な結果だったものの、続く第2戦ブラジルGPでは、首位のセナと中嶋悟の接触事故の後に首位にたち、移籍後初勝利をあげる。第6戦メキシコGPでは13位スタートながら、タイヤ無交換作戦で順位を上げて逆転優勝した。ここから3連勝、特に第7戦フランスGPでの母国優勝は、フェラーリにとってF1通算100勝目であった。第8戦イギリスGP終了時点では一旦ランキングトップに立つが、この年はセナも安定して成績を収めており、第9戦ドイツGP以降は再度リードを許した。 当時は画期的なセミオートマを採用し、空力ではマクラーレンを駕いでいたとされる。 第13戦ポルトガルGPでは予選でマンセルがPPを獲得、プロストも2位でフロントロウを独占するが、決勝スタートでマンセルがプロストに幅寄せし(マンセルはレース後故意ではなかったと釈明)、予選での好調を無駄にするように3位と5位に順位を下げる展開となってしまった。結果的にマンセルは挽回し優勝を手にしたが、プロストはマンセルのスタートでの行動をコントロールできなかったチェーザレ・フィオリオ監督のマネージメント能力を疑い始めるきっかけとなった。翌年「フィオリオにチームを強くする力がないと思い始めたのはポルトガルでマンセルのスタートを制御できなかったのがきっかけだ。」と告白することになる。 第14戦スペインGPでシーズン5勝目を挙げて望みを繋ぎ、セナが9ポイントをリードした状況で第15戦日本GPを迎える。スタートではプロストが先行したが、第1コーナーへ進入する際に、先行していたアウト側のプロストをイン側からセナが押し出す形でリタイアとなり、チャンピオンを逃すこととなった。同じサーキットで同じドライバー同士が、2年連続で接触してのチャンピオン決定劇と言う後味の悪い結末となった。1年後にセナはスタート直後「故意にぶつけた」ことを認めている。 1991年のフェラーリは、前年のマシン641/2をレギュレーション改訂に合わせて642として投入。プレシーズンのテスト結果は好調であったが、開幕してみると優勝争いには加われず結果が伸び悩んだ。 641/2がベストハンドリングマシンと言われたのに対し、642では新レギュレーションによりウイング幅やディフューザーの縮小などでダウンフォースが減少したため、それまでのハンドリングのよさが失われ、戦闘力を欠くこととなった。搭載するTipo037・V12エンジンが重く、馬力でホンダRA121EエンジンやルノーRS3エンジンより劣りはじめたことも不利に働いた。フェラーリの地元となる第3戦サンマリノGPでは、スコールにより急激に濡れた路面でフォーメーションラップ中にスピンしてコースアウトを喫し、そのままDNS(未出走)となってしまう失策もあった。第4戦モナコGP後には、前年終盤以後プロストと意見が対立しニューマシンの導入時期を見誤ったチェーザレ・フィオリオ監督が5月14日フェラーリ取締役会議により更迭された。 7月の第1週に開催されたフランスGPで新型643が実戦投入されたが、開幕戦に持ち込んだ642の完敗を受け急ピッチで実質3ヶ月という短期間で製作された経緯を持ち、十分な事前テストが出来ないまま実戦デビューさせざるを得なかった。フランスGPでは、プロストが予選2位からスタートし、レース序盤マンセルと優勝争いを演じて復調を思わせたが、以後はまた中位に沈み、チームとの関係は悪化する。夏の高速3連戦(フランス・イギリス・ドイツ)ではマクラーレン・ホンダとは戦えたが、ウィリアムズ・ルノーには歯が立たなかった。以後の後半戦ではマクラーレンにも歯が立たなくなる。 第15戦日本GPを4位で完走したが、その終了後に「今のフェラーリは赤いカミオン(大型トラック)だ」と発言したことでフェラーリ首脳の逆鱗に触れ、最終戦を待たずしてチームから契約解除を言い渡され、解雇となった。フィオリオの後任としてフェラーリのマネージングディレクターに就いていた元ランチアのクラウディオ・ロンバルディは「プロストはチームの外に向けて、致命的なコメントを出しすぎた」と解雇理由を語った。結局この年はデビューイヤー以来11年ぶりとなる「優勝が1度も無い」不本意な成績に終わった。 フェラーリ解雇後は自チーム結成に向けて動きを見せる。ルノーエンジンを搭載するリジェを買収するための交渉を行い、自らリジェ・JS37のテストドライブもした。また、マクラーレン時代のデザイナーであるジョン・バーナードと共にトムスGBを母体とした新チーム設立を試み、トヨタからエンジン供給を引き出そうと動いた。しかし、いずれも実現には至らず、結局1年間の休養を表明。フランスのテレビ局のF1中継解説者として浪人生活を送ることになった。 その一方、水面下でルノーの仲介によりウィリアムズと接触し、1993年からのウィリアムズ・ルノーへの加入を発表する。最強マシンを求めるセナを交えたシート争奪戦の結果、この年のF1ワールド・チャンピオンに輝いたマンセルがウィリアムズを去り、CARTシリーズへ転向する結果となった。 ウィリアムズとの契約条項にはセナのチーム入りを拒否する条項があったとされ、セナは公然とプロストを批判する。 1年の浪人生活からトップチームへと返り咲いた。 しかしながらこのプロスト、マンセル、セナという3名のチャンピオン同士によるシート争いでは政治的な動きが垣間見え、プロストの印象は良くないものだった。 前年に圧倒的なマシン性能差を見せつけたチームと、3度のチャンピオンという組み合わせが誕生。だが開幕前の予想とは裏腹にプロストにとって決して楽な展開にはならなかった。 シーズン前半戦はウェットレースが連続したこともあり、雨のレースを得意とするマクラーレンのセナに活躍を許す。復帰第1戦となる開幕戦南アフリカGPこそ幸先良く勝利するが、続く第2戦ブラジルGPではトップ走行中のレース中盤、突然のスコールに対してチームとの無線連絡が錯綜してタイヤ交換のタイミングを逸した挙げ句にアクアプレーン現象でコントロールを失いクラッシュしてリタイアに終わる。更に第3戦ヨーロッパGPでは雨が降ったり止んだりのコンディションに翻弄されて7度のピットインを繰り返してセナに惨敗(結果は3位)。第6戦モナコGPではポールポジションを獲得するも、スタートでフライングと判定され、ペナルティストップを命じられた際にエンジンをストールさせて大きくタイムロス、2周遅れの最下位からファステストラップを記録しながら追い上げたものの、1周遅れの4位に終わる(プロスト自身は1993年のベストレースを「モナコGP」と発言している)。その後は第7戦カナダGPで優勝してポイントリーダーに返り咲くと、第10戦ドイツGPにかけて自己最多の4連勝を記録、ドイツGPでは通算51勝目を挙げたが、結果的にこれが現役最後の勝利となる。 しかし中盤戦以降、フル参戦初年であったチームメイトのデイモン・ヒルが経験を積むと共に次第にプロストに対して牙を剥き出しにし始める。プロストの地元である第8戦フランスGPで自身初のポールポジションを獲得したのを皮切りに、第11戦ハンガリーGPから第13戦イタリアGPまで3連勝を飾るなど、終盤戦までタイトル争いがもつれることになった。チャンピオン決定目前でエンジンブローに終わったイタリアGP後に手記したプロスト自身のコラムには「デイモンの存在が真剣に僕の心を掻きむしるんだ」とある。 プロストの完全な独走とはならなかった要因としては、初めて経験するアクティブサスペンションの挙動に慣れるのに時間を要したことや、ライバルチームもハイテク装置を装備してウィリアムズの優位性が縮小したこと、ウィリアムズ・FW15Cのクラッチの扱いに手こずり何度かエンジンストールを演じて大幅に順位を落とした事が数度あったこと、ペナルティやトラブルでポイントを失ったことなどがある。 第14戦ポルトガルGPを迎え、プロストは「1年間慎重に考慮してきた結果」として当季限りでの現役引退を表明した。後のインタビューではシーズン前に起きたFISAのスーパーライセンス発給拒否騒動や、不可解なペナルティなどで精神的ストレスが溜まっていた事をほのめかし、「あらゆることに嫌気がさして疲れてしまった」と語った。また、ロードレース世界選手権 (WGP) チャンピオンであるウェイン・レイニーが9月5日の決勝レース中事故で半身不随となったことが、自身の身体的に良い状態で引退したいという気持ちにつながったとも語る。本来はチャンピオン獲得後に発表する意向だったが、翌季のウィリアムズ入りが内定しているセナが先走って情報を漏らしたため、レース前に記者会見を行う形となった。 ポルトガルGPでは2位に入賞し、4回目の世界チャンピオンの座を獲得した。この時点ではファンジオの5回に次ぐ歴代2位の記録だった。チェッカーを受けた後、コース上にやって来たファンから手渡されたフランス国旗を掲げて走行した。 その後の第15戦日本GPと最終戦オーストラリアGPでは共にセナ優勝、プロスト2位で終わった。最終戦オーストラリアGPでの表彰台ではデニスの仲介でセナと握手をしてみせた。この表彰式直前、パルクフェルメ内ではデニスを含めた3人で握手をしていた。 同年シーズンオフにはセナやヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバートらと共にパリにてカート大会に参加、これが名実共に最後の「セナプロ対決」となった。 1994年は、マクラーレンのテストドライブに参加、新車MP4/9のシェイクダウンやTF1のテレビ解説者としてサーキットに帯同。サンマリノグランプリでは、フリー走行中のセナに無線でインタビューしている。セナの死後にプロスト復帰説が流れた事もあったが、プロストは強く否定した。 ドライバー引退後、ルノーのアドバイザーに就任し「ルノー親善大使」を拝命。自身が出演したルノー・ルーテシアのテレビCMが日本でも放映されていた。すれ違いできないような細く曲がりくねった一方通行の道を間違って対向してきた女性ドライバーのために、プロスト(もルーテシアに乗っていた)がその女性ドライバーのルーテシアを猛スピードでバックさせてあげるという内容のCMだった。 ルノーとの契約を1995年半ばで打ち切り、プロストは同年のイタリアGP終了後、マクラーレンのテストドライブに参加する。「現役復帰か」と騒がれるが、結局テクニカル・アドバイザー兼テストドライバーとしてチームに加入した。1996年2月には新車MP4/11のシェイクダウンや同シーズンのテストを担当した。 一方1995年末には、フェラーリの監督で以前より親交のあったジャン・トッドから、ミハエル・シューマッハのサポート役としてフェラーリでの現役復帰を持ちかけられた事があったが、辞退していたと述べたことがある。 フランスの氷上レースである『アンドロス・トロフィー』にたびたび参戦し、2006-2007、2007-2008年シーズンはトヨタ・オーリス、2011-2012年シーズンはダチア・ロッジーを駆って総合優勝者となっている。 1997年にリジェを買収しF1チームのオーナーとなり、「プロスト・グランプリ」と改名しグランプリに参戦した。この年F1に参入したブリヂストンタイヤの性能もあり、参戦2戦目でオリビエ・パニスが表彰台を獲得し、翌3戦目には予選3位を獲得するなど、デビューイヤーとしては一定の活躍を見せた。しかしこの前年から既に契約が決まっていたプジョーの関係者をファクトリーに招き、無限エンジンを勝手に見せることなどをしたため無限首脳を激怒させた。1998年にはプジョーと手を組んでオールフレンチチームとなったが、好成績には繋がらず、結局2002年初めにチームは破産の憂き目にあった。 2003年からはフランスの氷上レース、アンドロス・トロフィーにオペル・アストラで参戦。2004年はフランストヨタの支援を得て、トヨタ・カローラで参戦している。トヨタとの関係が出来たことから、トヨタF1チームのアドバイザー就任が報じられたこともあったが、実現はしていない。 2005年、プレゼンターとしてフランスGPを訪問。久々にF1の舞台に姿を現し、優勝したルノーのフェルナンド・アロンソにトロフィーを手渡した。またアロンソはこの年、プロストが果たせなかった「ルノーのコンストラクターチャンピオン獲得」に貢献している。 またこの年は「Exagonエンジニアリング」よりクライスラーバイパーGTS-Rで、ジャン・ピエール・ジャブイーユをパートナーとしてフランスGT選手権に参戦。9月のル・マンと10月のマニ=クールでは、ジャブイーユに代わり実子のニコラをパートナーとしている。 2006年には、ルノーF1の日産ブランドへの変更とは別の話として、日産と組んでF1に参戦するのではないかと噂された。 2007年には、マクラーレン・チームのドライバー間の対立(ロン・デニスが昨シーズンチャンピオンのアロンソを差し置いて、ルーキーでデニスと同じイギリス人のルイス・ハミルトンに肩入れしているとされた問題)に関し、「以前にもデニスは自分よりセナを贔屓していた」と、自らの経験に基づいた発言が幾度かメディアに流れた。 2009年にはダチアと手を組み、氷上レース「アンドロス・トロフィー」に参戦。ダスターで2009-2010シーズンは総合2位、2012シーズンにはロッジーグレイスで総合1位の成績をおさめた。 2014年からは、フォーミュラEに参戦するe.DAMSに共同オーナーとして参加。同チームはニコラをドライバーとして起用しており、親子タッグが実現している。またこれと並行してルノーのブランドアンバサダーも務めた。 2016年よりワークスに復帰したルノーF1には初年度は関与せず、翌2017年からスペシャルアドバイザーに就任している。チームがアルピーヌF1となってからも引き続きチーム運営に関与していたが、2021年末にプロストは契約を打ち切りチームを離脱した。 ルノー所属時までは予選重視のアグレッシブな走りであったが、ニキ・ラウダにチャンピオン争いで僅差で敗れてからは決勝レースをより重視し、スムーズな加減速と追い抜きを武器にポイントを重ねるレース戦略を採るようになった。ライバルの動向も含めたレース展開全体を考慮し、安全マージンを取りつつも、必要に応じてペースを上げるような無駄のないレース内容を重ねるうち、「プロフェッサー」と呼ばれるほどになった。この頃よりファステストラップも多く獲得するようになった。 マクラーレンで黄金期を共に築いたマシンデザイナーのジョン・バーナードは1987年のインタビューで、「アラン・プロストの能力は優れている。デザイナー側の根本的なマシン設計ミスをそのセッティング能力でカバーしてしまう。マシンを造る側からしたらとても難しい相手でもある。」と述べ、1990年のインタビューでも、「私は1989年にフェラーリを離れる決心をしていたが、その夏にプロストがフェラーリに来るという話になった。彼が来ればフェラーリのマシンは彼のセットアップ能力によってタイトルを争える車に仕上がるだろう。私はフェラーリに残留することも真剣に考えたよ。」と述べ、「プロストはマシンセッティングのお手本」と発言している。 1986年のチームメイト、ケケ・ロズベルグの解説によれば、傍目にはスムーズに見えるプロストのコーナリングは、ブレーキをかけないまま曲がっていき、曲がりながらロック寸前までブレーキをかけ一気に転回し、そこから全開で加速する独特なもので、ロズベルグも真似したがどうしても出来なかったという。ロズベルグは付け加えて「記憶力と分析能力という重要な2つが特に備わっていた。どこをどうセッティングしたらこういうタイムになる、ということをすべて記憶していて実践できる。これはものすごい能力だった」と証言している。 ロズベルグの次にチームメイトとなったステファン・ヨハンソンも似た証言をしており、「マシンをセッティングしていくとき、プロストには独自の理論と知性があった。それがラウダと組んだとき覚えたことなのか判らないけど、エンジニアは彼の言っていることを聞いてその通りにするだけでいいんだ、すべて彼の言ったとおりの結果になるんだから。その記憶力はそばで見ていてショックを受けたし、彼の仕事を見て学ぶことが多かった。僕のあとマクラーレンに加入したセナも同じようにアランから学んだだろうと確信している」と話す。 1987年にヨーロッパラウンドを終えた中嶋悟が今宮純による取材を受けた際、F1に来て印象に残ったことを問われ、「僕たち日本人ドライバーは富士や鈴鹿をたくさん走り込んで自分の(セッティングの)形ってのを作るでしょ。プロストって、どこに行ってもすぐにその形ができちゃうわけ。一体どうなってるんだろうね?」と他チームながら驚いたと語っている。 プロストは「チームメイト用のセットアップでそのまま走れたのはラウダとセナだけ」と発言しており、マシンの持つ最大性能を引き出すセッティングは3人とも同じ方向であった。最後のチームメイトとなったデイモン・ヒルは、同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ないことをテレメトリーデータから知り、プロストの走法を学ぶようになった。 ニュートラルステアのマシンセッティングを好み、少ないハンドル操作量によりタイヤを傷めにくい走りを身につけていた。そのタイヤを労わって走る技術が活かされた例が1986年最終戦オーストラリアGPであり、接触ダメージのためプロストはレース中盤にピットインしたが、その際に交換したタイヤ表面の状態が想定より良好だったのを確認したグッドイヤーのタイヤエンジニアが「タイヤは交換しなくても大丈夫かもしれない」と他チームにインフォメーションをしたことが「マンセルのタイヤ交換をしない」というウイリアムズチームの判断につながり、結果的にマンセルは終盤タイヤの状態が厳しくなりバースト、リタイアとなった。マンセルはチャンピオンを逃し、このレースを逆転勝利したプロストがワールドチャンピオンとなった。1987年と1988年のブラジルGPでは猛暑の中、ライバルよりも1回少ないタイヤ交換で優勝している。1989年の同グランプリでは、予定されていた2回目のタイヤ交換が出来ず(クラッチトラブルの影響)、序盤に交換したタイヤで最後まで走り切り2位を獲得した。このレース後プロストは「優勝より嬉しい2位」と述べている。 後藤治(元ホンダF1プロジェクトリーダー)はメディアを利用してホンダ批判をしたプロストに良い印象を持っておらず、そのドライビングについて「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれてるが、あれほど実像からかけ離れたニックネームも珍しい。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしていて、どういう方向にクルマをセットアップすれば良いのか経験的にわかっているのが財産。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、ホンダを“エンジン操作している”と批判する発言を繰り返した。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使えてないんですよ。この時はもうNAエンジンになっていて、(ターボ時代と違って)燃費は関係ないから回転を抑えて走っても意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走ってターボ時代同様に回転を抑えて走っていた。こちら側からこの技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時MP4/5がまだアナログのタコメーターでしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方は抜群です。でも、今(2004年取材時)ならチャンピオンになれないでしょう」と厳しく評している。 プロストが自分用とセナ車との違いに疑念を抱きはじめたのは1989第5戦アメリカGPで、フェニックス市のビル街を飛び交う電波がセナ車のエンジンのECUを狂わせてリタイアに追い込まれるという珍しいトラブルが起こった。この症状はセナ車のみでプロスト車には発生しなかったことから、プロストは自分のエンジンとセナのエンジンのECUが同一ではないと考え、ホンダがセナを優遇していると主張するきっかけの一つとなった。この加速および燃費性能の差異には後年も納得しておらず、「ホンダスタッフは89年のエンジン燃費について繰り返しドライビングスタイルの違いだと説明して、ぼくのスロットルの使い方のせいで8%燃費が(セナよりも)悪くなっていると言った。でもテレメトリー解析を見てみれば2人とも同じ11800回転まで使い切っているし、セナは僕のスリップストリームから軽々と抜いて行けるけど僕はその逆はできない。エンジンそのものは二人とも同じだったと僕も思うけど、問題は燃費マネージメントシステムのコンピュータチップにあった。シーズン終了後には彼ら(ホンダ)はそこには違いがあったことをぼくに白状したんだよ。プレス関係者にもマクラーレンにさえもそれは知らせていないと言っていたが」と生じていた溝について語り、信頼関係が崩れていたと証言している。 こうして1989年の現場で意見の相違があったが、プロストはホンダに対してのリスペクトを無くした訳ではなく、1992年をもってF1を撤退したホンダが1998年に第3期F1活動の始動が報じられた際には、すでに自身がプロスト・グランプリオーナーとしてF1に参戦を開始していたが、「今回のホンダは強力なコンストラクターと組んで復帰という安易な道を選ばなかった。そうすればホンダはおそらくすぐにまたF1で勝つレベルに達すると思うけど、そうしなかった。これは素晴らしいチャレンジだし、F1にとってホンダが戻るのは素晴らしい事だ。私はホンダの決断に心からの敬意を表したい」とエールを述べている。 プロストは雨のレースを極端に苦手としている、と評されることが多い。雨を嫌うようになったのは、後述するディディエ・ピローニとの事故(1982年)が契機となっている。本人によるとピローニの事故に遭遇するまでは、雨の方が得意だった。また、滑ることが問題なのでは無く、前車の水煙が前方視界を奪ってしまうリスクを恐れている、と語っている。それを証明するように1984年モナコGPでは雨のなか優勝、1988年イギリスGPでは豪雨の中、良いところなく自主的にピットインしリタイヤしたが、次のドイツGPでは視界に影響しない程度のウエット・コンディションであったため、セナに次ぐ2位でフィニッシュしている。1989年の最終戦オーストラリアGPではあまりにも激しい雨だったため、他のドライバーに出走を取りやめるようスターティンググリッド上を一台一台歩いて回り働きかけを行い、強行された2回目のスタート後もプロストだけがマシンに乗らなかった。バーニー・エクレストンがスタートだけでもしてほしいと説得したが、「レーサーはそのテクニックで給料をもらってるんだ。こんな洪水の中で技量なんか関係ないじゃないか」と怒りをぶつけ意思を曲げなかった。その他、雨だった1991年サンマリノGPや1993年ブラジルGP、ヨーロッパGP、日本GPで勝利を逃している。 1982年の西ドイツGP(ホッケンハイムリンク)、第1日目フリー走行は視界が極端に悪い霧雨の中で行われたが、スタジアムセクション手前のストレートでスローダウンした前車をプロストが追い抜いたところ、後ろからアタック中だったピローニがこれを視認できず、ピローニ車の前輪がプロスト車の右後輪に乗り上げる事故が発生。ピローニ車はプロスト車を飛び越えて前方の路面に叩きつけられ、ピローニは両足を切断寸前の複雑骨折を負い、レーサー生命を絶たれるという惨事に発展してしまう。プロストに過失は一切なかったが、事故直後に目の当たりにした親友ピローニの惨状が、その後の人生において大きなトラウマとなった。 2012年の「F1速報PLUS」Vol.28において、「1980年のF1第14戦ワトキンズ・グレン(決勝は欠場した)で予選日にクラッシュした際に強く頭部を打ち、右目の視力が低下してしまった」ということが発覚している。とくに雨で日照がなく薄暗いコンディションでは前がよく見えなかったという。現役時代のプロストはこの症状を抱えていた事を公表していなかった。 このほか、サーキットコースの好みでは、「デトロイト市街地コースは嫌い」と発言したことがある。 カーナンバー 8(1980年) 15(1981-1983年) 7(1984年) 2(1985、1989、1993年) 1(1986、1987、1990年) 11(1988年) 27(1991年)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アラン・マリー・パスカル・プロスト(Alain Marie Pascal Prost, 1955年2月24日 - )は、アルメニア系フランス人の元レーシングドライバー。1985年・1986年・1989年・1993年と4度のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた。愛称は「プロフェッサー」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1999年に国際モータースポーツ殿堂(The International Motorsports Hall of Fame)入り。レーシングドライバーのニコラ・プロストは長男。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "現役時にはその走りから「プロフェッサー」の異名をもっていた。ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナとは、1980年代から1990年代前半のF1を代表するドライバーとして、纏めて「四強」「ビッグ4」「F1四天王」等と称される。特に、再三チャンピオン争いを演じたセナとのライバル関係は度々話題に挙がり、日本では2人の対決は「セナ・プロ対決」と呼ばれた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "F1で通算51勝をあげており、2001年にミハエル・シューマッハが更新するまで最多勝記録であり、2020年現在では歴代4位。通算4度のドライバーズチャンピオン獲得は、シューマッハの7回、ルイス・ハミルトンの7回、ファン・マヌエル・ファンジオの5回に次いで、歴代4位の記録である。現在、フランス人で唯一のF1ドライバーズチャンピオンでもある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "フランス中部ロワール県の小さな町の、家具などを作る大工の子として生まれる。少年期は地元のプロサッカークラブ・ASサンテティエンヌを応援しプロサッカー選手になることを夢見てサッカーに明け暮れる毎日だった。14歳の時、休日に家族で訪れたニースでたまたま遊びで乗ったゴーカートがモーターレーシングの最初の一歩となった。", "title": "初期の経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1972年にヨーロッパ・ジュニア・カート選手権でチャンピオンに輝くなど、1974年までに、フランス及びヨーロッパの幾つかのジュニアカート選手権で優勝。1975年には、フランスのシニアカート選手権を制覇。", "title": "初期の経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1976年にジュニアフォーミュラに転向しフォーミュラ・ルノー・フランス選手権に参戦。全13戦中ガス欠でリタイアした最終戦を除いた12戦で勝利を挙げ、ポール・ポジション(以下:PP)6回、ファステストラップ(以下:FL)11回の成績でチャンピオンを獲得。1977年には、フォーミュラ・ルノー・ヨーロッパ選手権にステップアップし、6勝・3PP・7FLとここでもチャンピオンを獲得した。またこの年はノガロとエストリルでF2にもスポット参戦し、それぞれ10位・リタイアという結果を残している。", "title": "初期の経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1978年、ヨーロッパF3選手権にマルティニMk21B・ルノーで参戦したが、全11戦中1勝、1PP・1FL・3リタイア(原因は全てエンジントラブル)と振るわず、ポーで行われたF2にもシェブロンB40・ハートで出走したが、こちらもエンジントラブルでリタイアであった。この年はフランスF3選手権にも参戦し、こちらではチャンピオンを獲得している。1979年、前年に引き続きヨーロッパF3にマルティニMk27・ルノーで参戦。全13戦中9勝、4ポールポジション、8ファステストラップでチャンピオンを獲得した。この年にもフランスF3選手権に参戦し、これを連覇している。", "title": "初期の経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "F3でチャンピオンとなったプロストは、母国のF1チーム・リジェに入ることを憧れており、1979年途中でリジェのレギュラーであるパトリック・デパイユがハンググライダー事故により長期欠場を強いられていた状況下でもあり、実際にギ・リジェと交渉も持ったが、リジェが「F3卒業したてでは、他にもジャッキー・イクスも乗りたいと言っているし、候補は多くいる。」と、プロストは多額のシート料を要求され、願いは叶いそうになかった。そこに、F3で9勝と圧勝したプロストの戦績にマールボロが興味を持ち、スポンサーをしていたマクラーレンでポール・リカール・サーキットをテスト走行する機会を設けた。そのテストで同じく有望な若手として参加していたケビン・コーガンより速かっただけでなく、レギュラードライバーであるジョン・ワトソンよりも速いタイムで走ったことから、マクラーレンは1980年のレギュラードライバーとしてプロストとの契約を申し出た。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "開幕戦アルゼンチンGPにて、マクラーレン・M29でF1デビュー。予選12位から決勝6位と、デビュー戦での入賞を果たす。続く第2戦ブラジルGPでも5位に入った他、第8戦イギリスGPで6位、第11戦オランダGPで新シャシーM30をドライブし6位と、当時低迷期だったマクラーレンにおいて4度の入賞を記録し、ランキングは15位。チームメイトの先輩ジョン・ワトソンに対し、予選では13勝1敗と大きく勝ち越した。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "チーム低迷期だったことから、シャシーが開幕時のM29、第5戦からM29C、第11戦からM30と変更続きで、信頼性不足でもありマシン側に起因する事故も数回経験し第3戦南アフリカGPでは予選初日にサスペンショントラブルでクラッシュし左手首を骨折してしまい同GP決勝と第4戦アメリカ西グランプリを欠場、最終戦アメリカ東グランプリ(ワトキンス・グレン)でも予選でクラッシュに見舞われプロストは頭部に強い衝撃を受けたため決勝を欠場している。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "マクラーレンとは複数年契約がなされていたが、この年地元フランスのルノー・ワークスからオファーを受けて移籍を決意。マクラーレンにはロン・デニスが合流した直後で組織改革が進められている状況だったことから、「これまでのチーム・マクラーレンと、デニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で、契約を破棄した。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第3戦アルゼンチンGPにて3位となり、初表彰台を獲得。第8戦の母国フランスGPでは、予選3位からFLをマークしての初優勝を達成した。その後、第12戦オランダGPと第13戦イタリアGPを連勝するなど、計6度の表彰台でランキング5位となった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一方でマシントラブルの多さにも悩まされ、表彰台に立った6レース以外は全てリタイアであった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "開幕戦南アフリカGP・第2戦ブラジルGPと2連勝を果たし、タイトル争いで先行したが、マシンの信頼性不足や自身のミスにより、以降の7戦中5回のリタイアなど入賞すらできないレースが続く。予選では5回のPPを含め、フロントローを9回獲得する速さを見せたが、結局優勝は序盤の2回のみ、最終的なランキングは4位に留まりチャンピオン獲得はならなかった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、チームメイトのルネ・アルヌーとの確執が噂され、第11戦フランスGPでは、タイトルの可能性のあったプロストを先行させるようチームオーダーが出ていたが、アルヌーはこれを無視して優勝、プロストは2位に終わった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この年、共に親友であったフェラーリのジル・ヴィルヌーヴとディディエ・ピローニのチームメイト同士の確執、その結末としてのヴィルヌーヴの事故死、また、ピローニを再起不能へ追い込んだ雨の事故といった出来事が、その後のレース人生に影響を与えた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第3戦の母国フランスGPで、シーズン初勝利をPP、FL、優勝のハットトリックで達成すると、第6戦ベルギーGPでポールトゥウィンを飾るなど4戦連続で表彰台を獲得し、タイトル争いをリードする。以降も第9戦イギリスGP、第11戦オーストリアGPで優勝するなど、ブラバムのネルソン・ピケに対し、オーストリアGP終了時点では14ポイントのリードを築いていた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし第12戦オランダGPにて、42周目にピケへの追い抜きを試みて接触し、シーズン初リタイアを喫す。ここから流れが変わってしまい、続く第13戦イタリアGPはリタイア、第14戦ヨーロッパGPは2位に終わり、この2戦を連勝したピケに2ポイント差にまで詰め寄られる。迎えた最終戦南アフリカGPでも流れを変えることはできず、見せ場のないままレース前半にリタイア。3位でフィニッシュしたピケに逆転され、2ポイント差でチャンピオンを逃した。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "(特殊燃料の使用疑惑など)ブラバムの戦闘力向上に対してルノーは手をこまねいていたが、チームは敗戦の原因をプロストに転嫁。フランス国内でもバッシングを受け、チームを去ると共に家族揃ってスイスへ移住する。これにロン・デニスがアプローチしたことで、古巣マクラーレンへの復帰を決めた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "既に2度のドライバーズチャンピオンを獲得していたニキ・ラウダがチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった。予選では16戦中15戦でラウダを上回るなど、純粋な速さでは圧倒したが、タイトル争いはプロストが勝てば次はラウダ、ラウダが勝てば次はプロストと常に一進一退の緊迫した展開となった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし確実に上位入賞しポイントを稼ぐラウダが次第に差を広げ、プロストは第14戦イタリアGPをリタイアした時点で自力チャンピオンの可能性を失う。それでも第15戦ヨーロッパGPで優勝し望みを繋ぎ、3.5ポイント差を追う状況で最終戦ポルトガルGPを迎えた。自身が優勝しラウダが3位以下なら逆転チャンピオンという条件の中、ラウダが予選で11位に埋もれ、プロストは予選2位でフロントローを得た。決勝でもプロストはレースの大半をリードしての優勝を飾ったが、対するラウダは後方グリッドからファステスト・ラップを出しながらの追い上げとなり、ファイナルラップで2位に浮上しチェッカーを受ける。その結果0.5ポイント差という、史上最小得点差でプロストはチャンピオンを逃した。この年のシーズン7勝は、当時歴代1位タイの記録だった(対するラウダは5勝)。また、プロストのF1キャリアで唯一の「年間を通しての総獲得ポイントでチームメイトに負けた」シーズンとなった(1988年はアイルトン・セナにチャンピオンの座を取られているが、当時は有効ポイント制(1988年の場合は、16戦中11戦のポイントが採用)が採用されていた為、年間を通しての総獲得ポイントではプロストが105ポイント、セナが94ポイントで、プロストの方が11ポイント多い)", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この年までのプロストは、予選から速さを前面に押し出す激しいスタイルだったが、2年連続僅差でチャンピオンを逃したこと、特にこの年ラウダの決勝レースに照準を合わせた走りの強さを身をもって体感したことが教訓となり、後のドライビングスタイルに大きく影響したシーズンとなった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また結果論ではあるが、第6戦モナコGPでの行為が、チャンピオン争いに影響したとしばしば話題に上がることとなった。豪雨となったレースで、プロストは危険なコンディションであるためにレースの早期終了をアピール。規定周回数以下でレースは打ち切りとなり、優勝したプロストには本来の半分の4.5ポイントが与えられた。しかし、もしそのままレースが続行されていれば、猛追していたアイルトン・セナとステファン・ベロフに仮に抜かれていたとしても、正規のポイントならば2位でも6ポイントを獲得でき、ラウダを抑えてチャンピオンを獲得していたことになるためである。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "開幕戦ブラジルGPで優勝し幸先の良いスタートを切る。ラウダには前年までの強さは見られず、この年をもって引退。チャンピオン争いはフェラーリのミケーレ・アルボレートとの一騎打ちとなる。共に安定した成績を収めており、シーズン開始から中盤にかけては、アルボレートがランキングトップに立つこともあるなど、ポイント数は拮抗していたが、第12戦イタリアGP以降アルボレートの成績は突如乱れ、終盤5戦は全てノーポイントに終わる。これに対しプロストは、特に中盤から後半戦で着実にポイントを重ねたためこの差が明暗を分け、最終的には5勝を含め11回の表彰台を獲得し、20ポイント差でチャンピオンを獲得。フランス人として初の栄誉となった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第3戦サンマリノGPでシーズン初勝利を記録し、第4戦モナコGPでも連勝となった。この年はウィリアムズ・ホンダ勢のマンセル、ピケとのチャンピオン争いとなり、特に中盤以降ウィリアムズ優勢の中でシーズンが進むが、第6戦カナダGPからの4戦連続表彰台、ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦オーストリアGPでの優勝など確実に結果を残し、チャンピオンの可能性を残したまま最終戦オーストラリアGPを迎えた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "プロストはこの段階でランキング2位の64ポイントを獲得しており、ランキング首位のマンセル(70ポイント)に6ポイント差をつけられており、オーストラリアGPでマンセルを逆転してチャンピオンとなるには「プロスト自身が優勝し、かつマンセルが4位以下」という同年これまでの成績を鑑みれば極めて不利な条件が付いていた。レースでもゲルハルト・ベルガーと接触し32周目に予定外のピットインを強いられるなど苦しい展開となったが、この際プロストのタイヤの摩耗が予想を下回っていたため、グッドイヤーのタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝え、これがレース終盤の争いに影響を及ぼす。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "まず63周目にそれまでトップを独走していたチームメイトのケケ・ロズベルグの右リアタイヤがバーストしリタイアすると、64周目に代わってトップに立ったマンセルも左リアタイヤをバーストさせリタイアとなった。これによりグッドイヤーから「ピケのタイヤを交換した方がいい。安全を保障できない」と言われたウィリアムズ・ホンダ陣営は65周目にマンセルに代わってトップに立ったピケのタイヤ交換を急遽行い、この間にプロストが首位に立った。その後、燃費に問題を抱えたマシンでピケの猛追を抑えたプロストがそのまま優勝し、6ポイント差を逆転しチャンピオンとなった。2年連続王座は1959年と1960年のジャック・ブラバム以来26年ぶりの快挙だった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "開幕戦ブラジルGPを制し、第3戦ベルギーGPでは同僚・ステファン・ヨハンソンとの1-2フィニッシュでシーズン2勝目を挙げランキングトップに立つなど好調な序盤だったが、前年と同じくウィリアムズのピケとマンセルがホンダ・ターボパワーの優位を生かしシーズンを支配した。プロストは年間3勝を上げたものの、搭載するTAGポルシェエンジンとホンダエンジンとのパワー差から苦戦を強いられ、ランキングは4位に留まった。しかし、第12戦ポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身の通算28勝目となり、1973年にジャッキー・スチュワートが記録した最多優勝回数27を14年ぶりに更新しF1史上最多勝利者となった。また、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14戦メキシコGPまでタイトルの可能性を残していた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第15戦日本GPでは、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾(26位)まで順位を落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース中35周目にプロストが記録したファステストラップ1分43秒844は、優勝したフェラーリのベルガーのベストラップ1分45秒540より1.7秒も速いものだった。ジャーナリストのアラン・ヘンリーはこの時の走りを絶賛し、「すでにチャンピオンの可能性も無く、チームリーダーとしての自尊心だけが原動力であり、彼には何の見返りがなくても恐ろしく速く走る能力があることを証明した。」と称えた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1987年イタリアグランプリ開催中の9月4日、来季からのマクラーレンとホンダの提携が発表され、翌年からプロストもホンダパワーで戦えることになった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ホンダ・RA168Eエンジンに合わせて開発したニューマシンMP4/4を投入。チームメイトにはロータスからアイルトン・セナが加入。この年、マクラーレンは開幕から11連勝する新記録を樹立し、プロストとセナ2人で全16戦中15勝を挙げるなどシーズンを完全に席巻した。加えて15勝中の10勝は1-2フィニッシュであり、3位以下を全て周回遅れにするレースもあるなど他を圧倒したシーズンだった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "チーム体制がジョイントNo.1だった為、2人は毎戦のようにバトルを繰り広げ、ポイントは分散した。チャンピオン争いの最中だった第13戦ポルトガルGPでは、赤旗再スタートの直後にプロストがセナに幅寄せを行い、1周目終了のメインストレートではセナが報復するかのように幅寄せを行った。これを機に、それまで良好な関係を築いていたセナとの間に溝が出来始める。タイトル争いは終盤までもつれ込むが、第15戦日本GPでセナに抜かれて2位に終わり、そのままセナの初タイトル獲得が決定した。プロストは16戦中優勝7回・2位7回と安定した成績を残し、総獲得ポイントではセナを11ポイント上回っていたが、当時の有効ポイント制により王座を逃す結果となった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ターボエンジンからNA(自然吸気)エンジンへとレギュレーションが改革されたこの年も、マクラーレン・MP4/5は全16戦中10勝をあげる高い戦闘力を持っていたが、チームメイトであるセナとの確執は、この年の第2戦サンマリノGPに決定的となる。フェラーリのベルガークラッシュ炎上事故後の再スタート前にセナとプロストの間には、『スタート直後の最初のコーナーを抜けるまではお互い勝負しない』という「紳士協定」が結ばれていた。スタートで先行したプロストではあったが、最初のコーナーをタンブレロとするかトサとするかで2人の解釈に齟齬が生じ、セナはトサコーナーであっさりとプロストを抜き去ってしまった(1回目のスタート時はセナが先行したため問題は発生しなかった)。紳士協定を反故にしたとして怒ったプロストは、3位までの入賞者に義務づけられている記者会見をボイコットして自家用ヘリでサーキットを去り、後日罰金を科せられた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "チーム崩壊を恐れたロン・デニス(デニスはこの紳士協定を関知していなかった)を交えた翌週の三者会談で、セナは「紳士協定は1回目のスタートのみ」「協定はトサ・コーナー入り口のブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニスに促され、最後は渋々ながら非を認め謝罪、これにより両者は一旦和解した。しかし、今度は「和解時の話し合いの内容を口外しない」という紳士協定をプロストが破り、セナの不誠実さに対する非難を交えながら仏紙レキップの記者にリーク。2人の溝はいよいよ埋められないものとなって行く。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "その後、デニスの説得にもかかわらず、プロストはシーズン中盤の地元フランスGPを前にマクラーレン離脱を発表、決勝レースでは一度もトップを譲らず完勝する。ルノーエンジンを擁するウィリアムズから巨額の契約金をオファーされるが、最終的にフェラーリへの移籍を決断。フェラーリの地元イタリアGPを前に正式発表し、そのレースでも優勝を飾る。ホンダの記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリアの観衆に熱烈歓迎されるプロストにより達成という結果になった。この際、表彰式の時に契約上チームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、デニスが不快感を示した。また、度重なるエンジン待遇差別発言に業を煮やしていたホンダの怒りも頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告してきた。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」するとともに、ホンダにも謝罪した。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本GPの予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストはウィングを若干寝かせストレートでのスピードを伸ばすセッティング変更を、ダミーグリッド上で決断する。 決勝レースでは、スタートでセナの前に出たプロストは、セナがコーナーで接近しても直線で引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回の最終コーナー手前のシケイン、イン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーにアプローチしたプロストが接触し、両者は並んでコース上に停止。即座にマシンを降りたプロストはコントロールタワーへ向かい、接触の原因はセナの無謀な追い越しにあると非難した。一方コースに復帰しトップでチェッカーを受けたセナは、レース後に「コース復帰時のシケイン不通過」を理由に失格の裁定を下された。これに対して多くのドライバーから「シケインを通過できなかったとき、マシンをUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコースに復帰したセナの行為を危険と見なすのはおかしい」という抗議がなされたため、セナの失格の理由は「押しがけ(これは元々レギュレーションで禁止されている)」に変更された。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "接触をめぐり、プロストとセナのどちらが悪いかでメディアやファンの間で論争が続いた。プロストはレース前にメディアに対して「セナに対してもうドアは開けない(譲らない)」と宣言しており、それを実行した形となった。2週間後の最終戦オーストラリアGP決勝は「豪雨のため危険すぎる」としてプロストは棄権したが、タイトルを争うセナが雨中で他車に追突しリタイア、ノーポイントに終わったために日本GPでのセナの裁定結果を待たずに、3度目のワールドチャンピオンを獲得した。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "プロストはチャンピオンに与えられるカーナンバー\"1\"を手土産にフェラーリに移籍、ナイジェル・マンセルをチームメイトとしてマクラーレンに残ったセナと3年連続でチャンピオン争いを繰り広げることとなる。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ニューマシンフェラーリ641で迎えた開幕戦アメリカGPは散々な結果だったものの、続く第2戦ブラジルGPでは、首位のセナと中嶋悟の接触事故の後に首位にたち、移籍後初勝利をあげる。第6戦メキシコGPでは13位スタートながら、タイヤ無交換作戦で順位を上げて逆転優勝した。ここから3連勝、特に第7戦フランスGPでの母国優勝は、フェラーリにとってF1通算100勝目であった。第8戦イギリスGP終了時点では一旦ランキングトップに立つが、この年はセナも安定して成績を収めており、第9戦ドイツGP以降は再度リードを許した。 当時は画期的なセミオートマを採用し、空力ではマクラーレンを駕いでいたとされる。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "第13戦ポルトガルGPでは予選でマンセルがPPを獲得、プロストも2位でフロントロウを独占するが、決勝スタートでマンセルがプロストに幅寄せし(マンセルはレース後故意ではなかったと釈明)、予選での好調を無駄にするように3位と5位に順位を下げる展開となってしまった。結果的にマンセルは挽回し優勝を手にしたが、プロストはマンセルのスタートでの行動をコントロールできなかったチェーザレ・フィオリオ監督のマネージメント能力を疑い始めるきっかけとなった。翌年「フィオリオにチームを強くする力がないと思い始めたのはポルトガルでマンセルのスタートを制御できなかったのがきっかけだ。」と告白することになる。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "第14戦スペインGPでシーズン5勝目を挙げて望みを繋ぎ、セナが9ポイントをリードした状況で第15戦日本GPを迎える。スタートではプロストが先行したが、第1コーナーへ進入する際に、先行していたアウト側のプロストをイン側からセナが押し出す形でリタイアとなり、チャンピオンを逃すこととなった。同じサーキットで同じドライバー同士が、2年連続で接触してのチャンピオン決定劇と言う後味の悪い結末となった。1年後にセナはスタート直後「故意にぶつけた」ことを認めている。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1991年のフェラーリは、前年のマシン641/2をレギュレーション改訂に合わせて642として投入。プレシーズンのテスト結果は好調であったが、開幕してみると優勝争いには加われず結果が伸び悩んだ。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "641/2がベストハンドリングマシンと言われたのに対し、642では新レギュレーションによりウイング幅やディフューザーの縮小などでダウンフォースが減少したため、それまでのハンドリングのよさが失われ、戦闘力を欠くこととなった。搭載するTipo037・V12エンジンが重く、馬力でホンダRA121EエンジンやルノーRS3エンジンより劣りはじめたことも不利に働いた。フェラーリの地元となる第3戦サンマリノGPでは、スコールにより急激に濡れた路面でフォーメーションラップ中にスピンしてコースアウトを喫し、そのままDNS(未出走)となってしまう失策もあった。第4戦モナコGP後には、前年終盤以後プロストと意見が対立しニューマシンの導入時期を見誤ったチェーザレ・フィオリオ監督が5月14日フェラーリ取締役会議により更迭された。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "7月の第1週に開催されたフランスGPで新型643が実戦投入されたが、開幕戦に持ち込んだ642の完敗を受け急ピッチで実質3ヶ月という短期間で製作された経緯を持ち、十分な事前テストが出来ないまま実戦デビューさせざるを得なかった。フランスGPでは、プロストが予選2位からスタートし、レース序盤マンセルと優勝争いを演じて復調を思わせたが、以後はまた中位に沈み、チームとの関係は悪化する。夏の高速3連戦(フランス・イギリス・ドイツ)ではマクラーレン・ホンダとは戦えたが、ウィリアムズ・ルノーには歯が立たなかった。以後の後半戦ではマクラーレンにも歯が立たなくなる。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "第15戦日本GPを4位で完走したが、その終了後に「今のフェラーリは赤いカミオン(大型トラック)だ」と発言したことでフェラーリ首脳の逆鱗に触れ、最終戦を待たずしてチームから契約解除を言い渡され、解雇となった。フィオリオの後任としてフェラーリのマネージングディレクターに就いていた元ランチアのクラウディオ・ロンバルディは「プロストはチームの外に向けて、致命的なコメントを出しすぎた」と解雇理由を語った。結局この年はデビューイヤー以来11年ぶりとなる「優勝が1度も無い」不本意な成績に終わった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フェラーリ解雇後は自チーム結成に向けて動きを見せる。ルノーエンジンを搭載するリジェを買収するための交渉を行い、自らリジェ・JS37のテストドライブもした。また、マクラーレン時代のデザイナーであるジョン・バーナードと共にトムスGBを母体とした新チーム設立を試み、トヨタからエンジン供給を引き出そうと動いた。しかし、いずれも実現には至らず、結局1年間の休養を表明。フランスのテレビ局のF1中継解説者として浪人生活を送ることになった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "その一方、水面下でルノーの仲介によりウィリアムズと接触し、1993年からのウィリアムズ・ルノーへの加入を発表する。最強マシンを求めるセナを交えたシート争奪戦の結果、この年のF1ワールド・チャンピオンに輝いたマンセルがウィリアムズを去り、CARTシリーズへ転向する結果となった。 ウィリアムズとの契約条項にはセナのチーム入りを拒否する条項があったとされ、セナは公然とプロストを批判する。 1年の浪人生活からトップチームへと返り咲いた。 しかしながらこのプロスト、マンセル、セナという3名のチャンピオン同士によるシート争いでは政治的な動きが垣間見え、プロストの印象は良くないものだった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "前年に圧倒的なマシン性能差を見せつけたチームと、3度のチャンピオンという組み合わせが誕生。だが開幕前の予想とは裏腹にプロストにとって決して楽な展開にはならなかった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "シーズン前半戦はウェットレースが連続したこともあり、雨のレースを得意とするマクラーレンのセナに活躍を許す。復帰第1戦となる開幕戦南アフリカGPこそ幸先良く勝利するが、続く第2戦ブラジルGPではトップ走行中のレース中盤、突然のスコールに対してチームとの無線連絡が錯綜してタイヤ交換のタイミングを逸した挙げ句にアクアプレーン現象でコントロールを失いクラッシュしてリタイアに終わる。更に第3戦ヨーロッパGPでは雨が降ったり止んだりのコンディションに翻弄されて7度のピットインを繰り返してセナに惨敗(結果は3位)。第6戦モナコGPではポールポジションを獲得するも、スタートでフライングと判定され、ペナルティストップを命じられた際にエンジンをストールさせて大きくタイムロス、2周遅れの最下位からファステストラップを記録しながら追い上げたものの、1周遅れの4位に終わる(プロスト自身は1993年のベストレースを「モナコGP」と発言している)。その後は第7戦カナダGPで優勝してポイントリーダーに返り咲くと、第10戦ドイツGPにかけて自己最多の4連勝を記録、ドイツGPでは通算51勝目を挙げたが、結果的にこれが現役最後の勝利となる。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし中盤戦以降、フル参戦初年であったチームメイトのデイモン・ヒルが経験を積むと共に次第にプロストに対して牙を剥き出しにし始める。プロストの地元である第8戦フランスGPで自身初のポールポジションを獲得したのを皮切りに、第11戦ハンガリーGPから第13戦イタリアGPまで3連勝を飾るなど、終盤戦までタイトル争いがもつれることになった。チャンピオン決定目前でエンジンブローに終わったイタリアGP後に手記したプロスト自身のコラムには「デイモンの存在が真剣に僕の心を掻きむしるんだ」とある。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "プロストの完全な独走とはならなかった要因としては、初めて経験するアクティブサスペンションの挙動に慣れるのに時間を要したことや、ライバルチームもハイテク装置を装備してウィリアムズの優位性が縮小したこと、ウィリアムズ・FW15Cのクラッチの扱いに手こずり何度かエンジンストールを演じて大幅に順位を落とした事が数度あったこと、ペナルティやトラブルでポイントを失ったことなどがある。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "第14戦ポルトガルGPを迎え、プロストは「1年間慎重に考慮してきた結果」として当季限りでの現役引退を表明した。後のインタビューではシーズン前に起きたFISAのスーパーライセンス発給拒否騒動や、不可解なペナルティなどで精神的ストレスが溜まっていた事をほのめかし、「あらゆることに嫌気がさして疲れてしまった」と語った。また、ロードレース世界選手権 (WGP) チャンピオンであるウェイン・レイニーが9月5日の決勝レース中事故で半身不随となったことが、自身の身体的に良い状態で引退したいという気持ちにつながったとも語る。本来はチャンピオン獲得後に発表する意向だったが、翌季のウィリアムズ入りが内定しているセナが先走って情報を漏らしたため、レース前に記者会見を行う形となった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ポルトガルGPでは2位に入賞し、4回目の世界チャンピオンの座を獲得した。この時点ではファンジオの5回に次ぐ歴代2位の記録だった。チェッカーを受けた後、コース上にやって来たファンから手渡されたフランス国旗を掲げて走行した。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "その後の第15戦日本GPと最終戦オーストラリアGPでは共にセナ優勝、プロスト2位で終わった。最終戦オーストラリアGPでの表彰台ではデニスの仲介でセナと握手をしてみせた。この表彰式直前、パルクフェルメ内ではデニスを含めた3人で握手をしていた。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "同年シーズンオフにはセナやヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバートらと共にパリにてカート大会に参加、これが名実共に最後の「セナプロ対決」となった。", "title": "F1における経歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1994年は、マクラーレンのテストドライブに参加、新車MP4/9のシェイクダウンやTF1のテレビ解説者としてサーキットに帯同。サンマリノグランプリでは、フリー走行中のセナに無線でインタビューしている。セナの死後にプロスト復帰説が流れた事もあったが、プロストは強く否定した。", "title": "F1ドライバー引退後" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ドライバー引退後、ルノーのアドバイザーに就任し「ルノー親善大使」を拝命。自身が出演したルノー・ルーテシアのテレビCMが日本でも放映されていた。すれ違いできないような細く曲がりくねった一方通行の道を間違って対向してきた女性ドライバーのために、プロスト(もルーテシアに乗っていた)がその女性ドライバーのルーテシアを猛スピードでバックさせてあげるという内容のCMだった。", "title": "F1ドライバー引退後" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ルノーとの契約を1995年半ばで打ち切り、プロストは同年のイタリアGP終了後、マクラーレンのテストドライブに参加する。「現役復帰か」と騒がれるが、結局テクニカル・アドバイザー兼テストドライバーとしてチームに加入した。1996年2月には新車MP4/11のシェイクダウンや同シーズンのテストを担当した。", "title": "F1ドライバー引退後" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "一方1995年末には、フェラーリの監督で以前より親交のあったジャン・トッドから、ミハエル・シューマッハのサポート役としてフェラーリでの現役復帰を持ちかけられた事があったが、辞退していたと述べたことがある。", "title": "F1ドライバー引退後" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "フランスの氷上レースである『アンドロス・トロフィー』にたびたび参戦し、2006-2007、2007-2008年シーズンはトヨタ・オーリス、2011-2012年シーズンはダチア・ロッジーを駆って総合優勝者となっている。", "title": "F1ドライバー引退後" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1997年にリジェを買収しF1チームのオーナーとなり、「プロスト・グランプリ」と改名しグランプリに参戦した。この年F1に参入したブリヂストンタイヤの性能もあり、参戦2戦目でオリビエ・パニスが表彰台を獲得し、翌3戦目には予選3位を獲得するなど、デビューイヤーとしては一定の活躍を見せた。しかしこの前年から既に契約が決まっていたプジョーの関係者をファクトリーに招き、無限エンジンを勝手に見せることなどをしたため無限首脳を激怒させた。1998年にはプジョーと手を組んでオールフレンチチームとなったが、好成績には繋がらず、結局2002年初めにチームは破産の憂き目にあった。", "title": "F1チーム設立" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2003年からはフランスの氷上レース、アンドロス・トロフィーにオペル・アストラで参戦。2004年はフランストヨタの支援を得て、トヨタ・カローラで参戦している。トヨタとの関係が出来たことから、トヨタF1チームのアドバイザー就任が報じられたこともあったが、実現はしていない。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2005年、プレゼンターとしてフランスGPを訪問。久々にF1の舞台に姿を現し、優勝したルノーのフェルナンド・アロンソにトロフィーを手渡した。またアロンソはこの年、プロストが果たせなかった「ルノーのコンストラクターチャンピオン獲得」に貢献している。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "またこの年は「Exagonエンジニアリング」よりクライスラーバイパーGTS-Rで、ジャン・ピエール・ジャブイーユをパートナーとしてフランスGT選手権に参戦。9月のル・マンと10月のマニ=クールでは、ジャブイーユに代わり実子のニコラをパートナーとしている。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2006年には、ルノーF1の日産ブランドへの変更とは別の話として、日産と組んでF1に参戦するのではないかと噂された。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2007年には、マクラーレン・チームのドライバー間の対立(ロン・デニスが昨シーズンチャンピオンのアロンソを差し置いて、ルーキーでデニスと同じイギリス人のルイス・ハミルトンに肩入れしているとされた問題)に関し、「以前にもデニスは自分よりセナを贔屓していた」と、自らの経験に基づいた発言が幾度かメディアに流れた。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2009年にはダチアと手を組み、氷上レース「アンドロス・トロフィー」に参戦。ダスターで2009-2010シーズンは総合2位、2012シーズンにはロッジーグレイスで総合1位の成績をおさめた。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2014年からは、フォーミュラEに参戦するe.DAMSに共同オーナーとして参加。同チームはニコラをドライバーとして起用しており、親子タッグが実現している。またこれと並行してルノーのブランドアンバサダーも務めた。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2016年よりワークスに復帰したルノーF1には初年度は関与せず、翌2017年からスペシャルアドバイザーに就任している。チームがアルピーヌF1となってからも引き続きチーム運営に関与していたが、2021年末にプロストは契約を打ち切りチームを離脱した。", "title": "近年" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ルノー所属時までは予選重視のアグレッシブな走りであったが、ニキ・ラウダにチャンピオン争いで僅差で敗れてからは決勝レースをより重視し、スムーズな加減速と追い抜きを武器にポイントを重ねるレース戦略を採るようになった。ライバルの動向も含めたレース展開全体を考慮し、安全マージンを取りつつも、必要に応じてペースを上げるような無駄のないレース内容を重ねるうち、「プロフェッサー」と呼ばれるほどになった。この頃よりファステストラップも多く獲得するようになった。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "マクラーレンで黄金期を共に築いたマシンデザイナーのジョン・バーナードは1987年のインタビューで、「アラン・プロストの能力は優れている。デザイナー側の根本的なマシン設計ミスをそのセッティング能力でカバーしてしまう。マシンを造る側からしたらとても難しい相手でもある。」と述べ、1990年のインタビューでも、「私は1989年にフェラーリを離れる決心をしていたが、その夏にプロストがフェラーリに来るという話になった。彼が来ればフェラーリのマシンは彼のセットアップ能力によってタイトルを争える車に仕上がるだろう。私はフェラーリに残留することも真剣に考えたよ。」と述べ、「プロストはマシンセッティングのお手本」と発言している。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1986年のチームメイト、ケケ・ロズベルグの解説によれば、傍目にはスムーズに見えるプロストのコーナリングは、ブレーキをかけないまま曲がっていき、曲がりながらロック寸前までブレーキをかけ一気に転回し、そこから全開で加速する独特なもので、ロズベルグも真似したがどうしても出来なかったという。ロズベルグは付け加えて「記憶力と分析能力という重要な2つが特に備わっていた。どこをどうセッティングしたらこういうタイムになる、ということをすべて記憶していて実践できる。これはものすごい能力だった」と証言している。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ロズベルグの次にチームメイトとなったステファン・ヨハンソンも似た証言をしており、「マシンをセッティングしていくとき、プロストには独自の理論と知性があった。それがラウダと組んだとき覚えたことなのか判らないけど、エンジニアは彼の言っていることを聞いてその通りにするだけでいいんだ、すべて彼の言ったとおりの結果になるんだから。その記憶力はそばで見ていてショックを受けたし、彼の仕事を見て学ぶことが多かった。僕のあとマクラーレンに加入したセナも同じようにアランから学んだだろうと確信している」と話す。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1987年にヨーロッパラウンドを終えた中嶋悟が今宮純による取材を受けた際、F1に来て印象に残ったことを問われ、「僕たち日本人ドライバーは富士や鈴鹿をたくさん走り込んで自分の(セッティングの)形ってのを作るでしょ。プロストって、どこに行ってもすぐにその形ができちゃうわけ。一体どうなってるんだろうね?」と他チームながら驚いたと語っている。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "プロストは「チームメイト用のセットアップでそのまま走れたのはラウダとセナだけ」と発言しており、マシンの持つ最大性能を引き出すセッティングは3人とも同じ方向であった。最後のチームメイトとなったデイモン・ヒルは、同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ないことをテレメトリーデータから知り、プロストの走法を学ぶようになった。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ニュートラルステアのマシンセッティングを好み、少ないハンドル操作量によりタイヤを傷めにくい走りを身につけていた。そのタイヤを労わって走る技術が活かされた例が1986年最終戦オーストラリアGPであり、接触ダメージのためプロストはレース中盤にピットインしたが、その際に交換したタイヤ表面の状態が想定より良好だったのを確認したグッドイヤーのタイヤエンジニアが「タイヤは交換しなくても大丈夫かもしれない」と他チームにインフォメーションをしたことが「マンセルのタイヤ交換をしない」というウイリアムズチームの判断につながり、結果的にマンセルは終盤タイヤの状態が厳しくなりバースト、リタイアとなった。マンセルはチャンピオンを逃し、このレースを逆転勝利したプロストがワールドチャンピオンとなった。1987年と1988年のブラジルGPでは猛暑の中、ライバルよりも1回少ないタイヤ交換で優勝している。1989年の同グランプリでは、予定されていた2回目のタイヤ交換が出来ず(クラッチトラブルの影響)、序盤に交換したタイヤで最後まで走り切り2位を獲得した。このレース後プロストは「優勝より嬉しい2位」と述べている。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "後藤治(元ホンダF1プロジェクトリーダー)はメディアを利用してホンダ批判をしたプロストに良い印象を持っておらず、そのドライビングについて「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれてるが、あれほど実像からかけ離れたニックネームも珍しい。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしていて、どういう方向にクルマをセットアップすれば良いのか経験的にわかっているのが財産。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、ホンダを“エンジン操作している”と批判する発言を繰り返した。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使えてないんですよ。この時はもうNAエンジンになっていて、(ターボ時代と違って)燃費は関係ないから回転を抑えて走っても意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走ってターボ時代同様に回転を抑えて走っていた。こちら側からこの技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時MP4/5がまだアナログのタコメーターでしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方は抜群です。でも、今(2004年取材時)ならチャンピオンになれないでしょう」と厳しく評している。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "プロストが自分用とセナ車との違いに疑念を抱きはじめたのは1989第5戦アメリカGPで、フェニックス市のビル街を飛び交う電波がセナ車のエンジンのECUを狂わせてリタイアに追い込まれるという珍しいトラブルが起こった。この症状はセナ車のみでプロスト車には発生しなかったことから、プロストは自分のエンジンとセナのエンジンのECUが同一ではないと考え、ホンダがセナを優遇していると主張するきっかけの一つとなった。この加速および燃費性能の差異には後年も納得しておらず、「ホンダスタッフは89年のエンジン燃費について繰り返しドライビングスタイルの違いだと説明して、ぼくのスロットルの使い方のせいで8%燃費が(セナよりも)悪くなっていると言った。でもテレメトリー解析を見てみれば2人とも同じ11800回転まで使い切っているし、セナは僕のスリップストリームから軽々と抜いて行けるけど僕はその逆はできない。エンジンそのものは二人とも同じだったと僕も思うけど、問題は燃費マネージメントシステムのコンピュータチップにあった。シーズン終了後には彼ら(ホンダ)はそこには違いがあったことをぼくに白状したんだよ。プレス関係者にもマクラーレンにさえもそれは知らせていないと言っていたが」と生じていた溝について語り、信頼関係が崩れていたと証言している。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "こうして1989年の現場で意見の相違があったが、プロストはホンダに対してのリスペクトを無くした訳ではなく、1992年をもってF1を撤退したホンダが1998年に第3期F1活動の始動が報じられた際には、すでに自身がプロスト・グランプリオーナーとしてF1に参戦を開始していたが、「今回のホンダは強力なコンストラクターと組んで復帰という安易な道を選ばなかった。そうすればホンダはおそらくすぐにまたF1で勝つレベルに達すると思うけど、そうしなかった。これは素晴らしいチャレンジだし、F1にとってホンダが戻るのは素晴らしい事だ。私はホンダの決断に心からの敬意を表したい」とエールを述べている。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "プロストは雨のレースを極端に苦手としている、と評されることが多い。雨を嫌うようになったのは、後述するディディエ・ピローニとの事故(1982年)が契機となっている。本人によるとピローニの事故に遭遇するまでは、雨の方が得意だった。また、滑ることが問題なのでは無く、前車の水煙が前方視界を奪ってしまうリスクを恐れている、と語っている。それを証明するように1984年モナコGPでは雨のなか優勝、1988年イギリスGPでは豪雨の中、良いところなく自主的にピットインしリタイヤしたが、次のドイツGPでは視界に影響しない程度のウエット・コンディションであったため、セナに次ぐ2位でフィニッシュしている。1989年の最終戦オーストラリアGPではあまりにも激しい雨だったため、他のドライバーに出走を取りやめるようスターティンググリッド上を一台一台歩いて回り働きかけを行い、強行された2回目のスタート後もプロストだけがマシンに乗らなかった。バーニー・エクレストンがスタートだけでもしてほしいと説得したが、「レーサーはそのテクニックで給料をもらってるんだ。こんな洪水の中で技量なんか関係ないじゃないか」と怒りをぶつけ意思を曲げなかった。その他、雨だった1991年サンマリノGPや1993年ブラジルGP、ヨーロッパGP、日本GPで勝利を逃している。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1982年の西ドイツGP(ホッケンハイムリンク)、第1日目フリー走行は視界が極端に悪い霧雨の中で行われたが、スタジアムセクション手前のストレートでスローダウンした前車をプロストが追い抜いたところ、後ろからアタック中だったピローニがこれを視認できず、ピローニ車の前輪がプロスト車の右後輪に乗り上げる事故が発生。ピローニ車はプロスト車を飛び越えて前方の路面に叩きつけられ、ピローニは両足を切断寸前の複雑骨折を負い、レーサー生命を絶たれるという惨事に発展してしまう。プロストに過失は一切なかったが、事故直後に目の当たりにした親友ピローニの惨状が、その後の人生において大きなトラウマとなった。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2012年の「F1速報PLUS」Vol.28において、「1980年のF1第14戦ワトキンズ・グレン(決勝は欠場した)で予選日にクラッシュした際に強く頭部を打ち、右目の視力が低下してしまった」ということが発覚している。とくに雨で日照がなく薄暗いコンディションでは前がよく見えなかったという。現役時代のプロストはこの症状を抱えていた事を公表していなかった。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "このほか、サーキットコースの好みでは、「デトロイト市街地コースは嫌い」と発言したことがある。", "title": "ドライビングスタイル" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "カーナンバー 8(1980年) 15(1981-1983年) 7(1984年) 2(1985、1989、1993年) 1(1986、1987、1990年) 11(1988年) 27(1991年)", "title": "レース成績" } ]
アラン・マリー・パスカル・プロストは、アルメニア系フランス人の元レーシングドライバー。1985年・1986年・1989年・1993年と4度のF1ドライバーズチャンピオンに輝いた。愛称は「プロフェッサー」。 1999年に国際モータースポーツ殿堂入り。レーシングドライバーのニコラ・プロストは長男。
{{出典の明記|date=2010年5月}} {{F1ドライバー |Image = Festival automobile international 2015 - Photocall - 064.jpg |氏名 = {{unbulleted list|アラン・プロスト|{{lang|fr|Alain Prost}}}} |image-size = 220px |説明 = 2015年度 国際自動車フェスティバルにて |フルネーム = {{unbulleted list|アラン・マリー・パスカル・プロスト|[[File:Tanda tangan Alain Prost.svg|180px]]}} |愛称 = |国籍 = {{FRA}} |出身地 = 同・[[ロワール県]][[ロレット (ロワール県)|ロレット]] |生年月日= {{生年月日と年齢|1955|2|24}} |年 = 1980-1991、1993 |所属チーム = '80,'84-'89 [[マクラーレン]]<br />'81-'83 [[ルノーF1|ルノー]]<br />'90-'91 [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]<br />'93 [[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]] |出走回数 = 202 (199スタート) |タイトル = 4 (1985,1986,1989,1993) |優勝回数 = 51 |通算獲得ポイント = 768.5 (798.5) |表彰台回数 = 106 |ポールポジション = 33 |ファステストラップ = 41 |初戦 = [[1980年アルゼンチングランプリ|1980年アルゼンチンGP]] |初勝利 = [[1981年フランスグランプリ|1981年フランスGP]] |最終勝利 = [[1993年ドイツグランプリ|1993年ドイツGP]] |最終戦 = [[1993年オーストラリアグランプリ|1993年オーストラリアGP]] |}} '''アラン・マリー・パスカル・プロスト'''('''Alain Marie Pascal Prost''', [[1955年]][[2月24日]] - )は、[[アルメニア]]系[[フランス]]人の元[[レーシングドライバー]]。[[1985年]]・[[1986年]]・[[1989年]]・[[1993年]]と4度の[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]に輝いた<ref>市川俊男『ニュースがわかる 最世界人命辞典』株式会社学習研究所、2003年、374頁。</ref>。愛称は「'''プロフェッサー'''」。 [[1999年]]に[[国際モータースポーツ殿堂]]({{lang|en|The International Motorsports Hall of Fame}})入り。レーシングドライバーの[[ニコラ・プロスト]]は長男。 == 人物 == 現役時にはその走りから「'''プロフェッサー'''」の異名をもっていた。[[ネルソン・ピケ]]、[[ナイジェル・マンセル]]、[[アイルトン・セナ]]とは、1980年代から1990年代前半の[[フォーミュラ1|F1]]を代表するドライバーとして、纏めて「'''[[四強 (モータースポーツ)#F1における四強|四強]]'''」「'''ビッグ4'''」「'''F1四天王'''」等と称される。特に、再三チャンピオン争いを演じたセナとの[[ライバル]]関係は度々話題に挙がり、日本では2人の対決は「'''セナ・プロ対決'''」と呼ばれた。 F1で通算51勝をあげており、[[2001年のF1世界選手権|2001年]]に[[ミハエル・シューマッハ]]が更新するまで最多勝記録であり、2020年現在では歴代4位<ref group="注釈">[[2016年ブラジルグランプリ]]で[[ルイス・ハミルトン]]が、[[2018年ベルギーグランプリ]]で[[セバスチャン・ベッテル]]が52勝目を記録し、プロストを追い抜いた。</ref>。通算4度のドライバーズチャンピオン獲得は、シューマッハの7回、[[ルイス・ハミルトン]]の7回、[[ファン・マヌエル・ファンジオ]]の5回に次いで、歴代4位<ref group="注釈">[[セバスチャン・ベッテル]]が4回で4位タイとなっている。</ref>の記録である。現在、フランス人で唯一の[[F1ドライバーズチャンピオンの一覧|F1ドライバーズチャンピオン]]でもある。 == 初期の経歴 == ===カートとの出会い=== フランス中部[[ロワール県]]の小さな町の、家具などを作る[[大工]]の子として生まれる。少年期は地元のプロサッカークラブ・[[ASサンテティエンヌ]]を応援し<ref>[https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/f1%E9%96%8B%E5%B9%95%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%81%82%E3%81%AE%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AF%E7%86%B1%E5%BF%83%E3%81%AA%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E7%8E%8B%E8%80%85%E3%82%899%E5%90%8D%E3%82%92%E7%B4%B9%E4%BB%8B/163z72dkum1ww164bjw3991rwq あのドライバーは熱心なサッカーファン!?王者ら9名を紹介] Goal.com 2018年3月24日 </ref>[[プロサッカー選手]]になることを夢見てサッカーに明け暮れる毎日だった。14歳の時<ref>[http://ja.espnf1.com/f1/motorsport/driver/1058.html アラン・プロスト] [[ESPN]]F1</ref>、休日に家族で訪れた[[ニース]]でたまたま遊びで乗った[[ゴーカート]]がモーターレーシングの最初の一歩となった<ref name="f1gpsp_9312prost">勝利の目撃者・アラン プロスト [[F1グランプリ特集]] 1993年12月号 122ページ [[ソニーマガジンズ]]</ref>。 ===レーシングカート=== [[1972年]]にヨーロッパ・ジュニア・[[レーシングカート|カート]]選手権でチャンピオンに輝くなど、[[1974年]]までに、フランス及びヨーロッパの幾つかのジュニアカート選手権で優勝。[[1975年]]には、フランスのシニアカート選手権を制覇。 ===ジュニアフォーミュラ=== [[1976年]]に[[ジュニアフォーミュラ]]に転向し[[フォーミュラ・ルノー]]・フランス選手権に参戦。全13戦中ガス欠でリタイアした最終戦を除いた12戦で勝利を挙げ、[[ポール・ポジション]](以下:PP)6回、[[ファステストラップ]](以下:FL)11回の成績でチャンピオンを獲得。[[1977年]]には、フォーミュラ・ルノー・ヨーロッパ選手権にステップアップし、6勝・3PP・7FLとここでもチャンピオンを獲得した。またこの年は[[ノガロ]]と[[エストリル・サーキット|エストリル]]で[[フォーミュラ2|F2]]にもスポット参戦し、それぞれ10位・リタイアという結果を残している。 ===F3=== [[1978年]]、[[ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|ヨーロッパF3選手権]]に[[マルティニ]]Mk21B・ルノーで参戦したが、全11戦中1勝、1PP・1FL・3リタイア(原因は全てエンジントラブル)と振るわず、[[ポー]]で行われたF2にもシェブロンB40・[[ブライアン・ハート|ハート]]で出走したが、こちらもエンジントラブルでリタイアであった。この年はフランス[[フォーミュラ3|F3]]選手権にも参戦し、こちらではチャンピオンを獲得している。[[1979年]]、前年に引き続きヨーロッパF3にマルティニMk27・ルノーで参戦。全13戦中9勝、4ポールポジション、8ファステストラップでチャンピオンを獲得した。この年にもフランス[[フォーミュラ3|F3]]選手権に参戦し、これを連覇している。 == F1における経歴 == === デビュー前 === F3でチャンピオンとなったプロストは、母国のF1チーム・[[リジェ]]に入ることを憧れており、{{f1|1979}}途中でリジェのレギュラーである[[パトリック・デパイユ]]が[[ハンググライダー]]事故により長期欠場を強いられていた状況下でもあり、実際に[[ギ・リジェ]]と交渉も持ったが<ref name="histry_ligier">HISTORY of GP LIGIER [[GPX (雑誌)|グランプリ・エクスプレス]] メキシコGP号 18-19頁 1989年6月17日発行</ref>、リジェが「F3卒業したてでは、他にも[[ジャッキー・イクス]]も乗りたいと言っているし、候補は多くいる。」と、プロストは多額のシート料を要求され<ref name="gpx88sanmarino">ヒストリー・オブ・GP マクラーレン・インターナショナル グランプリ・エクスプレス サンマリノGP号 11p 1988年5月23日発行</ref>、願いは叶いそうになかった<ref group="注釈">同年のリジェは[[ジャック・ラフィット]]と[[ディディエ・ピローニ]]というF1で実績を持つ2名が契約したので、新人プロストが割り込むのは困難でもあった。</ref>。そこに、F3で9勝と圧勝したプロストの戦績に[[フィリップモリス|マールボロ]]が興味を持ち、スポンサーをしていた[[マクラーレン]]で[[ポール・リカール・サーキット]]をテスト走行する機会を設けた。そのテストで同じく有望な若手として参加していた[[ケビン・コーガン]]より速かっただけでなく、レギュラードライバーである[[ジョン・ワトソン (レーサー)|ジョン・ワトソン]]よりも速いタイムで走ったことから、マクラーレンは1980年のレギュラードライバーとしてプロストとの契約を申し出た<ref name="gpx88sanmarino"></ref>。 === マクラーレン時代(第1期) === ; '''1980年''' 開幕戦[[1980年アルゼンチングランプリ|アルゼンチンGP]]にて、[[マクラーレン・M29]]でF1デビュー。予選12位から決勝6位と、デビュー戦での入賞を果たす。続く第2戦[[1980年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]でも5位に入った他、第8戦[[イギリスグランプリ|イギリスGP]]で6位、第11戦[[1980年オランダグランプリ|オランダGP]]で新シャシー[[マクラーレン・M30|M30]]をドライブし6位と、当時低迷期だったマクラーレンにおいて4度の入賞を記録し、ランキングは15位。チームメイトの先輩ジョン・ワトソンに対し、予選では13勝1敗と大きく勝ち越した。 チーム低迷期だったことから、シャシーが開幕時のM29、第5戦からM29C、第11戦からM30と変更続きで、信頼性不足でもありマシン側に起因する事故も数回経験し第3戦[[1980年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]では予選初日にサスペンショントラブルでクラッシュし左手首を[[骨折]]してしまい<ref>南アGPレポート [[オートスポーツ]]1980年5月1日号 三栄書房</ref>同GP決勝と第4戦[[1980年アメリカ西グランプリ|アメリカ西グランプリ]]を欠場、最終戦[[1980年アメリカ東グランプリ|アメリカ東グランプリ]]([[ワトキンズ・グレン・インターナショナル|ワトキンス・グレン]])でも予選でクラッシュに見舞われプロストは頭部に強い衝撃を受けたため決勝を欠場している<ref>ダグ・ナイ:著 森岡成憲:訳 『チーム・マクラーレンの全て THE GRAND PRIX, CAN-AM AND INDY CARS by Doug Nye』 [[ソニー・マガジンズ|CBSソニー出版]]、1989年 ISBN 4-7897-0504-8</ref>。 マクラーレンとは複数年契約がなされていたが、この年地元フランスの[[ルノーF1|ルノー・ワークス]]からオファーを受けて移籍を決意。マクラーレンには[[ロン・デニス]]が合流した直後で組織改革が進められている状況だったことから、「これまでのチーム・マクラーレンと、デニスによるマクラーレン・インターナショナルは別組織である」という論理で、契約を破棄した。 === [[ルノーF1|ルノー]]時代 === ; '''1981年''' [[File:1981 Argentine Grand Prix, Prost.jpg|thumb|130px|right|ルノー時代(1981年)]] 第3戦[[1981年アルゼンチングランプリ|アルゼンチンGP]]にて3位となり、初表彰台を獲得。第8戦の母国[[1981年フランスグランプリ|フランスGP]]では、予選3位からFLをマークしての初優勝を達成した。その後、第12戦[[1981年オランダグランプリ|オランダGP]]と第13戦[[1981年イタリアグランプリ|イタリアGP]]を連勝するなど、計6度の表彰台でランキング5位となった。 一方でマシントラブルの多さにも悩まされ、表彰台に立った6レース以外は全てリタイアであった。 ; '''1982年''' 開幕戦南アフリカGP・第2戦ブラジルGPと2連勝を果たし<ref group="注釈">ブラジルGPは、トップでチェッカーを受けたピケの失格による繰り上がり。</ref>、タイトル争いで先行したが、マシンの信頼性不足や自身のミスにより、以降の7戦中5回のリタイアなど入賞すらできないレースが続く。予選では5回のPPを含め、[[フロントロー]]を9回獲得する速さを見せたが、結局優勝は序盤の2回のみ、最終的なランキングは4位に留まりチャンピオン獲得はならなかった。 また、チームメイトの[[ルネ・アルヌー]]との確執が噂され、第11戦[[1982年フランスグランプリ|フランスGP]]では、タイトルの可能性のあったプロストを先行させるようチームオーダーが出ていたが、アルヌーはこれを無視して優勝、プロストは2位に終わった。 この年、共に親友であったフェラーリの[[ジル・ヴィルヌーヴ]]と[[ディディエ・ピローニ]]のチームメイト同士の確執、その結末としてのヴィルヌーヴの事故死、また、ピローニを再起不能へ追い込んだ雨の事故といった出来事が、その後のレース人生に影響を与えた。 ; '''1983年''' [[ファイル:Alain Prost F1 RE40 p1040458.jpg|thumb|220px|right|ルノーRE40(1983年)]] 第3戦の母国[[1983年フランスグランプリ|フランスGP]]で、シーズン初勝利をPP、FL、優勝の[[ハットトリック (モータースポーツ)|ハットトリック]]で達成すると、第6戦[[1983年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]で[[ポールトゥウィン]]を飾るなど4戦連続で表彰台を獲得し、タイトル争いをリードする。以降も第9戦[[1983年イギリスグランプリ|イギリスGP]]、第11戦[[1983年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]で優勝するなど、[[ブラバム]]の[[ネルソン・ピケ]]に対し、オーストリアGP終了時点では14ポイントのリードを築いていた。 しかし第12戦[[1983年オランダグランプリ|オランダGP]]にて、42周目にピケへの追い抜きを試みて接触し、シーズン初リタイアを喫す<ref group="注釈">ピケもリタイアとなったが、既にマシントラブルを抱えていたピケに対し、慎重さを欠いたプロストのほうが、結果的に失ったものが大きかった。</ref>。ここから流れが変わってしまい、続く第13戦[[1983年イタリアグランプリ|イタリアGP]]はリタイア、第14戦[[1983年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]は2位に終わり、この2戦を連勝したピケに2ポイント差にまで詰め寄られる。迎えた最終戦[[1983年南アフリカグランプリ|南アフリカGP]]でも流れを変えることはできず、見せ場のないままレース前半にリタイア。3位でフィニッシュしたピケに逆転され、2ポイント差でチャンピオンを逃した。 (特殊燃料の使用疑惑など)ブラバムの戦闘力向上に対してルノーは手をこまねいていたが、チームは敗戦の原因をプロストに転嫁。フランス国内でもバッシングを受け、チームを去ると共に家族揃って[[スイス]]へ移住する。これにロン・デニスがアプローチしたことで、古巣マクラーレンへの復帰を決めた。 === マクラーレン時代(第2期) === ; '''1984年''' [[File:Anefo 933-1302 Huub Rothengatter, Alain Prost, Niki Lauda 29.10.1984 (cropped).jpg|thumb|180px|right|マクラーレン時代の先輩[[ニキ・ラウダ]]と(1984年)]] 既に2度のドライバーズチャンピオンを獲得していた[[ニキ・ラウダ]]がチームメイトとなり、この年は完全にマクラーレンによって支配されるシーズンとなった。予選では16戦中15戦でラウダを上回るなど、純粋な速さでは圧倒したが、タイトル争いはプロストが勝てば次はラウダ、ラウダが勝てば次はプロストと常に一進一退の緊迫した展開となった。 しかし確実に上位入賞しポイントを稼ぐラウダが次第に差を広げ、プロストは第14戦[[1984年イタリアグランプリ|イタリアGP]]をリタイアした時点で自力チャンピオンの可能性を失う。それでも第15戦[[1984年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]で優勝し望みを繋ぎ、3.5ポイント差を追う状況で最終戦[[1984年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]を迎えた。自身が優勝しラウダが3位以下なら逆転チャンピオンという条件の中、ラウダが予選で11位に埋もれ、プロストは予選2位でフロントローを得た。決勝でもプロストはレースの大半をリードしての優勝を飾ったが、対するラウダは後方グリッドからファステスト・ラップを出しながらの追い上げとなり、ファイナルラップで2位に浮上しチェッカーを受ける。その結果0.5ポイント差という、史上最小得点差でプロストはチャンピオンを逃した。この年のシーズン7勝は、当時歴代1位タイの記録だった(対するラウダは5勝)。また、プロストのF1キャリアで唯一の「'''年間を通しての総獲得ポイントでチームメイトに負けた'''」シーズンとなった(1988年は[[アイルトン・セナ]]にチャンピオンの座を取られているが、当時は[[有効ポイント制]](1988年の場合は、16戦中11戦のポイントが採用)が採用されていた為、年間を通しての総獲得ポイントではプロストが105ポイント、セナが94ポイントで、プロストの方が11ポイント多い) この年までのプロストは、予選から速さを前面に押し出す激しいスタイルだったが、2年連続僅差でチャンピオンを逃したこと、特にこの年ラウダの決勝レースに照準を合わせた走りの強さを身をもって体感したことが教訓となり、後のドライビングスタイルに大きく影響したシーズンとなった。 また結果論ではあるが、第6戦[[1984年モナコグランプリ|モナコGP]]での行為が、チャンピオン争いに影響したとしばしば話題に上がることとなった。豪雨となったレースで、プロストは危険なコンディションであるためにレースの早期終了をアピール。規定周回数以下でレースは打ち切りとなり、優勝したプロストには本来の半分の4.5ポイントが与えられた。しかし、もしそのままレースが続行されていれば、猛追していた[[アイルトン・セナ]]と[[ステファン・ベロフ]]に仮に抜かれていたとしても<ref group="注釈">最大で30秒以上あった2位セナとの差が、[[レース旗#赤旗(レッドフラッグ)|赤旗]]中止となったレース最終周では7秒差にまで縮まっていた。</ref>、正規のポイントならば2位でも6ポイント<ref group="注釈">ベロフは後に[[ティレル#水タンク事件|水タンク事件]]で年間のリザルトを剥奪された為、仮にセナとベロフの後ろの3位でフィニッシュしたとしても、繰上げで2位・6ポイントを獲得することができた。</ref>を獲得でき、ラウダを抑えてチャンピオンを獲得していたことになるためである。 ; '''1985年''' [[ファイル:ProstAlain McLarenMP4-2B 1985.jpg|thumb|220px|right|マクラーレンMP4/2Bを駆り初のチャンピオンタイトル獲得]] 開幕戦[[1985年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]で優勝し幸先の良いスタートを切る。ラウダには前年までの強さは見られず、この年をもって引退。チャンピオン争いは[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]の[[ミケーレ・アルボレート]]との一騎打ちとなる。共に安定した成績を収めており、シーズン開始から中盤にかけては、アルボレートがランキングトップに立つこともあるなど、ポイント数は拮抗していたが、第12戦[[1985年イタリアグランプリ|イタリアGP]]以降アルボレートの成績は突如乱れ、終盤5戦は全てノーポイントに終わる。これに対しプロストは、特に中盤から後半戦で着実にポイントを重ねたためこの差が明暗を分け、最終的には5勝を含め11回の表彰台を獲得し、20ポイント差でチャンピオンを獲得。フランス人として初の栄誉となった。 ; '''1986年''' 第3戦[[1986年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]でシーズン初勝利を記録し、第4戦[[1986年モナコグランプリ|モナコGP]]でも連勝となった。この年は[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]・[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダ]]勢の[[ナイジェル・マンセル|マンセル]]、[[ネルソン・ピケ|ピケ]]とのチャンピオン争いとなり、特に中盤以降ウィリアムズ優勢の中でシーズンが進むが、第6戦[[1986年カナダグランプリ|カナダGP]]からの4戦連続表彰台、ウィリアムズ勢が共にリタイアとなった第12戦[[1986年オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]での優勝など確実に結果を残し、チャンピオンの可能性を残したまま最終戦[[1986年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]を迎えた。 プロストはこの段階でランキング2位の64ポイントを獲得しており、ランキング首位のマンセル(70ポイント)に6ポイント差をつけられており、オーストラリアGPでマンセルを逆転してチャンピオンとなるには「'''プロスト自身が優勝し、かつマンセルが4位以下'''」という同年これまでの成績を鑑みれば極めて不利な条件が付いていた。レースでも[[ゲルハルト・ベルガー]]と接触し32周目に予定外のピットインを強いられるなど苦しい展開となったが、この際プロストのタイヤの摩耗が予想を下回っていたため、[[グッドイヤー]]のタイヤエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝え、これがレース終盤の争いに影響を及ぼす。 まず63周目にそれまでトップを独走していたチームメイトの[[ケケ・ロズベルグ]]の右リアタイヤが[[バースト]]しリタイアすると、64周目に代わってトップに立ったマンセルも左リアタイヤをバーストさせリタイアとなった。これによりグッドイヤーから「ピケのタイヤを交換した方がいい。安全を保障できない」と言われた<ref group="注釈">ホンダの[[後藤治]]がレース後コメントにて証言 [[Racing On]] 1986年12月号 [[武集書房]] </ref>ウィリアムズ・ホンダ陣営は65周目にマンセルに代わってトップに立ったピケのタイヤ交換を急遽行い、この間にプロストが首位に立った。その後、燃費に問題を抱えたマシンでピケの猛追を抑えたプロストがそのまま優勝し、6ポイント差を逆転しチャンピオンとなった。2年連続王座は1959年と1960年の[[ジャック・ブラバム]]以来26年ぶりの快挙だった。 ; '''1987年''' 開幕戦[[1987年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]を制し、第3戦[[1987年ベルギーグランプリ|ベルギーGP]]では同僚・[[ステファン・ヨハンソン]]との1-2フィニッシュでシーズン2勝目を挙げランキングトップに立つ<ref>マクラーレン楽勝、1-2位を占拠 F1GPX 1987年ベルギー速報版 5頁 山海堂</ref>など好調な序盤だったが、前年と同じくウィリアムズのピケとマンセルがホンダ・ターボパワーの優位を生かしシーズンを支配した。プロストは年間3勝を上げたものの、搭載するTAGポルシェエンジンとホンダエンジンとのパワー差から苦戦を強いられ、ランキングは4位に留まった。しかし、第12戦[[1987年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]でのシーズン3勝目は、自身の通算28勝目となり、1973年に[[ジャッキー・スチュワート]]が記録した最多優勝回数27を14年ぶりに更新しF1史上最多勝利者となった<ref>「完璧だ」とJ.スチュアートは讃えた 1987年ポルトガル速報版 山海堂</ref>。また、堅実にポイントを稼ぐことでシーズン終盤、第14戦[[1987年メキシコグランプリ|メキシコGP]]までタイトルの可能性を残していた。 第15戦[[1987年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]では、序盤のタイヤバーストで一旦は最後尾(26位)まで順位を落としながらも猛追して7位まで挽回。このレース中35周目にプロストが記録した[[ファステストラップ]]1分43秒844<ref>[https://www.formula1.com/en/results.html/1987/races/525/japan/fastest-laps.html 1987 Japanese Grand Prix - FASTEST LAPS]Formula1.com</ref>は、優勝した[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]のベルガーのベストラップ1分45秒540より1.7秒も速いものだった<ref>RESULTS GPX 1987年第15戦日本速報版 8頁 山海堂</ref>。ジャーナリストの[[アラン・ヘンリー]]はこの時の走りを絶賛し、「すでにチャンピオンの可能性も無く、チームリーダーとしての自尊心だけが原動力であり、彼には何の見返りがなくても恐ろしく速く走る能力があることを証明した。」と称えた<ref>[https://www.as-web.jp/f1/591827/2 F1名ドライバー列伝(6)アラン・プロスト:“プロフェッサー”の知性的な走りを支えた、とてつもない速さ] オートスポーツweb 2020年6月14日</ref>。 [[1987年イタリアグランプリ]]開催中の[[9月4日]]、来季からのマクラーレンとホンダの提携が発表され<ref>ホンダ来季はウィリアムズと訣別を発表「マクラーレンは将来思考のあるチーム」桜井総監督、記者の質問に答える F1GPX 1987年イタリア 31頁 山海堂</ref>、翌年からプロストもホンダパワーで戦えることになった。 ; '''1988年''' [[File:Senna and Prost on the podium, Montreal 1988 (Cropped).jpg|thumb|180px|right|同僚のセナとシーズンを席巻(1988年)]] [[ホンダ・RA168E]]エンジンに合わせて開発したニューマシン[[マクラーレン・MP4/4|MP4/4]]を投入。チームメイトには[[チーム・ロータス|ロータス]]から[[アイルトン・セナ]]が加入。この年、マクラーレンは開幕から11連勝する新記録を樹立し、プロストとセナ2人で全16戦中15勝を挙げるなどシーズンを完全に席巻した。加えて15勝中の10勝は1-2フィニッシュであり、3位以下を全て周回遅れにするレースもあるなど他を圧倒したシーズンだった。 チーム体制がジョイントNo.1だった為、2人は毎戦のようにバトルを繰り広げ、ポイントは分散した。チャンピオン争いの最中だった第13戦[[1988年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]では、赤旗再スタートの直後にプロストがセナに幅寄せを行い、1周目終了のメインストレートではセナが報復するかのように幅寄せを行った。これを機に、それまで良好な関係を築いていたセナとの間に溝が出来始める。タイトル争いは終盤までもつれ込むが、第15戦[[1988年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]でセナに抜かれて2位に終わり、そのままセナの初タイトル獲得が決定した。プロストは16戦中優勝7回・2位7回と安定した成績を残し、総獲得ポイントではセナを11ポイント上回っていたが、当時の[[有効ポイント制]]により王座を逃す結果となった。 ; '''1989年''' ターボエンジンからNA(自然吸気)エンジンへとレギュレーションが改革されたこの年も、[[マクラーレン・MP4/5]]は全16戦中10勝をあげる高い戦闘力を持っていたが、チームメイトであるセナとの確執は、この年の第2戦[[1989年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]に決定的となる。フェラーリのベルガークラッシュ炎上事故後の再スタート前にセナとプロストの間には、『スタート直後の''最初の''コーナーを抜けるまではお互い勝負しない』という「[[紳士協定]]」が結ばれていた。スタートで先行したプロストではあったが、最初のコーナーをタンブレロとするかトサとするかで2人の解釈に齟齬が生じ、セナはトサコーナーであっさりとプロストを抜き去ってしまった(1回目のスタート時はセナが先行したため問題は発生しなかった)。紳士協定を反故にしたとして怒ったプロストは、3位までの入賞者に義務づけられている記者会見を[[ボイコット]]して自家用ヘリでサーキットを去り、後日罰金を科せられた。 チーム崩壊を恐れたロン・デニス(デニスはこの紳士協定を関知していなかった)を交えた翌週の三者会談で、セナは「紳士協定は1回目のスタートのみ」「協定はトサ・コーナー入り口のブレーキングポイントまでだ」と抗弁したが、デニスに促され、最後は渋々ながら非を認め謝罪、これにより両者は一旦和解した。しかし、今度は「和解時の話し合いの内容を口外しない」という紳士協定をプロストが破り、セナの不誠実さに対する非難を交えながら仏紙[[レキップ]]の記者にリーク。2人の溝はいよいよ埋められないものとなって行く。 [[File:Formula 1, GP San Marino 1989, Imola, Prost e Senna.jpg|thumb|220px|right|マクラーレン在籍最終年、同僚セナと激しく争う(1989年)]] その後、デニスの説得にもかかわらず、プロストはシーズン中盤の地元[[1989年フランスグランプリ|フランスGP]]を前にマクラーレン離脱を発表、決勝レースでは一度もトップを譲らず完勝する。[[ルノーF1|ルノー]]エンジンを擁する[[ウィリアムズF1|ウィリアムズ]]から巨額の契約金をオファーされるが、最終的に[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]への移籍を決断。フェラーリの地元[[イタリアグランプリ|イタリアGP]]を前に正式発表し、そのレースでも優勝を飾る。ホンダの記念すべき50勝目は、既にフェラーリドライバーとしてイタリアの観衆に熱烈歓迎されるプロストにより達成という結果になった。この際、表彰式の時に契約上チームの所有物である優勝トロフィーを地元のファンに投げ与えてしまい、デニスが不快感を示した。また、度重なるエンジン待遇差別発言に業を煮やしていたホンダの怒りも頂点に達し、プロストへのエンジン供給停止を通告してきた。後日プロストは、トロフィーをレプリカで「弁償」するとともに、ホンダにも謝罪した。 [[1989年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]の予選では、セナに1秒以上の差をつけられ2位になる。プロストはウィングを若干寝かせストレートでのスピードを伸ばすセッティング変更を、[[グリッド (モータースポーツ)#種類|ダミーグリッド]]上で決断する。 決勝レースでは、スタートでセナの前に出たプロストは、セナがコーナーで接近しても直線で引き離す、という展開が続く。このような状態が47周目まで続いたが、この周回の最終コーナー手前の[[シケイン]]、イン側に寄せて追い抜こうとしたセナと、アウトからコーナーにアプローチしたプロストが接触し、両者は並んでコース上に停止。即座にマシンを降りたプロストはコントロールタワーへ向かい、接触の原因はセナの無謀な追い越しにあると非難した。一方コースに復帰しトップでチェッカーを受けたセナは、レース後に「コース復帰時のシケイン不通過」を理由に失格の裁定を下された。これに対して多くのドライバーから「シケインを通過できなかったとき、マシンをUターンさせコースに戻るのは危険であり、エスケープから安全にコースに復帰したセナの行為を危険と見なすのはおかしい」という抗議がなされた<ref group="注釈">マクラーレンのデニスは次戦オーストラリアGPの前にマスメディアに対し過去にシケイン不通過を理由に失格とならなかった事例をあげ反論した。</ref>ため、セナの失格の理由は「押しがけ(これは元々レギュレーションで禁止されている)」に変更された。 接触をめぐり、プロストとセナのどちらが悪いかでメディアやファンの間で論争が続いた。プロストはレース前にメディアに対して「セナに対してもうドアは開けない(譲らない)」と宣言しており<ref>マルコム・フォリー『セナVSプロスト-史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』五十嵐哲訳、三栄書房、2010年、275-276頁</ref>、それを実行した形となった。2週間後の最終戦[[1989年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]決勝は「豪雨のため危険すぎる」としてプロストは棄権したが、タイトルを争うセナが雨中で他車に追突しリタイア、ノーポイントに終わったために日本GPでのセナの裁定結果を待たずに、3度目のワールドチャンピオンを獲得した。 === フェラーリ時代 === ; '''1990年''' [[File:Alain Prost, 1990 USA GP Phoenix.jpg|thumb|220px|right|フェラーリ時代(1990年)]] プロストはチャンピオンに与えられるカーナンバー"1"を手土産にフェラーリに移籍、ナイジェル・マンセルをチームメイトとしてマクラーレンに残ったセナと3年連続でチャンピオン争いを繰り広げることとなる。 ニューマシン[[フェラーリ・641|フェラーリ641]]で迎えた開幕戦[[1990年アメリカグランプリ|アメリカGP]]は散々な結果だったものの、続く第2戦[[1990年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]では、首位のセナと[[中嶋悟]]の接触事故の後に首位にたち、移籍後初勝利をあげる。第6戦[[1990年メキシコグランプリ|メキシコGP]]では13位スタートながら、タイヤ無交換作戦で順位を上げて逆転優勝した。ここから3連勝、特に第7戦[[1990年フランスグランプリ|フランスGP]]での母国優勝は、[[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]]にとってF1通算100勝目であった。第8戦イギリスGP終了時点では一旦ランキングトップに立つが、この年はセナも安定して成績を収めており、第9戦ドイツGP以降は再度リードを許した。 当時は画期的なセミオートマを採用し、空力ではマクラーレンを駕いでいたとされる。 [[1990年ポルトガルグランプリ|第13戦ポルトガルGP]]では予選でマンセルがPPを獲得、プロストも2位でフロントロウを独占するが、決勝スタートでマンセルがプロストに幅寄せし(マンセルはレース後故意ではなかったと釈明)、予選での好調を無駄にするように3位と5位に順位を下げる展開となってしまった。結果的にマンセルは挽回し優勝を手にしたが、プロストはマンセルのスタートでの行動をコントロールできなかった[[チェーザレ・フィオリオ]]監督のマネージメント能力を疑い始めるきっかけとなった。翌年「フィオリオにチームを強くする力がないと思い始めたのはポルトガルでマンセルのスタートを制御できなかったのがきっかけだ。」と告白することになる。 [[1990年スペイングランプリ|第14戦スペインGP]]でシーズン5勝目を挙げて望みを繋ぎ、セナが9ポイントをリードした状況で第15戦[[1990年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]を迎える。スタートではプロストが先行したが、第1コーナーへ進入する際に、先行していたアウト側のプロストをイン側からセナが押し出す形でリタイアとなり、チャンピオンを逃すこととなった。同じサーキットで同じドライバー同士が、2年連続で接触してのチャンピオン決定劇と言う後味の悪い結末となった。1年後にセナはスタート直後「故意にぶつけた」ことを認めている<ref>[[1991年日本グランプリ (4輪)#その他の出来事|1991年日本グランプリ]]終了後記者会見にて。</ref>。 ; '''1991年''' [[1991年のF1世界選手権|1991年]]のフェラーリは、前年のマシン641/2を[[F1レギュレーション|レギュレーション]]改訂に合わせて[[フェラーリ・642|642]]として投入。プレシーズンのテスト結果は好調であったが、開幕してみると優勝争いには加われず結果が伸び悩んだ。 641/2がベストハンドリングマシンと言われたのに対し、642では新レギュレーションによりウイング幅やディフューザーの縮小などで[[ダウンフォース]]が減少したため、それまでのハンドリングのよさが失われ、戦闘力を欠くこととなった。搭載するTipo037・V12エンジンが重く、馬力でホンダRA121EエンジンやルノーRS3エンジンより劣りはじめたことも不利に働いた。フェラーリの地元となる第3戦[[1991年サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]では、[[スコール]]により急激に濡れた路面で[[フォーメーションラップ]]中にスピンしてコースアウトを喫し、そのままDNS(未出走)となってしまう失策もあった。第4戦[[1991年モナコグランプリ|モナコGP]]後には、前年終盤以後プロストと意見が対立しニューマシンの導入時期を見誤った[[チェーザレ・フィオリオ]]監督が5月14日フェラーリ取締役会議により[[更迭]]された<ref>チェザーレ・フィオリオ更迭の真相 グランプリ・エクスプレス 1991カナダGP号 20頁-21頁 1991年6月22日発行</ref>。 7月の第1週に開催された[[1991年フランスグランプリ|フランスGP]]で新型[[フェラーリ・643|643]]が実戦投入されたが、開幕戦に持ち込んだ642の完敗を受け急ピッチで実質3ヶ月という短期間で製作された経緯を持ち<ref name="91gpx_midspecial">フェラーリはなぜ沈んだのか? byフランコ・リニ [[GPX (雑誌)|グランプリ・エクスプレス]] 1991年ハンガリーGP号 15頁 1991年9月4日発行</ref>、十分な事前テストが出来ないまま実戦デビューさせざるを得なかった。フランスGPでは、プロストが予選2位からスタートし、レース序盤マンセルと優勝争いを演じて復調を思わせたが、以後はまた中位に沈み、チームとの関係は悪化する。夏の高速3連戦(フランス・イギリス・ドイツ)ではマクラーレン・ホンダとは戦えたが、ウィリアムズ・ルノーには歯が立たなかった。以後の後半戦ではマクラーレンにも歯が立たなくなる。 第15戦[[1991年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]を4位で完走したが、その終了後に「'''今のフェラーリは赤いカミオン(大型トラック)だ'''」と発言したことでフェラーリ首脳の逆鱗に触れ、最終戦を待たずしてチームから契約解除を言い渡され、解雇となった。フィオリオの後任としてフェラーリのマネージングディレクターに就いていた元ランチアの[[クラウディオ・ロンバルディ]]は「プロストはチームの外に向けて、致命的なコメントを出しすぎた」と解雇理由を語った<ref>{{cite book| last = Henry | first = Alan (ed.) | title = AUTOCOURSE 1991-92 | publisher = Hazleton Publishing | year = 1991 | pages = p. 236 | isbn = 0-905138-87-2}}</ref>。結局この年はデビューイヤー以来11年ぶりとなる「優勝が1度も無い」不本意な成績に終わった。 === 休養 === ; '''1992年''' フェラーリ解雇後は自チーム結成に向けて動きを見せる。ルノーエンジンを搭載する[[リジェ]]を買収するための交渉を行い、自ら[[リジェ・JS37]]のテストドライブもした。また、マクラーレン時代のデザイナーである[[ジョン・バーナード]]と共に[[トムス|トムスGB]]を母体とした新チーム設立を試み、[[トヨタ自動車|トヨタ]]からエンジン供給を引き出そうと動いた。しかし、いずれも実現には至らず、結局1年間の休養を表明。フランスのテレビ局のF1中継解説者として浪人生活を送ることになった。 その一方、水面下でルノーの仲介によりウィリアムズと接触し、1993年からのウィリアムズ・ルノーへの加入を発表する。最強マシンを求めるセナを交えたシート争奪戦の結果、この年のF1ワールド・チャンピオンに輝いたマンセルがウィリアムズを去り、[[チャンプカー・ワールド・シリーズ|CART]]シリーズへ転向する結果となった。 ウィリアムズとの契約条項にはセナのチーム入りを拒否する条項があったとされ、セナは公然とプロストを批判する。 1年の浪人生活からトップチームへと返り咲いた。 しかしながらこのプロスト、マンセル、セナという3名のチャンピオン同士によるシート争いでは政治的な動きが垣間見え、プロストの印象は良くないものだった。 === ウィリアムズ時代・引退 === ; '''1993年''' [[File:Alain Prost - Williams FW15C heads for Copse during practice for the 1992 British Grand Prix (33557462981).jpg|thumb|220px|right|現役最終年ウィリアムズ時代(1993年)]] 前年に圧倒的なマシン性能差を見せつけたチームと、3度のチャンピオンという組み合わせが誕生。だが開幕前の予想とは裏腹にプロストにとって決して楽な展開にはならなかった。 シーズン前半戦はウェットレースが連続したこともあり、雨のレースを得意とするマクラーレンのセナに活躍を許す。復帰第1戦となる開幕戦南アフリカGPこそ幸先良く勝利するが、続く第2戦[[1993年ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]ではトップ走行中のレース中盤、突然のスコールに対してチームとの無線連絡が錯綜してタイヤ交換のタイミングを逸した挙げ句にアクアプレーン現象でコントロールを失いクラッシュしてリタイアに終わる。更に第3戦[[1993年ヨーロッパグランプリ|ヨーロッパGP]]では雨が降ったり止んだりのコンディションに翻弄されて7度のピットインを繰り返してセナに惨敗(結果は3位)。第6戦[[1993年モナコグランプリ|モナコGP]]ではポールポジションを獲得するも、スタートで[[不正スタート|フライング]]と判定され、ペナルティストップを命じられた際にエンジンをストールさせて大きくタイムロス、2周遅れの最下位からファステストラップを記録しながら追い上げたものの、1周遅れの4位に終わる(プロスト自身は1993年のベストレースを「モナコGP」と発言している<ref>双葉社刊 F1 PRIX 日本GP直前号 5頁アンケートの回答</ref>)。その後は第7戦[[1993年カナダグランプリ|カナダGP]]で優勝してポイントリーダーに返り咲くと、第10戦[[1993年ドイツグランプリ|ドイツGP]]にかけて自己最多の4連勝を記録、ドイツGPでは通算51勝目を挙げたが、結果的にこれが現役最後の勝利となる。 しかし中盤戦以降、フル参戦初年であったチームメイトの[[デイモン・ヒル]]が経験を積むと共に次第にプロストに対して牙を剥き出しにし始める。プロストの地元である第8戦[[1993年フランスグランプリ|フランスGP]]で自身初のポールポジションを獲得したのを皮切りに、第11戦[[1993年ハンガリーグランプリ|ハンガリーGP]]から第13戦[[1993年イタリアグランプリ|イタリアGP]]まで3連勝を飾るなど、終盤戦までタイトル争いがもつれることになった。チャンピオン決定目前でエンジンブローに終わったイタリアGP後に手記したプロスト自身のコラムには「デイモンの存在が真剣に僕の心を掻きむしるんだ」とある<ref>[http://f1express.cnc.ne.jp/column/index.php?cat_id=225&teiko_id=79896] トーチュウF1エクスプレス</ref>。 プロストの完全な独走とはならなかった要因としては、初めて経験する[[アクティブサスペンション]]の挙動に慣れるのに時間を要したこと<ref group="注釈">チームメイトのデイモン・ヒルは、テストドライバー時代からアクティブサス開発に従事していた。また1992年にウィリアムズでチャンピオンとなったマンセルは、アクティブカーへの順応に長けていたと評されている。</ref>や、ライバルチームもハイテク装置を装備してウィリアムズの優位性が縮小したこと、[[ウィリアムズ・FW15C]]のクラッチの扱いに手こずり何度かエンジンストールを演じて大幅に順位を落とした事が数度あったこと、ペナルティやトラブルでポイントを失ったことなどがある<ref group="注釈">イギリスGP・ドイツGPではヒルが、イタリアGPではプロストが、それぞれトップ走行中にトラブルに見舞われ、互いに勝利を譲りあう結果となっている。</ref>。 第14戦[[1993年ポルトガルグランプリ|ポルトガルGP]]を迎え、プロストは「1年間慎重に考慮してきた結果<ref name="GPXp89">『GPX ポルトガルGP号』 山海堂、1993年、pp.8-9。</ref>」として当季限りでの現役引退を表明した。後のインタビューではシーズン前に起きた[[FISA]]の[[スーパーライセンス]]発給拒否騒動<ref group="注釈">新レギュレーションを批判したプロストに対してFISAが一時ライセンス発給を見送り、プロストはFISAへ謝罪して出場停止を逃れた。FISAはウィリアムズに対してもエントリー申請の遅れを指摘して、同様の態度をとった。</ref>や、不可解なペナルティ<ref group="注釈">ドイツGPでは後方でスピンしたマシンを回避するためシケインをショートカットしたプロストらに対してペナルティストップを命じた。この裁定を無線で聞いたプロストは「もうF1の世界を離れようと思った」と語っている。</ref>などで精神的ストレスが溜まっていた事をほのめかし、「あらゆることに嫌気がさして疲れてしまった」と語った<ref>『GPX 日本GP号』 山海堂、1993年、pp.10-11。</ref>。また、[[ロードレース世界選手権]] (WGP) チャンピオンである[[ウェイン・レイニー]]が[[9月5日]]の決勝レース中事故で半身不随となったことが、自身の身体的に良い状態で引退したいという気持ちにつながったとも語る<ref name="GPXp89"/>。本来はチャンピオン獲得後に発表する意向だったが、翌季のウィリアムズ入りが内定しているセナが先走って情報を漏らしたため、レース前に記者会見を行う形となった<ref name="GPXp89"/>。 ポルトガルGPでは2位に入賞し、4回目の世界チャンピオンの座を獲得した。この時点ではファンジオの5回に次ぐ歴代2位の記録だった。チェッカーを受けた後、コース上にやって来たファンから手渡されたフランス国旗を掲げて走行した。 [[File:Alain Prost during the race in Adelaide on 7 November 1993.jpg|thumb|220px|right|引退レースの最終戦オーストラリアGP(1993年)]] その後の第15戦[[1993年日本グランプリ (4輪)|日本GP]]と最終戦[[1993年オーストラリアグランプリ|オーストラリアGP]]では共にセナ優勝、プロスト2位で終わった。最終戦オーストラリアGPでの表彰台ではデニスの仲介でセナと握手をしてみせた。この表彰式直前、パルクフェルメ内ではデニスを含めた3人で握手をしていた。 同年シーズンオフにはセナやヒル、そのほか[[アンドレア・デ・チェザリス]]、[[フィリップ・アリオー]]、[[ジョニー・ハーバート]]らと共に[[パリ]]にてカート大会に参加、これが名実共に最後の「セナプロ対決」となった<ref>[http://archive.as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=62504 セナプロ最終対決、1/2ヘルメットが発売中] [[AUTO SPORT]] web 2015年1月3日、2016年8月18日閲覧。</ref>。 == F1ドライバー引退後 == 1994年は、マクラーレンのテストドライブに参加、新車[[マクラーレン・MP4/9|MP4/9]]の[[シェイクダウン (モータースポーツ)|シェイクダウン]]や[[TF1]]のテレビ解説者としてサーキットに帯同。[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノグランプリ]]では、フリー走行中のセナに無線でインタビューしている。セナの死後にプロスト復帰説が流れた事もあったが、プロストは強く否定した。<!-- しかしながら、マクラーレンはフランス製プジョーエンジンでありテストで好感触を受けていた場合は、復帰をしていた可能性はあったが、新規参入のプジョーには、ルノーやフォードと戦える程性能は高くなく、引退から復帰をすれば、ルノーからプジョーへの鞍替えとなるとフランスでの風当たりも相当だったと思われる。--> ドライバー引退後、[[ルノー]]のアドバイザーに就任し「ルノー親善大使」を拝命。自身が出演した[[ルノー・クリオ|ルノー・ルーテシア]]のテレビCMが日本でも放映されていた。すれ違いできないような細く曲がりくねった一方通行の道を間違って対向してきた女性ドライバーのために、プロスト(もルーテシアに乗っていた)がその女性ドライバーのルーテシアを猛スピードでバックさせてあげるという内容のCMだった。 ルノーとの契約を[[1995年]]半ばで打ち切り、プロストは同年のイタリアGP終了後、マクラーレンのテストドライブに参加する。「現役復帰か」と騒がれるが、結局テクニカル・アドバイザー兼テストドライバーとしてチームに加入した。[[1996年]]2月には新車[[マクラーレン・MP4/11|MP4/11]]のシェイクダウンや同シーズンのテストを担当した<ref>ANALYSIS OF F1 TEST 1996 [[F1グランプリ特集]]4月号 32頁 [[ソニーマガジンズ]] 1996年4月16日発行</ref>。 一方1995年末には、フェラーリの監督で以前より親交のあった[[ジャン・トッド]]から、[[ミハエル・シューマッハ]]のサポート役としてフェラーリでの現役復帰を持ちかけられた事があったが、辞退していたと{{when|date=2012年10月}}述べたことがある。 フランスの氷上レースである『[[:en:Andros Trophy|アンドロス・トロフィー]]』にたびたび参戦し、2006-2007、2007-2008年シーズンは[[トヨタ・オーリス]]、2011-2012年シーズンは[[ダチア・ロッジー]]を駆って総合優勝者となっている。 == F1チーム設立 == [[ファイル:Prost Mugen Honda JS45.jpg|thumb|220px|right|プロスト・[[M-TEC|無限ホンダ]]JS45(1997年)]] {{see also|プロスト・グランプリ}} 1997年に[[リジェ]]を買収しF1チームのオーナーとなり、「プロスト・グランプリ」と改名しグランプリに参戦した。この年F1に参入した[[ブリヂストン]]タイヤの性能もあり、参戦2戦目で[[オリビエ・パニス]]が表彰台を獲得し、翌3戦目には予選3位を獲得するなど、デビューイヤーとしては一定の活躍を見せた。しかしこの前年から既に契約が決まっていた[[プジョー]]の関係者をファクトリーに招き、[[M-TEC|無限]]エンジンを勝手に見せることなどをしたため無限首脳を激怒させた。1998年にはプジョーと手を組んでオールフレンチチームとなったが、好成績には繋がらず、結局[[2002年]]初めにチームは[[破産]]の憂き目にあった。 == 近年 == [[File:Alain Prost, 2009 (cropped).png|thumb|160px|right|引退後のプロスト(2009年)]] [[2003年]]からはフランスの氷上レース、アンドロス・トロフィーに[[アストラ (自動車)|オペル・アストラ]]で参戦。[[2004年]]はフランストヨタの支援を得て、[[トヨタ・カローラ]]で参戦している。トヨタとの関係が出来たことから、[[トヨタF1]]チームのアドバイザー就任が報じられたこともあったが、実現はしていない。 [[2005年]]、プレゼンターとして[[フランスグランプリ|フランスGP]]を訪問。久々にF1の舞台に姿を現し、優勝した[[ルノーF1|ルノー]]の[[フェルナンド・アロンソ]]にトロフィーを手渡した。またアロンソはこの年、プロストが果たせなかった「ルノーのコンストラクターチャンピオン獲得」に貢献している。 またこの年は「Exagonエンジニアリング」より[[クライスラー]][[ダッジ・バイパー|バイパー]]GTS-Rで、[[ジャン・ピエール・ジャブイーユ]]をパートナーとして[[フランスGT選手権]]に参戦。9月の[[ブガッティ・サーキット|ル・マン]]と10月の[[マニクール・サーキット|マニ=クール]]では、ジャブイーユに代わり実子のニコラをパートナーとしている。 [[2006年]]には、[[ルノーF1]]の[[日産自動車|日産]]ブランドへの変更とは別の話として、日産と組んでF1に参戦するのではないかと噂された<ref>[http://f1.racing-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/061030092730.shtml Nissanとプロスト、F1参戦を考慮](F1.-live.com 2006年10月3日記事)</ref>。 [[2007年]]には、マクラーレン・チームのドライバー間の対立([[ロン・デニス]]が昨シーズンチャンピオンのアロンソを差し置いて、ルーキーでデニスと同じイギリス人の[[ルイス・ハミルトン]]に肩入れしているとされた問題)に関し、「以前にもデニスは自分よりセナを贔屓していた」と、自らの経験に基づいた発言が幾度かメディアに流れた。 [[2009年]]には[[ダチア (自動車)|ダチア]]と手を組み、氷上レース「アンドロス・トロフィー」に参戦。[[ダチア・ダスター|ダスター]]で2009-2010シーズンは総合2位、2012シーズンには[[ダチア・ロッジー|ロッジーグレイス]]で総合1位の成績をおさめた。 [[2014年]]からは、[[フォーミュラE]]に参戦する[[DAMS|e.DAMS]]に共同オーナーとして参加<ref>[http://www.topnews.jp/2014/07/01/news/f1/f1persons/alain-prost/109522.html ブエミとプロストがフォーミュラE参戦決定。新たなセナ・プロ対決も!?] - TopNews・2014年7月1日</ref>。同チームはニコラをドライバーとして起用しており、親子タッグが実現している。またこれと並行してルノーのブランドアンバサダーも務めた。 [[2016年]]より[[ワークス・チーム|ワークス]]に復帰した[[ルノーF1]]には初年度は関与せず<ref>[http://jp.autoblog.com/2016/02/10/alain-prost-renault-f1-role-no-sense/ アラン・プロスト、ルノーF1チームには一切関わらずフォーミュラEに専念したいと発言] - autoblog・2016年2月11日</ref>、翌[[2017年]]からスペシャルアドバイザーに就任している<ref>{{cite news|url=http://f1-gate.com/renault/f1_34915.html|title=アラン・プロスト、ルノーF1チームのスペシャルアドバイザーに就任|work=F1-Gate.com|date=2017-02-22|accessdate=2017-02-22}}</ref>。チームが[[アルピーヌF1]]となってからも引き続きチーム運営に関与していたが、2021年末にプロストは契約を打ち切りチームを離脱した<ref>[https://www.as-web.jp/f1/777469?all アルピーヌF1チーム離脱についてプロストがコメント。正式発表前の情報漏洩に不快感] - オートスポーツ・2022年1月18日</ref>。 == ドライビングスタイル == ルノー所属時までは予選重視のアグレッシブな走りであったが、ニキ・ラウダにチャンピオン争いで僅差で敗れてからは決勝レースをより重視し、スムーズな加減速と追い抜きを武器にポイントを重ねるレース戦略を採るようになった。ライバルの動向も含めたレース展開全体を考慮し、安全マージンを取りつつも、必要に応じてペースを上げるような無駄のないレース内容を重ねるうち、「プロフェッサー」と呼ばれるほどになった。この頃より[[ファステストラップ]]も多く獲得するようになった。 === セットアップ能力 === マクラーレンで黄金期を共に築いたマシンデザイナーの[[ジョン・バーナード]]は1987年のインタビューで、「アラン・プロストの能力は優れている。デザイナー側の根本的なマシン設計ミスをそのセッティング能力でカバーしてしまう。マシンを造る側からしたらとても難しい相手でもある。」と述べ、1990年のインタビューでも、「私は1989年にフェラーリを離れる決心をしていたが、その夏にプロストがフェラーリに来るという話になった。彼が来ればフェラーリのマシンは彼のセットアップ能力によってタイトルを争える車に仕上がるだろう。私はフェラーリに残留することも真剣に考えたよ。」と述べ、「プロストはマシンセッティングのお手本」と発言している<ref name="john1990_gpx">ジョン・バーナード第3の挑戦 グランプリ・エクスプレス '90フランスGP号 12-13頁 1990年7月28日発行</ref>。 1986年のチームメイト、[[ケケ・ロズベルグ]]の解説によれば、傍目にはスムーズに見えるプロストのコーナリングは、ブレーキをかけないまま曲がっていき、曲がりながらロック寸前までブレーキをかけ一気に転回し、そこから全開で加速する独特なもので、ロズベルグも真似したがどうしても出来なかったという。ロズベルグは付け加えて「記憶力と分析能力という重要な2つが特に備わっていた。どこをどうセッティングしたらこういうタイムになる、ということをすべて記憶していて実践できる。これはものすごい能力だった」と証言している<ref>アラン・プロストに捧げる言葉 F1速報 1993年第15戦日本GP 43ページ ニューズ出版</ref>。 ロズベルグの次にチームメイトとなった[[ステファン・ヨハンソン]]も似た証言をしており、「マシンをセッティングしていくとき、プロストには独自の理論と知性があった。それがラウダと組んだとき覚えたことなのか判らないけど、エンジニアは彼の言っていることを聞いてその通りにするだけでいいんだ、すべて彼の言ったとおりの結果になるんだから。その記憶力はそばで見ていてショックを受けたし、彼の仕事を見て学ぶことが多かった。僕のあとマクラーレンに加入したセナも同じようにアランから学んだだろうと確信している」と話す<ref>アラン・プロストに捧げる言葉 F1速報 1993年第15戦日本GP 44ページ ニューズ出版</ref>。 1987年にヨーロッパラウンドを終えた[[中嶋悟]]が[[今宮純]]による取材を受けた際、F1に来て印象に残ったことを問われ、「僕たち日本人ドライバーは[[富士スピードウェイ|富士]]や[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]をたくさん走り込んで自分の(セッティングの)形ってのを作るでしょ。プロストって、どこに行ってもすぐにその形ができちゃうわけ。一体どうなってるんだろうね?」と他チームながら驚いたと語っている<ref>中嶋悟inSPAIN by今宮純 F1GPX 1987年スペインGP 5頁 1987年10月15日発行 山海堂</ref>。 プロストは「チームメイト用のセットアップでそのまま走れたのはラウダとセナだけ」と発言しており、マシンの持つ最大性能を引き出すセッティングは3人とも同じ方向であった。最後のチームメイトとなった[[デイモン・ヒル]]は、同じセッティングで走っていたプロストのハンドル操作が極めて少ないことをテレメトリーデータから知り、プロストの走法を学ぶようになった<ref>[[F1グランプリ特集|GRAND PRIX SPECIAL]] 1996年6月号 p.27 ソニー・マガジンズ</ref>。 === タイヤを傷めない === ニュートラルステアのマシンセッティングを好み、少ないハンドル操作量によりタイヤを傷めにくい走りを身につけていた。そのタイヤを労わって走る技術が活かされた例が[[1986年オーストラリアグランプリ|1986年最終戦オーストラリアGP]]であり、接触ダメージのためプロストはレース中盤にピットインしたが、その際に交換したタイヤ表面の状態が想定より良好だったのを確認したグッドイヤーのタイヤエンジニアが「タイヤは交換しなくても大丈夫かもしれない」と他チームにインフォメーションをしたことが「マンセルのタイヤ交換をしない」というウイリアムズチームの判断につながり、結果的にマンセルは終盤タイヤの状態が厳しくなりバースト、リタイアとなった。マンセルはチャンピオンを逃し、このレースを逆転勝利したプロストがワールドチャンピオンとなった<ref>[[Racing On]] 1987年2月号</ref>。1987年と1988年のブラジルGPでは猛暑の中、ライバルよりも1回少ないタイヤ交換で優勝している。1989年の同グランプリでは、予定されていた2回目のタイヤ交換が出来ず(クラッチトラブルの影響)、序盤に交換したタイヤで最後まで走り切り2位を獲得した。このレース後プロストは「優勝より嬉しい2位」と述べている。 === ホンダ陣営との見解の相違 === [[後藤治]](元ホンダF1プロジェクトリーダー)はメディアを利用してホンダ批判をしたプロストに良い印象を持っておらず、そのドライビングについて「“プロフェッサー(教授)”と呼ばれてるが、あれほど実像からかけ離れたニックネームも珍しい。プロストは若い時からいいクルマに乗り続け、いい体験をいっぱいしていて、どういう方向にクルマをセットアップすれば良いのか経験的にわかっているのが財産。1989年にプロストは加速でセナに負けたから、[[ホンダ・レーシング・F1チーム|ホンダ]]を“エンジン操作している”と批判する発言を繰り返した。でも、データを見るとセナが高回転まで使っているのに対してプロストは使えてないんですよ。この時はもう[[自然吸気|NA]]エンジンになっていて、(ターボ時代と違って)燃費は関係ないから回転を抑えて走っても意味がない。でもプロストは理屈を分からずに走って[[ターボチャージャー|ターボ]]時代同様に回転を抑えて走っていた。こちら側からこの技術的なことを説明しようとしても聞こうとしないし、興味がない。我々も困って、あの当時[[マクラーレン・MP4/5|MP4/5]]がまだ[[アナログ]]の[[タコメーター]]でしたから、“この回転数まで必ず引っ張るように”という目盛り代わりのステッカーを貼ってあげたんです。もちろん、非常に速いドライバーですよ。タイヤの使い方は抜群です。でも、今([[2004年のF1世界選手権|2004年]]取材時)ならチャンピオンになれないでしょう<ref>[[柴田久仁夫]]「究極のドライバー比較論 - 元ホンダF1プロジェクトリーダー後藤治が10年たった今、語る」『[[オートスポーツ|AUTO SPORT]] アイルトン・セナ没後10年特別企画』 [[三栄書房]]、50頁-55頁、2004年。</ref>」と厳しく評している。 プロストが自分用とセナ車との違いに疑念を抱きはじめたのは1989第5戦アメリカGPで、[[フェニックス (アリゾナ州)|フェニックス市]]のビル街を飛び交う電波がセナ車のエンジンのECUを狂わせてリタイアに追い込まれるという珍しいトラブルが起こった。この症状はセナ車のみでプロスト車には発生しなかったことから、プロストは自分のエンジンとセナのエンジンのECUが同一ではないと考え、ホンダがセナを優遇していると主張するきっかけの一つとなった<ref>双葉社刊 [[ナイジェル・ルーバック]]著「インサイドF1 グランプリの真実」p435</ref>。この加速および燃費性能の差異には後年も納得しておらず、「ホンダスタッフは89年のエンジン燃費について繰り返しドライビングスタイルの違いだと説明して、ぼくのスロットルの使い方のせいで8%燃費が(セナよりも)悪くなっていると言った。でもテレメトリー解析を見てみれば2人とも同じ11800回転まで使い切っているし、セナは僕のスリップストリームから軽々と抜いて行けるけど僕はその逆はできない。エンジンそのものは二人とも同じだったと僕も思うけど、問題は燃費マネージメントシステムのコンピュータチップにあった。シーズン終了後には彼ら(ホンダ)はそこには違いがあったことをぼくに白状したんだよ。プレス関係者にもマクラーレンにさえもそれは知らせていないと言っていたが<ref>INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 434頁「雨の中の危険」[[双葉社]]。</ref>」と生じていた溝について語り、信頼関係が崩れていたと証言している。 こうして1989年の現場で意見の相違があったが、プロストはホンダに対してのリスペクトを無くした訳ではなく、[[1992年のF1世界選手権|1992年]]をもってF1を撤退したホンダが1998年に[[ホンダF1#第3期|第3期F1活動]]の始動が報じられた際には、すでに自身が[[プロスト・グランプリ]]オーナーとしてF1に参戦を開始していたが、「今回のホンダは強力なコンストラクターと組んで復帰という安易な道を選ばなかった<ref group="注釈">当初シャシーを含む「オールホンダ」で復帰すると報じられた</ref>。そうすればホンダはおそらくすぐにまたF1で勝つレベルに達すると思うけど、そうしなかった。これは素晴らしいチャレンジだし、F1にとってホンダが戻るのは素晴らしい事だ。私はホンダの決断に心からの敬意を表したい」とエールを述べている<ref>F1関係者30人が語る「ホンダ復活」の衝撃 F1グランプリ特集 Vol.107 22頁 1998年5月16日発行</ref>。 === 雨嫌い === プロストは雨のレースを極端に苦手としている、と評されることが多い。雨を嫌うようになったのは、後述する[[ディディエ・ピローニ]]との事故(1982年)が契機となっている。本人によるとピローニの事故に遭遇するまでは、雨の方が得意だった。また、滑ることが問題なのでは無く、前車の水煙が前方視界を奪ってしまうリスクを恐れている、と語っている。それを証明するように1984年モナコGPでは雨のなか優勝、1988年イギリスGPでは豪雨の中、良いところなく自主的にピットインしリタイヤしたが、次のドイツGPでは視界に影響しない程度のウエット・コンディションであったため、セナに次ぐ2位でフィニッシュしている。1989年の最終戦オーストラリアGPではあまりにも激しい雨だったため、他のドライバーに出走を取りやめるようスターティンググリッド上を一台一台歩いて回り働きかけを行い<ref>from pressroom事情通 F1GPX 1989オーストラリアGP号 8ページ下段 山海堂 1989年11月25発行 </ref>、強行された2回目のスタート後もプロストだけがマシンに乗らなかった<ref group="注釈">プロスト以外にも4人が出ないとグリッド上で約束を結んだが、結果的に出なかったのはプロストだけだった。その中の一人は[[ティエリー・ブーツェン]]で、彼は決勝に出て優勝を得た。</ref>。[[バーニー・エクレストン]]がスタートだけでもしてほしいと説得したが、「レーサーはそのテクニックで給料をもらってるんだ。こんな洪水の中で技量なんか関係ないじゃないか」と怒りをぶつけ意思を曲げなかった<ref>決勝レースLIVE REPORT F1GPX 1989第16戦オーストラリアGP号 6-7ページ 山海堂 </ref>。その他、雨だった1991年サンマリノGPや1993年ブラジルGP、ヨーロッパGP、日本GPで勝利を逃している。 [[1982年]]の西ドイツGP([[ホッケンハイムリンク]])、第1日目フリー走行は視界が極端に悪い霧雨の中で行われたが、スタジアムセクション手前のストレートでスローダウンした前車をプロストが追い抜いたところ、後ろからアタック中だったピローニがこれを視認できず、ピローニ車の前輪がプロスト車の右後輪に乗り上げる事故が発生。ピローニ車はプロスト車を飛び越えて前方の路面に叩きつけられ、ピローニは両足を切断寸前の複雑骨折を負い、レーサー生命を絶たれるという惨事に発展してしまう。プロストに過失は一切なかったが、事故直後に目の当たりにした親友ピローニの惨状が、その後の人生において大きなトラウマとなった。 2012年の「[[F1速報|F1速報PLUS]]」Vol.28において、「[[1980年のF1世界選手権|1980年]]のF1第14戦[[ワトキンズ・グレン・インターナショナル|ワトキンズ・グレン]](決勝は欠場した)で予選日にクラッシュした際に強く頭部を打ち、右目の視力が低下してしまった」ということが発覚している。とくに雨で日照がなく薄暗いコンディションでは前がよく見えなかったという。現役時代のプロストはこの症状を抱えていた事を公表していなかった。 このほか、サーキットコースの好みでは、「[[デトロイト市街地コース]]は嫌い」と発言したことがある<ref name="f1gpsp_9312prost"></ref>。 == エピソード == * 父は家具職人で裕福ではなかった。そのためレース人生で自費で出走したのは「初めて参戦するレースに必要な中古の[[レーシングカー|カート]]を、[[アルバイト]]をして貯めた800フランで買った時だけだ」という。 * 鼻が曲がっているが(そのために少々ぼそぼそとした鼻声)、これは、小学生の頃サッカーの試合中に怪我をしたことが原因だという。 * 子どもの頃からのサッカー好きはF1レーサーとなった後も変わらず、1986年デトロイトGPでの[[6月21日]]土曜日の公式予選が、[[1986 FIFAワールドカップ]]メキシコ大会の準々決勝・[[ミシェル・プラティニ]]の[[サッカーフランス代表|フランス代表]]対[[ジーコ]]の[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の一大決戦の試合時間と完全に重なっていたため見ることが出来ず、悔しがっていたという。[[1998 FIFAワールドカップ]]フランス大会の折には、プロストGPのピットに大型モニターを持ち込んで観戦。他所のF1チーム関係者も詰めかけて大盛況となった。なお、サッカー選手を目指していた関係でレースデビューは15歳の時と他のトップドライバーに比べると遅い。 * 爪を噛むクセがある。眉間にシワを寄せ、タイミングモニターを見つめながら爪を噛んでいる姿がしばしば捉えられた。 * [[ロードバイク|自転車(ロードバイク)]]の愛好家であり、自身の[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]でも度々関連する画像を投稿している<ref>[https://www.instagram.com/p/BhB4rX5BJ6V/ Perfect week end]公式Instagram「A L A I N P R O S T」 2018年4月1日</ref>。[[ツール・ド・フランス]]開催期間中のレース休息日に当年開催ステージの一つを走る市民レーサー参加型サイクリングイベント「エタップ・デュ・ツール」や、フランスの自転車ロードレーサーでツール・ド・フランスにおいて7度の[[山岳賞]](史上最多)に輝いた[[リシャール・ヴィランク]]の引退レース等を走っている。 * [[ゴルフ]]も好きな競技の一つである。1989年に[[ジャック・ラフィット]]と共同出資で[[ディジョン]]郊外の[[ゴルフ場]](27ホール)のオーナーとなった。腕前は、「[[ハンデキャップ|ハンデ]]は10。[[ナイジェル・マンセル|ナイジェル(マンセル)]]のハンデは2だから彼の方が上手だよ」と話しているほか<ref>スペシャルインタビュー アラン・プロスト グランプリ・エクスプレス モナコGP号 12-13頁 1989年5月27日発行</ref>、一緒にプレイした機会があった[[中嶋悟]]も「僕がプロストに勝てるのはゴルフくらいかな(笑)」と述べたことがある。 * 出走回数は'''199'''が最も多く流布している数字だが、プロストが予選を通過し決勝に進出したレースは201であり、199はこれから「豪雨のため出走を拒否した」[[1989年オーストラリアグランプリ]]と「フォーメーションラップ中のスピン」でスタート出来なかった[[1991年サンマリノグランプリ]]を引いた数字である。当時はこのようなケースでは出走数に含まれないのが一般的だったが、現在はマシントラブル等でフォーメーションラップに出られなかったり、フォーメーションラップ中にストップした場合でも、出走回数としてカウントすることが多くなりつつある。このため、史家の中にはプロストの出走回数を200あるいは201と記録する者もいる。FIAの公式データでは200であり、本項ではこれに従っている。 * 1981年から1983年までは所属するルノーとの契約で、日常でも同社の小型車に乗ることを義務づけられていたプロストは、その年の暮れルノーを離脱するとすぐに[[メルセデス・ベンツ]]560SECを注文した。10年後の1993年ウィリアムズ移籍により再びルノー陣営となるが1995年、ルノー親善大使の契約を打ち切ったプロストがドライブしたのはメルセデス・エンジンを搭載した[[マクラーレン・MP4/10]]であった。 * 1983年のルノーからの離脱は、ルノーは当時フランスの[[国営企業]]だったこともありフランス国内で大きく報道され騒動となった。フランスの[[ジャーナリスト]]らから「[[脱税]]犯」「非国民」呼ばわりもされ、購入したばかりだった愛車のベンツまでも襲撃されたという。プロストは自身と家族の安全を考え、[[スイス]]に移住する決意をした。 * スイス移住の要因の一つとしてフランスの高い税率を挙げ、「フランスでは、僕の収入の85%が税金として持っていかれる。16のグランプリのうち15が国外で行われていて、僕がフランスで仕事をするのは年に1レースだというのにね。サーキットで僕が負っている膨大なリスクを残り15%の額で埋めることはできないよ」と述べたことがある<ref>アラン・プロストの10年 プロフェッサーズトーク グランプリ・エクスプレス '90アメリカGP号 11頁 1990年3月31日発行</ref>。 * 1987年、マクラーレンのデザイナーだった[[ゴードン・マレー]]と共に、翌年からパートナーとなることが決まったホンダの日本国内の研究施設を訪問した際に、行く先々で日本のエンジニアたちが2人をジロジロと見るので、「お前みたいな大男(マレーは身長196cm<ref>[https://carview.yahoo.co.jp/news/detail/e86eae7fff690afd094f7ba217684a4b4c15b021/ ゴードン・マーレー、天才デザイナーと呼ばれるまでの軌跡 新本社を訪問「ミンバグ 実際にドライブしてみると?」]AUTOCAR JAPAN 2017年11月11日</ref>)は日本にいないからだ」「いや、お前みたいに鼻の曲がった奴は日本にいないからだ」と互いにからかいあいながら施設を見学したという。 * 1988年に初めてホンダエンジンユーザーとなったが、ホンダからオフロード用の「[[ホンダ・アフリカツイン#アフリカツイン(XRV650)|ホンダ・アフリカツイン]]」と、ロード用「[[ホンダ・VFR#VFR750F|VFR750F]]」が贈られ大変喜んだ<ref>F1GPX 1989NA原点回帰記念号 山海堂</ref>。数年後に雑誌で自宅ガレージを紹介する企画でもこのオートバイを披露している<ref>僕のすてきなライバル アラン・プロスト F1GP特集 1993年12月号 88ページ ソニーマガジンズ</ref>。 * 1993年末にパリで開催されたチャリティ・カート大会では、他のドライバーが派手にテールスライドさせてコーナーを曲がっているのに対し、プロストはほとんどテールスライドをしないスムーズな走りを披露した。それを見たセナは「どうしてあの走りであのタイムが出るんだ!」と驚愕した。レースではトップを走行する[[アンドレア・デ・チェザリス]]とそれを追うセナのすぐ後ろにつけて熾烈なトップ争いを展開。最後の対決に会場は大いに沸いた。結果は、エンジントラブルからスローダウンしたセナと同じくトラブルの発生したデ・チェザリスを後ろにぴったりつけていたプロストがかわして優勝という、最後までプロストスタイルでの完勝であった。 * プロストがチャンピオン獲得時に着けていたカーナンバーは、連覇した1986年の「1」以外は、1985年、1989年、1993年の全てが「'''2'''」である。 * 1993年限りで引退を表明していたが、そのシーズンオフに古巣であるマクラーレンからの要請に応える形で[[プジョー]]・エンジンを搭載した[[マクラーレン・MP4/9|MP4/9]]をテストドライブした。マクラーレンとプロストの縁ではあったが、結果的に同国のライバルであるプジョーに加担することになったプロストのこのテスト参加にルノー首脳陣は激怒し、後にプロスト自身がF1チームを所有した際にエンジン供給を打診されたが拒否した要因と言われている。 * プロストがテレビ解説を務めていた[[1994年ドイツグランプリ]]では、スタート直後に10台がリタイアする多重クラッシュが発生する波乱もあり、通常は中段に埋もれるのが常となっていたリジェの2台が表彰台を獲得したが、この当時リジェのマネージャーは、フェラーリ時代に反目したチェーザレ・フィオリオが務めていた。マイクのスイッチが入っていないと思っていたプロストは「あの○○野郎、ついてやがるぜ」と呟き、この声がそのまま生放送されてしまった。しかしその後自身のチームプロストGPではそのフィオリオを招聘している。 * [[ジャン・アレジ]]とは、フェラーリ時代チームメイトであったり結婚式の立会人を務めるなど公私共に友人であるが、2人がF1で同時に出走していた55レースでプロストは31回、アレジは7回の表彰台登壇機会があったにもかかわらず、2人同時に表彰台に立ったことは1度も無かった。 * [[ル・マン]]の[[サルト・サーキット]]([[ブガッティ・サーキット]])にはプロストの名を冠したカートコースがある。 * 1982年チャンピオンの[[ケケ・ロズベルグ]]は、1986年チームメイトになった際に、「プロストは私が今まで見た中で最高のF1ドライバーだ」と発言したが、「本当にそう思いますか?」と記者に聞かれた。するとロズベルグは、「私はプロストが世界最高だと'''思っている'''わけではない。世界最高だと'''知っている'''のだ」と、答えた<ref>[[ナイジェル・ルーバック]]著「インサイドF1 グランプリの真実」 p305 [[双葉社]]</ref>。 * 初代ホンダF1監督の[[中村良夫 (技術者)|中村良夫]]は、「非力なクルマでもなんとか勝ってしまう。あれこそが本当のグランプリドライバーですよ」と絶賛していた<ref>F1速報PLUS Vol.28</ref>。またプロストも中村には信頼を置いており、自身がフェラーリから契約解除される騒動の渦中でも中村の依頼には応じてインタビュー取材を受けている<ref>ナカさんの人間研究所 第8回 アラン・プロスト GPXオフシーズン号 1992年2月8日発行</ref>。 == レース成績 == === ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! チーム ! シャシー ! エンジン ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 12 ! 13 ! 順位 ! ポイント |- ! [[1977年のヨーロッパF2選手権|1977年]] ! ルノー・エルフ・レーシングチーム ! [[ジャン=ピエール・ジャブイーユ|ジャブイーユ・2J]] ! [[ルノー・スポール|ルノー]] | [[シルバーストン・サーキット|SIL]] | [[スラクストン・サーキット|THR]] | [[ホッケンハイム|HOC]] | [[ニュルブルクリンク|NÜR]] | [[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]] | [[ポー・グランプリ|PAU]] | [[ムジェロ・サーキット|MUG]] | [[ルーアン・レゼサール|ROU]] |{{MsStatsC|f}}| [[ノガロ・サーキット|NOG]]<br />{{small|10}} | [[エンナ・ペルグーサ|PER]] | [[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]] |{{MsStatsC|ret}}| [[エストリル・サーキット|EST]]<br />{{small|Ret}} | [[ドニントン・パーク|DON]] ! NC ! 0 |- ! [[1978年のヨーロッパF2選手権|1978年]] ! Fred Opert Racing ! [[シェブロン・カーズ|シェブロン・B40]] ! [[ブライアン・ハート (企業)|ハート]] |[[スラクストン・サーキット|THR]] |[[ホッケンハイムリンク|HOC]] |[[ニュルブルクリンク|NÜR]] |{{MsStatsC|ret}}|[[ポー・グランプリ|PAU]]<br />{{Small|Ret}} |[[ムジェロ・サーキット|MUG]] |[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]] |[[ルーアン・レゼサール|ROU]] |[[ドニントン・パーク|DON]] |[[ノガロ・サーキット|NOG]] |[[エンナ・ペルグーサ|PER]] |[[ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ|MIS]] |[[ホッケンハイムリンク|HOC]] | ! NC ! 0 |} === ヨーロッパ・フォーミュラ3選手権 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! チーム ! シャシー ! エンジン ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 12 ! 13 ! 14 ! 15 ! 16 ! 順位 ! ポイント ! 参照 |- ! [[1978年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|1978年]] ! rowspan="2" | [[オレカ|エキュリエ・エルフ]] ! マルティニ・MK21 ! rowspan="2" | [[ルノー・スポール|ルノー]] |[[ザントフォールト・サーキット|ZAN]] |[[ニュルブルクリンク|NÜR]] |[[レッドブル・リンク|ÖST]] |bgcolor="#CFCFFF"|[[ゾルダー・サーキット|ZOL]]<br /><small>10</small> |[[イモラ・サーキット|IMO]] |bgcolor="#FFFFFF"|[[ニュルブルクリンク|NÜR]]<br /><small>DNS</small> |bgcolor="#CFCFFF"|[[ディジョン・プレノワ・サーキット|DIJ]]<br /><small>10</small> |bgcolor="#CFCFFF"|[[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>15</small> |[[エンナ・ペルグーサ|PER]] |bgcolor="#EFCFFF"|[[マニクール・サーキット|MAG]]<br /><small>Ret</small> |[[リング・クヌツトープ|KUN]] |[[カールスコーガー・モータースタディオン|KAR]] |bgcolor="#DFFFDF"|[[ドニントン・パーク|DON]]<br /><small>6</small> |[[カッセル空港|CAS]] |bgcolor="#FFFFBF"|[[ハラマ・サーキット|JAR]]<br /><small>1</small> |bgcolor="#EFCFFF"|[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br /><small>Ret</small> ! 9位 ! 10 |<ref>{{Cite web|title=Formula 3 1978 - Race Index - Europe|url=http://www.the-fastlane.co.uk/formula2/F378_IndexE.htm|website=www.the-fastlane.co.uk|accessdate=2021-02-10}}</ref> |- ! [[1979年のヨーロッパ・フォーミュラ3選手権|1979年]] ! マルティニ・MK27 | bgcolor="#DFDFDF" |[[ACI・ヴァレルンガ・サーキット|VLL]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#FFFFBF" |[[レッドブル・リンク|ÖST]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#FFFFBF" |[[ゾルダー・サーキット|ZOL]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#FFFFBF" |[[マニクール・サーキット|MAG]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#FFDF9F" |[[ドニントン・パーク|DON]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#FFFFBF" |[[ザントフォールト・サーキット|ZAN]]<br /><small>1</small> |[[エンナ・ペルグーサ|PER]] | bgcolor="#FFCFCF" |[[モンツァ・サーキット|MNZ]]<br /><small>DNQ</small> | bgcolor="#FFFFBF" |[[リング・クヌツトープ|KUN]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#CFCFFF" |[[キネクレー・リンク|KIN]]<br /><small>NC</small> | bgcolor="#FFFFBF" |[[ハラマ・サーキット|JAR]]<br /><small>1</small> |[[カッセル空港|CAS]] | | | | | bgcolor="#FFFFBF" |'''1位''' | bgcolor="#FFFFBF" |'''67''' |<ref>{{Cite web|title=Formula 3 1979 - Race Index - Europe|url=http://www.the-fastlane.co.uk/formula2/F379_IndexE.htm|website=www.the-fastlane.co.uk|accessdate=2021-02-10}}</ref> |} === フォーミュラ1 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%" ! 年 ! 所属チーム ! シャシー ! 1 ! 2 ! 3 ! 4 ! 5 ! 6 ! 7 ! 8 ! 9 ! 10 ! 11 ! 12 ! 13 ! 14 ! 15 ! 16 ! WDC ! ポイント |- ! rowspan="3" | [[1980年のF1世界選手権|1980年]] ! rowspan="3" | [[マクラーレン]] ! [[マクラーレン・M29|M29B]] | bgcolor="#dfffdf" | [[1980年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>6</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1980年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>5</small> | bgcolor="#ffffff" | [[1980年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>DNS</small> | [[1980年アメリカ西グランプリ|USW]]<br /><small></small> | | | | | | | | | | | | ! rowspan="3" | 16位 ! rowspan="3" | 5 |- ! [[マクラーレン・M29|M29C]] | | | | | bgcolor="#efcfff" | [[1980年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1980年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1980年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1980年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>6</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1980年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>11</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1980年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>7</small> | | | | | | |- ! [[マクラーレン・M30|M30]] | | | | | | | | | | | bgcolor="#dfffdf" | [[1980年オランダグランプリ|NED]]<br /><small>6</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1980年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>7</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1980年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffff" | [[1980年アメリカグランプリ|USA]]<br /><small>DNS</small> | | |- ! rowspan="2" | [[1981年のF1世界選手権|1981年]] ! rowspan="5" | [[ルノーF1|ルノー]] ! [[ルノー・RE20|RE20B]] | bgcolor="#efcfff" | [[1981年アメリカ西グランプリ|USW]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1981年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1981年アルゼンチングランプリ|ARG]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1981年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1981年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> | | | | | | | | | | | ! rowspan="2" | 5位 ! rowspan="2" | 43 |- ! [[ルノー・RE30|RE30]] | | | | | | bgcolor="#efcfff" | [[1981年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1981年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1981年フランスグランプリ|FRA]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1981年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#dfdfdf" | '''[[1981年ドイツグランプリ|GER]]'''<br /><small>2</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1981年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''[[1981年オランダグランプリ|NED]]'''<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1981年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1981年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1981年ラスベガスグランプリ|CPL]]<br /><small>2</small> | |- ! [[1982年のF1世界選手権|1982年]] ! [[ルノー・RE30|RE30B]] | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1982年南アフリカグランプリ|RSA]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''''[[1982年ブラジルグランプリ|BRA]]'''''<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1982年アメリカ西グランプリ|USW]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1982年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | '''[[1982年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1982年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>7</small> | bgcolor="#cfcfff" | '''''[[1982年アメリカ東グランプリ|DET]]'''''<br /><small>NC</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1982年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1982年オランダグランプリ|NED]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1982年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>6</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1982年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1982年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1982年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>8</small> | bgcolor="#dfdfdf" | '''''[[1982年スイスグランプリ|SUI]]'''''<br /><small>2</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1982年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#dfffdf" | '''[[1982年ラスベガスグランプリ|CPL]]'''<br /><small>4</small> ! 4位 ! 34 |- ! rowspan="2" | [[1983年のF1世界選手権|1983年]] ! [[ルノー・RE30|RE30C]] | bgcolor="#cfcfff" | [[1983年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>7</small> | | | | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#dfdfdf" rowspan="2" | '''2位''' | bgcolor="#dfdfdf" rowspan="2" | '''57''' |- ! [[ルノー・RE40|RE40]] | | bgcolor="#cfcfff" | [[1983年アメリカ西グランプリ|USW]]<br /><small>11</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''''[[1983年フランスグランプリ|FRA]]'''''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1983年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffdf9f" | '''[[1983年モナコグランプリ|MON]]'''<br /><small>3</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''[[1983年ベルギーグランプリ|BEL]]'''<br /><small>1</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1983年アメリカ東グランプリ|DET]]<br /><small>8</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1983年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>5</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1983年イギリスグランプリ|GBR]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1983年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>4</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1983年オーストリアグランプリ|AUT]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1983年オランダグランプリ|NED]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1983年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1983年ヨーロッパグランプリ|EUR]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1983年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>Ret</small> | |- ! [[1984年のF1世界選手権|1984年]] ! rowspan="6" | [[マクラーレン]] ! [[マクラーレン・MP4/2|MP4/2]] | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1984年ブラジルグランプリ|BRA]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1984年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1984年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1984年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#cfcfff" | ''[[1984年フランスグランプリ|FRA]]''<br /><small>7</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''[[1984年モナコグランプリ|MON]]'''<br /><small>1{{smallsup|‡}}</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1984年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1984年アメリカ東グランプリ|DET]]<br /><small>4</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1984年アメリカグランプリ|DAL]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1984年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''''[[1984年ドイツグランプリ|GER]]'''''<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1984年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''[[1984年オランダグランプリ|NED]]'''<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1984年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1984年ヨーロッパグランプリ|EUR]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1984年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | '''2位''' | bgcolor="#dfdfdf" | '''71.5''' |- ! [[1985年のF1世界選手権|1985年]] ! [[マクラーレン・MP4/2|MP4/2B]] | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1985年ブラジルグランプリ|BRA]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1985年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>Ret</small> |bgcolor="#000000" style="color: #ffffff"| [[1985年サンマリノグランプリ|{{Color|white|SMR}}]]<br /><small>DSQ</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1985年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1985年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1985年アメリカグランプリ|DET]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1985年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1985年イギリスグランプリ|GBR]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1985年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''''[[1985年オーストリアグランプリ|AUT]]'''''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | ''[[1985年オランダグランプリ|NED]]''<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1985年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffdf9f" | '''''[[1985年ベルギーグランプリ|BEL]]'''''<br /><small>3</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1985年ヨーロッパグランプリ|EUR]]<br /><small>4</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1985年南アフリカグランプリ|RSA]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1985年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''1位''' | bgcolor="#ffffbf" | '''73 (76)''' |- ! [[1986年のF1世界選手権|1986年]] ! [[マクラーレン・MP4/2|MP4/2C]] | bgcolor="#efcfff" | [[1986年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1986年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1986年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''''[[1986年モナコグランプリ|MON]]'''''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfffdf" | ''[[1986年ベルギーグランプリ|BEL]]''<br /><small>6</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1986年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1986年アメリカグランプリ|DET]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1986年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1986年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1986年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>6</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1986年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1986年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>1</small> |bgcolor="#000000" style="color: #ffffff"| [[1986年イタリアグランプリ|{{Color|white|ITA}}]]<br /><small>DSQ</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1986年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1986年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1986年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''1位''' | bgcolor="#ffffbf" | '''72 (74)''' |- ! [[1987年のF1世界選手権|1987年]] ! [[マクラーレン・MP4/3|MP4/3]] | bgcolor="#ffffbf" | [[1987年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1987年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1987年ベルギーグランプリ|BEL]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1987年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>9</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1987年アメリカグランプリ|DET]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1987年フランスグランプリ|FRA]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1987年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1987年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>7</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1987年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1987年オーストリアグランプリ|AUT]]<br /><small>6</small> | bgcolor="#cfcfff" | [[1987年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>15</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1987年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1987年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1987年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#cfcfff" | ''[[1987年日本グランプリ (4輪)|JPN]]''<br /><small>7</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1987年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> ! 4位 ! 46 |- ! [[1988年のF1世界選手権|1988年]] ! [[マクラーレン・MP4/4|MP4/4]] | bgcolor="#ffffbf" | [[1988年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | ''[[1988年サンマリノグランプリ|SMR]]''<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1988年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1988年メキシコグランプリ|MEX]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1988年カナダグランプリ|CAN]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfdfdf" | ''[[1988年アメリカグランプリ|DET]]''<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''''[[1988年フランスグランプリ|FRA]]'''''<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1988年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1988年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfdfdf" | ''[[1988年ハンガリーグランプリ|HUN]]''<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1988年ベルギーグランプリ|BEL]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1988年イタリアグランプリ|ITA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''''[[1988年ポルトガルグランプリ|POR]]'''''<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1988年スペイングランプリ|ESP]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1988年日本グランプリ (4輪)|JPN]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1988年オーストラリアグランプリ|AUS]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | '''2位''' | bgcolor="#dfdfdf" | '''87 (105)''' |- ! [[1989年のF1世界選手権|1989年]] ! [[マクラーレン・MP4/5|MP4/5]] | bgcolor="#dfdfdf" | [[1989年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfdfdf" | ''[[1989年サンマリノグランプリ|SMR]]''<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfdfdf" | ''[[1989年モナコグランプリ|MON]]''<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1989年メキシコグランプリ|MEX]]<br /><small>5</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1989年アメリカグランプリ|USA]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#efcfff" | '''[[1989年カナダグランプリ|CAN]]'''<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''[[1989年フランスグランプリ|FRA]]'''<br /><small>1</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1989年イギリスグランプリ|GBR]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1989年ドイツグランプリ|GER]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1989年ハンガリーグランプリ|HUN]]<br /><small>4</small> | bgcolor="#dfdfdf" | ''[[1989年ベルギーグランプリ|BEL]]''<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffffbf" | ''[[1989年イタリアグランプリ|ITA]]''<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfdfdf" | [[1989年ポルトガルグランプリ|POR]]<br /><small>2</small> | bgcolor="#ffdf9f" | [[1989年スペイングランプリ|ESP]]<br /><small>3</small> | bgcolor="#efcfff" | ''[[1989年日本グランプリ (4輪)|JPN]]''<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1989年オーストラリアグランプリ|AUS]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | '''1位''' | bgcolor="#ffffbf" | '''76 (81)''' |- ! rowspan="2" | [[1990年のF1世界選手権|1990年]] ! rowspan="4" | [[スクーデリア・フェラーリ|フェラーリ]] ! [[フェラーリ・641|641]] | bgcolor="#efcfff" | [[1990年アメリカグランプリ|USA]]<br /><small>Ret</small> | bgcolor="#ffffbf" | [[1990年ブラジルグランプリ|BRA]]<br /><small>1</small> | bgcolor="#dfffdf" | [[1990年サンマリノグランプリ|SMR]]<br /><small>4</small> | bgcolor="#efcfff" | [[1990年モナコグランプリ|MON]]<br /><small>Ret</small> | | | | | | | | | | | | | bgcolor="#dfdfdf" rowspan="2" | '''2位''' | bgcolor="#dfdfdf" rowspan="2" | '''71 (73)''' |- ! 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日本のプロ野球選手一覧
日本のプロ野球選手一覧(にほんのプロやきゅうせんしゅいちらん)は、日本プロ野球の選手・すでに引退した元選手をチーム別および五十音順にした一覧。 (球団創立順) (球団名:五十音順) (球団創立順) (球団創立順) (球団創立順) (球団創立順) (球団創立順) (球団名:所在地順) 一度も支配下登録されず育成で引退した選手は日本プロ野球の育成選手一覧を参照。 登録名の五十音順。太字は現在NPBに在籍している選手。以下も参照。 上の人物が年上。 (掲載されていない事例があれば適宜追加をお願い致します) 太字は現役選手。 (掲載されていない事例があれば適宜追加をよろしくお願い致します) 左が兄、右が弟。 など。兄弟スポーツ選手一覧も参照。 2009年に日本女子プロ野球機構が設立され以下の兄妹プロ野球選手が誕生した。 また、双子兄弟がプロ野球選手になった例としては以下の例がある。 そのほか、「双子の一方」については下記選手の例がある。 左が父、右が子。実の親子のみ記載。娘婿(下記参照)、養子縁組(荒川博 - 荒川尭、三宅宅三 - 三宅宗源など)、配偶者の連れ子(野村克也 - 野村克晃・野村克彦兄弟、アレックス・ラミレス - アレックス・ラミレス・ジュニアなど)は除外。 他
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日本のプロ野球選手一覧(にほんのプロやきゅうせんしゅいちらん)は、日本プロ野球の選手・すでに引退した元選手をチーム別および五十音順にした一覧。 日本野球機構(NPB)傘下のチームに所属している現役選手は、各所属チームの選手一覧を参照。 NPBチームを退団し、日本国外に移籍した選手、独立リーグやアマチュアで現役を続行している選手、所属チームを持たない選手(シーズンオフの戦力外等の自由契約選手は退団年の12月31日までに)は#元プロ野球選手の節に含む。 メジャーリーグベースボールに移籍した選手については、日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧も参照。 育成選手については日本プロ野球の育成選手一覧を参照。
'''日本のプロ野球選手一覧'''(にほんのプロやきゅうせんしゅいちらん)は、[[日本プロ野球]]の[[プロ野球選手|選手]]<!--・[[プロ野球監督|監督]]・[[プロ野球コーチ|コーチ]]|草創期の監督や、プロ選手経験がないコンディショニングコーチなどは掲載されていない-->・すでに引退した元選手をチーム別および五十音順にした一覧。 * [[日本野球機構]](NPB)傘下のチームに所属している現役選手は、各所属チームの選手一覧を参照。 * NPBチームを退団し、日本国外に移籍した選手、[[独立リーグ]]や[[日本のアマチュア野球|アマチュア]]で現役を続行している選手、所属チームを持たない選手(シーズンオフの戦力外等の自由契約選手は退団年の12月31日までに)は[[#元プロ野球選手]]の節に含む。 * [[メジャーリーグベースボール]]に移籍した選手については、[[日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧]]も参照。 * 育成選手については[[日本プロ野球の育成選手一覧]]を参照。 == 日本野球機構 == (球団創立順) === セントラル・リーグ=== * [[読売ジャイアンツの選手一覧]] * [[阪神タイガースの選手一覧]] * [[中日ドラゴンズの選手一覧]] * [[横浜DeNAベイスターズの選手一覧]] * [[広島東洋カープの選手一覧]] * [[東京ヤクルトスワローズの選手一覧]] === パシフィック・リーグ === * [[オリックス・バファローズの選手一覧]] * [[福岡ソフトバンクホークスの選手一覧]] * [[北海道日本ハムファイターズの選手一覧]] * [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]] * [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]] * [[東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧]] == 四国アイランドリーグplus == (球団名:五十音順) * [[愛媛マンダリンパイレーツの選手一覧]] * [[香川オリーブガイナーズの選手一覧]] * [[高知ファイティングドッグスの選手一覧]] * [[徳島インディゴソックスの選手一覧]] == ベースボール・チャレンジ・リーグ == (球団創立順) * [[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの選手一覧]] * [[信濃グランセローズの選手一覧]] * 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(1981年生の投手)|石川賢]](中日ドラゴンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[石川駿]](中日ドラゴンズ) * [[石川俊介 (野球)|石川俊介]](阪神タイガース) * [[石川進 (野球)|石川進]](高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ→東映フライヤーズ→毎日大映オリオンズ→阪急ブレーブス) * [[石川雄洋]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[石川尚任]](国鉄スワローズ) * [[石川政雄]](広島東洋カープ) * [[石川雅実]](読売ジャイアンツ) * [[石川賢 (1960年生の投手)|石川賢]](ロッテオリオンズ→横浜大洋ホエールズ→日本ハムファイターズ) * [[石川貢]](埼玉西武ライオンズ) * [[石川緑]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース→東映フライヤーズ) * [[石川陽造]](東映フライヤーズ) * [[石川良照]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[石黒和弘]](東京オリオンズ=ロッテオリオンズ) * [[石黒誠作]](近鉄パールス) * [[石黒忠]](広島カープ) * [[石毛博史]](読売ジャイアンツ→近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[石毛宏典]](西武ライオンズ→福岡ダイエーホークス) * [[石崎亀喜]](金星スターズ) * [[石崎剛]](阪神タイガース→千葉ロッテマリーンズ) * [[石崎正勝]](トンボユニオンズ) * [[石田逸男]](西鉄ライオンズ) * [[石田健人マルク]](中日ドラゴンズ)2020年から2022年の登録名は「マルク」 * [[石田隆司]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[石田二宣]](毎日大映オリオンズ=東京オリオンズ=ロッテオリオンズ) * [[石田博三]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[石田文樹]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ)94年の登録名は「石田大也」 * [[石田真]](阪急ブレーブス) * [[石田雅亮]](国鉄スワローズ) * [[石田雅彦]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ) * [[石田政良]](名古屋軍→中部日本軍) * [[石田光彦]](阪急軍→南海軍→大和軍→ゴールドスター) * [[石田泰三]](中日ドラゴンズ) * 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[[岩田徹]](阪神タイガース) * [[岩田稔]](阪神タイガース) * [[岩舘学]](読売ジャイアンツ→北海道日本ハムファイターズ) * [[岩出清]](南海ホークス) * [[岩永功]](西鉄ライオンズ) * [[岩橋慶侍]](東京ヤクルトスワローズ) * [[岩橋利男]](国鉄スワローズ) * [[岩見雅紀]](東北楽天ゴールデンイーグルス)2022年の登録名は岩見政暉 * [[岩見優輝]](広島東洋カープ) * [[岩村明憲]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス→東京ヤクルトスワローズ) * [[岩村敬士]](近鉄バファローズ) * [[岩村吉博]](大阪タイガース) * [[岩本章]](東京巨人軍→名古屋軍=産業軍=中部日本軍=中日ドラゴンズ→阪急ブレーブス→広島カープ) * [[岩本輝]](阪神タイガース→オリックス・バファローズ) * [[岩本進]](読売ジャイアンツ→毎日大映オリオンズ=東京オリオンズ) * [[岩本尭]](読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ) * [[岩本貴裕]](広島東洋カープ) * [[岩本勉]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ)99年から2001年の登録名は「岩本ツトム」 * [[岩本信一]](南海ホークス→大洋ホエールズ→松竹ロビンス) * [[岩本守道]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[岩本泰英]](大洋ホエールズ) * [[岩本好広]](阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ) * [[岩本義行]](南海軍→大陽ロビンス=松竹ロビンス→大洋ホエールズ=大洋松竹ロビンス→東映フライヤーズ) * [[隠善智也]](読売ジャイアンツ) === う === * [[植大輔]](中日ドラゴンズ) * [[上岡良一]](日本ハムファイターズ) * [[植木一智]](阪神タイガース) * [[上園啓史]](阪神タイガース→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[上田和明]](読売ジャイアンツ) * [[上田重夫]](大洋ホエールズ) * [[上田次朗]](阪神タイガース→南海ホークス→阪神タイガース)70年の登録名は「上田二郎」、71年から76年の登録名は「上田二朗」、79年から82年の登録名は「上田次郎」 * [[植田征作]](西鉄ライオンズ) * [[上田卓三 (野球)|上田卓三]](南海ホークス→阪神タイガース→南海ホークス) * [[上田武司]](読売ジャイアンツ) * [[植田武彦]](阪急ブレーブス→高橋ユニオンズ) * [[上田正]](大阪タイガース=阪神軍) * [[上田剛史]](東京ヤクルトスワローズ) * [[上田利治]](広島カープ) * [[植田隼美]](西鉄軍) * [[上田浩明]](西武ライオンズ) * [[植田幸弘]](広島東洋カープ→西武ライオンズ) * [[上田容三]](ロッテオリオンズ) * [[上田好剛]](広島東洋カープ→阪神タイガース) * [[上田佳範]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ→中日ドラゴンズ) * [[上辻修]](阪神タイガース→ロッテオリオンズ→読売ジャイアンツ) * [[上中吉成]](西武ライオンズ) * [[上野克二]](南海ホークス) * [[上野重雄]](毎日オリオンズ→東急フライヤーズ=東映フライヤーズ) * [[上野貴久]](読売ジャイアンツ) * [[上野忠]](ヤクルトスワローズ) * [[上野大樹]](千葉ロッテマリーンズ) * [[植野浩史]](大洋ホエールズ) * [[上野弘文]](広島東洋カープ) * [[上野裕平]](読売ジャイアンツ) * [[上野義秋]](名古屋金鯱軍→西鉄クリッパース=西鉄ライオンズ→広島カープ) * [[上原晃]](中日ドラゴンズ→広島東洋カープ→ヤクルトスワローズ) * [[上原浩治]](読売ジャイアンツ) * [[上原厚治郎]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→埼玉西武ライオンズ) * [[植原修平]](ヤクルトアトムズ=ヤクルトスワローズ) * [[植松精一]](阪神タイガース) * [[植松優友]](千葉ロッテマリーンズ) * [[上村和裕]](オリックス・ブルーウェーブ→広島東洋カープ) * [[植村祐介]](北海道日本ハムファイターズ) * [[植村義信]](毎日オリオンズ=毎日大映オリオンズ) * [[上本達之]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ) * [[上本博紀]](阪神タイガース) * [[魚満芳]](読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ) * [[鵜飼昭雪]](毎日オリオンズ) * [[鵜飼克雄]](日本ハムファイターズ→広島東洋カープ) * 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[[大田原隆太]](福岡ソフトバンクホークス) * [[大津淳]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[大津一洋]](西武ライオンズ→南海ホークス) * [[大津守]](西鉄ライオンズ→近鉄パールス=近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[大塚淳弘]](読売ジャイアンツ) * [[大塚晶文]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→中日ドラゴンズ)中日時代の登録名は「大塚晶則」 * [[大塚明]](千葉ロッテマリーンズ) * [[大塚賢一]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→広島東洋カープ→西武ライオンズ) * [[大塚光二]](西武ライオンズ)90年から91年の登録名は「大塚孝二」 * [[大塚淳]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[大塚鶴雄]](東京セネタース=翼軍→南海軍→大和軍)1939年から1942年までの登録名は「柳鶴震」 * [[大塚徹 (野球)|大塚徹]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ→南海ホークス) * [[大塚尚仁]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[大塚弥寿男]](東京オリオンズ=ロッテオリオンズ) * [[大塚安則]](西鉄ライオンズ→大映スターズ) * [[大塚祐司]](阪急ブレーブス) * [[大塚豊]](北海道日本ハムファイターズ) * [[大塚義樹]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[大辻秀夫]](国鉄スワローズ) * [[大坪幸夫]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[大戸雄記]](南海ホークス) * [[大隣憲司]](福岡ソフトバンクホークス→千葉ロッテマリーンズ) * [[大友一明]](大東京軍=ライオン軍=朝日軍→ゴールドスター=金星スターズ) * [[大友進]](西武ライオンズ→中日ドラゴンズ) * [[大友工]](読売ジャイアンツ→近鉄バファロー)近鉄時代の登録名は「大友工司」 * [[大西崇之]](中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ) * [[大西忠]](阪急ブレーブス) * [[大西宏明]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ→横浜ベイスターズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[大西寛介]](名古屋ドラゴンズ) * 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[[大原淳也]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[大原慎司]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[大原徹也]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ→広島東洋カープ→近鉄バファローズ) * [[大原敏夫]](阪急軍) * [[大原博志]](大阪タイガース) * [[大原秉秀]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[大引啓次]](オリックス・バファローズ→北海道日本ハムファイターズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[大平茂]](阪急軍) * [[大平成一]](北海道日本ハムファイターズ) * [[大廣翔治]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[大町定夫]](阪神タイガース)83年の登録名は「大町定生」 * [[大松尚逸]](千葉ロッテマリーンズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[大美健二]](ロッテオリオンズ) * [[大道典良]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス→読売ジャイアンツ)2001年から2010年の登録名は「大道典嘉」 * [[大嶺翔太]](千葉ロッテマリーンズ)2010年から2013年までの登録名は「翔太」 * [[大嶺祐太]](千葉ロッテマリーンズ→中日ドラゴンズ) * [[大宮清]](名古屋金鯱軍) * [[大宮健資]](阪急ブレーブス) * [[大宮龍男]](日本ハムファイターズ→中日ドラゴンズ→西武ライオンズ) * [[大村巌]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ) * [[大村慎次]](近鉄バファローズ) * [[大村高史]](東映フライヤーズ) * [[大村孟]](東京ヤクルトスワローズ) * [[大村直之]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→福岡ソフトバンクホークス→オリックス・バファローズ) * [[大室勝美]](日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[大本則夫]](読売ジャイアンツ→ロッテオリオンズ) * [[大森剛]](読売ジャイアンツ→大阪近鉄バファローズ) * [[大矢明彦]](ヤクルトスワローズ) * [[大屋克己]](東京巨人軍) * [[大屋好正]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ) * [[大矢根博臣]](中日ドラゴンズ→西鉄ライオンズ) * [[大山暁史]](オリックス・バファローズ) * [[大山貴広]](ヤクルトスワローズ) * [[大累進]](読売ジャイアンツ→北海道日本ハムファイターズ) * [[大脇浩二]](ヤクルトスワローズ) * [[大脇照夫]](国鉄スワローズ) * [[大和田明]](西鉄ライオンズ→広島カープ→南海ホークス)65年の登録名は「大和田明良」 * [[大和田正海]](阪急ブレーブス→阪神タイガース) * [[岡幸俊]](ヤクルトスワローズ) * [[岡義朗]](広島東洋カープ→南海ホークス→阪神タイガース) * [[岡上和典]](広島東洋カープ)2006年の登録名は「岡上和功」 * [[岡崎郁]](読売ジャイアンツ) * [[岡崎大輔]](オリックス・バファローズ) * [[岡﨑太一]](阪神タイガース) * [[岡崎恒人]](高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ) * [[小笠原孝]](中日ドラゴンズ) * [[小笠原道大]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ→中日ドラゴンズ) * [[岡持和彦]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[岡島厚]](ロッテオリオンズ→阪神タイガース) * [[岡島秀樹]](読売ジャイアンツ→北海道日本ハムファイターズ→福岡ソフトバンクホークス→横浜DeNAベイスターズ) * [[岡嶋博治]](中日ドラゴンズ→阪急ブレーブス→サンケイスワローズ=サンケイアトムズ→東映フライヤーズ) * [[岡田彰布]](阪神タイガース→オリックス・ブルーウェーブ) * [[岡田功]](大阪タイガース) * [[緒方修]](南海ホークス) * [[岡田源三郎]](名古屋金鯱軍) * [[緒方耕一]](読売ジャイアンツ) * [[緒方孝市]](広島東洋カープ) * [[岡田忠雄]](読売ジャイアンツ) * [[岡田忠弘]](東映フライヤーズ→広島カープ) * [[緒方俊明]](読売ジャイアンツ→西日本パイレーツ→西鉄ライオンズ→東急フライヤーズ=東映フライヤーズ) * [[小形利文]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[岡田展和]](西武ライオンズ→読売ジャイアンツ→横浜ベイスターズ) * [[岡田幸文]](千葉ロッテマリーンズ) * [[岡田福吉]](イーグルス=黒鷲軍=大和軍) * [[緒方勝]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ)71年の登録名は「相沢勝」 * [[岡田光雄 (野球)|岡田光雄]](近鉄バファローズ) * [[岡田宗芳]](大阪タイガース=阪神軍) * [[岡田守雄]](毎日オリオンズ→大洋ホエールズ) * [[岡田幸喜]](阪急ブレーブス) * [[岡田豊]](阪急ブレーブス) * [[尾形佳紀]](広島東洋カープ) * [[緒方凌介]](阪神タイガース) * [[岡野久一]](国鉄スワローズ) * [[岡野八郎]](名古屋金鯱軍) * [[岡野祐一郎]](中日ドラゴンズ) * [[岡野義光]](中日ドラゴンズ→近鉄バファローズ) * [[岡林洋一]](ヤクルトスワローズ) * [[岡部明一]](ロッテオリオンズ) * [[岡部憲章]](日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[岡村晃]](阪急ブレーブス) * [[岡村浩二]](阪急ブレーブス→東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ)東映時代の登録名は「岡村幸治」、日本ハム時代の登録名は「岡村浩司」 * [[岡村孝雄]](阪急ブレーブス→広島カープ) * [[岡村隆則]](西武ライオンズ) * [[岡村俊昭]](南海ホークス=近畿日本軍=近畿グレートリング=南海ホークス) * [[岡村信夫]](名古屋軍) * [[岡村佳典]](西鉄ライオンズ) * [[岡本晃]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ) * [[岡本篤志]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ) * [[岡本伊三美]](南海ホークス) * [[岡本一雄]](大阪タイガース→ライオン軍) * [[岡本一光]](阪急ブレーブス) * [[岡本克道]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス)2005年から2006年までの登録名は「岡本劼能」 * [[岡本教平]](近鉄パールス) * [[岡本圭右]](南海ホークス→読売ジャイアンツ) * [[岡本健 (野球)|岡本健]](福岡ソフトバンクホークス) * [[岡本健一郎]](阪急ブレーブス) * [[岡本健治]](西鉄ライオンズ) * [[岡本光]](読売ジャイアンツ→西武ライオンズ) * [[岡本浩二]](阪神タイガース) * [[岡本真也|岡本真或]](中日ドラゴンズ→埼玉西武ライオンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス)中日時代と2008年の登録名は「岡本真也」、2009年の登録名は「岡本慎也」 * [[岡本哲司]](横浜大洋ホエールズ→日本ハムファイターズ) * [[岡本透]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ→日本ハムファイターズ) * [[岡本敏男]](名古屋軍) * [[岡本利三]](名古屋軍→南海軍) * [[岡本利之]](ライオン軍) * [[岡本直也 (1983年生の投手)|岡本直也]](横浜ベイスターズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[岡本秀寛]](東京ヤクルトスワローズ) * [[岡本三男]](西日本パイレーツ→大洋ホエールズ) * [[岡本洋介]](埼玉西武ライオンズ→阪神タイガース) * [[岡本凱孝]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ→西鉄ライオンズ) * [[岡本芳信]](大映スターズ) * [[岡本龍二]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[小川一夫]](南海ホークス) * [[小川邦和]](読売ジャイアンツ→広島東洋カープ) * [[小川健太郎]](東映フライヤーズ→中日ドラゴンズ) * [[小川浩一]](日本ハムファイターズ→福岡ダイエーホークス)94年から99年の登録名は「小川皓市」 * [[小川滋夫]](中日ドラゴンズ)54年から58年までの登録名は「小川滋」 * [[小川淳司]](ヤクルトスワローズ→日本ハムファイターズ) * [[小川祥志]](中日ドラゴンズ) * [[小川清一]](阪神タイガース→ロッテオリオンズ→読売ジャイアンツ) * [[小川達明]](広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス) * [[小川亨]](近鉄バファローズ) * [[小川敏明]](中日ドラゴンズ→大洋ホエールズ) * [[小川利雄]](国鉄スワローズ) * [[小川年安]](大阪タイガース) * [[小川英雄 (野球)|小川英雄]](阪急ブレーブス) * [[小川史]](西武ライオンズ→南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[小川博 (内野手)|小川博]](阪急ブレーブス) * 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[[小野寺在二郎]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ) * [[小野寺力 (野球)|小野寺力]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[小野寺洋]](イーグルス=黒鷲軍) * [[小畑幸司]](広島東洋カープ) * [[小畑正治]](南海ホークス) * [[尾花高夫]](ヤクルトスワローズ) * [[小原正行]](読売ジャイアンツ) * [[於保浩己]](千葉ロッテマリーンズ) * [[小俣進]](広島東洋カープ→読売ジャイアンツ→ロッテオリオンズ→日本ハムファイターズ) * [[小美濃武芳]](中日ドラゴンズ) * [[親富祖弘也]](西武ライオンズ) * [[小山桂司]](北海道日本ハムファイターズ→中日ドラゴンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[尾山敦]](西武ライオンズ) * [[小山田健一]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ→ヤクルトスワローズ) * [[小山田保裕]](広島東洋カープ→横浜ベイスターズ) * [[織田淳哉]](読売ジャイアンツ) * [[織辺由三]](東京セネタース=翼軍→大洋軍) === か === * [[甲斐和雄]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→ロッテオリオンズ) * [[甲斐拓哉]](オリックス・バファローズ) * [[甲斐雅人]](広島東洋カープ) * [[甲斐雄平]](阪神タイガース) * [[海蔵寺弘司]](南海軍) * [[海田智行]](オリックス・バファローズ) * [[貝塚博次]](中日ドラゴンズ→南海ホークス) * [[貝塚政秀]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ) * [[戒能朶一]](名古屋軍) * [[海部和夫]](毎日オリオンズ) * [[加奥隆三]](阪急ブレーブス) * [[加賀繁]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[加賀美希昇]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[香川正]](近鉄パールス) * [[香川伸行]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[香川秀光]](近鉄パールス) * [[香川正人]](近鉄バファローズ→横浜大洋ホエールズ) * [[垣内哲也]](西武ライオンズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[柿崎幸男]](日本ハムファイターズ) * [[柿澤貴裕]](東北楽天ゴールデンイーグルス→読売ジャイアンツ) * [[柿田裕太]](横浜DeNAベイスターズ) * [[鍵谷康司]](日本ハムファイターズ) * [[柿本実]](南海ホークス→中日ドラゴンズ→阪急ブレーブス→阪神タイガース) * [[覚前昌也]](大阪近鉄バファローズ) * [[加倉一馬]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ→阪神タイガース)西武時代の登録名は「加倉克馬」 * [[加倉井実]](読売ジャイアンツ→近鉄バファロー) * [[筧裕次郎]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ)2008年の登録名は「裕次郎」 * [[景浦賢一]](朝日軍) * [[景浦將]](大阪タイガース→阪神軍) * [[欠端光則]](ロッテオリオンズ→横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[掛布雅之]](阪神タイガース) * [[蔭山和夫]](南海ホークス) * [[加古安宏]](広島カープ) * [[笠井崇正]](横浜DeNAベイスターズ) * [[葛西稔]](阪神タイガース) * [[笠石徳五郎]](阪急軍→中部日本=中日ドラゴンズ→西鉄クリッパース=西鉄ライオンズ) * [[風岡尚幸]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→阪神タイガース) * [[笠崎壮夫]](大洋ホエールズ) * [[笠原栄一]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ→福岡ダイエーホークス) * [[笠原和夫 (野球)|笠原和夫]](南海ホークス→高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ) * [[笠原将生]](読売ジャイアンツ) * [[笠原祥太郎]](中日ドラゴンズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[笠原大芽]](福岡ソフトバンクホークス) * [[笠原正行]](読売ジャイアンツ→大映スターズ) * [[風張蓮]](東京ヤクルトスワローズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[笠間雄二]](読売ジャイアンツ→阪急ブレーブス→阪神タイガース) * [[笠松実]](阪急軍→広島カープ) * [[梶岡忠義]](大阪タイガース) * [[橿渕聡]](ヤクルトスワローズ)2003年の登録名は「橿渕智士」 * [[梶間健一]](ヤクルトスワローズ) * [[鹿島忠]](中日ドラゴンズ) * [[加治前竜一]](読売ジャイアンツ) * [[梶本隆夫]](阪急ブレーブス) * [[梶本達哉]](オリックス・バファローズ) * [[梶本靖郎]](阪急ブレーブス) * [[梶本勇介]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→オリックス・バファローズ) * [[柏木国雄]](近鉄パールス) * [[柏田貴史]](読売ジャイアンツ) * [[柏原純一]](南海ホークス→日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[梶原和隆]](阪神タイガース) * [[梶原康司]](阪神タイガース) * [[梶原宗弘]](南海ホークス) * [[春日一平]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ) * [[春日昭之介]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ→ロッテオリオンズ)75年から78年の登録名は「春日祥之輔」 * [[春日伸介]](西武ライオンズ) * [[粕谷由之]](大洋ホエールズ) * [[嘉㔟敏弘]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[加世田美智久]](西武ライオンズ) * [[忰田幸也]](ヤクルトスワローズ) * [[加田次男]](読売ジャイアンツ) * [[片岡篤史]](日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[片岡建]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[片岡健治]](中日ドラゴンズ) * [[片岡奨人]](北海道日本ハムファイターズ) * [[片岡新之介]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→阪神タイガース→阪急ブレーブス) * [[片岡節次郎]](読売ジャイアンツ→国鉄スワローズ)巨人時代の登録名は「片岡節治郎」 * [[片岡大蔵]](ヤクルトスワローズ) * [[片岡照七]](東急フライヤーズ) * [[片岡宏雄]](中日ドラゴンズ→国鉄スワローズ) * [[片岡博国]](毎日オリオンズ) * [[片岡光宏]](広島東洋カープ→中日ドラゴンズ→横浜大洋ホエールズ) * [[片岡治大]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ→読売ジャイアンツ)2005年から2012年の登録名は片岡易之 * [[片貝義明]](中日ドラゴンズ) * [[片瀬清利]](広島東洋カープ→阪神タイガース)93年から96年の登録名は「片瀬聖敏」 * [[片田謙二]](広島カープ) * [[片平晋作]](南海ホークス→西武ライオンズ→横浜大洋ホエールズ)72年から73年の登録名は「片平伸作」 * [[片平哲也]](中日ドラゴンズ→広島東洋カープ) * [[片山栄次]](大東京軍→大和軍) * [[片山大樹]](阪神タイガース) * [[片山博]](急映フライヤーズ=東映フライヤーズ→大洋ホエールズ→松竹ロビンス→広島カープ) * [[片山博視]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[片山嘉視]](阪急ブレーブス) * [[加地健三郎]](ライオン軍→読売ジャイアンツ) * [[勝浦将元]](大洋ホエールズ) * [[香月良仁]](千葉ロッテマリーンズ) * [[香月良太]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ→読売ジャイアンツ) * [[勝田興]](国鉄スワローズ) * [[甲藤啓介]](福岡ソフトバンクホークス→オリックス・バファローズ) * [[勝亦治]](阪神タイガース→ヤクルトアトムズ=ヤクルトスワローズ) * [[勝俣翔貴]](オリックス・バファローズ→読売ジャイアンツ) * [[桂依央利]](中日ドラゴンズ) * [[葛城育郎]](オリックス・ブルーウェーブ→阪神タイガース) * [[葛城隆雄]](毎日オリオンズ=毎日大映オリオンズ→中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[桂本和夫]](国鉄スワローズ) * [[加藤暁彦]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[加藤一昭]](中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ→トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ→大映スターズ→近鉄パールス=近鉄バファロー)大映時代の登録名は「加藤晃朗」、近鉄時代の登録名は「加藤晃郎」 * [[加藤克巳 (野球)|加藤克巳]](読売ジャイアンツ) * [[加藤喜作]](南海軍=近畿日本軍) * [[加藤健 (野球)|加藤健]](読売ジャイアンツ) * [[加藤康介]](千葉ロッテマリーンズ→オリックス・バファローズ→横浜ベイスターズ→阪神タイガース) * [[加藤脩平]](読売ジャイアンツ) * [[加藤正二 (野球)|加藤正二]](名古屋軍=産業軍=中部日本軍→中日ドラゴンズ→急映フライヤーズ→大映スターズ) * [[加藤伸一]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→広島東洋カープ→オリックス・ブルーウェーブ→大阪近鉄バファローズ) * [[加藤進 (野球)|加藤進]](中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ) * [[加藤大輔]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[加藤誉昭]](ヤクルトスワローズ) * [[加藤高康]](千葉ロッテマリーンズ) * [[加藤隆行]](阪神タイガース) * [[加藤斌]](中日ドラゴンズ) * [[加藤武治]](横浜ベイスターズ→北海道日本ハムファイターズ) * [[歌藤達夫]](オリックス・バファローズ→北海道日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ) * [[加藤竜人]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[加藤太郎 (野球)|加藤太郎]](阪急ブレーブス→東映フライヤーズ) * [[加藤哲郎 (野球)|加藤哲郎]](近鉄バファローズ→広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス) * [[加藤俊夫]](サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ→東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[加藤智男]](名古屋軍) * [[加藤信夫 (野球)|加藤信夫]](大阪タイガース) * [[加藤謙如]](横浜ベイスターズ) * [[加藤初]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→読売ジャイアンツ) * [[加藤春雄]](近鉄バファロー) * [[加藤英夫]](近鉄バファローズ) * [[加藤秀司]](阪急ブレーブス→広島東洋カープ→近鉄バファローズ→読売ジャイアンツ→南海ホークス)79年から87年の登録名は「加藤英司」 * [[加藤英美]](横浜大洋ホエールズ) * [[加藤博一]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→阪神タイガース→横浜大洋ホエールズ) * [[加藤博人]](ヤクルトスワローズ→大阪近鉄バファローズ) * [[加藤政一]](近鉄パールス) * [[加藤正樹]](近鉄バファローズ) * [[加藤将斗]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[加藤昌利]](近鉄パールス=近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[加藤政義]](北海道日本ハムファイターズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[加藤幹典]](東京ヤクルトスワローズ) * [[加藤安雄]](阪急ブレーブス) * [[加藤力雄]](中日ドラゴンズ) * [[加藤領健]](福岡ソフトバンクホークス)2005年から2007年の登録名は「領健」 * [[門岡信行]](中日ドラゴンズ) * [[門岡良典]](大毎オリオンズ) * [[門口秀世]](近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[門倉健]](中日ドラゴンズ→大阪近鉄バファローズ→横浜ベイスターズ→読売ジャイアンツ) * [[門田純良]](南海ホークス→広島東洋カープ) * [[門田博光]](南海ホークス→オリックス・ブレーブス→福岡ダイエーホークス) * [[門田富昭]](横浜大洋ホエールズ) * [[門谷昭]](広島カープ) * [[門野利治]](近鉄バファローズ) * [[門田良三]](広島カープ) * [[鹿取義隆]](読売ジャイアンツ→西武ライオンズ) * [[加登脇卓真]](読売ジャイアンツ) * [[金井清 (野球)|金井清]](名古屋金鯱軍→イーグルス) * [[金井正幸]](中日ドラゴンズ→ロッテオリオンズ) * [[金井満盛]](大映スターズ) * [[金井元三]](サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ) * [[金具洋右]](阪急ブレーブス) * [[金澤健一]](福岡ダイエーホークス) * [[金澤岳]](千葉ロッテマリーンズ) * [[金澤健人]](阪神タイガース→北海道日本ハムファイターズ→オリックス・バファローズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[金沢次男]](大洋ホエールズ→日本ハムファイターズ→ヤクルトスワローズ→ロッテオリオンズ)ロッテ時代の登録名は「金澤次男」 * [[金沢信彦]](近鉄バファローズ→ロッテ・ジャイアンツ) * [[金沢幸彦]](ロッテオリオンズ) * [[金敷一美]](ヤクルトスワローズ) * [[金本誠吉]](阪急ブレーブス) * [[金森栄治]](西武ライオンズ→阪神タイガース→ヤクルトスワローズ)85年から92年の登録名は「金森永時」 * [[金森隆浩]](中日ドラゴンズ) * [[金森敬之]](北海道日本ハムファイターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[金谷剛]](大阪近鉄バファローズ) * [[金山勝巳]](東急フライヤーズ=東映フライヤーズ)53年から59年の登録名は「布施勝巳」 * [[金山次郎]](名古屋軍=産業軍=中部日本軍=中日ドラゴンズ→急映フライヤーズ→大映スターズ→松竹ロビンス→広島カープ) * [[金山仙吉]](中日ドラゴンズ)79年から85年の登録名は「金山卓嗣」 * [[鐘井裕治]](南海ホークス) * [[金石昭人]](広島東洋カープ→日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ) * [[金川直樹]](横浜ベイスターズ) * [[金子一輝]](埼玉西武ライオンズ) * [[金子和三郎]](東急フライヤーズ→西鉄ライオンズ) * [[金子勝美]](中日ドラゴンズ) * [[金子圭輔]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス→オリックス・バファローズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[金子準一]](西鉄ライオンズ) * [[金子誠一]](阪神タイガース) * [[金子千尋]](オリックス・バファローズ→北海道日本ハムファイターズ)2019年から2021年の登録名は「金子弌大」 * [[金子哲夫 (野球)|金子哲夫]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[金子裕 (野球)|金子裕]](名古屋金鯱軍→東京セネタース=翼軍→黒鷲軍=大和軍) * [[金子誠]](北海道日本ハムファイターズ) * [[金子洋平]](北海道日本ハムファイターズ) * [[金島正彦]](読売ジャイアンツ) * [[金城致勲]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ→ロッテオリオンズ) * [[金城基泰]](広島東洋カープ→南海ホークス→読売ジャイアンツ) * [[金田和之]](阪神タイガース→オリックス・バファローズ) * [[金田進]](中日ドラゴンズ) * [[金田留広]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ→ロッテオリオンズ→広島東洋カープ) * [[金田正一]](国鉄スワローズ→読売ジャイアンツ) * [[金田政彦]](オリックス・ブルーウェーブ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[金田正泰]](阪神軍=大阪タイガース) * [[金刃憲人]](読売ジャイアンツ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[金彦任重]](南海ホークス)56年の登録名は「金彦永徳」 * [[金平将至]](北海道日本ハムファイターズ) * [[金丸将也]](広島東洋カープ) * [[金光彬夫]](朝日軍) * [[金光秀憲]](大洋ホエールズ) * [[兼光保明]](近鉄バファローズ) * [[金村清]](南海ホークス) * [[金村康平]](横浜ベイスターズ) * [[金村曉]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ→阪神タイガース)95年から96年の登録名は「金村秀雄」、97年から2000年の登録名は「金村暁」 * [[金村大裕]](阪神タイガース) * [[金村義明]](近鉄バファローズ→中日ドラゴンズ→西武ライオンズ) * [[金本明博]](中日ドラゴンズ) * [[金本知憲]](広島東洋カープ→阪神タイガース) * [[金本秀夫]](阪急ブレーブス→阪神タイガース) * [[兼吉寛]](読売ジャイアンツ) * [[鹿野鉱一]](大阪タイガース) * [[狩野恵輔]](阪神タイガース) * [[加納茂徳]](阪神タイガース) * [[蒲谷和茂]](西武ライオンズ) * [[鏑木悦純]](阪神タイガース→大洋ホエールズ→読売ジャイアンツ) * [[釜井敏晴]](中日ドラゴンズ)64年の登録名は「二滝敏晴」 * [[鎌倉健]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[鎌田圭司]](中日ドラゴンズ) * [[鎌田実]](阪神タイガース→近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[鎌田祐哉]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[鎌田豊]](広島カープ=広島東洋カープ) * [[釜田佳直]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[鎌仲政昭]](中日ドラゴンズ→近鉄バファローズ) * [[鎌野裕]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ) * [[釜本勝義]](洋松ロビンス=大洋ホエールズ) * [[釜元豪]](福岡ソフトバンクホークス→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[上市皓雄]](大映スターズ=大映ユニオンズ)52年から53年の登録名は「上市明」 * [[神内靖]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス→横浜DeNAベイスターズ) * [[神垣雅行]](中日ドラゴンズ→近鉄バファローズ) * 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[[川本智徳]](日本ハムファイターズ→西武ライオンズ→中日ドラゴンズ) * [[河本育之]](千葉ロッテマリーンズ→読売ジャイアンツ→北海道日本ハムファイターズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[川本良平]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→千葉ロッテマリーンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[河原田明]](東映フライヤーズ) * [[瓦谷嘉宏]](近鉄パールス=近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[菅利雄]](イーグルス=黒鷲軍) * [[神垣雅詔]](広島カープ) * [[神吉俊和]](大洋ホエールズ=洋松ロビンス) * [[神崎安隆]](松竹ロビンス→大洋松竹ロビンス→広島カープ) * [[管田薫]](広島カープ) * [[神田大介]](横浜ベイスターズ) * [[神田武夫]](南海軍) * [[神田昌男]](大洋ホエールズ=洋松ロビンス=大洋ホエールズ) * [[神田義英]](千葉ロッテマリーンズ) * [[神高義幸]](西鉄ライオンズ) * [[関東孝雄]](中日ドラゴンズ)79年から81年の登録名は「関東孝夫」 * [[勧野甲輝]](東北楽天ゴールデンイーグルス→福岡ソフトバンクホークス) * [[菅野武雄]](名古屋ドラゴンズ) * [[上林繁次郎]](中部日本ドラゴンズ=中日ドラゴンズ→東急フライヤーズ→毎日オリオンズ) * [[神原隆彦]](西鉄ライオンズ→阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ) * [[神部年男]](近鉄バファローズ→ヤクルトスワローズ) * [[神戸文也]](オリックス・バファローズ) === き === * [[木織武美]](阪急ブレーブス→東映フライヤーズ) * [[菊川昭二郎]](近鉄バファローズ→西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→ロッテオリオンズ) * [[菊沢竜佑]](東京ヤクルトスワローズ) * [[菊地彰穂]](大映スターズ=大映ユニオンズ) * [[菊地和正]](北海道日本ハムファイターズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[菊地恭一]](横浜大洋ホエールズ) * [[菊地武和]](広島カープ) * [[菊池俊夫]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ) * [[菊地秀之 (野球)|菊地秀之]](西鉄ライオンズ) * [[菊地博仁]](広島カープ) * [[菊地正法]](中日ドラゴンズ) * [[菊池保則]](東北楽天ゴールデンイーグルス→広島東洋カープ) * [[菊池雄星]](埼玉西武ライオンズ) * [[菊地原毅]](広島東洋カープ→オリックス・バファローズ→広島東洋カープ) * [[菊矢吉男]](大阪タイガース→大東京軍=ライオン軍=朝日軍→ゴールドスター) * [[木興拓哉]](千葉ロッテマリーンズ→阪神タイガース) * [[木頃博巧]](阪急ブレーブス) * [[木佐貫洋]](読売ジャイアンツ→オリックス・バファローズ→北海道日本ハムファイターズ) * [[岸勝之]](大洋ホエールズ) * [[岸敬祐]](読売ジャイアンツ→千葉ロッテマリーンズ) * [[岸輝男]](近鉄パールス=近鉄バファロー) * [[岸川勝也]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→読売ジャイアンツ→横浜ベイスターズ) * [[岸川登俊]](千葉ロッテマリーンズ→中日ドラゴンズ→オリックス・ブルーウェーブ) * [[岸川雄二]](西武ライオンズ) * [[岸里亮佑]](北海道日本ハムファイターズ) * [[岸田護]](オリックス・バファローズ) * [[岸本千明]](南海ホークス) * [[岸本秀樹]](横浜ベイスターズ→広島東洋カープ) * [[岸本正治]](阪急軍) * [[喜瀬正顕]](パシフィック) * [[北篤]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ→北海道日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ) * [[木田勇]](日本ハムファイターズ→横浜大洋ホエールズ→中日ドラゴンズ) * [[喜田剛]](阪神タイガース→広島東洋カープ→オリックス・バファローズ→横浜ベイスターズ) * [[紀田彰一]](横浜ベイスターズ→西武ライオンズ) * [[喜多隆志]](千葉ロッテマリーンズ) * [[木田優夫]](読売ジャイアンツ→オリックス・ブルーウェーブ→東京ヤクルトスワローズ→北海道日本ハムファイターズ) * [[北安博]](横浜大洋ホエールズ→日本ハムファイターズ) * [[北井正雄]](阪急軍) * [[北浦三男]](東京セネタース→西鉄軍) * [[北方悠誠]](横浜DeNAベイスターズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[北角富士雄]](中日ドラゴンズ) * [[北川桂太郎]](セネタース=東急フライヤーズ=急映フライヤーズ=東急フライヤーズ→西鉄ライオンズ→毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ) * [[北川公一]](近鉄バファローズ) * [[北川晋]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[北川哲也]](ヤクルトスワローズ) * [[北川隼行]](横浜ベイスターズ)2003年から2008年の登録名は「北川利之」 * [[北川智規 (野球)|北川智規]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[北川信義]](西鉄ライオンズ) * [[北川久治]](大洋ホエールズ=洋松ロビンス) * [[北川博敏]](阪神タイガース→大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ) * [[北川裕司]](ロッテオリオンズ) * [[北川芳男]](国鉄スワローズ→読売ジャイアンツ) * [[北川倫太郎]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[木立章成]](阪神タイガース) * [[木谷寿巳]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[北野明仁]](読売ジャイアンツ) * [[北野勝則]](横浜大洋ホエールズ→中日ドラゴンズ) * [[北野勉]](近鉄パールス) * [[北野良栄]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[北畑利雄]](国鉄スワローズ) * [[北原喜久男]](広島東洋カープ) * [[北原泰二]](西武ライオンズ→ヤクルトスワローズ) * [[北原昇]](南海軍) * [[北原啓]](西鉄ライオンズ) * [[北別府学]](広島東洋カープ) * [[北村修一]](南海ホークス) * [[北村親夫]](阪急ブレーブス) * [[北村照文]](阪神タイガース→西武ライオンズ→中日ドラゴンズ) * [[北本重二]](大陽ロビンス=松竹ロビンス→阪急ブレーブス) * [[木樽正明]](東京オリオンズ=ロッテオリオンズ) * [[木塚敦志]](横浜ベイスターズ) * [[木塚忠助]](南海ホークス→近鉄パールス=近鉄バファロー) * [[木次文夫]](読売ジャイアンツ→国鉄スワローズ) * [[木戸克彦]](阪神タイガース) * [[城戸則文]](西鉄ライオンズ→サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ=ヤクルトスワローズ) * [[木戸美摸]](読売ジャイアンツ) * 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[[楠安夫]](東京巨人軍→阪急ブレーブス→西鉄クリッパース→読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ)49年から53年の登録名は「楠協郎」、54年から55年の登録名は「楠拡応」 * [[楠橋高幸]](阪神タイガース) * [[久住静男]](国鉄スワローズ) * [[楠本秀雄]](阪神タイガース) * [[工藤一彦]](阪神タイガース) * [[工藤公康]](西武ライオンズ→福岡ダイエーホークス→読売ジャイアンツ→横浜ベイスターズ→埼玉西武ライオンズ) * [[工藤隆人]](北海道日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ→千葉ロッマリーンズ→中日ドラゴンズ) * [[工藤友也]](中日ドラゴンズ) * [[工藤博義]](阪急ブレーブス) * [[工藤正明]](読売ジャイアンツ) * [[工藤幹夫]](日本ハムファイターズ) * [[国枝利通]](中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ) * [[国岡恵治]](阪急ブレーブス) * [[国木剛太]](広島東洋カープ) * [[国貞泰汎]](南海ホークス→広島東洋カープ→太平洋クラブライオンズ) * [[国頭光仁]](阪急ブレーブス) * [[国久松一]](南海軍) * [[国松彰]](読売ジャイアンツ) * [[久野勝美]](中部日本=中部日本ドラゴンズ=中日ドラゴンズ) * [[久保貴裕]](福岡ダイエーホークス) * [[久保吾一]](国鉄スワローズ) * [[久保重男]](大洋ホエールズ) * [[久保祥次]](広島カープ→近鉄バファローズ) * [[久保孝之]](福岡ダイエーホークス) * [[久保拓眞]](東京ヤクルトスワローズ) * [[久保俊巳]](広島東洋カープ→日本ハムファイターズ) * [[久保文雄]](横浜大洋ホエールズ) * [[久保守]](阪急ブレーブス) * [[久保充広]](近鉄バファローズ→オリックス・ブルーウェーブ) * [[久保康生]](近鉄バファローズ→阪神タイガース→近鉄バファローズ) * [[久保康友]](千葉ロッテマリーンズ→阪神タイガース→横浜DeNAベイスターズ) * [[久保裕也 (野球)|久保裕也]](読売ジャイアンツ→横浜DeNAベイスターズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[久保征弘]](近鉄バファロー=近鉄バファローズ→中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * 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[[小泉恒美]](南海ホークス→中日ドラゴンズ) * [[小泉泰重]](読売ジャイアンツ) * [[高信二]](広島東洋カープ) * [[交告弘利]](阪神タイガース) * [[香坂英典]](読売ジャイアンツ) * [[香田勲男]](読売ジャイアンツ→近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ) * [[合田栄蔵]](南海ホークス→阪神タイガース) * [[幸田正広]](ヤクルトスワローズ) * [[幸田優]](大洋ホエールズ) * [[河内卓司]](毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ) * [[河野旭輝]](阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ→阪急ブレーブス→西鉄ライオンズ) * [[河野昭修]](西鉄ライオンズ) * [[河埜和正]](読売ジャイアンツ) * [[鴻野淳基]](西武ライオンズ→読売ジャイアンツ→横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[河埜敬幸]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[河野博]](大阪タイガース) * [[河野博文]](日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ→千葉ロッテマリーンズ) * [[河野安男]](近鉄バファロー) * [[河野友軌]](横浜ベイスターズ) * [[神戸拓光]](千葉ロッテマリーンズ) * [[高村良嘉]](読売ジャイアンツ) * [[高屋俊夫]](国鉄スワローズ) * [[神山一義]](中日ドラゴンズ) * [[古賀豪紀]](オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ) * [[古賀英彦]](読売ジャイアンツ) * [[古賀正明]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ→ロッテオリオンズ→読売ジャイアンツ→横浜大洋ホエールズ) * [[古賀道人]](ロッテオリオンズ) * [[小金丸満]](ロッテオリオンズ→大洋ホエールズ) * [[國場翼]](埼玉西武ライオンズ) * [[小久保浩樹]](西武ライオンズ) * [[小窪哲也]](広島東洋カープ→千葉ロッテマリーンズ) * [[小久保裕紀]](福岡ダイエーホークス→読売ジャイアンツ→福岡ソフトバンクホークス) * [[木暮英路]](阪急軍→西鉄クリッパース) * [[木暮力三]](東京巨人軍→パシフィック→大陽ロビンス→西鉄クリッパース) * [[小斉祐輔]](福岡ソフトバンクホークス→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[小阪三郎]](名古屋軍=産業軍) * [[小坂敏彦]](読売ジャイアンツ→日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[小坂誠]](千葉ロッテマリーンズ→読売ジャイアンツ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[小坂佳隆]](広島カープ) * [[小島二男]](東京セネタース=翼軍→大洋軍) * [[小島圭市]](読売ジャイアンツ→中日ドラゴンズ) * [[小島茂男]](名古屋軍) * [[小島脩平]](オリックス・バファローズ) * [[小島心二郎]](広島東洋カープ→オリックス・バファローズ) * [[小嶋達也]](阪神タイガース) * [[小島禎二]](中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ) * [[小島利男]](大阪タイガース→イーグルス→黒鷲軍→大和軍→パシフィック→西日本パイレーツ) * [[小嶋仁八郎]](西日本パイレーツ) * [[小島弘務]](中日ドラゴンズ→ロッテオリオンズ) * [[小嶋正宣]](阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ) * [[小島昌也]](オリックス・ブルーウェーブ→東北楽天ゴールデンイーグルス→オリックス・バファローズ) * [[五島裕二]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ) * [[小島善博]](日本ハムファイターズ) * [[小杉陽太]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[小関翔太]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[後関昌彦]](ヤクルトスワローズ→近鉄バファローズ) * [[小谷信雄]](広島カープ) * [[小谷正勝]](大洋ホエールズ) * [[小玉明利]](近鉄パールス=近鉄バファロー=近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[児玉幸雄]](松竹ロビンス) * [[児玉利一]](名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ→大洋ホエールズ) * [[児玉弘義]](近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[児玉泰]](中日ドラゴンズ→近鉄バファローズ)54年から57年の登録名は「空谷泰」 * [[児玉禎彦]](東京オリオンズ) * [[児玉好弘]](阪急ブレーブス→広島東洋カープ→太平洋クラブライオンズ) * [[小塚弘司]](広島カープ) * [[小辻英雄]](南海ホークス) * [[小鶴誠]](名古屋軍→中部日本軍=中日ドラゴンズ→急映フライヤーズ→大映スターズ→松竹ロビンス→広島カープ)42年の登録名は「飯塚誠」 * [[後藤修]](松竹ロビンス=大洋松竹ロビンス→東映フライヤーズ→大映スターズ→読売ジャイアンツ→近鉄バファロー→南海ホークス→西鉄ライオンズ) * [[後藤和昭]](阪神タイガース→日本ハムファイターズ) * [[後藤清]](西鉄ライオンズ) * [[後藤孝志]](読売ジャイアンツ)88年から91年の登録名は「後藤孝次」 * [[後藤順治郎]](東急フライヤーズ→西鉄ライオンズ) * [[後藤伸也]](横浜ベイスターズ) * [[後藤武敏]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ→横浜DeNAベイスターズ)2015年の登録名は「後藤武敏G.」、2016年の登録名は「後藤G武敏」、2017年の登録名は「G.後藤武敏」、2018年の登録名は「G後藤武敏」 * [[後藤武晴]](東映フライヤーズ) * [[後藤正 (野球)|後藤正]](名古屋軍) * [[後藤忠弘]](近鉄バファローズ) * [[後藤次男]](大阪タイガース) * [[後藤利幸]](千葉ロッテマリーンズ) * [[後藤祝秀]](中日ドラゴンズ) * [[後藤宏之]](西鉄クリッパース=西鉄ライオンズ) * [[五島道信]](近鉄パールス=近鉄バファロー) * [[後藤光貴]](西武ライオンズ→読売ジャイアンツ→西武ライオンズ) * [[後藤光尊]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[後藤雄一]](ヤクルトスワローズ) * [[小西秀朗]](国鉄スワローズ→東京オリオンズ) * [[小西正夫]](広島カープ) * [[木場巌]](金星スターズ=大映スターズ) * [[古葉竹識]](広島カープ→南海ホークス)58年から63年の登録名は「古葉毅」 * [[小橋正佳]](ヤクルトスワローズ) * [[小橋優]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ) * [[小浜裕一]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ) * [[小早川幸二]](福岡ダイエーホークス→中日ドラゴンズ→広島東洋カープ) * [[小早川毅彦]](広島東洋カープ→ヤクルトスワローズ) * [[小林昭則]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ) * [[小林章良]](朝日軍→パシフィック→松竹ロビンス→大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ) * [[小林敦司]](広島東洋カープ→千葉ロッテマリーンズ)ロッテ時代の登録名は「小林渥司」 * [[小林敦 (野球)|小林敦]](千葉ロッテマリーンズ) * [[小林敦美]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス) * [[小林至]](千葉ロッテマリーンズ) * [[小林英一 (野球)|小林英一]](阪神軍=大阪タイガース→大陽ロビンス) * [[小林和公]](ヤクルトスワローズ) * [[小林勝巳]](国鉄スワローズ) * [[小林幹英]](広島東洋カープ) * [[小林国男]](ヤクルトアトムズ=ヤクルトスワローズ) * [[小林慶祐]](オリックス・バファローズ→阪神タイガース) * [[小林賢司]](オリックス・バファローズ) * [[小林浩二]](大洋ホエールズ) * [[小林悟楼]](南海軍=グレートリング=南海ホークス) * [[小林聡 (野球)|小林聡]](読売ジャイアンツ) * [[小林茂生]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ) * [[小林茂太]](名古屋金鯱軍→翼軍) * [[小林繁]](読売ジャイアンツ→阪神タイガース) * [[小林晋哉]](阪急ブレーブス) * [[小林誠二]](広島東洋カープ→西武ライオンズ→広島東洋カープ) * [[小林善一郎]](名古屋軍) * [[小林宣介]](大映スターズ) * [[小林経旺]](金星スターズ→大陽ロビンス=松竹ロビンス→大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ→近鉄パールス)48年の登録名は「小林常夫」、49年から54年の登録名は「小林恒夫」 * [[小林利蔵]](名古屋金鯱軍) * [[小林英幸]](中日ドラゴンズ→大毎オリオンズ=東京オリオンズ) * [[小林兵太郎]](大洋ホエールズ) * [[小林宏 (野球)|小林宏]](オリックス・バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[小林寛 (野球)|小林寛]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[小林宏之 (野球)|小林宏之]](千葉ロッテマリーンズ→阪神タイガース→埼玉西武ライオンズ)阪神・西武時代の登録名は「小林宏」 * [[小林太志]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[小林誠 (野球)|小林誠]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ) * [[小林雅英]](千葉ロッテマリーンズ→読売ジャイアンツ→オリックス・バファローズ) * [[小林正人]](中日ドラゴンズ)2012年の登録名は「小林正」 * [[小林正之]](広島東洋カープ) * [[小林勇二]](阪急ブレーブス) * [[小林吉雄]](大阪タイガース=阪神軍) * [[小原沢重頼]](読売ジャイアンツ→千葉ロッテマリーンズ) * [[小桧山雅仁]](横浜ベイスターズ) * [[小平誠司]](読売ジャイアンツ) * [[小淵泰輔]](西鉄ライオンズ→中日ドラゴンズ→国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ=アトムズ) * [[駒井鉄雄]](大映スターズ=大映ユニオンズ) * [[駒居鉄平]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[小前博文]](ゴールドスター=金星スターズ→阪急ブレーブス→広島カープ) * [[小牧雄一]](日本ハムファイターズ→西武ライオンズ)日本ハム時代の登録名は「小牧優一」 * [[駒崎幸一]](西武ライオンズ→大洋ホエールズ) * [[駒田桂二]](大阪タイガース) * [[駒田徳広]](読売ジャイアンツ→横浜ベイスターズ) * [[小俣秀夫]](阪神軍→毎日オリオンズ) * [[小松健二]](阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ) * [[小松聖]](オリックス・バファローズ) * [[小松剛]](広島東洋カープ) * [[小松辰雄]](中日ドラゴンズ) * [[小松輝清]](阪急ブレーブス) * [[小松時男]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ) * [[小松俊広]](読売ジャイアンツ) * [[駒月仁人]](埼玉西武ライオンズ) * [[小松崎善久]](中日ドラゴンズ→日本ハムファイターズ→中日ドラゴンズ) * [[小松原博喜]](大和軍→読売ジャイアンツ→国鉄スワローズ) * [[五味芳夫]](名古屋金鯱軍→朝日軍→大陽ロビンス) * [[小宮山悟]](千葉ロッテマリーンズ→横浜ベイスターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[小宮山慎二]](阪神タイガース) * [[小武方信一]](南海ホークス) * 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* [[権藤正利]](大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ→東映フライヤーズ→阪神タイガース) * [[近藤三明]](近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[近藤満]](中日ドラゴンズ) * [[近藤光郎]](西鉄ライオンズ→中日ドラゴンズ)60年から66年の登録名は「近藤瑞郎」 * [[近藤芳久]](広島東洋カープ→千葉ロッテマリーンズ) * [[今野隆裕]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ→中日ドラゴンズ) === さ === * [[歳内宏明]](阪神タイガース→東京ヤクルトスワローズ) * [[西園寺昭夫]](東映フライヤーズ→阪神タイガース→アトムズ=ヤクルトアトムズ) * [[雑賀幸男]](広島カープ=広島東洋カープ) * [[才所俊郎]](読売ジャイアンツ→西鉄ライオンズ) * [[才田修]](阪神タイガース) * [[斎田忠利]](大映ユニオンズ→近鉄パールス=近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[斎田斉]](東映フライヤーズ) * [[財津守]](中日ドラゴンズ) * [[斉藤明雄]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ)82年から93年の登録名は「斉藤明夫」 * [[斉藤和巳]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス)96年から99年の登録名は「カズミ」 * [[斎藤克男]](阪急ブレーブス) * [[斎藤精宏]](西鉄ライオンズ) * [[齋藤圭祐]](読売ジャイアンツ) * [[斉藤巧]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ→ロッテオリオンズ→オリックス・ブルーウェーブ) * [[斎藤俊介]](横浜DeNAベイスターズ) * [[斉藤彰吾]](埼玉西武ライオンズ) * [[齊藤信介]](中日ドラゴンズ) * [[斎藤誠二]](読売ジャイアンツ) * [[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[斉藤宜之]](読売ジャイアンツ→東京ヤクルトスワローズ) * [[斎藤忠二]](朝日軍) * [[斎藤達雄 (野球)|斎藤達雄]](広島カープ→大毎オリオンズ)63年の登録名は「斎藤達男」 * [[齋藤俊雄]](横浜ベイスターズ→千葉ロッテマリーンズ→オリックス・バファローズ) * [[斉藤直哉]](阪神タイガース) * 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[[酒井豪久]](大洋ホエールズ→国鉄スワローズ) * [[酒井忠晴]](中日ドラゴンズ→千葉ロッテマリーンズ→中日ドラゴンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[酒井勉]](オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ) * [[酒井敏明]](中日ドラゴンズ) * [[坂井豊司]](阪急軍=阪急ブレーブス→広島カープ) * [[酒井弘樹]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[酒井光次郎]](日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[酒井泰志]](千葉ロッテマリーンズ) * [[栄村忠広]](読売ジャイアンツ→オリックス・ブルーウェーブ) * [[栄屋悦男]](大阪タイガース→広島カープ) * [[坂上惇]](西鉄ライオンズ→大映スターズ=大映ユニオンズ) * [[榊親一]](東京オリオンズ=ロッテオリオンズ) * [[榊原勝也]](横浜大洋ホエールズ) * [[榊原盛毅]](広島カープ) * [[榊原聡一郎]](広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス→広島東洋カープ) * [[榊原翼]](オリックス・バファローズ) * [[榊原良行]](阪神タイガース→日本ハムファイターズ) * [[榊原諒]](北海道日本ハムファイターズ→オリックス・バファローズ) * [[坂口和司]](南海ホークス) * [[坂口俊一]](中日ドラゴンズ) * [[阪口忠昭]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ) * [[坂口千仙]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→日本ハムファイターズ→ヤクルトスワローズ) * [[坂口智隆]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[坂口真規]](読売ジャイアンツ) * [[坂崎一彦]](読売ジャイアンツ→東映フライヤーズ) * [[酒沢政夫]](ライオン軍=朝日軍→ゴールドスター=金星スターズ=大映スターズ→阪急ブレーブス)阪急時代の登録名は「酒沢成治」 * [[阪田清春]](阪急軍→南海ホークス→広島カープ→阪急ブレーブス) * [[阪田隆]](南海ホークス) * [[坂田将人]](福岡ソフトバンクホークス) * [[阪田正芳]](大阪タイガース) * [[阪田芳秀]](毎日オリオンズ) * [[坂田遼]](埼玉西武ライオンズ) * 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[[桜井俊貴]](読売ジャイアンツ) * [[櫻井幸博]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ)95年から97年の登録名は「桜井幸博」 * [[櫻井嘉実]](中日ドラゴンズ)2003年から2005年の登録名は「櫻井好実」 * [[桜沢三郎]](朝日軍) * [[迫田七郎]](東京オリオンズ=ロッテオリオンズ→中日ドラゴンズ) * [[迫丸金次郎]](読売ジャイアンツ→広島東洋カープ)74年から77年の登録名は「迫丸公勝」 * [[佐々岡真司]](広島東洋カープ) * [[笹川隆]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[佐々木明義]](オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→読売ジャイアンツ) * [[佐々木勲]](読売ジャイアンツ→中日ドラゴンズ) * [[佐々木修 (野球)|佐々木修]](近鉄バファローズ) * [[佐々木勝利 (野球)|佐々木勝利]](毎日大映オリオンズ→広島東洋カープ) * [[佐々木主浩]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[佐々木吉郎]](大洋ホエールズ) * [[佐々木貴賀]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[佐々木恭介]](近鉄バファローズ) * [[佐々木健一 (野球)|佐々木健一]](中日ドラゴンズ) * [[佐々木宏一郎]](大洋ホエールズ→近鉄バファローズ→南海ホークス) * [[佐々木孝次 (野球)|佐々木孝次]](中日ドラゴンズ) * [[佐々木重樹]](ヤクルトスワローズ→福岡ダイエーホークス) * [[佐々木重徳]](国鉄スワローズ) * [[佐々木茂 (野球)|佐々木茂]](ヤクルトアトムズ) * [[佐々木信也]](高橋ユニオンズ→大映ユニオンズ→毎日大映オリオンズ) * [[佐々木誠吾]](阪急ブレーブス→東映フライヤーズ) * [[佐々木剛 (野球)|佐々木剛]](サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ→東映フライヤーズ) * [[佐々木常助]](名古屋金鯱軍) * [[佐々木信行]](ロッテオリオンズ) * [[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→西武ライオンズ→阪神タイガース) * [[佐々木正行]](ヤクルトスワローズ→日本ハムファイターズ) * [[佐々木光雄]](大洋軍) * 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[[杉田久雄]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ→南海ホークス→広島東洋カープ) * [[杉田屋守]](イーグルス=黒鷲軍) * [[杉谷和男]](大映スターズ) * [[杉永政信]](横浜大洋ホエールズ) * [[杉原洋]](千葉ロッテマリーンズ→横浜ベイスターズ) * [[杉町攻]](西鉄ライオンズ) * [[杉村繁]](ヤクルトスワローズ) * [[杉本郁久雄]](阪神タイガース) * [[杉本喜久雄]](広島カープ) * [[杉本公孝]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ→大洋ホエールズ) * [[杉本潔彦]](オリックス・ブルーウェーブ)98年から99年の登録名は「キヨ」 * [[杉本正 (野球)|杉本正]](西武ライオンズ→中日ドラゴンズ→福岡ダイエーホークス) * [[杉本定介]](読売ジャイアンツ) * [[杉本尚文]](オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ) * [[杉本正志]](広島東洋カープ→ロッテオリオンズ→オリックス・ブルーウェーブ)88年から92年までの登録名は「杉本征使」 * [[椙本勝]](松竹ロビンス→大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ) * [[杉本友]](オリックス・ブルーウェーブ→横浜ベイスターズ→ヤクルトスワローズ) * [[杉谷拳士]](北海道日本ハムファイターズ) * [[杉山賢人]](西武ライオンズ→阪神タイガース→大阪近鉄バファローズ→横浜ベイスターズ) * [[杉山晃基]](東京ヤクルトスワローズ) * [[杉山光平]](近鉄パールス→南海ホークス→阪急ブレーブス→南海ホークス) * [[杉山悟]](中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ→国鉄スワローズ→近鉄バファロー) * [[杉山重雄]](ヤクルトアトムズ=ヤクルトスワローズ→南海ホークス) * [[杉山茂]](読売ジャイアンツ) * [[杉山俊介]](横浜ベイスターズ→福岡ダイエーホークス→千葉ロッテマリーンズ) * [[杉山翔大]](中日ドラゴンズ) * [[杉山真治郎]](大映スターズ) * [[杉山哲夫]](中日ドラゴンズ) * [[杉山知隆]](大洋ホエールズ→日本ハムファイターズ) * [[杉山東洋生]](黒鷲軍=大和軍) * [[杉山直樹 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[[高野忍]](読売ジャイアンツ) * [[高野光]](ヤクルトスワローズ→福岡ダイエーホークス) * [[高野裕良]](東京巨人軍=読売ジャイアンツ→金星スターズ=大映スターズ→大洋ホエールズ=大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ)巨人時代の登録名は「諏訪裕良」 * [[高野百介]](南海軍) * [[鷹野史寿]](大阪近鉄バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[高橋顕法]](広島東洋カープ→阪神タイガース) * [[髙橋聡文]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[高橋輝]](国鉄スワローズ) * [[高橋明 (投手)|高橋明]](読売ジャイアンツ→西鉄ライオンズ) * [[高橋明 (外野手)|高橋明]](西鉄ライオンズ) * [[高橋郁雄]](ヤクルトスワローズ) * [[高橋栄一郎]](読売ジャイアンツ→南海ホークス) * [[高橋英二]](読売ジャイアンツ) * [[高橋薫]](千葉ロッテマリーンズ) * [[高橋一雄]](高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ) * [[高橋一彦]](横浜大洋ホエールズ→西武ライオンズ) * [[高橋一正]](ヤクルトスワローズ) * [[高橋一三]](読売ジャイアンツ) * [[高橋和幸]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[高橋建]](広島東洋カープ) * [[髙橋洸]](読売ジャイアンツ) * [[高橋幸一]](毎日オリオンズ) * [[高橋功一 (1965年生の投手)|高橋功一]](日本ハムファイターズ) * [[高橋功一 (1971年生の投手)|高橋功一]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[高橋幸二 (野球)|高橋幸二]](中日ドラゴンズ) * [[高橋浩司]](オリックス・ブルーウェーブ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[高橋敏]](阪急軍) * [[高橋里志]](南海ホークス→広島東洋カープ→日本ハムファイターズ→近鉄バファローズ) * [[高橋智]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→ヤクルトスワローズ) * [[高橋重行]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ) * [[髙橋純平]](福岡ソフトバンクホークス) * [[髙橋信二]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ→オリックス・バファローズ) * [[高橋孝明]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[高橋千年美]](広島カープ) * [[高橋忠一]](ロッテオリオンズ) * [[高橋勉]](阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ) * [[高橋輝彦]](東京セネタース=翼軍→大洋軍) * [[高橋徹 (野球)|高橋徹]](福岡ソフトバンクホークス) * [[高橋俊春]](広島東洋カープ→西武ライオンズ) * [[高橋敏郎]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[髙橋朋己]](埼玉西武ライオンズ) * [[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[高橋信夫]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[高橋憲幸]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[高橋尚成]](読売ジャイアンツ→横浜DeNAベイスターズ)2014年の登録名は「尚成」 * [[高橋秀聡]](福岡ソフトバンクホークス→オリックス・バファローズ) * [[高橋英樹 (野球)|高橋英樹]](広島東洋カープ) * [[髙橋大樹]](広島東洋カープ) * [[高橋博士]](南海ホークス→東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ→ロッテオリオンズ)南海時代の登録名は「高橋博」 * [[高橋寛]](ヤクルトスワローズ) * [[高橋二三男]](西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→ロッテオリオンズ) * [[高橋正雄 (野球)|高橋正雄]](毎日オリオンズ) * [[高橋正勝]](読売ジャイアンツ) * [[高橋真輝]](大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ) * [[高橋雅裕]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ→千葉ロッテマリーンズ)91年から99年の登録名は「高橋眞裕」 * [[高橋正巳]](日本ハムファイターズ→横浜大洋ホエールズ) * [[高橋樹也]](広島東洋カープ) * [[高橋三千丈]](中日ドラゴンズ) * [[高橋光信]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[高橋勇丞]](阪神タイガース) * [[高橋由伸]](読売ジャイアンツ) * [[高橋慶彦]](広島東洋カープ→ロッテオリオンズ→阪神タイガース) * [[高橋善正]](東映フライヤーズ→読売ジャイアンツ)巨人時代の登録名は「高橋良昌」 * [[高畠導宏]](南海ホークス) * [[髙濱卓也]](阪神タイガース→千葉ロッテマリーンズ) * [[高林恒夫]](読売ジャイアンツ→国鉄スワローズ=サンケイスワローズ) * [[峰秀]](中日ドラゴンズ) * [[高堀和也]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[高松利夫]](大映スターズ) * [[高松延次]](大洋ホエールズ) * [[田上健一]](阪神タイガース) * [[高見昌宏]](読売ジャイアンツ) * [[高見澤考史]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[高宮和也]](横浜ベイスターズ→オリックス・バファローズ→阪神タイガース) * [[髙村祐]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[高村洋介]](阪神タイガース) * [[高元勝彦]](中日ドラゴンズ) * [[高森勇旗]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ)2007年から2011年の登録名は「高森勇気」 * [[髙谷裕亮]](福岡ソフトバンクホークス) * [[高柳出己]](近鉄バファローズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[高柳常治]](阪急軍) * [[高柳秀樹]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[高山郁夫]](西武ライオンズ→広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス) * [[高山勲]](大洋ホエールズ) * [[高山邦男]](名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ) * [[高山健一]](広島東洋カープ→西武ライオンズ) * [[髙山俊]](阪神タイガース) * [[高山忠克]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ→阪神タイガース) * [[高山智行]](阪神タイガース) * [[高山久]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ→阪神タイガース) * [[高山泰夫]](阪神軍=大阪タイガース) * [[高山優希]](北海道日本ハムファイターズ) * [[高良一輝]](北海道日本ハムファイターズ) * [[田川賢吾]](東京ヤクルトスワローズ) * [[田川弘]](大東京軍) * [[田川豊]](近畿グレートリング=南海ホークス→大陽ロビンス→近鉄パールス→大映スターズ) * [[多岐篤司]](阪神タイガース) * [[瀧英男]](大阪タイガース) * [[瀧安治]](読売ジャイアンツ) * [[滝良彦]](毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ→大映ユニオンズ=毎日大映オリオンズ) * [[滝内弥瑞生]](西鉄ライオンズ) * [[滝川博己]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[滝口豊広]](大映スターズ) * [[滝口光則]](広島東洋カープ→日本ハムファイターズ) * [[滝田政治]](急映フライヤーズ→大映スターズ→阪急ブレーブス→阪神タイガース) * [[滝野要]](中日ドラゴンズ) * [[滝村修平]](広島カープ) * [[滝本康正]](ロッテオリオンズ) * [[田切勝之]](毎日オリオンズ=大毎オリオンズ) * [[田口壮]](オリックス・ブルーウェーブ→オリックス・バファローズ) * [[田口昌徳]](日本ハムファイターズ→福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[田口竜二]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[内匠政博]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ) * [[宅和本司]](南海ホークス→近鉄バファロー) * [[竹内功 (野球)|竹内功]](黒鷲軍) * [[武内和男]](大映スターズ→近鉄パールス) * [[竹内和也 (投手)|竹内和也]](西武ライオンズ) * [[武内晋一]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[武内久士]](広島東洋カープ) * [[竹内広明]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ)79年から82年の登録名は「竹内宏彰」 * [[竹内洋 (野球)|竹内洋]](中日ドラゴンズ) * [[竹内愛一]](朝日軍) * [[竹内昌也]](阪神タイガース→日本ハムファイターズ) * [[竹岡和宏]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[武上四郎]](サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ=ヤクルトスワローズ) * [[竹清剛治]](千葉ロッテマリーンズ) * [[竹口昭範]](南海ホークス)80年から82年の登録名は「竹口昭憲」 * [[武隈祥太]](埼玉西武ライオンズ) * 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* [[田中尊]](南海ホークス→広島カープ=広島東洋カープ) * [[田中充 (投手)|田中充]](千葉ロッテマリーンズ→ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[田中毅彦]](ヤクルトスワローズ) * [[田中達夫]](南海ホークス→阪急ブレーブス) * [[田中辰次]](西鉄ライオンズ) * [[田中達彦]](南海ホークス) * [[田中力 (野球)|田中力]](ロッテオリオンズ) * [[田中勉 (野球)|田中勉]](西鉄ライオンズ→中日ドラゴンズ) * [[田中照雄]](阪急ブレーブス→トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ→大映ユニオンズ→近鉄パールス) * [[田中資昭]](読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ) * [[田中敏昭]](横浜ベイスターズ) * [[田中富生]](日本ハムファイターズ→中日ドラゴンズ) * [[田中豊樹]](北海道日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ) * [[田中直樹 (野球)|田中直樹]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[田中成豪]](阪急軍=阪急ブレーブス→急映フライヤーズ→大陽ロビンス→広島カープ)阪急・急映・大陽時代の登録名は「田中幸雄」および「田中幸男」 * [[田中法彦]](広島東洋カープ) * [[田中春雄]](大洋ホエールズ) * [[田中宏和 (野球)|田中宏和]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ) * [[田中敬人]](広島東洋カープ) * [[田中裕康]](中日ドラゴンズ) * [[田中浩康]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[田中平八郎]](東映フライヤーズ) * [[田中雅興]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[田中雅治]](朝日軍) * [[田中雅彦]](千葉ロッテマリーンズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[田中昌宏]](阪神タイガース) * [[田中学 (野球)|田中学]](日本ハムファイターズ) * [[田中守]](阪急ブレーブス)56年から58年の登録名は「岸上守」 * [[田中瑞季]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス→千葉ロッテマリーンズ)2002年から2007年の登録名は「瑞季」 * [[田中調]](東映フライヤーズ→ヤクルトスワローズ) * [[田中充 (外野手)|田中充]](横浜ベイスターズ)2007年の登録名は「ミツル」 * [[田中実 (投手)|田中実]](名古屋軍) * [[田中実 (外野手)|田中実]](日本ハムファイターズ)86年から91年の登録名は「大内実」 * [[田中靖洋]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[田中幸雄 (投手)|田中幸雄]](日本ハムファイターズ→中日ドラゴンズ) * [[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[田中由郎]](ロッテオリオンズ→横浜大洋ホエールズ) * [[田中由基]](広島東洋カープ) * [[田中良平 (野球)|田中良平]](千葉ロッテマリーンズ) * [[田辺修 (野球)|田辺修]](近鉄バファローズ→中日ドラゴンズ) * [[田辺繁文]](広島東洋カープ) * [[田辺徳雄]](西武ライオンズ→読売ジャイアンツ)巨人時代の登録名は「田辺路朗」 * [[田辺学]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[田辺義三]](西鉄ライオンズ) * [[田面巧二郎]](阪神タイガース) * [[谷真一]](近鉄バファローズ) * [[谷哲也]](中日ドラゴンズ) * [[谷宏明]](近鉄バファローズ→ヤクルトスワローズ) * [[谷浩弥]](読売ジャイアンツ→千葉ロッテマリーンズ) * [[谷佳知]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ→読売ジャイアンツ→オリックス・バファローズ) * [[谷良治]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ) * [[谷岡潔]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ→阪急ブレーブス) * [[谷岡竜平]](読売ジャイアンツ) * [[谷川勉]](阪神タイガース) * [[谷川昌希]](阪神タイガース→北海道日本ハムファイターズ) * [[谷木恭平]](中日ドラゴンズ) * [[谷口悦司]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ) * [[谷口邦幸]](横浜ベイスターズ) * [[谷口功一 (野球)|谷口功一]](読売ジャイアンツ→西武ライオンズ→大阪近鉄バファローズ) * [[谷口雄也]](北海道日本ハムファイターズ) * [[谷崎浩二]](近鉄バファローズ) * [[谷繁元信]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ→中日ドラゴンズ) * [[谷下和人]](広島東洋カープ) * [[谷田比呂美]](大阪タイガース→国鉄スワローズ) * [[谷中真二]](西武ライオンズ→阪神タイガース→オリックス・ブルーウェーブ→東北楽天ゴールデンイーグルス→埼玉西武ライオンズ) * [[谷村智啓]](阪神タイガース→阪急ブレーブス)71年から74年の登録名は「谷村智博」 * [[谷元圭介]](北海道日本ハムファイターズ→中日ドラゴンズ) * [[谷本稔]](大映スターズ=大映ユニオンズ→毎日大映オリオンズ=東京オリオンズ→阪神タイガース) * [[谷山高明]](読売ジャイアンツ→日本ハムファイターズ) * [[種田訓久]](南海ホークス→東映フライヤーズ) * [[種田仁]](中日ドラゴンズ→横浜ベイスターズ→埼玉西武ライオンズ) * [[種田弘]](大洋ホエールズ→阪急ブレーブス) * [[種部儀康]](読売ジャイアンツ→南海ホークス) * [[種茂雅之]](東映フライヤーズ→阪急ブレーブス) * [[田之上慶三郎]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[田上秀則]](中日ドラゴンズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[田野倉利男]](中日ドラゴンズ→ロッテオリオンズ)79年から83年の登録名は「田野倉正樹」、84年から86年の登録名は「田野倉利長」、87年から90年の登録名は「田野倉利行」 * [[田畑一也]](福岡ダイエーホークス→ヤクルトスワローズ→近鉄バファローズ→読売ジャイアンツ) * [[田端謙二郎]](近鉄バファローズ) * [[田原晃司]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ) * [[田原誠次]](読売ジャイアンツ) * [[田原藤太郎]](中日ドラゴンズ) * [[田原基稔]](国鉄スワローズ→中日ドラゴンズ) * [[田吹昭博]](日本ハムファイターズ) * [[田淵幸一]](阪神タイガース→西武ライオンズ) * [[田部武雄]](大日本東京野球倶楽部=東京巨人軍) * [[田部輝男]](西日本パイレーツ→西鉄ライオンズ) * [[田部隼人]](横浜DeNAベイスターズ) * [[玉井栄]](大阪タイガース) * [[玉井信博]](読売ジャイアンツ=太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ) * [[玉木朋孝]](広島東洋カープ→オリックス・バファローズ) * [[玉置隆]](阪神タイガース) * [[玉腰忠義]](黒鷲軍=大和軍→金星スターズ→阪急ブレーブス) * [[玉造陽二]](西鉄ライオンズ) * [[玉野宏昌]](西武ライオンズ→中日ドラゴンズ) * [[玉峰伸典]](読売ジャイアンツ→大阪近鉄バファローズ) * [[玉村祐典]](埼玉西武ライオンズ) * [[玉山健太]](広島東洋カープ) * [[田宮謙次郎]](大阪タイガース→毎日大映オリオンズ) * [[田村彰啓]](広島東洋カープ) * [[田村勲]](読売ジャイアンツ→ロッテオリオンズ→南海ホークス) * [[田村恵 (野球)|田村恵]](広島東洋カープ) * [[田村丈]](横浜DeNAベイスターズ) * [[田村勤]](阪神タイガース→オリックス・ブルーウェーブ) * [[多村仁志]](横浜ベイスターズ→福岡ソフトバンクホークス→横浜DeNAベイスターズ→中日ドラゴンズ)1995年から2009年途中の登録名は「多村仁」 * [[田村藤夫]](日本ハムファイターズ→千葉ロッテマリーンズ→福岡ダイエーホークス) * [[田村政雄]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ→南海ホークス) * [[田村満]](高橋ユニオンズ) * [[田村領平]](阪神タイガース→千葉ロッテマリーンズ) * [[溜池敏隆]](アトムズ=ヤクルトアトムズ→近鉄バファローズ) * [[樽井清一]](東急フライヤーズ=東映フライヤーズ) * [[ダルビッシュ有]](北海道日本ハムファイターズ) * [[樽見金典]](読売ジャイアンツ) * [[多和田真三郎]](埼玉西武ライオンズ) * [[丹野祐樹]](ヤクルトスワローズ) * [[丹波健二]](千葉ロッテマリーンズ) * [[丹波幹雄]](ヤクルトスワローズ) === ち === * [[近澤昌志]](大阪近鉄バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[近田豊年]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→阪神タイガース) * [[近田怜王]](福岡ソフトバンクホークス)2009年から2011年の登録名は「怜王」 * [[千頭久米夫]](西鉄クリッパース=西鉄ライオンズ→東急フライヤーズ=東映フライヤーズ) * [[知野公昭]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[茅野智行]](西鉄ライオンズ) * [[千葉茂 (野球)|千葉茂]](東京巨人軍=読売ジャイアンツ) * [[千葉剛]](広島東洋カープ) * [[千葉英貴]](横浜ベイスターズ) * [[千原淳弘]](西武ライオンズ) * [[千原雅生]](大陽ロビンス=松竹ロビンス→国鉄スワローズ) * [[千原陽三郎]](中日ドラゴンズ) * [[中馬賢治]](近鉄バファローズ→南海ホークス) * [[丁銀隆]](近鉄パールス) * [[銚子利夫]](横浜大洋ホエールズ→広島東洋カープ) * [[長南恒夫]](東映フライヤーズ) * [[千代丸亮彦]](広島東洋カープ)96年から97年の登録名は「千代丸祥士」 === つ === * [[柄崎英樹]](大洋ホエールズ) * [[塚田正義]](福岡ソフトバンクホークス) * [[塚原頌平]](オリックス・バファローズ) * [[塚本悦郎]](西鉄ライオンズ→東映フライヤーズ) * [[塚本博睦]](大阪タイガース→阪神軍=大阪タイガース→阪急ブレーブス→東急フライヤーズ→西日本パイレーツ→西鉄ライオンズ→広島カープ) * [[塚本善之]](広島東洋カープ) * [[津川力]](ヤクルトスワローズ) * [[月山栄珠]](阪神タイガース) * [[佃明忠]](毎日オリオンズ→近鉄パールス=近鉄バファロー) * [[辻勇夫]](ゴールドスター=金星スターズ)1946年の登録名は「辻功」 * [[辻源兵衛]](阪神軍) * [[辻空]](広島東洋カープ) * [[辻武史]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[辻孟彦]](中日ドラゴンズ) * [[辻哲也]](中日ドラゴンズ) * [[辻俊哉]](千葉ロッテマリーンズ→オリックス・バファローズ) * [[辻発彦]](西武ライオンズ→ヤクルトスワローズ) * [[辻東倫]](読売ジャイアンツ) * [[辻博司]](大洋ホエールズ) * [[辻恭彦]](阪神タイガース→大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ) * [[辻佳紀]](阪神タイガース→近鉄バファローズ→大洋ホエールズ→阪神タイガース) * [[辻井弘]](パシフィック=太陽ロビンス=大陽ロビンス→広島カープ→国鉄スワローズ) * [[辻内崇伸]](読売ジャイアンツ) * [[辻田摂]](中日ドラゴンズ) * [[辻中貞年]](近鉄パールス) * [[辻野欣也]](大毎オリオンズ=東京オリオンズ) * [[辻原幸雄]](西鉄ライオンズ→南海ホークス) * [[辻本賢人]](阪神タイガース) * [[辻本弘樹]](中日ドラゴンズ) * [[津末英明]](日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ) * [[津田四郎]](東京巨人軍) * [[津田大樹]](北海道日本ハムファイターズ) * [[津田恒実]](広島東洋カープ)82年から84年の登録名は「津田恒美」 * [[蔦文也]](東急フライヤーズ) * [[蔦行雄]](近鉄パールス=近鉄バファロー=近鉄バファローズ→広島カープ) * [[槌田誠]](読売ジャイアンツ→ヤクルトスワローズ) * [[土田瑞起]](読売ジャイアンツ) * [[土本恭平]](読売ジャイアンツ) * [[土屋健二]](北海道日本ハムファイターズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[土屋亨]](南海ホークス→中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ) * [[土屋朋弘]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[土屋紘]](中日ドラゴンズ→ロッテオリオンズ) * [[土屋正勝]](中日ドラゴンズ→ロッテオリオンズ) * [[土屋雅敬]](国鉄スワローズ→広島カープ)1950年から1952年の登録名は「土屋五郎」、1953年から1955年の登録名は「土屋伍郎」 * [[土屋正孝]](読売ジャイアンツ→国鉄スワローズ→阪神タイガース) * [[筒井修]](東京巨人軍) * [[筒井和也]](阪神タイガース) * [[筒井敬三]](近畿グレートリング→南海ホークス→高橋ユニオンズ→大映ユニオンズ→東映フライヤーズ) * [[筒井壮]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[筒井孝]](日本ハムファイターズ) * [[筒井正也]](広島東洋カープ→中日ドラゴンズ) * [[筒井良武]](大東京軍→イーグルス) * [[筒井良紀]](南海ホークス→ロッテオリオンズ) * [[都築克幸]](中日ドラゴンズ) * [[筒香嘉智]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[堤裕貴]](オリックス・バファローズ) * [[堤内健]](横浜ベイスターズ) * [[綱島新八]](大映スターズ→松竹ロビンス=洋松ロビンス) * [[綱島龍生]](埼玉西武ライオンズ) * [[常見茂]](東急フライヤーズ) * [[常見昇]](東急フライヤーズ=東映フライヤーズ→阪急ブレーブス)1954年の登録名は「常見泰生」 * [[恒村勝美]](読売ジャイアンツ) * [[津野浩]](日本ハムファイターズ→広島東洋カープ→中日ドラゴンズ→千葉ロッテマリーンズ)93年から96年の登録名は「津野広志」、97年の登録名は「津野浩志」 * [[角田満]](日本ハムファイターズ) * [[円谷英俊]](読売ジャイアンツ) * [[坪井新三郎]](中日ドラゴンズ→太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ)77年の登録名は「坪井信三路」 * [[坪井俊樹]](千葉ロッテマリーンズ) * [[坪井智哉]](阪神タイガース→日本ハムファイターズ→オリックス・バファローズ) * [[坪内道典]](大東京軍=ライオン軍=朝日軍→ゴールドスター=金星スターズ→中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ)中日・名古屋時代以外の登録名は「坪内道則」 * [[妻島芳郎]](毎日大映オリオンズ=東京オリオンズ=ロッテオリオンズ) * [[釣常雄]](大阪タイガース=阪神軍) * [[鶴直人]](阪神タイガース) * [[鶴岡一成]](横浜ベイスターズ→読売ジャイアンツ→横浜DeNAベイスターズ→阪神タイガース) * [[鶴岡一人]](南海軍→グレートリング=南海ホークス)46年から52年の登録名は「山本一人」 * [[靍岡賢二郎]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * [[鶴岡慎也]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ→福岡ソフトバンクホークス→北海道日本ハムファイターズ) * [[鶴崎茂樹]](南海ホークス→日本ハムファイターズ) * [[鶴田圭祐]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[鶴田泰]](中日ドラゴンズ→広島東洋カープ) * [[鶴見信彦]](阪神タイガース→読売ジャイアンツ) * [[弦本悠希]](広島東洋カープ) === て === * 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[[長井良太]](広島東洋カープ) * [[長池徳士]](阪急ブレーブス)66年から78年の登録名は「長池徳二」 * [[永池恭男]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ→読売ジャイアンツ→大阪近鉄バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス)巨人時代の登録名は「永池們多」 * [[中後悠平]](千葉ロッテマリーンズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[永江恭平]](埼玉西武ライオンズ) * [[中尾明生]](広島東洋カープ→南海ホークス) * [[中尾孝義]](中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ→西武ライオンズ) * [[中尾敏浩]](東京ヤクルトスワローズ) * [[長尾敏広]](読売ジャイアンツ) * [[長尾旬]](大阪タイガース→近鉄パールス) * [[中尾碩志]](東京巨人軍=読売ジャイアンツ)39年から47年の登録名は「中尾輝三」 * [[中尾輝]](東京ヤクルトスワローズ) * [[永尾泰憲]](ヤクルトスワローズ→近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[長岡久夫]](東京巨人軍=読売ジャイアンツ→中日ドラゴンズ) * [[長岡学]](近鉄バファローズ) * [[中神拓都]](広島東洋カープ) * [[中川明仁]](ヤクルトスワローズ) * [[永川英植]](ヤクルトスワローズ) * [[永川勝浩]](広島東洋カープ) * [[中川申也]](阪神タイガース) * [[中川大志 (野球)|中川大志]](東北楽天ゴールデンイーグルス→横浜DeNAベイスターズ) * [[中川隆 (野球)|中川隆]](毎日オリオンズ=毎日大映オリオンズ) * [[中川拓真]](オリックス・バファローズ) * [[中川隆治]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ) * [[中川裕貴]](中日ドラゴンズ) * [[永川満寿]](中日ドラゴンズ) * [[中河美芳]](イーグルス=黒鷲軍) * [[仲川翠]](国鉄スワローズ) * [[中熊大智]](埼玉西武ライオンズ) * [[中郷大樹]](千葉ロッテマリーンズ→埼玉西武ライオンズ) * [[中込伸]](阪神タイガース) * [[長坂健冶]](大阪近鉄バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス)2002年から2004年の登録名は「長坂健治」 * [[長坂衛]](西鉄ライオンズ) * [[長崎慶一]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ→阪神タイガース)81年から87年の登録名は「長崎啓二」 * [[長崎伸一]](千葉ロッテマリーンズ) * [[長崎元]](広島東洋カープ) * [[中﨑雄太]](埼玉西武ライオンズ) * [[中里篤史]](中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ) * [[中里鉄也]](阪神タイガース) * [[中沢伸二]](阪急ブレーブス) * [[仲澤忠厚]](中日ドラゴンズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[中沢春雄]](近鉄バファローズ) * [[仲澤広基]](読売ジャイアンツ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[永沢富士雄]](東京巨人軍) * [[中澤雅人]](東京ヤクルトスワローズ) * [[長嶋一茂]](ヤクルトスワローズ→読売ジャイアンツ) * [[中島克介]](ロッテオリオンズ) * [[長島甲子男]](名古屋軍→中部日本軍=中日ドラゴンズ→急映フライヤーズ) * [[長嶋清幸]](広島東洋カープ→中日ドラゴンズ→千葉ロッテマリーンズ→阪神タイガース) * [[中嶋聡]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→西武ライオンズ→横浜ベイスターズ→北海道日本ハムファイターズ) * [[長嶋茂雄]](読売ジャイアンツ) * [[中島淳一 (野球)|中島淳一]](西鉄ライオンズ) * [[長島進]](名古屋金鯱軍→毎日オリオンズ→読売ジャイアンツ) * [[中島節男]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ) * [[長島哲郎]](ロッテオリオンズ) * [[中島輝士]](日本ハムファイターズ→近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ) * [[中島俊哉]](オリックス・ブルーウェーブ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[中嶋治彦]](中日ドラゴンズ) * [[中島治康]](東京巨人軍=読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ) * [[中島浩人]](読売ジャイアンツ) * [[中島弘美]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ)77年から78年の登録名は「中島啓助」 * [[中島博征]](南海ホークス) * [[中島執]](読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ) * [[長島吉邦]](広島東洋カープ) * [[中条善伸]](読売ジャイアンツ→南海ホークス=福岡ダイエーホークス→横浜大洋ホエールズ) * [[中田金一]](大阪タイガース=阪神軍→大阪タイガース) * [[中田賢一]](中日ドラゴンズ→福岡ソフトバンクホークス→阪神タイガース) * [[仲田幸司]](阪神タイガース→千葉ロッテマリーンズ) * [[中田祥多]](埼玉西武ライオンズ) * [[永田利則]](広島東洋カープ→南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[仲田秀司]](西武ライオンズ) * [[長田勝]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ)2007年の登録名は「勝」 * [[中田宗男]](中日ドラゴンズ) * [[永田能隆]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[中田昌宏]](阪急ブレーブス) * [[中田良弘]](阪神タイガース) * [[中田亮二]](中日ドラゴンズ) * [[中田廉]](広島東洋カープ) * [[中谷準志]](ライオン軍=朝日軍=パシフィック=太陽ロビンス=大陽ロビンス→阪急ブレーブス→西鉄ライオンズ)西鉄時代以外の登録名は「中谷順次」 * [[中谷仁]](阪神タイガース→東北楽天ゴールデンイーグルス→読売ジャイアンツ) * [[中谷忠己]](阪神タイガース→近鉄バファローズ→オリックス・ブルーウェーブ→阪神タイガース) * [[中谷翼]](広島東洋カープ) * [[中谷信夫]](南海ホークス) * [[中谷将大]](阪神タイガース→福岡ソフトバンクホークス) * [[中津正三]](南海ホークス→大洋ホエールズ=洋松ロビンス) * [[中塚駿太]](埼玉西武ライオンズ) * [[中塚政幸]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ) * [[中司得三]](読売ジャイアンツ) * [[中出謙二]](南海ホークス→阪急ブレーブス) * [[中藤義雄]](近鉄バファローズ) * [[永利勇吉]](阪急ブレーブス→西日本パイレーツ→西鉄ライオンズ) * [[長冨浩志]](広島東洋カープ→日本ハムファイターズ→福岡ダイエーホークス) * [[長富政武]](大洋ホエールズ) * [[中西勝己]](毎日オリオンズ=毎日大映オリオンズ=東京オリオンズ) * [[中西清起]](阪神タイガース) * [[中西健太]](福岡ソフトバンクホークス) * [[中西親志]](ヤクルトスワローズ) * [[中西弘明]](阪急ブレーブス→日本ハムファイターズ) * [[中西太]](西鉄ライオンズ) * [[中西有希人]](日本ハムファイターズ) * [[中根之]](名古屋軍→イーグルス) * [[中根仁]](近鉄バファローズ→横浜ベイスターズ) * [[仲根正広]](近鉄バファローズ→中日ドラゴンズ)81年から88年の登録名は「仲根政裕」 * [[中根佑二]](東京ヤクルトスワローズ) * [[中野栄一]](中日ドラゴンズ) * [[中野健一]](毎日オリオンズ) * [[長野哲]](大洋ホエールズ) * [[中野佐資]](阪神タイガース) * [[中野誠吾]](南海ホークス) * [[中野隆夫]](高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ→東映フライヤーズ) * [[永野将司]](千葉ロッテマリーンズ) * [[中野孝征]](サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ) * [[中野道義]](阪神軍) * [[永野吉成]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ→横浜ベイスターズ) * [[中ノ瀬幸泰]](阪神タイガース) * [[中野渡進]](横浜ベイスターズ) * [[中畑清]](読売ジャイアンツ) * [[中濱裕之]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→読売ジャイアンツ) * [[中林佑輔]](阪神タイガース)2002年の登録名は「中林祐介」 * [[中原勇]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[中原恵司]](福岡ソフトバンクホークス) * [[中原朝日]](日本ハムファイターズ) * [[中原宏]](阪神軍→南海ホークス) * [[中原全敏]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ)東映時代の登録名は「中原勝利」 * [[中原勇一]](中日ドラゴンズ) * [[中東直己]](広島東洋カープ)2008年途中から2009年の登録名は「中東直瑛」 * [[永淵洋三]](近鉄バファローズ→日本ハムファイターズ) * [[長松純明]](ロッテオリオンズ) * [[長見賢司]](西武ライオンズ→横浜ベイスターズ) * [[長光告直]](南海ホークス) * [[長峰昌司]](中日ドラゴンズ→オリックス・バファローズ) * 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[[中村益章]](西鉄ライオンズ→読売ジャイアンツ) * [[中村光良]](広島カープ=広島東洋カープ)64年から66年の登録名は「中村光也」、67年から73年の登録名は「中村光哉」 * [[中村稔 (投手)|中村稔]](読売ジャイアンツ) * [[中村稔 (プロ野球審判)|中村稔]](日本ハムファイターズ) * [[中村泰広]](阪神タイガース→北海道日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[中村豊 (野球)|中村豊]](日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[中村善之]](読売ジャイアンツ) * [[中村良二]](近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[中村渉]](北海道日本ハムファイターズ) * [[中室幹雄]](読売ジャイアンツ) * [[長持栄吉]](セネタース=東急フライヤーズ=急映フライヤーズ=東急フライヤーズ→大洋ホエールズ→広島カープ) * [[中本和希]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ) * [[中本茂樹]](ヤクルトスワローズ) * [[永本裕章]](広島東洋カープ→阪急ブレーブス→読売ジャイアンツ→阪急ブレーブス) * [[中本富士雄]](広島カープ) * [[永易将之]](東映フライヤーズ→西鉄ライオンズ) * [[中山孝一]](南海ホークス→ヤクルトスワローズ→阪神タイガース) * [[中山翔太]](東京ヤクルトスワローズ) * [[中山慎也]](オリックス・バファローズ) * [[中山誠吾]](埼玉西武ライオンズ) * [[中山武]](東京巨人軍) * [[中山正嘉]](名古屋金鯱軍→大洋軍→広島カープ) * [[中山俊丈]](中日ドラゴンズ)62年から65年の登録名は「中山義朗」 * [[中山俊之]](読売ジャイアンツ) * [[中山裕章]](横浜大洋ホエールズ→中日ドラゴンズ) * [[中山雅行]](千葉ロッテマリーンズ) * [[中山光久]](日本ハムファイターズ) * [[流敏晴]](阪急ブレーブス) * [[名幸一明]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[梨田昌孝]](近鉄バファローズ)72年から83年の登録名は「梨田昌崇」 * [[那須野巧]](横浜ベイスターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[名取和彦]](南海ホークス→西武ライオンズ) * 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* [[沼田浩]](日本ハムファイターズ) === ね === * [[根市寛貴]](読売ジャイアンツ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[根来広光]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ→阪急ブレーブス) * [[根津弘司]](セネタース) * [[根本薫]](オリックス・バファローズ) * [[根元俊一]](千葉ロッテマリーンズ) * [[根本隆]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ→西武ライオンズ) * [[根本朋久]](千葉ロッテマリーンズ→北海道日本ハムファイターズ) * [[根本学]](大洋ホエールズ→日拓ホームフライヤーズ) * [[根本陸夫]](近鉄パールス) * [[根本隆輝]](日本ハムファイターズ→阪神タイガース) === の === * [[濃人渉]](名古屋金鯱軍→大洋軍=西鉄軍→金星スターズ) * [[能見篤史]](阪神タイガース→オリックス・バファローズ) * [[野上俊夫]](阪神タイガース→南海ホークス) * [[野上亮磨]](埼玉西武ライオンズ→読売ジャイアンツ) * [[野川拓斗]](横浜DeNAベイスターズ) * [[野口明]](東京セネタース→大洋軍=西鉄軍→阪急軍=阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ) * [[野口茂樹]](中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ) * [[野口二郎]](セネタース=翼軍→大洋軍=西鉄軍→阪急ブレーブス) * [[野口寿浩]](ヤクルトスワローズ→日本ハムファイターズ→阪神タイガース→横浜ベイスターズ) * [[野口昇]](大阪タイガース) * [[野口裕美]](西武ライオンズ)88年の登録名は「野口裕之」 * [[野口正明]](名古屋軍=産業軍=中日ドラゴンズ→急映フライヤーズ→大映スターズ→西鉄クリッパース=西鉄ライオンズ) * [[野口元三]](読売ジャイアンツ→大毎オリオンズ) * [[野口善男]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ) * [[野口祥順]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[野口渉]](近畿日本軍=グレートリング) * [[野崎恒男]](南海ホークス→太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ→近鉄バファローズ) * [[野崎泰一]](阪急軍=大阪タイガース→東急フライヤーズ→広島カープ) * [[野田雲平]](近鉄バファローズ) * [[野田浩司]](阪神タイガース→オリックス・ブルーウェーブ) * [[野田浩輔]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ) * [[野田昇吾]](埼玉西武ライオンズ) * [[野田征稔]](阪神タイガース) * [[野中信吾]](日本ハムファイターズ→横浜ベイスターズ→オリックス・バファローズ) * [[野中徹博]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス→中日ドラゴンズ→ヤクルトスワローズ)88年から89年の登録名は「野中崇博」 * [[野々垣武志]](西武ライオンズ→広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス)ダイエー時代の登録名は「野々垣武」 * [[野林大樹]](近鉄バファローズ→広島東洋カープ→近鉄バファローズ→ヤクルトスワローズ)92年から93年の登録名は「野林広起」、94年から98年の登録名は「野林大氣」 * [[野原将志]](阪神タイガース) * [[野原祐也]](阪神タイガース) * [[延江大輔]](オリックス・バファローズ) * [[信原拓人]](千葉ロッテマリーンズ) * [[野間口貴彦]](読売ジャイアンツ) * [[野村収]](大洋ホエールズ→ロッテオリオンズ→日本ハムファイターズ→横浜大洋ホエールズ→阪神タイガース) * [[野村克則]](ヤクルトスワローズ→阪神タイガース→読売ジャイアンツ→東北楽天ゴールデンイーグルス)巨人時代以外の登録名は「カツノリ」 * [[野村克也]](南海ホークス→ロッテオリオンズ→西武ライオンズ) * [[野村謙二郎]](広島東洋カープ) * [[野村貴仁]](オリックス・ブルーウェーブ→読売ジャイアンツ→日本ハムファイターズ)巨人時代の登録名は「野村空生」 * [[野村高義]](東京巨人軍→名古屋金鯱軍→ライオン軍=朝日軍) * [[野村武史]](セネタース→毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ→毎日オリオンズ)セネタース時代の登録名は「野村清」 * [[野村弘樹]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ)88年から89年の登録名は「野村弘」 * [[野村宏之]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ) * [[野村実 (野球)|野村実]](名古屋軍→イーグルス) * [[野村裕二]](日本ハムファイターズ) * [[野村亮介]](中日ドラゴンズ) * [[野母得見]](南海ホークス) * [[野茂英雄]](近鉄バファローズ) * [[野本喜一郎]](西日本パイレーツ→西鉄ライオンズ→近鉄パールス) * [[野本圭]](中日ドラゴンズ) * [[乗替寿好]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→広島東洋カープ) * [[野呂瀬義昭]](阪急ブレーブス) === は === * [[蓜島久美]](南海ホークス→大洋ホエールズ) * [[拝藤宣雄]](広島カープ) * [[拝藤聖雄]](近鉄パールス) * [[灰山元治|灰山元章]](ライオン軍=朝日軍) * [[芳賀直一]](名古屋軍) * [[袴田英利]](ロッテオリオンズ) * [[萩原昭]](毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ) * [[萩原淳 (野球)|萩原淳]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ→北海道日本ハムファイターズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[萩原多賀彦]](ヤクルトスワローズ) * [[萩原千秋]](東映フライヤーズ) * [[萩原誠]](阪神タイガース→大阪近鉄バファローズ)94年の登録名は「萩原誠斗」、96年から99年の登録名は「誠」 * [[萩原康弘]](読売ジャイアンツ→広島東洋カープ→ヤクルトスワローズ) * [[白村明弘]](北海道日本ハムファイターズ) * [[箱田淳]](国鉄スワローズ→大洋ホエールズ)51年から54年の登録名は「箱田弘志」 * [[橋上秀樹]](ヤクルトスワローズ→日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[橋詰文男]](東映フライヤーズ) * [[橋野昭南]](西鉄ライオンズ) * [[橋本到]](読売ジャイアンツ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[橋本勝隆]](中日ドラゴンズ) * [[橋本勝磨]](大洋ホエールズ) * [[橋本清]](読売ジャイアンツ→福岡ダイエーホークス) * [[橋本啓]](広島東洋カープ) * [[橋本敬司]](読売ジャイアンツ→南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[橋本健太郎]](阪神タイガース→千葉ロッテマリーンズ) * [[橋本正吾]](大阪タイガース→阪急軍) * [[橋本大祐]](阪神タイガース) * [[橋本敬包]](広島カープ→南海ホークス) * 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[[宮川将]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[宮川孝雄]](広島カープ=広島東洋カープ) * [[宮城弘明]](ヤクルトスワローズ) * [[宮口美吉]](南海軍) * [[宮國椋丞]](読売ジャイアンツ→横浜DeNAベイスターズ) * [[三宅孝夫]](西鉄ライオンズ) * [[三宅宅三]](毎日オリオンズ) * [[三宅秀史]](大阪タイガース=阪神タイガース)66年から67年の登録名は「三宅伸和」 * [[三宅博 (野球)|三宅博]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[都裕次郎]](中日ドラゴンズ) * [[宮越徹]](中日ドラゴンズ→西武ライオンズ) * [[宮﨑敦次]](千葉ロッテマリーンズ) * [[宮崎逸人]](大阪タイガース) * [[宮﨑一彰]](読売ジャイアンツ→西武ライオンズ) * [[宮崎一夫]](毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ→大映ユニオンズ) * [[宮崎要]](西鉄クリッパース=西鉄ライオンズ) * [[宮崎昭二]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ) * [[宮崎仁郎]](近畿グレートリング→大陽ロビンス=松竹ロビンス→大洋松竹ロビンス→広島カープ) * [[宮崎剛 (1918年生の内野手)|宮崎剛]](大阪タイガース=阪神軍→阪急ブレーブス→大洋ホエールズ=大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ) * [[宮崎弘教]](南海ホークス) * [[宮﨑充登]](広島東洋カープ) * [[宮﨑祐樹]](オリックス・バファローズ) * [[宮里太]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[宮沢重雄]](大洋ホエールズ) * [[宮沢澄也]](東急フライヤーズ=東映フライヤーズ) * [[宮地克彦]](西武ライオンズ→福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[宮地惟友]](国鉄スワローズ) * [[宮下正彦]](横浜大洋ホエールズ)90年から91年までの登録名は「宮下嗣朗」 * [[宮下信明]](黒鷲軍=大和軍→東京巨人軍=読売ジャイアンツ→中日ドラゴンズ=名古屋ドラゴンズ=中日ドラゴンズ) * [[宮下典明]](近鉄バファローズ) * [[宮下昌己]](中日ドラゴンズ→西武ライオンズ) * [[宮下義雄]](南海軍→セネタース=東急フライヤーズ) * [[宮田和希]](埼玉西武ライオンズ) * [[宮田典計]](阪神タイガース→阪急ブレーブス) * [[宮田輝星]](北海道日本ハムファイターズ) * [[宮田正直]](福岡ダイエーホークス) * [[宮田征典]](読売ジャイアンツ) * [[宮台康平]](北海道日本ハムファイターズ→東京ヤクルトスワローズ) * [[宮武三郎]](阪急軍) * [[宮出隆自]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス→東京ヤクルトスワローズ) * [[宮寺勝利]](読売ジャイアンツ→西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ) * [[宮原秀明]](東映フライヤーズ→ヤクルトアトムズ→近鉄バファローズ→大洋ホエールズ)東映時代以外の登録名は「宮原務本」 * [[宮本和知]](読売ジャイアンツ) * [[宮本和佳]](大洋ホエールズ) * [[宮本賢]](北海道日本ハムファイターズ) * [[宮本賢治]](ヤクルトスワローズ) * [[宮本四郎]](大洋ホエールズ→阪急ブレーブス→阪神タイガース) * [[宮本慎也]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[宮本大輔 (野球)|宮本大輔]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ) * [[宮本孝男]](東映フライヤーズ)1972年の登録名は「宮本孝雄」 * [[宮本武文]](読売ジャイアンツ) * [[宮本秀明]](横浜DeNAベイスターズ) * [[宮本裕司]](千葉ロッテマリーンズ) * [[宮本幸信]](阪急ブレーブス→広島東洋カープ→日本ハムファイターズ→大洋ホエールズ) * [[宮本洋二郎]](読売ジャイアンツ→広島カープ=広島東洋カープ→南海ホークス) * [[宮本好宣]](日本ハムファイターズ) * [[宮脇敏]](ロッテオリオンズ→広島東洋カープ) * [[宮脇則昭]](阪神タイガース) * [[三好真一]](中日ドラゴンズ) * [[三好匠]](東北楽天ゴールデンイーグルス→広島東洋カープ) * [[三好主]](東京巨人軍) * [[三好正晴]](読売ジャイアンツ) * [[三好守]](西鉄ライオンズ) * [[三好幸雄]](広島カープ=広島東洋カープ→阪急ブレーブス) * [[三輪敬司]](中日ドラゴンズ) * [[三輪悟]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→広島東洋カープ) * [[三輪隆]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[三輪八郎]](大阪タイガース=阪神軍) * [[三輪裕章]](阪神軍) * [[三輪正義]](東京ヤクルトスワローズ) * [[三輪田勝利]](阪急ブレーブス) === む === * [[迎祐一郎]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ→広島東洋カープ) * [[麦倉洋一]](阪神タイガース) * [[無徒史朗]](南海ホークス→サンケイアトムズ=アトムズ)63年から64年、68年から69年の登録名は「無徒史郎」 * [[武藤一邦]](ロッテオリオンズ) * [[武藤潤一郎]](千葉ロッテマリーンズ→日本ハムファイターズ→西武ライオンズ) * [[武藤孝司]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ) * [[武藤祐太]](中日ドラゴンズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[武藤好貴]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[棟居進]](読売ジャイアンツ→広島カープ) * [[宗接唯人]](千葉ロッテマリーンズ) * [[村井英司]](日本ハムファイターズ) * [[村岡耕一]](横浜大洋ホエールズ→西武ライオンズ) * [[村上悦雄]](南海ホークス) * [[村上海斗]](読売ジャイアンツ) * [[村上一治]](南海軍→南海ホークス) * [[村上公康]](西鉄ライオンズ→ロッテオリオンズ) * [[村上重夫]](ライオン軍=朝日軍) * [[村上眞一]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ)82年から93年の登録名は「村上信一」 * [[村上真哉]](日本ハムファイターズ) * [[村上誠一]](福岡ダイエーホークス→阪神タイガース) * [[村上隆行]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→西武ライオンズ)92年から2001年の登録名は「村上嵩幸」 * [[村上鉄也]](福岡ダイエーホークス) * [[村上雅則]](南海ホークス→阪神タイガース→日本ハムファイターズ) * [[村上之宏]](南海ホークス) * [[村上義則]](中日ドラゴンズ) * [[村川幸信]](大東京軍) * [[村越稔]](アトムズ=ヤクルトアトムズ→近鉄バファローズ) * [[村沢秀雄]](イーグルス→東京セネタース) * [[村瀬一三]](名古屋軍→阪神軍) * [[村瀬秀孝]](西鉄軍) * [[村瀬広基]](読売ジャイアンツ) * [[村田和哉 (野球)|村田和哉]](北海道日本ハムファイターズ) * [[村田勝喜]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→西武ライオンズ→中日ドラゴンズ) * [[村田元一]](国鉄スワローズ=サンケイスワローズ=サンケイアトムズ=アトムズ) * [[村田康一]](近鉄パールス=近鉄バファロー=近鉄バファローズ) * [[村田修一]](横浜ベイスターズ→読売ジャイアンツ) * [[村田真一]](読売ジャイアンツ) * [[村田辰美]](近鉄バファローズ→横浜大洋ホエールズ) * [[村田兆治]](ロッテオリオンズ) * [[村田透]](読売ジャイアンツ→北海道日本ハムファイターズ) * [[村田正幸]](ヤクルトスワローズ) * [[村田善則]](読売ジャイアンツ) * [[村中恭兵]](東京ヤクルトスワローズ) * [[村西辰彦]](日本ハムファイターズ) * [[村西哲幸]](横浜ベイスターズ) * [[村松有人]](福岡ダイエーホークス→オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[村松長太郎]](東京セネタース=翼軍→大洋軍) * [[村松幸雄]](名古屋軍) * [[村山実]](大阪タイガース=阪神タイガース)63年の登録名は「村山昌史」 * [[室井豊]](ライオン軍→南海軍) * [[室山皓之助]](阪神タイガース) === め === * [[目時春雄]](大陽ロビンス=松竹ロビンス→大洋松竹ロビンス=大洋ホエールズ)55年の登録名は「目時富士雄」 * [[面出哲志]](大阪近鉄バファローズ→阪神タイガース) === も === * [[望月惇志]](阪神タイガース) * [[望月潤一]](イーグルス→パシフィック) * [[望月大希]](北海道日本ハムファイターズ) * [[望月卓也]](広島東洋カープ→ロッテオリオンズ) * [[望月一]](広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス)91年から96年の登録名は「望月秀通」、ダイエー時代の登録名は「望月秀継」 * [[望月彦男]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ) * [[望月充]](阪神タイガース→南海ホークス) * [[茂木忠之]](国鉄スワローズ) * [[基満男]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ→横浜大洋ホエールズ) * [[元木大介]](読売ジャイアンツ) * [[元田昌義]](南海ホークス) * [[本西厚博]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→阪神タイガース→日本ハムファイターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[本原正治]](読売ジャイアンツ→福岡ダイエーホークス→広島東洋カープ) * [[本東洋]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[本村信吾]](中日ドラゴンズ→広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス) * [[本屋敷錦吾]](阪急ブレーブス→阪神タイガース) * [[本柳和也]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ) * [[桃井進]](ロッテオリオンズ) * [[百瀬大騎]](横浜DeNAベイスターズ) * [[森一晃]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ) * [[森和彦 (野球)|森和彦]](阪急ブレーブス) * [[森国五郎]](大阪タイガース=阪神軍) * [[森浩二]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→ヤクルトスワローズ) * [[森廣二]](千葉ロッテマリーンズ→中日ドラゴンズ) * [[森厚三]](広島東洋カープ→阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス→福岡ダイエーホークス) * [[森弘太郎]](阪急軍=阪急ブレーブス→東急フライヤーズ→西日本パイレーツ) * [[森茂雄]](イーグルス) * [[森繁和]](西武ライオンズ) * [[森章剛]](中日ドラゴンズ→北海道日本ハムファイターズ)98年から2001年の登録名は「ショーゴー」、2002年の一時期の登録名は「章剛」 * [[森慎二]](西武ライオンズ) * [[森大輔 (野球)|森大輔]](横浜ベイスターズ) * [[森跳二]](広島東洋カープ) * [[森徹]](中日ドラゴンズ→大洋ホエールズ→東京オリオンズ) * [[森範行]](日本ハムファイターズ) * [[森博幸 (野球)|森博幸]](西武ライオンズ) * [[森浩之]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス)91年の登録名は「森広之」 * 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[[矢野修平]](広島東洋カープ) * [[矢野純一]](大洋ホエールズ) * [[矢野俊一]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ→ロッテオリオンズ)75年の登録名は「矢野剛俊」 * [[矢野槙雄]](名古屋金鯱軍) * [[矢野正之]](阪神タイガース) * [[矢野実]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→オリックス・ブルーウェーブ→福岡ダイエーホークス)92年から95年の登録名は「矢野未乗」 * [[矢ノ浦国満]](近鉄バファロー=近鉄バファローズ→サンケイアトムズ→読売ジャイアンツ) * [[矢作公一]](日本ハムファイターズ) * [[藪恵壹]](阪神タイガース→東北楽天ゴールデンイーグルス)94年の登録名は「藪恵市」 * [[藪上敏夫]](南海ホークス) * [[薮田和樹]](広島東洋カープ) * [[薮田安彦]](千葉ロッテマリーンズ) * [[矢部徳美]](南海ホークス) * [[矢部祐一]](読売ジャイアンツ→大洋ホエールズ) * [[山井大介]](中日ドラゴンズ) * [[山内一弘]](毎日オリオンズ=毎日大映オリオンズ→阪神タイガース→広島東洋カープ)毎日・大毎時代の登録名は「山内和弘」 * [[山内和宏]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス→中日ドラゴンズ) * [[山内新一]](読売ジャイアンツ→南海ホークス→阪神タイガース) * [[山内壮馬]](中日ドラゴンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[山内孝徳]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[山内泰幸]](広島東洋カープ) * [[山内嘉弘]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→ヤクルトスワローズ) * [[山尾孝雄]](阪神タイガース) * [[山岡洋之]](阪神タイガース) * [[山岡勝]](読売ジャイアンツ→近鉄バファローズ) * [[山沖之彦]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→阪神タイガース) * [[山川喜作]](名古屋金鯱軍→大洋軍→東京巨人軍=読売ジャイアンツ→広島カープ)広島時代の登録名は「山川武範」 * [[山川晃司]](東京ヤクルトスワローズ) * [[山川周一]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[山川猛]](西武ライオンズ→阪神タイガース) * 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[[山下律夫]](大洋ホエールズ→クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ→南海ホークス) * [[山田秋親]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス→千葉ロッテマリーンズ)ロッテ時代の登録名は「秋親」 * [[山田和利]](中日ドラゴンズ→広島東洋カープ→中日ドラゴンズ) * [[山田和英]](阪神タイガース) * [[山田和幸]](西武ライオンズ) * [[山田勝国]](近鉄バファローズ→ヤクルトスワローズ) * [[山田勝彦]](阪神タイガース→日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[山田喜久夫]](中日ドラゴンズ→広島東洋カープ)95年から96年の登録名は「キク山田」 * [[山田潔]](イーグルス=黒鷲軍=大和軍→東京巨人軍→金星スターズ=大映スターズ) * [[山田憲]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[山田広二]](中日ドラゴンズ)96年から98年の登録名は「広二山田」 * [[山田潤]](西武ライオンズ→広島東洋カープ) * [[山田真介]](読売ジャイアンツ→広島東洋カープ→阪神タイガース) * [[山田清三郎 (野球)|山田清三郎]](近鉄パールス) * [[山田貴志]](中日ドラゴンズ) * [[山田武史]](読売ジャイアンツ→福岡ダイエーホークス) * [[山田忠男]](大洋ホエールズ) * [[山田勉 (外野手)|山田勉]](南海ホークス→広島東洋カープ) * [[山田勉 (投手)|山田勉]](ヤクルトスワローズ→広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス) * [[山田利昭]](毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ→東映フライヤーズ) * [[山田敏彦]](阪神タイガース) * [[山田直政]](読売ジャイアンツ) * [[山田久志]](阪急ブレーブス) * [[山田博一]](横浜大洋ホエールズ) * [[山田弘喜]](東京ヤクルトスワローズ) * [[山田大樹]](福岡ソフトバンクホークス→東京ヤクルトスワローズ) * [[山田博士]](中日ドラゴンズ→横浜ベイスターズ)96年の登録名は「ヒロ山田」、97年から2001年の登録名は「山田洋」 * [[山田正雄 (野球)|山田正雄]](毎日大映オリオンズ=東京オリオンズ=ロッテオリオンズ) * [[山田真実]](近鉄バファローズ) * [[山田裕司]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[山中潔]](広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス→中日ドラゴンズ→日本ハムファイターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[山中賢次]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス→ヤクルトスワローズ) * [[山中重信]](西武ライオンズ) * [[山中巽]](中日ドラゴンズ) * [[山中浩史]](福岡ソフトバンクホークス→東京ヤクルトスワローズ) * [[山中雅博]](大阪タイガース) * [[山根和夫]](広島東洋カープ→西武ライオンズ) * [[山根俊英]](毎日オリオンズ=毎日大映オリオンズ) * [[山根雅仁]](広島東洋カープ) * [[山根実]](大阪タイガース=阪神軍→国鉄スワローズ) * [[山根善伸]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ) * [[山野和明]](西武ライオンズ→中日ドラゴンズ) * [[山之内健一]](福岡ダイエーホークス) * [[山原和敏]](日本ハムファイターズ) * [[山部太]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[山村達也]](近鉄バファローズ) * [[山村宏樹]](阪神タイガース→大阪近鉄バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[山村幹弘]](大洋ホエールズ) * [[山村路直]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[山村善則]](太平洋クラブライオンズ=クラウンライターライオンズ=西武ライオンズ→南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[山室公志郎]](千葉ロッテマリーンズ) * [[山本歩]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ) * [[山本一輝 (野球)|山本一輝]](読売ジャイアンツ) * [[山本栄一郎]](東京巨人軍) * [[山本栄二]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[山本格也]](毎日オリオンズ=大毎オリオンズ) * [[山本和生]](読売ジャイアンツ)73年から75年の登録名は「山本和雄」 * [[山本和男]](広島東洋カープ→オリックス・ブレーブス) * [[山本和作]](読売ジャイアンツ→オリックス・バファローズ) * [[山本和範]](近鉄バファローズ→南海ホークス=福岡ダイエーホークス→近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ)94年から95年の登録名は「カズ山本」 * [[山本和行]](阪神タイガース) * [[山本一徳]](北海道日本ハムファイターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[山本一義]](広島カープ=広島東洋カープ) * [[山本桂]](日本ハムファイターズ→読売ジャイアンツ)巨人時代の登録名は「山本勝哉」 * [[山本賢寿]](読売ジャイアンツ) * [[山本公士]](阪急ブレーブス) * [[山本浩二]](広島東洋カープ)69年から74年の登録名は「山本浩司」 * [[山本功児]](読売ジャイアンツ→ロッテオリオンズ) * [[山本幸二]](読売ジャイアンツ) * [[山本重政]](近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[山本静雄]](中日ドラゴンズ→近鉄パールス) * [[山本淳]](西武ライオンズ=埼玉西武ライオンズ) * [[山本翔]](広島東洋カープ) * [[山本省吾]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ→横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[山本翔也]](阪神タイガース) * [[山本真一]](広島カープ=広島東洋カープ) * [[山本晴三]](南海ホークス→阪神タイガース) * [[山本拓司]](オリックス・ブルーウェーブ=オリックス・バファローズ) * [[山本忠男]](南海ホークス) * [[山本樹]](ヤクルトスワローズ) * [[山本恒敬]](東映フライヤーズ→大洋ホエールズ) * [[山本哲也 (野球)|山本哲也]](阪神タイガース) * [[山本哲哉]](東京ヤクルトスワローズ) * [[山本徹矢]](千葉ロッテマリーンズ) * [[山本八郎]](東映フライヤーズ→近鉄バファローズ→サンケイアトムズ) * [[山本久夫 (野球)|山本久夫]](東映フライヤーズ→中日ドラゴンズ) * [[山本尚敏]](大東京軍=ライオン軍) * [[山本秀一]](南海ホークス→西鉄ライオンズ) * [[山本秀樹 (投手)|山本秀樹]](西鉄ライオンズ) * [[山本斉]](東京ヤクルトスワローズ) * [[山本兵吾]](広島カープ) * [[山本大明]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * 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(捕手)|吉本亮]](広島東洋カープ→近鉄バファローズ→広島東洋カープ→阪神タイガース) * [[吉本亮 (内野手)|吉本亮]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス→東京ヤクルトスワローズ)2004年から2005年の登録名は「吉本龍生」 * [[四條稔]](読売ジャイアンツ→オリックス・ブルーウェーブ→横浜ベイスターズ) * [[依田栄二]](近鉄バファローズ) * [[与田剛]](中日ドラゴンズ→千葉ロッテマリーンズ→日本ハムファイターズ→阪神タイガース)阪神時代の登録名は「与田剛士」 * [[依田政彦]](近鉄バファローズ) * [[与田順欣]](西鉄ライオンズ) * [[與那原大剛]](読売ジャイアンツ) * [[米正秀]](横浜ベイスターズ) * [[米川泰夫]](東急フライヤーズ=東映フライヤーズ→西鉄ライオンズ) * [[米倉忠信]](読売ジャイアンツ) * [[米崎薫臣]](近鉄バファローズ→阪神タイガース) * [[米田慶三郎]](大洋ホエールズ=横浜大洋ホエールズ) * [[米田哲也]](阪急ブレーブス→阪神タイガース→近鉄バファローズ) * [[米谷延夫]](南海ホークス) * [[米野智人]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→埼玉西武ライオンズ→北海道日本ハムファイターズ) * [[米村明]](中日ドラゴンズ) * [[米村理]](阪急ブレーブス) * [[米村和樹]](阪神タイガース) * [[米山哲夫]](西鉄ライオンズ=太平洋クラブライオンズ→広島東洋カープ) * [[米山光男]](広島カープ)55年から56年の登録名は「米山祐昭」 === ら行 === * [[羅本新二]](ヤクルトスワローズ) * [[蘭定美男]](大阪タイガース) * [[乱橋幸仁]](ヤクルトスワローズ) * [[龍憲一]](東映フライヤーズ→広島カープ=広島東洋カープ) * [[劉瀬章]](南海軍) * [[龍隆行]](東京オリオンズ) * [[辻竜太郎|竜太郎]](オリックス・ブルーウェーブ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[小林亮寛|亮寛]](千葉ロッテマリーンズ) === わ === * [[若井基安]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[若杉輝明]](近鉄パールス) * 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[[渡邉啓太]](千葉ロッテマリーンズ) * [[渡邉恒樹]](東北楽天ゴールデンイーグルス→東京ヤクルトスワローズ)ヤクルト時代の登録名は「渡辺恒樹」 * [[渡辺静 (野球)|渡辺静]](朝日軍) * [[渡辺絢吾]](黒鷲軍=大和軍) * [[渡辺純志]](阪神タイガース) * [[渡辺俊介]](千葉ロッテマリーンズ) * [[渡辺省三]](大阪タイガース=阪神タイガース) * [[渡辺伸治]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→広島東洋カープ) * [[渡辺進]](ヤクルトスワローズ) * [[渡辺誠太郎]](阪神軍=大阪タイガース→大陽ロビンス=松竹ロビンス→大洋ホエールズ) * [[渡邉大樹]](東京ヤクルトスワローズ→オリックス・バファローズ) * [[渡辺泰輔]](南海ホークス) * [[渡邉孝男 (野球)|渡邉孝男]](西武ライオンズ→日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[渡辺孝博]](ヤクルトスワローズ) * [[渡辺長助]](阪神タイガース) * [[渡辺勉 (野球)|渡辺勉]](阪急ブレーブス) * [[渡辺敏夫]](阪急軍) * [[渡辺智男]](西武ライオンズ→福岡ダイエーホークス→西武ライオンズ) * [[渡辺直人]](東北楽天ゴールデンイーグルス→横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ→埼玉西武ライオンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[渡辺伸彦]](阪神タイガース→オリックス・ブルーウェーブ→横浜ベイスターズ) * [[渡辺信義]](広島カープ) * [[渡辺久信]](西武ライオンズ) * [[渡辺英昭]](ロッテオリオンズ=千葉ロッテマリーンズ) * [[渡辺秀一]](福岡ダイエーホークス)96年から99年の登録名は「ヒデカズ」 * [[渡辺秀武]](読売ジャイアンツ→日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ→大洋ホエールズ→ロッテオリオンズ→広島東洋カープ) * [[渡辺弘基]](阪急ブレーブス→広島東洋カープ) * [[渡辺浩司 (野球)|渡辺浩司]](日本ハムファイターズ) * [[渡辺博敏]](西鉄ライオンズ→阪神タイガース) * [[渡辺博文 (野球)|渡辺博文]](阪急ブレーブス→サンケイスワローズ=サンケイアトムズ)66年途中から68年までの登録名は「渡辺一史」 * [[渡辺弘 (野球)|渡辺弘]](日本ハムファイターズ) * [[渡辺博之]](大阪タイガース→近鉄パールス=近鉄バファロー) * [[渡邉博幸]](中日ドラゴンズ)96年から2002年の登録名は「渡辺博幸」 * [[渡辺正和]](福岡ダイエーホークス) * [[渡辺正人]](千葉ロッテマリーンズ) * [[渡辺政仁]](読売ジャイアンツ) * [[渡辺雅弘]](横浜ベイスターズ) * [[渡辺勝 (野球)|渡辺勝]](中日ドラゴンズ) * [[渡邊雄貴]](横浜DeNAベイスターズ) * [[渡邉雄大]](福岡ソフトバンクホークス→阪神タイガース) * [[渡部龍一]](北海道日本ハムファイターズ) * [[渡辺亮]](阪神タイガース) * [[渡辺礼次郎]](国鉄スワローズ) * [[綿貫惣司]](東京セネタース) * [[渡部高史]](横浜大洋ホエールズ=横浜ベイスターズ→オリックス・ブルーウェーブ→千葉ロッテマリーンズ) * [[渡部司]](中日ドラゴンズ) * [[渡部弘]](東京巨人軍) * [[渡会純男]](南海ホークス→西鉄ライオンズ→南海ホークス) * [[度会博文]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ) * [[和中道男]](阪急ブレーブス) == 日本プロ野球の外国人選手 == 登録名の五十音順。'''太字'''は現在NPBに在籍している選手。以下も参照。 * [[北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧]] * [[中南米出身の日本プロ野球外国人選手一覧]] * [[アジア・オセアニア・アフリカ出身の日本プロ野球外国人選手一覧]] === ア === * [[クリス・アーノルド]](近鉄バファローズ) * [[ロビー・アーリン]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ホアン・アイケルバーガー]](ヤクルトスワローズ) * [[相沢進]](毎日オリオンズ→高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ=高橋ユニオンズ) * [[ティム・アイルランド]](広島東洋カープ) * [[アリスティデス・アキーノ]](中日ドラゴンズ) * [[ルイス・アキーノ]](近鉄バファローズ) * [[クリス・アギーラ]](福岡ソフトバンクホークス) * '''[[ヘスス・アギラル|ヘスス・アギラー]]'''(埼玉西武ライオンズ) * [[フランシス・アグウィリー]](大洋ホエールズ→西鉄ライオンズ→大洋ホエールズ→阪急ブレーブス)1965・1969年の登録名は「アグリー」、1966年の登録名は「アギー」 * [[ホセ・アコスタ (1993年生の投手)|ホセ・アコスタ]](千葉ロッテマリーンズ) * [[マニー・アコスタ]](読売ジャイアンツ) * [[ウイリアンス・アストゥディーヨ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ケン・アスプロモンテ|ケン・アスプロ]](中日ドラゴンズ→大洋ホエールズ) * [[アダム・ハイズデュ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[サムエル・アダメス]](読売ジャイアンツ) * [[スコット・アッチソン]](阪神タイガース) * [[ウィリー・アップショー]](福岡ダイエーホークス) * [[ジム・アドゥチ]](横浜大洋ホエールズ) * [[アニマル・レスリー]](阪急ブレーブス) * [[アブナー・アブレイユ]](埼玉西武ライオンズ→読売ジャイアンツ) * '''[[アルバート・アブレイユ]]'''(埼玉西武ライオンズ) * [[ウィンストン・アブレイユ]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ミチェル・アブレイユ]](北海道日本ハムファイターズ) * [[シェルテン・アポステル]](千葉ロッテマリーンズ) * [[カイル・アボット]](近鉄バファローズ) * [[ジーン・アマーン]](阪急ブレーブス) * [[ジャフェット・アマダー]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[エルビス・アラウホ]](中日ドラゴンズ) * [[アラン山本]](大映ユニオンズ) * [[ジョージ・アリアス]](オリックス・ブルーウェーブ→阪神タイガース→読売ジャイアンツ)2000年の登録名は「ジョージ」 * [[マティ・アルー]](太平洋クラブライオンズ) * [[アリスメンディ・アルカンタラ]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ラウル・アルカンタラ]](阪神タイガース) * [[オズワルド・アルシア]](北海道日本ハムファイターズ) * [[リック・アルゾーラ]](阪急ブレーブス) * [[ジョージ・アルトマン]](東京オリオンズ=ロッテオリオンズ→阪神タイガース) * [[アンドリュー・アルバース]](オリックス・バファローズ) * [[ジョナサン・アルバラデホ]](読売ジャイアンツ) * [[ダリエル・アルバレス]](福岡ソフトバンクホークス) * '''[[フランク・アルバレス]]'''(中日ドラゴンズ) * [[エドガルド・アルフォンゾ]](読売ジャイアンツ) * '''[[アレクサンダー・アルメンタ]]'''(福岡ソフトバンクホークス) * [[エリック・アルモンテ]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ソイロ・アルモンテ]](中日ドラゴンズ) * '''[[デービッド・アルモンテ]]'''(福岡ソフトバンクホークス) * [[ヘクター・アルモンテ]](読売ジャイアンツ) * [[ボブ・アレキサンダー]](東映フライヤーズ) * [[アレックス・オチョア]](中日ドラゴンズ→広島東洋カープ) * [[キム・アレン]](阪神タイガース) * [[チャド・アレン]](オリックス・バファローズ) * [[ブランドン・アレン]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ロッド・アレン]](広島東洋カープ) * [[安旭]](読売ジャイアンツ) * [[エリック・アンソニー]](ヤクルトスワローズ) * [[アンソニー・カーター (野球)|アンソニー・カーター]](北海道日本ハムファイターズ) * [[スコット・アンダーソン]](中日ドラゴンズ) * [[ドリュー・アンダーソン (投手)|ドリュー・アンダーソン]](広島東洋カープ) * [[レスリー・アンダーソン]](読売ジャイアンツ) * [[マット・アンドリース]](読売ジャイアンツ) * [[マイク・アンドリュース|マイク・アンドリウス]](近鉄バファローズ) * [[トレイ・アンバギー]](横浜DeNAベイスターズ) * [[ティム・アンロー]](中日ドラゴンズ) === イ === * [[李承燁 (野球)|李承燁]](千葉ロッテマリーンズ→読売ジャイアンツ→オリックス・バファローズ) * [[李大恩|イ・デウン]](千葉ロッテマリーンズ) * [[李大浩]](オリックス・バファローズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[李炳圭]](中日ドラゴンズ) * 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エ === * [[ジェリー・エイデアー|ジェリー・エイデア]](阪急ブレーブス) * [[アンディ・エイバッド]](大阪近鉄バファローズ) * [[マーク・エーカー]](ヤクルトスワローズ) * [[アルシデス・エスコバー]](東京ヤクルトスワローズ) * [[エドウィン・エスコバー]](北海道日本ハムファイターズ→横浜DeNAベイスターズ) * '''[[ホセ・エスパーダ]]'''(東京ヤクルトスワローズ) * [[レイネル・エスピナル|ライネル・エスピナル]](東京ヤクルトスワローズ) * [[アデイニー・エチェバリア]](千葉ロッテマリーンズ) * [[エンジェル・エチェバリア]](日本ハムファイターズ=北海道日本ハムファイターズ) * [[タイラー・エップラー]](オリックス・バファローズ) * [[エディ武井]](東映フライヤーズ) * [[エドガー・ゴンザレス (内野手)|エドガー・ゴンザレス]](読売ジャイアンツ) * [[ジョン・エドワーズ (野球)|ジョン・エドワーズ]](阪神タイガース) * [[トム・エバンス (野球)|トム・エバンス]](阪神タイガース→西武ライオンズ) * [[ニック・エバンス]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[カル・エメリー]](阪急ブレーブス) * [[エリアン・エレラ]](横浜DeNAベイスターズ) * [[ブラッド・エルドレッド]](広島東洋カープ) * [[アンダーソン・エルナンデス]](中日ドラゴンズ) * [[ナルシソ・エルビラ]](大阪近鉄バファローズ) * [[ヨスラン・エレラ]](横浜DeNAベイスターズ) * [[ディートリック・エンス]](埼玉西武ライオンズ) * [[エンリケ・ラミレス]](中日ドラゴンズ) === オ === * [[呉昇桓]](阪神タイガース) * [[フランク・オーテンジオ|王天上]](南海ホークス) * [[リック・オースチン]](阪急ブレーブス) * '''[[タイラー・オースティン]]'''(横浜DeNAベイスターズ) * [[大館勲]](大阪タイガース→毎日オリオンズ)毎日時代の登録名は「大館勲夫」 * [[ホセ・オーティズ]](オリックス・ブルーウェーブ→千葉ロッテマリーンズ→福岡ソフトバンクホークス→埼玉西武ライオンズ) * 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[[アレックス・カブレラ]](西武ライオンズ→オリックス・バファローズ→福岡ソフトバンクホークス)※2009年にFA権を取得し外国人枠の適用外に * [[ダニエル・カブレラ (投手)|ダニエル・カブレラ]](中日ドラゴンズ) * [[ホルベルト・カブレラ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[アルキメデス・カミネーロ|アルキメデス・カミネロ]](読売ジャイアンツ) * [[神谷雅巳]](毎日大映オリオンズ) * [[キース・カムストック]](読売ジャイアンツ) * [[亀田忠]](イーグルス=黒鷲軍) * [[亀田敏夫]](大阪タイガース=阪神軍) * [[ジョバンニ・カラーラ]](西武ライオンズ) * [[マット・カラシティー]](東京ヤクルトスワローズ) * [[D.J.カラスコ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[フェリックス・カラスコ]](中日ドラゴンズ) * [[ヘクター・カラスコ]](大阪近鉄バファローズ) * [[ビクター・ガラテ]](北海道日本ハムファイターズ) * [[フランシスコ・カラバイヨ]](オリックス・バファローズ) * [[ビル・ガリクソン]](読売ジャイアンツ) * '''[[オルランド・カリステ]]'''(中日ドラゴンズ) * [[エスマイリン・カリダ]](広島東洋カープ) * '''[[アンソニー・ガルシア]]'''(埼玉西武ライオンズ) * [[オネルキ・ガルシア]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[カリーム・ガルシア]](オリックス・バファローズ) * [[ギジェルモ・ガルシア (外野手)|ギジェルモ・ガルシア]](中日ドラゴンズ) * [[フレッディ・ガルシア]](大阪近鉄バファローズ) * [[ホセ・アドリス・ガルシア]](読売ジャイアンツ) * [[ルイス・ガルシア (1978年生の内野手)|ルイス・ガルシア]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[フランク・ガルセス]](埼玉西武ライオンズ) * [[クラウディオ・ガルバ]](中日ドラゴンズ) * [[ジョージ・カルバー]](日本ハムファイターズ) * [[フレディ・ガルビス]](福岡ソフトバンクホークス) * [[バルビーノ・ガルベス]](読売ジャイアンツ) * [[カルロス・プリード]](オリックス・ブルーウェーブ) * 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[[イアン・クロール]](読売ジャイアンツ) * [[ケビン・クロン]](広島東洋カープ) === ケ === * [[チャック・ケアリー]](読売ジャイアンツ) * [[リッチ・ゲイル]](阪神タイガース) * [[ジョー・ゲインズ]](阪神タイガース) * [[ルーファス・ゲインズ]](阪急ブレーブス) * [[ウェイン・ケージ]](阪急ブレーブス) * [[ゲーリー・レーシッチ]](中日ドラゴンズ) * [[マイク・ケキッチ]](日本ハムファイターズ) * [[アレファンドロ・ケサダ]](広島東洋カープ) * [[ボビー・ケッペル]](北海道日本ハムファイターズ) * '''[[ケムナ誠]]'''(広島東洋カープ)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[キーオン・ケラ|キオーニ・ケラ]](東京ヤクルトスワローズ) * '''[[ハビー・ゲラ (1995年生の投手)|ハビー・ゲラ]]'''(阪神タイガース) * '''[[カイル・ケラー (野球)|カイル・ケラー]]'''(阪神タイガース→読売ジャイアンツ) * [[ブライアン・ケラー]](阪神タイガース) * [[ケリン・ホセ]](東京ヤクルトスワローズ) * [[アレックス・ゲレーロ]](中日ドラゴンズ→読売ジャイアンツ) * [[タイロン・ゲレーロ]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ウィルフィレーセル・ゲレロ]](広島東洋カープ) === コ === * [[呉昌征]](東京巨人軍→阪神軍=大阪タイガース→毎日オリオンズ)1937年から1942年までの登録名は「呉波」※日本に帰化 * [[高英傑]](南海ホークス) * [[フィル・コーク]](オリックス・バファローズ) * [[ティム・コーコラン (投手)|ティム・コーコラン]](横浜DeNAベイスターズ) * [[レイ・コージ]](中日ドラゴンズ) * [[エリック・コーディエ]](オリックス・バファローズ) * [[ジョニー・ゴームズ]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ブライアン・コーリー]](読売ジャイアンツ→千葉ロッテマリーンズ) * [[マーク・コーリー]](近鉄バファローズ) * [[A.J.コール]](東京ヤクルトスワローズ) * [[ダネル・コールズ]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[フランク・コギンス]](近鉄バファローズ) * [[小島勝治]](阪神タイガース) * [[ベン・コズロースキー]](広島東洋カープ) * [[リッチ・ゴセージ]](福岡ダイエーホークス) * [[スティーブ・コックス]](横浜ベイスターズ) * [[ジャレル・コットン]](オリックス・バファローズ) * [[ヘンリー・コトー]](読売ジャイアンツ) * [[ロマー・コドラド]](埼玉西武ライオンズ) * [[アレクシス・ゴメス]](中日ドラゴンズ) * [[アンダーソン・ゴメス]](福岡ダイエーホークス=福岡ソフトバンクホークス) * [[マウロ・ゴメス]](阪神タイガース) * [[レオ・ゴメス]](中日ドラゴンズ) * [[オスカー・コラス]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ジョシュ・コラレス]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * '''[[ジミー・コルデロ]]'''(千葉ロッテマリーンズ) * '''[[フランチー・コルデロ]]'''(埼玉西武ライオンズ) * [[レミー・コルデロ]](横浜DeNAベイスターズ) * '''[[ロベルト・コルニエル]]'''(広島東洋カープ) * [[ジョン・コロンカ]](オリックス・バファローズ) * [[ルイス・ゴンサレス (1992年生の投手)|ルイス・ゴンサレス]](中日ドラゴンズ) * [[エンリケ・ゴンザレス]](埼玉西武ライオンズ) * [[ダン・ゴンザレス]](阪神タイガース) * [[ディッキー・ゴンザレス]](ヤクルトスワローズ=東京ヤクルトスワローズ→読売ジャイアンツ→千葉ロッテマリーンズ) * [[デニー・ゴンザレス]](読売ジャイアンツ) * [[トニー・ゴンザレス (外野手)|トニー・ゴンザレス]](広島東洋カープ) * [[ポール・ゴンザレス]](オリックス・ブルーウェーブ) * '''[[マーウィン・ゴンザレス]]'''(オリックス・バファローズ) * [[ルイス・ゴンザレス (内野手)|ルイス・ゴンザレス]](読売ジャイアンツ) * [[ルイス・ゴンザレス (1983年生の投手)|ルイス・ゴンザレス]](横浜ベイスターズ) * [[ブルックス・コンラッド]](阪神タイガース) * [[アダム・コンリー]](東北楽天ゴールデンイーグルス) === サ === * '''[[サイ・スニード|サイスニード]]'''(東京ヤクルトスワローズ) * [[ランドール・サイモン]](オリックス・バファローズ) * [[マイク・ザガースキー]](広島東洋カープ→横浜DeNAベイスターズ) * [[コーディ・サターホワイト]](阪神タイガース) * [[ジョン・サディナ]](南海ホークス) * [[佐藤滋孝]](阪急ブレーブス) * [[佐野泰雄]](埼玉西武ライオンズ)※入団当初から外国人枠の適用外 * '''[[アニュラス・ザバラ]]'''(北海道日本ハムファイターズ) * [[デニス・サファテ]](広島東洋カープ→埼玉西武ライオンズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[李尚勲|サムソン・リー]](中日ドラゴンズ) * [[オスカー・サラサー]](横浜DeNAベイスターズ) * [[ロバート・ザラテ]](阪神タイガース) * [[マリオ・サンギルベルト]](広島東洋カープ) * [[ジェリー・サンズ]](阪神タイガース) * [[アンソニー・サンダース]](横浜ベイスターズ) * [[スコット・サンダース]](日本ハムファイターズ) * '''[[ドミンゴ・サンタナ]]'''(東京ヤクルトスワローズ) * [[フアン・サンタナ]](広島東洋カープ) * [[フリオ・サンタナ]](読売ジャイアンツ) * [[フォアキン・サンタマリア]](中日ドラゴンズ) * [[ルイス・サンチェス|ルイス・サンチェ]](読売ジャイアンツ) * [[エンジェル・サンチェス]](読売ジャイアンツ) * [[ギャビー・サンチェス]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ロムロ・サンチェス]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[マリオ・サンティアゴ]](阪神タイガース) * [[サンティアゴ・ラミレス]](中日ドラゴンズ) * [[エドワード・サントス]](千葉ロッテマリーンズ) * [[サンディ・サントス]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ラモン・サントス]](近鉄バファローズ) * [[ロエル・サントス]](千葉ロッテマリーンズ) === シ === * [[ネイト・シャーホルツ|ネイト・シアーホルツ]](広島東洋カープ) * [[アーキー・シアンフロッコ]](西武ライオンズ) * [[ディロン・ジー]](中日ドラゴンズ) * 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[[ダリル・ジョージ]](オリックス・バファローズ) * [[ジョーダン・ノルベルト]](中日ドラゴンズ→東京ヤクルトスワローズ)ヤクルト時代の登録名は「アルメンゴ」 * [[ジョシュ・ショート]](福岡ソフトバンクホークス) * [[アダム・ジョーンズ]](オリックス・バファローズ) * [[アンドリュー・ジョーンズ]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[クラレンス・ジョーンズ (野球)|クラレンス・ジョーンズ]](南海ホークス→近鉄バファローズ) * [[ジミー・ジョーンズ (野球)|ジミー・ジョーンズ]](読売ジャイアンツ) * [[ボビー・ジョーンズ (外野手)|ボビー・ジョーンズ]](中日ドラゴンズ) * [[ミッチ・ジョーンズ]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ルパート・ジョーンズ]](阪神タイガース) * [[グレッグ・ジョンストン]](阪神タイガース) * [[エライジャ・ジョンソン]](近鉄バファローズ) * [[クリス・ジョンソン (投手)|クリス・ジョンソン]](広島東洋カープ) * [[ジェイソン・ジョンソン]](西武ライオンズ) * [[スタン・ジョンソン]](大洋ホエールズ) * [[ダン・ジョンソン]](横浜ベイスターズ) * [[D.J.ジョンソン (野球)|D.J.ジョンソン]](広島東洋カープ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[デービー・ジョンソン]](読売ジャイアンツ) * [[ピアース・ジョンソン]](阪神タイガース) * [[フランク・ジョンソン]](ロッテオリオンズ) * [[マーク・ジョンソン (内野手)|マーク・ジョンソン]](阪神タイガース) * [[マイク・ジョンソン (1975年生の投手)|マイク・ジョンソン]](大阪近鉄バファローズ) * [[ランディ・ジョンソン (内野手)|ランディ・ジョンソン]](広島東洋カープ) * [[アウディ・シリアコ]](横浜DeNAベイスターズ) * [[申成鉉]](広島東洋カープ)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[アラン・ジンター]](西武ライオンズ) === ス === * [[アルバート・スアレス]](東京ヤクルトスワローズ) * [[アンドリュー・スアレス]](東京ヤクルトスワローズ) * 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[[フレデリク・セペダ]](読売ジャイアンツ) * [[瀬間仲ノルベルト]](中日ドラゴンズ)2005年の登録名は「ホッシャ」※2004年に外国人枠の適用外に * [[アンソニー・セラテリ]](埼玉西武ライオンズ) * [[ダン・セラフィニ]](千葉ロッテマリーンズ→オリックス・バファローズ) * [[ビル・セルビー]](横浜ベイスターズ) * [[ジョン・セルフ]](大洋ホエールズ) === ソ === * [[荘勝雄]](ロッテオリオンズ)※1991年に帰化 * [[曹竣揚]](中日ドラゴンズ) * [[ホルヘ・ソーサ]](中日ドラゴンズ→横浜DeNAベイスターズ) * [[ビル・ソーレル]](阪急ブレーブス) * [[ミゲル・ソコロビッチ]](広島東洋カープ) * [[エンジェルベルト・ソト]](中日ドラゴンズ→横浜DeNAベイスターズ) * '''[[ネフタリ・ソト]]'''(横浜DeNAベイスターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[ショーン・ソニア]](横浜ベイスターズ) * [[ヤンガービス・ソラーテ]](阪神タイガース) * [[アルフォンソ・ソリアーノ]](広島東洋カープ) * [[ディオーニ・ソリアーノ]](広島東洋カープ) * [[サミー・ソリス]](横浜DeNAベイスターズ) * [[マヌエル・ソリマン]](読売ジャイアンツ) * [[トニー・ソレイタ]](日本ハムファイターズ) * [[マイク・ソロムコ]](阪神タイガース→東京オリオンズ) * [[宋相勲]](中日ドラゴンズ) * '''[[宋家豪]]'''(東北楽天ゴールデンイーグルス)2016年の登録名は「ソン・チャーホウ」 * [[宣銅烈]](中日ドラゴンズ) === タ === * [[ダーウィン・クビアン]](阪神タイガース) * [[ジェイソン・ターマン]](横浜ベイスターズ) * [[マット・ダーモディ]](埼玉西武ライオンズ) * '''[[ニック・ターリー]]'''(広島東洋カープ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[タイ・ゲイニー|タイゲイニー]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[大順将弘]](千葉ロッテマリーンズ)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[大豊泰昭]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース→中日ドラゴンズ)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[ジム・タイロン]](西武ライオンズ→南海ホークス) * [[タイロン・ウッズ]](横浜ベイスターズ→中日ドラゴンズ) * [[高橋吉雄]](名古屋軍→イーグルス=黒鷲軍=大和軍) * [[ショーン・ダグラス]](広島東洋カープ→東京ヤクルトスワローズ) * [[ブランドン・ダックワース]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ジーン・ドットソン|ジーン・ダットサン]](南海ホークス) * [[ラモン・タティス]](日本ハムファイターズ) * [[田中義雄]](大阪タイガース=阪神軍)※日本に帰化 * [[ダニエル・ミサキ]](読売ジャイアンツ) * [[リー・タネル]](福岡ダイエーホークス) * [[ジョアン・タバーレス]](広島東洋カープ→中日ドラゴンズ) * [[マット・ダフィー (1989年生の内野手)|マット・ダフィー]](千葉ロッテマリーンズ) * [[玉木重雄]](広島東洋カープ→東北楽天ゴールイーグルス)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[トニー・タラスコ]](阪神タイガース) * [[テーラー・ダンカン]](西武ライオンズ) * [[マリアーノ・ダンカン]](読売ジャイアンツ) === チ === * [[スコット・チャイアソン|スコット・チアソン]](横浜ベイスターズ) * [[ロビンソン・チェコ]](広島東洋カープ) * [[陳瑋]](横浜ベイスターズ) * [[陳偉殷|チェン・ウェイン]](中日ドラゴンズ→千葉ロッテマリーンズ→阪神タイガース) * [[陳冠宇]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ→千葉ロッテマリーンズ)ロッテ時代の登録名は「チェン・グァンユウ」 * [[ウェス・チェンバレン]](千葉ロッテマリーンズ) * [[チャック・エッセジアン]](近鉄バファローズ) * [[タイラー・チャットウッド|タイラー・チャトウッド]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ヨヘルミン・チャベス]](オリックス・バファローズ) * [[張誌家]](西武ライオンズ) * [[ボブ・チャンス]](アトムズ=ヤクルトアトムズ) * [[ヴィニー・チューク]](広島東洋カープ) * [[趙成珉]](読売ジャイアンツ) * [[張奕]](オリックス・バファローズ→埼玉西武ライオンズ) * [[鄭珉哲]](読売ジャイアンツ) * [[鄭珉台]](読売ジャイアンツ) * [[マット・チルダース]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[陳文賓]](福岡ダイエーホークス) === ツ === * [[蔡森夫]](千葉ロッテマリーンズ) * [[崔暁]](読売ジャイアンツ) * [[ブラッド・ツイドリー]](大阪近鉄バファローズ) * [[佐藤二朗 (野球)|ツギオ]](ヤクルトスワローズ)1999年から2000年の登録名は「ツギオ佐藤」 === テ === * [[ロブ・ディアー]](阪神タイガース) * [[エディ・ディアス]](広島東洋カープ) * '''[[ジョフレック・ディアス]]'''(横浜DeNAベイスターズ) * [[ビクトル・ディアス (野球)|ビクトル・ディアス]](中日ドラゴンズ) * [[フェリックス・ディアス]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ラファエル・ディアス]](西武ライオンズ) * [[マイク・ディアズ]](ロッテオリオンズ) * '''[[アレックス・ディッカーソン|アレックス・ディカーソン]]'''(中日ドラゴンズ) * [[ダグ・ジェニングス|D・J]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[D.T.クローマー]](日本ハムファイターズ) * [[ブライアン・デイエット]](日本ハムファイターズ) * [[オコエ・ディクソン]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ブランドン・ディクソン]](オリックス・バファローズ) * [[ブランドン・ディクソン (内野手)|ブランドン・ディクソン]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ディック・ディサ]](毎日大映オリオンズ=東京オリオンズ→近鉄バファローズ) * [[ベニー・ディステファーノ]](中日ドラゴンズ) * [[ヘスス・ティノコ]](埼玉西武ライオンズ) * [[トム・デイビー]](広島東洋カープ→オリックス・バファローズ) * [[カイル・デイビーズ]](東京ヤクルトスワローズ) * [[ナティーノ・ディプラン]](読売ジャイアンツ) * '''[[フリアン・ティマ]]'''(読売ジャイアンツ) * [[デイモン・マイナー]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[オジー・ティモンズ]](中日ドラゴンズ) * [[サッド・ティロットソン|サッド・ティロット]](南海ホークス) * [[ジョー・ディロン]](読売ジャイアンツ) * [[デーブ・ニルソン|ディンゴ]](中日ドラゴンズ) * [[ジム・テータム]](ヤクルトスワローズ) * [[ジャービス・テータム]](ヤクルトアトムズ) * [[ポール・デード]](阪神タイガース) * [[アルビン・デービス]](近鉄バファローズ) * [[ウィリー・デービス (野球)|ウィリー・デービス]](中日ドラゴンズ→太平洋クラブライオンズ) * [[リチャード・デービス (野球)|リチャード・デービス]](近鉄バファローズ) * [[ロン・デービス]](ヤクルトスワローズ) * [[スコット・デービソン]](千葉ロッテマリーンズ) * [[エリック・テームズ]](読売ジャイアンツ) * [[ボビー・テーラー]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[ダグ・デシンセイ]](ヤクルトスワローズ) * [[ニック・テスタ]](毎日大映オリオンズ) * [[オレステス・デストラーデ]](西武ライオンズ) * [[アルフレド・デスパイネ]](千葉ロッテマリーンズ→福岡ソフトバンクホークス) * [[エルマー・デセンス]](読売ジャイアンツ) * [[シェーン・デニス]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ミッチ・デニング]](東京ヤクルトスワローズ) * [[リック・デハート]](広島東洋カープ) * [[ジャン・テハダ]](近鉄バファローズ) * [[デーブ・パブラス|デビット・パブラス]](読売ジャイアンツ) * [[スコット・サービス|スコット・デビッド・サービス]](中日ドラゴンズ) * [[デビッド・ホステトラー]](南海ホークス) * [[マット・デビッドソン]](広島東洋カープ) * [[ダニーロ・デヘスス]](広島東洋カープ) * [[ロブ・デューシー]](日本ハムファイターズ) * [[マイク・デュプリー]](広島東洋カープ) * [[リチャード・デュラン]](近鉄バファローズ) * [[フェルナンド・デラクルーズ]](大阪近鉄バファローズ) * [[フランシスコ・デラクルーズ]](広島東洋カープ) * [[ヘクター・デラクルーズ]](読売ジャイアンツ) * [[ホセ・デラクルーズ]](読売ジャイアンツ) * [[フランキー・デラクルーズ|エウロ・デラクルス]](東京ヤクルトスワローズ) * [[スティーブ・デラバー]](広島東洋カープ) * [[トマス・デラロサ]](中日ドラゴンズ) * [[フランディー・デラロサ]](横浜DeNAベイスターズ) * [[ルビー・デラロサ]](読売ジャイアンツ) * [[テリー・ウィットフィールド]](西武ライオンズ) * [[テリー・リー (1955年生の内野手)|テリーリー]](近鉄バファローズ) * [[ミゲール・デルトロ]](西武ライオンズ)入団当初の登録名は「ミゲール」 * [[ルイス・テレーロ]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ファン・デレオン]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ジェイミー・デントナ]](東京ヤクルトスワローズ) * [[デビッド・デントン]](ヤクルトスワローズ) === ト === * [[ジェフ・ドイル]](南海ホークス) * [[テリー・ドイル]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ジム・ドゥール]](高橋ユニオンズ) * [[ドリュー・トゥサント]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ケルビン・トーベ]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[ジャスティン・トーマス]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ブラッド・トーマス]](北海道日本ハムファイターズ) * [[リー・トーマス (野球)|リー・トーマス]](南海ホークス) * [[スコット・ドーマン]](広島東洋カープ) * [[ボビー・トーラン]](南海ホークス) * [[カルロス・トーレス]](読売ジャイアンツ) * [[デーブ・ドスター]](横浜ベイスターズ) * [[パット・ドッドソン]](近鉄バファローズ) * [[クリス・ドネルス]](近鉄バファローズ→オリックス・ブルーウェーブ)1996年と1998年の登録名は「C・D」 * [[ラリー・ドビー]](中日ドラゴンズ) * [[ゲーリー・トマソン]](読売ジャイアンツ) * [[マット・ドミンゲス (野球)|マット・ドミンゲス]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ドミンゴ・グスマン]](横浜ベイスターズ→中日ドラゴンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス)2002年の登録名は「グスマン」 * [[ブライアン・トラックスラー]](福岡ダイエーホークス) * [[ラファエル・ドリス]](阪神タイガース) * [[トラビス・ドリスキル]](ヤクルトスワローズ)入団当初の登録名は「ドリスキー」 * [[ヤディル・ドレイク]](北海道日本ハムファイターズ) * [[アンディ・トレーシー]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ジム・トレーシー]](横浜大洋ホエールズ) * [[チャド・トレーシー]](広島東洋カープ) * [[ジム・トレーバー]](近鉄バファローズ) * [[ホセ・トレンティーノ]](西武ライオンズ) * [[マイケル・トンキン]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ジェイソン・トンプソン (1971年生の内野手)|ジェイソン・トンプソン]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ライアン・トンプソン]](福岡ダイエーホークス) === ナ === * [[クリス・ナーブソン]](東京ヤクルトスワローズ) * [[ブランドン・ナイト (野球)|ブランドン・ナイト]](福岡ダイエーホークス→北海道日本ハムファイターズ) * [[クリス・ナイマン]](南海ホークス) * [[仲尾次オスカル]](広島東洋カープ)2016年途中からの登録名は「オスカル」※入団当初から外国人枠の適用外 * [[ジョナサン・ナナリー]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[リカルド・ナニータ]](中日ドラゴンズ) * [[エフレン・ナバーロ]](阪神タイガース) * [[ヤマイコ・ナバーロ]](千葉ロッテマリーンズ) === ニ === * [[ボブ・ニーマン]](中日ドラゴンズ) * [[ザック・ニール]](埼玉西武ライオンズ) * [[トロイ・ニール]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[メルビン・ニエベス]](福岡ダイエーホークス) * [[クリストファー・ニコースキー]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ホセ・ニコラス]](西鉄ライオンズ) * [[ロドニー・ニコルズ]](福岡ダイエーホークス) * [[西田亨]](読売ジャイアンツ→東映フライヤーズ→毎日大映オリオンズ→国鉄スワローズ)1959年から1961年までの登録名は「ビル西田」 * [[ニック・スタビノア]](広島東洋カープ) * [[ジェイコブ・ニックス]](オリックス・バファローズ) * [[新田幸夫]](広島カープ) * [[ドン・ニューカム|ニューク]](中日ドラゴンズ) * [[ジミー・ニューベリー]](阪急ブレーブス) * [[アラン・ニューマン]](ヤクルトスワローズ→広島東洋カープ) === ヌ === * [[レナート・ヌニェス|レナート・ヌニエス]](北海道日本ハムファイターズ) === ネ === * [[ドリュー・ネイラー]](中日ドラゴンズ) * [[ジム・ネトルス]](南海ホークス) * [[ドヴィダス・ネヴェラウスカス|ドビーダス・ネバラスカス]](広島東洋カープ) * [[ブライアン・ネルソン]](福岡ダイエーホークス) * [[マキシモ・ネルソン]](中日ドラゴンズ) === ノ === * '''[[シェルドン・ノイジー]]'''(阪神タイガース) * [[ノエル・ウレーニャ]](読売ジャイアンツ) * [[ハーバート・ノース]](名古屋軍) * [[野上清光]](阪急軍) * [[エリック・ノット]](千葉ロッテマリーンズ) * '''[[野村佑希]]'''(北海道日本ハムファイターズ)※入団当初より外国人枠の適用外 * [[ショーン・ノリン]](埼玉西武ライオンズ) === ハ === * [[ウェス・パーカー]](南海ホークス) * [[モーガン・バークハート]](福岡ダイエーホークス) * [[マイク・バークベック]](横浜ベイスターズ) * [[ショーン・バーグマン]](大阪近鉄バファローズ) * [[グレッグ・パークル]](福岡ダイエーホークス) * [[アンソニー・バス|アンソニー・バース]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ランディ・バース]](阪神タイガース) * [[ジミー・ハースト]](広島東洋カープ) * [[ジョナサン・ハースト]](ヤクルトスワローズ) * [[ブライアン・バーデン]](広島東洋カープ) * [[バート・シャーリー]](中日ドラゴンズ) * [[カイル・バード]](広島東洋カープ) * [[ジェイソン・ハートキー]](阪神タイガース) * [[ディーン・ハートグレイブス]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ティム・バートサス]](ヤクルトスワローズ) * [[マイク・ハートリー]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ゲイリー・バーナム・ジュニア]](千葉ロッテマリーンズ) * [[トニー・バーネット]](東京ヤクルトスワローズ) * [[テリー・ハーパー (野球)|テリー・ハーパー]](ヤクルトスワローズ) * [[ブレット・ハーパー]](横浜ベイスターズ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ジェシー・バーフィールド]](読売ジャイアンツ) * [[デニス・バーフィールド]](読売ジャイアンツ) * [[ドリュー・バーヘイゲン]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ジョニー・バーベイト]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ジム・バーマ]](西鉄ライオンズ) * [[フランク・ハーマン]](東北楽天ゴールデンイーグルス→千葉ロッテマリーンズ) * [[ジェレミー・ハーミダ|ジェレミー・ハーミッダ]](北海道日本ハムファイターズ) * [[エド・パームクエスト|エド・パーム]](毎日大映オリオンズ) * [[ジェラルド・パーラ]](読売ジャイアンツ) * [[バール・スノー]](日本ハムファイターズ) * [[ラリー・ハーロー]](ヤクルトスワローズ) * [[ケビン・バーン]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ→千葉ロッテマリーンズ)オリックス時代の登録名は「ケビン」 * '''[[テイラー・ハーン]]'''(広島東洋カープ) * [[エイドリアン・バーンサイド]](読売ジャイアンツ) * [[ピーター・バーンサイド]](阪神タイガース) * [[ラリー・バーンズ]](大阪近鉄バファローズ) * [[フィル・ハイアット]](阪神タイガース) * [[エドガルド・バイエス]](福岡ソフトバンクホークス) * [[フレディ・バイエスタス]](オリックス・バファローズ) * [[フレディ・バイナム]](オリックス・バファローズ) * [[スコット・ハインマン|スコット・ハイネマン]](読売ジャイアンツ) * [[フアン・ハイメ]](中日ドラゴンズ) * [[ディック・バウアー]](東映フライヤーズ) * [[トレバー・バウアー]](横浜DeNAベイスターズ) * [[ジャック・ハウエル]](ヤクルトスワローズ→読売ジャイアンツ) * [[アロンゾ・パウエル]](中日ドラゴンズ→阪神タイガース) * [[ジェレミー・パウエル]](大阪近鉄バファローズ→オリックス・バファローズ→読売ジャイアンツ→福岡ソフトバンクホークス)オリックス時代の登録名は「JP」 * [[デニス・パウエル]](近鉄バファローズ) * [[ジム・ハウザー]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[アンヘル・バウチスター]](広島東洋カープ) * [[萩原寛]](大和軍→東京巨人軍)1943年から1946年の登録名は「呉新亨」、1948年の登録名は「呉元敝」※日本に帰化 * [[白仁天]](東映フライヤーズ=日拓ホームフライヤーズ=日本ハムファイターズ→太平洋クラブライオンズ→ロッテオリオンズ→近鉄バファローズ)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[朴賛浩]](オリックス・バファローズ) * [[マイク・パグリアルーロ]](西武ライオンズ) * [[アダム・バス]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ヴァル・パスクチ]](千葉ロッテマリーンズ) * [[エスメルリング・バスケス]](埼玉西武ライオンズ) * [[長谷川重一]](イーグルス=黒鷲軍) * [[ジョン・パセラ]](読売ジャイアンツ) * [[マイク・パターソン]](日本ハムファイターズ) * [[リッチ・バチェラー]](ヤクルトスワローズ) * [[ラファエル・バティスタ|ラファエル・バチスタ]](ロッテオリオンズ) * [[ジム・パチョレック]](横浜大洋ホエールズ→阪神タイガース) * [[ジェイソン・ハッカミー]](ヤクルトスワローズ) * [[ジーン・バッキー]](阪神タイガース) * '''[[トーマス・ハッチ]]'''(広島東洋カープ) * [[パット・パットナム]](日本ハムファイターズ) * [[スペンサー・パットン]](横浜DeNAベイスターズ) * [[バディ・ブラッドフォード]](近鉄バファローズ) * [[ビセンテ・パディーヤ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[サビエル・バティスタ]](広島東洋カープ) * [[トニー・バティスタ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[レックス・ハドラー]](ヤクルトスワローズ) * [[ジョーイ・バトラー]](オリックス・バファローズ) * [[ケント・ハドリ]](南海ホークス) * [[ハワード・バトル]](阪神タイガース) * [[トニー・バナザード]](南海ホークス=福岡ダイエーホークス) * [[ブライアン・バニスター]](読売ジャイアンツ) * [[フロイド・バニスター]](ヤクルトスワローズ) * 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* [[ビリー・ビーン (1964年生の外野手)|ビリー・ビーン]](近鉄バファローズ) * [[チアゴ・ビエイラ]](読売ジャイアンツ) * [[タイラー・ヒギンス]](オリックス・バファローズ) * [[ラリー・ビグビー]](横浜ベイスターズ) * '''[[ダヤン・ビシエド]]'''(中日ドラゴンズ)※2023年にFA権を取得し外国人枠の適用外に * [[ジム・ヒックス]](広島東洋カープ) * [[ジョー・ヒックス (内野手)|ジョー・ヒックス]](阪急ブレーブス) * [[タイラー・ビーディ]](読売ジャイアンツ) * [[ジョー・ビティエロ]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[ジェシー・ビドル]](オリックス・バファローズ) * [[ケルビン・ヒメネス]](東北楽天ゴールデンイーグルス)入団当初の登録名は「ケルビン」 * [[ルイス・ヒメネス (1982年生の内野手)|ルイス・ヒメネス]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ルイス・ヒメネス (1988年生の内野手)|ルイス・ヒメネス]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[クリスチャン・ビヤヌエバ]](読売ジャイアンツ→北海道日本ハムファイターズ) * [[トラビス・ヒューズ]](横浜ベイスターズ) * [[ジャスティン・ヒューバー]](広島東洋カープ) * [[ドン・ビュフォード]](太平洋クラブライオンズ→南海ホークス) * [[平川喜代美]](名古屋金鯱軍) * [[平山智 (野球)|平山智]](広島カープ) * [[デーブ・ヒルトン (野球)|デーブ・ヒルトン]](ヤクルトスワローズ→阪神タイガース) * [[エリック・ヒルマン]](千葉ロッテマリーンズ→読売ジャイアンツ) * [[ホセ・ピレラ]](広島東洋カープ) * [[デュアン・ビロウ]](横浜DeNAベイスターズ) * [[広田順]](読売ジャイアンツ) * [[ビル・ピンカード]](近鉄パールス) * [[レニエル・ピント]](福岡ソフトバンクホークス) === フ === * [[スティーブン・ファイフ]](埼玉西武ライオンズ) * [[ブライアン・ファルケンボーグ]](福岡ソフトバンクホークス→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[黄志龍 (野球)|黄志龍]](読売ジャイアンツ) * [[ルーク・ファンミル]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[マイク・フィアリー]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ジョシュ・フィールズ]](読売ジャイアンツ) * [[ジェフ・フィオレンティーノ]](広島東洋カープ)シーズン中からの登録名は「フィオ」 * [[アルフレッド・フィガロ]](オリックス・バファローズ) * [[アンディ・フィリップス]](広島東洋カープ→東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ザック・フィリップス]](広島東洋カープ) * [[ジェイソン・フィリップス (投手)|ジェイソン・フィリップス]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[レスリー・フィルキンス]](広島東洋カープ) * [[セシル・フィルダー]](阪神タイガース) * [[クリス・ブーチェック]](横浜ベイスターズ) * [[ブーマー・ウェルズ]](阪急ブレーブス=オリックス・ブレーブス=オリックス・ブルーウェーブ→福岡ダイエーホークス) * [[フアン・フェリシアーノ]](広島東洋カープ) * [[ペドロ・フェリシアーノ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ダリットソン・フェリス]](千葉ロッテマリーンズ) * '''[[マイロン・フェリックス]]'''(福岡ソフトバンクホークス) * [[ジャレッド・フェルナンデス]](広島東洋カープ) * '''[[ジュニオール・フェルナンデス (野球)|ジュニオール・フェルナンデス]]'''(千葉ロッテマリーンズ) * [[ハンベルト・フェルナンデス]](阪神タイガース) * [[トニー・フェルナンデス]](西武ライオンズ) * [[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]](千葉ロッテマリーンズ→西武ライオンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス→オリックス・バファローズ→埼玉西武ライオンズ→東北楽天ゴールデンイーグルス→オリックス・バファローズ)※2012年にFA権を取得し外国人枠の適用外に * [[ラファエル・フェルナンデス]](東京ヤクルトスワローズ)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[ルシアノ・フェルナンド]](東北楽天ゴールデンイーグルス)※入団当初から外国人枠の適用外 * [[ルー・フォード]](阪神タイガース) * [[スティーブ・フォックス (野球)|スティーブ・フォックス]](中日ドラゴンズ) * [[ケーシー・フォッサム]](阪神タイガース) * [[デビッド・ブキャナン]](東京ヤクルトスワローズ) * [[ブライアン・ブキャナン]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ジョージ・ブコビッチ]](西武ライオンズ) * [[藤重登]](南海ホークス→阪神タイガース) * [[アラン・ブセニッツ]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ドン・ブッサン]](トンボユニオンズ) * [[チャーリー・フッド]](毎日オリオンズ) * [[ラルフ・ブライアント]](中日ドラゴンズ→近鉄バファローズ) * [[ジェイソン・プライディ]](広島東洋カープ) * [[アダム・ブライト]](読売ジャイアンツ) * [[ジム・ブラウワー]](広島東洋カープ) * [[ジェイミー・ブラウン]](阪神タイガース) * [[ディー・ブラウン (野球)|ディー・ブラウン]](埼玉西武ライオンズ) * [[トッド・ブラウン]](オリックス・ブレーブス) * [[マーク・ブラウンスタイン|マーク・ブラウン]](阪神タイガース) * [[マーティ・ブラウン]](広島東洋カープ) * [[マイク・ブラウン (外野手)|マイク・ブラウン]](読売ジャイアンツ) * [[ルイス・ブラウン (野球)|ルイス・ブラウン]](中日ドラゴンズ) * [[ルーズベルト・ブラウン]](オリックス・ブルーウェーブ) * [[クレイグ・ブラゼル]](埼玉西武ライオンズ→阪神タイガース→千葉ロッテマリーンズ) * [[ヤンシー・ブラゾバン]](福岡ソフトバンクホークス) * [[グレン・ブラッグス]](横浜ベイスターズ) * [[トラビス・ブラックリー]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ジャバリ・ブラッシュ]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ブラッド・バーゲセン|ブラッドリー・バーゲセン]](中日ドラゴンズ) * [[フィル・ブラッドリー]](読売ジャイアンツ) * [[マイカ・フランクリン]](日本ハムファイターズ→阪神タイガース) * [[エスターリン・フランコ]](広島東洋カープ) * [[フリオ・フランコ]](千葉ロッテマリーンズ) * '''[[マイケル・フランコ]]'''(東北楽天ゴールデンイーグルス) * 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[[レオン・リー]](ロッテオリオンズ→横浜大洋ホエールズ→ヤクルトスワローズ) * [[カイル・レグナルト]](広島東洋カープ) * [[シクスト・レスカーノ]](横浜大洋ホエールズ) * [[ジョン・レスター (右投手)|ジョン・レスター]](オリックス・バファローズ) * [[マイケル・レストビッチ]](福岡ソフトバンクホークス) * [[サル・レッカ]](高橋ユニオンズ=トンボユニオンズ) * [[ウィル・レデズマ]](千葉ロッテマリーンズ) * [[ジム・レドモン]](日拓ホームフライヤーズ) * [[ペドロ・レビーラ]](中日ドラゴンズ) * [[フィル・レフトウィッチ]](近鉄バファローズ) * [[ドナルド・レモン]](ヤクルトスワローズ) * [[アンソニー・レルー]](福岡ソフトバンクホークス) === ロ === * [[呂明賜]](読売ジャイアンツ) * [[トニー・ロイ]](西鉄ライオンズ→近鉄バファローズ) * [[キャメロン・ロー]](福岡ソフトバンクホークス) * [[ジョニー・ローガン (野球)|ジョニー・ローガン]](南海ホークス) * [[タフィ・ローズ]](近鉄バファローズ=大阪近鉄バファローズ→読売ジャイアンツ→オリックス・バファローズ)※2004年にFA権を取得し外国人枠の適用外に * [[ロバート・ローズ]](横浜ベイスターズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[ドン・ローチ]](オリックス・バファローズ) * [[ウェイド・ロードン]](広島東洋カープ) * [[ダグ・ローマン]](横浜大洋ホエールズ) * [[ケイシー・ローレンス]](広島東洋カープ) * [[ローン・ウッズ]](中日ドラゴンズ) * [[ウィリン・ロサリオ]](阪神タイガース) * [[ライネル・ロサリオ]](広島東洋カープ) * [[ランディ・ロサリオ]](中日ドラゴンズ) * [[ジミー・ロザリオ]](ロッテオリオンズ→太平洋クラブライオンズ) * [[ロジャー・レポーズ]](太平洋クラブライオンズ→ヤクルトスワローズ)太平洋時代の登録名は「レポーズ」 * [[アンディ・ロジャース]](大洋ホエールズ) * [[ジェイソン・ロジャース (野球)|ジェイソン・ロジャース]](阪神タイガース) * [[マイク・ロックフォード]](ヤクルトスワローズ) * [[ジーン・ロックレア]](日本ハムファイターズ) * [[ヴィニー・ロッティーノ]](オリックス・バファローズ) * [[アデルリン・ロドリゲス]](オリックス・バファローズ→阪神タイガース) * [[アンディ・ロドリゲス]](福岡ソフトバンクホークス) * '''[[エルビン・ロドリゲス]]'''(東京ヤクルトスワローズ) * '''[[クリスチャン・ロドリゲス]]'''(中日ドラゴンズ) * [[ジャリエル・ロドリゲス]](中日ドラゴンズ) * [[ジョエリー・ロドリゲス]](中日ドラゴンズ) * [[ネリオ・ロドリゲス]](大阪近鉄バファローズ) * '''[[ブライアン・ロドリゲス]]'''(北海道日本ハムファイターズ) * [[ボイ・ロドリゲス]](横浜ベイスターズ) * '''[[ルイス・ロドリゲス (2001年生の投手)|ルイス・ロドリゲス]]'''(福岡ソフトバンクホークス) * [[ロニー・ロドリゲス]](北海道日本ハムファイターズ) * [[ロドリゴ宮本]](ヤクルトスワローズ)2001年から2002年の登録名は「リーゴ」 * [[ロナルド大森]](広島カープ) * [[クリス・ロバーツ]](千葉ロッテマリーンズ) * [[デーブ・ロバーツ (1933年生の内野手)|デーブ・ロバーツ]](サンケイアトムズ=アトムズ=ヤクルトアトムズ→近鉄バファローズ) * [[ロバート・ウィッシュネフスキー]](西武ライオンズ) * [[メル・ロハス・ジュニア]](阪神タイガース) * [[トム・ロブソン]](南海ホークス) * [[トーリ・ロブロ]](ヤクルトスワローズ) * [[アルト・ロペス]](東京オリオンズ=ロッテオリオンズ→ヤクルトアトムズ) * '''[[ビクター・ロペス]]'''(埼玉西武ライオンズ) * [[ポーフィリオ・ロペス]](埼玉西武ライオンズ) * [[ホセ・ロペス (内野手)|ホセ・ロペス]](読売ジャイアンツ→横浜DeNAベイスターズ) * [[ヨアン・ロペス]](読売ジャイアンツ) * [[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]](広島東洋カープ→福岡ダイエーホークス→広島東洋カープ) * [[ルイス・ロペス (1973年生の内野手)|ルイス・ロペス]](東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[ジェイミー・ロマック]](横浜DeNAベイスターズ) * [[マイク・ロマノ]](広島東洋カープ) * [[オーランド・ロマン]](東京ヤクルトスワローズ) * [[エニー・ロメロ]](中日ドラゴンズ→千葉ロッテマリーンズ) * [[ステフェン・ロメロ]](オリックス・バファローズ→東北楽天ゴールデンイーグルス→オリックス・バファローズ) * [[フェルナンド・ロメロ (野球)|フェルナンド・ロメロ]](横浜DeNAベイスターズ) * [[レビ・ロメロ]](読売ジャイアンツ→福岡ソフトバンクホークス) * [[ロン・ロリッチ]](南海ホークス→近鉄バファローズ) * [[アル・ロング]](西鉄ライオンズ) * [[ホルヘ・ロンドン]](中日ドラゴンズ) === ワ === * [[ジェイ・ワード]](中日ドラゴンズ) * [[ジョニー・ワーハス]](大洋ホエールズ) * [[ビリー・ワイヤット]](西鉄ライオンズ) * [[若林忠志]](大阪タイガース=阪神軍→毎日オリオンズ) * [[ルーク・ワカマツ]](中日ドラゴンズ) * [[ニール・ワグナー]](埼玉西武ライオンズ) * [[ジェイコブ・ワゲスパック]](オリックス・バファローズ) * [[ケン・ワシントン]](南海ホークス) * [[ジョン・ワズディン]](読売ジャイアンツ→埼玉西武ライオンズ) * [[渡部満]](近鉄パールス) * [[マーク・ワトソン]](広島東洋カープ) * [[マット・ワトソン]](千葉ロッテマリーンズ) * [[王溢正]](横浜ベイスターズ=横浜DeNAベイスターズ) * '''[[王彦程]]'''(東北楽天ゴールデンイーグルス) * [[王靖超]](横浜ベイスターズ) * [[王柏融]](北海道日本ハムファイターズ) == 同じ名前の選手について == 上の人物が年上。 {{節スタブ}} (掲載されていない事例があれば適宜追加をお願い致します) *アキラ **[[伊藤彰 (野球)|アキラ (伊藤彰)]] **[[松本輝|アキラ (松本輝)]] *石川賢 **[[石川賢 (1960年生の投手)]] - 読みは「いしかわ まさる」 **[[石川賢 (1981年生の投手)]] - 読みは「いしかわ さとる」 *井上修(いのうえ おさむ) **[[井上修 (捕手)]] **[[井上修 (内野手)]] *大橋一郎(おおはし いちろう) **[[大橋一郎 (投手)]] **[[大橋一郎 (内野手)]] *岡本直也(おかもと なおや) **[[岡本直也 (1983年生の投手)]] **[[岡本直也 (1996年生の投手)]] *小川博(おがわ ひろし) **[[小川博 (内野手)]] **[[小川博|小川博 (投手)]] *ホセ・オスナ **[[ホセ・オスナ]] **[[ホセ・オスーナ (2007年生の外野手)]] *カズ **[[前田和之 (野球)|カズ (前田和之)]] **[[青木和義|カズ (青木和義)]] *小林宏 **[[小林宏 (野球)|小林宏]] - 読みは「こばやし ひろし」 **[[小林宏之 (野球)|小林宏 (小林宏之)]] - 読みは「こばやしひろ」 *ルイス・ゴンザレス<ref>読みは違うがスペルが全員同じ</ref> **[[ルイス・ゴンザレス (内野手)]] - フルネームは「ルイス・アルベルト・ゴンザレス」 **[[ルイス・ゴンザレス (1983年生の投手)]] - フルネームは「ルイス・エンリケ・ゴンザレス」 **[[ルイス・ゴンサレス (1992年生の投手)]] - フルネームは「ルイス・ウンベルト・ゴンサレス」 *坂本勇人(さかもと はやと) **[[坂本勇人|坂本勇人 (内野手)]] **[[坂本勇人 (捕手)]] *佐々木健 **[[佐々木健 (左投手)]] - 読みは「ささき たける」 **[[佐々木健 (右投手)]] - 読みは「ささき けん」 *佐藤文男(さとう ふみお) **[[佐藤文男 (1953年生の投手)]] **[[佐藤文男 (1963年生の投手)]] *佐藤文彦(さとう ふみひこ) **[[佐藤文彦 (外野手)]] **[[佐藤文彦 (投手)]] *佐藤充 **[[佐藤誠 (野球)|佐藤充 (佐藤誠)]] - 読みは「さとう まこと」 **[[佐藤充]] - 読みは「さとう みつる」 *鈴木健(すずき けん) **[[鈴木健 (投手)]] **[[鈴木健 (内野手)]] *鈴木隆(すずき たかし) **[[鈴木隆 (外野手)]] **[[鈴木隆 (投手)]] *鈴木正(すずき ただし) **[[鈴木秀幸|鈴木正 (鈴木秀幸)]] **[[鈴木正 (野球)|鈴木正]] *鈴木誠(すずき まこと) **[[鈴木誠 (1957年生の投手)]] **[[鈴木誠 (1985年生の投手)]] *鈴木実(すずき みのる) **[[鈴木実 (外野手)]] **[[鈴木実 (投手)]] *高橋明(たかはし あきら) **[[高橋明 (投手)]] **[[高橋明 (外野手)]] *高橋功一(たかはし こういち) **[[高橋功一 (1965年生の投手)]] **[[高橋功一 (1971年生の投手)]] *田中彰(たなか あきら) **[[田中彰 (1954年生の内野手)]] **[[田中彰 (1982年生の内野手)]] *田中一郎(たなか いちろう) **[[田中一朗|田中一郎 (田中一朗)]] **[[田中一郎 (野球)|田中一郎]] *田中充 **[[田中充 (投手)]] - 読みは「たなか たかし」 **[[田中充 (外野手)]] - 読みは「たなか みつる」 *田中実(たなか みのる) **[[田中実 (投手)]] **[[田中実 (外野手)]] *田中幸雄(たなか ゆきお) **[[田中成豪|田中幸雄 (田中成豪)]] **[[田中幸雄 (投手)]] **[[田中幸雄 (内野手)]] *田辺修(たなべ おさむ) **[[田辺修 (1941年生の投手)]] **[[田辺修 (野球)|田辺修 (1944年生の投手)]] *ブランドン・ディクソン **[[ブランドン・ディクソン|ブランドン・ディクソン (投手)]] - フルネームは「ブランドン・リー・ディクソン(Dickson)」 **[[ブランドン・ディクソン (内野手)]] - フルネームは「ブランドン・アレン・ディクソン(Dixon)」 *寺本勇(てらもと いさむ) **[[寺本勇|寺本勇 (1939年生の外野手)]] **[[寺本勇 (1945年生の外野手)]] *中村稔(なかむら みのる) **[[中村稔 (投手)]] **[[中村稔 (プロ野球審判)|中村稔 (内野手)]] *西岡剛(にしおか つよし) **[[西岡剛 (投手)]] **[[西岡剛 (内野手)]] *西村公一(にしむら こういち) **[[西村公一 (投手)]] **[[西村公一|西村公一 (内野手)]] *スティーブ・ハモンド **[[スティーブ・ハモンド (内野手)]] - フルネームは「スティーブン・ベンジャミン・ハモンド」 **[[スティーブ・ハモンド (投手)]] *林茂(はやし しげる) **[[林茂 (投手)]] **[[林茂 (内野手)]] *ルイス・ヒメネス **[[ルイス・ヒメネス (1982年生の内野手)]] - フルネームは「ルイス・アントニオ・ヒメネス・カマカーロ」 **[[ルイス・ヒメネス (1988年生の内野手)]] - フルネームは「ルイス・ドミンゴ・ヒメネス・ロドリゲス」 *藤田宗一(ふじた そういち) **[[藤田宗一 (外野手)]] **[[藤田宗一 (投手)]] *藤本博史(ふじもと ひろし) **[[藤本博史 (内野手)]] **[[藤本博史 (捕手)]] *ブランドン **[[ブランドン・マン]] **[[タイシンガーブランドン大河]] *誠(まこと) **[[萩原誠|誠 (萩原誠)]] **[[佐藤誠 (野球)|誠 (佐藤誠)]] **[[相内誠|誠 (相内誠)]] *松井淳 **[[松井淳 (捕手)]] - 読みは「まつい あつし」 **[[松井淳 (外野手)]] - 読みは「まつい じゅん」 *松本竜也(まつもと りゅうや) **[[松本竜也 (左投手)]] **[[松本竜也 (右投手)]] *宮崎一夫(みやざき かずお) **[[宮崎一夫 (捕手)]] **[[宮崎一夫|宮崎一夫 (投手)]] *森田実(もりた みのる) **[[森田実 (外野手)]] **[[森田実 (捕手)]] *山崎剛 **[[山崎剛 (投手)]] - 読みは「やまざき つよし」 **[[山崎剛 (内野手)]] - 読みは「やまさき つよし」、苗字の表記は正確には異体字の「山﨑」 *山田勉(やまだ つとむ) **[[山田勉 (外野手)]] **[[山田勉 (投手)]] *山田大樹(やまだ ひろき) **[[山田大樹|山田大樹 (投手)]] **[[山田大樹 (内野手)]] *山本大貴(やまもと だいき) **[[山本大貴 (1969年生の投手)]] **[[山本大貴 (1995年生の投手)]] *吉本亮(よしもと りょう) **[[吉本亮 (捕手)]] **[[吉本亮 (内野手)]] *ルイス・ロペス **[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)]] - フルネームは「ルイス・アントニオ・ロペス」 **[[ルイス・ロペス (1973年生の内野手)]] == 縁戚関係同士の選手について == {{節スタブ}} '''太字'''は現役選手。 (掲載されていない事例があれば適宜追加をよろしくお願い致します) === 兄弟 === 左が兄、右が弟。 * '''[[東妻勇輔]]''' - '''[[東妻純平]]''' * [[阿部雄厚]] - [[阿部成宏]] * [[新井貴浩]] - [[新井良太]] * [[有田哲三]] - [[有田修三]] * [[ヘクター・アルモンテ]] - [[エリック・アルモンテ]] * [[飯田一弥]] - [[飯田優也]] * '''[[石川翔]]''' - '''[[石川慧亮]]''' * [[石原繁三]] - [[石原照夫]] * [[石丸藤吉]] - [[石丸進一]] * [[伊東亮大]] - [[伊東昂大]] * [[今久留主淳]] - [[今久留主功]] * [[入来智]] - [[入来祐作]] * [[岩村敬士]] - [[岩村明憲]] * [[岩本義行]] - [[岩本信一]] * [[上田藤夫]] - [[上田良夫]] * [[上野貴久]] - [[上野大樹]] * [[上本博紀]] - '''[[上本崇司]]''' * '''[[エドウィン・エスコバー]]''' - '''[[エルビス・エスコバー]]''' * [[江藤慎一]] - [[江藤省三]] * [[江村将也]] - '''[[江村直也]]''' * [[大石正彦]] - [[大石勝彦]] * [[大沢清]] - [[大沢紀三男]] - [[大沢啓二]] * [[大嶺祐太]] - [[大嶺翔太]] * '''[[小笠原慎之介]]''' - '''[[小笠原智一]]''' * [[岡林飛翔]] - '''[[岡林勇希]]''' * [[景浦將]] - [[景浦賢一]] * [[笠原将生]] - [[笠原大芽]] * [[梶本隆夫]] - [[梶本靖郎]] * [[春日一平]] - [[春日祥之輔]] * [[加藤春雄]] - [[加藤三郎 (野球)|加藤三郎]] - [[加藤政一]] * [[加藤幹典]] - [[加藤貴大 (野球)|加藤貴大]] * [[門岡良典]] - [[門岡信行]] * [[金沢幸彦]] - [[金沢信彦]] * [[金子哲夫 (野球)|金子哲夫]] - [[金子準一]] * [[金田正一]] - [[金田高義]] - [[金田星雄]] - [[金田留広]] * [[香月良太]] - [[香月良仁]] * [[亀田忠]] - [[亀田敏夫]] * [[川藤龍之輔]] - [[川藤幸三]] * '''[[川瀬晃]]''' - '''[[川瀬堅斗]]''' * [[菊矢吉男]] - [[岡本一雄]] * [[鬼頭数雄]] - [[鬼頭政一]] - [[鬼頭勝治]] * [[エイドリアン・ギャレット]] - [[ウェイン・ギャレット]] * [[日下章]] - [[日下隆]] * '''[[熊谷敬宥]]''' - [[熊谷宥晃]] * [[ジェラルド・クラーク]] - [[フィル・クラーク (内野手)|フィル・クラーク]] * [[ユリエスキ・グリエル]] - [[ルルデス・グリエル・ジュニア]] * [[トミー・クルーズ]] - [[ヘクター・クルーズ]] * [[黒木弘重]] - [[黒木基康]] * [[河埜和正]] - [[河埜敬幸]] * [[木暮力三]] - [[木暮英路]] * [[近藤貞雄]] - [[近藤禎三]] * [[阪田清春]] - [[阪田正芳]] - [[阪田芳秀]] * [[定岡智秋]] - [[定岡正二]] - [[定岡徹久]] * '''[[佐野恵太]]''' - [[佐野悠太]] * [[品田操士]] - [[品田寛介]] * [[嶋田宗彦]] - [[嶋田章弘]] * [[島本講平]] - [[島本啓次郎]] * [[白井孝幸]] - [[白井康勝]] * [[進藤実]] - [[小野寺力 (野球)|小野寺力]] *[[アルバート・スアレス]] - [[ロベルト・スアレス]] * [[杉本喜久雄]] - [[杉本郁久雄]] * [[角一晃]] - [[角晃多]] * [[銭村健三]] - [[銭村健四]] * [[醍醐猛夫]] - [[醍醐俊光]] * [[大豊泰昭]] - [[大順将弘]] * [[高梨芳昌]] - [[高梨利洋]] * [[髙濱卓也]] - '''[[髙濱祐仁]]''' * [[瀧英男]] - [[瀧安治]] * [[武智文雄]] - [[田中照雄]] - [[田中和男]] * '''[[田中広輔]]''' - '''[[田中俊太]]''' * [[田中良平 (野球)|田中良平]] - [[田中靖洋]] * [[田原基稔]] - [[田原藤太郎]] * [[千葉茂 (野球)|千葉茂]] - [[千葉英二]] * [[常見茂]] - [[常見昇]] - [[常見忠]] * [[堂上剛裕]] - '''[[堂上直倫]]''' * [[笘篠誠治]] - [[笘篠賢治]] * [[永川勝浩]] - [[永川光浩]] * [[中﨑雄太]] - '''[[中﨑翔太]]''' * [[西五十六]] - [[西三雄]] * [[西倉実]] - [[伊藤光四郎]] * [[西村一孔]] - [[西村公一]] * [[西本明和]] - [[西本聖]] * [[仁村薫]] - [[仁村徹]] * [[野口明]] - [[野口二郎]] - [[野口昇]] - [[野口渉]] * [[団野村|野村克晃]] - [[ケニー野村|野村克彦]] *'''[[則本昂大]]''' - [[則本佳樹]] * [[拝藤聖雄]] - [[拝藤宣雄]] * [[浜崎真二]] - [[浜崎忠治]] * [[林安夫]] - [[林直明]] * [[日隈ジュリアス]] - '''[[日隈モンテル]]''' * [[平桝敏男]] - [[平桝俊之]] * [[広岡富夫]] - [[広岡達朗]] * [[広野翼]] - [[広野功]] * [[藤村富美男]] - [[藤村隆男]] * [[藤本典征]] - [[小寺昌治|藤本昌治]] * [[星野雄大]] - [[星野大地]] * [[ケビン・ホッジス]] - [[トレイ・ホッジス]] *'''[[又吉克樹]]''' - [[又吉亮文]] * [[松浦信吉]] - [[松浦正]] * [[松沼博久]] - [[松沼雅之]] * [[三木肇]] - [[三木仁]] * [[右田一彦]] - [[右田雅彦]] * '''[[宮城滝太]] '''- '''[[宮城竜輝]]''' * [[森和彦 (野球)|森和彦]] - [[森祇晶|森昌彦]] * [[森宝生]] - [[森隆峰]] * [[山田勉 (投手)|山田勉]] - [[山田博士]] * [[山村善則]] - [[山村勝彦]] * '''[[山本祐大]]''' - [[山本仁(野球)|'''山本仁''']] * [[山本哲也 (野球)|山本哲也]] - [[山本公士]] * [[横沢三郎]] - [[横沢四郎]] - [[横沢七郎]] * [[吉田大成]] - [[吉田大就]] * [[由規]] - [[佐藤貴規]] * [[陽耀勲]] - [[陽品華]] - '''[[陽岱鋼]]''' * [[レロン・リー]] - [[レオン・リー]] * [[デーブ・レーシッチ]] - [[ゲーリー・レーシッチ]] など。[[兄弟スポーツ選手一覧]]も参照。 [[2009年]]に[[日本女子プロ野球機構]]が設立され以下の兄'''妹'''プロ野球選手が誕生した。 * '''[[川端慎吾]]''' - [[川端友紀]] * [[中村憲]] - [[中村香澄]] また、'''[[双生児|双子]]'''兄弟がプロ野球選手になった例としては以下の例がある。 * [[上崎泰一]] - [[上崎克公]] * [[川口寛人]]<ref>育成選手で支配下経験は無し。</ref> - [[川口隼人]] そのほか、「'''双子の一方'''」については下記選手の例がある。 * [[オジー・カンセコ]] - 弟は[[メジャーリーグベースボール|MLB]]を代表する強打者、[[ホセ・カンセコ]]。 * [[デイモン・マイナー]] - 弟は[[カル・リプケン・ジュニア]]の連続試合出場記録を途切れさせたことで知られる{{仮リンク|ライアン・マイナー|en|Ryan Minor}}。 * [[マーク・ミムズ]] - 弟は[[フィラデルフィア・フィリーズ]]でプレーした{{仮リンク|マイク・ミムズ|en|Mike Mimbs}}。 * [[マイク・エドワーズ (1952年生の内野手)|マイク・エドワーズ]] - 弟は[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]でプレーした{{仮リンク|マーシャル・エドワーズ|en|Marshall Edwards}}。 * [[進藤実]] - 兄はプロ野球選手にはなれなかったが、年下の弟の[[小野寺力 (野球)|小野寺力]]が埼玉西武ライオンズと東京ヤクルトスワローズに在籍した。 === 親子 === 左が父、右が子。実の親子のみ記載。娘婿(下記参照)、養子縁組([[荒川博]] - [[荒川尭]]、[[三宅宅三]] - [[三宅宗源]]など)、配偶者の連れ子(野村克也 - [[団野村|野村克晃]]・[[ケニー野村|野村克彦]]兄弟、[[アレックス・ラミレス]] - [[アレックス・ラミレス・ジュニア]]など)は除外。 * [[会田照夫]] - [[会田有志]] * [[市原稔]] - [[市原圭]] * [[今井茂]] - [[今井順之助]] * [[内山和巳]] - [[内山憲一]] * [[畝龍実]] - [[畝章真]] * [[太田暁]] - '''[[太田椋]]''' * [[大塚徹 (野球)|大塚徹]] - [[大塚淳]] * [[大場隆広]] - [[大場豊千]] * [[小山田健一]] - [[小山田貴雄]] * [[香川正]] - [[香川正人]] * [[笠原栄一]] - [[笠原将生]]・[[笠原大芽]]兄弟 * [[アレックス・カブレラ]] - [[ラモン・カブレラ (野球)|ラモン・カブレラ]] * [[川相昌弘]] - [[川相拓也]] * [[マーティ・キーオ]] - [[マット・キーオ]] * [[金城晃世]] - [[金城龍彦]] * [[楠城徹]] - [[楠城祐介]] * [[黒田一博]] - [[黒田博樹]] * [[桑田真澄]] - [[桑田真樹]] * [[五島長登志]] - [[五島裕二]] * [[近藤真市]] - [[近藤弘基]] * [[定岡智秋]] - [[定岡卓摩]] * [[佐野真樹夫]] - [[佐野心]] * [[鈴木孝雄 (野球)|鈴木孝雄]] - [[鈴木俊雄]] * [[角盈男]] - [[角一晃]]・[[角晃多]]兄弟 * [[高井準一]] - [[高井一 (野球)|高井一]] * [[高見澤考史]] - '''[[高見澤郁魅]]''' * [[伊達泰司]] - [[伊達昌司]] * [[田中守]] - [[田中力]] * [[田村政雄]] - [[田村領平]] * [[辻哲也]] - [[辻竜太郎|竜太郎]] * [[坪井新三郎]] - [[坪井智哉]] * [[堂上照]] - [[堂上剛裕]]・[[堂上直倫]]兄弟 * [[長嶋茂雄]] - [[長嶋一茂]] * [[永田徹登]] - [[永田利則]] * [[野林大樹]] - [[中田廉]] * [[野村克也]] - [[野村克則|カツノリ]] * [[フロイド・バニスター]] - [[ブライアン・バニスター]] * [[浜崎真二]] - [[浜崎勝]] * [[藤倉平三郎]] - [[藤倉一雅]] * [[藤本健作]] - [[藤本健治]] * [[星野順治]] - '''[[星野恒太朗]]''' * [[堀井数男]] - [[堀井和人]] * [[松井一弥]] - [[松井飛雄馬|飛雄馬]] * [[松下建夫]] - [[松下建太]] * [[皆川定之]] - [[皆川康夫]] * [[森谷昭]] - [[森谷昭仁]] * [[山崎章弘]] - '''[[山﨑福也]]''' * [[山本功児]] - [[山本武白志]] * [[横田真之]] - [[横田慎太郎]] * [[マーク・ライアル]] - [[ラスティ・ライアル]] * [[若林憲一]] - '''[[若林晃弘]]''' * [[若林淳至]] - [[若林隆信]] * [[脇坂隆志]] - [[脇坂浩二]] * [[度会博文]] - '''[[度会隆輝]]''' 他 === その他 === ;祖父・孫 * [[内海五十雄]] - [[内海哲也]] * [[大石雅昭]] - [[荒張裕司]] * [[三原卓三]] - '''[[正隨優弥]]''' ;叔父(伯父)・甥 * [[岡本光]] - [[岡本洋介]] * [[金田正一]]・[[金田高義]]・[[金田星雄]]・[[金田留広]]兄弟 - [[金石昭人]] * [[佐々木誠 (野球)|佐々木誠]] - '''[[佐野恵太]]'''・[[佐野悠太]]兄弟:佐野の母は佐々木の妹。 * [[定岡正二]]・[[定岡徹久]]兄弟 - [[定岡卓摩]]:正二、徹久は卓摩の父・[[定岡智秋]]の弟。 * [[佐藤滋孝]] - [[佐藤二朗 (野球)|ツギオ]] * [[田辺修 (野球)|田辺修]] - [[十川雄二]] * [[田上秀則]] - '''[[田上奏大]]''':奏大の母は秀則の姉。 * [[筒井敬三]] - [[筒井良紀]] * [[永井智浩]] - '''[[平内龍太]]''':平内の母は永井の妹。 * [[中根仁]] - [[中根佑二]] * [[長持栄吉]] - [[長持健一]] * [[西五十六]]・[[西三雄]]兄弟 - [[西俊児]] * [[浜崎忠治]] - [[浜崎勝]]:忠治は勝の父・[[浜崎真二]]の弟。 * [[原辰徳]] - '''[[菅野智之]]''':菅野の母は原の妹。 * [[星野仙一]] - [[筒井壮]]:筒井の母は星野の姉。 * [[松岡弘]] - [[松岡大吾]]:大吾の父は弘の兄。 * [[村上隆行]] - [[中田廉]]:中田の母は村上の妻の姉。 * [[吉田義男]] - [[谷真一]]:谷の母は吉田の姉。 * [[アレックス・ラミレス]] - [[ラミレス・ヨンデル]] ;いとこ * [[五十嵐章人]] - [[木田優夫]] * [[稲嶺茂夫]] - [[稲嶺誉]] * [[アルシデス・エスコバー]] - '''[[エドウィン・エスコバー]]''' * [[遠藤一彦]] - [[遠藤政隆]] * [[下沖勇樹]] - '''[[陽川尚将]]''' * [[バーナード・ブリトー]] - [[ペレス・ブリトー]] * [[古谷優人]] - '''[[松浦慶斗]]''' * [[ケビン・ミッチェル]] - [[トニー・ミッチェル]] * [[陽耀勲]]・[[陽品華]]・'''[[陽岱鋼]]'''兄弟 - '''[[張奕]]''' ;はとこ * [[大野倫]] - '''[[東浜巨]]''':互いの母方の祖母が姉妹。 * [[鹿取義隆]] - [[岡林洋一]]:互いの母方の祖母が姉妹。 * '''[[近藤廉]]''' - '''[[高橋昂也]]''':高橋の祖母と近藤の祖父が姉弟。 ;義兄弟 * [[倉田誠]] - [[高橋一三]]:互いの夫人が姉妹。 * [[杉内俊哉]] - [[新垣渚]]:互いの夫人が姉妹。 * [[種部儀康]] - [[宮田征典]]:種部の妻は宮田の姉。 * [[土屋弘光]] - [[加藤斌]]:土屋の妻は加藤の姉。 * [[西崎幸広]] - [[津野浩]]:互いの夫人が姉妹。 * '''[[宮西尚生]]''' - '''[[大野奨太]]''':互いの夫人が姉妹。 * [[村上隆行]] - [[中村紀洋]]:中村の妻は村上の妹。 * [[山村宏樹]] - [[久保裕也 (野球)|久保裕也]]:互いの夫人が姉妹。 ;義父(舅、岳父)・婿 * [[広橋公寿]] - [[岩隈久志]]:岩隈の妻は広橋の娘。 * [[三原脩]] - [[中西太]]:中西の妻は三原の娘。 * [[宮武三郎]] - [[小山正明]]:小山の妻は宮武の娘。 ;その他 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アーダルベルト・シュティフター
アーダルベルト・シュティフター(Adalbert Stifter, 1805年10月23日 - 1868年1月28日)は、オーストリアの小説家、風景画家。三月革命、普墺戦争など政治的な激動の時代にあって、豊かな自然描写とともに調和的な人間像を追求する穏やかな作品を執筆した。主要な著作に『習作集』『石さまざま』『晩夏』『ヴィティコー』などがある。 当時オーストリア領だった南ボヘミアのオーバープラーン(現:チェコ領ホルニー・プラナー)の麻布織りを営む農家の長男アルベルト・シュティフター(Albert Stifter)として生まれる。堅実な小市民的雰囲気の家庭の中、特に敬虔な母と気丈な祖母とから心情的な影響を受けるとともに、森に囲まれた自然の豊かな環境を享受しながら育った。12歳のとき、父が麻布を積んだ車の下敷きとなる事故で死去、以後祖父の仕事の手伝いに励むが、1819年の秋にオーストリア、クレームミュンスターにあるベネディクト派の修道院学校に入りここで7年間学んだ。同地もやはり自然に恵まれた地域であり、シュティフターは大自然に深く親しむとともに文学や芸術に触れ、風景画もこのころに描き始めた。信仰に厚く、勉学においても優れた成績を上げている。 1826年、ウィーン大学に入り法学を専攻するが、法学に限らず自然科学の講義も多く取りつつ、芸術都市ウィーンの音楽、演劇、美術などに触れた。文学ではこの時期にジャン・パウルを耽読し影響を受けているが、文学者として名をなすことは考えず、自分は画家になるべき人間だと考えていた。また生計のため家庭教師となって上流階級の家にも出入りし、優れた教師として評判をとった。のちには宰相メッテルニヒの子息リヒャルトの教師も務めている。在学中、グライブル家の娘ファニーと恋仲になり結婚申し込みを行うが両親の拒絶に会い傷心を経験する。 画家志望を固めたシュティフターは、家庭教師を続けつつ絵画制作に熱心に励んだ。しだいに絵の買い手もつくようになり展覧会にも出品、1837年にはアマーリエ・モーハウプトと結婚するが、生活はいまだ不安定なままであった。しかし1840年、偶然がきっかけとなって文学者の道を歩みはじめることになる。この年の春にある男爵夫人を訪れていたシュティフターは、その家の娘によって、ポケットに丸めて突っ込んであった書きかけの短編の原稿を発見され、成り行きでそれを朗読せざるをえなくなった。この作品「コンドル」(Der Condor)が男爵夫人によって『ウィーン芸苑雑誌』に掲載されて好評を得、これによって作家としての自覚を得たシュティフターは継続的な文学作品執筆をはじめた。ウィーン時代の作品は『習作集』(Studien, 1844-1850)として6巻本にまとめられており、1846年にはサロンで会ったグリルパルツァーから作品に対する賞賛を受けた。 1848年よりオーストリア北部のリンツに移住。この年、三月革命による世相の混乱に精神的動揺を覚えたシュティフターは、真の人間をつくるため基礎教育に携わりたいと考えるようになり、1850年よりリンツの小学校視学官の任についた。以後16年間この職に従事しつつ、余暇を利用して執筆活動を続けた。1853年、石にちなんだ表題を持つ5編からなる作品集『石さまざま』(Bunte Steine)を出版。いずれも自然への深い畏敬と人間性への希求の念が込められた作品であり、序文では人間世界を導く「穏やかな法則」を通して自己の芸術的信条を述べた。1857年、アルプス山麓にたつ館を舞台にした教養小説の代表作『晩夏』を出版。最晩年には12世紀ボヘミアを舞台にした歴史小説の大作『ヴィティコー』(1865-1867年)を著した。 シュティフター夫妻は子供に恵まれず、二人の養女を取っていたがいずれにも先立たれ寂しい晩年を送った。シュティフターは1867年に肝硬変を患い、『ヴィティコー』は病苦に絶えながらの執筆であったが、1868年1月25日深夜から26日未明にかけての時刻に、病の痛みに耐えられなくなって剃刀で頸部を切り、そのまま意識が戻らず1月28日に死去した。 ごく初期の作品にはジャン・パウルや、E.T.A.ホフマンなどのロマン主義からの影響が濃く現れているが、やがて客観的文体によるリアリズムに移行し、精緻な自然描写のなかで人間の静かな営みを描きだすようになった。画家でもあったシュティフターは文学作品のなかでも故郷の森を繰り返し描いており、その大自然の描写は美しさとともに人間をよせつけない厳しさも表現されている。シュティフターはささやかでありふれた日常的なものにこそ偉大なものがあらわれると考えており、そのため英雄の超人的な行為よりも、ありふれた人々の日常的な行為にあらわれた、質素・節度・克己を小説の題材として選んだ。 当時の政治的な激動に直接向かわずに、古典的素養をもとに調和的人間像を追及したシュティフターの作品は一面では反時代的なものでもあり 、同時代のヘッベルは彼を瑣末主義と呼んで批判し、代表作『晩夏』に対しては「通読した者にはポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評した。 しかし一方で哲学者ニーチェは、『晩夏』を「繰り返し読まれる」に値するドイツ19世紀後半の優れた散文であると絶賛し、ハイデッガーもまた学生時代からシュティフターに親しんでいたことはよく知られており、一例に『ニーチェ講義』のなかでは、ニーチェをワーグナー的なものの対極に位置づけるべく、シュティフターに言及している。トーマス・マンは、『「ファウストゥス博士」の成立』のなかで、「シュティフターは世界文学の最も注目すべき、最も奥深い、最も内密な大胆さを持つ、最も不思議な感動を与える小説家の一人である」(佐藤晃一訳)と賞賛し、『習作集』『石さまざま』『晩夏』『ヴィティコー』などの諸作品を生涯に渡って愛読するなど、その作品は後世の著作家からしばしば畏敬を持って語られている。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、「ベートーヴェンの『田園』を振るためには、シュティフターを読んでおかねばならないと信じているよ」と録音技師のフリードリヒ・シュナップに語ったという。 日本におけるシュティフターの作品受容の歴史は大正時代に遡り、堀辰雄は、旧制高校時代の授業で『喬木林』(Der Hochwald)を講読したと述べている。以後日本ではほぼすべての小説が翻訳されている。現代文学の作家では、ドイツ文学者でもある作家古井由吉がシュティフターを「長年愛好する作家」と呼び、小説やエッセイでしばしばその作品に言及している。 「生涯」の節は主に岩波文庫『水晶 他三篇』(1993年)の解説による。
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アーダルベルト・シュティフターは、オーストリアの小説家、風景画家。三月革命、普墺戦争など政治的な激動の時代にあって、豊かな自然描写とともに調和的な人間像を追求する穏やかな作品を執筆した。主要な著作に『習作集』『石さまざま』『晩夏』『ヴィティコー』などがある。
{{Infobox 作家 | name = アーダルベルト・シュティフター<br>Adalbert Stifter | image = Székely Portrait of Adalbert Stifter 1863.jpg | image_size = 220px | caption = シュティフターの肖像画([[セーケイ・ベルタラン|Bertalan Székely]]作、1863年) | pseudonym = | birth_name = アルベルト・シュティフター | birth_date = [[1805年]][[10月23日]] | birth_place = {{HRR}}<br>{{Flagicon|BOH}}[[ボヘミア王国]]、オーバープラーン | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1805|10|23|1868|1|28}} | death_place = {{AUT1867}}、[[リンツ]] | occupation = [[小説家]]、[[画家]] | nationality = | period = |language =[[ドイツ語]] | genre = | subject = | movement = | notable_works = 『石さまざま』『晩夏』『ヴィティコー』 | awards = | debut_works = 「コンドル」(1841年) | spouse = アマーリエ・モーハウプト | partner = | children = | relations = | influences = | influenced = | signature = | website = }} '''アーダルベルト・シュティフター'''(Adalbert Stifter, [[1805年]][[10月23日]] - [[1868年]][[1月28日]])は、[[オーストリア]]の[[小説家]]、[[風景画家]]。[[三月革命]]、[[普墺戦争]]など政治的な激動の時代にあって、豊かな自然描写とともに調和的な人間像を追求する穏やかな作品を執筆した。主要な著作に『習作集』『石さまざま』『晩夏』『ヴィティコー』などがある。 == 生涯 == 当時オーストリア領だった南[[ボヘミア]]のオーバープラーン(現:[[チェコ]]領ホルニー・プラナー)の[[麻布]]織りを営む農家の長男アルベルト・シュティフター(Albert Stifter)として生まれる。堅実な小市民的雰囲気の家庭の中、特に敬虔な母と気丈な祖母とから心情的な影響を受けるとともに、森に囲まれた自然の豊かな環境を享受しながら育った。12歳のとき、父が麻布を積んだ車の下敷きとなる事故で死去、以後祖父の仕事の手伝いに励むが、1819年の秋にオーストリア、クレームミュンスターにある[[ベネディクト派]]の修道院学校に入りここで7年間学んだ。同地もやはり自然に恵まれた地域であり、シュティフターは大自然に深く親しむとともに文学や芸術に触れ、風景画もこのころに描き始めた。信仰に厚く、勉学においても優れた成績を上げている。 1826年、[[ウィーン大学]]に入り法学を専攻するが、法学に限らず自然科学の講義も多く取りつつ、芸術都市ウィーンの音楽、演劇、美術などに触れた。文学ではこの時期に[[ジャン・パウル]]を耽読し影響を受けているが、文学者として名をなすことは考えず、自分は画家になるべき人間だと考えていた。また生計のため家庭教師となって上流階級の家にも出入りし、優れた教師として評判をとった。のちには宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の子息[[リヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒ|リヒャルト]]の教師も務めている。在学中、グライブル家の娘ファニーと恋仲になり結婚申し込みを行うが両親の拒絶に会い傷心を経験する。 画家志望を固めたシュティフターは、家庭教師を続けつつ絵画制作に熱心に励んだ。しだいに絵の買い手もつくようになり展覧会にも出品、1837年にはアマーリエ・モーハウプトと結婚するが、生活はいまだ不安定なままであった。しかし1840年、偶然がきっかけとなって文学者の道を歩みはじめることになる。この年の春にある男爵夫人を訪れていたシュティフターは、その家の娘によって、ポケットに丸めて突っ込んであった書きかけの短編の原稿を発見され、成り行きでそれを朗読せざるをえなくなった。この作品「コンドル」(''Der Condor'')が男爵夫人によって『ウィーン芸苑雑誌』に掲載されて好評を得、これによって作家としての自覚を得たシュティフターは継続的な文学作品執筆をはじめた。ウィーン時代の作品は『習作集』(''Studien'', 1844-1850)として6巻本にまとめられており、1846年にはサロンで会った[[グリルパルツァー]]から作品に対する賞賛を受けた。 [[1848年]]よりオーストリア北部の[[リンツ]]に移住。この年、[[1848年革命|三月革命]]による世相の混乱に精神的動揺を覚えたシュティフターは、真の人間をつくるため基礎教育に携わりたいと考えるようになり、1850年よりリンツの小学校視学官の任についた。以後16年間この職に従事しつつ、余暇を利用して執筆活動を続けた。1853年、石にちなんだ表題を持つ5編からなる作品集『石さまざま』(''Bunte Steine'')を出版。いずれも自然への深い畏敬と人間性への希求の念が込められた作品であり、序文では人間世界を導く「穏やかな法則」を通して自己の芸術的信条を述べた。1857年、アルプス山麓にたつ館を舞台にした教養小説の代表作『[[晩夏 (小説)|晩夏]]』を出版。最晩年には12世紀[[ボヘミア]]を舞台にした歴史小説の大作『ヴィティコー』(1865-1867年)を著した。 シュティフター夫妻は子供に恵まれず、二人の養女を取っていたがいずれにも先立たれ寂しい晩年を送った。シュティフターは1867年に[[肝硬変]]<ref>死亡診断書による(松籟社「シュティフター作品集」第4巻年譜)。</ref>を患い、『ヴィティコー』は病苦に絶えながらの執筆であったが、[[1868年]]1月25日深夜から26日未明にかけての時刻に、病の痛みに耐えられなくなって剃刀で頸部を切り、そのまま意識が戻らず1月28日に死去した。 == 作風と評価 == [[File:Adalbert Stifter - Im Gosautal.jpg|thumb|260px|シュティフターの油彩画『ゴーザウ谷にて』(1834年)。シュティフターは作家になって以降も絵に対する情熱を失わず、寸暇を盗んで絵画制作を続けた。]] ごく初期の作品には[[ジャン・パウル]]や、[[E.T.A.ホフマン]]などのロマン主義からの影響が濃く現れているが、やがて客観的文体によるリアリズムに移行し、精緻な自然描写のなかで人間の静かな営みを描きだすようになった<ref>藤本淳雄ほか 『ドイツ文学史 [第2版]』 東京大学出版会、1995年、116-119頁。</ref>。画家でもあったシュティフターは文学作品のなかでも故郷の森を繰り返し描いており、その大自然の描写は美しさとともに人間をよせつけない厳しさも表現されている<ref>尾方一郎 「アーダルベルト・シュティフター」 柴田翔編 『はじめて学ぶドイツ文学史』 ミネルヴァ書房、2003年、170-171頁。</ref>。シュティフターはささやかでありふれた日常的なものにこそ偉大なものがあらわれると考えており、そのため[[英雄]]の超人的な行為よりも、ありふれた人々の日常的な行為にあらわれた、質素・節度・克己を小説の題材として選んだ。 当時の政治的な激動に直接向かわずに、古典的素養をもとに調和的人間像を追及したシュティフターの作品は一面では反時代的なものでもあり<ref>アーダルベルト・シュティフター 『水晶 他三篇』 手塚富雄、藤村宏訳、岩波文庫、1993年、292-295頁(訳者解説)。</ref> 、同時代の[[ヘッベル]]は彼を瑣末主義と呼んで批判し<ref>前掲 『はじめて学ぶドイツ文学史』 160頁。</ref>、代表作『晩夏』に対しては「通読した者にはポーランドの王冠を進呈しよう」と酷評した<ref name="hebbel">『ライプツィヒ画報』(''Leipziger Illustrierte Zeitung'')1858年9月4日。</ref>。 しかし一方で哲学者[[ニーチェ]]は、『晩夏』を「繰り返し読まれる」に値するドイツ19世紀後半の優れた散文であると絶賛し<ref name="nietzsche">フリードリヒ・ニーチェ『人間的な、あまりにも人間的な』(''Menschliches, Allzumenschliches'')、1876年-1878年。</ref>、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]もまた学生時代からシュティフターに親しんでいたことはよく知られており、一例に『ニーチェ講義』のなかでは、ニーチェをワーグナー的なものの対極に位置づけるべく、シュティフターに言及している<ref>ハイデガー『ニーチェⅠ』(平凡社ライブラリー版)、128頁(M.Heidegger, Gesamtausgabe Bd.6-1, S.88)</ref>。[[トーマス・マン]]は、『「[[ファウスト博士|ファウストゥス博士]]」の成立』のなかで、「シュティフターは世界文学の最も注目すべき、最も奥深い、最も内密な大胆さを持つ、最も不思議な感動を与える小説家の一人である」([[佐藤晃一 (ドイツ文学者)|佐藤晃一]]訳)と賞賛し、『習作集』『石さまざま』『晩夏』『ヴィティコー』などの諸作品を生涯に渡って愛読するなど<ref name="Mann">中村康二「[https://ci.nii.ac.jp/naid/110004642681 シュティフターとその読者 : (一) トーマス・マンのシュティフター・レクテューレ]」(『中京大学教養論叢』17(4)、1977年3月)、小名木榮三郎「トーマス・マンとシュティフター―書簡と日記にみる精神の触れ合い―」(『自然と対話する魂の軌跡―アーダルベルト・シュティフター論―』、1994年4月、慶應義塾大學法學研究會刊所収)による。</ref>、その作品は後世の著作家からしばしば畏敬を持って語られている。[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]は、「[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[ピアノソナタ第15番 (ベートーヴェン)|田園]]』を振るためには、シュティフターを読んでおかねばならないと信じているよ」と録音技師のフリードリヒ・シュナップに語ったという<ref name="Schnapp">http://patangel.free.fr/furt/schna_en.htm による。</ref>。 [[日本]]におけるシュティフターの作品受容の歴史は[[大正時代]]に遡り、[[堀辰雄]]は、旧制高校時代の授業で『喬木林』(''Der Hochwald'')を講読したと述べている<ref name="hori">堀辰雄「匈奴の森など」『新潮』、1936年1月。</ref>。以後日本ではほぼすべての小説が[[翻訳]]されている。現代文学の作家では、[[ドイツ文学]]者でもある作家[[古井由吉]]がシュティフターを「長年愛好する作家」と呼び、小説やエッセイでしばしばその作品に言及している<ref name="furui">『電気石』の一節を翻訳引用する「峯の嵐か」(『忿翁』所収)、登場人物がシュティフターの幻影を見る『楽天記』、他に『白髪の唄』など。エッセイでは『半日寂寞』など。また、「今週の本棚・この人この3冊」([[毎日新聞]] 2011年8月28日 東京朝刊)に岩波文庫の『水晶 他三篇』『森の小道・二人の姉妹』『ブリギッタ・森の泉 他一篇』の3冊を選ぶなど、しばしばシュティフターの作品を推薦図書として紹介している。</ref>。 == 主要作品リスト == [[File:DBP 1955 220 Adalbert Stifter.jpg|thumb|170px|シュティフターの記念切手(1955年)]] *''Studien'' 習作集(短編集) **''Der Kondor'' 禿鷹 **''Feldblumen'' 野の花 **''Die Mappe meines Urgroßvaters'' 曽祖父の書類入れ **''Die Narrenburg'' 愚か者の城 「ナレンブルク 運命に弄ばれた人々の城」林道舎 **''Abdias'' アプディアス **''Das alte Siegel'' 古い封印 **''Der Hagestolz'' 男やもめ **''Der Waldsteig'' 森の小道  **''Zwei Schwestern'' 二人の姉妹  *''Bunte Steine'' 石さまざま(短編集) **''Granit'' みかげ石 **''Kalkstein'' 石灰石 **''Turmalin'' 電気石 **''Bergkristall'' 水晶 **''Katzensilber'' 白雲母 **''Bergmilch'' 石乳 <!-- この著作だけ詳説されていていかにも中途半端なのでとりあえずコメントアウト。必要なら独立した記事を立ててほしい **'''Granit みかげ石''' **:少年の日、家の前にあったみかげ石に座って通りを眺めていた作者におこったちょっとした出来事と、それをきっかけにして祖父から聞くことができた、村に伝わる古い話についての物語。自然の災厄に翻弄されながらも、同時に自然の確かな導きによって救われる少年と少女が描かれる。 **'''Kalkstein 石灰石''' **:測量をなりわいとする主人公が、ある荒地で出会った牧師についての物語。牧師は清貧に慎み深く暮らしている。上着は何十年前に仕立てたものかわからないぐらいである。しかし、常に一見してわかる高価な肌着を着けており、しかもそれを恥じて隠している。牧師の死後、その秘密が明らかになる。 **'''Turmalin 電気石''' **:不義密通により崩壊した家庭と、その呪いを一身に受けた娘の物語。心身を病んだ少女が心優しい女性の気遣いによって回復していく様が静かに語られる。 **'''Bergkristall 水晶''' **:シュティフターの最も有名な作品。山村に住む兄弟が、峠を越えて祖父母を訪ねた帰り道、降りしきる雪に道を見失い彷徨う。妹を気遣う兄、無心に兄にしたがう妹、静かで荘厳な自然描写が美しい。 **''Katzensilber'' 白雲母 **'''Bergmilch 石乳''' **:祖先から城だけを受け継いだ、貧乏[[貴族]]の物語。独身の主人公は城に支配人の家族とともに住んでおり、彼は支配人の子供たちを、自分の子供であるかのようにかわいがっていた。子供たちの最年長者である長女が美しく成長したある日、ナポレオンに率いられたフランス軍がオーストリアに攻め入り、主人公の城も、戦争に巻き込まれそうになる。そこへ、よんどころない事情により、[[ドイツ人]]にもかかわらずフランス軍に味方せざるを得なかった青年将校が飛び込んできて、主人公たちに強烈な印象を残して去っていく。 --> *''Der Nachsommer'' 晩夏 *''Witiko'' ヴィティコー == 主な日本語訳 == *『水晶 他三篇』 [[手塚富雄]]・藤村宏訳、[[岩波文庫]]、他は「みかげ石」、「石灰石」、「石乳」 *『森の小道・二人の姉妹』 [[山崎章甫]]訳、岩波文庫 *『ブリギッタ・森の泉 他一篇』 宇多五郎・[[高安国世]]訳、岩波文庫(他は「荒野の村」) *『シュティフター作品集』 [[松籟社]](全4巻)、1983-1987年 **第1巻 習作集&#x2160;: 「コンドル」「荒野の村」「喬木林」「曾祖父の遺稿」 **第2巻 習作集&#x2161;: 「アプディアス」「ブリギッタ」「古い印章」「老独身者」 **第3巻 石さまざま・後期作品: 「石灰石」「電気石」「水晶」「石乳」「子孫」「ゼンツェの接吻」「運命のかじ屋」他 **第4巻 昔日のウィーンより・随想・画家としてのシュティフター・書簡・年譜 *『シュティフター・コレクション』 松籟社(全4巻)、2006-2008年 **1 石さまざま(上): 「序文/はじめに」「花崗岩」「石灰石」「電気石」 ISBN 4879842435 **2 石さまざま(下): 「水晶」「白雲母」「石乳」 ISBN 4879842443 **3 森ゆく人: 「森ゆく人」「わたしの生命-自伝的断片」 ISBN 9784879842596 **4 書き込みのある樅の木: 「高い森」「書き込みのある樅の木」「最後の一ペニヒ」「クリスマス」 ISBN 9784879842664 *『晩夏』 藤村宏訳、集英社〈世界文学全集31〉、1979年/[[ちくま文庫]](上下)、2004年 *『ヴィティコー』(全3巻)、 谷口泰訳、書肆風の薔薇(現:[[水声社]])、1990-1991年<ref>訳者谷口泰による『アーダルベルト・シュティフター研究』(水声社、1995年)がある。</ref> *『ナレンブルク 運命に弄ばれた人々の城』竹内康夫訳、林道舎、1994年 *『ウィーンとウィーン人』新井裕ほか5名訳、[[中央大学]]出版部、2012年。中央大学人文科学研究所翻訳叢書  == 脚注・出典 == 「生涯」の節は主に岩波文庫『水晶 他三篇』(1993年)の解説による。 {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons|Adalbert Stifter}} * {{DNB-Portal|118618156}} * {{Zeno-Autor|Literatur/M/Stifter,+Adalbert}}, & [http://www.zeno.org/nid/20004312171 57 Gemälde und Zeichnungen] * {{PGDA|571}} * {{青空文庫著作者|1110|シュティフター アーダルベルト}} * [[小島貞介]]訳 {{Wayback|date=20040812150027|url=http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/stifter/stifter-toc.html|title=湖畔の處女・水晶}}[[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆていふたあ ああたるへると}} [[Category:19世紀オーストリアの小説家]] [[Category:19世紀オーストリアの画家]] [[Category:ボヘミア・ドイツ系オーストリア人]] [[Category:自殺した人物]] [[Category:ウィーン大学出身の人物]] [[Category:1805年生]] [[Category:1868年没]]
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魔法少女アニメ
魔法少女アニメ(まほうしょうじょアニメ)、もしくは魔女っ子アニメ(まじょっこアニメ)は、魔法など神秘的な力を持つ魔法少女を主役とする活躍や引き起こされる騒動をテーマとするアニメのジャンルの一種。 物語類型としてはエブリデイマジックの派生で、どこからかやってきた魔法使いの少女が日常の騒動を魔法で解決するというもの、アイドルになって活躍するなど少女のままではできないことを年長の女性に変身することで実現するというものなど様々である。美少女が変身し敵と戦う戦闘美少女物の中にも魔法少女アニメとみなされる作品がある。 最初の魔法少女アニメは『魔法使いサリー』(1966年、東映動画)。他に『ひみつのアッコちゃん』(1969年、東映動画)、『美少女戦士セーラームーン』(1992年、東映動画)などが有名で主に少女向けアニメないし女児向けアニメとみなされるが、ティーン層や男性からの支持を受けた作品も多い。 1960年代の日本でアニメと言えば少年向けのものであり、少女向けは皆無でテレビ業界においては少女漫画は当たらないという固定観念があった。 1966年 『奥さまは魔女』が放映され性別を問わず人気を得ると少年向けアニメを制作していた東映動画は『奥さまは魔女』の子供版を製作することを考え異世界から来た魔法使いの少女が活躍する横山光輝の漫画『魔法使いサニー』(後に『魔法使いサリー』に改題)が連載開始された。 最初の少女向けアニメとなった『魔法使いサリー』は、当時の少女マンガに良く見られたメロドラマ的な作品ではなく、『奥さまは魔女』を踏襲したスラップスティックコメディの要素があり、狙い通り少年からも人気を得ていた。 次に東映動画は赤塚不二夫の漫画『ひみつのアッコちゃん』をアニメ化した。これは普通の少女が何にでも変身できる魔法のコンパクトを手に入れて活躍するという物語である。 3作目となる『魔法のマコちゃん』からは少女向けの色彩が強くなっていった。東映動画は1980年までに不思議な力を持つ少女が活躍する作品を9本制作し、この種の作品はいつしか魔女っ子アニメまたは魔法少女アニメと呼ばれるようになった。 最初の二つの作品は少女の出自が異なっており、このジャンルの2大類型の典型例とみなされている。また、この時代には他に多くの少女向けアニメが制作され国民的人気を得ており、少女向けアニメの黄金期であった。 1980年の『魔法少女ララベル』を最後に東映動画が魔法少女アニメの制作を休止した後は、葦プロダクションが『魔法のプリンセス ミンキーモモ』を制作した。これは当時の少女が持っていた職業婦人へのあこがれを背景にして、大人への変身に限定された魔法の力を軸にしたテーマ性の強い作品であり、究極的には魔法の否定という主題も内包していた。この後を追ったスタジオぴえろの『魔法の天使クリィミーマミ』は魔法で変身しアイドルになるというストーリーで、類似の主題を持っていた。この2作品はいわゆる「おたく」と呼ばれる人々にも人気があった。1990年代初頭までの新作の多くは、葦プロダクションかスタジオぴえろの制作であった。この時期は第二期魔法少女ブームとも呼ばれていたが、アニメ全体で見れば少年向けアニメが強かった。 1992年に美少女戦士セーラームーンが登場するとブームになり、少女向けアニメ人気が復活した。これは5人の美少女が惑星の戦士に変身し敵と戦うという物語で、従来の少女向けアニメ、魔法少女アニメの要素に加え、戦隊物の要素も加わり、男女問わず人気を得た。少し遅れて『愛天使伝説ウェディングピーチ』、『ナースエンジェルりりかSOS』など同様の主題を持つ作品がいくつか現れている。一方で、『姫ちゃんのリボン』、『おジャ魔女どれみ』など魔法少女アニメの従来のイメージを発展させた作品も制作され続けた。 初期の作品では主人公が持つ「魔法」能力は先天的なもの(主人公は生まれついての「魔女」)であり、魔法を使う際、特に道具(アイテム)を要しないことが多かった。しかし『ひみつのアッコちゃん』以来の後天的に魔法能力を得た少女が主人公の作品が1980年代以降に主流になり、玩具メーカーの要請で、魔法を使う際に道具(ステッキなど)を用いる作品が増えた。日本における魔法使いのビジュアルは『魔法使いサリー』と同時期のドラマ『コメットさん』が『メリーポピンズ』の影響下にある事から判るとおり、アメリカのディズニー作品の影響によるものであり。「魔法と言えば魔法のステッキ」という概念も同社のアニメ作品の『シンデレラ』や『ピノキオ』など映画に登場する魔法使いの影響が大きいとみられる。日本では『魔法使いサリー』のオープニングアニメでは、すでに魔法のステッキが登場しているが、決定的であったのは、直後の『コメットさん』で登場した星かざりのついたバトンである。本作でのステッキの使用が魔法少女といえば魔法のバトンというイメージが定着したとされる。 作品のスポンサーとして、前述の「魔法の道具」をはじめ作中のキャラクターやコスチュームなどのグッズを玩具や文具・食品などの商品化を請け負うメーカーがつく事がほとんどである。『セーラームーン』のヒット以降、様々な作品においてコスチュームチェンジとグループ化が盛りこまれる事があった。これはキャラが増える分だけ玩具(コスチュームのアパレルも含む)の種類を増やせるというスポンサー側のメリットによって促進されている面もあった。時には新キャラクター、新アイテムを強引に登場させようとして制作者を困惑させることがあった。一方で商品の売れ行きさえ良ければアニメの内容には干渉することがなく、制作者は多様な物語を制作することができた。 魔法少女アニメが制作されていくにつれて、ストックキャラクターとしての魔法少女のイメージも固定されていった。それは、小動物のお供を連れていて、魔法少女に変身し、魔法のバトンないしステッキで魔法を行使するというものである。既存のキャラクターの役割を魔法少女に置き換えるパロディはよく見ることができる。『天地無用!』シリーズでのお遊び企画からは新たにプリティサミーというキャラクターが生み出され、1996年に『魔法少女プリティサミー』という独立したテレビアニメシリーズとなった。魔法少女そのものをパロディ化した作品としては2001年に『ぷにぷに☆ぽえみぃ』、2002年に『邪道魔法少女シリーズ』がある。 王道的ジャンルとして大成した魔法少女アニメであるが、実は根幹の設定に関しては曖昧であるとの指摘もあり、2011年の『魔法少女まどか☆マギカ』ではその曖昧さを逆手に取り、魔法少女のイメージをプロット上のギミックとして取り入れている。 東映動画による初期の魔法少女アニメ。東映魔女っ子シリーズ。 魔法少女アニメに戦闘美少女の要素を付加した作品 魔法少女アニメの中で特にオタクからも人気を得ていた作品。この2作品は(戦闘美少女でない)変身魔法少女アニメである。 魔法少女は萌えキャラの類型の一つでもある。参考として、魔法少女物の萌えアニメの例を以下に挙げる。 魔法少女アニメのフォーマットで作られたダークファンタジー。
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魔法少女アニメ(まほうしょうじょアニメ)、もしくは魔女っ子アニメ(まじょっこアニメ)は、魔法など神秘的な力を持つ魔法少女を主役とする活躍や引き起こされる騒動をテーマとするアニメのジャンルの一種。 物語類型としてはエブリデイマジックの派生で、どこからかやってきた魔法使いの少女が日常の騒動を魔法で解決するというもの、アイドルになって活躍するなど少女のままではできないことを年長の女性に変身することで実現するというものなど様々である。美少女が変身し敵と戦う戦闘美少女物の中にも魔法少女アニメとみなされる作品がある。 最初の魔法少女アニメは『魔法使いサリー』(1966年、東映動画)。他に『ひみつのアッコちゃん』(1969年、東映動画)、『美少女戦士セーラームーン』(1992年、東映動画)などが有名で主に少女向けアニメないし女児向けアニメとみなされるが、ティーン層や男性からの支持を受けた作品も多い。
'''魔法少女アニメ'''(まほうしょうじょアニメ)、もしくは'''魔女っ子アニメ'''(まじょっこアニメ)は、魔法など神秘的な力を持つ[[魔法少女]]を主役とする活躍や引き起こされる騒動をテーマとするアニメのジャンルの一種。 物語類型としては[[エブリデイマジック]]の派生で、どこからかやってきた魔法使いの少女が日常の騒動を魔法で解決するというもの、[[アイドル]]になって活躍するなど少女のままではできないことを年長の女性に変身することで実現するというものなど様々である。美少女が変身し敵と戦う[[戦闘美少女]]物の中にも魔法少女アニメとみなされる作品がある<ref>斎藤 (2006). 「第5章 戦闘美少女の系譜」、176頁。</ref>。 最初の魔法少女アニメは『[[魔法使いサリー]]』(1966年、[[東映アニメーション|東映動画]])。他に『[[ひみつのアッコちゃん]]』(1969年、東映動画)、『[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』(1992年、東映動画)などが有名で主に[[少女向けアニメ]]ないし女児向けアニメとみなされるが、ティーン層や男性からの支持を受けた作品も多い。 == 歴史 == 1960年代の日本でアニメと言えば少年向けのものであり、少女向けは皆無でテレビ業界においては少女漫画は当たらないという固定観念があった。 1966年 『[[奥さまは魔女 (テレビドラマ)|奥さまは魔女]]』が放映され性別を問わず人気を得ると[[少年向けアニメ]]を制作していた[[東映アニメーション|東映動画]]は『奥さまは魔女』の子供版を製作することを考え異世界から来た魔法使いの少女が活躍する[[横山光輝]]の漫画『魔法使いサニー』(後に『魔法使いサリー』に改題)が連載開始された<ref>「横山光輝プレミアム・マガジン VOL.6」(2009). 「『魔法使いサリー』プロデューサー[[宮崎慎一]]インタビュー」14-15頁</ref>。 最初の[[少女向けアニメ]]となった『[[魔法使いサリー]]』は、当時の少女マンガに良く見られたメロドラマ的な作品ではなく、『奥さまは魔女』を踏襲したスラップスティックコメディの要素があり、狙い通り少年からも人気を得ていた。 次に東映動画は[[赤塚不二夫]]の漫画『[[ひみつのアッコちゃん]]』をアニメ化した。これは普通の少女が何にでも変身できる魔法のコンパクトを手に入れて活躍するという物語である。 3作目となる『[[魔法のマコちゃん]]』からは少女向けの色彩が強くなっていった。東映動画は1980年までに不思議な力を持つ少女が活躍する作品を9本制作し、この種の作品はいつしか'''魔女っ子アニメ'''または'''魔法少女アニメ'''と呼ばれるようになった。 最初の二つの作品は少女の出自が異なっており、このジャンルの2大類型の典型例とみなされている。また、この時代には他に多くの少女向けアニメが制作され国民的人気を得ており、少女向けアニメの黄金期であった<ref name="yamaguti">山口 (2004). 「第4章 新たなステージ」、 105頁。ただし、魔法少女アニメに関しては『魔女っ子メグちゃん』から『魔女っ子チックル』の製作まで丸々2年半作品が製作されない事態になっている。</ref>。 1980年の『[[魔法少女ララベル]]』を最後に東映動画が魔法少女アニメの制作を休止した後は、[[プロダクション リード|葦プロダクション]]が『[[魔法のプリンセス ミンキーモモ]]』を制作した。これは当時の少女が持っていた職業婦人へのあこがれを背景にして、大人への変身に限定された魔法の力を軸にしたテーマ性の強い作品であり、究極的には魔法の否定という主題も内包していた。この後を追った[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]の『[[魔法の天使クリィミーマミ]]』は魔法で変身し[[アイドル]]になるというストーリーで、類似の主題を持っていた。この2作品はいわゆる「[[おたく]]」と呼ばれる人々にも人気があった<ref name="Galbraith_Mahoshojo">Galbraith (2009). “Mahoshojo(魔法少女)”, p. 133</ref>。1990年代初頭までの新作の多くは、葦プロダクションかスタジオぴえろの制作であった。この時期は第二期魔法少女ブームとも呼ばれていたが、アニメ全体で見れば少年向けアニメが強かった<ref name="yamaguti" />。 1992年に[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]が登場するとブームになり、少女向けアニメ人気が復活した<ref name="yamaguti" />。これは5人の美少女が惑星の戦士に変身し敵と戦うという物語で、従来の少女向けアニメ、魔法少女アニメの要素に加え、戦隊物の要素も加わり、男女問わず人気を得た。少し遅れて『[[愛天使伝説ウェディングピーチ]]』、『[[ナースエンジェルりりかSOS]]』など同様の主題を持つ作品がいくつか現れている。一方で、『[[姫ちゃんのリボン]]』、『[[おジャ魔女どれみ]]』など魔法少女アニメの従来のイメージを発展させた作品も制作され続けた。 {{See|魔法少女#魔法少女ジャンルの歴史}} == 魔法の道具 == 初期の作品では主人公が持つ「魔法」能力は先天的なもの(主人公は生まれついての「[[魔女]]」)であり、魔法を使う際、特に道具(アイテム)を要しないことが多かった。しかし『[[ひみつのアッコちゃん]]』以来の後天的に魔法能力を得た少女が主人公の作品が1980年代以降に主流になり、玩具メーカーの要請で、魔法を使う際に道具(ステッキなど)を用いる作品が増えた。日本における魔法使いのビジュアルは『[[魔法使いサリー]]』と同時期のドラマ『[[コメットさん]]』が『[[メリーポピンズ]]』の影響下にある事から判るとおり、アメリカの[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]作品の影響によるものであり。「魔法と言えば魔法のステッキ」という概念も同社のアニメ作品の『[[シンデレラ (アニメ映画)|シンデレラ]]』や『[[ピノキオ (1940年の映画)|ピノキオ]]』など映画に登場する[[魔法使い]]の影響が大きいとみられる。日本では『魔法使いサリー』の[[主題歌|オープニングアニメ]]では、すでに魔法のステッキが登場しているが、決定的であったのは、直後の『コメットさん』で登場した星かざりのついた[[バトン]]である。本作でのステッキの使用が魔法少女といえば魔法のバトンというイメージが定着したとされる<ref>二神 (1997).</ref>。 == スポンサー == 作品の[[スポンサー]]として、前述の「魔法の道具」をはじめ作中のキャラクターやコスチュームなどのグッズを[[玩具]]や文具・食品などの商品化を請け負うメーカーがつく事がほとんどである。『セーラームーン』のヒット以降、様々な作品においてコスチュームチェンジとグループ化が盛りこまれる事があった。これは[[キャラクター|キャラ]]が増える分だけ玩具(コスチュームのアパレルも含む)の種類を増やせるというスポンサー側のメリットによって促進されている面もあった。時には新キャラクター、新アイテムを強引に登場させようとして制作者を困惑させることがあった。一方で商品の売れ行きさえ良ければアニメの内容には干渉することがなく、制作者は多様な物語を制作することができた。<!-- ロボットアニメと同じ構図 --> == パロディ == 魔法少女アニメが制作されていくにつれて、[[ストックキャラクター]]としての魔法少女のイメージも固定されていった。それは、小動物のお供を連れていて、魔法少女に変身し、魔法のバトンないしステッキで魔法を行使するというものである。既存のキャラクターの役割を魔法少女に置き換えるパロディはよく見ることができる。『[[天地無用!]]』シリーズでのお遊び企画からは新たにプリティサミーというキャラクターが生み出され、1996年に『[[魔法少女プリティサミー]]』という独立したテレビアニメシリーズとなった。魔法少女そのものをパロディ化した作品としては2001年に『[[ぷにぷに☆ぽえみぃ]]』、2002年に『[[邪道魔法少女|邪道魔法少女シリーズ]]』がある。 王道的ジャンルとして大成した魔法少女アニメであるが、実は根幹の設定に関しては曖昧であるとの指摘もあり{{誰2|date=2018年7月}}{{要出典|date=2017年10月}}、2011年の『[[魔法少女まどか☆マギカ]]』ではその曖昧さを逆手に取り、魔法少女のイメージを[[プロット (物語)|プロット]]上のギミックとして取り入れている。 == 代表的な作品 == {{Main2|他の作品|魔法少女アニメの一覧}} [[東映アニメーション|東映動画]]による初期の魔法少女アニメ。[[東映魔女っ子シリーズ]]。 * 『[[魔法使いサリー]]』(1966年) * 『[[ひみつのアッコちゃん]]』(1969年) * 『[[魔法のマコちゃん]]』(1970年) * 『[[さるとびエッちゃん]]』(1971年) * 『[[魔法使いチャッピー]]』(1972年) * 『[[ミラクル少女リミットちゃん]]』(1973年) * 『[[魔女っ子メグちゃん]]』(1974年) * 『[[花の子ルンルン]]』(1979年) * 『[[魔法少女ララベル]]』(1980年) 魔法少女アニメに戦闘美少女の要素を付加した作品 *『[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』(1992年、制作:[[東映アニメーション|東映動画]]) * 『[[ふたりはプリキュア]]』(2004年、制作:東映アニメーション) 魔法少女アニメの中で特に[[オタク]]からも人気を得ていた作品<ref name="Galbraith_Mahoshojo" />。この2作品は(戦闘美少女でない)変身魔法少女アニメである。 * 『[[魔法のプリンセス ミンキーモモ]]』(1982年、制作:[[プロダクション リード|葦プロダクション]]) * 『[[魔法の天使クリィミーマミ]]』(1983年、制作:[[ぴえろ|スタジオぴえろ]]) 魔法少女は[[萌え]]キャラの類型の一つでもある。参考として、魔法少女物の[[萌えアニメ]]の例を以下に挙げる<ref name="Galbraith">Galbraith (2009). “OTAKU ESSENTIALS”, p. 242 オタク文化入門者向け作品リストの"Moe Anime"の部から魔法少女アニメを抽出した。</ref>。 * 『[[カードキャプターさくら]]』(1998年、制作:[[マッドハウス]]) * 『[[ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて]]』(2002年、制作:[[タツノコプロ]]/[[京都アニメーション]]) * 『[[魔法少女リリカルなのは]]』(2004年、制作:[[セブン・アークス]])<ref group="注釈">なのはシリーズは「戦闘美少女の要素」も含んだ作品である。</ref> * 『[[撲殺天使ドクロちゃん]]』(2005年、制作:[[ハルフィルムメーカー]]) * 『[[もえたん]]』(2007年、制作:[[アクタス]]) 魔法少女アニメのフォーマットで作られた[[ダークファンタジー]]<ref>{{Cite news |date=2011年4月27日 |url=https://mantan-web.jp/article/20110427dog00m200015000c.html |title=まどか☆マギカ :ヒット生んだ緻密な計算 「魔法少女」の常識覆す |newspaper=[[MANTANWEB]] |publisher=[[毎日新聞社|毎日新聞デジタル]] |accessdate=2011年8月12日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110430090751/http://mantan-web.jp/2011/04/27/20110427dog00m200015000c.html |archivedate=2011-04-30 }}</ref>。 * 『[[魔法少女まどか☆マギカ]]』(2011年、制作:[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]]) * 『[[魔法少女育成計画]]』(2016年、制作 : - [[Lerche]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite journal|和書 |year=1997 |journal=動画王 Vol.02 スーパー魔女っ子大戦 |issue=キネマ旬報別冊 7/14号 |publisher=[[キネマ旬報社]] }} **{{Cite journal|和書 |author=二神啓通 |year=1997 |title=特撮魔法少女列伝 |pages=164-179頁 }} *{{Citation | last=Galbraith | first=Patrick W. | year=2009 | title=THE OTAKU ENCYCLOPEDIA | place=[[東京都]] | publisher=講談社インターナショナル | id=ISBN 978-4-7700-3101-3}}。 *{{Cite book|和書 |author=山口康男 |year=2004 |title=日本アニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡 |publisher=テンブックス }} *{{Cite book|和書 |author=斎藤環 |authorlink=斎藤環 |title=戦闘美少女の精神分析 |date=2006-05 |publisher=筑摩書房 |series=ちくま文庫 |isbn=4-480-42216-1 }} *{{Cite journal|和書 |year=2009 |journal=横山光輝プレミアム・マガジン VOL.6 |publisher=講談社 }} **{{Cite journal|和書 |year=2009 |title=『魔法使いサリー』プロデューサー宮崎慎一インタビュー |pages=14-15頁 |id=ISBN 978-4063-70066-4}} {{DEFAULTSORT:まほうしようしよあにめ}} [[Category:魔法少女|*まほうしようしよあにめ]] <!-- 上位カテゴリ --> [[Category:魔法少女アニメ|*]] <!-- 自己カテゴリ --> [[Category:アニメのジャンル]] <!-- 上位カテゴリ -->
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甲信越地方
甲信越地方(こうしんえつちほう)は、山梨県、長野県、新潟県の3県の総称。それぞれの令制国名である「甲斐」「信濃」「越後」の頭文字をとった名称。単体で使用されることは稀で、関東地方と合わせた10都県に対して関東甲信越地方との呼称で用いられることが多い。 本州の中央部、関東地方の外周部に位置しており、関東地方、特に東京との結び付きが強い地域である。各々の県庁所在地が、東京を中心とする関東地方に新幹線や高速道路等の交通インフラで繋がっている。 東京との結び付きと比べて、甲信越同士の結び付きは弱く、目立った交流は隣接する地域のみである。また、方言も異なっており、山梨県と長野県は、甲信越同士よりも東京との都道府県流動が最多であるため、東京を中心都市とした地域であることが甲信越3県の共通点である。 甲信越地方の多くは、関東地方と併称(関東甲信越地方)される標記が多く、特に中央省庁の地方支分部局やNHK等がそれに該当し、民間企業でも関東地方と一体の管轄地域を設定している場合が多い。一方3県がそれぞれに異なる管轄となる場合もある。 例:
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "甲信越地方(こうしんえつちほう)は、山梨県、長野県、新潟県の3県の総称。それぞれの令制国名である「甲斐」「信濃」「越後」の頭文字をとった名称。単体で使用されることは稀で、関東地方と合わせた10都県に対して関東甲信越地方との呼称で用いられることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本州の中央部、関東地方の外周部に位置しており、関東地方、特に東京との結び付きが強い地域である。各々の県庁所在地が、東京を中心とする関東地方に新幹線や高速道路等の交通インフラで繋がっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京との結び付きと比べて、甲信越同士の結び付きは弱く、目立った交流は隣接する地域のみである。また、方言も異なっており、山梨県と長野県は、甲信越同士よりも東京との都道府県流動が最多であるため、東京を中心都市とした地域であることが甲信越3県の共通点である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "甲信越地方の多くは、関東地方と併称(関東甲信越地方)される標記が多く、特に中央省庁の地方支分部局やNHK等がそれに該当し、民間企業でも関東地方と一体の管轄地域を設定している場合が多い。一方3県がそれぞれに異なる管轄となる場合もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "例:", "title": "概要" } ]
甲信越地方(こうしんえつちほう)は、山梨県、長野県、新潟県の3県の総称。それぞれの令制国名である「甲斐」「信濃」「越後」の頭文字をとった名称。単体で使用されることは稀で、関東地方と合わせた10都県に対して関東甲信越地方との呼称で用いられることが多い。
{{出典の明記|date=2020-11}} {{Infobox |bodyclass = bordered |abovestyle = background-color:#f40; text-align:center; |above = '''甲信越地方'''のデータ |headerstyle = background-color: #cc99ff |header1 = 3県の合計 |label2 = [[国]] |data2 = {{JPN}} |label3 = [[面積]] |data3 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体面積/新潟県|新潟県}} + {{自治体面積/山梨県|山梨県}} + {{自治体面積/長野県|長野県}} }}}}'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] |label4 = [[推計人口]] |data4 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/新潟県|新潟県}} + {{自治体人口/山梨県|山梨県}} + {{自治体人口/長野県|長野県}} }}}}'''[[人]]<br />({{自治体人口/新潟県|date}}) |label5 = [[人口密度]] |data5 = '''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/新潟県|新潟県}} + {{自治体人口/山梨県|山梨県}} + {{自治体人口/長野県|長野県}}) / ({{自治体面積/新潟県|新潟県}} + {{自治体面積/山梨県|山梨県}} + {{自治体面積/長野県|長野県}}) round 1}}}}'''人/km<sup>2</sup><br />({{自治体人口/新潟県|date}}) |header6 = 位置 |data7 = [[ファイル:KoShinEtsu-region_Small.png|center|甲信越地方の位置]] }} '''甲信越地方'''(こうしんえつちほう)は、[[山梨県]]、[[長野県]]、[[新潟県]]の3県の総称。それぞれの[[令制国]]名である「[[甲斐国|'''甲'''斐]]」「[[信濃国|'''信'''濃]]」「[[越後国|'''越'''後]]」の頭文字をとった名称<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/甲信越地方-1046467 |title=コトバンク 甲信越地方とは(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説) |accessdate=2020-11-16 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/甲信越-495880 |title=コトバンク 甲信越とは(デジタル大辞泉の解説) |accessdate=2020-11-16 }}</ref>。単体で使用されることは稀で、[[関東地方]]と合わせた10都県に対して'''関東甲信越地方'''との呼称で用いられることが多い。 == 概要 == {{独自研究|section=1|date=2020年11月}} 本州の中央部、[[関東地方]]の外周部に位置しており、関東地方、特に[[東京]]との結び付きが強い地域である<ref name="kotobank" />。各々の県庁所在地が、東京を中心とする関東地方に新幹線や高速道路等の交通[[インフラ]]で繋がっている。 東京との結び付きと比べて、甲信越同士の結び付きは弱く、目立った交流は隣接する地域のみである<ref>「[https://www.asahi.com/articles/ASQDX6GZ4QDVUOHB02H.html 甲信越地方ってどんな場所? 新潟、長野、山梨3県を貫く共通項とは]」朝日新聞デジタル2023年1月4日</ref>。また、方言も異なっており、山梨県と長野県は、甲信越同士よりも東京との都道府県流動が最多であるため、東京を中心都市とした地域であることが甲信越3県の共通点である。 甲信越地方の多くは、関東地方と併称('''[[広域関東圏|関東甲信越地方]]''')される標記が多く、特に中央省庁の[[地方支分部局]]や[[日本放送協会|NHK]]等がそれに該当し、民間企業でも関東地方と一体の管轄地域を設定している場合が多い。一方3県がそれぞれに異なる管轄となる場合もある。 例: * 関東地方+1県 ** [[首都圏 (日本)|首都圏]](関東+山梨県) ** [[関越]](関東+新潟県) * 関東地方+2県 ** 関東[[甲信地方|甲信]](関東+山梨県+長野県) ** 関東[[信越地方|信越]](関東+長野県+新潟県) :※山梨県を関東の一部とみなし、「関東信越」の名称で「関東甲信越」と同一の枠組みである例がある。([[厚生労働省]][[関東信越厚生局]]など) ; 都道府県間流動 : ※[https://www.mlit.go.jp/common/001297367.xls 交通機関別都道府県間流動表(年間)](全交通機関、平日・休日データ利用、幹線のみ) : ※目的地上位10都県のみ記載(2015年) : ※甲信越地方は「{{Color|#d6deff|■}}」、甲信越以外の中部地方は「{{Color|#F8FF96|■}}」、関東地方は白地、東北地方の構成県は「{{Color|#f0f0f0|■}}」。 <div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> ; 出発地:新潟県 {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- |順|| 目的地 || 万人/年 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align: center;" |1 |長野県 | style="text-align: right;" |413.9 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |2 |東京都 | style="text-align: right;" |388.7 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |3 |神奈川県 | style="text-align: right;" |248.4 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |4 |群馬県 | style="text-align: right;" |221.9 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |5 |埼玉県 | style="text-align: right;" |187.4 |-style="background-color: #f0f0f0;" | style="text-align: center;" |6 |福島県 | style="text-align: right;" |182.6 |-style="background-color: #F8FF96;" | style="text-align: center;" |7 |富山県 | style="text-align: right;" |128.8 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |8 |千葉県 | style="text-align: right;" |114.7 |-style="background-color: #F8FF96;" | style="text-align: center;" |9 |石川県 | style="text-align: right;" |63.3 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |10 |栃木県 | style="text-align: right;" |60.0 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> ; 出発地:長野県 {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- |順|| 目的地 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |1 |東京都 | style="text-align: right;" |750.9 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align: center;" |2 |山梨県 | style="text-align: right;" |490.5 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |3 |群馬県 | style="text-align: right;" |488.1 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align: center;" |4 |新潟県 | style="text-align: right;" |416.2 |- style="background-color: #F8FF96;" | style="text-align: center;" |5 |愛知県 | style="text-align: right;" |359.1 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |6 |埼玉県 | style="text-align: right;" |324.8 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |7 |神奈川県 | style="text-align: right;" |316.8 |-style="background-color: #F8FF96;" | style="text-align: center;" |8 |岐阜県 | style="text-align: right;" |203.9 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |9 |千葉県 | style="text-align: right;" |170.8 |- style="background-color: #F8FF96;" | style="text-align: center;" |10 |静岡県 | style="text-align: right;" |112.9 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> ; 出発地:山梨県 {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- |順|| 目的地 || 万人/年 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |1 |東京都 | style="text-align: right;" |968.3 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |2 |神奈川県 | style="text-align: right;" |567.0 |-style="background-color: #d6deff;" | style="text-align: center;" |3 |長野県 | style="text-align: right;" |408.5 |- style="background-color: #F8FF96;" | style="text-align: center;" |4 |静岡県 | style="text-align: right;" |338.7 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |5 |埼玉県 | style="text-align: right;" |178.7 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |6 |千葉県 | style="text-align: right;" |102.8 |-style="background-color: #F8FF96;" | style="text-align: center;" |7 |愛知県 | style="text-align: right;" |33.3 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |8 |栃木県 | style="text-align: right;" |31.8 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |9 |群馬県 | style="text-align: right;" |30.3 |-style="background-color: #ffffff;" | style="text-align: center;" |10 |茨城県 | style="text-align: right;" |22.5 |} </div>{{clear|left}} == 主要都市圏 == ; 甲信越地方の主な[[都市圏]](圏域人口10万人以上) * 2015年[[国勢調査]]をもとにした[[都市雇用圏]](10%通勤圏)による * 都市圏名・人口は2015年当時のもの <div style="clear: left; float: left;"> {| class="wikitable" style="clear: left; float: left;" |- ! style="background-color: #f6f;"|順位 ! style="background-color: #f6f;"|都市雇用圏 ! style="background-color: #f6f;"|人口 |- style="background-color: #cff;" | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|17 | style="text-align: center;"|[[新潟都市圏]] | style="text-align: right;"|106{{sup|万}}0013 |- style="background-color: #cff;" | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|36 | style="text-align: center;"|[[北信地方#都市圏|長野都市圏]] | style="text-align: right;"|58{{sup|万}}9549 |- style="background-color: #cff;" | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|37 | style="text-align: center;"|[[甲府都市圏]] | style="text-align: right;"|58{{sup|万}}5986 |- | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|48 | style="text-align: center;"|[[中信地方#都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷|松本都市圏]] | style="text-align: right;"|44{{sup|万}}7802 |- | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|54 | style="text-align: center;"|[[中越地方#都市雇用圏(10% 通勤圏)の変遷|長岡都市圏]] | style="text-align: right;"|35{{sup|万}}6767 |- | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|78 | style="text-align: center;"|[[上越地方#都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷|上越都市圏]] | style="text-align: right;"|23{{sup|万}}0186 |- | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|85 | style="text-align: center;"|[[中越地方#都市雇用圏(10% 通勤圏)の変遷|三条都市圏]] | style="text-align: right;"|21{{sup|万}}5037 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top; margin-right: 1em;"> {| class="wikitable" style="clear: left; float: left;" |- ! style="background-color: #f6f;"|順位 ! style="background-color: #f6f;"|都市雇用圏 ! style="background-color: #f6f;"|人口 |- | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|87 | style="text-align: center;"|[[東信地方#都市雇用圏(10% 通勤圏)の変遷|上田都市圏]] | style="text-align: right;"|21{{sup|万}}2314 |- | style="text-align: center; background-color: #fcf;"|91 | style="text-align: center;"|[[南信地方#都市雇用圏(10%通勤圏)の変遷|諏訪都市圏]] | style="text-align: right;"|19{{sup|万}}8475 |- | style="text-align: center; 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1805年
1805年(1805 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
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1805年は、西暦(グレゴリオ暦)による、火曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1805}} {{year-definition|1805}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文化 (元号)|文化]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2465年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]10年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]5年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4138年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嘉隆]]4年  * [[仏滅紀元]] : 2347年 - 2348年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1219年9月29日 - 1220年10月9日 * [[ユダヤ暦]] - 5565年5月1日 - 5566年4月10日 * [[ユリウス暦]] : 1804年12月20日 - 1805年12月19日 * [[フランス革命暦]] : XIII年雪月11日 - XIV年雪月10日(翌日廃止) * [[修正ユリウス日]](MJD) : -19678 - -19314 * [[リリウス日]](LD) : 81163 - 81527 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1805}} == できごと == * [[4月27日]] - [[第一次バーバリ戦争]]: [[ダーネの戦い]]はじまる * [[5月17日]] - [[ムハンマド・アリー]]がエジプト総督に就任。 * [[6月10日]] - 第一次バーバリ戦争終結 * [[6月30日]] - [[アメリカ合衆国]]において[[ミシガン準州]]が発足 * [[10月17日]] - [[ナポレオン戦争]]: [[ウルムの戦い]] * [[10月21日]] - ナポレオン戦争: [[トラファルガーの海戦]] * [[11月20日]] - ベートーヴェン唯一のオペラ『フィデリオ』が初演。ベートーヴェン自身が指揮をするが失敗。 * [[11月26日]] - [[ポントカサステ水路橋と運河]]竣工 * [[12月2日]] - ナポレオン戦争: [[アウステルリッツの戦い]] * [[12月24日]] - [[第二次マラーター戦争]]:[[ラージガート条約]]締結により戦争終結 * [[12月26日]] - ナポレオン戦争: [[プレスブルクの和約]]締結 == 芸術・文化 == * [[4月7日]] - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]]「英雄」の公開初演{{要出典|date=2021-03}} == 誕生 == {{see also|Category:1805年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月1日]] - [[ルイ・オーギュスト・ブランキ|ブランキ]]、フランスの[[革命家]](+ [[1881年]]) * [[2月21日]] - [[デイヴィッド・トッド (政治家)|デイヴィッド・トッド]]、第25代[[オハイオ州知事]](+ [[1868年]]) * [[3月21日]] - [[山田方谷]]、[[教育者]]、[[陽明学者]](+ [[1877年]]) * [[4月2日]] - [[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]、[[デンマーク]]の[[作家]](+ [[1875年]]) * [[4月20日]] - [[フランツ・ヴィンターハルター]]、[[画家]](+ [[1873年]]) * [[6月16日]] - [[ユリウス・フレーベル]]、[[地質学者]]・[[政治家]](+ [[1893年]]) * [[6月22日]] - [[ジュゼッペ・マッツィーニ|マッツィーニ]]、イタリアの[[革命家]](+ [[1872年]]) * [[7月4日]] - [[ルートヴィヒ・カール・ゲオルク・プファイファー]]、[[医師]]・[[植物学者]]・貝類学者(+ [[1877年]]) * [[7月5日]] - [[ロバート・フィッツロイ]]、[[軍人]](+ [[1865年]]) * [[7月29日]] - [[アレクシス・ド・トクヴィル|トクヴィル]]、フランスの[[政治思想家]]・[[歴史家]](+ [[1859年]]) * [[8月4日]] - [[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]、[[数学者]]・[[物理学者]](+ [[1865年]])  * [[10月23日]] - [[アーダルベルト・シュティフター]]、画家・[[小説家]](+ [[1868年]]) * [[11月14日]] - [[ファニー・メンデルスゾーン|ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+[[1847年]]) * [[11月19日]] - [[フェルディナン・ド・レセップス|レセップス]]、フランスの[[外交官]]・[[スエズ運河]]建設者(+[[1894年]]) * [[12月7日]] - [[ロベール・ウーダン]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]]・[[時計]]職人(+ [[1871年]]) == 死去 == {{see also|Category:1805年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月2日]] - [[トーマス・バンクス]]、[[彫刻家]](* [[1735年]]) * [[2月16日]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]])- [[若杉五十八]]、[[洋風画]]家(* [[1759年]]) * [[3月4日]] - [[ジャン=バティスト・グルーズ]]、[[画家]](* [[1725年]]) * [[5月9日]] - [[フリードリヒ・フォン・シラー]]、[[詩人]]・[[歴史学者]]・[[劇作家]](* [[1759年]]) * [[5月28日]] - [[ルイジ・ボッケリーニ]]、[[作曲家]]・[[チェロ]]奏者(* [[1743年]]) * [[10月21日]] - [[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]、海軍提督(* [[1758年]]) == フィクションのできごと == * [[6月21日]] - 万能潜水艦「α号」が進水する。(映画『[[緯度0大作戦]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=川北紘一監修|authorlink1=川北紘一|author2=岸川靖構成|authorlink2=岸川靖 |title = 東宝特撮超兵器画報 |publisher = [[大日本絵画]] |year = 1993 |page = 16 |isbn = 978-4-499-20598-6}}</ref> == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1805}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1805ねん}} [[Category:1805年|*]]
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プラント・オパール
プラント・オパールは、植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体(SiO2.nH2O) 。 Phytolith、Opal phytolith、Grass opalなどとも。 植物は土壌中の珪酸(水に溶けたケイ酸塩)を根から吸収し、特定の細胞の細胞壁に蓄積しガラス質の細胞体を形成する。植物珪酸はイネ科、カヤツリグサ科、シダ植物、コケ植物において含有量の高いことが知られ、特に表皮細胞、樹木類の維管細胞と表皮細胞など蓄積されやすい箇所がある。特に、竹(イネ科)がグラスファイバーのようによくしなり、きわめて非導電性であるのは、表皮細胞と維管束による規則正しく密集するプラント・オパールによる植物骨格組織のためである。 また、サボテン、イラクサ、ナス科植物、バラ科植物などに見られる植物体表皮の棘やイネ科植物の葉の辺縁に見られる微鋸歯は、この植物骨格組織から派生した珪酸および珪酸とカルシウムからなる複合成分を組成とするガラス質の物質でコーティングされた組織であり、また、動物における鱗と相似器官でもある(同様に珪藻の被殻と放散虫の骨格にも動植物の壁を越えて相似性のある器官が認められる)。 ガラス質に変化した植物珪酸体は、植物体が枯死した後にも腐敗せず残存し土壌に保存される。更に、植物体毎の特徴があることから種を特定することが可能であり、花粉と共に古植生環境を推定する手段として利用される。花粉は広域に拡散し局所環境の推定には向かないが、プラント・オパールは飛散しにくく乾燥地や酸性土壌など花粉が遺存しにくい環境でも遺存するため、局所的な環境と植生の分析が可能である。 特にイネ科植物はプラント・オパールが残りやすく、稲作の起源を探る研究が精力的に行われたため多くの知見が蓄積されている。作物学や考古学上でイネ科植物の同定を行う場合は「オリザニンオパール(イネ科のオパール)」という名称が使われることもある。しかし、イネのプラント・オパールは粒径が小さく雨水と共に地下に浸透することも考えられるため、即座に発見地層の時代における栽培の証拠とすることはできない。年代推定の精度を上げるため、プラントオパール中のCを利用した放射年代測定も試みられている。
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プラント・オパールは、植物の細胞組織に充填する非結晶含水珪酸体(SiO2.nH2O)。 Phytolith、Opal phytolith、Grass opalなどとも。
[[File:Phytolithe-buliforme.JPG|thumb|300px|植物化石の例(bulliform)]] '''プラント・オパール'''は、[[植物]]の[[細胞]]組織に充填する非結晶含水珪酸体(SiO<sub>2</sub>.nH<sub>2</sub>O) 。 ''Phytolith''、Opal phytolith、Grass opalなどとも。 {{See also|シリカ#生物学上のシリカ}} == 概要 == 植物は土壌中の[[ケイ酸|珪酸]](水に溶けた[[ケイ酸塩]])を根から吸収し、特定の細胞の細胞壁に蓄積しガラス質の細胞体を形成する。植物珪酸は[[イネ科]]、[[カヤツリグサ科]]、[[シダ植物]]、[[コケ植物]]において含有量の高いことが知られ、特に表皮細胞、樹木類の維管細胞と表皮細胞など蓄積されやすい箇所がある。特に、[[竹]](イネ科)が[[グラスファイバー]]のようによくしなり、きわめて非[[電気伝導|導電性]]であるのは、表皮細胞と[[維管束]]による規則正しく密集するプラント・オパールによる植物骨格組織のためである。 また、[[サボテン]]、[[イラクサ]]、[[ナス科]]植物、[[バラ科]]植物などに見られる植物体表皮の棘やイネ科植物の葉の辺縁に見られる微鋸歯は、この植物骨格組織から派生した[[珪酸]]および珪酸と[[カルシウム]]からなる複合成分を組成とするガラス質の物質でコーティングされた組織であり、また、動物における[[鱗]]と[[相同|相似器官]]でもある(同様に[[珪藻]]の被殻と[[放散虫]]の骨格にも動植物の壁を越えて[[相似性]]のある器官が認められる)。 == 応用研究 == ガラス質に変化した植物珪酸体は、植物体が枯死した後にも腐敗せず残存し土壌に保存される<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110009427032/ 菅野一野、有村玄洋:土壤中の植物性蛋白石(Plant opal)について(<特輯>プラントオパール)] ペドロジスト 2(2), 78-80, 1958-12-25</ref>。更に、植物体毎の特徴があることから種を特定することが可能であり、[[花粉]]と共に古植生環境を推定する手段として利用される<ref>[https://hdl.handle.net/10091/12368 井上直人:古墳時代における松本の人里環境に関する民族植物学的研究] 信州大学環境科学研究会 環境科学年報24:61-70(2002)</ref>。花粉は広域に拡散し局所環境の推定には向かないが、プラント・オパールは飛散しにくく乾燥地や酸性土壌など花粉が遺存しにくい環境でも遺存するため、局所的な環境と植生の分析が可能である。 特にイネ科植物はプラント・オパールが残りやすく、稲作の起源を探る研究が精力的に行われたため多くの知見が蓄積されている<ref>{{PDFlink|[http://hisbot.jp/journalfiles/1801/1801_003-012.pdf 本村浩之、米倉浩司、近藤錬三:【原著】イネ科植物の泡状細胞珪酸体形状の多様性と記載用語の提案] 日本植生史学会 植生史研究 第18巻第1号(2010年6月)}}</ref><ref name="jsbbs1951.48.387"/><ref name="KJ00000131717"/>。作物学や[[考古学]]上でイネ科植物の同定を行う場合は「オリザニンオパール(イネ科のオパール)」という名称が使われることもある<ref>出典:『食用作物学概論』 [[農山漁村文化協会]] 渡部忠世 ISBN:9784540770128</ref>。しかし、イネのプラント・オパールは粒径が小さく雨水と共に地下に浸透することも考えられるため、即座に発見地層の時代における栽培の証拠とすることはできない<ref name="SEI0002_037-040">甲元眞之:[https://hdl.handle.net/2298/22905 稲作の伝来] 青驪 2巻, 2005-7-15 p.37-40</ref>。年代推定の精度を上げるため、プラントオパール中の[[炭素の同位体|<sup>14</sup>C]]を利用した[[放射年代測定]]も試みられている<ref>[https://hdl.handle.net/2237/20152 プラント・オパール中の炭素抽出とその14C 年代測定の試み] 名古屋大学加速器質量分析計業績報告書. v.24, 2013, p.123-132</ref>。 === 日本における研究と応用 === * [[青森県]]、[[三内丸山遺跡]]における[[イヌビエ]]栽培の可能性<ref>[https://doi.org/10.4116/jaqua.36.350 岡田康博:縄文集落の発達] 第四紀研究 Vol.36 (1997) No.5 P350-352</ref> * 日本国内外の[[稲作]]の年代推定<ref name="KJ00000131717">[https://hdl.handle.net/2433/56469 横倉雅幸:東南アジアの初期農耕] 京都大学東南アジア研究センター 東南アジア研究(1992) 30巻 3号 p.272-314</ref><ref>[https://doi.org/10.4116/jaqua.33.317 外山秀一:プラント・オパールからみた稲作農耕の開始と土地条件の変化] 第四紀研究 Vol.33 (1994) No.5 P317-329</ref>と伝播経路の解明<ref>[http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru1_top.html 古代吉備を探る] 岡山県古代吉備文化財センター</ref><ref>[https://doi.org/10.11215/nihonkokogaku1994.8.27 外山秀一、中山誠二:プラント・オパール土器胎土分析からみた中部日本の稲作農耕の開始と遺跡の立地 山梨・新潟の試料を中心として] 日本考古学 Vol.8 (2001) No.11 P27-60</ref> * イネの品種推定<ref name="jsbbs1951.48.387">[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.387 王才林、宇田津徹朗ほか:プラント・オパールの形状からみた中国・草鞋全山遺跡(6000年前~現代)に栽培されたイネの品種群およびその歴史的変遷] 育種学雑誌 Vol.48 (1998) No.4 P387-394</ref><ref>[https://doi.org/10.1270/jsbbs1951.48.163 王才林、宇田津徹朗、藤原宏志:イネの機動細胞にみられる珪酸体の形状の遺伝的解析] 育種学雑誌 Vol.48 (1998) No.2 P163-168</ref> * [[吉野ヶ里遺跡]]、[[桑田遺跡]]の稲作時期<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110001785880/ 宇田津徹朗、藤原宏志:吉野ケ里遺跡および桑田遺跡出土試料におけるイネ(O.satiua)のプラント・オパール形状特性] 日本作物学会九州支部会報 (58), 70-72, 1991-12-20</ref> * プラントオパールを研磨に利用した[[トクサ]]<ref>{{Cite news|title=トクサ Equisetum hyemale L.|url=http://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~main/index.php/%E3%83%88%E3%82%AF%E3%82%B5|postscript =広島大学 > デジタル自然史博物館 > 植物 > 郷土の植物 > 維管束植物 >トクサ|accessdate=2015-12-26}}</ref> * タケ(竹)由来のプラントオパールを使用した[[スピーカ]]<ref>[http://news.panasonic.com/press/news/official.data/data.dir/2014/02/jn140225-4/jn140225-4.html 「竹プラントオパールスピーカ」を製品化 2014年2月25日] Panasonic </ref> == ギャラリー == <gallery " widths="200px" heights="150px"> Phytolithes observés au Microscope Electronique à Balayage 06.jpg Phytolithes observés au Microscope Electronique à Balayage 04.jpg Phytolithes observés au Microscope Electronique à Balayage 03.jpg Phytolithes observés au Microscope Electronique à Balayage 02.jpg Phytolithes observés au Microscope Electronique à Balayage 01.jpg </gallery> == 参考文献 == * [https://ci.nii.ac.jp/naid/10006113585/ 藤原宏志(1976):プラント オパール分析法の基礎的研究(1)-数種イネ科植物の珪酸体標本と定量分析法] 考古学と自然科学 9, 15-29, 1976 * [https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.67.10_1049 藤原宏志(1999):プラント・オパール分析法と水田址探査] 農業土木学会誌 Vol.67 (1999) No.10 P1049-1054_1 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[植物学]] * [[化石]] == 外部リンク == * [https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.67.10_1049 藤原宏志:プラント・オパール分析法と水田址探査] 農業土木学会誌 Vol.67 (1999) No.10 P1049-1054_1 * [http://www.paleolabo.jp/ga_kokankyou_4OP.html プラント・オパール分析]{{リンク切れ|date=2019年3月}} {{デフォルトソート:ふらんとおはある}} [[Category:細胞生物学]] [[Category:植物]]
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パキスタン
パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、ウルドゥー語: اِسْلامی جَمْہُورِیَہ پَاکِسْتَان)、通称パキスタンは、南アジアに位置する連邦共和制国家である。東にインド、西にアフガニスタン、南西にイラン、北東に中華人民共和国と国境を接している。北はアフガニスタンのワハーン回廊でタジキスタンと狭く隔てられており、オマーンとも海上で国境を接している。首都はイスラマバード。 パキスタンの2023年の人口は2億2200万人であり、インド、中国、アメリカ、インドネシア 、ブラジルに次いで世界第6位となっている。また、世界で2番目にイスラム教徒の多い国でもある。面積は88万1913平方キロメートルで、世界で33番目に大きな国である。 同国には、8500年前の新石器時代の遺跡であるバローチスタンのメヘルガル遺跡や、旧世界の文明の中でも最も大規模な青銅器時代のインダス文明など、いくつかの古代文化の遺跡がある。現代のパキスタンを構成する地域は、アケメネス朝、アレキサンダー大王の時代、セレウコス朝、マウリヤ朝、クシャン朝、グプタ朝、南部のウマイヤ朝、ヒンドゥー・シャーヒー、ガズナ朝、デリー・スルターン朝、ムガール帝国、ドゥッラーニー帝国、シク帝国、英国東インド会社の支配、そして最近では1858年から1947年までの英領インド帝国など、複数の帝国や王朝の領域であった。 パキスタンは、英領インドのイスラム教徒の祖国を求めるパキスタン運動と、1946年の全インド・ムスリム連盟の選挙での勝利により、1947年に英領インド帝国の分割を経て独立した。この分割では、イスラム教徒の多い地域に独立した州が与えられ、比類のない大規模な移民と犠牲者が出た。当初はイギリス連邦の自治領であったパキスタンは、1956年に正式に憲法を制定し、イスラム共和国として宣言した。1971年には、政治中枢を寡占する旧西パキスタンとの対立を深めた東パキスタンが、9か月間の内戦を経て新国家バングラデシュとして独立した。その後40年間、パキスタンは文民と武官、民主主義と権威主義、比較的世俗的な政府とイスラム主義の政府によって統治されてきたが、その内容は複雑である。2008年に文民政権が誕生し、2010年には定期的に選挙が行われる議会制を採用した。 現今においてパキスタンはミドルパワー(中堅国家)であり、2022年時点で世界第9位の常備軍を有している。核兵器保有国として宣言されており、急速に成長している大規模な中産階級を擁し、新興経済国の中でも成長率の高い国として位置づけられている。独立後のパキスタンの政治的歴史は、経済的・軍事的に大きく成長した時期と、政治的・経済的に不安定な時期の両方を特徴としている。パキスタンは、民族的にも言語的にも多様な国であり、地理的にも野生動物も同様に多様である。しかし、貧困、非識字、汚職、テロなどの問題を抱えている。パキスタンは、国連、上海協力機構、イスラム協力機構、英国連邦、南アジア地域協力連合、イスラム軍事テロ対策連合に加盟しており、米国からは非NATOの主要同盟国に指定されている。 正式名称は、اسلامی جمہوریہ پاكستان(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。 公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。 日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。 国名「パキスタン」は、ウルドゥー語とペルシア語で「清浄な国」を意味する。پاک(パーク)が「清浄な」の意味である。接尾語ـستان (スターン)は、ペルシャ語で「〜の場所」を意味し、サンスクリットのस्थान(スターナ)と同語源である。 パキスタンという国名は、イギリス領インドのうちムスリム(イスラム教徒)が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリー(英語版)による1933年の小冊子『パキスタン宣言(英語版)』の中で初めて使われたものである。アリーは、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANから"Pakstan"(パクスタン)としていたが、後に、発音しやすくするために"i"が加えられて"Pakistan"(パキスタン)となった。 19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。 1947年8月14日にイギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂く自治領(英連邦王国パキスタン (ドミニオン))となり、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任する。同年10月21日から翌1948年12月31日にかけてカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が起き、1956年には共和制に移行し、イスカンダル・ミールザー(英語版)が初代大統領に就任した。 1958年のクーデターでミールザー大統領が失脚し(en:1958 Pakistani coup d'état)、パキスタン軍の総司令官だったアイユーブ・ハーンの軍事独裁政権が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。1965年には第二次印パ戦争が起き、1970年11月に東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。尚、この過程においてヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプや虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる。 1972年、イギリス連邦を脱退し、パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりブットーは職を追われ、後に処刑されている。 1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。 1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。 1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権が核実験「シャクティ作戦」を実施した。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。 1999年10月12日の無血クーデター(英語版)でナワーズ・シャリーフ首相から実権を奪取したパルヴェーズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、2004年には復帰した。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。 2007年7月、イスラム神学生によるパキスタン・モスク立てこもり事件が発生した。同年10月にはパキスタン大統領選挙(英語版)が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所(英語版)のイフティカル・ムハンマド・チョードリー(英語版)と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。一方、米国の支援を受けて11月に元首相ベーナズィール・ブットーが帰国したが、12月27日に演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。2007年、またもイギリス連邦の参加資格を停止されている。 2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙(英語版))。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員などによる間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国民党(ANP)などがある。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。 2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙(英語版)が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。 2010年、パキスタン洪水が発生。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。 11月26日、国際治安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所(英語版)がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ(英語版)が就任した。 2013年5月13日のパキスタン下院総選挙(英語版)でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派(PML-N)が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に、大統領にはマムヌーン・フセインが就任した。ナワーズ・シャリーフ首相は2016年4月3日に発表されたパナマ文書に名前が登場したことで、2018年4月13日に最高裁判所から公職永久追放の決定を下され、同年7月6日に汚職罪で禁錮10年の有罪判決を言い渡され収監された。 2018年9月4日のパキスタン総選挙で反腐敗を掲げたパキスタン正義運動(PTI)は小選挙区で延期された2議席を除いた270議席のうち改選前31議席から116議席に躍進し、同党のイムラン・カーン(PTI議長)が首相に、歯科医のアリフ・アルヴィが大統領に就任した。2022年4月10日、パキスタン下院は経済不振を理由としてカーン首相に対する不信任決議案を賛成多数で可決した。不信任決議での首相失職は同国では初めてである。首相にはナワーズ・シャリーフの弟のシャバズ・シャリーフ(PML-N党首)が議会によって選出された。 4つの州と、連邦首都イスラマバードから成る連邦共和国である。議院内閣制を採用しているが、インドとの対立関係のため伝統的に軍部の力が強く、対照的に政党の力は弱い。 独立以来クーデターが繰り返され、政局は常に不安定である。地方においては部族制社会の伝統が根強く、特に旧連邦直轄部族地域にその傾向が著しい。また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。旧連邦直轄部族地域ではかつて、大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨憲法で規定されるなど、強い自治権が与えられていた。法律に代わるものとしてパシュトゥン・ワリというパシュトゥン民族の慣習法が適用されている。 国家元首は大統領で、任期は5年。選挙人団によって間接的に選出されることとなっている。 パキスタンは守旧的イスラームに基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を行うことを宣言し、イスラム法の強い影響を受けた法を施行するという点でイスラム国家としての色彩が強い。 パキスタンは死刑存置国であり、2014年6月、スイス・ジュネーブで開催された国連人権理事会の会合において提出された「死刑制度のある国に死刑囚の権利保護を求める決議案」に日本、中国、インド、サウジアラビアなどとともに反対するなど死刑維持の姿勢を取っているが、一方で2009年以降、国法上の死刑の執行自体は凍結していた。しかし2014年12月、北西部のペシャワルで軍が運営する学校をイスラム過激派反政府武装勢力「パキスタン・ターリバーン運動(TTP)」が襲撃し、教師・児童・生徒ら140名以上が殺害されるテロ事件が起こったことを受け、ナワーズ・シャリーフ首相は死刑執行凍結措置を解除し、執行を再開した。 独立以来、アメリカ合衆国と中華人民共和国との協力・同盟関係を維持しながら、カシミール問題で激しく争うインドに対抗するのがパキスタンの外交政策の全体的傾向とされる。中央条約機構や東南アジア条約機構の存続期間などから読みとれる。 なお、現在の国際連合加盟国のうち、パキスタンだけはアルメニアを国家として認めていない。 日本との関係は1958年の外交関係樹立以来おおむね良好であったが、1998年のパキスタンの核実験を機に関係は悪化した。当時の橋本内閣は遺憾の意を表明したうえ、対パキスタン無償資金協力・新規円借款を停止し、その他の援助も見合わせるなどの制裁を行った。 2002年にはムシャラフ大統領が来日した。2005年4月には小泉純一郎首相が日本の首相として5年ぶりにパキスタンを訪問し、核実験以来停止されていた有償資金援助が開始された。 また、貿易収支は日本側の大幅な黒字であり、日本からの投資はインドと比較するとかなり少ない。これは不安定な政治とインフレ経済が嫌われたものである。 独立の経緯以来、インドとの間では緊張関係が継続している。北東部のカシミール地方の所属を巡って1948年に勃発した第一次印パ戦争以来3度の全面戦争(印パ戦争)を経験し、特に1971年の第三次印パ戦争における大敗によって独立運動に呼応したインド軍の侵攻を受けた東パキスタンをバングラデシュとして失うことになった。その後もインドとの間では常に緊張関係が続き、軍事境界線で南北に分断されたカシミールでは両国軍の間で死者を伴う散発的な衝突が日常化していた。 1998年にはインドに対抗してカーン博士の指導のもと地下核実験やミサイル発射実験などを実施した。インドと共に核保有国の一つとなる。 2001年12月、イスラム過激派によるインド国会議事堂襲撃テロが起きると、インド政府はパキスタン軍情報機関の関与を疑って対立が激化。当時のムシャラフ大統領は「インドへの核攻撃も検討した」と回想している。 一方でムシャラフ前政権は南アジア地域協力連合を通じた緊張緩和に努めており、2004年から和平協議がもたれているなど、その成果は徐々に現れてきていた。2008年11月のインド西部ムンバイでの同時爆破テロによって和平協議は一時中断したが、2010年4月、両国首脳がブータンで会談し、外相会談を開催することで合意。公式の対話を再開、維持することを決めた。6月には外務次官級協議と内相会談、7月15日にはインドのクリシュナ外相とパキスタンのクレシ外相会談が、パキスタンのイスラマバードで行われた。そして2011年2月に対話再開で合意している。2018年8月には上海協力機構の合同軍事演習に両国は参加し、インドとパキスタンにとって独立以来初の国連平和維持活動以外での軍事協力となった。 パキスタンは独立以来、アメリカ合衆国の軍事支援を受け入れている。アメリカにとっては非同盟主義のインドと友好関係が深いソビエト連邦への対抗上、またイラン革命を起こしてアメリカと激しく対立するイランの封じ込め策として、パキスタンは重要な支援対象国家である。パキスタン側もこの点は承知しており、クーデターなどで政権交代が起こっても親米路線は堅持されている。しかしながら、近年のテロとの闘いにおいて、米国はパキスタンの一部(特に、部族地域)がタリバンなどの武装勢力の聖域になっていること、パキスタンがそうした武装勢力に対し十分な戦闘や対策を取っておらず、むしろパキスタンの一部(特に、軍統合情報局ISI)はいまだにタリバンなどを非公式に支援していると見られていることに不満を持った。一方でパキスタンは、米国がパキスタン国内での無人機攻撃など主権侵害を継続していることに不満を持ち、両国関係は冷却化した。現在、両国の不信感は根深いものがある。 1990年、東西冷戦の終結が唱えられる中、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ政権はパキスタンによる核開発疑惑を理由に軍事援助を停止したが、1996年にはビル・クリントン政権によって再開されている。 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、米国はパキスタンに対しアル・カーイダをかくまうターリバーンとの関係を断ち米国に協力することを迫った。パキスタンにとってターリバーンはインドとの対抗上重要であったが、ターリバーンを支援し続けることによる国際的孤立を恐れ、また、米国に協力することに伴う経済支援などの見返りを期待し、ムシャラフ大統領は米国への協力を決断した。これに対し、パキスタン国内では反米デモが起こるなどムシャラフ政権は苦しい立場に立たされた。 アフガニスタンに関しては、インドとの対抗上アフガニスタンに親パキスタン政権が存在することが望ましく、1979年に始まったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後、パキスタンは反政府武装勢力ムジャーヒディーンを支援した。ソ連軍撤退後の内戦では、パキスタン軍統合情報局は当初ヘクマティヤール派を支援。それがうまくいかなくなると厳格なイスラム原理主義のターリバーンを育て政権樹立まで強力に支援したといわれている。ターリバーン政権であるアフガニスタン・イスラム首長国と外交関係を持つ3カ国のうちの1つであった。 しかし、ターリバーンがかくまうアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事から始まった2001年のターリバーン政権への攻撃ではムシャラフ政権がアメリカと有志連合諸国支持を表明し、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権からF-16戦闘機供与を含む巨額の軍事・経済援助を受けた。これに対し、イスラム原理主義者をはじめイスラム教徒に対するキリスト教国の攻撃に反感を持つ多くの国民から不満が増大し、パキスタン国内では多くの抗議行動が起こった。また、アフガニスタンを追われたターリバーン勢力は連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン軍やアメリカ軍との戦闘が継続されている。 2010年8月31日、パキスタン軍機がアフガニスタン国境付近(パキスタン北部カイバル・パクトゥンクワ州ペシャーワルなど)の部族地域を空爆し、イスラム過激派が少なくとも30人死亡。過激派の隠れ家や訓練施設、自爆テロに使用する予定の車両8台も破壊したと同国治安当局者が語った。 2011年5月1日、首都イスラマバード郊外の住居でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊SEALsに急襲された。ビンラーディンは頭部を撃たれ死亡、遺体は米軍により確保されたとオバマ米大統領より発表された。 サウジアラビアはイスラム世界最大の友好国とされ、北イエメン内戦ではパキスタン軍が派遣され、イラン・イラク戦争の過程でサウジアラビアには2万人から7万人ともされるパキスタン軍が駐留することになった。1976年には世界最大級のモスクであるファイサル・モスクが寄贈された。また、パキスタンの核開発計画の資金源だったともされ、クーデターで追われたナワーズ・シャリーフの亡命も受け入れた。 2015年にサウジアラビアがイスラム協力機構の条約を根拠にイスラム圏34カ国と対テロ連合イスラム軍事同盟(英語版)を発足させた際は、初代最高司令官に前パキスタン陸軍参謀長のラヒール・シャリフ(英語版)を任命した。2019年2月にムハンマド・ビン・サルマーン皇太子がパキスタンを訪れた際は中国の専用機と同様に搭乗機がパキスタン空軍のJF-17にエスコートされており、グワーダルで製油所建設なども行っている。 パキスタンは一貫してアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフに対する立場およびトルコのキプロスに対する立場を支持しており、両国もパキスタンによるカシミールへの主権を支持している。2020年のナゴルノ・カラバフ戦争以降、パキスタンはトルコとアゼルバイジャンに急速に接近し、2021年には三か国連合軍事演習が行われた。 中華人民共和国との関係も深く、上海協力機構の加盟国でもある。中国とはインドへの対抗で利害が一致して印パ戦争で支援国だった他、米中の接近をもたらしたニクソン大統領の中国訪問を仲介したり、ミサイル・核技術の供与、戦車と戦闘機と軍艦の共同開発など軍事協力を幅広く行い、パキスタン初の人工衛星バドルの打ち上げや原子力発電所、パキスタン初の地下鉄ラホール・メトロ(英語版)の建設も支援された。このような両国の同盟関係を「全天候型戦略的パートナーシップ」関係(中国語:全天候战略合作伙伴关系)と呼ばれている。2011年5月にウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタン国内で殺害されて以降米国との関係は悪化しており、中国との関係は近年さらに緊密なものとなっている。パキスタンの中国への急接近は南アジアでの中国の影響力拡大を懸念する米国への牽制との見方もある。2015年の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では派遣されたパキスタン軍が天安門広場を行進した。 また、ギルギット・バルティスタンと中国の新疆ウイグル自治区との間はカラコルム・ハイウェイで結ばれており、トラック輸送による国境貿易が行われている。中国とパキスタンの間では自由貿易協定が締結されており、パキスタンは安い中国製品を多く輸入し、多数の中国企業が進出している。逆にパキスタンの最大の輸出相手は中国である。両国は更に、カラコルム・ハイウェイからアラビア海に面して中国の軍事利用を懸念されているグワーダル港までの約3,000kmで道路・鉄道、発電所などを整備する「中パ経済回廊」(CPEC)計画を進めている。事業費4600億ドルは大半を中国が融資する。CPECは過激派の活動地域も含むため、2016年にパキスタン軍はラヒール・シャリフ陸軍参謀長が指揮するCPECプロジェクト警備専門の特別治安部隊(SSD)を創設した。CPECは中国が進める「一帯一路」と、対インド包囲網「真珠の首飾り戦略」の一部でもある。 中国とのビジネスが拡大していることから、パキスタン国内では中国語ブームが起きている。イスラマバード市内の私立高校では中国語を必修科目に導入し、パキスタン企業の間でも中国語研修を行う企業が増えている。パキスタン政府も中国との関係強化と中国企業にパキスタン人を雇用させるというの観点からこうした動きを後押しし、アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領も出身地であるシンド州にある全ての小中学校で、2011年から2年以内に英語、ウルドゥー語、アラビア語、シンド語に次いで中国語も必修科目に義務づけると発表した。しかし、教育現場の混乱や生徒への負担、中国語を教える教師の数が不足していることなどを理由にシンド州教育省は中国語を必修では無く、選択科目として緩やかに導入していくことで計画を修正している。 ソ連のアフガニスタン侵攻で、パキスタンはアメリカ、中国、サウジアラビアとともにソ連と戦うムジャーヒディーンを支援した(サイクロン作戦)。ソビエト連邦はアフガン撤退の直後に崩壊。ロシア連邦となってからは同じ上海協力機構の加盟国にもなったこともあって関係が改善し、2016年にはパキスタン領内でロシア連邦軍と初の合同軍事演習を実施した。 陸軍、海軍、空軍のほか、沿岸警備隊(英語版)、さらに国境警備、治安維持用の準軍事組織である『民間軍隊(英語版)』(CAF)を有する。印パ戦争・カシミール紛争が繰り返されたことからインドと軍事的な対立関係にある。 パキスタンは核拡散防止条約(NPT)に加盟しておらず、1998年の核実験以後は核兵器を保有している。 世界軍事力ランキング2022では10位内に入っている。 中国との結びつきが大きい。 国土の北部には世界の屋根カラコルム山脈とヒンズークシ山脈が連なり、K2(標高8,611m)とナンガ・パルバット(標高8,126m)がそびえる。 国の中央を南北に走るのはスライマン山脈である。アフガニスタン国境はカイバル峠、インドとの国境には大インド砂漠(タール砂漠)が広がり、その南にはカッチ大湿地が分布する。 北部高地からアラビア海(インド洋)に流れ出すインダス川は流域に主要な平野(北のパンジャブ、南のシンド)を形成する。 パキスタンには四季があり、12月から2月が冷涼乾燥な冬、3月から5月が高温乾燥の春、6月から9月が高温多雨・モンスーンの夏、10月から11月が移行期の秋である。この時期は地域によって若干異なり、洪水と旱魃がしばしば生じる。 気候は、中南部が砂漠気候 (BW)、北部がステップ気候 (BS)、北部山岳地帯が温帯夏雨気候 (Cw) となっている。国花はジャスミンである。 2005年10月8日、パキスタン北東部カシミール地方・インド国境付近を震源とするマグニチュード7.8の大地震が発生し、死者9万人以上の大災害となった。カシミール地方を中心に被害が相次いだほか、首都イスラマバードでも高層アパートが崩壊した。 2010年7月末、カイバル・パクトゥンクワ州で大規模な洪水が起こり、パンジャブ州、シンド州にも広がった。被災者1400万人、死者1200人以上の大災害になっており、少なくとも200万人が家庭を失っている。国連人道問題調整事務所(OCHA)は、被災地の一部では下痢などの疾病が広がっているとしている。欧米メディアが2010年8月16日、大規模な洪水により飲料水が汚染され、伝染病の流行の可能性が高まり、約350万人の子どもが感染の危機にさらされていると国連人道問題調整事務所(OCHA) の報道官の話として報道した。 北澤俊美防衛大臣は8月20日夕方、国際緊急援助隊派遣法に基づく派遣命令を発出した。8月23日以降陸上自衛隊第4師団を主力とした部隊が派遣され、復興活動を行った。10月10日(現地時間)をもって活動終結。 7月の洪水で、国土(79.6万平方キロ)の約2割が被害を受け、死者約2千人、家屋174万軒損壊(国家災害管理庁)た。12月時点でも一部地域が冠水している。シンド州の約4200平方キロ(福井県に相当)が冠水19万人が国内避難民と成っている。 2022年8月、モンスーン(雨季)の影響で大洪水となり、国土の3分の1が水没した。死者は1100人超。経済損失は100億ドル超。 4つの州と、1つの連邦直轄地区に分かれる。 その他、カシミール地方におけるパキスタンの実効支配領域は、2つの行政区に分かれる。 人口100万人以上の都市が10都市ある。首都イスラマバードは人口順では9番目に位置する。 IMFの統計によると、2013年のパキスタンのGDPは2,387億ドル。一人当たりのGDPは1,307ドルであり、世界平均のおよそ10%の水準である。 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は9710万人と推定されており、国民の半数を超えている。 パキスタン証券取引所のナディーム・ナクビ社長は、パキスタンはGDPの需要面が十分補足できておらず、「実際の1人当たりGDPは2200ドルはある」「人口2億人弱のうち4000万~4500万人を中間層が占める」と語っている。 主要産業は、農業や綿工業。特にパンジャーブ地方で小麦の生産が盛んで世界生産量第6位である。輸出品としては米がトップで輸出の11.2%を占め、ついで綿布、ニット、ベッドウェア、綿糸、既製服といった繊維製品が続く。また、中国が一帯一路政策の要として、パキスタン国内を鉄道・道路・港湾などで結ぶ中パ経済回廊(CPEC)建設を進めているため、セメントや鉄鋼の生産が増えている。 2011年に、パキスタン政府はインドとの交易関係を正常化し、インドへの貿易上の「最恵国待遇」付与を目指す方針を明らかにした。インドは1996年にパキスタンに同待遇を付与している。また、インドが含まれるBRICsの次に経済の急成長が期待できるNEXT11のうちの一つでもある。IMFによる3年間の財政支援は2016年9月に終了した。国民の多くは貧しく、テロの頻発など治安もとても悪いが、人口増加率が高いため労働力や消費者となる若年層が多い。このため今後経済的に期待できる国といえ、コカ・コーラや味の素など飲食品・消費財メーカーが進出している。 通貨はパキスタン・ルピー(1ルピー=100パイサ、硬貨の種類は5パイサ、10パイサ、25パイサ、50パイサ、1ルピー、5ルピーの6種類、紙幣は、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ルピー、1000ルピー、5000ルピーの8種類)。 アユーブ・カーン政権下では年平均5%で成長し、多くの水力発電所を建設、「国家資本主義」と称した経済自由化政策は成功を収めた。また、アユーブは緑の革命を通じた緑化推進政策を実行。農地改革や農民への補助金支給で食糧供給に尽力した。しかし、1973年から始まったブットー政権下では国家資本主義の体制を否定、社会主義的な経済政策を打ち出し、電力や外国資本の国有化を断行した。しかし、官僚主義が蔓延すると共に汚職がはびこり、資本逃避による成長の鈍化が開始。1978年、陸軍大佐であったジア=ウル・ハクが無血のクーデターを決行。ジアは経済の自由化と新自由主義的な経済改革を行い、同時に経済のイスラム化も行った。 ジアの死後、ナワーズ・シャリーフ首相やベナジル・ブットー首相はいずれも自由化、民営化政策に賛成していたが、停滞は顕著に表れた。パルヴェーズ・ムシャラフ政権以降はこの停滞を克服し、2002~2007年にかけて成長が加速。いまだ低い識字率に悩まされるパキスタンにおいて、小学校への入学者数は増加し、債務対GDP比は100%から55%に低下した。同時に外貨準備高も1999年10月の12憶米ドルから、2004年6月30日には107憶米ドルに増加。2008年、ムシャラフが国内の反政府デモに対処できず辞任すると、人民党は再び党勢を建て直し、国政を支配。スタグフレーションの時代が到来し経済は再び低迷した。 2013年、シャリーフが再び首相の座に返り咲くと、エネルギー不足、インフレ、多額の債務、巨額の財政赤字によって機能不全に陥った経済を引き継ぐために復帰した。治安改善や原油価格の低下、送金の増加により、パキスタン経済は再び勢いづいた。国際通貨基金による融資プログラムは2016年9月に終了した。 2022年のウクライナ侵攻による国際的な原油価格の上昇により、パキスタンの外貨準備高は枯渇気味となった。不十分なガバナンス、一人当たりの生産性の低さ、2022年のパキスタン洪水が重なった事で、IMFから60億ドルの救済協定を再開するよう説得するために必死の措置を講じた。 日本の自動車メーカーが複数進出して製造販売を行っている。スズキは、1975年に国営会社を通じて自動車の生産を開始した後、1982年、現地合弁会社パックスズキ社を立ち上げてパキスタンへの本格参入。フロンテやキャリイなどの現地モデルの生産を始めた。2007年10月には、二輪車の現地代理店と合併する形で二輪車の生産販売も始めた。2009年には国内の自動車累計生産台数100万台を達成している。トヨタ自動車は、現地合弁会社インダス・モーター社を1989年に設立。カローラやハイラックスの生産を始め、2012年に生産累計50万台を達成した。本田技研工業は、1992年より現地合弁会社のアトラスホンダ社を設立し二輪車の生産販売を開始。1994年には、四輪車生産を目的とした合弁会社ホンダアトラスカーズを立ち上げて、シビックなどの生産を行っている。2016年累計生産台数30万台を達成。 日産自動車は、カラチに現地工場を建設。1997年、現地法人ガンダーラ日産の手によりノックダウン生産によりサニーの生産を始めた。2010年代に一旦閉鎖されたが、2020年初頭を目途にピックアップトラックの生産を開始することが発表している。 主な観光名所には、モヘンジョ・ダロとハラッパー遺跡、ヒマラヤの避暑地が存在する。 パキスタンは欧州原子核研究機構(CERN)の準加盟国であり、その地位を取得している数少ない国の1つともなっている。 パキスタンの総人口は、2022年現在で2億2,200万人である。2003年以降の人口増加が顕著なのは、戦闘が続く隣国のアフガニスタンからの難民が急増したためと見られ、その数は累計で約600万人と言われる。さらに出生率も高く、国連の推計では2050年には3億4,000万人にまで増加し、インドネシアとブラジルを抜き、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。 2017年には、1998年以来19年ぶりとなる国勢調査が行われ、パキスタン本土の人口は"2億777万4520人"であり前回比で57%も増加した。さらに2017年の国勢調査では、1998年の国勢調査では対象外地域だったアザド・カシミールや、ギルギット・バルティスタンも国勢調査の対象となっており、それらの地域を含めた人口は"2億1274万2631人"であった。 182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年) パンジャーブ人56%(60%とも)、パシュトゥーン人16%(13%とも)、シンド人(英語版)13%、バローチ人4%、カラシュ人など。 ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)に加え、パンジャーブ語、シンド語、カシミール語、コワール語といったインド語群のほか、イラン語群のパシュトー語およびバローチー語、ドラヴィダ語族のブラーフーイー語、孤立した言語ブルシャスキー語などがある。 現行の1973年憲法251条はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、15年以内に英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2020年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にするパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れており、さらに南部でウルドゥー語を母語とするムハージル人(英語版)(パキスタン独立時にインドから逃れてきた難民の子孫)とシンド語を母語とするシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。 結婚時に妻は結婚前の姓をそのまま用いること(夫婦別姓)も、夫の姓に変えること(夫婦同姓)も可能。イスラム法では夫の姓に変えることを求めておらず、イスラム系住民は婚前の姓をそのまま用いることが多い。 イスラム教97%(国教)、ヒンドゥー教1.5%、キリスト教1.3%、ゾロアスター教0.2%など、ほかにシク教徒やアニミストも存在している。 正教古儀式派 の最大教派であるロシア正教古儀式派教会の教区が2016年から存在している。 ゾロアスター教の信者は10万人程で、地方によってはカースト制度なども残っている。 初等教育から高等教育にかけて、全て国語であるウルドゥー語で授業を行う。但し、高等教育の入学試験は英語で行われている。イスラーム学、ウルドゥー語、英語、パキスタン学(英語版)、社会、理科、数学などが主な教科で、音楽教育はなく、歴史教育もイスラーム王朝やムガル帝国についてなど断片的なものに留まる。イスラーム学に重点が置かれており、ジハードについては特に学習されるべきとしている。カレッジでは、イスラーム学、パキスタン学、経済、軍事教育が必修。 就学率は初等教育で男子が83%・女子が71%、中等教育では男子が50%・女子が40% (2016年).10歳以上の識字率は62.3% (2017/2018)となっている。 クエイド・イ・アザム大学(英語版)など、国際的に有力な大学が存在している。 パキスタンはスリなどの窃盗被害が多く、武装強盗団による強盗や偽警官による詐欺事件が後を絶たないことが問題となっている。 また同国ではテロ事件が相次いで発生しており、その発生件数が2009年(2,586件(死者3,021人))をピークに減少傾向にあった中、2014年12月に発生したペシャワールにおける学校襲撃事件を受けたことから常に臨戦態勢が執られている。 近年は再びテロ事件が減少傾向にあるが、情勢の変化次第では危険性が大きくなることは勿論、他の犯罪事件と併せた形で被害を多重に受ける恐れがある可能性も出て来ることを留意しなければならない。 パキスタンの警察機関は7つ存在している。中でも国内4州(パンジャーブ州、カイバル・パクトゥンクワ州、シンド州、バローチスターン州)にはそれぞれ独自の警察組織があり、この警察組織はその地域における優先課題に合わせて設立され、独自で専門化された精鋭部隊が組織されている点が特徴である。 一例としてパンジャーブ州警察には『 精鋭警察(英語版)』と呼ばれるコマンドー部隊や『ドルフィン・ フォース』(Dolphin Force)と呼ばれる街頭犯罪に特化した精鋭部隊が設立されている。 法律とは別に保守的な慣習が根強く存在しており、主に婚前交渉を行った女性を家族の名誉を汚したとして処刑する名誉の殺人は珍しくないとされる。2011年度は、900人を超える女性が「家族に恥をもたらした」などの理由で殺されている。「パキスタン人権委員会」の調査によると、2015年で987件の名誉の殺人が発生し、1000人以上が殺害されたという。2016年に名誉の殺人を厳罰化する新法が制定された後も、2016年10月から2017年6月までの間に少なくとも280件の名誉殺人が発生するなど、大勢の若い女性が、家族に恥をもたらしたという理由で親族に殺害されている。男性も対象となることはあるが、犠牲者は女性が圧倒的に多く、中には婚前交渉など無くとも、単に「男性を見た」という理由だけで発生する殺人もある。 著名な遺跡として世界遺産になっているインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの都市遺跡がある。ほかに標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。 パキスタン国内にはアジア最初のビール醸造所として知られるマリー醸造所(英語版)(マリー・ブルワリー)があり、非ムスリム向けにマリービール(英語版)が製造されている。フンザ地方においては、ワインがよく飲まれている。 古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリーの大歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。 パキスタンの映画は『ロリウッド(英語版)』と呼ばれることでも有名である。「ロリウッド」という単語は「ラホール」と「ハリウッド」の鞄語で、元々はグラマー誌のゴシップコラムニストであるサリーム・ナシル(Saleem Nasir)によって1989年に考案された言葉だが、通常は南アジア映画(英語版)において他の映画産業と比較する目的での用語として使用されている。 伝統衣装にはサルワール・カミーズと呼ばれる上下一対の被服が知られている。 パキスタンの建築は、インド亜大陸の建築文化と絡み合って構成されたもので占められている。独立後のパキスタンにおける建築は、歴史的なイスラム様式建築と様々な現代様式建築が融合したものとなっている点が特徴である。 また、国民の大半がムスリムであることからイスラム教の建築物の代表であるモスクも多数存在する。 パキスタン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。 パキスタンではクリケットが最も人気のスポーツである。1947年の独立から5年後の1952年、パキスタンは国際クリケット評議会の正会員となり、テスト・クリケットを行う権利を得た。パキスタンの最初のテストマッチは、1955年のデリーで行われたインド戦である。クリケットパキスタン代表は、1992年に行われたクリケット・ワールドカップで初優勝し、2009年にはICC T20ワールドカップで初優勝した。2017年にはICCチャンピオンズトロフィーを獲得した。特にライバルであるインド代表との一戦は大変な盛り上がりとなる。イムラン・カーンやワシム・アクラムは歴代のパキスタンを代表する選手であり、世界のクリケットの歴史においても有数の選手とされる。なお、カーンは第23代パキスタンの首相を務めた。2016年にはトゥエンティ20方式のプロリーグであるパキスタン・スーパーリーグが開幕した。 サッカーもパキスタンでは人気のスポーツとなっており、2004年にプロサッカーリーグの「パキスタン・プレミアリーグ」が創設された。しかしクラブチームは少なく、大半は公的機関や企業のチームである。このため、実質的にはセミプロ的体裁とも言える。パキスタンサッカー連盟(PFF)によって構成されるサッカーパキスタン代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップには未出場である。代表選手にはカリーム・ウラーがおり、2015年にUSLチャンピオンシップ(USLC)のサクラメント・リパブリックに移籍した。これによりウラーは、アメリカ合衆国のプロサッカークラブと契約した最初のパキスタン人選手となった。 パキスタンでは、クリケットやサッカーに次いでホッケーが盛んである。ホッケーパキスタン代表はアジア屈指の強豪国として知られており、過去には1960年ローマオリンピック、1968年メキシコシティーオリンピック、1984年ロサンゼルスオリンピックと、3度オリンピックで金メダルを獲得している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、ウルドゥー語: اِسْلامی جَمْہُورِیَہ پَاکِسْتَان)、通称パキスタンは、南アジアに位置する連邦共和制国家である。東にインド、西にアフガニスタン、南西にイラン、北東に中華人民共和国と国境を接している。北はアフガニスタンのワハーン回廊でタジキスタンと狭く隔てられており、オマーンとも海上で国境を接している。首都はイスラマバード。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "パキスタンの2023年の人口は2億2200万人であり、インド、中国、アメリカ、インドネシア 、ブラジルに次いで世界第6位となっている。また、世界で2番目にイスラム教徒の多い国でもある。面積は88万1913平方キロメートルで、世界で33番目に大きな国である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "同国には、8500年前の新石器時代の遺跡であるバローチスタンのメヘルガル遺跡や、旧世界の文明の中でも最も大規模な青銅器時代のインダス文明など、いくつかの古代文化の遺跡がある。現代のパキスタンを構成する地域は、アケメネス朝、アレキサンダー大王の時代、セレウコス朝、マウリヤ朝、クシャン朝、グプタ朝、南部のウマイヤ朝、ヒンドゥー・シャーヒー、ガズナ朝、デリー・スルターン朝、ムガール帝国、ドゥッラーニー帝国、シク帝国、英国東インド会社の支配、そして最近では1858年から1947年までの英領インド帝国など、複数の帝国や王朝の領域であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "パキスタンは、英領インドのイスラム教徒の祖国を求めるパキスタン運動と、1946年の全インド・ムスリム連盟の選挙での勝利により、1947年に英領インド帝国の分割を経て独立した。この分割では、イスラム教徒の多い地域に独立した州が与えられ、比類のない大規模な移民と犠牲者が出た。当初はイギリス連邦の自治領であったパキスタンは、1956年に正式に憲法を制定し、イスラム共和国として宣言した。1971年には、政治中枢を寡占する旧西パキスタンとの対立を深めた東パキスタンが、9か月間の内戦を経て新国家バングラデシュとして独立した。その後40年間、パキスタンは文民と武官、民主主義と権威主義、比較的世俗的な政府とイスラム主義の政府によって統治されてきたが、その内容は複雑である。2008年に文民政権が誕生し、2010年には定期的に選挙が行われる議会制を採用した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現今においてパキスタンはミドルパワー(中堅国家)であり、2022年時点で世界第9位の常備軍を有している。核兵器保有国として宣言されており、急速に成長している大規模な中産階級を擁し、新興経済国の中でも成長率の高い国として位置づけられている。独立後のパキスタンの政治的歴史は、経済的・軍事的に大きく成長した時期と、政治的・経済的に不安定な時期の両方を特徴としている。パキスタンは、民族的にも言語的にも多様な国であり、地理的にも野生動物も同様に多様である。しかし、貧困、非識字、汚職、テロなどの問題を抱えている。パキスタンは、国連、上海協力機構、イスラム協力機構、英国連邦、南アジア地域協力連合、イスラム軍事テロ対策連合に加盟しており、米国からは非NATOの主要同盟国に指定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "正式名称は、اسلامی جمہوریہ پاكستان(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国名「パキスタン」は、ウルドゥー語とペルシア語で「清浄な国」を意味する。پاک(パーク)が「清浄な」の意味である。接尾語ـستان (スターン)は、ペルシャ語で「〜の場所」を意味し、サンスクリットのस्थान(スターナ)と同語源である。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "パキスタンという国名は、イギリス領インドのうちムスリム(イスラム教徒)が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリー(英語版)による1933年の小冊子『パキスタン宣言(英語版)』の中で初めて使われたものである。アリーは、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANから\"Pakstan\"(パクスタン)としていたが、後に、発音しやすくするために\"i\"が加えられて\"Pakistan\"(パキスタン)となった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1947年8月14日にイギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂く自治領(英連邦王国パキスタン (ドミニオン))となり、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任する。同年10月21日から翌1948年12月31日にかけてカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が起き、1956年には共和制に移行し、イスカンダル・ミールザー(英語版)が初代大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1958年のクーデターでミールザー大統領が失脚し(en:1958 Pakistani coup d'état)、パキスタン軍の総司令官だったアイユーブ・ハーンの軍事独裁政権が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。1965年には第二次印パ戦争が起き、1970年11月に東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。尚、この過程においてヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプや虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1972年、イギリス連邦を脱退し、パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりブットーは職を追われ、後に処刑されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権が核実験「シャクティ作戦」を実施した。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1999年10月12日の無血クーデター(英語版)でナワーズ・シャリーフ首相から実権を奪取したパルヴェーズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、2004年には復帰した。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2007年7月、イスラム神学生によるパキスタン・モスク立てこもり事件が発生した。同年10月にはパキスタン大統領選挙(英語版)が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所(英語版)のイフティカル・ムハンマド・チョードリー(英語版)と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。一方、米国の支援を受けて11月に元首相ベーナズィール・ブットーが帰国したが、12月27日に演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。2007年、またもイギリス連邦の参加資格を停止されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙(英語版))。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員などによる間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国民党(ANP)などがある。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙(英語版)が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。 2010年、パキスタン洪水が発生。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。 11月26日、国際治安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所(英語版)がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ(英語版)が就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2013年5月13日のパキスタン下院総選挙(英語版)でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派(PML-N)が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に、大統領にはマムヌーン・フセインが就任した。ナワーズ・シャリーフ首相は2016年4月3日に発表されたパナマ文書に名前が登場したことで、2018年4月13日に最高裁判所から公職永久追放の決定を下され、同年7月6日に汚職罪で禁錮10年の有罪判決を言い渡され収監された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2018年9月4日のパキスタン総選挙で反腐敗を掲げたパキスタン正義運動(PTI)は小選挙区で延期された2議席を除いた270議席のうち改選前31議席から116議席に躍進し、同党のイムラン・カーン(PTI議長)が首相に、歯科医のアリフ・アルヴィが大統領に就任した。2022年4月10日、パキスタン下院は経済不振を理由としてカーン首相に対する不信任決議案を賛成多数で可決した。不信任決議での首相失職は同国では初めてである。首相にはナワーズ・シャリーフの弟のシャバズ・シャリーフ(PML-N党首)が議会によって選出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "4つの州と、連邦首都イスラマバードから成る連邦共和国である。議院内閣制を採用しているが、インドとの対立関係のため伝統的に軍部の力が強く、対照的に政党の力は弱い。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "独立以来クーデターが繰り返され、政局は常に不安定である。地方においては部族制社会の伝統が根強く、特に旧連邦直轄部族地域にその傾向が著しい。また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。旧連邦直轄部族地域ではかつて、大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨憲法で規定されるなど、強い自治権が与えられていた。法律に代わるものとしてパシュトゥン・ワリというパシュトゥン民族の慣習法が適用されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国家元首は大統領で、任期は5年。選挙人団によって間接的に選出されることとなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "パキスタンは守旧的イスラームに基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を行うことを宣言し、イスラム法の強い影響を受けた法を施行するという点でイスラム国家としての色彩が強い。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "パキスタンは死刑存置国であり、2014年6月、スイス・ジュネーブで開催された国連人権理事会の会合において提出された「死刑制度のある国に死刑囚の権利保護を求める決議案」に日本、中国、インド、サウジアラビアなどとともに反対するなど死刑維持の姿勢を取っているが、一方で2009年以降、国法上の死刑の執行自体は凍結していた。しかし2014年12月、北西部のペシャワルで軍が運営する学校をイスラム過激派反政府武装勢力「パキスタン・ターリバーン運動(TTP)」が襲撃し、教師・児童・生徒ら140名以上が殺害されるテロ事件が起こったことを受け、ナワーズ・シャリーフ首相は死刑執行凍結措置を解除し、執行を再開した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "独立以来、アメリカ合衆国と中華人民共和国との協力・同盟関係を維持しながら、カシミール問題で激しく争うインドに対抗するのがパキスタンの外交政策の全体的傾向とされる。中央条約機構や東南アジア条約機構の存続期間などから読みとれる。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、現在の国際連合加盟国のうち、パキスタンだけはアルメニアを国家として認めていない。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本との関係は1958年の外交関係樹立以来おおむね良好であったが、1998年のパキスタンの核実験を機に関係は悪化した。当時の橋本内閣は遺憾の意を表明したうえ、対パキスタン無償資金協力・新規円借款を停止し、その他の援助も見合わせるなどの制裁を行った。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2002年にはムシャラフ大統領が来日した。2005年4月には小泉純一郎首相が日本の首相として5年ぶりにパキスタンを訪問し、核実験以来停止されていた有償資金援助が開始された。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、貿易収支は日本側の大幅な黒字であり、日本からの投資はインドと比較するとかなり少ない。これは不安定な政治とインフレ経済が嫌われたものである。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "独立の経緯以来、インドとの間では緊張関係が継続している。北東部のカシミール地方の所属を巡って1948年に勃発した第一次印パ戦争以来3度の全面戦争(印パ戦争)を経験し、特に1971年の第三次印パ戦争における大敗によって独立運動に呼応したインド軍の侵攻を受けた東パキスタンをバングラデシュとして失うことになった。その後もインドとの間では常に緊張関係が続き、軍事境界線で南北に分断されたカシミールでは両国軍の間で死者を伴う散発的な衝突が日常化していた。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1998年にはインドに対抗してカーン博士の指導のもと地下核実験やミサイル発射実験などを実施した。インドと共に核保有国の一つとなる。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2001年12月、イスラム過激派によるインド国会議事堂襲撃テロが起きると、インド政府はパキスタン軍情報機関の関与を疑って対立が激化。当時のムシャラフ大統領は「インドへの核攻撃も検討した」と回想している。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一方でムシャラフ前政権は南アジア地域協力連合を通じた緊張緩和に努めており、2004年から和平協議がもたれているなど、その成果は徐々に現れてきていた。2008年11月のインド西部ムンバイでの同時爆破テロによって和平協議は一時中断したが、2010年4月、両国首脳がブータンで会談し、外相会談を開催することで合意。公式の対話を再開、維持することを決めた。6月には外務次官級協議と内相会談、7月15日にはインドのクリシュナ外相とパキスタンのクレシ外相会談が、パキスタンのイスラマバードで行われた。そして2011年2月に対話再開で合意している。2018年8月には上海協力機構の合同軍事演習に両国は参加し、インドとパキスタンにとって独立以来初の国連平和維持活動以外での軍事協力となった。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "パキスタンは独立以来、アメリカ合衆国の軍事支援を受け入れている。アメリカにとっては非同盟主義のインドと友好関係が深いソビエト連邦への対抗上、またイラン革命を起こしてアメリカと激しく対立するイランの封じ込め策として、パキスタンは重要な支援対象国家である。パキスタン側もこの点は承知しており、クーデターなどで政権交代が起こっても親米路線は堅持されている。しかしながら、近年のテロとの闘いにおいて、米国はパキスタンの一部(特に、部族地域)がタリバンなどの武装勢力の聖域になっていること、パキスタンがそうした武装勢力に対し十分な戦闘や対策を取っておらず、むしろパキスタンの一部(特に、軍統合情報局ISI)はいまだにタリバンなどを非公式に支援していると見られていることに不満を持った。一方でパキスタンは、米国がパキスタン国内での無人機攻撃など主権侵害を継続していることに不満を持ち、両国関係は冷却化した。現在、両国の不信感は根深いものがある。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1990年、東西冷戦の終結が唱えられる中、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ政権はパキスタンによる核開発疑惑を理由に軍事援助を停止したが、1996年にはビル・クリントン政権によって再開されている。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、米国はパキスタンに対しアル・カーイダをかくまうターリバーンとの関係を断ち米国に協力することを迫った。パキスタンにとってターリバーンはインドとの対抗上重要であったが、ターリバーンを支援し続けることによる国際的孤立を恐れ、また、米国に協力することに伴う経済支援などの見返りを期待し、ムシャラフ大統領は米国への協力を決断した。これに対し、パキスタン国内では反米デモが起こるなどムシャラフ政権は苦しい立場に立たされた。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アフガニスタンに関しては、インドとの対抗上アフガニスタンに親パキスタン政権が存在することが望ましく、1979年に始まったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後、パキスタンは反政府武装勢力ムジャーヒディーンを支援した。ソ連軍撤退後の内戦では、パキスタン軍統合情報局は当初ヘクマティヤール派を支援。それがうまくいかなくなると厳格なイスラム原理主義のターリバーンを育て政権樹立まで強力に支援したといわれている。ターリバーン政権であるアフガニスタン・イスラム首長国と外交関係を持つ3カ国のうちの1つであった。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "しかし、ターリバーンがかくまうアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事から始まった2001年のターリバーン政権への攻撃ではムシャラフ政権がアメリカと有志連合諸国支持を表明し、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権からF-16戦闘機供与を含む巨額の軍事・経済援助を受けた。これに対し、イスラム原理主義者をはじめイスラム教徒に対するキリスト教国の攻撃に反感を持つ多くの国民から不満が増大し、パキスタン国内では多くの抗議行動が起こった。また、アフガニスタンを追われたターリバーン勢力は連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン軍やアメリカ軍との戦闘が継続されている。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2010年8月31日、パキスタン軍機がアフガニスタン国境付近(パキスタン北部カイバル・パクトゥンクワ州ペシャーワルなど)の部族地域を空爆し、イスラム過激派が少なくとも30人死亡。過激派の隠れ家や訓練施設、自爆テロに使用する予定の車両8台も破壊したと同国治安当局者が語った。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2011年5月1日、首都イスラマバード郊外の住居でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊SEALsに急襲された。ビンラーディンは頭部を撃たれ死亡、遺体は米軍により確保されたとオバマ米大統領より発表された。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "サウジアラビアはイスラム世界最大の友好国とされ、北イエメン内戦ではパキスタン軍が派遣され、イラン・イラク戦争の過程でサウジアラビアには2万人から7万人ともされるパキスタン軍が駐留することになった。1976年には世界最大級のモスクであるファイサル・モスクが寄贈された。また、パキスタンの核開発計画の資金源だったともされ、クーデターで追われたナワーズ・シャリーフの亡命も受け入れた。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2015年にサウジアラビアがイスラム協力機構の条約を根拠にイスラム圏34カ国と対テロ連合イスラム軍事同盟(英語版)を発足させた際は、初代最高司令官に前パキスタン陸軍参謀長のラヒール・シャリフ(英語版)を任命した。2019年2月にムハンマド・ビン・サルマーン皇太子がパキスタンを訪れた際は中国の専用機と同様に搭乗機がパキスタン空軍のJF-17にエスコートされており、グワーダルで製油所建設なども行っている。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "パキスタンは一貫してアゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフに対する立場およびトルコのキプロスに対する立場を支持しており、両国もパキスタンによるカシミールへの主権を支持している。2020年のナゴルノ・カラバフ戦争以降、パキスタンはトルコとアゼルバイジャンに急速に接近し、2021年には三か国連合軍事演習が行われた。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "中華人民共和国との関係も深く、上海協力機構の加盟国でもある。中国とはインドへの対抗で利害が一致して印パ戦争で支援国だった他、米中の接近をもたらしたニクソン大統領の中国訪問を仲介したり、ミサイル・核技術の供与、戦車と戦闘機と軍艦の共同開発など軍事協力を幅広く行い、パキスタン初の人工衛星バドルの打ち上げや原子力発電所、パキスタン初の地下鉄ラホール・メトロ(英語版)の建設も支援された。このような両国の同盟関係を「全天候型戦略的パートナーシップ」関係(中国語:全天候战略合作伙伴关系)と呼ばれている。2011年5月にウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタン国内で殺害されて以降米国との関係は悪化しており、中国との関係は近年さらに緊密なものとなっている。パキスタンの中国への急接近は南アジアでの中国の影響力拡大を懸念する米国への牽制との見方もある。2015年の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では派遣されたパキスタン軍が天安門広場を行進した。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、ギルギット・バルティスタンと中国の新疆ウイグル自治区との間はカラコルム・ハイウェイで結ばれており、トラック輸送による国境貿易が行われている。中国とパキスタンの間では自由貿易協定が締結されており、パキスタンは安い中国製品を多く輸入し、多数の中国企業が進出している。逆にパキスタンの最大の輸出相手は中国である。両国は更に、カラコルム・ハイウェイからアラビア海に面して中国の軍事利用を懸念されているグワーダル港までの約3,000kmで道路・鉄道、発電所などを整備する「中パ経済回廊」(CPEC)計画を進めている。事業費4600億ドルは大半を中国が融資する。CPECは過激派の活動地域も含むため、2016年にパキスタン軍はラヒール・シャリフ陸軍参謀長が指揮するCPECプロジェクト警備専門の特別治安部隊(SSD)を創設した。CPECは中国が進める「一帯一路」と、対インド包囲網「真珠の首飾り戦略」の一部でもある。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "中国とのビジネスが拡大していることから、パキスタン国内では中国語ブームが起きている。イスラマバード市内の私立高校では中国語を必修科目に導入し、パキスタン企業の間でも中国語研修を行う企業が増えている。パキスタン政府も中国との関係強化と中国企業にパキスタン人を雇用させるというの観点からこうした動きを後押しし、アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領も出身地であるシンド州にある全ての小中学校で、2011年から2年以内に英語、ウルドゥー語、アラビア語、シンド語に次いで中国語も必修科目に義務づけると発表した。しかし、教育現場の混乱や生徒への負担、中国語を教える教師の数が不足していることなどを理由にシンド州教育省は中国語を必修では無く、選択科目として緩やかに導入していくことで計画を修正している。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ソ連のアフガニスタン侵攻で、パキスタンはアメリカ、中国、サウジアラビアとともにソ連と戦うムジャーヒディーンを支援した(サイクロン作戦)。ソビエト連邦はアフガン撤退の直後に崩壊。ロシア連邦となってからは同じ上海協力機構の加盟国にもなったこともあって関係が改善し、2016年にはパキスタン領内でロシア連邦軍と初の合同軍事演習を実施した。", "title": "国際関係・外交政策" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "陸軍、海軍、空軍のほか、沿岸警備隊(英語版)、さらに国境警備、治安維持用の準軍事組織である『民間軍隊(英語版)』(CAF)を有する。印パ戦争・カシミール紛争が繰り返されたことからインドと軍事的な対立関係にある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "パキスタンは核拡散防止条約(NPT)に加盟しておらず、1998年の核実験以後は核兵器を保有している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "世界軍事力ランキング2022では10位内に入っている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "中国との結びつきが大きい。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "国土の北部には世界の屋根カラコルム山脈とヒンズークシ山脈が連なり、K2(標高8,611m)とナンガ・パルバット(標高8,126m)がそびえる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "国の中央を南北に走るのはスライマン山脈である。アフガニスタン国境はカイバル峠、インドとの国境には大インド砂漠(タール砂漠)が広がり、その南にはカッチ大湿地が分布する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "北部高地からアラビア海(インド洋)に流れ出すインダス川は流域に主要な平野(北のパンジャブ、南のシンド)を形成する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "パキスタンには四季があり、12月から2月が冷涼乾燥な冬、3月から5月が高温乾燥の春、6月から9月が高温多雨・モンスーンの夏、10月から11月が移行期の秋である。この時期は地域によって若干異なり、洪水と旱魃がしばしば生じる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "気候は、中南部が砂漠気候 (BW)、北部がステップ気候 (BS)、北部山岳地帯が温帯夏雨気候 (Cw) となっている。国花はジャスミンである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2005年10月8日、パキスタン北東部カシミール地方・インド国境付近を震源とするマグニチュード7.8の大地震が発生し、死者9万人以上の大災害となった。カシミール地方を中心に被害が相次いだほか、首都イスラマバードでも高層アパートが崩壊した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2010年7月末、カイバル・パクトゥンクワ州で大規模な洪水が起こり、パンジャブ州、シンド州にも広がった。被災者1400万人、死者1200人以上の大災害になっており、少なくとも200万人が家庭を失っている。国連人道問題調整事務所(OCHA)は、被災地の一部では下痢などの疾病が広がっているとしている。欧米メディアが2010年8月16日、大規模な洪水により飲料水が汚染され、伝染病の流行の可能性が高まり、約350万人の子どもが感染の危機にさらされていると国連人道問題調整事務所(OCHA) の報道官の話として報道した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "北澤俊美防衛大臣は8月20日夕方、国際緊急援助隊派遣法に基づく派遣命令を発出した。8月23日以降陸上自衛隊第4師団を主力とした部隊が派遣され、復興活動を行った。10月10日(現地時間)をもって活動終結。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "7月の洪水で、国土(79.6万平方キロ)の約2割が被害を受け、死者約2千人、家屋174万軒損壊(国家災害管理庁)た。12月時点でも一部地域が冠水している。シンド州の約4200平方キロ(福井県に相当)が冠水19万人が国内避難民と成っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2022年8月、モンスーン(雨季)の影響で大洪水となり、国土の3分の1が水没した。死者は1100人超。経済損失は100億ドル超。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "4つの州と、1つの連邦直轄地区に分かれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "その他、カシミール地方におけるパキスタンの実効支配領域は、2つの行政区に分かれる。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "人口100万人以上の都市が10都市ある。首都イスラマバードは人口順では9番目に位置する。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2013年のパキスタンのGDPは2,387億ドル。一人当たりのGDPは1,307ドルであり、世界平均のおよそ10%の水準である。 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は9710万人と推定されており、国民の半数を超えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "パキスタン証券取引所のナディーム・ナクビ社長は、パキスタンはGDPの需要面が十分補足できておらず、「実際の1人当たりGDPは2200ドルはある」「人口2億人弱のうち4000万~4500万人を中間層が占める」と語っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "主要産業は、農業や綿工業。特にパンジャーブ地方で小麦の生産が盛んで世界生産量第6位である。輸出品としては米がトップで輸出の11.2%を占め、ついで綿布、ニット、ベッドウェア、綿糸、既製服といった繊維製品が続く。また、中国が一帯一路政策の要として、パキスタン国内を鉄道・道路・港湾などで結ぶ中パ経済回廊(CPEC)建設を進めているため、セメントや鉄鋼の生産が増えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2011年に、パキスタン政府はインドとの交易関係を正常化し、インドへの貿易上の「最恵国待遇」付与を目指す方針を明らかにした。インドは1996年にパキスタンに同待遇を付与している。また、インドが含まれるBRICsの次に経済の急成長が期待できるNEXT11のうちの一つでもある。IMFによる3年間の財政支援は2016年9月に終了した。国民の多くは貧しく、テロの頻発など治安もとても悪いが、人口増加率が高いため労働力や消費者となる若年層が多い。このため今後経済的に期待できる国といえ、コカ・コーラや味の素など飲食品・消費財メーカーが進出している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "通貨はパキスタン・ルピー(1ルピー=100パイサ、硬貨の種類は5パイサ、10パイサ、25パイサ、50パイサ、1ルピー、5ルピーの6種類、紙幣は、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ルピー、1000ルピー、5000ルピーの8種類)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アユーブ・カーン政権下では年平均5%で成長し、多くの水力発電所を建設、「国家資本主義」と称した経済自由化政策は成功を収めた。また、アユーブは緑の革命を通じた緑化推進政策を実行。農地改革や農民への補助金支給で食糧供給に尽力した。しかし、1973年から始まったブットー政権下では国家資本主義の体制を否定、社会主義的な経済政策を打ち出し、電力や外国資本の国有化を断行した。しかし、官僚主義が蔓延すると共に汚職がはびこり、資本逃避による成長の鈍化が開始。1978年、陸軍大佐であったジア=ウル・ハクが無血のクーデターを決行。ジアは経済の自由化と新自由主義的な経済改革を行い、同時に経済のイスラム化も行った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ジアの死後、ナワーズ・シャリーフ首相やベナジル・ブットー首相はいずれも自由化、民営化政策に賛成していたが、停滞は顕著に表れた。パルヴェーズ・ムシャラフ政権以降はこの停滞を克服し、2002~2007年にかけて成長が加速。いまだ低い識字率に悩まされるパキスタンにおいて、小学校への入学者数は増加し、債務対GDP比は100%から55%に低下した。同時に外貨準備高も1999年10月の12憶米ドルから、2004年6月30日には107憶米ドルに増加。2008年、ムシャラフが国内の反政府デモに対処できず辞任すると、人民党は再び党勢を建て直し、国政を支配。スタグフレーションの時代が到来し経済は再び低迷した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2013年、シャリーフが再び首相の座に返り咲くと、エネルギー不足、インフレ、多額の債務、巨額の財政赤字によって機能不全に陥った経済を引き継ぐために復帰した。治安改善や原油価格の低下、送金の増加により、パキスタン経済は再び勢いづいた。国際通貨基金による融資プログラムは2016年9月に終了した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2022年のウクライナ侵攻による国際的な原油価格の上昇により、パキスタンの外貨準備高は枯渇気味となった。不十分なガバナンス、一人当たりの生産性の低さ、2022年のパキスタン洪水が重なった事で、IMFから60億ドルの救済協定を再開するよう説得するために必死の措置を講じた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "日本の自動車メーカーが複数進出して製造販売を行っている。スズキは、1975年に国営会社を通じて自動車の生産を開始した後、1982年、現地合弁会社パックスズキ社を立ち上げてパキスタンへの本格参入。フロンテやキャリイなどの現地モデルの生産を始めた。2007年10月には、二輪車の現地代理店と合併する形で二輪車の生産販売も始めた。2009年には国内の自動車累計生産台数100万台を達成している。トヨタ自動車は、現地合弁会社インダス・モーター社を1989年に設立。カローラやハイラックスの生産を始め、2012年に生産累計50万台を達成した。本田技研工業は、1992年より現地合弁会社のアトラスホンダ社を設立し二輪車の生産販売を開始。1994年には、四輪車生産を目的とした合弁会社ホンダアトラスカーズを立ち上げて、シビックなどの生産を行っている。2016年累計生産台数30万台を達成。 日産自動車は、カラチに現地工場を建設。1997年、現地法人ガンダーラ日産の手によりノックダウン生産によりサニーの生産を始めた。2010年代に一旦閉鎖されたが、2020年初頭を目途にピックアップトラックの生産を開始することが発表している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "主な観光名所には、モヘンジョ・ダロとハラッパー遺跡、ヒマラヤの避暑地が存在する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "パキスタンは欧州原子核研究機構(CERN)の準加盟国であり、その地位を取得している数少ない国の1つともなっている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "パキスタンの総人口は、2022年現在で2億2,200万人である。2003年以降の人口増加が顕著なのは、戦闘が続く隣国のアフガニスタンからの難民が急増したためと見られ、その数は累計で約600万人と言われる。さらに出生率も高く、国連の推計では2050年には3億4,000万人にまで増加し、インドネシアとブラジルを抜き、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2017年には、1998年以来19年ぶりとなる国勢調査が行われ、パキスタン本土の人口は\"2億777万4520人\"であり前回比で57%も増加した。さらに2017年の国勢調査では、1998年の国勢調査では対象外地域だったアザド・カシミールや、ギルギット・バルティスタンも国勢調査の対象となっており、それらの地域を含めた人口は\"2億1274万2631人\"であった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年)", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "パンジャーブ人56%(60%とも)、パシュトゥーン人16%(13%とも)、シンド人(英語版)13%、バローチ人4%、カラシュ人など。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)に加え、パンジャーブ語、シンド語、カシミール語、コワール語といったインド語群のほか、イラン語群のパシュトー語およびバローチー語、ドラヴィダ語族のブラーフーイー語、孤立した言語ブルシャスキー語などがある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "現行の1973年憲法251条はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、15年以内に英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2020年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にするパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れており、さらに南部でウルドゥー語を母語とするムハージル人(英語版)(パキスタン独立時にインドから逃れてきた難民の子孫)とシンド語を母語とするシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "結婚時に妻は結婚前の姓をそのまま用いること(夫婦別姓)も、夫の姓に変えること(夫婦同姓)も可能。イスラム法では夫の姓に変えることを求めておらず、イスラム系住民は婚前の姓をそのまま用いることが多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "イスラム教97%(国教)、ヒンドゥー教1.5%、キリスト教1.3%、ゾロアスター教0.2%など、ほかにシク教徒やアニミストも存在している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "正教古儀式派 の最大教派であるロシア正教古儀式派教会の教区が2016年から存在している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ゾロアスター教の信者は10万人程で、地方によってはカースト制度なども残っている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "初等教育から高等教育にかけて、全て国語であるウルドゥー語で授業を行う。但し、高等教育の入学試験は英語で行われている。イスラーム学、ウルドゥー語、英語、パキスタン学(英語版)、社会、理科、数学などが主な教科で、音楽教育はなく、歴史教育もイスラーム王朝やムガル帝国についてなど断片的なものに留まる。イスラーム学に重点が置かれており、ジハードについては特に学習されるべきとしている。カレッジでは、イスラーム学、パキスタン学、経済、軍事教育が必修。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "就学率は初等教育で男子が83%・女子が71%、中等教育では男子が50%・女子が40% (2016年).10歳以上の識字率は62.3% (2017/2018)となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "クエイド・イ・アザム大学(英語版)など、国際的に有力な大学が存在している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "パキスタンはスリなどの窃盗被害が多く、武装強盗団による強盗や偽警官による詐欺事件が後を絶たないことが問題となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "また同国ではテロ事件が相次いで発生しており、その発生件数が2009年(2,586件(死者3,021人))をピークに減少傾向にあった中、2014年12月に発生したペシャワールにおける学校襲撃事件を受けたことから常に臨戦態勢が執られている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "近年は再びテロ事件が減少傾向にあるが、情勢の変化次第では危険性が大きくなることは勿論、他の犯罪事件と併せた形で被害を多重に受ける恐れがある可能性も出て来ることを留意しなければならない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "パキスタンの警察機関は7つ存在している。中でも国内4州(パンジャーブ州、カイバル・パクトゥンクワ州、シンド州、バローチスターン州)にはそれぞれ独自の警察組織があり、この警察組織はその地域における優先課題に合わせて設立され、独自で専門化された精鋭部隊が組織されている点が特徴である。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "一例としてパンジャーブ州警察には『 精鋭警察(英語版)』と呼ばれるコマンドー部隊や『ドルフィン・ フォース』(Dolphin Force)と呼ばれる街頭犯罪に特化した精鋭部隊が設立されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "法律とは別に保守的な慣習が根強く存在しており、主に婚前交渉を行った女性を家族の名誉を汚したとして処刑する名誉の殺人は珍しくないとされる。2011年度は、900人を超える女性が「家族に恥をもたらした」などの理由で殺されている。「パキスタン人権委員会」の調査によると、2015年で987件の名誉の殺人が発生し、1000人以上が殺害されたという。2016年に名誉の殺人を厳罰化する新法が制定された後も、2016年10月から2017年6月までの間に少なくとも280件の名誉殺人が発生するなど、大勢の若い女性が、家族に恥をもたらしたという理由で親族に殺害されている。男性も対象となることはあるが、犠牲者は女性が圧倒的に多く、中には婚前交渉など無くとも、単に「男性を見た」という理由だけで発生する殺人もある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "著名な遺跡として世界遺産になっているインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの都市遺跡がある。ほかに標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "パキスタン国内にはアジア最初のビール醸造所として知られるマリー醸造所(英語版)(マリー・ブルワリー)があり、非ムスリム向けにマリービール(英語版)が製造されている。フンザ地方においては、ワインがよく飲まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリーの大歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "パキスタンの映画は『ロリウッド(英語版)』と呼ばれることでも有名である。「ロリウッド」という単語は「ラホール」と「ハリウッド」の鞄語で、元々はグラマー誌のゴシップコラムニストであるサリーム・ナシル(Saleem Nasir)によって1989年に考案された言葉だが、通常は南アジア映画(英語版)において他の映画産業と比較する目的での用語として使用されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "伝統衣装にはサルワール・カミーズと呼ばれる上下一対の被服が知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "パキスタンの建築は、インド亜大陸の建築文化と絡み合って構成されたもので占められている。独立後のパキスタンにおける建築は、歴史的なイスラム様式建築と様々な現代様式建築が融合したものとなっている点が特徴である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "また、国民の大半がムスリムであることからイスラム教の建築物の代表であるモスクも多数存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "パキスタン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "パキスタンではクリケットが最も人気のスポーツである。1947年の独立から5年後の1952年、パキスタンは国際クリケット評議会の正会員となり、テスト・クリケットを行う権利を得た。パキスタンの最初のテストマッチは、1955年のデリーで行われたインド戦である。クリケットパキスタン代表は、1992年に行われたクリケット・ワールドカップで初優勝し、2009年にはICC T20ワールドカップで初優勝した。2017年にはICCチャンピオンズトロフィーを獲得した。特にライバルであるインド代表との一戦は大変な盛り上がりとなる。イムラン・カーンやワシム・アクラムは歴代のパキスタンを代表する選手であり、世界のクリケットの歴史においても有数の選手とされる。なお、カーンは第23代パキスタンの首相を務めた。2016年にはトゥエンティ20方式のプロリーグであるパキスタン・スーパーリーグが開幕した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "サッカーもパキスタンでは人気のスポーツとなっており、2004年にプロサッカーリーグの「パキスタン・プレミアリーグ」が創設された。しかしクラブチームは少なく、大半は公的機関や企業のチームである。このため、実質的にはセミプロ的体裁とも言える。パキスタンサッカー連盟(PFF)によって構成されるサッカーパキスタン代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップには未出場である。代表選手にはカリーム・ウラーがおり、2015年にUSLチャンピオンシップ(USLC)のサクラメント・リパブリックに移籍した。これによりウラーは、アメリカ合衆国のプロサッカークラブと契約した最初のパキスタン人選手となった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "パキスタンでは、クリケットやサッカーに次いでホッケーが盛んである。ホッケーパキスタン代表はアジア屈指の強豪国として知られており、過去には1960年ローマオリンピック、1968年メキシコシティーオリンピック、1984年ロサンゼルスオリンピックと、3度オリンピックで金メダルを獲得している。", "title": "スポーツ" } ]
パキスタン・イスラム共和国、通称パキスタンは、南アジアに位置する連邦共和制国家である。東にインド、西にアフガニスタン、南西にイラン、北東に中華人民共和国と国境を接している。北はアフガニスタンのワハーン回廊でタジキスタンと狭く隔てられており、オマーンとも海上で国境を接している。首都はイスラマバード。
{{基礎情報 国 | 略名 =パキスタン | 日本語国名 =パキスタン・イスラム共和国 | 公式国名 ='''{{lang|ur|{{nastaliq|اسلامی جمہوریہ پاكستان}}}}'''<br>'''{{lang|en|Islamic Republic of Pakistan}}''' | 国旗画像 =Flag of Pakistan.svg | 国章画像 =[[ファイル:Coat of arms of Pakistan.svg|100px|パキスタンの国章]] | 国章リンク =([[パキスタンの国章|国章]]) | 標語 ={{lang|ur|{{nastaliq|ايمان اتحاد تنظيم}}}} ラテン文字転写: īmān, ittihād, tanazeem <small> (ウルドゥー語: 信頼、統一、規律)</small> | 位置画像 =Pakistan (orthographic projection).svg | 公用語 =[[ウルドゥー語]]([[国語]])<br />[[パキスタン英語|英語]]([[公用語]])パシュトー語 バンジャブ語  | 首都 =[[イスラマバード]] | 最大都市 =[[カラチ]] | 元首等肩書 =[[パキスタンの大統領|大統領]] | 元首等氏名 =[[アリフ・アルヴィ]] | 首相等肩書 =[[パキスタンの首相|首相]] | 首相等氏名 ={{ill2|アンワル・ウル・ハク・カカール|en|Anwaar ul Haq Kakar}}(暫定) | 面積順位 =34 | 面積大きさ =1 E11 | 面積値 =796,000<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/pakistan/data.html#section1 |title=パキスタン・イスラム共和国基礎データ |publisher=外務省 |accessdate=2018-11-05 }}</ref> | 水面積率 =3.1% | 人口統計年 =2022 | 人口順位 =5 | 人口大きさ =1 E8 | 人口値 = 242,923,845<ref name=population>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/field/population/ |title=Population |publisher=[[中央情報局|CIA]] |accessdate=2022年8月1日}}</ref> | 人口密度値 =305.2 | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 =41兆5563億2600万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=564,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|accessdate = 2021-10-25}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 42 | GDP値MER = 2617億2600万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 = 1254.864<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 25 | GDP値 =1兆748億3700万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 =5153.376<ref name="imf2020" /> | 建国形態 =[[インド・パキスタン分離独立|独立]] &nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 =[[イギリス]]より [[1947年]][[8月14日]]([[2023年]]現在、[[イギリス連邦]]加盟) | 通貨 =[[パキスタン・ルピー]] | 通貨コード =PKR | 時間帯 =+5 | 夏時間 =なし | 国歌 = [[神聖なる大地に祝福あれ|{{lang|ur| قومی ترانہ}}]]{{ur icon}}<br>''神聖なる大地に祝福あれ''<br>{{center|[[file:National anthem of Pakistan.OGG]]}} | ISO 3166-1 = PK / PAK | ccTLD =[[.pk]] | 国際電話番号 =92 | 注記 = |位置画像説明=薄緑色箇所は[[カシミール]]と呼ばれており[[インド]]、パキスタン、[[中華人民共和国|中国]]の三カ国で分割統治されているため現在インドとの間で領土問題を抱えている}} '''パキスタン・イスラム共和国'''(パキスタン・イスラムきょうわこく、{{lang-ur|{{nastaliq|اِسْلامی جَمْہُورِیَہ پَاکِسْتَان}}}})、通称'''パキスタン'''は、[[南アジア]]に位置する[[連邦共和国|連邦共和制国家]]である。東に[[インド]]、西に[[アフガニスタン]]、南西に[[イラン]]、北東に[[中華人民共和国]]と[[国境]]を接している。北はアフガニスタンの[[ワハーン回廊]]で[[タジキスタン]]と狭く隔てられており、[[オマーン]]とも海上で国境を接している。首都は[[イスラマバード]]。{{TOC limit}} == 概要 == パキスタンの[[2023年]]の人口は2億2200万人であり、[[インド]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[インドネシア]] 、[[ブラジル]]に次いで[[国の人口順リスト|世界第6位]]となっている。また、世界で2番目に[[ムスリム|イスラム教徒]]の多い国でもある。面積は88万1913平方キロメートルで、世界で33番目に大きな国である。 同国には、8500年前の[[新石器時代]]の遺跡である[[バルーチスターン|バローチスタン]]の[[メヘルガル]]遺跡<ref>{{Citation|last=Coningham|first1=Robin|author1-link=Robin Coningham|last2=Young|first2=Ruth|title=The Archaeology of South Asia: From the Indus to Asoka, c. 6500 BCE – 200 CE|publisher=[[Cambridge University Press]]|year=2015}} Quote: ""Mehrgarh remains one of the key sites in South Asia because it has provided the earliest known undisputed evidence for farming and pastoral communities in the region, and its plant and animal material provide clear evidence for the ongoing manipulation, and domestication, of certain species.</ref>や、旧世界の文明の中でも最も大規模な[[青銅器時代]]の[[インダス文明]]など、[[パキスタンの歴史|いくつかの古代文化の遺跡]]がある<ref>{{Citation|last=Wright|first1=Rita P.|title=The Ancient Indus: Urbanism, Economy, and Society|url=https://books.google.com/books?id=MG2ztAEACAAJ|quote=The Indus civilisation is one of three in the 'Ancient East' that, along with Mesopotamia and Pharaonic Egypt, was a cradle of early civilisation in the Old World (Childe, 1950). Mesopotamia and Egypt were longer lived, but coexisted with Indus civilisation during its florescence between 2600 and 1900&nbsp;B.C. Of the three, the Indus was the most expansive, extending from today's northeast Afghanistan to Pakistan and India.|publisher=Cambridge University Press|year=2009|pages=1–2|isbn=978-0-521-57219-4}}</ref>。現代のパキスタンを構成する地域は、[[アケメネス朝]]、[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]の時代、[[セレウコス朝]]、[[マウリヤ朝]]、[[クシャーナ朝|クシャン朝]]、[[グプタ朝]]<ref>{{Cite book|last=Wynbrandt|first=James|title=A Brief History of Pakistan|url=https://archive.org/details/briefhistoryofpa0000wynb|publisher=Infobase Publishing|year=2009|isbn=978-0-8160-6184-6}}</ref>、南部の[[ウマイヤ朝]]、ヒンドゥー・シャーヒー、[[ガズナ朝]]、[[デリー・スルターン朝]]、[[ムガール帝国]]<ref>{{Cite book|last=Spuler|first=Bertold|title=The Muslim World: a Historical Survey|date=1969|publisher=E.J. Brill|location=Leiden|isbn=90-04-02104-3}}</ref>、[[ドゥッラーニー帝国]]、[[シク王国|シク帝国]]、[[イギリス東インド会社|英国東インド会社]]の支配、そして最近では1858年から1947年までの[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]]など、複数の帝国や王朝の領域であった。 パキスタンは、英領インドのイスラム教徒の祖国を求めるパキスタン運動と、1946年の[[全インド・ムスリム連盟]]の選挙での勝利により、1947年に[[インド・パキスタン分離独立|英領インド帝国の分割]]を経て独立した。この分割では、イスラム教徒の多い地域に独立した州が与えられ、比類のない大規模な移民と犠牲者が出た<ref>{{Citation|last=Copland|first1=Ian|title=India, 1885-1947: The Unmaking of an Empire|url=https://books.google.com/books?id=Dw1uAAAAMAAJ|series=Seminar Studies in History|year=2001|publisher=Longman|isbn=978-0-582-38173-5}} Quote: "However, the real turning point for the new Muslim League came with the general election of December 1945 and January 1946.</ref>。当初は[[イギリス連邦]]の[[パキスタン (ドミニオン)|自治領]]であったパキスタンは、1956年に正式に憲法を制定し、[[イスラム共和制|イスラム共和国]]として宣言した。1971年には、政治中枢を寡占する旧[[西パキスタン]]との対立を深めた[[東パキスタン]]が、9か月間の[[バングラデシュ独立戦争|内戦]]を経て新国家[[バングラデシュ]]として独立した。その後40年間、パキスタンは[[文民]]と[[武官]]、[[民主主義]]と[[権威主義]]、比較的[[世俗主義|世俗]]的な政府と[[イスラム主義]]の政府によって統治されてきたが、その内容は複雑である<ref>{{Citation|last=Talbot|first1=Ian|title=A History of Modern South Asia: Politics, States, Diasporas|url=https://books.google.com/books?id=sXsmCwAAQBAJ|publisher=[[Yale University Press]]|year=2016|pages=227–240|isbn=978-0-300-21659-2}}</ref>。2008年に文民政権が誕生し、2010年には定期的に選挙が行われる[[議院内閣制|議会制]]を採用した<ref>{{Cite web |title=Pakistani parties to share power |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/7286145.stm |publisher=[[BBC News]] |date=9 March 2008 |accessdate=2022-04-09}}</ref>。 現今においてパキスタンは[[ミドルパワー]]('''中堅国家''')であり、2022年時点で世界第9位の常備軍を有している<ref>{{Cite web |url=https://www.globalfirepower.com/countries-listing.php |title=2022 Military Strength Ranking |publisher =Global Fire Power |accessdate=2022-12-18}}</ref>。[[核保有国の一覧|核兵器保有国]]として宣言されており、急速に成長している大規模な中産階級を擁し<ref>{{Cite web |url=http://tribune.com.pk/story/973649/pakistan-has-18th-largest-middle-class-in-the-world-report |title=Pakistan has 18th largest 'middle class' in the world: report |date=16 October 2015 |website=The Express Tribune |accessdate=2022-04-09}}</ref>、新興経済国の中でも成長率の高い国として位置づけられている<ref>{{Cite web|url=http://www.dawn.com/news/1218182|title=Pakistan an emerging market economy: IMF|author=Iqbal|first=Anwar|date=8 November 2015|website=www.dawn.com|accessdate=27 February 2016}}</ref>。独立後のパキスタンの政治的歴史は、経済的・軍事的に大きく成長した時期と、政治的・経済的に不安定な時期の両方を特徴としている。パキスタンは、民族的にも言語的にも多様な国であり、地理的にも野生動物も同様に多様である。しかし、貧困、非識字、汚職、テロなどの問題を抱えている<ref>{{Cite book|last=Mathew Joseph C.|title=Understanding Pakistan: Emerging Voices from India|url=https://books.google.com/books?id=6iUlDwAAQBAJ&pg=PA337|publisher=[[Taylor & Francis]]|year=2016|page=337|isbn=978-1-351-99725-6}}</ref>。パキスタンは、[[国連]]、[[上海協力機構]]、[[イスラム協力機構]]、[[イギリス連邦|英国連邦]]、[[南アジア地域協力連合]]、イスラム軍事テロ対策連合に加盟しており、米国からは非[[北大西洋条約機構|NATO]]の主要同盟国に指定されている。 == 国名 == 正式名称は、'''{{nastaliq|اسلامی جمہوریہ پاكستان}}'''(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例<!-- 仮。WIKI英語版 -->)は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。 公式の[[英語]]表記は {{Lang|en|Islamic Republic of Pakistan}}。通称は {{Lang|en|Pakistan}}。 [[日本語]]の表記は'''パキスタン・イスラム共和国'''。通称は'''パキスタン'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字による当て字]]は'''巴基斯坦'''。かつては'''パキスタン[[回教]]共和国'''という表記も見られた。 === 語源 === 国名「パキスタン」は、[[ウルドゥー語]]と[[ペルシア語]]で「清浄な国」を意味する。{{wikt-lang|fa|پاک}}(パーク)が「清浄な」の意味である<ref>{{cite book |title=A Dictionary of Pashto |last=Raverty |first=Henry George |url=http://dsalsrv02.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.0:1:1478.raverty}}</ref>。接尾語{{lang|fa|ـستان}} ([[スターン (地名)|スターン]])は、ペルシャ語で「〜の場所」を意味し、[[サンスクリット]]の{{wikt-lang|sa|स्थान}}(スターナ)と同語源である<ref>{{cite web |url=http://www.sanskritdictionary.com/sth%C4%81na/274192/1l |title=Monier-Williams Sanskrit Dictionary |date=1872|access-date=28 April 2015}}</ref>。 パキスタンという国名は、[[イギリス領インド]]のうち[[ムスリム]](イスラム教徒)が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者の{{仮リンク|チョウドリー・ラフマト・アリー|en|Choudhry Rahmat Ali}}による1933年の小冊子『{{仮リンク|パキスタン宣言|en|Pakistan Declaration}}』の中で初めて使われたものである<ref name="nowornever">{{cite web |author=Choudhary Rahmat Ali |title=Now or never: Are we to live or perish for ever? |url=http://www.columbia.edu/itc/mealac/pritchett/00islamlinks/txt_rahmatali_1933.html|access-date=4 December 2007 |date=28 January 1933 |publisher=Columbia University}}</ref>。アリーは、[[パンジャーブ]]の'''P'''、[[カイバル・パクトゥンクワ州]](旧・北西辺境州)に住む[[パシュトゥーン人|アフガーン]]人の'''A'''、[[カシミール]]の'''K'''、[[シンド州|シンド]]の'''S'''、[[バローチスターン州|バローチスターン]]の'''TAN'''から"Pakstan"(パクスタン)としていたが<ref name="Now or Never">{{cite journal |author=Choudhary Rahmat Ali |title=Now or Never. Are we to live or perish forever? |date=28 January 1933 |url=http://en.wikisource.org/wiki/Now_or_Never;_Are_We_to_Live_or_Perish_Forever%3F}}</ref><ref name="Ikram1995">{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=7q9EubOYZmwC&pg=PA177 |title=Indian Muslims and partition of India |publisher=Atlantic Publishers & Dist |accessdate=2011-12-23 |author=S. M. Ikram |year=1995 |isbn=978-81-7156-374-6 |page=177|quote=These sentiments were presented on behalf of our thirty million Muslim brethren who live in Pakistan, by which we mean the five northern units of India, viz. Punjab, North-West Frontier Province, Kashmir, Sind and Baluchistan (Pakistan—land of the pure—was later adopted as the name of the new Muslim state, and spelled as Pakistan).|author-link=S. M. Ikram}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.chaudhryrahmatali.com/now%20or%20never/index.htm |title=Rahmat Ali ::Now or Never |publisher=The Pakistan National Movement|access-date=14 April 2011 |author=Rahmat Ali |page=2 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110419012150/http://www.chaudhryrahmatali.com/now%20or%20never/index.htm |archivedate=19 April 2011}}</ref>、後に、発音しやすくするために"i"が加えられて"Pakistan"(パキスタン)となった<ref name="davison">{{cite journal |author=Roderic H. Davidson |title=Where is the Middle East? |journal=Foreign Affairs |volume=38 |pages=665–675 |year=1960 |doi=10.2307/20029452 |issue=4 |jstor=20029452|url=https://semanticscholar.org/paper/b0f99025d232494803f84f1a4578d7a11dcf1be2 }}</ref>。 === 国名の変遷 === * 1947年 - 1956年:[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]] * 1956年 - 1958年:パキスタン・イスラム共和国 * 1962年 - 1973年:パキスタン共和国 * 1973年 - 現在:パキスタン・イスラム共和国 == 歴史 == [[ファイル:Partition of India 1947 en.svg|thumb|[[インド・パキスタン分離独立]]]] {{Main|パキスタンの歴史}} [[19世紀]]には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中で[[イスラム教徒]]と[[ヒンドゥー教徒]]との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の{{仮リンク|東ベンガル (パキスタン)|en|East Bengal|label=東ベンガル州}}としてパキスタンに組み込まれ、[[1955年]]に[[東パキスタン]]となったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンは[[バングラデシュ]]として分離独立の道を歩むこととなった。 === 独立と印パ戦争 === [[1947年]][[8月14日]]に[[イギリス領インド帝国]]から独立し、[[イギリス王室|イギリス国王]]を元首に頂く[[自治領]](英連邦王国[[パキスタン (ドミニオン)]])となり、建国の父[[ムハンマド・アリー・ジンナー]]が初代[[総督]]に就任する。同年[[10月21日]]から翌[[1948年]][[12月31日]]にかけて[[カシミール]]の帰属をめぐって[[第一次印パ戦争]]が起き、[[1956年]]には共和制に移行し、{{ill2|イスカンダル・ミールザー|en|Iskander Mirza}}が初代大統領に就任した。 [[1958年]]の[[クーデター]]でミールザー大統領が失脚し([[:en:1958 Pakistani coup d'état]])、パキスタン軍の総司令官だった[[アユーブ・ハーン|アイユーブ・ハーン]]の[[軍事独裁政権]]が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。[[1965年]]には[[第二次印パ戦争]]が起き、[[1970年]]11月に[[東パキスタン]]が[[1970年のボーラ・サイクロン|ボーラ・サイクロン]]による被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、[[第三次印パ戦争]]([[1971年]][[12月3日]] - [[12月16日]])に発展して、[[東パキスタン]]が[[バングラデシュ]]として分離独立した。尚、この過程において[[ヘンリー・キッシンジャー]]は対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模な[[レイプ]]や[[虐殺]]を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取って[[バングラデシュ]]となったとされる<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3493823?page=2 【解説】キッシンジャー氏の主要実績 論争の種も 写真9枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref>。 [[1972年]]、[[イギリス連邦]]を脱退し、[[パキスタン人民党]]の初代党首だった[[ズルフィカール・アリー・ブットー]]は大統領や首相を歴任した。[[1977年]][[7月5日]]に[[ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク]]のクーデターによりブットーは職を追われ、後に処刑されている。 {{Clearleft}} === アフガニスタン紛争と核開発 === [[1978年]][[4月28日]]、アフガニスタン共和国で[[四月革命 (アフガニスタン)|四月革命]]が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、[[ムジャーヒディーン|ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)]]が蜂起し、'''[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|アフガニスタン紛争]]'''が始まった。[[1979年]]2月に[[イラン革命]]が勃発し、11月に[[イランアメリカ大使館人質事件]]が起こると、[[ソ連]]の[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]はアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、[[12月24日]]にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。[[中央情報局|アメリカ中央情報局 (CIA)]]はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカが[[スティンガーミサイル]]を非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンから[[ターリバーン|タリバーン]]政権が誕生し、さらには[[アルカーイダ]]が誕生した。 [[1988年]][[8月17日]]、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年[[10月31日]]には[[国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション]]が活動を開始し、[[12月2日]]にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘である[[ベーナズィール・ブットー]]が、イスラム諸国初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相に選出]]された。[[1989年]]にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、[[1990年]][[8月6日]]にクーデターでブットー首相が解任された。[[1993年]]、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、[[1996年]][[11月5日]]に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。 [[1998年]][[5月11日]]と13日、[[インド]]の[[アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー|ヴァージペーイー]]政権が核実験「[[インドの核実験 (1998年)|シャクティ作戦]]」を実施した。これに対抗して[[5月28日]]と[[5月30日]]に[[ナワーズ・シャリーフ]]首相兼国防大臣がパキスタンによる初の[[パキスタンの核実験 (1998年)|核実験]]を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ[[経済制裁]]を課した。 [[1999年]]5月、インドとの[[カシミール]]領有権をめぐる国境紛争が{{仮リンク|カルギル戦争|en|Kargil War|label=カルギル紛争}}に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。 === ムシャラフ大統領時代 === [[ファイル:Pervez Mushrraf2 crop.jpg|thumb|180px|[[パルヴェーズ・ムシャラフ]]]] [[1999年]][[10月12日]]の{{仮リンク|パキスタン・クーデター (1999年)|en|1999 Pakistani coup d'état|label=無血クーデター}}で[[ナワーズ・シャリーフ]]首相から実権を奪取した[[パルヴェーズ・ムシャラフ]]は、[[2001年]]の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、[[2004年]]には復帰した。3月以来、[[連邦直轄部族地域]]に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている([[ワジリスタン紛争]])。[[2005年]][[10月8日]]、[[パキスタン地震 (2005年)|パキスタン地震]]で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。 [[2007年]]7月、イスラム神学生による[[パキスタン・モスク立てこもり事件]]が発生した。同年10月には{{仮リンク|パキスタン大統領選挙 (2007年)|en|Pakistani presidential election, 2007|label=パキスタン大統領選挙}}が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡って{{仮リンク|パキスタン最高裁判所|en|Supreme Court of Pakistan}}の{{仮リンク|イフティカル・ムハンマド・チョードリー|en|Iftikhar Muhammad Chaudhry}}と対立、軍を動員して全土に[[非常事態宣言]]と[[戒厳令]]を発令するという事実上の[[クーデター]]をおこなった([[:en:Pakistani state of emergency, 2007]])。ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。一方、米国の支援を受けて11月に元首相[[ベーナズィール・ブットー]]が帰国したが、[[12月27日]]に演説終了後会場にて暗殺された({{仮リンク|ベーナズィール・ブットー暗殺事件|en|Assassination of Benazir Bhutto}})。[[2007年]]、またもイギリス連邦の参加資格を停止されている。 [[2008年]][[1月8日]]に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。[[2月18日]]、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた({{仮リンク|2008年のパキスタン下院総選挙|en|Pakistani general election, 2008}})。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党[[パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派]](PML-Q)と野党[[パキスタン人民党]](PPP)、[[パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派]](PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員などによる間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他に[[ムッタヒダ国民運動]](MQM)、[[アワーミー国民党]](ANP)などがある。[[3月24日]]、パキスタン国民議会は、議員投票で[[ユースフ・ラザー・ギーラーニー]](就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。[[8月18日]]、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。 === 民政化以降 === [[2008年]][[9月6日]]、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にて{{仮リンク|パキスタン大統領選挙 (2008年)|en|Pakistani presidential election, 2008|label=パキスタン大統領選挙}}が行われ、パキスタン人民党総裁の[[アースィフ・アリー・ザルダーリー]]が新大統領に選出された。 [[2010年]]、[[パキスタン洪水 (2010年)|パキスタン洪水]]が発生。 [[2011年]][[1月2日]]、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。 [[5月2日]]、[[アボッターバード]]で[[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害]]が確認された。 [[11月26日]]、[[国際治安支援部隊]](ISAF、アフガニスタン駐留)の[[北大西洋条約機構]] (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた<ref>[http://www.asahi.com/international/update/1126/TKY201111260273.html NATO部隊ヘリが越境攻撃、パキスタン兵24人死亡] 朝日新聞 2011年11月26日</ref><ref>[http://mainichi.jp/select/world/asia/archive/news/2011/11/28/20111128ddm007030223000c.html パキスタン:NATO軍ヘリ越境誤爆 パキスタン対決姿勢 軍部が発言力強化] 毎日新聞 2011年11月28日</ref>。 [[2012年]][[2月13日]]、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、{{仮リンク|パキスタン最高裁判所|en|Supreme Court of Pakistan}}が[[ユースフ・ラザー・ギーラーニー|ギーラーニー]]首相を法廷侮辱罪で起訴し<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2857723?pid=8463267 パキスタン最高裁、首相を法廷侮辱罪で起訴] AFPBB News, 2012年2月13日</ref>、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相に{{仮リンク|ラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ|en|Raja Pervaiz Ashraf}}が就任した。 [[2013年]][[5月13日]]の{{仮リンク|2013年のパキスタン下院総選挙|en|Pakistani general election, 2013|label=パキスタン下院総選挙}}で[[パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派|パキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派]](PML-N)が勝利し、[[6月5日]]に[[ナワーズ・シャリーフ]]が首相に、大統領には[[マムヌーン・フセイン]]が就任した。ナワーズ・シャリーフ首相は2016年4月3日に発表された[[パナマ文書]]に名前が登場したことで、2018年4月13日に最高裁判所から公職永久追放の決定を下され、同年7月6日に汚職罪で禁錮10年の有罪判決を言い渡され収監された。 2018年9月4日のパキスタン総選挙で反腐敗を掲げた[[パキスタン正義運動]](PTI)は小選挙区で延期された2議席を除いた270議席のうち改選前31議席から116議席に躍進し<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180729/k00/00m/030/063000c |title=パキスタン:PTIが116議席、第1党 2議席除き発表 |accessdate=2022-04-10 |publisher=毎日新聞}}</ref>、同党の[[イムラン・カーン]](PTI議長)が首相に、歯科医の[[アリフ・アルヴィ]]が大統領に就任した。2022年4月10日、パキスタン下院は経済不振を理由としてカーン首相に対する不信任決議案を賛成多数で可決した。不信任決議での首相失職は同国では初めてである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3399567 |title=パキスタンのカーン首相失職、不信任案可決 |accessdate=2022-04-10 |publisher=AFPBB News}}</ref>。首相にはナワーズ・シャリーフの弟の[[シャバズ・シャリーフ]](PML-N党首)が議会によって選出された<ref>{{Cite news|title=パキスタン新首相にシャバズ・シャリフ氏 経済危機に対応へ|newspaper=時事通信社|date=2022-04-11|url=https://web.archive.org/web/20220411121429/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022041101010&g=int}}</ref>。 == 政治 == [[File:Parliament House, Islamabad by Usman Ghani.jpg|thumb|国会議事堂]] [[ファイル:House of the Prime Minister of Pakistan in Islamabad.jpg|thumb|首相官邸]] [[ファイル:CM Punjab Shehbaz Sharif (35771008313).jpg|thumb|[[シャバズ・シャリーフ]]首相]] [[ファイル:Supreme Court of Pakistan.jpg|thumb|パキスタン最高裁判所]] {{Main|{{仮リンク|パキスタンの政治|en|Politics of Pakistan}}}} === 国内政治 === 4つの州と、連邦首都[[イスラマバード]]から成る[[連邦共和国]]である。[[議院内閣制]]を採用しているが、インドとの対立関係のため伝統的に軍部の力が強く、対照的に政党の力は弱い。 [[インド・パキスタン分離独立|独立]]以来[[クーデター]]が繰り返され、[[政局]]は常に不安定である。地方においては[[部族制社会]]の伝統が根強く、特に旧[[連邦直轄部族地域]]にその傾向が著しい。また、南西部の[[バローチスターン州]]ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。旧連邦直轄部族地域ではかつて、大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨憲法で規定されるなど、強い自治権が与えられていた<ref>{{PDFlink|[http://www.nids.mod.go.jp/publication/east-asian/pdf/eastasian2010/j02.pdf パキスタンのテロとの闘い]}} - [[防衛省]][[防衛研究所]]</ref>。法律に代わるものとして[[パシュトゥーンワーリー|パシュトゥン・ワリ]]というパシュトゥン民族の[[慣習法]]が適用されている<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、200頁、ISBN 9784763405302</ref>。 {{See also|パキスタンの国会}} === 行政 === [[元首|国家元首]]は[[パキスタンの大統領|大統領]]で、任期は5年。[[選挙人団]]によって間接的に選出されることとなっている。 {{See also|パキスタンの首相|{{仮リンク|パキスタン選挙人団|en|Electoral College (Pakistan)}}}} {{節スタブ}} === 立法 === {{Main|国民議会 (パキスタン)|元老院 (パキスタン)}} {{節スタブ}} === 政党 === {{Main|パキスタンの政党}} {{節スタブ}} === 司法 === パキスタンは守旧的[[イスラーム]]に基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を行うことを宣言し、[[シャリーア|イスラム法]]の強い影響を受けた法を施行するという点で[[イスラム国家]]としての色彩が強い。 {{See also|{{仮リンク|パキスタン憲法|en|Constitution of Pakistan}}}} パキスタンは死刑存置国であり、[[2014年]]6月、[[スイス]]・[[ジュネーブ]]で開催された国連人権理事会の会合において提出された「死刑制度のある国に死刑囚の権利保護を求める決議案」に[[日本]]、[[中国]]、[[インド]]、[[サウジアラビア]]などとともに反対するなど死刑維持の姿勢を取っているが、一方で[[2009年]]以降、国法上の死刑の執行自体は凍結していた。しかし2014年12月、北西部の[[ペシャワル]]で軍が運営する学校をイスラム過激派反政府武装勢力「[[パキスタン・ターリバーン運動]](TTP)」が襲撃し、教師・児童・生徒ら140名以上が殺害されるテロ事件が起こったことを受け、[[ナワーズ・シャリーフ]]首相は死刑執行凍結措置を解除し、執行を再開した。 {{節スタブ}} == 国際関係・外交政策 == {{Main|{{仮リンク|パキスタンの国際関係|en|Foreign relations of Pakistan}}}} 独立以来、[[アメリカ合衆国]]と[[中華人民共和国]]との協力・同盟関係を維持しながら、[[カシミール問題]]で激しく争うインドに対抗するのがパキスタンの外交政策の全体的傾向とされる。[[中央条約機構]]や[[東南アジア条約機構]]の存続期間などから読みとれる。 なお、現在の[[国際連合加盟国]]のうち、パキスタンだけは[[アルメニア]]を[[国家承認|国家として認めていない]]<ref>{{Cite web|title=Opinion: «Armenia can block the cooperation between Pakistan and the EEU»|url=https://rusarminfo.ru/2016/06/06/opinion-armenia-can-block-the-cooperation-between-pakistan-and-the-eeu/|website=Rusarminfo|accessdate=2021-03-26|language=ru-RU}}</ref>。 === 対日関係 === {{main|日本とパキスタンの関係}} [[日本]]との関係は[[1958年]]の外交関係樹立以来おおむね良好であったが、1998年の[[パキスタンの核実験 (1998年)|パキスタンの核実験]]を機に関係は悪化した。当時の[[第2次橋本内閣 (改造)|橋本内閣]]は遺憾の意を表明したうえ、対パキスタン無償資金協力・新規円借款を停止し、その他の援助も見合わせるなどの制裁を行った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/india_paki/pakistan.html |title=パキスタンによる地下核実験の実施(我が国の対応:クロノロジー) |publisher= [[日本]][[外務省]]|accessdate=2013-01-13}}</ref>。 [[2002年]]には[[パルヴェーズ・ムシャラフ|ムシャラフ]]大統領が来日した。[[2005年]]4月には[[小泉純一郎]]首相が日本の首相として5年ぶりにパキスタンを訪問し、核実験以来停止されていた有償資金援助が開始された。 また、貿易収支は日本側の大幅な黒字であり、日本からの投資はインドと比較するとかなり少ない。これは不安定な政治とインフレ経済が嫌われたものである。 === 対印関係 === {{see|インド・パキスタン関係}} 独立の経緯以来、インドとの間では緊張関係が継続している。北東部の[[カシミール]]地方の所属を巡って[[1948年]]に勃発した[[第一次印パ戦争]]以来3度の全面戦争([[印パ戦争]])を経験し、特に[[1971年]]の[[第三次印パ戦争]]における大敗によって[[バングラデシュ独立戦争|独立運動]]に呼応したインド軍の侵攻を受けた東パキスタンを[[バングラデシュ]]として失うことになった。その後もインドとの間では常に緊張関係が続き、軍事境界線で南北に分断されたカシミールでは両国軍の間で死者を伴う散発的な衝突が日常化していた。 [[1998年]]にはインドに対抗して[[アブドゥル・カディール・カーン|カーン博士]]の指導のもと地下核実験や[[ミサイル]]発射実験などを実施した。インドと共に[[核保有国の一覧#その他(NPT非加盟国)|核保有国]]の一つとなる。 2001年12月、イスラム過激派によるインド国会議事堂襲撃テロが起きると、インド政府はパキスタン軍情報機関の関与を疑って対立が激化。当時の[[パルヴェーズ・ムシャラフ|ムシャラフ大統領]]は「インドへの核攻撃も検討した」と回想している<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20170727/k00/00m/030/089000c|title=パキスタン ムシャラフ元大統領「インドに核使用を検討」/02年、両国関係緊張の事態受け「報復を恐れ断念」|work=|publisher=[[毎日新聞]]ニュース|date=2017年7月26日}}</ref>。 一方でムシャラフ前政権は[[南アジア地域協力連合]]を通じた緊張緩和に努めており、2004年から和平協議がもたれているなど、その成果は徐々に現れてきていた。[[2008年]]11月のインド西部[[ムンバイ]]での[[ムンバイ同時多発テロ|同時爆破テロ]]によって和平協議は一時中断したが、[[2010年]]4月、両国首脳が[[ブータン]]で会談し、外相会談を開催することで合意。公式の対話を再開、維持することを決めた。6月には外務次官級協議と内相会談、7月15日にはインドのクリシュナ外相とパキスタンのクレシ外相会談が、パキスタンのイスラマバードで行われた。そして[[2011年]]2月に対話再開で合意している。2018年8月には[[上海協力機構]]の合同軍事演習に両国は参加し<ref>{{cite news|url=https://www.devdiscourse.com/Article/133505-exercise-sco-peace-mission-2018-formally-kick-starts-today|publisher=Devdiscourse|author=|title=Exercise SCO Peace Mission 2018 formally kick-starts today|date=2018-08-24|accessdate=2019-02-28}}</ref>、インドとパキスタンにとって独立以来初の[[国連平和維持活動]]以外での軍事協力となった<ref>{{cite news|url=https://nation.com.pk/20-Aug-2018/pakistan-india-take-part-in-sco-s-anti-terror-drill|publisher=The Nation|author=|title=Pakistan, India take part in SCO’s anti-terror drill|date=2018-08-20|accessdate=2019-02-28}}</ref>。 === 対米関係 === パキスタンは独立以来、[[アメリカ合衆国]]の軍事支援を受け入れている。アメリカにとっては[[非同盟主義]]のインドと友好関係が深い[[ソビエト連邦]]への対抗上、また[[イラン革命]]を起こしてアメリカと激しく対立する[[イラン]]の封じ込め策として、パキスタンは重要な支援対象国家である。パキスタン側もこの点は承知しており、クーデターなどで政権交代が起こっても[[親米]]路線は堅持されている。しかしながら、近年のテロとの闘いにおいて、米国はパキスタンの一部(特に、部族地域)が[[ターリバーン|タリバン]]などの武装勢力の聖域になっていること、パキスタンがそうした武装勢力に対し十分な戦闘や対策を取っておらず、むしろパキスタンの一部(特に、軍統合情報局ISI)はいまだにタリバンなどを非公式に支援していると見られていることに不満を持った。一方でパキスタンは、米国がパキスタン国内での無人機攻撃など主権侵害を継続していることに不満を持ち、両国関係は冷却化した。現在、両国の不信感は根深いものがある<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、ISBN 9784763405302</ref>。 [[1990年]]、東西冷戦の終結が唱えられる中、アメリカの[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]政権はパキスタンによる核開発疑惑を理由に軍事援助を停止したが、[[1996年]]には[[ビル・クリントン]]政権によって再開されている。 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、米国はパキスタンに対し[[アル・カーイダ]]をかくまうターリバーンとの関係を断ち米国に協力することを迫った。パキスタンにとってターリバーンはインドとの対抗上重要であったが、ターリバーンを支援し続けることによる国際的孤立を恐れ、また、米国に協力することに伴う経済支援などの見返りを期待し、ムシャラフ大統領は米国への協力を決断した。これに対し、パキスタン国内では反米デモが起こるなどムシャラフ政権は苦しい立場に立たされた<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、206-214頁、ISBN 9784763405302</ref>。 === 対アフガン関係 === [[アフガニスタン]]に関しては、インドとの対抗上アフガニスタンに親パキスタン政権が存在することが望ましく、[[1979年]]に始まったソビエト連邦の[[アフガニスタン侵攻]]後、パキスタンは反政府武装勢力ムジャーヒディーンを支援した。ソ連軍撤退後の内戦では、[[パキスタン軍統合情報局]]は当初[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティヤール]]派を支援。それがうまくいかなくなると厳格なイスラム原理主義のターリバーンを育て政権樹立まで強力に支援したといわれている<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、210-211頁、ISBN 9784763405302</ref>。ターリバーン政権である[[アフガニスタン・イスラム首長国]]と外交関係を持つ3カ国のうちの1つであった。 しかし、ターリバーンがかくまうアルカーイダが[[アメリカ同時多発テロ事件]]を起こした事から始まった[[2001年]]の[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|ターリバーン政権への攻撃]]ではムシャラフ政権がアメリカと[[有志連合]]諸国支持を表明し、[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]]政権から[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]供与を含む巨額の軍事・経済援助を受けた。これに対し、イスラム原理主義者をはじめイスラム教徒に対するキリスト教国の攻撃に反感を持つ多くの国民から不満が増大し、パキスタン国内では多くの抗議行動が起こった。また、アフガニスタンを追われたターリバーン勢力は[[連邦直轄部族地域]]に浸透し、パキスタン軍やアメリカ軍との戦闘が継続されている。 [[2010年]][[8月31日]]、パキスタン軍機がアフガニスタン国境付近(パキスタン北部カイバル・パクトゥンクワ州[[ペシャーワル]]など)の部族地域を空爆し、イスラム過激派が少なくとも30人死亡。過激派の隠れ家や訓練施設、自爆テロに使用する予定の車両8台も破壊したと同国治安当局者が語った。 [[2011年]][[5月1日]]、首都[[イスラマバード]]郊外の住居でアルカーイダの指導者[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]が米海軍特殊部隊[[Navy SEALs|SEALs]]に急襲された。ビンラーディンは頭部を撃たれ死亡、遺体は[[アメリカ軍|米軍]]により確保されたと[[バラク・オバマ|オバマ]]米大統領より発表された。 === 対サウジ関係 === [[サウジアラビア]]はイスラム世界最大の友好国とされ<ref>Lacey, Robert (2009). Inside the Kingdom: Kings, Clerics, Modernists, Terrorists, and the Struggle for Saudi Arabia. Viking. p. 294. Saudi Arabia's closest Muslim ally, Pakistan</ref>、[[北イエメン内戦]]ではパキスタン軍が派遣され<ref>https://www.dawn.com/news/1463802</ref>、[[イラン・イラク戦争]]の過程でサウジアラビアには2万人から7万人ともされるパキスタン軍が駐留することになった<ref>Christophe Jaffrelot (12 April 2016). Pakistan at the Crossroads: Domestic Dynamics and External Pressures. Columbia University Press. pp. 307–. ISBN 978-0-231-54025-4.</ref><ref>Freeman, Colin; Khan, Taimur (March 13, 2017). "Pakistan in talks with Saudi Arabia to send combat troops to protect the kingdom". The National.</ref>。1976年には世界最大級のモスクである[[ファイサル・モスク]]が寄贈された。また、パキスタンの核開発計画の資金源だったともされ<ref>Al J. Venter (2007). Allah's Bomb: The Islamic Quest for Nuclear Weapons. Globe Pequot. pp. 150–53. ISBN 1-59921-205-6.</ref>、クーデターで追われた[[ナワーズ・シャリーフ]]の亡命も受け入れた。 2015年にサウジアラビアが[[イスラム協力機構]]の条約を根拠にイスラム圏34カ国と対テロ連合{{仮リンク|イスラム軍事同盟|en|Islamic Military Alliance}}を発足させた際は、初代最高司令官に前パキスタン陸軍参謀長の{{仮リンク|ラヒール・シャリフ|en|Raheel Sharif}}を任命した<ref>https://www.geo.tv/latest/135494-Pakistan-allows-General-Retd-Raheel-Sharif-to-lead-Saudi-led-military-alliance</ref>。2019年2月に[[ムハンマド・ビン・サルマーン]]皇太子がパキスタンを訪れた際は中国の専用機と同様<ref>{{cite news |language = | author = | url =https://www.gizmodo.jp/2015/04/8_38.html| title =中国国家主席の専用機を戦闘機8機がエスコート|publisher =[[ギズモード]]| date= 2015-04-23| accessdate =2019-02-27}}</ref>に搭乗機がパキスタン空軍の[[JF-17]]にエスコートされており<ref>{{cite news |language = | author = | url =https://www.afpbb.com/articles/-/3211792| title =動画:アジア歴訪中のサウジ皇太子の搭乗機、パキスタン上空で空軍戦闘機がエスコート|publisher =[[AFPBB]]| date= 2019-02-19| accessdate =2019-02-24}}</ref>、[[グワーダル]]で製油所建設なども行っている<ref>{{cite news |language = | author = | url =https://www.voanews.com/a/saudi-crown-prince-set-to-begin-historic-pakistan-visit/4790600.html| title =Saudi Crown Prince Signs $20B in Investment Deals in Pakistan|publisher =[[ボイス・オブ・アメリカ]]| date= 2019-02-18| accessdate =2019-02-24}}</ref><ref>{{cite news |language = | author = | url =https://jp.wsj.com/articles/SB11830615849198453656404585140260626424610| title =サウジ皇太子、中国に急接近 対米「共同戦線」の思惑| publisher =[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]| date= 2019-02-23| accessdate =2019-02-24}}</ref>。 === 対トルコ・アゼルバイジャン関係 === パキスタンは一貫して[[アゼルバイジャン]]の[[ナゴルノ・カラバフ]]に対する立場および[[トルコ]]の[[キプロス]]に対する立場を支持しており、両国もパキスタンによる[[カシミール]]への[[主権]]を支持している<ref>{{Cite web|title=What’s behind the growing Azerbaijan-Pakistan-Turkey friendship?|url=https://www.trtworld.com/magazine/what-s-behind-the-growing-azerbaijan-pakistan-turkey-friendship-43259|website=What’s behind the growing Azerbaijan-Pakistan-Turkey friendship?|accessdate=2021-10-12|language=en}}</ref>。[[2020年ナゴルノ・カラバフ戦争|2020年のナゴルノ・カラバフ戦争]]以降、パキスタンは[[トルコ]]とアゼルバイジャンに急速に接近し、2021年には三か国連合[[軍事演習]]が行われた<ref>{{Cite web|title=Azerbaijan to host Turkey, Pakistan for joint military drills|url=http://tribune.com.pk/story/2319827/azerbaijan-to-host-turkey-pakistan-for-joint-military-drills?amp=1|website=The Express Tribune|date=2021-09-12|accessdate=2021-10-12}}</ref>。 === 対中関係 === {{main|中国とパキスタンの関係}} [[中華人民共和国]]との関係も深く、[[上海協力機構]]の加盟国でもある。中国とはインドへの対抗で利害が一致して[[印パ戦争]]で支援国だった他、米中の接近をもたらした[[ニクソン大統領の中国訪問]]を仲介したり、ミサイル・核技術の供与<ref>[http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/11/12/AR2009111211060.html Pakistani nuclear scientist's accounts tell of Chinese proliferation]</ref><ref>Kan, Shirley A. (2009). "§A.Q. Khan's nuclear network". China and Proliferation of Weapons of Mass Destruction and Missiles: Policy issues. Washington, DC: Congressional Research Service (CRS): Congressional Research Service (CRS). pp. 5–6.</ref><ref>{{cite news |publisher=[[ワシントン・ポスト]] | |date=2009-11-12 |title=Pakistani nuclear scientist's accounts tell of Chinese proliferation|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/11/12/AR2009111211060_2.html?sid=ST2009111300578&noredirect=on}}</ref>、[[戦車]]と[[戦闘機]]と[[軍艦]]の共同開発など軍事協力を幅広く行い、パキスタン初の人工衛星バドルの打ち上げや[[原子力発電所]]、パキスタン初の地下鉄{{仮リンク|ラホール・メトロ|en|Lahore Metro}}の建設も支援された。このような両国の同盟関係を「全天候型戦略的パートナーシップ」関係(中国語:全天候战略合作伙伴关系)と呼ばれている。[[2011年]]5月に[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]がパキスタン国内で殺害されて以降米国との関係は悪化しており、中国との関係は近年さらに緊密なものとなっている。パキスタンの中国への急接近は[[南アジア]]での中国の影響力拡大を懸念する米国への牽制との見方もある。[[2015年]]の[[中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典]]では派遣されたパキスタン軍が[[天安門広場]]を行進した<ref>[https://www.rt.com/news/314176-china-military-parade-wwii/ China marks 70th V-Day anniversary with spectacular parade]</ref>。 また、[[ギルギット・バルティスタン]]と中国の[[新疆ウイグル自治区]]との間は[[カラコルム・ハイウェイ]]で結ばれており、トラック輸送による[[国境貿易]]が行われている。中国とパキスタンの間では[[自由貿易協定]]が締結されており、パキスタンは安い中国製品を多く輸入し、多数の中国企業が進出している。逆にパキスタンの最大の輸出相手は中国である。両国は更に、カラコルム・ハイウェイからアラビア海に面して中国の軍事利用を懸念されているグワーダル港までの約3,000kmで道路・鉄道、発電所などを整備する「中パ経済回廊」(CPEC)計画を進めている。事業費4600億ドルは大半を中国が融資する。CPECは過激派の活動地域も含むため、2016年にパキスタン軍はラヒール・シャリフ陸軍参謀長が指揮<ref>{{cite news |language = | author = | url =https://www.pakistantoday.com.pk/2016/02/19/gen-raheel-says-army-will-turn-cpec-dream-into-reality/| title =Gen Raheel says army will turn CPEC dream into reality| publisher = Pakistan Today| date= 2016-02-19| accessdate =2018-08-21}}</ref>するCPECプロジェクト警備専門の特別治安部隊(SSD)を創設した<ref>『日本経済新聞』朝刊2016年11月20日「日曜に考えるグローバル/パキスタン 親中路線 不安の声も」</ref>。CPECは中国が進める「[[一帯一路]]」と、対インド包囲網「[[真珠の首飾り戦略]]」の一部でもある。 中国とのビジネスが拡大していることから、パキスタン国内では[[中国語]]ブームが起きている。[[イスラマバード]]市内の私立高校では中国語を必修科目に導入し、パキスタン企業の間でも中国語研修を行う企業が増えている。パキスタン政府も中国との関係強化と中国企業にパキスタン人を雇用させるというの観点からこうした動きを後押しし、[[アースィフ・アリー・ザルダーリー]]大統領も出身地である[[シンド州]]にある全ての小中学校で、2011年から2年以内に[[英語]]、[[ウルドゥー語]]、[[アラビア語]]、[[シンド語]]に次いで中国語も必修科目に義務づけると発表した。しかし、教育現場の混乱や生徒への負担、中国語を教える教師の数が不足していることなどを理由にシンド州教育省は中国語を必修では無く、選択科目として緩やかに導入していくことで計画を修正している。 === 対露関係 === [[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連のアフガニスタン侵攻]]で、パキスタンはアメリカ、中国、サウジアラビアとともにソ連と戦う[[ムジャーヒディーン]]を支援した([[サイクロン作戦]])。[[ソビエト連邦]]はアフガン撤退の直後に崩壊。[[ロシア連邦]]となってからは同じ上海協力機構の加盟国にもなったこともあって関係が改善し、2016年にはパキスタン領内で[[ロシア連邦軍]]と初の合同[[軍事演習]]を実施した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20170331-TC2GDJ73INLZPHET3Q42T44EDU/|title=ロシア軍がパキスタンの部族地域を訪問、米印接近で関係強化|publisher=[[産経新聞]]ニュース(2017年3月31日)|accessdate=2017-8-18}}</ref>。 == 軍事 == [[ファイル:Pakistan airforce FC-1 Xiao Long.jpg|thumb|中国と共同開発の[[FC-1 (航空機)|JF-17]]戦闘機]] {{main|パキスタン軍}} [[パキスタン陸軍|陸軍]]、[[パキスタン海軍|海軍]]、[[パキスタン空軍|空軍]]のほか、{{仮リンク|パキスタン沿岸警備隊|label=沿岸警備隊|en|Pakistan Coast Guards}}、さらに国境警備、治安維持用の[[準軍事組織]]である『{{仮リンク|民間軍隊|en|Civil Armed Forces}}』(CAF)を有する。印パ戦争・カシミール紛争が繰り返されたことからインドと軍事的な対立関係にある。 パキスタンは[[核拡散防止条約]](NPT)に加盟しておらず、[[パキスタンの核実験 (1998年)|1998年の核実験]]以後は[[核兵器]]を保有している。 世界軍事力[[ランキング|ランキング2022]]では10位内に入っている。 中国との結びつきが大きい。 == 地理 == [[ファイル:Pakistan Topography.png|thumb|right|標高図]] [[ファイル:K2 8611.jpg|thumb|right|K2(カラコルム山脈)]] {{Main|{{仮リンク|パキスタンの地理|en|Geography of Pakistan}}}} === 地勢 === 国土の北部には世界の屋根[[カラコルム山脈]]と[[ヒンズークシ山脈]]が連なり、[[K2]](標高8,611m)とナンガ・パルバット(標高8,126m)がそびえる。 国の中央を南北に走るのは[[スライマーン山脈|スライマン山脈]]である。アフガニスタン国境は[[カイバル峠]]、インドとの国境には大インド砂漠([[タール砂漠]])が広がり、その南には[[カッチ大湿地]]が分布する。 北部高地から[[アラビア海]](インド洋)に流れ出す[[インダス川]]は流域に主要な平野(北のパンジャブ、南のシンド)を形成する。 <gallery> ファイル:Margalla Hills, Islamabad.jpg|イスラマバード ファイル:Villages-of-punjab-pakistan.jpg|パンジャーブ ファイル:Attabaad Lake, Hunza Valley.jpg|フンザバレー ファイル:Jaisalmer, Thar Desert.jpg|[[タール砂漠]] ファイル:K2 - top of K2.jpg|K2 </gallery> === 気候 === パキスタンには四季があり、12月から2月が冷涼乾燥な冬、3月から5月が高温乾燥の春、6月から9月が高温多雨・モンスーンの夏、10月から11月が移行期の秋である。この時期は地域によって若干異なり、洪水と旱魃がしばしば生じる。 気候は、中南部が砂漠気候 (BW)、北部が[[ステップ気候]] (BS)、北部山岳地帯が温帯夏雨気候 (Cw) となっている。国花は[[ジャスミン]]である。 === 災害 === [[ファイル:Magnitude 7 6 - PAKISTAN 20051008035038 gul pakistan quake margalla towers 210 eng 8oct05 0.jpg|thumb|[[パキスタン地震]]で崩壊した[[アパート]]]] [[2005年]]10月8日、パキスタン北東部カシミール地方・インド国境付近を震源とするマグニチュード7.8の[[パキスタン地震 (2005年)|大地震]]が発生し、死者9万人以上の大災害となった。カシミール地方を中心に被害が相次いだほか、首都イスラマバードでも高層アパートが崩壊した。 [[2010年]]7月末、カイバル・パクトゥンクワ州で[[パキスタン洪水 (2010年)|大規模な洪水]]が起こり、パンジャブ州、シンド州にも広がった。被災者1400万人、死者1200人以上の大災害になっており、少なくとも200万人が家庭を失っている。[[国連人道問題調整事務所]](OCHA)は、被災地の一部では下痢などの疾病が広がっているとしている。欧米メディアが2010年8月16日、大規模な洪水により飲料水が汚染され、伝染病の流行の可能性が高まり、約350万人の子どもが感染の危機にさらされていると国連人道問題調整事務所(OCHA) の報道官の話として報道した。 [[北澤俊美]]防衛大臣は8月20日夕方、[[国際緊急援助隊派遣法]]に基づく派遣命令を発出した。8月23日以降[[陸上自衛隊]][[第4師団 (陸上自衛隊)|第4師団]]を主力とした部隊が派遣され、復興活動を行った。10月10日(現地時間)をもって活動終結。 7月の洪水で、国土(79.6万平方キロ)の約2割が被害を受け、死者約2千人、家屋174万軒損壊(国家災害管理庁)た。12月時点でも一部地域が冠水している。シンド州の約4200平方キロ([[福井県]]に相当)が冠水<ref>途上国支援を行うアメリカ国際開発局報告書に基づく</ref>19万人が国内避難民<ref group="注釈">国連児童基金[ユニセフ]によると13万人が避難</ref>と成っている。 [[2022年]]8月、[[モンスーン]](雨季)の影響で[[パキスタン洪水 (2022年)|大洪水]]となり、国土の3分の1が水没した<ref name="afpbb">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3421188|title=パキスタン、洪水死者1100人超 国土の3分の1水没|accessdate=2022-08-30}}</ref>。死者は1100人超<ref name="afpbb"/>。経済損失は100億ドル超<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/pakistan-weather-floods-idJPKBN2Q0016|title=パキスタン洪水、経済損失は初期試算で100億ドル超=計画開発相|accessdate=2022-08-30}}</ref>。 == 地方行政区分 == {{main|パキスタンの行政区画}} [[ファイル:Sub Pakistan.png|thumb|パキスタンの州とその他の領土区域]] 4つの州と、1つの連邦直轄地区に分かれる。 ;州 # [[バローチスターン州]] # [[カイバル・パクトゥンクワ州]] (2018年に[[連邦直轄部族地域]]を編入) # [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] # [[シンド州]] ;連邦直轄地区 <ol start=5> <li> [[イスラーマーバード首都圏]] </ol> その他、[[カシミール]]地方におけるパキスタンの実効支配領域は、2つの行政区に分かれる。 <ol start=6> <li> [[アザド・カシミール]] <li> [[ギルギット・バルティスタン]] </ol> === 主要都市 === {{Main|パキスタンの都市の一覧}} [[File:IICROAD.jpg|thumb|200px|カラチはパキスタン最大の都市であり、都市圏人口が1000万人を超える世界有数の[[メガシティ]]である]] [[File:Faisal Masjid - WIKI.jpg|thumb|200px|首都[[イスラマバード]]にある[[ファイサル・モスク]]]] 人口100万人以上の都市が10都市ある。首都イスラマバードは人口順では9番目に位置する。 {| class="wikitable" style="text-align:center; width:100%; margin-right:10px; font-size:100%" ! colspan="10" style="background:#e9e9e9; padding:0.3em; line-height:1.2em;"| '''パキスタンの主要都市'''<br>([[2017年]]現在) |- !rowspan=30| [[File:Dolmen City towers.jpg|180px]]<br /><small>[[カラチ]]</small><br />[[File:Kalma Underpass1.jpg|180px]]<br /><small>[[ラホール]]</small><br />[[File:Clock Tower Faisalabad by Usman Nadeem.jpg|180px]]<br /><small>[[ファイサラーバード]]</small> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| [[パキスタンの行政区画|行政区画]] ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口(人) ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| [[パキスタンの行政区画|行政区画]] ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口(人) |- | style="background:#f0f0f0"| 1 ||align=left | '''[[カラチ]]''' || [[シンド州]] || 14,916,456 | style="background:#f0f0f0"| 11 ||align=left | '''[[バハーワルプル]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 762,111 |- | style="background:#f0f0f0"| 2 ||align=left | '''[[ラホール]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 11,126,285 | style="background:#f0f0f0"| 12 ||align=left | '''[[サルゴーダー]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 659,862 |- | style="background:#f0f0f0"| 3 ||align=left | '''[[ファイサラーバード]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 3,204,726 | style="background:#f0f0f0"| 13 ||align=left | '''[[シアールコート]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 655,852 |- | style="background:#f0f0f0"| 4 ||align=left | '''[[ラーワルピンディー]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 2,098,231 | style="background:#f0f0f0"| 14 ||align=left | '''[[サッカル]]''' || [[シンド州]] || 499,900 |- | style="background:#f0f0f0"| 5 ||align=left | '''[[グジュラーンワーラー]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 2,027,001 | style="background:#f0f0f0"| 15 ||align=left | '''[[ラルカナ]]''' || [[シンド州]] || 490,508 |- | style="background:#f0f0f0"| 6 ||align=left | '''[[ペシャーワル]]''' || [[カイバル・パクトゥンクワ州]] || 1,970,042 | style="background:#f0f0f0"| 16 ||align=left | '''[[:en:Sheikhupura|シェイクプラ]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 473,129 |- | style="background:#f0f0f0"| 7 ||align=left | '''[[ムルターン]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 1,871,843 | style="background:#f0f0f0"| 17 ||align=left | '''[[:en:Rahim Yar Khan|ラヒム・ヤー・カーン]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 420,419 |- | style="background:#f0f0f0"| 8 ||align=left | '''[[ハイデラバード (パキスタン)|ハイデラバード]]''' || [[シンド州]] || 1,734,309 | style="background:#f0f0f0"| 18 ||align=left | '''[[:en:Jhang|チャン]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 414,131 |- | style="background:#f0f0f0"| 9 ||align=left | '''[[イスラマバード]]''' || [[イスラーマーバード首都圏]] || 1,009,832 | style="background:#f0f0f0"| 19 ||align=left | '''[[:en:Dera Ghazi Khan|デラガジカーン]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 399,064 |- | style="background:#f0f0f0"| 10 ||align=left | '''[[クエッタ]]''' || [[バローチスターン州]] || 1,001,205 | style="background:#f0f0f0"| 20 ||align=left | '''[[グジュラート]]''' || [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] || 390,533 |} {{Clear}} == 経済 == [[ファイル:Main Industries by Region - Pakistan.png|thumb|left|200px|地域別の主要産業]] {{Main|{{仮リンク|パキスタンの経済|en|Economy of Pakistan}}}} [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]のパキスタンの[[国内総生産|GDP]]は2,387億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]。一人当たりのGDPは1,307ドルであり、世界平均のおよそ10%の水準である。 [[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす[[貧困|貧困層]]は9710万人と推定されており、国民の半数を超えている<ref>[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150318083921/http://adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf |date=2015年3月18日 }}</ref>。 パキスタン[[証券取引所]]のナディーム・ナクビ社長は、パキスタンはGDPの需要面が十分補足できておらず、「実際の1人当たりGDPは2200ドルはある」「人口2億人弱のうち4000万~4500万人を中間層が占める」と語っている<ref>「パキスタン中間層410万円 世帯所得伸び消費けん引/中国とのインフラ事業も追い風」『[[日経産業新聞]]』2017年1月11日(4面)</ref>。 主要産業は、[[農業]]や綿工業。特に[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ]]地方で[[コムギ|小麦]]の生産が盛んで世界生産量第6位である。輸出品としては[[米]]がトップで輸出の11.2%を占め、ついで[[綿布]]、[[ニット]]、ベッドウェア、[[綿糸]]、[[既製服]]といった繊維製品が続く<ref>[http://www.jetro.go.jp/world/asia/pk/stat_03/ 2009-2010年度ジェトロ輸出統計]</ref>。また、中国が[[一帯一路]]政策の要として、パキスタン国内を鉄道・道路・港湾などで結ぶ中パ経済回廊(CPEC)建設を進めているため、[[セメント]]や[[鉄鋼]]の生産が増えている。 {{see also|{{仮リンク|パキスタンの農業|en|Agriculture in Pakistan}}}} [[2011年]]に、パキスタン政府はインドとの交易関係を正常化し、インドへの貿易上の「[[最恵国待遇]]」付与を目指す方針を明らかにした。インドは1996年にパキスタンに同待遇を付与している。また、インドが含まれる[[BRICs]]の次に経済の急成長が期待できる[[NEXT11]]のうちの一つでもある。IMFによる3年間の財政支援は2016年9月に終了した。国民の多くは貧しく、[[テロ]]の頻発など治安もとても悪いが、人口増加率が高いため労働力や消費者となる若年層が多い。このため今後経済的に期待できる国といえ、[[コカ・コーラ]]や[[味の素]]など飲食品・消費財メーカーが進出している。 通貨は[[パキスタン・ルピー]](1ルピー=100パイサ、硬貨の種類は5パイサ、10パイサ、25パイサ、50パイサ、1ルピー、5ルピーの6種類、紙幣は、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ルピー、1000ルピー、5000ルピーの8種類)。 === 経済史 === [[アユーブ・ハーン|アユーブ・カーン]]政権下では年平均5%で[[経済成長|成長]]し、多くの[[水力発電|水力発電所]]を建設、「[[国家資本主義]]」と称した[[経済的自由主義|経済自由化]]政策は成功を収めた。また、アユーブは[[緑の革命]]を通じた[[緑化|緑化推進]]政策を実行。[[農地改革]]や[[農民]]への[[補助金]]支給で[[食料自給率|食糧供給]]に尽力した。しかし、1973年から始まったブットー政権下では国家資本主義の体制を否定、[[社会主義]]的な[[経済政策]]を打ち出し、[[電力]]や外国資本の[[国有化]]を断行した。しかし、[[官主主義|官僚主義]]が蔓延すると共に[[汚職]]がはびこり、[[頭脳流出|資本逃避]]による成長の鈍化が開始。1978年、[[大佐|陸軍大佐]]であったジア=ウル・ハクが無血のクーデターを決行。ジアは経済の自由化と[[新自由主義]]的な[[改革|経済改革]]を行い、同時に経済の[[イスラム主義|イスラム化]]も行った。 ジアの死後、[[ナワーズ・シャリーフ]]首相や[[ベーナズィール・ブットー|ベナジル・ブットー]]首相はいずれも自由化、[[民営化]]政策に賛成していたが、停滞は顕著に表れた。[[パルヴェーズ・ムシャラフ]]政権以降はこの停滞を克服し、2002~2007年にかけて成長が加速。いまだ低い[[識字|識字率]]に悩まされるパキスタンにおいて、小学校への[[入学]]者数は増加し、債務対[[国内総生産|GDP]]比は100%から55%に低下した。同時に[[外貨準備|外貨準備高]]も1999年10月の12憶[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]から、2004年6月30日には107憶米ドルに増加。2008年、ムシャラフが国内の反政府[[デモ活動|デモ]]に対処できず辞任すると、[[パキスタン人民党|人民党]]は再び党勢を建て直し、国政を支配。[[スタグフレーション]]の時代が到来し経済は再び低迷した。 2013年、シャリーフが再び首相の座に返り咲くと、エネルギー不足、[[インフレーション|インフレ]]、多額の[[債務]]、巨額の[[財政赤字]]によって機能不全に陥った経済を引き継ぐために復帰した。[[治安|治安改善]]や[[原油価格]]の低下、[[送金]]の増加により、パキスタン経済は再び勢いづいた。[[国際通貨基金]]による[[融資]]プログラムは2016年9月に終了した。 [[2022年ロシアのウクライナ侵攻|2022年のウクライナ侵攻]]による国際的な原油価格の上昇により、パキスタンの外貨準備高は枯渇気味となった<ref>{{Citation|title=Mallalieu, Sir (Joseph Percival) William, (18 June 1908–13 March 1980)|date=2007-12-01|url=https://doi.org/10.1093/ww/9780199540884.013.u157124|publisher=Oxford University Press|access-date=2023-07-24}}</ref>。不十分な[[ガバナンス]]、一人当たりの生産性の低さ、[[パキスタン洪水 (2022年)|2022年のパキスタン洪水]]が重なった事で、IMFから60億ドルの救済協定を再開するよう説得するために必死の措置を講じた<ref>{{Citation|title=Aims and structure of the book|date=2012-02-20|url=https://doi.org/10.4324/9780203154199-5|publisher=Routledge|pages=15–18|access-date=2023-07-24}}</ref>。 {{Clearleft}} === 自動車産業 === 日本の[[自動車]]メーカーが複数進出して製造販売を行っている。[[スズキ (企業)|スズキ]]は、[[1975年]]に国営会社を通じて自動車の生産を開始した後、[[1982年]]、現地[[合弁会社]]パックスズキ社を立ち上げてパキスタンへの本格参入。[[スズキ・フロンテ|フロンテ]]や[[スズキ・キャリイ|キャリイ]]などの現地モデルの生産を始めた。[[2007年]]10月には、[[オートバイ|二輪車]]の現地代理店と合併する形で二輪車の生産販売も始めた。[[2009年]]には国内の自動車累計生産台数100万台を達成している<ref>{{Cite web|和書|date= 2009年8月3日|url= http://www.suzuki.co.jp/release/d/2009/0803/|title= スズキのパキスタン工場が四輪車生産累計100万台を達成|publisher= スズキ|accessdate=2018-03-28}}</ref>。[[トヨタ自動車]]は、現地合弁会社インダス・モーター社を1989年に設立。[[トヨタ・カローラ|カローラ]]や[[トヨタ・ハイラックス|ハイラックス]]の生産を始め、2012年に生産累計50万台を達成した<ref>{{Cite web|和書|date= 2012-11-05|url= http://www2.toyota.co.jp/jp/news/12/11/nt12_1101.html|title= トヨタ、パキスタンで生産累計50万台を達成|publisher= トヨタ自動車|accessdate=2018-03-28}}</ref>。[[本田技研工業]]は、1992年より現地合弁会社のアトラスホンダ社を設立し二輪車の生産販売を開始。[[1994年]]には、四輪車生産を目的とした合弁会社ホンダアトラスカーズを立ち上げて、[[ホンダ・シビック|シビック]]などの生産を行っている。2016年累計生産台数30万台を達成<ref>{{Cite web|和書|date= 2016|url= http://www.honda.co.jp/news/2016/c161021.html|title= パキスタンで四輪車生産累計30万台を達成|publisher= ホンダ|accessdate=2018-03-28}}</ref>。 [[日産自動車]]は、[[カラチ]]に現地工場を建設。1997年、現地法人ガンダーラ日産の手により[[ノックダウン生産]]により[[日産・サニー|サニー]]の生産を始めた。2010年代に一旦閉鎖されたが、2020年初頭を目途に[[ピックアップトラック]]の生産を開始することが発表している<ref>{{Cite web|和書|date= 2018年3月28日|url= https://jp.reuters.com/article/nissan-datsun-idJPKBN1H41PT|title= 日産、パキスタンで生産販売再開へ 「ダットサン」20年初め投入|publisher= ロイター通信社|accessdate=2018-03-28}}</ref>。 === 観光 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンの観光|en|Tourism in Pakistan}}}} 主な観光名所には、[[モヘンジョ・ダロ]]と[[ハラッパー]]遺跡、[[ヒマラヤ]]の避暑地が存在する。 {{節スタブ}} == 交通 == {{Main|{{仮リンク|パキスタンの交通|en|Transport in Pakistan}}}} {{節スタブ}} == 科学技術 == {{Main|{{仮リンク|パキスタンの科学技術|en|Science and technology in Pakistan}}}} パキスタンは[[欧州原子核研究機構]](CERN)の準加盟国であり、その地位を取得している数少ない国の1つともなっている<ref>{{cite web|url=http://tribune.com.pk/story/930265/pakistan-officially-becomes-an-associate-member-of-cern/|title=Pakistan officially becomes an associate member of CERN|date=31 July 2015|accessdate=2023-10-21}}</ref>。 == 国民 == {{Main|{{仮リンク|パキスタンの人口統計|en|Demographics of Pakistan}}}} [[ファイル:Pakistan population density.png|thumb|260px|各地域の人口密度(2017年)]] === 人口 === パキスタンの総人口は、[[2022年]]現在で2億2,200万人である。[[2003年]]以降の人口増加が顕著なのは、戦闘が続く隣国の[[アフガニスタン]]からの[[難民]]が急増したためと見られ、その数は累計で約600万人と言われる。さらに[[出生率]]も高く、[[国際連合|国連]]の推計では[[2050年]]には3億4,000万人にまで増加し、[[インドネシア]]と[[ブラジル]]を抜き、中国、インド、アメリカに次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。 [[2017年]]には、[[1998年]]以来19年ぶりとなる国勢調査が行われ、パキスタン本土の人口は"2億777万4520人"であり前回比で57%も増加した。さらに2017年の国勢調査では、1998年の国勢調査では対象外地域だった[[アザド・カシミール]]や、[[ギルギット・バルティスタン]]も国勢調査の対象となっており、それらの地域を含めた人口は"2億1274万2631人"であった。 ; パキスタンの人口の推移 * 2017年:2億1274万人(前回比:5355万増) * 2004年:1億5919万人(前回比:1016万増) * 2003年:1億4903万人(前回比:307万増) * 2002年:1億4596万人(前回比:1146万増) * 2000年:1億3450万人(前回比:1898万増) * 1991年:1億1552万人 {{see also|パキスタン人}} ==== 人口密度 ==== 182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年) === 民族 === {{bar box |title=民族構成(パキスタン) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[パンジャーブ人]]|blue|56}} {{bar percent|[[パシュトゥーン人]]|green|16}} {{bar percent|{{仮リンク|シンド人|en|Sindhi people}}|orange|13}} {{bar percent|[[バローチ人]]|yellow|4}} {{bar percent|その他|red|11}} }} [[パンジャーブ人]]56%(60%とも)、[[パシュトゥーン人]]16%(13%とも)、{{仮リンク|シンド人|en|Sindhi people}}13%、[[バローチ人]]4%、[[カラシュ人]]など。 === 言語 === [[ウルドゥー語]]([[国語]])、[[英語]]([[公用語]])に加え、[[パンジャーブ語]]、[[シンド語]]、[[カシミール語]]、[[コワール語]]といった[[インド語群]]のほか、[[イラン語群]]の[[パシュトー語]]および[[バローチー語]]、[[ドラヴィダ語族]]の[[ブラーフーイー語]]、孤立した言語[[ブルシャスキー語]]などがある。 現行の1973年憲法251条はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、15年以内に英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2020年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式[[ウェブサイト]]は英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を[[教授言語]]としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にするパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れており、さらに南部でウルドゥー語を母語とする{{仮リンク|ムハージル人|en|Muhajir people}}(パキスタン独立時にインドから逃れてきた難民の子孫)とシンド語を母語とするシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。 [[File:Majority_first_language_by_district_in_Pakistan_as_of_the_1998_census.png|thumb|パキスタンの言語分布図 (1998年)]] {| class="wikitable" style="text-align:center;" |+ 母語の統計 |- !colspan=2 rowspan="2"|言語 !colspan=2|2017年(国勢調査) !colspan=2|1998年(国勢調査) !rowspan="2"|優勢地域 |- !数 (万人) !割合 (%) !数 (万人) !割合 (%) |- ! 1 ! style="background-color:#66c2a5"| [[パンジャーブ語]] | 8057 | 38.78 | 5843 | 44.15 | [[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ州]] |- ! 2 ! style="background-color:#fc8d62"| [[パシュトー語]] | 3790 | 18.24 | 2041 | 15.42 | [[カイバル・パクトゥンクワ州]] |- ! 3 ! style="background-color:#ffd92f"| [[シンド語]] | 3027 | 14.57 | 1866 | 14.10 | [[シンド州]] |- ! 4 ! style="background-color:#a6d854"| [[サライキ語]] | 2533 | 12.19 | 1394 | 10.53 | パンジャーブ州南西部 |- ! 5 ! style="background-color:#e78ac3"| [[ウルドゥー語]] | 1471 | {{0}}7.08 | 1002 | {{0}}7.57 | パキスタン都市部 |- ! 6 ! style="background-color:#e5c494"| [[バローチー語]] | {{0}}627 | {{0}}3.02 | {{0}}472 | {{0}}3.57 | [[バローチスターン州]] |- ! 7 ! その他 | 1272 | {{0}}6.12 | {{0}}617 | {{0}}4.66 | 北部山岳地帯 |} === 婚姻 === 結婚時に妻は結婚前の姓をそのまま用いること([[夫婦別姓]])も、夫の姓に変えること(夫婦同姓)も可能。イスラム法では夫の姓に変えることを求めておらず、イスラム系住民は婚前の姓をそのまま用いることが多い<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/pakistani-culture/naming-7e76c184-1daf-4815-858a-93fb1b5b598f Pakistani Culture]</ref>。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンの宗教|en|Religion in Pakistan}}}} [[イスラム教]]97%(国教)、[[ヒンドゥー教]]1.5%、[[キリスト教]]1.3%、[[ゾロアスター教]]0.2%など、ほかに[[シク教]]徒や[[アニミスト]]も存在している。 [[正教]][[古儀式派]] の最大教派である[[ロシア正教古儀式派教会]]の教区が2016年から存在している。 ゾロアスター教の信者は10万人程で、地方によってはカースト制度なども残っている。 {{see also|パキスタンにおける信教の自由}} === 教育 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンの教育|en|Education in Pakistan}}}} [[初等教育]]から[[高等教育]]にかけて、全て国語である[[ウルドゥー語]]で授業を行う。但し、高等教育の入学試験は[[英語]]で行われている。[[イスラム学|イスラーム学]]、[[ウルドゥー語]]、[[英語教育|英語]]、{{仮リンク|パキスタン学|en|Pakistan studies}}、[[社会科教育|社会]]、[[理科教育|理科]]、[[算数・数学教育|数学]]などが主な教科で、[[音楽教育]]はなく、[[歴史教育]]も[[イスラーム王朝]]や[[ムガル帝国]]についてなど断片的なものに留まる。イスラーム学に重点が置かれており、[[ジハード]]については特に学習されるべきとしている。カレッジでは、イスラーム学、パキスタン学、[[経済学|経済]]、[[軍事教育]]が必修<ref>[http://www.tufs.ac.jp/ts/society/findas/wordpress/wp-content/uploads/2012/05/sunaga.pdf 多民族国家パキスタンの歴史観と国民像:学校教育において共有される言説の事例を通して] 2022年3月2日閲覧。</ref>。 [[就学率]]は初等教育で男子が83%・女子が71%、中等教育では男子が50%・女子が40% (2016年).10歳以上の[[識字率]]は62.3% (2017/2018)となっている<ref>[https://www.jica.go.jp/publication/mundi/202101/202101_08.html ニーズに柔軟に対応し、広く学習機会を提供 パキスタン] - [[国際協力機構]]. 2022年3月2日閲覧。</ref>。 {{仮リンク|クエイド・イ・アザム大学|en|Center for Earthquake Studies}}など、国際的に有力な大学が存在している。 {{節スタブ}} === 保健 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンの保健|en|Health in Pakistan}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|パキスタンの医療|en|Healthcare in Pakistan}}}} {{節スタブ}} <!-- == 社会 == --> == 治安 == {{main|{{仮リンク|パキスタンにおける犯罪|en|Crime in Pakistan}}}} パキスタンは[[スリ]]などの[[窃盗]]被害が多く、武装強盗団による[[強盗]]や偽警官による[[詐欺]]事件が後を絶たないことが問題となっている。 また同国では[[テロ]]事件が相次いで発生しており、その発生件数が2009年(2,586件(死者3,021人))をピークに減少傾向にあった中、2014年12月に発生した[[ペシャワール]]における学校襲撃事件を受けたことから常に臨戦態勢が執られている。 近年は再びテロ事件が減少傾向にあるが、情勢の変化次第では危険性が大きくなることは勿論、他の犯罪事件と併せた形で被害を多重に受ける恐れがある可能性も出て来ることを留意しなければならない<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_011.html#ad-image-0 パキスタン 危険・スポット・広域情報] 海外安全ホームページ</ref>。 === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンの法執行機関|en|Law enforcement in Pakistan}}}} ==== 警察 ==== パキスタンの警察機関は7つ存在している。中でも国内4州(パンジャーブ州、カイバル・パクトゥンクワ州、シンド州、バローチスターン州)にはそれぞれ独自の警察組織があり、この警察組織はその地域における優先課題に合わせて設立され、独自で専門化された精鋭部隊が組織されている点が特徴である。 一例としてパンジャーブ州警察には『 {{仮リンク|精鋭警察|en|Elite Police}}』と呼ばれるコマンドー部隊や『ドルフィン・ フォース』([[:en:Dolphin Force|Dolphin Force]])と呼ばれる[[街頭犯罪]]に特化した精鋭部隊が設立されている。 === 人権 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンにおける人権|en|Human rights in Pakistan}}}} {{節スタブ}} ==== 人権侵害 ==== 法律とは別に保守的な慣習が根強く存在しており、主に[[婚前交渉]]を行った女性を家族の名誉を汚したとして処刑する[[名誉の殺人]]は珍しくないとされる<ref name="afp20121106" />。2011年度は、900人を超える女性が「家族に恥をもたらした」などの理由で殺されている<ref name="afp20121106" />。「パキスタン人権委員会」の調査によると、2015年で987件の名誉の殺人が発生し、1000人以上が殺害されたという<ref>[https://www.sankei.com/article/20170926-H6UVU5FR2FORBI4IKZQWGW72U4/ 婚前交渉疑い、電気ショックで殺害 パキスタンで横行する「名誉殺人」の恐怖] 産経ニュース</ref>。2016年に名誉の殺人を厳罰化する新法が制定された後も、2016年10月から2017年6月までの間に少なくとも280件の名誉殺人が発生するなど、大勢の若い女性が、家族に恥をもたらしたという理由で親族に殺害されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3148968 パキスタンの「名誉殺人」、新法施行後も続く] AFP通信</ref>。男性も対象となることはあるが、犠牲者は女性が圧倒的に多く<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3148968?page=2 パキスタンの「名誉殺人」、新法施行後も続く 2ページ目] AFP通信</ref>、中には婚前交渉など無くとも、単に「男性を見た」という理由だけで発生する殺人もある<ref name="afp20121106">{{cite news |title=「少年を見た」娘、母親が酸を浴びせて死なす パキスタン |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2012-11-6 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2910984?pid=9767884 | accessdate=2018-4-29}}</ref>。 {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|パキスタンのメディア|en|Mass media in Pakistan}}}} {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|パキスタンにおける報道の自由|en|Freedom of the press in Pakistan}}}} == 文化 == [[ファイル:Mohenjodaro Sindh.jpeg|thumb|[[モヘンジョダロ]]]] [[ファイル:Coach driver Indus 01.jpg|thumb|ブロンズ製のチャリオットと運転手(紀元前2000年)<br />[[ハラッパー|ハラッパー遺跡]]]] {{Main|{{仮リンク|パキスタンの文化|en|Culture of Pakistan}}}} 著名な[[遺跡]]として[[世界遺産]]になっている[[インダス文明]]の[[モヘンジョ・ダロ]]遺跡と[[クシャーナ朝]]時代に繁栄した[[タキシラ]]の都市遺跡がある。ほかに[[標式遺跡]]となった[[ハラッパー]]遺跡がある。 === 食文化 === {{main|パキスタン料理|パンジャーブ料理}} パキスタン国内にはアジア最初のビール[[醸造所]]として知られる{{仮リンク|マリー醸造所|en|Murree Brewery}}(マリー・ブルワリー)があり、非ムスリム向けに{{仮リンク|マリービール|en|Murree beer}}が製造されている<ref>[https://www.nna.jp/nnakanpasar/backnumber/180701/topics_002 【意外な大国パキスタン(下)】“禁酒の国”でも生産 名門ビール工場訪問記] 2018年7月14日 NNA ASIA</ref>。フンザ地方においては、[[ワイン]]がよく飲まれている。 {{節スタブ}} === 文学 === {{Main|{{仮リンク|パキスタン文学|en|Pakistani literature}}}} {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|パキスタン英文学|en|Pakistani English literature}}}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンの音楽|en|Music of Pakistan}}}} 古典音楽は[[北インド]]と同じ[[ヒンドゥースターニー音楽]]。[[スーフィズム|イスラム神秘主義]]の宗教歌謡[[カッワーリー]]の大歌手[[ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン]]は、[[パンジャーブ州 (パキスタン)|パンジャーブ]]地方で生まれている。 === 映画 === {{main|{{仮リンク|パキスタンの映画|en|Cinema of Pakistan}}}} パキスタンの映画は『{{仮リンク|ロリウッド|en|Lollywood}}』と呼ばれることでも有名である。「ロリウッド」という単語は「ラホール」と「ハリウッド」の鞄語で、元々はグラマー誌のゴシップコラムニストであるサリーム・ナシル(Saleem Nasir)によって1989年に考案された言葉だが、通常は{{仮リンク|南アジア映画|en|South Asian cinema}}において他の映画産業と比較する目的での用語として使用されている。 === 美術 === {{main|{{仮リンク|パキスタンの美術|en|Pakistani art}}}} {{節スタブ}} === 服飾・衣装 === [[ファイル:Schoolgirls_in_Shalwar_Kameez,_Abbotabad_Pakistan_-_UK_International_Development.jpg|thumb|200px|カイバル・パクトゥンクワ州[[アボタバード]]に在る学校へ通学する女子生徒たち。 <br> 裾に折り返しのあるサルワールと、首飾りのような装飾の入ったカミーズを着用している。]] {{Main|{{仮リンク|パキスタンの被服|en|Pakistani clothing}}}} 伝統衣装には[[サルワール・カミーズ]]と呼ばれる上下一対の被服が知られている。 === 建築 === [[ファイル:Monument,_Islamabad.JPG|thumb|200px|{{仮リンク|パキスタン国家記念碑|en|Pakistan Monument}}]] {{Main|{{仮リンク|パキスタンの建築|en|Pakistani architecture}}}} パキスタンの建築は、[[インド亜大陸]]の建築文化と絡み合って構成されたもので占められている。独立後のパキスタンにおける建築は、歴史的なイスラム様式建築と様々な現代様式建築が融合したものとなっている点が特徴である。 {{also|{{仮リンク|インド・イスラーム建築|en|Indo-Islamic architecture}}}} {{see also|{{仮リンク|パキスタンの建築家の一覧|en|List of Pakistani architects}}}} また、国民の大半が[[ムスリム]]であることからイスラム教の建築物の代表である[[モスク]]も多数存在する。 {{see also|{{仮リンク|パキスタンのモスクの一覧|en|List of mosques in Pakistan}}}} === 世界遺産 === {{main|パキスタンの世界遺産}} パキスタン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件存在する。 {{see also|{{仮リンク|パキスタンの国定記念物の一覧|en|List of national monuments of Pakistan}}}} === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|パキスタンの祝日|en|Public holidays in Pakistan}}}} {| class="wikitable" |+ style="font-weight: bold; font-size: 120%" | 祝祭日 |- ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- | [[3月23日]] | 共和国記念日 | {{nastaliq|یوم پاکستان}} | [[1940年]]3月23日、ムスリム連盟ラホール大会でのパキスタン決議を記念 |- | [[5月1日]] | メーデー | {{nastaliq|یوم کاریگر}} | |- | [[8月14日]] | 独立記念日 | {{nastaliq|یوم استقلال}} | [[1947年]]8月14日、パキスタンの英国からの独立を記念 |- | [[9月6日]] | 国防記念日 | {{nastaliq|یوم دفاع}} | 1965年9月6日、第二次印パ戦争開戦 |- | [[9月11日]] | [[ムハンマド・アリー・ジンナー]]の命日 | {{nastaliq|یوم وفات قائداعظم}} | 1948年9月11日死去 |- | [[11月9日]] | 詩人・哲学者[[ムハンマド・イクバール]]の誕生日 | {{nastaliq|یوم ولادت محمد اقبال}} | 1877年11月9日誕生、1930年に初めてインドにおけるイスラム国家樹立を主張 |- | [[12月25日]] | クリスマス、[[国民の父|建国の父]]ジンナーの誕生日 | {{nastaliq|عيد الميلاد المسيح}} | 1876年12月25日誕生<!-- 異説あり --> |- | colspan="3" | 以下は[[ヒジュラ暦]](イスラムの太陰暦)に従う祝祭日 |- | ムハッラム10日 | [[アーシューラー]] | {{nastaliq|عاشوراء}} | イマーム・フサインの殉教 |- | [[ラビー・アル=アウワル|ラビーウ=ル=アウワル]]12日 | [[預言者生誕祭|イーデ・ミラードゥンナビー]] | {{nastaliq|عيد ميلاد النبي}} | 預言者[[ムハンマド]]の生誕祭 |- | ラマダーン21日 | イマーム・アリーの殉教 | {{nastaliq|شهادت حضرت علی}} | |- | ラマダーンの最後の金曜日 | <!-- Jumu'ah-tul-Wida --><!-- 日本語表記が不明 --> | {{nastaliq|جمعة الودع}} | |- | ラマダーン最終十夜 | 天命の夜<!-- 訳語のチェックが不完全である --> | {{nastaliq|ليلةِ القَدر}} | |- | シャウワール1日 | [[イード・アル=フィトル]] | {{nastaliq|عيد الفطر}} | 断食明けの祭り |- | ズー=ル=ヒッジャ10日 | [[イード・アル=アドハー]] | {{nastaliq|عيد الأضحى}} | 息子を進んで犠牲にしようとしたイブラーヒーム(アブラハム)を記念 |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|パキスタンのスポーツ|en|Sport in Pakistan}}}} === クリケット === [[File:Prince William (Duke of Cambridge), Shaheen Afridi.jpg|thumb|200px|[[クリケットパキスタン代表|パキスタン代表]]選手らとクリケットをする[[イギリス王室]]の[[ウィリアム (プリンス・オブ・ウェールズ)|ウィリアム王子]](2019年、[[ラホール]]にて<ref>[https://www.bbc.com/news/uk-50087921 Prince William and Kate bowl over royal fans on Pakistan tour] BBC 2023年9月22日閲覧。</ref>)]] パキスタンでは[[クリケット]]が最も人気の[[スポーツ]]である<ref>[https://www.aaastateofplay.com/the-most-popular-sport-in-every-country/ THE MOST POPULAR SPORT IN EVERY COUNTRY] AAA STATE OF PLAY 2023年9月27日閲覧。</ref>。1947年の独立から5年後の1952年、パキスタンは国際クリケット評議会の正会員となり、[[テスト・クリケット]]を行う権利を得た<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/full/20 Pakistan Cricket Board] 国際クリケット評議会 2023年9月27日閲覧。</ref>。パキスタンの最初のテストマッチは、1955年のデリーで行われたインド戦である<ref name="ICC"/>。[[クリケットパキスタン代表]]は、[[1992年]]に行われた[[1992 クリケット・ワールドカップ|クリケット・ワールドカップ]]で初優勝し、2009年には[[ICC T20ワールドカップ]]で初優勝した。[[2017年]]には[[ICCチャンピオンズトロフィー]]を獲得した。特にライバルである[[クリケットインド代表|インド代表]]との一戦は大変な盛り上がりとなる。[[イムラン・カーン]]や[[ワシム・アクラム]]は歴代のパキスタンを代表する選手であり、世界のクリケットの歴史においても有数の選手とされる<ref>[https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/2V6BjFgdJ5KcfVHhR3bwBLz/the-greatest-cricketer-of-all-time-your-votes-revealed The Greatest Cricketer of All Time – your votes revealed!] BBC. 2020年6月15日閲覧。</ref>。なお、カーンは第23代[[パキスタンの首相]]を務めた。2016年には[[トゥエンティ20]]方式のプロリーグである[[パキスタン・スーパーリーグ]]が開幕した。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|パキスタンのサッカー|en|Football in Pakistan}}}} [[サッカー]]もパキスタンでは人気のスポーツとなっており、[[2004年]]にプロサッカーリーグの「[[パキスタン・プレミアリーグ]]」が創設された。しかしクラブチームは少なく、大半は公的機関や企業のチームである。このため、実質的には[[セミプロフェッショナルスポーツ|セミプロ]]的体裁とも言える。[[パキスタンサッカー連盟]](PFF)によって構成される[[サッカーパキスタン代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]および[[AFCアジアカップ]]には未出場である。代表選手には[[カリーム・ウラー]]がおり、[[2015年]]に[[USLチャンピオンシップ]](USLC)のサクラメント・リパブリックに移籍した。これによりウラーは、[[アメリカ合衆国]]のプロサッカークラブと契約した最初の[[パキスタン人]]選手となった<ref>{{cite web|url=http://www.sacrepublicfc.com/news/2015/06/18/srfc-signs-kaleemullah |title=Sacramento Republic FC Sacramento Republic FC Sign Forward Kaleemullah |publisher=Sacramento Republic FC |date=2015-6-18 |accessdate=2015-10-9}}{{en icon}}</ref>。 === ホッケー === パキスタンでは、クリケットやサッカーに次いで[[ホッケー]]が盛んである。ホッケーパキスタン代表は[[アジア]]屈指の強豪国として知られており、過去には[[1960年ローマオリンピック]]、[[1968年メキシコシティーオリンピック]]、[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]と、3度[[近代オリンピック|オリンピック]]で金メダルを獲得している。 {{see also|オリンピックのパキスタン選手団}} == 著名な出身者 == {{main|パキスタン人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[パキスタン関係記事の一覧]] * [[在パキスタン日本国大使館]] * [[世界四大文明]] == 外部リンク == {{Sisterlinks|commons=Pakistan|commonscat=Pakistan|n=パキスタン東北部地震、犠牲者数、刻々と増加|voy=Pakistan|d=Q843|q=no|b=no|v=no}} {{osm box|r|307573}} * 政府 ** [https://pakistan.gov.pk/ パキスタン・イスラム共和国政府] {{en icon}} ** [http://www.infopak.gov.pk/ パキスタン政府 情報放送省]{{リンク切れ|date=2022年2月}} {{en icon}} ** [http://www.presidentofpakistan.gov.pk/ パキスタン大統領府] {{en icon}} ** [https://pakistanembassytokyo.com/ja 在日パキスタン大使館] {{ja icon}}{{en icon}} * 日本政府 ** 外務省 - [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/pakistan/ パキスタン] {{ja icon}} ** [https://www.pk.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在パキスタン日本国大使館] {{ja icon}} * 観光 ** [http://www.tourism.gov.pk/Index.html パキスタン政府観光局] {{en icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|パキスタン|パキスタン}} {{ja icon}} * その他 ** [[日本貿易振興機構|JETRO]] - [https://www.jetro.go.jp/world/asia/pk/ パキスタン] {{ja icon}} ** イスラーム地域研究「中東の民主化と政治改革の展望」([[人間文化研究機構|大学共同利用機関法人 人間文化研究機構]]) - [http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~dbmedm06/me_d13n/database/pakistan.html パキスタン] {{ja icon}} ** [http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/urd/index.html 東京外国語大学(南・西アジア課程)ウルドゥー語専攻] {{ja icon}} ** [http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/urdu/homepage/index.html 大阪大学(外国語学部外国語学科)ウルドゥー語専攻] {{ja icon}} ** [https://www.bbc.com/news/world-south-asia-12965779 パキスタン・プロフィール] [[BBCニュース]] {{en icon}} ** [http://www.jfsa.jpn.org/index.html NPO法人 JFSA]{{ja icon}} ** {{CIA World Factbook link|pk|Pakistan}} {{en icon}} ** {{Curlie|Regional/Asia/Pakistan}} {{en icon}} ** {{Wikiatlas|Pakistan}} {{en icon}} ** {{Kotobank}} ** {{WikiMapia|30.666667|73.166667|11|パキスタン}} ** {{Googlemap|パキスタン}} {{アジア}} {{イギリス連邦}} {{上海協力機構}} {{南アジア地域協力連合}} {{OIC}} 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イバード派
イバード派(アラビア語: الإباضية)はオマーンに多く存在するイスラームの宗派。 アルジェリア、チュニジア、リビア、東アフリカの一部にも存在する。預言者ムハンマドが死亡してから約20年後の650年頃、またはスンナ派とシーア派の両方に先んじて興った。ハワーリジュ派の流れを汲み、それを認識している一方、それに分類されることに強い抵抗を示している。 宗派の名前は始祖であるアブドゥッラー・イブン・イバードに由来するが、事実上の創始者はオマーン・ニズワのジャービル・イブン・ザイドであり、イラクのバスラで創設された。イブン・イバードは、第5代ウマイヤ朝カリフであるアブドゥルマリクが権力を握った頃に、より大きなハワーリジュ派の動きを打ち破る役割があった。イバード派はイスラム教の第3代正統カリフウスマーンの支配に反対したが、より極端なハワーリジュ派と違って、ウスマーンの殺害と、異なる宗派のムスリムを多神教徒と見做す思想を否定した。また、第4代正統カリフのアリーに反対するより緩やかなグループに属し、アリーとウマイヤ朝初代カリフムアーウィヤの間の紛争の前の形にイスラームを戻そうとする。 ウマイヤ朝への敵対を理由に、イバード派は740年代にヒジャズ地方から始まった武装蜂起を試みたが、逆に第14代ウマイヤ朝カリフのマルワーン2世が4000人強の軍隊を率いて、最初にメッカ、その後イエメンのサナアでイバード派を根絶し、最後にハドラマウト西部のシバームで包囲した。しかし、シリアの中心部にイバード派が残ったことにより、ウマイヤ朝はイバード派との和平を余儀なくされ、宗派はその後4年間シバームにコミュニティを残し、オマーンのイバード派当局に引き続き税金を払うことが許された。ウマイヤ朝の軍人ハッジャージ・イブン・ユースフが、ハワーリジュ派への対抗としてイバード派を支持したため、マルワーン2世の死後、ジャービル・イブン・ザイドはユースフとの友好を維持した。しかし、イブン・ザイドはユースフのスパイの暗殺を命じ、それと共に多くのイバード派は反乱してオマーンに追放された。 また、8世紀にはイバード派はオマーンの内陸部にイマームを擁立した。それは、規則が継承されたスンナ派とシーア派の王朝とは対照的に選出されたものであり、これらのイマームは政治的、精神的、軍事的機能を発揮した。 10世紀に入ると、イバード派はシンド、ホラーサーン、ハドラマウト、ドファール、マスカット、ナフサ山地、ゲシュム島に広がっていた。 13世紀までには、アンダルス、シチリア、ムザブ、そしてサヘル地域の西部にも宗派が存在していた。シバームの最後のイバード派は、12世紀のスライフ朝によって追放された。 14世紀、歴史家のイブン・ハルドゥーンは、ハドラマウトのイバード派の影響の痕跡について言及したが、イバード派は現在この地域には存在しない。 イバード派の国では、主流のイスラームの宗派に先行して興ったという理由で、イバード派はイスラームの初期の、そして非常に正統的な解釈であると考えられている。 イバード派はイスラームの他宗派といくつかの教義上の違いを持っている。 イバード派は、スンナ派と同様に、アブー・バクルとウマルについては正統なカリフと認める。そして、ウスマーンの支配の前半は正統と見做し、後半は縁故主義と異端の両方の影響を受けて腐敗していると見做す。また、シーア派と同様に、アリーの支配の初期の部分を認め、アーイシャの反乱とムアーウィヤの反抗を否定する。しかし、スィッフィーンの戦いでの和平がアリーをリーダーシップに適さないものにしたと見做し、ナフラワーンの戦い(アラビア語版、英語版)でハワーリジュ派を殺害したと非難する。現代のイバード派神学者は、ウスマーン、アリー、ムアーウィヤに対するハワーリジュ派の初期の抵抗を擁護する。 モロッコの探検家イブン・バットゥータはオマーンでイバード派のジュムアを観察し、ジュムアをズフルと同じように祈っていると語った。そして、イバード派がウスマーンとアリーではなく、アッラーの慈悲にアブー・バクルとウマルについて祈っていることを指摘した。 イバード派の考えでは、次の正統なカリフはムアーウィヤとの和平を結んだことを理由にアリーに抵抗したハワーリジュ派の指導者、アブドゥッラー・イブン・ワーブである。ムアーウィヤ以降の全てのカリフは、意見が異なるウマル2世を除いて、君主と見做される。多数のイバード派指導者が、南アフリカのアブドゥッラー・イブン・ヤフヤーや北アフリカのルスタム朝のイマームを含む真のイマームとして認識されている。伝統的に、保守的なオマーンのイバード派は君主制と世襲制を拒否し、指導者を選出している。 他の場での激しい宗教紛争にもかかわらず、イバード派は現実主義者であり、理由と政治的便宜が理想的なイスラームの状態を調節しなければならないと考えている。
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イバード派はオマーンに多く存在するイスラームの宗派。 アルジェリア、チュニジア、リビア、東アフリカの一部にも存在する。預言者ムハンマドが死亡してから約20年後の650年頃、またはスンナ派とシーア派の両方に先んじて興った。ハワーリジュ派の流れを汲み、それを認識している一方、それに分類されることに強い抵抗を示している。
{{Multiple image | align = right | direction = vertical | width = 500 | image1 = Islam by country.svg | width1 = | alt1 = | caption1 = 国ごとのイスラム教の分布([[緑色]]系は[[スンナ派]]、[[赤褐色]]系は[[シーア派]]、[[青紫色]]は'''イバード派''' )}} {{Islam}} '''イバード派'''({{lang-ar|الإباضية}})は[[オマーン]]に多く存在する[[イスラーム]]の宗派<ref>{{Cite web|url=https://www.independent.co.uk/news/world/middle-east/the-vicious-schism-between-sunni-and-shia-has-been-poisoning-islam-for-1400-years--and-its-getting-worse-9139525.html|title=Schism between Sunni and Shia has been poisoning Islam for 1,400 years - and it's getting worse|website=[[The Independent]]|first=Paul|last=Vallely|accessdate=2014-2-19}}</ref>。 [[アルジェリア]]、[[チュニジア]]、[[リビア]]、[[東アフリカ]]の一部にも存在する。預言者[[ムハンマド]]が死亡してから約20年後の650年頃、または[[スンナ派]]と[[シーア派]]の両方に先んじて興った<ref name=haw201>[[Donald Hawley]], ''Oman'', pg. 201. Jubilee edition. [[Kensington]]: [[Stacey International]], 1995. {{ISBN2|0905743636}}</ref>。[[ハワーリジュ派]]の流れを汲み、それを認識している一方、それに分類されることに強い抵抗を示している<ref>{{cite encyclopedia|title=Ibadis|editor=John L. Esposito|encyclopedia=The Oxford Dictionary of Islam|publisher=Oxford University Press|location=Oxford|year=2014|url=http://www.oxfordislamicstudies.com/article/opr/t125/e913}}</ref><ref>{{Cite encyclopedia|author=Lewicki, T.|title=al-Ibāḍiyya| year= 2012 |encyclopedia=Encyclopaedia of Islam| edition=2nd|publisher=Brill |editors=P. Bearman, Th. Bianquis, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs|url=https://doi.org/10.1163/1573-3912_islam_COM_0307|subscription=yes}}</ref><ref name=val3>{{Cite book|first=Valerie Jon|last=Hoffman|title=The Essentials of Ibadi Islam|location=[[Syracuse, New York|Syracuse]]|publisher=[[Syracuse University Press]]|year=2012|isbn=9780815650843|url=https://books.google.com/books?id=JNxvMRJM3EAC}}</ref>。 == 歴史 == 宗派の名前は始祖である[[アブドゥッラー・イブン・イバード]]に由来するが<ref name=uzi5>Uzi Rabi, ''The Emergence of States in a Tribal Society: Oman Under Saʻid Bin Taymur, 1932-1970'', pg. 5. [[Eastbourne]]: [[Sussex Academic Press]], 2006. {{ISBN2|9781845190804}}</ref>、事実上の創始者はオマーン・[[ニズワ]]の[[ジャービル・イブン・ザイド]]であり<ref name=val3/><ref name="haw199">Donald Hawley, ''Oman'', pg. 199.</ref>、[[イラク]]の[[バスラ]]で創設された<ref name=joe24>Joseph A. Kechichian, ''Oman and the World: The Emergence of an Independent Foreign Policy'', pg. 24. [[Santa Monica, California|Santa Monica]]: [[RAND Corporation]], 1995. {{ISBN2|9780833023322}}</ref>。イブン・イバードは、第5代[[ウマイヤ朝]][[カリフ]]である[[アブドゥルマリク]]が権力を握った頃に、より大きな[[ハワーリジュ派]]の動きを打ち破る役割があった。イバード派はイスラム教の第3代[[正統カリフ]][[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]の支配に反対したが、より極端なハワーリジュ派と違って、ウスマーンの殺害と、異なる宗派の[[ムスリム]]を多神教徒と見做す思想を否定した<ref name=mcg203>Daniel McLaughlin, ''Yemen and: The Bradt Travel Guide'', pg. 203. [[Guilford, Connecticut|Guilford]]: Brandt Travel Guides, 2007. {{ISBN2|9781841622125}}</ref>。また、第4代正統カリフの[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]に反対するより緩やかなグループに属し、アリーとウマイヤ朝初代カリフ[[ムアーウィヤ]]の間の紛争の前の形にイスラームを戻そうとする<ref name=diana27>Diana Darke, ''Oman: The Bradt Travel Guide'', pg. 27. Guilford: Brandt Travel Guides, 2010. {{ISBN2|9781841623320}}</ref><ref name=haw200>Donald Hawley, ''Oman'', pg. 200.</ref>。 ウマイヤ朝への敵対を理由に、イバード派は740年代にヒジャズ地方から始まった武装蜂起を試みたが、逆に第14代ウマイヤ朝カリフの[[マルワーン2世]]が4000人強の軍隊を率いて、最初に[[メッカ]]、その後イエメンの[[サナア]]でイバード派を根絶し、最後に[[ハドラマウト]]西部の[[シバーム]]で包囲した<ref name=mcg203/>。しかし、シリアの中心部にイバード派が残ったことにより、ウマイヤ朝はイバード派との和平を余儀なくされ、宗派はその後4年間シバームにコミュニティを残し、オマーンのイバード派当局に引き続き税金を払うことが許された<ref name=mcg203/>。ウマイヤ朝の軍人[[ハッジャージ・イブン・ユースフ]]が、ハワーリジュ派への対抗としてイバード派を支持したため、マルワーン2世の死後、ジャービル・イブン・ザイドはユースフとの友好を維持した。しかし、イブン・ザイドはユースフのスパイの暗殺を命じ、それと共に多くのイバード派は反乱してオマーンに追放された<ref name=val3/>。 また、8世紀にはイバード派はオマーンの内陸部に[[イマーム]]を擁立した。それは、規則が継承されたスンナ派とシーア派の王朝とは対照的に選出されたものであり<ref name=haw201/><ref name=carter103>J. R. C. Carter, ''Tribes in Oman'', pg. 103. London: Peninsular Publishers, 1982. {{ISBN2|0907151027}}</ref>、これらのイマームは政治的、精神的、軍事的機能を発揮した<ref>''[http://memory.loc.gov/frd/cs/omtoc.html#om0052 A Country Study: Oman]'', chapter 6 Oman – Government and Politics, section: Historical Patterns of Governance. [[US Library of Congress]], 1993. Retrieved 2006-10-28</ref>。 10世紀に入ると、イバード派は[[シンド]]、[[ホラーサーン]]、[[ハドラマウト]]、[[ドファール特別行政区|ドファール]]、[[マスカット]]、[[ナフサ山地]]、[[ゲシュム島]]に広がっていた。 13世紀までには、[[アンダルス]]、[[シチリア]]、[[ムザブ]]、そして[[サヘル]]地域の西部にも宗派が存在していた。シバームの最後のイバード派は、12世紀の[[スライフ朝]]によって追放された<ref name=haw199/>。 14世紀、歴史家の[[イブン・ハルドゥーン]]は、ハドラマウトのイバード派の影響の痕跡について言及したが、イバード派は現在この地域には存在しない<ref>Daniel McLaughlin, ''Yemen'', pg. 204.</ref>。 == 教義 == イバード派の国では、主流のイスラームの宗派に先行して興ったという理由で、イバード派はイスラームの初期の、そして非常に正統的な解釈であると考えられている<ref name=haw201/>。 === 他宗派との教義上の違い === イバード派はイスラームの他宗派といくつかの教義上の違いを持っている。 * [[ムゥタズィラ派]]やシーア派と同様に、[[最後の審判]]の際に[[アッラー]]はムスリムに対して自身の姿を示さないと考える。一方、スンナ派は、ムスリムが審判の日にアッラーと会うと考えている<ref>{{cite web|url=http://qa.sunnipath.com/issue_view.asp?HD=7&ID=6259&CATE=24|title=Seeing God in dreams, waking, and the afterlife.|author=Muhammad ibn Adam al-Kawthari |date=August 23, 2005 |accessdate=December 18, 2011}}</ref>。 * ムゥタズィラ派と同様に、クルアーンはある時点でアッラーによって創造されたと考える<ref name="Encyclopedia of Islam">{{cite book|author1=Juan Eduardo Campo|title=Encyclopedia of Islam|date=1 Jan 2009|publisher=Infobase Publishing|isbn=9781438126968|page=323}}</ref>。一方、スンナ派は[[アッバース朝]]第7代カリフ[[マアムーン]]の異端審問における[[イブン・ハンバル]]に例示されるように、[[クルアーン]]は神と共に永遠であると考える<ref>Brill, E.J., ed. (1965–1986). ''The Encyclopedia of Islam'', vol. 7. pp. 2–4.</ref>。 * ムゥタズィラ派やシーア派と同様に、クルアーンのアッラーへの擬人化された言及を比喩として解釈する<ref name="Encyclopedia of Islam"/>。 * [[予定説]]についての見解はスンナ派と同様である<ref name="Encyclopedia of Islam"/>。 * [[イスラーム世界]]の指導者が1人である必要はなく、その職に適した人物が1人もいなければ、[[ウンマ (イスラム)|ウンマ]]は自治を行うことができる<ref name=mcg203/><ref name=haw200/>。これはスンナ派のカリフ制、シーア派のイマーム制の両方と異なる<ref name=diana27/><ref>Uzi Rabi, ''The Emergence of States'', pg. 22.</ref><ref>Joseph A. Kechichian, ''Oman and the World'', pg. 25.</ref>。 * イマームが、預言者ムハンマドの部族であった[[クライシュ族]]の子孫である必要はない<ref name=diana27/><ref name=haw200/>。これはシーア派と異なる<ref name=val3/>。 * シーア派の[[タキーヤ]]と同様に、特定の状況下で自分の信念を隠すことは容認できると考える<ref name="Encyclopedia of Islam"/>。 === イスラーム史と歴代カリフに対しての見解 === イバード派は、スンナ派と同様に、[[アブー・バクル]]と[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]については正統なカリフと認める<ref name=val3/><ref name=haw200/>。そして、ウスマーンの支配の前半は正統と見做し、後半は[[縁故主義]]と異端の両方の影響を受けて腐敗していると見做す<ref name=val3/>。また、シーア派と同様に、アリーの支配の初期の部分を認め、[[アーイシャ]]の反乱とムアーウィヤの反抗を否定する。しかし、[[スィッフィーンの戦い]]での和平がアリーをリーダーシップに適さないものにしたと見做し、{{仮リンク|ナフラワーンの戦い|ar|معركة النهروان|en|Battle of Nahrawan}}でハワーリジュ派を殺害したと非難する。現代のイバード派神学者は、ウスマーン、アリー、ムアーウィヤに対するハワーリジュ派の初期の抵抗を擁護する<ref name=val3/>。 [[モロッコ]]の探検家[[イブン・バットゥータ]]はオマーンでイバード派の[[合同礼拝 (クルアーン)|ジュムア]]を観察し、ジュムアを[[ズフル]]と同じように祈っていると語った。そして、イバード派がウスマーンとアリーではなく、アッラーの慈悲にアブー・バクルとウマルについて祈っていることを指摘した<ref name=haw201/>。 イバード派の考えでは、次の正統なカリフはムアーウィヤとの和平を結んだことを理由にアリーに抵抗したハワーリジュ派の指導者、[[アブドゥッラー・イブン・ワーブ]]である<ref name=val3/>。ムアーウィヤ以降の全てのカリフは、意見が異なる[[ウマル2世]]を除いて、君主と見做される。多数のイバード派指導者が、南アフリカの[[アブドゥッラー・イブン・ヤフヤー]]や北アフリカの[[ルスタム朝]]のイマームを含む真のイマームとして認識されている。伝統的に、保守的なオマーンのイバード派は君主制と世襲制を拒否し<ref>Hasan M. Al-Naboodah, "Banu Nabhan in the Omani Sources." Taken from ''New Arabian Studies'', vol. 4, pg. 186. Eds. J. R. Smart, G. Rex Smith and B. R. Pridham. [[Exeter]]: [[University of Exeter Press]], 1997. {{ISBN2|9780859895521}}</ref>、指導者を選出している<ref name=carter103/>。 他の場での激しい宗教紛争にもかかわらず、イバード派は現実主義者であり、理由と政治的便宜が理想的なイスラームの状態を調節しなければならないと考えている<ref name=haw201/>。 == 脚注 == {{Reflist|30em}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:いはあとは}} [[Category:イスラム教の宗派]] [[Category:オマーンの文化]]
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カイサーン派
カイサーン派(カイサーンは、الكيسانية al-Kaysānīya)は、イスラム教の初期時代に存在したシーア派の一派。カイサーンの名の由来は指導者ムフタールの通称カイサーン(کیسان)による。第4代カリフ・アリーの卓越した援助者アスバグ・ブン・ヌバータ(اَصبَغ بن نُباته)に由来する伝承では、ある日、アリーが幼児期のムフタールを膝に乗せて頭を撫で愛でながら「یا کیس، یا کیس」と2回カイス(کیس)と呼んだことから、アラビア語の双数形の主格カイサーン(کیسان)となりムフタールの通称となった。カイス(کیس)とは賢いという意味。もう一つの説として、ムフタールの卓越した将校アブー・アムラ(ابو عَمْرَه)の名前カイサーン(کیسان)に由来するが、前者が有力説である。 シーア派は預言者ムハンマドの従弟で第4代カリフのアリーとその子孫のみが、イスラム共同体の指導者としてふさわしいイマームの資格があると考えるムスリム(イスラム教徒)のことであるが、カイサーン派の人々はアリーの末子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤという人物が真正なイマームであるとみなした。これに対して、イマーム派やザイド派などのシーア派の他の派の多くは、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤの異母兄で、アリーとムハンマドの娘ファーティマの間の息子で母方を通じてムハンマドの血を直接引くハサン、フサインとその子孫をイマームとして推戴している点に根本的な相違がある。 この派の初期の指導者ムフタールは、685年にイマームとして推戴するムハンマド・イブン・ハナフィーヤをマフディー(救世主、メシア)であると宣言し、自らはその代理人(カリフ)を名乗ってアリーのかつての本拠地であるイラクのクーファで決起し、ウマイヤ朝に対してムフタールの乱と呼ばれる反乱を起こした。ムフタールの勢力は一時はイラク一帯を制覇するカイサーン派国家を形成したが、687年に本拠地のクーファを落とされて滅ぼされた。さらに反乱鎮圧後に残ったカイサーン派の人々も、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤが700年に死ぬと、マフディーたるムハンマド・イブン・ハナフィーヤが死んだことを認めず、救世主として再臨する日まで幽冥界に身を隠しているのだと考える派と、ムハンマドの遺児を次代のイマームとして推戴してゆこうとする派とに分裂した。その後、カイサーン派は、誰をイマームと認めるかの問題によって分裂を繰り返し、次第に衰えて8世紀の間に十二イマーム派などに吸収され、消滅した。 カイサーン派の分裂と衰退の過程では、アッバース家のウマイヤ家打倒の革命運動にシーア派から積極的に参加し、アッバース朝のカリフがイマームであると主張した派もあらわれている。 マフディーたるイマームが世界の終末において救世主として再臨するまで幽冥界に隠遁(ガイバ)をしているのだとする思想はカイサーン派によって初めて用いられ、十二イマーム派など他のシーア派の諸派に取り入れられ、それらの教義形成において大きな役割を果たすことになる。
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カイサーン派(カイサーンは、الكيسانية‎ al-Kaysānīya)は、イスラム教の初期時代に存在したシーア派の一派。カイサーンの名の由来は指導者ムフタールの通称カイサーン(کیسان)による。第4代カリフ・アリーの卓越した援助者アスバグ・ブン・ヌバータ(اَصبَغ بن نُباته)に由来する伝承では、ある日、アリーが幼児期のムフタールを膝に乗せて頭を撫で愛でながら「یا کیس، یا کیس」と2回カイス(کیس)と呼んだことから、アラビア語の双数形の主格カイサーン(کیسان)となりムフタールの通称となった。カイス(کیس)とは賢いという意味。もう一つの説として、ムフタールの卓越した将校アブー・アムラ(ابو عَمْرَه)の名前カイサーン(کیسان)に由来するが、前者が有力説である。 シーア派は預言者ムハンマドの従弟で第4代カリフのアリーとその子孫のみが、イスラム共同体の指導者としてふさわしいイマームの資格があると考えるムスリム(イスラム教徒)のことであるが、カイサーン派の人々はアリーの末子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤという人物が真正なイマームであるとみなした。これに対して、イマーム派やザイド派などのシーア派の他の派の多くは、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤの異母兄で、アリーとムハンマドの娘ファーティマの間の息子で母方を通じてムハンマドの血を直接引くハサン、フサインとその子孫をイマームとして推戴している点に根本的な相違がある。 この派の初期の指導者ムフタールは、685年にイマームとして推戴するムハンマド・イブン・ハナフィーヤをマフディー(救世主、メシア)であると宣言し、自らはその代理人(カリフ)を名乗ってアリーのかつての本拠地であるイラクのクーファで決起し、ウマイヤ朝に対してムフタールの乱と呼ばれる反乱を起こした。ムフタールの勢力は一時はイラク一帯を制覇するカイサーン派国家を形成したが、687年に本拠地のクーファを落とされて滅ぼされた。さらに反乱鎮圧後に残ったカイサーン派の人々も、ムハンマド・イブン・ハナフィーヤが700年に死ぬと、マフディーたるムハンマド・イブン・ハナフィーヤが死んだことを認めず、救世主として再臨する日まで幽冥界に身を隠しているのだと考える派と、ムハンマドの遺児を次代のイマームとして推戴してゆこうとする派とに分裂した。その後、カイサーン派は、誰をイマームと認めるかの問題によって分裂を繰り返し、次第に衰えて8世紀の間に十二イマーム派などに吸収され、消滅した。 カイサーン派の分裂と衰退の過程では、アッバース家のウマイヤ家打倒の革命運動にシーア派から積極的に参加し、アッバース朝のカリフがイマームであると主張した派もあらわれている。 マフディーたるイマームが世界の終末において救世主として再臨するまで幽冥界に隠遁(ガイバ)をしているのだとする思想はカイサーン派によって初めて用いられ、十二イマーム派など他のシーア派の諸派に取り入れられ、それらの教義形成において大きな役割を果たすことになる。
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十二イマーム派
十二イマーム派(じゅうにイマームは、主格がアラビア語: الاثنا عشرية、属格・対格がアラビア語: الاثني عشرية、ペルシア語: شیعه دوازدهامامی、アゼルバイジャン語: On iki imam şiəliyi)は、イスラム教シーア派の一派。イラン、イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、イランの国教でもある。 シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多く、日本では報道などで単に「シーア派」といった場合は十二イマーム派を指すことがほとんどである。十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れたことによる。 十二イマーム派においては、シーア派指導者であるイマームの地位は、初代アリー(661年没)以降、十二代目までムハンマドの子孫によって継承された。そして十二代イマームの時、そのイマームが人々の前から姿を消した。これは言葉通りの意味ではなく、世界の内側もしくは存在の見えぬ次元に「隠れ」た、とする(9世紀おわりから10世紀初頭)。この「隠れ」(ガイバ)の状態は現在に至っても続いており、最終的には最後の審判の日にイマームは再臨すると信じられている。信奉している法学派(マズハブ)は、ジャアファル法学派である。 イラン、アゼルバイジャンでは十二イマーム派が圧倒的多数を占め、現代のペルシア人、アゼリー人にとって十二イマーム派は民族アイデンティティーの一つとなっている。 「隠れ」に基づく十二イマーム派に特徴的な政治思想に、イマーム再臨までのあいだ不在のイマームの代理としてイスラム法学者が信者を指導できるとするものがある。20世紀にホメイニーの提唱した「法学者の統治論」とそれに基づくイラン・イスラーム革命では、この思想が精神的支柱となった。 血縁関係を重視する結果から、預言者ムハンマドの娘ファーティマの子が2代目3代目を継いだが、次第に血統が途絶えるなどし、(シーア派各分派)ザイド派は第五代、イスマーイール派は第七代のイマームを誰にあてるかで分派した。このほかに十二イマーム派の内部の学派に、18世紀にシャイフ・アフマド・アフサーイーが説いたシャイヒー派があり、19世紀にバーブ教、バハイ教が生まれている。 イマーム・アリーは、モスクや集会で説教師として人々に話し、その大半は話を捏造し、ハディースの偽造を恐れなかった説話者たちを、その統治の初期にモスクから追い出し、自らの説話でもってイスラームの知識を語った。イマーム・アリーの講話や話の一部はヒジュラ暦4世紀にセイエド・ラズィーによって『雄弁の道』と題される集成にまとめられた。また彼の約一万一千の格言は『至上の智慧と言葉の珠』と題してまとめられている。 イマーム・アリーは預言者が逝去した後、イスラームとムスリムたちの基本的責任者たらんとした。しかし、およそ25年間、統治の舵をとる指導者となることはなかった。彼は微妙な条件下で、歩みだしたばかりのイスラームを敵や偽善者たちの打撃から守り、分派や分裂を起こさないよう、正面からの衝突を避けた。しかし、統治は確固とした彼の権利であることを説くことを控えることはなかった。 そしてこの間、イマームは諸事の改善ならびに預言者のあり方への回帰、そしてカリフたちが直面し解決できない問題を解決するために可能な限り努力した。彼はその公正なあり方で、人々に、特に新しい世代に預言者の行の魅力的な様相を示すことができた。ムアーウィヤの皇帝的、帝王的な豪奢絢爛さに対して、彼は貧しき者たちに列し、まるで最も貧しい者の一人のような生活をした。その統治は公正・平等・敬虔で有徳な統治であり、気高きイスラームを人々に紹介するものだった。しかしハワリージュ派のテロの犠牲となり殉教した。 イマーム・アリーの後、イマーム・ハサンの指導が始まり、人々は彼に忠誠の誓いを立てた。しかし、ムアーウィヤがこれに反対し、戦いが始まった。しかし数カ月後に和解し、年金と引き換えにカリフ位を放棄した。イマーム・ハサンの重要な役割は、ムアーウィヤの内面とその統治機関の本質を暴いたことである。次第にムアーウィヤの統治は崩れ、イマーム・フサインの決起の下地が作られた。 イマーム・フサインはムアーウィヤの時代には兄であるイマーム・ハサンと同じ理由により、ジハードに着手するのはイスラーム社会のためにならないとみなした。ムアーウィヤが死去し、イマーム・ハサンとの講和文書の項目に反して自らの子のために人々から忠誠の誓いを取り付けると、諸状況は一変した。イマーム・フサインはムアーウィヤの息子であるヤズィードがカリフとなることを認めず、バイア(臣従の誓い)を拒否した。同時期、アリーがかつて治めていたクーファから、指導者として来て欲しいという旨の手紙が来たために、それに応じて一族郎党を連れイラクへ向かった。ところが、クーファの民とフサインの叛意はウマイヤ朝の知るところとなり、クーファの町は平定され、フサインの一族はカルバラーで包囲され、戦闘の後、一族もろとも殺害された。胴体から切り離されたフサインの頭部はまずクーファに運ばれ、ヤズィードに差し出された。イマーム・フサインは彼の兄弟、モハンマド・ハナフィアに遺言をしたためて、自分の行動について次のように述べている。 「我が行動と革命の動機は、人間的欲望や嗜好のためではない。我が目的は堕落腐敗や圧制のためではなく、わが祖父すなわち預言者の信者共同体(ウンマ)が紊乱した状況を改善すること、勧善禁悪のためである」 イマーム・フサインの決起は、腐敗したカリフ機関に対する最初の集団的武装蜂起であり、イスラームとカリフ機関を別のものとして考える原因となった。 第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンことイマーム・サッジャードの時代は厳しい閉塞的状態、イスラーム世界の隅々にまで至る思想的・道徳的衰退の時代であった。このために、イマームは祈祷の用語を選んで使い、この形式で知識(マアーレフ)を教え、人々にイスラームの教えを広めた。後半生は追悼に明け暮れたため「祈りの人」という意味である「サッジャード」と称された。『サッジャードの祈祷集』は、信条やエルファーン、社会の様々な分野での知識を持つ54の祈祷を含み、シーア派の歴史上、信徒たちの訓育の役割を果たしている。これに加え、『十五祈祷』として有名なエルファーン的信条の内容を持つ15の祈祷がこのイマームに帰せられている。 イマーム・バーキルと、その次のイマーム・サーディクの時代は、ギリシャ古典の翻訳、思想やイデオロギー的闘争の拡大、彼らとは相対する諸理念や諸宗派の出現と重なった。彼らの役割はそういった混沌の中、自らの知識を広め、勢力を拡大することであった。 イマーム・サッジャードの諸活動のおかげで、第五代イマーム・バーキルの時代には状況が改善された。イマーム・バーキルは人々に対して当時の不正な簒奪者である統治者たちの適格性に疑問を呈し、指導とカリフに関するイスラームの見方を説いたが、なお武力による闘争は不適切とみなした。 イマーム・サーディクの時代は、さらにウマイヤ朝支配の弱体化と滅亡、アッバース朝支配の移行と重なり、イスラーム学の布教の必要性が高まった。イマーム・サーディクによる講義には4千人以上もの学識者が集まり、その中にはスンナ派の諸法学派の開祖たちもいた。当時有名であった唯物論者との討論においてイマームはイスラームの諸信条を守り、理性論と論証学を残した。とりわけ「モファッザルの唯一性論」は彼の優れた業績のひとつである。これは神学の分野で、彼が教友の一人モファッザルに教えたものである。このイマームからは数万ものハディースが様々な分野において残されており、教友の一人アブー・サイード・アバーンだけでも3千ものハディースをイマームから伝えている。イマーム・ジャアファル・サーディクの教えがもたらした影響は十二イマーム・シーアがジャアファリー・シーアとも呼ばれるほどであった。シーアの知識(マアーレフ)の多くが彼によっているからである。 アッバース朝の登場で、再び極めて厳しい閉塞状態となった。アッバース朝第二代カリフ・マンスールの時代、アリーの後裔たちは数多くの拷問や苦難を受けた。イマーム・サーディクはこの期間、闘争を信仰隠し(タギーイェ)とともに継続した。にもかかわらず、アッバース家のカリフはイマームの意図を知っていたために、彼を数回にわたり追放して脅し、最終的には殉教させた。 イマーム・ザーディクの後、第七代イマーム・ムーサー・カーズィムがイマーム・サーディクのマクタブ(理念)を継承した。彼の時代にも、彼と相対するようなマクタブや諸党派が存在していた。イマーム・ムーサー・カーズィムとその弟子たちは、そのようなマクタブの指導者たちとの討論に努めた。イマーム・カーズィムから伝わる法学の伝承は第五代イマーム並びに第六代イマームに次いで多い。 この時代も、マンスールのカリフ位が終わるまで、同じ状態が続いた。マンスールの後、ハールーン・アッラシードがカリフ位を継ぐまでの間は、事態の改善が見られた。しかし、ハールーンがカリフ位を継承すると、再び厳しい状況に追い込まれた。にもかかわらずイマーム・ムーサー・カーズィムは政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった。例えば、ハールーンがファダク地所をイマームに返還しようとすると、イマームはそれに応じてイスラームの領域境界をファダクの境界として言明し、こうしてイスラームの領域全てに対する統治権をあからさまにハールーンから要求した。これは当時の条件下において最もあからさまかつ最も過激な政治的立場であった。また、イマーム・ムーサー・カーズィムはサファヴァーン・ジャンマールと衝突したことも政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった一例である。イマームの追随者の一人であるサファヴァーンは、彼のラクダを巡礼のためにハールーンに貸していた。イマーム・ムーサー・カーズィムはこれを知り彼に叱責し、いかなる種類であっても不正なるカリフとの協力を禁止した。しかし、アリー・イブン・ヤグディーンがイマームの許可のもとで、ハールーンの宰相として、イマームの目的を具現するために尽力した場合は例外とした。 カリフは日に日にイマームに対する締め付けを強めていった。最終的にカリフの命により、イマーム・ムーサー・カーズィムはメディナの預言者モスクでの礼拝時に捕えられ投獄された。さらにバスラやバクダードに連行され、数年にわたって牢獄をたらい回しにされた挙句、殉教した。 イマーム・ムーサー・カーズィムが殉教した後、第八代イマーム・レザーの時代が始まった。アリー・リダーは、シーア派12イマーム派を国教とするイランではイマーム・レザーとして知られているため、ここではイマーム・レザーとする。イマーム・レザーの時代には、アッバース朝カリフ・マアムーンの招聘によって世界中の諸宗教や諸理念の大家や学者たちとの公式討論会が執り行なわれた。イマーム・レザーもこの会に参加し、これによって多くの人たちがイスラームとシーアに入信した。 イマーム・レザーの時代である20年間のうち10年はハールーンがカリフの位にあった時期であった。第八代イマームはこの期間、信仰隠しで過ごした。この時期は第四代イマーム・サッジャードの時代と類似していた。つまり、たとえアリーの後裔であるセイイエド達の蜂起がなお続いており、イマーム個人が彼らの支えであったとしても、第七代イマームから間を置かずしてその急進的な立場を繰り返すことは不利であった。次の8年はアミーンとマアムーンがカリフの時代であった。この期間は支配を巡って多くの争いがあり、こうした条件下で、イマーム・レザーは活動を拡大することができた。多くの人々がシーア派に改宗した。それを見たカリフ・マアムーンは、イマーム・レザーに皇太子の地位を進言したが、イマーム・レザーはそれと闘ったが、最終的には条件付きで受け入れた。その条件は例えば、カリフ・マアムーンがイマーム・レザーの仕事をイマームの名のもとで為したり、非合法的な統治を正当化することがないように、イマームの統治や司法、任官罷免に干渉しないことであった。イマームは、初めから自分の立場を表明した。彼の皇太子位のために用意された集会での最初の演説で、統治は自分の明らかなる権利であると明白に宣言し、カリフよる強奪を言明した。イマームが皇太子であった期間は一年あまりしか続かなかったが、この間、イマームは活動を続け、ついにカリフ・マアムーンはイマーム・レザーを殉教させた。 最後のイマームたちの時代は支配者の厳しい締め付けに留意し、それまでのイマームたちが示した知識が逸脱しないように努めた。 イマーム・レザーの殉教でもって、イマームたちによる新たな努力の時代が始まったが、それは預言者の家の人たちにとって苦難の時代でもあった。イマーム時代の中で、第九代イマーム・ジャヴァード以降は、預言者の家の人たちにとって、最悪の時期であった。 カリフ・マアムーンは討論集会を開き、幼くしてイマームとなったイマーム・ジャヴァードを敵に論破させ、人々の信頼を失墜させようとした。カリフ機関は日に日に監視を強め、最終的にイマーム・ジャヴァードを殉教させる以外に途はなかった。イマーム・ジャヴァードの次の第十代イマーム・ハーディは第十代カリフ・ムタワッキルの従者がカリフに、メッカとメディナの民衆がイマームに従うことを求めていると書き送り、イマームをその力追放するように求めるまでに至った。カリフはイマーム・ジャヴァードをサーマッラーに召喚した。イマーム・ジャヴァードは20年間「アスキャル」という地区で駐屯軍に囲まれ、官憲の監視のもと、ついに殉教した。 彼の後のイマーム・ハサン・アスキャリーも、そのイマーム位は6年以上に及ばなかったものの、同じような条件下にあった。カリフ機関からの強い監視を受け、ほとんどの期間投獄されていた。同様にシーア派信徒たちが軍備を為すことがないように、カリフ機関は資金の面からも厳しく制約をかけ、彼らのいかなる種類の反抗も厳しく弾圧し、第11代イマーム・ハサン・アスキャリーも殉死した。 イマーム・ハサン・アスキャリーの息子である第十二代イマームことお隠れイマームであるムハンマド・ムンタザルのイマーム位は、わずか5歳に満たずして始まった。 当時の状況を考えれば、もしイマームが公衆に姿を現せば、若くして殉教した父と同じ道を辿ることになるため、イマーム・ムハンマド・ムンタザルは姿を隠した。ここに69年続く「小お隠れ時代」が始まった。この期間、イマーム・ムハンマド・ムンタザルは4人の代理を介して民衆と間接的に連絡を取った。彼らは「四代代理」として知られている。イマーム・ムハンマド・ムンタザルは民衆からの質疑に彼らを介して答え、人々の問題を解決した。こうして「大お隠れ」の下地を均した。「大お隠れ」時代は、940年からイマームの再臨までという、完全にイマームとの接触が絶たれる時期として認識されている。お隠れイマームは現ウンマを導く最高の指導者であると同時に、予告されている救世主マフディーであるとみなされている。 イマーム固有の義務の一つは、「内面的導き」であるため、お隠れの時代にあっても、イマームは内面的導きにおいて活発な役割を果たしている。さらにイマームは真実を求める人たちに様々な方法で宗教上の学識や真理、知識の追求上での諸問題において力添えをし、彼の指向でもって問題を解かせ、人々はイマームの存在や導きを間接的に享受する。 十二イマーム派は、歴史的・神学的に、イスラームの中で特異な位置を占めている。結局のところ、スンナ派、シーア派両派の相違の根源は、霊的指導者イマームを認知するか否かの点に尽きる。これは基本的に教義的(神学的)議論である。根源において著しい相違があれば、そこから派生する諸々の点においても違いが現れるのは必定である。つまり、シーア派ではあらゆる宗教的論議の基本といてイマームの権威を必須の条件とするのであって、彼らに結びつかない伝承は信憑性を疑われることになる。 一般にシーア派では自らの見解の基本を預言者の家族の中でも特異な構成員であるイマームの指示に置く。つまり、スンナ派では預言者の伝承(スンナ)を彼の教友を通じて伝えられた通りに受容するが、シーア派では彼の家族を通じて受け入れるのである。別の面からいえば、スンナ派法学派ではメディナ(特にマーレキー派)、イラク(特にハナフィー派)の主要な法学者の見解に従うのに対して、シーア派では預言者の末裔であるイマームの意見に従うということである。シーア派の中で主流である十二イマーム派では、六代目イマーム・ジャファル・サーディクが格別に枢要な位置を占めており、同派はジャファル派とも呼ばれる シーア派法学では、クルアーン、伝承(スンナ)、シーア派法学者の意見の一致(イジュマー)、理性(アクル)の四つを法源と認める。伝承については、預言者とイマームによってなされた発言、行為、暗黙の了解が信頼できる伝承者によって伝えられたものでなければならない。この点で興味深い点は、信頼できるスンナ派の伝承者によるものの方が、邪悪なシーア派の伝承者によるものより優れていると考えられていることである。伝承者の見解はあまり問題視されていない。 イジュマーはそれ自体では法源とはならない。しかし、これによってイマームの考えを知る手段となりうる。十二を数えるイジュマーの機能があると言われるが、最も有力なものは、イマームたちが存命中その近くにいた教友たちの意見の一致である。 四番目の理性の行使は極めてシーア派的である。これは純粋理性ならびに実践理性から引き出される明確な判断を意味している。実践理性の好例としては、公正は正しく、不正は悪であるというような判断である。シーア派の法学原理によれば、「理性の命ずるものは全て宗教の命ずるものである」。したがって、宗教の規則は唯一理性の判定によって判断される。行為とその前提の関係、なんらかの規定と禁止の関係などは、全てシーア派法学の方法上、合理的前提であり、法的規則を見い出す純粋理性に基づく法源である。 シーア派法学上最も基本となる伝承集は通常以下の4つである。 1کتاب الکافی ابو جعفر محمدبن یعقوب کلینی 2کتاب من لا یحضره الفقیه محمد بن علی بابویه القمی 3تهذیب الاحکام محمد بن حسن الطوسی 4الاستبصار فيما اختلف من الأخبار またこの他に有名なものにビハール・アル=アンワルがなどがある。 以上四つの法源は、一種の論理的思惟の方法(法学用語でイジュティハード)を用いて実践される。シーア派では、このイジュティハードは学者たちに開かれたものである一方、スンナ派では初期の学者に限定されている。したがって全てのシーア派法学者はなんらかの法的判断を下す場合、自らこれらの法源を調査しなければならない。ムジュタヒドが他のムジュタヒドの意見を模倣することは非合法である。 イスラーム法学では、取り扱う主題に応じて大きくイバーダート(信仰、儀礼に関する規定)と、ムアーマラート(世俗的な営為に関する規定)の二つに分類される。スンナ派、シャフィイー派法学者であったガザーリーはさらに細分化して、イバーダート、アダト(一般的事柄)、ムンジヤート(救済を保証する事柄)およびムフリカート(破滅をもたらす事柄)の四つに分類している。 シーア派法学では、その他スンナ派の分類法の影響を受けながらMuhammad b. al-Hasan al-Hilliが四分類法を完成した。代表作شرایعالاسلامで提示されたこの分類法は、以後の法学者に継承された。それによると、法学で扱う主題は、イバーダート、ウクード(契約、ここでは相互的な義務を表す)、イカアート(一方的な義務)およびアフカームである。 例えばShahid Awwalはこれを受けて、宗教上の規定は地上での生活に関するものが彼岸の生活に関するものかどちらか一方であるとした。前者がムアーマラートであり、後者がイバーダートである。またムアーマラートは、個人の営為に関わるものとそうでないものに分類されるが、個人に関わらないものをアフカームとした。 さらに法学者の中には、イバーダートとムアーマラートを分類する理由は、前者が本来的にもつ美しさと優位性によると考える者もいた。つまり、信仰はイスラーム教徒にとって、果たすべき義務であるからである。全ての法学書では、信仰、儀礼に関する規定がまず先におかれ、世俗的営為に関するものはその後に続く。 شرایعالاسلامの四分類法に従い、シーア派法学が取り扱う主題について列記する。主題は全部で52ある。 1信仰に関する行為(イバーダート) ・al-tahāra(儀礼的潔め)の書 ・al-salāt ・al-zalāt ・al-khums ・al-sawn ・al-i'ikāf ・al-hajj ・al-'umrā ・al-jihād ・al-amr bi'l-ma'rūf wa'l-nahy 'an al-munkar 2契約 ・al-tijāra ・al-raḥn ・al-mufallas ・al-ḥajr ・al-dāmān ・al-sulḥ ・al-sharika ・al-muḍāraba ・al-muzāra'a wa'l- musāqāt ・al-wadī'a ・al-'āriya ・al-ijāra ・al-wikāla ・al-wuqūf wa 'l-ṣadaqāt ・al-suknā wa' l-taḥbīs ・al-hibāt ・al-sabq wa'l-rimāya ・al-waṣāyā ・al-nilāḥ 3一方的義務 ・al-ṭalāq ・al-khu'l wa l'l-mubāra'a ・al-zihāl ・al-īlā' ・al-li'ān ・al-'itq ・al-tadbīr wa'l-mukātaba wa 'l-istīlād ・al-iqrār ・al-ju'āla ・al-aymān ・al-nadhr 4規則 ・al-ṣayd wa'l-dhabāḥa ・al-at'ima wa'l-ashriba ・al-ghaṣb ・al-shuf'a ・iḥyā' al-mawāt ・al-luqaṭa ・al-farā'iḍ ・al-qaḍa' ・al-shahādāt ・al-ḥudūd wa'l-ta'zīrāt ・al-qiṣāṣ ・al-diyāt شرایعالاسلامは十二イマーム派法学において最高の権威を持つ書物であり、現在もイランを中心とする宗教学院で基本的文献として研究されている。 スンナ派イスラーム法学の法源として、旧来次の四つが認められてきた。すなわち、クルアーン、預言者の伝承、共同体の総意、類推である。クルアーンは神の言葉そのものとして最高の権威を持つことはいうまでもない。しかし、それは法学・神学的解釈の大枠に過ぎない。現実の具体的問題に法学的解釈を下す際、最も重要な法源は預言者の伝承である。シーア派では、これに加え、預言者ムハンマドから直接代理を賦与された十二人のイマームの伝承(アフバール)を最高重視する。この伝承集は10世紀から12世紀に編纂されたが、現在も十二イマーム派の法解釈において最高の権威を有している。 現実の共同体で発生する法的問題に対応するために、クルアーンや伝承を用いても十分に対処できない場合は、法解釈者の個人的判断が加えられることになる。この個人的判断は、イジュティハード、イスティフサーン、キヤース、ラーイーなど、判断の根拠の精確さに応じて、また用いられる目的に応じた用語がある。シーア派では、恣意的で根拠が薄弱なラーイーやキヤースは排除される。他方、信頼度の高い伝承的根拠に基づき、理性を行使する法的判断がイジュティハードである。 イジュティハードの行使は、原則としてシーア派で禁止されることはなかった。しかし、十二世紀までは、むしろこれを排除する傾向があった。のちにこれの重要性について注意を喚起したのが、モンゴル朝期に活躍したアッラーマ・ヒッリーであった。これ以後、サファヴィー朝においてもその重要性は認識されていたが、時代に反映するほど明白な争点として現れなかった。しかし、十九世紀への変わり目にいたり、行使の可否を巡って、イジュティハードは決定的に重要な法概念であると考えられるようになったのである。 この時期、法解釈の方法をめぐり熾烈な抗争が行われた。一方は法的解釈に際して、クルアーンおよび預言者とイマームの伝承の地は一切法源として用いるべきではないとする立場、他はクルアーンや伝承で十分対処できない新しい問題については、資格を認定された法学者の理性的判断を容認する立場である。前者をアフバーリー派(伝統墨守の一派)、後者をウスーリー派(法学の原則に理性を許容する一派)と呼んだ。 アフバーリー派は、サファヴィー朝半ば、モッラー・アミーン・アスタラバーディーによって確立された。その基本的立場によれば、十二代目イマームの「お隠れ」以前、以後いずれにおいても信者共同体の法的状況には何ら本質的相違、変化はないと考える。したがって、イマーム不在の時代にあっては、クルアーンは別格として、最も重要な法源はイマームの伝承だけである。そして、そのような伝承の集大成として、4つの伝承のみを容認するのである。 伝承重視の立場は徹底していた。例えば、ある伝承の信憑性が不確かであっても、四大伝承集に採録された伝承であれば真正なものとみなした。また、ある行為の妥当性について伝承では判定がなされておらず、その行為自体が疑わしい場合、その行為を行うことは慎重に控える。さらに、対立する伝承が複数ある場合は、イマームの言行を優先する。それでも判断できない場合は、いずれの伝承にも従わない(タワッコフ)という立場をとった。 この伝承重視の立場は、サファヴィー朝以降、一八世紀に入ってからも十二イマーム派の主流となっていた。特に、現在のイラク共和国南部地域で同派の勢力は顕著であった。この地域はアタバードと呼ばれ、シーア派の聖地であり、宗教的学問の中心地であった。初代イマーム・アリー(ナジャフ)や、三代目イマーム・ホセイン(カルバラー)の墓廟など、イマームに縁のある地が多く存在する。国境という人為的概念が希薄な時代のことであり、イランからも数多くの優秀な学者、学生が賢者を求めて、まだイマームたちの霊力に引きつけられるかのようにアタバードを訪れた。しかし、一八世紀末にこのアタバードで異変が生じつつあった。アフバーリー派に対する攻撃がなされたのである。 この反撃の旗手となったのが、ベフバハーニーという人物であった。シーア派では、イマームのお隠れ以後、百年に一人時代を変える人物(モジャッデド)が現れると言われている。ベフバハーにーはモジャッデドであり、シーア派学界で優に歴代十傑に入る人物として高く評価されている。 ベフバハーニーは、1705年、エスファファーンの町で生まれた。イラクのナジャフで研鑽して後、イラン南西部のベフバーンの町に30年滞在した。この地においても当時一斉を風靡していた伝統主義を掲げるアフバーリー派が優勢であり、彼はこの一派の影響力を削除する活動を行った。その後イラクに戻り、イマーム・ホセイン殉教の地カルバラーを本拠地といて、アフバーリー派に対する戦いを継続した。 反アフバーリー派の書物を著して同派の主張に反駁を加える一方で、分散するウラマーの権威を極力単一の人物に集中し、シーア派全体を統合しようと企てた。そして、この立場に反対する者を異端宣言(タクフィール)することによって、教敵の勢力を削いだ。目的達成のためには暴力も辞さなかった。勢力的な活動の結果、彼が没する18世紀末から19世紀の変わり目には、アフバーリー派の勢力は、ほぼ潰えてしまったといわれている。こうして伝承重視に対して、理性の働きを重んじるオスーリー派が力を得るようになった。 オスーリー派の勝利は、モジュタヘドの勝利であった。モジュタヘドとは、法解釈において独自に理性的判断を下す機能(イジュティハード)を許可された宗教学者のことである。元来、イスラームでは聖職者階級は存在しないため、誰であっても一定の学的水準に達したものは、独自の法解釈に基づき行動することができる。しかし、現実には一般の信者が一定の学的水準に達することは極めて困難である。モジュタヘドになるためには、通常何十年もの年月を要したからである。例えば、アラビア語、文学、倫理学、クルアーン解釈学、伝承がく、聖者伝、法学倫理、他の宗派の教義など、幅広い知識を必要とした。したがって、一般信者はムスリムとしての宗教的、社会的義務を遂行するとき、その行為の規範を提供する宗教学者に助言を求める。これをタグリード(模倣)という。 シーア派の教義によると、全ての信者は少なくとも一人の規範の対象を持たなければならない。この規範(模倣)の対象(源)をマルジャア・アッ=タグリードという。マルジャア・アッ=タグリードは生きたモジュタヘドであって、故人であってはならない。信者と宗教学者のこの関係は、オスーリー派の勝利によって一層強化された。 ベフバハーニーの没後、19世紀も半ばに近づく頃、ウラマー階層全体を最も学識のある単一のマルジャア・アッ=タグリードの下に統合しようという動きがあった。その結果、単一のマルジャア・アッ=タグリードになったのがサーへべ・ジャヴァーヘル、そしてその後を受けたのが、シャイフ・モルタザー・アンサーリーであった。特にアンサーリーは「法学者の封印」とさえいわれ、十二イマーム派教学に、大きな足跡を残した。こうしてマルジャア・アッ=タグリードがシーア派世界に君臨する多勢が出来上がった。この経過と以後の発展について、モタッハリーは、1960年代に執筆した「宗教学者組織の基本的問題」という論考のなかで次のように説明している。 新しい(西洋)文明がまだイランに来ておらず、都市間の交流手段が今よりも貧しかった100年ほど前までに、各都市の人々は、自分たちの資金(ホムス)を同じ町のウラマーに支払っていた。そしてそれらの資金の大半は同じまちで費やされていた。しかし、この一世紀において、それぞれの地点相互に接近する新しい手段が発明されたために、資金はマルジャア・アッ=タグリードという人物に支払うことが習慣となった。これ以後、マルジャア・アッ=タグリードの居住する中心地は注目を受けるばかりか、彼の命令が従われるようになった。その結果、(これらの宗教的資金のうち)イマームの取り分と言われる部分が、新しい土地からもたらされて、宗教学院(の収入)としてはいることになったため、学院は拡大した。全体として、(人々の)往来が盛んとなり、人びちが身近にマルジャと面会し、学院が拡張し、学生や卒業生の数が増え、徐々に町や村がマルジャの影下に入ったため、指揮権と権力が拡大されたのである。 同時代にこの指揮権と権力を十分に行使し、その指揮権と権力を拡大するために新しい手段を活用した人物が、シーラーズィーであった。この権力と指揮権を初めて明らかにしたのが、かの有名なタバコ利権に関する教令(ファトワー)であった。 単一のマルジャア・アッ=タグリードの体制が出来上がったため、経済的にも基盤が安定した宗教学層は、イランの近・現代史上、特異な社会・政治的役割を演じることができた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "十二イマーム派(じゅうにイマームは、主格がアラビア語: الاثنا عشرية、属格・対格がアラビア語: الاثني عشرية、ペルシア語: شیعه دوازدهامامی、アゼルバイジャン語: On iki imam şiəliyi)は、イスラム教シーア派の一派。イラン、イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、イランの国教でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多く、日本では報道などで単に「シーア派」といった場合は十二イマーム派を指すことがほとんどである。十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れたことによる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "十二イマーム派においては、シーア派指導者であるイマームの地位は、初代アリー(661年没)以降、十二代目までムハンマドの子孫によって継承された。そして十二代イマームの時、そのイマームが人々の前から姿を消した。これは言葉通りの意味ではなく、世界の内側もしくは存在の見えぬ次元に「隠れ」た、とする(9世紀おわりから10世紀初頭)。この「隠れ」(ガイバ)の状態は現在に至っても続いており、最終的には最後の審判の日にイマームは再臨すると信じられている。信奉している法学派(マズハブ)は、ジャアファル法学派である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "イラン、アゼルバイジャンでは十二イマーム派が圧倒的多数を占め、現代のペルシア人、アゼリー人にとって十二イマーム派は民族アイデンティティーの一つとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「隠れ」に基づく十二イマーム派に特徴的な政治思想に、イマーム再臨までのあいだ不在のイマームの代理としてイスラム法学者が信者を指導できるとするものがある。20世紀にホメイニーの提唱した「法学者の統治論」とそれに基づくイラン・イスラーム革命では、この思想が精神的支柱となった。", "title": "影響・分派" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "血縁関係を重視する結果から、預言者ムハンマドの娘ファーティマの子が2代目3代目を継いだが、次第に血統が途絶えるなどし、(シーア派各分派)ザイド派は第五代、イスマーイール派は第七代のイマームを誰にあてるかで分派した。このほかに十二イマーム派の内部の学派に、18世紀にシャイフ・アフマド・アフサーイーが説いたシャイヒー派があり、19世紀にバーブ教、バハイ教が生まれている。", "title": "影響・分派" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イマーム・アリーは、モスクや集会で説教師として人々に話し、その大半は話を捏造し、ハディースの偽造を恐れなかった説話者たちを、その統治の初期にモスクから追い出し、自らの説話でもってイスラームの知識を語った。イマーム・アリーの講話や話の一部はヒジュラ暦4世紀にセイエド・ラズィーによって『雄弁の道』と題される集成にまとめられた。また彼の約一万一千の格言は『至上の智慧と言葉の珠』と題してまとめられている。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イマーム・アリーは預言者が逝去した後、イスラームとムスリムたちの基本的責任者たらんとした。しかし、およそ25年間、統治の舵をとる指導者となることはなかった。彼は微妙な条件下で、歩みだしたばかりのイスラームを敵や偽善者たちの打撃から守り、分派や分裂を起こさないよう、正面からの衝突を避けた。しかし、統治は確固とした彼の権利であることを説くことを控えることはなかった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "そしてこの間、イマームは諸事の改善ならびに預言者のあり方への回帰、そしてカリフたちが直面し解決できない問題を解決するために可能な限り努力した。彼はその公正なあり方で、人々に、特に新しい世代に預言者の行の魅力的な様相を示すことができた。ムアーウィヤの皇帝的、帝王的な豪奢絢爛さに対して、彼は貧しき者たちに列し、まるで最も貧しい者の一人のような生活をした。その統治は公正・平等・敬虔で有徳な統治であり、気高きイスラームを人々に紹介するものだった。しかしハワリージュ派のテロの犠牲となり殉教した。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イマーム・アリーの後、イマーム・ハサンの指導が始まり、人々は彼に忠誠の誓いを立てた。しかし、ムアーウィヤがこれに反対し、戦いが始まった。しかし数カ月後に和解し、年金と引き換えにカリフ位を放棄した。イマーム・ハサンの重要な役割は、ムアーウィヤの内面とその統治機関の本質を暴いたことである。次第にムアーウィヤの統治は崩れ、イマーム・フサインの決起の下地が作られた。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "イマーム・フサインはムアーウィヤの時代には兄であるイマーム・ハサンと同じ理由により、ジハードに着手するのはイスラーム社会のためにならないとみなした。ムアーウィヤが死去し、イマーム・ハサンとの講和文書の項目に反して自らの子のために人々から忠誠の誓いを取り付けると、諸状況は一変した。イマーム・フサインはムアーウィヤの息子であるヤズィードがカリフとなることを認めず、バイア(臣従の誓い)を拒否した。同時期、アリーがかつて治めていたクーファから、指導者として来て欲しいという旨の手紙が来たために、それに応じて一族郎党を連れイラクへ向かった。ところが、クーファの民とフサインの叛意はウマイヤ朝の知るところとなり、クーファの町は平定され、フサインの一族はカルバラーで包囲され、戦闘の後、一族もろとも殺害された。胴体から切り離されたフサインの頭部はまずクーファに運ばれ、ヤズィードに差し出された。イマーム・フサインは彼の兄弟、モハンマド・ハナフィアに遺言をしたためて、自分の行動について次のように述べている。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「我が行動と革命の動機は、人間的欲望や嗜好のためではない。我が目的は堕落腐敗や圧制のためではなく、わが祖父すなわち預言者の信者共同体(ウンマ)が紊乱した状況を改善すること、勧善禁悪のためである」", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "イマーム・フサインの決起は、腐敗したカリフ機関に対する最初の集団的武装蜂起であり、イスラームとカリフ機関を別のものとして考える原因となった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンことイマーム・サッジャードの時代は厳しい閉塞的状態、イスラーム世界の隅々にまで至る思想的・道徳的衰退の時代であった。このために、イマームは祈祷の用語を選んで使い、この形式で知識(マアーレフ)を教え、人々にイスラームの教えを広めた。後半生は追悼に明け暮れたため「祈りの人」という意味である「サッジャード」と称された。『サッジャードの祈祷集』は、信条やエルファーン、社会の様々な分野での知識を持つ54の祈祷を含み、シーア派の歴史上、信徒たちの訓育の役割を果たしている。これに加え、『十五祈祷』として有名なエルファーン的信条の内容を持つ15の祈祷がこのイマームに帰せられている。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "イマーム・バーキルと、その次のイマーム・サーディクの時代は、ギリシャ古典の翻訳、思想やイデオロギー的闘争の拡大、彼らとは相対する諸理念や諸宗派の出現と重なった。彼らの役割はそういった混沌の中、自らの知識を広め、勢力を拡大することであった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "イマーム・サッジャードの諸活動のおかげで、第五代イマーム・バーキルの時代には状況が改善された。イマーム・バーキルは人々に対して当時の不正な簒奪者である統治者たちの適格性に疑問を呈し、指導とカリフに関するイスラームの見方を説いたが、なお武力による闘争は不適切とみなした。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イマーム・サーディクの時代は、さらにウマイヤ朝支配の弱体化と滅亡、アッバース朝支配の移行と重なり、イスラーム学の布教の必要性が高まった。イマーム・サーディクによる講義には4千人以上もの学識者が集まり、その中にはスンナ派の諸法学派の開祖たちもいた。当時有名であった唯物論者との討論においてイマームはイスラームの諸信条を守り、理性論と論証学を残した。とりわけ「モファッザルの唯一性論」は彼の優れた業績のひとつである。これは神学の分野で、彼が教友の一人モファッザルに教えたものである。このイマームからは数万ものハディースが様々な分野において残されており、教友の一人アブー・サイード・アバーンだけでも3千ものハディースをイマームから伝えている。イマーム・ジャアファル・サーディクの教えがもたらした影響は十二イマーム・シーアがジャアファリー・シーアとも呼ばれるほどであった。シーアの知識(マアーレフ)の多くが彼によっているからである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アッバース朝の登場で、再び極めて厳しい閉塞状態となった。アッバース朝第二代カリフ・マンスールの時代、アリーの後裔たちは数多くの拷問や苦難を受けた。イマーム・サーディクはこの期間、闘争を信仰隠し(タギーイェ)とともに継続した。にもかかわらず、アッバース家のカリフはイマームの意図を知っていたために、彼を数回にわたり追放して脅し、最終的には殉教させた。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "イマーム・ザーディクの後、第七代イマーム・ムーサー・カーズィムがイマーム・サーディクのマクタブ(理念)を継承した。彼の時代にも、彼と相対するようなマクタブや諸党派が存在していた。イマーム・ムーサー・カーズィムとその弟子たちは、そのようなマクタブの指導者たちとの討論に努めた。イマーム・カーズィムから伝わる法学の伝承は第五代イマーム並びに第六代イマームに次いで多い。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この時代も、マンスールのカリフ位が終わるまで、同じ状態が続いた。マンスールの後、ハールーン・アッラシードがカリフ位を継ぐまでの間は、事態の改善が見られた。しかし、ハールーンがカリフ位を継承すると、再び厳しい状況に追い込まれた。にもかかわらずイマーム・ムーサー・カーズィムは政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった。例えば、ハールーンがファダク地所をイマームに返還しようとすると、イマームはそれに応じてイスラームの領域境界をファダクの境界として言明し、こうしてイスラームの領域全てに対する統治権をあからさまにハールーンから要求した。これは当時の条件下において最もあからさまかつ最も過激な政治的立場であった。また、イマーム・ムーサー・カーズィムはサファヴァーン・ジャンマールと衝突したことも政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった一例である。イマームの追随者の一人であるサファヴァーンは、彼のラクダを巡礼のためにハールーンに貸していた。イマーム・ムーサー・カーズィムはこれを知り彼に叱責し、いかなる種類であっても不正なるカリフとの協力を禁止した。しかし、アリー・イブン・ヤグディーンがイマームの許可のもとで、ハールーンの宰相として、イマームの目的を具現するために尽力した場合は例外とした。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "カリフは日に日にイマームに対する締め付けを強めていった。最終的にカリフの命により、イマーム・ムーサー・カーズィムはメディナの預言者モスクでの礼拝時に捕えられ投獄された。さらにバスラやバクダードに連行され、数年にわたって牢獄をたらい回しにされた挙句、殉教した。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イマーム・ムーサー・カーズィムが殉教した後、第八代イマーム・レザーの時代が始まった。アリー・リダーは、シーア派12イマーム派を国教とするイランではイマーム・レザーとして知られているため、ここではイマーム・レザーとする。イマーム・レザーの時代には、アッバース朝カリフ・マアムーンの招聘によって世界中の諸宗教や諸理念の大家や学者たちとの公式討論会が執り行なわれた。イマーム・レザーもこの会に参加し、これによって多くの人たちがイスラームとシーアに入信した。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イマーム・レザーの時代である20年間のうち10年はハールーンがカリフの位にあった時期であった。第八代イマームはこの期間、信仰隠しで過ごした。この時期は第四代イマーム・サッジャードの時代と類似していた。つまり、たとえアリーの後裔であるセイイエド達の蜂起がなお続いており、イマーム個人が彼らの支えであったとしても、第七代イマームから間を置かずしてその急進的な立場を繰り返すことは不利であった。次の8年はアミーンとマアムーンがカリフの時代であった。この期間は支配を巡って多くの争いがあり、こうした条件下で、イマーム・レザーは活動を拡大することができた。多くの人々がシーア派に改宗した。それを見たカリフ・マアムーンは、イマーム・レザーに皇太子の地位を進言したが、イマーム・レザーはそれと闘ったが、最終的には条件付きで受け入れた。その条件は例えば、カリフ・マアムーンがイマーム・レザーの仕事をイマームの名のもとで為したり、非合法的な統治を正当化することがないように、イマームの統治や司法、任官罷免に干渉しないことであった。イマームは、初めから自分の立場を表明した。彼の皇太子位のために用意された集会での最初の演説で、統治は自分の明らかなる権利であると明白に宣言し、カリフよる強奪を言明した。イマームが皇太子であった期間は一年あまりしか続かなかったが、この間、イマームは活動を続け、ついにカリフ・マアムーンはイマーム・レザーを殉教させた。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "最後のイマームたちの時代は支配者の厳しい締め付けに留意し、それまでのイマームたちが示した知識が逸脱しないように努めた。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "イマーム・レザーの殉教でもって、イマームたちによる新たな努力の時代が始まったが、それは預言者の家の人たちにとって苦難の時代でもあった。イマーム時代の中で、第九代イマーム・ジャヴァード以降は、預言者の家の人たちにとって、最悪の時期であった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "カリフ・マアムーンは討論集会を開き、幼くしてイマームとなったイマーム・ジャヴァードを敵に論破させ、人々の信頼を失墜させようとした。カリフ機関は日に日に監視を強め、最終的にイマーム・ジャヴァードを殉教させる以外に途はなかった。イマーム・ジャヴァードの次の第十代イマーム・ハーディは第十代カリフ・ムタワッキルの従者がカリフに、メッカとメディナの民衆がイマームに従うことを求めていると書き送り、イマームをその力追放するように求めるまでに至った。カリフはイマーム・ジャヴァードをサーマッラーに召喚した。イマーム・ジャヴァードは20年間「アスキャル」という地区で駐屯軍に囲まれ、官憲の監視のもと、ついに殉教した。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "彼の後のイマーム・ハサン・アスキャリーも、そのイマーム位は6年以上に及ばなかったものの、同じような条件下にあった。カリフ機関からの強い監視を受け、ほとんどの期間投獄されていた。同様にシーア派信徒たちが軍備を為すことがないように、カリフ機関は資金の面からも厳しく制約をかけ、彼らのいかなる種類の反抗も厳しく弾圧し、第11代イマーム・ハサン・アスキャリーも殉死した。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "イマーム・ハサン・アスキャリーの息子である第十二代イマームことお隠れイマームであるムハンマド・ムンタザルのイマーム位は、わずか5歳に満たずして始まった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "当時の状況を考えれば、もしイマームが公衆に姿を現せば、若くして殉教した父と同じ道を辿ることになるため、イマーム・ムハンマド・ムンタザルは姿を隠した。ここに69年続く「小お隠れ時代」が始まった。この期間、イマーム・ムハンマド・ムンタザルは4人の代理を介して民衆と間接的に連絡を取った。彼らは「四代代理」として知られている。イマーム・ムハンマド・ムンタザルは民衆からの質疑に彼らを介して答え、人々の問題を解決した。こうして「大お隠れ」の下地を均した。「大お隠れ」時代は、940年からイマームの再臨までという、完全にイマームとの接触が絶たれる時期として認識されている。お隠れイマームは現ウンマを導く最高の指導者であると同時に、予告されている救世主マフディーであるとみなされている。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "イマーム固有の義務の一つは、「内面的導き」であるため、お隠れの時代にあっても、イマームは内面的導きにおいて活発な役割を果たしている。さらにイマームは真実を求める人たちに様々な方法で宗教上の学識や真理、知識の追求上での諸問題において力添えをし、彼の指向でもって問題を解かせ、人々はイマームの存在や導きを間接的に享受する。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "十二イマーム派は、歴史的・神学的に、イスラームの中で特異な位置を占めている。結局のところ、スンナ派、シーア派両派の相違の根源は、霊的指導者イマームを認知するか否かの点に尽きる。これは基本的に教義的(神学的)議論である。根源において著しい相違があれば、そこから派生する諸々の点においても違いが現れるのは必定である。つまり、シーア派ではあらゆる宗教的論議の基本といてイマームの権威を必須の条件とするのであって、彼らに結びつかない伝承は信憑性を疑われることになる。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一般にシーア派では自らの見解の基本を預言者の家族の中でも特異な構成員であるイマームの指示に置く。つまり、スンナ派では預言者の伝承(スンナ)を彼の教友を通じて伝えられた通りに受容するが、シーア派では彼の家族を通じて受け入れるのである。別の面からいえば、スンナ派法学派ではメディナ(特にマーレキー派)、イラク(特にハナフィー派)の主要な法学者の見解に従うのに対して、シーア派では預言者の末裔であるイマームの意見に従うということである。シーア派の中で主流である十二イマーム派では、六代目イマーム・ジャファル・サーディクが格別に枢要な位置を占めており、同派はジャファル派とも呼ばれる", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "シーア派法学では、クルアーン、伝承(スンナ)、シーア派法学者の意見の一致(イジュマー)、理性(アクル)の四つを法源と認める。伝承については、預言者とイマームによってなされた発言、行為、暗黙の了解が信頼できる伝承者によって伝えられたものでなければならない。この点で興味深い点は、信頼できるスンナ派の伝承者によるものの方が、邪悪なシーア派の伝承者によるものより優れていると考えられていることである。伝承者の見解はあまり問題視されていない。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "イジュマーはそれ自体では法源とはならない。しかし、これによってイマームの考えを知る手段となりうる。十二を数えるイジュマーの機能があると言われるが、最も有力なものは、イマームたちが存命中その近くにいた教友たちの意見の一致である。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "四番目の理性の行使は極めてシーア派的である。これは純粋理性ならびに実践理性から引き出される明確な判断を意味している。実践理性の好例としては、公正は正しく、不正は悪であるというような判断である。シーア派の法学原理によれば、「理性の命ずるものは全て宗教の命ずるものである」。したがって、宗教の規則は唯一理性の判定によって判断される。行為とその前提の関係、なんらかの規定と禁止の関係などは、全てシーア派法学の方法上、合理的前提であり、法的規則を見い出す純粋理性に基づく法源である。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "シーア派法学上最も基本となる伝承集は通常以下の4つである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1کتاب الکافی ابو جعفر محمدبن یعقوب کلینی", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2کتاب من لا یحضره الفقیه محمد بن علی بابویه القمی", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "3تهذیب الاحکام محمد بن حسن الطوسی", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "4الاستبصار فيما اختلف من الأخبار", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "またこの他に有名なものにビハール・アル=アンワルがなどがある。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "以上四つの法源は、一種の論理的思惟の方法(法学用語でイジュティハード)を用いて実践される。シーア派では、このイジュティハードは学者たちに開かれたものである一方、スンナ派では初期の学者に限定されている。したがって全てのシーア派法学者はなんらかの法的判断を下す場合、自らこれらの法源を調査しなければならない。ムジュタヒドが他のムジュタヒドの意見を模倣することは非合法である。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "イスラーム法学では、取り扱う主題に応じて大きくイバーダート(信仰、儀礼に関する規定)と、ムアーマラート(世俗的な営為に関する規定)の二つに分類される。スンナ派、シャフィイー派法学者であったガザーリーはさらに細分化して、イバーダート、アダト(一般的事柄)、ムンジヤート(救済を保証する事柄)およびムフリカート(破滅をもたらす事柄)の四つに分類している。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "シーア派法学では、その他スンナ派の分類法の影響を受けながらMuhammad b. al-Hasan al-Hilliが四分類法を完成した。代表作شرایعالاسلامで提示されたこの分類法は、以後の法学者に継承された。それによると、法学で扱う主題は、イバーダート、ウクード(契約、ここでは相互的な義務を表す)、イカアート(一方的な義務)およびアフカームである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "例えばShahid Awwalはこれを受けて、宗教上の規定は地上での生活に関するものが彼岸の生活に関するものかどちらか一方であるとした。前者がムアーマラートであり、後者がイバーダートである。またムアーマラートは、個人の営為に関わるものとそうでないものに分類されるが、個人に関わらないものをアフカームとした。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "さらに法学者の中には、イバーダートとムアーマラートを分類する理由は、前者が本来的にもつ美しさと優位性によると考える者もいた。つまり、信仰はイスラーム教徒にとって、果たすべき義務であるからである。全ての法学書では、信仰、儀礼に関する規定がまず先におかれ、世俗的営為に関するものはその後に続く。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "شرایعالاسلامの四分類法に従い、シーア派法学が取り扱う主題について列記する。主題は全部で52ある。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1信仰に関する行為(イバーダート)", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "・al-tahāra(儀礼的潔め)の書", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "・al-salāt", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "・al-zalāt", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "・al-khums", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "・al-sawn", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "・al-i'ikāf", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "・al-hajj", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "・al-'umrā", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "・al-jihād", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "・al-amr bi'l-ma'rūf wa'l-nahy 'an al-munkar", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2契約", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "・al-tijāra", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "・al-raḥn", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "・al-mufallas", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "・al-ḥajr", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "・al-dāmān", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "・al-sulḥ", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "・al-sharika", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "・al-muḍāraba", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "・al-muzāra'a wa'l- musāqāt", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "・al-wadī'a", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "・al-'āriya", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "・al-ijāra", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "・al-wikāla", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "・al-wuqūf wa 'l-ṣadaqāt", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "・al-suknā wa' l-taḥbīs", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "・al-hibāt", "title": 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"paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "・al-farā'iḍ", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "・al-qaḍa'", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "・al-shahādāt", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "・al-ḥudūd wa'l-ta'zīrāt", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "・al-qiṣāṣ", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "・al-diyāt", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "شرایعالاسلامは十二イマーム派法学において最高の権威を持つ書物であり、現在もイランを中心とする宗教学院で基本的文献として研究されている。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "スンナ派イスラーム法学の法源として、旧来次の四つが認められてきた。すなわち、クルアーン、預言者の伝承、共同体の総意、類推である。クルアーンは神の言葉そのものとして最高の権威を持つことはいうまでもない。しかし、それは法学・神学的解釈の大枠に過ぎない。現実の具体的問題に法学的解釈を下す際、最も重要な法源は預言者の伝承である。シーア派では、これに加え、預言者ムハンマドから直接代理を賦与された十二人のイマームの伝承(アフバール)を最高重視する。この伝承集は10世紀から12世紀に編纂されたが、現在も十二イマーム派の法解釈において最高の権威を有している。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "現実の共同体で発生する法的問題に対応するために、クルアーンや伝承を用いても十分に対処できない場合は、法解釈者の個人的判断が加えられることになる。この個人的判断は、イジュティハード、イスティフサーン、キヤース、ラーイーなど、判断の根拠の精確さに応じて、また用いられる目的に応じた用語がある。シーア派では、恣意的で根拠が薄弱なラーイーやキヤースは排除される。他方、信頼度の高い伝承的根拠に基づき、理性を行使する法的判断がイジュティハードである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "イジュティハードの行使は、原則としてシーア派で禁止されることはなかった。しかし、十二世紀までは、むしろこれを排除する傾向があった。のちにこれの重要性について注意を喚起したのが、モンゴル朝期に活躍したアッラーマ・ヒッリーであった。これ以後、サファヴィー朝においてもその重要性は認識されていたが、時代に反映するほど明白な争点として現れなかった。しかし、十九世紀への変わり目にいたり、行使の可否を巡って、イジュティハードは決定的に重要な法概念であると考えられるようになったのである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "この時期、法解釈の方法をめぐり熾烈な抗争が行われた。一方は法的解釈に際して、クルアーンおよび預言者とイマームの伝承の地は一切法源として用いるべきではないとする立場、他はクルアーンや伝承で十分対処できない新しい問題については、資格を認定された法学者の理性的判断を容認する立場である。前者をアフバーリー派(伝統墨守の一派)、後者をウスーリー派(法学の原則に理性を許容する一派)と呼んだ。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "アフバーリー派は、サファヴィー朝半ば、モッラー・アミーン・アスタラバーディーによって確立された。その基本的立場によれば、十二代目イマームの「お隠れ」以前、以後いずれにおいても信者共同体の法的状況には何ら本質的相違、変化はないと考える。したがって、イマーム不在の時代にあっては、クルアーンは別格として、最も重要な法源はイマームの伝承だけである。そして、そのような伝承の集大成として、4つの伝承のみを容認するのである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "伝承重視の立場は徹底していた。例えば、ある伝承の信憑性が不確かであっても、四大伝承集に採録された伝承であれば真正なものとみなした。また、ある行為の妥当性について伝承では判定がなされておらず、その行為自体が疑わしい場合、その行為を行うことは慎重に控える。さらに、対立する伝承が複数ある場合は、イマームの言行を優先する。それでも判断できない場合は、いずれの伝承にも従わない(タワッコフ)という立場をとった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "この伝承重視の立場は、サファヴィー朝以降、一八世紀に入ってからも十二イマーム派の主流となっていた。特に、現在のイラク共和国南部地域で同派の勢力は顕著であった。この地域はアタバードと呼ばれ、シーア派の聖地であり、宗教的学問の中心地であった。初代イマーム・アリー(ナジャフ)や、三代目イマーム・ホセイン(カルバラー)の墓廟など、イマームに縁のある地が多く存在する。国境という人為的概念が希薄な時代のことであり、イランからも数多くの優秀な学者、学生が賢者を求めて、まだイマームたちの霊力に引きつけられるかのようにアタバードを訪れた。しかし、一八世紀末にこのアタバードで異変が生じつつあった。アフバーリー派に対する攻撃がなされたのである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "この反撃の旗手となったのが、ベフバハーニーという人物であった。シーア派では、イマームのお隠れ以後、百年に一人時代を変える人物(モジャッデド)が現れると言われている。ベフバハーにーはモジャッデドであり、シーア派学界で優に歴代十傑に入る人物として高く評価されている。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ベフバハーニーは、1705年、エスファファーンの町で生まれた。イラクのナジャフで研鑽して後、イラン南西部のベフバーンの町に30年滞在した。この地においても当時一斉を風靡していた伝統主義を掲げるアフバーリー派が優勢であり、彼はこの一派の影響力を削除する活動を行った。その後イラクに戻り、イマーム・ホセイン殉教の地カルバラーを本拠地といて、アフバーリー派に対する戦いを継続した。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "反アフバーリー派の書物を著して同派の主張に反駁を加える一方で、分散するウラマーの権威を極力単一の人物に集中し、シーア派全体を統合しようと企てた。そして、この立場に反対する者を異端宣言(タクフィール)することによって、教敵の勢力を削いだ。目的達成のためには暴力も辞さなかった。勢力的な活動の結果、彼が没する18世紀末から19世紀の変わり目には、アフバーリー派の勢力は、ほぼ潰えてしまったといわれている。こうして伝承重視に対して、理性の働きを重んじるオスーリー派が力を得るようになった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "オスーリー派の勝利は、モジュタヘドの勝利であった。モジュタヘドとは、法解釈において独自に理性的判断を下す機能(イジュティハード)を許可された宗教学者のことである。元来、イスラームでは聖職者階級は存在しないため、誰であっても一定の学的水準に達したものは、独自の法解釈に基づき行動することができる。しかし、現実には一般の信者が一定の学的水準に達することは極めて困難である。モジュタヘドになるためには、通常何十年もの年月を要したからである。例えば、アラビア語、文学、倫理学、クルアーン解釈学、伝承がく、聖者伝、法学倫理、他の宗派の教義など、幅広い知識を必要とした。したがって、一般信者はムスリムとしての宗教的、社会的義務を遂行するとき、その行為の規範を提供する宗教学者に助言を求める。これをタグリード(模倣)という。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "シーア派の教義によると、全ての信者は少なくとも一人の規範の対象を持たなければならない。この規範(模倣)の対象(源)をマルジャア・アッ=タグリードという。マルジャア・アッ=タグリードは生きたモジュタヘドであって、故人であってはならない。信者と宗教学者のこの関係は、オスーリー派の勝利によって一層強化された。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "ベフバハーニーの没後、19世紀も半ばに近づく頃、ウラマー階層全体を最も学識のある単一のマルジャア・アッ=タグリードの下に統合しようという動きがあった。その結果、単一のマルジャア・アッ=タグリードになったのがサーへべ・ジャヴァーヘル、そしてその後を受けたのが、シャイフ・モルタザー・アンサーリーであった。特にアンサーリーは「法学者の封印」とさえいわれ、十二イマーム派教学に、大きな足跡を残した。こうしてマルジャア・アッ=タグリードがシーア派世界に君臨する多勢が出来上がった。この経過と以後の発展について、モタッハリーは、1960年代に執筆した「宗教学者組織の基本的問題」という論考のなかで次のように説明している。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "新しい(西洋)文明がまだイランに来ておらず、都市間の交流手段が今よりも貧しかった100年ほど前までに、各都市の人々は、自分たちの資金(ホムス)を同じ町のウラマーに支払っていた。そしてそれらの資金の大半は同じまちで費やされていた。しかし、この一世紀において、それぞれの地点相互に接近する新しい手段が発明されたために、資金はマルジャア・アッ=タグリードという人物に支払うことが習慣となった。これ以後、マルジャア・アッ=タグリードの居住する中心地は注目を受けるばかりか、彼の命令が従われるようになった。その結果、(これらの宗教的資金のうち)イマームの取り分と言われる部分が、新しい土地からもたらされて、宗教学院(の収入)としてはいることになったため、学院は拡大した。全体として、(人々の)往来が盛んとなり、人びちが身近にマルジャと面会し、学院が拡張し、学生や卒業生の数が増え、徐々に町や村がマルジャの影下に入ったため、指揮権と権力が拡大されたのである。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "同時代にこの指揮権と権力を十分に行使し、その指揮権と権力を拡大するために新しい手段を活用した人物が、シーラーズィーであった。この権力と指揮権を初めて明らかにしたのが、かの有名なタバコ利権に関する教令(ファトワー)であった。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "単一のマルジャア・アッ=タグリードの体制が出来上がったため、経済的にも基盤が安定した宗教学層は、イランの近・現代史上、特異な社会・政治的役割を演じることができた。", "title": "歴代イマームの役割と彼らの時代" } ]
十二イマーム派は、イスラム教シーア派の一派。イラン、イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、イランの国教でもある。
[[ファイル:Twelvers1 copy copy.png|サムネイル|257x257ピクセル]] {{シーア派}} '''十二イマーム派'''(じゅうにイマームは、主格が{{lang-ar|الاثنا عشرية}}、属格・対格が{{lang-ar|الاثني عشرية}}、{{lang-fa|شیعه دوازده‌امامی}}、{{lang-az|On iki imam şiəliyi}})は、[[イスラム教]][[シーア派]]の一派。[[イラン]]、[[イラク]]、[[アゼルバイジャン]]、[[レバノン]]などに分布し、イランの[[国教]]でもある。 ==概要== '''シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派'''であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多く、[[日本]]では報道などで単に「シーア派」といった場合は十二イマーム派を指すことがほとんどである。十二イマームという名前は、歴史上12人のイマーム(シーア派指導者)が現れたことによる。 十二イマーム派においては、シーア派指導者である[[イマーム]]の地位は、初代[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]](661年没)以降、十二代目まで[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の子孫によって継承された。そして十二代イマームの時、そのイマームが人々の前から姿を消した。これは言葉通りの意味ではなく、世界の内側もしくは存在の見えぬ次元に「隠れ」た、とする(9世紀おわりから10世紀初頭)。この「隠れ」([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]])の状態は現在に至っても続いており、最終的には[[最後の審判]]の日にイマームは再臨すると信じられている。信奉している法学派([[マズハブ]])は、[[ジャアファル法学派]]である。 [[イラン]]、[[アゼルバイジャン]]では十二イマーム派が圧倒的多数を占め、現代の[[ペルシア人]]、[[アゼリー人]]にとって十二イマーム派は民族アイデンティティーの一つとなっている。 ==影響・分派== 「隠れ」に基づく十二イマーム派に特徴的な[[政治哲学|政治思想]]に、イマーム再臨までのあいだ不在のイマームの代理として[[イスラム法学]]者が信者を指導できるとするものがある。20世紀に[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]の提唱した「法学者の統治論」とそれに基づく[[イラン革命|イラン・イスラーム革命]]では、この思想が精神的支柱となった。 血縁関係を重視する結果から、預言者ムハンマドの娘[[ファーティマ]]の子が2代目3代目を継いだが、次第に血統が途絶えるなどし、(シーア派各分派)[[ザイド派]]は第五代、[[イスマーイール派]]は第七代のイマームを誰にあてるかで分派した。このほかに十二イマーム派の内部の学派に、[[18世紀]]にシャイフ・アフマド・アフサーイーが説いた[[シャイヒー派]]があり、[[19世紀]]に[[バーブ教]]、[[バハイ教]]が生まれている。 ==十二イマーム派の認める歴代イマーム== {| | style="text-align:center;" |[[画像:シーア派の系統.png|border|300px]]<br />シーア派主要分派の系統 |style="vertical-align:top;"| #[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]] #[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]] #[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]] - [[ウマイヤ朝]]軍と[[カルバラー]]で戦い敗死。 #[[アリー・ザイヌルアービディーン]] #[[ムハンマド・バーキル]] #[[ジャアファル・サーディク]] #[[ムーサー・カーズィム]] #[[アリー・リダー]] #[[ムハンマド・タキー|ムハンマド・ジャワード]] #[[アリー・ハーディー]] #[[ハサン・アスカリー]] #[[ムハンマド・ムンタザル]](マフディー) - 隠れイマーム |} <div style="clear:both"> == 歴代イマームの役割と彼らの時代 == === イマーム・アリーの役割とその時代 === イマーム・アリーは、モスクや集会で説教師として人々に話し、その大半は話を捏造し、ハディースの偽造を恐れなかった説話者たちを、その統治の初期にモスクから追い出し、自らの説話でもってイスラームの知識を語った。イマーム・アリーの講話や話の一部はヒジュラ暦4世紀にセイエド・ラズィーによって『[[雄弁の道]]』と題される集成にまとめられた。また彼の約一万一千の格言は『至上の智慧と言葉の珠』と題してまとめられている<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=213|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 イマーム・アリーは預言者が逝去した後、イスラームとムスリムたちの基本的責任者たらんとした。しかし、およそ25年間、統治の舵をとる指導者となることはなかった。彼は微妙な条件下で、歩みだしたばかりのイスラームを敵や偽善者たちの打撃から守り、分派や分裂を起こさないよう、正面からの衝突を避けた。しかし、統治は確固とした彼の権利であることを説くことを控えることはなかった。 そしてこの間、イマームは諸事の改善ならびに預言者のあり方への回帰、そしてカリフたちが直面し解決できない問題を解決するために可能な限り努力した。彼はその公正なあり方で、人々に、特に新しい世代に預言者の行の魅力的な様相を示すことができた。ムアーウィヤの皇帝的、帝王的な豪奢絢爛さに対して、彼は貧しき者たちに列し、まるで最も貧しい者の一人のような生活をした。その統治は公正・平等・敬虔で有徳な統治であり、気高きイスラームを人々に紹介するものだった<ref>{{Cite book|author=|editor=富田健次|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=222|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。しかしハワリージュ派のテロの犠牲となり殉教した<ref>{{Cite journal|author=松本耿郎|year=2002|title=アリー|journal=岩波イスラーム辞典|volume=|page=86}}</ref>。 === イマーム・ハサンの役割とその時代 === イマーム・アリーの後、イマーム・ハサンの指導が始まり、人々は彼に忠誠の誓いを立てた。しかし、ムアーウィヤがこれに反対し、戦いが始まった<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=222|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。しかし数カ月後に和解し、年金と引き換えにカリフ位を放棄した<ref>{{Cite journal|author=高野大輔|year=2002|title=ハサン|journal=岩波イスラーム辞典|volume=|page=753}}</ref>。イマーム・ハサンの重要な役割は、ムアーウィヤの内面とその統治機関の本質を暴いたことである。次第にムアーウィヤの統治は崩れ、イマーム・フサインの決起の下地が作られた<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=223|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === イマーム・フサインの役割とその時代 === イマーム・フサインはムアーウィヤの時代には兄であるイマーム・ハサンと同じ理由により、ジハードに着手するのはイスラーム社会のためにならないとみなした。ムアーウィヤが死去し、イマーム・ハサンとの講和文書の項目に反して自らの子のために人々から忠誠の誓いを取り付けると、諸状況は一変した。イマーム・フサインはムアーウィヤの息子であるヤズィードがカリフとなることを認めず、バイア(臣従の誓い)を拒否した。同時期、アリーがかつて治めていたクーファから、指導者として来て欲しいという旨の手紙が来たために、それに応じて一族郎党を連れイラクへ向かった。ところが、クーファの民とフサインの叛意はウマイヤ朝の知るところとなり、クーファの町は平定され、フサインの一族はカルバラーで包囲され、戦闘の後、一族もろとも殺害された。胴体から切り離されたフサインの頭部はまずクーファに運ばれ、ヤズィードに差し出された<ref>{{Cite journal|author=山岸智子|year=2008|title=フサイン|journal=岩波イスラーム辞典|volume=|page=843}}</ref>。イマーム・フサインは彼の兄弟、モハンマド・ハナフィアに遺言をしたためて、自分の行動について次のように述べている。 「我が行動と革命の動機は、人間的欲望や嗜好のためではない。我が目的は堕落腐敗や圧制のためではなく、わが祖父すなわち預言者の信者共同体(ウンマ)が紊乱した状況を改善すること、勧善禁悪のためである<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=224|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>」 イマーム・フサインの決起は、腐敗したカリフ機関に対する最初の集団的武装蜂起であり、イスラームとカリフ機関を別のものとして考える原因となった。 === イマーム・サッジャードの役割とその時代 === 第4代イマーム・アリー・ザイヌルアービディーンことイマーム・サッジャードの時代は厳しい閉塞的状態、イスラーム世界の隅々にまで至る思想的・道徳的衰退の時代であった。このために、イマームは祈祷の用語を選んで使い、この形式で知識(マアーレフ)を教え、人々にイスラームの教えを広めた。後半生は追悼に明け暮れたため「祈りの人」という意味である「サッジャード」と称された<ref>{{Cite journal|author=山岸智子|year=2002|title=ザイヌルアービディーン|journal=岩波イスラーム辞典|volume=|page=391}}</ref>。『サッジャードの祈祷集』は、信条やエルファーン、社会の様々な分野での知識を持つ54の祈祷を含み、シーア派の歴史上、信徒たちの訓育の役割を果たしている<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=213|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。これに加え、『十五祈祷』として有名なエルファーン的信条の内容を持つ15の祈祷がこのイマームに帰せられている<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=213-214|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === イマーム・バーキルの役割とその時代 === イマーム・バーキルと、その次のイマーム・サーディクの時代は、ギリシャ古典の翻訳、思想やイデオロギー的闘争の拡大、彼らとは相対する諸理念や諸宗派の出現と重なった。彼らの役割はそういった混沌の中、自らの知識を広め、勢力を拡大することであった。 イマーム・サッジャードの諸活動のおかげで、第五代イマーム・バーキルの時代には状況が改善された。イマーム・バーキルは人々に対して当時の不正な簒奪者である統治者たちの適格性に疑問を呈し、指導とカリフに関するイスラームの見方を説いたが、なお武力による闘争は不適切とみなした<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=226|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === イマーム・サーディクの役割とその時代 === イマーム・サーディクの時代は、さらにウマイヤ朝支配の弱体化と滅亡、アッバース朝支配の移行と重なり、イスラーム学の布教の必要性が高まった。イマーム・サーディクによる講義には4千人以上もの学識者が集まり、その中にはスンナ派の諸法学派の開祖たちもいた<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=214|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。当時有名であった唯物論者との討論においてイマームはイスラームの諸信条を守り、理性論と論証学を残した。とりわけ「モファッザルの唯一性論」は彼の優れた業績のひとつである。これは神学の分野で、彼が教友の一人モファッザルに教えたものである。このイマームからは数万ものハディースが様々な分野において残されており、教友の一人アブー・サイード・アバーンだけでも3千ものハディースをイマームから伝えている。イマーム・ジャアファル・サーディクの教えがもたらした影響は十二イマーム・シーアがジャアファリー・シーアとも呼ばれるほどであった。シーアの知識(マアーレフ)の多くが彼によっているからである<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=215|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 アッバース朝の登場で、再び極めて厳しい閉塞状態となった。アッバース朝第二代カリフ・マンスールの時代、アリーの後裔たちは数多くの拷問や苦難を受けた。イマーム・サーディクはこの期間、闘争を信仰隠し(タギーイェ)とともに継続した。にもかかわらず、アッバース家のカリフはイマームの意図を知っていたために、彼を数回にわたり追放して脅し、最終的には殉教させた<ref name=":0">{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=228|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === イマーム・ムーサー・カーズィムの役割とその時代 === イマーム・ザーディクの後、第七代イマーム・ムーサー・カーズィムがイマーム・サーディクのマクタブ(理念)を継承した。彼の時代にも、彼と相対するようなマクタブや諸党派が存在していた。イマーム・ムーサー・カーズィムとその弟子たちは、そのようなマクタブの指導者たちとの討論に努めた。イマーム・カーズィムから伝わる法学の伝承は第五代イマーム並びに第六代イマームに次いで多い<ref name=":0" />。 この時代も、マンスールのカリフ位が終わるまで、同じ状態が続いた。マンスールの後、ハールーン・アッラシードがカリフ位を継ぐまでの間は、事態の改善が見られた。しかし、ハールーンがカリフ位を継承すると、再び厳しい状況に追い込まれた。にもかかわらずイマーム・ムーサー・カーズィムは政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった。例えば、ハールーンがファダク地所をイマームに返還しようとすると、イマームはそれに応じてイスラームの領域境界をファダクの境界として言明し、こうしてイスラームの領域全てに対する統治権をあからさまにハールーンから要求した。これは当時の条件下において最もあからさまかつ最も過激な政治的立場であった。また、イマーム・ムーサー・カーズィムはサファヴァーン・ジャンマールと衝突したことも政治的な努力を継続し、カリフ側を簒奪者とする立場をとった一例である。イマームの追随者の一人であるサファヴァーンは、彼のラクダを巡礼のためにハールーンに貸していた。イマーム・ムーサー・カーズィムはこれを知り彼に叱責し、いかなる種類であっても不正なるカリフとの協力を禁止した。しかし、アリー・イブン・ヤグディーンがイマームの許可のもとで、ハールーンの宰相として、イマームの目的を具現するために尽力した場合は例外とした。 カリフは日に日にイマームに対する締め付けを強めていった。最終的にカリフの命により、イマーム・ムーサー・カーズィムはメディナの預言者モスクでの礼拝時に捕えられ投獄された。さらにバスラやバクダードに連行され、数年にわたって牢獄をたらい回しにされた挙句、殉教した<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=228-229|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === イマーム・レザーの役割とその時代 === イマーム・ムーサー・カーズィムが殉教した後、第八代イマーム・レザーの時代が始まった。アリー・リダーは、シーア派12イマーム派を国教とするイランではイマーム・レザーとして知られているため、ここではイマーム・レザーとする。イマーム・レザーの時代には、アッバース朝カリフ・マアムーンの招聘によって世界中の諸宗教や諸理念の大家や学者たちとの公式討論会が執り行なわれた。イマーム・レザーもこの会に参加し、これによって多くの人たちがイスラームとシーアに入信した<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=216|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 イマーム・レザーの時代である20年間のうち10年はハールーンがカリフの位にあった時期であった。第八代イマームはこの期間、信仰隠しで過ごした。この時期は第四代イマーム・サッジャードの時代と類似していた。つまり、たとえアリーの後裔であるセイイエド達の蜂起がなお続いており、イマーム個人が彼らの支えであったとしても、第七代イマームから間を置かずしてその急進的な立場を繰り返すことは不利であった。次の8年はアミーンとマアムーンがカリフの時代であった。この期間は支配を巡って多くの争いがあり、こうした条件下で、イマーム・レザーは活動を拡大することができた。多くの人々がシーア派に改宗した。それを見たカリフ・マアムーンは、イマーム・レザーに皇太子の地位を進言したが、イマーム・レザーはそれと闘ったが、最終的には条件付きで受け入れた。その条件は例えば、カリフ・マアムーンがイマーム・レザーの仕事をイマームの名のもとで為したり、非合法的な統治を正当化することがないように、イマームの統治や司法、任官罷免に干渉しないことであった。イマームは、初めから自分の立場を表明した。彼の皇太子位のために用意された集会での最初の演説で、統治は自分の明らかなる権利であると明白に宣言し、カリフよる強奪を言明した。イマームが皇太子であった期間は一年あまりしか続かなかったが、この間、イマームは活動を続け、ついにカリフ・マアムーンはイマーム・レザーを殉教させた<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=230-231|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === 最後のイマームたち3人の役割とその時代 === 最後のイマームたちの時代は支配者の厳しい締め付けに留意し、それまでのイマームたちが示した知識が逸脱しないように努めた<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=216|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 イマーム・レザーの殉教でもって、イマームたちによる新たな努力の時代が始まったが、それは預言者の家の人たちにとって苦難の時代でもあった。イマーム時代の中で、第九代イマーム・ジャヴァード以降は、預言者の家の人たちにとって、最悪の時期であった。 カリフ・マアムーンは討論集会を開き、幼くしてイマームとなったイマーム・ジャヴァードを敵に論破させ、人々の信頼を失墜させようとした。カリフ機関は日に日に監視を強め、最終的にイマーム・ジャヴァードを殉教させる以外に途はなかった。イマーム・ジャヴァードの次の第十代イマーム・ハーディは第十代カリフ・ムタワッキルの従者がカリフに、メッカとメディナの民衆がイマームに従うことを求めていると書き送り、イマームをその力追放するように求めるまでに至った。カリフはイマーム・ジャヴァードをサーマッラーに召喚した。イマーム・ジャヴァードは20年間「アスキャル」という地区で駐屯軍に囲まれ、官憲の監視のもと、ついに殉教した。 彼の後のイマーム・ハサン・アスキャリーも、そのイマーム位は6年以上に及ばなかったものの、同じような条件下にあった。カリフ機関からの強い監視を受け、ほとんどの期間投獄されていた。同様にシーア派信徒たちが軍備を為すことがないように、カリフ機関は資金の面からも厳しく制約をかけ、彼らのいかなる種類の反抗も厳しく弾圧し、第11代イマーム・ハサン・アスキャリーも殉死した<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=232|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 === ムハンマド・ムンタザルの役割とその時代 === イマーム・ハサン・アスキャリーの息子である第十二代イマームことお隠れイマームであるムハンマド・ムンタザルのイマーム位は、わずか5歳に満たずして始まった。 当時の状況を考えれば、もしイマームが公衆に姿を現せば、若くして殉教した父と同じ道を辿ることになるため、イマーム・ムハンマド・ムンタザルは姿を隠した。ここに69年続く「小お隠れ時代」が始まった<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=234|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。この期間、イマーム・ムハンマド・ムンタザルは4人の代理を介して民衆と間接的に連絡を取った。彼らは「四代代理」として知られている。イマーム・ムハンマド・ムンタザルは民衆からの質疑に彼らを介して答え、人々の問題を解決した。こうして「大お隠れ」の下地を均した。「大お隠れ」時代は、940年からイマームの再臨までという、完全にイマームとの接触が絶たれる時期として認識されている<ref>{{Cite journal|author=吉田京子|year=2002|title=ガイバ|journal=岩波イスラーム辞典|volume=|pages=233-244}}</ref>。お隠れイマームは現ウンマを導く最高の指導者であると同時に、予告されている救世主マフディーであるとみなされている<ref>{{Cite journal|author=吉田京子|year=2002|title=隠れイマーム|journal=岩波イスラーム辞典|volume=|page=253}}</ref>。 イマーム固有の義務の一つは、「内面的導き」であるため、お隠れの時代にあっても、イマームは内面的導きにおいて活発な役割を果たしている。さらにイマームは真実を求める人たちに様々な方法で宗教上の学識や真理、知識の追求上での諸問題において力添えをし、彼の指向でもって問題を解かせ、人々はイマームの存在や導きを間接的に享受する<ref>{{Cite book|author=|title=イランのシーア派イスラーム学教科書:イラン高校国定宗教教科書|date=|year=2008|accessdate=|publisher=明石書店|pages=236-237|translator=富田健次|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 == 十二イマーム派法学の基本的特徴 == 十二イマーム派は、歴史的・神学的に、イスラームの中で特異な位置を占めている。結局のところ、スンナ派、シーア派両派の相違の根源は、霊的指導者イマームを認知するか否かの点に尽きる<ref>{{Cite journal|author=嶋本隆光|year=2002|title=イスラームの商法と婚姻・離婚法 : 『諸問題の解説』翻訳と解説|journal=大阪外国語大学学術研究双書|volume=29|page=8}}</ref>。これは基本的に教義的(神学的)議論である。根源において著しい相違があれば、そこから派生する諸々の点においても違いが現れるのは必定である。つまり、シーア派ではあらゆる宗教的論議の基本といてイマームの権威を必須の条件とするのであって、彼らに結びつかない伝承は信憑性を疑われることになる。 一般にシーア派では自らの見解の基本を預言者の家族の中でも特異な構成員であるイマームの指示に置く。つまり、[[スンナ派]]では預言者の伝承(スンナ)を彼の教友を通じて伝えられた通りに受容するが、シーア派では彼の家族を通じて受け入れるのである。別の面からいえば、スンナ派法学派ではメディナ(特に[[マーレキー派]])、イラク(特に[[ハナフィー学派|ハナフィー派]])の主要な法学者の見解に従うのに対して、シーア派では預言者の末裔であるイマームの意見に従うということである。シーア派の中で主流である十二イマーム派では、六代目イマーム・[[ジャアファル・サーディク|ジャファル・サーディク]]が格別に枢要な位置を占めており、同派はジャファル派とも呼ばれる === シーア派法学の法源 === シーア派法学では、[[クルアーン]]、伝承([[スンナ]])、シーア派法学者の意見の一致([[イジュマー]])、理性(アクル)の四つを法源と認める。伝承については、預言者とイマームによってなされた発言、行為、暗黙の了解が信頼できる伝承者によって伝えられたものでなければならない。この点で興味深い点は、信頼できるスンナ派の伝承者によるものの方が、邪悪なシーア派の伝承者によるものより優れていると考えられていることである。伝承者の見解はあまり問題視されていない。 イジュマーはそれ自体では法源とはならない。しかし、これによってイマームの考えを知る手段となりうる。十二を数えるイジュマーの機能があると言われるが、最も有力なものは、イマームたちが存命中その近くにいた教友たちの意見の一致である。 四番目の理性の行使は極めてシーア派的である。これは純粋理性ならびに実践理性から引き出される明確な判断を意味している。実践理性の好例としては、公正は正しく、不正は悪であるというような判断である。シーア派の法学原理によれば、「理性の命ずるものは全て宗教の命ずるものである」。したがって、宗教の規則は唯一理性の判定によって判断される。行為とその前提の関係、なんらかの規定と禁止の関係などは、全てシーア派法学の方法上、合理的前提であり、法的規則を見い出す純粋理性に基づく法源である。 シーア派法学上最も基本となる伝承集は通常以下の4つである。 ①کتاب الکافی [[:en:Muhammad_ibn_Ya'qub_al-Kulayni|ابو جعفر محمدبن یعقوب کلینی]] ②کتاب من لا یحضره الفقیه محمد بن علی بابویه القمی ③تهذیب الاحکام محمد بن حسن الطوسی ④[[:ar:الاستبصار_فيما_اختلف_من_الأخبار_(كتاب)|الاستبصار فيما اختلف من الأخبار]] またこの他に有名なものに[[ビハール・アル=アンワル]]がなどがある。 以上四つの法源は、一種の論理的思惟の方法(法学用語でイジュティハード)を用いて実践される。シーア派では、このイジュティハードは学者たちに開かれたものである一方、スンナ派では初期の学者に限定されている。したがって全てのシーア派法学者はなんらかの法的判断を下す場合、自らこれらの法源を調査しなければならない。ムジュタヒドが他のムジュタヒドの意見を模倣することは非合法である。 === シーア派法学で取り扱う主題 === イスラーム法学では、取り扱う主題に応じて大きく[[イバーダート]](信仰、儀礼に関する規定)と、ムアーマラート(世俗的な営為に関する規定)の二つに分類される。スンナ派、シャフィイー派法学者であったガザーリーはさらに細分化して、イバーダート、アダト(一般的事柄)、ムンジヤート(救済を保証する事柄)およびムフリカート(破滅をもたらす事柄)の四つに分類している。 シーア派法学では、その他スンナ派の分類法の影響を受けながら[[:en:Muhaqqiq_al-Hilli|Muhammad b. al-Hasan al-Hilli]]が四分類法を完成した。代表作[[:fa:شرایع‌الاسلام|شرایع‌الاسلام]]で提示されたこの分類法は、以後の法学者に継承された。それによると、法学で扱う主題は、イバーダート、ウクード(契約、ここでは相互的な義務を表す)、イカアート(一方的な義務)およびアフカームである。 例えば[[:en:Muhammad_Jamaluddin_al-Makki_al-Amili|Shahid Awwal]]はこれを受けて、宗教上の規定は地上での生活に関するものが彼岸の生活に関するものかどちらか一方であるとした。前者がムアーマラートであり、後者がイバーダートである。またムアーマラートは、個人の営為に関わるものとそうでないものに分類されるが、個人に関わらないものをアフカームとした。 さらに法学者の中には、イバーダートとムアーマラートを分類する理由は、前者が本来的にもつ美しさと優位性によると考える者もいた。つまり、信仰はイスラーム教徒にとって、果たすべき義務であるからである。全ての法学書では、信仰、儀礼に関する規定がまず先におかれ、世俗的営為に関するものはその後に続く。 [[:fa:شرایع‌الاسلام|شرایع‌الاسلام]]の四分類法に従い、シーア派法学が取り扱う主題について列記する。主題は全部で52ある。 ①信仰に関する行為(イバーダート) ・al-tahāra(儀礼的潔め)の書 ・al-salāt ・al-zalāt ・al-khums ・al-sawn ・al-i'ikāf ・al-hajj ・al-'umrā ・al-jihād ・al-amr bi'l-ma'rūf wa'l-nahy 'an al-munkar ②契約 ・al-tijāra ・al-raḥn ・al-mufallas ・al-ḥajr ・al-dāmān ・al-sulḥ ・al-sharika ・al-muḍāraba ・al-muzāra'a wa'l- musāqāt ・al-wadī'a ・al-'āriya ・al-ijāra ・al-wikāla ・al-wuqūf wa 'l-ṣadaqāt ・al-suknā wa' l-taḥbīs ・al-hibāt ・al-sabq wa'l-rimāya ・al-waṣāyā ・al-nilāḥ ③一方的義務 ・al-ṭalāq ・al-khu'l wa l'l-mubāra'a ・al-zihāl ・al-īlā' ・al-li'ān ・al-'itq ・al-tadbīr wa'l-mukātaba wa 'l-istīlād ・al-iqrār ・al-ju'āla ・al-aymān ・al-nadhr ④規則 ・al-ṣayd wa'l-dhabāḥa ・al-at'ima wa'l-ashriba ・al-ghaṣb ・al-shuf'a ・iḥyā' al-mawāt ・al-luqaṭa ・al-farā'iḍ ・al-qaḍa' ・al-shahādāt ・al-ḥudūd wa'l-ta'zīrāt ・al-qiṣāṣ ・al-diyāt [[:fa:شرایع‌الاسلام|شرایع‌الاسلام]]は十二イマーム派法学において最高の権威を持つ書物であり、現在もイランを中心とする宗教学院で基本的文献として研究されている<ref name="名前なし-3">{{Cite journal|author=嶋本隆光|year=2002|title=イスラームの商法と婚姻・離婚法 : 『諸問題の解説』翻訳と解説|journal=大阪外国語大学学術研究双書|volume=29|page=13}}</ref>。 == 十二イマーム派法学:オスーリー派の確立 == [[スンナ派]]イスラーム法学の法源として、旧来次の四つが認められてきた。すなわち、[[クルアーン]]、預言者の伝承、共同体の総意、[[法解釈|類推]]である。クルアーンは神の言葉そのものとして最高の権威を持つことはいうまでもない。しかし、それは法学・神学的解釈の大枠に過ぎない。現実の具体的問題に法学的解釈を下す際、最も重要な法源は預言者の伝承である。シーア派では、これに加え、預言者ムハンマドから直接代理を賦与された十二人のイマームの伝承([[アフバール]])を最高重視する。この伝承集は10世紀から12世紀に編纂されたが、現在も十二イマーム派の法解釈において最高の権威を有している<ref>{{Cite journal|author=嶋本隆光|year=2008|title=シーア派小史|journal=イスラームの祭り|volume=|page=|pages=156-159}}</ref>。 現実の共同体で発生する法的問題に対応するために、[[クルアーン]]や伝承を用いても十分に対処できない場合は、法解釈者の個人的判断が加えられることになる。この個人的判断は、イジュティハード、イスティフサーン、キヤース、ラーイーなど、判断の根拠の精確さに応じて、また用いられる目的に応じた用語がある。シーア派では、恣意的で根拠が薄弱なラーイーやキヤースは排除される。他方、信頼度の高い伝承的根拠に基づき、理性を行使する法的判断が[[イジュティハード]]である。 [[イジュティハード]]の行使は、原則としてシーア派で禁止されることはなかった。しかし、十二世紀までは、むしろこれを排除する傾向があった。のちにこれの重要性について注意を喚起したのが、モンゴル朝期に活躍した[[アッラーマ・ヒッリー]]であった。これ以後、[[サファヴィー朝]]においてもその重要性は認識されていたが、時代に反映するほど明白な争点として現れなかった。しかし、十九世紀への変わり目にいたり、行使の可否を巡って、イジュティハードは決定的に重要な法概念であると考えられるようになったのである。 この時期、法解釈の方法をめぐり熾烈な抗争が行われた。一方は法的解釈に際して、クルアーンおよび預言者とイマームの伝承の地は一切法源として用いるべきではないとする立場、他はクルアーンや伝承で十分対処できない新しい問題については、資格を認定された法学者の理性的判断を容認する立場である。前者を[[アフバーリー派]](伝統墨守の一派)、後者を[[ウスーリー派]](法学の原則に理性を許容する一派)と呼んだ。 アフバーリー派は、[[サファヴィー朝]]半ば、[[モッラー・アミーン・アスタラバーディー]]によって確立された。その基本的立場によれば、十二代目イマームの「お隠れ」以前、以後いずれにおいても信者共同体の法的状況には何ら本質的相違、変化はないと考える。したがって、イマーム不在の時代にあっては、クルアーンは別格として、最も重要な法源はイマームの伝承だけである。そして、そのような伝承の集大成として、4つの伝承のみを容認するのである。 伝承重視の立場は徹底していた。例えば、ある伝承の信憑性が不確かであっても、四大伝承集に採録された伝承であれば真正なものとみなした。また、ある行為の妥当性について伝承では判定がなされておらず、その行為自体が疑わしい場合、その行為を行うことは慎重に控える。さらに、対立する伝承が複数ある場合は、イマームの言行を優先する。それでも判断できない場合は、いずれの伝承にも従わない(タワッコフ)という立場をとった。 この伝承重視の立場は、サファヴィー朝以降、一八世紀に入ってからも十二イマーム派の主流となっていた。特に、現在の[[イラク]]共和国南部地域で同派の勢力は顕著であった。この地域はアタバードと呼ばれ、シーア派の聖地であり、宗教的学問の中心地であった。初代イマーム・アリー([[ナジャフ]])や、三代目イマーム・ホセイン([[カルバラー]])の墓廟など、イマームに縁のある地が多く存在する。国境という人為的概念が希薄な時代のことであり、イランからも数多くの優秀な学者、学生が賢者を求めて、まだイマームたちの霊力に引きつけられるかのようにアタバードを訪れた。しかし、一八世紀末にこのアタバードで異変が生じつつあった。アフバーリー派に対する攻撃がなされたのである。 この反撃の旗手となったのが、[[ベフバハーニー]]という人物であった<ref name="名前なし-3"/>。シーア派では、イマームのお隠れ以後、百年に一人時代を変える人物(モジャッデド)が現れると言われている。ベフバハーにーはモジャッデドであり、シーア派学界で優に歴代十傑に入る人物として高く評価されている。 ベフバハーニーは、1705年、エスファファーンの町で生まれた。イラクのナジャフで研鑽して後、イラン南西部のベフバーンの町に30年滞在した。この地においても当時一斉を風靡していた伝統主義を掲げるアフバーリー派が優勢であり、彼はこの一派の影響力を削除する活動を行った。その後イラクに戻り、イマーム・ホセイン殉教の地カルバラーを本拠地といて、アフバーリー派に対する戦いを継続した<ref>{{Cite web|url=https://article.tebyan.net/154827/%D8%B2%D9%86%D8%AF%DA%AF%DB%8C%D9%86%D8%A7%D9%85%D9%87-%D8%A2%DB%8C%D8%AA-%D8%A7%D9%84%D9%84%D9%87-%D9%85%D8%AD%D9%85%D8%AF%D8%A8%D8%A7%D9%82%D8%B1-%D9%88%D8%AD%DB%8C%D8%AF-%D8%A8%D9%87%D8%A8%D9%87%D8%A7%D9%86%DB%8C|title=زندگینامه آیت الله محمدباقر وحید بهبهانی|accessdate=2018/9/1|publisher=}}</ref>。 反アフバーリー派の書物を著して同派の主張に反駁を加える一方で、分散するウラマーの権威を極力単一の人物に集中し、シーア派全体を統合しようと企てた。そして、この立場に反対する者を異端宣言(タクフィール)することによって、教敵の勢力を削いだ。目的達成のためには暴力も辞さなかった。勢力的な活動の結果、彼が没する18世紀末から19世紀の変わり目には、アフバーリー派の勢力は、ほぼ潰えてしまったといわれている<ref>{{Cite journal|author=嶋本 隆光|year=2002|title=イスラームの商法と婚姻・離婚法 : 『諸問題の解説』翻訳と解説|journal=大阪外国語大学学術研究双書|volume=29|page=14}}</ref>。こうして伝承重視に対して、理性の働きを重んじるオスーリー派が力を得るようになった。 オスーリー派の勝利は、モジュタヘドの勝利であった。モジュタヘドとは、法解釈において独自に理性的判断を下す機能([[イジュティハード]])を許可された宗教学者のことである。元来、イスラームでは聖職者階級は存在しないため、誰であっても一定の学的水準に達したものは、独自の法解釈に基づき行動することができる。しかし、現実には一般の信者が一定の学的水準に達することは極めて困難である。モジュタヘドになるためには、通常何十年もの年月を要したからである。例えば、アラビア語、文学、倫理学、クルアーン解釈学、伝承がく、聖者伝、法学倫理、他の宗派の教義など、幅広い知識を必要とした。したがって、一般信者はムスリムとしての宗教的、社会的義務を遂行するとき、その行為の規範を提供する宗教学者に助言を求める。これを[[タグリード]](模倣)という。 シーア派の教義によると、全ての信者は少なくとも一人の規範の対象を持たなければならない。この規範(模倣)の対象(源)をマルジャア・アッ=タグリードという。マルジャア・アッ=タグリードは生きたモジュタヘドであって、故人であってはならない。信者と宗教学者のこの関係は、オスーリー派の勝利によって一層強化された。 ベフバハーニーの没後、19世紀も半ばに近づく頃、ウラマー階層全体を最も学識のある単一のマルジャア・アッ=タグリードの下に統合しようという動きがあった。その結果、単一のマルジャア・アッ=タグリードになったのが[[サーへべ・ジャヴァーヘル]]、そしてその後を受けたのが、[[シャイフ・モルタザー・アンサーリー]]であった。特にアンサーリーは「法学者の封印」とさえいわれ、十二イマーム派教学に、大きな足跡を残した。こうして[[マルジャア・アッ=タクリード|マルジャア・アッ=タグリード]]がシーア派世界に君臨する多勢が出来上がった。この経過と以後の発展について、[[モルタザー・モタッハリー|モタッハリー]]は、1960年代に執筆した「宗教学者組織の基本的問題」という論考のなかで次のように説明している。 ''新しい(西洋)文明がまだイランに来ておらず、都市間の交流手段が今よりも貧しかった100年ほど前までに、各都市の人々は、自分たちの資金(ホムス)を同じ町のウラマーに支払っていた。そしてそれらの資金の大半は同じまちで費やされていた。しかし、この一世紀において、それぞれの地点相互に接近する新しい手段が発明されたために、資金はマルジャア・アッ=タグリードという人物に支払うことが習慣となった。これ以後、マルジャア・アッ=タグリードの居住する中心地は注目を受けるばかりか、彼の命令が従われるようになった。その結果、(これらの宗教的資金のうち)イマームの取り分と言われる部分が、新しい土地からもたらされて、宗教学院(の収入)としてはいることになったため、学院は拡大した。全体として、(人々の)往来が盛んとなり、人びちが身近にマルジャと面会し、学院が拡張し、学生や卒業生の数が増え、徐々に町や村がマルジャの影下に入ったため、指揮権と権力が拡大されたのである。'' ''同時代にこの指揮権と権力を十分に行使し、その指揮権と権力を拡大するために新しい手段を活用した人物が、シーラーズィーであった。この権力と指揮権を初めて明らかにしたのが、かの有名なタバコ利権に関する教令(ファトワー)であった''<ref>{{Cite web|url=http://menhajdashti.ir/index.php/naghlghol/182-2014-11-15-14-25-35|title=مشکل اساسی در سازمان روحانیت (مقاله ای از شهید مطهری)|accessdate=2018/9/1|publisher=}}</ref>''。'' 単一のマルジャア・アッ=タグリードの体制が出来上がったため、経済的にも基盤が安定した宗教学層は、イランの近・現代史上、特異な社会・政治的役割を演じることができた<ref>{{Cite journal|author=嶋本 隆光|year=2002|title=イスラームの商法と婚姻・離婚法 : 『諸問題の解説』翻訳と解説|journal=大阪外国語大学学術研究双書|volume=29|page=15}}</ref>。 </div> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==参考文献== *[[桜井啓子 (イスラーム研究者)|桜井啓子]]『現代イラン 神の国の変貌』[[岩波新書]] *[[井筒俊彦]]『イスラーム文化 その根底にあるもの』岩波文庫 ==関連項目== *[[ジャアファル法学派]] *[[イランの法制]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しゆうにいまむは}} [[Category:シーア派]] [[Category:イランの歴史]] [[Category:イランの宗教]] [[Category:名数12|いまむは]] [[ur:اہل تشیع#اثنا عشری]]
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6,145
シャイヒー派
シャイヒー派 (シャイヒーは、アラビア語: الشيخية)は、シャイフ・アフマド・アフサーイー(英語版、ペルシア語版)によって開かれたイスラム教シーア派の一派。19世紀初頭、ガージャール朝時代のイランに始まる。 伝統的かつ純粋な十二イマーム派のシーア派の教義に基礎をおく一方で、十二イマーム派の教義(英語版)の中でも、終末論(英語版)やキヤーマ(最後の審判#イスラム教参照)、法源、解釈学などの重要分野においては、主流であるウスリー派(英語版)とは異なる解釈を採用している。この相違から、シーア派主流のウラマーからは異端として批判対象となってきた。 現在、シャイヒー派は少数派であり、信徒の分布はイラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、パキスタンなどである。
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バーブ教
バーブ教(バーブきょう、بابی ها)は、イランなどに分布したイスラム教の流れを汲む一神教である。バーブとはアラビア語で門という意味である。1840年代にバーブ(ミールザー・アリー・モハンマド)によりイランで十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派から起こったが、のちにシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言するなどしたため、一般にはイスラームの枠外とされて1850年代末には徹底的弾圧を受けた。これを逃れた教徒の一部はバハイ教へと発展する。一方、現在バーブ教を称する一派はアザリー派(英語版)とも呼ばれ今もイランに残るという。 なお、発祥の地であるイラン・イスラーム共和国では、バーブ教の存在、信仰は、現在違法であるとされている。 バーブ教は十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派からおこったため、当初の中心的教義はシャイヒー派に近いものであった。終末と救世主の出現・イマームの再臨は間近であるとして、終末にのぞむためにもコーランを尊重し、シャリーアの厳格な遵守をなすべきだというものである。この時点でのシャイヒー派との若干の相違点はミールザー・アリー・モハンマドが「バーブ」(アラビア語で「門」の意)であるとした点を強調したことにある。十二イマーム派シーア派におけるバーブとは、隠れイマームと直接霊的交信が可能な者のことで、小ガイバ中の四人の代理者がよく知られている。シャイヒー派ではこれを「完全シーア信徒」といい、バーブ教ではアリー・モハンマドをこれに擬したのである。しかし、のちにバーブの主張はより強いものとなった。1848年には自らイマームの再臨(ガーエム)であるとして、シャリーア廃止を宣言した。「コーラン」にかえて自らの預言「バヤーン(英語版)」を新たな啓典としたのである。バーブ教がイスラームと決定的に袂を分かったのはこの時だったといえよう。 バーブは、1819年シーラーズのサイイド(ムハンマドの子孫とされる人びと。ペルシア語ではセイイェド)家系の商人の家に生まれた。本名をミールザー・アリー・モハンマドという。1840年頃にはカルバラーで学び、シャイヒー派の影響を受けるようになる。1843年シャイヒー派指導者セイイェド・カーゼム・ラシュティーが没すると、シャイヒー派に混乱が起こるがこれを受けてアリー・モハンマドは1844年5月12日、自らがバーブであると宣言した。同時にラシュティー死後の指導者を求めるシャイヒー派のモッラー・ホセイン・ボシュルーイー(英語版)がバーブ宣言を認知し、ここにバーブを中心とする集団が出現することになる。 そののち、集団の中核にボシュルーイーをはじめとする19人の「生ける文字(英語版)」を形成して各地のシャイヒー派に派遣、宣教につとめる。 「生ける文字」の一人アリー・バスターミーはアタバートで1844年夏以降宣教し、ウラマーらの面前でマフディーの到来など過激な言辞をはいてオスマン帝国当局、ウスーリー派(英語版)ウラマーの反発を招き、審問されている。また同じくボシュルーイーはエスファハーン・テヘランを経由してホラーサーンでの宣教につとめている。この時期の宣教はシャイヒー派ネットワークに乗せておこなわれたものといわれる。 1845年1月、バーブはイマームの再臨の予兆を宣言して、信徒らにカルバラーに集うよう呼びかけた。自身も1844年9月にメッカ巡礼へと出発するが、バスターミーの有罪判決など状況の悪化によりカルバラーには入れず、1845年7月シーラーズに戻り軟禁される。1846年9月には町の混乱に乗じてエスファハーンに逃れ太守の保護下に置かれるが、太守死後1847年2月ガージャール朝政府によって逮捕され、テヘランでのモハンマド・シャーとの会見ののちアゼルバイジャンのマークーに送られた。1848年、さらにタブリーズへ移され、法廷において自らがイマームの再臨(ガーエム)であると宣言。虐待を受ける。1850年、処刑された(en:Execution of the Báb)。 1848年初夏、ホラーサーンの街シャールード近郊の村バダシュトにおける主立ったバーブ教徒80人が会合をした。ちょうどバーブのガーエム宣言直後にあたる。 「生ける文字」の一人ゴッラトルエインの主導により、バーブの救出とシャリーアからの離脱を決定した。このとき彼女は、バーブに従いシャリーアに従わない以上もはやヘジャブは必要ないとして髪の毛を現したままの姿であったという。のちに女性平等の教説などにつながるが、この過激な主張により、保守的なシャイヒー派をはじめとする多くの人びとが離脱。バーブ教と渾然一体となっていたタブリーズなどのシャイヒー派は急速にバーブ色を薄めることになる。 このバダシュトの会合が諸叛乱のはじまりであった。 1848年10月~49年5月。「生ける文字」ボシュルーイーらがバーブの救出を目標にマシュハドにて旗揚げ。黒旗を掲げて武装バーブ教徒700名でカルバラーに向かう。マーザンダラーンのバールフォルーシュで住民と衝突、付近のシェイフ・タバルスィー廟を要塞化し立てこもる。数度にわたる討伐を退けるが、最終的には鎮圧される。ボシュルーイーらは戦死し教団中心に打撃をうけた。 この事件を境に、ガージャール朝政府は高位ウラマーの非難にもかかわらず無関心でいたバーブ教への態度を改め、叛乱者と認識した。参加者もシーア派三代イマーム・ホセインの「カルバラーの悲劇」と自らを重ね合わせていたことを示す史料もあり、熱狂的信者の存在が認められる一方で、シェイフ・タバルスィー廟という森の中の聖者廟というロケーションから、土俗的信仰を持つ集団とのかかわりも想定される。 1850年5月、6月。ファールスの街ネイリーズでの都市蜂起。指導者はアーガー・セイイェド・ヤフヤー・ダーラービー。おおむね1000人程度が参加した。ダーラービーがヤズドからネイリーズに赴き宣教を開始すると、すぐに一街区が改宗した。もともと都市民の一部と支配者は対立関係にあり、ダーラービーによって対立が激化、蜂起に至った。ネイリーズ郊外の城塞を占拠したが、ファールス太守の軍により二ヶ月で鎮圧された。1853年初には都市支配者がバーブ教徒に暗殺され、小規模な蜂起が再び発生している。 1850年5月から51年1月まで。イラン北西部ザンジャーンでの蜂起。元アフバーリー派(英語版)のウラマーでホッジャトルエスラームであったモッラー・モハンマド・アリー・ザンジャーニー(英語版)が指導。2000人程度の参加と見積もられる。要塞への立てこもりと長期にわたる包囲戦ののち鎮圧される。実態はあまりよくわからないが、その後のバーブ教徒の間では、蜂起にいたる以前の太守の横暴・暴虐、および包囲戦での苦闘・殉教、その後の弾圧などはさまざまな形で伝説化された。 1852年8月15日。ゴッラトルエインら3人がイラン君主ナーセロッディーン・シャーの暗殺を試みて失敗。下獄、拷問ののち殉教した。この事件によってガージャール朝政権/社会はバーブ教を完全に敵視し、バーブ教は大弾圧により壊滅的打撃を受けた。 大弾圧によりバーブ教徒の中心はオスマン帝国領バグダードへ追放され、オスマン帝国によってさらに各地へ移され、国内のバーブ教は壊滅状態に陥った。このときイランを離れたバーブ教徒に、ガージャール朝貴族でのちにバハイ教をおこすバハーウッラーと、ソブヘ・アザリー(英語版)の兄弟もいた。バハーウッラーらがバハイ教へと発展する一方、アザリーを中心としてバーブ教の教義を守る人びとも出てくる。彼らがアザリー派(英語版)である。 そもそもはアザリーがバーブの後継者とされていたが、アザリーが従来の政治的行動主義を維持しようとするのに対し、バハーウッラーらは政治的活動主義から離れ内向的宗教生活を重視して分裂した。この政治的活動主義から、イラン立憲革命期にいたる著名なイランの自由主義者・立憲主義者には、バーブ教と関わりがある疑われる人びとが少なくない。政治的な弾圧が徹底するほどイランにおけるアザリー派はシーア派伝統のタキーヤにのっとり表向き十二イマーム派信徒として振る舞うことを余儀なくされ、活発な活動は影をひそめてゆく。現在バーブ教徒を名乗るのは、このアザリー派の人びとである。 バーブ教はその後も禁圧を受け、イスラーム革命後のイランでも違法となっているが、今もイランを中心に1000-2000人の信者がいるとされる。イラン政府によるバーブ教への対応は国際社会から人権問題として指弾されたこともある。また海外のイラン人コミュニティでもバーブ教コミュニティがある。 シャイヒー派は、シーア派がウスーリー派(英語版)によって制度化・法制化されてゆくなかで、従来のシーア派の内在的傾向を強調した。イマームの「隠れ」中であっても「完全なるシーア派信徒」はイマームから流出する知識を受けうるとする。これはイマーム不在時における「理性による法解釈」の執行者として権威を持つウスーリー派ムジュタヒドの基盤を掘り崩すものであり、アフバーリー派(英語版)の覆滅後ウスーリー派(英語版)へのアンチテーゼとして強い影響力を持った。さらに、18世紀末イランにおいてはスーフィズム・イマーム復活論が全般的高まりつつあった。 これを背景に、バーブ教はシャイヒー派のイマーム復活、マフディー到来を予感させる教説を受け継いだといえる。ヒジュラ暦1261年は第12代イマームのガイバから1000年である。これに従ってマフディー降臨説を流布・利用したのはその例である。同時に、諸蜂起指導者が「ジハード」という言葉を用いたということも重要で、マケインはバーブ教徒が千年至福説的モチーフを利用していたとの指摘をしている。宣教においても既存のシャイヒー派ネットワークを用いており、バーブ教はシャイヒー派を受け継ぐものであったといえよう。 19世紀後半のイランは、社会的混乱、金銀の流出、それに伴う物価高騰、対外的には度重なる敗北という状況にあり、これに対して弱体なガージャール政府は有効な対抗手段を持たなかった。このような状況への不満が、イマーム再臨の千年至福説と結びつき、バーブ教に活力を与えたというのは定説となっている。 バーブ教諸叛乱をさして、ソ連のイラン史家イワノフは、19世紀の外国製品流入による社会変動にともなう都市低所得層と農民による反封建運動という見方を示した。その後の論考もバーブ教の教義の社会革命的革命性については保留しつつも、重い租税に対する未発達な農民戦争であり、イラン国内の内部矛盾に基づく市民派運動として扱われる。 しかし1980年代以降、このような見方は否定されつつある。モーメンは、諸蜂起参加者において名前の分かるものを分析したところ、その出身階層と地方にほぼ偏りはなく一部階層を中心とした運動とは考えにくく、むしろ有力宗教指導者の改宗にしたがって支持者も改宗したのだ、とした。近藤はシェイフ・タバルスィー蜂起における地縁的結合を重視する。アマーナトは没落しつつある商人・職人・下級役人を中心と考え、黒田は蜂起参加者に占める下級ウラマー(モッラーら)の割合から、バーブ教はその千年王国思想ではなく、上級ウラマーへの反感を下級ウラマーと共有することで運動を展開させえたと考える。 またネイリーズ、ザンジャーンに顕著な地方政治における対立で利用されたという指摘もある。もともと政治的対立構図にある集団の一方が対抗的にバーブ教に改宗するというパターンである。モガッダムはバーブ教徒そのものの思想的統一性に疑問を呈し、ガージャール朝への反抗意識自体もかなりの幅があると考えている。その意味で体制派が、反対派を非難するときに「バーブ教徒」は常套句となっており、バーブ教そのもののイランでのあり方の実際をわかりにくくしている。また主要な研究者がバハイ教徒であり、やや研究に偏りが見られる点も否定できず、一方で、イラン国内のバーブ教関連史料へのアクセスは非常に困難で、また史料自体の散逸も多く、全体像のとらえにくいテーマとなっている。
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"1850年5月、6月。ファールスの街ネイリーズでの都市蜂起。指導者はアーガー・セイイェド・ヤフヤー・ダーラービー。おおむね1000人程度が参加した。ダーラービーがヤズドからネイリーズに赴き宣教を開始すると、すぐに一街区が改宗した。もともと都市民の一部と支配者は対立関係にあり、ダーラービーによって対立が激化、蜂起に至った。ネイリーズ郊外の城塞を占拠したが、ファールス太守の軍により二ヶ月で鎮圧された。1853年初には都市支配者がバーブ教徒に暗殺され、小規模な蜂起が再び発生している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1850年5月から51年1月まで。イラン北西部ザンジャーンでの蜂起。元アフバーリー派(英語版)のウラマーでホッジャトルエスラームであったモッラー・モハンマド・アリー・ザンジャーニー(英語版)が指導。2000人程度の参加と見積もられる。要塞への立てこもりと長期にわたる包囲戦ののち鎮圧される。実態はあまりよくわからないが、その後のバーブ教徒の間では、蜂起にいたる以前の太守の横暴・暴虐、および包囲戦での苦闘・殉教、その後の弾圧などはさまざまな形で伝説化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1852年8月15日。ゴッラトルエインら3人がイラン君主ナーセロッディーン・シャーの暗殺を試みて失敗。下獄、拷問ののち殉教した。この事件によってガージャール朝政権/社会はバーブ教を完全に敵視し、バーブ教は大弾圧により壊滅的打撃を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大弾圧によりバーブ教徒の中心はオスマン帝国領バグダードへ追放され、オスマン帝国によってさらに各地へ移され、国内のバーブ教は壊滅状態に陥った。このときイランを離れたバーブ教徒に、ガージャール朝貴族でのちにバハイ教をおこすバハーウッラーと、ソブヘ・アザリー(英語版)の兄弟もいた。バハーウッラーらがバハイ教へと発展する一方、アザリーを中心としてバーブ教の教義を守る人びとも出てくる。彼らがアザリー派(英語版)である。", "title": "歴史" 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バーブ教は、イランなどに分布したイスラム教の流れを汲む一神教である。バーブとはアラビア語で門という意味である。1840年代にバーブ(ミールザー・アリー・モハンマド)によりイランで十二イマーム派シーア派の一派シャイヒー派から起こったが、のちにシャリーア(イスラーム法)の廃止を宣言するなどしたため、一般にはイスラームの枠外とされて1850年代末には徹底的弾圧を受けた。これを逃れた教徒の一部はバハイ教へと発展する。一方、現在バーブ教を称する一派はアザリー派とも呼ばれ今もイランに残るという。 なお、発祥の地であるイラン・イスラーム共和国では、バーブ教の存在、信仰は、現在違法であるとされている。
{{no footnotes|date=2019年4月}} [[ファイル:Haifa-Bahai.jpg|350px|right|thumb|[[ハイファ]]にあるバーブの[[霊廟]]]] {{ウィキプロジェクトリンク|バーブ教・バハイ教|[[File:Star of Hykal.png|32px]]}} '''バーブ教'''(バーブきょう、&#1576;&#1575;&#1576;&#1740; &#1607;&#1575;)は、[[イラン]]などに分布した[[イスラム教]]の流れを汲む[[一神教]]である。バーブとは[[アラビア語]]で[[門]]という[[意味]]である。[[1840年代]]に[[セイイェド・アリー・モハンマド|バーブ]](ミールザー・アリー・モハンマド)によりイランで[[十二イマーム派]][[シーア派]]の一派[[シャイヒー派]]から起こったが、のちに[[シャリーア]](イスラーム法)の廃止を宣言するなどしたため、一般には[[イスラーム]]の枠外とされて1850年代末には徹底的弾圧を受けた。これを逃れた教徒の一部は[[バハイ教]]へと発展する。一方、現在バーブ教を称する一派は{{仮リンク|アザリー派|en|Azali}}とも呼ばれ今もイランに残るという。 なお、発祥の地である[[イラン|イラン・イスラーム共和国]]では、バーブ教の存在、信仰は、現在[[違法]]であるとされている。 ==教義== バーブ教は[[十二イマーム派]][[シーア派]]の一派[[シャイヒー派]]からおこったため、当初の中心的教義はシャイヒー派に近いものであった。終末と救世主の出現・[[イマーム]]の再臨は間近であるとして、終末にのぞむためにも[[コーラン]]を尊重し、[[シャリーア]]の厳格な遵守をなすべきだというものである。この時点での[[シャイヒー派]]との若干の相違点はミールザー・アリー・モハンマドが「バーブ」(アラビア語で「門」の意)であるとした点を強調したことにある。[[十二イマーム派]]シーア派におけるバーブとは、[[隠れイマーム]]と直接霊的交信が可能な者のことで、小[[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]]中の四人の代理者がよく知られている。シャイヒー派ではこれを「完全シーア信徒」といい、バーブ教ではアリー・モハンマドをこれに擬したのである。しかし、のちにバーブの主張はより強いものとなった。[[1848年]]には自らイマームの再臨(ガーエム)であるとして、シャリーア廃止を宣言した。「[[コーラン]]」にかえて自らの預言「{{仮リンク|バヤーン|en|Persian Bayán}}」を新たな啓典としたのである。バーブ教がイスラームと決定的に袂を分かったのはこの時だったといえよう。 ==歴史== ===バーブと集団の形成=== バーブは、[[1819年]][[シーラーズ]]の[[サイイド]](ムハンマドの子孫とされる人びと。ペルシア語ではセイイェド)家系の商人の家に生まれた。本名をミールザー・アリー・モハンマドという。1840年頃には[[カルバラー]]で学び、[[シャイヒー派]]の影響を受けるようになる。[[1843年]]シャイヒー派指導者セイイェド・カーゼム・ラシュティーが没すると、シャイヒー派に混乱が起こるがこれを受けてアリー・モハンマドは1844年5月12日、自らがバーブであると宣言した。同時にラシュティー死後の指導者を求めるシャイヒー派の{{仮リンク|モッラー・ホセイン・ボシュルーイー|en|Mullá Husayn}}がバーブ宣言を認知し、ここにバーブを中心とする集団が出現することになる。 そののち、集団の中核にボシュルーイーをはじめとする19人の「{{仮リンク|生ける文字|en|Letters of the Living}}」を形成して各地のシャイヒー派に派遣、宣教につとめる。 「生ける文字」の一人アリー・バスターミーは[[アタバート]]で1844年夏以降宣教し、[[ウラマー]]らの面前で[[ムハンマド・ムンタザル|マフディー]]{{要曖昧さ回避|date=2014年7月24日}}の到来など過激な言辞をはいて[[オスマン帝国]]当局、{{仮リンク|ウスーリー派|en|Usuli}}ウラマーの反発を招き、審問されている。また同じくボシュルーイーは[[エスファハーン]]・[[テヘラン]]を経由して[[ホラーサーン]]での宣教につとめている。この時期の宣教はシャイヒー派ネットワークに乗せておこなわれたものといわれる。 1845年1月、バーブはイマームの再臨の予兆を宣言して、信徒らにカルバラーに集うよう呼びかけた。自身も[[1844年]]9月に[[メッカ]]巡礼へと出発するが、バスターミーの有罪判決など状況の悪化によりカルバラーには入れず、[[1845年]]7月シーラーズに戻り軟禁される。[[1846年]]9月には町の混乱に乗じてエスファハーンに逃れ太守の保護下に置かれるが、太守死後[[1847年]]2月[[ガージャール朝]]政府によって逮捕され、テヘランでの[[モハンマド・シャー]]との会見ののち[[アゼルバイジャン]]のマークーに送られた。1848年、さらに[[タブリーズ]]へ移され、法廷において自らがイマームの再臨(ガーエム)であると宣言。虐待を受ける。[[1850年]]、処刑された([[:en:Execution of the Báb]])。 ===バーブ教諸蜂起=== ====バダシュトの会合==== [[1848年]]初夏、ホラーサーンの街シャールード近郊の村バダシュトにおける主立ったバーブ教徒80人が会合をした。ちょうどバーブのガーエム宣言直後にあたる。 「生ける文字」の一人[[ゴッラトルエイン]]の主導により、バーブの救出とシャリーアからの離脱を決定した。このとき彼女は、バーブに従いシャリーアに従わない以上もはや[[ヘジャブ]]は必要ないとして髪の毛を現したままの姿であったという。のちに女性平等の教説などにつながるが、この過激な主張により、保守的な[[シャイヒー派]]をはじめとする多くの人びとが離脱。バーブ教と渾然一体となっていたタブリーズなどのシャイヒー派は急速にバーブ色を薄めることになる。 このバダシュトの会合が諸叛乱のはじまりであった。 ====シェイフ・タバルスィー蜂起==== 1848年10月~49年5月。「生ける文字」ボシュルーイーらがバーブの救出を目標に[[マシュハド]]にて旗揚げ。黒旗を掲げて武装バーブ教徒700名でカルバラーに向かう。[[マーザンダラーン]]のバールフォルーシュで住民と衝突、付近のシェイフ・タバルスィー廟を要塞化し立てこもる。数度にわたる討伐を退けるが、最終的には鎮圧される。ボシュルーイーらは戦死し教団中心に打撃をうけた。 この事件を境に、ガージャール朝政府は高位ウラマーの非難にもかかわらず無関心でいたバーブ教への態度を改め、叛乱者と認識した。参加者もシーア派三代イマーム・[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|ホセイン]]の「カルバラーの悲劇」と自らを重ね合わせていたことを示す史料もあり、熱狂的信者の存在が認められる一方で、シェイフ・タバルスィー廟という森の中の聖者廟というロケーションから、土俗的信仰を持つ集団とのかかわりも想定される。 ====ネイリーズ蜂起==== 1850年5月、6月。[[ファールス (イラン)|ファールス]]の街ネイリーズでの都市蜂起。指導者はアーガー・セイイェド・ヤフヤー・ダーラービー。おおむね1000人程度が参加した。ダーラービーが[[ヤズド]]からネイリーズに赴き宣教を開始すると、すぐに一街区が改宗した。もともと都市民の一部と支配者は対立関係にあり、ダーラービーによって対立が激化、蜂起に至った。ネイリーズ郊外の城塞を占拠したが、ファールス太守の軍により二ヶ月で鎮圧された。1853年初には都市支配者がバーブ教徒に暗殺され、小規模な蜂起が再び発生している。 ====ザンジャーン蜂起==== 1850年5月から51年1月まで。イラン北西部[[ザンジャーン]]での蜂起。元{{仮リンク|アフバーリー派|en|Akhbari}}の[[ウラマー]]で[[ホッジャトルエスラーム]]であった{{仮リンク|モッラー・モハンマド・アリー・ザンジャーニー|en|Hujjat}}が指導。2000人程度の参加と見積もられる。要塞への立てこもりと長期にわたる包囲戦ののち鎮圧される。実態はあまりよくわからないが、その後のバーブ教徒の間では、蜂起にいたる以前の太守の横暴・暴虐、および包囲戦での苦闘・殉教、その後の弾圧などはさまざまな形で伝説化された。 ====シャー暗殺未遂事件==== [[1852年]]8月15日。ゴッラトルエインら3人がイラン君主[[ナーセロッディーン・シャー]]の暗殺を試みて失敗。下獄、拷問ののち殉教した。この事件によってガージャール朝政権/社会はバーブ教を完全に敵視し、バーブ教は大弾圧により壊滅的打撃を受けた。 ===その後のバーブ教=== 大弾圧によりバーブ教徒の中心はオスマン帝国領[[バグダード]]へ追放され、オスマン帝国によってさらに各地へ移され、国内のバーブ教は壊滅状態に陥った。このときイランを離れたバーブ教徒に、ガージャール朝貴族でのちに[[バハイ教]]をおこす[[バハーウッラー]]と、{{仮リンク|ソブヘ・アザリー|en|Subh-i-Azal}}の兄弟もいた。バハーウッラーらがバハイ教へと発展する一方、アザリーを中心としてバーブ教の教義を守る人びとも出てくる。彼らが{{仮リンク|アザリー派|en|Azali}}である。 そもそもはアザリーがバーブの後継者とされていたが、アザリーが従来の政治的行動主義を維持しようとするのに対し、バハーウッラーらは政治的活動主義から離れ内向的宗教生活を重視して分裂した。この政治的活動主義から、[[イラン立憲革命]]期にいたる著名なイランの自由主義者・立憲主義者には、バーブ教と関わりがある疑われる人びとが少なくない。政治的な弾圧が徹底するほどイランにおけるアザリー派はシーア派伝統の[[タキーヤ]]にのっとり表向き十二イマーム派信徒として振る舞うことを余儀なくされ、活発な活動は影をひそめてゆく。現在バーブ教徒を名乗るのは、このアザリー派の人びとである。 バーブ教はその後も禁圧を受け、イスラーム革命後のイランでも違法となっているが、今もイランを中心に1000-2000人の信者がいるとされる<ref>{{cite encyclopedia |encyclopedia=Encyclopædia Iranica |year=2011 |article=Azali Babism |first=Dennis |last=MacEoin |url=http://www.iranicaonline.org/articles/azali-babism}}</ref>。イラン政府によるバーブ教への対応は国際社会から人権問題として指弾されたこともある。また海外のイラン人コミュニティでもバーブ教コミュニティがある。 ==バーブ教の歴史的意義== ===シーア派の中でのバーブ教=== [[シャイヒー派]]は、[[シーア派]]が{{仮リンク|ウスーリー派|en|Usuli}}によって制度化・法制化されてゆくなかで、従来のシーア派の内在的傾向を強調した。イマームの「隠れ」中であっても「完全なるシーア派信徒」はイマームから流出する知識を受けうるとする。これはイマーム不在時における「理性による法解釈」の執行者として権威を持つウスーリー派[[イジュティハード|ムジュタヒド]]の基盤を掘り崩すものであり、{{仮リンク|アフバーリー派|en|Akhbari}}の覆滅後{{仮リンク|ウスーリー派|en|Usuli}}へのアンチテーゼとして強い影響力を持った。さらに、18世紀末イランにおいては[[スーフィズム]]・イマーム復活論が全般的高まりつつあった。 これを背景に、バーブ教はシャイヒー派のイマーム復活、マフディー到来を予感させる教説を受け継いだといえる。[[ヒジュラ暦]]1261年は第12代イマームのガイバから1000年である。これに従ってマフディー降臨説を流布・利用したのはその例である。同時に、諸蜂起指導者が「[[ジハード]]」という言葉を用いたということも重要で、マケインはバーブ教徒が[[千年至福説]]的モチーフを利用していたとの指摘をしている。宣教においても既存のシャイヒー派ネットワークを用いており、バーブ教はシャイヒー派を受け継ぐものであったといえよう。 ===社会情勢とバーブ教参加階層=== 19世紀後半のイランは、社会的混乱、金銀の流出、それに伴う物価高騰、対外的には度重なる敗北という状況にあり、これに対して弱体なガージャール政府は有効な対抗手段を持たなかった。このような状況への不満が、イマーム再臨の千年至福説と結びつき、バーブ教に活力を与えたというのは定説となっている。 バーブ教諸叛乱をさして、[[ソビエト連邦|ソ連]]のイラン史家イワノフは、19世紀の外国製品流入による社会変動にともなう都市低所得層と農民による反封建運動という見方を示した。その後の論考もバーブ教の教義の社会革命的革命性については保留しつつも、重い租税に対する未発達な農民戦争であり、イラン国内の内部矛盾に基づく市民派運動として扱われる。 しかし1980年代以降、このような見方は否定されつつある。モーメンは、諸蜂起参加者において名前の分かるものを分析したところ、その出身階層と地方にほぼ偏りはなく一部階層を中心とした運動とは考えにくく、むしろ有力宗教指導者の改宗にしたがって支持者も改宗したのだ、とした。近藤はシェイフ・タバルスィー蜂起における地縁的結合を重視する。アマーナトは没落しつつある商人・職人・下級役人を中心と考え、黒田は蜂起参加者に占める下級ウラマー([[モッラー]]ら)の割合から、バーブ教はその千年王国思想ではなく、上級ウラマーへの反感を下級ウラマーと共有することで運動を展開させえたと考える。 またネイリーズ、ザンジャーンに顕著な地方政治における対立で利用されたという指摘もある。もともと政治的対立構図にある集団の一方が対抗的にバーブ教に改宗するというパターンである。モガッダムはバーブ教徒そのものの思想的統一性に疑問を呈し、ガージャール朝への反抗意識自体もかなりの幅があると考えている。その意味で体制派が、反対派を非難するときに「バーブ教徒」は常套句となっており、バーブ教そのもののイランでのあり方の実際をわかりにくくしている。また主要な研究者がバハイ教徒であり、やや研究に偏りが見られる点も否定できず、一方で、イラン国内のバーブ教関連史料へのアクセスは非常に困難で、また史料自体の散逸も多く、全体像のとらえにくいテーマとなっている。 ==注釈== <references /> ==参考文献== {{脚注ヘルプ}} *Amanat, Abbas, ''Resurrection and Renewal: The Making of the Babi Movement in Iran 1844-1850'', London and Ithaca: Cornell University Press, 1989. *Ivanov, M. S., ''Babidskie vosstaniya v Irane (1848-1852),'' Moscow, 1939. *近藤信彰, 「バーブ教徒のシェイフ・タバルスィー蜂起」『日本中東学会年報』5, pp.309-39, 1990. *MacEoin, D., "The Babi concept of Holy War," Religion, 12, pp.119-31, 1982. *Momen, M., "The Social Basis of the Babi Upheavals in Iran (1848-52): A Preminar analysis," International Journal of Middle East Studies, 15, pp.157-83, 1983. *Smith, P., ''The Babi and Baha'i Religions: from Messianic Shi'ism to a World religion'', Cambridge: Cambridge University Press, 1987. *Zabihi-Moghaddam, S., "The Babi-State Conflict at Shaykh Tabarsi," Iranian Studies, 35, pp.87-112, 2002. == 関連項目 == * [[バーブ教徒の乱]] {{新宗教}} {{normdaten}} {{デフォルトソート:はあふきよう}} [[Category:バーブ教|*]] [[Category:バーブ]] [[Category:イラン]] [[Category:イスラム教系新宗教]] [[Category:イランの歴史]] [[Category:イランの宗教]]
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アラウィー派
アラウィー派 (アラウィーは、アラビア語: العلوية, ラテン文字転写: al-‘Alawīya) は、イスラーム教シーア派の一分派とされている宗教集団である。ヌサイル派あるいはヌサイリー派ともいう(#名称)。信徒の居住地はシリア、トルコ南東部、レバノンに分布するが、そのうち多数はラタキア背後の山地に集中する。 教義については信徒の限られた範囲内だけで伝えられているため、詳細が不明な点も多い。20世紀以後にアラウィー派の啓典が外部に流出し、煽情的なかたちで暴露的な出版がなされたことにより、教義の一部が知られるようになった。輪廻転生説を取り入れるなどイスラム教の中では極めて異端的な教義を持つ特殊な宗派であり、イスラム教と「異教」との境界線上にあるとする意見もある。また、シーア派のどこから分派したかも明らかではない(後述)。基本的にコミュニティ内でのみ結婚関係をむすぶ閉鎖的なコミュニティであり、アラブ社会では伝統的に差別を受けてきた。 起源・歴史や教義についてはよく分からない部分も多い。伝承では「ヌサイル」という人物によって創始されたと伝えられている。この「ヌサイル」は9世紀のハサン・アスカリーとアリー・ハーディーの取り巻きであったイブン・ヌサイル(英語版)に同定されている。10世紀にシリア地方に定着したが、スンナ派などから迫害を受けて海岸山脈へと逃れた。しかし、1960年代後半以降はシリア政界の中枢を占めており、哲学者のザキー・アル=アルスーズィー、大統領のハーフィズ・アル=アサド、バッシャール・アル=アサド父子をはじめとしてバアス党や軍部の有力者を数多く輩出している。そのため現代のシリアは、しばしばアラウィー派コミュニティに支配されていると見なされる。2020年現在、アサド政権との関係が深い。シリアのアラウィー派人口は国民の1割強に過ぎず、シリア内戦でアサド政権が倒れれば民族浄化される危険性があるとされる。 アラウィーはアラビア語で「アリーに従う者」を意味する。「アラウィー派」という名称は近代に入って以降のもので、以前は創始者とされるヌサイルにちなんで al-Nuṣayriyya(「ヌサイリー派」あるいは「ヌサイル派」)と呼ばれていた。そのため日本の学界では、19世紀までのアラウィー派を「ヌサイリー派」と呼ぶ慣行がある。ただし「ヌサイリー派」は、他派のムスリムから見た侮蔑的なニュアンスを伴う呼称である。 なお、オスマン帝国時代のアラウィー派/ヌサイリー派には農民が多かったため、当時の「ヌサイリー」は「農民」を意味する言葉でもあった。 10世紀にはシーア派の活動家ムハンマド・ブン・ヌサイル・アン・ナミーリーに因んでナーミリー派と呼ばれる集団がいたとされるが、アラウィー派との関連は不明(後述)。 アラウィー派は、トルコの「アレヴィ」(トルコ語で「アラウィー(アリーに従う者)派」を意味する)と呼ばれる宗教集団と呼称が同じであることや分布地域が隣接していることからよく混同されるが、まったく別の集団である。トルコのアレヴィ(アレヴィー派)とシリアのアラウィー派との関連については不明な点が多い。また「アフレ・ハック(英語版)」と呼ばれる宗教集団ともよく混同されるが、これともまったく異なる。 アラウィー派はイスマーイール派・マズダク教・マニ教・キリスト教及びシリア地方の土着宗教の要素が合わさったと考えられる独特の教義を持つ。特にキリスト教からは大きな影響を受けた(後述)。 アラウィー派では両親ともにアラウィー派の男子だけが教義を学ぶことができる。16歳以降に教義を習得し、その教義を外に漏らしたものは殺されるなど神秘主義の色彩が強い。女性に魂はないとされるため、宗教儀礼からは排除される。生前に善行を積めば死後ほかの人間に、悪行を重ねれば動物に生まれ変わるというインドの輪廻に似た転生思想を持つ。 五行のうち、サウム(断食)・ザカート(喜捨)・ハッジ(巡礼)を行わず、特にハッジを偶像礼拝として否定している。モスクを使わず、礼拝は宗教指導者の家に集まって行われることが多い。飲酒も認められている。シリア北西部に独自の神殿をもつ。 1973年、レバノンの十二イマーム派のイマームであったムーサー・アッ=サドルは、シリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発した。これ以降、アラウィー派はシーア派として認められているが、現在でも異端視する向きは残存している。 4代目カリフ(正統カリフ)にして初代イマームのアリー・イブン・アビー・ターリブを崇敬しているという点ではシーア派と通底している。シーア派と同じく自らの信仰を隠すタキーヤ(信仰秘匿)が認められており、しばしば権力者や多数派と同じ宗教に属するかのようにふるまっていた。 アラウィー派はキリスト教とも似ているとされている。パンとワインを用いる聖餐に似た宗教儀礼があり、クリスマス・イースター・ペンテコステといったキリスト教と共通の祭日を祝っている。また、聖ゲオルギオス・聖バルバラ・聖カタリナなどキリスト教徒の聖人たちを崇拝している。 神(アッラーフ)は人間の姿をとって現れることがあるとする(アリーは神が地上に現した最後の姿として神格化している)。また、アリーは「本質」を意味し、「名」(宣教者)であるムハンマドと「門」(解釈者)であるサルマーンという不可分の要素である2名の人物とともに地上に現れたのだとする三位一体的な思想を持ち、それぞれを月・太陽・天空になぞらえて信仰する。 アラウィー派の教義がどのように変遷したのかは不明確である。後述のように外部の資料によって一応の変遷を辿ることができるが、資料ごとの差異が教義の変遷を反映したものであるのか、別の集団について記述したことによるものなのか分からないことが多い。 アラウィー派の起源がシーア派の流れを汲む9世紀イラクのナーミリー派にあるとすれば、シリアの海岸山脈に移ってから、現地のキリスト教と混濁して上記のような独特の教義が生まれたと考えることができる。 後述のようにハーフィズ・アル=アサドはアラウィー派のイスラム化を推進したが、一部のアラウィー派には反発も見られた。 シリアは7世紀以降にイスラム勢力の支配を幾度も受け、幾つものイスラム王朝の中心地のひとつとなる。 イスラム共同体(ウンマ)の中で、アリーとファーティマの子孫こそイマームに相応しいと考えた人々が「アリーの党派」を結成する。しかし、イスラム共同体(ウンマ)の多数派はそれに組せず、「アリーの党派」はウマイヤ朝やアッバース朝に弾圧された。「アリーの党派」は宗派性を持った「シーア派」に発展し、多数派を批判するようになる。しかし、シーア派もイマームの選定争いによって、各自のイマームを推戴するザイド派・12イマーム派・イスマーイール派などに分派し互いに批判するようになる。またイマームの無誤謬を強調したため、イマーム自身を神格化する集団も現れ、それら集団は六信に反するとして「極端派(グラート)」のレッテルを貼られていく。ファーティマ朝のハーキムを崇拝したドゥルーズ派や後述のナーミリー派も「極端派」と見なされている。 アラウィー派は859年ごろ、「バーブ(真理にいたる門)」を自称するイブン・ヌサイルが新たな教義と簡易な実践で信徒を獲得したのが起源とされている。ただし、アラウィー派は資料をほとんど残していないため、正確な起源は分かっていない。下記に挙げられる外部のウラマーたちが断片的にアラウィー派(と思われる集団)の教義を伝えているが、彼らが正確に教義を把握・記述していた保証はない。 10世紀の12イマーム派ウラマーたちは、9世紀のイラクでアリー・ハーディー(10代イマーム)の支持者ムハンマド・ブン・ヌサイル・アン・ナーミリーに従い、アリーや歴代イマームを崇拝したナーミリー派について言及している。この「ムハンマド・ブン・ヌサイル・アン・ナーミリー」がアラウィー派の創始者ヌサイルと同一視され、19世紀以降の西欧人研究者たちはナーミリー派をアラウィー派の起源とみなした。ただし、ナーミリー派はアリー・ハーディーとハサン・アスカリー(11代イマーム)を崇拝する集団とみなされており、アリーを崇拝する現在のアラウィー派との関係は不明である。 12世紀スンナ派ウラマーたちもアリーを崇拝するイラクの「ヌサイリー派」について言及している。分派学者ののシャフラスターニー(英語版)は、ヌサイリー派を「神の聖霊や真理がアリーやイマームの肉体を以って顕現する」という教義を持っているとした。マルウのサムアーニー(英語版)はヌサイリー派について、アリーを神と信じる人々であるとしている。 14世紀後半から15世紀初頭のカイロで活躍したスンナ派学者カルカシャンディー(英語版)は自著の百科事典『闇夜の黎明』で「ヌサイリー派」の項目を設け、同派の創始者ヌサイルをアリーの小姓としている。また、雲を神(アリー)の住処として敬い、サルマン・アル=ファーリスィーをアリーの使徒としているなど、シャフラスターニーらが伝えていない(または、異なる)説を紹介している。このため、12世紀のイラクに存在した「ヌサイリー派」は、カルカシャンディーが伝える15世紀のヌサイリー派(現在のアラウィー派に連なる)とは異なる集団である可能性もある。 20世紀のラタキアのアラウィー派有力者が書いた『アラウィー派の歴史』によると、10世紀半ばにバグダードのアラウィー派指導者がシリアのアレッポへ移り、シリア北部にアラウィー派を広めたとされる。 アラウィー派は他のムスリムからは憎まれ続けた。11世紀の神学者ガザーリーはアラウィー派(ヌサイリー派)を「イスラムから逸脱している」とみなし、「彼らを殺すことはムスリムの義務である」とまで主張していた。12世紀の神学者イブン・タイミーヤもアラウィー派(ヌサイリー派)を激しく糾弾する。彼は、「ヌサイリー派(アラウィー派)が異教徒よりも不敬虔であり、ムスリムにとって最悪の敵で、彼らを罰することは最も敬虔で重要な義務である」と主張した。 11世紀から12世紀にかけて、セルジューク朝・ザンギー朝・アイユーブ朝の支配を経て、シリアの都市部・平野部におけるスンナ派優位が確立する。13世紀以降アラウィー派は地中海沿岸部に逃れて住むようになった。この地域は長い間キリスト教国の東ローマ帝国や十字軍国家の支配下にあった。そのためイスラム化(スンナ派化)が比較的進んでおらず、シーア派・ドゥルーズ派・キリスト教徒・ユダヤ教徒なども多く、他の中東地域より宗教的多様性があった。 16世紀初頭、オスマン帝国がシリアを支配する。オスマン帝国はアラウィー派に独自の首長の支配に服することを認め、信仰の保持と一定の自治を認めた。ただし、地理的には海岸山脈に封じ込められ、行政機構からは排除された。また、オスマン帝国はアラウィー派にミレットの形成を認めず、1571年の布告でアラウィー派は非ムスリム(ズィンミー)とみなされ、ジズヤ(人頭税)を納める義務があるとして差別された。オスマン帝国時代のスンナ派は、アラウィー派の作った食物を不衛生とみなして口にしなかった。 オスマン帝国シリア属州ではスンナ派名望家が行政を担っていた。彼らはイスタンブールの中央政界と結びつきを持ちつつ、宗教的権威や経済・文化資本を独占して大きな影響力を行使していた。一方、アラウィー派は迫害を恐れて自らの信仰を秘匿し(タキーヤ)、山村の地縁的共同体と一体化した集団を形成していた。アラウィー派の一部はテリトリーに入ってきた部外者を襲うこともあったため、周囲からスンナ派の集落を襲い徴税を拒む乱暴者のイメージを持たれていた。都市に移り住んだアラウィー派もいたが、都市経済はスンナ派名望家やキリスト教徒の商人たちで占められており、アラウィー派は郊外で下層階級を形成した。ラタキアの都市住民もスンナ派やキリスト教徒が多く、ラタキア周辺の農村部では地主がスンナ派で農民がアラウィー派という状態であった。 19世紀に入ると西欧からキリスト教の宣教師たちが訪れるようになる。彼らはアラウィー派に着目し、友好関係を築いた。これに危機感を覚えたオスマン帝国はアラウィー派のためにモスクを建設し、指導者に圧力をかけてイスラム化を図ったがほとんど効果はなかった。また、この頃のオスマン帝国の衰退に危機感を覚えたスンナ派名望家たちは、アラウィー派に対して激しい迫害を加えるようになった。 第一次世界大戦によってオスマン帝国は解体され、1920年からフランスがシリアの国際連盟委任統治を担当した(フランス委任統治領シリア)。1922年、シリアは4つからなる緩やかな連邦に再編された。アラウィー派にはラタキアを中心とするシリアの地中海沿岸地方にアラウィー派国が認められ、アラウィー派住民による自治が行われた。 スンナ派による統治を嫌っていたアラウィー派は即座に親フランス的な姿勢を見せた。フランスは、スンナ派による多数派統治が独立運動などにつながりかねないことを危惧し、現地の軍事組織・治安組織にアラウィー派やドゥルーズ派を積極的に登用した。これは、住民の離間策としても機能した。 1926年の総選挙ではスンナ派がボイコットしたため、アラウィー派は多くの議席を獲得した。フランスが創設したレヴァント特別部隊でもアラウィー派が多数を占め、アラウィー派はフランス統治に協力することで大きな政治力を手に入れた。フランスの開設した無料の軍学校、有給の軍事組織は、伝統的に貧しいアラウィー派にとって貴重な経済・文化資本の源泉となった。また、軍務に就きフランスの統治に協力することで、社会的地位を上昇させることができるようになった。 1930年にはアラウィー派国から改名した名目上の独立国ラタキア国が成立する。1936年、ラタキア国がシリアに併合されそうになると、スレイマン・アサド(ハーフィズ・アル=アサドの祖父)などアラウィー派指導者はフランス首相レオン・ブルムに手紙を書き、自治権の維持を要求した。結局、自治権はシリアに吸収されるがアラウィー派に有利な行政システムは残された。1939年、アラウィー派のスレイマン・アル=ムルシードは反乱を起こし、スンナ派勢力の影響がアラウィー派に及ぶことを防いだ。同年、シリア総督はアラウィー派国家を再設定した。第二次世界大戦下の1943年、連合国イギリスは、フランス領を統治していた親ナチス・ドイツのヴィシー政権派をシリアから駆逐し、シリア独立に向けて総選挙を行わせ、アラウィー派国家はシリアに再統合された。 1946年、シリアが独立するとスンナ派名望家が主導権を握った。アラウィー派はラタキアが宗教的に寛容なレバノンかヨルダンに併合されることを望み、ムルシードは反乱を起こすが鎮圧され処刑された。アラウィー派部隊は解散、アラウィー派は議会から締め出され、同化政策が採られた。 軍隊は依然として実力主義だったので、多くのアラウィー派の若者が入隊した。一方、政治・軍部におけるスンナ派名望家は権力闘争に明け暮れ、失脚したスンナ派将校の後任にアラウィー派将校が就くことで、軍におけるアラウィー派の影響力は強まっていった。また、この頃アラウィー派のザキー・アル=アルスーズィーらが参画したバアス党に多くのアラウィー派が入党した。社会主義・世俗主義(非スンナ派)を掲げたバアス党は、貧困層が多く宗教的差別を受けていたアラウィー派にとって魅力的な政党だった。軍内のアラウィー派を通じてバアス党は軍部にも影響力を及ぼすようになる。後に大統領となるハーフィズ・アル=アサド(H.アサド)も軍に入隊し、バアス党に入党したアラウィー派青年の1人だった。 1963年、隣国イラクでバアス党がクーデター(ラマダーン革命)を起こし、バアス党政権が誕生する。それに触発されたシリアのバアス党も軍事クーデター(3月8日革命)を起こし政権を獲得した。これに対し、イスラム主義を掲げるスンナ派組織ムスリム同胞団が反乱を起こすなど、バアス党政権の基盤は不安定だった。党内でも激しい権力闘争が行われるが、この過程でアラウィー派のサラーフ・ジャディードが権力を握る。ただし、ジャディードは表に出ず、党地域指導部副書記に留まった。 1967年、シリアは第三次中東戦争(六日戦争)でイスラエルに惨敗し、ゴラン高原を失う。国防相に就任していたH.アサドはイスラエルの領土拡大に脅威を感じ、経済・外交政策で悪手を打ち続けるジャディードに代わって自らがシリアの支配者となることを決意した。彼は軍の主導権を握り、1970年に無血クーデター(矯正運動)を起こすと国防相・首相・バアス党地域指導部書記長を兼任、1971年には大統領に就任し、今までのアラウィー派指導者とは異なり名実ともに権力を一手にした。 山村の貧しい家柄出身でアラウィー派のH.アサドは、強力な特権意識を持ち数百年間の血縁で結ばれたスンニ名望家に対抗するために、地縁で結ばれたラタキアのアラウィー派を積極的に登用していく。それと同時にスンナ派名望家の一部を政権内に取り込み、反発する名望家たちを弾圧することで名望家層を巧みに分断した。また、アラウィー派のイスラム要素を強める政策を採り、レバノンの十二イマーム派イマーム、ムーサー・アッ=サドルに働きかけ、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発せさせた。反アサドのスンナ派名望家の多くは、アラウィー派有力者を次々と暗殺し、主要都市で暴動を起こしていたムスリム同胞団に参加する。しかし、H.アサドは武力弾圧を強化し、1982年のハマー虐殺で同胞団を壊滅させた。これ以降、シリア国内の反アサド派は沈黙か亡命に追いやられた。 H.アサドはレバノン内戦にも介入し、トリポリなどに住むアラウィー派武装勢力を支援した。H.アサドが主導した停戦協定ターイフ合意(1989年)では、それまでレバノン議会に議席が無かったアラウィー派に2議席が与えられた。 こうしてシリアの全権を手にしたH.アサドは以後30年もの長きにわたってシリアを独裁統治し、それとともにアラウィー派は貧困から脱して政治・軍事において重要な地位を獲得していった。ただし、その統治はアラウィー派の教義に則ったものではなく、宗教・民族間の亀裂を克服し、シリア社会の統合を図ることを建前にしていた。 2000年、H.アサドが死去すると後継大統領には、次男のバッシャール・アル=アサド(B.アサド)が就任する。B.アサドもアラウィー派だが、スンナ派やキリスト教徒などを政権内の重要ポストに据え、先代と比べてアラウィー派色を薄めている。それと同時に大統領による独裁体制も集団指導体制へと移行した。また、ドゥルーズ派出身者も前大統領時代は1966年シリアクーデター後の対立とそれによる混乱の結果、軍内の昇進から排除されるなどの冷遇を受けていたが、現在では精鋭部隊である共和国防衛隊の要職へ登用されている。 2011年、チュニジアから中東全域にアラブの春が波及し、シリア内戦が勃発する。2012年にはレバノンにも波及し、トリポリでアラウィー派(アサド政権寄り)とスンナ派(反政府勢力寄り)の衝突が起きている。 それまで体制側についていたスンナ派名望家の一部が反体制派に寝返ったことで、アサド政権は全土を掌握できなくなった。ハマーの虐殺以来シリアから亡命していたスンナ派名望家も反体制派を支援しているとされる。トルコ・サウジアラビア・カタールなどスンナ派諸国は、アサド政権がスンナ派住民を大量虐殺したとして反政府勢力を支援している。 一方、アラウィー派を含む宗教的マイノリティは非常に危機的な状況にあるとされる。キリスト教の立場からは、反体制派の主導権を握るスンナ派優位主義者が「キリスト教徒はベイルートへ行け」「アラウィー派は墓へ」などと主張して、非スンナ派に対して激しい迫害を加えていると指摘されている。また、スンナ派の武装勢力であるアル=ヌスラ戦線(アルカーイダ系)やISIL(イスラム国)はアラウィー派に改宗を迫る構えを見せており、アラウィー派はアサド政権を支持して反政府勢力と戦っている。このため、キリスト教徒やドゥルーズ派などの非スンナ派イスラム教徒の大多数も、反体制派を弾圧者と捉え、アサド政権を支持している。イランのシーア派政権やイラクのシーア派民兵、レバノンのシーア派武装勢力ヒズボラなどがアサド政権を支援している。 前述のように、アラウィー派はシリアの地中海沿岸部を中心に分布している。宮田律によると世界のアラウィー派人口は130万人で、そのうちシリアには100万人が住んでいる。シリアのアラウィー派のうち4分の3が沿岸部のラタキア県及びタルトゥース県に住んでおり、ラタキア住民の3分の2がアラウィー派である。タルトゥースなどのアラウィー派が多く住む都市は、スンナ派が多数を占める地域に比べてリベラルであるとされている。 シリア以外ではレバノンやトルコにもアラウィー派が居住している。バアス党の統治によって世俗的傾向が強いシリアのアラウィー派に対して、トルコに居住するアラウィー派はより宗派的伝統に依拠しており、保守的であるとされる。 内戦の結果、シリア内陸部に住むアラウィー派住民の多くは国内避難民として沿岸部に移動せざるをえなくなったとされる。 アラウィー派にとって重要な都市
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"アラウィー派では両親ともにアラウィー派の男子だけが教義を学ぶことができる。16歳以降に教義を習得し、その教義を外に漏らしたものは殺されるなど神秘主義の色彩が強い。女性に魂はないとされるため、宗教儀礼からは排除される。生前に善行を積めば死後ほかの人間に、悪行を重ねれば動物に生まれ変わるというインドの輪廻に似た転生思想を持つ。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "五行のうち、サウム(断食)・ザカート(喜捨)・ハッジ(巡礼)を行わず、特にハッジを偶像礼拝として否定している。モスクを使わず、礼拝は宗教指導者の家に集まって行われることが多い。飲酒も認められている。シリア北西部に独自の神殿をもつ。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1973年、レバノンの十二イマーム派のイマームであったムーサー・アッ=サドルは、シリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発した。これ以降、アラウィー派はシーア派として認められているが、現在でも異端視する向きは残存している。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "4代目カリフ(正統カリフ)にして初代イマームのアリー・イブン・アビー・ターリブを崇敬しているという点ではシーア派と通底している。シーア派と同じく自らの信仰を隠すタキーヤ(信仰秘匿)が認められており、しばしば権力者や多数派と同じ宗教に属するかのようにふるまっていた。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アラウィー派はキリスト教とも似ているとされている。パンとワインを用いる聖餐に似た宗教儀礼があり、クリスマス・イースター・ペンテコステといったキリスト教と共通の祭日を祝っている。また、聖ゲオルギオス・聖バルバラ・聖カタリナなどキリスト教徒の聖人たちを崇拝している。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "神(アッラーフ)は人間の姿をとって現れることがあるとする(アリーは神が地上に現した最後の姿として神格化している)。また、アリーは「本質」を意味し、「名」(宣教者)であるムハンマドと「門」(解釈者)であるサルマーンという不可分の要素である2名の人物とともに地上に現れたのだとする三位一体的な思想を持ち、それぞれを月・太陽・天空になぞらえて信仰する。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アラウィー派の教義がどのように変遷したのかは不明確である。後述のように外部の資料によって一応の変遷を辿ることができるが、資料ごとの差異が教義の変遷を反映したものであるのか、別の集団について記述したことによるものなのか分からないことが多い。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アラウィー派の起源がシーア派の流れを汲む9世紀イラクのナーミリー派にあるとすれば、シリアの海岸山脈に移ってから、現地のキリスト教と混濁して上記のような独特の教義が生まれたと考えることができる。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "後述のようにハーフィズ・アル=アサドはアラウィー派のイスラム化を推進したが、一部のアラウィー派には反発も見られた。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "シリアは7世紀以降にイスラム勢力の支配を幾度も受け、幾つものイスラム王朝の中心地のひとつとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "イスラム共同体(ウンマ)の中で、アリーとファーティマの子孫こそイマームに相応しいと考えた人々が「アリーの党派」を結成する。しかし、イスラム共同体(ウンマ)の多数派はそれに組せず、「アリーの党派」はウマイヤ朝やアッバース朝に弾圧された。「アリーの党派」は宗派性を持った「シーア派」に発展し、多数派を批判するようになる。しかし、シーア派もイマームの選定争いによって、各自のイマームを推戴するザイド派・12イマーム派・イスマーイール派などに分派し互いに批判するようになる。またイマームの無誤謬を強調したため、イマーム自身を神格化する集団も現れ、それら集団は六信に反するとして「極端派(グラート)」のレッテルを貼られていく。ファーティマ朝のハーキムを崇拝したドゥルーズ派や後述のナーミリー派も「極端派」と見なされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アラウィー派は859年ごろ、「バーブ(真理にいたる門)」を自称するイブン・ヌサイルが新たな教義と簡易な実践で信徒を獲得したのが起源とされている。ただし、アラウィー派は資料をほとんど残していないため、正確な起源は分かっていない。下記に挙げられる外部のウラマーたちが断片的にアラウィー派(と思われる集団)の教義を伝えているが、彼らが正確に教義を把握・記述していた保証はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "10世紀の12イマーム派ウラマーたちは、9世紀のイラクでアリー・ハーディー(10代イマーム)の支持者ムハンマド・ブン・ヌサイル・アン・ナーミリーに従い、アリーや歴代イマームを崇拝したナーミリー派について言及している。この「ムハンマド・ブン・ヌサイル・アン・ナーミリー」がアラウィー派の創始者ヌサイルと同一視され、19世紀以降の西欧人研究者たちはナーミリー派をアラウィー派の起源とみなした。ただし、ナーミリー派はアリー・ハーディーとハサン・アスカリー(11代イマーム)を崇拝する集団とみなされており、アリーを崇拝する現在のアラウィー派との関係は不明である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "12世紀スンナ派ウラマーたちもアリーを崇拝するイラクの「ヌサイリー派」について言及している。分派学者ののシャフラスターニー(英語版)は、ヌサイリー派を「神の聖霊や真理がアリーやイマームの肉体を以って顕現する」という教義を持っているとした。マルウのサムアーニー(英語版)はヌサイリー派について、アリーを神と信じる人々であるとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "14世紀後半から15世紀初頭のカイロで活躍したスンナ派学者カルカシャンディー(英語版)は自著の百科事典『闇夜の黎明』で「ヌサイリー派」の項目を設け、同派の創始者ヌサイルをアリーの小姓としている。また、雲を神(アリー)の住処として敬い、サルマン・アル=ファーリスィーをアリーの使徒としているなど、シャフラスターニーらが伝えていない(または、異なる)説を紹介している。このため、12世紀のイラクに存在した「ヌサイリー派」は、カルカシャンディーが伝える15世紀のヌサイリー派(現在のアラウィー派に連なる)とは異なる集団である可能性もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "20世紀のラタキアのアラウィー派有力者が書いた『アラウィー派の歴史』によると、10世紀半ばにバグダードのアラウィー派指導者がシリアのアレッポへ移り、シリア北部にアラウィー派を広めたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アラウィー派は他のムスリムからは憎まれ続けた。11世紀の神学者ガザーリーはアラウィー派(ヌサイリー派)を「イスラムから逸脱している」とみなし、「彼らを殺すことはムスリムの義務である」とまで主張していた。12世紀の神学者イブン・タイミーヤもアラウィー派(ヌサイリー派)を激しく糾弾する。彼は、「ヌサイリー派(アラウィー派)が異教徒よりも不敬虔であり、ムスリムにとって最悪の敵で、彼らを罰することは最も敬虔で重要な義務である」と主張した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "11世紀から12世紀にかけて、セルジューク朝・ザンギー朝・アイユーブ朝の支配を経て、シリアの都市部・平野部におけるスンナ派優位が確立する。13世紀以降アラウィー派は地中海沿岸部に逃れて住むようになった。この地域は長い間キリスト教国の東ローマ帝国や十字軍国家の支配下にあった。そのためイスラム化(スンナ派化)が比較的進んでおらず、シーア派・ドゥルーズ派・キリスト教徒・ユダヤ教徒なども多く、他の中東地域より宗教的多様性があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "16世紀初頭、オスマン帝国がシリアを支配する。オスマン帝国はアラウィー派に独自の首長の支配に服することを認め、信仰の保持と一定の自治を認めた。ただし、地理的には海岸山脈に封じ込められ、行政機構からは排除された。また、オスマン帝国はアラウィー派にミレットの形成を認めず、1571年の布告でアラウィー派は非ムスリム(ズィンミー)とみなされ、ジズヤ(人頭税)を納める義務があるとして差別された。オスマン帝国時代のスンナ派は、アラウィー派の作った食物を不衛生とみなして口にしなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "オスマン帝国シリア属州ではスンナ派名望家が行政を担っていた。彼らはイスタンブールの中央政界と結びつきを持ちつつ、宗教的権威や経済・文化資本を独占して大きな影響力を行使していた。一方、アラウィー派は迫害を恐れて自らの信仰を秘匿し(タキーヤ)、山村の地縁的共同体と一体化した集団を形成していた。アラウィー派の一部はテリトリーに入ってきた部外者を襲うこともあったため、周囲からスンナ派の集落を襲い徴税を拒む乱暴者のイメージを持たれていた。都市に移り住んだアラウィー派もいたが、都市経済はスンナ派名望家やキリスト教徒の商人たちで占められており、アラウィー派は郊外で下層階級を形成した。ラタキアの都市住民もスンナ派やキリスト教徒が多く、ラタキア周辺の農村部では地主がスンナ派で農民がアラウィー派という状態であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "19世紀に入ると西欧からキリスト教の宣教師たちが訪れるようになる。彼らはアラウィー派に着目し、友好関係を築いた。これに危機感を覚えたオスマン帝国はアラウィー派のためにモスクを建設し、指導者に圧力をかけてイスラム化を図ったがほとんど効果はなかった。また、この頃のオスマン帝国の衰退に危機感を覚えたスンナ派名望家たちは、アラウィー派に対して激しい迫害を加えるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦によってオスマン帝国は解体され、1920年からフランスがシリアの国際連盟委任統治を担当した(フランス委任統治領シリア)。1922年、シリアは4つからなる緩やかな連邦に再編された。アラウィー派にはラタキアを中心とするシリアの地中海沿岸地方にアラウィー派国が認められ、アラウィー派住民による自治が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スンナ派による統治を嫌っていたアラウィー派は即座に親フランス的な姿勢を見せた。フランスは、スンナ派による多数派統治が独立運動などにつながりかねないことを危惧し、現地の軍事組織・治安組織にアラウィー派やドゥルーズ派を積極的に登用した。これは、住民の離間策としても機能した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1926年の総選挙ではスンナ派がボイコットしたため、アラウィー派は多くの議席を獲得した。フランスが創設したレヴァント特別部隊でもアラウィー派が多数を占め、アラウィー派はフランス統治に協力することで大きな政治力を手に入れた。フランスの開設した無料の軍学校、有給の軍事組織は、伝統的に貧しいアラウィー派にとって貴重な経済・文化資本の源泉となった。また、軍務に就きフランスの統治に協力することで、社会的地位を上昇させることができるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1930年にはアラウィー派国から改名した名目上の独立国ラタキア国が成立する。1936年、ラタキア国がシリアに併合されそうになると、スレイマン・アサド(ハーフィズ・アル=アサドの祖父)などアラウィー派指導者はフランス首相レオン・ブルムに手紙を書き、自治権の維持を要求した。結局、自治権はシリアに吸収されるがアラウィー派に有利な行政システムは残された。1939年、アラウィー派のスレイマン・アル=ムルシードは反乱を起こし、スンナ派勢力の影響がアラウィー派に及ぶことを防いだ。同年、シリア総督はアラウィー派国家を再設定した。第二次世界大戦下の1943年、連合国イギリスは、フランス領を統治していた親ナチス・ドイツのヴィシー政権派をシリアから駆逐し、シリア独立に向けて総選挙を行わせ、アラウィー派国家はシリアに再統合された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1946年、シリアが独立するとスンナ派名望家が主導権を握った。アラウィー派はラタキアが宗教的に寛容なレバノンかヨルダンに併合されることを望み、ムルシードは反乱を起こすが鎮圧され処刑された。アラウィー派部隊は解散、アラウィー派は議会から締め出され、同化政策が採られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "軍隊は依然として実力主義だったので、多くのアラウィー派の若者が入隊した。一方、政治・軍部におけるスンナ派名望家は権力闘争に明け暮れ、失脚したスンナ派将校の後任にアラウィー派将校が就くことで、軍におけるアラウィー派の影響力は強まっていった。また、この頃アラウィー派のザキー・アル=アルスーズィーらが参画したバアス党に多くのアラウィー派が入党した。社会主義・世俗主義(非スンナ派)を掲げたバアス党は、貧困層が多く宗教的差別を受けていたアラウィー派にとって魅力的な政党だった。軍内のアラウィー派を通じてバアス党は軍部にも影響力を及ぼすようになる。後に大統領となるハーフィズ・アル=アサド(H.アサド)も軍に入隊し、バアス党に入党したアラウィー派青年の1人だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1963年、隣国イラクでバアス党がクーデター(ラマダーン革命)を起こし、バアス党政権が誕生する。それに触発されたシリアのバアス党も軍事クーデター(3月8日革命)を起こし政権を獲得した。これに対し、イスラム主義を掲げるスンナ派組織ムスリム同胞団が反乱を起こすなど、バアス党政権の基盤は不安定だった。党内でも激しい権力闘争が行われるが、この過程でアラウィー派のサラーフ・ジャディードが権力を握る。ただし、ジャディードは表に出ず、党地域指導部副書記に留まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1967年、シリアは第三次中東戦争(六日戦争)でイスラエルに惨敗し、ゴラン高原を失う。国防相に就任していたH.アサドはイスラエルの領土拡大に脅威を感じ、経済・外交政策で悪手を打ち続けるジャディードに代わって自らがシリアの支配者となることを決意した。彼は軍の主導権を握り、1970年に無血クーデター(矯正運動)を起こすと国防相・首相・バアス党地域指導部書記長を兼任、1971年には大統領に就任し、今までのアラウィー派指導者とは異なり名実ともに権力を一手にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "山村の貧しい家柄出身でアラウィー派のH.アサドは、強力な特権意識を持ち数百年間の血縁で結ばれたスンニ名望家に対抗するために、地縁で結ばれたラタキアのアラウィー派を積極的に登用していく。それと同時にスンナ派名望家の一部を政権内に取り込み、反発する名望家たちを弾圧することで名望家層を巧みに分断した。また、アラウィー派のイスラム要素を強める政策を採り、レバノンの十二イマーム派イマーム、ムーサー・アッ=サドルに働きかけ、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発せさせた。反アサドのスンナ派名望家の多くは、アラウィー派有力者を次々と暗殺し、主要都市で暴動を起こしていたムスリム同胞団に参加する。しかし、H.アサドは武力弾圧を強化し、1982年のハマー虐殺で同胞団を壊滅させた。これ以降、シリア国内の反アサド派は沈黙か亡命に追いやられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "H.アサドはレバノン内戦にも介入し、トリポリなどに住むアラウィー派武装勢力を支援した。H.アサドが主導した停戦協定ターイフ合意(1989年)では、それまでレバノン議会に議席が無かったアラウィー派に2議席が与えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "こうしてシリアの全権を手にしたH.アサドは以後30年もの長きにわたってシリアを独裁統治し、それとともにアラウィー派は貧困から脱して政治・軍事において重要な地位を獲得していった。ただし、その統治はアラウィー派の教義に則ったものではなく、宗教・民族間の亀裂を克服し、シリア社会の統合を図ることを建前にしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2000年、H.アサドが死去すると後継大統領には、次男のバッシャール・アル=アサド(B.アサド)が就任する。B.アサドもアラウィー派だが、スンナ派やキリスト教徒などを政権内の重要ポストに据え、先代と比べてアラウィー派色を薄めている。それと同時に大統領による独裁体制も集団指導体制へと移行した。また、ドゥルーズ派出身者も前大統領時代は1966年シリアクーデター後の対立とそれによる混乱の結果、軍内の昇進から排除されるなどの冷遇を受けていたが、現在では精鋭部隊である共和国防衛隊の要職へ登用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2011年、チュニジアから中東全域にアラブの春が波及し、シリア内戦が勃発する。2012年にはレバノンにも波及し、トリポリでアラウィー派(アサド政権寄り)とスンナ派(反政府勢力寄り)の衝突が起きている。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "それまで体制側についていたスンナ派名望家の一部が反体制派に寝返ったことで、アサド政権は全土を掌握できなくなった。ハマーの虐殺以来シリアから亡命していたスンナ派名望家も反体制派を支援しているとされる。トルコ・サウジアラビア・カタールなどスンナ派諸国は、アサド政権がスンナ派住民を大量虐殺したとして反政府勢力を支援している。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "一方、アラウィー派を含む宗教的マイノリティは非常に危機的な状況にあるとされる。キリスト教の立場からは、反体制派の主導権を握るスンナ派優位主義者が「キリスト教徒はベイルートへ行け」「アラウィー派は墓へ」などと主張して、非スンナ派に対して激しい迫害を加えていると指摘されている。また、スンナ派の武装勢力であるアル=ヌスラ戦線(アルカーイダ系)やISIL(イスラム国)はアラウィー派に改宗を迫る構えを見せており、アラウィー派はアサド政権を支持して反政府勢力と戦っている。このため、キリスト教徒やドゥルーズ派などの非スンナ派イスラム教徒の大多数も、反体制派を弾圧者と捉え、アサド政権を支持している。イランのシーア派政権やイラクのシーア派民兵、レバノンのシーア派武装勢力ヒズボラなどがアサド政権を支援している。", "title": "現状" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "前述のように、アラウィー派はシリアの地中海沿岸部を中心に分布している。宮田律によると世界のアラウィー派人口は130万人で、そのうちシリアには100万人が住んでいる。シリアのアラウィー派のうち4分の3が沿岸部のラタキア県及びタルトゥース県に住んでおり、ラタキア住民の3分の2がアラウィー派である。タルトゥースなどのアラウィー派が多く住む都市は、スンナ派が多数を占める地域に比べてリベラルであるとされている。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "シリア以外ではレバノンやトルコにもアラウィー派が居住している。バアス党の統治によって世俗的傾向が強いシリアのアラウィー派に対して、トルコに居住するアラウィー派はより宗派的伝統に依拠しており、保守的であるとされる。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "内戦の結果、シリア内陸部に住むアラウィー派住民の多くは国内避難民として沿岸部に移動せざるをえなくなったとされる。", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アラウィー派にとって重要な都市", "title": "分布" } ]
アラウィー派 は、イスラーム教シーア派の一分派とされている宗教集団である。ヌサイル派あるいはヌサイリー派ともいう(#名称)。信徒の居住地はシリア、トルコ南東部、レバノンに分布するが、そのうち多数はラタキア背後の山地に集中する。 教義については信徒の限られた範囲内だけで伝えられているため、詳細が不明な点も多い。20世紀以後にアラウィー派の啓典が外部に流出し、煽情的なかたちで暴露的な出版がなされたことにより、教義の一部が知られるようになった。輪廻転生説を取り入れるなどイスラム教の中では極めて異端的な教義を持つ特殊な宗派であり、イスラム教と「異教」との境界線上にあるとする意見もある。また、シーア派のどこから分派したかも明らかではない(後述)。基本的にコミュニティ内でのみ結婚関係をむすぶ閉鎖的なコミュニティであり、アラブ社会では伝統的に差別を受けてきた。 起源・歴史や教義についてはよく分からない部分も多い。伝承では「ヌサイル」という人物によって創始されたと伝えられている。この「ヌサイル」は9世紀のハサン・アスカリーとアリー・ハーディーの取り巻きであったイブン・ヌサイルに同定されている。10世紀にシリア地方に定着したが、スンナ派などから迫害を受けて海岸山脈へと逃れた。しかし、1960年代後半以降はシリア政界の中枢を占めており、哲学者のザキー・アル=アルスーズィー、大統領のハーフィズ・アル=アサド、バッシャール・アル=アサド父子をはじめとしてバアス党や軍部の有力者を数多く輩出している。そのため現代のシリアは、しばしばアラウィー派コミュニティに支配されていると見なされる。2020年現在、アサド政権との関係が深い。シリアのアラウィー派人口は国民の1割強に過ぎず、シリア内戦でアサド政権が倒れれば民族浄化される危険性があるとされる。
[[ファイル:Zulfiqar with inscription.png|サムネイル|upright=1.5|上部には「[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]は[[アッラー]]の友」、剣([[ズルフィカール]])には「アリーに勝る英雄なし」「ズルフィカールに勝る剣なし」と書かれている。アラウィー派などの崇敬するアリーを讃える表象。]] '''アラウィー派''' (アラウィーは、{{rtl翻字併記|ar|العلوية|al-‘Alawīya}}) は、[[イスラーム教]][[シーア派]]の一分派とされている宗教集団である{{r|平凡社イスラム事典旧版アラウィー派の項}}。'''ヌサイル派'''あるいは'''ヌサイリー派'''ともいう([[#名称]])。信徒の居住地はシリア、トルコ南東部、レバノンに分布するが、そのうち多数は[[ラタキア]]背後の山地に集中する{{r|平凡社イスラム事典旧版アラウィー派の項}}{{r|miyata}}。 教義については信徒の限られた範囲内だけで伝えられているため、詳細が不明な点も多い{{r|miyata}}{{r|菊地 (2022)}}。20世紀以後にアラウィー派の啓典が外部に流出し、煽情的なかたちで暴露的な出版がなされたことにより、教義の一部が知られるようになった{{r|菊地 (2022)}}。[[輪廻転生]]説を取り入れるなどイスラム教の中では極めて異端的な教義を持つ特殊な宗派であり、イスラム教と「異教」との境界線上にあるとする意見もある<ref name=satoike/><ref name=kikuchi>[[#菊地|菊地(2009)p.245]]</ref>。また、シーア派のどこから分派したかも明らかではない(後述)。基本的に[[コミュニティ]]内でのみ[[結婚]]関係をむすぶ閉鎖的なコミュニティであり、アラブ社会では伝統的に差別を受けてきた<ref name=satoike>[[#佐藤池上|池上・佐藤(2014)pp.8-21]]</ref>。 起源・歴史や教義についてはよく分からない部分も多い。伝承では「ヌサイル」という人物によって創始されたと伝えられている<ref name=moriyama/>。この「ヌサイル」は9世紀の[[ハサン・アスカリー]]と[[アリー・ハーディー]]の取り巻きであった{{ill2|イブン・ヌサイル|en|Ibn Nusayr}}に同定されている{{r|moriyama}}。10世紀にシリア地方に定着したが、[[スンナ派]]などから迫害を受けて海岸山脈へと逃れた。しかし、1960年代後半以降はシリア政界の中枢を占めており、哲学者の[[ザキー・アル=アルスーズィー]]、大統領の[[ハーフィズ・アル=アサド]]、[[バッシャール・アル=アサド]]父子をはじめとして[[バアス党]]や軍部の有力者を数多く輩出している。そのため現代のシリアは、しばしばアラウィー派コミュニティに支配されていると見なされる{{r|miyata}}。2020年現在、アサド政権との関係が深い。シリアのアラウィー派人口は国民の1割強に過ぎず、[[シリア内戦]]でアサド政権が倒れれば[[民族浄化]]される危険性があるとされる<ref>{{Cite news|url=https://gendai.media/articles/-/48275|title=駐シリア・日本人外交官が見た「中東の新たな戦争」|accessdate=2016-04-02}}</ref>。 == 名称 == アラウィーは[[アラビア語]]で「[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]に従う者」を意味する。「アラウィー派」という名称は近代に入って以降のもので、以前は創始者とされるヌサイルにちなんで {{transl|ar|al-Nuṣayriyya}}(「ヌサイリー派」あるいは「ヌサイル派」)と呼ばれていた{{r|菊地 (2022)}}。そのため日本の学界では、19世紀までのアラウィー派を「ヌサイリー派」と呼ぶ慣行がある<ref name=moriyama/>。ただし「ヌサイリー派」は、他派のムスリムから見た侮蔑的なニュアンスを伴う呼称である{{r|菊地 (2022)}}。 なお、オスマン帝国時代のアラウィー派/ヌサイリー派には農民が多かったため、当時の「ヌサイリー」は「農民」を意味する言葉でもあった<ref name=miyata/>。 10世紀にはシーア派の活動家[[ムハンマド・ブン・ヌサイル・アン・ナミーリー]]に因んで'''ナーミリー派'''と呼ばれる集団がいたとされるが、アラウィー派との関連は不明(後述)<ref name=moriyama/>。 アラウィー派は、トルコの「[[アレヴィー派|アレヴィ]]」(トルコ語で「アラウィー(アリーに従う者)派」を意味する)と呼ばれる宗教集団と呼称が同じであることや分布地域が隣接していることからよく混同されるが、まったく別の集団である{{r|菊地 (2022)}}。トルコのアレヴィ(アレヴィー派)とシリアのアラウィー派との関連については不明な点が多い。また「{{ill2|アフレ・ハック|en|Yarsanism}}」と呼ばれる宗教集団ともよく混同されるが、これともまったく異なる{{r|菊地 (2022)}}。 == 教義 == [[File:Alawite children in Antioch.jpg|right|thumb|160px|alt=Adolescent boy standing in front of younger children|アラウィー派の少年(1938年の[[アンティオキア]])]] アラウィー派は[[イスマーイール派]]・[[マズダク教]]・[[マニ教]]・[[キリスト教]]及び[[歴史的シリア|シリア地方]]の土着宗教の[[シンクレティズム|要素が合わさった]]と考えられる独特の教義を持つ。特にキリスト教からは大きな影響を受けた(後述)<ref name=satoike/><ref name=miyata/>。 アラウィー派では両親ともにアラウィー派の男子だけが教義を学ぶことができる。16歳以降に教義を習得し、その教義を外に漏らしたものは殺されるなど[[神秘主義]]の色彩が強い。女性に[[魂]]はないとされるため、宗教儀礼からは排除される<ref name=satoike/>。生前に善行を積めば死後ほかの人間に、悪行を重ねれば動物に生まれ変わるという[[インド]]の[[輪廻]]に似た転生思想を持つ。 [[五行 (イスラム教)|五行]]のうち、[[サウム]]([[断食]])・[[ザカート]]([[喜捨]])・[[ハッジ]]([[巡礼]])を行わず、特にハッジを[[偶像礼拝]]として否定している。[[モスク]]を使わず、礼拝は宗教指導者の家に集まって行われることが多い。[[飲酒]]も認められている。シリア北西部に独自の[[神殿]]をもつ<ref name=miyata/>。 === シーア派的要素 === [[1973年]]、レバノンの[[十二イマーム派]]のイマームであった[[:en:Musa al-Sadr|ムーサー・アッ=サドル]]は、シリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、アラウィー派を[[シーア派]]の一派と看做す[[ファトワー]]を発した。これ以降、アラウィー派はシーア派として認められているが、現在でも異端視する向きは残存している。 4代目[[カリフ]]([[正統カリフ]])にして初代[[イマーム]]の[[アリー・イブン・アビー・ターリブ]]を崇敬しているという点ではシーア派と通底している。シーア派と同じく自らの信仰を隠す[[タキーヤ]](信仰秘匿)が認められており、しばしば権力者や多数派と同じ宗教に属するかのようにふるまっていた<ref name=miyata/>。 === キリスト教との共通点 === アラウィー派はキリスト教とも似ているとされている。[[パン]]と[[ワイン]]を用いる[[聖餐]]に似た宗教儀礼があり、[[クリスマス]]・[[イースター]]・[[ペンテコステ]]といったキリスト教と共通の祭日を祝っている。また、[[ゲオルギオス (聖人)|聖ゲオルギオス]]・[[バルバラ (聖人)|聖バルバラ]]・[[アレクサンドリアのカタリナ|聖カタリナ]]など[[キリスト教徒]]の聖人たちを崇拝している<ref name=miyata/>。 神([[アッラーフ]])は[[受肉|人間の姿をとって現れる]]ことがあるとする(アリーは神が地上に現した最後の姿として神格化している)。また、アリーは「本質」を意味し、「名」(宣教者)である[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]と「門」(解釈者)である[[サルマーン・ファーリスィー|サルマーン]]という不可分の要素である2名の人物とともに地上に現れたのだとする[[三位一体]]的な思想を持ち、それぞれを[[月]]・[[太陽]]・[[天空]]になぞらえて信仰する。 === 変遷 === アラウィー派の教義がどのように変遷したのかは不明確である。後述のように外部の資料によって一応の変遷を辿ることができるが、資料ごとの差異が教義の変遷を反映したものであるのか、別の集団について記述したことによるものなのか分からないことが多い<ref name=moriyama/>。 アラウィー派の起源がシーア派の流れを汲む9世紀イラクのナーミリー派にあるとすれば、シリアの海岸山脈に移ってから、現地のキリスト教と混濁して上記のような独特の教義が生まれたと考えることができる<ref name=moriyama/>。 後述のようにハーフィズ・アル=アサドはアラウィー派のイスラム化を推進したが、一部のアラウィー派には反発も見られた<ref name=moriyama/>。 == 歴史 == === 前史 === シリアは<!-- [[ローマ帝国]]([[東ローマ帝国]])・[[十字軍]]・[[モンゴル帝国]]・[[テュルク族]]など様々な勢力が入り乱れてきた。 -->7世紀以降にイスラム勢力の支配を幾度も受け、幾つものイスラム王朝の中心地のひとつとなる<ref name=miyata/>。 イスラム共同体([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])の中で、アリーと[[ファーティマ]]の子孫こそ[[イマーム]]に相応しいと考えた人々が「アリーの党派」を結成する。しかし、イスラム共同体(ウンマ)の多数派はそれに組せず、「アリーの党派」は[[ウマイヤ朝]]や[[アッバース朝]]に弾圧された。「アリーの党派」は宗派性を持った「シーア派」に発展し、多数派を批判するようになる。しかし、シーア派もイマームの選定争いによって、各自のイマームを推戴する[[ザイド派]]・[[12イマーム派]]・[[イスマーイール派]]などに分派し互いに批判するようになる。またイマームの無誤謬を強調したため、イマーム自身を神格化する集団も現れ、それら集団は[[六信]]に反するとして「極端派([[グラート (イスラム教)|グラート]])」のレッテルを貼られていく。ファーティマ朝の[[ハーキム]]を崇拝した[[ドゥルーズ派]]や後述のナーミリー派も「極端派」と見なされている<ref name=moriyama/>。 === 起源 === アラウィー派は859年ごろ、「バーブ(真理にいたる門)」を自称するイブン・ヌサイルが新たな教義と簡易な実践で信徒を獲得したのが起源とされている<ref name=miyata/>。ただし、アラウィー派は資料をほとんど残していないため、正確な起源は分かっていない。下記に挙げられる外部のウラマーたちが断片的にアラウィー派(と思われる集団)の教義を伝えているが、彼らが正確に教義を把握・記述していた保証はない<ref name=moriyama/>。 10世紀の[[12イマーム派]][[ウラマー]]たちは、9世紀の[[イラク]]で[[アリー・ハーディー]](10代イマーム)の支持者[[ムハンマド・ブン・ヌサイル・アン・ナーミリー]]に従い、アリーや歴代イマームを崇拝した'''ナーミリー派'''について言及している。この「ムハンマド・ブン・'''ヌサイル'''・アン・ナーミリー」がアラウィー派の創始者ヌサイルと同一視され、19世紀以降の西欧人研究者たちはナーミリー派をアラウィー派の起源とみなした。ただし、ナーミリー派はアリー・ハーディーと[[ハサン・アスカリー]](11代イマーム)を崇拝する集団とみなされており、アリーを崇拝する現在のアラウィー派との関係は不明である<ref name=moriyama/>。 12世紀スンナ派ウラマーたちもアリーを崇拝する[[イラク]]の「ヌサイリー派」について言及している。分派学者のの{{仮リンク|シャフラスターニー|en|Al-Shahrastani}}は、ヌサイリー派を「神の聖霊や真理がアリーやイマームの肉体を以って顕現する」という教義を持っているとした。[[メルブ遺跡|マルウ]]の{{仮リンク|サムアーニー|en|Ibn al-Sam'ani}}はヌサイリー派について、アリーを神と信じる人々であるとしている<ref name=moriyama/>。 14世紀後半から15世紀初頭の[[カイロ]]で活躍したスンナ派学者{{仮リンク|カルカシャンディー|en|Al-Qalqashandi}}は自著の百科事典『[[闇夜の黎明]]』で「ヌサイリー派」の項目を設け、同派の創始者ヌサイルをアリーの小姓としている。また、雲を神(アリー)の住処として敬い、サルマン・アル=ファーリスィーをアリーの使徒としているなど、シャフラスターニーらが伝えていない(または、異なる)説を紹介している。このため、12世紀のイラクに存在した「ヌサイリー派」は、カルカシャンディーが伝える15世紀のヌサイリー派(現在のアラウィー派に連なる)とは異なる集団である可能性もある<ref name=moriyama/>。 === 迫害 === ==== シリアへの避難 ==== [[File:Alawite falconer.jpg|thumb|alt=Man holding a falcon, in the centre of a group of people|150px|アラウィー派の鷹匠([[第二次世界大戦]]中にFrank Hurleyがシリアの[[バニヤース]]で撮影)]] 20世紀のラタキアのアラウィー派有力者が書いた『アラウィー派の歴史』によると、10世紀半ばに[[バグダード]]のアラウィー派指導者がシリアの[[アレッポ]]へ移り、シリア北部にアラウィー派を広めたとされる<!-- 当時のシリアの宗教情勢は非常に複雑で、10世紀後半になるとシーア派(イスマイール派)の[[ファーティマ朝]]がシリアを支配し、シーア派と反シーア派の間で対立が生じていた。やがて反シーア派ムスリムは宗派性を持つようになり、預言者の慣行(スンナ)に依拠する「スンナ派」が誕生した--><ref name=moriyama/>。 アラウィー派は他のムスリムからは憎まれ続けた。[[11世紀]]の神学者[[ガザーリー]]はアラウィー派(ヌサイリー派)を「イスラムから逸脱している」とみなし、「彼らを殺すことはムスリムの義務である」とまで主張していた。12世紀の神学者[[イブン・タイミーヤ]]もアラウィー派(ヌサイリー派)を激しく糾弾する。彼は、「ヌサイリー派(アラウィー派)が異教徒よりも不敬虔であり、ムスリムにとって'''最悪の敵'''で、彼らを罰することは最も敬虔で重要な義務である」と主張した<ref name=miyata/>。 11世紀から12世紀にかけて、[[セルジューク朝]]・[[ザンギー朝]]・[[アイユーブ朝]]の支配を経て、シリアの都市部・平野部におけるスンナ派優位が確立する。<!-- これらの王朝はスンナ派名望家を庇護・招聘し、ファーティマ朝時代に力を持っていたシーア派名望家を排除した。スンナ派名望家は民衆にスンナ派を浸透させ、 -->13世紀以降アラウィー派は地中海沿岸部に逃れて住むようになった<ref name=moriyama/>。この地域は長い間キリスト教国の[[東ローマ帝国]]や[[十字軍国家]]の支配下にあった。そのためイスラム化(スンナ派化)が比較的進んでおらず、シーア派・ドゥルーズ派・キリスト教徒・[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]なども多く、他の[[中東]]地域より宗教的多様性があった<ref name=miyata2013>[http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2013-06/josei05.pdf 宮田「宗派のモザイク社会の歴史的展開」(2013)]</ref><ref name=moriyama /><ref group="注釈">特にレバノンはアラウィー派の他にシーア派・キリスト教[[マロン典礼カトリック教会|マロン派]]など18もの宗教・宗派が共存しており、「宗教の博物館」([[アーノルド・J・トインビー]])と呼ばれている[http://diamond.jp/articles/-/51820]</ref>。 ==== オスマン帝国の支配 ==== 16世紀初頭、[[オスマン帝国]]がシリアを支配する。オスマン帝国はアラウィー派に独自の首長の支配に服することを認め、信仰の保持と一定の自治を認めた。ただし、地理的には海岸山脈に封じ込められ、行政機構からは排除された<ref name=moriyama/>。また、オスマン帝国はアラウィー派に[[ミレット]]の形成を認めず、[[1571年]]の布告でアラウィー派は非ムスリム([[ズィンミー]])とみなされ、[[ジズヤ]]([[人頭税]])を納める義務があるとして差別された。オスマン帝国時代のスンナ派は、アラウィー派の作った食物を不衛生とみなして口にしなかった<ref name=miyata/>。 オスマン帝国シリア属州ではスンナ派名望家が行政を担っていた。彼らは[[イスタンブール]]の中央政界と結びつきを持ちつつ、宗教的権威や経済・文化資本を独占して大きな影響力を行使していた<ref name=moriyama/>。一方、アラウィー派は迫害を恐れて自らの信仰を秘匿し(タキーヤ)<ref name=miyata/>、山村の地縁的共同体と一体化した集団を形成していた<ref name=moriyama/>。アラウィー派の一部はテリトリーに入ってきた部外者を襲うこともあったため、周囲からスンナ派の集落を襲い徴税を拒む乱暴者のイメージを持たれていた<ref name=miyata/>。都市に移り住んだアラウィー派もいたが、都市経済はスンナ派名望家やキリスト教徒の商人たちで占められており、アラウィー派は郊外で下層階級を形成した<ref>[http://www.unhcr.or.jp/html/02Keynote%20Speech%20Kuroki.pdf シリア危機の背景](2013年)</ref>。ラタキアの都市住民もスンナ派やキリスト教徒が多く、ラタキア周辺の農村部では地主がスンナ派で農民がアラウィー派という状態であった<ref name=ctc>{{Cite news|url=http://www.gtc-asia.co.jp/simuketi_asia/1/77.html|title=ラタキア(LATTAKIA)|accessdate=2016-04-02}}</ref>。 19世紀に入ると[[西ヨーロッパ|西欧]]からキリスト教の宣教師たちが訪れるようになる。彼らはアラウィー派に着目し、友好関係を築いた。これに危機感を覚えたオスマン帝国はアラウィー派のためにモスクを建設し、指導者に圧力をかけてイスラム化を図ったがほとんど効果はなかった<ref name=miyata/>。また、この頃のオスマン帝国の衰退に危機感を覚えたスンナ派名望家たちは、アラウィー派に対して激しい迫害を加えるようになった<ref name=moriyama/>。 === フランス委任統治 === [[File:French Mandate for Syria and the Lebanon map en.svg|thumb|left|alt=Multicoloured map|フランス委任統治領(1921–22年)。紫がアラウィー派国]] [[File:Latakiya-sanjak-Alawite-state-French-colonial-flag.svg|thumb|150px|upright|アラウィー派国の旗]] [[第一次世界大戦]]によってオスマン帝国は解体され、[[1920年]]から[[フランス]]がシリアの[[国際連盟]][[委任統治]]を担当した([[フランス委任統治領シリア]])。[[1922年]]、シリアは4つからなる緩やかな連邦に再編された。アラウィー派にはラタキアを中心とするシリアの地中海沿岸地方に'''アラウィー派国'''が認められ、アラウィー派住民による自治が行われた<ref name=ctc/>。 スンナ派による統治を嫌っていたアラウィー派は即座に親フランス的な姿勢を見せた。フランスは、スンナ派による多数派統治が独立運動などにつながりかねないことを危惧し、現地の軍事組織・治安組織にアラウィー派やドゥルーズ派を積極的に登用した。これは、住民の離間策としても機能した<ref name=satoike/><ref group="注釈">スンナ派はムスリムの多数派。シリア国民の約7割、[[イスラム世界]]全体の約85パーセントがスンナ派である。</ref>。 [[1926年]]の総選挙ではスンナ派がボイコットしたため、アラウィー派は多くの議席を獲得した。フランスが創設したレヴァント特別部隊でもアラウィー派が多数を占め、アラウィー派はフランス統治に協力することで大きな政治力を手に入れた。フランスの開設した無料の軍学校、有給の軍事組織は、伝統的に貧しいアラウィー派にとって貴重な経済・文化資本の源泉となった。また、軍務に就きフランスの統治に協力することで、社会的地位を上昇させることができるようになった<ref name=miyata/>。 [[1930年]]にはアラウィー派国から改名した名目上の独立国'''ラタキア国'''が成立する。[[1936年]]、ラタキア国がシリアに併合されそうになると、[[スレイマン・アサド]](ハーフィズ・アル=アサドの祖父)などアラウィー派指導者はフランス首相[[レオン・ブルム]]に手紙を書き、自治権の維持を要求した。結局、自治権はシリアに吸収されるがアラウィー派に有利な行政システムは残された。[[1939年]]、アラウィー派の[[スレイマン・アル=ムルシード]]は反乱を起こし、スンナ派勢力の影響がアラウィー派に及ぶことを防いだ<ref name=miyata/>。同年、シリア総督はアラウィー派国家を再設定した。[[第二次世界大戦]]下の[[1943年]]、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]][[イギリス]]は、フランス領を統治していた親[[ナチス・ドイツ]]の[[ヴィシー政権]]派をシリアから駆逐し、シリア独立に向けて総選挙を行わせ、アラウィー派国家はシリアに再統合された<ref name=ctc/>。 === シリア独立以後 === [[File:The philosopher Zaki al-Arsuzi.jpg|thumb|120px|upright|ザキー・アル=アルスーズィー]] [[1946年]]、シリアが独立するとスンナ派名望家が主導権を握った。アラウィー派はラタキアが宗教的に寛容な[[レバノン]]か[[ヨルダン]]に併合されることを望み、ムルシードは反乱を起こすが鎮圧され処刑された。アラウィー派部隊は解散、アラウィー派は議会から締め出され、[[同化政策]]が採られた<ref name=miyata/>。 軍隊は依然として実力主義だったので、多くのアラウィー派の若者が入隊した。一方、政治・軍部におけるスンナ派名望家は権力闘争に明け暮れ、失脚したスンナ派将校の後任にアラウィー派将校が就くことで、軍におけるアラウィー派の影響力は強まっていった。また、この頃アラウィー派の[[ザキー・アル=アルスーズィー]]らが参画した[[バアス党#シリア・バアス党|バアス党]]に多くのアラウィー派が入党した。[[社会主義]]・[[世俗主義]](非スンナ派)を掲げたバアス党は、貧困層が多く宗教的差別を受けていたアラウィー派にとって魅力的な政党だった。軍内のアラウィー派を通じてバアス党は軍部にも影響力を及ぼすようになる。後に大統領となる[[ハーフィズ・アル=アサド]](H.アサド)も軍に入隊し、バアス党に入党したアラウィー派青年の1人だった<ref name=miyata/>。 [[1963年]]、隣国[[イラク]]でバアス党が[[クーデター]]([[ラマダーン革命]])を起こし、[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]が誕生する。それに触発されたシリアのバアス党も軍事クーデター([[3月8日革命]])を起こし政権を獲得した。これに対し、[[イスラム主義]]を掲げるスンナ派組織[[ムスリム同胞団]]が反乱を起こすなど、バアス党政権の基盤は不安定だった。党内でも激しい権力闘争が行われるが、この過程でアラウィー派の[[サラーフ・ジャディード]]が権力を握る。ただし、ジャディードは表に出ず、党地域指導部副書記に留まった<ref>[[国枝昌樹]]『シリア アサド政権の40年史』(平凡社)73 - 77ページ。</ref>。 ==== アサド政権 ==== [[File:F-assad.jpg|thumb|right|alt=Formal family portrait, with parents seated in front and five grown children (four sons and a daughter) standing|アル=アサド家。前列右がハーフィズ、後列左から2人目がバッシャール]] [[1967年]]、シリアは[[第三次中東戦争]](六日戦争)で[[イスラエル]]に惨敗し、[[ゴラン高原]]を失う。国防相に就任していたH.アサドはイスラエルの領土拡大に脅威を感じ、経済・外交政策で悪手を打ち続けるジャディードに代わって自らがシリアの支配者となることを決意した。彼は軍の主導権を握り、[[1970年]]に無血クーデター([[矯正運動 (シリア)|矯正運動]])を起こすと国防相・首相・バアス党地域指導部書記長を兼任、[[1971年]]には大統領に就任し、今までのアラウィー派指導者とは異なり名実ともに権力を一手にした<ref>前掲国枝151 - 152ページ。</ref>。<!-- アラウィー派が権力の座に就くことは、ユダヤ人が[[ツァーリ]]に、[[不可触民]]が[[マハーラージャ]]になるようなものだと評された<ref name=miyata/>。 --> 山村の貧しい家柄出身でアラウィー派のH.アサドは、強力な特権意識を持ち数百年間の血縁で結ばれたスンニ名望家に対抗するために、地縁で結ばれたラタキアのアラウィー派を積極的に登用していく<ref name=moriyama/>。それと同時にスンナ派名望家の一部を政権内に取り込み、反発する名望家たちを弾圧することで名望家層を巧みに分断した<ref name=moriyama2015>森山央朗[http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/H23_MiddleEast/04_Moriyama.pdf 「シリアの現状の背景:名望家の変容 」(2015)]</ref>。また、アラウィー派のイスラム要素を強める政策を採り、レバノンの十二イマーム派イマーム、[[:en:Musa al-Sadr|ムーサー・アッ=サドル]]に働きかけ、アラウィー派をシーア派の一派と看做す[[ファトワー]]を発せさせた<ref name=moriyama/>。反アサドのスンナ派名望家の多くは、アラウィー派有力者を次々と暗殺し、主要都市で暴動を起こしていたムスリム同胞団に参加する<ref name=moriyama2015/>。しかし、H.アサドは武力弾圧を強化し、[[1982年]]の[[ハマー虐殺]]で同胞団を壊滅させた。これ以降、シリア国内の反アサド派は沈黙か亡命に追いやられた<ref name=moriyama2015/>。 H.アサドは[[レバノン内戦]]にも介入し、[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]などに住むアラウィー派武装勢力を支援した<ref name=nw>{{Cite news|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/05/picture-power.php|title=【写真特集】道1本を挟んだ宗派抗争|accessdate=2016-04-01}}</ref>。H.アサドが主導した停戦協定[[ターイフ合意]]([[1989年]])では、それまで[[国民議会 (レバノン)|レバノン議会]]に議席が無かったアラウィー派に2議席が与えられた<ref>[https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/pdf/2007_04_15_01.pdf 青山弘之「レバノンの政治制度、政治体制、政治構造」(2008)]</ref>。 こうしてシリアの全権を手にしたH.アサドは以後30年もの長きにわたってシリアを独裁統治し、それとともにアラウィー派は貧困から脱して政治・軍事において重要な地位を獲得していった<ref name=miyata/>。ただし、その統治はアラウィー派の教義に則ったものではなく、宗教・民族間の亀裂を克服し、シリア社会の統合を図ることを建前にしていた<ref>{{Cite news|url=http://synodos.jp/international/4734|title=なぜアサド政権は倒れないのか? ―― シリア情勢の現状と課題|accessdate=2016-04-01}}</ref>。 [[2000年]]、H.アサドが死去すると後継大統領には、次男の[[バッシャール・アル=アサド]](B.アサド)が就任する。B.アサドもアラウィー派だが、スンナ派やキリスト教徒などを政権内の重要ポストに据え、先代と比べてアラウィー派色を薄めている。それと同時に大統領による独裁体制も集団指導体制へと移行した<ref>前掲国枝88 - 92ページ。</ref>。また、ドゥルーズ派出身者も前大統領時代は[[1966年シリアクーデター]]後の[[:en:Salim Hatum#1966 coup and aftermath|対立とそれによる混乱]]の結果、軍内の昇進から排除されるなどの冷遇を受けていたが<ref name=miyata2013/>、現在では精鋭部隊である共和国防衛隊の要職へ登用されている。 == 現状 == [[File:Lattakia 20 june 2010.jpg|thumb|150px|アサド支持派によるデモ(2011年のラタキア)]] [[2011年]]、[[チュニジア]]から中東全域に[[アラブの春]]が波及し、[[シリア内戦]]が勃発する。2012年にはレバノンにも波及し、トリポリでアラウィー派(アサド政権寄り)とスンナ派(反政府勢力寄り)の衝突が起きている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2897152?pid=9406120 シリア情勢、レバノンへ飛び火 宗派間対立で死者も]AFPBB.NEWS 2012年08月25日</ref>。 それまで体制側についていたスンナ派名望家の一部が[[反体制派 (シリア 2011-)|反体制派]]に寝返ったことで、アサド政権は全土を掌握できなくなった。ハマーの虐殺以来シリアから亡命していたスンナ派名望家も反体制派を支援しているとされる<ref name=moriyama2015/>。[[トルコ]]・[[サウジアラビア]]・[[カタール]]などスンナ派諸国は、アサド政権がスンナ派住民を大量[[虐殺]]したとして反政府勢力を支援している<ref>{{Cite news|url=http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/214196.html|title=時論公論 「中東の"代理戦争" サウジアラビア対イラン」|accessdate=2015-08-24}}</ref>。 一方、アラウィー派を含む[[社会的少数派|宗教的マイノリティ]]は非常に危機的な状況にあるとされる。キリスト教の立場からは、反体制派の主導権を握るスンナ派優位主義者が「キリスト教徒は[[ベイルート]]へ行け」「アラウィー派は墓へ」などと主張して、非スンナ派に対して激しい迫害を加えていると指摘されている<ref>{{Cite news|url= http://www.pwpa-j.net/opinion/kaigai18_siria.html |title=シリア反政府軍の蛮行―宗教的少数派に対する虐殺|accessdate=2016-04-01}}</ref>。また、スンナ派の武装勢力である[[アル=ヌスラ戦線]]([[アルカーイダ]]系)や[[ISIL]](イスラム国)はアラウィー派に改宗を迫る構えを見せており、アラウィー派はアサド政権を支持して反政府勢力と戦っている<ref>{{Cite news|url=http://www.fsight.jp/articles/-/40355|title=シリア分割も現実的に考えなければならない時期に|accessdate=2015-08-24}}</ref>。このため、キリスト教徒やドゥルーズ派などの非スンナ派イスラム教徒の大多数も、反体制派を弾圧者と捉え、アサド政権を支持している。[[イラン]]のシーア派政権や[[イラク]]のシーア派民兵、レバノンのシーア派武装勢力[[ヒズボラ]]などがアサド政権を支援している<ref>{{Cite news|url=http://jp.wsj.com/articles/SB11167655035836774773204580500802351383066|title=イラン、国境越えて影響力行使 舞台裏から表へ|accessdate=2015-08-24}}</ref>。 == 分布 == [[ファイル:Alawite Distribution in the Levant.png|thumb|アラウィー派の分布地域]] 前述のように、アラウィー派はシリアの地中海沿岸部を中心に分布している。[[宮田律]]によると世界のアラウィー派人口は130万人で、そのうちシリアには100万人が住んでいる。シリアのアラウィー派のうち4分の3が沿岸部の[[ラタキア県]]及び[[タルトゥース県]]に住んでおり、ラタキア住民の3分の2がアラウィー派である<ref name=miyata/>。タルトゥースなどのアラウィー派が多く住む都市は、スンナ派が多数を占める地域に比べて[[自由主義|リベラル]]であるとされている<ref name=Tartus/>。 シリア以外ではレバノンやトルコにもアラウィー派が居住している。バアス党の統治によって世俗的傾向が強いシリアのアラウィー派に対して、トルコに居住するアラウィー派はより宗派的伝統に依拠しており、[[保守]]的であるとされる。 内戦の結果、シリア内陸部に住むアラウィー派住民の多くは[[国内避難民]]として沿岸部に移動せざるをえなくなったとされる<ref>{{Cite news|url=http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201208/Paul.htm|title=アラウィ派はシリア沿海部を目指す――内戦の長期化とアラウィ国家の誕生?|accessdate=2016-04-01}}</ref><ref name=Tartus/>。 '''アラウィー派にとって重要な都市''' * [[ラタキア]] - アサド政権の強力な地盤<ref name=moriyama/> * [[タルトゥース]] - アサド政権の地盤。内戦が始まって以降、シリアのアラウィー派の半数近くがこの町に避難し、市の人口は90万から120万に急増した(2012年7月時点)<ref name=Tartus>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/tk0854498-syria-crisis-alawite-idJPTYE86M03J20120723?sp=true|title=シリア政権握るアラウィ派、「中枢攻撃」で揺らぐ大統領への支持|accessdate=2016-04-02}}</ref>。 * [[ダマスカス]] - アサド政権成立時には約1万人のアラウィー派が暮らしていた<ref name=miyata/>。 * [[トリポリ (レバノン)|トリポリ]] - レバノン。住民の1割がアラウィー派とされる<ref name=nw/>。 == アラウィー派の著名人 == [[File:Adonis-1093.jpg|thumb|right|150px|詩人アドニスは近代[[アラビア語]]詩文の先駆者の1人とされる]] * アル=アサド家([[:en:Al-Assad family]]) ** [[ハーフィズ・アル=アサド]](H.アサド) - 前シリア大統領(在任1971年 - 2000年)。 ** [[バッシャール・アル=アサド]](B.アサド) - 現シリア大統領(在任2000年 - )。H.アサドの次男。 ** [[バースィル・アル=アサド]] - シリアの軍人・政治家。H.アサドの長男でB.アサドの実兄。1994年死去。 ** [[マーヘル・アル=アサド]] - シリアの軍人・政治家。H.アサドの三男でB.アサドの実弟。 ** [[アースィフ・シャウカト]] - シリアの軍人、政治家。H.アサドの娘婿。 * [[ザキー・アル=アルスーズィー]] - 哲学者。バアス党幹部。 * [[サラーフ・ジャディード]] - バアス党幹部。 * [[アドニス (詩人)|アドニス]] - 詩人。 * [[スハイル・アル=ハッサン]] - シリアの軍人。 == 脚注 == === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em|refs= <ref name="平凡社イスラム事典旧版アラウィー派の項">{{citation |title=イスラム事典 |year=1982 |publisher=平凡社 |contribution=アラウィー派 |author=板垣雄三 }}</ref> <ref name=miyata>{{cite journal |author=宮田律 |journal=中東協力センターニュース |publisher=中東協力センター |volume=37 |issue=1 |pages=60-64 |year=2012 |url=https://www.jccme.or.jp/11/pdf/2012-04/josei05.pdf |format=PDF |title=シリア・アラウィー派の特色とその支配の歴史的背景 |crid=1522825129794725888 }}</ref> <ref name="moriyama">{{citation |和書|contribution=シリアの2011年とアラウィー派とスンナ派:宗派の歴史性と宗派間暴力の危険性」 |las=森山 |firs=央朗 |title=中東政治変動の研究:「アラブの春」の現状と課題 |publisher=日本国際問題研究所 |pages=51-72 |date=2012-03 |url=http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/H23_MiddleEast/04_Moriyama.pdf |format=PDF |accessdate=2023-06-12 }}</ref> <ref name="菊地 (2022)">{{cite journal |和書|title=イスラム思想における極端派的伝統 : ヌサイル派(アラウィー派)源流思想における輪廻思想を事例として : 文明間・宗教間対話レクチャー |last=菊地 |first=達也 |journal=東洋学術研究 |volume=61 |issue=1 |year=2022 |pages=325-345 }}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author1=池上彰|authorlink1=池上彰|author2=佐藤優|authorlink2=佐藤優 (外交官)|editor=|year=2014|month=10|chapter=戦争を知らなければ世界は分からない|title=文藝春秋SPECIAL 新戦争論|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=|ref=佐藤池上}} * {{Cite book|和書|author=菊地達也|authorlink=菊地達也|editor=|year=2009|month=8|chapter=|title=イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=4062584468|ref=菊地}} == 外部リンク == * {{PDFlink|[http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2012-04/josei05.pdf 宮田律「シリア・アラウィー派の特色とその支配の歴史的背景」]}}(中東協力センターニュース 2012・4/5) {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あらういは}} [[Category:イスラム教の宗派]] [[Category:シーア派]] [[Category:シリアの宗教]] [[Category:レバノンの宗教]] [[Category:シリアの政治]] [[Category:シリアの歴史]]
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ドゥルーズ派
ドゥルーズ派(ドゥルーズは、アラビア語: الدرزية, al-Durūzīya)は、レバノンを中心に、シリア・イスラエル・ヨルダンなどに存在するイスラム教(イスラーム)系の宗教共同体。レバノン内戦時は、キリスト教徒のマロン派と激しく対立した。 歴史的にはシーア派の一派イスマーイール派から分派したものだが、教義からみてシーア派の枠内に収まるかは微妙で、イスラム第三の宗派と呼ばれることもある。さらにイスラム教の枠に収まるかも怪しいと考えられ、多くのムスリム(イスラム教徒)はドゥルーズ派はイスラムではないと考えている。 ドゥルーズ派共同体の成員は民族的にはアラブ人で、中東全域でおよそ100万人が存在するとされる。北アメリカ・南アメリカ・ヨーロッパなどにも海外共同体が存在する。ドゥルーズ派はまた、その成立に至る経緯や彼らの居住地域において単独で多数派を形成しきれず、他宗教・他宗派と対立・協調を繰り返してきたことから、全体として世俗的・進歩的な政治スタンスを支持する傾向がある。 ドゥルーズ派の源流は、8世紀にシーア派の主流派の十二イマーム派から分離して生まれたイスマーイール派である。10世紀にイスマーイール派はチュニジアでファーティマ朝を建国し、イマームがそのカリフを称した。ファーティマ朝のもとでのイスマーイール派の教説の展開の中で、10世紀末に即位した第6代カリフ、ハーキムの治世に彼を神格化するグループがあらわれ、事実上ファーティマ朝の多数派から分派した。 1021年、ハーキムが失踪すると、イスマーイール派の従来の教義を堅持する多数派の巻き返しが起こり、ハーキムを神格化するドゥルーズ派は弾圧を受け、ファーティマ朝の支配するエジプトを追われてシリア地方の山岳地帯に宣教の場を見出した。彼らはグノーシス主義の影響を受けたとみられる独自の教理を発展させ、他のムスリムから厳しく異端視されるようになっていった。 ドゥルーズ派はレバノン山地などの山岳地帯でジュンブラート家・アルスラーン家などいくつかの有力家系を指導者として結束し、少数派でありながらオスマン帝国時代から近代にかけてレバノン・シリアの政治の表舞台にたって活動した。19世紀前半にはレバノン山地北部に共同体を形成するキリスト教徒のマロン派と激しく対立し、カトリックに近いマロン派にはフランスが後援者としてついた関係から、イギリスがドゥルーズ派を後援するという国際紛争にまで発展、とくに1860年には激しい衝突を起こした。オスマン帝国解体後の1925年にはシリア地方を統治するフランスに対する反乱を起こし、シリア地方全域を巻き込む反仏闘争のきっかけをつくっている。 第二次世界大戦後はジュンブラート家のカマール・ジュンブラートとワリード・ジュンブラートの父子が世俗主義を掲げる進歩社会党を結成、国家の世俗化による権利向上を目指したドゥルーズ派の運動の指導者となり政府の要職を歴任、1975年から始まるレバノン内戦でも大きな役割を果たした。 ドゥルーズ派の教理は、イスマーイール派やイスラム神秘主義(スーフィズム)に加え、グノーシス主義や新プラトン主義の影響を受けたと考えられている。 ドゥルーズの名は、ハーキムの寵臣だった中央アジア出身のイスマーイール派教宣員ダラズィーに由来しているとするのが定説である。ただしこれは他称で、ドゥルーズ派の人々は「ムワッヒドゥーン(唯一神の信徒)」「アフル・アル=タウヒード(唯一神の民)」と自称する。 ダラズィーはハーキムを神格化する教理を説いて広め、ドゥルーズ派の成立に大きな影響を与えたが、のちのドゥルーズ派の教義においてはナシュタキーンと称されるダラズィーは異端とみなされている。これは、ハーキム存命中の1019年に暴動により殺害され、ハーキム神格化グループの中の反ダラズィー派指導者であるハムザ・イブン=アリーの率いるグループがドゥルーズ派に繋がっていったという事情が反映していると考えられる。ハムザはダラズィーの死去からハーキムの晩年にハーキム神格化の教宣運動を組織化するのに大いに活躍したが、ハーキム失踪後の神格化派の弾圧の最中に失踪した。ドゥルーズ派では、ハムザをハーキムに次ぐ存在として尊崇している。 最大の特徴はハーキムを神格化し、受肉した神とみなす点、および教団指導者ハムザをイマームとすることである。失踪したハーキムは死亡したのではなく、幽冥界へのお隠れ(ガイバ)に入ったと信じ、ハーキムの代理人・イマームのハムザが「復活の日」に救世主カーイム(マフディー)として再臨し、正義を実現するとする。今ひとつの特徴は聖者崇拝が盛んなことで、レバノン山地には多くの聖者廟があり、ドゥルーズ派の信徒たちに尊崇されている。 シーア派を含むイスラム教の多くの派との明確な相違も多く、クルアーン(コーラン)を用いずに独自の聖典をもち、礼拝(サラート)の向きはメッカ(マッカ)の方向ではなく、人間が輪廻転生することを信じる。なお、同じく輪廻転生を信ずる派としてアラウィー派(これも異端だという意見が強いが、シリアでは世俗的な力を保持している)があるが、同派のそれは動物への転生もありうるのに対し、ドゥルーズ派はあくまでも人間に転生すると考えられている。 メッカを聖地とみなさないため、五行のうちの巡礼(ハッジ)を行わず、さらにラマダーンの断食(サウム)は禁止されてはいないが義務ではないので、通常には行うことはない。このように教義と宗教行為の面でイスラム教の多くの派と異なる点が多いため、多くのムスリムはドゥルーズ派をイスラムからの逸脱とみなしている。 周囲からの異端視を避けるため、ドゥルーズ派の信徒は非信徒に対して信仰を隠し、ドゥルーズ派の教理実践を公にしない「タキーヤ(信仰秘匿)」という行為を認められている。ただ、タキーヤはドゥルーズ派だけの概念だけではなく、イスラム教イバード派、シーア派から引き継いだものである。 ドゥルーズ派が信奉する終末論によれば、終末の日に受肉した神であるハーキムの代理人、カーイムとして再臨するハムザが、スンナ派やイスマーイール派を含めたドゥルーズ派以外のすべての人間を二等市民ズィンミーにして、特定の衣服を強制して、人頭税を徴収し、ドゥルーズ派の男性は彼らの女性や子供を獲得し、彼らの財産も土地も獲得するとされる。 イスラエルにおいてもごく少数ながらジュリスなどにドゥルーズ派の住民たちが存在している。ドゥルーズコミュニティは、イスラエル多数派のユダヤ人と「血の盟約」を結び、ドゥルーズ派の男性はイスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人とは異なりイスラエル国防軍における兵役義務がある。2008年のテルアビブ大学によるドゥルーズコミュニティの若者に対する調査では、94%が「ドゥルーズ系イスラエル人」と自認している。
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ドゥルーズ派は、レバノンを中心に、シリア・イスラエル・ヨルダンなどに存在するイスラム教(イスラーム)系の宗教共同体。レバノン内戦時は、キリスト教徒のマロン派と激しく対立した。 歴史的にはシーア派の一派イスマーイール派から分派したものだが、教義からみてシーア派の枠内に収まるかは微妙で、イスラム第三の宗派と呼ばれることもある。さらにイスラム教の枠に収まるかも怪しいと考えられ、多くのムスリム(イスラム教徒)はドゥルーズ派はイスラムではないと考えている。 ドゥルーズ派共同体の成員は民族的にはアラブ人で、中東全域でおよそ100万人が存在するとされる。北アメリカ・南アメリカ・ヨーロッパなどにも海外共同体が存在する。ドゥルーズ派はまた、その成立に至る経緯や彼らの居住地域において単独で多数派を形成しきれず、他宗教・他宗派と対立・協調を繰り返してきたことから、全体として世俗的・進歩的な政治スタンスを支持する傾向がある。
[[ファイル:Druze star.svg|200px|thumb|ドゥルーズ派の象徴・五色星]] {{シーア派}} '''ドゥルーズ派'''(ドゥルーズは、{{lang-ar|'''&#1575;&#1604;&#1583;&#1585;&#1586;&#1610;&#1577;'''}}, al-Dur&#363;z&#299;ya)は、[[レバノン]]を中心に、[[シリア]]・[[イスラエル]]・[[ヨルダン]]などに存在する[[イスラム教]](イスラーム)系の[[宗教]]共同体。[[レバノン内戦]]時は、[[キリスト教徒]]の[[マロン典礼カトリック教会|マロン派]]と激しく対立した。 歴史的には[[シーア派]]の一派[[イスマーイール派]]から分派したものだが、教義からみてシーア派の枠内に収まるかは微妙で、イスラム第三の宗派と呼ばれることもある。さらにイスラム教の枠に収まるかも怪しいと考えられ、多くの[[ムスリム]](イスラム教徒)はドゥルーズ派はイスラムではないと考えている。 ドゥルーズ派共同体の成員は民族的には[[アラブ人]]で、[[中東]]全域でおよそ100万人が存在するとされる。[[北アメリカ]]・[[南アメリカ]]・[[ヨーロッパ]]などにも海外共同体が存在する。ドゥルーズ派はまた、その成立に至る経緯や彼らの居住地域において単独で多数派を形成しきれず、他宗教・他宗派と対立・協調を繰り返してきたことから、全体として世俗的・進歩的な政治スタンスを支持する傾向がある。 <gallery> Flag of Jabal ad-Druze (state).svg|{{FIAV|historical|}}ドゥルーズ派の五色旗(1924年から1936年まで) Civil flag of Jabal ad-Druze (1921-1936).svg|{{FIAV|historical|}}ドゥルーズ派の五色旗(1921年から1936年まで) Flag of Druze.svg|ドゥルーズ派の五色旗(現在) </gallery> == 歴史 == [[ファイル:Seated drinker, from a bath complex in Fustat.jpg|thumb|left|180px|第6代カリフ、ハーキム]] ドゥルーズ派の源流は、[[8世紀]]にシーア派の主流派の[[十二イマーム派]]から分離して生まれた[[イスマーイール派]]である。[[10世紀]]にイスマーイール派は[[チュニジア]]で[[ファーティマ朝]]を建国し、[[イマーム]]がその[[カリフ]]を称した。ファーティマ朝のもとでのイスマーイール派の教説の展開の中で、10世紀末に即位した第6代カリフ、[[ハーキム]]の治世に彼を神格化するグループがあらわれ、事実上ファーティマ朝の多数派から分派した。 [[1021年]]、ハーキムが失踪すると、イスマーイール派の従来の教義を堅持する多数派の巻き返しが起こり、ハーキムを神格化するドゥルーズ派は[[弾圧]]を受け、ファーティマ朝の支配する[[エジプト]]を追われてシリア地方の山岳地帯に宣教の場を見出した。彼らは[[グノーシス主義]]の影響を受けたとみられる独自の教理を発展させ、他の[[ムスリム]]から厳しく異端視されるようになっていった。 ドゥルーズ派は[[レバノン山地]]などの山岳地帯でジュンブラート家・アルスラーン家などいくつかの有力家系を指導者として結束し、少数派でありながら[[オスマン帝国]]時代から近代にかけてレバノン・シリアの政治の表舞台にたって活動した。[[19世紀]]前半にはレバノン山地北部に共同体を形成するキリスト教徒のマロン派と激しく対立し、[[カトリック教会|カトリック]]に近いマロン派には[[フランス]]が後援者としてついた関係から、[[イギリス]]がドゥルーズ派を後援するという国際紛争にまで発展、とくに[[1860年]]には激しい衝突を起こした。オスマン帝国解体後の[[1925年]]にはシリア地方を統治するフランスに対する反乱を起こし、シリア地方全域を巻き込む反仏闘争のきっかけをつくっている。 [[第二次世界大戦]]後はジュンブラート家のカマール・ジュンブラートとワリード・ジュンブラートの父子が[[世俗主義]]を掲げる[[進歩社会党_(レバノン)|進歩社会党]]を結成、国家の世俗化による権利向上を目指したドゥルーズ派の運動の指導者となり政府の要職を歴任、[[1975年]]から始まるレバノン内戦でも大きな役割を果たした。 {{Clearleft}} == 教義 == ドゥルーズ派の教理は、イスマーイール派やイスラム神秘主義([[スーフィズム]])に加え、グノーシス主義や[[新プラトン主義]]の影響を受けたと考えられている。 ドゥルーズの名は、ハーキムの寵臣だった[[中央アジア]]出身のイスマーイール派教宣員ダラズィーに由来しているとするのが定説である。ただしこれは他称で、ドゥルーズ派の人々は「ムワッヒドゥーン(唯一神の信徒)」「アフル・アル=タウヒード(唯一神の民)」と自称する。 ダラズィーはハーキムを神格化する教理を説いて広め、ドゥルーズ派の成立に大きな影響を与えたが、のちのドゥルーズ派の教義においてはナシュタキーンと称されるダラズィーは異端とみなされている。これは、ハーキム存命中の[[1019年]]に[[暴動]]により殺害され、ハーキム神格化グループの中の反ダラズィー派指導者であるハムザ・イブン=アリーの率いるグループがドゥルーズ派に繋がっていったという事情が反映していると考えられる。ハムザはダラズィーの死去からハーキムの晩年にハーキム神格化の教宣運動を組織化するのに大いに活躍したが、ハーキム失踪後の神格化派の弾圧の最中に失踪した。ドゥルーズ派では、ハムザをハーキムに次ぐ存在として尊崇している<!-- 2004年10月2日20:31(UTC)の版で「ハムザをダラズィーに次ぐ存在として尊崇している」と記述されているが、本節で説明されているようにダラズィーはドゥルーズ派では異端と見なされているはずなので、ハーキムの誤りか -->。 最大の特徴はハーキムを神格化し、受肉した神とみなす点、および教団指導者ハムザをイマームとすることである。失踪したハーキムは死亡したのではなく、幽冥界へのお隠れ([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]])に入ったと信じ、ハーキムの代理人・イマームのハムザが「復活の日」に救世主カーイム([[マフディー]])として再臨し、正義を実現するとする。今ひとつの特徴は聖者崇拝が盛んなことで、レバノン山地には多くの聖者廟があり、ドゥルーズ派の信徒たちに尊崇されている。 シーア派を含むイスラム教の多くの派との明確な相違も多く、[[クルアーン]](コーラン)を用いずに独自の[[聖典]]をもち、[[礼拝]]([[サラート]])の向きは[[メッカ]](マッカ)の方向ではなく、人間が[[輪廻転生]]することを信じる。なお、同じく輪廻転生を信ずる派として[[アラウィー派]](これも異端だという意見が強いが、シリアでは世俗的な力を保持している)があるが、同派のそれは動物への転生もありうるのに対し、ドゥルーズ派はあくまでも人間に転生すると考えられている。 メッカを[[聖地]]とみなさないため、[[五行 (イスラム教)|五行]]のうちの[[巡礼]]([[ハッジ]])を行わず、さらに[[ラマダーン]]の[[断食]]([[サウム]])は禁止されてはいないが義務ではないので、通常には行うことはない。このように教義と宗教行為の面でイスラム教の多くの派と異なる点が多いため、多くのムスリムはドゥルーズ派をイスラムからの逸脱とみなしている。 周囲からの異端視を避けるため、ドゥルーズ派の信徒は非信徒に対して信仰を隠し、ドゥルーズ派の教理実践を公にしない「[[タキーヤ]](信仰秘匿)」という行為を認められている。ただ、タキーヤはドゥルーズ派だけの概念だけではなく、イスラム教[[イバード派]]、シーア派から引き継いだものである。 ドゥルーズ派が信奉する終末論によれば、終末の日に受肉した神であるハーキムの代理人、カーイムとして再臨するハムザが、[[スンナ派]]やイスマーイール派を含めたドゥルーズ派以外のすべての人間を二等市民ズィンミーにして、特定の衣服を強制して、人頭税を徴収し、ドゥルーズ派の男性は彼らの女性や子供を獲得し、彼らの財産も土地も獲得するとされる<ref>『イスラーム教「異端」と「正統」の思想史』、菊池達也、2009、p235</ref><ref>「ハムザ書簡群に見るドゥルーズ派終末論の形成過程」『東洋文化』、87号、2007年、P77、東京大学東洋文化研究所</ref>。 == イスラエルにおけるドゥルーズ派 == [[File:PikiWiki Israel 1337 Druze scouts at jethro holy place צופים דרוזים בקבר יתרו.jpg|210px|right|thumb|五色旗や[[イスラエルの国旗|イスラエル国旗]]を掲げるドゥルーズ派の[[ボーイスカウト]]・[[ガールスカウト]]]] [[イスラエル]]においてもごく少数ながら[[ジュリス]]などにドゥルーズ派の住民たちが存在している。ドゥルーズコミュニティは、イスラエル多数派のユダヤ人と「血の盟約」を結び、ドゥルーズ派の男性はイスラム教徒やキリスト教徒の[[アラブ人]]とは異なり[[イスラエル国防軍]]における兵役義務がある。2008年の[[テルアビブ大学]]によるドゥルーズコミュニティの若者に対する調査では、94%が「ドゥルーズ系イスラエル人」と自認している。 == 出典 == <references /> {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:とうるうすは}} [[Category:ドゥルーズ派| ]] [[Category:イスラム教の宗派]] [[Category:シーア派]] [[Category:アブラハムの宗教]] [[Category:レバノンの政治]] [[Category:レバノンのイスラム教]] [[Category:レバノンの民族]] [[Category:シリアの政治]] [[Category:シリアのイスラム教]] [[Category:シリアの民族]] [[category:イスラエルのイスラム教]] [[Category:イスラエルの政治]] [[Category:イスラエルの民族]] [[Category:ヨルダンの政治]] [[Category:ヨルダンのイスラム教]] [[Category:ヨルダンの民族]]
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ニザール派
ニザール派(ニザールは、ペルシア語: نزاریان, Nezāriyān、アラビア語: نزارية, Nizārīya)は、イスラム教のシーア派・イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方はムスタアリー派)である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。 ニザール派はハサニ・サッバーフの指導するイラン方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまでシリア地方からホラーサーンに点在する城砦およびその周辺領域を保持し、イラン高原のアラムートに築城されたアラムート城砦(英語版)を中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺するという手段を用いたことから暗殺教団の別称が生まれ、のちに大麻吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては暗殺教団を参照)。 13世紀半ばのモンゴル帝国軍の到来によってほとんどの城砦を失うが、広い地域に散在するコミュニティは存続し、現在ではインド、パキスタン、シリア、アフガニスタン・タジキスタン・ザンジバルなど東アフリカおよび欧米に信徒を擁する。特にインド・パキスタン方面のホージャー派のニザール派コミュニティおよびアフガニスタン・タジキスタンのニザール派コミュニティの指導者アーガー・ハーンは、絶大な財力を背景に同地域に社会的影響力を誇る。 1095年、イスマーイール派第18代イマーム、すなわちファーティマ朝第8代カリフ・ムスタンスィル(英語版)の没後、イスマーイール派はそのカリフ=イマーム位を巡って二派に分裂した。当初は兄ニザールが継承することとなっていたが、当時のファーティマ朝において全権を握る宰相アル=アフダル・シャーハンシャーフ(英語版)は、妹婿でニザールの弟アフマドをムスタアリーとして登極させた。ニザールはこれに反発してアレクサンドリアで反乱を起こした。このときニザールを支持した人びとを後代ニザーリーヤ、すなわちニザール派と呼ぶ。反乱自体は早期に鎮圧され、ニザールもカイロに幽閉された後、1098年までには没してしまった。 当時のイスマーイール派は本拠地エジプトにおけるファーティマ朝の衰勢とは裏腹に、中央アジア、イラン、イエメン、シリアなどに教線をのばしていた。これら諸地域の大部分は分裂に際して、ファーティマ朝のムスタアリー派をとったが、イランとイラクおよびごく一部のシリアのイスマーイール派はニザールのイマーム位継承を支持した。彼らはファーティマ朝およびカイロのダアワとの絶縁を選び、独自のダアワを設立した。これをもってニザール派の成立とする。 11世紀以降、サーマーン朝衰退後の中央アジアからイラン東部にかけて教勢を伸ばしたイスマーイール派は、1070年ころにはダイラム(Daylam)からホラーサーンにいたる地域で、勢力を蓄えていた。この時期はセルジューク朝の確立期にあたっており、スンナ派の正統性を強く主張するセルジューク朝は、イスファハーン近郊からセルジューク朝の領域を指揮するダーイー・アブドゥルマリク・イブン・アッターシュのイスマーイール派に対する圧力を強めつつあった。これに対しイスマーイール派は1090年のハサニ・サッバーフによるダイラムのアラムート城砦(英語版)奪取を皮切りに、各地で公然とセルジューク朝に対する反抗を開始し、セルジューク朝もイスマーイール派各拠点の包囲など大規模な鎮圧に乗り出していた。しかしセルジューク朝は1092年に宰相ニザーム・アル=ムルクが暗殺され、さらにスルタン・マリク・シャーが没すると内乱状態に陥ってしまう。イスマーイール派はこれに乗じて、イラン各地の山岳城砦などを攻略し、確固たる地歩を築くことになる(なお、ニザーム・アル=ムルクの暗殺に関しては『集史』以降イスマーイール派によるものともいわれるが、実情は不明である)。 この状況の中で活躍し、1094年ころまでにイラン方面のイスマーイール派で頭角を現したのがアラムート城砦を本拠としたハサニ・サッバーフである。ハサニ・サッバーフは1081年にエジプトから帰還して、イラン各地を旅し、1085年ころからダイラムで活動を始めた。1090年にはアラムート城砦を奪取。イスマーイール派はイラン各地にダーイーを派遣してアラムート同様に山岳城砦を中心とした防備の堅い渓谷など自治的領域を形成するという手法によってセルジューク朝に対抗した。このような領域はイラン北部アルボルズ山中やイラン南部フーゼスターンからファールスにかけてのザーグロス山中、そしてホラーサーン東部のクヒスターン(英語版)(Quhestan)などの地域内各所に形成された。またセルジューク朝支配下の地域でも、イスマーイール派の村は点在し、都市においてもイスマーイール派信徒は存在した。彼らはシーア派のタキーヤ(信仰秘匿)の伝統に従い、表向きスンナ派信徒として振る舞う一方、イスマーイール派であることを明らかにして戦う諸地域への援助を行っていた。この戦略は強大な軍事力をもつ一方で各都市統治者ごとの分権傾向がつよいセルジューク朝に対して非常に有効に機能した。こうしてイスマーイール派はイラン高原に自治領域を連ねて政治勢力を形成することに成功する。 イスマーイール派は同時にフィダーイー(自己犠牲を辞さない者という意味)による暗殺という手段を用いての敵対有力者の排除も辞さなかった。このためスンナ派の立場を重視する住民のあいだでは蛇蝎の如く忌み嫌われることになった。暗殺教団の言説におけるさまざまな伝説の素地はここにある。後代史料ではこの時期の暗殺はすべてイスマーイール派およびニザール派に結びつけられる傾向があるが事実として明らかになっているわけではない。また暗殺者の動機付けのための大麻使用については、アラビア語・ペルシア語などのスンナ派側の敵対的後代史料でも言及されておらず事実とはできない。(詳細は暗殺教団参照)。 1095年のファーティマ朝におけるイマーム=カリフ位を巡る争いで、ハサニ・サッバーフをはじめイラン方面のイスマーイール派は、ニザールを支持した。この要因をハサンのエジプト滞在時に当時の宰相バドル・アル=ジャマーリー(ニザールにかわってムスタアリーをカリフとした宰相アフダルの父で、ムスタアリーの義父)と確執を生じたため、と説明することもあるが、これは伝承の域を出ず、実情としてのニザール支持の背景は必ずしも明らかではない。しかし、イラン地域の現地ダアワはセルジューク朝との激しい対立関係の中で苦闘し、独自に確固たる地歩を築いてきた。さらにセルジューク朝との対立関係の背景には地元民の反テュルクの傾向もあった。こうしたイラン現地のダーイーたちがカイロのダアワに対する発言力を強め、ここにいたって独立ダアワを志向したとする説明も可能である。彼らはエジプトでのニザール支持派の早期の衰退に対し、イラン方面でアラムートを中心に長期にわたる政権を築くことになる。 ファーティマ朝との関係を絶ったあと、ハサニ・サッバーフはイラン各地のイスマーイール派をアラムートを中心とする組織として整備する一方、奪取あるいは新設した城砦の維持と領域の拡大、シャリーアの厳格な施行に努めた。セルジューク朝の中心地のひとつイスファハーン周辺ではアフマド・イブン・アッターシュ(先述のアブドゥルマリク・イブン・アッターシュの息子)が1100年、ゲルドクーフ城砦(英語版)(シャー・ディズ城砦)を落とし、アラムート周辺では1102年、配下のブズルグ・ウミードがアラムートの西方にあるランバサル城砦(英語版)を落としてアラムート地域の防衛を強化。クーヒスターンでも教勢の拡大により、アラムート周辺につぐニザール派の拠点としての位置を確たるものとした。また1100年前後からハサニ・サッバーフはシリアにもダーイーを派遣している(シリアでのニザール派については後述)。 しかしマリク・シャー没後のセルジューク朝の混乱は1104年には一段落し、1106年のバルキヤールクの没後イラン方面のセルジューク朝権力はムハンマド・タパルに集約されることになった。ムハンマド・タパルはニザール派の一掃を期して反攻に転じた。1107年にシャー・ディズ城砦が陥落、ほかにもザーグロス山脈方面でいくつかの城砦が陥落した。またアラムート近辺のガズヴィーンの街でも争奪が繰り返されている。1115年ころからはセルジューク朝軍による大規模なアラムート城砦包囲戦が行われたが、1118年のムハンマド・タパルの死去によって包囲軍は瓦解、アラムートは窮地を脱した。こうしてハサニ・サッバーフはマリク・シャー、バルキヤールク、ムハンマド・タパルの三代にわたるセルジューク朝の包囲をことごとく退けたことで名声を博し、名実ともにニザール派第一の指導者として認められることになるが、イランでのニザール派の拡大も1110年前後には限界に達し、以降セルジューク朝との攻防は一進一退を繰り返す膠着状態となった。ハサニ・サッバーフは1124年6月に没した。 ハサニ・サッバーフはイマームのフッジャとしてニザール派を指導したとされる。フッジャとはアラビア語でシーア派の文脈では「証し」を意味する。ニザール派がイマームとするニザールは1098年までにカイロで没しているが、ニザール派では代わるイマームを立てることをせず、ニザールは行方不明ないし「隠れ」の状態に入ったものとして扱い、ハサニ・サッバーフはフッジャ、すなわちイマームと唯一意を通じることの出来るイマームの代理者であるとしたのである。実際、ニザール派鋳造貨幣は12世紀後半に至るまでニザールのイマーム名アル=ムスタファの名が刻まれている。同時にハサニ・サッバーフはアラムートに古今の図書を集めた図書館を設置、以降アラムートの落城まで多くの学者を引きつけた。 ハサニ・サッバーフのあとを継いだのが、ランバサル城砦を治めるブズルグ・ウミードら4人のダーイーであった。ブズルグ・ウミードは徐々に他を圧倒し、1138年の死まで単独の支配を確立した。ブズルグ・ウミードはハサニ・サッバーフの施策を継承し、セルジューク朝との一進一退を維持した。1129年にはスルタン・マフムードから停戦が提案されたがこれを拒絶。また1131年にはアリー朝のザイド派イマーム、アブー・ハーシム・ジュルジャーニーを捕らえて処刑している。1135年のアッバース朝カリフ・ムスタルシドの暗殺に関与したともされる。1138年2月9日、ブズルグ・ウミードは没し、息子ムハンマドが後を継いだ。以降、アラムートの指導者は代々ブズルグ・ウミードの子孫が継承する。第3代フッジャとなるヌールッディーン・ムハンマド(ペルシア語版)(ムハンマド1世)の時代には、アラムートによるニザール派全体の統治がほぼ確立され、ニザール派領域は安定した。このころまでにはバダフシャーン(アフガニスタン最北東部))のイスマーイール派もアラムートの下に入った模様である。各地のダーイーはアラムートの指示に完全に服従することになるが、一方で重大な事態が発生しない限り、その自治性は認められた。20年強にわたってニザール派を率いたムハンマド1世は1162年2月21日に没し、息子ハサン・ズィクリヒッサラーム(英語版)(ハサン2世)があとを継いだ。 ハサン2世の統治は4年弱と短かったが、ニザール派の歴史の中でも非常に重要な時代である。アラムートの指導者は、ハサン2世にいたるまでニザール派の主席ダーイーかつニザールのフッジャ、すなわち代理人としてニザール派を率いてきたが、1164年8月ハサン2世はキヤーマを宣言したのである。イスマーイール派におけるキヤーマとはイマームのカーイム(=マフディー=救世主)としての再臨のことであり、その日シャリーアは廃棄される。ハサン2世はこれにしたがって、シャリーアを廃棄、しかも自らがニザールの子孫であり、イマームであると示唆したのである。シャリーアの廃棄は通常イスラームの枠外に出ることを意味するが、ニザール派はハサン2世に従ってこの主張を完全に受け入れた。ただし実際のニザール派の活動においては教条的なシャリーア実践が改められたものの、頽廃的な乱脈に陥ったという史料の報告はない。 1169年1月9日、ハサン2世は保守派の義弟に殺害された。しかしあとを継いだ息子のヌール・アッディーン・ムハンマド2世もハサン2世の施策を受け継いだ。ムハンマド2世はアラムートの指導者はイマームとして、ニザール派の前に立ち、ハサン2世の教義の洗練に力を注いだ。すなわち父ハサン2世はニザールの子孫であると論じたのである。彼の40年強の統治は安定し、セルジューク朝の統一権力も完全に瓦解したこの時代、周辺諸勢力との関係においても比較的平和であった。シリアのニザール派が全盛期を迎えるのもこの時代である。ムハンマド2世は1210年9月1日に没し、ジャラール・アッディーン・ハサンすなわちハサン3世があとを継いだ。 ハサン3世の時代は激動の時代であった。父ムハンマド2世の晩年はホラズムシャー朝の拡大期にあたり、ホラズム・シャー朝の援助を受けたアッバース朝の束の間の復興期でもあった。このような状況下にあってハサン3世は、祖父ハサン2世によるキヤーマの教義を廃止し、さらにスンナ派ウラマーを招聘し、スンナ派シャリーアの実践を命じた。すなわちニザール派としての独自性だけでなく、シーア派イスマーイール派としての立場さえ捨て去ったのである。セルジューク朝以降絶えてなかった強大な軍事力を背景としたホラズムシャー朝の圧力は非常に強いもので、ニザール派は従来の徹底的対立関係を維持することはできず、最低限政治的権力としての独立性を維持するためにホラズムシャー朝などとも是々非々の外交関係を結んで孤立的状況を脱するためにとった政策であったと考えられている。ハサン3世はこの政策に基づき1211年、アッバース朝と和平を結び、ニザール派領域の統治権をアッバース朝カリフ・ナースィルの名において認められた。これはとりもなおさずホラズムシャー朝による認知という意味も持った。ニザール派はこの政策を困難な状況下におけるタキーヤ(信仰秘匿)と解釈して方針を受け入れ、ニザール派領域はその安全を確保したのである。そうしてイルデニズ朝のアタベグ・ウズベグ(Atabeg Uzbek、1210–1225)との同盟によって若干の勢力拡大をしている。 1221年11月ハサン3世は没し、息子アラーウッディーン・ムハンマド(ムハンマド3世)があとを継いだ。このときムハンマド3世は9歳で、父の臣下たちによって政務が代行され、スンナ派化政策は継続された。1230年にはホラズムシャー朝の統治者の名によってフトバを読むようにホラズムシャー朝から要請されている。しかしムハンマド3世が政務を執るようになると、スンナ派シャリーアの実践は徐々に弱められるようになった。これはムハンマド3世の個性とも、1231年以降のホラズムシャー朝の急速な弱体化に伴う再度の独立傾向とも考えられる。ニザール派はこの時点でホラズムシャー朝と敵対するアッバース朝およびモンゴル帝国と通好関係を結び、権力空白に乗じて再び拡大に転じた。さらにインドへのニザール派宣教に成功している(ホージャー派を参照)。また文化的繁栄も見た。ナスィールッディーン・トゥースィーなど多くの学者がニザール派領域を訪れ、ハサニ・サッバーフの遺した図書館を利用し研究を行った。しかしムハンマド3世の晩年には迫り来るモンゴル帝国との対立を惹起して抗戦体制に入り、おそらくはこれにも関連した相続争いが起こってしまう。結局1255年12月1日、ムハンマド3世が没すると(一説には信徒に殺害され)、当初の後継者候補で長男ルクヌッディーン・フールシャー(ペルシア語版)があとを継ぐ。ルクヌッディーン・フールシャーは最後のアラムートの支配者である。 すでにニザール派東方領域ではモンゴル帝国軍の攻撃にさらされていたが、1256年4月には徐々に西進していたフレグ率いる大軍がイランに入り、ニザール派諸拠点の攻撃を開始した。ルクヌッディーン・フールシャーはモンゴル軍によるニザール派壊滅を望むスンナ派諸勢力の懐柔を通じて、モンゴル軍による攻撃を避けようとして交渉に入る。しかしながらその複雑な対立関係により交渉は失敗、フレグからはイマームおよびニザール派のモンゴルへの完全服従という無条件降伏を求める最後通牒を受け取ることになる。これをめぐってニザール派が紛糾する間、モンゴル軍はアラムート周辺に対する攻撃を開始し、当時ルクヌッディーンの滞在していたマイムーン城砦を集中的に攻めあげた。マイムーン城砦はアラムート城砦に比べ防備が薄く、11月8日、フレグ自身の指揮による総攻撃が始まり、数日のうちに降伏を余儀なくされた。11月19日にはルクヌッディーンが城を出た。 モンゴル軍はルクヌッディーンを鄭重に扱い、残る諸城砦に対し降伏を命じさせた。これにしたがって諸城砦は次々に降伏したが、アラムート城砦は12月、ランバサル城砦は1257年まで持ちこたえ、さらに1270年ころまで抵抗した城砦もある。しかし大勢としては諸城砦の降伏によって、約150年にわたるニザール派独立政権はルクヌッディーンの降伏によって滅亡したといえる。1257年3月9日、ルクヌッディーンは大カアン・モンケに謁見するためカラコルムへ旅立った。しかし抵抗を続ける城砦の存在を理由に謁見はかなわず、その帰途の1257年春、モンゴル高原ハンガイ山脈付近で殺害され、ニザール派はイマームを失うことになる。また諸城砦もモンゴル軍によって次々に破却され、アラムートの大図書館も失われた。 1095年のニザールとムスタアリーによるファーティマ朝=イスマーイール派の指導権争いで、シリアのイスマーイール派の大部分、特にダマスカス、アレッポなどのイスマーイール派はことごとくムスタアリーにつき、ニザール支持派はハマー北部などシリア中部の山岳地帯を中心にごく少数を擁するに過ぎず、小さなコミュニティに分かれた群小勢力に過ぎなかった。しかし1100年ころからハサニ・サッバーフによってアラムートからシリアにダーイーが派遣されるようになり、シリアにおけるニザール派の再組織化が急速に進み、ムスタアリー派と争うようになる。しかし、シリアの政治状況において有力な一勢力となるには、以降半世紀を必要とした。 このころにはシリアにおけるファーティマ朝の衰勢は明らかになっており、シリア・セルジューク朝および麾下の諸政権、十字軍などが混在する非常に複雑な状況になっていた。ニザール派はこの混乱を背景にハマー北部から徐々に勢力を伸ばそうとするが、イランにおけるのと同様に要塞奪取を試みてたびたび失敗している。1126年にはダマスカスのブーリー朝初代トゥグテギーンはブーリー朝統治域内におけるイスマーイール派を公認し、十字軍との前線たるバーニヤース城砦を与えている。しかしトゥグテギーンを継いだブーリーは反イスマーイール派に転じ、ダマスカスにおける反イスマーイール派暴動に荷担した。ニザール派はダマスカスから一掃されて弱体化し、バーニヤース城砦も十字軍の手に渡る。これ以降ニザール派はその拠点をハマーの西、ジャバル・バフラーに移す。1130年代にはこの区域でいくつかの城砦を購入ないし獲得、1140年には以降の拠点となるマスヤーフ城砦を得た。 シリアのニザール派は、アラムートから派遣されるダーイーによって指導された。その中でもっとも有名なのがラシード・ウッディーン・スィナーンで、1165年ころからシリアのニザール派を指導している。この時期はアラムートでのハサン2世の統治期に当たり、シリアでもハサン2世のキヤーマ宣言は受け入れられている。スィナーンはフィーダーイーを組織化し戦闘に投入、さらに暗殺も行わせた。トリポリ伯レーモン2世(英語版)(1152年没)やモンフェラート侯コンラート1世(コンラド)(1192年没)もその犠牲者といわれる。ヨーロッパにおける「暗殺教団」伝説の「山の老人」はスィナーンが直接のモデルである。スィナーンはザンギー朝や十字軍、さらにサラーフッディーンなどの諸勢力のあいだで同盟と対立を巧みに利用し、ニザール派勢力を拡大した。またアラムートに対し独立の傾向を示したが、1192年ころにスィナーンが没すると、シリアのニザール派も再びアラムートに絶対服従へ立ち戻りつつ、シリアの複雑な情勢を生き延びていった。 イランのニザール派政権がモンゴル帝国によって崩壊すると、シリアのニザール派もモンゴルの圧力を受け、さらに加えてマムルーク朝の圧力も受けるようになる。1273年には最後の城砦がマムルーク朝のバイバルスに降伏した。シリアのニザール派はマムルーク朝への服従を条件に信仰を許され、ジズヤを支払ってコミュニティーを維持した。周辺のヌサイリー派との争いを続けながら、マムルーク朝、オスマン朝の時代を生きた。シリアのニザール派は大部分ムハンマド・シャー派(後述)であったが、19世紀までにイマームの存在が確認されなくなると、インドへ使節を派遣してイマーム捜しを行うものの果たせず、一部はカースィム・シャー派(後述)のアーガー・ハーンをイマームとすることになった。現在でもカースィム・シャー派として約30,000人、ムハンマド・シャー派として約15,000人がシリアに残っている。 モンゴル帝国によるニザール派国家の滅亡は、イランのニザール派を苦況に陥れた。アラムート周辺以外の城砦も次々に陥落ないし降伏し、散在するニザール派の村々の多くは四散、あるいはスンナ派への改宗を余儀なくされ、可能なものはインドやバダフシャーンのニザール派コミュニティのもとへと旅立ったのである。しかし、イルハン朝統治下タキーヤによりニザール派信仰を秘匿し、スンナ派を装う者も少なくなかった。 アラムートのイマーム位は、ルクヌッディーン・フールシャーがモンゴル高原に没したあと、ひそかに幼い息子(ないしは孫)シャムス・アッディーン・ムハンマドが継いだ。1275年ころにニザール派はアラムートをごく一時的に奪還した。シャムス・アッディーン・ムハンマドはタブリーズ周辺のアゼルバイジャン地方に身を隠し1310年ころに没している。中心地イランのニザール派は政権としては崩壊したが、ニザール派ダアワは生き延び、ダイラムやクーヒスターンにおいては独自の勢力を築くこともあった。中央アジア山岳地方バダフシャーンのニザール派コミュニティはミールやピールといった称号の統治者のもとでティムール朝やシャイバーン朝の圧力に耐えて19世紀末までショグナーンを中心に地方政権を維持、ほかにもニーシャープール、フンザ、ギルギットなどに生活を営んだ。インド方面のニザール派もこのころの詳細はほとんどわからないもののピールの指導のもとコミュニティを維持し、当初のムルターンを中心とするスィンドからグジャラート、デカン、デリー方面に拡大しつつあった(インドのニザール派についてはイスマーイール派およびホージャー派も参照)。 こうした中でアゼルバイジャンのイマーム位は系統もはっきりせず、数代のうちにカースィム・シャー派とムハンマド・シャー派の二派に分かれている。ムハンマド・シャー派イマームは18世紀末に姿を消すが、カースィム・シャー派はその初期の動向ははっきりしないものの、現在のアーガー・ハーンに至るまでイマーム位を継承した。彼らはタキーヤを実践し、十二イマーム派やスンナ派のスーフィーのシャイフ(長)を装い、この時期以降、教義や伝承の面でスーフィー・タリーカ(≒教団)の著しい影響を受けることになる。彼らの活動は14世紀半ばころから再び史料にあらわれてくる。 1375年ころ、ムハンマド・シャー派のイマーム・フダーワンド・ムハンマドがあらわれ、ダイラムを中心に活動した。おそらくはアラムート周辺のダイラムでは、政権滅亡後もニザール派勢力(ムハンマド・シャー系)は活動しており、ザイド派のアリー朝と争っていたものと思われる。フダーワンド・ムハンマドはザイド派アリー朝のサイイド・アリー・キヤーに退けられてティムール朝に逃れ、スルターニーヤに軟禁された。彼の家系は早くとも1489年までスルターニーヤに在った。同時期もダイラムでのニザール派の活動は継続されているが、サファヴィー朝中期頃までにほとんど姿を消す。 1507年にはムハンマド・シャー系イマーム・シャー・ラーズィー・アッディーンがバダフシャーンにあらわれ勢力を確立している。その子とも思われるムハンマド・シャー系でもっとも有名な16世紀初のイマーム、シャー・ターヒル・フサイニーは当初サファヴィー朝に仕えたがシャー・イスマーイール1世の疑いを受けてイランから追放されデカンへ赴いた。デカンのアフマドナガルでは地元のニザーム・シャーヒー朝(Nizam Shahi dynasty)ブルハーン・ニザーム・シャー(英語版)に仕え、十二イマーム派法学やスーフィズムの解説書を著して学者として名を残す一方で、政治家としても活躍した。ニザーム・シャー朝の十二イマーム派への改宗は彼によるものといわれている。子孫はのちにアウランガーバードに移った。バダフシャーンでのムハンマド・シャー系イマームとしては1660年ころフダーイ・バフシュが記録されており、インドにおいては1796年アミール・ムハンマド・バーキルが記録に残るムハンマド・シャー派の最後のイマームである。 一方のカースィム・シャー派が姿を現すのは15世紀半ばころからである。カースィム・シャー派は一方でニアマトゥッラー教団(英語版)に属するスーフィーのタリーカとして活動した。カースィム・シャー派はイラン中央部のアンジェダーン(マルキャズィー州・アラークの東約40km)に外来のスーフィー・シャイフとして姿を現し、ムスタンスィル・ビッラー2世(1480年没)を名乗るイマームのもとサファヴィー朝と十二イマーム派スーフィー・タリーカの援助を受けて勢力を拡大した。これを現在のニザール派は「アンジェダーンの復活」と呼んでいる。アンジェダーンのイマームたちは、シーア化するイランの混乱に乗じて十二イマーム派の名の下でニザール派の勢力を拡大するほか、従来のニザール派の再統合に努めた。前述の通り、中央アジアやインドなど各コミュニティはイマームの代理者としてピールを称する地元有力者が独自に活動を続けていた。イマームは各コミュニティにダーイーを派遣、あるいは自らの著書を配布した。インドのサトパンスィーのようにイランのイマームの権威を拒否したニザール派もいたが、この時代にニザール派は再びイマームの下に統合が成し遂げられてゆく。 しかしながら、サファヴィー朝と十二イマーム派でもそのシャリーアや教義を厳格に解釈する人びともおり、ニザール派としての活動の幅はせばまることになった。前述のシャー・ターヒルの追放はそのあらわれといえよう。1574年には第36代イマーム、ムラード・ミールザーがシャー・タフマースプに処刑され、タキーヤにより十二イマーム派スーフィーの装いで生き延びていった。第40代イマーム・シャー・ニザール(1722年没)のとき、アンジェダーンからマハッラート(英語版)周辺の村に移った。さらに世紀半ばにはアフガーンの侵入とサファヴィー朝滅亡後の混乱の中、インドのコミュニティに近いイラン東部ケルマーンのシャフレ・バーバク(英語版)に移動している。 彼らは混乱する情勢を利用してケルマーンで勢力を拡大した。第44代イマーム、サイイド・アブルハサン・カハキーは1756年、ザンド朝のカリーム・ハーン・ザンドによりケルマーンのワーリー(太守)に任じられた。1792年にアブルハサンが没し、シャー・ハリール・アッラーが継承、ヤズドへ移った。1817年にハリール・アッラーが群衆に殺されると、ハサン・アリー・シャーが継承した。ハサン・アリー・シャーはガージャール朝のファトフ・アリー・シャーによってゴム太守に任じられ、マハッラートに領地を与えられた。さらにファトフ・アリー・シャーの娘と結婚、「アーガー・ハーン」の称号も与えられている。モハンマド・シャーの時代にはケルマーン太守に転ずるが、やがて確執を生じ、1841年イランを出て、1848年ムンバイへと移った。 ハサン・アリー・シャーすなわちアーガー・ハーン1世はイギリスの権威と裁定を背景に地元ニザール派コミュニティたるホージャー派におけるイマームの地位を取り戻すことに尽力し、大きな影響力を獲得して1881年に亡くなった。息子アーガー・ハーン2世の短い在位ののち、1885年その子アーガー・ハーン3世が立つ。アーガー・ハーン3世は72年にわたるイマーム位において、世界各地のイスマーイール派の再結集をおこなう一方、イスラーム改革派の政治家・思想家として卓越した業績を残した。議会制の標榜、イスラームにおける女性の人権についての再解釈、教育などの社会福祉向上を目的として活動して、ヨーロッパの上流階級ともたびたび交流し「殿下」の称号で呼ばれた。1957年アーガー・ハーン3世が没し、孫のアーガー・ハーン4世があとを継いだ。彼も祖父の方針を維持してパリを中心とする「アーガー・ハーン開発財団」Agha Khan Development Networkを組織、パキスタン・アフガニスタンなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またアフガニスタンのイスマーイール派はさまざまな形でアフガニスタン内戦におけるアクターとして活動した(インド移住後の動きの詳細はホージャー派、アーガー・ハーンおよび各アーガー・ハーンの人物記事参照)。 現在ニザール派信徒はインド、パキスタンを中心にアフガニスタン、中国、タジキスタンなど中央アジア・インド方面、タンザニアを中心とする東アフリカ、ミャンマーを中心とする東南アジア方面、そして欧米に数百万人を数える。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ニザール派(ニザールは、ペルシア語: نزاریان, Nezāriyān、アラビア語: نزارية, Nizārīya)は、イスラム教のシーア派・イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方はムスタアリー派)である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ニザール派はハサニ・サッバーフの指導するイラン方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまでシリア地方からホラーサーンに点在する城砦およびその周辺領域を保持し、イラン高原のアラムートに築城されたアラムート城砦(英語版)を中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺するという手段を用いたことから暗殺教団の別称が生まれ、のちに大麻吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては暗殺教団を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "13世紀半ばのモンゴル帝国軍の到来によってほとんどの城砦を失うが、広い地域に散在するコミュニティは存続し、現在ではインド、パキスタン、シリア、アフガニスタン・タジキスタン・ザンジバルなど東アフリカおよび欧米に信徒を擁する。特にインド・パキスタン方面のホージャー派のニザール派コミュニティおよびアフガニスタン・タジキスタンのニザール派コミュニティの指導者アーガー・ハーンは、絶大な財力を背景に同地域に社会的影響力を誇る。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1095年、イスマーイール派第18代イマーム、すなわちファーティマ朝第8代カリフ・ムスタンスィル(英語版)の没後、イスマーイール派はそのカリフ=イマーム位を巡って二派に分裂した。当初は兄ニザールが継承することとなっていたが、当時のファーティマ朝において全権を握る宰相アル=アフダル・シャーハンシャーフ(英語版)は、妹婿でニザールの弟アフマドをムスタアリーとして登極させた。ニザールはこれに反発してアレクサンドリアで反乱を起こした。このときニザールを支持した人びとを後代ニザーリーヤ、すなわちニザール派と呼ぶ。反乱自体は早期に鎮圧され、ニザールもカイロに幽閉された後、1098年までには没してしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当時のイスマーイール派は本拠地エジプトにおけるファーティマ朝の衰勢とは裏腹に、中央アジア、イラン、イエメン、シリアなどに教線をのばしていた。これら諸地域の大部分は分裂に際して、ファーティマ朝のムスタアリー派をとったが、イランとイラクおよびごく一部のシリアのイスマーイール派はニザールのイマーム位継承を支持した。彼らはファーティマ朝およびカイロのダアワとの絶縁を選び、独自のダアワを設立した。これをもってニザール派の成立とする。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "11世紀以降、サーマーン朝衰退後の中央アジアからイラン東部にかけて教勢を伸ばしたイスマーイール派は、1070年ころにはダイラム(Daylam)からホラーサーンにいたる地域で、勢力を蓄えていた。この時期はセルジューク朝の確立期にあたっており、スンナ派の正統性を強く主張するセルジューク朝は、イスファハーン近郊からセルジューク朝の領域を指揮するダーイー・アブドゥルマリク・イブン・アッターシュのイスマーイール派に対する圧力を強めつつあった。これに対しイスマーイール派は1090年のハサニ・サッバーフによるダイラムのアラムート城砦(英語版)奪取を皮切りに、各地で公然とセルジューク朝に対する反抗を開始し、セルジューク朝もイスマーイール派各拠点の包囲など大規模な鎮圧に乗り出していた。しかしセルジューク朝は1092年に宰相ニザーム・アル=ムルクが暗殺され、さらにスルタン・マリク・シャーが没すると内乱状態に陥ってしまう。イスマーイール派はこれに乗じて、イラン各地の山岳城砦などを攻略し、確固たる地歩を築くことになる(なお、ニザーム・アル=ムルクの暗殺に関しては『集史』以降イスマーイール派によるものともいわれるが、実情は不明である)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この状況の中で活躍し、1094年ころまでにイラン方面のイスマーイール派で頭角を現したのがアラムート城砦を本拠としたハサニ・サッバーフである。ハサニ・サッバーフは1081年にエジプトから帰還して、イラン各地を旅し、1085年ころからダイラムで活動を始めた。1090年にはアラムート城砦を奪取。イスマーイール派はイラン各地にダーイーを派遣してアラムート同様に山岳城砦を中心とした防備の堅い渓谷など自治的領域を形成するという手法によってセルジューク朝に対抗した。このような領域はイラン北部アルボルズ山中やイラン南部フーゼスターンからファールスにかけてのザーグロス山中、そしてホラーサーン東部のクヒスターン(英語版)(Quhestan)などの地域内各所に形成された。またセルジューク朝支配下の地域でも、イスマーイール派の村は点在し、都市においてもイスマーイール派信徒は存在した。彼らはシーア派のタキーヤ(信仰秘匿)の伝統に従い、表向きスンナ派信徒として振る舞う一方、イスマーイール派であることを明らかにして戦う諸地域への援助を行っていた。この戦略は強大な軍事力をもつ一方で各都市統治者ごとの分権傾向がつよいセルジューク朝に対して非常に有効に機能した。こうしてイスマーイール派はイラン高原に自治領域を連ねて政治勢力を形成することに成功する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イスマーイール派は同時にフィダーイー(自己犠牲を辞さない者という意味)による暗殺という手段を用いての敵対有力者の排除も辞さなかった。このためスンナ派の立場を重視する住民のあいだでは蛇蝎の如く忌み嫌われることになった。暗殺教団の言説におけるさまざまな伝説の素地はここにある。後代史料ではこの時期の暗殺はすべてイスマーイール派およびニザール派に結びつけられる傾向があるが事実として明らかになっているわけではない。また暗殺者の動機付けのための大麻使用については、アラビア語・ペルシア語などのスンナ派側の敵対的後代史料でも言及されておらず事実とはできない。(詳細は暗殺教団参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1095年のファーティマ朝におけるイマーム=カリフ位を巡る争いで、ハサニ・サッバーフをはじめイラン方面のイスマーイール派は、ニザールを支持した。この要因をハサンのエジプト滞在時に当時の宰相バドル・アル=ジャマーリー(ニザールにかわってムスタアリーをカリフとした宰相アフダルの父で、ムスタアリーの義父)と確執を生じたため、と説明することもあるが、これは伝承の域を出ず、実情としてのニザール支持の背景は必ずしも明らかではない。しかし、イラン地域の現地ダアワはセルジューク朝との激しい対立関係の中で苦闘し、独自に確固たる地歩を築いてきた。さらにセルジューク朝との対立関係の背景には地元民の反テュルクの傾向もあった。こうしたイラン現地のダーイーたちがカイロのダアワに対する発言力を強め、ここにいたって独立ダアワを志向したとする説明も可能である。彼らはエジプトでのニザール支持派の早期の衰退に対し、イラン方面でアラムートを中心に長期にわたる政権を築くことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ファーティマ朝との関係を絶ったあと、ハサニ・サッバーフはイラン各地のイスマーイール派をアラムートを中心とする組織として整備する一方、奪取あるいは新設した城砦の維持と領域の拡大、シャリーアの厳格な施行に努めた。セルジューク朝の中心地のひとつイスファハーン周辺ではアフマド・イブン・アッターシュ(先述のアブドゥルマリク・イブン・アッターシュの息子)が1100年、ゲルドクーフ城砦(英語版)(シャー・ディズ城砦)を落とし、アラムート周辺では1102年、配下のブズルグ・ウミードがアラムートの西方にあるランバサル城砦(英語版)を落としてアラムート地域の防衛を強化。クーヒスターンでも教勢の拡大により、アラムート周辺につぐニザール派の拠点としての位置を確たるものとした。また1100年前後からハサニ・サッバーフはシリアにもダーイーを派遣している(シリアでのニザール派については後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかしマリク・シャー没後のセルジューク朝の混乱は1104年には一段落し、1106年のバルキヤールクの没後イラン方面のセルジューク朝権力はムハンマド・タパルに集約されることになった。ムハンマド・タパルはニザール派の一掃を期して反攻に転じた。1107年にシャー・ディズ城砦が陥落、ほかにもザーグロス山脈方面でいくつかの城砦が陥落した。またアラムート近辺のガズヴィーンの街でも争奪が繰り返されている。1115年ころからはセルジューク朝軍による大規模なアラムート城砦包囲戦が行われたが、1118年のムハンマド・タパルの死去によって包囲軍は瓦解、アラムートは窮地を脱した。こうしてハサニ・サッバーフはマリク・シャー、バルキヤールク、ムハンマド・タパルの三代にわたるセルジューク朝の包囲をことごとく退けたことで名声を博し、名実ともにニザール派第一の指導者として認められることになるが、イランでのニザール派の拡大も1110年前後には限界に達し、以降セルジューク朝との攻防は一進一退を繰り返す膠着状態となった。ハサニ・サッバーフは1124年6月に没した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ハサニ・サッバーフはイマームのフッジャとしてニザール派を指導したとされる。フッジャとはアラビア語でシーア派の文脈では「証し」を意味する。ニザール派がイマームとするニザールは1098年までにカイロで没しているが、ニザール派では代わるイマームを立てることをせず、ニザールは行方不明ないし「隠れ」の状態に入ったものとして扱い、ハサニ・サッバーフはフッジャ、すなわちイマームと唯一意を通じることの出来るイマームの代理者であるとしたのである。実際、ニザール派鋳造貨幣は12世紀後半に至るまでニザールのイマーム名アル=ムスタファの名が刻まれている。同時にハサニ・サッバーフはアラムートに古今の図書を集めた図書館を設置、以降アラムートの落城まで多くの学者を引きつけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ハサニ・サッバーフのあとを継いだのが、ランバサル城砦を治めるブズルグ・ウミードら4人のダーイーであった。ブズルグ・ウミードは徐々に他を圧倒し、1138年の死まで単独の支配を確立した。ブズルグ・ウミードはハサニ・サッバーフの施策を継承し、セルジューク朝との一進一退を維持した。1129年にはスルタン・マフムードから停戦が提案されたがこれを拒絶。また1131年にはアリー朝のザイド派イマーム、アブー・ハーシム・ジュルジャーニーを捕らえて処刑している。1135年のアッバース朝カリフ・ムスタルシドの暗殺に関与したともされる。1138年2月9日、ブズルグ・ウミードは没し、息子ムハンマドが後を継いだ。以降、アラムートの指導者は代々ブズルグ・ウミードの子孫が継承する。第3代フッジャとなるヌールッディーン・ムハンマド(ペルシア語版)(ムハンマド1世)の時代には、アラムートによるニザール派全体の統治がほぼ確立され、ニザール派領域は安定した。このころまでにはバダフシャーン(アフガニスタン最北東部))のイスマーイール派もアラムートの下に入った模様である。各地のダーイーはアラムートの指示に完全に服従することになるが、一方で重大な事態が発生しない限り、その自治性は認められた。20年強にわたってニザール派を率いたムハンマド1世は1162年2月21日に没し、息子ハサン・ズィクリヒッサラーム(英語版)(ハサン2世)があとを継いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ハサン2世の統治は4年弱と短かったが、ニザール派の歴史の中でも非常に重要な時代である。アラムートの指導者は、ハサン2世にいたるまでニザール派の主席ダーイーかつニザールのフッジャ、すなわち代理人としてニザール派を率いてきたが、1164年8月ハサン2世はキヤーマを宣言したのである。イスマーイール派におけるキヤーマとはイマームのカーイム(=マフディー=救世主)としての再臨のことであり、その日シャリーアは廃棄される。ハサン2世はこれにしたがって、シャリーアを廃棄、しかも自らがニザールの子孫であり、イマームであると示唆したのである。シャリーアの廃棄は通常イスラームの枠外に出ることを意味するが、ニザール派はハサン2世に従ってこの主張を完全に受け入れた。ただし実際のニザール派の活動においては教条的なシャリーア実践が改められたものの、頽廃的な乱脈に陥ったという史料の報告はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1169年1月9日、ハサン2世は保守派の義弟に殺害された。しかしあとを継いだ息子のヌール・アッディーン・ムハンマド2世もハサン2世の施策を受け継いだ。ムハンマド2世はアラムートの指導者はイマームとして、ニザール派の前に立ち、ハサン2世の教義の洗練に力を注いだ。すなわち父ハサン2世はニザールの子孫であると論じたのである。彼の40年強の統治は安定し、セルジューク朝の統一権力も完全に瓦解したこの時代、周辺諸勢力との関係においても比較的平和であった。シリアのニザール派が全盛期を迎えるのもこの時代である。ムハンマド2世は1210年9月1日に没し、ジャラール・アッディーン・ハサンすなわちハサン3世があとを継いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ハサン3世の時代は激動の時代であった。父ムハンマド2世の晩年はホラズムシャー朝の拡大期にあたり、ホラズム・シャー朝の援助を受けたアッバース朝の束の間の復興期でもあった。このような状況下にあってハサン3世は、祖父ハサン2世によるキヤーマの教義を廃止し、さらにスンナ派ウラマーを招聘し、スンナ派シャリーアの実践を命じた。すなわちニザール派としての独自性だけでなく、シーア派イスマーイール派としての立場さえ捨て去ったのである。セルジューク朝以降絶えてなかった強大な軍事力を背景としたホラズムシャー朝の圧力は非常に強いもので、ニザール派は従来の徹底的対立関係を維持することはできず、最低限政治的権力としての独立性を維持するためにホラズムシャー朝などとも是々非々の外交関係を結んで孤立的状況を脱するためにとった政策であったと考えられている。ハサン3世はこの政策に基づき1211年、アッバース朝と和平を結び、ニザール派領域の統治権をアッバース朝カリフ・ナースィルの名において認められた。これはとりもなおさずホラズムシャー朝による認知という意味も持った。ニザール派はこの政策を困難な状況下におけるタキーヤ(信仰秘匿)と解釈して方針を受け入れ、ニザール派領域はその安全を確保したのである。そうしてイルデニズ朝のアタベグ・ウズベグ(Atabeg Uzbek、1210–1225)との同盟によって若干の勢力拡大をしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1221年11月ハサン3世は没し、息子アラーウッディーン・ムハンマド(ムハンマド3世)があとを継いだ。このときムハンマド3世は9歳で、父の臣下たちによって政務が代行され、スンナ派化政策は継続された。1230年にはホラズムシャー朝の統治者の名によってフトバを読むようにホラズムシャー朝から要請されている。しかしムハンマド3世が政務を執るようになると、スンナ派シャリーアの実践は徐々に弱められるようになった。これはムハンマド3世の個性とも、1231年以降のホラズムシャー朝の急速な弱体化に伴う再度の独立傾向とも考えられる。ニザール派はこの時点でホラズムシャー朝と敵対するアッバース朝およびモンゴル帝国と通好関係を結び、権力空白に乗じて再び拡大に転じた。さらにインドへのニザール派宣教に成功している(ホージャー派を参照)。また文化的繁栄も見た。ナスィールッディーン・トゥースィーなど多くの学者がニザール派領域を訪れ、ハサニ・サッバーフの遺した図書館を利用し研究を行った。しかしムハンマド3世の晩年には迫り来るモンゴル帝国との対立を惹起して抗戦体制に入り、おそらくはこれにも関連した相続争いが起こってしまう。結局1255年12月1日、ムハンマド3世が没すると(一説には信徒に殺害され)、当初の後継者候補で長男ルクヌッディーン・フールシャー(ペルシア語版)があとを継ぐ。ルクヌッディーン・フールシャーは最後のアラムートの支配者である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "すでにニザール派東方領域ではモンゴル帝国軍の攻撃にさらされていたが、1256年4月には徐々に西進していたフレグ率いる大軍がイランに入り、ニザール派諸拠点の攻撃を開始した。ルクヌッディーン・フールシャーはモンゴル軍によるニザール派壊滅を望むスンナ派諸勢力の懐柔を通じて、モンゴル軍による攻撃を避けようとして交渉に入る。しかしながらその複雑な対立関係により交渉は失敗、フレグからはイマームおよびニザール派のモンゴルへの完全服従という無条件降伏を求める最後通牒を受け取ることになる。これをめぐってニザール派が紛糾する間、モンゴル軍はアラムート周辺に対する攻撃を開始し、当時ルクヌッディーンの滞在していたマイムーン城砦を集中的に攻めあげた。マイムーン城砦はアラムート城砦に比べ防備が薄く、11月8日、フレグ自身の指揮による総攻撃が始まり、数日のうちに降伏を余儀なくされた。11月19日にはルクヌッディーンが城を出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "モンゴル軍はルクヌッディーンを鄭重に扱い、残る諸城砦に対し降伏を命じさせた。これにしたがって諸城砦は次々に降伏したが、アラムート城砦は12月、ランバサル城砦は1257年まで持ちこたえ、さらに1270年ころまで抵抗した城砦もある。しかし大勢としては諸城砦の降伏によって、約150年にわたるニザール派独立政権はルクヌッディーンの降伏によって滅亡したといえる。1257年3月9日、ルクヌッディーンは大カアン・モンケに謁見するためカラコルムへ旅立った。しかし抵抗を続ける城砦の存在を理由に謁見はかなわず、その帰途の1257年春、モンゴル高原ハンガイ山脈付近で殺害され、ニザール派はイマームを失うことになる。また諸城砦もモンゴル軍によって次々に破却され、アラムートの大図書館も失われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1095年のニザールとムスタアリーによるファーティマ朝=イスマーイール派の指導権争いで、シリアのイスマーイール派の大部分、特にダマスカス、アレッポなどのイスマーイール派はことごとくムスタアリーにつき、ニザール支持派はハマー北部などシリア中部の山岳地帯を中心にごく少数を擁するに過ぎず、小さなコミュニティに分かれた群小勢力に過ぎなかった。しかし1100年ころからハサニ・サッバーフによってアラムートからシリアにダーイーが派遣されるようになり、シリアにおけるニザール派の再組織化が急速に進み、ムスタアリー派と争うようになる。しかし、シリアの政治状況において有力な一勢力となるには、以降半世紀を必要とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このころにはシリアにおけるファーティマ朝の衰勢は明らかになっており、シリア・セルジューク朝および麾下の諸政権、十字軍などが混在する非常に複雑な状況になっていた。ニザール派はこの混乱を背景にハマー北部から徐々に勢力を伸ばそうとするが、イランにおけるのと同様に要塞奪取を試みてたびたび失敗している。1126年にはダマスカスのブーリー朝初代トゥグテギーンはブーリー朝統治域内におけるイスマーイール派を公認し、十字軍との前線たるバーニヤース城砦を与えている。しかしトゥグテギーンを継いだブーリーは反イスマーイール派に転じ、ダマスカスにおける反イスマーイール派暴動に荷担した。ニザール派はダマスカスから一掃されて弱体化し、バーニヤース城砦も十字軍の手に渡る。これ以降ニザール派はその拠点をハマーの西、ジャバル・バフラーに移す。1130年代にはこの区域でいくつかの城砦を購入ないし獲得、1140年には以降の拠点となるマスヤーフ城砦を得た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "シリアのニザール派は、アラムートから派遣されるダーイーによって指導された。その中でもっとも有名なのがラシード・ウッディーン・スィナーンで、1165年ころからシリアのニザール派を指導している。この時期はアラムートでのハサン2世の統治期に当たり、シリアでもハサン2世のキヤーマ宣言は受け入れられている。スィナーンはフィーダーイーを組織化し戦闘に投入、さらに暗殺も行わせた。トリポリ伯レーモン2世(英語版)(1152年没)やモンフェラート侯コンラート1世(コンラド)(1192年没)もその犠牲者といわれる。ヨーロッパにおける「暗殺教団」伝説の「山の老人」はスィナーンが直接のモデルである。スィナーンはザンギー朝や十字軍、さらにサラーフッディーンなどの諸勢力のあいだで同盟と対立を巧みに利用し、ニザール派勢力を拡大した。またアラムートに対し独立の傾向を示したが、1192年ころにスィナーンが没すると、シリアのニザール派も再びアラムートに絶対服従へ立ち戻りつつ、シリアの複雑な情勢を生き延びていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イランのニザール派政権がモンゴル帝国によって崩壊すると、シリアのニザール派もモンゴルの圧力を受け、さらに加えてマムルーク朝の圧力も受けるようになる。1273年には最後の城砦がマムルーク朝のバイバルスに降伏した。シリアのニザール派はマムルーク朝への服従を条件に信仰を許され、ジズヤを支払ってコミュニティーを維持した。周辺のヌサイリー派との争いを続けながら、マムルーク朝、オスマン朝の時代を生きた。シリアのニザール派は大部分ムハンマド・シャー派(後述)であったが、19世紀までにイマームの存在が確認されなくなると、インドへ使節を派遣してイマーム捜しを行うものの果たせず、一部はカースィム・シャー派(後述)のアーガー・ハーンをイマームとすることになった。現在でもカースィム・シャー派として約30,000人、ムハンマド・シャー派として約15,000人がシリアに残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "モンゴル帝国によるニザール派国家の滅亡は、イランのニザール派を苦況に陥れた。アラムート周辺以外の城砦も次々に陥落ないし降伏し、散在するニザール派の村々の多くは四散、あるいはスンナ派への改宗を余儀なくされ、可能なものはインドやバダフシャーンのニザール派コミュニティのもとへと旅立ったのである。しかし、イルハン朝統治下タキーヤによりニザール派信仰を秘匿し、スンナ派を装う者も少なくなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アラムートのイマーム位は、ルクヌッディーン・フールシャーがモンゴル高原に没したあと、ひそかに幼い息子(ないしは孫)シャムス・アッディーン・ムハンマドが継いだ。1275年ころにニザール派はアラムートをごく一時的に奪還した。シャムス・アッディーン・ムハンマドはタブリーズ周辺のアゼルバイジャン地方に身を隠し1310年ころに没している。中心地イランのニザール派は政権としては崩壊したが、ニザール派ダアワは生き延び、ダイラムやクーヒスターンにおいては独自の勢力を築くこともあった。中央アジア山岳地方バダフシャーンのニザール派コミュニティはミールやピールといった称号の統治者のもとでティムール朝やシャイバーン朝の圧力に耐えて19世紀末までショグナーンを中心に地方政権を維持、ほかにもニーシャープール、フンザ、ギルギットなどに生活を営んだ。インド方面のニザール派もこのころの詳細はほとんどわからないもののピールの指導のもとコミュニティを維持し、当初のムルターンを中心とするスィンドからグジャラート、デカン、デリー方面に拡大しつつあった(インドのニザール派についてはイスマーイール派およびホージャー派も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "こうした中でアゼルバイジャンのイマーム位は系統もはっきりせず、数代のうちにカースィム・シャー派とムハンマド・シャー派の二派に分かれている。ムハンマド・シャー派イマームは18世紀末に姿を消すが、カースィム・シャー派はその初期の動向ははっきりしないものの、現在のアーガー・ハーンに至るまでイマーム位を継承した。彼らはタキーヤを実践し、十二イマーム派やスンナ派のスーフィーのシャイフ(長)を装い、この時期以降、教義や伝承の面でスーフィー・タリーカ(≒教団)の著しい影響を受けることになる。彼らの活動は14世紀半ばころから再び史料にあらわれてくる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1375年ころ、ムハンマド・シャー派のイマーム・フダーワンド・ムハンマドがあらわれ、ダイラムを中心に活動した。おそらくはアラムート周辺のダイラムでは、政権滅亡後もニザール派勢力(ムハンマド・シャー系)は活動しており、ザイド派のアリー朝と争っていたものと思われる。フダーワンド・ムハンマドはザイド派アリー朝のサイイド・アリー・キヤーに退けられてティムール朝に逃れ、スルターニーヤに軟禁された。彼の家系は早くとも1489年までスルターニーヤに在った。同時期もダイラムでのニザール派の活動は継続されているが、サファヴィー朝中期頃までにほとんど姿を消す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1507年にはムハンマド・シャー系イマーム・シャー・ラーズィー・アッディーンがバダフシャーンにあらわれ勢力を確立している。その子とも思われるムハンマド・シャー系でもっとも有名な16世紀初のイマーム、シャー・ターヒル・フサイニーは当初サファヴィー朝に仕えたがシャー・イスマーイール1世の疑いを受けてイランから追放されデカンへ赴いた。デカンのアフマドナガルでは地元のニザーム・シャーヒー朝(Nizam Shahi dynasty)ブルハーン・ニザーム・シャー(英語版)に仕え、十二イマーム派法学やスーフィズムの解説書を著して学者として名を残す一方で、政治家としても活躍した。ニザーム・シャー朝の十二イマーム派への改宗は彼によるものといわれている。子孫はのちにアウランガーバードに移った。バダフシャーンでのムハンマド・シャー系イマームとしては1660年ころフダーイ・バフシュが記録されており、インドにおいては1796年アミール・ムハンマド・バーキルが記録に残るムハンマド・シャー派の最後のイマームである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方のカースィム・シャー派が姿を現すのは15世紀半ばころからである。カースィム・シャー派は一方でニアマトゥッラー教団(英語版)に属するスーフィーのタリーカとして活動した。カースィム・シャー派はイラン中央部のアンジェダーン(マルキャズィー州・アラークの東約40km)に外来のスーフィー・シャイフとして姿を現し、ムスタンスィル・ビッラー2世(1480年没)を名乗るイマームのもとサファヴィー朝と十二イマーム派スーフィー・タリーカの援助を受けて勢力を拡大した。これを現在のニザール派は「アンジェダーンの復活」と呼んでいる。アンジェダーンのイマームたちは、シーア化するイランの混乱に乗じて十二イマーム派の名の下でニザール派の勢力を拡大するほか、従来のニザール派の再統合に努めた。前述の通り、中央アジアやインドなど各コミュニティはイマームの代理者としてピールを称する地元有力者が独自に活動を続けていた。イマームは各コミュニティにダーイーを派遣、あるいは自らの著書を配布した。インドのサトパンスィーのようにイランのイマームの権威を拒否したニザール派もいたが、この時代にニザール派は再びイマームの下に統合が成し遂げられてゆく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "しかしながら、サファヴィー朝と十二イマーム派でもそのシャリーアや教義を厳格に解釈する人びともおり、ニザール派としての活動の幅はせばまることになった。前述のシャー・ターヒルの追放はそのあらわれといえよう。1574年には第36代イマーム、ムラード・ミールザーがシャー・タフマースプに処刑され、タキーヤにより十二イマーム派スーフィーの装いで生き延びていった。第40代イマーム・シャー・ニザール(1722年没)のとき、アンジェダーンからマハッラート(英語版)周辺の村に移った。さらに世紀半ばにはアフガーンの侵入とサファヴィー朝滅亡後の混乱の中、インドのコミュニティに近いイラン東部ケルマーンのシャフレ・バーバク(英語版)に移動している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "彼らは混乱する情勢を利用してケルマーンで勢力を拡大した。第44代イマーム、サイイド・アブルハサン・カハキーは1756年、ザンド朝のカリーム・ハーン・ザンドによりケルマーンのワーリー(太守)に任じられた。1792年にアブルハサンが没し、シャー・ハリール・アッラーが継承、ヤズドへ移った。1817年にハリール・アッラーが群衆に殺されると、ハサン・アリー・シャーが継承した。ハサン・アリー・シャーはガージャール朝のファトフ・アリー・シャーによってゴム太守に任じられ、マハッラートに領地を与えられた。さらにファトフ・アリー・シャーの娘と結婚、「アーガー・ハーン」の称号も与えられている。モハンマド・シャーの時代にはケルマーン太守に転ずるが、やがて確執を生じ、1841年イランを出て、1848年ムンバイへと移った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ハサン・アリー・シャーすなわちアーガー・ハーン1世はイギリスの権威と裁定を背景に地元ニザール派コミュニティたるホージャー派におけるイマームの地位を取り戻すことに尽力し、大きな影響力を獲得して1881年に亡くなった。息子アーガー・ハーン2世の短い在位ののち、1885年その子アーガー・ハーン3世が立つ。アーガー・ハーン3世は72年にわたるイマーム位において、世界各地のイスマーイール派の再結集をおこなう一方、イスラーム改革派の政治家・思想家として卓越した業績を残した。議会制の標榜、イスラームにおける女性の人権についての再解釈、教育などの社会福祉向上を目的として活動して、ヨーロッパの上流階級ともたびたび交流し「殿下」の称号で呼ばれた。1957年アーガー・ハーン3世が没し、孫のアーガー・ハーン4世があとを継いだ。彼も祖父の方針を維持してパリを中心とする「アーガー・ハーン開発財団」Agha Khan Development Networkを組織、パキスタン・アフガニスタンなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またアフガニスタンのイスマーイール派はさまざまな形でアフガニスタン内戦におけるアクターとして活動した(インド移住後の動きの詳細はホージャー派、アーガー・ハーンおよび各アーガー・ハーンの人物記事参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "現在ニザール派信徒はインド、パキスタンを中心にアフガニスタン、中国、タジキスタンなど中央アジア・インド方面、タンザニアを中心とする東アフリカ、ミャンマーを中心とする東南アジア方面、そして欧米に数百万人を数える。", "title": "歴史" } ]
ニザール派は、イスラム教のシーア派・イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方はムスタアリー派)である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。 ニザール派はハサニ・サッバーフの指導するイラン方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまでシリア地方からホラーサーンに点在する城砦およびその周辺領域を保持し、イラン高原のアラムートに築城されたアラムート城砦を中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺するという手段を用いたことから暗殺教団の別称が生まれ、のちに大麻吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては暗殺教団を参照)。 13世紀半ばのモンゴル帝国軍の到来によってほとんどの城砦を失うが、広い地域に散在するコミュニティは存続し、現在ではインド、パキスタン、シリア、アフガニスタン・タジキスタン・ザンジバルなど東アフリカおよび欧米に信徒を擁する。特にインド・パキスタン方面のホージャー派のニザール派コミュニティおよびアフガニスタン・タジキスタンのニザール派コミュニティの指導者アーガー・ハーンは、絶大な財力を背景に同地域に社会的影響力を誇る。
[[ファイル:Nizari Ismaili Flag.jpg|サムネイル|262x262ピクセル]] {{シーア派}} '''ニザール派'''(ニザールは、{{lang-fa|نزاریان}}, {{lang|fa|Nezāriyān}}、{{lang-ar|نزارية}}, {{lang|ar|Nizārīya}})は、[[イスラム教]]の[[シーア派]]・[[イスマーイール派]]の分派。[[1094年]]、[[ファーティマ朝]]の[[カリフ]]=[[イマーム]]位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方は[[ムスタアリー派]])である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。{{要出典|date=2008年8月}} ニザール派は[[ハサン・サッバーフ|ハサニ・サッバーフ]]の指導する[[イラン]]方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまで[[歴史的シリア|シリア地方]]から[[ホラーサーン]]に点在する城砦およびその周辺領域を保持し、[[イラン高原]]の[[アラムート]]に築城された{{仮リンク|アラムート城|en|Alamut Castle|label=アラムート城砦}}を中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対する[[セルジューク朝]]や[[十字軍]]の要人を[[暗殺]]するという手段を用いたことから[[暗殺教団]]の別称が生まれ、のちに[[大麻]]吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては[[暗殺教団]]を参照)。 13世紀半ばの[[モンゴル帝国]]軍の到来によってほとんどの城砦を失うが、広い地域に散在するコミュニティは存続し、現在では[[インド]]、[[パキスタン]]、[[シリア]]、[[アフガニスタン]]・[[タジキスタン]]・[[ザンジバル]]など[[東アフリカ]]および欧米に信徒を擁する。特にインド・パキスタン方面の[[ホージャー派]]のニザール派コミュニティおよびアフガニスタン・タジキスタンのニザール派コミュニティの指導者[[アーガー・ハーン]]は、絶大な財力を背景に同地域に社会的影響力を誇る。 ==歴史== ===ニザール派の成立=== [[1095年]]、[[イスマーイール派]]第18代[[イマーム]]、すなわち[[ファーティマ朝]]第8代[[カリフ]]・{{仮リンク|ムスタンスィル (ファーティマ朝カリフ)|label=ムスタンスィル|en|Al-Mustansir Billah}}の没後、イスマーイール派はそのカリフ=イマーム位を巡って二派に分裂した。当初は兄[[ニザール・ブン・アル=ムスタンスィル|ニザール]]が継承することとなっていたが、当時のファーティマ朝において全権を握る宰相{{仮リンク|アル=アフダル・シャーハンシャーフ|en|Al-Afdal Shahanshah}}は、妹婿でニザールの弟アフマドを[[ムスタアリー]]として登極させた。ニザールはこれに反発して[[アレクサンドリア]]で反乱を起こした。このときニザールを支持した人びとを後代ニザーリーヤ、すなわちニザール派と呼ぶ。反乱自体は早期に鎮圧され、ニザールも[[カイロ]]に幽閉された後、[[1098年]]までには没してしまった。 当時のイスマーイール派は本拠地[[エジプト]]におけるファーティマ朝の衰勢とは裏腹に、[[中央アジア]]、[[イラン]]、[[イエメン]]、[[歴史的シリア|シリア]]などに教線をのばしていた。これら諸地域の大部分は分裂に際して、ファーティマ朝のムスタアリー派をとったが、イランと[[イラク]]およびごく一部のシリアのイスマーイール派はニザールのイマーム位継承を支持した。彼らはファーティマ朝およびカイロの[[ダアワ]]との絶縁を選び、独自のダアワを設立した。これをもってニザール派の成立とする。 ===イランのイスマーイール派とハサニ・サッバーフ=== 11世紀以降、[[サーマーン朝]]衰退後の中央アジアからイラン東部にかけて教勢を伸ばしたイスマーイール派は、1070年ころには[[ギーラーン州|ダイラム]](Daylam)から[[ホラーサーン]]にいたる地域で、勢力を蓄えていた。この時期は[[セルジューク朝]]の確立期にあたっており、[[スンナ派]]の正統性を強く主張するセルジューク朝は、[[イスファハーン]]近郊からセルジューク朝の領域を指揮する[[ダーイー]]・アブドゥルマリク・イブン・アッターシュのイスマーイール派に対する圧力を強めつつあった。これに対しイスマーイール派は[[1090年]]の[[ハサン・サッバーフ|ハサニ・サッバーフ]]によるダイラムの{{仮リンク|アラムート城|en|Alamut Castle|label=アラムート城砦}}奪取を皮切りに、各地で公然とセルジューク朝に対する反抗を開始し、セルジューク朝もイスマーイール派各拠点の包囲など大規模な鎮圧に乗り出していた。しかしセルジューク朝は[[1092年]]に宰相[[ニザームルムルク|ニザーム・アル=ムルク]]が暗殺され、さらにスルタン・[[マリク・シャー]]が没すると内乱状態に陥ってしまう。イスマーイール派はこれに乗じて、イラン各地の山岳城砦などを攻略し、確固たる地歩を築くことになる(なお、ニザーム・アル=ムルクの暗殺に関しては『[[集史]]』以降イスマーイール派によるものともいわれるが、実情は不明である)。 この状況の中で活躍し、[[1094年]]ころまでにイラン方面のイスマーイール派で頭角を現したのがアラムート城砦を本拠としたハサニ・サッバーフである。ハサニ・サッバーフは[[1081年]]にエジプトから帰還して、イラン各地を旅し、[[1085年]]ころからダイラムで活動を始めた。1090年にはアラムート城砦を奪取。イスマーイール派はイラン各地に[[ダーイー]]を派遣してアラムート同様に山岳城砦を中心とした防備の堅い渓谷など自治的領域を形成するという手法によってセルジューク朝に対抗した。このような領域はイラン北部[[アルボルズ山脈|アルボルズ山中]]やイラン南部[[フーゼスターン州|フーゼスターン]]から[[ファールス州|ファールス]]にかけての[[ザグロス山脈|ザーグロス山中]]、そしてホラーサーン東部の{{仮リンク|クヒスターン|en|Quhistan}}(Quhestan)などの地域内各所に形成された。またセルジューク朝支配下の地域でも、イスマーイール派の村は点在し、[[都市]]においてもイスマーイール派信徒は存在した。彼らはシーア派の[[タキーヤ]](信仰秘匿)の伝統に従い、表向きスンナ派信徒として振る舞う一方、イスマーイール派であることを明らかにして戦う諸地域への援助を行っていた。この戦略は強大な軍事力をもつ一方で各都市統治者ごとの分権傾向がつよいセルジューク朝に対して非常に有効に機能した。こうしてイスマーイール派は[[イラン高原]]に自治領域を連ねて政治勢力を形成することに成功する。 イスマーイール派は同時に[[フィダーイー]](自己犠牲を辞さない者という意味)による[[暗殺]]という手段を用いての敵対有力者の排除も辞さなかった。このためスンナ派の立場を重視する住民のあいだでは蛇蝎の如く忌み嫌われることになった。[[暗殺教団]]の言説におけるさまざまな伝説の素地はここにある。後代史料ではこの時期の暗殺はすべてイスマーイール派およびニザール派に結びつけられる傾向があるが事実として明らかになっているわけではない。また暗殺者の動機付けのための[[大麻]]使用については、アラビア語・ペルシア語などのスンナ派側の敵対的後代史料でも言及されておらず事実とはできない。(詳細は[[暗殺教団]]参照)。 [[1095年]]のファーティマ朝におけるイマーム=カリフ位を巡る争いで、ハサニ・サッバーフをはじめイラン方面のイスマーイール派は、ニザールを支持した。この要因をハサンのエジプト滞在時に当時の宰相[[バドル・アル=ジャマーリー]](ニザールにかわってムスタアリーをカリフとした宰相アフダルの父で、ムスタアリーの義父)と確執を生じたため、と説明することもあるが、これは伝承の域を出ず、実情としてのニザール支持の背景は必ずしも明らかではない。しかし、イラン地域の現地ダアワはセルジューク朝との激しい対立関係の中で苦闘し、独自に確固たる地歩を築いてきた。さらにセルジューク朝との対立関係の背景には地元民の反[[テュルク]]の傾向もあった。こうしたイラン現地のダーイーたちがカイロのダアワに対する発言力を強め、ここにいたって独立ダアワを志向したとする説明も可能である。彼らはエジプトでのニザール支持派の早期の衰退に対し、イラン方面でアラムートを中心に長期にわたる政権を築くことになる。 === アラムートのニザール派政権 === ==== ニザール派政権の確立 ==== ファーティマ朝との関係を絶ったあと、ハサニ・サッバーフはイラン各地のイスマーイール派をアラムートを中心とする組織として整備する一方、奪取あるいは新設した城砦の維持と領域の拡大、[[シャリーア]]の厳格な施行に努めた。セルジューク朝の中心地のひとつ[[イスファハーン]]周辺ではアフマド・イブン・アッターシュ(先述のアブドゥルマリク・イブン・アッターシュの息子)が[[1100年]]、{{仮リンク|ゲルドクーフ|en|Gerdkuh|label=ゲルドクーフ城砦}}(シャー・ディズ城砦)を落とし、アラムート周辺では[[1102年]]、配下のブズルグ・ウミードがアラムートの西方にある{{仮リンク|ランバサル城|en|Lambsar Castle|label=ランバサル城砦}}を落としてアラムート地域の防衛を強化。クーヒスターンでも教勢の拡大により、アラムート周辺につぐニザール派の拠点としての位置を確たるものとした。また1100年前後からハサニ・サッバーフは[[歴史的シリア|シリア]]にもダーイーを派遣している(シリアでのニザール派については後述)。 しかしマリク・シャー没後のセルジューク朝の混乱は[[1104年]]には一段落し、[[1106年]]の[[バルキヤールク]]の没後イラン方面のセルジューク朝権力は[[ムハンマド・タパル]]に集約されることになった。ムハンマド・タパルはニザール派の一掃を期して反攻に転じた。[[1107年]]にシャー・ディズ城砦が陥落、ほかにもザーグロス山脈方面でいくつかの城砦が陥落した。またアラムート近辺の[[ガズヴィーン]]の街でも争奪が繰り返されている。[[1115年]]ころからはセルジューク朝軍による大規模なアラムート城砦包囲戦が行われたが、[[1118年]]のムハンマド・タパルの死去によって包囲軍は瓦解、アラムートは窮地を脱した。こうしてハサニ・サッバーフはマリク・シャー、バルキヤールク、ムハンマド・タパルの三代にわたるセルジューク朝の包囲をことごとく退けたことで名声を博し、名実ともにニザール派第一の指導者として認められることになるが、イランでのニザール派の拡大も1110年前後には限界に達し、以降セルジューク朝との攻防は一進一退を繰り返す膠着状態となった。ハサニ・サッバーフは[[1124年]]6月に没した。 ハサニ・サッバーフはイマームの[[フッジャ]]としてニザール派を指導したとされる。フッジャとはアラビア語でシーア派の文脈では「証し」を意味する。ニザール派がイマームとするニザールは1098年までにカイロで没しているが、ニザール派では代わるイマームを立てることをせず、ニザールは行方不明ないし「[[ガイバ (イスラム教)|隠れ]]」の状態に入ったものとして扱い、ハサニ・サッバーフはフッジャ、すなわちイマームと唯一意を通じることの出来るイマームの代理者であるとしたのである。実際、ニザール派鋳造[[貨幣]]は12世紀後半に至るまでニザールのイマーム名アル=ムスタファの名が刻まれている。同時にハサニ・サッバーフはアラムートに古今の図書を集めた[[図書館]]を設置、以降アラムートの落城まで多くの学者を引きつけた。 ハサニ・サッバーフのあとを継いだのが、ランバサル城砦を治めるブズルグ・ウミードら4人のダーイーであった。ブズルグ・ウミードは徐々に他を圧倒し、1138年の死まで単独の支配を確立した。ブズルグ・ウミードはハサニ・サッバーフの施策を継承し、セルジューク朝との一進一退を維持した。[[1129年]]にはスルタン・[[マフムード1世 (セルジューク朝)|マフムード]]から停戦が提案されたがこれを拒絶。また[[1131年]]には[[アリー朝]]の[[ザイド派]]イマーム、アブー・ハーシム・ジュルジャーニーを捕らえて処刑している。[[1135年]]の[[アッバース朝]]カリフ・[[ムスタルシド]]の暗殺に関与したともされる。1138年2月9日、ブズルグ・ウミードは没し、息子ムハンマドが後を継いだ。以降、アラムートの指導者は代々ブズルグ・ウミードの子孫が継承する。第3代フッジャとなる{{仮リンク|ムハンマド1世 (ニザール派)|fa|محمد بزرگ امید|label=ヌールッディーン・ムハンマド}}(ムハンマド1世)の時代には、アラムートによるニザール派全体の統治がほぼ確立され、ニザール派領域は安定した。このころまでには[[バダフシャーン]]([[アフガニスタン]]最北東部))のイスマーイール派もアラムートの下に入った模様である。各地のダーイーはアラムートの指示に完全に服従することになるが、一方で重大な事態が発生しない限り、その自治性は認められた。20年強にわたってニザール派を率いたムハンマド1世は[[1162年]]2月21日に没し、息子{{仮リンク|ハサン2世 (ニザール派)|en|Hassan II (Imam)|label=ハサン・ズィクリヒッサラーム}}(ハサン2世)があとを継いだ。 ==== キヤーマの宣言による急進化 ==== ハサン2世の統治は4年弱と短かったが、ニザール派の歴史の中でも非常に重要な時代である。アラムートの指導者は、ハサン2世にいたるまでニザール派の主席ダーイーかつニザールのフッジャ、すなわち代理人としてニザール派を率いてきたが、[[1164年]]8月ハサン2世はキヤーマを宣言したのである。イスマーイール派におけるキヤーマとはイマームのカーイム(=[[マフディー]]=[[救世主]])としての再臨のことであり、その日[[シャリーア]]は廃棄される。ハサン2世はこれにしたがって、シャリーアを廃棄、しかも自らがニザールの子孫であり、イマームであると示唆したのである。シャリーアの廃棄は通常イスラームの枠外に出ることを意味するが、ニザール派はハサン2世に従ってこの主張を完全に受け入れた。ただし実際のニザール派の活動においては教条的なシャリーア実践が改められたものの、頽廃的な乱脈に陥ったという史料の報告はない。 [[1169年]]1月9日、ハサン2世は保守派の義弟に殺害された。しかしあとを継いだ息子のヌール・アッディーン・ムハンマド2世もハサン2世の施策を受け継いだ。ムハンマド2世はアラムートの指導者はイマームとして、ニザール派の前に立ち、ハサン2世の教義の洗練に力を注いだ。すなわち父ハサン2世はニザールの子孫であると論じたのである。彼の40年強の統治は安定し、セルジューク朝の統一権力も完全に瓦解したこの時代、周辺諸勢力との関係においても比較的平和であった。シリアのニザール派が全盛期を迎えるのもこの時代である。ムハンマド2世は[[1210年]]9月1日に没し、ジャラール・アッディーン・ハサンすなわちハサン3世があとを継いだ。 ==== ホラズムシャー朝とスンナ派化 ==== ハサン3世の時代は激動の時代であった。父ムハンマド2世の晩年は[[ホラズムシャー朝]]の拡大期にあたり、ホラズム・シャー朝の援助を受けたアッバース朝の束の間の復興期でもあった。このような状況下にあってハサン3世は、祖父ハサン2世によるキヤーマの教義を廃止し、さらにスンナ派[[ウラマー]]を招聘し、スンナ派シャリーアの実践を命じた。すなわちニザール派としての独自性だけでなく、シーア派イスマーイール派としての立場さえ捨て去ったのである。セルジューク朝以降絶えてなかった強大な軍事力を背景としたホラズムシャー朝の圧力は非常に強いもので、ニザール派は従来の徹底的対立関係を維持することはできず、最低限政治的権力としての独立性を維持するためにホラズムシャー朝などとも是々非々の外交関係を結んで孤立的状況を脱するためにとった政策であったと考えられている。ハサン3世はこの政策に基づき[[1211年]]、アッバース朝と和平を結び、ニザール派領域の統治権をアッバース朝カリフ・[[ナースィル]]の名において認められた。これはとりもなおさずホラズムシャー朝による認知という意味も持った。ニザール派はこの政策を困難な状況下における[[タキーヤ]](信仰秘匿)と解釈して方針を受け入れ、ニザール派領域はその安全を確保したのである。そうして[[イルデニズ朝]]の[[スルターン・ムザッファルッディーン・ウズベク|アタベグ・ウズベグ]](Atabeg Uzbek、1210–1225)との同盟によって若干の勢力拡大をしている。 [[1221年]]11月ハサン3世は没し、息子[[ムハンマド3世 (ニザール派)|アラーウッディーン・ムハンマド]](ムハンマド3世)があとを継いだ。このときムハンマド3世は9歳で、父の臣下たちによって政務が代行され、スンナ派化政策は継続された。[[1230年]]にはホラズムシャー朝の統治者の名によって[[フトバ]]を読むようにホラズムシャー朝から要請されている。しかしムハンマド3世が政務を執るようになると、スンナ派シャリーアの実践は徐々に弱められるようになった。これはムハンマド3世の個性とも、[[1231年]]以降のホラズムシャー朝の急速な弱体化に伴う再度の独立傾向とも考えられる。ニザール派はこの時点でホラズムシャー朝と敵対するアッバース朝および[[モンゴル帝国]]と通好関係を結び、権力空白に乗じて再び拡大に転じた。さらに[[インド]]へのニザール派宣教に成功している([[ホージャー派]]を参照)。また文化的繁栄も見た。[[ナスィールッディーン・トゥースィー]]など多くの学者がニザール派領域を訪れ、ハサニ・サッバーフの遺した図書館を利用し研究を行った。しかしムハンマド3世の晩年には迫り来るモンゴル帝国との対立を惹起して抗戦体制に入り、おそらくはこれにも関連した相続争いが起こってしまう。結局[[1255年]]12月1日、ムハンマド3世が没すると(一説には信徒に殺害され)、当初の後継者候補で長男{{仮リンク|ルクヌッディーン・フールシャー|fa|رکن‌الدین خورشاه}}があとを継ぐ。ルクヌッディーン・フールシャーは最後のアラムートの支配者である。 ==== アラムート政権の終焉 ==== {{main|フレグの西征|モンゴルのニザール派討滅}} [[File:Siege of Alamut (1256).jpeg|thumb|アラムートに籠城するニザール派と攻撃するモンゴル軍(1256年)]] すでにニザール派東方領域ではモンゴル帝国軍の攻撃にさらされていたが、[[1256年]]4月には徐々に西進していた[[フレグ]]率いる大軍がイランに入り、ニザール派諸拠点の攻撃を開始した。ルクヌッディーン・フールシャーはモンゴル軍によるニザール派壊滅を望むスンナ派諸勢力の懐柔を通じて、モンゴル軍による攻撃を避けようとして交渉に入る。しかしながらその複雑な対立関係により交渉は失敗、フレグからはイマームおよびニザール派のモンゴルへの完全服従という無条件降伏を求める最後通牒を受け取ることになる。これをめぐってニザール派が紛糾する間、モンゴル軍はアラムート周辺に対する攻撃を開始し、当時ルクヌッディーンの滞在していたマイムーン城砦を集中的に攻めあげた。マイムーン城砦はアラムート城砦に比べ防備が薄く、11月8日、フレグ自身の指揮による総攻撃が始まり、数日のうちに降伏を余儀なくされた。11月19日にはルクヌッディーンが城を出た。 モンゴル軍はルクヌッディーンを鄭重に扱い、残る諸城砦に対し降伏を命じさせた。これにしたがって諸城砦は次々に降伏したが、アラムート城砦は12月、ランバサル城砦は[[1257年]]まで持ちこたえ、さらに[[1270年]]ころまで抵抗した城砦もある。しかし大勢としては諸城砦の降伏によって、約150年にわたるニザール派独立政権はルクヌッディーンの降伏によって滅亡したといえる。1257年3月9日、ルクヌッディーンは[[大ハーン|大カアン]]・[[モンケ]]に謁見するため[[カラコルム]]へ旅立った。しかし抵抗を続ける城砦の存在を理由に謁見はかなわず、その帰途の1257年春、[[モンゴル高原]][[ハンガイ山脈]]付近で殺害され、ニザール派はイマームを失うことになる。また諸城砦もモンゴル軍によって次々に破却され、アラムートの大図書館も失われた。 === シリアにおけるニザール派 === 1095年のニザールとムスタアリーによるファーティマ朝=イスマーイール派の指導権争いで、シリアのイスマーイール派の大部分、特に[[ダマスカス]]、[[アレッポ]]などのイスマーイール派はことごとくムスタアリーにつき、ニザール支持派は[[ハマー (都市)|ハマー]]北部などシリア中部の山岳地帯を中心にごく少数を擁するに過ぎず、小さなコミュニティに分かれた群小勢力に過ぎなかった。しかし[[1100年]]ころからハサニ・サッバーフによってアラムートからシリアにダーイーが派遣されるようになり、シリアにおけるニザール派の再組織化が急速に進み、ムスタアリー派と争うようになる。しかし、シリアの政治状況において有力な一勢力となるには、以降半世紀を必要とした。 このころにはシリアにおける[[ファーティマ朝]]の衰勢は明らかになっており、[[シリア・セルジューク朝]]および麾下の諸政権、[[十字軍]]などが混在する非常に複雑な状況になっていた。ニザール派はこの混乱を背景にハマー北部から徐々に勢力を伸ばそうとするが、イランにおけるのと同様に要塞奪取を試みてたびたび失敗している。[[1126年]]にはダマスカスの[[ブーリー朝]]初代トゥグテギーンはブーリー朝統治域内におけるイスマーイール派を公認し、十字軍との前線たるバーニヤース城砦を与えている。しかしトゥグテギーンを継いだブーリーは反イスマーイール派に転じ、ダマスカスにおける反イスマーイール派暴動に荷担した。ニザール派はダマスカスから一掃されて弱体化し、バーニヤース城砦も十字軍の手に渡る。これ以降ニザール派はその拠点をハマーの西、ジャバル・バフラーに移す。1130年代にはこの区域でいくつかの城砦を購入ないし獲得、[[1140年]]には以降の拠点となる[[マスヤーフ]]城砦を得た。 シリアのニザール派は、アラムートから派遣されるダーイーによって指導された。その中でもっとも有名なのが[[ラシード・ウッディーン・スィナーン]]で、[[1165年]]ころからシリアのニザール派を指導している。この時期はアラムートでのハサン2世の統治期に当たり、シリアでもハサン2世のキヤーマ宣言は受け入れられている。スィナーンはフィーダーイーを組織化し戦闘に投入、さらに暗殺も行わせた。{{仮リンク|レイモン2世 (トリポリ伯)|en|Raymond II, Count of Tripoli|label=トリポリ伯レーモン2世}}([[1152年]]没)や[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|モンフェラート侯コンラート1世(コンラド)]]([[1192年]]没)もその犠牲者といわれる。ヨーロッパにおける「[[暗殺教団]]」伝説の「山の老人」はスィナーンが直接のモデルである。スィナーンは[[ザンギー朝]]や[[十字軍]]、さらに[[サラーフッディーン]]などの諸勢力のあいだで同盟と対立を巧みに利用し、ニザール派勢力を拡大した。またアラムートに対し独立の傾向を示したが、1192年ころにスィナーンが没すると、シリアのニザール派も再びアラムートに絶対服従へ立ち戻りつつ、シリアの複雑な情勢を生き延びていった。 イランのニザール派政権がモンゴル帝国によって崩壊すると、シリアのニザール派もモンゴルの圧力を受け、さらに加えて[[マムルーク朝]]の圧力も受けるようになる。[[1273年]]には最後の城砦がマムルーク朝の[[バイバルス]]に降伏した。シリアのニザール派はマムルーク朝への服従を条件に信仰を許され、[[ジズヤ]]を支払ってコミュニティーを維持した。周辺の[[ヌサイリー派]]との争いを続けながら、マムルーク朝、[[オスマン帝国|オスマン朝]]の時代を生きた。シリアのニザール派は大部分ムハンマド・シャー派([[#ムハンマド・シャー派|後述]])であったが、19世紀までにイマームの存在が確認されなくなると、インドへ使節を派遣してイマーム捜しを行うものの果たせず、一部はカースィム・シャー派([[#カースィム・シャー派|後述]])の[[アーガー・ハーン]]をイマームとすることになった。現在でもカースィム・シャー派として約30,000人、ムハンマド・シャー派として約15,000人がシリアに残っている。 === アラムート後のニザール派 === ==== その後のイランと各地のニザール派 ==== モンゴル帝国によるニザール派国家の滅亡は、イランのニザール派を苦況に陥れた。アラムート周辺以外の城砦も次々に陥落ないし降伏し、散在するニザール派の村々の多くは四散、あるいはスンナ派への改宗を余儀なくされ、可能なものは[[インド]]や[[バダフシャーン]]のニザール派コミュニティのもとへと旅立ったのである。しかし、[[イルハン朝]]統治下タキーヤによりニザール派信仰を秘匿し、スンナ派を装う者も少なくなかった。 アラムートのイマーム位は、ルクヌッディーン・フールシャーがモンゴル高原に没したあと、ひそかに幼い息子(ないしは孫)シャムス・アッディーン・ムハンマドが継いだ。[[1275年]]ころにニザール派はアラムートをごく一時的に奪還した。シャムス・アッディーン・ムハンマドは[[タブリーズ]]周辺の[[アゼルバイジャン|アゼルバイジャン地方]]に身を隠し[[1310年]]ころに没している。中心地イランのニザール派は政権としては崩壊したが、ニザール派ダアワは生き延び、ダイラムやクーヒスターンにおいては独自の勢力を築くこともあった。中央アジア山岳地方バダフシャーンのニザール派コミュニティはミールやピールといった称号の統治者のもとで[[ティムール朝]]や[[シャイバーン朝]]の圧力に耐えて19世紀末までショグナーンを中心に地方政権を維持、ほかにも[[ニーシャープール]]、[[フンザ]]、[[ギルギット]]などに生活を営んだ。インド方面のニザール派もこのころの詳細はほとんどわからないもののピールの指導のもとコミュニティを維持し、当初の[[ムルターン]]を中心とする[[シンド州|スィンド]]から[[グジャラート]]、[[デカン]]、[[デリー]]方面に拡大しつつあった(インドのニザール派については[[イスマーイール派]]および[[ホージャー派]]も参照)。 こうした中でアゼルバイジャンのイマーム位は系統もはっきりせず、数代のうちにカースィム・シャー派とムハンマド・シャー派の二派に分かれている。ムハンマド・シャー派イマームは18世紀末に姿を消すが、カースィム・シャー派はその初期の動向ははっきりしないものの、現在のアーガー・ハーンに至るまでイマーム位を継承した。彼らはタキーヤを実践し、[[十二イマーム派]]やスンナ派の[[スーフィー]]の[[シャイフ]](長)を装い、この時期以降、教義や伝承の面でスーフィー・[[タリーカ]](≒教団)の著しい影響を受けることになる。彼らの活動は14世紀半ばころから再び史料にあらわれてくる。 ==== ムハンマド・シャー派 ==== [[1375年]]ころ、ムハンマド・シャー派のイマーム・[[フダーワンド・ムハンマド]]があらわれ、ダイラムを中心に活動した。おそらくはアラムート周辺のダイラムでは、政権滅亡後もニザール派勢力(ムハンマド・シャー系)は活動しており、[[ザイド派]]の[[アリー朝]]と争っていたものと思われる。フダーワンド・ムハンマドはザイド派アリー朝の[[サイイド・アリー・キヤー]]に退けられて[[ティムール朝]]に逃れ、スルターニーヤに軟禁された。彼の家系は早くとも1489年までスルターニーヤに在った。同時期もダイラムでのニザール派の活動は継続されているが、サファヴィー朝中期頃までにほとんど姿を消す。 [[1507年]]にはムハンマド・シャー系イマーム・[[シャー・ラーズィー・アッディーン]]がバダフシャーンにあらわれ勢力を確立している。その子とも思われるムハンマド・シャー系でもっとも有名な16世紀初のイマーム、[[シャー・ターヒル|シャー・ターヒル・フサイニー]]は当初[[サファヴィー朝]]に仕えたがシャー・[[イスマーイール1世]]の疑いを受けてイランから追放されデカンへ赴いた。デカンの[[アフマドナガル]]では地元の[[ニザーム・シャーヒー朝]](Nizam Shahi dynasty){{仮リンク|ブルハーン・ニザーム・シャー1世|en|Burhan Nizam Shah I|label=ブルハーン・ニザーム・シャー}}に仕え、十二イマーム派法学やスーフィズムの解説書を著して学者として名を残す一方で、政治家としても活躍した。ニザーム・シャー朝の十二イマーム派への改宗は彼によるものといわれている。子孫はのちに[[アウランガーバード]]に移った。バダフシャーンでのムハンマド・シャー系イマームとしては[[1660年]]ころ[[フダーイ・バフシュ]]が記録されており、インドにおいては1796年アミール・[[ムハンマド・バーキル (ムハンマド・シャー派)|ムハンマド・バーキル]]が記録に残るムハンマド・シャー派の最後のイマームである。 ==== カースィム・シャー派 ==== 一方のカースィム・シャー派が姿を現すのは15世紀半ばころからである。カースィム・シャー派は一方で{{仮リンク|ニアマトゥッラー教団|en|Ni'matullāhī}}に属するスーフィーのタリーカとして活動した。カースィム・シャー派はイラン中央部のアンジェダーン([[マルキャズィー州]]・[[アラーク]]の東約40km)に外来のスーフィー・シャイフとして姿を現し、ムスタンスィル・ビッラー2世([[1480年]]没)を名乗るイマームのもと[[サファヴィー朝]]と[[十二イマーム派]]スーフィー・タリーカの援助を受けて勢力を拡大した。これを現在のニザール派は「アンジェダーンの復活」と呼んでいる。アンジェダーンのイマームたちは、シーア化するイランの混乱に乗じて十二イマーム派の名の下でニザール派の勢力を拡大するほか、従来のニザール派の再統合に努めた。前述の通り、中央アジアやインドなど各コミュニティはイマームの代理者としてピールを称する地元有力者が独自に活動を続けていた。イマームは各コミュニティにダーイーを派遣、あるいは自らの著書を配布した。インドの[[サトパンスィー]]のようにイランのイマームの権威を拒否したニザール派もいたが、この時代にニザール派は再びイマームの下に統合が成し遂げられてゆく。 {{Location map+|Iran|width=300|float=right|caption=関連地図|AlternativeMap=Iran relief location map.jpg|places= {{Location map~|Iran|lat_deg=33.980378|lon_deg=50.026245|position=left|background=|label=アンジェダーン}} {{Location map~|Iran|lat_deg=30.130578|lon_deg=55.114632|position=bottom|background=|label=シャフレ・バーバク<!--Shahrbabak-->}} {{Location map~|Iran|lat_deg=33.90889|lon_deg=50.456772|position=right|background=|label=マハッラート}} {{Location map~|Iran|lat_deg=31.898546|lon_deg=54.361725|position=bottom|background=|label=ヤズド}} {{Location map~|Iran|lat_deg=34.75741|lon_deg=51.065826|position=right|background=|label=ゴム}} {{Location map~|Iran|lat_deg=35.688533|lon_deg=51.410522|position=top|background=|label=(テヘラン)}} }} しかしながら、サファヴィー朝と十二イマーム派でもそのシャリーアや教義を厳格に解釈する人びともおり、ニザール派としての活動の幅はせばまることになった。前述のシャー・ターヒルの追放はそのあらわれといえよう。[[1574年]]には第36代イマーム、ムラード・ミールザーが[[タフマースプ1世|シャー・タフマースプ]]に処刑され、タキーヤにより十二イマーム派スーフィーの装いで生き延びていった。第40代イマーム・シャー・ニザール([[1722年]]没)のとき、アンジェダーンから{{仮リンク|マハッラート|en|Mahallat}}周辺の村に移った。さらに世紀半ばにはアフガーンの侵入とサファヴィー朝滅亡後の混乱の中、インドのコミュニティに近いイラン東部[[ケルマーン]]の{{仮リンク|シャフレ・バーバク|en|Shahr-e Babak}}に移動している。 彼らは混乱する情勢を利用してケルマーンで勢力を拡大した。第44代イマーム、サイイド・アブルハサン・カハキーは[[1756年]]、[[ザンド朝]]の[[カリーム・ハーン・ザンド]]によりケルマーンの[[ワーリー]](太守)に任じられた。1792年にアブルハサンが没し、シャー・ハリール・アッラーが継承、[[ヤズド]]へ移った。1817年にハリール・アッラーが群衆に殺されると、ハサン・アリー・シャーが継承した。ハサン・アリー・シャーは[[ガージャール朝]]の[[ファトフ・アリー・シャー]]によって[[ゴム (イラン)|ゴム]]太守に任じられ、マハッラートに領地を与えられた。さらにファトフ・アリー・シャーの娘と結婚、「'''[[アーガー・ハーン]]'''」の称号も与えられている。[[モハンマド・シャー]]の時代にはケルマーン太守に転ずるが、やがて確執を生じ、[[1841年]]イランを出て、1848年[[ムンバイ]]へと移った。 ハサン・アリー・シャーすなわちアーガー・ハーン1世は[[イギリス]]の権威と裁定を背景に地元ニザール派コミュニティたる[[ホージャー派]]におけるイマームの地位を取り戻すことに尽力し、大きな影響力を獲得して[[1881年]]に亡くなった。息子アーガー・ハーン2世の短い在位ののち、[[1885年]]その子アーガー・ハーン3世が立つ。アーガー・ハーン3世は72年にわたるイマーム位において、世界各地のイスマーイール派の再結集をおこなう一方、イスラーム改革派の政治家・思想家として卓越した業績を残した。[[議会制]]の標榜、イスラームにおける[[女性]]の[[人権]]についての再解釈、[[教育]]などの社会福祉向上を目的として活動して、ヨーロッパの上流階級ともたびたび交流し「殿下」の称号で呼ばれた。1957年アーガー・ハーン3世が没し、孫のアーガー・ハーン4世があとを継いだ。彼も祖父の方針を維持してパリを中心とする「アーガー・ハーン開発財団」Agha Khan Development Networkを組織、パキスタン・アフガニスタンなど第三世界各国で社会福祉活動を行っている。またアフガニスタンのイスマーイール派はさまざまな形で[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)|アフガニスタン内戦]]におけるアクターとして活動した(インド移住後の動きの詳細は[[ホージャー派]]、[[アーガー・ハーン]]および各アーガー・ハーンの人物記事参照)。 現在ニザール派信徒はインド、パキスタンを中心にアフガニスタン、中国、タジキスタンなど中央アジア・インド方面、タンザニアを中心とする東アフリカ、ミャンマーを中心とする東南アジア方面、そして欧米に数百万人を数える。 <!-- ==教義== シーア派およびイスマーイール派の基本的教義についてはそれぞれの項目を参照。ここではニザール派としての特徴およびニザール派の中で発達した教義について取り扱う。 --> == 歴代指導者 == === アラムート期 === # [[ハサン・サッバーフ|ハサニ・サッバーフ]] # {{仮リンク|キヤー・ブズルグ・ウミード|en|Kiya Buzurg Ummid}} # {{仮リンク|ムハンマド1世 (ニザール派)|fa|محمد بزرگ امید|label=ヌールッディーン・ムハンマド・イブン・ブズルグ・ウミード (ムハンマド1世)}} # [[ハサン・アラー・ズィクリヒッサラーム|ハサン・ズィクリヒッサラーム(ハサン2世)]] # [[ムハンマド2世 (ニザール派)|ヌール・アッディーン・ムハンマド (ムハンマド2世)]] # {{仮リンク|ハサン3世 (ニザール派)|en|Jalaluddin Hasan|label=ジャラール・アッディーン・ハサン (ハサン3世)}} # [[ムハンマド3世 (ニザール派)|アラーウッディーン・ムハンマド (ムハンマド3世)]] # {{仮リンク|ルクヌッディーン・フールシャー|fa|رکن‌الدین خورشاه}} === アーガー・ハーン === *[[アーガー・ハーン1世]]ハサン・アリー・シャー・マハッラーティー *[[アーガー・ハーン2世]]アーガー・アリー・シャー *[[アーガー・ハーン3世]]ソルターン・モハンマド・シャー *[[アーガー・ハーン4世]]メヴラーナ・ハーゼル・エマーム・シャー・キャリーム・ホセイニー == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2017年2月}} *Daftary, Farhad, ''The Ismailis : their history and doctrines,'' Cambridge University Press, 1990. ISBN 0521370191 *Eboo Jamal, Nadia ''Surviving the Mongols: Nizari Quhistani and the Continuity of Ismaili Tradition in Persia, I.B.Tauris, 2002. ISBN 1860644325'' *Hodgson, Marshall G. S., ''The Secret Order of Assassins: The Struggle of the Early Nizari Ismailis against the Islamic World,'' University of Pennsylvania Press, 2005. ISBN 0812219163 (左は現在流通するペーパーバック版。初版は1955年) *Lewis, Bernard, ''The Assassins: A Radical Sect in Islam,'' Basic Books, 2002. ISBN 0465004989 (ペーパーバック版。初版は1967年) *Madelung, Wilferd., Ismailiya, ''The Encyclopaedia of Islam,'' vol.4., Brill, 1960-, pp.198-206. {{DEFAULTSORT:にさるは}} [[Category:ニザール派|*]] {{islam-stub}}
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イマーム派
イマーム派(イマームは, アラビア語: امامية, EI方式カナ転写: Imāmiyya)は、十二イマーム派の別名、あるいは、8世紀前半頃のシーア派の一分派で、アリー以降のイマーマ(カリフ位)の継承がファーティマの子孫によりなされるとした一派のことである。本項では後者について詳述する。 イマーム派はジャアファル・サーディクの信奉者を母体にしており、ジャアファルの死没(765年)後は、イマーマが長男のイスマーイールに受け継がれたと考える者たちのグループと、その弟のムーサーに受け継がれると考える者たちのグループなどに分かれた(#イマーム派の分派)。イスマーイール派は前者の流れに属し、十二イマーム派は後者の流れに属す。イマーマが血縁によって世代を超えて受け継がれることや、イマームの不可謬性といった独特のイマーム論がイマーム派により論じ始められた(#イマーム論)。 ラーフィダ(al-Rāfiḍa; 文字通りには「拒絶する者」「否認者」を意味する)はシーア派全体を指すことも多いが、狭義には、イマーム派の源流となったグループ proto-Imāmiyya である。クーファにおけるザイド・ブン・アリーの蜂起(740年)に際し、一部の、最終的にザイドを拒絶したクーファのシーア派は、マディーナに住むジャアファル・サーディクに支持を鞍替えした。「ラーフィダ」はザイド派によるイマーム派の他称であり、元来は侮蔑的な意味合いを持たされていた。 イマーム派はしかし、この他称をすぐにポジティブな意味への読み替えを行った。スライマーン・ブン・ミヒラーン・アァマシュ(英語版)が伝えるジャアファル・サーディクのハディースによると、ファラオを拒絶してモーセを選んだエジプトの民が神により「ラーフィダ」と呼ばれたことを、ジャアファルは指摘したという。すなわち侮蔑的な呼名「ラーフィダ」は、悪を拒絶する者たちと読み替えられた。 ラーフィダ思想はクーファに立ち現れ、8世紀(ヒジュラ暦2世紀)の終わりまでにはゴムにも飛び火した。 12世紀の分派学者シャフラスターニーによると、イマーム派の共同体は後年、さらに次の6派に分派したという。 上述のシャフラスターニーの伝えるイマーム派共同体の分派は、ジャアファル・サーディクの死没(765年)をきっかけにしている。十二イマーム派の信条によると、ムーサー・カーゼムは少年の頃に父からイマーム職を受け継ぐ後継者としてナッス(指名)を受けていたとされる。しかしシャフラスターニーなどによると、ジャアファル・サーディクは長男のイスマーイールにナッスを授けていたようである。そのイスマーイールは父より先に、子を残さず亡くなった。さらに次男のアブドゥウラー・アフタフも父の亡くなった数週間後に亡くなった。ハサン裔のファーティマを母とするイスマーイールとアブドゥッラーの兄弟とは異なり、アンダルスの奴隷女を母とするムーサーの名前が歴史的資料に現れ始めるのは、ほぼこの後に限られる。当時のシーア派共同体の指導的立場にあった思想家の中には、ヒシャーム・ブン・ハカム(英語版)などムーサーのイマーマ継承を支持する者もいたが、支持するか否かの判断を保留した者もいる。 シャフラスターニーの伝える「イスマーイーリーヤ」は、後年の「イスマーイーリーヤ」すなわち、いわゆる「イスマーイール派」(ファーティマ朝系、カルマト派を問わず)とは、その主張するところがかなり異なり、『イスラーム百科事典第2版』などは proto-Ismā‘īlī(原イスマーイール派)と呼んでいる。
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イマーム派は、十二イマーム派の別名、あるいは、8世紀前半頃のシーア派の一分派で、アリー以降のイマーマ(カリフ位)の継承がファーティマの子孫によりなされるとした一派のことである。本項では後者について詳述する。 イマーム派はジャアファル・サーディクの信奉者を母体にしており、ジャアファルの死没(765年)後は、イマーマが長男のイスマーイールに受け継がれたと考える者たちのグループと、その弟のムーサーに受け継がれると考える者たちのグループなどに分かれた(#イマーム派の分派)。イスマーイール派は前者の流れに属し、十二イマーム派は後者の流れに属す。イマーマが血縁によって世代を超えて受け継がれることや、イマームの不可謬性といった独特のイマーム論がイマーム派により論じ始められた(#イマーム論)。
'''イマーム派'''(イマームは, {{rtl翻字併記|ar|امامية|Imāmiyya|EI方式カナ転写}})は、[[十二イマーム派]]の別名{{r|al-Muqaddima 3-25}}{{efn|『[[イスラーム百科事典]]第2版』はイマーム派を十二イマーム派の別名ないしその前身として扱っている{{r|EI2-Imāma}}。{{transl|ar|Imāma}} や {{transl|ar|al-Rāfiḍa}} の項を参照{{r|EI2-Imāma}}{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。イブン・ハルドゥーン『歴史序説』第3章25節「イマーム問題におけるシーア派の教義」において、著者[[イブン・ハルドゥーン]]は、14世紀後半時点のシーア派の間では「イマーム派」という呼名がしばしば「十二イマーム派」に限定されると報告している{{r|al-Muqaddima 3-25}}。}}、あるいは、8世紀前半頃の[[シーア派]]の一分派で、[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]以降の[[イマーマ]](カリフ位)の継承が[[ファーティマ]]の子孫によりなされるとした一派のことである{{r|al-Muqaddima 3-25}}。本項では後者について詳述する。 イマーム派は[[ジャアファル・サーディク]]の信奉者を母体にしており、ジャアファルの死没(765年)後は、イマーマが長男のイスマーイールに受け継がれたと考える者たちのグループと、その弟の[[ムーサー・カーズィム|ムーサー]]に受け継がれると考える者たちのグループなどに分かれた{{r|EI2-Imāma}}([[#イマーム派の分派]])。[[イスマーイール派]]は前者の流れに属し、[[十二イマーム派]]は後者の流れに属す{{r|EI2-Imāma}}。[[イマーマ]]が血縁によって世代を超えて受け継がれることや、[[イマーム]]の[[不可謬性]]といった独特のイマーム論がイマーム派により論じ始められた{{r|EI2-Imāma}}([[#イマーム論]])。 ==ラーフィダ== {{main|ラーフィダ}} ラーフィダ({{transl|ar|al-Rāfiḍa}}; 文字通りには「拒絶する者」「否認者」を意味する)はシーア派全体を指すことも多いが、狭義には、イマーム派の源流となったグループ {{lang|en|proto-Imāmiyya}} である{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。クーファにおける[[ザイド・ブン・アリー]]の蜂起(740年)に際し、一部の、最終的にザイドを拒絶したクーファのシーア派は、マディーナに住むジャアファル・サーディクに支持を鞍替えした{{r|EI2-Zaydiyya}}。「ラーフィダ」はザイド派によるイマーム派の他称であり、元来は侮蔑的な意味合いを持たされていた{{efn|ただし、これには諸説あり、ザイドを拒絶したためにラーフィダと呼ばれたというのは可能性のある一説に過ぎない{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。ザイドの蜂起の前からラーフィダの語が使用されていたことを示す資料もある{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。}}{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。 イマーム派はしかし、この他称をすぐにポジティブな意味への読み替えを行った{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。{{ill2|スライマーン・ブン・ミヒラーン・アァマシュ|en|Sulaiman al-Aʽmash}}が伝えるジャアファル・サーディクのハディースによると、ファラオを拒絶してモーセを選んだエジプトの民が神により「ラーフィダ」と呼ばれたことを、ジャアファルは指摘したという{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。すなわち侮蔑的な呼名「ラーフィダ」は、悪を拒絶する者たちと読み替えられた{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。 ==イマーム論== ラーフィダ思想はクーファに立ち現れ、8世紀(ヒジュラ暦2世紀)の終わりまでには[[ゴム (イラン)|ゴム]]にも飛び火した{{r|EI2-al-Rāfiḍa}}。 ==イマーム派の分派== 12世紀の分派学者[[アブー・ファトフ・ムハンマド・シャフラスターニー|シャフラスターニー]]によると、イマーム派の共同体は後年、さらに次の6派に分派したという{{r|al-Shahrastānī}}。 ;バーキリーヤとジャアファリーヤ:ムハンマド・バーキルとジャアファル・サーディクが不死であり、単に姿を隠しているにすぎないと信じたグループ{{r|al-Shahrastānī}}。 ;ナーウースィーヤ:ジャアファル・サーディクがまだ生きており、後日、[[マフディー]]として現れると信じたグループ{{r|al-Shahrastānī}}{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。 ;アフタヒーヤ:ジャアファル・サーディクの死没時に最も年長の男子{{ill2|アブドゥッラー・アフタフ|en|Abdullah al-Aftah}}を7番目のイマームとして支持したグループ{{r|al-Shahrastānī}}{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。アフタフは[[ムルジア派]]に傾倒したとされる。 ;シュマイティーヤ:ジャアファル・サーディクの四男ムハンマド・ディーバージにイマーマが受け継がれたとするヤヒヤー・イブン・アビー・シュマイトの説を支持したグループ{{r|al-Shahrastānī}}{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。 ;ムーサーウィーヤとムファッダリーヤ:ジャアファル・サーディクが亡くなったあとに、ムーサー・カーゼムにイマーマが渡ったと主張した者たち{{r|al-Shahrastānī}}。 ;イスマーイーリーヤ:ジャアファル・サーディクが亡くなったあとに、{{ill2|イスマーイール・ブン・ジャアファル|en|Isma'il ibn Ja'far|label=イスマーイール}}にイマーマが渡ったと主張した者たち{{r|al-Shahrastānī}}{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。彼らの主張によれば、イマーマはイスマーイールか、あるいはその息子のムハンマドの死とともに消滅したという{{r|al-Shahrastānī}}。 ;イスナーアシャリーヤ:{{main|十二イマーム派}}いわゆる「十二イマーム派」{{r|al-Shahrastānī}}。イスナーアシャリーヤは、イマーマがムーサー・カーゼムを経由してハサン・アスカリーまで継続していると信じた者たちの中から台頭したグループである{{r|al-Shahrastānī}}。ハサン・アスカリーが子供を残さず亡くなったとき、シーア派全体に大きな動揺が生じた。シャフラスターニーによると、イスナーアシャリーヤは、ハサン・アスカリーには幼い男子がいたが、殺害されることを恐れて、側近を除いて秘密にしていたと主張した{{r|al-Shahrastānī}}。その男子の名前はムハンマドといい、イマームとして待望される者である{{r|al-Shahrastānī}}。 上述のシャフラスターニーの伝えるイマーム派共同体の分派は、ジャアファル・サーディクの死没(765年)をきっかけにしている{{r|al-Shahrastānī}}{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。十二イマーム派の信条によると、ムーサー・カーゼムは少年の頃に父からイマーム職を受け継ぐ後継者としてナッス(指名)を受けていたとされる{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。しかしシャフラスターニーなどによると、ジャアファル・サーディクは長男のイスマーイールにナッスを授けていたようである{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。そのイスマーイールは父より先に、子を残さず亡くなった{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。さらに次男のアブドゥウラー・アフタフも父の亡くなった数週間後に亡くなった{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。ハサン裔のファーティマを母とするイスマーイールとアブドゥッラーの兄弟とは異なり、アンダルスの奴隷女を母とするムーサーの名前が歴史的資料に現れ始めるのは、ほぼこの後に限られる{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}。当時のシーア派共同体の指導的立場にあった思想家の中には、{{ill2|ヒシャーム・ブン・ハカム|en|Hisham ibn al-Hakam}}などムーサーのイマーマ継承を支持する者もいたが、支持するか否かの判断を保留した者もいる{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}{{r|EI2-Hishām b. al-Ḥakam}}。 シャフラスターニーの伝える「イスマーイーリーヤ」は、後年の「イスマーイーリーヤ」すなわち、いわゆる「[[イスマーイール派]]」([[ファーティマ朝]]系、[[カルマト派]]を問わず)とは、その主張するところがかなり異なり、『[[イスラーム百科事典]]第2版』などは {{lang|en|proto-Ismā‘īlī}}(原イスマーイール派)と呼んでいる{{r|EI2-Imāma}}{{r|EI2-Mūsā al-Kāẓim}}{{r|EI2-Hishām b. al-Ḥakam}}。 ==注釈== {{notelist}} == 出典 == {{reflist|30em|refs= <ref name="al-Muqaddima 3-25">Ibn Khaldūn, ''al-Muqaddima'', 3:25. </ref> <ref name="EI2-Imāma">{{EI2|title=Imāma |volume=3 |pages=1163-1169 |first=W. |last=Madelung }}</ref> <ref name="EI2-al-Rāfiḍa">{{EI2|title=al-Rāfiḍa |volume=8 |pages=386-389 |first=E. |last=Kohlberg }}</ref> <ref name="EI2-Zaydiyya">{{EI2|title=Zaydiyya |volume=11 |pages=477-481 |first=W. |last=Madelung }}</ref> <ref name="EI2-Mūsā al-Kāẓim">{{EI2|title=Mūsā al-Kāẓim |volume=7 |page=645-648 |first=E. |last=Kohlberg }}</ref> <ref name="EI2-Hishām b. al-Ḥakam">{{EI2|title=Hishām b. al-Ḥakam |volume=3 |pages=496-498 |first=W. |last=Madelung }}</ref> <ref name="al-Shahrastānī">Vgl. ''Abu-'l-Fath' Muhammad asch-Schahrastâni's Religionspartheien und Philosophen-Schulen.'' Zum ersten Male vollständig aus dem Arabischen übersetzt und mit erklärenden Anmerkungen versehen von Theodor Haarbrücker. Erster Theil. Schwetschke und Sohn, Halle 1850, S. 184–199, [https://archive.org/details/abulfathmuhamma00unkngoog/page/n209/mode/2up?view=theater hier online verfügbar].</ref> }} {{Islam-stub}} {{デフォルトソート:いまあむは}} [[Category:シーア派]]
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シーア派
シーア派(アラビア語: الشيعة、ラテン文字転写: ash-Shīʻa(h)、ペルシア語: شیعه、アゼルバイジャン語: Şiəlik)は、イスラム教の二大宗派の一つで、2番目の勢力を持つ。もう一方は最大勢力であるスンナ派(スンニ派)である。 7世紀のカリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。 シーア(شِيعَة)はアラビア語で「شيع」という動詞から派生する「追随者」「同行者」「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーヤ派の人々が、「アリー派」((شيعة علي、Shī‘ah ‘Alī)と呼ばれたことに由来している。後には、シーアに単に定冠詞を付したアッ=シーア(ash-Shīʻa)という語で同派を意味するようになり、宗派の名称として定着した。シーヤに属する人のことをシーイー(شيعي、Shīʻī)と言い、スンナ派信徒を意味する「スンナに従う人」(スンニー)に対応する。従って、日本語で、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは「派・派」となり、厳密に言えば同一語の繰り返しである。 シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%から20%を占めると推定される。2009年には、信徒数は約2億人と推定される。信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし〔レバノン内戦参照〕だが、人口の半数を超えていると言われる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またイエメン(45%)、パキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーン、アフガニスタン(ハザーラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。 シーア派内の宗派では、十二イマーム派はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。イスマーイール派(七イマーム派)はアフガニスタンなど各地に点在する。ザイド派(五イマーム派)はイエメンで主流である。 シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンナ派に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンナ派であった。ただし、現在のイラン、アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは16世紀にこの地を支配したサファヴィー朝が十二イマーム派を国教とした際、住民の多くがスンナ派から十二イマーム派に改宗し、そのまま根付いたためである。 21世紀初頭において、シーア派が政治的・人口的に圧倒的に優位に立っているのはイラン1国のみである。イランの人口の90%から95%がシーア派を信仰しているとされ、全世界のシーア派人口の内でも37%から40%とほぼ4割を占めているなど、イランはシーア派内において大きな地位を占めている。さらにイランの国制は1979年のイラン革命以降イスラム共和制をとっており、十二イマーム派を国教としている。シーア派の高位聖職者がイランの最高指導者として国家元首となっているため、シーア派の影響力は非常に強い。 イランに次いでシーア派の割合が高い国はイラク、アゼルバイジャン、バーレーンの3か国であり、それぞれ6割から7割の国民がシーア派を信仰している。イラクにおいてはナジャフやカルバラーといったシーア派聖地の存在する国土の南部にシーア派が集住している。ただし、イラクではシーア派は多数派であるにもかかわらず政治の主導権を長く握ってこなかった。イラク戦争によるバアス党政権崩壊後、民主選挙によって多数派であるシーア派が政権を握り、ヌーリー・マーリキーが首相に就任した。しかしマーリキー政権はシーア派偏重の政策を取ったため、スンナ派など他の宗派との関係が悪化した。 バーレーンにおいては首長家および支配層はスンナ派であり、一般大衆の大半を占めるシーア派との間で対立が起きている。シーア派はスンナ派に比べ就職や収入などにおいて不利な条件に置かれており、このため1990年代には暴動が多発した。2002年にバーレーンで議会が再設置されシーア派にも議会参加への道が開かれるとこの対立は一時沈静化したものの、バーレーンの王権はいまだ強く、格差などにも改善の動きが見られないことから不満は蓄積していき、2011年のアラブの春においてはシーア派が中心となって2011年バーレーン騒乱が勃発し、警察と衝突して死者を出す事態となった。 レバノンでは政治的理由から統計はないものの、シーア派はキリスト教マロン派およびイスラム教スンニ派とともに一大勢力となっており、ヒズボラという政治・武装組織を有している。レバノン内戦以前は国会の全99議席中19議席、内戦後の1992年からは128議席中27議席がシーア派に割り当てられていた。また、シーア派からは国会議長が選出されるのが慣例となっている。 サウジアラビアは厳格なスンナ派(ワッハーブ派)が主導権を握る国であるが、ペルシャ湾岸にある東部州のアルハサ地方を中心に大きなシーア派のコミュニティが存在する。ワッハーブ派はシーア派を敵視する政策を伝統的に続けており、このためサウジアラビアのシーア派には不満がたまったままの状態が続いている。1979年にはイラン革命の影響を受けて東部州のカティーフでアーシューラーの際に暴動が起きた。その後、徐々にサウジアラビア政府はシーア派に宥和姿勢を見せるようになり、2003年にはシーア派に対する差別の撤廃を訴える建白書が皇太子に渡されている。 イエメンにおいては人口の40%ほどがシーア派であるとされているが、このほとんどはザイド派に属する。イエメンのザイド派は、同派のイマームが897年にイエメンに本拠を置いて以降、歴史的にこの地域を長く支配してきており、1918年にはイマームによってイエメン王国が同国の北部を領域として成立した。この王国は1962年に打倒されてイエメン・アラブ共和国となるものの、以後もイエメン北部においてザイド派は強い影響力を保持し続けた。2011年イエメン騒乱後の混乱に乗じて最北部のサアダ県に成立したザイド派の武装組織であるフーシは2014年に首都サナアへと侵攻し、2015年2月にはクーデターを起こしてハーディー暫定大統領を追放して権力を握った。2016年にはフーシはイエメン北部(旧北イエメン)の大部分を掌握し、南部(旧南イエメン)を支配するハーディー暫定大統領派と対峙する状況となっている。 シリアにおいてシーア派は13%ほどを占めるとされるが、その大部分を占めるのはアラウィー派である。ただしアラウィー派はシーア派主流派と比べてもかなり教義に差があり、一部ではシーア派とみなされない場合がある。アラウィー派の多くはシリアの海岸地方、特にラタキア県に集中しており、フランス委任統治領シリア時代にはこの地域はアラウィー派を中心とするラタキア国という自治地域となっていた。シリアが独立するとその実権は多数派のスンニ派が握り、アラウィー派は不利な立場に追い込まれたが、1970年にアラウィー派の軍人であるハーフィズ・アル=アサドが権力を握るとアラウィー派は優遇されるようになった。2000年にハーフィズが死去し次男のバッシャール・アル=アサドが政権を継いだのちもこの構図は継続したが、支配されている多数派のスンナ派の不満は高まり、2011年にシリア内戦が勃発する要因となった。シリア内戦においては勢力図はめまぐるしく変動を続けているものの、ラタキア県を中心とするシーア派地域のほとんどはアサド政権に忠誠を尽くしており、シリア政府の強固な地盤となっている。 イランはイスラム革命後、レバノンでヒズボラの設立(1982年)を支援するなど、国外のシーア派勢力の拡大を後押ししている。イラク内戦ではシーア民兵を、シリア内戦ではアサド政権を援助し、地中海東岸に達する「シーア派の三日月地帯」を形成した。こうした援助には、資金や武器の提供のほか、イスラム革命防衛隊などのイラン人、さらにアフガニスタンやパキスタン出身のシーア派を含む兵員の派遣も含まれる。イエメン内戦でのフーシ支援も含めて、イランは外国で「4つの首都(ベイルート、ダマスカス、バクダード、サナア)を支配している」(マイケル・ヘイデン米CIA元長官)状況になっている。レバノンに至るイランの勢力圏に対しては「シーア派の弧」という呼称もあり、これを南のイエメンへ広げて捉える見方もある。 以下の表は、ピュー研究所による2009年10月の『Mapping the Global Muslim Population』という人口統計調査に基づいている。 アリーとその子孫のみが指導者(イマーム)としてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンナ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンナ派とは異なる教義を発展させていった。 歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマーム(特にアリーとフサイン)を襲った悲劇の追体験(アーシューラー)、イマームは神によって隠されており(ガイバ)、やがてはマフディー(救世主)となって再臨するという終末論的な一種のメシア信仰は、シーア派を特徴付けるものである。このガイバは初期のシーア派の一派であるカイサーン派によってはじめて唱えられ、カイサーン派が分裂・消滅した後もシーア派の多くの派に取り入れられた。ただし、ザイド派等これらを否定する分派も存在する。 スンナ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンナ派に比べ一般に広く行われている。 スンナやハディースに対しても、ムハンマドのみならず歴代イマームの行為も範例として採用しており、逆にアブー=ターリブに批判的な真正(サヒーフ)ハディースを捏造と解釈するなど、スンナ派とは大きな乖離が見られる。 イランにおいては、第3代イマームのフサインはサーサーン朝王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア帝国の血を受け継いでいるという伝承があり、ペルシア人の民族宗教としての側面もある。 なお、スンナ派が六信五行であるのに対し、シーア派は五信十行である。 シーア派では、法的判断の基準として、クルアーン、預言者とイマームの伝承、イジュマー(共同体全体の総意)に加えて、理性の動き(アクル)を重視することで知られる。この点で、第6代イマーム・ジャアファル・サーディクは、イスラーム世界で哲学的学派 (理性的学派)を最初に樹立した人物であるといわれる。 理性は知識を獲得する信頼にたる源であり、啓示と完全に調和している。伝承によれば、神には二つの証明(ホッジャ)があり、これを通じて人間は神の意志を知る。すなわち、内的なものは理性であり、外的なものは預言者である。時に、理性は「内的な預言者」、預言者は「外的な理性」と呼ばれる。シーア派の法学者の間では、理性に打ち立てられたいかなる判断であっても、それは宗教(法)によって打ち立てられたものに等しいと考えられている。イスラームの法学でよく知られるように、道徳的、法的責任を果たす条件は、健全な理性を保持していることであって、これを保持しない者(狂人や未成年者等)は、代理人を必要とする。狂人は自らの行為について責任をもたない、とみなされているのである。 クルアーンによれば、全ての人間は自らの理性的機能を行使することが要請されており、その結果、神の徴や宇宙的交信について思いをいたすことができる、と考えられている。したがって、古の賢者たちを盲目的に模倣すること(タクリード)は非難されるべきことであり、不信者の徴とされる。 一般に、理性は宗教的研究に役立つと考えられている。 これに対して啓示は、既に理性によって知られていることの確認、理性によって未だ知られていない新しいテーマを導入すること、さらに宗教的賞罰のシステムを通じて、承認を与える、という三つの機能があるとされる。すなわち、啓示と理性は不即不離、相互補完の関係にあり、一方だけでは成り立たない、という立場である。神は預言者を通じて何かを行うことを人々に告げることで、人々を誤って導いたり、また逆に、神から与えられた理性を用いて真理とは逆の方向に向かうことは考えられない、という信念が背後にある。 全てのムスリムの聖地であるマッカ、マディーナ、エルサレム(アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマームの霊廟のある都市も聖地とする。とくに重視されるのはイラクのナジャフにある初代アリーの霊廟と、カルバラーにある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟があるカーズィマイン(バグダード近郊)と、第10代および第11代の霊廟があるサーマッラーを加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の巡礼が詰め掛ける。また、イランのマシュハドには第8代アリー・リダーの霊廟(イマーム・レザー廟)があり、ここも聖地となっている。このほか、イランのゴムにあるアリー・リダーの妹ファーティマ・ビン・ムーサーの霊廟もイラン国内で尊崇を集め、イランではマシュハドに次ぐ聖地となっている。 霊廟4都市はまたシーア派の学問の中心でもあった。イル・ハン国時代にはイラクのヒッラが、その後19世紀中盤まではカルバラーが学問の中心地であったが、1843年にオスマン帝国がカルバラーを制圧したため、そこから逃れたウラマーたちがナジャフに集結し、20世紀前半まではナジャフがシーア派教学の中心となっていた。しかしその後、イラクの独立や社会情勢の変化によってナジャフは衰退し、代わってイランのゴム(コム)に1921年に創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院などの活動によって、ゴムがシーア派教学の中心地となっていった。 ムハンマドの死後、彼の血を引くアリーを後継者に推す声も上がったが、実際にカリフの地位についたのはアブー・バクルであった。以後ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーンと継承されていったが、ウスマーンの死後アリーが後継者に指名され、656年に第4代正統カリフとなった。しかし、ウスマーンが属していたウマイヤ家のムアーウィヤがこれに反対し、激しい抗争の末アリーは661年にハワーリジュ派の刺客に暗殺され、ムアーウィヤはカリフの地位についてウマイヤ朝を開いた。アリーの子ハサン・イブン・アリーはムアーウィヤと和平を結んだものの、669年にハサンが死亡し、680年にムアーウィヤも死亡すると、ハサンの跡を継いだ弟のフサインがクーファのシーア派の招きを受け、ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世に対して叛旗を翻した。しかしクーファはヤズィード軍によって制圧され、フサインは680年にカルバラーの戦いによって殺された。これによってシーア派は政治勢力として完全に力を失い、またスンニ派と決定的に決別することとなった。 フサインの死後もアリーの子孫たちはイマームに就任し続けたものの、やがて誰をイマームとみなすかによってシーア派内でも分派が繰り返されるようになっていった。主流派はフサインの子であるアリー・ザイヌルアービディーンを第4代イマームとして認めたが、これに反対してフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・ハナフィーヤをイマームとする一派が分派した。シーア派最初の分派であるカイサーン派である。この派は685年に指導者ムフタールのもとでムハンマド・イブン・ハナフィーヤを推戴してクーファで決起し、ムフタールの乱を起こした。この乱でカイサーン派は一時イラクの大部分を支配したものの、687年にクーファが陥落して乱は終結し、さらに700年にムハンマド・イブン・ハナフィーヤが死ぬと、イマームは神によって隠されたとする一派とムハンマドの遺児をイマームとする一派に分裂し、その後も分裂を続けて8世紀には消滅した。しかしこの派の提唱したイマームは神によって隠されたという概念はガイバとしてシーア派諸派に取り入れられ、シーア派を特徴づける概念の一つとなった。 アリー・ザイヌルアービディーンを推戴した一派も、713年に彼が死ぬと再び分裂することとなった。主流派はムハンマド・バーキルを第5代イマームとしたが、その弟であるザイド・イブン・アリーをイマームとする一派が分派し、ザイド派を形成した。ザイド派は21世紀においても有力な宗派として存続している。主流派においてはムハンマド・バーキルが743年に死ぬとその子であるジャアファル・サーディクが第6代イマームとなるが、彼が765年に没すると再び分派騒動が起きた。主流派はジャアファル・サーディクの子であるムーサー・カーズィムをイマームと認めたが、ムーサー・カーズィムの兄であるイスマーイール・イブン・ジャアファルを支持する者たちが分派したのである。この派閥はイスマーイール派と呼ばれ、この後も分派を繰り返しつつニザール派やホージャー派などの宗派を生んだ。ムーサー・カーズィム派はこの後も存続し、8代アリー・リダー(エマーム・レザー、799年 - 818年)、9代ムハンマド・タキー(818年 - 835年)、10代アリー・ハーディー(835年 - 868年)、11代ハサン・アスカリー(868年 - 874年)と続いていくが、ハサン・アスカリーが死去し、その子であるとされるムハンマド・ムンタザルが「神によって隠される」とこの派のイマームもガイバの状態となり、十二イマーム派となった。 ウマイヤ朝の滅亡後、8世紀に成立したイドリース朝は初のシーア派イスラム王朝とされるが、シーア派的要素は少なかった。その後、9世紀にアラヴィー朝が成立し、10世紀にはチュニジア(後にエジプトに移動)にファーティマ朝、イラン高原にブワイフ朝が成立するなど、いくつかのシーア派王朝が建国されたものの、こうしたシーア派王朝のほとんどは上層部のみがシーア派信徒によって占められ、一般市民のほとんどはスンニ派を信仰していた。こうした状況が大きく変動するのは、16世紀初頭にタブリーズでイスマーイール1世によって建国されたサファヴィー朝の時代からである。サファヴィー朝は急進派のシーア派教団であるサファヴィー教団によって建国された国家であり、それまでのシーア派王朝と異なり支配下の民衆にシーア派への改宗を強要した。またイスマーイール1世はレバノンからシーア派のウラマーを招いて教義面での整備を行い、晩年にはサファヴィー朝の宗教観をかなり穏健化させたこともあり、支配下の地域においてはシーア派信仰が徐々に庶民にも広がっていった。こうしたことからサファヴィー朝の版図であったイランにおいてはシーア派の住民が圧倒的多数を占めるようになり、これはその後イラン高原に勃興したガージャール朝やパフラヴィー朝などの諸王朝でも変わらなかったため、イランはシーア派信仰の一大中心地となった。しかしパフラヴィー朝第2代のモハンマド・レザー・パフラヴィーは白色革命と呼ばれる急速な上からの近代化政策を行い、それに反対する保守派のルーホッラー・ホメイニーなどのイスラム法学者を弾圧した。モハンマド・レザーの権威主義的な政策は国内での強い反発を受けるようになり、その反対派の結集の核となったのが保守派イスラム法学者たちであった。1979年2月にイラン革命が起き、モハンマド・レザーが国外に脱出すると、帰国したホメイニーは最高指導者(国家元首)に就任し、イスラム共和制と呼ばれるシーア派法学者が国家を指導する体制を完成させた。ただしこのイスラム政府の成立とそれによるシーア派の政治化は周辺諸国の態度を硬化させ、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争をはじめとするイランと周辺アラブ諸国との対立を引き起こすこととなった。 シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派などがある。十二イマーム派はイランやイラク、レバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。図の通り、シーア派諸派が共通してイマームと認めるのはアリーのみである。 シーア派の多数派である十二イマーム派は、その名のとおり初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人をイマームとする派である。874年に12代イマームが人々の前から姿を消し、ガイバ(隠れ)と呼ばれる状態となったが、その後もイマームは隠れたまま存在しており、最後の審判の日に再臨すると考えられている。なお、874年から940年までは12代イマームの代理人が指名され続け、イマームと信者との接点はわずかながら残っていたものの、940年に4代目の代理人が後継者を残さず死亡したため、以後はイマームとの接点を完全になくすこととなった。このため、十二イマーム派では874年から940年までをガイバトゥル・スグラー(小ガイバ、小幽隠)、940年以降をガイバトゥル・クブラー(大ガイバ、大幽隠)と呼ぶ。 イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派でもガイバの観念はあるが、各分派によってその対象者は異なる。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインド・パキスタンのホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。 ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。他の有力諸派と異なり、ザイド派はガイバ説を採用していない。 シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義を持つに至った分派も存在する。系統不明のアラウィー派やイスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。バーブ教(バーブ派)やバハイ教(バハーイー派)は既にイスラムから完全に分離したとされている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "シーア派(アラビア語: الشيعة、ラテン文字転写: ash-Shīʻa(h)、ペルシア語: شیعه、アゼルバイジャン語: Şiəlik)は、イスラム教の二大宗派の一つで、2番目の勢力を持つ。もう一方は最大勢力であるスンナ派(スンニ派)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "7世紀のカリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "シーア(شِيعَة)はアラビア語で「شيع」という動詞から派生する「追随者」「同行者」「党派」を意味する普通名詞で、初期のシーヤ派の人々が、「アリー派」((شيعة علي、Shī‘ah ‘Alī)と呼ばれたことに由来している。後には、シーアに単に定冠詞を付したアッ=シーア(ash-Shīʻa)という語で同派を意味するようになり、宗派の名称として定着した。シーヤに属する人のことをシーイー(شيعي、Shīʻī)と言い、スンナ派信徒を意味する「スンナに従う人」(スンニー)に対応する。従って、日本語で、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは「派・派」となり、厳密に言えば同一語の繰り返しである。", "title": "「シーア」とは" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "シーア派の信者はイスラム教徒全体の10%から20%を占めると推定される。2009年には、信徒数は約2億人と推定される。信徒は世界中に分布するが、イラン、イラク(国内のムスリムは全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、レバノン(政治的理由から公式資料なし〔レバノン内戦参照〕だが、人口の半数を超えていると言われる)、アゼルバイジャン(85%)では特にシーア派住民が多い。またイエメン(45%)、パキスタン(20%)、サウジアラビアの東部(10%)、バーレーン(70%)、オマーン、アフガニスタン(ハザーラ人など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "シーア派内の宗派では、十二イマーム派はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。イスマーイール派(七イマーム派)はアフガニスタンなど各地に点在する。ザイド派(五イマーム派)はイエメンで主流である。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンナ派に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンナ派であった。ただし、現在のイラン、アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは16世紀にこの地を支配したサファヴィー朝が十二イマーム派を国教とした際、住民の多くがスンナ派から十二イマーム派に改宗し、そのまま根付いたためである。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "21世紀初頭において、シーア派が政治的・人口的に圧倒的に優位に立っているのはイラン1国のみである。イランの人口の90%から95%がシーア派を信仰しているとされ、全世界のシーア派人口の内でも37%から40%とほぼ4割を占めているなど、イランはシーア派内において大きな地位を占めている。さらにイランの国制は1979年のイラン革命以降イスラム共和制をとっており、十二イマーム派を国教としている。シーア派の高位聖職者がイランの最高指導者として国家元首となっているため、シーア派の影響力は非常に強い。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "イランに次いでシーア派の割合が高い国はイラク、アゼルバイジャン、バーレーンの3か国であり、それぞれ6割から7割の国民がシーア派を信仰している。イラクにおいてはナジャフやカルバラーといったシーア派聖地の存在する国土の南部にシーア派が集住している。ただし、イラクではシーア派は多数派であるにもかかわらず政治の主導権を長く握ってこなかった。イラク戦争によるバアス党政権崩壊後、民主選挙によって多数派であるシーア派が政権を握り、ヌーリー・マーリキーが首相に就任した。しかしマーリキー政権はシーア派偏重の政策を取ったため、スンナ派など他の宗派との関係が悪化した。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "バーレーンにおいては首長家および支配層はスンナ派であり、一般大衆の大半を占めるシーア派との間で対立が起きている。シーア派はスンナ派に比べ就職や収入などにおいて不利な条件に置かれており、このため1990年代には暴動が多発した。2002年にバーレーンで議会が再設置されシーア派にも議会参加への道が開かれるとこの対立は一時沈静化したものの、バーレーンの王権はいまだ強く、格差などにも改善の動きが見られないことから不満は蓄積していき、2011年のアラブの春においてはシーア派が中心となって2011年バーレーン騒乱が勃発し、警察と衝突して死者を出す事態となった。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "レバノンでは政治的理由から統計はないものの、シーア派はキリスト教マロン派およびイスラム教スンニ派とともに一大勢力となっており、ヒズボラという政治・武装組織を有している。レバノン内戦以前は国会の全99議席中19議席、内戦後の1992年からは128議席中27議席がシーア派に割り当てられていた。また、シーア派からは国会議長が選出されるのが慣例となっている。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "サウジアラビアは厳格なスンナ派(ワッハーブ派)が主導権を握る国であるが、ペルシャ湾岸にある東部州のアルハサ地方を中心に大きなシーア派のコミュニティが存在する。ワッハーブ派はシーア派を敵視する政策を伝統的に続けており、このためサウジアラビアのシーア派には不満がたまったままの状態が続いている。1979年にはイラン革命の影響を受けて東部州のカティーフでアーシューラーの際に暴動が起きた。その後、徐々にサウジアラビア政府はシーア派に宥和姿勢を見せるようになり、2003年にはシーア派に対する差別の撤廃を訴える建白書が皇太子に渡されている。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "イエメンにおいては人口の40%ほどがシーア派であるとされているが、このほとんどはザイド派に属する。イエメンのザイド派は、同派のイマームが897年にイエメンに本拠を置いて以降、歴史的にこの地域を長く支配してきており、1918年にはイマームによってイエメン王国が同国の北部を領域として成立した。この王国は1962年に打倒されてイエメン・アラブ共和国となるものの、以後もイエメン北部においてザイド派は強い影響力を保持し続けた。2011年イエメン騒乱後の混乱に乗じて最北部のサアダ県に成立したザイド派の武装組織であるフーシは2014年に首都サナアへと侵攻し、2015年2月にはクーデターを起こしてハーディー暫定大統領を追放して権力を握った。2016年にはフーシはイエメン北部(旧北イエメン)の大部分を掌握し、南部(旧南イエメン)を支配するハーディー暫定大統領派と対峙する状況となっている。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "シリアにおいてシーア派は13%ほどを占めるとされるが、その大部分を占めるのはアラウィー派である。ただしアラウィー派はシーア派主流派と比べてもかなり教義に差があり、一部ではシーア派とみなされない場合がある。アラウィー派の多くはシリアの海岸地方、特にラタキア県に集中しており、フランス委任統治領シリア時代にはこの地域はアラウィー派を中心とするラタキア国という自治地域となっていた。シリアが独立するとその実権は多数派のスンニ派が握り、アラウィー派は不利な立場に追い込まれたが、1970年にアラウィー派の軍人であるハーフィズ・アル=アサドが権力を握るとアラウィー派は優遇されるようになった。2000年にハーフィズが死去し次男のバッシャール・アル=アサドが政権を継いだのちもこの構図は継続したが、支配されている多数派のスンナ派の不満は高まり、2011年にシリア内戦が勃発する要因となった。シリア内戦においては勢力図はめまぐるしく変動を続けているものの、ラタキア県を中心とするシーア派地域のほとんどはアサド政権に忠誠を尽くしており、シリア政府の強固な地盤となっている。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "イランはイスラム革命後、レバノンでヒズボラの設立(1982年)を支援するなど、国外のシーア派勢力の拡大を後押ししている。イラク内戦ではシーア民兵を、シリア内戦ではアサド政権を援助し、地中海東岸に達する「シーア派の三日月地帯」を形成した。こうした援助には、資金や武器の提供のほか、イスラム革命防衛隊などのイラン人、さらにアフガニスタンやパキスタン出身のシーア派を含む兵員の派遣も含まれる。イエメン内戦でのフーシ支援も含めて、イランは外国で「4つの首都(ベイルート、ダマスカス、バクダード、サナア)を支配している」(マイケル・ヘイデン米CIA元長官)状況になっている。レバノンに至るイランの勢力圏に対しては「シーア派の弧」という呼称もあり、これを南のイエメンへ広げて捉える見方もある。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "以下の表は、ピュー研究所による2009年10月の『Mapping the Global Muslim Population』という人口統計調査に基づいている。", "title": "信徒分布" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アリーとその子孫のみが指導者(イマーム)としてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンナ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンナ派とは異なる教義を発展させていった。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマーム(特にアリーとフサイン)を襲った悲劇の追体験(アーシューラー)、イマームは神によって隠されており(ガイバ)、やがてはマフディー(救世主)となって再臨するという終末論的な一種のメシア信仰は、シーア派を特徴付けるものである。このガイバは初期のシーア派の一派であるカイサーン派によってはじめて唱えられ、カイサーン派が分裂・消滅した後もシーア派の多くの派に取り入れられた。ただし、ザイド派等これらを否定する分派も存在する。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "スンナ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンナ派に比べ一般に広く行われている。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "スンナやハディースに対しても、ムハンマドのみならず歴代イマームの行為も範例として採用しており、逆にアブー=ターリブに批判的な真正(サヒーフ)ハディースを捏造と解釈するなど、スンナ派とは大きな乖離が見られる。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イランにおいては、第3代イマームのフサインはサーサーン朝王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームはペルシア帝国の血を受け継いでいるという伝承があり、ペルシア人の民族宗教としての側面もある。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、スンナ派が六信五行であるのに対し、シーア派は五信十行である。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "シーア派では、法的判断の基準として、クルアーン、預言者とイマームの伝承、イジュマー(共同体全体の総意)に加えて、理性の動き(アクル)を重視することで知られる。この点で、第6代イマーム・ジャアファル・サーディクは、イスラーム世界で哲学的学派 (理性的学派)を最初に樹立した人物であるといわれる。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "理性は知識を獲得する信頼にたる源であり、啓示と完全に調和している。伝承によれば、神には二つの証明(ホッジャ)があり、これを通じて人間は神の意志を知る。すなわち、内的なものは理性であり、外的なものは預言者である。時に、理性は「内的な預言者」、預言者は「外的な理性」と呼ばれる。シーア派の法学者の間では、理性に打ち立てられたいかなる判断であっても、それは宗教(法)によって打ち立てられたものに等しいと考えられている。イスラームの法学でよく知られるように、道徳的、法的責任を果たす条件は、健全な理性を保持していることであって、これを保持しない者(狂人や未成年者等)は、代理人を必要とする。狂人は自らの行為について責任をもたない、とみなされているのである。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "クルアーンによれば、全ての人間は自らの理性的機能を行使することが要請されており、その結果、神の徴や宇宙的交信について思いをいたすことができる、と考えられている。したがって、古の賢者たちを盲目的に模倣すること(タクリード)は非難されるべきことであり、不信者の徴とされる。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一般に、理性は宗教的研究に役立つと考えられている。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "これに対して啓示は、既に理性によって知られていることの確認、理性によって未だ知られていない新しいテーマを導入すること、さらに宗教的賞罰のシステムを通じて、承認を与える、という三つの機能があるとされる。すなわち、啓示と理性は不即不離、相互補完の関係にあり、一方だけでは成り立たない、という立場である。神は預言者を通じて何かを行うことを人々に告げることで、人々を誤って導いたり、また逆に、神から与えられた理性を用いて真理とは逆の方向に向かうことは考えられない、という信念が背後にある。", "title": "教義" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "全てのムスリムの聖地であるマッカ、マディーナ、エルサレム(アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマームの霊廟のある都市も聖地とする。とくに重視されるのはイラクのナジャフにある初代アリーの霊廟と、カルバラーにある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟があるカーズィマイン(バグダード近郊)と、第10代および第11代の霊廟があるサーマッラーを加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の巡礼が詰め掛ける。また、イランのマシュハドには第8代アリー・リダーの霊廟(イマーム・レザー廟)があり、ここも聖地となっている。このほか、イランのゴムにあるアリー・リダーの妹ファーティマ・ビン・ムーサーの霊廟もイラン国内で尊崇を集め、イランではマシュハドに次ぐ聖地となっている。", "title": "聖地" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "霊廟4都市はまたシーア派の学問の中心でもあった。イル・ハン国時代にはイラクのヒッラが、その後19世紀中盤まではカルバラーが学問の中心地であったが、1843年にオスマン帝国がカルバラーを制圧したため、そこから逃れたウラマーたちがナジャフに集結し、20世紀前半まではナジャフがシーア派教学の中心となっていた。しかしその後、イラクの独立や社会情勢の変化によってナジャフは衰退し、代わってイランのゴム(コム)に1921年に創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院などの活動によって、ゴムがシーア派教学の中心地となっていった。", "title": "聖地" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ムハンマドの死後、彼の血を引くアリーを後継者に推す声も上がったが、実際にカリフの地位についたのはアブー・バクルであった。以後ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーンと継承されていったが、ウスマーンの死後アリーが後継者に指名され、656年に第4代正統カリフとなった。しかし、ウスマーンが属していたウマイヤ家のムアーウィヤがこれに反対し、激しい抗争の末アリーは661年にハワーリジュ派の刺客に暗殺され、ムアーウィヤはカリフの地位についてウマイヤ朝を開いた。アリーの子ハサン・イブン・アリーはムアーウィヤと和平を結んだものの、669年にハサンが死亡し、680年にムアーウィヤも死亡すると、ハサンの跡を継いだ弟のフサインがクーファのシーア派の招きを受け、ウマイヤ朝第2代カリフのヤズィード1世に対して叛旗を翻した。しかしクーファはヤズィード軍によって制圧され、フサインは680年にカルバラーの戦いによって殺された。これによってシーア派は政治勢力として完全に力を失い、またスンニ派と決定的に決別することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "フサインの死後もアリーの子孫たちはイマームに就任し続けたものの、やがて誰をイマームとみなすかによってシーア派内でも分派が繰り返されるようになっていった。主流派はフサインの子であるアリー・ザイヌルアービディーンを第4代イマームとして認めたが、これに反対してフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・ハナフィーヤをイマームとする一派が分派した。シーア派最初の分派であるカイサーン派である。この派は685年に指導者ムフタールのもとでムハンマド・イブン・ハナフィーヤを推戴してクーファで決起し、ムフタールの乱を起こした。この乱でカイサーン派は一時イラクの大部分を支配したものの、687年にクーファが陥落して乱は終結し、さらに700年にムハンマド・イブン・ハナフィーヤが死ぬと、イマームは神によって隠されたとする一派とムハンマドの遺児をイマームとする一派に分裂し、その後も分裂を続けて8世紀には消滅した。しかしこの派の提唱したイマームは神によって隠されたという概念はガイバとしてシーア派諸派に取り入れられ、シーア派を特徴づける概念の一つとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アリー・ザイヌルアービディーンを推戴した一派も、713年に彼が死ぬと再び分裂することとなった。主流派はムハンマド・バーキルを第5代イマームとしたが、その弟であるザイド・イブン・アリーをイマームとする一派が分派し、ザイド派を形成した。ザイド派は21世紀においても有力な宗派として存続している。主流派においてはムハンマド・バーキルが743年に死ぬとその子であるジャアファル・サーディクが第6代イマームとなるが、彼が765年に没すると再び分派騒動が起きた。主流派はジャアファル・サーディクの子であるムーサー・カーズィムをイマームと認めたが、ムーサー・カーズィムの兄であるイスマーイール・イブン・ジャアファルを支持する者たちが分派したのである。この派閥はイスマーイール派と呼ばれ、この後も分派を繰り返しつつニザール派やホージャー派などの宗派を生んだ。ムーサー・カーズィム派はこの後も存続し、8代アリー・リダー(エマーム・レザー、799年 - 818年)、9代ムハンマド・タキー(818年 - 835年)、10代アリー・ハーディー(835年 - 868年)、11代ハサン・アスカリー(868年 - 874年)と続いていくが、ハサン・アスカリーが死去し、その子であるとされるムハンマド・ムンタザルが「神によって隠される」とこの派のイマームもガイバの状態となり、十二イマーム派となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ウマイヤ朝の滅亡後、8世紀に成立したイドリース朝は初のシーア派イスラム王朝とされるが、シーア派的要素は少なかった。その後、9世紀にアラヴィー朝が成立し、10世紀にはチュニジア(後にエジプトに移動)にファーティマ朝、イラン高原にブワイフ朝が成立するなど、いくつかのシーア派王朝が建国されたものの、こうしたシーア派王朝のほとんどは上層部のみがシーア派信徒によって占められ、一般市民のほとんどはスンニ派を信仰していた。こうした状況が大きく変動するのは、16世紀初頭にタブリーズでイスマーイール1世によって建国されたサファヴィー朝の時代からである。サファヴィー朝は急進派のシーア派教団であるサファヴィー教団によって建国された国家であり、それまでのシーア派王朝と異なり支配下の民衆にシーア派への改宗を強要した。またイスマーイール1世はレバノンからシーア派のウラマーを招いて教義面での整備を行い、晩年にはサファヴィー朝の宗教観をかなり穏健化させたこともあり、支配下の地域においてはシーア派信仰が徐々に庶民にも広がっていった。こうしたことからサファヴィー朝の版図であったイランにおいてはシーア派の住民が圧倒的多数を占めるようになり、これはその後イラン高原に勃興したガージャール朝やパフラヴィー朝などの諸王朝でも変わらなかったため、イランはシーア派信仰の一大中心地となった。しかしパフラヴィー朝第2代のモハンマド・レザー・パフラヴィーは白色革命と呼ばれる急速な上からの近代化政策を行い、それに反対する保守派のルーホッラー・ホメイニーなどのイスラム法学者を弾圧した。モハンマド・レザーの権威主義的な政策は国内での強い反発を受けるようになり、その反対派の結集の核となったのが保守派イスラム法学者たちであった。1979年2月にイラン革命が起き、モハンマド・レザーが国外に脱出すると、帰国したホメイニーは最高指導者(国家元首)に就任し、イスラム共和制と呼ばれるシーア派法学者が国家を指導する体制を完成させた。ただしこのイスラム政府の成立とそれによるシーア派の政治化は周辺諸国の態度を硬化させ、1980年から1988年までのイラン・イラク戦争をはじめとするイランと周辺アラブ諸国との対立を引き起こすこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、十二イマーム派、イスマーイール派、ザイド派などがある。十二イマーム派はイランやイラク、レバノンなどに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。図の通り、シーア派諸派が共通してイマームと認めるのはアリーのみである。", "title": "分派" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "シーア派の多数派である十二イマーム派は、その名のとおり初代アリーから12代ムハンマド・ムンタザルまでの12人をイマームとする派である。874年に12代イマームが人々の前から姿を消し、ガイバ(隠れ)と呼ばれる状態となったが、その後もイマームは隠れたまま存在しており、最後の審判の日に再臨すると考えられている。なお、874年から940年までは12代イマームの代理人が指名され続け、イマームと信者との接点はわずかながら残っていたものの、940年に4代目の代理人が後継者を残さず死亡したため、以後はイマームとの接点を完全になくすこととなった。このため、十二イマーム派では874年から940年までをガイバトゥル・スグラー(小ガイバ、小幽隠)、940年以降をガイバトゥル・クブラー(大ガイバ、大幽隠)と呼ぶ。", "title": "分派" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "イスマーイール派は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派でもガイバの観念はあるが、各分派によってその対象者は異なる。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強いインド・パキスタンのホージャー派は、イスマーイール派の諸派のうち12世紀にイマーム制度の復活を宣言したニザール派の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。", "title": "分派" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ザイド派は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、イエメンに勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。他の有力諸派と異なり、ザイド派はガイバ説を採用していない。", "title": "分派" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "シーア派の中にはスンナ派に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義を持つに至った分派も存在する。系統不明のアラウィー派やイスマーイール派の流れを汲むドゥルーズ派などは、しばしば他のムスリム(イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。バーブ教(バーブ派)やバハイ教(バハーイー派)は既にイスラムから完全に分離したとされている。", "title": "分派" } ]
シーア派は、イスラム教の二大宗派の一つで、2番目の勢力を持つ。もう一方は最大勢力であるスンナ派(スンニ派)である。 7世紀のカリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。
{{Multiple image | align = right | direction = vertical | width = 500 | image1 = Islam by country.svg | width1 = | alt1 = | caption1 = 国ごとのイスラム教の分布([[緑色]]系は[[スンナ派]]、[[赤褐色]]系は'''シーア派'''、[[青紫色]]は[[イバード派]]) | image2 = Madhhab_Map3.png | width2 = | alt2 = | caption2 = さらなる分布}} {{シーア派}} {{Islam}} '''シーア派'''({{Rtl翻字併記|ar|الشيعة|ash-Shīʻa(h)|区=、}}、{{lang-fa|شیعه}}、{{lang-az|Şiəlik}})は、[[イスラム教]]の二大宗派の一つで、2番目の勢力を持つ。もう一方は最大勢力である[[スンナ派]](スンニ派)である。 [[7世紀]]の[[カリフ]]であった[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]<ref group="注釈">アリーの父[[アブー・ターリブ]]と[[イスラム教]]の開祖[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の父とは兄弟で、すなわちアリーとムハンマドは従兄弟どうしである。アリーの母もムハンマドの父方の伯叔母にあたる。またアリーはムハンマドの養子でもあり、さらにアリーの妻はムハマンドの末娘である。</ref>とその子孫のみが、[[預言者]]の代理たる資格を持ち、「[[ウンマ (イスラム)|イスラム共同体(ウンマ)]])」の「[[イマーム|指導者(イマーム)]]」の職務を後継する権利を持つと主張する。 == 「シーア」とは == シーア(شِيعَة)は[[アラビア語]]で「شيع」という[[動詞]]から派生する「追随者」「同行者」「党派」を意味する[[普通名詞]]で<ref name="wehr-498">{{cite web|last1=Wehr|first1=Hans|title=Dictionary of Modern Written Arabic|url=https://archive.org/details/Dict_Wehr.pdf/page/n515|website=Archive.org|access-date=31 July 2019|page=498}}</ref>、初期のシーヤ派の人々が、「アリー派」(({{Lang|ar|'''شيعة علي'''}}、Shī‘ah ‘Alī)と呼ばれたことに由来している。後には、シーアに単に定冠詞を付したアッ=シーア({{ラテン翻字|ar|ash-Shīʻa}})という語で同派を意味するようになり、[[宗派]]の名称として定着した。シーヤに属する人のことをシーイー({{Lang|ar|'''شيعي'''}}、{{ラテン翻字|ar|Shīʻī}})と言い、[[スンナ派]]信徒を意味する「スンナに従う人」(スンニー)に対応する。従って、[[日本語]]で、シーアあるいはシーイーに「派」という語を付すのは「派・派」となり、厳密に言えば同一語の繰り返しである。 == 信徒分布 == シーア派の信者は[[ムスリム|イスラム教徒]]全体の10%から20%を占めると推定される。<ref name=BritannicaShiite1>{{cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/540503/Shiite |title=Shīʿite |work= |publisher=Encyclopædia Britannica Online |year=2010 |accessdate=2010-08-25}}</ref><ref name="PRC">{{cite web|url= http://pewforum.org/Muslim/Mapping-the-Global-Muslim-Population%286%29.aspx |title=Mapping the Global Muslim Population: A Report on the Size and Distribution of the World's Muslim Population |accessdate=2010-08-25 |work=[[Pew Research Center]] |publisher= |date=October 7, 2009}}</ref><ref name="mgmpPRC"> {{Cite book | editor-last = Miller | editor-first = Tracy | month = 10 | year = 2009 | publisher = [[Pew Research Center]] | title = Mapping the Global Muslim Population: A Report on the Size and Distribution of the World's Muslim Population | format = PDF | url=http://pewforum.org/newassets/images/reports/Muslimpopulation/Muslimpopulation.pdf | accessdate = 2009-10-08 }} </ref><ref name="CIA">{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2122.html |title=Religions |accessdate=2010-08-25 |work=[[CIA]] |publisher=[[The World Factbook]] |year=2010}}</ref>2009年には、信徒数は約2億人と推定される<ref name="PRC"/>。信徒は世界中に分布するが、[[イラン]]、[[イラク]](国内の[[ムスリム]]は全人口の95%、全人口の3分の2がシーア派)、[[レバノン]](政治的理由から公式資料なし〔[[レバノン内戦]]参照〕だが、人口の半数を超えていると言われる)、[[アゼルバイジャン]](85%)では特にシーア派住民が多い。また[[イエメン]](45%)<ref>{{cite web|url=http://islamicweb.com/beliefs/cults/shia_population.htm |title=How many Shia? |publisher=Islamicweb.com |date= |accessdate=2011-05-04}}</ref>、[[パキスタン]](20%)、[[サウジアラビア]]の東部(10%)、[[バーレーン]](70%)、[[オマーン]]、[[アフガニスタン]]([[ハザーラ人]]など)にも比較的大きな信徒集団が存在する。 シーア派内の宗派では、[[十二イマーム派]]はイラン、アゼルバイジャン、それらの周辺地域(イラク、サウジアラビア東部等)、レバノンに多い。[[イスマーイール派]](七イマーム派)はアフガニスタンなど各地に点在する。[[ザイド派]](五イマーム派)はイエメンで主流である。 シーア派はその登場以来、原則として多数派のスンナ派に対し少数派の立場にあり、シーア派の信徒は山岳地帯など外敵が容易に侵入できない地域に集団を形成することが多かった。シーア派の王朝は歴史上いくつか存在するが、多くの場合シーア派が主流であるのは支配者層に限られ、住民の大半はスンナ派であった。ただし、現在のイラン、アゼルバイジャンを中心とした地域ではシーア派は地形にかかわらず多数派となっている。これは[[16世紀]]にこの地を支配した[[サファヴィー朝]]が[[十二イマーム派]]を[[国教]]とした際、住民の多くがスンナ派から十二イマーム派に改宗し、そのまま根付いたためである。 21世紀初頭において、シーア派が政治的・人口的に圧倒的に優位に立っているのはイラン1国のみである。イランの人口の90%から95%がシーア派を信仰しているとされ、全世界のシーア派人口の内でも37%から40%とほぼ4割を占めているなど、イランはシーア派内において大きな地位を占めている。さらにイランの国制は[[1979年]]の[[イラン革命]]以降[[イスラム共和制]]をとっており、十二イマーム派を国教としている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_046.html 外務省 海外安全ホームページ イラン](2019年2月17日閲覧)。</ref>。シーア派の高位聖職者が[[イランの最高指導者]]として[[国家元首]]となっているため、シーア派の影響力は非常に強い。 イランに次いでシーア派の割合が高い国は[[イラク]]、アゼルバイジャン、[[バーレーン]]の3か国であり、それぞれ6割から7割の国民がシーア派を信仰している。イラクにおいては[[ナジャフ]]や[[カルバラー]]といったシーア派聖地の存在する国土の南部にシーア派が集住している。ただし、イラクではシーア派は多数派であるにもかかわらず政治の主導権を長く握ってこなかった。[[イラク戦争]]による[[バアス党]]政権崩壊後、民主選挙によって多数派であるシーア派が政権を握り、[[ヌーリー・マーリキー]]が首相に就任した。しかしマーリキー政権はシーア派偏重の政策を取ったため、スンナ派など他の宗派との関係が悪化した。 バーレーンにおいては首長家および支配層はスンナ派であり、一般大衆の大半を占めるシーア派との間で対立が起きている。シーア派はスンナ派に比べ就職や収入などにおいて不利な条件に置かれており、このため1990年代には暴動が多発した。[[2002年]]にバーレーンで議会が再設置されシーア派にも議会参加への道が開かれるとこの対立は一時沈静化したものの、バーレーンの王権はいまだ強く、格差などにも改善の動きが見られないことから不満は蓄積していき、[[2011年]]の[[アラブの春]]においてはシーア派が中心となって[[2011年バーレーン騒乱]]が勃発し、警察と衝突して死者を出す事態となった<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2785504 「バーレーン各地でデモ、警察と衝突 死者2人に」[[フランス通信社|AFPBB]](2011年02月15日)2017年2月28日閲覧</ref>。 [[レバノン]]では政治的理由から統計はないものの、シーア派は[[キリスト教]][[マロン派]]およびイスラム教スンニ派とともに一大勢力となっており、[[ヒズボラ]]という政治・武装組織を有している。[[レバノン内戦]]以前は国会の全99議席中19議席、内戦後の[[1992年]]からは128議席中27議席がシーア派に割り当てられていた<ref>「分断社会における国軍の相貌 レバノンにおける国民統合と国家建設のトレード・オフ」p169 末近浩太『途上国における軍・政治権力・市民社会 21世紀の「新しい」政軍関係』所収 晃洋書房 2016年4月30日初版第1刷</ref>。また、シーア派からは国会議長が選出されるのが慣例となっている。 [[サウジアラビア]]は厳格なスンナ派([[ワッハーブ派]])が主導権を握る国であるが、[[ペルシャ湾]]岸にある[[東部州 (サウジアラビア)|東部州]]のアルハサ地方を中心に大きなシーア派のコミュニティが存在する。ワッハーブ派はシーア派を敵視する政策を伝統的に続けており、このためサウジアラビアのシーア派には不満がたまったままの状態が続いている。1979年にはイラン革命の影響を受けて東部州の[[カティーフ]]で[[アーシューラー]]の際に暴動が起きた<ref>『サウジアラビア現代史』p187 [[岡倉徹志]] 文春新書 平成12年6月20日第1刷</ref>。その後、徐々にサウジアラビア政府はシーア派に宥和姿勢を見せるようになり、2003年にはシーア派に対する差別の撤廃を訴える建白書が皇太子に渡されている<ref>『サウジアラビア 変わりゆく石油王国』p184 保坂修司 [[岩波書店]] 2005年8月19日第1刷</ref>。 イエメンにおいては人口の40%ほどがシーア派であるとされているが、このほとんどは[[ザイド派]]に属する。イエメンのザイド派は、同派のイマームが897年にイエメンに本拠を置いて以降、歴史的にこの地域を長く支配してきており、[[1918年]]にはイマームによって[[イエメン王国]]が同国の北部を領域として成立した。この王国は[[1962年]]に打倒されて[[イエメン・アラブ共和国]]となるものの、以後もイエメン北部においてザイド派は強い影響力を保持し続けた。[[2011年イエメン騒乱]]後の混乱に乗じて最北部の[[サアダ県]]に成立したザイド派の武装組織である[[フーシ]]は[[2014年]]に首都[[サナア]]へと侵攻し、[[2015年]]2月には[[クーデター]]を起こして[[アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー|ハーディー]]暫定大統領を追放して権力を握った。[[2016年]]にはフーシはイエメン北部(旧北イエメン)の大部分を掌握し、南部(旧南イエメン)を支配するハーディー暫定大統領派と対峙する状況となっている。 シリアにおいてシーア派は13%ほどを占めるとされるが、その大部分を占めるのは[[アラウィー]]派である。ただしアラウィー派はシーア派主流派と比べてもかなり教義に差があり、一部ではシーア派とみなされない場合がある。アラウィー派の多くはシリアの海岸地方、特に[[ラタキア県]]に集中しており、[[フランス委任統治領シリア]]時代にはこの地域はアラウィー派を中心とするラタキア国という自治地域となっていた。シリアが独立するとその実権は多数派のスンニ派が握り、アラウィー派は不利な立場に追い込まれたが、[[1970年]]にアラウィー派の軍人である[[ハーフィズ・アル=アサド]]が権力を握るとアラウィー派は優遇されるようになった。[[2000年]]にハーフィズが死去し次男の[[バッシャール・アル=アサド]]が政権を継いだのちもこの構図は継続したが、支配されている多数派のスンナ派の不満は高まり、[[2011年]]に[[シリア内戦]]が勃発する要因となった。シリア内戦においては勢力図はめまぐるしく変動を続けているものの、ラタキア県を中心とするシーア派地域のほとんどはアサド政権に忠誠を尽くしており、シリア政府の強固な地盤となっている。 === 「シーア派の三日月地帯」「シーア派の弧」 === イランはイスラム革命後、レバノンで[[ヒズボラ]]の設立(1982年)を支援するなど、国外のシーア派勢力の拡大を後押ししている。イラク内戦ではシーア[[民兵]]を、シリア内戦ではアサド政権を援助し、[[地中海]]東岸に達する「シーア派の三日月地帯」を形成した。こうした援助には、資金や武器の提供のほか、[[イスラム革命防衛隊]]などのイラン人、さらにアフガニスタンやパキスタン出身のシーア派を含む兵員の派遣も含まれる。イエメン内戦でのフーシ支援も含めて、イランは外国で「4つの首都([[ベイルート]]、[[ダマスカス]]、[[バクダード]]、[[サナア]])を支配している」([[マイケル・ヘイデン]]米[[中央情報局|CIA]]元長官)状況になっている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190210/ddm/007/030/056000c 【覇権を目指して イラン革命から40年】(上)シーア派支援で影響力 イラン「カネ・人」を投資]『[[毎日新聞]]』朝刊2019年2月10日(国際面)2019年2月17日閲覧。</ref>。レバノンに至るイランの勢力圏に対しては「シーア派の弧」という呼称もあり、これを南のイエメンへ広げて捉える見方もある<ref>[https://www.sankei.com/article/20190213-P7KLUJBOMVO3XL47LURHERGU5Q/ イランの「弧」勢力伸ばす 米圧力強化でも戦略不変 革命40年「防衛隊」影響力]『[[産経新聞]]』朝刊2019年2月14日(国際面)掲載の記事及び地図より。2019年2月19日閲覧。</ref>。 === 国別のシーア派信徒数 === 以下の表は、ピュー研究所による2009年10月の『Mapping the Global Muslim Population』という人口統計調査に基づいている<ref name="PRC"/><ref name="mgmpPRC"/>。 {| class="wikitable sortable" |+シーア派人口が10万人を超える国<ref name="PRC"/><ref name="mgmpPRC"/> |- ! 国 ! シーア派の人口<ref name="PRC"/><ref name="mgmpPRC"/> <!-- This column shows Pew statistics only, please! --> ! style="max-width:7em;" | イスラム教徒中のシーア派の割合<ref name="PRC"/><ref name="mgmpPRC"/> <!-- This column shows Pew statistics only, please! --> ! style="max-width:7em;" | 全世界のシーア派に占める割合<ref name="PRC"/><ref name="mgmpPRC"/> <!-- This column shows Pew statistics only, please! --> ! class="unsortable"|最小の推計 <!-- Plz provide reliable, verifiable web-reference with the claim --> ! class="unsortable"|最大の推計 <!-- Plz provide reliable, verifiable web-reference with the claim --> |- | [[イラン]] | align=right | {{ntsh|66000}}66,000,000&nbsp;– 70,000,000 | align=right | {{ntsh|90}}90–95 | align=right | {{ntsh|37}}37–40 | align=right | | align=right | |- | [[インド]] | align=right | {{ntsh|16000}}40,000,000&nbsp;– 50,000,000 | align=right | {{ntsh|11}}25–31 | align=right | {{ntsh|9}}22–25 | align=right | | align=right | 40,000,000<ref>{{cite news|url=http://timesofindia.indiatimes.com/city/lucknow/Shia-women-too-can-initiate-divorce/articleshow/334804.cms|title=Shia women too can initiate divorce| publisher=[[The Times of India]] |date=6 November 2006| accessdate=2010-06-21}}</ref>&nbsp;– 50,000,000.<ref>{{cite web|url=http://www.ibtimes.co.uk/30000-indian-muslims-ready-fight-isis-bare-handed-iraq-1454415 |title=30,000 Indian Shia Muslims Ready to Fight Isis 'Bare Handed' in Iraq|work=International Business Times UK |accessdate=2015-01-16}}</ref> |- | [[パキスタン]] | align=right | {{ntsh|17000}}20,000,000&nbsp;– 30,000,000 | align=right | {{ntsh|11}}5–20 | align=right | {{ntsh|11}}25–30 | align=right | | align=right | 43,250,000<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/pk.html |title=CIA - The World Factbook |publisher=Cia.gov |accessdate=2011-05-04}}</ref>&nbsp;– 57,666,666<ref>{{cite web|url=http://www.islamicinsights.com/news/international-news/violence-against-pakistani-shias-continues-unnoticed.html |title=Violence Against Pakistani Shias Continues Unnoticed &#124; International News |publisher=Islamic Insights |accessdate=2011-05-04}}</ref><ref>[http://www.presstv.ir/detail.aspx?id=86937&sectionid=351020401 Taliban kills Shia school children in Pakistan]</ref> |- | [[イラク]] | align=right | {{ntsh|19000}}19,000,000&nbsp;– 22,000,000 | align=right | {{ntsh|65}}65–67 | align=right | {{ntsh|11}}11–12 | align=right | | align=right | |- | [[イエメン]] | align=right | {{ntsh|8000}}8,000,000&nbsp;– 10,000,000 | align=right | {{ntsh|35}}35–40 | align=right | {{ntsh|5}}5 | align=right | | align=right | |- | [[トルコ]] | align=right | {{ntsh|7000}}7,000,000&nbsp;– 11,000,000 | align=right | {{ntsh|11}}10–15 | align=right | {{ntsh|4}}4–6 | align=right | | align=right | |- | [[アゼルバイジャン]] | align=right | {{ntsh|5000}}5,000,000&nbsp;– 7,000,000 | align=right | {{ntsh|65}}65–75 | align=right | {{ntsh|3}}3-4 | align=right | | align=right | 総人口の85%<ref name="files.preslib.az">{{cite web|url=http://files.preslib.az/projects/remz/pdf_en/atr_din.pdf|title=Religion|publisher=Administrative Department of the President of the Republic of Azerbaijan – Presidential Library|accessdate=22 February 2015}}</ref> |- | [[アフガニスタン]] | align=right | {{ntsh|3000}}3,000,000&nbsp;– 4,000,000 | align=right | {{ntsh|11}}10–15 | align=right | {{ntsh|1}}<2 | align=right | | align=right | 総人口の15–19%<ref name="lcweb2.loc.gov">{{cite web|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/profiles/Afghanistan.pdf |title=Shia women too can initiate divorce |quote=''Religion: Virtually the entire population is Muslim. Between 80 and 85 percent of Muslims are Sunni and 15 to 19 percent, Shia.'' |publisher=[[:en:Library of Congress Country Studies|Library of Congress Country Studies]] on Afghanistan |date = August 2008|accessdate=2010-08-27}}</ref> |- | [[シリア]] | align=right | {{ntsh|3000}}3,000,000&nbsp;– 3,500,000 | align=right | {{ntsh|12}}10-13 | align=right | {{ntsh|1}}<2 | align=right | | align=right | |- | [[ナイジェリア]] | align=right | {{ntsh|3999}}1,500,000-4,000,000 | align=right | {{ntsh|4}}<5 | align=right | {{ntsh|1}}<2 | align=right | | align=right | 500-1000万<ref>{{cite news |url=http://www.thisdaylive.com/articles/-no-settlement-with-iran-yet-/74044/ |title=‘No Settlement with Iran Yet’ |publisher=This Day |date=16 November 2010}}</ref> |- | [[サウジアラビア]] | align=right | {{ntsh|2000}}3,000,000&nbsp;– 4,000,000 | align=right | {{ntsh|15}}10–20 | align=right | {{ntsh|1}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[レバノン]] | align=right | {{ntsh|1000}}1,000,000&nbsp;– 1,600,000<ref>Hazran, Yusri. ''The Shiite Community in Lebanon: From Marginalization to Ascendancy'', Brandeis University</ref> | align=right | {{ntsh|30}}30-35<ref>[[:en:Farzana Hassan|Hassan, Farzana]]. ''Prophecy and the Fundamentalist Quest'', page 158</ref><ref>Corstange, Daniel M. ''Institutions and Ethnic politics in Lebanon and Yemen'', page 53</ref><ref>Dagher, Carole H. ''Bring Down the Walls: Lebanon's Post-War Challenge'', page 70</ref> | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right |公式の国勢調査が行われていないため推計<ref>Growth of the world's urban and rural population:n1920-2000, Page 81. United Nations. Dept. of Economic and Social Affairs</ref> |- | [[タンザニア]] | align=right | {{ntsh|1999}}<2,000,000 | align=right | {{ntsh|9}}<10 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[クウェート]] | align=right | {{ntsh|0500}}360,000 - 480,000 | align=right | {{ntsh|30}}30-35<ref name=irfr2012>{{cite web |url=http://www.state.gov/j/drl/rls/irf/religiousfreedom/index.htm?year=2012&dlid=208398#wrapper |title=International Religious Freedom Report for 2012 |work=[[US State Department]] |year=2012 |accessdate=2013-07-02}}</ref><ref name=ssi>{{cite web |url=http://www.strategicstudiesinstitute.army.mil/pdffiles/pub861.pdf |title=The New Middle East, Turkey, and the Search for Regional Stability |work=[[:en:Strategic Studies Institute|Strategic Studies Institute]] |date=April 2008 |page=87 |accessdate=2013-06-18}}</ref> | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[ドイツ]] | align=right | {{ntsh|400}}400,000&nbsp;– 600,000 | align=right | {{ntsh|11}}10–15 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[バーレーン]] | align=right | {{ntsh|400}}850,000&nbsp;– 900,000 | align=right | {{ntsh|66}}65–70 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right |100,000 (市民の66%<ref name="FCO">http://www.fco.gov.uk/en/travel-and-living-abroad/travel-advice-by-country/country-profile/middle-east-north-africa/bahrain/</ref>) | align=right |200,000 (市民の70%<ref name="Amir Taheri">{{cite web|url=http://www.nypost.com/p/news/opinion/opedcolumnists/why_bahrain_blew_up_NkYx4h4E1m80WGe2tXfsrI |title=Why Bahrain blew up |publisher=New York Post |date=2011-02-17 |accessdate=2011-02-22}}</ref>) |- | [[タジキスタン]] | align=right | {{ntsh|400}}400,000 | align=right | {{ntsh|7}}7 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | |- | [[アラブ首長国連邦]] | align=right | {{ntsh|300}}300,000&nbsp;– 400,000 | align=right | {{ntsh|10}}10 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[アメリカ合衆国]] | align=right | {{ntsh|200}}200,000&nbsp;– 400,000 | align=right | {{ntsh|11}}10–15 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[オマーン]] | align=right | {{ntsh|100}}100,000&nbsp;– 300,000 | align=right | {{ntsh|5}}5–10 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | 948,750<ref>[http://www.adherents.com/largecom/com_shiite.html Top 15 Countries with Highest Proportion of Shiites in the Population], ''7 July 1999''</ref> |- | [[イギリス]] | align=right | {{ntsh|0100}}100,000&nbsp;– 300,000 | align=right | {{ntsh|11}}10–15 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[カタール]] | align=right | {{ntsh|100}}100,000 | align=right | {{ntsh|10}}10 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |- | [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]] | align=right | {{ntsh|30}}30,000 | align=right | {{ntsh|3}}3 | align=right | {{ntsh|0}}<1 | align=right | | align=right | |} {{clear}} [[File:Shia Muslims per Continents.svg|thumb|シーア派イスラム教徒の大陸別割合:<br> {| |- | style="background:#000;"|&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;||&nbsp;アメリカ||0.6&nbsp;% |- | style="background:#f00;"|&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;||&nbsp;ヨーロッパ||4.4&nbsp;% |- | style="background:#00c800;"|&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;||&nbsp;アフリカ||0.8&nbsp;% |- | style="background:#ffc800;"|&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;||&nbsp;アジア||94&nbsp;% |} ]] == 教義 == [[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]とその子孫のみが指導者([[イマーム]])として[[イスラム共同体]]を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンナ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンナ派とは異なる教義を発展させていった。 歴代イマームを絶対的なものと見なす信仰・教義、歴代イマーム(特にアリーと[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]])を襲った悲劇の追体験([[アーシューラー]])、イマームは神によって隠されており([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]])、やがては[[マフディー]]([[救世主]])となって再臨するという[[終末論]]的な一種の[[メシア]]信仰は、シーア派を特徴付けるものである。このガイバは初期のシーア派の一派であるカイサーン派によってはじめて唱えられ、カイサーン派が分裂・消滅した後もシーア派の多くの派に取り入れられた。ただし、ザイド派等これらを否定する分派も存在する。 スンナ派に比べ、一般に[[神秘主義]]的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、[[聖人|聖者信仰]]は同一地域のスンナ派に比べ一般に広く行われている。 [[スンナ#スンナとハディース|スンナやハディース]]に対しても、ムハンマドのみならず歴代イマームの行為も範例として採用しており、逆に[[アブー=ターリブ]]に批判的な真正(サヒーフ)ハディースを捏造と解釈するなど、スンナ派とは大きな乖離が見られる。 イランにおいては、第3代イマームの[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]は[[サーサーン朝]]王家の女性を妻とし、以降の歴代イマームは[[ペルシア帝国]]の血を受け継いでいるという伝承があり、[[ペルシア人]]の[[民族宗教]]としての側面もある。 なお、スンナ派が[[六信]][[五行 (イスラム教)|五行]]であるのに対し、シーア派は五信十行である。 ; 五信 :* 神の唯一性 :* 神の正義 :* [[イスラム教の預言者|預言者]] :* イマーム :* [[来世]] ; 十行 :* 礼拝 :* [[ザカート|喜捨]](施し) :* [[ラマダーン|断食]] :* [[巡礼]] :* [[フムス (イスラーム)|五分の一税]] :* [[ジハード]](努力すること) :* 善行 :* 悪行の阻止 :* 預言者とその家族への愛 :* 預言者とその家族の敵との絶縁 === シーア派における理性(アクル) === シーア派では、法的判断の基準として、[[クルアーン]]、預言者とイマームの伝承、イジュマー(共同体全体の総意)に加えて、理性の動き(アクル)を重視することで知られる。この点で、第6代イマーム・ジャアファル・サーディクは、イスラーム世界で哲学的学派 (理性的学派)を最初に樹立した人物であるといわれる<ref name=":0">{{Cite book|author=嶋本隆光|title=シーア派イスラーム|date=|year=2007|accessdate=|publisher=京都大学出版会|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。 理性は知識を獲得する信頼にたる源であり、啓示と完全に調和している。伝承によれば、神には二つの証明(ホッジャ)があり、これを通じて人間は神の意志を知る。すなわち、内的なものは理性であり、外的なものは預言者である。時に、理性は「内的な預言者」、預言者は「外的な理性」と呼ばれる。シーア派の法学者の間では、理性に打ち立てられたいかなる判断であっても、それは宗教(法)によって打ち立てられたものに等しいと考えられている。イスラームの法学でよく知られるように、道徳的、法的責任を果たす条件は、健全な理性を保持していることであって、これを保持しない者(狂人や未成年者等)は、代理人を必要とする。狂人は自らの行為について責任をもたない、とみなされているのである<ref name=":0" />。 クルアーンによれば、全ての人間は自らの理性的機能を行使することが要請されており、その結果、神の徴や宇宙的交信について思いをいたすことができる、と考えられている。したがって、古の賢者たちを盲目的に模倣すること(タクリード)は非難されるべきことであり、不信者の徴とされる。 一般に、理性は宗教的研究に役立つと考えられている。 # 世界の現実を理解する。例えば神の存在、宗教や科学的事実の真理を理解する。 # 道徳的価値や法的規範を導く。例えば、圧政が悪であり、正義が善であることを知る。 # 思惟、思弁の基準や倫理過程を打ち立てる。 これに対して啓示は、既に理性によって知られていることの確認、理性によって未だ知られていない新しいテーマを導入すること、さらに宗教的賞罰のシステムを通じて、承認を与える、という三つの機能があるとされる。すなわち、啓示と理性は不即不離、相互補完の関係にあり、一方だけでは成り立たない、という立場である。神は預言者を通じて何かを行うことを人々に告げることで、人々を誤って導いたり、また逆に、神から与えられた理性を用いて真理とは逆の方向に向かうことは考えられない、という信念が背後にある<ref name=":0" />。 == 聖地 == 全てのムスリムの聖地である[[メッカ|マッカ]]、[[マディーナ]]、[[エルサレム]](アル=クドゥス)に加え、シーア派は歴代イマームの[[霊廟]]のある都市も[[聖地]]とする。とくに重視されるのはイラクの[[ナジャフ]]にある初代アリーの霊廟と、[[カルバラー]]にある3代フサインの霊廟である。これに、第7代と第9代の霊廟がある[[カーズィマイン]]([[バグダード]]近郊)と、第10代および第11代の霊廟がある[[サーマッラー]]を加えたイラクの霊廟のある4都市はアタバートと呼ばれ、大勢の[[巡礼]]が詰め掛ける。また、イランの[[マシュハド]]には第8代アリー・リダーの霊廟(イマーム・レザー廟)があり、ここも聖地となっている。このほか、イランのゴムにあるアリー・リダーの妹ファーティマ・ビン・ムーサーの霊廟もイラン国内で尊崇を集め、イランではマシュハドに次ぐ聖地となっている。 霊廟4都市はまたシーア派の学問の中心でもあった。[[イル・ハン国]]時代にはイラクの[[ヒッラ]]が、その後[[19世紀]]中盤まではカルバラーが学問の中心地であったが、[[1843年]]に[[オスマン帝国]]がカルバラーを制圧したため、そこから逃れたウラマーたちがナジャフに集結し、[[20世紀]]前半まではナジャフがシーア派教学の中心となっていた。しかしその後、イラクの独立や社会情勢の変化によってナジャフは衰退し、代わってイランの[[ゴム (イラン)|ゴム]](コム)に1921年に創設されたホウゼ・ウルミーエ・ゴム学院などの活動によって、ゴムがシーア派教学の中心地となっていった。 == 歴史 == === 歴代イマーム === ムハンマドの死後、彼の血を引くアリーを後継者に推す声も上がったが、実際にカリフの地位についたのは[[アブー・バクル]]であった。以後[[ウマル・イブン・ハッターブ]]、[[ウスマーン・イブン・アッファーン]]と継承されていったが、ウスマーンの死後アリーが後継者に指名され、[[656年]]に第4代[[正統カリフ]]となった。しかし、ウスマーンが属していた[[ウマイヤ家]]の[[ムアーウィヤ]]がこれに反対し、激しい抗争の末アリーは[[661年]]に[[ハワーリジュ派]]の刺客に暗殺され、ムアーウィヤはカリフの地位について[[ウマイヤ朝]]を開いた。アリーの子[[ハサン・イブン・アリー]]はムアーウィヤと和平を結んだものの、[[669年]]にハサンが死亡し、[[680年]]にムアーウィヤも死亡すると、ハサンの跡を継いだ弟の[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]が[[クーファ]]のシーア派の招きを受け、ウマイヤ朝第2代カリフの[[ヤズィード1世]]に対して叛旗を翻した。しかしクーファはヤズィード軍によって制圧され、フサインは680年に[[カルバラーの戦い]]によって殺された。これによってシーア派は政治勢力として完全に力を失い、またスンニ派と決定的に決別することとなった。 フサインの死後もアリーの子孫たちはイマームに就任し続けたものの、やがて誰をイマームとみなすかによってシーア派内でも分派が繰り返されるようになっていった。主流派はフサインの子である[[アリー・ザイヌルアービディーン]]を第4代イマームとして認めたが、これに反対してフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・ハナフィーヤをイマームとする一派が分派した。シーア派最初の分派である[[カイサーン派]]である。この派は[[685年]]に指導者ムフタールのもとでムハンマド・イブン・ハナフィーヤを推戴してクーファで決起し、ムフタールの乱を起こした。この乱でカイサーン派は一時イラクの大部分を支配したものの、[[687年]]にクーファが陥落して乱は終結し、さらに[[700年]]にムハンマド・イブン・ハナフィーヤが死ぬと、イマームは神によって隠されたとする一派とムハンマドの遺児をイマームとする一派に分裂し、その後も分裂を続けて8世紀には消滅した。しかしこの派の提唱したイマームは神によって隠されたという概念はガイバとしてシーア派諸派に取り入れられ、シーア派を特徴づける概念の一つとなった。 アリー・ザイヌルアービディーンを推戴した一派も、[[713年]]に彼が死ぬと再び分裂することとなった。主流派は[[ムハンマド・バーキル]]を第5代イマームとしたが、その弟であるザイド・イブン・アリーをイマームとする一派が分派し、[[ザイド派]]を形成した。ザイド派は21世紀においても有力な宗派として存続している。主流派においてはムハンマド・バーキルが[[743年]]に死ぬとその子である[[ジャアファル・サーディク]]が第6代イマームとなるが、彼が[[765年]]に没すると再び分派騒動が起きた。主流派はジャアファル・サーディクの子である[[ムーサー・カーズィム]]をイマームと認めたが、ムーサー・カーズィムの兄であるイスマーイール・イブン・ジャアファルを支持する者たちが分派したのである。この派閥は[[イスマーイール派]]と呼ばれ、この後も分派を繰り返しつつ[[ニザール派]]や[[ホージャー派]]などの宗派を生んだ。ムーサー・カーズィム派はこの後も存続し、8代[[アリー・リダー]](エマーム・レザー、[[799年]] - [[818年]])、9代[[ムハンマド・タキー]](818年 - [[835年]])、10代[[アリー・ハーディー]](835年 - [[868年]])、11代[[ハサン・アスカリー]](868年 - [[874年]])と続いていくが、ハサン・アスカリーが死去し、その子であるとされる[[ムハンマド・ムンタザル]]が「神によって隠される」とこの派のイマームもガイバの状態となり、[[十二イマーム派]]となった。 === シーア派諸政府 === ウマイヤ朝の滅亡後、8世紀に成立した[[イドリース朝]]は初のシーア派イスラム王朝とされるが、シーア派的要素は少なかった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D-31763 「イドリース朝」]『[[世界大百科事典]]』第2版</ref>。その後、9世紀に[[アラヴィー朝]]が成立し、10世紀には[[チュニジア]](後に[[エジプト]]に移動)に[[ファーティマ朝]]、[[イラン高原]]に[[ブワイフ朝]]が成立するなど、いくつかのシーア派王朝が建国されたものの、こうしたシーア派王朝のほとんどは上層部のみがシーア派信徒によって占められ、一般市民のほとんどはスンニ派を信仰していた。こうした状況が大きく変動するのは、16世紀初頭に[[タブリーズ]]で[[イスマーイール1世]]によって建国された[[サファヴィー朝]]の時代からである。サファヴィー朝は急進派のシーア派教団であるサファヴィー教団によって建国された国家であり、それまでのシーア派王朝と異なり支配下の民衆にシーア派への改宗を強要した。またイスマーイール1世は[[レバノン]]からシーア派のウラマーを招いて教義面での整備を行い、晩年にはサファヴィー朝の宗教観をかなり穏健化させたこともあり、支配下の地域においてはシーア派信仰が徐々に庶民にも広がっていった<ref>『イランを知るための65章』岡田久美子、北原圭一、鈴木珠里編著 [[明石書店]] 2009年11月20日 p.204 ISBN 9784750319803</ref>。こうしたことからサファヴィー朝の版図であったイランにおいてはシーア派の住民が圧倒的多数を占めるようになり、これはその後イラン高原に勃興した[[ガージャール朝]]や[[パフラヴィー朝]]などの諸王朝でも変わらなかったため、イランはシーア派信仰の一大中心地となった。しかしパフラヴィー朝第2代の[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]は[[白色革命]]と呼ばれる急速な上からの近代化政策を行い、それに反対する保守派の[[ルーホッラー・ホメイニー]]などの[[イスラム法学者]]を弾圧した。モハンマド・レザーの権威主義的な政策は国内での強い反発を受けるようになり、その反対派の結集の核となったのが保守派イスラム法学者たちであった。[[1979年]]2月に[[イラン革命]]が起き、モハンマド・レザーが国外に脱出すると、帰国したホメイニーは[[イランの最高指導者|最高指導者]]([[国家元首]])に就任し、[[イスラム共和制]]と呼ばれるシーア派法学者が国家を指導する体制を完成させた。ただしこのイスラム政府の成立とそれによるシーア派の政治化は周辺諸国の態度を硬化させ、[[1980年]]から[[1988年]]までの[[イラン・イラク戦争]]をはじめとするイランと周辺[[アラブ]]諸国との対立を引き起こすこととなった。 == 分派 == [[ファイル:シーア派の系統.png|thumb|right|350px|シーア派主要分派の系統]] シーア派は、預言者の後継者の地位をめぐって政治的に分裂した経緯をもつため、しばしば正当なイマームとしてアリーの子孫のうち誰を指名するかの問題によって分派した。現在、宗派として一定の勢力をもつのは、[[十二イマーム派]]、[[イスマーイール派]]、[[ザイド派]]などがある。十二イマーム派は[[イラン]]や[[イラク]]、[[レバノン]]などに勢力をもち、シーア派の比較多数派である。図の通り、シーア派諸派が共通してイマームと認めるのは[[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]のみである。 * [[カイサーン派]](消滅) * [[ザイド派]] * [[イスマーイール派]] ** [[カルマト派]](消滅) ** [[ドゥルーズ派]] ** [[ムスタアリー派]] *** [[ハーフィズィー派]] ** [[ニザール派]] * [[十二イマーム派]] ** [[シャイヒー派]] *** [[バーブ教]](イスラム教から分離) **** [[バハイ教]](イスラム教から分離) * [[アラウィー派]] * [[アレヴィー派]](?) === 十二イマーム派 === シーア派の多数派である[[十二イマーム派]]は、その名のとおり初代アリーから12代[[ムハンマド・ムンタザル]]までの12人をイマームとする派である。[[874年]]に12代イマームが人々の前から姿を消し、[[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]](隠れ)と呼ばれる状態となったが、その後もイマームは隠れたまま存在しており、[[最後の審判]]の日に再臨すると考えられている。なお、874年から[[940年]]までは12代イマームの代理人が指名され続け、イマームと信者との接点はわずかながら残っていたものの、940年に4代目の代理人が後継者を残さず死亡したため、以後はイマームとの接点を完全になくすこととなった。このため、十二イマーム派では874年から940年までをガイバトゥル・スグラー(小ガイバ、小幽隠)、940年以降をガイバトゥル・クブラー(大ガイバ、大幽隠)と呼ぶ。 === イスマーイール派 === [[イスマーイール派]]は、7代目のイマームをめぐって十二イマーム派とは別の道をたどった派で、第7代イマームが死んでその子孫の絶えた後に、誰を指導者として推戴してゆくかの問題によって、多くの派に分かれている。もともと主流派では7代イマームの死後、イマームは存在しなくなったと考えているので、イスマーイール派は通称七イマーム派ともいう。イスマーイール派でもガイバの観念はあるが、各分派によってその対象者は異なる。イスマーイール派のうち現在もっとも勢力の強い[[インド]]・[[パキスタン]]の[[ホージャー派]]は、イスマーイール派の諸派のうち[[12世紀]]にイマーム制度の復活を宣言した[[ニザール派]]の系譜を引いており、現在もイマームが指導している。 === ザイド派 === [[ザイド派]]は十二イマーム派やイスマーイール派に比べると少数派で、[[イエメン]]に勢力をもつ。ザイド派は先の二派と分派したのは5代目のイマームの継承をめぐる問題であったので、五イマーム派と呼ばれることもある。他の有力諸派と異なり、ザイド派はガイバ説を採用していない。 === そのほかの分派やイスラムからの分離 === シーア派の中には[[スンナ派]]に対して政治的に先鋭的な主張を持ち、スンナ派と一線を画していく中で特に独特の教義を持つに至った分派も存在する。系統不明の[[アラウィー派]]や[[イスマーイール派]]の流れを汲む[[ドゥルーズ派]]などは、しばしば他の[[ムスリム]](イスラーム教徒)からイスラームの枠外にあるとみられている。[[バーブ教]]([[バーブ派]])や[[バハイ教]]([[バハーイー派]])は既にイスラムから完全に分離したとされている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2017年11月|section=1}} * [[桜井啓子 (イスラーム研究者)|桜井啓子]] 『シーア派 ――台頭するイスラーム少数派』(中公新書、2006年) == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|イスラーム|[[画像:Allah-green.svg|34px|Portal:イスラーム]]}} * [[アレヴィー派]] * [[グラート (イスラム教)]] * [[スンナ派]] * [[ハワーリジュ派]] * [[マズハブ|イスラム法学派]] ** [[ジャアファル法学派]] * [[イマーム]] * [[アーシューラー]] * [[イランの法制]] * [[アンナビー・ユーシュア]] **[[パレスチナ]]にあったシーア派の村。[[イスラエル]]建国時に[[イスラエル軍]]が無人化した。 *[[クルアーン主義]] == 外部リンク == * [https://www.roshd.org/eng/ Roshd Islamic - Shia Website]{{en icon}} * {{Kotobank}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:しいあは}} [[Category:シーア派|*]] [[Category:イランの宗教]]
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炭素化合物
炭素化合物()は、炭素を成分として含む化合物。 有機化合物はすべて炭素化合物である。炭素と水素、化合物によっては酸素、窒素などヘテロ原子を含む。 無機炭素化合物としては次のようなものがある。 炭素より陽性の高い元素と化合したもの(炭化物 を参照)
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炭素化合物は、炭素を成分として含む化合物。 有機化合物はすべて炭素化合物である。炭素と水素、化合物によっては酸素、窒素などヘテロ原子を含む。 無機炭素化合物としては次のようなものがある。
{{読み仮名|'''炭素化合物'''|たんそかごうぶつ}}は、[[炭素]]を成分として含む[[化合物]]。 [[有機化合物]]はすべて炭素化合物である。炭素と[[水素]]、化合物によっては[[酸素]]、[[窒素]]など[[ヘテロ原子]]を含む。 無機炭素化合物としては次のようなものがある。 == 炭素より陰性の高い元素と化合したもの == *[[ハロゲン化物]] – [[四塩化炭素]] (CCl<sub>4</sub>) など *[[酸化物]] – [[二酸化炭素]] (CO<sub>2</sub>) や[[一酸化炭素]] (CO) など。特に、炭素と酸素だけのものを[[オキソカーボン]]と呼ぶ。 *[[硫化物]] – [[二硫化炭素]] (CS<sub>2</sub>) や[[一硫化炭素]] (CS) など *[[窒化物]] – 合成方法が研究されている[[窒化炭素]] (C<sub>3</sub>N<sub>4</sub>) など == 炭化物 == 炭素より陽性の高い元素と化合したもの(''[[炭化物]] を参照'') *イオン性炭化物 - [[炭化カルシウム]] (CaC<sub>2</sub>) など、炭素アニオン種の塩 *共有結合性炭化物 - [[炭化ケイ素]] (SiC) など、共有結合で成る化合物 *侵入型炭化物 - 遷移金属などの結晶格子の隙間に炭素が侵入したもの == 炭素を含むアニオン種や配位子を持つ塩、錯体 == *[[炭酸|炭酸塩]] – [[炭酸カルシウム]] (CaCO<sub>3</sub>) など *[[シアン化物]] – [[ジシアン]] ((CN)<sub>2</sub>) や[[シアン化カリウム]] (KCN) など *[[カルボニル]]化物 – [[ニッケルカルボニル]] (Ni(CO)<sub>4</sub>) 、[[ジコバルトオクタカルボニル]] (Co<sub>2</sub>(CO)<sub>8</sub>)など *[[カルベン錯体]] - 形式上[[カルベン]]を配位子とする錯体。[[グラブス触媒]](ルテニウムのベンジリデン錯体)など == 関連項目 == * [[有機化合物]] {{炭素の無機化合物}} {{Normdaten}} [[Category:炭素の化合物|*]]
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イスマーイール派
イスマーイール派(イスマーイールは、アラビア語: الإسماعيلية al-ʾIsmāʿīlīyah、ペルシャ語:اسماعیلیان Esmāʿīliyān) は、8世紀に起こったイスラム教シーア派の一派である。グノーシス的な神秘主義的教説を特徴とする。七イマーム派と呼ばれることもあるが、主流派の諸派は7人より多くのイマームを認めるため、狭義の七イマーム派には含まれない。 765年に第6代イマームであるジャアファル・サーディクが死去した。生前の彼は当初、長男であるイスマーイール・イブン・ジャアファルを後継者に指名していたが、イスマーイールが死去したことで別の子であるムーサー・カーズィムを後継者に指名していた。多数派はこの指名を認めてムーサーをイマームと認めたが、一部はイスマーイールの子であるムハンマド・イブン・イスマーイール(英語版)がイマーム位を継ぐべきであると主張した。このときムーサーをイマームと認めたのが十二イマーム派であり、ムハンマドがイマームであると主張したのがイスマーイール派である。その後およそ100年間の活動内容は分かっていないが、バスラやアフワーズ、サラミーヤに拠点を置いて秘密裏に組織網を作っていたとされる。9世紀後半に入ると各地にダーイーと呼ばれる宣教師を派遣して宣教活動を活発に行うようになった。サラミーヤにおいて899年、後のファーティマ朝の開祖となるウバイドゥッラーは組織の主導権を握り、自分はイスマーイールの子孫であり真のイマームであると宣言した。その後のファーティマ朝の勢力拡大とともにイスマーイール派も活発化し、イスラーム世界を掌握した。10世紀には布教活動はイエメン、オマーン、インダス川流域やサハラ砂漠のオアシス地帯にも広がっていった。 その後11世紀頃にドゥルーズ派が分裂し、「東方派」「西方派」「アラムート派」の三派に分かれた。 19世紀以降、ニザール派のイマームはアーガー・ハーンと呼ばれるようになった。 イスマーイール派の教義は、グノーシス主義や新プラトン主義のような隠れた知を強調した、前イスラーム的信仰体系の影響を受けている。誰にでも可能なクルアーンの外部的な解釈と、イマームだけが知ることのできる秘教的な内的真理を区別している。イマームは神からの包括的な知を与えられることから、次代のイマームは現イマームの指名によって継承される。 また、イスマーイール派は7代目イマームから始まったことから、7を象徴的な数字として特別視する。イスマーイール派の世界観では、歴史は7000年周期で循環し、各周期は預言者や仲介者の出現によって始まるという。 イスマーイール派の信徒は、自らの信仰を意図的に隠すことを実践している。金曜礼拝はモスクではなく、ジャマーアト・ハーナと呼ばれる集会所で行われる。
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イスマーイール派 は、8世紀に起こったイスラム教シーア派の一派である。グノーシス的な神秘主義的教説を特徴とする。七イマーム派と呼ばれることもあるが、主流派の諸派は7人より多くのイマームを認めるため、狭義の七イマーム派には含まれない。
[[ファイル:Shiite Calligraphy symbolising Ali as Tiger of God.svg|サムネイル|262x262ピクセル]] {{シーア派}} '''イスマーイール派'''(イスマーイールは、[[アラビア語]]: '''الإسماعيلية''' ''al-ʾIsmāʿīlīyah''、[[ペルシャ語]]:'''اسماعیلیان''' ''Esmāʿīliyān'') は、[[8世紀]]に起こった[[イスラム教]][[シーア派]]の一派である。[[グノーシス主義|グノーシス]]的な神秘主義的教説を特徴とする。'''[[七イマーム派]]'''と呼ばれることもあるが、主流派の諸派は7人より多くのイマームを認めるため、狭義の七イマーム派には含まれない。 == 歴史 == [[画像:シーア派の系統.png|thumb|left|275px|シーア派主要分派の系統]] [[765年]]に第6代イマームである[[ジャアファル・サーディク]]が死去した。生前の彼は当初、長男である[[イスマーイール・イブン・ジャアファル]]を後継者に指名していたが、イスマーイールが死去したことで別の子である[[ムーサー・カーズィム]]を後継者に指名していた。多数派はこの指名を認めてムーサーをイマームと認めたが、一部はイスマーイールの子である{{仮リンク|ムハンマド・イブン・イスマーイール|en|Muhammad ibn Isma'il}}がイマーム位を継ぐべきであると主張した。このときムーサーをイマームと認めたのが[[十二イマーム派]]であり、ムハンマドがイマームであると主張したのがイスマーイール派である{{sfn|中村|1998|page=152}}。その後およそ100年間の活動内容は分かっていないが、[[バスラ]]や[[アフワーズ]]、[[サラミーヤ]]に拠点を置いて秘密裏に組織網を作っていたとされる。9世紀後半に入ると各地にダーイーと呼ばれる宣教師を派遣して宣教活動を活発に行うようになった{{sfn|蔀|2018|page=261}}。サラミーヤにおいて[[899年]]、後の[[ファーティマ朝]]の開祖となる[[ウバイドゥッラー・マフディー・ビッラー|ウバイドゥッラー]]は組織の主導権を握り、自分はイスマーイールの子孫であり真のイマームであると宣言した{{sfn|ヒレンブランド|2016|pp=171-175}}{{sfn|蔀|2018|page=262}}。その後のファーティマ朝の勢力拡大とともにイスマーイール派も活発化し、イスラーム世界を掌握した{{sfn|ヒレンブランド|2016|pp=171-175}}。10世紀には布教活動はイエメン、オマーン、インダス川流域やサハラ砂漠のオアシス地帯にも広がっていった{{sfn|鈴木|1993|page=244}}。 その後11世紀頃にドゥルーズ派が分裂し、「東方派」「西方派」「アラムート派」の三派に分かれた。 19世紀以降、ニザール派のイマームは[[アーガー・ハーン]]と呼ばれるようになった。 {{Clear}} == 信仰 == イスマーイール派の教義は、グノーシス主義や[[新プラトン主義]]のような隠れた知を強調した、前イスラーム的信仰体系の影響を受けている{{sfn|ヒレンブランド|2016|pp=171-175}}。誰にでも可能な[[クルアーン]]の外部的な解釈と、[[イマーム]]だけが知ることのできる秘教的な内的真理を区別している。イマームは神からの包括的な知を与えられることから、次代のイマームは現イマームの指名によって継承される。 また、イスマーイール派は7代目イマームから始まったことから、'''7'''を象徴的な数字として特別視する。イスマーイール派の世界観では、歴史は7000年周期で循環し、各周期は預言者や仲介者の出現によって始まるという。 イスマーイール派の信徒は、自らの信仰を意図的に隠すことを実践している{{sfn|ヒレンブランド|2016|pp=171-175}}。金曜礼拝は[[モスク]]ではなく、ジャマーアト・ハーナと呼ばれる集会所で行われる。 == 分派 == ; [[ドゥルーズ派]]: [[1021年]]に行方不明になった[[ファーティマ朝]]の第6代カリフの[[ハーキム]]を信奉する一派。シリア北部、レバノンの山岳部に拠点を持つ。 ;アラムート派([[ニザール派]]、改革イスマーイール派とも): [[1094年]]の[[ファーティマ朝]]の内紛において、[[ムスタアリー]]に敗れて投獄された[[ニザール・ブン・アル=ムスタンスィル|ニザール]]の息子が[[イラン高原]]の[[アラムート]]に立てた一派。11世紀末には[[ハサン・サッバーフ]]の指示によって50件におよぶ[[暗殺]]を敢行し、[[暗殺教団]](アサッシン派)として伝説となった{{sfn|ヒレンブランド|2016|pp=171-175}}。13世紀以後は穏健的な方針を持つ一派として存続し、21世紀初頭において世界全体に1500万人の信者を持つ{{sfn|ヒレンブランド|2016|pp=171-175}}。現在のイマームは[[アーガー・ハーン4世]]であり、[[アーガー・ハーン建築賞]]を主催している。分派としてインドに[[ホージャー派]]がある。 :[[アフガニスタン]]の[[バダフシャーン州]]や[[タジキスタン]]の[[ゴルノ・バダフシャン自治州]]などには[[パミール人]]がおり、アーガー・ハーンに従っている。一方、[[アフガニスタン]]の[[バグラーン州]]は地元の宗教指導者の[[サイイド・マンスール・ナーディリー]]に従っている。 ; [[:en:Mustaali|ムスタアリー派]]: ファーティマ朝の内紛において勝利した[[ムスタアリー]]の一派。その後、ハーフィズ派が分裂。[[インド亜大陸]]に定着したムスタアリー派は'''ボーホラー派'''と呼ばれる{{sfn|ヒレンブランド|2016|pp=171-175}}。 ; [[:en:Hafizi|ハーフィズ派]]: ムスタアリーと対立して分裂した一派。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *イブン・バットゥータ 『[[大旅行記]]』全8巻 イブン・ジュザイイ編、[[家島彦一]]訳、[[平凡社]]〈[[平凡社東洋文庫]]〉、1996-2002年。 *[[菊地達也]] 『イスマーイール派の神話と哲学 イスラーム少数派の思想史的研究』 [[岩波書店]]〈岩波アカデミック叢書〉、2005年。 * {{Cite book |和書 |author = キャロル・ヒレンブランド |translator = [[蔵持不三也]] |title = 図説 イスラーム百科 |date = 2016 |publisher = [[原書房]] |isbn = 9784562053070 |ref = harv }} *{{Cite book|和書|author=蔀勇造|authorlink=蔀勇造|title=物語 アラビアの歴史|date=2018|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=978-4-12-102496-1|ref={{SfnRef|蔀|2018}}}} *{{Cite book|和書|author=鈴木董|authorlink=鈴木董|title=パクス・イスラミカの世紀|date=1993|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|isbn=4-06-149166-0|ref={{SfnRef|鈴木|1993}}}} *{{Cite book|和書|author=中村廣治郎|authorlink=中村廣治郎|title=イスラム教入門|date=1998|publisher=岩波書店|series=[[岩波新書]]|isbn=4-00-430538-1|ref={{SfnRef|中村|1998}}}} == 関連項目 == *[[イスラーム哲学]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Islam-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いすまいるは}} [[Category:シーア派]] [[Category:イスマーイール派|*]] [[Category:スーフィー]]
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6,157
無機化学
無機化学(、英: inorganic chemistry)とは、研究対象として元素、単体および無機化合物を研究する化学の一分野である。通常有機化学の対概念として無機化学が定義されている為、非有機化合物を研究対象とする化学と考えて差し支えない。 無機化学では炭素以外の全周期表の元素を取り扱い、炭素を含む化合物であっても有機化合物とは見なされない炭素の同素体や一酸化炭素などの化合物も含まれる。有機化合物はおよそ地表にのみ存在するのに対して、地球はほとんどが無機物質で構成されているといっても過言ではない。工業的にも鉄鋼やセメント、ガラスなどの無機工業製品は生産トン数で考えた場合には有機工業製品を圧倒している。しかし、その多様性と複雑性のため、すべての元素の性質を簡単な理論で説明できるわけではない。 有機化合物以外の物質を研究する化学は無機化学の範疇に含まれるため、研究対象により細分化された錯体化学、有機金属化学、生物無機化学(無機生化学)、地球化学、鉱物化学、岩石化学、温泉化学、海洋化学、大気化学、宇宙化学、放射化学、ホットアトム化学なども広義には無機化学である。 錬金術の成果が書物として中世ヨーロッパに伝えられ、その博物学的知識の集合が近代化学の礎となったがそのほとんどは無機化合物についての知見であったし、化学自身を研究対象により分類し区別することもなかったため、18世紀以前は化学と無機化学とは同義であった。 18世紀終わり頃から19世紀初頭にかけて、発見されるいわゆる有機化合物の種類が増加するにつれ、起源による物質の分類と研究対象による研究領域の区分が試みられるようになった。1806年頃、スウェーデンの イェンス・ベルセリウスは、有機体を意味する "organ" から有機化学 (organic chemistry) や有機化合物 (organic compound) という語を初めて使用した。それが学術語や学問領域として定着するにつれて、有機化学および有機化合物に相対する学問領域として無機化学と無機化合物という概念が生じた。 有機化学においては基により反応性あるいは特性が大きく異なることから、無機化学に比べて早い段階から、基の研究を通じて構造論と反応論が展開していった。一方、近代無機化学においては周期律をはじめとする組成論を中心とした研究が中心であった。無機化学における構造論の起源となるのは、1883年にドイツの アルフレッド・ウェルナーが提唱した配位子場理論(配位説、英: Ligand field theory)である。その後は金属錯体を中心に無機化学は展開し、錯体化学において無機構造化学が確立された。20世紀後半に入ると電子顕微鏡やX線構造解析などサブミクロンサイズの物理計測が可能になることで構造論は飛躍的な発展を見せることになる。今日の無機化学においては高温超伝導物質のペロブスカイト相など構造論を中心とした研究が主流となっている。 次に無機化学の主要項目を示す。またそれぞれの項目の関連項目を~の後に連結して示す。
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無機化学(むきかがく、とは、研究対象として元素、単体および無機化合物を研究する化学の一分野である。通常有機化学の対概念として無機化学が定義されている為、非有機化合物を研究対象とする化学と考えて差し支えない。
{{読み仮名|'''無機化学'''|むきかがく|{{lang-en-short|inorganic chemistry}}<ref>Bailar, J. C., & Trotman-Dickenson, A. F. (Eds.). (1973). Comprehensive inorganic chemistry (Vol. 3, p. 1387). Oxford: Pergamon press.</ref><ref>Cotton, F. A., Wilkinson, G., Murillo, C. A., Bochmann, M., & Grimes, R. (1988). Advanced inorganic chemistry (Vol. 5). New York: Wiley.</ref><ref>Cotton, F. A., & Lippard, S. J. (Eds.). (1959). Progress in inorganic chemistry (Vol. 4). John Wiley & Sons.</ref><ref>Wells, A. F. (2012). Structural inorganic chemistry. Oxford University Press.</ref>}}とは、研究対象として[[元素]]、[[単体]]および[[無機化合物]]を研究する[[化学]]の一分野である。<ref>"「無機化学: その現代的アプローチ」, 平尾一之・田中勝久・中平敦著, [[東京化学同人]].</ref>通常[[有機化学]]の対概念として無機化学が定義されている為、非有機化合物を研究対象とする化学と考えて差し支えない。 == 概要 == 無機化学では炭素以外の全周期表の元素を取り扱い、炭素を含む化合物であっても有機化合物とは見なされない炭素の[[同素体]]や一酸化炭素などの化合物も含まれる。有機化合物はおよそ[[地表]]にのみ存在するのに対して、[[地球]]はほとんどが無機物質で構成されているといっても過言ではない。工業的にも[[鉄鋼]]や[[セメント]]、ガラスなどの無機工業製品は生産トン数で考えた場合には有機工業製品を圧倒している。<ref>Rogers, R. P. (2009). An economic history of the American steel industry. Routledge.</ref><ref>Bridge, J. H. (2014). The Inside History of the Carnegie Steel Company: A Romance of Millions. University of Pittsburgh Press.</ref><ref>Ghosh, S. N. (Ed.). (2003). Advances in cement technology: chemistry, manufacture and testing. CRC Press.</ref>しかし、その多様性と複雑性のため、すべての元素の性質を簡単な理論で説明できるわけではない。 [[有機化合物]]以外の[[物質]]を研究する化学は無機化学の範疇に含まれるため、研究対象により細分化された[[錯体化学]]、<ref>柴田村治. (1979). 錯体化学入門. 共立全書.</ref>[[有機金属化学]]、[[生物無機化学]]<ref>Bertini, I., Bertini, G., Gray, H., Gray, H. B., Stiefel, E., Valentine, J. S., & Stiefel, E. I. (2007). Biological inorganic chemistry: structure and reactivity. University Science Books.</ref><ref>Rehder, D. (2014). Bioinorganic chemistry. Oxford University Press.</ref><ref>Kaim, W., Schwederski, B., & Klein, A. (2013). Bioinorganic Chemistry--Inorganic Elements in the Chemistry of Life: An Introduction and Guide. John Wiley & Sons.</ref><ref>Metzler-Nolte, N., & Kraatz, H. B. (2006). Concepts and models in bioinorganic chemistry. New York: Wiley-Vch.</ref>(無機生化学)、[[地球化学]]、<ref>White, W. M. (2020). Geochemistry. John Wiley & Sons.</ref>鉱物化学、岩石化学、温泉化学、<ref>今橋正征. (2010). 温泉の化学. 日本温泉気候物理医学会雑誌, 74(1), 7-9.</ref>[[海洋化学]]、<ref>Riley, J. P., & Chester, R. (Eds.). (2016). Chemical oceanography. Elsevier.</ref>[[大気化学]]、<ref>Warneck, P. (1999). Chemistry of the natural atmosphere. Elsevier.</ref><ref>Visconti, G. (2001). Fundamentals of Physics and Chemistry of the Atmosphere. Berlin: Springer.</ref><ref>Finlayson-Pitts, B. J., & Pitts Jr, J. N. (1999). Chemistry of the upper and lower atmosphere: theory, experiments, and applications. Elsevier.</ref>[[宇宙化学]]、<ref>McSween Jr, H. Y., & Huss, G. R. (2010). Cosmochemistry. Cambridge University Press.</ref>[[放射化学]]、ホットアトム化学<ref>Willard, J. E. (1955). Radiation chemistry and hot atom chemistry. Annual Review of Physical Chemistry, 6(1), 141-170.</ref>なども広義には無機化学である。 == 歴史 == [[錬金術]]の成果が書物として[[中世]][[ヨーロッパ]]に伝えられ、<ref>Martin, S. (2011). A Pocket Essential Short History of Alchemy & Alchemists. Oldcastle Books.</ref>その[[博物学]]的[[知識]]の[[集合]]が[[近代]]化学の礎となったがそのほとんどは[[無機化合物]]についての知見であったし、<ref>Levere, T. H. (2001). Transforming matter: a history of chemistry from alchemy to the buckyball. JHU Press.</ref><ref>Maxwell-Stuart, P. G. (2008). The chemical choir: A history of alchemy. Bloomsbury Publishing.</ref>[[化学]]自身を研究対象により[[分類]]し区別することもなかったため、[[18世紀]]以前は化学と無機化学とは同義であった。 18世紀終わり頃から[[19世紀]]初頭にかけて、発見されるいわゆる[[有機化合物]]の種類が増加するにつれ、起源による[[物質]]の分類と研究対象による研究領域の区分が試みられるようになった。[[1806年]]頃、[[スウェーデン]]の [[イェンス・ベルセリウス]]は、有機体を意味する "organ" から有機化学 (organic chemistry) や有機化合物 (organic compound) という語を初めて使用した。<ref>Kyle, R. A., & Steensma, D. P. (2018, May). Jöns Jacob Berzelius–A Father of Chemistry. In Mayo Clinic Proceedings (Vol. 93, No. 5, pp. e53-e54). Elsevier.</ref><ref>Wisniak, J. (2000). Jöns Jacob Berzelius a guide to the perplexed chemist. The Chemical Educator, 5(6), 343-350.</ref>それが[[学術]]語や[[学問]]領域として定着するにつれて、有機化学および有機化合物に相対する学問領域として無機化学と無機化合物という[[概念]]が生じた。 有機化学においては[[基]]により反応性あるいは特性が大きく異なることから、無機化学に比べて早い段階から、基の研究を通じて[[構造論]]と[[反応論]]が展開していった。一方、近代無機化学においては[[周期律]]をはじめとする[[組成論]]を中心とした研究が中心であった。無機化学における構造論の起源となるのは、[[1883年]]に[[ドイツ]]の [[アルフレッド・ウェルナー]]が提唱した[[配位子場理論]](配位説、{{lang-en-short|Ligand field theory}}<ref>Figgis, B. N., & Hitchman, M. A. (2000). Ligand field theory and its applications (Vol. 158). New York: Wiley-Vch.</ref>)である。<ref>上村洸, 菅野暁, & 田辺行人. (1969). 配位子場理論とその応用. [[裳華房]]. 129.</ref>その後は金属錯体を中心に無機化学は展開し、[[錯体化学]]において無機構造化学が確立された。[[20世紀]]後半に入ると[[電子顕微鏡]]<ref>『電子顕微鏡の理論と応用』電子顕微鏡学会、[[丸善]]、1959年。</ref><ref>外村彰、黒田勝広『電子顕微鏡技術』丸善、1989年。ISBN 4621033956。</ref>や[[X線構造解析]]などサブミクロンサイズの物理[[計測]]が可能になることで構造論は飛躍的な発展を見せることになる。今日の無機化学においては[[高温超伝導]]物質の[[ペロブスカイト相]]など構造論を中心とした研究が主流となっている。<ref>Boix, P. P., Nonomura, K., Mathews, N., & Mhaisalkar, S. G. (2014). Current progress and future perspectives for organic/inorganic perovskite solar cells. Materials today, 17(1), 16-23.</ref> == 無機化学の主要項目・関連項目 == 次に無機化学の主要項目を示す。またそれぞれの項目の関連項目を~の後に連結して示す。 *[[元素]](各[[単体]]は元素の記事で説明される) **[[周期表]]~[[元素の族]] ***[[典型元素]](第[[第1族元素|1]]、[[第2族元素|2]]、[[第13族元素|13]]、[[第14族元素|14]]、[[第15族元素|15]]、[[第16族元素|16]]、[[第17族元素|17]]、[[第18族元素|18]]族元素) ***[[遷移元素]] ****[[ランタノイド]] ****[[アクチノイド]] *[[化学結合]] **[[イオン結合]]~[[電気陰性度]]、[[酸と塩基]]、[[酸化還元]] **[[金属]] **[[共有結合]]~[[分子軌道]]、'''[[酸化還元反応|酸化と還元]]''' **[[配位結合]] ***[[配位子場]] *[[無機化合物]]~[[無機化合物の一覧]] **[[水素化合物]] **[[オキソ酸]] **[[酸化物]] **[[ハロゲン化合物]] *[[結晶]]~[[空間群]] **[[結晶場理論]]~[[バンド理論]] **[[界面化学]] == 研究対象 == * [[元素]] ** [[単体]] ** [[化合物]] *** [[塩 (化学)|塩]](えん) - [[炭酸塩]]、[[硫酸塩]] ** [[大気]] ** [[水]] ** [[鉱物]] *** [[金属]] **** [[合金]]、[[冶金]] **** [[金属錯体]] **** [[アモルファス金属]] *** [[ガラス]] *** [[セラミックス]] - [[ゼオライト]] ** [[放射性物質]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}} {{wikibooks|無機化学}} * {{Kotobank}} {{化学}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:むきかかく}} [[Category:無機化学|*]] [[Category:化学の分野]]
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親藩
親藩()は、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、御三家・御三卿は別格であるため狭義の親藩には含まれない。 以下の御三家は、家康の男系男子・子孫であり、親藩の中でもさらに別格の扱いだった。 もし徳川将軍家に男系男子(将軍継嗣)がなければ、この三家が将軍を出すように決められていた。また、徳川姓を名乗ること(他の一門は松平姓)や、三つ葉葵の家紋の使用などが許されていた。ただし、当初は水戸は入っておらず、将軍家・尾張家・紀州家をもって御三家と称した。8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂は和歌山藩主から、15代将軍徳川慶喜は水戸徳川家の血統であるが一橋家当主から将軍に就任した。 吉宗の時代以降にさらに御三卿が設けられた。御三卿は「将軍の家族」として扱われ、当然に徳川姓を称したが、独立した大名ではなく、いわば将軍家の「部屋住み」として扱われた。 15代将軍は一橋家当主から将軍に就任した。将軍の後継を補う他に、御三家のうち名古屋藩主と和歌山藩主の養子となって当主を継承した者も複数出ている。将軍家や御三家の後継補完のため、御三卿当主はたびたび空位の時期が存在した。御三卿が家としての独立を認められたのは明治維新後である。 江戸初期には将軍家の次子以降から親藩が立てられたが、宗家継承や後嗣断絶のため一時的なものにとどまった。 御三家・御三卿に次ぐ一門としては、 などがあった。これら一門大名は家格・官位などでは優遇されたが、(将軍の親戚というだけであって譜代大名ではないので)幕政に参加することは許されなかった。ただし、越智松平家は例外で、松平武元が徳川家重の時代に老中に登用された他、武寛が奏者番、斉厚が寺社奉行を務めている。この他、保科正之が徳川家綱の補佐役として大政参与に就任し幕政に携わったが、これは忠実なる賢弟を信頼した家光による、また幕政初期で諸制度が整う以前ゆえの例外である。 幕末に至ると、一門大名の幕政参加がみられるようになる。安政の改革では徳川斉昭(水戸徳川家)が海防参与に任じられた。これは、アヘン戦争敗北を受けた清の香港割譲・開国など幕府の危急存亡の秋という特殊事情が反映されたものである(安政の改革を参照)。また文久の改革では、島津久光らの介入により、松平慶永(福井松平家)が政事総裁職に、一橋慶喜(一橋徳川家)が将軍後見職に、松平容保(会津松平家)が京都守護職にそれぞれ任命されている。また、松平慶永が政事総裁職を辞任した後には、同じく前橋松平家の松平直克(川越藩主)が後任に任命されている。 下記の家が含まれる場合もある。
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親藩は、江戸時代の藩の分類の一つで、徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、徳川姓を名乗った御三家・御三卿の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は松平姓を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である奥平松平家、家康の異父弟・子孫である久松松平家(伊予松山藩主と、伊勢桑名藩主の系統)、徳川家光・徳川綱吉の正室の実家鷹司家の出身である鷹司松平家も親藩に準じて扱われることもある。なお、御三家・御三卿は別格であるため狭義の親藩には含まれない。
{{読み仮名|'''親藩'''|しんぱん}}は、[[江戸時代]]の[[藩]]の分類の一つで、[[徳川家康]]の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指す。特に、[[徳川氏|徳川姓]]を名乗った[[徳川御三家|御三家]]・[[御三卿]]の当主は家康の男系男子・子孫に限られ、[[徳川将軍家|将軍家]]の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った。その他の家は[[松平氏|松平姓]]を名乗った。 下記以外に、家康の女系男子・子孫である[[奥平松平家]]、家康の異父弟・子孫である[[久松松平家]]([[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]主と、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]主の系統)、[[徳川家光]]・[[徳川綱吉]]の正室の実家[[鷹司家]]の出身である[[鷹司松平家]]も親藩に準じて扱われることもある。なお、御三家・御三卿は別格であるため狭義の親藩には含まれない。 == 御三家 == {{Main|徳川御三家}} 以下の御三家は、家康の男系男子・子孫であり、親藩の中でもさらに別格の扱いだった。 * [[徳川義直]]を祖とする[[尾張徳川家]] * [[徳川頼宣]]を祖とする[[紀州徳川家|紀伊徳川家]] * [[徳川頼房]]を祖とする[[水戸徳川家]] もし[[徳川将軍家]]に男系男子(将軍継嗣)がなければ、この三家が将軍を出すように決められていた。また、徳川姓を名乗ること(他の一門は松平姓)や、[[三つ葉葵]]の家紋の使用などが許されていた。ただし、当初は水戸は入っておらず、将軍家・尾張家・紀州家をもって御三家と称した。8代将軍[[徳川吉宗]]と14代将軍[[徳川家茂]]は和歌山藩主から、15代将軍[[徳川慶喜]]は水戸徳川家の血統であるが一橋家当主から将軍に就任した。 == 御三卿 == {{Main|御三卿}} 吉宗の時代以降にさらに御三卿が設けられた。御三卿は「将軍の家族」として扱われ、当然に徳川姓を称したが、独立した大名ではなく、いわば将軍家の「[[部屋住み]]」として扱われた。 * [[徳川宗武]]を祖とする[[田安徳川家]]([[徳川吉宗]]の代に創設) * [[徳川宗尹]]を祖とする[[一橋徳川家]](徳川吉宗の代に創設) * [[徳川重好]]を祖とする[[清水徳川家]]([[徳川家重]]の代に創設) 15代将軍は一橋家当主から将軍に就任した。将軍の後継を補う他に、御三家のうち名古屋藩主と和歌山藩主の養子となって当主を継承した者も複数出ている。将軍家や御三家の後継補完のため、御三卿当主はたびたび空位の時期が存在した。御三卿が家としての独立を認められたのは[[明治維新]]後である。 == 一門 == 江戸初期には将軍家の次子以降から親藩が立てられたが、宗家継承や後嗣断絶のため一時的なものにとどまった。 * [[駿河徳川家]]([[徳川秀忠]]の三男[[徳川忠長]]、[[駿府藩]]) * [[甲府徳川家]]([[徳川家光]]の三男[[徳川綱重|綱重]] - [[徳川家宣|綱豊]]、[[甲府藩]]) * [[館林徳川家]](徳川家光の四男[[徳川綱吉|綱吉]]、[[館林藩]]) 御三家・御三卿に次ぐ一門としては、 * [[徳川家康]]の次男([[徳川秀忠|秀忠]]の兄)・[[結城秀康]]を祖とする[[越前松平家]] * [[徳川秀忠]]の四男(家光の異母弟)[[保科正之]]を祖とする[[会津松平家]] * [[徳川綱重]]の次男[[松平清武]]を祖とする[[越智松平家]] などがあった。これら一門大名は家格・官位などでは優遇されたが、(将軍の親戚というだけであって譜代大名ではないので)幕政に参加することは許されなかった。ただし、越智松平家は例外で、[[松平武元]]が[[徳川家重]]の時代に[[老中]]に登用された他、[[松平武寛|武寛]]が[[奏者番]]、[[松平斉厚|斉厚]]が[[寺社奉行]]を務めている。この他、保科正之が[[徳川家綱]]の補佐役として[[大政参与]]に就任し幕政に携わったが、これは忠実なる賢弟を信頼した家光による、また幕政初期で諸制度が整う以前ゆえの例外である。 幕末に至ると、一門大名の幕政参加がみられるようになる。[[安政の改革]]では[[徳川斉昭]](水戸徳川家)が海防参与に任じられた。これは、[[アヘン戦争]]敗北を受けた[[清]]の香港割譲・開国など幕府の危急存亡の秋という特殊事情が反映されたものである([[安政の改革]]を参照)。また[[文久の改革]]では、[[島津久光]]らの介入により、[[松平春嶽|松平慶永]](福井松平家)が[[政事総裁職]]に、[[徳川慶喜|一橋慶喜]](一橋徳川家)が[[将軍後見職]]に、[[松平容保]](会津松平家)が[[京都守護職]]にそれぞれ任命されている。また、松平慶永が政事総裁職を辞任した後には、同じく前橋松平家の[[松平直克]]([[川越藩]]主)が後任に任命されている。 == 親藩大名の領地一覧 == * [[尾張徳川家]]([[尾張藩|名古屋藩]]) * [[紀州徳川家|紀伊徳川家]]([[和歌山藩]]) * [[水戸徳川家]]([[水戸藩]]) * [[越前松平家]]([[福井藩]]|[[松江藩]]|[[前橋藩]]|[[明石藩]]|[[津山藩]]) * [[会津松平家]]([[会津若松藩]]) * [[越智松平家]]([[浜田藩]]) 下記の家が含まれる場合もある。 * [[奥平松平家]]([[忍藩]]) * [[久松氏|久松松平家]]([[伊予松山藩]]|[[桑名藩]])※久松松平家でも他の藩は[[譜代大名]]として数えられる。 * [[鷹司松平家]]([[吉井藩]]) == 関連項目 == * [[御家門]] * [[御連枝]] * [[譜代大名]] - [[外様大名]] [[Category:親藩|!]] [[Category:江戸幕府|しんはん]] [[Category:江戸時代の大名|*しんはん]]
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仏 (曖昧さ回避)
仏・佛(ほとけ、ぶつ、ふつ)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "仏・佛(ほとけ、ぶつ、ふつ)", "title": null } ]
仏・佛(ほとけ、ぶつ、ふつ)
{{Wiktionary|仏|佛}} '''仏'''・'''佛'''(ほとけ、ぶつ、ふつ) ==仏(ほとけ、ぶつ)== ;原義 * [[仏陀]] - [[仏教]]、[[ヒンドゥー教]]、[[ジャイナ教]]などインドの伝統で「覚者」「悟った者」のこと。[[如来]]、応供とも。 ;仏教用語 * [[釈迦]] - 覚者(仏陀)として目覚めた仏教の開祖。ゴータマ・シッダルタ、ガウタマ・シッダールタ。 * [[十号]] - 仏教における覚者(仏陀)の10種の称号。 * [[菩薩]] - 仏教において仏(如来)になれるが、人の救済などのために敢えて仏になろうとしない人。[[明王]]や高僧など。 * 仏 (信仰対象) - 日本などにおける仏教の信仰対象。[[如来]]・[[菩薩]]・[[縁覚]]・[[阿羅漢]]・[[明王]]などの総称。 ⇒ [[仏の一覧]] ** [[仏像]] - 仏教の信仰対象である仏をかたどった[[偶像]]。 ;比喩表現 * 仏のように善良な人。 * [[日本]]における[[死者]]の婉曲的な表現。死後に西方[[極楽浄土]]へと[[往生]]し[[成仏]]するという浄土系仏教特有の考えに由来。 ** [[警察]]関係者が死者を指して用いる[[隠語]]。 ==仏(ふつ)== * [[仏蘭西]] - [[フランス]]の漢字表記。フランス国家やフランスに関連する事柄を指す。仏国、[[フランス語|仏語]]、[[フランス文学|仏文]]、[[フランス領インドシナ|仏印]]など。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ふつ}} [[Category:仏教哲学の概念]]
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陽子
陽子(、羅: 蘭: 独: 仏: 英: proton)とは、原子核を構成する粒子のうち、正の電荷をもつ粒子である。英語名のままプロトンと呼ばれることも多い。陽子は電荷+1、スピン1/2のフェルミ粒子である。記号 p で表される。 陽子とともに中性子によって原子核は構成され、これらは核子と総称される。水素(軽水素、H)の原子核は、1個の陽子のみから構成される。電子が離れてイオン化した水素イオン(H)は陽子そのものであるため、化学の領域では水素イオンをプロトンと呼ぶことが多い。 原子核物理学、素粒子物理学において、陽子はクォークが結びついた複合粒子であるハドロンに分類され、2個のアップクォークと1個のダウンクォークで構成されるバリオンである。ハドロンを分類するフレーバーは、バリオン数が1、ストレンジネスは0であり、アイソスピンは1/2、超電荷は1/2となる。バリオンの中では最も軽くて安定である。 陽子の電荷は、符号が正で大きさが電気素量 e に等しい。その値は + e = + 1.602 176 634 × 10 − 19 C {\displaystyle +e=+1.602~176~634\times 10^{-19}\ {\text{C}}} (正確に) である(2018 CODATA推奨値)。 陽子の質量 mp は m p = 1.672 621 923 69 ( 51 ) × 10 − 27 kg = 938.272 088 16 ( 29 ) MeV / c 2 {\displaystyle {\begin{aligned}m_{\text{p}}&=1.672\ 621\ 923\ 69(51)\times 10^{-27}\ {\text{kg}}\\&=938.272\ 088\ 16(29)\ {\text{MeV}}/c^{2}\end{aligned}}} である(2018 CODATA推奨値)。電子の質量 me に対する比は m p m e = 1836.152 673 43 ( 11 ) {\displaystyle {\frac {m_{\text{p}}}{m_{\text{e}}}}=1836.152\ 673\ 43(11)} である(2018 CODATA推奨値)。 陽子の比電荷は e m p = 9.578 833 1560 ( 29 ) × 10 7 C kg − 1 {\displaystyle {\frac {e}{m_{\text{p}}}}=9.578\ 833\ 1560(29)\times 10^{7}\ {\text{C}}\ {\text{kg}}^{-1}} である(2018 CODATA推奨値)。 陽子のコンプトン波長 λp は λ p = h m p c = 1.321 409 855 39 ( 40 ) × 10 − 15 m {\displaystyle \lambda _{\text{p}}={\frac {h}{m_{\text{p}}c}}=1.321\ 409\ 855\ 39(40)\times 10^{-15}\ {\text{m}}} である(2018 CODATA推奨値)。 陽子のRMS荷電半径 rp は r p = 0.8414 ( 19 ) × 10 − 15 m {\displaystyle r_{\text{p}}=0.8414(19)\times 10^{-15}\ {\text{m}}} である(2018 CODATA推奨値)。 陽子の磁気モーメント μp は μ p = 1.410 606 797 36 ( 60 ) × 10 − 26 J T − 1 {\displaystyle \mu _{\text{p}}=1.410\ 606\ 797\ 36(60)\times 10^{-26}\ {\text{J}}\ {\text{T}}^{-1}} である(2018 CODATA推奨値)。核磁子 μN に対する比(異常磁気モーメント)は μ p μ N = 2.792 847 344 63 ( 82 ) {\displaystyle {\frac {\mu _{\text{p}}}{\mu _{\text{N}}}}=2.792\ 847\ 344\ 63(82)} である(2018 CODATA推奨値)。 陽子は1918年にアーネスト・ラザフォードによって発見された。アルファ粒子を窒素ガスに打ち込むと、水素の原子核固有の反応が検出された。窒素ガスは密閉状態にあるため、水素は窒素から分離されたに違いなく、水素の原子核は窒素に含まれていると推測した。これから、当時水素の原子核は電荷が1でありそれ以上分割することができないとされていたため、最も基本的な物質の構成要素であると結論付けた。ラザフォードはこの物質をギリシャ語の最初を表すプロトス(protos)からプロトン(proton、英語発音: [ˈproutɑn])と名づけた。 標準模型においては、陽子の寿命は無限であるとされているが、大統一理論は、非常に長い時間をかけて崩壊することを予言している。 内側にセンサーを敷き詰めた大型のタンク内の大量の液体(に含まれる陽子)を対象として観測することで、これを検出できるかもしれないという提案があり、いくつかの実験が実施されている。日本においてはカミオカンデの目的の一つが陽子の崩壊を観測することであった。陽子の寿命が仮に 10 年ならば、10 個の陽子を集めれば1年に1個以上の陽子の崩壊が(崩壊したら確実に観測できるとして)観測できる確率が約63 %(≒1−1/e)であり、2年間で1個以上の陽子の崩壊が観測できる確率が約87 %(≒1−1/e)、3年間で1個以上の陽子の崩壊が観測できる確率が約95 %(≒1−1/e)である。2017年現在、この崩壊現象は観測されておらず、引き続くスーパーカミオカンデを含めた実験結果から陽子の寿命は少なくとも 10 年(日本の命数法で100溝年)以上であると主張されている。陽子崩壊は陽子内部のクォーク同士が 10 m 以内に接近したときに起きる現象であるが、これはクォークの大きさが 10 m 以下、または点状粒子であることを前提としている。クォーク半径が 10 m 以上であると、クォークの中心同士はそれ以上は接近できず、陽子崩壊は起こらない。 陽子崩壊でどういう粒子にどのくらいの確率で崩壊するかは大統一理論のモデルに依存するが、多くのモデルでは主要なモードとして次式のような陽電子と中性パイ中間子、又は反ニュートリノと陽K中間子への崩壊を予言する。
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陽子(ようし、(羅: 蘭: 独: 仏: 英: proton)とは、原子核を構成する粒子のうち、正の電荷をもつ粒子である。英語名のままプロトンと呼ばれることも多い。陽子は電荷+1、スピン1/2のフェルミ粒子である。記号 p で表される。 陽子とともに中性子によって原子核は構成され、これらは核子と総称される。水素(軽水素、1H)の原子核は、1個の陽子のみから構成される。電子が離れてイオン化した水素イオン(1H+)は陽子そのものであるため、化学の領域では水素イオンをプロトンと呼ぶことが多い。 原子核物理学、素粒子物理学において、陽子はクォークが結びついた複合粒子であるハドロンに分類され、2個のアップクォークと1個のダウンクォークで構成されるバリオンである。ハドロンを分類するフレーバーは、バリオン数が1、ストレンジネスは0であり、アイソスピンは1/2、超電荷は1/2となる。バリオンの中では最も軽くて安定である。
{{Infobox particle |名前=陽子([[プロトン]]) |画像=File:Quark structure proton.svg |組成=uud |統計=[[フェルミ粒子]] |グループ=[[バリオン]] |相互作用=[[弱い相互作用]]<br/>[[強い相互作用]]<br/>[[電磁相互作用]]<br/>[[重力相互作用]] |反粒子=[[反陽子]]({{粒子の記号|link=no|反p}}) |発見=[[アーネスト・ラザフォード]] (1917){{Sfnp|Petrucci|Harwood|Herring|2002|p=41}} |記号='''{{粒子の記号|p}}''' |質量={{val|1.672621898|(21)|e=-27|u=kg}}{{R|mp}}<br/>{{val|938.2720813|(58)|u=MeV/c2}}{{R|mpc2}} |電荷={{val|1.602176634|e=-19|ul=C}}(正確に){{R|e}} |荷電半径={{val|0.8751|(61)|u=fm}}{{R|rp}} |磁気モーメント={{val|1.4106067873|(97)|e=-26|u=J/T}}{{R|mup}} |色荷=持たない |スピン={{frac|1|2}} |バリオン数=1 |ストレンジネス=0 |アイソスピン={{frac|1|2}} |超電荷={{frac|1|2}} |パリティ=+1}} {{読み仮名|'''陽子'''|ようし|{{lang-la-short}}{{lang-nl-short}}{{lang-de-short}}{{lang-fr-short}}{{Lang-en-short|proton}}}}とは、[[原子核]]を構成する[[粒子]]のうち、正の[[電荷]]をもつ粒子である。英語名のまま'''プロトン'''と呼ばれることも多い。陽子は[[電荷]]+1、[[スピン角運動量|スピン]]1/2の[[フェルミ粒子]]である。記号 p で表される。 陽子とともに[[中性子]]によって原子核は構成され、これらは[[核子]]と総称される。[[水素]](軽水素、{{sup|1}}H)の原子核は、1個の陽子のみから構成される。[[電子]]が離れて[[イオン化]]した'''水素イオン'''({{sup|1}}H{{sup|+}})<ref group="注釈">厳密には、[[水素イオン]]という語は、水素の陰イオン([[ヒドリド]])をも指す。</ref>は陽子そのものであるため、[[化学]]の領域では水素イオンをプロトンと呼ぶことが多い。 {{main2|化学的な水素の陽イオンの性質|ヒドロン}} [[原子核物理学]]、[[素粒子物理学]]において、陽子は[[クォーク]]が結びついた[[複合粒子]]である[[ハドロン]]に分類され、2個の[[アップクォーク]]と1個の[[ダウンクォーク]]で構成される[[バリオン]]である。ハドロンを分類する[[フレーバー (素粒子)|フレーバー]]は、[[バリオン数]]が1、[[ストレンジネス]]は0であり、[[アイソスピン]]は1/2、[[超電荷]]は1/2となる。バリオンの中では最も軽くて安定である。 {{main2|原子核内で核子同士をまとめておく力|パイ中間子}} == 諸定数 == === 電荷 === 陽子の電荷は、符号が正で大きさが[[電気素量]] {{mvar|e}} に等しい。その値は {{Indent|<math>+e=+1.602~176~634\times 10^{-19}\ \text{C}</math>(正確に)}}である(2018 [[科学技術データ委員会|CODATA]]推奨値<ref name="e">[[#nist|CODATA Value]]</ref>)。 === 質量 === 陽子の[[質量]] {{math|''m''{{sub|p}}}} は {{Indent|<math>\begin{align}m_\text{p}&=1.672\ 621\ 923\ 69(51)\times 10^{-27}\ \text{kg}\\&=938.272\ 088\ 16(29)\ \text{MeV}/c^2\end{align}</math>}} である(2018 CODATA推奨値<ref name="mp">[[#mp|CODATA Value]]</ref><ref name="mpc2">[[#mpc2|CODATA Value]]</ref>)。[[電子]]の質量 {{math|''m''{{sub|e}}}} に対する比は {{Indent|<math>\frac{m_\text{p}}{m_\text{e}}=1836.152\ 673\ 43(11)</math>}} である(2018 CODATA推奨値<ref name="mps">[[#mps|CODATA Value]]</ref>)。 陽子の[[質量電荷比#電荷質量比|比電荷]]は {{Indent|<math>\frac{e}{m_\text{p}}=9.578\ 833\ 1560(29)\times 10^7\ \text{C}\ \text{kg}^{-1}</math>}} である(2018 CODATA推奨値<ref name="esmp">[[#esmp|CODATA Value]]</ref>)。 === コンプトン波長 === 陽子の[[コンプトン波長]] {{math|''&lambda;''{{sub|p}}}} は {{Indent|<math>\lambda_\text{p}=\frac{h}{m_\text{p}c}=1.321\ 409\ 855\ 39(40)\times 10^{-15}\ \text{m}</math>}} である(2018 CODATA推奨値<ref name="pcom">[[#pcom|CODATA Value]]</ref>)。 === 荷電半径 === 陽子の[[二乗平均平方根|RMS]][[荷電半径]] {{math|''r''{{sub|p}}}} は {{Indent|<math>r_\text{p}=0.8414(19)\times 10^{-15}\ \text{m}</math>}} である(2018 CODATA推奨値<ref name="rp">[[#rp|CODATA Value]]</ref>)。 === 磁気モーメント === 陽子の[[磁気モーメント]] {{math|''&mu;''{{sub|p}}}} は {{Indent|<math>\mu_\text{p}=1.410\ 606\ 797\ 36(60)\times 10^{-26}\ \text{J}\ \text{T}^{-1}</math>}} である(2018 CODATA推奨値<ref name="mup">[[#mup|CODATA Value]]</ref>)。[[核磁子]] {{math|''&mu;''{{sub|N}}}} に対する比([[異常磁気モーメント]])は {{Indent|<math>\frac{\mu_\text{p}}{\mu_\text{N}}=2.792\ 847\ 344\ 63(82)</math>}} である(2018 CODATA推奨値<ref name="mups">[[#mups|CODATA Value]]</ref>)。 == 歴史 == 陽子は[[1918年]]に[[アーネスト・ラザフォード]]によって発見された。[[アルファ粒子]]を[[窒素]]ガスに打ち込むと、水素の原子核固有の反応が検出された。窒素ガスは密閉状態にあるため、水素は窒素から分離されたに違いなく、水素の原子核は窒素に含まれていると推測した。これから、当時水素の原子核は電荷が1でありそれ以上分割することができないとされていたため、最も基本的な物質の構成要素であると結論付けた。ラザフォードはこの物質を[[ギリシャ語]]の最初を表すプロトス(protos)からプロトン({{en|proton}}、{{IPA-en|ˈproutɑn}})と名づけた。 == 陽子の崩壊 == {{Unsolved|物理学|陽子の寿命は無限か有限か。有限だとすればどのくらいか。}} [[標準模型]]においては、陽子の寿命は無限であるとされているが、[[大統一理論]]は、非常に長い時間をかけて崩壊することを予言している。 内側にセンサーを敷き詰めた大型のタンク内の大量の液体(に含まれる陽子)を対象として観測することで、これを検出できるかもしれないという提案があり、いくつかの実験が実施されている。日本においては[[カミオカンデ]]の目的の一つが陽子の崩壊を観測することであった。陽子の寿命が仮に {{1e|33}} 年ならば、{{1e|33}} 個の陽子を集めれば1年に1個以上の陽子の崩壊が(崩壊したら確実に観測できるとして)観測できる確率が約63 %(≒1&minus;1/[[ネイピア数|e]])であり<ref group="注釈">2個陽子があったとして、1年で1/2の確率で崩壊するとして、1年で1つも崩壊しない確率は(1&minus;1/2)<sup>2</sup>=1/4=25 %。3個陽子があり、1年で1/3の確率で崩壊するとしたら、1年で1つも崩壊しない確率は(1&minus;1/3)<sup>3</sup>=8/27=約29.6 %。10個陽子があり、1年で1/10の確率で崩壊するとしたら、1年で1つも崩壊しない確率は(1&minus;1/10)<sup>10</sup>=(9/10)<sup>10</sup>=約34.9 %。n個陽子があり、1年で1/nの確率で崩壊するとしたら、1年で1つも崩壊しない確率は(1&minus;1/n)<sup>n</sup>である。nが十分に大きければ、その値は1/e([[ネイピア数]]の逆数)に近づく。1年で少なくとも1つ陽子が崩壊する確率は前文の余事象なので1&minus;1/eとなる。同様にn個陽子があり、1年で1/nの確率で崩壊するとしたら、2年3年で1つも崩壊しない確率は(1&minus;1/n)<sup>2n,3n</sup> である。nが十分に大きければ、その値は1/(e<sup>2</sup>,e<sup>3</sup>)に近づく。</ref>、2年間で1個以上の陽子の崩壊が観測できる確率が約87 %(≒1&minus;1/e<sup>2</sup>)、3年間で1個以上の陽子の崩壊が観測できる確率が約95 %(≒1&minus;1/e<sup>3</sup>)である{{efn|統計的には95%以上の確率で起きうることが仮に起きない場合は、仮説を棄却して対立仮説(論理式でいう[[否定]]、このケースでは陽子の寿命は少なくとも{{1e|33}} 年よりは明らかに長い)を採択することがある。}}。2017年現在、この崩壊現象は観測されておらず、引き続く[[スーパーカミオカンデ]]を含めた実験結果から陽子の寿命は少なくとも {{1e|34}} 年(日本の[[命数法]]で100[[溝 (数)|溝]]年)以上であると主張されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/sk/pdecay.html|title=陽子崩壊|work=[[スーパーカミオカンデ]]公式ホームページ|publisher=[[東京大学宇宙線研究所]]|accessdate=2017-05-27}}</ref>。陽子崩壊は陽子内部のクォーク同士が {{1e-|31}} m 以内に接近したときに起きる現象であるが、これはクォークの大きさが {{1e-|31}} m 以下、または点状粒子であることを前提としている。クォーク半径が {{1e-|31}} m 以上であると、クォークの中心同士はそれ以上は接近できず、陽子崩壊は起こらない。 陽子崩壊でどういう粒子にどのくらいの確率で崩壊するかは大統一理論のモデルに依存するが、多くのモデルでは主要なモードとして次式のような[[陽電子]]と[[パイ中間子|中性パイ中間子]]、又は[[ニュートリノ|反ニュートリノ]]と[[K中間子|陽K中間子]]への崩壊を予言する。 *<math>\mathrm{p}\to \mathrm{e}^+ + \pi^0</math> *<math>\mathrm{p}\to \bar{\nu} + K^+</math> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal|author=K.A. Olive ''et al.'' (Particle Data Group)|title=2014 Review of Particle Physics|year=2014|journal=Chin. Phys. C|volume=38|issue=9|edition=090001|doi=10.1088/1674-1137/38/9/090001}} * {{Cite book|first=R.H.|last=Petrucci|first2=W.S.|last2=Harwood|first3=F.G.|last3=Herring|year=2002|title=General Chemistry|edition=8th|ref=harv}} == 関連項目 == * [[反陽子]] * [[陽子線]] * [[中間子]] * [[超対称大統一理論]] * [[原子]] - [[中性子]] - [[電子]] * [[水素]] - [[ジプロトン]] - [[リチウム3]] * [[カミオカンデ]] == 外部リンク == * {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Category?view=pdf&Atomic+and+nuclear|title=Fundamental Physical Constants — Atomic and Nuclear Constants|accessdate=2015-06-28|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]|format=PDF}} **{{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?e|title=CODATA Value: elementary charge|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=nist}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mp|title=CODATA Value: proton mass|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=mp}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mpc2mev|title=CODATA Value: proton mass energy equivalent in MeV|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=mpc2}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mpsme|title=CODATA Value: proton-electron mass ratio|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=mps}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?esmp|title=CODATA Value: proton charge to mass quotient|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=esmp}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?pcomwl|title=CODATA Value: proton Compton wave length|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=pcom}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?rp|title=CODATA Value: proton rms charge radius|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=rp}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mup|title=CODATA Value: proton magnetic moment|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=mup}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mupsmun|title=CODATA Value: proton magnetic moment to nuclear magneton ratio|accessdate=2020-04-09|publisher=NIST|ref=mups}} * {{Cite web|url=http://pdg8.lbl.gov/rpp2014v1/pdgLive/Particle.action?node=S016|title=pdgLive|accessdate=2015-06-07|publisher=Particle Data Group}} * {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}} {{粒子の一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ようし}} [[Category:陽子|*]] [[Category:原子核物理学]] [[Category:核子]] [[Category:亜原子粒子]] [[Category:アーネスト・ラザフォード]]
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中性子
中性子(、羅: 蘭: 独: 仏: 英: neutron)とは、原子核を構成する粒子のうち、無電荷の粒子のことで、バリオンの1種である。原子核反応式などにおいては記号 n で表される。質量数は原子質量単位で約 1.00867 u、自由な中性子は平均寿命は約15分でβ崩壊を起こし陽子となる。原子核は、陽子と中性子という2種類の粒子によって構成されているため、この2つを総称して核子と呼ぶ。 中性子の発見は1920年のアーネスト・ラザフォードによる予想に始まり、その存在の実験的証明は1932年にケンブリッジ大学の物理学者ジェームズ・チャドウィックによってなされた。その実験とは、ベリリウムに高速のα粒子を当てることで次の核反応 を起こし、ここで発生する粒子 n をパラフィンなどで受け、原子核と衝突させることでさらに陽子を飛び出させ、この荷電粒子である陽子を検出するというものであった。チャドウィックは上記の核反応で発生する粒子(当時はまだベリリウム線と呼ばれていた)n が、陽子とほとんど同じ質量で中性(電荷を持たない)の新しい粒子からなる粒子線であることを確認し、これを中性子 (neutron) と名付けた。 中性子は、電荷を持っていないことから、他の電荷をもつ陽子などに比べて、入射した物質の原子核と容易に直接反応することができる。電磁気力の影響を受けない中性子線は透過性が高く、原子核の核変換に使う粒子として重要である。 自由な中性子、及び中性子数過剰の原子核中の中性子は不安定でありベータ崩壊を起こす。自由な中性子は平均寿命 886.7±1.9 秒(約15分)、半減期約10.3分で陽子と電子及び反電子ニュートリノに崩壊し、それを反応式で表すと となる。中性子はバリオンの一種であり、ヴァレンス・クォーク模型の見方をとれば、2個のダウンクォークと1個のアップクォークという3個のクォークによって構成されている。中性子は全体として電荷を持たないが、内部では正負の電荷が分布しており、その広がりは約 10 m である。 電荷を持たない中性子と原子との相互作用は、非常に短距離でのみ働く核力によるものがほぼ全てである。また、核力の到達範囲はせいぜいπ中間子の換算コンプトン波長 h/2πmπc である約 1.4×10 m - 2.0×10 m 程度、即ち中性子の電荷分布の広がりである 0.1 fm 程度しかない。従って、物質中を移動する自由な中性子は、原子核と「正面」衝突するまで直進する。原子核の断面積は非常に小さいため衝突は稀にしか起こらず、中性子は衝突までに長い行程を飛ぶことになる。生成した中性子が他の原子核と衝突するまで移動する距離を平均自由行程(英: mean freepath)という指標で表す。 弾性衝突を起こすような場合、運動量保存則に従い、ビリヤードのボールが互いに衝突するように振る舞う。もし衝突された核が重い場合は核の加速は比較的少ない。中性子とほぼ等しい質量をもつ陽子(水素原子)と衝突した場合、陽子は元々の中性子が持っていた運動量のほとんどを受け取りはじき出される。一方、中性子はほとんどの運動量を失うが、この衝突の結果生じる二次的に放射された粒子が電荷を持っている場合、電離作用があるため、検知することが可能である。 電気的に中性であるため、観測だけでなく中性子を制御するのも難しい。荷電粒子に対しては電磁場によって加速、減速、軌道修正などの操作や制御が可能であるが、中性子にはそれが使えない。自由中性子を制御し、減速、進路の変更、吸収などの結果を得るには進路に原子核を配置するしかない。このことは平均自由行程と併せて原子炉や核兵器を設計する際、非常に重要である。 中性子の質量などは、物理定数の1種としてCODATAより4年に1度のペースでNISTのWebページを介して公開されている。 中性子はその運動エネルギー(運動速度)に応じて大体以下のように分類される。 1914年にイギリスのラザフォードは、重い原子核ではα線を接近させてもクーロン力によって弾き返されるが、軽い原子核では原子核かα粒子いずれかの破壊が起こるのではないかと考え、1917年から1919年にかけて、さまざまな条件下で空気に対してα線を当て、ZnSのシンチレーションを利用して破壊の影響で生ずる可能性のある粒子を発見しようと試みた結果、水素の原子核が発見された。この水素の原子核は、α線が空気中の窒素の原子核に当たった際に という核反応によって生ずるものである。この結果を受けてラザフォードは、翌1920年にロンドン王立協会に於いて行なった講義の中で、原子核を構成する粒子には陽子の他に陽子とほとんど同じ質量で中性の粒子が存在すると予想した。 1929年に中性子の発見により、ソ連のヴィクトル・アンバルツミャンとドミトリー・イワネンコは直ちに原子核の構造についての従来の見解を改変し、「原子核の中には中性子と陽子だけが含まれており、電子は存在しない」という説を提唱した。ヴェルナー・ハイゼンベルクもこれを支持し、以後の原子核理論の方向性を決めることになったと言われる彼の3部作の論文『原子核の構造について1〜3(Über den Bau der Atomkerne I-III)』の基本仮定として採用されることとなった。 それから10年後の1930年にドイツのW・ボーテとH・ベッカーは、ポロニウムから放出されるα線を、リチウム、ベリリウム、ホウ素などの軽元素に当てると非常に強い透過力をもった放射線(当時はまだベリリウム線と呼ばれていた)が放出されることを発見した。2人はベリリウム線の正体はγ線であると推測し、そのエネルギーは普通のγ線の大体2倍程度であると結論付けた。 その翌年の1931年に、ジョリオ=キュリー夫妻(イレーヌと夫のフレデリック)は、パリのラジウム研究所において、このベリリウム線をパラフィンやセロファンなどの水素を含む物質にあてると、これから高速度の水素核すなわち陽子が飛び出すことを発見した。2人もやはりボーテとベッカーと同じくベリリウム線の正体はγ線であると考えていたが、実験からさまざまな矛盾が出て来た。その結果を受ける形で、同年、ケンブリッジ大学の Webster によって、ベリリウム線の放出がγ線の放出と全く異なることが示された。 これらの実験結果を総合して、同年に同じくケンブリッジ大学の物理学者ジェームズ・チャドウィックは、それら矛盾はベリリウム線をγ線と仮定していることに起因していることに気付き、これが陽子とほとんど同じ質量で中性(電荷を持たない)の新しい素粒子からなる粒子線であることを実験的に確認し、これを中性子 (neutron) と名付けた。
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中性子(ちゅうせいし、とは、原子核を構成する粒子のうち、無電荷の粒子のことで、バリオンの1種である。原子核反応式などにおいては記号 n で表される。質量数は原子質量単位で約 1.00867 u、自由な中性子は平均寿命は約15分でβ崩壊を起こし陽子となる。原子核は、陽子と中性子という2種類の粒子によって構成されているため、この2つを総称して核子と呼ぶ。
{{Infobox particle |名前=中性子 |画像=[[Image:Stylised atom with three Bohr model orbits and stylised nucleus.png|200px]] |説明=ナイーブな[[リチウム]]原子の[[原子模型]]。青い球体が{{Nowrap|'''中性子'''}}を表す。ただし、正確な縮尺ではなく、[[電子]]が定まった軌道を回っているわけでもない。 |組成={{粒子の記号|link=yes|u}}{{粒子の記号|link=yes|d}}d |統計=[[フェルミ粒子]] |グループ=[[バリオン]] |反粒子=[[反中性子]]({{粒子の記号|link=yes|反n}}) |理論化=[[アーネスト・ラザフォード]] (1920) |発見=[[ジェームズ・チャドウィック]] (1932) |記号='''{{粒子の記号|n}}''' |質量={{val|1.674927471|(21)|e=-27|ul=kg}}{{R|mn}}<br />{{val|939.5654133|(58)|ul=MeV/c2}}{{R|mnc2mev}} |平均寿命={{val|886.7|1.9|u=秒}}{{sfnp|日本アイソトープ協会|1992|p=29}}(核子や中性子星以外) |崩壊粒子=[[陽子]] |電荷=0 |スピン={{frac|1|2}} |ストレンジネス=0 |アイソスピン=&minus;{{frac|1|2}} |超電荷={{frac|1|2}} |パリティ=+1}} {{読み仮名|'''中性子'''|ちゅうせいし|{{lang-la-short}}{{lang-nl-short}}{{lang-de-short}}{{lang-fr-short}}{{lang-en-short|neutron}}}}とは、[[原子核]]を構成する粒子のうち、無電荷の粒子のことで、[[バリオン]]の1種である。[[原子核反応|原子核反応式]]などにおいては記号 '''n''' で表される。[[質量数]]は[[統一原子質量単位|原子質量単位]]で約 {{val|1.00867|u=u}}、自由な中性子は[[平均寿命#素粒子・放射性同位体の平均寿命|平均寿命]]は約15分で[[ベータ崩壊|β崩壊]]を起こし[[陽子]]となる{{sfnp|日本アイソトープ協会|1992|p=29}}。原子核は、陽子と中性子という2種類の粒子によって構成されているため、この2つを総称して[[核子]]と呼ぶ<ref group="注">[[陽子]]1個で出来ている [[水素|{{SubSup||1|1}}H]] と陽子3個で出来ている [[リチウム3|{{SubSup||3|3}}Li]] の2つを例外として、2015年現在の時点で発見報告のある[[原子]]の内、最も重い [[オガネソン|{{SubSup||118|294}}Og]] までの全ての"''既知の''"原子核は陽子と中性子の2種類の核子から構成されている。</ref>。 {{main2|原子核内で核子同士をまとめておく力|パイ中間子}} == 概要 == [[中性子の発見]]は1920年の[[アーネスト・ラザフォード]]による予想に始まり、その存在の実験的証明は1932年にケンブリッジ大学の物理学者[[ジェームズ・チャドウィック]]によってなされた<ref group="注">チャドウィックによる実験的確証を得るまでの経緯については、[[#atomica|チャドウィックによる中性子の発見]]が詳しい。</ref>。その実験とは、[[ベリリウム]]に高速の[[アルファ粒子|α粒子]]を当てることで次の核反応 :<chem>_4^9Be + _2^4He -> _6^{12}C + _0^1n</chem> を起こし、ここで発生する粒子 n を[[パラフィン]]などで受け、原子核と衝突させることでさらに陽子を飛び出させ、この荷電粒子である陽子を検出するというものであった{{sfnp|Murray|杉本|1955|p=29}}。チャドウィックは上記の核反応で発生する粒子(当時はまだベリリウム線と呼ばれていた)n が、陽子とほとんど同じ質量で中性(電荷を持たない)の新しい粒子からなる粒子線であることを確認し、これを'''中性子''' (neutron) と名付けた{{sfnp|武谷|1954|pp=93-95}}。 {{main2|発見に関する詳しい歴史|#歴史}} 中性子は、[[電荷]]を持っていないことから<ref group="注">電荷を持たないため、直接的に観測することが難しく、中性子の発見は電子や陽子と比べて遅れた。</ref>、他の電荷をもつ陽子などに比べて、入射した物質の原子核と容易に直接反応することができる。[[電磁相互作用|電磁気力]]の影響を受けない[[中性子線]]は透過性が高く、原子核の[[核変換]]に使う粒子として重要である<ref group="注">通常の状態では荷電していない原子は中性子と同じようには利用することができない。なぜならば、正電荷を持つ原子核の周りに負電荷を持つ電子が広く分布していることから、原子は中性子よりも約1万倍も大きいものとして扱わなくてはならないためである。</ref>。 == 特徴 == 自由な中性子、及び中性子数過剰の原子核中の中性子は不安定であり[[ベータ崩壊]]を起こす<ref group="注">例えば[[三重水素]]は[[重水素]]とは異なり、不安定核種である。</ref>。<!--[[ニュートロニウム|原子核の外]]ではわずかな例外を除いて中性子は不安定であり、-->自由な中性子は平均寿命 {{val|886.7|1.9|u=秒}}(約15分){{sfnp|日本アイソトープ協会|1992|p=29}}、[[半減期]]約10.3分{{R|化学小事典}}で陽子と[[電子]]及び[[反電子ニュートリノ]]に崩壊し、それを反応式で表すと :<math chem>\ce{n -> p{} + e^-{} + \bar{\nu}_{e}}+0.78\,\mathrm{MeV}</math> となる<ref group="注">同様な崩壊([[ベータ崩壊|β崩壊]])が何種類かの原子核においても起こる。核内の粒子(核子)は、中性子と陽子の間の[[共鳴]]状態であり、中性子と陽子は互いに[[パイ中間子|π中間子]]を放出・吸収して移り変わっている。これは、[[アイソスピン]]という考え方に基づいたもので、陽子と中性子は質量や核力がほぼ等しいので、共にアイソスピンが &plusmn;{{sfrac|1|2}} の核子という1つの粒子の異なる荷電状態であり、+ の状態が陽子で &minus; の状態が中性子であるとする考え方のことである。</ref>。中性子は[[バリオン]]の一種であり、[[クォークモデル|ヴァレンス・クォーク模型]]の見方をとれば、2個の[[ダウンクォーク]]と1個の[[アップクォーク]]という3個の[[クォーク]]によって構成されている<ref name="nipponica">[[#Reference-Kotobank-中性子|日本大百科全書]]</ref>。中性子は全体として電荷を持たないが、内部では正負の電荷が分布しており、その広がりは約 {{1e-|16}} [[メートル|m]] である{{R|nipponica}}。 電荷を持たない中性子と原子との相互作用は、非常に短距離でのみ働く[[核力]]によるものがほぼ全てである<ref group="注">陽子、電子や[[アルファ粒子|α粒子]]などの荷電粒子や、[[ガンマ線|γ線]]のような[[電磁波]]は、物質中を通過する際に電磁気力によって通過する物質の原子を[[イオン化]]するため、[[エネルギー]]を失う。イオン化に費やされたエネルギーはすなわち、[[荷電粒子]]の失ったエネルギーであり、その結果、荷電粒子は減速し、γ線は吸収されるが、中性子はそのような過程でエネルギーを失うことはない。</ref>。また、核力の到達範囲はせいぜい[[パイ中間子|π中間子]]の換算[[コンプトン波長]] {{math|{{sfrac|''h''|2''&pi;m''{{sub|&pi;}}''c''}}}} である約 {{val|1.4|e=-15|u=m}}{{R|物理小事典}} - {{val|2.0|e=-15|u=m}}{{R|化学小事典}} 程度、即ち中性子の電荷分布の広がりである {{val|0.1|u=fm}}{{R|nipponica}} 程度しかない。従って、物質中を移動する自由な中性子は、原子核と「正面」衝突するまで直進する。原子核の[[反応断面積|断面積]]は非常に小さいため衝突は稀にしか起こらず、中性子は衝突までに長い行程を飛ぶことになる。生成した中性子が他の原子核と衝突するまで移動する距離を[[平均自由行程]]({{lang-en-short|mean freepath}})という指標で表す<ref group="注">空気中で {{Val|220|u=m}}、[[軽水]]の場合は {{Val|0.17|u=㎝}}、[[重水]]では {{Val|1.54|u=㎝}}、[[ウラン]]では {{Val|0.035|u=㎝}} である。</ref>。 弾性衝突を起こすような場合、[[運動量保存則]]に従い、[[ビリヤード]]のボールが互いに衝突するように振る舞う。もし衝突された核が重い場合は核の加速は比較的少ない。中性子とほぼ等しい質量をもつ陽子(水素原子)と衝突した場合、陽子は元々の中性子が持っていた運動量のほとんどを受け取りはじき出される。一方、中性子はほとんどの運動量を失うが、この衝突の結果生じる二次的に放射された粒子が電荷を持っている場合、電離作用があるため、検知することが可能である。 電気的に中性であるため、観測だけでなく中性子を制御するのも難しい。荷電粒子に対しては電磁場によって加速、減速、軌道修正などの操作や制御が可能であるが、中性子にはそれが使えない。自由中性子を制御し、減速、進路の変更、吸収などの結果を得るには進路に原子核を配置するしかない。このことは平均自由行程と併せて[[原子炉]]や[[核兵器]]を設計する際、非常に重要である。 === 諸定数 === 中性子の[[質量]]などは、[[物理定数]]の1種として[[科学技術データ委員会|CODATA]]より4年に1度のペースで[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]のWebページを介して公開されている<ref>[[#nist|2014CODATA推奨値(一覧)]]</ref>。 ; 質量 : 中性子の質量 {{math|''m''{{sub|n}}}} は : <math>\begin{align}m_\text{n}&=1.674\ 927\ 471(21)\times 10^{-27}\,\mbox{kg}\\ &=939.565\ 4133(58)\,\mbox{MeV}/c^2\end{align}</math> : であり<ref name="mn">[[#mn|CODATA Value]]</ref><ref name="mnc2mev">[[#mnc2mev|CODATA Value]]</ref>、統一原子質量単位で表すと {{val|1.00866491588|(49)|u=u}} となる<ref>[[#mnu|CODATA Value]]</ref>。 : また、陽子の質量 {{math|''m''{{sub|p}}}} や[[電子]]の質量 {{math|''m''{{sub|e}}}} に対する比は :<math>\begin{align}&\frac{m_\text{n}}{m_\text{p}}=1.001\ 378\ 418\ 98(51)\\ &\frac{m_\text{n}}{m_\text{e}}=1838.683\ 661\ 58(90)\end{align}</math> : である<ref>[[#mnsmp|CODATA Value]]</ref><ref>[[#mnsme|CODATA Value]]</ref>。 : さらに、中性子の質量 {{math|''m''{{sub|n}}}} は同じ核子である陽子の質量 {{math|''m''{{sub|p}}}} よりわずかに大きい程度で、その差はわずか :<math>m_\text{n}-m_\text{p}=2.305\ 573\ 77(85)\times 10^{-30}\,\mbox{kg}</math> : である<ref>[[#mnmmp|CODATA Value]]</ref>。ただし、中性子は陽子とは異なり、電気的に無電荷(中性)であるため、陽子や電子が持っているような[[質量電荷比#電荷質量比|比電荷]]という値を持たない。 ; コンプトン波長 : 中性子の[[コンプトン波長]] {{math|''&lambda;''{{sub|n}}}} や換算コンプトン波長 {{math|{{sfrac|''&lambda;''{{sub|n}}|2''&pi;''}}}} は : <math>\begin{align}&\lambda_\text{n}=\frac{h}{m_\text{n}c}=1.319\ 590\ 904\ 81(88)\times 10^{-15}\,\mbox{m}\\ &\frac{\lambda_\text{n}}{2\pi}=0.210\ 019\ 415\ 36(14)\times 10^{-15}\,\mbox{m}\end{align}</math> : である<ref>[[#ncomwl|CODATA Value]]</ref><ref>[[#ncomwlbar|CODATA Value]]</ref>。 ;磁気モーメント : 中性子は電気的には無電荷で中性であるが、[[磁気モーメント]]を持っており、その値 {{math|''&mu;''{{sub|n}}}} は : <math>\mu_\text{n}=-0.966\ 236\ 50(23)\times 10^{-26}\,\mbox{J}\,\mbox{T}^{-1}</math> : である<ref>[[#munn|CODATA Value]]</ref>。電気的には中性である中性子が磁気モーメントを持つ理由は、中性子を構成する3個の各クォークの磁気モーメントの和として説明される<ref name="物理小事典">[[#jiten|物理小事典]]</ref>。 : また、核磁子 {{math|''&mu;''{{sub|N}}}} に対する比([[異常磁気モーメント]])は : <math>\frac{\mu_\text{n}}{\mu_\text{N}}=-1.913\ 042\ 73(45)</math> : である<ref>[[#munsmun|CODATA Value]]</ref>。 === 中性子温度による分類 === 中性子はその運動エネルギー(運動速度)に応じて大体<ref group="注">厳密な分類ではなく、ほぼその領域で分けられるという意味である。</ref>以下のように分類される{{sfnp|日本アイソトープ協会|1992|pp=29-30}}<ref name="化学小事典">[[#jiten2|化学小事典]]</ref>。 {|class="wikitable" style="text-align:left" |+中性子の運動エネルギーによる分類 |- ![[中性子温度]]に応じた名称!!エネルギー ({{Mvar|E}}) の範囲([[電子ボルト]]) |- |[[冷中性子]] (cold neutrons) |style="text-align:center"|{{Math|''E'' &lt; {{Val|0.026|u=eV}}}} |- |[[熱中性子]] (thermal neutrons) |style="text-align:center"|{{Math|0.001 &lt; ''E'' &lt; {{Val|0.01|u=eV}}}} |- |[[熱外中性子]] (epithermal neutrons) |style="text-align:center"|{{Math|0.1 &lt; ''E'' &lt; {{Val|e=2|u=eV}}}} |- |[[低速中性子]] (slow neutrons) |style="text-align:center"|{{Math|0.1 &lt; ''E'' &lt; {{Val|e=3|u=eV}}}} |- |[[中速中性子]] (intermediate neutrons) |style="text-align:center"|{{Math|1 &lt; ''E'' &lt; {{Val|500|u=keV}}}} |- |[[高速中性子]] (fast neutrons) |style="text-align:center"|{{Math|0.5 &lt; ''E'' &lt; {{Val|20|u=MeV}}}} |- |[[超高速中性子]] (ultrafast neutrons) |style="text-align:center"|{{Math|{{Val|20|u=MeV}} &lt; ''E''}} |} == 歴史 == {{main|中性子の発見}} [[1914年]]に[[イギリス]]の[[アーネスト・ラザフォード|ラザフォード]]は、重い原子核では[[アルファ粒子|α線]]を接近させても[[クーロンの法則|クーロン力]]によって弾き返されるが、軽い原子核では原子核かα粒子いずれかの破壊が起こるのではないかと考え、[[1917年]]から[[1919年]]にかけて、さまざまな条件下で空気に対してα線を当て、[[硫化亜鉛|ZnS]]の[[シンチレータ|シンチレーション]]を利用して破壊の影響で生ずる可能性のある[[粒子]]を発見しようと試みた結果、[[水素]]の原子核が発見された{{sfnp|Rutherford|1919}}。この水素の原子核は、α線が空気中の[[窒素]]の原子核に当たった際に :<chem>_2^4He + ^{14}_7N -> ^{17}_8O + ^1_1H</chem> という[[原子核反応|核反応]]によって生ずるものである。この結果を受けてラザフォードは、翌[[1920年]]に[[王立協会|ロンドン王立協会]]に於いて行なった講義の中で、原子核を構成する粒子には陽子の他に陽子とほとんど同じ質量で中性の粒子が存在すると予想した{{sfnp|Rutherford|1920}}{{R|atomica}}。 [[1929年]]に中性子の発見により、ソ連の[[ヴィクトル・アンバルツミャン]]と[[ドミトリー・イワネンコ]]は直ちに原子核の構造についての従来の見解を改変し、「原子核の中には中性子と陽子だけが含まれており、電子は存在しない」という説を提唱した。[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]もこれを支持し、以後の原子核理論の方向性を決めることになったと言われる彼の3部作の論文『原子核の構造について1〜3(Über den Bau der Atomkerne Ⅰ-Ⅲ){{sfnp|Ambartsumian1930|1930}}{{sfnp|Heisenberg|1932a}}{{sfnp|Heisenberg|1932b}}』の基本仮定として採用されることとなった{{sfnp|湯川|坂田|武谷|1965|pp=44-45}}{{R|nipponica}}。 それから10年後の[[1930年]]に[[ドイツ]]の[[ヴァルター・ボーテ|W・ボーテ]]と[[ハーバート・ベッカー|H・ベッカー]]は、[[ポロニウム]]から放出されるα線を、[[リチウム]]、[[ベリリウム]]、[[ホウ素]]などの軽元素に当てると非常に強い透過力をもった[[放射線]](当時はまだベリリウム線と呼ばれていた)が放出されることを発見した{{sfnp|Bothe|Becker|1930a}}{{R|atomica}}。2人はベリリウム線の正体は[[ガンマ線|γ線]]であると推測し、そのエネルギーは普通のγ線の大体2倍程度であると結論付けた{{sfnp|Bothe|Becker|1930b}}{{R|atomica}}。 その翌年の[[1931年]]に、ジョリオ=キュリー夫妻([[イレーヌ・ジョリオ=キュリー|イレーヌ]]と夫の[[フレデリック・ジョリオ=キュリー|フレデリック]])は、[[パリ]]のラジウム研究所において、このベリリウム線を[[パラフィン]]や[[セロファン]]などの水素を含む物質にあてると、これから高速度の水素核すなわち陽子が飛び出すことを発見した{{sfnp|Curie|1931}}{{R|atomica}}。2人もやはりボーテとベッカーと同じくベリリウム線の正体は[[ガンマ線|γ線]]であると考えていたが{{sfnp|Curie|Joliot-Curie|1932}}{{R|nipponica|atomica}}、実験からさまざまな矛盾が出て来た{{refnest|group="注"|夫妻は陽子が飛び出して来る理由を、γ線が陽子に当たった際に発生する[[コンプトン効果]]であると考えた。そこで、飛び出して来る陽子のエネルギーからそのエネルギーを計算してみると、γ線の持つエネルギーが {{Val|50|u=MeV}} となった{{R|atomica}}。}}。その結果を受ける形で、同年、ケンブリッジ大学の Webster によって、ベリリウム線の放出がγ線の放出と全く異なることが示された。 これらの実験結果を総合して、同年に同じくケンブリッジ大学の物理学者[[ジェームズ・チャドウィック]]は、それら矛盾はベリリウム線をγ線と仮定していることに起因していることに気付き、これが陽子とほとんど同じ質量で中性(電荷を持たない)の新しい素粒子からなる粒子線であることを実験的に確認し{{sfnp|Chadwick|1932a}}<ref name="atomica">[[#atomica|チャドウィックによる中性子の発見]]</ref>、これを'''中性子''' (neutron) と名付けた{{sfnp|Chadwick|1932b}}{{sfnp|武谷|1954|pp=93-95}}{{R|nipponica}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|30em|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 関連文献 == === 原論文 === {{定義リスト2 | [[アーネスト・ラザフォード]] | * {{Cite journal|title=Collisions of alpha Particles with Light Atoms. IV. An Anomalous Effect in Nitrogen.|url=http://web.lemoyne.edu/~giunta/rutherford.html|first=E.|last=Rutherford|authorlink=アーネスト・ラザフォード|journal=F. R. S.|publisher=The London, Edinburgh and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science|series=6th series|volume=37|issue=581|date=1919|ref=harv}} * {{Cite journal|title=Bakerian Lecture: Nuclear Constitution of Atoms|url=http://web.lemoyne.edu/~giunta/ruth1920.html|first=E.|last=Rutherford|authorlink=アーネスト・ラザフォード|journal=[[フィロソフィカル・トランザクションズ|Proc. Roy. Soc. A]]|volume=97|issue=686|pages=374-400|date=June 3, 1920|doi=10.1098/rspa.1920.0040|ref=harv}} | [[ヴァルター・ボーテ]]およびH.ベッカー | * {{Cite journal|first=W.|last=Bothe|first2=H.|last2=Becker|authorlink1=ヴァルター・ボーテ|title=Künstliche Erregung von Kern-γ-Strahlen|journal=[[ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク|Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei]]|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]]|year=1930|month=May|volume=66|issue=5-6|pages=289-306|oclc=884174965|issn=0044-3328|bibcode=1930ZPhy...66..289B|doi=10.1007/BF01390908|ref={{Sfnref|Bothe|Becker|1930a}}}} * {{Cite journal|first=W.|last=Bothe|first2=H.|last2=Becker|authorlink1=ヴァルター・ボーテ|title=Eine γ-Strahlung des Poloniums|journal=[[ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク|Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei]]|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]]|year=1930|month=May|volume=66|issue=5-6|pages=307-310|oclc=884174965|issn=0044-3328|doi=10.1007/BF01390909|ref={{Sfnref|Bothe|Becker|1930b}}}} * {{Cite journal|title=Die in Bor und Beryllium erregten γ-Strahlen|year=1932|month=July|last1=Becker|first1=H.|last2=Bothe|first2=W.|authorlink2=ヴァルター・ボーテ|journal=[[ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク|Zeitschrift für Physik]]|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]]|volume=76|issue=7–8|page=421-438|oclc=884174965|issn=0044-3328|bibcode=1932ZPhy...76..421B|doi=10.1007/BF01336726}} | [[イレーヌ・ジョリオ=キュリー]]と[[フレデリック・ジョリオ=キュリー]]の夫妻 | * {{Cite journal|first=I.|last=Curie|authorlink=イレーヌ・ジョリオ=キュリー|url=http://visualiseur.bnf.fr/CadresFenetre?O=NUMM-3146&I=1416|title=Sur le rayonnement γ nucléaire excité dans le glucinium et dans le lithium par les rayons α du polonium.|journal=C. R. Acad. Sci. Paris|volume=193|pages=1412-1414|date=December 28, 1931|oclc=49235124|issn=1631-073X|ref=harv}} * {{Cite journal|first=F.|last=Joliot-Curie|authorlink=フレデリック・ジョリオ=キュリー|url=http://visualiseur.bnf.fr/CadresFenetre?O=NUMM-3146&I=1419|title=Sur l'excitation des rayons γ nucléaires du borepar les particules α Énergie quantique du rayonnement γ du polonium.|journal=C. R. Acad. Sci. Paris|volume=193|pages=1415-1417|date=December 28, 1931|oclc=49235124|issn=1631-073X}} * {{Cite journal|first=I.|last=Curie|first2=F.|last2=Joliot-Curie|authorlink=イレーヌ・ジョリオ=キュリー|authorlink2=フレデリック・ジョリオ=キュリー|url=http://visualiseur.bnf.fr/CadresFenetre?O=NUMM-3147&I=273|title=Émission de protons de grande vitesse par les substances hydrogénées sous l'influence des rayons γ très pénétrants.|journal=C. R. Acad. Sci. Paris|volume=194|pages=273-275|date=April 11, 1932|oclc=49235124|issn=1631-073X|ref=harv}} * {{Cite journal|first=I.|last=Curie|first2=F.|last2=Joliot-Curie|authorlink=イレーヌ・ジョリオ=キュリー|authorlink2=フレデリック・ジョリオ=キュリー|url=http://visualiseur.bnf.fr/CadresFenetre?O=NUMM-3147&I=1236|title=Sur la nature du rayonnement pénétrant excité dans les noyaux légers par les particules α.|journal=C. R. Acad. Sci. Paris|volume=194|pages=1229-1232|date=April 11, 1932|oclc=49235124|issn=1631-073X}} | [[ジェームズ・チャドウィック]] | * {{Cite journal|title=Possible Existence of a Neutron|url=http://www.chemteam.info/Chem-History/Chadwick-neutron-letter.html|first=James|last=Chadwick|authorlink=ジェームズ・チャドウィック|journal=[[ネイチャー|Nature]]|volume=129|issue=3252|page=312|date=February 27, 1932|oclc=263593080|issn=0028-0836|bibcode=1932Natur.129Q.312C|doi=10.1038/129312a0|ref={{Sfnref|Chadwick|1932a}}}} * {{Cite journal|title=The Existence of a Neutron|url=http://www.chemteam.info/Chem-History/Chadwick-1932/Chadwick-neutron.html|first=J.|last=Chadwick|authorlink=ジェームズ・チャドウィック|publisher=F.R.S.|journal=[[フィロソフィカル・トランザクションズ|Proc. Roy. Soc., A]]|volume=136|issue=830|pages=692-708|date=May 10, 1932|doi=10.1098/rspa.1932.0112|ref={{Sfnref|Chadwick|1932b}}}} * {{Cite journal|title=Bakerian Lecture. The Neutron|date=June 27, 1933|last1=Chadwick|first1=J.|authorlink=ジェームズ・チャドウィック|journal=[[フィロソフィカル・トランザクションズ|Proc. Roy. Soc., A]]: Mathematical, Physical and Engineering Sciences|volume=142|issue=846|page=1-25|bibcode=1933RSPSA.142....1C|doi=10.1098/rspa.1933.0152}} | [[ヴェルナー・ハイゼンベルク]] | * {{Cite journal|last=Heisenberg|first=W.|authorlink=ヴェルナー・ハイゼンベルク|title=Über den Bau der Atomkerne. I|trans-title=原子核の構造について 1|journal=[[ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク|Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei]]|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]]|volume=77|issue=1-2|pages=1–11|year=1932|month=January|oclc=884174965|issn=0044-3328|doi=10.1007/BF01342433|bibcode=1932ZPhy...77....1H|ref={{Sfnref|Heisenberg|1932a}}}} * {{Cite journal|last=Heisenberg|first=W.|authorlink=ヴェルナー・ハイゼンベルク|title=Über den Bau der Atomkerne. II|trans-title=原子核の構造について 2|journal=[[ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク|Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei]]|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]]|volume=78|issue=3–4|pages=156–164|year=1932|month=March|oclc=884174965|issn=0044-3328|doi=10.1007/BF01337585|bibcode=1932ZPhy...78..156H|ref={{Sfnref|Heisenberg|1932b}}}} * {{Cite journal|last=Heisenberg|first=W.|authorlink=ヴェルナー・ハイゼンベルク|title=Über den Bau der Atomkerne. III|trans-title=原子核の構造について 3|journal=[[ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク|Zeitschrift für Physik A Hadrons and Nuclei]]|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|Springer-Verlag]]|volume=80|issue=9–10|pages=587–596|year=1933|month=September|oclc=884174965|issn=0044-3328|doi=10.1007/BF01335696|bibcode=1933ZPhy...80..587H|ref=harv}} | [[ヴィクトル・アンバルツミャン]] | * {{Cite journal|last=[[ヴィクトル・アンバルツミャン|Ambarzumian V.]]|first= Iwanenko D.|title=Les électrons inobservables et les rayons|оригинал=|url=|автор издания=|publisher=Compt. Rend. Acad. Sci. Paris|month= |oclc= |place=Paris|year=1930|том=190|volume=|pages=582|issn=|doi=|ref=Ambartsumian1930}} * {{Cite journal|author= |title=V. A. Ambartsumian — a life in science |trans-title=Astrophysics |number= |url= |place=London |month= |oclc= |publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer]] |year=2008 |volume=51 |pages=280—293 |issn= |doi=10.1007/s10511-008-9016-6 |lang=en |ref=Ambartsumian2008}} }} == 参考文献 == === 書籍 === {{定義リスト2 | 洋書 | * {{cite book|first=A. Edward|last=Profio|title=Experimental Reactor Physics|url=http://www.osti.gov/scitech/biblio/4072969|edition=1st|location=[[ニューヨーク|New York]]|publisher=[[ジョン・ワイリー・アンド・サンズ|John Wiley & Sons]]|date=February 3, 1976|page=4|isbn=0-471-70095-9|ncid=BA07529299|oclc=1849155|asin=0471700959}} | 和書 | * {{cite book|和書|author=スティーブン・ワインバーグ|authorlink=スティーヴン・ワインバーグ|translator=[[本間三郎 (物理学者)|本間三郎]]|title=電子と原子核の発見―20世紀物理学を築いた人々|url=http://www.nikkei-science.com/page/sci_book/06260.html|publisher=[[日経サイエンス]]社|date=1986-01-23|pages=171-178|id={{全国書誌番号|86023308}}|oclc=674589858|isbn=978-4532062606|ncid=BN00244226|asin=4532062608}} * {{cite book|和書|author=エミリオ・セグレ|authorlink=エミリオ・セグレ|translator=[[久保亮五]]、矢崎裕二|title=X線からクオークまで―20世紀の物理学者たち|url=http://www.msz.co.jp/book/detail/02466.html|publisher=[[みすず書房]]|date=1982-12-24|pages=235-245|id={{全国書誌番号|83015277}}|isbn=978-4622024668|ncid=BN00625139|oclc=674354038|asin=4622024667}} * {{cite book|和書|author=ノーベル財団|authorlink=ノーベル財団|editor=[[中村誠太郎]]、小沼通二編|title=ノーベル賞講演、物理学|volume=第5巻|publisher=[[講談社]]|date=1978-10|pages=141-152|isbn=978-4061263352|asin=4061263358}} * {{cite book|和書|author=ジェームズ・チャドウィック|authorlink=ジェームズ・チャドウィック|translator=木村一治、玉木英彦|title=中性子の発見と研究|publisher=大日本出版|date=1950|pages=3-66|asin=B000JB7JHW}} * {{cite book|和書|title=放射線・アイソトープ 講義と実習|editor=[[日本アイソトープ協会]](編)|publisher=[[丸善]]|date=1992-10|id={{全国書誌番号|93002007}}|isbn=978-4621037454|ncid=BN08081205|asin=4621037455|oclc=674781852|ref={{sfnref|日本アイソトープ協会|1992}}}} * {{cite book|和書|title=原子核工学|first=Raymond L.|last=Murray|translator=杉本 朝雄|publisher=丸善|year=1955|asin=B000JB4RX6|ref={{Sfnref|Murray|杉本|1955}}}} * {{cite book|和書|title=素粒子の探求|last=湯川|first=秀樹|last2=坂田|first2=昌一|last3=武谷|first3=三男|authorlink1=湯川秀樹|authorlink2=坂田昌一|authorlink3=武谷三男|date=1965-05|series=科学論・技術論双書|publisher=[[勁草書房]]|isbn=978-4326798032|asin=4326798033|ref=harv}} * {{cite book|和書|title=熱力学・統計力学|last=原島|first=鮮|authorlink=原島鮮|edition=改訂版|publisher=[[培風館]]|date=1978-09|id={{全国書誌番号|78030419}}|isbn=978-4563021399|ncid=BN00073393|asin=4563021393|ref=harv}} * {{cite book|和書|title=弁証法の諸問題|last=武谷|first=三男|authorlink=武谷三男|publisher=勁草書房・[[理論社]]|date=1954-11-20|asin=B000JB5HKI|ref=harv}} * {{Cite book|和書|title=物理小事典|edition=第4版|date=2008|origdate=1994-04|publisher=[[三省堂]]|id={{全国書誌番号|94041161}}|oclc=675375379|ncid=BN10774805|asin=4385240167|isbn=978-4385240169|ref=jiten}} * {{Cite book|和書|title=化学小事典|edition=第4版|date=2008|origdate=1993-12|publisher=三省堂|id={{全国書誌番号|95021622}}|ncid=BN10357874|oclc=674607619|asin=4385240256|isbn=978-4385240251|ref=jiten2}} }} == 関連項目 == {{div col|colwidth=20em}} * [[原子核物理学]] * [[核種]] * [[同位体]] * [[中性子線]] * [[高速中性子]] * [[中性子星]] * [[中性子回折法]] * [[中性子捕捉療法]] * [[中性子拡散方程式]] * [[中性子爆弾]] * [[原子]] * [[陽子]] * [[電子]] * [[反中性子]] * [[中間子]] * [[ニュートロニウム]] {{div col end}} ==外部リンク== * {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Category?view=pdf&Atomic+and+nuclear|title=Fundamental Physical Constants — Atomic and Nuclear Constants|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|NIST]]|format=PDF|ref=nist}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mn|title=CODTA Value: neutron mass|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=mn}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mnc2mev|title=CODATA Value: neutron mass energy equivalent in MeV|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=mnc2mev}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mnu|title=CODATA Value: neutron mass in u|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=mnu}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mnsme|title=CODATA Value: neutron-electron mass ratio|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=mnsme}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mnsmp|title=CODATA Value: neutron-proton mass ratio|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=mnsmp}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?mnmmp|title=CODATA Value: neutron-proton mass difference|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=mnmmp}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?ncomwl|title=CODATA Value: neutron Compton wavelength|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=ncomwl}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?ncomwlbar|title=CODATA Value: neutron Compton wavelength over 2 pi|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=ncomwlbar}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?munn|title=CODATA Value: neutron magnetic moment|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=munn}} ** {{Cite web|url=http://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?munsmun|title=CODATA Value: neutron magnetic moment to nuclear magneton ratio|publisher=NIST|date=2015-06-25|accessdate=2015-06-28|ref=munsmun}} * {{Cite web|和書|url=https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_16-03-03-09.html|title=チャドウィックによる中性子の発見|work=[[原子力]][[百科事典]] [[ATOMICA]]|publisher=[[財団法人|一般財団法人]] [[高度情報科学技術研究機構]] (RIST)|date=1998-05|accessdate=2015-08-08|ref=atomica}} * [http://www.jsns.net/jp/ 日本中性子科学会] * {{Kotobank|2=[[日本大百科全書]](ニッポニカ)}} {{核技術}} {{原子力利用}} {{粒子の一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちゆうせいし}} [[Category:中性子|*]] [[Category:原子]] [[Category:核子]] [[Category:原子力]] [[Category:核兵器]] [[Category:放射線]] [[Category:核爆弾]] [[Category:原子物理学]] [[Category:原子核物理学]] [[Category:亜原子粒子]] [[Category:ハドロン]] [[Category:バリオン]] [[Category:原子力の歴史]]
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日本の仏尊
日本の仏尊(にほんのぶっそん, Japanese Buddhist pantheon)では、日本で信仰されている大乗仏教における信仰・造像の対象である、様々な仏(ほとけ, ブッダ)、菩薩、下級神の一覧を示す。 本来、仏とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀(如来)とする(狭義の仏)。しかし後に、仏陀に準ずる存在で悟りを開こうと修行している菩薩、密教特有の尊である明王、天部の護法善神などを含めた、仏教の信仰、造像の対象となる尊格を、広義の解釈として「仏(仏尊)」と総称するようになった。 大乗仏教では多くの如来・仏が後に生み出された。たとえば浄土三部経の一つ『阿弥陀経』には、三千大千世界(全宇宙の意)に、ガンジス川の砂粒の数(恒河沙)ほどの仏があまねく存在することが説かれている。このように大乗経典では仏の名前を列挙した経典も多数存在する。 なお上座部仏教では、仏は釈迦牟尼仏のみを指し、釈迦の尊像以外は信仰の対象とはしない(ただし、過去七仏など釈迦以前の仏(ブッダ・覚者)が存在したことは認めており、また未来仏である弥勒についても言及している)。 (「~仏」とよばれる場合もある) 観音菩薩(観世音菩薩または観自在菩薩の略)
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日本の仏尊では、日本で信仰されている大乗仏教における信仰・造像の対象である、様々な仏、菩薩、下級神の一覧を示す。 本来、仏とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀(如来)とする(狭義の仏)。しかし後に、仏陀に準ずる存在で悟りを開こうと修行している菩薩、密教特有の尊である明王、天部の護法善神などを含めた、仏教の信仰、造像の対象となる尊格を、広義の解釈として「仏(仏尊)」と総称するようになった。 大乗仏教では多くの如来・仏が後に生み出された。たとえば浄土三部経の一つ『阿弥陀経』には、三千大千世界(全宇宙の意)に、ガンジス川の砂粒の数(恒河沙)ほどの仏があまねく存在することが説かれている。このように大乗経典では仏の名前を列挙した経典も多数存在する。 なお上座部仏教では、仏は釈迦牟尼仏のみを指し、釈迦の尊像以外は信仰の対象とはしない(ただし、過去七仏など釈迦以前の仏が存在したことは認めており、また未来仏である弥勒についても言及している)。
{{出典の明記|date=2017年10月24日 (火) 13:31 (UTC)}} [[File:Buddhist Pantheon.jpg|thumb|right|350px|パリの[[ギメ東洋美術館]]にある仏像群]] {{大乗仏教}} '''日本の仏尊'''(にほんのぶっそん, Japanese Buddhist pantheon)では、[[日本]]で信仰されている[[大乗仏教]]における信仰・造像の対象である、様々な[[仏陀|仏]](ほとけ, ブッダ)、[[菩薩]]、下級神の一覧を示す。 本来、'''仏'''とは、[[仏教]]における最高の存在であり、[[悟り]]を開いた者である[[仏陀]]([[如来]])とする(狭義の仏)。しかし後に、仏陀に準ずる存在で[[悟り]]を開こうと修行している[[菩薩]]、[[密教]]特有の尊である[[明王]]、[[天部]]の[[護法善神]]などを含めた、仏教の[[信仰]]、造像の対象となる尊格を、広義の解釈として「仏(仏尊)」と総称するようになった。 大乗仏教では多くの如来・仏が後に生み出された。たとえば[[浄土三部経]]の一つ『[[阿弥陀経]]』には、三千大千世界(全宇宙の意)に、[[ガンジス川]]の砂粒の数([[恒河沙]])ほどの仏があまねく存在することが説かれている。このように大乗経典では仏の名前を列挙した経典も多数存在する。 なお[[上座部仏教]]では、仏は[[釈迦牟尼仏]]のみを指し、釈迦の尊像以外は信仰の対象とはしない(ただし、[[過去七仏]]など釈迦以前の仏(ブッダ・覚者)が存在したことは認めており、また未来仏である弥勒についても言及している)。 == 一覧 == {|class="wikitable" |+ 仏尊のヒエラルキー <ref>{{Cite |和書|title=仏像でわかる仏教入門 |series=講談社+α新書 |author=ひろさちや |isbn=978-4062722384 |date=2004}}</ref> !階層 !分類 !名称 |- |Level 1 |[[仏陀]] |如来部 |- |Level 2 |[[菩薩]] |菩薩部 |- |Level 3 |[[明王]] |明王部 |- |Level 4 |[[天部]] |天部、諸天諸神 |- |Level 5 |[[権現]] |権現/垂迹神 |- |Level 6 |宗教的尊者 |開祖・高僧・[[羅漢]] |} ===如来部=== (「~仏」とよばれる場合もある) *[[釈迦如来]] (釈迦牟尼仏) *[[阿弥陀如来]](阿弥陀仏) *[[薬師如来]](薬師瑠璃光如来、薬師仏) **[[蛸薬師]] *[[五智如来]](金剛界五仏) **[[大日如来]](遍照如来、毘盧遮那仏) **[[阿閦如来]](あしゅくにょらい) **[[宝生如来]] **[[観自在王如来]] - 阿弥陀如来と同一視する考え方もあるが、[[真言宗]]では別としている。 **[[不空成就如来]] *[[胎蔵界五仏]] ** [[大日如来]] ** [[宝幢如来]] - [[阿閦如来]]と同じとする説もある。 ** [[開敷華王如来]] ** [[無量寿如来]] ** [[天鼓雷音如来]] *[[法身普賢|普賢王如来]](本初仏、法身普賢、法身普賢王如来。普賢王如来は大日如来の別名。金剛界において大日如来は広大普遍な賢により治め、善の意をなす。故に普賢王如来と称し、またの名を法身普賢という){{Efn|普賢王如来は[[普賢菩薩]]ではない。}} *[[持金剛仏]] *[[多宝如来]] *[[毘盧遮那仏]](盧遮那仏、遍照遮那仏) *[[弥勒菩薩|弥勒如来]] *[[燃燈仏|定光如来]](燃燈仏) *[[過去七仏]](釈迦とそれ以前に出世された7人の仏) *[[天王如来]](提婆達多の未来での成仏する時の号) *[[大通智勝如来]] *[[世自在王仏]] *[[香積如来]] * [[阿弥陀経]]に登場する仏 **阿閦鞞仏 **須弥相仏 **大須弥仏 **須弥光仏 **妙音仏 **日月灯仏 **名聞光仏 **大焰肩仏 **須弥灯仏 **無量精進仏 **無量相仏 **無量幢仏 **大光仏 **大明仏 **宝相仏 **浄光仏 **焰肩仏 **最勝音仏 **難沮仏 **日生仏 **網明仏 **師子仏 **名聞仏 **名光仏 **達摩仏 **法幢仏 **持法仏 **梵音仏 **宿王仏 **香上仏 **香光仏 **大焔肩仏 **雑色宝華厳身仏 **沙羅樹王仏 **宝華徳仏 **見一切義仏 **如須弥山仏 * [[一字金輪仏頂]] * [[熾盛光仏頂]] * [[仏眼仏母]] * [[尊勝仏頂]] * [[白傘蓋仏頂]] ===菩薩部=== *[[文殊菩薩]] *[[普賢菩薩]] **[[普賢延命菩薩]] *[[薬王菩薩]]([[釈迦三尊]]も参照) *[[薬上菩薩]]([[釈迦三尊]]も参照) *[[地蔵菩薩]] **[[六体地蔵|六地蔵]]([[地蔵菩薩]]を参照) *[[虚空蔵菩薩]] **五大虚空蔵菩薩([[虚空蔵菩薩]]を参照) *[[弥勒菩薩]] *[[観音菩薩]](観世音菩薩または観自在菩薩の略。[[#観音部]]も参照) **[[聖観音]] **[[如意輪観音]] **[[十一面観音]] **[[千手観音]] **[[馬頭観音]](馬頭明王) **[[准胝観音]](七倶胝仏母) **[[不空羂索観音]] **六観音([[観音菩薩]]を参照) **三十三観音([[観音菩薩]]を参照) ***[[白衣観音]] ***[[魚籃観音]] *[[勢至菩薩]] *[[日光菩薩]] *[[月光菩薩]] *[[金剛薩埵]] *[[除蓋障菩薩]] *[[般若菩薩]] *[[転法輪菩薩]] *[[持世菩薩]] *[[毘倶胝菩薩]] *[[大随求菩薩]] *[[水月菩薩]] *[[除悪趣菩薩]] *[[四菩薩]] **上行菩薩([[四菩薩]]を参照) *[[五秘密菩薩]] *[[龍樹|龍樹菩薩]]- 地蔵菩薩とともに阿弥陀如来の[[脇侍]]となる場合がある。 *[[法苑林菩薩]] *[[大妙相菩薩]] *[[五大菩薩]] *[[馬鳴|馬鳴菩薩]](めみょう) *[[常不軽菩薩]] *[[大権修利菩薩]] *[[跋陀婆羅菩薩]] *[[八大菩薩]] *[[維摩居士]] *[[役小角奈]] *(妙見菩薩は[[天部]]に分類<ref>羽田守快『あなたの願いを叶える最強の守護神 聖天さま』[[大法輪閣]]、2017年、p17</ref>) ===観音部=== [[観音菩薩]](観世音菩薩または観自在菩薩の略) *極楽浄土の観世音菩薩(一切観音の正本位、阿弥陀如来の上首菩薩) *観世音菩薩過去・現在・未来の仏本位 **過去の仏本位 ***正法明如来(古仏) **現在の仏本位 ***阿弥陀如来(阿弥陀仏、無量寿仏、無量光仏、観自在王如来):観音は弥陀の「因相」、弥陀は観音の「果徳」。観世音菩薩は「蓮華部主」、阿弥陀如来は「蓮華部尊」。二尊「同体異名」、「無二無別」。 **未来の仏本位 ***普光功徳山王如来(普光功徳山王仏、遍出一切光明功徳山王如来) *六観音 **東密の六観音 ***[[聖観音]] ***[[千手観音]] ***[[十一面観音]] ***[[如意輪観音]] ***[[馬頭観音]](馬頭明王) ***[[准胝観音]](七倶胝仏母) **台密の六観音 ***[[聖観音]] ***[[千手観音]] ***[[十一面観音]] ***[[如意輪観音]] ***[[馬頭観音]](馬頭明王) ***[[不空羂索観音]] **『摩訶止観』の六観音 ***大慈観音 ***大悲観音 ***大光普照観音 ***大梵深遠観音 ***師子無畏観音 ***天人丈夫観音 *七観音(「東密の六観音」に「台密の不空羂索観音」を加えたもの) **[[聖観音]] **[[千手観音]] **[[十一面観音]] **[[如意輪観音]] **[[馬頭観音]](馬頭明王) **[[准胝観音]](七倶胝仏母) **[[不空羂索観音]] *五智五部観音(《千光眼観自在菩薩秘密法経》) **施無畏観自在(中央・白色・佛陀部観音・法界体性智) **金剛観自在(東方・青色・金剛部観音・大円鏡智) **与愿観自在(南方・黄色・珍宝部観音・平等性智) **現数観自在(西方・赤色・蓮花部観音・妙観察智) **鉤召観自在(北方・緑色・羯磨部観音・成所作智) *金剛界曼荼羅の四大観音(金剛界曼荼羅・西方・阿弥陀如来の四親近菩薩、《千光眼観自在菩薩秘密法経》) **金剛法菩薩(除怖観自在) **金剛利菩薩(宝剣観自在) **金剛因菩薩(智印観自在) **金剛語菩薩(不転観自在) *三十三観音 **(1)楊柳観音(ようりゅう観音) **(2)龍頭観音(りゅうず観音) **(3)持経観音(じきょう観音) **(4)円光観音(えんこう観音) **(5)遊戯観音(ゆげ観音) **(6)白衣観音(びゃくえ観音) **(7)蓮臥観音(れんが観音) **(8)滝見観音(たきみ観音) **(9)施薬観音(せやく観音) **(10)魚籃観音(ぎょらん観音) **(11)徳王観音(とくおう観音) **(12)水月観音(すいげつ観音) **(13)一葉観音(いちよう観音) **(14)青頚観音(しょうけい観音) **(15)威徳観音(いとく観音) **(16)延命観音(えんめい観音) **(17)衆宝観音(しゅうほう観音) **(18)岩戸観音(いわと観音) **(19)能静観音(のうじょう観音) **(20)阿耨観音(あのく観音) **(21)阿摩提観音(あまだい観音) **(22)葉衣観音(ようえ観音) **(23)瑠璃観音(るり観音) **(24)多羅尊観音(たらそん観音) **(25)蛤蜊観音(こうり、はまぐり観音) **(26)六時観音(ろくじ観音) **(27)普悲観音(ふひ観音) **(28)馬郎婦観音(めろうふ観音) **(29)合掌観音(がっしょう観音) **(30)一如観音(いちにょ観音) **(31)不二観音(ふに観音) **(32)持蓮観音(じれん観音) **(33)灑水観音(しゃすい観音) *[[多羅尊観音]](度母、多羅菩薩、多羅仏母、聖救度仏母、観音菩薩の目から発せられる聖なる光から生まれた16歳の少女の姿の菩薩、一切度母の主尊) **緑度母二十一尊 ***(1)緑度母(三昧耶多羅仏母、観音菩薩の左目の涙の変化身、二十一度母の主尊) ***(2)救災難度母 ***(3)救地災度母 ***(4)救水災度母 ***(5)救火災度母 ***(6)救風災度母 ***(7)増福慧度母 ***(8)救天災度母 ***(9)救兵災度母 ***(10)救獄難度母 ***(11)救盗難度母 ***(12)増威権度母 ***(13)救魔難度母 ***(14)救畜難度母 ***(15)救獣難度母 ***(16)救毒難度母 ***(17)伏魔度母 ***(18)薬王度母 ***(19)長寿度母(白度母、七眼仏母、增寿救度仏母) ***(20)宝源度母 ***(21)如意度母 **白度母(七眼仏母、増寿救度仏母、観音菩薩の右目の涙の変化身、二十一度母の長寿度母) **『聖救度佛母二十一種礼賛経』の二十一度母 ***(1)救度速勇母 ***(2)百秋朗月母 ***(3)紫磨金色母 ***(4)如来頂髻母 ***(5)怛囉吽字母 ***(6)釈梵火天母 ***(7)特囉胝発母 ***(8)都哩大緊母 ***(9)三宝厳印母 ***(10)威德歓悦母 ***(11)守護衆地母 ***(12)頂冠月相母 ***(13)如尽劫火母 ***(14)手按大地母 ***(15)安隠柔善母 ***(16)普遍極喜母 ***(17)都哩巴帝母 ***(18)薩囉天海母 ***(19)諸天集会母 ***(20)日月広圓母 ***(21)具三真実母 **五大度母 ***白度母(白ターラー菩薩) ***緑度母(緑ターラー菩薩) ***黄度母(黄ターラー菩薩) ***赤度母(赤ターラー菩薩) ***青度母(青ターラー菩薩) **五百度母 *大黒天(摩訶迦羅、瑪哈嘎拉、チベット仏教の忿怒相の大黒天、観音の化身、大護法、大戦神、大財神) **二臂大黒天 **四臂大黒天 **六臂大黒天 **白色大黒天 **『大方広圓覚修多羅了義経疏』背面佚名残巻記述の七大大黒天 ***(1)大黑主聖 ***(2)安楽迦羅 ***(3)日月迦羅 ***(4)金鉢迦羅 ***(5)塚間迦羅 ***(6)帝釈迦羅 ***(7)宝藏迦羅 *『普門品』の観音三十三身の種類及び、対応する仏尊、三十三観音 **聖者三尊 ***(1)仏身…仏尊では[[阿弥陀如来]](観自在王如来)…三十三観音では青頸(しょうきょう)観音 ***(2)辟支仏(びゃくしぶつ)身…三十三観音では水月観音 ***(3)声聞(しょうもん)身…三十三観音では持経(じきょう)観音 **天界六尊 ***(4)梵王身…[[梵天]]、三十三観音では徳王観音 ***(5)帝釈(たいしゃく)身…[[帝釈天]]…三十三観音では葉衣(ようえ)観音 ***(6)自在天身…[[他化自在天]]…三十三観音では瑠璃観音 ***(7)大自在天身…[[大自在天]] 三十三観音では普悲(ふひ)観音 ***(8)天大将軍身…不明…三十三観音では威徳(いとく)観音 ***(9)毘沙門身…[[毘沙門天]]…三十三観音では阿摩提(あまだい)観音 **道外五尊 ***(10)小王身…三十三観音では蓮臥(れんが)観音 ***(11)長者身…三十三観音では衆宝(しゅうほう)観音 ***(12)居士(こじ)身 三十三観音では六時観音 ***(13)宰官身…三十三観音では一葉観音 ***(14)婆羅門身 三十三観音では合掌観音 **道内四尊 ***(15)比丘(びく)身 ***(16)比丘尼身…三十三観音では15,16をまとめて白衣(びゃくい)観音 ***(17)優婆塞(うばそく)身 ***(18)優婆夷(うばい)身 **婦童六尊 ***(19)長者婦女身 三十三観音では馬郎婦(ばろうふ)観音 ***(20)居士婦女身 ***(21)宰官婦女身 ***(22)婆羅門婦女身 ***(23)童男身 ***(24)童女身 三十三観音では23,24まとめて持蓮(じれん)観音 **天龍八部 ***(25)天身…いわゆる[[天龍八部衆]] ***(26)竜身 ***(27)夜叉(やしゃ)身…三十三観音では25~27をまとめて龍頭(りゅうず)観音に配当 ***(28)乾闥婆(けんだつば)身 ***(29)阿修羅身 ***(30)迦楼羅(かるら)身 ***(31)緊那羅(きんなら)身 ***(32)摩睺羅伽(まごらが)身 **金剛一尊 ***(33)執金剛身…[[執金剛神]]…三十三観音では不二(ふに)観音 *『摂無礙経』の観音三十三身の種類 **聖者三尊 ***(1)仏身(ぶっしん) ***(2)辟支仏身(びゃくしぶつしん) ***(3)声聞身(しょうもんしん) **天界六尊 ***(4)大梵王身(だいぼんおうしん) ***(5)帝釈身(たいしゃくしん) ***(6)自在天身(じざいてんしん) ***(7)大自在天身(だいじざいてんしん) ***(8)天大将軍身(てんだいしょうぐんしん) ***(9)毘沙門身(びしゃもんしん) **道外五尊 ***(10)小王身(しょうおうしん) ***(11)長者身(ちょうじゃしん) ***(12)居士身(こじしん) ***(13)宰官身(さいかんしん) ***(14)婆羅門身(ばらもんしん) **道内四尊 ***(15)比丘身(びくしん) ***(16)比丘尼身(びくにしん) ***(17)優婆塞身(うばそくしん) ***(18)優婆夷身(うばいしん) **人、非人、婦童等六尊 ***(19)人身(じんしん) ***(20)非人身(ひじんしん) ***(21)婦女身(ふじょしん) ***(22)童目天女身(どうもくてんにょしん) ***(23)童男身(どうなんしん) ***(24)童女身(どうにょしん) **天龍八部 ***(25)天身(てんしん) ***(26)龍身(りゅうしん) ***(27)夜叉身(やしゃしん) ***(28)乾闥婆身(けんだつばしん) ***(29)阿修羅身(あしゅらしん) ***(30)迦樓羅身(かるらしん) ***(31)緊那羅身(きんならしん) ***(32)摩睺羅伽身(まごらがしん) **金剛一尊 ***(33)執金剛身(しゅうこんごうしん) *《千光眼観自在菩薩秘密経》の八観自在 **(1)金剛観自在 (2)与愿観自在 (3)数珠観自在 (4)鉤召観自在 (5)除障観自在 (6)宝剣観自在 (7)宝印観自在 (8)不退転金輪観自在 *《諸尊真言義抄》の十五観音 **(1)正観音 (2)千手観音 (3)馬頭観音 (4)十一面観音 (5)準提観音 (6)如意輪観音 (7)不空羂索観音 (8)白衣観音 (9)葉衣観音 (10)水月観音 (11)楊柳観音 (12)阿摩提観音 (13)多羅観音 (14)青頚観音 (15)香王観音 *《阿娑縛抄》の二十八観音 **(1)聖観音 (2)千手観音 (3)馬頭観音 (4)十一面観音 (5)準提観音 (6)如意輪観音 (7)不空羂索観音 (8)毗倶胝観音 (9)多羅観音 (10)白衣観音 (11)葉衣観音 (12)忿怒鉤観音 (13)吉祥観音 (14)豊財観音 (15)不空鉤観音 (16)??観音 (17)一髻羅刹観音 (18)青頚観音 (19)香王観音 (20)阿摩提観音 (21)蓮花頂観音 (22)大梵天相観音 (23)播怒目佉観音 (24)央倶舍観音 (25)延命観音 (26)勇健観音 (27)四面大悲観音 (28)除八難遷観音 *《千光眼観自在菩薩秘密経》の二十五観音 **(1)代苦観音 (2)与智観音 (3)施満愿観音 (4)除戟観音 (5)除愚観音 (6)進道観音 (7)観正観音 (8)施無畏観音 (9)施光観音 (10)与甘露観音 (11)見天観音 (12)施妙観音 (13)見楽観音 (14)降魔観音 (15)静慮観音 (16)作文観音 (17)見禅観音 (18)憫定観音 (19)調直観音 (20)定慧観音 (21)護聖観音 (22)清浄観音 (23)正法観音 (24)離欲観音 (25)不動観音 *《千光眼観自在菩薩秘密経》の四十観音(一、この四十観音全部を十一面二臂の相とする) **(1)摩尼与愿観音 (2)持索観音 (3)宝鉢観音 (4)宝剣観音 (5)金剛観音 (6)持杵観音 (7)除怖観音 (8)日精観音 (9)月精観音 (10)宝弓観音 (11)速値観音 (12)薬王観音 (13)拂難観音 (14)持瓶観音 (15)現怒観音 (16)鎮難観音 (17)持環観音 (18)分荼利観音 (19)見佛観音 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***寂留明菩薩 ***被葉衣観音 ***白身観自在菩薩(白身観音、白観自在菩薩) ***豊財菩薩 ***水吉祥菩薩(水吉祥観音、大水吉祥菩薩) ***大吉祥変菩薩 ***白処尊菩薩 ***大悲四臂観音十三尊(略) ***不空羂索観自在五尊(略) ***蓮花部主獅吼観自在五尊(略) ***大悲勝海観音一面二臂具明妃九尊(略) ***七字観自在 ***六字観自在 ***赤色不空羂索観自在 ***黄色不空羂索観自在 ***水月観世音 ***心性安息観世音 ***如意宝観自在五尊(略) ***密修観自在 ***虚空王観世音 ***救度八難十一面観世音 ***救火難観世音 ***救水難観世音 ***救獅子難観世音 ***救象難観世音 ***救刑難観世音 ***救龍難観世音 ***救空行難観世音 ***救盗賊難観世音 ***金剛藏観世音 ***獅吼観世音 ***佛海観世音 ***三字半観世音 ***救八難観世音 ***不空鉤観世音 ***不空供養宝観世音 ***大悲勝海紅観音(一面四臂具明妃) ***香王観音 ***忿怒鉤観自在菩薩 ***一髻羅刹観音 ***数珠手観音(数珠観音) **【威猛馬頭金剛·男性本尊佛の相】 ***馬首蓮花舞主十七尊(略) ***赤色馬首蓮花舞主三面八臂十八尊(略) ***独雄双身馬頭金剛(具明妃) ***四行空囲繞之馬頭金剛 ***白色馬頭金剛 **【威猛勝楽金剛·男性本尊佛の相】(《藏密真言宝典》参照) ***勝楽金剛(《藏密真言宝典》第50、195ページ参照) ***白勝楽一面二臂単身二十九尊(略)(《藏密真言宝典》第94、195ページ参照) ***総撮輪四面十二臂十三尊(略) ***青色双身勝楽一面二臂金剛空行等囲繞五尊(略)(具明妃)(《藏密真言宝典》第95、195ページ参照) ***白色贖死勝楽四面十六臂八門隅母囲繞九尊(略) ***藍勝楽三面六臂八尊(略)(《藏密真言宝典》第97、195ページ参照) ***総撮輪四面十二臂六十二尊(略) ***青色勝楽一面二臂六十二尊(略) ***黄色勝楽一面二臂六十二尊(略) ***勝楽転輪常佛空行七十二尊(略) ***勝楽転輪金剛日宝空行七十二尊(略) ***勝楽転輪蓮花舞主蓮花空行七十二尊(略) ***勝楽転輪嘿汝嘎金剛空行七十二尊(略) ***勝楽転輪良馬種種空行七十二尊(略) ***双身勝楽金剛(具明妃)(《藏密真言宝典》第187、195ページ参照) ***披甲黒色勝楽金剛 ***白色勝楽金剛(《藏密真言宝典》第194、195ページ参照) ***長寿白色勝楽金剛(《藏密真言宝典》第194、195ページ参照) ***双身争論金剛(具明妃)(《藏密真言宝典》第206、195ページ参照) **【度母の相】(度母は観世音菩薩の明妃、或は観世音菩薩の女性の化身とされる。藏伝佛教には観音を父とし、度母を母とする説もある。藏伝佛教では観世音菩薩は藏伝佛教の根源、根本と見なされ、観世音菩薩がいなければ藏伝佛教はない。藏伝佛教において、観音は男性、度母は女性とする。) ***聖度母 ***縁度母 ***白度母 ***金剛度母十一尊(略) ***六支度母 ***持財母(持宝母) ***六字母 ***忿怒母 ***昼善夜怒度母 ***鳥仗那度母処之自在母 ***如意宝度母 ***赤度母 ***施財度母 ***黄度母 ***宝度母 ***蓮花度母 ***佛度母 ***金剛度母 ***花度母 ***香度母 ***灯度母 ***味度母 ***夢示度母 ***救度母 ***随求佛母 ***具光佛母 ***独髻母(一髻佛母)(《藏密真言宝典》第247、326ページ参照) ***八臂度母 ***至尊嘎巴哩度母 ***準提聖母 ***持針線具光佛母 ***吉祥心金点母 ***至尊嘎巴拉荘厳母 ***秘密智慧母 ***白色準提佛母 ***馭緑馬具光佛母 ***聖圓度母 ***最勇救度母 ***白色朗月度母 ***金顔救度母 ***頂髻尊勝度母(《藏密真言宝典》第323ページ参照) ***吽音叱咤度母 ***勝三界度母 ***破敵救度母 ***勝施王救度母 ***担木救度母 ***最勝撮授度母 ***除憂度母 ***解厄度母 ***吉祥光救度母 ***卒竟成熟度母 ***顰眉度母 ***大寂静度母 ***除貪度母 ***引楽度母 ***増盛度母 ***焚灰諸苦度母 ***出生悉地度母 ***卒竟圓満度母 ***随求佛母五尊(略) **【威猛大黑天·摩訶迦羅·男性護法の相】(瑪哈嘎拉:藏伝佛教の第一護法、観音の化身) ***六臂護法(六臂瑪哈嘎拉) ***四臂護法(四臂瑪哈嘎拉) ***具徳大黒金剛四臂九尊(略) ***除中断護法 ***雄威護法 ***宜帝護法 ***白色如意護法 ***黄色増慧護法 ***赤色自在王護法 ***緑色寿主護法 ***宝空行護法 ***佛陀空行護法 ***蓮花空行護法 ***事業空行護法 ***二法合一四臂護法 ***鳥鴉面羯磨護法 ***双身宝帳護法(具明妃) ***宝帳護法八尊(略) ***宝帳橛足護法 ***有陰体宝帳護法 ***単身宝帳護法 ***騎虎護法 ***持除難梃護法 ***梃藏護法 ***具善護法三兄弟 ***昂果惹護法 ***吉祥熾炎護法 ***独雄持鉞刀護法 ***西南方持赤色鉞刀護法 ***四和合護法 ***持鉞刀護法 ***持銅刀護法 ***黒衣持銅刀護法 ***裸形持銅刀護法 ***獅子座部衆主護法 ***騎獅雄威護法 ***歩行雄威護法 ***氂牛面雄威護法 ***密修雄威空行面護法 ***閉関時所修四面吉祥護法 ***成就時所修四面吉祥護法 ***四面事業加行護法 ***白色四面増寿護法 ***黄色四面増財護法 ***赤色四面自在護法 ***四忿面護法 ***食肉狼面護法 ***役魔黒閻羅王 ***鉞刀護法 **【女性護法の相】 ***白色妙音佛母(《藏密真言宝典》第147ページ参照) ***披甲簪芝嘎 ***金剛鉤母 ***金剛索母 ***鉄鏈金剛母 ***金剛鈴母 ***羯磨金剛母 ***羯磨閻羅母 ***羯磨龍母 ***羯磨薬叉母 ***鉄剣馬頭金剛母(女性本尊佛、馬頭金剛の明妃) ***金剛空行母 ***宝空行母 ***蓮花空行母 ***羯磨空行母 ***八大薬叉母(略)(《藏密真言宝典》第336ページ参照) ***除中断天母 ***簪咫嘎天母 ***持鉞刀和合成就護法母 ***雄威黄門護法母 ***青色四面救衰敗母 ***烟黒天母 ***熱嘛提魔母 ***披虚空衣佛母(瑪哈嘎拉の女性眷属) **【金剛亥母の相】(金剛亥母:勝楽金剛の明妃) ***金剛亥母 ***赤亥母三面六臂十三尊(略) ***赤亥母右側亥面藍色二面二臂十三尊(略) ***義成金剛亥母一面四臂十三尊(略) ***赤黄色断首金剛亥母二臂十三尊(略) ***赤色金剛亥母一面二臂十三尊(略) ***赤亥母四面十二臂三十七尊(略) ***黒金剛亥母亥首一面二臂五尊(略) ***赤色金剛亥母三十七尊(略) ***青色金剛亥母三十七尊(略) ***黄色金剛亥母三十七尊(略) ***披甲金剛亥母 ***納若空行母 ***弥勒空行母 ***因陀羅空行母(帝釈空行母) ***不空亥母 ***断首母 ***金剛密咒母 ***毗盧仏母 ***天足亥母 ***咕日瑪巴底亥母 ***黒色忿怒亥母 ***明慧白色亥母 ***赤色亥母 ***滑落忿怒炎触母 **【其他の財神、鬼王、薬叉等の相】 ***白財神 ***黄財神(《藏密真言宝典》第243ページ参照) ***多聞天王(《藏密真言宝典》第243ページ参照) ***面然大士(焦面鬼王) ***馬頭金剛金翅鳥 ***勝楽金剛金翅鳥 ***八大薬叉(略)(《藏密真言宝典》第335ページ参照) ===明王部=== *[[五大明王]](五大尊) **[[不動明王]] **[[降三世明王]](降三世夜叉明王) **[[軍荼利明王]](軍荼利夜叉明王) **[[大威徳明王]](大威徳夜叉明王) **[[金剛夜叉明王]] *[[八大明王]]:五大明王に以下を加える<ref>{{コトバンク|八大明王}}</ref> **[[烏枢沙摩明王]] **[[無能勝明王]]([[阿逸多]]) **馬頭明王([[馬頭観音]]も参照) *[[大輪明王]] *[[歩擲明王]] *[[愛染明王]] *[[孔雀明王]] *[[大元帥明王]](太元明王) *[[大可畏明王]] *[[六字明王]] *[[青面金剛]] ===天部=== *[[十二天]] **[[梵天]] - インド神話の神[[ブラフマー]]に由来 **[[帝釈天]] - インド神話の神[[インドラ]]に由来 **[[火天]] - インド神話の神[[アグニ]]に由来 **[[焔摩天]]([[閻魔]]) - インド神話の神[[ヤマ (インド神話)|ヤマ]]に由来 **[[羅刹天]] - インド神話の鬼神ラークシャサに由来 **[[水天]] - インド神話の神[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]]に由来 **[[風天]] - インド神話の神[[ヴァーユ]]に由来 **[[毘沙門天]] - インド神話の神[[ヴァイシュラヴァナ]]に由来 **[[伊舎那天]] - インド神話の神[[シヴァ]]に由来 **[[地天]] - インド神話の神[[プリティヴィー]]に由来 **[[日天]] - インド神話の神[[スーリヤ]]に由来 **[[月天]] - インド神話の神[[チャンドラ (インド神話)|チャンドラ]]に由来 *[[四天王]] **[[持国天]](東方を守護) **[[増長天]](南方を守護) **[[広目天]](西方を守護) **[[毘沙門天|多聞天]](北方を守護) ***[[兜跋毘沙門天]] ***[[刀八毘沙門天]] ****[[八大夜叉大将]] ***** [[マニバドラ|宝賢夜叉]](ほうけんやしゃ) ***** [[プールナバドラ|満賢夜叉]](まんけんやしゃ) ***** [[パーンチカ|散支夜叉]](さんしやしゃ) ***** [[衆徳夜叉]](しゅうとくやしゃ) ***** [[応念夜叉]](おうねんやしゃ) ***** [[大満夜叉]](だいまんやしゃ) ***** [[大元帥明王|無比力夜叉]](むひりきやしゃ) ***** [[密厳夜叉]](みつごんやしゃ) ****[[毘沙門天二十八使者]] *[[大自在天]] - インド神話の神[[シヴァ]]に由来 *[[弁才天]] - インド神話の神[[サラスヴァティー]]に由来,七福神の一柱。 **[[弁才天#宇賀弁才天|十六童子]] *[[大黒天]] - インド神話の神[[マハーカーラ]](シヴァの別名)が日本の[[大国主命]]と習合,七福神の一柱。 *[[吉祥天]](功徳天) - インド神話の神[[ラクシュミー]]に由来 *[[韋駄天]](陰天) - インド神話の神[[スカンダ]]に由来 *[[鳩摩羅天]] - インド神話の神[[クマーラ]]に由来 *[[摩利支天]] - インド神話の神[[ウシャス]]に由来 *[[歓喜天]](聖天)- インド神話の神[[ガネーシャ]]に由来 *[[那羅延天]](毘紐天)- インド神話の神[[ヴィシュヌ]]に由来 *[[鬼子母神]] - インド神話の神ハーリーティーに由来 *[[荼枳尼天]] - インド神話の神[[ダーキニー]]に由来 *[[九曜]] *[[明星天]] *[[金剛力士]](仁王) *[[黒闇天]](こくあんてん) *[[天魔]] *[[他化自在天]] *[[八大龍王]] **[[難陀竜王]] *[[八部衆]] ** [[天部|天]]衆 ** [[龍]]衆 ** [[夜叉]]衆 ** [[乾闥婆]]衆 ** [[阿修羅]]衆 ** [[迦楼羅]]衆 ** [[緊那羅]]衆 ** [[摩睺羅伽]]衆 *[[十二神将]] * [[十六善神]] ** [[深沙大将]] *[[二十八部衆]] **[[婆藪仙]] - インド神話の神[[ヴァシシュタ]]に由来 *不動[[八大童子]]([[不動明王]]を参照) ** [[阿耨達童子]](あのくた) ** [[矜羯羅童子]](こんがら) ** [[制多迦童子]](せいたか) *[[妙見菩薩]] *[[飛天]] *[[技芸天]] *[[寿老人]] *[[福禄寿]] *[[布袋]] *[[えびす|恵比寿]] *[[関帝|関帝菩薩]] *[[伽藍神|伽藍菩薩]] *[[十王]] *[[東岳大帝]] *[[倶生神]] *[[十羅刹女]] ===垂迹神=== [[File:Gate-nikko-japan.jpg|thumb|right|[[日光東照宮]]。[[徳川家康]]を神格化した東照大権現を祀る。]] *[[八幡神#神仏習合|八幡大菩薩]] (はちまん)- 日本の神道の神である八幡神の別称。 *[[秋葉権現]](あきは) *[[愛宕権現]](あたご) *[[医王権現]](いおう) *[[伊豆山権現]](いずさん) *[[石動権現]](いするぎ) *[[飯縄権現]](いづな) *[[越知大権現]](おち) - 白山修験 *[[春日権現]](かすが) *[[霧島六社権現]](きりしまろくしゃ) *[[金毘羅権現]](こんぴら) *[[熊野権現]](くまの) *[[小菅神社_(飯山市)|小菅権現]](こすげ) *[[牛頭天王]](ごずてんのう) *[[金毘羅権現]](こんぴら) *[[蔵王権現]](ざおう) *[[三鬼大権現]](さんき・みき) *[[山王権現]](さんのう)- [[山王神道]] *[[三宝荒神]](さんぽうこうじん) *[[清瀧権現]](せいりゅう) *[[石尊権現]](せきそん) *[[善女竜王]](ぜんにょりゅうおう) *[[立山権現]] (たてやま)- [[立山修験]] *[[智明権現]](ちみょう) *[[根津権現]](ねづ) *[[白山権現]] (はくさん)- 白山修験 *[[羽黒権現]] (はぐろ)- 羽黒修験 *[[箱根権現]](はこね) *[[八王子権現]](はちおうじ) ** [[三湖伝説|八郎太郎]](はちろうたろう)⇒八龍権現 *[[頗梨采女]](はりさいじょ) *[[飛瀧権現]](ひりゅう) *二荒権現(ふたら) 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== {{Reflist}} ==関連項目== {{Portal 仏教}} *[[:Category:仏像の画像|仏像の画像一覧]] *[[仏教用語一覧]] *[[神の一覧]] *[[日本の神の一覧]] *[[曼荼羅]] *[[両界曼荼羅]] *[[印相]] == 外部リンク == * [http://tobifudo.jp/butuzo/mokuji.html 龍光山正寶院「仏様の世界」] {{仏陀}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:にほんのふつそん}} [[Category:日本の仏教の一覧|ぶつそん]]
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プロトン
プロトン(proton)は英語で陽子のことを指す。
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プロトン(proton)は英語で陽子のことを指す。
'''プロトン'''(proton)は英語で[[陽子]]のことを指す<ref>{{Cite web|和書|title=protonの意味・使い方・読み方 |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=proton |website=英辞郎 on the WEB |access-date=2022-12-31}}</ref>。 == 宇宙科学 == * [[プロトン (ロケット)|プロトンロケット]] - [[ロシア]]の打ち上げ[[ロケット]]。 * [[プロトン (人工衛星)]] - ロシアの[[科学衛星]]。 * [[太陽変動]]における[[太陽変動#太陽プロトン現象|プロトン現象]]。 == 企業 == * [[プロトン (自動車)]] - [[マレーシア]]の[[自動車]]製造会社。 * [[Proton (IT企業)]] - [[スイス]]の[[IT企業]]。 *{{仮リンク|プロトン銀行|en|Proton Bank}} - ギリシャの銀行 == 人物 == * [[ぷろとん]] - 漫画家。 == その他 == * [[Proton (ソフトウェア)]] - [[Microsoft Windows]]のゲームを[[Linux]]ベースのOSで動作させるための[[互換レイヤー]]。 * Acorn Proton - [[エイコーン・コンピュータ]]が開発したマイクロコンピュータ ⇒ [[BBC Micro]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{aimai}} {{デフォルトソート:ふろとん}} [[Category:英語の語句]]
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釈迦如来
釈迦如来(しゃかにょらい)は、歴史的に実在した仏陀であり、仏教の開祖である釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・シッダールタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)を尊ぶ呼び名である。釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼世尊に同じ。 上座部仏教では、理仏ではない、歴史上に実在した釈迦、生身如来を指す。 大乗仏教では、三身説に説くように、理仏である法身仏が現世の人々の前に現れて教えを説いた姿、応身仏、あるいは報身仏であるとされている。 釈迦如来は、インド以来、広く仏教の流布した地域で造像されるようになった。その中心は、実在の釈迦の伝記としての仏伝を絵解き風に造形化したもの、あるいは、その一場面を単独で造像したものなどであった。 日本では、誕生像、苦行像、降魔像、説法像、涅槃像などとして造像が行なわれた。なかでも説法像が一番一般的な造形であり、説法印などによって、釈迦が法を説く姿を表現している。 作例としては、奈良の法隆寺金堂、京都の蟹満寺の銅像、奈良の室生寺金堂、京都の大報恩寺の木像などが著名となっている。また、京都清凉寺の瑞像を模した清凉寺式釈迦如来も広範に流布している形式である。 釈迦三尊として祭壇に置かれる場合が多く、脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩が多い。法華宗・日蓮宗では三宝尊(一塔両尊)の形式がとられることが多い。これは中心が題目の書かれた多宝塔(宝塔)で両脇に釈迦如来と多宝如来が祭祀者から見て左右に並び、その下に僧としての日蓮像がある。 日本では、タイ、あるいはスリランカ政府より公式贈呈された遺骨が浅草寺、道成寺、覚王山日泰寺、釈迦山大菩提寺に祀られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "釈迦如来(しゃかにょらい)は、歴史的に実在した仏陀であり、仏教の開祖である釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・シッダールタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)を尊ぶ呼び名である。釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼世尊に同じ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "上座部仏教では、理仏ではない、歴史上に実在した釈迦、生身如来を指す。", "title": "仏教史における釈迦如来" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大乗仏教では、三身説に説くように、理仏である法身仏が現世の人々の前に現れて教えを説いた姿、応身仏、あるいは報身仏であるとされている。", "title": "仏教史における釈迦如来" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "釈迦如来は、インド以来、広く仏教の流布した地域で造像されるようになった。その中心は、実在の釈迦の伝記としての仏伝を絵解き風に造形化したもの、あるいは、その一場面を単独で造像したものなどであった。", "title": "仏像としての釈迦如来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本では、誕生像、苦行像、降魔像、説法像、涅槃像などとして造像が行なわれた。なかでも説法像が一番一般的な造形であり、説法印などによって、釈迦が法を説く姿を表現している。", "title": "仏像としての釈迦如来" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "作例としては、奈良の法隆寺金堂、京都の蟹満寺の銅像、奈良の室生寺金堂、京都の大報恩寺の木像などが著名となっている。また、京都清凉寺の瑞像を模した清凉寺式釈迦如来も広範に流布している形式である。", "title": "仏像としての釈迦如来" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "釈迦三尊として祭壇に置かれる場合が多く、脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩が多い。法華宗・日蓮宗では三宝尊(一塔両尊)の形式がとられることが多い。これは中心が題目の書かれた多宝塔(宝塔)で両脇に釈迦如来と多宝如来が祭祀者から見て左右に並び、その下に僧としての日蓮像がある。", "title": "仏像としての釈迦如来" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本では、タイ、あるいはスリランカ政府より公式贈呈された遺骨が浅草寺、道成寺、覚王山日泰寺、釈迦山大菩提寺に祀られている。", "title": "舎利信仰" } ]
釈迦如来(しゃかにょらい)は、歴史的に実在した仏陀であり、仏教の開祖である釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・シッダールタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)を尊ぶ呼び名である。釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼世尊に同じ。
{{出典の明記|date=2017年9月26日 (火) 10:13 (UTC)}} {{統合文字|迦}} {{Infobox Buddha |名= 釈迦如来 |梵名= शाक्यमुनि |別名= 釈迦牟尼仏<br/>釈迦牟尼如来<br/>釈迦牟尼世尊<br/>釈尊<br/>牟尼<br/>釈迦尊 |種字=[[File:Bhah.svg|25px]] バク |真言・陀羅尼=ノウマクサンマンダ・ボダナン・バク |画像= [[ファイル:Shaka Muroji Mirokudo.jpg|250px]] |説明文= [[国宝]]木造釈迦如来坐像([[室生寺]]<!--弥勒堂旧蔵-->) |経典=『[[法華経]]』 |信仰=[[上座部仏教]]<br/>[[大乗仏教]] |浄土=[[霊鷲山|霊山浄土]] |関連項目=[[多宝如来]]<br/>[[文殊菩薩]]<br/>[[普賢菩薩]] }} '''釈迦如来'''(しゃかにょらい)は、歴史的に実在した[[仏陀]]であり、[[仏教]]の開祖である[[釈迦]](ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・シッダールタ、ガウタマ・シッダールタ、瞿曇悉達多)の[[如来]]としての名。釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼世尊に同じ。 == 仏教史における釈迦如来 == === 上座部仏教 === [[上座部仏教]]では、理仏<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%90%86%E4%BB%8F%E6%80%A7-658308 『理仏性』 - コトバンク]</ref>ではない、歴史上に実在した[[釈迦]]、[[生身]]如来を指す。 === 大乗仏教 === [[大乗仏教]]では、[[三身]]説に説くように、理仏である[[法身]]仏が現世の人々の前に現れて教えを説いた姿、[[応身]]仏、あるいは[[報身]]仏であるとされている。 ==伝承による釈迦如来の過去世== ;スメーダ(『ブッダワンサ(仏種生経)』『ジャータカ』) :[[燃燈仏]]のもとで修行していた行者。[[燃燈仏]]から、未来に[[仏陀]]になると予言される。 ;浄幢菩薩(『ラリタヴィスタラ([[方広大荘厳経]])』) :スメーダが[[輪廻]]転生を繰り返し、[[兜率天]]に生まれた姿。釈迦の前世。 ;長邦(『観世音菩薩往生浄土本縁経』) :[[バラモン教|バラモン]]僧。早離(そうり)、速離(そくり)という子がおり、それぞれ[[観音菩薩]]、[[勢至菩薩]]となる。 == 仏像としての釈迦如来 == {{main2|釈迦涅槃像|涅槃仏}} [[ファイル:悉曇梵字2.jpg|thumb|釈迦如来を表す[[梵字]]]] 釈迦如来は、[[インド]]以来、広く仏教の流布した地域で造像されるようになった。その中心は、実在の釈迦の伝記としての仏伝を絵解き風に造形化したもの、あるいは、その一場面を単独で造像したものなどであった。 日本では、誕生像、苦行像、降魔像、説法像、[[涅槃像]]などとして造像が行なわれた。なかでも説法像が一番一般的な造形であり、説法印などによって、釈迦が法を説く姿を表現している。 作例としては、奈良の[[法隆寺]]金堂、京都の[[蟹満寺]]の銅像、奈良の[[室生寺]]金堂、京都の[[大報恩寺]]の木像などが著名となっている。また、京都[[清凉寺]]の瑞像を模した清凉寺式釈迦如来も広範に流布している形式である。 '''[[釈迦三尊]]'''として祭壇に置かれる場合が多く、脇侍は[[文殊菩薩]]と[[普賢菩薩]]が多い。[[法華宗]]・[[日蓮宗]]では'''[[三宝尊]]([[一塔両尊]])'''の形式がとられることが多い。これは中心が[[題目]]の書かれた[[多宝塔]]([[宝塔]])で両脇に釈迦如来と[[多宝如来]]が祭祀者から見て左右に並び、その下に[[僧]]としての[[日蓮]]像がある。 === 主な釈迦如来像 === ; 国宝 * [[蟹満寺#文化財|銅造釈迦如来坐像]]([[京都府]] [[木津川市]] [[蟹満寺]]本堂) * [[清涼寺#木造釈迦如来立像|木造釈迦如来立像]](京都府 [[京都市]] [[清涼寺]]本堂) * 涅槃釈迦如来像([[奈良県]] [[斑鳩町]] [[法隆寺]][[五重塔]]、塔本四面具涅槃塑像群の一つ) * [[法隆寺金堂釈迦三尊像|銅造釈迦如来及両脇侍像]](奈良県 斑鳩町 法隆寺金堂) * [[法隆寺の仏像#上御堂の仏像|木造釈迦如来及両脇侍坐像]](奈良県 斑鳩町 法隆寺上御堂) * [[東大寺の仏像#銅造誕生釈迦仏立像及び灌仏盤|銅造誕生釈迦仏立像]](奈良県 [[奈良市]] [[東大寺]] 東大寺ミュージアム) * [[室生寺#国宝|木造釈迦如来坐像]](奈良県 [[宇陀市]] [[室生寺]]寶物殿) * [[室生寺#国宝|木造釈迦如来立像]](奈良県 宇陀市 室生寺金堂) * [[深大寺#国宝|銅造釈迦如来倚像]] (「白鳳仏」、[[東京都]] [[調布市]] [[深大寺]]) *[[金剛峯寺#文化財(金剛峯寺所有)|涅槃図]]([[和歌山県]] [[伊都郡]] [[高野山]] [[金剛峯寺]] 普段は[[高野山霊宝館]]に収蔵、[[涅槃会|常楽会]]で本尊として金剛峯寺広間に掛けられる。) ; 重要文化財・その他 * 釈迦如来像(和歌山県 伊都郡 高野山 真別処 円通律寺) *[[飛鳥寺#釈迦如来像(飛鳥大仏)|釈迦如来像]](「飛鳥大仏」、奈良県 [[高市郡]] [[明日香村]] [[飛鳥寺]]) * [[建長寺#法堂|釈迦苦行像]]([[神奈川県]][[鎌倉市]] [[建長寺]]法堂 [[パキスタン]]より寄贈) <gallery> File:Shaka Nyorai.jpg|[[神護寺]]蔵 [[国宝絵画の一覧|国宝絵画]]「[[神護寺#国宝|絹本著色釈迦如来像]]」 File:Embroidery Sakyamuni.jpg|[[奈良国立博物館]]蔵 [[繡仏]]「刺繡釈迦如来説法図」 File:Seated Shaka Nyorai (Sakyamuni, Gautama Buddha).jpg|[[東京国立博物館]]蔵の[[平安時代]]釈迦如来坐像 File:Shaka Kami no Mido Horyuji.jpg|[[法隆寺]][[国宝彫刻の一覧|国宝彫刻]] [[法隆寺の仏像#上御堂の仏像|木造釈迦如来坐像]] </gallery> == 舎利信仰 == 日本では、タイ、あるいはスリランカ政府より公式贈呈された遺骨が[[浅草寺]]、[[道成寺]]、[[覚王山日泰寺]]、[[釈迦山大菩提寺]]に祀られている。 == フィクションにおける釈迦如来 == * [[西遊記]] - [[孫悟空]]を諌め、[[三蔵法師]]を[[天竺]]へ導く。 * [[蜘蛛の糸]] - [[芥川龍之介]]の短編小説。罪人のカンダタに極楽へ至る機会を与える。 == 釈迦如来にちなむ事物 == * 釈迦牟尼(にくるべ)という苗字がある。 == 関連項目 == * [[釈迦三尊]] * [[三宝尊]]([[一塔両尊]]) * [[釈迦院]] * [[釈迦堂]] * [[仏舎利]] * [[仏の一覧]] * [[三十二相八十種好]] * [[釈迦八相]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%87%88%E8%BF%A6%E5%85%AB%E7%9B%B8-524691 『釈迦八相』 - コトバンク]</ref> * [[理#仏教における「理」|仏教の「理」]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{notelist}}--> === 出典 === {{reflist}} {{Buddhism2}} {{仏陀}} {{西遊記}} {{DEFAULTSORT:しやかによらい}} [[Category:釈迦|*によらい]] [[Category:如来]]
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6,169
毘盧遮那仏
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、Vairocana)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。華厳経において中心的な存在として扱われる尊格である。密教においては大日如来と同一視される。 尊名は華厳経では「舎」の字を用いて毘盧舎那仏、大日経では「遮」の字を用いて毘盧遮那仏と表記される。 毘盧遮那とはサンスクリット語のVairocana「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「毘盧舎那仏」とも表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。 史実の人物としてのゴータマ・シッダールタを超えた宇宙仏(法身仏)。宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏。毘盧遮那仏については、『華厳経』に詳しく説かれている。 真言宗などの密教における「摩訶毘盧遮那仏」(大毘盧遮那仏、Mahāvairocana(マハー・ヴァイローチャナ))は、大日如来と呼ばれ、成立の起源を、ゾロアスター教の善の最高神アフラ・マズダーに求める学説がある。仏像では、聖武天皇の発願により造られた東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、東大寺大仏)が有名。現存しないが、豊臣秀吉の発願した方広寺大仏(京の大仏)も毘盧遮那仏であった。 鑑真が開創した唐招提寺金堂の中尊も、天平時代の脱乾漆像として有名であり、鑑真が中国からもたらした盛唐様式の作風を伝える彫刻として貴重な存在である。
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毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、Vairocana)は、大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。華厳経において中心的な存在として扱われる尊格である。密教においては大日如来と同一視される。 尊名は華厳経では「舎」の字を用いて毘盧舎那仏、大日経では「遮」の字を用いて毘盧遮那仏と表記される。
{{Infobox Buddha |名=毘盧遮那仏 |種類=[[如来]] |梵名=「ヴァイローチャナ」<br/>वैरोचन |蔵名= |別名=毘盧舎那仏<br/>盧遮那仏 |画像=[[File:Daibutsu, le grand Bouddha (Todai-ji, Nara) (42859120892).jpg|290px]] |説明文=東大寺毘盧遮那仏 |経典=『[[華厳経]]』<br/>『[[大日経]]』 |主要経典注釈書= |信仰=[[華厳宗]]<br/>[[密教]] |浄土=蓮華蔵世界 |関連項目=[[大日如来]] }} [[Image:NaraTodaijiDaibutsu0212.jpg|right|thumb|200px|東大寺の毘盧舎那仏]] [[File:Hokoji(rushanabutsu).jpg|thumb|200px|現在の[[方広寺]]本尊の毘盧遮那仏座像。往時の大仏([[京の大仏]])の1/10の大きさの模像と伝わる。]] [[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による、かつて存在した[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』(中央公論社、1994年) p.95</ref>。]] '''毘盧遮那仏'''(びるしゃなぶつ、{{IAST|Vairocana}}{{refnest|name="ニッポニカ"|[[吉田宏晢]][https://kotobank.jp/word/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F-121777#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「毘盧遮那仏」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}})は、[[大乗仏教]]における信仰対象である[[如来]]の一尊。[[華厳経]]において中心的な存在として扱われる尊格である{{refnest|name="大辞林_第三版"|[https://kotobank.jp/word/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F-121777#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 「毘盧遮那仏」 - 大辞林 第三版]、三省堂。}}。[[密教]]においては[[大日如来]]と同一視される{{refnest|name="大辞林_第三版"}}{{refnest|name="ニッポニカ"}}。 尊名は華厳経では「舎」の字を用いて毘盧舎那仏、大日経では「遮」の字を用いて毘盧遮那仏と表記される。 ==概要== '''毘盧遮那'''とは[[サンスクリット語]]のVairocana「[[ヴァイローチャナ]]」の音訳で「光明遍照」(こうみょうへんじょう)を意味する。「'''毘盧舎那仏'''」とも表記される。略して盧遮那仏(るしゃなぶつ)、遮那仏(しゃなぶつ)とも表される。 史実の人物としての[[ゴータマ・シッダールタ]]を超えた宇宙仏([[法身仏]])。[[宇宙 (仏教)|宇宙]]の[[真理]]を全ての人に照らし、[[悟り]]に導く仏。毘盧遮那仏については、『[[華厳経]]』に詳しく説かれている。  ==密教== [[真言宗]]などの[[密教]]における「'''摩訶毘盧遮那仏'''」('''大毘盧遮那仏'''、Mahāvairocana(マハー・ヴァイローチャナ))は、[[大日如来]]と呼ばれ、成立の起源を、[[ゾロアスター教]]の善の最高神[[アフラ・マズダー]]に求める学説がある。[[仏像]]では、[[聖武天皇]]の発願により造られた[[東大寺盧舎那仏像]](奈良の大仏、[[東大寺]]大仏)が有名。現存しないが、[[豊臣秀吉]]の発願した[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])も毘盧遮那仏であった。 [[鑑真]]が開創した[[唐招提寺]]金堂の中尊も、[[天平文化|天平時代]]の脱乾漆像として有名であり、[[鑑真]]が中国からもたらした盛唐様式の作風を伝える彫刻<ref>平凡社 世界大百科事典 『毘盧遮那仏』</ref>として貴重な存在である。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== *[[仏の一覧]] *[[華厳経]] *[[華厳宗]] *[[大仏]] *[[戒壇院]] *[[ヴィローチャナ]] *[[ヴァイローチャナ]] *[[大日経]] *[[大日如来]] *[[アフラ・マズダー]] {{仏陀}} {{Buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:ひるしやなふつ}} [[category:如来]] [[Category:華厳宗]] [[Category:盧遮那仏像|*]]
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仏語 (曖昧さ回避)
仏語
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "仏語", "title": null } ]
仏語 「ふつご」と読む ⇒ フランス語。仏蘭西語の略。 「ぶつご」と読み、 仏(ぶつ、ほとけ)の語った言葉、仏の教え ⇒ 仏教 仏教に関する言葉 ⇒ 仏教用語一覧
'''仏語''' {{Wiktionary|仏語}} #{{anchors|1|ふつご}}「ふつご」と読む ⇒ [[フランス語]]。[[仏蘭西]]語の略。 #{{anchors|2|ぶつご}}「ぶつご」と読み、 ## [[仏]](ぶつ、ほとけ)の語った[[言葉]]、仏の教え ⇒ [[仏教]] ## [[仏教]]に関する言葉 ⇒ [[仏教用語一覧]] {{aimai}} {{デフォルトソート:ふつこ}}
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大仏
大仏()は、大きな仏像を指す通称。中国などアジアの仏教圏では、天然の岩壁を彫刻した磨崖仏などが古くから造られてきた。日本においては、奈良時代に聖武天皇が、国家の安寧と民の幸福を祈願して東大寺に奈良の大仏(東大寺大仏)を造立したのを嚆矢とする。以降、現代に至るまで、大きな功徳を求めた願主によって各地に大きな仏像が造られてきた。 釈迦の背丈が1丈6尺あったという伝説から、その高さで造られた仏像を丈六仏()という。背丈を基準としているため坐像の場合は、約半分の大きさになる。一般的には「丈六仏」より大きい仏像を「大仏」というが、その定義より小さくても「大仏」と称するものもある。 また、大仏を安置する仏堂を大仏殿()と呼ぶことがあり、東大寺の大仏殿(金堂)が有名である。 日本三大仏は、日本にある大仏の中から代表的な3尊を選んだものである。うち2尊は、上記のうち奈良の大仏と鎌倉大仏が挙げられる。残る1尊は時代とともに変遷しており、第二次世界大戦後以降は富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏、兵庫県神戸市の能福寺にある再建された2代目の兵庫大仏など諸説ある。
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大仏は、大きな仏像を指す通称。中国などアジアの仏教圏では、天然の岩壁を彫刻した磨崖仏などが古くから造られてきた。日本においては、奈良時代に聖武天皇が、国家の安寧と民の幸福を祈願して東大寺に奈良の大仏(東大寺大仏)を造立したのを嚆矢とする。以降、現代に至るまで、大きな功徳を求めた願主によって各地に大きな仏像が造られてきた。 釈迦の背丈が1丈6尺あったという伝説から、その高さで造られた仏像を丈六仏という。背丈を基準としているため坐像の場合は、約半分の大きさになる。一般的には「丈六仏」より大きい仏像を「大仏」というが、その定義より小さくても「大仏」と称するものもある。 また、大仏を安置する仏堂を大仏殿と呼ぶことがあり、東大寺の大仏殿(金堂)が有名である。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2012年12月13日 (木) 13:37 (UTC)}} [[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]による[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。[[豊臣秀吉]]が方広寺大仏を発願し、その後相次ぐ天災のため損壊と再建が繰り返されたが、それらの大仏は文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。]] {{読み仮名|'''大仏'''|だいぶつ}}は、大きな[[仏像]]を指す通称。[[中華人民共和国|中国]]など[[アジア]]の[[仏教|仏教圏]]では、天然の岩壁を[[彫刻]]した[[磨崖仏]]などが古くから造られてきた。[[日本]]においては、[[奈良時代]]に[[聖武天皇]]が、国家の安寧と民の幸福を祈願して[[東大寺]]に[[東大寺盧舎那仏像|奈良の大仏]](東大寺大仏)を造立したのを嚆矢とする。以降、現代に至るまで、大きな功徳を求めた願主によって各地に大きな仏像が造られてきた。 [[釈迦]]の背丈が1[[丈]]6[[尺]]<ref>「1丈6尺=約4.85メートル」とされるが、時代によって異なる。</ref>あったという伝説から、その高さで造られた仏像を{{読み仮名|'''[[法量#丈六|丈六仏]]'''|じょうろくぶつ}}という<ref>[http://tobifudo.jp/newmon/shinbutu/daibutu.html やさしい仏教入門 大仏・丈六仏] 飛不動尊 龍光山正宝院</ref>。背丈を基準としているため坐像の場合は、約半分の大きさになる。一般的には「丈六仏」より大きい仏像を「大仏」というが、その定義より小さくても「大仏」と称するものもある。 また、大仏を安置する仏堂を{{読み仮名|'''大仏殿'''|だいぶつでん}}と呼ぶことがあり、東大寺の[[東大寺大仏殿|大仏殿]](金堂)が有名である。 == 主な大仏 == === 日本 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:90%" |- ! class="unsortable" | 画像 ! 名称 ! 所在地 ! 寺院等 ! 対象 ! 種類 ! 像高(m)<ref>台座等は含まない。涅槃像は全長とする。</ref> ! 建造年 |- | [[File:Hill of the buddha.jpg|100px]] | data-sort-value="あたま" | [[頭大仏]](御霊供養大仏) | [[北海道]][[札幌市]][[南区 (札幌市)|南区]] | [[真駒内滝野霊園]] | [[阿弥陀如来]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}13.50 | [[2006年]]([[平成]]18年) |- | | data-sort-value="さつほろ" | [[札幌大仏]] | 北海道札幌市[[西区 (札幌市)|西区]] | 金毘羅密寺 | [[文殊菩薩]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}7.60 | [[2003年]](平成15年) |- | | data-sort-value="しようわ" | [[昭和大仏]] | [[青森県]][[青森市]] | [[青龍寺 (青森市)|青龍寺]] | [[大日如来]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}21.35 | [[1984年]]([[昭和]]59年) |- | | data-sort-value="せたかかんのん" | 背高観音 | 青森県[[弘前市]] | [[袋宮寺]] | [[十一面観音]] | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}6.15 | [[1677年]]([[延宝]]5年) |- | | data-sort-value="もりおか" | [[盛岡大仏]] | [[岩手県]][[盛岡市]] | 松園寺 | [[毘盧遮那仏]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}12.00 | |- | | data-sort-value="ふもんし" | [[普門寺大仏]] | 岩手県[[陸前高田市]] | [[普門寺 (陸前高田市)|普門寺]] | [[釈迦如来]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}5.00 | |- | [[ファイル:Ayashi Daibutsu.jpg|100px]] | data-sort-value="あやし" | [[愛子大仏]] | [[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]] | 佛国寺 | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}15.00 | [[2002年]](平成14年) |- | | data-sort-value="りゆうとういん" | [[龍島院大仏]] | 宮城県[[柴田郡]][[村田町]] | 龍島院 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.00 | |- | [[File:Kamazawa no Daibutu.jpg|100px]] | 鎌沢の大仏 | [[秋田県]][[北秋田市]] | 正法院 | [[地蔵菩薩]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.82 | [[1745年]](延享2年) |- | [[File:赤田の大仏 - panoramio.jpg|100px]] | data-sort-value="あかた" | [[赤田大仏]] | 秋田県[[由利本荘市]] | [[長谷寺 (由利本荘市)|長谷寺]] | [[十一面観音]] | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0|00}}9.00 | [[1892年]]([[明治]]25年) |- | | data-sort-value="りつしやくし" | [[立石寺大仏]](山寺大仏) | [[山形県]][[山形市]] | [[立石寺]] | [[阿弥陀如来]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}5.00 | |- | | data-sort-value="さかた" | [[酒田大仏]] | 山形県[[酒田市]] | 持地院 | [[釈迦如来]] | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}13.00 | [[1914年]]([[大正]]3年) |- | | data-sort-value="あいつ" | [[会津大仏]] | [[福島県]][[喜多方市]] | [[願成寺 (喜多方市)|願成寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.41 | data-sort-value="1333" | [[鎌倉時代]] |- | [[File:東光寺(郡山市) 中地大仏.jpg|100px]] | data-sort-value="なかし" | [[中地大仏]] | [[福島県]][[郡山市]] | [[東光寺 (郡山市)|東光寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.00 | |- | | data-sort-value="こか" | [[古河大仏]] | [[茨城県]][[古河市]] | 西光寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.50 | [[1979年]](昭和54年) |- | [[File:Ushiku Daibutsu.jpg|100px]] | data-sort-value="うしく" | [[牛久大仏]] | [[茨城県]][[牛久市]] | [[牛久浄苑]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | 100.00 | [[1993年]](平成5年) |- | | data-sort-value="きちしようし" | [[吉祥寺大仏 (鉾田市)|吉祥寺大仏]] | 茨城県[[鉾田市]] | 吉祥寺 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.50 | |- | [[ファイル:Utsunomiya Daibutsu 2.jpg|100px]] | data-sort-value="うつのみや" | [[宇都宮大仏]] | [[栃木県]][[宇都宮市]] | [[善願寺 (宇都宮市)|善願寺]] | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.60 | [[1735年]]([[享保]]20年) |- | [[ファイル:Gensouzi-1.JPG|100px]] | data-sort-value="ひらと" | [[平戸の大仏]] | [[埼玉県]][[熊谷市]] | [[源宗寺 (熊谷市)|源宗寺]] | [[薬師如来]]<br />[[観音菩薩]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.50 | data-sort-value="1680" | [[江戸時代]]前期 |- | | data-sort-value="たいちようし" | [[大長寺大仏]](行田大仏) | 埼玉県[[行田市]] | 大長寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.60 | |- | | data-sort-value="ちちふ" | [[秩父大仏]] | 埼玉県[[秩父市]] | 東林寺 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.00 | [[1989年]](平成元年) |- | [[File:Yoshimi Kannon Anraku-ji 06a.jpg|100px]] | data-sort-value="よしみ" | [[吉見大仏]] | [[埼玉県]][[比企郡]][[吉見町]] | [[安楽寺 (埼玉県吉見町)|安楽寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.00 | [[1790年]]([[寛政]]2年) |- | | data-sort-value="こまかた" | [[駒形大仏]] | [[千葉県]][[千葉市]][[稲毛区]] | [[駒形観音堂]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.36 | [[1703年]]([[元禄]]16年) |- | [[File:Nakayama Daibutsu.JPG|100px]] | data-sort-value="なかやま" | [[中山大仏]] | 千葉県[[市川市]] | [[法華経寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.85 | [[1719年]]([[享保]]4年) |- | [[File:奈良の大仏.jpg|100px]] | data-sort-value="なら" | [[奈良の大仏 (市原市)|奈良の大仏]] | 千葉県[[市原市]] | | 釈迦如来 | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.74 | [[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年) |- | [[File:Kamagaya-daibutsu.jpg|100px]] | data-sort-value="かまかや" | [[鎌ヶ谷大仏]] | 千葉県[[鎌ケ谷市]] | | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.80 | [[1776年]]([[安永]]5年) |- | [[File:Postcard Buddha.jpg|100px]] | data-sort-value="にほんし" | [[日本寺大仏]] | 千葉県[[安房郡]][[鋸南町]] | [[日本寺 (千葉県鋸南町)|日本寺]] | [[薬師如来]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}31.00 | [[1969年]](昭和44年) |- | | data-sort-value="かくらさか" | [[神楽坂大仏]] | [[東京都]][[新宿区]] | 安養寺 | 薬師如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.00 | |- | | data-sort-value="さいこうし" | [[西迎寺大仏]](四谷の大仏) | 東京都新宿区 | 西迎寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.37 | [[1694年]](元禄7年) |- | [[File:Statue - Gokokuji - Bunkyo, Tokyo, Japan - DSC07796.JPG|100px]] | data-sort-value="ここくし" | [[護国寺大仏]] | 東京都[[文京区]] | [[護国寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.50 | |- | [[File:Sitting Buddha in Kichijyoji.jpg|100px]] | data-sort-value="きちしようし" | [[吉祥寺大仏 (文京区)|吉祥寺大仏]] | 東京都文京区 | [[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}6.00 | |- | [[File:Sensoji-amida nyorai zo.jpg|100px]] | data-sort-value="せんそうし" | [[浅草寺大仏]] | 東京都[[台東区]] | [[浅草寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.86 | [[1693年]](元禄6年) |- | [[File:Yanaka Tenno-ji temple 04.JPG|100px]] | data-sort-value="てんのうし" | [[天王寺大仏]] | 東京都台東区 | [[天王寺 (台東区)|天王寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.96 | [[1690年]](元禄3年) |- | | data-sort-value="くほんし" | [[九品寺大仏]] | 東京都台東区 | 九品寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.80 | [[1660年]]([[万治]]3年) |- style="background-color:#cccccc" | [[File:Ueno Daibutsu in Taisho era.JPG|100px]] | data-sort-value="うえの" | [[上野大仏]] | 東京都台東区 | [[上野恩賜公園]] | 釈迦如来 | 坐像<br />※顔のみ現存 | style="text-align:right" | {{0|00}}6.00 | [[1843年]]([[天保]]14年)<br />※[[1923年]](大正12年)倒壊 |- | | data-sort-value="おおくら" | [[おおくら大仏]](大蔵大仏) | [[東京都]]世田谷区 | [[妙法寺 (世田谷区)|妙法寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0|00}}8.00 | [[1994年]](平成6年) |- | | data-sort-value="とうきよう" | [[東京大仏]](赤塚大仏) | 東京都[[板橋区]] | [[乗蓮寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}8.20 | [[1977年]](昭和52年) |- |[[ファイル:多摩大仏像.jpg|フレームなし|200x200ピクセル]] |[[多摩]]大仏 (交通安全大仏) |東京都[[三鷹市]][[新川 (三鷹市)|新川]] |[[春清寺]] |釈迦如来 |坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.35 |[[1979年]] (昭和54年) |- | | data-sort-value="ふきあけ" | [[吹上大仏]] | 東京都[[日野市]] | 善生寺 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}5.00 | [[1995年]](平成7年) |- | | data-sort-value="ろくや" | [[鹿野大仏]](多摩大仏) | 東京都[[西多摩郡]][[日の出町]] | 宝光寺 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}12.00 | [[2018年]](平成30年) |- | | data-sort-value="みうら" | [[三浦大仏]] | [[神奈川県]][[横須賀市]] | 聖徳久里浜霊園 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}13.50 | [[1983年]](昭和58年) |- | [[File:Kamakura Budda Daibutsu front 1885.jpg|100px]] | data-sort-value="かまくら" | [[鎌倉大仏]](長谷の大仏) | 神奈川県[[鎌倉市]] | [[高徳院]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}11.39 | data-sort-value="1333" | [[鎌倉時代]] |- | |越後胎内観音 |新潟県胎内市 |越後胎内観音奉賛会 |観音菩薩 |立像 |7.30 |[[1970年]](昭和45年) |- | [[File:白馬大仏.jpg|100px]] | data-sort-value="はくは" | [[白馬大仏]] | [[新潟県]][[糸魚川市]] | 白馬観光ホテル | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}23.50 | [[1969年]](昭和44年) |- | [[File:Takaoka Daibutsu 2011-07-15 01.jpg|100px]] | data-sort-value="たかおか" | [[高岡大仏]] | [[富山県]][[高岡市]] | [[大佛寺 (高岡市)|大佛寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}7.43 | [[1933年]](昭和8年) |- | [[File:Toide daibutsu.jpg|100px]] | data-sort-value="といて" | [[戸出大仏]] | 富山県[[高岡市]] | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.80 | |- | | data-sort-value="しようかわ" | [[庄川大仏]](金屋大仏) | 富山県[[砺波市]] | 光照寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}6.30 | [[1932年]](昭和7年) |- | | data-sort-value="こすき" | [[小杉大仏]] | 富山県[[射水市]] | [[蓮王寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.85 | |- | | data-sort-value="しんこつ" | [[人骨大仏]] | [[石川県]][[金沢市]] | 大円寺 | [[地蔵菩薩]] | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.33 | |- | | data-sort-value="はにへ" | [[ハニベ大仏]] | 石川県[[小松市]] | ハニベ巌窟院 | 釈迦如来 | 頭のみ | style="text-align:right" | {{0}}15.00 | [[1983年]](昭和58年) |- | | data-sort-value="のと" | [[能登大仏]] | 石川県[[鳳珠郡]][[穴水町]] | 真和園 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}8.40 | [[2003年]](平成15年) |- | [[File:福井大仏観音 - panoramio - kcomiida.jpg|100px]] | data-sort-value="ふくい" | [[福井大仏]] | [[福井県]][[福井市]] | 光照寺 | [[聖観音]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}7.00 | [[1958年]](昭和33年) |- | | data-sort-value="えちせん" | [[越前大仏]](出世大仏) | 福井県[[勝山市]] | [[清大寺]] | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}17.00 | [[1987年]](昭和62年) |- | | data-sort-value="くまさか" | [[熊坂大仏]] | 福井県[[あわら市]] | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.00 | [[1856年]](安政3年) |- | [[File:Bouddha gifu.jpg|100px]] | data-sort-value="きふ" | [[岐阜大仏]](籠大仏) | [[岐阜県]][[岐阜市]] | [[正法寺 (岐阜市大仏町)|正法寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}13.70 | [[1832年]]([[天保]]3年) |- | | data-sort-value="ほうに" | [[法爾大仏]] | 岐阜県岐阜市 | 安祥院 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.00 | [[2012年]](平成24年) |- | | data-sort-value="へいわ" | [[平和観音]] | 岐阜県多治見市 | 虎渓公園 | 観音菩薩 | style="background-color:#ffffcc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0|00}}15 | [[1965年]](昭和40年) |- | | data-sort-value="さかな" | [[円鏡寺#伽藍|魚供養観音菩薩]] | 岐阜県[[本巣郡]][[北方町]] | [[円鏡寺]] | 観音菩薩 | style="background-color:#ffffcc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0|00}}15 | |- | | data-sort-value="こくふ" | [[国府大仏]] | 岐阜県[[高山市]] | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.77 | data-sort-value="1184" | [[平安時代]] |- | [[File:Sakiti_daibutu02.JPG|100px]] | data-sort-value="さきち" | [[佐吉大仏]](竹鼻大仏) | 岐阜県[[羽島市]] | 大仏公園 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.90 | [[1750年]]([[寛延]]3年) |- | | data-sort-value="いかわ" | [[井川大仏]] | [[静岡県]][[静岡市]][[葵区]] | | | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}11.00 | [[1980年]](昭和55年) |- | | data-sort-value="ゆかわら" | [[湯河原の首大仏]] | 静岡県[[熱海市]] | 福泉寺 | 釈迦如来 | 頭のみ | style="text-align:right" | {{0|00}}2.50 | |- | | data-sort-value="かわね" | [[川根大仏]] | 静岡県[[榛原郡]][[川根本町]] | 智満寺 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.00 | [[2000年]](平成12年) |- | | data-sort-value="へんしようし" | [[遍照寺大仏]] | 静岡県[[周智郡]][[森町 (静岡県)|森町]] | 遍照寺 | [[大日如来]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}5.00 | [[1718年]](享保3年) |- | [[File:Nagoya Daibutsu-20070513.jpg|100px]] | data-sort-value="なこや" | [[名古屋大仏]] | 愛知県[[名古屋市]][[千種区]] | [[桃巌寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}10.00 | [[1987年]](昭和62年) |- | | data-sort-value="なこや" | [[平成大仏]] | 愛知県[[名古屋市]][[昭和区]] | [[興正寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}7.1 | [[2014年]](平成26年) |- | | data-sort-value="おかさき" | [[薬師如来涅槃像]] | 愛知県[[岡崎市]][[藤川町 (岡崎市)|藤川町]] | [[一畑山薬師寺]] | 薬師如来 | style="background-color:#ffffcc" | 涅槃像 | style="text-align:right" | {{0}}8.94 | |- | | data-sort-value="なこや" | [[北大仏]] | 愛知県[[名古屋市]][[北区 (名古屋市)|北区]] | [[普光寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}7.235 | [[2003年]](平成15年) |- | | data-sort-value="なこや" | [[銅製大日如来像]] | 愛知県[[名古屋市]][[昭和区]] | [[興正寺]] | 大日如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}3.64 | [[1697年]](元禄十年) |- | | data-sort-value="なこや" | [[木造阿弥陀如来坐像]] | 愛知県[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]] | [[栄国寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}2.23 | [[1665年]](寛文4年) |- | | data-sort-value="なこや" | [[阿弥陀如来坐像]] | 愛知県[[名古屋市]][[熱田区]] | [[雲心寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}2.4 | [[1862年]](文久2年) |- | | data-sort-value="なこや" | [[大観音]] | 愛知県[[名古屋市]][[千種区]] | | 観音菩薩 | style="background-color:#ffffcc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}10 | [[1931年]](昭和6年)<br />※[[1941年]](昭和16年)南京に送られ文革で破壊 |- | | data-sort-value="なこや" | [[上菅大観音]] | 愛知県[[名古屋市]][[名東区]] | [[本成寺]] | 観音菩薩 | style="background-color:#ffffcc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}7 | |- | | data-sort-value="なこや" | [[大日如来像]] | 愛知県[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]] | [[七寺]] | 大日如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}2.7 | |- | [[File:Kariyado daibutu.jpg|100px]] | data-sort-value="かりやと" | [[刈宿の大仏]] | 愛知県[[西尾市]] | 常福寺 | | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}7.00 | [[1928年]](昭和3年) |- | | data-sort-value="しんせい" | [[新生大仏]] | 愛知県[[犬山市]] | [[成田山名古屋別院大聖寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | | [[1955年]](昭和30年) |- | | data-sort-value="きぬうら" | [[衣浦観音]] | 愛知県[[高浜市]] | [[観音寺 (高浜市)|観音寺]] | 観音菩薩 | style="background-color:#ffffcc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}8 | [[1959年]](昭和34年) |- | [[File:Hotei-daibutsu1.JPG|100px]] | data-sort-value="ほてい" | [[布袋の大仏]] | 愛知県[[江南市]] | | 薬師如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}18.00 | [[1954年]](昭和29年) |- | | data-sort-value="ほてい" | [[布袋の大仏 (木造阿弥陀如来坐像)|布袋の大仏]] | 愛知県[[江南市]] | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.33 | |- | [[File:Shurakuendaibutsu1.JPG|100px]] | data-sort-value="しゆうらくえん" | [[聚楽園大仏]] | 愛知県[[東海市]] | [[聚楽園公園]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}18.79 | [[1927年]](昭和2年) |- | | data-sort-value="みのた" | [[美濃田大仏]] | [[三重県]][[松阪市]] | 真楽寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.00 | |- | [[File:新大仏寺大仏様.jpg|100px]] | data-sort-value="いか" | [[伊賀大仏]](阿波の大仏) | 三重県[[伊賀市]] | [[新大仏寺]] | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.05 | data-sort-value="1735" | 享保年間 |- | | data-sort-value="みえ" | [[純金開運寶珠大観音]] | 三重県[[津市]] | [[寶珠山大観音寺]] | 観音菩薩 | style="background-color:#ffffcc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}33 | [[1981年]](昭和56年) |- | | data-sort-value="しか" | [[志賀の大仏]] | [[滋賀県]][[大津市]] | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.10 | |- | | data-sort-value="なかはまひわこ" | [[長浜びわこ大仏]](琵琶湖大仏) | 滋賀県[[長浜市]] | 良疇寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}28.00 | [[1994年]](平成6年) |- style="background-color:#cccccc" |[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|100px|]] | data-sort-value="きよう" | [[京の大仏]] | [[京都府]][[京都市]][[東山区]] | [[方広寺]] | 毘盧遮那仏 | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}19.00 | data-sort-value="1680" | [[江戸時代]]前期<br />※[[1798年]](寛政10年)焼失 |- style="background-color:#cccccc" | | data-sort-value="とうふくし" | [[東福寺大仏]] | 京都府京都市東山区 | [[東福寺]] | 釈迦如来 | 坐像<br />※左手のみ現存 | style="text-align:right" | {{0}}7.50 | data-sort-value="1350" | [[14世紀]]半ば<br />※[[1881年]](明治14年)焼失 |- | | data-sort-value="きようと" | [[京都大仏]] | 京都府京都市東山区 | 金剛華寺 | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}7.50 | [[1981年]](昭和56年) |- | [[File:丹後大仏と桜2.jpg|100px]] | data-sort-value="たんこ" | [[丹後大仏]] | 京都府[[与謝郡]][[伊根町]] | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.00 | [[1945年]](昭和20年) |- | | data-sort-value="いしきり" | [[石切大仏]] | [[大阪府]][[東大阪市]] | 大佛寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}6.00 | [[1980年]](昭和55年) |- | | data-sort-value="せつつ" | [[摂津大仏]] | 大阪府[[豊能郡]][[能勢町]] | 七寳寺 | | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}10.60 | [[1997年]](平成9年) |- | | data-sort-value="ひようこ" | [[兵庫大仏]] | [[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]] | [[能福寺]] | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}11.00 | [[1991年]](平成3年) |- | [[File:神戸市立鵯越墓園大仏IMG 1022.JPG|100px]] | data-sort-value="ひよとりこえ" | [[鵯越大仏]] | 兵庫県神戸市[[北区 (神戸市)|北区]] | 神戸市立[[鵯越]]墓園 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}12.54 | [[1932年]](昭和7年) |- | [[File:Engyoji19bs4592.jpg|100px]] | data-sort-value="えんきようし" | [[圓教寺大仏]] | 兵庫県[[姫路市]] | [[圓教寺 (姫路市)|圓教寺]] | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | | |- | [[File:Hyogo-mikata-kami-kawai chorakuji-daibutsu.jpg|100px]] | data-sort-value="たしま" | [[但馬大仏]] | 兵庫県美方郡[[香美町]] | [[長楽寺 (兵庫県香美町)|長楽寺]] | 釈迦如来<br />薬師如来<br />阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}15.80<br />{{0}}15.20<br />{{0}}15.20 | [[1994年]](平成6年) |- | [[File:Todaiji02.JPG|100px]] | data-sort-value="なら" | [[東大寺盧舎那仏像|奈良の大仏]](東大寺大仏) | [[奈良県]][[奈良市]] | [[東大寺]] | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}14.70 | [[752年]]([[天平勝宝]]4年) |- |[[File:広島大仏 おりづるタワー展示 正面.jpg|100px]] | data-sort-value="ひろしま" | [[広島大仏]] | 奈良県[[生駒郡]][[安堵町]] | [[極楽寺 (奈良県安堵町)|極楽寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.00 | [[1201年]]([[建仁]]元年) |- | [[File:Asuka dera daibutsu.jpg|100px]] | data-sort-value="あすか" | [[飛鳥大仏]] | 奈良県[[高市郡]][[明日香村]] | [[飛鳥寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.75 | [[609年]]([[推古天皇]]17年) |- | [[File:Muryokoji Wakayama03n4272.jpg|100px]] | data-sort-value="むりようこうし" | [[無量光寺の首大仏]] | [[和歌山県]][[和歌山市]] | [[無量光寺 (和歌山市)|無量光寺]] | 毘盧遮那仏 | 頭のみ | style="text-align:right" | {{0|00}}3.00 | [[1840年]](天保11年) |- | | data-sort-value="きよみすてら" | [[清水寺大仏]]([[山陰]]の大仏) | [[島根県]][[安来市]] | [[清水寺 (安来市)|清水寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.80 | data-sort-value="1184" | 平安時代 |- | | data-sort-value="ありふく" | [[有福大仏]] | 島根県[[江津市]] | [[有福温泉]] | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.64 | [[1938年]](昭和13年) |- | | data-sort-value="うしまと" | [[牛窓大仏]](弘法寺大仏) | [[岡山県]][[瀬戸内市]] | [[弘法寺 (瀬戸内市)|弘法寺]] | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.82 | |- | [[File:Tochikorozan Tanjoji 06.JPG|100px]] | data-sort-value="たんしようし" | [[誕生寺大仏]] | 岡山県[[久米郡]][[久米南町]] | [[誕生寺 (岡山県久米南町)|誕生寺]] | | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}6.42 | [[1745年]]([[延享]]2年) |- | | data-sort-value="とうこうえん" | [[東光園大仏]](浜の大仏) | [[広島県]][[広島市]][[安芸区]] | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.00 | [[1935年]](昭和10年) |- | | data-sort-value="ひんこ" | [[備後大仏]] | 広島県[[府中市 (広島県)|府中市]] | 吉井寺 | 薬師如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}1.48 | |- | | data-sort-value="いつくしま" | [[厳島大仏]] | 広島県[[廿日市市]] | [[大願寺 (廿日市市)|大願寺]] | [[不動明王]] | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}4.00 | [[2006年]](平成18年) |- | | data-sort-value="こくらくし" | [[極楽寺大仏]] | 広島県[[廿日市市]] | 極楽寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}8.00 | [[1984年]](昭和59年) |- | | data-sort-value="あつも" | [[厚母大仏]] | [[山口県]][[下関市]] | 安養寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.69 | data-sort-value="1184" | 平安時代 |- | | data-sort-value="たたら" | [[多々良大仏]] | 山口県[[防府市]] | 毛利氏庭園 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}3.00 | |- | | data-sort-value="ひみ" | [[日見大仏]] | 山口県[[大島郡 (山口県)|大島郡]][[周防大島町]] | 西長寺 | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0|00}}2.84 | data-sort-value="1184" | 平安時代 |- | | data-sort-value="ふくおか" | [[福岡大仏]] | [[福岡県]][[福岡市]][[博多区]] | [[東長寺]] | 釈迦如来 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}10.80 | [[1992年]](平成4年) |- style="background-color:#cccccc" | | data-sort-value="はかた" | [[博多大仏]] | 福岡県福岡市[[東区 (福岡市)|東区]] | 称名寺 | 釈迦如来 | 坐像 | | [[1912年]](大正元年)<br />※[[1942年]](昭和17年)供出 |- | | data-sort-value="しやかねはんそう" | [[釈迦涅槃像 (南蔵院)|釈迦涅槃像]] | 福岡県[[糟屋郡]][[篠栗町]] | [[南蔵院 (福岡県篠栗町)|南蔵院]] | 釈迦如来 | style="background-color: #ccccff" | 涅槃像 | style="text-align:right" | {{0}}41.00 | [[1995年]](平成7年) |- | | data-sort-value="よふこ" | [[呼子大仏]] | [[佐賀県]][[唐津市]] | [[国民宿舎]][[呼子町|呼子]]ロッジ | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0}}10.50 | [[1922年]](大正11年) |- | [[ファイル:法泉寺大仏.jpg|100px]] | data-sort-value="ほうせんし" | [[法泉寺大仏]] | 佐賀県[[杵島郡]][[白石町]] | 法泉寺 | 毘盧遮那仏 | style="background-color:#ffffcc" | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}5.07 | data-sort-value="1716" | [[正徳 (日本)|正徳]]年間 |- style="background-color:#cccccc" | | data-sort-value="へつふ" | [[別府大仏]] | [[大分県]][[別府市]] | 榮信寺 | 阿弥陀如来 | 坐像 | style="text-align:right" | {{0}}24.00 | [[1928年]](昭和3年)<br />※[[1989年]](平成元年)解体 |- | | data-sort-value="へつふしこく" | [[別府地獄大仏]](金龍地獄大仏) | 大分県別府市 | | 阿弥陀如来 | style="background-color:#ffcccc" | 立像 | style="text-align:right" | {{0|00}}5.00 | |} ==== 日本三大仏 ==== {{Main|日本三大仏}} 日本三大仏は、日本にある大仏の中から代表的な3尊を選んだものである。うち2尊は、上記のうち[[東大寺盧舎那仏像|奈良の大仏]]と[[鎌倉大仏]]が挙げられる。残る1尊は時代とともに変遷しており、[[第二次世界大戦]]後以降は[[富山県]][[高岡市]]の[[大佛寺 (高岡市)|大佛寺]]にある[[高岡大仏]]<ref>[http://www.info-toyama.com/spot/21108/ 観光スポット 高岡大仏] とやま観光ナビ</ref><ref>[http://www.city.takaoka.toyama.jp/bunkazai/kanko/rekishi/yuke/daibutsu.html 高岡大仏] 高岡市 2013年3月21日</ref>や[[岐阜県]][[岐阜市]]の[[正法寺 (岐阜市大仏町)|正法寺]]にある[[岐阜大仏]]<ref>[http://www.city.gifu.lg.jp/8668.htm ぎふ大仏フェスティバル実行委員会] 岐阜市公式ホームページ 2012年11月14日</ref><ref>[http://www.gifucvb.or.jp/sightseeing/detail_kankou.php?eid=00007 岐阜大仏(正法寺)]岐阜観光コンベンション協会</ref>、[[兵庫県]][[神戸市]]の[[能福寺]]にある再建された2代目の[[兵庫大仏]]など諸説ある<ref>「[http://www.nippon.com/ja/features/h00353/ 国宝の大仏殿に安置される奈良大仏と500年以上も風雨にさらされてきた鎌倉大仏]」nippon.com(2018年12月11日)</ref><ref>[http://webun.jp/item/7422259 「日本三大仏」常識ではない?][[北日本新聞]]ウェブ(2017年12月13日)</ref>。 === 中国 === *[[雲崗石窟]]の[[曇曜]]五窟 *[[龍門洞窟|龍門石窟]]の[[奉先寺|奉先寺大仏]] *[[楽山大仏]] *[[魯山大仏]] *[[天壇大仏]] *[[霊山大仏]] *[[南山大仏]] *[[東林大仏]] *[[西山大仏]] === 韓国 === *[[法住寺 (報恩郡)|法住寺大仏]] *[[束草市|束草]]の大仏 === アフガニスタン === *[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤンの大仏]] === タイ === *[[ワット・プラチェートゥポンウィモンマンカラーラーム]]の涅槃仏 *[[ワット・インタラウィハーン]]の大仏 === 台湾 === *[[八卦山大仏]] === スリランカ === *津波本願寺佛舎の大仏 === ミャンマー === *[[レイチュンセッチャー大仏]] === ブラジル === *イビラス大仏 - [[エスピリトサント州]]イビラスにある[[曹洞宗]]寺院に2021年完成。高さ35メートル、重量350トンの[[鉄筋コンクリート]]製<ref>[https://mainichi.jp/articles/20210923/k00/00m/030/076000c 「ブラジルに35メートルの大仏 リオのキリスト像を上回る」]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年9月24日(国際面)2021年9月27日閲覧</ref>。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|Statues of the Buddha in Japan|日本の仏像}} *[[巨大仏]] *[[一搩手半]] {{DEFAULTSORT:たいふつ}} [[Category:大仏|*]]
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538年
538年(538 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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538年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|538}} {{year-definition|538}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[戊午]] * [[日本]] ** [[宣化天皇]]3年 ** [[皇紀]]1198年 * [[中国]] ** [[梁 (南朝)|梁]]:[[大同 (梁)|大同]]4年 ** [[東魏]]:[[元象]]元年 ** [[西魏]]:[[大統]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]]:[[安原王]]8年 ** [[百済]]:[[聖王 (百済)|聖王]]16年 ** [[新羅]]:(王)[[法興王]]25年、(元号)[[建元 (新羅)|建元]]3年 ** [[檀紀]]2871年 * [[ベトナム]]: * [[仏滅紀元]]: * [[ユダヤ暦]]: {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=538|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[仏教公伝]]、[[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]](聖明王)、仏像と経論を[[倭]]に献上(「[[上宮聖徳法王帝説]]」・「[[元興寺縁起]]」、[[552年]]との説あり) * 中国南部(ベトナム・ハノイ含む)では住民が各地で反乱や暴動を起こしたことが『[[南史]]』に記されている<ref> 石弘之著『歴史を変えた火山噴火 ー自然災害の環境史ー』刀水書房 2012年 91ページ</ref> * 東ゴート王ウィティギスがローマの包囲を解きラヴェンナに退却。 == 誕生 == {{see also|Category:538年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[敏達天皇]]、第30代[[天皇]](+ [[585年]]) *[[智顗]]、中国[[天台宗]]開祖([[597年]]) == 死去 == {{see also|Category:538年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[王懐]]、[[中国]]の[[東魏]]の軍人 (* 生年不明) * [[高昂]]、中国の東魏の軍人 (* [[491年]]) * [[高市貴]]、中国の東魏の軍人 (* 生年不明) * [[任祥]]、中国の東魏の政治家、軍人 (* [[494年]]) * [[宋顕]]、中国の東魏の軍人 (* 生年不明) * [[莫多婁貸文]]、中国の東魏の軍人 (* 生年不明) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|538}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] * [[火山の冬]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=6|年代=500}} {{デフォルトソート:538ねん}} [[Category:538年|*]]
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ISO/IEC 10646
ISO/IEC 10646 (UCS; 英: Universal Coded Character Set) は、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの国際標準のひとつで、業界規格のUnicodeと概ね互換である。日本の対応規格はJIS X 0221(国際符号化文字集合)。 文字空間(0 - 10FFFF16)、収録されている文字、それらの符号位置、英語でつけられた文字の名前、文字符号化方式(UTF-8, UTF-16, UTF-32)はUnicode規格と全く同じである。ただし、文字空間は古い規格では21ビットのUnicodeをベースにして文字空間を31ビットに拡張したものとされ、Unicodeの最大値であるU+10FFFFより大きなコードも使用できるという点でUnicodeと異なっていた。しかし、2006年の改訂によりUnicodeで使用できない領域には文字が「永久に定義されない」こととされ、2011年の改訂では明確に0 - 10FFFFと定義され同一となった。 面 (plane)、区 (row)、点 (cell) として分けられ、Unicodeと同じ第0面の基本多言語面 (BMP; 英: Basic Multilingual Plane) と追加面の第1 - 16面までの範囲で文字が定義されている。古い規格では群 (group) という分類もあったが2011年の改訂で廃止された。 この規格は制定の一歩手前の段階までは、現在の姿とはかなり異なる仕様だった。4オクテットの符号であり、各オクテットをそれぞれ群、面、区、点とする。各面には従来のコントロール領域を避けた0x20 - 0x7Fと0xA0 - 0xFFの範囲に文字を割り当てる。その範囲にISO/IEC 2022に従った構造の各国コード(ISO/IEC 8859やJIS X 0208、GB 2312など)を平行移動してそっくり収容するという、従来のコード系との互換性を最大限に尊重した構成をとっていた。 この案は1990年に国際標準の一歩前の段階のDIS (Draft International Standard) として作成されたが、1991年6月の投票で否決された。その理由は、同じ時期にアメリカの企業群がUnicode仕様を作成したため、同じ目的の規格が2つ作られることを避けることだった。 その後、DIS 10646とUnicodeとを一本化する作業が行われた。既存規格との整合性を重んじたDIS 10646に対して、Unicodeは各種アルファベット類は新規割り当て、漢字は日中韓を統合、符号位置はコントロール領域まで全て使って2オクテット固定という、全く異なる方針で設計されていた。結果として、「群・面・区・点」という用語は残しながら、第0群第0面を基本多言語面 (BMP) と称し、BMPにUnicodeをそっくり入れてその他の群・面は未使用という、実質2オクテットの符号となった。 結局、Unicodeに乗っ取られ第1版とは似ても似つかぬ符号になったDIS 10646第2版が、そのままInternational Standardとして制定されることとなった。1993年のことである。 このような経緯をたどり、既存規格との対応が不明確な定義になってしまったため、既存規格とのコード変換において、似たような形の多い記号のどれに対応させるのかの判断が困難となる問題が生じた。これにより、製品によってコード変換が異なる問題が常態化し、この問題に起因する文字化けは今に至るまで解決の目処が経っていない。ただし漢字については、元になった各国規格の符号位置が明示されているため変換の違いは生じていない。 ※ 1999年9月以降、2000年9月までに成立したAmendmentおよびTechnical Corrigendumは、発行されずそのままISO/IEC 10646-1:2000に組み込まれた。 Unicodeの『UTF』が『Unicode Transformation Format』を意味するのに対し、ISO/IEC 10646の『UTF』は『UCS Transformation Format』を意味する。 古い規格では実装レベルというものが考えられていたが2011年の改訂で廃止され、Level3の実装のみを扱う事となった。 Unicodeは、Level 3の実装である。
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ISO/IEC 10646 (UCS; 英: Universal Coded Character Set) は、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの国際標準のひとつで、業界規格のUnicodeと概ね互換である。日本の対応規格はJIS X 0221(国際符号化文字集合)。 文字空間(0 - 10FFFF16)、収録されている文字、それらの符号位置、英語でつけられた文字の名前、文字符号化方式(UTF-8, UTF-16, UTF-32)はUnicode規格と全く同じである。ただし、文字空間は古い規格では21ビットのUnicodeをベースにして文字空間を31ビットに拡張したものとされ、Unicodeの最大値であるU+10FFFFより大きなコードも使用できるという点でUnicodeと異なっていた。しかし、2006年の改訂によりUnicodeで使用できない領域には文字が「永久に定義されない」こととされ、2011年の改訂では明確に0 - 10FFFFと定義され同一となった。 面 (plane)、区 (row)、点 (cell) として分けられ、Unicodeと同じ第0面の基本多言語面 (BMP; 英: Basic Multilingual Plane) と追加面の第1 - 16面までの範囲で文字が定義されている。古い規格では群 (group) という分類もあったが2011年の改訂で廃止された。
'''[[国際標準化機構|ISO]]/[[国際電気標準会議|IEC]] 10646''' ('''UCS'''; {{lang-en-short|'''Universal Coded Character Set'''|links=no}}) は、[[符号化文字集合]]や[[文字符号化方式]]などを定めた、[[文字コード]]の国際標準のひとつで、業界規格の[[Unicode]]と概ね互換である。日本の対応規格は[[JIS X 0221]](国際符号化文字集合)。 文字空間(0 - 10FFFF<sub>16</sub>)、収録されている文字、それらの符号位置、英語でつけられた文字の名前、文字符号化方式(UTF-8, UTF-16, UTF-32)はUnicode規格と全く同じである<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-21 | page=1 | quote=The Unicode Standard is code-for-code identical with International Standard ISO/IEC 10646. }}</ref><ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-21 | page=88 | quote=The character names in the Unicode Standard match those of the English edition of ISO/IEC 10646. }}</ref><ref name="utf-8same">{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-21 | page=930 | quote=The ISO/IEC 10646 definition of UTF-8 is identical to UTF-8 as described under Definition D92 in Section 3.9, Unicode Encoding Forms. }}</ref><ref name="utf-16same">{{Cite web | url=https://www.unicode.org/versions/Unicode11.0.0/UnicodeStandard-11.0.pdf | title=The Unicode Standard Version 11.0 | format=PDF | publisher=The Unicode Consortium | language=English | date=2018-06-05 | accessdate=2019-01-21 | page=930 | quote=The ISO/IEC 10646 definition of UTF-16 is identical to UTF-16 as described under Definition D91 in Section 3.9, Unicode Encoding Forms. }}</ref>。ただし、文字空間は古い規格では21[[ビット]]の[[Unicode]]をベースにして文字空間を[[31ビット]]に拡張したものとされ、Unicodeの最大値であるU+10FFFFより大きなコードも使用できるという点でUnicodeと異なっていた。しかし、2006年の改訂によりUnicodeで使用できない領域には文字が「永久に定義されない」こととされ、2011年の改訂では明確に0 - 10FFFFと定義され同一となった。 [[面 (文字コード)|面]] (plane)、区 (row)、点 (cell) として分けられ、Unicodeと同じ第0面の[[基本多言語面]] (BMP; {{lang-en-short|'''B'''asic '''M'''ultilingual '''P'''lane|links=no}}) と[[追加面]]の第1 - 16面までの範囲で文字が定義されている。古い規格では群 (group) という分類もあったが2011年の改訂で廃止された。 {{Table Unicode}} == 制定の経緯とその影響 == この規格は制定の一歩手前の段階までは、現在の姿とはかなり異なる仕様だった。4[[8ビット|オクテット]]の符号であり、各オクテットをそれぞれ群、面、区、点とする。各面には従来のコントロール領域を避けた0x20 - 0x7Fと0xA0 - 0xFFの範囲に文字を割り当てる。その範囲にISO/IEC 2022に従った構造の各国[[文字コード|コード]]([[ISO/IEC 8859]]や[[JIS X 0208]]、[[GB 2312]]など)を平行移動してそっくり収容するという、従来のコード系との互換性を最大限に尊重した構成をとっていた。 この案は1990年に国際標準の一歩前の段階のDIS (Draft International Standard) として作成されたが、[[1991年]]6月の投票で否決された。その理由は、同じ時期に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の企業群がUnicode仕様を作成したため、同じ目的の規格が2つ作られることを避けることだった。 その後、[[DIS 10646]]とUnicodeとを一本化する作業が行われた。既存規格との整合性を重んじたDIS 10646に対して、Unicodeは各種アルファベット類は新規割り当て、漢字は日中韓を統合、符号位置はコントロール領域まで全て使って2オクテット固定という、全く異なる方針で設計されていた。結果として、「群・面・区・点」という用語は残しながら、第0群第0面を基本多言語面 (BMP) と称し、BMPにUnicodeをそっくり入れてその他の群・面は未使用という、実質2オクテットの符号となった。 結局、Unicodeに乗っ取られ第1版とは似ても似つかぬ符号になったDIS 10646第2版が、そのままInternational Standardとして制定されることとなった。[[1993年]]のことである。 このような経緯をたどり、既存規格との対応が不明確な定義になってしまったため、既存規格とのコード変換において、似たような形の多い記号のどれに対応させるのかの判断が困難となる問題が生じた。これにより、製品によってコード変換が異なる問題が常態化し、この問題に起因する文字化けは今{{いつ|date=2016年10月}}に至るまで解決の目処が経っていない。ただし[[漢字]]については、元になった各国規格の符号位置が明示されているため変換の違いは生じていない。 == 制定された規格群 == ※ 1999年9月以降、2000年9月までに成立したAmendmentおよびTechnical Corrigendumは、発行されずそのままISO/IEC 10646-1:2000に組み込まれた。 {| class="wikitable" style="font-size: 90%;" ! 発行日 ! 規格番号 ! 名称 |- | 1993/05/01 | ISO/IEC 10646-1: 1993 | Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS) -- Part 1: Architecture and basic Multilingual Plane |- | 1996/03/01 | ISO/IEC 10646-1: 1993/Cor.1 | TECHNICAL CORRIGENDUM 1 to ISO/IEC 10646-1:1993 |- | 1996/10/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.1 | Transformation Format for 16 planes of group 00 (UTF-16) |- | 1996/10/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.2 | UCS Transformation Format 8 (UTF-8) |- | 1996/10/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.3 | Code positions for control characters |- | 1996/10/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.4 | Removal of annex G (UTF-1) |- | 1997/11/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.6 | Tibetan |- | 1997/11/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.7 | 33 additional characters |- | 1997/12/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.8 | New annex on CJK Ideographs to ISO/IEC 10646-1:1993 |- | 1997/12/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.9 | Identifiers for Characters |- | 1998/05/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.5 | Hangul syllables |- | 1998/07/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Cor.2 | TECHNICAL CORRIGENDUM 2 to ISO/IEC 10646-1:1993 |- | 1998/07/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.11 | Unified Canadian Aboriginal Syllabics |- | 1998/09/01 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.12 | Cherokee |- | 1998/10/01 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.10 | Ethiopic script |- | 1998/10/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.13 | CJK unified ideographs |- | 1998/11/01 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.16 | Braille Patterns |- | 1998/11/01 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.19 | Runic |- | 1998/11/01 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.20 | Ogham |- | 1999/05/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.23 | Bopomofo and various other characters |- | 1999/06/01 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.21 | Sinhala |- | 1999/07/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.17 | CJK Unified Ideograph Extension |- | 1999/07/15 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.18 | Symbols and Others |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Cor.3 | TECHNICAL CORRIGENDUM 3 to ISO/IEC 10646-1:1993 |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.14 | Yi syllables and Yi radicals |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.22 | Keyboard symbols |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.24 | Thaana Script |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.25 | Khmer Script |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.26 | Burmese Script |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.27 | Syriac Script |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.29 | Mongolian |- | 1999 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.30 | Additional Latin and other characters |- | 2000 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.15 | Radicals and Numerals |- | 2000 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.28 | Ideographic Description Sequences |- | 2000 | ISO/IEC 10646-1:1993/Amd.31 | Tibetan Extension |- | 2000/09/15 | ISO/IEC 10646-1:2000 | UCS -- Part 1: Architecture and basic Multilingual Plane |- | 2001/11/01 | ISO/IEC 10646-2:2001 | UCS -- Part 2: Supplementary Planes |- | 2002/07/16 | ISO/IEC 10646-1:2000/Amd.1 | Mathematical symbols and other characters |- | 2003/12/15 | ISO/IEC 10646:2003 | Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS) |- | 2005/11/15 | ISO/IEC 10646:2003/Amd.1 | Glagolitic, Coptic, Georgian and other characters |- | 2006/07/01 | ISO/IEC 10646:2003/Amd.2 | N'Ko, Phags-pa, Phoenician and other characters |- | 2008/02/15 | ISO/IEC 10646:2003/Amd.3 | Lepcha, Ol Chiki, Saurashtra, Vai and other characters |- | 2008/07/01 | ISO/IEC 10646:2003/Amd.4 | Cham, Game Tiles, and other characters |- | 2008/12/01 | ISO/IEC 10646:2003/Amd.5 | Tai Tham, Tai Viet, Avestan, Egyptian Hieroglyphs, CJK Unified Ideographs Extension C, and other characters |- | 2009/10/15 | ISO/IEC 10646:2003/Amd.6 | Bamum, Javanese, Lisu, Meetei Mayek, Samaritan, and other characters |- | 2010/7/15 | ISO/IEC 10646:2003/Amd.7 | Mandaic, Batak, Brahmi, and other characters |- | 2011/5/2 | ISO/IEC 10646:2011 | Universal Coded Character Set (UCS) |- | 2012/05/21 | ISO/IEC 10646:2012 | Information technology -- Universal Coded Character Set (UCS) |- | 2013/04/09 | ISO/IEC 10646:2012/Amd 1:2013 | Linear A, Palmyrene, Manichaean, Khojki, Khudawadi, Bassa Vah, Duployan, and other characters |- | 2014/08/29 | ISO/IEC 10646:2014 | Information technology -- Universal Coded Character Set (UCS) |- | 2015 | ISO/IEC 10646:2014/Amd 1:2015 | Cherokee supplement and other characters |- | 2016 | ISO/IEC 10646:2014/Amd 2:2016 | Bhaiksuki, Marchen, Tangut and other characters |- | 2017/12/22 | ISO/IEC 10646:2017 | Information technology -- Universal Coded Character Set (UCS) |- |} == 文字符号化方式 == Unicodeの『UTF』が『Unicode Transformation Format』を意味するのに対し、ISO/IEC 10646の『UTF』は『UCS Transformation Format』を意味する。 ;UTF-1 :初期に提案されていた、8ビットコードによる方式。ほとんど利用されることなくUTF-8にとって代わられた。 ;UCS-2 :2オクテット固定のUCS (Universal Coded-Character Set) である。BMP(基本多言語面)以外の文字を使うことはできず、すべての文字を符号化できるUTF-16にとって代わられた。2011年の改訂ではdeprecated(廃止予定)とされた。 ;[[UTF-8]] :UnicodeのUTF-8と同じ<ref name="utf-8same" />。 ;[[UTF-16]] :UnicodeのUTF-16と同じ<ref name="utf-16same" />。 ;[[UTF-32]] (UCS-4) :UnicodeのUTF-32と同じ。 == 実装レベル == 古い規格では実装レベルというものが考えられていたが2011年の改訂で廃止され、Level3の実装のみを扱う事となった。 ;Level 1 :合成列などを扱わない ;Level 2 :必要な合成列を扱える ;Level 3 :全て扱える Unicodeは、Level 3の実装である。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *[http://std.dkuug.dk/jtc1/sc2/wg2/ ISO/IEC 10646:2003 Information technology -- Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS)] *[http://std.dkuug.dk/jtc1/sc2/wg2/ ISO/IEC 10646:2003/Amd 1:2005 Glagolitic, Coptic, Georgian and other characters] *[http://std.dkuug.dk/jtc1/sc2/wg2/ ISO/IEC 10646:2003/Amd 2:2006 N'Ko, Phags-pa, Phoenician and other characters] *[http://standards.iso.org/ittf/PubliclyAvailableStandards/c051273_ISO_IEC_10646_2011(E).zip ISO/IEC 10646:2011(E) Universal Coded Character Set (UCS)] *[http://standards.iso.org/ittf/PubliclyAvailableStandards/c069119_ISO_IEC_10646_2017.zip ISO/IEC 10646:2017 Universal Coded Character Set (UCS)] {{文字コード}} {{ISO}} [[Category:Unicode]] [[Category:ISO/IEC標準|10646]] [[Category:文字コード]]
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Extended Unix Code
Extended Unix Code(EUC)は、UNIX上で使われてきた文字コードの符号化方式である。 などがある。 1980年代、UNIXを開発していたAT&Tはアメリカ合衆国以外の国へUNIXを展開するにあたって各国固有の要求に対応するため、UNIXシステムを世界共通の機能となる国際機能と、各国固有の処理に必要な機能となる各国語機能に分けて定義した。この国際機能において、1つの基本コードと3つの拡張コードから構成される4つのコードセットを使用できる文字コードをExtended UNIX Code (EUC; 拡張UNIXコード) として定義した。 厳密にはEUCのコード体系にはバイト単位の可変長コードである「パックフォーマット」と、2バイト固定長の「完全2バイトフォーマット」がある。前者は情報交換用、後者は内部処理用で、一般にEUCという場合前者を指す。ここでも前者について解説する。 EUCのパックフォーマットはISO/IEC 2022を基に、以下のようなサブセット化を行った体系である。 補助コードセットが0x80-0xFFの範囲で表されるため、主コードセットと衝突することがない。すなわちShift_JISにおける2バイト目が5C等になりうることによる問題が起きないというメリットがある。 各国向けに局所化した各国語機能のそれぞれの版について、日本語では「 - 語EUC」や「 - 語版EUC」のように呼ばれることが多い。 日本語EUCはG1-G3に日本産業規格 (JIS) の文字集合を割り当てている。 一般に日本語EUCという場合こちらを指す。EUC-JPともいう。ここで、JPは日本国を表す国・地域コードであって、日本語を表す言語コード (ja) でない。 1986年にAT&Tによって定義されて以来、UNIXの標準的な日本語コードとして広く使われてきた。1990年にJIS X 0212(補助漢字)が新たに策定されたが、1992年にUNIX Internationalが発行した『UNIX System V リリース 4 (SVR4) 日本語環境共通規約』において、JIS X 0201 カタカナとJIS X 0212 補助漢字は実装が必須ではないとされていた。このため、特にJIS X 0212は実装されていないことも多い。通信などで用いる場合はこの点に注意が必要である。 なお、G2とG3を使わない場合はJIS X 0208:1997の「国際基準版・漢字用8ビット符号」と同一となる。 JIS X 0213:2004ベースのものをEUC-JIS-2004という(2000年版はEUC-JISX0213)。JIS X 0213の附属書3に記載がある。フリー/オープンソースソフトウェアなどで使われていることがある。 1987年にAT&Tユニックス・パシフィックよりリリースされた Korean Application Environment Release 1.0 (KAE 1.0) で規定され、1992年に韓国標準協会によってKS X 2901(旧KS C 5861)『ハングルUNIXエンバイロメント』として標準化された。EUC-KRともいう。ここで、KRは韓国の国・地域コードであって、朝鮮語の言語コード (ko) ではない。単にKS C 5601といった場合でも、文字集合としてのKS C 5601でなく、EUC-KRのことを指している場合が多い。 EUC-KRを拡張したUHC (Unified Hangul Code) という体系も存在する。 中国で広く使われていた。EUC-CNともいう。ここで、CNは中国の国・地域コードであって、簡体字の用字系コード (Hans) でも中国語の言語コード (zh) でもない。単にGB 2312といった場合でも、文字集合としてのGB 2312でなく、EUC-CNのことを指している場合が多い。 EUC-CNを拡張したGBKという体系も存在する。 EUC-TWともいう。ここで、TWは台湾の国・地域コードであって、繁体字の用字系コード (Hant) でも中国語の言語コード (zh) でもない。台湾の規格であるが、あまり使われておらず、一般にはBig5が使われる。 G2の文字は以下の4バイトで構成される。 EUCの利用は、すべての文字コードを包含したり、複数の文字コードを切り替えて表示する機能の必要性を否定する場合があり、多くの文字を表示する流れに対して後ろ向きであった点が課題である。これは、文字コード自体の課題ではなく、EUCを利用しているプログラマ、利用者の課題である。
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Extended Unix Code(EUC)は、UNIX上で使われてきた文字コードの符号化方式である。 日本語EUC JIS X 0208ベース (EUC-JP) JIS X 0213ベース (EUC-JIS-2004) 韓国語EUC (EUC-KR) 簡体字中国語EUC (EUC-CN) 繁体字中国語EUC (EUC-TW) などがある。
'''Extended Unix Code'''(EUC)は、[[UNIX]]上で使われてきた[[文字コード]]の[[文字符号化方式|符号化方式]]である。 *[[日本語]]EUC **[[JIS X 0208]]ベース ([[EUC-JP]]) **[[JIS X 0213]]ベース ([[EUC-JIS-2004]]) *[[朝鮮語|韓国語]]EUC ([[EUC-KR]]) *[[簡体字]][[中国語]]EUC ([[EUC-CN]]) *[[繁体字]]中国語EUC ([[EUC-TW]]) などがある。 == 概要 == 1980年代、UNIXを開発していた[[AT&T]]はアメリカ合衆国以外の国へUNIXを展開するにあたって各国固有の要求に対応するため、UNIXシステムを世界共通の機能となる国際機能と、各国固有の処理に必要な機能となる各国語機能に分けて定義した。この国際機能において、1つの基本コードと3つの拡張コードから構成される4つのコードセットを使用できる文字コードをExtended UNIX Code (EUC; 拡張UNIXコード) として定義した。 厳密にはEUCのコード体系にはバイト単位の可変長コードである「パックフォーマット」と、2バイト固定長の「完全2バイトフォーマット」がある。前者は情報交換用、後者は内部処理用で、一般にEUCという場合前者を指す。ここでも前者について解説する。 EUCのパックフォーマットは[[ISO/IEC 2022]]を基に、以下のようなサブセット化を行った体系である。 *G0に[[ASCII]](主コードセット)を、G1-G3に各言語の[[文字集合]](補助コードセット1-3)を暗黙に指示する。指示のエスケープシーケンスは用いない。 *GLにG0を、GRにG1を暗黙に呼び出す。G2/G3はシングルシフト2/3によりGRに呼び出す。ロッキングシフトは用いない。 補助コードセットが0x80-0xFFの範囲で表されるため、主コードセットと衝突することがない。すなわち[[Shift_JIS]]における[[Shift_JIS#2バイト目が5C等になりうることによる問題|2バイト目が5C等になりうることによる問題]]が起きないというメリットがある。 各国向けに局所化した各国語機能のそれぞれの版について、日本語では「 - 語EUC」や「 - 語版EUC」のように呼ばれることが多い。 == 日本語EUC == 日本語EUCはG1-G3に[[日本産業規格]] (JIS) の文字集合を割り当てている。 === JIS X 0208ベース === {{See|EUC-JP}} 一般に日本語EUCという場合こちらを指す。EUC-JPともいう。ここで、<code>JP</code>は日本国を表す国・地域コードであって、日本語を表す言語コード (<code>ja</code>) でない。 1986年にAT&Tによって定義されて以来、UNIXの標準的な日本語コードとして広く使われてきた。1990年に[[JIS X 0212]](補助漢字)が新たに策定されたが、1992年に[[UNIX International]]が発行した『[[UNIX System V]] リリース 4 (SVR4) 日本語環境共通規約』において、JIS X 0201 カタカナとJIS X 0212 補助漢字は実装が必須ではないとされていた。このため、特にJIS X 0212は実装されていないことも多い。通信などで用いる場合はこの点に注意が必要である。 *G0 - ASCII *G1 - [[JIS X 0208]] *G2 - [[JIS X 0201]]カタカナ *G3 - [[JIS X 0212]]補助漢字 なお、G2とG3を使わない場合はJIS X 0208:1997の「国際基準版・漢字用8ビット符号」と同一となる。 === JIS X 0213ベース === {{See|EUC-JIS-2004}} JIS X 0213:2004ベースのものをEUC-JIS-2004という(2000年版はEUC-JISX0213)。JIS X 0213の附属書3に記載がある。フリー/オープンソースソフトウェアなどで使われていることがある。 *G0 - ASCII *G1 - [[JIS X 0213]] 1面 *G2 - [[JIS X 0201]]カタカナ *G3 - [[JIS X 0213]] 2面 == 韓国語EUC == 1987年にAT&Tユニックス・パシフィックよりリリースされた Korean Application Environment Release 1.0 (KAE 1.0) で規定され、1992年に韓国標準協会によってKS X 2901(旧KS C 5861)『ハングルUNIXエンバイロメント』として標準化された。EUC-KRともいう。ここで、<code>KR</code>は[[大韓民国|韓国]]の国・地域コードであって、[[朝鮮語]]の言語コード (<code>ko</code>) ではない。単にKS C 5601といった場合でも、文字集合としてのKS C 5601でなく、EUC-KRのことを指している場合が多い。 *G0 - ASCII *G1 - [[KS X 1001]] (KS C 5601) *G2 - なし *G3 - なし EUC-KRを拡張した'''UHC''' (Unified Hangul Code) という体系も存在する。 == 簡体字中国語EUC == [[中国]]で広く使われていた。EUC-CNともいう。ここで、<code>CN</code>は中国の国・地域コードであって、簡体字の用字系コード (<code>Hans</code>) でも[[中国語]]の言語コード (<code>zh</code>) でもない。単にGB 2312といった場合でも、文字集合としてのGB 2312でなく、EUC-CNのことを指している場合が多い。 *G0 - ASCII *G1 - [[GB 2312]] *G2 - なし *G3 - なし EUC-CNを拡張した[[GBK]]という体系も存在する。 == 繁体字中国語EUC == EUC-TWともいう。ここで、<code>TW</code>は[[台湾]]の国・地域コードであって、繁体字の用字系コード (<code>Hant</code>) でも中国語の言語コード (<code>zh</code>) でもない。台湾の規格であるが、あまり使われておらず、一般には[[Big5]]が使われる。 *G0 - ASCII *G1 - [[CNS 11643]] 第一字面 *G2 - [[CNS 11643]] 第二-第十六字面 *G3 - なし G2の文字は以下の4バイトで構成される。 *シングルシフト2 (0x8E) *字面を選択するコード(0xA2-0xB0) *文字の第1バイト(0xA1-0xFE) *文字の第2バイト(0xA1-0xFE) == 課題 == {{出典の明記|date=2019年8月|section=1}} EUCの利用は、すべての文字コードを包含したり、複数の文字コードを切り替えて表示する機能の必要性を否定する場合があり、多くの文字を表示する流れに対して後ろ向きであった点が課題である。これは、文字コード自体の課題ではなく、EUCを利用しているプログラマ、利用者の課題である。 == 関連項目 == * [[ISO/IEC 2022]] * [[ISO-2022-JP]] * [[ISO 3166]] {{文字コード}} {{DEFAULTSORT:えくすてんてつとゆにつくすこおと}} [[Category:文字コード]]
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6,180
名前
名前(、希: όνομα、羅: nomen、英: name)とは、物や人物に与えられた言葉のことで、対象を呼んだりする際に使われる。名称、あるいは単に名とも言う。名前をつけることを「名付ける」「命名(めいめい)する」という。名前として使われる言葉を名詞という。 多くの場合、名前とは人名である。また、人名のうち、家族を表す姓(名字)でない方、個人を識別する名を指すことも多い。ただし、名ではなく姓を指して「名前」と呼ぶこともある。 すべての事象には名がある。我々は先ずその対象に名前を付ける。そのためには対象の概念を明確にし、またそれ以外の事象との区別を持たなければならない。この過程で名前を付けた対象が明確になる。名前がないものは、他人にその対象を説明できないため存在を認識させるのが難しく、自らもその対象を明確にできなくなる。ただし必ずしも固有の名前を持つ必要はなく、限られた人びとの間で認識が明確になるのであれば対象を説明する語を使い、「右側の○○」・「白い○○」・「○○にいる人」・「昔の○○」などで足りることはある。しかし、より多くの人々に他とは区別して認識してもらうためにはやはり固有名が必要となってくる。 自然観察の際に、まず生き物の名前を覚えることから始めることが多いが、これは覚える行為に価値があるのではなく、名前を覚えることで、それまでどれも同じに見えていたものの区別がつくようになるからである。たとえばハコベの名を覚えれば、雑草として区別せずに一緒にしていたものの中から、それが見分けられるようになるし、さらにウシハコベやコハコベを知れば、ハコベの中にもさらに違いがあることもわかるようになる。 名前は元々あるものではなく、人間がそれを個別に把握すべき対象として認識した際に与えるものである。したがってどの範囲で名を与えるかは人間とそれとの関わりによって変わる。たとえば文化が違えば個々の物に対する関わりの深さも異なり、これが名前にも影響するため、言語によって名の扱いも異なる。たとえば日本語において、ウシという動物の名は「牛」である。それに含まれる差異については雄牛・雌牛・仔牛と接頭語をつけ、あるいは牛肉と語尾をつけて説明的に扱う。だが英語では牛は総称としては 「cattle」、雄牛は 「bull」、雌牛は 「cow」、仔牛は 「calf」、牛肉は 「beef」 と、すべて全く異なった語を当てる。 個人を特定するために附けられる名前は、その方法として名の中に祖先から受け継ぐ「ミタマ」や血統を表す名を含める。これを「姓」といい、個人を血統という共通の要素でグループ化して区別できるようになる。血統を受け継ぐ一族の中心となる家系を「宗家」という。しかし日本においては古くから上位権力による支配のため、地位で区別する「氏」があり、宗家の継承には血族を継ぐ「嫡流継承」と、能力や資格、官位を継ぐ「氏的継承」の2つの解釈があった。さらに財産としての土地を相続する惣領という考え方や、養子や猶子の制度が加わり、複雑化してもとの血統を意味が失われた経緯がある。後世はこれらが混同して使われ、グループである家系や相続の関係が不明となる場合もあった。 個人の特定には家系(英: family name , last name , surname)を表す「氏」・「姓」に加え、「名」・「字」・「諱」・「諡」が使われる。「名」は「名字」というときは「姓」と同様にグループを指すが、「姓名」というときは「姓」に続けて記すことで個人を特定する名前を指す。以下では「名字」として説明する。 これらを全て並べて用いる習俗を複名という。徳川家康に当てはめると『「源」「朝臣」「徳川」「次郎三郎」「家康」』 となる。 また朝廷からは「正一位」「大相國 一品」が贈位され、これを名に冠する場合もある。 この他、立場、年齢、職業、目的などで自ら別名を名乗ったり、ほかから名付けられたりすることもあり、遂には本来の目的である個人の特定に至らないことがある。 日本においては、戸籍法によって戸籍として使用できる漢字は簡単な人名用漢字から使用するよう決められている。問題になるような命名がなされると、命名権の濫用として出生届を拒否される。外国においては、アイスランド人の名前などのように事前のリストから選ばれたり、問題がある命名に罰金刑が制定されている場合がある。 個人が死亡した後は「諡、おくりな(贈り名)」、あるいは「戒名」や「諡号」が附くことがある。家康の場合、『「東照大権現」・「安国院殿」・「徳蓮社崇譽」・「道和」・「大居士」』となる。 結婚、元服、帰化などの節目で改名する事がある。 プログラムにおいては、スコープが異なる限り一意性(唯一無二であること)を保証することは要件とされていない場合が多い。一意性を保証するために名前空間を導入することもある。 自然科学では、星や化学物質等を一定の法則によって命名する。 商号・社名の由来一覧・ブランド・商標 商品名については、関連があるとイメージが結びつきやすいが、全く関係がない名前を付けることも珍しくはない。 他には、球場などの名前を期間限定で自由に付ける権利を売買する事例もある。 西洋美術史において、作家が作品に『題名』を付ける文化となったのは18世紀頃のことである。そのため、それ以前の作品は美術館が変わると同一作品でありながら別の名前を用いられる。また、日本においてベートーヴェンの『運命』と呼ばれる交響曲第5番は、生みの親のベートーヴェン、ドイツでは『運命』という語は使われていない。 イルカやテリルリハインコは、親などから命名され、名前を呼び合う習性がある。 また、猫や犬などのペットは、人間から付けられた名前を自分の名前として認識する能力がある。また、猫は人間に付けられた同居猫の名前も認識している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "名前(、希: όνομα、羅: nomen、英: name)とは、物や人物に与えられた言葉のことで、対象を呼んだりする際に使われる。名称、あるいは単に名とも言う。名前をつけることを「名付ける」「命名(めいめい)する」という。名前として使われる言葉を名詞という。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "多くの場合、名前とは人名である。また、人名のうち、家族を表す姓(名字)でない方、個人を識別する名を指すことも多い。ただし、名ではなく姓を指して「名前」と呼ぶこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "すべての事象には名がある。我々は先ずその対象に名前を付ける。そのためには対象の概念を明確にし、またそれ以外の事象との区別を持たなければならない。この過程で名前を付けた対象が明確になる。名前がないものは、他人にその対象を説明できないため存在を認識させるのが難しく、自らもその対象を明確にできなくなる。ただし必ずしも固有の名前を持つ必要はなく、限られた人びとの間で認識が明確になるのであれば対象を説明する語を使い、「右側の○○」・「白い○○」・「○○にいる人」・「昔の○○」などで足りることはある。しかし、より多くの人々に他とは区別して認識してもらうためにはやはり固有名が必要となってくる。", "title": "一般論" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自然観察の際に、まず生き物の名前を覚えることから始めることが多いが、これは覚える行為に価値があるのではなく、名前を覚えることで、それまでどれも同じに見えていたものの区別がつくようになるからである。たとえばハコベの名を覚えれば、雑草として区別せずに一緒にしていたものの中から、それが見分けられるようになるし、さらにウシハコベやコハコベを知れば、ハコベの中にもさらに違いがあることもわかるようになる。", "title": "一般論" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "名前は元々あるものではなく、人間がそれを個別に把握すべき対象として認識した際に与えるものである。したがってどの範囲で名を与えるかは人間とそれとの関わりによって変わる。たとえば文化が違えば個々の物に対する関わりの深さも異なり、これが名前にも影響するため、言語によって名の扱いも異なる。たとえば日本語において、ウシという動物の名は「牛」である。それに含まれる差異については雄牛・雌牛・仔牛と接頭語をつけ、あるいは牛肉と語尾をつけて説明的に扱う。だが英語では牛は総称としては 「cattle」、雄牛は 「bull」、雌牛は 「cow」、仔牛は 「calf」、牛肉は 「beef」 と、すべて全く異なった語を当てる。", "title": "一般論" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "個人を特定するために附けられる名前は、その方法として名の中に祖先から受け継ぐ「ミタマ」や血統を表す名を含める。これを「姓」といい、個人を血統という共通の要素でグループ化して区別できるようになる。血統を受け継ぐ一族の中心となる家系を「宗家」という。しかし日本においては古くから上位権力による支配のため、地位で区別する「氏」があり、宗家の継承には血族を継ぐ「嫡流継承」と、能力や資格、官位を継ぐ「氏的継承」の2つの解釈があった。さらに財産としての土地を相続する惣領という考え方や、養子や猶子の制度が加わり、複雑化してもとの血統を意味が失われた経緯がある。後世はこれらが混同して使われ、グループである家系や相続の関係が不明となる場合もあった。", "title": "人名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "個人の特定には家系(英: family name , last name , surname)を表す「氏」・「姓」に加え、「名」・「字」・「諱」・「諡」が使われる。「名」は「名字」というときは「姓」と同様にグループを指すが、「姓名」というときは「姓」に続けて記すことで個人を特定する名前を指す。以下では「名字」として説明する。", "title": "人名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "これらを全て並べて用いる習俗を複名という。徳川家康に当てはめると『「源」「朝臣」「徳川」「次郎三郎」「家康」』 となる。 また朝廷からは「正一位」「大相國 一品」が贈位され、これを名に冠する場合もある。", "title": "人名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この他、立場、年齢、職業、目的などで自ら別名を名乗ったり、ほかから名付けられたりすることもあり、遂には本来の目的である個人の特定に至らないことがある。", "title": "人名" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本においては、戸籍法によって戸籍として使用できる漢字は簡単な人名用漢字から使用するよう決められている。問題になるような命名がなされると、命名権の濫用として出生届を拒否される。外国においては、アイスランド人の名前などのように事前のリストから選ばれたり、問題がある命名に罰金刑が制定されている場合がある。", "title": "人名" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "個人が死亡した後は「諡、おくりな(贈り名)」、あるいは「戒名」や「諡号」が附くことがある。家康の場合、『「東照大権現」・「安国院殿」・「徳蓮社崇譽」・「道和」・「大居士」』となる。", "title": "人名" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "結婚、元服、帰化などの節目で改名する事がある。", "title": "人名" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "プログラムにおいては、スコープが異なる限り一意性(唯一無二であること)を保証することは要件とされていない場合が多い。一意性を保証するために名前空間を導入することもある。", "title": "プログラムにおける名前" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "自然科学では、星や化学物質等を一定の法則によって命名する。", "title": "学問" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "商号・社名の由来一覧・ブランド・商標", "title": "商業の名前" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "商品名については、関連があるとイメージが結びつきやすいが、全く関係がない名前を付けることも珍しくはない。", "title": "商業の名前" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "他には、球場などの名前を期間限定で自由に付ける権利を売買する事例もある。", "title": "商業の名前" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "西洋美術史において、作家が作品に『題名』を付ける文化となったのは18世紀頃のことである。そのため、それ以前の作品は美術館が変わると同一作品でありながら別の名前を用いられる。また、日本においてベートーヴェンの『運命』と呼ばれる交響曲第5番は、生みの親のベートーヴェン、ドイツでは『運命』という語は使われていない。", "title": "芸術" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イルカやテリルリハインコは、親などから命名され、名前を呼び合う習性がある。", "title": "動物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、猫や犬などのペットは、人間から付けられた名前を自分の名前として認識する能力がある。また、猫は人間に付けられた同居猫の名前も認識している。", "title": "動物" } ]
名前(なまえ、とは、物や人物に与えられた言葉のことで、対象を呼んだりする際に使われる。名称、あるいは単に名とも言う。名前をつけることを「名付ける」「命名する」という。名前として使われる言葉を名詞という。 多くの場合、名前とは人名である。また、人名のうち、家族を表す姓でない方、個人を識別する名を指すことも多い。ただし、名ではなく姓を指して「名前」と呼ぶこともある。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruseslist|'''一般[[名詞]]としての名前'''|[[片平里菜]]の[[楽曲]]|なまえ (片平里菜の曲)|[[谷本賢一郎]]の楽曲|なまえ (谷本賢一郎の曲)|[[2018年]]([[平成]]30年)<!--[[情報公開|-->公開した[[道尾秀介]]原案の[[日本映画]] [https://eiga.com/movie/85119/]|名前 (映画)}} {{出典の明記|date= 2012年4月2日 (月) 05:39 (UTC)}} [[File:Balinese ground zero.JPG|thumb|[[2002年]][[インドネシア]]・[[バリ島爆弾テロ事件 (2002年)|バリ島爆破テロ事件]]の[[犠牲者]]の名前を記載した[[碑]]]] {{読み仮名|'''名前'''|なまえ|{{lang-el-short|όνομα}}、{{lang-la-short|nomen}}、{{lang-en-short|name}}}}とは、[[人間|人物]]の[[身分]]や[[家柄|門地]]を示し[[生物|生き物]]や[[物体]]に与えられる[[命名|名称]]のことで、[[対象]]を呼んだりする際に使われる。'''名称'''、あるいは単に'''名'''とも言う。名前をつけることを「名付ける」「[[命名]](めいめい)する」という。名前として使われる言葉を[[名詞]]という。 名前は一概にすると氏名を指す[[氏名|全名]]と個人を指す[[個人名]]に対して名前と呼ぶ二通りの意味合いがある。一般的に[[日本]]では、姓を「上の名前」と呼び個人名に対しては「下の名前」と呼ばれることもある<ref>{{Cite web |url=http://www7a.biglobe.ne.jp/nifongo/conv/seimei.htm |title=名前について |access-date=2023-12-03 |publisher=BIGLOBE}}</ref>。 == 一般論 == すべての[[事象]]には名がある。我々は先ずその[[対象]]に名前を付ける。そのためには対象の[[概念]]を明確にし、またそれ以外の事象との[[区別]]を持たなければならない。この過程で名前を付けた対象が明確になる。名前がないものは、他人にその対象を説明できないため[[存在]]を[[認識]]させるのが難しく、自らもその対象を明確にできなくなる。ただし必ずしも固有の名前を持つ必要はなく、限られた人びとの間で認識が明確になるのであれば対象を説明する語を使い、「右側の○○」・「白い○○」・「○○にいる人」・「昔の○○」などで足りることはある。しかし、より多くの人々に他とは区別して認識してもらうためにはやはり固有名が必要となってくる。 [[自然観察]]の際に、まず[[生き物]]の名前を覚えることから始めることが多いが、これは覚える行為に[[価値]]があるのではなく、名前を覚えることで、それまでどれも同じに見えていたものの区別がつくようになるからである。たとえば[[ハコベ]]の名を覚えれば、[[雑草]]として区別せずに一緒にしていたものの中から、それが見分けられるようになるし、さらに[[ウシハコベ]]や[[コハコベ]]を知れば、ハコベの中にもさらに違いがあることもわかるようになる。 名前は元々あるものではなく、人間がそれを個別に把握すべき対象として認識した際に与えるものである。したがってどの範囲で名を与えるかは[[人間]]とそれとの関わりによって変わる。たとえば[[文化]]が違えば個々の物に対する関わりの深さも異なり、これが名前にも影響するため、[[言語]]によって名の扱いも異なる。たとえば[[日本語]]において、[[ウシ]]という[[動物]]の名は「牛」である。それに含まれる差異については雄牛・雌牛・仔牛と接頭語をつけ、あるいは[[牛肉]]と語尾をつけて説明的に扱う。だが[[英語]]では牛は総称としては 「cattle」、雄牛は 「bull」、雌牛は 「cow」、仔牛は 「calf」、[[牛肉]]は 「beef」 と、すべて全く異なった語を当てる。 == 人名 == {{main|人名}} {{Seealso|[[氏]]・[[氏 (中国)]]・[[カバネ]]・[[氏族]]・[[本姓]]・[[名字]]・[[キラキラネーム]]}} === 日本語における人名としての「名前」=== [[個人]]を特定するために附けられる名前は、その方法として名の中に[[先祖|祖先]]から受け継ぐ「ミタマ」や[[血統]]を表す名を含める。これを「[[姓]]<ref group="注">「姓」の字義は文字通りで「[[女性]]から産まれた」の意、すなわち血族を意味する。</ref>」といい、[[個人]]を血統という共通の要素でグループ化して区別できるようになる。血統を受け継ぐ一族の中心となる[[家系]]を「[[宗家]]<ref group="注">「宗」の字義は、屋内においた[[先祖|祖先]]に捧げるための台の上に置かれた[[生贄]]を表す。</ref>」という。しかし[[日本]]においては古くから上位権力による支配のため、[[地位]]で区別する「[[氏]]<ref group="注">「氏」の字義は、小刀の意味で、同じ[[食事]]を分かつ同族を意味する。</ref>」があり、宗家の継承には血族を継ぐ「[[嫡流]]継承」と、能力や資格、[[官位]]を継ぐ「氏的継承」の2つの解釈があった。さらに[[財産]]としての[[土地]]を[[相続]]する[[惣領]]という考え方や、[[養子縁組|養子]]や[[猶子]]の制度が加わり、複雑化してもとの血統を意味が失われた経緯がある。[[後世]]はこれらが混同して使われ、グループである家系や[[相続]]の関係が[[不可思議|不明]]となる場合もあった。 個人の特定には家系(''{{lang-en-short|family name , last name , surname}}'')を表す「[[氏]]」・「[[姓]]」に加え、「[[名]]」・「[[字]]」・「[[諱]]」・「[[諡]]」が使われる。「名」は「名字」というときは「姓」と同様にグループを指すが、「姓名」というときは「姓」に続けて記すことで個人を特定する名前を指す。以下では「名字」として説明する。 * '''氏''':「[[氏]](うじ)、姓([[本姓]])」。 * '''姓''':「[[カバネ|姓(カバネ)]]」。血族や一族というグループを表す。[[氏姓制度]]のように古くから上位権力による統制に利用された。 * '''名''':「[[名字]](みょうじ)<ref group="注">[[土地]]という[[財産]]を[[相続]]することが重要になった[[中世]]では、[[荘園 (日本)|]]の[[住所|所在地]]や土地名を苗字にして[[個人]]に始まる一族の[[所有 (言語学)|所有]]を主張した。このため親兄弟とも苗字が異なるということは頻繁に起き、特殊な事情を除いて[[親子]]では名字が同じという現代の名字の感性とはかなり異なり、家系のつながりを知るのに難しさを生じることがある。さらに一個人も荘園を移動することでまた苗字が変わるため、一層複雑になる。</ref><ref group="注">このことは特に[[日本]]おける[[住所]]表記の[[慣習]]にも現れている。[[外国|海外]]では[[住所]]を表すのに一般に[[道路]]名が使われるが、日本では一定の[[領域 (国家)|領域]]の土地名が使われる。これは日本での[[租税|徴税]]制度と深く関係する。[[租|田租]]は、「'''誰から'''」ではなく「'''何処から'''」徴税したのかを重視した。[[災害]]が発生したり[[家制度#分家|分家]]が行われたりなどで元の土地を離れて新しい土地に移ると、その新しい土地からの徴税にその土地が誰のものか知る必要がある。そのため[[納税]]したものが誰かを主張するため土地に自分の名前をつけ、土地名と一体化した。土地は[[世襲]]されるため個人名である必要はなかった。</ref> 」。[[中世]]において、[[田堵]]が自分の所領を区別して呼んだ[[名田]]に由来する。これもグループを表すのに使われる。 * '''字''':「[[字]](あざな)、[[通名]]、[[通称]]、[[仮名 (通称)|仮名]](けみょう)、[[渾名]](あだな)、''{{lang-en-short|nick name}}''」。個人を特定するために通常使われる呼び名。[[元服]]前の「[[幼名]](おさなな)」もこちらである。 * '''諱''':「[[諱]](いみな)、本名、[[実名]]、''{{lang-en-short|given name , first name}}''<ref group="注">英語では洗礼名(''{{lang-en-short|christian name , Holly}}'')と同義。</ref>」。元服によって附けられる。個人を指すのに普段は使われずに「字(あざな)」で呼ぶ。これを[[諱|実名敬避俗]]という。少人数の中で個人が特定できる場合に行われた<ref group="注">[[現代 (時代区分)|現代]]でもそのような場合に苗字だけで(もしくは「〜さん」をつけることがある)ても個人が特定できるため実名を使わない。また苗字や名前を使わず、ただ「先生」・「社長」・「お父さん」・「お兄さん」などで個人を特定して呼ぶことがある。</ref> が、権力者である場合は大人数の中にあっても[[存在]]が「唯一」になることから、後に崇敬が[[理由]]に加わって常態化し、[[後世]]ではその諱を他人が使うことが避けられた。<br>本人が自分で使う場合があり、これを「[[名乗り]](なのりな)」という。 これらを全て並べて用いる習俗を[[複名]]という<ref>世界大百科事典 第2版『人名』。</ref>。[[徳川家康]]に当てはめると『「[[源氏|源]]」「[[朝臣]]」「[[徳川氏|徳川]]」「次郎三郎」「家康」』<ref group="注">「德川次郎三郎源朝臣家康」とも表記される。</ref> となる。 また[[朝廷 (日本)|朝廷]]からは「[[正一位]]」「[[太政大臣|大相國]]<ref group="注">「大相國」は[[朝廷 (日本)|朝廷]]の最高[[官位]]である[[太政大臣]]の[[唐名]]。</ref> 一品」が[[贈位]]され、これを名に冠する場合もある。 この他、立場、[[年齢]]、[[職業]]、[[目的]]などで自ら別名を名乗ったり、ほかから名付けられたりすることもあり、遂には本来の目的である個人の特定に至らないことがある。 === 人名の命名に関する法律 === {{main|{{ill2|人名命名法|en|Naming law}}|氏名権}} 日本においては、[[戸籍法]]によって[[戸籍]]として使用できる漢字は簡単な[[人名用漢字]]から使用するよう決められている。問題になるような命名がなされると、命名権の濫用として出生届を拒否される。外国においては、[[アイスランド人の名前]]などのように事前のリストから選ばれたり、問題がある命名に罰金刑が制定されている場合がある。 * [[フランス]] - 1993年まで、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が制定に関わった[[フランス民法典]]によって付けられる名前に制限があった<ref>{{Cite web|url=https://www.nytimes.com/1995/11/11/style/11iht-coco.t.html|work=[[New York Times]]|date=11 November 1995|author=Mary Blume|title=The Ins and Outs of French First Names|accessdate=2022-02-07}}</ref>。それ以降は、問題がない限り自由な名前が付けられる。 * [[ドイツ]] - {{ill2|人口動態統計局|de|Standesamt}}で許可される必要がある。ナチス時代には、ユダヤ人が名乗るべき名前と他の国民が名乗る名前のリストがあり、そこから付けるよう法律が制定された<ref>Hynning, Clifford J. (March 1944). Germany: Preliminary Compilation of Selected Laws, Decrees, and Regulations: Discriminatory Laws. Washington: Treasuy Department, Office of the General Council. p. E-70.</ref>。 * [[スウェーデン]] - 1901年12月5日に、貴族ではないものが貴族の名前を名乗るのを禁止するため、{{ill2|スウェーデンの命名規則|en|Naming law in Sweden}}が制定された。後に、宗教的な名称やキラキラネームに罰金が生じるよう改正された。 * [[ニュージーランド]] - ニュージーランド内務省が命名を承認する。名前が階級や肩書きに似ている(プリンセス、ロイヤル、裁判官を意味するジャスティスなど)、長すぎる(70文字以内)、数字や句読点やバックスラッシュなどの記号を使用している、または人に不快感を与える場合などに拒否される。毎年、拒否された名前のリストが公開される<ref>[https://www.nzherald.co.nz/nz/revealed-new-zealands-most-rejected-baby-names-of-2019/5AQ6HVX464HQ3QOUWUEOAKSGRA/ Revealed: New Zealand's most rejected baby names of 2019] [[ニュージーランド・ヘラルド]] 更新日:8 Jan, 2020</ref>。 * {{ill2|トルコの命名法|en|Surname Law (Turkey)}}。1934年6月21日までは苗字はなかった。この法律制定後、すべての国民は苗字を名乗り、それはトルコ語でなければならない。 === 世界各国の場合 === {{seealso|人名の短縮形}} :多くの国では、父方の姓を引き継ぐ[[父称]]である。また、名前を親以外の他人、名付け親、キリスト教では[[代父母]]、ユダヤ教では[[サンダーク]]が付ける場合もある。 * [[古代エジプト]] ** [[五重称号]] - 古代エジプト王の名前は、ホルス名、ネブティ名、黄金のホルス名、即位名、誕生名の5つで構成される。 ** [[古代エジプト人の魂#レン(名前)|名前(レン)の考え方]] * [[古代ローマ]] ** [[古代ローマの人名]]を参照の事 **[[奴隷]]は主人から固有の名前[[スレイブネーム]]が付けられた。 * [[英語]] ** [[イギリス]]の王族は、生まれた後{{ill2|ロイヤル・ハイネス|en|Royal Highness}}を意味する称号 HRH が姓として与えられる。[[君主]]や[[王位継承|王位継承者]]が姓を称することは法律上義務付けられていない。1917年以前は、王族は姓を持っておらずジョージ5世が[[第一次世界大戦]]の反[[ドイツ]]感情の高まりをうけて1917年7月17日付勅令でイギリス男系の王族がウィンザー姓を名乗るようになった。[[エリザベス2世]]は、[[女系]]なので1960年の枢密院令によって[[結婚]]相手の[[マウントバッテン家]]と合わせて[[マウントバッテン=ウィンザー]]を名乗り、以後はエリザベス2世[[女王]]の[[家系]]は必要ないなら姓を名乗らず、必要なら『HRH』か『マウントバッテン=ウィンザー』のどちらかを名乗る<ref name="royal">{{cite web |title=The Royal Family name |url=https://www.royal.uk/royal-family-name |publisher=The British Monarchy |accessdate=2018-06-10}}</ref>。 * アジア圏 ** [[輩行字]]。日本の場合は、通字(とおりじ)、あるいは「系字(けいじ)と呼ばれる慣行で、天皇家男児の名前に「仁」、天皇家女子の名前に「子」、徳川家男子の名前に「家」が代々名付けられる。 ** [[インド人の名前]] ** {{ill2|中国人の名前|en|Chinese name}} === 宗教 === 個人が[[死亡]]した後は「'''諡'''、'''[[おくりな|おくりな<small>(贈り名)</small>]]'''」、あるいは「[[戒名]]」や「[[諡号]]」が附くことがある。家康の場合、『「東照大権現」・「安国院殿」・「徳蓮社崇譽」・「道和」・「大居士」』{{refnest|group="注"|「東照大権現」は[[神号]]。「安国院」は[[院号]]で「殿」は[[尊称]]。「崇譽」は[[浄土宗]]での[[道号]]で必ず「誉」が附く。「道和」は[[名号]]、「大居士」は[[位号]]。<ref name=kaimyo>お寺ネット [http://otera.net/?page_id=115 戒名相場と付け方]。[[宗派]]によって異なる。</ref>}}となる。 * [[神道]] - 諡 * [[仏教]]:[[戒名]] 受戒し[[僧籍]]に登録するか、亡くなった後に付けられる。(派閥によっては、[[法名 (浄土真宗)]]などと呼ばれる。) * [[キリスト教]] ** [[洗礼名]] ** {{ill2|パーパル・ネーム|en|Papal name}}(教皇名) - 教皇就任後に名乗る名前 === 改名 === [[結婚]]、[[元服]]、[[帰化]]などの節目で[[改名]]する事がある。 * [[幼名]] * [[戒名]] - 亡くなった後に付けられる。 * [[改姓]] - [[結婚]]、[[家制度#分家|分家]]になるとき、主家から名を送られたりした際に姓を変える。 * [[デッドネーミング]] - [[トランスジェンダー]]や[[ノンバイナリー]]が改名する前に使用していた名前。 === 別の名 === * [[通称]]、[[愛称]] * [[偽名]] * 蔑称([[:en:Pejorative|en]]) ; [[職業]]上使われる * [[ペンネーム]] * [[コードネーム]] * [[俳号]] * [[芸名]] * [[武号]] - 武芸者が付ける。フランス語では、nom de guerre という。 * [[襲名]] * [[源氏名]] * [[号 (称号)]] === 職業・階級 === * [[尊号]] * [[君主号]] -王、皇帝、ハンなどの支配者階級を指す名 * [[爵位]] - 領地と組み合わせて[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]]など * [[官位]]([[官職]]と[[位階]]) ** [[武家官位]] - [[戦国時代 (日本)|戦国期]]から[[江戸時代|江戸期]]にかけて、[[武士]]が[[任官]]または自称した[[武家官位|官位]]。 ** [[女房名]] - [[平安時代]]の女官は[[紫式部]]や[[清少納言]]など。親兄弟の[[官職名]]と、特性を端的に表す字を冠することで区別をした。 * [[受領名]] * [[役職]] * [[職名]] - [[物部氏|物部]]とか、[[英語]]の姓カーペンター([[大工]])とか === 匿名・無名 === * [[匿名]] * [[名無しの権兵衛]](ジョン・ドウ、ジェーン・ドウ) * [[無名]] == プログラムにおける名前 == {{Main|識別子}} [[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]においては、[[スコープ (プログラミング)|スコープ]]が異なる限り一意性(唯一無二であること)を保証することは要件とされていない場合が多い。一意性を保証するために[[名前空間]]を導入することもある。 == 学問 == {{main|命名法}} [[自然科学]]では、[[天体|星]]や[[化学物質]]等を一定の法則によって命名する。 == 地名・民族名 == * [[地名]]、[[水名]]、[[駅名]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}、{{ill2|道の名前|de|Straßenname}} ** [[地名学]] * [[民族名]]、[[住民の呼称]](族称) ** [[エンドニムとエクソニム]](内名と外名) - 日本語話者は日本と呼ぶが、日本語以外では Japan など別の外名を使用する。 * [[オイコニム]] - 建物や住居から付けられた名前。地名ともなる場合がある。 == 商業の名前 == [[商号]]・[[社名の由来一覧]]・[[ブランド]]・[[商標]] [[商品名]]については、関連があるとイメージが結びつきやすいが、全く関係がない名前を付けることも珍しくはない。 {{Main|命名権}} 他には、[[野球場|球場]]などの名前を期間限定で[[自由]]に付ける[[権利]]を[[売買]]する事例もある。 * [[船名]] == 芸術 == * {{ill2|本のタイトル|en|Title (publishing)}} * 原題と[[邦題]]、[[サブタイトル]] ** [[邦題を複数持つ作品一覧]] [[西洋美術史]]において、作家が作品に『題名』を付ける文化となったのは18世紀頃のことである。そのため、それ以前の作品は[[美術館]]が変わると同一作品でありながら別の名前を用いられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60820 |title=日本人が知らない西洋絵画の題名の名付け方 エグゼクティブのための美術鑑賞術(第2回) |accessdate=2022-02-07 |last=洋 |first=平松 |website=JBpress autograph |language=ja}}</ref>。また、日本において[[ベートーヴェン]]の『運命』と呼ばれる[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]は、生みの親のベートーヴェン、ドイツでは『運命』という語は使われていない<ref>{{Cite journal|和書 |url=http://id.nii.ac.jp/1807/00005535/ |date=2006-02 |title=題名の社会史 : 芸術作品と題名の機能 |author=村田千尋 |journal=北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編 |publisher=北海道教育大学 |volume=56 |issue=2 |pages=103-117 |naid=110004084638 |ISSN=1344-2562 |doi=10.32150/00005535}}</ref>。 ==動物== [[イルカ]]<ref name="dolphin names">{{cite news|date=May 8, 2006|title=Dolphins Name Themselves With Whistles, Study Says|publisher=National Geographic News|url=http://news.nationalgeographic.com/news/2006/05/060508_dolphins.html|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20061114081946/http://news.nationalgeographic.com/news/2006/05/060508_dolphins.html|archive-date=November 14, 2006}}</ref>や[[テリルリハインコ]]<ref>{{Cite journal|last1=Berg|first1=Karl S.|last2=Delgado|first2=Soraya|last3=Okawa|first3=Rae|last4=Beissinger|first4=Steven R.|last5=Bradbury|first5=Jack W.|date=2011-01-01|title=Contact calls are used for individual mate recognition in free-ranging green-rumped parrotlets, Forpus passerinus|url=http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0003347210004148|journal=Animal Behaviour|language=en|volume=81|issue=1|pages=241–248|doi=10.1016/j.anbehav.2010.10.012|s2cid=42150361|issn=0003-3472}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2011/07/22/インコは一羽ずつ親から「名前」を貰う(動画)/ |title=インコは一羽ずつ親から「名前」を貰う(動画) |accessdate=2022-02-07 |last=Nast |first=Condé |date=2011-07-22 |website=WIRED.jp |language=ja-JP}}</ref>は、親などから命名され、名前を呼び合う習性がある。 また、猫や犬などのペットは、人間から付けられた名前を自分の名前として認識する能力がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/384268 |title=猫が自分の名前も飼い主の声もわかっている訳 | ペット |accessdate=2022-02-07 |date=2020-11-04 |website=東洋経済オンライン |language=ja}}</ref>。また、猫は人間に付けられた同居猫の名前も認識している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASQ4Q5T0RQ4QPLBJ002.html?iref=ogimage_rek |title=ネコは同居するネコの名前が分かる 「期待はずれ」利用して証明:朝日新聞デジタル |access-date=2022-04-23 |website=朝日新聞デジタル |language=ja}}</ref>。 * {{ill2|猫の命名|en|Popular cat names}} * [[競走馬#競走馬名|競走馬名]] - 国際ルールでアルファベット18文字までと決められている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} --> == 関連項目 == {{Wiktionary|氏}}{{Wiktionary|名}}{{Wiktionary|前}} {{Commonscat|Names}} * [[-onym]] - 名前に関する言葉の接尾語 * [[一人称]](自称) * {{ill2|アプトロニム|en|Aptronym}} - 名前と関連する職業などが一致していること * [[固有名詞]]、[[固有名詞学]] * [[古名]] * [[エポニム]] * [[姓名判断]] * [[呼称問題]] * [[就籍許可申立事件]] - 記憶喪失の方が、裁判所で自身の戸籍(名前や本籍)を作る権利を求めた。 * [[ハリケーン#ハリケーンの命名|ハリケーンの命名]]、[[台風の名前]] - [[1950年代]]のアメリカ空軍で、番号ではなく名前で扱う方が楽であったことから、命名されるようになった。 * [[ブーバ/キキ効果]] - ある図形の名前で片方はブーバ、片方はキキという。どちらがブーバであるか直感から選べとした時に、母語とは関係なく、特定の形状に98%の票が集まった問題。 * {{ill2|名前が反復する人名の一覧|en|List of people with reduplicated names}} ‐ サッカー選手の[[アレクシ・ベカ・ベカ]]、[[エリック・ジェンバ=ジェンバ]]などの繰り返す名前を持つ人名の一覧。中国での愛称による繰り返しは除く。 * [[生物学における反復名の一覧]] * {{ill2|Same Name|en|Same Name}} - 有名人と同姓同名の人が入れ替わって生活する様子を放映するアメリカの番組。1シーズンで終了した。 == 外部リンク == * [https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_05_4/index.html 無戸籍の方に関する手続] - [[裁判所]] * [https://www.moj.go.jp/MINJI/flow.html 戸籍記載までの流れ] - [[法務省]] {{Language-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なまえ}} [[Category:名前|*]] [[Category:知識]] [[Category:識別子]] [[Category:哲学的論理学]]
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UTF-8
UTF-8(ユーティーエフはち、ユーティーエフエイト)はISO/IEC 10646 (UCS) とUnicodeで使える8ビット符号単位(1–4バイトの可変長)の文字符号化形式および文字符号化スキーム。 正式名称は、ISO/IEC 10646では “UCS Transformation Format 8”、Unicodeでは “Unicode Transformation Format-8” という。両者はISO/IEC 10646とUnicodeのコード重複範囲で互換性がある。RFCにも仕様がある。 2バイト目以降に「/」などのASCII文字が現れないように工夫されていることから、UTF-FSS (File System Safe) ともいわれる。旧名称はUTF-2。 UTF-8は、データ交換方式・ファイル形式として一般的に使われる傾向にある。 当初は、ベル研究所においてPlan 9で用いるエンコードとして、ロブ・パイクによる設計指針のもと、ケン・トンプソンによって考案された。 ASCII文字と互換性を持たせるために、ASCIIと同じ部分は1バイト、その他の部分を2–6バイトで符号化する。4バイトのシーケンスでは21ビット (0x1FFFFF) まで表現することができるが、Unicodeの範囲外となる17面以降を表すもの(U+10FFFFより大きなもの)は受け付けない。 また、5–6バイトの表現は、ISO/IEC 10646による定義とIETFによるかつての定義で、Unicodeの範囲外を符号化するためにのみ使用するが、Unicodeによる定義とIETFによる最新の定義では、5–6バイトの表現は不正なシーケンスである。 後述のセキュリティの項に詳細はあるが、符号化は最少のバイト数で表現しなければならない。そのため、バイト数ごとにUnicodeの符号位置の最小値(下限)も設けている。 例えば、1バイトで表現するASCII文字は2バイト以上でも表現できるが、バイト数ごとの下限によってこれを回避している。 ビットパターンは以下のようになっている。 * 第1バイトがE0のときに第2バイトが80-9Fの範囲を、または同F0のときに80-8Fの範囲を取るものは冗長な符号化となるため許されない。第1バイトがEDのときに第2バイトがA0以上となるものはサロゲートペアのための符号位置にあたり、また同F4のときに90以上となるものはUnicodeの範囲外となるため、UTF-8ではやはり許されない。 Unicodeの符号位置を2進表記したものを、上のビットパターンのx, yに右詰めに格納する(最少のバイト数で表現するため、yの部分には最低1回は1が出現する)。符号化されたバイト列は、バイト順に関わらず左から順に出力する。 1バイト目の先頭の連続するビット "1"(その後にビット "0" が1つ付く)の個数で、その文字のバイト数がわかるようになっている。また、2バイト目以降はビットパターン "10" で始まり、1バイト目と2バイト目以降では値の範囲が重ならないので、文字境界を確実に判定できる。すなわち、任意のバイトの先頭ビットが "0" の場合は1バイト文字、"10" の場合は2バイト以上の文字の2番目以降のバイト、"110" の場合は2バイト文字の先頭バイト、"1110" の場合は3バイト文字の先頭バイト、"11110" の場合は4バイト文字の先頭バイトであると判定できる。 7バイト以上の文字は規定されないため、0xFE, 0xFFは使用されない。このため、バイト順マーク (BOM) に0xFEと0xFFを使用するUTF-16やUTF-32が、UTF-8と混同されることはない。 UTF-16ではサロゲートペアで表されるような、基本多言語面外の符号位置をUTF-8で表す時は、変換元がUTF-16でサロゲートペアの時には U+D800–U+DBFF, U+DC00–U+DFFF を表すUTF-8にそのまま変換したりはせず、U+10000–U+10FFFF の符号位置にデコードしてから変換する。そのままUTF-8で符号化したような列は不正なUTF-8とされる。 サロゲートペアのままUTF-8と同等の符号化を行う符号化は、CESU-8 (Compatibility Encoding Scheme for UTF-16: 8-Bit) として別途定義されている。実用に供されている例としては、Oracle Databaseのバージョン8以前において、UTF-8として3オクテットまでのオクテット列しか扱えなかったために定義されたものである。本来のUTF-8における4オクテット列の代わりに、サロゲート符号位置を表す3オクテット列のペア(上位が ED A0 80–ED AF BF、下位が ED B0 80–ED BF BF)で表現される。 現在のOracle Databaseでも、CESU-8を「UTF8」として、「普通のUTF-8」を「AL32UTF8」として扱っているため注意を要する。MySQLでも「utf8」を指定した場合は4オクテット列が扱えず、CESU-8相当の符号化を必要とする(4オクテット列対応のUTF-8は「utf8mb4」として別途定義されているが、MySQL 5.5.3以降でないと使用できない)。 また、Javaの一部の内部実装で用いられているModified UTF-8も、サロゲートペアをそのまま残す仕様となっている。ただし、NULL文字をC0 80とエンコードする(これもUTF-8規格外)点で、CESU-8とも異なる実装となっている。 UTF-8のエンコード体系には冗長性があり、同じ文字を符号化するのに複数の表現が考えられる(例: スラッシュ記号である「/」を 0x2F という1バイトで表現するのではなく、0xC0 0xAF という2バイトもしくはそれより大きなバイト数で表現する)。かつてはそのような表現も許容されていたが、ディレクトリトラバーサルなどの対策として行われる文字列検査を冗長な表現によりすり抜ける手法が知られるようになったため、現在の仕様では最少のバイト数による表現以外は不正なUTF-8シーケンスとみなさなければならない。 ISO/IEC 10646の定義が5バイト以上の表現を許容していることにより、正しくない実装を行ったバグのあるシステムにおいてエンコード時にバッファオーバーフローが発生する可能性も指摘されている。 UTF-8で符号されたテキストデータはバイト順マーク (BOM) の付加は不要である(エンディアンに関わらず同じ内容になるので)。 しかし、テキストデータがUTF-8で符号化されていることの標識として、データの先頭にEF BB BF(16進。UCSでのバイト順マーク U+FEFFのUTF-8での表現)のシーケンスをBOMとして付加することが許される(推奨はされない)。 BOM付きには対応しないプログラムは標準的ではある。それらは、BOMを余分なデータとみなすので、問題も生ずる。 例えば、Unix系OSにおける実行可能スクリプトは、ファイル先頭が「#!」から始まるとき、それに続く文字列をインタプリタのコマンドとして認識するが、多くのシステムでは、このシーケンスが存在するとこの機能が働かず実行できない。PHPでは、<?PHPの前に出力されるため、header()関数の実行に失敗する原因となる。HLSLやGLSLのシェーダープログラムコンパイラ(fxcやglslangValidator)はBOMを処理できず、コンパイルエラーとなる。 一方、一部のテキスト処理アプリケーション(テキストエディタなど)ではBOMを前提とした動作をする。同様にこのシーケンスがない場合、UTF-8と認識できないプログラムも存在する。たとえば、Microsoft Excelでは、CSVファイルを開くとき、このシーケンスが付加されていないUTF-8の場合は正常に読み込むことができず文字化けを生ずる。Microsoft Visual C++は既定でBOMなしUTF-8を認識せず、システムロケール設定に応じたマルチバイトエンコーディングとみなすが、Visual C++ 2015以降ではコンパイルオプションを指定することでBOMなしUTF-8を認識することができるようになった。 Windows 10のメモ帳アプリは、2019年の19H1アップデートからBOM無しUTF-8がデフォルトになった。 また、BOMがなくともエンコード自動推定によってUTF-8とShift_JISなどを区別することのできるプログラムもあるが、ASCII部以外の文字が少ない場合に誤認することが多い。 プロトコルが常にUTF-8であることを強制しているものである場合はこのシーケンスを禁止するべきで、この場合ファイル先頭にこのシーケンスが現れると “ZERO WIDTH NO-BREAK SPACE” と見なされる。逆にプロトコルがそれを保証しない場合このシーケンスは禁止されずファイル先頭のそれはバイト順マークと見なされる。
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"1バイト目の先頭の連続するビット \"1\"(その後にビット \"0\" が1つ付く)の個数で、その文字のバイト数がわかるようになっている。また、2バイト目以降はビットパターン \"10\" で始まり、1バイト目と2バイト目以降では値の範囲が重ならないので、文字境界を確実に判定できる。すなわち、任意のバイトの先頭ビットが \"0\" の場合は1バイト文字、\"10\" の場合は2バイト以上の文字の2番目以降のバイト、\"110\" の場合は2バイト文字の先頭バイト、\"1110\" の場合は3バイト文字の先頭バイト、\"11110\" の場合は4バイト文字の先頭バイトであると判定できる。", "title": "エンコード体系" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "7バイト以上の文字は規定されないため、0xFE, 0xFFは使用されない。このため、バイト順マーク (BOM) に0xFEと0xFFを使用するUTF-16やUTF-32が、UTF-8と混同されることはない。", "title": "エンコード体系" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "UTF-16ではサロゲートペアで表されるような、基本多言語面外の符号位置をUTF-8で表す時は、変換元がUTF-16でサロゲートペアの時には U+D800–U+DBFF, U+DC00–U+DFFF を表すUTF-8にそのまま変換したりはせず、U+10000–U+10FFFF の符号位置にデコードしてから変換する。そのままUTF-8で符号化したような列は不正なUTF-8とされる。", "title": "サロゲートペアの扱い" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "サロゲートペアのままUTF-8と同等の符号化を行う符号化は、CESU-8 (Compatibility Encoding Scheme for UTF-16: 8-Bit) として別途定義されている。実用に供されている例としては、Oracle 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"p", "text": "ISO/IEC 10646の定義が5バイト以上の表現を許容していることにより、正しくない実装を行ったバグのあるシステムにおいてエンコード時にバッファオーバーフローが発生する可能性も指摘されている。", "title": "セキュリティ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "UTF-8で符号されたテキストデータはバイト順マーク (BOM) の付加は不要である(エンディアンに関わらず同じ内容になるので)。", "title": "バイト順マークの使用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、テキストデータがUTF-8で符号化されていることの標識として、データの先頭にEF BB BF(16進。UCSでのバイト順マーク U+FEFFのUTF-8での表現)のシーケンスをBOMとして付加することが許される(推奨はされない)。", "title": "バイト順マークの使用" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "BOM付きには対応しないプログラムは標準的ではある。それらは、BOMを余分なデータとみなすので、問題も生ずる。", "title": "バイト順マークの使用" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "例えば、Unix系OSにおける実行可能スクリプトは、ファイル先頭が「#!」から始まるとき、それに続く文字列をインタプリタのコマンドとして認識するが、多くのシステムでは、このシーケンスが存在するとこの機能が働かず実行できない。PHPでは、<?PHPの前に出力されるため、header()関数の実行に失敗する原因となる。HLSLやGLSLのシェーダープログラムコンパイラ(fxcやglslangValidator)はBOMを処理できず、コンパイルエラーとなる。", "title": "バイト順マークの使用" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、一部のテキスト処理アプリケーション(テキストエディタなど)ではBOMを前提とした動作をする。同様にこのシーケンスがない場合、UTF-8と認識できないプログラムも存在する。たとえば、Microsoft Excelでは、CSVファイルを開くとき、このシーケンスが付加されていないUTF-8の場合は正常に読み込むことができず文字化けを生ずる。Microsoft Visual C++は既定でBOMなしUTF-8を認識せず、システムロケール設定に応じたマルチバイトエンコーディングとみなすが、Visual C++ 2015以降ではコンパイルオプションを指定することでBOMなしUTF-8を認識することができるようになった。 Windows 10のメモ帳アプリは、2019年の19H1アップデートからBOM無しUTF-8がデフォルトになった。", "title": "バイト順マークの使用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、BOMがなくともエンコード自動推定によってUTF-8とShift_JISなどを区別することのできるプログラムもあるが、ASCII部以外の文字が少ない場合に誤認することが多い。", "title": "バイト順マークの使用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "プロトコルが常にUTF-8であることを強制しているものである場合はこのシーケンスを禁止するべきで、この場合ファイル先頭にこのシーケンスが現れると “ZERO WIDTH NO-BREAK SPACE” と見なされる。逆にプロトコルがそれを保証しない場合このシーケンスは禁止されずファイル先頭のそれはバイト順マークと見なされる。", "title": "バイト順マークの使用" } ]
UTF-8(ユーティーエフはち、ユーティーエフエイト)はISO/IEC 10646 (UCS) とUnicodeで使える8ビット符号単位(1–4バイトの可変長)の文字符号化形式および文字符号化スキーム。 正式名称は、ISO/IEC 10646では “UCS Transformation Format 8”、Unicodeでは “Unicode Transformation Format-8” という。両者はISO/IEC 10646とUnicodeのコード重複範囲で互換性がある。RFCにも仕様がある。 2バイト目以降に「/」などのASCII文字が現れないように工夫されていることから、UTF-FSS ともいわれる。旧名称はUTF-2。 UTF-8は、データ交換方式・ファイル形式として一般的に使われる傾向にある。 当初は、ベル研究所においてPlan 9で用いるエンコードとして、ロブ・パイクによる設計指針のもと、ケン・トンプソンによって考案された。
{{複数の問題 | 精度 = 2013年9月 | 正確性 = 2013年9月 }} {{Table Unicode}} '''UTF-8'''(ユーティーエフはち、ユーティーエフエイト)は[[ISO/IEC 10646]] (UCS) と[[Unicode]]で使える8[[ビット]]符号単位(1–4[[バイト (情報)|バイト]]の可変長)の[[文字符号化方式|文字符号化形式および文字符号化スキーム]]。 正式名称は、ISO/IEC 10646では “UCS Transformation Format 8”、Unicodeでは “Unicode Transformation Format-8” という。両者はISO/IEC 10646とUnicodeのコード重複範囲で互換性がある。[[Request for Comments|RFC]]にも仕様がある<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3629 RFC 3629] UTF-8, a transformation format of ISO 10646</ref>。 2バイト目以降に「/」などの[[ASCII]]文字が現れないように工夫されていることから、'''UTF-FSS''' (File System Safe) ともいわれる。旧名称はUTF-2。 UTF-8は、データ交換方式・ファイル形式として一般的に使われる傾向にある。 <!-- データ交換形式やファイル形式に最も採用されている文字符号化方式である。 ↑これが言いたいことなんだろうけど,出典なし。 --> 当初は、[[ベル研究所]]において[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]で用いる[[エンコード]]として、[[ロブ・パイク]]による設計指針のもと、[[ケン・トンプソン]]によって考案された<ref>[https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3629#page-3 RFC 3629 Page-3]</ref><ref>[http://www.cl.cam.ac.uk/~mgk25/ucs/utf-8-history.txt Rob Pike's UTF-8 history]</ref>。 == エンコード体系 == [[ASCII]]文字と互換性を持たせるために、ASCIIと同じ部分は1バイト、その他の部分を2–6バイトで符号化する。4バイトのシーケンスでは21ビット (0x1FFFFF) まで表現することができるが、Unicodeの範囲外となる17面以降を表すもの(U+10FFFFより大きなもの)は受け付けない。 また、5–6バイトの表現は、ISO/IEC 10646による定義<ref>[http://std.dkuug.dk/jtc1/sc2/wg2/ ISO/IEC 10646:2003] Information technology -- Universal Multiple-Octet Coded Character Set (UCS)</ref>と[[Internet Engineering Task Force|IETF]]によるかつての定義<ref>{{IETF RFC|2279}} UTF-8, a transformation format of ISO 10646</ref>で、Unicodeの範囲外を符号化するためにのみ使用するが、Unicodeによる定義<ref>[http://www.unicode.org/versions/Unicode5.2.0/ The Unicode Standard, Version 5.2]</ref>とIETFによる最新の定義<ref>{{IETF RFC|3629}} UTF-8, a transformation format of ISO 10646</ref>では、5–6バイトの表現は不正なシーケンスである。 後述の[[UTF-8#セキュリティ|セキュリティ]]の項に詳細はあるが、符号化は最少のバイト数で表現しなければならない。そのため、バイト数ごとにUnicodeの符号位置の最小値(下限)も設けている。 例えば、1バイトで表現するASCII文字は2バイト以上でも表現できるが、バイト数ごとの下限によってこれを回避している。 ビットパターンは以下のようになっている。 {| class="wikitable" style="white-space: nowrap; font-size: small;" |- ! バイト数 ! 有効ビット ! colspan="2" | Unicode ! colspan="4" | 2進数表記 ! colspan="4" | 16進数表記 |- | rowspan="3" style="text-align: center;" | 1 | rowspan="3" style="text-align: center;" | {{0}}7 bit | colspan="2" | | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|DimGray|0}}xxx-xxxx | colspan="3" rowspan="3" style="background: silver;" | | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 00..7F | colspan="3" rowspan="3" style="background: silver;" | |- | 上限 | style="text-align: right;" | U+007F | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|DimGray|0}}111-1111 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 7F |- | 下限 | style="text-align: right;" | U+0000 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|DimGray|0}}000-0000 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 00 |- | rowspan="3" style="text-align: center;" | 2 | rowspan="3" style="text-align: center;" | 11 bit | colspan="2" | | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|fuchsia|110}}y-yyyx | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}xx-xxxx | colspan="2" rowspan="3" style="background: silver;" | | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | C2..DF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80..BF | colspan="2" rowspan="3" style="background: silver;" | |- | 上限 | style="text-align: right;" | U+07FF | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|fuchsia|110}}1-1111 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}11-1111 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | DF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | BF |- | 下限 | style="text-align: right;" | U+0080 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|fuchsia|110}}0-0010 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}00-0000 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | C2 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80 |- | rowspan="3" style="text-align: center;" | 3 | rowspan="3" style="text-align: center;" | 16 bit | colspan="2" | | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|blue|1110}}-yyyy | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}yx-xxxx | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}xx-xxxx | colspan="1" rowspan="3" style="background: silver;" | | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | E0..EF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80..BF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80..BF | colspan="1" rowspan="3" style="background: silver;" | |- | 上限 | style="text-align: right;" | U+FFFF | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|blue|1110}}-1111 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}11-1111 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}11-1111 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | EF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | <sup>&nbsp;</sup>BF<sup>*</sup> | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | BF |- | 下限 | style="text-align: right;" | U+0800 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|blue|1110}}-0000 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}10-0000 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}00-0000 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | E0 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | <sup>&nbsp;</sup>80<sup>*</sup> | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80 |- | rowspan="3" style="text-align: center;" | 4 | rowspan="3" style="text-align: center;" | 21 bit | colspan="2" | | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|red|1111}}-{{color|red|0}}yyy | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}yy-xxxx | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}xx-xxxx | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}xx-xxxx | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | F0..F4 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80..BF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80..BF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80..BF |- | 上限 | style="text-align: right;" |U+10FFFF | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|red|1111}}-{{color|red|0}}100 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}00-1111 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}11-1111 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}11-1111 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | F4 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | <sup>&nbsp;</sup>BF<sup>*</sup> | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | BF | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | BF |- | 下限 | style="text-align: right;" |U+10000 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|red|1111}}-{{color|red|0}}000 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}01-0000 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}00-0000 | style="text-align: right; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | {{color|green|10}}00-0000 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | F0 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | <sup>&nbsp;</sup>80<sup>*</sup> | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80 | style="text-align: center; font-family: 'Courier New', Consolas, monospace;" | 80 |} <small>* 第1バイトがE0のときに第2バイトが80-9Fの範囲を、または同F0のときに80-8Fの範囲を取るものは冗長な符号化となるため許されない。第1バイトがEDのときに第2バイトがA0以上となるものはサロゲートペアのための符号位置にあたり、また同F4のときに90以上となるものはUnicodeの範囲外となるため、UTF-8ではやはり許されない。</small> Unicodeの符号位置を2進表記したものを、上のビットパターンのx, yに右詰めに格納する(最少のバイト数で表現するため、yの部分には最低1回は1が出現する)。符号化されたバイト列は、[[エンディアン|バイト順]]に関わらず左から順に出力する。 1バイト目の先頭の連続するビット "1"(その後にビット "0" が1つ付く)の個数で、その文字のバイト数がわかるようになっている。また、2バイト目以降はビットパターン "{{color|green|10}}" で始まり、1バイト目と2バイト目以降では値の範囲が重ならないので、文字境界を確実に判定できる。すなわち、任意のバイトの先頭ビットが "{{color|DimGray|0}}" の場合は1バイト文字、"{{color|green|10}}" の場合は2バイト以上の文字の2番目以降のバイト、"{{color|fuchsia|110}}" の場合は2バイト文字の先頭バイト、"{{color|blue|1110}}" の場合は3バイト文字の先頭バイト、"{{color|red|11110}}" の場合は4バイト文字の先頭バイトであると判定できる。 7バイト以上の文字は規定されないため、<code>0xFE</code>, <code>0xFF</code>は使用されない。このため、[[バイト順マーク]] (BOM) に<code>0xFE</code>と<code>0xFF</code>を使用する[[UTF-16]]や[[UTF-32]]が、UTF-8と混同されることはない。 == 特徴 == === {{anchors|メリット}}利点 === * ASCII文字コードのテキストを処理するソフトウェアの多くがそのまま使える<ref>ただし、バイト順マーク (BOM) が付加されている場合や、テキストを7ビットで処理するソフトウェア、内部的に最上位ビットを使用しているソフトウェアなど、使えないものも存在する</ref>。 * バイトストリーム中の任意の位置から、その文字、前の文字、あるいは次の文字の先頭バイトを容易に判定することができる。 * 文字列の検索を単なるバイト列の検索として行っても、文字境界と異なる個所でマッチしてしまうことがない。たとえば[[Shift_JIS]]で「¥」(0x5C) を検索すると「表」(0x95 0x5C) の2バイト目にマッチしたり、[[EUC-JP]]で「海」(0xB3 0xA4) を検索すると「ここ」(0xA4 0xB3 0xA4 0xB3) にマッチしたりするのと同様のことが起きない。このため、[[マルチバイト文字]]を意識せず、[[ISO/IEC 8859-1|ISO 8859-1]]などの8ビット文字向けに作られた膨大なプログラム資産を、比較的少ない修正で再利用できる。 ** ただし、他のUnicodeの符号化と同様に、単にバイト列の比較では文字列が同一か判断できない場合がある。詳細は、[[Unicodeの等価性]]および[[Unicode正規化|正規化]]を参照のこと。 * [[UTF-16]]や[[UTF-32]]と異なり、バイト単位の入出力を行うため、[[エンディアン|バイト順]]の影響がない。 * 21ビットまで表現できるため、[[サロゲートペア]]を使用する必要がない。 * ASCII文字が主体の文書であれば、ほとんどデータサイズを増やさずにUnicodeのメリットを享受できる。UTF-16やUTF-32では、データサイズはほぼ2倍、4倍となる。 * 複数のUTF-8文字列を、単なる符号なし8ビット整数の配列とみなして辞書順ソートした結果は、Unicodeの符号位置の辞書順のソート結果(すなわちUTF-32に変換した後にソートした結果)と等しくなる。これに対して、サロゲートペアを含むUTF-16文字列を符号なし16ビット整数の配列とみなしてソートした結果は、Unicodeの符号位置の辞書順のソート結果と異なりうる。 === {{anchors|デメリット}}欠点 === * UTF-8による符号化では、[[漢字]]や[[仮名 (文字)|仮名]]などの表現に3[[バイト (情報)|バイト]]を要する。このように、東アジアの従来文字コードでは[[マルチバイト文字|マルチバイト符号]]を用いて1文字2バイトで表現されていたデータが、1.5倍かそれ以上のサイズとなる。同様に、[[ISO/IEC 8859-1]]では1バイトで表現できた非ASCIIのラテン文字([[ウムラウト]]付きの文字など)も2バイトとなるし、その他の[[ISO/IEC 8859|ISO/IEC 8859シリーズ]]に属する文字符号ではデータ量がさらに増大しうる。 ** なお、1バイトが9ビットである処理系では、この問題をあまり発生させずに符号化できるはずである。このアイディアに基づいた[[ジョークRFC]]が{{IETF RFC|4042}} "UTF-9" として[[2005年]]の[[エイプリルフール]]([[4月1日]])に公開された。 * 最短ではない符号やサロゲートペアなど、UTF-8の規格外だがチェックを行わないプログラムでは一見正常に扱われるバイト列が存在する。これらのバイト列を入力として受け入れてしまうと、プログラムが予期しない範囲のデータを生成するため、セキュリティ上の脅威となりうる<ref>{{IETF RFC|3629}}, pp.9f.</ref>。 == サロゲートペアの扱い == [[UTF-16]]では[[Unicode#サロゲートペア|サロゲートペア]]で表されるような、[[基本多言語面]]外の符号位置をUTF-8で表す時は、変換元がUTF-16でサロゲートペアの時には <code>U+D800</code>–<code>U+DBFF</code>, <code>U+DC00</code>–<code>U+DFFF</code> を表すUTF-8にそのまま変換したりはせず、<code>U+10000</code>–<code>U+10FFFF</code> の符号位置にデコードしてから変換する。そのままUTF-8で符号化したような列は不正なUTF-8とされる。 サロゲートペアのままUTF-8と同等の符号化を行う符号化は、'''CESU-8''' ({{Lang|en|Compatibility Encoding Scheme for UTF-16: 8-Bit}}) として別途定義されている。実用に供されている例としては、[[Oracle Database]]のバージョン8以前において、UTF-8として3オクテットまでのオクテット列しか扱えなかったために定義されたものである。本来のUTF-8における4オクテット列の代わりに、サロゲート符号位置を表す3オクテット列のペア(上位が <code>ED A0 80</code>–<code>ED AF BF</code>、下位が <code>ED B0 80</code>–<code>ED BF BF</code>)で表現される。 現在のOracle Databaseでも、CESU-8を「UTF8」として、「普通のUTF-8」を「AL32UTF8」として扱っているため注意を要する。[[MySQL]]でも「utf8」を指定した場合は4オクテット列が扱えず、CESU-8相当の符号化を必要とする(4オクテット列対応のUTF-8は「utf8mb4」として別途定義されているが、MySQL 5.5.3以降でないと使用できない<ref>{{Cite web |url=https://dev.mysql.com/doc/refman/5.5/en/charset-unicode-utf8mb4.html |title=10.1.10.6 The utf8mb4 Character Set (4-Byte UTF-8 Unicode Encoding) |access-date=2015年12月11日 |website=dev.mysql.com |work=MySQL 5.5 Reference Manual |publisher=Oracle |archive-url=https://web.archive.org/web/20151201021055/http://dev.mysql.com:80/doc/refman/5.5/en/charset-unicode-utf8mb4.html |archive-date=2015-12-01 02:10:55}}</ref>)。 また、[[Java]]の一部の内部実装で用いられている'''Modified UTF-8'''も、サロゲートペアをそのまま残す仕様となっている。ただし、NULL文字を<code>C0 80</code>とエンコードする(これもUTF-8規格外)点で、CESU-8とも異なる実装となっている。 == セキュリティ == UTF-8のエンコード体系には[[冗長性 (情報理論)|冗長性]]があり、同じ文字を符号化するのに複数の表現が考えられる(例: スラッシュ記号である「/」を 0x2F という1バイトで表現するのではなく、0xC0 0xAF という2バイトもしくはそれより大きなバイト数で表現する)。かつてはそのような表現も許容されていたが、[[ディレクトリトラバーサル]]などの対策として行われる文字列検査を冗長な表現によりすり抜ける手法が知られるようになったため、現在の仕様では最少のバイト数による表現以外は不正なUTF-8シーケンスとみなさなければならない<ref>Windowsにおける有名な[[ワーム (コンピュータ)|ワーム]]である[[Nimda|Nimdaウイルス]]は、[[Internet Information Services|IIS]]におけるUTF-8の脆弱性をもちいたものである。{{Harv|はせがわようすけ|2009}}</ref>。 ISO/IEC 10646の定義が5バイト以上の表現を許容していることにより、正しくない実装を行った[[バグ]]のあるシステムにおいてエンコード時に[[バッファオーバーフロー]]が発生する可能性も指摘されている。 == 文字種 == {| class="wikitable" ! B !! Unicode !! スクリプト !! [[JIS X 0201]] !! [[JIS X 0208]] !! [[JIS X 0212]] !! [[JIS X 0213]] |- | 1 || U+0000–U+007F || [[ASCII]] || Roman([[円記号]]・[[オーバーライン]]以外) ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp; |- | 2 || U+0080–U+07FF || {{Flatlist|class=hlist-comma| * [[ラテン文字|ラテン]] * [[ダイアクリティカルマーク|ダイアクリティカル]] * [[ギリシャ文字|ギリシャ]] * [[キリル文字|キリル]] * [[アルメニア文字|アルメニア]] * [[ヘブライ文字|ヘブライ]] * [[アラビア文字|アラビア]] * [[シリア文字|シリア]] * [[ターナ文字|ターナ]] * [[ンコ文字|ンコ]] }} | 円記号 || 非漢字の一部 || 非漢字の一部 || 非漢字の一部 |- | 3 || U+0800–U+FFFF || {{Flatlist|class=hlist-comma| * [[アブギダ|インド系諸文字]] * [[句読点]] * [[学術記号]] * [[絵文字]] * [[東アジア]]の諸文字 * [[全角と半角|全角半角形]]など }} | オーバーライン、Kana || 残りの全て || 残りの全て || 大半 |- | 4 || U+10000–U+10FFFF || [[古代文字]]、3に含まれない漢字 ||&nbsp;||&nbsp;||&nbsp;|| 第3・第4水準漢字の一部 |} == バイト順マークの使用 == UTF-8で符号されたテキストデータは[[バイト順マーク]] (BOM) の付加は不要である([[エンディアン]]に関わらず同じ内容になるので)。 しかし、テキストデータがUTF-8で符号化されていることの標識として、データの先頭にEF BB BF(16進。UCSでの[[バイト順マーク]] U+FEFFのUTF-8での表現)のシーケンスをBOMとして付加することが許される(推奨はされない)。 * なお、日本の特殊事情として、このシーケンスがある方を'''UTF-8'''、ない方を特に'''UTF-8N'''と呼び分けることもあるが<ref>{{Cite web |url=http://www-128.ibm.com/developerworks/library/utfencodingforms/index.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050506211548/http://www-128.ibm.com/developerworks/library/utfencodingforms/index.html| accessdate=18 September 2013 | archivedate=6 May 2005 |language=英語 |author=Mark Davis |publisher=[[IBM]] |title=Forms of Unicode}}</ref>、日本以外ではほとんど知られておらず、また公的規格などによる裏付けもない<ref>このため、UTF-8という呼び名を使っていれば情報交換の相手が文書先頭にこのシーケンスがあると見なすと期待すべきではないし、また、UTF-8Nという呼び名は情報交換の際に用いるべきではない。</ref>。 ===プログラム・アプリケションソフトの対応状況の問題=== BOM付きには対応しないプログラムは標準的ではある。それらは、BOMを余分なデータとみなすので、問題も生ずる。 例えば、[[Unix系]]OSにおける実行可能[[スクリプト言語|スクリプト]]は、ファイル先頭が「[[シバン (Unix)|#!]]」から始まるとき、それに続く文字列を[[インタプリタ]]のコマンドとして認識するが、多くのシステムでは、このシーケンスが存在するとこの機能が働かず実行できない。PHPでは、<code><nowiki><?PHP</nowiki></code>の前に出力されるため、<code>header()</code>関数の実行に失敗する原因となる。[[HLSL]]や[[GLSL]]の[[シェーダー]]プログラム[[コンパイラ]](fxcやglslangValidator)はBOMを処理できず、コンパイルエラーとなる。 一方、一部のテキスト処理アプリケーション([[テキストエディタ]]など)ではBOMを前提とした動作をする<ref>[[TeraPad]]、[[EmEditor]]、[[MIFES]]のようにBOMを付加するかどうかを選択できるものもある。</ref>。同様にこのシーケンスがない場合、UTF-8と認識できないプログラムも存在する。たとえば、{{要出典範囲|[[Microsoft Excel]]では、[[Comma-Separated Values|CSVファイル]]を開くとき、このシーケンスが付加されていないUTF-8の場合は正常に読み込むことができず文字化けを生ずる|date=2021-8}}。[[Microsoft Visual C++]]は既定でBOMなしUTF-8を認識せず、システムロケール設定に応じたマルチバイトエンコーディングとみなすが、Visual C++ 2015以降ではコンパイルオプションを指定することでBOMなしUTF-8を認識することができるようになった<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/cpp/build/reference/source-charset-set-source-character-set?view=vs-2015 /source-charset (Set Source Character Set) | Microsoft Docs]</ref>。 [[Windows 10]]のメモ帳アプリは、[[2019年]]の[[Microsoft_Windows_10のバージョン履歴#バージョン_1903|19H1アップデート]]からBOM無しUTF-8がデフォルトになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/news/1157696.html|title=「メモ帳」に多数の改善、BOMなしUTF-8がデフォルト保存形式に ~「Windows 10 19H1」|accessdate=2023-01-26|publisher=Impress}}</ref>。 また、BOMがなくともエンコード自動推定によってUTF-8とShift_JISなどを区別することのできるプログラムもあるが、ASCII部以外の文字が少ない場合に誤認することが多い。 プロトコルが常にUTF-8であることを強制しているものである場合はこのシーケンスを禁止するべきで、この場合ファイル先頭にこのシーケンスが現れると “ZERO WIDTH NO-BREAK SPACE” と見なされる。逆にプロトコルがそれを保証しない場合このシーケンスは禁止されずファイル先頭のそれはバイト順マークと見なされる<ref>{{IETF RFC|3629}} [https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3629#section-6 6. Byte order mark (BOM)]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考資料 == {{Refbegin}} *用語の日本語表記は原則として「{{Cite web|和書| url = https://www.unicode.org/terminology/term_en_ja.html | title = Unicode Terminology English - Japanese | publisher = Unicode, Inc | accessdate = 2010-01-01}}」にならった。 *{{Cite web|和書|author=はせがわようすけ |date=2009-05-08 |url=https://gihyo.jp/admin/serial/01/charcode/0004 |title=本当は怖い文字コードの話: 第4回 UTF-8の冗長なエンコード |publisher=技術評論社 |accessdate=2014-09-10}} {{Refend}} == 関連項目 == *[[文字コード]] {{文字コード}} {{ロブ・パイク}} {{ケン・トンプソン}} {{DEFAULTSORT:UTF-08}} [[Category:文字コード]] [[Category:Unicode]] [[Category:RFC|2044]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/UTF-8
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UTF-16
UTF-16 (UCS/Unicode Transformation Format 16) とは、UnicodeおよびISO/IEC 10646の、符号化フォームおよび符号化スキーム(文字符号化方式を参照)のひとつである。 UTF-16では、1文字が、16ビットの符号単位が1つまたは2つで符号化される。これが「-16」の名の由来である。基本多言語面(BMP)内の文字は、符号単位1つの16ビットで表される。BMP以外の文字は、符号単位2つの32ビットで表される。なお、UTF-16は2バイトコードだと誤解されることがあるが、このように4バイトのこともあるため間違いである。 Unicodeにおいては、厳密には、文字符号化フォーム(英: Character Encoding Form)の1つの名称であり、かつ、UTF-16符号化形式のための文字符号化スキーム(英: Character Encoding Scheme)の1つの名称でもある。UTF-16符号化フォームのための文字符号化スキームには、UTF-16の他にUTF-16BE、UTF-16LEがある。 UTF-16では、Unicodeの代用符号位置を除いた符号位置(Unicodeスカラ値という)を、16ビット符号なし整数を符号単位とした符号単位列で表す。符号単位列は1つまたは2つの符号単位からなる。すなわち、合計は16ビットまたは32ビットである。 BMPに含まれるU+0000–U+D7FFとU+E000–U+FFFFは、そのまま符号単位1つで表す。BMP以外のU+10000–U+10FFFFは、表のようにビットを配分して、符号単位2つで表す。 このとき使われる、U+D800–U+DFFF の符号位置を、代用符号位置(Surrogate Code Point)と呼び、BMP外の1つの符号位置を表す連続した2つの代用符号位置のペアをサロゲートペアと呼ぶ。代用符号位置に使うため、BMPのこの領域には文字が収録されておらず、UTF-16以外のUTF-8、UTF-32では使用されない。 Unicodeの符号位置の最大値がU+10FFFFなのは、それがUTF-16で表せる最大値だからである。 UTF-16符号化フォームで表現された文字は、16ビット符号なし整数の符号単位列であり、プログラム内部での処理には都合がよいが、それでもって情報交換のためにファイルの読み書きや通信を行う場合は、適当な符号化スキームにより、バイト直列化する必要がある。 符号化スキームには、UTF-16、UTF-16BE、UTF-16LEの3種類ある。UTF-16BEは、16ビット整数をビッグエンディアンで直列化する。UTF-16LEは、リトルエンディアンで直列化する。UTF-16BE、UTF-16LEの場合は、バイト順マーク (BOM) の付与は許されない。UTF-16の場合は、BOM でエンディアンを明示するか、上層のプロトコルで指定されておらずBOMも付与しない場合はビッグエンディアンにするよう決められている。 UTF-8、UTF-32と比較して、一般的な日本語が主体の文章ではUnicode符号化方式の中では最小サイズとなる。追加面の文字が含まれる場合、バイト順にソートしても符号位置順とはならない。また、UTF-8と違いASCII互換ではない。 Shift_JISと比較して、Shift_JISでは1バイト文字と、2バイト文字の1バイト目と2バイト目の値範囲が一部重複しているが、UTF-16では1符号単位文字、サロゲートペアの前半の符号単位、後半の符号単位がすべて異なる値範囲を取る。そのため、Shift_JISであった、例えば「a」で検索すると2バイト目にマッチする場合がある、途中から読みこむと文字の区切りがわからないときがある、1バイト目や2バイト目が欠落した場合、後続の文字すべてが文字化けする可能性がある、などの問題は発生しない。UTF-16では欠落があっても影響を受けるのはその文字だけである。 UTF-16符号化フォームは、Windows や Java(J2SE 5.0以上)で、内部表現に使われている。Windowsの内部表現では、16ビット符号なし整数を符号単位とするUTF-16符号化フォームとして扱い、ファイルなどでは、BOMあり(リトルエンディアン)のUTF-16符号化スキームが主である。 TCP/IPネットワークでは、プロトコルヘッダやMIME等の手段で文字符号化スキームを指定しない場合は、ビッグエンディアンに決められている。 用語の日本語表記は次を参考にした。“Unicode Terminology English - Japanese”. Unicode, Inc. 2010年1月1日閲覧。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "UTF-16 (UCS/Unicode Transformation Format 16) とは、UnicodeおよびISO/IEC 10646の、符号化フォームおよび符号化スキーム(文字符号化方式を参照)のひとつである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "UTF-16では、1文字が、16ビットの符号単位が1つまたは2つで符号化される。これが「-16」の名の由来である。基本多言語面(BMP)内の文字は、符号単位1つの16ビットで表される。BMP以外の文字は、符号単位2つの32ビットで表される。なお、UTF-16は2バイトコードだと誤解されることがあるが、このように4バイトのこともあるため間違いである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Unicodeにおいては、厳密には、文字符号化フォーム(英: Character Encoding Form)の1つの名称であり、かつ、UTF-16符号化形式のための文字符号化スキーム(英: Character Encoding Scheme)の1つの名称でもある。UTF-16符号化フォームのための文字符号化スキームには、UTF-16の他にUTF-16BE、UTF-16LEがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "UTF-16では、Unicodeの代用符号位置を除いた符号位置(Unicodeスカラ値という)を、16ビット符号なし整数を符号単位とした符号単位列で表す。符号単位列は1つまたは2つの符号単位からなる。すなわち、合計は16ビットまたは32ビットである。", "title": "符号化" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "BMPに含まれるU+0000–U+D7FFとU+E000–U+FFFFは、そのまま符号単位1つで表す。BMP以外のU+10000–U+10FFFFは、表のようにビットを配分して、符号単位2つで表す。", "title": "符号化" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このとき使われる、U+D800–U+DFFF の符号位置を、代用符号位置(Surrogate Code Point)と呼び、BMP外の1つの符号位置を表す連続した2つの代用符号位置のペアをサロゲートペアと呼ぶ。代用符号位置に使うため、BMPのこの領域には文字が収録されておらず、UTF-16以外のUTF-8、UTF-32では使用されない。", "title": "符号化" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Unicodeの符号位置の最大値がU+10FFFFなのは、それがUTF-16で表せる最大値だからである。", "title": "符号化" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "UTF-16符号化フォームで表現された文字は、16ビット符号なし整数の符号単位列であり、プログラム内部での処理には都合がよいが、それでもって情報交換のためにファイルの読み書きや通信を行う場合は、適当な符号化スキームにより、バイト直列化する必要がある。", "title": "符号化" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "符号化スキームには、UTF-16、UTF-16BE、UTF-16LEの3種類ある。UTF-16BEは、16ビット整数をビッグエンディアンで直列化する。UTF-16LEは、リトルエンディアンで直列化する。UTF-16BE、UTF-16LEの場合は、バイト順マーク (BOM) の付与は許されない。UTF-16の場合は、BOM でエンディアンを明示するか、上層のプロトコルで指定されておらずBOMも付与しない場合はビッグエンディアンにするよう決められている。", "title": "符号化" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "UTF-8、UTF-32と比較して、一般的な日本語が主体の文章ではUnicode符号化方式の中では最小サイズとなる。追加面の文字が含まれる場合、バイト順にソートしても符号位置順とはならない。また、UTF-8と違いASCII互換ではない。", "title": "比較" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Shift_JISと比較して、Shift_JISでは1バイト文字と、2バイト文字の1バイト目と2バイト目の値範囲が一部重複しているが、UTF-16では1符号単位文字、サロゲートペアの前半の符号単位、後半の符号単位がすべて異なる値範囲を取る。そのため、Shift_JISであった、例えば「a」で検索すると2バイト目にマッチする場合がある、途中から読みこむと文字の区切りがわからないときがある、1バイト目や2バイト目が欠落した場合、後続の文字すべてが文字化けする可能性がある、などの問題は発生しない。UTF-16では欠落があっても影響を受けるのはその文字だけである。", "title": "比較" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "UTF-16符号化フォームは、Windows や Java(J2SE 5.0以上)で、内部表現に使われている。Windowsの内部表現では、16ビット符号なし整数を符号単位とするUTF-16符号化フォームとして扱い、ファイルなどでは、BOMあり(リトルエンディアン)のUTF-16符号化スキームが主である。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "TCP/IPネットワークでは、プロトコルヘッダやMIME等の手段で文字符号化スキームを指定しない場合は、ビッグエンディアンに決められている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "用語の日本語表記は次を参考にした。“Unicode Terminology English - Japanese”. Unicode, Inc. 2010年1月1日閲覧。", "title": "参考資料" } ]
UTF-16 とは、UnicodeおよびISO/IEC 10646の、符号化フォームおよび符号化スキーム(文字符号化方式を参照)のひとつである。 UTF-16では、1文字が、16ビットの符号単位が1つまたは2つで符号化される。これが「-16」の名の由来である。基本多言語面(BMP)内の文字は、符号単位1つの16ビットで表される。BMP以外の文字は、符号単位2つの32ビットで表される。なお、UTF-16は2バイトコードだと誤解されることがあるが、このように4バイトのこともあるため間違いである。 Unicodeにおいては、厳密には、文字符号化フォームの1つの名称であり、かつ、UTF-16符号化形式のための文字符号化スキームの1つの名称でもある。UTF-16符号化フォームのための文字符号化スキームには、UTF-16の他にUTF-16BE、UTF-16LEがある。
{{Table Unicode}} '''UTF-16''' (UCS/Unicode Transformation Format 16<ref group="注釈">UTFは、UnicodeではUnicode Transformation Formatの略、[[ISO/IEC 10646]]ではUCS Transformation Formatの略とされる。</ref>) とは、[[Unicode]]および[[ISO/IEC 10646]]の、符号化フォームおよび符号化スキーム([[文字符号化方式]]を参照)のひとつである。 UTF-16では、1[[文字]]が、[[16ビット]]の符号単位が1つまたは2つで符号化される。これが「-16」の名の由来である。[[基本多言語面|基本多言語面(BMP)]]内の文字は、符号単位1つの16ビットで表される。BMP以外の文字は、符号単位2つの32ビットで表される。なお、UTF-16は2[[バイト (情報)|バイト]]コードだと誤解されることがあるが、このように4バイトのこともあるため間違いである。 Unicodeにおいては、厳密には、文字符号化フォーム({{lang-en-short|Character Encoding Form}})の1つの名称であり、かつ、UTF-16符号化形式のための文字符号化スキーム({{lang-en-short|Character Encoding Scheme}})の1つの名称でもある。UTF-16符号化フォームのための文字符号化スキームには、UTF-16の他に'''UTF-16BE'''、'''UTF-16LE'''がある。 == 符号化 == {{Anchors|UTF-16符号化形式}} UTF-16では、Unicodeの[[Unicode文字のマッピング#代用符号位置|代用符号位置]]を除いた符号位置(Unicodeスカラ値という)を、16ビット符号なし[[整数型|整数]]を符号単位とした符号単位列で表す。符号単位列は1つまたは2つの符号単位からなる。すなわち、合計は16ビットまたは[[32ビット]]である。 BMPに含まれる<code>U+0000</code>–<code>U+D7FF</code>と<code>U+E000</code>–<code>U+FFFF</code>は、そのまま符号単位1つで表す。BMP以外の<code>U+10000</code>–<code>U+10FFFF</code>は、表のようにビットを配分して、符号単位2つで表す。 {|class="wikitable" |- !スカラ値!!UTF-16!!備考 |- |align=right|<code>xxxxxxxxxxxxxxxx</code> |align=right|<code>xxxxxxxxxxxxxxxx</code> | |- |align=right|<code>000uuuuuyyyyyyxxxxxxxxxx</code> |align=right|<code>110110wwwwyyyyyy 110111xxxxxxxxxx</code> |<code>wwww = uuuuu - 1</code> |} このとき使われる、<code>U+D800</code>–<code>U+DFFF</code> の符号位置を、代用符号位置(Surrogate Code Point)と呼び、BMP外の1つの符号位置を表す連続した2つの代用符号位置のペアを[[Unicode#サロゲートペア|サロゲートペア]]と呼ぶ。代用符号位置に使うため、BMPのこの領域には文字が収録されておらず、UTF-16以外の[[UTF-8]]、[[UTF-32]]では使用されない。 Unicodeの符号位置の最大値がU+10FFFFなのは、それがUTF-16で表せる最大値だからである。 UTF-16符号化フォームで表現された文字は、16ビット符号なし整数の符号単位列であり、プログラム内部での処理には都合がよいが、それでもって情報交換のためにファイルの読み書きや通信を行う場合は、適当な符号化スキームにより、バイト[[シリアライズ|直列化]]する必要がある。 符号化スキームには、UTF-16、UTF-16BE、UTF-16LEの3種類ある。UTF-16BEは、16ビット整数を[[ビッグエンディアン]]で直列化する。UTF-16LEは、[[リトルエンディアン]]で直列化する。UTF-16BE、UTF-16LEの場合は、[[バイト順マーク|バイト順マーク (BOM)]] の付与は許されない。UTF-16の場合は、BOM でエンディアンを明示するか、上層のプロトコルで指定されておらずBOMも付与しない場合はビッグエンディアンにするよう決められている<ref>{{Cite web |url=https://www.unicode.org/versions/Unicode12.0.0/UnicodeStandard-12.0.pdf |title=The Unicode Standard Version 12.0 |access-date=2019-05-12 |date=2019-03 |format=PDF |publisher=The Unicode Consortium |page=131 |quote=The UTF-16 encoding scheme may or may not begin with a BOM. However,when there is no BOM, and in the absence of a higher-level protocol, the byteorder of the UTF-16 encoding scheme is big-endian. |language=English}}</ref>。 == 比較 == [[UTF-8]]、[[UTF-32]]と比較して、一般的な日本語が主体の文章ではUnicode符号化方式の中では最小サイズとなる。[[追加面]]の文字が含まれる場合、バイト順にソートしても符号位置順とはならない。また、UTF-8と違い[[ASCII]]互換ではない。 [[Shift_JIS]]と比較して、Shift_JISでは1バイト文字と、2バイト文字の1バイト目と2バイト目の値範囲が一部重複しているが、UTF-16では1符号単位文字、サロゲートペアの前半の符号単位、後半の符号単位がすべて異なる値範囲を取る。そのため、Shift_JISであった、例えば「a」で検索すると2バイト目にマッチする場合がある、途中から読みこむと文字の区切りがわからないときがある、1バイト目や2バイト目が欠落した場合、後続の文字すべてが文字化けする可能性がある、などの問題は発生しない。UTF-16では欠落があっても影響を受けるのはその文字だけである<ref>{{Cite web | url=https://www.unicode.org/faq/utf_bom.html#utf16-5 | title=FAQ - UTF-8, UTF-16, UTF-32 & BOM | date=2017-06-27 | publisher=The Unicode Consortium | language=English | accessdate = 2019-05-12 }}</ref>。 == 利用 == UTF-16[[Unicode#CEF|符号化フォーム]]は、[[Microsoft Windows|Windows]] や [[Java]]([[Java Platform, Standard Edition|J2SE]] 5.0以上)で、内部表現に使われている。Windowsの内部表現では、16ビット符号なし整数を符号単位とするUTF-16符号化フォームとして扱い、ファイルなどでは、BOMあり(リトルエンディアン)のUTF-16[[Unicode#CES|符号化スキーム]]が主である。 [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]ネットワークでは、プロトコルヘッダやMIME等の手段で文字符号化スキームを指定しない場合は、ビッグエンディアンに決められている。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考資料 == 用語の日本語表記は次を参考にした。{{Cite web|和書| url = http://www.unicode.org/terminology/term_en_ja.html | title = Unicode Terminology English - Japanese | publisher = Unicode, Inc | accessdate = 2010-01-01}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|コンピュータ}} *[[UTF-8]] *[[UTF-32]] {{文字コード}} [[Category:文字コード]] [[Category:Unicode]]
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Internet Engineering Task Force
The Internet Engineering Task Force(頭字語:IETF、インターネット技術特別調査委員会)は、インターネット、わけてもインターネット・プロトコル・スイート(TCP/IP)の技術面に関するNPOで標準化団体である。 アメリカ合衆国連邦政府の支援のもと活動を開始した。1993年以降は国際的な会員制の非営利組織であるインターネットソサエティの支援のもと、その標準化開発部門として活動している。ボランティアで運営を担う要員の経費は、一般にそれぞれの職業上の雇用主もしくは助成団体など後援者から受けている。 この団体はそれぞれ固有の主題ごとに、多数のワーキンググループ(作業部会(英語))と同好の士が集まるくだけた雰囲気の協議グループで構成される。どのタスクに取り組むか、主にそれらのグループからボトムアップで提言する方式を用いて活動する。グループ単位で座長ないし数名の共同座長を置き、グループの活動の趣旨ならびに期待される成果と達成時期を憲章にまとめている。 会員に参加要件や資格審査、年会費などはなく、メーリングリストに登録するか、団体主催の会議に出席して活動に参加する。会議参加費は2014年7月時点で1名650ドル、2018年半ばに全日程参加は一般875ドル(早期割引で700ドル)、1日券375ドル、学生150ドルであった。 会議では、最終的に何か決定を下さなければならない場合にハミングによる表決(ラフコンセンサス)を取るという特徴があり、票決は行わない。またほとんどの作業はメーリングリストを介して実施され、会議への出席は任意である。メーリングリストを介した作業も具体的な目標単位で組まれるため、達成するとワーキンググループを解散するか、憲章を更新して新しいタスクへ移行する。 取り組む主題はそれぞれのグループ内で協議し、主題を「エリア」と呼び互選の管理者(AD=area director)を置く体制で、ほとんどのグループは共同管理者2名で進行している。ADはそのグループの代表を推薦し、ADとIETFチェアが構成する「インターネット開発運営グループ IESG(英語)」が団体全体の運営に責任を負う。2014年時点に扱った主題は、アプリケーション、全般(General)、インターネット、オペレーションと管理、リアルタイム・アプリケーションとその基盤、ルーティング、セキュリティ、トランスポートにわたった。 外部機関ならびにRFC編集者とIETFの交渉はインターネットアーキテクチャ委員会(IAB)が監督し、インターネット開発の長期的な技術の方向性を決める。またIETFにロジスティクス他のサポートを提供する部門を「IETF経営サポート活動」(IETF Administrative Support Activity=IASA)(英語)といい、IABと「IETFオーバーサイト委員会」(IETF Administrative Oversight Committee=IAOC)はその監督を担う。IABはさらにIETFがさまざまな企画で連携するプロジェクト特化型のInternet Research Task Force(IRTF)運営にも参画する。 ここに列挙したIESG、IAB、IAOCは、その役職の任命と再任、罷免を#推薦委員会(NomCom)に委任し、同委員会は、IETF会員10名と委員長1名で成り立つ。同委員はIETF会議の常連のボランティアから選ぶ。これまでNomCom裁定の罷免は発生していないものの、辞任に伴う再選は何度かあった。 IETFが政府管掌を離れた1993年以降、その活動の予算ならびに法律上の枠組みはインターネットソサエティから供与を受け、IETFとその姉妹組織のIAB、IRTFは存続してきた。IETFの活動資金には同ソサエティがIETF企業会員として参加費を支弁し、会議参加費と会議のスポンサー収入を組み入れるほか、公益団体としてen:Public Interest Registry(インターネットソサエティの傘下)から補助金を受給している。 2005年12月に設立したIETF評議会は、当団体が著作権を保有する著作物の管理を担当する。 インターネット開発運営グループ(IESG)を構成するIETFのエリア管理者とチェアパーソンは、インターネット標準の技術査定の最終判断を下し、IETFの日常管理の責任を負う。ワーキンググループから提言される決議要請を諮り、解説文書を標準のトラック(英語)に加筆するかどうか裁定する。 IESG委員長はIETFチェアパーソンを兼務し、前述のエリアのうち「全般」に属する。次のエリアはADを2名ずつ、この委員会に送り出す。 姉妹組織との窓口となる連絡員(リエゾン)と、兼務者として次の役割を設ける。 チェアパーソンは推薦委員会によって選ばれ、任期2年で再選を認める。1993年に政府管掌を離れるまでは代表はIABが指名していた 以下の人々が代表を務めている。 機関誌 本文の典拠以外の資料。発行順。
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The Internet Engineering Task Forceは、インターネット、わけてもインターネット・プロトコル・スイート(TCP/IP)の技術面に関するNPOで標準化団体である。 アメリカ合衆国連邦政府の支援のもと活動を開始した。1993年以降は国際的な会員制の非営利組織であるインターネットソサエティの支援のもと、その標準化開発部門として活動している。ボランティアで運営を担う要員の経費は、一般にそれぞれの職業上の雇用主もしくは助成団体など後援者から受けている。
<!-- Translated from [[:en:Internet_Engineering_Task_Force]]#topほか &oldid= 1050481764 番、英語版から翻訳 ; [https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Internet_Engineering_Task_Force&oldid=1050481764 as edited by Wbm1058 at 03:11, 18 October 2021(UTC)]. --> {{出典の明記|date=2023年5月}} {{Infobox organization | name = インターネット技術特別調査委員会 | pronounce = | native_name = Internet Engineering Task Force | native_name_lang = | named_after = | image = | image_size = | alt = | caption = | logo = Internet_Engineering_Task_Force_logo.svg | logo_size = | logo_alt = IETF logo | logo_caption = | map = | map_size = | map_alt = | map_caption = | map2 = | map2_size = | map2_alt = | map2_caption = | abbreviation = IETF{{sfn|Jacobsen, Lynch|1991|loc="{{DOI|10.17487/RFC1208}}"}} | predecessor = | merged = | successor = | formation = {{start date and age|1986|01|14}}{{sfn|Bradner|1991|loc="Internet Engineering Task Force"}}<!-- ref name=Bradner-January1999 / --> | founder = | founding_location = | extinction = <!-- {{end date and age|YYYY|MM|DD}} --> | merger = | type = {{ubl|[[標準化団体|標準化]][[非政府組織|NPO]]|}} <!-- | tax_id = or | vat_id =(ヨーロッパの団体の場合)--> | registration_id =   | status = | purpose = [[インターネット]]の使い心地と[[相互運用性]]の維持と改善を目指す標準化。 | headquarters = | location = | coords =<!-- {{coord|LAT|LON|display=inline, title}} --> | region = | services = | products = | methods = | fields = | membership = | membership_year = | language = <!-- | owner = or | owners = --> | sec_gen = | leader_title = Chairperson | leader_name = ラース・エッガート(2021年)–現職{{時点|2021|09}} | leader_title2 = | leader_name2 = | leader_title3 = | leader_name3 = | leader_title4 = | leader_name4 = | board_of_directors = | key_people = * [[:en:Paul Mockapetris|ポール・モッカペトリス]]{{en icon}}(1994年–1996年) * [[:en:Fred Baker(IETF chair)|フレッド・ベーカー]]{{en icon}}(1996年–2001年) * [[:en:Harald Tveit Alvestrand|ハロルド・T・オルヴェストランド]]{{en icon}}(2001年–2005年) * [[:en:Brian Carpenter(Internet engineer)|ブライアン・カーペンター]]{{en icon}}(2005–2007年) | main_organ = | parent_organization = [[インターネットソサエティ]] | subsidiaries = | secessions = | affiliations = | budget = | budget_year = | revenue = | revenue_year = | disbursements = | expenses = | expenses_year = | endowment = | endowment_year = | staff = | staff_year = | volunteers = | volunteers_year = | website = {{URL|https://ietf.org/}} | remarks = | formerly = | footnotes = }} <!-- <nowiki>未導入のテンプレート、{{Template:Internet|expanded=Governance}}</nowiki> --> '''The Internet Engineering Task Force'''([[頭字語]]:'''IETF'''、'''インターネット技術特別調査委員会'''{{sfn|網野|2012|page=64}}{{sfn|船渡、He、Fu、Moo|2004|page=24}})は、インターネット、わけても[[インターネット・プロトコル・スイート]](TCP/IP)の技術面に関する[[非政府組織|NPO]]で[[標準化団体]]である。 [[アメリカ合衆国連邦政府]]の支援のもと活動を開始した。1993年以降は国際的な会員制の[[非営利団体|非営利組織]]である[[インターネットソサエティ]]の支援のもと、その標準化開発部門として活動している<ref name="IETFandInternetSociety">{{cite web|url=http://www.internetsociety.org/internet/what-internet/history-internet/ietf-and-internet-society|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304031456/http://www.internetsociety.org/internet/what-internet/history-internet/ietf-and-internet-society|archivedate=2016-03-04|title=IETF and the Internet Society|first=Vint|last=Cerf|publisher=Internet Society|date=18 July 1995|accessdate=21 July 2014}}</ref>。[[ボランティア]]で運営を担う要員の経費は、一般にそれぞれの職業上の雇用主もしくは助成団体など後援者から受けている。 == 団体の構成 == <!-- いったんコメントアウト。法人格がないだけで、組織ではあります。IETFは組織としての体裁をとっておらず、それ自体に正式な会員制度も存在しないため加盟の資格審査がなく、[[メーリングリスト]]に登録するだけでワーキンググループの議論に参加が可能である。 メーリングリスト上で議論が進むが、年に3回(2回はアメリカ国内、1回はそれ以外の国)会議が開催される。この会議も参加費を払うことでだれでも参加が可能である。 策定された標準仕様は最終的には[[Request for Comments|RFC]]などとして発行する。 --> この団体はそれぞれ固有の主題ごとに、多数のワーキンググループ([[:en:working group|作業部会]]{{en icon}})と'''同好の士'''が集まるくだけた雰囲気の協議グループで構成される。どのタスクに取り組むか、主にそれらのグループから[[ボトムアップ]]で提言する方式を用いて活動する{{sfn|Bradner|1991|loc="Internet Engineering Task Force"}}。グループ単位で座長ないし数名の共同座長を置き、グループの活動の趣旨ならびに期待される成果と達成時期を憲章にまとめている。 会員に参加要件や資格審査、年会費などはなく、[[メーリングリスト]]に登録するか、団体主催の会議に出席して活動に参加する。会議参加費は{{時点|2014|07}}で1名650[[アメリカドル|ドル]]<ref>{{cite web|url=//www.ietf.org/meeting/register.html|title=Register for the Next IETF Meeting|publisher=IETF|access-date=21 July 2014}}</ref>、2018年半ばに全日程参加は一般875ドル(早期割引で700ドル)、1日券375ドル、学生150ドルであった。 会議では、最終的に何か決定を下さなければならない場合に[[鼻歌|ハミング]]による表決([[ラフコンセンサス]])を取るという特徴があり、票決は行わない。またほとんどの作業はメーリングリストを介して実施され、会議への出席は任意である。メーリングリストを介した作業も具体的な目標単位で組まれるため、達成するとワーキンググループを解散するか、憲章を更新して新しいタスクへ移行する{{sfn|Bradner|1991|loc="Internet Engineering Task Force"}}。 取り組む主題はそれぞれのグループ内で協議し、主題を「エリア」と呼び互選の管理者(AD={{Lang|en|area director}})を置く体制で、ほとんどのグループは共同管理者2名で進行している。ADはそのグループの代表を推薦し、ADとIETFチェアが構成する「インターネット開発運営グループ [[:en:Internet Engineering Steering Group|IESG]]{{en icon}}」が団体全体の運営に責任を負う。{{時点|2014}}に扱った主題は、アプリケーション、全般(General)、インターネット、オペレーションと管理、リアルタイム・アプリケーションとその基盤、[[ルーティング]]、セキュリティ、[[Transport Layer Security|トランスポート]]にわたった<ref>{{cite web|url=//datatracker.ietf.org/wg/|title=Active IETF Working Groups|publisher=IETF|access-date=21 July 2014}}</ref>。 外部機関ならびにRFC編集者とIETFの交渉は[[インターネットアーキテクチャ委員会]](IAB)が監督し<ref>"Charter of the Internet Architecture Board(IAB)", 規約番号{{IETF RFC|2850}}, B. Carpenter, May 2000.<!-- コメントアウト。翻訳の段階でURLが除去済みのため。 Retrieved 21 July 2014. --></ref>、インターネット開発の長期的な技術の方向性を決める。またIETFに[[ロジスティクス]]他のサポートを提供する部門を「IETF経営サポート活動」({{Lang|en|[[:en:IETF Administrative Support Activity|IETF Administrative Support Activity]]=IASA}}){{En icon}}といい、IABと「IETFオーバーサイト委員会」({{Lang|en|[[:en:IETF Administrative Oversight Committee|IETF Administrative Oversight Committee]]=IAOC}})はその監督を担う。IABはさらにIETFがさまざまな企画で連携するプロジェクト特化型の[[Internet Research Task Force]](IRTF)運営にも参画する。 ここに列挙したIESG、IAB、IAOC<!-- 英語原文では4者で内訳に相違。IESG、IAB、IASA、IAOCA -->は、その役職の[[任命]]と再任、[[罷免]]を[[#推薦委員会]](NomCom)に委任し、同委員会は、IETF会員10名と委員長1名で成り立つ。同委員はIETF会議の常連のボランティアから選ぶ<ref>{{Cite web|title=Groups > Nominating Committee|url=https://www.ietf.org/about/groups/nomcom/|website=IETF|accessdate=2021-10-28|language=en}}</ref>。これまでNomCom裁定の罷免は発生していないものの、辞任に伴う再選は何度かあった。 IETFが政府管掌を離れた1993年以降<ref name=IETFandInternetSociety />、その活動の予算ならびに法律上の枠組みはインターネットソサエティから供与を受け、IETFとその姉妹組織のIAB、IRTFは存続してきた。IETFの活動資金には同ソサエティがIETF企業会員として参加費を支弁し、会議参加費と会議のスポンサー収入を組み入れるほか、公益団体として[[:en:Public Interest Registry]](インターネットソサエティの傘下)から補助金を受給している<ref>{{Cite web|title=Internet Engineering Task Force(IETF)|url=https://thenew.org/org-stories/internet-engineering-task-force-ietf/|website=.ORG|date=2021-05-27|accessdate=2021-10-28}}</ref>。 2005年12月に設立したIETF評議会は、当団体が著作権を保有する著作物の管理を担当する<ref>{{Cite web|title=2.5. Intellectual Property Rights(IPR)|work=The IETF process: an informal guide|url=https://www.ietf.org/standards/process/informal/|website=IETF|accessdate=2021-10-28|language=en}}</ref>。 === 運営委員会 === '''インターネット開発運営グループ'''(IESG)を構成するIETFのエリア管理者とチェアパーソンは、インターネット標準の技術査定の最終判断を下し、IETFの日常管理の責任を負う。ワーキンググループから提言される決議要請を諮り、解説文書を[[:en:Internet standard|標準のトラック]]{{en icon}}に加筆するかどうか裁定する<ref>{{Cite web|title=About > Roles > IESG |url=https://www.ietf.org/standards/process/role-iesg-standards-process/|access-date=2021-06-03|website=IETF|language=en}}</ref>。 IESG委員長はIETFチェアパーソンを兼務し、前述のエリアのうち「全般」に属する。次のエリアはADを2名ずつ、この委員会に送り出す<ref name="about_members">{{Cite web|title=About > Groups|url=https://www.ietf.org/about/groups/iesg/members/|access-date=2021-06-03|website=IETF|language=en}}</ref>。 * アプリケーション(app) * インターネット(int) * オペレーション & ネットワーク管理(ops) * ルーティング(rtg) * リアルタイム・アプリと基盤(rai) * セキュリティ(sec) * トランスポートとサービス(tsv)– 「トランスポート」という略称が通例。 姉妹組織との窓口となる連絡員(リエゾン)と、兼務者として次の役割を設ける。 * IETF事務局長 * [[インターネットアーキテクチャ委員会]](IAB)チェアパーソン * IABの指名した連絡員 * インターネット番号割当機関{{lang|en|[[Internet Assigned Numbers Authority]]=IANA}}の連絡員 * RFC編集者の連絡員 == 歴代の要職 == チェアパーソンは{{Visible anchor|推薦委員会}}によって選ばれ、任期2年で再選を認める<ref>"IAB and IESG Selection, Confirmation, and Recall Process: Operation of the Nominating and Recall Committees", 規約番号{{IETF RFC|3777}}, J. Galvin(Ed.), June 2004. <!-- いったんコメントアウト。翻訳時に原文からURLが除去済みのため。 Retrieved 21 July 2014. --></ref>。1993年に政府管掌を離れるまでは代表は[[:en:Internet Architecture Board|IAB]]が指名していた<ref>{{cite web|url=//www.ietf.org/iesg/past-members.html |title=Past IESG Members and IETF Chairs |publisher=IETF |access-date=21 July 2014 }}(歴代のIESG加盟者および当組織の代表)</ref> 以下の人々が代表を務めている。<!-- {{時点|2021|10}}で赤リンクの英語版へのリンクはコメントアウト。 --> {{div col|colwidth=30em}} * <!-- [[:en:Mike Corrigan(IETF)|Mike Corrigan]] -->マイク・コリガン Mike Corrigan(1986年) * <!-- [[:en:Phill Gross]] -->フィル・グロス Phill Gross(1986年–1994年) * [[:en:Paul Mockapetris|ポール・モッカペトリス]]{{en icon}}(1994年–1996年) * [[:en:Fred Baker(IETF chair)|フレッド・ベーカー]]{{en icon}}(1996年–2001年) * [[:en:Harald Tveit Alvestrand|ハロルド・T・オルヴェストランド]]{{en icon}}(2001年–2005年) * [[:en:Brian Carpenter(Internet engineer)|ブライアン・カーペンター]]{{en icon}}(2005–2007年) * <!-- [[:en:Russ Housley]] -->ラス・ハウスリー Russ Housley(2007年–2013年) * <!-- [[:en:Jari Arkko]] -->ジャリ・アルコ Jari Arkko(2013年–2017年) * <!-- [[:en:Alissa Cooper]] -->アリッサ・クーパー Alissa Cooper<ref>{{cite web|url=//www.ietf.org/blog/2017/03/profile-alissa-cooper/ |title=IETF Profile: Alissa Cooper |publisher=IETF |access-date=30 May 2017 }}</ref>(2017年–2021年) * <!-- [[Lars Eggert]] -->ラース・エッガート(2021年)–現職{{時点|2021|09}} {{div col end}} == 主な出版物 == 機関誌 * Internet Engineering Task Force. ''IETF Request for Comments(RFC) Pages'' - TEST. {{ISSN|2070-1721}}, {{oclc|943595667}}. * Internet Engineering Task Force ; Corporation for National Research Initiatives. ''[https://books.google.co.jp/books?id=qNZFAQAAIAAJ&redir_esc=y Proceedings of the ... Internet Engineering Task Force].'' バージニア州レストン : [[:en:Corporation for National Research Initiatives]], 1986. {{oclc|714735724}}. 発足前の会議録。オンライン版は検索のみ可能。 * Internet Engineering Task Force ; Internet Society. ''IETF journal''. バージニア州レストン : 2005-[2017](ジャーナル)ドイツの大学図書館[http://ezb.uni-regensburg.de/ezeit/?2211082 Universitätsbibliothek Regensburg]蔵書あり。 == 脚註 == === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == 本文の典拠、主な執筆者名順。 * {{cite book|和書|title=[改訂新版]3分間ネットワーク基礎講座|author=網野衛二|publisher=[[技術評論社]]|edition=初版|date=2012-07-03|page=64|isbn=978-4-7741-5172-4|accessdate=2019-02-28|ref={{sfnref|網野|2012}}|}} * {{cite journal|和書|title=USA研究所における研究アクティビティ─移動通信の理想を目指して─|author=舩渡大地|coauthors=Xiaoning He,Guangrui Fu,Moo Ryong Jeong|publisher=[[NTTドコモ]]|year=2004|month=01|journal=NTT Docomoテクニカル・ジャーナル|volume=11|number=4|page=24|url=https://www.nttdocomo.co.jp/binary/pdf/corporate/technology/rd/technical_journal/bn/vol11_4/vol11_4_018jp.pdf|format=pdf|id={{NDLJP|9535115}}|accessdate=2019-02-28|ref={{sfnref|船渡、He、Fu、Moo|2004}}|}} ; 欧文資料 * <!-- ref name=Bradner-January1999 --> {{Cite book|chapter=Internet Engineering Task Force|title=Open Sources: Voices from the Open Source Revolution|url=https://www.oreilly.com/openbook/opensources/book/ietf.html|date=January 1991|accessdate=2014-07-21|language=en-US|first=Scott|last=Bradner|publisher=O'Reilly|edition=1st Edition|sfn={{sfnref| Bradner|1991}}|}} {{ISBN2|1-56592-582-3}}. * {{Cite IETF|title=A Glossary of Networking Terms|rfc=1208|page=7|last=Jacobsen|first=O.|last2=Lynch|first2=D.|date=March 1991|publisher=IETF|doi=10.17487/RFC1208|issn=2070-1721|ref{{sfnref|Jacobsen, Lynch|1991}}|}} == 関連項目 == * [[標準化団体 (コンピュータと通信)|標準化団体]] * [[インターネット標準]] * [[インターネット]] === 団体 === {{div col||30em}} * [[インターネットソサエティ]] * [[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]] * [[IAB]] * [[IESG]] * [[IRTF]] * [[World Wide Web Consortium|W3C]] - [[World Wide Web]]関連はIETFとは別にW3Cが標準化を行う。 {{div col end}} == 関連資料 == 本文の典拠以外の資料。発行順。 * ''Internet governance, including : history of the internet, ICANN, Internet Engineering Task Force, top-level domain, Internet Assigned Numbers Authority, InterNIC, domain name registry, information society, internet engineering steering group, Nominet UK''. 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Internet Assigned Numbers Authority
Internet Assigned Numbers Authority(IANA、アイアナ、インターネット番号割当機関)とは、インターネットに関連する識別子を管理する機能である。IPアドレス・ドメイン名・ポート番号等の割り当て・管理などを行う。 アメリカの南カリフォルニア大学のISI所属のジョン・ポステルが中心となって始めた。当初は運営費用の一部がアメリカ政府により援助されていたが1998年にICANNが発足するなどインターネットの管理体制が変化し、2000年にその役割はICANNに引き継がれ、IANAはICANNにおける機能の名称となった。2016年からはICANNの子会社であるPublic Technical Identifiers (PTI) がその機能を担っている。 XML宣言に記述するエンコーディングの名前は、IANAに登録されたキャラクタセット名が使用される。
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'''Internet Assigned Numbers Authority'''('''IANA'''、アイアナ<ref>{{Cite web|和書|url=https://jprs.jp/glossary/index.php?ID=0027|title=IANA(アイアナ)|accessdate=2022-08-09}}</ref>、'''インターネット番号割当機関'''<ref>{{Cite web|和書||url=https://www.icann.org/en/system/files/files/functions-basics-08apr14-ja.pdf|format=pdf|title=IANAの機能:基本|author=ICANN||page=2|accessdate=2020-09-09}}</ref>)とは、[[インターネット]]に関連する識別子を管理する機能である。[[IPアドレス]]・[[ドメイン名]]・[[ポート番号]]等の割り当て・管理などを行う。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[南カリフォルニア大学]]の[[情報科学研究所|ISI]]所属の[[ジョン・ポステル]]が中心となって始めた。当初は運営費用の一部がアメリカ政府により援助されていたが1998年に[[ICANN]]が発足するなどインターネットの管理体制が変化し、2000年にその役割はICANNに引き継がれ、IANAはICANNにおける機能の名称となった。2016年からはICANNの子会社であるPublic Technical Identifiers (PTI) がその機能を担っている。 [[Extensible Markup Language|XML]]宣言に記述する[[エンコーディング]]の名前は、IANAに登録されたキャラクタセット名が使用される。 == 関連項目 == * [[ジョン・ポステル]] * [[地域インターネットレジストリ]](RIR) * [[日本ネットワークインフォメーションセンター]](JPNIC) * [[tz database|Time Zone Database]] == 脚註 == === 出典 === {{reflist}} == 外部リンク == *{{IETF RFC|2468}} - I REMEMBER IANA(ジョン・ポステルが他界した際、Vint Cerfが公表した追悼文) {{en icon}} *[https://www.iana.org/ IANA] {{en icon}} *[https://pti.icann.org/ PTI] {{en icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:Internet Assigned Numbers Authority}} [[Category:インターネットガバナンス]] [[Category:インターネット技術]] [[Category:ドメイン名]] [[Category:国際NPO]] [[Category:コンピュータに関連する組織]] [[Category:長大な項目名]]
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阿弥陀三尊
阿弥陀三尊(あみださんぞん)は、仏教における仏像安置形式の一つである。 阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式である。根拠は『無量寿経』・『観無量寿経』である。 観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。 脇侍の観音菩薩は、頭上の髻の正面に阿弥陀の化仏(けぶつ)を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶を表すので、両脇侍は比較的区別がつけやすい。 日本では、東京国立博物館が収蔵する「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)」(重要文化財、飛鳥時代)や、橘三千代の念持仏と伝えられる法隆寺の「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」(国宝、飛鳥時代、大宝蔵院収蔵)などが古い作例である。 主に下記の形式がある。 中尊は坐像、脇侍は跪坐とするものは、来迎形式の阿弥陀三尊像である。この場合、左脇侍の観音菩薩は往生者を迎え取るための蓮台を捧げ持ち、右脇侍の勢至菩薩は合掌する例が多い。 中尊は右手を施無畏の印、左手を刀印を結んだ像が一般的である。 また、地蔵菩薩と龍樹菩薩を含めて五尊像とした作例もみられる。 「太字」は、国宝指定名称。 「太字」は、重要文化財指定名称。 一般に三尊像を包み込むように大型の後背を付けたものを一光三尊形式と呼ぶ。鎌倉時代に浄土宗によって、善光寺の阿弥陀三尊像を模したものは一光三尊形式をとり、阿弥陀如来を本尊、両脇侍を観音、勢至とみなすと決められ、以来この形式を「善光寺式阿弥陀三尊」と呼ぶ。 善光寺式阿弥陀三尊の元となった、信州善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」(本堂の瑠璃壇内部に安置)は、「絶対秘仏」である。 『扶桑略記』の中の「善光寺縁起」などによれば、中尊は一尺五寸(約50センチメートル)、両脇侍は一尺(約33.3センチメートル)と法量が記されている。 その秘仏本尊を模して作られたとされる前立本尊「金銅阿弥陀如来及両脇侍立像〈一光三尊仏/(内仏殿安置)〉」(鎌倉時代)は、重要文化財に指定されている。 その前立本尊も、「善光寺前立本尊御開帳」以外は非公開で御宝庫に収蔵されている。朝の勤行や法要などの限られた時間のみ瑠璃壇の前の金色の幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇を部分的に拝観できる。
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阿弥陀三尊(あみださんぞん)は、仏教における仏像安置形式の一つである。 阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍の観音菩薩と、右脇侍の勢至菩薩を配する三尊形式である。根拠は『無量寿経』・『観無量寿経』である。 観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。 脇侍の観音菩薩は、頭上の髻の正面に阿弥陀の化仏(けぶつ)を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶を表すので、両脇侍は比較的区別がつけやすい。 日本では、東京国立博物館が収蔵する「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)」(重要文化財、飛鳥時代)や、橘三千代の念持仏と伝えられる法隆寺の「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」(国宝、飛鳥時代、大宝蔵院収蔵)などが古い作例である。
'''阿弥陀三尊'''(あみださんぞん)は、[[仏教]]における[[仏像]]安置形式の一つである。 [[阿弥陀如来]]を中尊とし、その左右に左[[脇侍]]<ref name="kyoji">左脇侍・右脇侍とは、中尊から見ての「左」「右」を意味する。したがって、拝観者から見た場合、中尊の向かって右が左脇侍、向かって左が右脇侍である。</ref>の[[観音菩薩]]と、右脇侍<ref name="kyoji"/>の[[勢至菩薩]]を配する三尊形式である。根拠は『[[無量寿経]]』・『[[観無量寿経]]』である。 観音菩薩は阿弥陀如来の「'''慈悲'''」をあらわす[[化身]]とされ、勢至菩薩は「'''智慧'''」をあらわす化身とされる。 脇侍の観音菩薩は、頭上の髻の正面に阿弥陀の[[化仏]](けぶつ)を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶を表すので、両脇侍は比較的区別がつけやすい。 日本では、[[東京国立博物館]]が収蔵する「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)」<ref>「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)」・・・[[法隆寺献納宝物]]「四十八体仏」の1つ。</ref>([[重要文化財]]、[[飛鳥時代]])や、[[県犬養三千代|橘三千代]]の念持仏と伝えられる[[法隆寺]]の「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」<ref>「銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)」は、「橘夫人厨子」(国宝指定名は、「木造厨子」)内に安置されている。</ref>([[国宝]]、[[飛鳥時代]]、[[法隆寺#大宝蔵院|大宝蔵院]]収蔵)などが古い作例である。 == 形式 == 主に下記の形式がある。 * 三尊とも立像(りゅうぞう) * 三尊とも坐像 * 中尊坐像・脇侍立像 * 中尊坐像・脇侍跪坐(きざ)<ref>跪坐…ひざまずく</ref> 中尊は坐像、脇侍は跪坐とするものは、来迎形式の阿弥陀三尊像である。この場合、左脇侍の観音菩薩は往生者を迎え取るための蓮台を捧げ持ち、右脇侍の勢至菩薩は合掌する例が多い。 中尊は右手を施無畏の印、左手を刀印を結んだ像が一般的である。 また、[[地蔵菩薩]]と[[龍樹]]菩薩を含めて五尊像とした作例もみられる。 == 日本の国宝に指定されている阿弥陀三尊像 == 「'''太字'''」は、[[国宝]]指定名称。 [[ファイル:小野浄土寺三尊.jpg|thumb|180px|木造阿弥陀如来及両脇侍像<br />浄土寺]] ; [[中尊寺]](岩手県) : 「'''金色堂堂内諸像及天蓋'''」の諸像(31躯)のうち「木造阿弥陀如来及両脇侍像」 : 中央壇三尊・左壇<ref>左壇…中央壇に向って右側の須弥壇。</ref>三尊・右壇<ref>右壇…中央壇に向って左側の須弥壇。</ref>両脇侍の計8躯が国宝に指定<ref>計8躯が国宝に指定…右壇の両脇侍…右壇の阿弥陀像は、金色堂本来の像ではなく他所から移入したものと見なされている。そのため、国宝の31躯のうちには含まれず、附(つけたり)指定の扱いとなっている。詳細は、[[中尊寺金色堂#仏像]]を参照のこと。</ref>される。 : [[平安時代]]、中尊坐像・脇侍立像、[[中尊寺金色堂]]安置。 ; [[清凉寺]](京都府) : 「'''木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(棲霞寺旧本尊)'''」 : 平安時代、三とも尊坐像、霊宝館安置。 ; [[仁和寺]](京都府) : 「'''木造阿弥陀如来及両脇侍像(金堂安置)'''」 : 平安時代、中尊坐像・脇侍立像。 ; [[三千院]](京都府) : 「'''木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(往生極楽院阿弥陀堂安置)'''」 : 平安時代、中尊坐像・脇侍跪坐。 ; [[法隆寺]](奈良県) : 「'''銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)'''」 : 飛鳥時代、中尊坐像・脇侍立像、[[法隆寺#大宝蔵院|大宝蔵院]]収蔵。 ; [[浄土寺 (小野市)|浄土寺]](兵庫県) : 「[[浄土寺 (小野市)#阿弥陀三尊像|'''木造阿弥陀如来及両脇侍立像(浄土堂安置)''']]」 : [[鎌倉時代]]、[[快慶]]作、三尊とも立像。 == 日本の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊像 == 「'''太字'''」は、[[重要文化財]]指定名称。 ; [[心光院 (京都市)|心光院]](京都府) : 「'''木造阿弥陀如来及両脇侍像'''」 : 中尊坐像(寄木造漆箔)は平安時代後期、脇侍跪坐像(木造漆箔玉眼)は[[室町時代]]の作。 == 善光寺の阿弥陀三尊像 == 一般に三尊像を包み込むように大型の後背を付けたものを一光三尊形式と呼ぶ。[[鎌倉時代]]に[[浄土宗]]によって、[[善光寺]]の阿弥陀三尊像を模したものは一光三尊形式をとり、阿弥陀如来を本尊、両脇侍を観音、勢至とみなすと決められ、以来この形式を「[[善光寺式阿弥陀三尊]]」と呼ぶ<ref>久野健 編『彫刻』<日本史小百科>、近藤出版社、1985年 pp.222-223.</ref>。 善光寺式阿弥陀三尊の元となった、[[善光寺|信州善光寺]]の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」(本堂の瑠璃壇内部に安置)は、「絶対秘仏」である。 『[[扶桑略記]]』の中の「[[善光寺縁起]]」などによれば、中尊は一尺五寸(約50センチメートル)、両脇侍は一尺(約33.3センチメートル)と[[法量]]が記されている。 その秘仏本尊を模して作られたとされる前立本尊「金銅阿弥陀如来及両脇侍立像〈一光三尊仏/(内仏殿安置)〉」(鎌倉時代)は、重要文化財に指定されている。 その前立本尊も、「[[善光寺#開帳|善光寺前立本尊御開帳]]」以外は非公開で御宝庫に収蔵されている。朝の勤行や法要などの限られた時間のみ瑠璃壇の前の金色の幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇を部分的に拝観できる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[釈迦三尊]] * [[薬師三尊]]  * [[仏像]] * [[秘仏]] * [[仏の一覧]] * [[十三仏]] * [[往生]] == 外部リンク == * [https://mk123456.web.fc2.com/sonon.htm 三尊形・その他の如来] {{浄土教2}} {{Buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:あみたさんそん}} [[Category:阿弥陀像|*あみたさんそん]] [[Category:三神]] [[Category:仏教の名数3]] [[category:浄土教]] [[Category:観音菩薩]]
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転写 (生物学)
転写(、英: Transcription)とは、一般に染色体またはオルガネラのDNAの塩基配列(遺伝子)を元に、RNA(転写産物transcription product )が合成されることをいう。遺伝子が機能するための過程(遺伝子発現)の一つであり、セントラルドグマの最初の段階にあたる。 転写は膨大な種類のタンパク質とRNAを必要な時期に必要な量を正確に合成するための重要な代謝過程である。この重要で難解な作業を成功させるために、生物は遺伝子を活用する。遺伝子は安定なDNAの塩基配列で記録され、生物はそれと同じ配列のRNAを合成することができる。これが転写であり、例えばtRNAなどが転写される。また遺伝子(とそれを写し取ったRNA)の中には特定のタンパク質に対応するものもある。遺伝情報に基づいてタンパク質を作ることを、その遺伝子を発現 expression するというが、その前段階として特に転写は重要である。 タンパク質を合成するために必要なRNAは伝令RNA(メッセンジャーRNA messenger RNA:mRNA) であるが、その合成過程は種によって大いに異なる。原核生物ではmRNAを転写することができるのに対し、真核生物は転写で作ったRNA(一次転写産物 primary transcript )にPre-mRNA スプライシングなどのさらなる段階を経なければmRNAを得ることができない。真核生物におけるmRNAを特に成熟mRNA、成熟する前のRNAをmRNA前駆体と呼ぶ。また、転写から直接合成するRNAを転写産物 transcription product と呼ぶ。 一般に転写には開始、伸長、終結の過程があり、また開始にいたるまでに様々な転写調節因子が転写の活性化や抑制に関わっている。近年はクロマチン構造を通しての転写制御機構が注目されている。基本的な機構はあらゆる生物で共通しているが、各ドメイン(生物を分類する最上位階級)ごとの違いはやや大きい。細菌は細胞質中で転写を行い、転写機構も単純である。一方、真核生物は、転写を細胞核内でのみ行い、多数の酵素が関る複雑な機構を使っている。最後の古細菌は、細胞質中で転写を行う点は細菌と同じだが、転写機構そのものは真核生物に類似している。 転写産物はRNA合成酵素RNAポリメラーゼ RNA polymerase (DNA依存性RNAポリメラーゼ DNA-dependent RNA polymerase )により合成される。この酵素はssDNAと結合すると、それと相補的なRNA鎖を合成する。したがって、RNAポリメラーゼが結合する方を鋳型鎖template strand または転写鎖;(-)鎖、もう片方は非鋳型鎖 nontemplate strand あるいは非転写鎖;(+)鎖である。また、転写産物が(-)鎖と相補的であるからその塩基配列は(+)鎖に等しい。よって、(+)鎖こそが遺伝情報を保持しているといえ、コード鎖 coding strand またはセンス鎖 sense strand (センス=意味)ともいう。それにちなんで(-)鎖をアンチコード鎖やアンチセンス鎖 antisense strand という。ただし、転写産物と(+)鎖は完全に同じ存在というわけではなく、(+)鎖におけるチミンは転写産物でウラシルに置き換わっているし、DNAとRNAという違いも忘れてはならない。 DNA上のどこからどこまでを転写の範囲とするかは(-)鎖の塩基配列により決まっており、この範囲を転写単位 transcription unit としてオペロン operon という。細菌のDNAには数百のオペロンがあり、真核細胞では数千のオペロンを持つ。 転写における開始段階 initiation ではまずRNAポリメラーゼをはじめ転写に関わる酵素がDNA上の転写開始部位に結合する。この部位はオペロンの5'側末端であり、プロモーター promoter という。結合した各酵素は複合体(ホロ酵素)を成すが、この構造は順序だって変遷するため開始段階はさらに3つに分けられる。初めは組み込んだDNAが二重らせんのままである閉鎖型複合体 closed complex:PRc であるが、転写はssDNAでないと実行できない。第2段階として、プロモーターをほどいた開放型複合体 open complex:PR0 と、ssDNA領域の転写バブル ribonucleoside triphosphate (先端を解離点 unwinding point 、後端を巻き直し点 rewinding point という)を形成する。転写産物の始まりとなる約10nt(ヌクレオチド)の合成も最後の段階として行う。RNAポリメラーゼが初活躍するこの時期は初期転写複合体 initial transcribing complex と呼び、伸長段階に向けてプロモーターから脱出する。 伸長 Elongationの段階で本格的に転写産物の合成が行われる。RNAポリメラーゼは結合しているDNAの塩基を正確に識別し、4つのリボヌクレオシド三リン酸 ribonucleoside triphosphate (ATP、GTP、CTP、UTP)の中からそれと相補的なものを選ぶ。そして、直前の開始段階で合成された短いRNA鎖の5'末端に付加する。これが済むとRNAポリメラーゼと転写バブルは次の塩基へと移動し、再びRNA鎖にリボヌクレオシド三リン酸を付加する。この反応には進む方向が決まっており、RNAの5'末端から3'末端へ、逆平行の(-)鎖にとっては3'末端から5'末端へ向かう。通り過ぎたDNAは再会合する。これを繰り返してRNAは伸長し、転写産物が作られていく。 終結 termination は、RNAポリメラーゼが遺伝子末端にあるターミネーター terminator まで来ると起こる。ターミネーターはRNAポリメラーゼと協力しながら転写産物とDNAとの結合を切り、RNAポリメラーゼからもDNAからも解離させる。 細菌における転写機構は大腸菌において特に良く調べられている。基本的な機構は他の生物でも同じであるが、細部には違いが見られる。特に真核生物では機構がかなり複雑である。開始段階における特に大きな違いは、細菌のRNAポリメラーゼは単独で転写を始めることができるが、真核生物はプロモーターに結合するのにも様々なタンパク質を要する。 細菌の転写開始は次の4つの段階を経る。1RNAポリメラーゼがプロモーターを認識し、閉鎖型複合体を形成する。この複合体のDNAとの結合は可逆的であり、平衡定数(KB)は10〜10 Mである。2閉鎖型プロモーター複合体を開放型複合体に変換する。不可逆的であり、反応速度定数(k2)は10〜10である。3さらに初期転写複合体 initial transcribing complex となり、プロモーターに留まっている間に10nt(ヌクレオチド)を合成。4転写産物の先駆けが十分に長くなると、伸長段階に移行するためホロ酵素の立体構造が変化する。この過程をプロモータークリアランス promoter clearance と呼ぶ。4から伸長開始までをプロモータークリアランス時間 promoter clearance time といい、短くても1〜2秒はかかる。 1から2への変化は異性化 isomerization または強い結合 tight binding と呼び、融解は-11から3の短い領域で起きる。σと複合体を形成したRNAポリメラーゼの場合、以降にも調節機構があるとはいえ、実質的に不可逆なため済めばほぼ確実に転写が始まる。異性化にはホロ酵素の著しい変化が2つある。第一にホロ酵素のβとβ'サブユニットは下流DNAをしっかり固定する。第二はσの領域1.1が50Å移動して酵素の外側に出ることである。DNAと結合してないとき、領域1.1はホロ酵素の活性中心溝にあり、開放型複合体にある鋳型鎖の通り道を塞ぐ。DNAと同様に負に荷電しているため、DNAと結合するため強い正荷電の活性中心溝で擬態した分子 molecular mimic として振る舞うためである。移動による開放でDNAは入れるようになる。 3のRNA合成は伸長段階でのそれと比べ、次に紹介する2つの理由により複雑な過程を経る。ほとんどの転写はAから始まるが、合成された直後にこれを支えるのはDNAとの2本の弱い水素結合だけである。このためホロ酵素は1番目と2番目のリボヌクレオチドを、次に来るNTPが化学攻撃できる状態で固定しなければならない。常に同じリボヌクレオチドから始まるのはホロ酵素が特異的に結合するためであろう。 第二の理由は転写開始の失敗 abortive initiation である。開始段階で10nt以上のRNAが合成されるが、しばしばホロ酵素はこれに満たないRNAを放出して、最初から合成をやり直す。放棄された転写産物をアボーティブ転写産物 abortive transcripts といい、この実りのない(意義はよくわかっていない)過程を繰り返さなければ次の伸長段階へと移れない。この間にホロ酵素がどのようにDNA上を移動しているかははっきりしておらず、3つのモデルが提唱されている。 現在ではしわ寄せモデルが真実に近いと予想されている。根拠の一つは、転写初期のRNAポリメラーゼはDNA上を静止し、下流DNAをほどいて内部へ引き込むという単分子解析の結果である。 10nt以上のRNA合成に成功すると、RNAポリメラーゼはプロモーターを脱出 escape して伸長段階へ突入する(4)。合成されたRNAはホロ酵素内部で塩基対を形成しているが、これが収まりきらなくなってRNA出口通路へ抜く。また、ホロ酵素とプロモーター間の結合は全て断つ。ホロ酵素の構成要素の一つであるσサブユニットも本体との結合が弱くなる。脱出に当たり、しわ寄せモデルでほどかれたDNAが巻き戻り、同時に転写バブルが22〜24ntから12〜14ntに縮む。この過程がRNAポリメラーゼ-プロモーターとコア酵素-シグマサブユニット間の結合の切断に要する自由エネルギーを供給する。 伸長段階でDNAは開放型複合体の時と同様にホロ酵素内を通る。巨大なβとβ’サブユニットの間に下流域が入り込み、入り口で分離して別々の道を往く。それぞれ専用の通路に出た後、ホロ酵素の背で二重らせんを再構成する。基質のリボヌクレオシド三リン酸も専用の入り口から入る。鋳型鎖と塩基対形成しているのは伸長中の3’末端の8か9ntだけで、ほかの剥がれた部分はRNA出口通路から外へ出る。 転写バブルの大きさは伸長段階を通して一定で、ホロ酵素は1bp(塩基対)ほどくと同時に後方で1bp再会合させる。DNAのような二重らせんの高分子を酵素がほどくとき、捻じれてしまうことが大きな問題となる。これを解消しつつ転写バブルを移動させる方法については2通り考えられている。一つは、鋳型鎖の下流が二重らせんを緩めるよう回転し、転写された後に巻き戻るというもの。しかし、回転によってDNAの立体構造に大きなひずみを生むことは避けられない。このひずみは、DNAスーパーコイル(DNA supercoil)あるいはDNA超らせん(DNA superhelix)と呼ばれる。DNA複製にも同じ問題(DNA複製#DNAのよじれの解消を参照)は生じる。これらのひずみを解消するのが、トポイソメラーゼ(topoisomerase)と呼ばれる酵素群である。ほかに、RNAポリメラーゼがdsDNAの捩じれに沿って回転することで巻き戻すという説もある。これならばよじれの問題は起きないが、回転には大きなエネルギーが必要と考えられる。また、転写産物はDNAに巻きついてDNAの再会合を阻むことになるが、これをほどく酵素はいまだ発見されていない。 RNAポリメラーゼは転写中たびたび1〜6秒一時停止する。時には後戻りすることもあり、転写の平均的な速度は遅い。理由は少なくとも2つある。1つ目はもっと遅い翻訳に合わせるためであり、アテニュエーションや翻訳が失敗して転写を中断しなければならない場合に必要である。2つ目は、一時停止が次の項で解説する#細菌の終結における第一段階であるためである。 RNAポリメラーゼは転写産物の塩基配列に誤りがないかの校正を2種類の方法で行う。1つ目は、間違って付加したリボヌクレオシド三リン酸を活性部位の逆反応で除去する加ピロリン酸分解校正 pyrophosphorolytic editing である。リボヌクレオシド三リン酸との反応は3'末端から二リン酸を奪うので、付け直しも行う。正しい塩基対より活性部位に長く留まるため、間違った塩基対がより逆反応を受ける。2つ目は加水分解校正 hydrolytic editing で、1個あるいはそれ以上のヌクレオチドの距離を引き返し、間違いを含む塩基配列を切り離す。 加水分解校正とともに伸長自体を促進するGre因子がある。この因子は伸長反応を効率よくし、転写の難しい所で停滞させないようにする。伸長段階でホロ酵素に加わり、伸長と終結を助けるNusタンパクというタンパク質群も発見されている。 RNAポリメラーゼが途中で転写をやめる場合がある。原因の多くはDNAの損傷であるが、これに出会うとそこから先の転写を続行できないうえに、停止すればほかのポリメラーゼも妨害してしまう。これに対処するため、TRCF transcription-repair coupling factor は停止したRNAポリメラーゼを発見するとヌクレオチド除去修復タンパク(エンドヌクレアーゼUvrA、B、C)を招集し、RNAポリメラーゼをDNAから離す。RNAポリメラーゼは修復タンパクを損傷に近づけるようにすることもある。これを転写と共役した修復 transcription-coupled repair という。 RNAポリメラーゼが遺伝子配列の転写を終えても反応は終わらない。転写を確実に終わらせるために、遺伝子配列の下流に存在する逆方向反復配列 inverted repeats は転写された時、RNAポリメラーゼに干渉する。この遺伝子配列を写し取ったRNA領域は補塩基同士を結合させてステムループ構造 stem-loop (ヘアピン構造 hairpin loop )を作るが、これが転写終結のカギである。大腸菌の終結の方法は次の2つ。 mRNAは3'側にも遺伝子配列そのものよりも長い配列を持っており、この配列をトレイラーセグメントと呼ぶ。転写の終結したmRNAは、輸送や修飾などは特に行なわれず、すぐに翻訳過程に向かう。 スプライシング反応をはじめとした様々な修飾を施す真核生物とは大いに異なる。 この場合のターミネーターはタンパク質の補助なしで独自でRNAポリメラーゼに作用し、転写産物を解放させる。内因性ターミネーター intrinsic terminator というこの塩基配列は、20ntほどの逆位反復領域とそのすぐ下流にある8ntほどのA(アデニン)高含有領域で構成される。逆位反復領域と相補的なRNAはヘアピン構造を形成する特徴があり、転写終結の原動力となる。 ρ非依存性終結の典型例として、ペギー・ファーナム Peggy Farnham とテリー・プラット Terry Platt は大腸菌のトリプトファンオペロンを研究した。内因性ターミネーターの2つの要素を兼ね備えるtrp アテニュエーター trp attenuator があるからである。これの逆位反復配列を転写したRNAが形成するヘアピン構造を下図に示す。完全な逆反復ではないが、8bpの塩基対形成が可能であり、そのうち7bpは強いG-C塩基対である。また、ファーナムとプラットは、T高含有配列が転写されるにつれRNAのUとDNAのAとの間に塩基対(rU-dA)が形成すると考えた。この塩基対の融解温度はrU-dAもしくはrU-rAよりも20°C低い。2つの要素についての考察から得られる結論は、T高含有配列でRNAポリメラーゼは一時的に停止し、次にヘアピン構造が形成されることにより弱い結合が切られるというものである。ヘアピン構造はRNAポリメラーゼを押して転写産物から離すか、何らかの立体構造変化を引き起こすものと考えられている。W. S. ヤーネル W. S. Yarnell とジェフリー・ロバーツ Jeffrey Roberts は転写終結において2つの要素は必ずしも必要ではないことを明らかにした。必要なのは、転写産物と極端に弱い塩基対形成する配列と、一時的に転写を停止させる何かである。 ρ因子は全て同じサブユニットから構成された六量体である。全体は、転写産物とDNAとの二重らせんを通す環構造となっているが、この輪は一部が切れている。そのうえ、切れ目を隔てた2つのサブユニットは12Åほど輪の軸方向に離れていて、すなわち小さならせん(ピッチは45Å)となっている。。サブユニットは全てRNAと結合する部位を持ち、次から次へとRNAに結合するサブユニットをジグザグに変えると考えられている。 ρ因子はDNAの転写終結部位の上流にあるρ因子結合部位 rho loading site で転写産物に結合する。この配列はシトシンを多く含む60〜100ntで、比較的ランダムな二次構造を形成している。ρ因子が実際に結合するには先の条件を満たす40ntの配列が最もいい。このρ因子結合部位を転写することで、実際に迎え入れるrut部位 Rho utilization sites:rut sites という配列がRNAに現れる。ただし、リボソームと結合し、セントラルドグマにおける次の段階の翻訳を受けているものとは結合できない。細菌では転写と翻訳は密に連携し、伸長がまだ終わっていなくてもポリメラーゼから出てきた転写産物はすぐに翻訳を始められる。したがって、ρが集結するのは、遺伝子やオペロンの末端を過ぎても転写が続いている転写産物だけである。 6つのサブユニットは全てATPアーゼである。この活性により、必要以上に長くなってしまった転写産物に結合したときエネルギーが供給され、回転しながら5’から3’へと進む。ターミネーターのヘアピン構造形成で停止したRNAポリメラーゼに追いつくと、転写産物を放出させる。具体的な終結の過程はまだ断定されていない。1987年にテリー・プラットはρ因子がRNA-DNAヘリカーゼ活性を持つことを発見したので、一説では、RNAポリメラーゼと接触したときに二重らせんをほどいて放出させるとする。ほかには、RNAポリメラーゼを後ろから押して転写産物から離すとする説や、RNAポリメラーゼの立体構造を変化させるとする説がある。 真核生物の場合、細菌プロモーターの-10領域に相当する、5'-TATAAA-3'の共通配列を持つ領域(TATAボックス、あるいは、ゴールドバーグ・ホグネスボックス (Goldberg-Hogness box) と呼ばれる)が-25あるいはさらに上流に存在する。転写開始位置はこのTATAボックスが主となって決定している。 この他、-100〜-60の範囲に存在する5'-CCAAT-3'の共通配列を持つ領域(CAATボックスと呼ばれる)や、-60〜-40の範囲に存在する5'-GGCGGG-3'の共通配列を持つ領域(GCボックスと呼ばれる)がよく知られているが、これらは転写の促進に働いていると考えられている。 真核生物の場合、RNAポリメラーゼには3つの種類があり、それぞれPol I,Pol II,Pol IIIと呼ばれている。それぞれ、転写開始に必要となる因子、プロモーター領域の配列、転写の様式が異なっている。大部分の遺伝子は転写をPol IIに依存しているが、rRNAはPol Iに、tRNAはPol IIIに依存している。 RNAポリメラーゼIによる転写においては、プロモーターは、-200〜-65の範囲に存在する上流制御要素(UCE; upstream controling element)と呼ばれる領域と、-45〜+20の範囲に存在するTATAボックスを含むコアプロモーター(CPE; core promoter element)と呼ばれる領域の二つの部分からなる。 転写に関与する因子としては、 の二つが知られている。UBFはUCEに結合し、SL1のTATAボックスへの結合を促進すると言われている。SL1はCPEへの弱い結合能を示すが、転写の開始において必須である。SL1はまた、Pol Iとも会合する。 SL1は更に、 といったの因子の複合体となっている。 また、転写伸長に関わる因子として、 も知られている。 RNAポリメラーゼIIによる転写に必要な酵素以外の基本転写因子蛋白質をTFII (Transcription Factor for Pol II) シリーズと呼び、現在、 の七種類が知られている。 また、転写開始後、RNA伸長を促進する因子として、 も存在する。 転写開始への流れとしては、 となっている。 TATAボックスは、コアプロモーターエレメント(CPE; core promoter element、コアプロモーター要素、時にcore promoter motifとも呼ばれる)の1つである。 コアプロモーター (core promoter) とは、正確な転写開始を導く働きをもつプロモーター領域のことであり、一般に転写開始点を含む±35塩基ほどの長さの領域を含むが、多くの例から、約40塩基の領域から構成されていると考えられている。コアプロモーターの中には幾つかのシーケンスモチーフが存在し、これをコアプロモーターエレメントと呼ぶ。 コアプロモーターエレメントは、すべてのコアプロモーターに普遍的に存在するものではない。むしろ、個々のコアプロモーターの特異性を与えるものである。教科書等を見ると、TATAボックスが全ての遺伝子のコアプロモーターに存在しているような印象を受けるが、実際は違い、例えば酵母に関する最近の研究においては、TATA-containing core promoter(TATAボックスを含むコアプロモーター)は、わずか約19%であったと報告している。 -2〜+4の範囲に存在するイニシエーターエレメント(Inr; initiator, PyPyAN/APyPy, Aが転写開始位置になる)もコアプロモーターエレメントである。Inrの認識はTFIIDによっておこなわれる。このほかに、DPE (downstream core promoter element)、MTE (motif ten element) が発見されている。 RNAポリメラーゼIIIによる転写に必要な酵素以外の基本転写因子蛋白質をTFIII (Transcription Factor for Pol III) シリーズと呼び、現在、 の三つが知られている。その他にも、 などの因子も存在する。 RNAポリメラーゼIIIによって転写される遺伝子の場合、転写開始の機作が、そのプロモーター領域の構造により の三つの様式に分かれる。 古細菌における転写は基本的には真核生物のものを簡単にしたものと考えてよい。転写開始位置付近には真核生物とほぼ同じ位置にBRE、TATAボックス、イニシエーターエレメントなどが配置されている。TATAボックスにRNAポリメラーゼ、TFIIB、TFIID、TFIIEより成る複合体が形成され(TFIIA、TFIIF、TFIIHは見つかっていない)、これらを足掛かりにRNAポリメラーゼが転写を開始する。TFIISも存在する。詳細は#Pol II系遺伝子参照。 転写因子は転写そのものに関わる基本転写因子と、転写の調節を行う転写調節因子(--制御因子)がある。前者はRNAポリメラーゼ複合体やTATA結合タンパク質などが含まれる。転写開始後の伸長反応に機能する転写伸長因子を含むこともある。後者は転写制御配列のDNAに結合し、基本転写因子の活性を制御する特異的転写因子が含まれる。直接 DNA には結合せずクロマチンの構造変換を行うヒストン修飾酵素やクロマチン再構成因子を含むこともある。 転写開始を制御する。リプレッサー、アクチベーターがある。 転写伸長に必要とされる。ヌクレオソームは転写の伸長を妨げるため、転写伸長因子が転写装置とともに移動する。 真核生物のDNAはヒストンという蛋白に巻きついている (ヌクレオソーム)。一般的にはヒストンがアセチル化されることでクロマチン構造がゆるみ、結果として発現が活性化される。また、ショウジョウバエなどのGAGA因子と呼ばれるタンパク質はDNAに結合し、その周辺のクロマチン構造を変化させる。NAP-1がヒストンをDNAに貼り付け、ACFがそれを移動させて一定間隔にする。 細菌ではHUタンパクがDNAと結合し核様体を形成するがクロマチン構造はとらない。 一方多くの古細菌はヒストンを持ち、DNAが巻きついてクロマチン様構造をとっている。 また、DNAのメチル化なども重要なキーワードの一つである。メチル化DNAはゲノムインプリンティングなどに関与するとされる。メチル化DNAを特異的に認識するタンパク質(メチル化DNA結合タンパク質, MBD)は、クロマチン構造を変換する酵素複合体を誘導することが考えられている。 一般にDNAのメチル化は転写の抑制となり、特定の遺伝子が特定の組織で発現するメカニズムの原因であると考えられている。また、DNAのメチル化はヒストンのアセチル化やメチル化と結びついており、細胞分裂の際にコピーされた染色体にヒストンのアセチル化やメチル化が引き継がれる。 RNAウイルスは、DNAから行われる通常の転写とは異なりRNAに遺伝情報を記録し、RNAからmRNA合成を行うが、これも転写の範疇に含まれる。ただし、核酸から核酸への合成はほかにDNA複製の過程でも行われるが、これは生成物がDNAであり、遺伝子の発現に直接関わってもいないため転写と異なる。mRNAからDNAへの合成は逆転写と呼ぶ。
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"概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "転写における開始段階 initiation ではまずRNAポリメラーゼをはじめ転写に関わる酵素がDNA上の転写開始部位に結合する。この部位はオペロンの5'側末端であり、プロモーター promoter という。結合した各酵素は複合体(ホロ酵素)を成すが、この構造は順序だって変遷するため開始段階はさらに3つに分けられる。初めは組み込んだDNAが二重らせんのままである閉鎖型複合体 closed complex:PRc であるが、転写はssDNAでないと実行できない。第2段階として、プロモーターをほどいた開放型複合体 open complex:PR0 と、ssDNA領域の転写バブル ribonucleoside triphosphate (先端を解離点 unwinding point 、後端を巻き直し点 rewinding point という)を形成する。転写産物の始まりとなる約10nt(ヌクレオチド)の合成も最後の段階として行う。RNAポリメラーゼが初活躍するこの時期は初期転写複合体 initial transcribing complex と呼び、伸長段階に向けてプロモーターから脱出する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "伸長 Elongationの段階で本格的に転写産物の合成が行われる。RNAポリメラーゼは結合しているDNAの塩基を正確に識別し、4つのリボヌクレオシド三リン酸 ribonucleoside triphosphate (ATP、GTP、CTP、UTP)の中からそれと相補的なものを選ぶ。そして、直前の開始段階で合成された短いRNA鎖の5'末端に付加する。これが済むとRNAポリメラーゼと転写バブルは次の塩基へと移動し、再びRNA鎖にリボヌクレオシド三リン酸を付加する。この反応には進む方向が決まっており、RNAの5'末端から3'末端へ、逆平行の(-)鎖にとっては3'末端から5'末端へ向かう。通り過ぎたDNAは再会合する。これを繰り返してRNAは伸長し、転写産物が作られていく。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "終結 termination は、RNAポリメラーゼが遺伝子末端にあるターミネーター terminator まで来ると起こる。ターミネーターはRNAポリメラーゼと協力しながら転写産物とDNAとの結合を切り、RNAポリメラーゼからもDNAからも解離させる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "細菌における転写機構は大腸菌において特に良く調べられている。基本的な機構は他の生物でも同じであるが、細部には違いが見られる。特に真核生物では機構がかなり複雑である。開始段階における特に大きな違いは、細菌のRNAポリメラーゼは単独で転写を始めることができるが、真核生物はプロモーターに結合するのにも様々なタンパク質を要する。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "細菌の転写開始は次の4つの段階を経る。1RNAポリメラーゼがプロモーターを認識し、閉鎖型複合体を形成する。この複合体のDNAとの結合は可逆的であり、平衡定数(KB)は10〜10 Mである。2閉鎖型プロモーター複合体を開放型複合体に変換する。不可逆的であり、反応速度定数(k2)は10〜10である。3さらに初期転写複合体 initial transcribing complex となり、プロモーターに留まっている間に10nt(ヌクレオチド)を合成。4転写産物の先駆けが十分に長くなると、伸長段階に移行するためホロ酵素の立体構造が変化する。この過程をプロモータークリアランス promoter clearance と呼ぶ。4から伸長開始までをプロモータークリアランス時間 promoter clearance time といい、短くても1〜2秒はかかる。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1から2への変化は異性化 isomerization または強い結合 tight binding と呼び、融解は-11から3の短い領域で起きる。σと複合体を形成したRNAポリメラーゼの場合、以降にも調節機構があるとはいえ、実質的に不可逆なため済めばほぼ確実に転写が始まる。異性化にはホロ酵素の著しい変化が2つある。第一にホロ酵素のβとβ'サブユニットは下流DNAをしっかり固定する。第二はσの領域1.1が50Å移動して酵素の外側に出ることである。DNAと結合してないとき、領域1.1はホロ酵素の活性中心溝にあり、開放型複合体にある鋳型鎖の通り道を塞ぐ。DNAと同様に負に荷電しているため、DNAと結合するため強い正荷電の活性中心溝で擬態した分子 molecular mimic として振る舞うためである。移動による開放でDNAは入れるようになる。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "3のRNA合成は伸長段階でのそれと比べ、次に紹介する2つの理由により複雑な過程を経る。ほとんどの転写はAから始まるが、合成された直後にこれを支えるのはDNAとの2本の弱い水素結合だけである。このためホロ酵素は1番目と2番目のリボヌクレオチドを、次に来るNTPが化学攻撃できる状態で固定しなければならない。常に同じリボヌクレオチドから始まるのはホロ酵素が特異的に結合するためであろう。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第二の理由は転写開始の失敗 abortive initiation である。開始段階で10nt以上のRNAが合成されるが、しばしばホロ酵素はこれに満たないRNAを放出して、最初から合成をやり直す。放棄された転写産物をアボーティブ転写産物 abortive transcripts といい、この実りのない(意義はよくわかっていない)過程を繰り返さなければ次の伸長段階へと移れない。この間にホロ酵素がどのようにDNA上を移動しているかははっきりしておらず、3つのモデルが提唱されている。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "現在ではしわ寄せモデルが真実に近いと予想されている。根拠の一つは、転写初期のRNAポリメラーゼはDNA上を静止し、下流DNAをほどいて内部へ引き込むという単分子解析の結果である。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "10nt以上のRNA合成に成功すると、RNAポリメラーゼはプロモーターを脱出 escape して伸長段階へ突入する(4)。合成されたRNAはホロ酵素内部で塩基対を形成しているが、これが収まりきらなくなってRNA出口通路へ抜く。また、ホロ酵素とプロモーター間の結合は全て断つ。ホロ酵素の構成要素の一つであるσサブユニットも本体との結合が弱くなる。脱出に当たり、しわ寄せモデルでほどかれたDNAが巻き戻り、同時に転写バブルが22〜24ntから12〜14ntに縮む。この過程がRNAポリメラーゼ-プロモーターとコア酵素-シグマサブユニット間の結合の切断に要する自由エネルギーを供給する。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "伸長段階でDNAは開放型複合体の時と同様にホロ酵素内を通る。巨大なβとβ’サブユニットの間に下流域が入り込み、入り口で分離して別々の道を往く。それぞれ専用の通路に出た後、ホロ酵素の背で二重らせんを再構成する。基質のリボヌクレオシド三リン酸も専用の入り口から入る。鋳型鎖と塩基対形成しているのは伸長中の3’末端の8か9ntだけで、ほかの剥がれた部分はRNA出口通路から外へ出る。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "転写バブルの大きさは伸長段階を通して一定で、ホロ酵素は1bp(塩基対)ほどくと同時に後方で1bp再会合させる。DNAのような二重らせんの高分子を酵素がほどくとき、捻じれてしまうことが大きな問題となる。これを解消しつつ転写バブルを移動させる方法については2通り考えられている。一つは、鋳型鎖の下流が二重らせんを緩めるよう回転し、転写された後に巻き戻るというもの。しかし、回転によってDNAの立体構造に大きなひずみを生むことは避けられない。このひずみは、DNAスーパーコイル(DNA supercoil)あるいはDNA超らせん(DNA superhelix)と呼ばれる。DNA複製にも同じ問題(DNA複製#DNAのよじれの解消を参照)は生じる。これらのひずみを解消するのが、トポイソメラーゼ(topoisomerase)と呼ばれる酵素群である。ほかに、RNAポリメラーゼがdsDNAの捩じれに沿って回転することで巻き戻すという説もある。これならばよじれの問題は起きないが、回転には大きなエネルギーが必要と考えられる。また、転写産物はDNAに巻きついてDNAの再会合を阻むことになるが、これをほどく酵素はいまだ発見されていない。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼは転写中たびたび1〜6秒一時停止する。時には後戻りすることもあり、転写の平均的な速度は遅い。理由は少なくとも2つある。1つ目はもっと遅い翻訳に合わせるためであり、アテニュエーションや翻訳が失敗して転写を中断しなければならない場合に必要である。2つ目は、一時停止が次の項で解説する#細菌の終結における第一段階であるためである。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼは転写産物の塩基配列に誤りがないかの校正を2種類の方法で行う。1つ目は、間違って付加したリボヌクレオシド三リン酸を活性部位の逆反応で除去する加ピロリン酸分解校正 pyrophosphorolytic editing である。リボヌクレオシド三リン酸との反応は3'末端から二リン酸を奪うので、付け直しも行う。正しい塩基対より活性部位に長く留まるため、間違った塩基対がより逆反応を受ける。2つ目は加水分解校正 hydrolytic editing で、1個あるいはそれ以上のヌクレオチドの距離を引き返し、間違いを含む塩基配列を切り離す。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "加水分解校正とともに伸長自体を促進するGre因子がある。この因子は伸長反応を効率よくし、転写の難しい所で停滞させないようにする。伸長段階でホロ酵素に加わり、伸長と終結を助けるNusタンパクというタンパク質群も発見されている。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼが途中で転写をやめる場合がある。原因の多くはDNAの損傷であるが、これに出会うとそこから先の転写を続行できないうえに、停止すればほかのポリメラーゼも妨害してしまう。これに対処するため、TRCF transcription-repair coupling factor は停止したRNAポリメラーゼを発見するとヌクレオチド除去修復タンパク(エンドヌクレアーゼUvrA、B、C)を招集し、RNAポリメラーゼをDNAから離す。RNAポリメラーゼは修復タンパクを損傷に近づけるようにすることもある。これを転写と共役した修復 transcription-coupled repair という。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼが遺伝子配列の転写を終えても反応は終わらない。転写を確実に終わらせるために、遺伝子配列の下流に存在する逆方向反復配列 inverted repeats は転写された時、RNAポリメラーゼに干渉する。この遺伝子配列を写し取ったRNA領域は補塩基同士を結合させてステムループ構造 stem-loop (ヘアピン構造 hairpin loop )を作るが、これが転写終結のカギである。大腸菌の終結の方法は次の2つ。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "mRNAは3'側にも遺伝子配列そのものよりも長い配列を持っており、この配列をトレイラーセグメントと呼ぶ。転写の終結したmRNAは、輸送や修飾などは特に行なわれず、すぐに翻訳過程に向かう。 スプライシング反応をはじめとした様々な修飾を施す真核生物とは大いに異なる。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この場合のターミネーターはタンパク質の補助なしで独自でRNAポリメラーゼに作用し、転写産物を解放させる。内因性ターミネーター intrinsic terminator というこの塩基配列は、20ntほどの逆位反復領域とそのすぐ下流にある8ntほどのA(アデニン)高含有領域で構成される。逆位反復領域と相補的なRNAはヘアピン構造を形成する特徴があり、転写終結の原動力となる。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ρ非依存性終結の典型例として、ペギー・ファーナム Peggy Farnham とテリー・プラット Terry Platt は大腸菌のトリプトファンオペロンを研究した。内因性ターミネーターの2つの要素を兼ね備えるtrp アテニュエーター trp attenuator があるからである。これの逆位反復配列を転写したRNAが形成するヘアピン構造を下図に示す。完全な逆反復ではないが、8bpの塩基対形成が可能であり、そのうち7bpは強いG-C塩基対である。また、ファーナムとプラットは、T高含有配列が転写されるにつれRNAのUとDNAのAとの間に塩基対(rU-dA)が形成すると考えた。この塩基対の融解温度はrU-dAもしくはrU-rAよりも20°C低い。2つの要素についての考察から得られる結論は、T高含有配列でRNAポリメラーゼは一時的に停止し、次にヘアピン構造が形成されることにより弱い結合が切られるというものである。ヘアピン構造はRNAポリメラーゼを押して転写産物から離すか、何らかの立体構造変化を引き起こすものと考えられている。W. S. ヤーネル W. S. Yarnell とジェフリー・ロバーツ Jeffrey Roberts は転写終結において2つの要素は必ずしも必要ではないことを明らかにした。必要なのは、転写産物と極端に弱い塩基対形成する配列と、一時的に転写を停止させる何かである。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ρ因子は全て同じサブユニットから構成された六量体である。全体は、転写産物とDNAとの二重らせんを通す環構造となっているが、この輪は一部が切れている。そのうえ、切れ目を隔てた2つのサブユニットは12Åほど輪の軸方向に離れていて、すなわち小さならせん(ピッチは45Å)となっている。。サブユニットは全てRNAと結合する部位を持ち、次から次へとRNAに結合するサブユニットをジグザグに変えると考えられている。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ρ因子はDNAの転写終結部位の上流にあるρ因子結合部位 rho loading site で転写産物に結合する。この配列はシトシンを多く含む60〜100ntで、比較的ランダムな二次構造を形成している。ρ因子が実際に結合するには先の条件を満たす40ntの配列が最もいい。このρ因子結合部位を転写することで、実際に迎え入れるrut部位 Rho utilization sites:rut sites という配列がRNAに現れる。ただし、リボソームと結合し、セントラルドグマにおける次の段階の翻訳を受けているものとは結合できない。細菌では転写と翻訳は密に連携し、伸長がまだ終わっていなくてもポリメラーゼから出てきた転写産物はすぐに翻訳を始められる。したがって、ρが集結するのは、遺伝子やオペロンの末端を過ぎても転写が続いている転写産物だけである。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "6つのサブユニットは全てATPアーゼである。この活性により、必要以上に長くなってしまった転写産物に結合したときエネルギーが供給され、回転しながら5’から3’へと進む。ターミネーターのヘアピン構造形成で停止したRNAポリメラーゼに追いつくと、転写産物を放出させる。具体的な終結の過程はまだ断定されていない。1987年にテリー・プラットはρ因子がRNA-DNAヘリカーゼ活性を持つことを発見したので、一説では、RNAポリメラーゼと接触したときに二重らせんをほどいて放出させるとする。ほかには、RNAポリメラーゼを後ろから押して転写産物から離すとする説や、RNAポリメラーゼの立体構造を変化させるとする説がある。", "title": "細菌の転写" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "真核生物の場合、細菌プロモーターの-10領域に相当する、5'-TATAAA-3'の共通配列を持つ領域(TATAボックス、あるいは、ゴールドバーグ・ホグネスボックス (Goldberg-Hogness box) と呼ばれる)が-25あるいはさらに上流に存在する。転写開始位置はこのTATAボックスが主となって決定している。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この他、-100〜-60の範囲に存在する5'-CCAAT-3'の共通配列を持つ領域(CAATボックスと呼ばれる)や、-60〜-40の範囲に存在する5'-GGCGGG-3'の共通配列を持つ領域(GCボックスと呼ばれる)がよく知られているが、これらは転写の促進に働いていると考えられている。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "真核生物の場合、RNAポリメラーゼには3つの種類があり、それぞれPol I,Pol II,Pol IIIと呼ばれている。それぞれ、転写開始に必要となる因子、プロモーター領域の配列、転写の様式が異なっている。大部分の遺伝子は転写をPol IIに依存しているが、rRNAはPol Iに、tRNAはPol IIIに依存している。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼIによる転写においては、プロモーターは、-200〜-65の範囲に存在する上流制御要素(UCE; upstream controling element)と呼ばれる領域と、-45〜+20の範囲に存在するTATAボックスを含むコアプロモーター(CPE; core promoter element)と呼ばれる領域の二つの部分からなる。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "転写に関与する因子としては、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "の二つが知られている。UBFはUCEに結合し、SL1のTATAボックスへの結合を促進すると言われている。SL1はCPEへの弱い結合能を示すが、転写の開始において必須である。SL1はまた、Pol Iとも会合する。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "SL1は更に、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "といったの因子の複合体となっている。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、転写伸長に関わる因子として、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "も知られている。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼIIによる転写に必要な酵素以外の基本転写因子蛋白質をTFII (Transcription Factor for Pol II) シリーズと呼び、現在、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "の七種類が知られている。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、転写開始後、RNA伸長を促進する因子として、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "も存在する。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "転写開始への流れとしては、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "となっている。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "TATAボックスは、コアプロモーターエレメント(CPE; core promoter element、コアプロモーター要素、時にcore promoter motifとも呼ばれる)の1つである。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "コアプロモーター (core promoter) とは、正確な転写開始を導く働きをもつプロモーター領域のことであり、一般に転写開始点を含む±35塩基ほどの長さの領域を含むが、多くの例から、約40塩基の領域から構成されていると考えられている。コアプロモーターの中には幾つかのシーケンスモチーフが存在し、これをコアプロモーターエレメントと呼ぶ。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "コアプロモーターエレメントは、すべてのコアプロモーターに普遍的に存在するものではない。むしろ、個々のコアプロモーターの特異性を与えるものである。教科書等を見ると、TATAボックスが全ての遺伝子のコアプロモーターに存在しているような印象を受けるが、実際は違い、例えば酵母に関する最近の研究においては、TATA-containing core promoter(TATAボックスを含むコアプロモーター)は、わずか約19%であったと報告している。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "-2〜+4の範囲に存在するイニシエーターエレメント(Inr; initiator, PyPyAN/APyPy, Aが転写開始位置になる)もコアプロモーターエレメントである。Inrの認識はTFIIDによっておこなわれる。このほかに、DPE (downstream core promoter element)、MTE (motif ten element) が発見されている。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼIIIによる転写に必要な酵素以外の基本転写因子蛋白質をTFIII (Transcription Factor for Pol III) シリーズと呼び、現在、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "の三つが知られている。その他にも、", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "などの因子も存在する。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "RNAポリメラーゼIIIによって転写される遺伝子の場合、転写開始の機作が、そのプロモーター領域の構造により", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "の三つの様式に分かれる。", "title": "真核生物の場合" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "古細菌における転写は基本的には真核生物のものを簡単にしたものと考えてよい。転写開始位置付近には真核生物とほぼ同じ位置にBRE、TATAボックス、イニシエーターエレメントなどが配置されている。TATAボックスにRNAポリメラーゼ、TFIIB、TFIID、TFIIEより成る複合体が形成され(TFIIA、TFIIF、TFIIHは見つかっていない)、これらを足掛かりにRNAポリメラーゼが転写を開始する。TFIISも存在する。詳細は#Pol II系遺伝子参照。", "title": "古細菌の場合" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "転写因子は転写そのものに関わる基本転写因子と、転写の調節を行う転写調節因子(--制御因子)がある。前者はRNAポリメラーゼ複合体やTATA結合タンパク質などが含まれる。転写開始後の伸長反応に機能する転写伸長因子を含むこともある。後者は転写制御配列のDNAに結合し、基本転写因子の活性を制御する特異的転写因子が含まれる。直接 DNA には結合せずクロマチンの構造変換を行うヒストン修飾酵素やクロマチン再構成因子を含むこともある。", "title": "転写因子" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "転写開始を制御する。リプレッサー、アクチベーターがある。", "title": "転写因子" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "転写伸長に必要とされる。ヌクレオソームは転写の伸長を妨げるため、転写伸長因子が転写装置とともに移動する。", "title": "転写因子" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "真核生物のDNAはヒストンという蛋白に巻きついている (ヌクレオソーム)。一般的にはヒストンがアセチル化されることでクロマチン構造がゆるみ、結果として発現が活性化される。また、ショウジョウバエなどのGAGA因子と呼ばれるタンパク質はDNAに結合し、その周辺のクロマチン構造を変化させる。NAP-1がヒストンをDNAに貼り付け、ACFがそれを移動させて一定間隔にする。", "title": "クロマチン構造" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "細菌ではHUタンパクがDNAと結合し核様体を形成するがクロマチン構造はとらない。", "title": "クロマチン構造" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "一方多くの古細菌はヒストンを持ち、DNAが巻きついてクロマチン様構造をとっている。", "title": "クロマチン構造" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、DNAのメチル化なども重要なキーワードの一つである。メチル化DNAはゲノムインプリンティングなどに関与するとされる。メチル化DNAを特異的に認識するタンパク質(メチル化DNA結合タンパク質, MBD)は、クロマチン構造を変換する酵素複合体を誘導することが考えられている。", "title": "DNAのメチル化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "一般にDNAのメチル化は転写の抑制となり、特定の遺伝子が特定の組織で発現するメカニズムの原因であると考えられている。また、DNAのメチル化はヒストンのアセチル化やメチル化と結びついており、細胞分裂の際にコピーされた染色体にヒストンのアセチル化やメチル化が引き継がれる。", "title": "DNAのメチル化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "RNAウイルスは、DNAから行われる通常の転写とは異なりRNAに遺伝情報を記録し、RNAからmRNA合成を行うが、これも転写の範疇に含まれる。ただし、核酸から核酸への合成はほかにDNA複製の過程でも行われるが、これは生成物がDNAであり、遺伝子の発現に直接関わってもいないため転写と異なる。mRNAからDNAへの合成は逆転写と呼ぶ。", "title": "逆転写" } ]
転写(てんしゃ、とは、一般に染色体またはオルガネラのDNAの塩基配列を元に、RNAが合成されることをいう。遺伝子が機能するための過程の一つであり、セントラルドグマの最初の段階にあたる。
[[ファイル:Transcription label en.jpg|250px|thumb|転写中のDNAとRNAの電子顕微鏡写真。DNAの周りに薄く広がるのが合成途中のRNA(多数のRNAが同時に転写されているため帯状に見える)。RNAポリメラーゼはDNA上をBeginからEndにかけて移動しながらDNAの情報をRNAに写し取っていく。Beginではまだ転写が開始された直後なため個々のRNA鎖が短く、帯の幅が狭く見えるが、End付近では転写がかなり進行しているため個々のRNA鎖が長く(帯の幅が広く)なっている]] {{読み仮名|'''転写'''|てんしゃ|{{lang-en-short|Transcription}}}}とは、一般に[[染色体]]または[[オルガネラ]]の[[デオキシリボ核酸|DNA]]の[[塩基配列]]([[遺伝子]])を元に、[[RNA]]('''転写産物'''''transcription product'' )が合成されることをいう。遺伝子が機能するための過程([[遺伝子発現]])の一つであり、[[セントラルドグマ]]の最初の段階にあたる。 == 概要 == 転写は膨大な種類の[[タンパク質]]と[[RNA]]を必要な時期に必要な量を正確に[[生合成|合成]]するための重要な[[代謝]]過程である。この重要で難解な作業を成功させるために、[[生物]]は[[遺伝子]]を活用する。遺伝子は[[安定]]な[[DNA]]の[[塩基配列]]で記録され、生物はそれと同じ配列のRNAを合成することができる。これが転写であり、例えば[[tRNA]]などが転写される。また遺伝子(とそれを写し取ったRNA)の中には特定のタンパク質に対応するものもある。遺伝情報に基づいてタンパク質を作ることを、その遺伝子を'''発現''' expression するというが、その前段階として特に転写は重要である。 タンパク質を合成するために必要なRNAは'''[[伝令RNA]]'''(メッセンジャーRNA messenger RNA:mRNA) であるが、その合成過程は[[種 (分類学)|種]]によって大いに異なる。[[原核生物]]ではmRNAを転写することができるのに対し、[[真核生物]]は転写で作ったRNA([[一次転写産物]] primary transcript )に[[Pre-mRNA スプライシング]]などのさらなる段階を経なければmRNAを得ることができない。真核生物におけるmRNAを特に成熟mRNA、[[成熟]]する前のRNAを'''mRNA前駆体'''と呼ぶ。また、転写から直接合成するRNAを'''転写産物''' transcription product と呼ぶ。 一般に転写には'''開始'''、'''伸長'''、'''終結'''の過程があり<ref name='watson382' />、また開始にいたるまでに様々な[[転写調節因子]]が転写の[[活性化#生物学、医学|活性化]]や抑制に関わっている。近年は[[クロマチン]]構造を通しての転写制御機構が注目されている。基本的な機構はあらゆる[[生物]]で共通しているが、各[[ドメイン (分類学)|ドメイン]](生物を分類する最上位階級)ごとの違いはやや大きい。[[細菌]]は[[細胞質]]中で転写を行い、転写機構も単純である。一方、[[真核生物]]は、転写を[[細胞核]]内でのみ行い、多数の酵素が関る複雑な機構を使っている。最後の[[古細菌]]は、細胞質中で転写を行う点は細菌と同じだが、転写機構そのものは真核生物に類似している。 転写産物はRNA合成[[酵素]]'''[[RNAポリメラーゼ]]''' RNA polymerase (DNA依存性RNAポリメラーゼ DNA-dependent RNA polymerase )により合成される。この酵素はssDNAと結合すると、それと相補的なRNA鎖を合成する<ref group='注釈' name='s' />。したがって、RNAポリメラーゼが結合する方を'''鋳型鎖'''''template strand'' または'''転写鎖''';'''(-)鎖'''、もう片方は'''非鋳型鎖''' nontemplate strand あるいは非転写鎖;'''(+)鎖'''である。また、転写産物が(-)鎖と相補的であるからその塩基配列は(+)鎖に等しい。よって、(+)鎖こそが遺伝情報を保持しているといえ、'''コード鎖''' coding strand または'''センス鎖''' sense strand (センス=意味)ともいう。それにちなんで(-)鎖を'''アンチコード鎖'''や'''アンチセンス鎖''' antisense strand という。ただし、転写産物と(+)鎖は完全に同じ存在というわけではなく、(+)鎖における[[チミン]]は転写産物で[[ウラシル]]に置き換わっているし、DNAとRNAという違いも忘れてはならない。 DNA上のどこからどこまでを転写の範囲とするかは(-)鎖の塩基配列により決まっており、この範囲を'''転写単位''' transcription unit として'''オペロン''' operon という。細菌のDNAには数百のオペロンがあり、真核細胞では数千のオペロンを持つ。 === 開始段階 === [[File:simple transcription initiation1.svg|thumb|400px|転写開始の模式図。RNAP = RNA polymerase]] 転写における'''開始段階''' initiation ではまずRNAポリメラーゼをはじめ転写に関わる酵素がDNA上の転写開始部位に結合する。この部位はオペロンの5'側末端であり、'''プロモーター''' promoter という。結合した各酵素は複合体('''ホロ酵素''')<ref group='注釈' name='ホロ酵素' />を成すが、この構造は順序だって変遷するため開始段階はさらに3つに分けられる。初めは組み込んだDNAが二重らせんのままである'''閉鎖型複合体''' closed complex:PR<sub>c</sub> であるが、転写はssDNAでないと実行できない。第2段階として、プロモーターをほどいた'''開放型複合体''' open complex:PR<sub>0</sub> と、ssDNA領域の'''転写バブル''' ribonucleoside triphosphate (先端を'''解離点''' unwinding point 、後端を'''巻き直し点''' rewinding point という)を形成する<ref group='注釈' name='バブル' />。転写産物の始まりとなる約10nt([[ヌクレオチド]])の合成も最後の段階として行う。RNAポリメラーゼが初活躍するこの時期は'''初期転写複合体''' initial transcribing complex と呼び、伸長段階に向けてプロモーターから脱出する<ref name='watson382' />。 === 伸長 === [[File:simple transcription elongation1.svg|thumb|400px|伸長の模式図]] '''伸長''' Elongationの段階で本格的に転写産物の合成が行われる。RNAポリメラーゼは結合しているDNAの塩基を正確に識別し、4つの'''リボヌクレオシド三リン酸''' ribonucleoside triphosphate ([[アデノシン三リン酸|ATP]]、[[グアノシン三リン酸|GTP]]、[[シチジン三リン酸|CTP]]、[[ウリジン三リン酸|UTP]])の中からそれと相補的なものを選ぶ。そして、直前の開始段階で合成された短いRNA鎖の5'末端に付加する。これが済むとRNAポリメラーゼと転写バブルは次の塩基へと移動し、再びRNA鎖にリボヌクレオシド三リン酸を付加する。この反応には進む方向が決まっており、RNAの5'末端から3'末端へ、逆平行の(-)鎖にとっては3'末端から5'末端へ向かう。通り過ぎたDNAは[[会合|再会合]]する。これを繰り返してRNAは伸長し、転写産物が作られていく。 === 終結 === '''終結''' termination は、RNAポリメラーゼが遺伝子末端にある'''[[ターミネーター (遺伝学)|ターミネーター]]''' terminator まで来ると起こる。ターミネーターはRNAポリメラーゼと協力しながら転写産物とDNAとの結合を切り、RNAポリメラーゼからもDNAからも解離させる。 == 細菌の転写 == [[細菌]]における転写機構は[[大腸菌]]において特に良く調べられている。基本的な機構は他の生物でも同じであるが、細部には違いが見られる。特に[[真核生物]]では機構がかなり複雑である。開始段階における特に大きな違いは、細菌のRNAポリメラーゼは単独で転写を始めることができるが、真核生物はプロモーターに結合するのにも様々なタンパク質を要する。 === 細菌の転写開始 === 細菌の転写開始は次の4つの段階を経る<ref name='weaver141' />。①RNAポリメラーゼが[[プロモーター]]を認識し、'''閉鎖型複合体'''を形成する。この複合体のDNAとの結合は[[可逆的]]であり、平衡定数(K<sub>B</sub>)は10<sup>6</sup>〜10<sup>9</sup> M<sup>-1</sup>である<ref name='ben230'>『遺伝子第8版』、p230</ref>。②閉鎖型プロモーター複合体を'''開放型複合体'''に変換する。[[不可逆的]]であり、[[反応速度定数]](k<sub>2</sub>)は10<sup>-3</sup>〜10<sup>-1</sup>である<ref name='ben230' />。③さらに'''初期転写複合体''' initial transcribing complex となり<ref name='watson382'></ref>、プロモーターに留まっている間に10nt(ヌクレオチド)を合成。④転写産物の先駆けが十分に長くなると、伸長段階に移行するためホロ酵素の[[立体配座#タンパク質|立体構造]]が変化する。この過程を'''プロモータークリアランス''' promoter clearance と呼ぶ。④から伸長開始までを'''プロモータークリアランス時間''' promoter clearance time といい、短くても1〜2秒はかかる<ref name='ben229' />。 ①から②への変化は'''異性化''' isomerization または'''強い結合''' tight binding と呼び、融解は-11から3の短い領域で起きる。[[RNAポリメラーゼ#σサブユニット|σ<sup>70</sup>]]と複合体を形成したRNAポリメラーゼの場合、以降にも調節機構があるとはいえ、実質的に[[不可逆]]なため済めばほぼ確実に転写が始まる。異性化にはホロ酵素の著しい変化が2つある。第一にホロ酵素のβとβ'サブユニットは下流DNAをしっかり固定する。第二は[[RNAポリメラーゼ#σサブユニット|σの領域1.1]]が50[[オングストローム|Å]]移動して酵素の外側に出ることである。DNAと結合してないとき、領域1.1はホロ酵素の活性中心溝にあり、開放型複合体にある[[RNAポリメラーゼ#細菌のホロ酵素-DNA複合体|鋳型鎖の通り道]]を塞ぐ<ref group='注釈' name='出口' />。DNAと同様に負に[[電荷|荷電]]しているため、DNAと結合するため強い[[正]]荷電の活性中心溝で'''擬態した分子''' molecular mimic として振る舞うためである。移動による開放でDNAは入れるようになる。 ③のRNA合成は伸長段階でのそれと比べ、次に紹介する2つの理由により複雑な過程を経る。ほとんどの転写は[[アデニン|A]]から始まる<ref name='watson389'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p389</ref>が、合成された直後にこれを支えるのはDNAとの2本の弱い水素結合だけである。このためホロ酵素は1番目と2番目の[[リボヌクレオチド]]を、次に来るNTPが[[化学攻撃]]できる状態で固定しなければならない<ref name='watson389' />。常に同じリボヌクレオチドから始まるのはホロ酵素が[[基質特異性|特異的]]に結合するためであろう。 第二の理由は'''転写開始の失敗''' abortive initiation である。開始段階で10nt以上のRNAが合成されるが、しばしばホロ酵素はこれに満たないRNAを放出して、最初から合成をやり直す。放棄された転写産物を'''アボーティブ転写産物''' abortive transcripts といい、この実りのない(意義はよくわかっていない)過程を繰り返さなければ次の伸長段階へと移れない。この間にホロ酵素がどのようにDNA上を移動しているかははっきりしておらず、3つのモデルが提唱されている<ref name='watson389' />。 <dl> <dt>'''行きつ戻りつモデル'''</dt> <dd>RNAポリメラーゼは転写のために移動し、放出した後で元の開始位置に戻るとする説。</dd> <dt>'''尺取虫モデル'''</dt> <dd>ホロ酵素本体は動かず、転写を実行する活性部位が移動するという説。RNAポリメラーゼ内に柔軟な部分があると仮定し、これが下流へ向かって伸びることで活性部位を持つ前部が連続して転写を実行する。中断時に縮み、活性部位を開始位置に戻す。</dd> <dt>'''しわ寄せモデル'''</dt> <dd>本体も活性部位も動かず、DNAが活性部位へ連続して移動するという説。RNAポリメラーゼは、[[電線|コード]]を巻き戻す[[掃除機]]のようにDNAを引き込む。内部でDNAはたわんだssDNAとなって溜まる。</dd> </dl> 現在ではしわ寄せモデルが真実に近いと予想されている。根拠の一つは、転写初期のRNAポリメラーゼはDNA上を静止し、下流DNAをほどいて内部へ引き込むという[[単分子]][[解析]]の結果である<ref name='watson389' />。 10nt以上のRNA合成に成功すると、RNAポリメラーゼはプロモーターを'''脱出''' escape して伸長段階へ突入する(④)。合成されたRNAはホロ酵素内部で塩基対を形成しているが、これが収まりきらなくなってRNA出口通路へ抜く<ref name='watson390'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p390</ref>。また、ホロ酵素と[[プロモーター]]間の結合は全て断つ。ホロ酵素の構成要素の一つであるσ[[サブユニット]]も本体との結合が弱くなる<ref group='注釈' name='サイクル' />。脱出に当たり、しわ寄せモデルでほどかれたDNAが巻き戻り、同時に転写バブルが22〜24ntから12〜14ntに縮む<ref name='watson390' />。この過程がRNAポリメラーゼ-プロモーターとコア酵素-シグマサブユニット間の結合の切断に要する[[自由エネルギー]]を供給する<ref name='watson390' />。 === 細菌の転写伸長 === 伸長段階でDNAは開放型複合体の時と同様にホロ酵素内を通る。巨大なβとβ’サブユニットの間<ref group='注釈' name='ホロ酵素' />に下流域が入り込み、入り口で分離して別々の道を往く<ref group='注釈' name='出口' />。それぞれ専用の通路に出た後、ホロ酵素の背で二重らせんを再構成する。[[基質 (化学)|基質]]の[[リボヌクレオシド三リン酸]]も専用の入り口から入る。鋳型鎖と塩基対形成しているのは伸長中の3’末端の8か9ntだけで、ほかの剥がれた部分はRNA出口通路から外へ出る<ref name='watson391' />。 [[File:Linear DNA Supercoiling.png|thumb|right|dsDNAを巻くことによる超らせんの形成。わかりやすくするため通常の二重らせんを2本の平行線で表現する。上流部分をほどくために二重らせんを回転させる、あるいは転写し終えた鋳型鎖を元の二重らせんに巻くと、下流部分に新たならせんを1つ巻き足すことになる。そしてこの余分ならせんはもつれた構造(超らせん)を引き起こす。2つの回転はただ方向が違うだけで同じ結果となる。]] 転写バブルの大きさは伸長段階を通して一定で、ホロ酵素は1bp([[塩基対]])ほどくと同時に後方で1bp[[会合|再会合]]させる<ref name='watson391'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p391</ref>。DNAのような二重らせんの高分子を酵素がほどくとき、捻じれてしまうことが大きな問題となる。これを解消しつつ転写バブルを移動させる方法については2通り考えられている。一つは、鋳型鎖の下流が二重らせんを緩めるよう回転し、転写された後に巻き戻るというもの。しかし、回転によってDNAの立体構造に大きなひずみを生むことは避けられない。このひずみは、'''[[DNAスーパーコイル]]'''(DNA supercoil)あるいは'''[[DNA超らせん]]'''(DNA superhelix)と呼ばれる。[[DNA複製]]にも同じ問題([[DNA複製#DNAのよじれの解消]]を参照)は生じる。これらのひずみを解消するのが、'''[[トポイソメラーゼ]]'''(topoisomerase)と呼ばれる酵素群である。ほかに、RNAポリメラーゼがdsDNAの捩じれに沿って回転することで巻き戻すという説もある。これならばよじれの問題は起きないが、回転には大きなエネルギーが必要と考えられる。また、転写産物はDNAに巻きついてDNAの再会合を阻むことになるが、これをほどく酵素はいまだ発見されていない<ref name='weaver172'>『ウィーバー 分子生物学第4版』、p172</ref>。 RNAポリメラーゼは転写中たびたび1〜6秒一時停止する<ref name='weaver172' />。時には後戻りすることもあり、転写の平均的な速度は遅い。理由は少なくとも2つある。1つ目はもっと遅い[[翻訳 (生物学)|翻訳]]に合わせるためであり、[[アテニュエーション]]や翻訳が失敗して転写を中断しなければならない場合に必要である<ref name='weaver172' />。2つ目は、一時停止が次の項で解説する[[#細菌の終結]]における第一段階であるためである。 [[Image:Editosome.PNG|350px|thumb|校正を行うRNAポリメラーゼホロ酵素]] RNAポリメラーゼは転写産物の塩基配列に誤りがないかの[[校正 (生物学)|校正]]を2種類の方法で行う<ref name='watson391' />。1つ目は、間違って付加したリボヌクレオシド三リン酸を活性部位の[[逆反応]]で除去する'''加ピロリン酸分解校正''' pyrophosphorolytic editing である。リボヌクレオシド三リン酸との反応は3'末端から[[二リン酸]]を奪うので、付け直しも行う。正しい塩基対より活性部位に長く留まるため、間違った塩基対がより逆反応を受ける<ref name='watson391' />。2つ目は'''加水分解校正''' hydrolytic editing で、1個あるいはそれ以上のヌクレオチドの距離を引き返し、間違いを含む塩基配列を切り離す。 加水分解校正とともに伸長自体を促進する'''Gre因子'''がある。この因子は伸長反応を効率よくし、転写の難しい所で停滞させないようにする。伸長段階でホロ酵素に加わり、伸長と終結を助ける'''Nusタンパク'''というタンパク質群も発見されている。 RNAポリメラーゼが途中で転写をやめる場合がある。原因の多くはDNAの損傷であるが、これに出会うとそこから先の転写を続行できないうえに、停止すればほかのポリメラーゼも妨害してしまう。これに対処するため、'''TRCF''' transcription-repair coupling factor は停止したRNAポリメラーゼを発見すると[[DNA修復|ヌクレオチド除去修復タンパク]]([[エンドヌクレアーゼ]]UvrA、B、C)を招集し、RNAポリメラーゼをDNAから離す<ref name='watson394'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p394</ref><ref group='注釈' name='TRCF' />。RNAポリメラーゼは修復タンパクを損傷に近づけるようにすることもある<ref name='watson274'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p274</ref>。これを'''転写と共役した修復''' transcription-coupled repair という。 === 細菌の転写終結 === RNAポリメラーゼが遺伝子配列の転写を終えても反応は終わらない。転写を確実に終わらせるために、遺伝子配列の下流に存在する'''逆方向[[反復配列]]''' inverted repeats は転写された時、RNAポリメラーゼに干渉する。この遺伝子配列を写し取ったRNA領域は補塩基同士を結合させて'''[[ステムループ]]構造''' stem-loop (ヘアピン構造 hairpin loop )を作るが、これが転写終結のカギである。[[大腸菌]]の終結の方法は次の2つ。 <dl> <dt>'''ρ非依存性終結''' rho-independent termination</dt> <dd>mRNAの3'末端側に連続したDNAとのA-U塩基対が作成され、その結合の弱さから自然にmRNAがDNAから離れていく。同時にコア酵素もゲノムDNAから離脱する。</dd> <dt>'''ρ依存性終結''' rho-dependent termination</dt> <dd>一方ρ依存性終結では'''ρ因子''' rho factor というタンパク質がステムループ構造の5'側に結合し、mRNAと鋳型DNAの塩基対を破壊して転写が終結する。</dd> </dl> mRNAは3'側にも遺伝子配列そのものよりも長い配列を持っており、この配列を'''トレイラーセグメント'''と呼ぶ。転写の終結したmRNAは、'''輸送や修飾などは特に行なわれず、すぐに翻訳過程に向かう'''。 [[スプライシング]]反応をはじめとした様々な修飾を施す真核生物とは大いに異なる。 ====ρ非依存性終結==== [[Image:Stem-loop.svg|frame|ステムループの一例]] この場合のターミネーターはタンパク質の補助なしで独自でRNAポリメラーゼに作用し、転写産物を解放させる。'''内因性ターミネーター''' intrinsic terminator というこの[[塩基配列]]は、20ntほどの逆位反復領域とそのすぐ下流にある8ntほどのA([[アデニン]])高含有領域で構成される<ref name='watson395' />。逆位反復領域と相補的なRNAはヘアピン構造を形成する特徴があり、転写終結の原動力となる。 ρ非依存性終結の典型例として、[[ペギー・ファーナム]] Peggy Farnham と[[テリー・プラット]] Terry Platt は大腸菌の[[トリプトファン]][[オペロン]]を研究した。内因性ターミネーターの2つの要素を兼ね備える'''[[転写減衰|''trp'' アテニュエーター]]''' ''trp'' attenuator があるからである。これの逆位反復配列を転写したRNAが形成するヘアピン構造を下図に示す<ref name='weaver173'>『ウィーバー 分子生物学』、p173</ref>。完全な逆反復ではないが、8bpの塩基対形成が可能であり、そのうち7bpは強いG-C塩基対である。また、ファーナムとプラットは、T高含有配列が転写されるにつれRNAのUとDNAのAとの間に塩基対(rU-dA)が形成すると考えた<ref name='weaver174'>『ウィーバー 分子生物学』、p174</ref>。この塩基対の[[DNAの巻き戻し|融解温度]]はrU-dAもしくはrU-rAよりも20℃低い<ref name='weaver174' />。2つの要素についての考察から得られる結論は、T高含有配列でRNAポリメラーゼは一時的に停止し、次にヘアピン構造が形成されることにより弱い結合が切られるというものである。ヘアピン構造はRNAポリメラーゼを押して転写産物から離すか、何らかの立体構造変化を引き起こすものと考えられている<ref name='watson395'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p395</ref>。[[W. S. ヤーネル]] W. S. Yarnell と[[ジェフリー・ロバーツ]] Jeffrey Roberts は転写終結において2つの要素は必ずしも必要ではないことを明らかにした<ref name='weaver176'>『ウィーバー 分子生物学』、p176</ref>。必要なのは、転写産物と極端に弱い塩基対形成する配列と、一時的に転写を停止させる何かである。 <pre> A /| U U C G G G C G G A | | | | | | | | A G C C C G C C A U </pre> ====ρ依存性終結==== [[File:PDB 1pv4 EBI.jpg|thumb|ρ因子は6個の同一のサブユニットが環状に集まったタンパク質]] ρ因子は全て同じ[[サブユニット]]から構成された六量体である。全体は、転写産物とDNAとの二重らせんを通す環構造となっているが、この輪は一部が切れている。そのうえ、切れ目を隔てた2つのサブユニットは12Åほど輪の[[軸]]方向に離れていて、すなわち小さならせん([[ピッチ]]は45Å)となっている。<ref name='watson395' />。サブユニットは全てRNAと結合する部位を持ち、次から次へとRNAに結合するサブユニットを[[ジグザグ]]に変えると考えられている<ref name='weaver179' />。 ρ因子はDNAの転写終結部位の上流にある'''ρ因子結合部位''' rho loading site で転写産物に結合する。この配列は[[シトシン]]を多く含む60〜100ntで、比較的ランダムな[[二次構造]]を形成している<ref name='weaver179'>『ウィーバー 分子生物学』、p179</ref>。ρ因子が実際に結合するには先の条件を満たす40ntの配列が最もいい<ref name='watson394'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p394</ref>。このρ因子結合部位を転写することで、実際に迎え入れる'''rut部位''' Rho utilization sites:rut sites という配列がRNAに現れる。ただし、[[リボソーム]]と結合し、[[セントラルドグマ]]における次の段階の[[翻訳 (生物学)|翻訳]]を受けているものとは結合できない<ref name='watson394' />。細菌では転写と翻訳は密に連携し、伸長がまだ終わっていなくてもポリメラーゼから出てきた転写産物はすぐに翻訳を始められる<ref name='weaver395'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学』、p395</ref>。したがって、ρが集結するのは、[[遺伝子]]や[[オペロン]]の末端を過ぎても転写が続いている転写産物だけである。 6つのサブユニットは全て[[ATPアーゼ]]である。この活性により、必要以上に長くなってしまった転写産物に結合したときエネルギーが供給され、回転しながら5’から3’へと進む。ターミネーターのヘアピン構造形成で停止したRNAポリメラーゼに追いつくと、転写産物を放出させる。具体的な終結の過程はまだ断定されていない。1987年にテリー・プラットはρ因子がRNA-DNA[[ヘリカーゼ]]活性を持つことを発見したので、一説では、RNAポリメラーゼと接触したときに二重らせんをほどいて放出させるとする<ref name='weaver179' />。ほかには、RNAポリメラーゼを後ろから押して転写産物から離すとする説や、RNAポリメラーゼの立体構造を変化させるとする説がある<ref name='watson394' />。 == 真核生物の場合 == [[真核生物]]の場合、細菌プロモーターの-10領域に相当する、5'-TATAAA-3'の共通配列を持つ領域([[TATAボックス]]、あるいは、ゴールドバーグ・ホグネスボックス (Goldberg-Hogness box) と呼ばれる)が-25あるいはさらに上流に存在する。転写開始位置はこのTATAボックスが主となって決定している。 この他、-100〜-60の範囲に存在する5'-CCAAT-3'の共通配列を持つ領域(CAATボックスと呼ばれる)や、-60〜-40の範囲に存在する5'-GGCGGG-3'の共通配列を持つ領域(GCボックスと呼ばれる)がよく知られているが、これらは転写の促進に働いていると考えられている。 真核生物の場合、RNAポリメラーゼには3つの種類があり、それぞれ[[RNAポリメラーゼI|Pol I]],Pol II,Pol IIIと呼ばれている。それぞれ、転写開始に必要となる因子、プロモーター領域の配列、転写の様式が異なっている。大部分の遺伝子は転写をPol IIに依存しているが、rRNAはPol Iに、tRNAはPol IIIに依存している。 === Pol I系遺伝子(rRNA)における転写の開始 === RNAポリメラーゼIによる転写においては、プロモーターは、-200〜-65の範囲に存在する上流制御要素(UCE; upstream controling element)と呼ばれる領域と、-45〜+20の範囲に存在するTATAボックスを含むコアプロモーター(CPE; core promoter element)と呼ばれる領域の二つの部分からなる。 転写に関与する因子としては、 * UBF:UCE結合因子 * SL1 の二つが知られている。UBFはUCEに結合し、SL1のTATAボックスへの結合を促進すると言われている。SL1はCPEへの弱い結合能を示すが、転写の開始において必須である。SL1はまた、Pol Iとも会合する。 SL1は更に、 * TBP:TATA結合蛋白質 * TAF:Pol I会合因子 ** TAF<sub>I</sub> 110 ** TAF<sub>I</sub> 68 ** TAF<sub>I</sub> 48 といったの因子の複合体となっている。 また、転写伸長に関わる因子として、 * TIF-1C も知られている。 === Pol II系遺伝子(構造遺伝子など大部分の遺伝子)における転写の開始 === [[RNAポリメラーゼII]]による転写に必要な[[酵素]]以外の基本転写因子蛋白質をTFII (Transcription Factor for Pol II) シリーズと呼び、現在、 * TFIIA: TFIIDのDNAへの結合を促進 * TFIIB: TFIIDとともに転写の最小開始複合体形成に参加 * [[TFIID]]: プロモーター領域を認識し、TATAボックスに結合 * TFIIE: TFIIHの制御 * TFIIF: Pol IIと結合。Pol IIの転写開始複合体参加に必須 * [[TFIIH]]: DNA依存ATPase。Pol IIをリン酸化し変化させ、転写開始複合体から各因子を遊離させる * TFII-I: の七種類が知られている。 また、転写開始後、RNA伸長を促進する因子として、 * TFIIS も存在する。 転写開始への流れとしては、 * プロモーター領域(TATAボックス近辺)にTFIIAが結合 * TATAボックスにTFIIDが結合、TFIIAと複合体を形成 * TFIIA-TFIID-DNA複合体にTFIIBが結合 * RNAポリメラーゼII(Pol II)にTFIIFが結合 * TFIIF-Pol II複合体にTFIIEが結合 * TFIIF-TFIIE-Pol II複合体にTFIIHが結合 * TFIIF-TFIIE-TFIIH-Pol II複合体がTFIIA-TFIID-TFIIB-DNA複合体と結合 * TFIIHの作用によりPol IIがリン酸化される * Pol II変形 * TFIIHの作用により、転写開始複合体はTFIIA-TFIID-TFIIB複合体とTFIIF-Pol II複合体に分離される。この際、TFIIE, TFIIHは放出される。('''プロモータークリアランス'''という) * TFIIF-PolII-DNA複合体にTFIISが結合する * RNAの転写が進行する となっている。 TATAボックスは、'''コアプロモーターエレメント'''(CPE; core promoter element、コアプロモーター要素、時にcore promoter motifとも呼ばれる)の1つである。 '''コアプロモーター''' (core promoter) とは、正確な転写開始を導く働きをもつプロモーター領域のことであり、一般に転写開始点を含む±35塩基ほどの長さの領域を含むが、多くの例から、約40塩基の領域から構成されていると考えられている。コアプロモーターの中には幾つかのシーケンスモチーフが存在し、これをコアプロモーターエレメントと呼ぶ。 コアプロモーターエレメントは、すべてのコアプロモーターに普遍的に存在するものではない。むしろ、個々のコアプロモーターの特異性を与えるものである。教科書等を見ると、TATAボックスが全ての遺伝子のコアプロモーターに存在しているような印象を受けるが、実際は違い、例えば酵母に関する最近の研究においては、TATA-containing core promoter(TATAボックスを含むコアプロモーター)は、わずか約19%であったと報告している。 -2〜+4の範囲に存在する'''イニシエーターエレメント'''(Inr; initiator, PyPyAN<sup>T</sup>/<sub>A</sub>PyPy, Aが転写開始位置になる)もコアプロモーターエレメントである。Inrの認識はTFIIDによっておこなわれる。このほかに、DPE (downstream core promoter element)、MTE (motif ten element) が発見されている。 === Pol III系遺伝子 (tRNA) における転写の開始 === RNAポリメラーゼIIIによる転写に必要な酵素以外の基本転写因子蛋白質をTFIII (Transcription Factor for Pol III) シリーズと呼び、現在、 * TFIIIA: * TFIIIB: * TFIIIC: の三つが知られている。その他にも、 * TBP:TATA結合蛋白質 * PTF:PSE結合蛋白質 などの因子も存在する。 RNAポリメラーゼIIIによって転写される遺伝子の場合、転写開始の機作が、そのプロモーター領域の構造により * 遺伝子構造の内部にAブロック(+20の位置)、Bブロック(+51から+113の位置)の二つの'''コアプロモーター'''(転写の開始に際し必須の配列)を持つもの。TFIIIB,TFIIICの二つが必要。 * 遺伝子構造の内部にAブロック、Iブロック、Bブロックの二つの'''コアプロモーター'''(転写の開始に際し必須の配列)を持つもの。TFIIIA,TFIIIB,TFIIICの三つが必要 * TATAボックス(-25の位置)、PSE(近位配列要素;-55の位置)を持つもの。TBP,TFIIIB,PTFの三つの因子が必要 の三つの様式に分かれる。 == 古細菌の場合 == 古細菌における転写は基本的には真核生物のものを簡単にしたものと考えてよい。転写開始位置付近には真核生物とほぼ同じ位置にBRE、TATAボックス、イニシエーターエレメントなどが配置されている。TATAボックスにRNAポリメラーゼ、TFIIB、TFIID、TFIIEより成る複合体が形成され(TFIIA、TFIIF、TFIIHは見つかっていない)、これらを足掛かりにRNAポリメラーゼが転写を開始する。TFIISも存在する。詳細は'''[[#Pol II系遺伝子(構造遺伝子など大部分の遺伝子)における転写の開始|#Pol II系遺伝子]]参照'''。 == 転写因子 == [[転写因子]]は転写そのものに関わる'''[[基本転写因子]]'''と、転写の調節を行う'''転写調節因子'''(--制御因子)がある。前者は[[RNAポリメラーゼ]]複合体やTATA結合タンパク質などが含まれる。転写開始後の伸長反応に機能する'''転写伸長因子'''を含むこともある。後者は転写制御配列のDNAに結合し、基本転写因子の活性を制御する'''特異的転写因子'''が含まれる。直接 DNA には結合せず[[クロマチン]]の構造変換を行う[[ヒストン修飾酵素]]や[[クロマチン再構成]]因子を含むこともある。 === 基本転写因子 === {{main|RNAポリメラーゼ}} === 転写調節因子 === 転写開始を制御する。[[リプレッサー]]、[[アクチベーター]]がある。 {{節スタブ}} === 転写伸長因子 === 転写伸長に必要とされる。ヌクレオソームは転写の伸長を妨げるため、転写伸長因子が転写装置とともに移動する。 {{節スタブ}} == クロマチン構造 == 真核生物のDNAは[[ヒストン]]という蛋白に巻きついている ([[ヌクレオソーム]])。一般的にはヒストンが[[アセチル化]]されることでクロマチン構造がゆるみ、結果として発現が活性化される。また、[[ショウジョウバエ]]などのGAGA因子と呼ばれるタンパク質はDNAに結合し、その周辺のクロマチン構造を変化させる。NAP-1がヒストンをDNAに貼り付け、ACFがそれを移動させて一定間隔にする。 細菌ではHUタンパクがDNAと結合し核様体を形成するがクロマチン構造はとらない。 一方多くの古細菌はヒストンを持ち、DNAが巻きついてクロマチン様構造をとっている。 == DNAのメチル化 == {{Main|DNAメチル化}} また、DNAの[[メチル化]]なども重要なキーワードの一つである。メチル化DNAは[[ゲノムインプリンティング]]などに関与するとされる。メチル化DNAを特異的に認識するタンパク質(メチル化DNA結合タンパク質, MBD)は、クロマチン構造を変換する酵素複合体を誘導することが考えられている。 一般にDNAのメチル化は転写の抑制となり、特定の遺伝子が特定の組織で発現するメカニズムの原因であると考えられている。また、DNAのメチル化は[[ヒストン]]の[[アセチル化]]や[[メチル化]]と結びついており、[[細胞分裂]]の際にコピーされた[[染色体]]に[[ヒストン]]のアセチル化やメチル化が引き継がれる。<!--(スタブ)--> ==逆転写== [[RNAウイルス]]は、DNAから行われる通常の転写とは異なり[[リボ核酸|RNA]]に遺伝情報を記録し、RNAからmRNA合成を行うが、これも転写の範疇に含まれる。ただし、核酸から核酸への合成はほかに[[DNA複製]]の過程でも行われるが、これは生成物がDNAであり、遺伝子の発現に直接関わってもいないため転写と異なる。mRNAからDNAへの合成は[[逆転写]]と呼ぶ。 ==注釈== <references group='注釈'> <ref name='s'>二重らせんを形成しているDNAを'''二本鎖DNA''' double-stranded DNA、一本だけの状態で遊離しているものを'''一本鎖DNA''' single-stranded DNA と呼ぶ。それぞれdsDNA、ssDNAと略す。</ref> <ref name='ホロ酵素'>RNAポリメラーゼが転写を実行するためにDNA上に構築する複合体をRNAポリメラーゼホロ酵素もしくは単にホロ酵素と呼ぶ。α1,α2、β、β’、σ、ωの6つの[[サブユニット]]から構成され、全体は[[カニ]]の[[はさみ]]に似ている。1つで複合体のほぼ半分を占める2つの爪はそれぞれ巨大なβ、β’サブユニットで、この内部を活性中心溝という。転写の活性部位は活性中心溝の奥、爪の付け根に存在する。</ref> <ref name='出口'>RNAポリメラーゼにはDNA用の出入り口が5つある。'''NTP取り込み通路'''は[[基質 (化学)|]]であるリボヌクレオチドを触媒活性中心に迎え入れる。'''RNA出口通路'''は後の伸長段階で合成したRNA鎖の部分を出すためにある。下流のdsDNAは'''下流DNA用通路'''から活性中心溝に入り、ssDNAに分かれる。非鋳型鎖は'''非鋳型鎖用通路'''(NT通路)から、鋳型鎖は活性部位を通って'''鋳型鎖用通路'''(T通路)から外に出る。2つの一本鎖はホロ酵素の後方で二重らせんに戻る。</ref> <ref name='バブル'>開放型プロモーター複合体形成に伴う、ssDNAの領域を'''転写バブル'''という。その大きさについては様々な方法での測定例がある。1978年にTao-shih HsiehとJames Wangは、大腸菌のRNAポリメラーゼはT7[[ファージ]]の初期プロモーターを約10bpほど分解すると算定した。1979年にウルリッチ・ジーベンリスト Ulrich Siebenlist が行った実験では、観測されたのは12bpだった。ただし、この結果は実際よりも小さい可能性が指摘されている。これらの実験も、それ以前のほかの実験もRNAポリメラーゼとDNAだけが結びついた複合体を対象としている。すなわち、RNA合成前の転写初期におけるRNAポリメラーゼである。</ref> <ref name='サイクル'>σサブユニットは転写開始に最も重要で、ホロ酵素をプロモーターへと誘導するなどの必須な役割を持つ。転写開始が転写において[[律速|最も遅い段階]]であるため、σ因子は役割を終えると再利用のため直ちにホロ酵素から分離される。そして、別のコア酵素へと供給される。この循環を'''σサイクル'''という。</ref> <ref name='TRCF'>TRCFはdsDNAに結合すると、 [[ATPアーゼ]][[活性]]を活用して転写と同じ5’から3’の方向へ滑るように移動する。停止したRNAポリメラーゼがあれば[[衝突]]し、解離させる。損傷の先へ押されて伸長を再開することもある。</ref> </references> == 出典 == <references> <ref name='weaver141'>『ウィーバー 分子生物学 第4版』、化学同人、著者:Robert F. Weaver、監訳者:杉山弘、2008、p42</ref> <ref name='watson382'>『ワトソン 遺伝子の分子生物学 第6版』、著者:James D. Watsonほか、監訳者:中村桂子、発行:学校法人東京電機大学出版局(2010)、p382</ref> <ref name='ben229'>『遺伝子 第8版』、著者:Benjamin Lewin、訳者:菊池菊池韶彦(あきひこ)、東京化学同人、2006、p229</ref> </references> == 関連映像 == *[[理化学研究所]]オミックス基盤研究領域「[https://www.youtube.com/watch?v=DB0gnar0Ndw HD セントラルドグマ -synra editon- 日本語ナレーション版]」2008年、[[YouTube]](CG ムー ビー) *理化学研究所ゲノム科学総合研究センター遺伝子構造・機能研究グループ「[https://www.youtube.com/watch?v=EgweXtBCynE セントラルドグマ ~ゲノム情報からタンパク質ができるまで~ / The Central Dogma]」2007年、[[YouTube]](CG ムー ビー) == 参考文献 == *『ワトソン 遺伝子の分子生物学 第6版』、著者:James D. Watsonほか、監訳者:[[中村桂子]]、東京電機大学出版局(2010) *『ウィーバー 分子生物学 第4版』著者:Robert F. Weaver、監訳者:杉山弘、化学同人、2008 *『遺伝子 第8版』、著者:Benjamin Lewin、訳者:菊池韶彦、 水野猛, 榊佳之, 伊庭英夫 、東京化学同人、2006 == 外部リンク == {{Commons category|Transcription (genetics)}} * [https://bunseiri.com/?p=93 遺伝子の構造と転写] ([https://bunseiri.com/ ビジュアル生理学] 内の項目) == 関連項目 == * [[生命]] * [[細胞]] * [[細胞分裂]] * [[遺伝子]] * [[遺伝子発現の調節]] * [[遺伝子発現]] * [[エピジェネティクス]] * [[ゲノム]] * [[セントラルドグマ]] * [[RNAスプライシング]] * {{仮リンク|トランスクリプトミクス技術|en|Transcriptomics technologies}} * [[翻訳 (生物学)]] {{遺伝子発現}} {{Portal bar|生物学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんしや}} [[Category:生化学]] [[Category:分子生物学]] [[Category:遺伝子発現]]
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翻訳
翻訳(、英: translation)とは、ある形で表現されている対象を、異なる形で改めて表現する行為である。 特に、自然言語において、起点言語(source language、原言語)による文章を、別の目標言語(target language、目的言語)による文章に変換する行為をさす。例えば、英語文から日本語文へ翻訳された場合は、起点言語が英語であり、目標言語が日本語である。起点言語による文を原文といい、目標言語による文を訳文・翻訳文と言う。一方で、プログラミング用語としては形式言語の変換という意味でも用いられる。なお、文ではなく発話を翻訳する行為は、通訳とも呼ばれる。 翻訳という行為自体を研究する学問として、翻訳学(翻訳研究、英語: translation studies)がある。 単純な逐語的な置き換えや、熟語単位の置き換えだけで済ませている翻訳などで、文章が状況や文脈ごとに持っている機能に十分に注意を払っていないような翻訳を「直訳」と言う。初心者や不完全な機械翻訳では、起点言語から目標言語へ、個々の語彙水準で辞書などにある目標語に置き換えてしまうことで目標言語における表現の体系(コロケーションや多義性など)を無視することがある。 これに対して、文章が発話された状況や文脈において果たす機能や本当の意味(意図)に焦点を当てて、目標言語でほぼ同等の機能や意味作用を持つ文章を、多数の文章の記憶(言語の使用経験に裏打ちされた、文脈ごとの、適切な発話事例に関する記憶)の中から見つけ出して翻訳文とすることを「意訳」と呼ぶ。 このような二種類の翻訳が現れる原因として、両言語から対応する語・句を選定する直訳作業において、単語は言語間で一対一の対応があるとは限らないことがある。例えば、起点言語では1語で表される概念が、目標言語では複数の語(複数の概念)にまたがっていたり、逆に起点言語で複数の語であるものが、目標言語では1語となってしまう場合である。これは、文学作品でのニュアンスや語感の再現や、言語による色の表現などで顕著になる問題である。例えば、虹の色の数は、日本では7色とされているが、他の地域や文化によっては7色とは限らない。また、日本語で「青」と呼ばれるものに緑色の植物や緑色の信号灯が含まれるのも、単純に単語を置き換えることができない顕著な例である。 機械翻訳は、実用的な汎用コンピュータが開発され始めた1960年前後から研究され続けてきた分野であるが、近年は一般的に利用が可能になってきたこともあり、機械翻訳に対して人による翻訳を「人力翻訳」や「人手翻訳」と言う場合もある。 グーグルやDeepLなど各社が機械翻訳による自動翻訳を提供しているが、その精度は言語間によってまちまちである。日本語と英語のように文法が大きく異なる言語間では難易度が高くなる。完全な自動翻訳は難しく、似通った言語間においても利用者によるある程度の修正は必要となっている。 翻訳はある言語圏から別の言語圏へと知識を移転することを意味する。このため、かつては先進文化圏からの翻訳によって別の文化圏へと重要な知識が伝達され、移転先の文化レベルを上昇させることが多くあった。この例としては、古代ギリシアの文献が挙げられる。古代ギリシアで花開いた文化はローマ帝国へと継承されたものの、ローマの上流階級のほとんどはギリシア語も解したため、ラテン語の科学に関する著作は多くが通俗的なものにとどまっており、ローマ帝国が崩壊するとラテン語圏でのギリシア語使用が衰退したため、ヨーロッパが中世に入るころにはギリシアの知識の多くが失われてしまっていた。しかしその文献はローマの継承国家でありギリシア語圏である東ローマ帝国において保持され、ギリシア語の文献として残っていた。また、5世紀から6世紀にかけてはネストリウス派によってこうしたギリシャ語文献のシリア語翻訳も行われていた。これらの文献のうちいくらかのものは8世紀以降アッバース朝統治下においてアラビア語に翻訳された。この翻訳事業によって、医学のヒポクラテスやガレノス、哲学のアリストテレスやプラトンの知識がイスラム世界にもたらされ、イスラム科学の隆盛をもたらした。さらにこれらのアラビア語文献は、12世紀に入るとシチリア王国の首都パレルモやカスティーリャ王国のトレドといった、イスラム文化圏と接するキリスト教都市においてラテン語へと翻訳されるようになる。これは古いギリシア科学だけでなく、フワーリズミーやイブン・スィーナーといったイスラムの大学者の文献も含まれており、また15世紀に入るとアラビア語だけでなく東ローマなどから入手したギリシア語の文献の直接翻訳も行われた。大翻訳時代とも呼ばれるこの翻訳活動を通じて、一度は失われていた古代世界の知識が西ヨーロッパに再び流入し、12世紀ルネサンス、さらにはルネサンスを引き起こすきっかけとなった。 翻訳が文化的に大きな影響を与えた例としては、マルティン・ルターによる聖書のドイツ語訳が挙げられる。それまでもドイツ語訳聖書は存在したものの、ルターは日常言語を元にした理解しやすい表現を心がけ、出版されたルター聖書はドイツ人に広く読まれてドイツ語そのものにも大きな影響を与えた。 また、こうした翻訳が重要な役割を果たした国として日本が挙げられる。日本は古代以降、隣接する大国である中国の文献を翻訳して摂取し文明レベルを向上させてきたが、1774年の解体新書の翻訳出版を一つのきっかけとして、18世紀後半以降、盛んにヨーロッパの科学文献が翻訳されるようになった。この翻訳はヨーロッパ諸国のうちで唯一日本との通商関係のあったオランダ語からおこなわれており、そのためこうした翻訳者、さらに転じて西洋科学を身につけた学者たちは蘭学(オランダ学、らんがく)者と呼ばれるようになった。この動きは江戸幕府が崩壊し明治維新が起きるとより加速され、オランダ語のみならず英語やフランス語など西洋の諸言語から膨大な翻訳が行われるようになった。この翻訳においてはさまざまな訳語が漢語の形で考案され、いわゆる和製漢語として盛んに流通するようになった。この新漢語は新しい概念を表すのに好都合であったため、一部は中国に逆輸入されて使用されるようになった。 重訳とは、A言語→X言語→B言語、という風に、いったん他の言語に翻訳された版を参照し、さらに他の言語へ重ねて翻訳する方法である。起点言語であるA言語から目標言語であるB言語へ直接翻訳を行うことが、何らかの事情により困難な場合に行われる。N対Nの複数言語間の変換をおこなう場合、いったん軸(ピボット)となる言語に変換し、またそこから多言語へ変換する、いわゆるピボット翻訳を行うことが多い。ピボット言語には通常は英語が用いられる。 宗教書を例にとると、仏典の場合はサンスクリット・パーリ語の版から漢訳し、さらに日本語へ重訳されている。 グローバリゼーションの進展により多言語間の交流が増大し、それにともなって交わされる文書なども増大しているため、翻訳の重要性は高まっている。翻訳はその専門分野によって、文学翻訳、産業翻訳、法務翻訳、特許翻訳、医学翻訳、行政翻訳などに分かれる。翻訳文学が一つのジャンルとして確立しているように、日本では文学翻訳は社会的に高い評価を得ているものの、それは必ずしも経済的な成功を伴ってはいない。日本国内における2009年度の翻訳売上のうち出版はわずか1%にすぎず、技術やコンピュータ、ビジネス文書といった産業翻訳が約69%、特許翻訳が15%を占め主流となっている。 職業としての翻訳家であるか否かを問わず、高度な語学力を有する者は、地方公共団体、特定非営利活動法人、ジャーナリストなどに対して翻訳ボランティア活動を行うことが可能である。 たとえば、名古屋市における名古屋国際センターは、在日外国人の支援活動の一環として翻訳・通訳ボランティアを募集している。 また、東日本大震災の発生時に東京外国語大学の有志の学生たちにより「地震発生時緊急マニュアル」が作成され、40か国以上の言語に翻訳された。
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翻訳(ほんやく、とは、ある形で表現されている対象を、異なる形で改めて表現する行為である。 特に、自然言語において、起点言語による文章を、別の目標言語による文章に変換する行為をさす。例えば、英語文から日本語文へ翻訳された場合は、起点言語が英語であり、目標言語が日本語である。起点言語による文を原文といい、目標言語による文を訳文・翻訳文と言う。一方で、プログラミング用語としては形式言語の変換という意味でも用いられる。なお、文ではなく発話を翻訳する行為は、通訳とも呼ばれる。 翻訳という行為自体を研究する学問として、翻訳学がある。
{{WikipediaPage|翻訳|Wikipedia:翻訳のガイドライン}} {{otheruses||プログラミング用語|コンパイラ|生物学用語|翻訳 (生物学)}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2016年8月 | 更新 = 2021年3月 | 独自研究 = 2016年8月 }} {{言語学}} [[ファイル:GoogleTranslate-Gadget.png|サムネイル|日本語の文を英語に翻訳した例]] {{読み仮名|'''翻訳'''|ほんやく|{{lang-en-short|translation}}}}とは、ある形で表現されている対象を、異なる形で改めて表現する行為である。 特に、[[自然言語]]において、[[起点言語]](source language、原言語)による[[文章]]を、別の目標言語(target language、目的言語)による文章に変換する行為をさす<ref name="名前なし-1">「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p2 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。例えば、[[英語]]文から[[日本語]]文へ翻訳された場合は、起点言語が英語であり、目標言語が日本語である。起点言語による文を[[原文]]といい、目標言語による文を訳文・翻訳文と言う。一方で、[[プログラミング]][[専門用語|用語]]としては[[形式言語]]の変換という意味でも用いられる<ref group="注釈">[[プログラミング言語|コンピュータプログラミング言語]]における[[コンパイル]]など、[[形式言語]]における変換を指して(特に、以前は多かったカタカナ語の言い換え語として)「翻訳」という語を使うことも多いが、自然言語の翻訳と形式言語の変換は質的に全く異なるものであり、わかった気がする(実際には誤解しているだけの)言い換え語として以上の意味は無い。</ref>。なお、[[文]]ではなく[[発話]]を翻訳する行為は、[[通訳]]とも呼ばれる<ref name="名前なし-1"/>。 翻訳という行為自体を[[研究]]する[[学問]]として、[[翻訳学]](翻訳研究、{{Lang-en|translation studies}})がある<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p110 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。 == 直訳と意訳 == {{main|直訳と意訳}} 単純な逐語的な置き換えや、熟語単位の置き換えだけで済ませている翻訳などで、文章が状況や文脈ごとに持っている機能に十分に注意を払っていないような翻訳を「[[直訳]]」と言う。初心者や不完全な機械翻訳では、起点言語から目標言語へ、個々の語彙水準で辞書などにある目標語に置き換えてしまうことで目標言語における表現の体系(コロケーションや多義性など)を無視することがある。 これに対して、文章が発話された状況や[[文脈]]において果たす[[機能]]や本当の意味(意図)に焦点を当てて、目標言語でほぼ同等の機能や意味作用を持つ文章を、多数の文章の記憶(言語の使用経験に裏打ちされた、文脈ごとの、適切な発話事例に関する記憶)の中から見つけ出して翻訳文とすることを「[[意訳]]」と呼ぶ。 このような二種類の翻訳が現れる原因として、両言語から対応する[[語]]・[[句]]を選定する直訳作業において、単語は言語間で一対一の対応があるとは限らないことがある。例えば、起点言語では1語で表される[[概念]]が、目標言語では複数の語(複数の概念)にまたがっていたり、逆に起点言語で複数の語であるものが、目標言語では1語となってしまう場合である。これは、文学作品でのニュアンスや語感の再現や、言語による色の表現などで顕著になる問題である。例えば、[[虹]]の色の数は、日本では7色とされているが、他の地域や文化によっては7色とは限らない。また、日本語で「[[青]]」と呼ばれるものに緑色の植物や緑色の信号灯が含まれるのも、単純に単語を置き換えることができない顕著な例である。 === 機械翻訳と自動翻訳 === {{see|機械翻訳|翻訳サイト|翻訳ソフト}} [[機械翻訳]]は、実用的な汎用コンピュータが開発され始めた1960年前後から研究され続けてきた分野であるが、近年は一般的に利用が可能になってきたこともあり、機械翻訳に対して人による翻訳を「人力翻訳」や「人手翻訳」と言う場合もある。 [[グーグル]]や[[DeepL]]など各社が機械翻訳による自動翻訳を提供しているが、その精度は言語間によってまちまちである。日本語と英語のように文法が大きく異なる言語間では難易度が高くなる。完全な自動翻訳は難しく、似通った言語間においても利用者によるある程度の修正は必要となっている。 == 歴史 == [[File:Rosetta Stone BW.jpeg|thumb|120px|right|[[ロゼッタ・ストーン]]は紀元前196年に作られた]] [[File:Ontleedkundige Tafelen replica.jpg|thumb|120px|right|ターヘル・アナトミアはドイツ語原本のオランダ語訳本である]] 翻訳はある言語圏から別の言語圏へと知識を移転することを意味する。このため、かつては先進文化圏からの翻訳によって別の文化圏へと重要な知識が伝達され、移転先の文化レベルを上昇させることが多くあった。 翻訳が文化的に大きな影響を与えた例としては、[[古代ギリシア]]語が挙げられる。古代ギリシアで花開いた文化は[[ローマ帝国]]へと継承され、ローマの上流階級のほとんどは[[ギリシア語]]も解したため、[[ラテン語]]の科学に関する著作は多くが通俗的なものにとどまっていた。しかしギリシア語使用者が[[西ローマ帝国]]の衰退と運命を共にし、ラテン語圏西ヨーロッパでギリシア語を理解するものが減ったため、西ヨーロッパが中世に入るころにはギリシアの知識の多くが失われてしまっていた<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p158 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。しかしその文献はローマの継承国家でありギリシア語圏である[[東ローマ帝国]]において保持され、ギリシア語の文献として残っていた。また、5世紀から6世紀にかけては[[ネストリウス派]]によってこうしたギリシャ語文献の[[シリア語]]翻訳も行われていた<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p175-177 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。これらの文献のうちいくらかのものは[[8世紀]]以降[[アッバース朝]]統治下において[[アラビア語]]に翻訳された。この翻訳事業によって、[[医学]]の[[ヒポクラテス]]や[[ガレノス]]、[[哲学]]の[[アリストテレス]]や[[プラトン]]の知識が[[イスラム]]世界にもたらされ、[[イスラム科学]]の隆盛をもたらした<ref>「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p182-184 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷</ref>。さらにこれらのアラビア語文献は、[[12世紀]]に入ると[[シチリア王国]]の首都[[パレルモ]]や[[カスティーリャ王国]]の[[トレド]]といった、イスラム文化圏と接する[[キリスト教]]都市において[[ラテン語]]へと翻訳されるようになる<ref>「医学の歴史」pp150 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。これは古いギリシア科学だけでなく、[[フワーリズミー]]や[[イブン・スィーナー]]といったイスラムの大学者の文献も含まれており、また[[15世紀]]に入るとアラビア語だけでなく東ローマなどから入手したギリシア語の文献の直接翻訳も行われた<ref>「図説 本の歴史」p57 樺山紘一編 河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>。大翻訳時代とも呼ばれるこの翻訳活動を通じて、一度は失われていた古代世界の知識が[[西ヨーロッパ]]に再び流入し、[[12世紀ルネサンス]]、さらには[[ルネサンス]]を引き起こすきっかけとなった。 言語自体に影響を与えることもある。この例としては、[[マルティン・ルター]]による[[聖書]]の[[ドイツ語]]訳が挙げられる。それまでも[[ドイツ語訳聖書]]は存在したものの、ルターは日常言語を元にした理解しやすい表現を心がけ、出版された[[ルター聖書]]はドイツ人に広く読まれて[[ドイツ語]]そのものにも大きな影響を与えた<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p38 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。 [[日本]]でも翻訳は重要な役割を果たした。日本は古代以降、隣接する大国である[[中国]]の文献を翻訳して摂取し文明レベルを向上させてきた。一部では[[サンスクリット語]](梵語)も研究された。[[1774年]]の[[解体新書]]の翻訳出版を一つのきっかけとして、18世紀後半以降、盛んにヨーロッパの科学文献が翻訳されるようになった<ref name="名前なし-2">「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p18-19 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。この翻訳はヨーロッパ諸国のうちで唯一日本との通商関係のあった[[オランダ語]]からおこなわれており、そのためこうした翻訳者、さらに転じて[[西洋科学]]を身につけた学者たちは[[蘭学]]([[オランダ]]学、らんがく)者と呼ばれるようになった。この動きは[[江戸幕府]]が崩壊し[[明治維新]]が起きるとより加速され、オランダ語のみならず[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]など西洋の諸言語から膨大な翻訳が行われるようになった。この翻訳においてはさまざまな訳語が[[漢語]]の形で考案され、いわゆる[[和製漢語]]として盛んに流通するようになった<ref name="名前なし-2"/>。この新漢語は新しい概念を表すのに好都合であったため、一部は中国に逆輸入もされた。 == 重訳 == '''重訳'''とは、A言語→X言語→B言語、という風に、いったん他の言語に翻訳された版を参照し、さらに他の言語へ重ねて翻訳する方法である。起点言語であるA言語から目標言語であるB言語へ直接翻訳を行うことが、何らかの事情により困難な場合<ref>現代の事例では、[[サダム・フセイン]]の小説を和訳する際に、戦争のため版権所有者と連絡がとれず、仏語版から仏文学者が翻訳したものがある。『王様と愛人』p4 ブックマン社 2004年8月5日初版第1刷発行</ref>に行われる。N対Nの複数言語間の変換をおこなう場合、いったん軸(ピボット)となる言語に変換し、またそこから多言語へ変換する、いわゆるピボット翻訳を行うことが多い。ピボット言語には通常は英語が用いられる<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p69 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。 宗教書を例にとると、[[仏典]]の場合は[[サンスクリット]]・[[パーリ語]]の版から[[漢訳]]し、さらに[[日本語]]へ重訳されている。 == 分野 == グローバリゼーションの進展により多言語間の交流が増大し、それにともなって交わされる文書なども増大しているため、翻訳の重要性は高まっている<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p8-9 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。翻訳はその専門分野によって、文学翻訳、産業翻訳、法務翻訳、特許翻訳、医学翻訳、行政翻訳などに分かれる<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p74-78 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。翻訳文学が一つのジャンルとして確立しているように、日本では文学翻訳は社会的に高い評価を得ているものの、それは必ずしも経済的な成功を伴ってはいない<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p74-75 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。日本国内における2009年度の翻訳売上のうち出版はわずか1%にすぎず、技術やコンピュータ、ビジネス文書といった産業翻訳が約69%、特許翻訳が15%を占め主流となっている<ref>「よくわかる翻訳通訳学」(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)p76-77 鳥飼玖美子編著 ミネルヴァ書房 2013年12月10日初版第1刷発行</ref>。 == 社会貢献 == 職業としての翻訳家であるか否かを問わず、高度な語学力を有する者は、[[地方公共団体]]、[[特定非営利活動法人]]、[[ジャーナリスト]]などに対して翻訳[[ボランティア]]活動を行うことが可能である。 たとえば、[[名古屋市]]における[[名古屋国際センター]]は、在日外国人の支援活動の一環として翻訳・通訳ボランティアを募集している<ref>[http://www.nic-nagoya.or.jp/japanese/nicnews/aramashi/volunteer/volunteerabout 登録ボランティア制度について]([[名古屋国際センター]]、2012年9月11日閲覧)</ref>。 また、[[東日本大震災]]の発生時に[[東京外国語大学]]の有志の[[学生]]たちにより「地震発生時緊急マニュアル」が作成され、40か国以上の言語に翻訳された<ref>[http://nip0.wordpress.com/ Japan earthquake how to protect yourself] (地震発生時緊急マニュアル)、日本語・英語・その他の言語、[[東京外国語大学]]の学生たち、2012.3.3開始、2012年9月11日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{div col||15em}} *[[日本通訳翻訳学会]] *[[日本翻訳協会]] *[[日本翻訳連盟]] *[[日本翻訳家協会]] *[[日本翻訳者協会]] *[[翻訳研究]] *[[日本語訳]] *[[通訳]] *[[全国通訳案内士]] *[[翻案]]、[[翻案権]] *[[翻訳権]] * [[直訳]]、[[直訳と意訳]]、[[再翻訳]] * [[機械翻訳]]、[[自然言語処理]]、[[翻訳支援ツール]] *[[起点言語]]、{{仮リンク|目標言語|en|Target language (translation)}} *[[世界翻訳の日]] {{div col end}} {{SisterlinksN|wikt=no|b=no|q=no|s=no|commonscat=Translation|commons=no|n=no|v=no|voy=no|d=Q7553|species=no}} == 外部リンク == * [https://jaits.jp/ 日本通訳翻訳学会] * [https://www.jta-net.or.jp/ 一般社団法人日本翻訳協会] * [https://www.jtf.jp/ 一般社団法人日本翻訳連盟] * [http://www.japan-s-translators.com/ NPO法人日本翻訳家協会] * [https://jat.org/ja/ NPO法人日本翻訳者協会] * [https://careergarden.jp/honyakuka/ 翻訳家(翻訳者)の仕事内容・なり方・年収・資格を解説] - [[キャリアガーデン]] * [https://web.archive.org/web/20081216051623/http://www.trs-data.com/ 出版翻訳データベース] - 日本人翻訳家のデータベースサイト * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほんやく}} [[Category:翻訳|*]] [[Category:翻訳家|*]] [[Category:応用言語学]] [[Category:コミュニケーション]] [[Category:文書によるコミュニケーション]]
2003-04-06T17:02:06Z
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夏季オリンピック
夏季オリンピック(かきオリンピック、仏:Jeux olympiques d'été、英:Summer Olympic Games)は、近代オリンピックのうち夏期に行われるもの。オリンピズムに基づき行われる祭典であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。国際オリンピック委員会(略称: IOC)が開催する。正式名称はオリンピアード競技大会(オリンピアードきょうぎたいかい、英:Games of the Olympiad)。日本語では「夏季五輪」と呼ぶこともある。 4年単位のオリンピアードの第1年に開催される。 第一回夏季オリンピックは1896年にアテネで開催された。過去3回夏季五輪の開催が取りやめとなった例があるが、この場合でも「回次」(第○○回の「○○」の部分)はそのまま残る。 なお、第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリア(ただし1908年・1912年のオリンピックではオーストララシアとして参加)の5か国のみである。 ^ A: 1900 - IOCのサイトでは95。 ^ B: 1904 - IOCのサイトでは91。 ^ C: 1920 - IOCのサイトでは154。 オリンピック夏季大会競技団体連合(ASOIF)に国際競技連盟(IF)が加盟している競技が正式競技とされ、本大会の7年前の国際オリンピック委員会(IOC)総会で最終決定する。競技数の上限は28である。競技・種目数は一貫して増え続け、2000年のシドニー五輪では28競技・300種目に達したことから五輪の肥大化が問題視され、2012年のロンドン五輪では野球とソフトボールが外され、26競技・302種目に減らされた。2007年には中核競技制度が導入され、2016年のリオデジャネイロ五輪ではロンドンで実施された26競技(2020年大会では25競技)は除外されない。リオ大会ではゴルフとラグビー(7人制)が加わり、28競技で実施された。 IOCは、夏季オリンピック競技を人気度に基づいて5つのカテゴリー(A-E)に分け、テレビ視聴数(40%)、インターネット人気(20%)、公的調査(15%)、チケット要求(10%)、報道報道(10%)、全国連盟数(5%)の6つの基準で測定している。スポーツのカテゴリは、そのスポーツ競技の国際連盟が受け取るオリンピック収入のシェアを決定する。2016年、オリンピックに新たに登場した競技(ラグビーとゴルフ)がカテゴリーEに入れられた。 現在のカテゴリは次のとおり。 水泳は、競泳、飛込、アーティスティックスイミング、水球を含む。 各競技種目の一位となった競技者には金メダル、二位には銀メダル、三位には銅メダルの授与が行われ、4位以下は「入賞」となる。「入賞」は最大8位まで。 なお誤解の無いように説明しておかなければならないが、オリンピックのメダルはあくまで「競技者個人」(やチーム)に対して授与されているのであって、「国」に対して授与されているのではない。 以下の表は、IOCが提供する公式データを使用しています。 (2016年リオデジャネイロ大会終了時)
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夏季オリンピックは、近代オリンピックのうち夏期に行われるもの。オリンピズムに基づき行われる祭典であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。国際オリンピック委員会が開催する。正式名称はオリンピアード競技大会。日本語では「夏季五輪」と呼ぶこともある。 4年単位のオリンピアードの第1年に開催される。 第一回夏季オリンピックは1896年にアテネで開催された。過去3回夏季五輪の開催が取りやめとなった例があるが、この場合でも「回次」(第○○回の「○○」の部分)はそのまま残る。 なお、第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリア(ただし1908年・1912年のオリンピックではオーストララシアとして参加)の5か国のみである。
{{ウィキプロジェクトリンク|オリンピック}} [[ファイル:Summer olympics all cities.PNG|thumb|300px|夏季五輪の開催国。数字は開催年。{{Bulleted list|緑色の国は過去に1回開催された国。青色の国は過去に2回以上開催された国(同一都市であるか、その国の別々の都市であるかを問わず)。|●は開催された都市で、黒色は1回、オレンジ色は2回、赤色は3回開催された都市。}}]] '''夏季オリンピック'''(かきオリンピック、[[フランス語|仏]]:Jeux olympiques d'été、[[英語|英]]:Summer Olympic Games)は、[[近代オリンピック]]のうち夏期に行われるもの。[[オリンピズム]]に基づき行われる[[祭典]]であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である<ref name="OSCkennkyuujo">[https://www.nittai.ac.jp/sports/basic/index.html オリンピックスポーツ文化研究所]</ref>。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、[[平和]]な世界を実現し[[人間]]の[[尊厳]]を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである<ref>[https://olympics.com/ioc/news/what-is-olympism/ International Olympic Comitee, "What is Olympism?"]</ref>。'''平和の祭典'''であり<ref name="OSCkennkyuujo" /><ref name='masumoto'>舛本直文『オリンピックは平和の祭典 』大修館書店、2019年</ref><ref >『オリンピックの事典―平和と青春の祭典』三省堂、1984年</ref>、単なる総合スポーツ大会ではない<ref name="OSCkennkyuujo" /><ref>[http://www.tamakimasayuki.com/nongenre/bn_97.html]</ref>。[[国際オリンピック委員会]](略称: IOC)が開催する。正式名称は'''[[オリンピアード]]競技大会'''(オリンピアードきょうぎたいかい、英:Games of the Olympiad)。日本語では「夏季五輪」と呼ぶこともある。 4年単位の[[オリンピアード]]の第1年に開催される。<!--独自の研究。[[複偶数|4で割り切れる]][[西暦]]年([[子年]]、[[辰年]]、[[申年]])に--> <!--開催した年により変動してきた。断定的に言わないほうがよい。30以上??の種目の競技が行われる。--> 第一回夏季オリンピックは[[1896年]]に[[アテネ]]で開催された。過去3回夏季五輪の開催が取りやめとなった例があるが、この場合でも「回次」(第○○回の「○○」の部分)はそのまま残る。 なお、[[1896年アテネオリンピック|第1回大会]]から全て参加しているのは、[[ギリシャ]]・[[イギリス]]・[[フランス]]・[[スイス]]・[[オーストラリア]](ただし[[1908年]]・[[1912年]]のオリンピックでは[[オーストララシア]]として参加)の5か国のみである。 == 大会一覧 == * 左端は回。「国」は 参加国・地域数(2000年と2012年は他に[[IOA]]の参加も有り) {| class="wikitable sortable" style="white-space:nowrap;" ! rowspan=2| !! rowspan=2|<small>年</small> !! rowspan=2|<small>期間</small> !! rowspan=2|開催地 !! rowspan=2|開催大陸/開催国 !! rowspan=2|<small>国</small> !! colspan=3|<small>参加選手数</small><ref>【出典】 [https://web.archive.org/web/20140227190419/http://www.olympic.org/Documents/Reference_documents_Factsheets/The_Olympic_Summer_Games.pdf FACTSHEET THE GAMES OF THE OLYMPIAD (Summer Games)] OCTOBER 2013</ref><ref>【出典】 [https://web.archive.org/web/20151018014846/http://www.olympic.org/Documents/women-participation_graph_en.pdf Development of women's participation in the Games of Olympiads]</ref> !! rowspan=2 class="unsortable"|<small>備考</small> !! rowspan=2|<small>種目</small> !! rowspan=2|<small>主会場<br>(メインスタジアム)</small> |- ! <small>計</small> !! <small>男</small> !! <small>女</small> |- | {{0}}1 || [[1896年|1896]] | 4月6日 - 4月15日 | {{flagicon|GRE1828}} [[1896年アテネオリンピック|アテネ]] <small>(1)</small> | 欧州 {{None|ギリシャ1}}[[ギリシャ王国]] || 14 || 241 || {{0}}241 || {{0|000}}0 || || {{0}}43||[[パナシナイコスタジアム]] |- | {{0}}2 || [[1900年|1900]] | 5月14日 - 10月28日 | {{flagicon|FRA1794}} [[1900年パリオリンピック|パリ]] <small>(1)</small> | 欧州 [[フランス第三共和政|フランス]] || 24 || {{0}}997 || {{0}}975 || {{0|00}}22 || <ref group="注">パリ万博の付属大会。[[2021年]]まで長らく、[[平年]]に開催された唯一の大会であった。</ref> || {{0}}85{{cref|A}}||[[ヴェロドローム・ド・ヴァンセンヌ]] |- | {{0}}3 || [[1904年|1904]] | 7月1日 - 11月23日 | {{flagicon|USA1896}} [[1904年セントルイスオリンピック|セントルイス]] | 北米 [[アメリカ合衆国|アメリカ]] || 12 || {{0}}651 || {{0}}645 || {{0|000}}6 || || {{0}}94{{cref|B}}||[[フランシス・フィールド]] |- style="background-color:#ccffcc" | {{None|03.5}}<small>{{Align|center|特別}}</small> || [[1906年|1906]] | 4月22日 - 5月2日 | {{flagicon|GRE1828}} [[1906年アテネオリンピック|アテネ]] | 欧州 {{None|ギリシャ2}}[[ギリシャ王国]] || 21 || {{0}}854 || {{0}}848 || {{0|000}}6 || <ref group="注">近代オリンピック制定10周年記念の特別大会として開かれたので、回次はつかない。</ref> || {{0}}78 || パナシナイコスタジアム |- | {{0}}4 || [[1908年|1908]] | 4月27日 - 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10月27日 | {{None|4北米}}{{flagicon|MEX}} [[1968年メキシコシティーオリンピック|メキシコシティ]] | 北米 [[メキシコ]] || 112 || 5516 || 4735 || {{0}}781 || || 172 ||[[エスタディオ・オリンピコ・ウニベルシタリオ]] |- | 20 || [[1972年|1972]] | 8月26日 - 9月11日 | {{flagicon|GER}} [[1972年ミュンヘンオリンピック|ミュンヘン]] | 欧州 {{None|ドイツ3}}[[西ドイツ]] || 121 || 7134 || 6075 || 1059 || <ref group="注">開催中、パレスチナゲリラにより[[イスラエル]]選手が殺害される([[ミュンヘンオリンピック事件]])。</ref> || 195 ||[[ミュンヘン・オリンピアシュタディオン]] |- | 21 || [[1976年|1976]] | 7月17日 - 8月1日 | {{None|6北米}}{{flagicon|CAN}} [[1976年モントリオールオリンピック|モントリオール]] | 北米 [[カナダ]] || 92 || 6084 || 4824 || 1260 || <ref group="注">アフリカ諸国のほとんどがボイコット。</ref> || 198 ||[[オリンピック・スタジアム (モントリオール)|オリンピック・スタジアム The Big O]] |- | 22 || [[1980年|1980]] | 7月19日 - 8月3日 | {{None|{{flagicon|BEL}}}}{{flagicon|URS}} [[1980年モスクワオリンピック|モスクワ]] | 欧州 {{None|/}}[[ソビエト連邦]] || 80 || 5179 || 4064 || 1115 || <ref group="注">[[西側諸国]]のほとんどがボイコット。</ref> || 203 ||[[ルジニキ・スタジアム]] |- | 23 || [[1984年|1984]] | 7月28日 - 8月12日 | {{flagicon|USA}} [[1984年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス]] <small>(2)</small> | 北米 [[アメリカ合衆国|アメリカ]] || 140 || 6829 || 5263 || 1566 || <ref group="注">[[東側諸国]]のほとんどがボイコット。</ref> || 221 ||ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム |- | 24 || [[1988年|1988]] | 9月17日 - 10月2日 | {{flagicon|KOR}} [[1988年ソウルオリンピック|ソウル]] | アジア [[大韓民国|韓国]] || 159 || 8391 || 6197 || 2194 || <ref group="注">北朝鮮([[朝鮮民主主義人民共和国]])は不参加。</ref> || 237 ||[[ソウル総合運動場|蚕室総合運動場]] |- | 25 || [[1992年|1992]] | 7月25日 - 8月9日 | {{flagicon|ESP}} [[1992年バルセロナオリンピック|バルセロナ]] | 欧州 [[スペイン]] || 169 || 9356 || 6652 || 2704 || || 257 || [[エスタディ・オリンピック・リュイス・コンパニス]] |- | 26 || [[1996年|1996]] | 7月19日 - 8月4日 | {{flagicon|USA}} [[1996年アトランタオリンピック|アトランタ]] | 北米 [[アメリカ合衆国|アメリカ]] || 197 || 10318 || 6806 || 3512 || || 271 || [[センテニアル・オリンピックスタジアム]] |- | 27 || [[2000年|2000]] | 9月15日 - 10月1日 | {{None|02豪州}}{{flagicon|AUS}} [[2000年シドニーオリンピック|シドニー]] | 大洋州 [[オーストラリア]] || 199 || 10651 || 6582 || 4069 || || 300 || [[スタジアム・オーストラリア]] |- | 28 || [[2004年|2004]] | 8月13日 - 8月29日 | {{flagicon|GRE}} [[2004年アテネオリンピック|アテネ]] <small>(2)</small> | 欧州 {{None|ギリシャ3}}[[ギリシャ]] || 201 || 10625 || 6296 || 4329 || || 301 ||[[アテネ・オリンピックスタジアム]] |- | 29 || [[2008年|2008]] | 8月8日 - 8月24日 | {{flagicon|CHN}} [[2008年北京オリンピック|北京]] | アジア [[中華人民共和国|中国]] || 204 || 10942 || 6305 || 4637 || <ref group="注">[[2008年北京オリンピックの馬術競技|馬術競技]]は検疫の関係から、特別行政区である[[香港]]で開催された。<br>なお[[北京]]は、[[2022年北京オリンピック|2022年冬季大会]]が決定し、「史上初の夏冬開催都市」となる予定。</ref> || 302 || [[北京国家体育場]] |- | 30 || [[2012年|2012]] | 7月27日 - 8月12日 | {{flagicon|GBR}} [[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン]] <small>(3)</small> | 欧州 [[イギリス]] || 204 || 10568 || 5892 || 4676 || || 302 ||[[ロンドン・スタジアム]] |- | 31 || [[2016年|2016]] | 8月5日 - 8月21日 | {{None|2南米}}{{flagicon|BRA}} [[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ]] | 南米 [[ブラジル]] || 206 ||11237 || 6179 || 5059 || || 306 ||[[エスタジオ・ド・マラカナン|マラカナンスタジアム]] |- | 32 |[[2020年|2020]] | 2021年7月23日 - 8月8日 | {{flagicon|JPN}} [[2020年東京オリンピック|東京]] <small>(2)</small> | アジア [[日本]]|| 206 || 11656 ||5982 || 5494 ||<ref group="注">当初は2020年に開催される予定だったが、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の影響により、翌年に延期された。</ref> || 339 || [[国立競技場|東京・オリンピックスタジアム]] |- |33 |[[2024年|2024]] | 7月26日 - 8月11日(予定) |{{flagicon|FRA}} [[2024年パリオリンピック|パリ]] <small>(3)</small> |欧州 [[フランス]] | colspan="4" |{{Align|center|予定}} | | |[[スタッド・ド・フランス]] |- |34 |[[2028年|2028]] | 7月14日 - 7月30日(予定) |{{flagicon|USA}} [[2028年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルス]] <small>(3)</small> |北米 [[アメリカ合衆国|アメリカ]] | colspan="4" |{{Align|center|予定}} | | |ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム |- |35 |[[2032年|2032]] | 7月23日 - 8月8日(予定) |{{flagicon|AUS}} [[2032年ブリスベンオリンピック|ブリスベン]] |大洋州 [[オーストラリア]] | colspan="4" |{{Align|center|予定}} | | |[[ブリスベン・クリケット・グラウンド]] |- |36 |[[2036年|2036]] | |開催地未定 | colspan="5" |{{Align|center|予定}} | | | |- |37 |[[2040年|2040]] | |開催地未定 | colspan="5" |{{Align|center|予定}} | | | |- |38 |[[2044年|2044]] | |開催地未定 | colspan="5" |{{Align|center|予定}} | | | |- |} {{refbegin}} {{cnote|A|1900 - IOCのサイトでは95<ref>{{cite web|url=http://www.olympic.org/paris-1900-summer-olympics |title=IOC site for the 1900 Olympic Games |publisher=Olympic.org |accessdate=10 February 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.olympic.org/content/results-and-medalists/eventresultpagegeneral/?athletename=&country=&sport2=&games2=1900%2f1&event2=&mengender=true&womengender=true&mixedgender=true&goldmedal=true&silvermedal=true&bronzemedal=true&worldrecord=true&olympicrecord=false&teamclassification=true&individualclassification=true&winter=true&summer=true |title=IOC database for the 1900 Olympic Games |publisher=Olympic.org |accessdate=10 February 2014}}</ref>。<ref>{{cite web|url=http://www.la84foundation.org/6oic/OfficialReports/Mallon/1900.pdf |title=1900 Olympic Games — Analysis and Summaries |format=PDF |accessdate=10 February 2014}}</ref>}} {{cnote|B|1904 - IOCのサイトでは91<ref>{{cite web|url=http://www.olympic.org/st-louis-1904-summer-olympics |title=IOC site for the 1904 Olympic Games |publisher=Olympic.org |accessdate=10 February 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.olympic.org/content/results-and-medalists/eventresultpagegeneral/?athletename=&country=&sport2=&games2=1904%2f1&event2=&mengender=true&womengender=true&mixedgender=true&goldmedal=true&silvermedal=true&bronzemedal=true&worldrecord=true&olympicrecord=false&teamclassification=true&individualclassification=true&winter=true&summer=true |title=IOC database for the 1904 Olympic Games |publisher=Olympic.org |accessdate=10 February 2014}}</ref>。<ref>{{cite web|url=http://www.la84foundation.org/6oic/OfficialReports/Mallon/1904.pdf |title=1904 Olympic Games — Analysis and Summaries |format=PDF |accessdate=10 February 2014}}</ref>}} {{cnote|C|1920 - IOCのサイトでは154<ref>{{cite web|url=http://www.olympic.org/antwerp-1920-summer-olympics |title=IOC site for the 1920 Olympic Games |publisher=Olympic.org |accessdate=10 February 2014}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.olympic.org/content/results-and-medalists/eventresultpagegeneral/?athletename=&country=&sport2=&games2=1920%2f1&event2=&mengender=true&womengender=true&mixedgender=true&goldmedal=true&silvermedal=true&bronzemedal=true&worldrecord=true&olympicrecord=false&teamclassification=true&individualclassification=true&winter=true&summer=true |title=IOC database for the 1920 Olympic Games |publisher=Olympic.org |accessdate=10 February 2014}}</ref>。}} {{refend}} == 正式競技 == [[オリンピック夏季大会競技団体連合]](ASOIF)に[[国際競技連盟]](IF)が加盟している[[競技]]が正式競技とされ、本大会の7年前の[[国際オリンピック委員会]](IOC)総会で最終決定する。競技数の上限は28である。競技・種目数は一貫して増え続け、2000年の[[2000年シドニーオリンピック|シドニー五輪]]では28競技・300種目に達したことから五輪の肥大化が問題視され、2012年の[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドン五輪]]では野球とソフトボールが外され、26競技・302種目に減らされた<ref group="注">北京五輪ではこれまでで最大の28競技・302種目だった。</ref>。2007年には中核競技制度が導入され、2016年の[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオデジャネイロ五輪]]ではロンドンで実施された26競技(2020年大会では25競技)は除外されない。リオ大会ではゴルフとラグビー(7人制)が加わり、28競技で実施された<ref>[[産経新聞]] [[2012年]][[7月25日]]。</ref>。 === 水泳 === * [[競泳]] * [[ボート]] * [[セーリング]] * [[カヌー]] * [[水球]] === 格闘技 === * [[フェンシング]] * [[アマチュアレスリング|レスリング]] * [[ボクシング]] * [[柔道]] * [[テコンドー]] === 射的 === * [[射撃]] * [[アーチェリー]] === 球技 === * [[テニス]] * [[サッカー]] * [[フィールドホッケー|ホッケー]] * [[バスケットボール]] * [[バレーボール]] * [[ハンドボール]] * [[卓球]] * [[バドミントン]] * [[ゴルフ]] * [[7人制ラグビー]] === 複合競技 === * [[近代五種]] * [[トライアスロン]] === その他 === * [[陸上競技]] * [[体操]] * [[競技ダンス|ダンススポーツ]] * [[ウエイトリフティング]] * [[自転車競技]] * [[馬術]] == 競技人気 == IOCは、夏季オリンピック競技を人気度に基づいて5つのカテゴリー(A-E)に分け、テレビ視聴数(40%)、インターネット人気(20%)、公的調査(15%)、チケット要求(10%)、報道報道(10%)、全国連盟数(5%)の6つの基準で測定している。スポーツのカテゴリは、そのスポーツ競技の国際連盟が受け取るオリンピック収入のシェアを決定する<ref>{{cite news |title=Athletics to share limelight as one of top Olympic sports |url=http://www.qt.com.au/news/atheltics-share-limelight-one-top-olympic-sports/1889097/ |newspaper=The Queensland Times |date=31 May 2013 |access-date=18 July 2013}}</ref><ref>{{cite web | title=Winners Include Gymnastics, Swimming - and Wrestling - as IOC Announces New Funding Distribution Groupings | work=The Association of Summer Olympic International Federations | url=http://asoif.com/News/News_Article.aspx?ID=3392 | access-date=18 July 2013 }}</ref>。2016年、オリンピックに新たに登場した競技(ラグビーとゴルフ)がカテゴリーEに入れられた。 現在のカテゴリは次のとおり。 {| class="wikitable" |- ! Cat. !! 競技数 !! 競技種 |- | align=center | A || align=center | 4 || 陸上競技、水泳、体操、ダンススポーツ |- | align=center | B || align=center | 5 || バスケットボール, バレーボール, サッカー, テニス, 自転車競技 |- | align=center | C || align=center | 8 || アーチェリー, バドミントン, ボクシング, 柔道, ボート, 卓球, 射撃, ウエイトリフティング |- | align=center | D || align=center | 9 || カヌー, 馬術, フェンシング, ハンドボール, ホッケー, セーリング, テコンドー, トライアスロン, レスリング |- | align=center | E || align=center | 3 || 近代五種, ゴルフ, 7人制ラグビー |- | align=center | F || align=center | 6 || 野球/ソフトボール, 空手, スケートボード, スポーツクライミング, サーフィン |- |} 水泳は、競泳、飛込、アーティスティックスイミング、水球を含む。 == 開催都市選考 == {{main|オリンピックの開催地選考}} == メダルと入賞 == === メダル授与と入賞 === 各競技種目の一位となった競技者には金メダル、二位には銀メダル、三位には銅メダルの授与が行われ、4位以下は「入賞」となる。「入賞」は最大8位まで。 :失格者が出た場合、永年において可能な限り剥奪・回収および繰上げ者には返還・授与を行っており、近年、[[ドーピング]]検査・鑑定によって10年を越える剥奪・授与が実現している。例えば、二位競技者Aが失格の場合、Aの記録抹消とAから銀メダル剥奪が行われ、繰上げ二位の新二位競技者Bに銀メダル授与と銅メダル返還請求が行われ、新三位競技者Cに銅メダル授与が行われる。 === 国別メダル獲得数 === なお誤解の無いように説明しておかなければならないが、オリンピックのメダルはあくまで「競技者個人」(やチーム)に対して授与されているのであって、「国」に対して授与されているのではない。 {{main|All-time Olympic Games medal table}} 以下の表は、IOCが提供する公式データを使用しています。<ref>{{Cite news|url=https://www.olympic.org/olympic-results|title=RESULTS|work=olympic.org|access-date=13 November 2017|language=en}}</ref> (2016年リオデジャネイロ大会終了時) {{legend|BurlyWood| '''廃止国家'''}} {| class="wikitable sortable" style="width:75%; font-size:90%; text-align:center;" |- !順位 !!国 !!style="background-color:gold;"|金 !!style="background-color:silver;"|銀 !! style="background-color:#c96;"|銅 !!総計!!競技数 |- !1 |align=left|{{flagIOCteam|USA}} || 1,075 || 846 || 752 || 2,673 || 28 |- !2 |style="background:BurlyWood; text-align:left;"|{{flagIOCteam|URS}} || 395 || 319 || 296 || 1,010 || 10 |- !3 |align=left|{{flagIOCteam|GBR}} || 263 || 295 || 293 || 851 || 28 |- !4 |align=left|{{flagIOCteam|CHN}} || 224 || 167 || 155 || 546 || 10 |- !5 |align=left|{{flagIOCteam|FRA}} || 212 || 241 || 263 || 716 || 28 |- !6 |align=left|{{flagIOCteam|ITA}} || 206 || 178 || 193 || 577 || 27 |- !7 |align=left|{{flagIOCteam|GER}} || 191 || 194 || 230 || 615 || 16 |- !8 |align=left|{{flagIOCteam|HUN}} || 175 || 147 || 169 || 491 || 26 |- !9 |align=left|{{flagIOCteam|AUS}} || 164 || 177 || 213 || 554 || 28 |- !10 |style="background:BurlyWood; text-align:left;"|{{flagIOCteam|GDR}} || 153 || 129 || 127 || 409 || 5 |- !11 |align=left|{{flagIOCteam|RUS}} || 149 || 125 || 152 || 426 || 6 |- !12 |align=left|{{flagIOCteam|SWE}} || 145 || 170 || 179 || 494 || 27 |- !13 |align=left|{{flagIOCteam|JPN}} || 142 || 136 || 161 || 439 || 22 |- !14 |align=left|{{flagIOCteam|FIN}} || 101 || 85 || 117 || 303 || 25 |- !15 |align=left|{{flagIOCteam|KOR}} || 90 || 87 || 90 || 267 || 17 |- !16 |align=left|{{flagIOCteam|ROU}} || 89 || 95 || 122 || 306 || 21 |- !17 |align=left|{{flagIOCteam|NED}} || 85 || 92 || 108 || 285 || 26 |- !18 |align=left|{{flagIOCteam|CUB}} || 78 || 68 || 80 || 226 || 20 |- !19 |align=left|{{flagIOCteam|POL}} || 68 || 84 || 132 || 284 || 21 |-21 68 84 132 284 !20 |align=left|{{flagIOCteam|CAN}} || 64 || 102 || 136 || 302 || 26 |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist2|2}} ===出典=== {{Reflist|25em}} == 関連項目 == * [[近代オリンピック]] * [[国際オリンピック委員会]] * [[夏季オリンピックの競技一覧]] * [[日本の夏季オリンピック金メダル]] * [[日本の夏季オリンピック銀メダル]] * [[日本の夏季オリンピック銅メダル]] * [[パラリンピック]] * [[冬季オリンピック]] * [[オリンピアード]] == 外部リンク == * [https://digital.la84.org/digital/collection/p17103coll8 Olympic Official Reports Collection] - LA84 Digital Library{{en icon}}(各大会IOC公式報告書) {{オリンピック}} {{国際オリンピック委員会}} {{夏季オリンピック開催都市}} {{オリンピック招致}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かきおりんひつく}} [[Category:夏季オリンピック|*]] [[Category:1896年開始のイベント]]
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Adobe-Japan1
Adobe-Japan1(アドビジャパンワン、略称: AJ1, A-J1)は、アドビが定めた日本語の文字コレクション(文字集合)で、フォントメーカー各社の製品が準拠するDTP市場のデファクトスタンダードとなっている。2019年時点で八つの追補があり、最新のAdobe-Japan1-7は、2万3060グリフ(字形、文字)を収録する。収録する全ての文字にCID(Character IDentifier, Character ID)と呼ばれる一連の識別番号を振る。 文字コレクション(character collection)は、CIDと文字の標準化されたセットを指し、言語・書記体系(用字系)ごとに定義される。モリサワフォント用語集によると「文字セットとほぼ同義」だが、「公的な規格としてよりは、プライベートな規格を指していうことが多いよう」だとされる。 文字コレクションには「登録者-配列(-追補番号)」の形式で名前が付けられる。Adobe-Japan1-7の場合、Adobeが登録者、Japan1が配列、7が追補番号を示す。 出版・印刷業界には、JIS X 0208やISO/IEC 10646≒Unicodeといった公的規格の文字セットが包摂している異体字を区別して使う需要が根強くある。JIS X 0208やJIS X 0213では、国の漢字施策の影響などで規格の改正の際に例示字形を変更したことがたびたびあった。このほかIBM拡張文字などのベンダ拡張文字セットや、印刷業界で使われてきた文字セットでは、例示字形とは異なる異体字やそもそも字種としてJIS漢字にない文字を取り込んでいる。Adobe-Japan1ではこれらの字形を収集し、公的規格のコードポイントとは別にCIDを割り振って区別できるようにしている。 実際のOS・アプリケーションとのやりとりは通常フォントに内蔵されたCMapテーブル(CIDとUnicodeを相互に関連付けた対応表)を参照して行われるが、Acrobat・InDesign(いずれもアドビ製品)・日本語LaTeX(フリーソフト)などのアプリケーションソフトウェアはCID番号を直接利用することがある。 Adobe-Japan1の追補ごとの詳細は以下の通り。 Adobe-Japan1-4とAdobe-Japan1-5との間にAppleがMac OS X v10.1でJIS X 0213文字を拡張したApple Publishing Glyph Set (APGS)もあるが、Adobe-Japan1-5と同じものということになっている(実際にはAdobe-Japan1-5との間には僅かに違いがある)。 JIS X 0213:2004対応としてフォント名で従来のJIS90字形とJIS2004字形を区別するようにしている。 IVS(漢字異体字シーケンス (Ideographic Variation Sequences))を使用することにより、JIS90字形とJIS2004字形を区別するようになっている。ただし、下表でCIDで区別しないものを示す。 𠀋(U+2000B) 𠂉(U+20089) 𠂊(U+2008A) 𠂢(U+200A2) 𠂤(U+200A4) 𠂰(U+200B0) 𠃵(U+200F5) 𠅘(U+20158) 𠆢(U+201A2) 𠈓(U+20213) 𠌫(U+2032B) 𠍱(U+20371) 𠎁(U+20381) 𠏹(U+203F9) 𠑊(U+2044A) 𠔉(U+20509) 𠔿(U+2053F) 𠖱(U+205B1) 𠗖(U+205D6) 𠘑(U+20611) 𠘨(U+20628) 𠛬(U+206EC) 𠝏(U+2074F) 𠟈(U+207C8) 𠠇(U+20807) 𠠺(U+2083A) 𠢹(U+208B9) 𠤎(U+2090E) 𠥼(U+2097C) 𠦄(U+20984) 𠦝(U+2099D) 𠩤(U+20A64) 𠫓(U+20AD3) 𠬝(U+20B1D) 𠮟(U+20B9F) 𠮷(U+20BB7) 𠵅(U+20D45) 𠵘(U+20D58) 𠷡(U+20DE1) 𠹤(U+20E64) 𠹭(U+20E6D) 𠺕(U+20E95) 𠽟(U+20F5F) 𡈁(U+21201) 𡈽(U+2123D) 𡉕(U+21255) 𡉴(U+21274) 𡉻(U+2127B) 𡋗(U+212D7) 𡋤(U+212E4) 𡋽(U+212FD) 𡌛(U+2131B) 𡌶(U+21336) 𡍄(U+21344) 𡏄(U+213C4) 𡑭(U+2146D) 𡑮(U+2146E) 𡗗(U+215D7) 𡙇(U+21647) 𡚴(U+216B4) 𡜆(U+21706) 𡝂(U+21742) 𡢽(U+218BD) 𡧃(U+219C3) 𡨚(U+21A1A) 𡱖(U+21C56) 𡴭(U+21D2D) 𡵅(U+21D45) 𡵢(U+21D62) 𡵸(U+21D78) 𡶒(U+21D92) 𡶜(U+21D9C) 𡶡(U+21DA1) 𡶷(U+21DB7) 𡷠(U+21DE0) 𡸳(U+21E33) 𡸴(U+21E34) 𡼞(U+21F1E) 𡽶(U+21F76) 𡿺(U+21FFA) 𢅻(U+2217B) 𢈘(U+22218) 𢌞(U+2231E) 𢎭(U+223AD) 𢘉(U+22609) 𢛳(U+226F3) 𢡛(U+2285B) 𢢫(U+228AB) 𢦏(U+2298F) 𢪸(U+22AB8) 𢭆(U+22B46) 𢭏(U+22B4F) 𢭐(U+22B50) 𢮦(U+22BA6) 𢰝(U+22C1D) 𢰤(U+22C24) 𢷡(U+22DE1) 𢹂(U+22E42) 𢿫(U+22FEB) 𣆶(U+231B6) 𣇃(U+231C3) 𣇄(U+231C4) 𣇵(U+231F5) 𣍲(U+23372) 𣏌(U+233CC) 𣏐(U+233D0) 𣏒(U+233D2) 𣏓(U+233D3) 𣏕(U+233D5) 𣏚(U+233DA) 𣏟(U+233DF) 𣏤(U+233E4) 𣏾(U+233FE) 𣑊(U+2344A) 𣑋(U+2344B) 𣑑(U+23451) 𣑥(U+23465) 𣓤(U+234E4) 𣕚(U+2355A) 𣖔(U+23594) 𣗄(U+235C4) 𣘸(U+23638) 𣘹(U+23639) 𣘺(U+2363A) 𣙇(U+23647) 𣜌(U+2370C) 𣜜(U+2371C) 𣜿(U+2373F) 𣝣(U+23763) 𣝤(U+23764) 𣟧(U+237E7) 𣟱(U+237F1) 𣟿(U+237FF) 𣠤(U+23824) 𣠽(U+2383D) 𣪘(U+23A98) 𣱿(U+23C7F) 𣲾(U+23CBE) 𣳾(U+23CFE) 𣴀(U+23D00) 𣴎(U+23D0E) 𣵀(U+23D40) 𣷓(U+23DD3) 𣷹(U+23DF9) 𣷺(U+23DFA) 𣽾(U+23F7E) 𤁋(U+2404B) 𤂖(U+24096) 𤄃(U+24103) 𤇆(U+241C6) 𤇾(U+241FE) 𤋮(U+242EE) 𤎼(U+243BC) 𤏐(U+243D0) 𤘩(U+24629) 𤚥(U+246A5) 𤟱(U+247F1) 𤢖(U+24896) 𤩍(U+24A4D) 𤭖(U+24B56) 𤭯(U+24B6F) 𤰖(U+24C16) 𤴔(U+24D14) 𤸄(U+24E04) 𤸎(U+24E0E) 𤸷(U+24E37) 𤹪(U+24E6A) 𤺋(U+24E8B) 𤿲(U+24FF2) 𥁊(U+2504A) 𥁕(U+25055) 𥄢(U+25122) 𥆩(U+251A9) 𥇍(U+251CD) 𥇥(U+251E5) 𥈞(U+2521E) 𥉌(U+2524C) 𥐮(U+2542E) 𥒎(U+2548E) 𥓙(U+254D9) 𥔎(U+2550E) 𥖧(U+255A7) 𥙿(U+2567F) 𥝱(U+25771) 𥞩(U+257A9) 𥞴(U+257B4) 𥡴(U+25874) 𥧄(U+259C4) 𥧌(U+259CC) 𥧔(U+259D4) 𥫗(U+25AD7) 𥫣(U+25AE3) 𥫤(U+25AE4) 𥫱(U+25AF1) 𥮲(U+25BB2) 𥱋(U+25C4B) 𥱤(U+25C64) 𥶡(U+25DA1) 𥸮(U+25E2E) 𥹖(U+25E56) 𥹢(U+25E62) 𥹥(U+25E65) 𥻂(U+25EC2) 𥻘(U+25ED8) 𥻨(U+25EE8) 𥼣(U+25F23) 𥽜(U+25F5C) 𥿔(U+25FD4) 𥿠(U+25FE0) 𥿻(U+25FFB) 𦀌(U+2600C) 𦀗(U+26017) 𦁠(U+26060) 𦃭(U+260ED) 𦈢(U+26222) 𦉪(U+2626A) 𦉰(U+26270) 𦊆(U+26286) 𦍌(U+2634C) 𦐂(U+26402) 𦙾(U+2667E) 𦚰(U+266B0) 𦜝(U+2671D) 𦣝(U+268DD) 𦣪(U+268EA) 𦥑(U+26951) 𦥯(U+2696F) 𦦙(U+26999) 𦧝(U+269DD) 𦨞(U+26A1E) 𦩘(U+26A58) 𦪌(U+26A8C) 𦪷(U+26AB7) 𦫿(U+26AFF) 𦰩(U+26C29) 𦱳(U+26C73) 𦲞(U+26C9E) 𦳝(U+26CDD) 𦹀(U+26E40) 𦹥(U+26E65) 𦾔(U+26F94) 𦿶(U+26FF6) 𦿷(U+26FF7) 𦿸(U+26FF8) 𧃴(U+270F4) 𧄍(U+2710D) 𧄹(U+27139) 𧏚(U+273DA) 𧏛(U+273DB) 𧏾(U+273FE) 𧐐(U+27410) 𧑉(U+27449) 𧘔(U+27614) 𧘕(U+27615) 𧘱(U+27631) 𧚄(U+27684) 𧚓(U+27693) 𧜎(U+2770E) 𧜣(U+27723) 𧝒(U+27752) 𧦅(U+27985) 𧦴(U+279B4) 𧪄(U+27A84) 𧮳(U+27BB3) 𧮾(U+27BBE) 𧯇(U+27BC7) 𧰼(U+27C3C) 𧲸(U+27CB8) 𧵳(U+27D73) 𧶠(U+27DA0) 𧸐(U+27E10) 𧾷(U+27FB7) 𨂊(U+2808A) 𨂻(U+280BB) 𨉷(U+28277) 𨊂(U+28282) 𨋳(U+282F3) 𨏍(U+283CD) 𨐌(U+2840C) 𨑕(U+28455) 𨕫(U+2856B) 𨗈(U+285C8) 𨗉(U+285C9) 𨛗(U+286D7) 𨛺(U+286FA) 𨥆(U+28946) 𨥉(U+28949) 𨥫(U+2896B) 𨦇(U+28987) 𨦈(U+28988) 𨦺(U+289BA) 𨦻(U+289BB) 𨨞(U+28A1E) 𨨩(U+28A29) 𨩃(U+28A43) 𨩱(U+28A71) 𨪙(U+28A99) 𨫍(U+28ACD) 𨫝(U+28ADD) 𨫤(U+28AE4) 𨯁(U+28BC1) 𨯯(U+28BEF) 𨳝(U+28CDD) 𨴐(U+28D10) 𨵱(U+28D71) 𨷻(U+28DFB) 𨸗(U+28E17) 𨸟(U+28E1F) 𨸶(U+28E36) 𨺉(U+28E89) 𨻫(U+28EEB) 𨻶(U+28EF6) 𨼲(U+28F32) 𨿸(U+28FF8) 𩊠(U+292A0) 𩊱(U+292B1) 𩒐(U+29490) 𩗏(U+295CF) 𩙿(U+2967F) 𩛰(U+296F0) 𩜙(U+29719) 𩝐(U+29750) 𩣆(U+298C6) 𩩲(U+29A72) 𩵋(U+29D4B) 𩷛(U+29DDB) 𩸕(U+29E15) 𩸽(U+29E3D) 𩹉(U+29E49) 𩺊(U+29E8A) 𩻄(U+29EC4) 𩻛(U+29EDB) 𩻩(U+29EE9) 𩿎(U+29FCE) 𩿗(U+29FD7) 𪀚(U+2A01A) 𪀯(U+2A02F) 𪂂(U+2A082) 𪃹(U+2A0F9) 𪆐(U+2A190) 𪊲(U+2A2B2) 𪎌(U+2A38C) 𪐷(U+2A437) 𪗱(U+2A5F1) 𪘂(U+2A602) 𪘚(U+2A61A) 𪚲(U+2A6B2) 𪧦(U+2A9E6) 𫝆(U+2B746) 𫝑(U+2B751) 𫝓(U+2B753) 𫝚(U+2B75A) 𫝜(U+2B75C) 𫝥(U+2B765) 𫝶(U+2B776) 𫝷(U+2B777) 𫝼(U+2B77C) 𫞂(U+2B782) 𫞉(U+2B789) 𫞋(U+2B78B) 𫞎(U+2B78E) 𫞔(U+2B794) 𫞬(U+2B7AC) 𫞯(U+2B7AF) 𫞽(U+2B7BD) 𫟉(U+2B7C9) 𫟏(U+2B7CF) 𫟒(U+2B7D2) 𫟘(U+2B7D8) 𫟰(U+2B7F0) 𫠍(U+2B80D) 𫠗(U+2B817) 𫠚(U+2B81A) 𭕄(U+2D544) 𮉸(U+2E278) 𮕩(U+2E569) 𮛪(U+2E6EA) 你(U+2F804) 兔(U+2F80F) 再(U+2F815) 冤(U+2F818) 冬(U+2F81A) 割(U+2F822) 勺(U+2F828) 卉(U+2F82C) 卿(U+2F833) 周(U+2F83F) 善(U+2F846) 城(U+2F852) 姬(U+2F862) 寃(U+2F86D) 将(U+2F873) 屠(U+2F877) 巽(U+2F884) 形(U+2F899) 彫(U+2F89A) 慈(U+2F8A6) 憲(U+2F8AC) 成(U+2F8B2) 拔(U+2F8B6) 冕(U+2F8D3) 杞(U+2F8DB) 杓(U+2F8DC) 桒(U+2F8E1) 栟(U+2F8E5) 槪(U+2F8EA) 櫛(U+2F8ED) 沿(U+2F8FC) 浩(U+2F903) 滋(U+2F90B) 潮(U+2F90F) 炭(U+2F91A) 爨(U+2F920) 爵(U+2F921) 眞(U+2F945) 真(U+2F947) 絣(U+2F96C) 芽(U+2F995) 諭(U+2F9D0) 軔(U+2F9DE) 輸(U+2F9DF) 嶲(U+2F9F4) 廃止された文字コレクションに2003年5月発表のAdobe-Japan2-0というものがある。Adobe-Japan2-0はJIS X 0212に相当し、Adobe-Japan1-6に統合された。Adobe-Japan2に1以降の追補はもともと存在しない。 実際には Adobe-Japan2-0に含まれ、Adobe-Japan1-6には含まれないグリフとして、漢字3字(暀、殩、汴のJIS X 0212規格票例示字形)が存在する。これについては、Adobe-Japan1-7で追補される見込みであったが、前述の通り、Adobe-Japan1-7では「令和」合字のみが追加された。 厳密には「叕」も字体に相違が認められる。 日本語以外のCJK圏で使われる文字コレクションに、Adobe-GB1(簡体字中国語)・Adobe-CNS1(繁体字中国語)・Adobe-KR(朝鮮語)がある。最新版はそれぞれ次の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Adobe-Japan1(アドビジャパンワン、略称: AJ1, A-J1)は、アドビが定めた日本語の文字コレクション(文字集合)で、フォントメーカー各社の製品が準拠するDTP市場のデファクトスタンダードとなっている。2019年時点で八つの追補があり、最新のAdobe-Japan1-7は、2万3060グリフ(字形、文字)を収録する。収録する全ての文字にCID(Character IDentifier, Character ID)と呼ばれる一連の識別番号を振る。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "文字コレクション(character collection)は、CIDと文字の標準化されたセットを指し、言語・書記体系(用字系)ごとに定義される。モリサワフォント用語集によると「文字セットとほぼ同義」だが、「公的な規格としてよりは、プライベートな規格を指していうことが多いよう」だとされる。", "title": "文字コレクション" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "文字コレクションには「登録者-配列(-追補番号)」の形式で名前が付けられる。Adobe-Japan1-7の場合、Adobeが登録者、Japan1が配列、7が追補番号を示す。", "title": "文字コレクション" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "出版・印刷業界には、JIS X 0208やISO/IEC 10646≒Unicodeといった公的規格の文字セットが包摂している異体字を区別して使う需要が根強くある。JIS X 0208やJIS X 0213では、国の漢字施策の影響などで規格の改正の際に例示字形を変更したことがたびたびあった。このほかIBM拡張文字などのベンダ拡張文字セットや、印刷業界で使われてきた文字セットでは、例示字形とは異なる異体字やそもそも字種としてJIS漢字にない文字を取り込んでいる。Adobe-Japan1ではこれらの字形を収集し、公的規格のコードポイントとは別にCIDを割り振って区別できるようにしている。", "title": "公的規格との違い" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "実際のOS・アプリケーションとのやりとりは通常フォントに内蔵されたCMapテーブル(CIDとUnicodeを相互に関連付けた対応表)を参照して行われるが、Acrobat・InDesign(いずれもアドビ製品)・日本語LaTeX(フリーソフト)などのアプリケーションソフトウェアはCID番号を直接利用することがある。", "title": "CIDの参照法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Adobe-Japan1の追補ごとの詳細は以下の通り。", "title": "追補" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Adobe-Japan1-4とAdobe-Japan1-5との間にAppleがMac OS X v10.1でJIS X 0213文字を拡張したApple Publishing Glyph Set (APGS)もあるが、Adobe-Japan1-5と同じものということになっている(実際にはAdobe-Japan1-5との間には僅かに違いがある)。", "title": "追補" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JIS X 0213:2004対応としてフォント名で従来のJIS90字形とJIS2004字形を区別するようにしている。", "title": "JIS X 0213:2004の改正" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "IVS(漢字異体字シーケンス (Ideographic Variation Sequences))を使用することにより、JIS90字形とJIS2004字形を区別するようになっている。ただし、下表でCIDで区別しないものを示す。", "title": "JIS X 0213:2004の改正" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "𠀋(U+2000B) 𠂉(U+20089) 𠂊(U+2008A) 𠂢(U+200A2) 𠂤(U+200A4) 𠂰(U+200B0) 𠃵(U+200F5) 𠅘(U+20158) 𠆢(U+201A2) 𠈓(U+20213) 𠌫(U+2032B) 𠍱(U+20371) 𠎁(U+20381) 𠏹(U+203F9) 𠑊(U+2044A) 𠔉(U+20509) 𠔿(U+2053F) 𠖱(U+205B1) 𠗖(U+205D6) 𠘑(U+20611) 𠘨(U+20628) 𠛬(U+206EC) 𠝏(U+2074F) 𠟈(U+207C8) 𠠇(U+20807) 𠠺(U+2083A) 𠢹(U+208B9) 𠤎(U+2090E) 𠥼(U+2097C) 𠦄(U+20984) 𠦝(U+2099D) 𠩤(U+20A64) 𠫓(U+20AD3) 𠬝(U+20B1D) 𠮟(U+20B9F) 𠮷(U+20BB7) 𠵅(U+20D45) 𠵘(U+20D58) 𠷡(U+20DE1) 𠹤(U+20E64) 𠹭(U+20E6D) 𠺕(U+20E95) 𠽟(U+20F5F) 𡈁(U+21201) 𡈽(U+2123D) 𡉕(U+21255) 𡉴(U+21274) 𡉻(U+2127B) 𡋗(U+212D7) 𡋤(U+212E4) 𡋽(U+212FD) 𡌛(U+2131B) 𡌶(U+21336) 𡍄(U+21344) 𡏄(U+213C4) 𡑭(U+2146D) 𡑮(U+2146E) 𡗗(U+215D7) 𡙇(U+21647) 𡚴(U+216B4) 𡜆(U+21706) 𡝂(U+21742) 𡢽(U+218BD) 𡧃(U+219C3) 𡨚(U+21A1A) 𡱖(U+21C56) 𡴭(U+21D2D) 𡵅(U+21D45) 𡵢(U+21D62) 𡵸(U+21D78) 𡶒(U+21D92) 𡶜(U+21D9C) 𡶡(U+21DA1) 𡶷(U+21DB7) 𡷠(U+21DE0) 𡸳(U+21E33) 𡸴(U+21E34) 𡼞(U+21F1E) 𡽶(U+21F76) 𡿺(U+21FFA) 𢅻(U+2217B) 𢈘(U+22218) 𢌞(U+2231E) 𢎭(U+223AD) 𢘉(U+22609) 𢛳(U+226F3) 𢡛(U+2285B) 𢢫(U+228AB) 𢦏(U+2298F) 𢪸(U+22AB8) 𢭆(U+22B46) 𢭏(U+22B4F) 𢭐(U+22B50) 𢮦(U+22BA6) 𢰝(U+22C1D) 𢰤(U+22C24) 𢷡(U+22DE1) 𢹂(U+22E42) 𢿫(U+22FEB) 𣆶(U+231B6) 𣇃(U+231C3) 𣇄(U+231C4) 𣇵(U+231F5) 𣍲(U+23372) 𣏌(U+233CC) 𣏐(U+233D0) 𣏒(U+233D2) 𣏓(U+233D3) 𣏕(U+233D5) 𣏚(U+233DA) 𣏟(U+233DF) 𣏤(U+233E4) 𣏾(U+233FE) 𣑊(U+2344A) 𣑋(U+2344B) 𣑑(U+23451) 𣑥(U+23465) 𣓤(U+234E4) 𣕚(U+2355A) 𣖔(U+23594) 𣗄(U+235C4) 𣘸(U+23638) 𣘹(U+23639) 𣘺(U+2363A) 𣙇(U+23647) 𣜌(U+2370C) 𣜜(U+2371C) 𣜿(U+2373F) 𣝣(U+23763) 𣝤(U+23764) 𣟧(U+237E7) 𣟱(U+237F1) 𣟿(U+237FF) 𣠤(U+23824) 𣠽(U+2383D) 𣪘(U+23A98) 𣱿(U+23C7F) 𣲾(U+23CBE) 𣳾(U+23CFE) 𣴀(U+23D00) 𣴎(U+23D0E) 𣵀(U+23D40) 𣷓(U+23DD3) 𣷹(U+23DF9) 𣷺(U+23DFA) 𣽾(U+23F7E) 𤁋(U+2404B) 𤂖(U+24096) 𤄃(U+24103) 𤇆(U+241C6) 𤇾(U+241FE) 𤋮(U+242EE) 𤎼(U+243BC) 𤏐(U+243D0) 𤘩(U+24629) 𤚥(U+246A5) 𤟱(U+247F1) 𤢖(U+24896) 𤩍(U+24A4D) 𤭖(U+24B56) 𤭯(U+24B6F) 𤰖(U+24C16) 𤴔(U+24D14) 𤸄(U+24E04) 𤸎(U+24E0E) 𤸷(U+24E37) 𤹪(U+24E6A) 𤺋(U+24E8B) 𤿲(U+24FF2) 𥁊(U+2504A) 𥁕(U+25055) 𥄢(U+25122) 𥆩(U+251A9) 𥇍(U+251CD) 𥇥(U+251E5) 𥈞(U+2521E) 𥉌(U+2524C) 𥐮(U+2542E) 𥒎(U+2548E) 𥓙(U+254D9) 𥔎(U+2550E) 𥖧(U+255A7) 𥙿(U+2567F) 𥝱(U+25771) 𥞩(U+257A9) 𥞴(U+257B4) 𥡴(U+25874) 𥧄(U+259C4) 𥧌(U+259CC) 𥧔(U+259D4) 𥫗(U+25AD7) 𥫣(U+25AE3) 𥫤(U+25AE4) 𥫱(U+25AF1) 𥮲(U+25BB2) 𥱋(U+25C4B) 𥱤(U+25C64) 𥶡(U+25DA1) 𥸮(U+25E2E) 𥹖(U+25E56) 𥹢(U+25E62) 𥹥(U+25E65) 𥻂(U+25EC2) 𥻘(U+25ED8) 𥻨(U+25EE8) 𥼣(U+25F23) 𥽜(U+25F5C) 𥿔(U+25FD4) 𥿠(U+25FE0) 𥿻(U+25FFB) 𦀌(U+2600C) 𦀗(U+26017) 𦁠(U+26060) 𦃭(U+260ED) 𦈢(U+26222) 𦉪(U+2626A) 𦉰(U+26270) 𦊆(U+26286) 𦍌(U+2634C) 𦐂(U+26402) 𦙾(U+2667E) 𦚰(U+266B0) 𦜝(U+2671D) 𦣝(U+268DD) 𦣪(U+268EA) 𦥑(U+26951) 𦥯(U+2696F) 𦦙(U+26999) 𦧝(U+269DD) 𦨞(U+26A1E) 𦩘(U+26A58) 𦪌(U+26A8C) 𦪷(U+26AB7) 𦫿(U+26AFF) 𦰩(U+26C29) 𦱳(U+26C73) 𦲞(U+26C9E) 𦳝(U+26CDD) 𦹀(U+26E40) 𦹥(U+26E65) 𦾔(U+26F94) 𦿶(U+26FF6) 𦿷(U+26FF7) 𦿸(U+26FF8) 𧃴(U+270F4) 𧄍(U+2710D) 𧄹(U+27139) 𧏚(U+273DA) 𧏛(U+273DB) 𧏾(U+273FE) 𧐐(U+27410) 𧑉(U+27449) 𧘔(U+27614) 𧘕(U+27615) 𧘱(U+27631) 𧚄(U+27684) 𧚓(U+27693) 𧜎(U+2770E) 𧜣(U+27723) 𧝒(U+27752) 𧦅(U+27985) 𧦴(U+279B4) 𧪄(U+27A84) 𧮳(U+27BB3) 𧮾(U+27BBE) 𧯇(U+27BC7) 𧰼(U+27C3C) 𧲸(U+27CB8) 𧵳(U+27D73) 𧶠(U+27DA0) 𧸐(U+27E10) 𧾷(U+27FB7) 𨂊(U+2808A) 𨂻(U+280BB) 𨉷(U+28277) 𨊂(U+28282) 𨋳(U+282F3) 𨏍(U+283CD) 𨐌(U+2840C) 𨑕(U+28455) 𨕫(U+2856B) 𨗈(U+285C8) 𨗉(U+285C9) 𨛗(U+286D7) 𨛺(U+286FA) 𨥆(U+28946) 𨥉(U+28949) 𨥫(U+2896B) 𨦇(U+28987) 𨦈(U+28988) 𨦺(U+289BA) 𨦻(U+289BB) 𨨞(U+28A1E) 𨨩(U+28A29) 𨩃(U+28A43) 𨩱(U+28A71) 𨪙(U+28A99) 𨫍(U+28ACD) 𨫝(U+28ADD) 𨫤(U+28AE4) 𨯁(U+28BC1) 𨯯(U+28BEF) 𨳝(U+28CDD) 𨴐(U+28D10) 𨵱(U+28D71) 𨷻(U+28DFB) 𨸗(U+28E17) 𨸟(U+28E1F) 𨸶(U+28E36) 𨺉(U+28E89) 𨻫(U+28EEB) 𨻶(U+28EF6) 𨼲(U+28F32) 𨿸(U+28FF8) 𩊠(U+292A0) 𩊱(U+292B1) 𩒐(U+29490) 𩗏(U+295CF) 𩙿(U+2967F) 𩛰(U+296F0) 𩜙(U+29719) 𩝐(U+29750) 𩣆(U+298C6) 𩩲(U+29A72) 𩵋(U+29D4B) 𩷛(U+29DDB) 𩸕(U+29E15) 𩸽(U+29E3D) 𩹉(U+29E49) 𩺊(U+29E8A) 𩻄(U+29EC4) 𩻛(U+29EDB) 𩻩(U+29EE9) 𩿎(U+29FCE) 𩿗(U+29FD7) 𪀚(U+2A01A) 𪀯(U+2A02F) 𪂂(U+2A082) 𪃹(U+2A0F9) 𪆐(U+2A190) 𪊲(U+2A2B2) 𪎌(U+2A38C) 𪐷(U+2A437) 𪗱(U+2A5F1) 𪘂(U+2A602) 𪘚(U+2A61A) 𪚲(U+2A6B2) 𪧦(U+2A9E6) 𫝆(U+2B746) 𫝑(U+2B751) 𫝓(U+2B753) 𫝚(U+2B75A) 𫝜(U+2B75C) 𫝥(U+2B765) 𫝶(U+2B776) 𫝷(U+2B777) 𫝼(U+2B77C) 𫞂(U+2B782) 𫞉(U+2B789) 𫞋(U+2B78B) 𫞎(U+2B78E) 𫞔(U+2B794) 𫞬(U+2B7AC) 𫞯(U+2B7AF) 𫞽(U+2B7BD) 𫟉(U+2B7C9) 𫟏(U+2B7CF) 𫟒(U+2B7D2) 𫟘(U+2B7D8) 𫟰(U+2B7F0) 𫠍(U+2B80D) 𫠗(U+2B817) 𫠚(U+2B81A) 𭕄(U+2D544) 𮉸(U+2E278) 𮕩(U+2E569) 𮛪(U+2E6EA) 你(U+2F804) 兔(U+2F80F) 再(U+2F815) 冤(U+2F818) 冬(U+2F81A) 割(U+2F822) 勺(U+2F828) 卉(U+2F82C) 卿(U+2F833) 周(U+2F83F) 善(U+2F846) 城(U+2F852) 姬(U+2F862) 寃(U+2F86D) 将(U+2F873) 屠(U+2F877) 巽(U+2F884) 形(U+2F899) 彫(U+2F89A) 慈(U+2F8A6) 憲(U+2F8AC) 成(U+2F8B2) 拔(U+2F8B6) 冕(U+2F8D3) 杞(U+2F8DB) 杓(U+2F8DC) 桒(U+2F8E1) 栟(U+2F8E5) 槪(U+2F8EA) 櫛(U+2F8ED) 沿(U+2F8FC) 浩(U+2F903) 滋(U+2F90B) 潮(U+2F90F) 炭(U+2F91A) 爨(U+2F920) 爵(U+2F921) 眞(U+2F945) 真(U+2F947) 絣(U+2F96C) 芽(U+2F995) 諭(U+2F9D0) 軔(U+2F9DE) 輸(U+2F9DF) 嶲(U+2F9F4)", "title": "Adobe-Japan1 サロゲートペア文字" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "", "title": "Adobe-Japan1 サロゲートペア文字" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "廃止された文字コレクションに2003年5月発表のAdobe-Japan2-0というものがある。Adobe-Japan2-0はJIS X 0212に相当し、Adobe-Japan1-6に統合された。Adobe-Japan2に1以降の追補はもともと存在しない。", "title": "Adobe-Japan2-0" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "実際には Adobe-Japan2-0に含まれ、Adobe-Japan1-6には含まれないグリフとして、漢字3字(暀、殩、汴のJIS X 0212規格票例示字形)が存在する。これについては、Adobe-Japan1-7で追補される見込みであったが、前述の通り、Adobe-Japan1-7では「令和」合字のみが追加された。", "title": "Adobe-Japan2-0" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "厳密には「叕」も字体に相違が認められる。", "title": "Adobe-Japan2-0" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本語以外のCJK圏で使われる文字コレクションに、Adobe-GB1(簡体字中国語)・Adobe-CNS1(繁体字中国語)・Adobe-KR(朝鮮語)がある。最新版はそれぞれ次の通り。", "title": "日本語以外のCJK文字コレクション" } ]
Adobe-Japan1は、アドビが定めた日本語の文字コレクション(文字集合)で、フォントメーカー各社の製品が準拠するDTP市場のデファクトスタンダードとなっている。2019年時点で八つの追補があり、最新のAdobe-Japan1-7は、2万3060グリフ(字形、文字)を収録する。収録する全ての文字にCIDと呼ばれる一連の識別番号を振る。
'''Adobe-Japan1'''(アドビジャパンワン<ref name="ISBN9784887522572">『一〇〇年目の書体づくり : 「秀英体平成の大改刻」の記録』大日本印刷、2013年 ISBN 978-4-88752-257-2 138ページ</ref><ref name="daizisen">『デジタル大辞泉』「Adobe-Japan1」項 [https://kotobank.jp/word/AdobeJapan1-1824513 コトバンク『デジタル大辞泉』「Adobe-Japan1」項]</ref>、略称: AJ1, A-J1)は、[[アドビ]]が定めた[[日本語]]の文字コレクション([[文字集合]])で、[[フォント]]メーカー各社の製品が準拠する[[DTP]]市場の[[デファクトスタンダード]]となっている<ref>[https://www.morisawa.co.jp/culture/dictionary/1983 モリサワ フォント用語集「文字セットとAdobe Japan」]</ref>。2019年時点で八つの追補があり、最新の'''Adobe-Japan1-7'''は、2万3060[[グリフ]](字形、文字)を収録する。収録する全ての文字に'''CID'''(Character IDentifier, Character ID)と呼ばれる一連の識別番号を振る。 == 文字コレクション == '''文字コレクション'''(character collection)は、CIDと文字の標準化されたセット<ref name="CJKV">[[ケン・ランディ|Ken Lunde]]著、小松章・逆井克己訳『CJKV 日中韓越情報処理』[[オライリー・ジャパン]]、2002年 ISBN 9784873111087、293ページ</ref>を指し、言語・書記体系(用字系)ごとに定義される。[[モリサワ]]フォント用語集によると「[[文字集合|文字セット]]とほぼ同義」だが、「公的な規格としてよりは、プライベートな規格を指していうことが多いよう」<ref>[https://www.morisawa.co.jp/culture/dictionary/1947 モリサワ フォント用語集「文字コレクション」]</ref>だとされる。 文字コレクションには「登録者-配列(-追補番号)」の形式で名前が付けられる。Adobe-Japan1-7の場合、Adobeが登録者、Japan1が配列、7が追補番号を示す。 == 公的規格との違い == 出版・印刷業界には、[[JIS X 0208]]や[[ISO/IEC 10646]]≒[[Unicode]]といった公的規格の文字セットが[[包摂 (文字コード)|包摂]]している[[異体字]]を区別して使う需要が根強くある。JIS X 0208や[[JIS X 0213]]では、国の漢字施策の影響などで規格の改正の際に例示字形を変更したことがたびたびあった。このほか[[IBM拡張文字]]などのベンダ拡張文字セットや、印刷業界で使われてきた文字セットでは、例示字形とは異なる異体字やそもそも字種としてJIS漢字にない文字を取り込んでいる。Adobe-Japan1ではこれらの字形を収集し、公的規格の[[符号点|コードポイント]]とは別にCIDを割り振って区別できるようにしている。 == CIDの参照法 == 実際の[[オペレーティングシステム|OS]]・アプリケーションとのやりとりは通常[[フォント]]に内蔵されたCMapテーブル(CIDと[[Unicode]]を相互に関連付けた対応表)を参照して行われるが、[[Adobe Acrobat|Acrobat]]・[[Adobe InDesign|InDesign]](いずれもアドビ製品)・[[LaTeX|日本語LaTeX]]<ref>[http://psitau.kitunebi.com/ OTFパッケージ]の利用で可能。</ref>(フリーソフト)などの[[アプリケーションソフトウェア]]はCID番号を直接利用することがある。 == 追補 == Adobe-Japan1の追補ごとの詳細は以下の通り。 ;Adobe-Japan1-0 : 1993年6月11日発表。8284[[グリフ]]。JIS X 0208-1983まで、[[OCFフォント]]で利用<ref>OCFフォントのグリフはCIDを持たないが、グリフの内訳はAdobe-Japan1-0と等価</ref>。Adobe-Japan1-4でJIS X 0208-1983の規格票字形が追加されたことに伴いAdobe-Japan1-0の範囲にはJIS X 0208-1990の規格票字形を実装することになったが、当初は厳密な規格票字形の実装を求められていなかった。このためAdobe-Japan1-4以前から存在するフォントで互換性の問題が生じる場合がある<ref>{{Wayback |url=http://www.jfonts.or.jp/main/seminar/to_070406_1.htm |title=jfonts_Topics |date=20160304115116 }} </ref>。 ;Adobe-Japan1-1 : 1994年10月4日発表。8359グリフ。富士通やNECのJIS X 0208実装に使われていた字体(おおむねJIS C 6226-1978に基づく)の拡張およびJIS X 0208-1990で追加された漢字の追加。 ;Adobe-Japan1-2 : 1994年10月4日発表。8720グリフ(CIDフォント)。IBM外字などの拡張により[[マイクロソフト標準キャラクタセット]]をサポートした。 ;Adobe-Japan1-3 : 2000年3月31日発表。9354グリフ ([[OpenType]] Std / StdN)。縦書き字形の拡張。漢字の追加はない。 ;Adobe-Japan1-4 : 2000年3月31日発表。1万5444グリフ (OpenType Pro / ProN<ref name="hiragino">[[ヒラギノ]]のPro(バージョン7.11以降)/ ProNは、Adobe-Japan1-5(Pr5 / Pr5N)に対応する。[http://www.screen.co.jp/ga_product/sento/otffaq.html#a16 ヒラギノOpenTypeのFAQ - 千都フォント]より。</ref>)。[[Mac OS X v10.0]]で利用可。過去のJIS X 0208の規格票字形すべてや、[[JIS X 0221]]附属書1の[[JIS X 0221#日本文字部分レパートリ|追加漢字集合]]に対応。 ;Adobe-Japan1-5 : 2002年9月20日発表。2万0317グリフ (OpenType Pr5 / Pr5N<ref name="hiragino"/>)。[[Apple]]拡張「Apple Publishing Glyph Set(APGS)」の取り込み、[[JIS X 0213]]:2000、[[国語審議会]]「[[表外漢字字体表]]」などに対応。[[Mac OS X v10.2]](Jaguar)以降で対応。 ;Adobe-Japan1-6 : 2004年6月11日発表。2万3058グリフ (OpenType Pr6 / Pr6N)。[[JIS X 0213]]:2004および[[JIS X 0212]]への対応。[[U-PRESS]]の文字を追加<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/Adobe-Japan1/blob/master/README-JP.md#追補-6adobe-japan1-6 Adobe-Japan1-7 文字コレクション 追補 6:Adobe-Japan1-6]によると、CID+20958は「NTTの[[フリーダイヤル|フリーダイアル]]記号〔ママ〕」とされているが、「グリフを使用する権利を有する、または、その許諾を受けているフォント開発者だけが、それを CID+20958 に割り当てることが可能」であり、それ以外の場合には仮グリフとして全角スペースになっている。</ref>。[[Mac OS X v10.5]](Leopard)以降で対応。 ;Adobe-Japan1-7 : 2019年4月1日発表。2万3060グリフ (OpenType Pr'''6''' / Pr'''6'''N<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/Adobe-Japan1/blob/master/README-JP.md#opentypecff-フォント命名規則 Adobe-Japan1-7 文字コレクション OpenType/CFF フォント命名規則]</ref>)。[[元号]]「[[令和]]」を表す漢字2文字からなる合字(「㋿」 U+32FF)の横組み用・縦組み用2グリフが追加された。 Adobe-Japan1-4とAdobe-Japan1-5との間に[[Apple]]が[[Mac OS X v10.1]]でJIS X 0213文字を拡張した'''Apple Publishing Glyph Set''' (APGS)もあるが、Adobe-Japan1-5と同じものということになっている(実際にはAdobe-Japan1-5との間には僅かに違いがある<ref>[http://hp.vector.co.jp/authors/VA000964/aj14ziss.htm Adobe-Japan1-4 & APGS実践情報]</ref>)。 == JIS X 0213:2004の改正 == JIS X 0213:2004対応としてフォント名で従来のJIS90字形とJIS2004字形を区別するようにしている。 {| class="wikitable" |+ フォント名 |- ! 規格(追補) !! JIS90字形 !! JIS2004字形 !! 備考 |- | Adobe-Japan1-3 || Std || StdN || |- | Adobe-Japan1-4 || Pro || ProN || [[ヒラギノ]]を除く |- | Adobe-Japan1-5 || Pr5 || Pr5N || [[ヒラギノ]]はPro/ProN、[[ダイナフォント]]はPro-5 |- | Adobe-Japan1-6 || Pr6 || Pr6N || |} IVS([[異体字セレクタ|漢字異体字シーケンス (Ideographic Variation Sequences)]])を使用することにより、JIS90字形とJIS2004字形を区別するようになっている。ただし、下表で{{Bgcolor|#DD0|CIDで区別しないもの}}を示す。 {| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-family:'源ノ明朝', '凸版文久明朝', '游明朝', serif; font-feature-settings:'jp04';line-height:200%;" |+ JIS X 0213:2004の改正 |- style="font-family:sans-serif; line-height:140%;" ! 漢字 !! 面句点 !! CID(JP90) !! CID !! Unicode(JP90) !! Unicode !! 漢字(JP90) !! 漢字 !! Unicode(他) !! 備考 |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|逢||1-16-09||1133||8266||<U+9022,U+E0100>||<U+9022,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9022;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9022;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|芦||1-16-18||1142||7961||<U+82A6,U+E0100>||<U+82A6,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x82A6;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x82A6;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|飴||1-16-27||1151||7634||<U+98F4,U+E0100>||<U+98F4,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x98F4;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x98F4;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|溢||1-16-78||1202||7635||<U+6EA2,U+E0100>||<U+6EA2,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6EA2;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6EA2;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|茨||1-16-81||1205||7962||<U+8328,U+E0100>||<U+8328,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8328;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8328;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鰯||1-16-83||1207||7636||<U+9C2F,U+E0100>||<U+9C2F,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9C2F;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9C2F;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|淫||1-16-92||1216||7637||<U+6DEB,U+E0100>||<U+6DEB,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6DEB;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6DEB;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|迂||1-17-10||1228||7638||<U+8FC2,U+E0100>||<U+8FC2,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FC2;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FC2;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|厩||1-17-25||1243||20271||<U+53A9,U+E0100>||<U+53A9,U+E0105>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53A9;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53A9;&#xE0105; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|噂||1-17-29||1247||7642||<U+5642,U+E0100>||<U+5642,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5642;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5642;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|餌||1-17-34||1252||13650||<U+990C,U+E0100>||<U+990C,U+E0103>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x990C;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x990C;&#xE0103; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|襖||1-18-08||1320||7645||<U+8956,U+E0100>||<U+8956,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8956;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8956;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|迦||1-18-64||1376||7647||<U+8FE6,U+E0100>||<U+8FE6,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FE6;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FE6;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|牙||1-18-71||1383||7965||<U+7259,U+E0100>||<U+7259,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7259;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7259;&#xE0101;|| U+2F5B || [[康煕部首]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|廻||1-18-86||1398||13673||<U+5EFB,U+E0100>||<U+5EFB,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5EFB;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5EFB;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|恢||1-18-90||1402||20269||<U+6062,U+E0100>||<U+6062,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6062;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6062;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|晦||1-19-02||1408||7650||<U+6666,U+E0100>||<U+6666,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6666;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6666;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|蟹||1-19-10||1416||1416||<U+87F9,U+E0100>||<U+87F9,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x87F9;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x87F9;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|葛||1-19-75||1481||7652||<U+845B,U+E0100>||<U+845B,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x845B;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x845B;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鞄||1-19-83||1489||7653||<U+9784,U+E0100>||<U+9784,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9784;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9784;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|釜||1-19-88||1494||20290||<U+91DC,U+E0100>||<U+91DC,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x91DC;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x91DC;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|翰||1-20-45||1545||7656||<U+7FF0,U+E0100>||<U+7FF0,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7FF0;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7FF0;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|翫||1-20-69||1569||7657||<U+7FEB,U+E0100>||<U+7FEB,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7FEB;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7FEB;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|徽||1-21-11||1605||7658||<U+5FBD,U+E0100>||<U+5FBD,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5FBD;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5FBD;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|祇||1-21-32||1626||7659||<U+7947,U+E0100>||<U+7947,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7947;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7947;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|汲||1-21-66||1660||7966||<U+6C72,U+E0100>||<U+6C72,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6C72;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6C72;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|灸||1-21-68||1662||20270||<U+7078,U+E0100>||<U+7078,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7078;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7078;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|笈||1-21-72||1666||20263||<U+7B08,U+E0100>||<U+7B08,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7B08;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7B08;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|卿||1-22-10||1698||7661||<U+537F,U+E0101>||<U+537F,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x537F;&#xE0101;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x537F;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|饗||1-22-34||1722||7968||<U+9957,U+E0100>||<U+9957,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9957;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9957;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|僅||1-22-47||1735||7662||<U+50C5,U+E0100>||<U+50C5,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x50C5;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x50C5;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|喰||1-22-84||1772||7664||<U+55B0,U+E0100>||<U+55B0,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x55B0;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x55B0;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|櫛||1-22-91||1779||7665||<U+6ADB,U+E0101>||<U+6ADB,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6ADB;&#xE0101;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6ADB;&#xE0100;|| U+2F8ED || [[CJK互換漢字補助]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|屑||1-22-93||1781||7666||<U+5C51,U+E0100>||<U+5C51,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5C51;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5C51;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|粂||1-23-09||1791||20272||<U+7C82,U+E0100>||<U+7C82,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7C82;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7C82;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|祁||1-23-23||1805||7668||<U+7941,U+E0100>||<U+7941,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7941;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7941;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|隙||1-23-68||1850||20273||<U+9699,U+E0100>||<U+9699,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9699;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9699;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|倦||1-23-81||1863||7674||<U+5026,U+E0100>||<U+5026,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5026;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5026;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|捲||1-23-94||1876||7676||<U+6372,U+E0100>||<U+6372,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6372;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6372;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|牽||1-24-03||1879||1879||<U+727D,U+E0100>||<U+727D,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x727D;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x727D;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鍵||1-24-16||1892||20276||<U+9375,U+E0100>||<U+9375,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9375;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9375;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|諺||1-24-33||1909||7678||<U+8AFA,U+E0100>||<U+8AFA,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8AFA;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8AFA;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|巷||1-25-11||1981||7679||<U+5DF7,U+E0100>||<U+5DF7,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5DF7;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5DF7;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|梗||1-25-28||1998||20279||<U+6897,U+E0100>||<U+6897,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6897;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6897;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|膏||1-25-49||2019||2019||<U+818F,U+E0100>||<U+818F,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x818F;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x818F;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鵠||1-25-84||2054||7683||<U+9D60,U+E0100>||<U+9D60,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9D60;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9D60;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|甑||1-25-89||2059||20284||<U+7511,U+E0100>||<U+7511,U+E0103>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7511;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7511;&#xE0103; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|叉||1-26-21||2085||20281||<U+53C9,U+E0100>||<U+53C9,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53C9;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53C9;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|榊||1-26-71||2135||7686||<U+698A,U+E0100>||<U+698A,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x698A;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x698A;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|薩||1-27-07||2165||7688||<U+85A9,U+E0100>||<U+85A9,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x85A9;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x85A9;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鯖||1-27-10||2168||7689||<U+9BD6,U+E0100>||<U+9BD6,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9BD6;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9BD6;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|錆||1-27-12||2170||7690||<U+9306,U+E0100>||<U+9306,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9306;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9306;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鮫||1-27-13||2171||20280||<U+9BAB,U+E0100>||<U+9BAB,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9BAB;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9BAB;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|餐||1-27-33||2191||7970||<U+9910,U+E0100>||<U+9910,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9910;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9910;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|杓||1-28-61||2313||7695||<U+6753,U+E0100>||<U+6753,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6753;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6753;&#xE0101;||U+2F8DC || [[CJK互換漢字補助]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|灼||1-28-62||2314||7696||<U+707C,U+E0100>||<U+707C,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x707C;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x707C;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|酋||1-29-22||2368||7698||<U+914B,U+E0100>||<U+914B,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x914B;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x914B;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|楯||1-29-61||2407||13460||<U+696F,U+E0100>||<U+696F,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x696F;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x696F;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|薯||1-29-82||2428||7701||<U+85AF,U+E0100>||<U+85AF,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x85AF;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x85AF;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|藷||1-29-83||2429||7702||<U+85F7,U+E0100>||<U+85F7,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x85F7;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x85F7;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|哨||1-30-05||2445||7703||<U+54E8,U+E0100>||<U+54E8,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x54E8;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x54E8;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鞘||1-30-68||2508||7708||<U+9798,U+E0100>||<U+9798,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9798;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9798;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|杖||1-30-83||2523||20282||<U+6756,U+E0100>||<U+6756,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6756;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6756;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|蝕||1-31-10||2544||7709||<U+8755,U+E0100>||<U+8755,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8755;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8755;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|訊||1-31-54||2588||13860||<U+8A0A,U+E0100>||<U+8A0A,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A0A;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A0A;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|逗||1-31-64||2598||7711||<U+9017,U+E0100>||<U+9017,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9017;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9017;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|摺||1-32-02||2630||7713||<U+647A,U+E0100>||<U+647A,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x647A;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x647A;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|撰||1-32-81||2709||7716||<U+64B0,U+E0100>||<U+64B0,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x64B0;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x64B0;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|煎||1-32-89||2717||7718||<U+714E,U+E0100>||<U+714E,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x714E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x714E;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|煽||1-32-90||2718||7972||<U+717D,U+E0100>||<U+717D,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x717D;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x717D;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|穿||1-32-92||2720||7973||<U+7A7F,U+E0100>||<U+7A7F,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7A7F;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7A7F;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|箭||1-32-93||2721||7974||<U+7BAD,U+E0100>||<U+7BAD,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BAD;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BAD;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|詮||1-33-07||2729||7720||<U+8A6E,U+E0100>||<U+8A6E,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A6E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A6E;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|噌||1-33-25||2747||7721||<U+564C,U+E0100>||<U+564C,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x564C;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x564C;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|遡||1-33-44||2766||7722||<U+9061,U+E0100>||<U+9061,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9061;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9061;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|揃||1-34-23||2839||7975||<U+63C3,U+E0100>||<U+63C3,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x63C3;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x63C3;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|遜||1-34-29||2845||7726||<U+905C,U+E0100>||<U+905C,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x905C;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x905C;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|腿||1-34-60||2876||7728||<U+817F,U+E0100>||<U+817F,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x817F;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x817F;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|蛸||1-34-93||2909||7733||<U+86F8,U+E0100>||<U+86F8,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x86F8;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x86F8;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|辿||1-35-09||2919||7735||<U+8FBF,U+E0100>||<U+8FBF,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FBF;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FBF;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|樽||1-35-14||2924||7738||<U+6A3D,U+E0100>||<U+6A3D,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6A3D;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6A3D;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|歎||1-35-23||2933||13915||<U+6B4E,U+E0100>||<U+6B4E,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6B4E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6B4E;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|註||1-35-80||2990||7740||<U+8A3B,U+E0100>||<U+8A3B,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A3B;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A3B;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|瀦||1-35-85||2995||7741||<U+7026,U+E0100>||<U+7026,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7026;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7026;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|捗||1-36-29||3033||7743||<U+6357,U+E0100>||<U+6357,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6357;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6357;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|槌||1-36-40||3044||7744||<U+69CC,U+E0100>||<U+69CC,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x69CC;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x69CC;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鎚||1-36-42||3046||7745||<U+939A,U+E0100>||<U+939A,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x939A;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x939A;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|辻||1-36-52||3056||8267||<U+8FBB,U+E0100>||<U+8FBB,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FBB;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FBB;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|挺||1-36-82||3086||20286||<U+633A,U+E0100>||<U+633A,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x633A;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x633A;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鄭||1-37-02||3100||7748||<U+912D,U+E0100>||<U+912D,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x912D;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x912D;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|擢||1-37-07||3105||7749||<U+64E2,U+E0100>||<U+64E2,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x64E2;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x64E2;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|溺||1-37-14||3112||7750||<U+6EBA,U+E0100>||<U+6EBA,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6EBA;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6EBA;&#xE0101;||U+F9EC || [[CJK互換漢字]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|兎||1-37-38||3136||13949||<U+514E,U+E0100>||<U+514E,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x514E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x514E;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|堵||1-37-40||3138||7753||<U+5835,U+E0100>||<U+5835,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5835;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5835;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|屠||1-37-43||3141||7754||<U+5C60,U+E0100>||<U+5C60,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5C60;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5C60;&#xE0101;||U+2F877 || [[CJK互換漢字補助]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|賭||1-37-50||3148||7756||<U+8CED,U+E0100>||<U+8CED,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8CED;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8CED;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|瀞||1-38-52||3244||7761||<U+701E,U+E0100>||<U+701E,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x701E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x701E;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|遁||1-38-59||3251||20287||<U+9041,U+E0100>||<U+9041,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9041;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9041;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|謎||1-38-70||3262||7766||<U+8B0E,U+E0100>||<U+8B0E,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8B0E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8B0E;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|灘||1-38-71||3263||7767||<U+7058,U+E0100>||<U+7058,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7058;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7058;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|楢||1-38-74||3266||7768||<U+6962,U+E0100>||<U+6962,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6962;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6962;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|禰||1-39-09||3295||7769||<U+79B0,U+E0100>||<U+79B0,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x79B0;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x79B0;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|牌||1-39-55||3341||7771||<U+724C,U+E0100>||<U+724C,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x724C;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x724C;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|這||1-39-71||3357||7772||<U+9019,U+E0100>||<U+9019,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9019;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9019;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|秤||1-39-73||3359||7773||<U+79E4,U+E0100>||<U+79E4,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x79E4;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x79E4;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|駁||1-39-93||3379||20288||<U+99C1,U+E0100>||<U+99C1,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x99C1;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x99C1;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|箸||1-40-04||3384||7775||<U+7BB8,U+E0100>||<U+7BB8,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BB8;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BB8;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|叛||1-40-32||3412||7978||<U+53DB,U+E0100>||<U+53DB,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53DB;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53DB;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|挽||1-40-52||3432||7778||<U+633D,U+E0100>||<U+633D,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x633D;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x633D;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|誹||1-40-80||3460||13495||<U+8AB9,U+E0100>||<U+8AB9,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8AB9;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8AB9;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|樋||1-40-85||3465||7780||<U+6A0B,U+E0100>||<U+6A0B,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6A0B;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6A0B;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|稗||1-41-03||3477||7782||<U+7A17,U+E0100>||<U+7A17,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7A17;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7A17;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|逼||1-41-15||3489||7783||<U+903C,U+E0100>||<U+903C,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x903C;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x903C;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|謬||1-41-21||3495||7785||<U+8B2C,U+E0100>||<U+8B2C,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8B2C;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8B2C;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|豹||1-41-31||3505||20222||<U+8C79,U+E0100>||<U+8C79,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8C79;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8C79;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|廟||1-41-32||3506||7786||<U+5EDF,U+E0100>||<U+5EDF,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5EDF;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5EDF;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|瀕||1-41-46||3520||7787||<U+7015,U+E0100>||<U+7015,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7015;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7015;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|斧||1-41-64||3538||20289||<U+65A7,U+E0100>||<U+65A7,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x65A7;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x65A7;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|蔽||1-42-35||3603||7789||<U+853D,U+E0100>||<U+853D,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x853D;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x853D;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|瞥||1-42-45||3613||7790||<U+77A5,U+E0100>||<U+77A5,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x77A5;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x77A5;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|蔑||1-42-46||3614||14013||<U+8511,U+E0100>||<U+8511,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8511;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8511;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|篇||1-42-51||3619||7979||<U+7BC7,U+E0100>||<U+7BC7,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BC7;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BC7;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|娩||1-42-58||3626||7791||<U+5A29,U+E0100>||<U+5A29,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5A29;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5A29;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鞭||1-42-60||3628||20291||<U+97AD,U+E0100>||<U+97AD,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x97AD;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x97AD;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|庖||1-42-89||3657||7792||<U+5E96,U+E0100>||<U+5E96,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5E96;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5E96;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|蓬||1-43-09||3671||7794||<U+84EC,U+E0100>||<U+84EC,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x84EC;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x84EC;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鱒||1-43-80||3742||7796||<U+9C52,U+E0100>||<U+9C52,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9C52;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9C52;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|迄||1-43-88||3750||7980||<U+8FC4,U+E0100>||<U+8FC4,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FC4;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8FC4;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|儲||1-44-57||3813||7798||<U+5132,U+E0100>||<U+5132,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5132;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5132;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|餅||1-44-63||3819||7799||<U+9905,U+E0100>||<U+9905,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9905;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9905;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|籾||1-44-66||3822||20293||<U+7C7E,U+E0100>||<U+7C7E,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7C7E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7C7E;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|爺||1-44-76||3832||20294||<U+723A,U+E0100>||<U+723A,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x723A;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x723A;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鑓||1-44-90||3846||7801||<U+9453,U+E0100>||<U+9453,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9453;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9453;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|愈||1-44-92||3848||7802||<U+6108,U+E0100>||<U+6108,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6108;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6108;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|猷||1-45-18||3868||14074||<U+7337,U+E0100>||<U+7337,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7337;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7337;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|漣||1-46-90||4034||7809||<U+6F23,U+E0101>||<U+6F23,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6F23;&#xE0101;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6F23;&#xE0100;||U+F992 || [[CJK互換漢字]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|煉||1-46-91||4035||7810||<U+7149,U+E0101>||<U+7149,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7149;&#xE0101;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7149;&#xE0100;||U+F993 || [[CJK互換漢字]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|簾||1-46-92||4036||20265||<U+7C3E,U+E0100>||<U+7C3E,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7C3E;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7C3E;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|榔||1-47-17||4055||7812||<U+6994,U+E0100>||<U+6994,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6994;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6994;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|屢||1-47-64||7693||7693||<U+5C62,U+E0100>||<U+5C62,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5C62;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5C62;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|冤||1-49-45||4228||7817||<U+51A4,U+E0100>||<U+51A4,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x51A4;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x51A4;&#xE0101;||U+2F818 || [[CJK互換漢字補助]] |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|叟||1-50-55||4332||14111||<U+53DF,U+E0100>||<U+53DF,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53DF;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x53DF;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|咬||1-50-91||4368||20277||<U+54AC,U+E0100>||<U+54AC,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x54AC;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x54AC;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|嘲||1-51-62||4433||7821||<U+5632,U+E0100>||<U+5632,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5632;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5632;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|囀||1-51-83||4454||14116||<U+56C0,U+E0100>||<U+56C0,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x56C0;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x56C0;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|徘||1-55-49||4796||13538||<U+5F98,U+E0100>||<U+5F98,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5F98;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x5F98;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|扁||1-57-08||4943||7991||<U+6241,U+E0100>||<U+6241,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6241;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6241;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|棘||1-59-89||5212||5212||<U+68D8,U+E0100>||<U+68D8,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x68D8;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x68D8;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|橙||1-60-84||5301||5301||<U+6A59,U+E0100>||<U+6A59,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6A59;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x6A59;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|狡||1-64-36||5629||20278||<U+72E1,U+E0100>||<U+72E1,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x72E1;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x72E1;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|甕||1-65-17||5704||20267||<U+7515,U+E0100>||<U+7515,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7515;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7515;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|甦||1-65-20||5707||20283||<U+7526,U+E0100>||<U+7526,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7526;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7526;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|疼||1-65-54||5741||20175||<U+75BC,U+E0100>||<U+75BC,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x75BC;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x75BC;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|祟||1-67-14||5889||5889||<U+795F,U+E0100>||<U+795F,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x795F;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x795F;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|竈||1-67-62||5937||20285||<U+7AC8,U+E0100>||<U+7AC8,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7AC8;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7AC8;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|筵||1-68-07||5976||20266||<U+7B75,U+E0100>||<U+7B75,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7B75;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7B75;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|篝||1-68-32||6001||7997||<U+7BDD,U+E0100>||<U+7BDD,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BDD;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x7BDD;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|腱||1-71-07||6258||20275||<U+8171,U+E0100>||<U+8171,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8171;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8171;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|艘||1-71-59||6310||14196||<U+8258,U+E0100>||<U+8258,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8258;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8258;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|芒||1-71-74||6325||20292||<U+8292,U+E0100>||<U+8292,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8292;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8292;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|虔||1-73-42||6481||20274||<U+8654,U+E0100>||<U+8654,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8654;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8654;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|蜃||1-73-71||6510||20296||<U+8703,U+E0100>||<U+8703,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8703;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8703;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|蠅||1-74-04||6537||20295||<U+8805,U+E0100>||<U+8805,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8805;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8805;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|訝||1-75-35||6662||20268||<U+8A1D,U+E0100>||<U+8A1D,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A1D;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x8A1D;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;background:#DD0;"|靄||1-80-43||7140||7140||<U+9744,U+E0100>||<U+9744,U+E0100>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9744;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9744;&#xE0100; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|靱||1-80-55||7152||13624||<U+9771,U+E0100>||<U+9771,U+E0102>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9771;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9771;&#xE0102; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|騙||1-81-57||7248||8003||<U+9A19,U+E0100>||<U+9A19,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9A19;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9A19;&#xE0101; |- |style="font-size:3em;text-align:center;"|鴉||1-82-77||7362||14272||<U+9D09,U+E0100>||<U+9D09,U+E0101>||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9D09;&#xE0100;||style="font-size:3em;text-align:center;"|&#x9D09;&#xE0101; |} == Adobe-Japan1 サロゲートペア文字 == <div style="font-family:'源ノ明朝','Hiragino Mincho ProN','YuMincho','游明朝';line-height:160%;"> {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x2000B;}}{{mono|(U+2000B)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x20089;}}{{mono|(U+20089)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x2008A;}}{{mono|(U+2008A)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x200A2;}}{{mono|(U+200A2)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x200A4;}}{{mono|(U+200A4)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x200B0;}}{{mono|(U+200B0)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x200F5;}}{{mono|(U+200F5)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x20158;}}{{mono|(U+20158)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x201A2;}}{{mono|(U+201A2)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x20213;}}{{mono|(U+20213)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x2032B;}}{{mono|(U+2032B)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x20371;}}{{mono|(U+20371)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x20381;}}{{mono|(U+20381)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x203F9;}}{{mono|(U+203F9)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x2044A;}}{{mono|(U+2044A)}}}} {{nowrap|{{fontsize|200%|&#x20509;}}{{mono|(U+20509)}}}} 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廃止された文字コレクションに2003年5月発表の'''Adobe-Japan2-0'''というものがある<ref>[https://www.adobe.com/content/dam/acom/en/devnet/font/pdfs/5097.Adobe-Japan2-0.pdf Adobe-Japan2-0]</ref>。Adobe-Japan2-0はJIS X 0212に相当し、Adobe-Japan1-6に統合された。Adobe-Japan2に1以降の追補はもともと存在しない。 実際には Adobe-Japan2-0に含まれ、Adobe-Japan1-6には含まれないグリフとして、漢字3字(暀、殩、汴のJIS X 0212規格票例示字形)が存在する。これについては、Adobe-Japan1-7で追補される見込みであった<ref>[https://www.adobe.com/content/dam/acom/en/devnet/font/pdfs/5078.Adobe-Japan1-6.pdf The Adobe-Japan1-6 Character Collection] 60ページ</ref>が、前述の通り、Adobe-Japan1-7では「令和」合字のみが追加された。 厳密には「叕」も字体に相違が認められる。 {{gallery |title=Adobe-Japan1-7までに含まれないAdobe-Japan2文字コレクション(AJ2)のグリフ |width=84 |height=84 |File:Aj2-2001.svg|AJ2 2001、U+6680(暀) |File:Aj2-2345.svg|AJ2 2345、U+6BA9(殩) |File:Aj2-2402.svg|AJ2 2402、U+6C74(汴) |File:Aj2-0702.svg|AJ2 0702、U+53D5(叕) }} == 日本語以外のCJK文字コレクション == 日本語以外の[[CJKV|CJK]]圏で使われる文字コレクションに、Adobe-GB1([[簡体字]][[中国語]])・Adobe-CNS1([[繁体字]]中国語)・Adobe-KR([[朝鮮語]])がある。最新版はそれぞれ次の通り。 ;Adobe-GB1-5 : 3万0284グリフ、2005年12月4日<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/Adobe-GB1/ Adobe-GB1]</ref> ;Adobe-CNS1-7 : 1万9179グリフ、2017年7月4日<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/Adobe-CNS1/ Adobe-CNS1]</ref> ;Adobe-KR-9 : 2万2897グリフ、2018年7月19日<ref>[https://github.com/adobe-type-tools/Adobe-KR/ Adobe-KR]</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}} == 関連項目 == * [[OpenType]] * [[異体字セレクタ]] * [[小塚明朝]]…Adobe-Japan1に関する資料でグリフを示すのに使われるアドビの[[明朝体]]フォント * [[U-PRESS]]…[[共同通信社]]による文字セット * [[CJK互換漢字補助#Adobe-Japan1グリフの互換漢字]] == 外部リンク == * [http://www.adobe.com/devnet/font/#ckf Adobe - Font and Type Technology Center]<br />「Adobe-Japan1-6」の全収録文字一覧表が “Adobe-Japan1-6 Character Collection for CID-Keyed Fonts” として公開されている * [http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/publications/JST2005-11.pdf 安岡 孝一. “Adobe-Japan1-6とUnicode─異体字処理と文字コードの現実”. 情報管理. Vol. 48, No. 8, (2005), 487-495 .] * [https://fontnavi.jp/zakkuri/303-adobe-japan1.aspx Adobe-Japan1規格 - フォント専門サイト fontnavi] * [http://kanji-database.sourceforge.net/ivd/adobe-japan1.html Adobe-Japan1 漢字データベースプロジェクト] * [https://www.adobe.com/content/dam/acom/en/devnet/font/pdfs/5078.Adobe-Japan1-6.pdf Adobe Technical Note #5078: The Adobe-Japan1-6 Character Collection] * {{GitHub|adobe-type-tools/Adobe-Japan1/raw/master/Adobe-Japan1-7.pdf |label=The Adobe-Japan1-7 Character Collection}} * {{GitHub|adobe-fonts/source-han-serif/blob/release/Resources/aj16-kanji.txt}} * {{GitHub|adobe-type-tools/Adobe-Japan1/blob/master/README-JP.md |label=Adobe-Japan1-7 文字コレクション}} * [https://www.unicode.org/ivd/data/2017-12-12/IVD_Sequences.txt |label=Ideographic Variation Database - unicode.org] 字形コレクションとしてAdobe-Japan1を含む {{文字コード}} [[Category:文字コード]] [[Category:書体]] [[Category:DTP]] [[Category:アドビ]]
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邦楽のジャンル一覧
邦楽のジャンル一覧(ほうがくのジャンルいちらん)
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邦楽のジャンル一覧(ほうがくのジャンルいちらん)
{{重複|dupe=邦楽#邦楽のジャンル一覧|date=2022年11月7日 (月) 11:24 (UTC)}} <!-- どう記事をすみ分けているのか不明瞭なため重複・差分を確認のうえ要整理 --> '''邦楽のジャンル一覧'''(ほうがくのジャンルいちらん) ==古代に認められる邦楽の源流== *[[民謡]] *[[声明]] *[[雅楽]] *[[神楽]] *[[猿楽]] *[[催馬楽]] *[[今様]] ==歌唱曲== *[[長唄]] *[[囃子]] *[[小唄]] *[[地歌]] *[[相撲甚句]] *[[平曲]] ==器楽曲== *[[尺八]] *[[箏曲]] *[[琵琶]] ==明治時代以降== *[[童謡]] *[[演歌]] *[[歌謡曲]] *[[流行歌]] *[[浪曲]](浪花節) ==その他== *[[沖縄音楽]] ==邦楽に関連する、重要な芸能== *[[浄瑠璃]] *[[能楽]] *[[歌舞伎]] ---- ==関連項目== *[[邦楽]] {{音楽}} {{日本の音楽}} {{日本の伝統芸能}} {{DEFAULTSORT:ほうかくのしやんる}} [[Category:日本の音楽の一覧]] [[Category:日本の文化史]]
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民謡
民謡(みんよう、独: Volkslied、英: folk song)とは、主に民衆の生活のなかで生まれ、口承によってうたい継がれてきた歌の総称。 不特定多数の民衆によって自由に伝承されているうちに自然と形になった歌である。特定の地域集団や職業集団に固有の歌謡という捉え方が一般的だが、数世代に渡って体験的に継承されたものに限り、芸能を専門とする者が修正を加えたものは除外するという立場もある。 民謡という概念はドイツで誕生した。1773年にドイツの思想家ヘルダーによってVolksliedという用語が提唱された。これは「Volks(=民衆の)」+ 「Lied(=歌)」という合成語であった。それ以前は地域や時代により様々に呼ばれていたものを、Volksliedと総称したのである。 広義には、作者が分かっている民謡調の俗謡・新民謡なども含み、特定の国や地域や民族における、民俗音楽の重要な要素であるが、その見地からの総合的記述は音楽民族学の項に譲る。 日本語の「民謡」は明治時代(1868年 -1912年)の半ば、民俗学など学問的な必要から、ドイツ語のVolksliedという用語(もしくはそれを英語に訳した「folk song」)の訳語として創出された(「民謡」なる語を使い始めたのは森鴎外や上田敏だという)。日本でもやはりそれまでは地域や時代により様々に呼ばれていたわけだが、里謡、俚謡(りよう)などとも呼ばれていた。 など 日本の民謡と言うと、狭義には日本各地での口承歌のことをいう。日本の民謡は、口承で伝えられてきた歌唱曲の総称で、大部分は歌のみで楽器は加わらない。 民謡の中には、民衆の生活に根ざした労働歌、祭祀・年中行事の歌などが含まれるが、子供向けの童歌()や子守唄なども多く含まれる。 日本の民謡は日本語の発声や韻と深く結びついている。音階に関しては、陽旋法(長調)のものは、ヨナ抜き音階である。リズムや音の数に関しては、(労働歌や酒席での即興から生まれたものが多いため)字余りや変拍子などの複雑で不自然なリズムや音数のものも少なくない。 1987年(昭和62年)の調査では現存する民謡は、およそ58,000曲である。 口伝で伝えられたそれらの曲の歌詞は、労働時のつらい気持ちを払拭するための愚痴や、酒席での性についての内容のものが多かったと言われる。近年の曲では「炭坑節」がそのいい例で、女工らの性に関する表現が含まれており、この曲を地域の伝統文化として子供たちに歌わせることの是非問題に発展することもある。そのため現在歌われている民謡の多くは、明治維新以後に地方自治体や文化団体が歌詞を公募し、低俗な歌詞を差し替えて、地元の伝統文化として再構築されたものが多いという。 なお、現在では冷静な学問としては、欧米などの学者の世界では、琉球民謡やアイヌ音楽も、"広義の日本の民謡"の枠の中に入れて扱うということになる。(ただし、日本の一部の民族主義的な人は、感情的になって、それらを「日本の民謡」の枠の外のものと見なそうとすることもある。だが、現在では学問的に言えば、琉球人も紛れもなく日本人の一部なので、琉球民謡も日本民謡の一部なのである。) 広義では、広く人口に知れ渡った歌という意味で、流行歌の一部も含むことがある。 特に明治時代後期から大正時代にかけて北原白秋らによって新たに創作された民謡風の曲は、それまでの伝統的な民謡と区別して「新民謡」、もしくは「創作民謡」と呼ばれる。また大正時代から昭和初期にかけて中山晋平、藤井清水、野口雨情、西條八十らによって創作された、主に地域の宣伝のための新民謡は、特に「地方小唄」と呼ぶ場合がある。 武田俊輔『民謡の再編成』によれば、「民謡」は大正から昭和初期の野口、中山、レコード会社、文部省、民俗学、NHKによる運動の発明品ともいうべき存在で、全国各地の郷土色豊かな旋律を「民謡」の名のもとに再編成・固定化し、全国に流通すべく産業化したものとも言え、例えば安来節のようにその枠からはみ出た流行 に、「正調」「保存会」が後から出て来るといった事例 がある事でその見方は一定の力を持っている。かつて労働などの日常のやりとりのなかで歌が歌われる際には、文句や節回しは人により、時と場合により違っていたのである。
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民謡とは、主に民衆の生活のなかで生まれ、口承によってうたい継がれてきた歌の総称。
{{出典の明記|date=2016年1月}} '''民謡'''(みんよう、{{Lang-de-short|Volkslied}}、{{Lang-en-short|folk song}})とは、主に[[民衆]]の生活のなかで生まれ、[[口承]]によってうたい継がれてきた[[歌]]の総称。 == 概要 == 不特定多数の民衆によって自由に伝承されているうちに自然と形になった歌である。特定の地域集団や職業集団に固有の歌謡という捉え方が一般的だが、数世代に渡って体験的に継承されたものに限り、[[芸能]]を専門とする者が修正を加えたものは除外するという立場もある。 民謡という概念はドイツで誕生した。[[1773年]]にドイツの思想家[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]によってVolksliedという用語が提唱された。これは「Volks(=民衆の)」+ 「Lied(=歌)」という[[合成語]]であった。それ以前は地域や時代により様々に呼ばれていたものを、Volksliedと総称したのである。 広義には、作者が分かっている民謡調の[[俗謡]]・[[新民謡]]なども含み、特定の[[国]]や[[地域]]や[[民族]]における、[[民俗音楽]]の重要な要素であるが、その見地からの総合的記述は[[音楽民族学]]の項に譲る。 {{See also|世界の民謡一覧}} 日本語の「民謡」は[[明治時代]](1868年 -1912年)の半ば、[[民俗学]]など学問的な必要から、[[ドイツ語]]のVolksliedという用語(もしくはそれを[[英語]]に訳した「folk song」)の訳語として創出された(「民謡」なる語を使い始めたのは[[森鴎外]]や[[上田敏]]だという)。日本でもやはりそれまでは地域や時代により様々に呼ばれていたわけだが、里謡、俚謡(りよう)などとも呼ばれていた。 == ヨーロッパの民謡 == ===ドイツ=== *[[別れの歌 (シュヴァーベン地方民謡)]] *[[ぶんぶんぶん]] *[[夜汽車 (童謡)]](原詩) *[[かっこう]] *[[こぎつね]] *[[かえるのうた]] *[[山の音楽家]] === フランス === *[[ガボット]](南[[フランス]]) *[[きらきら星]] *[[フレール・ジャック]] *[[クラリネットをこわしちゃった]] *[[荒野の果てに]] *[[月の光に]] *[[アヴィニョンの橋の上で]] など === イタリア === *[[フニクリ・フニクラ]]([[イタリア]]、[[ナポリ]] 元来は[[コマーシャルソング]]であり古来の民謡ではない) === ロシア === {{See|ロシア民謡}} *[[コロベイニキ|コロブチカ]] ==アフリカの民謡== *[[ライオンは寝ている]]([[:en:The Lion Sleeps Tonight|The Lion Sleeps Tonight]]) ==アジアの民謡== === 中国 === *[[茉莉花 (民謡)]] *[[小白菜]] *[[康定情歌]] * [[東北地方の子守歌]] === 朝鮮 === *[[アリラン]] *[[トラジ (民謡)|トラジ]] === モンゴル === *[[オルティンドー]] === ロシア === {{See|ロシア民謡}} *[[さすらい人 (ロシア民謡)|さすらい人]] *[[栄えある海、聖なるバイカル]] === ベトナム === {{Main|ベトナムの音楽#民謡}} :ベトナムの民謡は極めて多様であり、クァンホ、ハット・チャウ・バン、カ・チュ、hò、hát xẩm、などの様式がある == 日本の民謡 == {{Infobox Music genre | name = 民謡<br />Minyou | bgcolor = skyblue | stylistic_origins = {{Hlist-comma|[[日本語]]の[[発声]]、[[韻]]}} | cultural_origins = -<br />{{JPN}} | subgenres = {{Hlist-comma|[[追分]]|[[馬子唄]]|[[舟歌]]|[[今様]]|[[甚句]]([[都々逸]])|[[盆踊り]]|[[木遣唄]]|[[地突唄]]|[[騒ぎ唄]]|[[音頭]]|[[島唄|シマ唄]]|[[ユンタ]]|[[新民謡]]}} | fusiongenres = {{Hlist-comma|}} | regional_scenes = {{Hlist-comma|}} | other_topics = {{Hlist-comma|[[浪曲]]|[[歌謡浪曲]]|[[演歌]]|[[歌謡曲]]|[[J-POP]]||[[ローカルアイドル|ご当地アイドル]]|[[ニューエイジ・ミュージック|ニュー・エイジ]]}} }} [[日本]]の民謡と言うと、狭義には日本各地での口承歌のことをいう。日本の民謡は、[[口承]]で伝えられてきた[[歌唱曲]]の総称で、大部分は歌のみで[[楽器]]は加わらない。 民謡の中には、民衆の生活に根ざした[[労働歌]]、[[祭祀]]・[[年中行事]]の歌などが含まれるが、[[子供]]向けの{{読み仮名|[[童歌]]|わらべうた}}や[[子守唄]]なども多く含まれる。 日本の民謡は[[日本語]]の[[発声]]や[[韻]]と深く結びついている。音階に関しては、陽旋法([[長調]])のものは、[[ヨナ抜き音階]]である。リズムや音の数に関しては、(労働歌や酒席での即興から生まれたものが多いため)[[字余り]]や[[変拍子]]などの複雑で不自然なリズムや音数のものも少なくない。 [[1987年]]([[昭和]]62年)の調査では現存する民謡は、およそ58,000曲である。 口伝で伝えられたそれらの曲の歌詞は、労働時のつらい気持ちを払拭するための愚痴や、酒席での性についての内容のものが多かったと言われる。近年の曲では「[[炭坑節]]」がそのいい例で、女工らの性に関する表現が含まれており、この曲を地域の伝統文化として子供たちに歌わせることの是非問題に発展することもある。そのため現在歌われている民謡の多くは、明治維新以後に地方自治体や文化団体が歌詞を公募し、低俗な歌詞を差し替えて、地元の伝統文化として再構築されたものが多いという。 なお、現在では冷静な学問としては、欧米などの学者の世界では、[[琉球民謡]]や[[アイヌ音楽]]も、"広義の日本の民謡"の枠の中に入れて扱うということになる。(ただし、日本の一部の民族主義的な人は、感情的になって、それらを「日本の民謡」の枠の外のものと見なそうとすることもある。だが、現在では学問的に言えば、琉球人も紛れもなく日本人の一部なので、琉球民謡も日本民謡の一部なのである。) 広義では、広く人口に知れ渡った歌という意味で、[[流行歌]]の一部も含むことがある。 特に[[明治時代]]後期から[[大正時代]]にかけて[[北原白秋]]らによって新たに創作された民謡風の曲は、それまでの伝統的な民謡と区別して「[[新民謡]]」、もしくは「創作民謡」と呼ばれる。また大正時代から[[昭和]]初期にかけて[[中山晋平]]、[[藤井清水]]、[[野口雨情]]、[[西條八十]]らによって創作された、主に地域の宣伝のための新民謡は、特に「地方小唄」と呼ぶ場合がある。 武田俊輔『民謡の再編成』<ref>[[#世界音楽]]</ref>によれば、「民謡」は大正から昭和初期の野口、中山、レコード会社、文部省、民俗学、NHKによる運動の発明品ともいうべき存在で、全国各地の郷土色豊かな旋律を「民謡」の名のもとに再編成・固定化し、全国に流通すべく産業化したものとも言え、例えば[[安来節]]のようにその枠からはみ出た流行<ref group="注">[[寄席]]という媒体、成立への[[芸人]]、[[芸妓]]の介在等。</ref> に、「正調」「保存会」が後から出て来るといった事例<ref group="注">他に[[八木節]]や[[追分]]など。</ref> がある事でその見方は一定の力を持っている。かつて労働などの日常のやりとりのなかで歌が歌われる際には、文句や節回しは人により、時と場合により違っていたのである。 *新潮流としてグループ「[[民謡クルセイダーズ]]」や「[[俚謡山脈]]」があり、民謡の新しい聞き方、新たなファン層を呼んでいる。 === 種類 === *[[追分]] *[[馬子唄]] *[[舟歌]] *民謡化した[[今様]] *[[甚句]]([[都々逸]]) *[[盆踊り]]の歌 *[[木遣唄]]/[[地突唄]] *[[騒ぎ唄]] *[[音頭]] *[[島唄|シマ唄]] *[[ユンタ]] {|class="wikitable" |+各都道府県の民謡(例示) ! 都道府県 !! 曲名 |- !北海道 |[[江差追分]]、[[北海盆唄]]、[[ソーラン節]]、[[道南口説]]、[[江差船方節]]、[[北海よされ節]]、[[鰊場作業唄]] |- !青森県 |[[津軽じょんから節]]、[[田名部おしまこ]]、[[津軽あいや節]]、[[津軽よされ節]]、[[十三の砂山]]、[[鰺ヶ沢甚句]] |- !岩手県 |[[南部牛追唄]]、[[南部俵積み唄]]、[[外山節]]、[[沢内甚句]] |- !宮城県 |[[大漁唄い込み]](前唄「[[ドヤ節]]」・中唄「[[斎太郎節]]」・後唄「[[遠島甚句]]」)、[[さんさ時雨]]、[[塩釜甚句]] |- !秋田県 |[[秋田音頭]]、[[ドンパン節]]、[[秋田おばこ]]、[[長者の山]]、[[秋田船方節]]、[[喜代節]]、[[生保内節]]、[[ひでこ節]]、おこさ節、[[本荘追分]]、[[秋田大黒舞]] |- !山形県 |[[真室川音頭]]、[[花笠まつり|花笠音頭]]、[[紅花摘唄]]、[[庄内おばこ]]、[[新庄節]]、[[菊と桔梗]]、あがらしゃれ、もみすり唄 |- !福島県 |[[会津磐梯山 (民謡)|会津磐梯山]]、[[相馬盆唄]]、[[新相馬節]]、[[相馬二遍返し]] |- !茨城県 |[[磯節]]、[[常磐炭坑節]]、[[潮来音頭]] |- !千葉県 |[[銚子大漁節]]、[[木更津甚句]]、おいとこそうだよ |- !栃木県 |[[日光和楽踊り]] |- !群馬県 |[[八木節]]、[[草津節]] |- !埼玉県 |[[秩父音頭]] |- !東京都 |[[お江戸日本橋]]、深川節、[[大島節]] |- !神奈川県 |[[ダンチョネ節|だんちょね節]]、[[箱根馬子唄]]、[[チャッキラコ]] |- !山梨県 |[[縁故節]] |- !長野県 |[[木曽節]]、[[伊那節]]、[[小諸馬子唄]] |- !岐阜県 |[[郡上節]]、[[ホッチョセ]]、[[おばば (岐阜音頭)]]、[[ぜんぜのこ]] |- !新潟県 |[[佐渡おけさ]]、新潟おけさ、[[米山甚句]]、[[三階節]]、浦佐サンヨ節、佐渡甚句 |- !富山県 |[[越中おわら節]]、[[こきりこ節]]、越中[[麦屋節]]、[[せり込み蝶六]]、[[といちんさ]]、[[新川古代神]] |- !石川県 |[[森本めでた]]、[[山中節]]、[[能登麦屋節]]、[[能登まだら]]〔輪島まだら・七尾まだら〕、[[百万石音頭]] |- !福井県 |[[三国節]] |- !静岡県 |[[ノーエ節]] |- !愛知県 |[[名古屋甚句]]、[[設楽さんさ]]、[[岡崎五万石]] |- !三重県 |[[桑名の殿様]]、[[伊勢音頭]]、[[尾鷲節]] |- !滋賀県 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|[[鹿児島おはら節]]、[[鹿児島ハンヤ節]]、[[鹿児島三下り]]、[[鹿児島よさこい節]]、[[鹿児島角力取節]]、[[串木野さのさ]]、[[朝花節]]、[[行きゅんにゃ加那]] |- !沖縄県 |[[谷茶前節]]、[[唐船ドーイ]]、[[安里屋ユンタ]]、[[クイチャー]]、[[デンサ節]]、[[てぃんさぐぬ花]]、[[赤田首里殿内]] |} === 歌手 === *初代[[浅野梅若]](秋田民謡。秋田荷方節ほか。秋田三味線の名人)...当代となる[[浅野梅若 (2代目)|2代目梅若]]は初代の養女。 *[[小野花子]](秋田民謡。本荘追分ほか) *[[岸千恵子]](津軽民謡。じょんから節ほか) *[[金沢明子]](津軽民謡。じょんから節ほか全国の民謡) *[[今重造]](津軽民謡。津軽五大民謡ほか) *[[二代目今重造]](津軽三味線。津軽民謡。津軽五大民謡ほか) *[[原田栄次郎]](津軽民謡。津軽五大民謡ほか) *[[浅利みき]](津軽民謡。津軽五大民謡ほか) *[[二代目白川軍八郎]](津軽民謡。津軽五大民謡ほか) *[[三橋美智也]](オーケストラ伴奏で全国の民謡を手掛けた) *[[黒田幸子]](安来節ほか。東京の寄席でも活躍した)現在は実娘である二代目が活躍。 *[[佐藤松子]](お座敷民謡。岡崎五万石ほか) *[[関根安中]](磯節の名人) *[[渡辺お糸]](安来節の名人。現在4代目) *[[村田文蔵]](新潟民謡。相川音頭ほか) *[[大島里喜]](大島民謡中心。大島節・あんこ節ほか) *[[奈須美静]](宮崎民謡。稗搗節ほか) *[[堂坂よし子]](五木の子守唄) *[[豆千代]](岐阜民謡中心。おばばほか) *[[藤本二三吉]](木曽節などのほか、各地の新民謡) *[[赤坂小梅]](九州民謡中心。おてもやんほか) *[[小唄勝太郎]](新潟民謡中心。おけさ踊りほか)※おけさ踊り=佐渡おけさの勝太郎節。 *[[浅草〆香]](新潟民謡中心。新潟おけさほか) *[[音丸]](串本節ほか) *[[市丸]](天竜下ればほか) *[[新橋喜代三]](鹿児島おはら節ほか) *[[愛八]](長崎民謡。[[ぶらぶら節]]ほか) *[[鈴木正夫]](初代・二代目。相馬民謡中心。新相馬節ほか) *[[藤堂輝明]](黒田節などの九州民謡を中心に全国の民謡を手掛ける) *[[鞆田晶行]](宮崎正調ひえつき節ほか) *[[山本謙司]](津軽民謡。弥三郎節ほか) *[[原田直之]](大漁唄い込みほか、全国の民謡を手掛ける) *[[大塚文雄]](会津磐梯山ほか、全国の民謡を手掛ける) *[[鎌田英一]](江差追分などの北海道民謡を中心に全国の民謡を手掛ける) *[[浜田喜一 (初代)|初代浜田喜一]](江差追分をはじめ、全国の民謡を手掛けた) *[[浜田喜一 (2代目)|二代目浜田喜一]](初代の実弟。全国の民謡を手掛けた) *[[小沢千月]](秩父音頭、八木節などの関東民謡を中心に全国の民謡を手掛ける) *[[斉藤京子 (民謡歌手)|斉藤京子]](座敷唄を得意とし、全国の民謡を手掛ける) *[[早坂光枝]](特徴の違う東北物から西物まで全国の民謡を歌い分ける) *[[小杉真貴子]](佐渡おけさほか。夫は尺八の米谷威和男) *[[高橋キヨ子]](三崎甚句など。三味線の本條秀太郎の高弟) *米谷和美 (1963年、米谷威和男に師事。1964年、キングレコードより 小花で民謡歌手デビューし、1965年、米谷和美と改名。) *[[上玉利三司]](薩摩民謡) *[[稼木美優]](薩摩民謡) *[[福田こうへい]](南部民謡・演歌歌手として活躍中) *[[坪山豊]]([[島唄|奄美シマ唄]]) *[[朝崎郁恵]](奄美シマ唄) *[[築地俊造]](奄美シマ唄) *[[牧岡奈美]](奄美シマ唄) *[[里アンナ]](奄美シマ唄) *[[川畑さおり]](奄美シマ唄) *[[嘉手苅林昌]]([[琉球民謡]]) *[[知名定男]](琉球民謡) *[[喜納昌永]](琉球民謡) *[[登川誠仁]](琉球民謡。[[三線]]の名手で登川流宗家) *[[砂川国夫]]([[宮古民謡]]) *[[山里勇吉]]([[八重山民謡]]) *[[世持桜]](八重山民謡) *[[与那覇歩]]([[与那国民謡]]) === 演奏家 === *[[峰村利子]](三味線。初代鈴木正夫の伴奏などを務めた) *[[藤本琇丈]](三味線。藤本流初代家元・民謡三味線の名人。現在は長男が二代目を継承) *[[本條秀太郎]](三味線。藤本琇丈の弟子で、現代邦楽などでも活躍する鬼才) *[[千藤幸蔵]](三味線。藤本琇丈の弟子で、民謡研究家としても著名) *[[畔上三山]](鳴物。現在の民謡鳴物の基礎を作った) *[[山田三鶴]](鳴物。畔上三山の弟子。山田流家元) *[[美波参駒]](鳴物。畔上三山の弟子。美波流家元) *[[美波駒輔]](鳴物。美波参駒の弟子) *[[美鵬駒三朗]](鳴物。美波参駒の弟子。美鵬流家元) *[[菊池淡水]](尺八。民謡尺八の名人) *[[後藤桃水]](尺八。「民謡」の名付け親) *[[米谷威和男]](尺八。藤本琇丈の弟子。米谷流家元) *[[矢下勇]](尺八。矢下流家元) *[[津軽三味線]]演奏家は当該項目を参照。 === 賞・コンクール === *[[産経民謡大賞]] - [[産業経済新聞社|産経新聞社]]主催。[[1966年]]から開催 *[[日本民謡ヤングフェスティバル]] - [[全大阪みんよう協会]]主催。[[1991年]]から開催 *[[日本民謡フェスティバル]] - [[日本民謡協会]]主催。 *[[日本民謡大賞]] - [[日本テレビ]]系の特別番組。[[1978年]]から[[1992年]]まで放送 === テレビ・ラジオ番組 === *[[民謡をたずねて]] - 全国放送されている[[ラジオ]]番組([[日本放送協会|NHK]]制作) *[[民謡をどうぞ]] - [[東北地方]]で放送されているラジオ番組([[NHK仙台放送局]]制作) *[[クボタ民謡お国めぐり]] - 東北地方で放送されていた[[テレビ]]番組([[秋田テレビ]]制作) *[[キンカン素人民謡名人戦]] - フジテレビで放送されていた番組 *[[それいけ!民謡うた祭り]] - [[NHK総合テレビ]]で放送されていた番組 === 関係する団体 === *[[日本民謡協会]] *[[日本郷土民謡協会]] *[[全大阪みんよう協会]] *[[産業経済新聞社|産経新聞社]] - [[産経民謡大賞]]を主催 == 南北アメリカの民謡 == *[[オクラホマミキサー|藁の中の七面鳥]]([[アメリカ合衆国]]) *[[シェリト・リンド]]([[メキシコ]]内) *[[青い鳩]](メキシコ合衆国) ==オセアニアの民謡== *[[クカブラ]]([[:en:Kookaburra (song)|Kookaburra]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor= [[徳丸吉彦]],[[高橋悠治]],[[北中正和]],[[渡辺裕]]|year=2007|month=|title=事典 世界音楽の本|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000236720|ref=世界音楽}} * {{Cite book|和書|editor= [[音楽之友社]]編|year=2007|month=|title=日本音楽基本用語辞典 |publisher=[[音楽之友社]]|isbn=978-4276001824|ref=日本音楽基本用語辞典 }} * {{Cite book|和書|editor= [[岸辺成雄]]ほか編|year=1981|month=|title=音楽大事典|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582125009|ref=音楽大事典}} *[http://www.1134.com/min-you/99bib1.shtml 「民謡」参考文献リスト] *[http://senshoan.main.jp/minyou/minyou-top.htm 民謡コレクションの間] *高桑敬親『古代民謡 筑子の起原考』謄写版、[[1970年]] == 関連項目 == * [[トラッド]]([[:en:Traditional music|Traditional music]]) * [[フォークソング]] * [[民族音楽]](Ethnic music)  * [[民俗音楽]]([[:en:Folk music|Folk music]]) * [[民俗舞踊]]([[:en:Folk dance|Folk dance]]) * [[俗謡]] * [[島唄]] {{Music-stub}} {{日本の伝統芸能}} {{音楽}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みんよう}} [[Category:音楽のジャンル]] [[Category:民俗音楽]] [[Category:歌]] [[Category:口承]] [[Category:民謡|*]]
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和暦
和暦()は、元号とそれに続く年数によって年を表現する、日本独自の紀年法である。邦暦()や日本暦(、にほんれき)とも。 この手法自体は東アジアで広く行われてきたが、日本独自の元号を用いているため日本固有の紀年法となる。飛鳥時代の孝徳天皇によって西暦645年に制定された「大化」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦2023年は令和5年に当たる。 また暦法について、明治改暦(明治6年/西暦1873年)で天保暦に代えてグレゴリオ暦を採用して以降は、月日についてはグレゴリオ暦と一致している。 最初の元号「大化」が制定された西暦645年(大化の改新)以降に、248の元号が日本で制定されている。ただしこれは、南北朝時代における両朝の元号双方を全て含めた数である。重複のない元号の数は、南朝を採る場合(歴代天皇の数え方と一致する)は232、北朝を採る場合は241である。 古代には元号が制定されていない期間もあった。現在まで連続するのは、西暦701年の大宝からである。また、前述したように南北朝時代には2つの元号が並行して存在していた。その他にも地方の反乱勢力や都落ちした勢力が中央の改元に従わず、旧元号を使い続けた例がいくつか知られており、多くの私年号も伝えられている。 明治以降は、一世一元の詔・旧皇室典範・元号法により、天皇の位を継承する際にのみ改めることが定められているが(一世一元の制)、明治以前は、不吉なことがあったり、病が流行するなどの理由で度々改元された。そのほとんどは1年から長くて十数年の非常に短い期間しか持続しなかった。逆に、新天皇が即位しても、改元しなかったり、日を置いて改元した場合も少なくなかった。 日本の役所等の官公庁が発行する文書、官公庁に提出する書類(公文書)は、慣例により和暦を記載したものが多いが、和暦を記載しなければならないという法的な根拠は存在しない。外務省は、国外とやりとりする書類については、原則として西暦を利用する方針を示した。日本国外で主に使うパスポートや、気象観測機器の製造年には西暦が使用されている。新聞などには西暦と和暦が併記されている。 明治以前の元号は対応していない。また、「元年」は1と考える。 計算に手間がかかる場合は、早見表を用いると便利である。 Microsoft Windowsでは、ロケールに「日本」を選択することで、日付形式に「和暦」を選択できる。 Microsoft Officeなどの書式文字列では、元号は「ggg」、元号での年数は「e」(0詰めなし)か「ee」(2桁に0詰め、ただし3桁以上になりうる)で表される。たとえば、1990年を「平成2年」と表現する書式文字列は「ggge年」である。漢字1文字の略記は「gg」、英字1文字の略記は「g」である。「元年」表現はサポートされていない。 またレジストリーエディターでキー名HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\Nls\Calendars\Japanese\Erasに 「値の名前」を「西暦 月 日」(月と日は0埋め)とし、「値のデータ」を「元号_元号の省略_ローマ字表記された元号_ローマ字表記された元号の1文字」を追加すればよい。
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和暦は、元号とそれに続く年数によって年を表現する、日本独自の紀年法である。邦暦や日本暦(にっぽんれき、とも。 この手法自体は東アジアで広く行われてきたが、日本独自の元号を用いているため日本固有の紀年法となる。飛鳥時代の孝徳天皇によって西暦645年に制定された「大化」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦2023年は令和5年に当たる。 また暦法について、明治改暦で天保暦に代えてグレゴリオ暦を採用して以降は、月日についてはグレゴリオ暦と一致している。
{{Otheruses2|日本の歴史的な紀年法|日本の歴史的な暦法|太陰太陽暦#日本の太陰太陽暦|日本の暦}} {{読み仮名|'''和暦'''|われき}}は、[[元号]]とそれに続く年数によって[[年]]を表現する、[[日本]]独自の[[紀年法]]である。{{読み仮名|'''邦暦'''|ほうれき}}や{{読み仮名|'''日本暦'''|にっぽんれき|にほんれき}}とも。 この手法自体は[[東アジア]]で広く行われてきたが、[[元号一覧 (日本)|日本独自の元号]]を用いているため日本固有の紀年法となる。[[飛鳥時代]]の[[孝徳天皇]]によって西暦[[645年]]に制定された「'''[[大化]]'''」がその始まりであり、以来15世紀に亘って使われ続けてきている。 たとえば、西暦[[2023年]]は[[令和]]5年に当たる<!--「Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わない」により、「今年」を例に挙げるのはやめる-->。 また[[暦法]]について、[[明治改暦]]([[明治]]6年/西暦[[1873年]])で[[天保暦]]に代えて[[グレゴリオ暦]]を採用して以降は、[[月 (暦)|月]][[日]]についてはグレゴリオ暦と一致している。 == 概要 == 最初の元号「大化」が制定された西暦645年([[大化の改新]])以降に、248の元号が日本で制定されている。ただしこれは、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]における両朝の元号双方を全て含めた数である。重複のない元号の数は、南朝を採る場合(歴代[[天皇]]の数え方と一致する)は232、北朝を採る場合は241である。 古代には元号が制定されていない期間もあった。現在まで連続するのは、西暦[[701年]]の[[大宝 (日本)|大宝]]からである。また、前述したように南北朝時代には2つの元号が並行して存在していた。その他にも地方の反乱勢力や都落ちした勢力が中央の改元に従わず、旧元号を使い続けた例がいくつか知られており、多くの[[私年号]]も伝えられている。 [[明治]]以降は、[[一世一元の詔]]・[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]・[[元号法]]により、天皇の位を継承する際にのみ改めることが定められているが([[一世一元の制]])、明治以前は、不吉なことがあったり、病が流行するなどの理由で度々[[改元]]された。そのほとんどは1年から長くて十数年の非常に短い期間しか持続しなかった。逆に、新天皇が即位しても、改元しなかったり、日を置いて改元した場合も少なくなかった。 日本の役所等の官公庁が発行する文書、官公庁に提出する書類([[公文書]])は、慣例により和暦を記載したものが多いが、和暦を記載しなければならないという法的な根拠は存在しない<ref>{{Cite web|和書|title=公文書における西暦と元号の使用区分は規定があるのか|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000215432|website=レファレンス協同データベース|accessdate=2019-10-05|language=ja|last=国立国会図書館}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=契約書の年表記は和暦・西暦どちらにすべきか|url=https://www.cloudsign.jp/media/20190401-keiyakusyo-gengou/|website=サインのリ・デザイン|accessdate=2019-10-05|language=ja-jp}}</ref>。外務省は、国外とやりとりする書類については、原則として西暦を利用する方針を示した<ref>{{Cite web|和書|title=【記者会見】河野外務大臣会見記録|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/kaiken4_000814.html|website=外務省|accessdate=2019-10-05|language=ja}}</ref>。日本国外で主に使う[[パスポート]]や、気象観測機器の製造年には西暦が使用されている。新聞などには西暦と和暦が併記されている。 {{main2|詳細および出典|元号#日本の元号}}<!-- 重複加筆の抑制のため設置 --> == 現在の和暦 == {{現在の元号}} == 改元による事務作業の難点 == {{Seealso|改元|元号}} * 改元は年初とは限らず、特に、皇位継承に伴う改元となった大正以降は全て、年の途中で改元される。たとえば[[1926年]]の場合、[[12月24日]]まで[[大正]]15年で、翌[[12月25日|25日]]から[[昭和]][[元年]]となった。また[[1989年]]は[[1月7日]]まで昭和64年、[[1月8日]]から[[平成]]元年となっており、1つの西暦年に2つの元号が混在しているため、事務作業が繁雑になることがある。 * [[未来]]の年代を正確に表せない。たとえば、昭和50年代には「昭和70年」などとする資料がある<ref>横浜市例規より「[http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/g2020490001.html 横浜市一般職職員の定年等に関する条例]」</ref>。過去に発行された文書に現れる未来の和暦は、改元しても改定されないのが普通なので、現実には同じ日付に対し複数の元号表現がありうる。 * 立年改元(当年[[1月1日]]に遡って改元。例: 明治)や即日改元(当日0時に遡って改元。例: 大正・昭和)の場合、過去に遡って元号が変更される。そのため、遡った期間の日付に対しては、2種類の正しい(あるいは正しかった)和暦表現がありうる。ただし現在の史学では、立年改元は考慮しないのが普通である(明治は1月1日からではなく10月23日からとされる)。 * 改元ごとに多大な事務作業(公文書における、元号の改訂作業など)が発生する。 === その他 === {{出典の明記|date=2016年2月|section=1}} * 時系列に連続した[[西暦]]に比べて、過去を正確に表すには元号を全て覚えるか、照合作業が必要である。 * 1年を「元年」と表記する場合、一貫した処理が難しい。たとえば、数字2桁と漢字1文字が等幅でない環境ではレイアウト設計に問題が出る。 * 未来の年代を仮に表現する場合、年数が3桁にもなりうるが([[#日付・年数表現]]も参照)<ref name="syouraisuikeijinko24">[https://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/newest04/sh2401top.html 日本の将来推計人口(平成24年1月推計)](国立社会保障・人口問題研究所)、参考推計に“平成73(2061)年~平成122(2110)年”とある。</ref>、これに気づかず設計された[[コンピュータシステム]]は問題を起こす可能性がある(例:[[昭和100年問題]])。 == 日付・年数表現 == * 元号の後に年数を続ける。ただし1年は「○○[[元年]]」とするのが普通(特に[[縦書き]]の場合)。また、横書き固定長の場合、1桁の年数は月数や日数と同様、[[0]]または[[スペース|空白]]を詰めて、(「02年」「 2年」のように)2桁とする。 * [[大化]]以前および[[大宝 (日本)|大宝]]以前の元号の空白期間は、天皇の名を元号の代わりに使うのが慣例である。たとえば、[[十七条憲法]]が公布された西暦[[604年]]は「[[推古天皇|推古(天皇)]]12年」のように表す。 * 明治以降の元号を表す表現としては、漢字1字の略記(明・大・昭・平・令)や[[イニシャル|英字1字]]の略記(M・T・S・H・R)も使われる。これらの略記は [[JIS X 0301]] で規定されている。なお、明治の前の元号は[[慶応]]、その前は[[元治]]であるが、それらの略記はJISには含まれておらず、期間がごく短いこともあいまって実際に使われることはほぼない。 * 数十年先の未来の年数表現に元号を用いた場合、(今後の改元などは想定できないことから)3桁以上にもなりうる<ref name="syouraisuikeijinko24"/>。たとえば、平成の元号を用いて西暦[[2100年]]を表現した場合、平成112年とせざるを得なかった。 == 西暦から和暦、西暦から和暦への計算 == 明治以前の元号は対応していない。また、「元年」は1と考える。 {| class="wikitable" |- ! rowspan ="2" | 元号 !! rowspan="2" | 和暦→西暦 ! colspan="3" | 西暦→和暦 |- ! 永久に有効な式 !! colspan="2" | 一定の範囲内で有効なもの |- | 明治 || 和暦 - 33 + 1900 | 西暦 + 33 - 1900 | 西暦 + 33 の下二桁 || 1868年 - 1966年 |- | 大正 || 和暦 + 11 + 1900 | 西暦 - 11 - 1900 | 西暦 - 11 の下二桁 || 1912年 - 2010年 |- | 昭和 || 和暦 + 25 + 1900 | 西暦 - 25 - 1900 | 西暦 - 25 の下二桁 || 1926年 - 2024年 |- | 平成 || 和暦 - 12 + 2000 | 西暦 + 12 - 2000 | 西暦 + 12 の下二桁 || 1989年 - 2087年 |- | 令和 || 和暦 + 18 + 2000 | 西暦 - 18 - 2000 | 西暦 - 18 の下二桁 || 2019年 - 2117年 |} 計算に手間がかかる場合は、[[元号から西暦への変換表|早見表]]を用いると便利である。 == コンピュータでの扱い == {{see also|元号#コンピュータでの処理}} [[Microsoft Windows]]では、[[国際化と地域化|ロケール]]に「日本」を選択することで、日付形式に「和暦」を選択できる。 [[Microsoft Office]]などの書式文字列では、元号は「ggg」、元号での年数は「e」([[ゼロサプレス|0詰めなし]])か「ee」(2桁に0詰め、ただし3桁以上になりうる)で表される。たとえば、1990年を「平成2年」と表現する書式文字列は「ggge年」である。漢字1文字の略記は「gg」、英字1文字の略記は「g」である。「元年」表現はサポートされていない。 またレジストリーエディターでキー名<code>HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Control\Nls\Calendars\Japanese\Eras</code>に 「値の名前」を「西暦 月 日」(月と日は0埋め)とし、「値のデータ」を「元号_元号の省略_ローマ字表記された元号_ローマ字表記された元号の1文字」を追加すればよい。 == 和暦・元号を主に採用しているマスコミ == {{see also|元号#元号使用の現状}} * [[産業経済新聞社]] - 主に[[産経新聞]]や[[サンケイスポーツ]]。ただし、同社が発行する[[タブロイド]]版日刊紙「[[SANKEI EXPRESS]]」は、西暦を主に使用する傾向がある。また、同じく同社が発行する[[夕刊フジ]]は[[2007年]]に原則西暦表記に変更している。 * [[河北新報社]]、[[静岡新聞|静岡新聞社]]、[[熊本日日新聞|熊本日日新聞社]]など一部の[[地方紙]] * [[東京スポーツ|東京スポーツ新聞社]] * [[日本放送協会]](NHK) - 特に[[報道番組]]において、日本国内の出来事に関する報道では原則元号のみを用い、日本国外での出来事に関しては西暦のみを用いる傾向があり、場合によっては西暦と元号が混在することもある(特に2019年の令和改元後は経済関連ニュース等一部ニュースで国内ニュースでも西暦を用いるケースが増えている)。 == 日本で使用された暦・紀元一覧 == * [[暦法]] ** [[太陰太陽暦]] *** [[元嘉暦]] - [[儀鳳暦]] - [[大衍暦]] - [[五紀暦]] - [[宣明暦]] - [[貞享暦]] - [[宝暦暦]] - [[寛政暦]] - [[天保暦]] ** [[太陽暦]] *** [[グレゴリオ暦]] * [[紀元]] ** [[元号]] ** [[西暦紀元]] ** [[神武天皇即位紀元]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注"}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[暦]] ** [[日本の暦]] ** [[中国暦]] ** [[西暦]] ** [[改暦]] **[[新暦]] **[[旧暦]] * [[十二支]] * [[和時計]] *[[元号]] **[[改元]] **[[元号一覧]] *** [[元号一覧 (日本)]] * [[元号から西暦への変換表]] ** [[プロジェクト:日本の市町村/和暦西暦換算]] * [[天皇の一覧]] == 外部リンク == * {{PDF|[https://jsite.mhlw.go.jp/fukushima-roudoukyoku/content/contents/000622407.pdf 和暦西暦早見表]}} - 厚生労働省 * [https://www.jcb.co.jp/processing/share/wareki.html 和暦西暦早見表] - JCBカード {{暦}} {{Time topics}} {{Chronology}} {{Time measurement and standards}} {{日本関連の項目}} {{DEFAULTSORT:われき}} [[Category:和暦|*]] [[Category:日本の天文学史]] [[Category:日本の学芸史]] [[Category:日本の科学技術史]]
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ギリシア神話
ギリシア神話(ギリシアしんわ、ギリシア語: ελληνική μυθολογία)は、古代ギリシアより語り伝えられる伝承文化で、多くの神々が登場し、人間のように愛憎劇を繰り広げる物語である。ギリシャ神話とも言う。 古代ギリシア市民の教養であり、さらに古代地中海世界の共通知識でもあったが、現代では、世界的に広く知られており、ギリシャの小学校では、ギリシャ人にとって欠かせない教養として、歴史教科の1つになっている。 ギリシア神話は、ローマ神話の体系化と発展を促進した。プラトーン、古代ギリシアの哲学や思想、ヘレニズム時代の宗教や世界観、キリスト教神学の成立など、多方面に影響を与え、西欧の精神的な脊柱の一つとなった。中世においても神話は伝承され続け、その後のルネサンス期、近世、近代の思想や芸術にとって、ギリシア神話は霊感の源泉であった。 今日ギリシャ神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。当時のヘレーネス(古代ギリシア人による彼ら自身の呼称)の世界には、神話としての基本的骨格を備えた物語の原型が存在していた。 しかし当時の人々のなかで、特に、どのような神が天に、そして大地や森に存在するかを語り広めたのは吟遊詩人たちであり、詩人は姿の見えない神々に関する真実の知識を人間に解き明かす存在であった。神の霊が詩人の心に宿り、不死なる神々の世界の真実を伝えてくれるのであった。そのため、ホメーロス等の作品においては、ムーサ女神への祈りの言葉が、朗誦の最初に置かれた。 口承でのみ伝わっていた神話を、文字の形で記録に留め、神々や英雄たちの関係や秩序を、体系的にまとめたのは、ホメーロスより少し時代をくだる紀元前8世紀の詩人ヘーシオドスである。彼が歌った『神統記』においても、その冒頭には、ヘリコーン山に宮敷き居ます詩神(ムーサ)への祈りが入っており、ヘーシオドスは現存する文献のなかでは初めて系統的に神々の系譜と、英雄たちの物語を伝えた。このようにして、彼らの時代、すなわち紀元前9世紀から8世紀頃に、「体系的なギリシア神話」がギリシア世界において成立したと考えられる。 それらの神話体系は地域ごとに食い違いや差異があり、伝承の系譜ごとに様々なものが未だ渾然として混ざり合っていた状態であるが、オリュンポスを支配する神々が誰であるのか、代表的な神々の相互関係はどのようなものであるのか、また世界や人間の始源に関し、どのような物語が語られていたのか、などといったことは、ギリシア世界においてほぼ共通した了解のある、ひとつのシステムとなって確立したのである。 しかし、個々の神や英雄が具体的にどのようなことを為し、古代ギリシアの国々にどのような事件が起こり、それはどういう神々や人々・英雄と関連して、どのように展開し、どのような結果となったのか。これらの詳細や細部の説明・描写などは、後世の詩人や物語作者などの想像力が、ギリシア神話の壮麗な物語の殿堂を飾ると共に、複雑で精妙な形姿を構成したのだと言える。 次いで、ギリシア悲劇の詩人たちが、ギリシア神話に奥行きを与えると共に、人間的な深みをもたらし、神話をより体系的に、かつ強固な輪郭を持つ世界として築き上げて行った。ヘレニズム期においては、アレクサンドリア図書館の司書で詩人でもあったカルリマコスが膨大な記録を編集して神話を肉付けし、また同じく同図書館の司書であったロドスのアポローニオスなどが新しい構想で神話物語を描いた。ローマ帝政期に入ってからも、ギリシア神話に対する創造的創作は継続していき、紀元後1世紀の詩人オウィディウス・ナーソの『変身物語』が新しい物語を生み出し、あるいは再構成し、パウサニアースの歴史的地理的記録やアプレイウスの作品などがギリシア神話に更に詳細を加えていった。 紀元前8世紀のヘーシオドスの『神統記』は、ギリシア神話を体系的に記述する試みのさきがけである。ホメーロスの叙事詩などにおいて、聴衆にとっては既知のものとして、詳細が説明されることなく言及されていた神々や、古代の逸話などを、ヘーシオドスは系統的に記述した。『神統記』において神々の系譜を述べ、『仕事と日々』において人間の起源を記し、そして現在は断片でしか残っていない『名婦列伝』において英雄たちの誕生を語った。 このような試みは、紀元前6世紀から5世紀頃のアルゴスのアクーシラーオスやレーロスのペレキューデースなどの記述にも存在し、現在は僅かな断片しか残っていない彼らの「系統誌」は、古代ギリシアの詩人や劇作家、あるいはローマ時代の物語作家などに大きな影響を与えた。 古代におけるもっとも体系的なギリシア神話の記述は、紀元後1世紀頃と考えられるアポロドーロスの『ギリシャ神話』(3巻16章+摘要7章)である。この体系的系統本は、紀元前5世紀以前の古典ギリシアの筆者の文献等を元にギリシア神話が纏められており、オウィディウスなどに見られる、ヘレニズム化した甘美な趣もある神話とはまったく異質で、荒々しく古雅な神話系譜を記述していることが特徴である。 ホメーロス以前の古代ギリシアには文字がなかった訳ではなく、ミュケーナイ時代にすでに線文字Bが存在していたが、暗黒時代においてこの文字の記憶は失われた。しかし紀元前8世紀頃より、フェニキア文字を元に古代ギリシア文字が生まれる。ギリシア神話は基本的にはこの文字で記録された。また後にはローマの詩人・文学者がラテン語によってギリシア神話を記述した。 ギリシア神話のありようを知るには、近代になって発達した考古学が大きな威力を発揮した。考古学では古代の遺跡が発掘され研究された。 これらの遺跡において、装飾彫刻や彫像、神々や人物が描かれ彩色された古壺や皿などが見つかった。考古学者や神話学者は、彫刻の姿や様式、古壺や皿に描かれた豊富な絵を分析して、これらがギリシア神話で語られる物語の場面や出来事、神や英雄の姿を描いたものと判断した。それらの絵図は意味を含んでおり、(学者によって解釈が分かれるとしても)ここから神話の物語を読み取ることが可能であった。 他方、発掘により判明した考古学的知見は、文献に記されていた事象が実際に存在したのか、記述が妥当であったのかを吟味する史料としても重要であった。更に、文献の存在しない時代についての知識を提供した。19世紀末にドイツのハインリヒ・シュリーマンは、アナトリア半島西端のヒッサルリクの丘を発掘し、そこに幾層もの都市遺跡と火災で滅びたと考えられる遺構を発見してこれをトロイア遺跡と断定した。彼はまたギリシア本土でも素人考古学者として発掘を行い、ミュケーナイ文化の遺構を見いだした。 20世紀に入って以降、アーサー・エヴァンズはより厳密な発掘調査をトロイア遺跡に対し行った。またクレータ島で見いだされていたクノーソスなど、文明の遺跡の発掘も行われ、ここで彼は三種類の文字(絵文字、線文字Aと線文字B)を発見した。線文字Bは間もなく、ギリシア本土のピュロスやティーリュンスでも使用されていたことが見いだされた。20世紀半ばになって、マイケル・ヴェントリスがジョン・チャドウィックの協力のもと、この文字を解読し、記されているのがミケーネ語であることを確認すると共に、内容も明らかにした。それらはホメーロスがうたったトロイア戦争の歴史的な像を復元する意味を持った。また数々の英雄たちの物語のなかには、紀元前15世紀に遡るミュケーナイ文化に起源を持つものがあることも、各地の遺跡の発掘研究を通じて確認された。 ギリシア神話は、以下の三種の物語群に大別できる。 第一の「世界の起源」を物語る神話群は、分量的には短く、主に三つの系統が存在する(ヘーシオドスが『神統記』で記したのは、主として、この「世界の起源」に関する物語である)。 第二の「神々の物語」は、世界の起源の神話と、その前半において密接な関連を持ち、後半では、英雄たちの物語と絡み合っている。英雄たちの物語において、人間の運命の背後には神々の様々な思惑があり、活動が行われ、それが英雄たちの物語にギリシア的な奥行きと躍動を与えている。 第三の「英雄たちの物語」は、分量的にはもっとも大きく、いわゆるギリシア神話として知られる物語や逸話は、大部分がこのカテゴリーに入る。この第三のカテゴリーが膨大な分量を持ち、夥しい登場人物から成るのは、日本における神話の系統的記述とも言える『古事記』や、それに並行しつつ歴史時代にまで記録が続く『日本書紀』がそうであるように、古代ギリシアの歴史時代における王族や豪族、名家と呼ばれる人々が、自分たちの家系に権威を与えるため、神々や、その子である「半神」としての英雄や、古代の伝説的英雄を祖先として系図作成を試みたからだとも言える。 神話的英雄や伝説的な王などは、膨大な数の子孫を持っていることがあり、樹木の枝状に子孫の数が増えて行く例は珍しいことではない。末端の子孫となると、ほとんど具体的エピソードがなく、単なる名前の羅列になっていることも少なくない。 しかし、このように由来不明な多数の名前と人物の羅列があるので、歴史時代のギリシアにおける多少とも名前のある家柄の市民は、自分は神話に記載されている誰それの子孫であると主張できたとも言える。ウェルギリウスの『アエネーイス』が、ローマ人の先祖をトロイエー戦争にまで遡らせているのは明らかに神話的系譜の捏造であるが、これもまた、広義にはギリシア神話だとも言える(正確には、ギリシア神話に接続させ、分岐させた「ローマ神話」である)。ウェルギリウスは、ギリシア人自身が、古代より行なって来たことを、紀元前1世紀後半に、ラテン語で行なったのである。 古代ギリシア人は他の民族と同様に、世界は原初の時代より存在したものであるとの素朴な思考を持っていた。しかし、ゼウスを主神とするコスモス(秩序宇宙)の観念が成立するにつれ、おのずと哲学的な構想を持つ世界の始原神話が語られるようになった。それらは代表的に四種類のものが知られる(ただし、2と3は、同じ起源を持つことが想定される)。 神々の系譜や人間の起源などを系統的な神話に纏めあげたヘーシオドスは『神統記』にて、二つの主要な起源説を伝えている。 ヘーシオドスがうたう第二の自然哲学的な世界創造と諸々の神の誕生は、自然現象や人間における定めや矛盾・困難を擬人的に表現したものとも言える。このような形の神々の誕生の系譜は、例えば日本神話(『古事記』)にも見られ、世界の文化で広く認められる始原伝承である。『神統記』に従うと、次のような始原の神々が誕生したことになる。 まず既に述べた通り、カオス(空隙)と、そのうちに存在する胸広きガイア(大地)、そして暗冥のタルタロスと最も美しい神エロースである。ガイアより更に、幽冥のエレボス(暗黒)と暗きニュクス(夜)が生じた。ガイアはまた海の神ポントスを生み、ポントスから海の老人ネーレウスが生まれた。またポントスの息子タウマースより、イーリス(虹)、ハルピュイアイ、そしてゴルゴーン三姉妹等が生まれた。 一方、ニュクスよりはアイテール(高天の気)とヘーメラー(昼)が生じた。またニュクスはタナトス(死)、ヒュプノス(睡眠)、オネイロス(夢)、そして西方の黄金の林檎で著名なヘスペリデス(ヘスペリス=夕刻・黄昏の複数形)を生み出した。更に、モイライ(運命)、ネメシス(応報)、エリス(闘争・不和)なども生みだし、この最後のエリスからは、アーテー(破滅)を含む様々な忌まわしい神々が生まれたとされる。 ゼウスの王権が確立し、やがてオリュンポス十二神を中心としたコスモス(秩序)が世界に成立する。しかし、このゼウスの王権確立は紆余曲折しており、ゼウスは神々の王朝の第三代の王である。 最初に星鏤めるウーラノス(天)がガイア(大地)の夫であり、原初の神々の父であり、神々の王であった。しかしガイアは、生まれてくる子らの醜さを嫌ってタルタロスに幽閉した夫、ウーラノスに恨みを持った。ウーラノスの末息子であるクロノスがガイアにそそのかされて、巨大な鎌を振るって父親の男根を切り落とし、その王権を簒奪したとされる。このことはヘーシオドスがすでに記述していることであり、先代の王者の去勢による王権の簒奪は神話としては珍しい。これはヒッタイトのフルリ人の神話に類例が見いだされ、この神話の影響があるとも考えられる。 ウーラノスより世界の支配権を奪ったクロノスは、第二代の王権を持つことになる。クロノスはウーラノスとガイアが生んだ子供たちのなかの末弟であり、彼の兄と姉に当たる神々は、クロノスの王権の下で、世界を支配・管掌する神々となる。とはいえ、この時代にはまだ、神々の役割分担は明確でなかった。クロノスの兄弟姉妹たちはティーターンの神々と呼ばれ、オリュンポス十二神に似て、主要な神々は「ティーターンの十二の神」と呼ばれる。 これらのティーターンの十二の神としては、通常、次の神々が挙げられる。まず1)主神たるクロノス、2)その妻である女神レアー、3)長子オーケアノス、4)コイオス、5)ヒュペリーオーン、6)クレイオス、7)イーアペトス、8)女神テーテュース、9)女神テミス(法)、10)女神ムネーモシュネー(記憶)、11)女神ポイベー、12)女神テイアーである。アポロドーロスは女神ディオーネーをクロノスの姉妹に挙げているが、この名はゼウスの女性形であり、女神の性格には諸説がある。 ティーターンにはこれ以外にも、子孫が多数存在した。後にティーターンはオリュンポス神族に敗れ、タルタロスに落とされるが、全員が罰を受けた訳ではない。広義のティーターンの一族には、イーアペトスの子であるアトラース、プロメテウス、エピメテウスや、ヒュペリーオーンの子であるエーオース(暁)、セレネー(月)、ヘーリオス(太陽)などがいた。 神々の王クロノスはしかし、母ガイアと父ウーラノスから呪いの予言を受ける。クロノス自身も、やがて王権をその息子に簒奪されるだろうというもので、クロノスはこれを怖れて、レアーとのあいだに生まれてくる子供をすべて飲み込む。レアーはこれに怒り、密かに末子ゼウスを身籠もり出産、石を産着にくるんで赤子と偽りクロノスに渡した。 ゼウスが成年に達すると、彼は父親クロノスに叛旗を翻し、まずクロノスに薬を飲ませて彼が飲み込んでいたゼウスの姉や兄たちを吐き出させた。クロノスは、ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラーの三女神、そして次にハデスとポセイドン、そしてゼウスの身代わりの石を飲み込んでいたので、順序を逆にしてこれらの石と神々を吐き出した。 ゼウスたち兄弟姉妹は力を合わせてクロノスとその兄弟姉妹たち、すなわちティーターンの一族と戦争を行った。これをティーターノマキアー(ティーターンの戦争)と呼ぶ。ゼウス、ハデス、ポセイドンの三神はティーターノマキアーにおいて重要な役割を果たし、特にゼウスは雷霆を投げつけて地球や全宇宙、そしてその根源であるカオスまでも焼き払い、ティーターンたちに大打撃を与え、勝利した。その後ティーターン族をタルタロスに幽閉し、百腕巨人(ヘカトンケイレス)を番人とした。こうして勝利したゼウスたちは互いにくじを引き、その結果、ゼウスは天空を、ポセイドンは海洋を、ハデスは冥府をその支配領域として得た。 しかしガイアはティーターンをゼウスたちが幽閉したことに怒り、ウーラノスと交わって、ギガース(巨人)たちを生み出した。ギガースたち(ギガンテス)は巨大な体と獰猛な気性を備え、彼らは大挙してゼウスたちの一族に戦いを挑んだ。ゼウスたちは苦戦するが、シシリー島をギガースの上に投げおろすなど、激しい争いの末にこれを打破した。これらの戦いをギガントマキアー(巨人の戦争)と呼称する。 しかし、ガイアはなお諦めず、更に怒ってタルタロスと交わり、怪物テューポーンを生み出した。テューポーンは灼熱の噴流で地球を焼き尽くし、天に突進して全宇宙を大混乱の渦に叩き込むなど、圧倒的な強さを誇ったが、オリュンポス神族の連携によって遂に敗北し滅ぼされた。 かくして、ゼウスの王権は確立した。 神々は、ホメーロスによれば、オリュンポスの高山に宮敷居まし、山頂の宮殿にあって、絶えることのない饗宴で日々を過ごしているとされる。神々は不死であり、神食(アムブロシアー)を食べ、神酒(ネクタール)を飲んでいるとされる。 ゼウスの王権の下、世界の秩序の一部をそれぞれ管掌するこれらの神々は、オリュンポスの神々とも呼ばれ、その主要な神は古くから「十二の神」(オリュンポス十二神)として人々に把握されていた。十二の神は二つの世代に分かれ、クロノスとレアーの息子・娘(ゼウスの兄弟姉妹)に当たる第一世代の神々と、ゼウスの息子・娘に当たる第二世代の神々がいる。 時代と地方、伝承によって、幾分かの違いがあるが、主要な十二の神は、第一世代の神、1)秩序(コスモス)の象徴でもある神々の父ゼウス、2)ヘラー女神、3)ポセイドン、4)デーメーテール女神、5)ヘスティアー女神の5柱に、第二世代の神として、6)アポロン、7)アレース、8)ヘルメース、9)ヘーパイストス、10)アテネ女神、11)アプロディーテー女神、12)アルテミス女神の7柱である。また、ヘスティアーの代わりに、ディオニューソスを十二神とする場合がある。ハデスとその后ペルセポネは、地下(クトニオス)の神とされ、オリュンポスの神ではないが、主要な神として、十二神のなかに数える場合がある。 それぞれの神は、崇拝の根拠地を持つのが普通で、また神々の習合が起こっているとき、広範囲にわたる地方の神々を取り込んだ神は、多くの崇拝の根拠地を持つことにもなる。アテナのパルテノン神殿小壁には、十二の神の彫像が刻まれているが、この十二神は、上記の一覧と一致している(ディオニューソスが十二神に入っている)。 オリュンポスを代表する十二の神と地下の神ハーデース等以外にも、オリュンポスの世界には様々な神々が存在する。彼らはオリュンポスの十二神や他の有力な神が、エロースの力によって互いに交わることによって生まれた神である。また、広義のティーターンの一族に属する者にも、オリュンポスの一員として神々の席の一端を占め、重要な役割を担っている者がある。 神々のあいだの婚姻あるいは交わりによって生まれた神には次のような者がいる。 神々の父ゼウスは、真偽を知る知恵の女神メーティスを最初の妻とした。ゼウスはメーティスが妊娠したのを知るや、これを飲み込んだ。メーティスの智慧はこうしてゼウスのものとなり、メーティスよりゼウスの第一の娘アテナが生まれる。ゼウスの正妻は神々の女王ヘラである。ヘラとのあいだには、アレース、ヘーパイストス、青春の女神ヘーベー、出産の女神エイレイテュイアが生まれる。また、大地の豊穣の女神デーメーテールとのあいだには、冥府の女王ペルセポネをもうけた。 ゼウスはまた、ティーターン神族のディオーネーとのあいだにアプロディーテーをもうける。アプロディーテーは、クロノスが切断した父ウーラノスの男根を海に投げ入れた際、そのまわりに生じた泡より生まれたとの説もあるが、オリュンポスの系譜上はゼウスの娘である。ゼウスは、ティーターンの一族コイオスの娘レートーとのあいだにアルテミス女神とアポロンの姉弟の神をもうけた。更にティーターンであるアトラースの娘マイアとのあいだにヘルメースをもうけた。最後に、人間の娘セメレーと交わってディオニューソスをもうけた。 アテネはメーティスの娘であるが、その誕生はゼウスの頭部から武装して出現したとされる。また、これに対抗して妃ヘラは、独力で息子ヘーパイストスを生んだともされる。 ゼウスは更に、ティーターンの女神達と交わり、運命や美や季節、芸術の神々をもうける。法律・掟の女神テミスとのあいだに、ホーライの三女神とモイライの三女神を、オーケアノスとテーテュースの娘エウリュノメーとのあいだにカリテス(優雅=カリス)の三女神を、そして記憶の女神ムネーモシュネーとのあいだに九柱の芸術の女神ムーサイ(ムーサ)をもうけた。 オリュンポスの十二の神々は、ゼウスを例外として、子をもうけないか、もうけたとしても少ない場合がほとんどである。ポセイドーンは比較的に息子に恵まれているが、アンピトリーテーとのあいだに生まれた、むしろ海の一族とも言えるトリートーン、ベンテシキューメー、ヘーリオスの妻ロデーを除くと、怪物や馬や乱暴な人間が多い。 美の女神アプロディーテーは人気の高い女神であったからか数多くの神話に登場し、多くの子どもを生んだが、その父親は子どもの数と同じくらい多かった。彼女の夫は鍛冶の神ヘーパイストスとされるが、愛人のアレースとのあいだに、デイモス(恐慌)とポボス(敗走)の兄弟がある。またヘーシオドスが、原初の神として最初に生まれたとしている愛神エロスはアプロディーテーとアレースの息子であるとされることもある。この説はシモーニデースが最初に述べたとされる。しかしエロスをめぐっては誰の息子であるのかについて諸説あり、エイレイテュイアの子であるとも、西風ゼピュロスとエーオースの子であるとも、ヘルメースの子、あるいはゼウスの子であるともされる。エロースと対になる愛神アンテロースもアレースとアプロディーテーの子だとされる。 他のオリュンポスの有力な神々、ハデス、ヘルメース、ヘーパイストス、ディオニューソスには目立った子がいない。アポロンは知性に充ちる美青年の像で考えられていたので、恋愛譚が多数あり、恋人の数も多いが、神となった子はいない。ただし、彼の子ともされるオルペウスやアスクレーピオスが、例外的に死後に神となった。 広義のティーターンの子孫も、オリュンポスの神々に数えられる。ティーターンたちはティーターノマキアーでの敗北の後、タルタロスに落とされたが、後にゼウスは彼らを赦したという話があり、ピンダロスは『ピューティア第四祝勝歌』のなかで、ティーターンの解放に言及している。戦いに敗れたティーターンはその後、神話に姿を現さないが、その子供たちや、ウーラノスの子孫たちは、オリュンポスの秩序のなかで一定の役割を受けて活動している。 イーアペトスの子アトラスは、天空を背に支え続けるという苦役に耐えている。兄弟のプロメテウスは戦争には加わらなかったが、ゼウスを欺した罪でカウカーソスの山頂で生きたまま鷲に毎日肝臓を食われるという罰を受けていたところ、ヘラクレスが鷲を殺して解放した。ヒュペリーオーンとテイアーの子エーオース、セレネ、ヘーリオスは、オリュンポスの神々のなかでも良く知られた存在である。エーオースは星神アストライオスとのあいだに、西風ゼピュロス、南風ノトス、北風ボレアースなどの風の神と多数の星の神を生んだ。またアテーナーの傍らにあるニーケー(勝利)もティーターンの娘であるが、ゼウスに味方した。 原初の神でもあったポントスとその息子の海の老人ネーレウスは、ポセイドーンに役職を奪われたように見えるが、彼らの末裔は、数知れぬネーレイデス(海の娘たち)となり、ニュンペーとして、あるいは女神として活躍する。ポントスの一族である虹の女神イーリスは神々の使者として活躍している。また、広義のティーターン一族に属するアトラースは、オーケアノスの娘プレーイオネーとのあいだにプレイアデスの七柱の女神をもうけた。彼女たちは、星鏤める天にあって星座として耀いている。 ティーターノマキアーの勝利の後、ゼウス、ハーデース、ポセイドーンの兄弟はくじを引いてそれぞれの支配領域を決めたが、地上世界は共同で管掌することとした。地上はガイアの世界であり、ガイアそのものとも言えた。地上には陸地と海洋があり、河川、湖沼、また緑豊かな樹木の繁る森林や、草花の咲き薫る野原、清らかな泉などがあった。 地上は人間の暮らす場所であり、また数多くの動物たちや植物が棲息し繁茂する場所でもある。そして太古よりそこには、様々な精霊が存在していた。精霊の多くは女性であり、彼女たちはニュンペー(ニンフ)と呼ばれた。nymphee(νυμφη)とはギリシア語で「花嫁」を意味する言葉でもあり、彼女たちは若く美しい娘の姿であった。 ニュンペーは、例えばある特定の樹の精霊であった場合、その樹の枯死と共に消え去ってしまうこともあったが、多くの場合、人間の寿命を遙かに超える長い寿命を持っており、神々同様に不死のニュンペーも存在した。 森林や山野の処女のニュンペーはアルテミス女神に付き従うのが普通であり、また、パーンやヘルメースなども、ニュンペーに親しい神であった。古代のギリシアには、ニュンペーに対する崇拝・祭儀が存在したことがホメーロスによって言及されており、これは考古学的にも確認されている。ニュンペーは恋する乙女であり、神々や精霊、人間と交わって子を生むと、母となり妻ともなった。多くの英雄がニュンペーを母として誕生している。 ニュンペーはその住処によって呼び名が異なる。 陸地のニュンペーとしては次のようなものがある。1)メリアデス(単数:メリアス)はもっとも古くからいるニュンペーで、ウーラノスの子孫ともされる。トネリコの樹の精霊である。2)オレイアデス(単数:オレイアス)は山のニュンペーである。3)アルセイデス(単数:アルセイス)は森や林のニュンペーである。4)ドリュアデス(単数:ドリュアス)は樹木に宿るニュンペーである。5)ナパイアイ(単数:ナパイアー)は山間の谷間に住むニュンペーである。6)ナーイアデス(単数:ナーイアス)は淡水の泉や河のニュンペーである。 これらのニュンペーは陸地に住処を持つ者たちである。一方、海洋にはオーケアノスの娘たちやネーレウスの娘たちが多数おり、彼女らは美しい娘で、ときに女神に近い存在であることがある。 海洋のニュンペーはむしろ女神に近い。1)オーケアニデス(単数:オーケアニス)は、オーケアノスがその姉妹テーテュースのあいだにもうけた娘たちで、3000人、つまり無数にいるとされる。この二柱の神からはまた、すべての河川の神が息子として生まれており、河川の神とオーケアニスたちは姉弟・兄妹の関係にあることになる。冥府の河であるステュクスや、ケイローンの母となったピリュラー、アトラース、プロメーテウス兄弟の母であるクリュメネーなどが知られる。2)ネーレーイデス(単数:ネーレーイス)は、ネーレウスとオーケアノスの娘ドーリスのあいだの娘で、50人いるとも、100人いるともされる。アンピトリーテー、テティス、ガラティア、カリュプソーなどが知られる。 ニュンペーは自然界にいる女性の精霊で、なかには神々と等しい者もいた。他方、地上の世界にはニュンペーと対になっているとも言える男性の精霊が存在した。彼らはその姿が、人間とはいささか異なる場合があった。彼らは山野の精霊で、具体的には1)パーン(別名アイギパーン、「山羊の姿のパーン」の意)、2)ケンタウロス、3)シーレーノス、4)サテュロスなどが挙げられる。彼らの姿は、上半身は人間に近いが、下半身が馬や山羊であったり、額に角があったりする。 上記の中でパーンは別格とも言え、ヘルメースとドリュオプスの娘ドリュオペーのあいだの子で、オリュンポスの神の一員でもある。ただしパーンが誰の子かということについては諸説ある。シューリンクスという笛を好み、好色でもあった。ケンタウロスは半人半馬の姿で、乱暴かつ粗野であるが、ケイローンだけは異なり、医術に長け、また不死であった。シーレーノスとサテュロスは同じ種族と考えられ、前者は馬に似て年長であり、後者は山羊に似ていた。粗野で好色で、ニュンペーたちと戯れ暴れ回ることが多々あった。 彼らが山野の精霊であるのに対し、地上の多数の河川には、オーケアノスとテーテュースの息子である河川の精霊あるいは神がいた(『イーリアス』21章。『神統記』)。彼らは普通「河神(river-gods)」と呼ばれるので、精霊よりは格が高いと言える。3000人いるとされるオーケアニデスの兄弟に当たる。河神に対する崇拝もあり、彼らのための儀礼と社殿などもあった。スカマンドロス河神とアケローオス河神がよく知られる。 始原の神や、または神やその子孫のなかには、異形の姿を持ち、オリュンポスの神々や人間に畏怖を与えたため、「怪物」と形容される存在がいる。例えばゴルゴーン三姉妹などは、海の神ポントスの子孫で、本来は神であるが、その姿の異様さから怪物として受け取られている。 ゴルゴーン三姉妹はポルキュースとケートーの娘で、末娘のメドゥーサを除くと不死であったが、頭部の髪が蛇であった。また、その姉妹である三柱のグライアイは生まれながらに老婆の姿であったが不死であった。ハルピュイアイはタウマースの娘たちで、女の頭部に鳥の体を持っていた。ガイア(大地)が原初に生んだ息子や娘のなかにはキュクロープス(一眼巨人)や、ヘカトンケイル(百腕巨人)のような異形の者たちが混じっていた。またガイアは独力で、様々な「怪物」の父とされる、天を摩する巨大なテューポーンを生み出した。 エキドナは、上半身が女、下半身が蛇の怪物で、ゴルゴーンたちの姉妹とされるが出生には諸説がある。このエキドナとテューポーンのあいだには多数の子供が生まれる。獅子の頭部に山羊の胴、蛇の尾を持つキマイラ、ヘーラクレースに退治されたヒュドラー(水蛇)、冥府の番犬、多頭で犬形のケルベロスなどである。またエジプト起源のスピンクスはギリシアでは女性の怪物となっているが、これもエキドナの子とされる。 それらの多くは、神、あるいは神に準ずる存在である。ポセイドーンとデーメーテールが馬の姿となって交わってもうけたのが、名馬アレイオーンである。他方、ポセイドーンはメドゥーサとのあいだに有翼の天馬ペーガソスや、クリューサーオール(「黄金の剣を持つ者」の意)をもうけた。 セイレーンは『オデュッセイア』に登場する海の精霊・怪物であるが、人を魅惑する歌で滅びをもたらす。ムーサの娘であるともされるが、諸説あり、元々ペルセポネーに従う精霊だったとも想定される。『オデュッセアイア』に登場する怪物としては、六つの頭部を持つ女怪スキュラと渦巻きの擬人化とされるカリュブディスなどがいる。 古代ギリシア人は、神々が存在した往古より人間の祖先は存在していたとする考えを持っていたことが知られている。例えばヘーシオドスの『仕事と日々』にもそのような説明がなされている。他方、『仕事と日々』は構成的には雑多な詩作品を蒐集したという趣があり、『神統記』や『名婦列伝』が備えている整然とした、伝承の整理付けはなく、当時の庶民(とりわけ農耕民)の抱いていた世界観や人生観が印象的な喩え話のなかで語られている。 古来、ギリシア人は「人は土より生まれた」との考えを持っていた。超越的な神が人間の族を創造したのではなく、自然発生的に人間は往古より大地に生きていたとの考えである。しかしこの事実は、人間が生まれにおいて神々に劣るという意味ではなく、オリュンポスの神々も、それ以前の支配者であったティーターンも、元々はすべて「大地(ガイア)の子」である。人間はガイアを母とする、神々の兄弟でもあるのだ。異なる点は、神々は不死にして人間に比べ卓越した力を持つということである。その意味で、神々は貴族であり、人間は庶民だと言える。 しかしヘーシオドスは、土より生まれた人という素朴な信念とは異なる、人間と神々のあいだの関係とそれぞれの分(モイラ)の物語を語る。太古にあって人間は未開で無知で、飢えに苦しみ、寒さに悩まされていた。プロメーテウスが人間の状態を改善するために、ゼウスが与えるのを禁じた火を人間に教えた。また、この神は、ゼウスや神々に犠牲を捧げるとき、何を神々に献げるかをゼウスみずからに選択させ、その巧妙な偽装でゼウスを欺いた。 プロメーテウスに欺されたゼウスは報復の機会を狙った。ゼウスはオリュンポスの神々と相談し、一人の美貌の女性を作り出し、様々な贈り物で女性を飾り、パンドーラー(すべての贈り物の女)と名付けたこの女を、プロメーテウスの思慮に欠けた弟、エピメーテウスに送った。ゼウスからの贈り物には注意せよとかねてから忠告されていたエピメーテウスであるが、彼はパンドーラーの美しさに兄の忠告を忘れ、妻として迎える。ここで男性の種族は土から生まれた者として往古から存在したが、女性の種族は神々、ゼウスの策略で人間を誑かし、不幸にするために創造されたとする神話が語られていることになる。 パンドーラーは結果的にエピメーテウスに、そして人間の種族に災いを齎し不幸を招来した。ヘーシオドスは更に、金の種族、銀の種族、青銅の種族についてうたう。これらの種族は神々が創造した人間の族であった。金の種族はクロノスが王権を掌握していた時代に生まれたものである。この最初の種族は神々にも似て無上の幸福があり、平和があり、長い寿命があった。しかし銀の種族、銅の種族と次々に神々が新しい種族を造ると、先にあった者に比べ、後から造られた者はすべて劣っており、銅(青銅)の時代の人間の種族には争いが絶えず、このためゼウスはこの種族を再度滅ぼした。 金の時代と銀の時代は、おそらく空想の産物であるが、次に訪れる青銅の時代、そしてこれに続く英雄(半神)の時代と鉄の時代は、人間の技術的な進歩の過程を跡づける分類である。これは空想ではなく、歴史的な経験知識に基づく時代画期と考えられる。第4の「英雄・半神」の時代は、ヘーシオドスが『名婦列伝(カタロゴイ)』で描き出した、神々に愛され英雄を生んだ女性たちが生きた時代と言える。英雄たちは、華々しい勲にあって生き、その死後はヘーラクレースがそうであるように神となって天上に昇ったり、楽園(エーリュシオンの野)に行き、憂いのない浄福の生活を送ったとされる(他方、オデュッセウスが冥府にあるアキレウスに逢ったとき、亡霊としてあるアキレウスは、武勲も所詮空しい、貧しく名もなくとも生きてあることが幸福だ、とも述懐している)。 英雄の時代が去っていまや「青銅の時代」となり、人の寿命は短く、労働は厳しく、地は農夫に恵みを与えること少なく、若者は老人を敬わず、智慧を尊重しない......これが、我々がいま生きている時代・世界である、とヘーシオドスはうたう。このような人生や世界の見方は、詩人として名声を得ながらも、あくまで一介の地方の農民として暮らしを立てて行かねばならなかったヘーシオドスの人生の経験が反映しているとされる。世には、半神たる英雄を祖先に持つと称する名家があり、貴族がおり、富者がおり、世のなかには矛盾がある。しかし、神はあくまで善なる者で、人は勤勉に労働し、神々を敬い、人間に与えられた分を誠実に生きるのが最善である。 一方で、武勲を称賛し、王侯貴族の豪勢な生活や栄誉、詩や音楽や彫刻などの芸術の高みに、恵まれた人は立ち得る。しかし庶民の生活は厳しいものであり、そこで人間としていかに生きるか、ヘーシオドスは神話に託して、人間のありようの諸相をうたっていると言える。 ギリシア神話においては、ヘーシオドスが語る五つの時代の最後の時代、すなわち現在である「鉄の時代」の前に、「英雄の時代」があったとされる。英雄とは、古代ギリシア語でヘーロース(hērōs, ήρως)と呼ぶが、この言葉の原義は「守護者・防衛者」である。しかしホメーロスでは、君公、あるいは殿の意味で、支配者・貴族・主人について一般的に使用されていた。 神話学者キャンベルは、英雄神話を神話の基幹に置いたが、彼の描く英雄とは、危険を犯して超自然的領域に分け入り勝利し、人々に恩恵を授ける力(force)を獲得した者である。古代ギリシアの英雄は、守護者の原義を持つことからも分かる通り、超自然の世界に分け入って「力」を獲得する者ではない。文献や考古学によれば、ミュケーナイ時代には存在しなかった「英雄信仰」が、ギリシアの暗黒時代を通じて、ホメーロスの頃に出現する。 ここで崇拝される英雄は「力に満ちた死者」であり、その儀礼は、親族の死者への儀礼と、神々への儀礼の中間程度に位置していた。祀られる英雄ごとで様々な解釈があったが、祭儀におけるヘーロースは、都市共同体や個人を病や危機から救済し恩恵をもたらした者として理解された。このような崇拝の対象が叙事詩に登場する英雄に比定された。時が経つにつれ、ヘーロースの範型に該当すると判断された人物、すなわち神への祭祀を創始した者や、都市の創立者などには、神託に基づいて英雄たる栄誉が授与され、彼らは「英雄」と見なされた。 ギリシアの英雄は半神とも称されるが、多くが神と人間のあいだに生まれた息子で、半分は死すべき人間、半分は不死なる神の血を引く。このような英雄は、「力ある死者」のなかでも神に近い崇拝を受けていた者たちで、ヘーラクレースの場合は、英雄の域を超えて神として崇拝された。英雄は、都市の創立者として子孫を守護し、またときに、敵対する者の子孫に末代まで続く呪いをかけた。死して勲を残す英雄は、守護と呪いの形で、その死後に強い力を発揮した者でもある。 英雄は古代ギリシアの名家の始祖であり、祭儀や都市の創立者であり名祖であるが、その多くはゼウスの息子である。ゼウスはニュンペーや人間の娘と交わり、数多くの英雄の父となった。数々の王家が神の血を欲した。 数々の冒険と武勇譚で知られ、数知れぬ子孫を残したとされるヘーラクレースはゼウスと人間エーレクトリュオーンの娘アルクメーネーのあいだに生まれた。ゼウスは彼女の夫アンピトリュオーンに化け、更にヘーリオスに命じて太陽を三日間昇らせず彼女と交わって英雄をもうける。また白鳥の姿になってレーダーと交わり、ヘレネー及びディオスクーロイの兄弟をもうけた。アルゴス王アクリシオスの娘ダナエーの元へは黄金の雨に変身して近寄りペルセウスをもうけた。テュロス王アゲーノールの娘エウローペーの許へは、白い牡牛となって近寄り、彼女を背に乗せるとクレータ島まで泳ぎわたった。そこで彼女と交わってミーノースやラダマンテュス等をもうける。 ゼウスはまた、アルテミスに従っていたニュンペーのカリストーに、アルテミスに化けて近寄り交わった。こうしてアルカディア王家の祖アルカスが生まれた。プレイアデスの一人エーレクトラーとの間には、トロイア王家の祖ダルダノスと、後にデーメーテール女神の恋人となったイーアシオーンをもうける。イーオーはアルゴスのヘーラーの女神官であったが、ゼウスが恋して子をもうけた。ヘーラーの怒りを恐れたゼウスはイーオーを牝牛に変えたが、ヘーラーは彼女を苦しめ、イーオーは世界中を彷徨ってエジプトの地に辿り着き、そこで人の姿に戻り、エジプト王となるエパポスを生んだ。エウローペーはイーオーの子孫に当たる。 アトラースの娘プルートーとの間には、神々に寵愛されたが冥府で劫罰を受ける定めとなったタンタロスをもうける。またゼウスはニュンペーのアイギーナを攫った。父親であるアーソーポス河神は娘の行方を捜していたが、コリントス王シーシュポスが二人の行き先を教えた。寝所に踏み込んだ河神は雷に打たれて死に、またシーシュポスはこの故に冥府で劫罰を受けることとなった。アイギーナからはアイアコスが生まれる。同じくアーソーポス河神の娘とされる(別の説ではスパルトイの子孫)アンティオペーは、サテュロスに化けたゼウスと交わりアンピーオーンとゼートスを生んだ。アンピーオーンはテーバイ王となり、またヘルメースより竪琴を授かりその名手としても知られた。プレイアデスの一人ターユゲテーとも交わり、ラケダイモーンをもうけた。彼は、ラケダイモーン(スパルテー)の名祖となった。エウリュメドゥーサよりはミュルミドーン人の名祖であるミュルミドーンをもうけた。 アポローンは数々の恋愛譚で知られるが、彼の子とされる英雄は、まずムーサの一柱ウーラニアーとの間にもうけた名高いオルペウスがある(別説では、ムーサ・カリオペーとオイアグロスの子)。ラピテース族の王の娘コローニスより、死者をも生き返らせた名医にして医神アスクレーピオスをもうけた。予言者テイレシアースの娘マントーからは、これも予言者モプソスをもうける。ミーノースの娘アカカリスはアポローンとヘルメース両神の恋人であったが、アポローンとの間にナクソス島の名祖ナクソス、都市の名祖ミーレートス等を生んだ。彼女はヘルメースとの間にも、クレータ島のキュドーニスの創建者キュドーンをもうけた。 他方、ポセイドーンは、アテーナイ王アイゲウスの妃アイトラーとの間にテーセウスをもうけたとされる。またエウリュアレーとの間にはオーリーオーンを(別説では、彼はガイアの息子ともされる)、テューローとの間には双生の兄弟ネーレウスとペリアースをもうけた。エパポスの娘でニュンペーのリビュエー(リビュアー)と交わり、テュロス王アゲーノールとエジプト王ペーロスの双子をもうける。ラーリッサを通じて、ペラスゴス(ペラスゴイ人の祖とは別人)、アカイオス、プティーオスをもうけた。アカイオスはアカイア人の祖とされ、プティーオスはプティーアの名祖とされる。オルコメノスのミニュアース人の名祖とされるミニュアースもポセイドーンの子とされるが、孫との説もある。 鍛冶の神ヘーパイストスは、アテーナイの神話的な王エリクトニオスの父とされる。彼はアテーナーに欲情し女神を追って交わらんとしたが、女神が拒絶し、彼の精液はアテーナーの脚にまかれた。女神はこれを羊毛で拭き大地に捨てたところ、そこよりエリクトニオスが生まれたとされる。 リュカーオーンは、アルカデイア王ペラスゴスとオーケアノスの娘メリボイア、またはニュンペーのキューレーネーの子とされる。彼は多くの息子に恵まれたが、息子たちは傲慢な者が多く神罰を受けたともされる。アルカディアの多くの都市が、リュカーオーンの息子たちを、都市の名祖として求めた形跡がある。また、アプロディーテーは、トロイア王家の一員アンキーセースとのあいだにアイネイアースを生んだ。アイネイアースは後にローマの神話的祖先ともされた。アイアの金羊毛皮をめぐる冒険譚「アルゴー号の航海譚」に登場するコルキス王アイエーテースは、ヘーリオスとオーケアノスの娘ペルセーイスの子である。 トロイア戦争の英雄であり、平穏な長寿よりも、早世であっても、戦士としての勲の栄光を選んだアキレウスは、ペーレウスと海の女神テティスのあいだの息子である。 ピエール・グリマルによれば、ヘーラクレースとその数々の武勇譚はミュケーナイ時代に原形的な起源を持つもので、考古学的にも裏付けがあり、またその活動は全ギリシア中に足跡を残しているとされる。ヘーラクレースは神と同じ扱いを受け、彼を祭祀する神殿あるいは祭礼はギリシア中に存在した。古代ギリシアの名家は、競ってその祖先をヘーラクレースに求め、彼らはみずから「ヘーラクレイダイ(ヘーラクレースの後裔)」と僭称した。 アキレウスもまた、アガメムノーンなどと同様に、いまは忘却の彼方に沈んだその原像がミュケーナイ時代に存在したと考えられるが、彼は「神々の愛した者は若くして死ぬ」とのエピグラムの通り、神々に愛された半神として、栄誉のなか、人間としてのモイラ(定業)にあって、英雄としての生涯を終えた。彼の勲と栄光はその死後にあって光彩を放ち人の心を打つのである。 ギリシア神話に登場する多くの人間は、ヘーシオドスがうたった第4の時代、つまり「英雄・半神」の時代に属している。それらは、すでにホメーロスが遠い昔の伝承、栄えある祖先たちの勲の物語としてうたっていたものである。 彼らの時代がいつ頃のことなのかという根拠については、神話上での時代の相関が一つに挙げられる。他方、考古学資料によるギリシア神話の英雄譚が源流であると考えられる古代の都市遺跡や文化、戦争の痕跡などから推定される時代がある。英雄たちの時代の始まりとしては、プロメーテウスの神話の延長上にあるとも言える「大洪水」伝説を起点に取ることが一つに考えられる。 プロメーテウスの息子デウカリオーンは、エピメーテウスとパンドーラーのあいだの娘ピュラーを妻にするが、大洪水は、このときに起こったとされる。洪水を生き延びたデウカリオーンは、多くの息子・娘の父親となる。ピュラーとのあいだに息子ヘレーンが生まれたが、彼は自分の名を取って、古代ギリシア人をヘレーン(複数形:ヘレーネス)と呼んだ。デウカリオーンの息子・孫には、ドーロス、アイオロス、アカイオス、イオーンがいたとされ、それぞれが、ドーリス人、アイオリス人、アカイア人、イオーニア人の名祖となったとされるが、これには歴史的な根拠はないと思われる。 しかし、アイオロスの子孫には、ギリシア神話で活躍する有名な人物がいる。子孫はテッサリアで活躍し、イオールコスに王都を建造した。ハルモスの家系にはミニュアースと、その裔でありアルゴナウタイとして著名なイアーソーン、また医神として後に知られるアスクレーピオスがいる。また孫娘のテューローからは、子孫としてネーレウス(ポントスの子のネーレウス神とは別)、その子でトロイア戦争の智将として知られるピュロス王ネストールがおり、ペリアース、アドメートス、メラムプース、またアルゴス王で「テーバイ攻めの七将」の総帥であるアドラストスなどがいる。ネーレウスはピュロスの王都を建造した。 アイオロスの娘婿アエトリオスの子孫の人物としては、月の女神セレーネーとの恋で知られるエンデュミオーン、カリュドーン王オイネウス、その子のメレアグロス、テューデウス兄弟がいる。メレアグロスはホメーロスでも言及されていたが(『イーリアス』)、猪退治の話は後世になって潤色され、「カリュドーンの猪狩り」として、女勇者アタランテーも含めて多数の英雄が参加した出来事となった。またメレアグロスの姉妹デーイアネイラの夫はヘーラクレースであり、二人のあいだに生まれたヒュロスはスパルテー(ラケダイモーン)王朝の祖である。 タンタロスは冥府のタルタロスで永劫の罰を受けて苦しんでいるが、その家系にも有名な人物がいる。彼の息子のペロプスは富貴に驕ったタンタロスによって切り刻まれ、オリュンポスの神々への料理として差し出された。この行い故にタンタロスは劫罰を受けたともされるが、以下の別説もある。神々はペロプスを生き返らせ、その後、彼は世に稀な美少年となり、ポセイドーンが彼を愛して天界に連れて行ったともされる。 ペロプスは神々の寵愛を受けてペロポネーソスを征服した。彼の子孫にミュケーナイ王アトレウスがあり、アガメムノーンとその弟のスパルタ王メネラーオスはアトレウスの子孫(子)に当たる(この故、ホメーロスは、「アトレイデース=アトレウスの息子」と二人を呼ぶ)。アガメムノーンはトロイア戦争のアカイア勢総帥でありクリュタイムネーストラーの夫で、メネラーオスは戦争の発端ともなった美女ヘレネーの夫である。また、アガメムノーンの息子と娘が、ギリシア悲劇で名を知られるオレステース、エーレクトラー、イーピゲネイアとなる。 ミュケーナイ王家の悲劇に密接に関連するアイギストスもペロプスの子孫で、オレステースと血が繋がっている。他方、アトレウスの兄弟とされるアルカトオスの娘ペリボイアは、アイアコスの息子であるサラミス王テラモーンの妻であり、二人のあいだの息子がアイアースである。また、テラモーンの兄弟でアイアコスのいま一人の息子がペーレウスで、「ペーレウスの息子」(ペーレイデース)が、トロイア戦争の英雄アキレウスとなる。 リビュエーは雌牛となったイーオーの孫娘に当たる。リビュアーと海神ポセイドーンの間に生まれたのがフェニキア王アゲーノールで、テーバイ王家の祖であるカドモスと、クレータ王家の祖とも言える娘エウローペーは彼の子である。 カドモスは竜の歯から生まれた戦士としてよく知られる。カドモスの娘にはセメレーがあり、彼女はゼウスの愛を受けてディオニューソスを生んだ。テーバイ王ペンテウスはカドモスの孫にあたり、彼はディオニューソス信仰を否定したため、狂乱する女たちに引き裂かれて死んだ。その女たちの中には、彼の母アガウエーや伯母イーノーも含まれていた。ペンテウスとディオニューソスは従兄弟同士となる。カドモスの別系統の孫にはラブダコスがあり、彼はラーイオスの父で、ラーイオスの息子がオイディプースである。オイディプースには妻イオカステーのあいだに娘アンティゴネー等四人の子供がいる。 他方、カドモスの姉妹にエウローペーがあり、彼女はクレータ王アステリオスの妻であるが、ゼウスが彼女を愛しミーノースが生まれる。ミーノースの幾人かの息子と娘のなかで、カトレウスは娘を通じてアガメムノーンの祖父に当たり、同様に、彼はパラメーデースの祖父である。カトレウスの孫には他にイードメネウスがいる。ミーノースの娘アリアドネーは、本来人間ではなく女神とも考えられるが、ディオニューソスの妻となってオイノピオーン等の子をもうけた。クレータの迷宮へと入って行ったテーセウスは、アテーナイ王アイゲウスの息子とも、ポセイドーンの息子ともされるが、ミーノースの娘パイドラーを妻とした。 アガメムノーンを総帥とするアカイア勢(古代ギリシア人)に侵攻され、十年の戦争の後に陥落したトロイアは、トロイア戦争の舞台として名高い。小アジア西端に位置するこの都城の支配者は、ゼウスを祖とするダルダノスの子孫である。彼はトロイア市を創建し、キュベレー崇拝をプリュギアに導いたとされる。ダルダノスの孫がトロースで、彼がトロイアの名祖である。トロースには三人の息子があり、イーロス、アッサラコス、ガニュメーデースである。ガニュメーデースは美少年中の美少年と言われ、ゼウスが彼を攫ってオリュンポスの酒盃捧持者とした。 イーロスはラーオメドーンの父で、後の老トロイア王プリアモスの祖父である。英雄ヘクトールとパリス(アレクサンドロス)はプリアモスの息子、予言で名高いカッサンドラーは娘である。またヘクトールの妻アンドロマケーは、トロイア陥落後、アキレウスの息子ネオプトレモスの奴隷とされ、彼の子を生む。 他方、トロースの三人の息子の最後の一人アッサラコスはアンキーセースの祖父で、アンキーセースとアプロディーテー女神のあいだに生まれたのがアイネイアースである。トロイア陥落後、彼は諸方を放浪してローマに辿り着く。ウェルギリウスは彼を主人公としてラテン語叙事詩『アエネーイス』を著した。アイネイアースの息子アスカニオス(イウールス)はローマの名家ユーリア氏族(gens Iulia)の祖とされる。 ギリシア神話には、断片的なエピソード以外に、一人の人物あるいは一つの事件が、複雑に展開し、数多くの英雄たちがその物語に関係してくる「複合物語」とも呼べる神話譚がある。 アテーナイの王子であった「テーセウス」の生涯は、劇的な展開を見せ、クレータ島の迷宮での冒険を経た後になっても、コルキスの王女メーデイアが義母であったり、その魔術と戦うなど、ミーノース王やアリアドネーを含め、広い範囲の多数の人物と関わりを持っている。 テーセウスの生涯以上に華麗で、夥しい人物が関係し、また様々な重要事件に参加するヘーラクレースの物語もまた英雄の結集する神話とも言える。彼に課された十二の難題の物語だけでも十分に複雑であるが、ヘーラクレースは「アルゴナウタイ」の一員でもある。更に、アポロドーロスによると、彼はゼウスの王権が確立した後に起こったとされるギガース(巨人)たちとの戦いにも参加している。また、オルペウス教の断片的な資料では、原初にクロノス Khronos(時)、別名ヘーラクレースが出現したという記述がある。これが英雄ヘーラクレースかどうか定かではないが、無関係とも言いきれない。 ギリシア中から英雄が集結して冒険に出発するという話としては、イアーソーンを船長とするコルキスの金羊毛皮をめぐる「アルゴナウタイ」の物語が挙げられ、ここではヘーラクレースやオルペウスなども参加している。 また、アドラストスを総帥とする「テーバイ攻めの七将」の神話やその後日談でもある、七将の息子たちの活躍も、英雄たちが結集した物語である。メレアグロスの猪退治の伝承が潤色され、拡大した規模で語られるようになった「カリュドーンの猪狩り」の神話もまた、メレアグロスを中心に、カストールとポリュデウケースの兄弟、テーセウス、イアーソーン、ペーレウスとテラモーン、そしてアタランテーなども参加した英雄の結集物語である。 ギリシア神話上で、もっとも古く、もっとも重層的に伝承や神話や物語が蓄積されているのは、「トロイア戦争」をめぐる神話である。古典ギリシアの文学史にあって、紀元前9世紀ないし8世紀に、突如として完成された形で、ホメーロスの二大叙事詩、すなわち『イーリアス』と『オデュッセイア』が出現する。詳細な研究の結果、これらの物語は突如出現したのではなく、その前史ともいうべき過程が存在したことが分かっている。 トロイア戦争をめぐっては、その前提となったパリスの審判の物語や、ギリシアとトロイアのあいだの交渉、アカイア軍の出陣、そして長期に渡る戦争の経過などが知られている。『イーリアス』は十年に及ぶ戦争のなかのある時点を切り出し、アキレウスの怒りから始まり、代理で出陣したパトロクロスの戦死、ヘクトールとの闘い、そして彼の死と、その葬送のための厳粛な静けさで物語が閉じる。他方、『オデュッセイア』では、トロイア戦争の終結後、故郷のイタケー島へ帰国しようとしたオデュッセウスが嵐に出会い、様々な苦難を経て故郷へと帰る物語が記されている。 トロイア戦争の経過の全貌はどのようなものであったのか、トロイア陥落のための「木馬の計略」の話などは、断片的な物語としては伝わっていたが、完全な形のものは今日伝存していない。しかし、この神話あるいは歴史的な伝承が、大きな物語圏を築いていたことは今日知られている。 神話は多くの場合、かつて生きていた宗教や信仰の内実、すなわち世界の「真実」を神聖な物語(文学的表現)または象徴の形で記録したものだと言える。このことは、現在なお信仰され続けている宗教等にも該当する。神話はまた多くの場合、儀礼と密接な関係を持つ。エリアーデは神話は世界を含む「創造を根拠付ける」ものとした。このことは人間の起源の説明が宗教的世界観の一部として大きな意味を持つことからも肯定される。 古代ギリシア人は人間と非常に似た神々が登場するユニークな神話を持っていたが、彼らはこれらの神々を宗教的信仰・崇拝の対象として考えていたのかについては諸説ある。実際、西欧の中世・近世を通じて、人々はギリシア神話を架空の造り話か寓話の類とも見なしていた。現代においても、ポール・ヴェーヌは、「ギリシア人がその神話」を本当に信仰していたのかをめぐり疑問を提示する。彼は古代ギリシア人がソフィストたちの懐疑主義を経てもロゴスとミュートスの区別が曖昧であったことを批判する。しかしヴェーヌの結論は、古代ギリシア人はやはり彼らの神話を信じていたのだ、ということになる。 また、古代のギリシア人自身のなかでも疑問は起こっていたのであり、紀元前6世紀の詩人哲学者クセノパネースは、ホメーロスやヘーシオドスに描かれた神々の姿について、盗みや姦通や騙し合いを行う下劣な存在ではないかと批判している。 ホメーロスやヘーシオドスは、自分たちのうたった神話が「真実」であることに確信を持っていた。この場合、何が真実で、何が偽なのかという規準が必要である。しかし彼らがうたったのは、神々や人間に関する真実であって、造話や虚構と現代人が考えるのは、真実を具象化するための「表現」であり「技法」に過ぎなかった。 神話の重要な与件の一つとして作者の無名性が考えられていた。誰が造ったのでもなく太古の昔より存在するのが神話であった。紀元前7世紀中葉以降、叙事詩的伝統に代わって、個人の感情や思いをうたう抒情詩が誕生する。抒情詩人は超越的な神々の存在について寧ろ無関心であった。しかし、これに続いて出現したギリシア悲劇においては、ムーサ女神への祈りもなく、明らかに彼らが創作したと考えられる物語を劇場で公開するようになる。これによってギリシア神話は人間的奥行きを持ち深化したが、彼らは神話を信じていたのだろうか。悲劇詩人たちはニーチェが洞察したように、コロスの導入によって、そして今一つに「英雄」の概念の変遷により、共同体の真実をその創作に具現していた。彼らはなお神を信仰していたのであるが、神話についてはそうでもなかった。 しかし三大悲劇詩人の活動の背後で、奴隷制を基礎に置くギリシアの諸ポリスは、アテーナイを代表として困難に直面することにもなる。ペルシア戦争での奇蹟的な勝利の後、アテーナイの覇権と帝国主義が勃興するが、ポリスは覇権をめぐって相互に争うようになる。ペロポネソス戦争で敗北したアテーナイにあって独自な思想を語ったソークラテースはなお敬神の謎めいた人物であったが、彼に先駆するソピステースたちは、神々もまた修辞や議論の為の道具と見なし、プロータゴラースは「神々が存在するのかしないのか、我々には知りようもない」と明言した。 ソークラテースの弟子であり偉大なソピステースたちの論法を知悉していた紀元前4世紀のプラトーンは、古代ギリシアの民主主義の破綻と欠陥を認めず、彼が理想とする国家についての構想を語る。プラトーン以前には、ホメーロスの叙事詩が青少年の教科書でもあり、戦士としての心構え、共同体の一員たる倫理などは彼の二大作品を通じて学ばれていた。しかし、プラトーンは『国家』において、異様な「理想社会」のモデルを提唱した。プラトーンはまずホメーロスと英雄叙事詩を批判し、これをポリスより追放すべきものとした。また、彼の理想の国家にあっては、「悲劇」は有害であるとしてこれも否定した。 しかし、このような特異な思想を語ったプラトーンはまた、時期によっては、神話(ミュートス)を青少年の教育に不適切であるとする一方で、自分の著作に、ふんだんに寓意を用い、真実を語るために「神話」を援用した。ポリスの知識人階級のあいだでは、古来のギリシア神話の神々や英雄は、崇拝の対象ではなく、修辞的な装飾とも化した。こうしてアレクサンドロスがアケメネス朝を滅ぼし、みずからが神であると宣言したとき、「神々への信仰」はポリス共同体から消え去った、あるいはもはやポリスはこのような宗教的情熱を支えるにはあまりにも変質してしまったのだと言える。神話(ミュートス)が備えていたリアリティは消失し、神話と現実の分離が起こった。 人々の敬神の伝統はそれでもパウサーニアースが紀元後になって証言しているようにアテーナイにおいても、またギリシアの地方や田舎にあってなお続いた。一方で、アリストテレースは「歌うたいが法螺をふいている」と著作のなかで断言した。 古典学者ピエール・グリマルはその小著『ギリシア神話』の冒頭で、「ギリシア神話」とは何を指す言葉かを説明している。グリマルは、紀元前9-8世紀より紀元後3-4世紀にあって、ギリシア語話圏で行われていた各種の不思議な物語、伝説等を総称して「ギリシア神話」とする。この広範な神話圏は、紀元前4世紀末または前3世紀初にあって内容的・形式的に大きな変容を経過する。一つのは文献学の発達と、書物の要約作成によってであり、いま一つは、生きた神々への敬神の表現でもあった詩作品などに代わる、娯楽を目的とした作品の登場によってである。 ギリシアの諸ポリスは、アレクサンドロスの統一とオリエント征服によって事実上消滅した。アレクサンドロスはエジプトに自己の名を付けた新都を建設した。エジプトを継承したディアドコイの一人プトレマイオスはそこに世界最大と称されたアレクサンドレイア図書館を建造し、夥しい蔵書の収集に着手すると共に、ヘレニズムの世界に優秀な学者を求めた。今日伝存する多くの古代の文献・文書はこの時代に編纂され、あるいは筆写され写本として残ったものである。 図書館はアレクサンドレイア以外にもペルガモンなどが著名であった。図書館は鎖されていたとはいえ、高い評価を受けた作品は、筆写されて、教養人・貴族などに広がっていった。図書館は大量の書物について、その内容要約書をまた編集していた。長い原著を読むよりも、学者が整理した原著の要約を読むことで、無教養な俄成金などは自己の見せかけの知識を喧伝できた。あるいは諸種の伝説について、主題ごとの見取り図を与えるために書籍が編纂された。このような「集成」本のなかでも、もっとも野心的であったのが、紀元前2世紀のアテーナイの文献学者アポロドーロスのものと長く考えられていた、アポロドーロスの『ビブリオテーケー』(ギリシア神話文庫)である。 一方、帝政ローマ期の貴族や富裕な階層の人々は、古代ギリシアの神々への崇拝や敬神の念とは関係なく、純粋に面白く色恋の刺激となる物語を好んだ。これらの嗜好の需要に合わせ、オウィディウスなどは、神々への敬神などとは無縁な、娯楽目的の『変身物語』を著し、また同じような意味でアプレイウスは『黄金の驢馬』を著した。オウィディウスの書籍はギリシア神話全体を扱うもので、体系的な著作とも言えるが、しかし気楽に読むことのできる短いエピソードの集成でもあった。 ギリシア神話の宗教としての「真実」の開示の機能は、このようにしてヘレニズムの時代にその終焉を迎えたと言える。新しく勃興したキリスト教は、まさに神話を否定したプラトーンの思想の延長上にあるとも言えたが、この後、千年以上にわたって続く西欧の精神の歴史のなかで、ギリシア神話はもはや宗教ではなく、この神話に登場する逸話や神々を、自然現象の寓意とも、娯楽のための造話とも見なしていた。 19世紀アメリカの文学者であるトマス・ブルフィンチはギリシア・ローマ神話に関する一般向けの概説書を著したが(Bulfinch's Mythology, 『ギリシア神話と英雄伝説』)、「神話の起源」について次のような四つの説をまとめ紹介している。1)神話は『聖書』の物語の変形である。2)神話はすべて歴史的事実の反映であり、後世の加筆や粉飾で元の姿が不明となったものである。3)神話は道徳・哲学・宗教・歴史の真理などを寓意的に表現したものである。4)神話は多様な自然現象の擬人化である。この最後の解釈は、19世紀初頭のワーズワースの詩作品に極めて明瞭に表出されているとする。 神話の解釈や研究において大きな刺激となったのは、19世紀にあっては、印欧語の比較研究より生まれた比較言語学である。ドイツ生まれで、後半生をイギリスに生き研究を行ったマックス・ミューラーは比較神話学という形の神話解釈理論を提唱した。比較言語学の背景にある思想は当時西欧を席巻していた進化論と進歩主義的歴史観である。ミューラーは、ギリシア神話をインド神話などと比較した上で、これらの神話の意味は、最終的には太陽をめぐる自然現象の擬人化であるとする神話論を主張した。 ジェームズ・フレイザーはミューラーと同じく自然神話学を唱えたが、彼は浩瀚な『金枝篇』において王の死と再生の神話を研究し、神話は天上の自然現象の解釈ではなく、地上の現象と社会制度のありようの反映であるとした。また神話は呪術的儀礼を説明するために生み出されたとも主張した。ミューラーの解釈では、ゼウスは太陽の象徴で神々の物語も、太陽を中心とする自然現象の擬人的解釈であるということになる。他方、フレイザーでは、「死して蘇る神」の意味解明が中心主題となる。エレウシースの秘儀がこのような神話であり、ディオニューソスもまた死して後、ザグレウスとして復活する。 ソシュールの構造の概念を継承して神話研究に適用したのは人類学者のクロード・レヴィ=ストロースであり、彼は『構造神話学』において、オイディプースの悲劇を、神話素(英語版)のあいだの差異の構造と矛盾の体系として分析し、「神話的思考」の存在を提唱した。オイディプース神話の目的の一つは、現実の矛盾を説明し解明するための構造的な論理モデルの提供にあるとした。この神話の背後には様々な矛盾対立項があり、例えば、人は男女の結婚によって生じるという認識の一方で、人は土から生まれたという古代ギリシアの伝承の真理について、この矛盾を解決するための構造把握がオイディプース神話であるとした。 フロイトの無意識の発見から淵源したとも言える深層心理学の理論は、歴史的に現れる現象とは別に、時間を超えて普遍的に存在する構造の存在を教える。ユングは、このような普遍的・無時間的な構造の作用として元型の概念を提唱した。ケレーニイとの共著『神話学入門』においては、童子神の深層心理学的な分析が行われるが、コレーや永遠の少年としてのエロースは太母(地母神)としてのデーメーテールなどとの関係で出現する元型であり、「再生の神話」と呼ばれるものが、無意識の構造より起源する自我の成立基盤であり、自我の完全性への志向を補完する普遍的な動的機構であるとした。 紀元3世紀ないし4世紀には未だ、ヘレニズム時代とローマ帝政期に造られ、伝存していた莫大な量の書籍があったとされる。例えば、古典三大悲劇詩人の作品は、現在伝存しているものは、名が伝わっているもののなかの十分の一しかないが、この当時には未だほぼ全巻が揃っていたと考えられる。これらの莫大な書籍・写本は、ヘレニズム時代が過ぎ去り、帝政ローマが終焉を迎えた後では、激減してほとんどの書籍が散逸したとされる。 それは東西に分裂したローマ帝国の西の帝国の領域で著しかった。西ローマは間もなく滅亡し、ゲルマンの国であるフランク王国が成立するが、一旦失われた書籍は再び回復しなかった。他方、東の帝国すなわちビザンティン帝国の領域では、多数の書籍とその写本がなお豊富に残っており、これを利用して、12世紀のヨハンネス・ツェツェースなどの文献学者は、なおギリシア神話に関する膨大な注釈本などを記していた。 西欧においては、すべての写本、古代の遺産が失われたわけではなく、14世紀から15世紀にかけてのルネッサンスにおいて、丹念に修道院の文書庫などを調べることで、ギリシア語原典の写本などがなお発見されつづけた。他方、西欧で失われた多くの書籍は、8世紀におけるイスラーム帝国の勃興と共に、ビザンティン帝国を介してイスラームに渡った。しかしアラトスなど極一部の例外を除き、神話についての書籍は伝承されなかった。 中世からルネサンスにかけては、マクロビウス、フルゲンティウス(英語版)、マルティアヌス・カペッラ、セルウィウスらのラテン語著作が古代神話の出典として参照された。さらに盛期には『バチカン・ミトグラフス』など中世独自の古代神話集成も著された。 西欧では、古代ギリシア語による文芸はほとんど忘れられていたが、14世紀初頭の代表的な中世詩人であるダンテ・アリギエリは、『神曲』地獄篇のなかでリンボーという領域を造り、そこに古代の詩人を配置した。5人の詩人中4人はラテン語詩人で、残りの一人がホメーロスであった。しかし、ダンテはホメーロスの作品を知らなかったし、西欧にこの大詩人が知られるのは、やや後になってからであった。 しかし西欧では、古代のローマ詩人オウィディウスの名とその作品はよく知られていた。イタリア・ルネサンスの絵画でギリシア神話の主題を明確に表現しているものとして、サンドロ・ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』と『春』が存在する。両絵画共に制作年は明確ではないが、1482年頃であろうと想定されている。高階秀爾はこの二つの絵画を解釈して、『春』はオウィディウスの『祭暦』の描写に合致する一方、『ヴィーナスの誕生』と『春』が対を成す作品ならば、これは「天のアプロディーテー」と「大衆のアプロディーテー」の描き分けの可能性があると指摘している。 ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』は、イタリア・ルネサンスにおけるギリシア神話の具象的表現の代表的な作品とも言える。この絵の背後にあると想定されるマルシリオ・フィチーノなど(プラトン・アカデミー)のネオプラトニズムの哲学や、魔術的ルネサンスの思想は、秘教的なギリシア文化と西欧文化のあいだで通底する美的神話的原理であるとも言える。次に、西欧世界において、ルネサンス期以前のギリシアのイメージはどのようなものだったのかを記す。 西欧における古代ギリシア、わけてもホメーロスの像は、いわゆる「トロイアの物語」のイメージで捉えられていた。これは紀元4世紀ないし5世紀のラテン語の詩『トロイア戦争日誌』と『トロイア滅亡の歴史物語』を素材として、12世紀にブノワ・ド・サント=モールがフランス語で書いたロマンス風の『トロイア物語』から広がって行ったものである。この作品は更にラテン語で翻案され、全ヨーロッパ中に広まったとされる。 叙事詩人ホメーロスが意図した古代ギリシアと、西欧中世にあって「トロイア物語」を通じて流布したギリシアの像では、どのような違いがあったのか。ここで言えるのは、両者が共に「歴史性」を負っていること、しかし前者は「詩的」であろうとする世界であり、後者はあくまで「史的」であろうとする世界である。ホメーロス時代のギリシアの世界には「神々の顕現」が含まれていたが、古代末期から近世にかけての西欧において思い描かれていた「ギリシア世界」では、「神々の不在」が顕著であり、脱神話化が行われている。 だがイタリアの人文主義者たちは、ホメーロス『イーリアス』原典を、15世紀半ばにラテン語訳した。この翻訳を通じ、汎西欧的にホメーロス及び古代ギリシアの把握像に変化が生じてきた。17世紀には、ジョージ・チャップマンが『イーリアス』(1611年)と『オデュッセイア』(1614年)を英訳し、マダム・ダシエ(1654-1720)が『イーリアス』と『オデュッセイア』を、フランス語訳した。このように進展した事で、古典ギリシアの再発見とも呼べる事態が到来した。 ギリシア神話の影響を現在も強く受けている学問の一つが天文学である。現在、恒星を結んで作る星座は88を数えるが、そのうちトレミーの48星座などは、ギリシア神話と結び付けられている。またローマ神話は太陽はアポローン、月はアルテミスに擬えたほかローマ神話を経由して惑星の名称も水星はヘルメース(ローマ神話のメルクリウス)、金星はアプロディーテー(同ヴィーナス)、火星はアレース(同マールス)、木星はゼウス(同ユーピテル)、土星はクロノス(同サートゥルヌス)に擬えられている。近代になってガリレオ・ガリレイ木星の4つの衛星を発見したときもガニメデ、エウロペ、カリスト、イオとゼウスにゆかりのある物が命名されている。近代以降発見された天体も天王星(ウーラヌス)、海王星(ポセイドーン(ローマ神話のネプチューン))、冥王星(ハーデース(ローマ神話のプルートー))とギリシア神話にゆかりのある名がつけられる慣行が残っている。20世紀から21世紀においても冥王星に衛星が発見されるとカロン、ニュクス、ヒュドラ、ケルベロスとハーデースにゆかりのある事物に因んで命名されている。天体の新発見が相次ぎ命名に使用するギリシア神話の事物が枯渇し始めると「神話の神々の名を使用する」という慣行による命名が行われており、21世紀になってもなお天文学においてギリシア神話の影響は強い。 医学においても医療の象徴にアスクレーピオスの蛇の杖が使用されるなど、ギリシア神話にゆかりのある物が多数ある。アキレス腱、エディプスコンプレックスなどはギリシア神話由来である。また心理学を意味するサイコロジーの「サイコ」も心の女神プシューケーに由来するほか、性愛を意味する「エロス」は愛の神エロースに由来し、「恐怖」「嫌悪」を意味する「フォビア」は「フォボス」に由来する。 ギリシア神話はイタリア人文主義の絵画の主題だけではなく、様々な絵画・視覚的芸術の主題ともなる。ボッティチェリが更に多くの絵画を描き、ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロをはじめ、コレッジョ、ティツィアーノ、カラヴァッジョ、ルーベンス、ニコラ・プッサン、ドラクロア、コロー、ドミニク・アングル、ギュスターヴ・モロー、グスタフ・クリムトなどもギリシア神話に題材を取った絵を描いている。美術館、博物館を意味する「ミュージアム」はムーサに由来する。 また、数多くの文学者や詩人が、作品の題材や形容・修飾にギリシア神話の逸話や場面を利用することで、作品に重層性を与えている。ジョン・ミルトンは『失楽園』、『コウマス』において修飾引用を行っている。スペンサーは『妖精女王』でギリシア神話に言及する。ロマン派の詩人たちは、しばしばギリシア神話からインスピレーションを得ている。『チャイルド・ハロルド』におけるロード・バイロン、『エンデュミオーン』、『プシューケーに寄せるオード』におけるジョン・キーツなどである。ヘルダリーンは『ヒュペーリオン』、『エンペドクレス』を書き、ライナー・マリア・リルケは『オルフォイスに献げるゾネット』連作を造った。オルペウスもまた詩人に霊感を与え、ジャン・コクトーは映画を制作している。ジェイムズ・ジョイスの作品、特に『ユリシーズ』もまたギリシア神話の影響を受けている。 音楽を意味するミュージックはギリシア神話のムーサに由来する。18世紀以降、音楽の分野でも、ギリシア神話を題材やモチーフとしたものが多数制作された。グルックには、『パリーデとエレーナ(英語版)』、『オーリードのイフィジェニー』、『トーリードのイフィジェニー』があり、ベルリオーズは『トロイアの人々』を作曲している。モーツァルトには、アイネイアースの子を主題とした 『アルバのアスカーニオ』があり、また『イドメネオ』がある。オペラ作品として、グルックには、オウィディウスの作品を原作とした『エコーとナルシス(英語版)』があり、リヒャルト・シュトラウスには、『エレクトラ』、エウリーピデースの悲劇を元にした『エジプトのヘレナ』、『ナクソス島のアリアドネ』、『ダフネ』がある。カール・オルフは『アンティゴネー』を作曲している。オッフェンバックは神話パロディの喜歌劇を得意とし、『地獄のオルフェ(天国と地獄)』には、倦怠期のオルフェオ夫婦、神々の労組に手を焼くユピテールなど皮肉たっぷりのキャラクターが登場する。 ギリシア神話の英雄あるいは出来事を映画化した作品は欧米において非常に多数に昇る。トロイア戦争を主題にした映画作品は数多く制作されており、ヘーラクレースを主人公とする作品もまた多くある。アルゴナウタイ、テーセウス(主にクレータの迷宮を舞台として)の物語、テーバイ攻めの七将などの話が映画化されている。ギリシア悲劇も映画となっているものが多い。 近年では、ビデオゲームの題材としてギリシア神話が選ばれる事がある。『ヘラクレスの栄光』はヘーラクレースを主人公とし、神話の世界を旅するロールプレイングゲームである(作品によってはヘーラクレースが主人公でないものもある)。リアルタイムストラテジーである『エイジ オブ ミソロジー』においてはオリュンポス十二神もしくはティーターンの力を借りつつギリシア文明やアトランティス文明を発展させ、他の文明を打ち倒す。『ゴッド・オブ・ウォー』においてはギリシア神話の(特に)英雄譚における荒々しさや残酷さを前面に押し出した物語が展開される。これは本作が格闘戦を主軸とした激しいアクションゲームであるため、ゲームデザイン(遊具としての設計)の観点からも暴力的な物語である必要性があったからである。 アポロドーロス『ギリシア神話』の訳者まえがきで高津春繁は、日本においてギリシア神話は、オウィディウス『変身物語』から取られた話を軸に紹介されて来たと述べている。 欧米でも日本でも、子供向け、あるいは若い人向けにギリシア神話物語の書き下し出版が多いが、それらはオウィディウスの本のように、ヘレニズム的な甘美さと優しさに重点を置いた物語が大半である。異なるのは、成人向けのギリシア神話であっても、さほど重要でもない「変身」物語や恋愛譚が多く取り上げた所である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ギリシア神話(ギリシアしんわ、ギリシア語: ελληνική μυθολογία)は、古代ギリシアより語り伝えられる伝承文化で、多くの神々が登場し、人間のように愛憎劇を繰り広げる物語である。ギリシャ神話とも言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "古代ギリシア市民の教養であり、さらに古代地中海世界の共通知識でもあったが、現代では、世界的に広く知られており、ギリシャの小学校では、ギリシャ人にとって欠かせない教養として、歴史教科の1つになっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ギリシア神話は、ローマ神話の体系化と発展を促進した。プラトーン、古代ギリシアの哲学や思想、ヘレニズム時代の宗教や世界観、キリスト教神学の成立など、多方面に影響を与え、西欧の精神的な脊柱の一つとなった。中世においても神話は伝承され続け、その後のルネサンス期、近世、近代の思想や芸術にとって、ギリシア神話は霊感の源泉であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "今日ギリシャ神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。当時のヘレーネス(古代ギリシア人による彼ら自身の呼称)の世界には、神話としての基本的骨格を備えた物語の原型が存在していた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし当時の人々のなかで、特に、どのような神が天に、そして大地や森に存在するかを語り広めたのは吟遊詩人たちであり、詩人は姿の見えない神々に関する真実の知識を人間に解き明かす存在であった。神の霊が詩人の心に宿り、不死なる神々の世界の真実を伝えてくれるのであった。そのため、ホメーロス等の作品においては、ムーサ女神への祈りの言葉が、朗誦の最初に置かれた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "口承でのみ伝わっていた神話を、文字の形で記録に留め、神々や英雄たちの関係や秩序を、体系的にまとめたのは、ホメーロスより少し時代をくだる紀元前8世紀の詩人ヘーシオドスである。彼が歌った『神統記』においても、その冒頭には、ヘリコーン山に宮敷き居ます詩神(ムーサ)への祈りが入っており、ヘーシオドスは現存する文献のなかでは初めて系統的に神々の系譜と、英雄たちの物語を伝えた。このようにして、彼らの時代、すなわち紀元前9世紀から8世紀頃に、「体系的なギリシア神話」がギリシア世界において成立したと考えられる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "それらの神話体系は地域ごとに食い違いや差異があり、伝承の系譜ごとに様々なものが未だ渾然として混ざり合っていた状態であるが、オリュンポスを支配する神々が誰であるのか、代表的な神々の相互関係はどのようなものであるのか、また世界や人間の始源に関し、どのような物語が語られていたのか、などといったことは、ギリシア世界においてほぼ共通した了解のある、ひとつのシステムとなって確立したのである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、個々の神や英雄が具体的にどのようなことを為し、古代ギリシアの国々にどのような事件が起こり、それはどういう神々や人々・英雄と関連して、どのように展開し、どのような結果となったのか。これらの詳細や細部の説明・描写などは、後世の詩人や物語作者などの想像力が、ギリシア神話の壮麗な物語の殿堂を飾ると共に、複雑で精妙な形姿を構成したのだと言える。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "次いで、ギリシア悲劇の詩人たちが、ギリシア神話に奥行きを与えると共に、人間的な深みをもたらし、神話をより体系的に、かつ強固な輪郭を持つ世界として築き上げて行った。ヘレニズム期においては、アレクサンドリア図書館の司書で詩人でもあったカルリマコスが膨大な記録を編集して神話を肉付けし、また同じく同図書館の司書であったロドスのアポローニオスなどが新しい構想で神話物語を描いた。ローマ帝政期に入ってからも、ギリシア神話に対する創造的創作は継続していき、紀元後1世紀の詩人オウィディウス・ナーソの『変身物語』が新しい物語を生み出し、あるいは再構成し、パウサニアースの歴史的地理的記録やアプレイウスの作品などがギリシア神話に更に詳細を加えていった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紀元前8世紀のヘーシオドスの『神統記』は、ギリシア神話を体系的に記述する試みのさきがけである。ホメーロスの叙事詩などにおいて、聴衆にとっては既知のものとして、詳細が説明されることなく言及されていた神々や、古代の逸話などを、ヘーシオドスは系統的に記述した。『神統記』において神々の系譜を述べ、『仕事と日々』において人間の起源を記し、そして現在は断片でしか残っていない『名婦列伝』において英雄たちの誕生を語った。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "このような試みは、紀元前6世紀から5世紀頃のアルゴスのアクーシラーオスやレーロスのペレキューデースなどの記述にも存在し、現在は僅かな断片しか残っていない彼らの「系統誌」は、古代ギリシアの詩人や劇作家、あるいはローマ時代の物語作家などに大きな影響を与えた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "古代におけるもっとも体系的なギリシア神話の記述は、紀元後1世紀頃と考えられるアポロドーロスの『ギリシャ神話』(3巻16章+摘要7章)である。この体系的系統本は、紀元前5世紀以前の古典ギリシアの筆者の文献等を元にギリシア神話が纏められており、オウィディウスなどに見られる、ヘレニズム化した甘美な趣もある神話とはまったく異質で、荒々しく古雅な神話系譜を記述していることが特徴である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ホメーロス以前の古代ギリシアには文字がなかった訳ではなく、ミュケーナイ時代にすでに線文字Bが存在していたが、暗黒時代においてこの文字の記憶は失われた。しかし紀元前8世紀頃より、フェニキア文字を元に古代ギリシア文字が生まれる。ギリシア神話は基本的にはこの文字で記録された。また後にはローマの詩人・文学者がラテン語によってギリシア神話を記述した。", "title": "資料" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ギリシア神話のありようを知るには、近代になって発達した考古学が大きな威力を発揮した。考古学では古代の遺跡が発掘され研究された。", "title": "資料" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これらの遺跡において、装飾彫刻や彫像、神々や人物が描かれ彩色された古壺や皿などが見つかった。考古学者や神話学者は、彫刻の姿や様式、古壺や皿に描かれた豊富な絵を分析して、これらがギリシア神話で語られる物語の場面や出来事、神や英雄の姿を描いたものと判断した。それらの絵図は意味を含んでおり、(学者によって解釈が分かれるとしても)ここから神話の物語を読み取ることが可能であった。", "title": "資料" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "他方、発掘により判明した考古学的知見は、文献に記されていた事象が実際に存在したのか、記述が妥当であったのかを吟味する史料としても重要であった。更に、文献の存在しない時代についての知識を提供した。19世紀末にドイツのハインリヒ・シュリーマンは、アナトリア半島西端のヒッサルリクの丘を発掘し、そこに幾層もの都市遺跡と火災で滅びたと考えられる遺構を発見してこれをトロイア遺跡と断定した。彼はまたギリシア本土でも素人考古学者として発掘を行い、ミュケーナイ文化の遺構を見いだした。", "title": "資料" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "20世紀に入って以降、アーサー・エヴァンズはより厳密な発掘調査をトロイア遺跡に対し行った。またクレータ島で見いだされていたクノーソスなど、文明の遺跡の発掘も行われ、ここで彼は三種類の文字(絵文字、線文字Aと線文字B)を発見した。線文字Bは間もなく、ギリシア本土のピュロスやティーリュンスでも使用されていたことが見いだされた。20世紀半ばになって、マイケル・ヴェントリスがジョン・チャドウィックの協力のもと、この文字を解読し、記されているのがミケーネ語であることを確認すると共に、内容も明らかにした。それらはホメーロスがうたったトロイア戦争の歴史的な像を復元する意味を持った。また数々の英雄たちの物語のなかには、紀元前15世紀に遡るミュケーナイ文化に起源を持つものがあることも、各地の遺跡の発掘研究を通じて確認された。", "title": "資料" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ギリシア神話は、以下の三種の物語群に大別できる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第一の「世界の起源」を物語る神話群は、分量的には短く、主に三つの系統が存在する(ヘーシオドスが『神統記』で記したのは、主として、この「世界の起源」に関する物語である)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第二の「神々の物語」は、世界の起源の神話と、その前半において密接な関連を持ち、後半では、英雄たちの物語と絡み合っている。英雄たちの物語において、人間の運命の背後には神々の様々な思惑があり、活動が行われ、それが英雄たちの物語にギリシア的な奥行きと躍動を与えている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "第三の「英雄たちの物語」は、分量的にはもっとも大きく、いわゆるギリシア神話として知られる物語や逸話は、大部分がこのカテゴリーに入る。この第三のカテゴリーが膨大な分量を持ち、夥しい登場人物から成るのは、日本における神話の系統的記述とも言える『古事記』や、それに並行しつつ歴史時代にまで記録が続く『日本書紀』がそうであるように、古代ギリシアの歴史時代における王族や豪族、名家と呼ばれる人々が、自分たちの家系に権威を与えるため、神々や、その子である「半神」としての英雄や、古代の伝説的英雄を祖先として系図作成を試みたからだとも言える。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "神話的英雄や伝説的な王などは、膨大な数の子孫を持っていることがあり、樹木の枝状に子孫の数が増えて行く例は珍しいことではない。末端の子孫となると、ほとんど具体的エピソードがなく、単なる名前の羅列になっていることも少なくない。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかし、このように由来不明な多数の名前と人物の羅列があるので、歴史時代のギリシアにおける多少とも名前のある家柄の市民は、自分は神話に記載されている誰それの子孫であると主張できたとも言える。ウェルギリウスの『アエネーイス』が、ローマ人の先祖をトロイエー戦争にまで遡らせているのは明らかに神話的系譜の捏造であるが、これもまた、広義にはギリシア神話だとも言える(正確には、ギリシア神話に接続させ、分岐させた「ローマ神話」である)。ウェルギリウスは、ギリシア人自身が、古代より行なって来たことを、紀元前1世紀後半に、ラテン語で行なったのである。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "古代ギリシア人は他の民族と同様に、世界は原初の時代より存在したものであるとの素朴な思考を持っていた。しかし、ゼウスを主神とするコスモス(秩序宇宙)の観念が成立するにつれ、おのずと哲学的な構想を持つ世界の始原神話が語られるようになった。それらは代表的に四種類のものが知られる(ただし、2と3は、同じ起源を持つことが想定される)。", "title": "神話1:世界の始まり" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "神々の系譜や人間の起源などを系統的な神話に纏めあげたヘーシオドスは『神統記』にて、二つの主要な起源説を伝えている。", "title": "神話1:世界の始まり" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ヘーシオドスがうたう第二の自然哲学的な世界創造と諸々の神の誕生は、自然現象や人間における定めや矛盾・困難を擬人的に表現したものとも言える。このような形の神々の誕生の系譜は、例えば日本神話(『古事記』)にも見られ、世界の文化で広く認められる始原伝承である。『神統記』に従うと、次のような始原の神々が誕生したことになる。", "title": "神話1:世界の始まり" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "まず既に述べた通り、カオス(空隙)と、そのうちに存在する胸広きガイア(大地)、そして暗冥のタルタロスと最も美しい神エロースである。ガイアより更に、幽冥のエレボス(暗黒)と暗きニュクス(夜)が生じた。ガイアはまた海の神ポントスを生み、ポントスから海の老人ネーレウスが生まれた。またポントスの息子タウマースより、イーリス(虹)、ハルピュイアイ、そしてゴルゴーン三姉妹等が生まれた。", "title": "神話1:世界の始まり" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方、ニュクスよりはアイテール(高天の気)とヘーメラー(昼)が生じた。またニュクスはタナトス(死)、ヒュプノス(睡眠)、オネイロス(夢)、そして西方の黄金の林檎で著名なヘスペリデス(ヘスペリス=夕刻・黄昏の複数形)を生み出した。更に、モイライ(運命)、ネメシス(応報)、エリス(闘争・不和)なども生みだし、この最後のエリスからは、アーテー(破滅)を含む様々な忌まわしい神々が生まれたとされる。", "title": "神話1:世界の始まり" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ゼウスの王権が確立し、やがてオリュンポス十二神を中心としたコスモス(秩序)が世界に成立する。しかし、このゼウスの王権確立は紆余曲折しており、ゼウスは神々の王朝の第三代の王である。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "最初に星鏤めるウーラノス(天)がガイア(大地)の夫であり、原初の神々の父であり、神々の王であった。しかしガイアは、生まれてくる子らの醜さを嫌ってタルタロスに幽閉した夫、ウーラノスに恨みを持った。ウーラノスの末息子であるクロノスがガイアにそそのかされて、巨大な鎌を振るって父親の男根を切り落とし、その王権を簒奪したとされる。このことはヘーシオドスがすでに記述していることであり、先代の王者の去勢による王権の簒奪は神話としては珍しい。これはヒッタイトのフルリ人の神話に類例が見いだされ、この神話の影響があるとも考えられる。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ウーラノスより世界の支配権を奪ったクロノスは、第二代の王権を持つことになる。クロノスはウーラノスとガイアが生んだ子供たちのなかの末弟であり、彼の兄と姉に当たる神々は、クロノスの王権の下で、世界を支配・管掌する神々となる。とはいえ、この時代にはまだ、神々の役割分担は明確でなかった。クロノスの兄弟姉妹たちはティーターンの神々と呼ばれ、オリュンポス十二神に似て、主要な神々は「ティーターンの十二の神」と呼ばれる。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "これらのティーターンの十二の神としては、通常、次の神々が挙げられる。まず1)主神たるクロノス、2)その妻である女神レアー、3)長子オーケアノス、4)コイオス、5)ヒュペリーオーン、6)クレイオス、7)イーアペトス、8)女神テーテュース、9)女神テミス(法)、10)女神ムネーモシュネー(記憶)、11)女神ポイベー、12)女神テイアーである。アポロドーロスは女神ディオーネーをクロノスの姉妹に挙げているが、この名はゼウスの女性形であり、女神の性格には諸説がある。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ティーターンにはこれ以外にも、子孫が多数存在した。後にティーターンはオリュンポス神族に敗れ、タルタロスに落とされるが、全員が罰を受けた訳ではない。広義のティーターンの一族には、イーアペトスの子であるアトラース、プロメテウス、エピメテウスや、ヒュペリーオーンの子であるエーオース(暁)、セレネー(月)、ヘーリオス(太陽)などがいた。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "神々の王クロノスはしかし、母ガイアと父ウーラノスから呪いの予言を受ける。クロノス自身も、やがて王権をその息子に簒奪されるだろうというもので、クロノスはこれを怖れて、レアーとのあいだに生まれてくる子供をすべて飲み込む。レアーはこれに怒り、密かに末子ゼウスを身籠もり出産、石を産着にくるんで赤子と偽りクロノスに渡した。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ゼウスが成年に達すると、彼は父親クロノスに叛旗を翻し、まずクロノスに薬を飲ませて彼が飲み込んでいたゼウスの姉や兄たちを吐き出させた。クロノスは、ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラーの三女神、そして次にハデスとポセイドン、そしてゼウスの身代わりの石を飲み込んでいたので、順序を逆にしてこれらの石と神々を吐き出した。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ゼウスたち兄弟姉妹は力を合わせてクロノスとその兄弟姉妹たち、すなわちティーターンの一族と戦争を行った。これをティーターノマキアー(ティーターンの戦争)と呼ぶ。ゼウス、ハデス、ポセイドンの三神はティーターノマキアーにおいて重要な役割を果たし、特にゼウスは雷霆を投げつけて地球や全宇宙、そしてその根源であるカオスまでも焼き払い、ティーターンたちに大打撃を与え、勝利した。その後ティーターン族をタルタロスに幽閉し、百腕巨人(ヘカトンケイレス)を番人とした。こうして勝利したゼウスたちは互いにくじを引き、その結果、ゼウスは天空を、ポセイドンは海洋を、ハデスは冥府をその支配領域として得た。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかしガイアはティーターンをゼウスたちが幽閉したことに怒り、ウーラノスと交わって、ギガース(巨人)たちを生み出した。ギガースたち(ギガンテス)は巨大な体と獰猛な気性を備え、彼らは大挙してゼウスたちの一族に戦いを挑んだ。ゼウスたちは苦戦するが、シシリー島をギガースの上に投げおろすなど、激しい争いの末にこれを打破した。これらの戦いをギガントマキアー(巨人の戦争)と呼称する。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、ガイアはなお諦めず、更に怒ってタルタロスと交わり、怪物テューポーンを生み出した。テューポーンは灼熱の噴流で地球を焼き尽くし、天に突進して全宇宙を大混乱の渦に叩き込むなど、圧倒的な強さを誇ったが、オリュンポス神族の連携によって遂に敗北し滅ぼされた。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "かくして、ゼウスの王権は確立した。", "title": "神話2:オリュンポス以前" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "神々は、ホメーロスによれば、オリュンポスの高山に宮敷居まし、山頂の宮殿にあって、絶えることのない饗宴で日々を過ごしているとされる。神々は不死であり、神食(アムブロシアー)を食べ、神酒(ネクタール)を飲んでいるとされる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ゼウスの王権の下、世界の秩序の一部をそれぞれ管掌するこれらの神々は、オリュンポスの神々とも呼ばれ、その主要な神は古くから「十二の神」(オリュンポス十二神)として人々に把握されていた。十二の神は二つの世代に分かれ、クロノスとレアーの息子・娘(ゼウスの兄弟姉妹)に当たる第一世代の神々と、ゼウスの息子・娘に当たる第二世代の神々がいる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "時代と地方、伝承によって、幾分かの違いがあるが、主要な十二の神は、第一世代の神、1)秩序(コスモス)の象徴でもある神々の父ゼウス、2)ヘラー女神、3)ポセイドン、4)デーメーテール女神、5)ヘスティアー女神の5柱に、第二世代の神として、6)アポロン、7)アレース、8)ヘルメース、9)ヘーパイストス、10)アテネ女神、11)アプロディーテー女神、12)アルテミス女神の7柱である。また、ヘスティアーの代わりに、ディオニューソスを十二神とする場合がある。ハデスとその后ペルセポネは、地下(クトニオス)の神とされ、オリュンポスの神ではないが、主要な神として、十二神のなかに数える場合がある。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "それぞれの神は、崇拝の根拠地を持つのが普通で、また神々の習合が起こっているとき、広範囲にわたる地方の神々を取り込んだ神は、多くの崇拝の根拠地を持つことにもなる。アテナのパルテノン神殿小壁には、十二の神の彫像が刻まれているが、この十二神は、上記の一覧と一致している(ディオニューソスが十二神に入っている)。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "オリュンポスを代表する十二の神と地下の神ハーデース等以外にも、オリュンポスの世界には様々な神々が存在する。彼らはオリュンポスの十二神や他の有力な神が、エロースの力によって互いに交わることによって生まれた神である。また、広義のティーターンの一族に属する者にも、オリュンポスの一員として神々の席の一端を占め、重要な役割を担っている者がある。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "神々のあいだの婚姻あるいは交わりによって生まれた神には次のような者がいる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "神々の父ゼウスは、真偽を知る知恵の女神メーティスを最初の妻とした。ゼウスはメーティスが妊娠したのを知るや、これを飲み込んだ。メーティスの智慧はこうしてゼウスのものとなり、メーティスよりゼウスの第一の娘アテナが生まれる。ゼウスの正妻は神々の女王ヘラである。ヘラとのあいだには、アレース、ヘーパイストス、青春の女神ヘーベー、出産の女神エイレイテュイアが生まれる。また、大地の豊穣の女神デーメーテールとのあいだには、冥府の女王ペルセポネをもうけた。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ゼウスはまた、ティーターン神族のディオーネーとのあいだにアプロディーテーをもうける。アプロディーテーは、クロノスが切断した父ウーラノスの男根を海に投げ入れた際、そのまわりに生じた泡より生まれたとの説もあるが、オリュンポスの系譜上はゼウスの娘である。ゼウスは、ティーターンの一族コイオスの娘レートーとのあいだにアルテミス女神とアポロンの姉弟の神をもうけた。更にティーターンであるアトラースの娘マイアとのあいだにヘルメースをもうけた。最後に、人間の娘セメレーと交わってディオニューソスをもうけた。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アテネはメーティスの娘であるが、その誕生はゼウスの頭部から武装して出現したとされる。また、これに対抗して妃ヘラは、独力で息子ヘーパイストスを生んだともされる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ゼウスは更に、ティーターンの女神達と交わり、運命や美や季節、芸術の神々をもうける。法律・掟の女神テミスとのあいだに、ホーライの三女神とモイライの三女神を、オーケアノスとテーテュースの娘エウリュノメーとのあいだにカリテス(優雅=カリス)の三女神を、そして記憶の女神ムネーモシュネーとのあいだに九柱の芸術の女神ムーサイ(ムーサ)をもうけた。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "オリュンポスの十二の神々は、ゼウスを例外として、子をもうけないか、もうけたとしても少ない場合がほとんどである。ポセイドーンは比較的に息子に恵まれているが、アンピトリーテーとのあいだに生まれた、むしろ海の一族とも言えるトリートーン、ベンテシキューメー、ヘーリオスの妻ロデーを除くと、怪物や馬や乱暴な人間が多い。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "美の女神アプロディーテーは人気の高い女神であったからか数多くの神話に登場し、多くの子どもを生んだが、その父親は子どもの数と同じくらい多かった。彼女の夫は鍛冶の神ヘーパイストスとされるが、愛人のアレースとのあいだに、デイモス(恐慌)とポボス(敗走)の兄弟がある。またヘーシオドスが、原初の神として最初に生まれたとしている愛神エロスはアプロディーテーとアレースの息子であるとされることもある。この説はシモーニデースが最初に述べたとされる。しかしエロスをめぐっては誰の息子であるのかについて諸説あり、エイレイテュイアの子であるとも、西風ゼピュロスとエーオースの子であるとも、ヘルメースの子、あるいはゼウスの子であるともされる。エロースと対になる愛神アンテロースもアレースとアプロディーテーの子だとされる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "他のオリュンポスの有力な神々、ハデス、ヘルメース、ヘーパイストス、ディオニューソスには目立った子がいない。アポロンは知性に充ちる美青年の像で考えられていたので、恋愛譚が多数あり、恋人の数も多いが、神となった子はいない。ただし、彼の子ともされるオルペウスやアスクレーピオスが、例外的に死後に神となった。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "広義のティーターンの子孫も、オリュンポスの神々に数えられる。ティーターンたちはティーターノマキアーでの敗北の後、タルタロスに落とされたが、後にゼウスは彼らを赦したという話があり、ピンダロスは『ピューティア第四祝勝歌』のなかで、ティーターンの解放に言及している。戦いに敗れたティーターンはその後、神話に姿を現さないが、その子供たちや、ウーラノスの子孫たちは、オリュンポスの秩序のなかで一定の役割を受けて活動している。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "イーアペトスの子アトラスは、天空を背に支え続けるという苦役に耐えている。兄弟のプロメテウスは戦争には加わらなかったが、ゼウスを欺した罪でカウカーソスの山頂で生きたまま鷲に毎日肝臓を食われるという罰を受けていたところ、ヘラクレスが鷲を殺して解放した。ヒュペリーオーンとテイアーの子エーオース、セレネ、ヘーリオスは、オリュンポスの神々のなかでも良く知られた存在である。エーオースは星神アストライオスとのあいだに、西風ゼピュロス、南風ノトス、北風ボレアースなどの風の神と多数の星の神を生んだ。またアテーナーの傍らにあるニーケー(勝利)もティーターンの娘であるが、ゼウスに味方した。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "原初の神でもあったポントスとその息子の海の老人ネーレウスは、ポセイドーンに役職を奪われたように見えるが、彼らの末裔は、数知れぬネーレイデス(海の娘たち)となり、ニュンペーとして、あるいは女神として活躍する。ポントスの一族である虹の女神イーリスは神々の使者として活躍している。また、広義のティーターン一族に属するアトラースは、オーケアノスの娘プレーイオネーとのあいだにプレイアデスの七柱の女神をもうけた。彼女たちは、星鏤める天にあって星座として耀いている。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ティーターノマキアーの勝利の後、ゼウス、ハーデース、ポセイドーンの兄弟はくじを引いてそれぞれの支配領域を決めたが、地上世界は共同で管掌することとした。地上はガイアの世界であり、ガイアそのものとも言えた。地上には陸地と海洋があり、河川、湖沼、また緑豊かな樹木の繁る森林や、草花の咲き薫る野原、清らかな泉などがあった。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "地上は人間の暮らす場所であり、また数多くの動物たちや植物が棲息し繁茂する場所でもある。そして太古よりそこには、様々な精霊が存在していた。精霊の多くは女性であり、彼女たちはニュンペー(ニンフ)と呼ばれた。nymphee(νυμφη)とはギリシア語で「花嫁」を意味する言葉でもあり、彼女たちは若く美しい娘の姿であった。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ニュンペーは、例えばある特定の樹の精霊であった場合、その樹の枯死と共に消え去ってしまうこともあったが、多くの場合、人間の寿命を遙かに超える長い寿命を持っており、神々同様に不死のニュンペーも存在した。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "森林や山野の処女のニュンペーはアルテミス女神に付き従うのが普通であり、また、パーンやヘルメースなども、ニュンペーに親しい神であった。古代のギリシアには、ニュンペーに対する崇拝・祭儀が存在したことがホメーロスによって言及されており、これは考古学的にも確認されている。ニュンペーは恋する乙女であり、神々や精霊、人間と交わって子を生むと、母となり妻ともなった。多くの英雄がニュンペーを母として誕生している。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ニュンペーはその住処によって呼び名が異なる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "陸地のニュンペーとしては次のようなものがある。1)メリアデス(単数:メリアス)はもっとも古くからいるニュンペーで、ウーラノスの子孫ともされる。トネリコの樹の精霊である。2)オレイアデス(単数:オレイアス)は山のニュンペーである。3)アルセイデス(単数:アルセイス)は森や林のニュンペーである。4)ドリュアデス(単数:ドリュアス)は樹木に宿るニュンペーである。5)ナパイアイ(単数:ナパイアー)は山間の谷間に住むニュンペーである。6)ナーイアデス(単数:ナーイアス)は淡水の泉や河のニュンペーである。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "これらのニュンペーは陸地に住処を持つ者たちである。一方、海洋にはオーケアノスの娘たちやネーレウスの娘たちが多数おり、彼女らは美しい娘で、ときに女神に近い存在であることがある。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "海洋のニュンペーはむしろ女神に近い。1)オーケアニデス(単数:オーケアニス)は、オーケアノスがその姉妹テーテュースのあいだにもうけた娘たちで、3000人、つまり無数にいるとされる。この二柱の神からはまた、すべての河川の神が息子として生まれており、河川の神とオーケアニスたちは姉弟・兄妹の関係にあることになる。冥府の河であるステュクスや、ケイローンの母となったピリュラー、アトラース、プロメーテウス兄弟の母であるクリュメネーなどが知られる。2)ネーレーイデス(単数:ネーレーイス)は、ネーレウスとオーケアノスの娘ドーリスのあいだの娘で、50人いるとも、100人いるともされる。アンピトリーテー、テティス、ガラティア、カリュプソーなどが知られる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ニュンペーは自然界にいる女性の精霊で、なかには神々と等しい者もいた。他方、地上の世界にはニュンペーと対になっているとも言える男性の精霊が存在した。彼らはその姿が、人間とはいささか異なる場合があった。彼らは山野の精霊で、具体的には1)パーン(別名アイギパーン、「山羊の姿のパーン」の意)、2)ケンタウロス、3)シーレーノス、4)サテュロスなどが挙げられる。彼らの姿は、上半身は人間に近いが、下半身が馬や山羊であったり、額に角があったりする。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "上記の中でパーンは別格とも言え、ヘルメースとドリュオプスの娘ドリュオペーのあいだの子で、オリュンポスの神の一員でもある。ただしパーンが誰の子かということについては諸説ある。シューリンクスという笛を好み、好色でもあった。ケンタウロスは半人半馬の姿で、乱暴かつ粗野であるが、ケイローンだけは異なり、医術に長け、また不死であった。シーレーノスとサテュロスは同じ種族と考えられ、前者は馬に似て年長であり、後者は山羊に似ていた。粗野で好色で、ニュンペーたちと戯れ暴れ回ることが多々あった。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "彼らが山野の精霊であるのに対し、地上の多数の河川には、オーケアノスとテーテュースの息子である河川の精霊あるいは神がいた(『イーリアス』21章。『神統記』)。彼らは普通「河神(river-gods)」と呼ばれるので、精霊よりは格が高いと言える。3000人いるとされるオーケアニデスの兄弟に当たる。河神に対する崇拝もあり、彼らのための儀礼と社殿などもあった。スカマンドロス河神とアケローオス河神がよく知られる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "始原の神や、または神やその子孫のなかには、異形の姿を持ち、オリュンポスの神々や人間に畏怖を与えたため、「怪物」と形容される存在がいる。例えばゴルゴーン三姉妹などは、海の神ポントスの子孫で、本来は神であるが、その姿の異様さから怪物として受け取られている。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ゴルゴーン三姉妹はポルキュースとケートーの娘で、末娘のメドゥーサを除くと不死であったが、頭部の髪が蛇であった。また、その姉妹である三柱のグライアイは生まれながらに老婆の姿であったが不死であった。ハルピュイアイはタウマースの娘たちで、女の頭部に鳥の体を持っていた。ガイア(大地)が原初に生んだ息子や娘のなかにはキュクロープス(一眼巨人)や、ヘカトンケイル(百腕巨人)のような異形の者たちが混じっていた。またガイアは独力で、様々な「怪物」の父とされる、天を摩する巨大なテューポーンを生み出した。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "エキドナは、上半身が女、下半身が蛇の怪物で、ゴルゴーンたちの姉妹とされるが出生には諸説がある。このエキドナとテューポーンのあいだには多数の子供が生まれる。獅子の頭部に山羊の胴、蛇の尾を持つキマイラ、ヘーラクレースに退治されたヒュドラー(水蛇)、冥府の番犬、多頭で犬形のケルベロスなどである。またエジプト起源のスピンクスはギリシアでは女性の怪物となっているが、これもエキドナの子とされる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "それらの多くは、神、あるいは神に準ずる存在である。ポセイドーンとデーメーテールが馬の姿となって交わってもうけたのが、名馬アレイオーンである。他方、ポセイドーンはメドゥーサとのあいだに有翼の天馬ペーガソスや、クリューサーオール(「黄金の剣を持つ者」の意)をもうけた。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "セイレーンは『オデュッセイア』に登場する海の精霊・怪物であるが、人を魅惑する歌で滅びをもたらす。ムーサの娘であるともされるが、諸説あり、元々ペルセポネーに従う精霊だったとも想定される。『オデュッセアイア』に登場する怪物としては、六つの頭部を持つ女怪スキュラと渦巻きの擬人化とされるカリュブディスなどがいる。", "title": "神話3:オリュンポスの世界" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "古代ギリシア人は、神々が存在した往古より人間の祖先は存在していたとする考えを持っていたことが知られている。例えばヘーシオドスの『仕事と日々』にもそのような説明がなされている。他方、『仕事と日々』は構成的には雑多な詩作品を蒐集したという趣があり、『神統記』や『名婦列伝』が備えている整然とした、伝承の整理付けはなく、当時の庶民(とりわけ農耕民)の抱いていた世界観や人生観が印象的な喩え話のなかで語られている。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "古来、ギリシア人は「人は土より生まれた」との考えを持っていた。超越的な神が人間の族を創造したのではなく、自然発生的に人間は往古より大地に生きていたとの考えである。しかしこの事実は、人間が生まれにおいて神々に劣るという意味ではなく、オリュンポスの神々も、それ以前の支配者であったティーターンも、元々はすべて「大地(ガイア)の子」である。人間はガイアを母とする、神々の兄弟でもあるのだ。異なる点は、神々は不死にして人間に比べ卓越した力を持つということである。その意味で、神々は貴族であり、人間は庶民だと言える。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "しかしヘーシオドスは、土より生まれた人という素朴な信念とは異なる、人間と神々のあいだの関係とそれぞれの分(モイラ)の物語を語る。太古にあって人間は未開で無知で、飢えに苦しみ、寒さに悩まされていた。プロメーテウスが人間の状態を改善するために、ゼウスが与えるのを禁じた火を人間に教えた。また、この神は、ゼウスや神々に犠牲を捧げるとき、何を神々に献げるかをゼウスみずからに選択させ、その巧妙な偽装でゼウスを欺いた。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "プロメーテウスに欺されたゼウスは報復の機会を狙った。ゼウスはオリュンポスの神々と相談し、一人の美貌の女性を作り出し、様々な贈り物で女性を飾り、パンドーラー(すべての贈り物の女)と名付けたこの女を、プロメーテウスの思慮に欠けた弟、エピメーテウスに送った。ゼウスからの贈り物には注意せよとかねてから忠告されていたエピメーテウスであるが、彼はパンドーラーの美しさに兄の忠告を忘れ、妻として迎える。ここで男性の種族は土から生まれた者として往古から存在したが、女性の種族は神々、ゼウスの策略で人間を誑かし、不幸にするために創造されたとする神話が語られていることになる。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "パンドーラーは結果的にエピメーテウスに、そして人間の種族に災いを齎し不幸を招来した。ヘーシオドスは更に、金の種族、銀の種族、青銅の種族についてうたう。これらの種族は神々が創造した人間の族であった。金の種族はクロノスが王権を掌握していた時代に生まれたものである。この最初の種族は神々にも似て無上の幸福があり、平和があり、長い寿命があった。しかし銀の種族、銅の種族と次々に神々が新しい種族を造ると、先にあった者に比べ、後から造られた者はすべて劣っており、銅(青銅)の時代の人間の種族には争いが絶えず、このためゼウスはこの種族を再度滅ぼした。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "金の時代と銀の時代は、おそらく空想の産物であるが、次に訪れる青銅の時代、そしてこれに続く英雄(半神)の時代と鉄の時代は、人間の技術的な進歩の過程を跡づける分類である。これは空想ではなく、歴史的な経験知識に基づく時代画期と考えられる。第4の「英雄・半神」の時代は、ヘーシオドスが『名婦列伝(カタロゴイ)』で描き出した、神々に愛され英雄を生んだ女性たちが生きた時代と言える。英雄たちは、華々しい勲にあって生き、その死後はヘーラクレースがそうであるように神となって天上に昇ったり、楽園(エーリュシオンの野)に行き、憂いのない浄福の生活を送ったとされる(他方、オデュッセウスが冥府にあるアキレウスに逢ったとき、亡霊としてあるアキレウスは、武勲も所詮空しい、貧しく名もなくとも生きてあることが幸福だ、とも述懐している)。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "英雄の時代が去っていまや「青銅の時代」となり、人の寿命は短く、労働は厳しく、地は農夫に恵みを与えること少なく、若者は老人を敬わず、智慧を尊重しない......これが、我々がいま生きている時代・世界である、とヘーシオドスはうたう。このような人生や世界の見方は、詩人として名声を得ながらも、あくまで一介の地方の農民として暮らしを立てて行かねばならなかったヘーシオドスの人生の経験が反映しているとされる。世には、半神たる英雄を祖先に持つと称する名家があり、貴族がおり、富者がおり、世のなかには矛盾がある。しかし、神はあくまで善なる者で、人は勤勉に労働し、神々を敬い、人間に与えられた分を誠実に生きるのが最善である。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "一方で、武勲を称賛し、王侯貴族の豪勢な生活や栄誉、詩や音楽や彫刻などの芸術の高みに、恵まれた人は立ち得る。しかし庶民の生活は厳しいものであり、そこで人間としていかに生きるか、ヘーシオドスは神話に託して、人間のありようの諸相をうたっていると言える。", "title": "神話4:人間の起源" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ギリシア神話においては、ヘーシオドスが語る五つの時代の最後の時代、すなわち現在である「鉄の時代」の前に、「英雄の時代」があったとされる。英雄とは、古代ギリシア語でヘーロース(hērōs, ήρως)と呼ぶが、この言葉の原義は「守護者・防衛者」である。しかしホメーロスでは、君公、あるいは殿の意味で、支配者・貴族・主人について一般的に使用されていた。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "神話学者キャンベルは、英雄神話を神話の基幹に置いたが、彼の描く英雄とは、危険を犯して超自然的領域に分け入り勝利し、人々に恩恵を授ける力(force)を獲得した者である。古代ギリシアの英雄は、守護者の原義を持つことからも分かる通り、超自然の世界に分け入って「力」を獲得する者ではない。文献や考古学によれば、ミュケーナイ時代には存在しなかった「英雄信仰」が、ギリシアの暗黒時代を通じて、ホメーロスの頃に出現する。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ここで崇拝される英雄は「力に満ちた死者」であり、その儀礼は、親族の死者への儀礼と、神々への儀礼の中間程度に位置していた。祀られる英雄ごとで様々な解釈があったが、祭儀におけるヘーロースは、都市共同体や個人を病や危機から救済し恩恵をもたらした者として理解された。このような崇拝の対象が叙事詩に登場する英雄に比定された。時が経つにつれ、ヘーロースの範型に該当すると判断された人物、すなわち神への祭祀を創始した者や、都市の創立者などには、神託に基づいて英雄たる栄誉が授与され、彼らは「英雄」と見なされた。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ギリシアの英雄は半神とも称されるが、多くが神と人間のあいだに生まれた息子で、半分は死すべき人間、半分は不死なる神の血を引く。このような英雄は、「力ある死者」のなかでも神に近い崇拝を受けていた者たちで、ヘーラクレースの場合は、英雄の域を超えて神として崇拝された。英雄は、都市の創立者として子孫を守護し、またときに、敵対する者の子孫に末代まで続く呪いをかけた。死して勲を残す英雄は、守護と呪いの形で、その死後に強い力を発揮した者でもある。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "英雄は古代ギリシアの名家の始祖であり、祭儀や都市の創立者であり名祖であるが、その多くはゼウスの息子である。ゼウスはニュンペーや人間の娘と交わり、数多くの英雄の父となった。数々の王家が神の血を欲した。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "数々の冒険と武勇譚で知られ、数知れぬ子孫を残したとされるヘーラクレースはゼウスと人間エーレクトリュオーンの娘アルクメーネーのあいだに生まれた。ゼウスは彼女の夫アンピトリュオーンに化け、更にヘーリオスに命じて太陽を三日間昇らせず彼女と交わって英雄をもうける。また白鳥の姿になってレーダーと交わり、ヘレネー及びディオスクーロイの兄弟をもうけた。アルゴス王アクリシオスの娘ダナエーの元へは黄金の雨に変身して近寄りペルセウスをもうけた。テュロス王アゲーノールの娘エウローペーの許へは、白い牡牛となって近寄り、彼女を背に乗せるとクレータ島まで泳ぎわたった。そこで彼女と交わってミーノースやラダマンテュス等をもうける。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ゼウスはまた、アルテミスに従っていたニュンペーのカリストーに、アルテミスに化けて近寄り交わった。こうしてアルカディア王家の祖アルカスが生まれた。プレイアデスの一人エーレクトラーとの間には、トロイア王家の祖ダルダノスと、後にデーメーテール女神の恋人となったイーアシオーンをもうける。イーオーはアルゴスのヘーラーの女神官であったが、ゼウスが恋して子をもうけた。ヘーラーの怒りを恐れたゼウスはイーオーを牝牛に変えたが、ヘーラーは彼女を苦しめ、イーオーは世界中を彷徨ってエジプトの地に辿り着き、そこで人の姿に戻り、エジプト王となるエパポスを生んだ。エウローペーはイーオーの子孫に当たる。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "アトラースの娘プルートーとの間には、神々に寵愛されたが冥府で劫罰を受ける定めとなったタンタロスをもうける。またゼウスはニュンペーのアイギーナを攫った。父親であるアーソーポス河神は娘の行方を捜していたが、コリントス王シーシュポスが二人の行き先を教えた。寝所に踏み込んだ河神は雷に打たれて死に、またシーシュポスはこの故に冥府で劫罰を受けることとなった。アイギーナからはアイアコスが生まれる。同じくアーソーポス河神の娘とされる(別の説ではスパルトイの子孫)アンティオペーは、サテュロスに化けたゼウスと交わりアンピーオーンとゼートスを生んだ。アンピーオーンはテーバイ王となり、またヘルメースより竪琴を授かりその名手としても知られた。プレイアデスの一人ターユゲテーとも交わり、ラケダイモーンをもうけた。彼は、ラケダイモーン(スパルテー)の名祖となった。エウリュメドゥーサよりはミュルミドーン人の名祖であるミュルミドーンをもうけた。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "アポローンは数々の恋愛譚で知られるが、彼の子とされる英雄は、まずムーサの一柱ウーラニアーとの間にもうけた名高いオルペウスがある(別説では、ムーサ・カリオペーとオイアグロスの子)。ラピテース族の王の娘コローニスより、死者をも生き返らせた名医にして医神アスクレーピオスをもうけた。予言者テイレシアースの娘マントーからは、これも予言者モプソスをもうける。ミーノースの娘アカカリスはアポローンとヘルメース両神の恋人であったが、アポローンとの間にナクソス島の名祖ナクソス、都市の名祖ミーレートス等を生んだ。彼女はヘルメースとの間にも、クレータ島のキュドーニスの創建者キュドーンをもうけた。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "他方、ポセイドーンは、アテーナイ王アイゲウスの妃アイトラーとの間にテーセウスをもうけたとされる。またエウリュアレーとの間にはオーリーオーンを(別説では、彼はガイアの息子ともされる)、テューローとの間には双生の兄弟ネーレウスとペリアースをもうけた。エパポスの娘でニュンペーのリビュエー(リビュアー)と交わり、テュロス王アゲーノールとエジプト王ペーロスの双子をもうける。ラーリッサを通じて、ペラスゴス(ペラスゴイ人の祖とは別人)、アカイオス、プティーオスをもうけた。アカイオスはアカイア人の祖とされ、プティーオスはプティーアの名祖とされる。オルコメノスのミニュアース人の名祖とされるミニュアースもポセイドーンの子とされるが、孫との説もある。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "鍛冶の神ヘーパイストスは、アテーナイの神話的な王エリクトニオスの父とされる。彼はアテーナーに欲情し女神を追って交わらんとしたが、女神が拒絶し、彼の精液はアテーナーの脚にまかれた。女神はこれを羊毛で拭き大地に捨てたところ、そこよりエリクトニオスが生まれたとされる。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "リュカーオーンは、アルカデイア王ペラスゴスとオーケアノスの娘メリボイア、またはニュンペーのキューレーネーの子とされる。彼は多くの息子に恵まれたが、息子たちは傲慢な者が多く神罰を受けたともされる。アルカディアの多くの都市が、リュカーオーンの息子たちを、都市の名祖として求めた形跡がある。また、アプロディーテーは、トロイア王家の一員アンキーセースとのあいだにアイネイアースを生んだ。アイネイアースは後にローマの神話的祖先ともされた。アイアの金羊毛皮をめぐる冒険譚「アルゴー号の航海譚」に登場するコルキス王アイエーテースは、ヘーリオスとオーケアノスの娘ペルセーイスの子である。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "トロイア戦争の英雄であり、平穏な長寿よりも、早世であっても、戦士としての勲の栄光を選んだアキレウスは、ペーレウスと海の女神テティスのあいだの息子である。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ピエール・グリマルによれば、ヘーラクレースとその数々の武勇譚はミュケーナイ時代に原形的な起源を持つもので、考古学的にも裏付けがあり、またその活動は全ギリシア中に足跡を残しているとされる。ヘーラクレースは神と同じ扱いを受け、彼を祭祀する神殿あるいは祭礼はギリシア中に存在した。古代ギリシアの名家は、競ってその祖先をヘーラクレースに求め、彼らはみずから「ヘーラクレイダイ(ヘーラクレースの後裔)」と僭称した。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "アキレウスもまた、アガメムノーンなどと同様に、いまは忘却の彼方に沈んだその原像がミュケーナイ時代に存在したと考えられるが、彼は「神々の愛した者は若くして死ぬ」とのエピグラムの通り、神々に愛された半神として、栄誉のなか、人間としてのモイラ(定業)にあって、英雄としての生涯を終えた。彼の勲と栄光はその死後にあって光彩を放ち人の心を打つのである。", "title": "神話5:英雄の誕生" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ギリシア神話に登場する多くの人間は、ヘーシオドスがうたった第4の時代、つまり「英雄・半神」の時代に属している。それらは、すでにホメーロスが遠い昔の伝承、栄えある祖先たちの勲の物語としてうたっていたものである。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "彼らの時代がいつ頃のことなのかという根拠については、神話上での時代の相関が一つに挙げられる。他方、考古学資料によるギリシア神話の英雄譚が源流であると考えられる古代の都市遺跡や文化、戦争の痕跡などから推定される時代がある。英雄たちの時代の始まりとしては、プロメーテウスの神話の延長上にあるとも言える「大洪水」伝説を起点に取ることが一つに考えられる。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "プロメーテウスの息子デウカリオーンは、エピメーテウスとパンドーラーのあいだの娘ピュラーを妻にするが、大洪水は、このときに起こったとされる。洪水を生き延びたデウカリオーンは、多くの息子・娘の父親となる。ピュラーとのあいだに息子ヘレーンが生まれたが、彼は自分の名を取って、古代ギリシア人をヘレーン(複数形:ヘレーネス)と呼んだ。デウカリオーンの息子・孫には、ドーロス、アイオロス、アカイオス、イオーンがいたとされ、それぞれが、ドーリス人、アイオリス人、アカイア人、イオーニア人の名祖となったとされるが、これには歴史的な根拠はないと思われる。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "しかし、アイオロスの子孫には、ギリシア神話で活躍する有名な人物がいる。子孫はテッサリアで活躍し、イオールコスに王都を建造した。ハルモスの家系にはミニュアースと、その裔でありアルゴナウタイとして著名なイアーソーン、また医神として後に知られるアスクレーピオスがいる。また孫娘のテューローからは、子孫としてネーレウス(ポントスの子のネーレウス神とは別)、その子でトロイア戦争の智将として知られるピュロス王ネストールがおり、ペリアース、アドメートス、メラムプース、またアルゴス王で「テーバイ攻めの七将」の総帥であるアドラストスなどがいる。ネーレウスはピュロスの王都を建造した。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "アイオロスの娘婿アエトリオスの子孫の人物としては、月の女神セレーネーとの恋で知られるエンデュミオーン、カリュドーン王オイネウス、その子のメレアグロス、テューデウス兄弟がいる。メレアグロスはホメーロスでも言及されていたが(『イーリアス』)、猪退治の話は後世になって潤色され、「カリュドーンの猪狩り」として、女勇者アタランテーも含めて多数の英雄が参加した出来事となった。またメレアグロスの姉妹デーイアネイラの夫はヘーラクレースであり、二人のあいだに生まれたヒュロスはスパルテー(ラケダイモーン)王朝の祖である。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "タンタロスは冥府のタルタロスで永劫の罰を受けて苦しんでいるが、その家系にも有名な人物がいる。彼の息子のペロプスは富貴に驕ったタンタロスによって切り刻まれ、オリュンポスの神々への料理として差し出された。この行い故にタンタロスは劫罰を受けたともされるが、以下の別説もある。神々はペロプスを生き返らせ、その後、彼は世に稀な美少年となり、ポセイドーンが彼を愛して天界に連れて行ったともされる。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "ペロプスは神々の寵愛を受けてペロポネーソスを征服した。彼の子孫にミュケーナイ王アトレウスがあり、アガメムノーンとその弟のスパルタ王メネラーオスはアトレウスの子孫(子)に当たる(この故、ホメーロスは、「アトレイデース=アトレウスの息子」と二人を呼ぶ)。アガメムノーンはトロイア戦争のアカイア勢総帥でありクリュタイムネーストラーの夫で、メネラーオスは戦争の発端ともなった美女ヘレネーの夫である。また、アガメムノーンの息子と娘が、ギリシア悲劇で名を知られるオレステース、エーレクトラー、イーピゲネイアとなる。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ミュケーナイ王家の悲劇に密接に関連するアイギストスもペロプスの子孫で、オレステースと血が繋がっている。他方、アトレウスの兄弟とされるアルカトオスの娘ペリボイアは、アイアコスの息子であるサラミス王テラモーンの妻であり、二人のあいだの息子がアイアースである。また、テラモーンの兄弟でアイアコスのいま一人の息子がペーレウスで、「ペーレウスの息子」(ペーレイデース)が、トロイア戦争の英雄アキレウスとなる。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "リビュエーは雌牛となったイーオーの孫娘に当たる。リビュアーと海神ポセイドーンの間に生まれたのがフェニキア王アゲーノールで、テーバイ王家の祖であるカドモスと、クレータ王家の祖とも言える娘エウローペーは彼の子である。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "カドモスは竜の歯から生まれた戦士としてよく知られる。カドモスの娘にはセメレーがあり、彼女はゼウスの愛を受けてディオニューソスを生んだ。テーバイ王ペンテウスはカドモスの孫にあたり、彼はディオニューソス信仰を否定したため、狂乱する女たちに引き裂かれて死んだ。その女たちの中には、彼の母アガウエーや伯母イーノーも含まれていた。ペンテウスとディオニューソスは従兄弟同士となる。カドモスの別系統の孫にはラブダコスがあり、彼はラーイオスの父で、ラーイオスの息子がオイディプースである。オイディプースには妻イオカステーのあいだに娘アンティゴネー等四人の子供がいる。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "他方、カドモスの姉妹にエウローペーがあり、彼女はクレータ王アステリオスの妻であるが、ゼウスが彼女を愛しミーノースが生まれる。ミーノースの幾人かの息子と娘のなかで、カトレウスは娘を通じてアガメムノーンの祖父に当たり、同様に、彼はパラメーデースの祖父である。カトレウスの孫には他にイードメネウスがいる。ミーノースの娘アリアドネーは、本来人間ではなく女神とも考えられるが、ディオニューソスの妻となってオイノピオーン等の子をもうけた。クレータの迷宮へと入って行ったテーセウスは、アテーナイ王アイゲウスの息子とも、ポセイドーンの息子ともされるが、ミーノースの娘パイドラーを妻とした。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "アガメムノーンを総帥とするアカイア勢(古代ギリシア人)に侵攻され、十年の戦争の後に陥落したトロイアは、トロイア戦争の舞台として名高い。小アジア西端に位置するこの都城の支配者は、ゼウスを祖とするダルダノスの子孫である。彼はトロイア市を創建し、キュベレー崇拝をプリュギアに導いたとされる。ダルダノスの孫がトロースで、彼がトロイアの名祖である。トロースには三人の息子があり、イーロス、アッサラコス、ガニュメーデースである。ガニュメーデースは美少年中の美少年と言われ、ゼウスが彼を攫ってオリュンポスの酒盃捧持者とした。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "イーロスはラーオメドーンの父で、後の老トロイア王プリアモスの祖父である。英雄ヘクトールとパリス(アレクサンドロス)はプリアモスの息子、予言で名高いカッサンドラーは娘である。またヘクトールの妻アンドロマケーは、トロイア陥落後、アキレウスの息子ネオプトレモスの奴隷とされ、彼の子を生む。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "他方、トロースの三人の息子の最後の一人アッサラコスはアンキーセースの祖父で、アンキーセースとアプロディーテー女神のあいだに生まれたのがアイネイアースである。トロイア陥落後、彼は諸方を放浪してローマに辿り着く。ウェルギリウスは彼を主人公としてラテン語叙事詩『アエネーイス』を著した。アイネイアースの息子アスカニオス(イウールス)はローマの名家ユーリア氏族(gens Iulia)の祖とされる。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ギリシア神話には、断片的なエピソード以外に、一人の人物あるいは一つの事件が、複雑に展開し、数多くの英雄たちがその物語に関係してくる「複合物語」とも呼べる神話譚がある。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "アテーナイの王子であった「テーセウス」の生涯は、劇的な展開を見せ、クレータ島の迷宮での冒険を経た後になっても、コルキスの王女メーデイアが義母であったり、その魔術と戦うなど、ミーノース王やアリアドネーを含め、広い範囲の多数の人物と関わりを持っている。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "テーセウスの生涯以上に華麗で、夥しい人物が関係し、また様々な重要事件に参加するヘーラクレースの物語もまた英雄の結集する神話とも言える。彼に課された十二の難題の物語だけでも十分に複雑であるが、ヘーラクレースは「アルゴナウタイ」の一員でもある。更に、アポロドーロスによると、彼はゼウスの王権が確立した後に起こったとされるギガース(巨人)たちとの戦いにも参加している。また、オルペウス教の断片的な資料では、原初にクロノス Khronos(時)、別名ヘーラクレースが出現したという記述がある。これが英雄ヘーラクレースかどうか定かではないが、無関係とも言いきれない。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ギリシア中から英雄が集結して冒険に出発するという話としては、イアーソーンを船長とするコルキスの金羊毛皮をめぐる「アルゴナウタイ」の物語が挙げられ、ここではヘーラクレースやオルペウスなども参加している。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "また、アドラストスを総帥とする「テーバイ攻めの七将」の神話やその後日談でもある、七将の息子たちの活躍も、英雄たちが結集した物語である。メレアグロスの猪退治の伝承が潤色され、拡大した規模で語られるようになった「カリュドーンの猪狩り」の神話もまた、メレアグロスを中心に、カストールとポリュデウケースの兄弟、テーセウス、イアーソーン、ペーレウスとテラモーン、そしてアタランテーなども参加した英雄の結集物語である。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ギリシア神話上で、もっとも古く、もっとも重層的に伝承や神話や物語が蓄積されているのは、「トロイア戦争」をめぐる神話である。古典ギリシアの文学史にあって、紀元前9世紀ないし8世紀に、突如として完成された形で、ホメーロスの二大叙事詩、すなわち『イーリアス』と『オデュッセイア』が出現する。詳細な研究の結果、これらの物語は突如出現したのではなく、その前史ともいうべき過程が存在したことが分かっている。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "トロイア戦争をめぐっては、その前提となったパリスの審判の物語や、ギリシアとトロイアのあいだの交渉、アカイア軍の出陣、そして長期に渡る戦争の経過などが知られている。『イーリアス』は十年に及ぶ戦争のなかのある時点を切り出し、アキレウスの怒りから始まり、代理で出陣したパトロクロスの戦死、ヘクトールとの闘い、そして彼の死と、その葬送のための厳粛な静けさで物語が閉じる。他方、『オデュッセイア』では、トロイア戦争の終結後、故郷のイタケー島へ帰国しようとしたオデュッセウスが嵐に出会い、様々な苦難を経て故郷へと帰る物語が記されている。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "トロイア戦争の経過の全貌はどのようなものであったのか、トロイア陥落のための「木馬の計略」の話などは、断片的な物語としては伝わっていたが、完全な形のものは今日伝存していない。しかし、この神話あるいは歴史的な伝承が、大きな物語圏を築いていたことは今日知られている。", "title": "神話6:英雄の神話" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "神話は多くの場合、かつて生きていた宗教や信仰の内実、すなわち世界の「真実」を神聖な物語(文学的表現)または象徴の形で記録したものだと言える。このことは、現在なお信仰され続けている宗教等にも該当する。神話はまた多くの場合、儀礼と密接な関係を持つ。エリアーデは神話は世界を含む「創造を根拠付ける」ものとした。このことは人間の起源の説明が宗教的世界観の一部として大きな意味を持つことからも肯定される。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "古代ギリシア人は人間と非常に似た神々が登場するユニークな神話を持っていたが、彼らはこれらの神々を宗教的信仰・崇拝の対象として考えていたのかについては諸説ある。実際、西欧の中世・近世を通じて、人々はギリシア神話を架空の造り話か寓話の類とも見なしていた。現代においても、ポール・ヴェーヌは、「ギリシア人がその神話」を本当に信仰していたのかをめぐり疑問を提示する。彼は古代ギリシア人がソフィストたちの懐疑主義を経てもロゴスとミュートスの区別が曖昧であったことを批判する。しかしヴェーヌの結論は、古代ギリシア人はやはり彼らの神話を信じていたのだ、ということになる。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "また、古代のギリシア人自身のなかでも疑問は起こっていたのであり、紀元前6世紀の詩人哲学者クセノパネースは、ホメーロスやヘーシオドスに描かれた神々の姿について、盗みや姦通や騙し合いを行う下劣な存在ではないかと批判している。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ホメーロスやヘーシオドスは、自分たちのうたった神話が「真実」であることに確信を持っていた。この場合、何が真実で、何が偽なのかという規準が必要である。しかし彼らがうたったのは、神々や人間に関する真実であって、造話や虚構と現代人が考えるのは、真実を具象化するための「表現」であり「技法」に過ぎなかった。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "神話の重要な与件の一つとして作者の無名性が考えられていた。誰が造ったのでもなく太古の昔より存在するのが神話であった。紀元前7世紀中葉以降、叙事詩的伝統に代わって、個人の感情や思いをうたう抒情詩が誕生する。抒情詩人は超越的な神々の存在について寧ろ無関心であった。しかし、これに続いて出現したギリシア悲劇においては、ムーサ女神への祈りもなく、明らかに彼らが創作したと考えられる物語を劇場で公開するようになる。これによってギリシア神話は人間的奥行きを持ち深化したが、彼らは神話を信じていたのだろうか。悲劇詩人たちはニーチェが洞察したように、コロスの導入によって、そして今一つに「英雄」の概念の変遷により、共同体の真実をその創作に具現していた。彼らはなお神を信仰していたのであるが、神話についてはそうでもなかった。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "しかし三大悲劇詩人の活動の背後で、奴隷制を基礎に置くギリシアの諸ポリスは、アテーナイを代表として困難に直面することにもなる。ペルシア戦争での奇蹟的な勝利の後、アテーナイの覇権と帝国主義が勃興するが、ポリスは覇権をめぐって相互に争うようになる。ペロポネソス戦争で敗北したアテーナイにあって独自な思想を語ったソークラテースはなお敬神の謎めいた人物であったが、彼に先駆するソピステースたちは、神々もまた修辞や議論の為の道具と見なし、プロータゴラースは「神々が存在するのかしないのか、我々には知りようもない」と明言した。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "ソークラテースの弟子であり偉大なソピステースたちの論法を知悉していた紀元前4世紀のプラトーンは、古代ギリシアの民主主義の破綻と欠陥を認めず、彼が理想とする国家についての構想を語る。プラトーン以前には、ホメーロスの叙事詩が青少年の教科書でもあり、戦士としての心構え、共同体の一員たる倫理などは彼の二大作品を通じて学ばれていた。しかし、プラトーンは『国家』において、異様な「理想社会」のモデルを提唱した。プラトーンはまずホメーロスと英雄叙事詩を批判し、これをポリスより追放すべきものとした。また、彼の理想の国家にあっては、「悲劇」は有害であるとしてこれも否定した。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "しかし、このような特異な思想を語ったプラトーンはまた、時期によっては、神話(ミュートス)を青少年の教育に不適切であるとする一方で、自分の著作に、ふんだんに寓意を用い、真実を語るために「神話」を援用した。ポリスの知識人階級のあいだでは、古来のギリシア神話の神々や英雄は、崇拝の対象ではなく、修辞的な装飾とも化した。こうしてアレクサンドロスがアケメネス朝を滅ぼし、みずからが神であると宣言したとき、「神々への信仰」はポリス共同体から消え去った、あるいはもはやポリスはこのような宗教的情熱を支えるにはあまりにも変質してしまったのだと言える。神話(ミュートス)が備えていたリアリティは消失し、神話と現実の分離が起こった。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "人々の敬神の伝統はそれでもパウサーニアースが紀元後になって証言しているようにアテーナイにおいても、またギリシアの地方や田舎にあってなお続いた。一方で、アリストテレースは「歌うたいが法螺をふいている」と著作のなかで断言した。", "title": "宗教との関係" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "古典学者ピエール・グリマルはその小著『ギリシア神話』の冒頭で、「ギリシア神話」とは何を指す言葉かを説明している。グリマルは、紀元前9-8世紀より紀元後3-4世紀にあって、ギリシア語話圏で行われていた各種の不思議な物語、伝説等を総称して「ギリシア神話」とする。この広範な神話圏は、紀元前4世紀末または前3世紀初にあって内容的・形式的に大きな変容を経過する。一つのは文献学の発達と、書物の要約作成によってであり、いま一つは、生きた神々への敬神の表現でもあった詩作品などに代わる、娯楽を目的とした作品の登場によってである。", "title": "展開と変容" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "ギリシアの諸ポリスは、アレクサンドロスの統一とオリエント征服によって事実上消滅した。アレクサンドロスはエジプトに自己の名を付けた新都を建設した。エジプトを継承したディアドコイの一人プトレマイオスはそこに世界最大と称されたアレクサンドレイア図書館を建造し、夥しい蔵書の収集に着手すると共に、ヘレニズムの世界に優秀な学者を求めた。今日伝存する多くの古代の文献・文書はこの時代に編纂され、あるいは筆写され写本として残ったものである。", "title": "展開と変容" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "図書館はアレクサンドレイア以外にもペルガモンなどが著名であった。図書館は鎖されていたとはいえ、高い評価を受けた作品は、筆写されて、教養人・貴族などに広がっていった。図書館は大量の書物について、その内容要約書をまた編集していた。長い原著を読むよりも、学者が整理した原著の要約を読むことで、無教養な俄成金などは自己の見せかけの知識を喧伝できた。あるいは諸種の伝説について、主題ごとの見取り図を与えるために書籍が編纂された。このような「集成」本のなかでも、もっとも野心的であったのが、紀元前2世紀のアテーナイの文献学者アポロドーロスのものと長く考えられていた、アポロドーロスの『ビブリオテーケー』(ギリシア神話文庫)である。", "title": "展開と変容" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "一方、帝政ローマ期の貴族や富裕な階層の人々は、古代ギリシアの神々への崇拝や敬神の念とは関係なく、純粋に面白く色恋の刺激となる物語を好んだ。これらの嗜好の需要に合わせ、オウィディウスなどは、神々への敬神などとは無縁な、娯楽目的の『変身物語』を著し、また同じような意味でアプレイウスは『黄金の驢馬』を著した。オウィディウスの書籍はギリシア神話全体を扱うもので、体系的な著作とも言えるが、しかし気楽に読むことのできる短いエピソードの集成でもあった。", "title": "展開と変容" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "ギリシア神話の宗教としての「真実」の開示の機能は、このようにしてヘレニズムの時代にその終焉を迎えたと言える。新しく勃興したキリスト教は、まさに神話を否定したプラトーンの思想の延長上にあるとも言えたが、この後、千年以上にわたって続く西欧の精神の歴史のなかで、ギリシア神話はもはや宗教ではなく、この神話に登場する逸話や神々を、自然現象の寓意とも、娯楽のための造話とも見なしていた。", "title": "現代の神話研究と神話学" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "19世紀アメリカの文学者であるトマス・ブルフィンチはギリシア・ローマ神話に関する一般向けの概説書を著したが(Bulfinch's Mythology, 『ギリシア神話と英雄伝説』)、「神話の起源」について次のような四つの説をまとめ紹介している。1)神話は『聖書』の物語の変形である。2)神話はすべて歴史的事実の反映であり、後世の加筆や粉飾で元の姿が不明となったものである。3)神話は道徳・哲学・宗教・歴史の真理などを寓意的に表現したものである。4)神話は多様な自然現象の擬人化である。この最後の解釈は、19世紀初頭のワーズワースの詩作品に極めて明瞭に表出されているとする。", "title": "現代の神話研究と神話学" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "神話の解釈や研究において大きな刺激となったのは、19世紀にあっては、印欧語の比較研究より生まれた比較言語学である。ドイツ生まれで、後半生をイギリスに生き研究を行ったマックス・ミューラーは比較神話学という形の神話解釈理論を提唱した。比較言語学の背景にある思想は当時西欧を席巻していた進化論と進歩主義的歴史観である。ミューラーは、ギリシア神話をインド神話などと比較した上で、これらの神話の意味は、最終的には太陽をめぐる自然現象の擬人化であるとする神話論を主張した。", "title": "現代の神話研究と神話学" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "ジェームズ・フレイザーはミューラーと同じく自然神話学を唱えたが、彼は浩瀚な『金枝篇』において王の死と再生の神話を研究し、神話は天上の自然現象の解釈ではなく、地上の現象と社会制度のありようの反映であるとした。また神話は呪術的儀礼を説明するために生み出されたとも主張した。ミューラーの解釈では、ゼウスは太陽の象徴で神々の物語も、太陽を中心とする自然現象の擬人的解釈であるということになる。他方、フレイザーでは、「死して蘇る神」の意味解明が中心主題となる。エレウシースの秘儀がこのような神話であり、ディオニューソスもまた死して後、ザグレウスとして復活する。", "title": "現代の神話研究と神話学" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "ソシュールの構造の概念を継承して神話研究に適用したのは人類学者のクロード・レヴィ=ストロースであり、彼は『構造神話学』において、オイディプースの悲劇を、神話素(英語版)のあいだの差異の構造と矛盾の体系として分析し、「神話的思考」の存在を提唱した。オイディプース神話の目的の一つは、現実の矛盾を説明し解明するための構造的な論理モデルの提供にあるとした。この神話の背後には様々な矛盾対立項があり、例えば、人は男女の結婚によって生じるという認識の一方で、人は土から生まれたという古代ギリシアの伝承の真理について、この矛盾を解決するための構造把握がオイディプース神話であるとした。", "title": "現代の神話研究と神話学" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "フロイトの無意識の発見から淵源したとも言える深層心理学の理論は、歴史的に現れる現象とは別に、時間を超えて普遍的に存在する構造の存在を教える。ユングは、このような普遍的・無時間的な構造の作用として元型の概念を提唱した。ケレーニイとの共著『神話学入門』においては、童子神の深層心理学的な分析が行われるが、コレーや永遠の少年としてのエロースは太母(地母神)としてのデーメーテールなどとの関係で出現する元型であり、「再生の神話」と呼ばれるものが、無意識の構造より起源する自我の成立基盤であり、自我の完全性への志向を補完する普遍的な動的機構であるとした。", "title": "現代の神話研究と神話学" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "紀元3世紀ないし4世紀には未だ、ヘレニズム時代とローマ帝政期に造られ、伝存していた莫大な量の書籍があったとされる。例えば、古典三大悲劇詩人の作品は、現在伝存しているものは、名が伝わっているもののなかの十分の一しかないが、この当時には未だほぼ全巻が揃っていたと考えられる。これらの莫大な書籍・写本は、ヘレニズム時代が過ぎ去り、帝政ローマが終焉を迎えた後では、激減してほとんどの書籍が散逸したとされる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "それは東西に分裂したローマ帝国の西の帝国の領域で著しかった。西ローマは間もなく滅亡し、ゲルマンの国であるフランク王国が成立するが、一旦失われた書籍は再び回復しなかった。他方、東の帝国すなわちビザンティン帝国の領域では、多数の書籍とその写本がなお豊富に残っており、これを利用して、12世紀のヨハンネス・ツェツェースなどの文献学者は、なおギリシア神話に関する膨大な注釈本などを記していた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "西欧においては、すべての写本、古代の遺産が失われたわけではなく、14世紀から15世紀にかけてのルネッサンスにおいて、丹念に修道院の文書庫などを調べることで、ギリシア語原典の写本などがなお発見されつづけた。他方、西欧で失われた多くの書籍は、8世紀におけるイスラーム帝国の勃興と共に、ビザンティン帝国を介してイスラームに渡った。しかしアラトスなど極一部の例外を除き、神話についての書籍は伝承されなかった。 中世からルネサンスにかけては、マクロビウス、フルゲンティウス(英語版)、マルティアヌス・カペッラ、セルウィウスらのラテン語著作が古代神話の出典として参照された。さらに盛期には『バチカン・ミトグラフス』など中世独自の古代神話集成も著された。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "西欧では、古代ギリシア語による文芸はほとんど忘れられていたが、14世紀初頭の代表的な中世詩人であるダンテ・アリギエリは、『神曲』地獄篇のなかでリンボーという領域を造り、そこに古代の詩人を配置した。5人の詩人中4人はラテン語詩人で、残りの一人がホメーロスであった。しかし、ダンテはホメーロスの作品を知らなかったし、西欧にこの大詩人が知られるのは、やや後になってからであった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "しかし西欧では、古代のローマ詩人オウィディウスの名とその作品はよく知られていた。イタリア・ルネサンスの絵画でギリシア神話の主題を明確に表現しているものとして、サンドロ・ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』と『春』が存在する。両絵画共に制作年は明確ではないが、1482年頃であろうと想定されている。高階秀爾はこの二つの絵画を解釈して、『春』はオウィディウスの『祭暦』の描写に合致する一方、『ヴィーナスの誕生』と『春』が対を成す作品ならば、これは「天のアプロディーテー」と「大衆のアプロディーテー」の描き分けの可能性があると指摘している。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』は、イタリア・ルネサンスにおけるギリシア神話の具象的表現の代表的な作品とも言える。この絵の背後にあると想定されるマルシリオ・フィチーノなど(プラトン・アカデミー)のネオプラトニズムの哲学や、魔術的ルネサンスの思想は、秘教的なギリシア文化と西欧文化のあいだで通底する美的神話的原理であるとも言える。次に、西欧世界において、ルネサンス期以前のギリシアのイメージはどのようなものだったのかを記す。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "西欧における古代ギリシア、わけてもホメーロスの像は、いわゆる「トロイアの物語」のイメージで捉えられていた。これは紀元4世紀ないし5世紀のラテン語の詩『トロイア戦争日誌』と『トロイア滅亡の歴史物語』を素材として、12世紀にブノワ・ド・サント=モールがフランス語で書いたロマンス風の『トロイア物語』から広がって行ったものである。この作品は更にラテン語で翻案され、全ヨーロッパ中に広まったとされる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "叙事詩人ホメーロスが意図した古代ギリシアと、西欧中世にあって「トロイア物語」を通じて流布したギリシアの像では、どのような違いがあったのか。ここで言えるのは、両者が共に「歴史性」を負っていること、しかし前者は「詩的」であろうとする世界であり、後者はあくまで「史的」であろうとする世界である。ホメーロス時代のギリシアの世界には「神々の顕現」が含まれていたが、古代末期から近世にかけての西欧において思い描かれていた「ギリシア世界」では、「神々の不在」が顕著であり、脱神話化が行われている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "だがイタリアの人文主義者たちは、ホメーロス『イーリアス』原典を、15世紀半ばにラテン語訳した。この翻訳を通じ、汎西欧的にホメーロス及び古代ギリシアの把握像に変化が生じてきた。17世紀には、ジョージ・チャップマンが『イーリアス』(1611年)と『オデュッセイア』(1614年)を英訳し、マダム・ダシエ(1654-1720)が『イーリアス』と『オデュッセイア』を、フランス語訳した。このように進展した事で、古典ギリシアの再発見とも呼べる事態が到来した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "ギリシア神話の影響を現在も強く受けている学問の一つが天文学である。現在、恒星を結んで作る星座は88を数えるが、そのうちトレミーの48星座などは、ギリシア神話と結び付けられている。またローマ神話は太陽はアポローン、月はアルテミスに擬えたほかローマ神話を経由して惑星の名称も水星はヘルメース(ローマ神話のメルクリウス)、金星はアプロディーテー(同ヴィーナス)、火星はアレース(同マールス)、木星はゼウス(同ユーピテル)、土星はクロノス(同サートゥルヌス)に擬えられている。近代になってガリレオ・ガリレイ木星の4つの衛星を発見したときもガニメデ、エウロペ、カリスト、イオとゼウスにゆかりのある物が命名されている。近代以降発見された天体も天王星(ウーラヌス)、海王星(ポセイドーン(ローマ神話のネプチューン))、冥王星(ハーデース(ローマ神話のプルートー))とギリシア神話にゆかりのある名がつけられる慣行が残っている。20世紀から21世紀においても冥王星に衛星が発見されるとカロン、ニュクス、ヒュドラ、ケルベロスとハーデースにゆかりのある事物に因んで命名されている。天体の新発見が相次ぎ命名に使用するギリシア神話の事物が枯渇し始めると「神話の神々の名を使用する」という慣行による命名が行われており、21世紀になってもなお天文学においてギリシア神話の影響は強い。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "医学においても医療の象徴にアスクレーピオスの蛇の杖が使用されるなど、ギリシア神話にゆかりのある物が多数ある。アキレス腱、エディプスコンプレックスなどはギリシア神話由来である。また心理学を意味するサイコロジーの「サイコ」も心の女神プシューケーに由来するほか、性愛を意味する「エロス」は愛の神エロースに由来し、「恐怖」「嫌悪」を意味する「フォビア」は「フォボス」に由来する。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ギリシア神話はイタリア人文主義の絵画の主題だけではなく、様々な絵画・視覚的芸術の主題ともなる。ボッティチェリが更に多くの絵画を描き、ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロをはじめ、コレッジョ、ティツィアーノ、カラヴァッジョ、ルーベンス、ニコラ・プッサン、ドラクロア、コロー、ドミニク・アングル、ギュスターヴ・モロー、グスタフ・クリムトなどもギリシア神話に題材を取った絵を描いている。美術館、博物館を意味する「ミュージアム」はムーサに由来する。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "また、数多くの文学者や詩人が、作品の題材や形容・修飾にギリシア神話の逸話や場面を利用することで、作品に重層性を与えている。ジョン・ミルトンは『失楽園』、『コウマス』において修飾引用を行っている。スペンサーは『妖精女王』でギリシア神話に言及する。ロマン派の詩人たちは、しばしばギリシア神話からインスピレーションを得ている。『チャイルド・ハロルド』におけるロード・バイロン、『エンデュミオーン』、『プシューケーに寄せるオード』におけるジョン・キーツなどである。ヘルダリーンは『ヒュペーリオン』、『エンペドクレス』を書き、ライナー・マリア・リルケは『オルフォイスに献げるゾネット』連作を造った。オルペウスもまた詩人に霊感を与え、ジャン・コクトーは映画を制作している。ジェイムズ・ジョイスの作品、特に『ユリシーズ』もまたギリシア神話の影響を受けている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "音楽を意味するミュージックはギリシア神話のムーサに由来する。18世紀以降、音楽の分野でも、ギリシア神話を題材やモチーフとしたものが多数制作された。グルックには、『パリーデとエレーナ(英語版)』、『オーリードのイフィジェニー』、『トーリードのイフィジェニー』があり、ベルリオーズは『トロイアの人々』を作曲している。モーツァルトには、アイネイアースの子を主題とした 『アルバのアスカーニオ』があり、また『イドメネオ』がある。オペラ作品として、グルックには、オウィディウスの作品を原作とした『エコーとナルシス(英語版)』があり、リヒャルト・シュトラウスには、『エレクトラ』、エウリーピデースの悲劇を元にした『エジプトのヘレナ』、『ナクソス島のアリアドネ』、『ダフネ』がある。カール・オルフは『アンティゴネー』を作曲している。オッフェンバックは神話パロディの喜歌劇を得意とし、『地獄のオルフェ(天国と地獄)』には、倦怠期のオルフェオ夫婦、神々の労組に手を焼くユピテールなど皮肉たっぷりのキャラクターが登場する。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "ギリシア神話の英雄あるいは出来事を映画化した作品は欧米において非常に多数に昇る。トロイア戦争を主題にした映画作品は数多く制作されており、ヘーラクレースを主人公とする作品もまた多くある。アルゴナウタイ、テーセウス(主にクレータの迷宮を舞台として)の物語、テーバイ攻めの七将などの話が映画化されている。ギリシア悲劇も映画となっているものが多い。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "近年では、ビデオゲームの題材としてギリシア神話が選ばれる事がある。『ヘラクレスの栄光』はヘーラクレースを主人公とし、神話の世界を旅するロールプレイングゲームである(作品によってはヘーラクレースが主人公でないものもある)。リアルタイムストラテジーである『エイジ オブ ミソロジー』においてはオリュンポス十二神もしくはティーターンの力を借りつつギリシア文明やアトランティス文明を発展させ、他の文明を打ち倒す。『ゴッド・オブ・ウォー』においてはギリシア神話の(特に)英雄譚における荒々しさや残酷さを前面に押し出した物語が展開される。これは本作が格闘戦を主軸とした激しいアクションゲームであるため、ゲームデザイン(遊具としての設計)の観点からも暴力的な物語である必要性があったからである。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "アポロドーロス『ギリシア神話』の訳者まえがきで高津春繁は、日本においてギリシア神話は、オウィディウス『変身物語』から取られた話を軸に紹介されて来たと述べている。 欧米でも日本でも、子供向け、あるいは若い人向けにギリシア神話物語の書き下し出版が多いが、それらはオウィディウスの本のように、ヘレニズム的な甘美さと優しさに重点を置いた物語が大半である。異なるのは、成人向けのギリシア神話であっても、さほど重要でもない「変身」物語や恋愛譚が多く取り上げた所である。", "title": "影響" } ]
ギリシア神話は、古代ギリシアより語り伝えられる伝承文化で、多くの神々が登場し、人間のように愛憎劇を繰り広げる物語である。ギリシャ神話とも言う。 古代ギリシア市民の教養であり、さらに古代地中海世界の共通知識でもあったが、現代では、世界的に広く知られており、ギリシャの小学校では、ギリシャ人にとって欠かせない教養として、歴史教科の1つになっている。 ギリシア神話は、ローマ神話の体系化と発展を促進した。プラトーン、古代ギリシアの哲学や思想、ヘレニズム時代の宗教や世界観、キリスト教神学の成立など、多方面に影響を与え、西欧の精神的な脊柱の一つとなった。中世においても神話は伝承され続け、その後のルネサンス期、近世、近代の思想や芸術にとって、ギリシア神話は霊感の源泉であった。
{{Otheruses}} {{Greek mythology}} {{ウィキプロジェクトリンク|ギリシア神話}} '''ギリシア神話'''(ギリシアしんわ、{{lang-el|ελληνική μυθολογία}})は、[[古代ギリシア]]より語り伝えられる[[伝承]][[文化_(代表的なトピック)|文化]]で、多くの神々が登場し、人間のように愛憎劇を繰り広げる物語である。'''ギリシャ神話'''とも言う。 古代ギリシア市民の教養であり、さらに古代[[地中海世界]]の共通知識でもあったが、現代では、世界的に広く知られており、[[ギリシャ]]の小学校では、[[ギリシャ人]]にとって欠かせない教養として、歴史教科の1つになっている。 ギリシア神話は、[[ローマ神話]]の体系化と発展を促進した。[[プラトン|プラトーン]]、古代ギリシアの[[哲学]]や[[思想]]、[[ヘレニズム]]時代の[[宗教]]や[[世界観]]、[[キリスト教]][[神学]]の成立など、多方面に影響を与え、西欧の精神的な脊柱の一つとなった。[[中世]]においても神話は伝承され続け、その後の[[ルネサンス]]期、[[近世]]、[[近代]]の思想や[[芸術]]にとって、ギリシア神話は霊感の源泉であった<ref>"Introduction, Greek Mythology" ''Encyclopaedia Britanica'' CD version, 2005。</ref>{{sfn|グリマル|1992|p=5}}。 == 概説 == === 口承 === [[Image:Attica 06-13 Athens 50 View from Philopappos - Acropolis Hill.jpg|thumb|250px|[[アテーナイ]]・[[アテナイのアクロポリス|アクロポリスの丘]]と[[パルテノン神殿]]]] 今日ギリシャ神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ[[紀元前15世紀]]頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。[[紀元前9世紀]]または8世紀頃に属すると考えられる[[ホメーロス]]の二大[[叙事詩]]『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』は、この[[口承]]形式の[[神話]]の頂点に位置する傑作とされる。当時のヘレーネス(古代ギリシア人による彼ら自身の呼称)の世界には、神話としての基本的骨格を備えた物語の原型が存在していた{{sfn|高津|1952|pp=5-7}}{{efn|古代ギリシア人は、ギリシア本土に紀元前二千年紀に南下して後、ミュケーナイを中心に紀元前16世紀頃より[[ミケーネ文明|ミュケーナイ文化]]を築き始め、紀元前13世紀にはこの文化は東地中海を席巻した。しかし紀元前12世紀に、ドーリス人を代表とする別系統のギリシア人が南下を始め、アテーナイとアルカディアを残す領域を征服した。先住のギリシア人は小アジアに逃れ、そこにアイオリスと[[ギリシア語イオニア方言|イオーニア方言]]の領域を造った。ドーリス人を代表とする西ギリシア民族のこの進出によりミュケーナイ文化は凋落し、ギリシアの「暗黒」時代が訪れる{{sfn|高津|1952|pp=5-7}}。}}{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|p=28}}{{efn|他方、考古学的発掘では、トロイア遺跡丘第七a層の都市が紀元前13世紀半ばに火災で壊滅したことが確認されている。この年代は文献学の立場からの[[トロイア戦争]]の時期と一致する。『イーリアス』と『オデュッセイア』以外にも古く[[叙事詩]]が存在したことが知られており、[[ミケーネ文明|ミュケーナイ時代]]の出来事の遠い反響とも言える。英雄叙事詩は暗黒時代を通じて口承で伝えられ洗練され、紀元前9世紀または8世紀の[[ホメロス|ホメーロス]]の二大作品として世に知られることになる。}}{{efn|とはいえ、ミューケナイ王朝はワカナと呼ばれる帝王を頂点として、オリエント風の官僚組織を備えた一種の専制国家であったことが線文字Bの解読を通じて知られている。遠いミュケーナイ時代の事件は伝わったが、物語の枠組みとしては、暗黒時代を通じて育成されて来た新しいポリス的国家の自由に充ちた気風がホメーロスの叙事詩では表現されている。帝王[[アガメムノーン]]に反抗する若き戦士[[アキレウス]]の人間像は、ミュケーナイ時代のものではありえないと考えられている{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|pp=27-29}}。}}。 しかし当時の人々のなかで、特に、どのような神が天に、そして大地や森に存在するかを語り広めたのは[[吟遊詩人]]たちであり、詩人は姿の見えない神々に関する真実の知識を人間に解き明かす存在であった。神の霊が詩人の心に宿り、不死なる神々の世界の真実を伝えてくれるのであった{{sfn|ヘーシオドス|廣川洋一 訳|1984|pp=127-128 (訳注26)、pp.157-160 (解説) }}。そのため、ホメーロス等の作品においては、[[ムーサ]]女神への祈りの言葉が、朗誦の最初に置かれた{{sfn|藤縄|1971|pp=19-20}}。 === 口承から文字記録へ === [[Image:Olympians.jpg|thumb|left|160px|[[オリュンポス十二神]]]] 口承でのみ伝わっていた神話を、[[文字]]の形で記録に留め、神々や英雄たちの関係や秩序を、体系的にまとめたのは、ホメーロスより少し時代をくだる[[紀元前8世紀]]の詩人[[ヘーシオドス]]である{{efn|ヘーシオドスは文字を知っており、彼の作品は朗唱されただけではなく文字記録の形を最初から持っていたとする説がある{{sfn|ヘーシオドス|松平千秋 訳|1984|pp=188-189|loc=松平千秋による解説}}。ただしこの説の真偽は不確かである。しかし、彼の作品はホメーロスの叙事詩とは異なり吟唱詩人が詠い伝えたものではない。そのような記録が残っていない。ヘシーオドス自身が文字化したのではなくとも、彼の詩は早期に文字化されていたと考えられる。}}。彼が歌った『[[神統記]]』においても、その冒頭には、[[ヘリコン山|ヘリコーン山]]に宮敷き居ます詩神(ムーサ)への祈りが入っており、ヘーシオドスは現存する文献のなかでは初めて系統的に神々の系譜と、[[英雄]]たちの物語を伝えた。このようにして、彼らの時代、すなわち紀元前9世紀から8世紀頃に、「体系的なギリシア神話」がギリシア世界において成立したと考えられる{{sfn|藤縄|1971|pp=22-23}}。 それらの神話体系は地域ごとに食い違いや差異があり、伝承の系譜ごとに様々なものが未だ渾然として混ざり合っていた状態であるが、オリュンポスを支配する神々が誰であるのか、代表的な神々の相互関係はどのようなものであるのか、また世界や人間の始源に関し、どのような物語が語られていたのか、などといったことは、ギリシア世界においてほぼ共通した了解のある、ひとつのシステムとなって確立したのである。 しかし、個々の神や英雄が具体的にどのようなことを為し、古代ギリシアの国々にどのような事件が起こり、それはどういう神々や人々・英雄と関連して、どのように展開し、どのような結果となったのか。これらの詳細や細部の説明・描写などは、後世の詩人や物語作者などの想像力が、ギリシア神話の壮麗な物語の殿堂を飾ると共に、複雑で精妙な形姿を構成したのだと言える{{sfn|藤縄|1971|p=23}}。 次いで、[[ギリシア悲劇]]の詩人たちが、ギリシア神話に奥行きを与えると共に、人間的な深みをもたらし、神話をより体系的に、かつ強固な輪郭を持つ世界として築き上げて行った。[[ヘレニズム]]期においては、[[アレクサンドレイア図書館|アレクサンドリア図書館]]の司書で詩人でもあった[[カルリマコス]]{{sfn|高津|1952|pp=222-223}}{{efn|カリマコス、カッリマコスとも書く。彼は貧しく生まれたが苦学し、プトレマイオス2世に認められ、アレクサンドレイア図書館の司書となった。「司書」というのがどのような役割か判然としないが、公職かそれに準じるものと考えられる。}}が膨大な記録を編集して神話を肉付けし、また同じく同図書館の司書であった[[ロドスのアポローニオス]]などが新しい構想で神話物語を描いた。ローマ帝政期に入ってからも、ギリシア神話に対する創造的創作は継続していき、紀元後1世紀の詩人[[オウィディウス|オウィディウス・ナーソ]]の『[[変身物語]]』が新しい物語を生み出し、あるいは再構成し、[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアース]]の歴史的地理的記録や[[アプレイウス]]の作品などがギリシア神話に更に詳細を加えていった。 === 体系的記述 === 紀元前8世紀のヘーシオドスの『神統記』は、ギリシア神話を体系的に記述する試みのさきがけである。ホメーロスの叙事詩などにおいて、聴衆にとっては既知のものとして、詳細が説明されることなく言及されていた神々や、古代の逸話などを、ヘーシオドスは系統的に記述した。『神統記』において神々の系譜を述べ、『[[仕事と日々]]』において人間の起源を記し、そして現在は断片でしか残っていない『名婦列伝』において英雄たちの誕生を語った。 このような試みは、[[紀元前6世紀]]から[[紀元前5世紀|5世紀]]頃の[[アルゴスのアクーシラーオス]]や[[レーロスのペレキューデース]]などの記述にも存在し、現在は僅かな断片しか残っていない彼らの「系統誌」は、古代ギリシアの詩人や劇作家、あるいはローマ時代の物語作家などに大きな影響を与えた<ref name="go-p6">{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=版年によりページ数が異なるので参照不能。|呉茂一『ギリシア神話』p.6。}}</ref>。 古代におけるもっとも体系的なギリシア神話の記述は、紀元後[[1世紀]]頃と考えられる[[アポロドーロス]]の『[[ビブリオテーケー|ギリシャ神話]]』(3巻16章+摘要7章)である。この体系的系統本は、紀元前5世紀以前の古典ギリシアの筆者の文献等を元にギリシア神話が纏められており、オウィディウスなどに見られる、ヘレニズム化した甘美な趣もある神話とはまったく異質で、荒々しく古雅な神話系譜を記述していることが特徴である{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=まえがき, pp.5-6}}。 == 資料 == === 文献資料と著者 === ホメーロス以前の古代ギリシアには文字がなかった訳ではなく、[[ミケーネ文明|ミュケーナイ時代]]にすでに[[線文字B]]が存在していたが、[[暗黒時代 (古代ギリシア)|暗黒時代]]においてこの文字の記憶は失われた。しかし[[紀元前8世紀]]頃より、[[フェニキア文字]]を元に古代ギリシア文字が生まれる{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|p=13|loc=訳注10}}{{sfn|桜井・本村|1997|pp=65-69}}。ギリシア神話は基本的にはこの文字で記録された。また後にはローマの詩人・文学者が[[ラテン語]]によってギリシア神話を記述した。 [[Image:Homer Musei Capitolini MC559.jpg|thumb|right|115px|[[ホメロス|ホメーロス]]]] * 古代ギリシア詩 ** [[ホメーロス]](紀元前9世紀頃) - 英雄叙事詩 『[[イーリアス]]』『[[オデュッセイア]]』 ** 作者不詳(紀元前8世紀 - 紀元前5世紀頃) - 『[[ホメーロス風讃歌]]』群(33篇) ** [[ヘーシオドス]](紀元前8世紀) - 『[[テオゴニア]](神統記)』『[[仕事と日|仕事と日々]]』 『名婦列伝(カタロゴイ)』 * 系譜学者たち(紀元前6世紀 - 紀元前5世紀頃) ** [[アルゴスのアクーシラーオス]] [著作は散逸] ** [[レーロスのペレキューデース]]{{Sfn|Hornblower & Spawforth|2003|p=1157}}{{efn|ペレキューデースの名を持つ神々の系譜記録者は二人いた。紀元前7世紀-6世紀の哲学者シューロスのペレキューデースと紀元前5世紀のアテーナイのペレキューデースである。呉茂一はレーロスのペレキューデースの名をあげている<ref name="go-p6"/>。高津春繁はシューロスの哲学者を挙げている(『ギリシア文学史』p.92)。系譜学者は「レーロスとアテーナイのペレキューデース」という記述もあり、シューロスの哲学者としばしば混同されるともされる(''Companion to Classical Literature'' p.430)。}}[著作は散逸] * 古典劇作家詩人 ** [[ピンダロス]](紀元前522年頃 - 紀元前443年) - 『オリュンピア祝勝歌』他多数、[[祝勝歌]]、合唱詩([[コロス]]) ** [[バッキュリデース]](紀元前520年頃 - 450年) - 「[[ディテュランボス]]」(3編が伝存)、祝勝歌、[[ピーアン|パイアン]]他 * 古典悲劇詩人 ** [[アイスキュロス]](紀元前525年頃 - 紀元前456年) *: 『[[ペルシア人 (アイスキュロス)|ペルシア人]]』『[[縛られたプロメーテウス]]』『[[テーバイ攻めの七将]]』「[[オレステイアー三部作]]」 ** [[ソポクレス|ソポクレース]](紀元前496年頃 - 紀元前406年) *: 『[[アイアース (ソポクレス)|アイアース]]』『[[アンティゴネ (ソポクレス)|アンティゴネー]]』『[[オイディプース王]]』『[[エレクトラ (ソポクレス)|エーレクトラー]]』『[[コローノスのオイディプース]]』 ** [[エウリピデス|エウリーピデース]](紀元前480年頃 - 紀元前406年) *: 『[[メディア (ギリシア悲劇)|メーデイア]]』『[[ヒッポリュトス (エウリピデス)|ヒッポリュトス]]』『[[アンドロマケ (エウリピデス)|アンドロマケー]]』『[[トロイアの女|トロイエの女]]』『[[ヘカベ (エウリピデス)|ヘカベー]]』『[[バッコスの信女]]』『[[イオン (エウリピデス)|イオーン]]』『[[オレステス (エウリピデス)|オレステース]]』 * 古典喜劇詩人 ** [[アリストパネス|アリストパネース]](紀元前448年頃 - 紀元前380年) *: 『[[アカルナイの人々]]』『[[騎士 (アリストパネス)|騎士]]』『[[蜂 (アリストパネス)|蜂]]』『[[鳥 (アリストパネス)|鳥]]』『[[女の平和]]』『[[蛙 (喜劇)|蛙]]』『ウンモフ』 *歴史学者 ** [[ヘロドトス|ヘーロドトス]](紀元前485年頃 - 紀元前420年頃) 『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』(全9巻) * ヘレニズム期 ** [[カリマコス|カッリマコス]](紀元前310年頃 - 紀元前240年頃) - 詩人、[[アレクサンドリア図書館|アレクサンドレイア図書館]]司書、文献学者 ** [[ロドスのアポローニオス]](紀元前295年?/270年頃 - 紀元前215年) *: 詩人、アレクサンドレイア図書館司書、『[[アルゴナウティカ]]』(全4巻) ** [[シケリアのディオドロス]](紀元前1世紀頃) - 『歴史叢書』(全40巻、うち15巻が伝存) * ローマ帝政期 ** [[アポロドーロス]](紀元1世紀頃) - 『[[ビブリオテーケー]](ギリシア神話)』 ** [[オウィディウス]](紀元前43年 - 紀元17年)『[[変身物語]]』『祭暦』 ** [[アプレイウス]] (紀元124年頃 - 180年頃) - 『黄金の驢馬』『愛と心の物語』 ** [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアース]] (紀元2世紀) - 『ギリシア案内記』 ** [[アントーニーヌス・リーベラーリス]] (紀元2世紀/3世紀?) - 『[[変身物語集]]』 === 考古学的資料 === ギリシア神話のありようを知るには、近代になって発達した[[考古学]]が大きな威力を発揮した。考古学では古代の遺跡が発掘され研究された。 これらの遺跡において、装飾彫刻や彫像、神々や人物が描かれ彩色された古壺や皿などが見つかった。[[考古学|考古学者]]や[[神話学|神話学者]]は、彫刻の姿や様式、古壺や皿に描かれた豊富な絵を分析して、これらがギリシア神話で語られる物語の場面や出来事、神や英雄の姿を描いたものと判断した。それらの絵図は意味を含んでおり、(学者によって解釈が分かれるとしても)ここから神話の物語を読み取ることが可能であった。 他方、発掘により判明した考古学的知見は、文献に記されていた事象が実際に存在したのか、記述が妥当であったのかを吟味する史料としても重要であった。更に、文献の存在しない時代についての知識を提供した。19世紀末に[[ドイツ]]の[[ハインリヒ・シュリーマン]]は、[[アナトリア半島]]西端のヒッサルリクの丘を発掘し、そこに幾層もの都市遺跡と火災で滅びたと考えられる遺構を発見してこれをトロイア遺跡と断定した。彼はまたギリシア本土でも素人考古学者として発掘を行い、[[ミケーネ文明|ミュケーナイ文化]]の遺構を見いだした{{sfn|桜井・本村|1997|pp=25-28}}。 20世紀に入って以降、[[アーサー・エヴァンズ]]はより厳密な発掘調査をトロイア遺跡に対し行った。また[[クレタ島|クレータ島]]で見いだされていたクノーソスなど、文明の遺跡の発掘も行われ、ここで彼は三種類の文字(絵文字、[[線文字A]]と[[線文字B]])を発見した。[[線文字B]]は間もなく、ギリシア本土の[[ピュロス]]や[[ティーリュンス]]でも使用されていたことが見いだされた。20世紀半ばになって、[[マイケル・ヴェントリス]]が[[ジョン・チャドウィック]]の協力のもと、この文字を解読し、記されているのが[[ミケーネ・ギリシャ語|ミケーネ語]]であることを確認すると共に、内容も明らかにした。それらは[[ホメロス|ホメーロス]]がうたった[[トロイア戦争]]の歴史的な像を復元する意味を持った{{sfn|桜井・本村|1997|pp=28-31}}。また数々の[[英雄]]たちの物語のなかには、紀元前15世紀に遡るミュケーナイ文化に起源を持つものがあることも、各地の遺跡の発掘研究を通じて確認された{{sfn|グリマル|1992|p=74}}{{efn|グリマルは、このように古い起源を持ち、かつ全ギリシア中に伝承が存在する英雄伝説・物語圏として、代表的に六個を挙げている。1)[[アルゴナウタイ]]遠征譚、2)[[テーバイ]]伝説圏、3)[[アトレウス]]家伝説圏、4)[[ヘーラクレース]]伝説圏、5)[[テーセウス]]伝説圏、そして6)[[オデュッセウス]]の物語である。{{sfn|グリマル|1992|p=73-74}}}}。 == 構成 == ギリシア神話は、以下の三種の物語群に大別できる。 * 世界の起源(→''[[ギリシア神話#神話1:世界の始まり|世界の始まり]]'') * 神々の物語(→''[[ギリシア神話#神話2:オリュンポス以前|オリュンポス以前]]''、''[[ギリシア神話#神話3:オリュンポスの世界|オリュンポスの世界]]'') * 英雄たちの物語(→''[[ギリシア神話#神話4:人間の起源|人間の起源]]''、''[[ギリシア神話#神話5:英雄の誕生|英雄の誕生]]''、''[[ギリシア神話#神話6:英雄の神話|英雄の神話]]'') 第一の「世界の起源」を物語る神話群は、分量的には短く、主に三つの系統が存在する(ヘーシオドスが『[[神統記]]』で記したのは、主として、この「世界の起源」に関する物語である)。 第二の「神々の物語」は、世界の起源の神話と、その前半において密接な関連を持ち、後半では、英雄たちの物語と絡み合っている。英雄たちの物語において、人間の運命の背後には神々の様々な思惑があり、活動が行われ、それが英雄たちの物語にギリシア的な奥行きと躍動を与えている。 第三の「英雄たちの物語」は、分量的にはもっとも大きく、いわゆるギリシア神話として知られる物語や逸話は、大部分がこのカテゴリーに入る。この第三のカテゴリーが膨大な分量を持ち、夥しい登場人物から成るのは、日本における神話の系統的記述とも言える『[[古事記]]』や、それに並行しつつ歴史時代にまで記録が続く『[[日本書紀]]』がそうであるように、古代ギリシアの歴史時代における王族や豪族、名家と呼ばれる人々が、自分たちの家系に権威を与えるため、神々や、その子である「[[半神]]」としての[[英雄]]や、古代の伝説的英雄を祖先として[[系図]]作成を試みたからだとも言える{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=まえがき、pp.8-9}}。 神話的英雄や伝説的な王などは、膨大な数の子孫を持っていることがあり、樹木の枝状に子孫の数が増えて行く例は珍しいことではない。末端の子孫となると、ほとんど具体的エピソードがなく、単なる名前の羅列になっていることも少なくない{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=まえがき、pp.8-9}}。 しかし、このように由来不明な多数の名前と人物の羅列があるので、歴史時代のギリシアにおける多少とも名前のある家柄の市民は、自分は神話に記載されている誰それの子孫であると主張できたとも言える。[[ウェルギリウス]]の『[[アエネーイス]]』が、[[ローマ人]]の先祖を[[トロイア戦争|トロイエー戦争]]にまで遡らせているのは明らかに神話的系譜の捏造であるが、これもまた、広義にはギリシア神話だとも言える(正確には、ギリシア神話に接続させ、分岐させた「[[ローマ神話]]」である)。ウェルギリウスは、[[ギリシア人]]自身が、古代より行なって来たことを、[[紀元前1世紀]]後半に、[[ラテン語]]で行なったのである。 == 神話1:世界の始まり == [[古代ギリシア]]人は他の民族と同様に、世界は原初の時代より存在したものであるとの素朴な思考を持っていた。しかし、[[ゼウス]]を主神とする[[コスモス (宇宙観)|コスモス]](秩序宇宙)の観念が成立するにつれ、おのずと哲学的な構想を持つ世界の始原神話が語られるようになった。それらは代表的に四種類のものが知られる(ただし、2と3は、同じ起源を持つことが想定される)。 神々の系譜や人間の起源などを系統的な神話に纏めあげた[[ヘシオドス|ヘーシオドス]]は『[[神統記]]』にて、二つの主要な起源説を伝えている。 #ヘーシオドスは古代[[オリエント]]などの[[神話]]の影響を受けたと考えられ、後に「混沌」と解釈される[[カオス]]が最初に存在したとしている。ただし、彼はカオスを混沌の意味では使っていない。それは空隙であり、カズムとも呼ばれる<ref name="un"/>。その後、大地([[ガイア]])が万物の初源としてカオスのなかに存在を現し、天([[ウーラノス]])との交わりによって様々な神々を生み出したとされる。ウーラノス、[[クロノス]]、そして[[ゼウス]]にわたる三代の王権の遷移がここで語られることになる<ref name="un"/>{{sfn|松本仁助|岡道男|1991|p=38}}{{efn|ヘシオドスがうたう三代の王権の推移は、紀元前二千年紀のオリエントにおいて、[[アッカド]]の『[[エヌマ・エリシュ]]』や[[ヒッタイト]]の『[[ヒッタイト神話|クマルビ神話]]』などで語られている{{sfn|松本仁助|岡道男|1991|p=38}}。}}。 #他方、ヘーシオドスは、上記とは起源が異なると考えられる、[[自然哲学]]的構想を備えた世界の始源神話を同じ『神統記』においてうたっている<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=版年によりページ数が異なるので参照不能。|呉茂一『ギリシア神話』p.19。}}</ref>。胸広きガイアが存在し、それと共に、地下の幽冥[[タルタロス]]と何よりも美しい[[エロース]]([[愛]])が生まれたとする。原初にエロースが生まれたとするのは、[[オルペウス教]]の始原神話に通じている。エロースは[[生殖]]にあって大きな役割を果たし、それ故、愛が最初に存在したとする{{sfn|藤縄|1971|p=34}}。 #第三の[[宇宙観]]は[[哲学]]的・[[宗教]]的に体系化されていたと考えられ、オルペウス教が基盤を置いた、あるいはこの宗教が提唱した世界の初源神話である。オルペウス教は多様な神話を持っており、断片的な複数の文書が伝える内容には異同がある{{efn|[[オルペウス教]]の教義について触れた文書としては、1)[[アリストパネース]]の『[[鳥 (アリストパネス)|鳥]]』に含まれるパロディ。2)「[[デルヴェニ・パピュルス]]」。3)[[アテナゴラス]]の伝える説。4)ヒエロニュモスとヘラニコスによる宇宙誕生譚。5)『二四の叙事詩からなる聖なる言説』。6)[[ロドスのアポローニオス]]『[[アルゴナウティカ]]』所収のオルペウス説、等がある{{sfn|ソレル|2003|p=不明{{要ページ番号|date=2019-06-25}}}}。}}。その特徴としては、原初に水や泥があり、大地(ガイア)も存在し、[[クロノス (時間の神)|クロノス]]=時 Chronos(ウーラノスの子の[[クロノス]] Kronos とは異なる)やエロースが原初にあった。そして「原初の卵」が語られ、他のギリシア神話では語られない、[[パネース]]({{lang|grc|Φανης}})あるいは[[プロートゴノス]]({{lang|grc|Πρωτογονος}})が存在したとする{{sfn|ソレル|2003|pp=45-57}}。 #以上に挙げた世界の始原神話以外に、第四のものとして、ホメーロスが『[[イーリアス]]』でうたっている、より古く単純とも言える始原についての神話がある。それは万物のはじめに[[オーケアノス]](海洋・外洋の流れ)が存在したという神話で、彼と共に妻[[テーテュース]]が存在したとされる。この両神の交わりより、多数の神や世界の要素が生み出されて来たとする。これは素朴な神話で、海岸部の住民が信じていた始原神話と考えられる{{sfn|藤縄|1971|p=66}}{{efn|当時のギリシア人は世界は円盤の形をした平面であり、このもっとも外側を、海流が円環をなして果てしなく流れ続けているという像を持っていた。この最果ての海流がオーケアノスである。母なるテーテュースは女性だということが分かるだけで詳細は不明である{{sfn|ケレーニイ|1995|pp=3-9}}。}}。 === 自然哲学的な始原の神々 === [[Image:Eros medallion Louvre-mod.jpg|thumb|100px|金の[[エロース]]]]<!-- Eros medallion Louvre Bj2248.jpg Nyx Brygos 490BC.jpg --> ヘーシオドスがうたう第二の[[自然哲学]]的な世界創造と諸々の神の誕生は、[[自然]]現象や人間における定めや矛盾・困難を擬人的に表現したものとも言える。このような形の神々の誕生の系譜は、例えば[[日本神話]](『[[古事記]]』)にも見られ、世界の文化で広く認められる始原伝承である。『[[神統記]]』に従うと、次のような始原の神々が誕生したことになる。 まず既に述べた通り、[[カオス]](空隙)と、そのうちに存在する胸広き[[ガイア]](大地)、そして暗冥の[[タルタロス]]と最も美しい神[[エロース]]である。ガイアより更に、幽冥の[[エレボス]](暗黒)と暗き[[ニュクス]](夜)が生じた。ガイアはまた海の神[[ポントス (ギリシア神話)|ポントス]]を生み、ポントスから海の老人[[ネーレウス (ギリシア神話の神)|ネーレウス]]が生まれた。またポントスの息子[[タウマース]]より、[[イーリス]](虹)、[[ハルピュイア|ハルピュイアイ]]、そして[[ゴルゴーン]]三姉妹等が生まれた。 一方、ニュクスよりは[[アイテール]](高天の気)と[[ヘーメラー]](昼)が生じた。またニュクスは[[タナトス]](死)、[[ヒュプノス]](睡眠)、[[オネイロス]](夢)、そして西方の[[黄金の林檎]]で著名な[[ヘスペリデス]]([[ヘスペリス]]=夕刻・黄昏の複数形)を生み出した。更に、[[モイライ]](運命)、[[ネメシス]](応報)、[[エリス (ギリシア神話)|エリス]](闘争・不和)なども生みだし、この最後のエリスからは、[[アーテー]](破滅)を含む様々な忌まわしい神々が生まれたとされる<ref name="un"/>。 == 神話2:オリュンポス以前 == [[ゼウス]]の王権が確立し、やがて[[オリュンポス十二神]]を中心とした[[コスモス (宇宙観)|コスモス]](秩序)が世界に成立する。しかし、このゼウスの王権確立は紆余曲折しており、ゼウスは神々の王朝の第三代の王である。 最初に星鏤める[[ウーラノス]](天)が[[ガイア]](大地)の夫であり、原初の神々の父であり、神々の王であった。しかしガイアは、生まれてくる子らの醜さを嫌って[[タルタロス]]に幽閉した夫、ウーラノスに恨みを持った。ウーラノスの末息子である[[クロノス]]がガイアにそそのかされて、巨大な鎌を振るって父親の男根を切り落とし、その王権を簒奪したとされる。このことはヘーシオドスがすでに記述していることであり、先代の王者の去勢による王権の簒奪は神話としては珍しい。これは[[ヒッタイト]]の[[フルリ人]]の神話に類例が見いだされ、この神話の影響があるとも考えられる{{sfn|藤縄|1971|pp=42-43}}{{efn|ヒッタイトに保存されていた「ウッリクンミの歌」においては、クマルビがアヌの性器を切断する説話があり、クロノスによるウーラノスの去勢はこの話の影響を受けている可能性がある。{{see also|フルリ人#宗教}}}}。 === クロノスとティーターン神 === [[Image:Chronos by Santo Saccomanno 1876, Cimitero monumentale di Staglieno.jpg|thumb|160px|天使像のクロノス]] [[ウーラノス]]より世界の支配権を奪った[[クロノス]]は、第二代の王権を持つことになる。クロノスはウーラノスと[[ガイア]]が生んだ子供たちのなかの末弟であり、彼の兄と姉に当たる神々は、クロノスの王権の下で、世界を支配・管掌する神々となる。とはいえ、この時代にはまだ、神々の役割分担は明確でなかった{{Sfn|吉田|2006|pp=28-31}}。クロノスの兄弟姉妹たちは[[ティーターン]]の神々と呼ばれ、[[オリュンポス十二神]]に似て、主要な神々は「ティーターンの十二の神」と呼ばれる。 これらのティーターンの十二の神としては、通常、次の神々が挙げられる。まず1)主神たる[[クロノス]]、2)その妻である女神[[レアー]]、3)長子[[オーケアノス]]、4)[[コイオス]]、5)[[ヒュペリーオーン]]、6)[[クレイオス]]、7)[[イーアペトス]]、8)女神[[テーテュース]]、9)女神[[テミス]](法)、10)女神[[ムネーモシュネー]](記憶)、11)女神[[ポイベー]]、12)女神[[テイアー]]である{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=巻一I, 3}}。[[アポロドーロス]]は女神[[ディオーネー]]をクロノスの姉妹に挙げているが、この名は[[ゼウス]]の女性形であり、女神の性格には諸説がある。 ティーターンにはこれ以外にも、子孫が多数存在した。後にティーターンはオリュンポス神族に敗れ、[[タルタロス]]に落とされるが、全員が罰を受けた訳ではない。広義のティーターンの一族には、イーアペトスの子である[[アトラース]]、[[プロメーテウス|プロメテウス]]、[[エピメーテウス|エピメテウス]]や、[[ヒュペリーオーン]]の子である[[エーオース]]([[明け方|暁]])、[[セレーネー|セレネー]]([[月]])、[[ヘーリオス]]([[太陽]])などがいた<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=版年によりページ数が異なるので参照不能。|呉茂一『ギリシア神話』pp.24-32。}}</ref>。 神々の王クロノスはしかし、母ガイアと父ウーラノスから呪いの予言を受ける。クロノス自身も、やがて王権をその息子に簒奪されるだろうというもので、クロノスはこれを怖れて、レアーとのあいだに生まれてくる子供をすべて飲み込む。レアーはこれに怒り、密かに末子ゼウスを身籠もり出産、石を産着にくるんで赤子と偽りクロノスに渡した{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=巻一I, 6-7}}。 === オリュンポス神の台頭と勝利 === ゼウスが成年に達すると、彼は父親クロノスに叛旗を翻し、まずクロノスに薬を飲ませて彼が飲み込んでいたゼウスの姉や兄たちを吐き出させた。クロノスは、[[ヘスティアー]]、[[デーメーテール]]、[[ヘーラー]]の三女神、そして次に[[ハーデース|ハデス]]と[[ポセイドーン|ポセイドン]]、そしてゼウスの身代わりの石を飲み込んでいたので、順序を逆にしてこれらの石と神々を吐き出した。 [[Image:Cornelis_Cornelisz._van_Haarlem_002.jpg|thumb|230px|オリュンポス神と[[ティーターノマキアー]]]] ゼウスたち兄弟姉妹は力を合わせてクロノスとその兄弟姉妹たち、すなわち[[ティーターン]]の一族と戦争を行った。これを[[ティーターノマキアー]](ティーターンの戦争)と呼ぶ。ゼウス、ハデス、ポセイドンの三神はティーターノマキアーにおいて重要な役割を果たし、特にゼウスは雷霆を投げつけて地球や全宇宙、そしてその根源である[[カオス]]までも焼き払い、ティーターンたちに大打撃を与え、勝利した<ref name="un"/>。その後ティーターン族を[[タルタロス]]に幽閉し、百腕巨人([[ヘカトンケイレス]])を番人とした。こうして勝利したゼウスたちは互いにくじを引き、その結果、ゼウスは[[空|天空]]を、ポセイドンは[[海洋]]を、ハデスは[[冥府]]をその支配領域として得た{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=巻一II, 1}}。 しかし[[ガイア]]はティーターンをゼウスたちが幽閉したことに怒り、[[ウーラノス]]と交わって、[[ギガース]](巨人)たちを生み出した。ギガースたち([[ギガンテス]])は巨大な体と獰猛な気性を備え、彼らは大挙してゼウスたちの一族に戦いを挑んだ。ゼウスたちは苦戦するが、[[シシリー島]]をギガースの上に投げおろすなど、激しい争いの末にこれを打破した。これらの戦いを[[ギガントマキアー]](巨人の戦争)と呼称する。 しかし、ガイアはなお諦めず、更に怒って[[タルタロス]]と交わり、怪物[[テューポーン]]を生み出した。テューポーンは灼熱の噴流で地球を焼き尽くし、天に突進して全宇宙を大混乱の渦に叩き込むなど、圧倒的な強さを誇ったが、オリュンポス神族の連携によって遂に敗北し滅ぼされた{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=巻一V, 1-3}}。 かくして、ゼウスの王権は確立した。 == 神話3:オリュンポスの世界 == [[Image:Greece Mount Olympus (1).jpg|thumb|170px|[[オリンポス山|オリュンポス山]]]] 神々は、[[ホメロス|ホメーロス]]によれば、[[オリュンポス]]の高山に宮敷居まし、山頂の宮殿にあって、絶えることのない饗宴で日々を過ごしているとされる。神々は不死であり、神食([[アムブロシアー]])を食べ、神酒([[ネクタール]])を飲んでいるとされる<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=版年によりページ数が異なるので参照不能。|呉茂一『ギリシア神話』p.48。}}</ref>。 === 十二の神々 === {{main|オリュンポス十二神}} [[ゼウス]]の王権の下、世界の秩序の一部をそれぞれ管掌するこれらの神々は、[[オリュンポス]]の神々とも呼ばれ、その主要な神は古くから「十二の神」([[オリュンポス十二神]])として人々に把握されていた。十二の神は二つの世代に分かれ、[[クロノス]]と[[レアー]]の息子・娘(ゼウスの兄弟姉妹)に当たる第一世代の神々と、ゼウスの息子・娘に当たる第二世代の神々がいる。 時代と地方、伝承によって、幾分かの違いがあるが、主要な十二の神は、第一世代の神、1)秩序(コスモス)の象徴でもある神々の父[[ゼウス]]、2)[[ヘーラー|ヘラー]]女神、3)[[ポセイドーン|ポセイドン]]、4)[[デーメーテール]]女神、5)[[ヘスティアー]]女神の5柱に、第二世代の神として、6)[[アポローン|アポロン]]、7)[[アレース]]、8)[[ヘルメース]]、9)[[ヘーパイストス]]、10)[[アテーナー|アテネ]]女神、11)[[アプロディーテー]]女神、12)[[アルテミス]]女神の7柱である。また、ヘスティアーの代わりに、[[ディオニューソス]]を十二神とする場合がある。[[ハーデース|ハデス]]とその后[[ペルセポネー|ペルセポネ]]は、地下(クトニオス)の神とされ、オリュンポスの神ではないが、主要な神として、十二神のなかに数える場合がある{{sfn|ヒネルズ|佐藤 監訳|1999|ref=w|p=317}}{{efn|オリュンポスの十二の神は、典型的なギリシア人に固有の神と考えられやすいが、半数が非ヘレネス起源の神である。[[ゼウス]]の后[[ヘーラー]]は、先住民の女神であり、古代ギリシア人が先住民を征服した際、両者のあいだの融和を目的として主神ゼウスの后にヘーラーを据えたと考えられる。ゼウスの第一の娘で、最高の女神とも言える[[アテーナー]]もまたヘレネス固有の神ではない。[[アポローン]]と[[アルテミス]]の両神は、その名前が印欧語起源ではなく、前者はオリエントの神の可能性があり、後者は先住民の神と考えられる。[[ヘルメース]]も先住民の神で、[[アプロディーテー]]はオリエント起源の女神である。[[ペルセポネー]]もその名は先住民の神のものと考えられる{{sfn|高津|1990|loc=『ギリシア・ローマ神話辞典』の各神の項目}}。}}。 それぞれの神は、崇拝の根拠地を持つのが普通で、また神々の[[習合]]が起こっているとき、広範囲にわたる地方の神々を取り込んだ神は、多くの崇拝の根拠地を持つことにもなる。[[アテーナイ|アテナ]]の[[パルテノン神殿]]小壁には、十二の神の彫像が刻まれているが、この十二神は、上記の一覧と一致している(ディオニューソスが十二神に入っている)。 === オリュンポスの神々 1 === オリュンポスを代表する[[オリュンポス十二神|十二の神]]と地下の神[[ハーデース]]等以外にも、オリュンポスの世界には様々な神々が存在する。彼らはオリュンポスの十二神や他の有力な神が、[[エロース]]の力によって互いに交わることによって生まれた神である。また、広義の[[ティーターン]]の一族に属する者にも、オリュンポスの一員として神々の席の一端を占め、重要な役割を担っている者がある。 神々のあいだの婚姻あるいは交わりによって生まれた神には次のような者がいる。 ==== ゼウスの息子と娘 ==== [[Image:Júpiter y Tetis, por Dominique Ingres.jpg|thumb|170px|神々の父[[ゼウス]]と[[テティス]]]] 神々の父[[ゼウス]]は、真偽を知る知恵の女神[[メーティス]]を最初の妻とした。ゼウスはメーティスが妊娠したのを知るや、これを飲み込んだ。メーティスの智慧はこうしてゼウスのものとなり、メーティスよりゼウスの第一の娘[[アテーナー|アテナ]]が生まれる。ゼウスの正妻は神々の女王[[ヘーラー|ヘラ]]である。ヘラとのあいだには、[[アレース]]、[[ヘーパイストス]]、青春の女神[[ヘーベー]]、出産の女神[[エイレイテュイア]]が生まれる。また、大地の豊穣の女神[[デーメーテール]]とのあいだには、冥府の女王[[ペルセポネー|ペルセポネ]]をもうけた。 ゼウスはまた、ティーターン神族の[[ディオーネー]]とのあいだに[[アプロディーテー]]をもうける。アプロディーテーは、[[クロノス]]が切断した父[[ウーラノス]]の男根を海に投げ入れた際、そのまわりに生じた泡より生まれたとの説もあるが{{sfn|ヘーシオドス|廣川洋一 訳|1984|p=30|loc=行190-199}}、オリュンポスの系譜上はゼウスの娘である{{efn|ゼウスとディオーネーの娘とするのは[[ホメロス|ホメーロス]]である。泡より生まれたとするのは[[ヘシオドス|ヘーシオドス]]で、後者を、アプロディーテー・ウーラニアー(天上のアプロディーテー、{{lang|en|Aphrodite Ourania}})、前者のゼウスの娘とする場合、アプロディーテー・パンデーモス(大衆のアプロディーテー、{{lang|en|Aphrodite Pandemos}})として区別した。本来「ウーラニアー」という場合は、「東洋の神」を示唆し、他方「パンデーモス」という場合は、「市民の神」、従ってヘレネスの神の含意があった。プラトーンですでに議論となっているが、後にルネッサンスで「天の愛」と「通俗の愛」という対立で再度議論される{{sfn|グラント & ヘイゼル|1988|p=25}}。}}。ゼウスは、[[ティーターン]]の一族[[コイオス]]の娘[[レートー]]とのあいだに[[アルテミス]]女神と[[アポローン|アポロン]]の姉弟の神をもうけた。更にティーターンである[[アトラース]]の娘[[マイア]]とのあいだに[[ヘルメース]]をもうけた。最後に、人間の娘[[セメレー]]と交わって[[ディオニューソス]]をもうけた。 アテネはメーティスの娘であるが、その誕生はゼウスの頭部から武装して出現したとされる。また、これに対抗して妃ヘラは、独力で息子ヘーパイストスを生んだともされる。 ゼウスは更に、[[ティーターン]]の女神達と交わり、[[運命]]や[[美]]や[[季節]]、[[芸術]]の神々をもうける。法律・掟の女神[[テミス]]とのあいだに、[[ホーライ]]の三女神と[[モイライ]]の三女神を、[[オーケアノス]]と[[テーテュース]]の娘[[エウリュノメー]]とのあいだに[[カリテス]](優雅=[[カリス]])の三女神を、そして[[記憶]]の女神[[ムネーモシュネー]]とのあいだに九柱の[[芸術]]の女神[[ムーサイ]]([[ムーサ]])をもうけた。 ==== 十二神の息子と娘 ==== [[Image:Eros bobbin Louvre CA1798.jpg|thumb|left|130px|有翼の[[エロース|エロス]]]]<!-- Altes Museum - Antikensammlung 071.JPG --> オリュンポスの十二の神々は、ゼウスを例外として、子をもうけないか、もうけたとしても少ない場合がほとんどである。[[ポセイドーン]]は比較的に息子に恵まれているが、[[アンピトリーテー]]とのあいだに生まれた、むしろ海の一族とも言える[[トリートーン]]、[[ベンテシキューメー]]、ヘーリオスの妻[[ロデー]]を除くと、怪物や馬や乱暴な人間が多い{{sfn|高津|1990|pp=261-262}}。 美の女神[[アプロディーテー]]は人気の高い女神であったからか数多くの神話に登場し、多くの子どもを生んだが、その父親は子どもの数と同じくらい多かった。彼女の夫は鍛冶の神[[ヘーパイストス]]とされるが、愛人の[[アレース]]とのあいだに、[[デイモス]](恐慌)と[[ポボス]](敗走)の兄弟がある。またヘーシオドスが、原初の神として最初に生まれたとしている愛神[[エロース|エロス]]はアプロディーテーとアレースの息子であるとされることもある{{sfn|高津|1990|p=40}}。この説は[[シモーニデース]]が最初に述べたとされる<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=版年によりページ数が異なるので参照不能。|呉茂一『ギリシア神話』 p.128。}}</ref>。しかしエロスをめぐっては誰の息子であるのかについて諸説あり、[[エイレイテュイア]]の子であるとも、西風[[ゼピュロス]]と[[エーオース]]の子であるとも、[[ヘルメース]]の子、あるいはゼウスの子であるともされる{{efn|呉茂一『ギリシア神話』 エイレイテュイアの子だとするのは伝説の詩人オレーンで、ゼピュロスの子だとするのは、詩人[[アルカイオス]]である。[[エウリピデス|エウリーピデース]]は『[[ヒッポリュトス (エウリピデス)|ヒッポリュトス]]』のなかでエロースをゼウスの子と呼んでいる。また[[プラトン|プラトーン]]は寓意であるが、エロースは充足の神ポロスと貧困の女神ペニアーの子であると述べている(プラトーン『[[饗宴]]』)}}{{efn|エロースはアプロディーテーとヘーパイストスの子であるとの説もある。}}{{sfn|高津|1990|p=75-76}}。エロースと対になる愛神[[アンテロース]]もアレースとアプロディーテーの子だとされる。 他のオリュンポスの有力な神々、[[ハーデース|ハデス]]、ヘルメース、ヘーパイストス、[[ディオニューソス]]には目立った子がいない。[[アポローン|アポロン]]は知性に充ちる美青年の像で考えられていたので、恋愛譚が多数あり、恋人の数も多いが、神となった子はいない。ただし、彼の子ともされる[[オルペウス]]{{efn|オルペウスはギリシア神話一般では神ではないが、[[オルペウス教]]では彼は神である。アスクレーピオスは、ホメーロスにおいては人間であったが、後に医神とされ崇拝された。}}や[[アスクレーピオス]]が、例外的に死後に神となった。 === オリュンポスの神々 2 === [[Image:1671 Gérard de Lairesse - Apollo and Aurora.jpg|thumb|160px|[[エーオース]]と[[アポローン|アポロン]]]] 広義の[[ティーターン]]の子孫も、オリュンポスの神々に数えられる。ティーターンたちは[[ティーターノマキアー]]での敗北の後、[[タルタロス]]に落とされたが、後にゼウスは彼らを赦したという話があり、[[ピンダロス]]は『[[ピューティア第四祝勝歌]]』のなかで、ティーターンの解放に言及している<ref>『祝勝歌集/断片選』所収「ピューティア祝勝歌四」。</ref>{{efn|[[ピンダロス]]とほぼ同時代の悲劇作家[[アイスキュロス]]の作品である『プロメーテウス三部作』においては、ゼウスと[[プロメーテウス]]の和解が語られ、[[ティーターン]]たちは解放され、[[エーリュシオン]]で浄福の生活を営むことになっている。}}。戦いに敗れたティーターンはその後、神話に姿を現さないが、その子供たちや、[[ウーラノス]]の子孫たちは、オリュンポスの秩序のなかで一定の役割を受けて活動している。 [[イーアペトス]]の子[[アトラース|アトラス]]は、天空を背に支え続けるという苦役に耐えている。兄弟の[[プロメーテウス|プロメテウス]]は戦争には加わらなかったが、ゼウスを欺した罪で[[コーカサス|カウカーソス]]の山頂で生きたまま鷲に毎日肝臓を食われるという罰を受けていたところ、[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]が鷲を殺して解放した。[[ヒュペリーオーン]]と[[テイアー]]の子[[エーオース]]、[[セレーネー|セレネ]]、[[ヘーリオス]]は、オリュンポスの神々のなかでも良く知られた存在である。エーオースは星神[[アストライオス]]とのあいだに、西風[[ゼピュロス]]、南風[[ノトス]]、北風[[ボレアース]]などの風の神と多数の星の神を生んだ。またアテーナーの傍らにある[[ニーケー]](勝利)もティーターンの娘であるが、ゼウスに味方した。 原初の神でもあった[[ポントス (ギリシア神話)|ポントス]]とその息子の海の老人[[ネーレウス (ギリシア神話の神)|ネーレウス]]は、ポセイドーンに役職を奪われたように見えるが、彼らの末裔は、数知れぬ[[ネーレイデス]](海の娘たち)となり、[[ニュンペー]]として、あるいは女神として活躍する{{efn|[[アンピトリーテー]]や[[アキレウス]]の母[[テティス]]は女神として扱われる。}}。ポントスの一族である[[虹]]の女神[[イーリス]]は神々の使者として活躍している。また、広義のティーターン一族に属するアトラースは、オーケアノスの娘[[プレーイオネー]]とのあいだに[[プレイアデス]]の七柱の女神をもうけた。彼女たちは、星鏤める天にあって[[星座]]として耀いている。 === ニュンペーと精霊たち === [[Image:Nymph with morning glory flowers.jpg|thumb|left|110px|[[ニュンペー]]]] [[ティーターノマキアー]]の勝利の後、ゼウス、ハーデース、ポセイドーンの兄弟はくじを引いてそれぞれの支配領域を決めたが、地上世界は共同で管掌することとした。地上は[[ガイア]]の世界であり、ガイアそのものとも言えた。地上には陸地と海洋があり、[[河川]]、[[湖沼]]、また緑豊かな[[樹木]]の繁る[[森林]]や、[[草本|草]][[花]]の咲き薫る[[原野|野原]]、清らかな[[泉]]などがあった。 地上は人間の暮らす場所であり、また数多くの動物たちや植物が棲息し繁茂する場所でもある。そして太古よりそこには、様々な精霊が存在していた。精霊の多くは女性であり、彼女たちは[[ニュンペー]](ニンフ)と呼ばれた。nymphee({{lang|grc|νυμφη}})とは[[ギリシア語]]で「[[花嫁]]」を意味する言葉でもあり{{Sfn|Hornblower & Spawforth|2003|p=1056}}、彼女たちは若く美しい娘の姿であった{{efn|彼女たちは[[洞窟]]やその住まいで歌をうたったり糸を紡いだりしてときを過ごし、オリュンポスの神々や男性の精霊たちは、彼女らの魅力に引きつけられ恋をした。ニュンペーのなかには慎ましやかで処女を守ることを願う者もいたが、また好色で[[サテュロス]]などと戯れることを好む者もいた。ニュンペーは善意ある存在であったが、時に[[ヒュラース]]の例のように人間の美少年を攫うこともあった{{Sfn|Hornblower & Spawforth|2003|p=1056}}。}}。 ニュンペーは、例えばある特定の樹の精霊であった場合、その樹の枯死と共に消え去ってしまうこともあったが、多くの場合、人間の寿命を遙かに超える長い寿命を持っており、神々同様に不死のニュンペーも存在した{{efn|ニュンペーには種類があると共に、身分に近い精霊としての「格」があり、下位のニュンペーは上位の精霊に仕えることがあった([[キルケー]]や[[カリュプソー]]は、女神でもあり、ニュンペーたちは彼女らに仕えた){{Sfn|Hornblower & Spawforth|2003|p=1056}}。}}。 森林や山野の処女のニュンペーは[[アルテミス]]女神に付き従うのが普通であり、また、[[パーン (ギリシア神話)|パーン]]や[[ヘルメース]]なども、ニュンペーに親しい神であった。古代のギリシアには、ニュンペーに対する崇拝・祭儀が存在したことがホメーロスによって言及されており、これは考古学的にも確認されている{{Sfn|Hornblower & Spawforth|2003|p=1056}}。ニュンペーは恋する乙女であり、神々や精霊、人間と交わって子を生むと、母となり妻ともなった。多くの[[英雄]]が[[ニュンペー]]を母として誕生している。 ==== ニュンペーの種類 ==== ニュンペーはその住処によって呼び名が異なる{{Sfn|Grimal|1986|pp=313-314}}{{Sfn|Hornblower & Spawforth|2003|p=1056}}。 [[Image:Gaston Bussiere — The Nereides.jpg|thumb|135px|[[ネーレイデス]]]] 陸地のニュンペーとしては次のようなものがある。1)メリアデス(単数:[[メリアス]])はもっとも古くからいるニュンペーで、[[ウーラノス]]の子孫ともされる。[[トネリコ]]の樹の精霊である。2)[[オレイアデス]](単数:[[オレイアス]])は山のニュンペーである。3)[[アルセイデス]](単数:[[アルセイス]])は森や林のニュンペーである。4)[[ドリュアデス]](単数:[[ドリュアス]])は樹木に宿るニュンペーである。5)[[ナパイアイ]](単数:[[ナパイアー]])は山間の谷間に住むニュンペーである。6)[[ナーイアデス]](単数:[[ナーイアス]])は淡水の泉や河のニュンペーである。 これらのニュンペーは陸地に住処を持つ者たちである。一方、海洋にはオーケアノスの娘たちやネーレウスの娘たちが多数おり、彼女らは美しい娘で、ときに女神に近い存在であることがある。 海洋のニュンペーはむしろ女神に近い。1)[[オーケアニデス]](単数:[[オーケアニス]])は、オーケアノスがその姉妹テーテュースのあいだにもうけた娘たちで、3000人、つまり無数にいるとされる。この二柱の神からはまた、すべての河川の神が息子として生まれており、河川の神とオーケアニスたちは姉弟・兄妹の関係にあることになる。冥府の河である[[ステュクス]]や、[[ケイローン]]の母となった[[ピリュラー]]、[[アトラース]]、[[プロメーテウス]]兄弟の母である[[クリュメネー]]などが知られる。2)[[ネーレーイデス]](単数:[[ネーレーイス]])は、[[ネーレウス (ギリシア神話の神)|ネーレウス]]と[[オーケアノス]]の娘[[ドーリス (ギリシア神話)|ドーリス]]のあいだの娘で、50人いるとも、100人いるともされる。[[アンピトリーテー]]、[[テティス]]、[[ガラティア]]、[[カリュプソー]]などが知られる。 === 山野の精霊と河神 === [[Image:The Education of Achilles, by James Barry.jpg|thumb|165px|[[ケイローン]]と少年]] ニュンペーは自然界にいる女性の精霊で、なかには神々と等しい者もいた。他方、地上の世界にはニュンペーと対になっているとも言える男性の精霊が存在した。彼らはその姿が、人間とはいささか異なる場合があった。彼らは山野の精霊で、具体的には1)[[パーン (ギリシア神話)|パーン]](別名アイギパーン、「山羊の姿のパーン」の意)、2)[[ケンタウロス]]、3)[[シーレーノス]]、4)[[サテュロス]]などが挙げられる。彼らの姿は、上半身は人間に近いが、下半身が馬や山羊であったり、額に角があったりする。 上記の中でパーンは別格とも言え、[[ヘルメース]]と[[ドリュオプス]]の娘[[ドリュオペー]]のあいだの子で、[[オリュンポス]]の神の一員でもある。ただしパーンが誰の子かということについては諸説ある。[[パンパイプ|シューリンクス]]という笛を好み、好色でもあった。ケンタウロスは半人半馬の姿で、乱暴かつ粗野であるが、[[ケイローン]]だけは異なり、医術に長け、また不死であった。シーレーノスとサテュロスは同じ種族と考えられ、前者は馬に似て年長であり、後者は山羊に似ていた。粗野で好色で、[[ニュンペー]]たちと戯れ暴れ回ることが多々あった<ref name="hg1988"/>。 彼らが山野の精霊であるのに対し、地上の多数の河川には、[[オーケアノス]]と[[テーテュース]]の息子である河川の精霊あるいは神がいた(『イーリアス』21章。『神統記』)。彼らは普通「[[河神]](river-gods)」と呼ばれるので、精霊よりは格が高いと言える。3000人いるとされる[[オーケアニデス]]の兄弟に当たる。河神に対する崇拝もあり、彼らのための儀礼と社殿などもあった。[[スカマンドロス]]河神と[[アケローオス]]河神がよく知られる<ref>''Classical Dictionary'' p.1320。</ref>。 === 異形の神・怪物 === [[Image:Gorgon Kameiros BM GR1860.4-4.2.jpg|thumb|115px|[[ゴルゴーン]]]] 始原の神や、または神やその子孫のなかには、異形の姿を持ち、[[オリュンポス]]の神々や人間に畏怖を与えたため、「怪物」と形容される存在がいる。例えば[[ゴルゴーン]]三姉妹などは、海の神[[ポントス (ギリシア神話)|ポントス]]の子孫で、本来は神であるが、その姿の異様さから[[怪物]]として受け取られている。 [[ゴルゴーン]]三姉妹は[[ポルキュース]]と[[ケートー]]の娘で、末娘の[[メドゥーサ]]を除くと不死であったが、頭部の髪が蛇であった。また、その姉妹である三柱の[[グライアイ]]は生まれながらに老婆の姿であったが不死であった。[[ハルピュイア|ハルピュイアイ]]は[[タウマース]]の娘たちで、女の頭部に鳥の体を持っていた。[[ガイア]](大地)が原初に生んだ息子や娘のなかには[[キュクロープス]](一眼巨人)や、[[ヘカトンケイル]](百腕巨人)のような異形の者たちが混じっていた。またガイアは独力で、様々な「怪物」の父とされる、天を摩する巨大な[[テューポーン]]を生み出した。 [[Image:Fame riding Pegasus Coysevox Louvre MR1824 n2.jpg|thumb|left|135px|栄誉と[[ペーガソス]]]] [[エキドナ]]は、上半身が女、下半身が蛇の怪物で、ゴルゴーンたちの姉妹とされるが出生には諸説がある。このエキドナとテューポーンのあいだには多数の子供が生まれる。[[ライオン|獅子]]の頭部に[[ヤギ|山羊]]の胴、[[ヘビ|蛇]]の尾を持つ[[キマイラ]]、[[ヘーラクレース]]に退治された[[ヒュドラー]](水蛇)、冥府の番犬、多頭で犬形の[[ケルベロス]]などである。またエジプト起源の[[スピンクス]]はギリシアでは女性の怪物となっているが、これもエキドナの子とされる。 それらの多くは、神、あるいは神に準ずる存在である。[[ポセイドーン]]と[[デーメーテール]]が[[ウマ|馬]]の姿となって交わってもうけたのが、名馬[[アレイオーン]]である。他方、ポセイドーンはメドゥーサとのあいだに有翼の天馬[[ペーガソス]]や、[[クリューサーオール]](「黄金の剣を持つ者」の意)をもうけた。 [[セイレーン]]は『[[オデュッセイア]]』に登場する海の精霊・怪物であるが、人を魅惑する歌で滅びをもたらす。[[ムーサ]]の娘であるともされるが、諸説あり、元々[[ペルセポネー]]に従う精霊だったとも想定される。『オデュッセアイア』に登場する怪物としては、六つの頭部を持つ女怪[[スキュラ]]と[[渦巻き]]の擬人化とされる[[カリュブディス]]などがいる<ref name="hg1988">{{harvnb|グラント|ヘイゼル|西田実 [ほか]共訳|1988|loc=『ギリシア・ローマ神話事典』の各項}}</ref>。 == 神話4:人間の起源 == [[Image:Heinrich fueger 1817 prometheus brings fire to mankind.jpg|thumb|125px|[[プロメーテウス]]と[[火]]]] 古代ギリシア人は、神々が存在した往古より人間の祖先は存在していたとする考えを持っていたことが知られている。例えば[[ヘーシオドス]]の『仕事と日々』にもそのような説明がなされている。他方、『仕事と日々』は構成的には雑多な詩作品を蒐集したという趣があり、『[[神統記]]』や『名婦列伝』が備えている整然とした、伝承の整理付けはなく、当時の[[庶民]](とりわけ[[農耕]]民)の抱いていた[[世界観]]や[[人生観]]が印象的な[[喩え話]]のなかで語られている。 古来、ギリシア人は「人は土より生まれた」との考えを持っていた。超越的な神が人間の族を創造したのではなく、自然発生的に人間は往古より大地に生きていたとの考えである。しかしこの事実は、人間が生まれにおいて神々に劣るという意味ではなく、オリュンポスの神々も、それ以前の支配者であった[[ティーターン]]も、元々はすべて「大地([[ガイア]])の子」である。人間はガイアを母とする、神々の兄弟でもあるのだ。異なる点は、神々は不死にして人間に比べ卓越した力を持つということである。その意味で、神々は貴族であり、人間は庶民だと言える{{sfn|藤縄|1971|p=100}}。 === プロメーテウスと最初の女 === [[Image:Pandora Lefebvre.jpg|thumb|125px|[[パンドーラー]]]] しかしヘーシオドスは、土より生まれた人という素朴な信念とは異なる、人間と神々のあいだの関係とそれぞれの分(モイラ)の物語を語る。太古にあって人間は未開で無知で、飢えに苦しみ、寒さに悩まされていた。[[プロメーテウス]]が人間の状態を改善するために、ゼウスが与えるのを禁じた[[火]]を人間に教えた。また、この神は、[[ゼウス]]や神々に[[犠牲]]を捧げるとき、何を神々に献げるかをゼウスみずからに選択させ、その巧妙な偽装でゼウスを欺いた<ref name="un">{{harvnb|ヘーシオドス|廣川洋一 訳|1984|p={{要ページ番号|date=2016年11月}}}}</ref>。 プロメーテウスに欺されたゼウスは報復の機会を狙った。ゼウスはオリュンポスの神々と相談し、一人の美貌の女性を作り出し、様々な贈り物で女性を飾り、[[パンドラ|パンドーラー]](すべての贈り物の女)と名付けたこの女を、プロメーテウスの思慮に欠けた弟、エピメーテウスに送った。ゼウスからの贈り物には注意せよとかねてから忠告されていたエピメーテウスであるが、彼はパンドーラーの美しさに兄の忠告を忘れ、妻として迎える。ここで男性の種族は土から生まれた者として往古から存在したが、女性の種族は神々、ゼウスの策略で人間を誑かし、不幸にするために創造されたとする[[神話]]が語られていることになる。 === 五つの時代と人間の生き方 === パンドーラーは結果的にエピメーテウスに、そして人間の種族に災いを齎し不幸を招来した。ヘーシオドスは更に、[[金]]の種族、[[銀]]の種族、[[青銅]]の種族についてうたう。これらの種族は神々が創造した人間の族であった。金の種族は[[クロノス]]が王権を掌握していた時代に生まれたものである{{sfn|ヘーシオドス|松平千秋 訳|1984|pp=24-25}}{{efn|クロノスは暴君とされているが、本来、豊穣・収穫の神であり、民間信仰では後世に至っても信仰されていた。}}。この最初の種族は神々にも似て無上の幸福があり、平和があり、長い寿命があった。しかし銀の種族、銅の種族と次々に神々が新しい種族を造ると、先にあった者に比べ、後から造られた者はすべて劣っており、銅([[青銅]])の時代の人間の種族には争いが絶えず、このため[[ゼウス]]はこの種族を再度滅ぼした。 [[金の時代]]と銀の時代は、おそらく空想の産物であるが、次に訪れる青銅の時代、そしてこれに続く[[英雄]]([[半神]])の時代と[[鉄]]の時代は、人間の技術的な進歩の過程を跡づける分類である。これは空想ではなく、歴史的な経験知識に基づく時代画期と考えられる。第4の「英雄・半神」の時代は、ヘーシオドスが『名婦列伝(カタロゴイ)』で描き出した、神々に愛され英雄を生んだ女性たちが生きた時代と言える。英雄たちは、華々しい勲にあって生き、その死後は[[ヘーラクレース]]がそうであるように神となって天上に昇ったり、楽園([[エーリュシオン]]の野)に行き、憂いのない浄福の生活を送ったとされる(他方、[[オデュッセウス]]が冥府にある[[アキレウス]]に逢ったとき、亡霊としてあるアキレウスは、武勲も所詮空しい、貧しく名もなくとも生きてあることが幸福だ、とも述懐している<ref>『オデュッセイア』。</ref>)。 [[Image:Werke und Tage.jpg|thumb|160px|『[[仕事と日|仕事と日々]]』]] 英雄の時代が去っていまや「青銅の時代」となり、人の寿命は短く、労働は厳しく、地は農夫に恵みを与えること少なく、若者は老人を敬わず、智慧を尊重しない……これが、我々がいま生きている時代・世界である、とヘーシオドスはうたう。このような人生や世界の見方は、[[詩人]]として名声を得ながらも、あくまで一介の地方の[[農民]]として暮らしを立てて行かねばならなかったヘーシオドスの人生の経験が反映しているとされる。世には、半神たる英雄を祖先に持つと称する名家があり、貴族がおり、富者がおり、世のなかには矛盾がある。しかし、[[神]]はあくまで[[善]]なる者で、人は勤勉に労働し、神々を敬い、人間に与えられた分を誠実に生きるのが最善である。 一方で、武勲を称賛し、王侯貴族の豪勢な生活や栄誉、[[詩]]や[[音楽]]や[[彫刻]]などの[[芸術]]の高みに、恵まれた人は立ち得る。しかし庶民の生活は厳しいものであり、そこで人間としていかに生きるか、ヘーシオドスは神話に託して、人間のありようの諸相をうたっていると言える。 == 神話5:英雄の誕生 == ギリシア神話においては、ヘーシオドスが語る五つの時代の最後の時代、すなわち現在である「[[鉄]]の時代」の前に、「英雄の時代」があったとされる。[[英雄]]とは、[[古代ギリシア語]]でヘーロース(hērōs, {{lang|el|ήρως}})と呼ぶが、この言葉の原義は「守護者・防衛者」である。しかし[[ホメロス|ホメーロス]]では、君公、あるいは殿の意味で、支配者・貴族・主人について一般的に使用されていた<ref name="go-p64">{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=版年によりページ数が異なるので参照不能。|呉茂一『ギリシア神話』 p.64。}}</ref>{{efn|オリュンポスの女王[[ヘーラー]]はヘーロースの女性形と解釈するのが妥当で、「オリュンポスの女主人」の意味となる<ref name="go-p64"/>。}}。 === 英雄崇拝の歴史 === [[神話学|神話学者]][[ジョーゼフ・キャンベル|キャンベル]]は、英雄神話を[[神話]]の基幹に置いたが、彼の描く英雄とは、危険を犯して超自然的領域に分け入り勝利し、人々に恩恵を授ける力(force)を獲得した者である{{sfn|松村|1999|p=218}}。[[古代ギリシア]]の英雄は、守護者の原義を持つことからも分かる通り、超自然の世界に分け入って「力」を獲得する者ではない。文献や[[考古学]]によれば、[[ミケーネ文明|ミュケーナイ時代]]には存在しなかった「{{ill2|英雄信仰|en|Greek hero cult}}」が、ギリシアの暗黒時代<ref>([[紀元前12世紀]]-[[紀元前9世紀|9世紀]])</ref>を通じて、ホメーロスの頃に出現する。 ここで崇拝される英雄は「力に満ちた死者」であり、その儀礼は、親族の死者への儀礼と、神々への儀礼の中間程度に位置していた{{efn|彼らに対する儀礼・供儀は天の神に対する犠牲を焼いた煙ではなく、地下(クトニオス)の神に対すると同様に、犠牲の血を地下に献げることでもあった。後に[[悲劇]]が発達したとき、悲劇が演じられる劇場の[[コロス]]の舞台中央には地下に向けて通じる坑が掘られていた{{sfn|藤縄|1971|p=234}}。}}。祀られる英雄ごとで様々な解釈があったが、祭儀におけるヘーロースは、都市共同体や個人を病や危機から救済し恩恵をもたらした者として理解された。このような崇拝の対象が[[叙事詩]]に登場する英雄に比定された。時が経つにつれ、ヘーロースの範型に該当すると判断された人物、すなわち神への祭祀を創始した者や、[[ポリス|都市]]の創立者などには、[[神託]]に基づいて英雄たる栄誉が授与され、彼らは「英雄」と見なされた<ref>''Classical Dictionary'' pp.693-694。</ref>。 ギリシアの英雄は[[半神]]とも称されるが、多くが神と人間のあいだに生まれた息子で、半分は死すべき人間、半分は不死なる神の血を引く。このような英雄は、「力ある死者」のなかでも神に近い崇拝を受けていた者たちで、[[ヘーラクレース]]の場合は、英雄の域を超えて神として崇拝された。英雄は、都市の創立者として子孫を守護し、またときに、敵対する者の子孫に末代まで続く呪いをかけた{{sfn|グリマル|1992|p=83}}<ref group="注釈">グリマルによると、[[ディオーネー]]女神の息子であるエーリス王[[ペロプス]]は彼の息子への不埒な振る舞いをもって、当時彼の元に亡命していた[[ラーイオス]]に呪いをかけた。ラーイオスは帰国してテーバイ王となるが、ペロプスの呪いはその子[[オイディプース]]や孫娘[[アンティゴネー]]などの悲劇を生み出した。ペロプスは[[古代オリンピック|オリュンピア競技祭]]の創始者ともされ、英雄の条件を十分過ぎるほどに満たしている。なお別の説では、ラーイオスに呪いをかけたのは、ペロプスの息子[[クリューシッポス]]とされる。</ref>。死して勲を残す英雄は、守護と呪いの形で、その死後に強い力を発揮した者でもある{{efn|松村一男は、『世界神話辞典』の「英雄」の章において、英雄崇拝が顕著なのは「個人としての名誉や武勇がなお意味を持」ち、「英雄の栄光」の賛美が有意味であった「古代社会」であるとし、また英雄は「高貴で悲劇的な神話存在」であると述べている{{sfn|松村|1999|p=225}}。このような把握に従い、松村はギリシア神話の英雄について記述して、[[アキレウス]]こそ英雄であり、智将[[オデュッセウス]]は今日から見れば真の英雄であるが、ギリシア神話では、悲劇性を欠いているため英雄崇拝には向いていない旨述べている{{sfn|松村|1999|p=235}}。しかし、これらの松村の言説は、一般概念としての英雄あるいは英雄崇拝を念頭しており、古代ギリシアにおける「ヘーロース」概念や「ヘーロース崇拝」の実質内容に踏み込んだ話ではない。}}。 ==== ゼウスの息子 ==== 英雄は古代ギリシアの名家の始祖であり、祭儀や都市の創立者であり名祖であるが、その多くはゼウスの息子である。ゼウスは[[ニュンペー]]や人間の娘と交わり、数多くの英雄の父となった。数々の王家が神の血を欲した。 [[Image:Correggio 008.jpg|thumb|170px|[[ダナエ (コレッジョの絵画)|ダナエーと金の雨]]]] <!-- [[Image:François-Édouard Picot - Léda.jpg|thumb|right|200px|[[レーダー]]と白鳥(ゼウス)]]--> 数々の冒険と武勇譚で知られ、数知れぬ子孫を残したとされる[[ヘーラクレース]]はゼウスと人間[[エーレクトリュオーン]]の娘[[アルクメーネー]]のあいだに生まれた。ゼウスは彼女の夫[[アンピトリュオーン]]に化け、更に[[ヘーリオス]]に命じて太陽を三日間昇らせず彼女と交わって英雄をもうける。また白鳥の姿になって[[レーダー (ギリシア神話)|レーダー]]と交わり、[[ヘレネー]]及び[[ディオスクーロイ]]の兄弟をもうけた。アルゴス王[[アクリシオス]]の娘[[ダナエー]]の元へは黄金の雨に変身して近寄り[[ペルセウス]]をもうけた。テュロス王[[アゲーノール]]の娘[[エウローペー]]の許へは、白い牡牛となって近寄り、彼女を背に乗せると[[クレタ島|クレータ島]]まで泳ぎわたった。そこで彼女と交わって[[ミーノース]]や[[ラダマンテュス]]等をもうける。 [[Image:Amigoni, Jacopo (1675 - 1752), Giove e Callisto -ca. 1740-1750-.jpg|thumb|left|180px|[[カリストー]]を誘惑するゼウス]] <!-- [[Image:Correggio 028c.jpg|thumb|left|100px|[[イーオー]]とゼウス]]--> ゼウスはまた、[[アルテミス]]に従っていた[[ニュンペー]]の[[カリストー]]に、アルテミスに化けて近寄り交わった。こうしてアルカディア王家の祖[[アルカス]]が生まれた。[[プレイアデス]]の一人[[エーレクトラー]]との間には、トロイア王家の祖[[ダルダノス]]と、後に[[デーメーテール]]女神の恋人となった[[イーアシオーン]]をもうける。[[イーオー]]はアルゴスのヘーラーの女神官であったが、ゼウスが恋して子をもうけた。[[ヘーラー]]の怒りを恐れたゼウスはイーオーを牝牛に変えたが、ヘーラーは彼女を苦しめ、イーオーは世界中を彷徨ってエジプトの地に辿り着き、そこで人の姿に戻り、エジプト王となる[[エパポス]]を生んだ。エウローペーはイーオーの子孫に当たる。 [[アトラース]]の娘[[プルートー]]との間には、神々に寵愛されたが冥府で劫罰を受ける定めとなった[[タンタロス]]をもうける。またゼウスはニュンペーの[[アイギーナ]]を攫った。父親である[[アーソーポス]]河神は娘の行方を捜していたが、コリントス王[[シーシュポス]]が二人の行き先を教えた。寝所に踏み込んだ河神は雷に打たれて死に、またシーシュポスはこの故に冥府で劫罰を受けることとなった。アイギーナからは[[アイアコス]]が生まれる。同じくアーソーポス河神の娘とされる(別の説では[[スパルトイ]]の子孫)[[アンティオペー]]は、[[サテュロス]]に化けたゼウスと交わり[[アンピーオーン]]と[[ゼートス]]を生んだ。アンピーオーンはテーバイ王となり、また[[ヘルメース]]より[[竪琴]]を授かりその名手としても知られた。[[プレイアデス]]の一人[[ターユゲテー]]とも交わり、[[ラケダイモーン]]をもうけた。彼は、ラケダイモーン(スパルテー)の名祖となった。エウリュメドゥーサよりはミュルミドーン人の名祖である[[ミュルミドーン]]をもうけた。 ==== 他の神々の息子 ==== [[Image:Urania Pio-Clementino Inv293.jpg|thumb|110px|[[ウーラニアー]]]] [[アポローン]]は数々の恋愛譚で知られるが、彼の子とされる英雄は、まず[[ムーサ]]の一柱[[ウーラニアー]]との間にもうけた名高い[[オルペウス]]がある(別説では、ムーサ・[[カリオペー]]と[[オイアグロス]]の子)。[[ラピテース族]]の王の娘[[コローニス]]より、死者をも生き返らせた名医にして医神[[アスクレーピオス]]をもうけた。予言者[[テイレシアース]]の娘[[マントー]]からは、これも予言者[[モプソス]]をもうける。[[ミーノース]]の娘[[アカカリス]]はアポローンと[[ヘルメース]]両神の恋人であったが、アポローンとの間に[[ナクソス島]]の名祖[[ナクソス]]、都市の名祖[[ミーレートス]]等を生んだ。彼女はヘルメースとの間にも、クレータ島の[[キュドーニス]]の創建者[[キュドーン]]をもうけた。 他方、[[ポセイドーン]]は、アテーナイ王[[アイゲウス]]の妃[[アイトラー]]との間に[[テーセウス]]をもうけたとされる。また[[エウリュアレー]]との間には[[オーリーオーン]]を(別説では、彼は[[ガイア]]の息子ともされる)、[[テューロー]]との間には双生の兄弟[[ネーレウス (ギリシア神話の英雄)|ネーレウス]]と[[ペリアース]]をもうけた。[[エパポス]]の娘で[[ニュンペー]]の[[リビュエー]]([[リビュアー]])と交わり、テュロス王[[アゲーノール]]とエジプト王[[ペーロス]]の双子をもうける。[[ラーリッサ]]を通じて、[[ペラスゴス]]([[ペラスゴイ人]]の祖とは別人)、[[アカイオス]]、[[プティーオス]]をもうけた。アカイオスは[[アカイア人]]の祖とされ、プティーオスは[[プティーア]]の名祖とされる。[[オルコメノス]]の[[ミニュアース人]]の名祖とされる[[ミニュアース]]もポセイドーンの子とされるが、孫との説もある。 鍛冶の神[[ヘーパイストス]]は、アテーナイの神話的な王[[エリクトニオス]]の父とされる。彼は[[アテーナー]]に欲情し女神を追って交わらんとしたが、女神が拒絶し、彼の精液はアテーナーの脚にまかれた。女神はこれを[[ウール|羊毛]]で拭き大地に捨てたところ、そこよりエリクトニオスが生まれたとされる{{sfn|高津|1990|p=71}}{{efn|エリクトニオスの名は、erion(羊毛)+khton(大地)の合成のようにも思えるので通俗語源解釈とも考えられる{{sfn|高津|1990|p=71}}。}}。 [[リュカーオーン]]は、アルカデイア王[[ペラスゴス]]と[[オーケアノス]]の娘[[メリボイア]]、またはニュンペーの[[キューレーネー]]の子とされる。彼は多くの息子に恵まれたが、息子たちは傲慢な者が多く神罰を受けたともされる。アルカディアの多くの都市が、リュカーオーンの息子たちを、都市の名祖として求めた形跡がある。また、[[アプロディーテー]]は、トロイア王家の一員[[アンキーセース]]とのあいだに[[アイネイアース]]を生んだ。アイネイアースは後にローマの神話的祖先ともされた。[[アイア]]の[[金羊毛]]皮をめぐる冒険譚「[[アルゴナウタイ|アルゴー号の航海譚]]」に登場する[[コルキス]]王[[アイエーテース]]は、[[ヘーリオス]]とオーケアノスの娘[[ペルセーイス]]の子である。 [[トロイア戦争]]の英雄であり、平穏な長寿よりも、早世であっても、戦士としての勲の栄光を選んだ[[アキレウス]]は、[[ペーレウス]]と海の女神[[テティス]]のあいだの息子である。 === 英雄崇拝とその栄光 === [[Image:Kleonai2.jpg|thumb|140px|[[ヘーラクレース]]神殿跡]] [[ピエール・グリマル]]によれば、[[ヘーラクレース]]とその数々の武勇譚は[[ミケーネ文明|ミュケーナイ時代]]に原形的な起源を持つもので、考古学的にも裏付けがあり、またその活動は全ギリシア中に足跡を残しているとされる{{sfn|グリマル|1992|p=74}}。ヘーラクレースは神と同じ扱いを受け、彼を祭祀する神殿あるいは祭礼はギリシア中に存在した。[[古代ギリシア]]の名家は、競ってその祖先をヘーラクレースに求め、彼らはみずから「[[ヘーラクレイダイ]](ヘーラクレースの後裔)」と僭称した{{sfn|高津|1990|p=235}}。 アキレウスもまた、[[アガメムノーン]]などと同様に、いまは忘却の彼方に沈んだその原像がミュケーナイ時代に存在したと考えられるが、彼は「神々の愛した者は若くして死ぬ」との[[エピグラム]]の通り、神々に愛された半神として、栄誉のなか、人間としてのモイラ(定業)にあって、[[英雄]]としての生涯を終えた。彼の勲と栄光はその死後にあって光彩を放ち人の心を打つのである。 == 神話6:英雄の神話 == {{see also|ギリシャ神話の英雄の系図}} ギリシア神話に登場する多くの人間は、[[ヘーシオドス]]がうたった第4の時代、つまり「[[英雄]]・[[半神]]」の時代に属している。それらは、すでに[[ホメロス|ホメーロス]]が遠い昔の伝承、栄えある祖先たちの勲の物語としてうたっていたものである。 彼らの時代がいつ頃のことなのかという根拠については、神話上での時代の相関が一つに挙げられる。他方、[[考古学]]資料によるギリシア神話の英雄譚が源流であると考えられる古代の[[都市]][[遺跡]]や[[文化_(代表的なトピック)|文化]]、[[戦争]]の痕跡などから推定される時代がある。英雄たちの時代の始まりとしては、[[プロメーテウス]]の神話の延長上にあるとも言える「[[大洪水]]」伝説を起点に取ることが一つに考えられる。 === 大洪水とデウカリオーン === [[プロメーテウス]]の息子[[デウカリオーン]]は、[[エピメーテウス]]と[[パンドーラー]]のあいだの娘[[ピュラー]]を妻にするが、[[大洪水]]は、このときに起こったとされる{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=巻一VII, 2}}。洪水を生き延びたデウカリオーンは、多くの息子・娘の父親となる。ピュラーとのあいだに息子[[ヘレーン]]が生まれたが、彼は自分の名を取って、古代ギリシア人をヘレーン(複数形:ヘレーネス)と呼んだ{{sfn|藤縄|1971|pp=142-143|loc=トゥーキューディデース、巻一3章2節}}。デウカリオーンの息子・孫には、[[ドーロス]]、[[アイオロス]]、[[アカイオス]]、[[イオーン]]がいたとされ、それぞれが、[[ドーリス人]]、[[アイオリス人]]、[[アカイア人]]、[[イオーニア人]]の名祖となったとされるが{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=巻一VII, 3}}、これには歴史的な根拠はないと思われる{{sfn|藤縄|1971|p=146, 148}}。 === アイオロスの裔 === [[Image:Jérôme-Martin Langlois - Diana and Endymion - WGA12461.jpg|thumb|145px|[[エンデュミオーン]]]] しかし、[[アイオロス]]の子孫には、ギリシア神話で活躍する有名な人物がいる。子孫は[[テッサリア]]で活躍し、[[イオールコス]]に王都を建造した。[[ハルモス]]の家系には[[ミニュアース]]と、その裔であり[[アルゴナウタイ]]として著名な[[イアーソーン]]、また医神として後に知られる[[アスクレーピオス]]がいる。また孫娘の[[テューロー]]からは、子孫として[[ネーレウス (ギリシア神話の英雄)|ネーレウス]]([[ポントス (ギリシア神話)|ポントス]]の子の[[ネーレウス (ギリシア神話の神)|ネーレウス]]神とは別)、その子で[[トロイア戦争]]の智将として知られるピュロス王[[ネストール]]がおり、[[ペリアース]]、[[アドメートス]]、[[メラムプース]]、またアルゴス王で「[[テーバイ攻めの七将]]」の総帥である[[アドラストス]]などがいる。ネーレウスは[[ピュロス]]の王都を建造した。 アイオロスの娘婿[[アエトリオス]]の子孫の人物としては、月の女神[[セレーネー]]との恋で知られる[[エンデュミオーン]]、カリュドーン王[[オイネウス]]、その子の[[メレアグロス]]、[[テューデウス]]兄弟がいる。メレアグロスは[[ホメーロス]]でも言及されていたが(『[[イーリアス]]』)、猪退治の話は後世になって潤色され、「[[カリュドーンの猪|カリュドーンの猪狩り]]」として、女勇者[[アタランテー]]も含めて多数の英雄が参加した出来事となった。またメレアグロスの姉妹[[デーイアネイラ]]の夫は[[ヘーラクレース]]であり、二人のあいだに生まれた[[ヒュロス]]はスパルテー(ラケダイモーン)王朝の祖である<ref name="dt"/>。 === ペロプスの裔 === [[タンタロス]]は冥府の[[タルタロス]]で永劫の罰を受けて苦しんでいるが、その家系にも有名な人物がいる。彼の息子の[[ペロプス]]は富貴に驕ったタンタロスによって切り刻まれ、オリュンポスの神々への料理として差し出された。この行い故にタンタロスは劫罰を受けたともされるが、以下の別説もある。神々はペロプスを生き返らせ、その後、彼は世に稀な美少年となり、[[ポセイドーン]]が彼を愛して天界に連れて行ったともされる。 ペロプスは神々の寵愛を受けてペロポネーソスを征服した。彼の子孫に[[ミュケーナイ]]王[[アトレウス]]があり、[[アガメムノーン]]とその弟のスパルタ王[[メネラーオス]]はアトレウスの子孫(子)に当たる(この故、ホメーロスは、「アトレイデース=アトレウスの息子」と二人を呼ぶ)。アガメムノーンは[[トロイア戦争]]のアカイア勢総帥であり[[クリュタイムネーストラー]]の夫で、メネラーオスは戦争の発端ともなった美女[[ヘレネー]]の夫である。また、アガメムノーンの息子と娘が、[[ギリシア悲劇]]で名を知られる[[オレステース]]、[[エーレクトラー]]、[[イーピゲネイア]]となる。 ミュケーナイ王家の悲劇に密接に関連する[[アイギストス]]もペロプスの子孫で、オレステースと血が繋がっている。他方、アトレウスの兄弟とされる[[アルカトオス]]の娘[[ペリボイア]]は、[[アイアコス]]の息子であるサラミス王[[テラモーン]]の妻であり、二人のあいだの息子が[[大アイアース|アイアース]]である。また、テラモーンの兄弟でアイアコスのいま一人の息子が[[ペーレウス]]で、「ペーレウスの息子」(ペーレイデース)が、トロイア戦争の英雄[[アキレウス]]となる<ref name="dt">{{Harvnb|高津|1990|loc=『ギリシア・ローマ神話辞典』}}</ref>。 === テーバイ王家とクレータ王家 === [[Image:Cup Rider Painter Louvre E669 full.jpg|thumb|170px|竜と戦う[[カドモス]]]] [[リビュエー]]は雌牛となった[[イーオー]]の孫娘に当たる。リビュアーと海神[[ポセイドーン]]の間に生まれたのが[[フェニキア]]王[[アゲーノール]]で、[[テーバイ]]王家の祖である[[カドモス]]と、[[クレタ島|クレータ]]王家の祖とも言える娘[[エウローペー]]は彼の子である。 カドモスは竜の歯から生まれた戦士としてよく知られる。カドモスの娘には[[セメレー]]があり、彼女は[[ゼウス]]の愛を受けてディオニューソスを生んだ。テーバイ王[[ペンテウス]]はカドモスの孫にあたり、彼は[[ディオニューソス]]信仰を否定したため、狂乱する女たちに引き裂かれて死んだ。その女たちの中には、彼の母[[アガウエー]]や伯母[[イーノー]]も含まれていた。ペンテウスとディオニューソスは従兄弟同士となる。カドモスの別系統の孫には[[ラブダコス]]があり、彼は[[ラーイオス]]の父で、ラーイオスの息子が[[オイディプース]]である。オイディプースには妻[[イオカステー]]のあいだに娘[[アンティゴネー]]等四人の子供がいる。 他方、カドモスの姉妹に[[エウローペー]]があり、彼女はクレータ王[[アステリオス]]の妻であるが、ゼウスが彼女を愛し[[ミーノース]]が生まれる。ミーノースの幾人かの息子と娘のなかで、[[カトレウス]]は娘を通じて[[アガメムノーン]]の祖父に当たり、同様に、彼は[[パラメーデース]]の祖父である。カトレウスの孫には他に[[イードメネウス]]がいる。ミーノースの娘[[アリアドネー]]は、本来人間ではなく[[女神]]とも考えられるが、ディオニューソスの妻となって[[オイノピオーン]]等の子をもうけた。クレータの迷宮へと入って行った[[テーセウス]]は、[[アテーナイ]]王[[アイゲウス]]の息子とも、[[ポセイドーン]]の息子ともされるが、ミーノースの娘[[パイドラー]]を妻とした。 === トロイア王家 === [[Image:Hector1-4225.jpg|thumb|220px|[[ヘクトール]]と[[パリス]]]] [[アガメムノーン]]を総帥とするアカイア勢(古代ギリシア人)に侵攻され、十年の戦争の後に陥落した[[イリオス|トロイア]]は、[[トロイア戦争]]の舞台として名高い。[[小アジア]]西端に位置するこの都城の支配者は、[[ゼウス]]を祖とする[[ダルダノス]]の子孫である。彼はトロイア市を創建し、[[キュベレー]]崇拝を[[プリュギア]]に導いたとされる。ダルダノスの孫が[[トロース]]で、彼がトロイアの名祖である。トロースには三人の息子があり、イーロス、アッサラコス、[[ガニュメーデース]]である。ガニュメーデースは美少年中の美少年と言われ、[[ゼウス]]が彼を攫ってオリュンポスの酒盃捧持者とした。 [[イーロス]]は[[ラーオメドーン]]の父で、後の老トロイア王[[プリアモス]]の祖父である。英雄[[ヘクトール]]と[[パリス]](アレクサンドロス)はプリアモスの息子、予言で名高い[[カッサンドラー]]は娘である。またヘクトールの妻[[アンドロマケー]]は、トロイア陥落後、[[アキレウス]]の息子[[ネオプトレモス]]の奴隷とされ、彼の子を生む。 他方、トロースの三人の息子の最後の一人[[アッサラコス]]は[[アンキーセース]]の祖父で、アンキーセースと[[アプロディーテー]]女神のあいだに生まれたのが[[アイネイアース]]である。トロイア陥落後、彼は諸方を放浪して[[ローマ]]に辿り着く。[[ウェルギリウス]]は彼を主人公として[[ラテン語]][[叙事詩]]『[[アエネーイス]]』を著した。アイネイアースの息子[[アスカニオス]]([[イウールス]])はローマの名家ユーリア氏族(gens Iulia)の祖とされる。 === 英雄たちの結集 === ギリシア神話には、断片的なエピソード以外に、一人の人物あるいは一つの事件が、複雑に展開し、数多くの[[英雄]]たちがその物語に関係してくる「複合物語」とも呼べる神話譚がある。 [[アテーナイ]]の王子であった「[[テーセウス]]」の生涯は、劇的な展開を見せ、[[クレタ島|クレータ島]]の[[迷宮]]での冒険を経た後になっても、[[コルキス]]の王女[[メーデイア]]が義母であったり、その魔術と戦うなど、[[ミーノース]]王や[[アリアドネー]]を含め、広い範囲の多数の人物と関わりを持っている。 [[Image:Héraklès Archer Bourdelle musée Orsay Paris France.JPG|thumb|200px|弓を引く[[ヘーラクレース]]]] [[テーセウス]]の生涯以上に華麗で、夥しい人物が関係し、また様々な重要事件に参加する[[ヘーラクレース]]の物語もまた[[英雄]]の結集する神話とも言える。彼に課された十二の難題の物語だけでも十分に複雑であるが、ヘーラクレースは「[[アルゴナウタイ]]」の一員でもある。更に、[[アポロドーロス]]によると、彼は[[ゼウス]]の王権が確立した後に起こったとされる[[ギガース]](巨人)たちとの戦いにも参加している{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=巻一,1-2}}。また、[[オルペウス教]]の断片的な資料では、原初にクロノス Khronos(時)、別名ヘーラクレースが出現したという記述がある{{sfn|ソレル|2003|p=43}}。これが英雄ヘーラクレースかどうか定かではないが、無関係とも言いきれない。 ギリシア中から英雄が集結して冒険に出発するという話としては、[[イアーソーン]]を船長とするコルキスの金羊毛皮をめぐる「[[アルゴナウタイ]]」の物語が挙げられ、ここではヘーラクレースや[[オルペウス]]なども参加している。 また、[[アドラストス]]を総帥とする「[[テーバイ攻めの七将]]」の神話やその後日談でもある、七将の息子たちの活躍も、英雄たちが結集した物語である。[[メレアグロス]]の猪退治の伝承が潤色され、拡大した規模で語られるようになった「[[カリュドーンの猪|カリュドーンの猪狩り]]」の神話もまた、メレアグロスを中心に、[[カストール]]と[[ポリュデウケース]]の兄弟、[[テーセウス]]、[[イアーソーン]]、[[ペーレウス]]と[[テラモーン]]、そして[[アタランテー]]なども参加した英雄の結集物語である。 ==== トロイア戦争 ==== ギリシア神話上で、もっとも古く、もっとも重層的に伝承や神話や物語が蓄積されているのは、「[[トロイア戦争]]」をめぐる神話である。古典ギリシアの文学史にあって、[[紀元前9世紀]]ないし[[紀元前8世紀|8世紀]]に、突如として完成された形で、[[ホメーロス]]の二大[[叙事詩]]、すなわち『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』が出現する。詳細な研究の結果、これらの物語は突如出現したのではなく、その前史ともいうべき過程が存在したことが分かっている{{sfn|高津|1952|pp=23-25}}。 トロイア戦争をめぐっては、その前提となった[[パリスの審判]]の物語や、ギリシアとトロイアのあいだの交渉、アカイア軍の出陣、そして長期に渡る戦争の経過などが知られている。『イーリアス』は十年に及ぶ戦争のなかのある時点を切り出し、[[アキレウス]]の怒りから始まり、代理で出陣した[[パトロクロス]]の戦死、[[ヘクトール]]との闘い、そして彼の死と、その葬送のための厳粛な静けさで物語が閉じる。他方、『オデュッセイア』では、トロイア戦争の終結後、故郷の[[イタケー島]]へ帰国しようとした[[オデュッセウス]]が嵐に出会い、様々な苦難を経て故郷へと帰る物語が記されている。 トロイア戦争の経過の全貌はどのようなものであったのか、トロイア陥落のための「[[トロイアの木馬|木馬の計略]]」の話などは、断片的な物語としては伝わっていたが、完全な形のものは今日伝存していない。しかし、この神話あるいは歴史的な伝承が、大きな物語圏を築いていたことは今日知られている。 == 宗教との関係 == [[神話]]は多くの場合、かつて生きていた[[宗教]]や信仰の内実、すなわち世界の「真実」を神聖な物語(文学的表現)または象徴の形で記録したものだと言える。このことは、現在なお信仰され続けている宗教等にも該当する。神話はまた多くの場合、儀礼と密接な関係を持つ{{sfn|松村|1999|pp=11-14}}{{sfn|ヒネルズ|佐藤 監訳|1999|ref=w|pp=253-254}}。[[ミルチア・エリアーデ|エリアーデ]]は神話は世界を含む「創造を根拠付ける」ものとした。このことは人間の起源の説明が宗教的世界観の一部として大きな意味を持つことからも肯定される<ref>『宗教学入門』 pp.145-147。</ref>。 === ギリシア人と神々への信仰 === [[Image:Polyhymnia monte calvo.jpg|thumb|110px|ポリヒュムニア]] [[古代ギリシア|古代ギリシア人]]は人間と非常に似た神々が登場するユニークな神話を持っていたが、彼らはこれらの神々を宗教的信仰・崇拝の対象として考えていたのかについては諸説ある。実際、[[西欧]]の中世・近世を通じて、人々はギリシア神話を架空の造り話か寓話の類とも見なしていた。現代においても、ポール・ヴェーヌは、「ギリシア人がその神話」を本当に信仰していたのかをめぐり疑問を提示する。彼は古代ギリシア人が[[ソフィスト]]たちの懐疑主義を経ても[[ロゴス]]と[[ミュートス]]の区別が曖昧であったことを批判する。しかしヴェーヌの結論は、古代ギリシア人はやはり彼らの神話を信じていたのだ、ということになる{{Sfn|ヴェーヌ|1985|p=不明{{要ページ番号|date=2019-06-26}}}}。 また、古代のギリシア人自身のなかでも疑問は起こっていたのであり、紀元前6世紀の詩人哲学者[[クセノパネス|クセノパネース]]は、[[ホメーロス]]や[[ヘーシオドス]]に描かれた神々の姿について、盗みや姦通や騙し合いを行う下劣な存在ではないかと批判している{{sfn|藤縄|1971|p=13}}。 ホメーロスやヘーシオドスは、自分たちのうたった神話が「真実」であることに確信を持っていた。この場合、何が真実で、何が偽なのかという規準が必要である{{efn|この規準は、現代の科学が設定している規準とは明らかに異なっている。しかしホメーロスもヘーシオドスも、共に彼らのうたう作品に作為的な造話あるいは様式的な虚構が入っていることは自覚していた。}}。しかし彼らがうたったのは、神々や人間に関する真実であって、造話や虚構と現代人が考えるのは、真実を具象化するための「表現」であり「技法」に過ぎなかった{{sfn|グリマル|1992|pp=6-9}}{{efn|ヘーシオドスは、ヘリコーン山の[[ムーサイ]]たちより、「真実らしきもの」ではなく「真実」を開示されたと作品のなかで宣言している{{sfn|ヘーシオドス|廣川洋一 訳|1984|pp=11-12|loc=訳注26, pp.127-128}}。}}。 神話の重要な与件の一つとして作者の無名性が考えられていた。誰が造ったのでもなく太古の昔より存在するのが神話であった{{sfn|松村|1999|pp=13-14}}。紀元前7世紀中葉以降、叙事詩的伝統に代わって、個人の感情や思いをうたう[[叙情詩|抒情詩]]が誕生する。抒情詩人は超越的な神々の存在について寧ろ無関心であった。しかし、これに続いて出現した[[ギリシア悲劇]]においては、[[ムーサ]]女神への祈りもなく、明らかに彼らが創作したと考えられる物語を劇場で公開するようになる。これによってギリシア神話は人間的奥行きを持ち深化したが、彼らは神話を信じていたのだろうか。悲劇詩人たちは[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]が洞察したように、[[コロス]]の導入によって、そして今一つに「英雄」の概念の変遷により、共同体の真実をその創作に具現していた。彼らはなお神を信仰していたのであるが、神話についてはそうでもなかった{{sfn|藤縄|1971|pp=230-235}}。 === ソピステースとプラトーン === [[Image:Sanzio 01 Plato Aristotle.jpg|thumb|left|130px|アテーナイの学堂]] しかし三大悲劇詩人の活動の背後で、奴隷制を基礎に置くギリシアの諸ポリスは、アテーナイを代表として困難に直面することにもなる{{efn|紀元前4世紀末の人口調査では、アッティカの自由市民は2万1千人であるのに対し、奴隷は40万人いたとされる<ref>『ギリシア文明史』下巻 pp.145-146。</ref>。}}{{sfn|桜井・本村|1997|pp=175-176}}{{efn|ヘーシオドスは労働を称賛したが、この時代、[[プラトン|プラトーン]]やアリストテレースも含め、労働の蔑視が市民の常識となった。自由市民はポリス共同体の一員として祖国の危機にあっては兵士として戦ったが、奴隷の増大は、ポリス市民の道徳・倫理を著しく低下させた。}}。[[ペルシア戦争]]での奇蹟的な勝利の後、アテーナイの覇権と帝国主義が勃興するが、ポリスは覇権をめぐって相互に争うようになる。[[ペロポネソス戦争]]で敗北したアテーナイにあって独自な思想を語った[[ソクラテス|ソークラテース]]はなお敬神の謎めいた人物であったが、彼に先駆する[[ソフィスト|ソピステース]]たちは、神々もまた修辞や議論の為の道具と見なし、[[プロタゴラス|プロータゴラース]]は「神々が存在するのかしないのか、我々には知りようもない」と明言した{{sfn|藤縄|1971|pp=286-289}}。 ソークラテースの弟子であり偉大なソピステースたちの論法を知悉していた紀元前4世紀のプラトーンは、古代ギリシアの民主主義の破綻と欠陥を認めず、彼が理想とする国家についての構想を語る。プラトーン以前には、ホメーロスの[[叙事詩]]が青少年の教科書でもあり、戦士としての心構え、共同体の一員たる倫理などは彼の二大作品を通じて学ばれていた。しかし、プラトーンは『[[国家 (対話篇)|国家]]』において、異様な「理想社会」のモデルを提唱した。プラトーンはまずホメーロスと英雄叙事詩を批判し、これをポリスより追放すべきものとした<ref>『ギリシア文明史』下巻 p.98。</ref>{{sfn|グリマル|1992|pp=115-116}}。また、彼の理想の国家にあっては、「悲劇」は有害であるとしてこれも否定した<ref>『ギリシア文明史』下巻 pp.112-117。</ref>。 [[Image:Lafond Sappho and Homer.jpg|thumb|180px|[[サッポー]]と[[ホメーロス]]]] しかし、このような特異な思想を語ったプラトーンはまた、時期によっては、神話(ミュートス)を青少年の教育に不適切であるとする一方で、自分の著作に、ふんだんに寓意を用い、真実を語るために「神話」を援用した<ref>『ギリシア文明史』下巻 pp.118-159。</ref>。ポリスの知識人階級のあいだでは、古来のギリシア神話の神々や英雄は、崇拝の対象ではなく、修辞的な装飾とも化した。こうして[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]が[[アケメネス朝]]を滅ぼし、みずからが神であると宣言したとき、「神々への信仰」はポリス共同体から消え去った、あるいはもはやポリスはこのような[[宗教]]的情熱を支えるにはあまりにも変質してしまったのだと言える。神話(ミュートス)が備えていたリアリティは消失し、神話と現実の分離が起こった{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|pp=19-20}}。 人々の敬神の伝統はそれでも[[パウサニアス (地理学者)|パウサーニアース]]が紀元後になって証言しているようにアテーナイにおいても、またギリシアの地方や田舎にあってなお続いた。一方で、[[アリストテレス|アリストテレース]]は「歌うたいが法螺をふいている」と著作のなかで断言した<ref>アリストテレース『[[形而上学]]』巻A。</ref>。 == 展開と変容 == 古典学者ピエール・グリマルはその小著『ギリシア神話』の冒頭で、「ギリシア神話」とは何を指す言葉かを説明している。グリマルは、紀元前9-8世紀より紀元後3-4世紀にあって、ギリシア語話圏で行われていた各種の不思議な物語、伝説等を総称して「ギリシア神話」とする{{sfn|グリマル|1992|p=5}}。この広範な神話圏は、紀元前4世紀末または前3世紀初にあって内容的・形式的に大きな変容を経過する。一つのは文献学の発達と、書物の要約作成によってであり、いま一つは、生きた神々への敬神の表現でもあった詩作品などに代わる、娯楽を目的とした作品の登場によってである。 === 文献学と娯楽作品 === [[Image:Ptolemaeus I&Berenike I.jpg|thumb|left|110px|[[プトレマイオス1世|プトレマイオス1]]]] ギリシアの諸ポリスは、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス]]の統一とオリエント征服によって事実上消滅した。アレクサンドロスはエジプトに自己の名を付けた新都を建設した。エジプトを継承した[[ディアドコイ]]の一人[[プトレマイオス1世|プトレマイオス]]はそこに世界最大と称された[[アレクサンドリア図書館|アレクサンドレイア図書館]]を建造し、夥しい蔵書の収集に着手すると共に、ヘレニズムの世界に優秀な学者を求めた{{sfn|高津|1952|pp=206-211}}{{efn|アテーナイにはしかし、アカデーメイア、リュケイオン、そしてエピクーロスの園とゼーノーンによるストア派は残った{{sfn|高津|1952|p=207}}。}}。今日伝存する多くの古代の文献・文書はこの時代に編纂され、あるいは筆写され写本として残ったものである。 図書館はアレクサンドレイア以外にもペルガモンなどが著名であった。図書館は鎖されていたとはいえ、高い評価を受けた作品は、筆写されて、教養人・貴族などに広がっていった。図書館は大量の書物について、その内容要約書をまた編集していた。長い原著を読むよりも、学者が整理した原著の要約を読むことで、無教養な俄成金などは自己の見せかけの知識を喧伝できた{{sfn|高津|2006|p=228, 234}}。あるいは諸種の伝説について、主題ごとの見取り図を与えるために書籍が編纂された{{sfn|グリマル|1992|pp=18-19}}。このような「集成」本のなかでも、もっとも野心的であったのが、紀元前2世紀のアテーナイの文献学者アポロドーロスのものと長く考えられていた、[[アポロドーロス]]の『[[ビブリオテーケー]]』(ギリシア神話文庫)である{{sfn|グリマル|1992|p=19}}。 一方、帝政ローマ期の貴族や富裕な階層の人々は、古代ギリシアの神々への崇拝や敬神の念とは関係なく、純粋に面白く色恋の刺激となる物語を好んだ。これらの嗜好の需要に合わせ、[[オウィディウス]]などは、神々への敬神などとは無縁な、娯楽目的の『変身物語』を著し、また同じような意味で[[アプレイウス]]は『黄金の驢馬』を著した。オウィディウスの書籍はギリシア神話全体を扱うもので、体系的な著作とも言えるが、しかし気楽に読むことのできる短いエピソードの集成でもあった。 == 現代の神話研究と神話学 == ギリシア神話の宗教としての「真実」の開示の機能は、このようにして[[ヘレニズム]]の時代にその終焉を迎えたと言える。新しく勃興したキリスト教は、まさに神話を否定したプラトーンの思想の延長上にあるとも言えたが、この後、千年以上にわたって続く西欧の精神の歴史のなかで、ギリシア神話はもはや宗教ではなく、この神話に登場する逸話や神々を、自然現象の寓意とも、娯楽のための造話とも見なしていた。 19世紀アメリカの文学者である[[トマス・ブルフィンチ]]はギリシア・ローマ神話に関する一般向けの概説書を著したが(''Bulfinch's Mythology'', 『ギリシア神話と英雄伝説』)、「神話の起源」について次のような四つの説をまとめ紹介している。1)神話は『聖書』の物語の変形である。2)神話はすべて歴史的事実の反映であり、後世の加筆や粉飾で元の姿が不明となったものである。3)神話は[[道徳]]・[[哲学]]・[[宗教]]・[[歴史]]の真理などを寓意的に表現したものである。4)神話は多様な自然現象の[[擬人化]]である。この最後の解釈は、19世紀初頭の[[ウィリアム・ワーズワース|ワーズワース]]の詩作品に極めて明瞭に表出されているとする<ref>『ギリシア神話と英雄伝説』下巻 pp.290-295。</ref>。 === 19世紀と比較神話学 === [[Image:Max Muller.jpg|thumb|left|125px|[[フリードリヒ・マックス・ミュラー|マックス・ミュラー]]]] [[神話]]の解釈や研究において大きな刺激となったのは、19世紀にあっては、[[印欧語]]の比較研究より生まれた[[比較言語学]]である。ドイツ生まれで、後半生をイギリスに生き研究を行った[[フリードリヒ・マックス・ミュラー|マックス・ミューラー]]は比較神話学という形の神話解釈理論を提唱した。比較言語学の背景にある思想は当時西欧を席巻していた[[進化論]]と進歩主義的歴史観である。ミューラーは、ギリシア神話を[[インド神話]]などと比較した上で、これらの神話の意味は、最終的には[[太陽]]をめぐる自然現象の擬人化であるとする神話論を主張した{{Sfn|大林ほか|1994|p=37}}。 [[Image:(Barcelona) The Golden Bough - Joseph Mallord William Turner - Tate Britain.jpg|thumb|190px|『[[金枝篇]]』[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ターナー]]画]] [[ジェームズ・フレイザー]]はミューラーと同じく自然神話学を唱えたが、彼は浩瀚な『[[金枝篇]]』において王の[[死と再生の神|死と再生の神話]]を研究し、[[神話]]は天上の自然現象の解釈ではなく、地上の現象と社会制度のありようの反映であるとした。また神話は呪術的儀礼を説明するために生み出されたとも主張した。ミューラーの解釈では、[[ゼウス]]は[[太陽]]の象徴で神々の物語も、太陽を中心とする自然現象の擬人的解釈であるということになる。他方、フレイザーでは、「死して蘇る神」の意味解明が中心主題となる。[[エレウシースの秘儀]]がこのような神話であり、[[ディオニューソス]]もまた死して後、[[ザグレウス]]として復活する。 === 構造と普遍的な神話学 === [[Image:Demeter Altemps Inv8596.jpg|thumb|120px|デーメーテール]] <!-- [[Image:Eleusis2.jpg|thumb|right|115px|[[エレウシース]]]] --> ソシュールの構造の概念を継承して神話研究に適用したのは人類学者の[[クロード・レヴィ=ストロース]]であり、彼は『構造神話学』において、[[オイディプース]]の悲劇を、{{仮リンク|神話素|en|Mytheme}}のあいだの差異の構造と矛盾の体系として分析し、「神話的思考」の存在を提唱した。オイディプース神話の目的の一つは、現実の矛盾を説明し解明するための構造的な論理モデルの提供にあるとした。この神話の背後には様々な矛盾対立項があり、例えば、人は男女の結婚によって生じるという認識の一方で、人は土から生まれたという[[古代ギリシア]]の伝承の真理について、この矛盾を解決するための構造把握がオイディプース神話であるとした。 フロイトの無意識の発見から淵源したとも言える[[深層心理学]]の理論は、歴史的に現れる現象とは別に、時間を超えて普遍的に存在する構造の存在を教える。[[カール・グスタフ・ユング|ユング]]は、このような普遍的・無時間的な構造の作用として[[元型]]の概念を提唱した。ケレーニイとの共著『神話学入門』においては、童子神の深層心理学的な分析が行われるが、[[コレー]]や永遠の少年としての[[エロース]]は太母([[地母神]])としての[[デーメーテール]]などとの関係で出現する元型であり、「再生の神話」と呼ばれるものが、無意識の構造より起源する自我の成立基盤であり、自我の完全性への志向を補完する普遍的な動的機構であるとした<ref>ユング、ケレーニイ『神話学入門』{{Full citation needed |title=刊行年が複数ありますが、どれを用いたのか不明です。 |date=2019-06-26}}</ref>。 == 影響 == === ローマ帝国の分裂と写本 === [[Image:Roman SPQR banner.svg|thumb|120px|共和政ローマ]] 紀元3世紀ないし4世紀には未だ、[[ヘレニズム]]時代とローマ帝政期に造られ、伝存していた莫大な量の書籍があったとされる{{sfn|高津|2006|pp=234-235}}。例えば、古典三大悲劇詩人の作品は、現在伝存しているものは、名が伝わっているもののなかの十分の一しかないが、この当時には未だほぼ全巻が揃っていたと考えられる{{sfn|高津|2006|pp=238-239}}。これらの莫大な書籍・写本は、ヘレニズム時代が過ぎ去り、帝政ローマが終焉を迎えた後では、激減してほとんどの書籍が散逸したとされる。 それは東西に分裂したローマ帝国の西の帝国の領域で著しかった。[[西ローマ帝国|西ローマ]]は間もなく滅亡し、ゲルマンの国である[[フランク王国]]が成立するが、一旦失われた書籍は再び回復しなかった。他方、東の帝国すなわち[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国]]の領域では、多数の書籍とその写本がなお豊富に残っており、これを利用して、12世紀の[[ヨハンネス・ツェツェース]]などの文献学者は、なおギリシア神話に関する膨大な注釈本などを記していた{{sfn|グリマル|1992|p=20}}{{efn|{{Harvtxt|グリマル|高津 訳|1992|p=20|loc=訳注(2)}}によれば、ツェツェースらは膨大な注釈を記し考証を行ったが、それらは不正確で無意味なものであった。ただ、膨大な注釈や文学史の記録に彼らが引用した古代の著作の断片は貴重な史料である。時代が十世紀ほど戻るが、ヒュギーヌスの『ギリシア神話集』の訳者は、アポロドーロス以上に支離滅裂で場当たり的な話の集成について疑問を呈している。}}。 === 十二世紀ルネサンス === 西欧においては、すべての写本、古代の遺産が失われたわけではなく、14世紀から15世紀にかけてのルネッサンスにおいて、丹念に[[修道院]]の文書庫などを調べることで、[[ギリシア語]]原典の写本などがなお発見されつづけた。他方、西欧で失われた多くの書籍は、8世紀におけるイスラーム帝国の勃興と共に、[[東ローマ帝国|ビザンティン帝国]]を介してイスラームに渡った。しかしアラトスなど極一部の例外を除き、神話についての書籍は伝承されなかった。 中世からルネサンスにかけては、[[マクロビウス]]、{{仮リンク|フルゲンティウス|en|Fabius Planciades Fulgentius}}、[[マルティアヌス・カペッラ]]、[[マウルス・セルウィウス・ホノラトゥス|セルウィウス]]らのラテン語著作が古代神話の出典として参照された。さらに盛期には『バチカン・ミトグラフス』など中世独自の古代神話集成も著された。 === ルネサンスとギリシア神話 === [[Image:Threegraces.jpg|thumb|140px|[[ボッティチェリ]]-春]] 西欧では、[[古代ギリシア]]語による文芸はほとんど忘れられていたが、14世紀初頭の代表的な中世詩人である[[ダンテ・アリギエリ]]は、『[[神曲]]』地獄篇のなかで[[リンボー]]という領域を造り、そこに古代の詩人を配置した。5人の詩人中4人はラテン語詩人で、残りの一人がホメーロスであった。しかし、ダンテはホメーロスの作品を知らなかったし、西欧にこの大詩人が知られるのは、やや後{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|pp=322-326}}{{Sfn|樺山|1996|pp=44-45}}になってからであった。 しかし西欧では、古代のローマ詩人[[オウィディウス]]の名とその作品はよく知られていた。イタリア・ルネサンスの絵画でギリシア神話の主題を明確に表現しているものとして、[[サンドロ・ボッティチェリ]]の『[[ヴィーナスの誕生]]』と『春』が存在する。両絵画共に制作年は明確ではないが、1482年頃であろうと想定されている<ref>『世界の歴史16・ルネサンスと地中海』 p.199。{{Full citation needed |title=単行本と文庫版のどちらを指しているのか不明です。 |date=2019-06-26}}</ref>。高階秀爾はこの二つの絵画を解釈して、『春』はオウィディウスの『祭暦』の描写に合致する一方、『ヴィーナスの誕生』と『春』が対を成す作品ならば、これは「天のアプロディーテー」と「大衆のアプロディーテー」の描き分けの可能性があると指摘している{{Sfn|高階|1987|pp=215-216}}{{Sfn|高階|1987|pp=249-252}}{{efn|「天のアプロディーテー({{lang|en|Aphrodite Ourania}})」と「大衆のアプロディーテー({{lang|en|Aphrodite Pandemos}})」の対比はすでにプラトーンの頃から議論されていたが、本来、「オリエント対ヘレーネス」の対比であったものが、[[キリスト教]]文化と混じり合い、「聖愛と俗愛」のような対比にも発展する余地があった。それは[[古代ギリシア]]に起源するというより、西欧ルネサンスの持つ「光と影」にむしろ対応する。}}。 [[ボッティチェリ]]の『ヴィーナスの誕生』は、イタリア・ルネサンスにおけるギリシア神話の具象的表現の代表的な作品とも言える。この絵の背後にあると想定される[[マルシリオ・フィチーノ]]など([[プラトン・アカデミー]])の[[ネオプラトニズム]]の哲学や、魔術的[[ルネサンス]]の思想は、秘教的なギリシア文化と西欧文化のあいだで通底する美的神話的原理であるとも言える。次に、西欧世界において、ルネサンス期以前のギリシアのイメージはどのようなものだったのかを記す。 ==== ホメーロスと古代ギリシア ==== [[Image:Achilles by Lycomedes Louvre Ma2120.jpg|thumb|left|110px|[[アキレウス]]]] 西欧における古代ギリシア、わけてもホメーロスの像は、いわゆる「トロイアの物語」のイメージで捉えられていた。これは紀元4世紀ないし5世紀のラテン語の詩『トロイア戦争日誌』と『トロイア滅亡の歴史物語』を素材として、12世紀にブノワ・ド・サント=モールが[[フランス語]]で書いたロマンス風の『トロイア物語』から広がって行ったものである。この作品は更に[[ラテン語]]で翻案され、全ヨーロッパ中に広まったとされる{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|pp=326-327}}。 叙事詩人ホメーロスが意図した古代ギリシアと、西欧中世にあって「トロイア物語」を通じて流布したギリシアの像では、どのような違いがあったのか。ここで言えるのは、両者が共に「歴史性」を負っていること、しかし前者は「詩的」であろうとする世界であり、後者はあくまで「史的」であろうとする世界である{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|pp=326-328}}。ホメーロス時代のギリシアの世界には「神々の顕現」が含まれていたが、古代末期から近世にかけての西欧において思い描かれていた「ギリシア世界」では、「神々の不在」が顕著であり、脱神話化が行われている。 だがイタリアの[[人文主義者]]たちは、ホメーロス『[[イーリアス]]』原典を、15世紀半ばにラテン語訳した。この翻訳を通じ、汎西欧的にホメーロス及び古代ギリシアの把握像に変化が生じてきた。17世紀には、ジョージ・チャップマンが『イーリアス』(1611年)と『オデュッセイア』(1614年)を英訳し、マダム・ダシエ(1654-1720)が『イーリアス』と『オデュッセイア』を、[[フランス語]]訳した{{sfn|川島|高田|2003|ref=Musa|pp=328-329}}。このように進展した事で、古典ギリシアの再発見とも呼べる事態が到来した。 === ギリシア神話と西欧 === {{出典の明記|date=2022-02-10|section=1}} [[Image:LEONARDO.JPG|thumb|120px|[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]]] ====天文学 ==== ギリシア神話の影響を現在も強く受けている学問の一つが天文学である。現在、恒星を結んで作る[[星座]]は88を数えるが、そのうち[[トレミーの48星座]]などは、ギリシア神話と結び付けられている。またローマ神話は太陽はアポローン、月はアルテミスに擬えたほかローマ神話を経由して惑星の名称も水星はヘルメース(ローマ神話のメルクリウス)、金星はアプロディーテー(同ヴィーナス)、火星はアレース(同マールス)、木星はゼウス(同ユーピテル)、土星はクロノス(同サートゥルヌス)に擬えられている。近代になってガリレオ・ガリレイ木星の4つの衛星を発見したときもガニメデ、エウロペ、カリスト、イオとゼウスにゆかりのある物が命名されている。近代以降発見された天体も天王星(ウーラヌス)、海王星(ポセイドーン(ローマ神話のネプチューン))、冥王星(ハーデース(ローマ神話のプルートー))とギリシア神話にゆかりのある名がつけられる慣行が残っている。20世紀から21世紀においても冥王星に衛星が発見されるとカロン、ニュクス、ヒュドラ、ケルベロスとハーデースにゆかりのある事物に因んで命名されている。天体の新発見が相次ぎ命名に使用するギリシア神話の事物が枯渇し始めると「神話の神々の名を使用する」という慣行による命名が行われており、21世紀になってもなお天文学においてギリシア神話の影響は強い。 ====医学 ==== 医学においても医療の象徴にアスクレーピオスの蛇の杖が使用されるなど、ギリシア神話にゆかりのある物が多数ある。[[アキレス腱]]、[[エディプスコンプレックス]]などはギリシア神話由来である。また[[心理学]]を意味するサイコロジーの「サイコ」も心の女神[[プシューケー]]に由来するほか、性愛を意味する「エロス」は愛の神[[エロース]]に由来し、「恐怖」「嫌悪」を意味する「フォビア」は「[[ポボス|フォボス]]」に由来する。 ==== 絵画 ==== [[ファイル:Francisco de Goya, Saturno devorando a su hijo (1819-1823).jpg|サムネイル|150px|フランシスコ・デ・ゴヤの『わが子を食らうサトゥルヌス』。]] ギリシア神話はイタリア人文主義の絵画の主題だけではなく、様々な絵画・視覚的芸術の主題ともなる。ボッティチェリが更に多くの絵画を描き、[[ルネサンス]]期の[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]をはじめ、[[コレッジョ]]、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]、[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジョ]]、[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]、[[ニコラ・プッサン]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロア]]、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー|コロー]]、[[ドミニク・アングル]]、[[ギュスターヴ・モロー]]、[[グスタフ・クリムト]]などもギリシア神話に題材を取った絵を描いている。美術館、博物館を意味する「ミュージアム」はムーサに由来する。 ==== 文学・詩 ==== また、数多くの文学者や詩人が、作品の題材や形容・修飾にギリシア神話の逸話や場面を利用することで、作品に重層性を与えている。ジョン・ミルトンは『失楽園』、『コウマス』において修飾引用を行っている。スペンサーは『妖精女王』でギリシア神話に言及する。ロマン派の詩人たちは、しばしばギリシア神話からインスピレーションを得ている。『チャイルド・ハロルド』における[[ジョージ・ゴードン・バイロン|ロード・バイロン]]、『エンデュミオーン』、『プシューケーに寄せるオード』における[[ジョン・キーツ]]などである。[[フリードリヒ・ヘルダーリン|ヘルダリーン]]は『ヒュペーリオン』、『[[エンペドクレス]]』を書き、[[ライナー・マリア・リルケ]]は『オルフォイスに献げるゾネット』連作を造った。[[オルペウス]]もまた詩人に霊感を与え、[[ジャン・コクトー]]は映画を制作している。[[ジェイムズ・ジョイス]]の作品、特に『ユリシーズ』もまたギリシア神話の影響を受けている。 ==== 音楽 ==== 音楽を意味するミュージックはギリシア神話のムーサに由来する。18世紀以降、音楽の分野でも、ギリシア神話を題材やモチーフとしたものが多数制作された。[[クリストフ・ヴィリバルト・グルック|グルック]]には、『{{仮リンク|パリーデとエレーナ|en|Paride ed Elena}}』、『[[オーリードのイフィジェニー]]』、『[[トーリードのイフィジェニー]]』があり、[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]は『[[トロイアの人々]]』を作曲している。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]には、[[アイネイアース]]の子を主題とした 『アルバのアスカーニオ』があり、また『イドメネオ』がある。[[オペラ]]作品として、グルックには、[[オウィディウス]]の作品を原作とした『{{仮リンク|エコーとナルシス|en|Echo et Narcisse}}』があり、リヒャルト・シュトラウスには、『エレクトラ』、[[エウリピデス|エウリーピデース]]の悲劇を元にした『エジプトのヘレナ』、『ナクソス島のアリアドネ』、『ダフネ』がある。[[カール・オルフ]]は『アンティゴネー』を作曲している。オッフェンバックは神話パロディの喜歌劇を得意とし、『[[地獄のオルフェ]](天国と地獄)』には、倦怠期のオルフェオ夫婦、神々の労組に手を焼くユピテールなど皮肉たっぷりのキャラクターが登場する。 ==== 映画 ==== ギリシア神話の英雄あるいは出来事を映画化した作品は欧米において非常に多数に昇る。[[トロイア戦争]]を主題にした映画作品は数多く制作されており、[[ヘーラクレース]]を主人公とする作品もまた多くある。[[アルゴナウタイ]]、[[テーセウス]](主に[[クレタ島|クレータ]]の[[迷宮]]を舞台として)の物語、[[テーバイ攻めの七将]]などの話が映画化されている。ギリシア悲劇も映画となっているものが多い。 ==== ビデオゲーム ==== 近年では、[[ビデオゲーム]]の題材としてギリシア神話が選ばれる事がある。『[[ヘラクレスの栄光]]』はヘーラクレースを主人公とし、神話の世界を旅する[[ロールプレイングゲーム]]である(作品によってはヘーラクレースが主人公でないものもある)。[[リアルタイムストラテジー]]である『[[エイジ オブ ミソロジー]]』においては[[オリュンポス十二神]]もしくは[[ティーターン]]の力を借りつつギリシア文明やアトランティス文明を発展させ、他の文明を打ち倒す。『[[ゴッド・オブ・ウォー]]』においてはギリシア神話の(特に)英雄譚における荒々しさや残酷さを前面に押し出した物語が展開される。これは本作が格闘戦を主軸とした激しい[[アクションゲーム]]であるため、ゲームデザイン(遊具としての設計)の観点からも暴力的な物語である必要性があったからである。 === ギリシア神話と日本 === [[Image:Cygnus.jpg|thumb|130px|白鳥座・琴座]] [[アポロドーロス]]『[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]』の訳者まえがきで[[高津春繁]]は、日本においてギリシア神話は、[[オウィディウス]]『[[変身物語]]』から取られた話を軸に紹介されて来た{{sfn|アポロドーロス|高津春繁 訳|1978|loc=まえがき p.6}}と述べている。 欧米でも日本でも、子供向け、あるいは若い人向けにギリシア神話物語の書き下し出版が多いが、それらはオウィディウスの本のように、ヘレニズム的な甘美さと優しさに重点を置いた物語が大半である。異なるのは、成人向けのギリシア神話であっても、さほど重要でもない「変身」物語や恋愛譚が多く取り上げた所である。 == 関連文献 == <!--参照されてない書籍--> ;原典訳書 * [[ホメーロス]] 『[[イーリアス]]』 [[呉茂一]]訳、[[岩波文庫]](上・中・下)/新版 [[平凡社ライブラリー]](上・下、2003年) * ホメーロス 『[[オデュッセイア]]』 呉茂一訳、岩波文庫(上・下)/各・一穂社(復刻版2004年)‐「イリーアス」も刊 ** 新訳版『イリアス』、『オデュッセイア』 各・[[松平千秋]]訳、岩波文庫(上・下)‐ 各・ワイド版も刊 * 『[[ホメーロス風讃歌|ホメーロスの諸神讃歌]]』 [[沓掛良彦]]訳、平凡社/[[ちくま学芸文庫]](改訂版) * [[オウィディウス]] 『[[変身物語]]』 [[中村善也]]訳、岩波文庫(上・下)‐ ワイド版も刊 ** 新訳版『変身物語』 [[高橋宏幸 (古典学者)|高橋宏幸]]訳、[[京都大学学術出版会]]〈西洋古典叢書〉全2巻、2019-2020年 * [[アプレイウス]] 『[[変身譚|黄金の驢馬(ろば)]]』 呉茂一・[[国原吉之助]]訳、岩波文庫、改版2013年 * [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]] 『ギリシア案内記』 馬場恵二訳、岩波文庫(上・下)、1991-1992年 * [[ピンダロス]] 『[[祝勝歌]]集 断片選』 [[内田次信]]訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2001年 * [[ヒュギーヌス]] 『ギリシャ神話集』 松田治・青山照男訳、[[講談社学術文庫]]、2005年 * [[アントーニーヌス・リーベラーリス|リーベラーリス]] 『[[変身物語集|メタモルフォーシス ギリシア変身物語集]]』 [[安村典子]]訳、[[講談社文芸文庫]]、2006年 ;神話を体系記述した著作 * [[ロバート・グレーヴス]] 『[[ギリシア神話 (ロバート・グレーヴス)|ギリシア神話]]』 [[高杉一郎]]訳、紀伊國屋書店、新装版1998年 * [[カール・ケレーニイ]] 『ギリシアの神話 英雄の時代』 [[植田兼義]]訳、中公文庫、1985年 * [[グスターフ・シュヴァープ]] 『ギリシア・ローマ神話』 [[角信雄]]訳、[[白水社]](全3巻)、1988年 ;概説書 * 西村賀子 『ギリシア神話 神々と英雄に出会う』 中公新書、2005年 ISBN 4121017986 * [[高津春繁]]・[[斎藤忍随]] 『ギリシア・ローマ古典文学案内』 岩波文庫別冊、改版1992年 * [[山室静]] 『ギリシャ神話〈付 北欧神話〉』 [[社会思想社]]、1962年、改訂版1981年 ISBN 4-390-10430-6 * [[高橋宏幸 (古典学者)|高橋宏幸]]編 『ギリシア神話を学ぶ人のために』 世界思想社、2006年 ISBN 4-7907-1161-7 * フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 中島健訳、[[青土社]]、新装版1991年 * [[松村一男]]監修 『歴史がおもしろいシリーズ! 図解 ギリシア神話』 西東社、2011年 * ソニア・ダルトゥ『ギリシア神話シンボル事典』 武藤剛史訳、白水社<[[文庫クセジュ]]>、2018年 ISBN 4-560-51019-9 ;文庫版の漫画・イラスト・入門書 * [[里中満智子]] 『マンガ ギリシア神話』(全8巻)、中央公論新社/中公文庫 * 吉田敦彦監修 『ズバリ図解 ギリシア神話』 [[ぶんか社]]文庫、2007年。新装版・洋泉社、2012年 * [[さかもと未明]] 『マンガ ギリシア神話、神々と人間たち』 講談社+α文庫、2001年 * [[遠藤寛子 (作家)|遠藤寛子]]、絵・若菜等 『ギリシア神話』 講談社青い鳥文庫 1994年 * [[阿刀田高]] 『ギリシア神話を知っていますか』、『ホメロスを楽しむために』 各・[[新潮社]]/新潮文庫 * 高津春繁・高津久美子共編 『ギリシア神話』 [[偕成社]]文庫/新版・講談社 ;専門書・周辺書 * G・S・カーク 『ギリシア神話の本質』 辻村誠三ほか訳、叢書ウニベルシタス・法政大学出版局、1980年 * [[ヴァルター・ブルケルト]] 『ホモ・ネカーンス 古代ギリシアの犠牲儀礼と神話』 前野佳彦訳、法政大学出版局、2008年 ISBN 4588371142 * [[伊東俊太郎]] 『[[十二世紀ルネサンス]]』 講談社学術文庫、2006年 ISBN 4-06-159780-9 ;辞典・事典 * [[バーナード・エヴスリン]] 『ギリシア神話物語事典』 小林稔訳、[[原書房]]、2005年。ISBN 978-4562-03959-3 * 安達正編著 『物語古代ギリシア・ローマ人物地名事典』 [[彩流社]]、2008年。ISBN 978-4-7791-1396-3 * 水之江有一編著 『ギリシア・ローマ神話図詳事典 天地創造からローマ建国まで』 北星堂書店、1994年 *『<small>図説</small> ギリシア・ローマ神話文化事典』 [[松村一男]]訳、[[原書房]]、1997年。ISBN 978-4562-02963-1 * 松原國師編著 『西洋古典学事典』 京都大学学術出版会、2010年。ISBN 978-487698-925-6 * ジャン=クロード・ベルフィオール『[[プチ・ラルース|ラルース]] ギリシア・ローマ神話大事典』 [[大修館書店]]、2020年 * M. C. Howatson ed. ''The Oxford Companion to Classical Literature'' 2nd ed. Oxford UP. 1989, 1997, ISBN 0-19-860081-X * Liddell & Scott ''An Intermediate Greelk-English Lexicon'' Oxford UP. * Liddell & Scott ''A Greek-English Lexicon'' Oxford UP. ;原典対照本 * Homer ''Iliad'' (Loeb CL) Harvard Univ. Press * Homer ''The Odyssey'' (Loeb CL) Harvard Univ. Press * Hesiod et al. ''Hesiod, Homeric Hymns, etc.'' (Loeb CL) Harvard Univ. Press == 脚注 == ===注釈=== {{脚注ヘルプ}} {{notelist}} ===出典=== {{reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 「参考文献」節には、本記事の出典として実際に使われている文献のみをご記入下さい。 --> ;概説書 *{{Cite book |和書 |author=[[ピエール・グリマル]] |title=ギリシア神話 |translator=高津春繁 |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] |date=改版1992年 |isbn=4560057265 |ref={{SfnRef|グリマル|1992}} }} * {{Citation |和書|last=高津|first=春繁|author-link=高津春繁|title=古代ギリシア文学史|publisher=岩波書店|isbn=9784000218948|series=[[岩波全書]]セレクション |date=初版1952年、改版1977年、新装版2008年 |ref={{SfnRef|高津|1952}} }} * {{Citation |和書|last=高津|first=春繁|author-link=|year=2006||title=古典ギリシア|publisher=[[講談社]]|isbn=4061597973|series=講談社学術文庫}}※元版は筑摩書房〈筑摩叢書〉、1964年、復刊1985年 * {{Citation |和書|editor1=[[川島重成]]|editor2=[[高田康成]]|year=2003|title=ムーサよ、語れ 古代ギリシア文学への招待|publisher =三陸書房|isbn=4921091056|ref=Musa}} * {{Citation |和書|last=藤縄|first=謙三|author-link=藤縄謙三|year=1971||title=ギリシア神話の世界観|publisher=新潮社|isbn=4106001357|series=[[新潮選書]]}} * {{Citation |和書|editor1=[[松本仁助]]|editor2=[[岡道男]]|year=1991||title=ギリシア文学を学ぶ人のために|publisher=世界思想社|isbn=4790703959}} *{{Cite book |和書 |author= 吉田敦彦|authorlink=吉田敦彦 |title=ギリシア神話入門 |series=角川選書 |publisher=角川書店 |date=2006 |isbn=4047033936 |ref={{SfnRef|吉田|2006}} }} ;原典訳書 * {{Citation |和書|last1=ヘーシオドス|first1=|author1-link=ヘーシオドス|author2=廣川洋一 訳|author2-link=廣川洋一|year=1984||title=[[神統記]]|publisher=岩波書店|isbn=|series=岩波文庫}} * {{Citation |和書|last1=ヘーシオドス|first1=|author1-link=|author2=松平千秋 訳|author2-link=松平千秋|year=1984||title=[[仕事と日]]|publisher=岩波書店|isbn=|series=岩波文庫}} * {{Citation |和書|last1=アポロドーロス|first1=|author1-link=アポロドーロス|author2=高津春繁 訳|author2-link=|year=1978||title=[[ビブリオテーケー|ギリシア神話]]|publisher=岩波書店|isbn=|series=岩波文庫}} ;神話を体系記述した著作 * [[呉茂一]]『ギリシア神話』 [[新潮社]]/[[新潮文庫]](上・下)、改版2007年<!--版によりページ数が違うので特定不能---> *{{Cite book |和書 |author=カール・ケレーニイ|authorlink=カール・ケレーニイ |title=ギリシアの神話 神々の時代 |publisher=中央公論社 |series=中公文庫 |translator=[[植田兼義]] |date=1985年 |isbn=4122012082 |ref={{SfnRef|ケレーニイ|1995}} }} * [[トマス・ブルフィンチ]] 『ギリシア・ローマ神話』 [[大久保博 (翻訳家)|大久保博]]訳、角川文庫(上・下)、改訂版2004年 ** 別訳版 『ギリシア神話と英雄伝説』 [[佐渡谷重信]]訳、[[講談社]]学術文庫(上・下)、1995年 ;専門書・周辺書 *{{Cite book |和書 |author1=桜井万里子|authorlink1=桜井万里子|author2=本村凌二|authorlink2=本村凌二|title=ギリシアとローマ |series=世界の歴史5 |publisher=中央公論社 |date=1997 |isbn=4124034059 |ref={{SfnRef|桜井・本村|1997}} }}[[中公文庫]]、2010年 *{{Cite book |和書 |author= 樺山紘一|authorlink=樺山紘一 |title=ルネサンスと地中海 |series=世界の歴史16 |publisher=中央公論社 |date=1996 |isbn=4124034164 |ref={{SfnRef|樺山|1996}} }}中公文庫、2008年 * {{Citation |和書|last=松村|first=一男|author1-link=松村一男|year=1999||title=神話学講義|publisher=角川書店|series=角川叢書|isbn=4047021067}} * [[脇本平也]] 『宗教学入門』 講談社学術文庫、2003年 ISBN 406-1592947 *{{Cite book |和書 |author= 高階秀爾|authorlink=高階秀爾 |title=ルネッサンスの光と闇 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=中公文庫 |date=1987 |ref={{SfnRef|高階|1987}} }}改版(上・下)、2008年 *{{Cite book |和書 |author=レナル・ソレル |title=オルフェウス教 |translator=脇本由佳 |publisher=白水社 |series=文庫クセジュ |date=2003 |isbn=4-560-05863-6 |ref={{SfnRef|ソレル|2003}} }} * アンドレ・ボナール 『ギリシア文明史』 [[岡道男]]・田中千春訳、人文書院(全3巻)、新版1989年 *{{Cite book |和書 |author=[[ポール・ヴェーヌ]] |title=ギリシア人は神話を信じたか |translator=[[大津真作]] |series=叢書・ウニベルシタス |publisher=[[法政大学出版局]] |date=1985 |ref={{SfnRef|ヴェーヌ|1985}} }} * ケレーニイ、[[カール・グスタフ・ユング|C・G・ユング]] 『神話学入門』 杉浦忠夫訳、[[晶文社]]、1975年、新版1991年 ;辞典・事典 * {{Citation |和書|last=高津|first=春繁|year=1990|title=ギリシア・ローマ神話辞典|publisher=岩波書店|isbn=4000800132}}※初版1960年、改訂版2007年 *{{Cite book |和書 |author1= マイケル・グラント |author2=ジョン・ヘイゼル |title=ギリシア・ローマ神話事典 |others=西田実ほか共訳 |publisher=[[大修館書店]] |date=1988 |isbn=4469012211 |ref={{SfnRef|グラント & ヘイゼル|1988}} }} * {{Citation |和書|editor=ジョン・R・ヒネルズ|last2=[[佐藤正英]] 監訳|year=1999|edition=|新|title=世界宗教事典|publisher=青土社|isbn=479-1757068|ref=w}} *{{Cite book |和書 |editor=大林太良ほか|editor-link=大林太良 |title=世界神話事典 |publisher=角川書店 |date=1994 |isbn=404-0316002 |ref={{SfnRef|大林ほか|1994}} }} *{{Cite book |editor=Simon Hornblower, Antony Spawforth |title=The Oxford Classical Dictionary |edition=3rd ed. rev |publisher=Oxford University Press |date=2003 |isbn=978-0-19-860641-3 |ref={{SfnRef|Hornblower & Spawforth|2003}} }} *{{cite book|author=Pierre Grimal |title=The Dictionary of Classical Mythology |translator=A.R. Maxwell-Hyslop |publisher=Blackwell Publishing |date=1986 |isbn=978-0-631-20102-1 |ref={{SfnRef|Grimal|1986}} }} * ''Encyclopaedia Britanica'' 2005 CD version == 関連項目 == {{columns-list|2| * [[ギリシア神話の固有名詞一覧]] * [[ギリシア神話の神々の系譜]] * [[ギリシア神話を題材とした文学作品一覧]] * [[ギリシア神話と西洋芸術]] * [[オリュンポス十二神]] * [[古代ギリシア]] * [[古代ギリシアの宗教]] * [[神話]] * [[多神教]] * [[ローマ神話]] * [[ギリシア哲学]] * [[ギリシャ正教]] * [[アトランティス大陸]] *{{ill2|ギリシア語への変換|en|Interpretatio graeca}}(他文化の神の導入について) }} == 外部リンク == {{Commons|Category:Greek mythology}} * [https://www.theoi.com/ テオイ・プロジェクト<!--Theoi Project, Guide to Greek Mythology-->]<!-- biographies of characters from myth with quotes from original sources and images from classical art --> - ギリシア神話の登場者・原典引用付き{{en icon}} * [https://www.theoi.com/Library.html 古典神話ライブラリ<!-- Library of Classical Mythology Texts-->]<!-- translations of works of classical literature --> - 古典文学作品の英訳{{en icon}} * [https://www.timelessmyths.com/classical/ 時を超えた神話<!--Timeless Myths: Classical Mythology-->]<!-- provides information and tales from classical literature.--> - 古典文学と物語の情報{{en icon}} <!-- 日本語サイトは不要。wikipedia の方が質的・量的に高くなっている。--> {{Good article}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きりしあしんわ}} [[Category:ギリシア神話|*]] [[Category:ヨーロッパの神話]] [[Category:創造神話]] [[Category:古代ギリシアの宗教]]
2003-04-07T06:32:35Z
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大和 (戦艦)
大和()は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。建造当初は、世界最大の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。昭和16年(1941年)12月16日就役、昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で沈没。 大和型戦艦の1番艦である(二番艦は武蔵)。大和の艦名は奈良県の旧国名の大和国に由来する。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和に続いて二代目。 大和は戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した戦艦であった。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在、特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役。1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)。6月上旬のミッドウェー作戦が初陣となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカ潜水艦の雷撃で小破した。 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦、マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の空母機による空襲を受け撃沈された(坊ノ岬沖海戦)。 ロンドン海軍軍縮条約の失効から1年後の1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた。 1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると、5年後の1942年(昭和17年)6月15日を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工。長門型戦艦1番艦長門や天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった。また艦の性能値も意図的に小さく登録された。 機密保持は厳重を極めた。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、棕櫚(しゅろ)の葉を編み込んだ大量の筵が全面に張り巡らされた。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の事実だった。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している。 1940年(昭和15年)3月3日、海軍は3計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した。なお同日附で3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している。 同年8月8日進水。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作するも、進水式は結局天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで行われた。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和、武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮と千代田城二重橋を描いた有田焼の風鈴を500個制作、関係者のみに配布した。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した。 大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令。 1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖での試運航で、荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノット(約50.7km/h)を記録。続いて30日の宿毛湾で、全力公試27.46ノットを記録、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した。真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した。同日附で第一戦隊に編入された。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された。大和の1/500模型は昭和天皇と香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され、海軍艦政本部の金庫に保管されたという。 大和には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電探が漸次装備されていった。 なお、副砲には最上型軽巡洋艦(当時)の15.5センチ主砲がそのまま転用されたが、これは海軍が海軍休日を破棄して条約型巡洋艦の主砲を15センチ砲から20センチ砲に入れ替えるのを最初から計画していたため、という説もある。 1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した。同6月14日柱島に帰投する。 大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノット(時速46.25km/h)で大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛・比叡・榛名・霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。 1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する。8月21日、グリメス島付近を航行し、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが、入泊直前に大和はアメリカ潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する。辻は大和の大きさに感嘆した。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった。 第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタとワシントンとの砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある。 1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更された。 5月8日、内地回航となった「大和」は空母「冲鷹」、「雲鷹」、重巡洋艦「妙高」、「羽黒」などとともにトラックを離れた。「大和」は5月13日に呉に入港。 呉では対空兵器を増強し、21号電探と22号電探などレーダーを装備した。 8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母〈大鷹〉、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている(当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、ヤマトホテルがあった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する。 1943年12月、「大和」は陸軍独立混成第一連隊をニューアイルランド島へ輸送する戊号輸送に参加。「大和」は駆逐艦「秋雲」、「谷風」、「山雲」とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなった。 12月12日、「大和」、「翔鶴」、「山雲」、「秋雲」、「風雲」、「谷風」はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した。 人員物件を搭載して12月20日に「大和」、「山雲」、「谷風」は横須賀を出発したが、12月25日に「大和」はトラック島北西150浬でアメリカ潜水艦「スケート」より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷していた。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、試しに26ノットまで加速し問題が無かったので、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた。浸水量は3000-4000トンである。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった。ただし、「大和」は潜水艦スケートとの戦闘後に、左舷に700トン強の注水作業を行って数分で水平へと戻した事から、3000-4000トンも浸水していたとは考えにくく、仮に3000-4000トンが船体に浸水していた場合、同量を注水しなければ水平に戻せないのと、到着したトラック泊地にて「大和」は応急修理を行っているが、「大和」の停泊期間は物資の積み下ろしや「大和」への補給作業も含めて20日程しか無く、同じ様に魚雷を受けて修理に一ヶ月掛かった戦艦ノースカロライナと比べても、トラック泊地を出発するまでの期間が圧倒的に短く、報告が間違っている可能性が非常に高い。工作艦「明石」に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の「大和」は「明石」に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという。同日、トラックに到着。「大和」から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、補給を終えた部隊はカビエンへ向かった。「大和」はトラックで応急修理を受けた後、1944年(昭和19年)1月10日に内地への帰還を命じられて出発する事になった。 1944年(昭和19年)1月10日、大和、満潮、藤波はトラック泊地を出発する。15日に瀬戸内海へ到着した。 被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った。 なお、スケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている。 4月22日、大和と重巡洋艦摩耶は駆逐艦4隻(島風、早霜、雪風、山雲)に護衛され瀬戸内海を出撃した。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島に戻った。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった。 大和隊は4月26日マニラ着、29日に同地を出発する。5月1日、リンガ泊地に到着した 5月4日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった。6月14日、ビアク島に上陸したアメリカ軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、アメリカ軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加。大和は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している。大和は発砲していないという証言もある。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻(大鳳、翔鶴)を失った。 6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。6月24日に日本に戻る。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した。 1944年(昭和19年)10月22日、大和はレイテ沖海戦に参加するため第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡愛宕がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた。 24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中している。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行った。 この戦闘で、大和は主砲弾を32,000mの遠距離から104発発射した。この砲撃に対し護衛空母「カリニン・ベイ」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で、最初の「正規空母」は護衛空母ホワイト・プレインズで、次の艦はファンショー・ベイである。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されている。 戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面があった。 アメリカ軍の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、利根型重巡洋艦1番艦利根艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡羽黒と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている。 アメリカ側では0725-0730頃、駆逐艦ホーエル、ジョンストンが戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦、巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、ホーエルが艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。また、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(利根、筑摩)もホーエル、ジョンストンを砲撃しており、特にホーエルは0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホーエルに対して追撃を加え、0835にはホーエルは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった。ジョンストンは0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に軽巡矢矧を先頭に第十戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは、矢矧に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの0940に包囲され集中砲火を浴び沈没した。このため、この海戦で大和が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。なお、この海戦で0850以降に大和が重巡洋艦鳥海を誤射したという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が鳥海及び筑摩を誤射した可能性は無い。 雑誌『丸』(2015年)にて、当時の羽黒乗組員である石丸法明が鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、「金剛による誤射だった」という説を提唱している。 アメリカ軍の損害は、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母セント・ローが沈没、数隻が損害を受けた。 アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究によれば、この海戦による大和による砲撃の効果は以下の通り。 サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けてレイテ湾に突入することなく反転を命じた。宇垣中将の著作には、当時の大和艦橋の混乱が描写されている。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。 往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は錨鎖庫に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した。 10月28日、大和はブルネイに到着した。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが特に戦闘は起きなかった。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する。同日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)とともに内地に帰還したが、台湾沖で戦艦金剛と駆逐艦浦風がアメリカ潜水艦の雷撃により撃沈されることとなった。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛5代目艦長にかわって有賀幸作大佐が6代目艦長となった(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)。 大和の姉妹艦武蔵の沈没は大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した。 レイテ沖海戦で日本の連合艦隊は事実上壊滅した。大和以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている。 1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港に敵艦載機が襲来、大和は事前に安芸灘に出たが攻撃を受け、直撃弾はなかったものの、測距儀が故障、陸あげ修理を要した。その後、すでに安全な場所でなくなった呉軍港から徳山沖に疎開した。 同年3月28日、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」(三上作夫連合艦隊作戦参謀)に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となった。 3月30日にアメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥った。関門海峡は27日にアメリカ軍によって機雷封鎖され通行不能だった。 4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討された。 2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。 この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた。 一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が大和による海上特攻を主張した。連合艦隊の草鹿龍之介参謀長はそれをなだめたが神大佐は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神大佐が計画した。神大佐は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神大佐は草鹿参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊司令長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田司令長官は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、上手く行ったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」と言う。一方の草鹿参謀長も「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。 神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。第五航空艦隊長官の宇垣中将はその日誌『戦藻録』に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、天皇から「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、「海軍の全兵力を使用致す」と奉答してしまったため、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして、及川軍令部総長の対応を批判している。栗原俊雄はこの『戦藻録』の内容が従来からの定説であったとし、『昭和天皇実録』には内容については書いていないものの、天皇の「お言葉」があったと書かれていて、裏付けられるとしている。 4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したという。そこで三上は「私も連れて行って下さい」と申し出たが、第二艦隊参謀の山本祐二大佐が「お前たち連合艦隊司令部の監視を受けなくても、我々は立派にやって見せる」と拒否している。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想している。この特攻隊は連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された。 大和では命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。大和の高角砲員であった坪井平次によれば、しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたが、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していたという。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。 4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。 4月6日、 を掲げた。 大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いている。 第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。 天一号作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。さらに立案者の神重徳参謀の構想では、もし沖縄にたどり着ければ、自力座礁し浮き砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させることも描いていたとされる(神大佐は、以前にも戦艦山城を突入させ浮き砲台としサイパンを奪還すると具申して、中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下されたことがある)。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた。なお、大和を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されている。また、現実を見ればアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の主意は、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦であった。戦争末期には日本海軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカのスレッドフィン、ハックルバックの2隻の潜水艦に行動を察知された。4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は大和と矢矧に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された。 当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまった。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲であった。 4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した。 連合艦隊の参謀が大和の海上特攻作戦を第五航空艦隊へ報告に行った際、第五航空艦隊は既に菊水作戦中で、多くの部隊は特攻作戦に全力を投入していたため、参謀は「第五航空艦隊に迷惑はかけない」と伝えている。第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将はこの海上特攻作戦に反対ではあったが、「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対して掩護命令を出した。しかし、宇垣の意向に対して、前線の部隊の対応は足並みが揃っておらず、第五航空艦隊は夜間戦闘機隊芙蓉部隊の指揮官美濃部正少佐に大和掩護要請を打診したが、芙蓉部隊には、重武装、重装甲型の零戦52型丙型を配備されていたにも拘らず、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は敵戦闘機に対する空戦技術を殆ど持たなかったこともあって、美濃部は芙蓉部隊に制空戦闘はできないなどとして大和の援護要請を断っている。 阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、自らの所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った。阿部の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した。戦闘三一二飛行隊(笠之原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し、三五二空(大村基地)からは零戦隊・甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた。 九州近海までは、能村副長はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もあり、戦闘詳報では5機から10機の零式艦上戦闘機(零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告している。その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還してしまい、第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行ったことは確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった。 このように同じ海軍の大和への航空支援は乏しいものとなったが、第二艦隊の出撃を知らされた陸軍航空隊第6航空軍司令官菅原道大中将は、陸海軍の連携を重視し「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が四式戦闘機疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と大和への航空支援を快諾して、第100飛行団を主力とする陸軍航空隊の戦闘機41機を出撃させて、12:00から14:00にかけて制空戦闘をおこない10機が未帰還となった。 零戦が帰投すると、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる。スレッドフィンが零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる。アメリカ軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が大和を発見した。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も大和を視認した。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった。大和は主砲以外の対空兵器で砲撃したが、アメリカ偵察機を追い払うことはできなかった。 4月7日12時34分、大和は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、空母ベニントンの第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、アメリカ軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した。大和は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村副長は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた。 アメリカ軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が大和に対し同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な大和が完全に回避する事は困難だった。ベニントン隊に続きホーネットの第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が大和を攻撃した。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている。12時40分、ホーネット (CV-12) の第17雷撃機中隊8機が大和を雷撃し、魚雷4本命中を主張した。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村副長は4本、森下参謀長は2本、清水福砲術長は3本(全員左舷)と証言した。これを受けて、アメリカ海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、アメリカ軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている。大和では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。 13時2分、第二波攻撃が始まった。アメリカ軍攻撃隊94機中、大和に59機が向かった。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、大和が主砲を発射したと証言している。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが、発砲しなかったという反論もある。いずれにせよアメリカ軍機の阻止には至らず、エセックスの攻撃隊が大和の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した。さらに直撃弾と火災により、大和からアメリカ軍機を確認することが困難となった。アメリカ軍機は攻勢を強め、エセックスの雷撃隊(ホワイト少佐)が大和の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張した。バターンの雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張した。バンカーヒルの雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した。キャボットの雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、大和の右舷に照準を定めたが進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二波攻撃隊が大和に命中させた魚雷は29本となった。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる。 大和の防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長はアメリカ軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。大和の速力は18ノットに落ち、左舷に15度傾いた。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された。 13時25分、通信施設が破壊された大和は初霜に通信代行を発令した。 13時30分、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレーの攻撃隊105機が大和の上空に到着した。13時42分、ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した。この頃、上空の視界が良くなったという。 大和は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生した。大和の艦上では、爆弾の直撃やアメリカ軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、アメリカ軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった。 また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。 14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅した。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた。 大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある。 この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった...」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。 このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である。 『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。 最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる。 14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた。左舷の高角砲も半ば海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある。 大和は直後に大爆発を起こし、船体が3つに分断されて海底に沈んだ。 大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった。 所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた。 14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された。 頭頂部に裂傷を負った能村副長は、森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した。 冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが、両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した。 大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった。 うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている。 4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった。 大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという。同様の感想は、大和の沈没を目撃したアメリカ軍搭乗員も抱いている。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。 4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。 12月9日、GHQは日本放送協会ラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている。 大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、鹿児島からでも確認できたという。また、徳之島から見えたという伝承がある。 爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある。 同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある。 アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない。 さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した。 自らの言葉によって大和特攻を招いた昭和天皇だが、『昭和天皇実録』には記されていないものの『昭和天皇独白録』には、知ってか知らずか、沖縄戦を振り返る中で「とっておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と述べたことが記されている。 呉市の旧海軍墓地(長迫公園)に「戦艦大和戦死者之碑」がある。大和が建造された旧呉海軍工廠(現在はジャパン マリンユナイテッド)のドックを望む歴史の見える丘にも艦橋の高さの1/10の記念碑が設立された。徳之島にも戦艦大和慰霊塔が建立されている(塔の高さは艦橋の高さと同じ)。建造されたドックは埋め立てられているが、機密保持のために設けられた屋根はそのまま残されている。修繕に使用された北側のドックは、2017年現在も稼働中である。 戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる。 戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。 1985年(昭和60年)、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。 1999年(平成11年)にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。2009年(平成21年)1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。 2016年5月、呉市の依頼で深田サルベージ建設が「はくよう」を投入して調査が行われた。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には大和ミュージアムの学芸員も同席した。この調査では遺品の回収は行われなかった。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている。 大和の艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれている。艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までは、右に傾いて北西(方位310度)に向いて沈んでいる。艦中央部から艦尾まで後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、転覆した状態で東(方位90度)方向を向いている。双方をあわせると全長276mとなる。後部も大きく破損しており、破断状態に近いために「大和の船体は3つに分断されている」とする出典もある。その他に、激しく損傷した中央部分と思われるブロックが3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に沈んでいる。 艦首部分は右に傾いて沈んでいる。1番主砲塔は脱落しているが、バーベットは無傷で保たれており、1999年や2016年の調査でも潜水艇がバーベットの穴の内部の撮影を行っている。1番主砲塔直後より船体は切断されており2番主砲塔のバーベットは残っていない。艦首部分の右側側面は激しく損傷しており、ほぼ右舷側が吹き飛ばされて存在しない状態となっている。大きく右側に傾斜して海底に沈んでいるので、1番主砲塔横の最上甲板がそのまま海底に繋がっている。バルバスバウは確認できるが、直後で船体に大きな亀裂があり艦首部分は座屈して半壊した状態となっている。菊の紋章は残っているが、以前の探査で確認された金箔が2016年の探査では剥離して失われていた。船首部分の先端は崩壊して周囲は大きく形を崩しており、過去数度の海底探索で鋼板の劣化により艦首部分の崩壊が次第に進行していることが確認されている。艦橋は船体から脱落して艦首バルバスバウ近くの右舷の下敷きとなっている。艦橋の上に右舷が覆いかぶさっている状態で、15m測距儀や射撃指揮所が遠方から観察できるが、細かい観察は出来ない。 転覆した状態で、ほぼ海底に水平に沈んでいる。4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが右舷外側の1本は脱落して海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリューシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵および副舵には損傷はなく、共に正中の位置となっている。艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い。孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。また缶(ボイラー)なども発見されている。後部艦橋も船体から脱落して船尾部分の横、海底に突き刺さったスクリューの傍に沈んでいる。 大和の主砲と副砲はすべて転覆時に脱落した。3基の主砲塔は、海底の同一線上に沈んでいる。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味しているとされたが、2016年の探査で、沈んでいる順番は北から順に第2主砲(船尾部分の北側)、第3主砲(船尾部分の北側に接する)、第1主砲(船尾部分の南側)ということが判り、艦に設置されていた状態と位置が交差している。9本の砲身はいずれも泥に埋まるなどして確認できていない。主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である。1番主砲塔は上下逆になって海底に塔のように直立しており、上部および下部給弾室なども破壊されていない状態で綺麗に観察できる。一番下になっている砲塔本体の装甲も少なくとも側面の装甲はそのまま残っており、測距儀もカバーごと砲塔についたままである。2番主砲塔は大きく損傷しており、給弾室は斜めに傾斜している。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている。測距儀は残っているがカバーが外れて本体が剥きだしになっている。3番主砲塔は片側半分が海底に埋まっている。副砲のうち1基は3本の砲身が確認されているが、中央の砲身の先端が破裂している。もう1基の副砲は砲身が海底に埋まっていて確認できない。 (階級はいずれも大佐)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大和()は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。建造当初は、世界最大の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。昭和16年(1941年)12月16日就役、昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で沈没。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大和型戦艦の1番艦である(二番艦は武蔵)。大和の艦名は奈良県の旧国名の大和国に由来する。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和に続いて二代目。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大和は戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した戦艦であった。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在、特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役。1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)。6月上旬のミッドウェー作戦が初陣となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカ潜水艦の雷撃で小破した。 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦、マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の空母機による空襲を受け撃沈された(坊ノ岬沖海戦)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ロンドン海軍軍縮条約の失効から1年後の1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると、5年後の1942年(昭和17年)6月15日を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工。長門型戦艦1番艦長門や天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった。また艦の性能値も意図的に小さく登録された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "機密保持は厳重を極めた。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、棕櫚(しゅろ)の葉を編み込んだ大量の筵が全面に張り巡らされた。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の事実だった。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)3月3日、海軍は3計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した。なお同日附で3計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "同年8月8日進水。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作するも、進水式は結局天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで行われた。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和、武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮と千代田城二重橋を描いた有田焼の風鈴を500個制作、関係者のみに配布した。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖での試運航で、荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノット(約50.7km/h)を記録。続いて30日の宿毛湾で、全力公試27.46ノットを記録、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した。真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した。同日附で第一戦隊に編入された。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された。大和の1/500模型は昭和天皇と香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され、海軍艦政本部の金庫に保管されたという。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大和には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電探が漸次装備されていった。 なお、副砲には最上型軽巡洋艦(当時)の15.5センチ主砲がそのまま転用されたが、これは海軍が海軍休日を破棄して条約型巡洋艦の主砲を15センチ砲から20センチ砲に入れ替えるのを最初から計画していたため、という説もある。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した。同6月14日柱島に帰投する。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノット(時速46.25km/h)で大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛・比叡・榛名・霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する。8月21日、グリメス島付近を航行し、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが、入泊直前に大和はアメリカ潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する。辻は大和の大きさに感嘆した。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった。 第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタとワシントンとの砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "5月8日、内地回航となった「大和」は空母「冲鷹」、「雲鷹」、重巡洋艦「妙高」、「羽黒」などとともにトラックを離れた。「大和」は5月13日に呉に入港。 呉では対空兵器を増強し、21号電探と22号電探などレーダーを装備した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母〈大鷹〉、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている(当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、ヤマトホテルがあった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1943年12月、「大和」は陸軍独立混成第一連隊をニューアイルランド島へ輸送する戊号輸送に参加。「大和」は駆逐艦「秋雲」、「谷風」、「山雲」とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "12月12日、「大和」、「翔鶴」、「山雲」、「秋雲」、「風雲」、「谷風」はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "人員物件を搭載して12月20日に「大和」、「山雲」、「谷風」は横須賀を出発したが、12月25日に「大和」はトラック島北西150浬でアメリカ潜水艦「スケート」より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷していた。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、試しに26ノットまで加速し問題が無かったので、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた。浸水量は3000-4000トンである。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった。ただし、「大和」は潜水艦スケートとの戦闘後に、左舷に700トン強の注水作業を行って数分で水平へと戻した事から、3000-4000トンも浸水していたとは考えにくく、仮に3000-4000トンが船体に浸水していた場合、同量を注水しなければ水平に戻せないのと、到着したトラック泊地にて「大和」は応急修理を行っているが、「大和」の停泊期間は物資の積み下ろしや「大和」への補給作業も含めて20日程しか無く、同じ様に魚雷を受けて修理に一ヶ月掛かった戦艦ノースカロライナと比べても、トラック泊地を出発するまでの期間が圧倒的に短く、報告が間違っている可能性が非常に高い。工作艦「明石」に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の「大和」は「明石」に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという。同日、トラックに到着。「大和」から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、補給を終えた部隊はカビエンへ向かった。「大和」はトラックで応急修理を受けた後、1944年(昭和19年)1月10日に内地への帰還を命じられて出発する事になった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)1月10日、大和、満潮、藤波はトラック泊地を出発する。15日に瀬戸内海へ到着した。 被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った。 なお、スケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "4月22日、大和と重巡洋艦摩耶は駆逐艦4隻(島風、早霜、雪風、山雲)に護衛され瀬戸内海を出撃した。山雲は豊後水道通過後に護衛をやめて平郡島に戻った。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった。 大和隊は4月26日マニラ着、29日に同地を出発する。5月1日、リンガ泊地に到着した", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "5月4日、第一戦隊司令官宇垣纏中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった。6月14日、ビアク島に上陸したアメリカ軍を迎撃するため渾作戦に参加するが、アメリカ軍がサイパン島に上陸したことにより渾作戦は中止となった。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、マリアナ沖海戦に参加。大和は栗田健男中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している。大和は発砲していないという証言もある。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻(大鳳、翔鶴)を失った。 6月20日、アメリカ軍の攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である。6月24日に日本に戻る。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻(時雨、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)10月22日、大和はレイテ沖海戦に参加するため第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡愛宕がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中している。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行った。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "この戦闘で、大和は主砲弾を32,000mの遠距離から104発発射した。この砲撃に対し護衛空母「カリニン・ベイ」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で、最初の「正規空母」は護衛空母ホワイト・プレインズで、次の艦はファンショー・ベイである。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面があった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アメリカ軍の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、利根型重巡洋艦1番艦利根艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡羽黒と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アメリカ側では0725-0730頃、駆逐艦ホーエル、ジョンストンが戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦、巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、ホーエルが艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。また、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(利根、筑摩)もホーエル、ジョンストンを砲撃しており、特にホーエルは0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホーエルに対して追撃を加え、0835にはホーエルは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった。ジョンストンは0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に軽巡矢矧を先頭に第十戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは、矢矧に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの0940に包囲され集中砲火を浴び沈没した。このため、この海戦で大和が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。なお、この海戦で0850以降に大和が重巡洋艦鳥海を誤射したという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が鳥海及び筑摩を誤射した可能性は無い。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "雑誌『丸』(2015年)にて、当時の羽黒乗組員である石丸法明が鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、「金剛による誤射だった」という説を提唱している。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アメリカ軍の損害は、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母セント・ローが沈没、数隻が損害を受けた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究によれば、この海戦による大和による砲撃の効果は以下の通り。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けてレイテ湾に突入することなく反転を命じた。宇垣中将の著作には、当時の大和艦橋の混乱が描写されている。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は錨鎖庫に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "10月28日、大和はブルネイに到着した。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが特に戦闘は起きなかった。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する。同日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)とともに内地に帰還したが、台湾沖で戦艦金剛と駆逐艦浦風がアメリカ潜水艦の雷撃により撃沈されることとなった。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛5代目艦長にかわって有賀幸作大佐が6代目艦長となった(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大和の姉妹艦武蔵の沈没は大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "レイテ沖海戦で日本の連合艦隊は事実上壊滅した。大和以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港に敵艦載機が襲来、大和は事前に安芸灘に出たが攻撃を受け、直撃弾はなかったものの、測距儀が故障、陸あげ修理を要した。その後、すでに安全な場所でなくなった呉軍港から徳山沖に疎開した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同年3月28日、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」(三上作夫連合艦隊作戦参謀)に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "3月30日にアメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥った。関門海峡は27日にアメリカ軍によって機雷封鎖され通行不能だった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方連合艦隊では、連合艦隊参謀神重徳大佐が大和による海上特攻を主張した。連合艦隊の草鹿龍之介参謀長はそれをなだめたが神大佐は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神大佐が計画した。神大佐は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神大佐は草鹿参謀長を通さずに豊田副武連合艦隊司令長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田司令長官は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、上手く行ったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」と言う。一方の草鹿参謀長も「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。淵田美津雄参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長富岡定俊少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで小沢治三郎軍令部次長のところで承知したらしい」と話している。神の提案を軍令部総長及川古志郎大将は黙って聞いていたが、軍令部次長小沢治三郎中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という。第五航空艦隊長官の宇垣中将はその日誌『戦藻録』に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、天皇から「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、「海軍の全兵力を使用致す」と奉答してしまったため、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして、及川軍令部総長の対応を批判している。栗原俊雄はこの『戦藻録』の内容が従来からの定説であったとし、『昭和天皇実録』には内容については書いていないものの、天皇の「お言葉」があったと書かれていて、裏付けられるとしている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したという。そこで三上は「私も連れて行って下さい」と申し出たが、第二艦隊参謀の山本祐二大佐が「お前たち連合艦隊司令部の監視を受けなくても、我々は立派にやって見せる」と拒否している。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想している。この特攻隊は連合艦隊長官豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "大和では命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた。大和の高角砲員であった坪井平次によれば、しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたが、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していたという。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "4月6日、", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "を掲げた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月))、第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成されていた。先導した対潜掃討隊の第三十一戦隊(花月、榧、槇)の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "天一号作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。さらに立案者の神重徳参謀の構想では、もし沖縄にたどり着ければ、自力座礁し浮き砲台として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させることも描いていたとされる(神大佐は、以前にも戦艦山城を突入させ浮き砲台としサイパンを奪還すると具申して、中沢佑軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下されたことがある)。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた。なお、大和を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが、上記に理由で却下されている。また、現実を見ればアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の主意は、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦であった。戦争末期には日本海軍の暗号はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、豊後水道付近ではアメリカのスレッドフィン、ハックルバックの2隻の潜水艦に行動を察知された。4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は大和と矢矧に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "当初、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は戦艦による迎撃を考えていた。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、マーク・ミッチャー中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまった。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲であった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "連合艦隊の参謀が大和の海上特攻作戦を第五航空艦隊へ報告に行った際、第五航空艦隊は既に菊水作戦中で、多くの部隊は特攻作戦に全力を投入していたため、参謀は「第五航空艦隊に迷惑はかけない」と伝えている。第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将はこの海上特攻作戦に反対ではあったが、「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対して掩護命令を出した。しかし、宇垣の意向に対して、前線の部隊の対応は足並みが揃っておらず、第五航空艦隊は夜間戦闘機隊芙蓉部隊の指揮官美濃部正少佐に大和掩護要請を打診したが、芙蓉部隊には、重武装、重装甲型の零戦52型丙型を配備されていたにも拘らず、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は敵戦闘機に対する空戦技術を殆ど持たなかったこともあって、美濃部は芙蓉部隊に制空戦闘はできないなどとして大和の援護要請を断っている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、自らの所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った。阿部の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した。戦闘三一二飛行隊(笠之原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し、三五二空(大村基地)からは零戦隊・甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "九州近海までは、能村副長はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もあり、戦闘詳報では5機から10機の零式艦上戦闘機(零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告している。その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還してしまい、第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行ったことは確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "このように同じ海軍の大和への航空支援は乏しいものとなったが、第二艦隊の出撃を知らされた陸軍航空隊第6航空軍司令官菅原道大中将は、陸海軍の連携を重視し「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が四式戦闘機疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と大和への航空支援を快諾して、第100飛行団を主力とする陸軍航空隊の戦闘機41機を出撃させて、12:00から14:00にかけて制空戦闘をおこない10機が未帰還となった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "零戦が帰投すると、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる。スレッドフィンが零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる。アメリカ軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が大和を発見した。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も大和を視認した。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった。大和は主砲以外の対空兵器で砲撃したが、アメリカ偵察機を追い払うことはできなかった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "4月7日12時34分、大和は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、空母ベニントンの第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、アメリカ軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した。大和は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村副長は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アメリカ軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が大和に対し同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な大和が完全に回避する事は困難だった。ベニントン隊に続きホーネットの第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が大和を攻撃した。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている。12時40分、ホーネット (CV-12) の第17雷撃機中隊8機が大和を雷撃し、魚雷4本命中を主張した。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村副長は4本、森下参謀長は2本、清水福砲術長は3本(全員左舷)と証言した。これを受けて、アメリカ海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、アメリカ軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている。大和では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "13時2分、第二波攻撃が始まった。アメリカ軍攻撃隊94機中、大和に59機が向かった。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、大和が主砲を発射したと証言している。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが、発砲しなかったという反論もある。いずれにせよアメリカ軍機の阻止には至らず、エセックスの攻撃隊が大和の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した。さらに直撃弾と火災により、大和からアメリカ軍機を確認することが困難となった。アメリカ軍機は攻勢を強め、エセックスの雷撃隊(ホワイト少佐)が大和の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張した。バターンの雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張した。バンカーヒルの雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した。キャボットの雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、大和の右舷に照準を定めたが進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二波攻撃隊が大和に命中させた魚雷は29本となった。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "大和の防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長はアメリカ軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。大和の速力は18ノットに落ち、左舷に15度傾いた。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "13時25分、通信施設が破壊された大和は初霜に通信代行を発令した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "13時30分、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレーの攻撃隊105機が大和の上空に到着した。13時42分、ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した。この頃、上空の視界が良くなったという。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "大和は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生した。大和の艦上では、爆弾の直撃やアメリカ軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、アメリカ軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅した。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった...」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた。左舷の高角砲も半ば海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "大和は直後に大爆発を起こし、船体が3つに分断されて海底に沈んだ。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "頭頂部に裂傷を負った能村副長は、森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが、両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという。同様の感想は、大和の沈没を目撃したアメリカ軍搭乗員も抱いている。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "12月9日、GHQは日本放送協会ラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、鹿児島からでも確認できたという。また、徳之島から見えたという伝承がある。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "自らの言葉によって大和特攻を招いた昭和天皇だが、『昭和天皇実録』には記されていないものの『昭和天皇独白録』には、知ってか知らずか、沖縄戦を振り返る中で「とっておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と述べたことが記されている。", "title": "沿革・艦歴" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "呉市の旧海軍墓地(長迫公園)に「戦艦大和戦死者之碑」がある。大和が建造された旧呉海軍工廠(現在はジャパン マリンユナイテッド)のドックを望む歴史の見える丘にも艦橋の高さの1/10の記念碑が設立された。徳之島にも戦艦大和慰霊塔が建立されている(塔の高さは艦橋の高さと同じ)。建造されたドックは埋め立てられているが、機密保持のために設けられた屋根はそのまま残されている。修繕に使用された北側のドックは、2017年現在も稼働中である。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。2009年(平成21年)1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2016年5月、呉市の依頼で深田サルベージ建設が「はくよう」を投入して調査が行われた。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には大和ミュージアムの学芸員も同席した。この調査では遺品の回収は行われなかった。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている。", "title": "戦後" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "大和の艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれている。艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までは、右に傾いて北西(方位310度)に向いて沈んでいる。艦中央部から艦尾まで後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、転覆した状態で東(方位90度)方向を向いている。双方をあわせると全長276mとなる。後部も大きく破損しており、破断状態に近いために「大和の船体は3つに分断されている」とする出典もある。その他に、激しく損傷した中央部分と思われるブロックが3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に沈んでいる。", "title": "海底の大和" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "艦首部分は右に傾いて沈んでいる。1番主砲塔は脱落しているが、バーベットは無傷で保たれており、1999年や2016年の調査でも潜水艇がバーベットの穴の内部の撮影を行っている。1番主砲塔直後より船体は切断されており2番主砲塔のバーベットは残っていない。艦首部分の右側側面は激しく損傷しており、ほぼ右舷側が吹き飛ばされて存在しない状態となっている。大きく右側に傾斜して海底に沈んでいるので、1番主砲塔横の最上甲板がそのまま海底に繋がっている。バルバスバウは確認できるが、直後で船体に大きな亀裂があり艦首部分は座屈して半壊した状態となっている。菊の紋章は残っているが、以前の探査で確認された金箔が2016年の探査では剥離して失われていた。船首部分の先端は崩壊して周囲は大きく形を崩しており、過去数度の海底探索で鋼板の劣化により艦首部分の崩壊が次第に進行していることが確認されている。艦橋は船体から脱落して艦首バルバスバウ近くの右舷の下敷きとなっている。艦橋の上に右舷が覆いかぶさっている状態で、15m測距儀や射撃指揮所が遠方から観察できるが、細かい観察は出来ない。", "title": "海底の大和" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "転覆した状態で、ほぼ海底に水平に沈んでいる。4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが右舷外側の1本は脱落して海底に突き刺さっている。沈没時の爆発でスクリューシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵および副舵には損傷はなく、共に正中の位置となっている。艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い。孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。また缶(ボイラー)なども発見されている。後部艦橋も船体から脱落して船尾部分の横、海底に突き刺さったスクリューの傍に沈んでいる。", "title": "海底の大和" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "大和の主砲と副砲はすべて転覆時に脱落した。3基の主砲塔は、海底の同一線上に沈んでいる。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味しているとされたが、2016年の探査で、沈んでいる順番は北から順に第2主砲(船尾部分の北側)、第3主砲(船尾部分の北側に接する)、第1主砲(船尾部分の南側)ということが判り、艦に設置されていた状態と位置が交差している。9本の砲身はいずれも泥に埋まるなどして確認できていない。主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である。1番主砲塔は上下逆になって海底に塔のように直立しており、上部および下部給弾室なども破壊されていない状態で綺麗に観察できる。一番下になっている砲塔本体の装甲も少なくとも側面の装甲はそのまま残っており、測距儀もカバーごと砲塔についたままである。2番主砲塔は大きく損傷しており、給弾室は斜めに傾斜している。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている。測距儀は残っているがカバーが外れて本体が剥きだしになっている。3番主砲塔は片側半分が海底に埋まっている。副砲のうち1基は3本の砲身が確認されているが、中央の砲身の先端が破裂している。もう1基の副砲は砲身が海底に埋まっていて確認できない。", "title": "海底の大和" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "(階級はいずれも大佐)", "title": "歴代艦長" } ]
大和は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。建造当初は、世界最大の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。昭和16年(1941年)12月16日就役、昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で沈没。
{{Infobox 艦艇 |名称 = 大和 |画像 = Yamato Trial 1941.jpg |画像幅 = |画像説明 = [[豊後水道]]の[[宿毛湾]]沖合付近を公試航行中の大和(1941年10月20日) |建造所 = [[呉海軍工廠]] |運用者 = {{navy|Empire of Japan}} |計画 = [[③計画|第三次海軍軍備補充計画]] |起工 = [[1937年]][[11月4日]] |進水 = [[1940年]][[8月8日]] |就役 = [[1941年]][[12月16日]] |除籍 = 1945年[[8月31日]]<ref name="海軍公報5175"/> |最後 = [[1945年]][[4月7日]]沈没 |建造費 = 約137,802,000円<br/>([[1936年]]3月 [[艦政本部]]試算) |クラス = [[大和型戦艦]] |排水量 = 64,000[[トン]](基準)<br/>69,000トン(公試)<br/>72,809トン(満載) |全長 = 263.0m |水線長 = 256.0m |幅 = 38.9m |吃水 = 10.4m |主機 = [[艦本式タービン]]4基4軸 |出力 = 153,553[[馬力]] |ボイラー = [[艦本式ボイラー#ロ号艦本式缶|ロ号艦本式缶]]12缶 |最大速力 = 27.46[[ノット]](約50.8km/h)<ref name="永沢85"/>(公試成績) |航続距離 = 16ノット(約29.6km/h)で7,200[[海里]]<ref>燃料4000トン時であり、最大の6300トン時は12,349海里(22,872km)</ref>(13,334km) |乗員 = 竣工時:2,500名<br/>最終時:3,332名 |兵装 = '''新造時'''<br/>[[大和型戦艦#主砲|45口径九四式46cm3連装砲塔]]<ref>防諜上の目的から、当時は40cm砲と偽装されていた。</ref>:3基<br/>[[大和型戦艦#副砲|60口径三年式15.5cm3連装砲塔]]<ref>[[最上型重巡洋艦|最上型巡洋艦]]の主砲を15.5cm砲から20.3cm砲に換装するときに撤去した15.5cm砲を使っている。</ref>:4基<br/>[[40口径12.7cm連装高角砲]]:6基<br/>[[25mm3連装機銃]]:8基<br/>[[九三式十三粍機銃|13mm連装機銃]]:2基 '''最終時'''<br/>45口径46cm3連装砲塔:3基<br/>60口径15.5cm3連装砲塔:2基<br/>{{Nowrap|40口径12.7cm連装高角砲:12基}}<br/>25mm3連装機銃:52基<br/>25mm単装機銃:6基<br/>[[九三式十三粍機銃|13mm連装機銃]]:2基 |装甲 = 舷側 410mm+15mm(傾斜20度)<br/>対水雷防御隔壁 205mm~75mm<br/>最上甲板 35mm~50mm<br/>主甲板 200mm〜230mm<br/>合計甲板装甲 250mm<br/>バルクヘッド 340mm~300mm<br/>主砲防盾 660mm<br/>主砲側面 250mm<br/>主砲後面 190mm<br/>主砲天板 270mm<br/>主砲バーベット 560mm~380mm<br/>司令塔 500mm~380mm |搭載機 = 5機([[カタパルト]]2基) |その他 = }} {{読み仮名|'''大和'''|やまと}}<ref name="S15達148号">[[#達昭和15年7月(2)]]p.2『達第百四十八號 呉海軍工廠ニ於テ建造中ノ戦艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十五年七月二十五日 海軍大臣吉田善吾 戦艦 大和(ヤマト)』</ref>は、[[大日本帝国海軍]]が建造した[[大和型戦艦]]の1番艦<ref name="S16内令1672">[[#内令昭和16年12月(3)]]pp.4-5『内令第千六百七十二號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十六年十二月十六日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、戰艦金剛型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|大和型|大和|』</ref>。2番艦の[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した[[超弩級戦艦]]である。建造当初は、世界最大の戦艦だった。[[呉海軍工廠]]で建造。[[昭和]]16年([[1941年]])[[12月16日]]就役、昭和20年([[1945年]])[[4月7日]]、[[天一号作戦]]([[坊ノ岬沖海戦]])で沈没。 == 概要 == [[大和型戦艦]]の[[ネームシップ|1番艦]]<ref name="S16内令1672" />である(二番艦は武蔵)。大和の艦名は[[奈良県]]の[[令制国|旧国名]]の[[大和国]]に由来する<ref>[[#スパー運命]]32頁</ref>。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦[[大和 (スループ)|大和]]<ref name="幕末以降大和">[[#幕末以降帝国軍艦写真と史実]]コマ32(原本37頁)『<ins>大和(やまと)</ins> <ins>艦種</ins>巡洋艦 三檣「バーク」<br/><ins>艦名考</ins>國名(畿内五箇國の一)に採る。又日本の別稱を大和(夜麻登)と唱ふ、大和は元と畿内なる大和一國の名なるを、神武天皇此處に宮居し給ひしより、後の御代々の宮も此処大和に在りければ、自ら天の下の大和(日本の總名)にも爲れるなりと云ふ、此艦名は日本の別稱に因るものにあらず。<br /><ins>艦歴</ins>明治27・8年戰役從軍:同27年8月威海衛砲撃に、同11月大連港及旅順國占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及同占領に從事、同31年艦艇類別等級標準制定に由り三等海防艦に列す。同同37・8年戰役に從軍(門司警備艦、艦長中佐伊東吉五郎):大正元年8月二等海防艦に列す、同12年4月1日軍艦籍より除き同日更に特務艦(測量艦)と定む。姉妹艦として葛城・武藏の二隻あり。(要目略)』</ref>に続いて二代目。 大和は戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画([[バイタルパート]])では対46cm砲防御を施した戦艦であった。設計はもちろん、[[ブロック工法]]の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在、特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から[[秘匿]]に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。 [[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦直後の[[1941年]](昭和16年)[[12月16日]]に就役<ref>「昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)」p.30「一戦隊に大和を加ふ」</ref>。[[1942年]](昭和17年)[[2月12日]]に[[連合艦隊]][[旗艦]]となった(司令長官[[山本五十六]]大将)<ref>[[#秋元記録]]157頁</ref>。6月上旬の[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]が初陣となった。[[1943年]](昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵が[[チューク諸島|トラック島]]に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカ潜水艦の雷撃で小破した。 修理・改装後、[[1944年]](昭和19年)6月の[[渾作戦]]、[[マリアナ沖海戦]]に参加した。同年10月中旬以降の[[捷一号作戦]]で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した([[レイテ沖海戦]])。[[1945年]](昭和20年)[[4月7日]]、[[天一号作戦]]において[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]([[第一航空戦隊]])旗艦として麾下の[[第二水雷戦隊]]と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の空母機による空襲を受け撃沈された([[坊ノ岬沖海戦]])。 {{main2|大和・武蔵に共通する特徴|大和型戦艦}} == 沿革・艦歴 == === 建造 === {{See also|大和型戦艦#建造|大和型戦艦#機密保持}} [[ロンドン海軍軍縮条約]]の失効から1年後の1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた[[軍令部]]は、[[艦政本部]]に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された<ref>[[#内藤レクイエム]]127頁</ref>。しかし当時すでに[[航空主兵論]]が提唱され始めていたこともあり、[[山本五十六]]ら航空主兵論の将校からは<!--[[③計画|第三次海軍軍備補充計画]]における[[大和型戦艦]]2隻(大和、武蔵)--><!--文脈-->そうした大型艦の建造が批判されていた<ref>中田整一編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社84-85頁</ref>。 1937年(昭和12年)8月21日、[[米内光政]][[海軍大臣]]から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると<ref>[[#内藤レクイエム]]128-129頁</ref>、5年後の1942年(昭和17年)6月15日<ref name="庭田51">[[#庭田、建艦秘話]]51-52頁『(4)工程の繰上げと公試について』</ref>を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には[[広島県]][[呉市]]の[[呉海軍工廠]]の[[ドック|造船船渠]]で起工<ref name="艦船要目公表範囲">[[#S17.12.31艦船要目公表範囲]]p.2『大和|戦艦|(性能値略)|呉工廠|昭和12-11-4|昭和15-8-8|昭和16-12-16|(兵装略)』</ref>。[[長門型戦艦]]1番艦[[長門 (戦艦)|長門]]や[[天城型巡洋戦艦]]2番艦[[赤城 (空母)|赤城]](空母)を建造した[[乾ドック]]は大和建造のために1メートル掘り下げて<ref>[[#造船士官の回想 上]]197頁</ref>、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された<ref>[[#秋元記録]]25頁。[[#大和開発物語]]196頁では302-42-10mとしている。[[#庭田、建艦秘話]]46頁では長335-43</ref>。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった<ref>[[#大和開発物語]]102頁</ref>。また艦の性能値も意図的に小さく登録された<ref>[[#S17.12.31艦船要目公表範囲]]p.2『艦名 大和|艦種 戦艦|長(米)235.00|幅(米)31.50|喫水(米)9.15|排水量(基準)(噸)42.000|速力(節)25.0|(短艇数)14|(日時略)|主要兵装/大砲40cm…9、15.5cm…12、12.7cm高角…12(以下略)』</ref>。 [[File:Yamato 46cm bullet.JPG|thumb|300px|[[呉市海事歴史科学館|大和ミュージアム]]展示の戦艦大和の46cm砲弾。]] 機密保持は厳重を極めた<ref>[[#庭田、建艦秘話]]44-45頁『(1)工事の機密保持について』</ref>。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、[[シュロ|棕櫚]](しゅろ)の葉を編み込んだ大量の[[ムシロ|筵]]が全面に張り巡らされた<ref>[[#栗原証言]]13頁、[[#大和開発物語]]121頁</ref>。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた<ref>[[#大和開発物語]]122-124頁</ref>。[[造船所]]自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた<ref>[[#吉田 大和と武蔵]]131-133頁</ref>。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の事実だった<ref>[[#世界史・山本五十六]]41頁</ref>。[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという<ref>[[#世界史・山本五十六]]42頁</ref>。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している<ref>[[#大和開発物語]]206-207頁「秘密主義の功罪をさぐる」</ref>。 1940年(昭和15年)3月3日、海軍は③計画1号艦の艦名候補として『[[大和国|大和]]』と『[[信濃国|信濃]]』を挙げ、3月6日に[[昭和天皇]]は『大和』を選択した<ref name="天皇実録八142">[[#昭和天皇実録八巻]]141-142頁『(昭和十五年七月)二十五日 木曜日(戦艦大和御命名)』</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/news/140909/imp14090915530020-n2.htm 「産経新聞」2014年9月10日号【昭和天皇実録公表】]</ref>。軍艦の命名は、[[海軍大臣]]が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた<ref>海軍省発行『海軍制度沿革』第15篇「艦船」、第4章「進水 命名 本籍」、第2節「命名」の序文より。</ref>。天皇の決定をうけて[[吉田善吾]]海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した<ref name="S15達148号" />。なお同日附<!--いつ?-->で[[③計画]]の各艦艦名、[[武蔵 (戦艦)|武蔵]](2号艦)、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]](3号艦)、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]](4号艦)も決定している<ref name="天皇実録八142" />。 同年[[8月8日]]進水<ref name="庭田50">[[#庭田、建艦秘話]]50頁</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C12070389400|昭和15年8月8日(木)海軍公報(部内限)第3574号 pp.42-43}}(当日の呉所在艦艇は『○艦船所在○八月八日午前十時』を参照)</ref>。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた<ref name="庭田50" />。しかも機密保持からその[[進水式]]は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった<ref>[[#大和開発物語]]128頁、[[#原 大和全貌]]137頁</ref>。[[昭和天皇]]が[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作するも<ref name="庭田50" />、進水式は結局天皇の義兄にあたる[[久邇宮朝融王]]海軍大佐([[香淳皇后]]の兄、当時海防艦[[八雲 (装甲巡洋艦)|八雲]]艦長)臨席のもとで行われた<ref name="庭田50" /><ref name="天皇実録八153">[[#昭和天皇実録八巻]]153頁『(昭和十五年八月)十一日 日曜日(軍艦大和命名式)正午、朝融王に謁を賜い、海軍兵学校における卒業式<small>八月七日</small>、呉海軍工廠における軍艦大和命名式<small>八月八日</small>及び海軍機関学校における卒業式<small>八月十日</small>への御差遣につき復命を受けられる。終わって、皇后を交えて朝融王と御昼餐を御会食になる。』</ref>。海軍大臣代理として式に臨んだ[[嶋田繁太郎]]海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ<ref>[[#大和開発物語]]128-129頁</ref>。造船関係者は[[葛城型スループ]]2隻([[大和 (スループ)|大和]]、[[武蔵 (スループ)|武蔵]])が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、[[橿原神宮]]と[[皇居|千代田城]][[二重橋]]を描いた[[有田焼]]の[[風鈴]]を500個制作、関係者のみに配布した<ref>[[#庭田、建艦秘話]]51頁</ref>。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した<ref name="天皇実録八153" />。 大和進水後のドックでは大和型4番艦[[111号艦]]の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた<ref>[[#庭田、建艦秘話]]54頁『2.第百十一号艦について』</ref>。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令<ref name="庭田51" />。 [[ファイル:戦艦大和艤装中カラー.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|昭和16年(1941年)9月20日、呉工廠で最終艤装中の大和。]] [[1941年]](昭和16年)10月18日、土佐沖での試運航で、荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノット(約50.7km/h)を記録<ref name="庭田51" />。続いて30日の[[宿毛湾]]で、全力公試27.46ノットを記録<ref name="永沢85">[[#大和と日本人]]85頁</ref>、11月25日には[[山本五十六]]連合艦隊司令長官が視察に訪れた<ref>[[#戦藻録(九版)]]21頁</ref>。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した<ref name="庭田51" />。[[真珠湾攻撃]]の前日だった。<!--この真珠湾攻撃には、[[③計画]]第三号艦([[翔鶴 (空母)|翔鶴]])、第四号艦([[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]])が参加している。--><!--蛇足-->12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う<ref>[[#艦と人]]127頁</ref>。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した<ref name="艦船要目公表範囲" />。同日附で第一戦隊に編入された<ref>[[#大和と日本人]]86頁、[[#戦藻録(九版)]]50頁</ref>。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された<ref name="S16内令1672" />。大和の1/500模型は[[昭和天皇]]と[[香淳皇后]]天覧ののち海軍省に下げ渡され<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]125頁「(昭和16年)一二月二四日(水)晴 一五三〇、海相拝謁(人事及「大和」の模型及写真御説明)。(模型は翌二五日、両陛下御覧の上、海軍省に御下渡しになる)。(以下略)」</ref><ref>[[#城日記|城英一郎日記]]125頁「(昭和16年)一二月二五日(木)晴(中略)「大和」模型両陛下御覧。(以下略)」</ref>、海軍艦政本部の金庫に保管されたという<ref>[[#内藤レクイエム]]130頁</ref>。 [[File:Yamato 1941 colorized.jpg|thumb|300px|昭和16年(1941年)10月30日、[[宿毛湾泊地|宿毛湾沖標柱間]]にて公試中の大和(呉市海事歴史科学館所蔵写真のカラー化画像)]] 大和には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に[[造波抵抗]]を打ち消す[[バルバス・バウ|球状艦首]](バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、[[煙突]]などにおける[[ハニカム構造|蜂の巣構造]]の装甲、巨大な観測用の[[測距儀]]の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型だった。就役当初[[レーダー]]は装備されていなかったが、その後[[電波探信儀|電探]]が漸次装備されていった。<!--初期のものは性能が安定しなかったが、1944年(昭和19年)以降に量産された[[仮称二号電波探信儀二型]](22号電探)は日本製の電探としては比較的良好な性能を発揮した。--><!-- ←「電波探信儀」の記事内容--> なお、[[副砲]]には[[最上型重巡洋艦|最上型軽巡洋艦]](当時)の[[60口径三年式15.5cm3連装砲|15.5センチ主砲]]がそのまま転用されたが、これは海軍が[[海軍休日]]を破棄して[[ワシントン海軍軍縮条約|条約型巡洋艦]]の主砲を[[50口径四十一式15cm砲|15センチ砲]]から[[五十口径三年式二〇糎砲|20センチ砲]]に入れ替えるのを最初から計画していたため、という説もある。 === 連合艦隊旗艦 === [[1942年]](昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070419200|昭和17年2月18日(水)海軍公報(部内限)第4022号 p.40}}『○旗艦變更 第九戰隊司令官ハ二月八日旗艦ヲ北上ニ變更セリ|聯合艦隊司令長官ハ二月十二日旗艦ヲ大和ニ變更セリ』</ref>。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる<ref>[[#戦藻録(九版)]]80頁、[[#大和と日本人]]87-88頁</ref>。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う<ref>[[#戦藻録(九版)]]97頁</ref>。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した<ref>戦史叢書95海軍航空概史268頁</ref>。[[5月29日]]、大和は[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]により山本五十六[[連合艦隊司令長官]]が座乗して[[柱島泊地]]を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった{{要出典|date=2017年12月}}。6月10日、アメリカ軍の[[潜水艦]]に対して二番副砲と高角砲を発砲した<ref>[[#原 大和全貌]]192頁、[[#戦藻録(九版)]]149頁</ref>。同[[6月14日]]柱島に帰投する{{要出典|date=2017年12月}}。 大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母[[加賀 (空母)|加賀]]の速度差は殆ど0、[[飛鷹型航空母艦]]は25ノット(時速46.25km/h)で大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、[[航空母艦]]の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される[[金剛 (戦艦)|金剛]]・[[比叡 (戦艦)|比叡]]・[[榛名 (戦艦)|榛名]]・[[霧島 (戦艦)|霧島]]が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。 1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍が[[ガダルカナル島]]に来襲して[[ガダルカナル島の戦い]]が始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母[[大鷹 (空母)|大鷹(春日丸)]]、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する<ref>[[#戦藻録(九版)]]166頁、[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]83頁</ref>。8月21日、グリメス島付近を航行し<ref>[[#戦藻録(九版)]]169頁</ref>、航海中に[[第二次ソロモン海戦]]が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日に[[チューク諸島|チューク諸島トラック泊地]]に入港したが<ref>[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]155頁</ref>、入泊直前に大和はアメリカ潜水艦[[フライングフィッシュ (潜水艦)|フライングフィッシュ]]から[[魚雷]]4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している<!--もう1本はどこへ?--><ref>[[#戦藻録(九版)]]177-178頁、[[#大和と日本人]]105頁</ref>。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀[[辻政信]]中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する<ref name="辻(ガ島1975)99">[[#ガダルカナル(辻1975)]]99-100頁</ref>。辻は大和の大きさに感嘆した<ref name="辻(ガ島1975)99" />。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。[[ヘンダーソン基地艦砲射撃]]に参加する案も検討されたが取りやめとなった<ref>[[#栗原証言]]31頁、[[#吉田 大和と武蔵]]184-185頁</ref>。 [[第三次ソロモン海戦]]では、老艦の[[金剛型戦艦]][[霧島 (戦艦)|霧島]]と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦である[[サウスダコタ (戦艦)|サウスダコタ]]と[[ワシントン (戦艦)|ワシントン]]との砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある<ref>[[#栗原証言]]31-32頁、[[#機動部隊]]156頁</ref>。 === 昭和18年の行動 === [[1943年]](昭和18年)2月11日、連合艦隊旗艦任務は大和の運用経験を踏まえて通信、旗艦設備が改良された大和型戦艦2番艦武蔵に変更された<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070429700|昭和18年3月2日(火)海軍公報(部内限)第4329号 p.38}}『○旗艦變更 聯合艦隊司令長官ハ二月十一日旗艦ヲ武藏ニ變更セリ』</ref>。<!--2月20日には[[第8方面軍 (日本軍)|第八方面軍]]司令官[[今村均]]陸軍中将が大和を訪問し、連合艦隊首脳陣と南東方面(ニューギニア方面、ソロモン諸島方面)作戦について懇談した{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=79-80}}。第八方面軍は海軍の潜水艦による輸送を依頼した{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=79-80}}。これは[[三式潜航輸送艇]](通称「まるゆ」)開発につながる動きである。--> 5月8日、内地回航となった「大和」は空母「冲鷹」、「雲鷹」、重巡洋艦「妙高」、「羽黒」などとともにトラックを離れた<ref name=戦史叢書(62)328>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』328ページ</ref>。「大和」は5月13日に呉に入港<ref name=戦史叢書(62)328/>。 呉では対空兵器を増強し、[[二式二号電波探信儀一型|21号電探]]と[[仮称二号電波探信儀二型|22号電探]]などレーダーを装備した<ref>[[#大和開発物語]]249頁。松井宗明(大和通信長、大和電波探信儀訓令実験委員)談。</ref>。 8月16日、主力部隊(戦艦3隻〈大和、[[長門 (戦艦)|長門]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]〉、空母〈[[大鷹 (空母)|大鷹]]〉<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.51『一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)』</ref>、巡洋艦3隻〈[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]〉、駆逐艦部隊〈[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、[[海風 (駆逐艦)|海風]]、[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[初風 (駆逐艦)|初風]]〉)は呉を出撃し、[[チューク諸島|トラック]]へ向かう<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.4『(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着』</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.60『二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)11dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五』</ref>。 ソロモン諸島では激戦が行われ戦局が悪化していたが、大和はトラック島の泊地に留まったまま実戦に参加できなかった。居住性の高さや食事などの面で優遇されていたこともあいまって、他艦の乗組員や陸軍将兵から「大和ホテル」と揶揄されている<ref>[[#栗原証言]]25頁</ref>(当時満州に満鉄の経営する高級ホテルチェーン、[[ヤマトホテル]]があった)。作戦行動を終えた駆逐艦が大和に横付けし、駆逐艦乗組員が大和の巨大で整った風呂を利用することも多かったという<ref>[[#雪風手記]]407頁。豊田義雄(大和→雪風)談。</ref>。10月中旬、マーシャル諸島への出撃命令が下った{{要出典|date=2017年12月}}。アメリカ海軍の機動部隊がマーシャルに向かう公算ありとの情報を得たからである{{要出典|date=2017年12月}}。旗艦武蔵以下、大和、長門などの主力部隊は決戦の覚悟でトラックを出撃した。しかし、4日間米機動部隊を待ち伏せしても敵は来ず、10月26日にトラック島に帰港する<ref>丸スペシャル116号「大戦中の日本戦艦」74-75頁</ref>{{要出典|date=2017年12月}}。 1943年12月、「大和」は陸軍独立混成第一連隊を[[ニューアイルランド島]]へ輸送する[[戊号輸送]]に参加<ref>戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、525-526ページ</ref>。「大和」は駆逐艦「秋雲」、「谷風」、「山雲」とともに戊一号輸送部隊として横須賀からトラックまでの輸送にあたることとなった<ref>戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、526ページ</ref>。 12月12日、「大和」、「[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]」、「[[山雲 (駆逐艦)|山雲]]」、「[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]」、「[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]」、「[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]」はトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(1)]]p.31『一七0800大和(宛略)大和機密170800番電 大和翔鶴10dg(秋雲風雲)17dg(谷風)横須賀着』-p.46『一二(天候略)0100凉月初月呉着/0700山雲風雲秋雲谷風大和翔鶴ヲ護衛横須賀ニ向ケトラック発/1330秋月トラックニ向ケクエゼリン発』-p.47『一七(天候略)0800山雲秋雲風雲谷風横須賀着/1400朝雲呉ニ向ケ横須賀発/1700天津風雪風横須賀発』</ref>。 人員物件を搭載して12月20日に「大和」、「山雲」、「谷風」は横須賀を出発したが、12月25日に「大和」はトラック島北西150浬でアメリカ潜水艦「[[スケート (潜水艦)|スケート]]」より魚雷攻撃を受け、主砲3番砲塔右舷に魚雷1本を被雷していた<ref name="叢書中部太平洋(2)525">[[#戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)]]525-527頁</ref>。4度の傾斜を生じたが約770トンの注水で復元、試しに26ノットまで加速し問題が無かったので、速度を落とさず速力20ノット前後でトラック泊地へ向かった<ref name="叢書中部太平洋(2)525" />。魚雷命中の衝撃を感じた者はおらず、わずかに傾斜したため異常に気づいたという<ref>[[#造船士官の回想 下]]177頁</ref>。爆発の衝撃で舷側水線装甲背後の支持肋材下端が内側に押し込まれ、スプリンター縦壁の固定鋲が飛び、機械室と3番砲塔上部火薬庫に漏水が発生する被害を受けた<ref>[[#造船士官の回想 下]]176-180頁</ref>。浸水量は3000-4000トンである<ref>[[#造船士官の回想 下]]180頁</ref>。敵弾が水線鋼鈑下端付近に命中すると浸水を起こす可能性は、装甲の実射試験において指摘はされていたが重大な欠陥とは認識されていなかった<ref>[[#秋元記録]]159頁</ref>。{{独自研究範囲|date=2023年10月|ただし、「大和」は潜水艦スケートとの戦闘後に、左舷に700トン強の注水作業を行って数分で水平へと戻した事から、3000-4000トンも浸水していたとは考えにくく、仮に3000-4000トンが船体に浸水していた場合、同量を注水しなければ水平に戻せないのと、到着したトラック泊地にて「大和」は応急修理を行っているが、「大和」の停泊期間は物資の積み下ろしや「大和」への補給作業も含めて20日程しか無く、同じ様に魚雷を受けて修理に一ヶ月掛かった戦艦ノースカロライナと比べても、トラック泊地を出発するまでの期間が圧倒的に短く、報告が間違っている可能性が非常に高い。}}工作艦「[[明石 (工作艦)|明石]]」に配属されていた造船士官によれば、トラック泊地着後の「大和」は「明石」に「右舷後部に原因不明の浸水があり調査して欲しい」と依頼、工作部員達は注排水系統の故障を疑ったものの異常はなかった<ref name="艦と人130">[[#艦と人]]130頁、小倉竜朗(技術少佐)談。</ref>。そこで潜水調査をしたところ右舷後部に長さ十数m・幅五mの魚雷破孔を発見し、驚いたという<ref name="艦と人130" />。同日、トラックに到着<ref name="sen62 527">戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、527ページ</ref>。「大和」から人員物件は戊三号輸送部隊へと移され、補給を終えた部隊は[[カビエン]]へ向かった<ref name="sen62 527"/>。「大和」はトラックで応急修理を受けた後、1944年(昭和19年)1月10日に[[内地]]への帰還を命じられて出発する事になった。 === レイテ沖海戦まで === [[1944年]](昭和19年)1月10日、大和、[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]、[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]はトラック泊地を出発する<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.77『十(天候略)藤波満潮〇六五〇「トラツク」発|藤波満潮大和ヲ護衛シ呉ニ向ケ「トラツク」発』</ref>。15日に瀬戸内海へ到着した<ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.12『藤波 戊二號輸送部隊トシテ待機中二日「トラツク」発/四日「カビエン」着揚搭後即日発/五日「トラツク」着任務終了輸送部隊ノ編制ヲ解カル/十日満潮ト共ニ大和護衛「トラツク」発/十五日呉着入渠整備ニ従事/二十五日修理整備完了』</ref><ref>[[#S1812二水戦日誌(3)]]p.80『十五(天候略)満潮一四四八徳山着/藤波一六三〇呉着|長良長波曳航一四〇〇呉ニ回航ノ爲「トラツク」発/藤波大和ヲ護衛シ呉着満潮ハ徳山着』</ref>。 被雷により明らかになった欠陥に対して、浸水範囲をせばめるための水密隔壁が追加されたが、装甲の継手と装甲の支持鋼材の継手とが一致してしまっているという根本的欠陥は補強する方法もなく(支持鋼材の継手に角度をつけることでクサビ効果があると設計では考えられていたが、そのとおりには機能しなかった)、元のとおりに修理されただけであった<ref>[[#内藤レクイエム]]175頁</ref>。この工事と並行して、両舷副砲を撤去し、高角砲6基と機銃を増設して対空兵装の強化を図った{{要出典|date=2017年12月}}。 なお、スケートによる雷撃の2ヶ月後、トラック基地の偵察飛行で撮影されたネガフィルム上に見慣れぬ巨大な艦影を発見したアメリカ軍は<ref name="kyodaibnhk">巨大戦艦 大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜 戦争証言アーガイブズ NHKオンデマンド</ref>、捕虜の尋問によってそれが戦艦大和・武蔵という新型戦艦で主砲についても45cm(17.7インチ)であると資料を纏めている<ref name="kyodaibnhk" />。 4月22日、大和と重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]は駆逐艦4隻([[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]、[[早霜 (駆逐艦)|早霜]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]])に護衛され瀬戸内海を出撃した<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.7『(3)雪風(略)二十二日臼杵湾発途中大和摩耶ト合同山雲早霜島風ト共ニ之ガ警戒ニ任ジツゝ「マニラ」ヲ経テ「リンガ」ニ進出ス』</ref>。山雲は[[豊後水道]]通過後に護衛をやめて平郡島に戻った<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.4『(1)山雲(略)二十一日重油搭載ノ爲徳山ニ回航仝日大和摩耶ヲ護衛平郡島ニ回航二十三日仝地着爾後内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事二十七日呉皈投月末迄整備補給ニ従事ス』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.56『23(天候略)一二〇〇磯風「リンガ」ニ向ケ昭南発一七五〇着 山雲大和護衛ヲ止メ平郡島着』</ref>。早霜も途中で護衛を切り上げて横須賀に向かった<ref>S1812十一水戦日誌(4)p.43「二三(天候略)一六〇〇横須賀着/長良一五〇〇内海西部着」</ref>。 大和隊は4月26日[[マニラ]]着、29日に同地を出発する<ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]p.12『(三)麾下艦船部隊ノ行動』</ref><ref>[[#S1812十戦隊日誌(5)]]pp.56-57『26(天候略)一三五七雪風大和摩耶島風「マニラ」着』-『29(天候略)〇五〇〇雪風島風大和摩耶ヲ護衛「リンガ」ニ向ケ「マニラ」発』</ref>。5月1日、リンガ泊地に到着した<!--どこに?--><ref>[[#S1812十戦隊日誌(6)]]p.10『(5)雪風 大和摩耶ノ警戒ニ任ジ一日「リンガ」着十日迄同方面ニ於テ訓練警戒待機ニ従事…』</ref> 5月4日、第一戦隊司令官[[宇垣纏]]中将は長門から大和に移乗し、大和は第一戦隊旗艦となった<ref>[[#戦藻録(九版)]]321頁</ref>。6月14日、[[ビアク島]]に上陸したアメリカ軍を迎撃するため[[渾作戦]]に参加するが、アメリカ軍が[[サイパン島]]に上陸したことにより渾作戦は中止となった<ref>[[#大和と日本人]]113頁</ref>。渾作戦部隊(第一戦隊〈大和、武蔵〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、沖波、島風〉、第10駆逐隊〈朝雲〉、第4駆逐隊〈山雲、野分〉)は北上し、小沢機動部隊と合流した。6月15日、[[マリアナ沖海戦]]に参加。大和は[[栗田健男]]中将指揮する前衛艦隊に所属していた。6月19日、前衛艦隊上空を通過しようとしていた日本側第一次攻撃隊を米軍機と誤認、周囲艦艇とともに射撃して数機を撃墜するという失態も犯している<ref>[[#戦藻録(九版)]]354頁</ref>。大和は発砲していないという証言もある<ref>[[#栗原証言]]41頁 川潟光勇(艦橋防空指揮所見張員)</ref>。同日、日本軍機動部隊はアメリカ潜水艦の雷撃により空母2隻([[大鳳 (空母)|大鳳]]、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]])を失った。 6月20日、アメリカ軍の攻撃隊<!--詳細を-->に向けて[[三式弾]]27発を放った。大和が実戦で主砲を発射したのはこれが最初である<ref>[[#大和と日本人]]119頁</ref>。6月24日に日本に戻る<ref>[[#戦藻録(九版)]]365頁</ref>。10日ほど在泊したのち、陸軍将兵や物資を搭載して第四戦隊・第七戦隊・第二水雷戦隊と共にシンガポールへ向かう{{要出典|date=2017年12月}}。7月16日、第一戦隊(大和、武蔵、長門)、駆逐艦3隻([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、五月雨、島風)はリンガ泊地に到着した{{要出典|date=2017年12月}}。この後3ヶ月間訓練を行い、10月には甲板を黒く塗装した<ref>[[#大和と日本人]]128頁</ref>。 === レイテ沖海戦 === {{main|レイテ沖海戦}} [[File:IJN ships leave Brunei Bay.jpg|thumb|300px|昭和19年(1944年)10月22日、[[ブルネイ]]から[[レイテ湾]]へ出撃する[[レイテ沖海戦|栗田艦隊]]。<br />(右から[[長門 (戦艦)|長門]]・[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]・大和、[[高雄型重巡洋艦]]4隻(摩耶・鳥海・高雄・愛宕)・[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]・[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]。]] [[1944年]](昭和19年)10月22日、大和は[[レイテ沖海戦]]に参加するため[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]](通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指し[[ブルネイ]]を出撃した<ref>[[#戦藻録(九版)]]415頁、[[#大和と日本人]]130頁</ref>。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた<ref>[[#大和に捧ぐ]]80頁。石田恒夫(主計長)談</ref>。 [[ファイル:戦艦大和の回避運動.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|昭和19年(1944年)10月24日、[[レイテ沖海戦|シブヤン海海戦]]で米軍機の爆撃に対して回避行動を取る大和。]] 24日、[[シブヤン海]]でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中している<ref>[[#戦藻録(九版)]]418頁</ref>。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行った<ref>[[#日米全調査]]80頁、[[#大和と日本人]]156-157頁</ref>。 この戦闘で、大和は主砲弾を32,000mの遠距離から104発発射した。この砲撃に対し護衛空母「[[カリニン・ベイ (護衛空母)|カリニン・ベイ]]」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している<ref>[[#日米全調査]]104頁</ref>。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち[[徹甲弾]]は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している<ref name="能村152">[[#能村慟哭]]152頁</ref>。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で<ref>[[#戦藻録(九版)]]420-421頁</ref>、最初の「正規空母」は護衛空母[[ホワイト・プレインズ (護衛空母)|ホワイト・プレインズ]]で、次の艦は[[ファンショー・ベイ]]である<ref>[[#秋元記録]]212頁、[[#日米全調査]]88-89頁</ref>。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい<ref>「大和」艦橋から見たレイテ海戦」<br />[[#日米全調査]]86頁</ref>。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている<ref>[[#秋元記録]]214頁、[[#日米全調査]]88-89頁</ref>。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している<ref name="能村152" />。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されている。 [[File:Yamato in action in the Sibuyan Sea.jpg|thumb|300px|[[シブヤン海]]を航行中に[[アメリカ軍]]機の攻撃を受け回避行動を取る戦艦大和。魚雷攻撃を避けるため左へ回頭するところで、大和の左舷前方にはアメリカ軍機が投下した魚雷の航跡らしき白い筋が見える。<br><!-- この写真を分析した米軍は大和型戦艦の寸法が840×195フィート(256×59メートル)であると判断した。なお実際の大和は全長263、最大幅38.9メートルである。本艦の対空火器、特に12.7センチ連装高角砲の爆風除け(シールド)が既存配備の砲台から新設砲台に移設されたのが確認できる。しかし、大和の主砲が世界最大の46センチ砲だとは気づかなかった。 --><ref>[[#戦艦大和建造秘録|戦艦大和 建造秘録 完全復刻改訂版[資料・写真集] ALL ABOUT SUPER BATTLESHIP YAMATO]] p.27 編著:原勝洋 KKベストセラーズ</ref>]] 戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった<ref>[[#戦藻録(九版)]]421頁、[[#秋元記録]]220頁、[[#日米全調査]]88頁</ref>。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、[[仮称二号電波探信儀二型]]を使用したレーダー射撃を実施した<ref>[[#秋元記録]]221頁、[[#日米全調査]]100-101頁</ref>。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面があった<ref>[[#能村慟哭]]153頁、[[#辺見/原 発見]]88頁、[[#岩佐レイテ]]136-137頁、[[#小板橋見張員]]139頁</ref>。 アメリカ軍の[[護衛空母]][[ガンビア・ベイ (護衛空母)|ガンビア・ベイ]]に大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、[[利根型重巡洋艦]]1番艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]艦長[[黛治夫]]大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている<ref>[[#日米全調査]]203頁</ref>。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている<ref>『レイテ戦記 上巻』P217)</ref>。 [[File:Yamato off Samar.jpg|thumb|300px|昭和19年(1944年)10月25日、米[[護衛空母]][[ペトロフ・ベイ (護衛空母)|ペトロフ・ベイ]]艦載機が撮影した写真。手前が大和で後方は重巡[[利根 (重巡洋艦)|利根]]もしくは[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]とされる。比島沖海戦時の記録写真で、撮影日は1944年(昭和19年)10月25ないし26日。海戦は23日から始まり、26日まで4日間続いた<ref>[[#戦艦大和建造秘録|戦艦大和 建造秘録 完全復刻改訂版[資料・写真集] ALL ABOUT SUPER BATTLESHIP YAMATO]] p.464 編著:原勝洋 KKベストセラーズ</ref>。]] [[File:Japanese battleship Yamato underway during the Battle off Samar, 25 October 1944 (80-G-48888).jpg|thumb|300px|昭和19年(1944年)10月25日、回避行動をとる大和と僚艦。大和の後方からアメリカ軍機が一機、攻撃を仕掛けようとしている。アメリカ軍[[空母]]艦載機による撮影。]] アメリカ側では0725-0730頃、駆逐艦[[ホーエル (DD-533)|ホーエル]]、[[ジョンストン (DD-557)|ジョンストン]]が戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている[[金剛 (戦艦)|金剛]]では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦、巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、ホーエルが艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。また、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(利根、筑摩)もホーエル、ジョンストンを砲撃しており、特にホーエルは0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホーエルに対して追撃を加え、0835にはホーエルは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった<ref>大和、長門両艦共に副砲による砲撃で命中弾が確認されている。</ref>。ジョンストンは0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に軽巡[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]を先頭に第十戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは、矢矧に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの0940に包囲され集中砲火を浴び沈没した。このため、この海戦で大和が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。なお、この海戦で0850以降に大和が重巡洋艦[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]を誤射したという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が鳥海及び[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]を誤射した可能性は無い{{要出典|date=2017年12月}}。 雑誌『丸』(2015年)<!--出典表示が不十分-->にて、当時の羽黒乗組員である石丸法明が鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、「金剛による誤射だった」という説を提唱している。 アメリカ軍の損害は、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが沈没というものだった。この直後、[[関行男]]海軍大尉が指揮する[[神風特別攻撃隊|神風特攻隊]]敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]が沈没、数隻が損害を受けた<ref>[[#大和と日本人]]173-174頁</ref>。 アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究によれば、この海戦による大和による砲撃の効果は以下の通り<ref>『The World Wonder'd: What Really Happened Off Samar』Robert Lundgren</ref>。 : 護衛空母「ホワイト・プレインズ」:至近弾とはいえ、ホワイト・プレインズは大きく揺さぶられて機関室が破壊された。 : 駆逐艦「ジョンストン」:46cm砲弾3発被弾、15cm砲弾3発被弾。 サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けてレイテ湾に突入することなく反転を命じた<ref>[[#日米全調査]]109頁、[[#大和と日本人]]171-172頁</ref>。宇垣中将の著作には、当時の大和艦橋の混乱が描写されている<ref>[[#戦藻録(九版)]]423-426頁</ref>。引き返す途中、[[ブルネイ]]付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した<ref>[[#辺見/原 発見]]90頁、岩本正夫(主砲指揮所)談。</ref>。 [[File:Yamato hit by bomb.jpg|thumb|300px|米空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]]艦載機の攻撃により、一番砲塔近辺に直撃弾を受けた直後。損傷は軽微だった。]] 往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった{{要出典|date=2017年12月}}。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た{{要出典|date=2017年12月}}。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う{{要出典|date=2017年12月}}<!-- この証言の初出、掲載資料の追記をお願いします -->。また前甲板の爆弾は錨鎖庫に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した<ref>[[#戦藻録(九版)]]428頁、[[#大和と日本人]]180頁</ref>。 10月28日、大和はブルネイに到着した<ref>[[#戦藻録(九版)]]429頁、[[#大和と日本人]]181頁</ref>。11月8日、[[多号作戦]]において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港<!--どこへ?-->したが特に戦闘は起きなかった<ref>[[#大和と日本人]]191-192頁</ref>。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する<ref>[[#大和と日本人]]193頁</ref>。同日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、雪風、磯風、浜風)とともに内地に帰還したが<!--帰還するため出港した、では-->、[[台湾]]沖で戦艦金剛と駆逐艦浦風がアメリカ潜水艦の雷撃により撃沈されることとなった<ref>[[#大和と日本人]]195-196頁</ref>。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、[[森下信衛]]5代目艦長にかわって[[有賀幸作]]大佐が6代目艦長となった(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)<ref>[[#大和と日本人]]197頁</ref>。 大和の姉妹艦武蔵の沈没は大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え<ref>[[#栗原証言]]47頁、[[#原 大和全貌]]78頁、[[#大和に捧ぐ]]80頁</ref>、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた<ref>[[#坪井大和]]167頁、[[#岩佐レイテ]] 61-62頁、[[#辺見/原 発見]]89頁、[[#阿部特攻]]56頁</ref>。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した<ref>[[#戦藻録(九版)]]419頁,434頁、[[#大和と日本人]]135-136頁</ref>。 レイテ沖海戦で日本の連合艦隊は事実上壊滅した。大和以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている<ref>[[#大和と日本人]]198-199頁,204-205頁</ref>。 [[File:Japanese battleship Yamato under air attack off Kure on 19 March 1945 (80-G-309662).jpg|thumb|300px|昭和20年(1945年)3月19日に[[柱島]]沖の大和が空襲を受ける様子<!-- この空襲について海軍では研究会が持たれたが、防空駆逐艦以外の駆逐艦では対空戦闘に大きな期待ができないことが改めて報告されたほか、三式弾や大和の対空火器では満足な戦果があげられないことも確認された。より一層の猛訓練が必要との要望が出されたが、これも燃料不足で思うに任せなかった。 --><ref>[[#艦船模型スペシャル 戦艦大和の最期:天一号作戦―沖縄海上特攻 2019SPRING]]p.4 MODELART</ref>。]] 1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港に敵艦載機が襲来、大和は事前に安芸灘に出たが攻撃を受け、直撃弾はなかったものの、測距儀が故障、陸あげ修理を要した<ref>Gakken mook CARTAシリーズ 戦艦「大和」の真実 86頁など</ref>。その後、すでに安全な場所でなくなった呉軍港から[[徳山市|徳山]]沖に疎開した<ref>『真相・戦艦大和ノ最期』原勝洋著など</ref>。 同年[[3月28日]]、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」(三上作夫連合艦隊作戦参謀)<ref>吉田満、原勝洋編 『ドキュメント戦艦大和』 17頁</ref>に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:[[伊藤整一]]中将、参謀長:森下信衛少将)は[[佐世保鎮守府|佐世保]]への回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となった<ref>[[#大和と日本人]]206頁</ref>。 [[3月30日]]にアメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の[[機雷]]で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥った。[[関門海峡]]は27日にアメリカ軍によって機雷封鎖され通行不能だった<ref>ラッセル・[[#スパー運命]]176頁</ref>。 === 海上特攻の準備 === [[File:Yamato1945.png|thumb|300px|最終時の大和。アメリカ側の資料で、最新の研究考証に準じているが一番砲塔脇と砲塔上の機銃形状が日本側考証と異なる。]] 4月2日、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦矢矧での第二艦隊の幕僚会議では、次の3案が検討された<ref name="第2水雷弐6">[[#阿部特攻]]21頁、[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.6</ref>。 {{quotation |1. 航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する<ref name="第2水雷弐6" />。 2. 好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する<ref name="第2水雷弐6" />。 3. 揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする<ref name="第2水雷弐6" />。''}} この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた<ref>[[#原/吉田満]]19頁</ref>。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっていた<ref>[[#千早インタビュー]]55頁</ref>。 一方連合艦隊では、連合艦隊参謀[[神重徳]]大佐が大和による海上特攻を主張した。連合艦隊の[[草鹿龍之介]]参謀長はそれをなだめたが神大佐は「大和を特攻的に使用した度」と軍港に係留されるはずの大和を第二艦隊に編入させた。司令部では構想として海上特攻も検討はされたが、沖縄突入という具体案は草鹿参謀長が鹿屋に出かけている間に神大佐が計画した。神大佐は「航空総攻撃を行う奏上の際、陛下から『航空部隊だけの攻撃か』と下問があったではないか」と強調していた。神大佐は草鹿参謀長を通さずに[[豊田副武]]連合艦隊司令長官に直接決裁をもらってから「参謀長意見はどうですか?」と話した。豊田司令長官は「大和を有効に使う方法として計画した。50%も成功率はなく、上手く行ったら奇跡だった。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと決めた」と言う。一方の草鹿参謀長も「決まってからどうですかもないと腹を立てた」という。[[淵田美津雄]]参謀は「神が発意し直接長官に採決を得たもの。連合艦隊参謀長は不同意で、第五航空艦隊も非常に迷惑だった」という<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期p273-275</ref>。 神は軍令部との交渉に入ったが、作戦課長[[富岡定俊]]少将は反対であった。富岡は「この案を持ってきたとき私は横槍を入れた。大和を九州方面に陽動させて敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければいけない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として若干残しておかなければならない。ところが私の知らないところで[[小沢治三郎]]軍令部次長のところで承知したらしい」と話している<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦626頁</ref>。神の提案を軍令部総長[[及川古志郎]]大将は黙って聞いていたが、軍令部次長[[小沢治三郎]]中将は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。戦後、小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という<ref>戦史叢書17沖縄方面海軍作戦626頁、戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期273頁</ref>。第五航空艦隊長官の宇垣中将はその日誌『戦藻録』に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、天皇から「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、「海軍の全兵力を使用致す」と奉答してしまったため、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして、及川軍令部総長の対応を批判している<ref>[[#栗原証言]]61-62頁</ref>。栗原俊雄はこの『戦藻録』の内容が従来からの定説であったとし、『[[昭和天皇実録]]』には内容については書いていないものの、天皇の「お言葉」があったと書かれていて、裏付けられるとしている<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=特攻-戦争と日本人 |date=2015-8-25 |publisher=中央公論新社 |pages=169-170,175 |series=中公新書 |author=栗原俊雄}}</ref>。 4月5日、神参謀は草鹿参謀長に大和へ説得に行くように要請し、草鹿は大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の[[伊藤整一]]中将に作戦命令の伝達と説得を行った。なかなか納得しない伊藤に「一億総特攻の魁となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それならわかった」と即座に納得した<ref>戦史叢書93大本営海軍部・聯合艦隊(7)戦争最終期 274-275頁</ref><ref>[[#草鹿回想]]355-356頁</ref>。連合艦隊作戦参謀の三上作夫中佐によれば、自身も作戦に疑問を持っていた草鹿参謀長が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説明したという<ref>[[#大和と日本人]]214頁</ref>。そこで三上は「私も連れて行って下さい」と申し出たが、第二艦隊参謀の[[山本祐二]]大佐が「お前たち連合艦隊司令部の監視を受けなくても、我々は立派にやって見せる」と拒否している<ref>{{Harvnb|ウォーナー|1982b|p=49}}</ref>。草鹿参謀長は「いずれその最後を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所にと思って熟慮を続けていた」と回想している<ref>[[#草鹿回想]]355頁、[[#栗原証言]]63頁</ref>。この特攻隊は連合艦隊長官[[豊田副武]]大将によって「海上特攻隊」と命名された<ref>奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ78頁</ref>。 大和では命令受領後の4月5日15時に乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた<ref>[[#坪井大和]]173-174頁、[[#辺見/原 発見]]97頁</ref>。大和の高角砲員であった坪井平次によれば、しばらくの沈黙のあと彼らは動揺することなく、「よしやってやろう」「武蔵の仇を討とう」と逆に士気を高めたが、戦局の逼迫により、次の出撃が事実上の特攻作戦になることは誰もが出航前に熟知していたという<ref>[[#坪井大和]]168頁</ref>。4月6日午前2時、少尉候補生や傷病兵が退艦<ref>[[#千早インタビュー]]59頁</ref>。夕刻に君が代斉唱と万歳三唱を行い、それぞれの故郷に帽子を振った<ref>[[#坪井大和]]180頁</ref>。 4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。{{quotation|「【電令作603号】(発信時刻13時59分) 8日黎明を目途として、急速出撃準備を完成せよ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」「【電令作611号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」''}} 4月6日、{{quotation |「【電令作611号改】(時刻7時51分)沖縄突入を大和と二水戦、矢矧+駆逐艦8隻に改める。出撃時機は第一遊撃部隊指揮官所定を了解。」として、豊後水道出撃の時間は第二艦隊に一任された。第二艦隊は同日夕刻、[[天一号作戦]]([[菊水作戦]])により[[山口県]]徳山湾沖から[[沖縄本島|沖縄]]へ向けて出撃する。この作戦は「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ、其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘ」<ref>4月6日1545、豊田副武「帝国海軍部隊は陸軍と協力 空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦船に対する総攻撃を決行せんとす 皇国の興廃は正に此の一戦に結集し光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に其の栄光を後昆に伝へんとするに外ならず 各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅し以て皇国無窮の礎を確立すべし」(片仮名を平仮名に)</ref>''}}を掲げた。 大和は菊水作戦で沖縄までの片道分の燃料しか積まずに出撃したとする主張が存在したが、記録、証言から約4,000(満載6,500)トンの重油を積んでいたことが判明している<ref>[[#能村慟哭]]36-37頁、[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.59</ref>。戦闘詳報でも大和の出撃時の燃料搭載量は4000tと表記されており、生存者の三笠逸男は出撃前に燃料担当の同僚と会い、周囲のタンクなどからかき集めて合わせて4000t程大和に搭載する事を聞いている<ref>原勝洋/吉田満共著「ドキュメント戦艦大和」</ref>。 第二艦隊は大和以下、第二水雷戦隊(司令官:[[古村啓蔵]]少将、旗艦[[軽巡洋艦]]矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]))、第十七駆逐隊([[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、[[雪風 (駆逐艦)|雪風]])、第二十一駆逐隊([[朝霜 (駆逐艦)|朝霜]]、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]、[[霞 (朝潮型駆逐艦)|霞]])で編成されていた。先導した対潜掃討隊の[[第三十一戦隊]]([[花月 (駆逐艦)|花月]]、[[榧 (松型駆逐艦)|榧]]、[[槇 (松型駆逐艦)|槇]])の3隻は練度未熟とみて、豊後水道で呉に引き返させた。 * アメリカ軍偵察機[[B-29 (航空機)#偵察型|F-13『スーパーフォートレス』]]([[B-29 (航空機)|B-29]]の偵察機型) により上空から撮影された出撃直後の大和の写真が2006年7月にアメリカにて発見された。当時の大和の兵装状態は未だ確定的な証拠のある資料はなく、この写真が大和最終時兵装状態の確定に繋がると期待されている。 {{Main|菊水作戦|坊ノ岬沖海戦}} 天一号作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、つまりその航程で主にアメリカ海軍の邀撃戦闘機を大和攻撃隊随伴に振り向けさせ、日本側特攻機への邀撃を緩和させることである。さらに立案者の[[神重徳]]参謀の構想では、もし沖縄にたどり着ければ、自力座礁し[[浮き砲台]]として陸上戦を支援し、乗員は陸戦隊として敵陣突入させることも描いていたとされる(神大佐は、以前にも[[山城 (戦艦)|戦艦山城]]を突入させ浮き砲台としサイパンを奪還すると具申して、[[中沢佑]]軍令部作戦部長に「砲を撃つには電気系統が生きてなければならない」と却下されたことがある<ref>『海軍中将 中澤佑』142頁</ref>)。沖縄の日本陸軍第三十二軍は、連合艦隊の要請に応じて4月7日を予定して攻勢をかけることになっていた<ref>[[#戦藻録(九版)]]486頁</ref>。なお、大和を座礁させて陸上砲台にするには、(1)座礁時の船位がほぼ水平であること、(2)主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないこと、の2点が必要であり、既に実行不可能とされていた。{{要出典範囲|date=2011年3月|実際、レイテ沖海戦で座礁→陸上砲台の案が検討されたが}}、上記に理由で却下されている。また、現実を見ればアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、作戦の主意は、攻撃の主役である菊水作戦による航空特攻を支援するための陽動作戦であった。戦争末期には日本海軍の[[パープル暗号|暗号]]はアメリカ軍にほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認され、[[豊後水道]]付近ではアメリカの[[スレッドフィン (潜水艦)|スレッドフィン]]、[[ハックルバック (潜水艦)|ハックルバック]]の2隻の潜水艦に行動を察知された<ref>[[#スパー運命]]190-192頁</ref>。4月6日21時20分、ハックルバックは浮上して大和を確認、ハックルバックの艦長のフレッド・ジャニー中佐は特に暗号も組まれずに「ヤマト」と名指しで連絡した。この電報は大和と矢矧に勤務していた英語堪能な日系2世通信士官に傍受され、翻訳されて全艦に連絡された<ref>[[#日系二世]]35-36頁。大和には中谷邦夫ほか、矢矧には山田重夫、倉本重明少尉。</ref>。 当初、[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]司令長官[[レイモンド・スプルーアンス]]大将は[[戦艦]]による迎撃を考えていた<ref>[[#スパー運命]]215-216頁</ref>。しかし大和が西進し続けたため日本海側に退避する公算があること、大和を撃沈することが目的であり、そのために手段は選ぶべきではないと考え、[[マーク・ミッチャー]]中将の指揮する機動部隊に航空攻撃を命じたという。しかし実際には、スプルーアンス大将が戦艦による砲撃戦を挑もうとしていたところをミッチャー中将が先に攻撃部隊を送り込んでしまった<ref>[[#原真相]]157-158頁</ref>。武蔵は潜水艦の雷撃で沈んだという噂があり、ミッチャー中将は何としても大和を航空攻撃のみで撃沈したかったのだという<ref>[[#栗原証言]]81頁</ref>。またミッチャー中将は、各部隊の報告から大和が沖縄へ突入すると確信し<ref>[[#スパー運命]]217-218頁</ref>、スプルーアンスに知らせないまま攻撃部隊の編成を始めた<ref>[[#スパー運命]]220頁</ref>。なお、スプルーアンス大将はアメリカ留学中の伊藤中将と親交を結んだ仲であった<ref>[[#栗原証言]]80頁</ref>。 === 坊ノ岬沖海戦 === {{main|坊ノ岬沖海戦}} 4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため[[零式水上偵察機]]を発進させた<ref>[[#能村慟哭]]65頁、[[#坪井大和]]187頁、[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.26</ref>。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した<ref>[[#阿部特攻]]61頁、出雲雅成(上飛曹)</ref>。 連合艦隊の参謀が大和の海上特攻作戦を[[第五航空艦隊]]へ報告に行った際、第五航空艦隊は既に[[菊水作戦]]中で、多くの部隊は特攻作戦に全力を投入していたため、参謀は「第五航空艦隊に迷惑はかけない」と伝えている<ref>{{Harvnb|宇垣纏|1953|p=209}}</ref>。[[第五航空艦隊]]司令長官の[[宇垣纏]]中将はこの海上特攻作戦に反対ではあったが、「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対して掩護命令を出した<ref>[[#戦藻録(九版)]]487-488頁、[[#秋元記録]]244頁</ref>。しかし、宇垣の意向に対して、前線の部隊の対応は足並みが揃っておらず、第五航空艦隊は[[夜間戦闘機]]隊[[芙蓉部隊]]の指揮官[[美濃部正]]少佐に大和掩護要請を打診したが、芙蓉部隊には、重武装、重装甲型の[[零式艦上戦闘機の派生型#零戦五二型系統|零戦52型丙]]型を配備されていたにも拘らず<ref>{{Harvnb|吉野泰貴|2012|p=66}}</ref>、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は敵戦闘機に対する空戦技術を殆ど持たなかったこともあって<ref>{{Harvnb|伊沢|1975|p=139}}</ref>、美濃部は芙蓉部隊に制空戦闘はできないなどとして大和の援護要請を断っている<ref>[[#阿部特攻]]297頁</ref>。 阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、自らの所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った<ref>[[#阿部特攻]]286頁</ref>。阿部の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した<ref>[[#阿部特攻]]288頁</ref>。戦闘三一二飛行隊(笠之原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し<ref>[[#阿部特攻]]289-290頁</ref>、三五二空(大村基地)からは零戦隊・甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた<ref>[[#阿部特攻]]291頁</ref>。 九州近海までは、能村副長は[[F6Fヘルキャット]]3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する<ref>[[#能村慟哭]]67-69頁</ref>。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もあり<ref>[[#栗原証言]]82頁。松岡一夫(涼月乗組員)、[[#辺見/原 発見]]103頁、竹重忠治(主砲指揮所)</ref>、戦闘詳報では5機から10機の[[零式艦上戦闘機]](零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告している<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.27</ref>。その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還してしまい、第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行ったことは確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった<ref>[[#蝦名 特攻機]]390頁、[[#阿部特攻]]298-300頁</ref>。 このように同じ海軍の大和への航空支援は乏しいものとなったが、第二艦隊の出撃を知らされた陸軍航空隊[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]司令官[[菅原道大]]中将は、陸海軍の連携を重視し「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が[[四式戦闘機]]疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と大和への航空支援を快諾して{{Sfn|木俣滋郎|2013|p=369}}、第100飛行団を主力とする陸軍航空隊の戦闘機41機を出撃させて、12:00から14:00にかけて制空戦闘をおこない10機が未帰還となった{{Sfn|戦史叢書36|1970|p=462}}{{Sfn|戦史叢書36|1970|p=付表3その1}}。 零戦が帰投すると、入れ替わるようにアメリカ軍の[[PBM (航空機)|マーチン飛行艇]]などの偵察機が艦隊に張り付くようになる<ref>[[#海の武将]]152頁</ref>。スレッドフィンが零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる<ref>[[#日系二世]]38頁</ref>。アメリカ軍の記録によれば、8時15分に3機の[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]索敵隊が大和を発見した<ref name="スパー225">[[#スパー運命]]225頁</ref>。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も大和を視認した<ref name="スパー225" />。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった<ref>[[#スパー運命]]230頁</ref>。大和は主砲以外の対空兵器で砲撃したが、アメリカ偵察機を追い払うことはできなかった<ref>[[#能村慟哭]]68頁</ref>。 [[File:Battleship_Yamato_under_air_attack_April_1945.jpg|thumb|300px|左弦に至近弾の水柱、大和は艦後部から白煙をあげている。]] [[4月7日]]12時34分、大和は[[鹿児島県]][[坊津|坊ノ岬]]沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した<ref name="大和詳報5">[[#大和詳報(沖縄)]]p.5</ref>。8分後、空母[[ベニントン (空母)|ベニントン]]の第82爆撃機中隊(11機)のうち[[SB2C (航空機)|SB2C ヘルダイバー急降下爆撃機]]4機が艦尾から急降下する<ref>[[#原真相]]171頁、[[#秋元記録]]251頁</ref>。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、アメリカ軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した<ref>[[#原真相]]172頁</ref>。大和は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している<ref name="大和詳報5" />。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった<ref>[[#原真相]]180頁、[[#秋元記録]]251頁</ref>。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た<ref>[[#栗原証言]]87頁。藤原英美(第一艦橋三番見張員)</ref>。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある{{誰2|date=2011年6月}}。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された<ref>[[#大和檣頭下]]55頁</ref>。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村副長は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという<ref>[[#能村慟哭]]84頁</ref>。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた<ref>[[#原真相]]209頁、[[#秋元記録]]251頁</ref>。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる<ref>[[#秋元記録]]252頁</ref>。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた<ref>[[#栗原証言]]88頁</ref>。 アメリカ軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が大和に対し同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な大和が完全に回避する事は困難だった<ref>[[#大和檣頭下]]54頁</ref>。ベニントン隊に続き[[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]の第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が大和を攻撃した。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている<ref name="スパー255">[[#スパー運命]]255頁</ref>。12時40分、ホーネット (CV-12) の第17雷撃機中隊8機が大和を雷撃し、魚雷4本命中を主張した<ref>[[#スパー運命]]258頁、[[#秋元記録]]252頁</ref>。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である<ref name="大和詳報5" />。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言<ref>[[#原真相]]179頁、[[#秋元記録]]255頁</ref>。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村副長は4本、森下参謀長は2本、清水福砲術長は3本(全員左舷)と証言した<ref>[[#原真相]]181頁、[[#秋元記録]]255頁</ref>。これを受けて、アメリカ海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、アメリカ軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている<ref>[[#原/吉田満]]228-229頁</ref>。大和では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた<ref>[[#原真相]]182頁</ref>。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。 13時2分、第二波攻撃が始まった<ref name="大和詳報6">[[#大和詳報(沖縄)]]p.6</ref>。アメリカ軍攻撃隊94機中、大和に59機が向かった<ref>[[#原真相]]184頁</ref>。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、大和が主砲を発射したと証言している<ref>[[#原真相]]171頁</ref>。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが<ref>[[#大和檣頭下]]59頁</ref>、発砲しなかったという反論もある<ref>[[#大和に捧ぐ]]113頁、石田直義(主砲測距儀)。</ref>。いずれにせよアメリカ軍機の阻止には至らず、[[エセックス (空母)|エセックス]]の攻撃隊が大和の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した<ref name="秋元メカ259">[[#秋元記録]]259頁</ref>。さらに直撃弾と火災により、大和からアメリカ軍機を確認することが困難となった<ref name="秋元メカ259" />。アメリカ軍機は攻勢を強め、エセックスの雷撃隊(ホワイト少佐)が大和の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張した<ref>[[#スパー運命]]276頁、[[#原真相]]171頁</ref>。[[バターン (空母)|バターン]]の雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張した<ref>[[#スパー運命]]278頁、[[#原真相|原『真相・大和ノ最期』]]186頁</ref>。[[バンカーヒル (空母)|バンカーヒル]]の雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した<ref>[[#スパー運命]]280頁</ref>。キャボットの雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、大和の右舷に照準を定めたが進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した<ref name="スパー281">[[#スパー運命]]281頁</ref>。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二波攻撃隊が大和に命中させた魚雷は29本となった<ref name="スパー281" />。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる<ref name="スパー281" />。 [[File:Japanese battleship Yamato maneuvers while under attack by U.S. Navy carrier planes north of Okinawa, 7 April 1945 (NH 62581).jpg|thumb|300px|「決戦海面を真南とす」旗旒信号を掲げ、攻撃機92機による爆弾63発、航空魚雷52本の集中攻撃に耐え、なお沖縄への意志を示す大和<ref>別冊宝島 2548 米軍から見た太平洋戦争 独自入手!米国資料からわかった「敗戦の真実」p.7</ref>]] 大和の防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長はアメリカ軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している<ref>[[#原真相]]185、188頁</ref>。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。大和の速力は18ノットに落ち、左舷に15度傾いた<ref>[[#原真相]]189頁</ref>。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた<ref>[[#秋元記録]]261頁</ref>。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された<ref>[[#能村慟哭]]92頁、[[#秋元記録]]261頁</ref>。 [[File:Yamato2.jpg|thumb|300px|高速で転舵しつつ攻撃を回避する大和。右方は[[雪風 (駆逐艦)|雪風]] <ref>[[#日本軍艦戦記]]p.100-101</ref>。上空には攻撃の機を伺う[[SB2C (航空機)|カーチスSB2Cヘルダイバー]]の姿がある。画面にも薄く雲が見えているが、この日は全天に雲が低く垂れ込め、対空射撃は困難をきわめた。アメリカ軍機は雲の切れ間より襲いかかり、すぐにまた雲間に退避した。大和はこの特攻出撃でヘルダイバーの急降下爆撃により、多数の1000ポンド爆弾の命中を受けている。]] 13時25分、通信施設が破壊された大和は初霜に通信代行を発令した<ref>[[#秋元記録]]264頁、[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.40、[[#第2水雷戦隊詳報(3)]]p.45</ref>。 [[File:Damaged Japanese battleship Yamato underway with a destroyer on 7 April 1945 (NH 62585).jpg|thumb|300px|被弾して左舷に傾きながら航行する大和。(写真右)。この後、空母[[ヨークタウン (CV-10)|ヨークタウン]]艦載機による魚雷攻撃を受け、速力は10〜15ノットに落ちた。随動して大和を守るのは先航する冬月(写真奥の航跡)と[[雪風 (駆逐艦)|雪風]](写真左) <ref>[[#大和永遠なれ]]p.80</ref>。]] 13時30分、[[イントレピッド (空母)|イントレピッド]]、[[ヨークタウン (CV-10)|ヨークタウン]]、[[ラングレー (CVL-27)|ラングレー]]の攻撃隊105機が大和の上空に到着した<ref>[[#原真相]]194頁、[[#秋元記録]]262頁</ref>。13時42分、ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した<ref>[[#原真相]]197頁、[[#秋元記録]]262頁</ref>。この頃、上空の視界が良くなったという<ref>[[#能村慟哭]]94頁</ref>。 [[File:Japanese battleship Yamato and a destroyer in action with U.S. Navy carrier planes north of Okinawa on 7 April 1945 (80-G-313714).jpg|thumb|300px|大和は複数の直撃弾によって艦首側が下がり速度も落ちている。護衛の駆逐艦[[冬月 (駆逐艦)|冬月]]が10cm対空砲を発射している<ref>[[#写真大和]]p.160-161</ref>。]] 大和は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生した。大和の艦上では、爆弾の直撃やアメリカ軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、アメリカ軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである<ref>[[#辺見/原 発見]]109頁、竹中茂(排水管制所工作隊)</ref>。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった<ref name="大和詳報6" />。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる{{誰|date=2011年3月}}。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある<ref>[[#原/吉田満]]251頁、渡辺(見張長)談。</ref>。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという<ref>[[#大和 艦長]]333頁</ref>。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された<ref name="大和詳報6" />。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった<ref>[[#目撃者昭和史7巻]]180頁、[[#辺見/原 発見]]108頁・家田政六(主砲指揮所)談</ref>。 また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが<ref>[[#能村慟哭]]95-96頁、[[#秋元記録]]267頁</ref>、{{要出典範囲|機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり|date=2017年2月20日}}、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である{{要出典|date=2017年12月}}。 14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅した<ref>[[#能村慟哭]]97頁</ref>。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった<ref>[[#大和 艦長]]334頁、[[#辺見/原 発見]]112頁</ref>。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた<ref>[[#能村慟哭]]99頁</ref>。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった<ref>[[#能村慟哭]]100頁、[[#辺見/原 発見]]107頁、梅村清松(三番主砲砲員長)</ref>。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた<ref>[[#雪風手記]]380頁</ref>。 大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊[[TBF (航空機)|TBF アベンジャー]]6機による右舷後部への魚雷攻撃であった<ref>[[#原/吉田満]]269頁</ref>。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した<ref>[[#原真相]]198頁、[[#秋元記録]]267頁</ref>。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した<ref>[[#スパー運命]]302頁</ref>。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する<ref>[[#秋元記録]]268頁</ref>。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した<ref>[[#原真相]]200、202頁</ref>。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある<ref>[[#秋元記録]]267頁</ref>。 この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している<ref name="名前なし-原真相201頁">[[#原真相]]201頁</ref>。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した<ref>[[#原真相]]203頁</ref>。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた<ref>[[#原真相]]203-204頁</ref>。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。 このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機<ref>[[#原真相]]157-160頁</ref>による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾と[[ロケット弾]]を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である<ref>[[#原真相]]158頁</ref>。 『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した[[戦闘詳報]]の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(3)]]p.27</ref>。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。 {{quotation |'''* 12時41分 後部に中型爆弾2発命中。電探室および主計課壊滅<ref>保存版 戦艦大和 最期の証言 生存者が語る歴史の真実! The Japanese Navy battle ship Yamato mechanism and story p.78</ref>'''<br />'''* 12時45分 左舷前部に[[魚雷]]1本命中<ref name="大和詳報5" />。'''<br />'''* 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障<ref name="大和詳報6" />。'''<br />'''* 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中<ref name="大和詳報6" />。'''<br />'''* 13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵<ref name="大和詳報6" />。'''<br />'''* 14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中<ref name="大和詳報7">[[#大和詳報(沖縄)]]p.7</ref>。'''<br />'''* 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中<ref name="大和詳報7" />。'''<br />'''* 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中<ref name="大和詳報7" />。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。'''<br />'''* 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す<ref name="大和詳報7" />。'''<br />'''* 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし<ref>[[#大和詳報(沖縄)]]p.8</ref>。総員上甲板(総員退去用意)を発令。'''<br />'''* 14時23分 大和、沈没。(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。死者2740名、生存者269名<ref>保存版 戦艦大和 最期の証言 生存者が語る歴史の真実! The Japanese Navy battle ship Yamato mechanism and story p.78</ref>。'''}} 最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた<ref>[[#能村慟哭]]105頁、[[#辺見/原 発見]]110頁、浅羽満夫(航海科、第一艦橋)</ref>。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った<ref>[[#大和 艦長]]337頁、[[#辺見/原 発見]]138頁・[[#大和に捧ぐ]]87頁、石田恒夫(伊藤副官)談。</ref>。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った<ref>[[#目撃者昭和史7巻]]181頁</ref>。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが<ref>[[#阿部特攻]]45頁、中尾(高射砲付。防空指揮所)談。</ref>、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.42</ref>。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた<ref>[[#能村慟哭]]110頁、[[#秋元記録]]270-271頁</ref>。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した<ref>[[#大和 艦長]]338頁、[[#栗原証言]]94頁</ref>。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた<ref>[[#大和 艦長]]343-344頁、[[#辺見/原 発見]]112頁</ref>。昭和天皇の写真([[御真影]])は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた<ref>[[#能村慟哭]]104頁、[[#大和檣頭下]]24頁</ref>。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる{{要出典|date=2017年12月}}。 === 沈没 === 14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している<ref>[[#大和檣頭下]]63-64頁</ref>。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた<ref>[[#栗原証言]]104頁、[[#辺見/原 発見]]113頁<br />両冊とも、大村茂良(右舷後部応急員)の証言。</ref>。左舷の高角砲も半ば海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た<ref name="kyodaibnhk" />。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた<ref name="kyodaibnhk" />。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する<ref>[[#スパー運命]]307頁</ref>。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある<ref>[[#原真相]]205頁</ref>。 [[File:Japanese battleship Yamato explodes, 7 April 1945 (NH 62579).jpg|thumb|300px|転覆した際、搭載する弾薬が誘爆し、大和は船体を三つに折り海中に没した。なおこれが船体を確認できる最後の媒体である。]] 大和は直後に大爆発を起こし、船体が3つに分断されて<ref>保存版 戦艦大和 最期の証言 生存者が語る歴史の真実! The Japanese Navy battle ship Yamato mechanism and story p.93</ref>海底に沈んだ。 [[ファイル:戦艦大和の最後.jpg|サムネイル|355x355ピクセル|大和の最期。大和が沈没しても、なお沖縄突入の意気を失わない[[駆逐艦]]の艦長もいたが、[[伊藤整一|伊藤]][[長官]]が大和沈没直前に[[坊ノ岬沖海戦|作戦]]の中止、及び残存艦による沈没艦の兵員救助活動後、佐世保に帰投せよとの[[命令]]を出していたため、沖縄に到達する艦はなかった。]] [[File:Explosion of the Japanese battleship Yamato, 7 April 1945 (NH 62584).jpg|thumb| 300px|沈没へ。[[進水式|進水]]から永眠まで4年と8ヶ月、計1704日間の艦歴であった。]] 大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分<ref>[[#大和詳報(沖縄)]]p.8、[[#第17駆逐隊詳報(9)]]p.11</ref>、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.42、[[#第2水雷戦隊詳報(3)]]pp.24.27、[[#第17駆逐隊詳報(9)]]p.31</ref>。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった<ref name="kyodaibnhk" />。 所在先任指揮官[[吉田正義]]大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた<ref>[[#スパー運命]]309頁、[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.41</ref>。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された[[古村啓蔵]]少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.48、[[#第2水雷戦隊詳報(3)]]p.24、[[#海の武将]]155頁</ref>。 14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した<ref>[[#能村慟哭新版]]p.115-116</ref>。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた{{Sfn|倉橋友二郎|1967|p=211}}<ref>[[#阿部特攻 文]]p.223-224</ref>。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された<ref>[[#全米大和]]p.317-318</ref>。 頭頂部に裂傷を負った能村副長は、森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた<ref>[[#全米大和]]p.316-317</ref><ref>[http://www.naniwa-navy.com/senki-1-sennsoutoseisyunn-kunimoto2.html 「戦争と我が青春」] なにわ会ホームページ</ref>。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している<ref>[[#大和機銃員]]p.82</ref>。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した<ref>[[#証言大和]]p.288-289</ref>。 冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.45-47</ref>。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた<ref>[[#巨大戦艦大和]]p.200-202</ref><ref>[[#全米大和]]p.326</ref>。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.48-53</ref>。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが、両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した<ref>[[#全米大和]]p.316</ref><ref>[[#巨大戦艦大和]]p.203-205</ref>。 大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名<ref>『戦史叢書』「沖縄方面海軍作戦」による。</ref>または276名<ref>『大和ミュージアム常設展示図録』による。</ref>、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった<ref>[[#第2水雷戦隊詳報(2)]]p.57</ref>。 うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど){{要出典|date=2017年12月}}。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている<ref>[[#第17駆逐隊詳報(9)]]p.78</ref>。 4月9日、[[朝日新聞]]は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった<ref>[[#大和と日本人]]243頁</ref>。 大和沈没の報は[[親任式]]中の[[鈴木貫太郎]]首相ら[[鈴木貫太郎内閣|内閣一同]]に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという<ref>[[#栗原証言]]127頁</ref>。同様の感想は、大和の沈没を目撃したアメリカ軍搭乗員も抱いている<ref>[[#朝日探査]]179頁、マルコム・マグルーダー談</ref>。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻([[山城 (戦艦)|山城]]、[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]、'''大和''')、空母4隻([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[信濃 (空母)|信濃]]、[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[大鳳 (空母)|大鳳]])は帝国軍艦籍から除籍された<ref name="海軍公報5175">{{アジア歴史資料センター|C12070509300|昭和20年9月3日(月)海軍公報 第5175号 p.1}}『内令第七五〇號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 山城 軍艦 武藏 軍艦 翔鶴 軍艦 信濃|呉鎮守府在籍 軍艦 扶桑 軍艦 大和 軍艦 瑞鶴|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 大鳳|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年八月三十一日 海軍大臣』</ref>。 4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた<ref>[[#原/吉田満]]367頁</ref>。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した<ref>[[#栗原証言]]127-128頁</ref>。 12月9日、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は<!--当時はNHK略称不使用-->[[NHKラジオ第1放送|日本放送協会ラジオ第1放送]]・[[NHKラジオ第2放送|第2放送]]を通じて『[[眞相はかうだ]]』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した<ref name="真相はかうだp.8">[[#真相はかうだ]]p.8『わが最大の戦艦四万五千トンの大和は、吾我野級の軽巡洋艦、及び他の軽巡洋艦、各1隻と少くとも九隻の駆逐艦にまもられて、全速力で南に向って航行中でした。』</ref>。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている<ref name="真相はかうだp.8" />。 ===沈没要因=== 大和が爆発した際の[[火柱]]や[[キノコ雲]]は、鹿児島からでも確認できたという。また、[[徳之島]]から見えたという伝承がある<ref>[[#栗原証言]]98頁</ref>。 爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる{{要出典|date=2017年12月}}。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが<ref>[[#原真相]] 207頁</ref>、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である{{要出典|date=2017年12月}}。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている<ref>[[#能村慟哭]]117頁</ref>。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している<ref name="テレ朝海底157">[[#朝日探査]]157頁</ref>。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが<ref>[[#朝日探査]]185頁</ref>、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある<ref>呉海事博物館での紹介映像では2番と3番主砲の弾薬庫が転覆によって誘爆したと紹介されている</ref>。 同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた<ref>[[#栗原証言]]85頁、[[#阿部特攻]]39頁「敵第一波艦上機約二〇〇機を迎撃、雲低く天我に組せず」</ref>、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど<ref>[[#阿部特攻]]57頁</ref>、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は[[1944年]](昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦[[榛名 (戦艦)|榛名]])は出撃の半月前の着任である<ref>[[#阿部特攻]]40頁、[[#原/吉田満]]22頁</ref>。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある<ref name="名前なし-栗原証言96頁">[[#栗原証言]]96頁</ref>。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった<ref>青山智樹『戦艦大和3000人の仕事』48頁、[[#阿部特攻]]40頁</ref>。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている<ref>[[#海の武将]]148頁</ref>。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は<ref>青山智樹『戦艦大和3000人の仕事』44頁、[[#辺見/原 発見]]93頁:塚本高夫(艦長伝令)・石田直義(15m測距儀)等</ref>「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている<ref name="名前なし-栗原証言96頁"/>。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした<ref>[[#大和 艦長]]346頁</ref>。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある<ref>[[#阿部特攻]]65頁・[[#小板橋下士官]]164頁、石田恒夫(主計少佐)</ref>。 アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという<ref>[[#阿部特攻]]50頁</ref>。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった{{要出典|date=2017年12月}}。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない{{要出典|date=2017年12月}}。<!--(もっとも、[[平賀譲]]の設計により、日本の軍艦は多くが強度を増すつもりで縦隔壁を入れていたものの、これがかえって片側が浸水すれば極めて横転しやすいという結果をもたらしていて<ref>{{Cite web |url=https://gendai.media/articles/-/75812?page=4 |title=【科学で検証】太平洋戦争中、日本の軍艦が次々と沈没していったワケ(播田 安弘) {{!}} 現代ビジネス {{!}} 講談社(4/5) |access-date=2023-7-4 |publisher=講談社 |author=播田 安弘}}</ref>、船体片側に穴が開けばそちらに攻撃を集中するという戦法が米軍にとって既に常識となっていた可能性がある。)無出典の独自研究--> さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の[[戦闘詳報]]による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想<ref>[[#能村慟哭]]100頁</ref>。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本<ref>[[#阿部特攻]]46頁</ref>。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発<ref name="原吉田260">[[#原/吉田満]]260頁</ref>。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発<ref name="原吉田260" />。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機([[F6F (航空機)|戦闘機ヘルキャット]]15機、[[F4U (航空機)|戦闘機コルセア]]5機、[[SB2C (航空機)|急降下爆撃機ヘルダイバー]] 37機、[[TBF (航空機)|雷撃機アベンジャー]]60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張<ref>[[#秋元記録]]272頁、[[#原/吉田満]]260頁</ref>。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている<ref name="原吉田260" />。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた<ref name="名前なし-原真相201頁"/>。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した<ref>[[#原真相]]213頁</ref>。 自らの言葉によって大和特攻を招いた昭和天皇だが、『[[昭和天皇実録]]』には記されていないものの『[[昭和天皇独白録]]』には、知ってか知らずか、沖縄戦を振り返る中で「とっておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と述べたことが記されている<ref name=":0" />。 == 戦後 == === 記念碑他 === 呉市の旧海軍墓地([[長迫公園]])に「戦艦大和戦死者之碑」がある。大和が建造された旧呉海軍工廠(現在は[[ジャパン マリンユナイテッド]])のドックを望む[[歴史の見える丘]]にも艦橋の高さの1/10の記念碑が設立された。[[徳之島]]にも戦艦大和慰霊塔が建立されている(塔の高さは艦橋の高さと同じ)。建造されたドックは埋め立てられているが、機密保持のために設けられた屋根はそのまま残されている。修繕に使用された北側のドックは、2017年現在も稼働中である。 <gallery> 戦艦大和戦死者之碑.jpg|広島県呉市長迫公園内の戦艦大和戦死者之碑 Rekisino mieruoka.jpg|広島県呉市歴史の見える丘。左奥が噫戦艦大和塔。 Intabu_cape.jpg|鹿児島県[[徳之島]]、[[伊仙町]]犬田布岬にある戦艦大和慰霊塔 IHI shipyard, Kure.jpg|広島県呉市。左側が大和建設時のドック屋根。 受難鎮魂之碑(戦艦大和など枕崎市).jpg|鹿児島県枕崎市火之守岬町125平和祈念展望台最上部 </gallery> === 海底調査 === 戦闘詳報による大和の沈没地点は{{Coord|30|22|N|128|04|E|}}<ref>[[#大和詳報(沖縄)]]p.13</ref>。だが実際の大和は、{{Coord|30|43|N|128|04|E|}}、[[長崎県]]の[[男女群島]]女島南方176km、鹿児島県の[[宇治群島]]宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる<ref>[[#朝日探査]]72頁、[[#雪風手記]]381頁</ref>。 戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。 [[1985年]](昭和60年)、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。 [[1999年]](平成11年)にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。[[2009年]](平成21年)1月になって大和の母港であった[[呉市海事歴史科学館]](大和ミュージアム)・[[呉商工会議所]]・[[中国新聞]]・[[日本放送協会]][[NHK広島放送局|広島放送局]]等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。 2016年5月、呉市の依頼で[[深田サルベージ建設]]が「はくよう」を投入して調査が行われた<ref name="AJ201605080032">{{cite web |url=http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201605080032.html |title=Kure to embark on underwater survey of mighty Yamato warship |newspaper= Asahi Shimbun |date=2016-05-08 |author=Yohei Izumida |accessdate=2016-08-22}}</ref><ref name="AJ201607170025">{{cite web |url=http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201607170025.html |title=New footage of sunken Yamato given to media before showing |newspaper= Asahi Shimbun |date=2016-07-17 |author= Yohei Izumida |accessdate=2016-08-22}}</ref>。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した<ref name="AJ201605080032" />。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された<ref name="AJ201605080032" />。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には大和ミュージアムの学芸員も同席した<ref name="AJ201605080032" />。この調査では遺品の回収は行われなかった<ref name="AJ201605080032" />。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された<ref name="AJ201607170025" />。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている<ref name="AJ201607170025" />。 ==海底の大和== 大和の艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれている<ref name="テレ朝海底183">[[#朝日探査]]183頁「戦艦『大和』沈没現況図」</ref>。艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までは<ref name="テレ朝海底157" />、右に傾いて北西(方位310度)に向いて沈んでいる<ref name="テレ朝海底183" />。艦中央部から艦尾まで後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、転覆した状態で東(方位90度)方向を向いている<ref name="テレ朝海底157" /><ref name="テレ朝海底183" />。双方をあわせると全長276mとなる。後部も大きく破損しており、破断状態に近いために「大和の船体は3つに分断されている」とする出典もある<ref name="mywaymu">マウウエイムック 最期の証言 戦艦大和 2018年4月出版 ISBN 9784865118872</ref>。その他に、激しく損傷した中央部分と思われるブロックが3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に沈んでいる<ref name="テレ朝海底183" />。 === 艦首部分 === 艦首部分は右に傾いて沈んでいる。1番主砲塔は脱落しているが、バーベットは無傷で保たれており、1999年や2016年の調査でも潜水艇がバーベットの穴の内部の撮影を行っている。1番主砲塔直後より船体は切断されており2番主砲塔のバーベットは残っていない。艦首部分の右側側面は激しく損傷しており、ほぼ右舷側が吹き飛ばされて存在しない状態となっている。大きく右側に傾斜して海底に沈んでいるので、1番主砲塔横の最上甲板がそのまま海底に繋がっている。バルバスバウは確認できるが、直後で船体に大きな亀裂があり艦首部分は座屈して半壊した状態となっている。菊の紋章は残っているが、以前の探査で確認された金箔が2016年の探査では剥離して失われていた<ref name="mywaymu"/>。船首部分の先端は崩壊して周囲は大きく形を崩しており、過去数度の海底探索で鋼板の劣化により艦首部分の崩壊が次第に進行していることが確認されている<ref name="mywaymu"/>。艦橋は船体から脱落して艦首バルバスバウ近くの右舷の下敷きとなっている<ref name="mywaymu"/>。艦橋の上に右舷が覆いかぶさっている状態で、15m測距儀や射撃指揮所が遠方から観察できるが、細かい観察は出来ない。 === 艦尾部分 === 転覆した状態で、ほぼ海底に水平に沈んでいる。4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが右舷外側の1本は脱落して海底に突き刺さっている<ref>[[#朝日探査]]88、156-157頁</ref>。沈没時の爆発でスクリューシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵および副舵には損傷はなく、共に正中の位置となっている。艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い<ref name="mywaymu"/>。孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。また缶(ボイラー)なども発見されている。後部艦橋も船体から脱落して船尾部分の横、海底に突き刺さったスクリューの傍に沈んでいる。 === 兵装 === 大和の主砲と副砲はすべて転覆時に脱落した<ref name="mywaymu"/>。3基の主砲塔は、海底の同一線上に沈んでいる<ref>[[#朝日探査]]170、182頁</ref>。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味しているとされたが、2016年の探査で、沈んでいる順番は北から順に第2主砲(船尾部分の北側)、第3主砲(船尾部分の北側に接する)、第1主砲(船尾部分の南側)ということが判り、艦に設置されていた状態と位置が交差している。9本の砲身はいずれも泥に埋まるなどして確認できていない<ref name="mywaymu"/><ref>[[#朝日探査]]82、170頁</ref>。主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である。1番主砲塔は上下逆になって海底に塔のように直立しており、上部および下部給弾室なども破壊されていない状態で綺麗に観察できる。一番下になっている砲塔本体の装甲も少なくとも側面の装甲はそのまま残っており、測距儀もカバーごと砲塔についたままである<ref name="mywaymu"/>。2番主砲塔は大きく損傷しており、給弾室は斜めに傾斜している。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている<ref>[[#朝日探査]]184頁</ref>。測距儀は残っているがカバーが外れて本体が剥きだしになっている。3番主砲塔は片側半分が海底に埋まっている。副砲のうち1基は3本の砲身が確認されているが、中央の砲身の先端が破裂している。もう1基の副砲は砲身が海底に埋まっていて確認できない。 == その他 == * 「大和型戦艦」らしき2隻の戦艦が動く映像が発見されたことがあるが、のちにこれは東京湾での降伏調印式へと向かうアイオワ級戦艦の一番艦アイオワと三番艦ミズーリの物だと分かった。アメリカ公文書館IIには、B-24に対して主砲を発射した大和の映像が残されているが、遠距離撮影のため不鮮明である<ref>[[#辺見/原 発見]]170頁「幻のフィルム」</ref>。[[1988年]](昭和63年)11月、[[保科善四郎]](元海軍中将)は[[松永市郎]](元海軍大尉)を通じて[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|アナポリス海軍兵学校]]に大和の絵画([[靖国神社]][[遊就館]]展示絵の複製)を寄贈<ref>[[#次席将校]]23-24、99頁</ref>。松永が[[アーレイ・バーク]]海軍大将と[[エドワード・L・ビーチ・ジュニア]]海軍大佐にその事を語ると、二人とも「大和は美しい船だった」と語っている<ref>[[#次席将校]]98頁</ref>。 * 大和の存在が初めて国民に広く紹介されたのは、1952年に発刊された吉田満の小説「戦艦大和ノ最期」であり、1953年に同小説を新東宝が映画化した「[[戦艦大和 (映画)|戦艦大和]]」である(同小説は長くGHQ の発禁を受けていた経緯を持つ){{要出典|date=2023年6月}}。 * 日本で最初に発売された戦艦大和の[[プラモデル]]は、東京都台東区浅草向柳原町にあった「N.B.K 日本文化教材株式会社」が1960年(昭和35年)8月に発売した、「デラックス大和」(全長453mm、スケール換算で約580分の1スケール)である。単二[[乾電池]]二本と[[電動機|モーター]]と[[スクリュー]]で水上を自走した。 <!--* 砕氷艦[[ふじ (砕氷艦)|ふじ]]の後継艦建造時に艦名を一般公募した際、2位に「やまと」があったものの、戦艦のイメージが強いことや将来建造する新型艦のために使いたいという理由で候補から外され、最終的に15位だった「[[しらせ (砕氷艦・初代)|しらせ]]」が選定された。--> * 大和を題材とした映画や[[宇宙戦艦ヤマト|アニメ]]が度々作られ、日本人に大きな影響を与え続けている<ref>[[#大和と日本人]]9頁</ref>。 * 大和の建造にかかわった工作機械として、重量200t超の大型旋盤「15299機」が現存している。この旋盤はドイツの機械メーカー・ワグナー社で製造され、1938年に日本が購入し旧呉海軍工廠で大和の主砲を削り出した。終戦後は[[神戸製鋼所]]高砂製作所に払い下げられ、2013年から[[きしろ]]播磨工場にて保存されていた。大和ミュージアムでの展示に向け2021年に実施された[[クラウドファンディング]]では受け付け開始から終了までの2か月間で約2.6億円の寄付が集まった<ref>{{cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASPBD7TM1PBDPITB00W.html|title=戦艦大和の主砲製造の旋盤、保存へ 寄付2カ月で2.6億円|publisher=朝日新聞|date=2021年10月13日|accessdate=2021-11-17}}</ref>。 == 歴代艦長 == (階級はいずれも大佐) ; 艤装員長 # (兼)[[宮里秀徳]]:[[1941年]](昭和16年)9月5日 - 11月1日 ; 艦長 # [[宮里秀徳]]:1941年(昭和16年)9月5日 - # [[高柳儀八]]:[[1941年]](昭和16年)11月1日 - # [[松田千秋]]:[[1942年]](昭和17年)12月17日 - # [[大野竹二]]:[[1943年]](昭和18年)9月7日 - # [[森下信衛]]:[[1944年]](昭和19年)1月25日 - # [[有賀幸作]]:[[1944年]](昭和19年)11月25日 - 1945年4月7日 戦死、同日付任海軍中将<ref>昭和21年2月18日付 第二復員省辞令公報 甲 第62号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072158500 で閲覧可能。</ref>(大和歴代艦長の中で唯一の戦死者である) == 同型艦 == * [[武蔵 (戦艦)|武蔵]] [III] * 110号艦(→航空母艦[[信濃 (空母)|信濃]]) * [[111号艦]](未成) == 登場作品 == {{main|大和型戦艦に関連する作品の一覧}} == 参考文献 == <!-- ウィキペディア推奨スタイルにつき著者五十音順 --> ; 通史 * [[児島襄]]『戦艦大和』(文春文庫、1986年)上巻 ISBN 4-16-714105-1 下巻 ISBN 4-16-714106-X * {{Cite book|和書|author=永沢道雄|authorlink=永沢道雄|date=2007-08|title=戦艦大和と日本人 {{small|戦艦大和とは日本人にとって何なのか}}|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1354-5|ref=大和と日本人}} * {{Cite book|和書|author=原勝洋|authorlink=原勝洋|year=2005|title=戦艦大和のすべて {{small|歴史的資料とオリジナル写真により全貌がよみがえる}}|publisher=インデックス・コミュニケーションズ|isbn=4-7573-0289-4|ref=原 大和全貌}} * [[平間洋一]] 編『戦艦大和』(講談社選書メチエ、2003年) ISBN 4-06-258269-4 * {{Cite book|和書|author=「丸」編集部編|date=2007-08|title=究極の戦艦 大和|publisher=光人社|isbn=978-4-7698-1357-6|ref=究極の戦艦大和}} * {{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=吉田俊雄|date=2004-08|title=大和と武蔵 {{small|その歴史的意味を問い直す}}|publisher=PHP研究所|isbn=4-569-63462-1|ref=吉田 大和と武蔵}} * 渡部真一『戦艦大和 <small>びっくりデータ99の謎</small>』(二見文庫、1994年) ISBN 4-576-94117-8 ; 建造記録 * [[御田重宝]]『戦艦大和の建造』(徳間文庫、1999年) ISBN 4-19-891152-5 * {{Cite book|和書|author=内藤初穂|authorlink=内藤初穂|year=2008|title=戦艦大和へのレクイエム {{small|大艦巨砲の技術を顧みる}}|publisher=グラフ社|isbn=978-4-7662-1124-5|ref=内藤レクイエム}} * {{Cite book|和書|author=庭田尚三|authorlink=庭田尚三|year=1965|month=9|title={{small|元海軍技術中将 庭田尚三述}} 建艦秘話|chapter=3.戦艦の巻|publisher=船舶技術協会|isbn=|ref=庭田、建艦秘話}}大和進水・竣工時の呉工廠造船部長 * {{cite book|和書|author=原勝洋 編|title=戦艦大和建造秘録 <small>完全復刻 資料・写真集</small>|publisher=KKベストセラーズ|year=1999|isbn=4-584-17076-2|ref=戦艦大和建造秘録}} * {{Cite book|和書|author=前間孝則|authorlink=前間孝則|year=1999|title=戦艦大和誕生 上巻|publisher=講談社+α文庫|isbn=4-06-256401-7|ref=大和誕生 上}} * {{Cite book|和書|author=前間孝則|year=1999|title=戦艦大和誕生 下巻|publisher=講談社+α文庫|isbn=4-06-256402-5|ref=大和誕生 下}} * {{Cite book|和書|author=松本喜太郎他|authorlink=松本喜太郎|date=2009-08|title=戦艦「大和」開発物語 {{small|最強戦艦誕生に秘められたプロセス}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2371-1|ref=大和開発物語}} ; 写真集 * {{Cite book|和書|author=呉市海軍歴史資料館|date=2005-04|title={{small|呉市海軍歴史科学館図録 日本海軍艦艇写真集別巻}} 戦艦大和・武蔵|publisher=ダイヤモンド社|isbn=4-478-95054-7|ref=戦艦大和・武蔵}} * {{Cite book|和書|author=原勝洋|authorlink=原勝洋|year=2005|title=戦艦「大和」永遠なれ! {{small|写真集<空前絶後・永久保存版>}}|publisher=KKベストセラーズ|isbn=4-584-17097-5|ref=大和永遠なれ}} * {{Cite book|和書|author=原勝洋|year=2006|title=写真が語る伝説の戦艦「大和」|publisher=KKベストセラーズ|isbn=4-584-12119-2|ref=写真大和}} * {{Cite book |和書 |author=吉野泰貴 |year=2012 |title=海軍戦闘第八一二飛行隊―日本海軍夜間戦闘機隊“芙蓉部隊”異聞 写真とイラストで追う航空戦史 |publisher=大日本絵画 |isbn=978-4499230964 |ref={{SfnRef|吉野泰貴|2012}} }} ; 図面集 * 岡本好司『<small>スーパーイラストレーション</small> 戦艦大和』(モデルアート社1993年9月号臨時増刊 No.414) * 呉市海事歴史科学館『大和ミュージアム常設展示図録』([[ザメディアジョン]]、2005年) ISBN 4-902024-59-4 * 日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 <small>日本海軍艦艇図面集</small>』(原書房明治百年史叢書第242巻、1978年) ISBN 4-562-00336-7 * 雑誌「丸」編集部『<small>写真</small> 日本の軍艦 第1巻 <small>戦艦I</small>』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0451-2 * ヤヌス・シコルスキー『戦艦大和図面集』(原勝洋 訳、監修、[[光人社]]、1998年) ISBN 4-7698-0845-3 ; 戦記 * {{Cite book|和書|author=秋元健治|authorlink=秋元健治|year=2008|title=戦艦大和・武蔵 {{small|そのメカニズムと戦闘記録}}|publisher=現代書館|isbn=978-4-7684-6976-7|ref=秋元記録}} * {{Cite book|和書|author=阿部三郎|year=1994|title=特攻大和艦隊 {{small|帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗}}|publisher=霞出版社単行本|isbn=|ref=阿部特攻}} ** {{Cite book|和書|author=阿部三郎|year=2005|title=特攻大和艦隊 {{small|帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗}}|publisher=[[潮書房|光人社]]NF文庫|isbn=4-7698-2458-0|ref=阿部特攻 文}} ** {{Cite book|和書|author=阿部三郎|year=2015|title=特攻大和艦隊 {{small|帝国海軍の栄光をかけた十隻の明暗}}|publisher=[[潮書房|光人社]]NF文庫|isbn=|ref=阿部特攻}} * {{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=1996|title=戦艦「大和」最後の艦長 {{small|海上修羅の指揮官}}|publisher=光人社NF文庫|ref=大和 艦長}} * {{Cite book |和書 |author=伊沢保穂|authorlink=伊沢保穂 |coauthors=航空情報編集部|year=1975 |title=日本海軍戦闘機隊―付・エース列伝 |publisher=酣燈社 |asin=B000J9F9F8 |ref={{SfnRef|伊沢|1975}} }} * {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎 |year=2013 |title=陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで |publisher=潮書房光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769828578 |ref={{SfnRef|木俣滋郎|2013}}}} * {{Cite book|和書|author=原勝洋|authorlink=原勝洋|date=2003-07|title=真相・戦艦大和ノ最期 {{small|写真と新資料で解明!}}|publisher=KKベストセラーズ|isbn=4-584-18757-6|ref=原真相}} * {{Cite book|和書|author=原勝洋|year=2004|title=日米全調査 決戦戦艦大和の全貌|publisher=アリアドネ企画|isbn=4-384-03389-3|ref=日米全調査}} *: レイテ沖海戦における大和以下栗田艦隊の実態、巻末付九四式四十糎砲塔兵器学教科書。 * {{Cite book |和書 |author=半藤一利|authorlink=半藤一利|year=2005 |title=太平洋戦争 日本軍艦戦記 |publisher=文藝春秋|series=文春文庫PLUS|isbn=4-16-766-095-4|ref=日本軍艦戦記}} * 久山忍『戦艦大和最後の証言』(産経新聞出版、2010)[[#坪井大和]]を小中学生向けに再編したもの。 * [[辺見じゅん]]『決定版 [[男たちの大和]]』(角川春樹事務所「ハルキ文庫」、2004年)上巻 ISBN 4-7584-3124-8 下巻 ISBN 4-7584-3125-6 * {{Cite book|和書|author=吉田満|coauthors=原勝洋(編)|year=1975|title=日米全調査戦艦大和|publisher=文藝春秋|isbn=|ref=全米大和}} * [[吉田満]]『[[戦艦大和ノ最期]]』(創元社、1952年/講談社文芸文庫、1994年) ISBN 4-06-196287-6 *: [[ノンフィクション]]、[[戦争文学]]の古典と位置付けられている。しかし有賀艦長の最期や駆逐艦短艇指揮官の行動など、その内容の真実性については疑問も投げかけられている。 **吉田満『戦艦大和』(角川文庫、1968年、改版1995年ほか) ISBN 4-04-128101-6。読みやすい版 * {{Cite book|和書|author=ラッセル・スパー|authorlink=ラッセル・スパー|coauthors=[[左近允尚敏]]訳|year=1987|title=戦艦大和の運命{{small|英国人ジャーナリストのみた日本海軍}}|publisher=新潮社|isbn=|ref=スパー運命}} *: 著者は米海軍記録や日本側戦闘詳報、尋問調書を参考にしつつ、大和生存者にもインタビューしている。 ; 証言集 * {{Cite book|和書|author=猪瀬直樹監修|authorlink=猪瀬直樹|year=1989|month=9|title={{small|目撃者が語る昭和史 ミッドウェー海戦から玉砕戦へ}} 第7巻 太平洋戦争Ⅱ|publisher=新人物往来社|isbn=4-404-01657-3|ref=目撃者昭和史7巻}} ** 当時第二艦隊参謀長・元海軍少将[[森下信衛]]「帝国海軍最後の突撃」 * {{Cite book|和書|author=岩佐二郎|authorlink=岩佐二郎|year=2004|title=戦艦「大和」レイテ沖の七日間{{small|「大和」艦載機偵察員の戦場報告}}|publisher=光人社|isbn=|ref=岩佐レイテ}} * {{Cite book|和書|author=NHK取材班|year=2013|month=7|title=巨大戦艦大和 {{small|乗組員たちが見つめた生と死}}|isbn=4-140-81609-0|publisher=NHK出版社|ref=巨大戦艦大和}} * {{Cite book|和書|author=門田隆将|authorlink=門田隆将|year=2012|month=4|title=太平洋戦争 最後の証言 {{small|第三部 大和沈没編}}|isbn= 4-093-79833-8|publisher=小学館|ref=証言大和}} * {{Cite book|和書|author=栗原俊雄|authorlink=栗原俊雄|year=2007|title=戦艦大和 {{small|生還者たちの証言から}}|publisher=[[岩波新書]]|isbn=978-4-00-431088-4|ref=栗原証言}} * {{Cite book|和書|author=小板橋孝策|authorlink=小板橋孝策|year=1983|title=戦艦大和いまだ沈まず {{small|「大和」艦橋見張員}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0224-2|ref=小板橋見張員}} * {{Cite book|和書|author=小板橋孝策|year=1985|title=下士官たちの戦艦大和 {{small|戦艦大和 下士官たちのレイテ海戦}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0267-6|ref=小板橋下士官}}光人社NF文庫、1999年 * {{Cite book|和書|author=小林昌信ほか|year=1995|title={{small|証言・昭和の戦争}} 戦艦「大和」檣頭下に死す|publisher=光人社|isbn=4-7698-2087-9|ref=大和檣頭下}} ** {{Cite book|和書|author=小林昌信・小林健ほか|year=2016|month=3|title=戦艦「大和」機銃員の戦い 証言・昭和の戦争|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-29447|ref=大和機銃員}} ** 小林昌信『戦艦「大和」檣頭下に死す 世紀の大海戦・巨艦とともに燃えた二十歳の青春』 * {{Cite book|和書|author=坪井平次|authorlink=坪井平次|year=1999|title=戦艦大和の最後 {{small|元戦艦大和高角砲員}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0195-5|ref=坪井大和}} * {{Cite book|和書|author=戸高一成|authorlink=戸高一成|year=2007|title=戦艦大和に捧ぐ|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=|ref=大和に捧ぐ}} * {{Cite book|和書|author=能村次郎|authorlink=能村次郎|year=1967|title=慟哭の海 {{small|戦艦大和死闘の記録}}|publisher=読売新聞社|isbn=|ref=能村慟哭}}<br />レイテ沖海戦時、大和副長兼砲術長(艦橋射撃指揮所勤務)。大和沖縄特攻時、副長として防御指揮所勤務。 ** {{Cite book|和書|author=能村次郎|year=2017|month=4|title=慟哭の海 {{small|戦艦大和死闘の記録}}|publisher=中公文庫|isbn=4-122-06400-7|ref=能村慟哭新版}} * {{Cite book|和書|editor=原勝洋|editor-link=原勝洋|year=1993|title=伝承・戦艦大和 上巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0666-3|ref=原伝承 上}} * {{Cite book|和書|author=原勝洋編|year=1993|title=伝承・戦艦大和 下巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0667-1|ref=原伝承 下}} * {{Cite book|和書|author=藤田千代吉ほか|year=1990|month=7|title={{small|証言昭和の戦争 リバイバル戦記コレクション}} ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている|publisher=光人社|isbn=4-7698-0504-7|ref=証言昭和の戦争}} * {{Cite book|和書|author=吉田満|coauthors=原勝洋編|date=2005-10|title=ドキュメント戦艦大和|publisher=文春文庫 新装版|isbn=4-16-734904-3|ref=原/吉田満}} ; 海底探査記録 * {{Cite book|和書|editor=テレビ朝日出版部|editor-link=テレビ朝日|year=1999|title=戦艦大和 {{small|海底探査全記録}}|publisher=テレビ朝日事業局出版部|isbn=4-88131-236-7|ref=朝日探査}} * {{Cite book|和書|author=辺見じゅん|authorlink=辺見じゅん|coauthors=[[原勝洋]]編|year=2004|title=戦艦大和発見|publisher=角川春樹事務所「ハルキ文庫」|isbn=4-7584-3123-X |ref=辺見/原 発見}} ** [[牧野茂 (軍人)|牧野茂]](大和設計主任)「不沈戦艦大和を考える-設計秘話-」を収録。元乗組員の証言も多数収録。 ; その他 * {{Cite book|和書|author=飯尾憲士|year=1983|month=7|title=艦と人 {{small|海軍造船官八百名の死闘}}|publisher=集英社|isbn=4-08-772441-7|ref=艦と人}} * {{Cite book|和書|author=宇垣纏|year=1953|title=戦藻録後編|publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|宇垣纏|1953}}}} * {{Cite book|和書|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏|coauthors=|year=1968|title=[[戦藻録]]|publisher=[[原書房]](発行者・成瀬恭)|ref=戦藻録(九版)}} * {{Cite book|和書|author=海軍大臣官房|authorlink=大臣官房|date=1940|title=海軍制度沿革|publisher=[[海軍省]]}} * {{Cite book|和書|author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介|year=1979|title=連合艦隊参謀長の回想|publisher=光和堂|ref=草鹿回想}} * {{Cite book|和書|author=駆逐艦雪風手記編集委員会|date=1999-09|title={{small|激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦}} 雪風|publisher=駆逐艦雪風手記刊行会|isbn=|ref=雪風手記}} * <!-- クナイ2016-03 -->{{Cite book|和書|editor=宮内庁|editor-link=宮内庁|coauthors=|authorlink=|year=2016|month=3|title=[[昭和天皇実録]] 第八 {{small|昭和十五年至昭和十七年}}|chapter=|publisher=東京書籍|ISBN=978-4-487-74408-4|ref=昭和天皇実録八巻}} * {{Cite book|和書|author=国見寿彦|others=河原崎勇監修|year=1992|title=海軍軍医の太平洋戦争 {{small|防空駆逐艦秋月}}|publisher=近代文藝社|isbn=4-7733-1675-6|ref=国見軍医}} * {{Cite book|和書|author=古村啓蔵回想録刊行会編|year=1982|month=2|title=海の武将-古村啓蔵回想録|publisher=原書房|isbn=4-562-01216-1|ref=海の武将}} * <!-- ジョウ 1982 -->{{Cite book|和書|author=城英一|editor=野村実|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=[[山川出版社]]|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}} * {{Cite book|和書|author=立花譲|authorlink=立花譲|year=1994|title=帝国海軍士官になった日系二世|publisher=築地書館|isbn=|ref=日系二世}} * {{Cite book|和書|author=千早正隆|authorlink=千早正隆|date=1995-08|title=元連合艦隊参謀の太平洋戦争 千早正隆インタビュー {{small|東京ブックレット17}}|publisher=東京新聞出版局|isbn=4-8083-0544-5|ref=千早インタビュー}} 千早は坊ノ岬沖海戦時の連合艦隊参謀。他、候補生退艦者のインタビュー収録。 * {{Cite book|和書|author=辻政信|authorlink=辻政信|chapter=|title={{small|THE PACIFIC WAR 太平洋戦記6}} ガダルカナル|publisher=河出書房新社|year=1975|month=8|origyear=1951|ISBN=|ref=ガダルカナル(辻1975)}} * {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|date=1992-12|title=世界史の中の山本五十六 {{small|歴史を動かした英雄たちの研究}}|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0642-6|ref=世界史・山本五十六}} * {{Cite book|和書|author=淵田美津雄|authorlink=淵田美津雄|coauthors=[[奥宮正武]]||year=2008|title=機動部隊|publisher=学研M文庫|isbn=978-4-05-901222-1|ref=機動部隊}} * {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|authorlink=|year=1973|month=2|title=戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) {{small|昭和十七年六月以降}}|publisher=朝雲新聞社|ref=戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)}} * {{Cite book|和書|author=堀元美|authorlink=堀元美|date=1994-08|title=造船士官の回想(上)|publisher=朝日ソノラマ文庫|isbn=-4-257-17284-3|ref=造船士官の回想 上}} * {{Cite book|和書|author=堀元美|date=1994-08|title=造船士官の回想(下)|publisher=朝日ソノラマ文庫|isbn=-4-257-17285-1|ref=造船士官の回想 下}} * {{Cite book|和書|author=松永市郎|authorlink=松永市郎|date=1991-04|title=次席将校 {{small|『先任将校』アメリカを行く}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0556-X|ref=次席将校}} ; ウェブサイト * [https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] ** {{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=幕末以降帝国軍艦写真と史実}} ** {{Cite book|和書|author=連合軍総司令部民間情報教育局編|year=1946|month=8|title={{small|連合軍最高司令部民間情報教育局編 ラヂオ放送「眞相箱」の再録}} 眞相はかうだ {{small|第一輯}}|chapter=○世界最大のわが戰艦大和と武藏の最後についてお知らせ下さい|publisher=総合プレス社|url={{NDLDC|1042022/8}}|ref=真相はかうだ}} * [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) ** Ref.{{Cite book|和書|author=C12070107400|title=昭和15年1月~12月達/昭和15年7月(2)|ref=達昭和15年7月(2)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C12070154800|title=昭和16年11月~12月内令4巻止/昭和16年12月(3)|ref=内令昭和16年12月(3)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C13072012500|title=昭和17年12月31日現在10版内令提要追録第12号原稿・巻1/第6類機密保護|ref=S17.12.31艦船要目公表範囲}} ** Ref.C08030323300 「昭和16年12月1日〜昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)」 ** Ref.B06050106300 「2.昭和十三年 一九三五年開催ノ海軍軍縮会議一件/帝国ノ建艦計画公表拒否関係」 ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030101100|title=昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1806二水戦日誌(2)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030145300|title=昭和18年12月5日~昭和19年7月31日 第4駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1812第4駆逐隊日誌(1)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030102000|title=昭和18年12月1日~昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1812二水戦日誌(3)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030050000|title=昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)|ref=S1812十戦隊日誌(1)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030050400|title=昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(5)|ref=S1812十戦隊日誌(5)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030050500|title=昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(6)|ref=S1812十戦隊日誌(6)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030566400|title=昭和20年4月6日〜昭和20年4月7日 軍艦大和戦闘詳報|ref=大和詳報(沖縄)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030103000|title=昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=第2水雷戦隊詳報(1)}} ** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030103100|title=昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=第2水雷戦隊詳報(2)}} ** Ref.{{Cite 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雑誌20302-10/14)。 == 外部リンク == {{commons|Japanese battleship Yamato}} * [https://yamato-museum.com/ 呉市海事歴史科学館](愛称:大和ミュージアム) * [https://ww2db.com/ship_spec.php?ship_id=1 WW2DB: 戦艦大和]{{en icon}} * [http://www.combinedfleet.com/yamato.htm 戦艦大和 Tabular Record of Movement]{{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20100325035351/http://www.history.navy.mil/photos/sh-fornv/japan/japsh-xz/yamato.htm Naval Historical Center]{{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20141006155704/http://www.history.navy.mil/photos/sh-fornv/japan/japsh-m/musashi.htm Naval Historical Center] {{en icon}} *U.S.Navy * [https://www.city.makurazaki.lg.jp/ 枕崎市ホームページ] 平和祈念展望台(戦艦大和受難鎮魂之碑) * [https://www.asahi.com/articles/ASP6G4HZSP69PTFC00Q.html 画家も知らない数奇な運命 堂本印象「戦艦大和守護神」(朝日新聞記事、2021年6月16日)] * [https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20221123-OYT1I50047/ 戦艦「大和」の主砲造った長さ16m「旋盤」、呉に戻る…ミュージアム敷地に設置(読売新聞記事2022年11月23日掲載)] **[https://www.yomiuri.co.jp/national/20230305-OYT1T50253/ 戦艦「大和」の口径46センチ主砲造った旋盤は2013年まで現役だった…広島・呉で展示(読売新聞記事2023年3月6日掲載)] {{日本の戦艦}} {{Normdaten}} {{Coord|30|43|17|N|128|04|00|E|display=title}} {{デフォルトソート:やまと}} [[Category:大和 (戦艦)|*]] [[Category:特攻]] [[Category:1940年進水船]] [[Category:1941年竣工船]] [[Category:第二次世界大戦の戦艦]] [[Category:第二次世界大戦の沈没船]] [[Category:呉海軍工廠が建造した艦船]]
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高砂駅
高砂駅(たかさごえき、たかすなえき)は、日本の駅。
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高砂駅(たかさごえき、たかすなえき)は、日本の駅。 高砂駅(たかさごえき) 国鉄およびJR 高砂駅 (北海道) - 北海道江別市にある北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の駅。 高砂駅 (国鉄) - かつて兵庫県高砂市にあった日本国有鉄道(国鉄)高砂線の駅。 陸前高砂駅 - 宮城県仙台市にある東日本旅客鉄道(JR東日本)仙石線の駅。 私鉄 京成高砂駅 - 東京都葛飾区にある京成電鉄・北総鉄道の駅。旧称・通称「高砂駅」。 高砂駅 (兵庫県) - 兵庫県高砂市にある山陽電気鉄道本線の駅。 高砂駅 (阪神) - かつて兵庫県西宮市にあった阪神電気鉄道甲子園線の停留場。 高砂駅(たかすなえき) 神奈川県藤沢市にある江ノ島電鉄線の石上駅の旧称。
'''高砂駅'''(たかさごえき、たかすなえき)は、日本の駅。 * '''高砂駅'''(たかさごえき) ** 国鉄およびJR *** [[高砂駅 (北海道)]] - 北海道江別市にある北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の駅。 *** [[高砂駅 (国鉄)]] - かつて兵庫県高砂市にあった日本国有鉄道(国鉄)高砂線の駅。 *** [[陸前高砂駅]] - 宮城県仙台市にある東日本旅客鉄道(JR東日本)仙石線の駅。 ** 私鉄 *** [[京成高砂駅]] - 東京都葛飾区にある京成電鉄・北総鉄道の駅。旧称・通称「高砂駅」。 *** [[高砂駅 (兵庫県)]] - 兵庫県高砂市にある山陽電気鉄道本線の駅。 *** [[高砂駅 (阪神)]] - かつて兵庫県西宮市にあった[[阪神甲子園線|阪神電気鉄道甲子園線]]の停留場。 * '''高砂駅'''(たかすなえき) ** 神奈川県藤沢市にある江ノ島電鉄線の[[石上駅]]の旧称。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:たかさこえき}} [[Category:同名の鉄道駅]]
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京成高砂駅
京成高砂駅(けいせいたかさごえき)は、東京都葛飾区高砂五丁目にある、京成電鉄・北総鉄道の駅である。 京成電鉄の本線・金町線・成田空港線と北総鉄道の北総線が乗り入れている東京23区東部の交通の要衝の一つ。京成電鉄と北総鉄道の共同使用駅であるが、駅名に「京成」を冠する。駅管理は京成電鉄が行っている。駅番号は京成電鉄に対してのみKS10が付与されている。 本線以外の3路線は当駅が起点で、このうち金町線以外は全て直通運転の設定がある(京成上野、押上・都営線方面 - 印旛日本医大、京成船橋方面)。 成田空港線は「成田スカイアクセス線」の愛称が付けられており、旅客案内ではそちらが使われている。同線は印旛日本医大駅まで北総線と施設を共用しており、京成成田空港線と北総線は法手続き上別事業者の路線であるが、時刻表などでは共通して案内されることが多い。 この駅は本線(京成船橋経由)のルートと京成成田空港線・北総線(印旛日本医大経由)のルートの分岐駅となっており、隣の青砥駅ともども京成におけるジャンクション駅として機能している。 駅東側に京成の高砂車庫が設置されている。当駅が始発・終着となる列車も多数設定されており、押上・都営線方面と京成上野方面は毎時1本程度始発列車がある。当駅 - 青砥間は複々線となっている。 島式ホーム2面4線(地平)および単式ホーム1面1線(高架)を持つ駅で、橋上駅舎を有している。京成電鉄が駅業務全般を行う。京成本線・成田スカイアクセス線(成田空港線)・北総線は地平の2面4線で、同一線路・ホームを使用する。1954年の移転前は、本線・金町線ともに線別の相対式ホーム2面2線を有し、本線下りと金町線上りは同一のホームベース型の中ホームであった。 京成については本線・成田スカイアクセス線と金町線が別線路・ホームとなっており、金町線は高架の5番線(コンコースと同一フロアからスロープで連絡)を使用しているが、同一社線ながら別改札となっている。同一乗車券(普通乗車券・回数券・ICカード)による改札外乗り換え(途中出場)は60分以内の時間制限が設けられており、これを超過すると当駅「下車」扱いとなり、普通乗車券と回数券は無効、ICカードは当駅で運賃計算が打ち切られる。5番線ホームができた当初は、乗り換え用の自動改札機は他の改札機と区別できるように緑色の配色となっていた(ICカードはどの改札機からも乗り換え可能)が、2016年1月現在、磁気乗車券が投入可である自動改札機が青色、ICカード専用の自動改札機がピンク色の配色となっており、すべての改札機が乗り換え可となっている。 発車標は、1番線から4番線ホームにはフルカラーLED式のものが、5番線(金町線)ホームには3色LED式のものが設置されている。 高砂管区として、京成小岩駅・江戸川駅を管理下に置いている。以前は自駅のみ管理だったが、小岩管区の廃止により当管区に統合された。 当駅にて行先・種別を変更する列車が存在する。当駅止まりであっても行先・列車種別を変えて引き続き運転される。以下、平日の例。 近年の1日平均乗降人員推移は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員推移は下表の通りである。 駅の南側に都営高砂団地があり、駅前にイトーヨーカドーが出店している。駅周辺は住宅や商店など中小の建物が密集している。 駅西方の中川沿いにJR貨物新金貨物線が通っている。 駅前には交通広場を置くスペースがないため、道路上にある「京成高砂駅」停留所から京成タウンバスの路線が発着する。 駅の東側に高砂1・2号踏切がある。これら2ヶ所の踏切は京成本線と北総線(成田スカイアクセス線)の列車が同時に通過する上、車両基地への入・出庫の列車も低速で通過するため、朝夕通勤時間帯のみならず、昼間帯、夜間でも遮断時間が非常に長い「開かずの踏切」となっている。 かつて、この2ヶ所の踏切は手動昇開式(ワイヤー式第1種乙踏切)で、同様の方式だった東武伊勢崎線竹ノ塚駅(東京都足立区)近くの踏切で2005年(平成17年)3月に発生した踏切事故の影響を受け、2006年(平成18年)9月までにそれぞれ手動ワイヤー式から遮断桿付きの自動式(第1種甲踏切)に変更された。これにより、手動式の特長である臨機応変な開閉対応はできなくなったため、遮断時間は以前より長くなった。以前は踏切を斜めに交差するような形で歩行者用の跨線橋も整備されていたが、金町線ホームの高架化に際して撤去され、踏切を渡らないで対面に向かう場合、現在は踏切の両側に設置されたエレベーターと駅構内の通路を使って横断する。 踏切が自動化されて以降、安全確保のために警備員が常時配置されていたが、2011年(平成23年)4月に1号・2号踏切とも踏切の途中数カ所に非常用ボタンが設置され、現在警備員は配置されていない。 全面高架化も案として上がっているが、高砂車庫(車両基地)の高架化や移転の必要があり、青砥 - 高砂間複々線化の際にも、高架二層化された青砥駅とは異なり、当駅が地上駅のまま残された理由の一つとなっている。道路、もしくは線路の地下化も、駅周辺は狭小な建物が密集するエリアであり、実現の難易度が高い。 しかし地元からは現在でも高架化の要望がある。葛飾区はこの問題を「開かずの踏切」という用語を出して、交通問題として取り上げ、区としても連続立体化実現に向けて取り組むと表明している。 2022年度に、国から新規着工準備箇所として採択された。
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京成高砂駅(けいせいたかさごえき)は、東京都葛飾区高砂五丁目にある、京成電鉄・北総鉄道の駅である。
{{出典の明記|date=2011年12月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = #1155cc |文字色 = |駅名 = 京成高砂駅 |画像 = Keisei-Takasago-Sta-N.JPG |pxl = 300px |画像説明 = 北口([[2016年]][[6月11日]]) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = けいせいたかさご |ローマ字 = Keisei-Takasago |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号r|KS|10|#005aaa|4||#005aaa}} |所属事業者 = [[京成電鉄]]<br />[[北総鉄道]] |所在地 = [[東京都]][[葛飾区]][[高砂 (葛飾区) |高砂]]五丁目28-1 |座標 = {{coord|35|45|3.5|N|139|52|1|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1912年]]([[大正]]元年)[[11月3日]] |廃止年月日 = |駅構造 = [[高架駅]]・[[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 3面5線 |乗降人員 = {{Small|(京成電鉄)-2022年-}}<br />90,137人/日<hr />{{Small|(北総鉄道)-2021年-}}<br />47,115 |統計年度 = |乗入路線数 = 4 |所属路線1 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線]] |前の駅1 = KS09 [[青砥駅|青砥]] |駅間A1 = 1.2 |駅間B1 = 1.8 |次の駅1 = [[京成小岩駅|京成小岩]] KS11 |キロ程1 = 12.7km([[京成上野駅|京成上野]]起点)<br/>[[押上駅|押上]]から6.9 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#005aaa|■}}[[京成金町線]] |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 1.0 |次の駅2 = [[柴又駅|柴又]] KS50 |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 京成高砂 |所属路線3 = {{color|#ff8620|■}}[[京成成田空港線|京成成田空港線(成田スカイアクセス線)]] |前の駅3 = |駅間A3 = |駅間B3 = 7.5 |次の駅3 = [[東松戸駅|東松戸]] (HS05) |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 京成高砂 |所属路線4 = {{color|#00bdf2|■}}[[北総鉄道北総線]] |前の駅4 = |駅間A4 = |駅間B4 = 1.3 |次の駅4 = [[新柴又駅|新柴又]] HS01 |キロ程4 = 0.0 |起点駅4 = 京成高砂 |乗換 = |備考 = [[共同使用駅]](京成電鉄の管轄駅) }} [[ファイル:Keisei-Takasago-Sta-S.JPG|thumb|南口(2016年6月11日)]] '''京成高砂駅'''(けいせいたかさごえき)は、[[東京都]][[葛飾区]][[高砂 (葛飾区)|高砂]]五丁目にある、[[京成電鉄]]・[[北総鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 京成電鉄の[[京成本線|本線]]・[[京成金町線|金町線]]・[[京成成田空港線|成田空港線]]と北総鉄道の[[北総鉄道北総線|北総線]]が乗り入れている東京23区東部の交通の要衝の一つ。京成電鉄と北総鉄道の[[共同使用駅]]であるが、駅名に「京成」を冠する。駅管理は京成電鉄が行っている。[[駅ナンバリング|駅番号]]は京成電鉄に対してのみ'''KS10'''が付与されている。 本線以外の3路線は当駅が[[起点]]で、このうち金町線以外は全て直通運転の設定がある(京成上野、押上・都営線方面 - 印旛日本医大、京成船橋方面)。 成田空港線は「成田スカイアクセス線」の[[愛称]]が付けられており、旅客案内ではそちらが使われている。同線は[[印旛日本医大駅]]まで北総線と施設を共用しており、京成成田空港線と北総線は法手続き上別[[鉄道事業者|事業者]]の路線であるが、[[時刻表]]などでは共通して案内されることが多い。 この駅は本線([[京成船橋駅|京成船橋]]経由)のルートと京成成田空港線・北総線(印旛日本医大経由)のルートの分岐駅となっており、隣の[[青砥駅]]ともども京成における[[ジャンクション (鉄道)|ジャンクション]]駅として機能している。 駅東側に京成の[[京成電鉄の車両検修施設#高砂車庫|高砂車庫]]が設置されている。当駅が始発・終着となる列車も多数設定されており、押上・都営線方面と京成上野方面は毎時1本程度始発列車がある。当駅 - 青砥間は[[複々線]]となっている。 == 歴史 == * [[1912年]]([[大正]]元年)[[11月3日]] - '''曲金駅'''(まがりかねえき)として開業<ref name="ryokochizucho3">[[日本鉄道旅行地図帳]]3号 関東1([[今尾恵介]] 監修 [[新潮社]] 2008年7月18日発行 ISBN 9784107900210 )36頁</ref>。当初は現在地より[[京成小岩駅|京成小岩]]寄り、本線と金町線の分岐部にあった。 * [[1913年]](大正2年)[[6月26日]] - 曲金駅を'''高砂駅'''に改称<ref name="ryokochizucho3"/>。[[柴又帝釈天]]の参詣客から「『曲金』では縁起が悪い」と言われたための改称だった<ref name="keiseikonjyaku">JTBキャンブックス『京成の駅 今昔・昭和の面影』([[石本祐吉]]・著 2014年2月1日初版発行)67-69頁</ref>。 * [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月18日]] - 高砂駅を'''京成高砂駅'''に改称<ref name="ryokochizucho3"/>。 * [[1954年]](昭和29年)[[12月30日]] - 改良工事により現在地に約170m移転<ref name="keiseikonjyaku"/>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月31日]] - 北総開発鉄道北総・公団線(現・北総鉄道北総線)が当駅まで延伸し<ref name="hokuso">[http://www.hokuso-railway.co.jp/gaiyo/index.htm 会社概要]、北総鉄道株式会社、2013年2月13日閲覧</ref>、京成本線と直通運転開始、[[乗換駅]]となる<ref>{{Cite news |title=北総開発鉄道あす全通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-03-30 |page=2 }}</ref>。 * [[1997年]](平成9年)[[3月1日]] - [[コンコース]]拡張工事完成<ref name="keiseikonjyaku"/>。 * [[2010年]](平成22年) ** [[7月5日]] - 金町線用[[高架駅|高架ホーム]]が完成<ref name="keisei220705">{{Cite press release|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-026c.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607040959/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-026c.pdf|format=PDF|language=日本語|title=京成高砂駅金町線の高架化切り替え工事を行います 7月5日(月)始発より京成高砂駅金町線専用ホーム使用開始|publisher=京成電鉄|date=2010-06-17|accessdate=2020-07-28|archivedate=2020-06-07}}</ref>。これに伴う[[ダイヤグラム|ダイヤ]]改正で金町線と本線の直通運転が廃止される<ref name="keisei220705" />。 ** [[7月17日]] - 北総線経由で当駅と[[成田空港駅]]を結ぶ成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200504185414/https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf|format=PDF|language=日本語|title=成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正|publisher=京成電鉄|date=2010-05-28|accessdate=2020-07-28|archivedate=2020-05-04}}</ref>。これにより「アクセス特急」の停車駅となる。 *[[2022年]]([[令和]]4年)[[11月17日]] - 構内の車両基地内で[[列車脱線事故|脱線]]事故が発生。原因は運転士の内規違反でポイントが損傷した為<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20221117/1000086818.html|language=日本語|title=京成電鉄 回送列車の一部が脱線 空港へのアクセスに影響も|publisher=NHK|date=2022-11-17|accessdate=2022-11-19}}</ref>。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]2面4線(地平)および単式ホーム1面1線(高架)を持つ駅で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。京成電鉄が駅業務全般を行う。京成本線・成田スカイアクセス線(成田空港線)・北総線は地平の2面4線で、同一線路・ホームを使用する。[[1954年]]の移転前は、本線・金町線ともに線別の[[プラットホーム#相対式ホーム|相対式ホーム]]2面2線を有し、本線下りと金町線上りは同一の[[ホームベース]]型の中ホームであった<ref name="keiseikonjyaku"/>。 京成については本線・成田スカイアクセス線と金町線が別線路・ホームとなっており、金町線は高架の5番線(コンコースと同一フロアから[[スロープ]]で連絡)を使用しているが、同一社線ながら別[[改札]]となっている。同一[[乗車券]]([[普通乗車券]]・[[回数券]]・ICカード)による改札外[[乗換駅|乗り換え]](途中出場)は60分以内の時間制限が設けられており、これを超過すると当駅「下車」扱いとなり、普通乗車券と回数券は無効、ICカードは当駅で[[運賃]]計算が打ち切られる。5番線ホームができた当初は、乗り換え用の[[自動改札機]]は他の改札機と区別できるように緑色の配色となっていた(ICカードはどの改札機からも乗り換え可能)が、2016年1月現在、磁気乗車券が投入可である自動改札機が青色、ICカード専用の自動改札機がピンク色の配色となっており、すべての改札機が乗り換え可となっている。 [[発車標]]は、1番線から4番線ホームには[[フルカラー]][[発光ダイオード|LED]]式のものが、5番線(金町線)ホームには3色LED式のものが設置されている。 高砂管区として、[[京成小岩駅]]・[[江戸川駅]]を管理下に置いている。以前は自駅のみ管理だったが、小岩管区の廃止により当管区に統合された。 === のりば === <!-- 2018年5月時点の新サインシステムに基づいた駅の案内標に基づいています --> {|class="wikitable" rules="rows" !nowrap="nowrap"| 番線!!路線!!方向!!行先!!備考 |- |colspan="5" style="background-color:#eee; border-top:solid 3px #999"| '''京成本線・成田スカイアクセス線・北総線のりば'''(地平) |- ! 1・2 | [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線<br />(押上線直通含む) | 上り | [[青砥駅|青砥]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・<span style="font-size:small">[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]</span> [[浅草駅|浅草]]・<span style="font-size:small">[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京浜急行電鉄|京急線]]</span> [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面 | 日中は快速特急(始発を除く)、快速、羽田空港行列車が1番線<br>普通京成上野行きと当駅始発[[横浜駅|横浜]]方面特急が2番線発 |- ! rowspan="2" | 3・4 |[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線 | rowspan="2" | 下り | [[京成船橋駅|京成船橋]]・[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成佐倉駅|京成佐倉]]・[[京成成田駅|京成成田]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]][[成田空港駅|成田空港]]・[[京成千葉駅|千葉]]方面 | 日中は快速が3番線発、快速特急、普通が4番線発 |- |nowrap="nowrap"| [[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] 北総線<br />[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]]<br />成田スカイアクセス線 | [[東松戸駅|東松戸]]・[[新鎌ヶ谷駅|新鎌ヶ谷]]・[[印旛日本医大駅|印旛日本医大]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] 空港第2ビル・成田空港方面 | 原則3番線発、一部普通・アクセス特急が4番線発 |- |colspan="5" style="background-color:#005b9c;color:#fff;border-top:solid 3px #999"| '''金町線のりば'''(高架) |- ! style="background-color:#005b9c;color:#fff"|5 | [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 金町線 | 下り | [[柴又駅|柴又]]・[[京成金町駅|京成金町]]方面 | &nbsp; |} * 上表の路線名は成田空港線開業後の旅客案内の名称に基づいている。 * 実際の3・4番線の方面標識では、北総鉄道北総線独自の路線案内がなく、京成電鉄の「成田スカイアクセス線」の方面表記に「北総線」を含む形としている(両路線の関係については各路線の項目を参照のこと)。 * 3・4番線は「京成本線経由」と「成田スカイアクセス線経由」(北総線含む)の2方向が同じ線路から発車するため、注意を加えた接近放送が流れる。 * 配線の関係上、1番線と車庫へ出入庫する線路は限られる。(※ 北側の折り返し線2線は1番線へ入れない)そのため、京成上野・押上方面行きの当駅始発列車は、大多数が2番線より発車する。 ====行先変更==== 当駅にて行先・種別を変更する列車が存在する。当駅止まりであっても行先・列車種別を変えて引き続き運転される。以下、平日の例。 *押上・京成上野方面からの列車 **京成上野6時51分発普通 → 快速 成田空港行(京成本線経由) **京成上野7時12分発普通 → 快速 京成成田行 **羽田空港第1・第2ターミナル7時13分発エアポート急行(品川から普通) → 快速 京成佐倉行 **西馬込7時50分発普通 → 快速 京成成田行 **西馬込8時27分発、8時49分発、9時10分発普通 → 快速 京成佐倉行 **京成上野18時16分発普通 → アクセス特急 成田空港行<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://ekitan.com/timetable/railway/line-station/254-0/d1 |title=京成上野駅 成田空港方面の時刻表 |access-date=2022/08/04 |publisher=駅探}}</ref> **京成上野18時48分発普通 → アクセス特急 成田空港行<ref name=":1" /> *京成船橋方面からの快速列車 **京成成田9時4分発 → 普通 西馬込行 **成田空港16時25分発(京成本線経由) → 普通 西馬込行 **京成佐倉17時31分発 → 普通(泉岳寺からエアポート急行) 羽田空港行 **京成成田18時31分発 → 普通 西馬込行 **京成佐倉21時30分発 → 普通 押上行 === 駅構内設備 === * [[エスカレーター]](改札内コンコース・1 - 4番ホーム間) * [[エレベーター]](改札内コンコース・1 - 4番ホーム間、出入口・改札外コンコース間) * 定期券発売所(改札外 営業時間7:00 - 20:00 ただし自動定期券発売機は始発 - 終電) * [[ファミリーマート]] 京成高砂駅店(改札外 旧[[エーエム・ピーエム・ジャパン|am/pm]]) * カフェミラノ 京成高砂駅店(改札内 旧[[アートコーヒー]]) * [[ゆうちょ銀行]][[現金自動預け払い機|ATM]]・[[セブン銀行]][[現金自動預け払い機|ATM]](改札外) * ポニークリーニング 京成高砂駅店(改札外) <gallery> File:Keisei-takasago-platform.jpg|ホーム(2004年9月) File:Keisei Takasago platform 5.jpg|新設された金町線5番線ホーム(2010年7月) File:Keisei-railway-KS10-Keisei-Takasago-station-sign-20150404-for-Koiwa-Shin-shibamata.jpg|京成本線系駅名標(2015年4月)。新柴又方面は京成成田空港線の橙色線と北総線の水色駅番号が併記。 File:Keisei-railway-KS10-Keisei-Takasago-station-sign-20150404-for-Shibamata.jpg|京成金町線駅名標(2015年4月) File:Keisei-Takasago Station Departure Limited Express for Keikyu-Kurihama.JPG|2番線から発車する高砂始発[[快速特急|快特]] [[京急久里浜駅|京急久里浜]]行(2015年4月) </gallery> == 利用状況 == * '''京成電鉄''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員]]は'''90,137人'''である<ref name="keisei2021" group="利用客数" />。 *: 京成線内全69駅では[[押上駅]]に次ぐ第2位である。ただし北総線との'''連絡人員(56,665人)'''を含むため、実際の利用客は上記値よりも少ない。 * '''北総鉄道''' - 2021年度の1日平均乗降人員は'''47,115人'''(乗車人員:23,294人、降車人員:23,821人)である<ref>[https://www.city.katsushika.lg.jp/information/1000083/1005977/1027210/1030830.html 葛飾区統計書 第66回(令和4年刊行)2022|葛飾区公式サイト (katsushika.lg.jp)]</ref>。 *: 京成線からの直通連絡人員を含む。 近年の1日平均'''乗降'''人員推移は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="*">[http://www.train-media.net/report/index.html 各種報告書] - 関東交通広告協議会</ref><ref name="katsushika" group="*">[http://www.city.katsushika.lg.jp/information/1000083/1005977/1010287.html 葛飾区統計書] - 葛飾区</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|京成電鉄 !rowspan="2"|京成線<br />北総線<br />直通人員 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |2002年(平成14年) | 81,147 || | |- |2003年(平成15年) | 81,739 || 0.7% | |- |2004年(平成16年) | 81,487 || -0.3% | |- |2005年(平成17年) | 81,587 || 0.1% | |- |2006年(平成18年) | 83,527 || 2.4% | 52,192 |- |2007年(平成19年) | 87,685 || 5.0% | 56,174 |- |2008年(平成20年) | 90,020 || 2.7% | 58,809 |- |2009年(平成21年) | 90,220 || 0.2% | 59,364 |- |2010年(平成22年) | 92,906 || 3.0% | 60,417 |- |2011年(平成23年) | 93,314 || 0.4% | 60,345 |- |2012年(平成24年) | 95,452 || 1.6% | 61,966 |- |2013年(平成25年) | 96,950 || 1.6% | 63,056 |- |2014年(平成26年) | 96,669 || -0.3% | 62,950 |- |2015年(平成27年) | 98,982 || 2.4% | 64,377 |- |2016年(平成28年) | 101,330 || 2.4% | 65,858 |- |2017年(平成29年) | 104,223 || 2.9% | 67,668 |- |2018年(平成30年) | 106,281 || 2.0% | 68,914 |- |2019年(令和元年) |<ref name="keisei2019" group="利用客数">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2019_ks_joukou.pdf 駅別乗降人員(2019年度1日平均)]}}、京成電鉄ホームページ、2021年6月5日閲覧</ref>106,481 || 0.2% | 69,095 |- |2020年(令和{{0}}2年) | <ref name="keisei2020" group="利用客数">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf 駅別乗降人員(2020年度1日平均)]}}、京成電鉄ホームページ、2021年6月5日閲覧</ref>78,910 || -25.9% | 49,958 |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref name="keisei2021" group="利用客数">{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf 駅別乗降人員(2021年度1日平均)]}}、京成電鉄ホームページ、2022年5月21日閲覧</ref>79,605 || 0.9% |49,298 |- |2022年(令和{{0}}4年) |90,137 |13.2% |56,665 |} 近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗車人員<ref name="katsushika" group="*" /><ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|京成電鉄 !rowspan=2|北総鉄道 !rowspan=2|出典 |- !本線 !金町線 |- |1990年(平成{{0}}2年) |15,852||1,063 |style="text-align:center"| - |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |29,459||1,126||13,210 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | 33,663 || 1,167 || 17,471 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |36,101||1,170||20,200 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |37,942||1,134||22,479 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |39,243||1,139||24,189 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |40,274||1,118||25,321 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |41,967||1,110||26,038 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |41,271||1,044||26,595 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |40,434||1,025||26,142 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |40,288||1,022||26,553 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |40,570||975||26,945 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |40,153||992||26,608 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |40,366||992||26,945 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) | 40,151 || 1,011 || 26,934 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |40,151||1,027||27,219 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |40,088||1,019||27,890 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |43,090||1,055||29,885 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) | 44,151 || 1,101 || 31,299 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |44,214||1,134||31,482 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |48,088||1,340||32,049 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |49,038||1,363||32,025 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |51,211||1,395||32,978 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |52,575||1,441||30,117 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |52,630||1,394||29,887 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |54,936||1,449||30,630 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |56,951||1,449||31,162 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |59,436||1,501||31,940 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |61,559||1,499||32,534 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |||||32,579 | |- |2020年(令和{{0}}2年) |||||23,679 | |- |2021年(令和{{0}}3年) | | |23,294 | |- |2022年(令和{{0}}4年) | | | | |} == 駅周辺 == [[画像:Keisei-townbus T177 koiwa54.jpg|thumb|240px|京成タウンバス新宿(にいじゅく)線(駅付近にて)]] 駅の南側に都営高砂団地があり、駅前に[[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]]が出店している。駅周辺は住宅や商店など中小の建物が密集している。 駅西方の[[中川]]沿いに[[日本貨物鉄道|JR貨物]][[新金貨物線]]が通っている。 === 北口 === * [[みずほ銀行]] * 高砂[[郵便局]] * [[城北信用金庫]] * 葛飾区高砂児童館 * 京成電鉄 ** 高砂保線区 ** [[京成電鉄の車両検修施設#高砂車庫|高砂車庫]] ** 高砂乗務区 ** 高砂電力区 ** 第二軌道分区 ** 第三軌道分区 * [[京成ドライビングスクール]] === 南口 === * 京成電鉄 お忘れ物センター * 毎日スポーツプラザ高砂 * [[東京東信用金庫]] * [[イトーヨーカ堂|イトーヨーカドー]] 高砂店 * [[天祖神社 (葛飾区高砂)|高砂天祖神社]] * 都営高砂団地 === バス路線 === 駅前には[[広場#交通広場と駅前広場|交通広場]]を置くスペースがないため、道路上にある'''「京成高砂駅」[[バス停留所|停留所]]'''から[[京成タウンバス]]の路線が発着する。 * [[京成タウンバス#新宿線|小54]] - [[京成バス金町営業所|金町営業所]]経由[[亀有駅]]行き / [[小岩駅]]北口経由[[京成小岩駅]]行き・タウンバス車庫行き == 開かずの踏切問題 == 駅の東側に高砂1・2号[[踏切]]がある。これら2ヶ所の踏切は京成本線と北総線(成田スカイアクセス線)の列車が同時に通過する上、[[車両基地]]への入・出庫の列車も低速で通過するため、朝夕[[ラッシュ時|通勤時間帯]]のみならず、昼間帯、夜間でも遮断時間が非常に長い「[[開かずの踏切]]」となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/road/fumikiri/karte/13tokyo/519.pdf 踏切道安全通行カルテ 京成高砂第1号]}} - 国土交通省 関東地方整備局、2022年4月15日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.ktr.mlit.go.jp/honkyoku/road/fumikiri/karte/13tokyo/520.pdf 踏切道安全通行カルテ 京成高砂第2号]}} - 国土交通省 関東地方整備局、2022年4月15日閲覧。</ref>。 かつて、この2ヶ所の踏切は手動[[遮断機#昇開式|昇開式]]([[ワイヤー]]式[[踏切#種類|第1種乙踏切]])で、同様の方式だった[[東武伊勢崎線]][[竹ノ塚駅]](東京都足立区)近くの踏切で[[2005年]](平成17年)3月に発生した[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故|踏切事故]]の影響を受け、[[2006年]](平成18年)9月までにそれぞれ手動ワイヤー式から遮断桿付きの自動式([[踏切#種類|第1種甲踏切]])に変更された。これにより、手動式の特長である臨機応変な開閉対応はできなくなったため、遮断時間は以前より長くなった。以前は踏切を斜めに交差するような形で歩行者用の[[跨線橋]]も整備されていたが、金町線ホームの高架化に際して撤去され、踏切を渡らないで対面に向かう場合、現在は踏切の両側に設置されたエレベーターと駅構内の通路を使って横断する。 踏切が自動化されて以降、安全確保のために警備員が常時配置されていたが、[[2011年]](平成23年)4月に1号・2号踏切とも踏切の途中数カ所に[[踏切支障報知装置|非常用ボタン]]が設置され、現在警備員は配置されていない。 全面高架化も案として上がっているが、高砂車庫([[車両基地]])の高架化や移転の必要があり、青砥 - 高砂間複々線化の際にも、高架二層化された青砥駅とは異なり、当駅が[[地上駅]]のまま残された理由の一つとなっている。道路、もしくは線路の地下化も、駅周辺は狭小な[[建物]]が密集するエリアであり、実現の難易度が高い。 しかし地元からは現在でも高架化の要望がある。葛飾区はこの問題を「開かずの踏切」という用語を出して、交通問題として取り上げ、区としても[[連続立体交差事業|連続立体化]]実現に向けて取り組むと表明している<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000060/1003616/1003756.html 京成本線(京成高砂駅 - 江戸川駅付近)連続立体交差化の早期実現] - 葛飾区、2022年4月15日閲覧。</ref>。 2022年度に、国から新規着工準備箇所として採択された<ref>{{Cite report |和書 |title=新規事業採択時評価結果(令和4年度新規着工準備箇所) |url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/r4sinki/1_r3_040.pdf |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-4-15}}</ref>。 == 隣の駅 == <!--テンプレートは不評意見が多いようです。もしご意見があれば [[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/各路線の駅一覧のテンプレート・隣りの駅]]で議論されています。--> ; 京成電鉄・北総鉄道 : [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線 :: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#e8334a|■}}特急 ::: [[青砥駅]] (KS09) - '''京成高砂駅 (KS10)''' - [[京成八幡駅]] (KS16) :: {{Color|#ee86a1|■}}快速・{{Color|#595757|■}}普通 ::: 青砥駅 (KS09) - '''京成高砂駅 (KS10)''' - [[京成小岩駅]] (KS11) : [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 金町線 ::: '''京成高砂駅 (KS10)''' - [[柴又駅]] (KS50) : [[File:Number prefix Hokusō.svg|15px|HS]] 北総線・[[File:Number prefix SkyAccess.svg|15px|KS]] 成田スカイアクセス線(成田空港線) :: {{Color|#ef7a00|■}}アクセス特急・{{Color|#e8334a|■}}特急 ::: 青砥駅(京成本線)(KS09) - '''京成高砂駅 (KS10)''' - [[東松戸駅]] (HS05) :: {{Color|#595757|■}}普通 ::: 青砥駅(京成本線)(KS09) - '''京成高砂駅 (KS10)''' - [[新柴又駅]] (HS01) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 出典 == ; 私鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; 私鉄の統計データ {{Reflist|group="*"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|22em}} == 関連項目 == {{commonscat|Keisei Takasago Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[高砂 (葛飾区)]] *他社名を含む鉄道駅 **[[京成津田沼駅]](新京成) **[[近鉄富田駅]](三岐鉄道) **[[三条京阪駅]](京都市営地下鉄) **[[野田阪神駅]](大阪市高速電気軌道) **[[JR松山駅前停留場]](伊予鉄道) == 外部リンク == * [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-takasago.php 京成高砂駅|電車と駅の情報|京成電鉄] **{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/111.pdf 京成高砂駅構内図]}} *[https://hokuso.ekitan.com/jp/sp/T3?&sf=高砂&sfCode=2068&USR=SP 高砂駅時刻表] - 北総鉄道 {{鉄道路線ヘッダー}} {{京成本線}} {{京成押上線}} {{京成金町線}} {{京成成田空港線}} {{北総鉄道}} {{鉄道路線フッター}} {{デフォルトソート:けいせいたかさこ}} [[Category:葛飾区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 け|いせいたかさこ]] [[Category:京成電鉄の鉄道駅]] [[Category:北総鉄道の鉄道駅]] [[Category:1912年開業の鉄道駅]] [[Category:高砂 (葛飾区)]]
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諸子百家
諸子百家()とは、中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。「百家」は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す。 諸子百家の「~家」の分類は、漢代の学者が後から与えたものである。したがって、諸子百家自身は自分達のことを「~家」とは呼んでいなかった。とはいえ、大まかな学派意識は持っていた。特に「儒」と「墨」と呼ばれる集団が二大学派として認知されていた(儒家八派・墨家三派)。 前漢初期の司馬談は、諸子百家を六家(六学派)に分類した。 後漢の班固は『漢書』芸文志で、上記の六家に三家を加えて九流に分類した。 さらに、これに小説家を加えたものを十家としている。(このような『漢書』芸文志の分類方法は「九流十家(中国語版)」と呼ばれる。) そして、十家に兵家を加えた合計十一家を諸子百家というのが、現代では一般的である。 春秋時代に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国(戦国七雄)がせめぎ合う時代となっていった。 諸侯やその家臣が争っていくなかで、富国強兵をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく下克上の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような遊説家が登場した。諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には斉の威王のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった(稷下の学士)。その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に冠婚葬祭の儀礼の専門家であった。兵家は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。 百家争鳴の中で、秦に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまって黄老思想となっていった道家が後世の中国思想に強い影響を与えていった。また、兵家の代表である孫子は、戦術・政治の要諦を短い書物にまとめ、それは後の中国の多くの指導者のみならず、世界中の指導者に愛読された。一方で墨家は、儒教の階級主義を批判して平等主義を唱え、一時は儒家と並ぶ影響力を持ったが、その後衰退している。 諸子は、諸侯に自説を説くだけでなく、自説を継承・拡散する弟子の育成もした。現存する『~子』という書物の大半は、名目上の著者は諸子本人だが、実際の著者はその弟子たちだった。「先生・師匠」を意味する「子」という尊称が使われたのもそのためだった。また、現存する『~子』の大半は複数の「篇」からなるが、本来は一篇で一個の書物だった。その後、前漢の宮廷図書館の劉向ら後世の学者による編集を経て、現存する『~子』の形になった。 前漢には、道家または儒家を軸に諸子百家を統合したような、雑家的な思想が流行した。その例として、黄老思想、『淮南子』、陸賈・賈誼の思想がある。また『史記』や『戦国策』に諸子の伝記や逸話がまとめられた。 宮廷図書館の劉向・劉歆らは、諸子の書物を収集整理した上で、『七略』に一覧を記した。この『七略』をもとに上記の『漢書』芸文志が書かれた。 前漢の後は、儒教において孔子や孟子が、道教・玄学・禅などにおいて老子や荘子が、兵学において孫子が、といった形で、一部の諸子のみが重視され、それ以外の諸子はあまり注目されず、大半の書物が散逸した。 その間に諸子全体に注目した希少な例として、劉勰『文心雕龍』諸子篇、唐宋八大家の著作、黄震『黄氏日鈔』読諸子篇、高似孫『子略』、宋濂『諸子弁』などがある。また『抱朴子』『劉子』『金楼子』など、諸子に倣った書物も作られた。 明末になると、出版文化の発達による叢書出版の流行により、諸子全体が再注目され、楊慎・李贄・焦竑・胡応麟・傅山らが諸子を研究した。清末の考証学や、江戸時代の徂徠学派・折衷学派・考証学派の漢学では、さらに多くの学者が諸子を研究した。近現代になると、西洋哲学に対する「中国哲学」の代表格として諸子が重視されるようになった。 20世紀末から21世紀には、中国各地の考古遺跡において、諸子の異本や散逸した書物を含む竹簡・帛書が発掘された。その例として『老子』(老子#馬王堆・郭店の発掘書)『孫臏兵法』『戦国縦横家書(中国語版)』がある。 『漢書』芸文志以降の図書目録(目録学)では、図書分類上の分野名として「~家」が転用された。つまり例えば、四部分類法の「子部」において、農書は「農家」の書物、兵法書は「兵家」の書物として扱われた。
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諸子百家とは、中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子・老子・荘子・墨子・孟子・荀子などの人物を指す。「百家」は儒家・道家・墨家・名家・法家などの学派を指す。
{{諸子百家}} {{読み仮名|'''諸子百家'''|しょしひゃっか}}とは、[[中国]]の[[春秋戦国時代]]に現れた学者・学派の総称。「諸子」は[[孔子]]・[[老子]]・[[荘子]]・[[墨子]]・[[孟子]]・[[荀子]]などの人物を指す。「百家」は[[儒教|儒家]]・[[老荘思想|道家]]・[[墨家]]・[[名家 (諸子百家)|名家]]・[[法家]]などの学派を指す。 == 分類 == 諸子百家の「~家」の分類は、[[漢代]]の学者が後から与えたものである<ref>{{コトバンク|2=[[伊東倫厚]]・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。したがって、諸子百家自身は自分達のことを「~家」とは呼んでいなかった。とはいえ、大まかな学派意識は持っていた<ref>『[[荘子]]』天下篇、『[[荀子]]』非十二子篇など</ref>。特に「儒」と「墨」と呼ばれる集団が二大学派として認知されていた([[儒家八派]]・[[墨家三派]])<ref>『[[韓非子]]』顕学篇</ref>。 [[前漢]]初期の[[司馬談]]は、諸子百家を六家(六学派)に分類した<ref>『[[史記]]』太史公自序の「論六家要旨」。{{Wikisourcelang-inline|zh|論六家要旨}}</ref>。 *[[陰陽家]] *[[儒教|儒家]] *[[墨家]] *[[法家]] *[[名家 (諸子百家)|名家]] *[[老荘思想|道家]] [[後漢]]の[[班固]]は『[[漢書]]』[[芸文志]]で、上記の六家に三家を加えて'''九流'''に分類した。 *[[縦横家]] *[[雑家]] *[[農家 (諸子百家)|農家]] さらに、これに[[小説家 (諸子百家)|小説家]]を加えたものを'''十家'''としている。(このような『漢書』芸文志の分類方法は「{{仮リンク|九流十家|zh|九流十家|label=}}」と呼ばれる。) そして、十家に[[兵家]]を加えた合計十一家を諸子百家というのが、現代では一般的である。 == 歴史 == [[春秋時代]]に多くあった国々は次第に統合されて、戦国時代には7つの大国([[戦国七雄]])がせめぎ合う時代となっていった。 [[諸侯]]やその家臣が争っていくなかで、[[富国強兵]]をはかるためのさまざまな政策が必要とされた。それに答えるべく[[下克上]]の風潮の中で、下級の士や庶民の中にも知識を身につけて諸侯に政策を提案するような[[遊説家]]が登場した。諸侯はそれらの人士を食客としてもてなし、その意見を取り入れた。さらに諸侯の中には[[田斉|斉]]の[[威王 (斉)|威王]]のように今日の大学のようなものを整備して、学者たちに学問の場を提供するものもあった([[稷下の学士]])。その思想は様々であり、政治思想や理想論もあれば、実用的な技術論もあり、それらが渾然としているものも多い。墨家はその典型であり、博愛主義や非戦を唱えると同時に、その理想の実践のための防御戦のプロフェッショナル集団でもあった。儒家も政治思想とされるものの、同時に[[冠婚葬祭]]の儀礼の専門家であった。[[兵家]]は純粋な戦略・戦術論を唱える学問と考えられがちであるが、実際には無意味な戦争の否定や富国強兵を説くなどの政治思想も含んでいた。 '''{{Anchors|百家争鳴}}百家争鳴'''の中で、[[秦]]に採用されて中国統一の実現を支援した法家、漢以降の王朝に採用された儒家、民衆にひろまって[[黄老思想]]となっていった道家が後世の中国思想に強い影響を与えていった。また、兵家の代表である[[孫武|孫子]]は、戦術・政治の要諦を短い書物にまとめ、それは後の中国の多くの指導者のみならず、世界中の指導者に愛読された。一方で墨家は、儒教の階級主義を批判して[[平等主義]]を唱え、一時は儒家と並ぶ影響力を持ったが、その後衰退している。 == 書物の著者 == 諸子は、諸侯に自説を説くだけでなく、自説を継承・拡散する[[弟子]]の育成もした<ref name=":0" />。現存する『~子』という書物は、名目上の著者は諸子本人だが、実際の著者は多くの場合その弟子たちだった<ref name=":0" />。「先生・師匠」を意味する「[[子#人物を表す称|子]]」という尊称が使われたのもそのためだった<ref name=":0" />。また、現存する『~子』の大半は複数の「篇」からなるが、本来は一篇で一個の作品だった<ref>[[鶴間和幸]]『始皇帝の愛読書 帝王を支えた書物の変遷』山川出版社、2023年。ISBN 978-4-634-15216-8。192頁。</ref>。その後、[[前漢]]の宮廷図書館の[[劉向]]ら後世の学者による編集を経て、現存する『~子』の形になった。 == 後世の受容 == === 漢代 === [[前漢]]には、道家または儒家を軸に諸子百家を統合したような、雑家的な思想が流行した。その例として、[[黄老思想]]、『[[淮南子]]』、[[陸賈]]・[[賈誼]]の思想がある<ref>{{Citation|和書|title=入門 中国思想史|year=2012|last=井ノ口|first=哲也|publisher=勁草書房|isbn=978-4326102150}} 「第三章 国家統一のための政治思想―秦・前漢」</ref>。また『[[史記]]』や『[[戦国策]]』に諸子の伝記や逸話がまとめられた。 宮廷図書館の[[劉向]]・[[劉歆]]らは、諸子の書物を収集整理して『[[七略]]』に一覧を記した。この『七略』をもとに上記の『漢書』芸文志が書かれた。 === 魏晋以降の衰退 === [[魏晋南北朝時代|魏晋]]以降は、[[儒教]]において[[孔子]]や[[孟子]]が、[[道教]]・[[玄学]]・[[禅宗|禅]]などにおいて[[老子]]や[[荘子]]が、[[兵学]]において[[孫子 (書物)|孫子]]が、といった形で、一部の諸子のみが重視され、それ以外の諸子はあまり注目されず、大半の書物が[[佚書]]となった。 そのなかで諸子全体に注目した希少な例として、[[劉勰]]『[[文心雕龍]]』諸子篇<ref name=":0">{{Citation|和書|title=中国思想文化事典|author=関口順・[[濱口富士雄]]|year=2001|publisher=[[東京大学出版会]]|editor=[[溝口雄三]]; [[丸山松幸]]; [[池田知久]]|pages=348-355|chapter=諸子学|isbn=978-4130100878}}</ref>、[[唐宋八大家]]の著作<ref>{{Cite web |title=唐宋変革期における諸子学の隆盛及び中唐古文家との関係 |url=https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-17K02638/ |website=KAKEN |access-date=2023-10-16}}</ref>、[[黄震]]『黄氏日鈔』読諸子篇<ref name=":0" />、[[高似孫]]『子略』、[[宋濂]]『諸子弁』などがある。また『[[抱朴子]]』『[[劉子]]』『[[金楼子]]』など、諸子に倣った書物も作られた。 === 明末以降の再発見 === [[明末]]になると、[[中国の書店|出版文化]]の発達による[[叢書 (漢籍)|叢書]]出版の流行により、諸子全体が再注目され<ref>{{Cite journal|和書|author=三浦秀一|year=2018|title=明代諸子学史略 ─ その形成過程を論じ地平の拡張に及ぶ ─|url=https://hdl.handle.net/10097/00129944|journal=集刊東洋学|volume=119}}</ref>、[[楊慎]]・[[李贄]]・[[焦竑]]・[[胡応麟]]・[[傅山]]らが諸子を研究した<ref name=":0" />。[[清]]末の[[考証学]]や<ref name=":0" /><ref>{{Cite book|和書 |title=中国近代思想研究 |year=2019 |author=小林武 |publisher=朋友書店 |isbn=9784892811784}} 「第三編 清末の諸子学と異文化受容」</ref>、[[江戸時代]]の[[徂徠学派]]<ref>{{Cite web |title=徂徠学派における中国先秦諸子研究―文化交渉学の視点から |url=https://kaken.nii.ac.jp/grant/KAKENHI-PROJECT-11J55632/ |website=KAKEN |access-date=2023-10-21 |author=松井真希子}}</ref>・[[折衷学派]]<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=江戸時代の呂氏春秋学:山子学派と森鐵之助・新出注釈二種 |year=2017 |publisher=中国書店 |author=土屋紀義・佐々木研太 |isbn=978-4903316581}}</ref>・[[考証学派]]<ref>[[町田三郎]]『江戸の漢学者たち』研文出版、1998年、ISBN 978-4876361557。序文。</ref>の[[漢学]]では、さらに多くの学者が諸子を研究した。近現代になると、[[西洋哲学]]に対する「[[中国哲学]]」の代表格として諸子が重視されるようになった<ref>{{Cite book|和書 |title=哲学から文献学へ: 後期帝政中国における社会と知の変動 |year=2014 |publisher=[[知泉書館]] |isbn=978-4862852007 |translator=[[馬淵昌也]]・林文孝・本間次彦・吉田純 |author=B.A.エルマン |authorlink=B.A.エルマン}} p. 339f(馬淵昌也解説)</ref>。 [[20世紀]]末から[[21世紀]]には、中国各地の[[考古遺跡]]において、諸子の異本や佚書を含む[[竹簡]]・[[帛書]]が発掘された<ref>西山尚志「諸子百家はどう展開したか」『地下からの贈り物 新出土資料が語るいにしえの中国』中国出土資料学会、東方書店、2014年。ISBN 978-4497214119</ref>。その例として『[[老子]]』([[老子#馬王堆・郭店の発掘書]])『[[孫臏兵法]]』『{{仮リンク|戦国縦横家書|zh|戰國縱橫家書}}』がある。 === 目録学 === 『漢書』芸文志以降の[[図書目録]]([[目録学]])では、[[図書分類法|図書分類]]上の分野名として「~家」が転用された<ref>{{Citation|和書|title=中国目録学史上における子部の意義 : 六朝期目録の再検討|year=1998|last=金|first=文京|publisher=[[慶應義塾大学附属研究所斯道文庫]]|isbn=|author-link=金文京|journal=斯道文庫論集|number=33|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-00000033-0171}}</ref>。つまり例えば、[[四部分類法]]の「子部」において、[[北魏]]の『[[斉民要術]]』などの[[農書]]は「農家」の書物、[[明]]の『[[紀効新書]]』などの[[兵法書]]は「兵家」の書物とされた<ref>{{Cite web |title=全國漢籍データベース 四庫提要 |url=http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/ShikoTeiyo/ |website=kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp |access-date=2023-11-22}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[疑古]] * [[百花斉放百家争鳴]] * {{仮リンク|先秦諸子繋年|zh|先秦諸子繫年}} * {{仮リンク|新編諸子集成|zh|新編諸子集成}} * [[中国哲学書電子化計画]] == 外部リンク == * [http://ctext.org/zh 中國哲學書電子化計劃] - 諸子百家の各著作の原文(英語と中国語) * {{Kotobank}} {{春秋戦国時代}} {{政治思想}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しよしひやつか}} [[Category:諸子百家| ]] [[Category:古代中国哲学]] [[Category:中国の名数100]]
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大和駅
大和駅(やまとえき)
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大和駅(やまとえき)
{{混同|山都駅}} '''大和駅'''(やまとえき) == 一覧 == === 関東地方 === * [[大和駅 (神奈川県)]] - [[神奈川県]][[大和市]]にある[[小田急江ノ島線]]・[[相鉄本線]]の駅。 * [[大和駅 (茨城県)]] - [[茨城県]][[桜川市]]にある[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[水戸線]]の駅。 * [[武蔵大和駅]] - [[東京都]][[東村山市]]にある[[西武多摩湖線]]の駅。 * [[甲斐大和駅]] - [[山梨県]][[甲州市]]にあるJR東日本[[中央本線]]の駅。 === 中部地方 === * [[郡上大和駅]] - [[岐阜県]][[郡上市]]にある[[長良川鉄道]][[長良川鉄道越美南線|越美南線]]の駅。 * [[愛知県]][[一宮市]]と[[稲沢市]]にまたがる、[[名鉄名古屋本線]]の[[島氏永駅]]の旧称。 === 関西地方 === * [[大和西大寺駅]] - [[奈良県]][[奈良市]]にある[[近鉄奈良線]]・[[近鉄京都線|京都線]]・[[橿原線]]の駅。 * [[大和八木駅]] - [[奈良県]][[橿原市]]にある[[近鉄大阪線]]・橿原線の駅。 === 海外 === * 台湾花蓮県光復郷にある台湾鉄路管理局台東線の[[大富駅 (花蓮県)|大富駅]]の日本統治時代の旧称。 * [[大和駅 (深圳市)]] - 中国[[広東省]][[深圳市]]にある[[深圳有軌電車]]本線の駅。 ==関連項目== *[[大和 (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} [[Category:同名の鉄道駅]] {{DEFAULTSORT:やまとえき}}
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クルディスタン
クルディスタン(クルド語 كوردستان / Kurdistan)は、中東北部の一地域。トルコ東部、イラク北部、イラン西部、シリア北部とアルメニアの一部分にまたがり、ザグロス山脈とタウルス山脈の東部延長部分を包含する、伝統的に主としてクルド人が居住する地理的領域のこと。チグリス・ユーフラテス川の中上流域を中心に広がる山岳地帯である。面積は約392,000km。 「クルド人の地/国」を意味する。ペルシア語ではコルデスターンといい、イランには同名の州コルデスターン州が存在する。イラクでは自治区のクルディスタン地域、シリアでは自治区のロジャヴァを構成する。 クルディスタンという名称は、12世紀にセルジューク朝のアフマド・サンジャルがエルデランに相当する地域(今日のイランのコルデスタン州とほぼ一致)に設置した州の名前として、初めて使われた。 特定のクルド人の都市では、都市集落は先史時代にさかのぼることができる。特に、ピランシャールには約8,000年前の都市集落があり、エルビルには約6,000年前の都市集落がある。 紀元前3000年頃、シュメールの楔形文字の粘土板に"Kar-da"ないしは"Qar-da"と呼ばれる土地の名前が現れる。ゴッドフリー・ロールズ・ドライヴァー(英語版)はこれを「クルド」の最も初期の形であると示唆しており、その説に倣うならば、これが最も早いクルドに関する記録となる。 今日、クルディスタンとして知られている地域はペルシア(イラン)とメソポタミアの間、ヴァン湖の南と南東の高山地域のことである。ここは、クセノポンの時代以前よりクルド人が支配しており、カルドゥチ(英語版)(英: Carduchi, Cardyene, Cordyene, 希: Καρδούχοι)の名で知られる国が存在した。 古代ローマはその絶頂時に、クルド人が住んでいる広大な地域、特に中東の西と北のクルド人地域を支配した。カルドゥチ(英語版)のようなクルド人王国は、ローマ帝国の封建州となっていた。紀元前189年から384年、古代カルドゥチは北メソポタミアを支配した。この王国はティグラノセルタ (Tigranocerta) の東に存在した。トルコの南東にある今日のディヤルバクルの東側および南側に相当する。カルドゥチは、紀元前66年にローマ共和国の封建州となり、384年までローマと同盟状態にあった。 「クルドの地」の語が初期の記録に現れた一例として、シリア語でのキリスト教の文章がある。この文章は中東での聖アブディショ(英語版)の様なキリスト教の聖者を記述している。サーサーン朝のマルズバンがアブディショに出身の地を聞いた際に、彼は両親がアッシリアの村ハザ (Hazza) の出身であると答えた。しかし、両親は異教徒によりハザから追い出され、タマノン (Tamanon) に定住した。そこは、アブディショによると「クルドの地」であった。この村は、現在のイラクとトルコの国境の北、現在のアルビールの南西12kmに存在する。同じ文章の他の部分ではハブール川地域が「クルドの地」と記載されている。 10世紀後半、地域には5つの地方王朝が成立した。北側をシャッダード朝(951年 - 1174年:アルメニアとアッラーンの一部)と、ラワード朝(英語版)(955年 - 1221年:タブリーズとマラーゲ付近)に、東側をハサナワイフ朝(英語版)(959年 - 1015年)とアナーズ朝(英語版)(990年 - 1116年:ハルワーン、ケルマーンシャー、ハーナキーン)、西側にマルワーン朝(英語版)(990年 - 1096年:ディヤルバクル)が支配した。 中世のクルディスタンは「イマーラト」すなわちアミール領と呼ばれる半独立、一部独立の国家集合体であった。通常、これらはカリフやシャーの間接的な政治的、宗教的影響下にあった。これらのクルディスターンの諸勢力と近隣国との複雑な関係は、1597年にシェレフハーン・ベドリースィー(英語版) (クルド語: Şerefxan Bedlîsî)による鑑文学「シャラフナーメ(英語版)」に記載されている。よく知られているクルド系アミール領は、今日のイラクのババン、ソラン(英語版)、ベフディナン(英語版)、ゲルミヤン(英語版)、トルコのバクラン、ボフタン(英語版)、ベドリース(英語版)、イランのムクリヤン(英語版)、エルデラン(英語版)に相当する。 16世紀に、クルド人居住区は、長い戦いの後サファヴィー朝とオスマン帝国に分割された。クルディスタンに対する最初の重要な分割は1514年のチャルディラーンの戦いの後に行われ、1639年のズハーブ条約(英語版)により公式のものとなった。第一次世界大戦前には、ほとんどのクルド人はオスマン帝国内のクルド州に住んでいた。オスマン帝国の解体後、連合国は旧オスマン領のこの地域を分割し複数の国を作る合意と計画を行っていた。批准されなかったセーヴル条約に基づいた、アルメニア沿いにあるクルディスタンもその一つであった。しかし、ケマル・アタテュルクによるアナトリア東部の再占領や他の差し迫った問題が、連合国にトルコとの再交渉を認めさせた。結果、ローザンヌ条約により、現在のトルコ共和国の国境の大部分が確定された。これによりクルディスタンの独立の機会は失われた。クルディスタンの他の領域は、両条約において、イギリスとフランスによる委任統治領(イラクとシリア)の内部に併合された。 第二次世界大戦後をにらんだ1945年のサンフランシスコ会議において、クルド人の代表団は、クルド人が主張するクルディスタンの地理的な範囲を示した。この提案では、地域はアダナ近くの地中海の海岸から、ブーシェフル近くのペルシア湾の海岸まで広がっている。これには、ザグロス山脈の南の居住区であるルアも含まれている。 第一次世界大戦後はサイクス・ピコ協定を基本とした国際協定によりクルディスタンはいくつかの国に分割され、それぞれの国においてクルド人は少数派である。クルド人同士は国境を越えた往来がある。それは密貿易や、それぞれの国において自治権拡大や独立を求めての政治活動・軍事行動も含む。トルコは国外に拠点を置くクルド人勢力への越境攻撃も行っている。 1946年1月、イラン西部のクルド人はソビエト連邦の支援を得てマハーバード共和国を樹立。したが同年中に独立を認めないイラン政府の猛攻により瓦解した。これによりイラン国内のクルド人が弾圧されるようになったが、1978年までにイラン革命の機運が高まるとこれに乗じ、イラン・クルディスタン民主党を中心に自治権の獲得を目指した。 しかし革命後のホメイニ政権はイラン・クルディスタン民主党を非合法化して弾圧、イラン・クルディスタン民主党はケルマーンシャー州の都市や西アーザルバーイジャーン州のマハーバードを占拠して対抗したが、イラン政府軍と革命防衛隊の猛攻により1979年9月3日までに制圧された。 1991年の湾岸戦争の終結時、連合国は北イラクに安全地域を創設した。イラク軍が北部の3つの県から撤収した際に、イラクのクルディスタンはイラク内部の自治勢力として浮上し、1992年には地方政府と議会が作られた。 シリア内戦(2011年~)において、クルド人民防衛隊を主体とするシリア民主軍がシリアの一部を支配している。 クルド人#参考文献も参照
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クルディスタンは、中東北部の一地域。トルコ東部、イラク北部、イラン西部、シリア北部とアルメニアの一部分にまたがり、ザグロス山脈とタウルス山脈の東部延長部分を包含する、伝統的に主としてクルド人が居住する地理的領域のこと。チグリス・ユーフラテス川の中上流域を中心に広がる山岳地帯である。面積は約392,000km2。 「クルド人の地/国」を意味する。ペルシア語ではコルデスターンといい、イランには同名の州コルデスターン州が存在する。イラクでは自治区のクルディスタン地域、シリアでは自治区のロジャヴァを構成する。 クルディスタンという名称は、12世紀にセルジューク朝のアフマド・サンジャルがエルデランに相当する地域(今日のイランのコルデスタン州とほぼ一致)に設置した州の名前として、初めて使われた。 特定のクルド人の都市では、都市集落は先史時代にさかのぼることができる。特に、ピランシャールには約8,000年前の都市集落があり、エルビルには約6,000年前の都市集落がある。
{{otheruses|地理的領域}} [[ファイル:Kurdish-inhabited area by CIA (1992).jpg|thumb|right|200px|[[中央情報局|CIA]]の発表したクルド人居住地域の地図]] '''クルディスタン'''([[クルド語]] {{lang|ku|كوردستان / Kurdistan}})は、[[中東]]北部の一地域。[[トルコ]]東部、[[イラク]]北部、[[イラン]]西部、[[シリア]]北部と[[アルメニア]]の一部分にまたがり、[[ザグロス山脈]]と[[タウルス山脈]]の東部延長部分を包含する、伝統的に主として[[クルド人]]が居住する地理的領域のこと<ref>"[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/325241/Kurdistan Kurdistan]", ''Encyclopædia Britannica'', 2008, Encyclopædia Britannica Online.</ref>。[[チグリス川|チグリス]]・[[ユーフラテス川]]の中上流域を中心に広がる山岳地帯である。面積は約392,000km<sup>2</sup>。 「クルド人の地/国」を意味する。[[ペルシア語]]ではコルデスターンといい、イランには同名の州[[コルデスターン州]]が存在する。イラクでは自治区の[[クルディスタン地域]]、シリアでは自治区の[[ロジャヴァ]]を構成する。 クルディスタンという名称は、12世紀に[[セルジューク朝]]の[[アフマド・サンジャル]]がエルデランに相当する地域(今日のイランのコルデスタン州とほぼ一致)に設置した州の名前として、初めて使われた<ref>Kerim Yıldız, Irak Kürtleri, Belge Yayınları, İstanbul, Haziran 2005, ISBN 975-344-329-3, s. 21-22.</ref>。 特定のクルド人の都市では、都市集落は先史時代にさかのぼることができる。特に、ピランシャールには約8,000年前の都市集落があり、エルビルには約6,000年前の都市集落がある<ref>https://newspakistan.tv/8000-years-old-artifacts-unearthed-in-iran/</ref><ref>https://www.nytimes.com/2017/10/10/world/middleeast/iraq-erbil-citadel.html</ref>。 == 歴史 == === 古代 === [[File:Near East ancient map.jpg|thumb|200px|{{仮リンク|コードゥエンス|en|Corduene|label=カルドゥチ}}、[[紀元前60年]]頃]] [[紀元前3000年]]頃、[[シュメール]]の[[楔形文字]]の[[粘土板]]に"Kar-da"ないしは"Qar-da"と呼ばれる土地の名前が現れる。{{仮リンク|ゴッドフリー・ロールズ・ドライヴァー|en|Godfrey Rolles Driver}}はこれを「クルド」の最も初期の形であると示唆しており{{Sfn|Ozoglu|2012|p=23}}、その説に倣うならば、これが最も早いクルドに関する記録となる<ref>Martin J. Dent, Identity Politics: Filling the Gap Between Federalism and Independence page: 99, Published 2004 Ashgate Publishing, Ltd., 232 pages, ISBN 0754637727</ref>。 今日、クルディスタンとして知られている地域は[[ペルシア]](イラン)と[[メソポタミア]]の間、[[ヴァン湖]]の南と南東の高山地域のことである。ここは、[[クセノポン]]の時代以前よりクルド人が支配しており、{{仮リンク|コードゥエンス|en|Corduene|label=カルドゥチ}}({{lang-en-short|Carduchi, Cardyene, Cordyene, }}{{lang-el-short|Καρδούχοι}})の名で知られる国が存在した<ref>http://www.gutenberg.org/files/16167/16167-h/raw7a.htm</ref>。 [[古代ローマ]]はその絶頂時に、クルド人が住んでいる広大な地域、特に中東の西と北のクルド人地域を支配した。{{仮リンク|コードゥエンス|en|Corduene|label=カルドゥチ}}のようなクルド人王国は、ローマ帝国の封建州となっていた。[[紀元前189年]]から[[384年]]、古代カルドゥチは北メソポタミアを支配した。この王国は[[ティグラノセルタ]] (Tigranocerta) の東に存在した。トルコの南東にある今日の[[ディヤルバクル]]の東側および南側に相当する。カルドゥチは、[[紀元前66年]]に[[共和政ローマ|ローマ共和国]]の[[封建]]州となり、[[384年]]までローマと同盟状態にあった。 <!-- 読みが怪しいのでコメントアウト クルディスタンの昔の区分と最近の名前を下に示す<ref>J. Bell, ''A System of Geography. Popular and Scientific (A Physical, Political, and Statistical Account of the World and Its Various Divisions) '', pp.133–4, Vol. IV, Fullarton & Co., Glasgow, 1832.</ref>。 # [[コードゥエンス]] (Corduene) もしくはゴーディエンス (Gordyene) ([[シールト]] (Siirt) 、[[ビトリス]] (Bitlis) 、[[シュルナク]] (Şırnak) ) # [[ソフィネ]] (Sophene)([[ディヤルバクル]]) # ザブディケーン (Zabdicene) もしくはベザブデ (Bezabde) (''Gozarto d'Qardu'' or ''Jazirat Ibn'' or [[Cizre]]) # Basenia([[バヤズィト]]) # Moxoene([[ムシュ]] (Muş)) # Nephercerta(ミヤファルキン) # アルテミタ (Artemita)([[ヴァン]]) --> 「クルドの地」の語が初期の記録に現れた一例として、[[シリア語]]での[[キリスト教]]の文章がある。この文章は中東での{{仮リンク|アブディショ|en|Abdisho|label=聖アブディショ}}の様なキリスト教の[[聖者]]を記述している。[[サーサーン朝]]のマルズバン<!-- 軍の指揮官の階級? -->がアブディショに出身の地を聞いた際に、彼は両親が[[アッシリア]]の村ハザ (Hazza) の出身であると答えた。しかし、両親は異教徒によりハザから追い出され、タマノン (Tamanon) に定住した。そこは、アブディショによると「クルドの地」であった。この村は、現在のイラクとトルコの国境の北、現在の[[アルビール]]の南西12kmに存在する。同じ文章の他の部分では[[ハブール川]]地域が「クルドの地」と記載されている<ref>J. T. Walker, ''The Legend of Mar Qardagh: Narrative and Christian Heroism in Late Antique Iraq'' (368 pages) , University of California Press, ISBN 0520245784, 2006, pp. 26, 52.</ref>。 === 中世 === [[File:Kashgari map.jpg|thumb|200px|マフムード・カーシュガリーによる地図(1074年)。アルズ・アッシャーム(シリア)とアルズ・アル=イラーキイン(両イラク:イラーキ・アラブとイラーキ・アジャムすなわちイラン)の間にアルズ・アル=アクラード(クルドの地)がある。]] [[10世紀]]後半、地域には5つの地方王朝が成立した。北側を[[シャッダード朝]]([[951年]] - [[1174年]]:[[アルメニア]]と[[アッラーン]]の一部)と、{{仮リンク|ラワード朝|en|Rawadid}}([[955年]] - [[1221年]]:[[タブリーズ]]と[[マラーゲ]]付近)に、東側を{{仮リンク|ハサナワイフ朝|en|Hasanwayhids}}(959年 - 1015年)と{{仮リンク|アナーズ朝|en|Annazids}}(990年 - 1116年:[[ハルワーン]]、[[ケルマーンシャー]]、[[ハーナキーン]])、西側に{{仮リンク|マルワーン朝|en|Marwanids}}(990年 - 1096年:[[ディヤルバクル]])が支配した。 [[中世]]のクルディスタンは「イマーラト」すなわち[[アミール]]領と呼ばれる半独立、一部独立の国家集合体であった。通常、これらは[[カリフ]]や[[シャー]]の間接的な政治的、宗教的影響下にあった。これらのクルディスターンの諸勢力と近隣国との複雑な関係は、[[1597年]]に{{仮リンク|シェレフハーン・ベドリースィー|en|Sharaf Khan Bidlisi}} ([[クルド語]]: Şerefxan Bedlîsî)による鑑文学「{{仮リンク|シャラフナーメ|en|Sharafnama}}」に記載されている<ref>http://www.mazdapublishers.com/Sharafnama.htm</ref><ref>For a list of these entities see [http://www.kurdistanica.com/english/geography/maps/map-03.html Kurdistan and its native Provincial subdivisions]</ref><ref>日本語ではシャラフッディーンについて[[永田雄三]]・[[羽田正]]『成熟のイスラーム社会』[[中央公論社]], 1998, pp.329-344.に「二つの大国のはざまで—あるクルド人リーダーの苦悩」としてその生涯が語られている。</ref>。よく知られているクルド系アミール領は、今日のイラクの[[ババン]]、{{仮リンク|ソラン (イラク)|label=ソラン|en|Diana, Iraq}}、{{仮リンク|ベフディナン|en|Bahdinan}}、{{仮リンク|ベス・ガルマイ|en|Beth Garmai|label=ゲルミヤン}}、トルコの{{要出典範囲|[[ディヤルバクル|バクラン]]|date=2012年1月}}、{{仮リンク|ボフタン|en|Bohtan}}、{{仮リンク|ビトリス君侯国|en|Principality of Bitlis|label=ベドリース}}、イランの{{仮リンク|ムクリヤン|en|Mukriyan}}、{{仮リンク|エルデラン|en|Ardalan}}に相当する。 === 近代 === [[File:Osmanli Ortadogu.jpg|thumb|200px|アブデュルハミド二世の時代にアラビア語で印刷されたオスマン帝国の地図にあるクルディスターン地方]] [[ファイル:Flag of Kurdistan.svg|thumb|200px|[[クルドの旗|クルディスタンの旗]]。現在はイラク領[[クルディスタン地域]]の旗。]] [[16世紀]]に、クルド人居住区は、長い戦いの後[[サファヴィー朝]]と[[オスマン帝国]]に分割された。クルディスタンに対する最初の重要な分割は[[1514年]]の[[チャルディラーンの戦い]]の後に行われ、[[1639年]]の{{仮リンク|ズハーブ条約|en|Treaty of Zuhab}}により公式のものとなった<ref>C. Dahlman, ''The Political Geography of Kurdistan'', Eurasian Geography and Economics, Vol.43, No.4, pp.271–299, 2002.</ref>。{{要出典範囲|[[第一次世界大戦]]前には、ほとんどのクルド人はオスマン帝国内の[[クルド州]]に住んでいた。|date=2012年1月}}オスマン帝国の解体後、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は旧オスマン領のこの地域を分割し複数の国を作る合意と計画を行っていた。批准されなかった[[セーヴル条約]]に基づいた、[[アルメニア]]沿いにあるクルディスタンもその一つであった。しかし、[[ケマル・アタテュルク]]によるアナトリア東部の再占領や他の差し迫った問題が、連合国にトルコとの再交渉を認めさせた。結果、[[ローザンヌ条約]]により、現在の[[トルコ共和国]]の国境の大部分が確定された。これによりクルディスタンの独立の機会は失われた。クルディスタンの他の領域は、両条約において、[[イギリス]]と[[フランス]]による[[委任統治]]領([[イラク]]と[[シリア]])の内部に併合された。 [[第二次世界大戦]]後をにらんだ[[1945年]]の[[サンフランシスコ会議]]において、クルド人の代表団は、クルド人が主張するクルディスタンの地理的な範囲を示した。この提案では、地域は[[アダナ]]近くの[[地中海]]の海岸から、[[ブーシェフル]]近くの[[ペルシア湾]]の海岸まで広がっている。これには、[[ザグロス山脈]]の南の居住区である[[ルア]]も含まれている<ref name="Dahlman-274">C. Dahlman, ''The Political Geography of Kurdistan'', Eurasian Geography and Economics, Vol.43, No.4, p. 274.</ref><ref>[http://www.akakurdistan.com/kurds/map/map.html aka KURDISTAN | MAP OF THE KURDISH REGION]</ref>。 第一次世界大戦後は[[サイクス・ピコ協定]]を基本とした国際協定によりクルディスタンはいくつかの国に分割され、それぞれの国においてクルド人は[[少数民族|少数派]]である<ref name="Dahlman-274" /><ref>[http://www.akakurdistan.com/kurds/map/map.html The map presented by the Kurdish League Delegation, March 1945]</ref>。クルド人同士は[[国境]]を越えた往来がある。それは[[密貿易]]<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S13849099.html 【世界発2019】生活支えるクルド人密輸/イラン・イラク国境の山岳地帯]『[[朝日新聞]]』朝刊2019年1月15日(国際面)2019年1月15日閲覧。</ref>や、それぞれの国において自治権拡大や独立を求めての政治活動・軍事行動も含む。トルコは国外に拠点を置くクルド人勢力への越境攻撃も行っている。 {{main|トルコ・クルド紛争}} 1946年1月、イラン西部のクルド人はソビエト連邦の支援を得て[[マハバード共和国|マハーバード共和国]]を樹立。したが同年中に独立を認めないイラン政府の猛攻により瓦解した。これによりイラン国内のクルド人が弾圧されるようになったが、1978年までに[[イラン革命]]の機運が高まるとこれに乗じ、イラン・クルディスタン民主党を中心に[[自治権]]の獲得を目指した。 しかし革命後のホメイニ政権はイラン・クルディスタン民主党を非合法化して弾圧、イラン・クルディスタン民主党は[[ケルマーンシャー州]]の都市<ref>クルド族反乱で緊迫 全軍に出動命令 占拠のパペ市『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月19日朝刊 13版 7面</ref>や[[西アーザルバーイジャーン州]]のマハーバードを占拠して対抗したが、イラン政府軍と[[イスラム革命防衛隊|革命防衛隊]]の猛攻により1979年9月3日までに制圧された<ref>イラン政府軍 ハマバドを制圧 クルド族 徹底抗戦崩さず『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月4日朝刊 13版 7面</ref>。 [[1991年]]の[[湾岸戦争]]の終結時、連合国は北イラクに安全地域を創設した。イラク軍が北部の3つの県から撤収した際に、イラクのクルディスタンはイラク内部の自治勢力として浮上し、[[1992年]]には地方政府と議会が作られた。 {{main|クルディスタン地域}} [[シリア内戦]](2011年~)において、[[クルド人民防衛隊]]を主体とする[[シリア民主軍]]がシリアの一部を支配している。 == 主要都市 == * [[イラク]]領内 ** [[アルビル]](クルド語:ヘウレィル) ** [[スレイマニヤ]] (クルド語:スレィマニ) - イラク北部、[[1922年]]{{仮リンク|メフムード・ベルゼンジ|en|Mahmud Barzanji}}が{{仮リンク|クルディスタン王国|en|Kingdom of Kurdistan}} (正確には、クルディスタンのシャー)を宣言した ** [[キルクーク]](クルド語:ケルクーク) - [[石油]]を産する、イラク・テュルクメン人も多数居住する ** {{仮リンク|ディアナ (イラク)|en|Diana, Iraq|label=ディアナ}} ** [[モースル]] / [[ニネヴェ]] - [[チグリス川]]沿いの[[双子都市]] * [[トルコ]]領内 ** [[ディヤルバクル]](クルド語:アメド) ** [[ビトリス]] (クルド語:ビドリース) ** [[ムシュ]] (クルド語:ムーシュ) ** [[ジズレ]] (クルド語:ジュズィル) ** [[スィイルト]](クルド語:セィルト) * [[シリア]]領内 ** [[カーミシュリー]](クルド語:カムシロ) ** [[ハサカ]](クルド語:ヘスィチェ) * [[イラン]]領内 ** [[オルーミーイェ]] (クルド語:ウルメィ) ** [[マハーバード]] (クルド語:メハバド) ** [[サナンダジュ]] (クルド語:スネ) == クルド人自治区 == * [[クルディスタン自治区]](イラク領) * [[ロジャヴァ|ロジャヴァ・クルド人自治区]](シリア領) == 主な政党 == * [[イラク]] ** [[クルディスタン民主党]](KDP)…[[イスラム教]][[スンニ派]]。親トルコ。中道右派。 ** [[クルディスタン愛国同盟]](PUK)…[[世俗主義]]。親イラン。左派。 ** [[クルディスタン労働者党 (イラク)]]…世俗主義。左翼。 * [[イラン]] ** [[:en:Democratic Party of Iranian Kurdistan|イラン・クルディスタン民主党]](PDKI)…世俗主義。左派。 ** [[:en:Komalah|コマラ]](KZK)…世俗主義。左翼。 * [[トルコ]] ** [[国民民主主義党]](HDP)…世俗主義。左翼。 ** [[民主的諸地域党]](DBP)…世俗主義。左翼。 ** [[クルディスタン労働者党]](PKK)…世俗主義。極左。 * [[シリア]] ** [[クルド民主統一党]](PYD)…世俗主義。左翼。 == 脚注・出典・参考文献 == {{reflist}} * {{Citation | last = Ozoglu | first = Hakan | authorlink= | title = Kurdish Notables and the Ottoman State: Evolving Identities, Competing Loyalties, and Shifting Boundaries | publisher = SUNY Press | year = 2012 | isbn= 9780791485569 }} ''[[クルド人#参考文献]]も参照'' == 関連項目 == * [[クルディスタン地域|クルド人自治区]](イラク) * [[マハバード共和国]](イランに存在した国家) * [[北クルディスタン]](トルコ) * [[西クルディスタン]](ロジャヴァ・クルド人自治区)(シリア) * [[東クルディスタン]](イラン) == 外部リンク == {{Commonscat|Kurdistan}} * [http://www.politicalresources.net/kurdistan.htm Links to different Kurdish political sites] 立場が異なるクルド政治サイトのリンク集(英語) * [http://www.globalsecurity.org/military/world/war/kurdistan-maps.htm Kurdistan Maps] by [[GlobalSecurity.org]] * [http://www.globalsecurity.org/military/world/war/images/dist-kurdish.gif Distribution of Kurdish People(クルド人分布図)] by GlobalSecurity.org {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くるていすたん}} [[Category:クルディスタン|*くるていすたん]] [[Category:中東]] [[Category:トルコの国際関係]] [[Category:イランの国際関係]] [[Category:イラクの国際関係]] [[Category:イラン高原]] [[Category:分割地域]]
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武蔵国
武蔵国(むさしのくに、旧字体: 武藏國)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属し、現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。 「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。 武蔵国造(无邪志国造)の祖先には身狭耳命(むさみみのみこと)がおり、武蔵国東部を支配したと考えられている。 本居宣長は『古事記伝』の中で「武蔵国は駿河・相模と共に佐斯国(さし-)と呼ばれ、後に佐斯上(さしがみ)下佐斯(しもざし)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、賀茂真淵は『倭訓栞』に「身狭(むさ)国があり、のち身狭上(むさがみ)・身狭下(むさしも)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「総国(ふさ-)の一部が分割され総上(ふさがみ)・総下(ふさしも)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もある。これらの説は武蔵国とのちの東海道の諸国の関わりを説く。 表記については、飛鳥京・藤原宮木簡に「无耶志国(むざし-)」と見え、7世紀頃までは「无射志」(むざし)や「牟射志」(むざし)と表記されていた記録も見つかっている。他にも「牟佐志(むさし)」、「無邪志(むざし)」、「无邪志」、「胸刺」といった表記があるが、いずれも訓に字を当てたものと考えられている。 「武蔵」の表記は、その後、无邪志国(武蔵国東部)と知々夫国(武蔵国西部:秩父地方)とが合併し令制国としての武蔵国発足の頃に作られた。 もとは无邪志国造(胸刺国造を別個に考える説もある)と知々夫国造という2つあるいは3つの国造が存在した。6世紀には埼玉県行田市を本拠地とする笠原直が武蔵国造の乱に勝利し、その後に笠原直が国造を世襲することとなった。これらの国造の領域を合し7世紀に武蔵国が成立したとされる。大化元年(645年)に難波宮で大化の改新が行われ穂積咋などが東国国司に任じられ(武蔵国司も参照)、また持統天皇4年(690年)、朝廷は新羅からの亡命者で帰化した韓奈末許満ら12名を武蔵国に移した。大宝3年(703年)には、引田祖父が武蔵国守に任じられた。慶雲5年(708年)には、秩父郡で和銅(精錬の必要の無い自然銅)が発見されたため、朝廷は慶事としてこの年を「和銅」と改元した。 和銅3年(710年)頃に、武蔵国造の乱で献上された多氷屯倉内の現在の東京都府中市に国府が置かれた。これは、比較的早くから屯倉が設置され、また交通・産業上の重要度を次第に増し始めた武蔵国南部の玉川中流域に面する点でも選ばれたと考えられる。重要な港は東京湾に面する品川湊(目黒川河口)、浅草湊(隅田川河口)だった。 武蔵国は北部が国造の本拠地(旧埼玉村付近)だったなど、歴史的に毛野国とも関係が深く、当初は同じく東山道に属した。東山道は畿内から毛野国を経て陸奥国へ至る幹線だった。しかし国府の府中はこの幹線から離れていたために、新田・足利から伸び武蔵国をほぼ縦断する支線である東山道武蔵路が設けられた。その後、武蔵国はその南部において相模国及び東京湾を経由する往来が次第に活発となり、宝亀2年(771年)10月27日に東海道に移管され、相模国・武蔵国・下総国を結ぶ陸路も整備された。神護景雲2年に全国から善行の者が選ばれ終身の税を免ぜられたが同様に宝亀3年に入間郡の人で矢田部黒麻呂が孝養を理由に終身の田租を免ぜられている。 平安時代の延長5年(927年)に完成した延喜式によると、官営による4つの勅旨牧が置かれた。これらは朝廷に毎年50頭の良馬を納めていた。その後も勅旨牧は増設された。中央から軍事貴族が派遣され、在庁官人が実務を担った。坂東平氏が関東一円に広がっていった。 抗争も少なくなく、天慶2年(939年)の源経基と武蔵武芝の争いは承平天慶の乱の遠因となったともいわれる。 その後、牧の管理者の中から秩父氏が起こり、小野姓横山党横山氏など武蔵七党と言われる同族的な武士団も生まれ割拠した。彼らは鎌倉幕府成立に貢献し、幕府を支えた。武蔵国府(東京都府中市)は重要な拠点として存在し、鎌倉街道が敷設された。東京都内は現在も主要道として存在し、神奈川側は旧道として存在。反面、鎌倉に政権が置かれると、地元の有力勢力は排除され、南関東(現神奈川県・千葉県中南部・東京都)は政権のお膝元(関東御分国)として再編されていった。周辺の国々では上総氏や三浦氏(和田氏)など有力在庁官人が滅亡した。武蔵国でも比企氏、畠山氏が滅ぼされた。秩父氏の力は衰え、北条氏得宗が実権を握った。 この情況は、室町、戦国期になっても変わらなかった。室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれた。河越氏は武蔵平一揆の乱で力を失い、武蔵国の実権は関東管領上杉氏が握った。武蔵国の中小武士団は武州南一揆や北一揆を結成した。武蔵国の守護職は関東管領の兼帯とされているが、実態においては鎌倉公方を守護とする鎌倉府の御料所で関東管領は守護代に相当するあったとする評価もある(古河公方の成立後は鎌倉府の御料所としての実態を喪失して名実ともに関東管領が守護職となるが)。 その後関東では室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府と関東管領の対立、扇谷上杉家と山内上杉家の対立、両上杉家と家宰(太田道灌や長尾景春)の対立が続いた。上杉禅秀の乱、永享の乱、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱などの戦乱が起きた。伝統的な豪族層が支配する北関東から武蔵国の国府である東京都府中市を通って鎌倉に抜ける鎌倉街道はしばしば戦場になった。府中市の分倍河原の合戦等多くの歴史碑と文献が残っている。武蔵国は六浦や品川湊などの湊を抱え、西国や内陸部に広がる「内海」での交易を活発に行っていた。 戦国時代後期から後北条氏が大きな勢力を振るうようになった。1546年(天文15年)、河越城の戦いに勝利し覇権を確立した。その後拠点城として山城を、江戸城や河越城、岩付城、鉢形城、滝山城(後の八王子城)、小机城などに軍事拠点が置かれた。1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡。以後徳川家康が関東に移り、山城では無く天守閣付きの居城を築城した。 江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった。また「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩、忍藩、岩槻藩が置かれ江戸の防衛として重臣が配された。1594年(文禄3年)に利根川東遷事業が始まった。近世初期(1683年(天和3年)また一説によれば寛永年間(1624年-1645年))に、下総国葛飾郡からその一部、すなわち大落古利根川・隅田川から利根川(現在の権現堂川(行幸湖)・江戸川)までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。中川低地・東京低地の開発が始まった。1653年(承応2年)には玉川上水が完成し、武蔵野台地の開拓が進んだ。 1853年(嘉永6年)、黒船来航によって江戸をはじめ、武蔵国沿岸は脅威に晒された。幕府や韮山代官所は危機感を強め、品川沖にお台場を建設し、多摩郡などで農兵隊を編成した。八王子千人同心に剣術・学問を教えるものがおり、近藤勇などが新撰組の中核を担った。1854年(嘉永7年)、武蔵国神奈川の横浜村で日米和親条約が締結された。 明治維新とそれに続く東京奠都によって首都機能が山城国の平安京(京都)から、武蔵国の東京(旧江戸)に遷された。 徳川家の重要地で在った事から、明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、首都であった国府の東京都府中市は何度か配置県替え、分割に遭ったが、最終的には江戸と共に東京都を構成し、武蔵国は大きく分けて東京都、埼玉県及び神奈川県(川崎市と横浜市の大部分)に分割された。 細かい管轄区域の変更は各郡の項目を参照。 全国で最も国府域の実態が明らかになっている。 本格的に考古学の発掘手法を導入したうえ、恒久的な発掘調査体制をそなえ、今日の市街地と重複する遺跡を絶え間なく建築物開発前発掘調査を蓄えている。これら網羅的な調査は全国にも例がなく、武蔵国府の情報は、古代国府研究で大切な位置を占めている。。1750カ所を超える発掘調査により4000棟を超える竪穴建物が発見されている。国府城は下総国府や上野国府と異なり国分寺を取り囲んでいなかった。国府関連遺跡は、東西約6.5km、南北約1.8kmの範囲に及んでいる。 延喜式内社 総社・一宮以下 一宮・三宮に関する議論 一宮以下については諸説ある。『神道集』以外の文献は以下の通り。 これらを基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかとする説や、『延喜式神名帳』に「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」とあることから、平安中期から氷川神社が上位にあるとする説がある。しかし現在のところ、氷川神社を一宮とする史料は中世までの間では見つかっていない。 総社の大國魂神社(六所宮)では、『神道集』(南北朝時代)に記載される「武州六大明神」を基にして、 を公式としている。 飛鳥時代 平安時代 武蔵国には22郡が置かれた。陸奥国の40郡に次いで多い。 江戸時代後期の文化・文政期に幕府湯島聖堂地理局による事業として編纂された地誌である『新編武蔵風土記稿』(1830年〈文政13年〉完成)では、当国内の各村を郡ごとに、さらに領という区画に分けて記載している。それらの領のうちの多くは複数の郡にまたがった広がりを持ち、郡とは別個に設けられた区画であると考えられる。 「領」という区画の成立過程や役割について新編武蔵風土記稿は特に記述しておらず、また、江戸時代を通じて実際の支配や行政の単位として用いられたこともないが、当国内の地域区分単位としては用いられていたようであり、川崎市の二ヶ領用水(稲毛領と川崎領にまたがる)のような用例がある。また、埼玉県の旧北足立郡域では、「指扇領辻」(さいたま市西区)・「南部領辻」(さいたま市緑区)、「指扇領別所」(さいたま市西区)、「平方領領家」(さいたま市西区、上尾市)、「安行領在家」(川口市)、「安行領根岸」(川口市)などのように同一郡内の村の同名回避のために領名を冠称したことに由来すると見られる町名が現在も用いられている。 以下、新編武蔵風土記稿に見られる領名を列挙し、各領に所属する町村数を郡ごとに記載する(町村数は新編武蔵風土記稿中、各郡の「郡図総説」による。また、領名・郡名の表記も新編武蔵風土記稿による)。 新編武蔵風土記稿では当国内のほとんどの町村が上記各領のいずれかにカテゴライズして記載されているが、「武蔵野新田」として領とは別個のグループにまとめられたり(多磨郡 40、新座郡 4、入間郡 19、高麗郡 19)、「領名未勘(不明)」として記載されているものも多数ある。
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"武蔵国は北部が国造の本拠地(旧埼玉村付近)だったなど、歴史的に毛野国とも関係が深く、当初は同じく東山道に属した。東山道は畿内から毛野国を経て陸奥国へ至る幹線だった。しかし国府の府中はこの幹線から離れていたために、新田・足利から伸び武蔵国をほぼ縦断する支線である東山道武蔵路が設けられた。その後、武蔵国はその南部において相模国及び東京湾を経由する往来が次第に活発となり、宝亀2年(771年)10月27日に東海道に移管され、相模国・武蔵国・下総国を結ぶ陸路も整備された。神護景雲2年に全国から善行の者が選ばれ終身の税を免ぜられたが同様に宝亀3年に入間郡の人で矢田部黒麻呂が孝養を理由に終身の田租を免ぜられている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "平安時代の延長5年(927年)に完成した延喜式によると、官営による4つの勅旨牧が置かれた。これらは朝廷に毎年50頭の良馬を納めていた。その後も勅旨牧は増設された。中央から軍事貴族が派遣され、在庁官人が実務を担った。坂東平氏が関東一円に広がっていった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "抗争も少なくなく、天慶2年(939年)の源経基と武蔵武芝の争いは承平天慶の乱の遠因となったともいわれる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、牧の管理者の中から秩父氏が起こり、小野姓横山党横山氏など武蔵七党と言われる同族的な武士団も生まれ割拠した。彼らは鎌倉幕府成立に貢献し、幕府を支えた。武蔵国府(東京都府中市)は重要な拠点として存在し、鎌倉街道が敷設された。東京都内は現在も主要道として存在し、神奈川側は旧道として存在。反面、鎌倉に政権が置かれると、地元の有力勢力は排除され、南関東(現神奈川県・千葉県中南部・東京都)は政権のお膝元(関東御分国)として再編されていった。周辺の国々では上総氏や三浦氏(和田氏)など有力在庁官人が滅亡した。武蔵国でも比企氏、畠山氏が滅ぼされた。秩父氏の力は衰え、北条氏得宗が実権を握った。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この情況は、室町、戦国期になっても変わらなかった。室町時代、鎌倉には鎌倉府が置かれた。河越氏は武蔵平一揆の乱で力を失い、武蔵国の実権は関東管領上杉氏が握った。武蔵国の中小武士団は武州南一揆や北一揆を結成した。武蔵国の守護職は関東管領の兼帯とされているが、実態においては鎌倉公方を守護とする鎌倉府の御料所で関東管領は守護代に相当するあったとする評価もある(古河公方の成立後は鎌倉府の御料所としての実態を喪失して名実ともに関東管領が守護職となるが)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後関東では室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府と関東管領の対立、扇谷上杉家と山内上杉家の対立、両上杉家と家宰(太田道灌や長尾景春)の対立が続いた。上杉禅秀の乱、永享の乱、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱などの戦乱が起きた。伝統的な豪族層が支配する北関東から武蔵国の国府である東京都府中市を通って鎌倉に抜ける鎌倉街道はしばしば戦場になった。府中市の分倍河原の合戦等多くの歴史碑と文献が残っている。武蔵国は六浦や品川湊などの湊を抱え、西国や内陸部に広がる「内海」での交易を活発に行っていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "戦国時代後期から後北条氏が大きな勢力を振るうようになった。1546年(天文15年)、河越城の戦いに勝利し覇権を確立した。その後拠点城として山城を、江戸城や河越城、岩付城、鉢形城、滝山城(後の八王子城)、小机城などに軍事拠点が置かれた。1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏が滅亡。以後徳川家康が関東に移り、山城では無く天守閣付きの居城を築城した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった。また「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩、忍藩、岩槻藩が置かれ江戸の防衛として重臣が配された。1594年(文禄3年)に利根川東遷事業が始まった。近世初期(1683年(天和3年)また一説によれば寛永年間(1624年-1645年))に、下総国葛飾郡からその一部、すなわち大落古利根川・隅田川から利根川(現在の権現堂川(行幸湖)・江戸川)までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。中川低地・東京低地の開発が始まった。1653年(承応2年)には玉川上水が完成し、武蔵野台地の開拓が進んだ。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1853年(嘉永6年)、黒船来航によって江戸をはじめ、武蔵国沿岸は脅威に晒された。幕府や韮山代官所は危機感を強め、品川沖にお台場を建設し、多摩郡などで農兵隊を編成した。八王子千人同心に剣術・学問を教えるものがおり、近藤勇などが新撰組の中核を担った。1854年(嘉永7年)、武蔵国神奈川の横浜村で日米和親条約が締結された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "明治維新とそれに続く東京奠都によって首都機能が山城国の平安京(京都)から、武蔵国の東京(旧江戸)に遷された。 徳川家の重要地で在った事から、明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、首都であった国府の東京都府中市は何度か配置県替え、分割に遭ったが、最終的には江戸と共に東京都を構成し、武蔵国は大きく分けて東京都、埼玉県及び神奈川県(川崎市と横浜市の大部分)に分割された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "細かい管轄区域の変更は各郡の項目を参照。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "全国で最も国府域の実態が明らかになっている。 本格的に考古学の発掘手法を導入したうえ、恒久的な発掘調査体制をそなえ、今日の市街地と重複する遺跡を絶え間なく建築物開発前発掘調査を蓄えている。これら網羅的な調査は全国にも例がなく、武蔵国府の情報は、古代国府研究で大切な位置を占めている。。1750カ所を超える発掘調査により4000棟を超える竪穴建物が発見されている。国府城は下総国府や上野国府と異なり国分寺を取り囲んでいなかった。国府関連遺跡は、東西約6.5km、南北約1.8kmの範囲に及んでいる。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "延喜式内社", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "総社・一宮以下", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一宮・三宮に関する議論", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一宮以下については諸説ある。『神道集』以外の文献は以下の通り。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これらを基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかとする説や、『延喜式神名帳』に「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」とあることから、平安中期から氷川神社が上位にあるとする説がある。しかし現在のところ、氷川神社を一宮とする史料は中世までの間では見つかっていない。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "総社の大國魂神社(六所宮)では、『神道集』(南北朝時代)に記載される「武州六大明神」を基にして、", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "を公式としている。", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "飛鳥時代", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "平安時代", "title": "国内の施設" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "武蔵国には22郡が置かれた。陸奥国の40郡に次いで多い。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "江戸時代後期の文化・文政期に幕府湯島聖堂地理局による事業として編纂された地誌である『新編武蔵風土記稿』(1830年〈文政13年〉完成)では、当国内の各村を郡ごとに、さらに領という区画に分けて記載している。それらの領のうちの多くは複数の郡にまたがった広がりを持ち、郡とは別個に設けられた区画であると考えられる。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「領」という区画の成立過程や役割について新編武蔵風土記稿は特に記述しておらず、また、江戸時代を通じて実際の支配や行政の単位として用いられたこともないが、当国内の地域区分単位としては用いられていたようであり、川崎市の二ヶ領用水(稲毛領と川崎領にまたがる)のような用例がある。また、埼玉県の旧北足立郡域では、「指扇領辻」(さいたま市西区)・「南部領辻」(さいたま市緑区)、「指扇領別所」(さいたま市西区)、「平方領領家」(さいたま市西区、上尾市)、「安行領在家」(川口市)、「安行領根岸」(川口市)などのように同一郡内の村の同名回避のために領名を冠称したことに由来すると見られる町名が現在も用いられている。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "以下、新編武蔵風土記稿に見られる領名を列挙し、各領に所属する町村数を郡ごとに記載する(町村数は新編武蔵風土記稿中、各郡の「郡図総説」による。また、領名・郡名の表記も新編武蔵風土記稿による)。", "title": "地域" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "新編武蔵風土記稿では当国内のほとんどの町村が上記各領のいずれかにカテゴライズして記載されているが、「武蔵野新田」として領とは別個のグループにまとめられたり(多磨郡 40、新座郡 4、入間郡 19、高麗郡 19)、「領名未勘(不明)」として記載されているものも多数ある。", "title": "地域" } ]
武蔵国は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属し、現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。
{{出典の明記|date=2021年3月}} {{otheruses|日本の令制国|大相撲力士|武蔵國真武}} {{基礎情報 令制国 |国名 = 武蔵国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|武蔵国}} |別称 = 武州(ぶしゅう) |所属 = [[東山道]]のち[[東海道]] |領域 = [[東京都]](島嶼部を除く)、[[埼玉県]]、[[神奈川県]]の一部 |国力 = [[大国 (令制国)|大国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 21郡119郷 |国府 = 東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]([[武蔵国府跡]]) |国分寺 = 東京都[[国分寺市]]([[武蔵国分寺跡]]) |国分尼寺 = 東京都国分寺市(国分寺跡に包括) |一宮 = [[小野神社 (多摩市)|小野神社]](東京都[[多摩市]])<br>[[氷川神社]](埼玉県[[さいたま市]]) }} [[File:1856 Japanese Edo Period Woodblock Map of Musashi Kuni (Tokyo or Edo Province) - Geographicus - MusashiKuni-japanese-1856.jpg|thumb|right|武蔵国古地図 右下が北]] '''武蔵国'''(むさしのくに、{{旧字体|武藏國}})は、かつて[[日本]]の地方行政区分であった[[令制国]]の一つ。[[東山道]]のち[[東海道]]に属し、現在の[[東京都]]と[[埼玉県]]及び[[神奈川県]]の[[川崎市]]、[[横浜市]]にあたる。 == 「武蔵」の国名 == 「武蔵」の名の起源は諸説唱えられているものの、いずれの説も根拠となる資料に欠き定説となるには至っていない。 [[武蔵国造]]([[无邪志国造]])の祖先には身狭耳命(むさみみのみこと)がおり、武蔵国東部を支配したと考えられている。 [[本居宣長]]は『[[古事記伝]]』の中で「武蔵国は[[駿河国|駿河]]・[[相模国|相模]]と共に[[佐斯国]](さし-)と呼ばれ、後に佐斯上(さしがみ)下佐斯(しもざし)に分かれ、これが転訛し相模・武蔵となった」とし、[[賀茂真淵]]は『[[倭訓栞]]』に「身狭(むさ)国があり、のち身狭上(むさがみ)・身狭下(むさしも)に分かれて相模、武蔵となった」と唱えている。さらに近藤芳樹『陸路廼記』など「[[総国]](ふさ-)の一部が分割され総上(ふさがみ)・総下(ふさしも)となり、それぞれ相模・武蔵となった」とする説もある。これらの説は武蔵国とのちの[[東海道]]の諸国の関わりを説く。 ===表記=== 表記については、[[飛鳥京]]・[[藤原宮]][[木簡]]に「无耶志国(むざし-)」と見え、[[7世紀]]頃までは「无射志」(むざし)や「牟射志」(むざし)と表記されていた記録も見つかっている<ref>[http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0512.htm 无射志国荏原評銘文字瓦(川崎市教育委員会文化財課)]</ref>。他にも「牟佐志<ref>[[御田八幡神社]]由緒。</ref>(むさし)」、「無邪志<ref>[[高橋氏文]]にある[[武蔵国造]]の意の表記。</ref>(むざし)」、「无邪志」、「胸刺」といった表記があるが、いずれも訓に字を当てたものと考えられている。 「武蔵」の表記は、その後、[[无邪志国]](武蔵国東部)と[[知々夫国]](武蔵国西部:秩父地方)とが合併し[[令制国]]としての武蔵国発足の頃に作られた。 == 現在の行政区分での領域 == * [[埼玉県]] ** 旧[[中葛飾郡]]を除く全域<ref group="注">元来は[[古利根川]]以西であり、江戸時代初期の1683年(天和3年)また一説によれば寛永年間(1624年-1645年)に太日川(現[[江戸川]])以西を武蔵国に編入した。</ref> * [[東京都]] ** [[東京都区部|特別区(23区)]]<ref group="注">元来は[[古利根川]]・[[古隅田川]]([[墨田区]]においては現在の[[横十間川]]など)以西であり、江戸時代初期の1683年(天和3年)また一説によれば寛永年間(1624年-1645年)に太日川(現江戸川)以西を武蔵国に編入した。</ref> ** [[多摩地域]] * [[神奈川県]] ** [[川崎市]] ** [[横浜市]] *** 大部分(横浜市のうち一部は[[相模国]]の[[鎌倉郡]]に属していた<ref>[http://www.yk.rim.or.jp/~kamide/yokohama/musashi-sagami/ 南横浜のグレートディバイディング・旧武相国境の全容]</ref><ref>[http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=792 武相国境の位置や当時の生活感はどうだった?]([http://hamarepo.com/ はまれぽ.com] 2012年1月25日)</ref><ref name="izumi-buso">[https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/izimamukasi.html いずみいまむかし―泉区小史] > [https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/2-shoshi/3-michi/michi-03.html 第3章「道と川」] > [https://www.city.yokohama.lg.jp/izumi/shokai/rekishi/ayumi/imamukashi/2-shoshi/3-michi/michikawa-4.html 境の道「武相国境道」](横浜市泉区公式ウェブサイト)</ref><ref group="注">横浜市のうち[[相模国]][[鎌倉郡]]に属していた範囲は次のとおりである。 * [[戸塚区]]の全域 * [[栄区]]の全域 * [[泉区 (横浜市)|泉区]]の全域 * [[瀬谷区]] ** [[卸本町 (横浜市)|卸本町]]の一部を除く全域 …… [[1980年]](昭和55年)に起立した卸本町の町域は大部分が瀬谷区瀬谷町であったが、一部に旧武蔵国[[都筑郡]][[田奈村]]であった[[緑区 (横浜市)|緑区]][[長津田町]]と、同じく都筑郡都岡町であった[[旭区 (横浜市)|旭区]]上川井町が含まれている。 * [[南区 (横浜市)|南区]] ** 六ツ川四丁目〈旧下永谷町字山谷〉 * [[港南区]] …… 永野地区(旧[[鎌倉郡]][[永野村 (神奈川県)|永野村]]のうち港南区相当部分)。範囲は次のとおり。 ** [[住居表示]]実施地区 *** 全域が含まれる地域 **** [[上永谷]] **** [[下永谷]](1〜4丁目のみ) **** [[東永谷]] **** [[芹が谷]] **** [[東芹が谷]] **** [[丸山台 (横浜市)|丸山台]] *** 一部が含まれる地域 **** [[下永谷]](5・6丁目のみ) **** [[日限山]] **** [[日野 (横浜市)|日野]] **** [[日野南]](5〜7丁目のみ) ** 住居表示未実施地区 *** 全域が含まれる地域 **** [[上永谷町]] **** [[野庭町]] * [[金沢区]] ** 朝比奈町の全域 ** 東朝比奈二-三丁目(一部) …… 鎌倉郡[[鎌倉市|鎌倉町]]であったが、[[1897年]](明治30年)に当該地区の大字峠が'''武蔵国'''[[久良岐郡]][[六浦荘村]]に編入されているので、通常は旧武蔵国に含まれる。</ref>。「[[相模国#現在の行政区分での領域]]」も参照)。 == 沿革 == [[File:Tama river in the Musashi province.jpg|thumb|right|[[葛飾北斎]]『[[富嶽三十六景]]』より「'''武州'''玉川([[多摩川]])」 1831年頃の[[名所絵]](六郷のわたし)]] === 古代 === もとは[[无邪志国造]]([[胸刺国造]]を別個に考える説もある)と[[知々夫国造]]という2つあるいは3つの[[国造]]が存在した。[[6世紀]]には埼玉県行田市を本拠地とする笠原直が[[武蔵国造の乱]]に勝利し、その後に笠原直が国造を世襲することとなった。これらの国造の領域を合し[[7世紀]]に武蔵国が成立したとされる。[[大化]]元年([[645年]])に[[難波宮]]で[[大化の改新]]が行われ[[穂積咋]]などが[[東国]][[国司]]に任じられ([[武蔵国司]]も参照)、また[[持統天皇]]4年([[690年]])、朝廷は新羅からの亡命者で帰化した韓奈末許満ら12名を武蔵国に移した。[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])には、[[引田祖父]]が武蔵国守に任じられた。[[慶雲]]5年([[708年]])には、[[秩父郡]]で和銅(精錬の必要の無い自然[[銅]])が発見されたため、朝廷は慶事としてこの年を「[[和銅]]」と[[改元]]した。 和銅3年([[710年]])頃に、武蔵国造の乱で献上された[[多氷屯倉]]内の現在の[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]に[[国府]]が置かれた。これは、比較的早くから屯倉が設置され<ref>『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』(平凡社2002年)p1072〈府中市〉</ref>、また交通・産業上の重要度を次第に増し始めた武蔵国南部の玉川中流域に面する<ref>『東大寺と国分寺 日本歴史新書』(石田茂作著 至文堂 1968年) p63</ref>点でも選ばれたと考えられる。重要な港は東京湾に面する[[品川湊]](目黒川河口)、[[浅草湊]](隅田川河口)だった<ref group="注">[[多摩川]]河口には外港が作られなかった。</ref>。 武蔵国は北部が国造の本拠地(旧[[埼玉村]]付近)だったなど、歴史的に[[毛野国]]とも関係が深く、当初は同じく[[東山道]]に属した。東山道は[[畿内]]から毛野国を経て[[陸奥国]]へ至る幹線だった。しかし国府の府中はこの幹線から離れていたために、[[新田]]・[[足利]]から伸び武蔵国をほぼ縦断する支線である[[東山道武蔵路]]が設けられた。<!--水上交通が主で、陸路が未整備だったため、その中でも交通が発達し大国であった[[毛野国]]を経由する[[東山道]]に属する府中を通る「[[東山道武蔵路]]」が設けられた<ref>[http://www.ku-gai.com/modules/torimizu/index.php?content_id=48 kugai] 武蔵国(江戸以前)とは </ref>。-->その後、武蔵国はその南部において[[相模国]]及び東京湾を経由する往来が次第に活発となり、[[宝亀]]2年([[771年]])[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]に<!--「東山道の派遣官吏が上野国、武蔵国、下野国と経由するのは日程が延びて非効率だが、これを東海道に属させて相模、武蔵、下総と経由すると効率的である」との旨の太政官の奏上を天皇が[[宣下]]し-->[[東海道]]に移管され、[[相模国]]・武蔵国・[[下総国]]を結ぶ陸路も整備された。[[神護景雲]]2年に全国から善行の者が選ばれ終身の税を免ぜられたが同様に[[宝亀]]3年に[[入間郡]]の人で[[矢田部黒麻呂]]が孝養を理由に終身の田租を免ぜられている。 [[平安時代]]の[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])に完成した[[延喜式]]によると、官営による4つの[[勅旨牧]]が置かれた。これらは朝廷に毎年50頭の良馬を納めていた。その後も勅旨牧は増設された。中央から[[軍事貴族]]が派遣され、[[在庁官人]]が実務を担った。[[坂東平氏]]が関東一円に広がっていった。 抗争も少なくなく、[[天慶]]2年([[939年]])の[[源経基]]と[[武蔵武芝]]の争いは[[承平天慶の乱]]の遠因となったともいわれる。 === 中世 === その後、牧の管理者の中から[[秩父氏]]が起こり、小野姓[[横山党]]横山氏など[[武蔵七党]]と言われる同族的な武士団も生まれ割拠した。彼らは[[鎌倉幕府]]成立に貢献し、幕府を支えた。[[武蔵国府跡|武蔵国府]](東京都府中市)は重要な拠点として存在し、[[鎌倉街道]]が敷設された。東京都内は現在も主要道として存在し、[[神奈川]]側は旧道として存在。反面、鎌倉に政権が置かれると、地元の有力勢力は排除され、[[南関東]](現神奈川県・千葉県中南部・東京都)は政権のお膝元([[関東御分国]])として再編されていった。周辺の国々では[[上総氏]]や[[三浦氏]](和田氏)など有力[[在庁官人]]が滅亡した。武蔵国でも[[比企氏]]、[[畠山氏 (平姓)|畠山氏]]が滅ぼされた。秩父氏の力は衰え、[[北条氏]][[得宗]]が実権を握った。 この情況は、[[室町時代|室町]]、戦国期になっても変わらなかった。室町時代、鎌倉には[[鎌倉府]]が置かれた。[[河越氏]]は[[武蔵平一揆]]の乱で力を失い、武蔵国の実権は[[関東管領]][[上杉氏]]が握った。武蔵国の中小武士団は[[武州南一揆]]や[[北一揆]]を結成した。武蔵国の守護職は関東管領の兼帯とされている<ref>佐藤進一『室町幕府守護制度の研究 上』東京大学出版会、1967年の説。</ref>が、実態においては鎌倉公方を守護とする鎌倉府の御料所で関東管領は守護代に相当するあったとする評価<ref>新田英治「中世後期の東国守護をめぐる二、三の問題」『学習院大学文学部研究年報』四〇輯、1994年の説。</ref>もある([[古河公方]]の成立後は鎌倉府の御料所としての実態を喪失して名実ともに関東管領が守護職となるが)。 その後関東では室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府と関東管領の対立、[[扇谷上杉家]]と[[山内上杉家]]の対立、両上杉家と家宰([[太田道灌]]や[[長尾景春]])の対立が続いた。[[上杉禅秀の乱]]、[[永享の乱]]、[[享徳の乱]]、[[長尾景春の乱]]、[[長享の乱]]などの戦乱が起きた。伝統的な豪族層が支配する[[北関東]]から武蔵国の国府である東京都府中市を通って鎌倉に抜ける[[鎌倉街道]]はしばしば戦場になった。府中市の[[分倍河原の合戦]]等多くの歴史碑と文献が残っている。武蔵国は[[六浦]]や[[品川湊]]などの湊を抱え、西国や内陸部に広がる「[[東京湾|内海]]」での交易を活発に行っていた。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]後期から[[後北条氏]]が大きな勢力を振るうようになった。[[1546年]]([[天文 (元号)|天文]]15年)、[[河越城の戦い]]に勝利し覇権を確立した。その後拠点城として山城を、[[江戸城]]や[[川越城|河越城]]、[[岩槻城|岩付城]]、[[鉢形城]]、[[滝山城]](後の[[八王子城]])、[[小机城]]などに軍事拠点が置かれた。[[1590年]]([[天正]]18年)、[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]で後北条氏が滅亡。以後[[徳川家康]]が[[関東]]に移り、山城では無く天守閣付きの居城を築城した。 === 近世 === [[江戸幕府]]開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった。また「武蔵三藩」と呼ばれる[[川越藩]]、[[忍藩]]、[[岩槻藩]]が置かれ江戸の防衛として重臣が配された。[[1594年]]([[文禄]]3年)に[[利根川東遷事業]]が始まった。近世初期([[1683年]]([[天和 (日本)|天和]]3年)また一説によれば[[寛永|寛永年間]]([[1624年]]-[[1645年]]))に、[[下総国]]葛飾郡からその一部、すなわち[[大落古利根川]]・[[隅田川]]から[[利根川]](現在の[[権現堂川]]([[行幸湖]])・[[江戸川]])までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。[[中川低地]]<ref>{{Cite web|和書|title=地形と歴史|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/a1007/kasen/tikeitorekishi.html|website=埼玉県|accessdate=2019-12-11|language=ja}}</ref>・[[東京低地]]の開発が始まった。[[1653年]]([[承応]]2年)には[[玉川上水]]が完成し、[[武蔵野台地]]の開拓が進んだ。 [[1853年]]([[嘉永]]6年)、[[黒船来航]]によって[[江戸]]をはじめ、武蔵国沿岸は脅威に晒された。幕府や[[韮山代官所]]は危機感を強め、品川沖に[[お台場]]を建設し、[[多摩郡]]などで[[佐藤彦五郎|農兵隊]]を編成した。[[八王子千人同心]]に剣術・学問を教えるものがおり、[[近藤勇]]などが[[新撰組]]の中核を担った。[[1854年]](嘉永7年)、武蔵国神奈川の横浜村で[[日米和親条約]]が締結された。 === 近代 === [[明治維新]]とそれに続く[[東京奠都]]によって[[首都機能]]が[[山城国]]の[[平安京]]([[京都]])から、武蔵国の[[東京]](旧[[江戸]])に遷された。<br /> 徳川家の重要地で在った事から、明治維新時の廃藩置県では行政区域が細分化され、首都であった国府の[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]は何度か配置県替え、分割に遭ったが、最終的には江戸と共に東京都を構成し、武蔵国は大きく分けて東京都、埼玉県及び神奈川県(川崎市と横浜市の大部分)に分割された。 === 近代の沿革 === 細かい管轄区域の変更は各郡の項目を参照。 * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(3,031村・1,270,550石2斗5升)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。他に[[吉井藩]]領が存在したが、記載が岩鼻県への統合後の状況となっているため詳細は不明。 ** [[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]](160村・48,733石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、[[伊賀流|伊賀者]]給知、明屋敷番伊賀者給知、鉄砲玉薬組[[同心]]給知、鉄砲玉薬組恩給知 ** [[荏原郡]](105村・33,607石余) - 幕府領、旗本領、[[近江国|近江]][[彦根藩]] ** [[足立郡]](397村・145,869石余) - 幕府領、旗本領、忍藩、岩槻藩 ** [[葛飾郡]](290村・123,633石余) - 幕府領、旗本領、[[一橋徳川家]]領、岩槻藩 ** [[多摩郡]](388村・139,468石2斗5升) - 幕府領、旗本領、鉄砲玉薬組同心給知、伊賀者給知、岩槻藩、[[出羽国|出羽]][[長瀞藩]]、[[上野国|上野]][[前橋藩]]、[[三河国|三河]][[西端藩]]、近江彦根藩 ** [[久良岐郡]](55村・17,226石余) - 幕府領、旗本領、'''[[六浦藩|金沢藩]]''' ** [[橘樹郡]](134村・55,610石余) - 幕府領、旗本領 ** [[都筑郡]](78村・28,579石余) - 幕府領、旗本領 ** [[埼玉郡]](438村・274,873石余) - 幕府領、旗本領、一橋徳川家領、'''[[忍藩]]'''、'''[[岩槻藩]]'''、金沢藩、[[陸奥国|陸奥]][[泉藩]]、出羽長瀞藩、上野前橋藩、[[下野国|下野]][[足利藩]]、[[常陸国|常陸]][[下妻藩]]、[[下総国|下総]][[古河藩]]、下総[[佐倉藩]]、[[上総国|上総]][[久留里藩]] ** [[比企郡]](144村・58,581石余) - 幕府領、旗本領、川越藩、上野前橋藩、上総久留里藩 ** [[高麗郡]](132村・27,543石余) - 幕府領、旗本領、一橋徳川家領、岩槻藩、上野前橋藩、下総古河藩、下総佐倉藩、上総久留里藩 ** [[男衾郡]](33村・9,249石余) - 幕府領、旗本領、忍藩 ** [[入間郡]](252村・100,128石2斗5升) - 幕府領、旗本領、'''[[川越藩]]'''、上野前橋藩、下総古河藩、下総佐倉藩、上総久留里藩 ** [[榛沢郡]](73村・31,293石余) - 幕府領、旗本領、'''[[岡部藩]]'''、忍藩、川越藩、上野前橋藩、上総久留里藩 ** [[児玉郡]](60村・27,543石余) - 幕府領、旗本領、上野前橋藩、上総久留里藩 ** [[秩父郡]](86村・31,399石余) - 幕府領、旗本領、忍藩、川越藩、上野前橋藩、[[因幡国|因幡]][[鳥取藩]] ** [[那珂郡 (埼玉県)|那珂郡]](11村・6,943石余) - 幕府領、旗本領、上野前橋藩 ** [[横見郡]](46村・20,113石余) - 幕府領、旗本領、下総古河藩、下総佐倉藩 ** [[大里郡]](40村・24,359石余) - 幕府領、旗本領、忍藩、上野前橋藩、常陸下妻藩、下総古河藩 ** [[賀美郡]](27村・12,666石余) - 幕府領、旗本領、上総久留里藩 ** [[新座郡]](25村・14,219石余) - 幕府領、旗本領、上野[[高崎藩]]、出羽長瀞藩 ** [[幡羅郡]](57村・38,908石余) - 幕府領、旗本領、忍藩、岩槻藩、上総久留里藩 * [[慶応]]4年 ** [[3月19日 (旧暦)|3月19日]]([[1868年]][[4月11日]]) - [[神奈川奉行]]が[[官軍|新政府軍]]に接収されて'''[[横浜裁判所]]'''となり、金沢藩領を除く久良岐郡・都筑郡・橘樹郡全域を管轄。ただし、旧韮山代官所、松村支配所管轄地域の一部事務は引き続き両支配所が扱った。 ** [[4月3日 (旧暦)|4月3日]](1868年[[4月25日]]) – 岡部藩が藩庁を移転して三河'''[[半原藩]]'''となる。 ** [[4月20日 (旧暦)|4月20日]](1868年[[5月12日]]) - 横浜裁判所が'''[[神奈川裁判所]]'''に改称。内務は管下の'''[[戸部裁判所]]'''が担当した。 ** [[5月12日 (旧暦)|5月12日]](1868年[[7月1日]]) - '''[[江戸府]]'''を設置。[[朱引]]内を管轄。 ** [[6月17日 (旧暦)|6月17日]](1868年[[8月5日]]) *** [[関東在方掛]]の岩鼻陣屋に'''[[岩鼻県]]'''を設置。男衾郡、幡羅郡、榛沢郡、那珂郡、児玉郡、賀美郡、秩父郡および高麗郡、横見郡、埼玉郡の一部の幕府領・旗本領を管轄。 *** 神奈川裁判所が'''[[神奈川府]]'''に改称。 ** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]](1868年[[8月7日]]) - 忍藩士の山田政則が'''[[武蔵知県事]]'''に就任。大里郡および足立郡、横見郡、豊島郡の各一部の幕府領・旗本領を管轄(後の大宮県)。 ** [[6月29日 (旧暦)|6月29日]](1868年[[8月17日]]) - [[韮山代官所]]に[[韮山県]]を設置。比企郡および入間郡、高麗郡、久良岐郡、多摩郡の各一部の幕府領・旗本領を管轄。久良岐郡では一部事務のみ引き継ぐ。 ** [[7月10日 (旧暦)|7月10日]](1868年[[8月27日]]) - 旧幕府代官の松村長為、桑山効がそれぞれ'''武蔵知県事'''に就任。松村が新座郡および入間郡、高麗郡、久良岐郡、都筑郡、多摩郡、橘樹郡、荏原郡、豊島郡の各一部(後の品川県)、桑山が足立郡、豊島郡、葛飾郡の各一部(後の小菅県)の幕府領・旗本領を管轄。久良岐郡・都筑郡・橘樹郡では一部事務のみ引き継ぐ。 ** [[7月17日 (旧暦)|7月17日]](1868年[[9月3日]]) - 「[[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書]]」により、江戸府が'''[[東京府]]'''(第1次)に改称。 ** [[8月8日 (旧暦)|8月8日]](1868年[[9月23日]]) - 武蔵知県事・松村長為が[[古賀定雄]](一平)に交代。 ** 8月25日(1868年10月10日) - [[外国人遊歩規定|外国人の遊歩区域]]に含まれる多摩川南岸の区域について神奈川府の管轄とされる<ref>[{{NDLDC|787948/186}} 明治元年達第669] - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー</ref>。移管は12月28日(1869年2月9日)に行われた<ref name="安藤1989" />。 * 明治元年 ** [[9月21日 (旧暦)|9月21日]](1868年[[11月5日]]) - 神奈川府が'''[[神奈川県]]'''に改称。 ** [[11月5日 (旧暦)|11月5日]](1868年[[12月18日]]) - 葛飾郡・足立郡・豊島郡・多摩郡・荏原郡のうち、町地とその周辺が東京府(第1次)に編入。 ** [[12月23日 (旧暦)|12月23日]]([[1869年]][[2月4日]]) - 武蔵知県事・桑山効が[[河瀬秀治]]に交代。 * 明治2年 ** [[1月10日 (旧暦)|1月10日]](1869年[[2月20日]]) - 武蔵知県事・山田政則が[[宮原忠英]]に交代。 ** [[1月13日 (旧暦)|1月13日]](1869年[[2月23日]]) - 河瀬知県事の管轄区域に'''小菅県'''を設置(太政官達第36)。 ** [[2月9日 (旧暦)|2月9日]](1869年[[3月21日]]) - 宮原、古賀各知県事の管轄区域にそれぞれ'''大宮県'''、'''品川県'''を設置<ref>[{{NDLDC|787949/70}} 明治2年行政官布告第142号] - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー</ref>。 ** [[2月9日 (旧暦)|2月9日]](1869年[[3月21日]]) - 久良岐郡・都筑郡・橘樹郡での武蔵知県事の一部事務を品川県が引き継ぐ。 ** 4月10日(1869年5月21日) - 品川県のうち[[高麗郡]]と[[比企郡]]および[[入間郡]]の一部を[[多摩郡]]内の韮山県管轄地域の一部と交換、また大宮県のうち比企郡を韮山県に移管することとされた<ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000830888|武蔵国所在ノ韮山県以下ノ管地ヲ交換ス}}</ref>。韮山県から品川県への移管は7月11日<ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000659102|郷村諸書物引渡届}}、{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000659105|郷村諸書物請取届}}</ref>、品川県から韮山県への移管は8月7日<ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000659114|郷村諸書物引渡届}}、{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000659113|郷村諸書物請取届}}</ref>に実施された。 ** [[6月23日 (旧暦)|6月23日]](1869年[[7月31日]]) - 金沢藩が任[[知藩事]]にともない'''[[六浦藩]]'''に改称。 ** [[9月29日 (旧暦)|9月29日]](1869年[[11月2日]]) - 大宮県が県庁の移転により'''[[浦和県]]'''に改称。 ** [[11月1日 (旧暦)|11月1日]](1869年[[12月3日]]) - 出羽長瀞藩が藩庁を移転して上総'''[[大網藩]]'''となる。 ** [[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1870年]][[1月27日]]) - 廃藩となった吉井藩の領地(上総国の飛地を除く)を岩鼻県に編入。 * 明治4年 ** [[2月17日 (旧暦)|2月17日]]([[1871年]][[4月6日]]) - 上総大網藩が藩庁を移転して常陸'''[[龍崎藩]]'''となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[川越県]]'''、'''[[岩槻県]]'''、'''[[忍県]]'''、'''[[六浦県]]'''および[[泉県]]、[[前橋県]]、[[高崎県]]、[[足利県]]、[[下妻県]]、[[龍崎県]]、[[久留里県]]、[[古河県]]、[[佐倉県]]、[[半原県]]、[[西端県]]、[[彦根県]]、[[鳥取県]]の飛地となる。 ** [[10月28日 (旧暦)|10月28日]](1871年[[12月10日]]) - 第1次府県統合により、岩鼻県・前橋県・高崎県が'''[[群馬県]]'''(第1期)に統合。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) *** 第1次府県統合により、国内は以下の各県の管轄となる<ref>[{{NDLDC|787951/232}} 明治4年太政官布告第594号] - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー</ref>。また、彦根県の国内の管轄地域の東京府への移管が[[太政官布告]]で命じられる。 **** '''東京府'''(第2次) - 町地とその周辺(後の[[東京市]]・[[東京15区]])、豊島郡、荏原郡および足立郡、葛飾郡、多摩郡の各一部(おおよそ後の[[南足立郡]]、[[南葛飾郡]]、[[東多摩郡]])。 **** '''[[埼玉県]]''' - 埼玉郡および足立郡、葛飾郡の各一部(後の[[北足立郡]]、[[北葛飾郡]])。 **** '''[[入間県]]''' - 賀美郡、児玉郡、那珂郡、幡羅郡、榛沢郡、大里郡、男衾郡、秩父郡、比企郡、横見郡、入間郡、高麗郡、新座郡および多摩郡の一部(おおよそ後の[[北多摩郡]]、[[西多摩郡]]、[[南多摩郡]])。 **** '''神奈川県''' - 久良岐郡、都筑郡、橘樹郡。ほかに[[相模国]]の三浦郡と鎌倉郡も。 ** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 彦根県が'''[[長浜県]]'''に統合。 ** 11月23日(同年1月3日) - 多摩郡全域は神奈川県が占めることと変更<ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000847076|東京府入間県管地ノ内ヲ神奈川県ニ分属}}</ref>。 ** 12月5日(同年1月14日) - 旧[[品川県]]から東京府への行政移管(多摩郡分を含む)<ref>{{cite book|和書|title=東京市史稿|volume=市街編52|publisher=東京都|year=1962|pages=316-331|id={{全国書誌番号|1226894}}}}</ref>。 ** 12月17日(同年1月26日) - 旧[[浦和県]]から東京府への行政移管。 ** 12月19日(同年1月28日) - 旧[[岩槻県]]から神奈川県への行政移管<ref name="安藤1989" />。 ** 12月20日(同年1月29日) - 旧品川県から入間県への行政移管(多摩郡分を含む)<ref name="安藤1989">{{cite book|和書|author=安藤陽子|year=1989|chapter=維新期多摩郡の管轄替えと行政区画-品川県を中心に-|editor=多摩川流域史研究会編|title=多摩川・秋川合流地域の歴史的研究|pages=132-147|url=https://foundation.tokyu.co.jp/environment/wp-content/uploads/2011/04/4c7d51a4a7853f2566fb7f64ffec4080.pdf|format=pdf}}</ref>。旧[[韮山県]]から神奈川県への行政移管<ref name="安藤1989" />。 * 明治5年 **1月22日(1872年3月1日) - 多摩郡のうち東京府に移管された区域が神奈川県に移管される<ref name="安藤1989" /><ref>『東京市史稿』市街編52には明治5年5月22日とあるが「正月」と「五月」の取り違えか。『東京市史稿』市街編53(pp.308-315)にも東京府から神奈川県への引き渡しは1月とある。</ref>。 ** 1月24日(同年3月3日) - 長浜県から荏原郡内の[[飛地]]を東京府へ編入(多摩郡内については神奈川県へ)。 ** 1月29日(同年3月8日) - 多摩郡のうち入間県に移管された区域が神奈川県に移管される<ref name="安藤1989" />。 ** 2月8日(同年3月16日) - 旧[[小菅県]]から東京府への行政移管。 ** 8月19日(同年9月21日) - 多摩郡東部(現[[中野区]]・[[杉並区]])が東京府の管轄に戻されることとされた<ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000000847077|神奈川県管地ヲ東京府ニ分属}}</ref>。実際の移管は9月10日(10月12日)に実施された<ref name="安藤1989" />。 * 明治6年([[1873年]])[[6月15日]] - 入間県が群馬県(第1期)と合併して'''[[熊谷県]]'''となる。 * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を埼玉県に合併して'''群馬県'''(第2期)に改称。埼玉県が現在の区域となる。 * 明治26年([[1893年]])[[4月1日]] - 神奈川県のうち旧多摩郡の一部(南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡)が東京府に移管。神奈川県が現在の区域に、東京府が現在の[[東京都]]の区域となる。 * [[昭和]]18年([[1943年]])[[7月1日]] - [[東京都制]]施行(東京府廃止)。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === [[File:Musashikokufuato1.jpg|thumb|200px|right|[[武蔵国府跡]](武蔵国衙跡地区)]] 全国で最も国府域の実態が明らかになっている<ref>ふるさと府中歴史館「全国の国府・国分寺一覧表」(国司大辞典編集委員会編1985『国史大辞典』、日本考古学協会1996三重大会シンポジウム 国富の様相、1999幻の国富を掘る-東国の歩みから-雄山閣出版による)</ref>。 本格的に考古学の発掘手法を導入したうえ、恒久的な発掘調査体制をそなえ、今日の市街地と重複する遺跡を絶え間なく建築物開発前発掘調査を蓄えている。これら網羅的な調査は全国にも例がなく、武蔵国府の情報は、古代国府研究で大切な位置を占めている<ref>『古代武蔵国府』府中市郷土の森博物館ブックレット6</ref>。<ref group=注> 「ふちゅう地下マップ」参照[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/fuchusinogaiyo/bunkazai/Under_ground_map_of_Fuchu.files/Under_ground_map_of_fuchu.pdf]</ref>。1750カ所を超える発掘調査により<ref>1750か所を超える。特別展府中の発掘お宝展2016パンフレット</ref>4000棟を超える竪穴建物が発見されている<ref>[https://genki365.net/gnkf/mypage/mypage_sheet.php?id=16320 府中市史談会 20130210] 武蔵国府跡で検出された4,000棟を超える竪穴建物</ref>。<!--調査中 7世紀の終わりから8世紀前半に作られ、東西2.2km・南北1.5kmの範囲に及び、-->国府城は下総国府や上野国府と異なり国分寺を取り囲んでいなかった<ref>「武蔵国府の成立と多摩川中流域の古代集落」 江口桂</ref>。国府関連遺跡は、東西約6.5㎞、南北約1.8㎞の範囲に及んでいる<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/kekaku/kyogikai/bunka/kokuhuhozon/25musasikokuhuato.files/hozonkanrikeikaku.pdf]国史跡武蔵国府跡保存管理計画</ref>。 * [[武蔵国府跡]] ([[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]、{{Coord|35|40|8.31|N|139|28|47.68|E|region:JP-13_type:landmark|name=武蔵国府跡}}) *: [[国府]]は[[奈良時代]]から[[平安時代]]には[[多磨郡]]に置かれた。現在の[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]に位置し、関連施設が発掘されている。国府中心部や[[国分寺]]の建築には多量の[[瓦]]などが必要とされるが、東山道武蔵路の南延長線上(現在の[[稲城市]]川崎街道)にある「瓦谷戸釜跡」で焼かれていた<ref>瓦谷戸窯跡群発掘調査報告書</ref>と推定されている。 *: 蝦夷征伐では多量の武器・武具が生産されたが、それを担ったのは各国の国府に設けられた官営工房(国衙工房)であり、武蔵国でも国府集落の北西周辺一帯に小規模で散在する工房群で作られたと考えられている。武器・武具の生産は、特に8世紀後半以降に一層強化された。<ref>平野卓治「律令国家と「坂東」」 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武次編『列島の古代史1 ひと・も・こと 古代史の舞台』岩波書店 2006年 140-141頁</ref> ** 国衙 **: 国衙跡は府中市宮町二丁目5-3において発見された<ref>[http://genki365.net/gnkf04/pub/sheet.php?id=280 府中観光協会] 武蔵国衙跡</ref><ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/kurasu/bunka/maizo/kokuga/index.html 国史跡 武蔵国府跡]</ref>。大國魂神社の東隣に位置し、建物が2棟確認されている。遺構は史跡に指定され、[[2008年]](平成20年)4月に正殿跡や掘立柱が公開されている。南北約300メートル・東西約200m区画と判明した<ref name="kokuga"/><ref name="itsu"/>。建設時代は8世紀前葉<ref name="itsu">『国府はいつできたのか』府中市郷土の森博物館</ref>。国衙跡近くには「多磨寺」と記された文字瓦も出土しており、郡名を冠した多磨寺の存在は確実である<ref name="itsu"/>。 ** 国庁 **: 国庁は武蔵国の[[総社]]である[[大國魂神社]]の東隣住宅地から、[[府中駅 (東京都)|府中駅]]南側の商業地部分に存在したと考えられている([[武蔵国府関連遺跡]])<ref>府中市教育委員会・国分寺市教育委員会 編『古代武蔵の国府・国分寺を掘る』学生社、2006年(平成18年)</ref>。[[2009年]](平成21年)にこの周辺は「武蔵国府跡」として国の史跡に指定された。東西・南北約100m区画が推定されている<ref name="kokuga">[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/bunka/bunka/maizo/kokuga.html 府中市] 国史跡武蔵国府跡</ref>。 * 国府津 *: [[品川湊]]が武蔵国の[[国府津 (曖昧さ回避)|国府津]](外港)だったとの推定がある<ref>『品川区史』通史編、高島緑雄</ref>。[[府中市 (東京都)|府中市]]の[[武蔵国府跡|武蔵国府]]と[[品川区]]の[[品川湊]]の間には[[品川通り|品川道]](加えて[[多摩川]]による[[水運]])があり、また[[調布市]]の古代品川道遺跡では[[中世]]の工房跡が発見されている。[[くらやみ祭|武蔵国総社大祭]]の神事「品川海上禊祓式」が品川で行われ、関係をうかがわせる。 === 国分寺・国分尼寺 === * [[武蔵国分寺跡]] ([[東京都]][[国分寺市]][[西元町 (国分寺市)|西元町]]・[[東元町 (国分寺市)|東元町]]、{{Coord|35|41|32.74|N|139|28|18.52|E|region:JP-13_type:landmark|name=武蔵国分寺跡}}) *: 現在の[[国分寺市]]西元町1-4丁目に存在した。都と国府を繋ぐ古代官道「[[東山道武蔵路]]」東側の広大な土地に大規模な遺跡が確認され、国の史跡に指定されている。その法燈を継承する寺院として跡地北方に[[武蔵国分寺|医王山最勝院国分寺]](本尊:薬師如来、{{Coord|35|41|37.51|N|139|28|18.85|E|region:JP-13_type:landmark|name=武蔵国分寺(後継寺院)}})がある。 * 武蔵国分尼寺 (東京都国分寺市西元町4丁目、{{Coord|35|41|23.41|N|139|28|4.09|E|region:JP-13_type:landmark|name=武蔵国分尼寺跡}}) *: 現在の国分寺市西元町4丁目の西院(尼寺)地区に存在した。古代官道「東山道武蔵路」の西側、国分寺の向かい側に位置する。国分尼寺跡は「武蔵国分寺跡」の一部として国の史跡に指定され、2003年に初の国分寺市立歴史公園として開園している。 === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社2座2社・小社42座41社の計44座43社が記載されている(「[[武蔵国の式内社一覧]]」参照)。大社2社は以下に示すもので、いずれも[[名神大社]]である。 * [[足立郡]] 氷川神社 ** 比定社:[[氷川神社]]([[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]高鼻町) * [[児玉郡]] 金佐奈神社 ** 比定社:[[金鑚神社]](埼玉県[[児玉郡]][[神川町]]二ノ宮) '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 190-196。</ref>。 * 総社:[[大國魂神社]](東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]宮町、{{Coord|35|40|02.87|N|139|28|44.19|E|region:JP-13_type:landmark|name=大國魂神社}}) - 別名「六所宮」と称し、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神を「武州六社明神」として祀る。 * 一宮:次の2社の説がある。 ** [[小野神社 (多摩市)|小野神社]](東京都[[多摩市]]一ノ宮、{{Coord|35|39|10.81|N|139|26|32.18|E|region:JP-13_type:landmark|name=武蔵国一宮:小野神社}}) ** [[氷川神社]]([[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]高鼻町、{{Coord|35|55|0.30|N|139|37|47.04|E|region:JP-11_type:landmark|name=武蔵国一宮または三宮、名神大社:氷川神社}}) * 二宮:[[二宮神社 (あきる野市)|二宮神社]](東京都[[あきる野市]]二宮、{{Coord|35|43|36.79|N|139|18|48.86|E|region:JP-13_type:landmark|name=武蔵国二宮:二宮神社}}) - 武州六社のうち唯一、式内社ではない。 * 三宮:氷川神社 * 四宮:[[秩父神社]](埼玉県[[秩父市]]番場町、{{Coord|35|59|51.37|N|139|5|2.86|E|region:JP-11_type:landmark|name=武蔵国四宮:秩父神社}}) * 五宮:[[金鑚神社]](埼玉県[[児玉郡]][[神川町]]二ノ宮、{{Coord|36|10|48.92|N|139|4|23.02|E|region:JP-11_type:landmark|name=武蔵国五宮、名神大社:金鑚神社}}) - 二宮ともいうが中世史料はない<ref>『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)p. 194。</ref>。 * 六宮:[[杉山神社]] - [[論社]]は多数。大國魂神社は[[神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]]西八朔町の[[杉山神社 (横浜市緑区西八朔町)|杉山神社]]({{Coord|35|31|42.1|N|139|31|36.9|E|region:JP-14_type:landmark|name=武蔵国六宮:杉山神社(論社)}})を指定。 '''一宮・三宮に関する議論''' 一宮以下については諸説ある。『神道集』以外の文献は以下の通り。 * 『[[吾妻鏡]]』([[鎌倉時代]]) - 「多磨郡吉富に一宮」の記述。 * 『[[大日本国一宮記]]』([[室町時代]]) - 一宮として氷川神社。 * 『武乾記』(江戸時代) - 二宮として金鑚神社<ref>『埼玉県の地名』([[平凡社]]) 金鑚神社項。</ref>。 これらを基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかとする説や<ref>『埼玉県の地名』(平凡社) 氷川神社項。</ref>、『延喜式神名帳』に「氷川神社:[[名神大社]]、小野神社:小社」とあることから、平安中期から氷川神社が上位にあるとする説がある。しかし現在のところ、氷川神社を一宮とする史料は[[中世]]までの間では見つかっていない。 [[総社]]の[[大國魂神社]](六所宮)では、『[[神道集]]』([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]])に記載される「武州六大明神」を基にして、 : 一宮:小野神社、二宮:二宮神社、三宮:氷川神社、四宮:秩父神社、五宮:金鑽神社、六宮:杉山神社 を公式としている。 === 安国寺利生塔 === * 安国寺 - 龍門山等持院[[高安寺 (東京都府中市)|高安寺]]([[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]片町、本尊:釈迦如来)と大龍山東光院安国寺(埼玉県越谷市大泊、本尊:阿弥陀如来)が法燈を継承 * 利生塔 - 未詳 === 主要な港 === * [[金沢区|六浦]] * [[横浜港|神奈川湊]] * [[品川湊]] * [[江戸|江戸湊]] * [[石浜]] * 今津 === 牧 === {{col-float|width=15em}} '''飛鳥時代''' * 檜前馬牧(台東区浅草) * 神崎牛牧(新宿区牛込) {{col-float-break}} '''平安時代''' * 石川牧 * 立野牧 * 小川牧 * 秩父牧(埼玉県秩父市) * 由比牧(八王子市) * 小野牧 {{col-float-end}} == 地域 == === 郡 === 武蔵国には22郡が置かれた。[[陸奥国]]の40郡に次いで多い。 * [[多摩郡]](多麻郡や多磨郡とも。たまぐん) * [[荏原郡]](えばらぐん) * [[豊島郡 (武蔵国)|豊嶋郡]] * [[足立郡]] * [[葛飾郡]](葛西郡) * 新羅郡([[新座郡]]・新倉郡) * [[児玉郡]] * [[秩父郡]] * [[大里郡]] * [[入間郡]] * [[賀美郡]](加美郡とも) * [[横見郡]] * [[埼玉郡]] * [[高麗郡]] * [[比企郡]] * [[男衾郡]] * [[幡羅郡]] * [[榛沢郡]] * [[那珂郡 (埼玉県)|那珂郡]] * [[久良岐郡]](くらきぐん、または「久良郡」) * [[都筑郡]](つづきぐん) * [[橘樹郡]](たちばなぐん) === 江戸時代の藩 === * [[深谷藩]] * [[岡部藩]] * [[本庄藩]] * [[八幡山藩]] * [[東方藩]] * [[忍藩]] * [[騎西藩]](私市藩) * [[武蔵松山藩]] * [[伯太藩#野本藩|野本藩]] * [[高坂藩]] * [[久喜藩]] * [[石戸藩]] * [[武蔵小室藩|小室藩]] * [[原市藩]] * [[岩槻藩]] * [[武蔵一宮藩|一宮藩]] * [[川越藩]] * [[鳩ヶ谷藩]] * [[喜多見藩]] * [[六浦藩]](武州金沢藩) * [[赤沼藩]](赤松藩) === 領 === [[江戸時代]]後期の[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]期に[[江戸幕府|幕府]][[昌平坂学問所|湯島聖堂]]地理局による事業として編纂された[[地誌]]である『[[新編武蔵風土記稿]]』([[1830年]]〈文政13年〉完成)では、当国内の各村を郡ごとに、さらに'''領'''という区画に分けて記載している。それらの領のうちの多くは複数の郡にまたがった広がりを持ち、郡とは別個に設けられた区画であると考えられる。 「領」という区画の成立過程や役割について新編武蔵風土記稿は特に記述しておらず、また、江戸時代を通じて実際の支配や行政の単位として用いられたこともないが、当国内の地域区分単位としては用いられていたようであり、[[川崎市]]の[[二ヶ領用水]](稲毛領と川崎領にまたがる)のような用例がある。また、[[埼玉県]]の旧[[北足立郡]]域では、「指扇領辻」([[さいたま市]][[西区 (さいたま市)|西区]])・「南部領辻」(さいたま市[[緑区 (さいたま市)|緑区]])、「指扇領別所」(さいたま市西区)、「平方領領家」(さいたま市西区、[[上尾市]])、「安行領在家」([[川口市]])、「安行領根岸」(川口市)などのように同一郡内の村の同名回避のために領名を冠称したことに由来すると見られる町名が現在も用いられている。 以下、新編武蔵風土記稿に見られる領名を列挙し、各領に所属する町村数を郡ごとに記載する(町村数は新編武蔵風土記稿中、各郡の「郡図総説」による。また、領名・郡名の表記も新編武蔵風土記稿による)。 * 府中領 - 多磨郡 44 * 柚木領 - 多磨郡 24 * 日野領 - 多磨郡 20 * 由井領 - 多磨郡 56 * 小宮領 - 多磨郡 59 * 三田領 - 多磨郡 55 * 拝島領 - 多磨郡 16 * 山口領 - 多磨郡 23、入間郡 41 * 野方領 - 多磨郡 54、豊嶋郡 40、新座郡 34 * 麻布領 - 豊嶋郡 16、荏原郡 5 * 貝塚領 - 豊嶋郡 1 * 峽田領(はけた-) - 豊嶋郡 36 * 岩淵領 - 豊嶋郡 19 * 戸田領 - 豊嶋郡 4、足立郡 11 * 淵江領 - 豊嶋郡 2、足立郡 38 * 谷古田領 - 足立郡 31 * 赤山領 - 足立郡 24 * 舎人領 - 足立郡 10 * 平柳領 - 足立郡 15 * 浦和領 - 足立郡 13 * 木崎領 - 足立郡 17 * 安行領 - 足立郡 4 * 三沼領(見沼領) - 足立郡 16 * [[南部領 (武蔵国)|南部領]] - 足立郡 38 * 上尾領 - 足立郡 6 * 大谷領 - 足立郡 26 * 鴻巣領 - 足立郡 30 * 忍領 - 足立郡 19、埼玉郡 64、大里郡 13、男衾郡 1、幡羅郡 32、榛沢郡 2 * [[石戸藩|石戸領]] - 足立郡 21 * 平方領 - 足立郡 5 * 差扇領 - 足立郡 18 * 吉野領 - 足立郡 7 * 大宮領 - 足立郡 15 * 植田ヶ谷領 - 足立郡 25 * 与野領 - 足立郡 23 * 笹目領 - 足立郡 9 * 西葛西領 - 葛飾郡 69 ** 北半の「本田筋」と南半の「新田筋」に分けられる。 * 東葛西領 - 葛飾郡 52 ** 北半の「上の割」と南半の「下の割」に分けられる。 * 二郷半領 - 葛飾郡 81 ** 西半の「本田方」と東半の「新田方」に分けられる。 * 松伏領 - 葛飾郡 18 * 幸手領 - 葛飾郡 54 * 島中河辺領(しまちゅうかわべ-) - 葛飾郡 18 * 六郷領 - 荏原郡 34 * 馬込領 - 荏原郡 13 * 世田ヶ谷領 - 荏原郡 30、多磨郡 29 * 品川領 - 荏原郡 13 * 稲毛領 - 橘樹郡 57 * 神奈川領 - 橘樹郡 40、都筑郡 35 * 小机領 - 橘樹郡 7、都筑郡 25 * 川崎領 - 橘樹郡 26 * 金沢領 - 久良岐郡 18 * 本牧領 - 久良岐郡 36 * 金子領 - 入間郡 12 * 河越領 - 入間郡 112、高麗郡 10 * 入西領(にっさい-) - 入間郡 18 * 高麗領 - 高麗郡 20 * 加治領 - 高麗郡 47、秩父郡 2 * 松山領 - 高麗郡 1、比企郡 50、男衾領 5 * 川島領 - 比企郡 54 * 多磨川領 - 比企郡 27、男衾郡 4、秩父郡 7 * 下吉見領 - 横見郡 46 * 岩槻領 - 埼玉郡 92 * 八条領 - 埼玉郡 35 * 新方領 - 埼玉郡 29 * [[百間領]](もんま-) - 埼玉郡26 * 菖蒲領 - 埼玉郡 15 * 騎西領 - 埼玉郡 56 * 向川辺領 - 埼玉郡 13 * 古河川辺領 - 埼玉郡 10 * 羽生領 - 埼玉郡 84 * 深谷領 - 大里郡 1、幡羅郡 13、榛沢郡 29 * 御正領 - 大里郡 7 * 上吉見領 - 大里郡 23 * 鉢形領 - 男衾郡 25、幡羅郡 20、那珂郡 6、児玉郡 24 * 岡部領 - 榛沢郡 10 * [[本庄領]] - 榛沢郡 3、児玉郡 21 * 藤岡領 - 榛沢郡 6 * 阿保領(安保領) - 榛沢郡 3、児玉郡 4、賀美郡 27 * 八幡山領 - 那珂郡 2、児玉郡 19 * 秩父領 - 児玉郡 1、秩父郡 1 ** 上記のほか、足立郡の郡図総説(巻之百三十五)では「小室郷」としているが、巻之百四十六では足立郡内の9村を「小室領」として記載している。 新編武蔵風土記稿では当国内のほとんどの町村が上記各領のいずれかにカテゴライズして記載されているが、「[[武蔵野新田]]」として領とは別個のグループにまとめられたり(多磨郡 40、新座郡 4、入間郡 19、高麗郡 19)、「領名未勘(不明)」として記載されているものも多数ある。 === 人口 === * 1721年(享保6年) - 190万3316人 * 1750年(寛延3年) - 177万1214人 * 1756年(宝暦6年) - 177万4064人 * 1786年(天明6年) - 162万6968人 * 1792年(寛政4年) - 163万4048人 * 1798年(寛政10年)- 166万6131人 * 1804年(文化元年)- 165万4368人 * 1822年(文政5年) - 169万4255人 * 1828年(文政11年)- 171万7455人 * 1834年(天保5年) - 171万4054人 * 1840年(天保11年)- 172万1359人 * 1846年(弘化3年) - 177万7371人 * 1872年(明治5年) - 194万3211人 : 出典: 内閣統計局・編、[[速水融]]・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、[[東洋書林]]。 == 人物 == === 国司 === {{see|武蔵国司}} === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== * 1184年-1195年 - [[平賀義信]] * 1207年-1239年 - [[北条時房]] * 1240年-? - [[北条泰時]] * 1245年-? - [[北条経時]] * ?-1256年 - [[北条時頼]] * 1256年-? - [[北条長時]] * 1266年-1272年 - [[北条時宗]] * 1279年-? - [[北条時守]] * 1292年-1310年 - [[北条貞時]] * ?-1333年 - [[北条高時]] ==== 室町幕府 ==== * 1337年-1338年 - [[高重茂]] * 1341年-1344年 - [[高師冬]] * 1346年-1351年 - [[高師直]] * 1351年 - [[上杉憲将]](又は[[上杉憲顕]]) * 1351年-1352年 - [[仁木義章]] * 1357年-? - [[畠山国清]] * 1368年 - 上杉憲顕 * 1368年-1378年 - [[上杉能憲]] * 1378年-1379年 - [[上杉憲春]] * 1379年-1394年 - [[上杉憲方]] * 1397年-1409年 - [[上杉朝宗]] * 1419年-1439年 - [[上杉憲実]] * 1440年-1441年 - [[上杉清方]] * 1446年-1454年 - [[上杉憲忠]] * 1454年-1466年 - [[上杉房顕]] * 1466年-1481年 - [[上杉顕定]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Musashi Province}} * [[武蔵国司]] * [[武蔵野]] * [[武蔵野線]] * [[新編武蔵風土記稿]] * [[武蔵国郡村誌]] * [[令制国一覧]] * [[総武]] * [[武相]] * [[境川 (東京都・神奈川県)]] * [[境木地蔵]] * {{Prefix|武蔵}} * [[武蔵艦]]‐[[日本国政府|日本政府]]所有の[[艦船]]。 * [[武蔵 (スループ)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[スループ]]。[[葛城型スループ]]の3番艦。艦名は武蔵国に因む。 * [[武蔵 (戦艦)]]‐旧日本海軍の[[戦艦]]。[[大和型戦艦]]の2番艦。 == 外部リンク == * [http://www.yk.rim.or.jp/~kamide/yokohama/musashi-sagami/ 南横浜のグレートディバイディング・旧武相国境の全容] * {{Kotobank}} * [http://komatsu0513.heteml.jp/ 武蔵国府](国府物語){{リンク切れ|date=2023年9月}} * [http://tisiruinoe.la.coocan.jp/ 『武蔵名勝図会』]{{リンク切れ|date=2023年9月}} - 江戸時代に描かれた武蔵国 {{令制国一覧}} {{武蔵国の郡}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:むさしのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:東海道|国むさし]] [[Category:東京都の歴史]] [[Category:埼玉県の歴史]] [[Category:神奈川県の歴史]] [[Category:武蔵国|*]]
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三身
三身(、または さんしん、梵: trikāya)は、大乗仏教における、仏の3種類の身のあり方(法身・報身・応身)で、仏身観の一種である。三身説。 『十地経論』巻3には「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とある。通常はこの三身説がよく用いられる。 対応関係を表すと次の通り。 三身が具現していることを、三身即一、あるいは三身円満などという。 4世紀頃までの中期大乗仏教では、法身(永遠身)と色身(現実身とも)の二身説だけであったが、5世紀頃までにはその本質永遠性と現実即応の関連づけ、すなわち統一が問題となり、それが仏身論に及び、法身と色身(応身)を合せた報身が立てられ、三身説が成立した。中国や日本の仏教では、この三身のどれを表として立てるかで議論が起こった。 しかし後に仏の身は本来分かつべきでなく、どれも具わっていると考えられるようになり、三身即一身(三身即一などとも)という説が立てられた。
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三身(さんじん、は、大乗仏教における、仏の3種類の身のあり方で、仏身観の一種である。三身説。 『十地経論』巻3には「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とある。通常はこの三身説がよく用いられる。 対応関係を表すと次の通り。 三身が具現していることを、三身即一、あるいは三身円満などという。
{{出典の明記|date=2017-06}} {{大乗仏教}} {{読み仮名|'''三身'''|さんじん|または さんしん、{{lang-sa-short|trikāya}}}}は、[[大乗仏教]]における、[[仏]]の3種類の身のあり方('''法身・報身・応身''')で、[[仏身]]観の一種である。'''三身説'''。 『十地経論』巻3には「一切の仏に三種の仏あり。一に応身仏、二に報身仏、三に法身仏なり」とある。通常はこの三身説がよく用いられる。 対応関係を表すと次の通り。 {| class="wikitable" |- ! 三身 !! 説明 !! [[三徳 (仏教)|三徳]] !! 仏(如来) |- | [[法身]](ほっしん) | [[宇宙 (仏教)|宇宙]]の[[真理]]・[[真如]]そのもの、[[仏性]]。 | style="font-weight:bold" | [[法身]] | [[毘盧遮那仏]]、[[法華経]] |- | [[報身]](ほうじん) | 仏性のもつ[[属性]]、はたらき。あるいは[[修行]]して[[成仏]]する姿。 | style="font-weight:bold" | [[般若]] | [[阿弥陀仏]] |- | [[応身]](おうじん) | この世において[[悟り]]、人々の前に現れる[[ゴータマ・シッダッタ|釈迦]]の姿。 | style="font-weight:bold" | [[解脱]] | [[釈迦如来|釈迦牟尼仏]] |} 三身が具現していることを、'''三身即一'''、あるいは'''三身円満'''などという。 == 歴史 == 4世紀頃までの中期大乗仏教では、法身(永遠身)と{{ruby|色身|しきしん}}(現実身とも)の二身説だけであったが、5世紀頃までにはその本質永遠性と現実即応の関連づけ、すなわち統一が問題となり、それが仏身論に及び、法身と色身(応身)を合せた報身が立てられ、三身説が成立した。中国や日本の仏教では、この三身のどれを表として立てるかで議論が起こった。 {{要出典範囲|しかし後に仏の身は本来分かつべきでなく、どれも具わっていると考えられるようになり、三身即一身(三身即一などとも)という説が立てられた|date=2023年1月}}。 == その他の三身説 == *'''法身・応身・化身''' - 『合部金光明経』巻1の説 **法身 - 通常の三身説の法身と報身をあわせたもの **応身 - 通常の三身説の応身に同じ **化身 - 変化身ともいう。仏が衆生の[[機根]]にあわせて現す、[[天部]]や[[竜神]]など仏以外の姿 *'''法身・解脱身・化身''' - 『解深密経』巻5の説 **法身 - 仏果のこと **解脱身 - 5つの特性(戒・定・慧・解脱・解脱知見)としての五分法身のこと **化身 - 通常の三身説の応身に同じ *'''自性身・受用身・変化身''' - 『仏地経論』巻7の説 **自性身 - 通常の三身説の法身に同じ **受用身 - 通常の三身説の報身に同じであるが、これに以下2つに分別される ***自受用身 - 通常の三身説の報身に同じ、仏自らが法の楽しみを受ける ***他受用身 - 通常の三身説の応身に同じ、仏が衆生に法の楽しみを受けさせる **変化身 - 通常の三身説の応身に同じ *法身・報身・化身、 *法身・智身・大悲身 *真身・報身・応身 {{Buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんしん}} [[Category:仏]] [[Category:仏教哲学の概念]] [[Category:仏教の名数3|しん]]
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仏身
仏身 (ぶっしん、Skt:buddha-kaaya、बुद्ध काय)とは、仏の姿をいう。 釈迦の入滅という現実は、弟子たちの間にいろいろの問題を提起したが、その中でも、仏の身体をどう考えるかということは、一つの大きな問題であった。すなわち、人格信仰の問題である。 釈迦在世中は、現前に悟りを開いた仏が生身として存在しているから、人々はこの仏に聞きそれに対処できた。弟子達はこの生身(なまみ)の釈迦に頼って生きていた。このような人々に対して、釈迦は在世中、しばしば「肉身をもった仏にたよってはならない」「仏は法をさとったものであるから、法こそ真実のよりどころである」と弟子たちをさとしていた。しかし、眼前に仏を見ている人々にとっては、理屈ぬきにして、その仏に頼ることは仕方のないことである。釈迦の入滅という事実は、大きな問題を弟子たちの間に惹きおこしたのである。 この入滅の事実を見て、弟子たちは在世中の釈迦の言葉「法をよりどころとせよ」を改めて考えることとなった。そこで、釈迦の教えた「法」を通じて釈迦自身(仏)をみようとした。「法」を通し、語られた教えの中に肉身の仏をみようとしたのである。そこでまずあらわれたのが、釈迦の生きておられた現実の身生身(しょうじん)に対して不滅の身である法身(ほっしん)が求められ、それが二身説としてあらわれた。この時、すでに「法身」が永遠不滅の身であり、現実の「生身」は人々を救うために人間に応えて現われた「応身」であると考えられた。 この場合、法身(dharma‐kaaya、धर्म काय)は宇宙的一般者とでもいいうるような「法」そのものを意味し、後には「理法身」といわれるようなもので、宇宙身としての道理そのもの、真理そのものであると考えられる。そのような法が具体的な活動態としてあらわれるのが応身(nirmaaNa-kaaya、निर्माण काय)であり、それは後に「化身」(けしん)ともいわれ、また「応化身」ともいわれ、法が具体的な姿で人々を救い導くために働く姿である。したがって、人間もしくは人間以外として、応化身の働きは広い領域で考えられた。 後世、法身はまったく「理」として考えられる場面もあるが、本来は釈迦自身を法の中にみようとした弟子たちによって見られた仏であるから、そこには具体的な、もっと人格的なものが考えられた。それが後に「智法身」といわれるようになったと思われ、さらに単なる応化身ではなく、法身に即した応化身、応化身に即した法身として、仏の理想像をえがき、これを礼拝の対象として具象化しようとする時、そこに報身(ほうじん)という考え方があらわれる。 この報身は、その意味で思想的には、なかなか一定しなかった。これは、法身や応身のサンスクリット語は一定しているが、報身をあらわす原語が(niSyanda-buddha)(vipaaka-kaaya)(saMbhoga-kaaya)などと一定していないことでも分かる。漢訳の報身は「因願酬報」のゆえにといわれ、真如本然の働きと修行の働きとの和合によって現われるからとも説明されるが、原語「niSyanda-buddha」とは「かの如来は、福徳の因より出でたる結果なり」と説明されているから、福徳の行が原因となって自然にあらわされた結果としての仏である。その点「因願酬報」と相応すると思われる。 次に「vipaaka-kaaya」とは「成熟せる身」という意味であり、願行が完成して得られた身の意味である。 また「saMbhoga-kaaya」とは「受用される身」という意味で、人々がこの仏の身体を受用して成仏するという意味である。このような意味で報身という考えかたの中に、やがてそれを具体的に彫刻し絵にしようとして、三十二相八十種好などの仏の相貌がととのえられてきたと思われる。 このように、二身説は三身説となった。さらに、法身に理、智を区別し、理智不二の法身と解釈され、この法身を法そのものの意味で「自性身」(じしょうしん)と呼んだ。また「報身」に自受用、他受用の二身を区別し、応身と化身を区別し、また応化身とするなど種々の説となり、四身説・五身説・六身説が現れる。
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仏身とは、仏の姿をいう。
{{出典の明記|date=2016年4月23日 (土) 04:24 (UTC)}} '''仏身''' (ぶっしん、[[サンスクリット語|Skt]]:buddha-kaaya、&#x092c;&#x0941;&#x0926;&#x094d;&#x0927; &#x0915;&#x093e;&#x092f;)とは、仏の姿をいう。 == 成立 == [[釈迦]]の[[入滅]]という現実は、弟子たちの間にいろいろの問題を提起したが、その中でも、仏の身体をどう考えるかということは、一つの大きな問題であった。すなわち、人格信仰の問題である。 釈迦在世中は、現前に悟りを開いた仏が生身として存在しているから、人々はこの仏に聞きそれに対処できた。弟子達はこの生身(なまみ)の釈迦に頼って生きていた。このような人々に対して、釈迦は在世中、しばしば「肉身をもった仏にたよってはならない」「仏は法をさとったものであるから、法こそ真実のよりどころである」と弟子たちをさとしていた。しかし、眼前に仏を見ている人々にとっては、理屈ぬきにして、その仏に頼ることは仕方のないことである。釈迦の入滅という事実は、大きな問題を弟子たちの間に惹きおこしたのである。 この入滅の事実を見て、弟子たちは在世中の釈迦の言葉「法をよりどころとせよ」を改めて考えることとなった。そこで、釈迦の教えた「法」を通じて釈迦自身(仏)をみようとした。「法」を通し、語られた教えの中に肉身の仏をみようとしたのである。そこでまずあらわれたのが、釈迦の生きておられた現実の身'''[[生身]]'''(しょうじん)に対して不滅の身である'''[[法身]]'''(ほっしん)が求められ、それが[[二身説]]としてあらわれた。この時、すでに「法身」が永遠不滅の身であり、現実の「生身」は人々を救うために人間に応えて現われた「応身」であると考えられた。 この場合、'''法身'''(dharma‐kaaya、&#x0927;&#x0930;&#x094d;&#x092e; &#x0915;&#x093e;&#x092f;)は宇宙的一般者とでもいいうるような「法」そのものを意味し、後には「理法身」といわれるようなもので、宇宙身としての道理そのもの、真理そのものであると考えられる。そのような法が具体的な活動態としてあらわれるのが'''[[応身]]'''(nirmaaNa-kaaya、&#x0928;&#x093f;&#x0930;&#x094d;&#x092e;&#x093e;&#x0923; &#x0915;&#x093e;&#x092f;)であり、それは後に「化身」(けしん)ともいわれ、また「応化身」ともいわれ、法が具体的な姿で人々を救い導くために働く姿である。したがって、人間もしくは人間以外として、応化身の働きは広い領域で考えられた。 == その後 == 後世、法身はまったく「理」として考えられる場面もあるが、本来は釈迦自身を法の中にみようとした弟子たちによって見られた仏であるから、そこには具体的な、もっと人格的なものが考えられた。それが後に「智法身」といわれるようになったと思われ、さらに単なる応化身ではなく、法身に即した応化身、応化身に即した法身として、仏の理想像をえがき、これを礼拝の対象として具象化しようとする時、そこに'''報身'''(ほうじん)という考え方があらわれる。 この[[報身]]は、その意味で思想的には、なかなか一定しなかった。これは、法身や応身の[[サンスクリット語]]は一定しているが、報身をあらわす原語が(niSyanda-buddha)(vipaaka-kaaya)(saMbhoga-kaaya)などと一定していないことでも分かる。漢訳の報身は「因願酬報」のゆえにといわれ、真如本然の働きと修行の働きとの和合によって現われるからとも説明されるが、原語「niSyanda-buddha」とは「かの如来は、福徳の因より出でたる結果なり」と説明されているから、福徳の行が原因となって自然にあらわされた結果としての仏である。その点「因願酬報」と相応すると思われる。 次に「vipaaka-kaaya」とは「成熟せる身」という意味であり、願行が完成して得られた身の意味である。 また「saMbhoga-kaaya」とは「受用される身」という意味で、人々がこの仏の身体を受用して成仏するという意味である。このような意味で報身という考えかたの中に、やがてそれを具体的に彫刻し絵にしようとして、[[三十二相]][[八十種好]]などの仏の相貌がととのえられてきたと思われる。 このように、二身説は[[三身]]説となった。さらに、法身に理、智を区別し、理智不二の法身と解釈され、この法身を法そのものの意味で「自性身」(じしょうしん)と呼んだ。また「報身」に自受用、他受用の二身を区別し、応身と化身を区別し、また応化身とするなど種々の説となり、四身説・五身説・六身説が現れる。 {{Buddhism2}} {{デフォルトソート:ふつしん}} [[Category:仏]] [[Category:仏像]]
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仏性
仏性(ぶっしょう、梵: Buddha-dhātu)とは、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。 仏教では、この仏性を開発(かいはつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。 『法華経』では、仏種(ぶっしゅ、梵: Buddha-gotra)「仏の種姓」、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう、梵: Tathāgata-garbha)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。ただし仏性には如来蔵のように「煩悩が付着して隠れている」という意味はない。 仏教全体として「すべての衆生が仏性を持つ」という統一見解はなく、以下のように宗派により見方は異なっている。 まず、原始仏教の時代には仏性という観念はまだなかった。 釈迦入滅後、根本分裂が起こり、また西暦100年ごろには枝末分裂(しまつぶんれつ)が起こり、両派あわせて20前後の部派が成立した。この当時の部派仏教では、誰でもが悟れるのか、あるいは一部の人しか悟れないのか、などという様々な議論が起こった。 部派仏教では、この穢れた世界(娑婆世界、穢土)に生まれて苦しみを受けるのは煩悩(漏、巴: āsava)によるものであると捉え、出家して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り阿羅漢になることを目的とする。原始仏典以来、漏を断尽して二度と生まれかわることのない人がブッダであり阿羅漢であって、阿羅漢はブッダの同義語であった。しかし部派仏教では、いつしか阿羅漢ということばはブッダと区別された限定的な意味に用いられるようになった。部派仏教の人々にとって目標は阿羅漢であり、成仏をめざすことは不遜であった。部派の有部論書ではブッダの偉大さが強調され、菩薩のたどるブッダへの道はきわめて特別なものであって、凡夫が煩悩を断ちきって阿羅漢になる道とは隔絶しているとされた。 これに対して、大乗仏教では、阿羅漢を小乗の聖者とみなした。また大乗仏教の教理では、誰もが救われることを主眼に置き、出家はもちろん在家でも救われると考えられ、誰もが仏になれる可能性があるとした。つまり衆生に仏性があるという考え(如来蔵思想)が生まれた。 仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。 しかしどの仏典でも同様に説かれたわけではなく、さらに時代を下った後期に成立した大乗経典であり、法相宗が所依とした『解深密経』などでは、衆生には明らかに機根の差があるため誰もが成仏できるわけではない、『法華経』が一乗を説くのは能力のない衆生が意欲をなくすのを防ぐための方便である、と説いた。 上記のような各仏典の成立の前後関係が判明したのは、近代の科学的な史料批判の後である。 それ以前においては、仏典の前後関係及び価値の軽重は、宗派的視点により決められた(教相判釈)。 特に有名なものは、天台宗の智顗による五時八教の教相判釈である。智顗によれば『解深密経』は『法華経』や『涅槃経』より以前に説かれた、古い教えである方等部の経典で権大乗(仮に説かれた方便の教え)であり、『法華経』に導く手前の教えとした。すなわち、五時八教では『解深密経』よりも後に説かれたとする『法華経』や『涅槃経』を優先し、一切衆生悉有仏性説こそ正しいとした。この点では、上記の現代における研究の結果である『解深密経』が『法華経』よりも遅い成立であるとする考えとは一致していないことになる。 さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え一切悉有仏性(いっさいしつうぶっしょう)までが、後世に生まれた。 日本仏教では、奈良仏教(法相宗等)は全体として成仏への道程は人の機根に応じて違いがあるとするのに対して、平安仏教(天台宗・真言宗)では悉有仏性説(しつうぶっしょうせつ)を説いた。 時代が下り、禅宗・日蓮宗になるとことさらに女人も成仏できると主張するように変化した。 このように、仏性や一切衆生悉有仏性は、仏教全体に共通する教義ではない。 しかし現在の日本仏教では、法相宗などの一部の宗派を除き、仏性・一切悉有仏性・如来蔵を説く宗派が多勢を占めている。 『大般涅槃経』獅子吼(ししく)菩薩品(ぼさつほん)に説かれるものを智顗が整合し確立した、成仏のための3つの要素を三因仏性という。 三因仏性は通常は智顗の説を指す場合が多いが、世親の『摂大乗論』や『仏性論』には次の3つを説き、これを三因仏性という場合もある。
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仏性とは、衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のこと。主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。覚性(かくしょう)とも訳される。 仏教では、この仏性を開発(かいはつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。 『法華経』では、仏種「仏の種姓」、『勝鬘経』では、如来蔵などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。ただし仏性には如来蔵のように「煩悩が付着して隠れている」という意味はない。
{{大乗仏教}} {{出典の明記|date=2016年4月23日 (土) 04:22 (UTC)}} '''仏性'''(ぶっしょう、{{lang-sa-short|Buddha-dhātu}}{{refnest|name="ニッポニカ_仏性"|[https://kotobank.jp/word/%E4%BB%8F%E6%80%A7-125180#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「仏性」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]}})とは、[[衆生]]が持つ[[仏]]としての本質、仏になるための原因のこと{{refnest|name="ニッポニカ_仏性"}}。主に『[[大般涅槃経|涅槃経]]』で説かれる[[大乗仏教]]独特の教理である。'''覚性'''(かくしょう)とも訳される。 [[仏教]]では、この仏性を開発(かいはつ)し自由自在に発揮することで、[[煩悩]]が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の[[衆生]]の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を[[成仏]]と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。 『[[法華経]]』では、'''仏種'''(ぶっしゅ、{{lang-sa-short|Buddha-gotra}})「仏の種姓」、『[[勝鬘経]]』では、'''如来蔵'''(にょらいぞう、{{lang-sa-short|Tathāgata-garbha}})などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である{{refnest|name="ニッポニカ_仏性"}}。ただし仏性には如来蔵のように「煩悩が付着して隠れている」という意味はない{{refnest|name="ニッポニカ_仏性"}}。 ==宗派による見解の違い== ===歴史的な流れ=== 仏教全体として「すべての衆生が仏性を持つ」という統一見解はなく、以下のように宗派により見方は異なっている。 まず、[[初期仏教|原始仏教]]の時代には仏性という観念はまだなかった。 [[釈迦]]入滅後、[[根本分裂]]が起こり、また[[キリスト紀元|西暦]]100年ごろには枝末分裂(しまつぶんれつ)が起こり、両派あわせて20前後の部派が成立した。この当時の部派仏教では、誰でもが[[悟り|悟れ]]るのか、あるいは一部の人しか悟れないのか、などという様々な議論が起こった。 [[部派仏教]]では、この穢れた世界(娑婆世界、穢土)に生まれて苦しみを受けるのは[[煩悩]](漏、{{lang-pi-short|āsava}})によるものであると捉え、[[出家]]して厳しい戒律を保つことによって煩悩を断ち切り[[阿羅漢]]になることを目的とする。原始仏典以来、漏を断尽して二度と生まれかわることのない人が[[仏|ブッダ]]であり阿羅漢であって、阿羅漢はブッダの同義語であった{{sfn|山崎|2010|p=161}}。しかし部派仏教では、いつしか阿羅漢ということばはブッダと区別された限定的な意味に用いられるようになった{{sfn|梶山|2002|pp=61-62}}。部派仏教の人々にとって目標は阿羅漢であり、成仏をめざすことは不遜であった{{sfn|櫻部|上山|1996|p=161}}。部派の[[説一切有部|有部]]論書ではブッダの偉大さが強調され、[[菩薩]]のたどるブッダへの道はきわめて特別なものであって、凡夫が煩悩を断ちきって阿羅漢になる道とは隔絶しているとされた{{sfn|櫻部|上山|1996|pp=158-161}}。 これに対して、[[大乗仏教]]では、[[阿羅漢]]を[[小乗]]の聖者とみなした。また大乗仏教の教理では、誰もが救われることを主眼に置き、出家はもちろん[[在家]]でも救われると考えられ、誰もが仏になれる可能性があるとした。つまり衆生に仏性があるという考え([[如来蔵思想]])が生まれた。 仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『[[法華経]]』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも[[二乗]]成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。さらに、その後成立した『[[大般涅槃経]]』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。 しかしどの仏典でも同様に説かれたわけではなく、さらに時代を下った後期に成立した大乗経典であり、[[法相宗]]が所依とした『[[解深密経]]』などでは、衆生には明らかに[[機根]]の差があるため誰もが成仏できるわけではない、『[[法華経]]』が[[一乗]]を説くのは能力のない衆生が意欲をなくすのを防ぐための方便である、と説いた。 ===宗派による違い=== 上記のような各仏典の成立の前後関係が判明したのは、近代の科学的な[[史料批判]]の後である。 それ以前においては、仏典の前後関係及び価値の軽重は、宗派的視点により決められた([[教相判釈]])。 特に有名なものは、[[天台宗]]の[[智顗]]による五時八教の[[教相判釈]]である。智顗によれば『[[解深密経]]』は『[[法華経]]』や『[[涅槃経]]』より以前に説かれた、古い教えである[[方等経|方等]]部の経典で権大乗(仮に説かれた方便の教え)であり、『[[法華経]]』に導く手前の教えとした<ref group="注">ただし歴史的には、『[[解深密経]]』は『[[法華経]]』のはるか後に成立している。なお、すべての経典は同じ人物やグループによって成立したのではなく、長い年月に渡り、いろいろな教理や考えを持つ異なるグループによって、個別に次第に成立していったという背景がある。</ref>。すなわち、五時八教では『解深密経』よりも後に説かれたとする『[[法華経]]』や『[[涅槃経]]』を優先し、一切衆生悉有仏性説こそ正しいとした。この点では、上記の現代における研究の結果である『[[解深密経]]』が『[[法華経]]』よりも遅い成立であるとする考えとは一致していないことになる。 さらに日本の天台宗では、仏性を[[衆生]]([[人間]])に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え一切悉有仏性(いっさいしつうぶっしょう)までが、後世に生まれた。 <!--なお、法相宗の[[徳一]]と天台宗の[[最澄]]の議論([[三一権実諍論]])において、華厳宗では天台宗側の意見を汲んで、『涅槃経』に説かれる[[一闡提]](仏の正法を誹謗し懺悔せず否定し罪を犯す人)の成仏説などを以って、法相宗の一乗仏性方便説を否定した。--論旨の流れに乗らないのでコメントアウト--> 日本仏教では、奈良仏教(法相宗等)は全体として成仏への道程は人の機根に応じて違いがあるとするのに対して、平安仏教(天台宗・真言宗)では悉有仏性説(しつうぶっしょうせつ)を説いた。<!--(―真言宗でも女人結界ということがあった。これは安易に曲解されるが、それは修行道場としてあらゆる誘惑障碍を避け行者が法身との入定対話する修行に専念するためにほかならない)--> 時代が下り、{{要出典範囲|禅宗・日蓮宗になるとことさらに女人も成仏できると主張するように変化した。|date=2017-09}} このように、仏性や一切衆生悉有仏性は、仏教全体に共通する教義ではない。 しかし現在の日本仏教では、法相宗などの一部の宗派を除き、仏性・一切悉有仏性・如来蔵を説く宗派が多勢を占めている。 == 三因仏性 == 『[[大般涅槃経]]』獅子吼(ししく)菩薩品(ぼさつほん)に説かれるものを[[智顗]]が整合し確立した、成仏のための3つの要素を三因仏性という。 * 正因仏性(しょういんぶっしょう) - 本性としてもとから具わっている仏性のこと * 了因仏性(りょういんぶっしょう) - 仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露(ほつろ)した仏性のこと * 縁因仏性(えんいんぶっしょう) - 智慧として発露するための縁となる善なる行いのこと 三因仏性は通常は智顗の説を指す場合が多いが、[[世親]]の『[[摂大乗論]]』や『[[仏性論]]』には次の3つを説き、これを三因仏性という場合もある。 *自性住仏性(じしょうじゅうぶっしょう) - 本性としてもとから具わっている仏性のこと *引出仏性(いんしゅつぶっしょう) - 修行により引き出されて露見する仏性のこと *至得果仏性(しとくかぶっしょう) - 上記の2つが仏果として完成し成仏して実った仏性のこと == 関連文献 == *[[高崎直道]]訳注 『如来蔵系経典 大乗仏典12』 [[中央公論社]]、新版[[中公文庫]]、2004年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === *{{Cite book|和書|author=山崎守一 |title=沙門ブッダの成立 原始仏教とジャイナ教の間 |publisher=大蔵出版 |year=2010 |ref={{harvid|山崎|2010}}}} *{{Cite book|和書|author=梶山雄一|authorlink=梶山雄一|title=般若経 - 空の世界 |publisher=中央公論新社 |series=中公文庫 |year=2002 |ref={{harvid|梶山|2002}}}} *{{Cite book|和書|author=櫻部建・上山春平 |title=仏教の思想2 存在の分析〈アビダルマ〉 |publisher=角川書店 |series=角川ソフィア文庫 |year=1996 |ref={{harvid|櫻部|上山|1996}}}} == 関連項目 == *[[菩提]] *[[真如]] *[[狗子仏性]](犬に仏性) {{仏教典籍}} {{buddhism2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつしよう}} [[Category:仏性|*]] [[category:仏教用語]] [[Category:仏教哲学の概念]] [[Category:涅槃経]]
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6,225
森羅万象
森羅万象(しんらばんしょう、しんらばんぞう、しんらまんぞう)は、あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、及び宇宙空間を指す。 キリスト教徒であるイエズス会は、「御主デウス森羅万象ヲツクリタマウ」と『日葡辞書』で記した(デウスは神、創造主の意)。
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[[File:Hubble ultra deep field high rez edit1.jpg|thumb|[[宇宙]]は理論的に存在するすべてのもの(遠方の[[銀河]]、[[ハッブル超深宇宙探査]]の結果]] '''森羅万象'''(しんらばんしょう、しんらばんぞう、しんらまんぞう)は、あらゆる[[現象]]<ref name="yoji">TABEI Fumio & Taishukan 『大修館 四字熟語辞典』 [[大修館書店]]、2008年。</ref>、[[宇宙]]に[[存在]]する一切のもの<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/115902/m0u/ Shogakukan Inc. 『大辞泉』 しんら‐ばんしょう〔‐バンシヤウ〕【森羅万象】]。</ref>。「森羅」は[[樹木]]が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は[[wikt:万物|万物]]やあらゆる現象<ref name="yoji"/>。なお、「宇宙」はあらゆる[[存在]]物を包容する[[無限]]の[[空間]]と[[時間]]の広がり、及び[[宇宙空間]]を指す<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/19586/m0u/%E5%AE%87%E5%AE%99/ Shogakukan Inc. 『大辞泉』 う‐ちゅう〔‐チウ〕【宇宙】]。</ref>。 [[キリスト教徒]]である[[イエズス会]]は、「御主[[デウス]]森羅万象ヲツクリタマウ」と『[[日葡辞書]]』で記した<ref>[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/115904/m0u/%E3%81%97%E3%82%93%E3%82%89%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%86/ Shogakukan Inc. 『大辞泉』 しんら‐まんぞう〔‐マンザウ〕【森羅万象】]</ref>(デウスは[[神]]、[[創造主]]の意)。 == 四字熟語に由来するもの == * 森羅万象 - 作画カメによる[[リネージュII]]の[[漫画]]。ケイ、チョコ、エルフ盟主などによる連載ショートストーリー。 * 森羅万象 - [[江戸時代]]の[[狂歌]]師、[[戯作]]者の[[森島中良]](1754年-1810年)の号の一つ。 * [[森羅万象 (俳優)|森羅万象]] (しんら まんぞう) - 日本の俳優、ナレーター。 * [[神羅万象]] - 1987年発売のPC-88VA用[[ゲーム]]。タイトルは四字熟語に由来する。 * [[神羅万象チョコ]] - 2005年発売の[[食玩]][[菓子]]。タイトルは四字熟語に由来する。 * [[森羅万象 (サークル)]] - [[東方project]]のアレンジ楽曲を制作するサークル。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://shinrabansho-music.com 森羅万象 (サークル)] == 脚注 == {{reflist}} {{DEFAULTSORT:しんらはんしよう}} [[Category:日本語の成句]]
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三法印
三法印(さんぼういん)は、仏教において三つの根本的な理念(仏法)を示す仏教用語である。 法印(ほういん、梵: dharmoddāna)とは、仏教と他の教え(バラモン教・ヒンドゥー教や六師外道)との区別を明らかにする用語と一般に言われるが、パーリ仏典には、このような術語はみられない。 上座部仏教においては、代わって三相(諸行無常,一切行苦,諸法無我)を採用する。 雑阿含経においては以下と記載される。 令我知法見法。我當如法知如法觀。時諸比丘語闡陀言。 色無常。受想行識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。 龍樹の著作といわれる大智度論巻十五では、まだ煩悩を十分に絶つことができないで、有漏道(うろどう)にあって無漏道を得ていない人々が「三種法印」を信ずべきである、として「一切有為生法無常等印」・「一切法無我印」・「涅槃実法印」の三法印を示している。また巻三十二では「一切有為法無常印」「一切法無我印」「涅槃寂滅印」とよんでいる。 通達無礙者。得佛法印故通達無礙。如得王印則無所留離。問曰。何等是佛法印。 答曰。佛法印有三種。一者一切有爲法。念念生滅皆無常。二者一切法無我。三者寂滅涅槃。 以是故佛説三法爲法印。所謂一切有爲法無常印。一切法無我印。涅槃寂滅印。 2世紀ごろの仏教詩人マートリチェータは自作中において"dharmamudrã trilakṣaṇā"という表現で三つの教えを表した。それは以下の通り。 マートリチェータはこれらを「eṣa dharmamudrã trilakṣaṇā」(これが『三法印』である)としている。 中村元は、三法印は部派仏教のものであり、それに対して、大乗仏教は諸法の実相を説く「実相印」を標幟とするとしている。大乗仏教では部派仏教の三法印とは別に、諸法実相の「一法印」がよく説かれるとされる。中村は実相印を第四の印としている。なお、諸法実相が意味する内容は諸宗派の教学によって異なる。中村は、龍樹(ナーガールジュナ)は三法印のほかに別の法印を立てなかったとしている。袴谷憲昭はエジャートンの『Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary』には“dharmamudrā”の用例が三つしか挙げられておらず、すべて梵文の法華経によるものであると指摘している。また袴谷は、坂本幸男による「小乗教は三法印、大乗は諸法実相印。」という言明について、天台宗の智顗の所説に依っていることを推測している。
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三法印(さんぼういん)は、仏教において三つの根本的な理念(仏法)を示す仏教用語である。 諸行無常印-「すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である」 諸法無我印-「すべてのものごと(一切法)は、自己ならざるものである」 涅槃寂静印-「ニルヴァーナは、安らぎである」 法印とは、仏教と他の教え(バラモン教・ヒンドゥー教や六師外道)との区別を明らかにする用語と一般に言われるが、パーリ仏典には、このような術語はみられない。 上座部仏教においては、代わって三相(諸行無常,一切行苦,諸法無我)を採用する。
{{Otheruses|仏教用語|印鑑の種類|印章}} '''三法印'''(さんぼういん)は、仏教において三つの根本的な理念([[法 (仏教)|仏法]])を示す[[仏教用語]]である<ref name=sanpouin_nipponica/>{{Sfn|室寺|2013|p=442}}。 # [[諸行無常]]印({{lang-sa-short|anityāṃ sarvasaṃskārāṃ}}{{Sfn|室寺|2013|p=442}})-「すべての現象([[サンカーラ|形成されたもの]])は、[[無常]](不変ならざるもの)である」 # [[諸法無我]]印({{lang-sa-short|sarvadharmā anātmānaḥ}}{{Sfn|室寺|2013|p=442}})-「すべてのものごと([[一切法]])は、[[無我|自己ならざるもの]]である」 # [[涅槃寂静]]印({{lang-sa-short|śāntaṃ nirvāṇaṃ}}{{Sfn|室寺|2013|p=442}})-「[[涅槃|ニルヴァーナ]]は、安らぎである」 [[法印]](ほういん、{{lang-sa-short|dharmoddāna}}{{Sfn|袴谷|1979|pp=60-66}}{{Sfn|室寺|2013|p=431}})とは、仏教と他の教え([[バラモン教]]・[[ヒンドゥー教]]や[[六師外道]])との区別を明らかにする用語<ref name="大辞林 第三版">[https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E5%8D%B0-627033 ほういん【法印】] - コトバンク 大辞林 第三版の解説。</ref>と一般に言われるが、[[パーリ仏典]]には、このような術語はみられない。{{Sfn|袴谷|1979|p=60}}<ref name="sanpouin_nipponica">{{Kotobank|三法印|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref> [[上座部仏教]]においては、代わって[[三相 (仏教)|三相]](諸行無常,一切行苦,諸法無我)を採用する{{Sfn|室寺|2013|p=442}}。 == 内容 == === 雑阿含経 === [[雑阿含経]]においては以下と記載される。 {{Quote| 令我知法見法。我當如法知如法觀。時諸比丘語闡陀言。<br> 色無常。受想行識無常。一切行無常。一切法無我。涅槃寂滅。 | [[雑阿含経]](大正新脩大蔵経)<ref>{{大正新脩大蔵経|title=雑阿含経 求那跋陀羅譯|no=0099 |vol=02 |page=0066b12}}</ref> }} === 大智度論 === [[龍樹]]の著作といわれる[[大智度論]]巻十五では、まだ煩悩を十分に絶つことができないで、[[有漏]]道(うろどう)にあって[[無漏]]道を得ていない人々が「三種法印」を信ずべきである、として「一切有為生法無常等印」・「一切法無我印」・「涅槃実法印」の三法印を示している{{Sfn|室寺|2013|p=437}}。また巻三十二では「一切有為法無常印」「一切法無我印」「涅槃寂滅印」とよんでいる{{Sfn|室寺|2013|p=437}}。 {{Quote| 通達無礙者。得佛法印故通達無礙。如得王印則無所留離。問曰。何等是佛法印。<br> 答曰。佛法印有三種。一者一切[[有為法|有爲法]]。念念生滅皆[[無常]]。二者一切法[[無我]]。三者寂滅涅槃。<ref>{{大正新脩大蔵経|title=大智度論 |no=1509|vol=25|page=0222a27}}</ref> 以是故佛説三法爲法印。所謂一切有爲法無常印。一切法無我印。涅槃寂滅印。<ref>{{大正新脩大蔵経|title=大智度論 |no=1509|vol=25|page=0297c24}}</ref> | [[大智度論]](大正新脩大蔵経) {{Sfn|室寺|2013|p=437}} }} === 仏教詩人マートリチェータの説 === 2世紀ごろの仏教詩人マートリチェータは自作中において"{{lang|sa|dharmamudrã trilakṣaṇā}}"という表現で三つの教えを表した。それは以下の通り。{{Sfn|室寺|2013|p=434-433}} # {{lang|sa|Sarva-dharmā anātmanaḥ}}{{Sfn|室寺|2013|p=434-433}} - 一切の法は無我である。 # {{lang|sa|Kṣaṇikaṃ sarva-saṃskṛtam}}{{Sfn|室寺|2013|p=434-433}} - 一切の作られたものは刹那(滅)である。 # {{lang|sa|Śāntaṃ nirvāṇam}}{{Sfn|室寺|2013|p=434-433}} - 涅槃は寂静である。 マートリチェータはこれらを「{{lang|sa|eṣa dharmamudrã trilakṣaṇā}}」(これが『三法印』である)としている。{{efn2|“{{lang|sa|dharmamudrã trilakṣaṇā}}”に対する「三法印」という訳は室寺(2013)による。}}{{Sfn|室寺|2013|p=434-433}} == 三法印と大乗仏教 == [[中村元 (哲学者)|中村元]]は、三法印は部派仏教のものであり、それに対して、[[大乗仏教]]は[[諸法実相|諸法の実相]]を説く「実相印」を標幟とするとしている<ref name="hajime">中村元 『広説佛教語大辞典』 中巻 東京書籍、2001年6月、701頁「實相」。</ref>。大乗仏教では部派仏教の三法印とは別に、諸法実相の「一法印」がよく説かれるとされる<ref name="大辞林 第三版" /><ref>[http://www.360doc.com/content/08/0108/16/2311_955507.shtml 《三法印》与《一法印》] - 个人图书馆。</ref>。中村は実相印を第四の印としている<ref name="hajime" />。なお、諸法実相が意味する内容は諸宗派の教学によって異なる<ref name="hajime" />。中村は、龍樹(ナーガールジュナ)は三法印のほかに別の法印を立てなかったとしている<ref>中村元 『広説佛教語大辞典』 中巻 東京書籍、2001年6月、927頁「諸法實相印」。</ref>。袴谷憲昭はエジャートンの『{{en|Buddhist Hybrid Sanskrit Dictionary}}』には“{{lang|sa|dharmamudrā}}”の用例が三つしか挙げられておらず、すべて梵文の[[法華経]]によるものであると指摘している{{Sfn|袴谷|1979|p=60}}。また袴谷は、坂本幸男による「小乗教は三法印、大乗は諸法実相印。」という言明について、[[天台宗]]の[[智顗]]の所説に依っていることを推測している{{Sfn|袴谷|1979|p=62}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==参考文献== *{{Cite journal |和書 |last=袴谷 |first=憲昭 |title=<法印>覚え書] |journal=駒澤大學佛教學部研究紀要 |issue=37 |publisher=駒澤大学 |date=1979 |pages=60-81 |naid=110007014220 |ref={{SfnRef|袴谷|1979}} }} *{{Cite journal |和書 |author=室寺 義仁 |title=三法印(dharmamudra trilaksana) : 古典インドにおける三句の發端と展開の諸様相 |journal=東方学報 |volume=88 |publisher=京都大學人文科學研究所 |date=2013 |pages=442-423 |doi=10.14989/180561 |ref={{SfnRef|室寺|2013}} }} == 関連項目 == * [[四法印]] * [[声聞]] * [[縁覚]] * [[トリレンマ]] * [[ロバート・ジェイガー]] - アメリカの作曲家。三法印をテーマにした交響曲を作曲。 {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:さんほういん}} [[Category:仏教の名数3|ほういん]] [[Category:仏教の終末論]]
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超弩級戦艦
超弩級戦艦(、英: Super Dreadnoughts)は、1906年に進水したイギリス海軍のドレッドノートの規模(弩級戦艦)を超える規模の戦艦・巡洋戦艦である。イギリス海軍のオライオン級戦艦を嚆矢とする。 なお、この「弩」は「ドレッドノート」の頭の音を取った当て字である。そのため、超ド級戦艦とカタカナ表記する場合もある。戦艦の「超弩級」「超ド級」という語は、転じて「とてつもなく大きい」「もの凄い迫力」などを表現するためにも使われる。 最初の超弩級戦艦とされるのは、1906年に進水したイギリス海軍のオライオン級戦艦である。この艦の起工後にマスメディアに情報が漏れてしまい、ドレッドノートよりも大型(13.5インチ/34.3 cm)の砲を搭載していたことから、報道機関がSuper Dreadnoughtsと表現したことに端を発する。 従って正式な軍事用語というよりは、マスコミ用語が起源である。ちなみに、日本の文献においては15インチ (38.1 cm) - 16インチ (40.6 cm) 砲を搭載した戦艦を超々弩級、18インチ超 (46 cm) 主砲を採用した大和型戦艦を超々々弩級戦艦と称したものがごく少数だが見られる 。 日本海軍では、巡洋戦艦「金剛」以降の艦を指す。 現在、超弩級戦艦は「弩級」すなわちドレッドノートと同程度の戦力を有する戦艦をさらに上回る戦艦、と定義されており、12.0インチ (30.5 cm) を上回る主砲口径の戦艦を指す。すなわち「戦艦主砲の世界的標準規格("the international standard of battleship calibre")である12インチ」を超えることが絶対条件であり、弩級以前に例外的に建造された少数の12.0インチを超える口径の主砲を有する艦はこれに該当しない(たとえば近代戦艦の原型とされるロイヤル・サブリン級戦艦は、13.5インチ砲を搭載する。だがこの砲は後に前弩級戦艦の標準となる12インチ砲よりも威力的に劣っている)。 それ以外の超弩級戦艦に共通する特徴は、主砲の中心線配置・舷側砲塔の廃止が挙げられる。これにより防御様式が大きく改善された。また全主砲を片舷に指向できるようになった。ただしこの特徴自体は他国の弩級艦にもそれ以前から採用例がある。 これらの特徴から、従来存在する弩級艦を大きく上回る戦闘力を具備し、戦艦の世紀は新時代へ突入した。 とはいうものの、戦艦の能力の評価には、速力や防御力などのファクターをも考慮すべきであり、単純に火力だけをもって優劣の判断はできない。さらに火力にしても、砲身長、命中率、門数、単位時間あたりの発射数を考慮すべきであり、口径だけの比較で判断はできない。例えば主砲の門数については、イギリス戦艦エジンコートは12インチ砲を搭載する弩級戦艦であるが、門数は14門と世界最多であり、総合的に見て火力は13.5インチ - 14インチ砲8門の超弩級戦艦・巡洋戦艦を上回っている。ただしエジンコートは方位盤射撃指揮装置を装備しておらず、実戦能力には疑問がある。 超弩級戦艦が軍事史上で重要視されるのは、それに分類される戦艦の能力自体よりも、それまでの弩級戦艦の多くが12インチで統一され、戦艦の隻数や主砲の門数が海軍力の一つの目安となっていた時代を終焉させ、大艦巨砲時代への道を開いたという点である。それまでは戦艦1隻1隻の大きさや性能が各国とも比較的似通っていたため、海軍力は単純な数量で比較されることが多かったが、超弩級艦の登場以後は主砲口径と艦の大きさの制限が取り払われ、各国が持つ最強の戦艦の性能が重要な要素となった。 ドイツ戦艦においては、弩級艦の主砲に11インチ (28.1 cm) 砲を採用しており、これはイギリス戦艦の12インチ砲に威力で匹敵するとされていた。実際にも砲弾重量や初速などの性能を見る限り、ドイツ戦艦の主砲弾の運動エネルギーは、英国戦艦のそれを凌駕している(砲弾重量は小さいが、初速は大きい)。従ってドイツがヘルゴラント級戦艦に12インチ (30.5 cm) 50口径砲を採用した際は、実質は超弩級戦艦ではないかと言われた。 しかし異論も多い。ドイツが多用した小口径高初速の砲弾は、接近戦での威力こそ高いものの、中距離では入射角の浅さから、長距離では失速の大きさからイギリス系の超弩級戦艦に採用された45口径13.5インチ砲や45口径14インチ砲に威力的に劣っているとされる。また、接近戦での威力に限定しても、ドイツの12インチ砲の威力はイギリスのそれを上回ってはいるものの、それほど大きな差は見られない。むしろイギリスがドイツに先だって開発した50口径12インチ砲は、ドイツの50口径12インチ砲を初速でも若干凌駕している。もっともイギリスの50口径12インチ砲は命中率の低下や砲身寿命の低下を招いた欠陥砲であったが、ドイツの50口径12インチ砲にはそうした欠陥は見られず、ドイツに技術的優位があったのは事実である(逆に言えば、イギリスの50口径12インチ砲の失敗が、13.5インチ砲の開発を促進させ、超弩級戦艦への道を開いたと言える)。 イタリアのコンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦は、改装後の主砲口径が32cmであり30.5cmを超えているが、元は30.5cmの主砲の内径を削って口径を拡大したに過ぎず、これを超弩級と扱うかどうかには異論もある。しかし、威力は14インチ砲に迫る性能が出ている。 1916年のユトランド沖海戦は、戦艦・巡洋戦艦の発達史において一大事件となった。かいつまんで述べると、戦艦は速力が不足、巡洋戦艦は防御力が不足、そして戦艦・巡洋戦艦を問わず水平防御をなおざりにしてきた事実が判明した。これ以降に新造、もしくは改装がなされた戦艦・巡洋戦艦はこの欠点の改善がなされ、主砲口径の増大に偏った戦艦の発達は終焉を迎えた。これにより弩級、超弩級というカテゴライズも、さして重要なものではなくなった。 例えばアメリカのアラスカ級大型巡洋艦(主砲口径30.5cm)やドイツのシャルンホルスト級戦艦(主砲口径28.1cm)は、主砲口径で言えば弩級、フランスのダンケルク級戦艦(主砲口径33cm)は超弩級となるが、そういう分類で語られることはほとんどない。 上記の通りイタリアのコンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦は、超弩級として語られることもあるが、これは元々この両クラスは30.5cm砲採用の弩級戦艦であって、改装によって砲力が増したかどうかという文脈で語られるからである。コンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦が主砲口径を増したのは、あくまで門数の削減と引き換えに砲力を落とさないための処置である。現実には両クラスの改装の主目的は、速力と防御力の増大である。
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超弩級戦艦(ちょうどきゅうせんかん、は、1906年に進水したイギリス海軍のドレッドノートの規模を超える規模の戦艦・巡洋戦艦である。イギリス海軍のオライオン級戦艦を嚆矢とする。 なお、この「弩」は「ドレッドノート」の頭の音を取った当て字である。そのため、超ド級戦艦とカタカナ表記する場合もある。戦艦の「超弩級」「超ド級」という語は、転じて「とてつもなく大きい」「もの凄い迫力」などを表現するためにも使われる。
{{ページ番号|date=2020-07-13}} [[ファイル:HMS Orion (Orion class battleship).jpg|thumb|300px|初の超弩級戦艦[[オライオン (戦艦)|オライオン]]]] {{読み仮名|'''超弩級戦艦'''|ちょうどきゅうせんかん|{{lang-en-short|Super Dreadnoughts}}}}は、[[1906年]]に進水した[[イギリス海軍]]の[[ドレッドノート (戦艦)|ドレッドノート]]の規模([[弩級戦艦]])を超える規模の[[戦艦]]・[[巡洋戦艦]]である。イギリス海軍の[[オライオン級戦艦]]を嚆矢とする。 なお、この「[[wikt:弩|弩]]」は「ドレッドノート」の頭の音を取った[[当て字]]である。そのため、'''超ド級戦艦'''とカタカナ表記する場合もある。戦艦の「超弩級」「超ド級」という語は、転じて「とてつもなく大きい」「もの凄い迫力」などを表現するためにも使われる<ref>{{Cite book |和書 |author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2003 |title=トリビアの泉〜へぇの本〜 2 |publisher=講談社 }}</ref>。 == 概要 == 最初の超弩級戦艦とされるのは、1906年に進水したイギリス海軍の[[オライオン級戦艦]]である。この艦の起工後に[[マスメディア]]に[[情報漏洩|情報が漏れて]]しまい、ドレッドノートよりも大型(13.5[[インチ]]/34.3 [[センチメートル|cm]])の砲を搭載していたことから、[[報道機関]]が'''Super Dreadnoughts'''と表現したことに端を発する。 従って正式な[[軍事]]用語というよりは、マスコミ[[用語]]が起源である<ref>[[海人社]] [[世界の艦船]] 増刊 近代戦艦史</ref>。ちなみに、日本の文献においては15インチ (38.1 cm) - 16インチ (40.6 cm) 砲を搭載した戦艦を超々弩級、18インチ超 (46 cm) 主砲を採用した[[大和型戦艦]]を超々々弩級戦艦と称したものがごく少数だが見られる <ref>{{Cite book ja-jp|author = 新名丈夫|year = 1979|title = 日本海軍史|chapter = 陸奥の爆沈|publisher = [[毎日新聞社]]|series = 別冊一億人の昭和史|page =258}}</ref>{{full|date=2012年4月}}。 [[大日本帝国海軍|日本海軍]]では、[[巡洋戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」以降の艦を指す。 現在、超弩級戦艦は「弩級」すなわちドレッドノートと同程度の戦力を有する戦艦をさらに上回る戦艦、と定義されており、12.0インチ (30.5 cm) を上回る[[主砲]][[口径#砲|口径]]の戦艦を指す。すなわち「戦艦主砲の世界的標準規格("the international standard of battleship calibre"<ref>『U.S. Battleships』(Norman Friedman)より</ref>)である12インチ」を超えることが絶対条件であり、弩級以前に例外的に建造された少数の12.0インチを超える口径の主砲を有する艦はこれに該当しない(たとえば近代戦艦の原型とされる[[ロイヤル・サブリン級戦艦]]は、13.5インチ砲を搭載する。だがこの砲は後に前弩級戦艦の標準となる12インチ砲よりも威力的に劣っている)。 それ以外の超弩級戦艦に共通する特徴は、主砲の中心線配置・舷側砲塔の廃止が挙げられる。これにより防御様式が大きく改善された。また全主砲を片舷に指向できるようになった。ただしこの特徴自体は他国の弩級艦にもそれ以前から採用例がある。 これらの特徴から、従来存在する弩級艦を大きく上回る戦闘力を具備し、戦艦の世紀は新時代へ突入した。 とはいうものの、戦艦の能力の評価には、速力や防御力などのファクターをも考慮すべきであり、単純に火力だけをもって優劣の判断はできない。さらに火力にしても、砲身長、命中率、門数、単位時間あたりの発射数を考慮すべきであり、口径だけの比較で判断はできない。例えば[[主砲]]の門数については、イギリス戦艦[[エジンコート (戦艦)|エジンコート]]は12インチ砲を搭載する弩級戦艦であるが、門数は14門と世界最多であり、総合的に見て火力は13.5インチ - 14インチ砲8門の超弩級戦艦・巡洋戦艦を上回っている。ただしエジンコートは[[方位盤]][[射撃統制システム|射撃指揮装置]]を装備しておらず、実戦能力には疑問がある。 超弩級戦艦が[[軍事史]]上で重要視されるのは、それに分類される戦艦の能力自体よりも、それまでの弩級戦艦の多くが12インチで統一され、戦艦の隻数や主砲の門数が海軍力の一つの目安となっていた時代を終焉させ、[[大艦巨砲主義|大艦巨砲]]時代への道を開いたという点である。それまでは戦艦1隻1隻の大きさや性能が各国とも比較的似通っていたため、海軍力は単純な数量で比較されることが多かったが、超弩級艦の登場以後は主砲口径と艦の大きさの制限が取り払われ、各国が持つ最強の戦艦の性能が重要な要素となった。 == 例外的存在 == {{出典の明記|date=2012年5月|section=1}} ドイツ戦艦においては、弩級艦の[[主砲]]に11インチ (28.1 cm) 砲を採用しており、これはイギリス戦艦の12インチ砲に威力で匹敵するとされていた。実際にも砲弾重量や[[砲口初速|初速]]などの性能を見る限り、ドイツ戦艦の主砲弾の運動エネルギーは、英国戦艦のそれを凌駕している(砲弾重量は小さいが、初速は大きい)。従ってドイツが[[ヘルゴラント級戦艦]]に12インチ (30.5 cm) 50口径砲を採用した際は、実質は超弩級戦艦ではないかと言われた。 しかし異論も多い。ドイツが多用した小口径高初速の砲弾は、接近戦での威力こそ高いものの、中距離では入射角の浅さから、長距離では失速の大きさからイギリス系の超弩級戦艦に採用された45口径13.5インチ砲や45口径14インチ砲に威力的に劣っているとされる。また、接近戦での威力に限定しても、ドイツの12インチ砲の威力はイギリスのそれを上回ってはいるものの、それほど大きな差は見られない。むしろイギリスがドイツに先だって開発した50口径12インチ砲は、ドイツの50口径12インチ砲を初速でも若干凌駕している。もっともイギリスの50口径12インチ砲は命中率の低下や砲身寿命の低下を招いた欠陥砲であったが、ドイツの50口径12インチ砲にはそうした欠陥は見られず、ドイツに技術的優位があったのは事実である(逆に言えば、イギリスの50口径12インチ砲の失敗が、13.5インチ砲の開発を促進させ、超弩級戦艦への道を開いたと言える)。 イタリアの[[コンテ・ディ・カブール級戦艦]]・[[カイオ・ドゥイリオ級戦艦]]は、改装後の主砲口径が32cmであり30.5cmを超えているが、元は30.5cmの主砲の内径を削って口径を拡大したに過ぎず、これを超弩級と扱うかどうかには異論もある。しかし、威力は14インチ砲に迫る性能が出ている。 == その後 == {{出典の明記|date=2012年5月|section=1}} [[1916年]]の[[ユトランド沖海戦]]は、戦艦・巡洋戦艦の発達史において一大事件となった。かいつまんで述べると、戦艦は速力が不足、巡洋戦艦は防御力が不足、そして戦艦・巡洋戦艦を問わず水平防御をなおざりにしてきた事実が判明した。これ以降に新造、もしくは改装がなされた戦艦・巡洋戦艦はこの欠点の改善がなされ、主砲口径の増大に偏った戦艦の発達は終焉を迎えた。これにより弩級、超弩級というカテゴライズも、さして重要なものではなくなった。 例えばアメリカの[[アラスカ級大型巡洋艦]](主砲口径30.5cm)やドイツの[[シャルンホルスト級戦艦]](主砲口径28.1cm)は、主砲口径で言えば弩級、フランスの[[ダンケルク級戦艦]](主砲口径33cm)は超弩級となるが、そういう分類で語られることはほとんどない。 上記の通りイタリアのコンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦は、超弩級として語られることもあるが、これは元々この両クラスは30.5cm砲採用の弩級戦艦であって、改装によって砲力が増したかどうかという文脈で語られるからである。コンテ・ディ・カブール級戦艦・カイオ・ドゥイリオ級戦艦が主砲口径を増したのは、あくまで門数の削減と引き換えに砲力を落とさないための処置である。現実には両クラスの改装の主目的は、速力と防御力の増大である。 <!-- また、上述の通り、日本では大和型戦艦を超々々弩級戦艦と呼ぶことがある。--> == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[ドレッドノート (戦艦)]] * [[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]] * [[金剛 (戦艦)]] * [[大和 (戦艦)]] * [[前弩級戦艦]] * [[弩級戦艦]] * [[大艦巨砲主義]] == 外部リンク == * [http://www.globalsecurity.org/military/systems/ship/battleships.htm Battleships] [[グローバルセキュリティー|GlobalSecurity.org]] {{艦艇}} {{DEFAULTSORT:ちようときゆうせんかん}} [[Category:戦艦|*]] [[en:Dreadnought#Super-dreadnoughts]]
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日本神話
日本神話()とは、日本に伝わる神話のことである。 日本神話と呼ばれる伝承はほとんどが、『古事記』、『日本書紀』、および各『風土記』の記述による。そのため、高天原の神々が中心となっているが、出典となる文献は限られる。 また、地方の神社や地方誌の中にも上記の文献群には見られない伝承を残している。 本来、日本各地には出雲を始めとして何らかの信仰や伝承があったと思われ、ヤマト王権の支配が広がるにつれていずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」という形に変えられて「高天原神話」に統合されたと考えられている。また、後世まで中央権力に支配されなかったアイヌや琉球には独自色の強い神話が存在する。日本神話の神々は現代に至るまで信仰の対象とされ続けている。 本記事においては主に『古事記』『日本書紀』で語られる神話(記紀神話)について解説する。 この記事では日本神話のあらすじを述べるにとどめ、各神話の詳細は別記事に譲る。 記紀などにおいて神代(神の時代、神話時代)として記された神話は、以下の通りである。神代は、神武天皇以前の時代を指す。 天地開闢ののち、高天原に別天津神と神世七代の神々が誕生。これらの神々の最後に生まれてきたのがイザナギ(表記は伊邪那岐、ほか)・イザナミ(表記は伊邪那美、ほか)の二神なのである。 イザナギ・イザナミの二神は自らが造ったオノゴロ島に降り、結婚して最初の子・ヒルコが生まれた。ところが、方法に間違いがあったことから失敗し、不具の子であった。この子を海に流した後、次の子・アワシマが生まれたが、またも正しく生まれてこなかったため、二神は別天津神に教えを乞い、そうして改めて正しく交わり、生み出したのが淡道之穂之狭別島であった。次に淡道を含む「大八島」と呼ばれる島々(日本列島)を次々と生み出していった。これらを「国生み/国産み」という。その後もさまざまな神々を生み出してゆくことになるが、これらを「神生み/神産み」という。しかしイザナミは火神・カグツチを産み出す際に大火傷を負ってしまい、この世を去ってしまう。残されたイザナギは亡きイザナミに会いたい気持ちを募らせて黄泉国へ赴くも、彼女が黄泉の住者になってしまったことを思い知って逃げ帰る羽目になり、永遠に離別することとなった。その後、イザナギは黄泉国で被った穢れを祓うために禊をした。この時にもさまざまな神々が生み出されたが、その最後に「三貴子(みはしらのうずのみこ)」と呼ばれる3柱、すなわち、アマテラス(天照)・ツクヨミ(月読)・スサノオ(須佐之男)を生んだ。 スサノオ(須佐之男)は根国へ行く前に高天原へと向かう。アマテラス(天照)はスサノオが高天原を奪いにきたのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノオを迎えた。スサノオはアマテラスの疑いを解くためにうけい(誓約)で身の潔白を証明した(アマテラスとスサノオの誓約)。この時、のちに皇室や出雲国造の始祖となる五柱の男神と宗像三女神が生まれた。 しかしスサノオが高天原で数々の乱暴を働いたため、これを怖れ憂えたアマテラスは天岩戸に隠れてしまい、地上は闇に覆われてしまった。神々は計略も用いてアマテラスを天石戸から誘い出し、光が地上に取り戻された。スサノオは悪行の責めを負って下界に追放された。 スサノオ(須佐之男)は出雲国に降り、八俣遠呂智を退治し、櫛名田比売と結婚する。スサノオの子孫である大穴牟遅神(大国主)は、八上比売と結ばれるが、それを妬んだ八十神に迫害される。難を逃れ、根之堅洲国でスサノオの試練を乗り越えると、スサノオの娘である須勢理毘売命を娶って大国主神となる。その後、沼河比売や多紀理毘売命と結婚し、多くの御子神を生み、少名毘古那神や三輪の神と葦原中国の国づくりを始めた。 これらの説話は『出雲国風土記』には収録されていない。ただし、神名は共通するものが登場する。 また、全国各地の風土記や神社、地方誌には、独自色の濃い国作り神話が伝わっている。 高天原にいた神々は、葦原中国を統治するべきなのは天照大御神の子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に遣わしたが、いずれも大国主神に寝返ったり、寝返った神に殺されたりと交渉は遅々として進まなかった。最終的に建御雷神ら武神二柱を派遣し、大国主神の子の兄・事代主神に国を譲らせ、果敢に抵抗した弟・建御名方神をも降服させる。御子神二柱が要求に応じたため、大国主神は自らの宮殿(出雲大社)建設と引き換えに、天の神に国を譲ることを約束する。 天照大御神の孫である邇邇芸命は日向に降臨した(天孫降臨)。このとき天照大御神から授かった三種の神器を携えていた。邇邇芸命は木花之佐久夜毘売と結婚し、木花之佐久夜毘売は御子を出産した。 邇邇芸命の子は山幸彦と海幸彦である。山幸彦は海幸彦の釣り針をなくしたため、海幸彦に責められる日々を送り、釣り針を500本作っても1000本作っても許してもらえないが海神の宮殿に赴き釣り針を返してもらい、海幸彦に釣り針を返し復讐して従えた。山幸彦は海神の娘と結婚し鵜葺草葺不合命という子をなした。そして、鵜葺草葺不合命の子が神倭伊波礼毘古命、のちの神武天皇である。 磐余彦尊は兄たちや子と謀って大和(奈良盆地)を支配しようともくろみ、東征(神武東征)をおこなう。大和の指導者長髄彦らは果敢に抵抗し、磐余彦尊も苦戦するが、大和の平定に成功する。磐余彦尊は橿原宮ではじめて天皇位につく(神武天皇)。 神武天皇の死後、神武天皇が日向にいたときに生まれた子である手研耳命が反乱を起こす。その弟神渟名川耳尊は手研耳命を射殺し、皇位を継ぐ(綏靖天皇)。 綏靖天皇以下の8代の天皇(欠史八代)の事跡は記紀にほとんど伝わらない。 景行天皇の皇子日本武尊は熊襲を遠征し、天皇の命令で東方にも出兵する。しかし、帰還の途中で死亡、白鳥となって飛び去った。 皇位は日本武尊の弟の成務天皇が継いだが、その崩後は日本武尊の息子が継ぎ、仲哀天皇へと即位した。仲哀天皇はその父と同じように九州へ出兵しようとするが、住吉大神に逆らったため崩御する。その皇后である神功皇后は、住吉大神の助力により三韓を従える(三韓出兵)。 日本に仏教が定着すると、日本の神々も人間と同じく苦しみから逃れることを願い、仏の救済を求め解脱を欲すると認識されるようになった。奈良時代初頭から神社において神宮寺が建立され始め、霊亀元年(ユリウス暦:715年)には越前国の気比大神が、また、鹿島神宮・賀茂神社・伊勢神宮などで神宮寺が併設された。また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半には、伊勢国桑名郡の現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立は地方にまで広がり、若狭国の若狭彦大神や近江国の奥津島大神など、他国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示した。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに神宮寺が建てられ、神前で読経がなされた。また、神の存在は元々不可視であり、依り代によって知ることのできるものであったが、神像の造形によって神の存在を表現するようになった。 平安時代になり、「日本の神は護法善神である」とする神仏習合思想が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社が営まれるようになった。 また、『太平記』などの軍記物、歌学書やその注釈、寺社縁起などで、『日本書紀』に依りながら内容が大きく異なる「中世神話(中世日本紀)」が発達した。中世神話では本地垂迹説により記紀の神々が仏教の尊格と同一視されたり、あるいは対等に扱われる。記紀にはない神格やアイテムが登場したり、地方神話、民間伝承や芸能の要素の混入もみられる。記紀神話のように内容を統一する文献は編纂されなかったため、バリエーションは豊富である。中世神話は現在では国文学方面で研究されており、神話学などではあまり扱われない。 近世になると、本居宣長が『古事記』の本格的解明を目指し『古事記伝』を著し、日本神話といえば『日本書紀』の内容が主に伝わっていたのが一変し、『古事記』の内容が主に伝えられるようになった。 また、少数ではあるが、キリシタンや幕末の新宗教の教説にも独自の神話がみられる。 江戸時代までは官選の正史として記述された『日本書紀』のほうが重要視され、『古事記』はあまり重視されていなかった。江戸時代中期以降、本居宣長の『古事記伝』など国学の発展によって、『日本書紀』よりも古く、かつ、漢文だけでなく大和言葉も交えて書かれた『古事記』のほうが重視されるようになり、現在に至っている。 現在は、神話学・比較神話学・民俗学・考古学・人類学・歴史学等の領域で研究などがされている。また、日本神話の原形となったと思われる逸話や日本神話と類似点を持つ神話は、ギリシア神話など世界中に多数存在する。日本における古墳時代から奈良時代にかけての国の勢力関係をも知るうえでの参考資料ともなっている。 明治時代以降は、比較神話学の観点から、高木敏雄(1876年-1922年)が1943年と1944年(昭和18年と19年)に『日本神話伝説の研究』にまとめられた研究をすすめた。高木は柳田國男や折口信夫らとも交流があり、柳田・折口らによる民俗学においても日本神話の研究が展開した。日本の神話学においてはほかに松村武雄・松本信広らの研究がある。 第二次世界大戦後の代表的な研究者には、大林太良・吉田敦彦らがいる。 吉田敦彦は、1974年(昭和49年)に刊行した『ギリシァ神話と日本神話 比較神話学の試み』『日本神話と印欧神話』をはじめ、以降、『日本神話の源流』、『ヤマトタケルと大国主 比較神話学の試み3』、『アマテラスの原像 スキュタイ神話と日本神話』、『日本の神話伝説』などの一連の比較神話学研究において、日本神話を他の国・地域の神話と比較分析している。 日本神話と琉球神話との比較は伊波普猷によって始められた。伊波は、1904年(明治37年)に発表し1942年(昭和17年)に改稿した「琉球の神話」の中で、『中山世鑑』の起源神話と『古事記』の淤能碁呂島神話、『宮古島旧記』の神婚説話と三輪山神話などの類似を指摘している。伊波の研究は後述する松本信廣のポリネシア神話との比較研究を経て、大林太良らによって展開された。 大林は、日本神話と奄美や沖縄の島々に伝承されている民間説話について、「流れ島」「天降る始祖」「死体化生」「海幸彦」に関する伝承神話を比較検討し、南西諸島の神話伝承は、基本モチーフと構造においては記紀神話と大幅な一致を見せるが、神名等においては一致しないことから、記紀にまとめられる前の共通の神話体系の母体から分かれて南西諸島で保存された可能性を指摘している。 伊藤幹治は、日本と琉球の神話を比較し、漂える国(島)や天界出自の原祖、ヒルコ、穂落としなどのモチーフが共通して認められるとしながら、「風による妊娠」「原祖の地中からの出現」「原祖の漂着」「犬祖」などは琉球神話にしか見られず、また、穀物神話の死体化生モチーフは日本神話にしか見られないと指摘している。 遠藤庄治は、宮古列島の来間島豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と天日槍伝承に見られる卵生のモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれていると指摘している。 1931年(昭和6年)、松本信廣は『日本神話の研究』の中で、ローランド・ディクソン(英語版)がポリネシア神話を分類するために設定した2つの図式「進化型」と「創造型」を用い、日本の天地開闢神話をポリネシアの創世神話の「進化型」と「創造型」の複合形であり、イザナギ・イザナミ神話から以降は「創造型」の形式を受け継いでいるものではないかとの説を発表した。 なお、松本は日本神話とポリネシア神話を比較するうえで琉球の神話(cf. 琉球神道)も重要視し、琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球を通して遠く南方の創造型神話と関連を持っているとした。松本による日本神話と汎太平洋神話との比較は日本の比較民族学上の定説になっている。 また、岡正雄による日本の天地開闢神話の研究は日本神話の系譜に関する歴史民族学的研究を活発化し、その後、大林太良によって具体的に展開された。大林によれば、天地開闢神話以外のオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチーフも南西諸島の神話に存している。 そのほか、によって以下の事例がこれまでに指摘されている。
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"遠藤庄治は、宮古列島の来間島豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と天日槍伝承に見られる卵生のモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれていると指摘している。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)、松本信廣は『日本神話の研究』の中で、ローランド・ディクソン(英語版)がポリネシア神話を分類するために設定した2つの図式「進化型」と「創造型」を用い、日本の天地開闢神話をポリネシアの創世神話の「進化型」と「創造型」の複合形であり、イザナギ・イザナミ神話から以降は「創造型」の形式を受け継いでいるものではないかとの説を発表した。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、松本は日本神話とポリネシア神話を比較するうえで琉球の神話(cf. 琉球神道)も重要視し、琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球を通して遠く南方の創造型神話と関連を持っているとした。松本による日本神話と汎太平洋神話との比較は日本の比較民族学上の定説になっている。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、岡正雄による日本の天地開闢神話の研究は日本神話の系譜に関する歴史民族学的研究を活発化し、その後、大林太良によって具体的に展開された。大林によれば、天地開闢神話以外のオオゲツヒメ・モチーフや海幸彦・山幸彦モチーフも南西諸島の神話に存している。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "そのほか、によって以下の事例がこれまでに指摘されている。", "title": "研究" } ]
日本神話とは、日本に伝わる神話のことである。
{{ウィキポータルリンク|神話伝承}} {{読み仮名|'''日本神話'''|にほんしんわ}}とは、[[日本]]に伝わる[[神話]]のことである。 == 概要 == {{see also|記紀|日本の神話学|神道|#神話の構成}}'''日本神話'''と呼ばれる伝承はほとんどが、『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』、および各『[[風土記]]』の記述による{{Sfn|井上|2006|p=54}}{{Sfn|上田|1972|p=411}}。そのため、[[高天原]]の神々が中心となっているが{{Sfn|上田|1972|p=411}}、出典となる文献は限られる。 また、地方の[[神社]]や地方誌の中にも上記の文献群には見られない伝承を残している。 本来、日本各地には[[出雲]]を始めとして何らかの[[信仰]]や[[伝承]]があったと思われ、[[ヤマト王権]]の支配が広がるにつれていずれもが[[天津神・国津神|国津神]](くにつかみ)または「奉ろわぬ神」という形に変えられて「高天原神話」に統合されたと考えられている{{Sfn|上田|1972|pp=411-412}}。また、後世まで[[中央集権|中央権力]]に支配されなかった[[アイヌ]]や[[琉球]]には独自色の強い神話が存在する。日本神話の神々は現代に至るまで信仰の対象とされ続けている。 本記事においては主に『古事記』『日本書紀』で語られる神話('''記紀神話''')について解説する。 == 神話の構成 == {{small|この記事では日本神話のあらすじを述べるにとどめ、各神話の詳細は別記事に譲る。}} [[記紀]]などにおいて[[神代]](神の時代、神話時代)として記された神話は、以下の通りである。神代は、[[神武天皇]]以前の時代を指す。 {{See|古事記|日本書紀}} === 天地開闢 === [[天地開闢 (日本神話)|天地開闢]]ののち、[[高天原]]に[[別天津神]]と[[神世七代]]の神々が誕生。これらの神々の最後に生まれてきたのが[[イザナギ]](表記は伊邪那岐、ほか)・[[イザナミ]](表記は伊邪那美、ほか)の二神である。 === 国生みと神生み === {{Anchors|国産みと神産み|国生み|神生み}} [[ファイル:Kobayashi Izanami and Izanagi.jpg|thumb|250px|[[小林永濯]]『天之瓊矛を以て滄海を探るの図』/[[イザナギ]]・[[イザナミ]]の二神が天之瓊矛([[天沼矛]])で地上の渾沌を{{Efn2|group="注"|name="渾沌"|天地創造の神話(''cf.'' [[創造神話]])でいう「混沌/渾沌(こんとん)」とは、天と地がまだ分かれておらず、混じり合っている状態。[[ギリシア神話]]でいう「[[カオス]]」も類義。<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/混沌・渾沌 |title=混沌・渾沌 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2019-10-21 }}</ref>}}掻き回して[[八島|大八島]](日本の島々)を生み出そうとしている。作品については「[[国産み]]」項で[[国産み|詳説]]する。]] [[イザナギ]]・[[イザナミ]]の二神は自らが造った[[オノゴロ島]]に降り、結婚して最初の子・[[ヒルコ]]が生まれた。ところが、方法に間違いがあったことから失敗し、不具の子であった。この子を海に流した後、次の子・[[淡島神|アワシマ]]が生まれたが、またも正しく生まれてこなかったため、二神は[[別天津神]]に教えを乞い、そうして改めて正しく交わり、生み出したのが[[淡路島|淡道之穂之狭別島]]であった。次に淡道を含む「[[八島|大八島]]」と呼ばれる島々([[日本列島]])を次々と生み出していった。これらを「[[国産み|国生み/国産み]]」という。その後もさまざまな神々を生み出してゆくことになるが、これらを「[[神産み|神生み/神産み]]」という。しかしイザナミは[[火神]]・[[カグツチ]]を産み出す際に大[[火傷]]を負ってしまい、この世を去ってしまう。残されたイザナギは亡きイザナミに会いたい気持ちを募らせて[[黄泉]]国へ赴くも、彼女が黄泉の住者になってしまったことを思い知って逃げ帰る羽目になり、永遠に離別することとなった。その後、イザナギは黄泉国で被った[[穢れ]]を[[祓|祓う]]ために[[禊]]をした。この時にもさまざまな神々が生み出されたが、その最後に「[[三貴子]](みはしらのうずのみこ)」と呼ばれる3柱、すなわち、アマテラス([[天照大神|天照]])・[[ツクヨミ]](月読)・[[スサノオ]](須佐之男)を生んだ{{Sfn|井上|2006|pp=60-61}}{{Sfn|戸部|2003|pp=16-42}}。 === アマテラスとスサノオの誓約・天岩戸 === {{Anchors|天照大御神と須佐之男命の誓約・天岩戸|誓約|天岩戸}} {{Anchors|天岩戸神社_画像}}{{multiple image |align=right |direction=vertical |header=[[天岩戸神社]] |header_align=center |header_background=#8fbc8f |width=245 |image1=Amanoiwato-east-shurine.jpg |caption1=東本宮/[[宮崎県]][[高千穂町]]に所在。 |image2=Gyoubogaiwaya-cave-inside.jpg |caption2=「天安河原宮」と呼ばれるこの地で、八百万の神々の会議が開かれたとされる。 }} [[スサノオ]](須佐之男)は[[根国]]へ行く前に[[高天原]]へと向かう。アマテラス([[天照大神|天照]])はスサノオが高天原を奪いにきたのかと勘違いし、弓矢を携えてスサノオを迎えた。スサノオはアマテラスの疑いを解くために[[うけい]](誓約)で身の潔白を証明した([[アマテラスとスサノオの誓約]])。この時、のちに[[皇室]]や[[出雲国造]]の始祖となる五柱の男神と[[宗像三女神]]が生まれた。 しかしスサノオが高天原で数々の乱暴を働いたため、これを怖れ憂えたアマテラスは[[天岩戸]]に隠れてしまい、地上は闇に覆われてしまった。神々は計略も用いてアマテラスを天石戸から誘い出し、光が地上に取り戻された。スサノオは悪行の責めを負って下界に追放された。 === 出雲神話 === {{main|ヤマタノオロチ|因幡の白兎|大国主の神話|大国主の国づくり}} [[スサノオ]](須佐之男)は[[出雲国]]に降り、[[八俣遠呂智]]を退治し、[[櫛名田比売]]と結婚する。スサノオの子孫である大穴牟遅神([[大国主]])は、[[八上比売]]と結ばれるが、それを妬んだ八十神に迫害される。難を逃れ、[[根の国|根之堅洲国]]でスサノオの試練を乗り越えると、スサノオの娘である[[須勢理毘売命]]を娶って大国主神となる。その後、[[沼河比売]]や[[多紀理毘売命]]と結婚し、多くの[[御子神]]を生み、[[少名毘古那神]]や[[大物主神|三輪の神]]と[[葦原中国]]の国づくりを始めた。 これらの説話は『[[出雲国風土記]]』には収録されていない。ただし、神名は共通するものが登場する。 また、全国各地の風土記や神社、地方誌には、独自色の濃い国作り神話が伝わっている。 === 葦原中津国平定(国譲り) === [[ファイル:Inasa Beach.jpg|代替文=稲佐の浜|サムネイル|249x249ピクセル|[[タケミカヅチ]]が天降ったとされる[[稲佐の浜]]]] {{main|葦原中津国平定}} 高天原にいた神々は、葦原中国を統治するべきなのは天照大御神の子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲に遣わしたが、いずれも大国主神に寝返ったり、寝返った神に殺されたりと交渉は遅々として進まなかった。最終的に[[タケミカヅチ|建御雷神]]ら武神二柱を派遣し、大国主神の子の兄・[[事代主|事代主神]]に国を譲らせ、果敢に抵抗した弟・[[タケミナカタ|建御名方神]]をも降服させる。御子神二柱が要求に応じたため、大国主神は自らの宮殿([[出雲大社]])建設と引き換えに、天の神に国を譲ることを約束する。 === 天孫降臨 === [[ファイル:Tenson Kōrin.jpg|250px|thumb|狩野探道『天孫降臨』/[[天照大御神]]から[[神勅]]を受けた天孫・[[邇邇芸命]]は、諸神を連れ従え、[[高天原]]から[[日向国|日向]]の[[高千穂峰]]に天降った。]] [[ファイル:Takachiho-gawara Kirishima City Kagoshima Pref04n4050.jpg|thumb|250px|{{Anchors|神籬斎場_画像}}[[高千穂河原]]の天孫降臨神籬斎場]] [[ファイル:三種の神器 1200x1200.png|thumb|250px|{{Anchors|三種の神器_画像}}[[天皇の一覧|歴代天皇]]に伝わる[[三種の神器]]/想像図であり、実物は非公開。]] 天照大御神の孫である[[邇邇芸命]]は[[日向国|日向]]に降臨した([[天孫降臨]])。このとき天照大御神から授かった[[三種の神器]]を携えていた。邇邇芸命は[[木花之佐久夜毘売]]と結婚し、木花之佐久夜毘売は御子を出産した。 === 山幸彦と海幸彦 === 邇邇芸命の子は[[山幸彦と海幸彦]]である。山幸彦は海幸彦の釣り針をなくしたため、海幸彦に責められる日々を送り、釣り針を500本作っても1000本作っても許してもらえないが[[ワダツミ|海神]]の宮殿に赴き釣り針を返してもらい、海幸彦に釣り針を返し復讐して従えた。山幸彦は海神の娘と結婚し[[鵜葺草葺不合命]]という子をなした。そして、鵜葺草葺不合命の子が神倭伊波礼毘古命、のちの[[神武天皇]]である。 == 人代の神話的伝承 == === 神武東征 === {{Anchors|芳年_名将鑑神武}}[[ファイル:Emperor Jimmu.jpg|thumb|right|250px|[[月岡芳年]]『大日本名将鑑 神武天皇』<hr />[[神武東征]]の名場面。天皇の弓の先に留まった[[金鵄]]が光を放ち、[[長髄彦]]軍の兵達(右下)は目を眩ませている。]] 磐余彦尊は兄たちや子と謀って大和([[奈良盆地]])を支配しようともくろみ、東征([[神武東征]])をおこなう。大和の指導者[[長髄彦]]らは果敢に抵抗し、磐余彦尊も苦戦するが、大和の平定に成功する。磐余彦尊は[[橿原宮]]ではじめて[[天皇]]位につく([[神武天皇]])。 神武天皇の死後、神武天皇が日向にいたときに生まれた子である[[手研耳命]]が反乱を起こす。その弟神渟名川耳尊は[[手研耳命]]を射殺し、皇位を継ぐ([[綏靖天皇]])。 === 欠史八代 === 綏靖天皇以下の8代の天皇([[欠史八代]])の事跡は記紀にほとんど伝わらない。 === 日本武尊 === {{Anchors|日本武尊像_画像}}[[ファイル:Yamato Takeru(bronze statue,Osaka)01.jpg|thumb|250px|日本武尊御神像/[[大鳥大社]](大阪府[[堺市]][[西区 (堺市)|西区]])境内に所在する[[石像|石彫]]<ref group="gm">大鳥大社 日本武尊御神像({{googlemap|大鳥大社_日本武尊御神像}}) ※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>。]] [[景行天皇]]の皇子[[日本武尊]]は[[熊襲]]を遠征し、天皇の命令で東方にも出兵する。しかし、帰還の途中で死亡、[[白鳥]]となって飛び去った。 === 三韓出兵 === 皇位は日本武尊の弟の[[成務天皇]]が継いだが、その崩後は日本武尊の息子が継ぎ、[[仲哀天皇]]へと即位した。仲哀天皇はその父と同じように九州へ出兵しようとするが、[[住吉大神]]に逆らったため崩御する。その皇后である[[神功皇后]]は、住吉大神の助力により[[三韓]]を従える([[三韓征伐|三韓出兵]])。 == 神仏習合と中世神話 == 日本に[[日本の仏教|仏教]]が定着すると、日本の神々も人間と同じく苦しみから逃れることを願い、[[仏]]の救済を求め[[解脱]]を欲すると認識されるようになった<ref name="{{Sfn|伊藤聡|2012|p=}}">{{Harvnb|伊藤聡|2012|p=}} {{要ページ番号|date=2019年10月19日}}</ref>。[[奈良時代]]初頭から[[神社]]において[[神宮寺]]が建立され始め、[[霊亀]]元年({{small|[[ユリウス暦]]:}}[[715年]])には[[越前国]]の[[氣比神宮|気比大神]]が、また、[[鹿島神宮]]・[[賀茂神社]]・[[伊勢神宮]]などで神宮寺が併設された<ref name="{{Sfn|伊藤聡|2012|p=}}" />。また、[[宇佐神宮|宇佐八幡神]]のように[[神体]]が[[菩薩]]形をとる神(僧形八幡神)も現れた<ref name="{{Sfn|伊藤聡|2012|p=}}" />。奈良時代後半には、[[伊勢国]][[桑名郡]]の現地豪族の[[氏神]]である[[多度大社|多度大神]]が、神の身を捨てて仏道の[[修行]]をしたいと[[託宣]]するなど、神宮寺建立は地方にまで広がり、[[若狭国]]の[[若狭彦神社|若狭彦大神]]や[[近江国]]の[[奥津島神社|奥津島大神]]など、他国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示した<ref name="{{Sfn|伊藤聡|2012|p=}}" />。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに神宮寺が建てられ、神前で[[読経]]がなされた<ref name="{{Sfn|伊藤聡|2012|p=}}" />。また、神の存在は元々不可視であり、[[依り代]]によって知ることのできるものであったが、[[神像]]の造形によって神の存在を表現するようになった<ref name="{{Sfn|伊藤聡|2012|p=}}" />。 [[平安時代]]になり、「日本の神は[[護法善神]]である」とする[[神仏習合]]思想が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神([[権現]])を祀る神社が営まれるようになった。 また、『[[太平記]]』などの[[軍記物]]、[[歌学]]書やその[[注釈]]、寺社[[縁起]]などで、『[[日本書紀]]』に依りながら内容が大きく異なる「'''中世神話'''([[中世日本紀]])」が発達した。中世神話では[[本地垂迹]]説により記紀の神々が仏教の尊格と同一視されたり、あるいは対等に扱われる。記紀にはない神格やアイテムが登場したり、地方神話、民間伝承や芸能の要素の混入もみられる。記紀神話のように内容を統一する文献は編纂されなかったため、バリエーションは豊富である。中世神話は現在では[[国文学]]方面で研究されており、[[神話学]]などではあまり扱われない。 == 近世 == [[近世]]になると、[[本居宣長]]が『[[古事記]]』の本格的解明を目指し『[[古事記伝]]』を著し、日本神話といえば『日本書紀』の内容が主に伝わっていたのが一変し、『古事記』の内容が主に伝えられるようになった。 また、少数ではあるが、[[キリシタン]]や[[幕末]]の[[新宗教]]の教説にも独自の神話がみられる。 == 研究 == {{Main|日本の神話学}} [[江戸時代]]までは[[官選]]の[[正史]]として記述された『[[日本書紀]]』のほうが重要視され、『[[古事記]]』はあまり重視されていなかった。江戸時代中期以降、[[本居宣長]]の『[[古事記伝]]』など[[国学]]の発展によって、『日本書紀』よりも古く、かつ、[[漢文]]だけでなく[[大和言葉]]も交えて書かれた『古事記』のほうが重視されるようになり、現在に至っている。 現在は、[[神話学]]・[[比較神話学]]・[[民俗学]]・[[考古学]]・[[人類学]]・[[歴史学]]等の領域で研究などがされている。また、日本神話の原形となったと思われる逸話や日本神話と類似点を持つ神話は、[[ギリシア神話]]など世界中に多数存在する。日本における[[古墳時代]]から[[奈良時代]]にかけての国の勢力関係をも知るうえでの参考資料ともなっている。{{要出典|date=2022年5月}} [[明治]]時代以降は、[[比較神話学]]の観点から、[[高木敏雄]](1876年-1922年)が1943年と1944年(昭和18年と19年)に『日本神話伝説の研究』{{Sfn|高木|1973}}{{Sfn|高木|1974}}にまとめられた研究をすすめた。高木は[[柳田國男]]や[[折口信夫]]らとも交流があり、柳田・折口らによる[[民俗学]]においても日本神話の研究が展開した。[[日本の神話学]]においてはほかに[[松村武雄]]・[[松本信広]]らの研究がある。 [[第二次世界大戦]][[戦後|後]]の代表的な研究者には、[[大林太良]]・[[吉田敦彦]]らがいる。 === 比較神話学における研究事例 === [[吉田敦彦]]は、1974年(昭和49年)に刊行した『ギリシァ神話と日本神話 比較神話学の試み』{{Sfn|吉田|1974a}}『日本神話と印欧神話』{{Sfn|吉田|1974b}}をはじめ、以降、『日本神話の源流』{{Sfn|吉田|2007}}、『ヤマトタケルと大国主 比較神話学の試み3』{{Sfn|吉田|1979}}、『アマテラスの原像 スキュタイ神話と日本神話』{{Sfn|吉田|1980}}、『日本の神話伝説』{{Sfn|吉田・古川|1996}}などの一連の比較神話学研究において、日本神話を他の国・地域の神話と比較分析している。 * [[神武東征]]と[[トゥアハ・デ・ダナーン|トゥアサ・デー・ダナン]]の[[アイルランド]]征服神話{{Sfn|吉田|1979}} * [[応神天皇]]伝説とインド=ヨーロッパ語族神話の太陽神生誕神話{{Sfn|吉田|1979}} ** [[オセット]]の[[ソスラン]]誕生神話と[[オシホミミ]]{{Sfn|吉田|1979}} ==== 琉球神話との比較 ==== {{Main|琉球神道}} 日本神話と琉球神話との比較は[[伊波普猷]]によって始められた。伊波は、1904年(明治37年)に発表し1942年(昭和17年)に改稿した「琉球の神話」の中で、『中山世鑑』の起源神話と『[[古事記]]』の[[オノゴロ島|淤能碁呂島]]神話、『宮古島旧記』の神婚説話と[[三輪山]]神話などの類似を指摘している{{Refnest|group=注|「琉球の神話」は伊波普猷が1904年(明治37年)に『史学界』に発表した後、1904年(明治37年)に『古琉球』へ所載された。『古琉球』の第4版を出すに当たり1942年(昭和17年)に改稿。『伊波普猷全集 第1巻』1974年(昭和49年){{Sfn|伊波他|1974}}に所収。}}。伊波の研究は後述する[[松本信廣]]の[[ポリネシア神話]]との比較研究を経て、[[大林太良]]らによって展開された。 大林は、日本神話と[[奄美地方|奄美]]や[[沖縄地方|沖縄]]の島々に伝承されている民間説話について、「流れ島」「天降る始祖」「死体化生」「海幸彦」に関する伝承神話を比較検討し{{Sfn|上田|1970a}}、南西諸島の神話伝承は、基本モチーフと構造においては記紀神話と大幅な一致を見せるが、神名等においては一致しないことから、記紀にまとめられる前の共通の神話体系の母体から分かれて[[南西諸島]]で保存された可能性を指摘している。 [[伊藤幹治]]は、日本と琉球の神話を比較し、漂える国(島)や天界出自の原祖、[[ヒルコ]]、穂落としなどのモチーフが共通して認められるとしながら、「風による妊娠」「原祖の地中からの出現」「原祖の漂着」「犬祖」などは琉球神話にしか見られず、また、穀物神話の死体化生モチーフは日本神話にしか見られないと指摘している{{Sfn|伊藤幹治|1977}}。 遠藤庄治は、[[宮古列島]]の[[来間島]]豊年祭の由来譚が日光感精による処女懐胎であることを説明し、『日本書紀』神代巻冒頭の天地が分かれる以前は鶏子のごとくであったとする条と[[アメノヒボコ#古事記|天日槍伝承]]に見られる卵生のモチーフが、来間島では豊年祭の由来として現在も語り継がれていると指摘している{{Sfn|琉球の宗教儀礼と日本神話|1977}}。 ==== 日本の天地開闢神話とポリネシアの創世神話 ==== {{Anchors|日本開闢神話とポリネシア創世神話}} [[1931年]](昭和6年)、[[松本信廣]]は『日本神話の研究』の中で、{{仮リンク|ローランド・ディクソン|en|Roland B. Dixon}}が[[ポリネシア神話]]を分類するために設定した2つの図式「進化型」と「創造型」を用い、[[天地開闢 (日本神話)|日本の天地開闢神話]]をポリネシアの[[創造神話|創世神話]]の「進化型」と「創造型」の複合形であり、[[イザナギ]]・[[イザナミ]]神話から以降は「創造型」の形式を受け継いでいるものではないかとの説を発表した。 * 進化型は「系図型」ともいわれ、最初独化神が連続し、これが宇宙の進化の各段階を象徴する。のちに夫婦神が現れて、最後に生まれた陰陽二神より万物が誕生したという筋の神話の型である。 * 創造型は、最初神々は天上の世界に住み、その下には広々とした大海が横たわっているのみである。そこへある神が石を投げ込むと、それが最後には大地となり、その上に天上の者が下り、ついで人間が現れるという筋の神話の型である。 なお、松本は日本神話とポリネシア神話を比較するうえで[[琉球]]の神話(''cf.'' [[琉球神道]])も重要視し、琉球の古神話がイザナギ・イザナミ神話の一異体であり、日本神話が琉球を通して遠く南方の創造型神話と関連を持っているとした{{Sfn|松本|1971a}}。松本による日本神話と汎太平洋神話との比較は日本の[[比較民族学]]上の定説になっている{{Sfn|伊藤幹治|1977}}。 また、[[岡正雄]]による日本の天地開闢神話の研究は日本神話の系譜に関する[[歴史民族学]]的研究を活発化し、その後、[[大林太良]]によって具体的に展開された{{Sfn|伊藤幹治|1977}}。大林によれば、天地開闢神話以外の[[オオゲツヒメ]]・モチーフや[[ホデリ|海幸彦]]・[[ホオリ|山幸彦]]モチーフも南西諸島の神話に存している{{Sfn|上田|1970a}}。 そのほか、{{誰|date=2019年10月21日}}によって以下の事例がこれまでに指摘されている。 * [[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]の説話と神武天皇の遠征の類似。 * イザナギとイザナミは兄妹であるが、人類の始祖たる男女が兄妹であったとする神話は[[南アジア]]から[[ポリネシア]]にかけて広くみられる。 * イザナミは「最初の死人」となり「死の国を支配する神」となったが、「最初の死人」が「死の国を支配する神」となる話は[[エジプト神話]]の[[オシリス]]や[[インド神話]]の[[閻魔#インドの「ヤマ」|ヤマ]]などにみられる。 * [[因幡の白兎]]が海を渡るのに[[和邇 (神話)|ワニ]]([[サメ]]説あり)を騙して利用する話があるが、動物が違えど似た内容の昔話が南方の島にある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} ; Googleマップ {{Reflist|group="gm"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2018年11月|section=1}}<!--※推奨される出典の例:{{Sfn|伊藤聡|2012|p=ページ番号}}--> * <!--いとう さとし-->{{Cite book |和書 |author=伊藤聡|authorlink=伊藤聡 |date=2012-04-24 |title=神道とは何か─神と仏の日本史 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] 2158 |isbn=978-4-12-102158-8 |ref={{SfnRef|伊藤聡|2012}} }} * {{Cite book |和書 |author=講座日本の神話 編集部 |date=1977-03 |title=講座日本の神話 10 日本神話と琉球 |publisher=[[有精堂出版]] |series=講座日本の神話 |isbn=978-4-640-30710-1 }} ** <!--いとう みきはる-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|伊藤幹治|1977}} |reference=[[伊藤幹治]]「日本神話と琉球神話」 }} ** {{Wikicite |ref={{SfnRef|琉球の宗教儀礼と日本神話|1977}} |reference=遠藤庄治「琉球の宗教儀礼と日本神話」}}<!--※本来は{{SfnRef|編著者名|1977}}とすべきところです。上の出典と同じ伊藤幹治の場合は刊行年の「1977」にaとbを付けて区別します。????には編著者名を入れます。--> * <!--いのうえ-->{{Cite book |和書 |author=井上順孝 編著|authorlink=井上順孝 |date=2006-12-04 |title=神道-絵と文章でわかりやすい!- |edition=初版 |publisher=[[ナツメ社]] |series=[[図解雑学シリーズ|図解雑学]] |isbn=978-4-8163-4062-8 |ref={{SfnRef|井上|2006}} }} * <!--いは ふゆう-->{{Cite book |和書 |author1=伊波普猷|authorlink1=伊波普猷|author2=服部四郎|authorlink2=服部四郎|author3=仲宗根政善|authorlink3=仲宗根政善|author4=外間守善|authorlink4=外間守善|date=1974 |title=伊波普猷全集〈第1巻〉|publisher=[[平凡社]] |asin=B000J9EDSC |ref={{SfnRef|伊波他|1974}} }} * <!--うえだ-->{{Cite book |和書 |author=上田正昭|authorlink=上田正昭 |date=1970-04-25 |title=日本神話 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] 748 |asin=B000J9BTA2 |ref={{SfnRef|上田|1970}} }} ** {{Wikicite |ref={{SfnRef|上田|1970a}} |reference=「記紀の神話と南西諸島の伝承 六、結論」}} * {{Cite book |和書 |date=1972-04-25 |title=[[世界大百科事典]] |publisher=平凡社 |volume=第23巻 |asin=B00H4SUOEI |ref={{SfnRef||1972}} }} ** <!--うえだ-->{{Wikicite |ref={{SfnRef|上田|1972}} |reference=上田正昭「日本神話」}} * <!--おおばやし-->{{Cite book |和書 |author=大林太良|authorlink=大林太良 |date=1966-03-01 |title=神話学入門 |edition= |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] 96 |isbn=978-4-12-100096-5 |ref={{SfnRef|大林|1966}} }} * {{Cite book |和書 |author=大林太良 |date=1986-11 |title=神話の系譜―日本神話の源流をさぐる |publisher=[[青土社]] |ref={{SfnRef|大林|1986}} }} ** {{Cite book |和書 |author=大林太良 |date=1991-02-01 |title=神話の系譜―日本神話の源流をさぐる |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] 957 |isbn=978-4-06-158957-5 }} * <!--たかぎ-->{{Cite book |和書 |author=高木敏雄|authorlink=高木敏雄 |editor=大林太良|editor-link=大林太良 |date=1973-01-01 |title=日本神話伝説の研究 1 |edition=増訂版 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|publisher=[[弘文堂]] |asin=B000J9AH8W |ref={{SfnRef|吉田|1974b}} }} * {{Cite book |和書 |author=吉田敦彦 |date=1979-01 |title=ヤマトタケルと大国主―比較神話学の試み 3 |edition= |publisher=みすず書房 |series= |isbn=978-4-6220-0220-8 |ref={{SfnRef|吉田|1979}} }} * {{Cite book |和書 |author=吉田敦彦 |date=1980-08 |title=アマテラスの原像―スキュタイ神話と日本神話 |publisher=青土社 |asin=B000J80F0I |ref={{SfnRef|吉田|1980}} }} * {{Cite book |和書 |author=吉田敦彦 |author2=古川のり子 |date=1996-06-01 |title=日本の神話伝説 |publisher=青土社 |isbn=978-4-7917-5468-7 |ref={{SfnRef|吉田・古川|1996}} }} * {{Cite book |和書 |author=吉田敦彦 |date=2007-05-12 |title=日本神話の源流 |publisher=講談社 |series=講談社学術文庫 1820 |isbn=978-4-06-159820-1 |ref={{SfnRef|吉田|2007}} }} == 関連文献 == <!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。書籍の宣伝はおやめ下さい。--> * {{Cite book |和書 |author=ふじたみつ(藤田ミツ)|date=2009-01 |title=[[かみさまのおはなし]] にっぽんのしんわ 1 くにうみのまき |origdate=1966 |publisher=数学研究社 |isbn=978-4-318-09025-0 |ref={{SfnRef|藤田|1966}} }} * {{Cite book |和書 |author=ふじたみつ(藤田ミツ)|date=2009-09-28 |title=かみさまのおはなし にっぽんのしんわ 2 いずものかみさまのまき |origdate=1966 |publisher=数学研究社 |isbn=978-4-318-09026-7 |ref={{SfnRef|藤田|1966}} }} * {{Cite book |和書 |author=ふじたみつ(藤田ミツ)|date=2009-01 |title=かみさまのおはなし にっぽんのしんわ 3 三つのたからもののまき |origdate=1966 |publisher=数学研究社 |isbn=978-4-318-09027-4 |ref={{SfnRef|藤田|1966}} }} == 関連項目 == {{Wikiquote|日本神話}} * [[日本の神の一覧]] * [[古史古伝]] {{日本関連の項目}} {{日本神話}} {{日本史と日本神話の歴史的時代区分}} {{神道 横}} {{神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にほんしんわ}} [[Category:日本神話|*]] [[Category:アジアの神話]]
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Java仮想マシン
Java仮想マシン(ジャバかそうマシン、英語: Java virtual machine、Java VM、JVM)は、Javaバイトコードとして定義された命令セットを実行するスタック型の仮想マシン。APIやいくつかのツールとセットでJava実行環境(JRE)としてリリースされている。この環境を移植することで、さまざまな環境でJavaのプログラムを実行することができる。 (12、C6 などの数値は16進法表記) エンタープライズ用(デスクトップ用を包含)としては、オラクル、IBM、HPなどの各社から実装系がリリースされている。OS上でアプリケーションとして動作する形態が一般的である。 Windowsにも標準でJava仮想マシンが実装されていたが、マイクロソフトがサン・マイクロシステムズとの契約に反して自社仕様の拡張機能を付加したため、Windows XP以降のOSではJavaの技術使用ライセンスを失った。 また、オープンソースコミュニティの手によってIKVM.NETという共通言語ランタイム上で動作するJava仮想マシンの実装も進められている。 変わった試みとしてGNU SmalltalkのVM上で構築されたJava仮想マシンが存在する。 picoJava, Jazelle などJava仮想マシンの命令がハードウェア実装されたプロセッサ、すなわちバイトコードを直接実行可能なプロセッサも存在する。 最初のJava仮想マシンの実装(JDK 1.0)はインタプリタ型であったため、動作速度が他のアプリケーションに比べて遅い場合があった。そのため、メソッドの実行直前(Just in Time)にバイトコードをCPUのネイティブコードにコンパイルして実行する形式(JITコンパイラ)を、ボーランドや IBMなどがリリースした。サン・マイクロシステムズの実装もJDK 1.1からJITコンパイラを搭載した。 加えて、JDK 1.2から、サン・マイクロシステムズはHotSpotという高速化技術を導入した。HotSpotはJITコンパイラの一種だが、常にJITコンパイルを行うのではなく、実行回数が規定回数を超えたメソッド (Hotspot) のみをJITコンパイルする。これにより、JITコンパイルによる無駄なリソースの消費を防いだり、インタプリタ実行時のプロファイリング情報をJITコンパイル利用できる利点がある。HotSpotには用途別に、クライアントVM(コンパイルは高速だが生成されるネイティブコードが相対的にあまり最適化されない)と、サーバVM(コンパイルは低速だが生成されるネイティブコードが相対的により最適化される)がある。
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Java仮想マシンは、Javaバイトコードとして定義された命令セットを実行するスタック型の仮想マシン。APIやいくつかのツールとセットでJava実行環境(JRE)としてリリースされている。この環境を移植することで、さまざまな環境でJavaのプログラムを実行することができる。
[[ファイル:Java virtual machine architecture.svg|thumb|350px|Java仮想マシン(JVM)の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]概要。ソースコードは一旦[[Javaバイトコード]]へとコンパイルされ、さらに[[インタプリタ]]または[[実行時コンパイラ|JITコンパイラ]]により[[機械語|ネイティブコード]]に変換されて実行される。Java APIとJVMの両者でJava実行環境(JRE)を構成する。]] '''Java仮想マシン'''(ジャバかそうマシン、{{Lang-en|Java virtual machine}}、{{lang|en|Java VM}}、JVM)は、[[Javaバイトコード]]として定義された命令セットを実行する[[スタック]]型の[[仮想機械|仮想マシン]]。[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]やいくつかのツールとセットで[[Java Runtime Environment|Java実行環境]](JRE)としてリリースされている。この環境を移植することで、さまざまな環境でJavaの[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を実行することができる。 == 命令セット仕様 == === ニーモニック表 === (12、C6 などの数値は16進法表記) {| class="wikitable" style="font-size:x-small; font-family:monospace;" |- ! &nbsp; !! -0 !! -1 !! -2 !! -3 !! -4 !! -5 !! -6 !! -7 !! -8 !! -9 !! -A !! -B !! -C !! -D !! -E !! -F |- ! 0- | 00<br />nop | 01<br />aconst_null | 02<br />iconst_m1 | 03<br />iconst_0 | 04<br />iconst_1 | 05<br />iconst_2 | 06<br />iconst_3 | 07<br />iconst_4 | 08<br />iconst_5 | 09<br />lconst_0 | 0A<br />lconst_1 | 0B<br />fconst_0 | 0C<br />fconst_1 | 0D<br />fconst_2 | 0E<br />dconst_0 | 0F<br />dconst_1 |- ! 1- | 10<br />bipush | 11<br />sipush | 12<br />ldc | 13<br />ldc_w | 14<br />ldc2_w | 15<br />iload | 16<br />lload | 17<br />fload | 18<br />dload | 19<br />aload | 1A<br />iload_0 | 1B<br />iload_1 | 1C<br />iload_2 | 1D<br />iload_3 | 1E<br />lload_0 | 1F<br />lload_1 |- ! 2- | 20<br />lload_2 | 21<br />lload_3 | 22<br />fload_0 | 23<br />fload_1 | 24<br />fload_2 | 25<br />fload_3 | 26<br />dload_0 | 27<br />dload_1 | 28<br />dload_2 | 29<br />dload_3 | 2A<br />aload_0 | 2B<br />aload_1 | 2C<br />aload_2 | 2D<br />aload_3 | 2E<br />iaload | 2F<br />laload |- ! 3- | 30<br />faload | 31<br />daload | 32<br />aaload | 33<br />baload | 34<br />caload | 35<br />saload | 36<br />istore | 37<br />lstore | 38<br />fstore | 39<br />dstore | 3A<br />astore | 3B<br />istore_0 | 3C<br />istore_1 | 3D<br />istore_2 | 3E<br />istore_3 | 3F<br />lstore_0 |- ! 4- | 40<br />lstore_1 | 41<br />lstore_2 | 42<br />lstore_3 | 43<br />fstore_0 | 44<br />fstore_1 | 45<br />fstore_2 | 46<br />fstore_3 | 47<br />dstore_0 | 48<br />dstore_1 | 49<br />dstore_2 | 4A<br />dstore_3 | 4B<br />astore_0 | 4C<br />astore_1 | 4D<br />astore_2 | 4E<br />astore_3 | 4F<br />iastore |- ! 5- | 50<br />lastore | 51<br />fastore | 52<br />dastore | 53<br />aastore | 54<br />bastore | 55<br />castore | 56<br />sastore | 57<br />pop | 58<br />pop2 | 59<br />dup | 5A<br />dup_x1 | 5B<br />dup_x2 | 5C<br />dup2 | 5D<br />dup2_x1 | 5E<br />dup2_x2 | 5F<br />swap |- ! 6- | 60<br />iadd | 61<br />ladd | 62<br />fadd | 63<br />dadd | 64<br />isub | 65<br />lsub | 66<br />fsub | 67<br />dsub | 68<br />imul | 69<br />lmul | 6A<br />fmul | 6B<br />dmul | 6C<br />idiv | 6D<br />ldiv | 6E<br />fdiv | 6F<br />ddiv |- ! 7- | 70<br />irem | 71<br />lrem | 72<br />frem | 73<br />drem | 74<br />ineg | 75<br />lneg | 76<br />fneg | 77<br />dneg | 78<br />ishl | 79<br />lshl | 7A<br />ishr | 7B<br />lshr | 7C<br />iushr | 7D<br />lushr | 7E<br />iand | 7F<br />land |- ! 8- | 80<br />ior | 81<br />lor | 82<br />ixor | 83<br />lxor | 84<br />iinc | 85<br />i2l | 86<br />i2f | 87<br />i2d | 88<br />l2i | 89<br />l2f | 8A<br />l2d | 8B<br />f2i | 8C<br />f2l | 8D<br />f2d | 8E<br />d2i | 8F<br />d2l |- ! 9- | 90<br />d2f | 91<br />i2b | 92<br />i2c | 93<br />i2s | 94<br />lcmp | 95<br />fcmpl | 96<br />fcmpg | 97<br />dcmpl | 98<br />dcmpg | 99<br />ifeq | 9A<br />ifne | 9B<br />iflt | 9C<br />ifge | 9D<br />ifgt | 9E<br />ifle | 9F<br />if_icmpeq |- ! 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D- | D0<br />未定義 | D1<br />未定義 | D2<br />未定義 | D3<br />未定義 | D4<br />未定義 | D5<br />未定義 | D6<br />未定義 | D7<br />未定義 | D8<br />未定義 | D9<br />未定義 | DA<br />未定義 | DB<br />未定義 | DC<br />未定義 | DD<br />未定義 | DE<br />未定義 | DF<br />未定義 |- ! E- | E0<br />未定義 | E1<br />未定義 | E2<br />未定義 | E3<br />未定義 | E4<br />未定義 | E5<br />未定義 | E6<br />未定義 | E7<br />未定義 | E8<br />未定義 | E9<br />未定義 | EA<br />未定義 | EB<br />未定義 | EC<br />未定義 | ED<br />未定義 | EE<br />未定義 | EF<br />未定義 |- ! F- | F0<br />未定義 | F1<br />未定義 | F2<br />未定義 | F3<br />未定義 | F4<br />未定義 | F5<br />未定義 | F6<br />未定義 | F7<br />未定義 | F8<br />未定義 | F9<br />未定義 | FA<br />未定義 | FB<br />未定義 | FC<br />未定義 | FD<br />未定義 | FE<br />impdep1 | FF<br />impdep2 |} === オペコード解説 === {{記事参照|オペコード}} ==== スタック ==== * <tt>bipush</tt>、 <tt>sipush</tt> - <tt>byte</tt>値、 <tt>short</tt>値をスタックに積む。 * <tt>ldc</tt> - コンスタントプール内の4バイトの定数(<tt>int</tt>値、<tt>float</tt>値、<tt>java.lang.String</tt>)の内1バイト以内でエントリ番号を指定できるものをスタックに積む。 * <tt>ldc_w</tt> - エントリ番号が1バイトでは足りないときに使う。 * <tt>ldc2_w</tt> - コンスタントプール内の8バイトの定数(<tt>long</tt>値、<tt>double</tt>値)をスタックに積む。 * <tt>iconst_m1</tt>、 <tt>iconst_0</tt>、 <tt>iconst_1</tt>、 <tt>iconst_2</tt>、 <tt>iconst_3</tt>、 <tt>iconst_4</tt>、 <tt>iconst_5</tt> - <tt>int</tt>の<tt>-1</tt>、<tt>0</tt>、<tt>1</tt>、<tt>2</tt>、<tt>3</tt>、<tt>4</tt>、<tt>5</tt>をスタックに積む。 * <tt>lconst_0</tt>、 <tt>lconst_1</tt> - <tt>long</tt>の<tt>0</tt>、<tt>1</tt>をスタックに積む * <tt>fconst_0</tt>、 <tt>fconst_1</tt>、 <tt>fconst_2</tt> - <tt>float</tt>の<tt>0</tt>、<tt>1</tt>、<tt>2</tt>をスタックに積む * <tt>dconst_0</tt>、 <tt>dconst_1</tt> - <tt>double</tt>の<tt>0</tt>、<tt>1</tt>をスタックに積む。 * <tt>aconst_null</tt> - スタックに<tt>null</tt>を積む。 * <tt>pop</tt>、 <tt>pop2</tt> - スタックから1、2ワード取り除く * <tt>dup</tt>、 <tt>dup2</tt> * <tt>dup_x1</tt>、 <tt>dup2_x1</tt> * <tt>dup_x2</tt>、 <tt>dup2_x2</tt> * <tt>swap</tt> ==== 局所変数 ==== * <tt>iload</tt>、 <tt>lload</tt>、 <tt>fload</tt>、 <tt>dload</tt>、 <tt>aload</tt> - 局所変数から<tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値、 参照値を取り出してスタックに積む。 * <tt>iload_0</tt>、 <tt>iload_1</tt>、 <tt>iload_2</tt>、 <tt>iload_3</tt> - 0、1、2、3番目の局所変数から<tt>int</tt>値を取り出してスタックに積む。 * <tt>lload_0</tt>、 <tt>lload_1</tt>、 <tt>lload_2</tt>、 <tt>lload_3</tt> - 0、1、2、3番目の局所変数から<tt>long</tt>値を取り出してスタックに積む。 * <tt>fload_0</tt>、 <tt>fload_1</tt>、 <tt>fload_2</tt>、 <tt>fload_3</tt> - 0、1、2、3番目の局所変数から<tt>float</tt>値を取り出してスタックに積む。 * <tt>dload_0</tt>、 <tt>dload_1</tt>、 <tt>dload_2</tt>、 <tt>dload_3</tt> - 0、1、2、3番目の局所変数から<tt>double</tt>値を取り出してスタックに積む。 * <tt>aload_0</tt>、 <tt>aload_1</tt>、 <tt>aload_2</tt>、 <tt>aload_3</tt> - 0、1、2、3番目の局所変数から参照値を取り出してスタックに積む。 * <tt>istore</tt>、 <tt>lstore</tt>、 <tt>fstore</tt>、 <tt>dstore</tt>、 <tt>astore</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値、 参照値を局所変数に格納。 * <tt>istore_0</tt>、 <tt>istore_1</tt>、 <tt>istore_2</tt>、 <tt>istore_3</tt> - <tt>int</tt>値を0、1、2、3番目の局所変数に格納する。 * <tt>lstore_0</tt>、 <tt>lstore_1</tt>、 <tt>lstore_2</tt>、 <tt>lstore_3</tt> - <tt>long</tt>値を0、1、2、3番目の局所変数に格納する。 * <tt>fstore_0</tt>、 <tt>fstore_1</tt>、 <tt>fstore_2</tt>、 <tt>fstore_3</tt> - <tt>float</tt>値を0、1、2、3番目の局所変数に格納する。 * <tt>dstore_0</tt>、 <tt>dstore_1</tt>、 <tt>dstore_2</tt>、 <tt>dstore_3</tt> - <tt>double</tt>値を0、1、2、3番目の局所変数に格納する。 * <tt>astore_0</tt>、 <tt>astore_1</tt>、 <tt>astore_2</tt>、 <tt>astore_3</tt> - 参照値を0、1、2、3番目の局所変数に格納する。 ==== 条件付きジャンプ ==== * <tt>ifeq</tt>、 <tt>ifnull</tt>、 <tt>iflt</tt>、 <tt>ifle</tt>、 <tt>ifne</tt>、 <tt>ifnonnull</tt>、 <tt>ifgt</tt>、 <tt>ifge</tt> - スタックの値が0、 <tt>null</tt>、 0未満、 0以下、 0以外、 <tt>null</tt>以外、 <tt>0</tt>より大きい、 <tt>0</tt>以上の場合に指定の番地に制御を移す。 * <tt>if_icmpeq</tt>、 <tt>if_icmpne</tt>、 <tt>if_icmplt</tt>、 <tt>if_icmpgt</tt>、 <tt>if_icmple</tt>、 <tt>if_icmpge</tt> - 2つの<tt>int</tt>値が等しい、等しくない、<、>、≦、≧の場合に指定の番地に制御を移す。 * <tt>if_acmpeq</tt>、 <tt>if_acmpne</tt> - 2つの参照値が等しい、等しくない場合に指定の番地に制御を移す。 ==== ジャンプ ==== * <tt>goto</tt>、 <tt>goto_w</tt> - それぞれ2バイト形式(符号付き16ビット)、4バイト形式(符号付き32ビット)でもつ相対番地をこの命令の番地に加えた番地に制御を移す(JavaにGO TO命令はなくても、このようにJava仮想マシンにgoto命令はある)。 * <tt>jsr</tt>、 <tt>jsr_w</tt> - サブルーチンの先頭に制御を移す。<tt>goto</tt>と違い、戻り番地を保存する。戻り番地の値はそれぞれ、制御を移す前の番地+3、制御を移す前の番地+5となる。 * <tt>ret</tt> - サブルーチンから呼び出し元の戻り番地に制御を移す。番地が格納されている局所変数を指定する。 * <tt>lookupswitch</tt> - <tt>switch</tt>文の<tt>case</tt>式の値が不連続である場合に、値を探しながら飛び越し先を探し、飛び越しを行う。 * <tt>tableswitch</tt> - <tt>switch</tt>文の<tt>case</tt>式の値が連続である場合に、(キーがインデクス値、値が飛び越し先番地の)表を使って飛び越しを行う。(高速である) ==== メソッド呼び出し・復帰 ==== * <tt>invokevirtual</tt> - インスタンスメソッドを呼び出す。 * <tt>invokespecial</tt> - インスタンス初期化メソッド、プライベートメソッド、スーパークラスのインスタンスメソッドを呼び出す。 * <tt>invokestatic</tt> - クラスメソッドを呼び出す * <tt>invokeinterface</tt> - インターフェイスメソッドを呼び出す。 * <tt>return</tt> - スタックに値を残さずに、呼び出し元の戻り番地に制御を移す。 * <tt>ireturn</tt>、 <tt>lreturn</tt>、 <tt>freturn</tt>、 <tt>dreturn</tt>、 <tt>areturn</tt> - スタックに <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値を残して、サブルーチンの呼び出し元の戻り番地に制御を移す。 ==== 型キャスト ==== * <tt>checkcast</tt> - 参照値が指し示すインスタンスの型を確認。 * <tt>instanceof</tt> - スタックから参照値を<tt>pop</tt>し、それが指定された型と同じであれば<tt>1</tt>を、異なれば<tt>0</tt>をスタックに積む。 * <tt>i2l</tt>、 <tt>i2f</tt>、 <tt>i2d</tt>、 <tt>i2b</tt>、 <tt>i2c</tt>、 <tt>i2s</tt> - <tt>int</tt>値を<tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値、 <tt>byte</tt>値、 <tt>char</tt>値、 <tt>short</tt>値に変換したものをスタックに残す。 * <tt>l2i</tt>、 <tt>l2f</tt>、 <tt>l2d</tt> - <tt>long</tt>値を<tt>int</tt>値に、 <tt>float</tt>値に、 <tt>double</tt>値に変換したものをスタックに残す。 * <tt>f2i</tt>、 <tt>f2l</tt>、 <tt>f2d</tt> - <tt>float</tt>値を<tt>int</tt>値に、 <tt>long</tt>値に、 <tt>double</tt>値に変換したものをスタックに残す。 * <tt>d2i</tt>、 <tt>d2l</tt>、 <tt>d2f</tt> - <tt>double</tt>値を<tt>int</tt>値に、 <tt>long</tt>値に、 <tt>float</tt>値に変換したものをスタックに残す。 ==== 比較演算 ==== * <tt>dcmpg</tt>、 <tt>dcmpl</tt> - <tt>double</tt>同士を比較し、<tt>1</tt>(大きい)、<tt>0</tt>(等しい)または<tt>-1</tt>(小さい)をスタックに残す。「-g」と「-l」の違いはオペランドがNaNだったときの扱いの差。(以下同様) * <tt>fcmpg</tt>、 <tt>fcmpl</tt> - <tt>float</tt>同士を比較する。 * <tt>lcmp</tt> - <tt>long</tt>同士を比較する。 ==== 算術演算 ==== * <tt>iinc</tt> - <tt>int</tt>の値を、符号付き1バイト(値の範囲は-128~127)の直接記述した定数だけ(符号付きで32ビットに拡張したうえで)増減する。 * <tt>iadd</tt>、 <tt>ladd</tt>、 <tt>fadd</tt>、 <tt>dadd</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値 で、スタックから取りだした第一の値に第二の値を加え、スタックに積む。 * <tt>isub</tt>、 <tt>lsub</tt>、 <tt>fsub</tt>、 <tt>dsub</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値 で、スタックから取りだした第一の値から第二の値を引き、スタックに積む。 * <tt>imul</tt>、 <tt>lmul</tt>、 <tt>fmul</tt>、 <tt>dmul</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値 で、スタックから取りだした第一の値に第二の値を掛け、スタックに積む。 * <tt>idiv</tt>、 <tt>ldiv</tt>、 <tt>fdiv</tt>、 <tt>ddiv</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値 で、スタックから取りだした第一の値を第二の値で割った商を、スタックに積む。 * <tt>irem</tt>、 <tt>lrem</tt>、 <tt>frem</tt>、 <tt>drem</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値 で、スタックから取りだした第一の値を第二の値で割った余り(value1 - (value1 / value2) * value2)を、スタックに積む。 * <tt>ineg</tt>、 <tt>lneg</tt>、 <tt>fneg</tt>、 <tt>dneg</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値 で、スタックから取りだした値の符号を反転した値(たとえば入力が123なら-123、-123なら123、0なら0)(すなわち[[2の補数]])をスタックに積む。 ==== 論理演算 ==== * <tt>ishl</tt>、 <tt>lshl</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値 を指定ビットだけ左にシフトした値をスタックに残す。 * <tt>ishr</tt>、 <tt>lshr</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値 を指定ビットだけ右に算術シフトした値をスタックに残す。負数はシフト後も負に維持される。 * <tt>iushr</tt>、 <tt>lushr</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt> を指定ビットだけ右に論理シフトした値をスタックに残す。 * <tt>iand</tt>、 <tt>land</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値 の2オペランドの<tt>AND</tt>(ビットごとの論理積)を求め、スタックに残す。 * <tt>ior</tt>、 <tt>lor</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt> の2オペランドの <tt>OR</tt>(ビットごとの論理和)を求め、スタックに残す。 * <tt>ixor</tt>、 <tt>lxor</tt> - <tt>int</tt>値、 <tt>long</tt> の2オペランドの<tt>XOR</tt>(ビットごとの排他的論理和)を求め、スタックに残す。 ==== オブジェクト ==== * <tt>new</tt> - インスタンスの生成 * <tt>putfield</tt>、 <tt>getfield</tt> - メンバ変数への値の代入、値の取り出し * <tt>putstatic</tt>、 <tt>getstatic</tt> - クラス変数への値の代入、値の取り出し ==== 配列 ==== * <tt>iaload</tt>、 <tt>laload</tt>、 <tt>faload</tt>、 <tt>daload</tt>、 <tt>aaload</tt>、 <tt>baload</tt>、 <tt>caload</tt>、 <tt>saload</tt> - 配列の指定された位置にある<tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、<tt>double</tt>値、参照値、<tt>byte</tt>または<tt>boolean</tt>値、<tt>char</tt>値、 <tt>short</tt>値をスタックに残す。 * <tt>iastore</tt>、 <tt>lastore</tt>、 <tt>fastore</tt>、 <tt>dastore</tt>、 <tt>aastore</tt>、 <tt>bastore</tt>、 <tt>castore</tt>、 <tt>sastore</tt> - 配列に<tt>int</tt>値、 <tt>long</tt>値、 <tt>float</tt>値、 <tt>double</tt>値、 参照値、 <tt>byte</tt>または<tt>boolean</tt>値、 <tt>char</tt>値、 <tt>short</tt>値を格納する。 * <tt>newarray</tt> - 数値や文字の配列を作成し、その参照値をスタックに残す。 * <tt>anewarray</tt> - 参照値の配列を作成し、その参照値をスタックに残す。 * <tt>multianewarray</tt> - 多次元配列を作成し、その参照値をスタックに残す。 * <tt>arraylength</tt> - 配列の長さを求め、スタックに残す。 ==== その他 ==== * <tt>athrow</tt> - <tt>java.lang.Throwable</tt>のインスタンスで例外やエラーを発生させる。 * <tt>[[NOP|nop]]</tt> - 何もしない ({{lang|en|no operation}})。 * <tt>breakpoint</tt> - デバッガがブレークポイントの実装に使える命令。 * <tt>monitorenter</tt> - オブジェクトのモニタをロックする。既に他のスレッドにロックされていれば待たされる。 * <tt>monitorexit</tt> - オブジェクトのモニタをアンロックする。他のスレッドのロック待ちは再度試行される。 * <tt>wide</tt> - ロード/ストア系命令や<tt>ret</tt>、<tt>iinc</tt>のインデックスを16ビットに拡張する。<tt>iinc</tt>では定数も16ビットに拡張する。 == 実装系 == エンタープライズ用(デスクトップ用を包含)としては、[[オラクル (企業)|オラクル]]、[[IBM]]、[[ヒューレット・パッカード|HP]]などの各社から実装系がリリースされている。[[オペレーティングシステム|OS]]上でアプリケーションとして動作する形態が一般的である。 [[Microsoft Windows|Windows]]にも標準でJava仮想マシンが実装されていたが、[[マイクロソフト]]が[[サン・マイクロシステムズ]]との契約に反して自社仕様の拡張機能を付加したため、[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]以降のOSではJavaの技術使用ライセンスを失った。 また、オープンソースコミュニティの手によって[[IKVM.NET]]という[[共通言語ランタイム]]上で動作するJava仮想マシンの実装も進められている。 変わった試みとしてGNU SmalltalkのVM上で構築されたJava仮想マシンが存在する。<ref>{{Cite web |url=https://github.com/gnu-smalltalk/smalltalk |title=smalltalk/packages/java at master · gnu-smalltalk/smalltalk |accessdate=2015年2月18日 |website=GitHub |language=en}}</ref> picoJava, Jazelle などJava仮想マシンの命令がハードウェア実装されたプロセッサ、すなわちバイトコードを直接実行可能なプロセッサも存在する。 === JITコンパイル === 最初のJava仮想マシンの実装(JDK 1.0)は[[インタプリタ]]型であったため、動作速度が他の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]に比べて遅い場合があった。そのため、メソッドの実行直前(Just in Time)にバイトコードを[[CPU]]のネイティブコードに[[コンパイル]]して実行する形式([[実行時コンパイラ|JITコンパイラ]])を、[[ボーランド]]や [[IBM]]などがリリースした。サン・マイクロシステムズの実装もJDK 1.1からJITコンパイラを搭載した。 加えて、JDK 1.2から、サン・マイクロシステムズは[[HotSpot]]という高速化技術を導入した。[[HotSpot]]はJITコンパイラの一種だが、常にJITコンパイルを行うのではなく、実行回数が規定回数を超えたメソッド (Hotspot) のみをJITコンパイルする。これにより、JITコンパイルによる無駄なリソースの消費を防いだり、インタプリタ実行時のプロファイリング情報をJITコンパイル利用できる利点がある。[[HotSpot]]には用途別に、クライアントVM(コンパイルは高速だが生成されるネイティブコードが相対的にあまり最適化されない)と、サーバVM(コンパイルは低速だが生成されるネイティブコードが相対的により最適化される)がある。 === スレッド === * [[グリーンスレッド]] - [[pthread]]等、OSが提供する[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]][[ライブラリ]]を直接使わずJavaで仮想的なスレッドを作り実行する形式。現在はあまり利用されていない。 * ネイティブスレッド - OSが提供するスレッドライブラリとJavaスレッドが1x1で対応する形式。 === ガベージコレクション === {{記事参照|ガベージコレクション}} * 世代別GC - [[ヒープ領域|ヒープ]]を2つ以上の世代に分割し、それぞれに異なるアルゴリズム(およびデータ構造)を適用する方式。 ==== GCアルゴリズム(データ構造) ==== * コピーGC * Mark & Sweep * Mostly Concurrent Mark & Sweep * Mark & Compact == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == {{Wikibooks|Java|Java}} *[[動作環境]] *[[Apache Harmony]] *[[Dalvik仮想マシン]] *[[HotSpot]] *[[IcedTea]] *[[IKVM.NET]] *[[Kaffe]] *[[leJOS]] *[[SableVM]] == 外部リンク == *[http://docs.oracle.com/javase/specs/jvms/se7/html/ The Java Virtual Machine Specification -Java SE 7 Edition-] {{En icon}} {{Java}} {{Java仮想マシン}} {{Sun Microsystems}} {{仮想化}} {{デフォルトソート:Javaかそうましん}} [[カテゴリ:Java仮想マシン|*]] [[カテゴリ:Java]] [[カテゴリ:Java specification requests]]
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2023-04-20T13:48:56Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Java%E4%BB%AE%E6%83%B3%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%B3
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ロードス島戦記
『ロードス島戦記』(ロードスとうせんき、英語: Record of Lodoss War)は、安田均原案・水野良著による日本のファンタジー小説シリーズである。 1986年からグループSNEによるテーブルトークRPG(TRPG)『Dungeons & Dragons』の誌上リプレイとしてパソコン雑誌『コンプティーク』に掲載された。出渕裕が描いたエルフをはじめとするイラストが人気を集めたこともあって、連載が進むに従い世界観やストーリー及びキャラクターへの人気が高まり、キャラクターを替えて第3部まで続く好評企画となった。 1988年、リプレイのDMである水野良による小説が角川文庫(1989年以降は角川スニーカー文庫)から刊行されて以降、多岐にわたるメディアミックス作品が発売されている。1991年にOVAにてアニメ化、翌1992年にハドソンより家庭用ゲームソフトも発売。1998年にはテレビ東京からテレビアニメシリーズが放送された。 リプレイや小説の他にもコミック、コンピューターゲームなど様々な媒体で発表され、2013年には『ロードス島戦記生誕25周年』を記念して、豪華単行本が発行された。小説は角川スニーカー文庫の名を世に広める立役者となり、ライトノベルからはじまるメディアミックスの草分けとなった。 なお舞台となる「ロードス島」と同名の島(ラテン文字表記ではRódos)がエーゲ海に実在するが、本作品との関連性はない。 前日譚に『ロードス島伝説』、続編に『新ロードス島戦記』があり、2019年8月1日には更なる続編『ロードス島戦記 誓約の宝冠』が発行された。 「呪われた島」ロードスを舞台に、英雄たちの興亡と冒険を描いたファンタジー物語である。 作品として最初に公表されたものは、1986年にパソコン雑誌『コンプティーク』に掲載されたテーブルトークRPG(TRPG)の紹介記事である。このグループSNEによる『Dungeons & Dragons』の誌上リプレイは、連載が進むに従い世界観やストーリー及びキャラクターへの人気が高まり、結果連載はキャラクターを替えて第3部まで続く好評企画となった。もともとロードス島とはグループSNEが『D&D』に限らずさまざまなテーブルトークRPGでキャンペーン・ゲームをするために用意した舞台で、オリジナルルールのほか、『ルーンクエスト』や『ドラゴンクエスト』でプレイされたこともあった。 リプレイ第1部と第2部は『Dungeons & Dragons』を使用していたが、版権上の問題が発生したため、第3部からはグループSNEオリジナルのTRPGルールによってプレイされている。この関係上、第1部と第2部の連載は単行本化されておらず、後にオリジナルルールで再プレイしたものがリプレイ本として発売されている。 リプレイの「DM(第3部ではGM)」であった水野良は1988年、このリプレイを基にした小説第1作『灰色の魔女』を刊行。以降、本シリーズと『ロードス島伝説』及び『新ロードス島戦記』を合わせた小説シリーズの累計発行部数は2005年に1000万部を超えるベストセラーとなっている。 その後コンピューターゲームやアニメーションでも発表され、多くのメディアでファンに親しまれる作品となっている。また後に、背景世界であるフォーセリアを舞台にした『ソード・ワールドRPG』などの数々の派生作品も展開されている。 日本国産ファンタジー作品として一定の成功を収め、またブームを一過性のものに終わらせず固定したファン層も確保し、その地位を不動のものにした。また、このジャンルの作品としてはほぼ初の(テーブルトークRPGを元にした作品としては間違いなく初の)大規模なメディアミックス展開を実施し、一定の成果を上げた作品となり、メディアミックス作品を含めて英語やフランス語、中国語などにも翻訳される。2008年にはアニマックスのアニメソングイベントで同作品のOP曲を歌って受賞した外国人も現れている。本作の魅力の一つであるビジュアル面は、出渕裕が担当した。出渕の誤解によりディードリットに採用されたエルフの「ロバのような長い耳」の描写は本シリーズの人気と相まって、日本のファンタジー作品における「エルフと言えば、長い耳」というイメージが定着した。水野も小説シリーズの中で「風切羽のような耳」という表現を用いている。 暗黒皇帝ベルドに率いられたマーモ帝国軍と、至高神ファリスを奉じる神聖王国ヴァリスを中心とする国々との戦い(英雄戦争)を背景として進む。 アラニア王国出身の若き戦士パーンは、亡き父と同じ騎士になる夢を求めて5人の仲間と共に冒険の旅に出た。その途中、英雄戦争の狭間で暗躍する「灰色の魔女」カーラの陰謀の一環であるフィアンナ姫誘拐事件に巻き込まれるも、フィアンナ姫の救出に成功し、自らの進むべき道を求めヴァリス王国に向かう。 そしてマーモ帝国とヴァリス王国の緊張が高まる中、カーラの思想がロードス島の平和と相容れないものであると悟ったパーンらは、六英雄の一人である大賢者ウォートに助力を求め、遂にカーラの居場所を突き止め魔女に挑む。 首都アラン、王城はストーン・ウェブ。ロードス島北東部に位置する。建国から400年以上と現存するロードス国家中では最古の歴史を誇り、千年王国(ミレニアム)と称せられる大国。 北西部でヴァリスとフレイム、南部でカノンと国境を接し、北部にマーファ大神殿やドワーフの「鉄の王国」がある。南西部国境には、近年まで通行不可能だった「帰らずの森」が広がっている。 精強な鉄網騎士団を擁し、更に騎士団以上と噂されるレンジャーで構成された遊撃隊と銀蹄騎士団と呼ばれる魔法戦士隊(魔法戦士はアラニア独自の特別な騎士。モスで言う所の竜騎士のようなもの)の二大部隊を有する軍事大国でもある。 ロードス島唯一の魔術師ギルドである「賢者の学院」があり、安定した国情を背景に古くから古代語魔法の研究が盛んであったが、英雄戦争時の混乱の中、学院から破門されたのを逆恨みしたバグナードの報復によって滅ぼされてしまった。 魔神戦争では神出鬼没の魔神に対して無為無策に終始し、逆に民衆を守るためにマーファ神官を中核に自然発生した自衛団と感情的に対立、大国ならではの腐敗の深刻さを露呈した。 英雄戦争時では当初旧カノン国境を閉鎖して対マーモ包囲網の一角を担い、ノービス伯アモスンを援軍としてヴァリス王国に派遣した(ノービスはアラニア第二の都市、北西部の中心でヴァリス・フレイム方面への交通の要衝)。しかし国王カドモス七世の実弟・ラスター公爵がマーモに唆されて野心に目覚め、兄王を暗殺したことで状況は急変。王都を中心に南部を支配して国王を僭称するラスターと、急遽ヴァリスからノービスへ戻ったアモスンの間で泥沼の後継者争いが勃発したことで英雄戦争どころではなくなり、長きにわたる内戦状態となる。 英雄戦争が一応の結末を迎えた後もアラニアでは内戦が続き、パーンの出身地ザクソン村を中心とする北部地域では両勢力から距離を置いた半独立的な自治組織が形成された。この自治運動には、この頃「北の賢者」と呼ばれるようになっていたスレインや、セシルなどスレインの弟子たちが関与していた。 邪神戦争時には、ラスターがアモスンを討ったことで内戦に勝利し、一旦は国内を統一した。しかしアモスンの遺児・ロベスがフレイムへ亡命し、自らを大義名分とするアラニア侵攻をフレイム国王カシューに要請した。カシューもアラニア経由での旧カノン領およびマーモ侵攻を目指したため利害が一致し、アラニアとフレイムの全面戦争が勃発した。長年内戦が続いていたアラニア軍は練度が高く、大規模な戦いが10年ほど絶えていたフレイム軍に大きな打撃を与えたが、フレーベ、ウォートという英雄たちがフレイム軍に加勢したこともあってアラニア軍は敗北。ラスターは国王殺しの罪で処刑され、ロベスII世が即位した。 国家への帰属意識が薄れていたザクソン自治領も、もともとアラニア貴族の血筋であったセシルが叙爵し、ザクソン伯爵領として併合された。しかし後にセシルは王都アランで不可解な死を遂げ、以降50年以上に亘ってザクソンを始めとする北部アラニアは新領主を拒否し、再び完全な自治状態になる。 王都ロイド。至高神ファリスを奉じる神聖王国で、国民の大半がファリス信者である。南部でカノン王国、東部でアラニア王国、北部でフレイム王国、西部でモスに接しており、文字通りロードス島の中心に位置している強国。 君主制ではあるが世襲は否定し、代々の国王は聖騎士団から選ばれることが慣例となっており、選出する際も過去に王を輩出していない血統が好まれる。「正義と秩序」の名の下に聖騎士団とファリス教団による果断な(ある意味では独善的な)政策を取ることが多い。魔神戦争時には当時のワーレン王が狂気と病に倒れ、後継者が決まらない王不在という異常事態であり、ついに聖騎士団もファリス教団も有効な対策を取り得なかった。魔神戦争後は「六英雄」の一人で、聖騎士団を抜けて単独で「百の勇者」に加わった「白き騎士」ファーンが即位した。 英雄戦争では「英雄王」ファーンを戴き、対マーモ連合の盟主として「暗黒皇帝」ベルドのロードス島統一の前に立ちはだかる。最終決戦で辛くも勝利するが、ファーン王の戦死をはじめ国が傾くほどの大打撃を蒙った。 その後を継いだエト王は、例外的に神官出身であるため「神官王」と呼ばれ、その治世下で国力の回復と旧領奪還に専念する。邪神戦争にも参戦したが、往年の国力にはまだ及ばず、また穏健なエト王の性格もあって、フレイム主導の戦いに加勢する形となる。 宿敵であるロードス最大の勢力ファラリス教団との戦いとなったマーモ島での最終決戦では、暗黒神降臨などの苛烈な反撃に遭い、聖騎士団の2/3と民兵の半数を失う大きな被害を受ける。また、最高司祭ショーデルによる暗黒神降臨の場に居合わせて石化を免れたのは、ファリスの強い加護に守られたエト王ただ一人であった。 終末戦争後にエト王は退位して聖職に専念し、代わってウィントンが国王に即位した。 首都ブレード、王城はアーク・ロード。英雄戦争の4年前にロードス島北部の砂漠地帯に建国された新興国。古代魔法王国時代から長年に渡って「風の部族」と「炎の部族」の二大遊牧民が対立を続けていた一帯で、フレイム王国は風の部族の支持を受けた傭兵出身のカシューが建国した。 英雄戦争には隣国ヴァリス王国からの要請に応じて参戦し、両雄の一騎討ちのあと勝ち残ったベルドをカシュー王が討ち果たすなど活躍を示した。その後は敵対していた炎の部族を取り込み国内を統一、更にカノンやヴァリスからの難民流入で混乱していた南部の都市国家ローランやマーニーを吸収し、急速に国内の社会基盤を強化していった。また肥沃な未開地「火竜の狩猟場」への入植に成功し、マーモ帝国のロードス本島侵攻以降、統治能力が低下していた自由貿易都市ライデンを保護下に加え、戦乱で疲弊した他国から強国として認知されるに至る。 しかも国土の大半を占めていた砂漠地帯は「炎の魔神事件」で精霊力が正常化したため徐々にかつての肥沃な土壌に戻りつつあり、難民入植地「火竜の狩猟場」の発展と合わせて国力の向上は尚も続いている。一方で砂漠の緑化が進むにつれ、水害が多発するようになり、治水が新たな課題になっている。当初は王都の中心にあった王城アーク・ロードも、基礎が川に侵蝕されるようになったことで、西端の丘へと移転した。 果断で聡明なカシュー王の統治の下でロードス諸国の指導的立場を確立、邪神戦争では積極的に邪神阻止に動き、マーモ寄りのアラニア王国を突破してルードの街に向かう策を立てるも、長期の内戦により歴戦の騎士・戦士の揃ったアラニア軍に苦戦を強いられる。カシュー王の奮戦とウォートやフレーベの助勢で辛くもアラニアを下すも、長らく平和な時代を享受していたフレイム軍の被害は予想を遥かに越える物だった。 マーモ本島では各国の軍に先駆けて先陣を切る。闇の森での戦いでは召喚された「炎の精霊王」エフリートにより「砂漠の鷹」騎士団フォザル隊が全滅するなど、多大な犠牲を払いつつも、邪神戦争に勝利する。邪神戦争後、暗黒の島マーモを飛び地のフレイム領マーモ公国として統治し正常化に取り組むが、カーディス教団の襲撃によりマーモ公国は滅亡する。公国の残党やロードスの騎士パーン率いる義勇軍によってカーディス教団は駆逐されるが、フレイム領としての体制維持は不可能と認めざるを得ず、王族は同一民族でありながらマーモ王国を独立させることになる。 統一国家ではなく、所属各国の国王の中から選帝会議で公王が選ばれ諸国家を代表する形式の公国(公国とは一般に、王国の中で高い自治権を持つ貴族領を意味し、後述のマーモ公国がこちらの意味での「公国」だが、モスにおいては逆に王国の集合体が「公国」である)。ロードス島南西部を占める山岳地帯にハイランドやハーケーン、ヴェノンなど大小の国家が割拠し、各国の国王は「太守」とも呼ばれる。滅亡した南のドワーフ国「石の王国」は、モス地方南東部にある山岳地帯に存在していたが、モス公国には含まれない。 古くから諸国間の小競り合いが頻繁に起き、戦いが絶えない事から戦神マイリーの信徒が多いのが特徴で、“戦神の王国”とも言われる。他に、竜が多く住むことから“竜の王国”とも言われる。 現在のモス公国は凡そ250年前に、当時のライデン王国の脅威に対抗して結ばれた対外相互防衛協定とも言うべき「竜の盟約」に基づいて誕生。加盟国は竜に因んだ二つ名を持つ。モス外部からの侵略に対してはモス公王を中心に堅い連合体を形成して対抗し、その連合騎士団を相手にモス侵略に成功した国家は未だない。しかし国内での行動では「竜の盟約」は効力を持たず、利害関係による足並みの乱れが起こり易い傾向にある。実際に英雄戦争時にはマーモ帝国の工作によって、対マーモ連合軍から脱落している。 魔神戦争までには国家の淘汰が進んでおり、北部のハイランド、南部のハーケーン、南東のヴェノンなど少数の有力国による寡頭体制と言って良い状態になっていた。魔神との戦いの中でモス統一への機運が盛り上がるが、竜騎士ナシェルの失踪により統一は成らなかった。英雄戦争後はマーモから「炎の巨人」を与えられたヴェノン王国がハイランド王国を除く国々を制圧し、モス統一に王手をかける。その後「炎の巨人」を倒したハイランドの反撃が始まり、邪神戦争後半にハイランド王国が初めて実質的な国家統一を成し遂げる。 同名の首都カノンにある王城はシャイニング・ヒル、ロードス島南東の王国。北部でヴァリス・アラニアと国境を接する。西部には海を挟んでモス地方があり、南部沖合いに暗黒の島マーモがある。 アラニアの王家とは縁戚関係であり、またアラニアに次ぐ歴史を誇る。伝統的に武力より文化を重んじる国柄であったが、新興マーモ帝国の急襲の前に脆くも崩壊する。 英雄戦争後もマーモ帝国による圧政が続いたが、出奔していた王族唯一の生き残り、第三王子レオナーによる「カノン自由軍」の活躍で解放された。しかし貴族・騎士達にマーモ帝国へ服属したもの、マーモの支配に抵抗したもの、カノン自由軍から新たに叙爵・叙勲されたものなどが混在するようになったことや、一度国が滅んだため王の権威が揺らいだことなどから、有力貴族の発言力が強く朝廷内の統一を欠く状態が続いている。 ロードス島の南部に位置する島、もしくは島を領土とする国家。アレクラスト大陸からは「呪われた島」と呼ばれるロードス島においても、格段に闇の力が強く「暗黒の島」と呼ばれる。ロードス本島との交易や人の交流は断続的に続けられており、完全に孤立した島と言う訳ではなく、北部にある港町サルバドがロードス本島との海の玄関口となっている。闇に属する生物などが多く棲息している。作者の水野によると、マーモ島の面積は愛媛県程度であるとのこと。 神話の時代、邪神カーディスの呪いを最小限に食い止めるため、大地母神マーファによりロードス島本島から切り離されたとされる。その為か沿岸部は切り立った崖が多い。中央部にあるマーモ王城地下の大空洞には石化したカーディスの亡骸であるといわれる巨大なカーディス像が存在している。南部は「闇の森」と呼ばれる原生林が広がる。闇の森にはダークエルフ、蛮族、妖魔、魔獣が棲息しているが、それ以外の場所にも様々な魔獣や妖魔が棲息する。また暗黒神ファラリス大神殿の地下には黒翼の邪竜ナースが眠っていて、長い休眠期と短い活動期のスパンで、ときおりマーモの住人を襲撃していた。このような土地であるため、追われる身になったものや流刑になって来る悪人も多く、邪悪でなければ生き抜くことができない土地柄になっていた。 街に住む人間達、闇の森の蛮族、闇の森のダークエルフ、その他にも多数の闇の眷属、などの大小の諸勢力が割拠しており、統一国家が誕生することも歴史上に幾度かあったが、そのほとんどが極めて短命のうちに滅亡している。約500年前に勢力をふるった蛮族のカーディス教団がカーディスの亡骸がある地下カーディス神殿の上に増築した砦が、約200年前にマーモを統一したブルネイ王国によって城へと改築されたことでコンクァラー城(王城コンクァラーとも)と命名され、ブルネイ王国滅亡以降も支配者が変わるたびにコンクァラー城はより強固な城へと改築されていった。後に帝都となる城塞都市ペルセイ、通称ダークタウン(ベルドが治めた際に大改築が行われ、都市としての体裁を持った)と港湾都市サルバド(通称シャドーシティ)の二大都市が蛮族以外の人間の中心的な活動地になっている(マーモ島で都市として機能しているのはこの二つだけ)。ベルド率いるマーモ帝国による統一の前は、暗黒神ファラリス教団や暗殺者を擁する盗賊ギルド、武装商船団、多数の奴隷を支配する大地主などの有力者で構成された評議会が人間の領域の支配者になっていた。 魔神戦争後、六英雄の一人「赤髪の傭兵」ベルドがマーモ帝国を建国し、短期間で極めて強固な支配体制を構築することに成功する。ベルド亡き後は、アシュラム(暗黒騎士団団長)、バグナード(主席宮廷魔術師)、ショーデル(ファラリス教団最高司祭)、ルゼーブ(ダークエルフ族長)の有力者4名による評議会が統治した。またこの頃に眠っていた邪竜ナースが再び活動期に入って暴れ回ったが、評議会メンバーの活躍により邪竜ナースを服従させ以降の被害を収めている。 邪神戦争によりマーモ帝国は滅亡してフレイム王国の領土となり、フレイムの将軍にしてカシューの腹心であるシャダムが太守に就任する。この時、王城コンクァラーはウィンドレスト、帝都ペルセイはウィンディスに改称され、王城の地下はマーファ神殿へ改装された。後にフレイム領マーモ公国となり、スパークが公王に即位するが、カーディス教団の蜂起によってスパークは行方不明になり、王城が占拠され国家体制が崩壊する。スパークが帰還しカーディス教団を駆逐した後、ロードス諸国の承認を得て独立国マーモ王国となる。「王国の法に従う限りは妖魔も邪神信者も国民として認める」という他国にはない政策を採っており、諸国から邪悪との烙印を捺され常に非難されているが、これらの邪悪な存在が国外へ流出するなどの事態は起こしておらず、国内においても厳格な統治を継続している。 これらの国家・地域の他にも、いくつかの独立した集落が存在している。 『コンプティーク』で1986年9月号から連載されたリプレイの第1部と第2部においてはまだ独自システムは無く、「D&D誌上ライブ」と題して『D&D』を紹介する目的を持ってクラシックD&Dに独自の世界観を乗せた形になっていた。 日本のTRPGブームの立役者ではあったが、長らく単行本化されなかった。理由は「雑誌の記事なら問題無いが、単行本と言う商品として売り出すなら使用料をD&Dの版権元に払わなくてはならない為」と後に『コンプティーク』に書かれている。そのため、下記の『ロードス島戦記コンパニオン』が作られる事となり、第一部、第二部はそのルールを使って再プレイしたものを単行本化すると言う回り道になった。 『ウォーロック』日本版14号(1988年2月)に「トンネルズ&トロールズ・ウィズ・ロードスアイランド」と題して、『T&T』を用いてロードス島を舞台にプレイできるよう設定やシナリオサンプル、リプレイなどが掲載された。リプレイは『RPGリプレイ ロードス島戦記 II』の巻末にも収録された。 『ロードス島戦記』のオリジナルRPGシステムとしては最初の作品。パソコン用のコンピューターゲーム版のシステムをTRPG用にアレンジした物で、リプレイ連載第2部まで使用されていた『D&D』の影響を強く受けながらも独自の行為判定システムを採用している。 『ロードス島戦記コンパニオン』の特徴的なシステムとして集中力がある。これは、ゲーム中の行為判定に際し、通常の能力を使った判定とは別に、集中力を基準とした再判定を行えるというルール(ただし、この再判定を行える回数は有限であるため、使いどころを選ぶ必要がある)。これは、英雄候補たるプレイヤーキャラクターの才能や天運を表現したヒーローポイント的なものである。 『コンパニオン』を基礎に、「特技」や「転職」によって多様なキャラクターを表現できるよう構成されたシステム。よりレベルが高い者から特訓を受けることでレベルアップ可能。しかし、「魔法戦士に転職すると、独自の魔法戦士魔法が使える」など、このシステムにしか記述がなく、他のシステムや小説版とは異なるデータが幾つか存在する。 『ロードス島戦記コンパニオン』とのもうひとつの相違点は、このシステムが最初に発売された時点で『ロードス島伝説』の小説展開が始まっていたことである。このため、魔神戦争時代を扱っていたこのシステム版のリプレイ単行本は「ロードス島伝説」のタイトルを冠して刊行された。ロードス島伝説の作品リストも参照。 2018年、ロードス島戦記30周年を記念して作られた新装版。『コンパニオン』及び『ロードス島RPG』を元にアップデートが加わっている。 本来は『ロードス島戦記』とは独立して展開されてきたシステムだったが、『ロードス島ワールドガイド』の発売によって、『ロードス島戦記』をソードワールドRPGへ統合することが可能になった。このとき追加されたルールとして、ソードワールドのシステムから逸脱したロードス島の英雄たちの活躍を合理的に再現できる超英雄ポイントのルールがある。超英雄ポイントを持つものは10レベルが上限である通常の英雄や英雄候補を超えた資質を持つ存在として、超英雄や超10レベルキャラクターと呼ばれる。 超英雄ポイントを使えば行為判定のやり直しができるほか、自分のレベル以上の魔法の使用、遺失魔法の既知化、上位精霊との盟約、抵抗判定の自動成功、などが行える。また、関連するレベルが上限レベルであるレベル10以上なら、成功判定の自動成功、神が身に降臨した際の魂の破滅の回避、レベル11以上へのレベルアップなども可能。消費した超英雄ポイントはシナリオ終了時に回復、消費することで最大値が増加する。効果の中には最大値を減少させて使用するものもある。 本項では掲載後、書籍などに収録されていないものを記載している。 『D&D誌上ライブ・ロードス島戦記リプレイ第1部』(作:安田均とグループSNE / 絵:出渕裕) 『D&D誌上ライブ・ロードス島戦記リプレイ第2部』 『ロードス島RPG』のシナリオやリプレイ、読者参加企画などが掲載。その多くが本編に関わるもので、場合によってはその後のロードス島の歴史が変わりうる。 シナリオ 『サルバーンの魔法書』(コンプRPG Vol.1) 『暗殺の魔手』(コンプRPG Vol.6別冊付録) 『亡者の衣』(コンプRPG Vol.8) 『魔影跳梁』(コンプRPG 1994.10月号) 『魔神掌握の杖』(コンプRPG 1994.12月号別冊付録) 1994年11月6日の角川TRPGコンベンション'94でプレイされた。シナリオデザインは小川直人。 シナリオ&リプレイ 角川TRPGコンベンションの企画でゲストによるプレイが行われた。そのシナリオとリプレイが掲載されている。PCは数値のみ用意されているプレ・ロールドキャラクターである。 『暗黒のプレリュード』(コンプRPG Vol.4) 『魔石の封印』(コンプRPG Vol.5) 『銀嶺の神殿』(コンプRPG Vol.10) 読者参加企画 ロードス島戦記読者参加マンガ『魔の島の要塞』(原作山本弘・高山浩・グループSNE、作画浦田たひろ) スコウ(シャーマン エルフ 男) トレイス(ソーサラー ハーフエルフ 女) ゲゼック(ラーダのプリースト ドワーフ 男) フラニー(スカウト 人間 女) ブレイク(フレイムのナイト 人間 男) ロードス島RPG キャラクター&キャンペーン『灰色の勇者』(テキスト:高山浩 / 絵:さいとうつかさ:高田かおり:橋野一顕) ボーグナイン(ナイト 人間 男) シルティス(シャーマン ダークエルフ 女) ロット(スカウト グラスランナー 女) デューシー(ソーサラー 人間 女) ガドル(マイリーのプリースト ドワーフ 男) ギウル(軽戦士 人間 男) カーラ リオン サウジーネ 「闇の巫女」 ドーラ レナン バグナード 影 イーリア トラッシュ レン姫 特記がない限り原作者は水野良。 1990年から1991年に制作・発売された。全13話。全13巻累計の総出荷本数は55万本。2006年にDVDで復刻している。原作小説がまだ連載中であった頃に制作されたため、結末が大幅に異なる。また、割愛されたエピソードがあったり、小説では死亡するキャラクターが生き残っていたり、その逆もある。第1話は時系列としては後になるドワーフの大トンネルでパーンたちがアースドラゴンと戦うエピソード(第5話と第6話の間)であり、実際の物語は第2話より始まる。割愛されたエピソードのうち、第二部「炎の魔神」については同じ声優でラジオドラマ化された。 登場キャラクターのうち、ダークエルフのピロテースについては当初OVA版オリジナルのキャラクターであったが、作者が気に入り原作小説へフィードバックされたキャラクターである。製作に東京放送(TBS)がクレジットされていることもあり、『TBS奥さま劇場』(夏休みアニメフェスタ、冬休みアニメフェスタなど)の時間枠内において、過去に幾度か放送も行われている。CSでは、チャンネルNECO及びAT-Xが放送を行っている。また、パソコンテレビGyaOでも全13話が幾度か無料配信された。 発売元はビクター音楽産業(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)。 1998年4月1日から9月30日までテレビ東京系列で放送された。 水野良のファンタジー小説シリーズ『ロードス島戦記』を原作とするアニメーション作品。角川書店の商品化権ビジネス本格参入第1弾。 原作はかつて1度OVA化しているが、本作品は後半部に新主人公スパークとニースが登場するなど、OVAリリース以降の原作の展開を盛り込み、ストーリーの再編がなされている。本作品は「英雄戦争」終結後の世界より始まり、前半は「火竜山の魔竜」のエピソードを中心として描き、後半はスパークとニースを主人公格に据えた最終章「ロードスの聖騎士」から成っている。本編の後、短編として本編と同じ声優で『ようこそロードス島へ!』が放送されていた。 スパークを主人公にすえたことや『ようこそロードス島へ!』の存在は、いずれも低年齢層に向けた配慮である。 初回放送当日にはテレビ東京の子供向け番組『おはスタ』にて紹介されているが、『コロコロコミック』と提携している同番組の、特に初期において小学館原作ではないアニメが取り上げられた珍しい例である。 この作品でディードリットを演じた新山志保は第21話収録後に急性白血病で倒れ、野田順子に急遽交代する形で降板。新山はその2年後に合併症で死去したため、彼女の遺作となった。 ロードス島全土を揺るがした戦乱、英雄戦争から5年。マーモ帝国の黒衣の騎士・アシュラムは、ロードス島北東部にあるマーファ大神殿を訪れていた。手に入れればロードスを制することができると伝えられる「支配の王錫」を巡り、パーンとディードリット、フレイム王カシューらが、魔竜・シューティングスターの棲む「火竜山」でアシュラムらと争う(第8話まで)。 それから約10年後。パーンに憧れていた少年・スパークは、フレイム王国の騎士見習いとして成長していた。あるとき、スパークは王城の宝物庫にマーモ帝国のダークエルフが盗賊として侵入している場面に出くわし、彼らを取り逃がしてしまう。彼は仲間たちとともに盗まれた宝玉「魂の水晶球」を取り戻すため、ダークエルフたちを追う旅に出る。途中で、自らの運命に導かれる少女・ニースと出会い、神聖王国ヴァリスを目指す。この旅がロードス島の命運をかけた試練になるとも知らずに(第9話以降)。 第1話 - 第8話 第9話 - 第27話 2014年4月から6月まで放送された。なお映像ソフトは単独商品としては存在しておらず、2015年1月発売の小説『ロードス島戦記三昧』(発行:キャラアニ)の特装版に全13話収録のDVDが付録となっている。 水野中学校3年生のバンとドリは『ロードス島戦記』(以下『ロードス』と表記)の大ファン。この作品の素晴らしさを広めることと卒業記念を兼ねて2人は学園祭の劇で『ロードス』を演じることにした。そこへこの作品を全く知らないというエトやキム、スレイン、宇土を無理やり参加させてしまう。 『ロードス島戦記』を原作とした百やしきれいの漫画。『ロードス島戦記』のストーリーに沿いながら、多くはギャグテイストの4コマ漫画で構成されている。『月刊少年エース』で連載された。 アニメ化もされ、TVアニメ『ロードス島戦記-英雄騎士伝-』内のCパートの短編アニメとして放映された(声優は本編と同一)ほか、30分のアニメ映画として、『MAZE☆爆熱時空 天変脅威の大巨人』と同時上映で、下記のキャストで1998年4月25日に劇場公開もされている。 舞台版『ロードス島戦記』のタイトルで、2017年1月に紀伊國屋サザンシアターで上演。第1巻「灰色の魔女」がベースとなる舞台作品。作・演出は園田英樹。 文化放送とラジオ大阪にて全16回の放送。「風と炎の魔神」はOVA2作目となる企画があったが、ペンディングとなっている。台本等が付いたCDシネマ版と、「炎を継ぐ少女」(著:水野良)が収録された書籍扱いのCDブック版がある。 番組放送時には前半がパーソナリティ・ゲストによるトーク、後半はドラマパートという形式だった。パーソナリティは石田彰、桑田貴子。ゲストはドラマパートの出演陣(冬馬由美、中村尚子ら)。 カセットテープ版と、CD版がある。1 - 3は書き下ろしのオリジナル脚本。1 - 5のCD版とアレンジサントラを併せた「スペシャルパッケージ」もある。 新装版をベースに、高橋研二と〆野潤子による朗読で、2018年よりAudibleから、順次データ配信でオーディオブック化されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ロードス島戦記』(ロードスとうせんき、英語: Record of Lodoss War)は、安田均原案・水野良著による日本のファンタジー小説シリーズである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1986年からグループSNEによるテーブルトークRPG(TRPG)『Dungeons & Dragons』の誌上リプレイとしてパソコン雑誌『コンプティーク』に掲載された。出渕裕が描いたエルフをはじめとするイラストが人気を集めたこともあって、連載が進むに従い世界観やストーリー及びキャラクターへの人気が高まり、キャラクターを替えて第3部まで続く好評企画となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1988年、リプレイのDMである水野良による小説が角川文庫(1989年以降は角川スニーカー文庫)から刊行されて以降、多岐にわたるメディアミックス作品が発売されている。1991年にOVAにてアニメ化、翌1992年にハドソンより家庭用ゲームソフトも発売。1998年にはテレビ東京からテレビアニメシリーズが放送された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "リプレイや小説の他にもコミック、コンピューターゲームなど様々な媒体で発表され、2013年には『ロードス島戦記生誕25周年』を記念して、豪華単行本が発行された。小説は角川スニーカー文庫の名を世に広める立役者となり、ライトノベルからはじまるメディアミックスの草分けとなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお舞台となる「ロードス島」と同名の島(ラテン文字表記ではRódos)がエーゲ海に実在するが、本作品との関連性はない。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "前日譚に『ロードス島伝説』、続編に『新ロードス島戦記』があり、2019年8月1日には更なる続編『ロードス島戦記 誓約の宝冠』が発行された。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「呪われた島」ロードスを舞台に、英雄たちの興亡と冒険を描いたファンタジー物語である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "作品として最初に公表されたものは、1986年にパソコン雑誌『コンプティーク』に掲載されたテーブルトークRPG(TRPG)の紹介記事である。このグループSNEによる『Dungeons & Dragons』の誌上リプレイは、連載が進むに従い世界観やストーリー及びキャラクターへの人気が高まり、結果連載はキャラクターを替えて第3部まで続く好評企画となった。もともとロードス島とはグループSNEが『D&D』に限らずさまざまなテーブルトークRPGでキャンペーン・ゲームをするために用意した舞台で、オリジナルルールのほか、『ルーンクエスト』や『ドラゴンクエスト』でプレイされたこともあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "リプレイ第1部と第2部は『Dungeons & Dragons』を使用していたが、版権上の問題が発生したため、第3部からはグループSNEオリジナルのTRPGルールによってプレイされている。この関係上、第1部と第2部の連載は単行本化されておらず、後にオリジナルルールで再プレイしたものがリプレイ本として発売されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "リプレイの「DM(第3部ではGM)」であった水野良は1988年、このリプレイを基にした小説第1作『灰色の魔女』を刊行。以降、本シリーズと『ロードス島伝説』及び『新ロードス島戦記』を合わせた小説シリーズの累計発行部数は2005年に1000万部を超えるベストセラーとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その後コンピューターゲームやアニメーションでも発表され、多くのメディアでファンに親しまれる作品となっている。また後に、背景世界であるフォーセリアを舞台にした『ソード・ワールドRPG』などの数々の派生作品も展開されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本国産ファンタジー作品として一定の成功を収め、またブームを一過性のものに終わらせず固定したファン層も確保し、その地位を不動のものにした。また、このジャンルの作品としてはほぼ初の(テーブルトークRPGを元にした作品としては間違いなく初の)大規模なメディアミックス展開を実施し、一定の成果を上げた作品となり、メディアミックス作品を含めて英語やフランス語、中国語などにも翻訳される。2008年にはアニマックスのアニメソングイベントで同作品のOP曲を歌って受賞した外国人も現れている。本作の魅力の一つであるビジュアル面は、出渕裕が担当した。出渕の誤解によりディードリットに採用されたエルフの「ロバのような長い耳」の描写は本シリーズの人気と相まって、日本のファンタジー作品における「エルフと言えば、長い耳」というイメージが定着した。水野も小説シリーズの中で「風切羽のような耳」という表現を用いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "暗黒皇帝ベルドに率いられたマーモ帝国軍と、至高神ファリスを奉じる神聖王国ヴァリスを中心とする国々との戦い(英雄戦争)を背景として進む。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アラニア王国出身の若き戦士パーンは、亡き父と同じ騎士になる夢を求めて5人の仲間と共に冒険の旅に出た。その途中、英雄戦争の狭間で暗躍する「灰色の魔女」カーラの陰謀の一環であるフィアンナ姫誘拐事件に巻き込まれるも、フィアンナ姫の救出に成功し、自らの進むべき道を求めヴァリス王国に向かう。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "そしてマーモ帝国とヴァリス王国の緊張が高まる中、カーラの思想がロードス島の平和と相容れないものであると悟ったパーンらは、六英雄の一人である大賢者ウォートに助力を求め、遂にカーラの居場所を突き止め魔女に挑む。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "首都アラン、王城はストーン・ウェブ。ロードス島北東部に位置する。建国から400年以上と現存するロードス国家中では最古の歴史を誇り、千年王国(ミレニアム)と称せられる大国。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "北西部でヴァリスとフレイム、南部でカノンと国境を接し、北部にマーファ大神殿やドワーフの「鉄の王国」がある。南西部国境には、近年まで通行不可能だった「帰らずの森」が広がっている。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "精強な鉄網騎士団を擁し、更に騎士団以上と噂されるレンジャーで構成された遊撃隊と銀蹄騎士団と呼ばれる魔法戦士隊(魔法戦士はアラニア独自の特別な騎士。モスで言う所の竜騎士のようなもの)の二大部隊を有する軍事大国でもある。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ロードス島唯一の魔術師ギルドである「賢者の学院」があり、安定した国情を背景に古くから古代語魔法の研究が盛んであったが、英雄戦争時の混乱の中、学院から破門されたのを逆恨みしたバグナードの報復によって滅ぼされてしまった。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "魔神戦争では神出鬼没の魔神に対して無為無策に終始し、逆に民衆を守るためにマーファ神官を中核に自然発生した自衛団と感情的に対立、大国ならではの腐敗の深刻さを露呈した。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "英雄戦争時では当初旧カノン国境を閉鎖して対マーモ包囲網の一角を担い、ノービス伯アモスンを援軍としてヴァリス王国に派遣した(ノービスはアラニア第二の都市、北西部の中心でヴァリス・フレイム方面への交通の要衝)。しかし国王カドモス七世の実弟・ラスター公爵がマーモに唆されて野心に目覚め、兄王を暗殺したことで状況は急変。王都を中心に南部を支配して国王を僭称するラスターと、急遽ヴァリスからノービスへ戻ったアモスンの間で泥沼の後継者争いが勃発したことで英雄戦争どころではなくなり、長きにわたる内戦状態となる。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "英雄戦争が一応の結末を迎えた後もアラニアでは内戦が続き、パーンの出身地ザクソン村を中心とする北部地域では両勢力から距離を置いた半独立的な自治組織が形成された。この自治運動には、この頃「北の賢者」と呼ばれるようになっていたスレインや、セシルなどスレインの弟子たちが関与していた。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "邪神戦争時には、ラスターがアモスンを討ったことで内戦に勝利し、一旦は国内を統一した。しかしアモスンの遺児・ロベスがフレイムへ亡命し、自らを大義名分とするアラニア侵攻をフレイム国王カシューに要請した。カシューもアラニア経由での旧カノン領およびマーモ侵攻を目指したため利害が一致し、アラニアとフレイムの全面戦争が勃発した。長年内戦が続いていたアラニア軍は練度が高く、大規模な戦いが10年ほど絶えていたフレイム軍に大きな打撃を与えたが、フレーベ、ウォートという英雄たちがフレイム軍に加勢したこともあってアラニア軍は敗北。ラスターは国王殺しの罪で処刑され、ロベスII世が即位した。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "国家への帰属意識が薄れていたザクソン自治領も、もともとアラニア貴族の血筋であったセシルが叙爵し、ザクソン伯爵領として併合された。しかし後にセシルは王都アランで不可解な死を遂げ、以降50年以上に亘ってザクソンを始めとする北部アラニアは新領主を拒否し、再び完全な自治状態になる。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "王都ロイド。至高神ファリスを奉じる神聖王国で、国民の大半がファリス信者である。南部でカノン王国、東部でアラニア王国、北部でフレイム王国、西部でモスに接しており、文字通りロードス島の中心に位置している強国。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "君主制ではあるが世襲は否定し、代々の国王は聖騎士団から選ばれることが慣例となっており、選出する際も過去に王を輩出していない血統が好まれる。「正義と秩序」の名の下に聖騎士団とファリス教団による果断な(ある意味では独善的な)政策を取ることが多い。魔神戦争時には当時のワーレン王が狂気と病に倒れ、後継者が決まらない王不在という異常事態であり、ついに聖騎士団もファリス教団も有効な対策を取り得なかった。魔神戦争後は「六英雄」の一人で、聖騎士団を抜けて単独で「百の勇者」に加わった「白き騎士」ファーンが即位した。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "英雄戦争では「英雄王」ファーンを戴き、対マーモ連合の盟主として「暗黒皇帝」ベルドのロードス島統一の前に立ちはだかる。最終決戦で辛くも勝利するが、ファーン王の戦死をはじめ国が傾くほどの大打撃を蒙った。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その後を継いだエト王は、例外的に神官出身であるため「神官王」と呼ばれ、その治世下で国力の回復と旧領奪還に専念する。邪神戦争にも参戦したが、往年の国力にはまだ及ばず、また穏健なエト王の性格もあって、フレイム主導の戦いに加勢する形となる。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "宿敵であるロードス最大の勢力ファラリス教団との戦いとなったマーモ島での最終決戦では、暗黒神降臨などの苛烈な反撃に遭い、聖騎士団の2/3と民兵の半数を失う大きな被害を受ける。また、最高司祭ショーデルによる暗黒神降臨の場に居合わせて石化を免れたのは、ファリスの強い加護に守られたエト王ただ一人であった。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "終末戦争後にエト王は退位して聖職に専念し、代わってウィントンが国王に即位した。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "首都ブレード、王城はアーク・ロード。英雄戦争の4年前にロードス島北部の砂漠地帯に建国された新興国。古代魔法王国時代から長年に渡って「風の部族」と「炎の部族」の二大遊牧民が対立を続けていた一帯で、フレイム王国は風の部族の支持を受けた傭兵出身のカシューが建国した。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "英雄戦争には隣国ヴァリス王国からの要請に応じて参戦し、両雄の一騎討ちのあと勝ち残ったベルドをカシュー王が討ち果たすなど活躍を示した。その後は敵対していた炎の部族を取り込み国内を統一、更にカノンやヴァリスからの難民流入で混乱していた南部の都市国家ローランやマーニーを吸収し、急速に国内の社会基盤を強化していった。また肥沃な未開地「火竜の狩猟場」への入植に成功し、マーモ帝国のロードス本島侵攻以降、統治能力が低下していた自由貿易都市ライデンを保護下に加え、戦乱で疲弊した他国から強国として認知されるに至る。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかも国土の大半を占めていた砂漠地帯は「炎の魔神事件」で精霊力が正常化したため徐々にかつての肥沃な土壌に戻りつつあり、難民入植地「火竜の狩猟場」の発展と合わせて国力の向上は尚も続いている。一方で砂漠の緑化が進むにつれ、水害が多発するようになり、治水が新たな課題になっている。当初は王都の中心にあった王城アーク・ロードも、基礎が川に侵蝕されるようになったことで、西端の丘へと移転した。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "果断で聡明なカシュー王の統治の下でロードス諸国の指導的立場を確立、邪神戦争では積極的に邪神阻止に動き、マーモ寄りのアラニア王国を突破してルードの街に向かう策を立てるも、長期の内戦により歴戦の騎士・戦士の揃ったアラニア軍に苦戦を強いられる。カシュー王の奮戦とウォートやフレーベの助勢で辛くもアラニアを下すも、長らく平和な時代を享受していたフレイム軍の被害は予想を遥かに越える物だった。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マーモ本島では各国の軍に先駆けて先陣を切る。闇の森での戦いでは召喚された「炎の精霊王」エフリートにより「砂漠の鷹」騎士団フォザル隊が全滅するなど、多大な犠牲を払いつつも、邪神戦争に勝利する。邪神戦争後、暗黒の島マーモを飛び地のフレイム領マーモ公国として統治し正常化に取り組むが、カーディス教団の襲撃によりマーモ公国は滅亡する。公国の残党やロードスの騎士パーン率いる義勇軍によってカーディス教団は駆逐されるが、フレイム領としての体制維持は不可能と認めざるを得ず、王族は同一民族でありながらマーモ王国を独立させることになる。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "統一国家ではなく、所属各国の国王の中から選帝会議で公王が選ばれ諸国家を代表する形式の公国(公国とは一般に、王国の中で高い自治権を持つ貴族領を意味し、後述のマーモ公国がこちらの意味での「公国」だが、モスにおいては逆に王国の集合体が「公国」である)。ロードス島南西部を占める山岳地帯にハイランドやハーケーン、ヴェノンなど大小の国家が割拠し、各国の国王は「太守」とも呼ばれる。滅亡した南のドワーフ国「石の王国」は、モス地方南東部にある山岳地帯に存在していたが、モス公国には含まれない。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "古くから諸国間の小競り合いが頻繁に起き、戦いが絶えない事から戦神マイリーの信徒が多いのが特徴で、“戦神の王国”とも言われる。他に、竜が多く住むことから“竜の王国”とも言われる。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "現在のモス公国は凡そ250年前に、当時のライデン王国の脅威に対抗して結ばれた対外相互防衛協定とも言うべき「竜の盟約」に基づいて誕生。加盟国は竜に因んだ二つ名を持つ。モス外部からの侵略に対してはモス公王を中心に堅い連合体を形成して対抗し、その連合騎士団を相手にモス侵略に成功した国家は未だない。しかし国内での行動では「竜の盟約」は効力を持たず、利害関係による足並みの乱れが起こり易い傾向にある。実際に英雄戦争時にはマーモ帝国の工作によって、対マーモ連合軍から脱落している。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "魔神戦争までには国家の淘汰が進んでおり、北部のハイランド、南部のハーケーン、南東のヴェノンなど少数の有力国による寡頭体制と言って良い状態になっていた。魔神との戦いの中でモス統一への機運が盛り上がるが、竜騎士ナシェルの失踪により統一は成らなかった。英雄戦争後はマーモから「炎の巨人」を与えられたヴェノン王国がハイランド王国を除く国々を制圧し、モス統一に王手をかける。その後「炎の巨人」を倒したハイランドの反撃が始まり、邪神戦争後半にハイランド王国が初めて実質的な国家統一を成し遂げる。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同名の首都カノンにある王城はシャイニング・ヒル、ロードス島南東の王国。北部でヴァリス・アラニアと国境を接する。西部には海を挟んでモス地方があり、南部沖合いに暗黒の島マーモがある。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アラニアの王家とは縁戚関係であり、またアラニアに次ぐ歴史を誇る。伝統的に武力より文化を重んじる国柄であったが、新興マーモ帝国の急襲の前に脆くも崩壊する。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "英雄戦争後もマーモ帝国による圧政が続いたが、出奔していた王族唯一の生き残り、第三王子レオナーによる「カノン自由軍」の活躍で解放された。しかし貴族・騎士達にマーモ帝国へ服属したもの、マーモの支配に抵抗したもの、カノン自由軍から新たに叙爵・叙勲されたものなどが混在するようになったことや、一度国が滅んだため王の権威が揺らいだことなどから、有力貴族の発言力が強く朝廷内の統一を欠く状態が続いている。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ロードス島の南部に位置する島、もしくは島を領土とする国家。アレクラスト大陸からは「呪われた島」と呼ばれるロードス島においても、格段に闇の力が強く「暗黒の島」と呼ばれる。ロードス本島との交易や人の交流は断続的に続けられており、完全に孤立した島と言う訳ではなく、北部にある港町サルバドがロードス本島との海の玄関口となっている。闇に属する生物などが多く棲息している。作者の水野によると、マーモ島の面積は愛媛県程度であるとのこと。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "神話の時代、邪神カーディスの呪いを最小限に食い止めるため、大地母神マーファによりロードス島本島から切り離されたとされる。その為か沿岸部は切り立った崖が多い。中央部にあるマーモ王城地下の大空洞には石化したカーディスの亡骸であるといわれる巨大なカーディス像が存在している。南部は「闇の森」と呼ばれる原生林が広がる。闇の森にはダークエルフ、蛮族、妖魔、魔獣が棲息しているが、それ以外の場所にも様々な魔獣や妖魔が棲息する。また暗黒神ファラリス大神殿の地下には黒翼の邪竜ナースが眠っていて、長い休眠期と短い活動期のスパンで、ときおりマーモの住人を襲撃していた。このような土地であるため、追われる身になったものや流刑になって来る悪人も多く、邪悪でなければ生き抜くことができない土地柄になっていた。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "街に住む人間達、闇の森の蛮族、闇の森のダークエルフ、その他にも多数の闇の眷属、などの大小の諸勢力が割拠しており、統一国家が誕生することも歴史上に幾度かあったが、そのほとんどが極めて短命のうちに滅亡している。約500年前に勢力をふるった蛮族のカーディス教団がカーディスの亡骸がある地下カーディス神殿の上に増築した砦が、約200年前にマーモを統一したブルネイ王国によって城へと改築されたことでコンクァラー城(王城コンクァラーとも)と命名され、ブルネイ王国滅亡以降も支配者が変わるたびにコンクァラー城はより強固な城へと改築されていった。後に帝都となる城塞都市ペルセイ、通称ダークタウン(ベルドが治めた際に大改築が行われ、都市としての体裁を持った)と港湾都市サルバド(通称シャドーシティ)の二大都市が蛮族以外の人間の中心的な活動地になっている(マーモ島で都市として機能しているのはこの二つだけ)。ベルド率いるマーモ帝国による統一の前は、暗黒神ファラリス教団や暗殺者を擁する盗賊ギルド、武装商船団、多数の奴隷を支配する大地主などの有力者で構成された評議会が人間の領域の支配者になっていた。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "魔神戦争後、六英雄の一人「赤髪の傭兵」ベルドがマーモ帝国を建国し、短期間で極めて強固な支配体制を構築することに成功する。ベルド亡き後は、アシュラム(暗黒騎士団団長)、バグナード(主席宮廷魔術師)、ショーデル(ファラリス教団最高司祭)、ルゼーブ(ダークエルフ族長)の有力者4名による評議会が統治した。またこの頃に眠っていた邪竜ナースが再び活動期に入って暴れ回ったが、評議会メンバーの活躍により邪竜ナースを服従させ以降の被害を収めている。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "邪神戦争によりマーモ帝国は滅亡してフレイム王国の領土となり、フレイムの将軍にしてカシューの腹心であるシャダムが太守に就任する。この時、王城コンクァラーはウィンドレスト、帝都ペルセイはウィンディスに改称され、王城の地下はマーファ神殿へ改装された。後にフレイム領マーモ公国となり、スパークが公王に即位するが、カーディス教団の蜂起によってスパークは行方不明になり、王城が占拠され国家体制が崩壊する。スパークが帰還しカーディス教団を駆逐した後、ロードス諸国の承認を得て独立国マーモ王国となる。「王国の法に従う限りは妖魔も邪神信者も国民として認める」という他国にはない政策を採っており、諸国から邪悪との烙印を捺され常に非難されているが、これらの邪悪な存在が国外へ流出するなどの事態は起こしておらず、国内においても厳格な統治を継続している。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "これらの国家・地域の他にも、いくつかの独立した集落が存在している。", "title": "ロードス諸国" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "『コンプティーク』で1986年9月号から連載されたリプレイの第1部と第2部においてはまだ独自システムは無く、「D&D誌上ライブ」と題して『D&D』を紹介する目的を持ってクラシックD&Dに独自の世界観を乗せた形になっていた。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本のTRPGブームの立役者ではあったが、長らく単行本化されなかった。理由は「雑誌の記事なら問題無いが、単行本と言う商品として売り出すなら使用料をD&Dの版権元に払わなくてはならない為」と後に『コンプティーク』に書かれている。そのため、下記の『ロードス島戦記コンパニオン』が作られる事となり、第一部、第二部はそのルールを使って再プレイしたものを単行本化すると言う回り道になった。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "『ウォーロック』日本版14号(1988年2月)に「トンネルズ&トロールズ・ウィズ・ロードスアイランド」と題して、『T&T』を用いてロードス島を舞台にプレイできるよう設定やシナリオサンプル、リプレイなどが掲載された。リプレイは『RPGリプレイ ロードス島戦記 II』の巻末にも収録された。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "『ロードス島戦記』のオリジナルRPGシステムとしては最初の作品。パソコン用のコンピューターゲーム版のシステムをTRPG用にアレンジした物で、リプレイ連載第2部まで使用されていた『D&D』の影響を強く受けながらも独自の行為判定システムを採用している。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "『ロードス島戦記コンパニオン』の特徴的なシステムとして集中力がある。これは、ゲーム中の行為判定に際し、通常の能力を使った判定とは別に、集中力を基準とした再判定を行えるというルール(ただし、この再判定を行える回数は有限であるため、使いどころを選ぶ必要がある)。これは、英雄候補たるプレイヤーキャラクターの才能や天運を表現したヒーローポイント的なものである。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "『コンパニオン』を基礎に、「特技」や「転職」によって多様なキャラクターを表現できるよう構成されたシステム。よりレベルが高い者から特訓を受けることでレベルアップ可能。しかし、「魔法戦士に転職すると、独自の魔法戦士魔法が使える」など、このシステムにしか記述がなく、他のシステムや小説版とは異なるデータが幾つか存在する。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "『ロードス島戦記コンパニオン』とのもうひとつの相違点は、このシステムが最初に発売された時点で『ロードス島伝説』の小説展開が始まっていたことである。このため、魔神戦争時代を扱っていたこのシステム版のリプレイ単行本は「ロードス島伝説」のタイトルを冠して刊行された。ロードス島伝説の作品リストも参照。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2018年、ロードス島戦記30周年を記念して作られた新装版。『コンパニオン』及び『ロードス島RPG』を元にアップデートが加わっている。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "本来は『ロードス島戦記』とは独立して展開されてきたシステムだったが、『ロードス島ワールドガイド』の発売によって、『ロードス島戦記』をソードワールドRPGへ統合することが可能になった。このとき追加されたルールとして、ソードワールドのシステムから逸脱したロードス島の英雄たちの活躍を合理的に再現できる超英雄ポイントのルールがある。超英雄ポイントを持つものは10レベルが上限である通常の英雄や英雄候補を超えた資質を持つ存在として、超英雄や超10レベルキャラクターと呼ばれる。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "超英雄ポイントを使えば行為判定のやり直しができるほか、自分のレベル以上の魔法の使用、遺失魔法の既知化、上位精霊との盟約、抵抗判定の自動成功、などが行える。また、関連するレベルが上限レベルであるレベル10以上なら、成功判定の自動成功、神が身に降臨した際の魂の破滅の回避、レベル11以上へのレベルアップなども可能。消費した超英雄ポイントはシナリオ終了時に回復、消費することで最大値が増加する。効果の中には最大値を減少させて使用するものもある。", "title": "テーブルトークRPG" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "本項では掲載後、書籍などに収録されていないものを記載している。", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "『D&D誌上ライブ・ロードス島戦記リプレイ第1部』(作:安田均とグループSNE / 絵:出渕裕)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "『D&D誌上ライブ・ロードス島戦記リプレイ第2部』", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "『ロードス島RPG』のシナリオやリプレイ、読者参加企画などが掲載。その多くが本編に関わるもので、場合によってはその後のロードス島の歴史が変わりうる。", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "シナリオ", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "『サルバーンの魔法書』(コンプRPG Vol.1)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "『暗殺の魔手』(コンプRPG Vol.6別冊付録)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "『亡者の衣』(コンプRPG Vol.8)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "『魔影跳梁』(コンプRPG 1994.10月号)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "『魔神掌握の杖』(コンプRPG 1994.12月号別冊付録)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1994年11月6日の角川TRPGコンベンション'94でプレイされた。シナリオデザインは小川直人。", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "シナリオ&リプレイ", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "角川TRPGコンベンションの企画でゲストによるプレイが行われた。そのシナリオとリプレイが掲載されている。PCは数値のみ用意されているプレ・ロールドキャラクターである。", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "『暗黒のプレリュード』(コンプRPG Vol.4)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "『魔石の封印』(コンプRPG Vol.5)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "『銀嶺の神殿』(コンプRPG Vol.10)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "読者参加企画", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ロードス島戦記読者参加マンガ『魔の島の要塞』(原作山本弘・高山浩・グループSNE、作画浦田たひろ)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "スコウ(シャーマン エルフ 男)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "トレイス(ソーサラー ハーフエルフ 女)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ゲゼック(ラーダのプリースト ドワーフ 男)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "フラニー(スカウト 人間 女)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "ブレイク(フレイムのナイト 人間 男)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ロードス島RPG キャラクター&キャンペーン『灰色の勇者』(テキスト:高山浩 / 絵:さいとうつかさ:高田かおり:橋野一顕)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ボーグナイン(ナイト 人間 男)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "シルティス(シャーマン ダークエルフ 女)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ロット(スカウト グラスランナー 女)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "デューシー(ソーサラー 人間 女)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ガドル(マイリーのプリースト ドワーフ 男)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ギウル(軽戦士 人間 男)", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "カーラ", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "リオン", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "サウジーネ", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "「闇の巫女」", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "ドーラ", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "レナン", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "バグナード", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "影", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "イーリア", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "トラッシュ", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "レン姫", "title": "雑誌掲載" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "特記がない限り原作者は水野良。", "title": "既刊一覧" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1990年から1991年に制作・発売された。全13話。全13巻累計の総出荷本数は55万本。2006年にDVDで復刻している。原作小説がまだ連載中であった頃に制作されたため、結末が大幅に異なる。また、割愛されたエピソードがあったり、小説では死亡するキャラクターが生き残っていたり、その逆もある。第1話は時系列としては後になるドワーフの大トンネルでパーンたちがアースドラゴンと戦うエピソード(第5話と第6話の間)であり、実際の物語は第2話より始まる。割愛されたエピソードのうち、第二部「炎の魔神」については同じ声優でラジオドラマ化された。", "title": "OVA" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "登場キャラクターのうち、ダークエルフのピロテースについては当初OVA版オリジナルのキャラクターであったが、作者が気に入り原作小説へフィードバックされたキャラクターである。製作に東京放送(TBS)がクレジットされていることもあり、『TBS奥さま劇場』(夏休みアニメフェスタ、冬休みアニメフェスタなど)の時間枠内において、過去に幾度か放送も行われている。CSでは、チャンネルNECO及びAT-Xが放送を行っている。また、パソコンテレビGyaOでも全13話が幾度か無料配信された。", "title": "OVA" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "発売元はビクター音楽産業(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)。", "title": "OVA" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "1998年4月1日から9月30日までテレビ東京系列で放送された。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "水野良のファンタジー小説シリーズ『ロードス島戦記』を原作とするアニメーション作品。角川書店の商品化権ビジネス本格参入第1弾。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "原作はかつて1度OVA化しているが、本作品は後半部に新主人公スパークとニースが登場するなど、OVAリリース以降の原作の展開を盛り込み、ストーリーの再編がなされている。本作品は「英雄戦争」終結後の世界より始まり、前半は「火竜山の魔竜」のエピソードを中心として描き、後半はスパークとニースを主人公格に据えた最終章「ロードスの聖騎士」から成っている。本編の後、短編として本編と同じ声優で『ようこそロードス島へ!』が放送されていた。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "スパークを主人公にすえたことや『ようこそロードス島へ!』の存在は、いずれも低年齢層に向けた配慮である。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "初回放送当日にはテレビ東京の子供向け番組『おはスタ』にて紹介されているが、『コロコロコミック』と提携している同番組の、特に初期において小学館原作ではないアニメが取り上げられた珍しい例である。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "この作品でディードリットを演じた新山志保は第21話収録後に急性白血病で倒れ、野田順子に急遽交代する形で降板。新山はその2年後に合併症で死去したため、彼女の遺作となった。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "ロードス島全土を揺るがした戦乱、英雄戦争から5年。マーモ帝国の黒衣の騎士・アシュラムは、ロードス島北東部にあるマーファ大神殿を訪れていた。手に入れればロードスを制することができると伝えられる「支配の王錫」を巡り、パーンとディードリット、フレイム王カシューらが、魔竜・シューティングスターの棲む「火竜山」でアシュラムらと争う(第8話まで)。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "それから約10年後。パーンに憧れていた少年・スパークは、フレイム王国の騎士見習いとして成長していた。あるとき、スパークは王城の宝物庫にマーモ帝国のダークエルフが盗賊として侵入している場面に出くわし、彼らを取り逃がしてしまう。彼は仲間たちとともに盗まれた宝玉「魂の水晶球」を取り戻すため、ダークエルフたちを追う旅に出る。途中で、自らの運命に導かれる少女・ニースと出会い、神聖王国ヴァリスを目指す。この旅がロードス島の命運をかけた試練になるとも知らずに(第9話以降)。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "第1話 - 第8話", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "第9話 - 第27話", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2014年4月から6月まで放送された。なお映像ソフトは単独商品としては存在しておらず、2015年1月発売の小説『ロードス島戦記三昧』(発行:キャラアニ)の特装版に全13話収録のDVDが付録となっている。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "水野中学校3年生のバンとドリは『ロードス島戦記』(以下『ロードス』と表記)の大ファン。この作品の素晴らしさを広めることと卒業記念を兼ねて2人は学園祭の劇で『ロードス』を演じることにした。そこへこの作品を全く知らないというエトやキム、スレイン、宇土を無理やり参加させてしまう。", "title": "テレビアニメ" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "『ロードス島戦記』を原作とした百やしきれいの漫画。『ロードス島戦記』のストーリーに沿いながら、多くはギャグテイストの4コマ漫画で構成されている。『月刊少年エース』で連載された。", "title": "ようこそロードス島へ!" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "アニメ化もされ、TVアニメ『ロードス島戦記-英雄騎士伝-』内のCパートの短編アニメとして放映された(声優は本編と同一)ほか、30分のアニメ映画として、『MAZE☆爆熱時空 天変脅威の大巨人』と同時上映で、下記のキャストで1998年4月25日に劇場公開もされている。", "title": "ようこそロードス島へ!" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "舞台版『ロードス島戦記』のタイトルで、2017年1月に紀伊國屋サザンシアターで上演。第1巻「灰色の魔女」がベースとなる舞台作品。作・演出は園田英樹。", "title": "舞台" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "文化放送とラジオ大阪にて全16回の放送。「風と炎の魔神」はOVA2作目となる企画があったが、ペンディングとなっている。台本等が付いたCDシネマ版と、「炎を継ぐ少女」(著:水野良)が収録された書籍扱いのCDブック版がある。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "番組放送時には前半がパーソナリティ・ゲストによるトーク、後半はドラマパートという形式だった。パーソナリティは石田彰、桑田貴子。ゲストはドラマパートの出演陣(冬馬由美、中村尚子ら)。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "カセットテープ版と、CD版がある。1 - 3は書き下ろしのオリジナル脚本。1 - 5のCD版とアレンジサントラを併せた「スペシャルパッケージ」もある。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "新装版をベースに、高橋研二と〆野潤子による朗読で、2018年よりAudibleから、順次データ配信でオーディオブック化されている。", "title": "関連作品" } ]
『ロードス島戦記』は、安田均原案・水野良著による日本のファンタジー小説シリーズである。 1986年からグループSNEによるテーブルトークRPG(TRPG)『Dungeons & Dragons』の誌上リプレイとしてパソコン雑誌『コンプティーク』に掲載された。出渕裕が描いたエルフをはじめとするイラストが人気を集めたこともあって、連載が進むに従い世界観やストーリー及びキャラクターへの人気が高まり、キャラクターを替えて第3部まで続く好評企画となった。 1988年、リプレイのDMである水野良による小説が角川文庫(1989年以降は角川スニーカー文庫)から刊行されて以降、多岐にわたるメディアミックス作品が発売されている。1991年にOVAにてアニメ化、翌1992年にハドソンより家庭用ゲームソフトも発売。1998年にはテレビ東京からテレビアニメシリーズが放送された。 リプレイや小説の他にもコミック、コンピューターゲームなど様々な媒体で発表され、2013年には『ロードス島戦記生誕25周年』を記念して、豪華単行本が発行された。小説は角川スニーカー文庫の名を世に広める立役者となり、ライトノベルからはじまるメディアミックスの草分けとなった。 なお舞台となる「ロードス島」と同名の島(ラテン文字表記ではRódos)がエーゲ海に実在するが、本作品との関連性はない。 前日譚に『ロードス島伝説』、続編に『新ロードス島戦記』があり、2019年8月1日には更なる続編『ロードス島戦記 誓約の宝冠』が発行された。
{{出典の明記| date = 2020年12月}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = ロードス島戦記 | ジャンル =[[ファンタジー]]<ref>{{Cite book |和書 |date=2004年8月1日発行 |title=ライトノベル完全読本 |publisher=日経BP社 |page=116 |isbn=4-8222-1704-3}}</ref> }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = ロードス島戦記 | 原作・原案など = [[安田均]]([[テーブルトークRPG]]) | 著者 = [[水野良]] | イラスト = [[出渕裕]] | 出版社 = [[角川書店]] | レーベル = [[角川文庫]]<br />→[[角川スニーカー文庫]] | 開始 = 1988年4月10日 | 終了 = 1993年3月27日 | 巻数 = 全7巻 | その他 = }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = ハイエルフの森 ディードリット物語 | 著者 = 水野良 | イラスト = 出渕裕 | 出版社 = 角川書店 | レーベル = 角川スニーカー文庫 | 発売日 = 1995年2月28日 | 巻数 = 全1巻 | その他 = }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = 黒衣の騎士 | 著者 = 水野良 | イラスト = 新書版:出渕裕<br />文庫版:夏元雅人 | 出版社 = 角川書店 | レーベル = 新書版:カドカワノベルス<br />文庫版:角川スニーカー文庫 | 発売日 = 新書版:1995年7月27日<br />文庫版:1998年9月25日 | 巻数 = 全1巻 | その他 = }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:ライトノベル|ライトノベル]] | ウィキポータル = [[Portal:文学|文学]] }} 『'''ロードス島戦記'''』(ロードスとうせんき、{{lang-en|''Record of Lodoss War''}})は、[[安田均]](原案)・[[水野良]](著)による[[日本文学|日本]]の[[ライトノベル]]。 1986年から[[グループSNE]]による[[テーブルトークRPG|テーブルトークRPG(TRPG)]]『[[ダンジョンズ&amp;ドラゴンズ|Dungeons &amp; Dragons]]』の誌上[[リプレイ (TRPG)|リプレイ]]としてパソコン雑誌『[[コンプティーク]]』に掲載された。[[出渕裕]]が描いた[[エルフ]]をはじめとするイラストが人気を集めた<ref>読売新聞 2013年12月3日 朝刊15面「ライトノベルの先駆けロードス島戦記 出渕さんのイラストの力は大きかった(水野良、談)」</ref>こともあって、連載が進むに従い世界観やストーリー及びキャラクターへの人気が高まり、キャラクターを替えて第3部まで続く好評企画となった。 1988年、リプレイの[[ゲームマスター|DM]]である[[水野良]]による小説が[[角川文庫]](1989年以降は[[角川スニーカー文庫]])から刊行されて以降、多岐にわたる[[メディアミックス]]作品が発売されている。1991年にOVAにてアニメ化、翌1992年にハドソンより家庭用ゲームソフトも発売。1998年にはテレビ東京からテレビアニメシリーズが放送された。 リプレイや小説の他にも[[コミック]]、[[コンピューターゲーム]]など様々な媒体で発表され、2013年には『ロードス島戦記生誕25周年』を記念して、豪華単行本が発行された。小説は[[角川スニーカー文庫]]の名を世に広める立役者となり<ref>[http://www.kadokawa.co.jp/sp/lodosswar25th/ ロードス島戦記生誕25周年|角川書店]、2013年12月16日閲覧。</ref>、ライトノベルからはじまるメディアミックスの草分けとなった<ref>[http://sneakerbunko.jp/special/lodoss/ 『ロードス島戦記』25周年記念]、2013年12月16日閲覧。</ref>。 なお舞台となる「ロードス島」と[[ロドス島|同名の島]](ラテン文字表記ではRódos)が[[エーゲ海]]に実在するが、本作品との関連性はない{{Efn2|水野自身も実在のロードス島(ロドス島)の存在を全く知らなかった。}}。 前日譚に『'''[[ロードス島伝説]]'''』、続編に『'''[[新ロードス島戦記]]'''』があり、2019年8月1日には更なる続編『'''ロードス島戦記 誓約の宝冠'''』が発行された<ref>[https://sneakerbunko.jp/lodoss30th/news/#news-20190620-02 水野良書き下ろしによる最新シリーズ『ロードス島戦記 誓約の宝冠1』8月1日発売決定!WEBストア他にて、予約解禁!]</ref>。 == 概要 == 「呪われた島」ロードスを舞台に、英雄たちの興亡と冒険を描いたファンタジー物語である。 作品として最初に公表されたものは、1986年にパソコン雑誌『[[コンプティーク]]』に掲載された[[テーブルトークRPG|テーブルトークRPG(TRPG)]]の紹介記事である。この[[グループSNE]]による『[[ダンジョンズ&amp;ドラゴンズ|Dungeons &amp; Dragons]]』の誌上[[リプレイ (TRPG)|リプレイ]]は、連載が進むに従い世界観やストーリー及びキャラクターへの人気が高まり、結果連載はキャラクターを替えて第3部まで続く好評企画となった。もともとロードス島とはグループSNEが『D&amp;D』に限らずさまざまなテーブルトークRPGでキャンペーン・ゲームをするために用意した舞台で、オリジナルルールのほか、『[[ルーンクエスト]]』や『[[ドラゴンクエスト (テーブルトークRPG)|ドラゴンクエスト]]』{{Efn2|米国のTRPG作品の名称。日本の[[コンピュータRPG]]である『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』([[エニックス]]、現:[[スクウェア・エニックス]])とは無関係。}}でプレイされたこともあった<ref>「ロッコの早耳情報 (2)」、『ウォーロック』VOL.13、社会思想社、1988年1月、p.29。{{ISBN2|4-390-80013-2}}</ref>。 リプレイ第1部と第2部は『Dungeons &amp; Dragons』を使用していたが、版権上の問題が発生したため、第3部からはグループSNEオリジナルのTRPGルール{{Efn2|後に『ロードス島戦記コンパニオン』として正式に出版された。}}によってプレイされている。この関係上、第1部と第2部の連載は単行本化されておらず、後にオリジナルルールで再プレイしたものがリプレイ本として発売されている。 リプレイの「[[ゲームマスター|DM(第3部ではGM)]]」であった水野良は1988年、このリプレイを基にした小説第1作『灰色の魔女』を刊行。以降、本シリーズと『[[ロードス島伝説]]』及び『[[新ロードス島戦記]]』を合わせた小説シリーズの累計発行部数は2005年に1000万部を超えるベストセラーとなっている<ref>『新ロードス島戦記』5 終末の邪教(上) 初版本(2005年11月1日発行)の帯による。</ref>。 その後[[コンピューターゲーム]]やアニメーションでも発表され、多くのメディアでファンに親しまれる作品となっている。また後に、背景世界である[[フォーセリア]]を舞台にした『[[ソード・ワールドRPG]]』などの数々の派生作品も展開されている。 日本国産ファンタジー作品として一定の成功を収め、またブームを一過性のものに終わらせず固定したファン層も確保し、その地位を不動のものにした。また、このジャンルの作品としてはほぼ初の(テーブルトークRPGを元にした作品としては間違いなく初の)大規模な[[メディアミックス]]展開を実施し、一定の成果を上げた作品となり、メディアミックス作品を含めて英語やフランス語、中国語などにも翻訳される。2008年には[[アニマックス]]のアニメソングイベントで同作品のOP曲を歌って受賞した外国人も現れている。本作の魅力の一つであるビジュアル面は、[[出渕裕]]が担当した。出渕の誤解により[[ディードリット]]に採用されたエルフの「ロバのような長い耳」の描写は本シリーズの人気と相まって、日本のファンタジー作品における「エルフと言えば、長い耳」というイメージが定着した。水野も小説シリーズの中で「[[風切羽]]のような耳」という表現を用いている。 <!-- == 小説シリーズ概要 == 水野良は、リプレイである『ロードス島戦記』[[三部作]]を小説にするにあたり、第一部のプレイヤーが扱っていた血気にはやる果敢な戦士であった人間の若者'''パーン'''を主人公、紅一点の[[エルフ]]・'''ディードリット'''をヒロインに据えた。 ストーリーは、ロードス島北東部アラニア王国領の寒村「ザクソン」において、村の周囲に出没する妖魔の脅威から村を守ろうとする2人の若者の冒険で幕を開ける。この一人が、勇敢な(この当時はまだ少々無謀で力不足な)剣士であるパーン。もう一人は彼の幼なじみで思慮深い神官エトである。 初めての冒険を、魔術師のスレインと寡黙で頼りになる[[ドワーフ]]の戦士ギムの助けによって成し遂げた2人は、この後、気まぐれな「帰らずの森」の女エルフのディードリット、抜け目がないが義理堅くもある盗賊ウッド・チャックなどと出会い、結束して冒険を繰り広げていく。しかし、王国ヴァリスのフィアンナ王女誘拐事件に偶然遭遇したことを転機として、ロードス島の歴史を影から操る「灰色の魔女」カーラが彼らの前に立ちはだかり、また彼ら自身がロードス島の歴史に関与していくことになる。 --> == あらすじ == 暗黒皇帝ベルドに率いられたマーモ帝国軍と、至高神ファリス{{Efn2|フォーセリアでは主要な神として「至高神ファリス」「大地母神マーファ」「戦神マイリー」「知識神ラーダ」「幸運神チャ・ザ」の光の五大神と、それに「暗黒神ファラリス」を加えたものが六大神として知られる。詳しくは[[フォーセリア#六大神]]を参照。}}を奉じる神聖王国ヴァリスを中心とする国々との戦い([[英雄戦争]])を背景として進む。 アラニア王国出身の若き戦士パーンは、亡き父と同じ騎士になる夢を求めて5人の仲間と共に冒険の旅に出た。その途中、英雄戦争の狭間で暗躍する「灰色の魔女」カーラの陰謀の一環であるフィアンナ姫誘拐事件に巻き込まれるも、フィアンナ姫の救出に成功し、自らの進むべき道を求めヴァリス王国に向かう。 そしてマーモ帝国とヴァリス王国の緊張が高まる中、カーラの思想がロードス島の平和と相容れないものであると悟ったパーンらは、六英雄の一人である大賢者ウォートに助力を求め、遂にカーラの居場所を突き止め魔女に挑む{{Efn2|『[[コンプティーク]]』誌掲載のリプレイにおいては、英雄戦争の戦場に向かう一行が、ウォート、カーラの唱えたメテオスウォーム(『D&D』の魔法。『ロードス島戦記コンパニオン』のメテオストライクに相当)によって落ちる隕石の姿を遠くから見つめ、決戦の地に向かう、という場面で連載が完結していた。続く第2部では第1部の完結後の出来事は簡単に語られたのみで、詳細はのちの小説版『灰色の魔女』で初めて明らかにされている。}}。 == 登場人物 == {{Main|ロードス島戦記の登場人物}} == ロードス諸国 == === アラニア === 首都アラン、王城はストーン・ウェブ。ロードス島北東部に位置する。建国から400年以上と現存するロードス国家中では最古の歴史を誇り、千年王国([[ミレニアム]])と称せられる大国。 北西部でヴァリスとフレイム、南部でカノンと国境を接し、北部にマーファ大神殿やドワーフの「鉄の王国」がある。南西部国境には、近年まで通行不可能だった「帰らずの森」が広がっている。 精強な鉄網騎士団を擁し、更に騎士団以上と噂されるレンジャーで構成された遊撃隊と銀蹄騎士団と呼ばれる魔法戦士隊(魔法戦士はアラニア独自の特別な騎士。モスで言う所の竜騎士のようなもの)の二大部隊を有する軍事大国でもある。 ロードス島唯一の魔術師ギルドである「賢者の学院」があり、安定した国情を背景に古くから古代語魔法の研究が盛んであったが、英雄戦争時の混乱の中、学院から破門されたのを逆恨みしたバグナードの報復によって滅ぼされてしまった。 [[魔神戦争]]では神出鬼没の魔神に対して無為無策に終始し、逆に民衆を守るためにマーファ神官を中核に自然発生した自衛団と感情的に対立、大国ならではの腐敗の深刻さを露呈した。 英雄戦争時では当初旧カノン国境を閉鎖して対マーモ包囲網の一角を担い、ノービス伯アモスンを援軍としてヴァリス王国に派遣した(ノービスはアラニア第二の都市、北西部の中心でヴァリス・フレイム方面への交通の要衝)。しかし国王カドモス七世の実弟・ラスター公爵がマーモに唆されて野心に目覚め、兄王を暗殺したことで状況は急変。王都を中心に南部を支配して国王を僭称するラスターと、急遽ヴァリスからノービスへ戻ったアモスンの間で泥沼の後継者争いが勃発したことで英雄戦争どころではなくなり、長きにわたる内戦状態となる。 英雄戦争が一応の結末を迎えた後もアラニアでは内戦が続き、パーンの出身地ザクソン村を中心とする北部地域では両勢力から距離を置いた半独立的な自治組織が形成された。この自治運動には、この頃「北の賢者」と呼ばれるようになっていたスレインや、セシルなどスレインの弟子たちが関与していた。 [[邪神戦争]]時には、ラスターがアモスンを討ったことで内戦に勝利し、一旦は国内を統一した。しかしアモスンの遺児・ロベスがフレイムへ亡命し、自らを大義名分とするアラニア侵攻をフレイム国王カシューに要請した。カシューもアラニア経由での旧カノン領およびマーモ侵攻を目指したため利害が一致し、アラニアとフレイムの全面戦争が勃発した。長年内戦が続いていたアラニア軍は練度が高く、大規模な戦いが10年ほど絶えていたフレイム軍に大きな打撃を与えたが、フレーベ、ウォートという英雄たちがフレイム軍に加勢したこともあってアラニア軍は敗北。ラスターは国王殺しの罪で処刑され、ロベスII世が即位した。 国家への帰属意識が薄れていたザクソン自治領も、もともとアラニア貴族の血筋であったセシルが叙爵し、ザクソン伯爵領として併合された。しかし後にセシルは王都アランで不可解な死を遂げ、以降50年以上に亘ってザクソンを始めとする北部アラニアは新領主を拒否し、再び完全な自治状態になる<ref>「ロードス島戦記 誓約の宝冠 1」pp.214-215。</ref>。 ==== 歴代アラニア王 ==== * 建国王 カドモスI世 * (数代不明) * カドモスVII世 * (僭王ラスター) * ロベスII世 === ヴァリス === 王都ロイド。至高神ファリスを奉じる神聖王国で、国民の大半がファリス信者である。南部でカノン王国、東部でアラニア王国、北部でフレイム王国、西部でモスに接しており、文字通りロードス島の中心に位置している強国。 君主制ではあるが世襲は否定し、代々の国王は聖騎士団から選ばれることが慣例となっており、選出する際も過去に王を輩出していない血統が好まれる。「正義と秩序」の名の下に聖騎士団とファリス教団による果断な(ある意味では独善的な)政策を取ることが多い。魔神戦争時には当時のワーレン王が狂気と病に倒れ、後継者が決まらない王不在という異常事態であり、ついに聖騎士団もファリス教団も有効な対策を取り得なかった。魔神戦争後は「六英雄」の一人で、聖騎士団を抜けて単独で「百の勇者」に加わった「白き騎士」ファーンが即位した。 英雄戦争では「英雄王」ファーンを戴き、対マーモ連合の盟主として「暗黒皇帝」ベルドのロードス島統一の前に立ちはだかる。最終決戦で辛くも勝利するが、ファーン王の戦死をはじめ国が傾くほどの大打撃を蒙った。 その後を継いだエト王は、例外的に神官出身であるため「神官王」と呼ばれ、その治世下で国力の回復と旧領奪還に専念する。邪神戦争にも参戦したが、往年の国力にはまだ及ばず、また穏健なエト王の性格もあって、フレイム主導の戦いに加勢する形となる。 宿敵であるロードス最大の勢力ファラリス教団との戦いとなったマーモ島での最終決戦では、暗黒神降臨などの苛烈な反撃に遭い、聖騎士団の2/3と民兵の半数を失う大きな被害を受ける。また、最高司祭ショーデルによる暗黒神降臨の場に居合わせて石化を免れたのは、ファリスの強い加護に守られたエト王ただ一人であった。 終末戦争後にエト王は退位して聖職に専念し、代わってウィントンが国王に即位した<ref>「ロードス島戦記 誓約の宝冠 1」p.17。</ref>。 ==== 歴代ヴァリス王 ==== * 建国王 アスナーム * (数代不明) * ワーレンI世 * (1代不明) * ファーン * エト * ウィントン === フレイム === 首都ブレード、王城はアーク・ロード。英雄戦争の4年前にロードス島北部の砂漠地帯に建国された新興国。古代魔法王国時代から長年に渡って「風の部族」と「炎の部族」の二大遊牧民が対立を続けていた一帯で、フレイム王国は風の部族の支持を受けた傭兵出身のカシューが建国した。 英雄戦争には隣国ヴァリス王国からの要請に応じて参戦し、両雄の[[一騎討ち]]のあと勝ち残ったベルドをカシュー王が討ち果たすなど活躍を示した。その後は敵対していた炎の部族を取り込み国内を統一、更にカノンやヴァリスからの難民流入で混乱していた南部の都市国家ローランやマーニーを吸収し、急速に国内の社会基盤を強化していった。また肥沃な未開地「火竜の狩猟場」への入植に成功し、マーモ帝国のロードス本島侵攻以降、統治能力が低下していた自由貿易都市ライデンを保護下に加え、戦乱で疲弊した他国から強国として認知されるに至る。 しかも国土の大半を占めていた砂漠地帯は「炎の魔神事件」で精霊力が正常化したため徐々にかつての肥沃な土壌に戻りつつあり、難民入植地「火竜の狩猟場」の発展と合わせて国力の向上は尚も続いている。一方で砂漠の緑化が進むにつれ、水害が多発するようになり、治水が新たな課題になっている。当初は王都の中心にあった王城アーク・ロードも、基礎が川に侵蝕されるようになったことで、西端の丘へと移転した<ref>「ロードス島戦記 誓約の宝冠 1」P.97。</ref>。 果断で聡明なカシュー王の統治の下でロードス諸国の指導的立場を確立、邪神戦争では積極的に邪神阻止に動き、マーモ寄りのアラニア王国を突破してルードの街に向かう策を立てるも、長期の内戦により歴戦の騎士・戦士の揃ったアラニア軍に苦戦を強いられる。カシュー王の奮戦とウォートやフレーベの助勢で辛くもアラニアを下すも、長らく平和な時代を享受していたフレイム軍の被害は予想を遥かに越える物だった。 マーモ本島では各国の軍に先駆けて先陣を切る。闇の森での戦いでは召喚された「炎の精霊王」エフリートにより「砂漠の鷹」騎士団フォザル隊が全滅するなど、多大な犠牲を払いつつも、邪神戦争に勝利する。邪神戦争後、暗黒の島マーモを飛び地のフレイム領マーモ公国として統治し正常化に取り組むが、カーディス教団の襲撃によりマーモ公国は滅亡する。公国の残党やロードスの騎士パーン率いる義勇軍によってカーディス教団は駆逐されるが、フレイム領としての体制維持は不可能と認めざるを得ず、王族は同一民族でありながらマーモ王国を独立させることになる。 ==== 歴代フレイム王 ==== * 建国王 カシュー・アルナーグI世 * (2代不明) * スロール * ディアス === モス === 統一国家ではなく、所属各国の国王の中から選帝会議で公王が選ばれ諸国家を代表する形式の公国(公国とは一般に、王国の中で高い自治権を持つ貴族領を意味し、後述のマーモ公国がこちらの意味での「公国」だが、モスにおいては逆に王国の集合体が「公国」である)。ロードス島南西部を占める山岳地帯にハイランドやハーケーン、ヴェノンなど大小の国家が割拠し、各国の国王は「太守」とも呼ばれる。滅亡した南のドワーフ国「石の王国」は、モス地方南東部にある山岳地帯に存在していたが、モス公国には含まれない。 古くから諸国間の小競り合いが頻繁に起き、戦いが絶えない事から戦神マイリーの信徒が多いのが特徴で、“戦神の王国”とも言われる。他に、[[ドラゴン|竜]]が多く住むことから“竜の王国”とも言われる。 現在のモス公国は凡そ250年前に、当時のライデン王国の脅威に対抗して結ばれた対外相互防衛協定とも言うべき「竜の盟約」に基づいて誕生。加盟国は竜に因んだ二つ名を持つ。モス外部からの侵略に対してはモス公王を中心に堅い連合体を形成して対抗し、その連合騎士団を相手にモス侵略に成功した国家は未だない。しかし国内での行動では「竜の盟約」は効力を持たず、利害関係による足並みの乱れが起こり易い傾向にある。実際に英雄戦争時にはマーモ帝国の工作によって、対マーモ連合軍から脱落している。 魔神戦争までには国家の淘汰が進んでおり、北部のハイランド、南部のハーケーン、南東のヴェノンなど少数の有力国による寡頭体制と言って良い状態になっていた。魔神との戦いの中でモス統一への機運が盛り上がるが、竜騎士ナシェルの失踪により統一は成らなかった。英雄戦争後はマーモから「炎の巨人」を与えられたヴェノン王国がハイランド王国を除く国々を制圧し、モス統一に王手をかける。その後「炎の巨人」を倒したハイランドの反撃が始まり、邪神戦争後半にハイランド王国が初めて実質的な国家統一を成し遂げる。 ; 「竜の目(ドラゴンアイ)」ハイランド : 王城はオーバークリフ。モス公国北部に位置する。元々は竜を崇める小部族で、現王家の先祖には竜司祭がいたと伝えられている。その技術を受け継ぎ、少数ながら竜騎士を擁することでロードス全土に名を馳せる有力国。一般に「モスの竜騎士」と言った場合、ハイランドの竜騎士を指す。 : ハイランドの竜騎士は、魔神戦争時に5騎(ナシェルを含めると6騎)、英雄戦争勃発時には12騎居たが、「炎の巨人」を擁したヴェノンのと戦いの中で最終的に2騎(ジェスター王とレドリック王子)にまで減る。その後レドリック王子と結婚したシーリスが竜騎士となり、邪神戦争時には他に数騎増えていた模様である。 : 代々名君を輩出しており、「竜の目に暗君無し」とはロードス全土で言われている言葉である。魔神戦争時にも「名も無き魔法戦士(カーラ)」が「ハイランドの家系には竜の血でも流れているのか」と感嘆の言葉を投げかけている。 ; 「竜の鱗(ドラゴンスケイル)」ヴェノン : 南東部に位置しヴァリス王国と国境を接する。交通の要衝マスケトの街を領することで強国の仲間入りした。他国との協調より自国の利益を露骨に優先させる傾向が強く、モス国内での摩擦に留まらず、国境を接するヴァリス王国と何度も衝突している。また属国スカードを圧迫して魔神戦争の遠因を作り、更に隣接する魔神に背を向けてハイランドの友好国レントンを攻めることで、隣接するヴァリス王国から「魔神の同盟国」と疑われて侵攻を招くなど、これまで幾つもの問題を起こしている。 : 魔神戦争の結果スカード地方を併合してモス有数の強国となった。英雄戦争ではマーモの誘いに乗って当時のモス公王であったハーケーンの太守一族を滅ぼし、モス公王を僭称してモス統一の野望を明確にした。 ; 「竜の炎(ドラゴンブレス)」ハーケーン : 王城はグレイロック。モス南部の大国。魔神戦争の結果リュッセンを属国化し、規模から言えばモス公国一の大国となった。英雄戦争時にはハーケーン太守がモス公王で、対マーモ連合軍の一翼として連合騎士団をヴァリスに派遣した。しかし本国が手薄になったところをヴェノンに攻められ、滅亡する。 ; 「竜の尾(ドラゴンテイル)」リュッセン : 王城はサンドーム。ヴェノンとハーケーンに挟まれ、常に慎重な外交を強いられていた高原の王国。良馬の産地として名高い。 : 魔神戦争で魔神により一旦滅ぼされる。その後「百の勇者」を含むモス連合騎士団に解放され王国は再建されたが、国力の低下からハーケーンの属国となってしまった。 ; 「竜の爪(ドラゴンクロウ)」レントン : モス北部の国で、かつては隣接するハイランドと敵対関係であったが、マイセンII世の時代に和解して以後は友好国としての関係を維持していた。魔神戦争時には、それを理由にヴェノンの侵攻を受けるも、ハイランドの支援で辛うじて王都を守り抜いた。 ; 「竜の翼(ドラゴンウィング)」 : ハイランドの更に北にある国。『ロードス島ワールドガイド』と『ロードス島戦記リプレイ3』の地図に名前のみ登場。 ; スカード : 王城はグレイン・ホールド。モス南東部の小国。対外的にはヴェノンの属国とされていたため「竜の盟約」には加盟していない。そのため竜にちなんだ二つ名も無い。 : 南に隣接するドワーフの「石の王国」と「エールの誓い」による硬い同盟関係を築いていた為、ヴェノンからの圧力は受けるものの独立を守っていた。またドワーフとの交易を独占する位置にあったため、小国ではあったが財政面では豊かな国として知られていた。 : 魔神戦争時には「石の王国」とともに滅亡し、魔神の軍勢の本拠地となる。戦後は隣国ヴェノン王国の一地方となる。 ==== 歴代モス公王 ==== * (数代不明) * マイセンII世(ハイランド王) * (数代不明) * (名前不明:ハーケーン王) * (僭王ヴェーナー:ヴェノン王) * レドリック(ハイランド王) === カノン === 同名の首都カノンにある王城はシャイニング・ヒル、ロードス島南東の王国。北部でヴァリス・アラニアと国境を接する。西部には海を挟んでモス地方があり、南部沖合いに暗黒の島マーモがある。 アラニアの王家とは縁戚関係であり、またアラニアに次ぐ歴史を誇る。伝統的に武力より文化を重んじる国柄であったが、新興マーモ帝国の急襲の前に脆くも崩壊する。 英雄戦争後もマーモ帝国による圧政が続いたが、出奔していた王族唯一の生き残り、第三王子レオナーによる「カノン自由軍」の活躍で解放された。しかし貴族・騎士達にマーモ帝国へ服属したもの、マーモの支配に抵抗したもの、カノン自由軍から新たに叙爵・叙勲されたものなどが混在するようになったことや、一度国が滅んだため王の権威が揺らいだことなどから、有力貴族の発言力が強く朝廷内の統一を欠く状態が続いている<ref>「ロードス島戦記 誓約の宝冠 1」pp.118-119, 224-225。</ref>。 ==== 歴代カノン王 ==== * 建国王 エゾールI世 * (数代不明) * レオナー * (数代不明) * ロテール * ユーク === マーモ === ロードス島の南部に位置する島、もしくは島を領土とする国家。アレクラスト大陸からは「呪われた島」と呼ばれるロードス島においても、格段に闇の力が強く「暗黒の島」と呼ばれる。ロードス本島との交易や人の交流は断続的に続けられており、完全に孤立した島と言う訳ではなく、北部にある港町サルバドがロードス本島との海の玄関口となっている。闇に属する生物などが多く棲息している。作者の水野によると、マーモ島の面積は[[愛媛県]]程度<ref>『[[ザ・スニーカー]]』94年冬号、ロードス島の7不思議。</ref>であるとのこと。 神話の時代、邪神カーディスの呪いを最小限に食い止めるため、大地母神マーファによりロードス島本島から切り離されたとされる。その為か沿岸部は切り立った崖が多い。中央部にあるマーモ王城地下の大空洞には石化したカーディスの亡骸であるといわれる巨大なカーディス像が存在している。南部は「闇の森」と呼ばれる原生林が広がる。闇の森にはダークエルフ、蛮族、妖魔、魔獣が棲息しているが、それ以外の場所にも様々な魔獣や妖魔が棲息する。また暗黒神ファラリス大神殿の地下には黒翼の邪竜ナースが眠っていて、長い休眠期と短い活動期のスパンで、ときおりマーモの住人を襲撃していた。このような土地であるため、追われる身になったものや流刑になって来る悪人も多く、邪悪でなければ生き抜くことができない土地柄になっていた。 街に住む人間達、闇の森の蛮族、闇の森のダークエルフ、その他にも多数の闇の眷属、などの大小の諸勢力が割拠しており、統一国家が誕生することも歴史上に幾度かあったが、そのほとんどが極めて短命のうちに滅亡している。約500年前に勢力をふるった蛮族のカーディス教団がカーディスの亡骸がある地下カーディス神殿の上に増築した砦が、約200年前にマーモを統一したブルネイ王国によって城へと改築されたことでコンクァラー城(王城コンクァラーとも)と命名され、ブルネイ王国滅亡以降も支配者が変わるたびにコンクァラー城はより強固な城へと改築されていった。後に帝都となる城塞都市ペルセイ、通称ダークタウン(ベルドが治めた際に大改築が行われ、都市としての体裁を持った)と港湾都市サルバド(通称シャドーシティ)の二大都市が蛮族以外の人間の中心的な活動地になっている(マーモ島で都市として機能しているのはこの二つだけ)。ベルド率いるマーモ帝国による統一の前は、暗黒神ファラリス教団や暗殺者を擁する盗賊ギルド、武装商船団、多数の奴隷を支配する大地主などの有力者で構成された評議会が人間の領域の支配者になっていた。 魔神戦争後、六英雄の一人「赤髪の傭兵」ベルドがマーモ帝国を建国し、短期間で極めて強固な支配体制を構築することに成功する。ベルド亡き後は、アシュラム(暗黒騎士団団長)、バグナード(主席宮廷魔術師)、ショーデル(ファラリス教団最高司祭)、ルゼーブ(ダークエルフ族長)の有力者4名による評議会が統治した。またこの頃に眠っていた邪竜ナースが再び活動期に入って暴れ回ったが、評議会メンバーの活躍により邪竜ナースを服従させ以降の被害を収めている。 邪神戦争によりマーモ帝国は滅亡してフレイム王国の領土となり、フレイムの将軍にしてカシューの腹心であるシャダムが太守に就任する。この時、王城コンクァラーはウィンドレスト、帝都ペルセイはウィンディスに改称され、王城の地下はマーファ神殿へ改装された。後にフレイム領マーモ公国となり、スパークが公王に即位するが、カーディス教団の蜂起によってスパークは行方不明になり、王城が占拠され国家体制が崩壊する。スパークが帰還しカーディス教団を駆逐した後、ロードス諸国の承認を得て独立国マーモ王国となる。「王国の法に従う限りは妖魔も邪神信者も国民として認める」という他国にはない政策を採っており{{Efn2|マーモ王国以外で妖魔や邪神信者が公然と活動できる国は、アレクラスト大陸のファンドリアやドレックノール、クリスタニア大陸のベルディアがあるが、ファンドリアとドレックノールは法が適切に機能しておらず、ベルディアは妖魔が国外に流出している。}}、諸国から邪悪との烙印を捺され常に非難されているが、これらの邪悪な存在が国外へ流出するなどの事態は起こしておらず、国内においても厳格な統治を継続している。 ==== 歴代マーモ王 ==== ; ブルネイ王国 :* ブルネイ ; マーモ帝国 :* ベルド :* (マーモ評議会:アシュラム、バグナード、ショーデル、ルゼーブ) :* レイエス(新生マーモ帝国) ; フレイム領マーモ :* (太守シャダム) :* (公王スパーク) ; マーモ王国 :* (国王代理カイエン{{Efn2|マーモ騎士団長のパーンが実質的なマーモ王だったという説がある。}}) :* 建国王 スパーク :* (1代不明) :* アスラン :* アルシャー === その他の国家・地域 === これらの国家・地域の他にも、いくつかの独立した集落が存在している。 ; 帰らずの森 : ロードス島南東部に広がる森林地帯で、アラニアとカノンを分かつ国境にもなっている。ロードス島のみならずフォーセリア世界で所在が判明している唯一のハイエルフ居住地で、200人ほどのハイエルフが暮らしている。妖精界の住人だった頃の特性を色濃く残すハイエルフ達は寿命がないイモータル(不死者)であり、長老に至っては神話の時代に光の神々によって召喚され闇の神々と戦った時代から生きている、正真正銘の「妖精」である。 : 「始原の巨人」から生まれた世界樹を起源とする極めて誇り高い古代種族であり、変化を嫌う性格から古来より他種族と交わることを避け、魔法の結界によりハイエルフ以外は立ち入り禁止の地とされていた。同種の末裔であるエルフ族でさえ避ける。後にカノン自由軍に参加していたパーンとディードリットにより古の結界は解かれる事になるが、古来からの習慣は根強く残っており、好んでこの地に足を踏み入れる者はほとんどいない。 : 邪神戦争以降はパーンとディードリットが森の外れに家を構え、活動拠点にしている。カーラの支配を脱したウッド・チャックも二人に招かれ、居候的な立場で居住を許されている。パーン没後もディードリットが引き続き居住している。 ; 鏡の森 : モス公国北部にあるエルフの代表的な集落群で、古代樹の一種「黄金樹」を中心とし、百人単位の集落が多数連合している。魔神戦争では魔神軍の急襲を受け、一時は森を放棄して隣国のハイランドに敗走するが、義勇部隊としてハイランド軍の大きな戦力となり、最終的には森の奪回に成功する。 : 上述のように、独力では勝ち目が無いと悟った時点で森を放棄、人間の国に集団逃亡して救援を仰いでおり、保守的な性格の人物が多いエルフとしてはかなり柔軟性のある集団である。文化面でも、人間の村とほぼ同じ外観の集落を構えるなど、人間の風俗や技術をかなり受容して有効活用している。 : エルフの集落はここ以外にも、マーモ島を除くロードス各所に複数存在していると思われる。カノン領内にあったエルフの集落は英雄戦争時のマーモ領有時代にほぼ全てがダークエルフによって殲滅されたが、邪神戦争後には、カノンのみならずマーモ島にもエルフの集落が作られ、マーモ王国の方針によりダークエルフとの共存が図られようとしている。 ; 鉄の王国 : ロードス島北東部の白竜山脈にあり、魔神戦争後はロードス唯一となったドワーフの国家。国王は「石の王」と呼ばれる。 : 一般に人間社会には関心が薄いが、白竜山脈の麓にあるターバのマーファ大神殿とは古くから良好な関係を築いている。人間の国家間紛争にはほとんど関与しないが、魔神戦争時にはおよそ五千のドワーフ戦士団がモスを目指したことからも分かるように、その戦力は他のロードス諸国と比べても遜色ない規模と実力を誇る。また、ドワーフ族特有の工芸品や美術品の産地であるため、財政面でも豊かだと思われる。 ; 石の王国 : ロードス島南西部のモス地方にあり、魔神戦争の発端となったスカード王国の更に南に位置する(ここより南には「最も深き迷宮」しかない)。鉄の王国と並ぶドワーフ集落で、山全体を刳り貫いて作った一大地下王国を築いていた。国王は「鉄の王」と呼ばれ、ドワーフ族特有の工芸品・美術品の産地として財政的は豊かだが、食料はほぼ全て外部に依存している。鉄の王国と同様に人間の国家間紛争に関与することは基本的にないが、唯一「エールの誓い」により結ばれた隣国スカードに対しては、実質的な後ろ盾となっていた。 : 人口は一万余りで隣接するスカードと同程度だが、数千の屈強なドワーフ戦士団の強さは折り紙付きで、モス公国内の大国相手でも互角以上と言われた。魔神戦争で強大な魔神軍団の奇襲に10日間戦い続け、鉄の王フレーベを除き全滅する。 : 南北の大門を繋ぐ大通りは文字通り山を貫通する巨大なトンネルで、そこから縦横に張り巡らされた支道や坑道はモス地方のみならずロードス島の各所につながり、最終的にはロードス島の反対側(北東部)にある兄弟国「鉄の王国」にまで繋がっていたと伝えられる。その多くは魔神との戦いの最中に閉ざされたとされる(少なくとも「鉄の王国」側は閉ざした。大地下道網の一部を魔神が利用したとも言われる)。 ; 自由都市ライデン : ロードス北西部にある商人たちによる[[自由都市]]。かつてはロードス島北西部全体を版図としたライデン王国の王都でもあった。王国滅亡後は有力な豪商たちで評議会を作り、自由都市国家として統治していた。魔神戦争期に魔神の首に賞金をかけ、「百の勇者」を集めるという役割を担う。 : 英雄戦争後はマーモのロードス本島侵攻の影響で混乱が続き、また火竜山の魔竜シューティングスターの襲撃により大きな被害を被ったため、ライデンは評議会を解散し自らフレイムの保護下に入ることで事態の収拾を図った。 == テーブルトークRPG == === ダンジョンズ&ドラゴンズ === 『[[コンプティーク]]』で1986年9月号から連載されたリプレイの第1部と第2部においてはまだ独自システムは無く、「D&D誌上ライブ」と題して『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ|D&D]]』を紹介する目的を持って[[クラシック・ダンジョンズ&ドラゴンズ|クラシックD&D]]に独自の世界観を乗せた形になっていた。 日本のTRPGブームの立役者ではあったが、長らく単行本化されなかった。理由は「雑誌の記事なら問題無いが、単行本と言う商品として売り出すなら使用料をD&Dの版権元に払わなくてはならない為」と後に『コンプティーク』に書かれている。そのため、下記の『ロードス島戦記コンパニオン』が作られる事となり、第一部、第二部はそのルールを使って再プレイしたものを単行本化すると言う回り道になった。 === トンネルズ&トロールズ === 『[[ウォーロック (雑誌)|ウォーロック]]』日本版14号(1988年2月)に「トンネルズ&トロールズ・ウィズ・ロードスアイランド」と題して、『[[トンネルズ&トロールズ|T&T]]』を用いてロードス島を舞台にプレイできるよう設定やシナリオサンプル、リプレイなどが掲載された。リプレイは『RPGリプレイ ロードス島戦記 II』の巻末にも収録された。 === ロードス島戦記コンパニオン === 『ロードス島戦記』のオリジナルRPGシステムとしては最初の作品。パソコン用のコンピューターゲーム版のシステムをTRPG用にアレンジした物で、リプレイ連載第2部まで使用されていた『[[ダンジョンズ&ドラゴンズ|D&D]]』の影響を強く受けながらも独自の[[行為判定]]システムを採用している。 『ロードス島戦記コンパニオン』の特徴的なシステムとして'''集中力'''がある。これは、ゲーム中の行為判定に際し、通常の能力を使った判定とは別に、集中力を基準とした再判定を行えるというルール(ただし、この再判定を行える回数は有限であるため、使いどころを選ぶ必要がある)。これは、英雄候補たるプレイヤーキャラクターの才能や天運を表現した[[ヒーローポイント]]的なものである。 === ロードス島RPG === 『コンパニオン』を基礎に、「特技」や「転職」によって多様なキャラクターを表現できるよう構成されたシステム。よりレベルが高い者から特訓を受けることでレベルアップ可能。しかし、「魔法戦士に転職すると、独自の魔法戦士魔法が使える」など、このシステムにしか記述がなく、他のシステムや小説版とは異なるデータが幾つか存在する。 『ロードス島戦記コンパニオン』とのもうひとつの相違点は、このシステムが最初に発売された時点で『ロードス島伝説』の小説展開が始まっていたことである。このため、魔神戦争時代を扱っていたこのシステム版のリプレイ単行本は「ロードス島伝説」のタイトルを冠して刊行された。[[ロードス島伝説#作品リスト|ロードス島伝説の作品リスト]]も参照。 === ロードス島戦記RPG === 2018年、ロードス島戦記30周年を記念して作られた新装版。『コンパニオン』及び『ロードス島RPG』を元にアップデートが加わっている。 === ソードワールドRPG === 本来は『ロードス島戦記』とは独立して展開されてきたシステムだったが、『ロードス島ワールドガイド』の発売によって、『ロードス島戦記』を[[ソードワールドRPG]]へ統合することが可能になった。このとき追加されたルールとして、ソードワールドのシステムから逸脱したロードス島の英雄たちの活躍を合理的に再現できる'''超英雄ポイント'''のルールがある。超英雄ポイントを持つものは10レベルが上限である通常の英雄や英雄候補を超えた資質を持つ存在として、超英雄や超10レベルキャラクターと呼ばれる。 超英雄ポイントを使えば行為判定のやり直しができるほか、自分のレベル以上の魔法の使用、遺失魔法の既知化、上位精霊との盟約、抵抗判定の自動成功、などが行える。また、関連するレベルが上限レベルであるレベル10以上なら、成功判定の自動成功、神が身に降臨した際の魂の破滅の回避、レベル11以上へのレベルアップなども可能。消費した超英雄ポイントはシナリオ終了時に回復、消費することで最大値が増加する。効果の中には最大値を減少させて使用するものもある。 == 雑誌掲載 == 本項では掲載後、書籍などに収録されていないものを記載している。 === [[コンプティーク]] === '''『D&D誌上ライブ・ロードス島戦記リプレイ第1部』'''(作:[[安田均]]と[[グループSNE]] / 絵:[[出渕裕]]) : 1986年9月号 - 1987年4月号に8回に渡って連載された。パーン達の旅立ちから始まり、ドワーフの大トンネルを抜けてウォートに会い、これからマーモとヴァリスの決戦場に向かう所で終了している。[[プレイヤーキャラクター]]はパーン、エト、スレイン、ウッド・チャック、ディードリット、ギム。 '''『D&D誌上ライブ・ロードス島戦記リプレイ第2部』''' : 1987年6月号 - 1988年7月号に14回に渡って連載。プレイヤーキャラクターはオルソン、シーリス、フォース、セシル、マール。[[ノンプレイヤーキャラクター]]のシャリーもパーティーに加わっている。 : === [[コンプRPG]] === 『ロードス島RPG』のシナリオやリプレイ、読者参加企画などが掲載。その多くが本編に関わるもので、場合によってはその後のロードス島の歴史が変わりうる。 '''シナリオ''' '''『サルバーンの魔法書』'''(コンプRPG Vol.1) : コンプRPG創刊記念TRPGコンベンションで使われたコンテスト用のシナリオで、シナリオデザインは[[水野良]]。 : 英雄戦争の6年前、ルノアナ湖の遺跡に眠る太守サルバーンの魔法書を賢者の学院を追放されたある天才魔術師より先に入手するのが目的。 : 進行によっては情報提供者としてレイリアを支配して1年程のカーラが登場する。 '''『暗殺の魔手』'''(コンプRPG Vol.6別冊付録) : シナリオデザインは小川直人とグループSNE。 : 英雄戦争開戦直前のアランの街を舞台にしたシティ・アドベンチャー。アランの設定紹介も兼ね、パーン一行の冒険の一つにも関わる。 '''『亡者の衣』'''(コンプRPG Vol.8) : シナリオデザインは高山浩。 : 邪神戦争の最中、内戦続くアラニアから逃れたPCたちはある遺跡に辿り着く。そこには所有者を支配しその生命力を精神力に変換する祭器「亡者の衣」が封じられていた。魔法の工芸品と異なり、神の奇跡の顕現である祭器は負の力を持った対になる品が生み出されることがあり、「亡者の衣」は「生命の杖」の対の品であった(身にまとう:手に持つ、持ち主を操る:持ち主に操られる、生命力→精神力:精神力→生命力など性質が逆)。 : シナリオ終了後、「亡者の衣」が封じられた為「生命の杖」も本来の性能を発揮できていなかったこと=この一件が邪神戦争の終盤に大きく影響する事件だったことが明かされる。 '''『魔影跳梁』'''(コンプRPG 1994.10月号) : シナリオデザインは小川直人。 : 魔神解放後間もない魔神戦争初頭、自由都市ライデンで起こる連続猟奇殺人を調査する。それは評議会幹部と魔神、二つの思惑が絡んだ事件だった。 '''『魔神掌握の杖』'''(コンプRPG 1994.12月号別冊付録) 1994年11月6日の角川TRPGコンベンション'94でプレイされた。シナリオデザインは小川直人。 : PCがナシェル・ベルド・ウォート・フレーベという豪華なシナリオ。ハイランドへ出奔したナシェル一行は、ルノアナ湖の北の山間部にあるサラン村で門主アズナディールに仕えた召喚魔術師ルーサーの研究所と魔神将をも支配できる「魔神掌握の杖」の存在を知る。このシナリオで登場する杖は古代王国期の膨大な魔力を必要とするため現在では使用不能だが、後にリプレイ『ロードス島伝説II 魔神召喚』『ロードス島伝説III 魔神討伐』に下位魔神までを支配できる簡易版の杖(ゲームデータは未掲載)が登場しその威力を発揮している。 : 『ザ・スニーカー 1994年冬号』に[[ロードス島伝説#%E9%9B%91%E8%AA%8C%E6%8E%B2%E8%BC%89|「ロードス島伝説 ライブノベル がんばれ、ナシェルくん!」]]の題名でリプレイが掲載された(執筆:小川直人)。 : '''シナリオ&リプレイ''' 角川TRPGコンベンションの企画でゲストによるプレイが行われた。そのシナリオとリプレイが掲載されている。PCは数値のみ用意されているプレ・ロールドキャラクターである。 '''『暗黒のプレリュード』'''(コンプRPG Vol.4) : 1992年3月24日の東京会場でプレイ。シナリオデザインは高山浩、マスタリングは[[山本弘 (作家)|山本弘]]、ゲストは『コミックコンプ』連載作家の[[衣谷遊]]・[[迎夏生]]・[[夢来鳥ねむ]]・[[矢上裕]]・[[吉富昭仁]]([[伊東岳彦]]は欠席)。 : 魔神戦争の少し前、支配者不在のマーモを舞台に、カノンの貴族の子であるPCのナイトと双子の弟(妹)が家の相続を掛けて家宝の剣〈マーファの慈愛〉の探索に赴く。『[[ロードス島伝説]]』の前日譚でもある。 '''『魔石の封印』'''(コンプRPG Vol.5) : 1992年8月11日の東京会場でプレイ。シナリオデザインは小川直人、マスタリングは山本弘、ゲストは[[大宮直依]]・衣谷遊・[[桐嶋たける]]・[[中村うさぎ]]・吉富昭仁。 : 魔神開放から1年後の魔神戦争の時代、ヴァリスとモスの間のウズ村が舞台。フラウス・ベルド・ファーンと魔神狩りをしていたウォートから、この村に眠るかつて魔神がもたらした石版〈賢者の石〉の防衛を依頼される。カセットブック『幻惑の魔石』の前日譚でもある。 '''『銀嶺の神殿』'''(コンプRPG Vol.10) : 1993年11月3日の東京会場でプレイ。シナリオデザインは小川直人、マスタリングは水野良、ゲストは中村うさぎ・舘尾冽・[[佐々木亮 (漫画家)|佐々木亮]]・ふじたゆきひさ・帆場瑛明。 : 精霊を操る魔法装置を巡り、PC達は白竜山脈の遺跡「銀嶺の神殿」に赴く。 : シナリオ自体は『ロードス島戦記コンパニオン3』で小川直人がデザインした「銀嶺の宮殿」とほぼ同じ。 : '''読者参加企画''' '''ロードス島戦記読者参加マンガ『魔の島の要塞』'''(原作[[山本弘 (作家)|山本弘]]・[[高山浩]]・[[グループSNE]]、作画[[浦田たひろ]]) : コンプRPG Vol.6~11連載。 : パーティーの状況とシナリオのポイントを提示、読者に実際のシナリオ作成とプレイをしてもらい、そのレポートやリプレイを基にコミックが描かれるという読者参加企画。コメディタッチの作風だが国家間に関わる事件である為(とおそらくプレイ中のレベルアップを防止する為)、全員9レベル・マジックアイテム所持という異例のパーティである。 : 優秀な冒険者一行がフレイムにもたらしたのはマーモの最終兵器開発に関する情報であった。カシューは騎士の一人を一行に加え、最終兵器の破壊を命じる。 : なお本編の事件には一切影響しない。 '''スコウ'''(シャーマン エルフ 男) : ピアサー(レイピア+2)・ディフェンスリング(DE+10%)を所持。 '''トレイス'''(ソーサラー ハーフエルフ 女) : 炎の杖(「ファイアボール」のダメージ+1D10)・サラマンダーの皮鎧(AV4 炎の攻撃に抵抗+10%)を所持。 '''ゲゼック'''(ラーダのプリースト ドワーフ 男) : バトルアックス+1・魔法の虫眼鏡(1日1回「ロア」と同じ効果)を所持。 '''フラニー'''(スカウト 人間 女) : クロスボウ+2・ワイバーンの毒(刃や矢のダメージ+1D10+5)を所持。 '''ブレイク'''(フレイムのナイト 人間 男) : ロングソード+1・宝石類5000gp分を所持。 : '''ロードス島RPG キャラクター&キャンペーン『灰色の勇者』'''(テキスト:高山浩 / 絵:[[さいとうつかさ]]:高田かおり:橋野一顕) : コンプRPG 1995年10月号~1996年10月号連載。キャラクター作成の実践を兼ね、リプレイに登場するPC・NPCを読者から送ってもらうという企画。末尾に読者コーナーとQ&Aなどサポートのページがある。 : カーラとその部下に集められた一行はPCの一人・ダークエルフの「闇の巫女」を巡る冒険に旅立つ。 : PCにロードス島にいないグラスランナー、そして通常怪物扱いのダークエルフ(実質ヒロイン)がいる異色作(後にエキスパートルールで追加される)。また本編では主に反マーモ側への妨害工作を行っていたカーラがカノンを新たな闇の森にしようとするダークエルフ=マーモ側への抑止に動いている点も興味深い。 '''ボーグナイン'''(ナイト 人間 男) : 18歳。モス地方ドラゴンスケール勢力圏の小国ラークスの王子。永遠の平和を求めて諸国の統治を見聞している理想主義者。 '''シルティス'''(シャーマン ダークエルフ 女) : 160歳。「闇の巫女」に生まれ付いた少女。闇の森の奥に乳母ドーラと隠棲していた。闇の精霊シェードを友とする穏やかかつ自己犠牲的な性格。 '''ロット'''(スカウト グラスランナー 女) : 30歳。なぜか関西弁で話すグラスランナー。アレクラスト大陸から密航して来て見世物小屋に売り飛ばされていた。 '''デューシー'''(ソーサラー 人間 女) : 17歳。鞭を得意とする遺跡荒らし(盗賊系上級職ではない)。相棒の戦士レナンを奪ったバグナードを狙う。冷たい印象の美人だが内心は情に厚い。 '''ガドル'''(マイリーのプリースト ドワーフ 男) : 58歳。ラークス王家に仕える司祭。ボーグナインの武術の師。ボーグナインを英雄に育てるのが夢。 '''ギウル'''(軽戦士 人間 男) : ?歳。第3話からの追加PC。「闇の巫女」と共に連れ去られたNPCイーリアに一目惚れし、彼女らを追う一行に加わる。 カーラ : 闇の森でシルティスを、ルノアナ湖の遺跡でデューシーを助けた魔女。複数の陰謀を同時進行させており、中には配下に任せているものもある。その配下も思想に賛同した者もいれば思惑を知ることなく誘導・利用された者もいる。 リオン : カーラの思想に賛同し、100年程も従っているエルフの女戦士。カーラの組織のナンバー2で唯一カーラと連絡が取れる。ボーグナインとガドルを勧誘した後はマーモに渡り、サウジーネの陰謀を阻止せんと暗躍中。 : 後述のスーパーファミコン版RPG『ロードス島戦記([[スーパーファミコン|SFC]])』にも登場。 サウジーネ : ダークエルフの老人。その体は半ば樹木と化しており、文字通り枯れ枝のような風貌。ダークエルフが妖魔と蔑まれ、危険な闇の森に隠れ住んでいる現状への復讐として「闇の巫女」を使いカノンの森を闇の森に変えようとする。 「闇の巫女」 : 現在もマーモを包むカーディスの気とダークエルフの負の側面(森の暗黒面=闇、恐怖、惑いなど)を一身に背負う存在。カーディスとマーファによるロードス創世の神話を体現している。 : 伝説によると、滅びゆくカーディスが発した大地を呪う呪詛が闇の森を生み出した時、共に「闇の巫女」も誕生したという。闇の森の拡大を防ぐべく、マーファは大陸からロードス島を切り離した様に、闇の森の一角に結界で「闇の巫女」を隔離、彼女を包み込みカーディスの気を封じた。二柱の神の力の拮抗は光と闇の天秤と例えられる。 : マーモにあってマーファの影響を最も受けており、その死に方(おそらく「自然ならざる死」)によっては、周囲の森が闇の森と化す。 : シルティスのダークエルフらしからぬ性格や思考もマーファの影響かもしれない。 ドーラ : シルティスの乳母。サウジーネ一味に殺される。 レナン : デューシーの相棒の戦士。ルノアナ湖の遺跡でバグナードと遭遇、捨て身でデューシーを逃がす。 バグナード : 黒の導師。サルバーンの呪文書を見つけたデューシー達と遭遇。後に死霊魔術の実験で影と名乗る暗黒騎士を作り出す。 影 : マーモの暗黒騎士団の一人。闇の森に戻ったシルティスを捕らえ生贄のイーリア達を護送する。その体にはカーディスの力が封じられている。 イーリア : ファラリス神殿に仕える侍女。司祭ではないが暗黒魔法が少し使える。 トラッシュ : カーラの手下で元船乗りの戦士。第2話に登場した読者投稿のNPCだが、後に上級職「海賊」となったデータが送られてきたため第4話から再登場した。 レン姫 : 13歳。カノンの姫。植物の成長を早める不思議な力を持つことから緑の姫君と呼ばれる(デューシーには緑の指の持ち主と称された)。「闇の巫女」の力を拡げるのに利用すべく、サウジーネに囚われる。 == 既刊一覧 == === 小説 === ==== 本編 ==== * 水野良(著) / 出渕裕(イラスト)、角川書店〈角川文庫→角川スニーカー文庫〉、全7巻 *# 『ロードス島戦記 灰色の魔女』 *#* 角川文庫から書き下ろしで刊行され、スニーカー文庫創刊後に移行された。 *#* 角川文庫版:1988年4月10日初版発行、{{ISBN2|4-04-460401-0}} *#* 角川スニーカー文庫版:1994年8月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460401/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女(角川スニーカー文庫版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、ISBNは角川文庫版と同様。 *# 『ロードス島戦記2 炎の魔神』1989年2月25日初版発行(2月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460402/ |title=ロードス島戦記2 炎の魔神 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|4-04-460402-9}} *# 『ロードス島戦記3 火竜山の魔竜(上)』1990年2月1日初版発行(1月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460404/ |title=ロードス島戦記3 火竜山の魔竜(上) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|4-04-460404-5}} *# 『ロードス島戦記4 火竜山の魔竜(下)』1990年7月1日初版発行(6月12日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460405/ |title=ロードス島戦記4 火竜山の魔竜(下) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|4-04-460405-3}} *# 『ロードス島戦記5 王たちの聖戦』1991年3月1日初版発行(2月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460407/ |title=ロードス島戦記5 王たちの聖戦 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|4-04-460407-X}} *# 『ロードス島戦記6 ロードスの聖騎士(上)』1991年12月1日初版発行(11月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460409/ |title=ロードス島戦記6 ロードスの聖騎士(上) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|4-04-460409-6}} *# 『ロードス島戦記7 ロードスの聖騎士(下)』1993年4月1日初版発行(3月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460410/ |title=ロードス島戦記7 ロードスの聖騎士(下) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|4-04-460410-X}} ==== 前日譚 ==== * 水野良(著) / 山田章博(イラスト) 『ロードス島伝説』 角川書店〈角川スニーカー文庫・角川mini文庫{{Efn2|『ロードス島伝説 太陽の王子、月の姫』のみレーベルは角川mini文庫。}}〉、全7巻 {{Main|ロードス島伝説#既刊一覧}} ==== 続編 ==== * 水野良(著) / 出渕裕(イラスト、「炎を継ぐ者」まで担当) / 美樹本晴彦(イラスト、「新生の魔帝国」から担当) 『新ロードス島戦記』 角川書店〈角川スニーカー文庫・角川mini文庫{{Efn2|『新ロードス島戦記序章 暗黒の島の領主』のみレーベルは角川mini文庫}}〉、全8巻 {{Main|新ロードス島戦記#既刊一覧}} * 水野良(著) / 左(イラスト) 『ロードス島戦記 誓約の宝冠』 KADOKAWA〈角川スニーカー文庫〉、既刊1巻(2019年8月1日現在) *# 2019年8月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321804000363/ |title=ロードス島戦記 誓約の宝冠 1 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-107241-7}} ==== 短編集 ==== * 水野良(著) / 出渕裕(イラスト) 『ハイエルフの森 ディードリット物語』 角川書店〈角川スニーカー文庫〉、1995年3月1日初版発行(2月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460411/ |title=ハイエルフの森 ディードリット物語 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|4-04-460411-8}} ==== 番外編 ==== * 水野良(著) / 出渕裕(イラスト) 『黒衣の騎士』 ** 新書版のレーベルはカドカワノベルズ、イラストは出渕裕。文庫版のレーベルは角川スニーカー文庫、イラストは[[夏元雅人]]。 ** 新書版:1995年7月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999787004/ |title=黒衣の騎士(新書版)|publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-787004-8}} ** 文庫版:1998年9月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460419/ |title=黒衣の騎士(文庫版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-460419-3}} *** イラストと後書きが変更されている。 ==== 新装版 ==== * 水野良(著) / 出渕裕(イラスト、「灰色の魔女」のみ担当) / BronzeEYE STUDIO(イラスト、「炎の魔神」から担当) 、KADOKAWA〈角川スニーカー文庫〉、全7巻 *# 『ロードス島戦記 灰色の魔女』2013年11月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321305000539/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女(新装版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101062-4}} *#* 単行本:2013年11月1日初版発行(10月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321305000540/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女(新装版 / 単行本) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-110542-9}} *# 『ロードス島戦記2 炎の魔神』2013年12月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321308000014/ |title=ロードス島戦記2 炎の魔神(新装版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101114-0}} *# 『ロードス島戦記3 火竜山の魔竜(上)』2013年12月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321308000019/ |title=ロードス島戦記3 火竜山の魔竜(上)(新装版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101115-7}} *# 『ロードス島戦記4 火竜山の魔竜(下)』2014年1月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321308000015/ |title=ロードス島戦記4 火竜山の魔竜(下)(新装版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101148-5}} *# 『ロードス島戦記5 王たちの聖戦』2014年1月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321308000016/ |title=ロードス島戦記5 王たちの聖戦(新装版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101149-2}} *# 『ロードス島戦記6 ロードスの聖騎士(上)』2014年2月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321308000017/ |title=ロードス島戦記6 ロードスの聖騎士(上)(新装版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101150-8}} *# 『ロードス島戦記7 ロードスの聖騎士(下)』2014年2月1日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321308000018/ |title=ロードス島戦記7 ロードスの聖騎士(下)(新装版) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101151-5}} === テーブルトークRPG ルールブック === * ロードス島戦記 コンパニオンシリーズ ** 『ロードス島戦記 コンパニオン』1989年10月2日発行(9月13日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999714001/ |title=ロードス島戦記 コンパニオン |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、コンプコレクション、{{ISBN2|4-04-714001-5}} ** 『ロードス島戦記 コンパニオン2』1991年6月5日発行(5月24日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999714006/ |title=ロードス島戦記 コンパニオン2 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、 同上、{{ISBN2|4-04-714006-6}} ** 『ロードス島戦記 コンパニオン3』1994年4月20日発行(4月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999714012/ |title=ロードス島戦記 コンパニオン3 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、 同上、{{ISBN2|4-04-714012-0}} * ロードス島RPGシリーズ ** 『ロードス島RPG ベーシックルール』1995年9月1日初版発行(8月29日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999488502/ |title=ロードス島RPG ベーシックルール |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、角川スニーカーG文庫、{{ISBN2|4-04-488502-8}} ** 『ロードス島RPG エキスパートルール』1996年5月23日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999488505/ |title=ロードス島RPG エキスパートルール |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、 同上、{{ISBN2|4-04-488505-2}} ** 『ロードス島戦記RPG』2018年12月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321803001651/ |title=ロードス島戦記RPG |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、KADOKAWA、{{ISBN2|978-4-04-072805-6}} *** 上記2冊を合わせ、ルール・データも全面的アップデートした。 * 『[[ソード・ワールドRPG]] ロードス島ワールドガイド』1998年12月10日初版発行(11月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199998702115/ |title=ソード・ワールドRPG ロードス島ワールドガイド |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、 富士見書房、{{ISBN2|4-8291-7404-8}} ** ロードス島オリジナルのシステムではなく『ソード・ワールドRPG』のルール上で『ロードス島戦記』の物語を表現するための資料集。『ソード・ワールド』準拠で表記された各種データの他に、『ソード・ワールド』のルールを逸脱したロードス島の英雄たちの活躍を再現する「超英雄ポイント」ルールが掲載されている。 ==== サプリメント ==== * 『ロードス島戦記ハンドブック1』1992年8月発売、BNN、{{ISBN2|4-89369-168-6}} * 『ロードス島戦記ハンドブック2』1992年9月発売、BNN、{{ISBN2|4-89369-169-4}} * 『ロードス島RPG シナリオ集 出発の刻』1995年11月1日初版発行(10月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999488504/ |title=ロードス島RPG シナリオ集 出発の刻 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、角川スニーカーG文庫、{{ISBN2|4-04-488504-4}} * 『ロードス島戦記RPG サプリメント 魔神戦争・邪神戦争編』2019年9月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321905000665/ |title=ロードス島戦記RPG サプリメント 魔神戦争・邪神戦争編 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、KADOKAWA、{{ISBN2|978-4-04-073331-9}} === TRPGリプレイ === <!-- * ロードス島RPGルールに則ってコンプティーク誌で連載されたのは第3部だけで、『D&D』ルールで連載された第1部と第2部は小説版刊行後にルールを替えてプレイしなおしたものが単行本書下ろしで発表された。 --> * 『ロードス島戦記1』1989年12月1日初版発行(11月8日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460403/ |title=RPGリプレイ ロードス島戦記1 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、角川スニーカー文庫(後に角川スニーカーG文庫)、{{ISBN2|4-04-460403-7}} * 『ロードス島戦記2』1990年10月1日初版発行(9月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460406/ |title=RPGリプレイ ロードス島戦記2 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、 同上、{{ISBN2|4-04-460406-1}} ** ロードス島を舞台にロードス島戦記第1部のPCで[[T&T]]をプレイしたリプレイ「帰らずの森のフェアリー」(日本版「[[ウォーロック (雑誌)|ウォーロック]]」14号に掲載されたもの)も収録。 * 『ロードス島戦記3』1991年8月1日初版発行(7月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999460408/ |title=RPGリプレイ ロードス島戦記3 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、同上、{{ISBN2|4-04-460408-8}} ** コンプティーク誌上では1988年9月号 - 1989年9月号に13回に渡って連載。プレイヤーキャラクターはスパーク、ギャラック、ライナ、アルド・ノーバ、リーフ、グリーバス。ノンプレイヤーキャラクターのニース(小ニース)もパーティーに加わっている。書籍にはナニール復活とレイリア誕生を描くロードス島戦記RPG用シナリオ「第五の封印」も収録。 * 『RPGリプレイ ロードス島戦記 英雄騎士スパーク』1998年4月20日初版発行(4月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999700236/ |title=RPGリプレイ ロードス島戦記 英雄騎士スパーク |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、角川mini文庫、{{ISBN2|4-04-700236-4}} ** コンプティーク誌上では1997年9月号 - 1997年12月号に4回に渡って連載された8年振りの続編。連載時のタイトルは『ロードス島戦記スペシャル マーモ開拓編』。 * 『ロードス島戦記 RPGリプレイ集 呪われた島編1』1998年6月初版発行、{{ISBN2|4-8291-4352-5}} * 『ロードス島戦記 RPGリプレイ集 呪われた島編2』1998年7月30日初版発行、{{ISBN2|4-8291-4353-3}} * 『ロードス島戦記 RPGリプレイ集 呪われた島編3』1998年7月30日初版発行、{{ISBN2|4-8291-4354-1}} * 『ロードス島戦記RPGリプレイ 放浪貴公子のはてしない家路』2020年10月20日初版発行(10月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322006000814/ |title=ロードス島戦記RPGリプレイ 放浪貴公子のはてしない家路 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、富士見ドラゴンブック、{{ISBN2|978-4-04-073849-9}} === 漫画 === 特記がない限り原作者は水野良。 * 齋藤亜弓(作画)『ロードス島戦記 炎の魔神』 角川書店 **コンプコミックス版(全2巻) *# 1994年2月17日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713050/ |title=ロードス島戦記 炎の魔神1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2022-11-13}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713050-8}} *# 1994年12月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713057/ |title=ロードス島戦記 炎の魔神2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2022-11-13}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713057-5}} **ドラゴンコミックス版(全2巻) *# 1998年4月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713218/ |title=ロードス島戦記 炎の魔神 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713218-7}} *# 1998年4月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713219/ |title=ロードス島戦記 炎の魔神 2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713219-5}} * [[山田章博]](作画)『ロードス島戦記 ファリスの聖女』 角川書店→KADOKAWA{{Efn2|単行本コミックス版のみ出版社はKADOKAWA}} ** ドラゴンコミックス版(全1巻(この時点では未完)) *# 1994年5月6日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200000000369/ |title=ロードス島戦記 ファリスの聖女 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-853418-1}} ** ニュータイプ100%コミックス版(全2巻) *# 2001年10月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999926038/ |title=ロードス島戦記 ファリスの聖女 1(新装版)(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-853418-1}} *# 2001年10月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200106000102/ |title=ロードス島戦記 ファリスの聖女 2(新装版)(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-853419-X}} ** 完全版(上下巻に加え、別冊イラスト集付き函入りで全1巻) *# 2015年6月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321410000176/ |title=ロードス島戦記 ファリスの聖女(完全版)(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-102806-3}} * [[おちよしひこ|越智善彦]]{{Efn2|1巻のみ「おちよしひこ」、2巻以降は本名「越智善彦」名義}}(作画)『ロードス島戦記 灰色の魔女』 角川書店 ** ドラゴンコミックス版(全2巻) *# 1994年12月20日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999926049/ |title=灰色の魔女1 ロードス島戦記(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2022-11-13}}</ref>、{{ISBN2|4-04-926049-2}} *# 1997年7月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999926106/ |title=灰色の魔女2 ロードス島戦記(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2022-11-13}}</ref>、{{ISBN2|4-04-926106-5}} ** 角川コミックスエース版(全3巻) *# 1998年4月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713216/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713216-0}} *# 1998年4月3日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713217/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女 2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713217-9}} *# 1998年6月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713227/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女 3(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713227-6}} * よねやませつこ(作画)『ロードス島戦記 ディードリット物語』 角川書店〈あすかコミックスDX〉、全2巻 *# 1998年8月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999852991/ |title=ロードス島戦記 ディードリット物語 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-852991-9}} *# 1998年11月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999853030/ |title=ロードス島戦記 ディードリット物語 2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-853030-5}} * [[たくま朋正]](作画)『ロードス島戦記 灰色の魔女』 KADOKAWA〈角川コミックスエース〉、全3巻 *# 2014年6月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321402000092/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-101738-8}} *# 2014年12月10日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321402000093/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女 2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-101739-5}} *# 2015年6月10日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321501000288/ |title=ロードス島戦記 灰色の魔女 3(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-103073-8}} * 鈴見敦(作画)『ロードス島戦記 誓約の宝冠』 KADOKAWA〈角川コミックスエース〉、全3巻 *# 2020年4月25日初版発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/321911000656/ |title=ロードス島戦記 誓約の宝冠 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-103073-8}} *# 2020年12月26日初版発行(12月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000400/ |title=ロードス島戦記 誓約の宝冠 2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-04-103073-8}} *# 2021年7月26日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/322103001459/ |title=ロードス島戦記 誓約の宝冠 3(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-07-26}}</ref>、{{ISBN2|978-4-04-111582-4}} === ゲーム攻略本 === * コンプコレクションスペシャル パソコン版ロードス島戦記&lt;公式ガイドブック&gt; - 著:高山浩とグループSNE / 表紙:[[出渕裕]] / [[角川書店]] ** PC98版およびそれに準拠した機種の『I』と『II』の攻略。高山浩のコラムや、他機種版の紹介、攻略のほかに、モンスターデータなどの各種詳細データなどが掲載。 * ロードス島戦記 HAND BOOK 1 - 著:高山浩とグループSNE / イラスト:[[山田章博]] / ビーエヌエヌ ** PC-98版『灰色の魔女』の攻略を主としたハンドブック。山田章博によるイラスト多数。リプレイのかけあいのような戦闘解説も掲載。 * ロードス島戦記 HAND BOOK 2 - 著:高山浩とグループSNE / イラスト:山田章博、[[佐々木亮 (漫画家)|佐々木亮]] / ビーエヌエヌ ** PC-98版『五色の魔竜』の攻略を主としたハンドブック。アイテムデータは『I』と『II』の両方を掲載。 * PCエンジン版 ロードス島戦記公式ガイド - PCエンジンCD-ROM2版の『1』の攻略本 * PCエンジン対応 ロードス島戦記[復活] - PCE版の『1』とセットになった攻略本 * PCエンジン対応 ロードス島戦記II[体験] - PCE版の『2』の体験盤とセットになったガイドブック * PCエンジン対応 ロードス島戦記II[制覇] - PCE版の『2』の攻略本 * メガCD版 ロードス島戦記 体験CDロム付公式ガイドムック * ロードス島戦記 邪神降臨 公式ガイドブック - ドリームキャスト版の攻略本 === 画集 === * ILLUSION-幻影-(出渕裕) * 生命の水〜UISGE-BEATHA〜(出渕裕) * ANAM -魂- 出渕裕ロードス島戦記画集(出渕裕) * PHANTASIENファンタージェン 結城信輝画集([[結城信輝]]) * 千紫萬紅 結城信輝画集(結城信輝) === その他関連書籍 === * [[魔法戦士リウイ]]サードシーズン ファーラムの剣 呪縛の島の魔法戦士 *: パーンがロードス島戦記2巻で入手した魔剣に関するストーリーで、時期は「ハイエルフの森」の後にあたる * [[クリスタニア]] シリーズ *: ロードス島を脱出したアシュラム達のその後が描かれている。また、ダナーン王国の祖がロードス島戦記の100年後にロードス島を脱出した顛末に触れている。 * ファンタジー・ファイル シリーズ ([[富士見ドラゴンブック]]〈[[富士見書房]]〉) ** アイテム・コレクション ―ファンタジーRPGの武器・装備― {{ISBN2|4-8291-4227-8}} **: 著:安田均、グループSNE(水野良、[[山本弘 (作家)|山本弘]]、[[北川直]]、[[吉岡太郎]])/ イラスト:竜胆丈二、[[末弥純]]、[[米田仁士]]、[[三好道夫]] / アイテムイラスト:[[小出拓]]、[[荻戸成]] **: TRPG、コンピュータRPG、[[ゲームブック]]などのファンタジーRPGに登場する武器・防具や様々な冒険用具についての解説書だが、その間に断片的に挟まれる物語が剣奴ルーファス(後のカシュー王)を主人公とするものになっている。本書以外でカシューの過去を描写したものはほとんど無い。 ** スペル・コレクション ―ファンタジーRPGの魔術― {{ISBN2|4-8291-4220-0}} **: 著:安田均、グループSNE(水野良、北川直、吉岡太郎) / イラスト:[[天野喜孝]]、米田仁士、[[佐竹美保]] **: ファンタジーRPGに登場する様々な魔法についての解説書。魔法使いがその弟子に教えているという設定で、合間にコミカルな対話(寸劇)が挿入されているが、この魔法使いが大魔術師ウォートということになっている。しかし小説などの物語とは関係していない。 * 『ロードス島戦記』の秘密 (上関晃生 / [[データハウス]] / 1998年8月) *:『[[サザエさん|磯野家の謎]]』をはじめとして1990年代に流行した「謎本」に類する研究本。著者独自の視点による小説の考察が中心。付録としてロードスとクリスタニアを合わせた年表及び声優目録を掲載している。 * [[別冊宝島]] 僕たちの好きなロードス島戦記 全ストーリー&キャラクター徹底解析 1561 カルチャー&スポーツ([[宝島社]] / 2008年10月) *:全作品の年表、ストーリーとキャラクター解説に加えて詳細な相関図がビジュアルとともに語られるデータ集。 * ロードス島戦記三昧([[キャラアニ]] / 2015年1月) *: 水野良書き下ろし小説『ロードス島戦記 誓約の宝冠 序章』、南々井梢によるオマージュ小説『放課後イリュージョン 〜パーンの声が聞きたくて〜』、[[あかほりさとる]]と水野良との対談などを収録。『召しませロードス島戦記 〜それっておいしいの?〜』を収録したDVD付き。 == OVA == 1990年から1991年に制作・発売された。全13話。全13巻累計の総出荷本数は55万本<ref>マーチャンダイジングライツレポート1998年4月号</ref>。2006年に[[DVD]]で復刻している。原作小説がまだ連載中であった頃に制作されたため、結末が大幅に異なる。また、割愛されたエピソードがあったり、小説では死亡するキャラクターが生き残っていたり、その逆もある。第1話は時系列としては後になるドワーフの大トンネルでパーンたちがアースドラゴンと戦うエピソード(第5話と第6話の間)であり、実際の物語は第2話より始まる。割愛されたエピソードのうち、第二部「炎の魔神」については同じ声優でラジオドラマ化された。 登場キャラクターのうち、ダークエルフのピロテースについては当初OVA版オリジナルのキャラクターであったが、作者が気に入り原作小説へフィードバックされたキャラクターである。製作に[[TBSホールディングス|東京放送]]<ref>2009年4月より、[[TBSホールディングス|同法人の持ち株会社化]]により、このうち、テレビ放送事業は[[TBSテレビ]]へ移管された。</ref>(TBS)がクレジットされていることもあり、『TBS[[奥さま劇場]]』(夏休みアニメフェスタ、冬休みアニメフェスタなど)の時間枠内において、過去に幾度か放送も行われている。CSでは、[[チャンネルNECO]]及び[[アニメシアターX|AT-X]]が放送を行っている。また、パソコンテレビ[[GYAO!#GyaO|GyaO]]でも全13話が幾度か無料配信された。 === 声の出演 === * パーン - [[草尾毅]]<ref name="animehack106952">{{Cite news |url=https://anime.eiga.com/movie/106952/ |title=ロードス島戦記 |work=アニメハック |accessdate=2023-01-21}}</ref> * ディードリット - [[冬馬由美]]{{R|animehack106952}} * ギム - [[坂口芳貞]]{{R|animehack106952}} * エト - [[山口勝平]]{{R|animehack106952}} * スレイン - [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]{{R|animehack106952}} * ウッドチャック - [[若本規夫]]{{R|animehack106952}} * カーラ - [[榊原良子]]{{R|animehack106952}} * ファーン王 - [[阪脩]]{{R|animehack106952}} * カシュー王 - [[池田秀一]]{{R|animehack106952}} * ウォート - [[大木民夫]]<ref name="allcinema88588">{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/88588 |title=ロードス島戦記 |website=allcinema |accessdate=2023-05-30}}</ref> * ベルド - [[石田太郎]]{{R|animehack106952}} * アシュラム - [[神谷明]]{{R|animehack106952}} * バグナード - [[青野武]]{{R|allcinema88588}} * ピロテース - [[玉川砂記子|玉川紗己子]] * シーリス - [[高山みなみ]]{{R|allcinema88588}} * オルソン - [[速水奨]]{{R|allcinema88588}} * シャダム - [[森功至]]{{R|allcinema88588}} * ジェスター - [[中田譲治]]{{R|allcinema88588}} * ナレーション - [[永井一郎]]{{R|animehack106952}} === スタッフ === * 原作 - [[安田均]]{{R|animehack106952}}、[[水野良]]{{R|animehack106952}} * 製作総指揮 - [[角川歴彦]]{{R|animehack106952}} * プロデューサー - [[池田憲章]](第7話まで)、[[丸山正雄]] * 総監督 - [[永丘昭典]]{{R|animehack106952}} * シリーズ構成 - [[渡辺麻実]]{{R|animehack106952}} * キャラクター原案 - [[出渕裕]]{{R|animehack106952}} * キャラクターデザイン・総作画監督 - [[結城信輝]]{{R|animehack106952}} * サブキャラクターデザイン - [[箕輪豊]]{{R|animehack106952}} * 美術監督 - [[金子英俊]]{{R|animehack106952}} * 撮影監督 - [[石川欣一 (撮影監督)|石川欣一]]{{R|animehack106952}} * 音響監督 - [[本田保則]]{{R|animehack106952}} * コーディネーター - [[高梨由美子]] * 企画 - [[田宮武]] * 音楽 - [[萩田光男]]{{R|animehack106952}} * アニメーション制作協力 - [[マッドハウス]]{{R|animehack106952}} * 製作 - 角川書店{{R|animehack106952}}(現:[[KADOKAWA]])、[[丸紅]]{{R|animehack106952}}、東京放送(現:[[TBSホールディングス]])、[[角川メディアオフィス]](現:KADOKAWA) === 主題歌 === 発売元は[[ビクター音楽産業]](現:[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント]])<ref>後にアニメ音楽・映像販売部門はJVCエンタテインメントを経て、[[フライングドッグ]]へ移管された。</ref>。 * オープニングテーマ 「Adèsso e Fortuna 〜炎と永遠〜」(作詞・作曲:[[新居昭乃]] ) * エンディングテーマ 「風のファンタジア」(作詞・作曲:[[伊藤薫 (作曲家)|伊藤薫]]) *: 2曲ともに歌:[[加藤いづみ|Sherry(加藤いづみ)]]、編曲:[[荻田光男]](現:[[萩田光雄]])。 === 各話リスト === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!監督<br />(演出)!!作画監督 |- |第1話||伝説への序章(プロローグ)||rowspan="3"|[[渡辺麻実]]||colspan="2" style="text-align:center;"|[[永丘昭典]]||山内英子 |- |第2話||炎の出発(たびだち)||[[山田勝久]]||牧野滋人||小田不二夫 |- |第3話||黒衣の騎士||[[りんたろう]]||山田勝久||[[沖浦啓之]] |- |第4話||灰色の魔女||[[金巻兼一]]<br />渡辺麻実||永丘昭典||竜大司||[[そえたかずひろ|添田和弘]] |- |第5話||砂漠の王||金巻兼一||[[片山一良 (アニメ監督)|片山一良]]||([[水野和則|水野カズノリ]])||[[うるし原智志]] |- |第6話||暗黒王の剣||rowspan="3"|渡辺麻実||colspan="3" style="text-align:center;"|さかいあきお |- |第7話||英雄戦争||りんたろう||(竜大司)||添田和弘 |- |第8話||戦士の鎮魂歌(レクイエム)||colspan="3" style="text-align:center;"|[[川崎博嗣]] |- |第9話||支配の王錫||金巻兼一<br />渡辺麻実||永丘昭典||rowspan="3"|竜大司||瀬尾康博 |- |第10話||火竜山の魔竜||rowspan="4"|渡辺麻実||川越淳||添田和弘 |- |第11話||魔導師の野望||矢野博之||style="text-align:center;"|- |- |第12話||決戦!暗黒の島(マーモ)||style="text-align:center;"|-||永丘昭典||添田和弘 |- |第13話||灼熱の大地(ロードス)||colspan="2" style="text-align:center;"|永丘昭典||[[結城信輝]]<br />[[箕輪豊]] |} === 映像ソフト === * VHS版 - 角川書店より全13巻が、[[パック・イン・ビデオ]]より複数話収録のスペシャルエディションなどがリリースされた。 * LD版 - 全6巻。ビクター音楽産業よりリリース。 * DVD+CD BOX - OVA全13話のDVD6枚組とサントラ3枚のBOX。ビクターエンタテインメント(アニメ音楽・映像販売部門、現:[[フライングドッグ]])よりリリース。 * Blu-ray BOX - 2013年11月29日に角川書店からリリース。35ミリネガから新規にHDマスターを作成。音声についてはオリジナルの6ミリテープが劣化して使えないため、DVD版マスターの音源を使用している。196ページブックレット付属。 ; 関連商品 * ロードス島戦記 OVA記録集 全2巻(角川書店) * OVAオリジナル・サウンドトラック ロードス島戦記 - 全3巻でビクター音楽産業よりリリース。 == テレビアニメ == === ロードス島戦記-英雄騎士伝- === {{Infobox animanga/Header |タイトル= ロードス島戦記-英雄騎士伝- |ジャンル= }} {{Infobox animanga/TVAnime |原作= [[水野良]] |監督= [[高本宣弘]] |シリーズ構成= [[長谷川勝己]] |キャラクターデザイン= [[そえたかずひろ]]<br />あずまのこうじ<br />佐々木敏子 |音楽= [[和田薫 (作曲家)|和田薫]] |アニメーション制作= [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]] |放送局= [[テレビ東京]][[TXN|系列]] |放送開始= 1998年4月1日 |放送終了= 9月30日 |話数= 全27話 |製作= [[テレビ東京]]、[[角川書店]]<br />[[丸紅]]、[[読売広告社]]<br />[[バンダイビジュアル]] }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル=[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 1998年4月1日から9月30日まで[[テレビ東京]][[TXN|系列]]で放送された。 ==== 概要 ==== [[水野良]]のファンタジー小説シリーズ『'''ロードス島戦記'''』を原作とするアニメーション作品。[[角川書店]]の商品化権ビジネス本格参入第1弾<ref name="MDR">マーチャンダイジングライツレポート1998年11月号</ref>。 原作はかつて1度[[OVA]]化しているが、本作品は後半部に新主人公スパークとニースが登場するなど、OVAリリース以降の原作の展開を盛り込み、ストーリーの再編がなされている。本作品は「[[英雄戦争]]」終結後の世界より始まり、前半は「火竜山の魔竜」のエピソードを中心として描き、後半はスパークとニースを主人公格に据えた最終章「ロードスの聖騎士」から成っている。本編の後、短編として本編と同じ声優で『ようこそロードス島へ!』が放送されていた。 スパークを主人公にすえたことや『ようこそロードス島へ!』の存在は、いずれも低年齢層に向けた配慮である{{R|MDR}}。 初回放送当日にはテレビ東京の子供向け番組『[[おはスタ]]』にて紹介されているが、『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』と提携している同番組の、特に初期において[[小学館]]原作ではないアニメが取り上げられた珍しい例である。 この作品でディードリットを演じた新山志保は第21話収録後に急性白血病で倒れ、野田順子に急遽交代する形で降板。新山はその2年後に合併症で死去したため、彼女の遺作となった。 ==== あらすじ ==== [[フォーセリア#ロードス島|ロードス島]]全土を揺るがした戦乱、[[英雄戦争]]から5年。マーモ帝国の黒衣の騎士・アシュラムは、ロードス島北東部にある[[フォーセリア#神|マーファ]]大神殿を訪れていた。手に入れればロードスを制することができると伝えられる「支配の王錫」を巡り、パーンとディードリット、フレイム王カシューらが、魔竜・シューティングスターの棲む「火竜山」でアシュラムらと争う(第8話まで)。 それから約10年後。パーンに憧れていた少年・スパークは、フレイム王国の騎士見習いとして成長していた。あるとき、スパークは王城の宝物庫にマーモ帝国のダークエルフが盗賊として侵入している場面に出くわし、彼らを取り逃がしてしまう。彼は仲間たちとともに盗まれた宝玉「魂の水晶球」を取り戻すため、ダークエルフたちを追う旅に出る。途中で、自らの運命に導かれる少女・ニースと出会い、神聖王国ヴァリスを目指す。この旅がロードス島の命運をかけた試練になるとも知らずに(第9話以降)。 ==== 声の出演 ==== {{Main2|主要人物はそれぞれの項、それ以外は「[[ロードス島戦記の登場人物]]」を}} '''第1話 - 第8話''' * パーン - [[神奈延年|林延年(現:神奈延年)]]<ref name="allcinema88859">{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/88859 |title=ロードス島戦記 英雄騎士伝 |website=allcinema |accessdate=2023-10-22}}</ref> * ディードリット - [[新山志保]]{{R|allcinema88859}} * スレイン - [[宮本充]]{{R|allcinema88859}} * レイリア - [[富沢美智恵]]{{R|allcinema88859}} * セシル - [[森久保祥太郎]]{{R|allcinema88859}} * シーリス - [[浅川悠]]{{R|allcinema88859}} * オルソン - [[檜山修之]]{{R|allcinema88859}} * マール - [[阪口大助]] * カシュー - [[中田譲治]]{{R|allcinema88859}} * シャダム - [[今村直樹]]{{R|allcinema88859}} * アシュラム - [[速水奨]]{{R|allcinema88859}} * ホッブ - [[大場真人]] * グローダー - [[石井康嗣]] * アスタール - [[中田和宏]] * ガーベラ - [[遠藤武 (声優)|遠藤武]] * スメディ - [[くじら (声優)|くじら]] * バグナード - [[大塚周夫]] * ニース - [[高島雅羅]]{{R|allcinema88859}} * スパーク(少年) - [[野島健児 (声優) |野島健児]]{{R|allcinema88859}} * 小ニース(少女) - [[沢口千恵|石橋千恵]]{{R|allcinema88859}} '''第9話 - 第27話''' * スパーク - 野島健児{{R|allcinema88859}} * 小ニース - 石橋千恵{{R|allcinema88859}} * パーン - 林延年(現:神奈延年){{R|allcinema88859}} * ディードリット - 新山志保(病気により第21話で降板){{R|allcinema88859}} → [[野田順子]](第22話より) * カシュー - 中田譲治{{R|allcinema88859}} * ホッブ - 大場真人 * マール - 阪口大助 * リーフ - [[坂本真綾]] * ギャラック - [[高塚正也]] * ライナ - [[米本千珠]] * アルド・ノーバ - [[西脇保]] * グリーバス - [[岸野一彦]] * レオナー - [[中井和哉]] * エト - [[太田真一郎]] * ピロテース - [[西原久美子]] * アシュラム - 速水奨{{R|allcinema88859}} * ウッドカーラ(ウッド・チャック) - 中田和宏 * カーラ - [[五十嵐麗]] * バグナード - 大塚周夫 * セシル - 森久保祥太郎{{R|allcinema88859}} * ニース - 高島雅羅 * ラビド - [[江川央生]] ==== スタッフ ==== * 原作 - 水野良(『ロードス島戦記』、『新ロードス島戦記』)/百やしきれい(『ようこそロードス島へ!』) * 監督 - [[高本宣弘]]{{R|allcinema88859}} * キャラクター原案 - [[夏元雅人]](『[[月刊少年エース]]』連載)、百やしきれい(『ようこそロードス島へ!』) * キャラクターデザイン - [[そえたかずひろ]]、あずまのこうじ/佐々木敏子(『ようこそロードス島へ!』) * シリーズ構成 - [[長谷川勝己]]{{R|allcinema88859}} * 撮影監督 - 小澤次雄{{R|allcinema88859}}、豊永安義{{R|allcinema88859}} * 美術監督 - 小山俊久{{R|allcinema88859}} * 色彩設計 - 杉森司 * 音響監督 - [[向山宏志]]{{R|allcinema88859}} * 音楽 - [[和田薫 (作曲家)|和田薫]]{{R|allcinema88859}} * プロデューサー - 岩田牧子{{R|allcinema88859}}、高城一典{{R|allcinema88859}}、田宮武{{R|allcinema88859}}、池口和彦{{R|allcinema88859}} * アニメーション制作 - [[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]{{R|allcinema88859}} * 製作 - テレビ東京{{R|allcinema88859}}、[[角川書店]]{{R|allcinema88859}}、[[丸紅]]{{R|allcinema88859}}、[[読売広告社]]{{R|allcinema88859}}、[[バンダイビジュアル]]{{R|allcinema88859}} ==== 主題歌 ==== ; オープニングテーマ「[[奇跡の海 (曲)|奇跡の海]]」 : 作詞 - [[岩里祐穂]] / 作曲・編曲 - [[菅野よう子]] / 歌 - [[坂本真綾]] ; エンディングテーマ「光のすあし」 : 作詞・作曲 - [[新居昭乃]] / 編曲 - [[保刈久明]] / 歌 - 石橋千恵 ==== 各話リスト ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督 |- |第1話||'''1998年'''<br />4月1日||自由騎士…新たなる伝説の始まり||rowspan="2"|[[長谷川勝己]]||colspan="2" style="text-align:center"|[[高本宣弘]]||菱沼義仁 |- |第2話||4月8日||竜…失われた歴史の番人||colspan="2" style="text-align:center"|[[まついひとゆき]]||阿部邦博 |- |第3話||4月15日||王…求められた英雄||[[久保田雅史]]||まついひとゆき||棚橋一徳||北島信幸<br />泉明宏<br />青井清年<br />島田ひであき<br />[[恩田尚之]] |- |第4話||4月22日||海賊…黒き野望を乗せた船||rowspan="2"|[[山田靖智]]||三泥無成||山崎茂||郷敏治 |- |第5話||4月29日||魔剣…魂を砕く力||阿部宏幸||[[伊達勇登]]||山沢実 |- |第6話||5月6日||心…よみがえる涙||細井能道||colspan="2" style="text-align:center"|[[杉島邦久]]||藤田正幸 |- |第7話||5月13日||死…伝えられた優しき心||久保田雅史||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||恩田尚之<br />[[中澤一登]] |- |第8話||5月20日||支配の王錫…ロードス統一の夢||rowspan="2"|長谷川勝己||南康宏||[[野中卓也]]||泉明宏<br />北島信幸 |- |第9話||5月27日||若き騎士…試される力||古川順康||下司泰弘||阿部邦博 |- |第10話||6月3日||奪回…与えられた任務||久保田雅史||colspan="2" style="text-align:center"|山崎茂||郷敏治 |- |第11話||6月10日||光…神に導かれた少女||細井能道||[[石山タカ明]]||伊達勇登||山沢実 |- |第12話||6月17日||出陣…黒き影を追って||山田靖智||colspan="2" style="text-align:center"|杉島邦久||藤田正幸 |- |第13話||6月24日||悪夢…忍び寄る暗黒の力||久保田雅史||石山タカ明||下司泰弘||柿田英樹 |- |第14話||7月1日||扉…告げられた真実||rowspan="2"|長谷川勝己||colspan="2" style="text-align:center"|間辺浅志||しまだひであき |- |第15話||7月8日||宿敵…黒騎士との再会||colspan="2" style="text-align:center"|南康宏||阿部邦博 |- |第16話||7月15日||聖なる都…手がかりを求めて||佐藤勝一||さかいあきお||山崎茂||保田康治 |- |第17話||7月22日||決断…迫られた選択||rowspan="2"|細井能道||古川順康||棚橋一徳||南伸一郎 |- |第18話||7月29日||使命…自ら進む道||門智昭||伊達勇登||山沢実 |- |第19話||8月5日||再会…遠き戦乱の異国で||山田靖智||南康宏||下司泰弘||[[北爪宏幸]] |- |第20話||8月12日||来襲…奪われた最後の希望||久保田雅史||colspan="2" style="text-align:center"|高本宣弘||中澤一登<br />[[渡辺浩二]] |- |第21話||8月19日||誓い…未来へ進む一歩||佐藤勝一<br />長谷川勝己||colspan="2" style="text-align:center"|間辺浅志||しまだひであき |- |第22話||8月26日||解放…開かれた道||長谷川勝己||まついひとゆき||栗井重紀||阿部邦博 |- |第23話||9月2日||上陸…恐るべき暗黒の島||山田靖智||郷敏治||山崎茂||保田康治 |- |第24話||9月9日||魔女…力の均衡を保つ者||久保田雅史||吉田俊司||棚橋一徳||南伸一郎 |- |第25話||9月16日||決着…黒騎士の選択||rowspan="3"|長谷川勝己||colspan="2" style="text-align:center"|伊達勇登||山沢実 |- |第26話||9月23日||破滅…解き放たれた邪神||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||北爪宏幸<br />しまだひであき |- |第27話||9月30日||英雄…新たなる騎士の誕生||高本宣弘||下司泰弘||恩田尚之<br />阿部邦博 |} ==== 放送局 ==== {{節スタブ}} ==== 関連作品 ==== * ドラマCD 『ロードス島戦記 英雄騎士伝 ドラマアルバム』 * 『ロードス島戦記 英雄騎士伝 フィルムブック』全4巻 *# 1998年7月15日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999852961/ |title=ロードス島戦記 英雄騎士伝 フィルムブック 1 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-10-22}}</ref>、{{ISBN2|4-04-852961-7}} *# 1998年8月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999852962/ |title=ロードス島戦記 英雄騎士伝 フィルムブック 2 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-10-22}}</ref>、{{ISBN2|4-04-852962-5}} *# 1998年10月2日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999852963/ |title=ロードス島戦記 英雄騎士伝 フィルムブック 3 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-10-22}}</ref>、{{ISBN2|4-04-852963-3}} *# 1998年11月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999852964/ |title=ロードス島戦記 英雄騎士伝 フィルムブック 4 |publisher=KADOKAWA |accessdate=2023-10-22}}</ref>、{{ISBN2|4-04-852964-1}} * ゲームボーイ用ゲームソフト 『ロードス島戦記-英雄騎士伝-GB』 * コミック 『ロードス島戦記-英雄騎士伝-』 全6巻 *# 1998年1月7日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713202/ |title=ロードス島戦記 -英雄騎士伝- 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713202-0}} *# 1998年6月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713226/ |title=ロードス島戦記 -英雄騎士伝- 2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713226-8}} *# 1998年12月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713259/ |title=ロードス島戦記 -英雄騎士伝- 3(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713259-4}} *# 1999年4月30日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713277/ |title=ロードス島戦記 -英雄騎士伝- 4(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713277-2}} *# 1999年12月21日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713314/ |title=ロードス島戦記 -英雄騎士伝- 5(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713314-0}} *# 2000年9月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713362/ |title=ロードス島戦記 -英雄騎士伝- 6(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-04-01}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713362-0}} === 召しませロードス島戦記 〜それっておいしいの?〜 === {{Infobox animanga/Header |タイトル= 召しませロードス島戦記<br>〜それっておいしいの?〜 |ジャンル= }} {{Infobox animanga/TVAnime |原作= 小説『ロードス島戦記』 |監督= [[鈴木行]] |シリーズ構成= |脚本= [[赤尾でこ]]<br>[[高橋ナツコ]] |キャラクターデザイン= アミサキリョウコ |音楽= 上倉紀之 |アニメーション制作= [[スタジオディーン]]<br>[[スタジオ雲雀]] |製作= [[キャラアニ]]<br>[[ダックスプロダクション]] |放送局= [[#放送局]]参照 |放送開始= 2014年4月6日 |放送終了= 6月29日 |話数= 全13話 }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル= [[Portal:アニメ|アニメ]] }} 2014年4月から6月まで放送された。なお映像ソフトは単独商品としては存在しておらず、2015年1月発売の小説『ロードス島戦記三昧』(発行:[[キャラアニ]])の特装版に全13話収録のDVDが付録となっている。 ==== ストーリー ==== 水野中学校3年生の'''バン'''と'''ドリ'''は『ロードス島戦記』(以下『ロードス』と表記)の大ファン。この作品の素晴らしさを広めることと卒業記念を兼ねて2人は学園祭の劇で『ロードス』を演じることにした。そこへこの作品を全く知らないという'''エト'''や'''キム'''、'''スレイン'''、'''宇土'''を無理やり参加させてしまう。 ==== 声の出演 ==== {{Main2|主要人物はそれぞれの項、それ以外は「[[ロードス島戦記の登場人物]]」を}} ; <nowiki>バン</nowiki> : [[声優|声]] - [[森嶋秀太]]<ref name="allcinema348817">{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/348817 |title=召しませロードス島戦記 〜それっておいしいの?〜 |website=allcinema |accessdate=2023-10-22}}</ref> : 『ロードス』のファンの男子。同作の主人公・パーンの生まれ変わりと信じている<ref name="AT-X">[http://www.at-x.com/program/detail/5438 召しませロードス島戦記~それっておいしいの?~] - AT-X</ref>。 ; ドリ : 声 - [[木戸衣吹]]{{R|allcinema348817}} : バンと同じく『ロードス』のファンの女子。同作のヒロイン・[[ディードリット]]になりたい、近づきたいという変身願望があり{{R|AT-X}}、彼女のような「尖った耳」にしようと地道な努力を続けている。 ; エト : 声 - [[山崎エリイ]]{{R|allcinema348817}} : 『ロードス』を全く知らない女子。本名は違うようだが、バンたちに頭に丼のふたを載せられ{{Efn2|原典ではエトは[[カロッタ]]型の帽子を被っており、本作でも第2話よりカロッタ型帽子に変わっている。}}「エトに似てる」という理由でこう呼ばれてしまう。彼らに巻き込まれる形で劇に出演するハメになり、作品の概要やその魅力を2人からレクチャーされる。巨乳の持ち主。 ; キム : 声 - [[佐々健太]] : 花壇の世話をしていたおじさん。本名は「きむら」らしいが、手先が器用なのをみてバンとドリに強引に「ギムの生まれ変わりだ」と決め付けられる。 ; スレイン : 声 - [[遠藤広之]] : 本名「素雨(すあめ)」。マラソンで最下位でゴールしたところをパーティの後方で全体を見渡せるのは「スレインの生まれ変わりだ」として強引にスカウトされる。 ; 宇土(うど) : 声 - [[狩野翔]] : パンが仕掛けた「ウッド・チャックに相応しい男」を見つける為、エトが身に着けていたサークレットを盗もうとした男子。結局捕まった上、エトに片思いしていることがバレてしまい、弱みを握られた彼は劇に参加することになってしまう。 ; パーン、ディードリット : 声 - [[草尾毅]](パーン)、[[冬馬由美]](ディードリット) : 劇のクライマックスで突然謎の光に包まれ、バンたちが飛ばされた「本物のロードス島」で出会った、本物の『ロードス』のメインキャラクター。両方ともビジュアル・声はOVA版『ロードス』に準じている。 ==== スタッフ ==== * 原作 - 「'''ロードス島戦記'''」([[角川スニーカー文庫]]刊) ** 原案 - [[安田均]] ** 著 - [[水野良]] ** 原作キャラクター原案 - [[出渕裕]] * 監督 - [[鈴木行]]{{R|allcinema348817}} * キャラクターデザイン・総作画監督 - アミサキリョウコ{{R|allcinema348817}} * スペシャルサンクス - [[あかほりさとる]]{{R|allcinema348817}} * 色彩設定 - 南木由実{{R|allcinema348817}} * 美術監督 - 九重勝雄{{R|allcinema348817}} * 撮影監督 - 倉田しおり{{R|allcinema348817}} * 音楽 - 上倉紀行{{R|allcinema348817}} * 音響監督 - 山本浩司{{R|allcinema348817}} * 音響制作 - [[ダックスプロダクション]]{{R|allcinema348817}} * アニメーションプロデューサー - 鹿嶌舜{{R|allcinema348817}} * プロデューサー - 平賀忠和{{R|allcinema348817}}、平田哲{{R|allcinema348817}} * 制作 - [[スタジオディーン]]{{R|allcinema348817}}、[[スタジオ雲雀]]{{R|allcinema348817}} * 製作 - [[キャラアニ]]{{R|allcinema348817}}、ダックスプロダクション{{R|allcinema348817}} ==== 主題歌 ==== ; エンディングテーマ「希望のヒカリ」 : 作詞 - [[小寺可南子]] / 作曲・編曲 - 上倉紀行 / 歌 - [[木戸衣吹]]&[[山崎エリイ]] : 木戸と山崎によるユニット「[[every♥ing!]]」のデビューシングルお試し版CD「ゆめいろ学園校歌」Type-Bに収録<ref>[https://www.kingrecords.co.jp/cs/artist/artist.aspx?artist=44617 現役女子高生声優ユニット『everying!』(エブリング!) 特集 - キャラアニ]</ref>。 ==== 各話リスト ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !話数!!サブタイトル!!脚本!!演出!!作画監督 |- |冒険の1||今日からお前はエトだ!||[[赤尾でこ]]||福井洋平||rowspan="4"|安形佳己 |- |冒険の2||どっちが主人公?!||rowspan="2"|[[高橋ナツコ]]||木野目優 |- |冒険の3||エルフへの道は険しい!||福井洋平 |- |冒険の4||旅じゃねぇ!冒険だ!!||赤尾でこ||木野目優 |- |冒険の5||エルフ語をマスターしよう||rowspan="2"|高橋ナツコ||鈴木行||安形佳己<br />樋口博美 |- |冒険の6||魔法呪文をマスターしよう||木野目優||安形佳己 |- |冒険の7||パーンとディードリットは付き合ってるの?||rowspan="2"|赤尾でこ||鈴木行||樋口博美 |- |冒険の8||ギムじゃねぇ〜!||木野目優||安形佳己 |- |冒険の9||レイン、レイン、スレイン!||高橋ナツコ||鈴木行||樋口博美 |- |冒険の10||盗まれたウッド・チャック||赤尾でこ||木野目優||安形佳己 |- |冒険の11||やっぱ全部読んで!||高橋ナツコ||鈴木行||樋口博美 |- |冒険の12||学園祭前日||赤尾でこ||木野目優||伊藤麻由加<br />樋上彩 |- |冒険の13||いざ!ロードスへ!?||高橋ナツコ||鈴木行||樋口博美 |} ==== 放送局 ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考 |- |[[東京都]]||[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]||rowspan="3"|[[2014年]][[4月6日]] - [[6月29日]]||rowspan="2"|日曜 22:27 - 22:30||rowspan="2"|[[全国独立放送協議会|独立局]]|| |- |[[兵庫県]]||[[サンテレビジョン|サンテレビ]]||[[電子番組ガイド|EPG]]上では日曜 22:25 - 22:30{{Efn2|このため、冒頭2分間は作品と無関係なCMだけが放送される。}} |- |rowspan="2"|[[全国放送|日本全域]]||[[ニコニコチャンネル]]||日曜 22:30 更新||[[ネット配信]]|| |- |[[アニメシアターX|AT-X]]||2014年[[4月20日]] - [[7月13日]]||日曜 20:25 - 20:30||[[日本における衛星放送|CS放送]]||リピート放送あり |- |} == ようこそロードス島へ! == 『ロードス島戦記』を原作とした[[百やしきれい]]の漫画。『ロードス島戦記』のストーリーに沿いながら、多くはギャグテイストの4コマ漫画で構成されている。『[[月刊少年エース]]』で連載された。 === アニメ === アニメ化もされ、TVアニメ『ロードス島戦記-英雄騎士伝-』内のCパートの短編アニメとして放映された(声優は本編と同一)ほか、30分のアニメ映画として、『[[MAZE☆爆熱時空]] 天変脅威の大巨人』と同時上映で、下記のキャストで1998年4月25日に劇場公開もされている。 ==== 声の出演 ==== * パーン:[[三木眞一郎]]<ref name="moviewalker30848">{{Cite news |url=https://moviewalker.jp/mv30848/ |title=映画『ようこそロードス島へ!』 |work=ムービーウォーカープレス |accessdate=2023-01-21}}</ref> * ディードリット:[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]{{R|moviewalker30848}} * エト:[[山口勝平]]{{R|moviewalker30848}} * スレイン:[[井上和彦 (声優)|井上和彦]]{{R|moviewalker30848}} * ギム:[[飯塚昭三]]{{R|moviewalker30848}} * ウッド:[[梅津秀行]]{{R|moviewalker30848}} * ファーン:[[内海賢二]]{{R|moviewalker30848}} * フィアンナ:[[西村ちなみ]]{{R|moviewalker30848}} * カシュー王:[[中村秀利]]{{R|moviewalker30848}} * 魔女カーラ:[[深見梨加]]{{R|moviewalker30848}} * ウォート:[[川久保潔]]{{R|moviewalker30848}} * ベルド:[[玄田哲章]]{{R|moviewalker30848}} * アシュラム:[[安原義人]]{{R|moviewalker30848}} * バグナード:[[千葉繁]]{{R|moviewalker30848}} * ピロテース:[[勝生真沙子]]{{R|moviewalker30848}} * ナレーション:[[大塚明夫]]{{R|moviewalker30848}} ==== スタッフ ==== * 原作:[[水野良]]{{R|moviewalker30848}}、百やしきれい{{R|moviewalker30848}} * 企画:[[田宮武]]{{R|moviewalker30848}} * 監督:[[千明孝一]]{{R|moviewalker30848}} * 脚本:[[長谷川勝己]]{{R|moviewalker30848}} * 作画監督・キャラタクターデザイン:宇佐美皓一{{R|moviewalker30848}}、小林明美{{R|moviewalker30848}} * 美術監督:小山俊久{{R|moviewalker30848}} * 色彩設計:安達恵子{{R|moviewalker30848}} * 編集:西山榮子{{R|moviewalker30848}} * 撮影監督:AIC撮影部{{R|moviewalker30848}} * 音響監督:[[松岡裕紀]]{{R|moviewalker30848}} * 音楽:where2{{R|moviewalker30848}} * 制作プロデューサー:渡辺欽哉{{R|moviewalker30848}}、宮下研史{{R|moviewalker30848}} * アニメーション制作:[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]{{R|moviewalker30848}} * 制作強力:[[アナザープッシュピンプランニング|A.P.P.P.]]{{R|moviewalker30848}} * 配給:[[東映]]{{R|moviewalker30848}} ==== 各話リスト ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" !話数!!放映日!!絵コンテ!!作画 |- |第1話||'''1998年'''<br />4月1日||[[高本宣弘]]||rowspan="3"|宇都木勇 |- |第2話||4月8日||[[毛利和昭]] |- |第3話||4月15日||rowspan="3"|新田義方 |- |第4話||4月22日||堀内英男 |- |第5話||4月29日||飯田悟 |- |第6話||5月6日||毛利和昭||宇都木勇 |- |第7話||5月13日||秦義人||たかだ悟 |- |第8話||5月20日||rowspan="2"|新田義方||服部一郎 |- |第9話||5月27日||宇都木勇 |- |第10話||6月3日||colspan="2" style="text-align:center;"|佐々木敏子 |- |第11話||6月10日||rowspan="6"|新田義方||宇都木勇 |- |第12話||6月17日||服部桜子 |- |第13話||6月24日||宇都木勇 |- |第14話||7月1日||竹内昭 |- |第15話||7月8日||服部桜子 |- |第16話||7月15日||相坂直紀 |- |第17話||7月22日||colspan="2" style="text-align:center;"|宇都木勇 |- |第18話||7月29日||rowspan="10"|新田義方||石本かおり |- |第19話||8月5日||宇都木勇 |- |第20話||8月12日||服部桜子 |- |第21話||8月19日||宇都木勇 |- |第22話||8月26日||服部桜子 |- |第23話||9月2日||rowspan="2"|宇都木勇 |- |第24話||9月9日 |- |第25話||9月16日||阿部和彦 |- |第26話||9月23日||大宅光子 |- |第27話||9月30日||宇都木勇 |} === 関連作品 === ; 書籍 :* 百やしきれい(作画)『ようこそロードス島へ!』 角川書店〈角川コミックス・エースエクストラ〉、全3巻 :*# 1997年7月01日発売<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713190/ |title=ようこそロードス島へ! 1(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2022-11-13}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713190-3}} :*# 1998年2月25日発売<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713190/ |title=ようこそロードス島へ! 2(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2022-11-13}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713214-4}} :*# 1999年5月27日発売<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kadokawa.co.jp/product/199999713281/ |title=ようこそロードス島へ! 3(漫画) |publisher=KADOKAWA |accessdate=2022-11-13}}</ref>、{{ISBN2|4-04-713281-0}} : ; TVアニメ :* ロードス島戦記-英雄騎士伝- ビデオ全9巻 :* ロードス島戦記-英雄騎士伝- DVD-BOX全2巻 : ; 音楽CD :* ようこそロードス島へ!冒険活劇劇中楽曲集 - 劇場版「ようこそロードス島へ!」のサントラCD == 舞台 == '''舞台版『ロードス島戦記』'''のタイトルで、2017年1月に[[紀伊國屋サザンシアター]]で上演。第1巻「灰色の魔女」がベースとなる舞台作品。作・演出は[[園田英樹]]<ref name="natalie161004">{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/204075|title=水野良「ロードス島戦記」が舞台化、出演に菅谷哲也&HKT48多田愛佳|newspaper=ステージナタリー|date=2016-10-04|accessdate=2016-10-05}}</ref>。 ; キャスト :* パーン:[[菅谷哲也]] :* ディードリット:[[多田愛佳]] :* エト:[[ピコ (歌手)|ピコ]] :* スレイン:[[佐奈宏紀]] :* ウッド・チャック:[[汐崎アイル]] :* ギム:[[深沢敦]] :* フィアンナ姫:[[宮路由佳]] :* ファーン王:[[翁長卓]] :* アシュラム:[[辻凌志朗]] :* バグナード:[[成松慶彦]] :* ミャーム:[[大林ちえり]] :* ファーム:[[今川宇宙]] :* チャーム:[[水希蒼]]{{smaller|(当時[[A応P]])}} :* ラーム:[[今安琴奈]] :* ターム:[[桜帆ゆかり]]{{R|natalie161203}} :* パーン母親:[[八坂沙織]] :* カーラ:[[月船さらら]] :* ベルド:[[長江英和]] :* モート:[[こにわ]] :* フィルマー:[[田中佳人]] :* ザムジー:[[大迫洸太郎]] :* ジェット:[[花井祥平]]{{smaller|(TESSIN)}} :* ライオット:[[麻田樹]] :* ニース:[[吉見麻美]] :* ホワイト:[[橋本真一]]{{R|natalie161203}} : ; スタッフ :* 原作:[[水野良]]「新装版『ロードス島戦記 灰色の魔女』」{{R|natalie161004}} :* 作・演出:[[園田英樹]]{{R|natalie161004}} :* テーマソング歌唱:[[A応P]]<ref name="natalie161203">{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/211715|title=「ロードス島戦記」舞台版オリジナルキャラに橋本真一&桜帆ゆかり|newspaper=ステージナタリー|date=2016-12-03|accessdate=2016-12-07}}</ref> :** オープニングテーマ 「風のファンタジア」(OVA版エンディングテーマのカバー曲) :** 挿入歌 「クロニクルは止まらない」 == 関連作品 == === カードゲーム === * ロードス島戦記 カードゲームコレクション(1996年1月 / コンプコレクションスペシャル) === コンピュータゲーム === ; ロードス島戦記〜灰色の魔女〜(1988年9月 / [[ハミングバードソフト]]、[[Windows 95]]版は[[マイクロキャビン]]) :; [[PC-8800シリーズ|PC-88VA]]版、[[PC-9800シリーズ|PC-98]]版、[[MSX|MSX2]]版 :: 小説1巻のストーリーだがD&Dルールでの誌上連載と小説1巻を半々ずつベースにしており、カシュー王は登場しない。戦闘システムは、フィールドでは隊列で前列と後列に分かれるだけのクイックコンバット、ダンジョン内では[[シミュレーションロールプレイングゲーム|シミュレーションRPG]]のようにマス目を移動させるタクティカルコンバット。イベントの可否によって国の興亡が変化して情勢画面に表示される天秤が傾く。その傾きによってロウEDとケイオスEDの2種類のエンディングがある。 :: 『II』にも言えるが、古代語魔法・精霊魔法・神聖魔法も全てを使えるウィザードというクラスがある。ただしゲームクリアはLV13程度で可能なのに対してウィザードが全ての魔法を覚えるのはLV40以上。 :: 最初に発売されたPC-98版では、戦闘画面への移行、戦闘画面から通常画面への移行の際に、非常に長いロード時間を必要とした<!--(以下、主語出典が見られずコメントアウト措置)ため、「ロードずっと戦記」と揶揄された-->(後に必要メモリを640Kに引き上げ、ロード時間を短縮した改良版のディスクが配布された)。 :: 2005年10月、[[プロジェクトEGG]]で販売。 :: 2023年3月22日、プロジェクトEGGにてMSX2版が再販<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2023/03/22/%e3%80%8e%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89%e3%82%b9%e5%b3%b6%e6%88%a6%e8%a8%98-%e7%81%b0%e8%89%b2%e3%81%ae%e9%ad%94%e5%a5%b3%ef%bc%88msx2%e7%89%88%ef%bc%89%e3%80%8f%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8%e3%82%a7/ |title=『ロードス島戦記 灰色の魔女(MSX2版)』プロジェクトEGGにて配信開始 |publisher=[[D4エンタープライズ]] |date=2023-03-22 |accessdate=2023-03-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=簗島 |date=2023-03-22 |url=https://www.4gamer.net/games/008/G000896/20230322060/ |title=「ロードス島戦記 灰色の魔女(MSX2版)」,プロジェクトEGGで配信開始。小説第1巻をベースに,灰色の魔女にまつわる冒険を楽しめる |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2023-03-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Gamer編集部 |date=2023-03-22 |url=https://www.gamer.ne.jp/news/202303220017/ |title=「ロードス島戦記 灰色の魔女(MSX2版)」がプロジェクトEGGにて配信開始!和製ファンタジーの金字塔がRPGで楽しめる |website=Gamer |publisher=ixll |accessdate=2023-03-23}}</ref>。 :; [[X68000]]版、[[PC-9821]]版、[[FM-TOWNS]]版 :: 操作性をPC-98版の『II』よりも更に向上させ、グラフィックの色数も増している。 :: 2023年5月30日、プロジェクトEGGにてX68000版が販売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2023/05/30/%e3%80%8e%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89%e3%82%b9%e5%b3%b6%e6%88%a6%e8%a8%98-%e7%81%b0%e8%89%b2%e3%81%ae%e9%ad%94%e5%a5%b3%ef%bc%88x68000%e7%89%88%ef%bc%89%e3%80%8f%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8%e3%82%a7/ |title=『ロードス島戦記 灰色の魔女(X68000版)』プロジェクトEGGにて配信開始 |publisher=[[D4エンタープライズ]] |date=2023-05-30 |accessdate=2023-06-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=ばしょう |date=2023-05-30 |url=https://www.4gamer.net/games/008/G000896/20230530015/ |title=「ロードス島戦記 灰色の魔女(X68000版)」,プロジェクトEGGで配信開始。特典は当時のマニュアルをPDFにしたもの |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2023-06-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=吉田航平 |date=2023-05-30 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1504510.html |title=「ロードス島戦記 灰色の魔女(X68000版)」がプロジェクトEGGで5月30日より配信開始 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2023-06-17}}</ref>。 :; [[Microsoft Windows 95|Windows 95]]版 :: データやシステムやグラフィックなどが『II』と共通に変更。イベントのNPCが『II』のようにパーティーに加わるようになっている。作成キャラのグラフィックも『II』の2種類選択できる内の片方の物になるなど『I』独自グラフィックがいくらか失われている。2種類あったエンディングも別の1種類になり小説準拠の内容に変更。音源はMIDIになり、また操作がマウス必須に変わっている。 ; ロードス島戦記 福神漬(PC88、PC-98、MSX2)(1990年1月 / ハミングバードソフト) : 開発者コメント、4×4パズル、サウンドモード、おまけシナリオなどが収録されたファンディスク。『ロードス島戦記〜灰色の魔女〜』との間でキャラデータをコンバート可能。 : 2005年11月、プロジェクトEGGで販売。 ; ロードス島戦記II〜五色の魔竜〜(1991年12月 / ハミングバードソフト、Windows 95版はマイクロキャビン) :; [[PC-9800シリーズ|PC-98]]版 :: 『I』の続編。小説2-7巻のストーリーだが小ニースは登場せず、その役割はディードリットが担う。小説版にはない「降臨した邪神カーディスとの戦闘」がラストクエストとなっている。NPCキャラを2人までパーティーに参加可能になっている。戦闘はフィールドでもタクティカルコンバットに変わり、『I』より操作性も向上。ターボコンバットという短時間で終わる自動戦闘も存在するが、LP・MPの消耗が激しく経験点も1割しか入手できない。武器の能力が調整され、騎馬によるランスチャージなど新機軸も追加。キャラには「自由の騎士」などの通り名もつくようになった。 :: 前作『ロードス島戦記〜灰色の魔女〜』から作成キャラデータを読み込み可能。ただしプレイヤーキャラとしてではなく、あるイベントのやられ役NPCのパーティーが読み込んだキャラに変わるというもの。 :: 2005年12月、プロジェクトEGGで販売。 :; X68000版、PC-9821版、FM-TOWNS版 :: 『I』と同様に、機能がPC-98版のIIよりも向上している。 :; Windows 95版 :: 小説準拠へと変更され、ウッドカーラとレイリアのイベントが追加されている。 ; ロードス島戦記 福神漬2(PC-98)(1992年2月 / ハミングバードソフト) : ファンディスク第二弾。おまけシナリオはIIのクリア可能レベルより更にレベルを上げたプレイヤー対象の高難易度のものが収録されている。『ロードス島戦記II〜五色の魔竜〜』との間でキャラデータをコンバート可能。 : 2006年1月、プロジェクトEGGで販売。 ; ロードス島戦記 福神漬3(PC-98)(1992年8月 / ハミングバードソフト) : ファンディスク第三弾。『ロードス島戦記II〜五色の魔竜〜』との間でキャラデータをコンバート可能。また『[[ソード・ワールドPC]]』へのキャラデータ移行も可能。 : 2006年6月、プロジェクトEGGで販売。 ; PC-9801ゲームリバイバルコレクション(Windows 98SE, ME, 2000, XP)(2004年4月 / 角川書店 / 編・著:コンプティーク)、{{ISBN2|4-04-707136-6}} : 15本のPC98用ゲームソフトをWindowsで遊べるようエミュに組み入れてCD-ROMに収録。『ロードス島戦記』、『ロードス島戦記II』、『ソード・ワールドPC』などが収録されている。 ; ロードス島戦記([[PCエンジン]] [[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]・[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]両対応)(1992年7月 / [[ハドソン]]) : OVA準拠。OVAのオープニングが再現され、声つきで声優もOVA版のものとなっているが、PC版『灰色の魔女』の移植がベース。角川書店より書籍販売の廉価版『ロードス島戦記〔復活〕』も発売されている。 ; ロードス島戦記2(PCエンジン SUPER CD-ROM<sup>2</sup>)(1994年12月 / ハドソン) : 前作の続編。OVA準拠なのは上とおなじ。PC版『五色の魔竜』の移植がベースとなっている。 ; ロードス島戦記 英雄戦争([[メガCD]])(1994年5月 / 販売:セガ / 開発:工画堂スタジオ) : OVA準拠。RPG。 ; ロードス島戦記([[スーパーファミコン|SFC]])(1995年12月 / 発売:角川書店 / 開発:ハミングバードソフト) : 魔神王との最後の戦いから始まり、その後の歴史を4章仕立てで、記憶をなくしたカーラ、マーモに渡ったベルド、聖騎士隊長ファーン、そして最後にパーンが、章ごとの主人公として小説1巻の終わりまでのストーリーが描かれる。仲間に入るサブキャラはオリジナルキャラが多い。第1章ではカーラの配下の双子のハーフエルフの戦士リオンと精霊使いシオン。第2章では、元アラニア貴族のアッシュ、ファラリス司祭ウンバラ、ダークエルフのサキルス。第3章ではヴァリスの聖騎士見習いテシウス、ファリスの高司祭グレゴ、首都ロイドの盗賊ギルド長レンダー。第4章ではエト、スレイン、ギム、ディード、ウッド。 : システムは、見下ろし型のフィールド・街、クォータービューのダンジョン、3×5マスのフィールドで行われるエンカウント戦闘となっている。 :[[2022年]][[12月27日]]より[[プロジェクトEGG]]にて配信開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.amusement-center.com/project/egg/2022/12/27/%e3%80%8e%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%89%e3%82%b9%e5%b3%b6%e6%88%a6%e8%a8%98%ef%bc%88%e3%82%b3%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%9e%e3%83%bc%e7%89%88%ef%bc%89%e3%80%8f%e3%83%97%e3%83%ad%e3%82%b8/ |title=『ロードス島戦記(コンシューマー版)』プロジェクトEGGにて配信開始 |publisher=[[D4エンタープライズ]] |date=2022-12-27 |accessdate=2022-12-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=長岡 頼 |date=2022-12-27 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1467142.html |title=プロジェクトEGGにて「ロードス島戦記(コンシューマー版)」配信開始 当時のマニュアル(PDF)も収録 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2022-12-27}}</ref>。 ; ロードス島戦記 -英雄騎士伝- GB([[ゲームボーイ|GB]]&[[ゲームボーイカラー|GBC]]共通)(1998年12月11日 / 発売:[[トミー (企業)|トミー]]) :キャラクターカードを利用したバトルシステムのゲーム。特典としてカードが付属。 ; ロードス島戦記 邪神降臨([[ドリームキャスト|DC]])(2000年6月 / 発売:角川書店 / 開発:[[ESP (ゲーム会社)|ESP]]、[[ネバーランドカンパニー]]) : 若き姿で記憶をなくして復活した赤毛の剣士が邪神戦争の中で戦う。レイリア本人も登場するが、カーラもレイリアの姿で登場する。開発者の言では「カーラのこの姿は、レイリア以外の見た目は考えられない」と意図的にデザインしたとのこと{{要出典|date=2017年9月7日 (木) 06:11 (UTC)}}。 : システムは3DのアクションRPG。 ; ロードス島戦記 -伝説の継承者-([[Pmang]])(2012年12月 - 2014年3月 / 開発:[[ゲームオン]]) :3Dダンジョンでの探索とカードバトルを組み合わせた[[ブラウザゲーム]]のRPG作品。メインクエストでは、原作をベースにしたストーリーが描かれ、キャラクターカードを使用して、小説やアニメの主人公・パーン達とパーティを組んで共に戦えるのが大きな特徴。全国の仲間と協力してボスを討伐する「レイドボス」イベントといったコンテンツが用意されている。2014年3月5日をもってサービス終了となった。 ; ロードス島戦記 -伝説の継承者-([[Yahoo! Mobage]])(2013年1月 - 2014年3月 / 開発:ゲームオン) :同上。 ; ロードス島戦記 -伝説の継承者-([[mixi]])(2013年4月 - 2014年3月 / 開発:ゲームオン) :同上。Pange版やYahoo! mobage版と細部が異なり、装飾品やキャラクターなどの能力値や、敵を倒した時の取得経験値などが調整されている。 ; ロードス島戦記オンライン(Pmang)(2016年2月 - / 開発:ゲームオン) : [[MMORPG]]。担当声優はバーン役が[[寺島拓篤]]、ディードリット役が[[遠藤綾]]、エト役が[[阪口大助]]、ギム役が[[稲葉実]]、ウッド・チャック役が[[平田広明]]、スレイン役が[[杉田智和]]、カーラ役が[[井上喜久子]]、アシュラム役が[[高橋広樹]]となっている。 ; ロードス島戦記 -ディードリット・イン・ワンダーラビリンス-([[Steam]])(2020年3月 / 開発:[[team ladybug|Team Ladybug]]、Why so serious?(PLAYISM、ワイソーシリアス)) : [[2次元コンピュータグラフィックス|2D]]探索型アクションゲーム。ステージ1のみプレイできるアーリーアクセス版として先に発売され、ステージ6までのフルリリースが順にアップデートされる。対応言語は日本語・英語・簡体字。 ; ロードス島戦記 -ディードリット・イン・ワンダーラビリンス-([[Nintendo Switch]]/[[PlayStation 4|PS4]]/[[PlayStation 5|PS5]]/[[Xbox Series X/S]]/[[Xbox One]]/[[Microsoft Store]])(2021年12月 / 開発:Team Ladybug、WSS playground(PLAYISM、ワイソーシリアス)) :上記の移植版。同時発売につきまとめて記載するが、各ダウンロード版と、Nintendo Switch/PS4/PS5ではパッケージ版を発売。対応言語が増え、日本語・英語・簡体字・繁体字・韓国語・スペイン語・ドイツ語・イタリア語・フランス語・ブラジルポルトガル語・ロシア語に対応。 <!--; ロードスクロニクル ロードス島戦記III(Windows 95/98)(ハミングバードソフト、[[キングレコード]]) : 1999年3月発売予定であったが、5月14日に延期、その後も6月に延期され、発売中止になっている。 : ロードス島戦記の歴史の中で、プレイヤーが作成したキャラクターが島内で自由に生活をするゲームとなる予定だった。 --> === ラジオドラマ(ラジメーション) === 文化放送とラジオ大阪にて全16回の放送。「風と炎の魔神」はOVA2作目となる企画があったが、ペンディングとなっている。台本等が付いたCDシネマ版と、「炎を継ぐ少女」(著:水野良)が収録された書籍扱いのCDブック版がある。 番組放送時には前半がパーソナリティ・ゲストによるトーク、後半はドラマパートという形式だった。パーソナリティは[[石田彰]]{{Efn2|直接この作品へ出演はしていないが、前番組である電撃アワー『[[レジェンド・オブ・クリスタニア]]』『[[ゴクドーくん漫遊記|ゴクドーくん漫遊記外伝]]』でそれぞれ主役・ラジオパーソナリティを務めている。}}、[[桑田貴子]]{{Efn2|ラジオ及びドラマ主題歌「風の羽」「炎のラグリマ」アーティスト。}}。ゲストはドラマパートの出演陣([[冬馬由美]]、[[中村尚子]]ら)。 * ロードス島戦記 風と炎の魔神 1 砂漠の王国 * ロードス島戦記 風と炎の魔神 2 ナルディアの苦悩 * ロードス島戦記 風と炎の魔神 3 アラニアの賢者 * ロードス島戦記 風と炎の魔神 4 そして、解放されるもの {{前後番組 |放送局=文化放送 |放送枠=金曜25:00-25:30枠 |番組名=ロードス島戦記〜風と炎の魔神〜<br />(1994年10月14日-1995年4月7日) |前番組=[[爆れつハンター|あかほりさとる劇場 爆れつハンター]]<br />(1994年4月15日-10月7日) |次番組=[[エメラルドドラゴン]]<br />(1995年4月14日-10月6日) }} === カセットブック === カセットテープ版と、CD版がある。1 - 3は書き下ろしのオリジナル脚本。1 - 5のCD版とアレンジサントラを併せた「スペシャルパッケージ」もある。 * ロードス島戦記 カセットブック 幻惑の魔石 - 小説1巻のオリジナル・サイドストーリー * ロードス島戦記 カセットブック2 宿命の魔術師 - 小説3巻のオリジナル・サイドストーリー * ロードス島戦記 カセットブック3 魔獣の森 - 小説3巻のオリジナル・サイドストーリーで、アラニアの魔術師、魔獣使いエレーナのエピソード * ロードス島戦記 カセットブック4 妖精界からの旅人 - 「ハイエルフの森」のストーリー * ロードス島戦記 カセットブック5 …開かれた森 - 「ハイエルフの森」のストーリー * ロードス島戦記 カセットブック6 復讐の霧 - 「ハイエルフの森」のストーリー === Audible === 新装版をベースに、[[高橋研二]]と[[〆野潤子]]による朗読で、2018年より[[Audible]]から、順次データ配信でオーディオブック化されている。 === 音楽CD === * アレンジ・サウンド ロードス島戦記〜灰色の魔女〜(1989年4月21日 / [[ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]) * アレンジ・サウンド ロードス島戦記II〜五色の魔竜〜(1992年3月27日 / ビクター音楽産業) - 数曲を1トラックずつにまとめた形のアレンジアルバム * ロードスクロニクル サウンドトラックス (キングレコード) ** 発売中止になったWindows用ゲームソフト『ロードスクロニクル ロードス島戦記III』のオリジナルサウンドトラック。1999年4月2日にはマスタリングを終え、CDアルバムは制作完了して5月28日に発売予定だった。 * ロードスクロニクル ファーストカット (1999年3月 / キングレコード) ** 『ロードスクロニクル サウンドトラックス』から3曲をアレンジしたシングルCD。[[東京ゲームショウ]]'99春の[[キングレコード]]のブースで、『ロードスクロニクル ロードス島戦記III』の主題歌のライブが「ジェンダワヤン(Genderwayann)」(浜野宏子(ワヤン)と遠藤雅章の[[音楽ユニット|ユニット]] )によって3日間に10回行われ、抽選配布された。 * Name the Sky ソラノナマエ (2001年2月28日 / [[グリーンエナジー]]) ** ジェンダワヤンの2ndアルバム。「Soul Crystal Ball <魂の水晶球> 」などの、発売中止になったWindows用ゲームソフト『ロードスクロニクル ロードス島戦記III』の楽曲のアレンジ曲を収録。 * raira ライラ 新千夜一夜物語 (2002年6月26日 / キングレコード) ** ジェンダワヤンの3rdアルバム。発売中止になったWindows用ゲームソフト『ロードスクロニクル ロードス島戦記III』の楽曲のアレンジ曲を収録。 * ロードス島戦記 オリジナルサウンドトラック (1996年1月 / ビクター音楽産業) - スーパーファミコン版ゲームソフトのサントラ * ロードス島戦記 風と炎の魔神 オリジナル・サウンドトラック - ラジオドラマのサントラ * ロードス島戦記 吟遊詩人の記憶 - カセットブックのアレンジ・サウンドトラック == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 外部リンク == * [http://www.groupsne.co.jp/products/etc/list/lodoss.html Group SNE | 製品情報 | その他 | ロードス島] - シリーズの紹介サイト * [https://www.terrediconfine.eu/record-of-lodoss-war-info.html Record of Lodoss War | Terre di Confine Magazine]{{it icon}} * [https://web.archive.org/web/20190615193133/http://stage-lodoss.com/ 舞台版『ロードス島戦記』公式サイト] * {{Twitter|stage_lodoss|舞台版『ロードス島戦記』公式アカウント}} * [https://web.archive.org/web/20140630221032/http://www.meshi-lodoss.com/ 召しませロードス島戦記 〜それっておいしいの?〜] * {{twitter|meshi_lodoss|アニメ「召しませロードス島戦記」}} {{フォーセリア}} {{マッドハウス}} {{AIC}} {{スタジオディーン}} {{スタジオ雲雀}} {{永丘昭典監督作品}} {{千明孝一監督作品}} {{高本宣弘監督作品}} {{鈴木行監督作品}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=ロードス島戦記-英雄騎士伝- |1-1=アニメ作品 ろ|おとすとうせんきえいゆうきしてん |1-2=1998年のテレビアニメ |1-3=テレビ東京系アニメ |1-4=AIC |1-5=角川スニーカー文庫のアニメ作品 |1-6=読売広告社のアニメ作品 |1-7=バンダイビジュアルのアニメ作品 |redirect2=ようこそロードス島へ! 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Java Platform, Micro Edition
Java Platform, Micro Edition (Java ME) は携帯電話、PDA、テレビのようなリソースが制限されたデバイスにおけるJavaの小型セット。JSR 68 で規定されている。当初は、Java 2 Platform, Micro Edition (J2ME) という名称だった。 様々なデバイスに対応するため、コンフィギュレーションとプロファイルと呼ばれるものでAPIを定義している。コンフィギュレーションには次の2つがある。 携帯電話のような非力なCPUを対象とする。 Java VMから新たにKVM (Kilobyte Virtual Machine) を開発し、Java Platform, Standard Edition (Java SE) とは一部互換性がないものの最小限の機能で動作するようにしたもの。 次のようなプロファイルがある。 携帯電話で最も広く普及しているプロファイル。最新の仕様はJSR 271: Mobile Information Device Profile 3、3世代目のMobile Information Device Profile (MIDP3)。そのなかで、全体的な機能拡張の他、デバイス間の相互接続性も拡張されている。MIDP3では、MIDP2の後方互換性も保たれている。 MIDP上で動く、高レベルなUIライブラリとして、Lightweight User Interface Toolkit (LWUIT) も提供されている。 NTTドコモ社の携帯電話上で実行するJavaアプリケーションのためのプロファイル。 Information Module Profile (IMP) は、自動販売機や組み込み向け産業機器、セキュリティシステム、シンプルでディスプレイを持たず、ネットワークへの接続が限定されているような組み込みデバイスのためのプロファイルである。もともとは、Siemens MobileとNokiaによって、JSR-195として導入され、IMP 1.0は、MIDP 1.0からユーザインターフェースAPIを除いたサブセットである。 Connected Device Configurationは、Java SEのサブセットで、その中には、GUI関係を除く、ほとんど全てのライブラリが入っている。CLDCよりもリッチな仕様である。 カーナビやセットトップボックスなどの中程度の能力をもったCPUを対象にする。 Foundation Profileは、Java ME Connected Device Configuration (CDC) プロファイルのひとつである。 このプロファイルは、Java Platform, Standard Edition API全てが実行できるJava仮想マシンを必要とするデバイスで使用することを目的としている。 典型的な実装では、追加のプロファイルのサポートに応じて、そのAPIのサブセットを使用する。 この仕様は、Java Community Processのもので開発されている。 Personal Basis Profileは、Foundation Profileを拡張したもので、軽量なGUI (AWTのサブセット) が含まれている。 Personal Profileは、Personal Basis Profileをさらに拡張したもので、より完全なAWTのサブセットとJavaアプレットサポートが含まれている。 日本の携帯電話ではau(KDDI・沖縄セルラー電話連合)のEZアプリ (Java)、SoftBank(ソフトバンク)のS!アプリ、WILLCOMのJavaアプリがMIDPを採用しており、NTTドコモのiアプリは同社が独自に作成したDoJaプロファイルやStarプロファイルを使っている。各社の機能が少しずつ違うため、現状では互換性は少ない。 開発は Java SE 上でMicro Edition用の開発ツールを組み合わせて行う。 APIも必要なものに限って実装する。
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Java Platform, Micro Edition は携帯電話、PDA、テレビのようなリソースが制限されたデバイスにおけるJavaの小型セット。JSR 68 で規定されている。当初は、Java 2 Platform, Micro Edition (J2ME) という名称だった。
{{Java platforms}} '''Java Platform, Micro Edition''' ('''Java ME''') は[[携帯電話]]、[[携帯情報端末|PDA]]、[[テレビ受像機|テレビ]]のようなリソースが制限されたデバイスにおける[[Java]]の小型セット。JSR 68 で規定されている。当初は、'''Java 2 Platform, Micro Edition''' ('''J2ME''') という名称だった。 == コンフィギュレーションとプロファイル == 様々なデバイスに対応するため、コンフィギュレーションと[[プロファイル (工学)|プロファイル]]と呼ばれるものでAPIを定義している。コンフィギュレーションには次の2つがある。 *[[Connected Limited Device Configuration]] (CLDC) *[[Connected Device Configuration]] (CDC) == Connected Limited Device Configuration (CLDC) == {{See also|Connected Limited Device Configuration}} 携帯電話のような非力な[[CPU]]を対象とする。 [[Java仮想マシン|Java VM]]から新たにKVM (Kilobyte Virtual Machine) を開発し、[[Java Platform, Standard Edition]] (Java SE) とは一部互換性がないものの最小限の機能で動作するようにしたもの。 次のようなプロファイルがある。 === Mobile Information Device Profile (MIDP) === {{See also|Mobile Information Device Profile}} 携帯電話で最も広く普及しているプロファイル。最新の仕様は''JSR 271: Mobile Information Device Profile 3''、3世代目のMobile Information Device Profile (MIDP3)。そのなかで、全体的な機能拡張の他、デバイス間の相互接続性も拡張されている。MIDP3では、MIDP2の後方互換性も保たれている。 MIDP上で動く、高レベルなUIライブラリとして、[[:en:Lightweight User Interface Toolkit|Lightweight User Interface Toolkit]] (LWUIT) も提供されている。 === DoJaプロファイル、Starプロファイル === {{See also|DoJaプロファイル}} [[NTTドコモ]]社の携帯電話上で実行するJavaアプリケーションのためのプロファイル。 === Information Module Profile === [[Information Module Profile]] (IMP) は、自動販売機や組み込み向け産業機器、セキュリティシステム、シンプルでディスプレイを持たず、ネットワークへの接続が限定されているような組み込みデバイスのためのプロファイルである。もともとは、[[Siemens AG|Siemens Mobile]]と[[ノキア|Nokia]]によって、[[JSR]]-195として導入され、IMP 1.0は、[[MIDP]] 1.0からユーザインターフェースAPIを除いたサブセットである。 == Connected Device Configuration (CDC) == {{See also|Connected Device Configuration}} [[Connected Device Configuration]]は、[[Java SE]]のサブセットで、その中には、GUI関係を除く、ほとんど全てのライブラリが入っている。CLDCよりもリッチな仕様である。 カーナビや[[セットトップボックス]]などの中程度の能力をもったCPUを対象にする。 === Foundation Profile === Foundation Profileは、Java ME Connected Device Configuration (CDC) プロファイルのひとつである。 このプロファイルは、Java Platform, Standard Edition API全てが実行できるJava仮想マシンを必要とするデバイスで使用することを目的としている。 典型的な実装では、追加のプロファイルのサポートに応じて、そのAPIのサブセットを使用する。 この仕様は、[[Java Community Process]]のもので開発されている。 === Personal Basis Profile === Personal Basis Profileは、Foundation Profileを拡張したもので、軽量なGUI ([[Abstract Windowing Toolkit|AWT]]のサブセット) が含まれている。 === Personal Profile === Personal Profileは、Personal Basis Profileをさらに拡張したもので、より完全なAWTのサブセットと[[Javaアプレット]]サポートが含まれている。 == 携帯電話でのアプリの互換性 == 日本の携帯電話では[[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]][[連合]])の[[EZアプリ (Java)]]、[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]([[ソフトバンク]])の[[S!アプリ]]、[[WILLCOM]]のJavaアプリが[[MIDP]]を採用しており、[[NTTドコモ]]の[[iアプリ]]は同社が独自に作成した[[DoJaプロファイル|DoJa]]プロファイルやStarプロファイルを使っている。各社の機能が少しずつ違うため、現状では互換性は少ない。 == 開発方法 == 開発は Java SE 上でMicro Edition用の[[プログラミングツール|開発ツール]]を組み合わせて行う。 [[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]も必要なものに限って実装する。 === 開発ツールの例 === *Java ME SDK *[[Sun ONE Studio 4]] Mobile Edition *[http://www.s-cradle.com/products/sophiacompress_java/index.html SophiaCompress(Java):携帯Javaアプリ圧縮ツール] : Java MEアプリケーションのサイズを[[実行ファイル|実行形式]] ([[JAR (ファイルフォーマット)|JAR]]形式) のまま軽量化するJavaアプリ圧縮ツール。 *[[NetBeans]] IDE開発環境 60MBぐらいの本体を入れた後にnetbeans_mobilityをインストールするだけで開発環境が整う == JSR (Java Specification Requests) == === 基礎 === {| class="wikitable" |- !JSR 番号 !! 名称 !! 備考 |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=68 68]||J2ME Platform Specification|| |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=30 30]||CLDC 1.0|| |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=37 37]||MIDP 1.0|| |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=118 118]||MIDP 2.0|| |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=139 139]||CLDC 1.1|| |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=271 271]||MIDP 3.0|| |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=360 360]||CLDC 8|| |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=361 361]||Java ME Embedded Profile 8|| |} === 主要な拡張 === {| class="wikitable" |- !JSR 番号 !! 名称 !! 備考 !! MSA |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=75 75]||File Connection and PIM||ファイルシステム・アドレス帳・カレンダー・TODO|| {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=82 82]||Bluetooth|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=120 120]||Wireless Messaging API (WMA)|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=135 135]||Mobile Media API (MMAPI)||音声・動画|| {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=172 172]||Web Services|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=177 177]||Security and Trust Services|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=179 179]||Location API|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=180 180]||SIP API|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=184 184]||[[Mobile 3D Graphics API]]||高レベル3Dグラフィックス || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=185 185]||Java Technology for the Wireless Industry (JTWI)|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=205 205]||Wireless Messaging 2.0 (WMA)|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=211 211]||Content Handler API|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=226 226]||Scalable 2D Vector Graphics API for J2ME|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=228 228]||Information Module Profile - Next Generation|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=229 229]||Payment API|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=234 234]||Advanced Multimedia Supplements (AMMS)||MMAPI 拡張 || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=238 238]||Mobile Internationalization API|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=239 239]||Java Bindings for the OpenGL ES API|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=248 248]||Mobile Service Architecture|| || {{Ya}} |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=253 253]||Mobile Telephony API|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=256 256]||Mobile Sensor API|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=257 257]||Contactless Communication API|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=258 258]||Mobile User Interface Customization API|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=272 272]||Mobile Broadcast Service API for Handheld Terminals|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=280 280]||XML API for Java ME|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=281 281]||IMS Services API|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=287 287]||Scalable 2D Vector Graphics API 2.0 for Java ME|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=293 293]||Location API 2.0|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=298 298]||Telematics API for Java ME|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=300 300]||DRM API for Java ME|| || |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=325 325]||IMS Communication Enablers|| || |} === 未完成の規格 === {| class="wikitable" |- !JSR 番号 !! 名称 !! 備考 |- | [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=297 297]||Mobile 3D Graphics API (M3G) 2.0|| |} == 外部リンク == {{Wikibooks|Java|Java}} * [http://www.oracle.com/technetwork/java/javame/ Java ME] * [http://www.jcp.org/en/jsr/detail?id=68 JSR 68: J2ME Platform Specification] * [http://community.java.net/mobileandembedded/ Open source Mobile & Embedded Community] * [http://developers.sun.com/mobility/ Java Technology for Wireless, Mobile, and Embedded Devices]<!-- * [http://www.j2meforums.com The most active unofficial J2ME forum] * [http://www.j2meforums.com/wiki Unofficial j2me wiki, phone specifications included] * [http://www.java-tips.org/java-me-tips/midp/ Java ME Tips] * [http://www.j2me.gsmdev.com Search Engine for J2ME Developers] * [http://www-128.ibm.com/developerworks/websphere/zones/wireless/weme_eval_runtimes.html J2ME for Pocket PC availble here] * {{Wayback|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~dat/java/project/jvm/index_en.html |title=A free JVM for windows mobile |date=20051001074848}} * [http://www.berka.name/stan/jvm-ppc/java_for_pda.html Site compiling lists of Java for PocketPC]--> {{Java}} {{モバイルオペレーティングシステム}} {{Computer-stub}} {{DEFAULTSORT:JAVA PLATFORM MICRO EDITION}} [[Category:Java specification requests|Platform, Micro Edition]] [[Category:Javaプラットフォーム|Platform, Micro Edition]] [[Category:Java]]<!-- [[Category:Computing platforms]] [[Category:Java device platform| ]]-->
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ゼウス
ゼウス(古希: ΖΕΥΣ, Ζεύς, Zeus)は、ギリシア神話の主神たる全知全能の存在。ローマ神話のジュピター(ユーピテル)、中国神話の天帝、キリスト教やイスラーム等の唯一神と同様な、「至上神 supreme god(スプリームゴッド)」の典型。一般的に「至上神」または「最高神」は、創造的能力や人格的性質を持ち、全知全能だとされている。 ゼウスは宇宙や天候を支配する天空神であり、人類と神々双方の秩序を守護・支配する神々の王である。宇宙を破壊できるほど強力な雷を武器とし、多神教の中にあっても唯一神的な性格を帯びるほどに絶対的で強大な力を持つ。 ゼウスはローマ神話ではユーピテル(ジュピター)にあたる。オリュムポスの神々の家族および人類の両方の守護神・支配神であり、神々と人間たちの父と考えられた。 ゼウスは天空神として、全宇宙や雲・雨・雪・雷などの気象を支配していた。キュクロープスの作った雷霆(ケラウノス)を主な武器とする。その威力はオリュンポス最強と謳われるほど強大なもので、この雷霆をゼウスが使えば世界を一撃で熔解させ、全宇宙を焼き尽くすことができる。テューポーンと戦う際には、万物を切り刻む魔法の刃であるアダマスの鎌も武器としていた。雷霆の一撃をも防ぎ、更に敵を石化させるアイギスの肩当て(胸当てや楯という説も)を主な防具とするが、この防具はよく娘のアテーナーに貸し出される。この他にも、「恐怖」という甲冑をギガントマキアーにおいて着用している。 「光輝」と呼ばれる天界の輝きを纏った鎧に山羊革の胸当てをつけ、聖獣は鷲、聖木はオーク。主要な神殿は、オークの木のささやきによって神託を下したエーペイロスの聖地ドードーナ、および4年ごとに彼の栄誉を祝福してオリンピック大祭が開かれたオリュンピアにあった。 ティーターン神族のクロノスとレアーの末の子(長男の説もある)で、ハーデースとポセイドーンの弟。正妻は姉であるヘーラーであるが、レートーや姉のデーメーテール等の女神をはじめ、多くの人間の女性とも交わり、子をもうけたといわれる。 オリュンポス十二神の中では、メーティスとの間にアテーナー、レートーとの間にアポローンとアルテミス、マイアとの間にヘルメース、ディオーネーとの間にアプロディーテー(ホメーロスより)、ヘーラーとの間にアレース、ヘーパイストス、またテーバイの王女セメレーとの間にディオニューソス、デーメーテール(一説にはステュクス)との間にペルセポネー(あるいはコレー)をもうけた。その他、記憶の女神ムネーモシュネーとの間に9人のムーサたち、海洋の女神エウリュノメーとの間に3人のカリスたち、月の女神セレーネーとの間にパンディーア、ヘルセー、ネメアが誕生した。 また様々な人間の女性との間に、たとえばダナエーとの間にペルセウスを、アルクメーネーとの間にヘーラクレースを、レーダーとの間にディオスクーロイを、アンティオペーとの間にゼートスとアムピーオーンを、エウローペーとの間にミーノースとラダマンテュスとサルペードーンを、カリストーとの間にアルカスを、イーオーとの間にエパポスを、といったように多数の子供たちをもうけたことになっている。これらゼウスの子とされる英雄を半神(ヘロス)といい、古代ギリシアでは下級の神として広く祀られた。これらの伝説は、古代ギリシアの各王家が、自らの祖先をゼウスとするために作り出された系譜とも考えられる。ゼウスが交わったとされる人間の女の中には、もとは地元の地母神であったと考えられるものもいる。女神や人間と交わるときのゼウスはしばしば変化したとされ、ダナエーのときには黄金の雨に、レーダーのときには白鳥に、アンティオペーのときにはサテュロスに、エウローペーのときには白い牡牛に、カリストーのときにはアルテミスに、イーオーのときには雲に変身したといわれる。 ゼウスは最終的にはヘーラーと永遠に結ばれるが、それまでに何度か結婚と離婚を繰り返していた。 ゼウスの最初の妻は智恵の女神メーティスであった。彼女はオーケアニデスであり、ティーターン神族の一柱であったが、ティーターノマキアーの際にはゼウスに味方していた。ガイアは「ゼウスとメーティスの間に生まれた男神は父を超える」という予言をした。これを恐れてゼウスは妊娠していたメーティスを呑み込み、子供が生まれないようにした。「どんなものにでも変身できるのなら、水に変身してみせよ」というゼウスの挑発に乗ったメーティスが水に変じたところでこれを飲み干したとも、ゼウスから逃れるために様々な動物に変身していたが、蠅に変身したところで呑み込まれたとも言われる。 あるとき、ゼウスは激しい頭痛に襲われた。そこで、ヘーパイストスに命じて頭を斧で叩き割り、直接原因を探ろうとした。すると、ゼウスの頭から武装し成人したアテーナーが飛び出してきた。その衝撃で世界は停止し、天体の運行も止まった。アテーナーがゼウスとメーティスとの子であり、女神であったために、ガイアの予言は効力を失った。こうしてゼウスは王位簒奪の大いなる運命から解放された。呑み込まれたメーティスはゼウスの智恵となり、ゼウスはメーティスの全知を手に入れた。また、メーティスはアテーナーと共に飛び出てきたという説もある。 メーティスの智恵を吸収したゼウスは、次にウーラノスとガイアの子である、掟の女神テミスと結婚した。テミスとの間に運命の三女神モイライ、季節の女神ホーラー、正義の女神アストライアーをもうけた。モイライは最初は夜の女神ニュクスの娘であったが、ゼウスは上記のように運命を超越し、モイライを自らの子として再誕生させた。結果として運命すらもゼウスに抗えなくなった。 ゼウスはヘーラーに目を付け、テミスと結婚中であるにもかかわらず結婚の女神ヘーラーに言い寄った。ゼウスはカッコウに化けてヘーラーに近付き犯そうとしたが、ヘーラーはそれでも尚抵抗を止めなかった。ヘーラーは交わることの条件として結婚を提示した。ヘーラーに魅了されていたゼウスは仕方なくテミスと離婚すると、ヘーラーと結婚し、彼女との間にアレース、ヘーパイストス、ヘーベーなどをもうけた。ヘーラーはゼウスの不貞に対して常に目を光らせ、愛人たちやその子供たちに苛烈な罰を与えるようになった。 ゼウスは好色な神であり、しばしばヘーラーの目を盗んでは浮気を繰り返していた。これは、強力な神々や半神半人を生み出し、全宇宙や人間界の基盤を整えるためでもあった。また、古代ギリシアのみならず、地中海世界の王家が自らの祖先をゼウスとする家系を主張したため、ゼウスは浮気を繰り返す神話を多く持つようになった。ゼウスの愛人は数え切れないほどいるが、その中でも特に有名な愛人たちを以下に記述する。下記の他、ラミアー、アイギーナ、カリストー、エラレー、タレイア、アイトネーなど多くの愛人を持ったことで知られる。 ゼウスはイーオーという美女と密通していた。これを見抜いたヘーラーはゼウスに詰め寄るが、ゼウスはイーオーを美しい雌牛に変え、雌牛を愛でていただけであるとした。ヘーラーは策を講じ、その雌牛をゼウスから貰うと、百眼の巨人アルゴスを見張りに付けた。この巨人は身体中に百の眼を持ち、眠る時も半分の50の眼は開いたままであったので、空間的にも時間的にも死角が存在しなかった。ゼウスはイーオー救出の任をヘルメースに命じ、ヘルメースは草笛でアルゴスの全ての眼を眠らせると、その首を剣で切り取った。 雌牛は解放されたが、ヘーラーが虻を送り込んだために雌牛は逃げ惑った。虻から逃げるように様々な地を放浪し、最終的にはエジプトに辿り着き、ここで雌牛は元の姿に戻った。ゼウスとの間にできていた子供であるエパポスをエジプトで出産した。イーオーはデーメーテールの像を立て、イーオーとデーメーテール像はエジプト人にイシスと呼ばれるようになった。 アイトーリア王テスティオスの娘で、スパルタ王テュンダレオースの妻であったレーダーにもゼウスは恋した。ゼウスは白鳥に変じ、鷹に追われるふりをしてレーダーの腕に隠れた。レーダーは白鳥のことを想ってそれを拒まなかったが、そこで正体を現したゼウスと交わった。レーダーは二つの卵を産み、一つの卵からはヘレネーとクリュタイムネーストラーが、もう一つの卵からはカストールとポリュデウケース(二人合わせてディオスクーロイとも呼ばれた)が生まれた。ヘレネーとポリュデウケースはゼウスとの子であり、クリュタイムネーストラーとカストールがテュンダレオースとの子であった。ヘレネーは絶世の美女となり、トロイア戦争の原因となった。ポリュデウケースは不死身であった。ゼウスはヘレネーの誕生を記念し、宇宙にはくちょう座を創造した。 エウローペーは、テュロスのフェニキア王アゲーノールとテーレパッサの娘で、美しい姫であった。エウローペーに一目ぼれしたゼウスは誘惑するために、白い牡牛へと変身した。エウローペーは侍女と花を摘んでいる時にその牡牛を見付け、従順な様子に気を許して背にまたがった。その途端に牡牛はエウローペーを連れ去った。ゼウスはヨーロッパ中をエウローペーと共に駆け回ったため、その地域はエウローペーから名前を取って「ヨーロッパ」 (Europa) と呼ばれるようになった。最終的にクレタ島へ辿り着いたゼウスは本来の姿をあらわし、エウローペーはクレタ島で最初の妃となった。ゼウスとの息子には、ミーノースやラダマンテュス、サルペードーンがいる。その後、アステリオスが3人の息子たちの義理の父になった。ゼウスは彼女にタロースと必ず獲物をとらえる猟犬となくなる事のない投げ槍の、3つの贈り物を与えた。その後ゼウスは再び白い牡牛へと姿を変え、星空へと上がり、おうし座になった。 ゼウスはガニュメーデースというトロイアの美少年を攫ったことでも知られている。しかし、これは愛人にするためではなく、神々の給仕係にするためであった。オリュンポスの神々に給仕するのは、もとは大神ゼウスとその正妻ヘーラーの娘、青春の女神であるヘーベーの役割であった。ゼウスの子、英雄ヘーラクレースが、死後に神々の列に加えられたとき、ヘーラクレースを憎んでいたヘーラーはようやくヘーラクレースと和解し、その娘ヘーベーが妻として彼に与えられた。このため神々の宴席に給仕するものがなくなった。ゼウスは人間たちの中でもとりわけ美しいガニュメーデースを選び、鷲の姿に変身して彼を攫い、オリュンポスの給仕とした。この仕事のためにガニュメーデースには永遠の若さと不死が与えられた。また代償としてその父に速い神馬(別伝ではヘーパイストスの作った黄金のブドウの木)が与えられた。 天上に輝くみずがめ座は、神々に神酒ネクタールを給仕するガニュメーデースの姿であり、わし座はゼウスが彼を攫うときに変身した鷲の姿である。 ゼウスの生誕に関する古代伝説のひとつによれば、父クロノスはわが子に支配権を奪われる不安にかられ、生まれた子供を次々に飲み込んでしまった。そこでゼウスを生んだとき、母レアーは産着で包んだ石をかわりにクロノスに飲ませることでゼウスを救った。ゼウスはクレータ島のディクテオン洞窟で雌山羊のアマルテイアの乳を飲み、ニュムペーに育てられた。 成人したゼウスは、嘔吐薬によってクロノスに女を含め兄弟たちを吐き出させ、父親に復讐をしたがっている彼らと共に、全宇宙の支配権を巡る戦争であるティーターノマキアーを勃発させた。この時、飲み込まれた順とは逆の順で吐き出されたが、これがポセイドーン等にとって第2の誕生にあたり、よって兄弟の序列が逆転されたともされている。 この大戦においてゼウスは雷霆を投げつけ、宇宙をも揺るがす衝撃波と雷火によってティーターン神族を一網打尽にした。雷光は全空間に漲り、ティーターンたちは瞬く間に目を焼かれて視力を奪われた。雷霆の威力は想像を絶し、見渡す限りの天地を逆転させ、地球や全宇宙、そしてその根源のカオスをも焼き払うほどであった。この猛攻撃の甲斐あってゼウスたちはクロノスなどのティーターン神族を打ち倒し、敗者であるティーターン神族は宇宙の深淵であるタルタロスに封印された。 その後ゼウスとポセイドーンとハーデースは支配地をめぐってくじ引きを行い、それぞれ天界と海界と冥界の主となった。更に、ゼウスはその功績から神々の最高権力者と認められた。しかしその一方、この時のハーデースは冥界の主となったためにオリュンポス十二神から除外されている。 全宇宙の支配権が確立したティーターノマキアー後も、ゼウスの支配を揺るがすような出来事が起こった。ゼウスは全宇宙の支配を護る為に防衛戦を展開しなければならなかった。 その一つが巨人族ギガースとオリュンポスの神々の戦いであるギガントマキアーであり、これはタルタロスに我が子であるティーターン神族を幽閉されたことに怒ったガイアが仕向けた大戦であると言われている。ギガースは山を軽々と持ち上げるほどの腕力を持ち、神々に対しては不死身であったが、人間なら殺すことができ、ゼウスは半神半人である自らの息子ヘーラクレースをオリュンポスに招いて味方にした。 ギガースたちは島や山脈といったありとあらゆる地形を引き裂きながら大軍で攻め入ってきたが、迎撃を開始した神々とヘーラクレースによって尽く打ち倒された。ヘーラーに欲情して犯そうとしたギガース・ポルピュリオーンは、彼女を犯す前にゼウスの雷霆によって戦闘不能にされ、最後はヘーラクレースの毒矢によってとどめを刺された。ギガースたちは神々によって島や山脈を叩き付けられて封印され、ヘーラクレースの強弓によって殺戮された。ギガントマキアーはゼウスたちの圧勝に終わった。 ギガントマキアーでゼウスたちを懲らしめられなかったガイアは、タルタロスと交わり、ギリシア神話史上最大にして最強の怪物テューポーンを生み出してオリュンポスを攻撃させた。テューポーンは頭が星々とぶつかってしまうほどの巨体を有しており、両腕を伸ばせば東西の世界の果てにも辿り着いた。神々と同じく不老不死で、肩からは百の蛇の頭が生え、炎を放つ目を持ち、腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしていた。テューポーンは世界を大炎上させ、天空に突進して宇宙中も暴れ回った。これには神々も驚き、動物に姿を変えてエジプトの方へと逃げてしまった。しかし、ゼウスただ一人だけがその場に踏み止まり、究極の怪物にして怪物の王テューポーンとの壮絶な一騎討ちが始まった。 ゼウスは雷霆とアダマスの鎌でテューポーンを猛攻撃し、テューポーンは万物を燃やし尽くす炎弾と噴流でそれを押し返した。この決戦は天上の宇宙で繰り広げられ、これによって全秩序は混沌と化し、全宇宙は焼き尽くされて崩壊した。両者の実力は拮抗していたが、接近戦に持ち込んだゼウスがテューポーンの怪力に敗れ、そのとぐろによって締め上げられてしまう。テューポーンはゼウスの雷霆とアダマスの鎌を取り上げ、手足の腱を切り落とし、デルポイ近くのコーリュキオンと呼ばれる洞窟へ閉じ込めた。そしてテューポーンはゼウスの腱を熊の皮に隠し、番人として半獣の竜女デルピュネーを置き、自分は傷の治療のために母ガイアの元へ向かった。 ゼウスが囚われたことを知ったヘルメースとパーンはゼウスの救出に向かい、デルピュネーを騙して手足の腱を盗み出し、ゼウスを治療した。力を取り戻したゼウスは再びテューポーンと壮絶な戦いを繰り広げ、深手を負わせて追い詰める。テューポーンはゼウスに勝つために運命の女神モイラたちを脅し、どんな願いも叶うという「勝利の果実」を手に入れたが、その実を食べた途端、テューポーンは力を失ってしまった。実は女神たちがテューポーンに与えたのは、決して望みが叶うことはないという「無常の果実」だったのである。 敗走を続けたテューポーンは悪あがきとして全山脈をゼウスに投げつけようとしたが、雷霆によって簡単に弾き返され、逆に全山脈の下敷きになってしまう。最後はシケリア島まで追い詰められ、エトナ火山を叩き付けられ(シケリア島そのものを叩き付けたとする説もある)、その下に封印された。以来、テューポーンがエトナ山の重圧を逃れようともがくたび、噴火が起こるという。こうしてゼウスはテューポーンとの死闘に勝利し、もはや彼の王権に抗うものは現れなかった。 また、神統記によれば、ゼウスはテューポーンと全宇宙を揺るがす激闘の末に、雷霆の一撃によって世界を尽く溶解させて、そのままテューポーンをタルタロスへと放り込んだのだという。 ガイアがまだ権威を持っていた宇宙の原初期には、森羅万象はオリュンポスの神々に対して反抗的で、全物質が支配から逃れようと暴れ出した。ガイアは地母神と言われているが、その支配領域は大地だけではなく、天をも内包する世界そのものにまで及んでいたからだ。万物の反抗は、何もかも覆してしまうかのような大変動に繋がった。大陸はねじれて震え、山々はばらばらに引き裂かれて岩石や火砕流を吐き出した。河は流れを変え、海は隆起して全ての大陸は海中へと没した。全物質の攻撃により、世界は混沌と化した。 しかし、ゼウスは宇宙を統制し、森羅万象を押さえ込んで混沌とした世界をその意に従わせた。大地はもはや揺らがなくなり、山々も平穏になった。大陸は海中から姿を現し、もう海が暴れることもなくなった。ゼウスは世界を平定し、再び宇宙に調和が訪れた。 ホメーロスの記述にみるゼウスは、2つの異なる姿で描かれている。一方ではゼウスは弱者の守護神、正義と慈悲の神、悪者を罰する神としてあらわされる。しかし同時に、次々と女性に手を出しては子孫を増やし、不貞を妻に知られまいとあらゆる手段を講じる神としても描かれている。混沌を自らの力で撃退・統制し、全宇宙の秩序を創造した神でもあり、その秩序を脅かす者ならば、たとえ同族であっても排除する荒ぶる神でもある。 元来はバルカン半島の北方から来てギリシア語をもたらしたインド・ヨーロッパ語族系征服者の信仰した天空神であったと考えられ、ヘーラーとの結婚や様々な地母神由来の女神や女性との交わりは、非インド・ヨーロッパ語族系先住民族との和合と融合を象徴するものと考えられる。また自分たちの系譜を神々の父までさかのぼりたいという、古代ギリシア人の願望としても説明されることがある。 多くのインド・ヨーロッパ語族系言語を用いる民に共通して信仰された天空神に由来し、その祖形は、ローマ神話におけるユーピテルの原型であるデイオス・パテール、あるいは普通名詞「神」を表すデイオス、デウス、古層のインド神話の天空神ディヤウス、北欧神話のテュールらに垣間見ることができる。 ゼウス信仰はギリシア全域で行われ、至上最高の原理として仰がれていた。古代ギリシア人たちは一神教に近い帰依と敬虔さをゼウスに捧げ、明らかに他の神々とは一線を画していた。ゼウスは運命すらも超越し、全知全能神に相応しい威厳を放っていた。 オリュンピアはゼウスの主な神域であり、そこで4年に1度開催される古代オリンピックはゼウスを讃える全ギリシア的な大祭であった。この開催期間中は、ギリシア人は全員戦争を止め、古代オリンピックに参加するためにオリュンピアへと向かった。この道中はゼウスによって守護されると考えられた。不正を決して行わないという宣誓をゼウス・ホルキオス(誓いのゼウス)に捧げ、選手たちは各種目に分かれて競い合った。古代オリンピックで優勝した者は、神々から寵愛されている者、もしくは神々の血を引く者とされ、祖国では大いに賞賛された。現在は廃墟となってしまっているが、当時はオリュンピアにあるゼウス神殿内部には12mを超える黄金と象牙で出来た巨大なゼウス像が聳え立っていたという。この巨大なゼウス像は世界の七不思議のひとつとしても有名である。 また、マケドニア王国にあるゼウスの神域・ディオンでも、オリュンピア祭が開催された。主催者はヘーラクレースの血筋を持つとされたマケドニア王家であり、これはオリュンピアの古代オリンピックに次いで盛況であった。 エペイロスにあるドードーナには、ギリシア最古の神託所があり、ここでの神託はデルポイに次いで有名であった。ドードーナの神託所にはゼウスが祭られており、神官たちはゼウスの聖木である樫の木を用いて神託を下した。樫の木の葉のざわめきを聞き、ゼウスの神託を解釈するのである。ドードーナの神託所は山奥にあり、交通の便は悪いが、その評判を聞きつけて参拝者が後を絶たなかった。 アテーナイには、ゼウスに捧げるための巨大な神殿がローマ帝国のハドリアヌス治下で建造された。元々は紀元前550年頃にペイシストラトスが建造を開始したものであるが、彼の後を継いだヒッピアスが追放されたことで計画は中止となっていた。その後、ハドリアヌスが当時の計画を復活させ、完成させた。オリュンピア=ゼウス神殿と呼ばれ、当時の神殿内部にはオリュンピアのゼウス像のコピーがあったことに由来する。古代世界で最大の神殿であり、柱はコリント式である。 ゼウスはローマ神話の最高神ユーピテルと同一視された。ローマ帝国は「文化面ではギリシアに征服された」という名言が有名なように、ギリシア神話の神々をローマ神話の神々と同一視してローマ文化に取り入れたため、ギリシア神話とローマ神話の神々の権能はしばしば共通している。ユーピテルは英語読みでジュピターとも言い、木星の名前の由来となった。 ユーピテルはゼウスと同じく雷電を扱い、天空を支配する全能神である。ユーピテル・フェレトリウスという名で一騎討ちを守護する神としても知られ、一騎討ちで敵を倒した将軍は、討ち取った敵の武具を樫の木(ゼウスと同じくユーピテルの聖木)に縛り付け、ユーピテルに捧げた。 ゼウスはエジプト神話の最高神アメンとも同一視された。アメンは太陽神であったが、神々の王であったことから、ヘーリオスやアポローンではなく、ゼウスのエジプトにおける名称だとギリシア中で認知されていた。エジプト西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメン神殿にはペルセウス、ヘーラクレースが訪れ、神託を伺ったとされている。 東方遠征の際にマケドニアのアレクサンドロス大王もアメン神殿を訪れ、神託を伺った。そこで彼はアメンの息子であるという神託を得た。それはゼウスの息子であるということに等しく、アレクサンドロス大王は自らの神性を証明して満足した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゼウス(古希: ΖΕΥΣ, Ζεύς, Zeus)は、ギリシア神話の主神たる全知全能の存在。ローマ神話のジュピター(ユーピテル)、中国神話の天帝、キリスト教やイスラーム等の唯一神と同様な、「至上神 supreme god(スプリームゴッド)」の典型。一般的に「至上神」または「最高神」は、創造的能力や人格的性質を持ち、全知全能だとされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ゼウスは宇宙や天候を支配する天空神であり、人類と神々双方の秩序を守護・支配する神々の王である。宇宙を破壊できるほど強力な雷を武器とし、多神教の中にあっても唯一神的な性格を帯びるほどに絶対的で強大な力を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ゼウスはローマ神話ではユーピテル(ジュピター)にあたる。オリュムポスの神々の家族および人類の両方の守護神・支配神であり、神々と人間たちの父と考えられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ゼウスは天空神として、全宇宙や雲・雨・雪・雷などの気象を支配していた。キュクロープスの作った雷霆(ケラウノス)を主な武器とする。その威力はオリュンポス最強と謳われるほど強大なもので、この雷霆をゼウスが使えば世界を一撃で熔解させ、全宇宙を焼き尽くすことができる。テューポーンと戦う際には、万物を切り刻む魔法の刃であるアダマスの鎌も武器としていた。雷霆の一撃をも防ぎ、更に敵を石化させるアイギスの肩当て(胸当てや楯という説も)を主な防具とするが、この防具はよく娘のアテーナーに貸し出される。この他にも、「恐怖」という甲冑をギガントマキアーにおいて着用している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「光輝」と呼ばれる天界の輝きを纏った鎧に山羊革の胸当てをつけ、聖獣は鷲、聖木はオーク。主要な神殿は、オークの木のささやきによって神託を下したエーペイロスの聖地ドードーナ、および4年ごとに彼の栄誉を祝福してオリンピック大祭が開かれたオリュンピアにあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ティーターン神族のクロノスとレアーの末の子(長男の説もある)で、ハーデースとポセイドーンの弟。正妻は姉であるヘーラーであるが、レートーや姉のデーメーテール等の女神をはじめ、多くの人間の女性とも交わり、子をもうけたといわれる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "オリュンポス十二神の中では、メーティスとの間にアテーナー、レートーとの間にアポローンとアルテミス、マイアとの間にヘルメース、ディオーネーとの間にアプロディーテー(ホメーロスより)、ヘーラーとの間にアレース、ヘーパイストス、またテーバイの王女セメレーとの間にディオニューソス、デーメーテール(一説にはステュクス)との間にペルセポネー(あるいはコレー)をもうけた。その他、記憶の女神ムネーモシュネーとの間に9人のムーサたち、海洋の女神エウリュノメーとの間に3人のカリスたち、月の女神セレーネーとの間にパンディーア、ヘルセー、ネメアが誕生した。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また様々な人間の女性との間に、たとえばダナエーとの間にペルセウスを、アルクメーネーとの間にヘーラクレースを、レーダーとの間にディオスクーロイを、アンティオペーとの間にゼートスとアムピーオーンを、エウローペーとの間にミーノースとラダマンテュスとサルペードーンを、カリストーとの間にアルカスを、イーオーとの間にエパポスを、といったように多数の子供たちをもうけたことになっている。これらゼウスの子とされる英雄を半神(ヘロス)といい、古代ギリシアでは下級の神として広く祀られた。これらの伝説は、古代ギリシアの各王家が、自らの祖先をゼウスとするために作り出された系譜とも考えられる。ゼウスが交わったとされる人間の女の中には、もとは地元の地母神であったと考えられるものもいる。女神や人間と交わるときのゼウスはしばしば変化したとされ、ダナエーのときには黄金の雨に、レーダーのときには白鳥に、アンティオペーのときにはサテュロスに、エウローペーのときには白い牡牛に、カリストーのときにはアルテミスに、イーオーのときには雲に変身したといわれる。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ゼウスは最終的にはヘーラーと永遠に結ばれるが、それまでに何度か結婚と離婚を繰り返していた。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ゼウスの最初の妻は智恵の女神メーティスであった。彼女はオーケアニデスであり、ティーターン神族の一柱であったが、ティーターノマキアーの際にはゼウスに味方していた。ガイアは「ゼウスとメーティスの間に生まれた男神は父を超える」という予言をした。これを恐れてゼウスは妊娠していたメーティスを呑み込み、子供が生まれないようにした。「どんなものにでも変身できるのなら、水に変身してみせよ」というゼウスの挑発に乗ったメーティスが水に変じたところでこれを飲み干したとも、ゼウスから逃れるために様々な動物に変身していたが、蠅に変身したところで呑み込まれたとも言われる。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "あるとき、ゼウスは激しい頭痛に襲われた。そこで、ヘーパイストスに命じて頭を斧で叩き割り、直接原因を探ろうとした。すると、ゼウスの頭から武装し成人したアテーナーが飛び出してきた。その衝撃で世界は停止し、天体の運行も止まった。アテーナーがゼウスとメーティスとの子であり、女神であったために、ガイアの予言は効力を失った。こうしてゼウスは王位簒奪の大いなる運命から解放された。呑み込まれたメーティスはゼウスの智恵となり、ゼウスはメーティスの全知を手に入れた。また、メーティスはアテーナーと共に飛び出てきたという説もある。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "メーティスの智恵を吸収したゼウスは、次にウーラノスとガイアの子である、掟の女神テミスと結婚した。テミスとの間に運命の三女神モイライ、季節の女神ホーラー、正義の女神アストライアーをもうけた。モイライは最初は夜の女神ニュクスの娘であったが、ゼウスは上記のように運命を超越し、モイライを自らの子として再誕生させた。結果として運命すらもゼウスに抗えなくなった。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ゼウスはヘーラーに目を付け、テミスと結婚中であるにもかかわらず結婚の女神ヘーラーに言い寄った。ゼウスはカッコウに化けてヘーラーに近付き犯そうとしたが、ヘーラーはそれでも尚抵抗を止めなかった。ヘーラーは交わることの条件として結婚を提示した。ヘーラーに魅了されていたゼウスは仕方なくテミスと離婚すると、ヘーラーと結婚し、彼女との間にアレース、ヘーパイストス、ヘーベーなどをもうけた。ヘーラーはゼウスの不貞に対して常に目を光らせ、愛人たちやその子供たちに苛烈な罰を与えるようになった。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ゼウスは好色な神であり、しばしばヘーラーの目を盗んでは浮気を繰り返していた。これは、強力な神々や半神半人を生み出し、全宇宙や人間界の基盤を整えるためでもあった。また、古代ギリシアのみならず、地中海世界の王家が自らの祖先をゼウスとする家系を主張したため、ゼウスは浮気を繰り返す神話を多く持つようになった。ゼウスの愛人は数え切れないほどいるが、その中でも特に有名な愛人たちを以下に記述する。下記の他、ラミアー、アイギーナ、カリストー、エラレー、タレイア、アイトネーなど多くの愛人を持ったことで知られる。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ゼウスはイーオーという美女と密通していた。これを見抜いたヘーラーはゼウスに詰め寄るが、ゼウスはイーオーを美しい雌牛に変え、雌牛を愛でていただけであるとした。ヘーラーは策を講じ、その雌牛をゼウスから貰うと、百眼の巨人アルゴスを見張りに付けた。この巨人は身体中に百の眼を持ち、眠る時も半分の50の眼は開いたままであったので、空間的にも時間的にも死角が存在しなかった。ゼウスはイーオー救出の任をヘルメースに命じ、ヘルメースは草笛でアルゴスの全ての眼を眠らせると、その首を剣で切り取った。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "雌牛は解放されたが、ヘーラーが虻を送り込んだために雌牛は逃げ惑った。虻から逃げるように様々な地を放浪し、最終的にはエジプトに辿り着き、ここで雌牛は元の姿に戻った。ゼウスとの間にできていた子供であるエパポスをエジプトで出産した。イーオーはデーメーテールの像を立て、イーオーとデーメーテール像はエジプト人にイシスと呼ばれるようになった。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": 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"ゼウスはガニュメーデースというトロイアの美少年を攫ったことでも知られている。しかし、これは愛人にするためではなく、神々の給仕係にするためであった。オリュンポスの神々に給仕するのは、もとは大神ゼウスとその正妻ヘーラーの娘、青春の女神であるヘーベーの役割であった。ゼウスの子、英雄ヘーラクレースが、死後に神々の列に加えられたとき、ヘーラクレースを憎んでいたヘーラーはようやくヘーラクレースと和解し、その娘ヘーベーが妻として彼に与えられた。このため神々の宴席に給仕するものがなくなった。ゼウスは人間たちの中でもとりわけ美しいガニュメーデースを選び、鷲の姿に変身して彼を攫い、オリュンポスの給仕とした。この仕事のためにガニュメーデースには永遠の若さと不死が与えられた。また代償としてその父に速い神馬(別伝ではヘーパイストスの作った黄金のブドウの木)が与えられた。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "天上に輝くみずがめ座は、神々に神酒ネクタールを給仕するガニュメーデースの姿であり、わし座はゼウスが彼を攫うときに変身した鷲の姿である。", "title": "神話" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ゼウスの生誕に関する古代伝説のひとつによれば、父クロノスはわが子に支配権を奪われる不安にかられ、生まれた子供を次々に飲み込んでしまった。そこでゼウスを生んだとき、母レアーは産着で包んだ石をかわりにクロノスに飲ませることでゼウスを救った。ゼウスはクレータ島のディクテオン洞窟で雌山羊のアマルテイアの乳を飲み、ニュムペーに育てられた。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "成人したゼウスは、嘔吐薬によってクロノスに女を含め兄弟たちを吐き出させ、父親に復讐をしたがっている彼らと共に、全宇宙の支配権を巡る戦争であるティーターノマキアーを勃発させた。この時、飲み込まれた順とは逆の順で吐き出されたが、これがポセイドーン等にとって第2の誕生にあたり、よって兄弟の序列が逆転されたともされている。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この大戦においてゼウスは雷霆を投げつけ、宇宙をも揺るがす衝撃波と雷火によってティーターン神族を一網打尽にした。雷光は全空間に漲り、ティーターンたちは瞬く間に目を焼かれて視力を奪われた。雷霆の威力は想像を絶し、見渡す限りの天地を逆転させ、地球や全宇宙、そしてその根源のカオスをも焼き払うほどであった。この猛攻撃の甲斐あってゼウスたちはクロノスなどのティーターン神族を打ち倒し、敗者であるティーターン神族は宇宙の深淵であるタルタロスに封印された。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "その後ゼウスとポセイドーンとハーデースは支配地をめぐってくじ引きを行い、それぞれ天界と海界と冥界の主となった。更に、ゼウスはその功績から神々の最高権力者と認められた。しかしその一方、この時のハーデースは冥界の主となったためにオリュンポス十二神から除外されている。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "全宇宙の支配権が確立したティーターノマキアー後も、ゼウスの支配を揺るがすような出来事が起こった。ゼウスは全宇宙の支配を護る為に防衛戦を展開しなければならなかった。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その一つが巨人族ギガースとオリュンポスの神々の戦いであるギガントマキアーであり、これはタルタロスに我が子であるティーターン神族を幽閉されたことに怒ったガイアが仕向けた大戦であると言われている。ギガースは山を軽々と持ち上げるほどの腕力を持ち、神々に対しては不死身であったが、人間なら殺すことができ、ゼウスは半神半人である自らの息子ヘーラクレースをオリュンポスに招いて味方にした。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ギガースたちは島や山脈といったありとあらゆる地形を引き裂きながら大軍で攻め入ってきたが、迎撃を開始した神々とヘーラクレースによって尽く打ち倒された。ヘーラーに欲情して犯そうとしたギガース・ポルピュリオーンは、彼女を犯す前にゼウスの雷霆によって戦闘不能にされ、最後はヘーラクレースの毒矢によってとどめを刺された。ギガースたちは神々によって島や山脈を叩き付けられて封印され、ヘーラクレースの強弓によって殺戮された。ギガントマキアーはゼウスたちの圧勝に終わった。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ギガントマキアーでゼウスたちを懲らしめられなかったガイアは、タルタロスと交わり、ギリシア神話史上最大にして最強の怪物テューポーンを生み出してオリュンポスを攻撃させた。テューポーンは頭が星々とぶつかってしまうほどの巨体を有しており、両腕を伸ばせば東西の世界の果てにも辿り着いた。神々と同じく不老不死で、肩からは百の蛇の頭が生え、炎を放つ目を持ち、腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしていた。テューポーンは世界を大炎上させ、天空に突進して宇宙中も暴れ回った。これには神々も驚き、動物に姿を変えてエジプトの方へと逃げてしまった。しかし、ゼウスただ一人だけがその場に踏み止まり、究極の怪物にして怪物の王テューポーンとの壮絶な一騎討ちが始まった。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ゼウスは雷霆とアダマスの鎌でテューポーンを猛攻撃し、テューポーンは万物を燃やし尽くす炎弾と噴流でそれを押し返した。この決戦は天上の宇宙で繰り広げられ、これによって全秩序は混沌と化し、全宇宙は焼き尽くされて崩壊した。両者の実力は拮抗していたが、接近戦に持ち込んだゼウスがテューポーンの怪力に敗れ、そのとぐろによって締め上げられてしまう。テューポーンはゼウスの雷霆とアダマスの鎌を取り上げ、手足の腱を切り落とし、デルポイ近くのコーリュキオンと呼ばれる洞窟へ閉じ込めた。そしてテューポーンはゼウスの腱を熊の皮に隠し、番人として半獣の竜女デルピュネーを置き、自分は傷の治療のために母ガイアの元へ向かった。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ゼウスが囚われたことを知ったヘルメースとパーンはゼウスの救出に向かい、デルピュネーを騙して手足の腱を盗み出し、ゼウスを治療した。力を取り戻したゼウスは再びテューポーンと壮絶な戦いを繰り広げ、深手を負わせて追い詰める。テューポーンはゼウスに勝つために運命の女神モイラたちを脅し、どんな願いも叶うという「勝利の果実」を手に入れたが、その実を食べた途端、テューポーンは力を失ってしまった。実は女神たちがテューポーンに与えたのは、決して望みが叶うことはないという「無常の果実」だったのである。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "敗走を続けたテューポーンは悪あがきとして全山脈をゼウスに投げつけようとしたが、雷霆によって簡単に弾き返され、逆に全山脈の下敷きになってしまう。最後はシケリア島まで追い詰められ、エトナ火山を叩き付けられ(シケリア島そのものを叩き付けたとする説もある)、その下に封印された。以来、テューポーンがエトナ山の重圧を逃れようともがくたび、噴火が起こるという。こうしてゼウスはテューポーンとの死闘に勝利し、もはや彼の王権に抗うものは現れなかった。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、神統記によれば、ゼウスはテューポーンと全宇宙を揺るがす激闘の末に、雷霆の一撃によって世界を尽く溶解させて、そのままテューポーンをタルタロスへと放り込んだのだという。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ガイアがまだ権威を持っていた宇宙の原初期には、森羅万象はオリュンポスの神々に対して反抗的で、全物質が支配から逃れようと暴れ出した。ガイアは地母神と言われているが、その支配領域は大地だけではなく、天をも内包する世界そのものにまで及んでいたからだ。万物の反抗は、何もかも覆してしまうかのような大変動に繋がった。大陸はねじれて震え、山々はばらばらに引き裂かれて岩石や火砕流を吐き出した。河は流れを変え、海は隆起して全ての大陸は海中へと没した。全物質の攻撃により、世界は混沌と化した。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし、ゼウスは宇宙を統制し、森羅万象を押さえ込んで混沌とした世界をその意に従わせた。大地はもはや揺らがなくなり、山々も平穏になった。大陸は海中から姿を現し、もう海が暴れることもなくなった。ゼウスは世界を平定し、再び宇宙に調和が訪れた。", "title": "全宇宙の支配まで" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ホメーロスの記述にみるゼウスは、2つの異なる姿で描かれている。一方ではゼウスは弱者の守護神、正義と慈悲の神、悪者を罰する神としてあらわされる。しかし同時に、次々と女性に手を出しては子孫を増やし、不貞を妻に知られまいとあらゆる手段を講じる神としても描かれている。混沌を自らの力で撃退・統制し、全宇宙の秩序を創造した神でもあり、その秩序を脅かす者ならば、たとえ同族であっても排除する荒ぶる神でもある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "元来はバルカン半島の北方から来てギリシア語をもたらしたインド・ヨーロッパ語族系征服者の信仰した天空神であったと考えられ、ヘーラーとの結婚や様々な地母神由来の女神や女性との交わりは、非インド・ヨーロッパ語族系先住民族との和合と融合を象徴するものと考えられる。また自分たちの系譜を神々の父までさかのぼりたいという、古代ギリシア人の願望としても説明されることがある。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "多くのインド・ヨーロッパ語族系言語を用いる民に共通して信仰された天空神に由来し、その祖形は、ローマ神話におけるユーピテルの原型であるデイオス・パテール、あるいは普通名詞「神」を表すデイオス、デウス、古層のインド神話の天空神ディヤウス、北欧神話のテュールらに垣間見ることができる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ゼウス信仰はギリシア全域で行われ、至上最高の原理として仰がれていた。古代ギリシア人たちは一神教に近い帰依と敬虔さをゼウスに捧げ、明らかに他の神々とは一線を画していた。ゼウスは運命すらも超越し、全知全能神に相応しい威厳を放っていた。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "オリュンピアはゼウスの主な神域であり、そこで4年に1度開催される古代オリンピックはゼウスを讃える全ギリシア的な大祭であった。この開催期間中は、ギリシア人は全員戦争を止め、古代オリンピックに参加するためにオリュンピアへと向かった。この道中はゼウスによって守護されると考えられた。不正を決して行わないという宣誓をゼウス・ホルキオス(誓いのゼウス)に捧げ、選手たちは各種目に分かれて競い合った。古代オリンピックで優勝した者は、神々から寵愛されている者、もしくは神々の血を引く者とされ、祖国では大いに賞賛された。現在は廃墟となってしまっているが、当時はオリュンピアにあるゼウス神殿内部には12mを超える黄金と象牙で出来た巨大なゼウス像が聳え立っていたという。この巨大なゼウス像は世界の七不思議のひとつとしても有名である。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、マケドニア王国にあるゼウスの神域・ディオンでも、オリュンピア祭が開催された。主催者はヘーラクレースの血筋を持つとされたマケドニア王家であり、これはオリュンピアの古代オリンピックに次いで盛況であった。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "エペイロスにあるドードーナには、ギリシア最古の神託所があり、ここでの神託はデルポイに次いで有名であった。ドードーナの神託所にはゼウスが祭られており、神官たちはゼウスの聖木である樫の木を用いて神託を下した。樫の木の葉のざわめきを聞き、ゼウスの神託を解釈するのである。ドードーナの神託所は山奥にあり、交通の便は悪いが、その評判を聞きつけて参拝者が後を絶たなかった。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アテーナイには、ゼウスに捧げるための巨大な神殿がローマ帝国のハドリアヌス治下で建造された。元々は紀元前550年頃にペイシストラトスが建造を開始したものであるが、彼の後を継いだヒッピアスが追放されたことで計画は中止となっていた。その後、ハドリアヌスが当時の計画を復活させ、完成させた。オリュンピア=ゼウス神殿と呼ばれ、当時の神殿内部にはオリュンピアのゼウス像のコピーがあったことに由来する。古代世界で最大の神殿であり、柱はコリント式である。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ゼウスはローマ神話の最高神ユーピテルと同一視された。ローマ帝国は「文化面ではギリシアに征服された」という名言が有名なように、ギリシア神話の神々をローマ神話の神々と同一視してローマ文化に取り入れたため、ギリシア神話とローマ神話の神々の権能はしばしば共通している。ユーピテルは英語読みでジュピターとも言い、木星の名前の由来となった。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ユーピテルはゼウスと同じく雷電を扱い、天空を支配する全能神である。ユーピテル・フェレトリウスという名で一騎討ちを守護する神としても知られ、一騎討ちで敵を倒した将軍は、討ち取った敵の武具を樫の木(ゼウスと同じくユーピテルの聖木)に縛り付け、ユーピテルに捧げた。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ゼウスはエジプト神話の最高神アメンとも同一視された。アメンは太陽神であったが、神々の王であったことから、ヘーリオスやアポローンではなく、ゼウスのエジプトにおける名称だとギリシア中で認知されていた。エジプト西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメン神殿にはペルセウス、ヘーラクレースが訪れ、神託を伺ったとされている。", "title": "信仰" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "東方遠征の際にマケドニアのアレクサンドロス大王もアメン神殿を訪れ、神託を伺った。そこで彼はアメンの息子であるという神託を得た。それはゼウスの息子であるということに等しく、アレクサンドロス大王は自らの神性を証明して満足した。", "title": "信仰" } ]
ゼウスは、ギリシア神話の主神たる全知全能の存在。ローマ神話のジュピター(ユーピテル)、中国神話の天帝、キリスト教やイスラーム等の唯一神と同様な、「至上神 supreme god(スプリームゴッド)」の典型。一般的に「至上神」または「最高神」は、創造的能力や人格的性質を持ち、全知全能だとされている。 ゼウスは宇宙や天候を支配する天空神であり、人類と神々双方の秩序を守護・支配する神々の王である。宇宙を破壊できるほど強力な雷を武器とし、多神教の中にあっても唯一神的な性格を帯びるほどに絶対的で強大な力を持つ。
{{Otheruses}} {{Infobox deity | type = Greek | name = ゼウス<br/>{{lang|grc|Ζεύς}} | image = Jupiter Smyrna Louvre Ma13.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|1680年に[[イズミル|スミルナ]]にて発見されたゼウス像<br/>[[ルーヴル美術館]]所蔵}} | deity_of = {{small|神々の王、[[天空神]]、[[雷霆神]]}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[オリンピア (ギリシャ)|オリンピア]]、[[ドードーナ]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = ケラウノス、金剛の鎌、[[アイギス]] | symbol = [[雷]]、[[雷鳴]]、[[稲光]]、[[鷲]]、[[牡牛]]、[[樫]] | consort = [[ヘーラー]] | parents = [[クロノス]]、[[レアー]] | siblings = [[ヘスティアー]]、[[ヘーラー]]、[[デーメーテール]]、[[ハーデース]]、[[ポセイドーン]]、[[ケイローン]] | children = [[アテーナー]]、[[アポローン]]、[[アルテミス]]、[[アレース]]、[[ヘーパイストス]]、[[ヘルメース]]、[[ディオニューソス]]、[[エイレイテュイア]]、[[ヘーベー]]、[[ペルセポネー]]、[[ムーサ]]、[[ホーラー]]、[[カリス]]、[[モイラ (ギリシア神話)|モイライ]]、[[トリアイ]]、[[アンゲロス]] | festivals = [[古代オリンピック|オリンピア競技祭]] | Roman_equivalent = [[ユーピテル]] }} {{Greek mythology}} '''ゼウス'''({{lang-grc-short|'''ΖΕΥΣ''', Ζεύς}}, {{ラテン翻字|el|Zeus}})は、[[ギリシア神話]]の[[主神]]たる全知全能の存在{{sfn|Schmitz|2016|p=705}}<ref>[[里中満智子]]・名古屋経済大学助教授西村賀子解説 『マンガギリシア神話1 オリュンポスの神々』 中公文庫、2003年。</ref>{{efn2| 以下は、宗教文学研究者バーバラ・シュミッツの論文からの引用{{sfn|Schmitz|2016|p=705}}。{{quotation|[[:en:Aristeas|アリステアス]]の議論における基礎原理は、[[神格]]〔{{lang|en|the deity}}〕の機能である。アリステアスはそれを「全ての物事の創造者にして統括者」として描いている。 … 唯一神〔God〕は、[[ユダヤ教]]とギリシャ的文脈とで同じ機能を持っている。すなわち、唯一神は全ての物事の創造者にして統括者である。ただ唯一神の呼び名だけが違う。つまりギリシャ的文脈において、唯一神は「ゼウス」と呼ばれている。{{sfn|Schmitz|2016|p=705}}<br>(原文:{{lang|en|Fundamental for the argumentation of Aristeas is the function of the deity, which he describes as “the overseer and creator of all things”}} ({{lang|grc|πάντωνἐπόπτην καὶ κτίστην}}). ... {{lang|en|God has the same function in the Jewish as in the Greek context: He is the creator and overseer of all things. The only difference is God’s name: In the Greek context, God is called “Zeus”.}}){{sfn|Schmitz|2016|p=705}}<br><br>唯一神についての二つの概念〔ユダヤ系とギリシャ系〕は共に、遍在・全知・全能という特徴を持っている。{{sfn|Schmitz|2016|p=712}}<br>(原文:{{lang|en|[B]oth concepts of God share the aspects of omnipresence, omniscience and omnipotence}} (Arist 132 and Arist 133).{{sfn|Schmitz|2016|p=712}}}} }}。ローマ神話の[[ユーピテル|ジュピター(ユーピテル)]]、中国神話の[[天帝]]、キリスト教やイスラーム等の[[唯一神]]と同様な、「[[至上神]] {{lang|en|supreme god}}(スプリームゴッド)」の典型{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2020|p=「至上神」}}。一般的に「至上神」{{sfn|松村|2020|p=「至上神」}}または「最高神」{{sfn|小学館|2020|p=「最高神」}}は、[[創造神話|創造]]的能力や[[人格]]的性質を持ち、全知全能だとされている{{sfn|松村|2020|p=「至上神」}}。 ゼウスは宇宙や天候を支配する[[天空神]]であり、人類と神々双方の秩序を守護・支配する神々の王である。宇宙を破壊できるほど強力な[[雷]]を武器とし、多神教の中にあっても唯一神的な性格を帯びるほどに絶対的で強大な力を持つ<ref>呉茂一『ギリシア神話(上)』、新潮文庫、1969。</ref>。 == 概要 == ゼウスは[[ローマ神話]]では[[ユーピテル]](ジュピター)にあたる。[[オリンポス山|オリュムポス]]の神々の家族および人類の両方の守護神・支配神であり、神々と人間たちの父と考えられた。 ゼウスは天空神として、全宇宙や雲・雨・雪・雷などの気象を支配していた。[[キュクロープス]]の作った雷霆(ケラウノス)を主な武器とする。その威力はオリュンポス最強と謳われるほど強大なもので、この雷霆をゼウスが使えば世界を一撃で熔解させ、全宇宙を焼き尽くすことができる<ref name="名前なし-1">ヘーシオドス 『神統記』 広川洋一訳、岩波文庫、1984。</ref>。[[テューポーン]]と戦う際には、万物を切り刻む魔法の刃である[[アダマント|アダマス]]の鎌も武器としていた。雷霆の一撃をも防ぎ、更に敵を石化させる[[アイギス]]の肩当て(胸当てや楯という説も)を主な防具とするが、この防具はよく娘の[[アテーナー]]に貸し出される。この他にも、「恐怖」という甲冑を[[ギガントマキアー]]において着用している。 「光輝」と呼ばれる天界の輝きを纏った鎧に山羊革の胸当てをつけ、聖獣は[[鷲]]、聖木は[[オーク]]。主要な神殿は、オークの木のささやきによって[[神託]]を下した[[イピロス|エーペイロス]]の聖地[[ドードーナ]]、および4年ごとに彼の栄誉を祝福して[[古代オリンピック|オリンピック大祭]]が開かれた[[オリンピア (ギリシャ)|オリュンピア]]にあった。 == 系譜 == [[ティーターン]]神族の[[クロノス]]と[[レアー]]の末の子(長男の説もある)で、[[ハーデース]]と[[ポセイドーン]]の弟。正妻は姉である[[ヘーラー]]であるが、[[レートー]]や姉の[[デーメーテール]]等の[[女神]]をはじめ、多くの人間の女性とも交わり、子をもうけたといわれる。 オリュンポス十二神の中では、[[メーティス]]との間に[[アテーナー]]、レートーとの間に[[アポローン]]と[[アルテミス]]、[[マイア]]との間に[[ヘルメース]]、[[ディオーネー]]との間に[[アプロディーテー]]([[ホメーロス]]より)、ヘーラーとの間に[[アレース]]、[[ヘーパイストス]]、また[[テーバイ]]の王女[[セメレー]]との間に[[ディオニューソス]]、デーメーテール(一説には[[ステュクス]])との間に[[ペルセポネー]](あるいは[[コレー]])をもうけた。その他、記憶の女神[[ムネーモシュネー]]との間に9人の[[ムーサ]]たち、海洋の女神[[エウリュノメー]]との間に3人の[[カリス]]たち、月の女神[[セレーネー]]との間に[[パンディーア]]、[[ヘルセー]]、ネメアが誕生した。 [[File:Family tree of zeus japanese.jpg|thumb|470px|center|ゼウスとオリュンポス十二神の系譜図]] また様々な人間の女性との間に、たとえば[[ダナエー]]との間に[[ペルセウス]]を、[[アルクメーネー]]との間に[[ヘーラクレース]]を、[[レーダー (ギリシア神話)|レーダー]]との間に[[ディオスクーロイ]]を、[[アンティオペー]]との間に[[ゼートス]]と[[アムピーオーン]]を、[[エウローペー]]との間に[[ミーノース]]と[[ラダマンテュス]]と[[サルペードーン]]を、[[カリストー]]との間に[[アルカス]]を、[[イーオー]]との間に[[エパポス]]を、といったように多数の子供たちをもうけたことになっている。これらゼウスの子とされる英雄を[[半神]](ヘロス)といい、[[古代ギリシア]]では下級の神として広く祀られた。これらの伝説は、古代ギリシアの各王家が、自らの祖先をゼウスとするために作り出された系譜とも考えられる。ゼウスが交わったとされる人間の女の中には、もとは地元の[[地母神]]であったと考えられるものもいる。女神や人間と交わるときのゼウスはしばしば変化したとされ、ダナエーのときには黄金の雨に、レーダーのときには[[はくちょう座|白鳥]]に、アンティオペーのときには[[サテュロス]]に、エウローペーのときには白い牡牛に、カリストーのときには[[アルテミス]]に、イーオーのときには雲に変身したといわれる。 == 神話 == [[File:Zeus with Hera.jpg|thumb|right|正妻ヘーラーと王座に座すゼウス。]] === 正妻たち === ゼウスは最終的にはヘーラーと永遠に結ばれるが、それまでに何度か結婚と離婚を繰り返していた。 ==== メーティス ==== ゼウスの最初の妻は智恵の女神[[メーティス]]であった。彼女は[[オーケアニス|オーケアニデス]]であり、[[ティーターン|ティーターン神族]]の一柱であったが、[[ティーターノマキアー]]の際にはゼウスに味方していた。[[ガイア]]は「ゼウスとメーティスの間に生まれた男神は父を超える」という予言をした。これを恐れてゼウスは妊娠していたメーティスを呑み込み、子供が生まれないようにした。「どんなものにでも変身できるのなら、水に変身してみせよ」というゼウスの挑発に乗ったメーティスが水に変じたところでこれを飲み干したとも、ゼウスから逃れるために様々な動物に変身していたが、蠅に変身したところで呑み込まれたとも言われる。 あるとき、ゼウスは激しい頭痛に襲われた。そこで、[[ヘーパイストス]]に命じて頭を斧で叩き割り、直接原因を探ろうとした。すると、ゼウスの頭から武装し成人した[[アテーナー]]が飛び出してきた。その衝撃で世界は停止し、天体の運行も止まった。アテーナーがゼウスとメーティスとの子であり、女神であったために、ガイアの予言は効力を失った。こうしてゼウスは王位簒奪の大いなる運命から解放された。呑み込まれたメーティスはゼウスの智恵となり、ゼウスはメーティスの全知を手に入れた。また、メーティスはアテーナーと共に飛び出てきたという説もある。 ==== テミス ==== メーティスの智恵を吸収したゼウスは、次に[[ウーラノス]]とガイアの子である、掟の女神[[テミス]]と結婚した。テミスとの間に運命の三女神[[モイライ]]、季節の女神[[ホーラー]]、正義の女神[[アストライアー]]をもうけた。モイライは最初は夜の女神[[ニュクス]]の娘であったが、ゼウスは上記のように運命を超越し、モイライを自らの子として再誕生させた。結果として運命すらもゼウスに抗えなくなった<ref name="名前なし-2">吉田敦彦『ギリシア神話の発想』1980</ref>。 ==== ヘーラー ==== ゼウスは[[ヘーラー]]に目を付け、テミスと結婚中であるにもかかわらず結婚の女神ヘーラーに言い寄った。ゼウスは[[カッコウ]]に化けてヘーラーに近付き犯そうとしたが、ヘーラーはそれでも尚抵抗を止めなかった。ヘーラーは交わることの条件として結婚を提示した。ヘーラーに魅了されていたゼウスは仕方なくテミスと離婚すると、ヘーラーと結婚し、彼女との間にアレース、ヘーパイストス、[[ヘーベー]]などをもうけた。ヘーラーはゼウスの不貞に対して常に目を光らせ、愛人たちやその子供たちに苛烈な罰を与えるようになった。 === 愛人たち === ゼウスは好色な神であり、しばしばヘーラーの目を盗んでは浮気を繰り返していた。これは、強力な神々や[[半神|半神半人]]を生み出し、全宇宙や人間界の基盤を整えるためでもあった。また、[[古代ギリシア]]のみならず、地中海世界の王家が自らの祖先をゼウスとする家系を主張したため、ゼウスは浮気を繰り返す神話を多く持つようになった。ゼウスの愛人は数え切れないほどいるが、その中でも特に有名な愛人たちを以下に記述する。下記の他、[[ラミアー]]、[[アイギーナ]]、[[カリストー]]、[[エラレー]]、[[タレイア (ニンフ)|タレイア]]、[[アイトネー]]など多くの愛人を持ったことで知られる。 ==== イーオー ==== [[ファイル:Figino.jpg|thumb|200px|ヘーラー(上)、ゼウス(左)、牝牛にされたイーオー(右)。[[ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノ]]([[:en:Giovanni Ambrogio Figino|en]])画(1599年)。[[パヴィア]]、[[マラスピーナ絵画館]]([[:it:Pinacoteca Malaspina|it]])所蔵。]] ゼウスは[[イーオー]]という美女と密通していた。これを見抜いたヘーラーはゼウスに詰め寄るが、ゼウスはイーオーを美しい雌牛に変え、雌牛を愛でていただけであるとした。ヘーラーは策を講じ、その雌牛をゼウスから貰うと、百眼の巨人[[アルゴス]]を見張りに付けた。この巨人は身体中に百の眼を持ち、眠る時も半分の50の眼は開いたままであったので、空間的にも時間的にも死角が存在しなかった。ゼウスはイーオー救出の任を[[ヘルメース]]に命じ、ヘルメースは草笛でアルゴスの全ての眼を眠らせると、その首を剣で切り取った。 雌牛は解放されたが、ヘーラーが虻を送り込んだために雌牛は逃げ惑った。虻から逃げるように様々な地を放浪し、最終的には[[エジプト]]に辿り着き、ここで雌牛は元の姿に戻った。ゼウスとの間にできていた子供である[[エパポス]]をエジプトで出産した。イーオーはデーメーテールの像を立て、イーオーとデーメーテール像はエジプト人に[[イシス]]と呼ばれるようになった。 ==== レーダー ==== [[アイトーリア]]王[[テスティオス]]の娘で、スパルタ王[[テュンダレオース]]の妻であった[[レーダー (ギリシア神話)|レーダー]]にもゼウスは恋した。ゼウスは白鳥に変じ、鷹に追われるふりをしてレーダーの腕に隠れた。レーダーは白鳥のことを想ってそれを拒まなかったが、そこで正体を現したゼウスと交わった。レーダーは二つの卵を産み、一つの卵からは[[ヘレネー]]と[[クリュタイムネーストラー]]が、もう一つの卵からは[[カストール]]と[[ポリュデウケース]](二人合わせて[[ディオスクーロイ]]とも呼ばれた)が生まれた。ヘレネーとポリュデウケースはゼウスとの子であり、クリュタイムネーストラーとカストールがテュンダレオースとの子であった。ヘレネーは絶世の美女となり、[[トロイア戦争]]の原因となった。ポリュデウケースは不死身であった。ゼウスはヘレネーの誕生を記念し、宇宙に[[はくちょう座]]を創造した。 ==== エウローペー ==== [[エウローペー]]は、[[テュロス]]の[[フェニキア]]王[[アゲーノール]]と[[テーレパッサ]]の娘で、美しい姫であった。エウローペーに一目ぼれしたゼウスは誘惑するために、白い牡牛へと変身した。エウローペーは侍女と花を摘んでいる時にその牡牛を見付け、従順な様子に気を許して背にまたがった。その途端に牡牛はエウローペーを連れ去った。ゼウスは[[ヨーロッパ]]中をエウローペーと共に駆け回ったため、その地域はエウローペーから名前を取って「ヨーロッパ」 (Europa) と呼ばれるようになった。最終的に[[クレタ島]]へ辿り着いたゼウスは本来の姿をあらわし、エウローペーはクレタ島で最初の妃となった。ゼウスとの息子には、[[ミーノース]]や[[ラダマンテュス]]、[[サルペードーン]]がいる。その後、アステリオスが3人の息子たちの義理の父になった。ゼウスは彼女に[[タロース]]と必ず獲物をとらえる猟犬となくなる事のない投げ槍の、3つの贈り物を与えた。その後ゼウスは再び白い牡牛へと姿を変え、星空へと上がり、[[おうし座]]になった。 ==== ガニュメーデース ==== ゼウスは[[ガニュメーデース]]という[[トロイア]]の美少年を攫ったことでも知られている。しかし、これは愛人にするためではなく、神々の給仕係にするためであった。オリュンポスの神々に給仕するのは、もとは大神ゼウスとその正妻ヘーラーの娘、青春の女神である[[ヘーベー]]の役割であった。ゼウスの子、英雄[[ヘーラクレース]]が、死後に神々の列に加えられたとき、ヘーラクレースを憎んでいたヘーラーはようやくヘーラクレースと和解し、その娘ヘーベーが妻として彼に与えられた。このため神々の宴席に給仕するものがなくなった。ゼウスは人間たちの中でもとりわけ美しいガニュメーデースを選び、鷲の姿に変身して彼を攫い、オリュンポスの給仕とした。この仕事のためにガニュメーデースには永遠の若さと不死が与えられた。また代償としてその父に速い神馬(別伝ではヘーパイストスの作った黄金のブドウの木)が与えられた。 天上に輝く[[みずがめ座]]は、神々に神酒ネクタールを給仕するガニュメーデースの姿であり、[[わし座]]はゼウスが彼を攫うときに変身した鷲の姿である。 == 全宇宙の支配まで == === 王位簒奪戦争 === [[File:ディクテオン洞窟.JPG|thumb|300px|ゼウスが生まれ育ったとされるディクテオン洞窟。]] ゼウスの生誕に関する古代伝説のひとつによれば、父[[クロノス]]はわが子に支配権を奪われる不安にかられ、生まれた子供を次々に飲み込んでしまった。そこでゼウスを生んだとき、母[[レアー]]は産着で包んだ石をかわりにクロノスに飲ませることでゼウスを救った。ゼウスは[[クレタ島|クレータ島]]の[[ディクテオン洞窟]]で雌山羊の[[アマルテイア]]の乳を飲み、[[ニュンペー|ニュムペー]]に育てられた。 成人したゼウスは、嘔吐薬によってクロノスに女を含め兄弟たちを吐き出させ、父親に復讐をしたがっている彼らと共に、全宇宙の支配権を巡る戦争である[[ティーターノマキアー]]を勃発させた。この時、飲み込まれた順とは逆の順で吐き出されたが、これがポセイドーン等にとって第2の誕生にあたり、よって兄弟の序列が逆転されたともされている。 [[Image:Cornelis_Cornelisz._van_Haarlem_002.jpg|thumb|300px|[[コルネリス・ファン・ハールレム]]の1588年頃の絵画『打ち負かされるティーターン』。[[コペンハーゲン国立美術館]]所蔵。]] この大戦においてゼウスは雷霆を投げつけ、宇宙をも揺るがす衝撃波と雷火によって[[ティターン神族|ティーターン神族]]を一網打尽にした。雷光は全空間に漲り、ティーターンたちは瞬く間に目を焼かれて視力を奪われた。雷霆の威力は想像を絶し、見渡す限りの天地を逆転させ<ref>フェリックス・ギラン、『ギリシア神話』中島健訳、青土社、1991。</ref>、地球や全宇宙、そしてその根源の[[カオス]]をも焼き払うほどであった<ref name="名前なし-1"/>。この猛攻撃の甲斐あってゼウスたちはクロノスなどのティーターン神族を打ち倒し、敗者であるティーターン神族は宇宙の深淵である[[タルタロス]]に封印された。 その後ゼウスとポセイドーンとハーデースは支配地をめぐってくじ引きを行い、それぞれ天界と海界と冥界の主となった。更に、ゼウスはその功績から神々の最高権力者と認められた。しかしその一方、この時のハーデースは冥界の主となったためにオリュンポス十二神から除外されている。 === 巨人族との戦い === 全宇宙の支配権が確立したティーターノマキアー後も、ゼウスの支配を揺るがすような出来事が起こった。ゼウスは全宇宙の支配を護る為に防衛戦を展開しなければならなかった。 その一つが巨人族[[ギガース]]とオリュンポスの神々の戦いである[[ギガントマキアー]]であり、これはタルタロスに我が子であるティーターン神族を幽閉されたことに怒ったガイアが仕向けた大戦であると言われている。ギガースは山を軽々と持ち上げるほどの腕力を持ち、神々に対しては不死身であったが、人間なら殺すことができ、ゼウスは[[半神|半神半人]]である自らの息子[[ヘーラクレース]]をオリュンポスに招いて味方にした。 ギガースたちは島や山脈といったありとあらゆる地形を引き裂きながら大軍で攻め入ってきたが、迎撃を開始した神々とヘーラクレースによって尽く打ち倒された。ヘーラーに欲情して犯そうとしたギガース・[[ポルピュリオーン]]は、彼女を犯す前にゼウスの雷霆によって戦闘不能にされ、最後はヘーラクレースの毒矢によってとどめを刺された。ギガースたちは神々によって島や山脈を叩き付けられて封印され、ヘーラクレースの強弓によって殺戮された。ギガントマキアーはゼウスたちの圧勝に終わった<ref name="名前なし-3">『ギリシア神話』アポロドーロス</ref>。 === 最終決戦 === ギガントマキアーでゼウスたちを懲らしめられなかったガイアは、タルタロスと交わり、ギリシア神話史上最大にして最強の怪物[[テューポーン]]を生み出してオリュンポスを攻撃させた。テューポーンは頭が星々とぶつかってしまうほどの巨体を有しており、両腕を伸ばせば東西の世界の果てにも辿り着いた。神々と同じく不老不死で、肩からは百の蛇の頭が生え、炎を放つ目を持ち、腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしていた。テューポーンは世界を大炎上させ、天空に突進して宇宙中も暴れ回った。これには神々も驚き、動物に姿を変えて[[エジプト]]の方へと逃げてしまった。しかし、ゼウスただ一人だけがその場に踏み止まり、究極の怪物にして怪物の王テューポーンとの壮絶な[[一騎討ち]]が始まった<ref name="名前なし-3"/>。 ゼウスは雷霆と[[アダマント|アダマス]]の鎌でテューポーンを猛攻撃し、テューポーンは万物を燃やし尽くす炎弾と噴流でそれを押し返した。この決戦は天上の宇宙で繰り広げられ、これによって全秩序は混沌と化し、全宇宙は焼き尽くされて崩壊した<ref>『図書館』アポロドーロス</ref>。両者の実力は拮抗していたが、接近戦に持ち込んだゼウスがテューポーンの怪力に敗れ、そのとぐろによって締め上げられてしまう。テューポーンはゼウスの雷霆とアダマスの鎌を取り上げ、手足の腱を切り落とし、[[デルポイ]]近くのコーリュキオンと呼ばれる洞窟へ閉じ込めた。そしてテューポーンはゼウスの腱を熊の皮に隠し、番人として半獣の竜女[[デルピュネー]]を置き、自分は傷の治療のために母ガイアの元へ向かった。 ゼウスが囚われたことを知った[[ヘルメース]]と[[パーン (ギリシア神話)|パーン]]はゼウスの救出に向かい、デルピュネーを騙して手足の腱を盗み出し、ゼウスを治療した。力を取り戻したゼウスは再びテューポーンと壮絶な戦いを繰り広げ、深手を負わせて追い詰める。テューポーンはゼウスに勝つために運命の女神[[モイラ]]たちを脅し、どんな願いも叶うという「勝利の果実」を手に入れたが、その実を食べた途端、テューポーンは力を失ってしまった。実は女神たちがテューポーンに与えたのは、決して望みが叶うことはないという「無常の果実」だったのである。 敗走を続けたテューポーンは悪あがきとして全山脈をゼウスに投げつけようとしたが、雷霆によって簡単に弾き返され、逆に全山脈の下敷きになってしまう。最後は[[シケリア島]]まで追い詰められ、[[エトナ火山]]を叩き付けられ(シケリア島そのものを叩き付けたとする説もある)、その下に封印された。以来、テューポーンがエトナ山の重圧を逃れようともがくたび、噴火が起こるという。こうしてゼウスはテューポーンとの死闘に勝利し、もはや彼の王権に抗うものは現れなかった。 また、神統記によれば、ゼウスはテューポーンと全宇宙を揺るがす激闘の末に、雷霆の一撃によって世界を尽く溶解させて、そのままテューポーンを[[タルタロス]]へと放り込んだのだという。 === 世界の平定 === ガイアがまだ権威を持っていた宇宙の原初期には、[[森羅万象]]はオリュンポスの神々に対して反抗的で、全物質が支配から逃れようと暴れ出した。ガイアは[[地母神]]と言われているが、その支配領域は大地だけではなく、天をも内包する世界そのものにまで及んでいたからだ。万物の反抗は、何もかも覆してしまうかのような大変動に繋がった。大陸はねじれて震え、山々はばらばらに引き裂かれて岩石や火砕流を吐き出した。河は流れを変え、海は隆起して全ての大陸は海中へと没した。全物質の攻撃により、世界は混沌と化した。 しかし、ゼウスは宇宙を統制し、森羅万象を押さえ込んで混沌とした世界をその意に従わせた。大地はもはや揺らがなくなり、山々も平穏になった。大陸は海中から姿を現し、もう海が暴れることもなくなった。ゼウスは世界を平定し、再び宇宙に調和が訪れた<ref>フェリックス・ギラン、『ギリシア神話』中島健訳、青土社、1991</ref>。 == 人物 == [[ホメーロス]]の記述にみるゼウスは、2つの異なる姿で描かれている。一方ではゼウスは弱者の守護神、正義と慈悲の神、悪者を罰する神としてあらわされる。しかし同時に、次々と女性に手を出しては子孫を増やし、不貞を妻に知られまいとあらゆる手段を講じる神としても描かれている。混沌を自らの力で撃退・統制し、全宇宙の秩序を創造した神でもあり、その秩序を脅かす者ならば、たとえ同族であっても排除する荒ぶる神でもある。 元来は[[バルカン半島]]の北方から来て[[ギリシア語]]をもたらした[[インド・ヨーロッパ語族]]系征服者の信仰した天空神であったと考えられ、ヘーラーとの[[結婚]]や様々な地母神由来の女神や女性との交わりは、非インド・ヨーロッパ語族系先住民族との和合と融合を象徴するものと考えられる。また自分たちの系譜を神々の父までさかのぼりたいという、古代ギリシア人の願望としても説明されることがある。 多くのインド・ヨーロッパ語族系言語を用いる民に共通して信仰された天空神に由来し、その祖形は、ローマ神話における[[ユーピテル]]の原型であるデイオス・パテール、あるいは普通名詞「神」を表すデイオス、[[デウス]]、古層の[[インド神話]]の天空神[[ディヤウス]]、[[北欧神話]]の[[テュール]]らに垣間見ることができる。 == 信仰 == ゼウス信仰はギリシア全域で行われ、至上最高の原理として仰がれていた。古代ギリシア人たちは一神教に近い帰依と敬虔さをゼウスに捧げ、明らかに他の神々とは一線を画していた。ゼウスは運命すらも超越し<ref name="名前なし-2"/>、全知全能神に相応しい威厳を放っていた。 === 古代オリンピック === [[File:Zeus temple in Ancient Olympia.JPG|thumb|オリュンピアにあるゼウス神殿。]] [[オリュンピア]]はゼウスの主な神域であり、そこで4年に1度開催される[[古代オリンピック]]はゼウスを讃える全ギリシア的な大祭であった。この開催期間中は、ギリシア人は全員戦争を止め、古代オリンピックに参加するためにオリュンピアへと向かった。この道中はゼウスによって守護されると考えられた。不正を決して行わないという宣誓をゼウス・ホルキオス(誓いのゼウス)に捧げ、選手たちは各種目に分かれて競い合った。古代オリンピックで優勝した者は、神々から寵愛されている者、もしくは神々の血を引く者とされ、祖国では大いに賞賛された。現在は廃墟となってしまっているが、当時はオリュンピアにあるゼウス神殿内部には12mを超える黄金と象牙で出来た巨大な[[オリンピアのゼウス像|ゼウス像]]が聳え立っていたという。この巨大なゼウス像は[[世界の七不思議]]のひとつとしても有名である。 また、[[マケドニア王国]]にあるゼウスの神域・ディオンでも、オリュンピア祭が開催された。主催者はヘーラクレースの血筋を持つとされた[[アルゲアス朝|マケドニア王家]]であり、これはオリュンピアの古代オリンピックに次いで盛況であった。 === ドードーナの神託 === [[エペイロス]]にあるドードーナには、ギリシア最古の神託所があり、ここでの神託は[[デルポイ]]に次いで有名であった。ドードーナの神託所にはゼウスが祭られており、神官たちはゼウスの聖木である樫の木を用いて神託を下した。樫の木の葉のざわめきを聞き、ゼウスの神託を解釈するのである。ドードーナの神託所は山奥にあり、交通の便は悪いが、その評判を聞きつけて参拝者が後を絶たなかった。 === オリュンピア=ゼウス神殿 === [[File:オリュンピア=ゼウス神殿.JPG|thumb|アテネにある[[ゼウス神殿|オリュンピア=ゼウス神殿]]。]] [[アテナイ|アテーナイ]]には、ゼウスに捧げるための巨大な神殿が[[ローマ帝国]]の[[ハドリアヌス]]治下で建造された。元々は紀元前550年頃に[[ペイシストラトス]]が建造を開始したものであるが、彼の後を継いだ[[ヒッピアス (僭主)|ヒッピアス]]が追放されたことで計画は中止となっていた。その後、ハドリアヌスが当時の計画を復活させ、完成させた。[[ゼウス神殿|オリュンピア=ゼウス神殿]]と呼ばれ、当時の神殿内部にはオリュンピアのゼウス像のコピーがあったことに由来する。古代世界で最大の神殿であり、柱は[[コリント式]]である。 === ローマ神話 === ゼウスは[[ローマ神話]]の最高神[[ユーピテル]]と同一視された。ローマ帝国は「文化面ではギリシアに征服された」という名言が有名なように、ギリシア神話の神々をローマ神話の神々と同一視してローマ文化に取り入れたため、ギリシア神話とローマ神話の神々の権能はしばしば共通している。ユーピテルは英語読みでジュピターとも言い、[[木星]]の名前の由来となった。 ユーピテルはゼウスと同じく雷電を扱い、天空を支配する全能神である。ユーピテル・フェレトリウスという名で一騎討ちを守護する神としても知られ、一騎討ちで敵を倒した将軍は、討ち取った敵の武具を樫の木(ゼウスと同じくユーピテルの聖木)に縛り付け、ユーピテルに捧げた。 === エジプト神話 === ゼウスは[[エジプト神話]]の最高神[[アメン]]とも同一視された。アメンは太陽神であったが、神々の王であったことから、[[ヘーリオス]]や[[アポローン]]ではなく、ゼウスのエジプトにおける名称だとギリシア中で認知されていた。エジプト西部砂漠の[[シワ・オアシス]]にあるアメン神殿には[[ペルセウス]]、[[ヘーラクレース]]が訪れ、神託を伺ったとされている。 東方遠征の際にマケドニアの[[アレクサンドロス大王]]もアメン神殿を訪れ、神託を伺った。そこで彼はアメンの息子であるという神託を得た。それはゼウスの息子であるということに等しく、アレクサンドロス大王は自らの神性を証明して満足した。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == {{Commonscat|Zeus}} * {{Cite book|和書 |author= 小学館|authorlink=小学館 |title = 精選版 日本国語大辞典 |chapter = 最高神 |url = https://kotobank.jp/word/%E6%9C%80%E9%AB%98%E7%A5%9E-271955#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 |year = 2020 |accessdate = 2020-12-28 |ref = harv }} * {{Cite book|和書 |last = 松村 |first = 明 |authorlink = 松村明 |title = デジタル大辞泉 |chapter = 至上神 |url = https://kotobank.jp/word/%E8%87%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E-73359#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 |year = 2020 |accessdate = 2020-12-28 |ref = harv }} * {{Cite book|和書 |author = Britannica Japan Co., Ltd. |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |chapter = 至上神 |url = https://kotobank.jp/word/%E8%87%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E-73359#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 |year = 2020 |accessdate = 2020-12-28 |ref = harv }} * {{cite book| |last = Schmitz |first = Barbara |title = Die Septuaginta - Orte und Intentionen |chapter = “... using diferent names, as Zeus and Dis” (Arist 16). Concepts of “God” in the Letter of Aristeas |publisher = Mohr Siebeck |year = 2016 |isbn = 978-3161538322 |ref = harv }} {{参照方法|date=2021年4月|section=1}} * カール・ケレーニイ 『ギリシアの神話-神々の時代』 [[植田兼義]]訳、中公文庫、1985年。 * カール・ケレーニイ 『ギリシアの神話-英雄の時代』 [[植田兼義]]訳、中公文庫、1985年。 * 呉茂一 『ギリシア神話 上・下』 新潮文庫、1979年。 * [[アポロドーロス]] 『ギリシア神話』 高津春繁訳、岩波文庫、1953年。 * 『四つのギリシャ神話-ホメーロス讃歌より』 逸見喜一郎・片山英男訳、岩波文庫、1985年。 * [[ヘーシオドス]] 『神統記』 広川洋一訳、岩波文庫、1984。 * ヘーシオドス 『仕事と日』 松平千秋訳、岩波文庫、1986年。 * ホメーロス 『イーリアス 上・中・下』 呉茂一訳、岩波文庫、1953・56・58年。 * ホメーロス 『オデュッセイア 上・下』 松平千秋訳、岩波文庫、1994年。 * 串田孫一 『ギリシア神話』 筑摩書房、1961年。 * 山室静 『ギリシャ神話 付北欧神話』 現代教養文庫・社会思想社、1963年。 * T・ブルフィンチ 『ギリシア神話と英雄伝脱 上・下』 佐渡谷重信訳、講談社学術文庫、1995年。 * 阿刀田高 『ギリシア神話を知っていますか』 新潮社、1981年。 * D・ベリンガム 『ギリシア神話』 安部素子訳、PARCO出版、1993年。 * F・ギラン 『ギリシア神話』 中島健訳、青土社、1982年。 * 『ギリシア神話物語』 有田潤訳、白水社、1968年。 * 高津春繁 『ギリシア・ローマ神話辞典』 岩波書店、1960年。 * L・マルタン監修 『図説ギリシア・ローマ神話文化事典』 松村一男訳、原書房、1997年。 * 水之江有一編 『ギリシア・ローマ神話図詳辞典』 北星堂書店、1994年。 * 吉村作治編 『NEWTONアーキオVOL.6 ギリシア文明』 ニュートンプレス、1999年。 * A・ピアソン 『ビジュアル博物館37 古代ギリシア』 同朋舎出版、1993年。 * F・ドゥランド 『古代ギリシア 西欧世界の黎明』 西村太良訳、新潮社、1998年。 * 周藤芳幸 『図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて』 河出書房新社、1997年。 * 青柳正規他 『写真絵巻 描かれたギリシア神話』 小川忠博撮影、講談社、1998年。 * R・モアコット 『地図で読む世界の歴史 古代ギリシア』 桜井万里子監修 青木桃子他訳、河出書房新社、1998年)。 * 村川堅太郎編著 『世界の文化史跡3 ギリシアの神話』 高橋敏撮影、講談社、1967年。 * P・ミケル 『カラーイラスト世界の生活史3』 木村尚三郎他監訳、東京書籍、1984年。 * P・コノリー 『カラーイラスト世界の生活史21』 木村尚三郎他監訳、東京書籍、1986年。 * P・コノリー他著 『カラーイラスト世界の生活史25』 木村尚三郎他監訳、東京書籍、1989年。 * 『ATENES THE CITY AND ITS MUSEUMS』 Eldptike Athenon S.A.、1979年。 * Piero Ventura&Gian Paolo Ceserani 『TROIA L'avventura di un mondo』 Arnoldo Mondadori Editore、1981年。 {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せうす}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:天空神]] [[Category:木星神]] [[Category:雷神]]
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アポローン
アポローン(古希: ΑΠΟΛΛΩΝ, Ἀπόλλων, Apollōn)は、ギリシア神話に登場する男神。オリュンポス十二神の一柱であり、ゼウスの息子である。 詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神でもあり、イーリアスにおいてはギリシア兵を次々と倒した「遠矢の神」であり、疫病の矢を放ち男を頓死させる神であるとともに病を払う治療神でもあり、神託を授ける予言の神としての側面も持つなど、付与された性格は多岐に亘る。 もとは小アジアに起源をもつ神格で、本来は繁茂する植物の精霊神から転じて牧畜を司る神となったという説や、北方の遊牧民に起源を求める説など、アポローンの出自については諸説あり、複数の神格の習合を経て成立したものとも考えられている。古典期のギリシアにおいては理想の青年像と考えられ、また、ヘーリオス(太陽神)と同一視されるようにもなった。 推定される原音に近づけてその名をカナ転写すればアポルローンあるいはアポッローンとなるが、日本語のカタカナ表記ではアポローン、または長母音を省略してアポロンとするのが通例である。 アポロとも表記されるがこれは、ラテン語形アポロー、それに由来する英語アポロなどの音写である。 アポローンは主神ゼウスとレートーとの息子で狩猟の女神アルテミスの双子の弟。オリュンポス十二神に名を連ねる。古くから牧畜と予言の神、また、竪琴を手に執る音楽と詩歌文芸の神であった。光明神の性格を持つことから前5世紀には時としてヘーリオスと混同されて太陽神とされ、ローマ時代にはすっかり太陽神と化した。聖獣は狼および蛇、鹿で、聖鳥はヒュペルボレオイの国から飛来する白鳥および、鴉、雄鶏、鷹、禿鷹で、蝉もアポローンの使いとされる。聖樹は月桂樹、オリーブ、棕櫚、御柳。また、イルカ(デルピス)との関係も深く、イルカの姿に変身したという神話からデルピニオスとも呼ばれ、「デルポイ」という地名はここから来ているともいわれる。 また、あらゆる知的文化的活動の守護神とされ、詩神ムーサイを主宰するとともに、オルペウス教の伝説的開祖である詩人オルペウスの父親ともされる。一方、人間に当たれば苦痛なく一瞬で即死する金の矢を武器とし、姉(妹)神アルテミスとともに「遠矢射るアポローン」として疫病神の性格を持ち、転じて医術の神としても信仰された。医神アスクレーピオスがアポローンの子とされるのはそのためである。このように、アポローンの性格は理性的であると同時に人間を地上に向かって放った矢から広がる疫病で虐殺したり、音楽の腕を競う賭けでサテュロスの1人マルシュアースを生きたまま全身の皮膚を剥いで殺すなどの冷酷さ、残忍さをも併せ持っている。腕力も強く、イーリアスではアカイア勢の築いた頑強な城壁を素手で軽々と打ち砕いて崩壊させている。ボクシングを創始した神としても知られる。 フリードリヒ・ニーチェは、理性をつかさどる神として、ディオニューソスと対照的な存在と考えた(『悲劇の誕生』)。 アスクレーピオスは、テッサリアのラーリッサ領主の娘コローニスとアポローンの子。アポローンとコローニスの伝令であった鴉の讒言によってアポローンは嫉妬に駆られ彼女を射殺した。しかしすぐに後悔し、彼女の胎内から取り出したアスクレーピオスをケンタウロス族の賢者ケイローンに預けた。医術の神の血を引く彼は、やがてすぐれた医術を獲得するに至り、人を救うことに熱心だったが、やがて死者をも蘇らせることになったので、冥府の神ハーデースはゼウスにこの不条理を訴えた。そのためアスクレーピオスはゼウスの雷霆に撃たれて死に、天の神になったとされる。そして、アスクレーピオスと鴉は共にへびつかい座とからす座として天に掲げられた。 ダプネー (Daphnē) は、テッサリアの河神ペーネイオスの娘である。大蛇ピュートーンを矢で射殺したアポローンが、帰途偶然出会ったエロースと彼の持つ小さな弓を馬鹿にしたことから、エロースはアポローンへの仕返しに、黄金の矢(愛情を芽生えさせる矢)でアポローンを撃ち、鉛の矢(愛情を拒絶させる矢)でダプネーを射た。このため、アポローンはダプネーに愛情を抱いたが、ダプネーはアポローンの愛を拒絶した。 エロースの悪戯によってアポローンは彼女を奪おうと追いかけ続け、ダプネーも必死に逃げ続けた。しかし、ダプネーの体力が限界に近づき、ついにはペーネイオス河畔に追いつめられたため、ダプネーは父ペーネイオスに祈って助けを求めた。追いつめたアポローンがダプネーの腕に触れかけたとき、娘の苦痛を聞き入れたペーネイオスにより、ダプネーは月桂樹に身を変じた。 失意のアポローンは「せめて私の聖樹になって欲しい」と頼むと、ダプネーは枝を揺らしてうなずき、月桂樹の葉をアポローンの頭に落とした。この故事により、デルポイのピューティア大祭で行われる競技の優勝者には、月桂冠が与えられることになった(ダプネー Δάφνη は「月桂樹」という意味の普通名詞)。 カッサンドラー (Kassandrā) はトロイア王、プリアモスの娘である。アポローンはカッサンドラーの美貌に懸想し、求愛する。自分の愛を受け入れれば「百発百中の予言能力」を授けるとカッサンドラーを誘惑する。カッサンドラーはそれを受け入れ「予言能力」を手に入れるが、その瞬間「アポローンに弄ばれたあげく、捨てられる自分の運命」を予言してしまう。 カッサンドラーはすぐさまアポローンの許を去る。アポローンは怒り、「カッサンドラーの予言は誰も信じない」という呪いを掛けた。後に、ギリシア諸ポリスとトロイアとの間でトロイア戦争が起きると、カッサンドラーはトロイアの悲劇的滅亡を予言し、父王プリアモスらに警告するが、誰もそれを信じなかった。はたしてトロイアは、カッサンドラーの予言通り、アカイア人(ギリシア)との戦争に敗れ、滅亡するのである。 ヒュアキントスはペラ王ピーエロスと、歴史のムーサであるクレイオーとの間に生まれた美少年である。スパルタのアミュークライ市で生まれたという。 アポローンと西風の神ゼピュロスの2人がヒュアキントスの気を惹こうとしたが、彼はアポローンとばかり仲良くしていた。ある日、2人が仲良く円盤投げを楽しんでいた時、アポローンの投げた円盤がヒュアキュントスの頭部に激突、少年は息を引き取った。これはゼピュロスが2人の仲睦まじい様子を空から見て嫉妬し、円盤の飛ぶ方向を風で狂わせたためであった。アポローンは嘆き悲しんだが、溢れ出た少年の真っ赤な血の中から、赤い花が咲いた。この花は少年の名にちなんでヒュアキントス(ヒアシンス)と呼ばれた。 ただし、このヒュアキントスが現在ヒアシンスと呼ばれる花と同じものであると断定することはできない。その後、スパルタでは毎年初夏にヒュアキンティアという彼の死を記念した祭典が行われたという。ヒアシンスは多年生の球根植物である。古代ギリシア人は、初夏に開花して間もなく枯れ、次の年の備えをするヒアシンスの習性に死と復活を重ね合わせて見たのであろう。 巨人戦争ギガントマキアーにもアポローンは参戦した。アポローンはヘーラクレースと共闘し、ギガースの一人であるエピアルテースの左目を射た。ギガースは神々に対しては不死身であったため、それだけでは死ななかったが、すかさず半神半人のヘーラクレースによって右目を射られ、絶命した。 アポローンからの寵愛を受け続けた妖精。しかしアカンサスは拒み続け、ある日アポローンの顔に傷をつけてしまい、アポローンによりアカンサスの花に変えられてしまった。 ギリシア的な神とされるが、『イーリアス』ではつねにトロイア側に加担している。また、母親とされるレートーは、元来は小アジアで信仰された大地の女神で、アポローンはこれに付き従う植物神を核として形成された、複数の神格の集合体と考えられている。その名前もギリシア語に由来するものではないというのが一般的な見解である。 また、生誕後、ギリシアに現れる前の一時期を北方の民ヒュペルボレオイの国で暮らしていたとされ、北海沿岸の琥珀産地と地中海沿岸を結ぶ交易路「琥珀の道」とも深いかかわりを持つ神だと考えられている。さらにアルテミスの起源は北アフリカとされ、この女神と双子であるという性格は、地中海周辺で崇拝されていた女神群の配偶者群(タンムーズ、アドーニス、オシーリスなど)と同列のものと考えられる。 デルポイはアポローンの神託所で、ギリシア世界では最大の権威を持つ聖地であるが、少なくともミケーネ文明以前の時代から開けており、元は他の別神格の信仰中心地であったと考えられる。神話によれば、もともとガイアの聖地だったものを、番人の大蛇ピュートーンを射殺して奪ったものだという。神託は巫女・ピューティアーにより詩の形で与えられた。ギリシア人たちは、主に植民市建設の助言を貰い受けるためにデルポイを訪れ、デルポイは捧げ物によって繁栄を謳歌した。戦勝記念にもギリシア各地から贈り物が届けられ、マラトンの戦いの際にはアテナイから神殿が寄贈され、ガウガメラの戦いの勝利後には東方遠征中のアレクサンドロス大王から敵兵の武具が寄贈された。 このほか、生誕地とされるデーロス島、ミーレートス市近郊のディデュマもアポローンの聖地とされる。 アポローンを讃える祭事はギリシアで広く行われていた。特に有名なのはデルポイを開催地として行われていたピューティア大祭であり、4年に1度、古代オリンピックの開催年と被らないように開かれた。音楽演奏の競技が最初に行われていたが、やがてキタラーの伴奏付きの歌唱や、フルートの演奏、フルートの伴奏による歌唱などが加わった。更に、演劇の上演コンクールや、詩や散文作品の朗読競技が行われ、紀元前582年以降では、オリュンピア大祭に倣って、各種の運動競技も加わり、また戦車(チャリオット)による競争も加わるようになった。 これらの数々の競技には、全ギリシアから参加者やその見物人が集まり、古代ギリシアの国際親善の場とも機会ともなった。各種競技の優勝者には、アポローンの聖樹であるダプネーつまり月桂樹の葉で飾られた冠が贈られ、これを「月桂冠」と称した。 ホメーロスではポイボス・アポローン(Phoibos Apollōn)とも呼ばれる。ポイボスは「輝ける」の意と解される。このほかの異称には、ロクシアース、パイアーン、リュキオス、ヒュアキンティオス、アリュギュロトクソス(銀の弓矢を持つ神)などがある。 アポローン信仰はイタリア半島のギリシア植民地クーマエを通じて古代ローマにもたらされた。ローマ神話においては主要な神格がギリシア神話の神格と同化されたが、その中でアポローンだけは双方に共通する名をもつ神であり、ラテン語でアポロー(羅: APOLLO, Apollō)と呼ばれた。「ポイボス」もラテン語形でポエブス (Phoebus) と呼ばれた。
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アポローンは、ギリシア神話に登場する男神。オリュンポス十二神の一柱であり、ゼウスの息子である。 詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神でもあり、イーリアスにおいてはギリシア兵を次々と倒した「遠矢の神」であり、疫病の矢を放ち男を頓死させる神であるとともに病を払う治療神でもあり、神託を授ける予言の神としての側面も持つなど、付与された性格は多岐に亘る。 もとは小アジアに起源をもつ神格で、本来は繁茂する植物の精霊神から転じて牧畜を司る神となったという説や、北方の遊牧民に起源を求める説など、アポローンの出自については諸説あり、複数の神格の習合を経て成立したものとも考えられている。古典期のギリシアにおいては理想の青年像と考えられ、また、ヘーリオス(太陽神)と同一視されるようにもなった。 推定される原音に近づけてその名をカナ転写すればアポルローンあるいはアポッローンとなるが、日本語のカタカナ表記ではアポローン、または長母音を省略してアポロンとするのが通例である。 アポロとも表記されるがこれは、ラテン語形アポロー、それに由来する英語アポロなどの音写である。
{{redirect|アポロン}} {{Otheruses||宝塚歌劇団のショー作品|アポローン (宝塚歌劇)}} {{Infobox deity | type = Greek | name = アポローン<br/>{{lang|grc|Ἀπόλλων}} | image = Apollo of the Belvedere.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|約120年から140年頃の[[ベルヴェデーレのアポロン]]。[[バチカン美術館]]所蔵。}} | deity_of = {{small|光明の神, 芸術の神, 予言の神}} | birth_place = | death_place = | cult_center = [[デルポイ]] | abode = [[オリュムポス]] | weapon = 銀の弓矢 | symbol = [[リラ (楽器)|竪琴]], [[月桂樹]] | consort = | parents = [[ゼウス]], [[レートー]] | siblings = [[アルテミス]], [[アテーナー]], [[アレース]], [[ヘーパイストス]], [[ヘルメース]], [[ディオニューソス]], [[エイレイテュイア]], [[ヘーベー]] | children = | mount = | Roman_equivalent = アポロー(またはソラヌス) | festivals = [[ピューティア大祭]] }} {{Greek mythology}} '''アポローン'''({{lang-grc-short|'''ΑΠΟΛΛΩΝ''', Ἀπόλλων}}, {{ラテン翻字|el|Apollōn}})は、[[ギリシア神話]]に登場する[[神|男神]]。[[オリュンポス十二神]]の一柱であり、[[ゼウス]]の息子である<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/アポロン-27092 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-28 }}</ref>。 詩歌や音楽などの[[芸能]]・[[芸術]]の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神でもあり、[[イーリアス]]においてはギリシア兵を次々と倒した<ref>ホメロス 『イリアス(上)』 松平千秋訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1992年、13頁。</ref>「遠矢の神」<ref>ホメロス 『イリアス(上)』 松平千秋訳、11頁。</ref>であり、疫病の矢を放ち男を頓死させる神<ref group="注">「アポローンの矢に射られる」という表現は男が頓死することを意味した(ホメロス 『イリアス(上)』 松平千秋訳、394頁)。</ref>であるとともに病を払う治療神でもあり、[[神託]]を授ける[[予言]]の神としての側面も持つなど、付与された性格は多岐に亘る。 もとは[[小アジア]]に起源をもつ神格で、本来は繁茂する植物の精霊神から転じて牧畜を司る神となったという説や、北方の遊牧民に起源を求める説など<ref>呉茂一 『ギリシア神話(上)』 新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、132頁。</ref>、アポローンの出自については諸説あり、複数の神格の習合を経て成立したものとも考えられている<ref>松村一男、平藤喜久子、山田仁史編 『神の文化史事典』 白水社、2013年、52-53頁。</ref>。古典期の[[古代ギリシア|ギリシア]]においては理想の[[青年]]像と考えられ、また、[[ヘーリオス]]([[太陽神]])と同一視されるようにもなった。 推定される原音に近づけてその名をカナ転写すればアポ<small>ル</small>ローンあるいはアポッローンとなるが、[[日本語]]のカタカナ表記ではアポローン、または[[長母音]]を省略して'''アポロン'''とするのが通例である。 アポロとも表記されるがこれは、ラテン語形アポロー、それに由来する英語アポロなどの音写である。 == 概説 == アポローンは主神[[ゼウス]]と[[レートー]]との[[息子]]で狩猟の女神[[アルテミス]]の[[双生児|双子]]の弟<ref group="注">ギリシア神話では姉、ローマ神話では妹とする説もある。</ref>。オリュンポス十二神に名を連ねる。古くから[[牧畜]]と[[予言]]の神、また、[[リラ (楽器)|竪琴]]を手に執る音楽と詩歌文芸の神であった。光明神の性格を持つことから前5世紀には時として[[ヘーリオス]]と混同されて[[太陽神]]とされ、ローマ時代にはすっかり太陽神と化した<ref>呉茂一 『ギリシア神話(上)』 新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、141頁。</ref>。聖獣は[[オオカミ|狼]]および[[ヘビ|蛇]]、[[シカ|鹿]]で、聖鳥はヒュペルボレオイの国から飛来する[[ハクチョウ|白鳥]]および、[[カラス|鴉]]、[[ニワトリ|雄鶏]]、[[鷹]]、[[ハゲワシ|禿鷹]]で、[[セミ|蝉]]もアポローンの使いとされる<ref>[[里中満智子]] 『マンガ ギリシア神話2 至高神ゼウス』 [[中央公論新社]]</ref><ref name="G">フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 [[青土社]]</ref>。聖樹は[[ゲッケイジュ|月桂樹]]、[[オリーブ]]、[[シュロ|棕櫚]]、[[ギョリュウ|御柳]]<ref name="G" />。また、[[イルカ]](デルピス)との関係も深く、イルカの姿に変身したという神話からデルピニオスとも呼ばれ、「[[デルポイ]]」という地名はここから来ているともいわれる<ref name="G" />{{Refnest|group="注"|デルポイは「子宮」を意味するデルピュスが語源という説もある<ref name="jiten">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル 『ギリシア・ローマ神話事典』 大修館書店</ref>。}}。 また、あらゆる知的文化的活動の守護神とされ、詩神[[ムーサ|ムーサイ]]を主宰するとともに、[[オルペウス教]]の伝説的開祖である詩人[[オルペウス]]の父親ともされる。一方、人間に当たれば苦痛なく一瞬で即死する金の矢を武器とし、姉(妹)神アルテミスとともに「遠矢射るアポローン」として[[疫病]]神の性格を持ち、転じて[[医療|医術]]の神としても信仰された。医神[[アスクレーピオス]]がアポローンの子とされるのはそのためである。このように、アポローンの性格は理性的であると同時に人間を地上に向かって放った矢から広がる疫病で虐殺したり、音楽の腕を競う賭けで[[サテュロス]]の1人[[マルシュアース]]を[[皮剥ぎの刑|生きたまま全身の皮膚を剥いで殺す]]などの冷酷さ、残忍さをも併せ持っている。腕力も強く、[[イーリアス]]ではアカイア勢の築いた頑強な城壁を素手で軽々と打ち砕いて崩壊させている。[[ボクシング]]を創始した神としても知られる。 [[フリードリヒ・ニーチェ]]は、[[理性]]をつかさどる神として、[[ディオニューソス]]と対照的な存在と考えた(『[[悲劇の誕生]]』)。 == 神話 == === アスクレーピオス === アスクレーピオスは、[[テッサリア]]の[[ラリサ|ラーリッサ]]領主の娘[[コローニス]]とアポローンの子。アポローンとコローニスの伝令であった鴉の讒言によってアポローンは嫉妬に駆られ彼女を射殺した。しかしすぐに後悔し、彼女の胎内から取り出したアスクレーピオスを[[ケンタウロス]]族の賢者[[ケイローン]]に預けた。医術の神の血を引く彼は、やがてすぐれた医術を獲得するに至り、人を救うことに熱心だったが、やがて死者をも蘇らせることになったので、冥府の神[[ハーデース]]はゼウスにこの不条理を訴えた。そのためアスクレーピオスはゼウスの雷霆に撃たれて死に、天の神になったとされる。そして、アスクレーピオスと鴉は共に[[へびつかい座]]と[[からす座]]として天に掲げられた。 === ダプネー === [[ファイル:Apollo and Daphne (Bernini).jpg|thumb|180px|『[[:en:Apollo and Daphne (Bernini)|アポロンとダプネ]]』 [[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]作 (1622年-1625年) [[ボルゲーゼ美術館]]所蔵。]] [[ダプネー]] (Daphnē) は、テッサリアの河神[[ペーネイオス]]の娘である。大蛇ピュートーンを矢で射殺したアポローンが、帰途偶然出会った[[エロース]]と彼の持つ小さな弓を馬鹿にしたことから、エロースはアポローンへの仕返しに、黄金の矢(愛情を芽生えさせる矢)でアポローンを撃ち、鉛の矢(愛情を拒絶させる矢)でダプネーを射た。このため、アポローンはダプネーに愛情を抱いたが、ダプネーはアポローンの愛を拒絶した。 エロースの悪戯によってアポローンは彼女を奪おうと追いかけ続け、ダプネーも必死に逃げ続けた。しかし、ダプネーの体力が限界に近づき、ついには[[ペーネイオス河]]畔に追いつめられたため、ダプネーは父ペーネイオスに祈って助けを求めた。追いつめたアポローンがダプネーの腕に触れかけたとき、娘の苦痛を聞き入れたペーネイオスにより、ダプネーは月桂樹に身を変じた。 失意のアポローンは「せめて私の聖樹になって欲しい」と頼むと、ダプネーは枝を揺らしてうなずき、月桂樹の葉をアポローンの頭に落とした。この故事により、デルポイの[[ピューティア大祭]]で行われる競技の優勝者には、[[月桂冠]]が与えられることになった(ダプネー {{lang|grc|Δάφνη}} は「月桂樹」という意味の普通名詞)。 === カッサンドラー === [[ファイル:Klinger Max - Kassandra.jpg|サムネイル|[[マックス・クリンガー]]『カッサンドラー』]] [[カッサンドラー]] ({{lang|grc-latn|Kassandrā}}) はトロイア王、[[プリアモス]]の娘である。アポローンはカッサンドラーの美貌に懸想し、求愛する。自分の愛を受け入れれば「百発百中の予言能力」を授けるとカッサンドラーを誘惑する。カッサンドラーはそれを受け入れ「予言能力」を手に入れるが、その瞬間「アポローンに弄ばれたあげく、捨てられる自分の運命」を予言してしまう。 カッサンドラーはすぐさまアポローンの許を去る。アポローンは怒り、「カッサンドラーの予言は誰も信じない」という呪いを掛けた。後に、ギリシア諸[[ポリス]]とトロイアとの間で[[トロイア戦争]]が起きると、カッサンドラーはトロイアの悲劇的滅亡を予言し、父王プリアモスらに警告するが、誰もそれを信じなかった。はたしてトロイアは、カッサンドラーの予言通り、アカイア人(ギリシア)との戦争に敗れ、滅亡するのである。 === ヒュアキントス === [[ヒュアキントス]]はペラ王ピーエロスと、歴史のムーサである[[クレイオー]]との間に生まれた美少年である。[[スパルタ]]のアミュークライ市で生まれたという。 アポローンと西風の神[[アネモイ#西風ゼピュロス|ゼピュロス]]の2人がヒュアキントスの気を惹こうとしたが、彼はアポローンとばかり仲良くしていた。ある日、2人が仲良く円盤投げを楽しんでいた時、アポローンの投げた円盤がヒュアキュントスの頭部に激突、少年は息を引き取った。これはゼピュロスが2人の仲睦まじい様子を空から見て嫉妬し、円盤の飛ぶ方向を風で狂わせたためであった。アポローンは嘆き悲しんだが、溢れ出た少年の真っ赤な血の中から、赤い花が咲いた。この花は少年の名にちなんでヒュアキントス([[ヒヤシンス|ヒアシンス]])と呼ばれた。 ただし、このヒュアキントスが現在ヒアシンスと呼ばれる花と同じものであると断定することはできない。その後、スパルタでは毎年初夏にヒュアキンティアという彼の死を記念した祭典が行われたという。ヒアシンスは多年生の球根植物である。古代ギリシア人は、初夏に開花して間もなく枯れ、次の年の備えをするヒアシンスの習性に死と復活を重ね合わせて見たのであろう。 === ギガントマキアー === 巨人戦争[[ギガントマキアー]]にもアポローンは参戦した。アポローンは[[ヘーラクレース]]と共闘し、[[ギガース]]の一人である[[エピアルテース]]の左目を射た。ギガースは神々に対しては不死身であったため、それだけでは死ななかったが、すかさず[[半神|半神半人]]のヘーラクレースによって右目を射られ、絶命した。 === アカンサス === アポローンからの寵愛を受け続けた妖精。しかしアカンサスは拒み続け、ある日アポローンの顔に傷をつけてしまい、アポローンにより[[アカンサス]]の花に変えられてしまった。 == 信仰 == === 起源 === ギリシア的な神とされるが、『[[イーリアス]]』ではつねに[[イリオス|トロイア]]側に加担している。また、母親とされるレートーは、元来は[[アナトリア半島|小アジア]]で信仰された大地の女神で、アポローンはこれに付き従う[[植物]]神を核として形成された、複数の神格の集合体と考えられている。その名前もギリシア語に由来するものではないというのが一般的な見解である。 また、生誕後、ギリシアに現れる前の一時期を北方の民[[ヒュペルボレイオス|ヒュペルボレオイの国]]で暮らしていたとされ、[[北海]]沿岸の[[コハク|琥珀]]産地と[[地中海]]沿岸を結ぶ交易路「[[琥珀の道]]」とも深いかかわりを持つ神だと考えられている。さらに[[アルテミス]]の起源は[[北アフリカ]]とされ、この女神と双子であるという性格は、地中海周辺で崇拝されていた[[女神]]群の配偶者群([[タンムーズ]]、[[アドーニス]]、[[オシリス|オシーリス]]など)と同列のものと考えられる。 === デルポイ === [[ファイル:Ancient Delfi.jpg|thumb|デルポイ遺跡]] デルポイはアポローンの[[神託]]所で、ギリシア世界では最大の権威を持つ聖地であるが、少なくとも[[ミケーネ文明]]以前の時代から開けており、元は他の別神格の信仰中心地であったと考えられる。神話によれば、もともと[[ガイア]]の聖地だったものを、番人の大蛇[[ピュートーン]]を射殺して奪ったものだという。神託は[[巫女]]・[[ピューティアー]]により詩の形で与えられた。ギリシア人たちは、主に植民市建設の助言を貰い受けるためにデルポイを訪れ、デルポイは捧げ物によって繁栄を謳歌した。戦勝記念にもギリシア各地から贈り物が届けられ、[[マラトンの戦い]]の際には[[アテナイ]]から神殿が寄贈され、[[ガウガメラの戦い]]の勝利後には東方遠征中の[[アレクサンドロス大王]]から敵兵の武具が寄贈された。 このほか、生誕地とされる[[デロス島|デーロス島]]、[[ミレトス|ミーレートス]]市近郊のディデュマもアポローンの聖地とされる。 === ピューティア大祭 === アポローンを讃える祭事はギリシアで広く行われていた。特に有名なのはデルポイを開催地として行われていた[[ピューティア大祭]]であり、4年に1度、[[古代オリンピック]]の開催年と被らないように開かれた。音楽演奏の競技が最初に行われていたが、やがて[[キタラー]]の伴奏付きの歌唱や、[[フルート]]の演奏、フルートの伴奏による歌唱などが加わった。更に、[[演劇]]の上演コンクールや、詩や散文作品の朗読競技が行われ、紀元前582年以降では、オリュンピア大祭に倣って、各種の運動競技も加わり、また戦車([[チャリオット]])による競争も加わるようになった。 これらの数々の競技には、全ギリシアから参加者やその見物人が集まり、古代ギリシアの国際親善の場とも機会ともなった。各種競技の優勝者には、アポローンの聖樹であるダプネーつまり[[月桂樹]]の葉で飾られた冠が贈られ、これを「[[月桂冠]]」と称した。 === 異名とローマ神話 === [[ホメーロス]]では'''ポイボス・アポローン'''({{lang|grc-latn|Phoibos Apollōn}})とも呼ばれる<ref name="jiten" />。'''[[ポイボス]]'''は「輝ける」の意と解される<ref name="jiten" />。このほかの異称には、ロクシアース<ref name="wakari">木村点 『早わかりギリシア神話』 日本実業出版社</ref>、パイアーン<ref name="wakari" />、リュキオス、ヒュアキンティオス<ref group="注">原義は明らかでないが[[#ヒュアキントス|ヒュアキントス]]に関連する。</ref>、アリュギュロトクソス(銀の弓矢を持つ神)<ref>呉茂一 『ギリシア神話(上)』 新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、131頁。</ref>などがある。 アポローン信仰はイタリア半島のギリシア植民地クーマエを通じて[[古代ローマ]]にもたらされた。[[ローマ神話]]においては主要な神格がギリシア神話の神格と同化されたが、その中でアポローンだけは双方に共通する名をもつ神であり<ref>スチュアート・ペローン 『ローマ神話』 中島健訳、青土社、1993年、120頁。</ref>、[[ラテン語]]で'''アポロー'''({{lang-la-short|APOLLO, ''Apollō''}})と呼ばれた。「ポイボス」もラテン語形で'''ポエブス''' ({{lang|la|Phoebus}}) と呼ばれた。 == ギャラリー == <center><gallery widths="140px" heights="140px"> Gustave Moreau - Chariot of Apollo or Phoebus Apollo (c.1880).jpg|{{small|[[ギュスターヴ・モロー]]『ポイボス・アポローン』(1880年頃) 個人蔵}} Apollo by Giovanni Antonio Pellegrini Mauritshuis 1135.jpg|{{small|{{仮リンク|アントーニオ・ペッレグリーニ|en|Giovanni Antonio Pellegrini}}『アポローン』(1718年) [[マウリッツハイス美術館]]所蔵}} Mengs, Helios als Personifikation des Mittages.jpg|{{small|[[アントン・ラファエル・メングス]]『天にあるアポローン』(1765年頃) [[首相府 (スペイン)|スペイン首相府]]所蔵}} Apollo by Carriera Rosalba.jpg|{{small|[[ロザルバ・カッリエーラ]]『アポローン』(1740年と1746年の間) [[エルミタージュ美術館]]所蔵}} Simon Vouet 002.jpg|{{small|[[シモン・ヴーエ]]『アポローンとムーサたち』(1640年) [[ブダペスト国立西洋美術館]]所蔵}} Apollo and the Muses by John Singer Sargent (1921).jpg|{{small|[[ジョン・シンガー・サージェント]]『アポローンとムーサたち』(1916年と1921年の間) [[ボストン美術館]]所蔵}} Apollo, God of Light, Eloquence, Poetry and the Fine Arts with Urania, Muse of Astronomy - Charles Meynier.jpg|{{small|[[シャルル・メニエ]]『アポローンとウーラニアー』(1789-1800頃) [[クリーブランド美術館]]所蔵}} Peter Paul Rubens - Apollo and the Python, 1636-1638.jpg|{{small|[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]と{{仮リンク|コルネリス・ド・フォス|en|Cornelis de Vos}}『アポローンとピュートーン』(1636年と1638年の間) [[プラド美術館]]所蔵}} Pietro Benvenuti - Apollo Winner of the Serpent Python, 1813.jpg|{{small|[[ピエトロ・ベンヴェヌーティ]]『ピュートーンを勝ったアポローン』(1813年頃) 個人蔵}} Salvator Rosa - Apollo and Sibyl of Ridges.jpg|{{small|[[サルヴァトル・ローザ]]『アポローンとシビュラ』(17世紀) 個人蔵}} Marsyas Flayed by the Order of Apollo - Charles André van Loo (1735).jpg|{{small|[[シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー]]『マルシュアースを罰したアポローン』(1735年) [[パリ国立高等美術学校]]}} Giovanni Battista Tiepolo - Apollo Pursuing Daphne, 1755-1760.jpg|{{small|[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]『アポローンとダプネー』(1755年と1760年の間) [[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]所蔵}} Apollon by Giovanni Baglione (1620).jpg|{{small|[[ジョヴァンニ・バリオーネ]]『アポローン』(1620年) [[アラス美術館]]所蔵}} Apollo-WaltersArt.jpg|{{small|アポローン像 [[ウォルターズ美術館]]所蔵}} Richelieu Apollo Louvre Ma614.jpg|{{small|リシュリュー・アポローン像 [[ルーヴル美術館]]所蔵}} Apollo Kitharoidos BM 1380.jpg|{{small|アポローン・キタロードス像 [[大英博物館]]所蔵}} 7262 - Piraeus Arch. Museum, Athens - The Piraeus Apollo - Photo by Giovanni Dall'Orto, Nov 14 2009.jpg|{{small|ピレウスのアポローンの青銅像(紀元前530年から500年まで) [[ピレウス考古学博物館]]所蔵}} Apollo Castelporziano Massimo.jpg|{{small|アポローン像 [[ローマ国立博物館]]所蔵}} </gallery></center> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|Apollo}} * [[ポイボス]] * [[デルポイ]] * [[アリスタイオス]] * [[ヒュペルボレイオス]] * [[トリアイ]] * [[アポロ (小惑星)]] * [[出光興産]] - 同社のサービスや製品のブランドとしてアポローンを「アポロ」や「アポロマーク」として使用。「ダプネー」も「ダフニー」として製品のブランドとして使っている。 {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あほろおん}} [[Category:アポローン|*]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:太陽神]] [[Category:芸術神]] [[Category:医神]] [[Category:デロス島]] [[Category:神話・伝説の弓術家]]
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ヘルメース
ヘルメース(古希: Ἑρμῆς、古代ギリシア語ラテン翻字: Hermēs)は、ギリシア神話に登場する青年神である。長母音を省略してヘルメスとも表記される。 オリュンポス十二神の一人。神々の伝令使、とりわけゼウスの使いであり、旅人、商人などの守護神である。流れ(flow)や万物流転(flux)の神とも言われており、それは例えば流通(商品や貨幣)、流浪(旅)、液体(水や水銀)、転換や解釈(ヘルメーネウティコス)、ひねりや創意工夫などとされる。 ヘルメースは「商業・盗賊・雄弁・科学の神」、「科学・弁舌などの神」、「神々の使者」などとされており、また彼が司るものは「学術」・「発明」・「体育」・「旅人」・「羊の群れ」・「死者の魂」など。ヘルメースは錬金術では水銀、占星術では水星を指す。カードゥーケウス(ケーリュケイオン)という超自然的な杖を持っており、これを印として冥界・地上世界・天界を往復する。 ヘルメースは両性具有の神・超性や親子神(母子神)とも関連付けられている。ヘレニズム時代から複数の神々と同一視され、「至高の者」ヘルメース、すなわちヘルメーストリスメギストスと見なされるようになった。以来、「聖なる救済者の化身」とされ、学芸・通過儀礼・医学をも司るとされた。「ヘルメースの術」(hermetic art)は錬金術を意味し、中世ヨーロッパではヘルメース哲学は、錬金術や医学的伝統などと合わさり広まった。 その他に境界・体育技能・策略を司り、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。幸運と富を司り、狡知に富み詐術に長けた計略の神、早足で駆ける者、牧畜・賭博・交通・道路・市場・競技などの神であるとともに、雄弁と音楽の神であり、竪琴・笛・数・アルファベット・天文学・度量衡などを発明し、火の起こし方を発見した知恵者とされた。プロメーテウスと並んでギリシア神話のトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。その聖鳥は朱鷺および雄鶏。 ヘルメースはゼウスとマイアの子とされる。ゼウスはオリュンポス神族の伝令となる神を作るため、妻ヘーラーに気付かれないように夜中にこっそり抜け出し、マイアに会いに行くことで泥棒の才能を、ヘーラーに隠し通すことで嘘の才能を、ヘルメースが持つように狙った。特にゼウスの忠実な部下で、神話では多くの密命を果たしている。代表的なのは百眼の巨人アルゴスの殺害で、ヘルメースの異名「アルゲイポンテース」(この語釈についてはアルゴス (ギリシャ)#古代を参照)は「アルゴスを退治した者」と解される。古典期以降のヘルメースは、つば広の丸い旅行帽「ペタソス」を頭に被り、神々の伝令の証である杖「ケーリュケイオン」を手に執り、空を飛ぶことができる翼の生えた黄金のサンダル(タラリア)を足に履いた姿で表され、時には武器である鎌「ハルペー」(ショーテルとも)を持つ。 死者、特に英雄の魂を冥界に導くプシューコポンポス(英語版)(魂の導者)としての一面も持ち、その反面冥界から死者の魂を地上に戻す役割も担っており、オルペウスが妻エウリュディケーを冥界から連れ出そうとした際に同行した。この点からタキトゥスはゲルマン人の主神であったウォーダン(北欧神話のオーディン)とローマのヘルメースたるメルクリウスを同一視している。また、アポローンの竪琴の発明者とされる。 ヘルメースは早朝に生まれ、昼にゆりかごから抜け出すと、まもなくアポローンの飼っていた牛50頭を盗んだ。ヘルメースは自身の足跡を偽装し、さらに証拠の品を燃やして牛たちを後ろ向きに歩かせ、牛舎から出た形跡をなくしてしまった。翌日、牛たちがいないことに気付いたアポローンは不思議な足跡に戸惑うが、占いによりヘルメースが犯人だと知る。激怒したアポローンはヘルメースを見つけ、牛を返すように迫るが、ヘルメースは「生まれたばかりの自分にできる訳がない」とうそぶき、ゼウスの前に引き立てられても「嘘のつき方も知らない」と言った。それを見たゼウスはヘルメースに泥棒と嘘の才能があることを見抜き、ヘルメースに対してアポローンに牛を返すように勧めた。ヘルメースは牛を返すがアポローンは納得いかず、ヘルメースは生まれた直後(牛を盗んだ帰りとも)に洞穴で捕らえた亀の甲羅に羊の腸を張って作った竪琴を奏でた。それが欲しくなったアポローンは牛と竪琴を交換してヘルメースを許し、さらにヘルメースが葦笛をこしらえると、アポローンは友好の証として自身の持つケーリュケイオンの杖をヘルメースに贈った(牛はヘルメースが全て殺したため、交換したのはケーリュケイオンだけとする説も。なお、殺した牛の腸を竪琴の材料に使ったとも)。このときアポローンとお互いに必要な物を交換したことからヘルメースは商売の神と呼ばれ、生まれた直後に各地を飛び回ったことから旅の神にもなった。 ヘルメースはヘーラーの息子ではなかったが、アレースと入れ替わってその母乳を飲んでいたため、ヘーラーはそれが分かった後もヘルメースに対して情が移り、彼を我が子同然に可愛がった。 ゼウスはイーオーという美女と密通していた。これを見抜いたヘーラーはゼウスに詰め寄るが、ゼウスはイーオーを美しい雌牛に変え、雌牛を愛でていただけであるとした。ヘーラーは策を講じ、その雌牛をゼウスから貰うと、百眼の巨人アルゴスを見張りに付けた。この巨人は身体中に百の眼を持ち、眠る時も半分の50の眼は開いたままであったので、空間的にも時間的にも死角が存在しなかった。ゼウスはイーオー救出の任をヘルメースに命じた。ヘルメースは葦笛でアルゴスの全ての眼を眠らせると、剣を用いてその首を刎ねた。もしくは巨岩を投げ当てて撲殺した。このことから、ヘルメースは「アルゲイポンテース」と呼ばれ、これは「アルゴス殺し」という意味であった。 ある時アプロディーテーに惚れたヘルメースは彼女を口説いたが、まったく相手にされなかった。そこでヘルメースはゼウスに頼んで鷲を借りてくると、その鷲と泥棒の才能を使ってアプロディーテーの黄金のサンダルを盗んだ。ヘルメースはこのサンダルを返すことを条件に関係を迫り、彼女を自由にした。2人の間にはヘルマプロディートスとプリアーポスが生まれた。この他にもミュルミドーンの娘エウポレメイア、ペルセポネーやヘカテー、多数のニュムペーたちと関係を持っており、アイタリデース、エウドーロスやアウトリュコスギガントマキアーにおいてヘルメースはハーデースの隠れ兜を被って姿を消し、ギガンテスの一人ヒッポリュトスを倒している。 登場する説話にはヘルメースがもとは薄明の神や風の神であったことを窺知させる部分もあるが、その原始的形態においては牧畜の神にして豊饒神であったとも考えられ、男根をもつヘルメース柱像(後述)はヘルメースの原始的豊饒神としての面を示している。もとはギリシアの先住民族ペラスゴイ人(英語版)の神であったと言われ、古代ギリシアの歴史家ヘーロドトスは、ギリシア人がヘルメース柱像を造るようになったのはペラスゴイ人の風習を取り入れたものだと述べている。ヘルメース崇拝の中心地は、古代ギリシアの中でも原始的な文化をとどめていたと言われるアルカディアであった。アルカディアは牧畜民が多い丘陵地帯であり、羊飼いたちはヘルメースを家畜の守り神として崇めていた。これが神々の使者といった多様な職能をもつ人格神へと発展した背景として、ドーリア人の侵入後にアポローンがヘルメースに代わって牧羊神の役割を担うようになったことも指摘される。 古代ギリシアにはヘルマもしくは複数形でヘルマイと呼ばれるヘルメース神の石柱像があり、道端などに立てられていた。トゥーキューディデースの『戦史』によると、紀元前415年、ペロポネーソス戦争を戦っていたアテーナイのヘルマが一夜のうちに全て壊されるという事件が起きた。この事件はアルキビアデースの一派が起こしたものと疑われ、アルキビアデースがラケダイモーン側に寝返る原因となった。アルキビアーデスがラケダイモーン側に対して行った進言がきっかけでアテーナイは痛恨の打撃を受け、ついには敗北することとなった。 ヘルマ(ヘルメース柱像)は、アッティカやエーゲ海のいくつかの島にみられた、髭面の胸像と起立する陽根を有する角柱である。路傍や畑の境界などに立てられ、境界を示す石であるとともに、農民や牧人が豊饒多産を祈願する神霊の像であったとも推測され、ヘルメースの原始的形態を示すものと考えられている。ヘルマは道の端や角に積まれた累石堆(ヘルマイオン)の名称でもあり、ヘルメース柱像はこれの発展したものとも考えられ、ヘルメースの名や信仰の起源をこれに求める向きもある。ヘルマは日本でいう道祖神のように道端や四辻に立てられ、旅人にとっては街道を示す道しるべであったことから、ヘルメース神は旅人の庇護者とされ、生者と死者の案内人や伝令、さらには商売や交通を司る神としての性格を備えていったと考えられる。 ローマ神話におけるメルクリウス(マーキュリー)に相当する。水星はギリシアではヘルメースの星といわれ、これはローマ人にも受け継がれた。現代ヨーロッパ諸語でメルクリウスに相当する語を水星に当てるのはこのためである。 エジプトの叡智と魔術の神にして書記の守護神であるトートとヘルメース/メルクリウスが習合したヘルメス・トリスメギストスは、紀元1世紀から3世紀に書かれたヘルメス文書の著者に擬せられ、アブラハムまたはモーセの同時代人とされた、伝説上のエジプトの賢者である。ヘルメス(トリスメギストス)の名は12世紀頃から錬金術と結びつけられ(このため錬金術はヘルメスの術ともいう)、ヘルメスは錬金術師の守護者にして学問や技芸の始祖であると考えられるようになった。
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ヘルメースは、ギリシア神話に登場する青年神である。長母音を省略してヘルメスとも表記される。 オリュンポス十二神の一人。神々の伝令使、とりわけゼウスの使いであり、旅人、商人などの守護神である。流れ(flow)や万物流転(flux)の神とも言われており、それは例えば流通(商品や貨幣)、流浪(旅)、液体(水や水銀)、転換や解釈(ヘルメーネウティコス)、ひねりや創意工夫などとされる。 ヘルメースは「商業・盗賊・雄弁・科学の神」、「科学・弁舌などの神」、「神々の使者」などとされており、また彼が司るものは「学術」・「発明」・「体育」・「旅人」・「羊の群れ」・「死者の魂」など。ヘルメースは錬金術では水銀、占星術では水星を指す。カードゥーケウス(ケーリュケイオン)という超自然的な杖を持っており、これを印として冥界・地上世界・天界を往復する。 ヘルメースは両性具有の神・超性や親子神(母子神)とも関連付けられている。ヘレニズム時代から複数の神々と同一視され、「至高の者」ヘルメース、すなわちヘルメーストリスメギストスと見なされるようになった。以来、「聖なる救済者の化身」とされ、学芸・通過儀礼・医学をも司るとされた。「ヘルメースの術」は錬金術を意味し、中世ヨーロッパではヘルメース哲学は、錬金術や医学的伝統などと合わさり広まった。 その他に境界・体育技能・策略を司り、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。幸運と富を司り、狡知に富み詐術に長けた計略の神、早足で駆ける者、牧畜・賭博・交通・道路・市場・競技などの神であるとともに、雄弁と音楽の神であり、竪琴・笛・数・アルファベット・天文学・度量衡などを発明し、火の起こし方を発見した知恵者とされた。プロメーテウスと並んでギリシア神話のトリックスター的存在であり、文化英雄としての面を有する。その聖鳥は朱鷺および雄鶏。
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name="G" />。[[流れ]]([[:wikt:flow#名詞|flow]]){{Sfn|Grassi|2022|p=102}}や[[万物流転]]([[:en:Heraclitus#Flux_and_unity_of_opposites|flux]])の神とも言われており{{Sfn|Bungard|2009|p=2}}{{Sfn|EDP|2023a|p=「万物流転」}}、それは例えば[[流通]]([[商品]]や[[貨幣]]){{Sfn|Grassi|2022|p=102}}、[[流浪]]([[旅]]){{Sfn|Grassi|2022|p=102}}、[[液体]]([[水]]や[[水銀#名称|水銀]]){{Sfn|Grassi|2022|p=102}}、[[:wikt:転換|転換]]や[[解釈]]([[解釈学#概要|ヘルメーネウティコス]]){{Sfn|Grassi|2022|p=102}}、[[:wikt:ひねり|ひねり]]や[[創造|創意]][[:wikt:工夫#名詞|工夫]]などとされる{{Sfn|Bungard|2009|p=2}}。 ヘルメースは「[[商業]]・[[盗賊]]・[[雄弁]]・[[科学の神]]」{{Sfn|瀬戸|投野|2023|p=「mercury」}}、「科学・[[弁舌]]などの神」{{Sfn|Weblio|2022|p=「Hermes」}}、「[[神使|神々の使者]]」などとされており{{Sfn|Weblio|2022|p=「Hermes」}}、また彼が司るものは「[[学術]]」・「[[発明]]」・「[[体育]]」・「[[旅人]]」・「[[ヒツジ#文化|羊]]の群れ」・「[[死霊|死者の魂]]」など{{Sfn|竹林|2002|p=1150}}。ヘルメースは[[錬金術]]では[[水銀#名称|水銀]]、[[占星術]]では[[水星]]を指す{{Sfn|平凡社|2022|p=「ヘルメス」}}。[[ケーリュケイオン|カードゥーケウス]](ケーリュケイオン)という[[超自然]]的な杖を持っており{{Sfn|秋山|2009b|pp=359-360}}、これを印として[[冥界]]・[[地上]]世界・[[天界]]を往復する{{Sfn|秋山|2009a|p=470}}。 ヘルメースは[[両性具有]]の神・[[超越|超性]]や[[御子神|親子神]]([https://kotobank.jp/word/%E6%AF%8D%E5%AD%90%E7%A5%9E%E4%BF%A1%E4%BB%B0-1205885 母子神])とも関連付けられている{{Sfn|キャンベル|2004|pp=176-177}}{{Efn|例えば『[[ギリシア詞華集]](Anthologia Graeca ad Fidem Codices)』II巻では、以下の記述がある{{Sfn|キャンベル|2004|p=248}}。 {{Quotation|男にとってわたしはヘルメスであり、女にたいしては[[アフロディテ]]として姿をみせる。{{Sfn|キャンベル|2004|p=248}}}} {{関連記事|[[ヘルマフロディートス|ヘルマフロディートス/ヘルマプロディートス]]}} }}。[[ヘレニズム時代]]から複数の神々と同一視され、「[[至高の者]]」ヘルメース、すなわちヘルメース[[トリスメギストス]]と見なされるようになった{{Sfn|キャンベル|2004|p=230}}。以来、「聖なる[[救済者]]の[[化身]]」とされ{{Sfn|キャンベル|2004|p=230}}、[[学芸]]・[[通過儀礼]]{{Sfn|キャンベル|2004|p=230}}・[[医学]]をも司るとされた{{Sfn|Friedlander|1992|p=41}}{{Efn|[[医学博士]]かつ[[医学史]]学者であるウォルター・J・フリードランダーの学術書によると、古来のヘルメース自身と医学との繋がりは、さほど強くなかった{{Sfn|Friedlander|1992|p=41}}。その繋がりはヘレニズム時代で強化され、医学と関連深い「(ヘルメース)[[トート]]」が「[[ヘルメース・トリスメギストス]]」と見なされるようになった{{Sfn|Friedlander|1992|p=41}}。}}。「ヘルメースの[[テクネー|術]]」(hermetic art)は[[錬金術]]を意味し{{Sfn|EDP|2023b|p=「錬金術」}}、[[中世ヨーロッパ]]では[[ヘルメース哲学]]は、錬金術や[[医学]]的[[伝統]]などと合わさり広まった{{Sfn|米田|2022|p=「ヘルメス・トリスメギストス」}}。 その他に境界・[[テクネー#技術の理論性・最善性|体育技能]]・策略を司り、夢と眠りの神、死出の旅路の案内者などとも言われ、多面的な性格を持つ神である。幸運と富を司り、狡知に富み詐術に長けた計略の神、早足で駆ける者、牧畜・賭博・交通・道路・市場・競技などの神であるとともに、雄弁と音楽の神であり、竪琴・笛・数・アルファベット・天文学・度量衡などを発明し、火の起こし方を発見した知恵者とされた。[[プロメーテウス]]と並んでギリシア神話の[[トリックスター]]的存在であり、[[文化英雄]]としての面を有する。その聖鳥は[[トキ|朱鷺]]および[[ニワトリ|雄鶏]]。 == 概要 == ヘルメースは[[ゼウス]]と[[マイア]]の子とされる<ref name="G" />。ゼウスはオリュンポス神族の伝令となる神を作るため、妻[[ヘーラー]]に気付かれないように夜中にこっそり抜け出し、マイアに会いに行くことで泥棒の才能を、ヘーラーに隠し通すことで嘘の才能を、ヘルメースが持つように狙った。特にゼウスの忠実な部下で、神話では多くの密命を果たしている<ref name="G" />。代表的なのは百眼の[[巨人 (伝説の生物)|巨人]][[アルゴス]]の殺害で、ヘルメースの異名「アルゲイポンテース」(この語釈については[[アルゴス (ギリシャ)#古代]]を参照)は「アルゴスを退治した者」と解される<ref>呉茂一 『ギリシア神話(上)』 新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、233頁。</ref>。古典期以降のヘルメースは、つば広の丸い旅行帽「[[ペタソス]]」を頭に被り、神々の伝令の証である杖「[[ケーリュケイオン]]」を手に執り、空を飛ぶことができる翼の生えた黄金のサンダル([[タラリア]])を足に履いた姿で表され、時には武器である鎌「[[ハルパー|ハルペー]]」([[ショーテル]]とも)を持つ<ref name="G" /><ref name="F" />。 死者、特に英雄の魂を[[冥界]]に導く{{仮リンク|プシューコポンポス|en|Psychopomp}}(魂の導者)としての一面も持ち、その反面冥界から死者の魂を地上に戻す役割も担っており、[[オルペウス]]が妻[[エウリュディケー]]を冥界から連れ出そうとした際に同行した<ref name="F" />。この点から[[タキトゥス]]はゲルマン人の主神であったウォーダン([[北欧神話]]の[[オーディン]])とローマのヘルメースたる[[メルクリウス]]を同一視している。また、[[アポローン]]の[[リラ (楽器)|竪琴]]の発明者とされる<ref name="G" />。 == 神話 == === 生い立ち === ヘルメースは早朝に生まれ、昼にゆりかごから抜け出すと、まもなくアポローンの飼っていた[[ウシ|牛]]50頭を盗んだ<ref name="G" />。ヘルメースは自身の足跡を偽装し、さらに証拠の品を燃やして牛たちを後ろ向きに歩かせ、牛舎から出た形跡をなくしてしまった<ref name="G" />。翌日、牛たちがいないことに気付いたアポローンは不思議な足跡に戸惑うが、占いによりヘルメースが犯人だと知る<ref name="F" />。激怒したアポローンはヘルメースを見つけ、牛を返すように迫るが、ヘルメースは「生まれたばかりの自分にできる訳がない」とうそぶき、ゼウスの前に引き立てられても「嘘のつき方も知らない」と言った<ref name="G" />。それを見たゼウスはヘルメースに泥棒と嘘の才能があることを見抜き、ヘルメースに対してアポローンに牛を返すように勧めた<ref name="G" />。ヘルメースは牛を返すがアポローンは納得いかず、ヘルメースは生まれた直後(牛を盗んだ帰りとも)に洞穴で捕らえた[[カメ|亀]]の甲羅に[[ヒツジ|羊]]の[[腸]]を張って作った竪琴を奏でた<ref name="G" />。それが欲しくなったアポローンは牛と竪琴を交換してヘルメースを許し、さらにヘルメースが葦笛をこしらえると、アポローンは友好の証として自身の持つケーリュケイオンの杖をヘルメースに贈った(牛はヘルメースが全て殺したため、交換したのはケーリュケイオンだけとする説も。なお、殺した牛の腸を竪琴の材料に使ったとも)<ref name="G" />。このときアポローンとお互いに必要な物を交換したことからヘルメースは商売の神と呼ばれ、生まれた直後に各地を飛び回ったことから旅の神にもなった。 ヘルメースはヘーラーの息子ではなかったが、[[アレース]]と入れ替わってその母乳を飲んでいたため、ヘーラーはそれが分かった後もヘルメースに対して情が移り、彼を我が子同然に可愛がった<ref name="G" />。 === アルゴス殺し === ゼウスは[[イーオー]]という美女と密通していた。これを見抜いたヘーラーはゼウスに詰め寄るが、ゼウスはイーオーを美しい雌牛に変え、雌牛を愛でていただけであるとした。ヘーラーは策を講じ、その雌牛をゼウスから貰うと、百眼の巨人[[アルゴス]]を見張りに付けた。この巨人は身体中に百の眼を持ち、眠る時も半分の50の眼は開いたままであったので、空間的にも時間的にも死角が存在しなかった。ゼウスはイーオー救出の任をヘルメースに命じた。ヘルメースは葦笛でアルゴスの全ての眼を眠らせると、剣を用いてその首を刎ねた。もしくは巨岩を投げ当てて撲殺した。このことから、ヘルメースは「アルゲイポンテース」と呼ばれ、これは「アルゴス殺し」という意味であった。 === 好色 === ある時[[アプロディーテー]]に惚れたヘルメースは彼女を口説いたが、まったく相手にされなかった<ref name="G" />。そこでヘルメースはゼウスに頼んで[[鷲]]を借りてくると、その鷲と泥棒の才能を使ってアプロディーテーの黄金のサンダルを盗んだ<ref name="G" />。ヘルメースはこのサンダルを返すことを条件に関係を迫り、彼女を自由にした<ref name="G" />。2人の間には[[ヘルマプロディートス]]と[[プリアーポス]]が生まれた<ref name="G" />。この他にもミュルミドーンの娘エウポレメイア、[[ペルセポネー]]や[[ヘカテー]]、多数の[[ニュンペー|ニュムペー]]たちと関係を持っており<ref name="F" />、[[アイタリデース]]、[[エウドーロス]]や[[アウトリュコス]][[ギガントマキアー]]においてヘルメースは[[ハーデース]]の隠れ兜を被って姿を消し、[[ギガース|ギガンテス]]の一人[[ヒッポリュトス]]を倒している<ref name="G" />。 == 信仰 == === 起源 === 登場する説話にはヘルメースがもとは薄明の神や風の神であったことを窺知させる部分もあるが、その原始的形態においては牧畜の神にして豊饒神であったとも考えられ、男根をもつヘルメース柱像([[#ヘルマ|後述]])はヘルメースの原始的豊饒神としての面を示している。もとはギリシアの先住民族{{仮リンク|ペラスゴイ人|en|Pelasgians}}の神であったと言われ<ref name="F">フェリックス・ギラン 『ギリシア神話』 中島健訳、[[青土社]]、1991年、107-118頁。</ref>、古代ギリシアの歴史家[[ヘーロドトス]]は、ギリシア人がヘルメース柱像を造るようになったのはペラスゴイ人の風習を取り入れたものだと述べている<ref name="名前なし-1">呉茂一 『ギリシア神話(上)』 新潮社〈新潮文庫〉、昭和54年、232頁。</ref>。ヘルメース崇拝の中心地は、古代ギリシアの中でも原始的な文化をとどめていたと言われる[[アルカディア]]であった<ref>[[沓掛良彦]] 『ホメーロスの諸神讃歌』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004年、274頁。</ref>。アルカディアは牧畜民が多い丘陵地帯であり、羊飼いたちはヘルメースを家畜の守り神として崇めていた。これが神々の使者といった多様な職能をもつ人格神へと発展した背景として、[[ドーリア人]]の侵入後にアポローンがヘルメースに代わって牧羊神の役割を担うようになったことも指摘される<ref name="F" />。 === ヘルマ === 古代ギリシアには[[ヘルマ]]もしくは複数形でヘルマイと呼ばれるヘルメース神の石柱像があり、道端などに立てられていた<ref name="G" />。[[トゥキディデス|トゥーキューディデース]]の『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』によると、[[紀元前415年]]、[[ペロポネーソス戦争]]を戦っていた[[アテナイ|アテーナイ]]のヘルマが一夜のうちに全て壊されるという事件が起きた。この事件は[[アルキビアデス|アルキビアデース]]の一派が起こしたものと疑われ、アルキビアデースが[[スパルタ|ラケダイモーン]]側に寝返る原因となった。アルキビアーデスがラケダイモーン側に対して行った進言がきっかけでアテーナイは痛恨の打撃を受け、ついには敗北することとなった。 ヘルマ(ヘルメース柱像)は、[[アッティカ]]や[[エーゲ海]]のいくつかの島にみられた、髭面の胸像と起立する陽根を有する角柱である。路傍や畑の境界などに立てられ、境界を示す石であるとともに、農民や牧人が豊饒多産を祈願する神霊の像であったとも推測され<ref name="名前なし-1"/>、ヘルメースの原始的形態を示すものと考えられている。ヘルマは道の端や角に積まれた累石堆(ヘルマイオン)の名称でもあり、ヘルメース柱像はこれの発展したものとも考えられ、ヘルメースの名や信仰の起源をこれに求める向きもある<ref>ミルチア・エリアーデ 『世界宗教史2』 松村一男訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年、148頁。</ref><ref>沓掛良彦 『ホメーロスの諸神讃歌』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004年、275頁。</ref>。ヘルマは日本でいう[[道祖神]]のように道端や四辻に立てられ、旅人にとっては街道を示す道しるべであったことから、ヘルメース神は旅人の庇護者とされ、生者と死者の案内人や伝令、さらには商売や交通を司る神としての性格を備えていったと考えられる。 === ローマ神話 === [[ローマ神話]]における[[メルクリウス]](マーキュリー)に相当する<ref name="G" />。[[水星]]はギリシアではヘルメースの星といわれ、これはローマ人にも受け継がれた。現代ヨーロッパ諸語でメルクリウスに相当する語を水星に当てるのはこのためである。 === 錬金術 === [[エジプト]]の叡智と魔術の神にして書記の守護神である[[トート]]とヘルメース/メルクリウスが習合した[[ヘルメス・トリスメギストス]]は、紀元1世紀から3世紀に書かれた[[ヘルメス文書]]の著者に擬せられ、[[アブラハム]]または[[モーセ]]の同時代人とされた、伝説上のエジプトの賢者である。ヘルメス(トリスメギストス)の名は12世紀頃から[[錬金術]]と結びつけられ<ref>アントワーヌ・フェーブル 「ヘルメティズム」 『エリアーデ・オカルト事典』 法蔵館、2002年、103頁。</ref>(このため錬金術はヘルメスの術ともいう)、ヘルメスは錬金術師の守護者にして学問や[[技術知|技芸]]の始祖であると考えられるようになった<ref>セルジュ・ユタン 『錬金術』 有田忠郎訳、白水社、1972年、44頁。</ref>。 == ギャラリー == <center><gallery widths="140px" heights="140px"> Mercury by Hendrick Goltzius.jpg|{{small|[[ヘンドリック・ホルツィウス]]『メルクリウス』(1611年) [[フランス・ハルス美術館]]所蔵}} Peter Paul Rubens - Mercury, 1636-1638.jpg|{{small|[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]『メルクリウス』(1636年と1638年の間) [[プラド美術館]]所蔵}} Evelyn de Morgan - Mercury, 1870-1873.jpg|{{small|[[イーヴリン・ド・モーガン]]『メルクリウス』(1870年と1873年の間) {{仮リンク|ド・モーガン・センター|en|De Morgan Centre}}所蔵}} Charles Meynier - Statue of Mercury in a landscape.jpg|{{small|[[シャルル・メニエ]]『野原にあるメルクリウス像』(19世紀) {{仮リンク|フランス革命博物館|en|Musée de la Révolution française}}所蔵}} Francesco Albani - Apollo and Hermes (1635).jpg|{{small|[[フランチェスコ・アルバーニ]]『メルクリウスとアポロン』(1635年) [[フォンテーヌブロー宮殿]]所蔵}} Abraham Danielsz. Hondius - Mercury and Argos - WGA11644.jpg|{{small|{{仮リンク|エイブラハム・ホンディウス|en|Abraham Hondius}}『メルクリウスとアルゴス』(17世紀) 個人蔵}} Bon Boullogne - Venus and Mercury, 1688.jpg|{{small|[[ボン・ブローニュ]]『ヴィーナスとメルクリウス』(1688年) [[大トリアノン宮殿]]所蔵}} D. Creti Mercurio e Paride.jpg|{{small|{{仮リンク|ドナート・クレティ|en|Donato Creti}}『メルクリウスとパリス』(1745年) {{仮リンク|パラッツォ・コムナーレ|en|Palazzo d'Accursio}}所蔵}} Hermes Ingenui Pio-Clementino Inv544.jpg|{{small|ヘルメース像 [[バチカン美術館]]所蔵}} Statue Hermes Chiaramonti.jpg|{{small|ヘルメース・キアラモンティ像 バチカン美術館所蔵}} Hermes from Agaion 241 NAMAthens.jpg|{{small|ヘルメース像 [[アテネ国立考古学博物館]]所蔵}} Palácio Fronteira (Mercúrio) December 2015-2.jpg|{{small|メルクリウス像 [[:en:Palace of the Marquises of Fronteira|Palace of the Marquises of Fronteira]]所蔵}} </gallery></center> == 関連項目 == {{Commonscat|Hermes}} * [[メルクリウス]] - ヘルメースの[[ラテン語]]訳、または[[ローマ神話]]でヘルメースと[[同一視]]された[[神]]。[[英語]]では[[マーキュリー]]([[水銀]])。 * [[ヘルメース・トリスメギストス]] - ヘルメースと[[同一視]]される存在。[[神話]]・[[伝説]]上の[[錬金術]]の神、または[[錬金術師]]。 ** [[ヘルメース主義]]/ヘルメース思想/ヘルメース哲学 - [[ヘルメース文書]] * [[ケーリュケイオン]]/カードゥーケウス - ヘルメースの持つ伝令杖。「[[古代ギリシア|ギリシア]]の[[:Category:医神|医療神]][[アスクレピオスの杖|アスクレピオスのもつ杖]]や,ヘルメス神の[[持物]]のカドゥケウスにおける二重の[[蛇]]の[[螺旋#象徴としての螺旋|螺旋]]は,いずれも[[超自然]]的な力を示す」とされる{{Sfn|秋山|2009b|pp=359-360}}。 ** [[アスクレーピオスの杖]] - [[:Category:医神|医神]]アスクレーピオスの持つ杖{{Sfn|秋山|2009a|p=470}}。これに比べて[[ケーリュケイオン|カードゥーケウス]]は「より商業的な[[紋章]]」(”the more mercantile coat of arms”)だが、これら二つの杖は何世紀にもわたって[[シンクレティズム|混同]]されてきたとされる{{Sfn|Lipsitt|2017|p=413}}。 *** 『[[ヘルメス文書#概説|アスクレーピオス]]』 - [[ヘルメース文書]]の一つであり、[[紀元前3世紀]]~後[[3世紀]]頃のもの{{Sfn|柴田|2009|p=635}}。ヘルメースの教えという形式で書かれている{{Sfn|柴田|2009|p=635}}。 * [[:en:Turms|Turms]] ‐ [[エトルリア神話]]の貿易・伝令神。ヘルメースに該当する神で[[アトリビュート]]もカードゥーケウス・(しばしば翼のある)ペタソス・翼付きのサンダルと同じものを身に着ける。 *『[[金の斧]]』- ヘルメスが斧を落とした木こりの前に現れるイソップ物語 == 脚註 == === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参照文献 == === 日本語文献 === * {{Cite book | 和書 | last = 秋山 | first = さと子 | authorlink = 秋山さと子 | title = [[世界大百科事典]] | volume = 5巻 | edition = 改訂新版 | chapter = カドゥケウス | year = 2009a | publisher = [[平凡社]] | isbn = 9784582034004 | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | last = 秋山 | first = さと子 | title = 世界大百科事典 | volume = 29巻 | edition = 改訂新版 | chapter = らせん | year = 2009b | publisher = 平凡社 | isbn = 9784582034004 | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | last = キャンベル | first = ジョゼフ | authorlink = ジョゼフ・キャンベル | title = [[千の顔を持つ英雄|千の顔をもつ英雄]] | volume = 上巻 | publisher =[[人文書院]] | year = 2004 | edition = オンデマンド版第一刷 | isbn = 9784409590089 | ref = harv}} * {{Cite book | 和書 | last1 = 瀬戸 | first1 = 賢一 | last2 = 投野 | first2 = 由紀夫 | authorlink1 = 瀬戸賢一 | authorlink2 = 投野由紀夫 | title = プログレッシブ英和中辞典 | edition = 第5版 | chapter = mercury | year = 2023 | publisher = [[小学館]]・[[Kotobank]] | url = https://kotobank.jp/ejword/mercury | quote = '''mercury''' … 水銀 … メルクリウス,マーキュリー(◇神々の使者で,商業・盗賊・雄弁・科学の神;ギリシャ神話の Hermes に当たる) | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | last = 柴田 | first = 有 | authorlink = 柴田有 | title = 世界大百科事典 | volume = 25巻 | edition = 改訂新版 | chapter = ヘルメス文書 | year = 2009 | publisher = 平凡社 | isbn = 9784582034004 | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | last = 竹林 | first = 滋 | authorlink = 竹林滋 | title = 研究社 [[新英和大辞典]] | edition = 第6版第1刷 | publisher = 研究社 | year = 2002 | isbn = 978-4767410265 | ref = harv}} * {{Cite book | 和書 | author = 平凡社 | authorlink = 平凡社 | title = [[百科事典マイペディア]] | chapter = ヘルメス | url = https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9-130819#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 | year = 2022 | publisher = 平凡社・Kotobank | quote = '''ヘルメス''' … 錬金術では水銀,占星術では水星を指す | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | last = 米田 | first = 潔弘 | authorlink = 米田潔弘 | title = 日本大百科全書(ニッポニカ) | chapter = ヘルメス・トリスメギストス | year = 2022 | publisher = 小学館・Kotobank | url = https://kotobank.jp/word/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9-130822#%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | author = EDP | title = [[英辞郎]] | chapter = 万物流転 | url = https://eow.alc.co.jp/search?q=%e4%b8%87%e7%89%a9%e6%b5%81%e8%bb%a2 | year = 2023a | publisher = EDP | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | author = EDP | title = 英辞郎 | chapter = 錬金術 | url = https://eow.alc.co.jp/search?q=%e9%8c%ac%e9%87%91%e8%a1%93 | year = 2023b | publisher = EDP | ref = harv }} * {{Cite book | 和書 | author = Weblio | title = Weblio英和辞書 | chapter = Hermes | url = https://ejje.weblio.jp/content/Hermes | year = 2022 | publisher = Weblio | ref = harv }} === 外国語文献 === * {{Cite journal | | last = Bungard | first = Christopher | title = Lies, Lyres, and Laughter in the Homeric Hymn to Hermes | journal = CAMWS Annual Meeting | publisher = Butler University | year = 2009 | pages = 1-2 | url = https://digitalcommons.butler.edu/facsch_papers/86/ | ref = harv }} * {{Cite book | last = Friedlander | first = Walter J. | title = The Golden Wand of Medicine: A History of the Caduceus symbol in medicine | year = 1992 | publisher = ABC-Clio, LLC | isbn = 9780313280238 | ref = harv }} * {{Cite journal | | last = Grassi | first = Martín | title = The God of Thieves: Hermes and the Philosophy of the Improper | journal = Interdisciplinary Journal for Religion and Transformation in Contemporary Society | publisher = Butler University | volume = 8 | issue = 1 | year = 2022 | pages = 100-107 | doi = 10.30965/23642807-bja10039 | ref = harv }} * {{Cite journal | last = Lipsitt | first = Don R. | title = Deception in Medicine: Hermes or Asclepius? | journal = The Journal of Nervous and Mental Disease | volume = 205 | issue = 5 | year = 2017 | pages = 413-416 | publisher = [[リッピンコット・ウィリアムズ・アンド・ウィルキンス|Lippincott Williams & Wilkins]] | doi = 10.1097/NMD.0000000000000648 | ref = harv }} {{オリュンポス十二神}} {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へるめえす}} [[Category:ヘルメース|*]] [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:オリュンポス十二神]] [[Category:ヘルメス主義]] [[Category:商業神]] [[Category:知識の神]] [[Category:水星神]] [[Category:伝令神]] [[Category:道祖神]] [[Category:豊穣神]] [[Category:死神]] [[Category:死と再生の神]] [[Category:医神]] [[Category:文化英雄]] [[Category:神話・伝説の人物]] [[Category:錬金術師]] [[Category:錬金術]] [[Category:水銀]]
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ガイア
ガイア(古希: Γαῖα)、あるいはゲー(古希: Γῆ)は、ギリシア神話に登場する女神である。地母神であり、大地の象徴と言われる。ただし、ガイアは天をも内包した世界そのものであり、文字通りの大地とは違う存在である。ヘーシオドスの『神統記』によれば、カオスから生まれ、タルタロス、エロースと同じく世界の始まりの時から存在した原初神である。 ギリシア神話に登場する神々の多くはガイアの血筋に連なり、また人類もその血を引いているとされ、母なる女神としてギリシア各地で篤く崇拝された。未来を予言する能力を持つ女神であり、デルポイの神託所はアポローンの手に渡る前に元々ガイアのものであった。さらに、地上のあらゆる事がその上で行われることから、誓言の神でもある。 ローマ神話におけるテルースに相当する。 神々が生まれる以前、宇宙には何もないカオス(混沌)が広がっていた。そこにガイアが生まれたとされる。ガイアは自らの力だけで天の神ウーラノス、海の神ポントス、山の神ウーレアーを産み、母となる。エロースの働きでウーラノスと親子婚し夫とする。そのためウーラノスは神々の王となった。そしてウーラノスとの間にクロノスをはじめとする男女6柱ずつの子どもを生んだ。これがティーターン(巨神)である。またキュクロープス(一つ目の巨人)やヘカトンケイル(百本の手を持つ巨人)、ギガース(巨人、ギガンテスと呼ばれることが多い)、ピュートーン(牝蛇)、テューポーン(ギリシア神話史上最大最強の怪物)などの魔神・怪物を産んだ。ウーラノスがクロノスに去勢された(これは子供たちを幽閉されたガイアが怒り命じたことだった)後には、ポントスを夫にしたとも言われている。 ガイアは、ウーラノスとの間には男神オーケアノス、コイオス、ヒュペリーオーン、クレイオス、イーアペトス、そして末子クロノスを、女神テーテュース、レアー、テミス、ムネーモシュネー、ポイベー、ディオーネー、テイアーから成る巨神ティーターン一族を生んだ。 ガイアはまた、異形の神々ヘカトンケイル、キュクロープスたちを生むが、あまりの醜さゆえにウーラノスが彼らを冥界タルタロスへ閉じ込めてしまった。子どもたちの母であるガイアは悲しみ、ウーラノスへの報復を考え、子供たちに復讐を呼びかけた。子供たちは当初、父を恐れ誰も名乗り出なかったが、末っ子のクロノスが自ら名乗りを上げ、ガイアの作った鉄の大鎌を受け取り、ウーラノスへ復讐することとなる。 その夜、クロノスがガイアに知らせられていた場所へ行くと、ウーラノスは妻ガイアにかぶさるようにして寝ていた。クロノスは大鎌でウーラノスの男性器を切り落とした。これを受け、自らの行動を恥じたウーラノスはガイアのもとを去った。これにてクロノスが神々の王となるが、この時クロノスはウーラノスに「やがてお前も自分の息子に王位を退けられることになるだろう。」と言われ、この言葉はクロノスの脳裏に焼きつくこととなった。 やがて妻レアーとの間にできた子供を飲み込んでしまったクロノスにゼウスが復讐を決意し、そしてティーターン一族とオリュンポス神の戦いが始まる。10年以上戦いが長引くと、クロノスの横暴さを見かねていたガイアはゼウスたちにタルタロスに閉じ込められたヘカトンケイルやキュクロプスたちのことを教え、彼らを救い出すことを勧めた。ヘカトンケイルは百本の手で大岩を投げ、キュクロープスはゼウスに雷と稲妻を与えた。こうしてゼウスらは新たな味方とともに戦いに臨み、ついにクロノスとの戦いに打ち勝った。天はゼウスが、海はポセイドーンが、冥界はハーデースが治めることとなり、大地は皆のものとなったのであった。
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ガイア、あるいはゲーは、ギリシア神話に登場する女神である。地母神であり、大地の象徴と言われる。ただし、ガイアは天をも内包した世界そのものであり、文字通りの大地とは違う存在である。ヘーシオドスの『神統記』によれば、カオスから生まれ、タルタロス、エロースと同じく世界の始まりの時から存在した原初神である。 ギリシア神話に登場する神々の多くはガイアの血筋に連なり、また人類もその血を引いているとされ、母なる女神としてギリシア各地で篤く崇拝された。未来を予言する能力を持つ女神であり、デルポイの神託所はアポローンの手に渡る前に元々ガイアのものであった。さらに、地上のあらゆる事がその上で行われることから、誓言の神でもある。 ローマ神話におけるテルースに相当する。
{{Otheruses}} {{Infobox deity | type = Greek | name = ガイア<br/>Γαῖα | image = Feuerbach Gaea.jpg | image_size = 250px | caption = {{small|[[アンゼルム・フォイエルバッハ (画家)|フォイエルバッハ]]の絵画『ガイア』(1875年)<br/>[[ウィーン美術アカデミー]]所蔵}} | deity_of = | birth_place = | death_place = | cult_center = | abode = 大地 | weapon = | symbol = | consort = [[ウーラノス]] | parents = [[カオス]] | siblings = | children = [[ウーラノス]], [[ポントス (ギリシア神話)|ポントス]], [[クロノス]], [[オーケアノス]], [[コイオス]], [[クレイオス]], [[ヒュペリーオーン]], [[イーアペトス]], [[テイア]], [[レアー]], [[テミス]], [[ムネーモシュネー]], [[ポイベー]], [[テーテュース]], [[キュクロープス]], [[ヘカトンケイル]], [[ギガース]], [[エリーニュス]], [[メリアス]]<br/>ポントスとの子供:[[ネーレウス (ギリシア神話の神)|ネーレウス]], [[タウマース]], [[ポルキュス]], [[ケートー]], [[エウリュビアー]]<br/>[[タルタロス]]との子供:[[テューポーン]] | mount = | Roman_equivalent = [[テルース]] | festivals = }} {{Greek mythology}} '''ガイア'''({{lang-grc-short}}{{wikt-lang|grc|Γαῖα}}<ref>{{lang-*-Latn|grc|Gaia}}、{{lang|grc-Latn|Gaîa}}、{{lang|grc-Latn|Gæa}}、{{lang|grc-Latn|Gaea}}</ref>)、あるいは'''ゲー'''({{lang-grc-short}}{{wikt-lang|grc|Γῆ}}<ref>{{lang-*-Latn|grc|Gē}}</ref>)は、[[ギリシア神話]]に登場する[[女神]]である。[[語源]]は[[古代ギリシア語]]で大地、土、地球を意味するガイア({{lang-grc-short}}{{wikt-lang|grc|γαῖα}}<ref group="注釈">[[綴り字|綴り]]同じ。ただし[[語|語頭]]が[[小文字]]。</ref>)から。[[地母神]]であり、大地の象徴と言われる。ただし、ガイアは天をも内包した世界そのものであり、文字通りの大地とは違う存在である。[[ヘーシオドス]]の『[[神統記]]』によれば、[[カオス]]から生まれ、[[タルタロス]]、[[エロース]]と同じく世界の始まりの時から存在した原初神である<ref name="G">マイケル・グラント、ジョン・ヘイゼル『ギリシア・ローマ神話事典』 [[大修館書店]]。</ref><ref name="F">フェリックス・ギラン『ギリシア神話』 [[青土社]]。</ref>。 [[ギリシア神話]]に登場する神々の多くはガイアの血筋に連なり、また人類もその血を引いているとされ、母なる女神としてギリシア各地で篤く崇拝された<ref name="G" /><ref name="F" />。未来を予言する能力を持つ女神であり、[[デルポイ]]の[[神託]]所は[[アポローン]]の手に渡る前に元々ガイアのものであった<ref name="F" />。さらに、地上のあらゆる事がその上で行われることから、誓言の神でもある<ref name="G" />。 [[ローマ神話]]における[[テルース]]に相当する<ref name="G" />。 == 神話 == 神々が生まれる以前、宇宙には何もないカオス(混沌)が広がっていた<ref name="G" />。そこにガイアが生まれたとされる<ref name="G" /><ref name="F" />。ガイアは自らの力だけで[[天]]の[[神]][[ウーラノス]]、[[海]]の神[[ポントス (ギリシア神話)|ポントス]]、山の神[[ウーレアー]]を産み、[[母親|母]]となる<ref group="注釈">初めにウーラノスのみを生み、異形の神々(キュクロープスなど)を生んだのちに他の神を生んだとする説もある。</ref>。エロースの働きでウーラノスと[[親子婚]]し夫とする<ref name="G" /><ref name="F" />。そのためウーラノスは神々の王となった。そしてウーラノスとの間に[[クロノス]]をはじめとする男女6柱ずつの子どもを生んだ<ref name="G" /><ref name="F" />。これが[[ティーターン]]([[巨神]])である<ref name="G" /><ref name="F" />。また[[キュクロープス]](一つ目の巨人)や[[ヘカトンケイル]](百本の手を持つ巨人)、[[ギガース]](巨人、ギガンテスと呼ばれることが多い)、[[ピュートーン]](牝蛇)、[[テューポーン]](ギリシア神話史上最大最強の怪物)などの魔神・怪物を産んだ<ref name="G" /><ref name="F" />。ウーラノスがクロノスに[[去勢]]された(これは子供たちを幽閉されたガイアが怒り命じたことだった)後には、[[ポントス (ギリシア神話)|ポントス]]を夫にしたとも言われている。 === クロノスの復讐 === ガイアは、ウーラノスとの間には男神[[オーケアノス]]、[[コイオス]]、[[ヒュペリーオーン]]、[[クレイオス]]、[[イーアペトス]]、そして末子[[クロノス]]を、女神[[テーテュース]]、[[レアー]]、[[テミス]]、[[ムネーモシュネー]]、[[ポイベー]]、[[ディオーネー]]、[[テイアー]]から成る巨神ティーターン一族を生んだ<ref name="G" /><ref name="F" />。 ガイアはまた、異形の神々[[ヘカトンケイル]]、[[キュクロープス]]たちを生むが、あまりの醜さゆえにウーラノスが彼らを冥界[[タルタロス]]へ閉じ込めてしまった<ref name="G" /><ref name="F" />。子どもたちの母であるガイアは悲しみ、ウーラノスへの報復を考え、子供たちに復讐を呼びかけた<ref name="G" /><ref name="F" />。子供たちは当初、父を恐れ誰も名乗り出なかったが<ref name="F" />、末っ子のクロノスが自ら名乗りを上げ、ガイアの作った鉄の大鎌を受け取り、ウーラノスへ復讐することとなる<ref name="G" /><ref name="F" />。 その夜、クロノスがガイアに知らせられていた場所へ行くと、ウーラノスは[[妻]]ガイアにかぶさるようにして寝ていた。クロノスは大鎌でウーラノスの男性器を切り落とした<ref name="G" /><ref name="F" />。これを受け、自らの行動を恥じたウーラノスはガイアのもとを去った。これにてクロノスが神々の王となるが、この時クロノスはウーラノスに「やがてお前も自分の息子に[[王位]]を退けられることになるだろう。」と言われ、この言葉はクロノスの脳裏に焼きつくこととなった。 === ティーターン神族の戦い === やがて妻レアーとの間にできた子供を飲み込んでしまったクロノスに[[ゼウス]]が復讐を決意し、そしてティーターン一族とオリュンポス神の戦いが始まる<ref name="G" /><ref name="F" />。10年以上戦いが長引くと、クロノスの横暴さを見かねていたガイアはゼウスたちにタルタロスに閉じ込められたヘカトンケイルやキュクロプスたちのことを教え、彼らを救い出すことを勧めた<ref name="G" />。ヘカトンケイルは百本の手で大岩を投げ、キュクロープスはゼウスに雷と稲妻を与えた<ref name="F" />。こうしてゼウスらは新たな味方とともに戦いに臨み、ついにクロノスとの戦いに打ち勝った<ref name="G" /><ref name="F" />。[[天界|天]]はゼウスが、[[海]]は[[ポセイドーン]]が、[[冥界]]は[[ハーデース]]が治めることとなり、大地は皆のものとなったのであった<ref name="G" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Gaia}} * [[ガイア理論]] * [[パンゲア大陸]] {{ギリシア神話}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいあ}} [[Category:ギリシア神話の神]] [[Category:大地神]] [[Category:地母神]] [[Category:女神]] [[Category:ギリシア語の語句]]
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