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全文検索
全文検索(ぜんぶんけんさく、英: Full text search)とは、コンピュータにおいて、複数の文書(ファイル)から特定の文字列を検索すること。「ファイル名検索」や「単一ファイル内の文字列検索」と異なり、「複数文書にまたがって、文書に含まれる全文を対象とした検索」という意味で使用される。 順次走査検索、逐次検索ともいう。「grep」とはUNIXにおける文字列検索コマンドであり、複数のテキストファイルの内容を順次走査していくことで、検索対象となる文字列を探し出す。一般に「grep型」と呼ばれる検索手法は、事前に索引ファイル(インデックス)を作成せず、ファイルを順次走査していくために、検索対象の増加に伴って検索速度が低下するのが特徴である。ちなみに「grep型」とは実際にgrepコマンドを使っているという意味ではないので注意のこと。 検索対象となる文書数が膨大な場合、grep型では検索を行うたびに1つ1つの文書にアクセスし、該当データを逐次検索するので、検索対象文書の増加に比例して、検索にかかる時間も長くなっていってしまう。そこであらかじめ検索対象となる文書群を走査しておき、高速な検索が可能になるような索引データを準備することで、検索時のパフォーマンスを向上させる手法が取られている。事前に索引ファイルを作成することをインデクシング(英: indexing)と呼ぶ。インデクシングにより生成されるデータはインデックス(インデクス)と呼ばれ、その構造は多くの場合、「文字列 | ファイルの場所 | ファイルの更新日 | 出現頻度...」といったようなリスト形式(テーブル構造)を取り、文字列が検索キーとなっている。検索時にはこのインデックスにアクセスすることで、劇的に高速な検索が可能となる。 英文の場合は単語と単語の間にスペースが入るため、自然、スペースで区切られた文字列を抽出していけば、索引データの作成は容易となる。しかし日本語の場合は、単語をスペースで区切る「わかち書き」の習慣がないため、形態素解析技術を用いて、文脈の解析、単語分解を行い、それをもとにインデックスを作成する必要がある。形態素解析を行うためには解析用の辞書が必須であり、検索結果は辞書の品質に少なからず影響を受ける。また、辞書に登録されていないひらがな単語の抽出に難があるなど、技術的障壁も多く、検索漏れが生じることが欠点とされる。 「N文字インデックス法」「Nグラム法」などともいう。検索対象を単語単位ではなく文字単位で分解し、後続の N-1 文字を含めた状態で出現頻度を求める方法。Nの値が1なら「ユニグラム(英: uni-gram)」、2なら「バイグラム(英: bi-gram)」、3なら「トライグラム(英: tri-gram)」と呼ばれる。たとえば「全文検索技術」という文字列の場合、「全文」「文検」「検索」「索技」「技術」「術(終端)」と2文字ずつ分割して索引化を行ってやれば、検索漏れが生じず、辞書の必要も無い。形態素解析によるわかち書きに比べると、2つの欠点がある。意図したものとは異なる検索結果(いわゆる検索ノイズ)の発生と、インデックスサイズの肥大化である。検索ノイズの一例として、「京都」で検索すると「東京都庁」という適合しない検索結果、「***が含まれる物は見つかりませんでした」という文章が返ってくる場合が挙げられる。 他に日本語文書から索引文字列を抽出する手法として、文字種による切り分け、接尾辞配列、シグネチャ法などがありそれぞれに特長があるが、先の2種に比べると大規模なシステムには適用しづらく、精度の問題もあり主流とはなっていない。 検索対象文書がプレーンテキスト以外、たとえばHTML文書ならばタグの除去等の処理を行ってテキストを抽出できるが、特定メーカーのワープロ独自形式などバイナリ形式の場合、インデクサは直接ファイルからテキストを抽出することが出来ないため、文書フィルタを利用して該当ファイルからテキストを抜き出す必要が生じる。文書フィルタ機能はインデクサが内包しているものもあれば、アドインなどの機能拡張によって実装する場合もある。 全文検索用のインデックスには様々な形式があるが、最も一般的なものは単語と、単語を含む文書ファイルのIDとで構成された可変長のレコードを持ったテーブルで、転置ファイル(英: inverted file、転置インデックスとも)と呼ばれるものである。インデクシングや実際の検索の際には「二分探索」などのアルゴリズムを使って、高速に検索単語から文書IDを探し出すことが出来る。転置ファイルのデータ構造や、採用している探索アルゴリズムは全文検索システムによって様々であり、これらの違いによってインデックスサイズ、検索速度、検索精度に大きな違いが出ることがある。 全文検索システムの評価指標のひとつとして「再現率(英: recall)」と「適合率(精度、英: precision)」が用いられる。前者は「いかに検索漏れが少ないか」をあらわし後者は「いかに検索ノイズが少ないか」をあらわす。一般的に両者はトレードオフの関係にあるといわれている。(→「情報検索#検索性能の評価」) 検索された文書は「更新順」「ファイル名順」「文書のタイトル順」などにソートされる。一般的な検索エンジンでは独自のランク付けルールも適用し「重要度」などと呼んでいるものもある。ランク付けの基本的な考え方は「ユーザーにとって重要と思われる文書を上位に表示する」ことであり、以下のような手法が採られることが多い。 リニアサーチ(通称「馬鹿サーチ」)やバイナリーサーチ(二分法)、ハッシュ法などがあるが、それぞれ得失があり、「辞書の登録語彙数が多くなると手間数が増えて遅くなる」という問題がある。 一般的な検索エンジンではダブル配列法が用いられているようだが、ダブル配列法は主記憶領域が狭い過去の環境に合わせて開発されたらしいので、現在では可読性が悪いため採用するのはお奨めできない ダブル配列法の解析から、その祖形であるトリプル配列法が発見(おそらくは再発見)されたが、発明者は知られていない。 トリプル配列は、辞書登録語彙に関わらず、最長の登録語彙の長さ l に比例した手間数しかかからないのでお手軽なあるアルゴリズムだが、最長語彙 l が増えるとヒットする語数が減るので、途中でリニアサーチに切替えるとコンパクトになる。また、プログラミング言語の予約語のように数が限られていて頻出する語については、ハッシュ法を使ったほうが簡単である。
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全文検索とは、コンピュータにおいて、複数の文書(ファイル)から特定の文字列を検索すること。「ファイル名検索」や「単一ファイル内の文字列検索」と異なり、「複数文書にまたがって、文書に含まれる全文を対象とした検索」という意味で使用される。
{{wikipediaPage|全文検索|Help:全文検索}} {{出典の明記|date=2018年2月}} '''全文検索'''(ぜんぶんけんさく、{{lang-en-short|Full text search}})とは、[[コンピュータ]]において、複数の文書([[ファイル (コンピュータ)|ファイル]])から特定の[[文字列]]を[[検索]]すること。「ファイル名検索」や「単一ファイル内の文字列検索」と異なり、「複数文書にまたがって、文書に含まれる全文を対象とした検索」という意味で使用される。 == 全文検索技術 == === grep型 === 順次走査検索、逐次検索ともいう。「[[grep]]」とは[[UNIX]]における[[文字列探索|文字列検索]]コマンドであり、複数の[[テキストファイル]]の内容を順次走査していくことで、検索対象となる文字列を探し出す。一般に「grep型」と呼ばれる検索手法は、事前に索引ファイル(インデックス)を作成せず、ファイルを順次走査していくために、検索対象の増加に伴って検索速度が低下するのが特徴である。ちなみに「grep型」とは実際にgrepコマンドを使っているという意味ではないので注意のこと。 === 索引(インデックス)型 === [[ファイル:Full_text_search.gif|thumb|300px|right|インデックス作成型全文検索システム]] 検索対象となる文書数が膨大な場合、grep型では検索を行うたびに1つ1つの文書にアクセスし、該当データを逐次検索するので、検索対象文書の増加に比例して、検索にかかる時間も長くなっていってしまう。そこであらかじめ検索対象となる文書群を走査しておき、高速な検索が可能になるような索引データを準備することで、検索時のパフォーマンスを向上させる手法が取られている。事前に索引ファイルを作成することをインデクシング({{lang-en-short|indexing}})と呼ぶ。インデクシングにより生成されるデータは[[索引|インデックス]](インデクス)と呼ばれ、その構造は多くの場合、「文字列 | ファイルの場所 | ファイルの更新日 | 出現頻度…」といったようなリスト形式([[テーブル (情報)|テーブル構造]])を取り、文字列が検索キーとなっている。検索時にはこのインデックスにアクセスすることで、劇的に高速な検索が可能となる。 ==== 索引文字列の抽出手法 ==== ===== 形態素解析 ===== 英文の場合は単語と単語の間に[[スペース]]が入るため、自然、スペースで区切られた文字列を抽出していけば、索引データの作成は容易となる。しかし日本語の場合は、単語をスペースで区切る「[[わかち書き]]」の習慣がないため、[[形態素解析]]技術を用いて、文脈の解析、単語分解を行い、それをもとにインデックスを作成する必要がある。形態素解析を行うためには解析用の[[辞書]]が必須であり、検索結果は辞書の品質に少なからず影響を受ける。また、辞書に登録されていないひらがな単語の抽出に難があるなど、技術的障壁も多く、検索漏れが生じることが欠点とされる。 =====N-Gram ===== 「N文字インデックス法」「Nグラム法」などともいう。検索対象を単語単位ではなく文字単位で分解し、後続の N-1 文字を含めた状態で出現頻度を求める方法。Nの値が1なら「ユニグラム({{lang-en-short|uni-gram}})」、2なら「バイグラム({{lang-en-short|bi-gram}})」、3なら「トライグラム({{lang-en-short|tri-gram}})」と呼ばれる。たとえば「全文検索技術」という文字列の場合、「全文」「文検」「検索」「索技」「技術」「術(終端)」と2文字ずつ分割して索引化を行ってやれば、検索漏れが生じず、辞書の必要も無い。形態素解析によるわかち書きに比べると、2つの欠点がある。意図したものとは異なる検索結果(いわゆる検索ノイズ)の発生と、インデックスサイズの肥大化である。検索ノイズの一例として、「京都」で検索すると「東'''京都'''庁」という適合しない検索結果、「***が含まれる物は見つかりませんでした」という文章が返ってくる場合が挙げられる。 {|class="wikitable" |+'''形態素解析とN-gramの比較''' |- !&nbsp; !形態素解析 !N-gram |- !インデクシング速度 |遅い |速い |- !インデックスサイズ |小さい |大きい |- !検索ノイズ |少ない |多い |- !検索漏れ |多い |少ない |- !検索速度 |速い |遅い |- !言語依存 |辞書が必要 |辞書が不要 |} ===== その他 ===== 他に日本語文書から索引文字列を抽出する手法として、文字種による切り分け、[[接尾辞配列]]、[[シグネチャ法]]などがありそれぞれに特長があるが、先の2種に比べると大規模なシステムには適用しづらく、精度の問題もあり主流とはなっていない。 ==== 文書フィルタ ==== 検索対象文書が[[プレーンテキスト]]以外、たとえば[[HyperText Markup Language|HTML]]文書ならば[[HTML要素|タグ]]の除去等の処理を行ってテキストを抽出できるが、特定メーカーの[[ワードプロセッサ|ワープロ]]独自形式など[[バイナリ|バイナリ形式]]の場合、インデクサは直接ファイルからテキストを抽出することが出来ないため、'''文書フィルタ'''を利用して該当ファイルからテキストを抜き出す必要が生じる。文書フィルタ機能はインデクサが内包しているものもあれば、[[プラグイン|アドイン]]などの機能拡張によって実装する場合もある。 *代表的な文書フィルタ **[[Xpdf]] ***[http://www.foolabs.com/xpdf/ Xpdf] ***[[Namazu]]で[[Portable Document Format|PDF]]文書からテキストを抽出するために利用されることが多い。 **IFilter ***[http://www.ifiltershop.com/ IFilterShop] ***[http://www.ifilter.org/ IFilter.Org] ***[http://www.microsoft.com/en-us/download/details.aspx?id=17062 Microsoft Office 2010 Filter Packs] ***Index Service、Windowsデスクトップサーチのアドインとして各社より提供されている。 **xdoc2txt ***[http://ebstudio.info/home/xdoc2txt.html http://ebstudio.info/home/xdoc2txt.html] ***高速Grepソフトウェア「KWIC Finder」からフィルタ部分を抜き出したもの。[[Hyper Estraier]] では標準文書フィルタとして利用されている。 ==== 転置ファイル ==== 全文検索用のインデックスには様々な形式があるが、最も一般的なものは単語と、単語を含む文書ファイルのIDとで構成された可変長のレコードを持ったテーブルで、'''[[転置ファイル]]'''({{lang-en-short|inverted file}}、転置インデックスとも)と呼ばれるものである。インデクシングや実際の検索の際には「[[二分探索]]」などの[[アルゴリズム]]を使って、高速に検索単語から文書IDを探し出すことが出来る。転置ファイルのデータ構造や、採用している探索アルゴリズムは全文検索システムによって様々であり、これらの違いによってインデックスサイズ、検索速度、検索精度に大きな違いが出ることがある。 {| class="wikitable" |+ 転置ファイルの例 |- ! 単語 !! 文書ID |- | サーチ || 1, 3, 4 |- | デスクトップ || 2, 4, 7 |- | 解析 || 3, 5, 6, 7 |- | 形態素 || 2, 6, 7 |- | 検索 || 1, 6 |- | 全文 || 1, 6, 7 |} {{注|※二分探索を行うためには単語と文書IDは[[ソート]]済みでなければならない}} ==== 再現率と適合率 ==== 全文検索システムの評価指標のひとつとして「再現率({{lang-en-short|recall}})」と「適合率(精度、{{lang-en-short|precision}})」が用いられる。前者は「いかに検索漏れが少ないか」をあらわし後者は「いかに検索ノイズが少ないか」をあらわす。一般的に両者はトレードオフの関係にあるといわれている。(→「[[情報検索#検索性能の評価]]」) ==== ランク付け(スコアリング) ==== 検索された文書は「更新順」「ファイル名順」「文書のタイトル順」などにソートされる。一般的な検索エンジンでは独自のランク付けルールも適用し「重要度」などと呼んでいるものもある。ランク付けの基本的な考え方は「ユーザーにとって重要と思われる文書を上位に表示する」ことであり、以下のような手法が採られることが多い。 * 文書中の検索単語出現頻度 * [[HTML要素|HTMLタグ]]の解析 :<nowiki><title></nowiki>タグや<nowiki><H1></nowiki>タグを重視する。 * [[tf-idf]] :TFとは単語の出現頻度、IDFは全文書中において単語が一部の文書に集中している度合いをあらわし、両者を掛け合わせることでランク付けを行う。 * [[ページランク]] :「重要度の高いページからリンクされているページは重要である」という原理に基づいてランク付けを行う。[[Google]]で採用されている。 == 主な用途 == ;[[検索エンジン|WWW検索サービス]] : 検索サービスの中では、超大型の機能が求められる分野で、熾烈な競争が行われてきたが、2013年現在では「[[Google]]」または「[[Microsoft Bing|Bing]]」のいずれかに集約されつつある。ウェブの初期から行われていたサービスのひとつで、技術の進歩もめざましい。 ;[[エンタープライズサーチ|企業向け社内検索サービス]] : 社内[[ファイルサーバ]]の文書資産を高速全文検索するシステム。[[Microsoft Word|Word]]や[[Microsoft Excel|Excel]]といった[[オフィススイート]]から、メール、データベースなどの多くのファイル形式に対応し、企業の性格に応じて、多様な検索結果を返す。近年、電子データの企業資産の重要性が増し、非常に発達してきている分野。 ;デスクトップ検索 : 個人のローカルファイルを検索するための[[アプリケーションソフトウェア]]。Word、Excel、PDFなど様々なファイル形式に対応している。また、画像データなどの、個人の保有にあるマルチメディアデータの検索に特化したものもあり、スピードと手軽さが求められている。 == 代表的な全文検索エンジン == {{宣伝|section=1|date=2015年10月}} === サーバ/ワークステーション向け === ==== 無償 ==== *Tokyo Dystopia: a full-text search system **以下の製品群と組み合わせて使用する。Tokyo Cabinet: a modern implementation of DBM、Tokyo Tyrant: network interface of Tokyo Cabinet、Tokyo Promenade: a content management system、Kyoto Cabinet: a straightforward implementation of DBM、Kyoto Tycoon: a handy cache/storage server *[[Hyper Estraier]] **N-gramベース (N.M-gram)。わかち書き方式も併用可。 **分散インデクス、Webクローラ、検索用CGIなど標準添付のプログラムが充実。 **N.M-gram方式とは、N文字に続くM文字のハッシュ値を計算し保持することによって、フレーズ検索が可能。フォルスドロップあり。類似検索あり。 **大規模なインデックスも作成可。 *msearch **インデックスは「ファイル名|タブコード|本文|改行コード」の単純なもので、これにGrep検索をかけることで対象文書を抽出する。 **設置が非常に容易であり、root権限が無くてもインデックスの更新が可能なため、個人の小規模サイトを中心に用いられている。 **[[UTF-8]]など[[Unicode]]にも対応したUnicode版msearchがある。 *[[Namazu]] **わかち書きベース。 **2単語によるフレーズからハッシュ値を計算し保持することによって、フレーズ検索が可能。フォルスドロップ({{lang-en-short|false drop}}=誤った候補)あり。 **古くからあり、日本で広く使われている全文検索システム。 **小中規模を対象とし、大規模が苦手。 *[[Lucene|Apache Lucene/Solr]] **Analyzerと呼ばれるクラスを選ぶことにより、N-gramやわかち書き形式でのインデックス作成ができる。 **Javaによる全文検索システム。 **Luceneがクラスライブラリとして提供され、Luceneを利用した全文検索サーバーがSolrとなる。 **IBM WebSphere Commerce, Salesforce, Microsoft Azure, SAP Hybris, 楽天などで利用されている。 **大規模なインデックスも作成可。スケーリングし稼働率、対障害性を高めるZookeeperを使った仕組みを備える。 *Rast **わかち書きベース・N-gramベースの選択 **単語の出現位置情報を保持し、正確なフレーズ検索が可能。フォルスドロップなし。 *[[Senna]] **わかち書きベース・N-gramベースの選択 **他のプログラムからライブラリとして呼び出して利用する。 **[[MySQL]]の中に全文検索エンジンを組み込むパッチが提供されており、MySQLを利用しているプログラムであれば全文検索機能を手軽に実現できる。 **[[PostgreSQL]]に対して、Sennaを全文検索エンジンとして組み込むためのモジュール[[Ludia]]が公開されている。 **[[Perl]][[言語バインディング|バインディング]]により、Perlスクリプトから簡単に利用することができる。[[PHP (プログラミング言語)|PHP]]、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]、[[Python]]バインディングも提供されている。 **大規模なインデックスも作成可。ただし、分散検索の機能はない。 *Groonga **Sennaの後継エンジン ==== 有償 ==== *jetrun&reg;クラスター・サーチエンジン **300カテゴリ700万ワードの豊富な独自辞書による高速な全文検索エンジン **ASP方式とアプライアンス方式のWebサービス *ConceptBase Enterprise Search **国産のエンタープライズ検索エンジン ConceptBase シリーズの大規模対応版 **検索精度の高い独自技術「NL-Vgram」で、1つのインデックスで概念検索と全文検索の両方を実現可能。 *ConceptBase Search Lite(旧 ConceptBase Search 1000) **概念検索や文字列一致検索に加え、絞り込み検索など高速で多彩な検索が特徴。 **上位版「ConceptBase V」はビューポイント、ファセット・ナビゲーションなど独特の機能を有する。 *Sedue **圧縮サフィックスアレイを使用したインメモリ型の全文検索エンジン **複数マシンでの分散検索も可能 *FAST ESP **検索パフォーマンスと検索対象データ量の両面でスケーラビリティを持ち、超大規模システムまで対応可能。 **形態素解析とN-gramの両方をハイブリッドに利用可能。 *FileBlog **Solrベースで、ActiveDirectory連携などWindowsファイルサーバ検索に特化した[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]] **フォルダ階層のブラウズや、フォルダによる検索範囲限定が特徴 *Oracle Secure Enterprise Search **N-gramベース (V-gram)。 **ログインしたユーザーが参照可能な結果のみを表示するセキュア検索が特徴。 *Piranha **サイト内検索CGI *SAVVY **国産の[[パターン認識]]技術をベースとし、完全一致検索のほか、あいまい検索、あるまで検索、自然語調検索など、超高速かつ多彩な検索方式が特徴。 *SMART/InSight **形態素解析、N-gram選択可。 **ActiveDirectoryなどのACL継承機能有り。 **Apache Solrをエンジンとして使用。 *Neuron **Apache Solrベースでプラグインを組み込み、検索画面・クローラーをパッケージングした全文検索システム。 **形態素解析とN-Gramで日本語を分割し、辞書登録の負荷を大幅に軽減。独自開発のクローラーによるパフォーマンスの高さが特徴。 *Vivisimo Velocity **クラスタリング技術による、類似した検索結果の自動カテゴライズ機能。 **ActiveDirectoryと連携したACL検索等、企業内の既存セキュリティに適合させるカスタマイズ性の高さが特徴。 *WiSE *FlexSearch *[[InfoBee/iS]] **NTTの技術を基にした純国産検索エンジン **形態素解析、同義語辞書を使用したあいまい検索が可能 *IBM OmniFind Enterprise Edition **形態素解析とN-gramの両方をサポート **さまざまなデータソースを検索対象とすることができる *FAST Search Server for SharePoint **[[ファストサーチ & トランスファ|ファスト]]製品の技術を基にした検索エンジン *Autonomy IDOL (Intelligent Data Operating Layer) **[[オートノミー]]はMeaning-Based Computing (MBC) を提唱しており、その中核となるコア技術 *[[QuickSolution]] **住友電工情報システムによって提供されている全文検索エンジン。 *Microsoft SharePoint Server **SharePoint 2013から[[ファストサーチ & トランスファ|ファスト]]製品の技術を基にした検索エンジンを標準で提供。 **[[マイクロソフト]]によるクラウド サービス[[Microsoft Office 365]]やパートナー クラウド上の[[Microsoft SharePoint]]とのハイブリッド検索に強みを持つ。 === <ref name=":0" />個人向け === ==== 無償 ==== *[[Windows Search]](マイクロソフト) **わかち書きベース **[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]以降に標準搭載。 **検索対象フォルダを詳細に設定可能。ネットワークドライブにも対応。 <!-- **欠点:単独でのリリースが企業向けのものしかされていない。 --> **当初は「MSN サーチ ツールバー with Windows デスクトップ サーチ」というパッケージで配布されていた。 *[[Spotlight (Apple)|Spotlight]]([[Apple]]) ** [[macOS|Mac OS X]] [[Mac OS X v10.4|Tiger]]以降に標準搭載。「[[Sherlock (ソフトウェア)|Sherlock]]」の後継ソフト。 *[https://github.com/stefankueng/grepWin GrepWin] **GrepのWindows移植。 **GUI付き。 *[[Googleデスクトップ]] ([[Google]]) **わかち書きベース。 **Google web検索と同じエンジンでローカルファイルを検索できる。 **欠点は、大きなファイルの場合、後半部分がインデックス化されないなどの問題。<ref name=":0">http://desktop.google.co.jp/support/bin/answer.py?answer=12764{{リンク切れ|date=2016年10月}}</ref> **2008年を最後に開発停止済。 *[http://freemind.s57.xrea.com/desktophe/index.html DesktopHE] **N-gramベース (N.M-gram)。わかち書き方式も併用可。 **[[Hyper Estraier]]にGUIをつけた物。 **Google デスクトップなどの常駐型とは異なり、インデックスを張ったあとはコンピュータが重くなったりしない。 **2010年を最後に開発停止済。 *インデックスサービス(マイクロソフト) **[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]] / [[Microsoft Windows XP|XP]]に標準搭載。 **デフォルトではオフとなっている<!-- ため利用者は少ないと思われる -->。 **ローカルディスク全体をインデックス化できるが、CPU負荷は高くなる。 **メール検索には非対応。 **Vistaでは、Windows デスクトップサーチをベースにしたシステムになった。 *FindFast(マイクロソフト) **[[Microsoft Office|MS Office]]95~2000に標準搭載。 **Officeファイルが対象であり、メール検索などはできない。 **Office XP以降は、インデックス検索に置き換わった。 *[[Beagle]] **[[Linux]]などの[[Unix系]][[オペレーティングシステム|OS]]向け *[[MetaTracker]] **[[Linux]]などのUnix系OS向け *[[butterfly_search]](バタフライサーチ) **アルファベットは空白区切り、それ以外の文字はN-gramベースでインデックス化。 **検索対象はテキストファイルのみ。 ==== 有償 ==== *[http://www.searchplusplus.jp 全文検索くん (Search++)] **Luceneによる全文検索システム **PDF、新旧Officeドキュメント対応 *[[サーチクロス]]([[ビレッジセンター]]) **形態素解析によるわかち書きは採用せず。 **詳細なアルゴリズムは不明だが、文字種により単語を分割し、インデックスに登録していくタイプと思われる。 **ひらがなは事前に辞書登録されたもの以外は検索できない。 **アルゴリズムが単純な分、インデクシングが極めて高速。 *[[コンセプトサーチ]]([[ジャストシステム]]) **自然言語による検索が可能。 **文書管理アプリケーション[[DocuWorks]]([[富士フイルムビジネスイノベーション]])のバージョン6.0より「ExpandFinder」という名称でバンドルされている。 *[http://pokuda-tyoubun.blogspot.com/p/pokuda-search-pro.html 分散インデックス型 全文検索ソフト: Pokuda Search Pro] **Apache Tikaによるテキスト抽出とApache Luceneによる全文検索 **PDF、新旧Officeドキュメント、OpenOfficeドキュメント、MP3, MP4のメタ情報の検索に対応 == アルゴリズム == リニアサーチ(通称「馬鹿サーチ」)やバイナリーサーチ(二分法)、ハッシュ法などがあるが、それぞれ得失があり、「辞書の登録語彙数が多くなると手間数が増えて遅くなる」という問題がある。 一般的な検索エンジンではダブル配列法が用いられているようだが、ダブル配列法は主記憶領域が狭い過去の環境に合わせて開発されたらしいので、現在では可読性が悪いため採用するのはお奨めできない ダブル配列法の解析から、その祖形であるトリプル配列法が発見(おそらくは再発見)されたが、発明者は知られていない。 トリプル配列は、辞書登録語彙に関わらず、最長の登録語彙の長さ l に比例した手間数しかかからないのでお手軽なあるアルゴリズムだが、最長語彙 l が増えるとヒットする語数が減るので、途中でリニアサーチに切替えるとコンパクトになる。また、プログラミング言語の予約語のように数が限られていて頻出する語については、ハッシュ法を使ったほうが簡単である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == *[[文字列探索]] *[[情報検索]] *[[概念検索]] *[[検索エンジン]] *[[形態素解析]] *[[エンタープライズサーチ]] == 外部リンク == *[http://baba.la.coocan.jp/wais/other-system.html 日本語全文検索エンジンソフトウェアのリスト(2003年ごろまでの全文検索エンジンの一覧)] *[http://qwik.jp/senna/publication.html 21世紀の最新エンジンたち(Namazu・Rast・HyperEstraier・Sennaの特徴、適合率・再現率の解説)] *[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20060123/227672/ BYTE LAB「デスクトップ検索」<全5回>:ITpro] {{DEFAULTSORT:せんふんけんさく}} [[Category:全文検索|*]] [[Category:検索]] [[Category:検索エンジン]] [[Category:自然言語処理]] [[Category:テキストエディタの機能]]
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ミニ新幹線
ミニ新幹線(ミニしんかんせん)は、新幹線規格(フル規格)の線路を新規に建設することなく、既存の在来線を改軌した上で新幹線路線と直通運転(新在直通運転という)できるようにした方式で、鉄道高速化の一手段である。 新幹線と在来線の一体的なネットワークを形成することによって、高速サービスを全国新幹線鉄道整備法の枠外にある地方都市にも拡大しようとする手法(新在直通運転)の一つである。1983年(昭和58年)10月10日に日本国有鉄道内で、続いて1986年(昭和61年)には運輸省でも「新幹線と在来線との直通運転構想検討会」が設置され、検討が始まった。このような考えによる高速列車ネットワークの構築は1981年にフランスが実現した(TGV)。1987年(昭和62年)に奥羽本線の福島 - 山形間がモデル線区に選定された。 この方式を採用した鉄道路線は、旅客案内上「新幹線」と称しているが、全国新幹線鉄道整備法の定義では在来線であって、新幹線ではない。また、当然整備新幹線にも含まれない。あくまで在来線の改軌ならびに高速化改良である。 フル規格による新幹線の運行時間帯は、始発が午前6時以降、終着が午前0時以前(所定ダイヤの場合)となっているが、在来線であるミニ新幹線はその制限を受けないので、山形新幹線つばさ122号(新庄駅5:40発、フル規格区間の福島駅には7:37到着)のように午前6時よりも前に始発駅を発車する列車もある。ただしフル規格区間に入るのは午前6時以降に限られる。逆方向も「門限」までにフル規格区間から出れば午前0時以降も運行を続けることができる。これは定期ダイヤには存在しないが、毎年8月に秋田県大仙市で開催される全国花火競技大会ではその特性を活かし、未明に秋田新幹線の臨時列車を運行する場合がある。 なお、ミニ新幹線に直通する車両をミニ新幹線車両としている。ミニ新幹線は在来線を改軌した区間を指すことが多いが、ミニ新幹線車両はフル規格区間まで乗り入れる車両と位置付けられている。 新在直通運転には車両側で対応する方法と軌道側で対応する方法、それらを組み合わせる方法がある。 これらのうち、1983年(昭和58年)、国鉄は軌道側で対応することにした。山形新幹線とその新庄延伸・秋田新幹線では標準軌方式を基本としつつ、各線の状況をや輸送を考えて三線軌方式、標準軌・狭軌単線並列方式を一部に取り入れた。利点および欠点は下記のとおりである。 三線軌条化しない場合(狭軌線路を併設せず、新幹線直通列車が走行する標準軌線路のみを敷設する場合)、以下の点も欠点となり得る。 まず踏切事故の問題がある。在来線区間では改良により速度が引き上げられた影響でトラックが今まで通りのタイミング感覚で横断してミニ新幹線車両が急停車することが起きた。特に豪雪地帯の在来線では雪により線路を道路と誤認し鉄道車両に衝突する事故も起きやすく、実際にミニ新幹線車両と衝突事故が起きた。同様の理由で勝手踏切を渡る人や動物をはねる問題が起きた。さらに在来線が雪が降る地域だと、在来線を走行中に車両に付着した雪が、新幹線区間の高速走行中に落下、バラストを巻き上げ、一番外側の窓ガラスに衝突しひびが入った。踏切事故対策として踏切を統廃合して少なくする、警報機、遮断機、非常ボタンを整備、自動車運転手への踏切視認性の向上(門型踏切、簡易門型踏切、オーバーハング型踏切の導入)、落下雪対策は雪落とし作業の追加とバラスト飛散防止スクリーンを設置した。 ミニ新幹線車両(400系、E3系)は高速化により従来車(485系など)より出力が1.5から2倍ほど高く、変電所の変圧器の容量が不足したので強化を行った。 主な運転保安規則(法令)の問題も起きた。新幹線と在来線とは全くと言っていいほど規制が違っていたためミニ新幹線に代表される新在直通は厄介であったが、2001年(平成13年)12月25日に「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」として統合され、新在直通がしやすくなった。 この方式で新在直通を図った路線として、2023年時点で山形新幹線(奥羽本線福島駅 - 新庄駅間)と秋田新幹線(田沢湖線・奥羽本線盛岡駅 - 秋田駅間)の2路線がある。前述のように「新幹線」と称しているものの、法的には在来線である。路線愛称の「新幹線」は山形新幹線の開業準備に入ってからである。 これらの路線で運転される特急列車「つばさ」や「こまち」は、新幹線直行特急と呼ばれる。 1988(昭和63)年度予算編成作業中に大蔵省主計官が整備新幹線建設を非難し膠着した。打開策として1988年(昭和63年)8月の運輸省によってフル規格新幹線、ミニ新幹線、スーパー特急の組み合わせで提示され、同年8月31日に政府・与党申し合わせにより整備内容が決定された。うちミニ新幹線整備区間は下記のとおりである。なお、どの線区でもフル規格実現への願望が強かった。 九州新幹線西九州ルート 新鳥栖駅 - 長崎駅間は一部在来線の長崎本線を挟む関係でスーパー特急方式で建設され、後に武雄温泉駅 - 長崎駅間がフル規格に変更。さらにフリーゲージトレイン導入の計画、試験まで行われたが頓挫し、武雄温泉駅で乗り換えるリレー方式で武雄温泉駅 - 長崎駅間が西九州新幹線として暫定開業した。 東京駅 - 山形駅間を最短3時間9分が2時間27分に短縮され、1995年(平成7年)に1両増結の7両編成化。5往復あった羽田空港 - 山形空港の全日空航空便は2002年(平成14年)10月31日に休止。しかし日本エアシステム(のちに日本航空)が2003年(平成15年)4月1日より同路線1日1往復を再開。航空会社の自助努力のみでは維持・充実が困難な路線で、地域と航空会社による共同提案によって優れた路線に羽田空港の発着枠を配分する 国土交通省の「羽田発着枠政策コンテスト」で1日2往復まで回復。キャンペーンや朝便と夜便が設定されたことで、ビジネス客の姿も多く見られるようになった。 東京駅 - 秋田駅間を最短4時間29分が3時間49分に短縮され、1998年(平成10年)に1両増結の6両編成化。 ミニ新幹線に用いる車両は在来線の車両限界で設計されている。車長は、フル規格新幹線車両の25mに対して、ミニ新幹線車両では20 - 23mであり、車幅は、3380mmに対して、2945mmとなっている。そのため、新幹線区間では、乗降口とホームとの間隔が開いてしまうため、折り畳み式のステップを車両の乗降ドアの下部に備える。 大都市の新幹線ターミナル駅に乗り入れる場合は新幹線区間の線路容量、ターミナル駅の発着容量に不足をきたすから、多層建て列車にすることも考えなければいけない。たとえば東京駅発着の場合、大宮駅 - 東京駅がJR東日本関連の新幹線が集まる区間で、設定できる列車本数に限りがあることから、多層建て列車にできるよう東京側の先頭車には連結器カバー・電気連結器付き密着連結器・超音波測距装置、レーザー測距装置で構成された自動分割併合装置が搭載されている。分割併合時は極力人手をかけないようにかつ基本的な列車防護ルール「一つの区間に2個列車が入らないようにする原則」を崩してしまうために、併結相手列車との距離を検知し絶対に衝突しないように設計し、安全性も確保している。 台車は、最新の新幹線車両と同じボルスタレス台車を採用しているが、在来線区間での急曲線の対応と新幹線区間での直進安定性を確保するため、前後の車輪の車軸の間の距離である軸距を、フル規格新幹線の2,500mmに対して、2,250mmとしており、車輪の踏面形状は新幹線区間の60キロレールと在来線区間の50キロレールで長期的に安定して走れるよう摩耗の少ない形状「1/16新在円弧踏面」となっている。なお、E6系の場合では東北新幹線での320km/h運転に対応するために軸距を2500mm、従来の在来線特急電車の485系は2,100mm。 在来線区間の走行時はいかなる時でも600m以内に停止しなければいけないために、フル規格区間の走行時よりブレーキ力が大きくなるような設定を加えている。 電気方式も新幹線区間が交流2万5000Vに対して在来線区間は従来通り交流2万Vとなっているため、搭載されている主変圧器と主制御器は両電圧に対応した複電圧仕様である。また、補助電源装置などの補機用の電源となる主変圧器の三次巻線では、電圧変動が発生するため、三次巻線に三次電源タップ切替方式を採用して、架線電圧が切替わった際に、地上側に設置された地上子を受信後に切替用タップを作動させて三次巻線の電圧変動を抑えている。 パンタグラフは在来線区間の電車線の高低差の大きさに合わせて新幹線車両より大きく作られている。 保安装置についても新幹線区間の自動列車制御装置 (ATC) と在来線区間の自動列車停止装置 (ATS) の両方を搭載している。全線ATC化しなかった理由は線区のグレード、工事費や工事期間の抑制との経済的理由である。 改軌は狭軌用枕木を標準軌用に交換する。工法として、人力法、軌きょう縦送り法、枕木交換法、軌道連続更新機法、ミニテックス法がある。
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ミニ新幹線(ミニしんかんせん)は、新幹線規格(フル規格)の線路を新規に建設することなく、既存の在来線を改軌した上で新幹線路線と直通運転(新在直通運転という)できるようにした方式で、鉄道高速化の一手段である。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年12月 | 独自研究 = 2012年6月 }} [[File:JR East shinkansen 400 tsubasa 6cars.jpg|thumb|250px|初のミニ新幹線車両として開発された[[新幹線400系電車|400系]]]] '''ミニ新幹線'''(ミニしんかんせん)は、[[新幹線]]規格(フル規格)の線路を新規に建設することなく、既存の[[在来線]]を[[改軌]]した上で新幹線路線と[[直通運転]]([[新在直通運転]]という)できるようにした方式で<ref name="doboku-mini">{{PDFlink|[http://www.jsce.or.jp/journal/contents/knowledge/vol9803.pdf 土木ミニ知識 Vol.83 新幹線とミニ新幹線]. 公益社団法人土木学会(1998年3月). 2012年2月29日閲覧。}}</ref>、[[高速化 (鉄道)|鉄道高速化]]の一手段である。 == 概要 == 新幹線と[[在来線]]の一体的なネットワークを形成することによって、高速サービスを[[全国新幹線鉄道整備法]]の枠外にある地方都市にも拡大しようとする手法(新在直通運転)の一つである。[[1983年]](昭和58年)10月10日に[[日本国有鉄道]]内で、続いて[[1986年]](昭和61年)には[[運輸省]]でも「新幹線と在来線との直通運転構想検討会」が設置され、検討が始まった<ref>ミニ新幹線誕生物語 p5-6</ref><ref name="norimono-news2022-08-01">『[https://trafficnews.jp/post/120826 ミニ新幹線は招かれざる存在なのか 山形・秋田新幹線だけなワケ 貼られた“レッテル”]』 枝久保達也 [[メディア・ヴァーグ|乗りものニュース]] 2022.08.01更新 2023年7月31日閲覧</ref>。このような考えによる高速列車ネットワークの構築は[[1981年]]に[[フランス]]が実現した([[TGV]])<ref>ミニ新幹線誕生物語 p167</ref><ref>新幹線ネットワークはこうつくられた p135-136</ref>。1987年(昭和62年)に奥羽本線の福島 - 山形間がモデル線区に選定された<ref name="norimono-news2022-08-01"/>。 この方式を採用した[[鉄道路線]]は、旅客案内上「新幹線」と称しているが、全国新幹線鉄道整備法の定義では在来線であって、新幹線ではない。また、当然[[整備新幹線]]にも含まれない。あくまで在来線の改軌ならびに高速化改良である。 フル規格による新幹線の運行時間帯は、[[始発]]が午前6時以降、[[終電|終着]]が午前0時以前(所定ダイヤの場合)となっているが、在来線であるミニ新幹線はその制限を受けないので、[[山形新幹線]][[つばさ (列車)|つばさ]]122号(新庄駅5:40発、フル規格区間の福島駅には7:37到着)のように午前6時よりも前に始発駅を発車する列車もある。ただしフル規格区間に入るのは午前6時以降に限られる。逆方向も「門限」までにフル規格区間から出れば午前0時以降も運行を続けることができる。これは定期ダイヤには存在しないが、毎年8月に[[秋田県]][[大仙市]]で開催される[[全国花火競技大会]]ではその特性を活かし、未明に秋田新幹線の臨時列車を運行する場合がある。 なお、ミニ新幹線に直通する車両をミニ新幹線車両としている。ミニ新幹線は在来線を改軌した区間を指すことが多いが、ミニ新幹線車両はフル規格区間まで乗り入れる車両と位置付けられている<ref name="doboku-mini" />。 <!--フル規格路線の車止め標識はオレンジ色の標識が使われているが、在来線として扱われているので、在来線と同じく白い標識(山形駅・新庄駅・大曲駅・秋田駅に設置)が使われている。--><!--独自研究の可能性あり。一旦コメントアウト--> === 年表 === * 1981年9月27日 - フランス国鉄SNCFが新在直通高速鉄道TGVを開業させる * 1983年(昭和58年)10月10日 - 日本国有鉄道内で検討を開始 * 1986年(昭和61年) - 運輸省が検討を開始 * 1987年(昭和62年) ** 4月1日 - 国鉄分割民営化 ** 月日不明 - 山形新幹線(福島 - 山形間)がモデル線区に選定 * 1988年(昭和63年) ** 4月 - 4月山形県とJR東日本等が山形新幹線向けリース会社山形ジェイアール直行特急保有株式会社を設立 ** 8月 - 大蔵省主計官の整備新幹線建設非難を発端とする膠着状態に対し、運輸省がフル規格新幹線、ミニ新幹線、スーパー特急の組み合わせで打開 * 1990年(平成2年)- 山形新幹線向け車両400系試作車落成 * 1991年(平成3年)9月29日 - 400系、上越新幹線内にて高速度試験を実施。345km/hを記録 * 1992年(平成4年)- 400系量産車落成 * 1992年(平成4年)7月1日 - 山形新幹線(東京駅-山形駅)開業 * 1995年(平成7年) ** 月日不明 - 400系、6両編成から1両増結し7両編成化 ** 5月16日 - 秋田県とJR東日本が秋田新幹線向けリース会社秋田新幹線車両保有株式会社を設立 * 1995年(平成7年)- E3系量産先行車落成 * 1996年(平成8年)- E3系量産車が落成 * 1997年(平成9年)3月22日 - 秋田新幹線(東京駅-秋田駅)開業 * 1999年(平成11年)12月4日 - 山形新幹線新庄延伸(東京駅-新庄駅)開業 * 2001年(平成13年) - E3系ベースに設計された電気・軌道総合検測車E926形製造 * 2006年(平成18年)3月 - 新幹線直行特急用高速試験電車E955形落成 * 2013年(平成25年)3月16日 - E6系営業運転開始 == 特徴 == 新在直通運転には車両側で対応する方法と軌道側で対応する方法、それらを組み合わせる方法がある<ref name="houhou6-9">ミニ新幹線誕生物語 p6-p9</ref>。 ; 車両側で対応する方法「異ゲージ直通運転方式」<ref name="freegage1999">軌間可変電車 酒井正勝 小田和裕 1999年</ref> :* [[軌間可変|軌間可変方式]] - 車両の構造が複雑になる欠点がある<ref name="kidou-housiki">ミニ新幹線における安全の形成 原拓志 2009年 p8</ref>。[[軌間可変電車]](フリーゲージトレイン)。 :* [[軌間#輪軸・台車交換|台車交換方式]] - 時間がかかりすぎる欠点がある<ref name="kidou-housiki"/>が、列車本数が少なく長距離運転を行う場合に有利である<ref name="cyokutu1988">新幹線と在来線の直通運転について 河合篤 1988年</ref>。 ; 軌道側で対応する方法「改軌方式」<ref name="freegage1999"/> :* 標準軌方式 - 速度向上が見込め、狭軌との軌道中心線が一致するので在来の地上施設を有効に活用できる一方、狭軌車両が走行できない<ref name="kidou-housiki"/>。 :* [[三線軌条|三線軌方式]] - 狭軌、標準軌双方の車両が走行できるが、軌道中心線がずれるので、[[プラットホーム|ホーム]]や[[トンネル]]、[[橋|橋梁]]といった構造物の改良が必要。複雑な三線軌分岐器が必要となる<ref name="kidou-housiki"/>。 :* [[三線軌条|四線軌方式]] - 狭軌、標準軌双方の車両が走行できるが、軌道の中心線が一致するので在来の地上施設を有効に活用できる一方、かなり複雑な四線軌分岐器が必要<ref name="kidou-housiki"/>。 :* [[単線並列|標準軌・狭軌単線並列方式]] - 工事費が廉価で複線区間のみ適用する。輸送量の多い線区では適用できない<ref name="cyokutu1988"/>。 これらのうち、1983年(昭和58年)、国鉄は軌道側で対応することにした。山形新幹線とその新庄延伸・秋田新幹線では標準軌方式を基本としつつ、各線の状況をや輸送を考えて三線軌方式、標準軌・狭軌単線並列方式を一部に取り入れた<ref name="houhou6-9"/>。利点および欠点は下記のとおりである。 === 利点 === ;規格の優位性 :* フル規格新幹線の建設では[[基本計画]]、整備計画、工事実施計画ときちんと手順を踏んでいく必要があり、すでに決められた他の区間を出し抜いて先に建設することができない。しかしミニ新幹線ではフル規格新幹線の計画にとらわれず早期に建設が可能である<ref name="riten">新幹線ネットワークはこうつくられた p135-136</ref>。 :* 建設費用が安い<ref name="riten"/>。 :* 並行在来線の経営分離問題が生じない<ref name="riten"/>。([[在来線#並行在来線]]、[[整備新幹線#並行在来線問題]]を参照) :* フル規格新幹線同様、東京駅での終着駅名が案内されるので終着駅の知名度向上効果が大きい<ref name="riten"/>。 :* [[標準軌]]の同じ線路を[[普通列車]]と新幹線直通列車が共有できるので(線路を別々ではなく1線にできるので)線路の維持費や保線コストが軽くなる。 ;利便性向上 :* [[乗換駅|接続駅]]での乗り換えが不要となる。つまり、直通運転の実施が可能となることで所要時間短縮や利用者の負担軽減を図れる<ref name="riten"/>。「新幹線直通運転化事業調査報告書(日本鉄道建設公団、2001年)」によると、「通常の乗り換え1回の解消は、乗車時間が30分程度短縮される効果と同等の価値を有する」と示されている<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20230718-shinkansenhakodate/ 『新幹線函館乗入れの調査費「捨てるようなもの」無知と誤解の原因は』] 杉山淳一 マイナビニュース 2023年7月18日 6:05掲載 2023年8月28日閲覧</ref>。 :* フル規格新幹線線路上では[[保線]]および[[騒音]]との兼ね合いから[[深夜]]帯の運行が自粛されているが、ミニ新幹線は[[軌間]]が異なるのみの在来線であるため、在来線区間では午前0時から午前6時の時間帯にも運行可能である。 <!--* 在来線特急扱いなので、特急料金も在来線に準ずる。([[秋田駅]]から[[盛岡駅]]までは1580円。ほぼ同じ距離の盛岡駅から[[くりこま高原駅]]までは自由席でも2640円になる)--><!--2022年春の改定のこともありコメントアウト--> === 欠点 === * 車両に搭載する機材は、フル規格区間とミニ新幹線区間の両方に対応する必要があり、車両コストが増加する。1988年(昭和63年)現在でミニ新幹線車両の定員1人当たりの車両費は、フル規格新幹線車両の約1.6倍、在来線車両の約3倍と想定されていた<ref>新幹線と在来線の直通運転について 河合篤 1988年</ref>。 *建設費用対効果が低い傾向にある。 ** "高規格専用線を改めて建設すること"に比べれば安価である一方で、標準軌化は全く高速化に寄与しないコストである。また、全線を一度に工事しなくてはならないため一度の投資額が大きく金利コストがかさむ。これに対し狭軌のままで同様の線形改良や軌道強化を行えば、さらに安価かつ交通の分断を伴わず高速化を実施できる。また、交通を分断しないため「少しずつ」改良することも可能であり、一度に大きな資金を用意する必要もない。 * ミニ新幹線区間での速度向上効果は限定的。 ** 最高速度・曲線通過速度ともに当該線区の在来線としての規格に制限されるため、ミニ新幹線区間における時間短縮は改軌に付随して行われる線形改良や軌道強化の度合いに依存する。 ** 改軌後も踏切を残置する場合には、これもまた最高速度を制限する要因となる。 * フル規格と比較して全長・全幅とも狭小である在来線規格の車両限界を採用しなければならないため、フル規格新幹線に比べて輸送力は低い。 ** フル規格区間ではホームと車両の間に隙間が空いてしまうため、停車時に張り出すステップを車両側に設置するなどの対策が必要となる。 * ミニ新幹線への工事期間中は、輸送力の減少が発生する。特に[[単線]]区間を改軌する場合は、列車の長期運休が避けられず、代替交通の確保が問題となる。 [[三線軌条]]化しない場合([[狭軌]]線路を併設せず、新幹線直通列車が走行する[[標準軌]]線路のみを敷設する場合)、以下の点も欠点となり得る。 * 狭軌在来線のネットワークを寸断するため、改軌区間と非改軌区間で直通列車の運行が不可能となる。 ** 当該区間と隣接する在来線においては、逆に乗り換えが必要となる利用者が発生する恐れがあり、サービスダウンとなる。 ** 災害等が発生した際に、貨物列車などの長距離列車の迂回路として利用できない。 * 新幹線車両に加えて、改軌区間用の在来線車両を用意する必要が生じる。 === 法令 === * [[全国新幹線鉄道整備法]]には暫定整備として下記のように定義している<ref>整備スキーム改善による幹線鉄道網における地域間交流活性化に関する定量的研究 波床正敏 中川大 2015</ref>。 {{Quotation|'''附則 第6条2''' 新幹線鉄道直通線 既設の鉄道の路線と同一の路線にその鉄道線路が敷設される鉄道であつて、その鉄道線路が新幹線鉄道の用に供されている鉄道線路に接続し、かつ、新幹線鉄道の列車が国土交通省令で定める速度で走行できる構造を有するもの}} == 課題とその解決 == まず[[踏切障害事故|踏切事故]]の問題がある。在来線区間では改良により速度が引き上げられた影響で[[貨物自動車|トラック]]が今まで通りのタイミング感覚で横断してミニ新幹線車両が急停車することが起きた。特に[[豪雪地帯]]の在来線では雪により線路を[[道路]]と誤認し鉄道車両に衝突する事故も起きやすく、実際にミニ新幹線車両と衝突事故が起きた。同様の理由で[[踏切|勝手踏切]]を渡る人や[[動物]]をはねる問題が起きた。さらに在来線が雪が降る地域だと、在来線を走行中に車両に付着した雪が、新幹線区間の高速走行中に落下、[[バラスト軌道|バラスト]]を巻き上げ、一番外側の窓ガラスに衝突しひびが入った。踏切事故対策として踏切を統廃合して少なくする、警報機、[[遮断機]]、[[踏切支障報知装置|非常ボタン]]を整備、[[自動車]]運転手への踏切視認性の向上(門型踏切、簡易門型踏切、オーバーハング型踏切の導入)、落下雪対策は雪落とし作業の追加とバラスト飛散防止スクリーンを設置した<ref>ミニ新幹線誕生物語 p32-34、p42-p44、p110-111</ref>。 ミニ新幹線車両(400系、E3系)は高速化により従来車([[国鉄485系電車|485系]]など)より出力が1.5から2倍ほど高く、変電所の変圧器の容量が不足したので強化を行った<ref>ミニ新幹線誕生物語 p111-p114</ref>。 主な運転保安規則(法令)の問題も起きた。新幹線と在来線とは全くと言っていいほど規制が違っていたためミニ新幹線に代表される新在直通は厄介であったが、[[2001年]](平成13年)12月25日に「[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令]]」として統合され、新在直通がしやすくなった<ref>ミニ新幹線誕生物語 p99-100</ref>。 == 路線 == === 採用された路線 === この方式で新在直通を図った路線として、[[2023年]]時点で[[山形新幹線]]([[奥羽本線]][[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[新庄駅]]間)と[[秋田新幹線]]([[田沢湖線]]・奥羽本線[[盛岡駅]] - [[秋田駅]]間)の2路線がある。前述のように「新幹線」と称しているものの、法的には在来線である。路線愛称の「新幹線」は山形新幹線の開業準備に入ってからである<ref>ミニ新幹線誕生物語 p3-5</ref>。 ; 山形県 - 山形新幹線(奥羽本線福島駅-新庄駅間) : 1986年(昭和61年)1月、山形県で開催される[[第47回国民体育大会|第47回国民体育大会「べにばな国体」]]に合わせてミニ新幹線の整備をできないかとの地元[[衆議院|代議士]]からの提案があった。1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化を経てJR東日本の経営判断により実現へ動き出した<ref>新幹線ネットワークはこう作られた p135</ref>。 :福島駅 - [[山形駅]]間は山形県とJR東日本が[[山形ジェイアール直行特急保有|山形ジェイアール直行特急保有株式会社]]を設立、国より[[補助金]]を受け完成させた施設と車両をJR東日本がリースで使用する方法をとった。山形駅- 新庄駅間は[[山形県観光開発公社|財団法人山形県観光開発公社]]が山形県から補助金、金融機関から融資を受けてJR東日本に全額無利子で貸し付けした<ref name="jigyouhousiki">ミニ新幹線誕生物語 p11-12</ref>。改軌区間で運転される[[貨物列車]]のために一部区間で[[三線軌条]]を敷設(後に廃止)し、山形駅 - 新庄駅間の改軌にあたっては山形駅 - [[羽前千歳駅]]間に乗り入れる[[仙山線]]や[[左沢線]]列車のために[[狭軌]]線路を併設のままで残存させた。この区間のローカル列車については、案内上[[山形線]]の名称を使用している。 ; 秋田県 - 秋田新幹線(田沢湖線・奥羽本線大曲駅-秋田駅間) : 設備改良は[[日本鉄道建設公団]]が[[新幹線鉄道保有機構|鉄道整備基金]]からの無利子貸し付けを受け、JR東日本に委託して施工した。完成後公団よりJR東日本が譲渡を受けた。秋田県とJR東日本が[[秋田新幹線車両保有|秋田県新幹線車両保有株式会社]]を設立、JR東日本にリースした<ref name="jigyouhousiki"/>。[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]] - 秋田駅間は奥羽本線の狭軌線路と[[単線並列]]の形とし、一部区間を三線軌条とするなどして運転の自由度を確保している。同区間では、営業列車としては[[新幹線直行特急]]のみ(非営業の回送列車として田沢湖線用のローカル列車用の車両が運転される)が[[標準軌]]の線路上を運行され、この区間のローカル列車は狭軌の線路を運行している。 これらの路線で運転される[[特別急行列車|特急列車]]「[[つばさ (列車)|つばさ]]」や「[[こまち (列車)|こまち]]」は、新幹線直行特急と呼ばれる。 === 構想されている・された路線 === {{出典の明記|section=1|date=2013年4月29日 (月) 03:14 (UTC)|ソートキー=鉄}} ; 北海道 : [[北海道新幹線函館駅乗り入れ構想]] - 2023年(令和5年)4月より[[北海道]][[函館市]]では、ミニ新幹線により[[新函館北斗駅]]から[[函館駅]]へ乗り入れる構想がある<ref>[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/837981/ 「新幹線の函館駅乗り入れ「実現したい」 次期市長の大泉氏 札幌直通にも意欲」]【北海道新聞】2023年4月26日付</ref>。 ; 山形県 : [[山形新幹線機能強化]]として、[[羽越本線高速化]](1997年〈平成9年〉)や[[陸羽西線]]ミニ新幹線化があがり、山形新幹線の酒田(2000年〈平成12年〉)や大曲(2003年〈平成15年〉3月)への延伸が具体的に構想されている。 ; 群馬県 : [[上越新幹線前橋駅乗り入れ構想]] - [[群馬県]]では、[[上越新幹線]][[高崎駅]]から[[両毛線]][[前橋駅]]への乗り入れ構想が浮上した。1990年(平成2年)に県とJR東日本との間で調査検討委員会を設置したが、進展は見られなかった。 ; 新潟県 : 2023年(令和5年)度より[[新潟県]]では、上越新幹線[[長岡駅]]から[[北陸新幹線]][[上越妙高駅]]の間を、信越本線をミニ新幹線化して結ぶ案と既存の信越本線をトンネルの設置により線形を改良する案が検討されている。 : なお、2003年(平成15年)から2009年(平成21年)にかけても同じ問題が議論され、[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]]の導入が候補としてあがっていた([[信越本線高速化]])。 ; 三重県 : [[三重新幹線構想]] - 1995年(平成7年)より[[三重県]]は鳥羽・新宮までミニ新幹線敷設を構想している。 ; 和歌山県 : 1992年(平成4年)1月1日、[[和歌山県]]でも、地元選出の代議士[[二階俊博]]を中心に、ミニ新幹線の導入構想明らかにした<ref>[https://web.archive.org/web/20151222112342/http://www.nikai.jp/library01/mot/freegagetrain/freegagetrain_1.htm 紀伊半島にミニ新幹線を 二階代議士 運輸省に検討依頼](リンク切れ。Weback Machineによる2015年12月22日11:23:42のアーカイブ)</ref>。 ; 香川県 : 山形新幹線が具体化した頃に、[[香川県]]は、[[瀬戸大橋線]]をミニ新幹線([[三線軌条|四線軌条]])化できないかと考えた。しかし、[[交直流電車|交直流型車両]]は値段が高く、採算レベルに乗らないという調査結果が出たため、断念した経緯がある。なお[[瀬戸大橋]]とその前後に限っては四線軌条化せずとも[[本四備讃線]]と[[四国新幹線#四国横断新幹線|四国横断新幹線]]の[[複々線]]を敷設できる空間が確保されている。 === 整備新幹線で構想された路線 === ==== 大蔵省による整備新幹線批判対応 ==== 1988(昭和63)年度予算編成作業中に[[大蔵省]][[主計官]]が整備新幹線建設を非難し膠着した。打開策として1988年(昭和63年)8月の運輸省によってフル規格新幹線、ミニ新幹線、スーパー特急の組み合わせで提示され、同年8月31日に政府・与党申し合わせにより整備内容が決定された。うちミニ新幹線整備区間は下記のとおりである。なお、どの線区でもフル規格実現への願望が強かった<ref>新幹線ネットワークはこうつくられた p124-126</ref>。 ; 東北新幹線 : 盛岡 - [[いわて沼宮内駅|沼宮内]]、[[八戸駅|八戸]] - [[青森駅|青森]] ; 北陸新幹線 : [[軽井沢駅|軽井沢]] - [[長野駅|長野]] ==== 西九州新幹線佐賀県区間対応 ==== [[九州新幹線 (整備新幹線)#西九州ルート|九州新幹線西九州ルート]] 新鳥栖駅 - 長崎駅間は一部在来線の[[長崎本線]]を挟む関係で[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急]]方式で建設され、後に武雄温泉駅 - 長崎駅間がフル規格に変更。さらにフリーゲージトレイン導入の計画、試験まで行われたが頓挫し、武雄温泉駅で乗り換えるリレー方式で武雄温泉駅 - 長崎駅間が[[西九州新幹線]]として暫定開業した。 == 開業効果 == === 山形新幹線 === 東京駅 - 山形駅間を最短3時間9分が2時間27分に短縮され、1995年(平成7年)に1両増結の7両編成化。5往復あった[[東京国際空港|羽田空港]] - [[山形空港]]の[[全日本空輸|全日空]]航空便は2002年(平成14年)10月31日に休止<ref name="kaigyou-kouka">ミニ新幹線における安全の形成 原拓志 2009年 p4-5</ref>。しかし[[日本エアシステム]](のちに[[日本航空]])が2003年(平成15年)4月1日より同路線1日1往復を再開。航空会社の自助努力のみでは維持・充実が困難な路線で、地域と航空会社による共同提案によって優れた路線に羽田空港の発着枠を配分する [[国土交通省]]の「[[羽田発着枠政策コンテスト]]」で1日2往復まで回復。キャンペーンや朝便と夜便が設定されたことで、ビジネス客の姿も多く見られるようになった<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/173903 新幹線vs.航空「30年戦争」の勝者はどちらか] 鳥海高太朗 東洋経済オンライン 2017年5月30日6:00更新 2023年7月28日閲覧</ref>。 === 秋田新幹線 === 東京駅 - 秋田駅間を最短4時間29分が3時間49分に短縮され、1998年(平成10年)に1両増結の6両編成化<ref name="kaigyou-kouka"/>。 == 車両 == === 車両特徴 === ==== 車体 ==== ミニ新幹線に用いる車両は在来線の[[車両限界]]で設計されている。車長は、フル規格新幹線車両の25mに対して、ミニ新幹線車両では20 - 23mであり、車幅は、3380mmに対して、2945mmとなっている。そのため、新幹線区間では、乗降口とホームとの間隔が開いてしまうため、折り畳み式のステップを車両の乗降ドアの下部に備える<ref>ミニ新幹線誕生物語 p15-17,p130-136</ref>。 ==== 分割併合装置 ==== [[大都市]]の新幹線ターミナル駅に乗り入れる場合は新幹線区間の[[線路容量]]、ターミナル駅の発着容量に不足をきたすから、[[多層建て列車]]にすることも考えなければいけない<ref>新幹線と在来線の直通運転について 河合篤 1988年</ref>。たとえば東京駅発着の場合、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - 東京駅がJR東日本関連の新幹線が集まる区間で、設定できる列車本数に限りがあることから、多層建て列車にできるよう東京側の先頭車には連結器カバー・[[連結器#電気連結器|電気連結器]]付き[[連結器#密着連結器|密着連結器]]・[[超音波]]測距装置、[[光波測距儀|レーザー測距]]装置で構成された自動分割併合装置が搭載されている。分割併合時は極力[[人手]]をかけないようにかつ基本的な列車防護ルール「一つの区間に2個列車が入らないようにする原則」を崩してしまうために、併結相手列車との距離を検知し絶対に衝突しないように設計し、安全性も確保している<ref>ミニ新幹線誕生物語 p137-139</ref>。 ==== 台車 ==== [[鉄道車両の台車|台車]]は、最新の新幹線車両と同じ[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]を採用しているが、在来線区間での急曲線の対応と新幹線区間での直進安定性を確保するため、前後の車輪の車軸の間の距離である[[ホイールベース|軸距]]を、フル規格新幹線の2,500mmに対して、2,250mmとしており、車輪の踏面形状は新幹線区間の60キロレールと在来線区間の50キロレールで長期的に安定して走れるよう摩耗の少ない形状「1/16新在円弧踏面」となっている<ref>ミニ新幹線誕生物語 p132-134</ref>。なお、E6系の場合では東北新幹線での320km/h運転に対応するために軸距を2500mm、従来の在来線特急電車の485系は2,100mm。 在来線区間の走行時はいかなる時でも600m以内に停止しなければいけないために、フル規格区間の走行時よりブレーキ力が大きくなるような設定を加えている<ref name="mini134">ミニ新幹線誕生物語 p134</ref>。 * 試作台車 - 鉄道総合技術研究所で行われていたミニ新幹線用の台車研究をベースに製作され、DT9030をベースにしたDT204/DT204Aが製作された。 ** DT9028 - コイルばね円錐ゴム併用式。 ** DT9029 - 円錐ゴム式。 ** DT9030 - 片板2枚支持板ゴム併用式。 * 400系 ** DT204 - 電動台車 ** DT204A - 電動台車 ** TR7006 - 付随台車 * E3系 ** DT207 - 電動台車 ** DT207A - 電動台車 ** DT207B - 電動台車 ** TR7005 - 付随台車 ** TR7005A - 付随台車 * E6系 ** DT210 - 電動台車 ** DT210A - 電動台車 ** TR7009 - 付随台車 ==== 主電動機 ==== [[主電動機]]は次の通り。400系のみ[[直流電動機|直流モーター]]を採用している。参考までに国鉄特急用電車485系はMT54形で120kW、国鉄東北新幹線用電車[[新幹線200系電車|200系]]はMT201形で出力は230kWでいずれも直流モーターである。 * 400系 ** MT203 - [[直巻整流子電動機]]。出力は210kW。 * E3系 ** MT205 - [[かご形三相誘導電動機]]。出力は300kW。 * E6系 ** MT207 - かご形三相誘導電動機。出力は300kW。 ==== 電力装置 ==== 電気方式も新幹線区間が交流2万5000[[ボルト (単位)|V]]に対して在来線区間は従来通り交流2万Vとなっているため、搭載されている主[[変圧器]]と[[主制御器]]は両電圧に対応した[[複電圧車|複電圧仕様]]である。また、補助電源装置などの補機用の電源となる主変圧器の三次巻線では、電圧変動が発生するため、三次巻線に三次電源タップ切替方式を採用して、架線電圧が切替わった際に、地上側に設置された地上子を受信後に切替用タップを作動させて三次巻線の電圧変動を抑えている。 [[集電装置|パンタグラフ]]は在来線区間の電車線の高低差の大きさに合わせて新幹線車両より大きく作られている<ref name="mini134"/>。 ==== 保安装置 ==== 保安装置についても新幹線区間の[[自動列車制御装置]] (ATC) と在来線区間の[[自動列車停止装置]] (ATS) の両方を搭載している<ref>ミニ新幹線誕生物語 p136</ref>。全線ATC化しなかった理由は線区のグレード、工事費や工事期間の抑制との経済的理由である<ref>ミニ新幹線における安全の形成 原拓志 2009年 p12</ref>。 === 営業用車両 === * [[新幹線E3系電車|E3系]]:1000番台と2000番台が山形新幹線で東北新幹線と直通する営業運転を行っている。また、L65編成のみ過去の塗装に変更(銀のつばさ)し運用されている。 * [[新幹線E6系電車|E6系]] : 秋田新幹線で使用されている。 * [[新幹線E8系電車|E8系]] : 山形新幹線で導入を予定 === 過去の営業用車両 === * E3系:0番台が秋田新幹線で使われていた。2013年4月から2014年3月まで順次E6系に置き換えられた。また、0番台のR18編成が700番台に改番、観光列車「'''とれいゆ'''」として改造された。「とれいゆ」は基本的には山形新幹線内のみで営業運転を行い、福島駅では在来線ホームに発着したが、団体専用列車で大宮駅を介して上野駅や新潟駅まで運用された。 * [[新幹線400系電車|400系]]:山形新幹線専用として使用していた。ミニ新幹線用として最初に投入された形式。2008年12月から2010年春までに順次E3系2000番台に置き換えられた。[[主電動機]](走行用モーター)に[[直流電動機]]を採用した最後の新幹線車両であり、フル規格新幹線区間で行われた275km/h試験では[[フラッシュオーバー#フラッシオーバー|フラッシュオーバー]](フラッシオーバー、閃絡:せんらく)が発生し、たびたび試験を中止をした。設計条件を超える速度での不具合はある意味では最適な設計であったと評価できる<ref>ミニ新幹線誕生物語 p151-p152</ref>。 === 試験車両・事業車両など === ==== 現役車両 ==== * [[新幹線E926形電車|E926形(EAST i)]] ==== 引退した車両 ==== * [[新幹線E955形電車|E955形(FASTECH 360 Z)]] * [[JR東日本クモヤ743形電車|クモヤ743形]] * [[JR東日本DD18形ディーゼル機関車|DD18形ディーゼル機関車]] * [[国鉄DD17形ディーゼル機関車|DD19形ディーゼル機関車]] == 工事方法 == 改軌は狭軌用枕木を標準軌用に交換する。工法として、人力法、軌きょう縦送り法、枕木交換法、軌道連続更新機法、ミニテックス法がある<ref>ミニ新幹線誕生物語 p71-88,93-95</ref>。 {{Main|改軌#改軌の工法}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * ミニ新幹線誕生物語-在来線との直通運転- ミニ新幹線執筆グループ 成山堂書店 2003年 {{ISBN2|978-4-425-76121-0}} * 髙松良晴『新幹線ネットワークはこうつくられた』交通新聞社新書、2017年 {{ISBN2|978-4330829173}} == 関連項目 == * [[軌間可変電車]](フリーゲージトレイン) * [[新幹線鉄道規格新線]](スーパー特急) {{日本の新幹線}} {{デフォルトソート:みにしんかんせん}} [[Category:新幹線]] [[Category:新幹線の路線|*みにしんかんせん]] [[Category:秋田新幹線]] [[Category:山形新幹線]]
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切符
切符(きっぷ)またはチケットとは、対価が支払い済みであることや購入・受給の権利を保証するための券片。本項では歴史用語の切符(きりふ)についても述べる。 乗車券、周遊券、回数券、さらに劇場などの入場券あるいは預り証をいう。 ちなみに、明治時代は切符並びに切符売りのことを「テケツ」と呼んでいた。これは英語のTicketが転訛したものである。 また、物不足の際の配給の受取書を指すこともある(配給切符)。このほか交通取締における違反切符などもある。 比喩的な表現として、大会や試合への出場権を得ることを指す場合がある。 日本史の用語としては中世の租税の割当文書(徴税令書)のこと切符(きりふ、きっぷ)といい、割符(さいふ)、切下文、切手とも言った。「切符」や「切手」は平安時代から用いられており、当時から手形の意味を持っていた。金融業者は切符をもとに国守や官長に貸した米などを取立てた。 10世紀から12世紀になると切符(きりふ)は、国家や寺院から所管する倉や所領に対しての米や銭の支払指図書となり、一定の流通性を持つようになった。特に12世紀には切符(きりふ)は金融業者の割引の対象となったが、13世紀には切符(きりふ)は流動性を失った。 なお、14世紀から15世紀には畿内の商人が割符(さいふ)と呼ばれる一種の手形を運用した。
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切符(きっぷ)またはチケットとは、対価が支払い済みであることや購入・受給の権利を保証するための券片。本項では歴史用語の切符(きりふ)についても述べる。
{{Otheruseslist|券片|イラストレーター|切符 (イラストレーター)|[[桂梅團治 (4代目)|4代目桂梅團治]]による鉄道落語の演目|切符 (落語)|三島由紀夫の短編小説|三島由紀夫#短編小説}} [[File:JR切符.jpg|thumb|[[JRグループ]]の切符]] '''切符'''(きっぷ)または'''チケット'''とは、対価が支払い済みであることや購入・受給の権利を保証するための券片。本項では歴史用語の切符(きりふ)についても述べる。 == 切符(きっぷ) == [[File:Buying Train tickets (4283268745).jpg|thumb|きっぷを買う]] 乗車券、周遊券、回数券、さらに劇場などの入場券あるいは預り証をいう<ref name="ruigigo">『類義語使い分け辞典: 日本語類似表現のニュアンスの違いを例証する』研究社、1998年、273頁</ref>。 {{main|乗車券|急行券|航空券|通行券|入場券}} ちなみに、[[明治]]時代は切符並びに切符売りのことを「'''テケツ'''」と呼んでいた。これは英語の{{en|Ticket}}が[[転訛]]したものである<ref>思わず人に話したくなる続・日本語知識辞典([[Gakken|学研]]) 109ページ</ref><ref>日本語雑記帳(岩波新書)テケツからチケットへ</ref>。 また、物不足の際の[[配給 (物資)|配給]]の受取書を指すこともある(配給切符)<ref name="ruigigo" />。このほか交通取締における[[違反切符]]などもある。 比喩的な表現として、大会や試合への出場権を得ることを指す場合がある。 == 切符(きりふ) == 日本史の用語としては中世の租税の割当文書(徴税令書)のこと切符(きりふ、きっぷ)といい、割符(さいふ)、切下文、[[切手]]とも言った<ref>秋山高志『〈シリーズ〉日本人の手習い基礎 古文書のことば(3訂版)』柏書房、2002年、38頁</ref><ref name="kuroda">{{Cite journal|和書|author=黒田重雄 |date=2017-06 |url=http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/3304 |title=日本のマーケティングは中世期に始まっていた:とくに,室町時代の重商主義の世界を中心にして |journal=北海学園大学経営論集 |ISSN=1348-6047 |publisher=北海学園大学経営学会 |volume=15 |issue=1 |pages=47-73 |naid=120006324410 |CRID=1050564287477488512}}</ref>。「切符」や「切手」は[[平安時代]]から用いられており、当時から[[手形]]の意味を持っていた<ref name="kuroda" />。金融業者は切符をもとに国守や官長に貸した米などを取立てた<ref name="kuroda" />。 10世紀から12世紀になると切符(きりふ)は、国家や寺院から所管する倉や所領に対しての米や銭の支払指図書となり、一定の流通性を持つようになった<ref name="shizume">{{Cite journal|和書|author=鎮目雅人 |date=2021-12 |url=https://www.jsmeweb.org/ja/journal/pdf/vol.44/vol44_05_shizume_full_ja.pdf |format=PDF |title=歴史からみた現代貨幣理論の適用可能性 : 日本の事例を中心に |journal=金融経済研究 |publisher=日本金融学会 |issue=44 |pages=115-130 |CRID=1520572407493872896}}</ref>。特に12世紀には切符(きりふ)は金融業者の[[手形割引|割引]]の対象となったが、13世紀には切符(きりふ)は流動性を失った<ref name="shizume" />。 なお、14世紀から15世紀には畿内の商人が割符(さいふ)と呼ばれる一種の手形を運用した<ref name="shizume" />。 {{see also|割符}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}}--> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tickets}} {{Wiktionary|きっぷ|キップ|切符|ticket}} * [[チケット]] * [[プリペイド]](先払い) * [[有価証券]] * [[自動券売機]] * [[軽犯罪法]] - 切符の購入に際して、罰則規定がある。 * [[配給 (物資)]] {{DEFAULTSORT:きつふ}} [[Category:チケット]]
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青春18きっぷ
青春18きっぷ(せいしゅんじゅうはちきっぷ)は、旅客鉄道会社全線(JR線)の普通列車・快速列車が5回または5人分利用可能な、販売および使用期間限定の特別企画乗車券である。本項では前身の青春18のびのびきっぷについても述べる。 日本国有鉄道(国鉄)旅客局が運賃増収策の一環として企画し、1982年(昭和57年)3月1日に「青春18のびのびきっぷ」として発売。1983年(昭和58年)春季発売分から現名称に改称した。 主に学生などの春季・夏季・冬季休暇期間を利用期間として発売され、原則として特急(新幹線を含む)・急行を除く旅客鉄道会社全線の普通列車・快速列車など、運賃のみで乗車できる列車に乗車することができる。 2019年(令和元年)冬季以降の販売価格は、5回(人)分で12,050円(消費税率10%化にともなう改定)。第1回発売時は8,000円で、のち10,000円に変更。1986年(昭和61年)冬季に11,000円に値上げされた後、1989年(平成元年)4月1日に消費税が導入(3%)されて11,300円に値上げ、その後同税の税率引き上げによる値上げが1997年(平成9年)4月(5%)に行われて11,500円に値上げ、2014年(平成26年)4月(8%)に行われて11,850円に値上げ、そして2019年10月(10%)に値上げが行われて上記の現行価格(12,050円)となっている(なお、後述のように2007年(平成19年)春季はJR発足20周年・青春18きっぷとして8,000円で発売)。主として学生向けの商品として企画されたが、利用者の年齢制限はなく、小児運賃の設定もない。 JRホテルグループの予約センターに宿泊を申し込み、当日現地で青春18きっぷを提示すると、ホテル宿泊料金の割引等が受けられるなどの特典が一部に設けられている(関連商品参照)。 「青春18きっぷ」の名称の由来については、当時国鉄旅客局長だった須田寬により、青少年・学生をイメージした「青春」と、その象徴的な年齢で「末広がりの8」にも通じる「18」を組み合わせたと、後年に須田が説明している。国鉄分割民営化後、JR各社を代表して東日本旅客鉄道(JR東日本)が1994年(平成6年)に商標登録(商標登録番号第3007644号)を行った。 利用期間は首都圏や西日本の学生がおおむね長期休暇(春休み・夏休み・冬休み)に入る期間で、その開始約10日前から終了日の10日前まで発売される。 秋季には設定されていないが、類似したシステムをもつ秋の乗り放題パス(2012年から。2011年までは鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ)が発売されている。 払い戻しは、利用期間内で5回とも未使用の場合に限り取扱箇所で行える(220円の払戻し手数料がかかる)。ただし利用期間が終了した後は未使用でも払い戻しは受けられない。また、いかなる理由でも一度使用開始した回(日)の取消はできず、払い戻しおよび利用期間の延長もできない。利用期間が終了したきっぷは5回使用していなくても無効となり、次の利用期間にまたがって使用することはできない。 1枚で、利用期間中の任意の日に5回まで利用できる。5回分は一度に連続して使用しなくてもよく、利用期間内であれば別々の日に1回ずつ使うことができる。1枚を複数人で同時に使うことも可能で、その場合は同一日に人数分の回数を使用することになる。ただし複数人で使用する場合、全員が同一旅程を同時に移動する必要があり、入場時から出場時までは集団で行動することになる。 自動改札機は利用できないため、改札通過の際は有人通路を利用する。 現行の様式となってからは、1枚の券面に5箇所ある乗車日記入欄への改札印の押印等による日付の記載により使用開始を示す方式を採用しており、各回とも最初に乗車する際に、有人駅の場合は有人改札の駅員が、無人駅においては乗車した列車の車掌(ワンマン運転の場合は、停車中に車掌業務を行う運転士)が乗車印と日付を記入する。 1回分は乗車日当日限り有効で、乗車日内(0時から24時までの間)であれば何度でも乗降・途中下車ができる。日付をまたいで運転する列車については、0時を過ぎて最初に停車する駅まで有効(0時をまたいで停車している列車はその停車駅まで有効)である。なおこれは「乗降可能な駅」のことであり、通過扱いとなる運転停車を行う駅はこれに該当しない。ただし、東京および大阪近郊の電車特定区間(大都市近郊区間ではない)では0時を過ぎても、終電まで有効である。 なお、乗車日の24時(翌日0時)以降、終電までに電車特定区間の駅と区間外の駅との間を乗車する場合は、電車特定区間の境界の駅と区間外の降車駅との間で有効な乗車券などが必要となる。 特別急行列車・急行列車には、上記の特例区間を除いて一切乗車できない(乗車券としての効力をもたない)。新幹線も全列車が特急扱いであり、特例もないため利用できない。 発売開始以来、JR線以外の会社線(私鉄・公営鉄道・第三セクター等の路線)では原則として使用することができず、JR線と会社線とを直通運転する列車を利用する場合でも会社線内の乗車区間についてはその区間に有効な乗車券類が別に必要となる。なお、えちごトキめき鉄道および肥薩おれんじ鉄道では、有効な青春18きっぷを提示することを条件として発売する企画乗車券が設定されている(後述)。 JRの子会社・関連会社・出資会社が運営する各路線(東京モノレール、東京臨海高速鉄道、東海交通事業、嵯峨野観光鉄道、JR九州高速船)、およびJRバス各線も利用できない。 接続していたJR線が新幹線の開業により並行在来線として経営分離・第三セクター化されたことでJR在来線との接続がなくなったJR線について、その路線の起点の駅につながる一部の第三セクター鉄道区間の普通列車・快速列車自由席を通過利用できる特例がある。あくまで「通過利用」であるため、いずれもJR線との接続駅以外の第三セクター鉄道区間内の駅では途中下車できない。途中下車した場合は、乗車した第三セクター鉄道全区間分の運賃を別途支払う必要がある。 なお利用規定には「JR線へ通過利用する場合」と明記されており、特例区間のみ乗車して接続するJR線に乗車しない場合や、特例区間外まで乗車する場合は乗車した第三セクター鉄道全区間分の運賃が必要となる。 八戸駅 - 野辺地駅 - 青森駅間を通過利用できる。ただし八戸、野辺地、青森の各駅で途中下車できる。 2010年12月4日に東北本線の青森駅 - 八戸駅間がJR東日本から青い森鉄道に経営分離された際、大湊線と八戸線は他のJR在来線との接続がなくなったため制定された。 高岡駅 - 富山駅間を通過利用できる。ただし高岡、富山の両駅で途中下車できる。また、ライナー券を別に購入すれば「あいの風ライナー」に乗車できる。 2015年3月14日に北陸本線の倶利伽羅駅 - 市振駅間がJR西日本からあいの風とやま鉄道に経営分離された際、城端線と氷見線は高岡駅において相互に接続する以外にJR在来線との接続がなくなったため制定された。 金沢駅 - 津幡駅間を通過利用できる。ただし金沢、津幡の両駅で途中下車できる。 2015年3月14日に、北陸本線の金沢駅 - 倶利伽羅駅間がJR西日本からIRいしかわ鉄道に経営分離された際、七尾線は他のJR在来線との接続がなくなったため制定された。 前述の通り、青春18きっぷは国鉄の増収策の一環として企画された。当時、国鉄内部では利用者層を青少年(学生)・中年(社会人・主婦)・老年と分けた場合、中年男性は出張などで長距離の利用が多いものの、それ以外の年齢層では比較的短距離の利用が多いと分析していた。 そこで、それらの層にも長距離の利用を勧めるためのトクトクきっぷを発売することとなった。老年向けには「フルムーン夫婦グリーンパス」を発売していた(中年女性向けには1983年から「ナイスミディパス」を発売)。 これらの成功を受けて、1982年から青春18きっぷの前身にあたる青春18のびのびきっぷの発売が開始された。「青春18」とある通り、青少年(学生)を主な発売対象としたきっぷであったが、開始当時から年齢制限はなかった。当時国鉄には、長距離区間を運転する普通列車が数多く存在し、民営化後のような合理化が進展しておらず、学校の長期休暇期間中、主要路線の普通列車はしばしば各地で長大編成の輸送力を持て余していた。そのような既存列車の輸送力を活用しながら、新たな需要を喚起することで、増収が狙われたのである。 発売当初は1日券3枚と2日券1枚(共に青い地紋)のセットで、価格は8,000円であった。また青少年の利用を意識して、バッグなどに貼付できるシール状の「青春18ワッペン」が付属していた。利用期間は3月1日から5月31日までで、ゴールデンウィークを含む(ただし、1982年当時5月4日は国民の休日・みどりの日のいずれでもないため飛石連休)。 夏季用は1日券4枚と2日券1枚のセットで10,000円となった。利用期間は7月20日から9月20日まで。冬季の設定なし。 1983年春季、青春18のびのびきっぷは青春18きっぷに改称された。利用期間は2月20日から4月10日までとなった。 1984年夏季用から1日券5枚となった。使用期間が1日短縮され、価格は10,000円のままであった。また、1984年から冬季用が発売された。冬季の利用期間は12月10日から翌年1月20日まで(2009年冬季用まで続く)。 1985年夏季用の利用期間は7月20日から9月10日までとなった(2015年夏季用継続中)。 1986年冬季に価格が11,000円に改定され、1989年夏季より消費税が導入されたことを受けて11,300円に改定された。1990年からマルス端末による発券が可能となった。 1993年春季用の利用期間は3月1日から4月10日までとなった(2015年春季用継続中)。 1996年春季より、現行のように、5回(人)分を1枚の券片にまとめた様式となった。複数人数で同時に使用する場合、前述したように、集合・解散が煩雑になり、全員が同じ行程で移動しなければならないという条件付きになった。種村直樹は、以前より旅行会社が上乗せして1枚ずつバラ売りしていたと自著の「種村直樹の新汽車旅相談室 トクトクきっぷ篇」でのべている。 JRの旅客営業規則において、旅行開始後の乗車券を他人から譲り受けて使用すると乗車券は無効(不正乗車)になることが定められているが、青春18きっぷについては、5枚つづりであったことに鑑み、5枚のきっぷをJRの都合によって1枚にまとめただけで各回の効力は独立しており、1回目のみを使用しても2回目以降は旅行開始前であると、一部書籍では説明されている。しかし、1回目の旅行開始できっぷ全体について旅行開始後となり、1回目の使用者とは別の人が譲り受けて2回目以降を使用するのは不正乗車とする意見もある。「複数人数の場合は同一行程」の条件の解釈に差異があると言えるが、1枚になった理由についてJRから公式の発表はない。 1997年夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,500円に改定された。 2004年冬季から、普通・快速列車のグリーン車自由席に限り、グリーン券を別に購入することで利用できるようになった。同年10月のダイヤ改正に伴って実施されたJR東日本におけるグリーン車の制度変更によるものである。 2007年にはJR各社が発足20周年を迎えたのを記念し、春季のみJR発足20周年・青春18きっぷが発売開始時の価格と同じ8,000円(乗車できる列車・回数などは通常のものと同じ)で発売された。 当乗車券の発売・利用期間は1993年から2009年まで固定されていたが、2010年冬季から発売期間が12月1日 - 31日、利用期間が12月10日 - 翌年1月10日と10日間短縮され、また東北本線の八戸駅 - 青森駅間の青い森鉄道への移管を受けて、青い森鉄道線に青春18きっぷで乗車できる特例が設けられた。 2014年夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,850円に改定された。 2019年冬季から消費税の税率変更に伴い、価格が12,050円に改定された。 青春18きっぷは1日単位(24時間)で有効の形式を取っているため、夜間の長距離移動については、当きっぷ発売以前から運行されていた夜行普通列車に加え、1980年代後半以降に全国各地で「ムーンライト」など、当きっぷでも利用可能な夜行列車が運行されてきた。しかし、2000年10月に紀勢本線で廃止されたのを最後に、夜行普通列車は消滅した。2005年以降は「ムーンライト」についても次第に運行されなくなる列車が増え、2009年春のダイヤ改正で「ムーンライトえちご」および「ムーンライトながら」が臨時化されたことにより、定期運行が無くなった。両列車は臨時列車として運行が続けられたが「ムーンライトえちご」は2014年春季を最後に設定されておらず、「ムーンライトながら」も2020年春期を最後に運行されないまま2021年に運行終了が発表された。 2000年代における販売枚数は、JR東日本によると、前半から中盤は毎年25万枚から30万枚で、2007年は35万枚以上の販売実績があった。朝日新聞コラムの引用によると、JR全体では2013年度67万枚となっている。その後も発売枚数は伸びており、JR全体では2015年度は71万枚で、70万枚を超えたのは2009年度以来となった。 かつて、一部駅の窓口では、赤い地紋の用紙に印刷された常備券での販売が行われ、鉄道ファンの間でナマ券・赤券と呼ばれた。常備券とマルス端末発行の券で効力は同等であるが、貴重あるいは風情があるとしてファンの間で人気があり、遠方から常備券を扱う駅まで購入しに行く者や、現金書留を用いて購入する者もいた。 本券はみどりの窓口が設置されていない駅で発売された事例が多いが、高松駅(JR四国)など例外もあった。 最後まで発売していたJR西日本・JR四国が2016年冬季をもって取り扱いを終了し、廃止された。 JR各社のみどりの窓口や一部のきっぷうりば、旅行会社などで発売されている。また、JR各社の指定席券売機(一部の設置駅を除く)でも発売されている。 青春18きっぷ発売時期にあわせて、以下の事業者では企画乗車券の発売や割引サービスなどを実施している。 上記のほか、ジェイアール四国バスが運行する高速バスなんごくエクスプレスでは青春18きっぷの呈示により1回乗車あたり1000円でのバス利用が可能。なお割引の適用は「1回目の利用開始後の当日から5回目の利用日、5回利用していなければ購入期の最終利用可能日」の間で、この条件を満たせば当日の改札印がなくても利用できる。 過去には北近畿タンゴ鉄道が、2007年春から2009年1月までの間、青春18きっぷを呈示すると全線の乗降が自由となる「KTR青春フリーきっぷ」を500円で発売していた。また関釜フェリーでは、青春18きっぷを呈示すると割引となる。 青春18きっぷを活用する方法などを記した書籍は多数出版されている。多くはルールの解説や便利な列車の紹介、モデルコースの案内などで構成されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "青春18きっぷ(せいしゅんじゅうはちきっぷ)は、旅客鉄道会社全線(JR線)の普通列車・快速列車が5回または5人分利用可能な、販売および使用期間限定の特別企画乗車券である。本項では前身の青春18のびのびきっぷについても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道(国鉄)旅客局が運賃増収策の一環として企画し、1982年(昭和57年)3月1日に「青春18のびのびきっぷ」として発売。1983年(昭和58年)春季発売分から現名称に改称した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主に学生などの春季・夏季・冬季休暇期間を利用期間として発売され、原則として特急(新幹線を含む)・急行を除く旅客鉄道会社全線の普通列車・快速列車など、運賃のみで乗車できる列車に乗車することができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2019年(令和元年)冬季以降の販売価格は、5回(人)分で12,050円(消費税率10%化にともなう改定)。第1回発売時は8,000円で、のち10,000円に変更。1986年(昭和61年)冬季に11,000円に値上げされた後、1989年(平成元年)4月1日に消費税が導入(3%)されて11,300円に値上げ、その後同税の税率引き上げによる値上げが1997年(平成9年)4月(5%)に行われて11,500円に値上げ、2014年(平成26年)4月(8%)に行われて11,850円に値上げ、そして2019年10月(10%)に値上げが行われて上記の現行価格(12,050円)となっている(なお、後述のように2007年(平成19年)春季はJR発足20周年・青春18きっぷとして8,000円で発売)。主として学生向けの商品として企画されたが、利用者の年齢制限はなく、小児運賃の設定もない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JRホテルグループの予約センターに宿泊を申し込み、当日現地で青春18きっぷを提示すると、ホテル宿泊料金の割引等が受けられるなどの特典が一部に設けられている(関連商品参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「青春18きっぷ」の名称の由来については、当時国鉄旅客局長だった須田寬により、青少年・学生をイメージした「青春」と、その象徴的な年齢で「末広がりの8」にも通じる「18」を組み合わせたと、後年に須田が説明している。国鉄分割民営化後、JR各社を代表して東日本旅客鉄道(JR東日本)が1994年(平成6年)に商標登録(商標登録番号第3007644号)を行った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "利用期間は首都圏や西日本の学生がおおむね長期休暇(春休み・夏休み・冬休み)に入る期間で、その開始約10日前から終了日の10日前まで発売される。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "秋季には設定されていないが、類似したシステムをもつ秋の乗り放題パス(2012年から。2011年までは鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ)が発売されている。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "払い戻しは、利用期間内で5回とも未使用の場合に限り取扱箇所で行える(220円の払戻し手数料がかかる)。ただし利用期間が終了した後は未使用でも払い戻しは受けられない。また、いかなる理由でも一度使用開始した回(日)の取消はできず、払い戻しおよび利用期間の延長もできない。利用期間が終了したきっぷは5回使用していなくても無効となり、次の利用期間にまたがって使用することはできない。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1枚で、利用期間中の任意の日に5回まで利用できる。5回分は一度に連続して使用しなくてもよく、利用期間内であれば別々の日に1回ずつ使うことができる。1枚を複数人で同時に使うことも可能で、その場合は同一日に人数分の回数を使用することになる。ただし複数人で使用する場合、全員が同一旅程を同時に移動する必要があり、入場時から出場時までは集団で行動することになる。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "自動改札機は利用できないため、改札通過の際は有人通路を利用する。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現行の様式となってからは、1枚の券面に5箇所ある乗車日記入欄への改札印の押印等による日付の記載により使用開始を示す方式を採用しており、各回とも最初に乗車する際に、有人駅の場合は有人改札の駅員が、無人駅においては乗車した列車の車掌(ワンマン運転の場合は、停車中に車掌業務を行う運転士)が乗車印と日付を記入する。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1回分は乗車日当日限り有効で、乗車日内(0時から24時までの間)であれば何度でも乗降・途中下車ができる。日付をまたいで運転する列車については、0時を過ぎて最初に停車する駅まで有効(0時をまたいで停車している列車はその停車駅まで有効)である。なおこれは「乗降可能な駅」のことであり、通過扱いとなる運転停車を行う駅はこれに該当しない。ただし、東京および大阪近郊の電車特定区間(大都市近郊区間ではない)では0時を過ぎても、終電まで有効である。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、乗車日の24時(翌日0時)以降、終電までに電車特定区間の駅と区間外の駅との間を乗車する場合は、電車特定区間の境界の駅と区間外の降車駅との間で有効な乗車券などが必要となる。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "特別急行列車・急行列車には、上記の特例区間を除いて一切乗車できない(乗車券としての効力をもたない)。新幹線も全列車が特急扱いであり、特例もないため利用できない。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "発売開始以来、JR線以外の会社線(私鉄・公営鉄道・第三セクター等の路線)では原則として使用することができず、JR線と会社線とを直通運転する列車を利用する場合でも会社線内の乗車区間についてはその区間に有効な乗車券類が別に必要となる。なお、えちごトキめき鉄道および肥薩おれんじ鉄道では、有効な青春18きっぷを提示することを条件として発売する企画乗車券が設定されている(後述)。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "JRの子会社・関連会社・出資会社が運営する各路線(東京モノレール、東京臨海高速鉄道、東海交通事業、嵯峨野観光鉄道、JR九州高速船)、およびJRバス各線も利用できない。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "接続していたJR線が新幹線の開業により並行在来線として経営分離・第三セクター化されたことでJR在来線との接続がなくなったJR線について、その路線の起点の駅につながる一部の第三セクター鉄道区間の普通列車・快速列車自由席を通過利用できる特例がある。あくまで「通過利用」であるため、いずれもJR線との接続駅以外の第三セクター鉄道区間内の駅では途中下車できない。途中下車した場合は、乗車した第三セクター鉄道全区間分の運賃を別途支払う必要がある。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なお利用規定には「JR線へ通過利用する場合」と明記されており、特例区間のみ乗車して接続するJR線に乗車しない場合や、特例区間外まで乗車する場合は乗車した第三セクター鉄道全区間分の運賃が必要となる。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "八戸駅 - 野辺地駅 - 青森駅間を通過利用できる。ただし八戸、野辺地、青森の各駅で途中下車できる。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2010年12月4日に東北本線の青森駅 - 八戸駅間がJR東日本から青い森鉄道に経営分離された際、大湊線と八戸線は他のJR在来線との接続がなくなったため制定された。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "高岡駅 - 富山駅間を通過利用できる。ただし高岡、富山の両駅で途中下車できる。また、ライナー券を別に購入すれば「あいの風ライナー」に乗車できる。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2015年3月14日に北陸本線の倶利伽羅駅 - 市振駅間がJR西日本からあいの風とやま鉄道に経営分離された際、城端線と氷見線は高岡駅において相互に接続する以外にJR在来線との接続がなくなったため制定された。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "金沢駅 - 津幡駅間を通過利用できる。ただし金沢、津幡の両駅で途中下車できる。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2015年3月14日に、北陸本線の金沢駅 - 倶利伽羅駅間がJR西日本からIRいしかわ鉄道に経営分離された際、七尾線は他のJR在来線との接続がなくなったため制定された。", "title": "利用規定" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "前述の通り、青春18きっぷは国鉄の増収策の一環として企画された。当時、国鉄内部では利用者層を青少年(学生)・中年(社会人・主婦)・老年と分けた場合、中年男性は出張などで長距離の利用が多いものの、それ以外の年齢層では比較的短距離の利用が多いと分析していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そこで、それらの層にも長距離の利用を勧めるためのトクトクきっぷを発売することとなった。老年向けには「フルムーン夫婦グリーンパス」を発売していた(中年女性向けには1983年から「ナイスミディパス」を発売)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これらの成功を受けて、1982年から青春18きっぷの前身にあたる青春18のびのびきっぷの発売が開始された。「青春18」とある通り、青少年(学生)を主な発売対象としたきっぷであったが、開始当時から年齢制限はなかった。当時国鉄には、長距離区間を運転する普通列車が数多く存在し、民営化後のような合理化が進展しておらず、学校の長期休暇期間中、主要路線の普通列車はしばしば各地で長大編成の輸送力を持て余していた。そのような既存列車の輸送力を活用しながら、新たな需要を喚起することで、増収が狙われたのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "発売当初は1日券3枚と2日券1枚(共に青い地紋)のセットで、価格は8,000円であった。また青少年の利用を意識して、バッグなどに貼付できるシール状の「青春18ワッペン」が付属していた。利用期間は3月1日から5月31日までで、ゴールデンウィークを含む(ただし、1982年当時5月4日は国民の休日・みどりの日のいずれでもないため飛石連休)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "夏季用は1日券4枚と2日券1枚のセットで10,000円となった。利用期間は7月20日から9月20日まで。冬季の設定なし。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1983年春季、青春18のびのびきっぷは青春18きっぷに改称された。利用期間は2月20日から4月10日までとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1984年夏季用から1日券5枚となった。使用期間が1日短縮され、価格は10,000円のままであった。また、1984年から冬季用が発売された。冬季の利用期間は12月10日から翌年1月20日まで(2009年冬季用まで続く)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1985年夏季用の利用期間は7月20日から9月10日までとなった(2015年夏季用継続中)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1986年冬季に価格が11,000円に改定され、1989年夏季より消費税が導入されたことを受けて11,300円に改定された。1990年からマルス端末による発券が可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1993年春季用の利用期間は3月1日から4月10日までとなった(2015年春季用継続中)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1996年春季より、現行のように、5回(人)分を1枚の券片にまとめた様式となった。複数人数で同時に使用する場合、前述したように、集合・解散が煩雑になり、全員が同じ行程で移動しなければならないという条件付きになった。種村直樹は、以前より旅行会社が上乗せして1枚ずつバラ売りしていたと自著の「種村直樹の新汽車旅相談室 トクトクきっぷ篇」でのべている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "JRの旅客営業規則において、旅行開始後の乗車券を他人から譲り受けて使用すると乗車券は無効(不正乗車)になることが定められているが、青春18きっぷについては、5枚つづりであったことに鑑み、5枚のきっぷをJRの都合によって1枚にまとめただけで各回の効力は独立しており、1回目のみを使用しても2回目以降は旅行開始前であると、一部書籍では説明されている。しかし、1回目の旅行開始できっぷ全体について旅行開始後となり、1回目の使用者とは別の人が譲り受けて2回目以降を使用するのは不正乗車とする意見もある。「複数人数の場合は同一行程」の条件の解釈に差異があると言えるが、1枚になった理由についてJRから公式の発表はない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1997年夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,500円に改定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2004年冬季から、普通・快速列車のグリーン車自由席に限り、グリーン券を別に購入することで利用できるようになった。同年10月のダイヤ改正に伴って実施されたJR東日本におけるグリーン車の制度変更によるものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2007年にはJR各社が発足20周年を迎えたのを記念し、春季のみJR発足20周年・青春18きっぷが発売開始時の価格と同じ8,000円(乗車できる列車・回数などは通常のものと同じ)で発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "当乗車券の発売・利用期間は1993年から2009年まで固定されていたが、2010年冬季から発売期間が12月1日 - 31日、利用期間が12月10日 - 翌年1月10日と10日間短縮され、また東北本線の八戸駅 - 青森駅間の青い森鉄道への移管を受けて、青い森鉄道線に青春18きっぷで乗車できる特例が設けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2014年夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,850円に改定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2019年冬季から消費税の税率変更に伴い、価格が12,050円に改定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "青春18きっぷは1日単位(24時間)で有効の形式を取っているため、夜間の長距離移動については、当きっぷ発売以前から運行されていた夜行普通列車に加え、1980年代後半以降に全国各地で「ムーンライト」など、当きっぷでも利用可能な夜行列車が運行されてきた。しかし、2000年10月に紀勢本線で廃止されたのを最後に、夜行普通列車は消滅した。2005年以降は「ムーンライト」についても次第に運行されなくなる列車が増え、2009年春のダイヤ改正で「ムーンライトえちご」および「ムーンライトながら」が臨時化されたことにより、定期運行が無くなった。両列車は臨時列車として運行が続けられたが「ムーンライトえちご」は2014年春季を最後に設定されておらず、「ムーンライトながら」も2020年春期を最後に運行されないまま2021年に運行終了が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2000年代における販売枚数は、JR東日本によると、前半から中盤は毎年25万枚から30万枚で、2007年は35万枚以上の販売実績があった。朝日新聞コラムの引用によると、JR全体では2013年度67万枚となっている。その後も発売枚数は伸びており、JR全体では2015年度は71万枚で、70万枚を超えたのは2009年度以来となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "かつて、一部駅の窓口では、赤い地紋の用紙に印刷された常備券での販売が行われ、鉄道ファンの間でナマ券・赤券と呼ばれた。常備券とマルス端末発行の券で効力は同等であるが、貴重あるいは風情があるとしてファンの間で人気があり、遠方から常備券を扱う駅まで購入しに行く者や、現金書留を用いて購入する者もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "本券はみどりの窓口が設置されていない駅で発売された事例が多いが、高松駅(JR四国)など例外もあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "最後まで発売していたJR西日本・JR四国が2016年冬季をもって取り扱いを終了し、廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "JR各社のみどりの窓口や一部のきっぷうりば、旅行会社などで発売されている。また、JR各社の指定席券売機(一部の設置駅を除く)でも発売されている。", "title": "発売箇所" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "青春18きっぷ発売時期にあわせて、以下の事業者では企画乗車券の発売や割引サービスなどを実施している。", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "上記のほか、ジェイアール四国バスが運行する高速バスなんごくエクスプレスでは青春18きっぷの呈示により1回乗車あたり1000円でのバス利用が可能。なお割引の適用は「1回目の利用開始後の当日から5回目の利用日、5回利用していなければ購入期の最終利用可能日」の間で、この条件を満たせば当日の改札印がなくても利用できる。", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "過去には北近畿タンゴ鉄道が、2007年春から2009年1月までの間、青春18きっぷを呈示すると全線の乗降が自由となる「KTR青春フリーきっぷ」を500円で発売していた。また関釜フェリーでは、青春18きっぷを呈示すると割引となる。", "title": "関連商品" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "青春18きっぷを活用する方法などを記した書籍は多数出版されている。多くはルールの解説や便利な列車の紹介、モデルコースの案内などで構成されている。", "title": "関連商品" } ]
青春18きっぷ(せいしゅんじゅうはちきっぷ)は、旅客鉄道会社全線(JR線)の普通列車・快速列車が5回または5人分利用可能な、販売および使用期間限定の特別企画乗車券である。本項では前身の青春18のびのびきっぷについても述べる。
[[ファイル:青春18切符.jpg|サムネイル|青春18きっぷ]] '''青春18きっぷ'''(せいしゅんじゅうはちきっぷ)は、旅客鉄道会社全線([[JR線]])の[[普通列車]]・[[快速列車]]が5回または5人分利用可能な<ref>{{Cite web|和書|title=青春18きっぷ|お得なきっぷ詳細情報|JR東海|url=https://railway.jr-central.co.jp/tickets/youth18-ticket/|website=railway.jr-central.co.jp|accessdate=2019-11-19}}</ref>、販売および使用期間限定の[[特別企画乗車券]]である。本項では前身の'''青春18のびのびきっぷ'''についても述べる。 == 概要 == [[日本国有鉄道]](国鉄)旅客局が運賃増収策の一環として企画し、[[1982年]]([[昭和]]57年)[[3月1日]]に「青春18のびのびきっぷ」として発売。[[1983年]](昭和58年)春季発売分から現名称に改称した。 主に[[在籍者 (学習者)|学生]]などの春季・夏季・冬季休暇期間を利用期間として発売され{{Sfn|谷崎|2019|p=24}}、原則として[[特別急行列車|特急]]([[新幹線]]を含む)・[[急行列車|急行]]を除く旅客鉄道会社全線の普通列車・快速列車など、運賃のみで乗車できる列車に乗車することができる<ref name="土屋2019pp126-130">{{Cite book|和書|author= 土屋武之|authorlink=土屋武之|year = 2017|title = 新きっぷのルールハンドブック|publisher = [[実業之日本社]]|isbn = 4408456462|pages = 126-130}}</ref>。 [[2019年]]([[令和]]元年)冬季以降の販売価格は、5回(人)分で12,050円<ref>{{Cite web|和書|title=青春18きっぷ|お得なきっぷ詳細情報|JR東海|url=https://railway.jr-central.co.jp/tickets/youth18-ticket/|website=railway.jr-central.co.jp|accessdate=2019-11-19}}</ref>([[消費税法|消費税率10%化]]にともなう改定)。第1回発売時は8,000円で、のち10,000円に変更。[[1986年]](昭和61年)冬季に11,000円に値上げされた後、[[1989年]]([[平成]]元年)[[4月1日]]に[[消費税]]が導入(3%)されて11,300円に値上げ、その後同税の税率引き上げによる値上げが[[1997年]](平成9年)[[4月]](5%)に行われて11,500円に値上げ、[[2014年]](平成26年)4月(8%)に行われて11,850円に値上げ、そして2019年[[10月]](10%)に値上げが行われて上記の現行価格(12,050円)となっている(なお、後述のように2007年(平成19年)春季はJR発足20周年・青春18きっぷとして8,000円で発売<ref>https://www.jreast.co.jp/press/2006_2/20070206.pdf</ref>)。主として学生向けの商品として企画されたが、利用者の年齢制限はなく、小児運賃の設定もない。 [[JRホテルグループ]]の予約センターに宿泊を申し込み、当日現地で青春18きっぷを提示すると、ホテル宿泊料金の割引等が受けられる<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/nws001157.html 「青春18きっぷ」(春季)の発売について] - JR東海</ref>などの特典が一部に設けられている([[#関連商品|関連商品]]参照)。 「青春18きっぷ」の名称の由来については、当時国鉄旅客局長だった[[須田寬]]により、青少年・学生をイメージした「[[青春]]」と、その象徴的な年齢で「末広がりの8」にも通じる「18」を組み合わせたと、後年に須田が説明している<ref name="中尾一樹">{{Cite book|和書|author= 中尾一樹|authorlink=中尾一樹|year = 1997|title = 青春18きっぷ完全攻略ガイド|publisher = [[イカロス出版]]|isbn = 978-4-87149-1044}}</ref>。[[国鉄分割民営化]]後、[[JR]]各社を代表して[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が[[1994年]](平成6年)に[[商標登録]](商標登録番号第3007644号)を行った。 == 利用規定 == {{出典の明記| date = 2014年5月| section = 1}} === 発売期間・利用期間 === 利用期間は首都圏や西日本の学生がおおむね長期休暇([[春休み]]・[[夏休み]]・[[冬休み]])に入る期間で{{Sfn|谷崎|2019|p=24}}、その開始約10日前から終了日の10日前まで発売される。 * 春季<ref name="000025169.pdf">{{PDFlink|[http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000025169.pdf 「青春18きっぷ」の発売について]}} - JRグループプレスリリース</ref> ** 発売期間:[[2月20日]] - [[3月31日]] ** 利用期間:[[3月1日]] - [[4月10日]] * 夏季{{R|000025169.pdf}} ** 発売期間:[[7月1日]] - [[8月31日]] ** 利用期間:[[7月20日]] - [[9月10日]] * 冬季{{R|000025169.pdf}} ** 発売期間:[[12月1日]] - [[12月31日]] ** 利用期間:[[12月10日]] - [[1月10日]] 秋季には設定されていないが、類似したシステムをもつ[[鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ#秋の乗り放題パス|秋の乗り放題パス]](2012年<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2012/20120809.pdf 「秋の乗り放題パス」の発売について]}} - JRグループプレスリリース</ref>から<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20130907.pdf 「秋の乗り放題パス」の発売について]}} - JRグループプレスリリース</ref>。2011年までは[[鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ]])が発売されている。 払い戻しは、利用期間内で5回とも未使用の場合に限り取扱箇所で行える(220円の払戻し手数料がかかる<ref>[http://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?t0=2&GoodsCd=2125 JR東日本おトクなきっぷ]</ref>)。ただし利用期間が終了した後は未使用でも払い戻しは受けられない。また、いかなる理由でも一度使用開始した回(日)の取消はできず、払い戻しおよび利用期間の延長もできない。利用期間が終了したきっぷは5回使用していなくても無効となり、次の利用期間にまたがって使用することはできない。 === 効力 === 1枚で、利用期間中の任意の日に5回まで利用できる{{Sfn|谷崎|2019|p=29}}。5回分は一度に連続して使用しなくてもよく、利用期間内であれば別々の日に1回ずつ使うことができる{{Sfn|谷崎|2019|p=29}}。1枚を複数人で同時に使うことも可能で{{Sfn|谷崎|2019|p=29}}、その場合は同一日に人数分の回数を使用することになる。ただし複数人で使用する場合、全員が同一旅程を同時に移動する必要があり、入場時から出場時までは集団で行動することになる<ref name="土屋2019pp126-130"/>。 [[自動改札機]]は利用できないため<!--日付記入時以外も使用不可。-->、改札通過の際は有人通路を利用する。 現行の様式となってからは、1枚の券面に5箇所ある乗車日記入欄への改札印の押印等による日付の記載により使用開始を示す方式を採用しており、各回とも最初に乗車する際に、有人駅の場合は[[改札#改札口|有人改札]]の駅員が、無人駅においては乗車した列車の[[車掌]](ワンマン運転の場合は、停車中に車掌業務を行う[[運転士#鉄道の運転士|運転士]])が乗車印と日付を記入する{{Sfn|谷崎|2019|p=29}}。 1回分は乗車日当日限り有効で、乗車日内(0時から24時までの間)であれば何度でも乗降・途中下車ができる。日付をまたいで運転する列車については、0時を過ぎて最初に停車する駅まで有効(0時をまたいで停車している列車はその停車駅まで有効)である{{Sfn|谷崎|2019|p=36}}。なおこれは「乗降可能な駅」のことであり、通過扱いとなる運転停車を行う駅はこれに該当しない<ref group="注">例えば、2009年に廃止になった快速「[[ムーンライト九州]]」は日付変更前に[[厚狭駅]]を出発し、日付変更後に[[広島駅]]で運転停車していたが、[[岡山駅]]までは乗降できなかったので同駅まで有効とされていた。</ref>。ただし、東京および大阪近郊の[[電車特定区間]]([[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]ではない)では0時を過ぎても、[[終電]]まで有効である{{Sfn|谷崎|2019|p=36}}<!--が、年に1回の[[終夜運転]]を実施する路線は(終電がないため)電車特定区間であっても、0時を過ぎて最初に停車する駅まで有効となっている←ソースを提示してください-->。 なお、乗車日の24時(翌日0時)以降、終電までに電車特定区間の駅と区間外の駅との間を乗車する場合は、電車特定区間の境界の駅と区間外の降車駅との間で有効な[[乗車券]]などが必要となる<ref group="注">このことから、特に夜行列車を利用する旅客にとって(前日夜に乗車してから日付が変わるまでの区間において)青春18きっぷを2回分使用したほうが得か否かは、その列車が0時を過ぎて最初に停車する駅によって左右される。例えば[[2007年]]のダイヤ改正において、下り「[[ムーンライトながら]]」([[2009年]]3月ダイヤ改正から臨時列車化、2020年夏以降は運休、[[2021年]]3月改正で運行再開することなく廃止)の日付変更駅は[[横浜駅]]から[[小田原駅]]へと大きく移動した。<!--話題になったことについて出典がないので削除し、時刻表に基づく、事実のみ記載。--></ref>。 === 利用できる路線・列車 === * 旅客鉄道会社線(JR線)[[普通列車]]・[[快速列車]]の[[普通車 (鉄道車両)|普通車]][[自由席]] ** 快速列車には[[特別快速]]、[[新快速]]等を含む。普通車もしくはグリーン車自由席であれば[[列車名]]のある列車も乗車可能。 ** 特急用車両であっても、快速列車や普通列車としての運行であれば乗車可能。([[東海道線 (静岡地区)]]での[[JR東海373系電車|373系]]など) ** JR線であれば私鉄車両を使用した列車([[只見線]]の[[西若松駅]] - [[会津若松駅]]間、[[岩徳線]]の[[川西駅]] - [[岩国駅]]間など)も利用可能である。 <!--[[東京メトロ千代田線]]の[[北千住駅]] - [[綾瀬駅]]間は七尾線や只見線と違ってJRの事業ではない区間を特例的にJR運賃とみなす場合があるのみであり、利用できることが自明ではないので「18きっぷが使用できる」旨の出典を示せない限り書かないでください--> ** 普通車[[座席指定席|指定席]]には、別に[[指定席券]]を購入すれば乗車できる。また、[[乗車整理券]]やライナー券が必要な列車(2023年時点でJR東海の[[ホームライナー]]のみ)についても、それらを購入することで利用できる。 *** ただし、関西圏における新快速の[[新快速#Aシート|Aシート]](指定席)は、[[e5489]]サービスでのチケットレス指定席券との併用はできない<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220429135011/https://faq.jr-odekake.net/faq_detail.html?id=10206|url=https://faq.jr-odekake.net/faq_detail.html?id=10206|archivedate=2022-04-29|accessdate=2022-04-29|date=|title=新快速「Aシート」は「青春18きっぷ」で利用できますか。|publisher=西日本旅客鉄道}}</ref><ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220429135154/https://tickets.jr-odekake.net/shohindb/view/consumer/tokutoku/detail.html?shnId=121000253|url=https://tickets.jr-odekake.net/shohindb/view/consumer/tokutoku/detail.html?shnId=121000253|archivedate=2022-04-29|accessdate=2022-04-29|date=|title=【e5489専用】チケットレス指定席券[Aシート]|publisher=西日本旅客鉄道}}</ref>。 * 普通・快速列車のグリーン車自由席に限り、[[グリーン券]]を別に購入<ref group="注">[[Suica]]を利用した「[[Suica#グリーン車Suicaシステム|グリーン車Suicaシステム]]」も可能。</ref><ref>[https://www.toretabi.jp/travel/green/01.html 交通新聞社トレたび]</ref>することで利用できる(2004年冬季から)。 * 列車でないもののうち、以下のものに乗車可能である。 ** JR線の[[バス代行|代行バス]] - 代行バスが運行されている場合、乗車券の発券については運行中のJR線と同等に取扱うため。 ** [[気仙沼線・大船渡線BRT]]、[[日田彦山線BRT]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/info/list/__icsFiles/afieldfile/2023/07/19/20230719_brt_waribiki_ticket__1.pdf|title=「日田彦山線BRT」開業に伴う割引きっぷに関するお知らせ|publisher=九州旅客鉄道|date=2023-07-19|accessdate=2023-08-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230722042333/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/info/list/__icsFiles/afieldfile/2023/07/19/20230719_brt_waribiki_ticket__1.pdf|archivedate=2023-07-22}}</ref> ** [[徳島バス]]が運行する[[高速バス]]「室戸・生見・阿南 - 大阪線」の途中乗降可能区間のうち[[阿南駅|阿南]] - [[阿波海南駅|海部高校前]]<!--バス停留所の名前に「駅」は含まれない-->間(阿南 - [[浅川駅|浅川]]間が2022年春季利用期間途中の同年4月1日から、浅川 - 海部高校前間については2023年夏季から<ref>{{cite news | title = 共同経営区間の拡大(海部高校前・阿波海南)により徳島県南部地域の移動が更に便利になります!~バス事業者と鉄道事業者による徳島県南部における共同経営の変更認可について~| url= https://www.jr-shikoku.co.jp/renraku-bus/pdf/kaifu_awakainan.pdf | publisher= 徳島バス・四国旅客鉄道| date= 2023-04-28 | accessdate=2023-07-24}}</ref>)。同区間での[[牟岐線]]との「並行モード連携モデル」導入によるJRの特別企画乗車券を含む有効な乗車券等でのバス利用が可能となるため<ref>[https://www.tokubus.co.jp/news/detail/629 【室戸・生見・阿南大阪線】JRきっぷ・定期の利用開始について] - 徳島バス(2022年3月28日)2022年3月31日閲覧。</ref>。 ** [[JR西日本宮島フェリー]]の[[宮島連絡船|宮島航路]] *** かつて運行されていた国鉄・JRの鉄道連絡船(青春18きっぷ発売当初は[[青函連絡船]]・[[宇高連絡船]]・[[仁堀連絡船]]があった)も普通客室に限り乗船可能だった。 *** 2023年10月1日より、宮島口からの乗船時は宮島訪問税の切符を別に購入する必要がある(宮島発は不要)<ref>{{Cite web|和書|title=青春18きっぷのみで乗船不可に「宮島フェリー」 ICOCA導入の一方で改札方式も変更 |url=https://trafficnews.jp/post/127857 |website=乗りものニュース |date=2023-08-30 |access-date=2023-08-31 |language=ja}}</ref>。 * [[特別急行券#特急料金不要の特例区間|特例により普通乗車券のみで特急列車の普通車自由席に乗車できる区間]]の当該座席 ** 区間や設定時期については当該記事を参照。なお、[[奥羽本線]]の[[新青森駅]] - [[青森駅]]間は当初青春18きっぷについてはこの特例が適用されなかったが、2012年夏季発売分より<ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2012/20120605.pdf 「青春18きっぷ」(夏季・冬季)の発売について(JR東日本)]}}</ref>利用可能となった。 ** なお、普通車自由席以外を利用する場合や、特例区間外発着で利用する場合<ref name="jre2023" />については全乗車区間の乗車券・特急券などが必要となる。 <!--*** ただし宮崎空港線および佐世保線の特例区間の場合は別に料金を支払うことで普通車指定席を利用できる。--><!--九州の緩和措置は18きっぷに対しても適用されるかが不明瞭なためコメントアウト--> === 使用できない路線・列車 === [[特別急行列車]]・[[急行列車]]には、上記の特例区間を除いて一切乗車できない(乗車券としての効力をもたない)。[[新幹線]]も全列車が特急扱いであり、特例もないため利用できない。 * ただし本州と北海道を結ぶ[[海峡線]]では、2016年3月26日に[[北海道新幹線]]が開業したことによって海峡線(在来線)としての定期旅客列車が全廃されたため、「青春18きっぷ」との同時購入または所持者に対する場合に限り発売する「青春18きっぷ北海道新幹線オプション券」を購入することで、北海道新幹線の[[奥津軽いまべつ駅]] - [[木古内駅]]間で片道1回のみ普通車の空席を利用できる。発売額は2,490円{{refnest| group="注"|これに加え[[道南いさりび鉄道線]]の木古内駅 - [[五稜郭駅]]間を通過利用する場合のみ、片道1回の普通列車を利用できる。<ref>{{Cite web|和書|title=青春18きっぷ北海道新幹線オプション券|お得なきっぷ詳細情報|JR東海|url=https://railway.jr-central.co.jp/tickets/youth18-ticket-op/index.html|website=railway.jr-central.co.jp|accessdate=2019-11-19|language=ja}}</ref>。}}。 * 新幹線車両・設備を用いつつも在来線扱いとなっている[[博多南線]]および[[上越線]]の支線([[越後湯沢駅]] - [[ガーラ湯沢駅]]間)についても特例区間にはなっておらず、青春18きっぷは利用することができない。 発売開始以来、JR線以外の会社線([[私鉄]]・公営鉄道・[[第三セクター鉄道|第三セクター]]等の路線)では原則として使用することができず、JR線と会社線とを直通運転する列車を利用する場合でも会社線内の乗車区間についてはその区間に有効な乗車券類が別に必要となる。なお、[[えちごトキめき鉄道]]および[[肥薩おれんじ鉄道]]では、有効な青春18きっぷを提示することを条件として発売する企画乗車券が設定されている([[#関連商品|後述]])。 JRの[[子会社]]・[[関連会社]]・出資会社が運営する各路線([[東京モノレール]]、[[東京臨海高速鉄道]]、[[東海交通事業]]、[[嵯峨野観光鉄道]]、[[JR九州高速船]])、および[[JRバス]]各線も利用できない。 * かつての国鉄バス、およびJR直営時代のJRバス(両者とも「自動車線」と呼称され、青春18きっぷの券面に除外路線として表記されていた)も利用できなかった。ただし、JR東日本直営の自動車線である気仙沼線・大船渡線BRTは上述の通り例外として利用可能である。 * JR西日本宮島フェリーは[[2009年]]以降JR西日本とは別会社となっているが、上述の通り例外として利用可能である。 * 日田彦山線BRTは[[JR九州バス]]の運営となっている<!--営業規則にて「JR九州との連絡運輸」として記載されている-->が、上述の通り例外として利用可能である。 === 一部の第三セクター鉄道の普通列車に乗車できる特例 === 接続していたJR線が新幹線の開業により並行在来線として経営分離・第三セクター化されたことでJR在来線との接続がなくなったJR線について、その路線の起点の駅につながる一部の第三セクター鉄道区間の普通列車・快速列車自由席を通過利用できる特例がある。あくまで「通過利用」であるため、いずれもJR線との接続駅以外の第三セクター鉄道区間内の駅では途中下車できない。途中下車した場合は、乗車した第三セクター鉄道全区間分の運賃を別途支払う必要がある。 なお利用規定には「'''JR線へ'''通過利用する場合」{{refnest|group="注"|青い森鉄道による回答では「発駅、着駅いずれもJRの在来線の駅である必要があります」としている<ref>{{Cite web|和書|url=http://aoimorirailway.com/guide/q_a|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221210174044/https://aoimorirailway.com/guide/q_a|title=よくあるご質問|publisher=青い森鉄道|date=|accessdate=2023-02-26|archivedate=2022-12-10}} - 「Q. 青い森鉄道線では、青春18きっぷはつかえますか?」参照。</ref>。}}{{refnest|group="注"|この「'''JR線へ'''」の有無が年度により微妙に異なり、2018年度までは第三セクター鉄道3社とも単に「通過利用」という表現<ref name="release201802">{{Cite web|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000036304.pdf|format=pdf|title=「青春18きっぷ」「青春18きっぷ北海道新幹線オプション券」の発売について|publisher=東海旅客鉄道(JRグループ)|date=2018-02-08|accessdate=2023-03-14}}</ref>、2019年度から2021年度までは青い森鉄道のみ「通過利用」、他の2社は「JR線へ通過利用」の表現<ref name="release201902">{{Cite web|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000039366.pdf|format=pdf|title=「青春18きっぷ」「青春18きっぷ北海道新幹線オプション券」の発売について|publisher=東海旅客鉄道(JRグループ)|date=2019-02-08|accessdate=2023-03-14}}</ref><ref name="release202102">{{Cite web|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000040952.pdf|format=pdf|title=「青春18きっぷ」「青春18きっぷ北海道新幹線オプション券」の発売について|publisher=東海旅客鉄道(JRグループ)|date=2021-02-08|accessdate=2023-03-14}}</ref>、2022年度以降は3社とも「JR線へ通過利用」となっている<ref name="release202202">{{Cite web|和書|url=https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000041794.pdf|format=pdf|title=「青春18きっぷ」「青春18きっぷ北海道新幹線オプション券」の発売について|publisher=東海旅客鉄道(JRグループ)|date=2022-02-07|accessdate=2023-03-14}}</ref>。}}と明記されており、特例区間のみ乗車して接続するJR線に乗車しない場合{{refnest|group="注"|あいの風とやま鉄道による回答では、高岡駅 - 富山駅間のみの乗車は不可としているが、富山駅 - 高岡駅 - 氷見駅と乗車する場合に高岡駅で途中下車することは可能(再入場後に接続するJR線に乗車しているため、高岡駅での途中下車は「特例区間のみの乗車」とならない)としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://ainokaze.co.jp/tips/faq|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230213082654/https://ainokaze.co.jp/tips/faq|title=よくあるご質問|publisher=あいの風とやま鉄道|date=|accessdate=2023-02-26|archivedate=2022-12-10}} - 「Q. あいの風とやま鉄道線では、青春18きっぷはつかえますか?」参照。</ref>。}}や、特例区間外まで乗車する場合は乗車した第三セクター鉄道全区間分の運賃が必要となる<ref name="jre2023" />。 ==== 青い森鉄道線 ==== [[八戸駅]] - [[野辺地駅]] - [[青森駅]]間を通過利用できる。ただし八戸、野辺地、青森の各駅で途中下車できる。 [[2010年]][[12月4日]]に[[東北本線]]の青森駅 - 八戸駅間がJR東日本から[[青い森鉄道]]に経営分離された際、[[大湊線]]と[[八戸線]]は他のJR在来線との接続がなくなったため制定された。 ==== あいの風とやま鉄道線 ==== [[高岡駅]] - [[富山駅]]間を通過利用できる。ただし高岡、富山の両駅で途中下車できる{{Sfn|谷崎|2019|pp=34-35}}。また、ライナー券を別に購入すれば「[[あいの風ライナー]]」に乗車できる<ref name="jre2023">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?GoodsCd=2848|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230226073811/https://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?GoodsCd=2848|title=青春18きっぷ|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-02-26|archivedate=2023-02-26|deadlinkdate=|date=}}</ref>。 [[2015年]][[3月14日]]に[[北陸本線]]の[[倶利伽羅駅]] - [[市振駅]]間がJR西日本から[[あいの風とやま鉄道]]に経営分離された際、[[城端線]]と[[氷見線]]は高岡駅において相互に接続する以外にJR在来線との接続がなくなったため制定された<ref name="hokuriku">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000025169.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210825160146/https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000025169.pdf|title=「青春18きっぷ」の発売および北陸新幹線開業に伴う「フルムーン夫婦グリーンパス」などのおトクなきっぷのお取扱いについて|date=2014-12-19|publisher=東海旅客鉄道(JRグループ)|archivedate=2021-08-25|accessdate=2023-02-26}}</ref>。 ==== IRいしかわ鉄道線 ==== [[金沢駅]] - [[津幡駅]]間を通過利用できる。ただし金沢、津幡の両駅で途中下車できる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ishikawa-railway.jp/inquiry/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221205113548/http://www.ishikawa-railway.jp/inquiry/|title=よくあるご質問と回答|publisher=IRいしかわ鉄道|date=|accessdate=2023-02-26|archivedate=2022-12-05}} - 「Q7 青春18きっぷでIRいしかわ鉄道線を利用できますか。」参照。</ref><ref name="jre2023"/>。 2015年3月14日に、北陸本線の金沢駅 - 倶利伽羅駅間がJR西日本から[[IRいしかわ鉄道]]に経営分離された際、[[七尾線]]は他のJR在来線との接続がなくなったため制定された<ref name="hokuriku" />。 <!-- ** 北陸新幹線の敦賀延伸の際の扱いが決まっていないので一旦コメントアウトします。何がしか発表されるor発表されないまま当日を迎えてからでよろしいかと。 **[[北陸新幹線]]敦賀延伸後は[[越美北線]]も完全に飛び地となる。--> == 歴史 == {{Vertical_images_list |幅= 240px | 1=Seisyun18nobinobi.jpg | 2=「青春18のびのびきっぷ」時代の表紙 | 3=Seisyun18nobino.2days.jpg | 4=2日間有効の券片 | 5=SEISYUN18.jpg | 6=国鉄時代の券面 | 7=Seishun18kippu.jpg | 8=5券片時代の券面([[1987年]]夏季、JR東日本発行) | 9=Seishun18kippu-cover.jpg | 10=5券片時代の表紙 | 11=Ticket Seishun 18 Kippu Type-L 1991summer.jpg | 12=マルス端末(L型端末)から発行された券([[1991年]]夏季、JR東海<!-- [[かながわサイエンスパーク]]内旅行センター-->発行<!--)-->。上は表紙 | 13=Ticket Seishun 18 Kippu JR20th.jpg | 14=JR発足20周年を記念し8,000円で発売された[[2007年]]春季の青春18きっぷ | 15=Seishunn18kippu-h7.jpg | 16=5券片時代の青春18きっぷの1券片([[1995年]]、日本旅行発行) }} 前述の通り、青春18きっぷは国鉄の増収策の一環として企画された。当時、国鉄内部では利用者層を[[青年|青少年]](学生)・[[中年]]([[社会人]]・[[主婦]])・[[高齢者|老年]]と分けた場合、中年男性は[[出張]]などで長距離の利用が多いものの、それ以外の年齢層では比較的短距離の利用が多いと分析していた。 そこで、それらの層にも長距離の利用を勧めるためのトクトクきっぷを発売することとなった。老年向けには「[[フルムーン夫婦グリーンパス]]」を発売していた(中年女性向けには1983年から「[[ナイスミディパス]]」を発売)。 これらの成功を受けて、1982年から青春18きっぷの前身にあたる'''青春18のびのびきっぷ'''の発売が開始された。「青春18」とある通り、青少年(学生)を主な発売対象としたきっぷであったが、開始当時から年齢制限はなかった。当時国鉄には、長距離区間を運転する普通列車が数多く存在し、民営化後のような合理化が進展しておらず、学校の長期休暇期間中、主要路線の普通列車はしばしば各地で長大編成の輸送力を持て余していた。そのような既存列車の輸送力を活用しながら、新たな需要を喚起することで、増収が狙われたのである。 発売当初は1日券3枚と2日券1枚(共に青い地紋)のセットで、価格は8,000円であった。また青少年の利用を意識して、バッグなどに貼付できる[[シール]]状の「青春18ワッペン」が付属していた。利用期間は3月1日から5月31日までで、ゴールデンウィークを含む(ただし、1982年当時5月4日は[[国民の休日]]・[[みどりの日]]のいずれでもないため[[飛石連休]])。 夏季用は1日券4枚と2日券1枚のセットで10,000円となった。利用期間は7月20日から9月20日まで。冬季の設定なし。 [[1983年]]春季、'''青春18のびのびきっぷ'''は'''青春18きっぷ'''に改称された。利用期間は2月20日から4月10日までとなった。 [[1984年]]夏季用から1日券5枚となった。使用期間が1日短縮され、価格は10,000円のままであった。また、1984年から冬季用が発売された。冬季の利用期間は12月10日から翌年1月20日まで(2009年冬季用まで続く)。 [[1985年]]夏季用の利用期間は7月20日から9月10日までとなった(2015年夏季用継続中)。 [[1986年]]冬季に価格が11,000円に改定され、[[1989年]]夏季より[[消費税]]が導入されたことを受けて11,300円に改定された。[[1990年]]から[[マルス端末]]による発券が可能となった。<!-- 参考資料:http://www.kippu.info/18kippu/18kippu.htm --> [[1993年]]春季用の利用期間は3月1日から4月10日までとなった(2015年春季用継続中)。 [[1996年]]春季より、現行のように、5回(人)分を1枚の券片にまとめた様式となった{{Sfn|谷崎|2019|p=44}}。複数人数で同時に使用する場合、前述したように、集合・解散が煩雑になり、全員が同じ行程で移動しなければならないという条件付きになった。[[種村直樹]]は、以前より[[旅行会社]]が上乗せして1枚ずつバラ売りしていたと自著の「種村直樹の新汽車旅相談室 トクトクきっぷ篇」でのべている。 JRの[[旅客営業規則]]において、旅行開始後の乗車券を他人から譲り受けて使用すると乗車券は無効([[不正乗車]])になることが定められているが、青春18きっぷについては、5枚つづりであったことに鑑み、5枚のきっぷをJRの都合によって1枚にまとめただけで各回の効力は独立しており、1回目のみを使用しても2回目以降は旅行開始前であると、一部書籍では説明されている<ref>[[種村直樹]] 『新版 種村直樹の汽車旅相談室』 p.93 - [[自由国民社]]、2000年 ISBN 4-426-54802-0</ref>。しかし、1回目の旅行開始できっぷ全体について旅行開始後となり、1回目の使用者とは別の人が譲り受けて2回目以降を使用するのは不正乗車とする意見もある<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1203/30/news005_4.html 杉山淳一の時事日想:「青春18きっぷ」廃止の噂はなぜ起きたか (4/4)] - [[ITmedia#主な提供サイト|Business Media 誠]](2012年3月30日付)</ref>。「複数人数の場合は同一行程」の条件の解釈に差異があると言えるが<!-- 1枚にまとめられ切り離せなくなったことに伴う注意書きに留まるのか、1回目の利用者との同一行程を義務付けるものか-->、1枚になった理由についてJRから公式の発表はない。 [[1997年]]夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,500円に改定された。 [[2004年]]冬季から、普通・快速列車のグリーン車自由席に限り、グリーン券を別に購入することで利用できるようになった。同年10月の[[2001年以降のJRダイヤ改正|ダイヤ改正]]に伴って実施されたJR東日本におけるグリーン車の制度変更によるものである。 [[2007年]]にはJR各社が発足20周年を迎えたのを記念し、春季のみ'''JR発足20周年・青春18きっぷ'''が発売開始時の価格と同じ8,000円(乗車できる列車・回数などは通常のものと同じ)で発売された。 当乗車券の発売・利用期間は1993年から2009年まで固定されていたが、[[2010年]]冬季から発売期間が12月1日 - 31日、利用期間が12月10日 - 翌年1月10日と10日間短縮され、また東北本線の八戸駅 - 青森駅間の青い森鉄道への移管を受けて、[[#一部の第三セクター鉄道の普通列車に乗車できる特例|青い森鉄道線に青春18きっぷで乗車できる特例]]が設けられた。 [[2014年]]夏季から消費税の税率変更に伴い、価格が11,850円に改定された。 [[2019年]]冬季から消費税の税率変更に伴い、価格が12,050円に改定された。 === 夜間の長距離移動 === 青春18きっぷは1日単位(24時間)で有効の形式を取っているため{{Sfn|谷崎|2019|p=166}}、夜間の長距離移動については、当きっぷ発売以前から運行されていた[[夜行列車|夜行]]普通列車に加え、[[1980年代]]後半以降に全国各地で「[[ムーンライト (列車)|ムーンライト]]」など、当きっぷでも利用可能な夜行列車が運行されてきた。しかし、2000年10月に[[紀勢本線]]で廃止されたのを最後に、夜行普通列車は消滅した。2005年以降は「ムーンライト」についても次第に運行されなくなる列車が増え、[[2001年以降のJRダイヤ改正#3月14日|2009年春のダイヤ改正]]で「[[ムーンライトえちご]]」および「[[ムーンライトながら]]」が臨時化されたことにより、定期運行が無くなった。両列車は臨時列車として運行が続けられたが「ムーンライトえちご」は2014年春季を最後に設定されておらず、「ムーンライトながら」も2020年春期を最後に運行されないまま2021年に運行終了が発表された。 === 発売枚数 === [[2000年代]]における販売枚数は、JR東日本によると、前半から中盤は毎年25万枚から30万枚で、2007年は35万枚以上の販売実績があった<ref name="ichigaya20080811">[http://ichigaya.keizai.biz/headline/361/ イカロス出版「青春18きっぷ」ガイド本が好調-誌面も大改訂] - 市ケ谷経済新聞(2008年8月11日付)</ref>。朝日新聞コラムの引用によると、JR全体では2013年度67万枚となっている。その後も発売枚数は伸びており、JR全体では2015年度は71万枚で、70万枚を超えたのは2009年度以来となった<ref>[http://seisyun.tabiris.com/column.html 青春18きっぷ研究所]</ref>。 === 赤い地紋の青春18きっぷ(常備券、販売終了) === [[File:Seishunn18kippu-jyoubikenn.jpg|thumb|right|JR北海道の常備券([[2010年]]夏季)]] かつて、一部駅の窓口では、赤い地紋の用紙に印刷された[[乗車券#乗車券の素材|常備券]]での販売が行われ、[[鉄道ファン]]の間で'''ナマ券'''・'''赤券'''と呼ばれた。常備券とマルス端末発行の券で[[#効力|効力]]は同等であるが、貴重あるいは風情があるとしてファンの間で人気があり、遠方から常備券を扱う駅まで購入しに行く者や、[[現金書留]]を用いて購入する者もいた。 本券は[[みどりの窓口]]が設置されていない駅で発売された事例が多いが、[[高松駅 (香川県)|高松駅]](JR四国)など例外もあった。 最後まで発売していたJR西日本・JR四国が2016年冬季をもって取り扱いを終了し、廃止された<ref>[http://trafficnews.jp/post/60335/ 珍しい赤の「青春18きっぷ」、2016年12月で発売終了] [[乗りものニュース]]、2016年11月22日(2016年11月23日閲覧)。</ref>。 == 発売箇所 == JR各社の[[みどりの窓口]]や一部のきっぷうりば、[[旅行会社]]などで発売されている{{Sfn|谷崎|2019|p=24}}。また、JR各社の[[指定席券売機]](一部の設置駅を除く)でも発売されている。 == 関連商品 == === 青春18きっぷ利用者向けの企画乗車券 === 青春18きっぷ発売時期にあわせて、以下の事業者では企画乗車券の発売や割引サービスなどを実施している。 * '''おれんじ18フリーきっぷ'''([[肥薩おれんじ鉄道]])<ref>{{Cite web|和書|title=おれんじ18フリーきっぷ|url=https://www.hs-orange.com/hpkiji/pub/detail.aspx?c_id=3&id=401|website=肥薩おれんじ鉄道|accessdate=2019-11-19|language=ja}}</ref> - 青春18きっぷを呈示すると、2,100円(通常の「おれんじ1日フリー切符」は2,800円)で全線の乗降が自由となる乗車券を発売している。 * '''トキ鉄18きっぷ'''([[えちごトキめき鉄道]])<ref>{{Cite web|和書|title=「トキ鉄18きっぷ」を発売します {{!}} えちごトキめき鉄道株式会社|url=https://www.echigo-tokimeki.co.jp/information/detail?id=988|website=えちごトキめき鉄道|accessdate=2020-02-25}}</ref> - 大人1000円。利用可能期間は18きっぷ利用可能期間と同じで発売当日限り有効。[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]と[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]]の普通・快速列車に乗車可能。別途特急券を購入すれば特急列車に乗車可能。 上記のほか、[[ジェイアール四国バス]]が運行する[[高速バス]][[松山高知急行線|なんごくエクスプレス]]では青春18きっぷの呈示により1回乗車あたり1000円でのバス利用が可能。なお割引の適用は「1回目の利用開始後の当日から5回目の利用日、5回利用していなければ購入期の最終利用可能日」の間で、この条件を満たせば当日の改札印がなくても利用できる<ref>[https://www.jr-shikokubus.co.jp/news/2022/02/18.html なんごくエクスプレス号「青春18きっぷ」呈示で割引!] - ジェイアール四国バス、2022年2月28日(2022年3月31日閲覧)。</ref>。 過去には[[北近畿タンゴ鉄道]]が、2007年春から2009年1月までの間、青春18きっぷを呈示すると全線の乗降が自由となる「KTR青春フリーきっぷ」を500円で発売していた。また[[関釜フェリー]]<ref>[http://www.kampuferry.co.jp/passenger/kampu/train18.html フェリー旅客運賃50%割引き! “青春18きっぷ旅”大応援キャンペーン] - 関釜フェリー、2014年11月21日閲覧</ref>では、青春18きっぷを呈示すると割引となる。 <!--- 下記の乗車券は発売期間こそ18きっぷを意識していますが利用資格が限定されているわけではありません。 * '''智頭線1日フリーきっぷ'''([[智頭急行]])<ref>{{Cite web |url=http://site5.tori-info.co.jp/p/chizukyu/tokutoku/annai/14/ |title=「智頭線1日フリーきっぷ」の発売について |accessdate=2015-05-09 |date=2015-04-24 |work= |publisher=智頭急行株式会社 |page= |pages=}}</ref>- 大人1,200円、小児600円。利用可能期間は土曜・日曜・祝日および7月1日 - 9月30日・12月1日 - 1月10日・3月1日 - 4月10日で1日間有効。別途自由席特急券を購入すれば特急列車の自由席に乗車可能。なお、2014年春季までは'''智頭線満喫 普通列車一日乗り放題きっぷ'''<ref>[http://site5.tori-info.co.jp/p/chizukyu/news/65/ 2014年春の例]</ref>(大人1,000円、小児500円(消費税5%時))で、特急列車に乗車する場合は別途特急券および乗車券も購入する必要があった。2014年夏季からは、'''智頭線開業20周年記念1日フリーきっぷ'''<ref>{{Cite web |url=http://site5.tori-info.co.jp/p/chizukyu/news/79/ |title=「智頭線開業20周年記念1日フリーきっぷ」の発売について |accessdate=2014-11-24 |date=2014-06-27 |work= |publisher=智頭急行株式会社 |page= |pages=}}</ref>となり、同時に、別途自由席特急券を購入すれば特急列車の自由席に乗車可能となった。2015年5月1日発売分からは現在の名称となった。 *'''三鉄1日とく割フリーパス'''([[三陸鉄道]]) - 青春18きっぷまたは[[北海道&東日本パス]]を呈示すると、片道運賃の半額程度で指定区間の乗降が自由となる企画乗車券を、[[三陸鉄道北リアス線|北リアス線]]用・[[三陸鉄道南リアス線|南リアス線]]用としてそれぞれ発売している。なお、[[2011年]]春季途中からは[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])による[[津波]]被害により多くの区間で不通(連絡するJR線も同様)となったため、発売を見合わせている。また、三陸鉄道は2014年4月6日に全線運転再開したが、本きっぷの発売再開については未定である。(三陸鉄道ホームページには、線内完結の1日乗車券については記載はあるが、該当きっぷの記載はまだ無い)---> === パロディ商品 === * '''青春28きっぷ'''([[いすみ鉄道]])<ref>[http://www.isumirail.co.jp/3659 「いすみ鉄道 青春28きっぷ」発売のお知らせ]{{リンク切れ|date=2020-9}}</ref><ref name="いすみ">{{Cite web|和書|url= https://trafficnews.jp/post/66426 |title=いすみ鉄道「青春28きっぷ」発売|work=乗りものニュース|accessdate=2020-9-8}}</ref> - いすみ鉄道全線の列車(急行・準急を含む)を1人で2回もしくは2人で1回利用可能な乗車券<ref name="いすみ"/>。[[2017年]][[3月19日]]より発売された。名称は同社の[[国鉄キハ58系気動車|キハ28形]]にちなむもので、デザインは先述した常備券の青春18きっぷを彷彿とさせるものになっている。 * '''どっちノリノリいせてつきっぷ'''([[伊勢鉄道]])<ref>[http://www.isetetu.co.jp/topi/2021/norinori.html 3月全ての土休日の伊勢鉄道が乗り放題となる『どっちノリノリいせてつきっぷ』を発売します]</ref><ref name="いせ">{{Cite web|和書|url=https://www.isenp.co.jp/2021/03/02/56831/ |title=伊勢鉄道 快速と普通列車乗り放題 「どっちノリノリいせてつきっぷ」 三重|work=伊勢新聞|accessdate=2021-3-4}}</ref> - 2021年3月中の全ての土・日曜日に伊勢鉄道全線で、普通列車・快速列車に自由に乗り降りできる。大人用は1枚1000円で1000枚、小学生用は1枚500円で300枚限定。発売期間は2021年3月1日から同年3月28日までで、無くなり次第終了であった。 === 書籍など === 青春18きっぷを活用する方法などを記した書籍は多数出版されている。多くはルールの解説や便利な列車の紹介、モデルコースの案内などで構成されている<ref name="ichigaya20080811" />。 == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author = 谷崎竜|year = 2019|title = 青春18きっぷパーフェクトガイド2019-2020|publisher = [[イカロス出版]]|isbn = 978-4-8022-0709-6|ref={{SfnRef|谷崎|2019}}}} *種村直樹の新汽車旅相談室 トクトクきっぷ篇 *種村直樹の新汽車旅相談室 変更・トラブル・雑学篇 *種村直樹の新汽車旅相談室 運賃・料金篇 == 関連項目 == * [[鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ]] * [[北海道&東日本パス]] * [[四国再発見早トクきっぷ]] * [[旅名人の九州満喫きっぷ]] * [[高速バス乗り放題きっぷ]] * [[青春18きっぷの旅]] - [[2006年]]から[[2007年]]にかけて[[旅チャンネル]]で放送された、当きっぷをテーマとした旅番組。 * [[伊藤敏博]] - 国鉄出身の[[シンガー・ソングライター]]。現職(富山車掌区)時代、当きっぷが初めて発売される直前の1982年[[2月25日]]にデビュー2曲目となる『青春18』を発表した。 == 外部リンク == {{Commonscat}} <!--コメントアウト▼ここから▼通年表示されていないため * [http://www.jrhokkaido.co.jp/network/kipp/h_4.html#18 本州方面フリータイプ](お得なきっぷ) - JR北海道 * [http://www.jreast.co.jp/tickets/ おトクなきっぷ] - JR東日本 * [http://railway.jr-central.co.jp/tickets/ お得なきっぷ検索] - JR東海 * [http://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/tokutoku/ トクトクきっぷ] - JRおでかけネット(JR西日本) コメントアウト▲ここまで▲--> * [http://www.jr-eki.com/service_ticket/htm/jr-kyotu/18tickets.html 青春18きっぷ](トクトクきっぷ一覧) - JR四国ツアー(JR四国) * [http://www.jrkyushu-kippu.jp/fare/ticket/190 青春18きっぷ] - JR九州 <!--コメントアウト▼ここから▼公式出典があるにもかかわらず非公式外部の出典のため * [https://trafficnews.jp/special/seishun18 乗りものニュース 特別企画【鉄道】青春18きっぷ、はじめての使い方から「特例」ルールも。旅に役立つ活用法!] - 乗りものニュース(更新日不明)2019年2月13日閲覧 コメントアウト▲ここまで▲--> {{デフォルトソート:せいしゆんしゆうはちきつふ}} [[Category:日本国有鉄道のサービス]] [[Category:JRグループの特別企画乗車券]] [[Category:登録商標]]
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イエス
イエス (人名) または Yes ユダヤ人の男性名。ラテン文字ではJesusなどと綴り、ジーザスと発音する場合がある。 ナザレのイエス - 紀元前1世紀末頃に生まれたとされる、ユダヤ人の宗教指導者。 ナザレのイエス以外のイエス - 新約聖書に登場するイエス Yes(イエス) - 英語で肯定を示す。
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イエス (人名) または Yes
{{TOCright}} '''[[イエス (人名)]]''' または '''Yes''' == イエス(人名) == [[ユダヤ人]]の男性名。ラテン文字では[[:en:Jesus (disambiguation)|Jesus]]などと綴り、[[ジーザス]]と発音する場合がある。 {{wikt|Jesus}} '''ナザレのイエス''' - 紀元前1世紀末頃に生まれたとされる、ユダヤ人の宗教指導者。 * [[ナザレのイエス]] - 歴史上の人物としての観点を扱う記事 * [[イエス・キリスト]] - [[キリスト教]]における観点を扱う記事 * [[イスラームにおけるイーサー]] - [[イスラーム]]における観点を扱う記事 '''ナザレのイエス以外のイエス''' - [[新約聖書]]に登場するイエス * [[バラバ|バラバ・イエス]] - [[福音書]]に登場する人物。 * {{仮リンク|ユストと呼ばれるイエス|en|Jesus Justus}} - [[コロサイの信徒への手紙]]に登場する人物。 * {{仮リンク|バルイエス|en|Elymas}} - [[使徒言行録]]に登場する魔術師。エリマ。 === ナザレのイエスに由来するもの === * [[イエス (漫画)]] - 上記ナザレのイエスを主人公とした[[安彦良和]]の漫画作品。 * [[又吉イエス]] - 日本の政治運動家。 == Yes == '''Yes'''(イエス) - [[英語]]で[[肯定]]を示す。 {{wikt|yes}} * [[YES!]] - (イエス)ドイツのフンケ・ウント・ヴィル (Funke & Will) 社の製造する小型スポーツカー。 * YES-FM(イエスエフエム) - 大阪のコミュニティFM局、[[エフエムちゅうおう]]の愛称。 * [[YESネットワーク]] (Yankees Entertainment and Sports Network) の略称。 * YES'89(イエスはちじゅうきゅう) - [[横浜博覧会]](英称: YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89)の愛称。 * YESそうご電器 - かつて北海道に存在した家電量販店チェーン。→ [[そうご電器]]を参照。 * [[yes (UNIX)]] - UNIX のコマンド。 * YES-プログラム - Youth Employability Support Program(若年者就職基礎能力支援事業) * Yes! - 日本の[[スーパーマーケット]]、[[ヤオコー]]が使用するブランド。 * [[イエス (小惑星)]] - 小惑星帯に位置する小惑星 * YES - [[餃子の雪松]]を運営する企業。 === 音楽 === ==== グループ名 ==== * [[イエス (バンド)]] (YES) - イギリスの[[プログレッシブ・ロック]]バンド。 ==== 曲名 ==== * [[YES! (EXILEの曲)]] - [[EXILE]]の20枚目のシングル曲。 * [[YES 〜free flower〜]] - [[MY LITTLE LOVER]]の6枚目のシングル曲。 * [[YES (知念里奈の曲)]] - 1999年発表の[[知念里奈]]の7枚目のシングル曲。ブルボン「プチ」CM曲。 * YES - [[mihimaru GT]]の楽曲。7枚目のシングル「[[恋する気持ち/YES]]」に収録。 * [[yes (渡辺美里の曲)]] - 2008年発表の[[渡辺美里]]の楽曲。 * [[YES!!]] - [[大橋彩香]]のデビュー曲。アニメ「[[さばげぶっ!]]」オープニングテーマ。 * YES♪ - 『THE IDOLM@STER』の楽曲。「[[THE IDOLM@STER LIVE FOR YOU!#CD]]」を参照。 * [[イエス (Acid Black Cherryの曲)]] - [[Acid Black Cherry]]のシングル。 * イエス - [[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]の楽曲。アルバム『[[マジックディスク]]』に収録。 * イエス - [[ズーカラデル]]の楽曲。アルバム『ズーカラデル』に収録。 ==== アルバム名 ==== * [[YES (Ricken'sのアルバム)]] - [[Ricken's]](リッケンズ)の2作目のアルバム。 * [[YES (中島美嘉のアルバム)]] - [[中島美嘉]]の4枚目のアルバム。 * [[YES (中垣あかねのアルバム)]] - [[中垣あかね]]のファーストアルバム。 * [[YES (サンボマスターのアルバム)]] * [[Yes (中村あゆみのアルバム)]] * [[Yes!!]] - [[さかいゆう]]のアルバム。 * [[YES!!!]] - [[BACK-ON]]のアルバム。 * [[イエス (ペット・ショップ・ボーイズのアルバム)]] - [[ペット・ショップ・ボーイズ]]の10枚目のアルバム * [[イエス (ラスト・オータムズ・ドリームのアルバム)]] - [[ラスト・オータムズ・ドリーム]]の8枚目のアルバム * [[イエス・ファースト・アルバム]] - [[イエス (バンド)|イエス]]のファーストアルバム、原題『Yes』。 == 関連項目 == {{wiktionary}} * [[NO (曖昧さ回避)]] * [[ジーザス (曖昧さ回避)]] * {{Prefix}} * {{Prefix|Yes}} * {{Prefix|YES}} * [[イエス (人名)]] * [[ヨシュア (人名)]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:いえす}} [[Category:英語の語句]] [[Category:ヘブライ語の男性名]] [[Category:同名の作品]]
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僕の血を吸わないで
『僕の血を吸わないで』(ぼくのちをすわないで)は、阿智太郎による日本のライトノベル。挿絵(イラスト)および漫画版作画者は宮須弥が担当。電撃文庫(メディアワークス)より1998年2月から1999年7月まで刊行された。第4回電撃ゲーム小説大賞<銀賞>受賞作。 直接的な続編ではないが、関連作品として『僕にお月様を見せないで』が存在しており、一部のキャラクターが登場する。 能天気でお人よしな主人公・森写歩朗と、美少女吸血鬼・ジルを主人公とするコメディ。 ある日、高校3年生の花丸森写歩朗の部屋に少女が文字通り『飛び込んで』くる。その少女は、突然森写歩朗にキスをするかと思いきや、ぶつかった拍子に流した血(鼻血)を吸い始めた。実は彼女は吸血鬼だったのだ。 吸血鬼ハンターに追われ、父親や姉とも離れ離れになって、行くところがないというジルに、森写歩朗は同居を申し出る。森写歩朗の父親も「息子の婚約者だな」と勝手に一人合点して大賛成。この奇妙な同居生活を始めるにあたって、森写歩朗がジルに出した条件は一つだけ。「僕の血を吸わないで」だった。 花丸家に住居を定めたジルを狙い、様々な吸血鬼ハンターたちがやってくるが、誰も彼もどこか間が抜けた連中ばかり。近所の人々を巻き込んだドタバタを繰り返しつつ、二人はどうにかハンターを撃退していく。 本作の吸血鬼には、ステレオタイプな吸血鬼のイメージをベースとして、作者独自の設定が盛り込まれている。
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『僕の血を吸わないで』(ぼくのちをすわないで)は、阿智太郎による日本のライトノベル。挿絵(イラスト)および漫画版作画者は宮須弥が担当。電撃文庫(メディアワークス)より1998年2月から1999年7月まで刊行された。第4回電撃ゲーム小説大賞<銀賞>受賞作。 直接的な続編ではないが、関連作品として『僕にお月様を見せないで』が存在しており、一部のキャラクターが登場する。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 僕の血を吸わないで | ジャンル = }} {{Infobox animanga/Novel | 著者 = [[阿智太郎]] | イラスト = [[宮須弥]] | 出版社 = [[メディアワークス]] | レーベル = [[電撃文庫]] | 開始 = 1998年2月10日 | 終了 = 1999年7月10日 | 巻数 = 全5巻 | その他 = }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:ライトノベル|ライトノベル]] | ウィキポータル = [[Portal:文学|文学]] }} 『'''僕の血を吸わないで'''』(ぼくのちをすわないで)は、[[阿智太郎]]による[[日本]]の[[ライトノベル]]。[[挿絵]]([[イラストレーション|イラスト]])および漫画版作画者は[[宮須弥]]が担当。[[電撃文庫]]([[メディアワークス]])より1998年2月から1999年7月まで刊行された。第4回[[電撃ゲーム小説大賞]]<銀賞>受賞作<ref name="榎本2009">{{Cite book |和書 |author=榎本秋 |date=2009年12月3日初版第1刷発行 |title=ライトノベル最強!ブックガイド 少年系 |publisher=NTT出版 |page=186 |isbn=978-4-7571-4231-2}}</ref>。 直接的な続編ではないが、関連作品として『[[僕にお月様を見せないで]]』が存在しており、一部のキャラクターが登場する。 == ストーリー == 能天気でお人よしな主人公・'''森写歩朗'''と、美少女吸血鬼・'''ジル'''を主人公とするコメディ。 ある日、高校3年生の花丸森写歩朗の部屋に少女が文字通り『飛び込んで』くる。その少女は、突然森写歩朗にキスをするかと思いきや、ぶつかった拍子に流した血(鼻血)を吸い始めた。実は彼女は[[吸血鬼]]だったのだ。 吸血鬼ハンターに追われ、父親や姉とも離れ離れになって、行くところがないというジルに、森写歩朗は同居を申し出る。森写歩朗の父親も「息子の婚約者だな」と勝手に一人合点して大賛成。この奇妙な同居生活を始めるにあたって、森写歩朗がジルに出した条件は一つだけ。「'''僕の血を吸わないで'''」だった。 花丸家に住居を定めたジルを狙い、様々な吸血鬼ハンターたちがやってくるが、誰も彼もどこか間が抜けた連中ばかり。近所の人々を巻き込んだドタバタを繰り返しつつ、二人はどうにかハンターを撃退していく。 ==本作の吸血鬼== 本作の吸血鬼には、ステレオタイプな吸血鬼のイメージをベースとして、作者独自の設定が盛り込まれている。 *唾液に人間を吸血鬼にする成分が含まれており、直接牙を立てて血を吸うことで、相手を吸血鬼にする。ただし、「感染」させるには少なくとも十分間は牙を食い込ませなければならない。また、[[ねずみ算]]式に吸血鬼が増えないよう、たいていの吸血鬼は鉄のストローを使ったり、輸血パックを盗むことで、直接他人に触れないようにして血を吸っている。 *吸血鬼は、血を吸った側が親になり、吸われた側が子になる。 *日光に弱いが、灰になるような事はなく、簡単に[[日射病]]になる程度のものである。日光のみならず、[[蛍光灯]]など強い光全般を苦手とするが、[[サングラス]]や帽子などで防護することで、ある程度軽減できる。 *非常に高い治癒能力を持つが、[[聖水 (曖昧さ回避)|聖水]](ただし、この作品に置ける「聖水」とは吸血鬼の再生能力を抑えるために開発されたダビンチチロキシンという薬品である)や日光を浴びていると治癒力が低下する。心臓を破壊されると死んでしまう。 *[[ニンニク]]は特に苦手ではない。しかし、なまじ嗅覚がすぐれているために、嫌いな匂いには敏感であり、見ただけでアレルギーを起こす。ヒロインのジルの場合は、ピーマンを苦手とする。 *吸血鬼になった時点で成長も老化も止まる。長く生きるほど力も強くなり、見た目は小さな子供でも、大人の吸血鬼を上回る力を持つことがままある。 *空を飛べる。 *念動力を持つ。 *コウモリや霧への変身能力はない。 *十字架に弱いというのは嘘で、クリスチャンの吸血鬼も存在する。 *海や川を越えられないというのも嘘。 *鏡にはちゃんと映る。 *普通の食事ができないため、料理を作ることはできても味見はできない。 == 主な登場人物 == ===花丸家=== ; 花丸 森写歩朗(はなまる しんじゃぶろう) : 主人公。長野県の飯波高校に通う3年生。のほほんとしたお人好しな性格で、非常に楽観的。女性の体に免疫がなく、ジルや倉地の胸を見ただけで大量の鼻血を出してしまう。学年一二を争うほどの劣等生で、筋金入りのお人好しで、筋金入りの馬鹿で、筋金入りの高所恐怖症。演劇部所属。父親が女遊びの末に作った子供で、家の前に手紙と共に捨てられていたため、母親はわからない。 ; パテキュラリー・ジルコニア・ブロード : この作品のヒロインである[[吸血鬼]]。通称ジル。吸血鬼撲滅を狙う組織「ブラックウイナー」に命を狙われているときに、森写歩朗に助けられ、その優しさに惹かれて、彼を吸血鬼にしようとする。グルメで、基本的に若い処女の血しか飲まない。苦手なものはピーマン。外見は16歳前後の少女だが、実年齢は約180歳(5巻のみ168歳と表記)。 ; サファイア : ジルの姉(同じ吸血鬼に血を吸われた)。見た目はお子様だが、人間だったのは「[[レオナルド・ダ・ヴィンチ|ダヴィンチ]]が絵を描いていた時代」という、ジルの倍以上の年月を生きている。通称サフィー。ブラックウィナーに捕らえられて心臓に爆弾を埋め込まれ、妹であるジルの抹殺を命じられた。しかし、ブラックウィナーを欺き、ジルは死んだと思い込ませることに成功。用済みになったために爆弾のスイッチを押されるが、森写歩朗の活躍により生き長らえ、ジルたちと一緒に暮らすことに。ジルからは偏食家といわれて、基本的に美少年の血しか飲まない。苦手なものはマツタケ。森写歩朗のことは「トナ」と呼ぶ。ジルのことは「コニー」と呼ぶが、4巻のみ「ジル」と呼んでいる。普段は猫をかぶっており、「~でしゅ」と赤ちゃん言葉で喋るが、ひとたび仮面を脱ぎ捨てれば、老獪かつ狡猾な面を覗かせる。 ; 花丸 辰太郎(はなまる たつたろう) : 森写歩朗の父親。ツアーコンダクターをしており、しょっちゅう海外に行くため家にはほとんどいない。豪快かつ大雑把な性格で、ジルが転がり込んできた時も平然と受け入れる度量の持ち主。地上八階の窓から帰宅したり、ソファの下に銃器を隠しているなど、奇行と謎の多い人物。なお、一部の巻で「はなむらたつたろう」、「しんたろう」などとルビが振られていることがあるが、これは間違い。 ===飯波高校=== ; 倉地 香(くらち かおり) : 森写歩朗の同級生で演劇部の部長(のちに引退)。抜群の容姿とプロポーションの持ち主で、学内にはファンクラブまであるほど。本人もそれを自覚しており、プライドが非常に高い。一向に自分になびかない森写歩朗に自分の魅力をわからせるためだけに、演劇部に入部し、毎日新しい服で彼にアピールしている。そのせいで森写歩朗はファンクラブの会員から目の敵にされている(実際殺されかけている)。森写歩朗のことは「[[きかんしゃトーマス|トーマス]]」と呼ぶ。 ; 三石 秋子(みついし あきこ) : 演劇部員(のちに部長)の高校2年生。オカルトマニアで変わったものに対する興味が人一倍ある。1巻では「眼鏡の娘」と書かれているが、イラストには眼鏡をかけている絵はまったくない(『[[僕にお月様を見せないで]]』に登場する妹は眼鏡をかけている)。 ;西尾克起(にしお かつおき) :森写歩朗の悪友で合唱部員。大声で様々な被害を出しているが音痴ではなく音大に一芸入試で合格した。 ===ブラックウイナー=== ;クラレンス(クラレンス=レンバチュウーノ サカッチナイト カイタンホース コピマイ チラククルス アゲンスト) :「ブラックウイナー」のエージェント。普段はシスターの姿で行動している。実は彼女自身も吸血鬼であり、800年以上も生きているため、力はジルをはるかに上回る。心臓に爆弾を埋め込まれ、自らの命を人質に取られたことで、ブラックウィナーに協力を余儀なくされていた。すったもんだの末にブラックウィナーから脱退することに成功し、追っ手から逃れるために姿を消すが、最終巻にて再登場を果たし、森写歩朗の父親と恋仲となる。 ;ミルカ・ベル・モンドー :「ブラックウイナー」のエージェント。日本愛好者で日本刀を武器にしている。父親が1563人もの吸血鬼を滅した凄腕の狩人で一族に伝わる超能力で武器から衝撃波を出すことができる。脱サラして仕事を探していたところを素質に目をつけたドクター・アラキにスカウトされ日本にやってくる。ひょんなことから花丸家に居候することになり、 からジルが危険ではないことを説明されてブラックウィナーから脱退する。その後は板前修業をしつつ森写歩朗達のサポートを行う。誰かに[[中村主水]]が同じ一族だと言われ、現在まで信じている。「僕にお月様を見せないで」では彼が経営している店の名前が出てくる。 ;ドクター・アラキ :ブラックウイナーの局長。見た目は老齢の男性。吸血鬼を人類滅亡の引金になりかねないとして危険視しており、全ての吸血鬼を滅ぼすべきと考えている過激派。一人の吸血鬼を始末するために町を一つ巻き込むことさえ躊躇わない非情な性格だが、クラレンスに埋め込んだ爆弾の電池交換を忘れていたりするなど、けっこう抜けている。実は長い年月を生き延びた吸血鬼で最終巻ではその正体が判明し、本作最後の敵として立ちはだかる。生命活動に必要な量の血しか摂取していなかったため、老人の姿だったが最終巻では大量の血を吸い若返っていた。サフィー、モンドー、漆野を倒し、ジルを追い詰めるも吸血鬼として復活した森写歩朗に倒された。 ;スッグルナック :ブラックウイナーの局長秘書。元は医者で、吸血鬼の心臓に爆弾を埋めこむ作業などを任されている。ブラックウイナーの仕事に疑問を感じており、常に辞表を持ち歩いている。 ;マイブ :「ブラックウイナー」のエージェント。ウォークマンから流れる音楽を聞かせることで相手の記憶を消すことができる。実はロボットでロケットパンチや機関銃を装備している。 ===その他=== ;漆野 百太郎(うるしの ひゃくたろう) :千葉県警の刑事。「千葉県警で最も棺桶と懲戒免職に近いと噂され」気に入らないことがあると「蚊がいた」と言って拳銃を乱射する。「盗み聞きと拾い食いが一番嫌いな犯罪」らしい。本作の4年後の時間軸に当たる「僕にお月様を見せないで」では倉地香と知り合いであるが、本作では彼女との会話は無い。 ;ダビンチルド :クォース製薬研究所の所長。吸血鬼の再生能力を抑える「聖水」やウイルスを駆逐して吸血鬼を人間にもどす「ニンゲンニナール」の開発者。アラキとは旧知の仲。 ;フロイデッド・アブソリュート・アンキュサス・ブロード :ジルとサフィーの父親に当たる吸血鬼。通称フロイ。本作開始時点でモンドーの父によって死んだとされていたが、最終巻にて登場。本人は「しぶとく生き延びてしまった」と言っているが、実際は多少異なる様子。苦手なものはタマネギ。アラキとは旧知の仲。 ==既刊一覧== ===小説=== * 阿智太郎(著) / 宮須弥(イラスト)、メディアワークス〈電撃文庫〉、全5巻 ** 『僕の血を吸わないで』1998年2月10日発売、{{ISBN2|4-8402-0807-7}} ** 『僕の血を吸わないで2 ピーマン戦争』1998年8月10日発売、{{ISBN2|4-8402-0942-1}} ** 『僕の血を吸わないで3 ドッキンドッキ大作戦』1998年12月10日発売、{{ISBN2|4-8402-1034-9}} ** 『僕の血を吸わないで4 しとしとぴっちゃん』1999年2月10日発売、{{ISBN2|4-8402-1087-X}} ** 『僕の血を吸わないで5 アクシデントはマキシマム』1999年7月10日発売、{{ISBN2|4-8402-1238-4}} ===コミック=== * 宮須弥 『僕の血を吸わないで コミックアンソロジー』 メディアワークス〈電撃コミックス〉、2000年5月27日発売、{{ISBN2|4-8402-1578-2}} * 阿智太郎(原作) / 宮須弥(作画) 『僕の血を吸わないで ザ・コミック』 メディアワークス〈電撃文庫〉、2002年5月10日発売、{{ISBN2|4-8402-2094-8}} {{電撃小説大賞 |回数=4 |賞=銀賞 |作品名=僕の血を吸わないで |著者=阿智太郎 |前回受賞作1=HOROGRAM SEED |前回受賞者1=雅彩人 |次回受賞作1=コールド・ゲヘナ |次回受賞者1=三雲岳斗 |前回受賞作2=ダーク・アイズ |前回受賞者2=天羽沙夜 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:ほくのちをすわないて}} {{lit-stub}} [[Category:日本の小説]] [[Category:電撃文庫]] [[Category:吸血鬼を題材とした小説]]
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タタ
タタ、TATA
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タタ、TATA 小惑星の1つ、タタ (小惑星)。 インドの二大財閥のひとつ、タタ・グループ。 ハンガリー北部の都市。タタ (ハンガリー)参照。 タタバーニャ タタ・コンサルタンシー・サービシズ - インドのIT企業。 タタ・モーターズ - インドの自動車会社。 タタ・ヤン - タイの人気歌手。 ジョー・E・タタ - アメリカ合衆国出身の俳優。 ジャムシェトジー・タタ - インドの実業家。タタ・グループの創始者。 ラタン・タタ - インドの実業家、タタ・グループの会長。 ジャハンギール・ラタンジ・ダーダーバーイ・タタ - インドの実業家。
'''タタ'''、'''TATA''' * 小惑星の1つ、[[タタ (小惑星)]]。 * [[インド]]の二大財閥のひとつ、[[タタ・グループ]]。 * [[ハンガリー]]北部の都市。[[タタ (ハンガリー)]]参照。 * [[タタバーニャ]] * [[タタ・コンサルタンシー・サービシズ]] - [[インド]]のIT企業。 * [[タタ・モーターズ]] - インドの自動車会社。 ; 人名 * [[タタ・ヤン]](Tata Young、ทาทา ยัง) - [[タイ王国|タイ]]の人気[[歌手]]。 * [[ジョー・E・タタ]](Joe E. Tata) - アメリカ合衆国出身の俳優。 * [[ジャムシェトジー・タタ]](Jamshetji Tata) - インドの実業家。[[タタ・グループ]]の創始者。 * [[ラタン・タタ]](Ratan Tata) - インドの実業家、タタ・グループの会長。 * [[ジャハンギール・ラタンジ・ダーダーバーイ・タタ]](Jehangir Ratanji Dadabhoy Tata) - インドの実業家。 == 関連項目 == * {{Prefix|タタ}} * {{Intitle|タタ}} * [[Wikipedia:索引 たた#たた]] * [[Wikipedia:索引 T#TA]] {{aimai}} {{デフォルトソート:たた}}
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JIS X 0212
JIS X 0212は、JIS X 0208:1983に含まれない文字を集めた、6067字の符号化文字集合を規定する日本産業規格 (JIS) である。規格名称は「情報交換用漢字符号-補助漢字」である。1990年10月1日に制定され、JIS X 0208と組み合わせて利用される。JIS補助漢字の通称がある。 次の通りである。一般に、非漢字をも含めて補助漢字と呼ぶ。 JIS X 0212の制定には国文学研究資料館(当時)の田嶋一夫が大きく関与して、国文学研究資料館の書誌データベース構築における研究成果に基づいた文字選定を行っており、学問研究向きの文字集合となっている。ただ、収録された漢字の中には由来の不明確なものもある。また、「〆」の字はJIS X 0208にも含まれているが、それとは大きく異なる例示字形で16区17点に漢字として収録(乄)している。 Unicodeは制定時にJIS X 0212を原規格の一つとしたため、補助漢字を全て含んでいる。よってUnicodeベースのシステムではフォントさえあれば補助漢字を利用できる。ほかにEUC-JP、ISO-2022-JP-2、ISO-2022-JP-1の符号化方式でも利用できる。しかしShift_JISでは符号化方式の制約により利用できず、Shift_JISでも利用できる設計の拡張文字集合として2000年にJIS X 0213が制定されることになる。 JIS X 0213は第3水準および第4水準の文字として定められ、この制定により、JIS X 0212はJIS X 0213よりも下位の位置づけとなり、JIS X 0213を使用することが推奨されるようになった。その後の公的規格などにおいてもJIS X 0212ではなくJIS X 0213を使うことを推奨するものが増えている。2004年にはJIS X 0213:2004が制定されJIS X 0212に含まれる一部のグリフも変更されたが、JIS X 0212は過去の規格ということで、JIS X 0213に含まれていない文字は変更されなかった。 JIS X 0213:2004とJIS X 0212:1990で字形が異なる文字を以下に示す(JIS X 0212:1990の字形はAdobe-Japan1-6文字コレクションに含まれるグリフと一致するものは漢字異体字セレクタ(IVS)を使用したうえで凸版文久明朝・游明朝体・源ノ明朝を指定し、一致しないものは画像を使用した。IVSに対応しない環境や、グリフの実装が異なるフォントでは正確な字形が再現されない)。住基統一文字では別のコードポイントで収録している。 「『JIS X 0213 7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合』附属書11 3.2 JIS X 0212からの索引」において、JIS X 0212とJIS X 0213の対応が規定されている。「3.3 JIS X 0221からの索引」にはUCS符号との対応が規定されている。以下のようにUCSの符号が異なるものが存在する。 市販の日本語フォントでは、Adobe-Japan1-6以降に準拠したOpenType Pr6/Pr6Nフォントがサポートしている。 フリーフォントでは源ノ角ゴシック、源ノ明朝、VLゴシックなどが対応している。 Windowsでは古くから対応フォントが用意されており、Windows 98からすでに標準でバンドルされているMS ゴシックやMS 明朝が対応している。Windows Vista以降のシステムフォントであるメイリオは、Vista発売当初のバージョン (5.00) では対応していなかったが、Windows 7に搭載されているバージョン (6.02) で対応するようになった。Windows 10が搭載する游明朝と游ゴシックの文字セットは、2019年以降Adobe-Japan1-7を含むのでPr6N相当である。 macOSにおいては、OS X Mavericksで追加された游明朝体と游ゴシック体がPr6Nフォントであり、macOS Sierra以降でFont Bookから追加ダウンロードできる凸版文久明朝、凸版文久ゴシックもPr6Nフォントである。iOSでは、iOS 14の時点で標準搭載日本語フォントがAdobe-Japan1-5相当のヒラギノProNに限られるため、JIS X 0212の文字・例示字形には正しく表示することができないものがある。
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JIS X 0212は、JIS X 0208:1983に含まれない文字を集めた、6067字の符号化文字集合を規定する日本産業規格 (JIS) である。規格名称は「情報交換用漢字符号-補助漢字」である。1990年10月1日に制定され、JIS X 0208と組み合わせて利用される。JIS補助漢字の通称がある。
{{参照方法|date=2022-4}} [[ファイル:Euler diag for jp charsets.svg|lang=ja|300px|サムネイル|右|[[オイラー図]](JIS X 0208、JIS X 0212、JIS X 0213等の漢字集合)]] '''JIS X 0212'''は、[[JIS X 0208|JIS X 0208:1983]]に含まれない文字を集めた、6067字の[[符号化文字集合]]を規定する[[日本産業規格]] (JIS) である。規格名称は「'''情報交換用漢字符号-補助漢字'''」である。[[1990年]][[10月1日]]に制定され、JIS X 0208と組み合わせて利用される。'''JIS補助漢字'''の通称がある。 ==収録文字== 次の通りである。一般に、非漢字をも含めて補助漢字と呼ぶ。 * [[特殊文字]] - 21文字 ** 記述記号 - 2文字 ** 単位記号 - 1文字 ** 一般記号 - 7文字 ** [[ダイアクリティカルマーク]] - 11文字 * アルファベット - 245文字 ** ダイアクリティカルマーク付き[[ギリシア文字|ギリシアアルファベット]] - 21文字 ** [[キリル文字|キリル系アルファベット]] - 26文字 ** [[ラテン文字|ラテン系アルファベット]] - 27文字 ** ダイアクリティカルマーク付きラテンアルファベット - 171文字 * 漢字 - 5801文字 JIS X 0212の制定には国文学研究資料館(当時)の[[田嶋一夫]]が大きく関与して、国文学研究資料館の書誌データベース構築における研究成果に基づいた文字選定を行っており、学問研究向きの文字集合となっている。ただ、収録された漢字の中には由来の不明確なものもある。また、「[[〆]]」の字はJIS X 0208にも含まれているが、それとは大きく異なる例示字形で16区17点に漢字として収録({{補助漢字フォント|乄}})している。 [[Unicode]]は制定時にJIS X 0212を原規格の一つとしたため、補助漢字を全て含んでいる。よってUnicodeベースのシステムではフォントさえあれば補助漢字を利用できる。ほかに[[EUC-JP]]、[[ISO-2022-JP-2]]、[[ISO-2022-JP-1]]の符号化方式でも利用できる。しかし[[Shift_JIS]]では符号化方式の制約により利用できず、Shift_JISでも利用できる設計の拡張文字集合として[[2000年]]に[[JIS X 0213]]が制定されることになる。 == JIS X 0213との関係 == JIS X 0213は第3水準および第4水準の文字として定められ、この制定により、JIS X 0212はJIS X 0213よりも下位の位置づけとなり、JIS X 0213を使用することが推奨されるようになった。その後の公的規格などにおいてもJIS X 0212ではなくJIS X 0213を使うことを推奨するものが増えている。[[2004年]]にはJIS X 0213:2004が制定されJIS X 0212に含まれる一部のグリフも変更されたが、JIS X 0212は過去の規格ということで、JIS X 0213に含まれていない文字は変更されなかった。 === JIS X 0213:2004とJIS X 0212:1990で字形が異なる文字 === JIS X 0213:2004とJIS X 0212:1990で字形が異なる文字を以下に示す<ref name="kdtbs">[http://kanji-database.sourceforge.net/charcode/jis/jisx0212.html 漢字データベースプロジェクト JIS X 0212]</ref>(JIS X 0212:1990の字形は[[Adobe-Japan1|Adobe-Japan1-6]]文字コレクションに含まれるグリフと一致するものは漢字[[異体字セレクタ]](IVS)を使用したうえで凸版文久明朝・[[游書体|游明朝体]]・[[源ノ明朝]]を指定し、一致しないものは画像を使用した。IVSに対応しない環境や、グリフの実装が異なるフォントでは正確な字形が再現されない)。[[住基統一文字]]では別のコードポイントで収録している<ref>安岡孝一、「[https://doi.org/10.1241/johokanri.55.826 住民基本台帳ネットワーク統一文字とその問題点]」『情報管理』 2012年 55巻 11号 p.826-832, {{doi|10.1241/johokanri.55.826}}</ref>。 {| class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-family:'Toppan Bunkyu Mincho', 'YuMincho', '游明朝', '源ノ明朝', serif; line-height:250%;" |- style="font-family: sans-serif;line-height:130%;" ! JIS X 0212 区点 !! 文字(JIS X 0212:1990) !! 文字(JIS X 0213:2004) !! Unicode !! 住基統一文字 |- | 18-49 || style="font-size: 300%"|&#x50F2;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x50F2; || U+50F2 || ad9b |- | 20-60 || [[File:Aj2-0702.svg|48px|Adobe-Japan2文字コレクション 0702、U+53D5(叕)のJIS X 0212:1990例示字形]] || style="font-size: 300%"|&#x53D5; || U+53D5 || |- | 26-05 || style="font-size: 300%"|&#x5ADA;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x5ADA; || U+5ADA || affe |- | 70-84 || style="font-size: 300%"|&#x5DB2;&#xE0100; || style="font-size: 300%"|&#x5DB2; || U+5DB2 || |- | 28-50 || style="font-size: 300%"|&#x5ECB;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x5ECB; || U+5ECB || |- | 34-39 || style="font-size: 300%"|&#x6677;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x6677; || U+6677 || b2a2 |- | 34-43 || [[File:Aj2-2001.svg|48px|Adobe-Japan2文字コレクション 2001、U+6680(暀)のJIS X 0212:1990例示字形]] || style="font-size: 300%"|&#x6680; || U+6680 || b2aa |- | 36-81 || style="font-size: 300%"|&#x69FE;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x69FE; || U+69FE || b37b |- | 38-11 || [[File:Aj2-2345.svg|48px|Adobe-Japan2文字コレクション 2345、U+6BA9(殩)のJIS X 0212:1990例示字形]] || style="font-size: 300%"|&#x6BA9; || U+6BA9 || b3ed |- | 38-68 || [[File:Aj2-2402.svg|48px|Adobe-Japan2文字コレクション 2402、U+6C74(汴)のJIS X 0212:1990例示字形]]|| style="font-size: 300%"|&#x6C74; || U+6C74 || b40e |- | 41-07 || style="font-size: 300%"|&#x6FF9;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x6FF9; || U+6FF9 || b4d5 |- | 42-15 || style="font-size: 300%"|&#x71B3;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x71B3; || U+71B3 || b540 |- | 44-34 || style="font-size: 300%"|&#x7462;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x7462; || U+7462 || b5c3 |- | 44-79 || style="font-size: 300%"|&#x74D8;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x74D8; || U+74D8 || b5dc |- | 44-88 || style="font-size: 300%"|&#x74EF;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x74EF; || U+74EF || b5e2 |- | 45-72 || style="font-size: 300%"|&#x7608;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x7608; || U+7608 || b606 |- | 45-87 || style="font-size: 300%"|&#x7626;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x7626; || U+7626 || |- | 46-47 || style="font-size: 300%"|&#x76D4;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x76D4; || U+76D4 || b638 |- | 47-20 || style="font-size: 300%"|&#x77A2;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x77A2; || U+77A2 || b65f |- | 48-41 || style="font-size: 300%"|&#x7934;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x7934; || U+7934 || b694 |- | 51-04 || style="font-size: 300%"|&#x7C69;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x7C69; || U+7C69 || b7ed |- | 51-72 || style="font-size: 300%"|&#x7D5C;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x7D5C; || U+7D5C || b817 |- | 56-59 || style="font-size: 300%"|&#x845C;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x845C; || U+845C || b9d2 |- | 63-07 || style="font-size: 300%"|&#x8C9B;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x8C9B; || U+8C9B || bbbe |- | 68-84 || style="font-size: 300%"|&#x9365;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x9365; || U+9365 || be04 |- | 69-09 || style="font-size: 300%"|&#x938B;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x938B; || U+938B || be19 |- | 69-17 || style="font-size: 300%"|&#x93A1;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x93A1; || U+93A1 || be05 |- | 70-86 || style="font-size: 300%"|&#x96DA;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x96DA; || U+96DA || be93 |- | 71-18 || style="font-size: 300%"|&#x9755;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x9755; || U+9755 || beb5 |- | 74-18 || style="font-size: 300%"|&#x9B2D;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x9B2D; || U+9B2D || |- | 75-57 || style="font-size: 300%"|&#x9CE6;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x9CE6; || U+9CE6 || c044 |- | 76-23 || style="font-size: 300%"|&#x9DBF;&#xE0101; || style="font-size: 300%"|&#x9DBF; || U+9DBF || c055 |} === JIS X 0212とJIS X 0213でUCS符号が一致しない文字 === 「『JIS X 0213 7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合』附属書11 3.2 JIS X 0212からの索引」において、JIS X 0212とJIS X 0213の対応が規定されている。「3.3 JIS X 0221からの索引」にはUCS符号との対応が規定されている。以下のようにUCSの符号が異なるものが存在する。<ref name="kdtbs"/> {| class="wikitable sortable" |- ! JIS X 0212→UCS !! JIS X 0213→UCS !! 備考 |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x5765;}}}}(U+5765) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x5766;}}}}(U+5766) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x601A;}}}}(U+601A) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x601B;}}}}(U+601B) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x67E6;}}}}(U+67E6) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x67E4;}}}}(U+67E4) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x5DF9;}}}}(U+5DF9) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x537A;}}}}(U+537A) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x572E;}}}}(U+572E) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x572F;}}}}(U+572F) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x653A;}}}}(U+653A) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x6539;}}}}(U+6539) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x7386;}}}}(U+7386) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x8332;}}}}(U+8332) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x676E;}}}}(U+676E) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x67FF;}}}}(U+67FF) || [[wikt:杮|杮]](こけら)(画数8画)を[[wikt:柿|柿]](かき)(画数9画)に対応(包摂) |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x6637;}}}}(U+6637) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x25055;}}}}(U+25055) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x5F50;}}}}(U+5F50) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x5F51;}}}}(U+5F51) || |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x7626;}}}}(U+7626) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x75E9;}}}}(U+75E9) || JIS X 0213:2004 (追加10文字の中の一つと対応させず、従来の異体字に対応) |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x7E6B;}}}}(U+7E6B) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x7E4B;}}}}(U+7E4B) || JIS X 0213:2004 (追加10文字の中の一つと対応させず、従来の異体字に対応) |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x4E44;}}}}(U+4E44) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x3006;}}}}(U+3006) || JIS包摂基準に基づかないもの |- | {{Fontsize|200%|{{補助漢字フォント|&#x0110;}}}}(U+0110) || {{Fontsize|200%|{{JIS2004フォント|&#x00D0;}}}}(U+00D0) || JIS包摂基準に基づかないもの([[Đ]],[[Ð]]) |} == フォントの対応 == 市販の日本語フォントでは、[[Adobe-Japan1|Adobe-Japan1-6以降]]に準拠したOpenType Pr6/Pr6Nフォントがサポートしている<ref>[https://www.morisawa.co.jp/culture/dictionary/1986 Adobe-Japan1-6の2つのフォント | フォント用語集 | 文字の手帖 | 株式会社モリサワ]</ref>。 フリーフォントでは[[源ノ角ゴシック]]、[[源ノ明朝]]、[[VLゴシック]]などが対応している。 [[Microsoft Windows|Windows]]では古くから対応フォントが用意されており、[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]からすでに標準でバンドルされている[[MS ゴシック]]や[[MS 明朝]]が対応している。[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]以降のシステムフォントである[[メイリオ]]は、Vista発売当初のバージョン (5.00) では対応していなかったが、[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]に搭載されているバージョン (6.02) で対応するようになった。[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]が搭載する[[游書体|游明朝と游ゴシック]]の文字セットは、2019年以降Adobe-Japan1-7を含む<ref name="yftos">[http://www.jiyu-kobo.co.jp/wp@test/wp-content/uploads/2019/07/compatibility_1907.pdf OS搭載の游書体一覧PDF] - 字游工房 2019/7/17</ref><!-- 以前の http://www.jiyu-kobo.co.jp/wp@test/wp-content/uploads/2016/10/compatibility_1610.pdf ではA-J1-6 -->のでPr6N相当である。 [[macOS]]においては、[[OS X Mavericks]]で追加された[[游書体|游明朝体と游ゴシック体]]がPr6Nフォントであり<ref name="yftos" />、[[macOS Sierra]]以降でFont Bookから追加ダウンロードできる凸版文久明朝、凸版文久ゴシックもPr6Nフォントである<!-- https://applech2.com/archives/macos-10-12-sierra-jp-font.html -->。[[iOS]]では、iOS 14の時点で標準搭載日本語フォントがAdobe-Japan1-5相当のヒラギノProNに限られるため、JIS X 0212の文字・例示字形には正しく表示することができないものがある。 == 参考文献 == *{{Cite book|和書|year=1988|month=6|title=印刷産業の情報処理高速化に関する調査研究報告書|publisher=日本機械工業連合会・日本印刷産業連合会|series=日機連高度化 62-11}} *{{Cite journal|和書|author=田嶋一夫|year=1989|title=JIS漢字補助集合案の設定と今後の課題|journal=情報処理学会研究報告|volume=89|issue=13|pages=1-6ページ|publisher=情報処理学会}} *{{Cite book|和書|year=1990|title=JIS X 0212-1990 情報交換用漢字符号-補助漢字|publisher=日本規格協会}} *{{Cite journal|和書|author=内田富雄|year=1990|title=JIS X 0212(情報交換用漢字符号-補助漢字)の制定|journal=標準化ジャーナル|volume=20|issue=11|pages=6-11ページ|publisher=日本規格協会}} *{{Cite book|和書|author=真堂彬|coauthors=プロビット|year=1992|month=5|title=JIS補助漢字 フォント NEC PC-9800シリーズ対応|publisher=エーアイ出版|isbn=4-87193-158-7}} :Shift_JIS環境で外字機能を使用して補助漢字を利用できるようにするデータが入った[[フロッピーディスク]]が添付されている。 ==関連項目== * [[Microsoftコードページ932]] * [[Template:補助漢字フォント]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{cite jis|X|0212|1990|name=情報交換用漢字符号-補助漢字}} * [https://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/ref/jisx0212/index.html JIS X 0212コード表(全コード) - CyberLibrarian] * [http://kangxi.cswiki.jp/index.php?JIS%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E6%BC%A2%E5%AD%97_1 JIS補助漢字_1 - 漢字辞典wiki] * [http://kangxi.cswiki.jp/index.php?JIS%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E6%BC%A2%E5%AD%97_2 JIS補助漢字_2 - 漢字辞典wiki] * [http://kanji-database.sourceforge.net/charcode/jis/jisx0212.html 漢字データベースプロジェクト JIS X 0212] {{文字コード}} [[Category:日本語用の文字コード]] [[Category:JIS規格番号|X0212]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/JIS_X_0212
6,904
OpenType
OpenType(オープンタイプ)は、デジタルフォントの規格である。Appleが開発したTrueTypeの拡張版として、マイクロソフト、アドビシステムズ(現アドビ)により共同で開発され、1997年4月にバージョン1.0が発表された。OpenType はマイクロソフトの登録商標である。 OpenTypeはTrueTypeを発展させ、PostScript フォントの CFF/Type 2形式のアウトラインデータも収録できるようにしたものである。 拡張子は、アウトラインデータがCFF (PostScript) 形式のものは「.OTF」(フォントコレクションは「.TTC」「.OTC」)、TrueType形式のものは「.TTF」「.OTF」(フォントコレクションは「.TTC」)のいずれかとなる。 OpenTypeは下記の特徴を持つ。 WindowsではOpenTypeフォントが使用できないアプリケーションもあり、GDI+では標準で対応されないため.NET FrameworkのWindows Formsなどでは標準で使用できない。WPFは大部分の機能に対応した。Windows 7以降に標準搭載されているDirectWriteもOpenTypeに対応しているが、カラーフォントへの対応はWindows 8.1以降であり、またWindows 10 Anniversary Update時点でSVGカラーフォントへの対応は部分的にとどまっている。 JIS X 0208などの漢字コードは、微小な字形差の多くが包摂規準により同じ符号位置に統合されているため、微小な字形差を表現し分けることができない。 OpenTypeは微小な字形差などを含み対応可能な特長を有し、日本ではグリフ集合としてAdobe-Japan1シリーズを用いることで、微小な字形差を区別していることが多い。 漢字の異体字切替は、フォントに内蔵されるGSUBテーブルを利用した切替がAdobe InDesignなどで実装されているほか、Unicode 5.1で異体字セレクタとしてIVS (Ideographic Variation Sequences) が導入され、その組み合わせとして2007年12月にAdobe-Japan1がIVD (Ideographic Variation Database) に登録された。Unicode 6.3 では、SVS (Standardized Variation Sequences) としてCJK互換漢字の1002通りが追加された。フォントの規格では、OpenTypeが2008年5月策定のOpenType 1.5でUnicodeの異体字セレクタに対応した。これによりソフトウェア・フォント共に対応していれば、異体字セレクタを利用してプレーンテキスト上で異体字を表現できる。 日本語のグリフ集合は、Adobe-Japan1-3 (Std) が9,354グリフ、Adobe-Japan1-4 (Pro) が15,444グリフ、Appleが制定しMac OS X v10.1で採用した独自のグリフ集合であるAPGS (Apple Publishing Glyph Set) をサポートしたAdobe-Japan1-5 (Pr5) は20,317グリフ、そして使用頻度の低い漢字を多数収容したAdobe-Japan1-6 (Pr6) で23,058グリフをサポートしている。 現在では、アドビやモリサワなどいくつかの和文フォントベンダーがAdobe-Japan1-6に準拠したOpenTypeフォントを多数販売、AppleはmacOS にヒラギノOpenTypeフォントを標準で採用、アドビはDTPソフトAdobe InDesignでOpenTypeの文字組版機能に完全対応するなど各方面で対応が進んでいる。Windows 2000以降のWindowsなどでも利用可能だが、OpenTypeの特徴である高度な文字組版機能を使用するには対応アプリケーションを要する。 従来のOCFフォント、CIDフォントはともに、ダイナミックロードの出力は不可能ではないが不安定である。日本語を含む2バイトフォントのDTP出力は、イメージセッタやプリンタなど出力機側に専用のフォントをあらかじめインストールし、出力時は文字コード情報やフォント名の情報のみを出力機へ送り、文字の形の情報は出力機側で計算させた。かつてコンピュータやネットワークの性能が低い状況で負荷を低減させる利点があったが、機能の向上とともに不要となった。 OpenTypeはTrueType同様にダウンロード出力ができるため、コンピュータ側にフォントがインストールされていれば出力が可能である。
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OpenType(オープンタイプ)は、デジタルフォントの規格である。Appleが開発したTrueTypeの拡張版として、マイクロソフト、アドビシステムズ(現アドビ)により共同で開発され、1997年4月にバージョン1.0が発表された。OpenType はマイクロソフトの登録商標である。
{{Infobox file format | name = OpenType | icon = | logo = | screenshot = | caption = | extension = .otf, .otc, .ttf, .ttc | mime = font/otf, font/collection<ref group="注釈"> font/otfならびにfont/collectionともに {{IETF RFC|8081}} The "font" Top-Level Media Typeで規定されている。 </ref>, application/font-sfnt<ref> {{Cite web|url=https://www.iana.org/assignments/media-types/application/font-sfnt|title=application/font-sfnt|accessdate=2017-03-26|date=2013-03-29|publisher=IANA|language=英語}} </ref> | type code = OTTO | uniform type = public.opentype-font | magic = | owner = [[マイクロソフト]]・[[アドビ|アドビシステムズ]] | released = {{Start date and age|1997|4}} | latest release version = 1.8.2 | latest release date = {{Start date and age|2017|7|21}} | genre = [[アウトラインフォント]] | container for = | contained by = | extended from = [[TrueType]]・[[PostScriptフォント]] | extended to = | standard = ISO/IEC 14496-22:2015 Part 22<ref> {{Cite web|url=https://www.iso.org/standard/66391.html|title=ISO/IEC 14496-22:2015 - Information technology -- Coding of audio-visual objects -- Part 22: Open Font Format|accessdate=2017-03-25|publisher=国際標準化機構|language=英語}} </ref> | url = }} '''OpenType'''(オープンタイプ)は、[[フォント|デジタルフォント]]の規格である。[[Apple]]が開発した[[TrueType]]の拡張版として、[[マイクロソフト]]、アドビシステムズ(現[[アドビ]])により共同で開発され、1997年4月にバージョン1.0が発表された<ref> {{Cite web |url=https://www.microsoft.com/en-us/Typography/WhatIsOpenType.aspx|title=What is OpenType? - Microsoft Typography|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2017-09-21}} </ref><ref name="mschangelog"> {{Cite web |url=https://www.microsoft.com/typography/otspec/changes.htm|title=OpenType specification change log - Microsoft Typography|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2017-09-21}} </ref>。OpenType はマイクロソフトの登録商標である<ref> {{Cite web|和書|url=https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/TR/JPT_4632036/75BEB3E64ED8D82CA883A0DCF2F4190D|title=商標公報4632036 特許情報プラットフォーム J-PlatPat|publisher=|language=|accessdate=2017-09-26}} </ref>。 == 規格 == [[File:Special Cyrillics.png|thumb|right|ロシア語(上)と、マケドニア/セルビア語(下)のキリル文字。字形は異なるもののUnicodeの同じコードポイントを共有しているため、OpenTypeの機能を利用して字形を適切に指定する必要がある。]] OpenTypeはTrueTypeを発展させ、[[PostScriptフォント#Compact_Font_Format|PostScript フォントの CFF/Type 2]]形式のアウトラインデータも収録できるようにしたものである<ref name="msoverview"> {{Cite web |url=https://www.microsoft.com/typography/otspec/otover.htm|title=OpenType Overview - Microsoft Typography|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2017-09-26}} </ref>。 [[拡張子]]は、アウトラインデータがCFF (PostScript) 形式のものは「.OTF」(フォントコレクションは「.TTC」「.OTC」)、TrueType形式のものは「.TTF」「.OTF」(フォントコレクションは「.TTC」)のいずれかとなる<ref group="注釈">フォントコレクション (Font Collection) は、かつてはTrueType Collectionの名称でTrueType形式のアウトラインのみをサポートしたが、2015年3月に策定されたOpenType 1.7でCFF形式のアウトラインのサポートが追加された。この仕様に準拠したフォントとして [[源ノ角ゴシック]]([[Noto Sans CJK]])のOTC版などがある。 </ref><ref group="注釈">ソフトウェアは拡張子だけを見て、アウトラインがCFF形式かTrueType形式かを判断してはならないとされている。 </ref><ref> {{Cite web |url=https://www.microsoft.com/typography/otspec/otff.htm|title=The OpenType Font File - Microsoft Typography|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2017-09-21}} </ref><ref> {{Cite web |url=https://www.microsoft.com/typography/otspec/recom.htm|title=Recommendations for OpenType Fonts - Microsoft Typography|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2017-09-21}} </ref>。 {{Main2|アウトラインがTrueType形式のOpenTypeフォントについては「[[TrueType]]」も}} == 特徴 == OpenTypeは下記の特徴を持つ。 * [[Unicode]]に完全対応しており、[[字体#異体字|異体字]]などを含む65536個までの[[字体|グリフ]]を収録した多言語フォントを実現可能で、 CID(Character IDentifier, Character ID)を使用できる。 * [[組版|文字組版]]に関する多数の高度な機能([[合字]]、字体切替、プロポーショナルメトリクス、ペアカーニング、ベースラインの指定など)が利用できる<ref name="msoverview" /><ref> {{Cite web |url=https://www.microsoft.com/typography/otspec/TTOCHAP1.htm|title=Advanced Typographic Extensions - OpenType Layout - Microsoft Typography|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2017-09-26}} </ref>。 * [[クロスプラットフォーム]]<ref name="msoverview" />で、 [[Microsoft Windows|Windows]]と[[macOS]]の双方で同じフォントファイルが利用できる。ATMフォント、低解像度プリンタフォント、高解像度プリンタフォントなどの区別なく、1つのフォントファイルのみで対応ができる。 * アウトラインがCFF (PostScript) 形式の場合、TrueType形式よりフォントファイルのサイズを小さくできる<ref group="注釈">。 CFF形式のアウトラインは、3次[[ベジェ曲線]]で表現され、2次ベジェ曲線に比べ制御点の数を少なくできる。なお、3次ベジェ曲線を2次ベジェ曲線に無劣化で変換することはできない。 </ref><ref> {{Cite web |url=https://blog.typekit.com/2010/12/02/the-benefits-of-opentypecff-over-truetype/|title=The Benefits Of OpenType/CFF Over TrueType - Adobe Typekit Blog|language=英語|accessdate=2017-09-21}} </ref>。 * 2016年9月策定のOpenType 1.8で、同じフォントファミリー内の複数のスタイルを一つのフォントファイルにまとめられるバリアブルフォント<ref group="注釈">日本語ではバリアブルフォントのほか、可変フォントともいわれる。表記が統一されていないが同一の規格を指す。</ref> (OpenType Variable Font) が追加された。この規格に対応するフォントは、1つのフォントファイルのみでウェイトや字幅など文字のスタイルを自由自在に変更することができる。<ref> {{Cite web |url=https://www.microsoft.com/typography/otspec/otvaroverview.htm|title=OpenType Font Variations Overview - Microsoft Typography|publisher=マイクロソフト|language=英語|accessdate=2017-09-21}} </ref>。 * [[Portable Network Graphics|PNG]]画像や[[Scalable Vector Graphics|SVG]]画像の埋め込み、あるいは複数の単色グリフアウトラインのベクターレイヤーを利用した、カラー絵文字や色付きのフォント(カラーフォント)をサポートする<ref>[https://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/1407/03/news113.html OpenTypeカラーフォント:Windows Insider用語解説 - @IT]</ref>。 WindowsではOpenTypeフォントが使用できないアプリケーションもあり、[[Graphics Device Interface|GDI+]]では標準で対応されないため[[.NET Framework]]の[[Windows Forms]]などでは標準で使用できない。[[Windows Presentation Foundation|WPF]]は{{要出典|date=2019-07|大部分の機能}}{{要説明|date=2019-07}}<!-- 具体的な内容を、根拠となる出典を用いて示すべき。 -->に対応した。[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]以降に標準搭載されている[[DirectWrite]]もOpenTypeに対応しているが、カラーフォントへの対応は[[Microsoft Windows 8|Windows 8.1]]以降であり、また[[Microsoft Windows 10|Windows 10]] Anniversary Update時点でSVGカラーフォントへの対応は部分的にとどまっている<ref>[https://docs.microsoft.com/en-us/windows/win32/directwrite/color-fonts Color Fonts - Windows applications | Microsoft Docs]</ref>。 == 和文OpenTypeフォント == [[JIS X 0208]]などの[[JIS漢字コード|漢字コード]]は、微小な字形差の多くが包摂規準により同じ符号位置に統合されているため、微小な字形差を表現し分けることができない。 OpenTypeは微小な字形差などを含み対応可能な特長を有し、日本ではグリフ集合として[[Adobe-Japan1]]シリーズを用いることで、微小な字形差を区別していることが多い。 漢字の異体字切替は、フォントに内蔵されるGSUBテーブルを利用した切替が[[Adobe InDesign]]などで実装されているほか、Unicode 5.1で[[異体字セレクタ]]としてIVS (Ideographic Variation Sequences) が導入され、その組み合わせとして2007年12月にAdobe-Japan1がIVD (Ideographic Variation Database) に登録された<ref> {{Cite web |url=http://unicode.org/versions/Unicode5.1.0/|title=Unicode 5.1.0|publisher=Unicode|format=|language=英語|accessdate=2017-10-03}} </ref><ref> {{Cite web |url=http://unicode.org/ivd/|title=Ideographic Variation Database|publisher=Unicode|format=|language=英語|accessdate=2017-10-03}} </ref>。Unicode 6.3 では、SVS (Standardized Variation Sequences) として[[CJK互換漢字]]の1002通りが追加された<ref> {{Cite web |url=http://unicode.org/versions/Unicode6.3.0/|title=Unicode 6.3.0|publisher=Unicode|format=|language=英語|accessdate=2017-10-03}} </ref>。フォントの規格では、OpenTypeが2008年5月策定のOpenType 1.5でUnicodeの異体字セレクタに対応した<ref name="mschangelog" />。これによりソフトウェア・フォント共に対応していれば、異体字セレクタを利用して[[プレーンテキスト]]上で異体字を表現できる。 日本語のグリフ集合は、Adobe-Japan1-3 (Std) が9,354グリフ、Adobe-Japan1-4 (Pro) が15,444グリフ、[[Apple]]が制定し[[Mac OS X v10.1]]で採用した独自のグリフ集合であるAPGS (Apple Publishing Glyph Set) をサポートしたAdobe-Japan1-5 (Pr5) は20,317グリフ、そして使用頻度の低い漢字を多数収容したAdobe-Japan1-6 (Pr6) で23,058グリフをサポートしている<ref> {{Cite web |url=http://www.adobe.com/content/dam/Adobe/en/devnet/font/pdfs/5078.Adobe-Japan1-6.pdf|title=The Adobe-Japan1-6 Character Collection - Adobe Technical Note #5078|publisher=アドビシステムズ|format=PDF|language=英語|accessdate=2017-09-21}} </ref>。 現在では、アドビや[[モリサワ]]などいくつかの和文フォントベンダーがAdobe-Japan1-6に準拠したOpenTypeフォントを多数販売、Appleは[[macOS]] に[[ヒラギノ]]OpenTypeフォントを標準で採用、アドビは[[DTP]]ソフトAdobe InDesignでOpenTypeの文字組版機能に完全対応するなど各方面で対応が進んでいる。[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]以降のWindowsなどでも利用可能だが、OpenTypeの特徴である高度な文字組版機能を使用するには対応アプリケーションを要する。 == 出力における従来のフォントとの違い == 従来の[[OCFフォント]]、[[CIDフォント]]はともに、ダイナミックロードの出力は不可能ではないが不安定である。日本語を含む2[[バイト (情報)|バイト]]フォントのDTP出力は、[[イメージセッタ]]や[[プリンター|プリンタ]]など出力機側に専用のフォントをあらかじめインストールし、出力時は文字コード情報やフォント名の情報のみを出力機へ送り、文字の形の情報は出力機側で計算させた。かつてコンピュータやネットワークの性能が低い状況で負荷を低減させる利点があったが、機能の向上とともに不要となった。 OpenTypeはTrueType同様にダウンロード出力ができるため、コンピュータ側にフォントがインストールされていれば出力が可能である<ref> {{Cite web|和書|url=http://www.morisawa.co.jp/support/faq/165|title=OpenTypeフォントとは?|publisher=株式会社モリサワ|accessdate=2017-09-21}} </ref>。 == 注釈 == {{Reflist|group="注釈"}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}} == 関連項目 == *[[TrueType]] *[[PostScriptフォント]] *[[FreeType]] - フリーのフォント描画ライブラリ。OpenTypeをサポートしている。 == 外部リンク == * [https://www.microsoft.com/en-us/Typography/OpenTypeSpecification.aspx Microsoft Typography - OpenType Specification](英語)(マイクロソフトによるOpenTypeの規格書) {{タイポグラフィ用語}} [[Category:DTP]] [[Category:書体]] [[Category:登録商標]]
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秋田新幹線
秋田新幹線(あきたしんかんせん)は、東京都の東京駅から岩手県の盛岡駅を経て秋田県の秋田駅まで東北新幹線・田沢湖線・奥羽本線を直通して走行する東日本旅客鉄道(JR東日本)の新幹線車両を使用した列車の通称およびその列車が走行する同区間の通称である。ラインカラーはピンク(■)。 東京駅から盛岡駅までは東北新幹線、盛岡駅から大曲駅までは田沢湖線、大曲駅から秋田駅までは奥羽本線を走行する。 東京駅 - 盛岡駅間は東北新幹線であるとして、狭義には在来線区間となる田沢湖線及び奥羽本線の区間である盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間を秋田新幹線とすることもある。以下、特記なき場合は直通運転系統としての秋田新幹線について記述する。 1997年(平成9年)、全国新幹線鉄道整備法に基づかない新在直通方式のミニ新幹線として開業した。ミニ新幹線としては山形新幹線に次ぐ開業である。同法では「主たる区間を列車が二百キロメートル毎時以上の高速度で走行できる幹線鉄道」を新幹線と定義しており、法律上は、盛岡駅 - 秋田駅間はあくまで在来線であって新幹線ではない。 東京駅 - 盛岡駅間の東北新幹線は最高速度320 km/hで運行されるが、盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間は在来線であるため最高速度は130 km/hにとどまる。全ての車両が新在直通用車両のE6系で、「こまち」として運行される。 在来線区間の大半が、秋田新幹線の名称の通り秋田県内であり、北東北を横断するような線形である。奥羽山脈を越えるためトンネルや曲線区間が多く、この区間での最高速度は在来線と同程度にとどまる。また配線の都合により大曲駅でスイッチバックを行うため、列車の進行方向が前後逆になる。 1984年(昭和59年)10月に秋田県は東北新幹線の開業後、首都圏への連絡経路として田沢湖線の比重が増したことから、東北経済連合会と共同で、「新幹線接続在来線の速度向上に関する調査」を日本鉄道施設協会に委託し、田沢湖線の高速化について調査を開始した。翌年に調査結果はまとまり、県はそれを叩き台として国鉄のほか関係当局等と非公式協議を断続的に重ね、1986年3月に県が策定した「県総合発展計画後期計画」においてミニ新幹線の整備が重点課題として定められた。 1987年4月の秋田県知事選で3選を遂げた佐々木喜久治は、初登庁後の県職員に対する挨拶で、立ち遅れていた県内の社会資本等の整備を進めるため、田沢湖線のミニ新幹線化、高規格幹線道路の建設、八幡平・阿仁・田沢湖地域での大規模リゾート整備の3プロジェクトを3期目の3大公約として掲げた。また、同年6月11日に山之内秀一郎JR東日本副社長が就任あいさつのため秋田県庁を訪れた際には、県幹部との会談で田沢湖線のミニ新幹線化について構想具体化のため協力していくことで一致し、同年6月19日には県の主導で「秋田・盛岡間在来線高速化推進委員会」が設けられた。 しかし、同年7月に運輸省、学識経験者、JR東日本などによって組織された「新幹線・在来線直通運転調査委員会」がミニ新幹線のモデル線区として奥羽本線福島駅 - 山形駅間を正式に決定した。 山形と共闘しミニ新幹線事業を在来線活性化事業として位置付け、運輸省等に水面下で働きかけていた秋田県側ではこの決定に落胆し、山形に抜け駆けされたと思う県民が多かった。ミニ新幹線のモデル線区として山形側が選定されたことを受け、同年7月13日、秋田市で開催されていた「県高速交通体系整備促進協議会」の総会の席上、高田景次秋田市長から緊急動議が提出され、同協議会のメンバー構成で、田沢湖線のミニ新幹線化を推進する「秋田・盛岡間在来線高速化早期実現期成同盟会」(会長 佐々木知事)が発足した。以後、期成同盟会がミニ新幹線の実現のため運動母体となった。 1990年8月24日、運輸省は翌年度予算編成において、田沢湖線と奥羽本線のミニ新幹線事業費を概算要求に組み入れることを決定し、これに合わせ同年9月にJR東日本は東北新幹線と田沢湖線の直通運転の技術を検討するチームを発足させた。そして同年12月28日の大臣折衝において運輸省が財源捻出の手段として求めていた鉄道整備基金からの無利子貸付制度の復活が認められたことによって、秋田新幹線は着工の目処が立った。 秋田新幹線開業にかかる事業費は966億円で、内訳は車両に310億円、地上施設の整備に656億円(施設工事費598億円と老朽部取り替え58億円)だった。また事業費は1991年に創設された鉄道整備基金(国)から地元(秋田、岩手県)が対象経費の50 %ずつについて無利子貸付を受け、完成後にJR東日本に施設を譲渡するスキーム(新幹線直通運転化、高規格化等に対する無利子貸付)が適用され、日本鉄道建設公団が整備主体となり工事はJR東日本に委託された。また車両については秋田県とJR東日本が出資して設立された第三セクター「秋田新幹線車両保有(株)」が保有し、JR東日本に貸し付けられる方途が執られた。2010年3月31日に同社は解散したが、秋田県の出資額115.25億円は全額償還され、所有車両は23億5400万円でJR東日本に売却された。結果、秋田県の実質負担分は施設工事費の98億円(総事業費の10.1%)のみとなった。 ※ 秋田県に全額償還 1992年3月13日に秋田駅前で起工式が挙行され、軌道工事は同年3月の奥羽本線刈和野駅 - 峰吉川駅の複線化工事を皮切りに着手された。またJR東日本東北工事事務所が米国のメーカーに発注した連続軌道更新機(愛称「ビッグワンダー」)が国内で初めて導入され、工事の省力化や工期の短縮に大きく貢献した。標準軌への改軌工事が進捗すると、秋田、大曲駅構内の改良工事と車両基地(南秋田運転所、現:秋田新幹線車両センター)に新幹線車両の修繕施設と留置線の建設も進められた。加えて山形新幹線の開業時に踏切トラブルが相次いだ状況を踏まえ、県、JR東日本秋田支社、秋田県警が協議の上、県が所管する73か所のうち24か所(歩行者専用を含む)の立体交差と9か所の廃止を決めた。また停車駅の駅舎についても、改築から日が浅かった角館駅を除く、全てが秋田新幹線の開業を機に新造されている。 新幹線の愛称については公募され、約6万3千通の中から最終段階で「こまち」「あきた」「みのり」に絞り込まれ、3千832通で応募総数第1位であった「こまち」が採用された。この愛称決定については、新聞読者欄等でしばらく賛否両論が渦巻いた。 1997年3月22日に5年の工期を経て、秋田新幹線は開業した。 秋田新幹線開業にあたってイベントが行われた。 1997年3月には秋田駅構内留置線に車両を留置し、「夢空間」、ジョイフルトレイン「オリエントサルーン」「シルフィード」、建築限界測定車(オヤ31形)、電気機関車(ED75 777)、トロッコ仕様の貨車(トラ形無蓋車)を展示公開する「おもしろ列車大集合」が開催された。また、この貨車を用いたトロッコ列車を「トロッコなまはげ号」(男鹿線)・「トロッコりんごっこ号」(五能線)・「トロッコトタトタ号」(花輪線)として、各線へ向けて運転した。 同年7月19日から21日にかけて開業記念イベントのフィナーレとして、秋田駅 - 横手駅間に「SLあきた号」が運行された。牽引は高崎運転所(現・ぐんま車両センター)所属の蒸気機関車 D51 498、客車は南秋田運転所所属の12系6両。この列車は「こまち」との併走が行われ、駅などで配布されたパンフレットには併走ポイントが記載された。なお、蒸気機関車とミニ新幹線車両との併走はこの時限りとされていたが、のちに何度か実現している。 E6系電車7両編成を使用した「こまち」が運転されている。 田沢湖線内は全て単線なので、新幹線列車が普通列車と行き違いのために待ち合わせをすることがある。大曲駅では、田沢湖線と奥羽本線の接続配線の都合によりスイッチバックするため、大曲駅 - 秋田駅間は走行方向が逆となる。なお大曲駅での座席転換は原則行わないことから、大曲駅 - 秋田駅間は進行方向と座席方向が逆向きとなる。 秋田新幹線開業前の奥羽本線は一部複線化されていたが、開業に際して複線区間は上り線を新幹線用の標準軌に改めたため、線路が二つ並ぶ単線並列になっている。このため、普通列車と新幹線が同じ方向に走ることもある。なお、神宮寺駅 - 峰吉川駅間 のみ新幹線同士の行き違いのため狭軌側を三線軌条にしている。 全国花火競技大会(大曲の花火、大仙市)開催時は、大曲駅が始発・終着となる臨時列車が運行されている。なお、在来線区間のみを走る臨時列車は午前0時以降にも設定される。 秋田新幹線で運転されている車両は次の通り。 編成記号の「S」は、系列に関係なく非営業用車両全般に用いられている。 全列車に普通車(12 - 17号車)とグリーン車(11号車)を連結する。 なお、JR東日本は2007年3月のダイヤ改正以降、東北・上越・山形・秋田の各新幹線および在来線特急列車の全てを禁煙車とし、喫煙ルームなども設けていないため、車内での喫煙はできない。 秋田新幹線の運賃は通算の営業キロに基づいて算出する。東京 - 盛岡間の営業キロは対応する在来線である東北本線のものと同一になっている(同区間の営業キロは535.3キロメートル、実キロは496.5キロメートル)。 特急料金は乗車区間の東北新幹線「はやぶさ号」相当額の新幹線特急料金と田沢湖線・奥羽本線の在来線特急料金を合算する。ただし東京 - 秋田間の相互駅間で改札を出ない場合に限り、普通車指定席利用時(通常期)はそれぞれの特急料金の合計額から530円を割り引く。 特急料金(指定席)は、閑散期は一律200円引き、繁忙期は一律200円増し、最繁忙期は一律400円増し。 秋田新幹線「こまち号」には自由席の連結はないが、田沢湖線・奥羽本線内では特定特急券で普通車指定席の空席に着席することができる。また新幹線定期券FREX・FREXパルでは仙台 - 盛岡間でも秋田新幹線「こまち号」の普通車指定席の空席に着席することができる。このほか満席時には特急料金の530円引きで全区間を対象に立席特急券を発売することがある。 グリーン料金は通算の営業キロに基づいて算出する。 東北新幹線内の特急料金は東北新幹線#運賃と特急料金及びはやぶさ (新幹線)#特急料金を参照。田沢湖線・奥羽本線内の特急料金は以下の通り。 交通需要について国土交通省が2000年に調査した都道府県間鉄道旅客流動データによると、秋田県を目的地とする鉄道旅客のうち、東北新幹線沿線(東京都、埼玉県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県)からの年間旅客数は69.0万人であった。これらの各出発地のうち最も旅客数が多かったのは宮城県の28.1万人、次いで東京都の23.3万人、岩手県の8.8万人である。一方、秋田新幹線沿線(秋田県)を出発地として東北新幹線沿線を目的地とする年間旅客数は68.3万人であった。これらの各目的地のうち最も旅客数が多かったのは宮城県の30.5万人、次いで東京都の18.4万人、岩手県の8.1万人である。 沿線各都県間の旅客流動状況(2000年)は以下のとおり。 (単位:千人/年) *東京圏:東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県とする。 秋田新幹線の開業に合わせ東北新幹線区間では最高速度275 km/h、在来線区間は最高速度130 km/hでの運転が可能になった。これにより、一部の列車(東京発下り最終と秋田発上り始発などの数本のみ)は、東京駅 - 秋田駅間の所要時間を3時間台で運行していた。しかし、それ以外の大半の列車の所要時間は4時間以上となっていたため、さらなる高速化が以前よりたびたび県議会や地元メディアにおいて議論の的となっていた。 その後、2013年春から2014年春にかけて車両置き換えによる東北新幹線区間の高速化が段階的に実施されることとなり、同区間では最高速度320km/hでの運転が実施され、東京駅 - 秋田駅間で平均15分程度の所要時間短縮が図られた。また、同区間では保安装置をDS-ATCに更新したことにより、導入前に比べて数分程度の所要時間短縮も図られた。これらの施策が全て完了した2014年3月15日ダイヤ改正では全ての定期列車が3時間台、最速列車が3時間37分で運行されるようになった。 一方で田沢湖線の全線および奥羽本線区間の多くが単線のため、停車駅でない駅や信号場での対向列車待ち(運転停車)も多く、普通列車を待ち合わせするために停車することもある。また秋田・岩手県境の仙岩峠区間ではカーブと勾配および車体傾斜装置の搭載したE6系の車幅が在来線規格ぎりぎりで在来線区間で車体傾斜して高速通過することができないため、所要時間が短縮できていない。 また田沢湖線雫石駅 - 田沢湖駅周辺は豪雪地帯であり、大量の降雪による影響で在来線区間の列車の遅延が発生しやすい。この影響による接続(連結)待ちのため盛岡駅で上り「こまち」と連結する上り「はやぶさ」(2014年3月14日以前は「はやて」)の遅れを招き、過密ダイヤとなっている東京駅 - 大宮駅間で線路を共有する上越新幹線や北陸新幹線に影響がおよぶこともある。また天候によっては、同区間などの運行を中止する場合がある。下り列車で盛岡駅 - 秋田駅間が区間運休となった場合、盛岡駅で切り離された「こまち」車両は、盛岡新幹線車両センターまで臨時回送される。 なお、平成18年豪雪の際、列車が運行中で立ち往生し、乗客が車内に缶詰め状態になったことがある。また、運行を見合わせた際に代替バス等が手配されなかった場合、乗客の混乱に拍車が掛かることもある。 以上より、東北新幹線区間では、高速化のための各種施策が続々と着手され実現されつつあるが、田沢湖線内・奥羽本線内では以下のような計画・構想がある。 2018年6月、JR東日本が秋田新幹線の岩手、秋田県境である田沢湖(仙北市)- 赤渕(岩手県雫石町)に全長約15キロの直線的なトンネルを整備する計画を昨年11月に地元自治体に伝えていたことが明らかとなった。この県境区間は山が険しいため谷底を縫うように線路が走り、悪天候に弱く、加えて並行する道路がなく、トラブルが発生時に乗客の避難誘導も難しいことから、地元では新ルートの整備がかねてから求められていた。また、JR側としても現行橋梁の老朽化問題や冬季の除雪費用、現行ルート周辺が活動期の地すべり地帯であることから、トンネルを主体とする新線の建設によりこれを回避する狙いがある。 そうした実態を踏まえ、JR東日本が現地調査のほか工費の試算を行ったもので、それによると工期は10年以上で、秋田駅 - 東京駅間の走行時間は現行より約7分の短縮、概算事業費が600億円規模になるとの試算を県や沿線自治体に伝えたことが分かった。調査結果を踏まえ、JR東日本は整備には前向きと報じられているが、整備にあたっては国や県の財政支援が不可欠との認識を示していると伝えられている。なお、事業にあたっては国と自治体が鉄道事業者に対し、費用を5分の1ずつ負担する仕組みがあるが、秋田県は県とJRの負担が重すぎるとして国費の支援を増やすように訴えている。佐竹敬久秋田県知事は、調査結果を受けて、2018年7月に秋田・岩手の7市町で発足の期成同盟会に県が主導的に関わり、国土交通省やJR東日本、岩手県に財政負担などの協力を呼びかけるとの意向を明らかにしている。なお、岩手側の達増拓也岩手県知事は、時間短縮や安定運行のメリットが少ないにもかかわらず過大な負担を求められかねないとして、期成同盟会への参画に慎重であると報じられた。 2018年7月18日に期成同盟会は設立総会を開き、大仙市の老松博行市長が会長、佐竹知事が顧問に就任して発足した。また岩手県は参加を見送り保留としていた。その後、同年7月26、27日に札幌市で開催された全国知事会で佐竹知事が達増知事に期成同盟会への参加を直接要請した。その際に達増知事は、費用はJRが負担すべきと従来どおりの主張を繰り返したが、新ルート整備の必要性自体については両者の意見が一致した。これを受け、同年7月30日に岩手県は秋田県のように主体的に関わるのではなく、オブザーバーとして期成同盟会に参加する意向を示した。 秋田新幹線の利用状況は順調であるが、田沢湖線と奥羽本線を改軌・改築した結果、盛岡駅から秋田駅を経由しての青森方面への直通が不可能となり、かつて同区間を直通していた特急「たざわ」は、運転区間が短縮され、秋田駅 - 青森駅間の特急「かもしか」(現在は「つがる」)となった。そのため、盛岡方面からの直通列車が無くなった能代市では、秋田新幹線の東能代駅までの延伸をJR東日本に要望している。しかし、奥羽本線(秋田駅 - 青森駅)は日本海縦貫線の一部となっているので改軌・改築が難しく、さらにJR東日本が軌間可変電車の開発に参加していないことから、実現は厳しいと見られている上に、沿線の議論も盛り上がりがない。さらには能代市に隣接する北秋田市に大館能代空港があること、東北自動車道を利用し、盛岡で新幹線に連絡する高速バスが高頻度で運行していること、そして改軌・改築の費用対効果が希薄であるなどの理由から、必要性が薄いという意見もある。 開業に先立つ1997年2月1日からJR東日本が、東日本全域のほとんどの民放で『こまち登場編』と銘打った、「こまち」のスピードと快適性を訴えた東京 - 秋田便を就航させている航空会社を意識した比較広告を出稿した。JR東日本が競合する飛行機との比較広告を出稿する初の事例であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "秋田新幹線(あきたしんかんせん)は、東京都の東京駅から岩手県の盛岡駅を経て秋田県の秋田駅まで東北新幹線・田沢湖線・奥羽本線を直通して走行する東日本旅客鉄道(JR東日本)の新幹線車両を使用した列車の通称およびその列車が走行する同区間の通称である。ラインカラーはピンク(■)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京駅から盛岡駅までは東北新幹線、盛岡駅から大曲駅までは田沢湖線、大曲駅から秋田駅までは奥羽本線を走行する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京駅 - 盛岡駅間は東北新幹線であるとして、狭義には在来線区間となる田沢湖線及び奥羽本線の区間である盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間を秋田新幹線とすることもある。以下、特記なき場合は直通運転系統としての秋田新幹線について記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)、全国新幹線鉄道整備法に基づかない新在直通方式のミニ新幹線として開業した。ミニ新幹線としては山形新幹線に次ぐ開業である。同法では「主たる区間を列車が二百キロメートル毎時以上の高速度で走行できる幹線鉄道」を新幹線と定義しており、法律上は、盛岡駅 - 秋田駅間はあくまで在来線であって新幹線ではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東京駅 - 盛岡駅間の東北新幹線は最高速度320 km/hで運行されるが、盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間は在来線であるため最高速度は130 km/hにとどまる。全ての車両が新在直通用車両のE6系で、「こまち」として運行される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "在来線区間の大半が、秋田新幹線の名称の通り秋田県内であり、北東北を横断するような線形である。奥羽山脈を越えるためトンネルや曲線区間が多く、この区間での最高速度は在来線と同程度にとどまる。また配線の都合により大曲駅でスイッチバックを行うため、列車の進行方向が前後逆になる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1984年(昭和59年)10月に秋田県は東北新幹線の開業後、首都圏への連絡経路として田沢湖線の比重が増したことから、東北経済連合会と共同で、「新幹線接続在来線の速度向上に関する調査」を日本鉄道施設協会に委託し、田沢湖線の高速化について調査を開始した。翌年に調査結果はまとまり、県はそれを叩き台として国鉄のほか関係当局等と非公式協議を断続的に重ね、1986年3月に県が策定した「県総合発展計画後期計画」においてミニ新幹線の整備が重点課題として定められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1987年4月の秋田県知事選で3選を遂げた佐々木喜久治は、初登庁後の県職員に対する挨拶で、立ち遅れていた県内の社会資本等の整備を進めるため、田沢湖線のミニ新幹線化、高規格幹線道路の建設、八幡平・阿仁・田沢湖地域での大規模リゾート整備の3プロジェクトを3期目の3大公約として掲げた。また、同年6月11日に山之内秀一郎JR東日本副社長が就任あいさつのため秋田県庁を訪れた際には、県幹部との会談で田沢湖線のミニ新幹線化について構想具体化のため協力していくことで一致し、同年6月19日には県の主導で「秋田・盛岡間在来線高速化推進委員会」が設けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、同年7月に運輸省、学識経験者、JR東日本などによって組織された「新幹線・在来線直通運転調査委員会」がミニ新幹線のモデル線区として奥羽本線福島駅 - 山形駅間を正式に決定した。 山形と共闘しミニ新幹線事業を在来線活性化事業として位置付け、運輸省等に水面下で働きかけていた秋田県側ではこの決定に落胆し、山形に抜け駆けされたと思う県民が多かった。ミニ新幹線のモデル線区として山形側が選定されたことを受け、同年7月13日、秋田市で開催されていた「県高速交通体系整備促進協議会」の総会の席上、高田景次秋田市長から緊急動議が提出され、同協議会のメンバー構成で、田沢湖線のミニ新幹線化を推進する「秋田・盛岡間在来線高速化早期実現期成同盟会」(会長 佐々木知事)が発足した。以後、期成同盟会がミニ新幹線の実現のため運動母体となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1990年8月24日、運輸省は翌年度予算編成において、田沢湖線と奥羽本線のミニ新幹線事業費を概算要求に組み入れることを決定し、これに合わせ同年9月にJR東日本は東北新幹線と田沢湖線の直通運転の技術を検討するチームを発足させた。そして同年12月28日の大臣折衝において運輸省が財源捻出の手段として求めていた鉄道整備基金からの無利子貸付制度の復活が認められたことによって、秋田新幹線は着工の目処が立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "秋田新幹線開業にかかる事業費は966億円で、内訳は車両に310億円、地上施設の整備に656億円(施設工事費598億円と老朽部取り替え58億円)だった。また事業費は1991年に創設された鉄道整備基金(国)から地元(秋田、岩手県)が対象経費の50 %ずつについて無利子貸付を受け、完成後にJR東日本に施設を譲渡するスキーム(新幹線直通運転化、高規格化等に対する無利子貸付)が適用され、日本鉄道建設公団が整備主体となり工事はJR東日本に委託された。また車両については秋田県とJR東日本が出資して設立された第三セクター「秋田新幹線車両保有(株)」が保有し、JR東日本に貸し付けられる方途が執られた。2010年3月31日に同社は解散したが、秋田県の出資額115.25億円は全額償還され、所有車両は23億5400万円でJR東日本に売却された。結果、秋田県の実質負担分は施設工事費の98億円(総事業費の10.1%)のみとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "※ 秋田県に全額償還", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1992年3月13日に秋田駅前で起工式が挙行され、軌道工事は同年3月の奥羽本線刈和野駅 - 峰吉川駅の複線化工事を皮切りに着手された。またJR東日本東北工事事務所が米国のメーカーに発注した連続軌道更新機(愛称「ビッグワンダー」)が国内で初めて導入され、工事の省力化や工期の短縮に大きく貢献した。標準軌への改軌工事が進捗すると、秋田、大曲駅構内の改良工事と車両基地(南秋田運転所、現:秋田新幹線車両センター)に新幹線車両の修繕施設と留置線の建設も進められた。加えて山形新幹線の開業時に踏切トラブルが相次いだ状況を踏まえ、県、JR東日本秋田支社、秋田県警が協議の上、県が所管する73か所のうち24か所(歩行者専用を含む)の立体交差と9か所の廃止を決めた。また停車駅の駅舎についても、改築から日が浅かった角館駅を除く、全てが秋田新幹線の開業を機に新造されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "新幹線の愛称については公募され、約6万3千通の中から最終段階で「こまち」「あきた」「みのり」に絞り込まれ、3千832通で応募総数第1位であった「こまち」が採用された。この愛称決定については、新聞読者欄等でしばらく賛否両論が渦巻いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1997年3月22日に5年の工期を経て、秋田新幹線は開業した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "秋田新幹線開業にあたってイベントが行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1997年3月には秋田駅構内留置線に車両を留置し、「夢空間」、ジョイフルトレイン「オリエントサルーン」「シルフィード」、建築限界測定車(オヤ31形)、電気機関車(ED75 777)、トロッコ仕様の貨車(トラ形無蓋車)を展示公開する「おもしろ列車大集合」が開催された。また、この貨車を用いたトロッコ列車を「トロッコなまはげ号」(男鹿線)・「トロッコりんごっこ号」(五能線)・「トロッコトタトタ号」(花輪線)として、各線へ向けて運転した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "同年7月19日から21日にかけて開業記念イベントのフィナーレとして、秋田駅 - 横手駅間に「SLあきた号」が運行された。牽引は高崎運転所(現・ぐんま車両センター)所属の蒸気機関車 D51 498、客車は南秋田運転所所属の12系6両。この列車は「こまち」との併走が行われ、駅などで配布されたパンフレットには併走ポイントが記載された。なお、蒸気機関車とミニ新幹線車両との併走はこの時限りとされていたが、のちに何度か実現している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "E6系電車7両編成を使用した「こまち」が運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "田沢湖線内は全て単線なので、新幹線列車が普通列車と行き違いのために待ち合わせをすることがある。大曲駅では、田沢湖線と奥羽本線の接続配線の都合によりスイッチバックするため、大曲駅 - 秋田駅間は走行方向が逆となる。なお大曲駅での座席転換は原則行わないことから、大曲駅 - 秋田駅間は進行方向と座席方向が逆向きとなる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "秋田新幹線開業前の奥羽本線は一部複線化されていたが、開業に際して複線区間は上り線を新幹線用の標準軌に改めたため、線路が二つ並ぶ単線並列になっている。このため、普通列車と新幹線が同じ方向に走ることもある。なお、神宮寺駅 - 峰吉川駅間 のみ新幹線同士の行き違いのため狭軌側を三線軌条にしている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "全国花火競技大会(大曲の花火、大仙市)開催時は、大曲駅が始発・終着となる臨時列車が運行されている。なお、在来線区間のみを走る臨時列車は午前0時以降にも設定される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "秋田新幹線で運転されている車両は次の通り。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "編成記号の「S」は、系列に関係なく非営業用車両全般に用いられている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "全列車に普通車(12 - 17号車)とグリーン車(11号車)を連結する。", "title": "営業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、JR東日本は2007年3月のダイヤ改正以降、東北・上越・山形・秋田の各新幹線および在来線特急列車の全てを禁煙車とし、喫煙ルームなども設けていないため、車内での喫煙はできない。", "title": "営業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "秋田新幹線の運賃は通算の営業キロに基づいて算出する。東京 - 盛岡間の営業キロは対応する在来線である東北本線のものと同一になっている(同区間の営業キロは535.3キロメートル、実キロは496.5キロメートル)。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "特急料金は乗車区間の東北新幹線「はやぶさ号」相当額の新幹線特急料金と田沢湖線・奥羽本線の在来線特急料金を合算する。ただし東京 - 秋田間の相互駅間で改札を出ない場合に限り、普通車指定席利用時(通常期)はそれぞれの特急料金の合計額から530円を割り引く。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "特急料金(指定席)は、閑散期は一律200円引き、繁忙期は一律200円増し、最繁忙期は一律400円増し。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "秋田新幹線「こまち号」には自由席の連結はないが、田沢湖線・奥羽本線内では特定特急券で普通車指定席の空席に着席することができる。また新幹線定期券FREX・FREXパルでは仙台 - 盛岡間でも秋田新幹線「こまち号」の普通車指定席の空席に着席することができる。このほか満席時には特急料金の530円引きで全区間を対象に立席特急券を発売することがある。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "グリーン料金は通算の営業キロに基づいて算出する。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東北新幹線内の特急料金は東北新幹線#運賃と特急料金及びはやぶさ (新幹線)#特急料金を参照。田沢湖線・奥羽本線内の特急料金は以下の通り。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "交通需要について国土交通省が2000年に調査した都道府県間鉄道旅客流動データによると、秋田県を目的地とする鉄道旅客のうち、東北新幹線沿線(東京都、埼玉県、栃木県、福島県、宮城県、岩手県)からの年間旅客数は69.0万人であった。これらの各出発地のうち最も旅客数が多かったのは宮城県の28.1万人、次いで東京都の23.3万人、岩手県の8.8万人である。一方、秋田新幹線沿線(秋田県)を出発地として東北新幹線沿線を目的地とする年間旅客数は68.3万人であった。これらの各目的地のうち最も旅客数が多かったのは宮城県の30.5万人、次いで東京都の18.4万人、岩手県の8.1万人である。", "title": "需要" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "沿線各都県間の旅客流動状況(2000年)は以下のとおり。", "title": "需要" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "(単位:千人/年) *東京圏:東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県とする。", "title": "需要" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "秋田新幹線の開業に合わせ東北新幹線区間では最高速度275 km/h、在来線区間は最高速度130 km/hでの運転が可能になった。これにより、一部の列車(東京発下り最終と秋田発上り始発などの数本のみ)は、東京駅 - 秋田駅間の所要時間を3時間台で運行していた。しかし、それ以外の大半の列車の所要時間は4時間以上となっていたため、さらなる高速化が以前よりたびたび県議会や地元メディアにおいて議論の的となっていた。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後、2013年春から2014年春にかけて車両置き換えによる東北新幹線区間の高速化が段階的に実施されることとなり、同区間では最高速度320km/hでの運転が実施され、東京駅 - 秋田駅間で平均15分程度の所要時間短縮が図られた。また、同区間では保安装置をDS-ATCに更新したことにより、導入前に比べて数分程度の所要時間短縮も図られた。これらの施策が全て完了した2014年3月15日ダイヤ改正では全ての定期列車が3時間台、最速列車が3時間37分で運行されるようになった。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "一方で田沢湖線の全線および奥羽本線区間の多くが単線のため、停車駅でない駅や信号場での対向列車待ち(運転停車)も多く、普通列車を待ち合わせするために停車することもある。また秋田・岩手県境の仙岩峠区間ではカーブと勾配および車体傾斜装置の搭載したE6系の車幅が在来線規格ぎりぎりで在来線区間で車体傾斜して高速通過することができないため、所要時間が短縮できていない。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また田沢湖線雫石駅 - 田沢湖駅周辺は豪雪地帯であり、大量の降雪による影響で在来線区間の列車の遅延が発生しやすい。この影響による接続(連結)待ちのため盛岡駅で上り「こまち」と連結する上り「はやぶさ」(2014年3月14日以前は「はやて」)の遅れを招き、過密ダイヤとなっている東京駅 - 大宮駅間で線路を共有する上越新幹線や北陸新幹線に影響がおよぶこともある。また天候によっては、同区間などの運行を中止する場合がある。下り列車で盛岡駅 - 秋田駅間が区間運休となった場合、盛岡駅で切り離された「こまち」車両は、盛岡新幹線車両センターまで臨時回送される。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "なお、平成18年豪雪の際、列車が運行中で立ち往生し、乗客が車内に缶詰め状態になったことがある。また、運行を見合わせた際に代替バス等が手配されなかった場合、乗客の混乱に拍車が掛かることもある。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以上より、東北新幹線区間では、高速化のための各種施策が続々と着手され実現されつつあるが、田沢湖線内・奥羽本線内では以下のような計画・構想がある。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2018年6月、JR東日本が秋田新幹線の岩手、秋田県境である田沢湖(仙北市)- 赤渕(岩手県雫石町)に全長約15キロの直線的なトンネルを整備する計画を昨年11月に地元自治体に伝えていたことが明らかとなった。この県境区間は山が険しいため谷底を縫うように線路が走り、悪天候に弱く、加えて並行する道路がなく、トラブルが発生時に乗客の避難誘導も難しいことから、地元では新ルートの整備がかねてから求められていた。また、JR側としても現行橋梁の老朽化問題や冬季の除雪費用、現行ルート周辺が活動期の地すべり地帯であることから、トンネルを主体とする新線の建設によりこれを回避する狙いがある。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "そうした実態を踏まえ、JR東日本が現地調査のほか工費の試算を行ったもので、それによると工期は10年以上で、秋田駅 - 東京駅間の走行時間は現行より約7分の短縮、概算事業費が600億円規模になるとの試算を県や沿線自治体に伝えたことが分かった。調査結果を踏まえ、JR東日本は整備には前向きと報じられているが、整備にあたっては国や県の財政支援が不可欠との認識を示していると伝えられている。なお、事業にあたっては国と自治体が鉄道事業者に対し、費用を5分の1ずつ負担する仕組みがあるが、秋田県は県とJRの負担が重すぎるとして国費の支援を増やすように訴えている。佐竹敬久秋田県知事は、調査結果を受けて、2018年7月に秋田・岩手の7市町で発足の期成同盟会に県が主導的に関わり、国土交通省やJR東日本、岩手県に財政負担などの協力を呼びかけるとの意向を明らかにしている。なお、岩手側の達増拓也岩手県知事は、時間短縮や安定運行のメリットが少ないにもかかわらず過大な負担を求められかねないとして、期成同盟会への参画に慎重であると報じられた。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2018年7月18日に期成同盟会は設立総会を開き、大仙市の老松博行市長が会長、佐竹知事が顧問に就任して発足した。また岩手県は参加を見送り保留としていた。その後、同年7月26、27日に札幌市で開催された全国知事会で佐竹知事が達増知事に期成同盟会への参加を直接要請した。その際に達増知事は、費用はJRが負担すべきと従来どおりの主張を繰り返したが、新ルート整備の必要性自体については両者の意見が一致した。これを受け、同年7月30日に岩手県は秋田県のように主体的に関わるのではなく、オブザーバーとして期成同盟会に参加する意向を示した。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "秋田新幹線の利用状況は順調であるが、田沢湖線と奥羽本線を改軌・改築した結果、盛岡駅から秋田駅を経由しての青森方面への直通が不可能となり、かつて同区間を直通していた特急「たざわ」は、運転区間が短縮され、秋田駅 - 青森駅間の特急「かもしか」(現在は「つがる」)となった。そのため、盛岡方面からの直通列車が無くなった能代市では、秋田新幹線の東能代駅までの延伸をJR東日本に要望している。しかし、奥羽本線(秋田駅 - 青森駅)は日本海縦貫線の一部となっているので改軌・改築が難しく、さらにJR東日本が軌間可変電車の開発に参加していないことから、実現は厳しいと見られている上に、沿線の議論も盛り上がりがない。さらには能代市に隣接する北秋田市に大館能代空港があること、東北自動車道を利用し、盛岡で新幹線に連絡する高速バスが高頻度で運行していること、そして改軌・改築の費用対効果が希薄であるなどの理由から、必要性が薄いという意見もある。", "title": "現状の課題と将来の計画・構想" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "開業に先立つ1997年2月1日からJR東日本が、東日本全域のほとんどの民放で『こまち登場編』と銘打った、「こまち」のスピードと快適性を訴えた東京 - 秋田便を就航させている航空会社を意識した比較広告を出稿した。JR東日本が競合する飛行機との比較広告を出稿する初の事例であった。", "title": "CM" } ]
秋田新幹線(あきたしんかんせん)は、東京都の東京駅から岩手県の盛岡駅を経て秋田県の秋田駅まで東北新幹線・田沢湖線・奥羽本線を直通して走行する東日本旅客鉄道(JR東日本)の新幹線車両を使用した列車の通称およびその列車が走行する同区間の通称である。ラインカラーはピンク(■)。 東京駅から盛岡駅までは東北新幹線、盛岡駅から大曲駅までは田沢湖線、大曲駅から秋田駅までは奥羽本線を走行する。 東京駅 - 盛岡駅間は東北新幹線であるとして、狭義には在来線区間となる田沢湖線及び奥羽本線の区間である盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間を秋田新幹線とすることもある。以下、特記なき場合は直通運転系統としての秋田新幹線について記述する。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[ファイル:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 秋田新幹線 |路線色 = #ed4399 |画像 = E6 Z14 Komachi 20140107.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = [[奥羽本線]]区間を走行する[[新幹線E6系電車|E6系]] |国 = {{JPN}} |所在地 = [[東京都]]、[[埼玉県]]、[[茨城県]]<ref group="注">大宮駅 - 小山駅間で[[古河市]]を通過するが設置駅なし。</ref>、[[栃木県]]<ref group="注" name="pass">全列車通過。</ref>、[[福島県]]<ref group="注" name="pass" />、[[宮城県]]、[[岩手県]]、[[秋田県]] |起点 = [[東京駅]]<ref name="jerast-official">{{Cite web|和書|title=秋田新幹線:JR東日本|url=https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/akita.html|website=JR東日本:東日本旅客鉄道株式会社|accessdate=2019-09-09|language=ja}}</ref><ref name="stations">[https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=73=1=%8fH%93c%90V%8a%b2%90%fc 秋田新幹線の駅] - JR東日本</ref> |終点 = [[秋田駅]] |駅数 = 東北新幹線 5駅<ref group="注">1往復しか停車しない各駅を含めた場合は合計11駅</ref>(「こまち」が1日に2往復以上停車する駅の数)<br />[[在来線]] 5駅(同上、盛岡駅除く) |経由路線 = [[東北新幹線]]、[[田沢湖線]]、[[奥羽本線]] |開業 = 1997年3月22日 |廃止 = |所有者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |運営者 = 東日本旅客鉄道(JR東日本) |路線距離 = 662.6 [[キロメートル|km]](うち東北新幹線535.3 km、在来線127.3 km) |軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] |線路数 = [[複線]](東北新幹線東京駅 - [[盛岡駅]]間と奥羽本線[[神宮寺駅]] - [[峰吉川駅]]間)<br / >[[単線]](田沢湖線全線と奥羽本線[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]] - 神宮寺駅間・峰吉川駅 - 秋田駅間) |電化方式 = [[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]] (東京駅 - 盛岡駅間)<br />交流20,000 V・50 Hz (盛岡駅 - 秋田駅間)<br />ともに[[架空電車線方式]] |最高速度 = 130 [[キロメートル毎時|km/h]](東京駅 - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間)<br />275 km/h(大宮駅 - [[宇都宮駅]]間)<br />320 km/h(宇都宮駅 - 盛岡駅間)<br />130 km/h(盛岡駅 - 秋田駅間) |路線図 = [[ファイル: JR Akita Shinkansen linemap.svg|300px]]<br /><small>※青線は在来線直通区間</small> }} '''秋田新幹線'''(あきたしんかんせん)は、[[東京都]]の[[東京駅]]から[[岩手県]]の[[盛岡駅]]を経て[[秋田県]]の[[秋田駅]]まで[[東北新幹線]]・[[田沢湖線]]・[[奥羽本線]]を直通して走行する[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[新幹線車両]]を使用した[[列車]]の通称およびその列車が走行する同区間の通称である<ref name="jerast-official" /><ref name="stations" />。[[日本の鉄道ラインカラー一覧#新幹線|ラインカラー]]は[[ピンク]]({{Color|#ed4399|■}})<ref group="注">[[東京駅|東京]]、[[上野駅|上野]]、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]の3駅では誤乗防止のため、発車標で6方面(東北・山形・秋田・[[北海道新幹線|北海道]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線|北陸]])を識別する色を独自に用いており、秋田新幹線ではピンク({{Color|#ed4399|■}})を採用する。なお、フルカラー[[発光ダイオード|LED]]式の[[方向幕|行先表示器]]を採用する車両([[新幹線E3系電車#2000番台|E3系2000番台]]、[[新幹線E2系電車|E2系1000番台]]J70番台編成、[[新幹線E5系電車|E5系]]、[[新幹線E6系電車|E6系]]、[[新幹線E7系・W7系電車|E7系]]、ならびに[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]所有の[[新幹線E5系電車|H5系]]、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]所有の[[新幹線E7系・W7系電車|W7系]])では、行先表示器の列車名もこれらの路線色で表示される。</ref>。 東京駅から盛岡駅までは東北新幹線、盛岡駅から[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]までは田沢湖線、大曲駅から秋田駅までは奥羽本線を走行する。 東京駅 - 盛岡駅間は東北新幹線であるとして、{{要出典範囲|狭義には在来線区間となる田沢湖線及び奥羽本線の区間である盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間を秋田新幹線とすることもある|date=2019年9月}}。<!--また、田沢湖線(盛岡駅 - 大曲駅間)そのものの別称としても使用される。なお、東北新幹線で併結する列車の関係上、[[仙台駅]]から[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]の間は[[直行便|ノンストップ運行]]となっている。-->以下、特記なき場合は直通[[運転系統]]としての秋田新幹線について記述する。 == 概要 == [[1997年]](平成9年)、[[全国新幹線鉄道整備法]]に基づかない[[新在直通運転|新在直通]]方式の'''[[ミニ新幹線]]'''として開業した。ミニ新幹線としては[[山形新幹線]]に次ぐ開業である。同法では「主たる区間を列車が二百キロメートル毎時以上の高速度で走行できる幹線鉄道」<ref>{{Cite wikisource|title=全国新幹線鉄道整備法 (昭和45年法律第71号)|author=|wslanguage=ja}} 2023年7月27日閲覧.</ref>を[[新幹線]]と定義しており、法律上は、盛岡駅 - 秋田駅間はあくまで[[在来線]]であって新幹線ではない。 東京駅 - 盛岡駅間の[[東北新幹線]]は最高速度320 km/hで運行されるが、盛岡駅 - 大曲駅 - 秋田駅間は在来線であるため最高速度は130 km/hにとどまる。全ての車両が新在直通用車両の[[新幹線E6系電車|E6系]]で、「[[こまち (列車)|こまち]]」として運行される。 在来線区間の大半が、秋田新幹線の名称の通り[[秋田県]]内であり、[[北東北]]を横断するような線形である。[[奥羽山脈]]を越えるため[[トンネル]]や曲線区間が多く、この区間での最高速度は在来線と同程度にとどまる。また配線の都合により[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]]で[[スイッチバック]]を行うため、列車の進行方向が前後逆になる。 == 歴史 == [[1984年]]([[昭和]]59年)10月に秋田県は東北新幹線の開業後、[[首都圏 (日本)|首都圏]]への連絡経路として田沢湖線の比重が増したことから、[[東北経済連合会]]と共同で、「新幹線接続在来線の速度向上に関する調査」を日本鉄道施設協会に委託し、田沢湖線の高速化について調査を開始した<ref name=komati31>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.31</ref><ref group="新聞" name="asahi19970101">「秋田新時代へ夢を乗せ、新幹線こまち発進」『[[朝日新聞]]』秋田版 1997年1月1日</ref>。翌年に調査結果はまとまり、県はそれを叩き台として[[日本国有鉄道|国鉄]]のほか関係当局等と非公式協議を断続的に重ね、[[1986年]]3月に県が策定した「県総合発展計画後期計画」において[[ミニ新幹線]]の整備が重点課題として定められた。 [[1987年]]4月の秋田県知事選で3選を遂げた[[佐々木喜久治]]は、初登庁後の県職員に対する挨拶で、立ち遅れていた県内の[[社会資本]]等の整備を進めるため、田沢湖線のミニ新幹線化、[[高規格幹線道路]]の建設、[[八幡平]]・[[阿仁]]・[[田沢湖]]地域での大規模[[リゾート]]整備の3プロジェクトを3期目の3大公約として掲げた<ref name=komati31 /><ref group="新聞" name="asahi19970101" />{{Refnest|group="注"|大規模リゾート開発は秋田新幹線の開業を前提に、JR東日本が開発を手掛けることとなり、1990年5月に同社は「田沢湖リゾート開発基本計画」を公表した。それによれば田沢湖畔と田沢湖高原地区に1460億円を投じ、スキー場、ゴルフ場、コテージ村などを整備するとしていた。しかし、[[バブル崩壊|バブル経済崩壊]]や計画地に[[イヌワシ]]が生息していたこともあり、JR東日本は計画を大幅に修正し、結局投資額は約14億円に萎み買収済みの湖畔にファミリーオ田沢湖を建設した。このほか県による田沢湖オートキャンプ場のほか、[[田沢湖町]]とJRが出資した[[第三セクター]]によるハーブ園も整備された。なお2007年10月にJRはファミリーオ田沢湖の運営から撤退し、地元業者が引き継ぐなどした<ref group="新聞">「巨大構想 新しい夢模索 ひらく新時代 新幹線開業 3」『朝日新聞』秋田版 1997年1月7日</ref>。}}。また、同年6月11日に[[山之内秀一郎]]JR東日本副社長が就任あいさつのため[[秋田県庁]]を訪れた際には、県幹部との会談で田沢湖線のミニ新幹線化について構想具体化のため協力していくことで一致し、同年6月19日には県の主導で「秋田・盛岡間在来線高速化推進委員会」が設けられた<ref name=komati32>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.32</ref>。 しかし、同年7月に[[運輸省]]、学識経験者、JR東日本などによって組織された「新幹線・在来線直通運転調査委員会」がミニ新幹線のモデル線区として[[奥羽本線]][[福島駅 (福島県)|福島駅]] - [[山形駅]]間を正式に決定した<ref>『山形県史 第7巻 (現代編 下) 』 p.674</ref>。 山形と共闘しミニ新幹線事業を在来線活性化事業として位置付け、運輸省等に水面下で働きかけていた秋田県側ではこの決定に落胆し、山形に抜け駆けされたと思う県民が多かった<ref name="komati31"/>。ミニ新幹線のモデル線区として山形側が選定されたことを受け、同年7月13日、秋田市で開催されていた「県高速交通体系整備促進協議会」の総会の席上、[[高田景次]]秋田市長から緊急[[動議]]が提出され、同協議会のメンバー構成で、田沢湖線のミニ新幹線化を推進する「秋田・盛岡間在来線高速化早期実現期成同盟会」(会長 佐々木知事)が発足した。以後、期成同盟会がミニ新幹線の実現のため運動母体となった<ref name=komati32 />。 [[1990年]]8月24日、運輸省は翌年度予算編成において、田沢湖線と奥羽本線のミニ新幹線事業費を[[概算要求]]に組み入れることを決定し、これに合わせ同年9月にJR東日本は東北新幹線と田沢湖線の直通運転の技術を検討するチームを発足させた<ref group="新聞" name="asahi19970101" />。そして同年12月28日の大臣折衝において運輸省が財源捻出の手段として求めていた[[鉄道整備基金]]からの無利子貸付制度の復活が認められたことによって、秋田新幹線は着工の目処が立った<ref>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.33 - 34</ref>。 秋田新幹線開業にかかる事業費は966億円で、内訳は車両に310億円、地上施設の整備に656億円(施設工事費598億円と老朽部取り替え58億円)だった<ref group="新聞" name="kahoku20180714">{{Wayback |url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201807/20180714_43003.html |title=<秋田新幹線>新ルート整備 積極的な秋田県、慎重な岩手県 そろわぬ足並み、見通し不透明 |date=20180714135410}}『[[河北新報]]』(2018年7月14日).2020年1月19日閲覧。</ref>。また事業費は1991年に創設された鉄道整備基金(国)から地元(秋田、岩手県)が対象経費の50 %ずつについて無利子貸付を受け、完成後にJR東日本に施設を[[譲渡]]するスキーム(新幹線直通運転化、高規格化等に対する無利子貸付)が適用され、[[日本鉄道建設公団]]が整備主体となり工事はJR東日本に委託された<ref>『新幹線の歴史 - 政治と経営のダイナミズム』p.209</ref>。また車両については秋田県とJR東日本が出資して設立された第三セクター「[[秋田新幹線車両保有]](株)」が保有し、JR東日本に貸し付けられる方途が執られた<ref name="ShinkansenHistory210">『新幹線の歴史 - 政治と経営のダイナミズム』p.210</ref>。2010年3月31日に同社は解散したが、秋田県の出資額115.25億円は全額償還され、所有車両は23億5400万円でJR東日本に売却された<ref group="新聞" name="kahoku20180714"/><ref name="ShinkansenHistory210"/><ref>{{PDFlink|[https://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000006084_00/kabu1714.pdf 経営概要書 法人名 秋田新幹線車両保有株式会社]}}(秋田県)</ref>。結果、秋田県の実質負担分は施設工事費の98億円(総事業費の10.1%)のみとなった<ref group="新聞" name="kahoku20180714"/>。 {|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;" |+秋田新幹線の事業費と負担(単位:億円)<ref group="新聞" name="kahoku20180714"/> !rowspan="2" colspan="2"|事業の内訳 !rowspan="2"|事業費 !colspan="4"|負担の内訳 |-style="text-align:left;" |国 |秋田県 |岩手県 |JR東日本 |- |rowspan="2" style="text-align:left;"|地上<br />施設 |style="text-align:left;"|施設工事費 |598 |122.50 |98.00 |24.50 |353.00 |- |style="text-align:left;"|老朽部取り替え |58 |- |- |- |58.00 |- |colspan="2" style="text-align:left;"|車両費 |310 |- |※ 115.25 |- |194.75 |- |colspan="2" style="text-align:left;"|'''合計'''<br />(負担比率) |'''966'''<br />(100.0%) |122.50<br />(12.7%) |213.25<br />(22.1%) |24.50<br />({{0}}2.5%) |605.75<br />(62.7%) |} ※ 秋田県に全額償還 [[1992年]]3月13日に秋田駅前で起工式が挙行され<ref group="新聞" name="kotsu19920316">{{Cite news |title=秋田新幹線が着工 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-03-16 |page=1 }}</ref>、軌道工事は同年3月の奥羽本線[[刈和野駅]] - [[峰吉川駅]]の[[複線]]化工事を皮切りに着手された。またJR東日本東北工事事務所が[[アメリカ合衆国|米国]]のメーカーに発注した連続軌道更新機(愛称「ビッグワンダー」<ref group="報道">[https://www.jreast.co.jp/press/1999_2/20000203/index.html ビッグワンダー(連続軌道更新機)第二の人生について] - 東日本旅客鉄道(平成12年2月8日)2018年10月25日閲覧</ref>)が国内で初めて導入され、工事の省力化や工期の短縮に大きく貢献した<ref>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.36</ref>。[[標準軌]]への[[改軌]]工事が進捗すると、秋田、大曲駅構内の改良工事と[[車両基地]](南秋田運転所、現:[[秋田総合車両センター南秋田センター|秋田新幹線車両センター]]<ref name="JRR 2021s 19">{{Cite book|和書 |editor=太田浩道 |others=発行人 横山裕司 |date=2021-05-24 |title=JR電車編成表 2021夏 |chapter=東日本旅客鉄道 秋田新幹線車両センター 幹<small>アキ</small> |page=19 |series=ジェー・アール・アール編 |publisher=交通新聞社|isbn=978-4-330-02521-6}}</ref>{{refnest|group="注"|車両基地の名称は当時。なお、秋田新幹線車両の所属基地は、南秋田運転所→秋田車両センター(2004年4月1日改称)→秋田新幹線車両センター(2021年4月1日改称)と変遷している<ref name="JRR 2021s 19" />が、秋田車両センターまでは在来線車両と同じ名称であった。また、2019年4月1日より新幹線統括本部発足にて、同車両がその所属となり、車体の所属区所表記が〝 幹<small>アキ</small>〟となっている<ref name="JRR 2021s 19" />。}})に新幹線車両の修繕施設と[[留置線]]の建設も進められた<ref>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.37</ref>。加えて[[山形新幹線]]の開業時に[[踏切]]トラブルが相次いだ状況を踏まえ、県、[[JR東日本秋田支社]]、[[秋田県警察|秋田県警]]が協議の上、県が所管する73か所のうち24か所(歩行者専用を含む)の立体交差と9か所の廃止を決めた<ref>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.38 - 39</ref>。また停車駅の駅舎についても、改築から日が浅かった[[角館駅]]を除く<ref>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.41</ref>、全てが秋田新幹線の開業を機に新造されている。 新幹線の愛称については公募され、約6万3千通の中から最終段階で「こまち」「あきた」「みのり」に絞り込まれ、3千832通で応募総数第1位であった「こまち」が採用された<ref group="新聞" name="kotsu19960801">{{Cite news |title=秋田新幹線 列車愛称名は「こまち」 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-08-01 |page=3 }}</ref>。この愛称決定については、新聞読者欄等でしばらく賛否両論が渦巻いた<ref>『こまち出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史』p.43</ref>。 [[1997年]]3月22日に5年の工期を経て、秋田新幹線は開業した。 === 開業に際してのイベント === 秋田新幹線開業にあたってイベントが行われた。 1997年3月には秋田駅構内[[留置線]]に車両を留置し、「[[国鉄24系客車#夢空間|夢空間]]」、[[ジョイフルトレイン]]「[[オリエントサルーン]]」「[[シルフィード (鉄道車両)|シルフィード]]」、[[建築限界測定車]]([[国鉄オヤ31形客車|オヤ31形]])、[[電気機関車]]([[国鉄ED75形電気機関車|ED75 777]])、トロッコ仕様の貨車(トラ形[[無蓋車]])を展示公開する「おもしろ列車大集合」が開催された。また、この貨車を用いた[[トロッコ列車]]を「トロッコなまはげ号」([[男鹿線]])・「トロッコりんごっこ号」<ref group="注">「(小さな)リンゴ」「リンゴの子」の意味。(「っこ」は[[東北方言]]に見られる[[指小辞]])</ref>([[五能線]])・「トロッコトタトタ号」([[花輪線]])として、各線へ向けて運転した。 同年7月19日から21日にかけて開業記念イベントのフィナーレとして、秋田駅 - [[横手駅]]間に「SLあきた号」が運行された。牽引は高崎運転所(現・[[ぐんま車両センター]])所属の[[蒸気機関車]] [[国鉄D51形蒸気機関車498号機|D51 498]]、客車は南秋田運転所所属の[[国鉄12系客車|12系]]6両。この列車は「こまち」との併走が行われ、駅などで配布されたパンフレットには併走ポイントが記載された。なお、<!--事前の発表では?-->蒸気機関車とミニ新幹線車両との併走はこの時限りとされていたが、のちに何度か実現している<ref group="注">[[1999年]]12月に[[山形新幹線]][[新庄駅]]延伸を記念した[[陸羽東線]]での運行および、[[2005年]]9月に運行された「[[SL奥羽号]]」(秋田駅 - [[湯沢駅]])の2例。</ref>。 === 年表 === {{Main2|東京駅 - 盛岡駅間の東北新幹線区間は「[[東北新幹線#沿革]]」を}} * [[1992年]]([[平成]]4年) ** [[1月28日]]:JR東日本が秋田・盛岡間のミニ新幹線化を運輸省に事業申請<ref group="新聞">{{Cite news |title=「秋田新幹線」に伴う事業計画変更を申請 JR東日本 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-01-29 |page=1 }}</ref>。 ** [[1月30日]]:運輸省が事業認可<ref group="新聞">{{Cite news |title=田沢湖、奥羽線の事業変更 運輸省が認可 JR東日本申請 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-02-01 |page=1 }}</ref>。 ** [[3月13日]]:秋田駅前で起工式を挙行<ref group="新聞" name="kotsu19920316"/>。 * [[1995年]](平成7年) ** [[4月19日]]:線区愛称を「秋田新幹線」に決定<ref group="新聞">{{Cite news |title=盛岡-秋田新在直通線区 愛称は「秋田新幹線」 JR東日本 宣伝活動に統一活動 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-04-21 |page=1 }}</ref>。 ** [[5月16日]]:秋田新幹線車両保有株式会社が設立<ref group="新聞">{{Cite news |title=「秋田新幹線車両保有」が発足 JR東日本に車両リース |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-05-19 |page=1 }}</ref>。 * [[1996年]](平成8年) ** [[7月30日]]:列車愛称を「こまち」に決定<ref group="新聞" name="kotsu19960801"/>。 ** [[10月]] : E3系が秋田新幹線内で初めて試験運転を開始。 * [[1997年]](平成9年)[[3月22日]]:開業。東京駅 - 秋田駅間に「こまち」が[[新幹線E3系電車|E3系]]5両編成で運行開始。東北新幹線内は[[新幹線200系電車|200系]]や[[新幹線E2系電車|E2系]]と併結。 * [[1998年]](平成10年):全列車が6両編成に増結。 * [[1999年]](平成11年)[[12月4日]]:東北新幹線内の併結車両をE2系に統一、全列車最高速度275[[キロメートル毎時|km/h]]運転となる。 * [[2001年]](平成13年)[[9月16日]]:開業以来の利用者数が1,000万人に達する。 * [[2002年]](平成14年)[[12月1日]]:全列車を全席[[座席指定席|指定席]]化する。 * [[2006年]](平成18年) ** [[1月5日]]:[[裏日本|日本海側]]を中心とした大雪の影響で、開業以来初めての終日運休。 ** [[2月11日]] 前日に発生した「こまち3号」の[[雪崩]]による抱き込み<ref>[[n:秋田県仙北市田沢湖で雪崩相次ぐ]] - ウィキニュース(2006年2月11日)。</ref> に伴う[[除雪]]作業の影響で、2度目の終日運休。 ** [[3月11日]]:開業以来の利用者数が2,000万人に達する。 * [[2007年]](平成19年) ** [[3月18日]]:全車両を[[禁煙]]とする。 ** [[4月30日]]・[[5月6日]]:[[全国花火競技大会]](大曲の花火)開催時を除いて初めての大曲駅始発列車が運転される(「こまち26号」、5026M - 5026B)。 * [[2010年]](平成22年) ** [[2月2日]]:新型車両[[新幹線E6系電車|E6系]]の投入が発表される。2013年の営業運転開始を目標に試運転を行う。車体構造上の理由による編成定員の大幅な減少を防ぐため、1編成あたりの車両数はE3系の6両に対し、1両増の7両に増やされた。このE6系の乗り入れ準備工事として、従来6両編成までしか対応できなかった秋田駅と大曲駅ではホームを1両分延長する工事を行い、両駅共に同年夏頃までに完成した。 ** [[3月31日]]:秋田新幹線車両保有(株)が解散。 ** [[7月7日]] : E6系(Z1編成、元S12編成)の量産試作車が落成し、秋田新幹線内で試験運転を初めて開始。 * [[2011年]](平成23年) ** 3月11日:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生。地震直後から全線で運転を見合わせ。 ** 3月18日:盛岡駅 - 秋田駅間で4往復のみで運転再開<ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/akita/press/20110317.pdf 東北地方太平洋沖地震に伴う秋田新幹線「こまち号」の運転について]}} - 東日本旅客鉄道秋田支社。</ref>。 ** 3月22日:盛岡駅 - 秋田駅間で5往復に増発<ref group="注">グリーン車(11号車)を除き、全車自由席で運行。自由席利用の際は、乗車券のほかに特定特急券が必要。なお、グリーン席は座席指定方式で発売されている。</ref><ref group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/akita/press/20110323-2.pdf 秋田新幹線「こまち」の運転状況]}} - 東日本旅客鉄道秋田支社。</ref>。 ** [[4月7日]]:[[宮城県沖地震 (2011年)|東北地方太平洋沖地震の余震]]発生により全線で再び運転を見合わせ。 ** [[4月9日]]:盛岡駅 - 秋田駅間で運転を再開。 ** [[4月29日]]:東北新幹線運転再開に合わせ秋田駅 - 東京駅間の全線で運転を再開。これに合わせて有志が[[祝!九州|九州新幹線のCM]]に倣い下り一番列車に沿線から手を振る企画を実施(「[[祝!九州#反響]]」も参照)。 ** [[11月19日]]:「はやて」への[[新幹線E5系電車|E5系]]投入に伴い、一部列車の東北新幹線内の併結車両がE5系に変更。 * [[2012年]](平成24年)3月31日:[[NTTドコモ]]の[[mova]]サービス停波に伴い、同日を以って在来線区間の[[列車電話|車内公衆電話]]サービスを終了。 * [[2013年]](平成25年) ** [[3月2日]]:[[神宮寺駅]] - [[刈和野駅]]間で、下り「こまち25号」の先頭車両が[[列車脱線事故|脱線]]。乗客130名には負傷なし。この事故の影響で盛岡駅 - 秋田駅間で運転見合わせ<ref group="新聞">{{Wayback |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130302/dst13030218500007-n1.htm |title=「秋田新幹線こまちが脱線 乗客130人にけがなし」 |date=20140101071656}}『[[産経新聞]]』(2013年3月3日).2020年1月19日閲覧。</ref>。4日に運行再開。 ** [[3月16日]]:[[新幹線E6系電車|E6系]]による「スーパーこまち」運行開始。「スーパーこまち」の最高速度を[[宇都宮駅]] - 盛岡駅間で300km/hへ引き上げ。 ** [[7月20日]]:E3系の量産先行車R1(元・S8)[[編成 (鉄道)|編成]]の定期運用を終了。秋田駅にて[[さよなら運転|ラストラン]]のセレモニーを実施。 ** [[8月9日]]:東北地方の集中豪雨の影響により線路内に土砂が流入する等の被害が発生して全線で運転を見合わせ。12日に運転再開。 ** [[9月28日]]:東北新幹線内の併結車両をE2系からE5系に統一。 * [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:「スーパーこまち」を廃止、列車名を「こまち」に統一し、秋田新幹線用列車全てをE6系に置き換え、E3系の定期運用終了<ref group="注">東北新幹線内の定期運用は2014年3月15日以降も継続され、「やまびこ」「なすの」の増結用として使用される。</ref>。東北新幹線区間の最高速度を宇都宮駅 - 盛岡駅間で320km/hへ引き上げ。 * [[2017年]](平成29年) ** [[3月25日]]:E3系(0番台)<!--上方でリンク済み-->による[[臨時列車]]([[びゅう]]旅行商品[[ツアー]]列車)「秋田新幹線開業20周年記念号」を秋田駅 - [[上野駅]]間に1往復運転。R21編成が充当された<ref>[https://railf.jp/news/2017/03/26/194000.html E3系による「秋田新幹線開業20周年記念号」運転] - [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]・railf.jp 鉄道ニュース、2017年3月26日</ref>。 ** [[7月22日]]:大雨の影響で地盤崩落等の被害が発生し全線で運転を見合わせ。24日に盛岡駅 - 大曲駅間で運転再開の後、29日に全線で運行再開<ref group="新聞">[http://www.asahi.com/articles/ASK7V4Q41K7VUBUB00K.html 「秋田新幹線、29日に全面再開 大雨被害の復旧完了へ」][[朝日新聞デジタル]](2017年7月26日)2020年1月19日閲覧</ref><ref group="新聞">[http://www.asahi.com/articles/ASK7W6JXTK7WUBUB00W.html 「秋田新幹線が全線再開 豪雨で不通の秋田―大曲間復旧」] 朝日新聞デジタル(2017年7月29日)2020年1月19日閲覧</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年) **[[12月11日]] - [[12月12日]]:秋田新幹線で秋田県産朝採り野菜を大宮駅まで運ぶ実験が行われる([[東日本旅客鉄道秋田支社|JR東日本秋田支社]]、[[ジェイアール東日本物流]]、[[日本郵便]]東北支社による)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20191206.pdf|title=日本郵便とJR東日本との連携協定に基づく物流トライアルの実施|format=PDF|publisher=日本郵便東北支社、東日本旅客鉄道秋田支社、ジェイアール東日本物流|date=2019-12-06|accessdate=2020-06-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191212051444/https://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20191206.pdf|archivedate=2019-12-12}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|和書|author = 川村巴|title= 県産野菜、こまちで上京 JR東 日本郵便 販売経路確立に試験|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|date=2019-12-7|page=1}}</ref>。 **[[12月15日]]:[[大釜駅]]で融雪装置が稼働開始。 * [[2020年]](令和2年) ** [[7月8日]]:この日までに、赤渕駅 - 田沢湖駅間で、トンネル内携帯電話不通区間が解消<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200625_ho02.pdf|title=山形・秋田新幹線及び中央本線におけるトンネル内携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-06-25|accessdate=2020-06-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200625063425/https://www.jreast.co.jp/press/2020/20200625_ho02.pdf|archivedate=2020-06-25}}</ref>。 ** [[11月14日]] - [[11月15日]]:田沢湖線羽後長野駅 - 鑓見内駅間の斉内川橋梁架替工事に伴い、一部列車が部分運休<ref group="報道" name="press/20200918-2">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20200918-2.pdf|title=橋りょうの架け替え工事に伴い、一部列車を運休します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道秋田支社|date=2020-09-18|accessdate=2020-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200920023716/https://www.jreast.co.jp/akita/press/pdf/20200918-2.pdf|archivedate=2020-09-20}}</ref>{{Refnest|group="注"|11月14日は下りの「こまち」2本が田沢湖駅 - 秋田駅間で、11月15日は上りの「こまち」2本が秋田駅 - 盛岡駅間で部分運休した<ref group="報道" name="press/20200918-2" />。}}。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月12日]]:「こまち」の特急料金を改定<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20211116_s01.pdf |title=山形新幹線の全車指定席化と山形・秋田新幹線の特急料金の改定について |date=2021-11-16|accessdate=2021-11-16 |publisher=東日本旅客鉄道仙台支社・秋田支社}}</ref><ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/akita/20211217_a01.pdf|title=2022年3月ダイヤ改正について|date=2021-12-17 |accessdate=2021-12-17 |publisher=東日本旅客鉄道秋田支社}}</ref>。 ** [[3月16日]]:深夜に発生した[[福島県沖地震 (2022年)|福島県沖地震]]の影響により、翌17日から東北新幹線への直通を見合わせ、東京駅 - 盛岡駅間を運休。4月3日まで盛岡駅 - 秋田駅間7往復の臨時ダイヤで運行された<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220317AK0007|newspaper=[[秋田魁新報]]|publisher=[[秋田魁新報社]]|title=新幹線、秋田―盛岡間で折り返し運転 在来線で運転見合わせ|date=2022-03-17|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。また3月22日の秋田新幹線開業25周年を控え予定されていた記念行事が中止されている<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220317AK0045|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=こまち開業25周年イベント一部中止|date=2022-03-17|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220322AK0022|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=秋田新幹線こまち開業25周年、地震で記念行事中止|date=2022-03-22|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。東北新幹線の復旧の進捗に合わせ、4月4日から仙台駅 - 秋田駅間14往復で東北新幹線への直通を再開し<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220404AK0031|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=新幹線こまち、秋田―仙台間の運行再開 1日14往復|date=2022-04-04|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>、4月14日から東京駅 - 秋田駅全区間での運行を再開(13往復の臨時ダイヤ)、併せて秋田駅では延期されていた開業25周年記念の出発式が行われた<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220414AK0029|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=こまち、約1カ月ぶりに東京と直通 25周年も祝う|date=2022-04-14|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。5月13日から通常ダイヤによる東京駅 - 秋田駅間の運行に復帰している<ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sakigake.jp/news/article.jsp?kc=20220513AK0001|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|title=秋田新幹線こまち、きょう完全復旧 東京間を14往復で運行|date=2022-05-13|accessdate=2022-05-23|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年) ** [[7月15日]]:停滞する[[梅雨前線]]の影響により大雨が予想されるため、始発など上下3本を除き終日運休<ref group="新聞">{{Cite news|和書|author = 島田実侑|title= 県内、きょう大雨か 土砂災害、河川氾濫に警戒|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|date=2023-7-15|page=1}}</ref>。 ** [[7月16日]] - [[7月19日]]:県内記録的大雨の影響により終日運休。 ** [[7月20日]]:始発より運転を再開<ref group="新聞">{{Cite news|和書|author = 阿部拓郎|title= こまち、きょう運転再開|newspaper=秋田魁新報|publisher=秋田魁新報社|date=2023-7-20|page=1}}</ref>。 == 運行形態 == [[新幹線E6系電車|E6系]]電車7両編成を使用した「[[こまち (列車)|こまち]]」が運転されている。 田沢湖線内は全て[[単線]]なので、新幹線列車が[[普通列車]]と行き違いのために待ち合わせをすることがある。大曲駅では、田沢湖線と奥羽本線の接続配線の都合により[[スイッチバック]]するため、大曲駅 - 秋田駅間は走行方向が逆となる。なお大曲駅での座席転換は原則行わないことから、大曲駅 - 秋田駅間は進行方向と座席方向が逆向きとなる。 秋田新幹線開業前の奥羽本線は一部[[複線]]化されていたが、開業に際して複線区間は上り線を新幹線用の[[標準軌]]に改めたため、線路が二つ並ぶ[[単線並列]]になっている。このため、普通列車と新幹線が同じ方向に走ることもある。なお、[[神宮寺駅]] - [[峰吉川駅]]間<ref group="注">厳密には神宮寺駅南側のポイント - 峰吉川駅南側のポイント間。</ref> のみ新幹線同士の行き違いのため[[狭軌]]側を[[三線軌条]]にしている。 [[全国花火競技大会]](大曲の花火、[[大仙市]])開催時は、大曲駅が始発・終着となる臨時列車が運行されている。なお、在来線区間のみを走る臨時列車は午前0時以降にも設定される。 == 車両 == 秋田新幹線で運転されている車両は次の通り。 === 現用車両 === ==== 営業車両 ==== * [[新幹線E6系電車|E6系]]Z編成 - 7両編成。 <gallery> ファイル:E6 series Z12 Komachi 20161013.jpg|「こまち」に使用される[[新幹線E6系電車|E6系]](2016年10月 羽後境駅 - 大張野駅間) </gallery> ==== 事業用・試験用車両 ==== * [[新幹線E926形電車|E926形 (East i)]] - '''S51編成'''、 電気・軌道総合試験車。 編成記号の「S」は、系列に関係なく非営業用車両全般に用いられている。 <gallery> ファイル:Shinkansen E926 East-i.jpg|E926形「East i」(2008年5月 大宮駅) </gallery> === 過去の車両 === ==== 営業車両 ==== * [[新幹線E3系電車|E3系]]R1-26編成 - 6両編成(開業時は5両編成)。 ** 開業当初より「こまち」で運用されていた。E6系への置き換えにより2014年3月14日限りで定期運用を終了し、以後は2020年10月31日までE5系との併結により東北新幹線「やまびこ」「なすの」の増結用のみで使用された。 <gallery> ファイル:E3-Komachi-R20-131109.JPG|2014年まで使用されていた[[新幹線E3系電車|E3系]](2013年11月 羽後境駅) </gallery> ==== 事業用・試験用車両 ==== * [[JR東日本DD18形ディーゼル機関車|DD18形ディーゼル機関車]] - 1両のみ ** [[除雪車|除雪]]用として在来線車両の[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形ディーゼル機関車]]をベースに標準軌に[[改軌]]したうえで運用された。ENR1000形[[モーターカー]]への置き換えに伴い運用終了。 * [[新幹線E955形電車|E955形]] (Fastech360Z) - 試験用車両 == 営業 == === 車内設備 === 全列車に[[普通車 (鉄道車両)|普通車]](12 - 17号車)と[[グリーン車]](11号車)を連結する。 <gallery> ファイル:E6 Green Car.jpg|E6系のグリーン車 ファイル:JReastE6 E628-5 inside.jpg|E6系の普通車 </gallery> なお、JR東日本は[[2007年]]3月のダイヤ改正以降、東北・上越・山形・秋田の各新幹線<ref group="注">長野新幹線は2005年から全面禁煙化済。</ref>および在来線[[特別急行列車|特急列車]]の全てを[[交通機関の喫煙規制#鉄道・軌道における喫煙席の状況|禁煙車]]とし、喫煙ルームなども設けていないため、車内での[[喫煙]]はできない。 == 運賃と特急料金 == 秋田新幹線の運賃は通算の[[営業キロ]]に基づいて算出する。東京 - 盛岡間の営業キロは対応する在来線である東北本線のものと同一になっている(同区間の営業キロは535.3キロメートル、実キロは496.5キロメートル)。 [[特急料金]]は乗車区間の[[東北新幹線]]「はやぶさ号」相当額の新幹線特急料金と[[田沢湖線]]・[[奥羽本線]]の在来線特急料金<ref group="注">50キロ以遠はA特急料金より割安</ref>を合算する。ただし東京 - 秋田間の相互駅間で改札を出ない場合に限り、普通車指定席利用時(通常期)はそれぞれの特急料金の合計額から530円を割り引く。 特急料金(指定席)は、閑散期は一律200円引き、繁忙期は一律200円増し、最繁忙期は一律400円増し。 秋田新幹線「こまち号」には自由席の連結はないが、田沢湖線・奥羽本線内では特定特急券で普通車指定席の空席に着席することができる。また新幹線定期券FREX・FREXパルでは仙台 - 盛岡間でも秋田新幹線「こまち号」の普通車指定席の空席に着席することができる。このほか満席時には特急料金の530円引きで全区間を対象に立席特急券を発売することがある。 [[グリーン料金]]は通算の営業キロに基づいて算出する。 東北新幹線内の特急料金は[[東北新幹線#運賃と特急料金]]及び[[はやぶさ (新幹線)#特急料金]]を参照。田沢湖線・奥羽本線内の特急料金は以下の通り<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/sendai/20211116_s01.pdf |title=山形新幹線の全車指定席化と山形・秋田新幹線の特急料金の改定について |accessdate=2021-11-16 |publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |+ 田沢湖線・奥羽本線盛岡 - 秋田間特急料金表<br />(2022年3月12日改定。普通車通常期・大人料金) !rowspan="2"|営業キロ・区間!!colspan="2"|特急料金(円) |- !特定!!指定席 |-style="text-align:right;" |style="text-align:left;"|50キロ以下 |760 |1,290 |-style="text-align:right;" |style="text-align:left;"|51 - 100キロ |1,130 |1,660 |-style="text-align:right;" |style="text-align:left;"|101 - 150キロ |1,580 |2,110 |} == 駅一覧 == * 「[[こまち (列車)|こまち]]」停車駅のみ掲載(東北新幹線内は1日2往復以上停車する駅に限る。定期列車として「こまち」95・98号が停車する仙台駅 - 盛岡駅間の途中の各駅もここでは省略する)。停車駅の詳細は列車記事を参照。 * 乗車人員は東日本旅客鉄道の駅のもの<ref>[https://www.jreast.co.jp/passenger/ 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。同欄の{{Increase}}{{Decrease}}は前年度と比較した増({{Increase}})減({{Decrease}})を表す。 * 接続路線は、同じ線路を走行する田沢湖線および奥羽本線(大曲駅での秋田方面、秋田駅での大曲方面)以外を記す(両線とはそれぞれ下表の盛岡駅 - 大曲駅、大曲駅 - 秋田駅の全駅で接続)。 {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #ed4399;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}} !rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:solid 3px #ed4399;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="width:3em; border-bottom:solid 3px #ed4399;"|実キロ<br />{{Sfn|鉄道友の会|1983|p=148}}<ref>国土交通省監修『数字で見る鉄道2005』運輸政策研究機構、p.22。</ref> !rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:solid 3px #ed4399;"|2019年度<br />乗車人員<br />(1日平均) !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ed4399;"|接続路線 !rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ed4399;"|所在地 |- !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #ed4399;"|盛岡<br />から !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #ed4399;"|東京<br />から |- !rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[東北新幹線]]|height=8em}} |[[東京駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|24,973{{Decrease}} |[[東海旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 01)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 26)・[[ファイル:JR_JC_line_symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線]] (JC 01)<br />[[ファイル:JR_JT_line_symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] (JT 01)・[[ファイル:JR_JU_line_symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]] (JU 01)・[[ファイル:JR_JJ_line_symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]])<br />[[ファイル:JR_JO_line_symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線・総武快速線]] (JO 19)・[[ファイル:JR_JE_line_symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 01)<br />[[東京地下鉄]]:[[File:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-17) |rowspan="2" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[東京都]]}} |style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]] |- |[[上野駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|5,157{{Decrease}} |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JY_line_symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 05)・[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 30)<br />[[ファイル:JR_JU_line_symbol.svg|18px|JU]] 宇都宮線・高崎線 (JU 02)・[[ファイル:JR_JJ_line_symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]])(JJ 01)<br />東京地下鉄:[[File:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-16)・[[File:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-17)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]([[京成上野駅]]: KS01) |[[台東区]] |- |[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|30.3 |style="text-align:right;"|31.3 |style="text-align:right;"|15,278{{Decrease}} |東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen-E.svg|17px|■]] [[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]<br />[[ファイル:JR_JK_line_symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 47)・[[ファイル:JR_JU_line_symbol.svg|18px|JU]] 宇都宮線・高崎線 (JU 07)・[[ファイル:JR_JA_line_symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 26)・{{Color|#00ac9a|■}}[[川越線]]<br />[[東武鉄道]]:[[File:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線]] (TD-01)<br />[[埼玉新都市交通]]:[[File:New Shuttle Line symbol.svg|18px]] [[埼玉新都市交通伊奈線|伊奈線(ニューシャトル)]](NS01) |colspan="2"|[[埼玉県]]<br />[[さいたま市]]<br />[[大宮区]] |- |[[仙台駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|351.8 |style="text-align:right;"|325.4 |style="text-align:right;"|26,653{{Decrease}} |東日本旅客鉄道:{{Color|mediumseagreen|■}}東北本線・{{Color|#00aaee|■}}[[仙石線]]・{{Color|#72bc4a|■}}[[仙山線]]・{{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]<br />{{Color|mediumseagreen|■}}{{Color|#00aaee|■}}[[仙石東北ライン]]・{{Color|#2A5CAA|■}}[[仙台空港アクセス線]]<br />[[仙台市地下鉄]]:{{Color|#317C66|■}}[[仙台市地下鉄南北線|南北線]] (N10)・{{Color|#00B1DD|■}}[[仙台市地下鉄東西線|東西線]] (T07) |colspan="2"|[[宮城県]]<br />[[仙台市]]<br />[[青葉区 (仙台市)|青葉区]] |-style="height:3em;" |rowspan="2"|[[盛岡駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2" style="text-align:right;"|535.3 |rowspan="2" style="text-align:right;"|496.5 |rowspan="2" style="text-align:right;"|17,695{{Decrease}} |rowspan="2"|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|17px|■]] 東北新幹線・[[北海道新幹線]]・{{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]]・{{Color|#cd7a1e|■}}[[山田線]]・{{Color|#aa1e30|■}}[[花輪線]]<ref group="注">花輪線の起点は[[好摩駅]]であるが、全ての列車が[[いわて銀河鉄道線]]を経由して盛岡駅へ乗り入れる。</ref><br/>[[IGRいわて銀河鉄道]]:{{Color|#03459a|■}}[[いわて銀河鉄道線]] |rowspan="3" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[岩手県]]}} |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[盛岡市]] |- !rowspan="5" style="width:1em; font-size:85%;"|{{縦書き|[[田沢湖線]]|height=4.5em}} |- |[[雫石駅]] |style="text-align:right;"|16.0 |style="text-align:right;"|551.3 |style="text-align:right;"|512.5 |style="text-align:right;"|528{{Decrease}} | |[[岩手郡]]<br />[[雫石町]] |- |[[田沢湖駅]] |style="text-align:right;"|40.1 |style="text-align:right;"|575.4 |style="text-align:right;"|536.6 |style="text-align:right;"|289{{Decrease}} | |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[秋田県]]}} |rowspan="2"|[[仙北市]] |- |[[角館駅]] |style="text-align:right;"|58.8 |style="text-align:right;"|594.1 |style="text-align:right;"|555.3 |style="text-align:right;"|517{{Decrease}} |[[秋田内陸縦貫鉄道]]:[[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線|秋田内陸線]] |-style="height:1em;" |rowspan="2"|[[大曲駅 (秋田県)|大曲駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|75.6 |rowspan="2" style="text-align:right;"|610.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|572.1 |rowspan="2" style="text-align:right;"|1,957{{Decrease}} |rowspan="2"|東日本旅客鉄道:{{Color|#ee7b28|■}}[[奥羽本線]]([[新庄駅|新庄]]方面) |rowspan="2"|[[大仙市]] |- !rowspan="2" style="width:1em; font-size:85%;"|{{縦書き|[[奥羽本線]]|height=4.5em}} |- |[[秋田駅]] |style="text-align:right;"|127.3 |style="text-align:right;"|662.6 |style="text-align:right;"|623.8 |style="text-align:right;"|10,390{{Decrease}} |東日本旅客鉄道:{{Color|#ee7b28|■}}奥羽本線([[弘前駅|弘前]]方面)・{{Color|#16c0e9|■}}[[羽越本線]]・{{color|#36823E|■}}[[男鹿線]]<ref group="注">男鹿線の起点は[[追分駅 (秋田県)|追分駅]]であるが、全ての列車が奥羽本線経由で秋田駅に乗り入れる。</ref> |[[秋田市]] |} == 需要 == 交通需要について[[国土交通省]]が[[2000年]]に調査した都道府県間鉄道旅客流動データによると、[[秋田県]]を目的地とする鉄道旅客のうち、東北新幹線沿線([[東京都]]、[[埼玉県]]、[[栃木県]]、[[福島県]]、[[宮城県]]、[[岩手県]])からの年間旅客数は69.0万人であった。これらの各出発地のうち最も旅客数が多かったのは宮城県の28.1万人、次いで東京都の23.3万人、岩手県の8.8万人である。一方、秋田新幹線沿線(秋田県)を出発地として東北新幹線沿線を目的地とする年間旅客数は68.3万人であった。これらの各目的地のうち最も旅客数が多かったのは宮城県の30.5万人、次いで東京都の18.4万人、岩手県の8.1万人である。 沿線各都県間の旅客流動状況(2000年)は以下のとおり。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |+ '''秋田新幹線沿線各都県間旅客流動状況(2000年)''' |- ! 目的地\出発地 || [[東京圏]]* || [[栃木県]] || [[福島県]] || [[宮城県]] || [[岩手県]] || 合計 |- | [[秋田県]] || 387 || 26 || 45 || 281 || 88 || 827 |- ! 出発地\目的地 || 東京圏* || 栃木県 || 福島県 || 宮城県 || 岩手県 || 合計 |- | 秋田県 || 423 || 31 || 37 || 305 || 81 || 877 |} (単位:千人/年)<br /> *東京圏:[[東京都]]、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、[[神奈川県]]とする。 == 現状の課題と将来の計画・構想 == {{出典の明記|section=1|date=2016-9}} 秋田新幹線の開業に合わせ東北新幹線区間では最高速度275 km/h、在来線区間は最高速度130 km/hでの運転が可能になった。これにより、一部の列車(東京発下り[[終電|最終]]と秋田発上り[[始発列車|始発]]などの数本のみ)は、東京駅 - 秋田駅間の所要時間を3時間台で運行していた。しかし、それ以外の大半の列車の所要時間は4時間以上となっていたため、さらなる[[高速化 (鉄道)|高速化]]が以前よりたびたび県議会や地元メディアにおいて議論の的となっていた。 その後、2013年春から2014年春にかけて車両置き換えによる東北新幹線区間の高速化が段階的に実施されることとなり<ref name="jreast20071104" group="報道">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2007_2/20071104.pdf 東北新幹線における高速化の実施について]}} - 東日本旅客鉄道、2007年11月6日。</ref>、同区間では最高速度320km/hでの運転が実施され、東京駅 - 秋田駅間で平均15分程度の所要時間短縮が図られた。また、同区間では保安装置を[[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]]に更新したことにより、導入前に比べて数分程度の所要時間短縮も図られた。これらの施策が全て完了した2014年3月15日ダイヤ改正では全ての定期列車が3時間台、最速列車が3時間37分で運行されるようになった。 一方で田沢湖線の全線および奥羽本線区間の多くが単線のため、停車駅でない駅や[[信号場]]での対向列車待ち([[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]])も多く、普通列車を待ち合わせするために停車することもある。また秋田・岩手県境の[[仙岩峠]]区間ではカーブと勾配および車体傾斜装置の搭載したE6系の車幅が在来線規格ぎりぎりで在来線区間で車体傾斜して高速通過することができないため、所要時間が短縮できていない。 また田沢湖線[[雫石駅]] - 田沢湖駅周辺は豪雪地帯であり、大量の降雪による影響で在来線区間の列車の遅延が発生しやすい。この影響による接続(連結)待ちのため盛岡駅で上り「こまち」と連結する上り「[[はやぶさ (新幹線)|はやぶさ]]」(2014年3月14日以前は「[[はやて (列車)|はやて]]」)の遅れを招き、過密[[ダイヤグラム|ダイヤ]]となっている東京駅 - 大宮駅間で線路を共有する[[上越新幹線]]や[[北陸新幹線]]に影響がおよぶこともある。また天候によっては、同区間などの運行を中止する場合がある。下り列車で盛岡駅 - 秋田駅間が区間運休となった場合、盛岡駅で切り離された「こまち」車両は、[[盛岡新幹線車両センター]]まで臨時[[回送]]される。 なお、[[平成18年豪雪]]の際、列車が運行中で立ち往生し、乗客が車内に缶詰め状態になったことがある。また、運行を見合わせた際に[[バス代行|代替バス]]等が手配されなかった場合<ref group="注">仙岩峠区間の[[大地沢信号場]]および[[志度内信号場]]は山間に存在するため、特に積雪期は代替交通機関での乗り入れが困難である。</ref>、乗客の混乱に拍車が掛かることもある。 以上より、東北新幹線区間では、高速化のための各種施策が続々と着手され実現されつつあるが、田沢湖線内・奥羽本線内では以下のような計画・構想がある。<!-- 2022年の東北新幹線脱線事故で1編成が離脱しているが、2022年3月12日ダイヤ改正までにで東京 - 仙台・盛岡間運転のE6系併結運用が減少しておりE6系が余剰となっていることから、車両の不足はない --> === 新ルート整備計画 === [[2018年]]6月、JR東日本が秋田新幹線の岩手、秋田県境である田沢湖([[仙北市]])- 赤渕(岩手県[[雫石町]])に全長約15キロの直線的な[[トンネル]]を整備する計画を昨年11月に地元自治体に伝えていたことが明らかとなった<ref name="mainichi20180705" group="新聞">{{Cite news|和書 |title=秋田新幹線 JR東検討 トンネル整備、財源が壁 地元期待、防災対策にも/秋田 |newspaper=[[毎日新聞]] |publisher=[[毎日新聞社]] |date=2018-7-5 |url=https://mainichi.jp/articles/20180705/ddl/k05/020/111000c |accessdate=2018-7-14}}</ref>。この県境区間は山が険しいため谷底を縫うように線路が走り、悪天候に弱く、加えて並行する道路がなく、トラブルが発生時に乗客の避難誘導も難しいことから、地元では新ルートの整備がかねてから求められていた<ref name="mainichi20180705" group="新聞" /><ref group="新聞">{{Cite news|和書 |title=<秋田新幹線>JR東、新ルート検討 岩手県境にトンネル、防災強化し運行安定化へ |newspaper=[[河北新報]] |publisher=[[河北新報社]] |date=2018-6-1 |url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201806/20180601_73007.html |accessdate=2018-11-1}}</ref><ref name="kahoku" group="新聞">{{Cite news|和書 |title=<秋田新幹線>新ルート整備600億円試算 トンネルは10キロ超、工期10年見込み |newspaper=河北新報 |publisher=河北新報社 |date=2018-6-8 |url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201806/20180608_72067.html |accessdate=2018-7-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=秋田新幹線、新トンネルで期待される効果は? トンネル建設協議会発足 |author=杉山淳一 |website=[[マイナビニュース]] |publisher=[[マイナビ]] b |date=2018-7-26 |url=https://news.mynavi.jp/article/railwaynews-131/ |accessdate=2018-11-1}}</ref>。また、JR側としても現行橋梁の老朽化問題や冬季の除雪費用、現行ルート周辺が活動期の[[地すべり]]地帯である<ref>盛岡森林管理署, 志戸前川地区直轄地すべり防止事業の着手と今後の方針について. </ref>ことから、トンネルを主体とする新線の建設によりこれを回避する狙いがある。 そうした実態を踏まえ、JR東日本が現地調査のほか工費の試算を行ったもので、それによると工期は10年以上で、秋田駅 - 東京駅間の走行時間は現行より約7分の短縮、概算事業費が600億円規模になるとの試算を県や沿線自治体に伝えたことが分かった<ref name="kahoku" group="新聞" />。調査結果を踏まえ、JR東日本は整備には前向きと報じられているが、整備にあたっては国や県の財政支援が不可欠との認識を示していると伝えられている。なお、事業にあたっては国と[[地方公共団体|自治体]]が[[鉄道事業者]]に対し、費用を5分の1ずつ負担する仕組みがあるが、秋田県は県とJRの負担が重すぎるとして国費の支援を増やすように訴えている<ref name="mainichi20180705" group="新聞" />。[[佐竹敬久]]秋田県知事は、調査結果を受けて、2018年7月に秋田・岩手の7市町で発足の期成同盟会に県が主導的に関わり、[[国土交通省]]やJR東日本、岩手県に財政負担などの協力を呼びかけるとの意向を明らかにしている<ref group="新聞">{{Cite news|和書 |title=秋田新幹線 新トンネル、支社長「積極的に」/秋田 |newspaper=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2018-6-20 |url=https://mainichi.jp/articles/20180620/ddl/k05/020/167000c |accessdate=2018-7-14}}</ref>。なお、岩手側の[[達増拓也]]岩手県知事は、時間短縮や安定運行のメリットが少ないにもかかわらず過大な負担を求められかねないとして、期成同盟会への参画に慎重であると報じられた<ref name="kahoku20180714" group="新聞" />。 2018年7月18日に期成同盟会は設立総会を開き、[[大仙市]]の[[老松博行]]市長が会長、佐竹知事が顧問に就任して発足した<ref>{{Cite web|和書|title=新幹線トンネル早期整備を目指す |wesite=NHK NEWS WEB 秋田 NEWS WEB |publisher=[[日本放送協会|NHK]] |date=2018-7-18 |url=https://www3.nhk.or.jp/lnews/akita/20180718/6010001265.html |accessdate=2018-7-21}}</ref>。また岩手県は参加を見送り保留としていた<ref group="新聞">{{Cite news|和書 |title=秋田新幹線に新トンネル構想 大雪に強く、時短も(東奔北走) |newspaper=日本経済新聞 |publisher=日本経済新聞社 |date=2018-7-20 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33230700Q8A720C1L01000/?n_cid=TPRN0011 |accessdate=2018-7-21}}</ref>。その後、同年7月26、27日に[[札幌市]]で開催された[[全国知事会]]で佐竹知事が達増知事に期成同盟会への参加を直接要請した<ref group="新聞">{{Cite news|和書 |title=岩手、新トンネル期成同盟に参加へ 秋田新幹線 |newspaper=秋田魁新報 |publisher=秋田魁新報社 |date=2018-7-28 |url=https://www.sakigake.jp/news/article/20180728AK0003/ |accessdate=2018-8-2}}</ref>。その際に達増知事は、費用はJRが負担すべきと従来どおりの主張を繰り返したが、新ルート整備の必要性自体については両者の意見が一致した。これを受け、同年7月30日に岩手県は秋田県のように主体的に関わるのではなく、[[オブザーバー]]として期成同盟会に参加する意向を示した<ref group="新聞">{{Cite news|和書 |title=<秋田新幹線>新ルート整備 岩手県、オブザーバーとして期成同盟会参加へ |newspaper=河北新報 |publisher=河北新報社 |date=2018-7-31 |url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201807/20180731_33027.html |accessdate=2018-8-2}}</ref>。 === 秋田以北への延伸構想 === 秋田新幹線の利用状況は順調であるが、田沢湖線と奥羽本線を[[改軌]]・改築した結果、盛岡駅から秋田駅を経由しての[[青森駅|青森]]方面への直通が不可能となり、かつて同区間を直通していた特急「[[たざわ (列車)|たざわ]]」は、運転区間が短縮され、秋田駅 - 青森駅間の特急「[[かもしか (列車)|かもしか]]」(現在は「[[つがる (列車)|つがる]]」)となった。そのため、盛岡方面からの直通列車が無くなった[[能代市]]では、秋田新幹線の[[東能代駅]]までの延伸をJR東日本に要望している。しかし、奥羽本線(秋田駅 - 青森駅)は[[日本海縦貫線]]の一部となっているので改軌・改築が難しく、さらにJR東日本が[[軌間可変電車]]の開発に参加していないことから、実現は厳しいと見られている上に、沿線の議論も盛り上がりがない。さらには能代市に隣接する[[北秋田市]]に[[大館能代空港]]があること、{{要出典範囲|[[東北自動車道]]を利用し、盛岡で新幹線に連絡する[[高速バス]]が高頻度で運行していること|date=2016年7月12日}}、そして改軌・改築の費用対効果が希薄であるなどの理由から、必要性が薄いという意見もある。 == CM == 開業に先立つ[[1997年]]2月1日からJR東日本が、[[東日本]]全域のほとんどの[[民間放送|民放]]で『こまち登場編』と銘打った、「こまち」のスピードと快適性を訴えた東京 - 秋田便を就航させている航空会社を意識した[[比較広告]]を出稿した。JR東日本が競合する[[飛行機]]との比較広告を出稿する初の事例であった<ref group="新聞">「秋田新幹線開通のCMで航空会社に”宣戦布告”JR東日本」『[[読売新聞]]』1997年1月31日</ref><ref group="新聞">「秋田新幹線こまちのCMは刺激的 JRが航空会社との比較広告」『朝日新聞』1997年2月1日</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"}} === 新聞記事 === {{Reflist|group="新聞"|2}} == 参考文献 == * 田宮利雄『こまち 出発進行!! : 開業までの秋田新幹線小史 』[[秋田魁新報|秋田魁新報社]]、1997年。{{ISBN2|4870201712}} * 山形県編『山形県史 第7巻 (現代編 下)』山形県、2004年。 * [[佐藤信之 (評論家)|佐藤信之]]『新幹線の歴史 - 政治と経営のダイナミズム [[中公新書]]([[中央公論新社]])、2015年。{{ISBN2|4121023080}} == 関連項目 == {{Commonscat|Akita Shinkansen}} <!-- 各新幹線や新幹線関連記事へのリンクはこの下のテンプレート{{日本の新幹線}}にありますので、全てを列挙する必要はありません。--> * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[山形新幹線]] * [[奥羽新幹線]] * [[羽越新幹線]] * [[電車でGO!]] * [[むさしの号|こまちリレー号]] - 武蔵野線で運転されていた秋田新幹線連絡列車 * [[たざわ (列車)#特急「秋田リレー」|秋田リレー]] - 田沢湖線改軌工事中に特急「たざわ」の代替で北上線で運転されていた特急 * [[国道46号]] * [[国道13号]] * [[秋田自動車道]] * [[:en:Antequera–Granada high-speed rail line|アンテケーラ-グラナダ高速鉄道線]] == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/akita.html 秋田新幹線:JR東日本] - 東日本旅客鉄道 * [https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=73&token=&50on= 時刻表 検索結果:JR東日本] - 東日本旅客鉄道 {{日本の新幹線}} {{東日本旅客鉄道の鉄道路線}} {{東日本旅客鉄道新幹線統括本部}} {{東日本旅客鉄道盛岡支社}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あきたしんかんせん}} [[Category:秋田新幹線|*]] [[Category:新幹線の路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:東北地方の鉄道路線]] 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端末
端末(たんまつ、英: terminal ターミナル)とは、 「端末」あるいは「ターミナル」(英: terminal)という用語・表現は、通信用語とコンピュータ用語がある。 通信用語は、通信の中継機器、集約機器、分配機器などとの対比で用いられている用語・用法で、コンピュータ用語は他のコンピュータ(大型コンピュータ、ホストコンピュータ、あるいはサーバなど)に接続し、もっぱら情報の入力や表示などをする機器のことである。 通信用語の「ターミナル」という用語は、時代とともに変化してきた。 電信時代のターミナル(端末)は、電信回線の終端に接続された機器であり、手動のキー操作によって電信信号を送信するために使用されていた。電鍵や電信機とも呼ばれた。 アナログ電話回線の端末は、電話機やファクシミリなどである。 1962年にアメリカのAT&Tから、商業的に利用可能になった最初のモデム、Bell 103 modemがリリースされた。このモデムも通信用語でいう「端末」ということになった。 1990年代でも、アナログ回線にパーソナルコンピュータを接続したり、あるいはパームコンピュータやフィーチャーフォンなど小型のコンピュータの機能を備えた端末を接続してデータのやりとりをしていた。 初期の端末は、本来は電信に使われた機器である ASR-33(右写真)のような電気機械式のテレタイプ端末 (TTY) であった。 IBMは汎用コンピュータのSystem/360を1964年に発表、この入出力用装置としては、当初はパンチカード装置やTTYが用意されていた。 1970年にDECがen:DECwriterというプリンタで印字する専用端末を登場させた。DECはプリンタ方式の端末のシリーズとしてDECwriter II(1974年- )、DECwriter III(1978年- )、DECwriter IV(1982年-)のリリースを続けた。IBMも1974年にSystem/360用にドットマトリクス・プリンター方式の端末IBM 3767をリリースした。プリンタ方式の端末はテレタイプ端末よりは良くなり、コンピュータに長時間バッチ処理をさせて、オペレータが不在の状態でも計算結果の文字出力を大量に残しておきたい用途で使うのには向いていた。だが、プリンタの印字速度でコンピュータとのやりとりの速度が制限されてしまうという欠点はあり、対話的にコンピュータを使う場合は紙に文字記録を残す必要性は低いので、ビデオ表示方式のものが普及してゆくことになった 一方、1962年にはIBMがビデオ表示方式(CRT、ブラウン管表示方式)の端末のIBM 2260も発表していた。当時、アナログ方式の走査線が走るブラウン管の画面上に、デジタル方式のコンピュータの出力文字を表示させるということだけでも、技術的にはかなりハードルの高い挑戦であった。このころのビデオ表示端末は、多数のトランジスタやダイオードなどの電子部品を搭載した基板で作った論理回路を使っている(当時、ICは一般的でなかった)。 このころの端末はモノクロ方式である。 1971年にはIBMがIBM 2260の後継機にあたるIBM 3270を発表。 DECは 1975年にVT52 を、1978年にはVT100を発表した。これらは当時は「インテリジェント端末」と呼ばれ、今でもソフトウェアでエミュレートされて使われて続けている。これらが「インテリジェント」と呼ばれたのは、エスケープシーケンスを解釈してカーソルの位置や表示の制御を行ったためである。他にはWyse の様々な機種(Wyse 60 はベストセラーとなった)、Tektronix 4014 などがある。 やがてこのようなビデオ表示方式(CRT方式)の端末全般がビデオ表示端末(VDT)と総称されるようになった。VDTはコンピュータからの出力をTTYやプリンタ方式よりはるかに高速に表示できるという利点があり、コンピュータと対話するように利用することが可能であった。 1970年代末から1980年代初め、DEC、Wyse、Televideo、HP、IBM、Lear-Siegler、ヒース 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1981年にはコロンビア大学でkermitというプロトコルが、やはり回線経由で端末を接続するために開発された。 グラフィック端末は、テキストだけでなく画像を表示できる端末。グラフィック端末はさらに、ベクタースキャン端末とラスタースキャン端末に分類される。 ベクタースキャン端末は、ホストコンピュータの制御により、直接ブラウン管に直線などを描画する。通常の走査式のブラウン管と異なり、オシロスコープのような仕組みになっている。そのため線は連続的に描画されるが、描画された線が残っている時間と描画速度との兼ね合いで、同時に表示できる線の本数(あるいは長さの総計)は限られていた。ベクタースキャン端末はコンピュータ史では重要だが、現在では使われていない。 現代のグラフィック端末は全てラスタースキャン方式である。 1970年代後半にパーソナルコンピュータ(マイクロコンピュータ)が登場すると、その上で動くソフトウェア端末エミュレータ(ターミナルソフト)が使われるようになった。 OSにGUIが採用されるようになっても、コマンド行インタフェースやテキストユーザインタフェースのほうも生き残っている。テキスト端末は、ターミナルエミュレーションソフトとして生き残った。 また多くのプログラミング言語は標準入出力としてテキストの入出力をサポートしている。 ターミナルソフトを動作させればPC眼を端末として使うことができる。このため、専用端末機の市場はPCの端末ソフトとの競争にさらされるようになり、どんどん縮小していった。 LinuxやFreeBSDなどのUnix系オペレーティングシステムでは、 1つのコンピュータ上で複数のテキスト端末を提供する仮想コンソールが使われた。その後、端末エミュレータの使用が一般化した。 端末エミュレータは、GUIなOS上で動作するプログラムで、ウィンドウを開いてそのウィンドウをテキスト端末として利用できる。主な端末エミュレータとしては、Win32コンソールや xterm がある。Unix系オペレーティングシステムでは、擬似端末に接続される。モデムと共に使用することを前提とした特殊な端末エミュレータも存在する。例えば SSH クライアントなどもな端末エミュレータである。 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より広い意味では、キーボードとビデオ表示装置やプリンターを備えた装置で、RS-232接続でホストシステムと通信し、ローカルにデータを処理したりプログラムを実行したりしないものを全てダム端末と呼ぶことがある。この意味では、パーソナルコンピュータも、ディスクレスワークステーションも、シンクライアントも、X端末もダム端末と言える。 また、モノクロのテキスト表示しかできない端末装置をダム端末と呼ぶこともある。さらに、キーボードから入力された文字を一文字ずつホストに送信する端末装置をダム端末と呼ぶこともある。 大型のコンピュータに対する処理だけでなく、それ自体でテキストデータ編集や印字など各種機能を処理できる端末。フロッピーディスクは当初この種の端末に内蔵する補助記憶装置として開発された。1980年代以降はパーソナルコンピュータなどで実現可能となった。 銀行のATM(現金自動預け払い機)、CD(現金自動支払い機)、販売店のPOS端末、レストランでウェイターが使用するハンディターミナルなども端末の一種である。 1台のコンピュータで複数の端末としての機能を持たせるもの。また、端末と同様の機能を実現するソフトウェア。この場合、コンピュータ本体にビデオ表示機能を組み込んであるワークステーション、パーソナルコンピュータ (PC) やPCサーバで用いられる。端末エミュレータ。 コンビニエンスストアにおかれている端末。MMSと略されることが多い。別名「マルチメディアキオスク」。 ビデオ表示端末(英: Video Display Terminal, VDT)はブラウン管や液晶などのビデオディスプレイを表示に用いる端末である。もともとはテレタイプ端末のような紙に印字する機構を備えた端末と対比するために用いられた用語であるが、その後、このVDTを用いて長時間作業することで引き起こされる身体・精神的諸症状を「VDT症候群」と呼ぶようになり、「VDT」は労働衛生管理の分野で用いられる用語、行政用語、裁判用語、企業内の労務管理の用語などとして使われるようになった。
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"また、モノクロのテキスト表示しかできない端末装置をダム端末と呼ぶこともある。さらに、キーボードから入力された文字を一文字ずつホストに送信する端末装置をダム端末と呼ぶこともある。", "title": "コンピュータ用語としての端末" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "大型のコンピュータに対する処理だけでなく、それ自体でテキストデータ編集や印字など各種機能を処理できる端末。フロッピーディスクは当初この種の端末に内蔵する補助記憶装置として開発された。1980年代以降はパーソナルコンピュータなどで実現可能となった。", "title": "コンピュータ用語としての端末" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "銀行のATM(現金自動預け払い機)、CD(現金自動支払い機)、販売店のPOS端末、レストランでウェイターが使用するハンディターミナルなども端末の一種である。", "title": "コンピュータ用語としての端末" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1台のコンピュータで複数の端末としての機能を持たせるもの。また、端末と同様の機能を実現するソフトウェア。この場合、コンピュータ本体にビデオ表示機能を組み込んであるワークステーション、パーソナルコンピュータ (PC) やPCサーバで用いられる。端末エミュレータ。", "title": "コンピュータ用語としての端末" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "コンビニエンスストアにおかれている端末。MMSと略されることが多い。別名「マルチメディアキオスク」。", "title": "コンピュータ用語としての端末" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ビデオ表示端末(英: Video Display Terminal, VDT)はブラウン管や液晶などのビデオディスプレイを表示に用いる端末である。もともとはテレタイプ端末のような紙に印字する機構を備えた端末と対比するために用いられた用語であるが、その後、このVDTを用いて長時間作業することで引き起こされる身体・精神的諸症状を「VDT症候群」と呼ぶようになり、「VDT」は労働衛生管理の分野で用いられる用語、行政用語、裁判用語、企業内の労務管理の用語などとして使われるようになった。", "title": "コンピュータ用語としての端末" } ]
端末とは、 (通信用語)回線やネットワークの末端に接続され、他の機器と通信を行う機器。通信を中継・集約・分配する機器と対比して用いられている用語・概念。 (コンピュータ用語)利用者が直接操作する装置。コンピュータ類に接続し、もっぱら情報の入力や表示などに使う装置のこと。
'''端末'''(たんまつ、{{Lang-en-short|terminal}}<ref name="ewords">IT用語辞典 e-words「端末」</ref> '''ターミナル''')とは、 *(通信用語)[[回線]]やネットワークの末端に接続され、他の機器と[[通信]]を行う機器<ref name="ewords"/>。通信を中継・集約・分配する機器と対比して用いられている用語・概念<ref name="ewords"/>。 *(コンピュータ用語)利用者が直接操作する装置<ref name="ewords"/>。コンピュータ類に接続し、もっぱら情報の入力や表示などに使う装置のこと<ref name="ewords"/>。 == 概説 == 「端末」あるいは「[[ターミナル]]」({{Lang-en-short|terminal}})という用語・表現は、通信用語とコンピュータ用語がある。 通信用語は、通信の中継機器、集約機器、分配機器などとの対比で用いられている用語・用法で<ref name="ewords"/>、コンピュータ用語は他のコンピュータ(大型コンピュータ、ホストコンピュータ、あるいは[[サーバ]]など)に接続し、もっぱら情報の入力や表示などをする機器のことである。 == 通信用語としての端末 == 通信用語の「ターミナル」という用語は、時代とともに変化してきた。 ;電信時代 [[File:Morse key-CNAM 14674-2-IMG 5195-black.jpg|thumb|100px|電信時代の端末。[[電鍵]]。]] [[電信]]時代のターミナル(端末)は、電信回線の終端に接続された機器であり、手動のキー操作によって電信信号を送信するために使用されていた。'''[[電鍵]]'''や電信機とも呼ばれた。 ;アナログ電話回線などの端末 [[File:Northern Electric N415H 02.jpg|thumb|100px|電話時代の端末。[[電話機]]。]] アナログ電話回線の端末は、'''[[電話機]]'''や'''[[ファクシミリ]]'''などである<ref>IT用語辞典e-words【端末】</ref>。 <gallery> File:Public payphone in New Yourk City.jpg|通信用語の端末の例。[[公衆電話]]。 File:Philips magic2memo Fax machine.jpg|通信用語の端末の例。[[ファクシミリ]]装置。 </gallery> {{節スタブ|section=1|date=2023年3月}} 1962年にアメリカのAT&Tから、商業的に利用可能になった最初の[[モデム]]、Bell 103 modemがリリースされた。このモデムも通信用語でいう「端末」ということになった。 1990年代でも、アナログ回線にパーソナルコンピュータを接続したり、あるいはパームコンピュータや[[フィーチャーフォン]]など小型のコンピュータの機能を備えた端末を接続してデータのやりとりをしていた。 ==コンピュータ用語としての端末== === コンピュータの端末の歴史 === [[画像:ASR-33 1.jpg|thumb|160px|テレタイプ端末は端末装置としても利用可能]] 初期の端末は、本来は[[電信]]に使われた機器である [[ASR-33]](右写真)のような電気機械式の[[テレタイプ端末]] (TTY) であった。 IBMは汎用コンピュータの[[System/360]]を1964年に発表、この入出力用装置としては、当初はパンチカード装置やTTYが用意されていた。 {{Double image aside|right|Decwriter.jpg|200|IBM-3767.jpg|200|DECwriter|[[IBM 3767]]}} 1970年に[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]が[[:en:DECwriter]]というプリンタで印字する専用端末を登場させた。DECはプリンタ方式の端末のシリーズとしてDECwriter II(1974年- )、DECwriter III(1978年- )、DECwriter IV(1982年-)のリリースを続けた。IBMも1974年にSystem/360用にドットマトリクス・プリンター方式の端末[[IBM 3767]]をリリースした。プリンタ方式の端末はテレタイプ端末よりは良くなり、コンピュータに長時間[[バッチ処理]]をさせて、オペレータが不在の状態でも計算結果の文字出力を大量に残しておきたい用途で使うのには向いていた。だが、プリンタの印字速度でコンピュータとのやりとりの速度が制限されてしまうという欠点はあり、対話的にコンピュータを使う場合は紙に文字記録を残す必要性は低いので、ビデオ表示方式のものが普及してゆくことになった [[File:IBM 2260.jpg|thumb|180px|[[IBM 2260]]]] 一方、1962年には[[IBM]]がビデオ表示方式(CRT、[[ブラウン管]]表示方式)の端末の[[IBM 2260]]も発表していた。当時、アナログ方式の[[走査]]線が走る[[ブラウン管]]の画面上に、デジタル方式のコンピュータの出力文字を表示させるということだけでも、技術的にはかなりハードルの高い挑戦であった。このころのビデオ表示端末は、多数の[[トランジスタ]]や[[ダイオード]]などの電子部品を搭載した基板で作った[[論理回路]]を使っている(当時、ICは一般的でなかった)。 [[File:IBM 3277 Model 2 terminal.jpg|thumb|180px|[[IBM 3270]]の後継機のIBM 3277]]このころの端末はモノクロ方式である。 1971年にはIBMがIBM 2260の後継機にあたる[[IBM 3270]]を発表。 [[File:DEC VT100 terminal.jpg|thumb|180px|[[VT100]]]] ;DECの端末 [[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]は 1975年にVT52 を、1978年には'''[[VT100]]'''を発表した。これらは当時は「インテリジェント端末」と呼ばれ、今でもソフトウェアでエミュレートされて使われて続けている。これらが「インテリジェント」と呼ばれたのは、[[エスケープシーケンス]]を解釈して[[カーソル]]の位置や表示の制御を行ったためである。他には[[Wyse]] の様々な機種(Wyse 60 はベストセラーとなった)、[[Tektronix 4014]] などがある。 ;1970年代末- 1980年代の端末の状況 やがてこのようなビデオ表示方式(CRT方式)の端末全般が'''[[ビデオ表示端末]]'''('''VDT''')と総称されるようになった。VDTはコンピュータからの出力をTTYやプリンタ方式よりはるかに高速に表示できるという利点があり、コンピュータと対話するように利用することが可能であった。 1970年代末から1980年代初め、[[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]、Wyse、[[Televideo]]、[[ヒューレット・パッカード|HP]]、[[IBM]]、[[ADM-3A|Lear-Siegler]]、[[ヒースキット|ヒース]] など様々な企業が端末を製造したが、これらの多くはコマンドシーケンスに互換性がなかった。当時の端末は[[メインフレーム]]に接続され、単色であり、緑色かアンバー(琥珀色)のスクリーンのものが多かった。通常、コンピュータとの信号のやり取りは[[RS-232C]]など[[シリアルポート]]を使うことが一般的であった。[[IBM]]のシステムでは、[[同軸ケーブル]]で接続し、[[Systems Network Architecture|SNA]]プロトコルで信号のやりとりをするものもあった。 === テキスト端末 === [[画像:Televideo925Terminal.jpg|thumb| ビデオ表示の[[ASCII]]文字端末。写真はTelevideo社のModel925で、1982年ごろ製造されたもの。[[マイクロプロセッサ]]を使用している。]] '''テキスト端末'''とは、もっぱらテキスト(文字列)類の入力と出力だけを行う装置を指すための総称、分類用語である。文字・記号類はコンピュータ用語ではcharacter(キャラクタ)というので'''キャラクタ端末'''とも呼ばれる。決まった文字集合(キャラクタセット)しか表示できない。 上で説明したテレタイプ端末やVT100などはテキスト端末に分類される。 1970年代に登場した" ビデオ表示 " つまりブラウン管に出力する装置は[[ビデオ表示端末]] (VDT) と呼ばれたが、これもテキスト端末であり、文字・記号類しか表示できなかった。 1960年代や1970年代のテキスト端末は物理的な装置として存在しており、大型コンピュータなどの近くに設置され[[RS-232C]]など[[シリアルポート]]で接続されていた。 なお大型コンピュータの操作を行うための装置はもともと[[コンソール]]とも呼ばれていた(日本語訳では「操作卓」などとされていた)。 <gallery> Stdstreams-notitle.svg|典型的な端末は、入力手段および出力とエラーの表示手段を提供する。 </gallery> ==== テキスト端末とタイムシェアリング ==== [[ファイル:Unix Timesharing UW-Madison 1978.jpeg|thumb|right|200px|[[UNIX]]システムをタイムシェアリング方式で利用するため、並べられた端末の群(1978年)]] 1950年代末から1960年代初頭にかけて[[タイムシェアリング]]が開発され<ref name="Britannica_time-shareing">Britannica, time-sharing.[https://www.britannica.com/technology/time-sharing]</ref>、一台の大型コンピュータを複数のユーザが同時に使用、つまり一台の大型コンピュータに多数の端末が接続されるようになり、コンピュータネットワークが発展してゆくことになった<ref name="Britannica_time-shareing" />。 ==== テキスト端末のリモート接続 ==== 1960年代ではリモート端末でも使われたのはRS-232Cで接続する装置で、テレタイプ端末などキーボードと印字機能を持った装置が一番主流で、他のタイプも含めると、主に次の2種が使われた。 *Teletype Model 33: バラ打ち方式のテレタイプ端末で、データ通信のために改造されて使用された。 *[[ASR-33]]: 上のTeletype Model 33の改良版で、自動で紙テープに印字する機能を追加。 上述のようにDECが1975年にはVT52を、1978年には'''[[VT100]]'''をリリースし、リモート接続で なおかつビデオ表示方式で大型コンピュータに接続することもできるようになった。今日、PC上で動く「[[telnet]]クライアント」の多くは、1970年代末当時に最も典型的な端末となった DEC [[VT100]] のエミュレーションを提供している。 1981年には[[コロンビア大学]]で'''[[カーミット (プロトコル)|kermit]]'''というプロトコルが、やはり回線経由で端末を接続するために開発された。 === グラフィック端末 === グラフィック端末は、テキストだけでなく画像を表示できる端末。グラフィック端末はさらに、[[ベクタースキャン]]端末と[[ラスタースキャン]]端末に分類される。 ベクタースキャン端末は、ホストコンピュータの制御により、直接ブラウン管に直線などを描画する。通常の走査式のブラウン管と異なり、[[オシロスコープ]]のような仕組みになっている。そのため線は連続的に描画されるが、描画された線が残っている時間と描画速度との兼ね合いで、同時に表示できる線の本数(あるいは長さの総計)は限られていた。ベクタースキャン端末はコンピュータ史では重要だが、現在では使われていない。 現代のグラフィック端末は全て[[ラスタースキャン]]方式である。{{Efn|今日の[[ディスプレイ]]は、ラスター方式で画像も文字も表示している。テキストも実際には画像として表示している。}} === パーソナルコンピュータ登場後 === 1970年代後半に[[パーソナルコンピュータ]]([[マイクロコンピュータ]])が登場すると、その上で動くソフトウェア[[端末エミュレータ]](ターミナルソフト)が使われるようになった。 OSに[[GUI]]が採用されるようになっても、[[キャラクタユーザインタフェース|コマンド行インタフェース]]や[[テキストユーザインタフェース]]のほうも生き残っている。テキスト端末は、ターミナルエミュレーションソフトとして生き残った。{{Efn|なお[[IBM PC]]にはグリーンディスプレイが付属していたが、これは端末ではない。PCに付属するディスプレイは文字生成ハードウェアを持たず、PC内のディスプレイカードで生成されたビデオ信号を表示しているに過ぎない。パーソナルコンピュータは[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]と[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]を接続して使うが、パーソナルコンピュータのキーボードやディスプレイはもはや端末とはいわない。}} また多くの[[プログラミング言語]]は[[標準ストリーム|標準入出力]]としてテキストの入出力をサポートしている。 ターミナルソフトを動作させればPC眼を端末として使うことができる。このため、専用端末機の市場はPCの端末ソフトとの競争にさらされるようになり、どんどん縮小していった。 [[Linux]]や[[FreeBSD]]などの[[Unix系]]オペレーティングシステムでは、 1つのコンピュータ上で複数のテキスト端末を提供する[[仮想コンソール]]が使われた。その後、[[端末エミュレータ]]の使用が一般化した。 [[端末エミュレータ]]は、GUIなOS上で動作するプログラムで、ウィンドウを開いてそのウィンドウをテキスト端末として利用できる。主な[[端末エミュレータ]]としては、Win32コンソールや [[xterm]] がある。[[Unix系]]オペレーティングシステムでは、[[擬似端末]]に接続される。[[モデム]]と共に使用することを前提とした特殊な端末エミュレータも存在する。例えば [[Secure Shell|SSH]] クライアントなどもな端末エミュレータである。 ==== テキスト端末上のアプリケーション ==== [[画像:Nano 1.2.5.png|thumb|200px|right|[[xterm]]端末エミュレータ上で動作している[[Nano (テキストエディタ)|Nano]]テキストエディタ。]] テキスト端末で動作するアプリケーションとしては、まず[[コマンドラインインタプリタ]]あるいは'''[[シェル]]'''がある。これらは[[コマンドプロンプト]]を表示してユーザーにコマンド入力を促し、ユーザーがコマンドを入力する際には最後に ''Enter'' キーを押下する。シェルでは、そのコマンドの多くはそれぞれがアプリケーションである。 また、[[テキストエディタ]]も重要なアプリケーションの種類である。ディスプレイ全体を使い、テキストを表示し、ユーザーがそれを編集できるようにしてある。[[ワープロソフト]]も元々はテキスト端末で利用可能だったが、[[WYSIWYG]]化と共にGUIが必須になっていった。 [[telnet]] や [[Secure Shell|ssh]] は、遠隔のサービスと接続してローカルな端末から操作を可能にする。 ==== プログラミングインタフェース ==== 最も単純な形態では、テキスト端末は[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]のようなものである。ファイルへの書き込みが表示され、ファイルからの読み込みがユーザー入力を読み取ることになる。[[Unix系]]オペレーティングシステムでは、テキスト端末に対応した[[スペシャルファイル|キャラクタスペシャルファイル]]が存在する。 他に、特殊な[[エスケープシーケンス]]や[[制御文字]]があり、プログラムから使える <code>termios</code> [[システムコール]]がある。[[ncurses]] などのライブラリから使うのが最も容易である。さらに [[ioctl]] システムコールを使って端末固有の操作が可能である。 入出力以外の機能としてUnix系オペレーティングシステムではジョブおよびセッション管理があり、[[POSIX]]にて仕様が決められている。具体的には端末とセッションの関連付け<ref>この意味にあっては、端末を特に「制御端末」と呼ぶ。</ref>、端末とジョブ(POSIXでは[[プロセスグループ]])の関連付けおよび端末を入出力に使おうとしているジョブの調停などがある。例として「ユーザがログアウトなどにより端末をクローズしたら、その端末上で実行しているすべてのプロセスを終了させる」というような機能がある。 ==== 技術 ==== アプリケーションから端末を使う最も簡単な方法は、単にテキスト文字列を逐次的に読み書きすることである。出力したテキストは[[スクロール]]していくので、最近出力した部分(通常24行)だけが見えている。[[UNIX]]では通常入力テキストは Enter キーが押下されるまで[[バッファ]]されるので、アプリケーションが読み取るテキストは文字列として完全な形になっている。このような使い方の場合、アプリケーションが端末について詳しく知る必要はない。 多くの対話型アプリケーションでは、これでは不十分である。典型的強化としては、「コマンド行編集」([[GNU Readline|readline]] などのライブラリを使う)がある。また、同時にコマンド履歴にアクセスできるようにする場合もある。これらは対話型[[コマンドラインインタプリタ]]でよく使われる。 さらに対話的なものとして、フルスクリーン型のアプリケーションがある。この場合は、アプリケーションが全体の表示を完全に制御する。また、キー押下にも即座に反応する(Enter キー押下までバッファリングすることはない)。[[テキストエディタ]]、[[ファイルマネージャ]]、[[ウェブブラウザ]]などがこのモードを使う。さらに、テキスト表示の際の色や輝度も制御でき、アンダーラインをつけたり、点滅させたり、[[罫線素片]]などの特殊な文字を表示させたりすることも可能である。 これらを実現するには、アプリケーションが通常のテキスト文字列だけでなく、[[制御文字]]や[[エスケープシーケンス]]を扱う必要がある。それによって、[[カーソル]]を特定の位置に移動させたり、特定位置の文字を消去したり、色を変えたり、特殊な文字を表示させたり、[[ファンクションキー]]に応答したりといったことが可能になる。 ここで問題になるのは、端末や[[端末エミュレータ]]が各種存在することで、それぞれが自前の[[エスケープシーケンス]]を持っている。このため、特別な[[ライブラリ]]([[curses]]など)が作成され、端末データベース([[Termcap]] や [[Terminfo]])と共に作用して、端末の違いを吸収する役目を果たす。 ===端末の分類用語=== ([[タイムシェアリングシステム]]の出現以降、対話処理を行うための端末として、よく用いられるものの例を示す。 ;'''ダム端末'''({{En|dumb terminal}}) ダム端末という用語は、その文脈によって様々な意味で使われる。 [[RS-232]]で接続する端末についての文脈では、ダム端末とは解釈できる制御文字が(CR、LF などに)限られている端末を言う。ダム端末は[[エスケープシーケンス]]を解釈できないため、行の消去、画面の消去、[[カーソル]]位置制御といったことができない。つまり、[[テレタイプ端末]]と同程度のことしかできない。[[Unix系]]システムではこのようなダム端末が今でもサポートされており、[[環境変数]] TERM を dumb と設定することでダム端末と認識する。「インテリジェント端末」は、この文脈ではダム端末でないテキスト端末を意味する。 より広い意味では、キーボードとビデオ表示装置やプリンターを備えた装置で、[[RS-232]]接続でホストシステムと通信し、ローカルにデータを処理したりプログラムを実行したりしないものを全てダム端末と呼ぶことがある。この意味では、[[パーソナルコンピュータ]]も、ディスクレス[[ワークステーション]]も、[[シンクライアント]]も、[[X端末]]もダム端末と言える。 また、モノクロのテキスト表示しかできない端末装置をダム端末と呼ぶこともある。さらに、キーボードから入力された文字を一文字ずつホストに送信する端末装置をダム端末と呼ぶこともある。 {{See also|ダム端末}} ;インテリジェント端末 大型のコンピュータに対する処理だけでなく、それ自体でテキストデータ編集や印字など各種機能を処理できる端末。[[フロッピーディスク]]は当初この種の端末に内蔵する[[補助記憶装置]]として開発された。[[1980年代]]以降は[[パーソナルコンピュータ]]などで実現可能となった。 ;専用端末 銀行のATM([[現金自動預け払い機]])、CD([[現金自動預け払い機|現金自動支払い機]])、販売店の[[販売時点情報管理|POS端末]]、レストランでウェイターが使用する[[ハンディターミナル]]なども端末の一種である。 ;仮想端末 1台のコンピュータで複数の端末としての機能を持たせるもの。また、端末と同様の機能を実現するソフトウェア。この場合、コンピュータ本体にビデオ表示機能を組み込んである[[ワークステーション]]、パーソナルコンピュータ (PC) やPC[[サーバ]]で用いられる。[[端末エミュレータ]]。 ;X端末 {{See|X端末}} ;マルチメディアステーション {{Main|マルチメディアステーション}} [[コンビニエンスストア]]におかれている端末。MMSと略されることが多い。別名「マルチメディアキオスク」。 ;ビデオ表示端末 {{Main|ビデオ表示端末}} '''ビデオ表示端末'''({{lang-en-short|[[w:Video display terminal|Video Display Terminal]]}}, VDT)は[[ブラウン管]]や[[液晶]]などの[[映像信号|ビデオ]][[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]を表示に用いる'''端末'''である。もともとは[[テレタイプ端末]]のような紙に印字する機構を備えた端末と対比するために用いられた用語であるが、その後、このVDTを用いて長時間作業することで引き起こされる身体・精神的諸症状を「VDT症候群」と呼ぶようになり、「VDT」は労働衛生管理の分野で用いられる用語、行政用語、裁判用語、企業内の労務管理の用語などとして使われるようになった。 == 関連項目 == * [[コンソール]] * [[シンクライアント]] * [[端末エミュレータ]] * [[端末サーバ]] * [[リモートジョブエントリ]] (RJE) ; 個別の有名な端末(規格) * [[Houston Automated Spooling Program|HASP]] * [[IBM 2780/3780]] * [[IBM 3270]] * [[IBM 5250]] * [[HP 2640]] * [[Tektronix 4014]] * [[VT100]] * [[Blit]] * [[ミニテル]] ==脚注== <references group="注釈"/> {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Data terminals}} * [http://tldp.org/HOWTO/Text-Terminal-HOWTO.html Text Terminal HOWTO] * [http://www.cs.utk.edu/~shuford/terminal/ Video Terminal Information] by Richard S. Shuford {{DEFAULTSORT:たんまつ}} [[Category:コンピュータ端末|*]] [[Category:入力機器]] [[Category:出力機器]] [[Category:コンピュータの形態]] [[Category:コンピュータシステム]] [[Category:コンピュータネットワーク]]
2003-04-18T09:09:51Z
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キャッシュカード
キャッシュカード(英: cash card)は、現金自動預け払い機(ATM)を操作する際の本人確認に供する金融機関が口座開設者に発行するカード。ATMカード(ATM card)、バンクカード(Bank card)ともいう。 キャッシュカードは、もとはATMを介して金融機関と預金者との間の現金の出し入れを主な目的に利用されるカードで、これが口座間の資金移動や決済手段としても利用されるようになった。 決済の手段は、米国ではパーソナルチェック(個人用小切手)や1950年代に導入されたクレジットカードが普及したのに対し、日本では現金とキャッシュカードによる決済が主流という状況が続いた。電算化が行われる以前、日本においては預金通帳を介した取引が行われ、預金払戻しの意思確認は届出印の捺印に拠っていた。 銀行では現金自動支払機 (CD) の導入後に、入出金機能も有する現金自動預け払い機(ATM)が開発されると顧客の利便性を高めるため普及を進めた。ATMの支店外への設置増加や多機能化で、キャッシュカードは口座間の資金移動や決済手段に利用されるようになった。その際に認証に用いる媒体として預金通帳と届出印に代えてキャッシュカードと暗証取引が登場した。 最初期のキャッシュカードはカードに鑽孔したパンチカードに近いものであった。その後、プラスチックに磁気帯をつけた磁気ストライプカード、更にICチップを搭載したICチップ内蔵カードが普及した。 一部を除く日本の銀行のキャッシュカードは、ジェイデビット (J-Debit) システムによるデビットカードとしての使用が可能であり、銀行口座の残高を以って、J-Debit加盟店での決済に利用できる。取引内容も当初の預金払戻しに加えて、預入、振込、定期預金の預入、宝くじ購入など範囲が広がっている。 キャッシュカードの規格統一はオンラインシステム化に寄与した。キャッシュカードは一般的に幅85.60 mm、高さ53.98 mm、厚さ0.76 mmサイズのプラスチック製で、これはISO (ISO/IEC 7810) やJIS (JIS X 6301) によって規定されているカードサイズである。 カードには口座番号や氏名の文字がエンボス加工されて刻印されている。2010年代になると、発行する金融機関の銀行名や統一金融機関コードなどに由来する点字がエンボスされたキャッシュカードも登場するようになった。 プラスチックの本体に刻印を施し、磁気ストライプをつけて、口座番号等の情報を磁気情報で記録したもの。ATMでは、記録された磁気情報のみを用いて手続きを行う。 日本と、アメリカ合衆国を含めた諸外国とでは、キャッシュカードなど金融取引に使われる、カードの磁気エンコードの方式が異なる。 JIS X 6302では、裏面磁気ストライプカード(JIS I 型)用のエンコード方式と、おもて面磁気ストライプカード(JIS II 型)用のエンコード方式を規定している。JIS I 型用の方式はISO/IEC 7811と一致しており、クレジットカードや国際航空運送協会 (IATA) 加盟の航空会社の会員カードに採用されている。JIS II 型用の方式は、日本独自の規格であり、日本の銀行キャッシュカードに採用されている。 国内金融機関のATMで両方に対応するものは、従前は外国銀行またはゆうちょ銀行が設置するATMしか無かった。コンビニATMでは、セブン銀行ATMが両方の磁気エンコードに対応するクレジットカード及びICキャッシュカード対応し、他のATMでも徐々に対応するのが多くなってきた。 強い磁気に晒されると磁気情報が破損して使用できなくなることがある。また、後述のセキュリティーの問題から磁気ストライプのカードの発行を中止して、ICキャッシュカードに切り替える銀行もある。この場合、当然ながら、磁気ストライプを前提とした各種サービスは利用できない。 上記の磁気ストライプカードの本体に、更にICチップを搭載して機能と安全性を高めたもの。安全性を高めるため磁気ストライプを搭載せず、ICチップのみを搭載したカードも存在するが、利用上の制約も多いため、本格的な普及には至っていない。2023年3月、三井住友銀行が「Olive」サービスにおいて都市銀行で初めて、「磁気ストライプ無し・ICチップのみ」のキャッシュカードを発行した。(キャッシュカードとしての磁気ストライプを廃止。クレジットカードとしての磁気ストライプは残存) カード毎に異なる鍵情報をICチップ内に内蔵し、この鍵を用いてATMと暗号通信を行う機能を持つ。カード内の暗号鍵そのものが、外部とやり取りされるわけではないので、同じ情報を持つ偽造カードを作出することは困難である。ただしリバースエンジニアリング等の手法により、メモリ内の暗号鍵が直接読み出された場合(現時点では、耐タンパー機能や計算量的に出来ないとされる)や、通信内容から暗号鍵を推測された場合には複製も可能となる。物理的・電気的に、ICチップが破壊されると使用できなくなる。 日本国内用のICキャッシュカードについては、一般社団法人全国銀行協会が策定した接触型ICチップの方式を原則として採用している。 上記のICチップ内蔵カードに、生体認証に用いる情報を追加記録したものである。ATMで用いられる生体認証として、掌の静脈パターンを読み取る方法と、指の静脈パターンを読み取る方法の2種類が採用されている。 ただし、生体認証を廃止ないしは新規停止した金融機関も存在し、みずほ信託銀行に至っては、生体認証対応カード自体を使用不可とする措置を取っているほか、三菱UFJ銀行やゆうちょ銀行など、全国規模の金融機関での廃止・サービス停止に踏み切ったケースも存在する。 一般に生体認証カードは、多くの金融機関でATM引き出し限度額を高額に設定可能としている。一方で、高額設定可能なことを突かれ、特殊詐欺で多額の被害に至るケースが発生している。2020年1月、横浜銀行は70歳以上の預金者に対して、生体認証カードも含めた全ての種類のキャッシュカードの引き出し限度額を一律に引き下げた。 ICチップ内蔵カードには、クレジットカードとの一体型カード、利用額に応じてポイントが付くポイントサービス付きカード、電子マネー付きカードなどがある。 通常、発行には申込から1週間から2週間程度(クレジットカード一体型は、クレジット部分の発行審査を含めて1ヶ月前後ないしはそれ以上)かかり、簡易書留ゆうメール等で送付される。金融機関によっては、普通預金のみのカードなど、一部のカードについては、申込のその場で受け取ることができるサービスを提供する場合もある。近年では、地方銀行や第二地銀などでも発行するケースが見られるようになってきたが、窓口に在庫のある白カードに磁気ストライプやICチップにデータを書き込んで、券面に口座番号等をプリントするエンボスレスカードが発行できるシステムを以前に比べて導入しやすくなったこと等が挙げられる。 なお、生体認証対応のICつきカードが即時発行できる場合は、その場で生体認証も同時に登録できるケースもある。このケースでは、金融機関によっては、即時発行するキャッシュカードへ生体認証を登録することにより、印鑑に代わって本人確認を行う形になっている。 代理人カードは、口座を持つ本人が申し込むことで発行され、口座からATMで入出金等のお取引を行うことができる代理人用のキャッシュカードで、例えば、夫婦で一つの口座からATMで預入・引出ができる。同居親族であれば発行できる(城南信金など)、配偶者に限る(横浜銀行など)といったように、金融機関により運用は大きく異なる。 ATMは、挿入されたカード本体と、与えられる認証情報とを用いて、目前の人物が当該口座開設者か否かを確認する。盗難カードの使用、偽造カードの作成と使用、暗証番号の入手や推測などの手段を用いて第三者がATMを欺いて不正に口座取引、なかんづく預金払戻しや他口座への振込みの操作を行う事が可能である。これを防ぐためにICカード化や生体認証の導入などの対策が図られる。 磁気カードや、生体認証を用いないICカードでは、第三者が真正カードと暗証番号を入手して不正操作を行う事が可能である。 カードの盗難について、金融機関側は暗証番号の漏洩が無ければ依然、安全であるとして、生年月日等、他の情報から容易に推測される番号を避けること、また、適宜暗証番号を変更するなどの対策を呼びかけた。また、2004年秋より、ATMで1日に取引できる限度額を順次下げて、被害が大きくなるのを防ぐとした。 殊に、磁気カードでは、同一形式のカードが銀行オンラインシステム以外にも用いられる様になるとともにカードリーダ等の機器の入手も容易となり、キャッシュカードの磁気帯の情報を読み取ったり偽造カードを作成する事も困難ではなくなってきた。認証に関わる磁気情報が全て露出しているのに加えて、その情報を別のカードに記録する事も容易であることから、スキミングによる偽造カードの作出と、それを使用した不正操作が社会問題となった。 カードの盗難では、被害に気づいたら、すぐに届け出て口座やカードを凍結できるが、スキミングではカードそのものは本人の手許にあるため、通帳への記帳や利用明細をチェックするまで被害に遭った事に気づかない。 他、生体認証カードでは1日の引き出し限度額が最大で20倍程度になる点を悪用し、特殊詐欺の手段として生体認証カードを作らせて現金を騙し取る例が、東京都内で多発している。 銀行ならびにコンビニに設置されているATMには監視カメラが設えられており、カードの不正使用に際しては容貌を記録に取られるリスクがある。しかし、小売店のレジ等には監視カメラが無い事が珍しくなく、記録を取られるリスクなく不正使用が可能となる。ただし、顔貌の特徴点をいかに高精度に記録できる防犯カメラが設置されていようとも、顔面の一部または全体や身体的特徴を違和感なく隠蔽する手段は複数考えられるため、一定の効果は期待できるが、いわゆるプロによる犯行を阻止、あるいは検挙の手がかりとするには充分とはいえないとする見方もできる。同時に、小売店のPOS端末等のセキュリティに関しては問題が指摘されている。 盗難カードや偽造カードを用いた不正引出しを防止するための対策がとられている。一方で、実際に発生した不正使用と、それに伴う被害の補償については、漸く対応がとられる様になってきた。 磁気カード対応のATMは、コンビニエンスストア設置のものも含めて既に多数が配置されており、ICカードへの切り替えや生体認証方式の導入には時間と費用がかかることから、下記の様な対策がとられている。 暗証番号の漏洩を防いだり、ATMの利用方法を制限するために、以下に挙げる対策が採られている。 金融機関によっては、不正支払をより抑止するために、キャッシュカードを発行せず、口座開設店において対面での手続きのみを行う預金口座を取扱開始したところもある。 磁気カードでは前述の様に同じ情報を持つカードを複製する事が容易であるが、ICカードは原理的に同じ情報を持つカードを複製することは不可能とされており、切り替えが行われている。 暗証番号による認証方式は、暗証番号の情報そのものが個人から独立しているものであり、口座開設者本人の不注意や、ソーシャルエンジニアリングによって漏洩し、第三者に渡る可能性がある。生体認証では本人の肉体の特徴に由来する情報を認証に用いる事で、第三者によるなり済ましを防止する効果が期待される。 2017年、キャッシュカードを使わずにスマートフォンとQRコードを使用してATMで入出金する、いわゆる「スマホATM」が登場し、採用する金融機関が増えている。 日本における盗難カードや偽造カードの被害については、預金者保護法施行(2006年2月10日施行)の前後で対応が大きく変わる。 金融機関は、挿入された磁気カードに記録された情報と入力された暗証番号を正規のものと認めて行った払い戻しについて、結果に責任を負わないとするカード利用規定(全銀協によるカード利用規定試案第10条第2項 (PDF) )をたてに、本来の口座開設者の重ねての預金払い出しを拒む。 しかし偽造カードによる不正引き出しが増加し社会問題化していることから、預金者保護法が制定・施行された。 預金者保護法は、不正払い戻しに対する民法第478条の適用を除外し、預金を補償する規定である。同法の下では、盗難カードや偽造カードなどで預金が不正に払い出された場合であっても、金融機関が善意かつ無過失であって、かつ預金者本人に重大な過失があることを金融機関が証明した場合を除き、預金は全額補償される。なお、預金者本人の重過失とは、暗証番号を故意に他人に教えたり、カード表面に暗証番号を記入したりした場合を指す。 但し、同法が適用されるのは個人の口座に限り、また、盗難カードや偽造カードによる被害に限定される。法人の口座や、盗難通帳による被害は対象外である。 また、盗難カードや偽造カードをデビットカードとして使用した場合も、同法の範囲外である。 米国ではクレジットカードは公正クレジット請求法(Fair Credit Billing Act)、キャッシュカードは電子資金移転法(Electronic Fund Transfer 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キャッシュカードは、現金自動預け払い機(ATM)を操作する際の本人確認に供する金融機関が口座開設者に発行するカード。ATMカード、バンクカードともいう。
{{銀行業}} [[File:ATM cards by banks in Japan.png|右|200px|thumb|ICチップ内蔵カード(上2つ)と磁気ストライプカード(一番下)。口座番号などがエンボス加工され、磁気カードには黒色の磁気ストライプが入る。]] [[ファイル:SURUGA IC Cash Card.jpg|右|200px|thumb|[[デビットカード]]機能付きキャッシュカード。表面にクレジットカード番号が記載され、挿入方向もカードリーダ用とATM用のものが別々に表示される。]] '''キャッシュカード'''({{lang-en-short|cash card}})は、[[現金自動預け払い機]](ATM)を操作する際の本人確認に供する[[金融機関]]が口座開設者に発行するカード。'''ATMカード'''(ATM card)<ref name="y2001" />、'''バンクカード'''(Bank card)ともいう。 == 歴史 == キャッシュカードは、もとはATMを介して金融機関と預金者との間の現金の出し入れを主な目的に利用されるカードで、これが口座間の資金移動や決済手段としても利用されるようになった<ref name="y2001">{{Cite web|和書|author=大寺廣幸|publisher=郵政研究所月報(2001.7)|url=https://www.yu-cho-f.jp/research/old/pri/reserch/monthly/2001/154-h13.07/154-topics-2.pdf|title=米国のクレジットカード… 過去・現在・未来|accessdate=2021-09-16}}</ref>。 決済の手段は、米国ではパーソナルチェック(個人用小切手)や1950年代に導入された[[クレジットカード]]が普及したのに対し、日本では現金とキャッシュカードによる決済が主流という状況が続いた<ref name="y2001" />。電算化が行われる以前、日本においては[[預金通帳]]を介した取引が行われ、預金払戻しの意思確認は[[印章|届出印]]の捺印に拠っていた。 銀行では現金自動支払機 (CD) の導入後に、入出金機能も有する現金自動預け払い機(ATM)が開発されると顧客の利便性を高めるため普及を進めた<ref name="nagaoka" />。ATMの支店外への設置増加や多機能化で、キャッシュカードは口座間の資金移動や決済手段に利用されるようになった<ref name="y2001" /><ref name="nagaoka" />。その際に認証に用いる媒体として預金通帳と届出印に代えてキャッシュカードと暗証取引が登場した。 最初期のキャッシュカードはカードに鑽孔した[[パンチカード]]に近いものであった。その後、プラスチックに磁気帯をつけた磁気ストライプカード、更にICチップを搭載したICチップ内蔵カードが普及した。 一部を除く日本の銀行のキャッシュカードは、[[ジェイデビット]] (J-Debit) システムによる[[デビットカード]]としての使用が可能であり、銀行口座の残高を以って、J-Debit加盟店での決済に利用できる。取引内容も当初の預金払戻しに加えて、預入、振込、定期預金の預入、宝くじ購入など範囲が広がっている。 == キャッシュカードの構造と種類 == キャッシュカードの規格統一はオンラインシステム化に寄与した<ref name="nagaoka" />。キャッシュカードは一般的に幅85.60 mm、高さ53.98 mm、厚さ0.76 mmサイズのプラスチック製で、これは[[国際標準化機構|ISO]] ([[ISO/IEC 7810]]) や[[日本産業規格|JIS]] ([[JIS X 6301]]) によって規定されているカードサイズである。 カードには口座番号や氏名の文字が[[エンボス]]加工されて刻印されている。2010年代になると、発行する金融機関の銀行名や[[統一金融機関コード]]などに由来する[[点字]]がエンボスされたキャッシュカードも登場するようになった。 === 磁気ストライプカード === {{Main|磁気ストライプカード}} プラスチックの本体に刻印を施し、磁気ストライプをつけて、口座番号等の情報を磁気情報で記録したもの。ATMでは、記録された磁気情報のみを用いて手続きを行う。 ==== エンコード方式とATM ==== 日本と、[[アメリカ合衆国]]を含めた諸外国とでは、キャッシュカードなど金融取引に使われる、カードの磁気[[エンコード]]の方式が異なる。 [[JIS X 6302]]では、裏面磁気ストライプカード(JIS I 型)用のエンコード方式と、おもて面磁気ストライプカード(JIS II 型)用のエンコード方式を規定している。JIS I 型用の方式は[[ISO/IEC 7811]]と一致しており、クレジットカードや[[国際航空運送協会]] (IATA) 加盟の航空会社の会員カードに採用されている。JIS II 型用の方式は、日本独自の規格であり、日本の銀行キャッシュカードに採用されている。 国内金融機関の[[現金自動預け払い機|ATM]]で両方に対応するものは、従前は外国銀行または[[ゆうちょ銀行]]が設置するATMしか無かった。[[コンビニATM]]では、[[セブン銀行]]ATMが両方の磁気エンコードに対応するクレジットカード及びICキャッシュカード対応し、他のATMでも徐々に対応するのが多くなってきた。 ==== 問題点 ==== 強い磁気に晒されると磁気情報が破損して使用できなくなることがある。また、後述のセキュリティーの問題から磁気ストライプのカードの発行を中止して、ICキャッシュカードに切り替える銀行もある<ref>{{Cite web|和書|publisher=日本経済新聞|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO70105080Y1A310C2L83000/|title=磁気ストライプのカード発行中止|accessdate=2021-09-16}}</ref>。この場合、当然ながら、磁気ストライプを前提とした各種サービスは利用できない<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【Olive】キャッシュカードを使って口座振替契約の申込みはできますか? {{!}} よくあるご質問 : 三井住友銀行 |url=https://qa.smbc.co.jp/faq/show/8288?site_domain=default |website=qa.smbc.co.jp |access-date=2023-05-23}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=【Olive】ジェイデビットカードサービスの利用はできますか? {{!}} よくあるご質問 : 三井住友銀行 |url=https://qa.smbc.co.jp/faq/show/8289?site_domain=default |website=qa.smbc.co.jp |access-date=2023-05-23}}</ref>。 === ICチップ内蔵カード === 上記の磁気ストライプカードの本体に、更にICチップを搭載して機能と安全性を高めたもの。安全性を高めるため磁気ストライプを搭載せず、ICチップのみを搭載したカードも存在するが、利用上の制約<ref name=":0" /><ref name=":1" />も多いため、本格的な普及には至っていない。[[GMOあおぞらネット銀行]]で標準発行されている他、2023年3月、[[三井住友銀行]]が「[[Olive (金融サービス)|Olive]]」サービスにおいて[[都市銀行]]で初めて、「磁気ストライプ無し・ICチップのみ」のキャッシュカードを発行した(キャッシュカードとしての磁気ストライプを廃止。クレジットカードとしての磁気ストライプは残存<ref>{{Cite web|和書|title=東奔西走キャッシュレス(7) SMBCグループが導入する金融サービス「Olive」の疑問をチェック |url=https://news.mynavi.jp/article/cashless_payment-7/ |website=マイナビニュース |date=2023-02-13 |access-date=2023-05-23 |language=ja}}</ref>)。 カード毎に異なる鍵情報をICチップ内に内蔵し、この鍵を用いてATMと暗号通信を行う機能を持つ。カード内の暗号鍵そのものが、外部とやり取りされるわけではないので、同じ情報を持つ偽造カードを作出することは困難である。ただし[[リバースエンジニアリング]]等の手法により、メモリ内の暗号鍵が直接読み出された場合(現時点では、耐タンパー機能や計算量的に出来ないとされる)や、通信内容から暗号鍵を推測された場合には複製も可能となる。物理的・電気的に、ICチップが破壊されると使用できなくなる。 日本国内用の[[ICキャッシュカード]]については、[[一般社団法人]][[全国銀行協会]]が策定した接触型ICチップの方式を原則として採用している。 ==== 生体認証カード ==== 上記のICチップ内蔵カードに、[[生体認証]]に用いる情報を追加記録したものである。ATMで用いられる生体認証として、掌の静脈パターンを読み取る方法と、指の静脈パターンを読み取る方法の2種類が採用されている。 ただし、生体認証を廃止ないしは新規停止した金融機関も存在し、[[みずほ信託銀行]]に至っては、生体認証対応カード自体を使用不可とする措置を取っているほか、[[三菱UFJ銀行]]や[[ゆうちょ銀行]]など、全国規模の金融機関での廃止・サービス停止に踏み切ったケースも存在する。 {{詳細記事|生体認証#日本の銀行ATMの動向}} 一般に生体認証カードは、多くの金融機関でATM引き出し限度額を高額に設定可能としている。一方で、高額設定可能なことを突かれ、[[特殊詐欺]]で多額の被害に至るケースが発生している<ref name=":2" />。2020年1月、[[横浜銀行]]は70歳以上の預金者に対して、生体認証カードも含めた全ての種類のキャッシュカードの引き出し限度額を一律に引き下げた<ref>{{Cite web|和書|title=【70歳以上のお客さまへ】 カードによるお引き出しの一部制限について|店舗・ATMのご案内|横浜銀行 |url=https://www.boy.co.jp/shared/pdf/fee/191105_ohikidashi.pdf |website=横浜銀行 |access-date=2023-05-23 |language=ja |format=pdf}}</ref>。 ==== その他の機能 ==== ICチップ内蔵カードには、クレジットカードとの一体型カード、利用額に応じてポイントが付くポイントサービス付きカード、電子マネー付きカードなどがある<ref name="nagaoka">{{Cite web|和書|author=長岡壽男|publisher=関西大学|url=https://www.kansai-u.ac.jp/riss/output/paper/pdf-rcss/dp065.pdf|title=ATM戦略の発展過程とその考察|accessdate=2021-09-16}}</ref>。 == キャッシュカードの発行 == === 手続 === 通常、発行には申込から1週間から2週間程度([[クレジットカード]]一体型は、クレジット部分の発行審査を含めて1ヶ月前後ないしはそれ以上)かかり、[[簡易書留]][[ゆうメール]]等で送付される。[[金融機関]]によっては、普通預金のみのカードなど、一部のカードについては、申込のその場で受け取ることができるサービスを提供する場合もある。近年では、地方銀行や第二地銀などでも発行するケースが見られるようになってきたが、窓口に在庫のある白カードに磁気ストライプやICチップにデータを書き込んで、券面に口座番号等をプリントするエンボスレスカードが発行できるシステムを以前に比べて導入しやすくなったこと等が挙げられる。 なお、生体認証対応のICつきカードが即時発行できる場合は、その場で生体認証も同時に登録できるケースもある。このケースでは、金融機関によっては、即時発行するキャッシュカードへ生体認証を登録することにより、印鑑に代わって本人確認を行う形になっている。 === 代理人カード === 代理人カードは、口座を持つ本人が申し込むことで発行され、口座からATMで入出金等のお取引を行うことができる[[代理人]]用のキャッシュカードで、例えば、夫婦で一つの口座からATMで預入・引出ができる<ref name="mizuho">[https://www.mizuhobank.co.jp/retail/products/account/card/dairinin.html 代理人カード] みずほ銀行</ref>。同居親族であれば発行できる(城南信金など)、配偶者に限る(横浜銀行など)といったように、金融機関により運用は大きく異なる。 *生計を共にする親族1名に限り発行 - 三菱UFJ銀行<ref>[https://www.bk.mufg.jp/tsukau/ic_cash/index.html ICキャッシュカード] 三菱UFJ銀行</ref>、みずほ銀行<ref name="mizuho" />、りそな銀行(成人に限る)<ref>[https://www.resonabank.co.jp/kojin/faq/tetsuduki/faq_tetsuduki_0013.html 代理人カードは発行できますか?] りそな銀行</ref> *2枚まで発行 - 三井住友銀行<ref>[https://www.smbc.co.jp/kojin/sougou/cashcard/details/ キャッシュカード(ICキャッシュカード) 商品詳細] 三井住友銀行</ref> == キャッシュカードの安全管理 == ATMは、挿入されたカード本体と、与えられる認証情報とを用いて、目前の人物が当該口座開設者か否かを確認する。盗難カードの使用、偽造カードの作成と使用、暗証番号の入手や推測などの手段を用いて第三者がATMを欺いて不正に口座取引、なかんづく預金払戻しや他口座への振込みの操作を行う事が可能である。これを防ぐためにICカード化や生体認証の導入などの対策が図られる。 === カードそのものの盗難と不正使用 === 磁気カードや、生体認証を用いないICカードでは、第三者が真正カードと暗証番号を入手して不正操作を行う事が可能である。 * 空き巣や車上荒らしでキャッシュカードと共に免許証や保険証等を盗み出し、これらの書類に記載されている生年月日・住居の番地・電話番号等から暗証番号を推測して不正操作を行う例がある。 * また、ATM操作中に肩越しに覗き見たり肘や腕の動きから入力している番号を推測し(ショルダーハッキング)、そのうえでバッグを引ったくったりカードをスリ取るなどして、不正操作を行う例もある。 * 盗み見る者、引ったくる者、現金を引き出す者が分業しているために首謀者を特定しにくく、警察の捜査が難航して検挙率は低い。 カードの盗難について、金融機関側は暗証番号の漏洩が無ければ依然、安全であるとして、生年月日等、他の情報から容易に推測される番号を避けること、また、適宜暗証番号を変更するなどの対策を呼びかけた。また、2004年秋より、ATMで1日に取引できる限度額を順次下げて、被害が大きくなるのを防ぐとした。 === 偽造カードの作成 === 殊に、磁気カードでは、同一形式のカードが銀行オンラインシステム以外にも用いられる様になるとともにカードリーダ等の機器の入手も容易となり、キャッシュカードの磁気帯の情報を読み取ったり偽造カードを作成する事も困難ではなくなってきた。認証に関わる磁気情報が全て露出しているのに加えて、その情報を別のカードに記録する事も容易であることから、[[スキミング]]による偽造カードの作出と、それを使用した不正操作が社会問題となった。 * 磁気情報窃盗で、空き巣に入っても物を取らずに、キャッシュカードの磁気情報だけを読み出し機で読み出すと共に暗証番号推測に役立つ情報を書き取り、別所で偽造カードを作成して不正操作に及ぶ例が見られる。 * 2004年には、銀行のATMコーナーに、安全対策を騙りカード読み取り機を置き、カードを通して暗証番号入力を求める事件があった。誤ってカードを通して暗証番号を入力した利用者の中から被害に遭った例もある。 * 2005年1月に明るみに出た群馬県のゴルフ場での[[スキミング]]による不正引出しでは、ゴルフ場職員が犯罪に加担した。キャッシュカードの暗証番号をロッカーに設定するケースが多い点に目をつけ、貴重品ロッカーをマスターキーで開けてカードから磁気情報を読み取ると共に、管理機能で利用者が設定した暗証番号も読み取り不正操作に及ぶ。 * 2005年後半にはATMに[[盗撮]]カメラを仕掛けてキャッシュカード表面の文字や番号等と、暗証番号を入力する様子を撮影し、得られた情報から磁気情報を作出してカードに記録し、これを用いて預金不正引出しに及んだ例も確認された。 * 2006年11月には、「あなたは[[NHK受信料]]の支払状況が良く[[懸賞金]]を進呈するので、口座番号と暗証番号を教えてほしい」と電話をかけ、キャッシュカードを偽造する事件が発生した。 * 2008年11月には、健康食品会社から流出した個人の口座番号を元に偽造カードが作成された疑いが強い不正引出し事件が発覚した。暗証番号は電話による残高照会サービスを利用して割り出した模様で、スキミングとは異なる手口<ref>「会員情報からカード偽造 地銀など9機関 被害総額4億1000万円」産経新聞、2008年11月12日付朝刊27面。</ref>。 カードの盗難では、被害に気づいたら、すぐに届け出て口座やカードを凍結できるが、スキミングではカードそのものは本人の手許にあるため、通帳への記帳や利用明細をチェックするまで被害に遭った事に気づかない。 他、生体認証カードでは1日の引き出し限度額が最大で20倍程度になる点を悪用し、特殊詐欺の手段として生体認証カードを作らせて現金を騙し取る例が、[[東京都]]内で多発している<ref name=":2">[https://www.sankei.com/article/20151018-KITJ3X4AS5O3XDUPSPPYEY2TZQ/ 相次ぐ「生体認証カード」詐欺 ATM引き出し限度額の20倍 警視庁] 産経新聞 2015年10月18日</ref>。 === デビットカード === 銀行ならびにコンビニに設置されているATMには[[監視カメラ]]が設えられており、カードの不正使用に際しては容貌を記録に取られるリスクがある。しかし、小売店のレジ等には監視カメラが無い事が珍しくなく、記録を取られるリスクなく不正使用が可能となる。ただし、顔貌の特徴点をいかに高精度に記録できる防犯カメラが設置されていようとも、顔面の一部または全体や身体的特徴を違和感なく隠蔽する手段は複数考えられるため、一定の効果は期待できるが、いわゆるプロによる犯行を阻止、あるいは検挙の手がかりとするには充分とはいえないとする見方もできる。同時に、小売店のPOS端末等のセキュリティに関しては問題が指摘されている。 {{main|[[デビットカード]]}} == 不正使用への対応 == 盗難カードや偽造カードを用いた不正引出しを防止するための対策がとられている。一方で、実際に発生した不正使用と、それに伴う被害の補償については、漸く対応がとられる様になってきた。 === 対策 === 磁気カード対応のATMは、コンビニエンスストア設置のものも含めて既に多数が配置されており、ICカードへの切り替えや生体認証方式の導入には時間と費用がかかることから、下記の様な対策がとられている。 ==== 当座の対策 ==== 暗証番号の漏洩を防いだり、ATMの利用方法を制限するために、以下に挙げる対策が採られている。 * ATM・テレホンバンキング等で暗証番号の変更を受け付ける * ATMで暗証番号を入力する際、数字の配列を並び替える(この方法は数字をタッチパネルに入力する機種に限られる) * 金融機関が暗証番号をチェックし、個人情報から推測可能なものの場合には変更を推奨する(暗証番号の変更の際に、新番号が同様のものの場合は受付を制限する場合もある) * ワンタイムパスワード方式を用いて1回毎に異なる暗証番号を使用する * 金融機関ごとに下記の何れかの方法で預金払い戻し・振込み可能金額を引き下げる ** 一律に限度額を決定する ** 口座開設者が自分で限度額を設定する * 口座開設者が自分でATMの使用可能時間を限定する設定を行う * 口座開設者が自分で通常はATMで使用できないように設定しておき、使用の都度携帯電話等で一時的に使用可能にする 金融機関によっては、不正支払をより抑止するために、キャッシュカードを発行せず、口座開設店において対面での手続きのみを行う預金口座を取扱開始したところもある。 ==== 偽造カードへの対策 ==== 磁気カードでは前述の様に同じ情報を持つカードを複製する事が容易であるが、ICカードは原理的に同じ情報を持つカードを複製することは不可能とされており、切り替えが行われている。 ==== 第三者による不正使用への対策 ==== 暗証番号による認証方式は、暗証番号の情報そのものが個人から独立しているものであり、口座開設者本人の不注意や、[[ソーシャルエンジニアリング]]によって漏洩し、第三者に渡る可能性がある。生体認証では本人の肉体の特徴に由来する情報を認証に用いる事で、第三者によるなり済ましを防止する効果が期待される。 ==== キャッシュカードを使わない(スマホATM) ==== 2017年、キャッシュカードを使わずに[[スマートフォン]]と[[QRコード]]を使用してATMで入出金する、いわゆる「スマホATM」が登場し、採用する金融機関が増えている。 {{詳細記事|スマホATM}} === 日本での被害への救済 === 日本における盗難カードや偽造カードの被害については、[[偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払戻し等からの預貯金者の保護等に関する法律|預金者保護法]]施行(2006年2月10日施行)の前後で対応が大きく変わる。 ==== 預金者保護法施行前 ==== 金融機関は、挿入された磁気カードに記録された情報と入力された暗証番号を正規のものと認めて行った払い戻しについて、結果に責任を負わないとするカード利用規定({{PDFlink|[http://www.zenginkyo.or.jp/news/17/pdf/news171006_1.pdf 全銀協によるカード利用規定試案第10条第2項]}})をたてに、本来の口座開設者の重ねての預金払い出しを拒む。 * 当該規定については、[[民法第478条]]に根拠が求められる。同条文では、債務の返済にあたり、善意無過失で弁済した相手が真の債権者ではなかった場合でも、その返済は有効であり、改めて真の債権者に弁済する必要は無いと規定している。これを預金の払戻しに類推適用し、機械処理で正しい磁気情報を持つカードを所持し且つ正しい暗証番号を提示する人物を真の口座開設者と認めるのは何ら問題が無く、善意無過失であると主張する。尚、同規定については、根拠を民法第480条に求める見解や、いずれの条文にも根拠を求めない独立したものとする見解もある。 * 裁判では、カードや暗証番号の管理に落ち度が無いこと、且つ、不正操作が行われるに至った一連の経緯を詳らかにして被害を偽装したものではないこと、そして、現行のオンラインシステムが偽造カードの存在を許す事実をもって、無権限者による不正払い出しを排除するシステムを構築する努力を怠ったとして民法第478条にいう善意無過失とは言えない事を口座開設者側が証明する必要があり、補償を勝ち取るのは困難である。尚、現時点(2006年2月)では偽造カードによる不正引出しを許すオンラインシステムに対する民法第478条の適用の可否や、規定の有効性について判断する裁判所判決は無い。 しかし偽造カードによる不正引き出しが増加し社会問題化していることから、預金者保護法が制定・施行された。 ==== 預金者保護法施行後 ==== [[預金者保護法]]は、不正払い戻しに対する民法第478条の適用を除外し、預金を補償する規定である。同法の下では、盗難カードや偽造カードなどで預金が不正に払い出された場合であっても、[[金融機関]]が[[善意]]かつ[[無過失]]であって、かつ預金者本人に重大な過失があることを[[金融機関]]が証明した場合を除き、預金は全額補償される。なお、預金者本人の重過失とは、暗証番号を故意に他人に教えたり、カード表面に暗証番号を記入したりした場合を指す。 但し、同法が適用されるのは個人の口座に限り、また、盗難カードや偽造カードによる被害に限定される。法人の口座や、盗難通帳による被害は対象外である。 また、盗難カードや偽造カードをデビットカードとして使用した場合も、同法の範囲外である。 === 米国での被害への救済 === 米国ではクレジットカードは公正クレジット請求法(Fair Credit Billing Act)、キャッシュカードは電子資金移転法(Electronic Fund Transfer Act)に定めがあり法律が異なる<ref name="y2001" />。電子資金移転法ではキャッシュカード亡失届け出後は預金者に責任はないが、届け出前の不正引き落としがあった場合は届け出まで期間で預金者の負担が異なる(銀行からの口座残高ステートメント郵送後60日以内に銀行に連絡しないと無限責任となる)<ref name="y2001" />。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国際キャッシュカード]](インターナショナルキャッシュカード) * [[クレジットカード]] * [[デビットカード]] * [[電子マネー]] * [[磁気ストライプカード]] * [[ICカード]] *[[磁気カードシステム]] 現金自動預け払い機の必須機能である磁気カードの誕生史実 *[[キャッシュアウト]] [[Category:キャッシュカード|*]] [[Category:ICカード|きやつしゆかと]]
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ClearType
ClearType(クリアタイプ)は、Microsoft Windows XP以降のWindowsが搭載する、ディスプレイ文字のアンチエイリアシング技術である。 液晶ディスプレイの構造である1ピクセルがR、G、Bの3サブピクセルで構成される点に着目し、R、G、Bの各サブピクセルを個別に発色させて横方向の見かけ解像度を向上させ、実解像度以上の精細な文字表示を可能とするサブピクセルレンダリング技術である。 OSであるWindows上の1ピクセルとディスプレイ上の1ピクセルが個対応する液晶ディスプレイで最も効果的だが、階調レベルの制御によりアパーチャーグリル管など一般的なCRTディスプレイでも実用的な効果を得る。ClearTypeとほぼ同様の技術は1998年に登場したMac OS 8.5などでも使われ、アドビが開発したCoolType(英語版)も同様のサブピクセルレンダリング技術である。 ClearTypeによる視認性の向上は使用するフォントに依存するため、単一色の中間階調で補完する標準アンチエイリアスとは異なる。 ClearTypeの根幹技術にヒンティングとスムージングがある。ヒンティングは文字を構成する線の太さと幅を調整して見かけの向上を図る技術で、制御情報はフォントに内包される。スムージングはアンチエイリアス同様に、発色の違いでジャギーの平滑化を図る技術である。 GDIによるClearTypeと、DirectWriteによるNatural ClearTypeに大別される。 Windows XPはWindowsで最初にClearTypeを搭載したバージョンで、ClearTypeは初期状態で無効であり手動で有効にする必要がある。日本語版Windows XPは、和文のプリインストールフォントであるMS ゴシック・MS Pゴシック・MS UI Gothic・MS 明朝・MS P明朝が、それぞれ小サイズの画面表示用に内蔵するビットマップフォントを表示するためにClearTypeは効果しない。Microsoft Office付属のHGフォントはビットマップを内包しておらずClearTypeが利用可能である。 Windows Vistaのリリース後に配布されたフォントのメイリオをインストールしてインターフェイスフォントに指定すれば、Windows Vistaと同様にClearTypeが有効な日本語インターフェイスが実現するが、メイリオは初期設定のMS UI Gothicよりも文字幅が広いため、システム画面で有効化するとメニュー表示の長尺化によるスクロールやダイアログボックスの画面外逸脱などが発生する場合があり、テーマの詳細設定を修正してデザインを変更する必要がある。 Windows Presentation Foundation (WPF) は、従来の水平方向のサブピクセルレンダリングに加えて垂直方向のアンチエイリアス処理も施す。WPFの新しいClearTypeを利用するためにアプリケーションがAPIを呼び出す必要があり、WPFを含む.NET Framework 3.0以降をインストールしても、従来のアプリケーションやWindowsのインターフェイスは垂直方向のアンチエイリアスが有効とならないが、WPF 4は変更されてDirectWriteを用いる。 Windows Vistaは、ビットマップを含まないフォントであるSegoe UIを、日本語版はメイリオをそれぞれ新たに採用し、コントロールパネル、エクスプローラー、標準メッセージボックスなどインターフェイスの一部にClearTypeを使った文字を採用する。プロパティページなどの各種ダイアログボックスはMS UI Gothicを用いるため、内蔵ビットマップが表示されてClearTypeは有効とならない。 Windows 7は、Windows Vista以前のGDI・GDI+に代わる2DグラフィックスAPIとしてDirect2D・DirectWriteが追加されている。テキスト描画に関するDirectWriteのClearTypeは、WPFと同様に垂直方向のアンチエイリアスが追加されたほか、文字間隔の最適化なども調整されて従来のClearTypeに対して「Natural ClearType」と称するが、利用するためにWPFと同様にアプリケーションがDirectWriteの機能を呼び出す必要がある。Windows 7のインターフェイス(コモンコントロール)はGDIによる従来のClearTypeを用いるが、機能が向上したClearType Tunerを標準搭載する。Windows 7とWindows Vistaに提供されるInternet Explorer 9は、ウェブページの描画にGDIではなくDirect2D・DirectWriteを用いる。メイリオを元にした字幅が狭いフォントのMeiryo UIを新たに標準搭載するが、MS UI Gothicを完全に置き換えるものではなくインターフェイスの一部に用いている。 Windows 8日本語版は、インターフェイスにこれまでMS UI Gothicを用いていた部分もMeiryo UIを用い、全体の視認性やインターフェイスの統一感が向上している。Windows 8に標準搭載されてWindows 7にも提供されるInternet Explorer 10もインターフェイスにSegoe UIとMeiryo UIを使用している。 Windows 10日本語版は、ClearTypeの描画を前提にデザインされたフォントのYu Gothic UIを採用した。スタートメニューや設定アプリなどのテキスト描画はグレースケールレンダリングで、描画品質が背景色に左右されるClearTypeのサブピクセルレンダリングは用いない。 非常に小さなフォントサイズで、ビットマップフォントに比べて視認性が低下することがある。 GDIのClearTypeは、水平方向(X方向)のみをアンチエイリアス処理する。ラテン文字は、画数が少なく高さが揃っており垂直方向のアンチエイリアスを行わなくとも問題が少なく、斜線や曲線による造形が主であるため文字幅も狭くてイタリック表記も一般的など、水平方向のサブピクセルレンダリングの恩恵を受けやすく、緩やかな曲線の多いブラーフミー系文字も親和性が高い。一方、漢字などの複雑な字体は、線分が接合、もしくは表示されないなどの問題を生じ、大きなポイントの文字はフォントの造型にかかわらず緩やかな曲線などでジャギーが生ずる。WPFやDirectWriteのClearTypeは、垂直方向(Y方向)もアンチエイリアス処理するために上記の問題は改善されている。漢字など複雑な字体は、CoolTypeなど「水平方向のサブピクセルレンダリング+垂直方向のアンチエイリアシング」を組み合わせるレンダリングの効果が高い。 Microsoft Office System 2007は、大きなポイントのフォントはClearTypeを使わずに標準アンチエイリアスをグレースケールモードで用いる。Office 2013はGDIに代わってDirectWriteを採用したが、アンチエイリアスはグレースケールモードを用いる。 メイリオは膨大なヒンティング情報を格納することでデザイナーが意図する字形を表示するが、アウトラインのジャギーや文字不均高などを生ずるフォントもあり、ClearTypeの奏功はフォントの造形や実装に左右される。 画面上の表示を前提としているため、スクリーンショットの印刷や、ディスプレイで拡大や縮小など設定と異なる解像度で表示する場合のほか、ディスプレイを回転して表示する場合もソフトウェアが対応していない限りサブピクセルの並びが逆になり、表示が不自然になる。 ClearTypeはサブピクセルレンダリングの特性から背景色に描画品質が左右され、透明なDIBバッファにClearTypeを適用してテキストを描画すると予期しない合成結果となることがある。WPFやDirect2Dは、アルファモードに応じて自動的にアンチエイリアス方式をグレースケールモードに変更して対処している。 メイリオやSegoe UIなどClearTypeに最適化されたフォントを使用する場合、ClearTypeを無効にすると表示が淡くなり視認性が低下する。 マイクロソフトがWindows XP用に提供するフリーウェアで、文字の濃淡やR・G・Bの並び順をディスプレイに最適化するなど微調整を可能とする。インストールしてコントロールパネル内で表示するものと、ActiveXを利用してブラウザで操作するものがあり、Windows Vista・Windows Server 2003/2008でも使用できる。 Windows 7 以降はClearType テキストチューナーが標準搭載され、上記の機能に加えてサブピクセルの発色の微調整などより細かい設定が可能である。サブピクセル発色を使わずモノクロームのスムージングも可能だが、縦方向のスムージングは行わず標準アンチエイリアスとは異なる。
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"Windows Vistaは、ビットマップを含まないフォントであるSegoe UIを、日本語版はメイリオをそれぞれ新たに採用し、コントロールパネル、エクスプローラー、標準メッセージボックスなどインターフェイスの一部にClearTypeを使った文字を採用する。プロパティページなどの各種ダイアログボックスはMS UI Gothicを用いるため、内蔵ビットマップが表示されてClearTypeは有効とならない。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Windows 7は、Windows Vista以前のGDI・GDI+に代わる2DグラフィックスAPIとしてDirect2D・DirectWriteが追加されている。テキスト描画に関するDirectWriteのClearTypeは、WPFと同様に垂直方向のアンチエイリアスが追加されたほか、文字間隔の最適化なども調整されて従来のClearTypeに対して「Natural ClearType」と称するが、利用するためにWPFと同様にアプリケーションがDirectWriteの機能を呼び出す必要がある。Windows 7のインターフェイス(コモンコントロール)はGDIによる従来のClearTypeを用いるが、機能が向上したClearType Tunerを標準搭載する。Windows 7とWindows Vistaに提供されるInternet Explorer 9は、ウェブページの描画にGDIではなくDirect2D・DirectWriteを用いる。メイリオを元にした字幅が狭いフォントのMeiryo UIを新たに標準搭載するが、MS UI Gothicを完全に置き換えるものではなくインターフェイスの一部に用いている。", "title": "バージョン" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "Windows 8日本語版は、インターフェイスにこれまでMS UI Gothicを用いていた部分もMeiryo UIを用い、全体の視認性やインターフェイスの統一感が向上している。Windows 8に標準搭載されてWindows 7にも提供されるInternet Explorer 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ClearType(クリアタイプ)は、Microsoft Windows XP以降のWindowsが搭載する、ディスプレイ文字のアンチエイリアシング技術である。
[[ファイル:Liquid Crystal Display Macro Example zoom.jpg|thumb|200px|right|液晶ディスプレイの一部を拡大した画像]] '''ClearType'''(クリアタイプ)は、[[Microsoft Windows XP]]以降の[[Windows]]が搭載する、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]文字の[[アンチエイリアシング]]技術である。 ==解説== [[液晶ディスプレイ]]の構造である1[[ピクセル]]が[[RGB|R、G、B]]の3サブピクセルで構成される点に着目し、R、G、Bの各サブピクセルを個別に発色させて横方向の見かけ[[画面解像度|解像度]]を向上させ、実解像度以上の精細な文字表示を可能とする[[サブピクセルレンダリング]]<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2001-7-17 |url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/fpc/xp_feature/cleartype/cleartype.html |title=Windows XPの正体 : 文字表示を滑らかにする新技術「ClearType」 - @IT |work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}}</ref>技術である。 [[オペレーティングシステム|OS]]である[[Microsoft Windows|Windows]]上の1ピクセルとディスプレイ上の1ピクセルが個対応する[[液晶ディスプレイ]]で最も効果的だが、階調レベルの制御により[[アパーチャーグリル]]管など一般的な[[ブラウン管|CRT]]ディスプレイでも実用的な効果を得る。ClearTypeとほぼ同様の技術は[[1998年]]に登場した[[Mac OS|Mac OS 8.5]]などでも使われ、[[アドビ]]が開発した{{仮リンク|CoolType|en|CoolType}}も同様のサブピクセルレンダリング技術である<ref> {{Cite web |url=http://www.adobe.com/products/acrobat/cooltype.html |title=Adobe CoolType |accessdate=2017-10-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080514200818/http://www.adobe.com:80/products/acrobat/cooltype.html |archivedate=2008-05-14}} </ref>。 ClearTypeによる視認性の向上は使用する[[フォント]]に依存するため、単一色の中間階調で補完する標準アンチエイリアスとは異なる。 ClearTypeの根幹技術に[[フォントヒンティング|ヒンティング]]とスムージングがある。ヒンティングは文字を構成する線の太さと幅を調整して見かけの向上を図る技術で、制御情報はフォントに内包される。スムージングはアンチエイリアス同様に、発色の違いで[[ジャギー]]の平滑化を図る技術である。 == バージョン == [[Graphics Device Interface|GDI]]によるClearTypeと、[[DirectWrite]]によるNatural ClearTypeに大別される。 === Windows XP === [[ファイル:ClearType rendering on Windows XP.png|thumb|サブピクセル別の発色により、文字の端は赤や青に色付いている。フォントは[[メイリオ]]。|166x166ピクセル]] Windows XPはWindowsで最初にClearTypeを搭載したバージョンで、ClearTypeは初期状態で無効であり手動で有効にする必要がある<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2006-05-20|url=https://atmarkit.itmedia.co.jp/fwin2k/win2ktips/744cleartype/cleartype.html |title=ClearTypeフォントの表示方法を調整する - @IT |work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}}</ref>。日本語版Windows XPは、和文の[[プリインストール]][[フォント]]である[[MS ゴシック|MS ゴシック・MS Pゴシック・MS UI Gothic]]・[[MS 明朝|MS 明朝・MS P明朝]]が、それぞれ小サイズの画面表示用に内蔵する[[ビットマップフォント]]を表示するためにClearTypeは効果しない。[[Microsoft Office]]付属の[[HG#HGフォント|HGフォント]]はビットマップを内包しておらずClearTypeが利用可能である。 [[Windows Vista]]のリリース後に配布されたフォントの[[メイリオ]]<ref>[http://www.microsoft.com/downloads/details.aspx?FamilyID=f7d758d2-46ff-4c55-92f2-69ae834ac928&DisplayLang=ja Windows XP 向け ClearType 対応日本語フォント] - マイクロソフト ダウンロード センター([[Windows Genuine Advantage|WGA]]認証が必要)</ref>をインストールして[[キャラクタユーザインタフェース|インターフェイス]]フォントに指定すれば、Windows Vistaと同様にClearTypeが有効な日本語インターフェイスが実現するが、メイリオは初期設定のMS UI Gothicよりも文字幅が広いため、システム画面で有効化するとメニュー表示の長尺化によるスクロールやダイアログボックスの画面外逸脱などが発生する場合があり、テーマの詳細設定を修正してデザインを変更する必要がある。 === WPFにおけるClearType === [[Windows Presentation Foundation|Windows Presentation Foundation (WPF)]] は、従来の水平方向のサブピクセル[[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]に加えて垂直方向のアンチエイリアス処理も施す<ref name="WPF"> {{Cite web|和書 |author=マイクロソフト |authorlink=マイクロソフト |date=2007年11月 |url=https://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/ms749295.aspx |title=Windows Presentation FoundationにおけるClearTypeの概要 |work=[[MSDN ライブラリ]] |accessdate=2009-01-18 }} </ref>。WPFの新しいClearTypeを利用するために[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]が[[アプリケーションプログラミングインターフェイス|API]]を呼び出す必要があり、WPFを含む[[.NET Framework 3.0]]以降をインストールしても、従来のアプリケーションやWindowsのインターフェイスは垂直方向のアンチエイリアスが有効とならないが、WPF 4は変更されてDirectWriteを用いる<ref>{{Cite web |author=川西裕幸 |date=2008-10-31 |url=http://blogs.msdn.com/hiroyuk/archive/2008/10/31/9026003.aspx |title=PDC 2008 (10/30) |work=川西 裕幸のブログ |accessdate=2010-02-15 }}</ref>。 === Windows Vista === Windows Vistaは、ビットマップを含まないフォントである[[Segoe UI]]を、日本語版は[[メイリオ]]をそれぞれ新たに採用し、[[コントロールパネル (Windows)|コントロールパネル]]、[[Windows Explorer|エクスプローラー]]、標準メッセージボックスなどインターフェイスの一部にClearTypeを使った文字を採用する。プロパティページなどの各種[[ダイアログボックス]]はMS UI Gothicを用いるため、内蔵ビットマップが表示されてClearTypeは有効とならない。 === Windows 7 === [[Microsoft Windows 7|Windows 7]]は、Windows Vista以前の[[Graphics Device Interface|GDI]]・[[Graphics Device Interface#GDI+|GDI+]]に代わる[[2次元コンピュータグラフィックス|2Dグラフィックス]]APIとして[[Direct2D]]・DirectWriteが追加されている。テキスト描画に関するDirectWriteのClearTypeは、WPFと同様に垂直方向のアンチエイリアスが追加されたほか<ref name="DirectWrite"> {{Cite web |author=マイクロソフト |authorlink=マイクロソフト |date=2008-12-17 |url=http://msdn.microsoft.com/en-us/library/dd371554.aspx |title=Introducing DirectWrite |work=[[MSDN ライブラリ]] |language=英語 |accessdate=2009-01-18 }}</ref><ref> {{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/2008/1126/hot582.htm |title=元麻布春男の週刊PCホットライン ついにGDIがレガシーサポートになるWindows 7|date=2008-11-26 |accessdate=2017-10-23}} </ref>、文字間隔の最適化なども調整されて従来のClearTypeに対して「Natural ClearType」と称する<ref> {{Cite web |author= |date=2009-2-13 |url=http://blogs.msdn.com/e7/archive/2009/02/13/advances-in-typography-and-text-rendering-in-windows-7.aspx |title=Advances in typography and text rendering in Windows 7 - MSDN Blogs: Engineering Windows 7|work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}} </ref>が、利用するためにWPFと同様にアプリケーションがDirectWriteの機能を呼び出す必要がある。Windows 7のインターフェイス(コモンコントロール)はGDIによる従来のClearTypeを用いるが、機能が向上した[[ClearType#ClearType Tuner|ClearType Tuner]]を標準搭載する。Windows 7とWindows Vistaに提供される[[Internet Explorer]] 9は、[[Webページ|ウェブページ]]の描画にGDIではなくDirect2D・DirectWriteを用いる。メイリオを元にした字幅が狭いフォントの[[Meiryo UI]]を新たに標準搭載するが、MS UI Gothicを完全に置き換えるものではなくインターフェイスの一部に用いている。 === Windows 8 === [[Microsoft Windows 8|Windows 8]]日本語版は、インターフェイスにこれまでMS UI Gothicを用いていた部分もMeiryo UIを用い、全体の視認性やインターフェイスの統一感が向上している。Windows 8に標準搭載されてWindows 7にも提供されるInternet Explorer 10もインターフェイスにSegoe UIとMeiryo UIを使用している。 === Windows 10 === [[Microsoft Windows 10|Windows 10]]日本語版は、ClearTypeの描画を前提にデザインされたフォントの[[游書体#游ゴシック体|Yu Gothic UI]]を採用した。スタートメニューや設定アプリなどのテキスト描画は[[グレースケール]][[レンダリング (コンピュータ)|レンダリング]]で、描画品質が背景色に左右されるClearTypeのサブピクセルレンダリングは用いない。 == 短所 == 非常に小さなフォントサイズで、ビットマップフォントに比べて視認性が低下することがある。 GDIのClearTypeは、水平方向(X方向)のみをアンチエイリアス処理する。[[ラテン文字]]は、画数が少なく高さが揃っており垂直方向のアンチエイリアスを行わなくとも問題が少なく、斜線や曲線による造形が主であるため文字幅も狭くてイタリック表記も一般的など、水平方向のサブピクセルレンダリングの恩恵を受けやすく、緩やかな曲線の多い[[ブラーフミー系文字]]も親和性が高い。一方、漢字などの複雑な字体は、線分が接合、もしくは表示されないなどの問題を生じ、大きな[[ポイント (活字の単位)|ポイント]]の文字はフォントの造型にかかわらず緩やかな曲線などで[[ジャギー]]が生ずる。WPFやDirectWriteのClearTypeは、垂直方向(Y方向)もアンチエイリアス処理する<ref name="WPF"/><ref name="DirectWrite"/>ために上記の問題は改善されている。漢字など複雑な字体は、CoolTypeなど「水平方向のサブピクセルレンダリング+垂直方向のアンチエイリアシング」を組み合わせるレンダリングの効果が高い。 Microsoft Office System 2007は、大きなポイントのフォントはClearTypeを使わずに標準アンチエイリアスをグレースケールモードで用いる。Office 2013はGDIに代わってDirectWriteを採用した<ref> {{Cite web |author= |date= |url=https://blogs.msdn.microsoft.com/murrays/2012/07/29/office-adopts-new-windows-display-technology/ |title=Office Adopts New Windows Display Technology – Murray Sargent: Math in Office |work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}}</ref>が、アンチエイリアスはグレースケールモードを用いる。 メイリオは膨大なヒンティング情報を格納することでデザイナーが意図する字形を表示するが、[[フォント#アウトライン形式|アウトライン]]のジャギーや文字不均高などを生ずるフォントもあり、ClearTypeの奏功はフォントの造形や実装に左右される。 画面上の表示を前提としているため、[[スクリーンショット]]の印刷や、ディスプレイで拡大や縮小など設定と異なる解像度で表示する場合のほか、ディスプレイを回転して表示する場合もソフトウェアが対応していない限りサブピクセルの並びが逆になり、表示が不自然になる。 ClearTypeはサブピクセルレンダリングの特性から背景色に描画品質が左右され、透明な[[Windows bitmap|DIB]][[バッファ]]にClearTypeを適用してテキストを描画すると予期しない合成結果となることがある。WPFやDirect2Dは、アルファモードに応じて自動的にアンチエイリアス方式をグレースケールモードに変更して対処している<ref> {{Cite web |author= |date= |url=https://blogs.msdn.microsoft.com/text/2010/01/14/cleartypehint/ |title=ClearTypeHint – WPF Text Blog |work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}}</ref><ref> {{Cite web |author= |date= |url=https://msdn.microsoft.com/en-us/library/system.windows.media.renderoptions.cleartypehint(v=vs.100).aspx |title=RenderOptions.ClearTypeHint Attached Property (System.Windows.Media) |work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}}</ref><ref> {{Cite web|和書|author= |date= |url=https://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/windows/desktop/dd756766.aspx#section_9_4 |title=サポートされているピクセル形式とアルファ モード (Windows) |work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}}</ref>。 メイリオやSegoe UIなどClearTypeに最適化されたフォントを使用する場合、ClearTypeを無効にすると表示が淡くなり視認性が低下する<ref> {{Cite web|和書|author= |date= |url=https://msdn.microsoft.com/ja-jp/library/aa511282.aspx |title=MSDN ライブラリ - Windows ユーザー エクスペリエンス ガイドライン - フォント |work= |publisher= |accessdate=2017-10-23}}</ref>。 == ClearType Tuner == [[マイクロソフト]]がWindows XP用に提供する[[フリーウェア]]で、文字の濃淡やR・G・Bの並び順をディスプレイに最適化するなど微調整を可能とする。インストールしてコントロールパネル内で表示するものと、[[ActiveX]]を利用して[[ブラウザ]]で操作するものがあり、Windows Vista・[[Windows Server]] 2003/2008でも使用できる。 Windows 7 以降はClearType テキストチューナーが標準搭載され、上記の機能に加えてサブピクセルの発色の微調整などより細かい設定が可能である。サブピクセル発色を使わず[[モノクローム]]のスムージングも可能だが、縦方向のスムージングは行わず標準アンチエイリアスとは異なる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[メイリオ]] * [[DirectWrite]] * [[アンチエイリアス]] * [[サブピクセルレンダリング]] * [[FreeType]] * {{仮リンク|CoolType|en|CoolType}} * [[:en:Subpixel rendering]] == 外部リンク == * [https://learn.microsoft.com/en-us/typography/cleartype/ Microsoft ClearType - Typography | Microsoft Learn] * [https://learn.microsoft.com/ja-jp/dotnet/desktop/wpf/advanced/cleartype-overview?view=netframeworkdesktop-4.8 ClearType の概要 - Microsoft](WPFでのClearTypeについての説明) {{Windows Components}} {{DEFAULTSORT:ClearType}} [[Category:グラフィカルユーザインタフェース]] [[Category:書体]] [[Category:Microsoft Windows]]
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サンスクリット
サンスクリット(梵: संस्कृतम् saṃskṛtam、英: Sanskrit)は、古代インド・アーリア語に属する言語。北西方からインドを訪れたとされるアーリア人によって原型が伝えられ、後に文法家パーニニがその文法を集成させた古代語。アーリア人らが定住した北インドを中心に南アジアで古くから根深く用いられ、またその影響を受けた東アジア、東南アジアの一部でも使用されることがあった。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた。ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあり、大乗仏教でも多くの仏典がこの言語で記された。現在もその権威は大きく、母語話者は少ないが、現代インドでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語の1つである。この附則が制定された時に指定された15言語にサンスクリットはすでに入っており、インドの紙幣にもサンスクリットでの金額記載は含まれている。 サンスクリットは「正しく構成された(言語、雅語)」を意味し、この単語それ自体でこの言語を意味するが、言語であることを示すべく日本ではサンスクリット語とも呼ばれる。ただし、この言語が「サンスクリット」と呼ばれるようになったのが確認できるのは5世紀から6世紀ごろのことである。 漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本や韓国やベトナムなど漢字文化圏でのサンスクリットの異称。日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた。梵語とは、サンスクリットの起源を造物神梵天(ブラフマー)とするインドの伝承を基にした言葉である。 サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派インド語群に属する古代語である。 リグ・ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)をはじめとするヴェーダ文献に用いられていたヴェーダ語をその祖とする。ヴェーダ語の最古層は、インド・イラン語派イラン語群に属する古典語であるアヴェスター語のガーサーの言語(古アヴェスター語)と非常に近い。 ヴェーダ語は紀元前5世紀から紀元前4世紀にパーニニがその文法を規定し、体系が固定された。その後、彼の学統に属するカーティヤーヤナおよびパタンジャリがこの理論の補遺及び修正を行い、最終的に整備された。この3人、とくにパタンジャリ以後の言語は古典サンスクリットと呼ばれる。古典サンスクリット成立後も、5世紀のバルトリハリなどの優れた文法学者が輩出し、文法学の伝統は続いていった。 パーニニの記述からはサンスクリットが北インドの広い領域で使用されていたことがうかがえるが、この時期にはすでにサンスクリットは文語化しており、インド各地の地方口語(プラークリットと呼ばれる)が用いられるようになっていた。紀元前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王によって刻まれたインド現存最古の碑文であるアショーカ王碑文はサンスクリットでなくプラークリットで刻まれており、また上座部仏教(南伝仏教)の仏典もプラークリットに属するパーリ語で記されているのは、この言語交代が当時すでに起こっていたことを示している。しかしサンスクリットは典礼言語として定着しており、宗教(ヒンドゥー教・仏教など)・学術・文学等の分野で幅広く長い期間にわたって用いられた。こうしたサンスクリット文化の伝承者はおもにパンディットと呼ばれる学者であり、彼らは膨大な文章の暗記を行い、それを読誦し、口伝によって後世へと伝えていった。 グプタ朝ではサンスクリットを公用語とし、カーリダーサなどに代表されるサンスクリット文学が花開いた。この時期には碑文は完全にプラークリットからサンスクリットで刻まれるように変化しており、また7世紀ごろには外交用語として使用されるようになっていた。10世紀末のガズナ朝以降、デリー・スルターン朝やムガル帝国といった、北インドで交代を繰り返した中央アジア起源のインド王朝はペルシア語を公用語としたが、この時期にもサンスクリットの学術的・文化的地位は揺らぐことはなかった。 13世紀以降のイスラム王朝支配の時代(アラビア語、ペルシア語の時代)から、大英帝国支配による英語の時代を経て、その地位は相当に低下したが、今でも知識階級において習得する人も多く、学問や宗教の場で生き続けている。1972年にデリーで第1回国際サンスクリット会議が開かれたが、討論から喧嘩までサンスクリットで行われたという。また、従来はサンスクリットは男性が使うものであったが、現代では女性がサンスクリットを使うようになってきている。 インドで実施される国勢調査においては現代でもサンスクリットを母語として申告する人びとが少数ながら存在し、2001年にはインドで1万4135人が、2011年にはインドで24,821人、ネパールで1,669人がサンスクリットを母語とすると回答しているが、日常語として使用されているかについては疑問が呈されている。 ただし日常語としての使用はなくともサンスクリット自体はいまだに生きている言語であり、インドではヴァーラーナシーはじめ数か所にサンスクリットを教授言語とする大学が存在するほか、テレビでもサンスクリットによるニュース番組が存在し、サンスクリットの雑誌も発行されており、さらにサンスクリット語映画も1983年から2019年までの間に8本製作されている。 多くの古代語と同様、サンスクリットが古代にどのように発音されていたかは、かならずしも明らかではない。 母音には、短母音 a i u、長母音 ā ī ū e o、二重母音 ai au がある。e o がつねに長いことに注意。短い a は、[ə] のようなあいまいな母音であった。ほかに音節主音的な r̥ r̥̄ l̥ があったが、現代ではそれぞれ ri rī li のように発音される。r̥̄ l̥ は使用頻度が少なく、前者は r̥ で終わる名詞の複数対格・属格形(例:pitr̥̄n 「父たちを」)、後者は kl̥p- 「よく合う、適合する」という動詞のみに現れる。 音節頭子音は以下の33種類があった。 そり舌音が発達していることと、調音位置を等しくする破裂音に無声無気音・無声帯気音・有声無気音・有声帯気音の4種類があることがサンスクリットの特徴である。このうち有声帯気音は実際には息もれ声であり、これらの音は現在のヒンディー語などにも存在する。ヴェーダ語には、ほかに ḷ もあった。リグ・ヴェーダでは、ḷ は母音に挟まれたときの ḍ の異音として現れる。 c ch j jh は破裂音 [c ch ɟ ɟɦ] であったとする説と、破擦音であったとする説がある。現代では破擦音として発音する。ñ([ɲ]) と ṅ([ŋ]) は、つづりの上ではほかの鼻音と区別して書かれるが、音韻的には n の異音とみなされる。 音節末のみに立つ子音としては、ṃ(同器官的な鼻音、アヌスヴァーラ)と ḥ(無声音の[h]、ヴィサルガ)がある。 ヴェーダ語は高低アクセントを持ち、単語によりアクセントの位置が定まっていた。古典時代のアクセントは不明である。現代においては、後ろから4音節め(単語が4音節未満なら先頭)に強勢があり、ただし後ろから2番目さもなくば3番目の音節が長い(長母音・二重母音を含む音節、または閉音節)場合、その音節に強勢が置かれる。 連声(連音、sandhi)はサンスクリットの大きな特徴で、2つの形態素が並んだときに起きる音変化のことである。連音変化自体はほかの言語にも見られるものだが、サンスクリットでは変化が規則的に起きることと、変化した後の形で表記されることに特徴があり、連声の起きた後の形から元の形に戻さなければ、辞書を引くこともできない。 単語間の連声を外連声、語幹(または語根)と語尾の間の連声を内連声と言う。両者は共通する部分もあるが、違いも大きい。 外連声の例として、a語幹の名詞の単数主格の語尾である -aḥ の例をあげる。 名詞は性の区別があり、数と格によって変化する。性は男性、女性、中性があり、数には単数、双数、複数に分かれる。格は主格、呼格、対格、具格、与格、奪格、属格、処格の8つある。形容詞は名詞と性・数・格において一致する。代名詞は独特の活用を行う。 名詞・形容詞は語幹の末尾によって変化の仕方が異なる。とくに子音で終わる語幹は、連音による変化があるほか、語幹そのものが変化することがある。 動詞は、人称と数によって変化する。伝統的な文法では、動詞は語根(dhātu)によって示され、語根から現在語幹を作る方法によって10種に分けられている。時制組織は現在・未来・不完了過去・完了・アオリストを区別するが、古典サンスクリットでは完了やアオリストは衰退しつつあった。態には、能動態(Parasmaipada)と反射態(Ātmanepada, ギリシア語の中動態に相当する。行為者自身のために行われることを表す)が存在するが、実際には両者の意味上の違いは必ずしも明らかでない。受身はこれと異なり、使役などとともに、動詞に接尾辞を付加することによって表される。 動詞の法には直説法、命令法、希求法(願望法)、条件法、祈願法(希求法のアオリスト)がある。ヴェーダ語にはほかに接続法と指令法があったが、パーニニの時代には(固定した表現を除き)失われていた。条件法と祈願法も古典サンスクリットでは衰退している。 サンスクリットでは不定詞、分詞、動詞的形容詞(gerundive)などの準動詞が非常に発達している。 サンスクリットでは複合語が異常に発達し、他の言語では従属節を使うところを、複合語によって表現する。 サンスクリットの語彙は非常に豊富であり、また複合語を簡単に作ることができる。多義語が多い一方、同義語・類義語も多い。 一例として数詞をIAST方式のローマ字表記で挙げる。なお、サンスクリットでは語形変化や連音によってさまざまな形をとるが、単語は語尾を除いた語幹の形であげるのが普通であり、ここでもその慣習による。 実際にはこれに語尾がつく。たとえば、tri- 「3」は i- 語幹であるので、(複数)男性主格形は trayaḥ になる。さらにこの語が aśva- 「馬」を修飾する場合は、連音変化によって trayo 'śvāḥ となる。 サンスクリットは本来文字を持たない言語であり、その後も近代までは書記よりも読誦を主とする文化が続いていた。このことが逆に、時代・地域によって異なる様々な表記法をサンスクリットにもたらした。サンスクリットが文字表記されるようになるのは4世紀ごろにインド系文字の祖であるブラーフミー文字がサンスクリット表記に使用されるようになってからであるが、この文字は本来より新しい言語であるプラークリットの表記のために開発された文字であり、正確な表記のために新たな表記法が開発された。さらにブラーフミー文字表記のサンスクリットはインド文化とともに東南アジア諸国に伝播し、この地に多様なブラーフミー系文字を生み出すこととなった。日本では伝統的に悉曇文字(シッダマートリカー文字の一種、いわゆる「梵字」)が使われてきたし、南インドではグランタ文字による筆記が、その使用者は少なくなったものの現在も伝えられている。 現在では、地域をとわずインド全般にデーヴァナーガリーを使ってサンスクリットを書くことが行われているが、このようになったのは最近のことである。ラテン文字による翻字方式としてはIASTが一般的である。 情報化の進展により、コンピュータやインターネットが普及するようになってからは、子音の表現が複雑なデーヴァナーガリーに代わり、入力が比較的容易なIASTなどの表記が用いられるようになっている。インド国内向けのサイトを除き、基本的にはIAST表記が中心である。 サンスクリットは近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、ドラヴィダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えた。さらには主に宗教を通じて東南アジアや東アジアにも影響を与えた。東南アジアへの伝播は主にヒンドゥー教を通じてのものであり、クメール王国では15世紀ごろまでサンスクリットの碑文が多く作られた。また東アジアへは大乗仏教を通じて中国やチベットに伝播した。 また、サンスクリットはヒンディー語の成立に大きな影響を与えた。もともと北インドの広い範囲ではヒンドゥスターニー語を基盤としてペルシア語やアラビア語の語彙や文法を取り入れたウルドゥー語が使用されていたのだが、19世紀に入りイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しくなると、ヒンドゥー教徒側はウルドゥー語からペルシア語やアラビア語の借用語を取り除いてサンスクリットへと変える言語純化を行い、ヒンディー語が成立することとなった。この動きは、1947年のインド・パキスタン分離独立によってさらに強まった。 また、サンスクリットの研究は言語学の成立と深くかかわっている。イギリスの裁判官であったウィリアム・ジョーンズは、ベンガル最高法院に赴任していた1786年、サンスクリットとギリシア語やラテン語といった欧州系諸言語、さらに古代ペルシア語との文法の類似点に気づき、これら諸語が共通の祖語から分岐したとの説をベンガル・アジア協会において発表した。この発表は後世に大きな影響を及ぼし、これをもって言語学が誕生したと一般的に考えられている。 さらにジョーンズの発見はインド学の発展を促し、1814年にはコレージュ・ド・フランスにヨーロッパ初のサンスクリット講座が開設されてアントワーヌ=レオナール・ド・シェジーが教授に就任し、1818年にはドイツのボン大学にも開設され、以後徐々にヨーロッパ各地の大学にサンスクリット講座が開設され研究が進むようになった。 仏教では最初、日常言語であるプラークリットを用いて布教を行っており、仏典もまたプラークリットでパーリ語仏典として書かれていた。しかし4世紀に入り、グプタ朝が学術振興を行うとともにサンスクリットを公用語とすると、他宗教との論争や教理の整備の関係上、仏教でもサンスクリットが使用されるようになり、また仏典がサンスクリットに翻訳されるようになった。この動きは特に大乗仏教において盛んとなり、以後大乗仏教はサンスクリット仏典が主流となっていった。この過程で、一時的に言語の混淆が起き、仏教混淆サンスクリットと呼ばれるサンスクリットとプラークリットの混合体が出現して仏典に一時期用いられた。 上座部仏教がプラークリット(パーリ語)の仏典を保持したまま東南アジア方面へ教線を伸ばしていったのに対し、大乗仏教は北のシルクロード回りで東アジアへと到達し、仏教の伝播とともにサンスクリットはこれら諸国に伝えられていった。ただし初期の漢訳仏典の原典はかならずしもサンスクリットではなかったと考えられており、ガンダーラ語のようなプラークリットに由来する可能性もある。しかし中国で仏教が広まるに従い、巡礼や仏典を求めて仏教発祥の地であるインドへと赴く、いわゆる入竺求法僧が現われはじめた。この時期にはインドの大乗仏教の仏典はほぼサンスクリット化されており、このため彼らによって持ち帰られた仏典の大半はサンスクリットによるものだった。5世紀の法顕や7世紀の義浄などが入竺求法僧として知られるが、なかでもこうした僧の中で最も著名なものは7世紀、唐の玄奘であり、持ち帰った膨大なサンスクリット仏典の漢訳を行って訳経史に画期をなした。彼以降の仏典訳は訳経史区分上新訳と呼ばれ、それ以前の鳩摩羅什らによる古い、しばしばサンスクリットからではない旧訳と区分されている。 日本へは中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は遅くとも真言宗の開祖空海まではさかのぼることができる。仏教用語の多くはサンスクリットの漢字による音訳であり、"僧"、"盂蘭盆"、"卒塔婆"、"南無・阿弥陀・仏"などがある。"檀那(旦那)"など日常語化しているものもある。また、陀羅尼(だらに、ダーラニー)、真言(マントラ)は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する(泉鏡花「高野聖」など)。卒塔婆や護符などに描かれる文字については梵字を参照。日本語の五十音図の配列は、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列に影響を受けていると考えられ、サンスクリット音韻学である悉曇学に由来するとされる。 こうした仏教とのつながりのため、明治以後、日本でのサンスクリット研究は仏教学と深く結びついてきた。1876年には真宗大谷派の南條文雄がインド学研究のためオックスフォード大学に派遣され、1885年に帰国すると東京帝国大学で梵語講座を開設し、以後いくつかの大学でサンスクリットが教えられるようになった。 母音の響きがよいという理由で映画音楽でコーラスを投入する際に使用されるケースが有る。
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"text": "サンスクリットは近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、ドラヴィダ語族に属する南インド諸語に対しても借用語などを通じて多大な影響を与えた。さらには主に宗教を通じて東南アジアや東アジアにも影響を与えた。東南アジアへの伝播は主にヒンドゥー教を通じてのものであり、クメール王国では15世紀ごろまでサンスクリットの碑文が多く作られた。また東アジアへは大乗仏教を通じて中国やチベットに伝播した。", "title": "他言語・言語学への影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、サンスクリットはヒンディー語の成立に大きな影響を与えた。もともと北インドの広い範囲ではヒンドゥスターニー語を基盤としてペルシア語やアラビア語の語彙や文法を取り入れたウルドゥー語が使用されていたのだが、19世紀に入りイスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しくなると、ヒンドゥー教徒側はウルドゥー語からペルシア語やアラビア語の借用語を取り除いてサンスクリットへと変える言語純化を行い、ヒンディー語が成立することとなった。この動きは、1947年のインド・パキスタン分離独立によってさらに強まった。", "title": "他言語・言語学への影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、サンスクリットの研究は言語学の成立と深くかかわっている。イギリスの裁判官であったウィリアム・ジョーンズは、ベンガル最高法院に赴任していた1786年、サンスクリットとギリシア語やラテン語といった欧州系諸言語、さらに古代ペルシア語との文法の類似点に気づき、これら諸語が共通の祖語から分岐したとの説をベンガル・アジア協会において発表した。この発表は後世に大きな影響を及ぼし、これをもって言語学が誕生したと一般的に考えられている。", "title": "他言語・言語学への影響" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "さらにジョーンズの発見はインド学の発展を促し、1814年にはコレージュ・ド・フランスにヨーロッパ初のサンスクリット講座が開設されてアントワーヌ=レオナール・ド・シェジーが教授に就任し、1818年にはドイツのボン大学にも開設され、以後徐々にヨーロッパ各地の大学にサンスクリット講座が開設され研究が進むようになった。", "title": "他言語・言語学への影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "仏教では最初、日常言語であるプラークリットを用いて布教を行っており、仏典もまたプラークリットでパーリ語仏典として書かれていた。しかし4世紀に入り、グプタ朝が学術振興を行うとともにサンスクリットを公用語とすると、他宗教との論争や教理の整備の関係上、仏教でもサンスクリットが使用されるようになり、また仏典がサンスクリットに翻訳されるようになった。この動きは特に大乗仏教において盛んとなり、以後大乗仏教はサンスクリット仏典が主流となっていった。この過程で、一時的に言語の混淆が起き、仏教混淆サンスクリットと呼ばれるサンスクリットとプラークリットの混合体が出現して仏典に一時期用いられた。", "title": "仏教および日本への影響" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "上座部仏教がプラークリット(パーリ語)の仏典を保持したまま東南アジア方面へ教線を伸ばしていったのに対し、大乗仏教は北のシルクロード回りで東アジアへと到達し、仏教の伝播とともにサンスクリットはこれら諸国に伝えられていった。ただし初期の漢訳仏典の原典はかならずしもサンスクリットではなかったと考えられており、ガンダーラ語のようなプラークリットに由来する可能性もある。しかし中国で仏教が広まるに従い、巡礼や仏典を求めて仏教発祥の地であるインドへと赴く、いわゆる入竺求法僧が現われはじめた。この時期にはインドの大乗仏教の仏典はほぼサンスクリット化されており、このため彼らによって持ち帰られた仏典の大半はサンスクリットによるものだった。5世紀の法顕や7世紀の義浄などが入竺求法僧として知られるが、なかでもこうした僧の中で最も著名なものは7世紀、唐の玄奘であり、持ち帰った膨大なサンスクリット仏典の漢訳を行って訳経史に画期をなした。彼以降の仏典訳は訳経史区分上新訳と呼ばれ、それ以前の鳩摩羅什らによる古い、しばしばサンスクリットからではない旧訳と区分されている。", "title": "仏教および日本への影響" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本へは中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は遅くとも真言宗の開祖空海まではさかのぼることができる。仏教用語の多くはサンスクリットの漢字による音訳であり、\"僧\"、\"盂蘭盆\"、\"卒塔婆\"、\"南無・阿弥陀・仏\"などがある。\"檀那(旦那)\"など日常語化しているものもある。また、陀羅尼(だらに、ダーラニー)、真言(マントラ)は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する(泉鏡花「高野聖」など)。卒塔婆や護符などに描かれる文字については梵字を参照。日本語の五十音図の配列は、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列に影響を受けていると考えられ、サンスクリット音韻学である悉曇学に由来するとされる。", "title": "仏教および日本への影響" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "こうした仏教とのつながりのため、明治以後、日本でのサンスクリット研究は仏教学と深く結びついてきた。1876年には真宗大谷派の南條文雄がインド学研究のためオックスフォード大学に派遣され、1885年に帰国すると東京帝国大学で梵語講座を開設し、以後いくつかの大学でサンスクリットが教えられるようになった。", "title": "仏教および日本への影響" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "母音の響きがよいという理由で映画音楽でコーラスを投入する際に使用されるケースが有る。", "title": "映画音楽とサンスクリット" } ]
サンスクリットは、古代インド・アーリア語に属する言語。北西方からインドを訪れたとされるアーリア人によって原型が伝えられ、後に文法家パーニニがその文法を集成させた古代語。アーリア人らが定住した北インドを中心に南アジアで古くから根深く用いられ、またその影響を受けた東アジア、東南アジアの一部でも使用されることがあった。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた。ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあり、大乗仏教でも多くの仏典がこの言語で記された。現在もその権威は大きく、母語話者は少ないが、現代インドでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語の1つである。この附則が制定された時に指定された15言語にサンスクリットはすでに入っており、インドの紙幣にもサンスクリットでの金額記載は含まれている。 サンスクリットは「正しく構成された(言語、雅語)」を意味し、この単語それ自体でこの言語を意味するが、言語であることを示すべく日本ではサンスクリット語とも呼ばれる。ただし、この言語が「サンスクリット」と呼ばれるようになったのが確認できるのは5世紀から6世紀ごろのことである。 漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本や韓国やベトナムなど漢字文化圏でのサンスクリットの異称。日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた。梵語とは、サンスクリットの起源を造物神梵天(ブラフマー)とするインドの伝承を基にした言葉である。
{{Infobox language | name = サンスクリット | nativename = {{lang|sa-deva|संस्कृतम्}}<br>{{transl|sa|Saṃskṛtam}} | pronunciation = {{IPA-sa|ˈsɐ̃skr̩tɐm||Sanskrit1.ogg}} | region = [[南アジア]]<br>[[東南アジア]]の一部 | speakers = 24,821人([[インド]]、2011年)<ref name="pratidintime.com">https://www.pratidintime.com/latest-census-figure-reveals-increase-in-sanskrit-speakers-in-india/</ref><br>1,669人([[ネパール]]、2011年)<ref name="名前なし-1">{{cite report|title=National Population and Housing Census 2011 |volume=1 |date=November 2012 |publisher=Central Bureau of Statistics, Government of Nepal |place=Kathmandu |url=http://unstats.un.org/unsd/demographic/sources/census/2010_phc/Nepal/Nepal-Census-2011-Vol1.pdf |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131228224120/http://unstats.un.org/unsd/demographic/sources/census/2010_PHC/Nepal/Nepal-Census-2011-Vol1.pdf |archivedate=28 December 2013 }}</ref>がサンスクリットを母語とすると回答している。 | era = [[紀元前2千年紀]] – 紀元前600年ごろ(ヴェーダ語);<ref>{{cite book|author=Uta Reinöhl |title=Grammaticalization and the Rise of Configurationality in Indo-Aryan |url=https://books.google.com/books?id=nR_4CwAAQBAJ |year=2016 |publisher=Oxford University Press| isbn=978-0-19-873666-0|pages=xiv, 1–16}}</ref> <br>紀元前600年ごろから現在(古典サンスクリット) | familycolor = Indo-European | fam1=[[インド・ヨーロッパ語族]] | fam2=[[サテム語派]] | fam3=[[インド・イラン語派]] | fam4=[[インド語派]] | ancestor = [[ヴェーダ語]] | script = [[デーヴァナーガリー]]<br>をはじめとした、さまざまな[[ブラーフミー系文字]]で記述される<ref name="aboutworldlanguages.com">"http://aboutworldlanguages.com/sanskrit"</ref>。<br>[[ラテン文字]]<br>([[IAST]]・[[京都・ハーバード方式]]など)<ref name="Modern Transcription of Sanskrit">"http://shashir.autodidactus.org/shashir_umich/sanskrit_transcription.html"</ref><br>[[アラビア文字]]<ref name="omniglot">"https://omniglot.com/conscripts/arabikkhara.htm"</ref><ref name="sanskritbible.in">"http://www.sanskritbible.in/assets/txt/devanagari/43001.html"</ref> |nation =[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]<ref>"https://omniglot.com/conscripts/arabikkhara.htm"</ref><br>[[ウッタラーカンド州]]<ref>https://www.hindustantimes.com/india/sanskrit-is-second-official-language-in-uttarakhand/story-wxk51l8Re4vNxofrr7FAJK.html</ref><ref>https://www.thehindu.com/todays-paper/tp-national/tp-otherstates/Sanskrit-second-official-language-of-Uttarakhand/article15965492.ece</ref> |minority= {{IND}} | iso1 = sa | iso2 = san | iso3 = san | image = File:The word संस्कृतम् (Sanskrit) in Sanskrit.svg | imagesize = | imagecaption = [[デーヴァナーガリー]]で記された「サンスクリット」 | notice = Indic | glotto = sans1269 | glottorefname = Sanskrit | notice2 = IPA }} [[ファイル:Devimahatmya Sanskrit MS Nepal 11c.jpg|thumb|270px|『[[デーヴィー・マーハートミャ]]』の現存する最古の複製。[[11世紀]]の[[ネパール]]で、{{仮リンク|ブジモール|en|Bhujimol}}という書体を使って書かれており、椰子の葉からできている ([[貝葉]])。]] '''サンスクリット'''({{lang-sa-short|संस्कृतम्}} {{transl|sa|saṃskṛtam}}、{{lang-en-short|Sanskrit}}<ref name="英語から生れた現代語の辞典1930">日本語の「サンスクリット」という単語は英語由来: {{Cite encyclopedia|title=サンスクリット|encyclopedia=英語から生れた現代語の辞典|publisher=大坂出版社|date=1930-03-01|page=333|editor=英文大阪毎日学習号編集局|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1900777/333|edition=大増補改訂87版|language=ja|location=大坂|doi=10.11501/1900777|id={{NDLJP|1900777}}}}</ref>)は、[[古代]][[インド・アーリア語]]に属する[[言語]]。北西方から[[インド]]を訪れたとされる[[アーリア人]]によって原型が伝えられ、後に[[文法家]][[パーニニ]]がその文法を集成させた古代語。[[アーリア人]]らが定住した[[北インド]]を中心に[[南アジア]]で古くから根深く用いられ、またその影響を受けた[[東アジア]]、[[東南アジア]]の一部でも使用されることがあった。[[文学]]、[[哲学]]、[[学術]]、[[宗教]]などの分野で広く用いられた。[[ヒンドゥー教]]の[[典礼言語|礼拝用言語]]でもあり、[[大乗仏教]]でも多くの仏典がこの言語で記された。現在もその権威は大きく、[[母語]]話者は少ないが、現代[[インド]]でも[[インド憲法|憲法]]の[[インドの公用語の一覧|第8付則に定められた22の指定言語]]の1つである。この附則が制定された時に指定された15言語にサンスクリットはすでに入っており、インドの紙幣にもサンスクリットでの金額記載は含まれている<ref>「世界地誌シリーズ5 インド」p20 友澤和夫編 2013年10月10日初版第1刷 朝倉書店</ref>。 サンスクリットは「正しく構成された(言語、雅語)」を意味し<ref>『聖なる言葉を巡る思索』p202 尾園絢一(「インド文化事典」所収)インド文化事典製作委員会編 丸善出版 平成30年1月30日発行</ref>、この単語それ自体でこの言語を意味するが、言語であることを示すべく日本では'''サンスクリット語'''とも呼ばれる。ただし、この言語が「サンスクリット」と呼ばれるようになったのが確認できるのは[[5世紀]]から[[6世紀]]ごろのことである<ref>「サンスクリット」p45 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。 漢字表記の'''梵語'''(ぼんご)は、[[中国]]や[[日本]]や[[韓国]]や[[ベトナム]]など[[漢字文化圏]]でのサンスクリットの異称。[[日本]]では近代以前から、[[般若心経]]など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた。梵語とは、サンスクリットの起源を造物神[[梵天]]([[ブラフマー]])とするインドの伝承を基にした言葉である。 == 歴史 == サンスクリットは[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[インド・イラン語派]][[インド語群]]に属する古代語である。 [[リグ・ヴェーダ]](最古部は紀元前1500年頃)をはじめとするヴェーダ文献に用いられていた[[ヴェーダ語]]をその祖とする。ヴェーダ語の最古層は、[[インド・イラン語派]][[イラン語群]]に属する古典語である[[アヴェスター語]]のガーサーの言語(古アヴェスター語)と非常に近い。 ヴェーダ語は[[紀元前5世紀]]から[[紀元前4世紀]]に[[パーニニ]]がその文法を規定し<ref>「サンスクリット」p26 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>、体系が固定された<ref>「サンスクリット」p43 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。その後、彼の学統に属するカーティヤーヤナおよび[[パタンジャリ]]がこの理論の補遺及び修正を行い、最終的に整備された<ref>「サンスクリット」p42 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。この3人、とくにパタンジャリ以後の言語は古典サンスクリットと呼ばれる<ref>「サンスクリット」p7-8 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。古典サンスクリット成立後も、5世紀の[[バルトリハリ]]などの優れた文法学者が輩出し、文法学の伝統は続いていった<ref>『聖なる言葉を巡る思索』p203 尾園絢一(「インド文化事典」所収)インド文化事典製作委員会編 丸善出版 平成30年1月30日発行</ref>。 パーニニの記述からはサンスクリットが[[北インド]]の広い領域で使用されていたことがうかがえるが<ref>「サンスクリット」p30-31 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>、この時期にはすでにサンスクリットは[[文語|文語化]]しており、インド各地の地方口語([[プラークリット]]と呼ばれる)が用いられるようになっていた<ref>「サンスクリット」p31 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。[[紀元前3世紀]]に[[マウリヤ朝]]の[[アショーカ王]]によって刻まれたインド現存最古の碑文である[[アショーカ王碑文]]はサンスクリットでなくプラークリットで刻まれており、また[[上座部仏教]](南伝仏教)の仏典もプラークリットに属する[[パーリ語]]で記されている<ref>「ビジュアル版 世界言語百科 現用・危機・絶滅言語1000」p251 ピーター・K・オースティン 著 澤田治美監修 柊風舎 2009年9月20日第1刷</ref>のは、この言語交代が当時すでに起こっていたことを示している。しかしサンスクリットは[[典礼言語]]として定着しており、[[宗教]](ヒンドゥー教・仏教など)・学術・[[インド文学|文学]]等の分野で幅広く長い期間にわたって用いられた。こうしたサンスクリット文化の伝承者はおもに[[パンディット]]と呼ばれる学者であり、彼らは膨大な文章の暗記を行い、それを読誦し、口伝によって後世へと伝えていった<ref>「サンスクリット」p90-91 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。 [[グプタ朝]]ではサンスクリットを公用語とし<ref>辛島昇・前田専学・江島惠教ら監修『南アジアを知る事典』p207 平凡社、1992.10、ISBN 4-582-12634-0</ref>、[[カーリダーサ]]などに代表されるサンスクリット文学が花開いた<ref>『カーリダーサとサンスクリット古典文学』p121 川村悠人(「インド文化事典」所収)インド文化事典製作委員会編 丸善出版 平成30年1月30日発行</ref>。この時期には碑文は完全にプラークリットからサンスクリットで刻まれるように変化しており<ref>「サンスクリット」p130-131 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>、また7世紀ごろには[[外交]]用語として使用されるようになっていた<ref>「サンスクリット」p148 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。10世紀末の[[ガズナ朝]]以降、[[デリー・スルターン朝]]や[[ムガル帝国]]といった、[[北インド]]で交代を繰り返した[[中央アジア]]起源のインド王朝は[[ペルシア語]]を公用語としたが、この時期にもサンスクリットの学術的・文化的地位は揺らぐことはなかった<ref>「ペルシア語が結んだ世界 もうひとつのユーラシア史」(北海道大学スラブ研究センター スラブ・ユーラシア叢書7)p206-207 森本一夫編著 北海道大学出版会 2009年6月25日第1刷</ref>。 [[13世紀]]以降の[[イスラム王朝]]支配の時代([[アラビア語]]、[[ペルシア語]]の時代)から、[[大英帝国]]支配による[[英語]]の時代を経て、その地位は相当に低下したが、今でも知識階級において習得する人も多く、学問や宗教の場で生き続けている。1972年に[[デリー]]で第1回国際サンスクリット会議が開かれたが、討論から喧嘩までサンスクリットで行われたという。また、従来はサンスクリットは男性が使うものであったが、現代では女性がサンスクリットを使うようになってきている<ref>{{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.4259/ibk.21.14|title=生きているサンスクリット|author=[[中村元 (哲学者)|中村元]]|journal=印度學佛教學研究|volume=21|issue=1|year=1972-1973|pages=14-20|doi=10.4259/ibk.21.14}}</ref>。 インドで実施される国勢調査においては現代でもサンスクリットを母語として申告する人びとが少数ながら存在し、2001年にはインドで14,135人が<ref>{{citeweb|url=http://censusindia.gov.in/Census_Data_2001/Census_Data_Online/Language/Statement5.htm|title=Comparative speaker's strength of scheduled languages -1971, 1981, 1991 and 2001|work=Census of India, 2001|publisher=Office of the Registrar and Census Commissioner, India|accessdate=2019年4月25日}}</ref>、2011年にはインドで24,821人<ref name="pratidintime.com">https://www.pratidintime.com/latest-census-figure-reveals-increase-in-sanskrit-speakers-in-india/</ref>、ネパールで1,669人<ref name="名前なし-1"/>がサンスクリットを母語とすると回答しているが、日常語として使用されているかについては疑問が呈されている<ref>「多言語社会の実験場インド」町田和彦 p229(『アジア世界の言葉と文化』所収) 砂岡和子・池田雅之編著 成文堂 2006年3月31日初版第1刷発行</ref>。 ただし日常語としての使用はなくともサンスクリット自体はいまだに生きている言語であり、インドでは[[ヴァーラーナシー]]はじめ数か所にサンスクリットを[[教授言語]]とする大学が存在する<ref name="名前なし-2">「サンスクリット」p159 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>ほか、[[テレビ]]でもサンスクリットによる[[ニュース番組]]が存在し<ref>「新インド学」pp8 長田俊樹 角川書店 平成14年11月10日初版発行</ref>、サンスクリットの雑誌も発行されており<ref name="名前なし-2"/>、さらに[[サンスクリット語映画]]も1983年から2019年までの間に8本製作されている。 == 音声 == 多くの古代語と同様、サンスクリットが古代にどのように発音されていたかは、かならずしも明らかではない。 [[母音]]には、短母音 {{transl|sa|a i u}}、長母音 {{transl|sa|ā ī ū e o}}、二重母音 {{transl|sa|ai au}} がある。{{transl|sa|e o}} がつねに長いことに注意。短い a は、{{IPA|ə}} のようなあいまいな母音であった。ほかに[[音節]]主音的な {{transl|sa|r̥ r̥̄ l̥}} があったが、現代ではそれぞれ {{transl|sa|ri rī li}} のように発音される。{{transl|sa|r̥̄ l̥}} は使用頻度が少なく、前者は {{transl|sa|r̥}} で終わる名詞の複数[[対格]]・[[属格]]形(例:{{transl|sa|pitr̥̄n}} 「父たちを」)、後者は {{transl|sa|kl̥p-}} 「よく合う、適合する」という[[動詞]]のみに現れる。 音節頭子音は以下の33種類があった。 {| class="wikitable" ! colspan="2" | !! [[両唇音]]<br>[[唇歯音]] !! [[歯音]]<br>[[歯茎音]] !! [[そり舌音]] !! [[硬口蓋音]] !! [[軟口蓋音]] !! [[声門音]] |- ! rowspan="2"| [[破裂音]]<br>[[破擦音]] ! 無気音 | p b || t d || {{transl|sa|ṭ ḍ}} || c j || k g || |- ! 帯気音 | ph bh || th dh || {{transl|sa|ṭh ḍh}} || ch jh || kh gh || |- ! colspan="2" | [[鼻音]] | m || n || {{transl|sa|ṇ}} || ({{transl|sa|ñ}}) || ({{transl|sa|ṅ}}) || |- ! colspan="2" | [[摩擦音]] | || s || {{transl|sa|ṣ}} || {{transl|sa|ś}} || || h {{IPA|ɦ}} |- ! colspan="2" | [[半母音]] | v || r || || y || || |- ! colspan="2" | [[側面音]] | || l || || || || |} [[そり舌音]]が発達していることと、[[調音部位|調音位置]]を等しくする破裂音に無声無気音・無声帯気音・有声無気音・有声帯気音の4種類があることがサンスクリットの特徴である。このうち有声帯気音は実際には[[息もれ声]]であり、これらの音は現在の[[ヒンディー語]]などにも存在する。[[ヴェーダ語]]には、ほかに {{transl|sa|ḷ}} もあった。リグ・ヴェーダでは、{{transl|sa|ḷ}} は母音に挟まれたときの {{transl|sa|ḍ}} の異音として現れる。 c ch j jh は[[破裂音]] {{IPA|c cʰ ɟ ɟʱ}} であったとする説と<ref>Allen (1953) p.52</ref>、[[破擦音]]であったとする説がある<ref>辻 (1974) p.7</ref>。現代では破擦音として発音する。{{transl|sa|ñ}}({{IPA|ɲ}}) と {{transl|sa|ṅ}}({{IPA|ŋ}}) は、つづりの上ではほかの鼻音と区別して書かれるが、音韻的には n の[[異音]]とみなされる。 音節末のみに立つ子音としては、{{transl|sa|ṃ}}([[同器官的]]な鼻音、[[アヌスヴァーラ]])と {{transl|sa|ḥ}}([[無声音]]の{{IPA|h}}、[[ヴィサルガ]])がある。 ヴェーダ語は[[高低アクセント]]を持ち、単語により[[アクセント]]の位置が定まっていた。古典時代のアクセントは不明である。現代においては、後ろから4音節め(単語が4音節未満なら先頭)に[[強勢]]があり、ただし後ろから2番目さもなくば3番目の音節が長い(長母音・二重母音を含む音節、または閉音節)場合、その音節に強勢が置かれる。 == 連声 == 連声([[連音]]、{{transl|sa|sandhi}})はサンスクリットの大きな特徴で、2つの形態素が並んだときに起きる音変化のことである。連音変化自体はほかの言語にも見られるものだが、サンスクリットでは変化が規則的に起きることと、変化した後の形で表記されることに特徴があり、連声の起きた後の形から元の形に戻さなければ、[[辞書]]を引くこともできない。 単語間の連声を外連声、語幹(または語根)と語尾の間の連声を内連声と言う。両者は共通する部分もあるが、違いも大きい。 外連声の例として、a語幹の名詞の単数主格の語尾である {{transl|sa|-aḥ}} の例をあげる。 * 無声子音が後続するとき、硬口蓋音の前では {{transl|sa|-aś}}、そり舌音の前では {{transl|sa|-aṣ}}、歯音の前で {{transl|sa|-as}} に変化する。それ以外は {{transl|sa|-aḥ}} のまま<ref>{{transl|sa|ḥ}} は、古くは唇音の前で {{IPA|ɸ}}、軟口蓋音の前で{{IPA|x}} に変化した。Allen (1953) pp.49-51</ref>。 * 有声子音が後続するときには -o に変化する。 * a 以外の母音が後続するときには -a に変化する。 * a が後続するときには、後続母音と融合して -o に変化する。 == 文法 == [[名詞]]は[[性 (文法)|性]]の区別があり、[[数 (文法)|数]]と[[格]]によって変化する。性は男性、女性、中性があり、数には単数、双数、複数に分かれる。格は[[主格]]、[[呼格]]、[[対格]]、[[具格]]、[[与格]]、[[奪格]]、[[属格]]、[[処格]]の8つある。形容詞は名詞と性・数・格において一致する。代名詞は独特の活用を行う。 名詞・形容詞は語幹の末尾によって変化の仕方が異なる。とくに子音で終わる語幹は、[[連音]]による変化があるほか、語幹そのものが変化することがある。 [[動詞]]は、人称と数によって変化する。伝統的な文法では、動詞は[[語根]]({{transl|sa|dhātu}})によって示され、語根から現在語幹を作る方法によって10種に分けられている。[[時制]]組織は現在・未来・不完了過去・完了・[[アオリスト]]を区別するが、古典サンスクリットでは完了やアオリストは衰退しつつあった<ref>辻 (1974) p.111, 140</ref>。[[態]]には、[[能動態]]({{transl|sa|Parasmaipada}})と[[反射態]]({{transl|sa|Ātmanepada}}, [[ギリシア語]]の[[中動態]]に相当する。行為者自身のために行われることを表す)が存在するが、実際には両者の意味上の違いは必ずしも明らかでない<ref>辻 (1974) pp.106-107</ref>。[[受動態|受身]]はこれと異なり、使役などとともに、動詞に接尾辞を付加することによって表される。 動詞の[[法 (文法)|法]]には[[直説法]]、[[命令法]]、[[希求法]](願望法)、[[条件法]]、祈願法(希求法のアオリスト)がある。ヴェーダ語にはほかに[[接続法]]と[[指令法]]があったが、パーニニの時代には(固定した表現を除き)失われていた<ref>Cardona (2007) p.123</ref>。条件法と祈願法も古典サンスクリットでは衰退している<ref>辻 (1974) p.111, 149, 168</ref>。 サンスクリットでは不定詞、分詞、[[動形容詞|動詞的形容詞]]({{lang|en|gerundive}})などの[[準動詞]]が非常に発達している<ref>辻 (1974) p.110, 195ff, 252</ref>。 サンスクリットでは複合語が異常に発達し、他の言語では従属節を使うところを、複合語によって表現する<ref>辻 (1974) p.223</ref>。 == 語彙 == サンスクリットの語彙は非常に豊富であり、また複合語を簡単に作ることができる。多義語が多い一方、同義語・類義語も多い。 一例として数詞を[[IAST|IAST方式]]のローマ字表記で挙げる。なお、サンスクリットでは語形変化や[[連音]]によってさまざまな形をとるが、単語は語尾を除いた語幹の形であげるのが普通であり、ここでもその慣習による。 {| class="wikitable" ! 数詞 !! サンスクリット !! [[ギリシア語]](参考)[[倍数接頭辞]] |- ! 1 !! {{transl|sa|eka-}}, <small>エーカ</small> !! {{transl|la|hen-}} |- ! 2 !! {{transl|sa|dvi-}}, <small>ドゥヴィ</small> !! {{transl|la|di-}} |- ! 3 !! {{transl|sa|tri-}}, <small>トゥリ</small> !! {{transl|la|tri-}} |- ! 4 !! {{transl|sa|catur-}}, <small>チャトゥル</small> !! {{transl|la|tetra-}} |- ! 5 !! {{transl|sa|pañca-}}, <small>パンチャ</small> !! {{transl|la|penta-}} |- ! 6 !! {{transl|sa|ṣaṣ-}}, <small>シャシュ</small> !! {{transl|la|hexa-}} |- ! 7 !! {{transl|sa|sapta-}}, <small>サプタ</small> !! {{transl|la|hepta-}} |- ! 8 !! {{transl|sa|aṣṭa-}}, <small>アシュタ</small> !! {{transl|la|octa-}} |- ! 9 !! {{transl|sa|nava-}}, <small>ナヴァ</small> !! {{transl|la|ennea-}} |- ! 10 !! {{transl|sa|daśa-}}, <small>ダシャ</small> !! {{transl|la|deca-}} |} 実際にはこれに語尾がつく。たとえば、{{transl|sa|tri-}} 「3」は {{transl|sa|i-}} 語幹であるので、(複数)男性主格形は {{transl|sa|trayaḥ}} になる。さらにこの語が {{transl|sa|aśva-}} 「馬」を修飾する場合は、連音変化によって {{transl|sa|trayo 'śvāḥ}} となる<ref>辻 (1974) p.85</ref>。 == 文字・表記 == [[ファイル:John 3 16 Sanskrit translation grantham script.gif|thumb|円形[[グランタ文字]]による「[[ヨハネによる福音書]]」3章16節。言語はサンスクリット。[[19世紀]]半ば。]] サンスクリットは本来文字を持たない言語であり、その後も近代までは書記よりも読誦を主とする文化が続いていた。このことが逆に、時代・地域によって異なる様々な表記法をサンスクリットにもたらした<ref name="名前なし-3">『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 114頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>。サンスクリットが文字表記されるようになるのは[[4世紀]]ごろにインド系文字の祖である[[ブラーフミー文字]]がサンスクリット表記に使用されるようになってからであるが、この文字は本来より新しい言語である[[プラークリット]]の表記のために開発された文字であり、正確な表記のために新たな表記法が開発された<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p48-49 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。さらにブラーフミー文字表記のサンスクリットはインド文化とともに東南アジア諸国に伝播し、この地に多様な[[ブラーフミー系文字]]を生み出すこととなった<ref>「世界の文字を楽しむ小事典」p50 町田和彦編 大修館書店 2011年11月15日初版第1刷</ref>。日本では伝統的に[[悉曇文字]]([[シッダマートリカー文字]]の一種、いわゆる「[[梵字]]」)が使われてきたし、[[南インド]]では[[グランタ文字]]による筆記が、その使用者は少なくなったものの現在も伝えられている<ref name="名前なし-3"/>。 現在では、地域をとわずインド全般に[[デーヴァナーガリー]]を使ってサンスクリットを書くことが行われているが、このようになったのは最近のことである<ref>Cardona (2007) p.156</ref>。[[ラテン文字]]による[[翻字]]方式としては[[IAST]]が一般的である。 [[情報化]]の進展により、[[コンピュータ]]や[[インターネット]]が普及するようになってからは、子音の表現が複雑な[[デーヴァナーガリー]]に代わり、入力が比較的容易なIASTなどの表記が用いられるようになっている。<ref>http://shashir.autodidactus.org/shashir_umich/sanskrit_transcription.html</ref>インド国内向けのサイトを除き、基本的にはIAST表記が中心である。 == 他言語・言語学への影響 == [[File:Global distribution of Sanskrit language presence, texts and inscriptions dated between 300 and 1800 CE.svg|thumb|upright=1.5|300年から1800年にかけてのサンスクリットの文書や碑文が発見されている地域。こうした歴史的な文書や碑文は南アジア、東南アジア、東アジアの広い地域に存在している]] サンスクリットは近代インド亜大陸の諸言語にも大きな影響を与えた言語であり、[[ドラヴィダ語族]]に属する[[南インド]]諸語に対しても[[借用語]]などを通じて多大な影響を与えた<ref>「新インド学」pp8-9 長田俊樹 角川書店 平成14年11月10日初版発行</ref>。さらには主に宗教を通じて[[東南アジア]]や[[東アジア]]にも影響を与えた。東南アジアへの伝播は主にヒンドゥー教を通じてのものであり、[[クメール王国]]では15世紀ごろまでサンスクリットの碑文が多く作られた<ref>「サンスクリット」p152-153 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。また東アジアへは大乗仏教を通じて中国や[[チベット]]に伝播した<ref>「サンスクリット」p151-152 ピエール=シルヴァン・フィリオザ 竹内信夫訳 白水社 2006年6月10日発行</ref>。 また、サンスクリットは[[ヒンディー語]]の成立に大きな影響を与えた。もともと北インドの広い範囲では[[ヒンドゥスターニー語]]を基盤として[[ペルシア語]]や[[アラビア語]]の語彙や文法を取り入れた[[ウルドゥー語]]が使用されていたのだが、19世紀に入り[[ムスリム |イスラム教徒]]と[[ヒンドゥー教徒]]の対立が激しくなると、ヒンドゥー教徒側はウルドゥー語からペルシア語やアラビア語の借用語を取り除いてサンスクリットへと変える[[言語純化]]を行い、ヒンディー語が成立することとなった<ref>「アラビア語の世界 歴史と現在」p491 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。この動きは、1947年の[[インド・パキスタン分離独立]]によってさらに強まった<ref>「インド現代史1947-2007 上巻」p198 ラーマチャンドラ・グハ著 佐藤宏訳 明石書店 2012年1月20日初版第1冊</ref>。 また、サンスクリットの研究は[[言語学]]の成立と深くかかわっている。イギリスの裁判官であった[[ウィリアム・ジョーンズ (言語学者)|ウィリアム・ジョーンズ]]は、ベンガル最高法院に赴任していた1786年、サンスクリットと[[ギリシア語]]や[[ラテン語]]といった欧州系諸言語、さらに古代ペルシア語との文法の類似点に気づき、これら諸語が共通の[[祖語]]から分岐したとの説を[[ベンガル・アジア協会]]において発表した。この発表は後世に大きな影響を及ぼし、これをもって言語学が誕生したと一般的に考えられている<ref>「新インド学」pp17-19 長田俊樹 角川書店 平成14年11月10日初版発行</ref>。 さらにジョーンズの発見は[[インド学]]の発展を促し、1814年には[[コレージュ・ド・フランス]]にヨーロッパ初のサンスクリット講座が開設されて[[アントワーヌ=レオナール・ド・シェジー]]が教授に就任し<ref>「新インド学」pp79 長田俊樹 角川書店 平成14年11月10日初版発行</ref>、1818年にはドイツの[[ボン大学]]にも開設され<ref>「新インド学」pp80 長田俊樹 角川書店 平成14年11月10日初版発行</ref>、以後徐々にヨーロッパ各地の大学にサンスクリット講座が開設され研究が進むようになった。 == 仏教および日本への影響 == [[仏教]]では最初、日常言語であるプラークリットを用いて布教を行っており、[[仏典]]もまたプラークリットで[[パーリ仏典|パーリ語仏典]]として書かれていた。しかし4世紀に入り、グプタ朝が学術振興を行うとともにサンスクリットを公用語とすると、他宗教との論争や教理の整備の関係上、仏教でもサンスクリットが使用されるようになり<ref>「インド仏教史(下)」p8 平川彰 春秋社 2011年9月30日新版第1刷発行</ref>、また仏典がサンスクリットに翻訳されるようになった。この動きは特に[[大乗仏教]]において盛んとなり、以後大乗仏教は[[サンスクリット仏典]]が主流となっていった。この過程で、一時的に言語の混淆が起き、[[仏教混淆サンスクリット]]と呼ばれるサンスクリットとプラークリットの混合体が出現して仏典に一時期用いられた<ref>https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00001r5nek-att/GT236-HP-page5.pdf 「仏典翻訳の歴史とその変遷1」成田道広 [[天理大学]]Glocal Tenri Vol.20 No.8 August 2019 2019年8月11日閲覧</ref>。 上座部仏教がプラークリット(パーリ語)の仏典を保持したまま東南アジア方面へ教線を伸ばしていったのに対し、大乗仏教は北の[[シルクロード]]回りで[[東アジア]]へと到達し、仏教の伝播とともにサンスクリットはこれら諸国に伝えられていった。ただし初期の漢訳[[仏典]]の原典はかならずしもサンスクリットではなかったと考えられており、[[ガンダーラ語]]のようなプラークリットに由来する可能性もある<ref>{{cite journal|和書|url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_SK001700002367|title=阿弥陀浄土の原風景|author=辛嶋静志|journal=佛教大学総合研究所紀要|volume=17|year=2010|pages=15-44}}</ref>。しかし中国で仏教が広まるに従い、巡礼や仏典を求めて仏教発祥の地であるインドへと赴く、いわゆる入竺求法僧が現われはじめた。この時期にはインドの大乗仏教の仏典はほぼサンスクリット化されており、このため彼らによって持ち帰られた仏典の大半はサンスクリットによるものだった<ref>「玄奘」(人と思想106)p34-35 三友量順 清水書院 2016年4月25日新装版第1刷発行</ref>。5世紀の[[法顕]]や7世紀の[[義浄]]などが入竺求法僧として知られるが、なかでもこうした僧の中で最も著名なものは[[7世紀]]、[[唐]]の[[玄奘]]であり、持ち帰った膨大なサンスクリット仏典の漢訳を行って訳経史に画期をなした。彼以降の仏典訳は[[訳経史区分]]上新訳と呼ばれ<ref name="名前なし-4">長澤和俊『シルクロード』p212 講談社学術文庫、1993年 ISBN 4061590863</ref>、それ以前の[[鳩摩羅什]]らによる古い、しばしばサンスクリットからではない<ref>「玄奘」(人と思想106)p34- 三友量順 清水書院 2016年4月25日新装版第1刷発行</ref>旧訳と区分されている<ref name="名前なし-4"/>。 日本へは中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は遅くとも[[真言宗]]の開祖[[空海]]まではさかのぼることができる。仏教用語の多くはサンスクリットの漢字による音訳であり、"[[僧]]"、"[[盂蘭盆]]"、"[[卒塔婆]]"、"[[南無]]・[[阿弥陀如来|阿弥陀]]・[[仏陀|仏]]<ref>ただフレーズとしては[[インド]]の仏典になく中国日本の浄土思想家による</ref>"などがある。"[[檀那]](旦那)"など日常語化しているものもある。また、[[陀羅尼]](だらに、ダーラニー)、[[真言]]([[マントラ]])は漢訳されず、サンスクリットを音写した漢字で表記され、直接読誦される。陀羅尼は現代日本のいくつかの文学作品にも登場する([[泉鏡花]]「[[高野聖 (小説)|高野聖]]」など)。卒塔婆や護符などに描かれる文字については[[梵字]]を参照。[[日本語]]の[[五十音]]図の配列は、サンスクリットの伝統的な音韻表の配列に影響を受けていると考えられ、サンスクリット音韻学である[[悉曇学]]に由来するとされる。{{See also|五十音#歴史}} こうした仏教とのつながりのため、明治以後、日本でのサンスクリット研究は[[仏教学]]と深く結びついてきた。[[1876年]]には[[真宗大谷派]]の[[南條文雄]]が[[インド学]]研究のため[[オックスフォード大学]]に派遣され<ref>「仏教史研究ハンドブック」p330 佛教史学会編 法藏館 2017年2月25日初版第1刷</ref>、1885年に帰国すると[[東京大学|東京帝国大学]]で梵語講座を開設し、以後いくつかの大学でサンスクリットが教えられるようになった<ref>「新インド学」pp5-6 長田俊樹 角川書店 平成14年11月10日初版発行</ref>。 == 著名な文学・哲学・宗教文献 == * ヴェーダ関係(シュルティ、天啓文学) ** [[ヴェーダ]][[聖典]] *** [[リグ・ヴェーダ]] *** [[サーマ・ヴェーダ]] *** [[ヤジュル・ヴェーダ]] *** [[アタルヴァ・ヴェーダ]] ** [[ブラーフマナ]](祭儀書、梵書) ** [[アーラニヤカ]](森林書) ** [[ウパニシャッド]](奥義書) *** [[チャーンドーギヤ・ウパニシャッド]] *** [[ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド]] *** [[アイタレーヤ・ウパニシャッド]] *** [[イーシャー・ウパニシャッド]] *** [[カウシータキ・ウパニシャッド]] *** [[ケーナ・ウパニシャッド]] *** [[タイッティリーヤ・ウパニシャッド]] *** [[カタ・ウパニシャッド]] *** [[シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド]] * 叙事詩関係 ** [[マハーバーラタ]] *** [[バガヴァッド・ギーター]] *** [[ナラ王物語]] *** [[シャクンタラー (戯曲)|指輪によって思い出されたシャクンタラー]] *** {{仮リンク|ハリ・ヴァンシャ|en|Harivamsa}} ** [[ラーマーヤナ]] * [[ダルマ・シャーストラ]]関係 ** [[マヌ法典]] ** [[ヤージュニャヴァルキヤ法典]] * [[実利論|アルタ・シャーストラ]](実利論) * [[カーマ・スートラ]] * ナーティヤ・シャーストラ(演劇論) * [[ヴァーストゥ・シャーストラ]](建築論) * 哲学関係 ** {{仮リンク|ヴァイシェーシカ・スートラ|en|Vaisheshika Sutra}} ** [[ヨーガ・スートラ]] ** [[ニヤーヤ・スートラ]] ** [[ミーマーンサー・スートラ]] ** [[ブラフマ・スートラ]] ** [[サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ]](全哲学綱要) * [[カーリダーサ]]による戯曲 ** [[シャクンタラー (戯曲)|シャクンタラー]] ** [[ヴィクラモールヴァシーヤ]] * その他[[仏教]]の[[サンスクリット仏典]] **[[般若経]]、[[法華経]]、[[浄土三部経]]など。インド仏教の衰滅に伴い散逸した仏典が多く、[[チベット語]]訳や漢語訳にしかないものが多い == 映画音楽とサンスクリット == 母音の響きがよいという理由で映画音楽でコーラスを投入する際に使用されるケースが有る。 *『[[スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス]]』の楽曲「運命の闘い"Duel of the Fates"」では、[[ウェールズ語]]で書かれた[[タリエシン]]作の"木の戦い"英訳版からサンスクリットに翻訳されたテキストが歌われた。作曲は[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]。 *『[[マトリックス・レボリューションズ]]』のエンド・クレジットにかかる「ナヴラス"navras"(サンスクリットではナヴァ・ラサ、すなわち「9種類の感情([[ラサ (インド文化)|ラサ]])」の意味)」では、『[[ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド]]』1.3.28の「シャーンティマントラ(平和の祈り、実際の名前はパヴァマーナ・マントラ)」がオリジナルのサンスクリットのまま使われた。作曲は{{仮リンク|ドン・デイヴィス (作曲家)|en|Don Davis (composer)|label=ドン・デイヴィス}}と[[ベン・ワトキンス]]([[ジュノ・リアクター]])。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=辻直四郎|authorlink=辻直四郎|title=サンスクリット文法|year=1974|publisher=[[岩波全書]]}} * {{cite book|author=Allen, W. Sidney|year=1953|title=Phonetics in Ancient India|publisher=Oxford University Press}} * {{cite book|author=Cardona, George|chapter=Sanskrit|editor=Danesh Jain; George Cardona|title=Indo-Aryan Languages|publisher=Routledge|year=2007|origyear=2003|isbn=020394531X|pages=104-160}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Sanskrit}} {{Wiktionary|サンスクリット}} {{Wiktionarycat|サンスクリット由来}} {{Wikipedia|sa}} * [[インド語派]] * [[仏教混交サンスクリット]] * [[プラークリット]] * 文字・表記 **[[梵字]] **[[デーヴァナーガリー]] **[[IAST]] **[[京都・ハーバード方式]] * [[サンスクリット語映画]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~kondotak/sanskrit/index.html |title=サンスクリット |date=20110516234553}} * {{ethnologue|code=san}} * {{Kotobank}} * [https://www.manduuka.net/sanskrit/index.htm まんどぅーかのサンスクリット・ページ] {{ja icon}} - 文法解説や単語集などが豊富 * [https://aryan-dictionary.conohawing.com/html/sanskrit/sanskrit_index.php 印欧語活用辞典 - ヴェーダ語・梵語] {{ja icon}} - オンラインの活用表つき梵語辞典、辞書だけでなく学習ページも存在する。 * [https://www.learnsanskrit.cc/ LearnSanskrit.cc] {{en icon}} - オンラインの梵語辞典、用例や文章の検索もできる。IT関連の単語も多く収録されており、現代的な仕様になっている。 * [https://sanskritdictionary.com/ Sanskrit Dictionary] {{en icon}} - オンラインの梵語辞典、[[ヴェーダ語]]にしかない単語も収録されている。 * [https://sanskrit.inria.fr/index.html The Sanskrit Heritage Site] {{en icon}} {{fr icon}} - オンラインの活用表つき梵語辞典のサイト * [http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/sktdic/ Apte Sanskrit Dictionary Search] {{en icon}} * [https://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/monier/ Monier Williams Online Dictionary] {{en icon}} * [http://www.learnsanskrit.org/tools/sanscript Sanscript] - {{en icon}} インド系文字およびラテン文字によるサンスクリット表記を、他の文字・方式に変換できる翻訳エンジン {{インド・イラン語派}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さんすくりつと}} [[Category:サンスクリット語|*]] [[Category:インドの言語]] [[Category:典礼言語]] [[Category:ヒンドゥー教]] [[Category:仏教用語]] [[Category:仏典]] [[Category:古代語]] [[Category:SOV型言語]]
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PDA
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PDA 略語 携帯情報端末 動脈管開存症 ポリジアセチレン (PolyDiAcetylene) - 導電性高分子のひとつ。 人口と地域開発協会 ポテトデキストロース寒天培地 分電アセンブリ プロパン脱瀝法 公共での愛情の表現 - 人前でイチャつく行為を指す。 プッシュダウン・オートマトン 一般社団法人パーラメンタリーディベート人財育成協会 ポジーリャ・アヴィアのICAOコード。
'''PDA''' * 略語 ** [[携帯情報端末]] ({{Lang|en|Personal Digital Assistant}}) ** [[動脈管開存症]] ({{Lang|en|Patent Ductus Arteriosus}}) ** [[ポリジアセチレン]] ({{Lang|en|PolyDiAcetylene}}) - [[導電性高分子]]のひとつ。 ** [[人口と地域開発協会]] ({{Lang|en|Population and Community Development Association}}) ** ポテトデキストロース[[寒天培地]] ({{Lang|en|Potato dextrose agar medium}}) ** [[分電アセンブリ]] ({{Lang|en|Power Distribution Assembly}}) ** [[プロパン脱瀝法]] ({{Lang|en|Propane Deasphalting Process}}) ** 公共での愛情の表現 ({{Lang|en|Public Display of Affection}}) - 人前でイチャつく行為を指す。 ** [[プッシュダウン・オートマトン]] ({{Lang|en|Pushdown Automaton}}) **[[パーラメンタリーディベート人財育成協会|一般社団法人パーラメンタリーディベート人財育成協会]](Parliamentary Debate Personnel Development Association) * [[ポジーリャ・アヴィア]]の[[国際民間航空機関|ICAO]]コード。 {{aimai}}
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金貨
金貨(きんか)とは、金を素材として作られた貨幣。 金は、 などの理由で、古来、世界各地で貨幣の材料として使用されてきた。例えば古代ローマのソリドゥス金貨などである。 ただし、純金(24K)は、流通を前提とした硬貨として使用するには柔らかすぎるため、通常は、銀や銅などの他の金属との合金が用いられる(強度を上げる為に混入されるこれらの別の金属を「割金」と呼ぶ)。古代社会においては、エレクトラムと言われる、金、銀、白金などの自然合金が用いられた。近代社会では、日本やアメリカ合衆国を始め、一般的には90%の金と10%の銀または銅の合金が用いられた。イギリスでは、22カラット(金91.67%)の標準金と呼ばれる合金でソブリン金貨が、1817年から本位金貨として鋳造された。また、流通を目的としない近年の地金型金貨、収集型金貨には純金製の物も存在する。 日本では、江戸時代に発行された大判・五両判・小判・二分金・一分金・二朱金・一朱金といった金貨は金と銀の合金で製造され(金含有量は様々)、明治時代から昭和戦前までにかけて発行された本位金貨(日本の金貨参照)は金90%・銅10%の品位で製造され、戦後の記念金貨(日本の記念貨幣参照)は純金で製造されている。 世界でかつて発行された金貨の金品位はさまざまであるが、中には金品位が50%を下回るものも存在する。日本で江戸時代に発行された万延二分金、明治二分金、天保二朱金、万延二朱金、文政一朱金など、特に金品位が低く、金よりも銀の方が含有率の高いものは、現代の海外の貨幣市場では銀貨扱いとされることも多い。 ローマ帝国の後期には高額取引には金貨や銀貨、低額取引には銅貨が使用されており、日常使用される銭貨は銅貨で大量に流通していたが、600年頃には銅貨は実質的に消滅した。ビザンツ帝国支配下のイタリアや北アフリカを除いて、スペイン、ガリア、ブリテンなどではローマの銅貨が再利用されるに過ぎなくなったが、低額通貨が発行されなくなったのは経済生活が単純化したためといわれている。 一方、金貨は国家の収入と軍に対する支出の中心とされ、西欧でも発行が続けられており、6世紀頃にはトレミッシス貨が西欧では支配的な銭貨であった。アングロ・サクソン人はメロヴィング朝(フランク王国)の貨幣にならって600年代に金貨を製造するようになったが、7世紀後半にはイングランドなどで金貨の著しい貶質があり、銀によるペニー銀貨が支配的な銭貨になっていった。 中世の西欧では、長らく銀本位制で銀貨が鋳造されていたので金貨が鋳造されず、東方との貿易などで得られる東ローマ帝国(ビザンツ)のノミスマ金貨(ビザント)やイスラム圏のディナール金貨が使用されるのみだった。 9世紀から12世紀にかけてヨーロッパ各地で銀貨の製造がおこなわれていたが、南イタリアは東地中海のイスラム世界に強く結びついており金貨が製造されていた。ローマの貨幣製造所は8世紀頃にはユスティニアヌス1世によるローマ再支配以来続けていた皇帝貨などの製造をやめ、教皇貨の製造を始めたとされるが、これが商業上大きな意味を持っていたかはわかっていない。一方、フィレンツェ(フィレンツェ共和国)ではトスカーナ地方の多くの都市とは異なり、伝統的に教皇派で、商人がローマ教皇の銀行業務に参入しており、フリードリヒ2世の死後の1252年11月にフローリン金貨(フィオリーノ金貨)を導入することで自治権を主張するようになり、この金貨はヨーロッパ全土に広まって計算貨幣の基礎になった。その後、ジェノヴァ共和国でジェノヴァ金貨(Genovino)、ヴェネツィア共和国で1284年にゼッキーノ金貨(ドゥカートまたはダカット:Ducat)と呼ばれる金貨が鋳造された。金がイタリア北部に流入し、銀がイタリア南部に流入したことで、北部のフィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアでは金貨が製造されるようになったが、イタリア南部を含む東地中海世界では銀を中心とする経済に移行した。 フローリン金貨とゼッキーノ金貨の2つの金貨は優劣を競った。これらの金貨はともに品位は.875で、56グレーン(54トロイグレーン)の量目を有していた。 ドゥカート金貨はその後も現在に至るまで発行が続けられ(もちろん現在は収集用であるが)、近代になってからは、より純度の高い.986という品位で鋳造されている。 13世紀中葉には大型銀貨が流通するようになり、同時期に忘れ去られていた金貨製造の技術がアラビア世界からヨーロッパにもたらされた。 金貨の世界的な流通は、やがて「金製の貨幣」としての貨幣価値にとどまらず、金という物質そのものと経済を連動させる金本位制に発展した。この金本位制は1816年にイギリスで世界最初に確立された。 全世界で金本位制が崩れた現在では、法定の平価に相当する額面価値分の金を含有した本位金貨のみならず、通貨としての一般流通を目的とした金貨も世界のどこの国でも発行されていない。 現在発行されている金貨は、以下のいずれかに分類される。
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金貨(きんか)とは、金を素材として作られた貨幣。
'''金貨'''(きんか)とは、[[金]]を素材として作られた[[貨幣]]。 == 特徴 == [[Image:Fiorino 1347.jpg|right|thumb|240px|近代貨幣制度を確立したフローリン金貨]] [[Image:Sovereign George III 1817 641656.jpg|240px|thumb|金本位制を確立したイギリス1817年銘のソブリン金貨]] [[画像:5 Yen gold coin 1873.jpg|right|thumb|240px|新貨条例により登場した本位金貨<br />明治6年銘5円金貨]] 金は、 * 美しい黄色の[[光沢]]を放ち、見栄えがいいこと * 希少性があり偽造が難しいこと * 柔らかく加工しやすいこと * 化学的に極めて安定しており、日常的な環境では錆びたり腐食したりしないこと などの理由で、古来、世界各地で貨幣の材料として使用されてきた。例えば[[古代ローマ]]の[[ソリドゥス金貨]]などである。 ただし、純金(24K)は、[[流通]]を前提とした[[硬貨]]として使用するには柔らかすぎるため、通常は、[[銀]]や[[銅]]などの他の[[金属]]との[[合金]]が用いられる(強度を上げる為に混入されるこれらの別の金属を「割金」と呼ぶ)。古代社会においては、[[エレクトロン貨|エレクトラム]]と言われる、金、銀、[[白金]]などの自然合金が用いられた。近代社会では、[[日本]]や[[アメリカ合衆国]]を始め、一般的には90[[パーセント|%]]の金と10%の銀または銅の合金が用いられた。[[イギリス]]では、22[[カラット]](金91.67%)の標準金と呼ばれる合金で[[ソブリン金貨]]が、[[1817年]]から本位金貨として鋳造された。また、流通を目的としない近年の[[地金型金貨]]、[[収集型金貨]]には純金製の物も存在する。 日本では、江戸時代に発行された[[大判]]・[[五両判]]・[[小判]]・[[二分金]]・[[一分金]]・[[二朱金]]・[[一朱金]]といった金貨は金と銀の合金で製造され(金含有量は様々)、明治時代から昭和戦前までにかけて発行された本位金貨([[日本の金貨]]参照)は金90%・銅10%の品位で製造され、戦後の記念金貨([[日本の記念貨幣]]参照)は純金で製造されている。 世界でかつて発行された金貨の金品位はさまざまであるが、中には金品位が50%を下回るものも存在する。日本で江戸時代に発行された万延二分金、明治二分金、天保二朱金、万延二朱金、文政一朱金など、特に金品位が低く、金よりも銀の方が含有率の高いものは、現代の海外の貨幣市場では銀貨扱いとされることも多い。 == 歴史 == === 古代 === ; 古代ローマ(前期) : [[古代ローマ]]では皇帝[[アウグストゥス]]が、金貨1種類 ([[アウレウス]])、銀貨1種類(デナリウス)、銅貨5種類(セステルティウス、デュポンティウス、アス、セミス、クアドラートゥス)を導入した<ref name="eurasia">{{Cite journal|和書|author=内川勇太, 菊池雄太, 鶴島博和, ポペスクエイドリアン, ネイスミスローリー, デイウィリアム, デンツェルマルクス |title=前近代西ユーラシア貨幣史研究会第1回シンポジウム : 中世貨幣の世界 : 銭貨、銭貨製造地、銭貨製造人 (国際シンポジウム) |journal=立教經濟學研究 |year=2018 |month=mar |volume=71 |issue=4 |pages=143-191 |naid=120006465388 |doi=10.14992/00015844 |url=http://id.nii.ac.jp/1062/00015844/}}</ref>。アウグストゥスの各銭貨の価値の体系は固定比率で3世紀まで継続したが、215年に皇帝[[カラカラ]]が量目が1デナリウスの1.5倍しかない2デナリウスを導入するなど、金貨や銀貨の貶質が繰り返されこの制度を崩壊させた<ref name="eurasia" />。金貨アウレウスの価値も低下し、皇帝[[ガッリエヌス]]の時代には色が薄くなり縁も不均整で品位は本来の96.98%から60%程度まで貶質して、金貨と銀貨の関係も破綻した<ref name="eurasia" />。 : 金銀複本位制の回復のため新たな銭貨の導入などが試みられ、皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]]は新たな金貨を発行した<ref name="eurasia" />。さらに[[ディオクレティアヌス]]は包括的な貨幣制度の改革を行い、金貨と銀貨に加えて3種類の銅貨を導入したが、インフレ圧力が強まって金の価格も大きく変動した<ref name="eurasia" />。 : 310年頃、[[コンスタンティヌス1世]]はソリドゥス金貨とこれによる貨幣基準をローマ帝国西部に導入し、324年にクリュソポリスの戦いで勝利すると、ローマ帝国全域に新たな貨幣制度を導入することに成功した<ref name="eurasia" />。ソリドゥス金貨はディオクレティアヌスの貨幣と似た外見でありながら量目は軽くなっていたが、ローマ軍上層部の将校が金での支払いをするようになるなど金の流通を促進させた<ref name="eurasia" />。4世紀半ばには莫大な規模の金貨が製造されるようになったが、[[バルカン半島]]での金鉱の発見なども金貨製造増加の要因になった<ref name="eurasia" />。 ; 古代ローマ(後期) : 帝政後期にはソリドゥス金貨、その半分の量目とセミスと3分の1の量目のトレミッシスの3種類の金貨が発行された<ref name="eurasia" />。ローマ帝国の西部ではソリドゥスとトレミッシスの2種類の金貨が多く流通しておりゲルマン諸部族にも大きな影響を与えた<ref name="eurasia" />。古代ローマでは特別な贈与のための倍数ソリドゥス貨が打造され、大型貨幣(メダリオン)としてゲルマン人に贈呈され、それらは装飾品に加工されることもあった<ref name="eurasia" />。 : [[ウァレンティニアヌス1世]]や[[ウァレンス]]の治世には、徴税で納められた金の品位にばらつきが出ており、徴税人によるすり替えなどで銅にメッキを施した偽貨が流通するなど改革が必要になった<ref name="eurasia" />。そのため徴税された金は溶かして鋳塊として皇帝のもとに届けられ、皇帝の居所で金貨が製造されるようになり、地方の銭貨製造所は激減したが、この改革で金の品位は98-99%まで高められた<ref name="eurasia" />。 === 中世 === ローマ帝国の後期には高額取引には金貨や銀貨、低額取引には銅貨が使用されており、日常使用される銭貨は銅貨で大量に流通していたが、600年頃には銅貨は実質的に消滅した<ref name="eurasia" />。ビザンツ帝国支配下のイタリアや北アフリカを除いて、スペイン、ガリア、ブリテンなどではローマの銅貨が再利用されるに過ぎなくなったが、低額通貨が発行されなくなったのは経済生活が単純化したためといわれている<ref name="eurasia" />。 一方、金貨は国家の収入と軍に対する支出の中心とされ、西欧でも発行が続けられており、6世紀頃にはトレミッシス貨が西欧では支配的な銭貨であった<ref name="eurasia" />。[[アングロ・サクソン人]]はメロヴィング朝([[フランク王国]])の貨幣にならって600年代に金貨を製造するようになったが、7世紀後半にはイングランドなどで金貨の著しい貶質があり、銀によるペニー銀貨が支配的な銭貨になっていった<ref name="eurasia" />。 中世の西欧では、長らく[[銀本位制]]で[[銀貨]]が鋳造されていたので金貨が鋳造されず、東方との貿易などで得られる[[東ローマ帝国]](ビザンツ)の[[ソリドゥス金貨|ノミスマ金貨]]([[ビザント]])やイスラム圏の[[ディナール]]金貨が使用されるのみだった。 9世紀から12世紀にかけてヨーロッパ各地で銀貨の製造がおこなわれていたが、南イタリアは東地中海のイスラム世界に強く結びついており金貨が製造されていた<ref name="eurasia" />。ローマの貨幣製造所は8世紀頃には[[ユスティニアヌス1世]]によるローマ再支配以来続けていた皇帝貨などの製造をやめ、教皇貨の製造を始めたとされるが、これが商業上大きな意味を持っていたかはわかっていない<ref name="eurasia" />。一方、フィレンツェ([[フィレンツェ共和国]])ではトスカーナ地方の多くの都市とは異なり、伝統的に教皇派で、商人がローマ教皇の銀行業務に参入しており、[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の死後の[[1252年]]11月に[[フローリン金貨]](フィオリーノ金貨)を導入することで自治権を主張するようになり、この金貨はヨーロッパ全土に広まって計算貨幣の基礎になった<ref name="eurasia" />。その後、[[ジェノヴァ共和国]]でジェノヴァ金貨([[:it:Genovino|Genovino]])、[[ヴェネツィア共和国]]で[[1284年]]に<!--英語版によれば1284年-->[[ゼッキーノ]]金貨(ドゥカートまたはダカット:[[:en:Ducat|Ducat]])と呼ばれる金貨が鋳造された。金がイタリア北部に流入し、銀がイタリア南部に流入したことで、北部のフィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアでは金貨が製造されるようになったが、イタリア南部を含む東地中海世界では銀を中心とする経済に移行した<ref name="eurasia" />。 フローリン金貨とゼッキーノ金貨の2つの金貨は優劣を競った。これらの金貨はともに品位は.875で、56[[グレーン]](54トロイグレーン)の量目を有していた<!--当初の品位は875であり、近代になって986に改鋳。54グレーンはトロイグレーン 出典 A.Del Mar, History of monetary system. 1895 p116~p117 (意見はノートに)-->。 ドゥカート金貨はその後も現在に至るまで発行が続けられ(もちろん現在は収集用であるが)、近代になってからは、より純度の高い.986という品位で鋳造されている。 13世紀中葉には大型銀貨が流通するようになり、同時期に忘れ去られていた金貨製造の技術がアラビア世界からヨーロッパにもたらされた<ref name="eurasia" />。 === 近現代 === 金貨の世界的な流通は、やがて「金製の貨幣」としての貨幣価値にとどまらず、金という物質そのものと経済を連動させる[[金本位制]]に発展した。この金本位制は[[1816年]]にイギリスで世界最初に確立された。 全世界で金本位制が崩れた現在では、法定の平価に相当する額面価値分の金を含有した[[本位金貨]]のみならず、通貨としての一般流通を目的とした金貨も世界のどこの国でも発行されていない。 ==分類== {{Main|地金型金貨|収集型金貨}} 現在発行されている金貨は、以下のいずれかに分類される<ref>{{Cite book|和書|author= |title=日本貨幣収集事典 |publisher=原点社 |year=2003 |NCID=BA6277077X |ISBN=4990202015 |id={{全国書誌番号|20608823}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004181745-00}}</ref>。 ; 通貨型金貨 : [[金融機関]]において額面で[[両替]]により発売される。額面は金地金の価格より高く設定され、[[補助貨幣]]的な性格を有する。日本では10万円の[[記念金貨]]([[天皇陛下御在位六十年記念硬貨|天皇陛下御在位60年記念10万円金貨]])がこの形式で発売されたが、世界的にはほとんど例を見ない。 ; 地金型金貨 : 含有する金地金の市場価格に若干[[付加価値|プレミアム]]をつけて発売され、市場価格に連動して時価取引される。額面は金地金の価格より低く設定される。[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]、[[カナダ]]、[[中華人民共和国|中国]]およびアメリカなど主要な産金国を中心に発売されている。 ; 収集型金貨 : 金地金の価格および額面を超える固定価格で発売される。額面は金地金の価格より低く設定される場合が多い。市場における取引価格は[[収集]]家、あるいは貨幣商の間の市場価格により決まる。[[近代オリンピック|オリンピック]]大会など国家的な行事を記念して発売されることが多い。 ==著名な金貨== === 一般流通している金貨 === * 世界三大金貨 ** [[メイプルリーフ金貨]] ([[カナダ]]) ** [[ウィーン金貨]] ([[オーストリア]]) ** [[カンガルー金貨]] ([[オーストラリア]]) * その他 ** [[イーグル金貨]] ([[アメリカ]]) ** [[パンダ金貨]] ([[中国]]) ** [[ナゲット金貨]] (オーストラリア) === 過去に流通していた金貨 === * 近年 ** [[クルーガーランド金貨]] ([[南アフリカ共和国]]) == 各国の金貨 == * [[アメリカの金貨]] * [[日本の金貨]] * [[日本の記念貨幣]] == 参考文献 == {{reflist}} ==関連項目== {{commons|Category:Gold coins|金貨}} * [[貨幣学]] * [[貨幣史]] * [[記念貨幣]] * [[金地金]] * [[金本位制]] * [[古物商]] * [[地金型金貨]] * [[質屋]] * [[収集型金貨]] * [[ダリク]] * [[日本の金貨]] * [[本位貨幣]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きんか}} [[Category:金貨|*]]
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Tomak〜Save the Earth〜Love Story
『Tomak〜Save the Earth〜Love Story』(トマック〜セイブ・ジ・アース〜ラブ・ストーリー)とは2001年5月、韓国のSeed9社によって作られた恋愛シミュレーションゲーム。 神に滅ぼされようとする地球を救うために頭だけの姿で地上に降臨した愛の女神に愛を注ぐという生首育成ゲームである。 日本では、2002年3月、サンソフトよりWindows版が発売。同年12月19日にはPlayStation 2版も発売される。なお、「Tomak(토막)」とは、韓国語で「切れ端」「断片」といった意味である。 続編としてSeed9社より『토막again』が発売されたが、これは恋愛シミュレーションゲームではなくアーケード版シューティングゲームである。 『토막again』は日本では未発売だが、『月刊アルカディア』において少しだけ紹介されたことがある。 神々は、「人類は欲望に走りすぎているので、滅ぼした方がいいのではないか?」と話し合っていた。愛の神エビアンは、「人類には愛があります」と言ったが、他の神は「そんなものは、単なる肉体的な愛情だ」と取り合わない。結局、美しい肉体を捨てて首だけになったエビアンを愛する人間が現れれば、人類に精神的な愛情があることを認めて、人類を滅ぼすのを止めるということになった。そして、エビアンは種子となって地上に降りる。 3ヶ月後、あなた(プレイヤー)の部屋には、植木鉢から首だけを生やした女性(エビアン)がいた。首の回りには葉も出ていて、植物でもあるようだ。おまけに、あなたに話し掛けてくる!! しかし、あなたは、この奇怪な状況を受け入れて、彼女の世話をすることになる。 具体的には、植木鉢の置き場所を変えて温度・湿度を調整し、水分や食事を与え、コミュニケーションをとったり、オシャレをさせたりしてながら、エビアンの様々なステータスを上げていく。もし、健康状態が悪くなれば、神は地球を滅亡させてしまう。エビアンは接し方によって、普通の女性と同じよう(!?)に「ウキウキ」、「ひねくれ」、「ナマイキ」などの状態になり、それらに伴ってステータスも上下する。 また、プレイヤーは月に一度は街に出て、エビアンのために買い物をしたり、友人や普通の女性に会ったりもする。この女性たちとも交流を深めることも出来る。 3年間、しっかり育てることができれば、プレイヤーの行動に見合ったエンディングをむかえることが出来る。 シュールで異常な状況であるのは間違いないが、ゲームとしては少々ボリュームが足りないところがある位で、クソゲーというほどおかしなものではない。 また、OPの一部に『すごいよ!!マサルさん』のMAD映像が挿入されている。 声優は日本で発売されたPC版のもの。カッコ内の日本人名はPlayStation 2版のもの。
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『Tomak〜Save the Earth〜Love Story』(トマック〜セイブ・ジ・アース〜ラブ・ストーリー)とは2001年5月、韓国のSeed9社によって作られた恋愛シミュレーションゲーム。
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銀貨
銀貨(ぎんか)とは、銀を素材として作られた貨幣をいう。古来、金貨・銅貨とともに世界各地で流通した。 銀本位制下では銀貨は本位貨幣として、自由鋳造、自由融解が認められた無制限法貨であった。その代表的な物に、アメリカの1ドル銀貨、香港の1ドル銀貨、フランスの5フラン銀貨、メキシコの8レアル銀貨などがある。日本でも、明治時代には諸外国との貿易決済用に一円銀貨が発行されていた。 現在でも、フランス語では金銭を指して「銀」(アルジャン、argent)と言い、南米スペイン語圏の口語でもカネというニュアンスで「銀」(プラタ、plata)という。日本語でも銀行、路銀などの語で「銀」に金銭の意味を持たせている。 現代社会において、銀貨は最早流通用に発行されることはなく、ほとんどが収集家向けに特殊な仕上げ(プルーフ加工)をしたり、ケースに入れたりして販売されている。また、一部に地金型の銀貨も販売されている。日本では、臨時通貨法施行後も1966年に至るまで銀貨が発行されていた。平成期からは、1,000円・5,000円の記念銀貨が収集家向けに発行され、2005年には初めての記念500円銀貨も発行された。 銀貨の品位(純度)は、古より様々であり、日本では明治時代の50銭から5銭の補助通貨が80%、一円と貿易銀の本位銀貨が90%、明治末期から大正にかけての旭日10銭銀貨と大正から昭和初期にかけての小型鳳凰50銭銀貨が72%であった。また戦後発行された100円銀貨(鳳凰と稲穂のデザインがあり、稲穂のデザインのものは一般流通用として日本最後の銀貨)は60%であった。外国には、オランダの1グルデン銀貨(1917年まで、品位94.5%)などの高品位銀貨が存在したが、一般的に本位銀貨は90%(SV900)を使用するケースが多く、コインシルバーと呼ぶ。また、英国の銀貨は伝統的に92.5%(SV925)の品位で作られており、これをスターリングシルバーと呼ぶ。 なお、イエス・キリストの使徒のひとりユダが、銀貨30枚でイエスを異教徒に売り渡した事から、キリスト教文化圏において裏切りを表す成句として「銀貨30枚を受け取る」という表現が用いられる事がある。 白く輝く銀は天然の産出が少なく、その美しさは人を魅了するため古くから装飾品などに使われ、価値の高い金属であった。秤量貨幣としての銀貨は古くエジプト文明のころに萌芽が現れ、古代ギリシャ・ローマ文明では金貨に次いで高額な貨幣として鋳造された。 実際のところ、金は貨幣として流通させるには稀少に過ぎたため、銀が実質的な貨幣として重きをなし、広範な文明圏で流通した。通貨単位である「ドル」「ポンド」「リーブル」など、もとはいずれも銀貨について用いられた呼称である。さらに金と銀の交換比率(金銀比価)を政府が定めることで金銀複本位制が成立し、銀貨は金貨と並ぶ本位貨幣としての地位を築いた。 一方で近世にいたり銀山の新規採掘が相次ぎ、金銀比価が低下の一途を辿るようになると、国内に大量の銀を保有するフランスや中国の抵抗、さらにアメリカ合衆国では通貨供給量の増大を望む中西部農民、西部の銀坑夫、南部出身者らが金銀複本位制度の維持を主張した(自由銀運動(英語版))が通らず、19世紀末には主要国は金銀複本位制度を放棄して金本位制への移行を行った。ここにおいて本位貨幣としての銀貨はその役目を終え、銅貨と同じく補助貨幣としての銀貨が成立する。金本位制では金の絶対量が少量であるため、経済規模の拡大に対し対応できないとして恐慌の発生を懸念する声があり、さらにそれが現実のものとなったため、20世紀初頭には希少金属を貨幣価値の裏付けとする本位貨幣制度はその歴史に幕を閉じた。 20世紀に入り工業用銀需要の高まりなどで銀の価格が上昇すると、世界的に銀貨はニッケル、白銅などへの素材変更を余儀なくされていき、更に紙幣の流通もあって、20世紀の末ごろを最後に一般流通用として銀を貨幣に用いる国家は消滅し、現在に至っている。 円形方孔の銀製銭貨を銀銭というが、日本では、飛鳥時代に無文銀銭と呼ばれる貨幣の形態をした銀地金が貨幣の代わりに流通したと言われており、日本最古の通貨と言われている「和同開珎」も銅銭よりも先に銀銭が発行されている。これ以降250年の間に、律令国家は、12種類の銅銭と2種の銀銭(和同開珎銀銭・大平元宝)と1種の金銭(開基勝宝)を発行した。また、文献史料に記載はない銀銭片も先の金銭と共に見つかっている。 『日本書紀』には683年(天武12年)の詔として「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」と記録されており、ここでいう銅銭とは富本銭を指しているという説がある。また711年(和銅4年)には和同開珎のうち銀銭が廃止され、銅銭のみが通用力を持つとされた。しかしこの禁令は余り効力を持たなかったようで、721年(養老5年)には銀銭1枚が銅銭25枚、銀1両が銅銭100枚に相当するとの詔が発布されている。 銀銭の禁止理由としては、銅銭に比べて1枚当たりの発行利益が大きいために私鋳銭が横行したことや、政府が大陸との取引のために用いられる銀を回収したかったこと、当時は対馬以外では銀が産出しなかったため、そもそも銀の絶対量が少なく少額決済には不向きであったことなどが挙げられる。 従来から無文銀銭など、秤量貨幣として用いられていた銀と異なり、銅銭はその価値基準を定める経験に乏しく、価額設定は政府の恣意によるものとなった。711年(和銅4年)には銅銭1文で穀6升とされたが、729年(天平1年)米1石が銀1両、銭100文となっており、銅銭の価値は1/3に下落している。760年(天平宝字4年)には大平元宝という銀銭が発行されたといわれるが、これは流通目的ではなく、銅銭の価値を上げるためのものといわれ、さらに遺物も現存しない。 江戸時代に丁銀、豆板銀といった秤量銀貨が、主に西日本から北陸、東北で流通した。これは戦国時代から江戸時代初期に掛けて灰吹銀に極印を打った領国貨幣が商取引に盛んに使用されたことの名残である。だが、南鐐二朱銀の発行以後、定位貨幣である額面表記銀貨への移行が進み、江戸時代後期には、五匁銀、一分銀、一朱銀など、額面表記銀貨も発行された。秤量銀貨の丁銀、豆板銀、および定量銀貨の五匁銀は「銀~匁」といった銀目建の銀貨であるのに対し、南鐐二朱銀、一分銀、一朱銀といった銀貨は、銀製の金貨代用貨幣であり、金貨の単位で用いられたものである。これらの江戸時代の銀貨は銀銭の発達したものではなく、全く別系統のものである。 中国では明の洪武帝治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、1375年には通貨は大明宝鈔という紙幣に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、永楽帝のころには戦費捻出のために濫発され大きく価値を下落させた。明代中期以降は秤量貨幣としての銀(馬蹄銀)が主要な通貨となっていく。
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銀貨(ぎんか)とは、銀を素材として作られた貨幣をいう。古来、金貨・銅貨とともに世界各地で流通した。
[[File:Potosì 8 reales 1768 131206.jpg|thumb|right|300px|スペインドル(8レアル銀貨)、1768年 ]] '''銀貨'''(ぎんか)とは、[[銀]]を素材として作られた[[貨幣]]をいう。古来、[[金貨]]・[[銅貨]]とともに世界各地で流通した。 == 概要 == [[銀本位制]]下では銀貨は[[本位貨幣]]として、自由鋳造、自由融解が認められた無制限法貨であった。その代表的な物に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[:en:Morgan Dollar|1ドル銀貨]]、[[香港]]の1ドル銀貨、[[フランス]]の5フラン銀貨、[[メキシコ]]の8レアル銀貨などがある。日本でも、[[明治]]時代には諸外国との貿易決済用に[[一円銀貨]]が発行されていた。 現在でも、[[フランス語]]では[[お金|金銭]]を指して「銀」('''アルジャン'''、'''argent''')と言い、[[南アメリカ|南米]][[スペイン語]]圏の[[口語]]でもカネというニュアンスで「銀」('''プラタ'''、'''plata''')という。日本語でも[[銀行]]、路銀などの語で「銀」に金銭の意味を持たせている。 現代社会において、銀貨は最早流通用に発行されることはなく、ほとんどが[[収集家]]向けに特殊な仕上げ([[プルーフ貨幣|プルーフ加工]])をしたり、ケースに入れたりして販売されている。また、一部に地金型の銀貨も販売されている。日本では、[[臨時通貨法]]施行後も[[1966年]]に至るまで銀貨が発行されていた。[[平成]]期からは、1,000円・5,000円の記念銀貨が収集家向けに発行され、[[2005年]]には初めての記念500円銀貨も発行された。 銀貨の品位(純度)は、古より様々であり、日本では明治時代の50銭から5銭の[[補助貨幣|補助通貨]]が80%、一円と[[貿易銀]]の[[本位銀貨]]が90%、明治末期から大正にかけての旭日10銭銀貨と大正から昭和初期にかけての小型鳳凰50銭銀貨が72%であった。また戦後発行された[[百円硬貨|100円銀貨]](鳳凰と稲穂のデザインがあり、稲穂のデザインのものは一般流通用として日本最後の銀貨)は60%であった。外国には、[[オランダ]]の1グルデン銀貨(1917年まで、品位94.5%)などの高品位銀貨が存在したが、一般的に本位銀貨は90%(SV900)を使用するケースが多く、コインシルバーと呼ぶ。また、英国の銀貨は伝統的に92.5%(SV925)の品位で作られており、これを[[スターリングシルバー]]と呼ぶ。 なお、[[イエス・キリスト]]の[[使徒]]のひとり[[イスカリオテのユダ|ユダ]]が、銀貨30枚でイエスを異教徒に売り渡した事から、[[キリスト教]]文化圏において裏切りを表す成句として「銀貨30枚を受け取る」という表現が用いられる事がある。 == 歴史 == [[ファイル:Rudolf II Thaler.jpg|thumb|ドルの語源となった[[ターラー (通貨)|ターラー銀貨]]]] 白く輝く銀は天然の産出が少なく、その美しさは人を魅了するため古くから装飾品などに使われ、価値の高い金属であった。[[秤量貨幣]]としての銀貨は古く[[エジプト文明]]のころに萌芽が現れ、古代ギリシャ・[[古代ローマの通貨|ローマ文明]]では金貨に次いで高額な貨幣として鋳造された。 実際のところ、金は貨幣として流通させるには稀少に過ぎたため、銀が実質的な貨幣として重きをなし、広範な文明圏で流通した。[[通貨単位]]である「[[ドル]]」「[[ポンド (通貨)|ポンド]]」「[[リーブル]]」など、もとはいずれも銀貨について用いられた呼称である。さらに金と銀の交換比率([[金銀比価]])を政府が定めることで[[金銀複本位制]]が成立し、銀貨は金貨と並ぶ本位貨幣としての地位を築いた。 一方で近世にいたり[[銀山]]の新規採掘が相次ぎ、金銀比価が低下の一途を辿るようになると、国内に大量の銀を保有する[[フランス]]や[[中国]]の抵抗、さらに[[アメリカ合衆国]]では[[通貨供給量]]の増大を望む中西部農民、西部の銀坑夫、南部出身者らが金銀複本位制度の維持を主張した({{仮リンク|自由銀運動|en|Free silver}})が通らず、19世紀末には主要国は金銀複本位制度を放棄して[[金本位制]]への移行を行った。ここにおいて本位貨幣としての銀貨はその役目を終え、銅貨と同じく[[補助貨幣]]としての銀貨が成立する。金本位制では金の絶対量が少量であるため、経済規模の拡大に対し対応できないとして[[恐慌]]の発生を懸念する声があり、さらにそれが現実のものとなったため、20世紀初頭には希少金属を貨幣価値の裏付けとする本位貨幣制度はその歴史に幕を閉じた。 [[画像:American Silver Eagle, obverse, 2004.png|thumb|right|150px|2004年にアメリカで発行された地金型銀貨。1[[トロイオンス]]。]] 20世紀に入り工業用銀需要の高まりなどで銀の価格が上昇すると、世界的に銀貨は[[ニッケル]]、[[白銅]]などへの素材変更を余儀なくされていき、更に[[紙幣]]の流通もあって、20世紀の末ごろを最後に一般流通用として銀を貨幣に用いる国家は消滅し、現在に至っている。 == 日本・中国の前近代の銀貨 == [[ファイル:Wadogin.jpg|thumb|150px|和同開珎銀銭([[飛鳥時代]])]] [[ファイル:Keicho-chogin2.jpg|thumb|150px|慶長丁銀(江戸時代)]] 円形方孔の銀製[[銭貨]]を銀銭というが、日本では、[[飛鳥時代]]に[[無文銀銭]]と呼ばれる貨幣の形態をした銀[[地金]]が貨幣の代わりに流通したと言われており、日本最古の[[通貨]]と言われている「[[和同開珎]]」も[[銅銭]]よりも先に[[銀銭]]が発行されている。これ以降250年の間に、律令国家は、[[皇朝十二銭|12種類の銅銭]]と2種の銀銭([[和同開珎]]銀銭・[[大平元宝]])と1種の金銭([[開基勝宝]])を発行した。また、文献[[史料]]に記載はない[[賈行|銀銭片]]も先の金銭と共に見つかっている。 『[[日本書紀]]』には[[683年]]([[天武天皇|天武]]12年)の[[詔]]として「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」と記録されており、ここでいう銅銭とは[[富本銭]]を指しているという説がある。また[[711年]]([[和銅]]4年)には和同開珎のうち銀銭が廃止され、銅銭のみが通用力を持つとされた。しかしこの禁令は余り効力を持たなかったようで、[[721年]]([[養老]]5年)には銀銭1枚が銅銭25枚、銀1[[両]]が銅銭100枚に相当するとの詔が発布されている。 銀銭の禁止理由としては、銅銭に比べて1枚当たりの[[通貨発行益|発行利益]]が大きいために[[私鋳銭]]が横行したことや、政府が大陸との取引のために用いられる銀を回収したかったこと、当時は[[対馬]]以外では銀が産出しなかったため、そもそも銀の絶対量が少なく少額決済には不向きであったことなどが挙げられる。 従来から無文銀銭など、[[秤量貨幣]]として用いられていた銀と異なり、銅銭はその価値基準を定める経験に乏しく、価額設定は政府の恣意によるものとなった。[[711年]]([[和銅]]4年)には銅銭1文で穀6[[升]]とされたが、[[729年]]([[天平]]1年)米1[[石 (単位)|石]]が銀1両、銭100文となっており、銅銭の価値は1/3に下落している<ref>{{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄|title=日本の貨幣の歴史|year=1996|pages=|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-642-06652-7}} {{要ページ番号|date=2015年2月}}</ref>。[[760年]]([[天平宝字]]4年)には[[大平元宝]]という銀銭が発行されたといわれるが、これは流通目的ではなく、銅銭の価値を上げるためのものといわれ、さらに遺物も現存しない。 [[江戸時代]]に[[丁銀]]、[[豆板銀]]といった[[秤量銀貨]]が、主に[[西日本]]から[[北陸]]、[[東北]]で流通した。これは[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から江戸時代初期に掛けて[[灰吹銀]]に極印を打った[[領国貨幣]]が商取引に盛んに使用されたことの名残である。だが、[[南鐐二朱銀]]の発行以後、[[定位貨幣]]である額面表記銀貨への移行が進み、江戸時代後期には、[[五匁銀]]、[[一分銀]]、[[一朱銀]]など、額面表記銀貨も発行された。秤量銀貨の丁銀、豆板銀、および定量銀貨の五匁銀は「銀~[[匁]]」といった[[銀目]]建の銀貨であるのに対し、南鐐二朱銀、一分銀、一朱銀といった銀貨は、銀製の金貨代用貨幣であり、金貨の単位で用いられたものである。これらの江戸時代の銀貨は銀銭の発達したものではなく、全く別系統のものである。 中国では[[明]]の[[洪武帝]]治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、[[1375年]]には通貨は[[大明宝鈔]]という[[紙幣]]に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、[[永楽帝]]のころには戦費捻出のために濫発され大きく価値を下落させた。明代中期以降は秤量貨幣としての銀([[馬蹄銀]])が主要な通貨となっていく。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Wiktionary|貨幣}} {{Commons|Category:Silver coins|銀貨}} * [[大型銀貨]] * [[貨幣学]] * [[貨幣史]] * [[記念貨幣]] * [[記念銀貨]] * [[硬貨]]([[金貨]]・[[銅貨]]) * [[ターラー (通貨)|ターラー]] * [[テトラドラクマ]] * [[通貨]] * [[日本の銀貨]] * [[秤量銀貨]] * [[補助銀貨]] * [[本位銀貨]] * [[貿易銀]] * 『[[星の銀貨]]』 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きんか}} [[Category:銀貨|*]]
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多体問題
多体問題(たたいもんだい、英: multibody problem)は、互いに相互作用する3体以上からなる系を扱う問題である。 古典的な多体問題としては、太陽系のような恒星と惑星が、万有引力で相互作用し合う場合の惑星運行の問題が挙げられる。太陽と地球のような二体問題は厳密に解けるが、例えば月の運動も考える一般の三体問題以上になると解析的に解くことはできないとされる(限定された条件(制限三体問題など)では解が存在する)。18世紀にはジョゼフ=ルイ・ラグランジュが研究を深め、19世紀末にアンリ・ポアンカレによって証明された。ただしポアンカレの証明は積分法(代数変換、初等関数の変換、積分の有限回による解法)の範囲であり、この範囲以外の解法の存在については現在も不明である。 惑星運行に関しては摂動あるいは数値解析を利用して多体問題を計算する。カオスが起こるかどうかはその状態により変わり、またカオスの定義が研究者ごとに違うため、この議論は明確でない。なおカオス(ここではリアプノフ指数が正で非周期解)が起こる場合には、質量の小さな星は系からキックされ、最後には質量の重い星が非常に狭い範囲に複雑な軌道を描くとされているが、詳細は決着がついていない。 スーパーコンピュータや厳密なソフトウェアを使用した様々なシミュレーションが行われているが、全く同じ条件でシミュレーションを開始しても異なる結果になったり、時間を巻き戻しても元の状態に戻らない現象が起きる。これが多体の相互作用そのものによる性質(時間反転対称性を破る)なのか、シミュレーションプログラムのバグなのかすら判明していない。 量子力学上の多体問題としては、電子を2つ以上持つ原子における電子の電子状態を求める問題などがある。粒子数が膨大な場合は、様々な近似を使って問題を単純化してから計算する(量子多体問題)。
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多体問題は、互いに相互作用する3体以上からなる系を扱う問題である。
{{Otheruses|古典力学|量子論|多体問題 (量子論)}} {{出典の明記|date=2023年10月}} '''多体問題'''(たたいもんだい、{{lang-en-short|multibody problem}})は、互いに[[相互作用]]する3体以上からなる系を扱う問題である<ref>{{天文学辞典 |urlname=many-body-problem}}</ref>。 == 古典論 == 古典的な多体問題としては、[[太陽系]]のような[[恒星]]と[[惑星]]が、[[万有引力]]で相互作用し合う場合の惑星運行の問題が挙げられる。[[太陽]]と[[地球]]のような[[二体問題]]は厳密に解けるが、例えば[[月]]の運動も考える一般の[[三体問題]]以上になると[[解析的]]に解くことはできないとされる(限定された条件(制限三体問題など)では解が存在する)。[[18世紀]]には[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ]]が[[研究]]を深め、[[19世紀]]末に[[アンリ・ポアンカレ]]によって証明された。ただしポアンカレの証明は[[積分法]](代数変換、[[初等関数]]の変換、積分の有限回による解法)の範囲であり、この範囲以外の解法の存在については現在も不明である。 惑星運行に関しては[[摂動 (天文学)|摂動]]あるいは[[数値解析]]を利用して多体問題を計算する。[[カオス理論|カオス]]が起こるかどうかはその状態により変わり、またカオスの定義が研究者ごとに違うため、この議論は明確でない。なおカオス(ここでは[[リアプノフ指数]]が正で非周期解)が起こる場合には、質量の小さな星は系からキックされ、最後には質量の重い星が非常に狭い範囲に複雑な軌道を描くとされているが、詳細は決着がついていない。 == 量子論 == {{main|多体問題 (量子論)}} [[量子力学]]上の多体問題としては、電子を2つ以上持つ[[原子]]における[[電子]]の[[電子状態]]を求める問題などがある。粒子数が膨大な場合は、様々な[[近似]]を使って問題を単純化してから計算する([[量子多体問題]])。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連記事 == *[[グリーン関数]] *[[ラグランジュ点]] *[[N体シミュレーション]] **[[GRAPE]] == 外部リンク == {{Spedia|Three_Body_Problem|Three Body Problem|三体問題}} * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たたいもんたい}} [[Category:力学]] [[Category:天体力学]] [[Category:量子力学]] [[Category:計算物理学]]
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大井競馬場
大井競馬場(おおいけいばじょう、Ohi Racecourse)は、東京都品川区勝島にある地方競馬の競馬場である。施設は東京都競馬株式会社の所有で、特別区競馬組合が賃借し「東京シティ競馬 (TCK)」の愛称で競馬を施行している。川崎競馬場(神奈川県川崎市)、浦和競馬場(埼玉県さいたま市)、船橋競馬場(千葉県船橋市)と共に南関東公営競馬を構成する。SPAT4加盟。 1950年(昭和25年)5月に開場。同年8月には特別区に対し競馬開催が認可され、10月に設立された特別区競馬組合により、11月に第1回区営競馬が開催された。敷地内には1954年から大井オートレース場も併設していたが、大井オートレース場は、1973年に廃止された。 かつては特別区のほかに東京都庁も競馬を主催していたが、1967年に東京都知事に就任した美濃部亮吉が都営ギャンブルの全廃を宣言。東京都が年8回開催していた大井競馬については、1970年度(昭和45年度)から開催回数を減少させて1973年度(昭和48年度)までに廃止する方針を打ち出した。これに対して特別区側は、都が減少させる開催分を肩代わりすることを宣言。結果的に東京都が主催者の立場から撤退したのみで開催数に変化はないまま、現在は特別区のみが主催している。ただし東京都庁は大井競馬場や地方競馬電話投票システムSPAT4の所有および運営を行っている東京都競馬株式会社の筆頭株主であり、現在も間接的に公営競技から利益を得ている。 日本の競馬で使用されているゴール写真判定、枠別の帽色、スターティングゲート、パトロールフィルム制度は、いずれも大井競馬場が初めて採用した。また、拡大馬番号連勝複式勝馬投票法(ワイド)も、大井競馬場が日本で最初に発売開始した。 1995年(平成7年)8月には、サンタアニタパーク競馬場と友好交流提携に調印。交換競走として大井競馬場では「サンタアニタトロフィー」が、サンタアニタパーク競馬場では「東京シティカップ」が行われている。 平坦な右回りの砂(ダート)コース。第3コーナーから第4コーナーにかけて内回りと外回りの2コースが存在し、現在は1500m・1600mのみ内回りを使用する。本馬場内側には、調教用の練習馬場(1周1500m、幅員15m)も設けられている。スパイラルカーブは採用されていない。 2021年に左回りコースが新設され(後述)、世界で唯一の「両回り」のコースとなった。 2023年、第23回JBC競走開催に合わせて、砂を入れ替える工事を行った。新たに使用するのはオーストラリア・西オーストラリア州の新砂。実際に園田競馬場・船橋競馬場・門別競馬場でも使用されたもので、中日スポーツの小泉恵未の寄稿でインタビューに答えた大井競馬場騎手の和田譲治は、船橋競馬場の経験を踏まえて「船橋の砂は雨が降った時に引っ付かないので、板を取る必要がありません。厩務員さんも、馬の手入れが本当に楽になったと言っていました。馬のためにも、人のためにも今回の砂の入れ替えはうれしいです」とするコメントを残している このうち2400mは東京記念、2600mは金盃でのみ使用する。2600mについては、かつては大井記念でのみ使用していたが、大井記念を帝王賞トライアル競走に指定するために2014年から2015年にかけて金盃と距離を入れ替えた。また、1500mについては2018年9月21日の開催を最後に使用されていない。 過去には外回りで2500m・2800m・3000m、内回りで1000m・1200m・1800mの距離設定もあったが、2019年4月現在では全て設定が無い。 2019年度末に開場70周年を迎える2020年度の競走事業について会見を開き左回りレースの導入が発表され、左回り1650mコースを新設し各開催日の最終競走にて同コースを使用した競走を行う方針が発表された。また、左回り1000mコースのスタート地点の設置も予定されており、将来的には左回りでの2000mの競走を施行する意向も示された。 左回りレースの導入に至った経緯のひとつに、海外競馬のダートコースはほとんどが左回りであることが挙げられる。国際交流競走の東京大賞典において回りの問題で海外馬に出走を断られた経緯があることから、大井競馬場でも左回りの環境を整備することにより外国馬の出走誘致を目指す方針である。 左回りコースのゴールは現在のホームストレッチ右手(4号スタンド前・右回りコースにおける残り200m地点)に設定されており、右回りコースにおけるゴール地点が左回りコースにおける残り200m地点に相当する。残り100m地点(ハロン棒が設置されている)はどちらのコースでも共通となっており、他のハロン棒の設置位置も左回りコースにおけるゴールまでの残り距離の100の倍数と一致する。なお、左回りコースのゴール板は内側の調教用走路の奥に設置され、同地点のハロン棒は右回り用の「2」と左回り用の「G」のツートンカラーに塗り替えられている。両回りコースでの競馬開催は、現存する競馬場の中では世界唯一の事例となる。 当初予定では2020年度中の2021年1月頃からのレース施行を見込んでいたが、そこから丸1年近く後の2021年11月19日の13回大井競馬5日・第12競走「Make New Way賞」にて左回り1650mのレースが初めて施行された。 プレスリリースでは「将来的にはレース数を増やす」意向を示しているものの、実務上の問題があり、当面は開催最終日の最終レースを基本として設定し、施行されている。 大井競馬場では、3月下旬から12月上旬の間トゥインクルレースとしてナイター競馬が施行されている。2010年は上記の期間に加え12月24日・25日の2日間もナイター競馬が施行された。2012年も上記期間に加え12月27日・28日に「年忘れカウントダウントゥインクル」としてナイター競馬が施行された。 2021年11月現在、ナイター期間中における最終競走発走予定時刻は20時50分で、有観客で行われるナイター競走としては全国の公営競技場の中でも川崎競馬場、船橋競馬場及び高知競馬場と並んで日本で最も遅い。うち高知競馬場は、2012年12月24日まで20時55分に設定されていて、また大井競馬場でも2002年8月から2006年3月まで同じく20時55分の設定となっていた。 また、年末開催では薄暮競走(プチ・トゥインクル)を実施している。 競馬開催時の入場料は100円。 勝馬投票券発売開始時刻 12:00 - 大井競馬場・各場外・在宅投票共通。なお重賞競走前日[開催日に限る]において、当該競走の前日発売を実施する発売場では、同時刻に前日発売を開始する。但しSPAT4等の在宅投票システムでは前日発売は行わない。 大井競馬場開門予定時刻 14:40 - 但し12レース制がとられる日など、第1競走の発走予定時刻が15:20より前になる場合は開門時刻はその40分前となる。 最終競走発走予定時刻 20:50 - 但し「地方競馬IPAT」対応に伴い20:40となる場合がある。(脚注参照) 2011年は3月28日からの予定だったが東日本大震災の影響により3月28日から4月1日までの開催は中止、4月18日から4月22日までは電力事情を踏まえて昼間開催(同時期、川崎競馬場も昼間開催、かつレース数を制限)となったため、5月9日から12月2日までの13開催・71日間となる。 また2014年には浦和競馬場との2元リレー開催を実施(浦和は基本昼間開催。大井はナイター)された。翌年以降は暫く実施されなかったが2018年に再び実施され、翌年以降も年に数回実施されるようになった(2022年現在継続中)。 厩舎は競馬場内と小林牧場(千葉県印西市)にある。 現在のスタンドはL-WING、G-FRONT、4号スタンドの3つからなる。 会員制の「TCKカード」を発行し、来場ポイントに応じて抽選で景品がもらえるサービスも行っている。 毎年3月下旬に次年度テーマが発表され、4月より実施される。以下は各年度のコミュニケーションテーマと、その年度のテレビCM出演者。 以下は2020年度施行の重賞。 競走名の後に付く重賞名は、その準重賞がトライアル競走として指定されている。なお、準重賞の正式名称は、全て「'○○(西暦の下二桁)△△△△(レース名)」となる。 サラ系の競走のみ記載。距離欄の「内」は内回り、「左」は左回り。 参考資料:TCK公式サイト内「TCK Record」 1970年代のアイドルホースハイセイコーのデビュー地であり、大井競馬では6戦6勝(重賞・青雲賞も含む)。死去後に青雲賞はハイセイコー記念と改称し、あわせて馬像が作成され、大井競馬場の場内に設置されている(他に中山競馬場、新冠町)。 またハイセイコー以外の大井競馬場に所属し、活躍した名馬を称えて、以下の14頭14枚のレリーフが大井競馬場内のレストラン「STAR LIGHT」に飾られている(2023年1月6日現在)。 前年の大井競馬場で優秀な成績をおさめた人馬や、大井競馬場の発展に功績のあった人馬等を年1回顕彰している。2014年創設。 過去の受賞者はTCK大賞の項目を参照 テレビ中継は地上波およびCSテレビ、インターネット配信にて行われている。 地上波では1960年代から1985年頃まではテレビ朝日、1985年頃から1995年頃までは千葉テレビとTVKテレビの共同制作でそれぞれ中継を行っていたが、いずれも終了しており、1995年11月6日以降現在まではTOKYO MXが行っている。 2008年以降はTOKYO MXの番組編成が変更となり、アナログ放送および地上デジタル放送メインチャンネル(TOKYO MX 1)での放送が打ち切られ、地上デジタル放送サブ(TOKYO MX 2)、ワンセグのみでの放送となった。後にメインチャンネル(TOKYO MX 1)に復帰。またTOKYO MXが提供する同時配信アプリ「エムキャス」でもライブ配信されている。 東京大賞典は2018年まで日本BS放送(BS11)にて中継を行っていたが、2019年以降はフジテレビに放映権が移動し、同局並びに一部のフジテレビ系列局(東海テレビ・関西テレビ・北海道文化放送)とBSフジにて同時中継を行っている。 なお、BS11は帝王賞とジャパンダートダービーの中継も行っているが、該当競走はナイター開催であることから、引き続き同局にて中継を行っている。 また、スカパー!の南関東地方競馬チャンネル (Ch.120、Ch.678) では全レースを放送している(Ch.120は標準画質からHD放送への移行にともない、2014年5月31日をもって放送終了)。 2012年4月からはダートグレード競走、同年10月以降は、ほとんどの重賞競走についてはグリーンチャンネルでも放送されている。 定額制動画配信サービスのDAZNでも、2020年11月3日開催のジャパンブリーディングファームズカップから重賞競走を含む一部のレース中継をライブ配信されていたが、2022年12月31日をもって終了している。 2013年4月7日よりL-WINGにおいて、日本中央競馬会からの委託により「J−PLACE大井」としてJRAの馬券を発売する。ただし発売は大井本場開催日の日曜祝日、並びに有馬記念・ホープフルステークスの開催日(この2競走実施日は大井本場開催の有無にかかわらず発売)で12:00頃以降のレースのみとなる。払戻は大井のほか全国のJ−PLACE施設・offt後楽園・offt汐留(offt後楽園・汐留は、南関東4競馬場での場外発売実施日に払い戻し可能)で可能。 2015年11月1日に新スタンド「GーFRONT」が竣工したのに伴い、大井以外で南関東の地方競馬が施行される日の場外発売を「offt大井(オフト・おおい)」として、11月9日より運用を開始することになった。通常開催日は3000円の入場料となっている3Fプライムシートが500円、2Fのヴィクトリーシートは開催日1000円のところを無料で開放する。また他場場外発売実施日などを中心にトークショーなどのイベントも予定している。 大井競馬場では馬券を9種類発売しており、これは中央・地方通じて最も多い。 ○...発売 ×...発売なし 各地で場外発売を行っており、地方競馬としては幅広く展開している。 特に記述のない発売所では、大井競馬場の他、浦和競馬場・川崎競馬場・船橋競馬場の場外発売も行っている。 詳細は場外勝馬投票券発売所#地方競馬の場外勝馬投票券発売所や、「南関東4競馬場共同サイト」内の場外発売案内ページを参照。 いずれも廃止された旧新潟県競馬から引き継いだ施設。
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大井競馬場・各場外・在宅投票共通。なお重賞競走前日[開催日に限る]において、当該競走の前日発売を実施する発売場では、同時刻に前日発売を開始する。但しSPAT4等の在宅投票システムでは前日発売は行わない。", "title": "開催概要" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大井競馬場開門予定時刻 14:40 - 但し12レース制がとられる日など、第1競走の発走予定時刻が15:20より前になる場合は開門時刻はその40分前となる。", "title": "開催概要" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "最終競走発走予定時刻 20:50 - 但し「地方競馬IPAT」対応に伴い20:40となる場合がある。(脚注参照)", "title": "開催概要" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2011年は3月28日からの予定だったが東日本大震災の影響により3月28日から4月1日までの開催は中止、4月18日から4月22日までは電力事情を踏まえて昼間開催(同時期、川崎競馬場も昼間開催、かつレース数を制限)となったため、5月9日から12月2日までの13開催・71日間となる。", "title": "開催概要" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また2014年には浦和競馬場との2元リレー開催を実施(浦和は基本昼間開催。大井はナイター)された。翌年以降は暫く実施されなかったが2018年に再び実施され、翌年以降も年に数回実施されるようになった(2022年現在継続中)。", "title": "開催概要" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "厩舎は競馬場内と小林牧場(千葉県印西市)にある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "現在のスタンドはL-WING、G-FRONT、4号スタンドの3つからなる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "会員制の「TCKカード」を発行し、来場ポイントに応じて抽選で景品がもらえるサービスも行っている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "毎年3月下旬に次年度テーマが発表され、4月より実施される。以下は各年度のコミュニケーションテーマと、その年度のテレビCM出演者。", "title": "コミュニケーションテーマ・CM出演者" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下は2020年度施行の重賞。", "title": "主な競走" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "競走名の後に付く重賞名は、その準重賞がトライアル競走として指定されている。なお、準重賞の正式名称は、全て「'○○(西暦の下二桁)△△△△(レース名)」となる。", "title": "主な競走" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "サラ系の競走のみ記載。距離欄の「内」は内回り、「左」は左回り。", "title": "レコードタイム" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "参考資料:TCK公式サイト内「TCK Record」", "title": "レコードタイム" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1970年代のアイドルホースハイセイコーのデビュー地であり、大井競馬では6戦6勝(重賞・青雲賞も含む)。死去後に青雲賞はハイセイコー記念と改称し、あわせて馬像が作成され、大井競馬場の場内に設置されている(他に中山競馬場、新冠町)。", "title": "ハイセイコー像と名馬レリーフ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "またハイセイコー以外の大井競馬場に所属し、活躍した名馬を称えて、以下の14頭14枚のレリーフが大井競馬場内のレストラン「STAR LIGHT」に飾られている(2023年1月6日現在)。", "title": "ハイセイコー像と名馬レリーフ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "前年の大井競馬場で優秀な成績をおさめた人馬や、大井競馬場の発展に功績のあった人馬等を年1回顕彰している。2014年創設。", "title": "TCK大賞" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "過去の受賞者はTCK大賞の項目を参照", "title": "TCK大賞" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "テレビ中継は地上波およびCSテレビ、インターネット配信にて行われている。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "地上波では1960年代から1985年頃まではテレビ朝日、1985年頃から1995年頃までは千葉テレビとTVKテレビの共同制作でそれぞれ中継を行っていたが、いずれも終了しており、1995年11月6日以降現在まではTOKYO MXが行っている。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2008年以降はTOKYO MXの番組編成が変更となり、アナログ放送および地上デジタル放送メインチャンネル(TOKYO MX 1)での放送が打ち切られ、地上デジタル放送サブ(TOKYO MX 2)、ワンセグのみでの放送となった。後にメインチャンネル(TOKYO MX 1)に復帰。またTOKYO MXが提供する同時配信アプリ「エムキャス」でもライブ配信されている。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "東京大賞典は2018年まで日本BS放送(BS11)にて中継を行っていたが、2019年以降はフジテレビに放映権が移動し、同局並びに一部のフジテレビ系列局(東海テレビ・関西テレビ・北海道文化放送)とBSフジにて同時中継を行っている。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、BS11は帝王賞とジャパンダートダービーの中継も行っているが、該当競走はナイター開催であることから、引き続き同局にて中継を行っている。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、スカパー!の南関東地方競馬チャンネル (Ch.120、Ch.678) では全レースを放送している(Ch.120は標準画質からHD放送への移行にともない、2014年5月31日をもって放送終了)。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2012年4月からはダートグレード競走、同年10月以降は、ほとんどの重賞競走についてはグリーンチャンネルでも放送されている。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "定額制動画配信サービスのDAZNでも、2020年11月3日開催のジャパンブリーディングファームズカップから重賞競走を含む一部のレース中継をライブ配信されていたが、2022年12月31日をもって終了している。", "title": "放送体制" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2013年4月7日よりL-WINGにおいて、日本中央競馬会からの委託により「J−PLACE大井」としてJRAの馬券を発売する。ただし発売は大井本場開催日の日曜祝日、並びに有馬記念・ホープフルステークスの開催日(この2競走実施日は大井本場開催の有無にかかわらず発売)で12:00頃以降のレースのみとなる。払戻は大井のほか全国のJ−PLACE施設・offt後楽園・offt汐留(offt後楽園・汐留は、南関東4競馬場での場外発売実施日に払い戻し可能)で可能。", "title": "競馬場内での場外発売施設" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2015年11月1日に新スタンド「GーFRONT」が竣工したのに伴い、大井以外で南関東の地方競馬が施行される日の場外発売を「offt大井(オフト・おおい)」として、11月9日より運用を開始することになった。通常開催日は3000円の入場料となっている3Fプライムシートが500円、2Fのヴィクトリーシートは開催日1000円のところを無料で開放する。また他場場外発売実施日などを中心にトークショーなどのイベントも予定している。", "title": "競馬場内での場外発売施設" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "大井競馬場では馬券を9種類発売しており、これは中央・地方通じて最も多い。", "title": "発売する馬券の種類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "○...発売 ×...発売なし", "title": "発売する馬券の種類" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "各地で場外発売を行っており、地方競馬としては幅広く展開している。", "title": "場外発売所" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "特に記述のない発売所では、大井競馬場の他、浦和競馬場・川崎競馬場・船橋競馬場の場外発売も行っている。", "title": "場外発売所" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "詳細は場外勝馬投票券発売所#地方競馬の場外勝馬投票券発売所や、「南関東4競馬場共同サイト」内の場外発売案内ページを参照。", "title": "場外発売所" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "いずれも廃止された旧新潟県競馬から引き継いだ施設。", "title": "場外発売所" } ]
大井競馬場は、東京都品川区勝島にある地方競馬の競馬場である。施設は東京都競馬株式会社の所有で、特別区競馬組合が賃借し「東京シティ競馬 (TCK)」の愛称で競馬を施行している。川崎競馬場(神奈川県川崎市)、浦和競馬場(埼玉県さいたま市)、船橋競馬場(千葉県船橋市)と共に南関東公営競馬を構成する。SPAT4加盟。
{{競馬場 |競馬場名 = 大井競馬場 |通称・愛称 = 東京シティ競馬 (TCK) |画像 = [[ファイル:Ooi Racecourse Paddock and L-WING.jpg|250px|大井競馬場のパドックとL-WING]]<br />大井競馬場のパドックとL-WING{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=250}} |所在地 = 東京都品川区勝島2-1-2 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 35 | 緯度秒 = 36.4 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 139 |経度分 = 44 | 経度秒 = 35.9 | E(東経)及びW(西経) = E | 地図国コード = JP |起工 = |開場 = [[1950年]][[5月2日]] |閉場 = |取り壊し = |所有者 = 東京都競馬株式会社 |管理・運用者 = 特別区競馬組合 |収容能力 = 60,350人 |周回 = 右回り、左回り(一部距離) |馬場 = ダート<br />内回り:1400m<br />外回り:1600m }} '''大井競馬場'''(おおいけいばじょう、Ohi Racecourse)は、[[東京都]][[品川区]][[勝島]]にある[[地方競馬]]の[[競馬場]]である。施設は[[東京都競馬|東京都競馬株式会社]]の所有で、[[特別区競馬組合]]が賃借し「'''東京シティ競馬''' ('''TCK''')」の愛称で競馬を施行している。[[川崎競馬場]]([[神奈川県]][[川崎市]])、[[浦和競馬場]]([[埼玉県]][[さいたま市]])、[[船橋競馬場]]([[千葉県]][[船橋市]])と共に[[南関東公営競馬]]を構成する。[[電話投票|SPAT4]]加盟。 == 概要 == [[ファイル:Oi race course entrance.JPG|thumb|220px|大井競馬場正門。正門前はバス発着場にもなっている。]] 1950年([[昭和]]25年)5月に開場<ref name="history_50">[http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/#history-tab02 TCKヒストリー(50's 大井競馬 誕生)] - 特別区競馬組合、2014年12月15日閲覧</ref>。同年8月には[[東京都区部|特別区]]に対し競馬開催が認可<ref name="history_50" />され、10月に設立された特別区競馬組合<ref name="history_50" />により、11月に第1回区営競馬が開催された<ref name="history_50" />。敷地内には1954年から[[大井オートレース場]]も併設していたが、大井オートレース場は、1973年に廃止された<ref group="注">オートレース場は[[群馬県]][[伊勢崎市]]に移転し、現在の[[伊勢崎オートレース場]]となっている。</ref>。 かつては特別区のほかに[[東京都庁]]も競馬を主催していたが、[[1967年]]に[[東京都知事]]に就任した[[美濃部亮吉]]が都営ギャンブルの全廃を宣言。東京都が年8回開催していた大井競馬については、1970年度(昭和45年度)から開催回数を減少させて1973年度(昭和48年度)までに廃止する方針を打ち出した。これに対して特別区側は、都が減少させる開催分を肩代わりすることを宣言。結果的に東京都が主催者の立場から撤退したのみで開催数に変化はないまま<ref>「減らす分肩代わり 美濃部宣言に区が反逆」『中國新聞』昭和45年1月17日夕刊 7面</ref><ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/#history-tab04 TCKヒストリー(70's アイドルホース ハイセイコーデビュー)] - 特別区競馬組合、2014年12月15日閲覧</ref><ref group="注">都内の公営競技場の多くは、主催が特別区や市に移管されたが、大井オートレース場と[[後楽園競輪場]]が廃止された。</ref>、現在は特別区のみが主催している。ただし東京都庁は大井競馬場や地方競馬電話投票システムSPAT4の所有および運営を行っている[[東京都競馬]]株式会社の筆頭[[株主]]であり、現在も間接的に[[公営競技]]から利益を得ている。 日本の競馬で使用されているゴール写真判定、枠別の帽色、スターティングゲート、パトロールフィルム制度は、いずれも大井競馬場が初めて採用した<ref name="history_50" />。また、拡大馬番号連勝複式勝馬投票法(ワイド)も、大井競馬場が日本で最初に発売開始した<ref name="history_90">[http://www.tokyocitykeiba.com/data/history/#history-tab06 TCKヒストリー(90's 新しい競馬の幕開け)] - 特別区競馬組合、2014年12月15日閲覧</ref>。 1995年([[平成]]7年)8月には、[[サンタアニタパーク競馬場]]と友好交流提携に調印<ref name="history_90" />。交換競走として大井競馬場では「[[サンタアニタトロフィー]]」が、サンタアニタパーク競馬場では「[[東京シティカップ]]」が行われている<ref name="history_90" />。 == 歴史 == * [[1950年]][[5月2日]] - 開場。 * [[1974年]][[6月6日]] - 地方競馬では初となる「中央競馬招待競走」を実施。優勝は[[ゴールドイーグル]](愛知所属、大井出身)。 * [[1979年]][[11月11日]]~[[11月17日]] - 前年、米競馬三冠最年少記録を達成した[[スティーブ・コーゼン]]騎手が来日し騎乗する。25戦7勝の結果<ref>競馬四季報1980年春季号</ref>。 * [[1986年]][[7月31日]] - 全ての[[公営競技]]を通じて、日本で初めてとなる[[ナイター競走]](トゥインクルレース)が開催された。 * [[1996年]][[1月25日]] - 厩舎の馬洗い場にいた[[スーパーオトメ]]が物音に驚いて脱走、[[首都高速道路]]上に出る(「スーパーオトメ首都高速脱走事件」)。 * 1996年6月19日 - [[帝王賞|第19回帝王賞]]において、77818人の入場者数の最高記録を達成。優勝は[[ホクトベガ]]([[日本中央競馬会|JRA]]所属)。 * [[1997年]][[12月30日]] - [[ハクホウクン]]が[[白毛|白毛馬]]としての初勝利を収めた。 * [[2001年]][[10月31日]] - 第1回[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBC]]が大井競馬場で開催。 * [[2007年]]10月31日 - 第7回JBCスプリントで[[御神本訓史]]騎乗の[[フジノウェーブ]](大井所属)が勝利、JBC史上初となる地方所属馬の勝利を果たす。 * [[2008年]][[4月11日]] - 東京都競馬株式会社が[[米国]]で購入したバーナスコーニが、海外既走外国産転入馬として初出走した。 * [[2011年]][[8月3日]] - 同日実施された[[サンタアニタトロフィー]]に地方競馬として初となる外国招待馬「レッドアラートデイ」(アメリカ)が出走した(16頭立て15着、完走馬最下位)。 * 2011年[[12月29日]] - [[東京大賞典]]が地方競馬において初となる国際競走・国際GIに格付けされた。競走のレベルアップとダート競馬の発展に期待してのことで、日本グレード格付け管理委員会に対して申請し、認可された。 * [[2013年]][[9月1日]] - 史上初となる韓国との国際競走「アジアチャレンジカップ」が業務提携を結んだ[[ソウル競馬場]]で行われ、[[的場文男]]騎乗のトーセンアーチャー(橋本和馬厩舎)が優勝。 * 2013年[[11月26日]] - 韓国との国際競走「インタラクションカップ」が行われ、韓国所属のワッツヴィレッジが優勝。 * [[2014年]]12月29日 - 東京大賞典が第60回を迎えたのを記念し、同競走史上初となる外国招待馬「ソイフェット」(アメリカ)が出走した(肺出血のため完走馬最下位)。 * [[2015年]][[11月1日]] - 場内に新スタンド「G-front」が竣工<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/special_page/special_gfront/ GーFRONT特設サイト]</ref>。 * [[2016年]][[12月29日]] - [[東京大賞典|第62回東京大賞典]]において37億3269万5200円(前年比135.8%)を売り上げ、地方競馬の1レースにおける売上レコードを更新。また、1日の売上も61億9493万3590円(前年比127.7%・[[トリプル馬単|SPAT4LOTO]]の売上を含む)と、こちらも地方競馬の1日における売上レコードを更新している<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/32757/ 地方競馬1レース&1日の売上レコード更新!第62回東京大賞典競走 当日開催成績について] 東京シティ競馬・2016年12月29日・2018年8月15日閲覧</ref>。なお、平成28年度([[2016年]][[4月4日]]~[[2017年]][[3月24日]])の売上は1159億791万7950円(前年比104.3%)となり、2年連続で売り上げが1100億円を突破。1日平均の売上も11億9492万6990円(前年比105.3%)と、前年度を上回っている<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/34127/ ~1年間ご愛顧ありがとうございました~2年連続売上1100億円・1日平均売上11億円を達成!] 東京シティ競馬・2017年3月24日・2018年8月15日閲覧</ref>。 * [[2017年]]12月29日 - 第63回東京大賞典において42億7307万1200円(前年比114.5%)、1日で70億4365万7260円(前年比113.7%・SPAT4LOTOの売上を含む)を売り上げ、前年に引き続き地方競馬の1レース・1日の売上レコードを更新した<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/38646/ ~地方競馬1レース&1日の売上レコード更新!~第63回東京大賞典(GI)当日開催成績について] 東京シティ競馬・2017年12月29日・2018年8月15日閲覧</ref>。平成29年度(2017年[[4月17日]]~2018年[[3月30日]])の売上は1266億4247万9360円(前年比109.3%)となり、15年ぶりに売り上げが1200億円を突破。1日平均の売上も13億559万2570円(前年比109.3%)と、引き続き前年度を上回っている<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/39657/ 売得金が15年ぶりに1200億円超え!1日平均も13億円超え!] 東京シティ競馬・2018年3月30日・2018年8月15日閲覧</ref>。 *2018年10月7日 - 冬季の競馬未開催日に場内が大規模なイルミネーションスポットとなるイベント「東京メガイルミ(TOKYO MEGA ILLUMINATION)」を初開催。以降冬季の恒例イベントとなる。 *2020年8月19日 - 黒潮盃当日の1日の売上が20億7005万9980円となり、レコードを更新した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【地方競馬】大井・黒潮盃当日の売得金は21億2927万400円で1日売上げレコードを記録 {{!}} 競馬ニュース|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=191643|website=netkeiba.com|accessdate=2021-08-20|language=ja}}</ref>。 *2021年8月18日 - 前年に引き続き、黒潮盃当日の1日の売上が21億2927万400円のレコード更新となった<ref name=":0" />。 *2021年11月19日 - 日本の競馬場([[地方競馬]]・[[中央競馬]]を通じて)唯一、かつ世界各地に現存する競馬場としてもやはり唯一となる、左右両回りによる競馬競走の開催を決定。その第1回は「~最後の直線を左から右へ~Make New Way賞」(大井競馬場所属馬限定サラブレッドB2・B3級特別競走、1650mダートコース左回り。出走最大可能頭数12頭)<ref>{{Cite web|和書|title=2021年11月19日(金) 大井競馬場は世界唯一の左右両回りコースへ!初となる左回りレースは第12競走(20時50分発走予定)に実施! {{!}} News|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/52858/|website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2022-01-12|language=ja}}</ref>。これ以後、当面は原則として1開催につき1競走を左回り競走に充当させる<ref>{{Cite web|和書|title=大井競馬場は世界唯一の左右両回りコースに! 本日、初となる左回りレース「Make New Way賞」実施 記念すべきレースで御神本訓史騎手が地方競馬通算2500勝を達成! {{!}} News|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/53332/|website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2022-01-12|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=TCKが、左回りでやってくる。|url=https://www.tokyocitykeiba.com/special_page/left_turn_2021/|website=www.tokyocitykeiba.com|accessdate=2022-01-12|language=ja}}</ref>。 == コース概要 == 平坦な右回りの砂(ダート)コース<ref name="番組">{{PDFLink|[http://www.tokyocitykeiba.com/resources/images/01/ooikeiba_bangumihyou_h26.pdf 平成26年度 大井競馬番組]}} - 特別区競馬組合、2014年12月12日閲覧</ref>。第3コーナーから第4コーナーにかけて内回りと外回りの2コースが存在し、現在は1500m・1600mのみ内回りを使用する<ref name="番組" />。本馬場内側には、調教用の練習馬場(1周1500m、幅員15m)も設けられている<ref name="番組" />。スパイラルカーブは採用されていない。 2021年に左回りコースが新設され(後述)、世界で唯一の「両回り」のコースとなった{{refnest|group="注"|name="flexibleturn"|国内ではかつて[[東京競馬場]]が両回りコースであったが1984年をもって左回りに統一された。以後、[[フランス]]の[[メゾンラフィット競馬場]]が世界唯一の両回りコースであったがこちらは2019年をもって競馬開催を終了している<ref name="70thanniversary">{{Cite web|和書|url=https://race.sanspo.com/smp/nationalracing/news/20200331/nranws20033105020014-s.html|title=大井競馬場開場70周年、現存世界唯一の両回りコースに|date=2020-03-31|accessdate=2021-11-02}}</ref>。}}。 2023年、第23回JBC競走開催に合わせて、砂を入れ替える工事を行い、同時にクッション砂圧を8cmから10cmに変更した<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.tokyocitykeiba.com/news/61420/ |title=大井競馬場本馬場の砂の入れ替えが完了!より安全な馬場を目指しオーストラリア産“白い砂”を導入 |website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA |date=2023-10-26|accessdate=2023-12-30}}</ref>。新たに使用するのは[[オーストラリア]]・[[西オーストラリア州]]の新砂。実際に[[園田競馬場]]・[[船橋競馬場]]・[[門別競馬場]]でも使用されたもので、[[中日スポーツ]]の[[小泉恵未]]の寄稿でインタビューに答えた大井競馬場騎手の[[和田譲治]]は、船橋競馬場の経験を踏まえて「船橋の砂は雨が降った時に引っ付かないので、板を取る必要がありません。厩務員さんも、馬の手入れが本当に楽になったと言っていました。馬のためにも、人のためにも今回の砂の入れ替えはうれしいです」とするコメントを残している<ref>[https://archive.md/OXg7p 大井競馬にオーストラリア産の砂「どんな利点?大井騎手会長の和田譲治騎手に話を聞きました!」【小泉恵未コラム】](中日スポーツ)</ref> * 1周距離:外回り1600[[メートル|m]]、内回り1400m<ref name="番組" /> * 直線距離 ** (右回り)外回り386m、内回り286m<ref name=NAR_Oi>[https://www.keiba.go.jp/guide/07/course_information.html?course=course_information 大井競馬場] - 地方競馬全国協会、2021年11月18日閲覧</ref> ** (左回り)外回り300m<ref name=NAR_Oi /> * 幅員:25m<ref name="番組" /> * 出走可能頭数:16頭(特選・選抜・普通競走は14頭、左回りは12頭)<ref name="番組" /><ref name=NAR_Oi /> === 右回り === ;設定距離 :外回り:1000m、1200m、1400m、1700m、1800m、2000m、2400m、2600m<ref name="番組" /> :内回り:1500m、1600m<ref name="番組" /> このうち2400mは東京記念、2600mは金盃でのみ使用する。2600mについては、かつては大井記念でのみ使用していたが、大井記念を帝王賞トライアル競走に指定するために2014年から2015年にかけて金盃と距離を入れ替えた。また、1500mについては2018年9月21日の開催を最後に使用されていない。 過去には外回りで2500m・2800m・3000m、内回りで1000m・1200m・1800mの距離設定もあったが、2019年4月現在では全て設定が無い。 === 左回り === ;設定距離 :外回り:1650m 2019年度末に開場70周年を迎える2020年度の競走事業について会見を開き左回りレースの導入が発表され、左回り1650mコースを新設し各開催日の最終競走にて同コースを使用した競走を行う方針が発表された<ref name="70thanniversary" />。また、左回り1000mコースのスタート地点の設置も予定されており、将来的には左回りでの2000mの競走を施行する意向も示された<ref name="70thanniversary" />。 左回りレースの導入に至った経緯のひとつに、海外競馬のダートコースはほとんどが左回りであることが挙げられる。国際交流競走の東京大賞典において回りの問題で海外馬に出走を断られた経緯があることから、大井競馬場でも左回りの環境を整備することにより外国馬の出走誘致を目指す方針である<ref>[https://race.sanspo.com/smp/nationalracing/news/20200331/nranws20033105020014-s.html 大井競馬場開場70周年、現存世界唯一の両回りコースに] サンケイスポーツ・2020年3月31日・2021年5月15日閲覧</ref>。 左回りコースのゴールは現在のホームストレッチ右手(4号スタンド前・右回りコースにおける残り200m地点)に設定されており、右回りコースにおけるゴール地点が左回りコースにおける残り200m地点に相当する。残り100m地点([[ハロン棒]]が設置されている)はどちらのコースでも共通となっており、他のハロン棒の設置位置も左回りコースにおけるゴールまでの残り距離の100の倍数と一致する。なお、左回りコースのゴール板は内側の調教用走路の奥に設置され、同地点のハロン棒は右回り用の「2」と左回り用の「G」のツートンカラーに塗り替えられている。両回りコースでの競馬開催は、現存する競馬場の中では世界唯一の事例となる<ref name="flexibleturn" group="注" /><ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=169315 大井競馬場が左回りコース導入予定] netkeiba.com 2020年3月30日</ref><ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/49865/ 東京シティ競馬2021年度のコミュニケーションテーマは 「誇りにまみれよ、オトナたち。」 イメージキャラクターは菜々緒さん、志尊淳さんに決定!] 東京シティ競馬・2021年3月25日・2021年5月15日閲覧</ref>。 当初予定では2020年度中の2021年1月頃からのレース施行を見込んでいたが、そこから丸1年近く後の2021年11月19日の13回大井競馬5日・第12競走「Make New Way賞」にて左回り1650mのレースが初めて施行された<ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/52858/ 2021年11月19日(金) 大井競馬場は世界唯一の左右両回りコースへ!初となる左回りレースは第12競走(20時50分発走予定)に実施!] 東京シティ競馬・2021年10月26日・2021年10月26日閲覧</ref><ref>[https://race.sanspo.com/nationalracing/news/20211026/nranws21102611290017-n1.html 大井左回りレース、11月19日に実施決定] サンケイスポーツ・2021年10月26日・2021年10月26日閲覧</ref>。 [[プレスリリース]]では「将来的にはレース数を増やす」意向を示しているものの、実務上の問題<ref>裁決員室はゴール板正面に位置するという基本原則があり、右回りと左回りを入れ替える場合は裁決委員・放送委員がL-WING(右回り)から4号スタンド(左回り)へ移動しなければならないために準備に時間を要する</ref>があり、当面は開催最終日の最終レースを基本として設定し、施行されている。 == 開催概要 == [[ファイル:Ohi Racecourse 001.jpg|thumb|300px|ナイター開催時の様子(2010年)]] [[ファイル:大井競馬場の場内風景(2015年12月31日).JPG|200px|thumb|年末の場内風景(2015年12月31日)]] 大井競馬場では、3月下旬から12月上旬の間'''トゥインクルレース'''として[[ナイター競走|ナイター競馬]]が施行されている。2010年は上記の期間に加え12月24日・25日の2日間もナイター競馬が施行された。2012年も上記期間に加え12月27日・28日に「年忘れカウントダウントゥインクル」としてナイター競馬が施行された<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/news.php?id=2832 〜 2012年フィナーレ・東京大賞典直前! 〜 年忘れカウントダウントゥインクル 開幕!] - 東京シティ競馬公式サイト 2012年11月5日</ref>。 [[2021年]]11月現在、ナイター期間中における最終競走発走予定時刻は20時50分で、有観客で行われるナイター競走としては全国の[[公営競技]]場の中でも[[川崎競馬場]]、[[船橋競馬場]]及び[[高知競馬場]]と並んで日本で最も遅い<ref group="注">無観客で行われる[[ミッドナイト競輪]]・[[ミッドナイトオートレース]]・[[ミッドナイトボートレース]]はこれよりも遅い時間に最終競走が行われている。</ref>。うち[[高知競馬場]]は、[[2012年]][[12月24日]]まで20時55分に設定されていて、また大井競馬場でも[[2002年]]8月から[[2006年]]3月まで同じく20時55分の設定となっていた<ref group="注">ただし、2012年10月以降はJRAのインターネット投票システム「地方競馬IPAT」の発売可能時刻に対応するため20時40分に最終競走を施行する日もある。</ref>。 また、年末開催では[[薄暮競走]](プチ・トゥインクル)を実施している<ref group="注">2003年[[11月3日]]に[[ジャパンブリーディングファームズカップ|JBC]]が開催された際は、[[中央競馬]]・[[地方競馬]]を問わず、全国各地の[[競馬場]]・[[場外勝馬投票券発売所|場外発売所]]で馬券が発売されたこと、また[[福島競馬場]]で中央競馬が開催されたことから、プチ・トゥインクル開催で施行した。</ref>。 競馬開催時の入場料は100円。 === トゥインクルレース開催期間中の開催概要 === 勝馬投票券発売開始時刻 12:00 - 大井競馬場・各場外・[[電話投票|在宅投票]]共通。なお重賞競走前日[開催日に限る]において、当該競走の前日発売を実施する発売場では、同時刻に前日発売を開始する。但し[[電話投票|SPAT4]]等の在宅投票システムでは前日発売は行わない。 大井競馬場開門予定時刻 14:40 - 但し12レース制がとられる日など、第1競走の発走予定時刻が15:20より前になる場合は開門時刻はその40分前となる。 最終競走発走予定時刻 20:50 - 但し「地方競馬IPAT」対応に伴い20:40となる場合がある。(脚注参照) [[2011年]]は[[3月28日]]からの予定だったが[[東日本大震災]]の影響により3月28日から4月1日までの開催は中止、4月18日から4月22日までは電力事情を踏まえて昼間開催(同時期、[[川崎競馬場]]も昼間開催、かつレース数を制限)となったため、5月9日から12月2日までの13開催・71日間となる。 また[[2014年]]には[[浦和競馬場]]との2元リレー開催を実施(浦和は基本昼間開催。大井はナイター)された。翌年以降は暫く実施されなかったが[[2018年]]に再び実施され、翌年以降も年に数回実施されるようになった(2022年現在継続中)。 == 施設 == [[ファイル:Shinagawa katsushima 1989-2.jpg|thumb|200px|大井競馬場がある品川区勝島付近の航空写真。1989年撮影。写真中央付近の楕円形のトラックをもった施設が大井競馬場。付属の厩舎施設群も確認できる。上部の駐車場は大井オートレース場跡地。{{国土航空写真}}]] [[ファイル:Ohi_Racecourse_002.jpg|thumb|200px|スタンド<br />(手前側から3号スタンド、旧2号スタンド(取り壊し後、現: G-FRONT)、L-WING)]] 厩舎は競馬場内と[[小林牧場]]([[千葉県]][[印西市]])にある。 現在のスタンドはL-WING、G-FRONT、4号スタンドの3つからなる。 * L-WINGは、かつて存在した1号スタンド跡地に[[2003年]][[12月28日]]にオープン。勝馬投票券自動発払機(馬券の発売と払戻が同時にできる端末)の導入なども行われている。 * G-FRONTは、かつて存在した2号スタンド跡地に[[2015年]][[11月1日]]にオープン。旧2号スタンドは2014年[[7月11日]]の開催(最終競走で「2号スタンドファイナル賞」を実施)まで使用された。 * 3号スタンドについては老朽化のため、2015年[[12月31日]]開催を以って使用を中止し、[[2016年]]1月より解体<ref>{{Cite press release |和書 |title=大井競馬場 スタンドリニューアル工事の開始について|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/12604|publisher=特別区競馬組合|date=2014-05-28}}</ref>。3号スタンド跡地にはスタンドは建設せず、解体・再整備後は都市型イベントスペース「UMILE SQUARE(ウマイルスクエア)」として2016年11月26日から利用が開始され、イベントなどに利用されている<ref>[http://www.tokyotokeiba.co.jp/new/release-0720.pdf 都心に10,000㎡の都市型イベントスペース UMILE SQUARE ウマイルスクエア が誕生します]東京都競馬株式会社ニュースリリース 2016年7月20日</ref>。 * 4号スタンドには、食事をとりながら競馬もみられる[[レストラン]](ダイアモンドターン)が設置されており、[[賭博|ギャンブル]]だけではなく、アミューズメントスポットとして提供している。 会員制の「TCKカード」を発行し、来場ポイントに応じて抽選で景品がもらえるサービスも行っている。 == コミュニケーションテーマ・CM出演者 == 毎年3月下旬に次年度テーマが発表され、4月より実施される。以下は各年度のコミュニケーションテーマと、その年度のテレビCM出演者。 *2005年度:NO GUTS, NO GLORY. *2006年度:NO GUTS, NO GLORY. 100円の心意気 *2007年度:今年は×(カケル)TCK *2008年度:知るほど!行くほど!ケイバはワンダー! *2009年度:走れ、ドラマ。TCK *2011年度:Come On! TWINKLE RACE 25th 〜もっと輝け!東京の夜〜 *2012年度:ジブン、発見、トゥインクル。DISCOVER★TCK/[[香里奈]] *2013年度:TOKYO TWINKLE/香里奈 *2014年度:夜遊びしようぜ。/[[三浦春馬]] *2015年度:夜は、いい夢みませんか。/[[剛力彩芽]]・[[斎藤工]] *2016年度:夜があなたを輝かせる。TOKYO★TWINKLE 30th/剛力彩芽・斎藤工 *2017年度:NEW TWINKLE.光と遊べ。/[[オリエンタルラジオ]]・[[ローラ (モデル)|ローラ]] *2018年度:トゥインクル イッテクル/[[川栄李奈]]・[[藤田ニコル]]・[[吉谷彩子]] *2019年度:夜遊び方改革 TOKYO CITY KEIBA/[[大谷亮平]]・[[賀来賢人]]・[[中村倫也 (俳優)|中村倫也]] *2020年度:夜遊び方改革2020 夜ケイバがあるじゃないか。/中村倫也・[[新田真剣佑]] *2021年度:誇りにまみれよ、オトナたち。/[[菜々緒]]・[[志尊淳]] *2022年度:突き抜けろ。人生は、予想以上だ。/菜々緒・志尊淳 *2023年度:光よ、駆けろ。TWINKLE RACE/[[新木優子]]・[[福士蒼汰]] == 主な競走 == 以下は[[2020年]]度施行の重賞。 === 国際競走 === {{col| * [[東京大賞典]] ([[GI]]) }} === ダートグレード競走 === {{col| * [[帝王賞]] ([[JpnI]]) * [[ジャパンダートダービー]] (JpnI)※2024年よりジャパンダートクラシックに名称変更 * [[東京盃]] (JpnII) | * [[レディスプレリュード]] (JpnII) : [[GRANDAME-JAPAN]](古馬シーズン)対象競走 * [[TCK女王盃]] (JpnIII)※2024年より[[園田競馬場]]での開催に移行されるとともに、名称も[[兵庫女王盃]]に変更<ref>[https://www.nankankeiba.com/news_kiji/13136.do 2023年度(令和5年度) 開催日程及び重賞競走日程について]南関東4競馬場、2022年11月28日配信・閲覧</ref> * [[東京スプリント]] (JpnIII) }} * [[2001年]]、[[2003年]]、[[2004年]]、[[2007年]]、[[2011年]]、[[2015年]]、[[2017年]]、[[2020年]]、[[2023年]]には[[ジャパンブリーディングファームズカップ]](JBC)を開催している。 === 重賞競走 === {{col| * [[羽田盃]] ([[SI]](2024年よりダートグレード競走・JpnIに格付け予定)) * [[東京プリンセス賞]] (SI) : GRANDAME-JAPAN(3歳シーズン)対象競走 * [[大井記念]](SI(2018年から)) * [[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]] (SI(2024年よりダートグレード競走・JpnIに格付け予定)) * [[ハイセイコー記念]] (SI(2020年から)) : [[未来優駿]]指定競走 * [[東京2歳優駿牝馬]] (SI) | * [[優駿スプリント]] (SII) * [[東京記念]](SII(2018年にSIに昇格したが 2024年より再びSIIに降格となる)) * [[マイルグランプリ]] (SII) * [[勝島王冠]] (SII) * [[金盃]] (SII) * [[京浜盃]] (SII(2024年よりダートグレード競走・JpnIIに格付け予定)) | * [[ブリリアントカップ]](SIII) * [[サンタアニタトロフィー]] (SIII) * [[黒潮盃]](SIII(2024年よりSIIから降格)) * [[アフター5スター賞]] (SIII) * [[ゴールドジュニア (大井競馬)|ゴールドジュニア]] (SIII(2020年に準重賞の「ゴールドジュニアー」がSIIIに昇格すると同時に名称を変更)) : [[未来優駿]]指定競走 * [[ジェムストーン賞]] (SIII、2024年新設<ref>[https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=247525&rf=kslp 来年の南関競馬の重賞競走について発表 3競走が新設、10競走の格付け変更]netkeiba.com、2023年11月14日配信・閲覧</ref>) * [[東京シンデレラマイル]] (SIII) * [[雲取賞]](SIII(2024年よりダートグレード競走・JpnIIIに格付け予定)) * [[フジノウェーブ記念]] (SIII) }} === 準重賞 === 競走名の後に付く重賞名は、その準重賞がトライアル競走として指定されている。なお、準重賞の正式名称は、全て「'○○(西暦の下二桁)△△△△(レース名)」となる。 * 桃花賞(3歳牝馬限定オープン)([[ユングフラウ賞]]・[[桜花賞 (浦和競馬)|桜花賞]]<ref group="注">ユングフラウ賞への優先出走権は上位2頭だが、優勝馬はさらに桜花賞への優先出走権も加わる。</ref>) * ウインタースプリント(古馬オープン)(フジノウェーブ記念) * ネモフィラ賞(古馬牝馬オープン(2021年に新設)) * メトロポリタン○○カップ(中央・地方交流)<ref group="注">○○内はその月の英語表記が入り、開催時期によって表記が異なる。</ref> * ジェムストーン賞(2歳オープン(2020年に「ゴールドジュニア」の重賞昇格に合わせて新設)) * スターバーストカップ(3歳限定オープン)(勝島王冠) ; 過去に行われた準重賞 * アデレードシティカップ(牝馬限定) : 牝馬限定重賞「トゥインクルレディー賞」のトライアルとして施行されていたが、[[JBCレディスクラシック]]創設に伴いTCKディスタフ(現・[[レディスプレリュード]])に代替、廃止された。 * スターライトカップ : サンタアニタトロフィーのトライアルとして施行されていたが、サンタアニタトロフィートライアルの新設に伴い2017年を最後に廃止された。 * シーサイドカップ : アフター5スター賞のトライアルとして施行されていたが、アフター5スター賞トライアルの新設に伴い2017年を最後に廃止された。 * ムーンライトカップ(オープン) : マイルグランプリのトライアルとして施行されていたが、マイルグランプリトライアルの新設に伴い2017年を最後に廃止された。 * インタラクションカップ(日韓交流競走) : 2016年を最後に廃止された。 === その他特別競走 === * 東京ダービートライアル : 毎年6月に施行される「東京ダービー」へのトライアル競走で、2000mの3歳オープン特別。優勝馬のみ東京ダービーへの優先出走権が付与される。 * 優駿スプリントトライアル : 毎年6月の帝王賞前日に施行される「優駿スプリント」のトライアル競走で、1200mの3歳オープン特別。 * マイルグランプリトライアル : 毎年11月に施行される「マイルグランプリ」のトライアル競走で、1600mの3歳以上オープン特別。 * サンタアニタトロフィートライアル : 毎年7〜8月に施行される「サンタアニタトロフィー」のトライアル競走で、1600mの3歳以上オープン特別。2018年に新設された。 * アフター5スター賞トライアル : 毎年夏の終わりに施行される「アフター5スター賞」のトライアル競走で、1200mの3歳以上A2・B1選抜特別。2019年に新設された。 * 東京記念トライアル : 毎年9月に施行される「東京記念」のトライアル競走で、2400mの3歳以上オープン特別。2018年に新設された。 * シンデレラマイルトライアル : 毎年12月30日に施行される「東京シンデレラマイル」のトライアル競走で、1600mの3歳以上・牝馬限定のオープン特別。2018年に新設された。 * 金盃トライアル : 毎年冬に施行される「金盃」のトライアル競走で、2600mの3歳以上オープン特別。2018年に新設された。 * ブリリアントカップトライアル : 毎年4月に施行される「ブリリアントカップ」のトライアル競走で、1800mの4歳以上A2以下特別。2019年に新設された。 * おおとり賞 : 正式名称は「ありがとう!○○○○ おおとり賞」として、○の中に西暦が入る。2009年から[[大晦日]]の最終競走として施行される。毎年のように施行条件が変わるが、オープン特別の場合には「おおとりオープン」として行われる。 === 騎手招待競走 === * [[ヤングジョッキーズシリーズ]]([[2017年]] - [[2019年]]・2021年はファイナルラウンド、2020年・2022年はトライアルラウンドを開催)<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201611/111601.html 2017年度競馬番組等について]日本中央競馬会、2016年11月16日閲覧</ref> ==所属騎手== [[File:Oi Racecourse 20141230 The greeting which shows thanks from a jockey.JPG|thumb|200px|2014年12月30日に所属騎手一同より、感謝を表す2014年締め括りの挨拶が行われているところ]] {{col| *[[安藤洋一]] *[[石川駿介]] *[[江里口裕輝]] *[[遠藤健太]] *[[大木天翔]] *[[木澤奨]] *[[後藤蒼二朗]] *[[笹川翼]] *[[菅原涼太]] *[[瀬川将輝]] *[[高野誠毅]] *[[高橋昭平]] *[[鷹見陸]] | *[[達城龍次]] *[[田中洸多]] *[[谷内貫太]] *[[千田洋]] *[[仲原大生]] *[[中村尚平]] *[[西啓太]] *[[東原悠善]] *[[藤田凌]] *[[藤本現暉]](2016年9月まで[[門別競馬場]]で期間限定で騎乗していた) *[[本村直樹]] *[[松崎正泰]] *[[的場文男]] | *[[御神本訓史]](2015年6月から2017年3月まで厩務員) *[[矢野貴之]] *[[山崎良]] *[[横川怜央]] *[[吉井章]]([[吉井竜一]]の子息、2018年デビュー) *[[和田譲治]] }} ;かつて所属していた主な騎手 *[[内田博幸]] - 2008年3月に中央競馬へ移籍 *[[アラン・ムンロ]] *[[早見多加志]] - 2012年10月16日引退 *[[戸崎圭太]] - 2013年3月に中央競馬へ移籍 *[[三村展久]] - 2013年12月13日引退後、厩務員を経て2015年3月31日付で佐賀競馬で復帰、2018年現在は高知所属 *[[小平健二]] - 2014年7月13日引退 *[[ダリル・ホランド]] - 2015年1月19日‐2月27日まで期間限定騎乗 *[[高野毅]] - 調教師免許取得のため2016年3月で引退 *[[吉井竜一]] - 調教師免許取得のため2018年3月引退 *[[赤嶺亮]] - 調教師免許取得のため2019年3月引退 *[[坂井英光]] - 調教師免許取得のため2019年11月引退 *[[楢崎功祐]] - 2020年12月31日引退 *[[小林拓未]] - 2021年3月12日引退 *[[有年淳]] - 2021年3月26日引退 *[[早田功駿]] - 2022年5月31日引退 *[[早田秀治]] - 2022年3月31日引退 *[[柏木健宏]] - 2023年3月31日引退 *[[真島大輔]] - 調教師免許取得のため2023年3月31日引退 == レコードタイム == [[サラブレッド|サラ]]系の競走のみ記載。距離欄の「内」は内回り、「左」は左回り。 参考資料:[https://www.tokyocitykeiba.com/data/record/ TCK公式サイト内「TCK Record」] {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- !距離!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量!!騎手!!記録年月日 |- |1000m||0:57.7||ノアヴィグラス||牝5||51kg||[[藤本現暉]]||2023年6月29日 |- |1200m||1:10.0||[[ドンフランキー]]||牡4||56kg||[[池添謙一]]||2023年10月4日<br />第57回[[東京盃]] |- |1400m||1:23.8||アガリスピード||牡3||53kg||[[赤間清松]]||1977年8月30日 |- |内1500m||1:31.5||キクマツオー||牝4||53kg||[[佐々木竹見]]||1980年6月14日 |- |内1600m||1:37.2||[[アジュディミツオー]]||牡5||57kg||[[内田博幸]]||2006年4月12日<br />第12回マイルグランプリ |- |左1650m||1:42.3||ロンコーネ||牡5||57kg||[[笹川翼]]||2023年9月22日 |- |1700m||1:43.2||ムツヒカリ||牡5||52kg||[[赤嶺本浩]]||1977年7月12日 |- |1800m||1:49.6||[[ミラクルレジェンド]]||牝4||55kg||[[岩田康誠]]||2011年11月3日<br />第1回[[JBCレディスクラシック]] |- |2000m||2:00.4<ref group="注">ダート2000mの日本記録</ref>||[[スマートファルコン]]||牡5||57kg||[[武豊]]||2010年12月29日<br />第56回東京大賞典 |- |2400m||2:29.7||グツドボーイ||牡3||57kg||[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]||1977年11月4日<br />第14回[[東京王冠賞]] |- |2600m||2:42.8||アグネスチカラ||牡5||54kg||[[高柳恒男]]||1977年5月27日<br />第22回大井記念 |} == ハイセイコー像と名馬レリーフ == [[1970年代]]のアイドルホース[[ハイセイコー]]のデビュー地であり、大井競馬では6戦6勝(重賞・青雲賞も含む)。死去後に青雲賞はハイセイコー記念と改称し、あわせて馬像が作成され、大井競馬場の場内に設置されている(他に[[中山競馬場]]、[[新冠町]])。 またハイセイコー以外の大井競馬場に所属し、活躍した名馬を称えて、以下の14頭14枚のレリーフが大井競馬場内のレストラン「STAR LIGHT」に飾られている(2023年1月6日現在)。 * [[ダイゴホマレ]] * [[オンスロート (競走馬)|オンスロート]] * [[ヒカルタカイ]] * [[ゴールデンリボー]] * [[ハツシバオー]] * [[アズマキング]] * [[スズユウ]] * [[サンオーイ]] * [[テツノカチドキ]] * [[ハナキオー]] * [[イナリワン]] * [[チャンピオンスター]] * [[コンサートボーイ]] * [[オリオンザサンクス]] == 主な企画 == * [[2006年]]に企画された「TCK夢プロジェクト」は、ファンに1頭の競走馬(大井競馬場を所有する東京都競馬株式会社の持ち馬)の命名権利と、優勝時の口取りの記念写真に写れる権利を与えるというものであった<ref>{{Cite web|和書|date=2006-06-04|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/news.php?id=700|title=『TCK夢プロジェクト』〜あなたが名づけた馬がTCKを駆け抜ける〜|publisher=特別区競馬組合|work=TCK NEWS|language=日本語|accessdate=2012-02-28}}</ref>。馬名は「トゥインクルバード」に決まった<ref>{{Cite web|和書|date=2006-08-04|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/news.php?id=754|title=TCK夢プロジェクト 馬名決定!その名は・・・「トゥインクルバード」|publisher=[[特別区競馬組合]]|work=TCK NEWS|language=日本語|accessdate=2012-02-28}}</ref>が、「トゥインクル」は大井競馬場のナイター競走の名前であるトゥインクルレースに由来し、「バード」は父親の[[マリエンバード]]に由来すると同時に、大井競馬場から世界へ羽ばたいて欲しいという夢を託したものである。馬は大井の[[矢作和人]]厩舎に所属し、2006年[[10月20日]]の大井競馬[[新馬]]戦でデビューし勝利<ref>{{Cite web|和書|date=2006-10-20|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/news.php?id=804|title=TCK夢プロジェクト トゥインクルバード号情報(vol.1)〜「トゥインクルバード」号デビュー戦初勝利!〜 |publisher=特別区競馬組合|work=TCK NEWS|language=日本語|accessdate=2012-02-28}}</ref>。1年以上の長期休養に入るまでは近況が大井競馬場のウェブサイトで随時報告されていた。最終的には10戦2勝の成績を残した。 *2007年、[[イナリワン]]の里帰りが[[8月18日]]に予定されていたが、その日に出走を予定していた競走馬の一部から[[馬インフルエンザ]]の疑いがもたれた可能性があったため、公正な競馬開催が確保できないとして競馬の開催は中止、馬事イベントも完全中止となった<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/news.php?id=1016 8月18日第9回大井競馬第3日目の開催中止について] - 特別区競馬組合、2014年12月14日閲覧</ref>。その後ファン有志がイベントの開催を熱望したため、[[12月28日]]に改めて行われた。 *[[2018年]]より[[イルミネーション]]イベント。「TOKYO MEGA ILLUMINATION(東京メガイルミ)」<ref>[https://www.tokyomegaillumi.jp/index.html]</ref>が毎年開催されている。秋~翌年の春の期間で開催される。LEDなどによるイルミネーションの他に噴水やレーザーなどの特殊効果を使った演出も行われる。[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[ゲーム]]などの[[メディアミックス]]との[[コラボレーション]]が開催されることもある。 *2022年4月開催から2023年3月31日開催まで、「ファイナルレース 勝利ジョッキー 2択予想キャンペーン」という企画を実施している<ref>[https://tck2022-jockey-cp.com/]</ref>。これは大井競馬場開催日に、TCK公式のTwitterにおいて最終12Rの勝利騎手の所属を当てるもので、大井所属の場合はリツイート、それ以外の所属の場合はいいねを押して参加するものである。左回り1650m限定競走の「Make new way~」を含む大井競馬場開催期間中の毎日行われ、特設サイトでレースの結果も掲載されている<ref group="注">2022年7月15日終了時点で、大井12Rの勝利が多いのは、[[達城龍次]]騎手の5勝(4/22、5/12、5/23、5/26、5/27)で、[[真島大輔]]騎手(5/10、5/11、6/9、7/15)と[[和田譲治]]騎手(4/21、5/25、6/30、7/12)の2人が4勝で続いている。</ref>。また同時に「TCK重賞勝利ジョッキーを当てろ!キャンペーン」も実施しており、こちらは該当期間中に実施される大井競馬場の重賞レースの勝利騎手を当てるもので、[[帝王賞]]・[[東京大賞典]]などといった交流ダート重賞や大井競馬場の重賞である[[ブリリアントカップ]]・[[東京シンデレラマイル]]などを含む対象レース<ref group="注">このうち、'''[[羽田盃]]・[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]・[[ジャパンダートダービー]]・[[マイルグランプリ]]・[[黒潮盃]]・[[東京記念]]は対象外'''となっていることが注釈されている。</ref>のキャンペーンツイート投稿後からレース発走5分前まで受け付ける。上記の「ファイナルレース 勝利ジョッキー 2択予想キャンペーン」と同様、レースの結果は特設サイトに記載されている。 == TCK大賞 == 前年の大井競馬場で優秀な成績をおさめた人馬や、大井競馬場の発展に功績のあった人馬等を年1回顕彰している。2014年創設<ref>{{Cite web|和書|title=~2013年 大井競馬場で最も活躍した人馬が決定~ TCK大賞 受賞馬決定! {{!}} News|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/11149/|website=東京シティ競馬 : TOKYO CITY KEIBA|accessdate=2021-02-17|language=ja}}</ref>。 過去の受賞者は[[TCK大賞]]の項目を参照 == 放送体制 == テレビ中継は地上波およびCSテレビ、インターネット配信にて行われている。 地上波では1960年代から1985年頃までは[[テレビ朝日]]、1985年頃から1995年頃までは[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]]と[[テレビ神奈川|TVKテレビ]]の共同制作でそれぞれ中継を行っていたが、いずれも終了しており、[[1995年]][[11月6日]]以降現在までは[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]が行っている。 [[2008年]]以降は[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]の番組編成が変更となり、アナログ放送および地上デジタル放送メインチャンネル(TOKYO MX 1)での放送が打ち切られ、地上デジタル放送サブ(TOKYO MX 2)、ワンセグのみでの放送となった。後にメインチャンネル(TOKYO MX 1)に復帰。またTOKYO MXが提供する同時配信アプリ「エムキャス」でもライブ配信されている。 東京大賞典は2018年まで[[日本BS放送]](BS11)にて中継を行っていたが<ref>{{Cite web|和書|title=【BS11】~今年最後のGIを制するのはどの馬だ!?~東京大賞典生中継 |url=https://www.bs11.jp/sports/tokyo-daishoten/ |website=日本BS放送 |access-date=2023-06-28}}</ref>、2019年以降は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に放映権が移動し、同局並びに一部の[[フジテレビ系列|フジテレビ系列局]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[北海道文化放送]]<ref group="注">2022年より同時中継を実施。JRAのG1が開催される競馬場を有しない地域では唯一放送。</ref>)と[[BSフジ]]にて同時中継を行っている<ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/57890/ 12月29日(木)は今年最後のGⅠレース「東京大賞典」!フジテレビ他3局およびBSフジでの生中継が決定!] 東京シティ競馬、2022年11月30日</ref>。{{main|BSフジ競馬中継#地方競馬中継の編成}} なお、BS11は帝王賞とジャパンダートダービーの中継も行っているが、該当競走は[[ナイター競走|ナイター開催]]であることから、引き続き同局にて中継を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=帝王賞、ジャパンダートダービーがBSイレブンで生中継…ゲストに俳優の陣内孝則など |url=https://keibana.com/news/76565/ |website=競馬のおはなし |date=2023-06-14 |access-date=2023-06-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://data.swcms.net/file/bs11/ir/irnews/auto_20230626510489/pdfFile.pdf |title=特別番組『2023帝王賞生中継』 6月28日(水)よる7時より放送! |access-date=2023-06-28 |date=2023-06-26 |website=日本BS放送株式会社}}</ref>。{{main|BSイレブン競馬中継#ダートグレード競走中継について}} また、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]の[[南関東地方競馬チャンネル]] (Ch.120、Ch.678) では全レースを放送している(Ch.120は標準画質からHD放送への移行にともない、2014年5月31日をもって放送終了)。{{main|東京シティ競馬中継}} 2012年4月からは[[ダートグレード競走]]、同年10月以降は、ほとんどの重賞競走<ref group="注">地方競馬IPATで発売されない東京シンデレラマイル、東京2歳優駿牝馬は放送されない。</ref>については[[グリーンチャンネル]]でも放送されている。{{main|グリーンチャンネル地方競馬中継}} [[定額制動画配信サービス]]の[[DAZN]]でも、2020年11月3日開催の[[ジャパンブリーディングファームズカップ]]から重賞競走を含む一部のレース中継をライブ配信<ref>{{Cite web|和書|title=スポーツ配信チャンネル「DAZN」でのレース中継11月3日(火・祝)JBC当日からスタート!|url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/48094/|website=東京シティ競馬|accessdate=2020-10-16|publisher=|date=2020-10-13}}</ref>されていたが、2022年12月31日をもって終了している<ref>{{Cite web |title=「DAZN」でのレース中継は4月20日(水)から!2022年の重賞競走実施日で全レースを配信! |url=http://www.tokyocitykeiba.com/news/55132/ |website=東京シティ競馬 |date=2022-04-13 |access-date=2023-12-09}}</ref>。 == 競馬場内での場外発売施設 == {{公営競技場外発売所 | 施設名 =J-PLACE大井 | 画像 = | 画像説明 = | 所在地 = | 座標 = | 開設日 =[[2013年]](平成25年)[[4月7日]] | 閉場日 = | 施設設置者 =東京都競馬株式会社 | 管理施行者 = | 発売窓口 = | 払戻窓口 = | 発売単位 =100円単位 | 開催日営業時間 =大井本場開催時の日曜祝日12:00頃 - | 非開催日営業時間 = | 最寄駅 = | 最寄IC = | 駐車場 = | 駐輪場 = | 外部リンク =[http://www.tokyocitykeiba.com/guide/about-tck/ TCK・TCKについて] }} === J-PLACE大井 === [[2013年]][[4月7日]]よりL-WINGにおいて、[[日本中央競馬会]]からの委託により「J−PLACE大井」としてJRAの馬券を発売する。ただし発売は大井本場開催日の日曜祝日、並びに[[有馬記念]]・[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]の開催日(この2競走実施日は大井本場開催の有無にかかわらず発売)で12:00頃以降のレースのみとなる。払戻は大井のほか全国のJ−PLACE施設・[[offt後楽園]]・[[ウインズ汐留|offt汐留]](offt後楽園・汐留は、南関東4競馬場での場外発売実施日に払い戻し可能)で可能。 === offt大井 === [[2015年]][[11月1日]]に新スタンド「GーFRONT」が竣工したのに伴い、大井以外で南関東の地方競馬が施行される日の場外発売を「offt大井(オフト・おおい)」として、[[11月9日]]より運用を開始することになった。通常開催日は3000円の入場料となっている3Fプライムシートが500円、2Fのヴィクトリーシートは開催日1000円のところを無料で開放する。また他場場外発売実施日などを中心にトークショーなどのイベントも予定している<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/25437 浦和・船橋・川崎の馬券がG-FRONTで買える!11月9日(月) オフト大井オープン!](2015年11月6日 11月15日閲覧)</ref>。 == 発売する馬券の種類 == 大井競馬場では[[投票券_(公営競技)|馬券]]を9種類発売しており、これは中央・地方通じて最も多い。 ○…発売 ×…発売なし {|class="wikitable" ! !style="width:1em"|単勝 !style="width:1em"|複勝 !style="width:1em"|枠番連複 !style="width:1em"|枠番連単 !style="width:1em"|普通馬複 !style="width:1em"|馬番連単 !style="width:1em"|ワイド !style="width:1em"|3連複 !style="width:1em"|3連単 |- style="text-align: center" !大井競馬場 |○ |○ |○ |○ |○ |○ |○ |○ |○ |- style="text-align: center" !払戻率<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/10204 勝馬投票券の払戻率変更について(2014年4月20日より適用の払戻率)] - 東京シティ競馬・2014年2月28日</ref><ref group="注">法改正の前後にまたがる2014年4月1日から4日は経過措置として、全賭式75%とされた。</ref> |colspan="2"|80% |colspan="5"|75% |colspan="2"|72.5% |- style="text-align: center" |J−PLACE |○ |○ |○ |× |○ |○ |○ |○ |○ |- style="text-align: center" |ふるさと/offt |colspan=9|本場発売の種類全て |} * 2014年12月29日から31日の開催では最終レースに限り、馬番連複の払戻率を77.7%に変更した<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/17821 普通馬番号二連勝複式勝馬投票法の払戻率の変更について] - 東京シティ競馬・2014年11月26日</ref>。 * 「ワイド」(拡大馬番号二連勝複式)という名称は、大井競馬場とJRAとの共同で公募され、決定したものである。 [[File:大井競馬 ウマタセーヌボックスカードによって購入した馬複ボックス馬券.jpg|thumb|大井競馬場限定で発売されているウマタセーヌ馬券]] == 場外発売所 == 各地で場外発売を行っており、地方競馬としては幅広く展開している。 特に記述のない発売所では、大井競馬場の他、浦和競馬場・川崎競馬場・船橋競馬場の場外発売も行っている。 詳細は[[場外勝馬投票券発売所#地方競馬の場外勝馬投票券発売所]]や、「南関東4競馬場共同サイト」内の場外発売案内ページ[http://www.nankankeiba.com/info/selloutside/ticketboothlist.html]を参照。 === 東京地区 === * [[offt後楽園]](東京都[[文京区]]) **帝王賞・ジャパンダートダービー・JBC・年末の東京大賞典・東京シンデレラマイルおよび東京2歳優駿牝馬の施行日当日は、隣接するJRA[[ウインズ後楽園]]C館(38窓)でも発売する。払戻についてはウインズ後楽園(施行日当日のみ)南関東4競馬場と南関東場外(各offt・新潟地区・益田場外も含む)で可能。 * offt汐留(東京都[[港区 (東京都)|港区]]) ** [[ウインズ汐留]]の7階に併設。JRAが管理する8階有料フロアも開放される場合がある。 ** 大井競馬のみ発売し、浦和・川崎・船橋の場外発売は行わない。 * offt京王閣(東京都[[調布市]])- [[2014年]][[3月30日]]開設 ** 会員制。[[京王閣競輪場]]のバックスタンド3階に併設。 === 関東地区 === * 浦和競馬場(非開催日に場外発売)[[1993年]]1月、相互場外発売開始 * 船橋競馬場(非開催日に場外発売)[[1995年]]10月、相互場外発売開始 * 川崎競馬場(非開催日に場外発売)[[1998年]]9月、相互場外発売開始 * [[offtひたちなか]]([[茨城県]][[ひたちなか市]]) * offt伊勢崎([[群馬県]][[伊勢崎市]]、[[伊勢崎オートレース場]]内)[[2013年]]4月22日開設<ref>[http://www.tokyocitykeiba.com/news/news.php?id=2944 オフト伊勢崎の開設について] - TCK公式サイト 2013年2月8日</ref> * BAOO高崎(群馬県[[高崎市]]、旧[[高崎競馬場]]) === 北海道・東北地区 === * [[ホッカイドウ競馬#場外発売所|ホッカイドウ競馬]](発売箇所などの詳細は当該記事を参照) * [[ばんえい競走#場外発売所|ばんえい競馬]](発売箇所などの詳細は当該記事を参照) * ニュートラックかみのやま([[山形県]][[上山市]]、旧[[上山競馬場]]) ** ニュートラック松山(山形県[[酒田市]]、旧上山競馬の場外発売所) ** ニュートラック福島([[福島県]][[福島市]])- [[2014年]][[4月20日]]開設 ***[[サテライト福島]]の3階に併設。 * offt大郷([[宮城県]][[黒川郡]][[大郷町]]) === 新潟地区 === いずれも廃止された旧[[新潟県競馬組合|新潟県競馬]]から引き継いだ施設。 * offt新潟([[新潟県]][[新潟市]][[北区 (新潟市)|北区]]) ** 新潟県競馬の「新潟場外発売所」として使用していた施設を東京都競馬が買収。その後、全面リニューアルを行った。 * [[オープス中郷]](新潟県[[上越市]][[中郷区]]) * [[オープス磐梯]](福島県[[耶麻郡]][[磐梯町]]) === 中国・四国地区 === * 益田場外発売所([[島根県]][[益田市]]、旧[[益田競馬場]])※2024年1月26日をもって勝馬投票券の発売を終了し、同年3月26日の払戻業務終了をもって閉鎖予定<ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/61688/ 益田場外発売所における勝馬投票券の発売・払戻しの終了について] - 特別区競馬組合、2023年11月17日発表、11月25日閲覧</ref>。 * [[パルス藍住]]([[徳島県]][[板野郡]][[藍住町]]) ** [[高知競馬場]]との共同施設。浦和・川崎・船橋は発売しない日もある。 === 廃止 === * ニュートラックいいたて(旧上山競馬の場外発売所) * 三条場外発売所(新潟県[[三条市]]、旧[[三条競馬場]]) * ふるさとコーナー ** 正門2階に設置されていた「ふるさとコーナー」では、ばんえい競馬([[帯広競馬場]])・ホッカイドウ競馬([[門別競馬場]])・名古屋競馬([[名古屋競馬場]])の場外発売を行っていた。ふるさとコーナーは新型コロナウイルスの影響で営業休止が続いていたが、2023年9月30日をもって営業を終了した<ref>[https://www.tokyocitykeiba.com/news/61055/ ふるさとコーナーの営業終了について] - 特別区競馬組合、2023年9月25日、2023年9月29日閲覧</ref>。 == アクセス == [[ファイル:Oi Keibajo-mae Station building - 2020.jpg|thumb|[[大井競馬場前駅]]]] [[ファイル:Hatobus 573 TCK Shuttle Bus.jpg|thumb|錦糸町駅からのシャトルバス(運行終了)]] * [[大井競馬場前駅]]([[東京モノレール]][[東京モノレール羽田空港線|羽田空港線]])から徒歩2分。 * [[立会川駅]]([[京浜急行電鉄]][[京急本線|本線]])から徒歩約10分。 * [[目黒駅]]・[[白金台駅]]・[[品川駅]]から[[都営バス]][[都営バス品川営業所|品93]]系統(路線バス)。(開催日及び場外発売日は復路無料) * 開催日および場外発売日のみ臨時[[無料送迎バス]] ** [[大井町駅]]から無料送迎バス([[東急バス]])にて約12分。 *開催日のみ臨時無料送迎バス ** 品川駅へ直行無料送迎バス。(都営バス・復路のみ・ナイター期間中及び年末開催のみ・最終レース後発車) ** 以前は[[両国駅]]から無料[[水上バス]]「トゥインクル号」をトゥインクルレース開催時のみ運行したほか、 [[錦糸町駅]]から無料送迎バス([[はとバス]])をもナイター期間中及び年末開催のみ運行していたが、前者は2004年より休止となり、後者も2019年末で終了となった。 * 自動車の場合は、[[首都高速湾岸線]]の[[大井南出入口]]と中環大井南出入口が、最寄りのインターチェンジ。駐車料金は1回1,000円。 == 注・出典 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *「大井競馬の歩み-特別区競馬組合50年史-」平成13年9月発行 == 関連項目 == * [[東京シティ競馬中継]] * [[オールスター感謝祭]] - 「人馬対決! マイルチャンピオンシップ」という企画で大井競馬場が使用された。 * [[M-1グランプリ]] - 第7回(2007年)~第10回(2010年)大会まで敗者復活戦が大井競馬場で行われていた。 * [[清水行之助]] == 外部リンク == {{Commonscat|Oi Racecourse}} * [https://www.tokyocitykeiba.com/ 大井競馬場公式サイト] * {{Twitter|tck_keiba|東京シティ競馬(TCK)}} * {{facebook|tokyocitykeiba}} * {{Instagram|tck_keiba_official|東京シティ競馬(TCK)}} * {{YouTube| user = tckkeiba|TCK 東京シティ競馬【公式】|}} * [https://www.keiba.go.jp/guide/07/index.html 地方競馬全国協会公式サイト「競馬場紹介」大井競馬場] * [https://s.mxtv.jp/sports/tck/ 東京シティ競馬中継]([[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]]) {{日本の競馬場}} {{デフォルトソート:おおいけいはしよう}} [[Category:日本の競馬場]] [[Category:品川区のスポーツ施設]] [[Category:大井 (品川区)]] [[Category:南関東公営競馬]] [[Category:1950年開設のスポーツ施設]] [[Category:品川区の観光地]]
2003-04-18T14:29:56Z
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名馬一覧
名馬一覧(めいばいちらん)とは、歴史上特筆すべき名馬の一覧である。掲載基準についてはノートを参照のこと。すでに独立した記事がある名馬については概要のみ記した。 アテルイから譲り受けた坂上田村麻呂の愛馬。水沢競馬場では阿久利黒にちなんだ『阿久利黒賞』が開催されていた。
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名馬一覧(めいばいちらん)とは、歴史上特筆すべき名馬の一覧である。掲載基準についてはノートを参照のこと。すでに独立した記事がある名馬については概要のみ記した。
'''名馬一覧'''(めいばいちらん)とは、歴史上特筆すべき名馬の一覧である。掲載基準についてはノートを参照のこと。すでに独立した記事がある名馬については概要のみ記した。 == 日本 == === 平安・鎌倉時代 === ;阿久利黒 [[アテルイ]]から譲り受けた[[坂上田村麻呂]]の愛馬。水沢競馬場では阿久利黒にちなんだ『[[阿久利黒賞]]』が開催されていた。 ;望月 :[[平清盛]]の愛馬。『[[平家物語]]』では望月の尾に鼠が一晩で巣を作ったことが語られる。鼠(ネズミ)のような小動物が馬のように大きな動物に取り付いて巣を作ることは、世の中の傾勢が変わる異変として極めて不吉とされた。 ;木下(このした)・南鐐(なんりょう) :木の下は[[源頼政]]の嫡男、[[源仲綱]]の愛馬。南鐐は平清盛の三男、[[平宗盛]]の愛馬。[[1180年]]([[治承]]4年)、宗盛は仲綱に木の下を貸すよう頼んだが、仲綱は一度はこれを断った。これが宗盛の不興を買い、宗盛は木の下に「'''仲綱'''」の焼印を押して辱めた。そののち仲綱の家来の[[渡辺競]]が宗盛の愛馬南鐐を奪い、たてがみと尾を剃り落として尻には「平宗盛入道」の焼印を押して仕返しをした。この事件が後の源頼政の挙兵の引き金となったとされる。 ;[[生食 (ウマ)|生食]](いけずき)・[[磨墨]](するすみ) :共に[[源頼朝]]の馬だが、生食は[[佐々木高綱]]、磨墨は[[梶原景季]]にそれぞれ与えられた。生食は池月とも伝えられる。高綱と景季は[[1184年]]([[寿永]]3年)の[[宇治川の戦い]]で先陣争いを演じた。共に南部馬。 ;鬼葦毛(おにあしげ) :[[源義仲]]の愛馬。平家物語「木曽の最期」にてその名が出ている。 ;青海波(せいがいは)・太夫黒(たゆうぐろ)・薄墨(うすずみ) :[[源義経]]の愛馬。 ;秩父鹿毛(ちちぶかげ)・三日月(みかづき) :[[畠山重忠]]の愛馬。[[一ノ谷の戦い|鵯越の逆落とし]]の際、重忠は愛馬「三日月」を背負って崖を降りたという。 ;花柑子(はなこうじ) :[[清原家衡]]の愛馬。[[後三年合戦絵詞]]に「[[奥六郡|六郡]]第一の馬」として描かれる。 ;井上黒(河越黒) :[[平知盛]]の愛馬。[[一ノ谷の戦い]]の際、手放したのを[[河越重房]]が捕らえ、後白河院に献上した。 ;権田栗毛<!--権太栗毛、近太栗毛とも-->(ごんたくりげ) :[[熊谷直実]]の愛馬。南部馬。 ;童子鹿毛(どうじかげ) :一ノ谷の戦いの際、[[平重衡]]が乗っていた馬。敗走中に馬を射られて、重衡は捕らえられた。 ;高楯黒(たかだてぐろ) :西木戸国衡([[藤原国衡]])の馬。『[[吾妻鏡]]』[[文治]]5年([[1189年]])8月10日条に登場し、「[[陸奥国|奥州]]第一の駿馬」と評されており、丈九寸(四尺九寸、147センチ)。 === 戦国時代・江戸時代 === ;鬼鹿毛(おにかげ) :[[武田信玄]]の父である[[武田信虎]]の愛馬。『[[甲陽軍鑑]]』巻一によると[[体高]]は四尺八分八寸(148センチメートル)で、晴信(信玄)が鬼鹿毛を所望したが信虎は聞き入れなかったとする逸話を記している。 ;黒雲(くろくも) :武田信玄の愛馬。気性が非常に荒く、信玄以外騎乗できなかったといわれる。 ;大鹿毛(おおかげ) :[[武田勝頼]]の愛馬。武田家滅亡後、[[織田信忠]]の愛馬となる。明智秀満の愛馬と同名だが、別の馬と思われる。 ;白石鹿毛(しろいしかげ) :[[織田信長]]が所有した名馬。[[伊達輝宗]]から送られた奥州一と謳われた名馬。 ;小雲雀(こひばり) :織田信長から[[蒲生氏郷]]が拝領した名馬。 ;大鹿毛(おおかげ) :[[明智光秀]]の愛馬。[[本能寺の変]]以後、[[山崎の戦い]]の敗報を受けて[[坂本城]]への帰還を目指す秀満が、大津にて秀吉派の軍勢に阻まれた。そこで、陸路を断念した主を乗せたまま[[琵琶湖]]の湖水へ入り、無事に泳ぎきって坂本帰還を果たした、と言われている。 ;鏡栗毛(かがみくりげ) :[[山内一豊]]の愛馬。[[織田信長]]の馬揃えの際、一豊の妻・千代([[見性院 (山内一豊室)|見性院]])は貯えていた嫁入りの持参金を夫に渡し、名馬鏡栗毛を購入させた。馬を買った経緯は、ある商人が東国一の馬を売ろうと連れて来たが、あまりの高さに誰も買う者が無く、仕方無く帰ろうとした所を山内一豊が買った。それを聞いた信長が「高い馬だから、信長の家の者でなければ買えないだろうと持って来た馬を、浪人の身でありながらよく買ってくれた。信長の家も恥をかかなくて済んだ」と喜んだ。 ;帝釈栗毛(たいしゃく くりげ) :[[加藤清正]]の愛馬。「江戸のもがりに さわりはすとも よけて通しゃれ 帝釈栗毛」と謳われたという。 ;内記黒(ないきぐろ) :[[豊臣秀吉]]から[[長宗我部元親]]が拝領した名馬。[[芦毛|葦毛]]の馬である。[[戸次川の戦い]]にて[[仙石秀久]]の無謀な策により、窮地に陥った元親を乗せて命を救った。墓は[[高知県]]の元親の墓付近にある。 ;奥州驪(あうしうぐろ、おうしゅうぐろ) :[[豊臣秀吉]]が[[中国大返し]]で最初に騎乗した名馬。[[湯浅常山]]の著書『[[常山紀談]]』巻の五によると、「秀吉は奥州ぐろという名馬に乗り、雑卒にまじり、[[吉井川]]を渡り片上([[備前市]])を過ぎ、宇根([[兵庫県]][[赤穂市]]有年)に馳せ著けたれば馬疲れたり」としており、約25里を駆け抜けたとされている。 ;百段(ひゃくだん) :[[森長可]]の愛馬。長可の居城・[[金山城 (美濃国)|金山城]]の石段100段を駆け上る程の[[甲斐の黒駒|甲斐黒]]とされている。 ;膝突栗毛(ひざつきくりげ) :[[島津義弘]]の愛馬で、'''長寿院栗毛(ちょうじゅいん くりげ)'''とも言われる。[[木崎原の戦い]]に於いて敵将との[[一騎討ち]]の際に、膝を折り曲げて義弘の危機を回避した。 ;放生月毛(ほうしょうつきげ) :[[上杉謙信]]の愛馬。[[川中島の戦い]]における[[武田信玄]]との一騎討ちで騎乗していたと言われる。[[月毛]]とはクリーム色の事である。 ;{{Anchors|松風}}松風(まつかぜ)<!--「松風」の記事からリンクされている」--> :[[前田利益]]の愛馬。[[前田利家]]を[[風呂#水風呂|水風呂]]に騙して入浴させ、前田家を出奔した際に奪ったと言われている。別名谷風とも言われる。[[漫画]]『[[花の慶次]]』では、[[上野国]]の[[厩橋城]]近くにいた事になっている。 ;白石(しらいし) :[[徳川家康]]の愛馬。名は「白」だが毛の色は黒。 ;三国黒(みくにぐろ) :[[本多忠勝]]の愛馬。[[徳川秀忠]]から拝領した。[[関ヶ原の戦い]]で被矢。 ;太平楽(たいへいらく) :[[豊臣秀頼]]の愛馬。天下一と評された名馬であったが、[[大坂の陣]] で主人を乗せることは無かった。 ;真田栗毛(さなだくりげ) :[[真田信繁]]の愛馬。大坂の陣で信繁が戦死すると、褒美として[[松平忠直]]に与えられた。後に改易されると配流先にも連れて行った。 ;王庭(おうば) :[[佐久間象山]]の愛馬。白い馬で京都三条木屋町で暗殺された際に騎乗していた。 ;五島(ごとう) :[[後藤信康]]の愛馬。のち[[伊達政宗]]へ献上されたが、[[大坂の陣|大阪冬の陣]]の際は老齢を理由に参陣を留め置かれた。そのことを嘆き悲しみ[[仙台城]]本丸から崖下へ身投げしたという伝説がある。 === 明治 === ;金華山 :明治天皇の御料馬。明治天皇を乗せ、最も多くの公式行事に参加した。南部馬。体高148cm。 ;寿号(すごう) :ス号とも言われる。[[1905年]]([[明治]]38年)[[日露戦争]]での[[旅順攻囲戦|旅順陥落]]の際、ロシアの将軍[[アナトーリイ・ステッセリ]](ステッセル)から[[乃木希典]]に、武勇を称えて贈られた。ステッセルの名に因み、寿号と名づけられた。 ;盛号(さかりごう) :[[南部馬]]最後の名馬とされ(後述記事)、明治初期の[[十和田市]]で生まれ、その後、東京上野で行われた競馬において、体高も足も長い外国馬であるサラブレッドを破り、2年連続で優勝した<ref>[[朝日新聞]] 2019年3月1日(金曜日)付け、埼玉版2(記事・吉沢龍彦)</ref>。 === 昭和 === ;[[白雪 (御料馬)|白雪]] [[File:Hirohito Sirayuki.jpg|thumb|「白雪」にまたがる昭和天皇]] :[[昭和天皇]]の御料馬。[[1921年]]、[[ハンガリー]]生まれのアラブ種。当時、ドイツに留学中の医学博士・佐藤達次郎[[男爵]]に見いだされて購入され、[[1926年]]に[[摂政宮]]裕仁親王に献上される。即位後の昭和天皇の御料馬として数々の公式行事に参加する。 [[1942年]]、老齢により引退。戦後の[[1947年]]、[[宮内庁下総御料牧場]]で死亡。 ;平形 [[画像:愛宕神社・出世の石段.jpg|thumb|愛宕神社・出世の石段(2012年2月)]] :陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]所属の[[軍馬]]。8歳で廃馬(殺処分)となる決定がなされたが、その能力を惜しんだ参謀本部所属の馬丁の[[岩木利夫]]の騎乗により、[[1925年]][[11月8日]]、[[東京都]]の[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]の[[愛宕神社 (東京都港区)|愛宕神社]]の騎乗石段登頂に成功(この騎乗による愛宕山石段(男坂)登頂は、[[江戸時代]]より現代までに伝わるだけでも10例ほどしか記録されていない)。この成功が同神社と同じ[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]に当年3月に開局したばかりのラジオ局、社団法人東京放送局(JOAK。のちの[[日本放送協会|NHK]]の前身の一つ)で即座にニュースとして伝えられ、また、これから下りの挑戦があることが臨時ニュースで流されると、愛宕神社には観客が殺到した。平形と岩木のこれら一連の行動は美談とされ、昭和天皇も知るところとなり、平形は廃馬を免れ、参謀本部将校用乗馬として余生を過ごした。上りのタイムは1分余であったが、下りは45分を要した。 ;勝山号 :昭和14年10月11日、金鵄勲章に相当する「甲功章」を、陸軍大臣畑俊六大将から戦地第1号としての表彰を受けた。 :大東亜戦争の始まる前年の昭和15年1月、中国(支那)大陸から下川部隊とともに生還した、たった1頭の軍馬が「勝山号」である。 :http://www.esashi.com/katsuyamago.html#hohei :http://www.chie-project.jp/011/no17.html ;[[ウラヌス (競技馬)|ウラヌス号]] :[[1932年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]馬術大障害飛越競技の金メダリストである[[西竹一]]の愛馬。[[硫黄島の戦い]]で西が戦死すると、後を追うように病死した。 == 中国 == === 春秋時代 === ;驥(き) :[[春秋時代]]の名馬。[[孔子]]が「節度ある風格」といって誉めたと『[[論語]]』にある。ただし、'''驥'''の字義は「駿馬、千里の馬」であり、論語での文脈上も特定の馬名ではない<ref>『論語』憲問篇第十四「子曰、驥不稱其力、稱其德也。」</ref>。 === 秦 === ;騅(すい) :[[秦]]末期の武将[[項羽]]の愛馬。[[司馬遷]]『[[史記]]』の項羽本紀にその名が見られる。戦闘では百戦不敗の項羽だったが、戦略の無さから[[劉邦]]に敗れ、最後の戦いに臨む前に詠った垓下歌(がいかのうた)にその名がある。 :「''力拔山兮氣蓋世 時不利兮'''騅'''不逝 '''騅'''不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何''」(訳:自分の力は山を抜き、覇気は世を覆うほどであるというのに、時勢は不利であり、騅も前に進もうとはしない。騅が進まないのはどうしたらよいのだろうか。虞や、虞や、お前の事もどうしたらよいのだろうか) :こう詠ったのち項羽は騅に跨り迫り来る劉邦軍を蹴散らして長江の岸辺まで到達し、そこで自刃して果てた。なお、この歌の最終節に出てくる「[[虞美人|虞]]」は、項羽の愛妾である。[[虞美人草]]([[ヒナゲシ]])の名の元になった。 :なお、'''騅'''の字義は「[[葦毛]]の馬」であり、同様の毛並みであったと考察されている。 === 漢 === ;[[汗血馬]] :西域諸国に産する名馬。歴代正史では『[[史記]]』から『[[隋書]]』に至るまでの各書にあらわれる。[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]が求めた[[大宛]]の名馬がよく知られる。 ;[[赤兎馬]] :『三国志』「呂布伝」に名が記録されている馬。[[呂布]]は赤兎という馬を持っていた、とある。小説『[[三国志演義]]』では呂布と[[関羽]]の愛馬とされている。ただし、関羽が乗ったという記述は正史には見られない。南蛮の[[祝融夫人|祝融]]が騎乗していたという話もあり、特定の馬を指すのではなく種類のことを示すのではないかという説もある。 ;[[絶影]] :『三国志』「武帝紀」に名が記録されている馬。[[曹操]]が騎乗したとある。名前の由来は「影も追いつけないほどに早く走る」という意味とされる。 ;[[的盧]] :「額が白い」という意味の馬相を指す。凶馬とされる。『[[三国志]]』「蜀書 先主伝」に[[劉備]]が騎乗したとある。[[東晋]]・[[庾亮]]の乗馬もこの特徴を有していた(『[[晋書]]』庾亮伝、『[[世説新語]]』)。小説『[[三国志演義]]』では、劉備の愛馬はさらに四白(四本の足すべての足先が白い)で、持ち主に祟りをなす凶相の中の凶相とされる。 ;[[白鵠]] :『[[拾遺記]]』、『[[太平御覧]]』に名が記録されている葦毛の馬。曹操の従弟である[[曹洪]]が所有していた。白鵠とは[[ハクチョウ]]のこと。この馬に乗った曹操が敵から逃げて渡河した際に、曹操はずぶ濡れになったが馬は濡れていなかったという。'''白鶴'''とも。 === 水滸伝 === ;照夜玉獅子 :夜の月に照らされたように全身真っ白の馬。元々は[[金 (王朝)|金国]]の王子が所有していたが、馬泥棒の[[段景住]]が盗み[[宋江]]の乗馬となる。 ;踢雪烏騅 :烏騅とは黒馬の意だが、踵が白いためこの名がある。[[呼延灼]]が[[梁山泊]]討伐のため、[[徽宗]]皇帝から下賜された名馬。 ;賽白玉 :[[大名県|北京大名府]]の練兵場で[[索超]]が[[楊志]]と一騎討ちをする際に使用した白い名馬。 ;火塊赤 :北京大名府の留守司である梁世傑が楊志に貸し与えた[[赤兎馬]]と称えられるほどの名馬。索超と一騎討ちする際に使用。 ;転山飛 :山河を平地のように駆けるためそう名付けられた名馬。[[方臘 (水滸伝)|方臘]]の将・王寅の乗馬。 ;衝陣馬 :陣を衝くという名の通り気性の荒い馬。曾頭市の曽長者の四男、曽魁の乗馬。 == ヨーロッパ == {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = 歴史上の馬 | header_align = center | header_background = #BDB76B | footer = | image1 = Napoli BW 2013-05-16 16-24-01.jpg | width1 = 250 | caption1 = 愛馬ブケパロスに乗って戦う[[アレクサンドロス3世]]/[[イッソスの戦い]]を描いた[[モザイク]][[壁画]](部分)。[[ポンペイ]][[遺跡]]より出土。 | image2 = Byerly Turk.jpg | width2 = 250 | caption2 = サラブレッド三大始祖の一角、[[バイアリーターク]]/{{仮リンク|ジョン・ウットン|en|John Wootton}}画(部分)。 | image3 = David napoleon.jpg | width3 = 250 | caption3 = [[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ジャック=ルイ・ダヴィッド]] 『{{仮リンク|アルプス越えのナポレオン|en|Napoleon Crossing the Alps}}』<br />悪路を走破する必要から実際は[[ロバ|驢馬]]に乗っていたとされるが、[[英雄]]の勇姿を[[演出]]する意図を持って、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の愛馬[[マレンゴ]]に替えて描かれた。[[新古典主義]]絵画。[[1801年]]作。 | image4 = Marengo's skeleton November 2011.JPG | width4 = 250 | caption4 = [[マレンゴ]]の骨格[[標本 (分類学)|標本]]<br />[[ロンドン]]の{{仮リンク|国立軍事博物館 (イギリス)|label=国立軍事博物館|en|National Army Museum}}所蔵。 }} === 古代マケドニア === ;[[ブケパロス]] :[[アレクサンドロス3世]]の乗馬。名前は「雄牛の頭」の意。 === 帝政ローマ === ;[[インキタトゥス]] :[[カリグラ|カリグラ帝]]の乗馬。アラブ種の馬で、馬体は貧弱ながらも人語を解すると言われる。 === 中世イベリア半島 === ;[[バビエカ]] :[[エル・シッド]]の乗馬。 ===中世イギリス=== ;ブラックサラディン :[[薔薇戦争]]当時の[[リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)|ウォリック伯]]の愛馬。[[バーネットの戦い]]で、下馬して戦ったほうが有利だと味方に説くために、指揮官のウォリック伯は最初に自ら下馬して愛馬を殺してみせた<ref>江上波夫・木下順二・児玉幸多監修、原田俊治編『馬の文化叢書第10巻 競馬 揺籃期のイギリス競馬』(財団法人馬事文化財団刊、1995年)p41</ref><ref>[https://archive.org/stream/horseinhistory00tozeuoft/horseinhistory00tozeuoft_djvu.txt]</ref><ref>[http://www.bartleby.com/81/8490.html]</ref>。 === 近代イギリス === ;'''[[ゴドルフィンアラビアン]]''' :[[フランシス・ゴドルフィン (第2代ゴドルフィン伯爵)|フランシス・ゴドルフィン]]の愛馬。[[サラブレッド]][[三大始祖]]の一頭とされる。 ;'''[[ダーレーアラビアン]]''' :サラブレッド三大始の一頭とされ、玄孫にあたる[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]を通して今日の競走馬のほとんどの[[サイアーライン|父系]]の先祖がこの馬とされている。 ;[[バイアリーターク]] :ロバート・バイアリー大佐の乗馬。サラブレッド三大始祖の一頭とされる。 ;[[コペンハーゲン (軍馬)|コペンハーゲン]] :初代[[ウェリントン公爵]][[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]の乗馬。軽半種。 === 近代フランス === ;[[マレンゴ]] :[[ナポレオン・ボナパルト]]の愛馬。 == アメリカ == ;コマンチ(Comanche) :[[リトルビッグホーンの戦い]]における[[ジョージ・アームストロング・カスター|カスター]]隊唯一の生き残り。 ;[[トラベラー (軍馬)|トラベラー]] :[[南北戦争]]に活躍した軍馬。[[アメリカ連合国]](南軍)の[[ロバート・E・リー]]将軍の乗馬。 ;[[オールドバルディー]](Old Baldy) :南北戦争で活躍した軍馬。アメリカ合衆国(北軍)陸軍少将[[ジョージ・ミード]]の愛馬。[[ゲティスバーグの戦い]]等、南北戦争の重要な戦いの数々に参加し、銃弾が馬自身の胃に到達するほどの戦傷を負ってもなお(治癒後)活躍し、戦後も長く生き、30歳で安楽死された。 ;シンシナティ(Cincinnati) :南北戦争に活躍した軍馬。北軍の[[ユリシーズ・グラント]]将軍の乗馬。[[ワシントンD.C.]]の[[アメリカ合衆国議会議事堂]]前にはシンシナティに騎乗するグラントの巨大な像([[ユリシーズ・S・グラント・メモリアル]])が存在する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == *[[:Category:軍馬]] {{DEFAULTSORT:めいはいちらん}} [[Category:動物関連の一覧]] [[Category:馬|*めいはいちらん]] [[Category:馬の個体|*めいはいちらん]]
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空間ベクトル
空間ベクトル(くうかんベクトル、ドイツ語: Vektor, 英語: vector, ラテン語: vector, 「運搬者、運ぶもの」より)は、大きさと向きを持った量である。ベクタ、ベクターともいう。漢字では有向量と表記される。ベクトルで表される量をベクトル量と呼ぶ。 例えば、速度や加速度、力はベクトルである。平面上や空間内の矢印(有向線分)として幾何学的にイメージされる。ベクトルという用語はハミルトンによってスカラーなどの用語とともに導入された。スカラーはベクトルとは対比の意味を持つ。 この記事では、ユークリッド空間内の幾何ベクトル、とくに3次元のものについて扱い、部分的に一般化・抽象化された場合について言及する。本項目で特に断り無く空間と呼ぶときは、3次元実ユークリッド空間のことを指す。 空間内に二つの点 S と T をとり、S から T へ向かう線分を有向線分と呼ぶ。S を始点(してん、initial point, source, しっぽ)、T を終点(しゅうてん、terminal point, target, あたま)と呼び、向きの区別のために終点 T の側の端に山を書いて線分を矢印にする。 ある点 S に向きと大きさを持った量 v が作用しているとき、v の作用と同じ向きで、長さが v の作用の大きさに比例するように有向線分 S T → {\displaystyle {\overrightarrow {ST}}} をとって v を と表現する。 別の点 S′ に同じように v の作用の向き、大きさにあわせて有向線分 S ′ T ′ → {\displaystyle {\overrightarrow {S'T'}}} をつくるとこれらは互いに平行 ( S T → ∥ S ′ T ′ → ) {\displaystyle ({\overrightarrow {ST}}\parallel {\overrightarrow {S'T'}})} になるが、これも元の量 v を表すものとして と記し、同じものとみなすというのが向きと大きさを持った量というベクトルの概念の幾何学的な表現(幾何学的ベクトル)である。 あるベクトル a と同じ方向で大きさの比率(スカラー)が k であるようなベクトルを ka と表す。また、a と同じ大きさで逆の向きを持つベクトルは −a と表す。同様に、a と逆の向きを持ち大きさの比率が k であるようなベクトルは −ka と記す。これをベクトル a のスカラー k 倍あるいは単にスカラー倍(スカラー乗法)と呼ぶ。 二つのベクトル a, b の和 a + b を、それらの始点を合わせたときにできる平行四辺形の(始点を共有する)対角線に対応するベクトルと定める(三つ以上のベクトルの和も、二つの和をとる演算から帰納的に定める)。a, b がどんなものであっても a + b = b + a が成り立っていることに注意されたい。 また逆に、あるベクトルを二つ(以上)の異なるベクトルの和に分解することができる。特にxyz-空間の各軸の方向で長さ 1 の有向線分に対応するベクトル(基本ベクトル、単位ベクトル)を x, y, z の各軸でそれぞれ i, j, k と置くと、任意のベクトル v は の形に表せる。 ここで、ピタゴラスの定理を用いると、ベクトル v の大きさ ||v|| は によって求まる。 ベクトルの始点を xyz-座標系の原点に合わせると、任意のベクトルはその終点の座標によって一意的に表すことができる。 このとき、空間内の点 Q に対して Q = P(v) となるベクトル v を点 Q の位置ベクトルと呼ぶ。 いわゆる矢印ベクトルは物理学の教育では力学の初歩から導入されるため、ベクトルも古典力学と同時に発生したと思われるかもしれないが、実はもっと後の19世紀になって現れたものである。今でこそベクトルや行列などを使って、物理学や幾何の問題を解くといったことは常識であるが、ベクトルが誕生する以前の数学や物理学では初等幾何学、解析幾何学や四元数などを利用していた。今日我々が知っているベクトルの概念は、およそ200年もの時間を掛けて徐々に形成されてきたものである。そこでは何十人もの人々が重要な役割を果たしてきた。ベクトルの先祖は四元数であり、ハミルトンが1843年に複素数の一般化によって考案したものである。ハミルトンは最初に、二次元における複素数と複素平面のような関係を満たすような数を三次元空間にも見いだそうとしたが失敗し、なぜか三つの数の組では二次元の場合の複素数と複素平面のように三次元空間を記述できないことが判明した。 研究の結果、最終的に四次元の四元数へとたどり着くこととなった。三次元空間を記述するのに、数が三組では記述が不可能でなぜか四組必要だったのである。二次元では、二組の数である複素数を用いることによって、複素平面を二次元ユークリッド平面と同等とみなすとベクトルに似た概念が記述できるというのに、三次元空間を記述するのに四次元の数が必要だったのである。ハミルトンは1846年に四元数の複素数における実部と虚部に相当するものとしてスカラーとベクトルという用語を導入した: ベラヴィティス(英語版)、コーシー、グラスマン、メビウス、セイントベナント(英語版)、マシュー・オブライエン(英語版)といったハミルトン以外の何人かの数学者たちは同時期にベクトルに似た概念を開発した。グラスマンの1840年の論文「減衰と流れの理論」は空間解析の最初の体系であって、今日の体系と類似したものであり、今日の外積、内積、ベクトルの微分に相当する概念が含まれていた。グラスマンの業績は1870年代まで不当に無視され続けていた。 ピーター・テイトはハミルトンの後に四元数の基礎を確立した。テイトの1867年の「四元数の初等的理論」には今日の∇(ナブラ)演算子に相当する概念が含まれていた。 ウィリアム・クリフォード(英語版)は1878年に力学原論(英語版)を出版した。ここでクリフォードは完備四元数積から今日の二つのベクトルの外積、内積に相当する概念を抽出した。このアプローチは四次元の実在に疑念を抱いている技術者などの人々にベクトル解析を通じて三次元空間の解析を行う手段を提供したといえる。 アメリカの物理学者ギブスは、現代的なベクトル解析を用いたものに四元数ベースで書かれていたマクスウェルの電磁気学の著書、「Treatise on Electricity and Magnetism」を書き直した。電磁気学の数理はベクトルが登場するまでは四元数が用いられており、ニュートン力学が初等幾何学ベースで後世の科学者らに現代風の解析学を用いる数理に書き換えられたのと同様、マクスウェルのオリジナルのものは四元数ベースであり今日教えられているベクトルベースの電磁気学もまた後世の科学者らによって書き換えられたものである。ギブスは自身のイェール大学での講義を元にベクトル解析の専門書「Elements of Vector Analysis」の最初の分冊を1881年に出版したが、ここでは今日用いられているベクトル解析の基本概念が概ね確立されているといえる。この講義録は英国のヘヴィサイドにも送られ評価された。教え子のエドウィン・ウィルソン(英語版)が1901年に出版した「Vector Analysis」はギブスの講義を元に書かれており、四元数の名残を完全に抹消し今日のベクトル解析の基礎を確立した最初の著作であるといえる。 これ以降、理工学ではベクトルの概念が盛んに用いられるようになり、四元数は一旦廃れたものの、20世紀後半以降コンピュータの発達により三次元空間のプログラミングに四元数が一部で再び用いられている。 更に20世紀に入ると線型代数学の発達によりベクトルの概念も抽象化し、向きを持った直線の矢印で表せる具体的な幾何ベクトルのみならず線型空間と関連した抽象的存在としても認識されるようになっていく。20世紀後半になると線型代数は教育にも取り入れられるようになり、昔ながらの初等幾何学や解析幾何学よりもベクトルや線型代数を用いて幾何学や物理学の問題が教育されるようになった。日本の大学でも戦後から1970年代ぐらいまでの間に理系の学生の必修科目としての「解析幾何学」や「代数・幾何」が「行列と行列式」、「線型代数」といった科目に取って代わられていった。現代ではこれらは歴史はほとんど教えられずに適度に取捨選択しつつ複合的に教育されているが、歴史的には概ね初等幾何学、解析幾何学、ベクトル解析、線型代数の順番に発達してきたものである。これに伴って解析学や物理数学の教育も変遷し、20世紀前半以前のものは解析幾何学などの幾何色が強いが、20世紀後半のものはベクトルや線型代数を取り入れた抽象的なものが主流となっていった。
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空間ベクトルは、大きさと向きを持った量である。ベクタ、ベクターともいう。漢字では有向量と表記される。ベクトルで表される量をベクトル量と呼ぶ。 例えば、速度や加速度、力はベクトルである。平面上や空間内の矢印(有向線分)として幾何学的にイメージされる。ベクトルという用語はハミルトンによってスカラーなどの用語とともに導入された。スカラーはベクトルとは対比の意味を持つ。 この記事では、ユークリッド空間内の幾何ベクトル、とくに3次元のものについて扱い、部分的に一般化・抽象化された場合について言及する。本項目で特に断り無く空間と呼ぶときは、3次元実ユークリッド空間のことを指す。
{{出典の明記|date=2012-1}}'''空間ベクトル'''(くうかんベクトル、{{lang-de|Vektor}}, {{lang-en|vector}}, {{lang-la|vector}}, 「運搬者、運ぶもの」より)は、大きさと向きを持った量である。'''ベクタ'''、'''ベクター'''ともいう。漢字では'''有向量'''と表記される。ベクトルで表される[[量]]を'''ベクトル量'''と呼ぶ。 例えば、[[速度]]や[[加速度]]、[[力 (物理学)|力]]はベクトルである。平面上や空間内の矢印([[有向線分]])として[[幾何学]]的にイメージされる。ベクトルという用語は[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン|ハミルトン]]によって[[スカラー (数学)|スカラー]]などの用語とともに導入された。スカラーはベクトルとは対比の意味を持つ。 この記事では、[[ユークリッド空間]]内の幾何ベクトル、とくに[[3次元]]のものについて扱い、部分的に一般化・抽象化された場合について言及する。本項目で特に断り無く空間と呼ぶときは、[[3次元実ユークリッド空間]]のことを指す。 == 数学的な記述 == [[Image:OrderedLineSegment.png|thumb|right|点 S を始点とし、点 T を終点とする有向線分]] 空間内に二つの点 ''S'' と ''T'' をとり、''S'' から ''T'' へ向かう[[線分]]を'''有向線分'''と呼ぶ。''S'' を'''始点'''(してん、<span lang=en>initial point, source</span>, しっぽ)、''T'' を'''終点'''(しゅうてん、<span lang=en>terminal point, target</span>, あたま)と呼び、向きの区別のために終点 ''T'' の側の端に山を書いて線分を矢印にする。 [[image:SameVectors.png|thumb|right|互いに同じ向きに平行な長さの等しい有向線分に対応するベクトルは互いに等しい]] ある点 ''S'' に向きと大きさを持った量 '''v''' が作用しているとき、'''v''' の作用と同じ向きで、長さが '''v''' の作用の大きさに比例するように有向線分 <math>\overrightarrow{ST}</math> をとって '''v''' を :<math>\mathbf{v} = \overrightarrow{ST}</math> と表現する。 別の点 ''S''&prime; に同じように '''v''' の作用の向き、大きさにあわせて有向線分 <math>\overrightarrow{S'T'}</math> をつくるとこれらは互いに平行 <math>(\overrightarrow{ST} \parallel \overrightarrow{S'T'})</math> になるが、これも元の量 '''v''' を表すものとして :<math>\mathbf{v} = \overrightarrow{S'T'}</math> と記し、同じものとみなすというのが向きと大きさを持った量という'''ベクトル'''の概念の幾何学的な表現('''幾何学的ベクトル''')である。 [[Image:Scalar multiplication of vectors.png|thumb|left|ベクトルのスカラー倍]] あるベクトル '''a''' と同じ方向で大きさの比率('''スカラー''')が ''k'' であるようなベクトルを ''k'''''a''' と表す。また、'''a''' と同じ大きさで逆の向きを持つベクトルは &minus;'''a''' と表す。同様に、'''a''' と逆の向きを持ち大きさの比率が ''k'' であるようなベクトルは &minus;''k'''''a''' と記す。これをベクトル '''a''' のスカラー ''k'' 倍あるいは単に'''スカラー倍'''(スカラー乗法)と呼ぶ。 [[Image:Vector addition.png|thumb|right|ベクトルの和]] 二つのベクトル '''a''', '''b''' の和 '''a''' + '''b''' を、それらの始点を合わせたときにできる平行四辺形の(始点を共有する)対角線に対応するベクトルと定める(三つ以上のベクトルの和も、二つの和をとる演算から帰納的に定める)。'''a''', '''b''' がどんなものであっても '''a''' + '''b''' = '''b''' + '''a''' が成り立っていることに注意されたい。 また逆に、あるベクトルを二つ(以上)の異なるベクトルの和に分解することができる。特に''xyz''-空間の各軸の方向で長さ 1 の有向線分に対応するベクトル('''基本ベクトル'''、[[単位ベクトル]])を ''x'', ''y'', ''z'' の各軸でそれぞれ '''i''', '''j''', '''k''' と置くと、任意のベクトル '''v''' は :<math>\mathbf{v} = v_x \mathbf{i} + v_y \mathbf{j} + v_z \mathbf{k}</math> の形に表せる。 ここで、[[ピタゴラスの定理]]を用いると、ベクトル '''v''' の大きさ ||'''v'''|| は :<math>\lVert\mathbf{v}\rVert = \sqrt{v_x^2 + v_y^2 + v_z^2}</math> によって求まる。 ベクトルの始点を ''xyz''-座標系の原点に合わせると、任意のベクトルはその終点の座標によって一意的に表すことができる。 :<math>\mathbf{v} := v_x \mathbf{i} + v_y \mathbf{j} + v_z \mathbf{k} \leftrightarrow (v_x, v_y, v_z) =: P(\mathbf{v}). </math> このとき、空間内の点 ''Q'' に対して ''Q'' = ''P''('''v''') となるベクトル '''v''' を点 ''Q'' の'''[[位置ベクトル]]'''と呼ぶ。 ==歴史== いわゆる矢印ベクトルは物理学の教育では力学の初歩から導入されるため、ベクトルも古典力学と同時に発生したと思われるかもしれないが、実はもっと後の19世紀になって現れたものである。今でこそベクトルや行列などを使って、物理学や幾何の問題を解くといったことは常識であるが、ベクトルが誕生する以前の数学や物理学では[[初等幾何学]]、[[解析幾何学]]や[[四元数]]などを利用していた。今日我々が知っているベクトルの概念は、およそ200年もの時間を掛けて徐々に形成されてきたものである。そこでは何十人もの人々が重要な役割を果たしてきた<ref name="Crowe">Michael J. Crowe, [[A History of Vector Analysis]]; see also his [https://web.archive.org/web/20040126161844/http://www.nku.edu/~curtin/crowe_oresme.pdf lecture notes] on the subject.</ref>。ベクトルの先祖は[[四元数]]であり、ハミルトンが1843年に複素数の一般化によって考案したものである。ハミルトンは最初に、二次元における複素数と複素平面のような関係を満たすような数を三次元空間にも見いだそうとしたが失敗し、なぜか三つの数の組では二次元の場合の複素数と複素平面のように三次元空間を記述できないことが判明した。 研究の結果、最終的に四次元の四元数へとたどり着くこととなった。三次元空間を記述するのに、数が三組では記述が不可能でなぜか四組必要だったのである。二次元では、二組の数である複素数を用いることによって、複素平面を二次元ユークリッド平面と同等とみなすとベクトルに似た概念が記述できるというのに、三次元空間を記述するのに四次元の数が必要だったのである。ハミルトンは1846年に四元数の複素数における実部と虚部に相当するものとしてスカラーとベクトルという用語を導入した: :代数的な虚部(ベクトル)は、幾何的には直線または半径ベクトルであり、それらは一般的には、各々の四元数によって決定され、空間における向きと長さが定まり、それを虚部または単に四元数のベクトルと呼ぶ<ref>W. R. Hamilton (1846) ''London, Edinburgh & Dublin Philosophical Magazine'' 3rd series 29 27</ref>。 {{仮リンク|ベラヴィティス|en|Giusto Bellavitis}}、コーシー、グラスマン、メビウス、{{仮リンク|セイントベナント|en|Comte de Saint-Venant}}、{{仮リンク|マシュー・オブライエン|en|Matthew O'Brien (mathematician)}}といったハミルトン以外の何人かの数学者たちは同時期にベクトルに似た概念を開発した。グラスマンの1840年の論文「減衰と流れの理論」は空間解析の最初の体系であって、今日の体系と類似したものであり、今日の外積、内積、ベクトルの微分に相当する概念が含まれていた。グラスマンの業績は1870年代まで不当に無視され続けていた<ref name="Crowe"/>。 [[ピーター・テイト]]はハミルトンの後に四元数の基礎を確立した。テイトの1867年の「四元数の初等的理論」には今日の∇(ナブラ)演算子に相当する概念が含まれていた。 {{仮リンク|ウィリアム・クリフォード|en|William Kingdon Clifford}}は1878年に{{仮リンク|力学原論|en|Elements of Dynamic}}を出版した。ここでクリフォードは完備四元数積から今日の二つのベクトルの外積、内積に相当する概念を抽出した。このアプローチは四次元の実在に疑念を抱いている技術者などの人々にベクトル解析を通じて三次元空間の解析を行う手段を提供したといえる。 アメリカの物理学者[[ウィラード・ギブス|ギブス]]は、現代的なベクトル解析を用いたものに四元数ベースで書かれていた[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マクスウェル]]の電磁気学の著書、「Treatise on Electricity and Magnetism」を書き直した。電磁気学の数理はベクトルが登場するまでは四元数が用いられており、ニュートン力学が初等幾何学ベースで後世の科学者らに現代風の解析学を用いる数理に書き換えられたのと同様、マクスウェルのオリジナルのものは四元数ベースであり今日教えられているベクトルベースの電磁気学もまた後世の科学者らによって書き換えられたものである。ギブスは自身の[[イェール大学]]での講義を元にベクトル解析の専門書「Elements of Vector Analysis」の最初の分冊を1881年に出版したが、ここでは今日用いられているベクトル解析の基本概念が概ね確立されているといえる<ref name="Crowe" />。この講義録は英国の[[オリヴァー・ヘヴィサイド|ヘヴィサイド]]にも送られ評価された。教え子の{{仮リンク|エドウィン・ウィルソン|en|Edwin Bidwell Wilson}}が1901年に出版した「Vector Analysis」はギブスの講義を元に書かれており、四元数の名残を完全に抹消し今日のベクトル解析の基礎を確立した最初の著作であるといえる。 これ以降、理工学ではベクトルの概念が盛んに用いられるようになり、四元数は一旦廃れたものの、20世紀後半以降コンピュータの発達により三次元空間のプログラミングに四元数が一部で再び用いられている。 更に20世紀に入ると[[線型代数学]]の発達によりベクトルの概念も抽象化し、向きを持った直線の矢印で表せる具体的な幾何ベクトルのみならず線型空間と関連した抽象的存在としても認識されるようになっていく。20世紀後半になると線型代数は教育にも取り入れられるようになり、昔ながらの初等幾何学や解析幾何学よりもベクトルや線型代数を用いて幾何学や物理学の問題が教育されるようになった。日本の大学でも戦後から1970年代ぐらいまでの間に理系の学生の必修科目としての「解析幾何学」や「代数・幾何」が「行列と行列式」、「線型代数」といった科目に取って代わられていった。現代ではこれらは歴史はほとんど教えられずに適度に取捨選択しつつ複合的に教育されているが、歴史的には概ね初等幾何学、解析幾何学、ベクトル解析、線型代数の順番に発達してきたものである。これに伴って解析学や物理数学の教育も変遷し、20世紀前半以前のものは解析幾何学などの幾何色が強いが、20世紀後半のものはベクトルや線型代数を取り入れた抽象的なものが主流となっていった。 ==参考文献== {{脚注ヘルプ}} <references /> ==関連項目== *[[代数学]] *[[解析幾何学]] *[[線型代数学]] *[[ベクトル空間]] *[[ベクトル解析]] *[[複素数]] *[[複素平面]] *[[四元数]] *[[力の平行四辺形]] * {{仮リンク|ベルソル|en|Versor_(disambiguation)|}} {{Linear algebra}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くうかんへくとる}} [[Category:ベクトル]] [[Category:物理数学]] [[Category:線型代数学]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:空間]] [[Category:方向]]
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レトロウイルス科
レトロウイルス科(Retroviridae)とは、RNAウイルス類の中で逆転写酵素を持つ種類の総称。プラス鎖ゲノムの一本鎖RNA(ssRNA)から成る。単にレトロウイルスと呼ばれることも多い。 尚、逆転写酵素を持つものは、必ずしもRNAウイルスであるとは限らず、DNAウイルスであるB型肝炎ウイルス (HBV)がその一例である。 B型肝炎ウイルスは転写でプレゲノムRNAを生成したのちに逆転写によってDNAを合成している。下記も参照されたい。 レトロウイルス科のウイルスは直径約100nmの球状の形をしており、脂質のエンベロープに覆われている。ウイルス粒子のコアには逆転写酵素と通常2組の同一なRNAゲノムを持つ。共通の遺伝子としては、プロモーター活性のある2つのLTR(long terminal repeat)と呼ばれる塩基配列の繰り返し領域に挟まれて、gag(構造タンパク質をコード)、pro(プロテアーゼをコード)、pol(逆転写酵素などをコード)、env(エンベロープのタンパク質をコード)を持っている。 ウイルスのエンベロープが細胞膜の受容体と結合することで、細胞内にRNAと逆転写酵素が侵入する。 その後逆転写酵素が作用し、プラス鎖ウイルスRNAを鋳型にマイナス鎖DNAを合成する。そして合成されたマイナス鎖DNAを鋳型にプラス鎖DNAが合成され、一本鎖RNAが二本鎖DNAに変換される。 その後二本鎖DNAは宿主細胞のDNAに組み込まれ、プロウイルスと呼ばれる状態になる。プロウイルスは恒常的に発現している状態となっており、ウイルスRNAやメッセンジャーRNAが次々と合成されていく。メッセンジャーRNAはウイルス蛋白を合成させ、完成したウイルスは宿主細胞から発芽していく。 このレトロウイルスは近現代において「天然のナノマシン」として、様々な遺伝子治療や遺伝子研究に利用されている。 レトロウイルス科は以下の2亜科に分けられる。 細胞を培養すると泡状 (spuma) の細胞変性効果が見られることから名づけられたウイルス。病原性は不明。 レンチウイルス属は、ヒトや他の哺乳類で、長い (lente) 潜伏期間を特徴とする、慢性的で致命的な疾患を引き起こす一属。 アルファレトロウイルス属 ベータレトロウイルス属 ガンマレトロウイルス属にはマウス白血病ウイルス、猫白血病ウイルス、細網内皮症ウイルスがある。 XMRV (Xenotropic murine leukemia virus-related virus)は前立腺がん、慢性疲労症候群との関連が示唆されたが、後に人の疾病との関連は否定された。 デルタレトロウイルス属は腫瘍 (onc) を引き起こすウイルス。 B型肝炎ウイルス (HBV: hepatitis B virus) はDNAウイルスであるが、DNA→RNA→DNAと逆転写を経て複製するためレトロイドともよばれ、HIVの治療薬でもある逆転写酵素阻害薬の一部が効果を示す(エンテカビル、アデホビル、ラミブジン、テノホビルは日本でも保険適応がある)。
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レトロウイルス科(Retroviridae)とは、RNAウイルス類の中で逆転写酵素を持つ種類の総称。プラス鎖ゲノムの一本鎖RNA(ssRNA)から成る。単にレトロウイルスと呼ばれることも多い。 尚、逆転写酵素を持つものは、必ずしもRNAウイルスであるとは限らず、DNAウイルスであるB型肝炎ウイルス (HBV)がその一例である。 B型肝炎ウイルスは転写でプレゲノムRNAを生成したのちに逆転写によってDNAを合成している。下記も参照されたい。
{{生物分類表 |色 = violet |名称 = レトロウイルス科 | 画像 = [[ファイル:HIV-budding.jpg|250px]] | 画像キャプション = [[リンパ球]]に結合するHIV-1 | レルム = [[リボウィリア]] {{Snamei||Riboviria}} | 界 = [[パラルナウイルス界]] {{Snamei||Pararnavirae}} | 門 = [[アルトウェルウイルス門]] {{Snamei||Artverviricota}} | 綱 = [[レウトラウイルス綱]] {{Snamei||Revtraviricetes}} | 目 = [[オルテルウイルス目]] {{Snamei||Ortervirales}} | 科 = '''レトロウイルス科''' {{Snamei||Retroviridae}} | 下位分類名 = 亜科 |下位分類 = * [[オルトレトロウイルス亜科]] ''{{Sname||Orthoretrovirinae}}'' * [[スプマウイルス亜科]] ''{{Sname||Spumavirinae}}'' |}} '''レトロウイルス科'''(''Retroviridae'')とは、[[RNAウイルス]]類の中で[[逆転写酵素]]を持つ種類の総称。プラス鎖ゲノムの一本鎖RNA(ssRNA)から成る。単に'''レトロウイルス'''と呼ばれることも多い。 尚、[[逆転写酵素]]を持つものは、必ずしも[[RNAウイルス]]であるとは限らず、[[DNAウイルス]]である[[B型肝炎ウイルス]] (HBV)がその一例である。 B型肝炎ウイルスは転写でプレゲノムRNAを生成したのちに逆転写によってDNAを合成している。下記も参照されたい。 == 特徴 == レトロウイルス科のウイルスは直径約100nmの球状の形をしており、脂質の[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープ]]に覆われている。ウイルス粒子のコアには[[逆転写酵素]]と通常2組の同一なRNAゲノムを持つ。共通の遺伝子としては、[[プロモーター]]活性のある2つの[[LTR]](long terminal repeat)と呼ばれる塩基配列の繰り返し領域に挟まれて、gag(構造タンパク質をコード)、pro([[プロテアーゼ]]をコード)、pol(逆転写酵素などをコード)、env(エンベロープのタンパク質をコード)を持っている。 == 生活環 == ウイルスの[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープ]]が細胞膜の受容体と結合することで、細胞内に[[リボ核酸|RNA]]と[[逆転写酵素]]が侵入する。 その後逆転写酵素が作用し、プラス鎖ウイルスRNAを鋳型にマイナス鎖[[デオキシリボ核酸|DNA]]を合成する。そして合成されたマイナス鎖DNAを鋳型にプラス鎖DNAが合成され、一本鎖RNAが二本鎖DNAに変換される。 その後二本鎖DNAは宿主細胞のDNAに組み込まれ、'''[[プロウイルス]]'''と呼ばれる状態になる。プロウイルスは恒常的に[[発現]]している状態となっており、ウイルスRNAや[[mRNA|メッセンジャーRNA]]が次々と合成されていく。メッセンジャーRNAはウイルス[[蛋白質|蛋白]]を合成させ、完成したウイルスは宿主細胞から発芽していく。 このレトロウイルスは近現代において「天然の[[ナノマシン]]」として、様々な[[遺伝子治療]]や遺伝子研究に利用されている。 == 分類 == レトロウイルス科は以下の2亜科に分けられる<ref name=taxnomy>{{Cite web |url=https://talk.ictvonline.org/taxonomy/ |title=Virus Taxonomy: 2019 Release|publisher=[[国際ウイルス分類委員会]] (ICTV) |accessdate=2020-05-12}}</ref>。 === スプマウイルス亜科 === 細胞を培養すると泡状 (spuma) の[[細胞変性効果]]が見られることから名づけられたウイルス。病原性は不明。 === オルトレトロウイルス亜科 === ==== レンチウイルス属 ==== [[レンチウイルス属]]は、ヒトや他の哺乳類で、長い (lente) 潜伏期間を特徴とする、慢性的で致命的な疾患を引き起こす一属。 *[[ヒト免疫不全ウイルス]] (HIV: human immunodeficiency virus) -1,2 *[[サル免疫不全ウイルス]] (SIV: Simian Immuno-deficiency Virus) *[[猫免疫不全ウイルス]] (FIV: feline immunodeficiency virus) *[[馬伝染性貧血|馬伝染性貧血ウイルス]](EIA: Equine infectious anemia virus) ==== アルファレトロウイルス属 ==== [[アルファレトロウイルス属]] ==== ベータレトロウイルス属 ==== [[ベータレトロウイルス属 ]] ==== ガンマレトロウイルス属 ==== [[ガンマレトロウイルス属]]にはマウス白血病ウイルス、猫白血病ウイルス、細網内皮症ウイルスがある。 XMRV (Xenotropic murine leukemia virus-related virus)は[[前立腺癌|前立腺がん]]、[[慢性疲労症候群]]との関連が示唆されたが、後に人の疾病との関連は否定された<ref>[http://www.cancerit.jp/3493.html http://www.cancerit.jp/3493.html]</ref>。 ==== デルタレトロウイルス属 ==== [[デルタレトロウイルス属]]は腫瘍 (onc) を引き起こすウイルス。 *[[ヒトTリンパ好性ウイルス]] (HTLV: human T-lymphocytropic virus) -I,II == 関連 == [[B型肝炎ウイルス]] (HBV: hepatitis B virus) はDNAウイルスであるが、DNA→RNA→DNAと[[逆転写]]を経て複製するため[[レトロイド]]ともよばれ、[[HIV]]の治療薬でもある[[逆転写酵素阻害薬]]の一部が効果を示す([[エンテカビル]]、[[アデフォビル|アデホビル]]、[[ラミブジン]]、[[テノホビル]]は日本でも保険適応がある)。 == 関連項目 == {{Commonscat}} *[[ビスナウイルス]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> {{ボルティモア分類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れとろういるすか}} [[Category:レトロウイルス科|*]]
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逆転写酵素
逆転写酵素(ぎゃくてんしゃこうそ、英: reverse transcriptase、EC 2.7.7.49)は、RNA依存性DNAポリメラーゼ (RNA-dependent DNA polymerase) のこと。逆転写反応 (reverse transcription) を触媒する酵素。1970年、ハワード・マーティン・テミンとデビッド・ボルティモアによるそれぞれ別の研究により見出された。 この酵素は一本鎖RNA を鋳型として DNA を合成(逆転写)するもので、レトロウイルスの増殖に必須の因子として発見された。それまで、DNA は DNA自身の複製によって合成され、遺伝情報は DNA から RNA への転写によって一方向にのみなされると考えられていた(セントラルドグマ)が、この酵素の発見により遺伝情報は RNA から DNA へも伝達されうることが明らかとなりセントラルドグマの例外とも言われていたが、しかしこれは充分に起こり得ることであり真に起こりえないのはタンパク質のアミノ酸配列からゲノムが転写される方である(一つのアミノ酸コードに対し複数のゲノム配列があるため。及びアミノ酸をコードしない配列があるため)。 逆転写酵素はまた cDNA の合成に利用され、遺伝子工学や細胞で活動している遺伝子の同定など分子生物学的実験には必須の道具となっている。 レトロウイルスは RNA しか持っていないため逆転写して cDNA を作る。HIV などの増殖に必須であり、阻害剤が治療薬剤として使用される。エイズの治療薬として有名なアジドチミジン (AZT) をはじめとして、ddC、ddI、ネビラピン、ピリジノン、HEPT などの抗エイズ薬は HIV の逆転写酵素の作用を阻害する。 レトロウイルス以外にも、DNAウイルスであるB型肝炎ウイルス (HBV) の増殖にも必須の因子であることが分かっている。B型肝炎ウイルスは転写でプレゲノムRNAを生成したのちに逆転写によってDNAを合成している。B型肝炎の治療薬として用いられるラミブジン、アデフォビル、エンテカビル、テノフォビルといった薬剤はHBVの逆転写酵素の作用を阻害する。
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逆転写酵素は、RNA依存性DNAポリメラーゼ のこと。逆転写反応 を触媒する酵素。1970年、ハワード・マーティン・テミンとデビッド・ボルティモアによるそれぞれ別の研究により見出された。 この酵素は一本鎖RNA を鋳型として DNA を合成(逆転写)するもので、レトロウイルスの増殖に必須の因子として発見された。それまで、DNA は DNA自身の複製によって合成され、遺伝情報は DNA から RNA への転写によって一方向にのみなされると考えられていた(セントラルドグマ)が、この酵素の発見により遺伝情報は RNA から DNA へも伝達されうることが明らかとなりセントラルドグマの例外とも言われていたが、しかしこれは充分に起こり得ることであり真に起こりえないのはタンパク質のアミノ酸配列からゲノムが転写される方である(一つのアミノ酸コードに対し複数のゲノム配列があるため。及びアミノ酸をコードしない配列があるため)。 逆転写酵素はまた cDNA の合成に利用され、遺伝子工学や細胞で活動している遺伝子の同定など分子生物学的実験には必須の道具となっている。 レトロウイルスは RNA しか持っていないため逆転写して cDNA を作る。HIV などの増殖に必須であり、阻害剤が治療薬剤として使用される。エイズの治療薬として有名なアジドチミジン (AZT) をはじめとして、ddC、ddI、ネビラピン、ピリジノン、HEPT などの抗エイズ薬は HIV の逆転写酵素の作用を阻害する。 レトロウイルス以外にも、DNAウイルスであるB型肝炎ウイルス (HBV) の増殖にも必須の因子であることが分かっている。B型肝炎ウイルスは転写でプレゲノムRNAを生成したのちに逆転写によってDNAを合成している。B型肝炎の治療薬として用いられるラミブジン、アデフォビル、エンテカビル、テノフォビルといった薬剤はHBVの逆転写酵素の作用を阻害する。
{{出典の明記|date=2023年1月}} [[File:Reverse transcription.svg|thumb|300px|逆転写の流れ。]] '''逆転写酵素'''(ぎゃくてんしゃこうそ、{{lang-en-short|reverse transcriptase}}、[[EC番号 (酵素番号)|EC]] 2.7.7.49)は、[[リボ核酸|RNA]]依存性[[DNAポリメラーゼ]] (RNA-dependent DNA polymerase) のこと。'''逆転写反応''' (reverse transcription) を触媒する酵素。1970年、[[ハワード・マーティン・テミン]]と[[デビッド・ボルティモア]]によるそれぞれ別の研究により見出された。 この酵素は[[一本鎖RNA]] を鋳型として [[デオキシリボ核酸|DNA]] を合成('''逆転写''')するもので、[[レトロウイルス]]の増殖に必須の因子として発見された。それまで、DNA は DNA自身の[[DNA複製|複製]]によって合成され、遺伝情報は DNA から RNA への[[転写 (生物学)|転写]]によって一方向にのみなされると考えられていた([[セントラルドグマ]])が、この酵素の発見により遺伝情報は RNA から DNA へも伝達されうることが明らかとなり[[セントラルドグマ]]の例外とも言われていたが、しかしこれは充分に起こり得ることであり真に起こりえないのは[[タンパク質]]の[[アミノ酸]]配列から[[ゲノム]]が転写される方である(一つのアミノ酸コードに対し複数のゲノム配列があるため。及びアミノ酸をコードしない配列があるため)。 逆転写酵素はまた [[相補的DNA|cDNA]] の合成に利用され、[[遺伝子工学]]や細胞で活動している[[遺伝子]]の同定など[[分子生物学]]的実験には必須の道具となっている。 レトロウイルスは [[リボ核酸|RNA]] しか持っていないため逆転写して cDNA を作る。[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]] などの増殖に必須であり、阻害剤が治療薬剤として使用される。エイズの治療薬として有名な[[アジドチミジン]] (AZT) をはじめとして、ddC、ddI、ネビラピン、ピリジノン、HEPT などの抗エイズ薬は HIV の逆転写酵素の作用を阻害する。 レトロウイルス以外にも、DNAウイルスである[[B型肝炎ウイルス]] (HBV) の増殖にも必須の因子であることが分かっている。B型肝炎ウイルスは転写でプレゲノムRNAを生成したのちに逆転写によってDNAを合成している。B型肝炎の治療薬として用いられる[[ラミブジン]]、[[アデフォビル]]、[[エンテカビル]]、[[テノホビル|テノフォビル]]といった薬剤はHBVの逆転写酵素の作用を阻害する。 == 関連項目 == *[[テロメラーゼ]] == 脚注 == <references/> {{酵素}} {{Biosci-stub}} {{DEFAULTSORT:きやくてんしやこうそ}} [[Category:遺伝学]] [[Category:ウイルス学]] [[Category:生物学の研究技術]] [[Category:テロメア]] [[Category:分子生物学]] [[Category:EC 2.7.7]]
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構造主義
構造主義(こうぞうしゅぎ、仏: structuralisme)とは、狭義には1960年代に登場し主にフランスで発展していった20世紀の現代思想のひとつである。構造主義の代表的な思想家としてクロード・レヴィ=ストロース、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトなどが活躍した。広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。 構造主義という名称から、イデオロギーの一種と誤解されがちであるが、今日では方法論として普及・定着している。あらゆるイデオロギーを相対化するという点でメタイデオロギーとも言える。ゲーム理論、数理モデル、数学、言語学、医学、生物学、精神分析学、分析心理学、文化人類学、社会学などの学問分野のみならず、文芸批評でも構造主義が応用されている。 これはフランスの思想界を中心にして多くの反響をもたらしており、この見解をかりてマルクス主義を更新させようとする修正主義の試みもあらわしている。 研究対象の構造を抽出する作業を行うためには、その構造を構成する要素を探り出さなければならない。構造とはその要素間の関係性を示すものである。それは構造を理解するために必要十分な要素であり、構造の変化を探るためには構造の変化に伴って変化してしまうような要素であってはならない。 一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。例えば、言語を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば日本語だけに注目するのではなく、英語、フランス語など他言語との共通点を探り出していくメタ的なアプローチをとり、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。 数学において、ブルバキというグループは、代数的構造、順序的構造、位相的構造の3つを母構造と呼び、公理学を導入することにより数学の形式化を進めた。古典的数学は代数や幾何や解析などのように、異質な事項の集合から成り立っていたが、数学における構造主義学派とも呼ばれるブルバキ学派は全数学を構造に従属させようとしたのであった。この方法論は論理学・物理学・生物学・心理学でも受け入れられることとなった。このような方法論がどのような学問に応用できるのかについては一定のコンセンサスがあったわけではなく、現在、構造主義の祖とされるソシュール自身は構造という用語を用いておらず、自身の理論を言語学以外の分野に拡張することにも慎重であった。 構造主義という用語が広く知られるようになったのは、クロード・レヴィ=ストロースが、このような方法論を人類学に応用し、文化人類学において婚姻体系の「構造」を数学の群論 (group theory) で説明したのが嚆矢である。群論は代数学(抽象代数学)の一分野で、クロード・レヴィ=ストロースによるムルンギン族の婚姻体系の研究を聞いたアンドレ・ヴェイユが群論を活用して体系を解明した。 原則として要素還元主義を批判し、関係論的構造理解がなされる。ソシュールが言語には差異しかないと述べたと伝えられているように、まず構造は一挙に、一つの要素が他のすべての要素との関係において初めて相互依存的に決定されるものとして与えられる。このような構造の理解においては、構造を構成する要素は、原則として構造を離れた独立性を持たない。 厳密に数学の群論にモデルを仰ぐものから、もう少し緩く、多様なバリエーションを持つ現象において、それぞれのバリエーションが、その(必ずしも顕在的に観察されない、事後的に変換群から理論的に抽出された)構成要素の間の組み換えによって生成されたものだと見なしうるとき、その顕在的な一連の変換を規定する潜在的な構造に重心をおいて分析するようなもの全般を包含していわれることもある。発達心理学に抽象代数学を持ち込んだピアジェも、構造主義者の一人である。 フェルディナン・ド・ソシュールの言語学の影響がフランスで広まったことが起源になっている。1960年代、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースによって普及することとなった。レヴィ=ストロースはサルトルとの論争を展開したことなども手伝ってフランス語圏で影響力を増し、人文系の諸分野でもその発想を受け継ぐ者が現れた。アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル理解を承継したルイ・アルチュセールは構造主義的マルクス主義社会学を提唱した。 構造主義にとっての構造とは、単に相互に関係をもつ要素からなる体系というだけではなく、レヴィ=ストロースの婚姻体系の研究にみられるように、顕在的な現象として何が可能であるかを規定する、必ずしも意識されているわけではない、潜在的な規定条件としての関係性を意味する。そのような限りで、フロイトの精神分析の無意識という構造を仮定するアプローチも一種の構造主義と言える。ジャック・ラカンは精神分析に構造主義を応用し、独自の思想を展開した。 構造主義を応用した文芸批評は、言語学者ロマーン・ヤーコブソンの助力の下に、レヴィ=ストロースがボードレールの作品『猫』について言及したことに始まる。彼によれば、人類学が神話において見出した構造と、言語学・文学が文学作品・芸術において見出した構造は顕著な類似性を見出すことができるのである。ここでは、言語、文学作品、神話などを対象として分析するにあたって、語や表現などが形作っている構造に注目することで対象についての重要な理解を得ようとするアプローチがなされている。このようなアプローチは、ロラン・バルト、ジュリア・クリステヴァらの文芸批評に多大な影響を与えた。構造を見出すことができる対象は、商品や映像作品などを含み、狭い意味での言語作品に限られない。こうした象徴表現一般を扱う学問は記号論と呼ばれる。 ただし、静的な構造のみによって対象を説明することに対する批判から、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点がその後導入された。これは今日ポスト構造主義として知られる立場の成立につながった。 西部邁(評論家)は2004年に次のように述べた。「自然のみならず文化においても「宿命」とよぶべきものがある。つまり言葉の動物たる人間の生き方の根本、文化にあっても、言葉の構造によって決定づけられているところがある。そうみる見方を構造主義という[...]構造主義という名の悟りの境地もあると知っておくと、変てこりんな宗教にすがらなくとも、安心立命に近づきうる」 構造主義生物学とは構造主義の考えを生物学に応用しようとする試みである。 なお、生体分子の立体構造を解析し研究する生物学の一分野は「構造生物学」と呼ばれるが、これは名称が類似しているだけで直接の関係はない。 経済学、とりわけ開発経済学の分野において、構造主義は1940年代〜1960年代の主流派であった。ここにおける構造主義とは、発展途上国の経済構造は先進国のそれとは異なるものであり、それゆえに経済格差が発生している、という考えである。南北問題などもこの経済構造の違いが原因で起こるとされた。 こうした構造主義では、先進国と発展途上国で適用すべき経済理論を使い分けなければならないとされたが、1960年代以降に主流派となる新古典派経済学によってこの考え方は否定されることとなる。構造主義にかわって主流派となった新古典派経済学では、先進国と同様に発展途上国でも経済市場のメカニズムは同じように機能する、という考えにもとづく自由主義的アプローチがなされた。 しばしば現代作曲家のヘルムート・ラッヘンマンを指して書かれるが、これはベートーヴェンから導き出した変容法や変奏技術が、そのまま楽曲の構造に反映していると見られている。しかしこればかりではなくほとんどすべての作曲家に音楽上の構造問題はかかわってくる。ブラームスのソナタ形式をはじめ、リヒャルト・シュトラウスの対位法やバッハのフーガでもそういう意図は常に散見される。
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構造主義とは、狭義には1960年代に登場し主にフランスで発展していった20世紀の現代思想のひとつである。構造主義の代表的な思想家としてクロード・レヴィ=ストロース、ルイ・アルチュセール、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトなどが活躍した。広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる現象に対して、その現象に潜在する構造を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための方法論を指す語である。
'''構造主義'''(こうぞうしゅぎ、{{Lang-fr-short|structuralisme}})とは、狭義には[[1960年代]]に登場し主にフランスで発展していった[[20世紀]]の[[現代思想]]のひとつである。構造主義の代表的な思想家として[[クロード・レヴィ=ストロース]]、[[ルイ・アルチュセール]]、[[ジャック・ラカン]]、[[ミシェル・フーコー]]、[[ロラン・バルト]]などが活躍した。広義には、現代思想から拡張されて、あらゆる[[現象]]に対して、その現象に潜在する[[構造]]を抽出し、その構造によって現象を理解し、場合によっては制御するための[[方法論]]を指す語である<ref group="注釈">伝統的にフランスの数学者集団[[ブルバキ]]とのつながりがある。</ref>。 == 概観 == 構造主義という名称から、[[イデオロギー]]の一種と誤解されがちであるが、今日では方法論として普及・定着している。あらゆる[[イデオロギー]]を相対化するという点でメタイデオロギーとも言える。[[ゲーム理論]]、[[数理モデル]]、[[数学]]、[[言語学]]、[[医学]]、[[生物学]]、[[精神分析学]]、[[分析心理学]]、[[文化人類学]]、[[社会学]]などの学問分野のみならず、[[文芸批評]]でも構造主義が応用されている。 これはフランスの思想界を中心にして多くの反響をもたらしており、この見解をかりて[[マルクス主義]]を更新させようとする[[修正主義]]の試みもあらわしている。 研究対象の構造を抽出する作業を行うためには、その構造を構成する要素を探り出さなければならない。構造とはその要素間の関係性を示すものである。それは構造を理解するために必要十分な要素であり、構造の変化を探るためには構造の変化に伴って変化してしまうような要素であってはならない。 一般的には、研究対象を構成要素に分解して、その要素間の関係を整理統合することでその対象を理解しようとする点に特徴がある。例えば、[[言語]]を研究する際、構造主義では特定の言語、例えば[[日本語]]だけに注目するのではなく、[[英語]]、[[フランス語]]など他言語との共通点を探り出していくメタ的な[[wikt:アプローチ|アプローチ]]をとり、さらに、数学、社会学、心理学、人類学など他の対象との構造の共通性、非共通性などを論じる。 === 数学と構造 === [[ファイル:Prins Bernhard reikt Erasmusprijs uit aan prof Claude Levi Strauss in Tropenmus, Bestanddeelnr 926-4412.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|レヴィ=ストロースの人類学における試みが構造主義の先駆となった]] [[数学]]において、[[ブルバキ]]という[[群 (数学)|グループ]]は、[[代数的構造]]、[[順序的構造]]、[[位相的構造]]の3つを母構造と呼び、公理学を導入することにより数学の形式化を進めた。古典的数学は代数や幾何や解析などのように、異質な事項の集合から成り立っていたが、数学における構造主義学派とも呼ばれるブルバキ学派は全数学を構造に従属させようとしたのであった。この方法論は論理学・物理学・生物学・心理学でも受け入れられることとなった。このような方法論がどのような学問に応用できるのかについては一定のコンセンサスがあったわけではなく、現在、構造主義の祖とされる[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]自身は構造という用語を用いておらず、自身の理論を言語学以外の分野に拡張することにも慎重であった。 構造主義という用語が広く知られるようになったのは、[[クロード・レヴィ=ストロース]]が、このような方法論を[[人類学]]に応用し、文化人類学において[[結婚|婚姻]]体系の「構造」を数学の[[群論]] (group theory) で[[説明]]したのが嚆矢である。群論は[[代数学]](抽象代数学)の一分野で、クロード・レヴィ=ストロースによる[[ムルンギン族]]の婚姻体系の研究を聞いた[[アンドレ・ヴェイユ]]が群論を活用して体系を解明した。 原則として要素還元主義を批判し、関係論的構造理解がなされる。ソシュールが言語には差異しかないと述べたと伝えられているように、まず構造は一挙に、一つの要素が他のすべての要素との関係において初めて相互依存的に決定されるものとして与えられる。このような構造の理解においては、構造を構成する要素は、原則として構造を離れた独立性を持たない。 厳密に数学の群論に[[モデル (自然科学)|モデル]]を仰ぐものから、もう少し緩く、多様な[[バリエーション]]を持つ現象において、それぞれのバリエーションが、その(必ずしも顕在的に観察されない、事後的に変換群から理論的に抽出された)構成要素の間の組み換えによって生成されたものだと見なしうるとき、その顕在的な一連の変換を規定する潜在的な構造に重心をおいて分析するようなもの全般を包含していわれることもある。発達心理学に抽象代数学を持ち込んだ[[ジャン・ピアジェ|ピアジェ]]も、構造主義者の一人である。 == 現代思想としての構造主義 == [[フェルディナン・ド・ソシュール]]の言語学の影響がフランスで広まったことが起源になっている。1960年代、[[人類学]]者のクロード・レヴィ=ストロースによって普及することとなった。レヴィ=ストロースは[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]との論争を展開したことなども手伝ってフランス語圏で影響力を増し、人文系の諸分野でもその発想を受け継ぐ者が現れた<ref group="注釈">[[岩井克人]]によれば構造主義とは、歴史には方向性があるとするマルクスへの批判であり、歴史の先取りに価値を見るサルトルへの批判であったという(日本経済新聞2013年10月10日(人間発見)国際基督教大客員教授 岩井克人さん 「資本主義」を考え抜く (3))。</ref>。[[アレクサンドル・コジェーヴ]]の[[ヘーゲル]]理解を承継した[[ルイ・アルチュセール]]は[[構造主義的マルクス主義]][[社会学]]を提唱した。 構造主義にとっての構造とは、単に相互に関係をもつ要素からなる体系というだけではなく、レヴィ=ストロースの婚姻体系の研究にみられるように、顕在的な現象として何が可能であるかを規定する、必ずしも意識されているわけではない、潜在的な規定条件としての関係性を意味する。そのような限りで、[[ジークムント・フロイト|フロイト]]の精神分析の[[無意識]]という構造を仮定するアプローチも一種の構造主義と言える。[[ジャック・ラカン]]は[[精神分析]]に構造主義を応用し、独自の思想を展開した。 構造主義を応用した文芸批評は、言語学者[[ロマーン・ヤーコブソン]]の助力の下に、レヴィ=ストロースが[[ボードレール]]の作品『猫』について言及したことに始まる。彼によれば、人類学が神話において見出した構造と、言語学・文学が文学作品・芸術において見出した構造は顕著な類似性を見出すことができるのである。ここでは、言語、文学作品、神話などを対象として分析するにあたって、[[語]]や[[表現]]などが形作っている構造に注目することで対象についての重要な理解を得ようとする[[wikt:アプローチ|アプローチ]]がなされている。このようなアプローチは、[[ロラン・バルト]]、[[ジュリア・クリステヴァ]]らの文芸批評に多大な影響を与えた。構造を見出すことができる対象は、商品や映像作品などを含み、狭い意味での言語作品に限られない。こうした象徴表現一般を扱う[[学問]]は[[記号学|記号論]]と呼ばれる。 ただし、静的な構造のみによって対象を説明することに対する批判から、構造の生成過程や変動の可能性に注目する視点がその後導入された。これは今日[[ポスト構造主義]]として知られる立場の成立につながった<ref group="注釈">ピアジェは構造主義者を自認しているが、発達心理学を基礎に構造は構成的なものであるとして、レヴィ=ストロースの静的な構造理論を批判している。また、構造主義のむやみな拡張にも反対しており、[[ミシェル・フーコー]]も厳しく批判している。</ref>。 [[西部邁]](評論家)は2004年に次のように述べた。「自然のみならず文化においても「宿命」とよぶべきものがある。つまり言葉の動物たる人間の生き方の根本、[[文化]]にあっても、言葉の構造によって決定づけられているところがある。そうみる見方を構造主義という[…]構造主義という名の悟りの境地もあると知っておくと、変てこりんな[[宗教]]にすがらなくとも、安心立命に近づきうる」<ref>西部邁「晴読雨読 老境には保守の精神がよく似合う:俗世の憂鬱をやり過ごす15冊」『文藝春秋』2004年7月臨時増刊号</ref> == 生物学における構造主義(構造主義生物学) == {{Main|構造主義生物学}} 構造主義生物学とは構造主義の考えを生物学に応用しようとする試みである<ref>[[池田清彦]]『さよならダーウィニズム』p.144</ref>。 なお、生体分子の立体構造を解析し研究する生物学の一分野は「[[構造生物学]]」と呼ばれるが、これは名称が類似しているだけで直接の関係はない。 == 開発経済学における構造主義 == [[経済学]]、とりわけ[[開発経済学]]の分野において、構造主義は1940年代〜1960年代の主流派であった。ここにおける構造主義とは、[[開発途上国|発展途上国]]の経済構造は[[先進国]]のそれとは異なるものであり、それゆえに経済格差が発生している、という考えである。[[南北問題]]などもこの経済構造の違いが原因で起こるとされた。 こうした構造主義では、先進国と発展途上国で適用すべき経済理論を使い分けなければならないとされたが、1960年代以降に主流派となる[[新古典派経済学]]によってこの考え方は否定されることとなる。構造主義にかわって主流派となった新古典派経済学では、先進国と同様に発展途上国でも経済市場のメカニズムは同じように機能する、という考えにもとづく自由主義的アプローチがなされた<ref>絵所秀紀『開発の政治経済学』日本評論社、1997年。</ref>。 == 音楽における構造主義 == しばしば現代作曲家の[[ヘルムート・ラッヘンマン]]を指して書かれるが、これは[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]から導き出した[[変容法]]や[[変奏]]技術が、そのまま楽曲の構造に反映していると見られている。しかしこればかりではなくほとんどすべての作曲家に音楽上の構造問題はかかわってくる。[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[ソナタ形式]]をはじめ、[[リヒャルト・シュトラウス]]の[[対位法]]や[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[フーガ]]でもそういう意図は常に散見される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Kotobank|2=日本大百科全書}} * {{Cite book|和書|author=[[ジャン・ピアジェ]]|title=構造主義|translator=[[滝沢武久]]・[[佐々木明]]|publisher=白水社|series=文庫クセジュ|year=1970|isbn=4560054681}} * [http://xtf.lib.virginia.edu/xtf/view?docId=DicHist/uvaGenText/tei/DicHist4.xml;chunk.id=dv4-42;toc.depth=1;toc.id=dv4-42;brand=default 「構造主義」] == 関連項目 == * ヨーロッパ構造主義言語学・アメリカ[[構造主義言語学]] * [[ポスト構造主義]] * [[構造機能主義]] * [[構成主義]] == 外部リンク == * [https://kotobank.jp/word/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9-62588 構造主義] - [[コトバンク]] * [[足立和浩]][https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9/ 「構造主義」(Yahoo!百科事典)] * [http://www.weblio.jp/content/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9 構造主義] - [[Weblio]] * [http://www.britannica.com/search?query=Structuralism 構造主義]{{En icon}} - [[ブリタニカ百科事典]] {{哲学}} {{大陸哲学}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうそうしゆき}} [[Category:構造主義|*]] [[Category:構造]] [[Category:大陸哲学]] [[Category:科学的方法]] [[Category:言語理論]] [[Category:文化運動]] [[Category:言語論的転回]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:言語学の理論と仮説]]
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2023-06-15T15:53:10Z
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HTTPS
HTTPS(Hypertext Transfer Protocol Secure)は、HTTPによる通信をより安全に(セキュアに)行うためのプロトコルおよびURIスキームである。厳密に言えば、HTTPS自体はプロトコルではなく、SSL/TLSプロトコルなどによって提供されるセキュアな接続の上でHTTP通信を行うことをHTTPSと呼んでいる。 HTTP通信において認証や暗号化を行うために、ネットスケープコミュニケーションズによって開発された。当初、World Wide Web上での個人情報の送信や電子決済など、セキュリティが重要となる通信で使用されるようになった。その後、公衆無線LANの普及による中間者攻撃のリスクの増加、PRISMによる大規模な盗聴、ネット検閲への対抗などを要因として、あらゆるHTTP通信をHTTPSに置き換える動きが活発になっている。 HTTPSは、メッセージを平文のままで送受信する標準のHTTPと異なり、SSL/TLSやQUICといったプロトコルを用いて、サーバの認証・通信内容の暗号化・改竄検出などを行う。これによって、なりすまし・中間者攻撃・盗聴などの攻撃を防ぐことができる。HTTPSでは、ウェルノウンポート番号として443が使われる。 HTTPSによるセキュリティ保護の強度は、Webサーバやブラウザで用いられるSSL/TLSの実装の正確性や、使用する暗号アルゴリズムに依存する(TLSを参照)。 プロキシサーバを介してインターネットにアクセスする場合、HTTPSのSSL/TLS通信時にプロキシサーバをトンネリングする必要がある場合がある。その場合はCONNECTメソッドを使用する。 HTTPSを利用するメリット・デメリットは、以下のとおりである。 ウェブブラウザ(ユーザーエージェント)では、対象のURLがhttpsであるなど、セキュアな通信経路であることが明らかであるか否かで動作を変える場合がある。これに関わる規定として、W3CのSecure Contexts(安全なコンテキスト)やMixed Content(混在コンテンツ・混合コンテンツ)がある。 Secure Contextsでは、いくつかの条件を満たす場合に「安全なコンテキスト(secure context)である」とする規定がなされている。これを参照して、ウェブブラウザの提供する一部の機能では、安全なコンテキストであるか否かにより挙動が変化する。そのような機能の一覧が安全なコンテキストに制限されている機能 (MDN Web Docs)にある。 Mixed contentは、セキュアな経路で取得したコンテンツ内で、非セキュアなデータの取り扱いに関する規定である。たとえば、https URLのHTMLドキュメント内でhttp URLのJavaScriptの実行は阻止される。 https URIスキームのURLを対象とする通信に使用されるプロトコルとして、以下が存在する。 HTTPSの仕様が最初に標準化されたのはRFC 2818 HTTP Over TLSである。TLS上でのHTTP通信について、ホスト名の検証(証明書のサブジェクト代替名(英語版)(subjectAltName)またはCommon Nameが接続しているURLのホスト名またはIPアドレスに合致することの判定)やhttps URIスキームなどの規定が明文化された。その後、HTTP本体に取り込まれ、RFC 9110となっている。また、以下のように各HTTPバージョンにも規定が移されている。 このほか、HTTPSには以下の仕様が関係している。 このほか、ウェブブラウザから公に信頼される証明書を発行する認証局に対する要求として、CA/ブラウザフォーラム(英語版)がBaseline Requirements for the Issuance and Management of Publicly‐Trusted Certificatesを定めている。 HTTPSを用いた保護に関するよくある誤解に、「HTTPSによる通信は入力した情報にかかわる全ての処理を完全に保護する」というものがある。HTTPSは名前の通りアプリケーションレイヤのHTTPを保護するプロトコルでありWebブラウザとWebサーバの間の通信を暗号化して、盗聴や改竄を防いでいるに過ぎず、IPsecのようなネットワークレイヤの保護を行うプロトコルではない。 情報を受け取ったサイトは、送信された情報のうち必要最小限のデータのみを安全に保管することが期待されるが、重要な個人情報がサイトのデータベースに格納されない保証はなく、さらにデータベースはしばしば外部からの攻撃の標的にされる。また、こうした情報が人為的に不当に流用されたり、事故によって漏洩する可能性もある。 このように通信が完全に保護されていたとしても、利用者が期待する安全性が確保されているとは言えない場合がある。現在のインターネットでは、フィッシングがHTTPSで行われることも多い。 2016年から2017年にかけて、HTTPSのシェアが50%を超えたという複数の調査結果が明らかになっている。 2017年末、66%のシェアという調査報告がされた。 2018年末、httparchive.orgの調査によると、79.9%のトラフィックという調査報告がされた。 HTTPS通信は暗号化されているため、通信内容を読み取ったり改竄したりすることはできない。そのため、基本的に通信内容を検閲することはできない。 HTTPSによる検閲対策に対抗する措置として、中華人民共和国では、暗号化技術の利用が許可制になっている。また、ウィキペディアに不適切な記述を含むページがあり、ロシアがこれを検閲しようとしたが、ウィキペディアがHTTPSを用いているため問題のページ単体を検閲できず、ロシアがウィキペディア全体をブロックし、ロシア国内からウィキペディアを閲覧できなくなったこともあった。2019年、韓国では有害サイトへのアクセスのブロックを開始し、HTTPS(TLS)において暗号化せずに送受信するSNIからドメイン名を読み取ってブロック対象を判定していると報じられている。 このほかに、TLS上でのHTTP通信に関するプロトコルが2つ存在する。いずれもURIスキームはhttpを用いる。 RFC 2660 が規定するS-HTTP(Secure HTTP: Secure HyperText Transfer Protocol)は、httpsスキームで用いられるHTTP over SSL/TLSとは別のプロトコルである。S-HTTPに対応するURIスキームはshttpである。
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HTTPSは、HTTPによる通信をより安全に(セキュアに)行うためのプロトコルおよびURIスキームである。厳密に言えば、HTTPS自体はプロトコルではなく、SSL/TLSプロトコルなどによって提供されるセキュアな接続の上でHTTP通信を行うことをHTTPSと呼んでいる。
{{複数の問題 |出典の明記=2021-04 |更新=2021-04}} {{HTTP}} {{インターネットセキュリティプロトコル}} '''HTTPS'''(Hypertext Transfer Protocol Secure)は、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]通信をより安全([[コンピュータセキュリティ|セキュア]])に行うための[[Uniform Resource Identifier|URI]]スキームである。「HTTPS」はプロトコルではなく、[[Transport Layer Security|SSL/TLS]]プロトコルなどによって提供されるセキュアな接続の上でのHTTP通信をさす。 == 概要 == HTTP通信において[[認証]]や暗号化を行うために、[[ネットスケープコミュニケーションズ]]によって開発された。当初、[[World Wide Web]]上での個人情報の送信や[[電子決済]]など、セキュリティが重要となる通信で使用されるようになった。その後、[[公衆無線LAN]]の普及による[[中間者攻撃]]のリスクの増加<ref>{{Cite web|和書|author=國谷武史 |coauthors=ITmedia |date=2012-03-29 |url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1203/29/news011.html |title=Webサイトに“常時SSL”の実装を――団体提唱の米国で機運高まる? |website=ITmedia エンタープライズ |accessdate=2019-09-21 |quote=Wi-Fiスポットが特に危険とされるのは、攻撃者が正規ユーザーのすぐ近くに身を潜めて通信を傍受できてしまう可能性が高いため。}}</ref>、[[PRISM (監視プログラム)|PRISM]]による大規模な[[盗聴]]、[[ネット検閲]]への対抗などを要因として、あらゆるHTTP通信をHTTPSに置き換える動きが活発になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1412/16/news048.html|title=HTTP接続は「安全でない」と明示すべし――Googleが提案 - ITmedia エンタープライズ|accessdate=2016-11-26|author=鈴木聖子|coauthors=ITmedia|date=2014-12-16|website=ITmedia}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mozsec-jp.hatenablog.jp/entry/2015/09/17/195929|title=【翻訳】安全でない HTTP の廃止 - Mozilla Security Blog 日本語版|accessdate=2016-11-26|date=2015-09-17}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.w3.org/2001/tag/doc/web-https|title=Securing the Web|accessdate=2016-11-26|date=2015-01-22|publisher=W3C|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=大津繁樹 |date=2018-02-14 |url=https://employment.en-japan.com/engineerhub/entry/2018/02/14/110000 |title=今なぜHTTPS化なのか?インターネットの信頼性のために、技術者が知っておきたいTLSの歴史と技術背景 |website=エンジニアHub powered by エン転職 |accessdate=2019-09-21}}</ref>。 HTTPSは、メッセージを[[平文]]のままで送受信する標準のHTTPと異なり、[[Transport Layer Security|SSL/TLS]]や[[QUIC]]といったプロトコルを用いて、サーバの認証・通信内容の[[暗号化]]・[[改竄検出]]などを行う。これによって、[[なりすまし]]・[[中間者攻撃]]・[[盗聴]]などの攻撃を防ぐことができる。HTTPSでは、[[TCPやUDPにおけるポート番号の一覧#システムポート番号 (0–1023)|ウェルノウンポート番号]]として443が使われる。 HTTPSによるセキュリティ保護の強度は、Webサーバやブラウザで用いられるSSL/TLSの実装の正確性や、使用する暗号アルゴリズムに依存する([[Transport Layer Security|TLS]]を参照)。 [[プロキシ]]サーバを介してインターネットにアクセスする場合、HTTPSのSSL/TLS通信時に[[プロキシ]]サーバを[[トンネリング]]する必要がある場合がある。その場合は'''CONNECTメソッド'''を使用する。 === メリット/デメリット === HTTPSを利用するメリット・デメリットは、以下のとおりである。 ====メリット==== * 通信が暗号化されるため、[[改竄]]、[[盗聴]]などの攻撃を防ぐことができる。[[通信の最適化]]も改竄の一種であるので、同様に防げる。 * [[HTTP/2]]や[[HTTP/3]]対応でブラウザ表示が高速化される。 * [[検索エンジン最適化|SEO]]に有利になる。検索エンジン最大手のGoogleがHTTPSの導入を推進するため、自社検索サービスにおいてHTTPSの使用するウェブサイトを優遇することを発表していることによる<ref>{{Cite web|和書|author=鈴木聖子 |coauthors=ITmedia |date=2014-08-08 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1408/08/news054.html |title=WebサイトのHTTPS対応、Google検索ランキングに反映 |website=ITmedia NEWS |accessdate=2019-09-21 |quote=米Googleは8月6日、デフォルトでのHTTPS接続を推進する一環として、WebサイトがHTTPSを使っているかどうかを検索ランキングに反映させると発表した。ユーザーがGoogleのサービスを通じてアクセスするWebサイトのセキュリティ強化を促す措置と説明している。}}</ref><ref>[https://webmaster-ja.googleblog.com/2014/08/https-as-ranking-signal.html HTTPS をランキング シグナルに使用します]</ref>。 ====デメリット==== * 無料発行サービスを除き、導入に費用がかかる。 * SSL証明書を定期的(90日/一年など)に更新する必要がある。 * https非対応のツールや広告、ブログパーツなどが非表示になる(後述する混在コンテンツに該当するため)。 * 暗号化/復号が必要になるため、クライアントとサーバ共に負荷が上がる(ただし、前述のHTTP/2を併用することで負荷を表示速度で相殺できる場合もある)。 * 古い[[ウェブブラウザ]]から閲覧ができなくなる。 == ウェブブラウザでの扱い == [[ウェブブラウザ]]([[ユーザーエージェント]])では、対象のURLがhttpsであるなど、セキュアな通信経路であることが明らかであるか否かで動作を変える場合がある。これに関わる規定として、W3CのSecure Contexts(安全なコンテキスト)<ref>{{Cite web|和書|url=https://developer.mozilla.org/ja/docs/Web/Security/Secure_Contexts |title=安全なコンテキスト - ウェブセキュリティ |website=[[MDN Web Docs]] |accessdate=2020-05-09}}</ref>やMixed Content(混在コンテンツ・混合コンテンツ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://developer.mozilla.org/ja/docs/Security/%E6%B7%B7%E5%9C%A8%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%84 |title=混在コンテンツ - Security |website=[[MDN Web Docs]] |accessdate=2020-05-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Jo-el van Bergen |url=https://developers.google.com/web/fundamentals/security/prevent-mixed-content/what-is-mixed-content?hl=ja |title=混合コンテンツとは |website=Google Developers |accessdate=2020-05-09}}</ref>がある。 Secure Contextsでは、いくつかの条件を満たす場合に「安全なコンテキスト(secure context)である」とする規定がなされている。これを参照して、ウェブブラウザの提供する一部の機能では、安全なコンテキストであるか否かにより挙動が変化する。そのような機能の一覧が[https://developer.mozilla.org/ja/docs/Web/Security/Secure_Contexts/features_restricted_to_secure_contexts 安全なコンテキストに制限されている機能] ([[MDN Web Docs]])にある。 Mixed contentは、セキュアな経路で取得したコンテンツ内で、非セキュアなデータの取り扱いに関する規定である。たとえば、https URLのHTMLドキュメント内でhttp URLのJavaScriptの実行は阻止される。 == 通信に関する仕様 == https URIスキームのURLを対象とする通信に使用されるプロトコルとして、以下が存在する。 ; HTTP Over TLS : HTTP/1.0、HTTP/1.1、HTTP/2のいずれかをTLS接続上で使用。 ; [[HTTP/3]] : HTTP/3は下位層として[[QUIC]]を使用するプロトコルであり、QUICにより暗号通信が行われる。 HTTPSの仕様が最初に標準化されたのは{{IETF RFC|2818}} HTTP Over TLSである。TLS上でのHTTP通信について、ホスト名の検証(証明書の{{仮リンク|サブジェクト代替名|en|Subject Alternative Name}}(subjectAltName)またはCommon Nameが接続しているURLのホスト名またはIPアドレスに合致することの判定)やhttps URIスキームなどの規定が明文化された。その後、HTTP本体に取り込まれ<ref>{{Cite web |author=Mark Nottingham |url=https://github.com/httpwg/http-core/issues/236 |title=Bring RFC2818 into semantics · Issue #236 · httpwg/http-core |website=[[GitHub]] |date=2019-08-20 |accessdate=2022-07-03}}</ref>、{{IETF RFC|9110|link=no}}となっている。また、以下のように各HTTPバージョンにも規定が移されている。 * TLS接続上でのHTTP/1.1通信は、HTTP/1.1の{{IETF RFC|9112|link=no}}で規定されている(9.7. TLS Connection Initiation, 9.8. TLS Connection Closure)。 * TLS接続上でのHTTP/2通信は、HTTP/2の{{IETF RFC|9113|link=no}}で規定されている(3.2. Starting HTTP/2 for "https" URIs)。 このほか、HTTPSには以下の仕様が関係している。 * [[X.509]](PKIX)では、証明書に対する要件が規定されている。特にHTTPSに特有のものとして以下がある({{IETF RFC|5280}} 4.2.1.12. Extended Key Usage)。 ** サーバー証明書を表す拡張鍵用途: TLS WWWサーバー認証(OID 1.3.6.1.5.5.7.3.1)。 ** クライアント証明書を表す拡張鍵用途: TLS WWWクライアント認証(OID 1.3.6.1.5.5.7.3.2)。 * [[Application-Layer Protocol Negotiation]]を用いる場合、プロトコルIDとしてhttp/1.1({{IETF RFC|7301}} 6. IANA Considerations)またはh2({{IETF RFC|7540}} 11.1. Registration of HTTP/2 Identification Strings)、h3({{IETF RFC|9114}} 3.1. Discovering an HTTP/3 Endpoint)を使用する。 ** RFCなどでプロトコルIDを登録する明示的な規定は存在しないものの、IANAの登録簿にはhttp/0.9とhttp/1.0も存在する<ref>[https://www.iana.org/assignments/tls-extensiontype-values/tls-extensiontype-values.xhtml#alpn-protocol-ids Transport Layer Security (TLS) Extensions, TLS Application-Layer Protocol Negotiation (ALPN) Protocol IDs]</ref>。 * [[HTTP/2]]では、TLSに対する追加の要件を課している。 ** TLS 1.2未満の使用禁止と、TLS 1.2~1.3に対する要件: {{IETF RFC|9113|link=no}} 9.2. Use of TLS Features このほか、ウェブブラウザから公に信頼される証明書を発行する[[認証局]]に対する要求として、{{仮リンク|CA/ブラウザフォーラム|en|CA/Browser Forum}}が[https://cabforum.org/baseline-requirements-documents/ Baseline Requirements for the Issuance and Management of Publicly‐Trusted Certificates]を定めている<ref>{{Cite web|url=https://cabforum.org/about-the-baseline-requirements/|title=About the Baseline Requirements|accessdate=2021-02-12|author=CA/Browser Forum|language=en|quote=The Baseline Requirements for the Issuance and Management of Publicly-Trusted Certificates describe a subset of the requirements that a certification authority must meet in order to issue digital certificates for SSL/TLS servers to be publicly trusted by browsers.}}</ref>。 == https通信の手順 == # クライアントがhttpsサーバにTCP接続を行い、TLSハンドシェイクを開始する。または、HTTP/3の場合はQUICでのTLSハンドシェイクを開始する。 #* (任意)この際、ALPNで使用するプロトコルのネゴシエーションを行う。http/1.1またはh2、h3を使用する。 # TLSハンドシェイク中にサーバーが提示した証明書の内容をもとに、クライアントはホスト名の検証を行う。これは<nowiki></nowiki>{{IETF RFC|9110}} 4.3.4. https Certificate Verificationに規定されている。 # 以降はTLS接続上のアプリケーションデータまたはとして、HTTP通信を行う。または、HTTP/3の場合はQUICでのストリームとしてHTTP通信を行う。 #* HTTPのバージョンはALPNで決定したものを使用する。 #* TLSでALPNを使用していない場合は、HTTP/1.1またはHTTP/1.0を使用する。 == 情報の保護における誤解 == {{独自研究|section=1|date=2013年5月}} HTTPSを用いた保護に関するよくある誤解に、「HTTPSによる通信は入力した情報にかかわる全ての処理を完全に保護する」というものがある。HTTPSは名前の通りアプリケーションレイヤのHTTPを保護するプロトコルでありWebブラウザとWebサーバの間の通信を暗号化して、[[盗聴]]や[[改竄]]を防いでいるに過ぎず、IPsecのようなネットワークレイヤの保護を行うプロトコルではない。 情報を受け取ったサイトは、送信された情報のうち必要最小限のデータのみを安全に保管することが期待されるが、重要な個人情報がサイトのデータベースに格納されない保証はなく、さらにデータベースはしばしば外部からの攻撃の標的にされる。また、こうした情報が人為的に不当に流用されたり、事故によって漏洩する可能性もある<ref>{{Cite web|和書|author=山崎 文明 |date=2010-11-25 |url=https://tech.nikkeibp.co.jp/it/article/COLUMN/20101119/354336/ |title=欧米セキュリティ事情の新潮流 SSLでは不十分、クラウド時代の暗号化 |website=日経 xTECH(クロステック) |accessdate=2019-09-28}}</ref>。 このように通信が完全に保護されていたとしても、利用者が期待する安全性が確保されているとは言えない場合がある。現在のインターネットでは、[[フィッシング (詐欺)|フィッシング]]がHTTPSで行われることも多い。<ref>{{Cite web|和書|url=https://blog.kaspersky.co.jp/https-does-not-mean-safe/19268/ |title=HTTPSが安全とは限らない {{!}} カスペルスキー公式ブログ |access-date=2022-09-29 |quote=今ではフィッシング詐欺の4分の1がHTTPSサイトで行われています |date=2018年1月22日}}</ref> == 統計 == 2016年から2017年にかけて、HTTPSのシェアが50%を超えたという複数の調査結果が明らかになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/news/2016/11/09/092/|title=Google、Chromeで半数以上がHTTPSを利用と発表|accessdate=2017-03-16|author=後藤大地|date=2016-11-09|work=マイナビニュース > 企業IT > セキュリティ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/news/2017/02/03/360/|title=HTTPS、トラフィックの50%を突破|accessdate=2017-03-16|author=後藤大地|date=2017-02-03|work=マイナビニュース > 企業IT > セキュリティ}}</ref>。 2017年末、66%のシェアという調査報告がされた<ref>{{Twitter status|letsencrypt|938091855941550080}}</ref>。 2018年末、httparchive.orgの調査によると、79.9%のトラフィックという調査報告がされた<ref>https://httparchive.org/reports/state-of-the-web#pctHttps</ref><ref>https://letsencrypt.org/stats/</ref><ref>https://etherealmind.com/percentage-of-https-tls-encrypted-traffic-on-the-internet/</ref>。 == 検閲 == HTTPS通信は暗号化されているため、通信内容を読み取ったり[[改竄]]したりすることはできない。そのため、基本的に通信内容を検閲することはできない。 HTTPSによる検閲対策に対抗する措置として、[[中華人民共和国]]では、暗号化技術の利用が許可制になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://computer-technology.hateblo.jp/entry/20131009/p2|title=中国大陸でネット検閲の中,HTTPSでGmailなどを安全に使えるのかどうか|accessdate=2017-02-16|publisher=モバイル通信とIT技術をコツコツ勉強するブログ}}</ref>。また、[[ウィキペディア]]に不適切な記述を含むページがあり、ロシアがこれを検閲しようとしたが、ウィキペディアがHTTPSを用いているため問題のページ単体を検閲できず、ロシアがウィキペディア全体をブロックし、ロシア国内からウィキペディアを閲覧できなくなったこともあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20150905-russian-wikipedia-ban/|title=ロシアでWikipediaが禁止サイトのリストに加えられ閲覧不能に、原因は一体何だったのか?|accessdate=2017-02-16|publisher=GIGAZINE}}</ref>。2019年、韓国では有害サイトへのアクセスのブロックを開始し、HTTPS(TLS)において暗号化せずに送受信するSNIからドメイン名を読み取ってブロック対象を判定していると報じられている<ref>{{Cite web|和書|author=大森敏行 |date=2019-02-25 |url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00001/01706/ |title=韓国がアダルトサイトのブロックに使う技術、SNIの正体 |publisher=日経クロステック(xTECH) |accessdate=2020-07-19}}</ref>。 == 類似のプロトコル == このほかに、TLS上でのHTTP通信に関するプロトコルが2つ存在する。いずれもURIスキームはhttpを用いる。 * {{IETF RFC|2817}} Upgrading to TLS Within HTTP/1.1は、HTTPのUpgradeヘッダーを用いることで、HTTPと同じTCP 80番ポートでHTTP over TLS通信を行う方式を規定している。HTTPにおける[[STARTTLS]]に相当する。 * {{IETF RFC|8164}} Opportunistic Security for HTTP/2は、http URLに対する通信における[[日和見暗号化]]を提供するものである。 == その他 == {{IETF RFC|2660}} が規定する'''S-HTTP'''(Secure HTTP: [[Secure HyperText Transfer Protocol]])は、httpsスキームで用いられるHTTP over SSL/TLSとは別のプロトコルである。S-HTTPに対応するURIスキームはshttpである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[HTTP Strict Transport Security]] * [[Extended Validation 証明書]] * {{仮リンク|HTTP Public Key Pinning|en|HTTP Public Key Pinning}} == 外部リンク == * {{IETF RFC|9110}} HTTP Semantics * {{IETF RFC|2818}} HTTP over TLS(旧式の規定) ** [https://www.nic.ad.jp/ja/tech/ipa/RFC2818JA.html HTTP オーバー TLS (HTTP Over TLS)] &mdash; [[情報処理推進機構|IPA]]による日本語訳 * [https://httpd.apache.org/docs/2.4/ja/ssl/ssl_intro.html SSL/TLS 暗号化: はじめに - Apache HTTP サーバ バージョン 2.4] * [https://www.ssllabs.com/ssltest/ SSL Server Test (Powered by Qualys SSL Labs)] * [https://www.iana.org/assignments/uri-schemes.html IANAに登録されたURIスキーム] === ウェブブラウザ側に関する規定 === * [https://w3c.github.io/webappsec-secure-contexts/ Secure Contexts]: W3Cのドラフト文書 ** [https://triple-underscore.github.io/webappsec-secure-contexts-ja.html Secure Contexts (日本語訳)](非公式) * [https://w3c.github.io/webappsec-mixed-content/level2.html Mixed Content Level 2]: W3Cのドラフト文書 ** [https://triple-underscore.github.io/webappsec-mixed-content-ja.html Mixed Content Level 2(日本語訳)](非公式) === 利用統計 === * [https://letsencrypt.org/stats/ Let's Encrypt Growth] - [[Let's Encrypt]] * [https://httparchive.org/reports/state-of-the-web#pctHttps State of the Web ] - httparchive.org * [https://transparencyreport.google.com/https/overview HTTPS encryption on the web] - [[Google]] * [https://w3techs.com/technologies/history_overview/site_element/all Historical trends in the usage statistics of site elements for websites] - w3techs.com {{URI scheme}} {{SSL/TLS}} {{DEFAULTSORT:HTTPS}} [[Category:インターネットのプロトコル]] [[Category:コンピュータ・ネットワーク・セキュリティ]] [[Category:電子商取引]] [[Category:Hypertext Transfer Protocol]] [[Category:Transport Layer Security]] [[Category:暗号化プロトコル]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/HTTPS
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ロケット
ロケット(英: rocket)は、自らの質量の一部を後方に射出し、その反作用で進む力(推力)を得る装置(ロケットエンジン)、もしくはその推力を利用して移動する装置である。 空気などの外部の物質を使用しない点でジェットエンジンなどとは区別される。 狭義にはロケットエンジン自体をいう。広義にはロケットエンジンを推進力とし、人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを搭載したローンチ・ヴィークル全体をロケットということも多い。 日本では、地上から照射されたマイクロ波やレーザービームをリフレクターで反射し、空気の電離によるプラズマ発生時の爆発などを推進力とし、燃料を使わないローンチ・ヴィークルも「ロケット」と呼ばれる。 推力を得るために射出する推進剤や、推進剤を動かすエネルギー源によって様々な方式がある。燃料の化学反応を用い、燃料自体を推進剤とする化学ロケット(化学燃料ロケット)が最もよく使われ、ロケットを話題にするときは、暗黙のうちに化学ロケットを前提にしていることが多い。 また、ロケットの先端部に核弾頭や爆薬など軍用のペイロードを搭載して標的や目的地に着弾させる兵器は、日本では無誘導の場合は「ロケット弾」、誘導装置を持つものはミサイルとして区別される(「ロケット弾」を参照)。特に弾道飛行をして目的地に着弾させるミサイルは、弾道ミサイルとして区別している。なお、北朝鮮による人工衛星の打ち上げは、国際社会から事実上の弾道ミサイル発射実験と見なされており、国際連合安全保障理事会決議1718と1874と2087でも禁止されているため、特に日本国内においては、人工衛星打ち上げであってもロケットではなくミサイルと報道されている。また他国ではミサイルとされるところを、ロケットやその類語で呼称する国もある(「ロシア戦略ロケット軍」「中国人民解放軍ロケット軍」を参照)。 日本語の「ロケット」は英語 rocket の借用語である。「自己推進する飛翔体」を表す語としての rocket は、「糸巻き棒」を意味するイタリア語 roccha の指小語 rocchetto に由来し、元々は糸巻き棒のような形状をした花火を指していた。 ロケットの方式で良く知られているものとしては、その使用するエネルギー源から分類して、化学ロケット、電気ロケット、原子力ロケットがある。 化学ロケットは、燃料の燃焼(化学反応)によって生じる熱エネルギーを利用し、燃料自体を推進剤として噴射するもので、効率は最も悪いが利用しやすい。また、短時間に大きな推力を発生させることができる。実用化されたロケットのほとんどは化学ロケットである。 電気ロケットは、イオン推進など、推進剤を電気的に加速して噴射するものである。人工衛星や宇宙探査機などのスラスターとして実用化されている。大きい推力を得ることは難しいが、長期間の使用に向く。 原子力ロケットは、推進剤を原子炉で加熱して噴射するもの、ロケットの後方で核爆弾を爆発させて推進力を得るもの(パルス推進)など複数の種類があるが、安全性の問題はもちろん、核兵器の宇宙空間への持ちこみを禁じた宇宙条約や宇宙空間での核爆発を禁止する部分的核実験禁止条約の制限により実用化されていない。オリオン計画やダイダロス計画といった構想が知られる。「原子力推進」も参照。 なお、ロケットが推進する原理を「噴射したガスがロケットの後方の空気を押すから」と誤って考える人もいる。かつて『ニューヨーク・タイムズ』が、この誤解に基づき、真空中でロケットは飛べないと主張して、ロケット工学開拓者の一人であるロバート・ゴダードを批判する記事を掲載したという逸話がある。実際にはロケットは真空中でも推進可能であり、明らかな誤解である。これは作用・反作用の法則において、ロケットを質点A、空気を質点Bとみなしたことによる。こういう解釈であれば、ロケット推進の作用を空気が受け止め、その反作用で推進力が生まれるので、真空ではロケットは推進不可能という結論になる。実際にはロケットの推進を作用・反作用の法則で説明する場合は、ロケットを質点A、ロケットの噴射するガスを質点Bとみなすべきなのである。つまりロケットとロケットの噴射ガスを同一の質点Aとみなしたことによる誤解である。あるいはロケット自体とロケットの噴射ガスに運動量保存の法則をあてはめれば、真空中でもロケットが推進できることは容易に納得できるはずである。こうしたロケットの原理を示す式が、ツィオルコフスキーの公式である。 化学ロケットでは、その最大の貨物は自らを宇宙空間まで運ぶ推進剤である。これは地球から長距離を航行しようとする際に大変な非効率をもたらすが、宇宙空間に中継地点を設けることである程度緩和されるのではないかと考えられている。アポロ計画の月着陸船が月から帰還する時に必要としたロケットが、地球からの打ち上げに使われたサターンロケットに比べて驚くほど小さかったことからわかるように、重力が小さい場所から発進すればそれほど多くのエネルギーは必要としないのである。衛星軌道上に基地(宇宙ステーション)を設け、そこまで分割運搬した部品を組み立てて大きなロケットを建造し、そこから出発させるという方法などが考案されている。 また、ロケットを使わない静止軌道までの運搬方法として軌道エレベータなどが実際に検討されている。 新型のロケットを開発する場合、成否はロケットエンジンの開発にかかっていると言っても過言ではなく、計画遅延の原因はエンジン開発の難航が占める割合が大きい。 1960年代 - 80年代にかけて、米国はスペースシャトルのエンジン以外、新型の液体燃料ロケットエンジンの開発には消極的であり、欧州等に比べて出遅れた。その結果、1990年代からロシアが開発した液体燃料ロケットエンジンを導入してライセンス生産している。 化学ロケットは燃料と酸化剤を搭載しており、これらを燃焼させて高温・高圧のガスにして噴射する。燃料と酸化剤を合わせて推進剤という。この推進剤の形態から、ロケットは固体燃料ロケット、液体燃料ロケット、ハイブリッドロケットに大きく分類される。 固体燃料ロケットとは、常温で固体の燃料と酸化剤(の混合物)を用いるロケットである。古くは火薬、最近の例では合成ゴムと酸化剤を混合成型したものなどが使われている。 固体燃料は常温では飛散しないため管理(保管)が楽、構造が簡単な割に安価で大推力が得られる、体積が(液体燃料に比べ)小さいなどの利点を持つ。 反面、単位重量の推進剤で単位推力を発生させ続けられる秒数を示す比推力が悪いため効率が悪く、推力の制御が難しいこと、またいったん点火したら、燃料を全て消費するまで燃焼を停止させるのはほとんど不可能であることなどの欠点を持つ。 こうした特性から、常に発射可能な状態で保管しておかなければならない軍事用途、大推力を求められる宇宙ロケットの一段目や補助ブースターに広く使用されている。 液体燃料ロケットは、液体の燃料と酸化剤を用いるロケットである。固体燃料ロケットとは違い、推力の制御が容易であること、いったん燃焼を停止させたものを再度点火するのが可能であることなどの長所を持つが、その反面、燃料を送り出すための高圧ポンプや複雑な配管システムが必要とされるなど、構造が複雑になり、その分高価になるという欠点も持つ。 初期には常温保存が可能なヒドラジン(燃料)と四酸化二窒素(酸化剤)、ケロシン(燃料)と液体酸素(酸化剤・極低温)、などが用いられたが、最近はより高い比推力が得られる液体水素(燃料)と液体酸素(酸化剤)の組み合わせが、各国の基幹ロケットの主流となっている(アメリカのスペースシャトル、ヨーロッパのアリアン5、日本のH-IIAなど)。 このロケットの場合、酸素と水素を化合させるだけなので、排気ガスは有毒物質を一切含まない水蒸気だが、実際には、液体水素・液体酸素エンジンだけでは離床時の推力が不十分なので、固体燃料の補助ロケットを使用する。この固体燃料補助ロケットの排気にはオゾン層や環境に悪影響を及ぼすハロゲン化合物が含まれる。ロケット自体の開発も困難を極める。 また、人工衛星の軌道制御や姿勢制御のための小型ロケットには、過酸化水素やヒドラジンを触媒で分解させて噴射する、構造が簡単な一液式ロケットも用いられる。 なお、一般に燃焼室の冷却には燃料自体が使用される。上記の液体酸素・液体水素のエンジンでは、燃焼室の温度は三千度にも達するが、これだけの高温に耐えられる素材は現在のところない。その対策として、燃焼室の壁やノズルの中部には細いパイプや溝が何百本も張りめぐらされており、推進剤をその中を循環させることにより蒸発潜熱により熱を奪うというシステム(再生冷却)や推進剤の一部を燃焼室の内壁に沿って流すフィルム冷却やアブレーション冷却、ニオブ製のノズルスカートによる放射冷却が採用される。 ハイブリッドロケットは、化学ロケットの一種で、燃料と酸化剤がそれぞれ異なる相を持ったロケットである。一般的には、固体の燃料と液体の酸化剤が用いられる。固体燃料ロケットの特徴である構造の簡易性と液体燃料ロケットの特徴である推力調整を可能とするが、同時に固体燃料ロケットと液体燃料ロケットの両方の欠点も併せ持つ。このため長らく実用化を見なかったが、スペースシップワンではハイブリッド・ロケットエンジンが採用された。 このため現在宇宙ロケットの分野では、効率が良い液体燃料ロケットが主流であり、固体燃料ロケットはブースターなどの補助推力として用いられる。一方、定期的に打ち上げる高高度気象観測ロケットや、発射準備時間が短いミサイル等では固体燃料ロケットが主流である。 原子力ロケットは原子炉で推進剤を加熱して噴射したり、核爆発による反動を利用して推進するロケットである。 かつてアメリカ合衆国でNERVAが、ソビエト連邦でRD-0410が実験された例はあるが、実際に運用された例は無い。 原子力ロケットには核熱ロケット、核パルス推進、核融合ロケット、量子真空プラズマ推進器(英語版)、核塩水ロケット(英語版)、核光子ロケット(英語版)等がある。 推力重量比は化学ロケットよりも低いので宇宙空間に化学ロケットで打ち上げられてから上段として作動する。 2018年11月7日、ロシアのロスコスモスは、ロスアトムおよびモスクワのケルディシュ応用数学研究所(英語版)にて、メガワット級原子炉搭載型電気推進システムを搭載した原子力宇宙船を開発中であると公式に発表した(動画はロスコスモスが発表した原子力推進型宇宙船コンセプトのCGアニメーション)。 (1970~80年代に宇宙用原子炉「ブーク」(Buk)や「トパース(英語版)」(Topaz)を搭載したレーダー偵察衛星を合計32機打ち上げて運用した実績を基礎として)旧ソ連時代の原子炉搭載型コスモス954号およびコスモス1402号で培った技術を改良し、将来の惑星間飛行(interstellar flights)における現実的な手段として使用するという。 2019年3月6日、ロシアのロスコスモスは、ロスアトムおよびモスクワのケルディシュ応用数学研究所(英語版)にて、RD-0410核熱ロケットエンジンをベースにしたメガワット級原子炉を搭載したスペースプレーン(高度160kmをマッハ7の極超音速で飛行でき高度500kmの低軌道への到達も可能で50回以上繰り返し再利用可能な設計)の開発計画が2010年から進行・開発中であると公式に発表した。 以下に、燃料ではなく形態によるロケットの分類を示す。これらの方式の効率を計算するときは全てツィオルコフスキーの公式に基づく。 最初期のロケットの姿であり、ペイロードを必要な速度・高度まで1基の打ち上げロケット(段)で運んでしまうロケットのこと。下記の多段式ロケットの対になる方式である。 単段式ロケットは、多段式ロケットに必要な切り離し装置などがないため構造が簡単で、製作技術や制御技術があまり高くなくても作れる。またロケットが小型であれば多段式にするより単段式ロケットの方が効率も良い。しかし大型ロケットの場合、時間が経って不必要になった空の燃料タンクやエンジンもずっと輸送することになり、効率が劣る。 V2ロケットなどの短距離弾道ミサイルや気象観測用ロケット、模型ロケットなど小型のロケットであれば、多段式にすると機構の複雑さから重量が増えて却って非効率的になってしまうため、単段式ロケットが使われることも多い。 単段式ロケットの将来像として、単段式宇宙往還機も研究されている。 ロケットが十分な速度を得るためには、移動体本体の質量は全体に比してできるだけ小さいことが望ましい。このため、空になった推進剤タンクやそれを燃焼させるエンジンを収容する部分は必要ない質量として切り離すという仕組みがコンスタンチン・ツィオルコフスキーにより考案され、現在も使われている。これを多段式ロケットという。 例えば人工衛星打ち上げ用の3段式ロケットの場合、最下部の1段目のエンジンを噴射させて1段目自身と2段目と3段目とそれに乗った衛星を上昇させ燃料を使い切ったら1段目を切り離す。その後2段目のエンジンを噴射して2段目自身と3段目と衛星をさらに上昇させて燃料を使い切ったら切り離す。その後3段目のエンジンを噴射して任意の地点で衛星を切り離して目的の軌道に投入することになる。人工衛星を軌道上で周回させ続けるには第一宇宙速度まで加速させる必要があるが、化学ロケットは技術的な制約により多段式でなければ第一宇宙速度を得ることは困難であり、現在の衛星打ち上げロケットは全て多段式である。 この理屈で言うと、理論上は、非常に小さく区切られた燃料タンクと小型のロケットエンジンを、使い終わったら片っ端から切り離していくのが一番効率的になるのだが、実際には小型化にも限度があるし、あまり段数が多いと制御が難しくなり、切り離し装置の重量や容量も増えるため、構造効率が低くなり総重量全体に占める推進剤の割合が下がり、技術面で現実的ではない。加えてロケットエンジンの数も段数に応じて増えるため、コストも上昇する。このため現在主流の人工衛星打ち上げ用ロケットは殆どが2 - 3段式の構成である。 無重力空間のみで動くロケットの場合、各々の段の比推力は目的に応じて推進剤を選択することにより自由に決められるために1段目や2段目が非力で3段目のみ強力なエンジンを積むといったことも問題なくできるが、地球など天体の引力圏内にあるロケットの場合は、下のロケットが非力(具体的に言うと、上に載っているペイロードおよび全てのロケットの重量と自分自身の重量の和未満)では飛び上がることができない。 そのために、後述するクラスター方式などと併せ、下の段ほど強力にして、上の段に行くに従い出力も小さくなっていく。 また、離床時に大きな推力が必要なので、下段には推力が高いが比推力の低い推進剤を、上段には推力は低いが比推力の高い推進剤を用いる。 モジュラーロケットとは、打ち上げ用途に応じて構成する部材を交換できる多段式ロケットの形式である。規格化されたモジュールを様々な打ち上げ需要に応じて組み合わせることにより、規模の経済により、量産効果による生産性の向上、価格低減が期待できるため製造費用、輸送費用、打ち上げ準備の支援費用、準備期間を最小に抑えることができる。代表的なモジュラーロケットにはユニバーサル・ロケット、アトラス V、デルタ IV、ファルコン9、アンガラ・ロケットがある。アトラス Vの第1段モジュールはコモン・コア・ブースター、デルタ IVの第1段モジュールはコモン・ブースター・コアと呼ばれている。 また、共通の仕様の小規模のロケットを大量生産して束ねることにより価格低減を意図した例としてCommon Rocket Propulsion Units (CRPU) と呼ばれる同一の規格化された小型ロケットを束ねたOTRAGやInterorbital Systemsの"common propulsion modules"(CPM)を束ねたNeptuneの例がある。 クラスターロケットとは、多数のロケットエンジンを束ねて構成されるロケットのこと。多段式ロケットと共にツィオルコフスキーにより考え出された方式。 エンジン1基あたりの出力は高いほど望ましいのだが、新しい大型のエンジンを開発するには燃焼室の振動、耐久性、エンジン自体の質量増加、エンジンを作るのに必要なコストなどの問題を解決するため、莫大な時間と費用がかかる。 クラスター方式は手持ちの信頼性の高いエンジンを流用して推力を増やせる堅実な方法であり、ソ連がアメリカに先んじてスプートニクやボストークを打ち上げるのを可能とした。 しかしエンジンの数が増えると制御が困難になり、N1ロケット(一段目は30基のエンジン)の失敗は、ソ連の有人月旅行計画の失敗へとつながった。 旧ソ連のR-7(現在も直系の子孫であるソユーズロケットが使われている)が代表的なもので、一段目は5基のエンジン(ノズルは20個)を持つ。他のクラスターロケットには同じく旧ソ連製のプロトン(一段目に6基)やエネルギア、アメリカのサターンIおよびIB(1段目に8基)、ファルコン9(1段目に9基)日本のH-IIBロケット(1段目に2基)などがある。 また、この方法を発展したロケットとして1970年代にドイツでOTRAGが検討されたが、技術面や射場の選定に関する政治的理由により中止された。 日本語では打ち上げロケットと呼ばれ、地球から宇宙空間に人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを輸送するのに使用されるロケット。打上げ機と呼ばれることもある。ペイロードが第一宇宙速度や第二宇宙速度を超え地球周回軌道や太陽周回軌道に投入される。打ち上げ能力が低軌道へ100kg未満の人工衛星を打ち上げる能力を有する概ね10トン未満の人工衛星打上げ機は超小型衛星打上げ機に分けられる。 観測ロケットは科学観測・実験のために弾道飛行を行うロケット。研究ロケットやサウンディングロケットとも呼ばれる。通常は高度50kmから1500kmへ打ち上げられる。 使い捨て型ロケットは一度のみしか実使用できない打ち上げロケットシステムのこと。 再利用型ロケット(再使用型宇宙往還機、単段式宇宙輸送機、スペースプレーン等)とは、打ち上げ後に機体を回収し再使用するロケットシステム。メリットとしては打ち上げごとに機体を製造しなくてすみ、コストダウンなどが期待される。スペースシャトルやファルコン9等一部が成功した。 ロケットの歴史は古く、西暦1000年頃には中国で、今のロケット花火の形態が発明され武器として利用され、火箭(現在でも中国では火箭軍などロケットにこの名称が当てられている)と呼ばれた。1232年、モンゴル帝国との戦いで使用されたという記録がある。その後、モンゴル人の手に渡り各地で実戦に投入された。14世紀半ばには中国の焦玉により多段式ロケットが作られた。 1792年にはインドのマイソール王国の支配者ティプー・スルターンによって対英国、東インド会社とのマイソール戦争で鉄製のロケットが効果的に使用された。 マイソール戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、19世紀初頭までにコングリーヴ・ロケットを開発した。開発の中心人物はウィリアム・コングリーヴ(英語版)であった。 米英戦争の米国におけるボルティモアの戦い(1814年)では、英国艦エレバス(HMS Erebus)からフォートマクヘンリーに向けてロケットが発射され、観戦していた弁護士フランシス・スコット・キーによってアメリカの国歌『星条旗』に歌われた。同様に1815年のワーテルローの戦いでも使用された。 初期のロケットは回転せず、誘導装置や推力偏向を備えていなかったので、命中精度が低かった。初期のコングリーヴのロケットには長い棒がついていた。(現代のロケット花火に似ている)大型のコングリーヴのロケットは重量14.5kg、棒の長さは4.5mであった。1844年にウィリアム・ヘール(英語版)(William Hale)によって改良されたロケットでは噴射孔に弾体を回転するための偏流翼が備えられ、回転するようになり安定棒が無くても命中精度は向上したものの、改良された大砲に射程・命中精度が劣ったので下火になった。 徐々に改良が加えられたが、ライフリングや鋼鉄製砲身等の大砲の改良により射程、精度が高まってくると、誘導装置のないロケットの使用は信号弾など、限定的なものになっていった。第二次世界大戦以降、カチューシャ、バズーカ、MLRSなどの形で復活した。 日本でも、鎌倉時代に元が攻めて来た(元寇)とき元軍により使用されたという。戦国時代には狼煙として使われ、江戸時代に入ると各地で伝承されてきた。埼玉県秩父市の椋神社で毎年10月に行われるロケット祭り(龍勢祭り)や静岡県藤枝市岡部町朝比奈、同静岡市清水区草薙、滋賀県米原市等、各地で古くから龍勢(流星)の打ち上げが行われてきた。現在でも打ち上げられる龍勢は木材を竹タガで締め、内部に黒色火薬をつき固めた端面燃焼ロケットである。この龍勢祭りの起源は明確な記録がなく明かではないが、鉄砲伝来後の戦国時代以降の狼煙が、その後の平和な時代になって龍勢(流星)となって農村の神事・娯楽に転化したという説が有力である。 近代のロケット、すなわち宇宙に行けるロケットが研究・開発されたのは、19世紀後半から20世紀である。 コンスタンチン・ツィオルコフスキー(1857-1935年)はロケットで宇宙に行けることを計算で確認し、液体ロケットを考案した。このため彼は「宇宙旅行の父」と呼ばれている。ロバート・ハッチンス・ゴダード(1882-1945年)は、1926年に世界初の液体ロケットを打ち上げた。このため「近代ロケットの父」と呼ばれている。世界初の液体ロケットエンジンはツィオルコフスキーのOR-2からセルゲイ・コロリョフ(1907-1966年)が中心となったソ連のGIRD-09の開発とされている。実用的な液体ロケットは、ウェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977年)が中心となってナチス・ドイツで開発した、V2ロケットが初めとされている。 1920年代から1930年代にかけて各国で民間の宇宙開発グループが形成された。それらのグループには後に宇宙開発で著名な功績を残す者も多く含まれた。ドイツでは宇宙旅行協会に所属したヴェルナー・フォン・ブラウン達や、ソ連では反動推進研究グループに所属したセルゲイ・コロリョフ達がいた。やがて第二次世界大戦の勃発と共に彼らは否応なく歴史の荒波に巻き込まれてゆくことになる。 第二次世界大戦末期には航空機のエンジンとしても着目され、ドイツのメッサーシュミット Me163、その情報をベースに製作された日本の秋水(試作機)にも搭載された。しかし実用性は低く運用コストは恐ろしいレベルで高かった。 日本の秋水の例では酸化剤に過酸化水素を使用したため、過酸化水素製造の電解装置の電極として終戦までに1900kgものプラチナが消費された。 ナチス・ドイツの崩壊前後、V2の開発に関わった人材の多くがアメリカに亡命した(ペーパークリップ作戦)。またこの混乱期にソ連もV2の技術を接収していた。また、そのソ連からV2の改良型であるR-2の技術を供与され、さらにアメリカでV2を解析して弾道ミサイルを開発していた貴重な人材である銭学森をアメリカとの取引で手に入れた中華人民共和国も宇宙開発とロケット開発に邁進することになる。冷戦に入り、1958年にソ連がスプートニクロケットによって世界初の人工衛星を打ち上げたことでスプートニク・ショックが起き、宇宙開発競争が始まる。1961年にはソ連がボストークロケットによりユーリイ・ガガーリンが搭乗したボストークの打ち上げを成功させ、世界初の有人宇宙飛行を成し遂げた。一方、1969年にはアメリカがサターンV 型ロケットによりアポロ11号を打ち上げて世界で初めて人類を月に到達させた。 宇宙開発競争初期のロケットは、アメリカのレッドストーンやソビエトのR-7のように弾道ミサイルから弾頭を外し、代わりに人工衛星や宇宙船を取り付けたものであり、ロケットの打ち上げ技術はミサイル技術と等価であり、威嚇も含めた軍事的価値も高いために、抜きつ抜かれつの開発競争であった。 1960年代から1970年代までに日本、欧州、中華人民共和国も人工衛星の打ち上げに成功し、世界の宇宙開発のプレイヤーはソ連(後のロシア)とアメリカと合わせて5極体制となった。日欧が先進的な宇宙探査機や人工衛星を打ち上げて宇宙科学分野で実績を積み上げていった一方、中国は1990年代以降に有人宇宙開発と宇宙の軍事利用に邁進し、2003年に長征2号Fにより神舟5号の打ち上げに成功し、ソ連とアメリカに次いで世界で3番目となる有人宇宙飛行に成功した。 冷戦以後はアメリカとロシアの宇宙船は宇宙空間でドッキングを行ったり、協力して国際宇宙ステーションの建設にあたるなど宇宙開発や惑星・衛星探索への利用が進んだ。また、軍事や情報における利用価値が認知され、現在に至るまで国家機密に属する非常に重要な技術として取り扱われている。特に偵察衛星の打ち上げは諜報活動において革新的な出来事であった。宇宙空間には国際法上、国家の領空は及ばないため、これまで諜報員や特に領空侵犯を行う偵察機を送り込んで危険を覚悟で行ってきた諜報活動のリスクを大幅に削減する成果をあげた。 1990年以降、打ち上げ能力は質、量共に向上している背景にはソビエト連邦の崩壊後、冷戦期の宇宙開発競争を支えた経験豊富な旧ソビエトの技術者達が世界各地での宇宙開発に携わり、各国のロケットの開発、改良を支えていることが挙げられる。これに対してミサイル技術管理レジームがあるものの、一部において形骸化し、弾道ミサイル技術の拡散も招いている。 また、GPS衛星の打ち上げ後は比較的正確な位置測定の手段としてカーナビゲーションシステムなどに応用され、宇宙ロケット関連技術は現代人の生活を支えるために欠かせない。 国家ないし国家連合による政策としての宇宙開発が財政面で苦しい局面に立たされている反面、民間によるロケット開発も盛んである。例えばスペースXとオービタル・サイエンシズは商業軌道輸送サービスの一環としてそれぞれ、ファルコン9でドラゴン宇宙船を打ち上げて2012年から、同様にアンタレスで打ち上げてシグナスで2013年から国際宇宙ステーションへの商業補給サービスを開始しており、ヴァージン・ギャラクティックはスペースシップツーの弾道飛行による民間宇宙旅行を計画している。今後は宇宙飛行士の輸送も含めて徐々に民間企業の自主開発したロケットによる輸送が主流になりつつある。 さらに規模は小さくなるが、アマチュアによるロケット打ち上げの試みもある。2004年5月17日には20人ほどのアメリカ人による組織「Civilian Space eXploration Team」(CSXT)によって打ち上げられた「GoFast」が、高度115 kmに到達しアマチュアロケット史上最高高度を記録した。一般人によるロケットとして歴史に名を残した。また、同様にアマチュアの開発によるロケットでの人工衛星の打ち上げ計画もあるが、資金、技術の両面において苦戦している。更に、日本でも企業の連合でロケット打ち上げがよく行われる。世界各国でロケット開発が浸透しているという証拠にもなっている。 現在、各国で次世代の打ち上げの主力となるロケットの開発が進行中である。それらは既存のエンジン等の部材を活用しつつこれまでの技術革新の成果を取り入れつつある。 これまで、各国が独自で開発したロケットによって衛星を軌道投入した例は10カ国。ソ連(ロシア連邦)、アメリカ、フランス、日本、中国、イギリス、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮となっている。 現在、軌道投入能力を保有するのはロシア、アメリカ、欧州、日本、中国、ウクライナ、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮の9カ国と1機関である。 ロケットは推進力が強力であり、大気圏内において物体を飛行させるための推進力としても利用される。その最も一般的な適用例は気象観測ロケットで、高層大気の状態を観測するためにしばしば打ち上げられる。気象庁でも定期的に気象観測ロケット (MT-135) を打ち上げていたが、2001年 に運用を終了させた。 他に無重力実験や各種実験、天体観測用の試験装置を搭載したロケットが打ち上げられる場合もある。 飛行機への適用としては、1928年6月11日にFritz Stamerの操縦によりLippisch Enteが飛行し、1929年9月30日に"ロケットフリッツ"("Rocket Fritz")の異名を持つフリッツ・フォン・オペルの操縦によりOpel RAK.1が飛行に成功、その後、第二次世界大戦前夜の1939年6月20日にErich Warsitzの操縦により液体燃料ロケットエンジンを搭載したHe 176が飛行に成功して、第二次世界大戦末期に盛んな研究・開発がなされた。その典型例がナチスドイツの迎撃戦闘機Me163といえる。Me163 は推力1,700kgのヴァルターロケット1基により亜音速飛行を実現した。この戦闘機を参考に日本でも類似した局地戦闘機「秋水」が試作されたが、試験飛行中に墜落して終わった。ソビエトでは1942年にBI-1が飛行した。他にもミグI-270、DFS 40、DFS 194、Ba 349、Go 242、DFS 228、DFS 346等があった。 また、固体燃料式のロケットもプロペラ機の離陸促進用補助ロケットとして各国で多数利用されたが、純然たる推進力として採用した航空機として有名なのが第二次世界大戦において使用された日本海軍の人間爆弾(特攻兵器)「桜花」である。本機はまずグライダーとして母機から切り離された後、攻撃を回避しながら敵艦へ体当たりするため推力800kgの火薬式ロケット3本を順次燃焼させながら最終的に時速800km程度で突入するというものであった。他にロケット推進グライダーのK1号や神龍が試作された。 ドイツでは無線誘導ロケット爆弾Hs 293などが開発され、実戦投入された。 その後、米軍の超音速実験機X-1においてロケットが推進力として使用されて飛行速度1.06マッハを実現した。「桜花」と同じく、航空機から小型航空機を発射するという方法がとられているが、これはロケットエンジンの燃料消費量があまりにも大きく、戦闘機サイズの燃料搭載量では自力で飛行目標を達成できないからであった。燃費が悪いロケットは大気圏内の航空機用推進力としてはあまり用いられなくなり、航空機の推進力は次第にジェットエンジンへと遷移していった。その後、一部の愛好家によって、実用機ではないがXCOR Aerospace社のXCOR EZ-Rocketのようなロケット飛行機が開発、飛行されている。そのほか、地球以外の惑星でも類似の動力による飛行が検討されている。 しかし、その後も宇宙ロケットと構造が類似している弾道ミサイルには液体燃料ロケットが採用され、瞬発力と大推力を有する固体燃料ロケットは弾道ミサイルのほか、前述の通り短射程のミサイルや気象観測、無重力実験、射出座席やゼロ距離発進、MLRS、無反動砲等にも多用されている。 比較的簡易な構造で急加速、高速が出せるので、1928年5月23日にベルリン郊外のアヴスサーキットでフリッツ・フォン・オペルの運転によりOpel RAK2が時速238kmの世界記録を樹立したり、その後もブルー・フレーム、Budweiser Rocket等、ロケットエンジンを動力とする自動車が速度記録に挑んでいる。ただし、ロケットエンジンの作動時間は限られているので近年の自動車の速度記録では推力の持続するジェットエンジンを動力とする車両が記録を樹立している。 ロケットスレッドや1975年に水蒸気ロケットを用いたドイツの磁気浮上式鉄道KOMET(Komponentenmeßtrager)による401.3km/hの記録の樹立や1978年には固体燃料ロケットを搭載したHSST-01による307.8km/hの達成等で使用された。 レンチの一種として、小型ロケットが互い違いにセットされた台座を緩める対象に取り付けて点火することで、短時間で緩めることができる「ロケットレンチ」がある。主に不発弾の錆びた信管を外すのに使われている。 一般人が趣味として気軽に打ち上げられる本格的なロケットとしてモデルロケットがある。これは燃料に小型のものは黒色火薬、中・大型のものはコンポジット推進薬を使用したもので、コンポジット推進薬はスペースシャトルやH2-Aロケットのブースターに使用される燃料と同じ燃料である。高度は百メートルから数十キロに達するものもある。 ペットボトルロケットという教材用ロケットは、ペットボトルに水と圧縮空気を充填し、水を圧縮空気の圧力で噴射することによって推力を得る構造をもったものである。ロケット先進国アメリカでは古くから児童・生徒の授業に採り入れられていた。日本など他の先進国に普及し始めた時期は明確でないが(※日本は1990年代頃か)、多くの国で盛んに作られるようになり、科学教材として広く利用されるようになった。 火薬を使って飛ばすモデルロケットも普及し始め、日本では各地の中学校で総合教育に採り入れられている。 JETEXやタイガーロケッティのような模型飛行機向けのロケットエンジンもあった(※JETEXは現在も継続中)。世界の一部の愛好家の間では、ハイブリッドロケットや液体燃料ロケットも打ち上げられている。 日本国内では航空法に基づき、ロケットを打ち上げる空域によっては、打ち上げることが禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロケット(英: rocket)は、自らの質量の一部を後方に射出し、その反作用で進む力(推力)を得る装置(ロケットエンジン)、もしくはその推力を利用して移動する装置である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "空気などの外部の物質を使用しない点でジェットエンジンなどとは区別される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "狭義にはロケットエンジン自体をいう。広義にはロケットエンジンを推進力とし、人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを搭載したローンチ・ヴィークル全体をロケットということも多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では、地上から照射されたマイクロ波やレーザービームをリフレクターで反射し、空気の電離によるプラズマ発生時の爆発などを推進力とし、燃料を使わないローンチ・ヴィークルも「ロケット」と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "推力を得るために射出する推進剤や、推進剤を動かすエネルギー源によって様々な方式がある。燃料の化学反応を用い、燃料自体を推進剤とする化学ロケット(化学燃料ロケット)が最もよく使われ、ロケットを話題にするときは、暗黙のうちに化学ロケットを前提にしていることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、ロケットの先端部に核弾頭や爆薬など軍用のペイロードを搭載して標的や目的地に着弾させる兵器は、日本では無誘導の場合は「ロケット弾」、誘導装置を持つものはミサイルとして区別される(「ロケット弾」を参照)。特に弾道飛行をして目的地に着弾させるミサイルは、弾道ミサイルとして区別している。なお、北朝鮮による人工衛星の打ち上げは、国際社会から事実上の弾道ミサイル発射実験と見なされており、国際連合安全保障理事会決議1718と1874と2087でも禁止されているため、特に日本国内においては、人工衛星打ち上げであってもロケットではなくミサイルと報道されている。また他国ではミサイルとされるところを、ロケットやその類語で呼称する国もある(「ロシア戦略ロケット軍」「中国人民解放軍ロケット軍」を参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本語の「ロケット」は英語 rocket の借用語である。「自己推進する飛翔体」を表す語としての rocket は、「糸巻き棒」を意味するイタリア語 roccha の指小語 rocchetto に由来し、元々は糸巻き棒のような形状をした花火を指していた。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ロケットの方式で良く知られているものとしては、その使用するエネルギー源から分類して、化学ロケット、電気ロケット、原子力ロケットがある。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "化学ロケットは、燃料の燃焼(化学反応)によって生じる熱エネルギーを利用し、燃料自体を推進剤として噴射するもので、効率は最も悪いが利用しやすい。また、短時間に大きな推力を発生させることができる。実用化されたロケットのほとんどは化学ロケットである。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "電気ロケットは、イオン推進など、推進剤を電気的に加速して噴射するものである。人工衛星や宇宙探査機などのスラスターとして実用化されている。大きい推力を得ることは難しいが、長期間の使用に向く。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "原子力ロケットは、推進剤を原子炉で加熱して噴射するもの、ロケットの後方で核爆弾を爆発させて推進力を得るもの(パルス推進)など複数の種類があるが、安全性の問題はもちろん、核兵器の宇宙空間への持ちこみを禁じた宇宙条約や宇宙空間での核爆発を禁止する部分的核実験禁止条約の制限により実用化されていない。オリオン計画やダイダロス計画といった構想が知られる。「原子力推進」も参照。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお、ロケットが推進する原理を「噴射したガスがロケットの後方の空気を押すから」と誤って考える人もいる。かつて『ニューヨーク・タイムズ』が、この誤解に基づき、真空中でロケットは飛べないと主張して、ロケット工学開拓者の一人であるロバート・ゴダードを批判する記事を掲載したという逸話がある。実際にはロケットは真空中でも推進可能であり、明らかな誤解である。これは作用・反作用の法則において、ロケットを質点A、空気を質点Bとみなしたことによる。こういう解釈であれば、ロケット推進の作用を空気が受け止め、その反作用で推進力が生まれるので、真空ではロケットは推進不可能という結論になる。実際にはロケットの推進を作用・反作用の法則で説明する場合は、ロケットを質点A、ロケットの噴射するガスを質点Bとみなすべきなのである。つまりロケットとロケットの噴射ガスを同一の質点Aとみなしたことによる誤解である。あるいはロケット自体とロケットの噴射ガスに運動量保存の法則をあてはめれば、真空中でもロケットが推進できることは容易に納得できるはずである。こうしたロケットの原理を示す式が、ツィオルコフスキーの公式である。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "化学ロケットでは、その最大の貨物は自らを宇宙空間まで運ぶ推進剤である。これは地球から長距離を航行しようとする際に大変な非効率をもたらすが、宇宙空間に中継地点を設けることである程度緩和されるのではないかと考えられている。アポロ計画の月着陸船が月から帰還する時に必要としたロケットが、地球からの打ち上げに使われたサターンロケットに比べて驚くほど小さかったことからわかるように、重力が小さい場所から発進すればそれほど多くのエネルギーは必要としないのである。衛星軌道上に基地(宇宙ステーション)を設け、そこまで分割運搬した部品を組み立てて大きなロケットを建造し、そこから出発させるという方法などが考案されている。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、ロケットを使わない静止軌道までの運搬方法として軌道エレベータなどが実際に検討されている。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "新型のロケットを開発する場合、成否はロケットエンジンの開発にかかっていると言っても過言ではなく、計画遅延の原因はエンジン開発の難航が占める割合が大きい。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1960年代 - 80年代にかけて、米国はスペースシャトルのエンジン以外、新型の液体燃料ロケットエンジンの開発には消極的であり、欧州等に比べて出遅れた。その結果、1990年代からロシアが開発した液体燃料ロケットエンジンを導入してライセンス生産している。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "化学ロケットは燃料と酸化剤を搭載しており、これらを燃焼させて高温・高圧のガスにして噴射する。燃料と酸化剤を合わせて推進剤という。この推進剤の形態から、ロケットは固体燃料ロケット、液体燃料ロケット、ハイブリッドロケットに大きく分類される。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "固体燃料ロケットとは、常温で固体の燃料と酸化剤(の混合物)を用いるロケットである。古くは火薬、最近の例では合成ゴムと酸化剤を混合成型したものなどが使われている。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "固体燃料は常温では飛散しないため管理(保管)が楽、構造が簡単な割に安価で大推力が得られる、体積が(液体燃料に比べ)小さいなどの利点を持つ。 反面、単位重量の推進剤で単位推力を発生させ続けられる秒数を示す比推力が悪いため効率が悪く、推力の制御が難しいこと、またいったん点火したら、燃料を全て消費するまで燃焼を停止させるのはほとんど不可能であることなどの欠点を持つ。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "こうした特性から、常に発射可能な状態で保管しておかなければならない軍事用途、大推力を求められる宇宙ロケットの一段目や補助ブースターに広く使用されている。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "液体燃料ロケットは、液体の燃料と酸化剤を用いるロケットである。固体燃料ロケットとは違い、推力の制御が容易であること、いったん燃焼を停止させたものを再度点火するのが可能であることなどの長所を持つが、その反面、燃料を送り出すための高圧ポンプや複雑な配管システムが必要とされるなど、構造が複雑になり、その分高価になるという欠点も持つ。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "初期には常温保存が可能なヒドラジン(燃料)と四酸化二窒素(酸化剤)、ケロシン(燃料)と液体酸素(酸化剤・極低温)、などが用いられたが、最近はより高い比推力が得られる液体水素(燃料)と液体酸素(酸化剤)の組み合わせが、各国の基幹ロケットの主流となっている(アメリカのスペースシャトル、ヨーロッパのアリアン5、日本のH-IIAなど)。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このロケットの場合、酸素と水素を化合させるだけなので、排気ガスは有毒物質を一切含まない水蒸気だが、実際には、液体水素・液体酸素エンジンだけでは離床時の推力が不十分なので、固体燃料の補助ロケットを使用する。この固体燃料補助ロケットの排気にはオゾン層や環境に悪影響を及ぼすハロゲン化合物が含まれる。ロケット自体の開発も困難を極める。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、人工衛星の軌道制御や姿勢制御のための小型ロケットには、過酸化水素やヒドラジンを触媒で分解させて噴射する、構造が簡単な一液式ロケットも用いられる。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、一般に燃焼室の冷却には燃料自体が使用される。上記の液体酸素・液体水素のエンジンでは、燃焼室の温度は三千度にも達するが、これだけの高温に耐えられる素材は現在のところない。その対策として、燃焼室の壁やノズルの中部には細いパイプや溝が何百本も張りめぐらされており、推進剤をその中を循環させることにより蒸発潜熱により熱を奪うというシステム(再生冷却)や推進剤の一部を燃焼室の内壁に沿って流すフィルム冷却やアブレーション冷却、ニオブ製のノズルスカートによる放射冷却が採用される。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ハイブリッドロケットは、化学ロケットの一種で、燃料と酸化剤がそれぞれ異なる相を持ったロケットである。一般的には、固体の燃料と液体の酸化剤が用いられる。固体燃料ロケットの特徴である構造の簡易性と液体燃料ロケットの特徴である推力調整を可能とするが、同時に固体燃料ロケットと液体燃料ロケットの両方の欠点も併せ持つ。このため長らく実用化を見なかったが、スペースシップワンではハイブリッド・ロケットエンジンが採用された。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このため現在宇宙ロケットの分野では、効率が良い液体燃料ロケットが主流であり、固体燃料ロケットはブースターなどの補助推力として用いられる。一方、定期的に打ち上げる高高度気象観測ロケットや、発射準備時間が短いミサイル等では固体燃料ロケットが主流である。", "title": "推進剤による化学ロケットの分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "原子力ロケットは原子炉で推進剤を加熱して噴射したり、核爆発による反動を利用して推進するロケットである。 かつてアメリカ合衆国でNERVAが、ソビエト連邦でRD-0410が実験された例はあるが、実際に運用された例は無い。 原子力ロケットには核熱ロケット、核パルス推進、核融合ロケット、量子真空プラズマ推進器(英語版)、核塩水ロケット(英語版)、核光子ロケット(英語版)等がある。 推力重量比は化学ロケットよりも低いので宇宙空間に化学ロケットで打ち上げられてから上段として作動する。", "title": "原子力ロケット" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2018年11月7日、ロシアのロスコスモスは、ロスアトムおよびモスクワのケルディシュ応用数学研究所(英語版)にて、メガワット級原子炉搭載型電気推進システムを搭載した原子力宇宙船を開発中であると公式に発表した(動画はロスコスモスが発表した原子力推進型宇宙船コンセプトのCGアニメーション)。", "title": "原子力ロケット" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "(1970~80年代に宇宙用原子炉「ブーク」(Buk)や「トパース(英語版)」(Topaz)を搭載したレーダー偵察衛星を合計32機打ち上げて運用した実績を基礎として)旧ソ連時代の原子炉搭載型コスモス954号およびコスモス1402号で培った技術を改良し、将来の惑星間飛行(interstellar flights)における現実的な手段として使用するという。", "title": "原子力ロケット" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2019年3月6日、ロシアのロスコスモスは、ロスアトムおよびモスクワのケルディシュ応用数学研究所(英語版)にて、RD-0410核熱ロケットエンジンをベースにしたメガワット級原子炉を搭載したスペースプレーン(高度160kmをマッハ7の極超音速で飛行でき高度500kmの低軌道への到達も可能で50回以上繰り返し再利用可能な設計)の開発計画が2010年から進行・開発中であると公式に発表した。", "title": "原子力ロケット" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "以下に、燃料ではなく形態によるロケットの分類を示す。これらの方式の効率を計算するときは全てツィオルコフスキーの公式に基づく。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最初期のロケットの姿であり、ペイロードを必要な速度・高度まで1基の打ち上げロケット(段)で運んでしまうロケットのこと。下記の多段式ロケットの対になる方式である。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "単段式ロケットは、多段式ロケットに必要な切り離し装置などがないため構造が簡単で、製作技術や制御技術があまり高くなくても作れる。またロケットが小型であれば多段式にするより単段式ロケットの方が効率も良い。しかし大型ロケットの場合、時間が経って不必要になった空の燃料タンクやエンジンもずっと輸送することになり、効率が劣る。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "V2ロケットなどの短距離弾道ミサイルや気象観測用ロケット、模型ロケットなど小型のロケットであれば、多段式にすると機構の複雑さから重量が増えて却って非効率的になってしまうため、単段式ロケットが使われることも多い。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "単段式ロケットの将来像として、単段式宇宙往還機も研究されている。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ロケットが十分な速度を得るためには、移動体本体の質量は全体に比してできるだけ小さいことが望ましい。このため、空になった推進剤タンクやそれを燃焼させるエンジンを収容する部分は必要ない質量として切り離すという仕組みがコンスタンチン・ツィオルコフスキーにより考案され、現在も使われている。これを多段式ロケットという。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "例えば人工衛星打ち上げ用の3段式ロケットの場合、最下部の1段目のエンジンを噴射させて1段目自身と2段目と3段目とそれに乗った衛星を上昇させ燃料を使い切ったら1段目を切り離す。その後2段目のエンジンを噴射して2段目自身と3段目と衛星をさらに上昇させて燃料を使い切ったら切り離す。その後3段目のエンジンを噴射して任意の地点で衛星を切り離して目的の軌道に投入することになる。人工衛星を軌道上で周回させ続けるには第一宇宙速度まで加速させる必要があるが、化学ロケットは技術的な制約により多段式でなければ第一宇宙速度を得ることは困難であり、現在の衛星打ち上げロケットは全て多段式である。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この理屈で言うと、理論上は、非常に小さく区切られた燃料タンクと小型のロケットエンジンを、使い終わったら片っ端から切り離していくのが一番効率的になるのだが、実際には小型化にも限度があるし、あまり段数が多いと制御が難しくなり、切り離し装置の重量や容量も増えるため、構造効率が低くなり総重量全体に占める推進剤の割合が下がり、技術面で現実的ではない。加えてロケットエンジンの数も段数に応じて増えるため、コストも上昇する。このため現在主流の人工衛星打ち上げ用ロケットは殆どが2 - 3段式の構成である。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "無重力空間のみで動くロケットの場合、各々の段の比推力は目的に応じて推進剤を選択することにより自由に決められるために1段目や2段目が非力で3段目のみ強力なエンジンを積むといったことも問題なくできるが、地球など天体の引力圏内にあるロケットの場合は、下のロケットが非力(具体的に言うと、上に載っているペイロードおよび全てのロケットの重量と自分自身の重量の和未満)では飛び上がることができない。 そのために、後述するクラスター方式などと併せ、下の段ほど強力にして、上の段に行くに従い出力も小さくなっていく。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、離床時に大きな推力が必要なので、下段には推力が高いが比推力の低い推進剤を、上段には推力は低いが比推力の高い推進剤を用いる。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "モジュラーロケットとは、打ち上げ用途に応じて構成する部材を交換できる多段式ロケットの形式である。規格化されたモジュールを様々な打ち上げ需要に応じて組み合わせることにより、規模の経済により、量産効果による生産性の向上、価格低減が期待できるため製造費用、輸送費用、打ち上げ準備の支援費用、準備期間を最小に抑えることができる。代表的なモジュラーロケットにはユニバーサル・ロケット、アトラス V、デルタ IV、ファルコン9、アンガラ・ロケットがある。アトラス Vの第1段モジュールはコモン・コア・ブースター、デルタ IVの第1段モジュールはコモン・ブースター・コアと呼ばれている。 また、共通の仕様の小規模のロケットを大量生産して束ねることにより価格低減を意図した例としてCommon Rocket Propulsion Units (CRPU) と呼ばれる同一の規格化された小型ロケットを束ねたOTRAGやInterorbital Systemsの\"common propulsion modules\"(CPM)を束ねたNeptuneの例がある。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "クラスターロケットとは、多数のロケットエンジンを束ねて構成されるロケットのこと。多段式ロケットと共にツィオルコフスキーにより考え出された方式。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "エンジン1基あたりの出力は高いほど望ましいのだが、新しい大型のエンジンを開発するには燃焼室の振動、耐久性、エンジン自体の質量増加、エンジンを作るのに必要なコストなどの問題を解決するため、莫大な時間と費用がかかる。 クラスター方式は手持ちの信頼性の高いエンジンを流用して推力を増やせる堅実な方法であり、ソ連がアメリカに先んじてスプートニクやボストークを打ち上げるのを可能とした。 しかしエンジンの数が増えると制御が困難になり、N1ロケット(一段目は30基のエンジン)の失敗は、ソ連の有人月旅行計画の失敗へとつながった。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "旧ソ連のR-7(現在も直系の子孫であるソユーズロケットが使われている)が代表的なもので、一段目は5基のエンジン(ノズルは20個)を持つ。他のクラスターロケットには同じく旧ソ連製のプロトン(一段目に6基)やエネルギア、アメリカのサターンIおよびIB(1段目に8基)、ファルコン9(1段目に9基)日本のH-IIBロケット(1段目に2基)などがある。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、この方法を発展したロケットとして1970年代にドイツでOTRAGが検討されたが、技術面や射場の選定に関する政治的理由により中止された。", "title": "形態によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本語では打ち上げロケットと呼ばれ、地球から宇宙空間に人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを輸送するのに使用されるロケット。打上げ機と呼ばれることもある。ペイロードが第一宇宙速度や第二宇宙速度を超え地球周回軌道や太陽周回軌道に投入される。打ち上げ能力が低軌道へ100kg未満の人工衛星を打ち上げる能力を有する概ね10トン未満の人工衛星打上げ機は超小型衛星打上げ機に分けられる。", "title": "使い方によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "観測ロケットは科学観測・実験のために弾道飛行を行うロケット。研究ロケットやサウンディングロケットとも呼ばれる。通常は高度50kmから1500kmへ打ち上げられる。", "title": "使い方によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "使い捨て型ロケットは一度のみしか実使用できない打ち上げロケットシステムのこと。", "title": "使い方によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "再利用型ロケット(再使用型宇宙往還機、単段式宇宙輸送機、スペースプレーン等)とは、打ち上げ後に機体を回収し再使用するロケットシステム。メリットとしては打ち上げごとに機体を製造しなくてすみ、コストダウンなどが期待される。スペースシャトルやファルコン9等一部が成功した。", "title": "使い方によるロケットの分類" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ロケットの歴史は古く、西暦1000年頃には中国で、今のロケット花火の形態が発明され武器として利用され、火箭(現在でも中国では火箭軍などロケットにこの名称が当てられている)と呼ばれた。1232年、モンゴル帝国との戦いで使用されたという記録がある。その後、モンゴル人の手に渡り各地で実戦に投入された。14世紀半ばには中国の焦玉により多段式ロケットが作られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1792年にはインドのマイソール王国の支配者ティプー・スルターンによって対英国、東インド会社とのマイソール戦争で鉄製のロケットが効果的に使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "マイソール戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、19世紀初頭までにコングリーヴ・ロケットを開発した。開発の中心人物はウィリアム・コングリーヴ(英語版)であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "米英戦争の米国におけるボルティモアの戦い(1814年)では、英国艦エレバス(HMS Erebus)からフォートマクヘンリーに向けてロケットが発射され、観戦していた弁護士フランシス・スコット・キーによってアメリカの国歌『星条旗』に歌われた。同様に1815年のワーテルローの戦いでも使用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "初期のロケットは回転せず、誘導装置や推力偏向を備えていなかったので、命中精度が低かった。初期のコングリーヴのロケットには長い棒がついていた。(現代のロケット花火に似ている)大型のコングリーヴのロケットは重量14.5kg、棒の長さは4.5mであった。1844年にウィリアム・ヘール(英語版)(William Hale)によって改良されたロケットでは噴射孔に弾体を回転するための偏流翼が備えられ、回転するようになり安定棒が無くても命中精度は向上したものの、改良された大砲に射程・命中精度が劣ったので下火になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "徐々に改良が加えられたが、ライフリングや鋼鉄製砲身等の大砲の改良により射程、精度が高まってくると、誘導装置のないロケットの使用は信号弾など、限定的なものになっていった。第二次世界大戦以降、カチューシャ、バズーカ、MLRSなどの形で復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "日本でも、鎌倉時代に元が攻めて来た(元寇)とき元軍により使用されたという。戦国時代には狼煙として使われ、江戸時代に入ると各地で伝承されてきた。埼玉県秩父市の椋神社で毎年10月に行われるロケット祭り(龍勢祭り)や静岡県藤枝市岡部町朝比奈、同静岡市清水区草薙、滋賀県米原市等、各地で古くから龍勢(流星)の打ち上げが行われてきた。現在でも打ち上げられる龍勢は木材を竹タガで締め、内部に黒色火薬をつき固めた端面燃焼ロケットである。この龍勢祭りの起源は明確な記録がなく明かではないが、鉄砲伝来後の戦国時代以降の狼煙が、その後の平和な時代になって龍勢(流星)となって農村の神事・娯楽に転化したという説が有力である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "近代のロケット、すなわち宇宙に行けるロケットが研究・開発されたのは、19世紀後半から20世紀である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "コンスタンチン・ツィオルコフスキー(1857-1935年)はロケットで宇宙に行けることを計算で確認し、液体ロケットを考案した。このため彼は「宇宙旅行の父」と呼ばれている。ロバート・ハッチンス・ゴダード(1882-1945年)は、1926年に世界初の液体ロケットを打ち上げた。このため「近代ロケットの父」と呼ばれている。世界初の液体ロケットエンジンはツィオルコフスキーのOR-2からセルゲイ・コロリョフ(1907-1966年)が中心となったソ連のGIRD-09の開発とされている。実用的な液体ロケットは、ウェルナー・フォン・ブラウン(1912-1977年)が中心となってナチス・ドイツで開発した、V2ロケットが初めとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1920年代から1930年代にかけて各国で民間の宇宙開発グループが形成された。それらのグループには後に宇宙開発で著名な功績を残す者も多く含まれた。ドイツでは宇宙旅行協会に所属したヴェルナー・フォン・ブラウン達や、ソ連では反動推進研究グループに所属したセルゲイ・コロリョフ達がいた。やがて第二次世界大戦の勃発と共に彼らは否応なく歴史の荒波に巻き込まれてゆくことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦末期には航空機のエンジンとしても着目され、ドイツのメッサーシュミット Me163、その情報をベースに製作された日本の秋水(試作機)にも搭載された。しかし実用性は低く運用コストは恐ろしいレベルで高かった。 日本の秋水の例では酸化剤に過酸化水素を使用したため、過酸化水素製造の電解装置の電極として終戦までに1900kgものプラチナが消費された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ナチス・ドイツの崩壊前後、V2の開発に関わった人材の多くがアメリカに亡命した(ペーパークリップ作戦)。またこの混乱期にソ連もV2の技術を接収していた。また、そのソ連からV2の改良型であるR-2の技術を供与され、さらにアメリカでV2を解析して弾道ミサイルを開発していた貴重な人材である銭学森をアメリカとの取引で手に入れた中華人民共和国も宇宙開発とロケット開発に邁進することになる。冷戦に入り、1958年にソ連がスプートニクロケットによって世界初の人工衛星を打ち上げたことでスプートニク・ショックが起き、宇宙開発競争が始まる。1961年にはソ連がボストークロケットによりユーリイ・ガガーリンが搭乗したボストークの打ち上げを成功させ、世界初の有人宇宙飛行を成し遂げた。一方、1969年にはアメリカがサターンV 型ロケットによりアポロ11号を打ち上げて世界で初めて人類を月に到達させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "宇宙開発競争初期のロケットは、アメリカのレッドストーンやソビエトのR-7のように弾道ミサイルから弾頭を外し、代わりに人工衛星や宇宙船を取り付けたものであり、ロケットの打ち上げ技術はミサイル技術と等価であり、威嚇も含めた軍事的価値も高いために、抜きつ抜かれつの開発競争であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1960年代から1970年代までに日本、欧州、中華人民共和国も人工衛星の打ち上げに成功し、世界の宇宙開発のプレイヤーはソ連(後のロシア)とアメリカと合わせて5極体制となった。日欧が先進的な宇宙探査機や人工衛星を打ち上げて宇宙科学分野で実績を積み上げていった一方、中国は1990年代以降に有人宇宙開発と宇宙の軍事利用に邁進し、2003年に長征2号Fにより神舟5号の打ち上げに成功し、ソ連とアメリカに次いで世界で3番目となる有人宇宙飛行に成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "冷戦以後はアメリカとロシアの宇宙船は宇宙空間でドッキングを行ったり、協力して国際宇宙ステーションの建設にあたるなど宇宙開発や惑星・衛星探索への利用が進んだ。また、軍事や情報における利用価値が認知され、現在に至るまで国家機密に属する非常に重要な技術として取り扱われている。特に偵察衛星の打ち上げは諜報活動において革新的な出来事であった。宇宙空間には国際法上、国家の領空は及ばないため、これまで諜報員や特に領空侵犯を行う偵察機を送り込んで危険を覚悟で行ってきた諜報活動のリスクを大幅に削減する成果をあげた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1990年以降、打ち上げ能力は質、量共に向上している背景にはソビエト連邦の崩壊後、冷戦期の宇宙開発競争を支えた経験豊富な旧ソビエトの技術者達が世界各地での宇宙開発に携わり、各国のロケットの開発、改良を支えていることが挙げられる。これに対してミサイル技術管理レジームがあるものの、一部において形骸化し、弾道ミサイル技術の拡散も招いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、GPS衛星の打ち上げ後は比較的正確な位置測定の手段としてカーナビゲーションシステムなどに応用され、宇宙ロケット関連技術は現代人の生活を支えるために欠かせない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "国家ないし国家連合による政策としての宇宙開発が財政面で苦しい局面に立たされている反面、民間によるロケット開発も盛んである。例えばスペースXとオービタル・サイエンシズは商業軌道輸送サービスの一環としてそれぞれ、ファルコン9でドラゴン宇宙船を打ち上げて2012年から、同様にアンタレスで打ち上げてシグナスで2013年から国際宇宙ステーションへの商業補給サービスを開始しており、ヴァージン・ギャラクティックはスペースシップツーの弾道飛行による民間宇宙旅行を計画している。今後は宇宙飛行士の輸送も含めて徐々に民間企業の自主開発したロケットによる輸送が主流になりつつある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "さらに規模は小さくなるが、アマチュアによるロケット打ち上げの試みもある。2004年5月17日には20人ほどのアメリカ人による組織「Civilian Space eXploration Team」(CSXT)によって打ち上げられた「GoFast」が、高度115 kmに到達しアマチュアロケット史上最高高度を記録した。一般人によるロケットとして歴史に名を残した。また、同様にアマチュアの開発によるロケットでの人工衛星の打ち上げ計画もあるが、資金、技術の両面において苦戦している。更に、日本でも企業の連合でロケット打ち上げがよく行われる。世界各国でロケット開発が浸透しているという証拠にもなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "現在、各国で次世代の打ち上げの主力となるロケットの開発が進行中である。それらは既存のエンジン等の部材を活用しつつこれまでの技術革新の成果を取り入れつつある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "これまで、各国が独自で開発したロケットによって衛星を軌道投入した例は10カ国。ソ連(ロシア連邦)、アメリカ、フランス、日本、中国、イギリス、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮となっている。", "title": "ローンチ・ヴィークル" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "現在、軌道投入能力を保有するのはロシア、アメリカ、欧州、日本、中国、ウクライナ、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮の9カ国と1機関である。", "title": "ローンチ・ヴィークル" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "", "title": "ローンチ・ヴィークル" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ロケットは推進力が強力であり、大気圏内において物体を飛行させるための推進力としても利用される。その最も一般的な適用例は気象観測ロケットで、高層大気の状態を観測するためにしばしば打ち上げられる。気象庁でも定期的に気象観測ロケット (MT-135) を打ち上げていたが、2001年 に運用を終了させた。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "他に無重力実験や各種実験、天体観測用の試験装置を搭載したロケットが打ち上げられる場合もある。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "飛行機への適用としては、1928年6月11日にFritz Stamerの操縦によりLippisch Enteが飛行し、1929年9月30日に\"ロケットフリッツ\"(\"Rocket Fritz\")の異名を持つフリッツ・フォン・オペルの操縦によりOpel RAK.1が飛行に成功、その後、第二次世界大戦前夜の1939年6月20日にErich Warsitzの操縦により液体燃料ロケットエンジンを搭載したHe 176が飛行に成功して、第二次世界大戦末期に盛んな研究・開発がなされた。その典型例がナチスドイツの迎撃戦闘機Me163といえる。Me163 は推力1,700kgのヴァルターロケット1基により亜音速飛行を実現した。この戦闘機を参考に日本でも類似した局地戦闘機「秋水」が試作されたが、試験飛行中に墜落して終わった。ソビエトでは1942年にBI-1が飛行した。他にもミグI-270、DFS 40、DFS 194、Ba 349、Go 242、DFS 228、DFS 346等があった。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また、固体燃料式のロケットもプロペラ機の離陸促進用補助ロケットとして各国で多数利用されたが、純然たる推進力として採用した航空機として有名なのが第二次世界大戦において使用された日本海軍の人間爆弾(特攻兵器)「桜花」である。本機はまずグライダーとして母機から切り離された後、攻撃を回避しながら敵艦へ体当たりするため推力800kgの火薬式ロケット3本を順次燃焼させながら最終的に時速800km程度で突入するというものであった。他にロケット推進グライダーのK1号や神龍が試作された。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ドイツでは無線誘導ロケット爆弾Hs 293などが開発され、実戦投入された。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "その後、米軍の超音速実験機X-1においてロケットが推進力として使用されて飛行速度1.06マッハを実現した。「桜花」と同じく、航空機から小型航空機を発射するという方法がとられているが、これはロケットエンジンの燃料消費量があまりにも大きく、戦闘機サイズの燃料搭載量では自力で飛行目標を達成できないからであった。燃費が悪いロケットは大気圏内の航空機用推進力としてはあまり用いられなくなり、航空機の推進力は次第にジェットエンジンへと遷移していった。その後、一部の愛好家によって、実用機ではないがXCOR Aerospace社のXCOR EZ-Rocketのようなロケット飛行機が開発、飛行されている。そのほか、地球以外の惑星でも類似の動力による飛行が検討されている。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "しかし、その後も宇宙ロケットと構造が類似している弾道ミサイルには液体燃料ロケットが採用され、瞬発力と大推力を有する固体燃料ロケットは弾道ミサイルのほか、前述の通り短射程のミサイルや気象観測、無重力実験、射出座席やゼロ距離発進、MLRS、無反動砲等にも多用されている。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "比較的簡易な構造で急加速、高速が出せるので、1928年5月23日にベルリン郊外のアヴスサーキットでフリッツ・フォン・オペルの運転によりOpel RAK2が時速238kmの世界記録を樹立したり、その後もブルー・フレーム、Budweiser Rocket等、ロケットエンジンを動力とする自動車が速度記録に挑んでいる。ただし、ロケットエンジンの作動時間は限られているので近年の自動車の速度記録では推力の持続するジェットエンジンを動力とする車両が記録を樹立している。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ロケットスレッドや1975年に水蒸気ロケットを用いたドイツの磁気浮上式鉄道KOMET(Komponentenmeßtrager)による401.3km/hの記録の樹立や1978年には固体燃料ロケットを搭載したHSST-01による307.8km/hの達成等で使用された。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "レンチの一種として、小型ロケットが互い違いにセットされた台座を緩める対象に取り付けて点火することで、短時間で緩めることができる「ロケットレンチ」がある。主に不発弾の錆びた信管を外すのに使われている。", "title": "大気圏内でのロケット" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "一般人が趣味として気軽に打ち上げられる本格的なロケットとしてモデルロケットがある。これは燃料に小型のものは黒色火薬、中・大型のものはコンポジット推進薬を使用したもので、コンポジット推進薬はスペースシャトルやH2-Aロケットのブースターに使用される燃料と同じ燃料である。高度は百メートルから数十キロに達するものもある。", "title": "趣味・教材用のロケット" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ペットボトルロケットという教材用ロケットは、ペットボトルに水と圧縮空気を充填し、水を圧縮空気の圧力で噴射することによって推力を得る構造をもったものである。ロケット先進国アメリカでは古くから児童・生徒の授業に採り入れられていた。日本など他の先進国に普及し始めた時期は明確でないが(※日本は1990年代頃か)、多くの国で盛んに作られるようになり、科学教材として広く利用されるようになった。", "title": "趣味・教材用のロケット" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "火薬を使って飛ばすモデルロケットも普及し始め、日本では各地の中学校で総合教育に採り入れられている。", "title": "趣味・教材用のロケット" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "JETEXやタイガーロケッティのような模型飛行機向けのロケットエンジンもあった(※JETEXは現在も継続中)。世界の一部の愛好家の間では、ハイブリッドロケットや液体燃料ロケットも打ち上げられている。", "title": "趣味・教材用のロケット" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "日本国内では航空法に基づき、ロケットを打ち上げる空域によっては、打ち上げることが禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に国土交通大臣への届出が必要な場合がある。", "title": "趣味・教材用のロケット" } ]
ロケットは、自らの質量の一部を後方に射出し、その反作用で進む力(推力)を得る装置(ロケットエンジン)、もしくはその推力を利用して移動する装置である。 空気などの外部の物質を使用しない点でジェットエンジンなどとは区別される。 狭義にはロケットエンジン自体をいう。広義にはロケットエンジンを推進力とし、人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを搭載したローンチ・ヴィークル全体をロケットということも多い。 日本では、地上から照射されたマイクロ波やレーザービームをリフレクターで反射し、空気の電離によるプラズマ発生時の爆発などを推進力とし、燃料を使わないローンチ・ヴィークルも「ロケット」と呼ばれる。 推力を得るために射出する推進剤や、推進剤を動かすエネルギー源によって様々な方式がある。燃料の化学反応を用い、燃料自体を推進剤とする化学ロケット(化学燃料ロケット)が最もよく使われ、ロケットを話題にするときは、暗黙のうちに化学ロケットを前提にしていることが多い。 また、ロケットの先端部に核弾頭や爆薬など軍用のペイロードを搭載して標的や目的地に着弾させる兵器は、日本では無誘導の場合は「ロケット弾」、誘導装置を持つものはミサイルとして区別される(「ロケット弾」を参照)。特に弾道飛行をして目的地に着弾させるミサイルは、弾道ミサイルとして区別している。なお、北朝鮮による人工衛星の打ち上げは、国際社会から事実上の弾道ミサイル発射実験と見なされており、国際連合安全保障理事会決議1718と1874と2087でも禁止されているため、特に日本国内においては、人工衛星打ち上げであってもロケットではなくミサイルと報道されている。また他国ではミサイルとされるところを、ロケットやその類語で呼称する国もある(「ロシア戦略ロケット軍」「中国人民解放軍ロケット軍」を参照)。 日本語の「ロケット」は英語 rocket の借用語である。「自己推進する飛翔体」を表す語としての rocket は、「糸巻き棒」を意味するイタリア語 roccha の指小語 rocchetto に由来し、元々は糸巻き棒のような形状をした花火を指していた。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2020年5月01日|title=多数の参考文献が記載されてはいますが、現状では全く出典として表示されていません。それでは出典が無いのと殆ど変わりありません。「参考文献」節の冒頭で案内したとおり、ページ番号付きで出典を示して下さい。}} [[ファイル:H-IIA F16 launching IGS-O3.jpg|thumb|200px|[[H-IIAロケット]]ロケット16号機の打ち上げ]] [[ファイル:H-IIB F2 launching HTV2.jpg|thumb|200px|[[H-IIBロケット]]2号機の打ち上げ]] [[ファイル:Lambda Rocket Launcher.jpg|thumb|200px|[[L-4Sロケット|ラムダ4Sロケット]]]] '''ロケット'''({{lang-en-short|rocket}})は、自らの[[質量]]の一部を後方に射出し、その[[反作用]]で進む力([[推力]])を得る装置([[ロケットエンジン]])、もしくはその推力を利用して移動する[[装置]]である。 空気などの外部の物質を使用しない点で[[ジェットエンジン]]などとは区別される。 狭義には[[ロケットエンジン]]自体をいう。広義にはロケットエンジンを推進力とし、[[人工衛星]]や[[宇宙探査機]]などの[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]を搭載した[[ローンチ・ヴィークル]]全体をロケットということも多い。 [[日本]]では、地上から照射された[[マイクロ波]]や[[レーザー]][[ビーム (物理学)|ビーム]]を[[リフレクター]]で反射し、[[空気]]の[[電離]]による[[プラズマ]]発生時の爆発などを推進力とし、[[燃料]]を使わないローンチ・ヴィークルも「ロケット」と呼ばれる<ref name="日経_20190524">{{Cite news |和書 |author=越川智瑛 |date=2019-05-24 |title=【Next Tech 2030】無燃料ロケット、電磁波で飛ばす 東大グループ考案 {{small|地上から照射、物資輸送向け}} |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45176130T20C19A5X90000/ |publisher=[[日本経済新聞社]] |newspaper=[[日本経済新聞]] |accessdate=2019-06-13 }}</ref>。 推力を得るために射出する[[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]や、推進剤を動かすエネルギー源によって様々な方式がある。燃料の化学反応を用い、燃料自体を推進剤とする'''化学ロケット'''('''化学燃料ロケット''')が最もよく使われ、ロケットを話題にするときは、暗黙のうちに化学ロケットを前提にしていることが多い。 また、ロケットの先端部に[[核弾頭]]や[[爆薬]]など軍用のペイロードを搭載して標的や目的地に着弾させる兵器は、日本では無誘導の場合は「[[ロケット弾]]」、誘導装置を持つものは[[ミサイル]]として区別される(「[[ロケット弾]]」を参照)。特に[[弾道飛行]]をして目的地に着弾させるミサイルは、[[弾道ミサイル]]として区別している。なお、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]による[[人工衛星]]の打ち上げは、国際社会から事実上の[[北朝鮮によるミサイル発射実験|弾道ミサイル発射実験]]と見なされており、[[国際連合安全保障理事会決議]][[国際連合安全保障理事会決議1718|1718]]と[[国際連合安全保障理事会決議1874|1874]]と2087でも禁止されているため、特に日本国内においては、人工衛星打ち上げであってもロケットではなくミサイルと報道されている。また他国ではミサイルとされるところを、ロケットやその類語で呼称する国もある(「[[ロシア戦略ロケット軍]]」「[[中国人民解放軍ロケット軍]]」を参照)。 日本語の「ロケット」は英語 {{en|rocket}} の[[借用語]]である。「自己推進する飛翔体」を表す語としての {{en|rocket}} は、「糸巻き棒」を意味するイタリア語 {{it|roccha}} の[[指小辞|指小語]] {{it|rocchetto}} に由来し、元々は糸巻き棒のような形状をした花火を指していた<ref>{{cite web2 |website=www.etymonline.com |url=https://www.etymonline.com/de/word/rocket |title=Online Etymology Dictionary ― Rocket (n.2) |accessdate=2023-07-28 }}</ref>。 == 概論 == ロケットの方式で良く知られているものとしては、その使用する[[エネルギー]]源から分類して、化学ロケット、[[電気推進|電気ロケット]]、[[原子力推進|原子力ロケット]]がある。 化学ロケットは、燃料の[[燃焼]]([[化学反応]])によって生じる[[熱エネルギー]]を利用し、燃料自体を推進剤として噴射するもので、効率は最も悪いが利用しやすい。また、短時間に大きな[[推力]]を発生させることができる。実用化されたロケットのほとんどは化学ロケットである。 電気ロケットは、[[イオンエンジン|イオン推進]]など、推進剤を電気的に加速して噴射するものである。人工衛星や[[宇宙探査機]]などの[[スラスター]]として実用化されている。大きい推力を得ることは難しいが、長期間の使用に向く。 原子力ロケットは、推進剤を[[原子炉]]で加熱して噴射するもの、ロケットの後方で[[核爆弾]]を爆発させて推進力を得るもの(パルス推進)など複数の種類があるが、安全性の問題はもちろん、[[核兵器]]の宇宙空間への持ちこみを禁じた[[宇宙条約]]や宇宙空間での核爆発を禁止する[[部分的核実験禁止条約]]の制限により実用化されていない。[[オリオン計画]]や[[ダイダロス計画]]といった構想が知られる。「[[原子力推進]]」も参照。 なお、ロケットが推進する原理を「''噴射したガスがロケットの後方の空気を押すから''」と誤って考える人もいる。かつて『[[ニューヨーク・タイムズ]]』が、この誤解に基づき、[[真空]]中でロケットは飛べないと主張して、ロケット工学開拓者の一人である[[ロバート・ゴダード]]を批判する記事を掲載したという逸話がある<ref>{{Cite book|和書 |author=宮澤政文 |title=宇宙ロケット工学入門 |publisher=朝倉書店 |date=2016-11-20 |page=3 |isbn=9784254201628}}</ref>。実際にはロケットは真空中でも推進可能であり、明らかな誤解である。これは[[運動の第3法則|作用・反作用の法則]]において、ロケットを質点A、空気を質点Bとみなしたことによる。こういう解釈であれば、ロケット推進の作用を空気が受け止め、その反作用で推進力が生まれるので、真空ではロケットは推進不可能という結論になる。実際にはロケットの推進を作用・反作用の法則で説明する場合は、ロケットを質点A、ロケットの噴射するガスを質点Bとみなすべきなのである。つまりロケットとロケットの噴射ガスを同一の質点Aとみなしたことによる誤解である。あるいはロケット自体とロケットの噴射ガスに[[運動量保存の法則]]をあてはめれば、真空中でもロケットが推進できることは容易に納得できるはずである。こうしたロケットの原理を示す式が、[[ツィオルコフスキーの公式]]である。 化学ロケットでは、その最大の[[貨物]]は自らを宇宙空間まで運ぶ推進剤である。これは地球から長距離を航行しようとする際に大変な非効率をもたらすが、宇宙空間に中継地点を設けることである程度緩和されるのではないかと考えられている。[[アポロ計画]]の月着陸船が月から帰還する時に必要としたロケットが、地球からの打ち上げに使われた[[サターンロケット]]に比べて驚くほど小さかったことからわかるように、重力が小さい場所から発進すればそれほど多くのエネルギーは必要としないのである。[[人工衛星の軌道|衛星軌道]]上に基地([[宇宙ステーション]])を設け、そこまで分割運搬した部品を組み立てて大きなロケットを建造し、そこから出発させるという方法などが考案されている。 また、ロケットを使わない[[静止軌道]]までの運搬方法として[[軌道エレベータ]]などが実際に検討されている。 新型のロケットを開発する場合、成否は[[ロケットエンジン]]の開発にかかっていると言っても過言ではなく、計画遅延の原因はエンジン開発の難航が占める割合が大きい。 1960年代 - 80年代にかけて、米国は[[スペースシャトル]]のエンジン以外、新型の液体燃料ロケットエンジンの開発には消極的であり、欧州等に比べて出遅れた。その結果、1990年代からロシアが開発した液体燃料ロケットエンジンを導入して[[ライセンス生産]]している。 == 推進剤による化学ロケットの分類 == {{Main|ロケットエンジンの推進剤}} 化学ロケットは燃料と[[酸化剤]]を搭載しており、これらを燃焼させて高温・高圧のガスにして噴射する。燃料と酸化剤を合わせて[[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]という。この推進剤の形態から、ロケットは[[固体燃料ロケット]]、[[液体燃料ロケット]]、[[ハイブリッドロケット]]に大きく分類される。 === 固体燃料ロケット === {{main|固体燃料ロケット}} [[ファイル:Solid_fuel_rocket_ja.png|thumb|230px|固体燃料ロケットの模式図]] [[固体燃料ロケット]]とは、常温で[[固体]]の燃料と酸化剤(の混合物)を用いるロケットである。古くは[[火薬]]、最近の例では[[合成ゴム]]と酸化剤を混合成型したものなどが使われている。 固体燃料は常温では飛散しないため管理(保管)が楽、構造が簡単な割に安価で大推力が得られる、体積が(液体燃料に比べ)小さいなどの利点を持つ。 反面、単位重量の推進剤で単位推力を発生させ続けられる秒数を示す[[比推力]]が悪いため効率が悪く、推力の制御が難しいこと、またいったん点火したら、燃料を全て消費するまで燃焼を停止させるのはほとんど不可能であることなどの欠点を持つ。 こうした特性から、常に発射可能な状態で保管しておかなければならない軍事用途、大推力を求められる宇宙ロケットの一段目や補助[[ブースター]]に広く使用されている。 === 液体燃料ロケット === {{main|液体燃料ロケット}} [[ファイル:Liquid_fuel_rocket_ja.png|thumb|230px|液体燃料ロケットの模式図]] [[液体燃料ロケット]]は、[[液体]]の燃料と酸化剤を用いるロケットである。固体燃料ロケットとは違い、推力の制御が容易であること、いったん燃焼を停止させたものを再度点火するのが可能であることなどの長所を持つが、その反面、燃料を送り出すための高圧[[ポンプ]]や複雑な配管システムが必要とされるなど、構造が複雑になり、その分高価になるという欠点も持つ。 初期には常温保存が可能な[[ヒドラジン]](燃料)と[[四酸化二窒素]](酸化剤)、[[ケロシン]](燃料)と[[液体酸素]](酸化剤・極低温)、などが用いられたが、最近はより高い比推力が得られる[[液体水素]](燃料)と[[液体酸素]](酸化剤)の組み合わせが、各国の基幹ロケットの主流となっている(アメリカの[[スペースシャトル]]、ヨーロッパの[[アリアン5]]、日本の[[H-IIA]]など)。 このロケットの場合、酸素と水素を化合させるだけなので、排気ガスは有毒物質を一切含まない[[水蒸気]]だが、実際には、液体水素・液体酸素エンジンだけでは離床時の推力が不十分なので、固体燃料の補助ロケットを使用する。この固体燃料補助ロケットの排気には[[オゾン層]]や環境に悪影響を及ぼす[[ハロゲン化合物]]が含まれる。ロケット自体の開発も困難を極める。 また、人工衛星の軌道制御や[[姿勢制御]]のための小型ロケットには、[[過酸化水素]]やヒドラジンを[[触媒]]で分解させて噴射する、構造が簡単な[[一液式ロケット]]も用いられる。 なお、一般に燃焼室の冷却には燃料自体が使用される。上記の液体酸素・液体水素のエンジンでは、燃焼室の温度は三千度にも達するが、これだけの高温に耐えられる[[素材]]は現在のところない。その対策として、燃焼室の壁やノズルの中部には細いパイプや溝が何百本も張りめぐらされており、推進剤をその中を循環させることにより蒸発[[潜熱]]により熱を奪うというシステム([[再生冷却]])や推進剤の一部を燃焼室の内壁に沿って流す[[フィルム冷却]]や[[アブレーション]]冷却、[[ニオブ]]製の[[ノズルスカート]]による[[放射冷却]]が採用される。 === ハイブリッドロケット === {{main|ハイブリッドロケット}} [[ファイル:Hybrids big.png|thumb|ハイブリッド推進システムの模式図]] [[ハイブリッドロケット]]は、化学ロケットの一種で、燃料と酸化剤がそれぞれ異なる相を持ったロケットである。一般的には、固体の燃料と液体の酸化剤が用いられる。固体燃料ロケットの特徴である構造の簡易性と液体燃料ロケットの特徴である推力調整を可能とするが、同時に固体燃料ロケットと液体燃料ロケットの両方の欠点も併せ持つ。このため長らく実用化を見なかったが、[[スペースシップワン]]ではハイブリッド・ロケットエンジンが採用された。 このため現在宇宙ロケットの分野では、効率が良い液体燃料ロケットが主流であり、固体燃料ロケットは[[ブースター]]などの補助推力として用いられる。一方、定期的に打ち上げる高高度気象観測ロケットや、発射準備時間が短いミサイル等では固体燃料ロケットが主流である。 == 原子力ロケット == {{main|原子力ロケット}} 原子力ロケットは[[原子炉]]で推進剤を加熱して噴射したり、[[核爆発]]による反動を利用して推進するロケットである。 かつてアメリカ合衆国で[[NERVA]]が、[[ソビエト連邦]]で[[RD-0410]]が実験された例はあるが、実際に運用された例は無い。 原子力ロケットには{{仮リンク|核熱ロケット|en|Nuclear thermal rocket}}、[[核パルス推進]]、{{仮リンク|核融合ロケット|en|Fusion rocket}}、{{仮リンク|量子真空プラズマ推進器|en|Quantum vacuplasma thruster}}、{{仮リンク|核塩水ロケット|en|Nuclear salt-water rocket}}、{{仮リンク|核光子ロケット|en|Nuclear photonic rocket}}等がある。 [[推力重量比]]は化学ロケットよりも低いので宇宙空間に化学ロケットで打ち上げられてから上段として作動する。 2018年11月7日、[[ロシア]]の[[ロスコスモス]]は、[[ロスアトム]]および[[モスクワ]]の{{仮リンク|ケルディシュ応用数学研究所|en|Keldysh Institute of Applied Mathematics}}にて、メガワット級原子炉搭載型[[電気推進]]システムを搭載した原子力宇宙船を開発中であると公式に発表した<ref name=Pravda_20181113>{{Cite news |date=2018-11-13 |title=Russia unveils nuclear-powered interstellar spaceship - Russian space industry news |url=http://www.pravdareport.com/news/science/tech/13-11-2018/141982-interstellar_spaceship-0/ |publisher=[[プラウダ|Pravda]] |newspaper=[[:en:Pravda.ru|Pravda.ru]] |language=en |accessdate=2018-11-13 }}</ref>(動画はロスコスモスが発表した原子力推進型宇宙船コンセプトのCGアニメーション)<ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=SPPt8oXb_jQ|title=Russia unveils NUCLEAR spaceship poised for groundbreaking INTERSTELLAR missions - YouTube|publisher=youtube.com|date=2018-11-14|accessdate=2018-11-14}}{{リンク切れ|date=2020年5月3日}}</ref>。 (1970~80年代に宇宙用原子炉「ブーク」(Buk)や「{{仮リンク|トパース|en|TOPAZ nuclear reactor}}」(Topaz)を搭載した[[RORSAT|レーダー偵察衛星]]を合計32機打ち上げて運用した実績を基礎として)旧ソ連時代の原子炉搭載型[[コスモス954号]]および[[コスモス1402号]]で培った技術を改良し、将来の惑星間飛行(interstellar flights)における現実的な手段として使用するという<ref>{{Cite web|url=https://sputniknews.com/science/201804221063803318-nuclear-powered-spaceships-of-the-future/|title=Interstellar for Real Meet the Nuclear-Powered Spaceships of the Future - Sputnik International|publisher=sputniknews.com|date=2018-04-22|accessdate=2018-04-22}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=4T5ZU-3b0nA|title=Onward to Mars! (1988) russian - YouTube|publisher=youtube.com|date=2015-11-02|accessdate=2015-11-02}}</ref>。 2019年3月6日、ロシアのロスコスモスは、ロスアトムおよびモスクワの{{仮リンク|ケルディシュ応用数学研究所|en|Keldysh Institute of Applied Mathematics}}にて、[[RD-0410]][[原子力推進#核熱ロケット推進|核熱ロケットエンジン]]をベースにしたメガワット級原子炉を搭載した[[スペースプレーン]](高度160kmを[[マッハ数|マッハ]]7の[[超音速#分類|極超音速]]で飛行でき高度500kmの[[低軌道]]への到達も可能で50回以上繰り返し再利用可能な設計)の開発計画が2010年から進行・開発中であると公式に発表した<ref>[https://ria.ru/20190306/1551577510.html {{lang|ru|В В Роскосмосе задумались о создании ракетоплана с ядерным двигателем - РИА Новости, 06.03.2019}}] ria.ru | 2019年3月6日閲覧 </ref>。 == 形態によるロケットの分類 == 以下に、燃料ではなく形態によるロケットの分類を示す。これらの方式の効率を計算するときは全て[[ツィオルコフスキーの公式]]に基づく。 === 単段式ロケット === 最初期のロケットの姿であり、ペイロードを必要な速度・高度まで1基の打ち上げロケット(段)で運んでしまうロケットのこと。下記の多段式ロケットの対になる方式である。 単段式ロケットは、多段式ロケットに必要な切り離し装置などがないため構造が簡単で、製作技術や制御技術があまり高くなくても作れる。またロケットが小型であれば多段式にするより単段式ロケットの方が効率も良い。しかし大型ロケットの場合、時間が経って不必要になった空の燃料タンクやエンジンもずっと輸送することになり、効率が劣る。 [[V2ロケット]]などの[[短距離弾道ミサイル]]や気象観測用ロケット、模型ロケットなど小型のロケットであれば、多段式にすると機構の複雑さから重量が増えて却って非効率的になってしまうため、単段式ロケットが使われることも多い。 単段式ロケットの将来像として、[[単段式宇宙往還機]]も研究されている。 === 多段式ロケット === [[ファイル:Delta IV Heavy rocket on launch pad.jpg|150px|thumb|[[デルタ IV]] ヘビーは、1段、2段を使用する多段式ロケットであり、1段に[[コモン・ブースター・コア]]3基を使用するモジュラーロケットでもある。中央の1本は1段目として使用され、両側の2本は補助ロケットとして使用される。]] ロケットが十分な速度を得るためには、移動体本体の質量は全体に比してできるだけ小さいことが望ましい。このため、空になった推進剤タンクやそれを燃焼させるエンジンを収容する部分は必要ない質量として切り離すという仕組みが[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]により考案され、現在も使われている。これを多段式ロケットという。 例えば人工衛星打ち上げ用の3段式ロケットの場合、最下部の1段目のエンジンを噴射させて1段目自身と2段目と3段目とそれに乗った衛星を上昇させ燃料を使い切ったら1段目を切り離す。その後2段目のエンジンを噴射して2段目自身と3段目と衛星をさらに上昇させて燃料を使い切ったら切り離す。その後3段目のエンジンを噴射して任意の地点で衛星を切り離して目的の軌道に投入することになる。人工衛星を軌道上で周回させ続けるには[[第一宇宙速度]]まで加速させる必要があるが、化学ロケットは技術的な制約により多段式でなければ第一宇宙速度を得ることは困難であり、現在の衛星打ち上げロケットは全て多段式である。 この理屈で言うと、理論上は、非常に小さく区切られた燃料タンクと小型のロケットエンジンを、使い終わったら片っ端から切り離していくのが一番効率的になるのだが、実際には小型化にも限度があるし、あまり段数が多いと制御が難しくなり、切り離し装置の重量や容量も増えるため、構造効率が低くなり総重量全体に占める推進剤の割合が下がり、技術面で現実的ではない<ref group="注">一時期[[OTRAG]]というこの種の概念のロケットが試みられたが資金調達、政治的理由等により頓挫した。</ref>。加えてロケットエンジンの数も段数に応じて増えるため、コストも上昇する。このため現在主流の人工衛星打ち上げ用ロケットは殆どが2 - 3段式の構成である。 無重力空間のみで動くロケットの場合、各々の段の比推力は目的に応じて推進剤を選択することにより自由に決められるために1段目や2段目が非力で3段目のみ強力なエンジンを積むといったことも問題なくできるが、地球など天体の引力圏内にあるロケットの場合は、下のロケットが非力(具体的に言うと、上に載っているペイロードおよび全てのロケットの重量と自分自身の重量の和未満)では飛び上がることができない。 そのために、後述するクラスター方式などと併せ、下の段ほど強力にして、上の段に行くに従い出力も小さくなっていく。 また、離床時に大きな推力が必要なので、下段には推力が高いが[[比推力]]の低い推進剤を、上段には推力は低いが比推力の高い推進剤を用いる。 ==== モジュラーロケット ==== {{main|モジュラーロケット}} [[モジュラーロケット]]とは、打ち上げ用途に応じて構成する部材を交換できる多段式ロケットの形式である。規格化された[[モジュール]]を様々な打ち上げ需要に応じて組み合わせることにより、[[規模の経済]]により、量産効果による生産性の向上、価格低減が期待できるため製造費用、輸送費用、打ち上げ準備の支援費用、準備期間を最小に抑えることができる。代表的なモジュラーロケットには[[ユニバーサル・ロケット]]、[[アトラス V]]、[[デルタ IV]]、[[ファルコン9]]、[[アンガラ・ロケット]]がある。アトラス Vの第1段モジュールは[[コモン・コア・ブースター]]、デルタ IVの第1段モジュールは[[コモン・ブースター・コア]]と呼ばれている。 また、共通の仕様の小規模のロケットを大量生産して束ねることにより価格低減を意図した例としてCommon Rocket Propulsion Units (CRPU) と呼ばれる同一の規格化された小型ロケットを束ねた[[OTRAG]]や[[:en:Interorbital Systems|Interorbital Systems]]の"common propulsion modules"(CPM)を束ねた[[:en:Interorbital Systems#Orbital spaceflight program|Neptune]]の例がある。 {{-}} === クラスターロケット === [[ファイル:Soyuz tma-3 transported to launch pad.jpg|thumb|right|230px|[[レール]]上を発射台に向かう[[ソユーズTMA-3]]打ち上げ用の[[ソユーズFG]]。クラスター化された5基のエンジンの計20個の[[ノズル]]が見える。1段と2段を使用する多段式ロケットでもある。]] {{main|クラスターロケット}} [[クラスターロケット]]とは、多数の[[ロケットエンジン]]を束ねて構成されるロケットのこと。多段式ロケットと共に[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー|ツィオルコフスキー]]により考え出された方式。 エンジン1基あたりの出力は高いほど望ましいのだが、新しい大型のエンジンを開発するには燃焼室の振動、耐久性、エンジン自体の質量増加、エンジンを作るのに必要なコストなどの問題を解決するため、莫大な時間と費用がかかる。 クラスター方式は手持ちの信頼性の高いエンジンを流用して推力を増やせる堅実な方法であり、ソ連がアメリカに先んじて[[スプートニク計画|スプートニク]]や[[ボストーク]]を打ち上げるのを可能とした。 しかしエンジンの数が増えると制御が困難になり、[[N-1|N1ロケット]](一段目は30基のエンジン)の失敗は、[[ソ連の有人月旅行計画]]の失敗へとつながった。 旧ソ連の[[R-7 (ロケット)|R-7]](現在も直系の子孫である[[ソユーズ]]ロケットが使われている)が代表的なもので、一段目は5基のエンジン(ノズルは20個)を持つ。他のクラスターロケットには同じく旧ソ連製の[[プロトン (ロケット)|プロトン]](一段目に6基)や[[エネルギア]]、アメリカの[[サターンロケット|サターンIおよびIB]](1段目に8基)、[[ファルコン9]](1段目に9基)日本の[[H-IIBロケット]](1段目に2基)などがある。 また、この方法を発展したロケットとして1970年代にドイツで[[民間宇宙飛行#OTRAG|OTRAG]]が検討されたが、技術面や[[射場]]の選定に関する政治的理由により中止された。 == 使い方によるロケットの分類 == === ローンチ・ヴィークル === 日本語では[[ローンチ・ヴィークル|打ち上げロケット]]と呼ばれ、地球から宇宙空間に人工衛星や宇宙探査機などのペイロードを輸送するのに使用されるロケット。打上げ機と呼ばれることもある。ペイロードが[[第一宇宙速度]]や[[第二宇宙速度]]を超え[[地球周回軌道]]や[[太陽周回軌道]]に投入される。打ち上げ能力が低軌道へ100kg未満の人工衛星を打ち上げる能力を有する概ね10トン未満の人工衛星打上げ機は[[超小型衛星打上げ機]]に分けられる。 === 観測ロケット === [[観測ロケット]]は科学観測・実験のために[[弾道飛行]]を行うロケット。研究ロケットやサウンディングロケットとも呼ばれる。通常は高度50kmから1500kmへ打ち上げられる。 === 使い捨て型ロケット === [[使い捨て型ロケット]]は一度のみしか実使用できない打ち上げロケットシステムのこと。 === 再使用型打ち上げシステム === 再利用型ロケット([[再使用型宇宙往還機]]、[[単段式宇宙輸送機]]、[[スペースプレーン]]等)とは、打ち上げ後に機体を回収し再使用するロケットシステム。メリットとしては打ち上げごとに機体を製造しなくてすみ、コストダウンなどが期待される。[[スペースシャトル]]や[[ファルコン9]]等一部が成功した。 == 歴史 == === 前近代 === [[ファイル:Tipu Sultan, Fath Ali Khan.jpg|thumb|right|[[ティプー・スルターン]]]] [[ファイル:Rocket_warfare.jpg|thumb|right|[[:en:Mysorean rockets |マイソール・ロケット]]]] ロケットの歴史は古く、西暦[[1000年]]頃には[[中国]]で、今の[[ロケット花火]]の形態が発明され武器として利用され、'''火箭'''(現在でも中国では[[中国人民解放軍ロケット軍|火箭軍]]などロケットにこの名称が当てられている)と呼ばれた<ref>{{cite web|url= http://science.ksc.nasa.gov/history/rocket-history.txt|title= A brief history of rocketry|work= [[NASA]]|accessdate= 2019-07-16|deadurl= no|archiveurl= https://web.archive.org/web/20060805203537/http://science.ksc.nasa.gov/history/rocket-history.txt|archivedate= 2006-08-05|df= }}</ref>。[[1232年]]、[[モンゴル帝国]]との戦いで使用されたという記録がある。その後、[[モンゴル人]]の手に渡り各地で実戦に投入された。[[14世紀]]半ばには中国の焦玉により多段式ロケットが作られた。 [[1792年]]には[[インド]]の[[マイソール王国]]の支配者[[ティプー・スルターン]]によって対英国、[[イギリス東インド会社|東インド会社]]との[[マイソール戦争]]で鉄製のロケットが効果的に使用された。 {{Main|:en:Mysorean rockets}} マイソール戦争終結後、このロケットに興味を持った英国は改良を加え、[[19世紀]]初頭までに[[コングリーヴ・ロケット]]を開発した。開発の中心人物は{{仮リンク|ウィリアム・コングリーヴ|en|Sir William Congreve, 2nd Baronet}}であった。 [[米英戦争]]の米国における[[ボルティモアの戦い]](1814年)では、英国艦エレバス([[:en:HMS Erebus|HMS Erebus]])から[[フォートマクヘンリー]]に向けてロケットが発射され、観戦していた弁護士[[フランシス・スコット・キー]]によってアメリカの国歌『[[星条旗 (国歌)|星条旗]]』に歌われた。同様に[[1815年]]の[[ワーテルローの戦い]]でも使用された。 初期のロケットは回転せず、[[誘導装置]]や[[推力偏向]]を備えていなかったので、命中精度が低かった。初期の[[コングリーヴ・ロケット|コングリーヴのロケット]]には長い棒がついていた。(現代の[[ロケット花火]]に似ている)大型のコングリーヴのロケットは重量14.5kg、棒の長さは4.5mであった。1844年に{{仮リンク|ウィリアム・ヘール|en|William Hale (British inventor)}}(William Hale)によって改良されたロケットでは噴射孔に弾体を回転するための偏流翼が備えられ、回転するようになり安定棒が無くても命中精度は向上したものの、改良された大砲に射程・命中精度が劣ったので下火になった。 徐々に改良が加えられたが、[[ライフリング]]や鋼鉄製砲身等の[[大砲]]の改良により射程、精度が高まってくると、誘導装置のないロケットの使用は[[信号弾]]など、限定的なものになっていった。[[第二次世界大戦]]以降、[[カチューシャ (兵器)|カチューシャ]]、[[バズーカ]]、[[MLRS]]などの形で復活した。 日本でも、[[鎌倉時代]]に[[元 (王朝)|元]]が攻めて来た([[元寇]])とき元軍により使用されたという。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[狼煙]]として使われ、[[江戸時代]]に入ると各地で伝承されてきた。[[埼玉県]][[秩父市]]の[[椋神社]]で毎年10月に行われる[[ロケット祭り]]([[龍勢祭り]])や[[静岡県]][[藤枝市]][[岡部町 (静岡県)|岡部町]][[朝比奈村 (静岡県志太郡)|朝比奈]]、同[[静岡市]][[清水区]][[草薙 (静岡市)|草薙]]、[[滋賀県]][[米原市]]等、各地で古くから[[龍勢]](流星)の打ち上げが行われてきた。現在でも打ち上げられる龍勢は木材を竹タガで締め、内部に[[黒色火薬]]をつき固めた端面燃焼ロケットである。この龍勢祭りの起源は明確な記録がなく明かではないが、鉄砲伝来後の戦国時代以降の狼煙が、その後の平和な時代になって龍勢(流星)となって農村の神事・娯楽に転化したという説が有力である。 === ツィオルコフスキー以後 === 近代のロケット、すなわち宇宙に行けるロケットが研究・開発されたのは、[[19世紀]]後半から[[20世紀]]である。 [[コンスタンチン・ツィオルコフスキー]]({{年|1857}}-[[1935年]])はロケットで宇宙に行けることを計算で確認し、液体ロケットを考案した。このため彼は「'''宇宙旅行の父'''」と呼ばれている。[[ロバート・ゴダード|ロバート・ハッチンス・ゴダード]]({{年|1882}}-[[1945年]])は、[[1926年]]に世界初の液体ロケットを打ち上げた。このため「''近代ロケットの父''」と呼ばれている。世界初の液体ロケットエンジンはツィオルコフスキーの[[OR-2]]から[[セルゲイ・コロリョフ]]({{年|1907}}-[[1966年]])が中心となったソ連の[[GIRD-09]]の開発とされている。実用的な液体ロケットは、[[ヴェルナー・フォン・ブラウン|ウェルナー・フォン・ブラウン]]({{年|1912}}-[[1977年]])が中心となって[[ナチス・ドイツ]]で開発した、[[V2ロケット]]が初めとされている。 1920年代から1930年代にかけて各国で民間の宇宙開発グループが形成された。それらのグループには後に宇宙開発で著名な功績を残す者も多く含まれた。ドイツでは[[宇宙旅行協会]]に所属したヴェルナー・フォン・ブラウン達や、ソ連では[[反動推進研究グループ]]に所属した[[セルゲイ・コロリョフ]]達がいた。やがて第二次世界大戦の勃発と共に彼らは否応なく歴史の荒波に巻き込まれてゆくことになる。 {{-}} === 第二次世界大戦の航空機用エンジン === [[第二次世界大戦]]末期には[[航空機]]のエンジンとしても着目され、ドイツの[[メッサーシュミット Me163]]、その情報をベースに製作された日本の[[秋水]](試作機)にも搭載された。しかし実用性は低く運用コストは恐ろしいレベルで高かった。 日本の秋水の例では酸化剤に[[過酸化水素]]を使用したため、過酸化水素製造の電解装置の[[電極]]として終戦までに1900kgもの[[プラチナ]]が消費された<ref>白金はロケット戦闘機「秋水」製造用に(昭和20年10月20日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p148 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 === 第二次世界大戦後 === [[ファイル:Sputnik 1.jpg|thumb|right|150px|[[スプートニク (ロケット)|スプートニクロケット]]により打ち上げられた[[スプートニク1号]]]] [[ファイル:Apollo 11 Saturn V lifting off on July 16, 1969.jpg|thumb|right|150px|発射台から離れる[[アポロ11号]]を乗せた[[サターンV 型ロケット]]。[[1969年]][[7月16日]]]] [[ファイル:Shuttle_delivers_ISS_P1_truss.jpg|thumb|right|210px|[[国際宇宙ステーション]]の構造物を運ぶ[[スペースシャトル]]]] ナチス・ドイツの崩壊前後、V2の開発に関わった人材の多くが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命した([[ペーパークリップ作戦]])。またこの混乱期にソ連もV2の技術を接収していた。また、そのソ連からV2の改良型である[[R-2 (ミサイル)|R-2]]の技術を供与され、さらにアメリカでV2を解析して弾道ミサイルを開発していた貴重な人材である[[銭学森]]をアメリカとの取引で手に入れた[[中華人民共和国]]も宇宙開発とロケット開発に邁進することになる。[[冷戦]]に入り、[[1958年]]にソ連が[[スプートニク (ロケット)|スプートニクロケット]]によって世界初の[[人工衛星]]を打ち上げたことで[[スプートニク・ショック]]が起き、[[宇宙開発競争]]が始まる。[[1961年]]にはソ連が[[ボストーク (ロケット)|ボストークロケット]]により[[ユーリイ・ガガーリン]]が搭乗した[[ボストーク]]の打ち上げを成功させ、世界初の[[有人宇宙飛行]]を成し遂げた。一方、[[1969年]]にはアメリカが[[サターンV 型ロケット]]により[[アポロ11号]]を打ち上げて世界で初めて人類を[[月]]に到達させた。 宇宙開発競争初期のロケットは、アメリカの[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]]やソビエトの[[R-7 (ロケット)|R-7]]のように弾道ミサイルから弾頭を外し、代わりに人工衛星や宇宙船を取り付けたものであり、ロケットの打ち上げ技術はミサイル技術と等価であり、[[威嚇]]も含めた軍事的価値も高いために、抜きつ抜かれつの開発競争であった。 1960年代から1970年代までに[[日本]]、[[欧州]]、[[中華人民共和国]]も人工衛星の打ち上げに成功し、世界の宇宙開発のプレイヤーはソ連(後のロシア)とアメリカと合わせて5極体制となった。日欧が先進的な[[宇宙探査機]]や人工衛星を打ち上げて[[宇宙科学]]分野で実績を積み上げていった一方、中国は1990年代以降に有人宇宙開発と宇宙の軍事利用に邁進し、[[2003年]]に[[長征2号F]]により[[神舟5号]]の打ち上げに成功し、ソ連とアメリカに次いで世界で3番目となる有人宇宙飛行に成功した。 [[冷戦]]以後はアメリカとロシアの[[宇宙船]]は宇宙空間でドッキングを行ったり、協力して[[国際宇宙ステーション]]の建設にあたるなど[[宇宙開発]]や[[惑星]]・[[衛星]]探索への利用が進んだ。また、[[軍事]]や[[情報]]における利用価値が認知され、現在に至るまで[[国家機密]]に属する非常に重要な技術として取り扱われている。特に[[偵察衛星]]の打ち上げは[[諜報活動]]において革新的な出来事であった。[[宇宙空間]]には[[国際法]]上、[[国家]]の[[領空]]は及ばないため、これまで[[スパイ|諜報員]]や特に[[領空侵犯]]を行う[[偵察機]]を送り込んで危険を覚悟で行ってきた諜報活動のリスクを大幅に削減する成果をあげた。 1990年以降、打ち上げ能力は質、量共に向上している背景には[[ソビエト連邦の崩壊]]後、冷戦期の宇宙開発競争を支えた経験豊富な旧ソビエトの技術者達が世界各地での宇宙開発に携わり、各国のロケットの開発、改良を支えていることが挙げられる。これに対して[[大量破壊兵器の運搬手段であるミサイル及び関連汎用品・技術の輸出管理体制|ミサイル技術管理レジーム]]があるものの、一部において形骸化し、弾道ミサイル技術の拡散も招いている。 また、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]衛星の打ち上げ後は比較的正確な位置測定の手段として[[カーナビゲーションシステム]]などに応用され、宇宙ロケット関連技術は現代人の生活を支えるために欠かせない。 国家ないし国家連合による政策としての宇宙開発が財政面で苦しい局面に立たされている反面、民間によるロケット開発も盛んである。例えば[[スペースX]]と[[オービタル・サイエンシズ]]は[[商業軌道輸送サービス]]の一環としてそれぞれ、[[ファルコン9]]で[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン宇宙船]]を打ち上げて[[2012年]]から、同様に[[アンタレス (ロケット)|アンタレス]]で打ち上げて[[シグナス (宇宙船)|シグナス]]で[[2013年]]から国際宇宙ステーションへの商業補給サービスを開始しており、[[ヴァージン・ギャラクティック]]は[[スペースシップツー]]の弾道飛行による民間宇宙旅行を計画している。今後は宇宙飛行士の輸送も含めて徐々に民間企業の自主開発したロケットによる輸送が主流になりつつある。 さらに規模は小さくなるが、アマチュアによるロケット打ち上げの試みもある。[[2004年]][[5月17日]]には20人ほどのアメリカ人による組織「Civilian Space eXploration Team」(CSXT)によって打ち上げられた<ref group="注">[[:en:Amateur_rocketryl|アマチュアロケット]]</ref>「GoFast」が、高度115 kmに到達しアマチュアロケット史上最高高度を記録した。一般人によるロケットとして歴史に名を残した。また、同様にアマチュアの開発によるロケットでの[[人工衛星]]の打ち上げ計画もあるが、資金、技術の両面において苦戦している。<ref group="注">そもそも、第二次世界大戦前の各国のロケット開発の多くは[[宇宙旅行協会]]に所属した[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]や[[反動推進研究グループ]]に所属した[[セルゲイ・コロリョフ]]を含む民間の[[好事家]]達による開発によるものであった。</ref>更に、日本でも企業の連合でロケット打ち上げがよく行われる。世界各国でロケット開発が浸透しているという証拠にもなっている。 現在、各国で次世代の打ち上げの主力となるロケットの開発が進行中である。それらは既存のエンジン等の部材を活用しつつこれまでの技術革新の成果を取り入れつつある。 {{-}} == ローンチ・ヴィークル == {{See|ローンチ・ヴィークル|ローンチ・ヴィークルの一覧}} == 様々なロケット・ロケット技術の応用 == これまで、各国が独自で開発したロケットによって衛星を軌道投入した例は11カ国あり、[[ソビエト連邦|ソ連]]([[ロシア連邦]])、[[アメリカ]]、[[フランス]]、[[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[イギリス]]、[[インド]]、[[イスラエル]]、[[イラン]]、[[北朝鮮]]、[[韓国]]となっている。 現在、軌道投入能力を保有するのはロシア、アメリカ、欧州、日本、中国、ウクライナ、インド、イスラエル、イラン、北朝鮮の9カ国と1機関である。 {{Main|各国初の軌道投入の年表}} === 大気圏内でのロケット === [[ファイル:Bundesarchiv Bild 102-06122, Burgwedel, Raketenwagen auf Eisenbahnschienen.jpg|thumb|250px|ロケット推進の鉄道車両であるOpel-Sander Rak.3]][[ファイル:Goodwood2007-121 The Blue Flame.jpg|thumb|250px|right|1970年10月23日に1014.513 km/hの世界記録を樹立した'''[[:en:Blue Flame (car)|ブルー・フレーム]]''']] ロケットは推進力が強力であり、[[大気圏]]内において物体を飛行させるための推進力としても利用される。その最も一般的な適用例は気象[[観測ロケット]]で、高層大気の状態を観測するためにしばしば打ち上げられる。[[気象庁]]でも定期的に気象観測ロケット ([[MT-135ロケット|MT-135]]) を打ち上げていたが、[[2001年]] に運用を終了させた。 他に無重力実験や各種実験、[[天体観測]]用の試験装置を搭載したロケットが打ち上げられる場合もある。 === ロケット飛行機 === {{main|ロケット推進航空機}} [[飛行機]]への適用としては、1928年6月11日に[[:de:Fritz Stamer|Fritz Stamer]]の操縦により[[:en:Lippisch Ente|Lippisch Ente]]が飛行し、1929年9月30日に"ロケットフリッツ"("Rocket Fritz")の異名を持つ[[フリッツ・フォン・オペル]]の操縦により[[:en:Opel RAK.1|Opel RAK.1]]が飛行に成功、その後、第二次世界大戦前夜の1939年6月20日にErich Warsitzの操縦により[[ヴァルター機関|液体燃料ロケットエンジン]]を搭載した[[He 176 (航空機)|He 176]]が飛行に成功して、[[第二次世界大戦]]末期に盛んな研究・開発がなされた。その典型例がナチスドイツの[[要撃機|迎撃戦闘機]][[Me163]]といえる。Me163 は推力1,700kgの[[ヴァルター機関|ヴァルターロケット]]1基により亜音速飛行を実現した。この戦闘機を参考に日本でも類似した局地戦闘機「[[秋水]]」が試作されたが、試験飛行中に墜落して終わった。ソビエトでは1942年に[[:en:Bereznyak-Isayev BI-1|BI-1]]が飛行した。他にも[[:en:Mikoyan-Gurevich I-270|ミグI-270]]、[[:en:DFS 40|DFS 40]]、[[:en:DFS 194|DFS 194]]、[[Ba 349 (航空機)|Ba 349]]、[[Go 242 (航空機)|Go 242]]、[[DFS 228 (航空機)|DFS 228]]、[[DFS 346]]等があった。 また、固体燃料式のロケットも[[プロペラ機]]の離陸促進用補助ロケットとして各国で多数利用されたが、純然たる推進力として採用した[[航空機]]として有名なのが第二次世界大戦において使用された日本海軍の人間爆弾([[特攻兵器]])「[[桜花 (航空機)|桜花]]」である。本機はまずグライダーとして母機から切り離された後、攻撃を回避しながら敵艦へ体当たりするため推力800kgの火薬式ロケット3本を順次燃焼させながら最終的に時速800km程度で突入するというものであった。他にロケット推進グライダーの[[K1号 (航空機)|K1号]]や[[神龍 (航空機)|神龍]]が試作された。 ドイツでは無線誘導ロケット爆弾[[Hs 293 (ミサイル)|Hs 293]]などが開発され、実戦投入された。 その後、米軍の[[超音速]]実験機[[X-1 (航空機)|X-1]]においてロケットが推進力として使用されて飛行速度1.06マッハを実現した。「[[桜花 (航空機)|桜花]]」と同じく、航空機から小型航空機を発射するという方法がとられているが、これはロケットエンジンの燃料消費量があまりにも大きく、戦闘機サイズの燃料搭載量では自力で飛行目標を達成できないからであった。燃費が悪いロケットは大気圏内の航空機用推進力としてはあまり用いられなくなり、航空機の推進力は次第に[[ジェットエンジン]]へと遷移していった。その後、一部の愛好家によって、実用機ではないが[[:en:XCOR Aerospace|XCOR Aerospace]]社の[[:en:XCOR EZ-Rocket|XCOR EZ-Rocket]]のようなロケット飛行機が開発、飛行されている。そのほか、地球以外の惑星でも類似の動力による飛行が検討されている<ref name="瀬名_20070921ed">{{Cite web|和書|author=[[瀬名秀明]] |date=2007年9月21日更新 |title=火星飛行機を実現する! |url=http://www.mech.tohoku.ac.jp/sena/series20/vol2/vol2-2.html |publisher= |website=瀬名秀明がゆく! |quote=取材先:「見えない流れを見る科学」浅井・永井研究室。|accessdate=2020-05-03 }}</ref><ref name="四谷・金崎_2010">{{Cite journal |和書 |author1=四谷智義 |author2=金崎雅博 |date=2010 |title=1405 火星探査航空機翼型の設計探査(OS8-1 近似最適化I) |url=https://doi.org/10.1299/jsmedsd.2010.20._1405-1_ |publisher=[[日本機械学会]] |journal=設計工学・システム部門講演会講演論文集 |volume=20 |issue=セッションID:1405 |doi=10.1299/jsmedsd.2010.20._1405-1_ |pages= }}</ref>。 しかし、その後も宇宙ロケットと構造が類似している[[弾道ミサイル]]には液体燃料ロケットが採用され、瞬発力と大推力を有する固体燃料ロケットは弾道ミサイルのほか、前述の通り短射程のミサイルや[[気象観測]]、[[無重力実験]]、[[射出座席]]や[[ゼロ距離発進]]、[[MLRS]]、[[無反動砲]]等にも多用されている。 === ロケット自動車 === {{main|ロケット自動車}} 比較的簡易な構造で急加速、高速が出せるので、[[1928年]][[5月23日]]にベルリン郊外の[[アヴス]]サーキットで[[フリッツ・フォン・オペル]]の運転により[[:de:Opel RAK2|Opel RAK2]]が時速238kmの世界記録を樹立したり、その後も[[:en:Blue Flame (car)|ブルー・フレーム]]、[[:en:Budweiser Rocket|Budweiser Rocket]]等、[[ロケット自動車|ロケットエンジンを動力とする自動車]]が速度記録に挑んでいる。ただし、[[ロケットエンジン]]の作動時間は限られているので近年の[[自動車の速度記録]]では推力の持続する[[ジェットエンジン]]を動力とする車両が記録を樹立している。 === その他 === [[ロケットスレッド]]や1975年に[[ヴァルター機関|水蒸気ロケット]]を用いたドイツの[[磁気浮上式鉄道]]KOMET(Komponentenmeßtrager)による401.3km/hの記録の樹立や1978年には固体燃料ロケットを搭載した[[HSST#HSST-01|HSST-01]]による307.8km/hの達成等で使用された。 [[レンチ]]の一種として、小型ロケットが互い違いにセットされた台座を緩める対象に取り付けて点火することで、短時間で緩めることができる「ロケットレンチ」がある。主に[[不発弾]]の錆びた[[信管]]を外すのに使われている。 == 趣味・教材用のロケット == [[ファイル:Kluft-photo-dual-hpr-launch-Sep-2004-Img 2757c.jpg|thumb|モデルロケット発射の様子]] [[ファイル:Water rocket.gif|thumb|ペットボトルロケットの原理]] === モデルロケット === {{main|モデルロケット}} 一般人が趣味として気軽に打ち上げられる本格的なロケットとして[[モデルロケット]]がある。これは燃料に小型のものは[[黒色火薬]]、中・大型のものは[[コンポジット推進薬]]を使用したもので、コンポジット推進薬はスペースシャトルやH2-Aロケットのブースターに使用される燃料と同じ燃料である。高度は百メートルから数十キロに達するものもある。 === 教材用ロケット === {{Main|ペットボトルロケット}} ペットボトルロケットという教材用ロケットは、[[ペットボトル]]に水と圧縮空気を充填し、水を圧縮空気の圧力で噴射することによって推力を得る構造をもったものである。ロケット先進国[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では古くから児童・生徒の授業に採り入れられていた。日本など他の先進国に普及し始めた時期は明確でないが(※日本は1990年代頃か)、多くの国で盛んに作られるようになり、[[科学教材]]として広く利用されるようになった。 [[火薬]]を使って飛ばす[[モデルロケット]]も普及し始め、日本では各地の[[中学校]]で総合教育に採り入れられている。 [[JETEX]]や[[タイガーロケッティ]]のような模型飛行機向けのロケットエンジンもあった(※JETEXは現在も継続中)。世界の一部の愛好家の間では、[[ハイブリッドロケット]]や[[液体燃料ロケット]]も打ち上げられている。 === 航空法の適用 === 日本国内では[[航空法]]に基づき、ロケットを打ち上げる空域によっては、打ち上げることが禁止される場合、または打ち上げる場合に事前に[[国土交通大臣]]への届出が必要な場合がある。 {{see also|制限表面}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} {{Reflist|group=nb}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == {{節スタブ|date=2020年5月3日|title=2020年4月30日の編集以前の「出典」節はその後「参考文献」節に改名しましたが、一つとして出典に適う表示がありませんので、一旦全てを「関連文献(※出典に使っていないが理解には役立つ文献)」節に“格下げ”します。これにより、項目「ロケット」の殆どの節で出典が示されていないことを明示できます。文献を記載して下さった方やこれらの文献を正しく把握されている方は、出典としての表示箇所とページ番号を加筆した上でその作業の完了した文献のみを「参考文献」節へ移動させて戴ければ幸いです。}} == 関連文献 == {{参照方法|section=1|date=2020-05-01}} {{ページ番号|section=1|date=2020-05-01}}<!--※推奨されている出典の表示の例:{{Sfnp|Allen & Eggers|1958|p=ページ番号}}--> * {{Cite book |last1=Allen |first1=H. Julian |author1=H. Julian Allen |authorlink1=:en:H. Julian Allen |last2=Eggers Jr. |first2=Alfred J. |author2=Alfred J. Eggers Jr. |authorlink2=:en:Alfred J. Eggers |date=1958 |title=A Study of the Motion and Aerodynamic Heating of Ballistic Missiles Entering the Earth's Atmosphere at High Supersonic Speeds |url=http://naca.central.cranfield.ac.uk/reports/1958/naca-report-1381.pdf |location= |publisher=Ames Aeronautial Lab.: [[アメリカ航空諮問委員会|NACA]] |language=English |oclc=86134556 |ref={{SfnRef|Allen & Eggers|1958}} }} * {{Cite book |last=Baker III |first=A. D. |author=A. D. Baker III |authorlink= |date=2000 |title=The Naval Institute Guide to Combat Fleets of the World 2000-2001 : Their Ships, Aircraft, and Systems. |location=[[アナポリス (メリーランド州)|Annapolis]] |publisher=[[:en:United States Naval Institute#Naval Institute Press|Naval Institute Press]] |language=English |oclc=464566493 |ref={{SfnRef|Baker|2000}} }}{{spaces}}ISBN 1-55750-197-1, ISBN 978-1-55750-197-4. * {{Cite book |last=Béon |first=Yves |author=Yves Béon |others=translated from the French ''La planète Dora'' by Béon & Richard L. Fague |date=1997 |title=Planet Dora : a memoir of the Holocaust and the birth of the space age |location=[[ボルダー (コロラド州)|Boulder, Colorado]] |publisher=[[:en:Westview Press|Westview Press]], Div. of Harper Collins |language=English |oclc=60197359 |ref={{SfnRef|Béon|1997}} }}{{spaces}}ISBN 0-8133-3272-9, {{ISBN2| 978-0-8133-3272-7}}. * {{Cite book |last=Buchanan |first=Brenda J. |author=Brenda J. 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Moore |last3=Sekula |first3=Allan |author3=Allan Sekula |authorlink3=アラン・セクラ |last4=Stein |first4=Sally |author4=Sally Stein |author5=Sterling and Francine Clark Art Institute. Library |date=2004 |title=Cold War Submarines : the Design and Construction of U.S. and Soviet Submarines, 1945-2001. |location=[[:en:Dulles, Virginia|Dulles, Virginia]] |publisher=Brassey's |language=English |oclc=960167506 |ref={{SfnRef|Polmar et al.|2004}} }}{{spaces}}ISBN 1-57488-594-4, {{ISBN2| 978-1-57488-594-1}}. * {{Cite book |last1=Potter |first1=R.C. |author1=R.C. Potter |last2=Crocker |first2=Malcolm J. |author2=Malcolm J. Crocker |date=1966 |title=Acoustic Prediction Methods for Rocket Engines, Including the Effects of Clustered Engines and Deflected Exhaust Flow, CR-566 |url=http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19660030602_1966030602.pdf |location=Washington D.C. |publisher=NASA |language=English |oclc=37049198 |ref={{SfnRef|Potter & Crocker|1966}} }} * {{Citation |author=Space History Division |date=18 August 1999 |title=Hale 24-Pounder Rocket |url=http://www.nasm.si.edu/research/dsh/artifacts/RM-Hale24pdr.htm |publisher=Smithsonian National Air and Space Museum |language=English |ref={{SfnRef||1999}} |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070818125248/http://www.nasm.si.edu/research/dsh/artifacts/RM-Hale24pdr.htm |archivedate=2007年8月18日 }} * {{Cite DNB |last=Stephens |first=Henry Morse |authorlink=:en:Henry Morse Stephens |wstitle=Congreve, William (1772-1828) |volume=12 |page=9 |language=English |ref={{SfnRef|Stephens}} }} * {{Cite book |last1=Sutton |first1=George Paul |author1=George Paul Sutton |last2=Biblarz |first2=Oscar |author2=Oscar Biblarz |date=2001 |title=Rocket Propulsion Elements |edition=7th |url=https://books.google.co.jp/books?id=LQbDOxg3XZcC&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja |location=[[チチェスター|Chichester]] |publisher=[[ジョン・ワイリー・アンド・サンズ|John Wiley & Sons]] |language=English |oclc=317845694 |ref={{SfnRef|Sutton & Biblarz|2001}} }}{{spaces}}ISBN 0-471-32642-9, {{ISBN2| 978-0-471-32642-7}}. * {{Cite book |last=Van Riper |first=A. 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Coheteria Experimental y Modelista de Argentina] * [http://www.ukra.org.uk/ United Kingdom Rocketry Association] * [http://www.modellraketen.org/ IMR - German/Austrian/Swiss Rocketry Association] * [http://www.canadianrocketry.org/ Canadian Association of Rocketry] * [http://www.isro.org/ Indian Space Research Organisation] '''情報サイト''' * [[Encyclopedia Astronautica]] - [https://web.archive.org/web/20040514103554/http://www.astronautix.com/lvs/ Rocket and Missile Alphabetical Index] * [http://www.braeunig.us/space/index.htm Rocket and Space Technology] * Gunter's Space Page - [http://space.skyrocket.de/ Complete Rocket and Missile Lists] * [https://web.archive.org/web/20070521025308/http://www.pwrengineering.com/data.htm Rocketdyne Technical Articles] * [https://www.relativitycalculator.com/rocket_equations.shtml Relativity Calculator - Learn Tsiolkovsky's rocket equations] * [https://sites.google.com/site/rgoddardsite/ Robert Goddard--America's Space Pioneer] {{宇宙飛行}} {{Expendable launch systems}} {{離着陸の種類}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ろけつと}} [[Category:ロケット|*]]
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X端末
X端末(エックスたんまつ、X Terminal)はコンピュータの一つ。 X Window SystemのXプロトコルを用いた通信により、他のコンピュータ上(ホスト)で実行されたXクライアントアプリケーションの実行結果を表示させる端末である(もちろん入力も出来る)。描画部分(と入力部分)のみを実行するため、処理に負荷がかかる描画処理部分をハードウェア的に分離し、ホストをアプリケーションの処理に特化することで、ホストの負荷を軽減できる。 X端末上で実行するXサーバは、X端末上でファームウェアとして用意されている場合も、また、ホスト側から何らかの方法でダウンロードする方法もある。 X端末は、ホストと比べてハードディスクを持たず、かつ、メモリもXサーバが動作するだけの容量さえあればよいので、XディスプレイマネージャやXクライアントが動作するホスト(通常はUNIXマシン)よりも大幅にコストが下げられる、という利点があった(但し、Xクライアントはローカルで動作する場合もあった)。また、それ自身は、管理のための情報をほとんど持たない(ネットワークに接続するためのIPアドレス程度)ため、複数台設置しても管理が容易になる、という利点があった。ソニー・テクトロニクスから発表された低価格X端末「XP200シリーズ」は、CPU LSI33020(33MHz)、メモリ標準4Mバイト/最大36Mバイト、10Base2/T×2、画面表示1023x768/1152x900、ブートROMにフラッシュメモリを採用、リモート・コンフィグレーション機能によってネットワーク上のX端末を一元管理可能であり、価格188,000円~となっていた。しかし、2000年代以降、UNIXマシンの大幅なコストダウンやPCの普及により、専用のX端末というハードウェアをわざわざ用意する必然性が減少したことによりハードウェアとしてのX端末はほぼ終息を迎えた。
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X端末はコンピュータの一つ。 X Window SystemのXプロトコルを用いた通信により、他のコンピュータ上(ホスト)で実行されたXクライアントアプリケーションの実行結果を表示させる端末である(もちろん入力も出来る)。描画部分(と入力部分)のみを実行するため、処理に負荷がかかる描画処理部分をハードウェア的に分離し、ホストをアプリケーションの処理に特化することで、ホストの負荷を軽減できる。 X端末上で実行するXサーバは、X端末上でファームウェアとして用意されている場合も、また、ホスト側から何らかの方法でダウンロードする方法もある。 X端末は、ホストと比べてハードディスクを持たず、かつ、メモリもXサーバが動作するだけの容量さえあればよいので、XディスプレイマネージャやXクライアントが動作するホスト(通常はUNIXマシン)よりも大幅にコストが下げられる、という利点があった(但し、Xクライアントはローカルで動作する場合もあった)。また、それ自身は、管理のための情報をほとんど持たない(ネットワークに接続するためのIPアドレス程度)ため、複数台設置しても管理が容易になる、という利点があった。ソニー・テクトロニクスから発表された低価格X端末「XP200シリーズ」は、CPU LSI33020(33MHz)、メモリ標準4Mバイト/最大36Mバイト、10Base2/T×2、画面表示1023x768/1152x900、ブートROMにフラッシュメモリを採用、リモート・コンフィグレーション機能によってネットワーク上のX端末を一元管理可能であり、価格188,000円~となっていた。しかし、2000年代以降、UNIXマシンの大幅なコストダウンやPCの普及により、専用のX端末というハードウェアをわざわざ用意する必然性が減少したことによりハードウェアとしてのX端末はほぼ終息を迎えた。
{{main2|[[xterm]]や[[kterm]]などのX Window System上で動く端末エミュレータ|端末エミュレータ}} {|style=border:0;float:right |[[Image:Network Computing Devices NCD-88k X terminal.jpg|thumb|X端末「NCD-88k」の写真]] |- |[[Image:Xserver and display manager.svg|thumb|X端末の仕組みの図。X端末は描画部分と入力部分のみを実行する。この例では、Xディスプレイマネージャとクライアントプログラム([[xterm]] と xedit)は共にサーバ側で動作している。]] |} '''X端末'''(エックスたんまつ、X Terminal)はコンピュータの一つ。 [[X Window System]]のXプロトコルを用いた通信により、他のコンピュータ上(ホスト)で実行されたXクライアントアプリケーションの実行結果を表示させる端末である(もちろん入力も出来る)。描画部分(と入力部分)のみを実行するため、処理に負荷がかかる描画処理部分をハードウェア的に分離し、ホストを[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の処理に特化することで、ホストの負荷を軽減できる。 X端末上で実行するXサーバは、X端末上で[[ファームウェア]]として用意されている場合も、また、ホスト側から何らかの方法で[[ダウンロード]]する方法もある。 X端末は、ホストと比べて[[ハードディスク]]を持たず、かつ、メモリもXサーバが動作するだけの容量さえあればよいので、XディスプレイマネージャやXクライアントが動作するホスト(通常は[[UNIX]]マシン)よりも大幅にコストが下げられる、という利点があった(但し、Xクライアントはローカルで動作する場合もあった<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.astec-x.com/FAQ/aboutx.html |title=X Window System とは |accessdate=2020-11-15 |author= |year= |format= |publisher=www.astec-x.com}}</ref>)。また、それ自身は、管理のための情報をほとんど持たない(ネットワークに接続するための[[IPアドレス]]程度)ため、複数台設置しても管理が容易になる、という利点があった。[[テクトロニクス|ソニー・テクトロニクス]]から発表された低価格X端末「XP200シリーズ」は、CPU LSI33020(33MHz)、メモリ標準4Mバイト/最大36Mバイト、10Base2/T×2、画面表示1023x768/1152x900、ブートROMにフラッシュメモリを採用、リモート・コンフィグレーション機能によってネットワーク上のX端末を一元管理可能であり、価格188,000円~となっていた{{sfn|インターフェース 1995年1月号|p=230}}。しかし、2000年代以降、UNIXマシンの大幅なコストダウンやPCの普及により、専用のX端末というハードウェアをわざわざ用意する必然性が減少したことによりハードウェアとしてのX端末はほぼ終息を迎えた。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|title= |year=1995 |month=1 |publisher=[[CQ出版社]] |journal=インターフェース |issue=1995年1月号 |ref={{sfnref|インターフェース 1995年1月号}} }} {{デフォルトソート:Xたんまつ}} [[Category:コンピュータ端末]] [[Category:コンピュータの形態]] [[Category:X Window System]]
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下り
下り(くだり) 下ることを「下向」(げこう)ともう言う。 対義語は全て上り(のぼり)。
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下り(くだり) 下ることを「下向」(げこう)ともう言う。 対義語は全て上り(のぼり)。 古典的な表現で、首都からそれ以外の地方へ赴くことを表す。首都を中心と考える概念による。 日本では、明治維新以前は京都からそれ以外の地方へ赴くことを表す。 「あづまに下りし親、からうじてのぽりて、西山なるところにおちつきたれば……」(更級日記) 「下りもの(くだりもの)」は、京都や天下の台所と呼ばれた大坂などの上方から江戸に向かう物品。下り酒、下り飴、下り米。→江戸地廻り経済を参照のこと。 明治時代以降は、東京からそれ以外の地方へ赴くことを表す。 国道等の進行方向として、起点から終点の方向に向かう事を表す。国土交通省道路局が定義している。 ただし沖縄県においては、県庁所在地である那覇から離れる路線を「下り」と通称している。 列車等の運行方向として、東京駅に近い起点駅から出発する列車。下り列車。→ ダイヤグラムを参照のこと。 電気通信網において、中心から末端に向かう方向。 コンピュータネットワークにおいては、中心(コア)から末端(エッジ)に向かう方向。 データ通信回線については、電話局等のセンターから、ユーザ宅への方向。(下り速度など) インターネット等でのダウンロードを下りということもある。 衛星通信・衛星放送など人工衛星を用いた通信において、衛星から地上に向けた通信回線のこと。ダウンリンクともいう。
'''下り'''(くだり) 下ることを「下向」(げこう)ともう言う。<br /> 対義語は全て[[上り]](のぼり)。 * [[古典]]的な表現で、[[首都]]からそれ以外の地方へ赴くことを表す。首都を中心と考える概念による。 ** [[日本]]では、[[明治維新]]以前は[[京都]]からそれ以外の[[地方]]へ赴くことを表す。 **: 「[[東国|あづま]]に'''下り'''し親、からうじてのぽりて、西山なるところにおちつきたれば……」([[更級日記]]) **: 「下りもの(くだりもの)」は、京都や天下の台所と呼ばれた[[大坂]]などの[[上方]]から江戸に向かう物品。[[下り酒]]、[[下り飴]]、[[米仲買|下り米]]。→[[江戸地廻り経済]]を参照のこと。 ** [[明治|明治時代]]以降は、[[東京]]からそれ以外の地方へ赴くことを表す。 * [[国道]]等の進行方向として、[[起点]]から終点の方向に向かう事を表す。[[国土交通省]]道路局が定義している。 ** ただし[[沖縄県]]においては、県庁所在地である[[那覇市|那覇]]から離れる路線を「下り」と通称している。 * [[列車]]等の運行方向として、[[東京駅]]に近い[[起点]]駅から出発する列車。下り列車。→ [[ダイヤグラム]]を参照のこと。 * [[電気通信]]網において、中心から末端に向かう方向。 ** [[コンピュータネットワーク]]においては、中心(コア)から末端(エッジ)に向かう方向。 ** [[データ通信]]回線については、電話局等のセンターから、ユーザ宅への方向。(下り速度など) ** [[インターネット]]等での[[ダウンロード]]を下りということもある。 ** [[衛星通信]]・[[衛星放送]]など[[人工衛星]]を用いた[[電気通信|通信]]において、衛星から地上に向けた通信回線のこと。[[アップリンク・ダウンリンク|ダウンリンク]]ともいう。 *クダリ - [[Mrs. GREEN APPLE]]の楽曲。4thフルアルバム『[[Attitude (Mrs. GREEN APPLEのアルバム)|Attitude]]』に収録。 {{aimai}} {{デフォルトソート:くたり}}
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ブックオフコーポレーション
ブックオフコーポレーション株式会社は、中古本・中古家電販売のチェーン「ブックオフ」(BOOK OFF)を展開する企業。本社は神奈川県相模原市南区に所在。坂本孝により創業された。 それまでの古本屋の形をうち破り、「新古書店」と呼ばれる新しい古本屋の形態を作り上げた。店内はコンビニエンスストアの様な照明にし、店舗面積を広めにとり、さらに商品の臭いを抜くための対策を施し、古本業界ではタブーであった立ち読みも可能にした。これが受け入れられ、チェーン店が全国へ広がった。 2007年に不正売上とリベートの受取りの責任を取って、当時の坂本孝会長が辞任。2007年頃から中古市場の縮小に伴い旗艦店であった原宿店や本社周辺など全国的に閉店が相次ぎ、2016年3月期には営業利益が赤字に陥るなどした。閉店を加速させると同時に設立当初は参入に消極的であったブックオフオンラインなどのウェブ店舗を積極的に展開することや、ヤフーとの資本業務提携(2018年に解消)などの方針転換が行われている。また、2015年からは友好関係にあったハードオフとのフランチャイズ契約を解除し、家電リユース業にも参入している。2018年10月1日付で純粋持株会社 ブックオフグループホールディングスを設立し、持株会社体制へ移行した。ブックオフグループホールディングスは大日本印刷の持分法適用会社(議決権所有割合16.3%)である。 マスコットキャラクターは「よむよむ君」。長らく清水國明をイメージキャラクターとして起用していた。これは清水の実姉である橋本真由美が当時常務取締役であったことが縁で起用された。なお、橋本は2006年6月24日付でブックオフの社長に就任した(2018年に取締役相談役辞任)。パートタイマー出身者が東証一部上場企業の経営トップに就くのは、非常に珍しいことであるとして、脚光を浴びた。「お売りください」というキャッチコピーを使い、マーケティングが成功した功績があったためと言われている。 その後、「捨てない人のブックオフ」をキャッチコピーにポスター広告やテレビCMを展開、2012年7月21日〜31日まで放映された「ケータイ売るのもブックオフ」のCMで清水の起用を復活している。 現在は「よむよむ君」と新たにその家族(「かうかう君」「うるうるちゃん」)をゆるキャラに見立て、「ゆる~くいこうぜ、休日ブックオフ」をキャッチコピーにCM展開している。 2019年には寺田心を広告に起用。ブックオフが本以外も扱っていることをPRしたもので、テレビCMにおける「ブックオフなのに本ねぇじゃん!」の台詞がSNS上で話題になった。 日本全国に807店舗(2018年3月現在)。アメリカ合衆国、フランス、マレーシアにも事業展開し、ニューヨーク西45丁目店、ガーデナ(英語版)店、ハワイアラモアナシロキヤ店、パリ・オペラ座店など海外店舗は2018年3月現在13店舗ある。かつてはカナダ・大韓民国にも出店していたが閉鎖した。スーパーバザー多摩永山店は無料送迎バスが運行されている。自由が丘店のように、スーパーバザーから格下げされたり、中目黒店の様に買取センターになるケースもある。ハードオフ・ホビーオフとの共同店舗も多く、特に岐阜県、千葉県のハードオフファミリー運営店舗、ハードオフコーポレーション本社のある新潟県で多く見られる他、都内最大級の八王子みなみ野店はスーパーバザー(直営)の中にハードオフ・ホビーオフ(ゼロ・エミッション運営)が存在していた(2022年8月30日閉店、11月中旬にアリオ橋本から線路を挟んだ対面に東橋本店として移転。ブックオフも同年9月19日に閉店)。ブックオフ閉店後は隣接地で買取センターの営業。ワットマン運営店舗もある。 空中店舗の川崎モアーズ(スーパーバザー)が全国売上2位である。 ※▲は現在直営店では使用していない。 ブックオフのインターネット店舗としては、2007年運営開始のブックオフオンライン(ブックオフコーポレーション100%出資)がある。 ブックオフオンライン創業前に、ブックオフコーポレーションの起業家支援制度によって独立した黒田武志が創業した会社・イーブックオフ(その後商号を「ネットオフ」→「リネットジャパン」に変更)が同種の営業を営んでいたが、カルチュア・コンビニエンス・クラブとの資本提携・社名変更などを経てブックオフからの独立を果たしている。 2007年5月9日に、週刊文春に掲載された記事を発端として、子会社を通しての不適切な売上水増し(粉飾決算)問題と坂本孝CEOのリベート問題が発覚した。その後、ブックオフは調査委員会を設置し内部調査を開始。そして、2004年12月と2006年2月の2回にわたって、合計2206万円の不適切な売り上げ計上の水増しがあったことを発表し、また坂本代表取締役会長兼CEOについては、1993年5月から2001年5月までの8年間に、丸善から約7億4200万円の個人リベートを受け取っていたことを発表。坂本CEOは、当初この半分を自主的にブックオフに返還する意向を示していたが、後日、全額を返還すると訂正した。同年6月23日に坂本CEOは引責辞任し、橋本COOは代表権のない取締役会長に異動、新社長には執行役員企業戦略担当で戦略部門長の佐藤弘志が就任した。 また、その後、坂本によるセクハラ問題も浮上し、同年7月25日の調査委員会の報告により、セクハラ行為があったことが判明した。坂本本人も、セクシャル・ハラスメント、パワー・ハラスメント行為、コンプライアンス意識が低い言動があったことを認めた。
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ブックオフコーポレーション株式会社は、中古本・中古家電販売のチェーン「ブックオフ」を展開する企業。本社は神奈川県相模原市南区に所在。坂本孝により創業された。 それまでの古本屋の形をうち破り、「新古書店」と呼ばれる新しい古本屋の形態を作り上げた。店内はコンビニエンスストアの様な照明にし、店舗面積を広めにとり、さらに商品の臭いを抜くための対策を施し、古本業界ではタブーであった立ち読みも可能にした。これが受け入れられ、チェーン店が全国へ広がった。 2007年に不正売上とリベートの受取りの責任を取って、当時の坂本孝会長が辞任。2007年頃から中古市場の縮小に伴い旗艦店であった原宿店や本社周辺など全国的に閉店が相次ぎ、2016年3月期には営業利益が赤字に陥るなどした。閉店を加速させると同時に設立当初は参入に消極的であったブックオフオンラインなどのウェブ店舗を積極的に展開することや、ヤフーとの資本業務提携(2018年に解消)などの方針転換が行われている。また、2015年からは友好関係にあったハードオフとのフランチャイズ契約を解除し、家電リユース業にも参入している。2018年10月1日付で純粋持株会社 ブックオフグループホールディングスを設立し、持株会社体制へ移行した。ブックオフグループホールディングスは大日本印刷の持分法適用会社(議決権所有割合16.3%)である。
{{otheruses|「ブックオフ」を運営する神奈川県の企業|「ハードオフ」を運営する新潟県の企業|ハードオフコーポレーション|「ネットオフ」を運営する愛知県の企業|リネットジャパングループ}} {{出典の明記|date=2018年9月}} {{基礎情報 会社 | 社名 = ブックオフグループホールディングス株式会社 | 英文社名 = BOOKOFF GROUP HOLDINGS LIMITED | ロゴ = <!-- ブックオフコーポレーションのロゴとは異なります --> | 画像 = [[ファイル:bookoffhonsha.jpg|250px]] | 画像説明 = ブックオフグループホールディングス本社 | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://www.bookoffgroup.co.jp/ir/corporate.html コーポレート・ガバナンス] - ブックオフグループホールディングス株式会社</ref> | 市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 9278 | 2018年10月1日 }} | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 252-0344 | 本社所在地 = [[神奈川県]][[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]][[古淵]]二丁目14番20号 | 本社緯度度 = 35 | 本社緯度分 = 33 | 本社緯度秒 = 20.4 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139 | 本社経度分 = 25 | 本社経度秒 = 3.0 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP | 本店郵便番号 = 252-0344 | 本店所在地 = [[神奈川県]][[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]][[古淵]]2丁目14番20号 | 設立 = [[2018年]]([[平成]]30年)[[10月1日]] | 業種 = 小売業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 法人番号 = 4021001065745 | 事業内容 = グループ会社の経営管理及びそれに付帯する業務 | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] [[堀内康隆]] | 資本金 = 1億円<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=ブックオフグループホールディングス株式会社 |date=2021-08-30 |title=第3期(2020年4月1日 - 2021年5月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = 2054万7000株<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 売上高 = 連結: 935億9700万円<br />単独: 14億2000万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 連結: 19億3600万円<br />単独: 4億2000万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = 連結: 25億0900万円<br />単独: △4900万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 連結: 1億6700万円<br />単独: △5億9300万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = 連結: 129億4400万円<br />単独: 111億0900万円<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = 連結: 403億2100万円<br />単独: 183億8900万円<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 連結: 1,460人<br />単独: 47人<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 決算期 = 5月31日 | 会計監査人 = [[有限責任監査法人トーマツ]]<ref name="fy" /> | 主要株主 = [[ハードオフコーポレーション|ハードオフ]] 8.12%<br />[[大日本印刷]] 7.35%<br />[[丸善雄松堂]] 6.78%<br />ブックオフグループホールディングス従業員持株会 5.02%<br />[[講談社]] 4.77%<br />[[集英社]] 4.77%<br />[[図書館流通センター]] 4.29%<br />[[小学館]] 3.77%<br />ブックオフコーポレーション加盟店持株会 2.02%<br />[[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 1.95%<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 有価証券報告書提出会社は上位10名の株主を記載してください --> | 主要子会社 = [[#グループ会社]]参照 | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.bookoffgroup.co.jp/ | 特記事項 = 第3期は決算期変更に伴い、2020年4月1日から2021年5月31日までの14か月変則決算 }} {{基礎情報 会社 | 社名 = ブックオフコーポレーション株式会社 | 英文社名 = Bookoff Corporation Limited | ロゴ = [[File:Bookoff Corporation Logo.svg|250px]] | 画像 = [[ファイル:bookoffhonsha.jpg|250px]] | 画像説明 = ブックオフコーポレーション本社 | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = {{上場情報 | 東証1部 | 3313 | 2004年3月16日 | 2018年9月26日 }} | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 252-0344 | 本社所在地 = 神奈川県相模原市南区古淵二丁目14番20号 | 設立 = [[1955年]][[12月23日]]設立<br />(創業:[[1991年]][[8月1日]]<ref name="nikkei-commerce-yearbook-1997" />) | 業種 = 小売業 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 法人番号 = 9021001013831 | 事業内容 = 中古書店「BOOKOFF」の展開<br/>新規中古業態の開発・運営・加盟店経営指導 | 代表者 = 代表取締役社長 堀内康隆 | 資本金 = 1億円<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy2">{{Cite web|和書|date= |url=https://www.bookoff.co.jp/site/koukoku/pdf/kessan20210902.pdf |title=2021年5月期決算公告 |format=PDF |publisher=ブックオフコーポレーション株式会社 |accessdate=2021-12-18}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = | 売上高 = 844億0800万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy2" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 10億5800万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy2" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = 15億6100万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy2" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 3億8400万円<br />(2021年5月期)<ref name="fy2" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = 92億9600万円<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy2" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = 347億2600万円<br />(2021年5月31日現在)<ref name="fy2" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = | 決算期 = 5月31日 | 会計監査人 = | 主要株主 = ブックオフグループホールディングス 100% | 主要子会社 = | 関係する人物 = [[坂本孝]](創業者)<br />[[橋本真由美]](元社長)<br />[[佐藤弘志]](元社長)<br />[[松下展千]](元社長) | 外部リンク = https://www.bookoff.co.jp/ | 特記事項 = 1997年7月1日に株式額面変更のため、ブックオフコーポレーション株式会社はブックオフコーポレーション株式会社(旧:株式会社橘屋・旧:株式会社木暮保太商店)に吸収合併されて解散している。登記上の設立日は株式会社木暮保太商店の設立日である1955年12月23日。 }} '''ブックオフコーポレーション株式会社'''<ref name="nikkei-commerce-yearbook-1997">{{Cite | coauthors = | title = 流通会社年鑑 1997年版 | publisher = [[日本経済新聞社]] | date = 1996-12-04 | pages = 972 | isbn = }}</ref>は、[[古書店|中古本]]・中古[[家電機器|家電]]販売の[[チェーンストア|チェーン]]「'''ブックオフ'''」(BOOK OFF)を展開する企業。本社は[[神奈川県]][[相模原市]][[南区 (相模原市)|南区]]に所在。[[坂本孝]]により創業された。 それまでの[[古本屋]]の形をうち破り、「[[新古書店]]」と呼ばれる新しい古本屋の形態を作り上げた。店内は[[コンビニエンスストア]]の様な[[照明]]にし、店舗面積を広めにとり、さらに商品の臭いを抜くための対策を施し、古本業界では[[タブー]]であった[[立ち読み]]も可能にした。これが受け入れられ、チェーン店が全国へ広がった。 [[2007年]]に不正売上とリベートの受取りの責任を取って、当時の[[坂本孝]]会長が辞任<ref>https://book.asahi.com/news/TKY200706190047.html{{リンク切れ|date=2018年9月}}</ref>。[[2007年]]頃から中古市場の縮小に伴い旗艦店であった原宿店や本社周辺など全国的に閉店が相次ぎ、[[2016年]]3月期には営業利益が赤字に陥るなどした。閉店を加速させると同時に設立当初は参入に消極的であった[[ブックオフオンライン]]などのウェブ店舗を積極的に展開することや、[[ヤフー (企業)|ヤフー]]との資本業務提携(2018年に解消)などの方針転換が行われている。また、[[2015年]]からは友好関係にあった[[ハードオフ]]とのフランチャイズ契約を解除し、家電リユース業にも参入している。[[2018年]][[10月1日]]付で[[持株会社|純粋持株会社]] '''ブックオフグループホールディングス'''を設立し、持株会社体制へ移行した。ブックオフグループホールディングスは[[大日本印刷]]の[[持分法]]適用会社(議決権所有割合16.3%)である<ref>大日本印刷 有価証券報告書 第127期</ref>。 == コーポレートアイデンティティ == マスコットキャラクターは「よむよむ君」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yurugp.jp/jp/vote/detail.php?id=00003021 |title=よむよむ君ファミリー |publisher =ゆるキャラ®グランプリ実行委員会 |accessdate=2019-07-07}}</ref>。長らく[[清水國明]]をイメージキャラクターとして起用していた。これは清水の実姉である[[橋本真由美]]が当時[[常務取締役]]であったことが縁で起用された。なお、橋本は2006年6月24日付でブックオフの社長に就任した(2018年に取締役相談役辞任)。パートタイマー出身者が東証一部上場企業の経営トップに就くのは、非常に珍しいことであるとして、脚光を浴びた。「お売りください」というキャッチコピーを使い、マーケティングが成功した功績があったためと言われている。 その後、「捨てない人のブックオフ」をキャッチコピーにポスター広告やテレビCMを展開、2012年7月21日〜31日まで放映された「ケータイ売るのもブックオフ」のCMで清水の起用を復活している。 現在は「よむよむ君」と新たにその家族(「かうかう君」「うるうるちゃん」)をゆるキャラに見立て、「ゆる~くいこうぜ、休日ブックオフ」をキャッチコピーにCM展開している。 [[2019年]]には[[寺田心]]を広告に起用<ref>[https://www.atpress.ne.jp/news/179875 寺田心出演! 「本だけじゃないブックオフ」をテーマにした新TVCM  2019年3月21日より関東・中京エリアで放映開始]、@Press(ブックオフグループホールディングス株式会社)、2019年3月21日 14時。</ref>。ブックオフが本以外も扱っていることをPRしたもので<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/277392 寺田心くん「ブックオフ店員」CMが好感のワケ]、[[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン、2019年4月23日 5:30。</ref>、テレビCMにおける「ブックオフなのに本ねぇじゃん!」の台詞{{Refnest|group="注釈"|世間一般でブックオフは「本屋」というイメージが根強いことを逆手に取った演出である<ref name="advertimes">[https://www.advertimes.com/20191211/article303483/ TikTokで総再生回数6000万回を突破した「#ブックオフなのに本ねーじゃん」 “ミーム”を生かした施策の裏側]、AdverTimes(アドタイ) by 宣伝会議、2019年12月11日。</ref>。}}が[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]上で話題になった<ref name="advertimes" />。 == 沿革 == * [[1990年]]5月 - [[坂本孝]]が、直営1号店を相模原市に開店。 * [[1991年]] ** 8月 - 神奈川県相模原市相模原に'''株式会社ザ・アール'''設立。 ** 10月 - 「BOOKOFF」の全国フランチャイズ展開開始。 ** 11月 - フランチャイズ加盟店1号店をオープン。 * [[1992年]]6月 - '''ブックオフコーポレーション株式会社'''に商号変更。 * [[1994年]] ** 8月 - 神奈川県相模原市に商品の供給及び保管管理等の物流業務を行う相模原田名商品センターを開設。 ** 10月 - 中古CD・中古ビデオ・中古LDの仕入、販売を開始 ** 12月 - 100店舗展開。 * [[1995年]]9月 - [[一般社団法人]][[日本フランチャイズチェーン協会]] 正会員。 * [[1996年]] ** 11月 - セミナーハウス(研修センター)開設。 ** 12月 - 200店舗展開。「[[ハードオフコーポレーション|ハードオフ]]」にフランチャイズ加盟し、家電製品・OA機器等の取扱を開始。 * [[1997年]] ** 6月 - 「100人の社長を育てる」構想により、株式会社ブックオフリパブリックを皮切りに、株式会社ブックオフファクトリー、株式会社ブックオフウェーブ、株式会社ブックオフエヴァの計4社が分社化される(現在はすべてブックオフコーポレーションの子会社化)。 ** 7月 - 実質の存続会社であるブックオフコーポレーション株式会社が、形式上の存続会社である'''ブックオフコーポレーション株式会社'''(旧:株式会社橘屋、旧:株式会社木暮保太商店)と合併<ref>合併につき株券提出公告、平成9年(1997年)5月20日付『官報』(本紙第2140号)27頁</ref>。 * [[1998年]] ** 4月 - 300店舗展開。 ** 5月 - 海外1号店([[ハワイ州|ハワイ]]店)をオープン。 ** 7月 - 本社を相模原市古淵に移転。 * [[1999年]] ** 3月 - 中古書店として日本最大(530坪)の[[町田駅|町田]]中央通り店をオープン。 ** 4月 - 中古子供用品の仕入・販売を行う株式会社キッズグッズ(設立当社所有議決権比率45.0%、2000年6月株式会社ビーキッズに商号変更、2000年10月当社に当該事業を営業譲渡、2001年3月清算完了)を設立し、中古子供用品の取扱いを開始 ** 7月 - 400店舗展開。 ** 10月 - アメリカ合衆国でのブックオフ事業の展開を行うBOOKOFF U.S.A. INC.を設立 * [[2000年]] ** [[1月9日]] - 日本初の中古スポーツ用品店「B・SPORTS(ビースポーツ)」16号相模原由野台店をオープンし、中古スポーツ用品の取扱いを開始。 ** 4月 *** [[ニューヨーク]]店をオープン。 *** 中古アクセサリー等の取扱いを開始。 *** 中古婦人服の仕入・販売を行う株式会社ビースタイル(設立時当社所有議決権比率50.0%、2001年10月子会社化、2002年4月リサイクルプロデュース株式会社に商号変更、2005年7月にリユースプロデュース株式会社に商号変更、2002年10月に当社に吸収合併)を設立し、中古衣料の取扱いを開始。 *** 店舗の設計及び内外装工事等を行う株式会社ビー・オー・エム(設立当社所有議決権比率60.0%、2016年4月に当社に吸収合併)を設立 ** 5月 - 商店街活性化構想1号店、[[甲府市|甲府]]桜町店オープン。500店舗展開。 ** 9月 - 「[[Tsutaya|TSUTAYA]]」のフランチャイズ加盟店運営を行う株式会社ビープレゼントを設立(2003年4月ブックオフメディア株式会社に商号変更、2012年4月ブラスメディアコーポレーション株式会社に商号変更、2014年10月株式会社B&Hに商号変更、2015年7月当社に吸収合併) ** 11月 - [[旗艦#転用|旗艦店]]となる[[原宿]]店をオープン。 ** 12月 - 大型複合店「BOOKOFF中古劇場」→「スーパーバザー 多摩永山」)オープン。中古音楽・映像ソフト「CD OFF(シーディオフ)」1号店オープン。託児所「B-KIDS CLUB(ビーキッズクラブ)」開設。中古ゴルフ用品「GOLF DO(ゴルフドゥ)」加盟1号店オープン。 * [[2001年]] ** 1月 - インターネットでのオンライン中古書店を運営している株式会社イーブックオフ(現:[[リネットジャパングループ]]株式会社)に出資(出資時当社所有議決権比率26.3%、2003年3月子会社化、2004年1月持分法適用会社、2005年9月持分法適用会社から除外) ** 8月 - [[ロサンゼルス]]店をオープン。 ** 9月 - 600店舗展開。食器等の中古雑貨の取扱いを開始。 * [[2002年]] ** 2月 - 商品、備品の供給及び保管管理を行うブックオフ物流株式会社(2014年4月当社に吸収合併)を設立 ** 10月 - 商品センター、サプライセンター部門を子会社のブックオフ物流株式会社へ営業譲渡。子供服部門の「ビーキッズ」やスポーツ部門の「ビースポーツ」などを、子会社である[[リユースプロデュース|リユースプロデュース株式会社]]へ承継。 * [[2003年]]2月 - 700店舗展開。 * [[2004年]] ** [[3月16日]] - [[東京証券取引所]]市場第二部に[[上場|上場。]] ** 4月 - フランス共和国でのブックオフ事業の展開を行うBOOKOFF FRANCE E.U.R.L.(2020年3月期に清算完了)を設立 * [[2005年]] ** [[3月1日]] - 東京証券取引所市場第一部指定。 ** 6月 - カナダでの「BOOKOFF」店舗の運営を行うBOOKOFF CANADA TRADING INC.(2012年10月BOC CANADA PROPERTY MANAGEMENT LTD.に商号変更、2015年2月清算完了)を設立 * [[2006年]] ** 11月 - 大韓民国での「BOOKOFF」店舗の運営を行うB.O.C. PRODUCE KOREA INC.(2011年3月BOOKOFF KOREA INC.に商号変更、2014年12月清算完了)を設立 * [[2007年]] ** 6月 - 子会社のリユースプロデュース株式会社にて中古玩具商材の取扱いを開始(2009年10月当社に当該事業を譲渡) ** 6月 - フランチャイズ加盟店に什器を納入した[[丸善雄松堂|丸善]](現:丸善雄松堂)から合計7億4200万円のリベートを[[坂本孝]]が受け取っていたことが発覚したため引責辞任し、売上不正も見つかったことから[[橋本真由美]]が代表権を返上して会長となり、新社長に[[佐藤弘志]]が就いた<ref name="nikkei">[https://archive.is/Qi0Cp ブックオフ坂本会長が辞任、「リベート」受け取りと不正売り上げで] 日経BP、2007年6月19日(archive版)</ref>。また、坂本の法令順守意識の欠如や[[セクシャル・ハラスメント]]行為も報告され、謝罪した<ref name="nikkei2">[https://archive.is/9v7GS ブックオフ調査委が最終報告、坂本前会長のセクハラなど認める] 日経BP、2007年7月24日(archive版)</ref>。 ** 8月 - 子会社のブックオフオンライン株式会社がインターネット上のリユースショップ「[[ブックオフオンライン|BOOKOFF Online]]」運営開始。新品商品の取り扱いも始める<ref>[https://www.nikkeibp.co.jp/news/it07q3/541414/ ブックオフがオンライン書店を開設、新品も販売] 日経BP、2007年8月1日</ref>。 ** 9月 - 年間平均1億円前後の赤字店舗<ref group="広報">https://www.bookoff.co.jp/ir/pdf/repo_071115_03.pdf</ref>であった原宿店を閉店。旗艦店としてその役目を終える。フランス・パリにパリキャトーセプタンブル店開業<ref name="paris">[https://www.nikkeibp.co.jp/article/news/20090703/164882/ ブックオフ、パリ・バスチーユに新店舗] 日経BP、2009.07.03</ref>。 ** [[10月1日]] - [[Tポイント]]のサービス提供を開始。 ** ** 12月 - パリ2号店の不動産管理会社を取得し、SCI BOC FRANCE(2020年3月期に清算完了)に商号変更 * [[2008年]] ** 5月 - 関東最大級の[[秋葉原駅]]前店をオープン。単体での1日の売上高として最高の約1177万円を記録<ref>[https://web.archive.org/web/20110603074638/http://www.bookoff.co.jp/files/ir_pr/25/20091120_nagoya.pdf ブックオフグループ複合店、1日売上の過去最高を記録] ブックオフコーポレーション 2018年9月15日閲覧。(archive版)</ref>。 ** 9月 - 株式会社[[ヤオコー]]より「TSUTAYA」店舗等を運営する株式会社ワイシーシーの株式譲受けにより、同社を子会社化(2010年4月子会社のブックオフメディア株式会社に吸収合併)。 ** 11月 - 洋販ブックサービス株式会社より「[[青山ブックセンター]]」「流水書房」を運営する新刊事業を譲受けし、運営会社として青山ブックセンター株式会社を設立(2012年4月子会社のブラスメディアコーポレーション株式会社に吸収合併) * [[2009年]] ** [[5月13日]](決済は20日) - 筆頭株主であった2社のアント・DBJ[[投資事業有限責任組合]]{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2018年9月|アント・コーポレートアドバイザリー([[日興コーディアルグループ]]の日興アントファクトリーの子会社)と[[日本政策投資銀行]]とが共同で出資する[[投資ファンド]]}}。}}(14.52%、議決権で15.70%)と、Ant Global Partners Japan Strategic Fund I, L.P.{{Refnest|group="注釈"|{{要出典範囲|date=2018年9月|日興アントファクトリーの関連会社であるAGP Japan Strategic Investments, Ltd.が運用する[[投資ファンド]]}}。}}(14.52%、議決権で15.70%)が、保有する株式をすべて[[大日本印刷]](0%→6.60%)とその[[子会社]]である[[丸善雄松堂]](0.51%→6.09%)と[[図書館流通センター]](0%→3.86%)に、さらに、[[講談社]](0%→4.29%)、[[小学館]](0%→4.29%)、[[集英社]](0%→4.29%)に株式を譲渡し、大日本印刷株式会社が筆頭株主となった。 ** 8月 - フランス・パリのバスチーユにBOOKOFFパリファーブルサンタントワンヌ店開業<ref name="paris" />。 ** 9月 - 「BOOKOFF SUPER BAZAAR」の屋号として初の大型複合店「BOOKOFF SUPER BAZAAR 鎌倉大船」オープン ** 11月 - 複合店として最大規模(1,451坪)である、「BOOKOFF SUPER BAZAAR カインズモール名古屋みなと」をオープン。複合店での1日の売上高として最高の1420万円を記録する<ref group="広報">https://www.bookoff.co.jp/files/ir_pr/25/20091120_nagoya.pdf</ref>。 * [[2010年]] ** 4月 - 子会社の[[リユースプロデュース]][[株式会社]]を吸収合併。 ** 9月30日 - 契約期間満了に伴い、Tポイントサービスを終了。 ** 10月 - グループの障がい者雇用の促進を目的としてビーアシスト株式会社を設立(2010年12月厚生労働省より「障害者の雇用の促進等に関する法律」に基づく特例子会社として認定) * [[2011年]] ** [[4月13日]] - [[福岡県]]内の4店舗・[[鹿児島県]]内の2店舗で[[SUGOCA]]の利用が可能となった{{Refnest|group="注釈"|name="sugoca"|相互利用により[[Suica]]等のJR系IC乗車券や[[nimoca]]、[[はやかけん]]等も利用可能<ref>[https://www.bookoff.co.jp/qa/card.html クレジットカード/電子マネーについて(ブックオフ公式)]</ref>。}}<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/pressrelease/pdf/20110413.pdff|format=PDF|title=SUGOCA電子マネーがBOOKOFFグループでご利用いただけるようになります|publisher=JR九州プレスリリース|date=2011-04-13|accessdate=}}</ref>。その後、直営店を中心に[[JR]]系の[[乗車カード|IC乗車券]]を本格的に導入している。 ** [[5月27日]] - [[ハードオフコーポレーション]]が株式を7.06%取得し、筆頭株主となる。 ** 9月 - 社長の佐藤が退任し、専務の松下展千が[[代表取締役]]社長に就任<ref>[https://web.archive.org/web/20170413154420/http://diamond-rm.net/articles/-/1605 【ブックオフ】松下専務が社長昇格、佐藤社長は退任] Diamond Retail Media、2011年9月1日(archive版)</ref>。 ** 12月 - 中古携帯電話の取扱いを開始<ref>{{Cite web|和書|title=全国の「BOOKOFF」で携帯電話端末の買い取りをスタート |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1207/23/news110.html |website=ITmedia Mobile |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref> * [[2012年]]9月 - [[フジテレビKIDS]]と共同でプライベートブランド「Be絵本」の絵本を出版 * [[2013年]] ** 1月 - 当社フランチャイズ加盟店である株式会社ブックオフウィズの株式を一部譲り受けし、同社を子会社化 ** 4月 - 店舗型のビジネスに限定しないリユース業を運営する株式会社ハグオールを設立(2018年3月ブックオフオンライン株式会社に吸収合併) * [[2014年]] ** [[5月15日]] - [[ヤフー (企業)|ヤフー]]と資本[[業務提携]]契約を締結。 ** [[6月21日]] - [[第三者割当増資]]により、ヤフーが株式を13.73%(議決権では15.02%)取得し、筆頭株主及びその他の関係会社に異動<ref group="広報">[https://www.bookoff.co.jp/ir/info_0424.pdf ヤフー株式会社との資本業務提携契約の締結、第三者割当により発行される新株式及び転換社債型新株予約権付社債の募集、主要株主である筆頭株主の異動、並びにその他の関係会社の異動に関するお知らせ]</ref>。 ** 9月26日 - 「[[ヤフオク!]]」とコラボレーション店舗「ヤフOFF!フラッグシップストア 渋谷センター街店」をオープン<ref>{{Cite web|和書|title=ヤフオク!×BOOKOFF「ヤフOFF!」渋谷にオープン 持ち込むだけで出品代行 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1409/26/news120.html |website=ITmedia NEWS |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref> ** [[10月1日]] - 「TSUTAYA」事業を運営会社の会社分割・株式譲渡により[[日本出版販売]]に譲渡(2014年10月に新設会社である株式会社ブラスメディアコーポレーションの株式の80%、2015年3月に20%を譲渡)<ref group="広報">[http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1189580 連結子会社の会社分割及び新設会社(孫会社)の株式譲渡完了に関するお知らせ]</ref><ref group="広報">[http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1224614 持分法適用関連会社の異動(連結子会社による株式譲渡)に関するお知らせ]</ref>。 * [[2015年]] ** 1月 - モバイルサービスのブランド「スマOFF」の展開し、格安スマホの取り扱いを開始<ref>{{Cite web|和書|title=ブックオフ、「スマOFF」の新ブランドで格安スマホの提供を開始 |url=https://wirelesswire.jp/2015/01/12411/ |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref> ** [[3月15日]] - 独自の会員カードサービスを全店で開始(2015年5月現在の発行枚数530万枚)。 ** [[3月31日]] - 子会社である株式会社B&Hが契約していたHARDOFF加盟契約を合意解約。これにより独自で家電製品のリユース業を開始。 ** 5月 *** 当社フランチャイズ加盟店である株式会社ブックレットの全株式を譲り受けし、同社を子会社化 *** 国内での「BOOKOFF」店舗の運営を目的として株式会社ブックオフ沖縄を設立 ** [[7月1日]] - 株式会社B&Hを吸収合併<ref group="広報">[http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1224615 連結子会社の吸収合併(簡易合併・略式合併)に関するお知らせ]</ref>。 * [[2016年]] ** 1月18日 - 国内でのブックレビューコミュニティサイトの運営等を目的として[[ブクログ|株式会社ブクログ]]の全株式を[[GMOペパボ|GMOペパボ株式会社]]から譲り受けし、同社を子会社化<ref>{{Cite web|和書|title=ブックオフ、書籍レビューサイトのブクログを完全子会社化 |url=http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/736484.html |website=INTERNET Watch |date=2015-12-21 |access-date=2023-07-23 |publisher=株式会社インプレス}}</ref> ** 4月1日 - 株式会社ビー・オー・エムを吸収合併。 ** 7月 - マレーシアでのリユース店舗の運営を目的として、株式会社コイケとKOIKE MALAYSIA SDN.BHD.との3社で締結された株主間契約に基づき、KOIKE MALAYSIA SDN.BHD.が設立したBOK MARKETING SDN.BHD.に出資し、同社を子会社化 ** 11月 - マレーシアで子会社BOK MARKETING SDN.BHD.がリユース店舗Jalan Jalan Japan OneCity店を運営開始 * [[2017年]] ** 3月 - 中古携帯端末の流通に関わる他企業7社とともに業界団体「リユースモバイル・ジャパン(RMJ)」を設立<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/14/346926/031500886/ 急きょ発足の中古スマホ業界団体、「下取り価格」だけじゃない実の狙い] 日経BP、2017/03/16</ref>。 ** 4月 *** 業績不振により、社長の松下展千が退き、取締役の堀内康隆が社長就任<ref>[https://thepage.jp/detail/20170412-00000002-wordleaf ブックオフ業績不振に苦しむ 書籍以外の商材拡大は進むか] THE PAGE、2017.04.13</ref>。 *** 当社のフランチャイズ加盟店である株式会社マナスの全株式を譲り受けし、同社を子会社化 *** [[リユースプロデュース]]株式会社が、「BINGO(ビンゴ)自由が丘店」をオープン<ref>{{Cite web|和書|title=「ブックオフ」跡に輸入メンズ古着・輸入雑貨のリユースショップ |url=https://jiyugaoka.keizai.biz/headline/4/ |website=自由が丘経済新聞 |access-date=2023-07-23}}</ref> * [[2018年]] ** [[9月26日]] - 東京証券取引所市場第一部上場廃止。 ** [[10月1日]] - ブックオフコーポレーションの[[株式移転|単独株式移転]]により、'''ブックオフグループホールディングス株式会社'''を設立。同時にブックオフコーポレーションに代わり、ブックオフグループホールディングスが東京証券取引所市場第一部に上場した<ref group="広報">[http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1589119 単独株式移転による持株会社設立に関するお知らせ] ブックオフコーポレーション 2018年5月15日</ref><ref group="広報">[http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1627563 ブックオフグループホールディングス株式会社新規上場承認に関するお知らせ] ブックオフコーポレーション 2018年9月3日</ref>。 ** 11月12日 - ヤフー株式会社との資本提携を解消、自己株式取得によりヤフーは株主から離脱した<ref>ブックオフグループホールディングス 第1期 有価証券報告書</ref>。 * [[2019年]] ** 1月 *** ブックオフコーポレーション株式会社が子会社ブックオフオンライン株式会社を吸収合併。 *** 国内での「BOOKOFF」店舗の運営を目的としてブックオフ南九州株式会社を設立 ** 4月 - ブックオフコーポレーション株式会社が子会社リユースコネクト株式会社を吸収合併 ** 9月 - ジュエリー専門店「aidect(アイデクト)」の運営会社株式会社ジュエリーア セット・マネジャーズの全株式をアント・キャピタル・パートナーズ株式会社が運営するアント・ブリッジ4号A投資事業有限責任組合から譲り受けし、同社を子会社化<ref>{{Cite web|和書|title=ブックオフ、アイデクトを買収 宝石リメイクに着目 |url=http://www.recycle-tsushin.com/news/detail_3966.php |website=リサイクル通信 |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref> *[[2020年]]6月 - 決算期を毎年3月31日から毎年5月31日に変更。 *2021年12月 - 国内でのトレーディングカード専門店「Japan TCG Center」店舗の運営を目的として株式会社BOチャンスを設立 *[[2022年]] **4月 - 東京証券取引所の市場区分の見直しにより、東京証券取引所の市場第一部からプライム市場に移行 **6月 - ブックオフコーポレーション株式会社が株式会社ジュエリーア セット・マネジャーズを吸収合併 **8月2日 - トレカやゲームソフトなど遊べるアイテムを豊富に取り揃えた専門店「あそビバ イオンモール和歌山店」をオープン<ref>{{Cite web|和書|title=大人も子どもわくわくどきどき!ブックオフの新しい専門店「あそビバ イオンモール和歌山店」2022年8月2日(火)にオープン {{!}} ブックオフグループホールディングス株式会社 |url=https://digitalpr.jp/r/61620 |website=Digital PR Platform |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ブックオフ、トレカやゲームソフト中心の専門店オープン |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2208/03/news068.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref> **[[9月19日]] - 都内最大級の[[八王子mio]]にあった[[八王子みなみ野]]店が閉店され、[[フレスポ八王子みなみ野店]]内に買取センターが設置される。一角にあったハードオフ・ホビーオフは8月末に閉店済み。 **[[12月10日]] - 埼玉県最大級のスーパーバザー上尾店が[[北上尾駅|P・A・P・A上尾ショッピングアヴェニュー]]内に出店。[[ハライチ]]岩井による開業イベントが催された。 *2023年1月 - プレミアムライン専門サイト「rehello(リハロ)」がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=ブックオフ、レアものと出会えるプレミアムECサイト「リハロ」をオープン |url=https://www.tsuhannews.jp/shopblogs/detail/70536 |website=通販通信ECMO |access-date=2023-07-23 |language=ja}}</ref> == 店舗・屋号 == [[ファイル:ブックオフ福岡飯倉.jpg|right|thumb|BOOKOFF福岡飯倉店([[福岡市]][[早良区]])]] [[ファイル:Miyanosawa-SC02.JPG|right|thumb|BOOKOFF SUPER BAZAAR 5号札幌宮の沢店([[札幌市]][[手稲区]])]] [[File:The company vehicle of Book Off.jpg|thumb|出張買取等に使用される車両。]] 日本全国に807店舗(2018年3月現在)。[[アメリカ合衆国]]、[[フランス]]、[[マレーシア]]にも事業展開し、[[ニューヨーク]]西45丁目店、{{仮リンク|ガーデナ|en|Gardena, California}}店、[[ハワイ]]アラモアナシロキヤ店、[[パリ]]・オペラ座店など海外店舗は2018年3月現在13店舗ある。かつては[[カナダ]]・[[大韓民国]]にも出店していたが閉鎖した。[[永山駅 (東京都)|スーパーバザー多摩永山店]]は[[無料送迎バス]]が運行されている。自由が丘店のように、スーパーバザーから格下げされたり、中目黒店の様に買取センターになるケースもある。ハードオフ・ホビーオフとの共同店舗も多く、特に[[千葉県]]の[[ハードオフファミリー]]運営店舗、[[岐阜県]]、[[ハードオフコーポレーション]]本社のある[[新潟県]]で多く見られる他、都内最大級の[[八王子みなみ野]]店はスーパーバザー(直営)の中にハードオフ・ホビーオフ([[ゼロエミッション (企業)|ゼロ・エミッション]]運営)が存在していた(2022年8月30日閉店<ref>{{Cite web|和書|title=【八王子市】ミナミノーゼもお気に入り。貴重な新品・一点ものが豊富にある、ハードオフ・ホビーオフ みなみ野店が移転閉店へ |url=https://hachioji.goguynet.jp/2022/08/14/hard-off-heiten/ |website=号外NET 八王子市 |date=2022-08-13 |access-date=2022-09-02 |language=ja}}</ref>、11月中旬に[[アリオ橋本]]から線路を挟んだ対面に東橋本店として移転。ブックオフも同年9月19日に閉店<ref>{{Cite web|和書|title=【八王子市】八王子みなみ野で大型店がまた閉店。都内最大級のブックオフスーパーバザールがなくなります |url=https://hachioji.goguynet.jp/2022/08/23/book-off/ |website=号外NET 八王子市 |date=2022-08-22 |access-date=2022-09-02 |language=ja}}</ref>)。ブックオフ閉店後は隣接地で買取センターの営業。[[ワットマン]]運営店舗もある。 [[空中店舗]]の[[川崎モアーズ]](スーパーバザー)が全国売上2位である。<ref> https://www.bookoff.co.jp/buy/shop/shop20120.html </ref> === 展開店舗 === * BOOKOFF(ぶっくおふ) - 書籍・家電・CD・DVD・ビデオ・ゲーム・携帯電話の買取・販売 *▲B・KIDS(びーきっず) - 子供服古着・ベビー用品・マタニティ用品の買取・販売 *▲B・SPORTS(びーすぽーつ) - スポーツ用品・アウトドア用品の買取・販売 *▲B・STYLE(びーすたいる) - 古着・小物の買取・販売 *▲B・LIFE(びーらいふ) - 雑貨・インテリア・ギフト商品の買取・販売 *▲B・Select(びーせれくと) - 中古貴金属・腕時計・アクセサリーの買取・販売 * BOOKOFF SUPER BAZAAR(すーぱーばざー) - 「BOOKOFF」に様々な商材を複合させた大型パッケージ。「中古劇場」を2009年に名称変更。 * BOOKOFF PLUS(ぷらす) - 「BOOKOFF」にアパレルを複合させた中型パッケージ。 *BINGO(びんご) - アパレルや装飾品関連が中心 *Benry(べんりー) - [[ベンリーコーポレーション]]と提携している。[[ハウスクリーニング]]・[[リフォーム]]、[[引越]]、[[害虫駆除]]、[[家事代行]]、不用品整理などが主。2020年9月23日にスーパーバザー綱島樽町店内に併設開店、直営。<ref>https://tsunashimatarumachi.benry.com/</ref> * あそビバ - ホビーやトレカなどに特化した店舗で、本は扱わない。現在は[[イオンモール和歌山]]、堺北花田、各務原内に出店。 * hugall(はぐおーる) - 富裕層をメインターゲットした百貨店内買取サービス *aidect(あいでくと) - ジュエリーのリフォーム・修理・買取・サステナブルジュエリーの販売 * [[青山ブックセンター]] - 新刊書店。六本木・青山などの一等地に出店。ファッション・広告・建築・音楽の分野を得意とする。 * 流水書房 - 「BOOKOFF」に併設された新刊書店。 ※▲は現在直営店では使用していない。 === インターネット店舗 === ブックオフのインターネット店舗としては、2007年運営開始の[[ブックオフオンライン]](ブックオフコーポレーション100%出資)がある。 ブックオフオンライン創業前に、ブックオフコーポレーションの起業家支援制度によって独立した[[黒田武志]]が創業した会社・イーブックオフ(その後商号を「ネットオフ」→「リネットジャパン」に変更)が同種の営業を営んでいたが、[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]]との資本提携・社名変更などを経てブックオフからの独立を果たしている。 == 問題点 == ; 売上水増し及び坂本CEOへの個人リベート問題・社員へのセクハラ問題 [[2007年]][[5月9日]]に、[[週刊文春]]に掲載された記事を発端として、子会社を通しての不適切な売上水増し([[粉飾決算]])問題と[[坂本孝]][[CEO]]の[[リベート]]問題が発覚した<ref name="nikkei" />。その後、ブックオフは調査委員会を設置し内部調査を開始。そして、2004年12月と2006年2月の2回にわたって、合計2206万円の不適切な売り上げ計上の水増しがあったことを発表し、また坂本代表取締役会長兼CEOについては、1993年5月から2001年5月までの8年間に、[[丸善]]から約7億4200万円の個人リベートを受け取っていたことを発表。坂本CEOは、当初この半分を自主的にブックオフに返還する意向を示していたが、後日、全額を返還すると訂正した。同年[[6月23日]]に坂本CEOは引責辞任し、橋本COOは代表権のない取締役会長に異動、新社長には[[執行役員]]企業戦略担当で戦略部門長の[[佐藤弘志]]が就任した。 また、その後、坂本による[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]問題も浮上し、同年[[7月25日]]の調査委員会の報告により、セクハラ行為があったことが判明した<ref name="nikkei2" />。坂本本人も、セクシャル・ハラスメント、[[パワー・ハラスメント]]行為、[[企業コンプライアンス|コンプライアンス]]意識が低い言動があったことを認めた。 == グループ会社 == * ブックオフコーポレーション株式会社 * 株式会社ブックレット * 株式会社ブックオフウィズ * 株式会社ブックオフ沖縄 * 株式会社マナス * 株式会社ブックオフ南九州 * 株式会社BOチャンス * ビーアシスト株式会社 * 株式会社ブクログ * BOOKOFF U.S.A. INC. * BOK MARKETING SDN.BHD. == その他 == * 2013年2月3日の[[TBSテレビ]]『[[がっちりマンデー!!]]』にて同社の特集が組まれ、松下社長もスタジオ出演した<ref>[https://archive.is/I0QXU がっちりマンデー!! 2013年2月3日の放送内容] - TBSテレビ(archive版)</ref>。 == 関連項目 == * [[Second Life]] - 仮想空間内にブックオフセカンドライフ店を出店していた<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0702/21/news087.html|title=Second Lifeにブックオフが出現|work=ITmedia News|date=2007-02-21|accessdate=2010-01-23|language=日本語}}</ref>。 * [[ハードオフコーポレーション]] - 新潟県新発田市に本社を置く[[兄弟会社]]で、グループ会社と誤解される場合が多い。但し、ハードオフ関係との共同店舗は多く、一部はハードオフファミリーがFC展開する運営店舗も存在し、かつてはその逆もあった<ref>{{Cite news|url=https://freesoftlab.com/blog/hard-off-book-off/|title=ハードオフとブックオフの関係とは?運営会社は別だがパクリではない?|work=フリーソフトラボ.COM|date=2019-10-20|accessdate=2023-01-29|language=日本語}}</ref>。但し、FC店舗は柏[[イトーヨーカドー]]や[[マリンピア]]、[[高柳駅]]前や柏沼南など、ブックオフとホビーオフ・ハードオフ・オフハウスが併設していてもスーパーバザーやプラスとしていない。 *[[リネットジャパングループ]] - 愛知県名古屋市中村区に本社を置き、書店・古書店・リサイクルショップ「ネットオフ」(NET OFF)を運営するネットオフ株式会社やネットリサイクル事業を行うリネットジャパンリサイクル株式会社を傘下に持つ。1998年にブックオフコーポレーションの起業家支援制度の第1号として三重県四日市市で「e-BOOK OFF(現在のNET OFF)」として事業開始。 * [[リサイクルショップ]] * [[古書店]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} == 関連書籍 == * [[大塚桂一]]『ブックオフ革命』(1994年) ISBN 4-8871-8271-6 * [[小田光雄]]『ブックオフと出版業界―ブックオフ・ビジネスの実像』(2000年) * [[村野まさよし]]・坂本孝・[[松本和那]]『ブックオフの真実――坂本孝ブックオフ社長、語る』(2003年)対談 * グロービス[[経営学修士|MBA]] ブックオフ探検隊『ブックオフ 情熱のマネジメント』(2004年) * [[小林成樹]]『挑戦 何が起業の成否を分けるのか』(2000年) ISBN 4-478-37297-7 * {{Cite journal|和書|author=[[坪内祐三]]|title=高原書店からブックオフへ、または「せどり」の変容|year=2015|month=6|journal=新潮45|volume=34|issue=6|naid=40020457447}} == 外部リンク == {{Commons|Category:Book Off}} * [https://www.bookoff.co.jp/ ブックオフコーポレーション株式会社] * [https://www.bookoffgroup.co.jp/ ブックオフグループホールディングス株式会社] * [https://shopping.bookoff.co.jp/ ブックオフ公式オンラインストア] * {{Twitter|BOOKOFF|ブックオフ}} * {{Facebook|bookoffcorporation|ブックオフ}} * {{Instagram|bookoff_official|ブックオフ}} {{リダイレクトの所属カテゴリ | redirect1 = ブックオフグループホールディングス | 1-1 = 日本の持株会社 | 1-2 = 相模原市南区の企業 | 1-3 = 2018年設立の企業 | 1-4 = 2018年上場の企業 | 1-5 = 東証プライム上場企業 }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつくおふこおほれえしよん}} [[Category:古書店]] [[Category:相模原市南区の企業]] [[Category:2004年上場の企業]] [[Category:ゲームソフト販売店]] [[Category:日本のリサイクルショップ]] [[Category:1991年設立の企業]] [[Category:大日本印刷]]
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笹本祐一
笹本 祐一(ささもと ゆういち、1963年2月18日 - )は、日本のSF作家、シナリオライター。工学院大学中退。主にSF作品を中心に執筆。東京都出身。現在は札幌市在住。 1984年、『妖精作戦』にて、朝日ソノラマより小説家デビュー。大ヒットシリーズ『ARIEL』で一躍有名に。 1999年、『星のパイロット2 彗星狩り』で第30回星雲賞日本長編部門を受賞。ライト的なキャラクターと、硬派なSFが混じり合った独特の作風で人気を集める。近年は航空宇宙の分野を舞台にしたハードSF作品を多数執筆。 自身を「現役最古のラノベ作家」と称している。 ロケット好きの人物としても有名で、宇宙作家クラブの中心的メンバーとして活動、近年の国内で行われるロケット打ち上げのほとんどを見ている。ロケット好きになり始める頃の著作から明らかに航空宇宙の作品が増加しており、ロケットの打ち上げ取材日記『宇宙へのパスポート』シリーズを刊行している。なお、『宇宙へのパスポート』シリーズの1巻〜3巻それぞれで、星雲賞ノンフィクション部門を受賞している。 2003年12月5日にNHK教育の番組『視点・論点』にSF作家としては小松左京以来の出演を果たしたが、そのテーマも「幻の日本有人宇宙計画」というものであった。
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笹本 祐一は、日本のSF作家、シナリオライター。工学院大学中退。主にSF作品を中心に執筆。東京都出身。現在は札幌市在住。 1984年、『妖精作戦』にて、朝日ソノラマより小説家デビュー。大ヒットシリーズ『ARIEL』で一躍有名に。 1999年、『星のパイロット2 彗星狩り』で第30回星雲賞日本長編部門を受賞。ライト的なキャラクターと、硬派なSFが混じり合った独特の作風で人気を集める。近年は航空宇宙の分野を舞台にしたハードSF作品を多数執筆。 自身を「現役最古のラノベ作家」と称している。 ロケット好きの人物としても有名で、宇宙作家クラブの中心的メンバーとして活動、近年の国内で行われるロケット打ち上げのほとんどを見ている。ロケット好きになり始める頃の著作から明らかに航空宇宙の作品が増加しており、ロケットの打ち上げ取材日記『宇宙へのパスポート』シリーズを刊行している。なお、『宇宙へのパスポート』シリーズの1巻〜3巻それぞれで、星雲賞ノンフィクション部門を受賞している。 2003年12月5日にNHK教育の番組『視点・論点』にSF作家としては小松左京以来の出演を果たしたが、そのテーマも「幻の日本有人宇宙計画」というものであった。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{存命人物の出典明記|date=2023年7月}} {{Infobox 作家 | name = 笹本祐一 | image = <!--写真、肖像画等のファイル名--> | image_size = <!--画像サイズ--> | caption = <!--画像説明--> | pseudonym = 笹本祐一 | birth_name = <!--出生名--> | birth_date = {{生年月日と年齢|1963|02|18}} | birth_place = {{JPN}} 東京都 | death_date = <!--{{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}}--> | death_place = <!--死亡地--> | resting_place = <!--墓地、埋葬地--> | occupation = <!--職種--> | language = 日本語 | nationality = {{JPN}} | education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> | alma_mater = <!--出身校、最終学歴--> | period = 1984- | genre = 小説 | subject = [[宇宙開発]] | movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> | religion = <!--信仰する宗教--> | notable_works = 『[[ARIEL]]』<ref name="このラノ2006">『このライトノベルがすごい!2006』宝島社、2005年12月10日第1刷発行、114頁、{{ISBN2|4-7966-5012-1}}</ref> | spouse = <!--配偶者--> | partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)--> | children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する--> | relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> | influences = <!--影響を受けた作家名--> | influenced = <!--影響を与えた作家名--> | awards = 第30回[[星雲賞]](日本長編部門) | debut_works = 『妖精作戦』{{R|このラノ2006}} | signature = <!--署名・サイン--> | website = <!--本人の公式ウェブサイト--> | footnotes = <!--脚注・小話--> }} '''笹本 祐一'''(ささもと ゆういち、[[1963年]][[2月18日]]{{R|このラノ2006}} - )は、[[日本]]の[[SF作家]]、[[脚本家|シナリオライター]]。[[工学院大学]]中退。主に[[サイエンス・フィクション|SF]]作品を中心に執筆。[[東京都]]出身。現在は[[札幌市]]在住。 [[1984年]]、『[[妖精作戦]]』にて、[[朝日ソノラマ]]より小説家デビュー。大ヒットシリーズ『[[ARIEL]]』で一躍有名に。 [[1999年]]、『[[星のパイロット]]2 彗星狩り』で第30回[[星雲賞]]日本長編部門を受賞。ライト的なキャラクターと、硬派なSFが混じり合った独特の作風で人気を集める。近年は航空宇宙の分野を舞台にした[[ハードSF]]作品を多数執筆。 自身を「現役最古の[[ライトノベル|ラノベ]]作家」と称している<ref>[https://twitter.com/sasamotoU1 本人のプロフィール]</ref>。 [[ロケット]]好きの人物としても有名で、[[宇宙作家クラブ]]の中心的メンバーとして活動、近年の国内で行われるロケット打ち上げのほとんどを見ている。ロケット好きになり始める頃の著作から明らかに航空宇宙の作品が増加しており、ロケットの打ち上げ取材日記『宇宙へのパスポート』シリーズを刊行している。なお、『宇宙へのパスポート』シリーズの1巻〜3巻それぞれで、[[星雲賞]]ノンフィクション部門を受賞している。 2003年12月5日に[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]の番組『[[視点・論点]]』にSF作家としては[[小松左京]]以来の出演を果たしたが、そのテーマも「幻の日本有人宇宙計画」というものであった。 ==経歴== * [[1984年]] - 『妖精作戦』でデビュー。 * [[1999年]] - 『星のパイロット2 彗星狩り』で第30回[[星雲賞]]日本長編部門を受賞。 * [[2003年]] - 『宇宙へのパスポート』で第34回星雲賞ノンフィクション部門を受賞。 * [[2004年]] - 『宇宙へのパスポート2』で第35回星雲賞ノンフィクション部門を受賞。 * [[2005年]] - 『ARIEL』で第36回星雲賞日本長編部門を受賞。 * [[2007年]] - 『宇宙へのパスポート3』で第38回星雲賞ノンフィクション部門を受賞。 * [[2013年]] - 『[[モーレツ宇宙海賊]]』(モーレツパイレーツ)で第44回星雲賞メディア部門を受賞。 ==作品リスト== === 小説 === ==== 妖精作戦シリーズ ==== {{Main|妖精作戦}} ==== スターダスト・シティシリーズ ==== # スターダスト・シティ 1(1986年1月 ソノラマ文庫) # スターダスト・シティ 2(1986年6月 ソノラマ文庫) ==== ARIELシリーズ ==== {{Main|ARIEL}} ==== 星のダンスを見においでシリーズ ==== # 星のダンスを見においで 1(1992年7月 ソノラマ文庫/2015年10月 創元SF文庫)- 創元SF文庫版では『星のダンスを見においで 地球戦闘編』に改題 # 星のダンスを見においで 2(1993年4月 ソノラマ文庫/2015年10月 創元SF文庫)- 創元SF文庫版では『星のダンスを見においで 2 宇宙海賊編』に改題 ===== 新装版 ===== # 星のダンスを見においで(2005年4月 [[ソノラマノベルス]]/2007年10月 ソノラマノベルス新装版)- 旧版第1・2巻の合本 ==== 小娘オーバードライブシリーズ ==== {{Main|小娘オーバードライブ}} ==== 星のパイロットシリーズ ==== # 星のパイロット(1997年3月 ソノラマ文庫) # 彗星狩り 上 星のパイロット 2(1998年2月 ソノラマ文庫) # 彗星狩り 中 星のパイロット 2(1998年5月 ソノラマ文庫) # 彗星狩り 下 星のパイロット 2(1998年7月 ソノラマ文庫) # ハイ・フロンティア 星のパイロット 3(1999年4月 ソノラマ文庫) # ブルー・プラネット 星のパイロット 4(2000年10月 ソノラマ文庫) ===== 新装版 ===== ===== 朝日ノベルズ版 ===== # 星のパイロット(2012年7月 朝日ノベルズ)- 旧版第1巻 # 彗星狩り 上 星のパイロット 2(2013年2月 朝日ノベルズ)- 旧版第2・3巻の合本 # 彗星狩り 下 星のパイロット 2(2013年3月 朝日ノベルズ)- 旧版第3・4巻の合本 # ハイ・フロンティア/ブループラネット 星のパイロット 3(2013年7月 朝日ノベルズ)- 旧版第5・6巻の合本 ===== 創元SF文庫版 ===== # 星のパイロット(2021年10月 創元SF文庫) # 彗星狩り 上 星のパイロット 2(2021年12月 創元SF文庫)- 旧版第2・3巻の再編・合本 # 彗星狩り 下 星のパイロット 2(2021年12月 創元SF文庫)- 旧版第3・4巻の再編・合本 # ハイ・フロンティア 星のパイロット 3(2022年2月 創元SF文庫) # ブループラネット 星のパイロット 4(2022年5月 創元SF文庫) ==== 星の航海者シリーズ ==== # 星の航海者〈1〉 遠い旅人(2023年4月 創元SF文庫) ==== ほしからきたもの。シリーズ ==== # ほしからきたもの。 1(2001年10月 ハルキ文庫) # ほしからきたもの。 2(2002年12月 ハルキ文庫) ==== ミニスカ宇宙海賊シリーズ ==== {{Main|ミニスカ宇宙海賊}} ==== 放課後地球防衛軍シリーズ ==== # 放課後地球防衛軍 1 なぞの転校生(2016年11月 [[ハヤカワ文庫|ハヤカワ文庫JA]]) # 放課後地球防衛軍 2 ゴースト・コンタクト(2019年3月 ハヤカワ文庫JA) ==== ノンシリーズ ==== * Rio(1990年2月 [[富士見ファンタジア文庫]]/2000年9月 [[ハルキ文庫]])- ハルキ文庫版では『天使の非常手段Rio 1』に改題 * 大西洋の亡霊 バーンストーマー 1(1991年5月 ソノラマ文庫/2007年10月 ソノラマノベルス)- ソノラマノベルス版では『複葉の馭者』に改題 * 裏山の宇宙船(1994年8月 - 9月 ソノラマ文庫/2005年6月 ソノラマノベルス/2007年10月 ソノラマノベルス新装版/2016年7月 創元SF文庫版 上下巻) === ノンフィクション === ==== 宇宙へのパスポートシリーズ ==== # 宇宙へのパスポート ロケット打ち上げ取材日記 1999-2001(2002年1月 [[朝日ソノラマ]]/2007年10月 [[朝日新聞出版]]) # 宇宙へのパスポート 2 M-V&H-ⅡAロケット取材日記(2003年10月 朝日ソノラマ/2007年10月 朝日新聞出版)- 解説:[[松浦晋也]] # 宇宙へのパスポート 3 宇宙開発現場取材日記(2006年8月 朝日ソノラマ/2007年10月 朝日新聞出版)- 解説:松浦晋也 === 単行本未収録 === * 迷子の宇宙戦艦(「[[マップス#マップス・シェアードワールド|マップス・シェアードワールド]]―翼あるもの―」収録) * 四枚目の星図(「マップス・シェアードワールド2―天翔る船―」収録) ===脚本=== * [[ダーティペア (アニメ)|ダーティペア]] (OVA版) * [[ヴイナス戦記#アニメ版|ヴイナス戦記]] (映画版) * ARIEL(カセット文庫) * ARIEL II 幻影の侵略(カセット文庫) * ARIEL III 野良無人戦艦の恐怖(カセット文庫) * DELUXE ARIEL 接触編 THE BEGINNING (OVA) * DELUXE ARIEL 発動編 GREAT FALL (OVA) * 星のパイロット(ドラマCD) ==主要な執筆レーベル== * [[ソノラマ文庫]] * [[ソノラマノベルズ]] * [[ハルキ文庫ヌーヴェルSFシリーズ]] * [[角川スニーカー文庫]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== * [[ライトノベル]] * [[SF作家一覧]] ==外部リンク== * {{Twitter|sasamotoU1}} * {{マンガ図書館Z作家|34}} {{星雲賞日本長編部門|第30・36回}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ささもと ゆういち}} [[Category:日本のSF作家]] [[Category:日本のライトノベル作家]] [[Category:日本の小説家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:工学院大学出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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ラテン語
ラテン語(ラテンご、ラテン語: lingua Latina)(Latin languages、Romance languages)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派ラテン・ファリスク語群の言語の一つ。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。 元はイタリア半島の古代ラテン人によって使われ、古代ヨーロッパ大陸(西部および南部)やアフリカ大陸北部で広範に話され、近代まで学術界などでは主要言語として用いられた。 もともとラテン語は、イタリア半島中部のラティウム地方(ローマを中心とした地域、現イタリア・ラツィオ州)においてラテン人が用いた言語であったが、古代ローマ・共和政ローマ・ローマ帝国で用いられ公用語となったことにより、ローマ帝国の広大な版図(ヨーロッパ大陸の西部や南部、アフリカ大陸北部、アジアの一部)へ伝播した。 西ローマ帝国滅亡後もラテン語はローマ文化圏の古典文学を伝承する重要な役割を果たした。勢力を伸ばすキリスト教会を通してカトリック教会の公用語としてヨーロッパ各地へ広まり、祭祀宗教用語として使用されるようになると、中世には、中世ラテン語として成長した。ルネサンスを迎えると、自然科学・人文科学・哲学のための知識階級の言語となった。さらに、読み書き主体の文献言語や学術用語として近世のヨーロッパまで発展・存続した。現在もラテン語はバチカンの公用語であるものの、日常ではほとんど使われなくなったといえる。しかし、各種学会・医学・自然科学・数学・哲学・工業技術など各専門知識分野では、世界共通の学名としてラテン語名を付けて公表する伝統があり、新発見をラテン語の学術論文として発表するなど、根強く用いられ続けている。他公用語が複数あるスイスでは記述スペースが足りない場合ラテン語での表記を公的機関がすることを認めている。また、略号として午前・午後のa.m.(ante meridiem)・p.m.(post meridiem)や、ウイルス(virus)やデータ(data)など、日常的に用いられる語のなかにも語源がラテン語に由来するものがある。 ラテン語が広まる過程でギリシア語から多くの語彙を取り入れ、学問・思想などの活動にも使用されるようになった。 ただしラテン語が支配的な地域はローマ帝国の西半分に限られ、東半分はギリシア語が優勢な地域となっていた。やがてローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国が滅び西ヨーロッパの社会が大きく変動するのに従い、ラテン語は各地で変容していき、やがて各地の日常言語はラテン語と呼べるものではなくなり、ラテン語の流れをくんだロマンス諸語が各地に成立していった。元々ギリシア語が優勢だった東ローマ帝国においても、7世紀に公用語はギリシア語に転換された。 こうした中、今日の西ヨーロッパに相当する地域においてはローマ帝国滅亡後もローマ・カトリック教会の公用語となり、長らく文語の地位を保った。現在でもバチカン市国の公用語はラテン語である。たとえば、典礼は第2バチカン公会議まで、ラテン語で行われていた。今日に至るまで数多くの作曲家が典礼文に曲をつけており、クラシック音楽の中では主要な歌唱言語の1つである。ただし、実際の使用は公文書やミサなどに限られ、日常的に話されているわけではない。また、バチカンで使われるラテン語は、古典式とは異なる変則的なラテン語である。なお、多民族・多言語国家であるスイスではラテン語の名称 Confoederatio Helvetica(ヘルヴェティア連邦)の頭字語を自国名称の略 (CH) としている。また欧州会社(Societas Europaea,SE)のように欧州共通の用語にラテン語が使用されている場合もある。 中世においては公式文書や学術関係の書物の多くはラテン語(中世ラテン語、教会ラテン語)で記され、この慣習は現在でも残っている。例えば、生物の学名はラテン語を使用する規則になっているほか、元素の名前もラテン語がほとんどである。また法学においても、多くのローマ法の格言や法用語が残っている。19世紀までヨーロッパ各国の大学では学位論文をラテン語で書くことに定められていた。 今日のロマンス諸語(東ロマンス語:イタリア語・ルーマニア語、西ロマンス語:フランス語・スペイン語・ポルトガル語など)は、俗ラテン語から派生した言語である。また、英語・ドイツ語・オランダ語などのゲルマン諸語にも文法や語彙の面で多大な影響を与えた。 現代医学においても、解剖学用語は基本的にラテン語である。これは、かつて誰もが自由に造語して使っていた解剖学語彙を、BNA(バーゼル解剖学用語)、PNA(パリ解剖学用語)などで統一した歴史的経緯が関連している。つまり、用語の統一にラテン語が用いられたのである。そのため、日本解剖学会により刊行されている『解剖学用語』も基本的にはラテン語である(ラテン語一言語主義)。ただし、臨床の場面では、医師が患者に自国語で病状説明をするのが当然であるため、各国ともラテン語の他に自国語の解剖学専門用語が存在する(ラテン語・自国語の二言語主義)。近年では、医学系の学会や学術誌の最高峰が英語圏に集中するようになったため、英語の解剖学用語の重要性が上がった。日本では、ラテン語・英語・日本語の三言語併記の解剖学書が主流となった(ラテン語・英語・自国語の三言語主義)。 「ウイルス (virus)」など、日本語でも一部の語彙で用いられる(ただし、元の母音の長短の区別はほとんど意識されない)。なお、森鷗外の小説『ヰタ・セクスアリス』は、ラテン語の vita sexualis(性的生活)のことである。 ラテン語が属するイタリック語派は、インド・ヨーロッパ語族内ではケントゥム語派に分類され、インド・ヨーロッパ祖語の *k および *g はラテン語でも K, G として保たれた。イタリック語派の話者がイタリア半島に現れたのは紀元前2千年紀後半と見られており、ラテン語の話者がラティウム地方(現在のイタリア、ラツィオ州)で定住を開始したのは紀元前8世紀だった。現在発見されているラテン語の最も古い碑文は紀元前7世紀に作られたものである。この時期から紀元前2世紀頃までのラテン語は、のちの時代のラテン語と区別され古ラテン語と呼ばれる。この時代のラテン語は、語彙などの面で隣接していたエトルリア語などの影響を受けた。 古ラテン語では以下の21文字のアルファベットが使われた。下段には現在の字形を記している。これは、西方ギリシア文字・初期のエトルリア文字・古イタリア文字のアルファベットをほぼ踏襲した このうち、C はΓ の異字体で [ɡ] の音を表し、I は [i] と [j]、V は [u] と [w] の音価を持った。五つの母音字(A, E, I, O, V)は長短両方を表したが、文字の上で長短の区別はなかった。紀元前3世紀になると C は [k] の音も表すようになり、K はほとんど使われなくなった。その後 [ɡ] の音を表すために G の文字が新たに作られ、使われなかった Z の文字の位置へ置き換えられた。 古ラテン語は、古典ラテン語に残る主格、呼格、属格(所有格)、与格(間接目的格)、対格(直接目的格)、奪格に加え、場所を表す所格(処格、地格、位格、依格、於格などともいう)があった。名詞の曲用では、第二変化名詞の単数与格および複数主格が -oī だった。古典ラテン語における第二変化名詞単数の語尾 -us, -um はこの時代それぞれ -os, -om だった。また、複数属格の語尾は -ōsum(第二曲用)であり、これはのちに -ōrum となった。このように、古ラテン語時代の末期には母音間の s が r になる「ロタシズム」という変化が起きた。 紀元前1世紀以降、数世紀にわたって用いられたラテン語は古典ラテン語(古典期ラテン語)と呼ばれる。のちの中世、また現代において人々が学ぶ「ラテン語」は、通常この古典ラテン語のことをいう。この古典ラテン語は書き言葉であり、多くの文献が残されているが、人々が日常話していた言葉は俗ラテン語(口語ラテン語)と呼ばれる。この俗ラテン語が現代のロマンス諸語へと変化していった。 古ラテン語と同様に、scriptio continua(スクリプティオー・コンティーヌア、続け書き)といって、単語同士を分かち書きにする習慣がなかった(碑文などでは、小さな中黒のようなもので単語を区切った例もある)。アルファベットもキケロ(前106 – 43)の時代までは X までの21文字だった。また、大文字のみを用いた。 紀元の初めにギリシア語起源の外来語を表記するために Y と Z が新たに使われるようになり、アルファベットは以下の 23 文字となった。 ただし、K は KALENDAE 等の他は固有名詞に限定されて常用されることはなくなり、[k] の音は C が常用された(ただし [kw] は QU と表記した) 。 古典ラテン語では C および G はそれぞれ常に [k] および [ɡ] と発音された。Y を含めた6つの母音字は長短両方を表したが、ごく一時期を除き表記上の区別はされなかった。 古典ラテン語のアクセントは、現代ロマンス諸語に見られるような強勢アクセントではなく、現代日本語のようなピッチアクセント(高低アクセント)であったとされる(強勢アクセントとする説も存在する)。文法面では、古ラテン語の所格(処格、地格、位格、依格、於格などともいう)は一部の地名などを除いて消滅し、六つの格(主格、呼格、属格、与格、対格、奪格)が使用された。また以前の時代の語尾 -os, -om は、古典期には -us, -um となった。 この時代の話し言葉(俗ラテン語)では、文末の -s は後ろに母音が続かない限り発音されない場合があった。また au は日常では [ɔː] と読まれた。このように古典期には、話し言葉と古風な特徴を残した書き言葉の乖離が起きていた。現在古典ラテン語と呼ばれるものはこの時期の書き言葉である。 紀元前1世紀頃。 1世紀頃。 古典期が終わると、人々が話すラテン語は古典語からの変化を次第に顕著に見せるようになっていった。この時代に大衆に用いられたラテン語は俗ラテン語(口語ラテン語)と呼ばれる。2世紀、あるいは3世紀頃から俗ラテン語的な特徴が見られるようになっていたが、時代が下るにつれ変化は大きくなり、地方ごとの分化も明らかになっていった。 古典ラテン語には Y を除けば5母音があり、長短を区別すれば10の母音があったが、俗ラテン語になるとこれらは以下の7母音になった。 古典期の長母音 [eː] は [e] に、[oː] は [o] に変化した。また短母音 [e] と [o] は、俗ラテン語ではそれぞれ [ɛ] と [ɔ] になった。古典期の V は、子音としては [w] と発音されたが、俗ラテン語の時代には [v] に変化していた。さらにアクセントはピッチアクセントから現代ロマンス諸語と同様の強勢アクセントに置き換えられていった。古典期の [k] と [ɡ] も変化を起こした。これらは前舌母音([i] や [e])の前では軟音化して口蓋音化(硬口蓋音化)し、それぞれ [tʃ]、[dʒ] の音になった。 俗ラテン語では動詞などの屈折にも変化が起きた。動詞の未来時制では、古典期の -bo に代わり habere(持つ)の活用形を語幹末に付した形式が用いられ始めた。指示詞 ille は形が変化し、次第に冠詞として用いられるようになっていった。名詞の曲用では格変化が単純化され、主格と対格は同一(特に女性名詞)になり、属格と与格も統合された。単純化した名詞の格に代わって前置詞が発達していった。例えば属格に代わり de が、与格に代わり a が用いられ始めた。 イタリアやイベリア半島ではやがて名詞の格変化は消滅し、フランスでも12世紀頃には使われなくなり、ダキアで使用されたのちのルーマニア語を除いて格変化はなくなった。このような文法的特徴のみならず、音韻面や語彙でも地方ごとの違いを大きくしていった俗ラテン語は、やがてロマンス諸語と呼ばれる語派を形成した。 かつてのローマ帝国の版図で用いられたラテン語は一般大衆には使われなくなり、それぞれの地域でラテン語から変化した俗ラテン語がそれに置き換えられた。一方で古典ラテン語は、旧ローマ帝国領内のみならず西ヨーロッパ全域において近代諸語が文語として確立するまでは、学術上の共通語として使用された。カトリック教会でも同じく、古典ラテン語の伝統の下にあるラテン語が教会ラテン語と呼ばれて使用されたが、こちらはその後もなお使用され続けた。 ヨーロッパではラテン語は長い間教会においても学問の世界においても標準的な言語として用いられてきたが、ルネサンスと共に古典古代の文化の見直しが行われ、古典期の文法・語彙を模範としたラテン語を用いようとする運動が人文主義者の間で強まった。これにより中世よりもむしろ「正しい」ラテン語が教育・記述されるようになる。共通化が進んだラテン語は、近代においても広く欧州知識人の公用語として用いられた。 この近代ラテン語で著述した主な思想家としてはトマス・モア(『ユートピア』)、エラスムスのような人文主義者だけでなく、デカルト、スピノザなどの近代哲学の巨人も挙げられる。有名なデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉の初出は『方法序説』フランス語版であるが、後にラテン語訳された Cogito, ergo sum.(コーギトー、エルゴー・スム)の方が広く知られている。自然科学ではニュートンのプリンキピアがある。ただしフランスの啓蒙思想家、ドイツのカント以降は母語で著述するのが主流になった。 学問的世界においては、ラテン語はなお権威ある言葉であり世界的に高い地位を有する言語である。現在でも学術用語にラテン語が使用されるのには、学術用の語彙が整備されており、かつ死語であるために文法などの面で変化が起きない(現実には中世・近世を通して多少の変化はあったが)という面、あるいは1つの近代語の立場に偏らずに中立的でいられるという面も見逃すことはできない。無論これは他の古典語でも同じであるが、ラテン語が選択されたのは近現代におけるそうした学問が、良し悪しは別として、欧州中心のものであったことが反映している。現在も活用されている場面として、たとえば生物の学名はラテン語もしくはギリシア語単語をラテン語風の綴りに変えたものがつけられるのが通例である。 また、現在においてもラテン語の知識は一定の教養と格式を表すものであり、国(例アメリカ合衆国、スペイン、スイス、カナダおよびカナダの各州など)や団体(アメリカ海兵隊、イギリス海兵隊など)のモットーにラテン語を使用する例や、1985年にサラマンカ大学が日本の皇太子夫妻の来学の記念の碑文を、スペイン語ではなくラテン語で刻んだことや、イギリスのエリザベス2世が1992年を評して Annus Horribilis(アナス・ホリビリス、ひどい年)とラテン語(ただし発音は英語風)を使ったこともその現れといえる。日本でも高校野球の初代優勝旗には VICTORIBUS PALMAE(ウィクトーリブス・パルマエ、「勝利者に栄冠を」)と刺繍されていた。だが、ラテン語が今日の欧州で重視されているとまでいうことはできない。欧州諸国では第二次世界大戦前までは中等教育課程でラテン語必修の場合が多かったが、現在では日本での「古典」「古文」ないし「漢文」に相当する科目として存在する程度である。 日常会話という観点からみると、現代ではラテン語での会話そのものがほとんど存在しないため、死語に近い言語の1つであるともいえるが、ラテン語は今でも欧米の知識人層の一部には根強い人気がある。近年はインターネットの利用の拡大に伴ってラテン語に関心のある個人が連携を強めており、ラテン語版ウィキペディアも存在する(ラテン語: Vicipaedia)ほか、ラテン語による新聞やSNS、メーリングリスト、ブログも存在する。さらに、フィンランドの国営放送は定期的にラテン語でのニュース番組を放送している。 現在、ラテン語を公用語として採用している国はバチカン市国のみである。これは、現在でもラテン語がカトリック教会の正式な公用語に採用されているためであるが、そのバチカン市国でもラテン語が用いられるのは回勅などの公文書、コンクラーヴェの宣誓、「ウルビ・エト・オルビ」などの典礼文などに限られ、2013年の教皇ベネディクト16世の退位に際しては、退位の意思表明と理由は、教皇本人が作成したラテン語の文章の朗読で行われた。日常生活ではイタリア語が用いられる(バチカンはローマ市内にある)。 ヨーロッパの各地で長期にわたって用いられていたため、国や地域、時代によって発音は異なるが、現代には大きく分けて古典式、イタリア式、ドイツ式の3つがある。イタリア式には、現代イタリア語の原則にのっとって発音するものと、それをもとにした教会式(ローマ式)の2つがある。後者は、フランスのソレム修道院で提唱された発音法であり、ピウス10世が推奨したことで広まった。 日本の大学で学ぶ発音は、原則として古典式である。一方、ラテン語の楽曲の歌唱においてはイタリア式、ドイツ式が主流である。どのように異なるか、いくつか例を示す(実際には、地域や人によって発音の揺れがある)。 上の3つの方式に加えて、文章レベルのラテン語まではいかないが単語およびフレーズレベルでは英語式が広まっている。もともと英語でetc.(その他)がエトセトラ(et cetera、英語ではe、i、yの前のcはsと発音)、Et tu Brute(ブルータス、お前もか)がエト・テュー・ブリュータと発音されるなどの延長で 、英語が国際語になった現在特に科学用語に英語式発音が多い。例えば天文学関係では星座名は英語文章内でもラテン語を使い、恒星名もギリシャ文字名にラテン語星座名の属格(所有格)を添えるので、ラテン語が英語式に発音される。 日本語では古典式、英語式、またはドイツの音をカタカナ表記するのが慣習となっている。ただし、古典式によっていると思われる場合でも、母音の長短の別を表記しない場合がほとんどである。 その一方、宗教音楽の題名を表記する際は、イタリア式に近い表記が多い。例えば、Agnus Dei の Agnus は、古典式とドイツ式では「アグヌス」と発音するが、イタリア式では「アニュス」(厳密には、gn は [ɲ] という鼻音)となる。Magnificat も「マグニフィカト」ではなく、「マニフィカト」と表記される傾向が強い。 前述の通り、アクセントは時代により高低アクセントから強弱アクセントへ移行したが、単語のどの位置に強勢が置かれるかについては一定の法則を持つ。 その法則は以下の通りである。 1.の例:puella 少女(閉音節)。mercātor 商人(長母音)。 2.の例:īnsula 島。dominus 主人。 ラテン語は、他のすべての古インド・ヨーロッパ語族と同様に、強い屈折を持ち、それゆえに語順が柔軟である。従って、古典ラテン語はインド・ヨーロッパ祖語の形態を保存した古風な言語と言える。名詞には最大で7種類の格変化が、動詞には4種類の活用がある。ラテン語は前置詞を使用し、通常は修飾する名詞の後に形容詞・属格を置く。ラテン語はまた、pro脱落言語及び動詞枠付け言語でもある。 ラテン語は強い屈折を持つ言語であるため、語順を柔軟に変えることができる。 構文は一般的にSOV型であるが、詩歌においてはこれ以外の語順も普通に見られる。通常の散文においては主語、間接目的語、直接目的語、修飾語・句、動詞という語順になる傾向があった。従属動詞を含む他の成分、例えば不定詞などは、動詞の前に置かれた。 名詞は、3つの性(男性・女性・中性)、2つの数(単数・複数)、7つの格(主格・属格・与格・対格・奪格・呼格・地格)を持ち、これらにより語形を変化させる。その曲用の類型は、大別して第1–5変化に分けられる。形容詞は被修飾名詞に従って性数格を一致させる。また、ラテン語は冠詞、類別詞を持たない。 動詞は、3つの法(直説法・接続法・命令法)と6つの時制(現在・未完了過去・未来・完了・過去完了・未来完了)、2つの態(能動態・受動態)、2つの数(単数・複数)、3つの人称(一人称・二人称・三人称)に応じて活用する。他に、準動詞として不定詞、分詞、動名詞、動形容詞がある。これらはすべて、動詞の4基本形に基いて作られる。 古典ラテン語の慣用表現は、現代の西洋諸語においても使われることが少なくなく、そのうち一部は日本語にも入っている。ラテン語起源の英語などの単語が日本語でも使われる例は、もちろん数多くある。 ラテン語由来の商号や固有名詞としては、例えば以下のようなものがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ラテン語(ラテンご、ラテン語: lingua Latina)(Latin languages、Romance languages)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派ラテン・ファリスク語群の言語の一つ。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "元はイタリア半島の古代ラテン人によって使われ、古代ヨーロッパ大陸(西部および南部)やアフリカ大陸北部で広範に話され、近代まで学術界などでは主要言語として用いられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "もともとラテン語は、イタリア半島中部のラティウム地方(ローマを中心とした地域、現イタリア・ラツィオ州)においてラテン人が用いた言語であったが、古代ローマ・共和政ローマ・ローマ帝国で用いられ公用語となったことにより、ローマ帝国の広大な版図(ヨーロッパ大陸の西部や南部、アフリカ大陸北部、アジアの一部)へ伝播した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "西ローマ帝国滅亡後もラテン語はローマ文化圏の古典文学を伝承する重要な役割を果たした。勢力を伸ばすキリスト教会を通してカトリック教会の公用語としてヨーロッパ各地へ広まり、祭祀宗教用語として使用されるようになると、中世には、中世ラテン語として成長した。ルネサンスを迎えると、自然科学・人文科学・哲学のための知識階級の言語となった。さらに、読み書き主体の文献言語や学術用語として近世のヨーロッパまで発展・存続した。現在もラテン語はバチカンの公用語であるものの、日常ではほとんど使われなくなったといえる。しかし、各種学会・医学・自然科学・数学・哲学・工業技術など各専門知識分野では、世界共通の学名としてラテン語名を付けて公表する伝統があり、新発見をラテン語の学術論文として発表するなど、根強く用いられ続けている。他公用語が複数あるスイスでは記述スペースが足りない場合ラテン語での表記を公的機関がすることを認めている。また、略号として午前・午後のa.m.(ante meridiem)・p.m.(post meridiem)や、ウイルス(virus)やデータ(data)など、日常的に用いられる語のなかにも語源がラテン語に由来するものがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ラテン語が広まる過程でギリシア語から多くの語彙を取り入れ、学問・思想などの活動にも使用されるようになった。", "title": "ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ただしラテン語が支配的な地域はローマ帝国の西半分に限られ、東半分はギリシア語が優勢な地域となっていた。やがてローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国が滅び西ヨーロッパの社会が大きく変動するのに従い、ラテン語は各地で変容していき、やがて各地の日常言語はラテン語と呼べるものではなくなり、ラテン語の流れをくんだロマンス諸語が各地に成立していった。元々ギリシア語が優勢だった東ローマ帝国においても、7世紀に公用語はギリシア語に転換された。", "title": "ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "こうした中、今日の西ヨーロッパに相当する地域においてはローマ帝国滅亡後もローマ・カトリック教会の公用語となり、長らく文語の地位を保った。現在でもバチカン市国の公用語はラテン語である。たとえば、典礼は第2バチカン公会議まで、ラテン語で行われていた。今日に至るまで数多くの作曲家が典礼文に曲をつけており、クラシック音楽の中では主要な歌唱言語の1つである。ただし、実際の使用は公文書やミサなどに限られ、日常的に話されているわけではない。また、バチカンで使われるラテン語は、古典式とは異なる変則的なラテン語である。なお、多民族・多言語国家であるスイスではラテン語の名称 Confoederatio Helvetica(ヘルヴェティア連邦)の頭字語を自国名称の略 (CH) としている。また欧州会社(Societas Europaea,SE)のように欧州共通の用語にラテン語が使用されている場合もある。", "title": "ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中世においては公式文書や学術関係の書物の多くはラテン語(中世ラテン語、教会ラテン語)で記され、この慣習は現在でも残っている。例えば、生物の学名はラテン語を使用する規則になっているほか、元素の名前もラテン語がほとんどである。また法学においても、多くのローマ法の格言や法用語が残っている。19世紀までヨーロッパ各国の大学では学位論文をラテン語で書くことに定められていた。", "title": "ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "今日のロマンス諸語(東ロマンス語:イタリア語・ルーマニア語、西ロマンス語:フランス語・スペイン語・ポルトガル語など)は、俗ラテン語から派生した言語である。また、英語・ドイツ語・オランダ語などのゲルマン諸語にも文法や語彙の面で多大な影響を与えた。", "title": "ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現代医学においても、解剖学用語は基本的にラテン語である。これは、かつて誰もが自由に造語して使っていた解剖学語彙を、BNA(バーゼル解剖学用語)、PNA(パリ解剖学用語)などで統一した歴史的経緯が関連している。つまり、用語の統一にラテン語が用いられたのである。そのため、日本解剖学会により刊行されている『解剖学用語』も基本的にはラテン語である(ラテン語一言語主義)。ただし、臨床の場面では、医師が患者に自国語で病状説明をするのが当然であるため、各国ともラテン語の他に自国語の解剖学専門用語が存在する(ラテン語・自国語の二言語主義)。近年では、医学系の学会や学術誌の最高峰が英語圏に集中するようになったため、英語の解剖学用語の重要性が上がった。日本では、ラテン語・英語・日本語の三言語併記の解剖学書が主流となった(ラテン語・英語・自国語の三言語主義)。", "title": "ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「ウイルス (virus)」など、日本語でも一部の語彙で用いられる(ただし、元の母音の長短の区別はほとんど意識されない)。なお、森鷗外の小説『ヰタ・セクスアリス』は、ラテン語の vita sexualis(性的生活)のことである。", "title": "ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ラテン語が属するイタリック語派は、インド・ヨーロッパ語族内ではケントゥム語派に分類され、インド・ヨーロッパ祖語の *k および *g はラテン語でも K, G として保たれた。イタリック語派の話者がイタリア半島に現れたのは紀元前2千年紀後半と見られており、ラテン語の話者がラティウム地方(現在のイタリア、ラツィオ州)で定住を開始したのは紀元前8世紀だった。現在発見されているラテン語の最も古い碑文は紀元前7世紀に作られたものである。この時期から紀元前2世紀頃までのラテン語は、のちの時代のラテン語と区別され古ラテン語と呼ばれる。この時代のラテン語は、語彙などの面で隣接していたエトルリア語などの影響を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "古ラテン語では以下の21文字のアルファベットが使われた。下段には現在の字形を記している。これは、西方ギリシア文字・初期のエトルリア文字・古イタリア文字のアルファベットをほぼ踏襲した", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このうち、C はΓ の異字体で [ɡ] の音を表し、I は [i] と [j]、V は [u] と [w] の音価を持った。五つの母音字(A, E, I, O, V)は長短両方を表したが、文字の上で長短の区別はなかった。紀元前3世紀になると C は [k] の音も表すようになり、K はほとんど使われなくなった。その後 [ɡ] の音を表すために G の文字が新たに作られ、使われなかった Z の文字の位置へ置き換えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "古ラテン語は、古典ラテン語に残る主格、呼格、属格(所有格)、与格(間接目的格)、対格(直接目的格)、奪格に加え、場所を表す所格(処格、地格、位格、依格、於格などともいう)があった。名詞の曲用では、第二変化名詞の単数与格および複数主格が -oī だった。古典ラテン語における第二変化名詞単数の語尾 -us, -um はこの時代それぞれ -os, -om だった。また、複数属格の語尾は -ōsum(第二曲用)であり、これはのちに -ōrum となった。このように、古ラテン語時代の末期には母音間の s が r になる「ロタシズム」という変化が起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "紀元前1世紀以降、数世紀にわたって用いられたラテン語は古典ラテン語(古典期ラテン語)と呼ばれる。のちの中世、また現代において人々が学ぶ「ラテン語」は、通常この古典ラテン語のことをいう。この古典ラテン語は書き言葉であり、多くの文献が残されているが、人々が日常話していた言葉は俗ラテン語(口語ラテン語)と呼ばれる。この俗ラテン語が現代のロマンス諸語へと変化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "古ラテン語と同様に、scriptio continua(スクリプティオー・コンティーヌア、続け書き)といって、単語同士を分かち書きにする習慣がなかった(碑文などでは、小さな中黒のようなもので単語を区切った例もある)。アルファベットもキケロ(前106 – 43)の時代までは X までの21文字だった。また、大文字のみを用いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "紀元の初めにギリシア語起源の外来語を表記するために Y と Z が新たに使われるようになり、アルファベットは以下の 23 文字となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、K は KALENDAE 等の他は固有名詞に限定されて常用されることはなくなり、[k] の音は C が常用された(ただし [kw] は QU と表記した) 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "古典ラテン語では C および G はそれぞれ常に [k] および [ɡ] と発音された。Y を含めた6つの母音字は長短両方を表したが、ごく一時期を除き表記上の区別はされなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "古典ラテン語のアクセントは、現代ロマンス諸語に見られるような強勢アクセントではなく、現代日本語のようなピッチアクセント(高低アクセント)であったとされる(強勢アクセントとする説も存在する)。文法面では、古ラテン語の所格(処格、地格、位格、依格、於格などともいう)は一部の地名などを除いて消滅し、六つの格(主格、呼格、属格、与格、対格、奪格)が使用された。また以前の時代の語尾 -os, -om は、古典期には -us, -um となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この時代の話し言葉(俗ラテン語)では、文末の -s は後ろに母音が続かない限り発音されない場合があった。また au は日常では [ɔː] と読まれた。このように古典期には、話し言葉と古風な特徴を残した書き言葉の乖離が起きていた。現在古典ラテン語と呼ばれるものはこの時期の書き言葉である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "紀元前1世紀頃。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1世紀頃。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "古典期が終わると、人々が話すラテン語は古典語からの変化を次第に顕著に見せるようになっていった。この時代に大衆に用いられたラテン語は俗ラテン語(口語ラテン語)と呼ばれる。2世紀、あるいは3世紀頃から俗ラテン語的な特徴が見られるようになっていたが、時代が下るにつれ変化は大きくなり、地方ごとの分化も明らかになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "古典ラテン語には Y を除けば5母音があり、長短を区別すれば10の母音があったが、俗ラテン語になるとこれらは以下の7母音になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "古典期の長母音 [eː] は [e] に、[oː] は [o] に変化した。また短母音 [e] と [o] は、俗ラテン語ではそれぞれ [ɛ] と [ɔ] になった。古典期の V は、子音としては [w] と発音されたが、俗ラテン語の時代には [v] に変化していた。さらにアクセントはピッチアクセントから現代ロマンス諸語と同様の強勢アクセントに置き換えられていった。古典期の [k] と [ɡ] も変化を起こした。これらは前舌母音([i] や [e])の前では軟音化して口蓋音化(硬口蓋音化)し、それぞれ [tʃ]、[dʒ] の音になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "俗ラテン語では動詞などの屈折にも変化が起きた。動詞の未来時制では、古典期の -bo に代わり habere(持つ)の活用形を語幹末に付した形式が用いられ始めた。指示詞 ille は形が変化し、次第に冠詞として用いられるようになっていった。名詞の曲用では格変化が単純化され、主格と対格は同一(特に女性名詞)になり、属格と与格も統合された。単純化した名詞の格に代わって前置詞が発達していった。例えば属格に代わり de が、与格に代わり a が用いられ始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "イタリアやイベリア半島ではやがて名詞の格変化は消滅し、フランスでも12世紀頃には使われなくなり、ダキアで使用されたのちのルーマニア語を除いて格変化はなくなった。このような文法的特徴のみならず、音韻面や語彙でも地方ごとの違いを大きくしていった俗ラテン語は、やがてロマンス諸語と呼ばれる語派を形成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "かつてのローマ帝国の版図で用いられたラテン語は一般大衆には使われなくなり、それぞれの地域でラテン語から変化した俗ラテン語がそれに置き換えられた。一方で古典ラテン語は、旧ローマ帝国領内のみならず西ヨーロッパ全域において近代諸語が文語として確立するまでは、学術上の共通語として使用された。カトリック教会でも同じく、古典ラテン語の伝統の下にあるラテン語が教会ラテン語と呼ばれて使用されたが、こちらはその後もなお使用され続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ヨーロッパではラテン語は長い間教会においても学問の世界においても標準的な言語として用いられてきたが、ルネサンスと共に古典古代の文化の見直しが行われ、古典期の文法・語彙を模範としたラテン語を用いようとする運動が人文主義者の間で強まった。これにより中世よりもむしろ「正しい」ラテン語が教育・記述されるようになる。共通化が進んだラテン語は、近代においても広く欧州知識人の公用語として用いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この近代ラテン語で著述した主な思想家としてはトマス・モア(『ユートピア』)、エラスムスのような人文主義者だけでなく、デカルト、スピノザなどの近代哲学の巨人も挙げられる。有名なデカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉の初出は『方法序説』フランス語版であるが、後にラテン語訳された Cogito, ergo sum.(コーギトー、エルゴー・スム)の方が広く知られている。自然科学ではニュートンのプリンキピアがある。ただしフランスの啓蒙思想家、ドイツのカント以降は母語で著述するのが主流になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "学問的世界においては、ラテン語はなお権威ある言葉であり世界的に高い地位を有する言語である。現在でも学術用語にラテン語が使用されるのには、学術用の語彙が整備されており、かつ死語であるために文法などの面で変化が起きない(現実には中世・近世を通して多少の変化はあったが)という面、あるいは1つの近代語の立場に偏らずに中立的でいられるという面も見逃すことはできない。無論これは他の古典語でも同じであるが、ラテン語が選択されたのは近現代におけるそうした学問が、良し悪しは別として、欧州中心のものであったことが反映している。現在も活用されている場面として、たとえば生物の学名はラテン語もしくはギリシア語単語をラテン語風の綴りに変えたものがつけられるのが通例である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、現在においてもラテン語の知識は一定の教養と格式を表すものであり、国(例アメリカ合衆国、スペイン、スイス、カナダおよびカナダの各州など)や団体(アメリカ海兵隊、イギリス海兵隊など)のモットーにラテン語を使用する例や、1985年にサラマンカ大学が日本の皇太子夫妻の来学の記念の碑文を、スペイン語ではなくラテン語で刻んだことや、イギリスのエリザベス2世が1992年を評して Annus Horribilis(アナス・ホリビリス、ひどい年)とラテン語(ただし発音は英語風)を使ったこともその現れといえる。日本でも高校野球の初代優勝旗には VICTORIBUS PALMAE(ウィクトーリブス・パルマエ、「勝利者に栄冠を」)と刺繍されていた。だが、ラテン語が今日の欧州で重視されているとまでいうことはできない。欧州諸国では第二次世界大戦前までは中等教育課程でラテン語必修の場合が多かったが、現在では日本での「古典」「古文」ないし「漢文」に相当する科目として存在する程度である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日常会話という観点からみると、現代ではラテン語での会話そのものがほとんど存在しないため、死語に近い言語の1つであるともいえるが、ラテン語は今でも欧米の知識人層の一部には根強い人気がある。近年はインターネットの利用の拡大に伴ってラテン語に関心のある個人が連携を強めており、ラテン語版ウィキペディアも存在する(ラテン語: Vicipaedia)ほか、ラテン語による新聞やSNS、メーリングリスト、ブログも存在する。さらに、フィンランドの国営放送は定期的にラテン語でのニュース番組を放送している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現在、ラテン語を公用語として採用している国はバチカン市国のみである。これは、現在でもラテン語がカトリック教会の正式な公用語に採用されているためであるが、そのバチカン市国でもラテン語が用いられるのは回勅などの公文書、コンクラーヴェの宣誓、「ウルビ・エト・オルビ」などの典礼文などに限られ、2013年の教皇ベネディクト16世の退位に際しては、退位の意思表明と理由は、教皇本人が作成したラテン語の文章の朗読で行われた。日常生活ではイタリア語が用いられる(バチカンはローマ市内にある)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヨーロッパの各地で長期にわたって用いられていたため、国や地域、時代によって発音は異なるが、現代には大きく分けて古典式、イタリア式、ドイツ式の3つがある。イタリア式には、現代イタリア語の原則にのっとって発音するものと、それをもとにした教会式(ローマ式)の2つがある。後者は、フランスのソレム修道院で提唱された発音法であり、ピウス10世が推奨したことで広まった。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本の大学で学ぶ発音は、原則として古典式である。一方、ラテン語の楽曲の歌唱においてはイタリア式、ドイツ式が主流である。どのように異なるか、いくつか例を示す(実際には、地域や人によって発音の揺れがある)。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "上の3つの方式に加えて、文章レベルのラテン語まではいかないが単語およびフレーズレベルでは英語式が広まっている。もともと英語でetc.(その他)がエトセトラ(et cetera、英語ではe、i、yの前のcはsと発音)、Et tu Brute(ブルータス、お前もか)がエト・テュー・ブリュータと発音されるなどの延長で 、英語が国際語になった現在特に科学用語に英語式発音が多い。例えば天文学関係では星座名は英語文章内でもラテン語を使い、恒星名もギリシャ文字名にラテン語星座名の属格(所有格)を添えるので、ラテン語が英語式に発音される。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本語では古典式、英語式、またはドイツの音をカタカナ表記するのが慣習となっている。ただし、古典式によっていると思われる場合でも、母音の長短の別を表記しない場合がほとんどである。 その一方、宗教音楽の題名を表記する際は、イタリア式に近い表記が多い。例えば、Agnus Dei の Agnus は、古典式とドイツ式では「アグヌス」と発音するが、イタリア式では「アニュス」(厳密には、gn は [ɲ] という鼻音)となる。Magnificat も「マグニフィカト」ではなく、「マニフィカト」と表記される傾向が強い。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "前述の通り、アクセントは時代により高低アクセントから強弱アクセントへ移行したが、単語のどの位置に強勢が置かれるかについては一定の法則を持つ。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "その法則は以下の通りである。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1.の例:puella 少女(閉音節)。mercātor 商人(長母音)。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2.の例:īnsula 島。dominus 主人。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ラテン語は、他のすべての古インド・ヨーロッパ語族と同様に、強い屈折を持ち、それゆえに語順が柔軟である。従って、古典ラテン語はインド・ヨーロッパ祖語の形態を保存した古風な言語と言える。名詞には最大で7種類の格変化が、動詞には4種類の活用がある。ラテン語は前置詞を使用し、通常は修飾する名詞の後に形容詞・属格を置く。ラテン語はまた、pro脱落言語及び動詞枠付け言語でもある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ラテン語は強い屈折を持つ言語であるため、語順を柔軟に変えることができる。 構文は一般的にSOV型であるが、詩歌においてはこれ以外の語順も普通に見られる。通常の散文においては主語、間接目的語、直接目的語、修飾語・句、動詞という語順になる傾向があった。従属動詞を含む他の成分、例えば不定詞などは、動詞の前に置かれた。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "名詞は、3つの性(男性・女性・中性)、2つの数(単数・複数)、7つの格(主格・属格・与格・対格・奪格・呼格・地格)を持ち、これらにより語形を変化させる。その曲用の類型は、大別して第1–5変化に分けられる。形容詞は被修飾名詞に従って性数格を一致させる。また、ラテン語は冠詞、類別詞を持たない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "動詞は、3つの法(直説法・接続法・命令法)と6つの時制(現在・未完了過去・未来・完了・過去完了・未来完了)、2つの態(能動態・受動態)、2つの数(単数・複数)、3つの人称(一人称・二人称・三人称)に応じて活用する。他に、準動詞として不定詞、分詞、動名詞、動形容詞がある。これらはすべて、動詞の4基本形に基いて作られる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "古典ラテン語の慣用表現は、現代の西洋諸語においても使われることが少なくなく、そのうち一部は日本語にも入っている。ラテン語起源の英語などの単語が日本語でも使われる例は、もちろん数多くある。", "title": "現代も使われる表現、日本語への影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ラテン語由来の商号や固有名詞としては、例えば以下のようなものがある。", "title": "現代も使われる表現、日本語への影響" } ]
ラテン語(Latin languages、Romance languages)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派ラテン・ファリスク語群の言語の一つ。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。 元はイタリア半島の古代ラテン人によって使われ、古代ヨーロッパ大陸(西部および南部)やアフリカ大陸北部で広範に話され、近代まで学術界などでは主要言語として用いられた。
{{WikipediaPage|ラテン語表記|Wikipedia:外来語表記法/ラテン語}} {{複数の問題 |出典の明記=2021年2月 |参照方法=2016年2月}} {{Infobox Language |name=ラテン語 |nativename=lingua Latina |pronunciation={{IPA|[líŋgʷa latîːna]}} |states= ヨーロッパ |region=[[イタリア半島]] |speakers=なし |familycolor=インド・ヨーロッパ語族 |fam1=[[インド・ヨーロッパ語族]] |fam2=[[イタリック語派]] |fam3=ラテン・ファリスク語群 |script=[[ラテン文字]] |nation={{VAT}} |image = Hocgracili.jpg |imagecaption = ラテン語の[[ラテン文字|テクスト]]。 |agency={{flagicon|VAT}} {{仮リンク|ローマ教皇庁ラテン語アカデミー|la|Pontificia Academia Latinitatis|it|Pontificia accademia di latinità}} |iso1=la |iso2=lat |iso3=lat }} {{読み仮名_ruby不使用|'''ラテン語'''|ラテンご|{{lang-la|lingua Latina|links=no}}}}([[w:Latin languages|Latin languages]]、[[w:Romance languages|Romance languages]])は、[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[イタリック語派]]ラテン・ファリスク語群の[[言語]]の一つ。漢字表記は'''拉丁語'''・'''羅甸語'''で、'''拉語'''・'''羅語'''と略される。 元は[[イタリア半島]]の古代[[ラテン人]]によって使われ、古代ヨーロッパ大陸(西部および南部)や[[アフリカ大陸]]北部で広範に話され、近代まで学術界などでは主要言語として用いられた。 == 概要 == もともと[[ラテン]]語は、[[イタリア半島]]中部の[[ラティウム]]地方([[ローマ]]を中心とした地域、現[[イタリア]]・[[ラツィオ州]])において[[ラテン人]]が用いた言語であったが、[[古代ローマ]]・[[共和政ローマ]]・[[ローマ帝国]]で用いられ[[公用語]]となったことにより、ローマ帝国の広大な版図(ヨーロッパ大陸の西部や南部、アフリカ大陸北部、アジアの一部)へ伝播した。 [[西ローマ帝国]]滅亡後もラテン語はローマ文化圏の[[古代文学|古典文学]]を伝承する重要な役割を果たした。勢力を伸ばすキリスト教会を通して[[カトリック教会]]の公用語としてヨーロッパ各地へ広まり、[[典礼言語|祭祀宗教用語]]として使用されるようになると、[[中世]]には、中世ラテン語として成長した。[[ルネサンス]]を迎えると、[[自然科学]]・[[人文科学]]・[[哲学]]のための知識階級の言語となった。さらに、読み書き主体の文献言語や[[学術用語]]として[[近世]]のヨーロッパまで発展・存続した。現在もラテン語は[[バチカン]]の公用語であるものの、日常ではほとんど使われなくなったといえる。しかし、各種学会・医学・自然科学・数学・哲学・工業技術など各専門知識分野では、世界共通の[[学名]]としてラテン語名を付けて公表する伝統があり、新発見をラテン語の学術論文として発表するなど、根強く用いられ続けている{{efn|特に[[植物学]]の論文においては2011年12月までラテン語で記述することが正式発表の要件であった<ref>{{Cite journal|和書|url=http://www.jsmrs.jp/journal/No27_2/No27_2_89.pdf|format=PDF|author=仲田崇志|authorlink=仲田崇志|author2=永益英敏|authorlink2=永益英敏|author3=大橋広好|authorlink3=大橋広好|publisher=日本微生物資源学会|title=第4回「第18回国際植物学会議(メルボルン)で変更された発表の要件:電子発表の意味するところ(Changes to publication requirements made at the XVIII International Botanical Congress in Melbourne: What does e-publication mean for you. Knapp, S., McNeill, J. & Turland, N.J. Taxon 60: 1498-1501, 2011)」 の紹介と日本語訳|work=連載「微生物の命名規約と関連情報」|journal=日本微生物資源学会誌|volume=27|issue=2|date=2011-12|accessdate=2021-03-07}}</ref> → [[国際藻類・菌類・植物命名規約]]。}}。他公用語が複数ある[[スイス]]では記述スペースが足りない場合ラテン語での表記を公的機関がすることを認めている。また、略号として午前・午後のa.m.(ante meridiem)・p.m.(post meridiem)や、[[ウイルス]](virus)や[[データ]](data)など、日常的に用いられる語のなかにも語源がラテン語に由来するものがある。 == ラテン語の使用・時代・地域・関係の深い言語 == [[ファイル:Rome Colosseum inscription 2.jpg|thumb|200px|[[コロッセオ|コロッセウム]]のラテン語の碑文]] ラテン語が広まる過程で[[ギリシア語]]から多くの語彙を取り入れ、[[学問]]・[[思想]]などの活動にも使用されるようになった。 ただしラテン語が支配的な地域はローマ帝国の西半分に限られ、東半分はギリシア語が優勢な地域となっていた。やがてローマ帝国が東西に分裂し、[[ゲルマン民族]]の大移動によって[[西ローマ帝国]]が滅び西ヨーロッパの社会が大きく変動するのに従い、ラテン語は各地で変容していき、やがて各地の日常言語はラテン語と呼べるものではなくなり、ラテン語の流れをくんだ[[ロマンス諸語]]が各地に成立していった。元々ギリシア語が優勢だった[[東ローマ帝国]]においても、7世紀に公用語は[[ギリシア語]]に転換された。 こうした中、今日の西ヨーロッパに相当する地域においてはローマ帝国滅亡後も[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の公用語となり、長らく[[文語]]の地位を保った。現在でも[[バチカン|バチカン市国]]の公用語はラテン語である。たとえば、[[典礼]]は[[第2バチカン公会議]]まで、ラテン語で行われていた。今日に至るまで数多くの作曲家が典礼文に曲をつけており、[[クラシック音楽]]の中では主要な歌唱言語の1つである。ただし、実際の使用は公文書や[[ミサ]]などに限られ、日常的に話されているわけではない。また、バチカンで使われるラテン語は、古典式とは異なる変則的なラテン語である。なお、多民族・多言語国家である[[スイス]]ではラテン語の名称 {{lang|la|Confoederatio Helvetica}}([[ヘルヴェティア]]連邦)の[[頭字語]]を自国名称の略 (CH) としている。また[[欧州会社]]({{lang|la|Societas Europaea,SE}})のように欧州共通の用語にラテン語が使用されている場合もある。 [[中世]]においては公式文書や学術関係の書物の多くはラテン語([[中世ラテン語]]、教会ラテン語)で記され、この慣習は現在でも残っている。例えば、[[生物]]の[[学名]]はラテン語を使用する規則になっているほか、[[元素]]の名前もラテン語がほとんどである。また[[法学]]においても、多くの[[ローマ法]]の格言や[[法用語一覧|法用語]]が残っている。[[19世紀]]までヨーロッパ各国の[[大学]]では学位論文をラテン語で書くことに定められていた。 今日の[[ロマンス諸語]](東ロマンス語:[[イタリア語]]・[[ルーマニア語]]、西ロマンス語:[[フランス語]]・[[スペイン語]]・[[ポルトガル語]]など)は、[[俗ラテン語]]から派生した言語である。また、[[英語]]・[[ドイツ語]]・[[オランダ語]]などの[[ゲルマン諸語]]にも[[文法]]や語彙の面で多大な影響を与えた。 現代[[医学]]においても、[[解剖学]]用語は基本的にラテン語である。これは、かつて誰もが自由に造語して使っていた解剖学語彙を、BNA(バーゼル解剖学用語)、PNA(パリ解剖学用語)などで統一した歴史的経緯が関連している。つまり、用語の統一にラテン語が用いられたのである。そのため、日本解剖学会により刊行されている『解剖学用語』も基本的にはラテン語である(ラテン語一言語主義)。ただし、[[臨床]]の場面では、医師が患者に自国語で病状説明をするのが当然であるため、各国ともラテン語の他に自国語の解剖学専門用語が存在する(ラテン語・自国語の二言語主義)。近年では、医学系の学会や学術誌の最高峰が英語圏に集中するようになったため、[[英語]]の解剖学用語の重要性が上がった。日本では、ラテン語・英語・[[日本語]]の三言語併記の解剖学書が主流となった(ラテン語・英語・自国語の三言語主義)。 「[[ウイルス]] ({{lang|la|virus}})」など、[[日本語]]でも一部の語彙で用いられる(ただし、元の母音の長短の区別はほとんど意識されない<ref group="注釈">一例を挙げれば「[[我思う、ゆえに我あり|cogito ergo sum]]」の発音により忠実なカナ表記は「コーギトー・エルゴー・スム」であるが、三省堂刊大辞林には「コギトエルゴスム」の項目に掲載されている。</ref>)。なお、[[森鷗外]]の[[小説]]『[[ヰタ・セクスアリス]]』は、ラテン語の {{lang|la|vita sexualis}}(性的生活)のことである。 == 歴史 == === 古ラテン語 === {{main|古ラテン語}} ラテン語が属する[[イタリック語派]]は、[[インド・ヨーロッパ語族]]内では[[ケントゥム語派]]に分類され、[[インド・ヨーロッパ祖語]]の {{PIE|*k}} および {{PIE|*g}} はラテン語でも [[K]], [[G]] として保たれた。イタリック語派の話者が[[イタリア半島]]に現れたのは[[紀元前2千年紀]]後半と見られており、ラテン語の話者が[[ラツィオ州|ラティウム地方]](現在の[[イタリア]]、ラツィオ州)で定住を開始したのは[[紀元前8世紀]]だった。現在発見されているラテン語の最も古い[[金石文|碑文]]は[[紀元前7世紀]]に作られたものである。この時期から[[紀元前2世紀]]頃までのラテン語は、のちの時代のラテン語と区別され'''[[古ラテン語]]'''と呼ばれる。この時代のラテン語は、[[語彙]]などの面で隣接していた[[エトルリア語]]などの影響を受けた。 古ラテン語では以下の21文字の[[アルファベット]]が使われた。下段には現在の字形を記している。これは、[[西方ギリシア文字]]・初期の[[エトルリア文字]]・[[古イタリア文字]]のアルファベットをほぼ踏襲した {| cellpadding = '5' | 𐌀 || 𐌁 || 𐌂 || 𐌃 || 𐌄 || 𐌅 || 𐌆 || 𐌇 || 𐌉 || 𐌊 || 𐌋 || 𐌌 || 𐌍 || 𐌏 || 𐌐 || 𐌒 || 𐌓 || 𐌔 || 𐌕 || 𐌖 || 𐌗 |- | [[A]] || [[B]] || [[C]] || [[D]] || [[E]] || [[F]] || [[Z]]{{efn|name="Z"|「Z」はラテン語に不要だがギリシア語の {{IPA|[z]}} の音を表す場合には必要だった。}} || [[H]] || [[I]] || [[K]] || [[L]] || [[M]] || [[N]] || [[O]] || [[P]] || [[Q]] || [[R]] || [[S]] || [[T]] || [[V]] || [[X]] |} このうち、[[C]] は[[Γ]] の異字体で {{IPA|[ɡ]}} の音を表し、[[I]] は {{IPA|[i]}} と {{IPA|[j]}}、[[V]] は {{IPA|[u]}} と {{IPA|[w]}} の音価を持った。五つの母音字(A, E, I, O, V)は長短両方を表したが、文字の上で長短の区別はなかった。[[紀元前3世紀]]になると [[C]] は {{IPA|[k]}} の音も表すようになり、[[K]] はほとんど使われなくなった。その後 {{IPA|[ɡ]}} の音を表すために [[G]] の文字が新たに作られ、使われなかった [[Z]]{{efn|name="Z"}} の文字の位置へ置き換えられた。 古ラテン語は、[[古典ラテン語]]に残る[[主格]]、[[呼格]]、[[属格]](所有格)、[[与格]](間接目的格)、[[対格]](直接目的格)、[[奪格]]に加え、[[位置|場所]]を表す[[処格|所格]](処格、地格、位格、依格、於格などともいう)があった。名詞の曲用では、第二変化名詞の単数与格および複数主格が {{lang|la|-oī}} だった。古典ラテン語における第二変化名詞単数の語尾 {{lang|la|-us, -um}} はこの時代それぞれ {{lang|la|-os, -om}} だった。また、複数属格の語尾は {{lang|la|-ōsum}}(第二曲用)であり、これはのちに {{lang|la|-ōrum}} となった。このように、古ラテン語時代の末期には母音間の s が r になる「[[ロタシズム]]」という変化が起きた。 === 古典ラテン語 === {{main|古典ラテン語}} [[紀元前1世紀]]以降、数世紀にわたって用いられたラテン語は'''[[古典ラテン語]]'''('''古典期ラテン語''')と呼ばれる。のちの[[中世]]、また現代において人々が学ぶ「ラテン語」は、通常この古典ラテン語のことをいう。この古典ラテン語は[[書記言語|書き言葉]]であり、多くの文献が残されているが、人々が日常話していた言葉は'''[[俗ラテン語]]'''('''口語ラテン語''')と呼ばれる。この俗ラテン語が現代の[[ロマンス諸語]]へと変化していった。 古ラテン語と同様に、{{lang|la|scriptio continua}}(スクリプティオー・コンティーヌア、続け書き)といって、単語同士を[[わかち書き|分かち書き]]にする[[習慣]]がなかった([[金石文|碑文]]などでは、小さな[[中黒]]のようなもので[[語|単語]]を区切った例もある)。[[アルファベット]]も[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]([[紀元前2世紀|前106]] – [[紀元前1世紀|43]])の時代までは [[X]] までの21文字だった。また、[[大文字]]のみを用いた。 紀元の初めに[[ギリシア語]]起源の[[外来語]]を表記するために [[Y]] と [[Z]] が新たに使われるようになり、[[アルファベット]]は以下の 23 文字となった。 {| cellpadding = '5' | [[A]] || [[B]] || [[C]] || [[D]] || [[E]] || [[F]] || [[G]] || [[H]] || [[I]] || [[K]] || [[L]] || [[M]] || [[N]] || [[O]] || [[P]] || [[Q]] || [[R]] || [[S]] || [[T]] || [[V]] || [[X]] || [[Y]] || [[Z]] |} ただし、[[K]] は KALENDAE 等の他は[[固有名詞]]に限定されて常用されることはなくなり、{{IPA|[k]}} の音は [[C]] が常用された(ただし {{IPA|[kw]}} は [[Q]][[U]] と表記した) 。 古典ラテン語では [[C]] および [[G]] はそれぞれ常に {{IPA|[k]}} および {{IPA|[ɡ]}} と発音された<ref group="注釈">現代の[[ロマンス諸語]]とは違い、{{IPA|[s]}} や {{IPA|[tʃ]}}、{{IPA|[ʒ]}}、{{IPA|[dʒ]}} などのように発音されることはなかった。</ref>。[[Y]] を含めた6つの母音字は長短両方を表したが、ごく一時期を除き表記上の区別はされなかった。 古典ラテン語の[[アクセント]]は、現代ロマンス諸語に見られるような[[強勢アクセント]]ではなく、[[日本語|現代日本語]]のような[[高低アクセント|ピッチアクセント]](高低アクセント)であったとされる(強勢アクセントとする説も存在する)。文法面では、[[古ラテン語]]の[[処格|所格]](処格、地格、位格、依格、於格などともいう)は一部の地名などを除いて消滅し、六つの[[格]]([[主格]]、[[呼格]]、[[属格]]、[[与格]]、[[対格]]、[[奪格]])が使用された。また以前の時代の[[語尾]] {{lang|la|-os, -om}} は、古典期には {{lang|la|-us, -um}} となった。 この時代の[[口語|話し言葉]]([[俗ラテン語]])では、文末の {{lang|la|-s}} は後ろに[[母音]]が続かない限り発音されない場合があった。また {{lang|la|au}} は日常では {{IPA|[ɔː]}} と読まれた。このように古典期には、話し言葉と古風な特徴を残した書き言葉の乖離が起きていた。現在古典ラテン語と呼ばれるものはこの時期の[[書記言語|書き言葉]]である。 ==== ラテン文学の黄金期 ==== [[紀元前1世紀]]頃。 * [[マルクス・トゥッリウス・キケロ]] * [[ガイウス・ユリウス・カエサル]] * [[ウェルギリウス]] * [[オウィディウス]] ==== ラテン文学の白銀期 ==== [[1世紀]]頃。 * [[セネカ]] * [[タキトゥス]] * [[マルティアリス]] === 俗ラテン語 === {{main|俗ラテン語}} [[古典ラテン語|古典期]]が終わると、人々が話すラテン語は古典語からの変化を次第に顕著に見せるようになっていった。この時代に大衆に用いられたラテン語は'''[[俗ラテン語]]'''('''口語ラテン語''')と呼ばれる。[[2世紀]]、あるいは[[3世紀]]頃から俗ラテン語的な特徴が見られるようになっていたが、時代が下るにつれ変化は大きくなり、地方ごとの分化も明らかになっていった。 古典ラテン語には [[Y]] を除けば5母音があり、長短を区別すれば10の母音があったが、俗ラテン語になるとこれらは以下の7母音になった。 : {{IPA|[a]}} {{IPA|[ɛ]}} {{IPA|[e]}} {{IPA|[i]}} {{IPA|[ɔ]}} {{IPA|[o]}} {{IPA|[u]}} 古典期の[[長母音]] {{IPA|[eː]}} は {{IPA|[e]}} に、{{IPA|[oː]}} は {{IPA|[o]}} に変化した。また[[短母音]] {{IPA|[e]}} と {{IPA|[o]}} は、俗ラテン語ではそれぞれ {{IPA|[ɛ]}} と {{IPA|[ɔ]}} になった。古典期の [[V]] は、[[子音]]としては {{IPA|[w]}} と発音されたが、俗ラテン語の時代には {{IPA|[v]}} に変化していた。さらに[[アクセント]]は[[高低アクセント|ピッチアクセント]]から[[ロマンス諸語|現代ロマンス諸語]]と同様の[[強勢アクセント]]に置き換えられていった。古典期の {{IPA|[k]}} と {{IPA|[ɡ]}} も変化を起こした。これらは[[前舌母音]]({{IPA|[i]}} や {{IPA|[e]}})の前では軟音化して口蓋音化(硬口蓋音化)し、それぞれ {{IPA|[tʃ]}}、{{IPA|[dʒ]}} の音になった。 俗ラテン語では[[動詞]]などの屈折にも変化が起きた。動詞の未来時制では、古典期の -bo に代わり habere(持つ)の活用形を語幹末に付した形式が用いられ始めた。[[指示詞]] ille は形が変化し、次第に[[冠詞]]として用いられるようになっていった。[[名詞]]の曲用では[[格変化]]が単純化され、[[主格]]と[[対格]]は同一(特に[[女性名詞]])になり、[[属格]]と[[与格]]も統合された。単純化した名詞の[[格]]に代わって[[前置詞]]が発達していった。例えば[[属格]]に代わり de が、[[与格]]に代わり a が用いられ始めた。 [[イタリア]]や[[イベリア半島]]ではやがて[[名詞]]の[[格変化]]は消滅し、[[フランス]]でも[[12世紀]]頃には使われなくなり、[[ダキア]]で使用されたのちの[[ルーマニア語]]を除いて格変化はなくなった。このような文法的特徴のみならず、音韻面や語彙でも地方ごとの違いを大きくしていった俗ラテン語は、やがて[[ロマンス諸語]]と呼ばれる語派を形成した。 === 中世ラテン語 === {{main|中世ラテン語}} かつてのローマ帝国の版図で用いられたラテン語は一般大衆には使われなくなり、それぞれの地域でラテン語から変化した[[俗ラテン語]]がそれに置き換えられた。一方で[[古典ラテン語]]は、旧ローマ帝国領内のみならず西ヨーロッパ全域において近代諸語が[[書記言語|文語]]として確立するまでは、学術上の共通語として使用された。カトリック教会でも同じく、古典ラテン語の伝統の下にあるラテン語が教会ラテン語と呼ばれて使用されたが、こちらはその後もなお使用され続けた。 === 近代および現代 === [[ファイル:George VI Farthing.jpg|thumb|200px|left|[[1951年]]に発行された[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]の[[ファージング|ファージング硬貨]]。肖像の周りの「{{lang|la|GEORGIVS VI [[:w:Dei Gratia Regina|D:G]]:[[ブリタニア|BR]]:OMN:REX [[:w:Fidei defensor|FIDEI DEF]]:}}」は、ラテン語で「ジョージ6世、神の恩寵ある[[イギリスの君主|全ブリタニアの王]]にして[[信仰の擁護者]]」の意味。]] [[ファイル:Akihitum-et-michikam.jpg|thumb|[[サラマンカ大学]]の記念銘。<br/>「本学は、日本帝国の皇太子同妃両殿下なる[[上皇明仁|明仁]]と[[上皇后美智子|美智子]]を喜びをもって迎えたり。[[1985年]][[2月28日]]」<br/>と刻まれている。ラテン語がヨーロッパで教養と格式を保持している例。<!-- SERENISSIMOS PRINCIPESは皇太子同妃両殿下(https://www.kunaicho.go.jp/ の用語)を以て訳出 -->]] ヨーロッパではラテン語は長い間教会においても学問の世界においても標準的な言語として用いられてきたが、[[ルネサンス]]と共に[[古典古代]]の文化の見直しが行われ、古典期の文法・語彙を模範としたラテン語を用いようとする運動が[[人文主義者]]の間で強まった。これにより中世よりもむしろ「正しい」ラテン語が教育・記述されるようになる。共通化が進んだラテン語は、近代においても広く欧州知識人の[[公用語]]として用いられた。 この近代ラテン語で著述した主な思想家としては[[トマス・モア]](『[[ユートピア]]』)、[[エラスムス]]のような人文主義者だけでなく、[[ルネ・デカルト|デカルト]]、[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]などの近代哲学の巨人も挙げられる。有名なデカルトの「[[我思う、ゆえに我あり]]」という言葉の初出は『[[方法序説]]』フランス語版であるが、後にラテン語訳された {{lang|la|Cogito, ergo sum.}}(コーギトー、エルゴー・スム)の方が広く知られている。自然科学では[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[自然哲学の数学的諸原理|プリンキピア]]がある。ただしフランスの啓蒙思想家、ドイツの[[イマヌエル・カント|カント]]以降は母語で著述するのが主流になった。 学問的世界においては、ラテン語はなお権威ある言葉であり世界的に高い地位を有する言語である。現在でも学術用語にラテン語が使用されるのには、学術用の[[語彙]]が整備されており、かつ死語であるために文法などの面で変化が起きない(現実には中世・近世を通して多少の変化はあったが)という面、あるいは1つの近代語の立場に偏らずに中立的でいられるという面も見逃すことはできない。無論これは他の古典語でも同じであるが、ラテン語が選択されたのは近現代におけるそうした学問が、良し悪しは別として、欧州中心のものであったことが反映している。現在も活用されている場面として、たとえば[[生物]]の[[学名]]はラテン語もしくは[[ギリシア語]]単語をラテン語風の綴りに変えたものがつけられるのが通例である。 また、現在においてもラテン語の知識は一定の教養と格式を表すものであり、国(例[[アメリカ合衆国の国章|アメリカ合衆国]]、[[スペイン]]、[[スイス]]、[[カナダ]]およびカナダの各州など)や団体([[アメリカ海兵隊]]、[[イギリス海兵隊]]など)のモットーにラテン語を使用する例や、1985年に[[サラマンカ大学]]が日本の皇太子夫妻の来学の記念の碑文を、[[スペイン語]]ではなくラテン語で刻んだことや、[[イギリス]]の[[エリザベス2世]]が[[1992年]]を評して {{lang|la|Annus Horribilis}}([[アナス・ホリビリス]]、ひどい年)とラテン語(ただし発音は英語風)を使ったこともその現れといえる。日本でも高校野球の初代優勝旗には {{lang|la|VICTORIBUS PALMAE}}(ウィクトーリブス・パルマエ、「勝利者に栄冠を」)と刺繍されていた。だが、ラテン語が今日の欧州で重視されているとまでいうことはできない。欧州諸国では[[第二次世界大戦]]前までは[[中等教育]]課程でラテン語必修の場合が多かったが、現在では日本での「古典」「古文」ないし「漢文」に相当する科目として存在する程度である。 日常会話という観点からみると、現代ではラテン語での会話そのものがほとんど存在しないため、[[死語 (言語)|死語]]に近い言語の1つであるともいえるが、ラテン語は今でも欧米の知識人層の一部には根強い人気がある。近年は[[インターネット]]の利用の拡大に伴ってラテン語に関心のある個人が連携を強めており、[[ラテン語版ウィキペディア]]も存在する({{Lang-la|Vicipaedia}})ほか、ラテン語による新聞やSNS、メーリングリスト、ブログも存在する。さらに、[[フィンランド]]の国営放送は定期的にラテン語でのニュース番組を放送している。 [[ファイル:2008 Xmas Urbi Orbi Pope Benedict XVI.jpg|250px|thumb|ウルビ・エト・オルビを行う[[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]]] 現在、ラテン語を公用語として採用している国は[[バチカン|バチカン市国]]のみである。これは、現在でもラテン語が[[カトリック教会]]の正式な公用語に採用されているためであるが、そのバチカン市国でもラテン語が用いられるのは回勅などの公文書、[[コンクラーヴェ]]の宣誓、「[[ウルビ・エト・オルビ]]」などの典礼文などに限られ、2013年の教皇[[ベネディクト16世の退位]]に際しては、退位の意思表明と理由は、教皇本人が作成したラテン語の文章の朗読で行われた。日常生活では[[イタリア語]]が用いられる(バチカンは[[ローマ]]市内にある)。 == 発音 == ヨーロッパの各地で長期にわたって用いられていたため、国や地域、時代によって発音は異なるが、現代には大きく分けて'''古典式'''、'''イタリア式'''、'''ドイツ式'''の3つがある。イタリア式には、現代イタリア語の原則にのっとって発音するものと、それをもとにした'''教会式'''(ローマ式)の2つがある。後者は、フランスのソレム修道院で提唱された発音法であり、[[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]が推奨したことで広まった。 日本の大学で学ぶ発音は、原則として古典式である。一方、ラテン語の楽曲の歌唱においてはイタリア式、ドイツ式が主流である。どのように異なるか、いくつか例を示す(実際には、地域や人によって発音の揺れがある)。 {| class="wikitable" !発音!!古典式!!イタリア式!!ドイツ式 |- !ae (æ) |{{IPA|[ae]}}<ref group="注釈">欧米で{{IPA|[ai]}}とすることが多い。</ref>||{{IPA|[e]}}||{{IPA|[ɛ]}} |- !oe (œ) |{{IPA|[oe]}}<ref group="注釈">欧米で{{IPA|[ɔi]}}とすることが多い。</ref>||{{IPA|[e]}}||{{IPA|[ø]}}, {{IPA|[œ]}} |- !c |{{IPA|[k]}}||a, o, u の前では {{IPA|[k]}}、ae, e, i の前では {{IPA|[tʃ]}}||a, o, u の前では {{IPA|[k]}}、e, i の前では {{IPA|[ts]}} |- !gn |{{IPA|[gn]}}||{{IPA|[ɲ]}}|| {{IPA|[gn]}} |- !s |{{IPA|[s]}}||{{IPA|[s]}}、母音間で {{IPA|[z]}}<ref group="注釈">教会式では{{lang|la|Kyrie elei'''s'''on}}(主よ憐れみ給え、もともとギリシャ語)は s {{IPA|[s]}}。</ref>||{{IPA|[s]}}<ref group="注釈">母音間、あるいは単に s + 母音 の場合に {{IPA|[z]}} と発音することもある。</ref> |- !sc |{{IPA|[sk]}}||a, o, u の前では {{IPA|[sk]}}、e, i の前では {{IPA|[ʃ]}}||a, o, u の前では {{IPA|[sk]}}、e, i の前では {{IPA|[sts]}} |- !z |{{IPA|[z]}}||{{IPA|[dz]}}||{{IPA|[ts]}} |- |colspan=4|{{smaller|三ヶ尻正『ミサ曲・ラテン語・教会音楽ハンドブック—ミサとは・歴史・発音・名曲選』(ショパン、2001年)を元に作成}}。cとgnを後にWikipediaドイツ語版などを基に追記。 |- |} 上の3つの方式に加えて、[[文章]]レベルのラテン語まではいかないが[[単語]]および[[句|フレーズ]]レベルでは'''英語式'''が広まっている。もともと英語で''etc.''([[その他]])がエトセトラ(''et cetera''、英語ではe、i、yの前のcはsと発音)、''Et tu Brute''([[ブルータス、お前もか]])がエト・テュー・ブリュータと発音されるなどの延長で <ref> ''Merriam-Webster's Collegiate Dictionary'', Tenth Edition (1999) "Foreign Words and Phrases" </ref>、英語が[[国際語]]になった現在特に[[科学]]用語に英語式発音が多い。例えば[[天文学]]関係では[[星座]]名は[[英語]]文章内でもラテン語を使い、[[恒星]]名も[[ギリシャ文字]]名にラテン語星座名の[[属格#星の名前|属格]]([[所有格]])を添えるので、ラテン語が英語式に発音される。 日本語では古典式、英語式、またはドイツの音をカタカナ表記するのが慣習となっている。ただし、古典式によっていると思われる場合でも、母音の長短の別を表記しない場合がほとんどである。 <!-- 「ユリウス・カエサル」はイタリア式では「ジュリオ・チェーザレ」、「[[スキピオ]]」は「シピオ」、「キケロ」は「チチェロ」にそれぞれ変わる。   ↑ ※これは「イタリア式のラテン語発音」ではなく「イタリア語そのもの」ではないでしょうか。  agnus の -us は [us] と発音するのに Julius の -us は [o] と発音するというのはどうも信じられません。 --> その一方、宗教音楽の題名を表記する際は、イタリア式に近い表記が多い。例えば、{{lang|la|Agnus Dei}} の {{lang|la|Agnus}} は、古典式とドイツ式では「アグヌス」と発音するが、イタリア式では「アニュス」(厳密には、gn は [[硬口蓋鼻音|{{IPA|[ɲ]}}]] という鼻音)となる。{{lang|la|Magnificat}} も「マグニフィカト」ではなく、「[[マニフィカト]]」と表記される傾向が強い。 === アクセント === 前述の通り、アクセントは時代により高低アクセントから強弱アクセントへ移行したが、単語のどの位置に強勢が置かれるかについては一定の法則を持つ。 その法則は以下の通りである。 # 後ろから2番目の音節が[[閉音節]]である場合、および、[[長母音]]もしくは[[二重母音]]を含む音節である場合、強勢は後ろから2番目の音節に置かれる。 # 上記以外の場合、後ろから3番目の音節に置かれる。但し、2音節しか持たない単語の場合は後ろから2番目の音節に置かれる。 1.の例:pu'''el'''la 少女(閉音節)。mer'''cā'''tor 商人(長母音)。 2.の例:'''īn'''sula 島。'''do'''minus 主人。 == 文法 == {{main|ラテン語の文法}} ラテン語は、他のすべての古[[インド・ヨーロッパ語族]]と同様に、強い[[形態論|屈折]]を持ち、それゆえに語順が柔軟である。従って、古典ラテン語は[[インド・ヨーロッパ祖語]]の形態を保存した古風な言語と言える。名詞には最大で7種類の格変化が、動詞には4種類の活用がある。ラテン語は[[前置詞]]を使用し、通常は修飾する[[名詞]]の後に[[形容詞]]・属格を置く。ラテン語はまた、[[主語#主語の省略|pro脱落言語]]及び[[言語類型論#動詞枠付け言語と衛星枠付け言語|動詞枠付け言語]]でもある。 ラテン語は強い屈折を持つ言語であるため、語順を柔軟に変えることができる。 構文は一般的にSOV型であるが、詩歌においてはこれ以外の語順も普通に見られる。通常の散文においては主語、間接目的語、直接目的語、修飾語・句、動詞という語順になる傾向があった。従属動詞を含む他の成分、例えば[[不定詞]]などは、動詞の前に置かれた{{Sfn|松平|国原|1992|pp=31}}。 名詞は、3つの[[性 (文法)|性]](男性・女性・中性)、2つの[[数 (文法)|数]](単数・複数)、7つの[[格]](主格・属格・与格・対格・奪格・呼格・地格)を持ち、これらにより語形を変化させる。その[[曲用]]の類型は、大別して第1&ndash;5変化に分けられる{{Sfn|松平|国原|1992|pp=21-22}}。形容詞は被修飾名詞に従って性数格を一致させる{{Sfn|松平|国原|1992|pp=33}}。また、ラテン語は冠詞、類別詞を持たない。 動詞は、3つの[[法 (文法)|法]](直説法・接続法・命令法)と6つの[[時制]](現在・未完了過去・未来・完了・過去完了・未来完了)、2つの[[態]](能動態・受動態)、2つの[[数 (文法)|数]](単数・複数)、3つの[[人称]](一人称・二人称・三人称)に応じて[[活用]]する。他に、[[準動詞]]として[[不定詞]]、[[分詞]]、[[動名詞]]、[[動形容詞]]がある。これらはすべて、動詞の4基本形に基いて作られる{{Sfn|松平|国原|1992|pp=16-17}}。 == 表現 == {| class="wikitable" |+ 挨拶 !ラテン語!!意味 |- |lang="la"|[[wikt:ja:salve#ラテン語|salve]](単数)/[[wikt:ja:salvete#ラテン語|salvete]](複数)||こんにちは |- |lang="la"|vale(単数)/valete(複数)||さようなら |- |lang="la"|bonum diem||今日は |- |lang="la"|bonum vesperum||こんばんは |- |lang="la"|bonam noctem||お休みなさい |- |lang="la"|quomodo vales?, ut vales?||御機嫌いかが? |- |lang="la"|bene valeo||はい、元気です。 |- |lang="la"|optime valeo, gratias tibi/ago||とても良いです。有難う。 |- |lang="la"|male valeo||いいえ、元気です。 |- |lang="la"|gratias tibi/ago, gratias tibi ago||ありがとう |- |lang="la"|accipe sis, en tibi||どういたしまして |- |lang="la"|excusatum (雄)/excusatam (雌) me habe||すみません |- |lang="la"|ignosce mihi||ごめんなさい |- |lang="la"|quod nomen tibi est?||おなまえはなんですか? |- |lang="la"|mihi nomen est...||わたしのなまえは。。。 |- |lang="la"|ita||はい |- |lang="la"|non||いいえ |- |lang="la"|quaeso||どうぞ |} {| class="wikitable" |+ 食べ物 !ラテン語!!意味 |- |lang="la"|[[wikt:ja:aqua#ラテン語|aqua]], aquae (f.)||[[水]] |- |lang="la"|botulus, botuli (m.)||[[ソーセージ]] |- |lang="la"|butyrum, butyri (n.)||[[バター]] |- |lang="la"|caseus, casei (m.)||[[チーズ]] |- |lang="la"|cervisia, cervisiae (f.)||[[ビール]] |- |lang="la"|citreum, citrei (n.)||[[レモン]] |- |lang="la"|lactuca, lactucae (f.)||[[レタス]] |- |lang="la"|oryza, oryzae (f.)||[[米]] |- |lang="la"|panis, panis (m.)||[[パン]] |- |lang="la"|perna, pernae (f.)||[[ハム]] |- |lang="la"|[[wikt:ja:piscis#ラテン語|piscis]], piscis (m.)||[[魚]] |- |lang="la"|placenta, placentae (f.)||[[ケーキ]] <!--|lang="la"|scriblita, scriblitae (f.)||[[タルト]]--> |- |lang="la"|[[wikt:ja:uva#ラテン語|uva]], uvae (f.)||[[ブドウ|葡萄]] |- |lang="la"|[[wikt:ja:vinum#ラテン語|vinum]], vini (n.)||[[ワイン]] |} == 現代も使われる表現、日本語への影響 == === 慣用表現・格言 === [[ファイル:Errare humanum est.jpg|thumb|「誤るのが人間である」<br/>[[古代ローマ]]の格言の一つ。]] [[ファイル:Moon nearside LRO 5000 (reflectance).jpg|thumb|150px|[[月の海]]は[[ヨハネス・ケプラー]]以来、ラテン語で命名されている(例、Mare Fecunditatis:[[豊かの海|豊饒の海]])。]] 古典ラテン語の慣用表現は、現代の西洋諸語においても使われることが少なくなく、そのうち一部は日本語にも入っている。ラテン語起源の英語などの単語が日本語でも使われる例は、もちろん数多くある。 * {{lang|la|ad hoc}} アド・ホク:暫定の、臨時の([[アドホック]]) * {{lang|la|ad lib.}} アド・リブ({{lang|la|ad libitum|アド・リビトゥム}}の略):即興([[アドリブ]]) * {{lang|la|alius ibi (alibi)}} アリウス・イビ:「他の場所で」の意([[アリバイ]]) * {{lang|la|a priori}} ア・プリオリ:先天的に、(哲学)[[超越論哲学|先験]]的に(ただし古典ラテン語法ではない)([[アプリオリ]]) * {{lang|la|aqua}} [[AQUA|アクア]]:水 * {{lang|la|corona}} [[コロナ (曖昧さ回避)|コロナ]]:王冠 * {{lang|la|cum}} (<math>\overline{c}</math>) クム:ともに、英語の {{lang|en|with}} * {{lang|la|de facto}} デ・ファクト:事実上の(対義語は {{lang|la|de jure}}(法律的には))、defact は誤り([[デファクト]]) * {{lang|la|exempli gratia (e.g.)}}:たとえば * {{lang|la|et alii (et al.)}} エト・アリイ:その他の者達([[論文]]の著者名省略などでしばしば用いられる) * {{lang|la|et cetera (etc.)}} エト・ケテラ:その他([[エトセトラ]]) * {{lang|la|ego}} エゴ:私、[[自我]] * {{lang|la|facsimile}} ファクスィミレ:似せて作れ([[ファクシミリ]]) * {{lang|la|fossa magna}} [[フォッサマグナ|フォッサ・マグナ]]:大きな溝(大地溝帯) * {{lang|la|gloria}} [[グロリア]]:栄光 * {{lang|la|id est (i.e.)}}:すなわち * {{lang|la|[[in situ]]}}:本来の場所で * {{lang|la|[[in vitro]]}}:ガラス器(試験管)内で * {{lang|la|[[in vivo]]}}:生体内で * {{lang|la|Pacta sunt servanda}} パクタ・スント・セルウァンダ:合意は守らるべし ([[Pacta sunt servanda]]) * {{lang|la|persona non grata}} [[ペルソナ・ノン・グラータ]]:外交上好ましくない人物 * {{lang|la|Quod Erat Demonstrandum ([[Q.E.D.]])}} クオド・エラト・デモンストランドゥム:[[証明 (数学)|証明]]終わり(直訳は「証明されようとしていたもの」) * {{lang|la|sine}} (<math>\overline{s}</math>) スィネ:~なしに、ともなわず、英語の {{lang|en|without}} * {{lang|la|virus}} [[ウイルス|ウィルス]]:毒 * {{lang|la|missile}} ミッスィレ:投げられるもの([[ミサイル]]) * {{lang|la|[[Requiescat in Pace]]}}:「安らかに眠れ」。墓碑に刻まれる文字。 * {{lang|la|Memento mori}}:死を記憶せよ([[メメント・モリ]]) * {{lang|la|Carpe diem}}:[[その日を摘め]]。[[いまを生きる]]([[ホラティウス]]) * {{lang|la|Amor Vincit Omnia}}:愛はすべてを征服する。[[愛の勝利]]([[ヴェルギリウス]]) * {{lang|la|Veritas Vincit}}:真実は勝つ([[ヤン・フス]]) * {{lang|la|Justitia Omnibus}}:すべてに正義を(アメリカ合衆国[[ワシントンD.C.]]の標語) * {{lang|la|Plus Ultra}}:[[プルス・ウルトラ (モットー)]]、さらなる前進([[スペイン]]の標語) *{{lang|la|Sic transit gloria mundi}}:「[[:en:Sic transit gloria mundi|かくのごとく世界の栄光は立ち去りぬ]]」(着座した教皇が蝋燭の灯を吹き消しこの言葉を発する習わしがあった)。 *{{lang|la|Fiat justitia ruat caelum}}:[[正義はなされよ、たとえ天が落ちるとも]] *{{lang|la|Quidquid latine dictum sit, altum videtur }}:「ラテン語で言えば何でも立派に聞こえる」(ラテン語についての格言) * {{lang|la|primus inter pares}}:「[[:en:Primus inter pares|同輩中の首席]]」。[[大日本帝国憲法]]下の[[内閣総理大臣]]の位置づけや[[スイス]]の[[連邦大統領 (スイス)|連邦大統領]]の位置づけをあらわす語。もともとは中世ドイツにおける[[ドイツ王|王]]と諸侯との対等の位置づけを現した([[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]参照)。 === 商号・固有名詞 === ラテン語由来の商号や固有名詞としては、例えば以下のようなものがある。 * [[月の海]]:名前はラテン語で綴られる。 * [[星座]]の名前もラテン語で綴られる。特に黄道12星座は占星術で使用されるときはヨーロッパ諸語では翻訳されない。 * [[アウディ|Audi]](ドイツの自動車メーカー):{{lang|la|audi}} は「聞け」の意。創業者ホルヒ(Horch, 聞け)に因む * [[ボルボ・カーズ|ボルボ]]([[スウェーデン]]の自動車メーカー):{{lang|la|volvo}}は「私は回る」という意味。[[SKF]]の[[軸受|ベアリング]]のブランド「ボルボベアリング」に因む名称である。 ** [[ボルボ・グループ]](ボルボ・カーズと同じボルボの名称を持つスウェーデンの企業グループ) * [[アシックス]](日本のスポーツ用品メーカー):社名の由来は{{lang|la|Mens Sana in Corpore Sano}}(「[[ユウェナリス#「健全なる精神は健全なる身体に宿る」|健全なる精神は健全なる身体にこそ宿るべし]] 」)の{{lang|la|Mens}}(精神)を{{lang|la|Anima}}(生命)に置き換えたもの。 * [[アクエリアス (曖昧さ回避)|アクエリアス]]:{{lang|la|aquarius}}(アクアリウス)は「[[みずがめ座]]」の意。「アクエリアス」はそれを英語読みしたもの。 ** 商標名等は当該記事を参照。 * 『[[AERA]]』([[朝日新聞社]]の雑誌):{{lang|la|æra}} は「時代」の意。英語の {{lang|en|era}} * [[いすゞ・エルガ|エルガ]]([[いすゞ自動車|いすゞ]]の大型路線バス車両):{{lang|la|erga}} は「~に向かって」の意。 ** [[いすゞ・エルガミオ|エルガミオ]](いすゞの中型路線バス車両) * [[トヨタ・レジアス|レジアス]]([[トヨタ自動車|トヨタ]]の[[ミニバン]]):{{lang|la|regius}}は「華麗な、素晴らしい」の意。 ** [[トヨタ・レジアスエース]] * [[トヨタ・スープラ|スープラ]]([[トヨタ自動車]]の[[スポーツカー]]):{{lang|la|supra}}は、「上へ、〜を超えて、至高」の意。 * 『[[SAPIO]]』([[小学館]]の雑誌):{{lang|la|sapio}} は「私は考える」の意(現在分詞は {{lang|la|sapiens}}) * 『[[テルマエ・ロマエ]]』([[ヤマザキマリ]]原作のマンガの題名):{{lang|la|thermae romae}}は「ローマの浴場」の意。 * [[ニベア]]:{{lang|la|nivea}} は「雪」ないし「雪のように白い」の意 * [[プリウス (曖昧さ回避)|プリウス]]([[トヨタ・プリウス]]および[[日立製作所]]の[[パーソナルコンピュータ]]、[[Prius (日立製作所)|Prius]]):{{lang|la|prius}} は「~に先立って、先駆け」の意 * [[プレナス]]([[ほっともっと]]の運営企業):{{lang|la|plenus}} は「満たされた、豊富な」の意。 * [[プロペ]]:{{lang|la|prope}}は傍に、近くにの意 * [[ベネッセコーポレーション]]:{{lang|la|bene}} + {{lang|la|esse}} で「良く存在すること」の意の造語 * [[りそなホールディングス]]・[[りそな銀行]]([[大和銀行]]と[[あさひ銀行]]が合併してできた[[金融機関]]とその[[金融持株会社]]):{{lang|la|resona}}<ref group="注釈">かつて[[UDトラックス|日産ディーゼル(現・UDトラックス)]]が製造・販売していた大型トラックの[[日産ディーゼル・レゾナ|レゾナ]]の綴りもRESONAであるが、こちらは[[英語]]の{{lang|en|resonance}}が名称の由来である(ただしresonance自体はラテン語のresono(resonaの原型)に由来する)。</ref> は「共鳴せよ、響き渡れ(命令形、単数)」の意 * [[ユヴェントス]]:[[イタリア]]の著名なサッカークラブ。{{lang|la|juventus}} は「青春、青年」の意 * ヴェンタス:[[ハンコックタイヤ]]のスポーツタイヤとプレミアムタイヤの名称。{{lang|la|ventus}}は「風」の意。 * [[湘南ベルマーレ]]:[[湘南]]をホームタウンとする[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]クラブ。{{lang|la|bellum}}(美しい)+ {{lang|la|mare}}(海)で {{lang|la|Bellmare}} == ラテン語由来の記号 == * [[アンパサンド|&amp;]]([[アンパサンド]]) - ラテン語の {{lang|la|et}} の[[合字]]が記号になったものである。 * [[感嘆符|!]]([[感嘆符|感嘆符、エクスクラメーション・マーク]]) - ラテン語の {{lang|la|io}} の、2字を縦に重ねた[[合字]]が記号になったものである。 * [[疑問符|?]]([[疑問符|疑問符、クエスチョンマーク]]) - ラテン語の {{lang|la|quaestio}} の最初の q と最後の o を縦に重ねた[[合字]]という説がある。 == 関連項目 == [[ファイル:Latin Europe.svg|250px|thumb|ヨーロッパにおける[[ロマンス諸語]]]] {{div col|25em}} * [[言語]] * <!--* [[バチカン|バチカン市国]]--><!--* [[カルチェ・ラタン]]-->[[言語学]] **[[古ラテン語]] **[[古典ラテン語]](古典期ラテン語、ラテン語の[[文語]]) **[[俗ラテン語]](ラテン語の[[口語]]) **[[中世ラテン語]](教会ラテン語) **[[ラテン文字]] **[[無活用ラテン語]] **[[ラテン語の成句の一覧]] **[[ラテン語の格変化]] **[[ラテン語の格変化 (ギリシア式)]] **[[ラテン語の動詞]] * [[ロマンス諸語]] ** [[イタリア語]] ** [[フランス語]] ** [[スペイン語]] ** [[ポルトガル語]] ** [[カタルーニャ語]] ** [[オック語]] ** [[ルーマニア語]] *** [[ラテン語とルーマニア語の音韻の変化]] ** [[レト・ロマン語]] ** [[サルデーニャ語]] * [[インド・ヨーロッパ語族]] ** [[ギリシア語]] ** [[英語]] ** [[サンスクリット|サンスクリット語]] <!--* [[ローマ法]]--> <!--* [[カノン法]]--> * [[ラテン文学]] <!--* [[アヴェ・マリア]](アウェー・マリア)--> <!--* [[ヴルガータ]](ウルガータ)--> <!--* [[カルミナ・ブラーナ]]--> <!--* [[レクイエス]]--> <!--** [[怒りの日]]--> * [[ラテン語の地名]] <!--* [[ロータシズム]]--> * [[ケンブリッジラテン語講座]] <!--* [[レクスィコン・ウーニウェルサーレ]]--> <!--* [[法学のラテン語成句の一覧]]--> * [[Wikipedia:外来語表記法/ラテン語]] {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == ;導入書 * 小倉博行『ラテン語のしくみ』([[白水社]]) * 大西英文『はじめてのラテン語』([[講談社]]〈[[講談社現代新書]]〉、ISBN 4-06-149353-1) * 岩崎務『CDエクスプレス ラテン語』([[白水社]]) * 有田潤『初級ラテン語入門』(白水社) * [[逸身喜一郎]]『ラテン語のはなし 通読できるラテン語文法』([[大修館書店]]、ISBN 4-46-921262-8) ;入門書 * M・アモロス『ラテン語の学び方』(南窓社、ISBN 4-81-650097-9) * [[田中利光]]『改訂版 ラテン語初歩』([[岩波書店]]) * 樋口・藤井『詳解ラテン文法』([[研究社]]) * [[呉茂一]]『ラテン語入門』(岩波書店) * 村松正俊『ラテン語四週間』([[大学書林]]) * 河底尚吾『改訂新版 ラテン語入門』(泰流社) * [[小林標]]『独習者のための楽しく学ぶラテン語』(大学書林) * [[風間喜代三]]『ラテン語 その形と心』([[三省堂]]) * 土岐・井坂『楽しいラテン語』([[教文館]]) ;文法書 * ジャン・コラール(有田訳)『ラテン文法』(文庫クセジュ) * [[中山恒夫]]『古典ラテン語文典』(研究社、ISBN-4560067848) * [[泉井久之助]]『ラテン広文典』(白水社、[[2005年]](新装復刊版)、ISBN 4-560-00792-6) * {{Cite book| 和書 | author1=[[松平千秋]] | author2=[[国原吉之助]] | title=新ラテン文法 | edition=第5版 | date=1992-09-01| publisher=東洋出版 | isbn=4-8096-4301-8 |ref ={{SfnRef|松平|国原|1992}} }} ;辞典 * [[田中秀央]]『[[羅和辞典 (研究社)|羅和辞典]]』([[研究社]]、ISBN 4-7674-9024-3) * 水谷智洋『羅和辞典 改訂版』(研究社、ISBN-4767490251) * 国原吉之助『古典ラテン語辞典』(大学書林、ISBN-4475001560) * Latin Dictionary Founded on Andrew's Edition of Freud's Latin Dictionary, Oxford Univ Press , ISBN 0-19-864201-6 ;ラテン語史 * 国原吉之助『中世ラテン語入門 新版』([[大学書林]]、ISBN 4-475-01878-1) * ジャクリーヌ・ダンジェル『ラテン語の歴史』(遠山一郎・高田大介訳、白水社〈文庫クセジュ〉、ISBN 4-560-05843-1) * ジョゼフ・ヘルマン『俗ラテン語』(新村猛・国原吉之助訳、白水社〈文庫クセジュ〉、ISBN 4-560-05498-3) ;その他 * 三ヶ尻正『ミサ曲・ラテン語・教会音楽ハンドブック—ミサとは・歴史・発音・名曲選』(ショパン、[[2001年]]、ISBN 978-4-88364-147-5) == 外部リンク == {{Wikipedia|la}} {{Wikibooks|ラテン語|ラテン語}} {{Commons&cat|Latin language|Latin language}} {{wiktionarycat}} * {{Kotobank}} * [https://aeneis.jp ラテン語入門] {{ja icon}} * [http://www.lingua-latina.org/ ラテン語 (lingua Latina)] {{ja icon}} * [http://aryandictionary.com/html/latin/latin_index.php 印欧語活用辞典 - ラテン語] {{ja icon}} (日本語対応のラテン語の活用表つき辞書、学習機能つき) * 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二酸化ケイ素
二酸化ケイ素(にさんかけいそ、英:Silicon dioxide)は、化学式SiO2で表されるケイ素の酸化物で、地殻を形成する物質の一つとして重要である。化学式はSiO2。シリカ(英: silica)、無水ケイ酸とも呼ばれる。圧力、温度の条件により、石英(英: quartz、水晶)以外にもシリカ鉱物(SiO2)の多様な結晶相(結晶多形)が存在する。マグマの粘性を左右する物質でもある。 結晶は共有結合結晶であり、ケイ素原子を中心とする正四面体構造が酸素原子を介して無数に連なる構造をしている。 二酸化ケイ素は温度や圧力をかけると結晶構造が変化する(相変態を起こす)。結晶構造などは次の一覧項で説明する。 二酸化ケイ素はフッ化水素ガス(HF)やフッ化水素酸(HF (aq))と反応し、それぞれ四フッ化ケイ素(SiF4)、ヘキサフルオロケイ酸 (H2SiF6)を生ずる。 また、固体の水酸化ナトリウム(NaOH)と熱することによりケイ酸ナトリウム(Na2SiO3)が生成する。ケイ酸ナトリウムに水を加えて熱すると水ガラスとなる。 二酸化ケイ素(シリカ)は石英、珪砂、珪石などの形で産出する。天然の石英の資源量には限りがあるが、工業的には代わりに人工石英がもちいられる。珪砂や珪石の資源量は非常に潤沢であり、工業用の純度の高いものも世界中に広く分布する。 成熟した砂漠の砂にも多く含まれる。 粉体状のものを多量に吸入すると、塵肺の一種である珪肺の原因となる。ホークス・ネストトンネル災害などが発生し、鉱石採掘現場での労働災害が課題となった。シリカ結晶の粉体は、国際がん研究機関によりグループ1の「ヒトに対する発癌性が認められる」物質に指定されている。微粉末の吸入が問題なのであり、吸入しなければ問題は認められない。例えばある程度大きな結晶を素手で触れたとしても、それ自体は何ら問題ではない。
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二酸化ケイ素(にさんかけいそ、英:Silicon dioxide)は、化学式SiO2で表されるケイ素の酸化物で、地殻を形成する物質の一つとして重要である。化学式はSiO2。シリカ(英: silica)、無水ケイ酸とも呼ばれる。圧力、温度の条件により、石英(英: quartz、水晶)以外にもシリカ鉱物(SiO2)の多様な結晶相(結晶多形)が存在する。マグマの粘性を左右する物質でもある。
{{Redirect|シリカ|}} {{Chembox |出典= |画像ファイル=QuartzUSGOV.jpg |画像サイズ= |IUPAC名=二酸化ケイ素 |別称=[[石英]]、シリカ、無水ケイ酸 |Section1= {{Chembox Identifiers |CAS番号=7631-86-9 |CASNo_Comment=(シリカ) |CASNo_Ref= |CASNo1=14808-60-7 |CASNo1_Comment=([[石英]]) |CASNo1_Ref=<ref>{{ICSC-ref|0808}}</ref> |CASNo2=14464-46-1 |CASNo2_Comment=([[クリストバライト]]) |CASNo2_Ref=<ref name="mhlw">{{Cite web|和書|title=シリカ(結晶質、非晶質を包含した二酸化ケイ素)|work=職場の安全サイト|publisher=厚生労働省|date=2016年3月|url=https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/7631-86-9.html|accessdate=2018年2月20日}}</ref> |CASNo3=15468-32-3 |CASNo3_Comment=([[鱗珪石]]) |CASNo3_Ref=<ref name="mhlw"/> |CASNo4=112926-00-8 |CASNo4_Comment=([[シリカゲル]]、[[沈降シリカ]]) |CASNo4_Ref=<ref name="mhlw"/> |CASNo5=60676-86-0 |CASNo5_Comment=([[石英ガラス]]) |CASNo5_Ref=<ref name="CRC"/> |日化辞番号= J43.598H |KEGG1 = C19572 |KEGG1_Comment = (非晶質) |KEGG2 = C16459 |KEGG2_Comment = (石英) |KEGG3 = D06521 |KEGG3_Comment = (無水) |PubChem= |SMILES= }} |Section2={{Chembox Properties |化学式=SiO<sub>2</sub> |モル質量=60.1 g/mol |外観=白色の粉末 |密度=2.196 g/cm<sup>3</sup> ([[石英ガラス]])<ref name="CRC">{{cite book|title=CRC Handbook of Chemistry and Physics|page=4-88(2470,viterous)|edition=92nd|year=2011-2012|isbn=978-1-4398-5512-6}}</ref><br/>結晶の密度は記事中の結晶構造の表を参照。 |MeltingPtC=1650 |Melting_notes=±75℃ |BoilingPtC=2230 |溶解度=0.012 g/100 mL ( °C) }} |Section3={{Chembox Hazards |ExternalSDS = {{ICSC-small|0808}}([[石英]])<br/>{{ICSC-small|0809}}([[クリストバライト]])<br/>{{ICSC-small|0807}}([[鱗珪石]])<hr/>[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/14808-60-7.html 結晶質シリカ(石英)]<br/>[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/14464-46-1.html 結晶質シリカ (クリストバライト)]<br/>[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/15468-32-3.html 結晶質シリカ (トリジマイト)]<br/>[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/112926-00-8.html 非晶質シリカ (シリカゲル、沈降シリカ)]<br/>[https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/60676-86-0.html 非晶質シリカ (石英ガラス)] |主な危険性= |眼への危険性=場合によっては危険性がある。 |皮膚への危険性= |NFPA-H=0 |NFPA-F=0 |NFPA-R=0 |NFPA-O= |引火点= |発火点= }} }} '''二酸化ケイ素'''(にさんかけいそ、[[英語|英]]:Silicon dioxide)は、[[化学式]]{{chem|SiO|2}}で表される[[ケイ素]]の[[酸化物]]で、[[地殻]]を形成する[[物質]]の一つとして重要である。'''シリカ'''({{lang-en-short|[[w:silica|silica]]}}<ref>{{Cite book|和書 |author = [[文部省]]編 |title = [[学術用語集]] 海洋学編 |url = http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi |year = 1981 |publisher = [[日本学術振興会]] |isbn = 4-8181-8154-4 |pages = }}</ref>)、'''無水ケイ酸'''、'''[[ケイ酸]]'''、'''酸化シリコン'''とも呼ばれる。純粋な二酸化ケイ素は[[無色]][[透明]]であるが、[[自然界]]には[[不純物]]を含む[[有色鉱物|有色]]のものも存在する。[[圧力]]、[[温度]]の条件により、[[石英]]({{lang-en-short|[[w:quartz|quartz]]}}、水晶)以外にもシリカ鉱物({{chem|SiO|2}})の多様な結晶相(結晶[[多形]])が存在し、[[自然]]界では[[長石]]類に次いで産出量が多い。[[マグマ]]の粘性を左右する物質でもある。[[鉱物]]として存在するほか、生体内にも微量ながら含まれている。 == 性質 == 二酸化ケイ素は[[圧力]]や[[温度]]などの条件により、様々な形([[結晶]][[多形]])をとる。これにより二酸化ケイ素は[[石英]]などの結晶性二酸化ケイ素と、[[シリカゲル]]・未焼成の[[珪藻土]]や[[生物]]中に存在する非結晶性二酸化ケイ素の2つに大別される。結晶性二酸化ケイ素は[[共有結合結晶]]であり、ケイ素原子を中心とする正四面体構造が[[酸素]]原子を介して無数に連なる構造をしている。 === 結晶多形 === 二酸化ケイ素は温度や圧力をかけると結晶構造が変化する(相変態を起こす)。結晶構造などは次の一覧項で説明する。 *'''温度を上昇させた時の相変化''' :常温常圧下ではα石英が安定だが、二酸化ケイ素は温度変化によって相変化を起こす。 :以下に示す温度は常圧での温度であり、溶剤や圧力等により変化する<ref>熱とエネルギーを科学する 171p ISBN 4501419008</ref><ref>鈴木隆夫、荒堀忠久、「[https://doi.org/10.2109/jcersj1950.89.1036_637 ケイ石耐火物におけるトリジマイトからクリストバライトへの転移に及ぼす{{chem|Al|2|O|3}}の影響]」『窯業協會誌』 89巻 (1981) 1036号 p.637-642, {{doi|10.2109/jcersj1950.89.1036_637}}</ref>。 ::'''α-石英'''― 573℃→'''β-石英'''― 870℃→ '''β‐[[鱗珪石|トリディマイト]]'''― 1470℃→ '''β‐[[クリストバライト]]'''― 1705℃→ 溶解 :しかし、β‐トリディマイトは不純物の無いβ-石英からは転移せず、この形態を経由するには添加物を加える必要がある。そうしない場合、1050℃でβ-石英からβ‐クリストバライトに直接相変化する<ref>{{Cite journal|author=Heaney, Peter J. |title=Structure and chemistry of the low-pressure silica polymorphs |journal=Reviews in Mineralogy and Geochemistry |volume=29 |issue=1 |pages=1-40 |year=1994 |month=01 |ISSN=1529-6466 |ISBN=9781501509698 |doi=10.1515/9781501509698 |url=https://pubs.geoscienceworld.org/msa/rimg/article/29/1/1/110558/Structure-and-chemistry-of-the-low-pressure-silica}}</ref>。 :上記の様に説明したが、大抵はβ-石英から1550℃で直接溶融する。これはそれぞれの結晶を構成するSiO<sub>4</sub>正四面体が、頂点の酸素を共有して結合して3次元的なネットワークを形成しているが、その結合の仕方が各結晶構造で異なるため簡単に相変化が起きない為である<ref name=keio>{{Cite journal|和書|author=大場茂, 大橋淳史 |title=右水晶と左水晶の区別 |journal=慶應義塾大学日吉紀要 自然科学 |ISSN=09117237 |publisher=慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会 |year=2009 |issue=46 |pages=13-41 |naid=120001747528 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10079809-20090930-0013}}</ref>。 *'''温度を下げた時の相変化''' :β-トリディマイトを急速に冷却すると、114℃で'''α-トリディマイト'''となる。 :β-クリストバライトを急速に冷却すると、270℃で'''α-クリストバライト'''となる。 *'''圧力による相変化''' :500 ℃から800 ℃、2~3 G[[パスカル (単位)|Pa]]以上になると'''[[コーサイト]]'''に<ref>{{cite journal |last=Coes |first=L. Jr. |date=31 July 1953|title=A New Dense Crystalline Silica |journal=Science |volume=118 |issue=3057 |pages=131–132 |doi=10.1126/science.118.3057.131 |pmid=17835139|bibcode = 1953Sci...118..131C}}</ref><ref>{{cite book|author=Robert M. Hazen|title=The Diamond Makers|url=https://books.google.com/books?id=fNJQok6N9_MC&pg=PA91|accessdate=6 June 2012|date=22 July 1999|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-65474-6|pages=91–}}</ref>、1200 ℃10 GPa以上で'''[[スティショバイト]]'''に転移する<ref>{{cite journal|doi=10.1016/j.epsl.2007.04.041|title=Inclusions of nanocrystalline hydrous aluminium silicate "Phase Egg" in superdeep diamonds from Juina (Mato Grosso State, Brazil) |year=2007 |last1=Wirth |first1=R|last2=Vollmer|first2=C|last3=Brenker|first3=F|last4=Matsyuk|first4=S|last5=Kaminsky|first5=F|journal=Earth and Planetary Science Letters|volume=259|pages=384 |bibcode=2007E&PSL.259..384W|issue=3–4}}</ref>。 ::ともに常温・常圧下では[[準安定状態]]で、[[隕石]]の[[クレーター]]から発見されている<ref name="Fleischer1962">{{cite journal |last1=Fleischer |first1=Michael|year=1962|title=New mineral names |journal=American Mineralogist |volume=47 |issue=2 |pages=172–174 |publisher=Mineralogical Society of America |doi= |url=http://rruff.info/uploads/AM47_805.pdf |accessdate= |format=PDF}}</ref><ref>{{cite journal|doi=10.1126/science.132.3421.220|title=First Natural Occurrence of Coesite|year=1960|last1=Chao|first1=E. C. T.|last2=Shoemaker|first2=E. M.|last3=Madsen|first3=B. M.|journal=Science|volume=132|pages=220–2|pmid=17748937|issue=3421|bibcode=1960Sci...132..220C}}</ref>。 ::コーサイトの生成条件は地球の深度70 km以下に相当し深部まで潜った岩石が上昇してきた[[変成岩#広域変成岩|超高圧変成岩]]で見つかっている<ref>{{cite journal| author=O'Brien, P.J., N. Zotov, R. Law, M.A. Khan and M.Q. Jan |year=2001|title= Coesite in Himalayan eclogite and implications for models of India-Asia collision|journal= Geology |volume=29|pages= 435–438| doi=10.1130/0091-7613(2001)029<0435:CIHEAI>2.0.CO;2| issue=5|bibcode = 2001Geo....29..435O }}</ref><ref>{{cite journal|author1=Schertl, H.-P. |author2=Okay, A.I. |year=1994|title= A coesite inclusion in dolomite in Dabie Shan, China: petrological and rheological significance|url=http://eurjmin.geoscienceworld.org/content/6/6/995.short|journal= Eur. J. Mineral.|volume= 6|pages= 995–1000|issue=6|doi=10.1127/ejm/6/6/0995}}</ref>。 ::[[マントル]]遷移層から下部マントル程度の高圧条件下では[[スティショバイト]]構造をとると考えられている<ref>Funamori, N.; Jeanloz, R.; Miyajima N.; Fujino K. (2000). "Mineral assemblages of basalt in the lower mantle". ''J. Geophs. Res. - Solid Earth'' '''105''' (B11): 26037–26043. [http://cat.inist.fr/?aModele=afficheN&cpsidt=826355 Mineral assemblages of basalt in the lower mantle] Journal of geophysical research A. 2000, vol. 105, n° B11, pp. 26037-26043</ref><ref>[http://www.geo.arizona.edu/xtal/geos306/fall06-11.htm eos 306, Fall 2006, Lecture 11, The Lower Mantle]</ref><ref>八木健彦、近藤忠、宮島延吉、亀卦川卓美、 {{PDFlink|[https://www2.kek.jp/imss/pf/pfnews/20_3/yagiweb.pdf "下部マントル深部条件下における高温高圧X線回折実験"]}}, ''PHOTON FACTORY NEWS'' Vol.20 No.3 p.15, NOV. 2002</ref>。 :'''[[ザイフェルト石]]'''は、既知の多形の中で最も高い圧力40 GPaで発見されている。 ::実験室以外では、[[月隕石]]か[[火星隕石]]でのみ見つかっている(地球への隕石では大気による減速で、ほとんど40 GPaに至らない)<ref>{{cite journal|doi=10.1127/0935-1221/2008/0020-1812|title=Seifertite, a dense orthorhombic polymorph of silica from the Martian meteorites Shergotty and Zagami|year=2008|last1=Goresy|first1=Ahmed El|last2=Dera|first2=Przemyslaw|last3=Sharp|first3=Thomas G.|last4=Prewitt|first4=Charles T.|last5=Chen|first5=Ming|last6=Dubrovinsky|first6=Leonid|last7=Wopenka|first7=Brigitte|last8=Boctor|first8=Nabil Z.|last9=Hemley|first9=Russell J.|journal=European Journal of Mineralogy|volume=20|issue=4|pages=523}} [http://www.schweizerbart.de/resources/downloads/paper_previews/58172.pdf First page preview]</ref><ref>{{cite journal|author1=Dera P |author2=Prewitt C T |author3=Boctor N Z |author4=Hemley R J |journal=American Mineralogist |volume=87|year=2002|page=1018|title=Characterization of a high-pressure phase of silica from the Martian meteorite Shergotty|url=http://rruff.geo.arizona.edu/AMS/authors/Boctor%20N%20Z}}</ref>。 === 自然界におけるシリカ === 自然界では[[ケイ素]]は多くの場合、シリカの形をとっている。最も一般的な形状は石英である。また、[[砂]]の主成分であり、[[ガラス]]の原料となる[[珪砂]]もシリカからなる。[[地殻]]内にはシリカが大量に含まれており、[[地球]]の表層の約6割がシリカを含む鉱物によって構成されている。 === 生物学上のシリカ === 生物の中には、二酸化ケイ素の形でガラス質の[[骨格]]や[[殻]]を形成するものがあり、一部の[[シダ植物]]、[[イネ科]]の[[植物]]、[[コケ植物]]などの[[プラント・オパール]]や、[[ケイソウ]]類、[[放散虫]]などの骨格、[[枯草菌]]が作る[[芽胞]]などに利用されている。また、植物一般において成長促進や環境ストレスの低減、病害虫への耐性向上の効果がある。(''植物について詳しくは[[栄養素_(植物)#ケイ素]]参照'') === 人体中のシリカ === 人体においてシリカはほとんど吸収されず、[[肝臓]]や[[腎臓]]への蓄積もほとんど行われない。水が付加したオルトケイ酸が血中に約1μg/mlの割合で吸収されるが、タンパク質とは反応せず、大部分が尿中に排泄される。<ref>{{cite report|title=食品添加物ケイ酸カルシウム|食品安全委員会|url=https://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/08/dl/s0809-5g.pdf|year=2007|accessdate=2021年11月25日}}</ref> ==結晶構造== {|class="wikitable" |+SiO<sub>2</sub>の結晶構造<ref>Holleman, A. F.; Wiberg, E. (2001), Inorganic Chemistry, San Diego: Academic Press, ISBN 0-12-352651-5</ref> |- !相 !結晶対称性<br/>[[ピアソン記号]], [[:en:List_of_space_groups|group No.]] !密度, ρ<br />g/cm<sup>3</sup> !注釈 !構造 |- |α-石英<br/>α-quartz |[[三方晶系]] <br/>hP9, P3<sub>1</sub>21 No.152<ref>{{cite journal|journal=[[Journal of Applied Physics]] |year=1982|volume=53|pages=6751–6756|title=Crystal structure and thermal expansion of a-quartz SiO<sub>2</sub> at low temperature|author1=Lager G. A. |author2=Jorgensen J. D. |author3=Rotella F.J. |doi=10.1063/1.330062|issue=10|bibcode = 1982JAP....53.6751L }}</ref> | 2.648 | [[鏡像異性体]]があり、それぞれ左右方向への3回らせん軸対称<br/>573℃でβ-石英に変態 |[[File:a-quartz.png|100px]] |- |β-石英<br/>β-quartz |[[六方晶系]]<br/>hP18, P6<sub>2</sub>22, No. 180<ref>{{cite journal |doi=10.1016/0022-4596(81)90449-7 |title=The structure of quartz at 25 and 590&nbsp;°C determined by neutron diffraction |year=1981 |last1=Wright |first1=A. F. |last2=Lehmann |first2=M. S. |journal=Journal of Solid State Chemistry |volume=36 |issue=3 |pages=371–80|bibcode = 1981JSSCh..36..371W }}</ref> | 2.533 | [[鏡像異性体]]があり、それぞれ左右方向への6回らせん軸対称 |[[File:b-quartz.png|100px]] |- |α-トリディマイト<br/>α-tridymite |[[直方晶系]]・[[単斜晶系]]<ref name=keio/><br/>oS24, C222<sub>1</sub>, No.20<ref name=trid>{{cite journal |doi=10.1524/zkri.1986.177.1-2.27 |title=Structural change of orthorhombic-Itridymite with temperature: A study based on second-order thermal-vibrational parameters |year=1986 |last1=Kihara |first1=Kuniaki |last2=Matsumoto |first2=Takeo |last3=Imamura |first3=Moritaka |journal=Zeitschrift für Kristallographie |volume=177 |pages=27–38|bibcode = 1986ZK....177...27K }}</ref> | 2.265 | 常圧下で準安定状態 |[[File:a-tridymite.png|100px]] |- |β-トリディマイト<br/>β-tridymite | 六方晶系<br/>hP12, P6<sub>3</sub>/mmc, No. 194<ref name=trid/> | | α-トリディマイトと相互に速やかに変態する<br/>β-トリディマイトは2010Kでβ-クリストバライトに変態する |[[File:b-tridymite.png|100px]] |- |α-クリストバライト<br/>α-cristobalite |[[正方晶系]]<br/>tP12, P4<sub>1</sub>2<sub>1</sub>2, No. 92<ref>{{Cite journal|author=DownsR. T., PalmerD. C. |title=The pressure behavior of α cristobalite |journal=[[American Mineralogist]] |volume=79 |issue=1-2 |pages=9-14 |year=1994 |month=02 |ISSN=0003-004X |eprint=https://pubs.geoscienceworld.org/msa/ammin/article-pdf/79/1-2/9/4209133/am79\_9.pdf |format=PDF}}</ref> | 2.334 | 常圧下で準安定状態 |[[File:a-cristobalite.png|100px]] |- |β-クリストバライト<br/>β-cristobalite |[[立方晶系]]<br/>cF104, Fd<u style="text-decoration:overline">3</u>m, No.227<ref>{{cite journal |doi=10.1080/00318087508228690 |title=The structures of the β-cristobalite phases of SiO<sub>2</sub> and AlPO<sub>4</sub> |year=1975 |last1=Wright |first1=A. F. |last2=Leadbetter |first2=A. J. |journal=[[Philosophical Magazine]] |volume=31 |issue=6 |pages=1391–401 |bibcode=1975PMag...31.1391W}}</ref> | | α-クリストバライトと相互に速やかに変態する<br/>1978 Kで溶融する |[[File:b-cristobalite.png|100px]] |- |{{仮リンク|キータイト|en|keatite}} | 正方晶系<br/>tP36, P4<sub>1</sub>2<sub>1</sub>2, No. 92<ref>{{cite journal |doi=10.1524/zkri.1959.112.1-6.409 |title=The crystal structure of keatite, a new form of silica |year=1959 |last1=Shropshire |first1=Joseph |last2=Keat |first2=Paul P. |last3=Vaughan |first3=Philip A. |journal=Zeitschrift für Kristallographie |volume=112 |pages=409–13|bibcode = 1959ZK....112..409S }}</ref> | 3.011 | Si<sub>5</sub>O<sub>10</sub>, Si<sub>4</sub>O<sub>14</sub>, Si<sub>8</sub>O<sub>16</sub> 環<br/>ガラス状シリカとアルカリから600-900Kおよび40-400MPaで合成 |[[File:keatite.png|100px]] |- |[[モガン石]] |単斜晶系<br/>mS46, C2/c, No.15<ref>{{cite journal |journal=European Journal of Mineralogy |year=1992 |volume=4 |issue=4 |pages=693–706 |title=Crystal structure of moganite: a new structure type for silica |first1=Gerhard |last1=Miehe |first2=Heribert |last2=Graetsch |doi=10.1127/ejm/4/4/0693}}</ref> | | {{chem|Si|4|O|8}} と {{chem|Si|6|O|12}}の環 |[[File:Moganite.png|100px]] |- |[[コーサイト]] | 単斜晶系<br/>mS48, C2/c, No.15<ref>{{Cite journal|author=Levien, Louise and Prewitt, Charles T. |title=High-pressure crystal structure and compressibility of coesite |journal=American Mineralogist |volume=66 |issue=3-4 |pages=324-333 |year=1981 |month=04 |ISSN=0003-004X |url=https://www.semanticscholar.org/paper/High-pressure-crystal-structure-and-compressibility-Levien-Prewitt/6d2aa0f4f4b690cd260b699f1884163e36946b6a}}</ref> | 2.911 | {{chem|Si|4|O|8}} と {{chem|Si|8|O|16}}環<br/> 900 K と3–3.5 GPaで合成 |[[File:coesite.png|100px]] |- |[[スティショバイト]] | 正方晶系<br/>tP6, P4<sub>2</sub>/mnm, No.136<ref>{{cite journal|journal=[[American Mineralogist]] |year=1995|volume=80|pages=454–456|title=H in rutile-type compounds: II. Crystal chemistry of Al substitution in H-bearing stishovite |author1=Smyth J. R. |author2=Swope R. J. |author3=Pawley A. R. |url=http://rruff.geo.arizona.edu/doclib/am/vol80/AM80_454.pdf}}</ref> | 4.287 | シリカの多形体のうち最も密度の高いものの一つ<br/> [[ルチル|ルチル型構造]]<br/> 7.5–8.5 GPa |[[File:stishovite.png|100px]] |- |{{仮リンク|ザイフェルト石|en|Seifertite}} | 直方晶系<br/>oP, Pbcn<ref>{{cite journal|author1=Dera P. |author2=Prewitt C. T. |author3=Boctor N. Z. |author4=Hemley R. J. |journal=[[American Mineralogist]] |volume=87|year=2002|page=1018|title=Characterization of a high-pressure phase of silica from the Martian meteorite Shergotty|url=http://rruff.geo.arizona.edu/AMS/authors/Boctor%20N%20Z}}</ref> | 4.294 | シリカの多形体のうち最も密度の高いものの一つ<br/>40 GPaで得られる<ref>[http://www.mindat.org/min-26715.html Seifertite]. Mindat.org.</ref> |[[File:SeifertiteStructure.png|100px]] |- |{{仮リンク|メラノフログ石|en|melanophlogite}} | 立方晶系<br/> (cP*, P4<sub>2</sub>32, No.208)<ref name=mel>{{cite journal|journal=[[American Mineralogist]]|year=1963|volume=48|pages=854–867|title=Melanophlogite, a cubic polymorph of silica|author1=Skinner B. J. |author2=Appleman D. E. |url=http://www.minsocam.org/ammin/AM48/AM48_854.pdf}}</ref> <br/>または 正方晶系<br/> (P4<sub>2</sub>/nbc)<ref>{{cite journal |author1=Nakagawa T. |author2=Kihara K. |author3=Harada K. |journal=[[American Mineralogist]] |volume=86|year=2001|page=1506|title=The crystal structure of low melanophlogite|url=http://rruff.geo.arizona.edu/AMS/minerals/Melanophlogite}}</ref> | 2.04 | {{chem|Si|5|O|10}}, {{chem|Si|6|O|12}} 環<br/> [[包摂化合物]]<ref>{{cite book|author=Rosemarie Szostak|year=1998|title=Molecular sieves: Principles of Synthesis and Identification|publisher=Springer|isbn=0-7514-0480-2|url=https://books.google.com/?id=lteintjA2-MC&printsec=frontcover}}</ref>(青色は[[キセノン]])<br/>高温相のβ-メラノフログ石がある |[[File:%D0%9C%D0%B5%D0%BB%D0%B0%D0%BD%D0%BE%D1%84%D0%BB%D0%BE%D0%B3%D0%B8%D1%82_-_%D0%BA%D1%81%D0%B5%D0%BD%D0%BE%D0%BD.png|100px]] |- | fibrous<br/> W-silica<ref>Greenwood, Norman N.; Earnshaw, Alan (1984). Chemistry of the Elements. Oxford: Pergamon Press. pp. 393–99. ISBN 0-08-022057-6.</ref> | 直方晶系<br/>oI12, Ibam, No.72<ref>{{cite journal |doi=10.1002/zaac.19542760110 |title=Über Siliciumchalkogenide. VI. Zur Kenntnis der faserigen Siliciumdioxyd-Modifikation |year=1954 |last1=Weiss |first1=Alarich |last2=Weiss |first2=Armin |journal=Zeitschrift für anorganische und allgemeine Chemie |volume=276 |pages=95–112}}</ref> | 1.97 | [[硫化ケイ素]]の様な鎖状 |[[File:SiS2typeSilica.png|100px]] |- | {{lang-en-short|[[w:2D silica|2D silica]]}}<ref>{{cite journal|doi=10.1038/srep03482|pmid=24336488|pmc=3863822|title=Defects in bilayer silica and graphene: common trends in diverse hexagonal two-dimensional systems|journal=[[Scientific Reports]]|volume=3|pages=3482|year=2013|author1=Björkman|first1=T|last2=Kurasch|first2=S|last3=Lehtinen|first3=O|last4=Kotakoski|first4=J|last5=Yazyev|first5=O. V.|last6=Srivastava|first6=A|last7=Skakalova|first7=V|last8=Smet|first8=J. H.|last9=Kaiser|first9=U|last10=Krasheninnikov|first10=A. V.|bibcode=2013NatSR...3E3482B}}</ref> | 六方晶系 | | シート状の2次元構造 |[[File:2D silica structure.png|100px]] |} == 反応 == 二酸化ケイ素は[[フッ化水素]]ガス(HF)や[[フッ化水素酸]](HF (aq))と反応し、それぞれ[[四フッ化ケイ素]](SiF<sub>4</sub>)、[[ヘキサフルオロケイ酸]] ({{chem|H|2|SiF|6}})を生ずる。 : <chem>SiO2 + 4HF(gas) -> SiF4 + 2H2O</chem> : <chem>SiO2 + 6HF(aq) -> H2SiF6 + 2H2O</chem> また、固体の[[水酸化ナトリウム]](NaOH)と熱することにより[[ケイ酸ナトリウム]]({{chem|Na|2|SiO|3}})が生成する。ケイ酸ナトリウムに水を加えて熱すると[[水ガラス]]となる。 : <chem>SiO2 + 2NaOH -> Na2SiO3 + H2O</chem> ==利用== === 工業分野での利用 === [[工業]]生産される二酸化ケイ素でも特に代表的なものはケイ酸を[[ゲル]]化した[[シリカゲル]](SiO<sub>2</sub>純度99.5%以上)であり、[[乾燥剤]]として食品や[[半導体]]の[[精密機器]]の保存から、[[消臭剤]]、[[農業]][[肥料]]、[[建築]]用[[調湿剤]]などに使われる。電子材料[[基板]]や[[シリコンウェハー]]などの[[研磨剤]]などに使用されるコロイダルシリカや、耐熱器具、[[実験器具]]や[[光ファイバー]]の原料として用いられる珪砂、[[珪石]]などを溶融した後冷却し、ガラス化させた[[石英ガラス]]、樹脂の補強、[[研磨材]]、医薬品添加剤、[[増粘剤]]、農薬などの沈殿防止剤などに用いられる[[フュームドシリカ]]<ref>落合満、「[https://doi.org/10.11203/jar.5.32 フュームドシリカ]」『エアロゾル研究』 5巻 (1990) 1号 p.32-43, {{doi|10.11203/jar.5.32}}。</ref>、断熱材として用いられる[[エアロゲル#シリカエアロゲル|シリカエアロゲル]]の他、[[エナメル]]、[[シリカセメント]]、[[陶磁器]]、[[タイヤ]]の原料、液体[[クロマトグラフィー]]担体、[[電球]]や[[ブラウン管|CRTディスプレイ]]の表面などの[[表面処理]]剤、[[新聞紙]]の印刷インクの浸透防止など様々な分野において利用されている。陶器などの製造で石英が原材料として使用される<ref>{{Cite journal|和書|author=蒲地伸明 |title=強化磁器食器の衝撃強さ評価方法と製品強さ向上に関する研究 |issue=佐賀大学 博士論文 (工学)、甲第405号 |date=2010-03 |naid=500000512202 |url=http://id.nii.ac.jp/1730/00019616/}}</ref>。[[タイヤ]]の原料としては、[[沈降シリカ]]がゴムに補強充填剤として配合される。電球に用いられる場合には、電球の内側に、眩しさを防ぎ光を拡散させる目的で[[塗料]]として塗られる<ref>{{Cite book|和書|author=藤瀧和弘 |title=よくわかる電気の基本としくみ : 身近な機器から学ぶ電気の基礎 |publisher=秀和システム |year=2004 |series=How-nual図解入門 |NCID=BA65804368 |ISBN=4798006947 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004339426-00 |page=145}}</ref>。 [[フェロシリコン]]の様な高温プロセスの副産物として得られる{{仮リンク|シリカヒューム|en|Silica fume}}はヒュームドシリカより純度が低いものの、[[セメント]]に混ぜる{{仮リンク|ポゾラン|en|Pozzolan}}として利用される。また特殊な利用法として、戦車などの[[複合装甲]]として、セラミックの形で金属の間に挟んだものがある。 金属[[シリコン]]を作る際の原料としても用いられる。(炭素還元法:<chem>{SiO2} + 2C -> {Si} + 2CO</chem>)<ref>[https://www.google.com/patents/WO2013080981A1?cl=ja 高純度金属Siの製造方法]</ref><ref>福間の無機化学の講義 三訂版 184p</ref> === 化粧品・医薬品への添加 === 微粒二酸化ケイ素は一般的な[[粉体]]と比べた場合、[[吸水性]]が低い。これを利用して、[[アイシャドー]]や[[ファンデーション (化粧品)|ファウンデーション]]といった[[化粧品]]において湿気による固形化を防ぐ役割として使用されるほか、安定化などの目的で[[クリーム (基礎化粧品)|クリーム]]や[[乳液]]に使用される。また[[硬度]]が高いことを利用し、[[歯磨き粉]]に研磨成分として用いられることもある。さらに[[医薬品]]においては、打錠用粉末の流動性を高めたり、錠剤の強度を高めるためのコーティング剤、軟膏・乳液の安定化のために使用されることもある。 === 食品添加物としての利用 === 食品添加物は、その吸着性を利用して、[[ビール]]や[[清酒]]、[[みりん]]といった[[醸造物]]や[[食用油]]、[[醤油]]、[[ソース (調味料)|ソース]]などの[[ろ過]]工程に使われるほか、[[砂糖]]、[[缶詰]]などの製造工程にも用いられている。微粒二酸化ケイ素は吸湿・乾燥材としても使用される。とくにふりかけ等の粉形食品には、湿気による“ダマ”を防ぐ目的で添加されることがある。ただし、[[厚生労働省]]の告示の中で「母乳代替食品及び離乳食に使用してはならない」と使用基準が示されている<ref name="MHW">{{Cite web|和書|title=厚生労働省行政情報、添加物使用基準リスト 2、『各添加物の使用基準及び保存基準』|page=二酸化ケイ素|date=2017年6月26日|url=http://www.ffcr.or.jp/zaidan/MHWinfo.nsf/0/8aa11687a2aaf0c4492570650018d5ba|publisher=公益財団法人日本食品化学研究振興財団|accessdate=2018年2月17日}}</ref>。 食品添加物として利用される非結晶性の二酸化ケイ素は、体内で消化吸収されず、その大部分が便中に排出されるため身体に影響はない。人体には約1.8gの微量のケイ素が存在し、こうしたケイ素は[[ケイ酸]]など水溶性の化合物として食物から吸収される。 ==== ろ過助剤 ==== 二酸化ケイ素の持つ多孔質や吸着能力などを利用して、ろ過用の食品添加物として使用されている。ビールをはじめとした酒類の混濁防止や調味液などのオリ下げ、ビールの泡持ち改善として使用される。こうしたろ過助剤としての二酸化ケイ素は不溶性であるためろ過過程で除去される。 == 埋蔵量 == 二酸化ケイ素(シリカ)は石英、珪砂、[[珪石]]などの形で産出する。天然の石英の資源量には限りがあるが、工業的には代わりに人工石英がもちいられる<ref name="USGS_Quartz">[http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/silica/mcs-2008-quart.pdf QUARTZ CRYSTAL (INDUSTRIAL)], [[アメリカ地質調査所]]</ref>。珪砂や珪石の資源量は非常に潤沢であり、工業用の純度の高いものも世界中に広く分布する<ref name="USGS_Sand">[http://minerals.usgs.gov/minerals/pubs/commodity/silica/mcs-2008-sandi.pdf SAND AND GRAVEL(INDUSTRIAL)], [[アメリカ地質調査所]]</ref>。 成熟した砂漠の砂にも多く含まれる。{{main|砂漠#砂の組成}} == 危険性 == 粉体状のものを多量に吸入すると、[[塵肺]]の一種である[[珪肺]]の原因となる<ref name=IPCS>{{Cite web|和書|date=2006|url=https://www.nihs.go.jp/hse/cicad/full/no24/full24.pdf|title=IPCS UNEP//ILO//WHO 国際化学物質簡潔評価文書 No.24 結晶質シリカ、石英|format=PDF|publisher=国立医薬品食品衛生研究所 安全情報部|accessdate=2012-01-14}}</ref>。[[ホークス・ネストトンネル災害]]などが発生し、鉱石採掘現場での労働災害が課題となった。不溶性の結晶性二酸化ケイ素の一種である[[クリストバライト]]の[[粉塵]]に関しては、[[国際がん研究機関]](IARC)より[[発がん性]]があるとの指摘がされていたが<ref>[https://www.sanei.or.jp/images/contents/290/Silica_crystalline_carcinogenicity.pdf 発がん物質暫定物質(2001) の提案理由]日本産業衛生学会 許容濃度等に関する委員会(2001年4月6日)2018年1月13日閲覧</ref>、1997年および2012年よりヒトに対する[[発がん性]]が認められるグループ1に分類されている<ref name="IARC68"/><ref name="IARC100C">{{cite report|title=Silica Dust, Crystalline, in the form of Quartz or Cristobalite|work=IARC Monographs on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans|volume=100C|year=2012|publisher=[[国際がん研究機関]](IARC)|url=http://monographs.iarc.fr/ENG/Monographs/vol100C/index.php|accessdate=2018年2月17日}}</ref>。微粉末の吸入が問題なのであり、吸入しなければ問題は認められない。例えばある程度大きな結晶を素手で触れたとしても、それ自体は何ら問題ではない。 なお、[[食品添加物]]や[[顔料]]、[[健康食品]]、[[飲料水]]として使用されている二酸化ケイ素は非結晶性のものであり、ヒトに対する発がん性を分類できないグループ3に分類されている<ref name="IARC68">{{cite report|title=Silica, Some Silicates, Coal Dust and para-Aramid Fibrils|work=IARC Monographs on the Evaluation of Carcinogenic Risks to Humans|volume=68|year=1997|page=210-211|publisher=[[国際がん研究機関]](IARC)|url=http://monographs.iarc.fr/ENG/Monographs/vol68/index.php|accessdate=2018年2月17日}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- {{Cite journal}} --> * {{Cite book|和書 |author = [[黒田吉益]] |coauthors = [[諏訪兼位]] |title = 偏光顕微鏡と岩石鉱物 第2版 |year = 1983 |publisher = [[共立出版]] |isbn = 4-320-04578-5 |pages = 66-72 |chapter = 4.1 SiO<sub>2</sub> 鉱物 (Silica minerals) }} * {{Cite book|和書 |author = [[森本信男]] |title = 造岩鉱物学 |year = 1989 |publisher = [[東京大学出版会]] |isbn = 4-13-062123-8 |pages = 191-199 |chapter = 10 シリカ鉱物 }} * {{cite book |authors = Kaufmann, Klaus, D.Sc. |title=Silica: The Amazing Gel: An Essential Mineral for Radiant Health Recovery and Rejuvenation |publisher= Alive Books, New York, NY |year=1998 }} * {{cite book/和書 |authors= |translator=木村修一・小林修平 翻訳監修 |title=最新栄養学〔第9版〕―専門領域の最新情報― |year=2007 |publisher=建帛社 }} * {{cite journal |authors = 篠原也寸志、神山宣彦 |title=シリカの物理化学的性質と作業環境測定方法 |work=特集「シリカの生体影響」 |journal=エアロゾル研究 |volume=16|number=4|page=269-274|year=2001 |doi=10.11203/jar.16.269 |ref="エアロゾル研究" }} == 関連項目 == {{Commonscat|Silicon dioxide}} * [[ケイ酸]] * [[ケイ酸塩]](シリケート) * [[ケイ酸塩鉱物]] * [[アルミノケイ酸塩]] * [[鉱物]] - [[酸化鉱物]] - [[石英]]・[[鱗珪石]]・[[クリストバライト]]・[[コーサイト]]・[[スティショバイト]] * [[衝撃石英]] * [[石綿]](''アスベスト'') * [[シリカゲル]] * [[メソポーラスシリカ]] * [[ゼオライト]] * [[ギンピ・ギンピ]] - 葉や枝に生えた毛の先端には二酸化ケイ素で出来た中空の構造物がある。 * [[ゾルゲル法]] * [[富士シリシア化学]] * [[アエロジル]] == 外部リンク == <!-- {{Cite web}} --> {{節スタブ}} * {{hfnet|579|ケイ素、ケイ素化合物}} {{Chem-stub}} {{ケイ素の化合物}} {{Silica minerals}} {{公害}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にさんかけいそ}} [[Category:二酸化ケイ素|*]] [[Category:酸化物]] [[Category:ケイ素の化合物]] [[Category:体質顔料]] [[Category:食品添加物]]
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石英
石英(せきえい、独: Quarz、英: quartz、クォーツ、クオーツ)は、二酸化ケイ素 (SiO2) が結晶してできた鉱物。六角柱状のきれいな自形結晶をなすことが多い。中でも特に無色透明なものを水晶(すいしょう、独: Bergkristall、英: rock crystal、ロッククリスタル)と呼び、古くは玻璃()と呼ばれて珍重された。 石英を成分とする砂は珪砂(けいしゃ・けいさ、独: Quarzsand、英: quartz sand)と呼ばれ、石英を主体とした珪化物からなる鉱石は珪石と呼ぶ。この珪石のうち、チャートや珪質砂岩が熱による変成(接触変成作用)を受けた変成岩を珪岩(クォーツァイト)と呼ぶが、この珪岩の中にフクサイト(クロム白雲母)の微細な粒子を含み鮮やかな緑色を呈色し、砂金のようなキラキラした輝きを発するものは特に砂金石(アベンチュリン)と呼ばれている。 二酸化ケイ素 (SiO2) が、低温で水分を含みゆっくり固まったために原子配列が規則正しくない非晶質のものがオパール(蛋白石)である。 二酸化ケイ素 (SiO2) に富んだ流紋岩質の溶岩が急激に冷やされることで生じるのが、非晶質の天然ガラスである黒曜石(オブシディアン)である。 火成岩ができるとき石英の結晶は、他の鉱物の結晶ができた後でその隙間に成長するため本来の結晶の形になれず(他形結晶)、特有の結晶面が発達していないため塊状に見えるものを石英、肉眼で確認できる大きさで六角柱状の結晶(自形結晶)のものを水晶と呼んでいるが、昔はそれとは逆に塊状のものを水晶、六角柱状の結晶のものを石英と呼んでいたのが、いつしか今日のような逆の呼び方に変わってしまいそれが定着してしまったといわれている。それは、江戸時代中期の貝原益軒が書いた大和本草で、水晶と石英の定義を取り違えたからだともいわれていて、その誤りを平賀源内は自著の物類品隲で指摘していた。 ただ正倉院の目録では、自然のままの無加工のものを白石英、加工品を水精という使い分けをしており、江戸時代以前の様々な文献等でも、石英、水晶、水精の区別は明確ではなく、その使い分けの基準は様々で且つあいまいでもあり、必ずしも江戸時代中期以降にその呼び方が逆になって定着してしまったとまではいいきれないようである。 石英は地殻を構成する非常に一般的な造岩鉱物で、長石に次いでもっともよく見られるもので、火成岩・変成岩・堆積岩のいずれにもしばしば含まれる。水晶としては、花崗岩質ペグマタイト・熱水鉱脈などに産出する。 砂は岩石が風化することにより生じるが、石英は風化に強く、砂は石英主体となることが多い。一般的に、砂漠・砂丘の砂は石英が主成分となる。 どこにでもあるため、砂埃(すなぼこり)にも石英が含まれている。石英はモース硬度7なので、プラスチック・金属・車の塗装などは砂埃で容易に傷ついてしまう。そのため、宝石は石英より硬度の高いものが選ばれていることが多い。これは砂埃などで簡単に傷ついたりしては困るからである(ただし生体起源の宝石である真珠や珊瑚、琥珀などは例外)。 日本国内においても各地で産出するが、そのなかでも山梨県甲府市、岐阜県中津川市、愛知県春日井市などで産出されたものが有名である。 以下は水晶を目的に採掘している鉱山である。 石英は二酸化ケイ素結晶の多形の一つで、1気圧、573°Cで三方晶系の低温型石英(α-石英、アルファクォーツ)から六方晶系の高温型石英(β-石英、ベータクォーツ)に転移する。高温型石英は六角柱面を持たない。さらに高温では、鱗珪石やクリストバライトに、また超高圧下でコーサイトやスティショバイトに相転移する。常温下における高温型石英の外観は仮晶による。 水晶(低温型石英)は、代表的な圧電体であり、圧力が加わると電気が発生する。このために初期のレコードプレーヤーのピックアップに使われた。今日、水晶の圧電性は、水晶発振器として最も活用されており、時計が単に「クォーツ」(水晶の英名)としばしば呼ばれるのは、水晶発振器を利用したクォーツ時計が最も多いからである。この原理を利用して、水晶振動子マイクロバランス (QCM) と呼ばれる微量質量を正確に測定するための装置の研究が行われている。 石英の非常に細かい結晶が緻密に固まっていて、直交ニコル顕微鏡下でのみ結晶粒が確認できるもの(潜晶質、隠微晶質)を玉髄(カルセドニー)という。不純物によっていろいろな色となり、紅玉髄(カーネリアン)、緑玉髄(クリソプレーズ)、瑪瑙(アゲート)、碧玉(ジャスパー)などと呼んで飾り石とする。 水晶に不純物が混じり色のついたものを色つき水晶という。色つき水晶は準貴石として扱われる。 水晶の発色原因は、主に不純物の混入と放射線による結晶格子欠陥によるもので、主要構成元素によるものではない。紫水晶、黄水晶、煙水晶、黒水晶の発色原因はいずれも、不純物欠陥に電子(または正孔)が捕獲され特定のエネルギー準位をもつもの(色中心、カラーセンターという)で、紫水晶、黄水晶は鉄イオン、煙水晶、黒水晶はアルミニウムイオンが関連している。 また色つき水晶には、水晶の表面が他の鉱物でコーティングされていることによるものもあり、鉄分やマグネシウム等の薄い膜が表面をコーティングすることによって黄色く見えているもので、特にリモナイト等が付着してより鮮やかな黄色~金色になっているものはゴールデンヒーラー との呼び名で流通している。これ以外にも表面にヘマタイト等が付着して鮮やかなオレンジ色になっているものはタンジェリーナクォーツ(タンジェリンクォーツ)と呼ばれており、インドのマニカラン産の水晶には、土壌に含まれる赤褐色をした酸化鉄の影響によりその鉄分が表面に付着して、ピンク色になっているピンククォーツと呼ばれているものもある。 インクルージョン(内包物または包有物)を含んだり、結晶の形が変わって見えるものを変わり水晶という。変わり水晶はコレクターに人気がある。 大別して、水晶の抱有物によるものと、形態によるものがある。 上記以外にも愛好家によりさまざまな名称が使われている。特に連晶は形状がユニークであることから珍重されており、形状によってエレスチャル・スケルタル(骸晶)・カセドラル・ジャカレーなどとさまざまな名称が使われるが、名称の分類は必ずしも愛好家の中で一致したものでない。 パワーストーン愛好家は石英をパワーストーンの中でも強力な鉱物として珍重しているため、それに関係した名称を使っている。細長く先細りの単結晶をレーザーと称してとりわけ大きな力があるとしたり、あるいは、バーコード状の成長線が浮き出たレーザー石英をレムリアンシードと称し、古代レムリア大陸の叡智を伝えるものだと主張している。 また、表面に金属を蒸着することにより人工的に着色した石英が製造され、オーラクリスタルなどとニューエイジ好みの名称で販売されている。色合いによりコスモオーラ・アクアオーラ・ゴールデンオーラ・オーロラオーラという名称も使われている。 粉末は水晶末と呼ばれ、顔料として使用される。 珪砂は砂型鋳造の型材に利用される。 また、火打石として最低硬度を持つ石でもある。 電子工学向けの用途では、オートクレーブを使った水熱合成法によって天然水晶を種結晶として製造される人工水晶が通常用いられる。工業的に利用される石英ガラスは、通常、天然に産出される珪砂、珪石などを溶融した後冷却し、ガラス化させたものである。 石英は、装飾品(宝石)、 ボタンとして用いられたり、水晶玉としてスクライング(水晶占い)の道具としても利用される。ジュエリーや数珠に使われることも一般的である。また、パワーストーンの世界では、単結晶が集合した群晶(クラスター)や、細かい結晶片であるさざれ石(チップ)は、他のパワーストーンを浄化する儀式に使われている。 中国医学では白色の石英を白石英、紫水晶を紫石英と呼び、鎮静作用のある薬剤として使用されるが、地方によっては紫色の蛍石と混同される。 古代エジプトでは王朝時代成立前の紀元前4500年頃にはファイアンスと呼ばれる石英粉主体の焼き物でネックレスに用いられる様々なビーズが作られるようになった。 マヤ文明およびその地域の原住部族においては、透明水晶を「ザストゥン」と呼び、まじない石として大切に扱う。 水晶を加工して作った人間の頭蓋骨を模った細工物が大英博物館に展示されている。その伝説は「クリスタル・スカル」として知られている。 オーストラリア先住民の神話の中では、最も一般的な神の思し召しの物質、「マバン」として分類されている。 水晶は、永久的に凍ったままの氷だと古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスによって信じられた。 水晶は、神が創造した氷であると信じられていた。中世以降、よく磨かれた水晶玉は未来を透視するための道具としても使われた。 日本では、山梨県での産出が有名である。加えて甲州水晶貴石細工として経済産業大臣指定伝統的工芸品にもなっている。県北部、甲府市近郊の金峰山一帯にはかつて、古くは武田氏の治世の金山に端を発するという幾つもの水晶鉱山が存在し、明治に入り近代化が行われた後には工学ガラスや珪石資源として盛んに採掘された。今日稼動している水晶鉱山は皆無であるものの、牧丘町に位置する乙女鉱山等では、産業遺産としての保存、活用への道が検討されている。 また、甲府市では昇仙峡等の観光地で水晶の土産物が盛んに売られている。市内に日本で唯一の宝石博物館があり、国内最大級の白水晶を始めとした宝石が展示されている他、水晶の即売も行なわれている(ただし、国産は稀)。また、全国唯一の宝石専門学校(山梨県立宝石美術専門学校)がある。 鉱山や採石場などでの粉体吸引により珪肺や肺癌になる危険性がある。 石英の粉体はIARCにより「ヒトに対する発癌性が認められる」グループ1に分類されている。
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"石英の非常に細かい結晶が緻密に固まっていて、直交ニコル顕微鏡下でのみ結晶粒が確認できるもの(潜晶質、隠微晶質)を玉髄(カルセドニー)という。不純物によっていろいろな色となり、紅玉髄(カーネリアン)、緑玉髄(クリソプレーズ)、瑪瑙(アゲート)、碧玉(ジャスパー)などと呼んで飾り石とする。", "title": "成分・種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "水晶に不純物が混じり色のついたものを色つき水晶という。色つき水晶は準貴石として扱われる。", "title": "成分・種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "水晶の発色原因は、主に不純物の混入と放射線による結晶格子欠陥によるもので、主要構成元素によるものではない。紫水晶、黄水晶、煙水晶、黒水晶の発色原因はいずれも、不純物欠陥に電子(または正孔)が捕獲され特定のエネルギー準位をもつもの(色中心、カラーセンターという)で、紫水晶、黄水晶は鉄イオン、煙水晶、黒水晶はアルミニウムイオンが関連している。", "title": "成分・種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また色つき水晶には、水晶の表面が他の鉱物でコーティングされていることによるものもあり、鉄分やマグネシウム等の薄い膜が表面をコーティングすることによって黄色く見えているもので、特にリモナイト等が付着してより鮮やかな黄色~金色になっているものはゴールデンヒーラー との呼び名で流通している。これ以外にも表面にヘマタイト等が付着して鮮やかなオレンジ色になっているものはタンジェリーナクォーツ(タンジェリンクォーツ)と呼ばれており、インドのマニカラン産の水晶には、土壌に含まれる赤褐色をした酸化鉄の影響によりその鉄分が表面に付着して、ピンク色になっているピンククォーツと呼ばれているものもある。", "title": "成分・種類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "インクルージョン(内包物または包有物)を含んだり、結晶の形が変わって見えるものを変わり水晶という。変わり水晶はコレクターに人気がある。", "title": 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"paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本では、山梨県での産出が有名である。加えて甲州水晶貴石細工として経済産業大臣指定伝統的工芸品にもなっている。県北部、甲府市近郊の金峰山一帯にはかつて、古くは武田氏の治世の金山に端を発するという幾つもの水晶鉱山が存在し、明治に入り近代化が行われた後には工学ガラスや珪石資源として盛んに採掘された。今日稼動している水晶鉱山は皆無であるものの、牧丘町に位置する乙女鉱山等では、産業遺産としての保存、活用への道が検討されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、甲府市では昇仙峡等の観光地で水晶の土産物が盛んに売られている。市内に日本で唯一の宝石博物館があり、国内最大級の白水晶を始めとした宝石が展示されている他、水晶の即売も行なわれている(ただし、国産は稀)。また、全国唯一の宝石専門学校(山梨県立宝石美術専門学校)がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鉱山や採石場などでの粉体吸引により珪肺や肺癌になる危険性がある。 石英の粉体はIARCにより「ヒトに対する発癌性が認められる」グループ1に分類されている。", "title": "安全性" } ]
石英(せきえい、独: Quarz、英: quartz、クォーツ、クオーツ)は、二酸化ケイ素 (SiO2) が結晶してできた鉱物。六角柱状のきれいな自形結晶をなすことが多い。中でも特に無色透明なものを水晶(すいしょう、独: Bergkristall、英: rock crystal、ロッククリスタル)と呼び、古くは玻璃(はり)と呼ばれて珍重された。 石英を成分とする砂は珪砂(けいしゃ・けいさ、独: Quarzsand、英: quartz sand)と呼ばれ、石英を主体とした珪化物からなる鉱石は珪石と呼ぶ。この珪石のうち、チャートや珪質砂岩が熱による変成(接触変成作用)を受けた変成岩を珪岩(クォーツァイト)と呼ぶが、この珪岩の中にフクサイト(クロム白雲母)の微細な粒子を含み鮮やかな緑色を呈色し、砂金のようなキラキラした輝きを発するものは特に砂金石(アベンチュリン)と呼ばれている。 二酸化ケイ素 (SiO2) が、低温で水分を含みゆっくり固まったために原子配列が規則正しくない非晶質のものがオパール(蛋白石)である。 二酸化ケイ素 (SiO2) に富んだ流紋岩質の溶岩が急激に冷やされることで生じるのが、非晶質の天然ガラスである黒曜石(オブシディアン)である。
{{出典の明記|date=2019年4月}} {{Infobox 鉱物 |name = 石英 |boxwidth = |boxbgcolor = |image = Quartz_Brésil.jpg |imagesize = 250px |alt = 石英 |caption = 石英の結晶([[ブラジル]]産、18×15×13 cm) |category = [[酸化鉱物]] |strunz = 4.DA.05 |dana = 75.1.3.1 |formula = [[二酸化ケイ素|SiO{{sub|2}}]] |system = {{plainlist| *低温型: [[三方晶系]] *高温型: [[六方晶系]] }} |symmetry = <!-- 対称 --> |unit cell = a = 4.9133Å<br>c = 5.4053Å |molweight = 60.08 gm |habit = <!-- 晶癖 --> |twinning = <!-- 双晶 --> |cleavage = 不明瞭 |fracture = 貝殻状 |tenacity = <!-- 粘靱性 --> |mohs = '''7''' |luster = [[ガラス光沢]] |color = [[無色]]([[紫色]]、[[黄色]]、[[黒色]]などもある) |streak = [[白色]] |diaphaneity = <!-- 透明度 --> |gravity = 2.7 |density = <!-- 密度 --> |polish = <!-- Polish luster --> |opticalprop = [[一軸性]] (+) |refractive = n<sub>ω</sub> = 1.543 - 1.545<br>n<sub>ε</sub> = 1.552 - 1.554 |birefringence = δ = 0.009 |pleochroism = <!-- 多色性 --> |2V = <!-- 光軸角 2V --> |dispersion = <!-- 分散 --> |extinction = <!-- 消光角 --> |length fast/slow = <!-- 伸長 --> |fluorescence = なし |absorption = 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{{de|Bergkristall}}、英: {{en|rock crystal}}、ロッククリスタル)と呼び、古くは{{読み仮名|'''玻璃'''|はり}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%8E%BB%E7%92%83-605180 日本大百科全書(ニッポニカ)「玻璃」の解説]</ref>と呼ばれて珍重された。 石英を成分とする[[砂]]は'''珪砂'''(けいしゃ・けいさ、独: {{de|Quarzsand}}、英: {{en|quartz sand}})と呼ばれ、石英を主体とした[[珪化物]]からなる[[鉱石]]は'''[[珪石]]'''と呼ぶ。この珪石のうち、[[チャート (岩石)|チャート]]や珪質[[砂岩]]が熱による変成([[接触変成作用]])を受けた[[変成岩]]を'''[[珪岩]]'''('''クォーツァイト''')と呼ぶが、この珪岩の中に[[フクサイト]](クロム白雲母)の微細な粒子を含み鮮やかな緑色を呈色し、砂金のようなキラキラした輝きを発するものは特に'''[[砂金石]]'''('''アベンチュリン''')と呼ばれている。 [[二酸化ケイ素]] (SiO{{sub|2}}) が、低温で水分を含みゆっくり固まったために原子配列が規則正しくない[[非晶質]]のものが'''[[オパール]]'''('''蛋白石''')である。 [[二酸化ケイ素]] (SiO{{sub|2}}) に富んだ[[流紋岩]]質の[[溶岩]]が急激に冷やされることで生じるのが、[[非晶質]]の[[ガラス|天然ガラス]]である'''[[黒曜石]]'''('''オブシディアン''')である。 == 呼び名 == [[火成岩]]ができるとき石英の結晶は、他の鉱物の結晶ができた後でその隙間に成長するため本来の結晶の形になれず('''他形結晶''')、特有の結晶面が発達していないため塊状に見えるものを'''石英'''、肉眼で確認できる大きさで六角柱状の結晶('''自形結晶''')のものを'''水晶'''と呼んでいるが、昔はそれとは逆に塊状のものを水晶、六角柱状の結晶のものを石英と呼んでいたのが、いつしか今日のような逆の呼び方に変わってしまいそれが定着してしまったといわれている。それは、[[江戸時代]]中期の[[貝原益軒]]が書いた[[大和本草]]で、水晶と石英の定義を取り違えたからだともいわれていて、その誤りを[[平賀源内]]は自著の[[物類品隲]]で指摘していた<ref>[[益富壽之助]]『石―昭和雲根志―』白川書院、1967年</ref>。 ただ[[正倉院]]の目録では、自然のままの無加工のものを白石英、加工品を水精という使い分けをしており<ref name=":1">[[堀秀道]]『堀秀道の水晶の本』[[草思社]]、2010年</ref>、江戸時代以前の様々な文献等でも、'''石英'''、'''水晶'''、'''水精'''の区別は明確ではなく、その使い分けの基準は様々で且つあいまいでもあり、必ずしも江戸時代中期以降にその呼び方が逆になって定着してしまったとまではいいきれないようである。 == 産出地 == [[ファイル:Quartz gisements.jpg|サムネイル|石英産生の地図]] 石英は[[地殻]]を構成する非常に一般的な[[造岩鉱物]]で、[[長石]]に次いでもっともよく見られるもので、[[火成岩]]・[[変成岩]]・[[堆積岩]]のいずれにもしばしば含まれる。水晶としては、[[花崗岩]]質[[ペグマタイト]]・[[熱水鉱脈]]などに産出する。 砂は[[岩石]]が[[風化]]することにより生じるが、石英は風化に強く、砂は石英主体となることが多い。一般的に、[[砂漠]]・[[砂丘]]の砂は石英が主成分となる。 どこにでもあるため、砂埃(すなぼこり)にも石英が含まれている。石英は[[モース硬度]]7なので、[[合成樹脂|プラスチック]]・[[金属]]・車の[[塗装]]などは砂埃で容易に傷ついてしまう。そのため、[[宝石]]は石英より硬度の高いものが選ばれていることが多い。これは砂埃などで簡単に傷ついたりしては困るからである(ただし生体起源の宝石である[[真珠]]や[[珊瑚]]、[[琥珀]]などは例外)。 [[日本]]国内においても各地で産出するが、そのなかでも[[山梨県]][[甲府市]]、[[岐阜県]][[中津川市]]、[[愛知県]][[春日井市]]などで産出されたものが有名である。 === 水晶鉱山 === 以下は水晶を目的に採掘している鉱山である。 * [[アメリカ合衆国]]・[[アーカンソー州]](現在盛んに採掘・輸出されている) * [[ブラジル]]・[[ミナスジェライス州]](現在盛んに採掘・輸出されている) * 日本[[山梨県]]・[[乙女鉱山]]([[明治]]~[[昭和]]期に盛んに採掘され、輸出された。工業用の他、標本用としても美麗な結晶を産出)<br /> 現在、日本国内に水晶を目的として採掘している[[鉱山]]は存在しない([[珪石]]を採掘している鉱山はある)。 == 性質・特徴 == 石英は二酸化ケイ素結晶の[[多形]]の一つで、1[[気圧]]、573℃で[[三方晶系]]の'''低温型石英'''(α-石英、アルファクォーツ)から[[六方晶系]]の'''高温型石英'''(β-石英、ベータクォーツ)に[[転移]]する。高温型石英は六角柱面を持たない。さらに高温では、[[鱗珪石]]や[[クリストバライト]]に、また超高圧下で[[コーサイト]]や[[スティショバイト]]に[[相転移]]する。[[常温]]下における高温型石英の外観は[[仮晶]]による。 水晶(低温型石英)は、代表的な[[圧電体]]であり、[[圧力]]が加わると[[電気]]が発生する。このために初期の[[レコードプレーヤー]]のピックアップに使われた。今日、水晶の圧電性は、[[水晶振動子|水晶発振器]]として最も活用されており、[[時計]]が単に「クォーツ」(水晶の英名)としばしば呼ばれるのは、水晶発振器を利用した[[クォーツ時計]]が最も多いからである。この原理を利用して、[[水晶振動子マイクロバランス]] (QCM) と呼ばれる微量質量を正確に測定するための装置の研究が行われている。 == 成分・種類 == 石英の非常に細かい結晶が緻密に固まっていて、[[直交ニコル]]顕微鏡下でのみ結晶粒が確認できるもの(潜晶質、隠微晶質)を[[玉髄]]('''カルセドニー''')という。不純物によっていろいろな色となり、[[紅玉髄]]('''カーネリアン''')、[[緑玉髄]]('''クリソプレーズ''')、[[瑪瑙]]('''アゲート''')、[[碧玉]]('''ジャスパー''')などと呼んで飾り石とする。 === 色つき水晶 === 水晶に[[不純物]]が混じり色のついたものを'''色つき水晶'''という。色つき水晶は準貴石として扱われる。 水晶の発色原因は、主に不純物の混入と[[放射線]]による結晶[[格子欠陥]]によるもので、主要構成[[元素]]によるものではない。紫水晶、黄水晶、煙水晶、黒水晶の発色原因はいずれも、不純物欠陥に[[電子]](または[[正孔]])が捕獲され特定の[[エネルギー準位]]をもつもの([[色中心]]、カラーセンターという)で、紫水晶、黄水晶は[[鉄]]イオン、煙水晶、黒水晶は[[アルミニウム]]イオンが関連している。 ; [[アメシスト|紫水晶]]({{en|amethyst}}、アメシスト) : 紫水晶(むらさきすいしょう)は[[紫色]]に色づいた水晶。紫色の発色は、[[ケイ素]]を置換した微量の鉄イオンが放射線を受けると電子が飛ばされ電荷移動が酸素原子と鉄イオンとの間で起こり、三価の鉄イオンが四価の鉄イオンになり、これが形成した[[色中心]](カラーセンター)が光のスペクトルの黄色を吸収するために、その[[補色]]である紫色が通過する様になるのが原因とされる<ref name=":2">{{Cite book|和書 |title=楽しい鉱物学 |date=6月5日 |year=1990年 |publisher=株式会社草思社}}</ref>。最近の研究ではアルミニウムも関係しているとの説がある。尖っていて、細長く装飾品に使われる場合は研磨される場合が多い。加熱するとレモン色や黄色に変わりやすいが、稀にブラジル産の物で緑色になるものがあり'''プラシオライト'''の名で呼ばれている。[[紫外線]]に曝露すると退色する(そのため、直射日光の当たる窓際に置くと次第に色が褪せてくる)。英語名 {{en|amethyst}} は[[ギリシア語]]の amethustos(酔わせない)から派生した。アメシストを持つと酔いを防ぐはたらきがあると信じられていたことによる。 ; 黄水晶({{en|citrine}}、シトリン、もしくは、{{en|citrine quartz}}、シトリンクォーツ) : 黄水晶(きすいしょう)は[[黄色]]に色づいた水晶<ref name=":0">{{Cite book|和書 |author=ロナルド・ルイス・ボネウィッツ著、青木正博訳 |title=岩石と宝石の大図鑑 |publisher=[[誠文堂新光社]] |date=2007-04 |pages=221}}</ref>。黄色の発色は含水酸化鉄に基づく<ref name=":0" />。また、紫水晶が450~500℃で加熱されると鉄イオンが安定しようとして電子を取り込む電荷移動が酸素原子と鉄イオンとの間で起こり、四価から三価の鉄イオンになりこれにより色中心(カラーセンター)の[[エネルギー準位]]が変化して紫色に相当する光エネルギーを吸収しやすくなって、光があたったときにその[[補色]]である黄色が通過する様になるのが原因とされる<ref>{{Cite web|和書|url=http://voidmark.fc2web.com/quartz/quartz1.htm |title=シトリンとアメシストの違いは? |access-date=2023年2月2日 |publisher=虚空座標 voidmark}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://kirarasha.jugem.jp/?eid=665 |title=紫水晶の加熱実験(人工シトリン)/鉱物レシピ067P |access-date=2023年2月2日 |publisher=天氣後報 II}}</ref><ref name=":2" />。天然の黄水晶の産出は少なく、市場に出回っている黄水晶のほとんどは紫水晶を熱処理して黄色にしたものである<ref name=":0" />。このような人工的に加熱処理された黄水晶の色は、オレンジがかった鮮やかな黄色をしており、天然の黄水晶は、やや茶色がかった地味な黄色でくすんだ色合いの物や淡い色合いの物が多い<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://sseikatsu.net/artificial-citrine/ |title=天然色のシトリンは少ない |access-date=2023年2月2日 |publisher=水晶生活}}</ref><ref name=":1" />。時には、煙水晶を加熱して出来るものもあるようで、これは加熱によってアルミニウムイオンの働きで見えていた茶色系の色は消えてしまうが、同時に鉄イオンが含まれていた場合に黄色に色づいて見えるようになるようである<ref name=":6">{{Cite web|和書|url=https://beeway.pixnet.net/blog/post/15506035 |title=石英(水晶)の様々な結晶 www.tool-tool.com |access-date=2023年2月9日 |publisher=BW Professional Cutter Expert www.tool-tool.com}}</ref>。この場合は、やや緑がかった淡い黄色に変色する傾向がある<ref name=":4" />。またウラル産のシトリンの中には、アルミニウムやリチウムを含んだ無色の水晶にコバルト60のγ線をあてて黄色くしたものがあるといわれている<ref name=":1" />。これはγ線をあてることで、水晶内に[[色中心]](カラーセンター)が形成されるのだという。マディラシトリンと称される深いオレンジの色相を彩るシトリンは、さらに希産<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=http://voidmark.fc2web.com/glossary/glossary-flame.htm |title=KURO的石の雑学辞典 水晶用語辞典 色による名前 |access-date=2023年2日2日 |publisher=虚空座標 voidmark}}</ref>。また天然で鮮やかな黄色(カナリーイエロー)のカナリーシトリンと呼ばれるシトリンはごく稀にしか見られない<ref name=":3" />。 : 黄水晶の薄い黄色は[[トパーズ]]に似るため、シトリン・トパーズとも言われ、安価なトパーズの代用品として使われる。また、トパーズと偽って売られる場合もある<ref name=":0" />。トパーズと共に11月の[[誕生石]]でもあり、石言葉は「社交性・人間関係・自信・生きる意欲」など。 : 鉄イオンによる[[色中心]](カラーセンター)が原因ではなく、[[ヘマタイト]]や[[ゲーサイト]]、微細な[[角閃石]]等が水晶の中に入り込むことによって黄色く見える水晶もある<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=http://voidmark.fc2web.com/quartz/quartz1a-a.htm |title=シトリンとは呼ばれない黄色い水晶 |access-date=2023年2月2日 |publisher=虚空座標 voidmark}}</ref>{{要出典|date=2023-01}}。これらはシトリンとは発色原因が異なるためシトリンとは呼べず、区別するため黄色水晶('''yellow quartz'''、'''イエロークォーツ''')という呼び方で流通している<ref>{{Cite web|和書|url=https://kiri2.net/wp/name/yellow-quartz/ |title=イエロークォーツ(黄水晶) |access-date=2023年2月2日 |publisher=kiriri}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.selfcreation.net/product/4871 |title=マダガスカル産イエロークォーツA |access-date=2023年2月2日 |publisher=セルフクリエイション}}</ref><ref name=":5" />。 ; [[ローズクォーツ|紅水晶]]({{en|rose quartz}}、ローズクォーツ) : 紅水晶(べにすいしょう)は薄いピンク色に色づいた水晶。ローズクォーツのピンク色は光に敏感で退色しやすい。この色は、不純物として混入している微量の[[チタン]]、[[鉄]]、[[マンガン]]に由来するとされる。近年の[[X線]][[元素分析]]では、この色は[[光学顕微鏡]]で観察可能なレベルのデュモルチエライトの[[繊維]]によるという結果も出ている<ref name=":1" />。しかしながら、デュモルチエライトは単独の[[結晶]]としては滅多に産出しないもので、従って呈色は[[リン酸]]塩や[[アルミニウム]]によると考える意見もある。また、ローズクォーツは内部に微細な[[金紅石]](ルチル)の針状結晶を[[インクルージョン (鉱物)|インクルージョン]]として持つ場合があり、[[スター効果]]を示すものもある<ref name=":1" />。産出のそのほとんどが塊状の紅石英であるが、稀に六角柱状の自形結晶の紅水晶で産出することがあり、その産地は世界でも数ヶ所でしか確認されていない。完全結晶化したものが少ないのは、四価のチタンイオンがケイ素と部分的に置換したことで、イオン半径の大きなチタンイオンが妨害して完全な結晶を形成することができないものと考えられている。また四価のチタンイオンは、青~緑色の光を吸収するため[[補色]]は薄い紅色になり、チタンの量が増えるほど赤みを増していくが結晶は更に不完全となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://gemhall.sakura.ne.jp/gemus-rose-qtz..htm |title=薔薇水晶(Rose Quartz) |access-date=2023年2月2日 |publisher=空想の宝石・結晶博物館}}</ref><ref name=":6" />。 ; [[スモーキークォーツ|煙水晶]]({{en|smoky quartz}}、スモーキークォーツ) : 煙水晶(けむりすいしょう)は茶色や黒っぽい煙がかったような灰色に色づいた水晶。発色する原因ははっきりとは分かっていないものの、[[ケイ素]]を置換した微量のアルミニウムイオンが特に多量の放射線を受けると三価のアルミニウムイオンが四価のアルミニウムイオンになり[[色中心]](カラーセンター)となり、広範囲の波長の光を吸収するため灰色に見えるとされている<ref name=":2" /><ref name=":6" />。長期間にわたる放射線の影響で、受けた放射線の量が多いほど光の吸収部が増えていくことで淡灰色→灰色→黒色と色が濃くなる。放射線照射をして色を付ける場合が多い。かつては、トパーズの一種と考えられ、スモーキー・トパーズという名称で呼ばれていたこともある。 ; 黒水晶({{en|morion}}、モーリオンないしはモリオン) : 黒水晶(くろすいしょう)は不透明と言えるほどこげ茶から黒に色づいた水晶。色の濃い煙水晶との区別は、結晶構造が破壊されたもの、表面に透明感のないものなどと言われることもあるが、黒水晶と色が濃くなった煙水晶を区別する明確な定義は存在しない。アメシストに放射線照射をして色を付ける場合が多い。[[カンゴーム]]という名で呼ばれることもある。 ; レモン水晶 : レモン水晶(レモンすいしょう)は[[硫黄]]により黄色に色づいた水晶。結晶の間に硫黄が入ったために黄色(レモンイエロー)に色づいて見える。 ; 緑水晶 : 緑水晶(みどりすいしょう)は微細な[[角閃石]]や[[緑泥石]]、[[フクサイト]](クロム白雲母)等が水晶中に含まれ、全体が緑色を呈色して見える水晶。 : 稀にアメシストを加熱すると緑色になるものがあり、'''プラシオライト'''(グリーンアメシスト)の名で呼ばれるが、地熱によって加熱され、天然で緑色のものも希に産出する。この天然のプラシオライトは、[[アメリカ]]の[[カリフォルニア州]]と[[ネバダ州]]の境界付近や[[ブラジル]]の[[パラー州]]のマラバ、[[ポーランド]]の[[ドルヌィ・シロンスク県]]、[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]の[[サンダーベイ地区]]などで産出する。緑色の発色は、三価の鉄イオンの他に相当量の二価の鉄イオンを含んでいた場合に、三価の鉄イオンによる[[補色]]の黄色の発色と、二価の鉄イオンは黄色の光を吸収し補色は青色になるため、その黄色と青色が混ざって緑色に発色するといわれている<ref name=":6" />。 ; 青水晶{{Anchors|青水晶}} : 青水晶(あおすいしょう)は[[インディゴライト]]や[[アエリナイト]]、[[クロシドライト]]、デュモルチェライト等が水晶の中に入り込むことによって青く見える水晶。 ; 赤水晶 : 赤水晶(あかすいしょう)は[[ヘマタイト]]や[[ゲーサイト]]、[[レピドクロサイト]]等の[[酸化鉄]]の鉱物が水晶の中に入り込むことによって赤く見える水晶。'''鉄水晶'''(てつすいしょう)ともいう。また同じように[[ゲーサイト]]や[[レピドクロサイト]]の繊細な針状の結晶を水晶内に満遍なく含み、全体がオレンジ色や赤ピンク色、赤色に色づいているものは'''ストロベリークォーツ'''(苺水晶 いちごずいしょう)という呼び名で流通している。 ; リチウムクォーツ : リチウムクォーツは、[[リチウム]]が水晶の中に包まれて、紫色~紫色っぽい半透明ピンク(セピアピンク)に見える水晶。'''セピアクォーツ'''とも呼ばれる。 ; ミルキークォーツ : ミルキークォーツは結晶形成中に気体、液体、またはその両方の微細な[[流体包有物]]が、あるいは針状結晶の[[ルチル]]が水晶中に閉じ込められ、白濁して見える水晶。その他、アルミニウム等の影響によるともいわれている。'''乳石英'''(にゅうせきえい)、'''乳白水晶'''(にゅうはくすいしょう)、'''スノークォーツ'''などとも呼ばれ、[[マダガスカル]]産のものは'''ジラソル'''という名で呼ばれている。 また色つき水晶には、水晶の表面が他の鉱物でコーティングされていることによるものもあり、鉄分やマグネシウム等の薄い膜が表面をコーティングすることによって黄色く見えているもので、特に[[リモナイト]]等が付着してより鮮やかな黄色~金色になっているものは'''ゴールデンヒーラー''' との呼び名で流通している。これ以外にも表面に[[ヘマタイト]]等が付着して鮮やかなオレンジ色になっているものは'''タンジェリーナクォーツ'''(タンジェリンクォーツ)と呼ばれており、[[インド]]のマニカラン産の水晶には、土壌に含まれる赤褐色をした[[酸化鉄]]の影響によりその鉄分が表面に付着して、ピンク色になっている'''ピンククォーツ'''と呼ばれているものもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://voidmark.fc2web.com/glossary/glossary-flame.htm |title=KURO的石の雑学辞典 水晶用語辞典 表面の色による名前 |access-date=2023年2月2日 |publisher=虚空座標 voidmark}}</ref>。 <gallery> GuerreroAméthyste.jpg|紫水晶(アメシスト)の群晶 Quartz Amethyst.jpg|紫水晶(アメシスト)の群晶 Amethyst cut.jpg|ステップカットされた紫水晶(アメシスト) Amethystvb.jpg|宝石として研磨した紫水晶(アメシスト) ISCitrin.JPG|黄水晶(シトリン)原石 Citrin cut.jpg|カットされた黄水晶(シトリン) Rose Quartz Macro 1.JPG|紅水晶(ローズクォーツ) USDA Mineral Smokey Quartz 93v3949.jpg|煙水晶(スモーキークォーツ) Green quartz.jpg|緑水晶(原石) QuartzUSGOV.jpg|ミルキークオーツ </gallery> === 変わり水晶 === [[インクルージョン (鉱物)|インクルージョン]](内包物または包有物)を含んだり、結晶の形が変わって見えるものを'''変わり水晶'''という。変わり水晶はコレクターに人気がある。 大別して、水晶の抱有物によるものと、形態によるものがある。 ==== 抱有物によるもの ==== ; 針入り水晶(ルチルクォーツ): 水晶の結晶中に[[金紅石]](ルチル)の針状結晶がインクルージョンとしてあるもの。とても細い金色の針が入り込んだように見える。 ; ススキ入り水晶 : 水晶の結晶中に[[トルマリン]]などの柱状の鉱物がインクルージョンとしてあるもの。細い苦土電気石が入り込むとほのかに緑色にみえ、まさにススキのように見える。 ; 草入り水晶 : 水晶の結晶中に[[緑泥石]]などの不定形な(あるいは草のように見える)鉱物がインクルージョンとしてあるもの。インクルージョンの形によって[[苔]]のように見えたり、[[マリモ|毬藻]]のように見えたりする。インクルージョンが緑泥石のように緑色のものは、まさに草入りというにふさわしいものがある。ガーデンクォーツとも呼ばれる。 ; 水入り水晶 : 水晶の結晶中に空洞があり、それが液体で満たされているもの。閉じ込められた液体は、水晶の成長当時の環境を保存していると考えられる。空洞中に液体と共に気泡が入っている場合があり、結晶を傾けると空洞中の壁に沿って気泡が移動するのを観察できることがある。 ; 貫入水晶 : 水晶が別の水晶の中を取り込みながら成長したものである。水晶の中にそれよりも小さな水晶を確認できる<ref>[https://spicomi.net/media/articles/1 水晶の意味・効果と種類一覧]</ref>。 ==== 形態によるもの ==== ; 山入り水晶 : 水晶の結晶成長中に成長条件が変化して一時期だけ有色の不純物やインクルージョンの混入があると、条件が切り替わる境界を目で確認することができ、水晶の中にもう一つの水晶が含まれるように見える。この、水晶内部に見える結晶の頭部を山にたとえて山入りと呼ぶ。ファントムクォーツ(幽霊水晶)とも呼ばれる。また、通常の山入り水晶の内包物は白色だが、緑色の場合もあり、こちらはグリーンファントムと呼ばれる。なお、中に含まれる結晶の頭部が1つではなく、複数の場合もあり珍重される。 ; [[松茸水晶]] : 成因は山入り水晶とほぼ同じだが、先に晶出した水晶の先端に外側の結晶が大きく成長し、まるで[[キノコ]]のような形になった水晶。 ; 日本式双晶 : 日本式双晶 (Japanese-twin) は2個の結晶がξ面((11<span style="text-decoration: overline">2</span>2) 面)を双晶面として84°33′の角度で接合した、多くハート形の[[双晶]] ([[:en:twin crystal|twin crystal]])。双晶としては他にブラジル式、ドフィーネ式、エステレル式等各種が存在するが、その形態や名称からか日本式双晶の知名度が高い。 ; 両錐水晶 : 結晶の両端の錐面ともに母岩に接さずに成長し、結晶成長が阻害されず模式の結晶形態に近い形態を表したもの。成因としては生育途中に母岩から脱落しそのまま成長した、等が考えられている。アメリカのニューヨーク州ハーキマー産のものが非常に有名。 <gallery> ファイル:Rutile quartz Cutting.jpg|ルチルクォーツ ファイル:Quartz-37935.jpg|松茸水晶 </gallery> === その他の名称 === 上記以外にも愛好家によりさまざまな名称が使われている。特に連晶は形状がユニークであることから珍重されており、形状によってエレスチャル・スケルタル(骸晶)・カセドラル・ジャカレーなどとさまざまな名称が使われるが、名称の分類は必ずしも愛好家の中で一致したものでない。 [[パワーストーン]]愛好家は石英をパワーストーンの中でも強力な鉱物として珍重しているため、それに関係した名称を使っている。細長く先細りの単結晶をレーザーと称してとりわけ大きな力があるとしたり、あるいは、バーコード状の成長線が浮き出たレーザー石英をレムリアンシードと称し、古代[[レムリア]]大陸の叡智を伝えるものだと主張している。 また、表面に金属を[[蒸着]]することにより人工的に着色した石英が製造され、[[オーラクリスタル]]などと[[ニューエイジ]]好みの名称で販売されている。色合いにより[[コスモオーラ]]・[[アクアオーラ]]・[[ゴールデンオーラ]]・[[オーロラオーラ]]という名称も使われている。 == 用途・加工法 == [[ファイル:Quartz synthese.jpg|サムネイル|[[水熱合成]]法で製造された人工水晶。長さ19 [[センチメートル|cm]] 重さ127 [[グラム|g]]]] 粉末は水晶末と呼ばれ、[[顔料]]として使用される。 珪砂は[[砂型鋳造]]の型材に利用される。 また、[[火打石]]として最低[[硬さ|硬度]]を持つ石でもある。 [[電子工学]]向けの用途では、[[オートクレーブ]]を使った[[水熱合成]]法によって天然水晶を種結晶として製造される人工水晶が通常用いられる。工業的に利用される[[石英ガラス]]は、通常、天然に産出される珪砂、珪石などを溶融した後冷却し、[[ガラス]]化させたものである。 * [[水晶振動子]] - 水晶片に[[交流]]電圧をかけることにより[[共振]]を起こし、精度の高い周波数を発振する電子部品。 * [[ローパスフィルタ]](LPF)-[[デジタルカメラ]]等の[[光学フィルター]]に用いられる。 * 位相差板-λ/2板、λ/4板 光の[[偏光]]状態を変えるために用いられる。 * [[石英ガラス]] - 石英を材料とした[[ガラス]]。[[耐熱性]]・[[透明度]]に優れ、化学器具・光学機器に用いられる。[[光ファイバー]]にも用いられる。 石英は、[[装飾品]](宝石)、 [[ボタン (服飾)|ボタン]]として用いられたり、水晶玉として[[スクライング]](水晶[[占い]])の道具としても利用される。[[装身具|ジュエリー]]や[[数珠]]に使われることも一般的である。{{要出典範囲|また、[[パワーストーン]]の世界では、単結晶が集合した群晶(クラスター)や、細かい結晶片であるさざれ石(チップ)は、他のパワーストーンを浄化する儀式に使われている。|date=2019年11月}} [[中国医学]]では白色の石英を'''白石英'''、紫水晶を'''紫石英'''と呼び、[[鎮静剤|鎮静作用のある薬剤]]として使用されるが、地方によっては紫色の[[蛍石]]と混同される。 == 文化 == * [[弥生時代]]中期には玉類に加工されていたことが[[京丹後市]]の奈具岡遺跡から確認されている(「[[溝谷#名所・旧跡]]」を参照)他、[[古墳時代]]から[[勾玉]]の玉材として利用されている(例として、「[[三輪山#祭祀遺跡]]」も参照)。 * 仏教においては[[七宝]]の一つである。また[[平安時代]]末期以降、日本の[[仏像]]において[[玉眼]]に利用された。 * 占い具としては[[水晶玉]]、工芸品としては[[水晶髑髏]]がある。 === 古代文明 === 古代エジプトでは王朝時代成立前の紀元前4500年頃にはファイアンスと呼ばれる石英粉主体の焼き物でネックレスに用いられる様々なビーズが作られるようになった{{r|復元研究}}。 [[マヤ文明]]およびその地域の原住部族においては、透明水晶を「ザストゥン」と呼び、まじない石として大切に扱う。 水晶を加工して作った人間の頭蓋骨を模った細工物が大英博物館に展示されている。その伝説は「[[クリスタル・スカル]]」として知られている。 [[アボリジニ|オーストラリア先住民]]の神話の中では、最も一般的な神の思し召しの物質、「マバン」として分類されている。 === ヨーロッパ === 水晶は、永久的に凍ったままの[[氷]]だと古代ローマの博物学者[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]]によって信じられた。 水晶は、神が創造した氷であると信じられていた。[[中世]]以降、よく磨かれた[[水晶玉]]は未来を[[透視]]するための道具としても使われた<ref>キャリー・ホール著『宝石の写真図鑑』日本ヴォーグ社、p81</ref>。 === 山梨県と水晶 === 日本では、山梨県での産出が有名である。加えて甲州水晶貴石細工として[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]にもなっている。県北部、[[甲府市]]近郊の[[金峰山 (山梨県・長野県)|金峰山]]一帯にはかつて、古くは[[武田氏]]の治世の[[金鉱山|金山]]に端を発するという幾つもの水晶鉱山が存在し、明治に入り近代化が行われた後には工学ガラスや珪石資源として盛んに採掘された。今日稼動している水晶鉱山は皆無であるものの、[[牧丘町]]に位置する[[乙女鉱山]]等では、産業遺産としての保存、活用への道が検討されている。 また、甲府市では[[昇仙峡]]等の観光地で水晶の土産物が盛んに売られている。市内に日本で唯一の[[宝石博物館]]があり、国内最大級の白水晶を始めとした宝石が展示されている他、水晶の即売も行なわれている(ただし、国産は稀)。また、全国唯一の宝石[[専門学校]]([[山梨県立宝石美術専門学校]])がある。 <gallery> Suisho-1.jpg|昇仙峡の水晶宝石博物館(2018年5月16日撮影) Suisho-2.jpg|昇仙峡の水晶研磨工場(2018年5月16日撮影) </gallery> == 安全性 == 鉱山や採石場などでの[[粉体]]吸引により[[珪肺]]や[[肺癌]]になる危険性がある。 石英の粉体は[[国際がん研究機関|IARC]]により「ヒトに対する発癌性が認められる」グループ1に分類されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|refs= <ref name="復元研究">{{Citation|和書 | last1 = 山花 | first1 = 京子 | last2 = 秋山 | first2 = 泰伸 | url = https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=TC10002974&elmid=Body&fname=05_22_p25-33.pdf | format = [[Portable Document Format|PDF]] | title = 東海大学古代エジプト及び中近東コレクション所蔵の硫黄ビーズ製ネックレス復元研究 | periodical = 文明 | publisher = [[東海大学文明研究所]] | ncid = AN00222804 | volume = 22 | pages = 25-33 | date = 2018-3-31 | accessdate = 2022-10-19 }}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = [[松原聰]] |title = 日本の鉱物 |year = 2003 |publisher = [[学研ホールディングス|学習研究社]] |series = フィールドベスト図鑑 |isbn = 4-05-402013-5 |pages = 222-227 }} * {{Cite book|和書 |author = [[青木正博]] |title = 鉱物分類図鑑 : 見分けるポイントがわかる |year = 2011 |publisher = [[誠文堂新光社]] |isbn = 978-4-416-21104-5 |page = 183-188 }} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|鉱物・宝石|[[ファイル:HVBriljant.PNG|34ピクセル|ポータル:鉱物・宝石]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|鉱物|[[ファイル:Spinel-4mb4c.jpg|34ピクセル]]}} * [[鉱物]] - [[鉱物の一覧]] * [[造岩鉱物]] * [[宝石]] - [[宝石の一覧]] - [[アメシスト]]・[[ローズクォーツ]]・[[スモーキークォーツ]] * [[有名な宝石の一覧]] * [[二酸化ケイ素]] - [[鱗珪石]]・[[クリストバライト]]・[[コーサイト]]・[[スティショバイト]] * [[衝撃石英]] * [[玉髄]] - [[カーネリアン]]・[[クリソプレーズ]]・[[メノウ]]・[[碧玉]]・[[ブラッドストーン]] * [[オパール]] * [[チャート (岩石)]](堆積岩) * [[珪岩]](変成岩) * [[珪石]](鉱石) * [[ヒスイ]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | wikt = 石英 | q = no | n = no }} * {{Cite web|和書 |author = 福岡正人 |url = http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/Class/CJ_KN_KL1.html#anchor1408158 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20160304085526/http://home.hiroshima-u.ac.jp/er/Class/CJ_KN_KL1.html#anchor1408158 |title = 鉱物リスト |work = 地球資源論研究室 |publisher = [[広島大学]]大学院総合科学研究科 |accessdate = 2011-12-13 |archivedate = 2016-3-4 }} * {{ICSC-ref|0808}} * {{Cite web|和書 |url = https://anzeninfo.mhlw.go.jp/anzen/gmsds/14808-60-7.html |title = 安全データシート 結晶質シリカ(石英) |work = 職場の安全サイト |publisher = 厚生労働省 |date = 2016-3 |accessdate = 2018-2-20 }} {{Silica minerals}} {{モース硬度}} {{Authority control}} {{デフォルトソート:せきえい}} [[Category:石英|*]] [[Category:発光鉱物]]
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有機化合物
有機化合物(ゆうきかごうぶつ、英: organic compound)とは、炭素を含む化合物の大部分をさす。炭素原子が共有結合で結びついた骨格を持ち、分子間力によって集まることで液体や固体となっているため、沸点・融点が低いものが多い。 下記の歴史的背景から、炭素を含む化合物であっても、一酸化炭素、二酸化炭素、炭酸塩、青酸、シアン酸塩、チオシアン酸塩等の単純なものは例外的に無機化合物と分類し、有機化合物には含めない。例外は慣習的に決められたものであり、現代では単なる「便宜上の区分」である。有機物質(ゆうきぶっしつ、英: organic substance)あるいは有機物(ゆうきぶつ、英: organic matter)とも呼ばれる。 18世紀には、生物すなわち有機体 (organisms) に由来する化合物には生命力が宿っているため特別な性質を持つとみなされており、イェンス・ベルセリウスは物質を生物から得られるものと鉱物から得られるものとに分け、それぞれ「有機化合物」「無機化合物」と定義した。その後、フリードリヒ・ヴェーラーが無機物であるシアン酸アンモニウムから有機物である尿素を人工的に作り出すことに成功すると、この定義は意義を失ったが、以降有機化合物を扱う有機化学は飛躍的な発展を遂げることになった。 初めて「有機物」という名称を提唱したのは、19世紀はじめの化学者イェンス・ベルセリウスである。ベルセリウスによる有機物との名称は、17世紀から18世紀の化学者ゲオルク・エルンスト・シュタールが主張した有機体(生物)の体内でしか製造できない化合物という生気論の概念を言語化したものであった。 近代科学の黎明期から有機化合物と生物とは互いに密接な関係にあった。それらに関する歴史的な経緯は生物学と有機化学の年表にも詳しい。とりわけ、18世紀までは今日でいう有機化合物がある意味で生物の付属物と考えられていた。 ところが、1828年にフリードリヒ・ヴェーラーはシアン酸アンモニウムを加熱中に尿素の結晶が生成しているのを発見した。この尿素の合成に端を発し、有機物は生物に必ずしも付属したものに限定されないと考えられるようになった。ちなみに、無機物から有機物の尿素を初めて合成したヴェーラーは「有機物」の提唱者ベルセリウスの弟子であった。この発見以降、複数種類の有機化合物が生物の関与なしに化学的に合成されるにいたり、生気論に対する打撃となった。 有機物という語は現在でも用いられている。しかし、「生物由来」という概念を内包していたベルセリウスによる有機物の名称とは意味が変化してきており、上述した有機化合物の区分と(ベルセリウスによる)有機物の区分は厳密にいうならば完全には一致していない。そして実際にも、生物を介さず化学的に合成された多数の化合物が有機化合物の物質群に含まれている。現在では、「生物由来の有機化合物」という意味で、「天然物」あるいは「天然化合物」という用語が使用されることもある。 20世紀に入ると有機化合物の構造と物性との関連について理解が進み、分子構造を改変することで物質の機能をデザインするということがおぼろげながらも可能になってきた。最初は染料の分野で始まったこの流れは、医薬あるいは繊維の分野に波及し化学工業という産業分野が勃興した。 1950年代以前は石炭ガスの副産物であるコールタールが化学工業の主要資源であったが、1950年代以降に急速に発展した石油化学工業が石油に由来する多量で且つ多様な有機化合物原料を提供するようになった。それにより高分子化学製品である様々なプラスチックを初めとして、衣・食・住など人間生活の様々な局面に、機能を設計された多種多様な有機化合物が活用されるようになった。 有機化合物は生命体の構成分子との類似性が高く自然界に開放されると生命に吸収されるなど、金属などの無機物よりも比較的毒性が強く、環境側面での影響が大きいため様々な対策が行われてきている。 19世紀以来、有機化合物は希少な天然産物を大量に生産したり、天然産物の模倣による機能の改善など、生物あるいは天然物を意識した化合物の化学としてその研究が展開していった。シクロデキストリンやクラウンエーテルなど包接化合物の研究に端を発して、1980年代以降、コンピュータの著しい能力向上と計算化学の発展に相応して、機能を天然物に求めることなく分子構造から想定される物理学的作用に基づいた機能の設計により、新規の有機化合物が生み出されるようになった。そのような有機化合物の例として、機能性分子あるいは超分子が挙げられる。 すなわち、機能性分子はナノテクノロジーに対する有機化学的アプローチである。 有機化合物の種類は色々な観点で分類され色々な名称で呼びあらわされる。以下にその種類を分野あるい上位下位概念ごとに取りまとめた。(リストの段付けは上位概念の細分化を示す場合と、上位概念と関連のある区分を列挙した場合の双方の場合がある)
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有機化合物とは、炭素を含む化合物の大部分をさす。炭素原子が共有結合で結びついた骨格を持ち、分子間力によって集まることで液体や固体となっているため、沸点・融点が低いものが多い。 下記の歴史的背景から、炭素を含む化合物であっても、一酸化炭素、二酸化炭素、炭酸塩、青酸、シアン酸塩、チオシアン酸塩等の単純なものは例外的に無機化合物と分類し、有機化合物には含めない。例外は慣習的に決められたものであり、現代では単なる「便宜上の区分」である。有機物質あるいは有機物とも呼ばれる。
{{出典の明記|date=2011年10月}} '''有機化合物'''(ゆうきかごうぶつ、{{lang-en-short|organic compound}})とは、[[炭素]]を含む化合物の大部分をさす<ref name=basic>{{cite book|和書|author=山口良平、山本行男、田村類|year=2010|title=ベーシック有機化学|edition=第2版|publisher=化学同人|page=1|isbn=4759814396}}</ref><ref name="rikagaku">『岩波 理化学辞典』岩波書店</ref>。炭素原子が共有結合で結びついた骨格を持ち、[[分子間力]]によって集まることで[[液体]]や[[固体]]となっているため、[[沸点]]・[[融点]]が低いものが多い。 下記の歴史的背景から、炭素を含む化合物であっても、[[一酸化炭素]]、[[二酸化炭素]]、[[炭酸塩]]、[[青酸]]、[[シアン酸塩]]、[[チオシアン酸塩]]等の単純なものは例外的に無機化合物と分類し、有機化合物には含めない<ref name=basic/><ref>{{cite book|和書|author=宮本真敏、斉藤正治|year=2006|title=大学への橋渡し有機化学|publisher=化学同人|page=45|isbn=4759810218}}</ref>。例外は慣習的に決められたものであり<ref group="注">『デジタル大辞泉』[http://kotobank.jp/word/有機化合物]には、「炭素を含む化合物の総称。ただし、二酸化炭素・炭酸塩などの簡単な炭素化合物は習慣で無機化合物として扱うため含めない。」と書かれている。</ref>、現代では単なる「便宜上の区分」である<ref>[[広辞苑]]第五版(版:[[岩波書店]])</ref>。'''有機物質'''(ゆうきぶっしつ、{{lang-en-short|organic substance}}<ref name="shineiwa">『新英和大辞典』研究社</ref>)あるいは'''有機物'''(ゆうきぶつ、{{lang-en-short|[[w:organic matter|organic matter]]}}<ref>『ジーニアス和英辞典』大修館書店</ref><ref name="shineiwa">『新英和大辞典』研究社</ref>)とも呼ばれる<ref name=basic/><ref group="注">あくまで別の[[単語]]であり、同一の[[概念]]ではない。</ref>。 <!-- 有機化合物は一般に無機化合物に比べて多様な構造および性質を持つ。炭素骨格の長さおよび分岐の多様性に関して制限が小さいこと、ならびに、[[窒素]]、[[酸素]]、[[硫黄]]、[[リン|燐]]、または[[ハロゲン]]などが炭素に結合した多様な[[官能基]]が形作られて各官能基が特有の性質を示すことが、主な理由として挙げられる。はなはだしい有機化合物の多様性は、[[生物]]の構成要素としての化学物質に必要な性質であるとも考えられる。 --> == 歴史 == 18世紀には、生物すなわち有機体 (organisms) に由来する化合物には生命力が宿っているため特別な[[性質]]を持つとみなされており<ref>{{cite book|和書|author=ロバート・J・ウーレット|year=2002|title=ウーレット有機化学|others=高橋知義(訳)、橋元親夫(訳)、堀内昭(訳)、須田憲男(訳)|publisher=化学同人|page=1|isbn=4759809147}}</ref><ref group="注">これは[[生気説]]と呼ばれる。一般に、生物学は機械論の立場を採用しており、生気説は認められていない。</ref>、[[イェンス・ベルセリウス]]は物質を[[生物]]から得られるものと[[鉱物]]から得られるものとに分け、それぞれ「有機化合物」「[[無機化合物]]」と定義した<ref>{{cite book|和書|author=パウラ・Y・ブルース|year=2009|title=ブルース有機化学|edition=第5版|volume=上|others=大船泰史(訳)、[[香月勗]](訳)、[[西郷和彦]](訳)、富岡清(訳)|publisher=化学同人|page=2|isbn=4759811680}}</ref>。その後、[[フリードリヒ・ヴェーラー]]が無機物である[[シアン酸アンモニウム]]から有機物である[[尿素]]を人工的に作り出すことに成功すると、この定義は意義を失ったが<ref>{{cite book|和書|author=川端潤|year=2000|title=ビギナーズ有機化学|publisher=化学同人|page=3|isbn=4759808582}}</ref>、以降有機化合物を扱う[[有機化学]]は飛躍的な発展を遂げることになった<ref>{{cite book|和書|author=碧山隆幸|year=2005|title=Quizでわかる化学|publisher=ベレ出版|page=178|isbn=4860640799}}</ref>。 === 背景 === 初めて「有機物」という名称を提唱したのは、[[19世紀]]はじめの化学者[[イェンス・ベルセリウス]]である<ref>ベルセリウス著(田中豊助、原田紀子訳)『化学の教科書』6頁 内田老鶴圃 ISBN 4-7536-3108-7</ref>。ベルセリウスによる有機物との名称は、17世紀から18世紀の化学者[[ゲオルク・シュタール|ゲオルク・エルンスト・シュタール]]が主張した有機体([[生物]])の体内でしか製造できない化合物という[[生気論]]の概念を言語化したものであった。 近代科学の黎明期から有機化合物と生物とは互いに密接な関係にあった。それらに関する歴史的な経緯は[[生物学と有機化学の年表]]にも詳しい。とりわけ、[[18世紀]]までは今日でいう有機化合物がある意味で生物の付属物と考えられていた。 ところが、[[1828年]]に[[フリードリヒ・ヴェーラー]]は[[シアン酸アンモニウム]]を加熱中に[[尿素]]の結晶が生成しているのを発見した。この尿素の合成に端を発し、有機物は生物に必ずしも付属したものに限定されないと考えられるようになった。ちなみに、無機物から有機物の尿素を初めて合成したヴェーラーは「有機物」の提唱者ベルセリウスの弟子であった。この発見以降、複数種類の有機化合物が生物の関与なしに化学的に合成されるにいたり、生気論に対する打撃となった。 有機物という語は現在でも用いられている。しかし、「生物由来」という概念を内包していたベルセリウスによる有機物の名称とは意味が変化してきており、上述した有機化合物の区分と(ベルセリウスによる)有機物の区分は厳密にいうならば完全には一致していない。そして実際にも、生物を介さず化学的に合成された多数の化合物が有機化合物の物質群に含まれている。現在では、「生物由来の有機化合物」という意味で、「[[天然物化学|天然物]]」あるいは「天然化合物」という用語が使用されることもある。 === 応用 === ==== 化学工業 ==== {{main|化学工業}} [[20世紀]]に入ると有機化合物の構造と[[物性]]との関連について理解が進み、[[分子構造]]を改変することで物質の機能をデザインするということがおぼろげながらも可能になってきた。最初は[[染料]]の分野で始まったこの流れは、[[医薬]]あるいは[[繊維]]の分野に波及し化学工業という産業分野が勃興した。 [[1950年代]]以前は[[石炭ガス]]の副産物である[[コールタール]]が化学工業の主要資源であったが、1950年代以降に急速に発展した[[石油化学工業]]が石油に由来する多量で且つ多様な有機化合物原料を提供するようになった。それにより[[高分子化学]]製品である様々な[[プラスチック]]を初めとして、衣・食・住など人間生活の様々な局面に、機能を設計された多種多様な有機化合物が活用されるようになった。 有機化合物は生命体の構成[[分子]]との類似性が高く自然界に開放されると生命に吸収されるなど、[[金属]]などの[[無機物]]よりも比較的毒性が強く、環境側面での影響が大きいため様々な対策が行われてきている。 ==== 機能性分子 ==== {{main|機能性分子}} [[19世紀]]以来、有機化合物は希少な天然産物を大量に生産したり、天然産物の模倣による機能の改善など、生物あるいは天然物を意識した化合物の化学としてその研究が展開していった。[[シクロデキストリン]]や[[クラウンエーテル]]など包接化合物の研究に端を発して、[[1980年代]]以降、[[コンピュータ]]の著しい能力向上と[[計算化学]]の発展に相応して、機能を天然物に求めることなく分子構造から想定される物理学的作用に基づいた機能の設計により、新規の有機化合物が生み出されるようになった。そのような有機化合物の例として、機能性分子あるいは[[超分子]]が挙げられる。 すなわち、機能性分子は[[ナノテクノロジー]]に対する有機化学的アプローチである。 == 種類 == {{出典の明記|date=2021年1月|section=1}}有機化合物の種類は色々な観点で分類され色々な名称で呼びあらわされる。以下にその種類を分野あるい上位下位概念ごとに取りまとめた。(リストの段付けは上位概念の細分化を示す場合と、上位概念と関連のある区分を列挙した場合の双方の場合がある) # 構造あるいは[[官能基]]で分類される種類 #* [[IUPAC命名法|IUPAC名]] #: IUPAC命名法に基づく種類は記事 [[IUPAC命名法]] に詳しい。 #* [[基|官能基別化合物名]] #: 官能基別化合物名に基づく種類は記事 [[有機化学#炭素骨格と官能基|有機化学]] に詳しい。 #* [[芳香性]]の有無による分類 #** [[芳香族化合物]] #** [[脂肪族化合物]] #* 骨格構造による分類 #** [[鎖式化合物]] #*** 脂肪族化合物(非環式) #** [[環式化合物]] #*** [[芳香族化合物]] #*** [[脂環式化合物]] #* [[不飽和結合]]の有無による分類 #** 飽和化合物 #*** 飽和炭化水素 #** [[不飽和化合物]] #*** [[不飽和炭化水素]] #* 元素の種類による分類 #** [[環式化合物]] #*** [[単素環式化合物]] #**** [[脂環式炭化水素]] #**** [[芳香族炭化水素]] #*** [[複素環式化合物]] #**** [[複素脂環式化合物]] #**** [[複素芳香族化合物]] # 研究分野で分類される種類 #* [[天然物]] #** [[油脂|油脂化合物]]([[脂肪]]) #** [[糖|糖化合物]]([[炭水化物]]) #** [[ペプチド|ペプチド化合物]]([[蛋白質]]) #** [[核酸|核酸化合物]](DNA・RNA) #** [[アルカロイド|アルカロイド化合物]] #** [[ステロイド|ステロイド化合物]]([[テルペン|テルペン化合物]]) #* [[生体物質|生体内物質]] #** [[酵素]] #*** [[基質 (化学)|基質]] #*** [[補酵素]]([[ビタミン]]) #*** [[阻害剤]]([[インヒビター]]) #** [[受容体]] #*** [[アゴニスト]] #*** [[アンタゴニスト]] #** [[ホルモン]] #*** [[ステロイドホルモン]] #*** [[ペプチドホルモン]] #** [[伝達物質]] #*** [[神経伝達物質]] #*** [[オータコイド]] #*** [[セカンドメッセンジャー|セカンドメッセンジャー物質]] #** [[抗生物質]] #** [[海洋天然物]] #* [[高分子化合物]] #** [[合成樹脂]] #*** [[エラストマー|エラストマー化合物]]([[ゴム]]) #*** [[ゲル|ゲル化合物]] #* [[コロイド化合物]] #* [[機能性分子]]([[超分子]]) #** [[包接化合物]] #*** [[シクロデキストリン]] #*** [[クラウンエーテル]]([[クリプタンド]]) #*** [[カリックスアレーン]] #** [[人工酵素]] # 用途で分類される種類 #* [[染料]]([[色素]]・[[塗料]]) #* [[有機溶剤]] #* [[香料]]([[フレグランス]]・[[フレーバー]]) #* [[充填剤]]([[接着剤]]) #* [[プラスチック]]([[合成繊維]]・[[エンジニアリングプラスチック]]) #* [[農薬]] #** [[殺虫剤]] #** [[除草剤]] # 法規制で分類される種類 #* [[医薬品]]([[動物薬]]) #** [[医薬部外品]]([[化粧品]]) #* [[毒物]](劇物) #** [[特定毒物]] #* [[麻薬]](麻薬原料) #* [[覚せい剤]](覚せい剤原料) #* [[向精神薬]](向精神薬原料) #* [[危険物]] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== <references group="注"/> ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[無機化合物]] * [[有機化学]] * [[生気説]] - 有機化合物の範囲が曖昧なのは、有機化合物と無機化合物の区別が生気説に基づいていたことが関係している。 * [[有機化合物の一覧]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20140320032502/http://www.org-chem.org/yuuki/yuuki.html 有機化学美術館] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうきかこうふつ}} [[Category:科学史]] [[Category:有機化合物|*]] [[Category:イェンス・ベルセリウス]]
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ケルビン
ケルビン(英語: kelvin, 記号: K)は、熱力学温度(絶対温度)の単位である。国際単位系 (SI) における7個のSI基本単位の一つである。 ケルビンの名は、イギリスの物理学者で、絶対温度目盛りの必要性を説いたケルビン卿ウィリアム・トムソンにちなんで付けられた。なお、ケルビン卿の通称は彼が研究生活を送ったグラスゴーにあるケルビン川(英語版)から取られている。 2019年5月以降の「ケルビン」は、以下のように定義されている。 h はプランク定数、c は真空中の光の速さ、∆νCs は Cs (セシウム)の超微細構造遷移周波数である。 ケルビンが熱力学温度の単位であることから、絶対零度は0ケルビンである。また、セルシウス度はケルビンで表したときの数値から273.15を減じたものとして定義される。 日本の法令上は、計量法第3条の規定に基づく計量単位令における定義の表現は次のようになっている。 セルシウス度の歴史的な定義は、標準大気圧の下での水の氷点と沸点をそれぞれ0 °C および 100 °Cとするものであった。これらの温度は、現在の定義では、それぞれ0.002519 °C(273.152519 K)、99.9743 °C(373.1243 K)となっている。 なお、量記号を単位記号で割ったものは、その量をその単位で計ったときの数値を表す。 ケルビンは国際単位系の単位であり、単位記号は大文字の K が正しい(人名に由来する単位には大文字が用いられる。)。かつては「°K」と書かれていたが現在では誤りである。 英語など複数形と単数形を区別する言語では、ボルト・オームなど他のSI単位と同様、数値が1以外のときには複数形で表記される(例:「水の三重点は正確に273.16ケルビンである」は "the triple point of water is exactly 273.16 kelvins" となる)。「ケルビン温度目盛り ("Kelvin scale")」という用語における"Kelvin"は形容詞として機能し、この場合は頭文字を大文字で書く。 他の大部分のSI単位の記号(例外は角度の単位(例:45°3′4′′))と同様、数値と単位記号の間には、"99.987 K" のように空白を入れる。 1967年の第13回CGPMまで、ケルビンは他の温度の単位と同様、「度」(degree)と呼ばれていた。他の温度の単位との区別のために「ケルビン度」("degree Kelvin") や「絶対度」("degree absolute") と呼び、記号を「°K」としていた。1948年から1954年までは「絶対度」が正式な単位名称であったが、ランキン度のことも絶対度と呼ぶことがあり、曖昧さがあった。第13回CGPMで単位名称が「ケルビン」(記号:K)に改められた。 熱力学温度(記号 T)を氷点近くの T0 = 273.15 K という参照温度からの差を用いて表す方法が、今も広く使われている。この差はセルシウス温度(記号 t)と呼ばれる。現在の国際単位系(SI)の公式文書では、固有の名称と記号を持つ 22 個の SI組立単位が定められているが、セルシウス度は、この22個のうちの一つとして、組立量である「セルシウス温度」を表す固有の名称を持つ組立単位と位置づけられている。 したがって、科学技術の分野では、同じ文章中でセルシウス温度とケルビンを併用することがしばしばある(例えば「測定値は0.01028 °Cで、不確かさは60 μK」)。これは、1989年の国際度量衡委員会の勧告5で採択された 1990年国際温度目盛(ITS-90)においても同じである。ケルビンとセルシウス温度の温度の間隔は同じ(つまりケルビンとセルシウス度とは同じ)であり、SIにおいてはセルシウス度は「セルシウス温度を表すためのケルビンの特別な名称」とされているので、このような表記が許容される。第13回CGPMの決議3は「温度間隔はセルシウス度によって表現しても良い」と公式に表明しており、「°C」と「K」を併用する慣習は科学的分野に広範囲に見られる。ただし、セルシウス度という単位は、温度差を表すときにのみ一貫性があることに注意しなければならない。 国際単位系の公式文書および計量法の規定により、ケルビン(K)と同様にセルシウス度(°C)にもSI接頭語を付けることができる(SI接頭語#法定計量単位のうちSI接頭語を付けることができない単位のとおり、SI接頭語を付することは禁止されていない)。しかし実態としては「m°C(ミリセルシウス度またはミリ度)」、「μ°C」(マイクロセルシウス度またはマイクロ度)のような表記は、実際には広く使用されてはいない。 1848年、ケルビン卿は論文「絶対温度目盛りについて」(On an Absolute Thermometric Scale) で、"infinite cold"(絶対零度)を目盛りのゼロ点とし、温度間隔はセルシウス度と同じとする温度目盛りの必要性を説いた。ケルビン卿は、当時の気温計により絶対零度は−273 °Cに等しいと計算した。この絶対目盛りは今日では「ケルビン熱力学温度目盛り」として知られている。ケルビンが算出した"−273"という数値は、氷点におけるセルシウス度あたりの気体の膨張率 0.00366 の逆数から求めたものであり、現在認められている値ともほぼ一致している。 1954年の第10回国際度量衡総会 (CGPM) の第3決議にて、水の三重点を正確に273.16ケルビンとする定義が採択された。 1967–1968年の第13回国際度量衡総会の決議3にて、それまでの単位名称「ケルビン度」(degree Kelvin)と記号 °K を改め、単位名称を「ケルビン」(kelvin)、記号を K とした。そして、尺度ではなく単位であることを明示するために、決議4にて「熱力学温度の単位、ケルビンは、水の三重点の熱力学温度の⁄273.16である」と定められた。 2005年、国際度量衡委員会 (CIPM) は、定義に使用する水の同位体組成についての補足を追加した。これは、水の物理的性質は、厳密には、その同位体組成の違いによって異なるため、三重点を測定するための水について特定の同位体組成を指定する必要があるからである。ここで指定された水は、ウィーン標準平均海水(Vienna Standard Mean Ocean Water, VSMOW)と呼ばれるものであり、水の厳密な物理的性質を計測する場合の国際標準物質となっているものである。 2007年、測温諮問委員会からCIPMに、それまでの定義では、20 K以下と1300 K以上で十分な計測ができない報告がなされた。測温諮問委員会では、それまでの水の三重点による定義よりも、ボルツマン定数を基準にした方がより良い温度の計量ができ、低温や高温での計測困難を克服できると考えた。CIPMは、ボルツマン定数を正確に1.3806505×10 J/Kに固定することでケルビンを定義することを提案した。CIPMは、この提案が2011年の第24回CGPMで採択されることを望んでいたが、第24回CGPMでは、この提案はSI基本単位全体の見直しの一部として考慮すべきとして、採択は2014年のCGPMに延期された。第25回国際度量衡総会(CGPM)(2014年11月18~20日)においては、「提示されたデータは、新しいSIの定義を採択するには、十分頑強ではない」として、2018年に行われる次の第26回CGPMまで改訂を延期することとされた。また再定義のために必要となる基礎定数の新データは2017年7月1日までに論文として受け入れられたものでなければならないこととされた。 上記の基礎定数の新データ(複数)は、CODATAが評価して、SIの再定義に必要な精度を備えていることが確認されたので、CIPMはCGPMにおける決議案を2018年2月に決定した。 この決議案は2018年11月13–16日に開催された第26回国際度量衡総会の最終日である11月16日に決議承認された。このケルビンの定義変更を含む新しいSIは2019年5月20日に施行された。 科学的な視点では、この再定義により、温度の単位が他のSI基本単位と関連付けられ、どんな特定の物質からも独立した安定した定義を得ることができる。実際的な視点では、再定義の影響はほとんどない。 日本の法令上は、計量法第3条の規定に基づく計量単位令(平成4年政令第357号)が、計量単位令の一部を改正する政令(令和元年5月17日政令第6号)により改正され、2019年5月20日に施行することにより変更された。 2019年までの国際単位系におけるケルビンの定義は以下の通りであった。 ケルビンは、光源の色温度の単位としても用いられる。色温度は、黒体がその温度に応じた色の光を放射するという原理に基づく。約4000 K以下の温度の黒体は赤みがかって見え、約7500 K以上の黒体は青っぽく見える。画像投影と写真撮影の分野において、色温度は重要である。昼光用のフィルムの感光乳剤は約5600 Kの色温度が要求される。恒星のスペクトル分類とヘルツシュプルング・ラッセル図上の位置は、「有効温度(英語版)」として知られる恒星の表面温度に基づいている。例えば、太陽の光球は、5778 Kの有効温度を持つ。 デジタルカメラや画像編集ソフトウェアでは、編集や設定メニューで色温度(K)をよく使う。色温度が高くなると、画像は白または青っぽく見えるようになる。Kの値を小さくすると、画像は赤っぽく暖みのある色になる。 電子工学において、回路にどれくらいノイズが乗っているか(ノイズ・フロア)の指標としてケルビンが使われ、これを雑音温度という。熱雑音(ジョンソン–ナイキスト・ノイズ)は、ボルツマン定数に由来するノイズで、フリスの雑音の公式(英語版)を使用している回路の雑音温度を決定するのに用いることができる。 ケルビンの単位記号は、コードポイントU+212A K kelvin signでUnicodeにコード化されている。しかしこれは、既存の文字コードとの互換性のために用意されている互換文字である。Unicode標準では、この文字の代わりにU+004B K latin capital letter k、つまり普通のアルファベットの大文字のKを使うことを推奨している。「次の3つの文字様記号は、普通の文字と正準等価である: U+2126 Ω ohm sign, U+212A K kelvin sign, and U+212B Å angstrom sign。これら3つの全ての文字については、普通の文字が使われなければならない。」
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"熱力学温度(記号 T)を氷点近くの T0 = 273.15 K という参照温度からの差を用いて表す方法が、今も広く使われている。この差はセルシウス温度(記号 t)と呼ばれる。現在の国際単位系(SI)の公式文書では、固有の名称と記号を持つ 22 個の SI組立単位が定められているが、セルシウス度は、この22個のうちの一つとして、組立量である「セルシウス温度」を表す固有の名称を持つ組立単位と位置づけられている。", "title": "セルシウス温度との関係" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "したがって、科学技術の分野では、同じ文章中でセルシウス温度とケルビンを併用することがしばしばある(例えば「測定値は0.01028 °Cで、不確かさは60 μK」)。これは、1989年の国際度量衡委員会の勧告5で採択された 1990年国際温度目盛(ITS-90)においても同じである。ケルビンとセルシウス温度の温度の間隔は同じ(つまりケルビンとセルシウス度とは同じ)であり、SIにおいてはセルシウス度は「セルシウス温度を表すためのケルビンの特別な名称」とされているので、このような表記が許容される。第13回CGPMの決議3は「温度間隔はセルシウス度によって表現しても良い」と公式に表明しており、「°C」と「K」を併用する慣習は科学的分野に広範囲に見られる。ただし、セルシウス度という単位は、温度差を表すときにのみ一貫性があることに注意しなければならない。", "title": "セルシウス温度との関係" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "国際単位系の公式文書および計量法の規定により、ケルビン(K)と同様にセルシウス度(°C)にもSI接頭語を付けることができる(SI接頭語#法定計量単位のうちSI接頭語を付けることができない単位のとおり、SI接頭語を付することは禁止されていない)。しかし実態としては「m°C(ミリセルシウス度またはミリ度)」、「μ°C」(マイクロセルシウス度またはマイクロ度)のような表記は、実際には広く使用されてはいない。", "title": "セルシウス温度との関係" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": 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日本の法令上は、計量法第3条の規定に基づく計量単位令(平成4年政令第357号)が、計量単位令の一部を改正する政令(令和元年5月17日政令第6号)により改正され、2019年5月20日に施行することにより変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2019年までの国際単位系におけるケルビンの定義は以下の通りであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ケルビンは、光源の色温度の単位としても用いられる。色温度は、黒体がその温度に応じた色の光を放射するという原理に基づく。約4000 K以下の温度の黒体は赤みがかって見え、約7500 K以上の黒体は青っぽく見える。画像投影と写真撮影の分野において、色温度は重要である。昼光用のフィルムの感光乳剤は約5600 Kの色温度が要求される。恒星のスペクトル分類とヘルツシュプルング・ラッセル図上の位置は、「有効温度(英語版)」として知られる恒星の表面温度に基づいている。例えば、太陽の光球は、5778 Kの有効温度を持つ。", "title": "熱力学温度以外の使用法" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "デジタルカメラや画像編集ソフトウェアでは、編集や設定メニューで色温度(K)をよく使う。色温度が高くなると、画像は白または青っぽく見えるようになる。Kの値を小さくすると、画像は赤っぽく暖みのある色になる。", "title": "熱力学温度以外の使用法" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "電子工学において、回路にどれくらいノイズが乗っているか(ノイズ・フロア)の指標としてケルビンが使われ、これを雑音温度という。熱雑音(ジョンソン–ナイキスト・ノイズ)は、ボルツマン定数に由来するノイズで、フリスの雑音の公式(英語版)を使用している回路の雑音温度を決定するのに用いることができる。", "title": "熱力学温度以外の使用法" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ケルビンの単位記号は、コードポイントU+212A K kelvin signでUnicodeにコード化されている。しかしこれは、既存の文字コードとの互換性のために用意されている互換文字である。Unicode標準では、この文字の代わりにU+004B K latin capital letter k、つまり普通のアルファベットの大文字のKを使うことを推奨している。「次の3つの文字様記号は、普通の文字と正準等価である: U+2126 Ω ohm sign, U+212A K kelvin sign, and U+212B Å angstrom sign。これら3つの全ての文字については、普通の文字が使われなければならない。」", "title": "符号位置" } ]
ケルビンは、熱力学温度(絶対温度)の単位である。国際単位系 (SI) における7個のSI基本単位の一つである。 ケルビンの名は、イギリスの物理学者で、絶対温度目盛りの必要性を説いたケルビン卿ウィリアム・トムソンにちなんで付けられた。なお、ケルビン卿の通称は彼が研究生活を送ったグラスゴーにあるケルビン川から取られている。
{{Otheruses|温度の単位|その他|ケルヴィン (曖昧さ回避)}} {{単位 |名称=ケルビン |英字=kelvin |記号=K |単位系=SI |種類=[[SI基本単位]] |物理量=[[熱力学温度]] |定義=[[ボルツマン定数]]を {{val|1.380649e-23}}&nbsp;J/K とすることによって定まる熱力学温度の単位 |由来=[[標準大気圧]]下での水の[[沸点]]と[[氷点]]との温度差の 100 分の 1 |語源=[[ウィリアム・トムソン|ケルヴィン卿]] |画像= }} '''ケルビン'''({{lang-en|kelvin}}, 記号: K)は、[[熱力学温度]](絶対温度)の[[物理単位|単位]]である。[[国際単位系]] (SI) における7個の[[SI基本単位]]の一つである。 ケルビンの名は、[[イギリス]]の[[物理学者]]で、絶対温度目盛りの必要性を説いたケルビン卿[[ウィリアム・トムソン]]にちなんで付けられた。なお、ケルビン卿の通称は彼が研究生活を送った[[グラスゴー]]にある{{仮リンク|ケルビン川|en|River Kelvin}}から取られている。 == 定義 == {{see also|SI基本単位の再定義 (2019年)}} 2019年5月以降の「ケルビン」は、以下のように定義されている<ref group="注">第26回国際度量衡総会の決定。[[2019年]]5月20日施行。</ref>。 {{Quotation|ケルビン(記号は K)は、熱力学温度の SI 単位であり、[[ボルツマン定数]] ''k'' を単位 J K{{sup-|1}}(kg m{{sup|2}} s{{sup-|2}} K{{sup-|1}} に等しい)で表したときに、その数値を {{val|1.380649|e=-23}} と定めることによって定義される。ここで、[[キログラム]]、[[メートル]]および[[秒]]は ''h''、''c'' および ''∆ν''{{sub|Cs}} に関連して定義される<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=18 国際単位系(SI)第 9 版(2019)] p.101、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年3月</ref><ref group="注">国際単位系における正式の言語はフランス語である。ここでの定義は英語及びこれを日本語に翻訳したものである。正式な本文の確認が必要な場合又は文章の解釈に疑義がある場合はフランス語版を確認する必要がある。</ref>。 }} ''h'' は[[プランク定数]]、''c'' は真空中の光の速さ、''∆ν''{{sub|Cs}} は {{sup|133}}Cs ([[セシウム]])の超微細構造遷移周波数である。 ケルビンが熱力学温度の単位であることから、[[絶対零度]]は0ケルビンである。また、[[セルシウス度]]はケルビンで表したときの数値から273.15を減じたものとして定義される。 日本の法令上は、[[計量法]]第3条の規定<ref group="注">第三条 前条第一項第一号に掲げる物象の状態の量のうち別表第一の上欄に掲げるものの計量単位は、同表の下欄に掲げるとおりとし、その定義は、国際度量衡総会の決議その他の計量単位に関する国際的な決定及び慣行に従い、政令で定める。</ref>に基づく計量単位令における定義の表現は次のようになっている。 {{Quotation|ボルツマン定数を {{val|1.380649|e=-23|u=J/K}} とすることによって定まる温度(ケルビンで表される温度は熱力学温度とし、セルシウス度又は度で表される温度はセルシウス温度(ケルビンで表した熱力学温度の値から273.15を減じたもの)とする。) }} [[セルシウス度]]の歴史的な定義は、標準大気圧の下での水の[[融点|氷点]]と[[沸点]]をそれぞれ{{val|0|u=degC}} および {{val|100|u=degC}}とするものであった。これらの温度は、現在の定義では、それぞれ{{val|0.002519|u=degC}}({{val|273.152519|u = K}})、{{val|99.9743|u=degC}}({{val|373.1243|u=K}})となっている<ref group="注">{{main2|[[水の性質#物理的性質]]を}}</ref>。 == 換算 == {{temperature}} ; [[セルシウス温度]] {{mvar|t}} とそれに等しいケルビン {{mvar|T}} の関係 :<math>t/{}^\circ\text{C} =T/\text{K} -273.15</math> :<math>T/\text{K} =t/{}^\circ\text{C} +273.15</math> なお、量記号を単位記号で割ったものは、その量をその単位で計ったときの数値を表す。 ; [[華氏度|カ氏温度]] {{mvar|&theta;}} とそれに等しいケルビン {{mvar|T}} の関係 :<math>\theta/{}^\circ\text{F} = \frac{9}{5}T/\text{K} -459.67</math> :<math>T/\text{K} =\frac{5}{9}( \theta/{}^\circ\text{F} +459.67)</math> ; 熱力学温度のエネルギーによる表現 : [[プラズマ物理学]]の分野では温度を慣例的にエネルギーの単位である[[電子ボルト]](記号: eV)で示すことがある。 : その温度における分子の平均運動エネルギーに相当し、[[ボルツマン定数]] {{mvar|k}}={{val|8.617|e=-5|u=eV/K}} により換算される。 : 1 eV/{{mvar|k}} = {{val|11604|u=K}} : 1 K = {{val|8.617|e=-5|u=eV}}/{{mvar|k}} == 使用上の注意 == ケルビンは国際単位系の単位であり、単位記号は大文字の K が正しい(人名に由来する単位には大文字が用いられる。)<ref>[[#SI8thja|国際文書 国際単位系 (SI) 第 8 版日本語版 (2006)]] p.&nbsp;42。</ref>。かつては「&deg;K」と書かれていたが現在では誤りである。 英語など[[複数形]]と単数形を区別する言語では、[[ボルト (単位)|ボルト]]・[[オーム]]など他のSI単位と同様、数値が1以外のときには複数形で表記される(例:「水の三重点は正確に273.16ケルビンである」は "the triple point of water is exactly 273.16 kelvins" となる<ref name="sib211">{{cite web |title=Rules and style conventions for expressing values of quantities |work=SI Brochure, 8th edition |pages=Section 2.1.1.5 |url=http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter2/2-1/kelvin.html |publisher=Bureau International des Poids et Mesures |year=1967 |accessdate=2012-08-27}}</ref>)。「ケルビン温度目盛り ("Kelvin scale")」という用語における"Kelvin"は[[形容詞]]として機能し、この場合は頭文字を大文字で書く。 他の大部分のSI単位の記号(例外は角度の単位(例:45°3′4″))と同様、数値と単位記号の間には、"99.987&nbsp;K" のように空白を入れる<ref name="nist">{{cite web |title=SI Unit rules and style conventions |url=http://physics.nist.gov/cuu/Units/checklist.html |publisher=National Institute of Standards and Technology |date=September 2004 |accessdate=2008-02-06}}</ref><ref name="sib533">{{cite web |title=Rules and style conventions for expressing values of quantities |work=SI Brochure, 8th edition |pages=Section 5.3.3 |url=http://www.bipm.org/en/publications/si-brochure/section5-3.html |publisher=Bureau International des Poids et Mesures |year=1967 |accessdate=2015-12-13}}</ref>。 [[1967年]]の第13回CGPMまで、ケルビンは他の温度の単位と同様、「[[度 (温度)|度]]」(degree)と呼ばれていた。他の温度の単位との区別のために「ケルビン度」("degree Kelvin") や「絶対度」("degree absolute") と呼び、記号を「&deg;K」としていた。1948年から1954年までは「絶対度」が正式な単位名称であったが、[[ランキン度]]のことも絶対度と呼ぶことがあり、曖昧さがあった。第13回CGPMで単位名称が「ケルビン」(記号:K)に改められた<ref>{{cite journal |author=Barry N. Taylor |title=Guide for the Use of the International System of Units (SI) |version=Special Publication 811 |format=.PDF |publisher=National Institute of Standards and Technology |url=http://physics.nist.gov/cuu/pdf/sp811.pdf |year=2008 |accessdate=2011-03-05}}</ref>。 == セルシウス温度との関係 == [[File:CelsiusKelvinThermometer.jpg|thumb|200px|セルシウス温度とケルビンの両方の目盛りが振られた温度計]] 熱力学温度(記号 T)を氷点近くの ''T''<sub>0</sub> = 273.15 K という参照温度からの差を用いて表す方法が、今も広く使われている。この差は[[セルシウス温度]](記号 ''t'')と呼ばれる<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=18 ケルビン] p.101、下から4行目、国際単位系(SI)第9版 (2019)日本語版、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター</ref>。現在の国際単位系(SI)の公式文書では、固有の名称と記号を持つ 22 個の SI組立単位が定められているが、セルシウス度は、この22個のうちの一つとして、組立量である「セルシウス温度」を表す固有の名称を持つ組立単位と位置づけられている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=23 表4 固有の名称と記号を持つ 22個のSI単位] p.106、国際単位系(SI)第9版 (2019)日本語版、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター</ref>。 したがって、科学技術の分野では、同じ文章中でセルシウス温度とケルビンを併用することがしばしばある(例えば「測定値は{{val|0.01028|u=degC}}で、[[不確かさ (測定)|不確かさ]]は60&nbsp;&mu;K」)。これは、1989年の[[国際度量衡委員会]]の勧告5で採択された 1990年国際温度目盛([[:en:International Temperature Scale of 1990|ITS-90]])においても同じである。ケルビンとセルシウス温度の温度の間隔は同じ(つまりケルビンとセルシウス度とは同じ)であり、SIにおいてはセルシウス度は「セルシウス温度を表すためのケルビンの特別な名称」とされているので、このような表記が許容される<ref name="sib222">{{cite web |title=Units with special names and symbols; units that incorporate special names and symbols |work=SI Brochure, 8th edition |pages=Section 2.2.2, Table 3 |url=http://www.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter2/2-2/table3.html |publisher=Bureau International des Poids et Mesures |year=2006 |accessdate=2016-06-27}}</ref>。第13回CGPMの決議3は「温度間隔はセルシウス度によって表現しても良い」と公式に表明しており<ref name="res313">{{cite web |title=Resolution 3: SI unit of thermodynamic temperature (kelvin) |work=Resolutions of the 13th CGPM |url=http://www.bipm.fr/en/CGPM/db/13/3/ |publisher=Bureau International des Poids et Mesures |year=1967 |accessdate=2008-02-06}}</ref>、「&deg;C」と「K」を併用する慣習は科学的分野に広範囲に見られる。ただし、セルシウス度という単位は、温度差を表すときにのみ[[一貫性 (単位系)|一貫性]]があることに注意しなければならない<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=27] p.110、国際単位系(SI)第9版 (2019)日本語版、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター</ref>。 国際単位系の公式文書および[[計量法]]の規定により、ケルビン(K)と同様にセルシウス度({{℃}})にも[[SI接頭語]]を付けることができる([[SI接頭語#法定計量単位のうちSI接頭語を付けることができない単位]]のとおり、SI接頭語を付することは禁止されていない)。しかし実態としては「m{{℃}}(ミリセルシウス度またはミリ度)」、「&mu;{{℃}}」(マイクロセルシウス度またはマイクロ度)のような表記は、実際には広く使用されてはいない。 == 歴史 == {{see also|熱力学温度|水#物理的性質}} [[File:Lord Kelvin photograph.jpg|thumb|upright|単位名称の元となった[[ウィリアム・トムソン|ケルビン卿]]]] 1848年、ケルビン卿は論文「絶対温度目盛りについて」(''On an Absolute Thermometric Scale'') で、"infinite cold"(絶対零度)を目盛りのゼロ点とし、温度間隔はセルシウス度と同じとする温度目盛りの必要性を説いた。ケルビン卿は、当時の気温計により絶対零度は−273&nbsp;&deg;Cに等しいと計算した<ref name="lordkelvin">{{cite journal |last=Lord Kelvin|first=William |title=On an Absolute Thermometric Scale |journal=Philosophical Magazine |date=October 1848 |url=http://zapatopi.net/kelvin/papers/on_an_absolute_thermometric_scale.html |accessdate=2008-02-06}}</ref>。この絶対目盛りは今日では「ケルビン熱力学温度目盛り」として知られている。ケルビンが算出した"−273"という数値は、氷点におけるセルシウス度あたりの気体の膨張率 0.00366 の逆数から求めたものであり、現在認められている値ともほぼ一致している。 1954年の第10回[[国際度量衡総会]] (CGPM) の第3決議にて、[[水の三重点]]を正確に273.16ケルビンとする定義が採択された<ref name="res310">{{cite web |title=Resolution 3: Definition of the thermodynamic temperature scale |work=Resolutions of the 10th CGPM |publisher=Bureau International des Poids et Mesures |url=http://www.bipm.fr/en/CGPM/db/10/3/ |year=1954 |accessdate=2008-02-06}}</ref><ref>[[#SI8thja|国際文書 国際単位系 (SI) 第 8 版日本語版 (2006)]] pp.&nbsp;20, 24。</ref>。 1967–1968年の第13回国際度量衡総会の決議3にて、それまでの単位名称「ケルビン度」(degree Kelvin)と記号 &deg;K を改め、単位名称を「ケルビン」(kelvin)、記号を K とした<ref name="res313"/><ref>[[#SI8thja|国際文書 国際単位系 (SI) 第 8 版日本語版 (2006)]] pp.&nbsp;59, 61。</ref>。そして、尺度ではなく単位であることを明示するために、決議4にて「熱力学温度の単位、ケルビンは、水の三重点の熱力学温度の{{frac|273.16}}である」と定められた<ref name="res413"/>。 2005年、[[国際度量衡委員会]] (CIPM) は、定義に使用する水の[[同位体]]組成についての補足を追加した<ref>[[ケルビン#SI8thja|国際文書 国際単位系 (SI) 第 8 版日本語版 (2006)]] pp.&nbsp;85–86『CIPM, 2005年 熱力学温度の単位, ケルビンの定義の明確化』 。</ref>。これは、水の物理的性質は、厳密には、その[[同位体]]組成の違いによって異なるため、[[三重点]]を測定するための水について特定の同位体組成を指定する必要があるからである。ここで指定された水は、[[ウィーン標準平均海水]](Vienna Standard Mean Ocean Water, VSMOW)と呼ばれるものであり、[[水]]の厳密な物理的性質を計測する場合の国際[[標準物質]]となっているものである<ref name="sib2115">{{cite web |title=Unit of thermodynamic temperature (kelvin) |work=SI Brochure, 8th edition |pages=Section 2.1.1.5 |url=http://www1.bipm.org/en/si/si_brochure/chapter2/2-1/2-1-1/kelvin.html |publisher=Bureau International des Poids et Mesures |year=1967 |accessdate=2008-02-06}}</ref>。 2007年、測温諮問委員会からCIPMに、それまでの定義では、20&nbsp;K以下と{{val|1300|u=K}}以上で十分な計測ができない報告がなされた。測温諮問委員会では、それまでの水の[[三重点]]による定義よりも、[[ボルツマン定数]]を基準にした方がより良い温度の計量ができ、低温や高温での計測困難を克服できると考えた<ref>{{cite web|url=http://www.bipm.org/wg/CCT/TG-SI/Allowed/Documents/Report_to_CIPM_2.pdf|format=PDF|title=Report to the CIPM on the implications of changing the definition of the base unit kelvin|author=Fischer, J. et al|date=2 May 2007|accessdate=2011-01-02}}</ref>。CIPMは、ボルツマン定数を正確に{{val|1.3806505|e=-23|u=J/K}}に固定することでケルビンを定義することを提案した<ref name="draft">{{cite web |url=http://www.bipm.org/utils/en/pdf/si_brochure_draft_ch2.pdf |title=Draft Chapter 2 for SI Brochure, following redefinitions of the base units |author=Ian Mills |publisher=CCU |date=29 September 2010 |accessdate=2011-01-01}}</ref>。CIPMは、この提案が2011年の第24回CGPMで採択されることを望んでいたが、第24回CGPMでは、この提案は[[SI基本単位の再定義 (2019年)|SI基本単位全体の見直し]]の一部として考慮すべきとして、採択は2014年のCGPMに延期された<ref>{{cite press release | url = http://www.bipm.org/utils/en/pdf/Press_release_resolution_1_CGPM.pdf | title = General Conference on Weights and Measures approves possible changes to the International System of Units, including redefinition of the kilogram. | publisher = [[国際度量衡総会]] | location = Sèvres, France | date = 23 October 2011 | accessdate = 25 October 2011}}</ref>。第25回[[国際度量衡総会]]([[CGPM]])(2014年11月18~20日)においては、「提示されたデータは、新しいSIの定義を採択するには、十分頑強ではない」として<ref>{{cite web|title=Resolution 1 of the 25th CGPM (2014)|url=http://www.bipm.org/en/CGPM/db/25/1/|publisher=International Bureau for Weights and Measures|location=Sèvres, France|date=21 November 2014|accessdate=2014-12-14}}</ref>、[[2018年]]に行われる次の第26回[[CGPM]]まで改訂を延期することとされた。また再定義のために必要となる基礎定数の新データは2017年7月1日までに論文として受け入れられたものでなければならないこととされた<ref>[http://www.bipm.org/en/news/full-stories/2015-01/si-roadmap.html Timetable for the future revision of the International System of Units] News from the BIPM, BIPM, 2015-01</ref>。 上記の基礎定数の新データ(複数)は、[[CODATA]]が評価して、SIの再定義に必要な精度を備えていることが確認されたので、CIPMはCGPMにおける決議案を2018年2月に決定した<ref>[https://www.bipm.org/utils/en/pdf/CGPM/Draft-Resolution-A-EN.pdf Draft Resolution A On the revision of the International System of Units (SI)] Draft Resolution A – 26th meeting of the CGPM (13-16 November 2018),Appendix 3. "The base units of the SI",第3ページ目, 2018-02-06</ref>。 この決議案は2018年11月13–16日に開催された第26回[[国際度量衡総会]]の最終日である11月16日に決議承認された。このケルビンの定義変更を含む新しいSIは2019年5月20日に施行<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/SI-roadmap.pdf Joint CCM and CCU '''roadmap''' for the adoption of the revision of the International System of Units] 3ページ目、2019年の欄</ref>された。 科学的な視点では、この再定義により、温度の単位が他の[[SI基本単位]]と関連付けられ、どんな特定の物質からも独立した安定した定義を得ることができる。実際的な視点では、再定義の影響はほとんどない。 日本の法令上は、[[計量法]]第3条の規定に基づく計量単位令(平成4年政令第357号)が、計量単位令の一部を改正する政令(令和元年5月17日政令第6号)により改正され、2019年[[5月20日]]に施行することにより変更された。 === 2019年までの定義 === 2019年までの国際単位系におけるケルビンの定義は以下の通りであった<ref name="res413">{{cite web |title=Resolution 4: Definition of the SI unit of thermodynamic temperature (kelvin) |work=Resolutions of the 13th CGPM |url=http://www.bipm.fr/en/CGPM/db/13/4/ |publisher=Bureau International des Poids et Mesures |year=1967 |accessdate=2008-02-06}}</ref>。 {{quotation| : 熱力学温度の単位、ケルビンは、[[三重点|水の三重点]]の熱力学温度の1/273.16である。 : 補足:この定義は、下記の[[物質量]]の比により厳密に定義された[[同位体]]組成を持つ水に関するものである。 :* {{Val|1|ul=mol}} の [[水素|{{Chem|1|H}}]] あたり {{val|0.00015576|u=mol}} の [[重水素|{{Chem|2|H}}]] :* {{Val|1|u=mol}} の [[酸素16|{{Chem|16|O}}]] あたり {{val|0.0003799|u=mol}} の [[酸素の同位体|{{Chem|17|O}}]] :* {{Val|1|u=mol}} の {{Chem|16|O}} あたり {{val|0.0020052|u=mol}} の {{Chem|18|O}}}} == 熱力学温度以外の使用法 == === 色温度 === {{main|色温度}} {{see also|シュテファン=ボルツマンの法則}} ケルビンは、光源の[[色温度]]の単位としても用いられる<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.sugatsune.co.jp/technology/illumi-l.php|title = 技術情報|accessdate = 2015-10-29|publisher = スガツネ工業}}</ref>。色温度は、[[黒体]]がその温度に応じた色の光を[[放射]]するという原理に基づく。約{{val|4000|u=K}}以下の温度の黒体は赤みがかって見え、約{{val|7500|u=K}}以上の黒体は青っぽく見える。画像投影と[[写真]]撮影の分野において、色温度は重要である。昼光用のフィルムの感光乳剤は約{{val|5600|u=K}}の色温度が要求される。恒星の[[スペクトル分類]]と[[ヘルツシュプルング・ラッセル図]]上の位置は、「{{仮リンク|有効温度 (天体)|en|effective temperature|label=有効温度}}」として知られる恒星の表面温度に基づいている。例えば、[[太陽]]の[[光球]]は、{{val|5778|u=K}}の有効温度を持つ。 デジタルカメラや画像編集ソフトウェアでは、編集や設定メニューで色温度(K)をよく使う。色温度が高くなると、画像は白または青っぽく見えるようになる。Kの値を小さくすると、画像は赤っぽく暖みのある色になる。 === 雑音温度 === {{main|雑音指数}} 電子工学において、回路にどれくらい[[ノイズ (電子工学)|ノイズ]]が乗っているか([[ノイズ・フロア]])の指標としてケルビンが使われ、これを[[雑音温度]]という。[[熱雑音]](ジョンソン–ナイキスト・ノイズ)は、[[ボルツマン定数]]に由来するノイズで、{{仮リンク|フリスの雑音の公式|en|Friis formulas for noise}}を使用している回路の雑音温度を決定するのに用いることができる。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|8490|212a|-|ケルビン}} |} ケルビンの単位記号は、コードポイント{{unichar|212A|kelvin sign}}で[[Unicode]]にコード化されている。しかしこれは、既存の文字コードとの互換性のために用意されている[[Unicodeの互換文字|互換文字]]である。Unicode標準では、この文字の代わりに{{unichar|004B|latin capital letter k}}、つまり普通のアルファベットの大文字の[[K]]を使うことを推奨している。「次の3つの[[文字様記号]]は、普通の文字と正準等価である: {{unichar|2126|ohm sign}}, {{unichar|212A|kelvin sign}}, and {{unichar|212B|angstrom sign}}。これら3つの全ての文字については、普通の文字が使われなければならない。」<ref>{{cite book|title=The Unicode Standard, Version 8.0|date=August 2015|publisher=The Unicode Consortium|location=Mountain View, CA, USA|isbn=978-1-936213-10-8 |section=22.2|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0/ch22.pdf|accessdate=6 September 2015}}</ref> == 関連項目 == * [[温度の単位の換算]] * [[セルシウス度]] * [[負温度]] - 0 ケルビン未満の絶対温度。非平衡な熱力学系でのみ現れる。 * [[温度の比較]] - 表による比較。 * {{仮リンク|1990年国際温度目盛|en|International Temperature Scale of 1990}} ([[温度#国際温度目盛(ITS-90)]]) {{温度の単位の比較}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、2020年4月。 ==外部リンク== {{wiktionary}} {{commonscat|Kelvin temperature}} * [http://www.rapidtables.com/convert/temperature/kelvin-to-celsius.htm Kelvin to Celsius converter] {{en icon}} * {{Kotobank}} {{Unit of thermodynamic temperature.(K)}} {{SI units navbox}} {{デフォルトソート:けるひん}} [[Category:温度の単位]] [[Category:SI基本単位]] [[Category:ウィリアム・トムソン]] [[Category:エポニム]]
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RNAウイルス
RNAウイルスとは、ゲノムとしてリボ核酸 (RNA)をもつウイルスのこと。 ウイルスは、ゲノム核酸としてデオキシリボ核酸(DNA)を持つDNAウイルスと、リボ核酸 (RNA)をゲノムとするRNAウイルスに分けられる。 ゲノムRNAからDNAを介さずに遺伝情報が発現するタイプのウイルスと、ゲノムRNAをいったん逆転写酵素によってDNAとしてコピーしそのDNAから遺伝情報を読み出すタイプのものとがある。後者をとくにレトロウイルスと呼ぶ。 RNAウイルスは更に、二本鎖RNAウイルス(dsRNA)、一本鎖プラス鎖RNAウイルス(+鎖型)、一本鎖マイナス鎖RNAウイルス(−鎖型)に分類される。 一本鎖プラス鎖RNAウイルスはウイルスゲノムRNAがそのまま翻訳されウイルスタンパク質が作られる。一本鎖の+鎖RNAウイルスはゲノム自体がmRNAとして機能し得る。SARSの原因であるコロナウイルスはこれに含まれる。レトロウイルスもここに含まれるが、上記のようにいったんDNAに遺伝情報を移す。 一本鎖マイナス鎖RNAウイルスではウイルスに由来するRNAポリメラーゼ(RNAを合成する酵素)により相補的なRNAが合成される。−鎖RNAウイルスゲノムはmRNAと相補的な塩基配列のためそのままではmRNAとして機能できない。これをRNA依存性RNAポリメラーゼによって+鎖に転写して機能する。 国際ウイルス分類委員会の2005年報告書第8版では、第1群と第2群はDNAウイルス、その他の第3群から第7群はRNAウイルスである。 RNAウイルスと宿主である人類とは共進化してきた。ウイルスが生物のゲノムに内在化した痕跡である「ウイルス化石」としてはこれまでにレトロウイルスが知られる。生物はレトロウイルスの遺伝子をゲノムに組み込み、内在性レトロウイルス(Endogenous retrovirus, ERV) として遺伝し、ゲノムの多様性を広げてきた。 2010年、大阪大学微生物病研究所は、ヒト、非ヒト霊長類、げっ歯類、ジリスのゲノム内に塩基配列「内在性ボルナ様Nエレメント(Endogenous Borna-like N,EBLN)」を発見した。またボルナ病の原因となるボルナウイルスを感染させた細胞で遺伝子が逆転写され、細胞のゲノムに挿入されること、逆転写酵素を持たないRNAウイルスが宿主のレトロトランスポゾンを利用してゲノムに挿入されることを示した。 この発見によってレトロウイルス以外にもRNAウイルスの一つボルナウイルスの遺伝子が取り込まれており、ウイルス感染が4000万年前までさかのぼることとなった。
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RNAウイルスとは、ゲノムとしてリボ核酸 (RNA)をもつウイルスのこと。
'''RNAウイルス'''とは、[[ゲノム]]として[[リボ核酸|リボ核酸 (RNA)]]をもつ[[ウイルス]]のこと。 == 分類 == {{Main|リボ核酸#DNAとの比較}} ウイルスは、[[ゲノム]][[核酸]]として[[デオキシリボ核酸]](DNA)を持つ[[DNAウイルス]]と、リボ核酸 (RNA)を[[ゲノム]]とするRNAウイルスに分けられる<ref name="jst">科学技術振興機構報第279号平成18年4月10日 [[科学技術振興機構]]「語句説明」</ref>。 === レトロウイルス === ゲノムRNAから[[デオキシリボ核酸|DNA]]を介さずに[[遺伝情報]]が発現するタイプのウイルスと、ゲノムRNAをいったん[[逆転写酵素]]によってDNAとしてコピーしそのDNAから遺伝情報を読み出すタイプのものとがある。後者をとくに[[レトロウイルス]]と呼ぶ。 === 二本鎖RNAウイルスと一本鎖RNAウイルス === RNAウイルスは更に、[[二本鎖RNAウイルス]](dsRNA)、[[一本鎖プラス鎖RNAウイルス]](+鎖型)、[[一本鎖マイナス鎖RNAウイルス]](−鎖型)に分類される<ref name="jst"/>。 === 一本鎖マイナス鎖RNAウイルスと一本鎖プラス鎖RNAウイルス === {{See|一本鎖プラス鎖RNAウイルス|一本鎖マイナス鎖RNAウイルス}} [[一本鎖プラス鎖RNAウイルス]]はウイルスゲノムRNAがそのまま[[翻訳 (生物学)|翻訳]]されウイルスタンパク質が作られる<ref name="jst"/>。一本鎖の+鎖RNAウイルスはゲノム自体が[[mRNA]]として機能し得る。[[SARS]]の原因である[[コロナウイルス]]はこれに含まれる。レトロウイルスもここに含まれるが、上記のようにいったんDNAに遺伝情報を移す。 一本鎖マイナス鎖RNAウイルスではウイルスに由来する[[RNAポリメラーゼ]](RNAを合成する酵素)により相補的なRNAが合成される<ref name="jst"/>。−鎖RNAウイルスゲノムはmRNAと相補的な[[塩基配列]]のためそのままではmRNAとして機能できない。これを[[RNA依存性RNAポリメラーゼ]]によって+鎖に転写して機能する。 == RNAウイルス一覧 == {{Main|ウイルスの分類}} [[国際ウイルス分類委員会]]の2005年報告書第8版<ref>[https://talk.ictvonline.org International Committee on Taxonomy of Viruses.ICTV]</ref>では、第1群と第2群はDNAウイルス、その他の第3群から第7群はRNAウイルスである。 === 二本鎖RNAウイルス(dsRNA) === * [[レオウイルス科]]:[[ロタウイルス]] **[[ブルータング]] * オルトレオウイルス属(Orthoreovirus) * 細胞質多角体病ウイルス(Cypovirus, CPV) === 一本鎖マイナス鎖RNAウイルス === * [[オルトミクソウイルス科]] : [[インフルエンザウイルス]]<ref name="jst"/> *[[センダイウイルス]]<ref name="jst"/> *ニューキャッスル病ウイルス<ref name="jst"/> *[[モノネガウイルス目]] ** [[パラミクソウイルス科]] : [[流行性耳下腺炎|ムンプス]]ウイルス、[[麻疹]]ウイルス、[[RSウイルス]]、[[センダイウイルス]]、[[ニパウイルス]]、[[ヘンドラウイルス]] ** [[ラブドウイルス科]] : [[狂犬病]]ウイルス、[[リッサウイルス]]、水疱性口内炎ウイルス<ref name="jst"/> **ボルナウイルス科ボルナウイルス属:[[ボルナ病]]ウイルス、鳥ボルナウイルス、爬虫類ボルナウイルス * [[フィロウイルス科]] : [[マールブルグ熱|マールブルグ]]ウイルス、[[エボラ出血熱|エボラ]]ウイルス * [[ブニヤウイルス科]] : [[クリミア・コンゴ出血熱]]ウイルス、[[SFTSウイルス]]、[[ハンタウイルス]] *[[アレナウイルス科]] (2 分節(S-RNAと L-RNA)の 1 本鎖の(-)鎖 RNA をゲノムに有するエンベロープウイルス<ref>「アレナウイルス感染症」谷 英樹, 福士 秀悦, 吉河 智城, 西條 政幸, 森川 茂、ウイルス / (2012) 62 巻 2 号, 日本ウイルス学会, p. 229-238.</ref>):[[ラッサ熱|ラッサ]]ウイルス、[[マチュポウイルス]]、[[フニンウイルス]] === 一本鎖RNA+鎖逆転写 === * [[レトロウイルス科]] : [[ヒト免疫不全ウイルス]](HIV)、[[ヒトTリンパ好性ウイルス]]、[[サル免疫不全ウイルス]]、STLV * [[日本脳炎ウイルス]]<ref name="jst"/> === 一本鎖プラス鎖RNAウイルス === *[[ピコルナウイルス科]]<ref name="jst"/> **[[ポリオウイルス]] **[[エンテロウイルス]]属 ***[[ライノウイルス]] **[[コクサッキー]]ウイルス **[[エコーウイルス]] **[[A型肝炎ウイルス]] * [[コロナウイルス科]] **[[SARSコロナウイルス]] **[[MERSコロナウイルス]] **[[SARSコロナウイルス2]](2019新型コロナウイルス) * [[カリシウイルス科]] : [[ノロウイルス]]、[[ノーウォークウイルス]]、[[サポウイルス]] * [[トガウイルス科]] : [[風疹]]ウイルス、[[チクングニア熱|チクングニア]]ウイルス * {{仮リンク|ノダウイルス科|en|Nodaviridae}} : [[ウイルス性神経壊死症]]ウイルス * [[フラビウイルス科]] : [[黄熱]]ウイルス、[[デング熱]]ウイルス、[[ジカウイルス]]、[[日本脳炎ウイルス]]、[[西ナイルウイルス]]、[[C型肝炎]]ウイルス、[[G型肝炎]]ウイルス == 生物の進化とRNAウイルス == {{See|ウイルスの進化}} === レトロウイルス === {{See|内在性レトロウイルス}} RNAウイルスと宿主である人類とは[[共進化]]してきた。ウイルスが生物のゲノムに内在化した痕跡である「ウイルス化石」としてはこれまでに[[レトロウイルス]]が知られる<ref name="evol"/>。生物はレトロウイルスの遺伝子をゲノムに組み込み、[[内在性レトロウイルス]](Endogenous retrovirus, ERV) として遺伝し、ゲノムの多様性を広げてきた<ref name="evol"/>。 === ボルナウイルス === 2010年、[[大阪大学微生物病研究所]]は、ヒト、非ヒト[[霊長類]]、[[げっ歯類]]、[[ジリス]]のゲノム内に[[塩基配列]]「内在性ボルナ様Nエレメント(Endogenous Borna-like N,EBLN)」を発見した<ref name="evol">堀江 真行, 朝長 啓造「哺乳類ゲノムに内在する非レトロウイルス型RNAウイルス」2010 年 60 巻 2 号 p. 143-154、[[科学技術振興機構]]「ヒトのゲノムにRNAウイルス遺伝子を発見 4000万年前までに感染か 最初の「RNAウイルス化石-生物進化の解明とRNA利用拡大の道を開く-」プレス平成22年1月7日。[https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/25601 ウイルス学:ゲノムに残ったウイルスの「化石」]2010年1月7日 Nature 463, 7277</ref>。また[[ボルナ病]]の原因となるボルナウイルスを感染させた細胞で遺伝子が逆転写され、細胞のゲノムに挿入されること、[[逆転写酵素]]を持たないRNAウイルスが宿主の[[レトロトランスポゾン]]を利用してゲノムに挿入されることを示した<ref name="evol"/>。 この発見によってレトロウイルス以外にもRNAウイルスの一つ[[ボルナウイルス]]の遺伝子が取り込まれており、ウイルス感染が4000万年前までさかのぼることとなった<ref name="evol"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 文献 == * {{Cite journal|和書|author1=堀江真行|author2=朝長啓造|title=哺乳動物ゲノムに内在する非レトロウイルス型RNAウイルスエレメント|date=2010|publisher=日本ウイルス学会|journal=ウイルス|volume=60|issue=2|pages=143-154|url=http://jsv.umin.jp/journal/v60-2pdf/virus60-2_143-154.pdf|ref= }} * {{Cite journal|author1=Masayuki Horie|author2=Tomoyuki Honda|author3=Yoshiyuki Suzuki|author4=Yuki Kobayashi|author5=Takuji Daito|author6=Tatsuo Oshida|author7=Kazuyoshi Ikuta|author8=Patric Jern|author9=Takashi Gojobori|author10=John M. Coffin|author11=Keizo Tomonaga|title=Endogenous non-retroviral RNA virus elements in mammalian genomes|date=2010|journal=Nature|volume=463|pages=84–87|doi=10.1038/nature08695|url=https://doi.org/10.1038/nature08695|ref= }} * {{Cite journal|和書|author=朝長啓造|authorlink=|title=ボルナウイルス|date=2012|publisher=日本ウイルス学会|journal=ウイルス|volume=62|issue=2|doi=10.2222/jsv.62.209|pages=209-218|ref= }} == 関連項目 == * [[DNAウイルス]] * [[リボ核酸]] * [[内在性レトロウイルス]] * [[ウイルス学]] * [[ウイルスの進化]] {{ボルティモア分類}} {{Biosci-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ああるえぬええういるす}} [[Category:RNAウイルス|*]]
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アフマディーヤ
アフマディーヤ、アフマディー教団、アハマディア(Ahmadiyya、ウルドゥー語: احمدیہ アラビア語: الأحمدية)は、インド・パンジャーブ州出身のミルザ・グラーム・アハマド(1835年 - 1908年)が起こしたイスラーム改革派。異端と見なされ、迫害を受けることが多い。 ミルザ・グラーム・アハマドは41歳の時に神に啓示を受けたといい、1889年に自らをメシアでありマフディーであると主張した。これはムハンマドが最後の預言者であるというイスラームの全体の教え、またムハンマド・ムンタザルがマフディーであるとするシーア派・十二イマーム派の教義に反するが、バーブ教やバハイ教とは異なり、アハマディアの信者は、アハマディアとイスラームとは別個の宗教ではないと考えており、自分らをスンナ派の分派としている。パキスタンがインドから分離したのち信者は1947年に集団移住したが、教義の違いからパキスタン国内で迫害を受けて1974年の憲法改正で非イスラームとされ、1984年にズィヤーウル・ハック政権下でムスリムとしての権利を剥奪・非合法化されたため、同年にイギリスに本部を移した(→アフマディーヤ信者に対する迫害)。開祖の没後はカリフ制を取り、2017年現在は第5代カリフのミルザ・マスルール・アハマド(英語版)が最高指導者となっている。 イスラーム教はムハンマドに啓示された人類に対する最終的な戒めであり、アハマディアは何世紀にも渡って失われた真の本質と元の形に復帰させる必要性を強調している。アハマディア支持者は、宗教的な戦争を終わらせ、流血を非難し、道徳、正義、平和を再建するために神がアフマドを送り込んだと信じており、イエスの再臨にたとえている。彼らは神の指導の下に、ムハンマドと初期イスラーム共同体が行ったような真実かつ本質的な教えを擁護することによって、狂信的で革新的な信仰と実践を放棄すると信じている。従って、アハマディアはイスラームの復興と平和的伝播を導くものと自負している。 ミルザ・グラーム・アハマドは1889年3月23日にこの運動を始め、死後、数多くのカリフによって率いられ、2016年には南アジア、西アフリカ、東アフリカ、インドネシアに集中し、世界の209か国と領域に拡大した。アフマディーヤは強力な宣教伝統を持ち、イギリスやほかの西洋諸国に及んだ最初期のイスラーム・コミュニティの一つであった。信者数は世界に1000万から2000万の間だと推定されている。 なお、1914年に、アハマドの位置づけを巡り、カーディヤーン派とラホール派(英語版)に分裂した。前者はアフマドを預言者とみなしているのに対し、後者は改革者として位置づけている。パキスタン国内に限ったデータだが、ラホール派の信者数は、カーディヤーン派に比べてはるかに少なく、5000-1万人と推定されている。 アハマディア運動は1889年に設立されたが、アハマディアという名称は約十年後に採択された。1900年11月4日のマニフェストで、ミルザ・グラーム・アハマドは、この名称は自分の名前に因むものではなく、預言者ムハンマドの別名のアハマドによると説明した。 彼によれば「称賛」を意味するアラビア語"ḥamd"から派生した「称賛されるもの」を意味するムハンマドとは、預言者の栄光の運命、威厳と権力を指し、ヒジュラの時代からその名を採用した。しかし、「きわめて称賛される」「慰めるもの」を意味するアラビア語の派生形である「アハマド」はムハンマドの説教の美しさ、やさしさ、謙虚さ、愛と慈悲、平和のためによる。アハマドによれば、これらの名前はイスラーム教の二つの局面を指し、後には後者がより大きな注意を払われることになった。 アハマディアの信仰は、イスラームの五つの柱、六つ信仰項目などシーア派に比べてスンナ派により似ている。同様にアハマディアはクルアーンを聖典として受け入れ、礼拝にはカーバに向かい、スンナ(ムハンマドの慣習)を守り、スンナ派のハディースの権威を受け入れている。これらがアハマディーヤのイスラーム思想を構成する中心的な思想である。アハマディア・ムスリム共同体の特徴は、ミルザー・グラム・アハマドを預言者ムハンマドによって預言されたマフディー、約束された救い主として信じることである。彼は主張を要約し書いている。 「神が私を任命した任務は、神と創造物との関係の悩みを取り除き、彼らの間に愛と誠実の関係を復元することである。真理を宣言し、宗教的紛争を終結させることによって、私は平和をもたらし、世界の目から隠された神の真理を明らかにするであろう。私は自我の闇の中に埋もれている霊性を証明するように呼ばれた。人間に浸透し、祈りや集中によって現れる神の力は、言葉だけではなく実践によって実証するためである。とりわけ多神教のあらゆる不純物から解放され、今は完全に姿を消した、神の純粋かつ輝かしい統一の永遠の樹を人々の心に再び立てるのが私の任務である。すべてこれは私の力ではなく、天と地の神の全能の力によって成就されよう」 これに対応して、彼はイスラーム教を世界中に平和的な手段で伝播し、忘れられたイスラームの平和、赦し、共感の価値観を全人類のために表し、この教えによって世界に平和を確立することを目的とした。彼は自分のメッセージが西洋世界に特別な意味を持っていると信じていた。 アハマディアの教えによると、主要な世界宗教は全て神聖な起源を持ち、最終的な宗教としてイスラームの確立に向けた神の計画の一部であり、それは他の宗教のこれまでの教えの中で最も完全なものであった。したがってこれらの宗教の創始者たちがもたらしたメッセージは不完全であるが、本質的にイスラームと同じであり、宗教の発展の完成と終結はムハンマドの出現によって生じた。彼のメッセージの世界的な伝達、認識そして最終的な受け入れは、マフディーの到来とともに起こることになっていた。このようにアハマディー・ムスリムはミルザ・グラーム・アハマドをマフディーと呼び、アブラハム系宗教の聖典やゾロアスター教、インドの宗教、先住アメリカ人の伝統などに見られる終末論的預言を果たした「約束された者」とする。また、アハマドが、神の唯一性を確立し、人類に神と創造物に対する彼らの義務を思い起こさせるために、ムハンマドの預言者性の真の反映であると信じている。アハマドはこのように書いている。 「信仰は二つの完全な部分である。一つは神を愛することであり、もう一つはあなたが他人の苦しみと試練と苦難をあなた自身のものと見なし、あなたが彼らのために祈ると同じように人間を愛することである」 アハマディア・ムスリムはイスラーム教徒の大多数と同じ信念を支持しているが、「預言者の封印」の意味について意見の相違がある。五つの柱と六つの信条(五行・六信)は、スンナ派ムスリムによって信じられているものと同一であり、ムハンマドとクルアーンの伝統に基づいている。 アハマディー・ムスリムは神の絶対的一性を堅く信じている。この原則を認めることはコミュニティによって解釈されるイスラームの最も重要且つ枢要な原則である。他のイスラーム的信仰箇条もこの原則から生じている。「神は唯一」であるという信仰は、すべての面で人の人生に影響を与えると考えられており、はるかに広い意味と深い応用を持っていると信じられている。例えば、神の一性を詳述する『アッラーの他に、いかなる力も能も存在しない』(La hawla wa la quwata illa Billah)というクルアーンの句は、神への畏怖を除いて、あらゆる形態の恐怖を否定すると信じられた。それは神への完全な服従とすべての善は神より発出するという感覚を植え付ける。一般的に、神の唯一性の信仰はあらゆる肉欲、隷属、地上の投獄の知覚から信者を解放すると信じられている。 ミルザ・グラーム・アハマド曰く「神の一性とは、内なる世界に属していようが外なる世界に属していようが、すべての神的属性の否定の後でのみ、心を照明する光である。それは人間存在のすべての部分に浸透する。神と神の使徒の御助けなくしてどのようにこれを獲得できるだろうか? 人間の義務は自我に死をもたらし、悪魔的な傲慢から背を向けるということだけである。人は知識の揺り籠で育てられたことを自慢するべきではなく、己を無知の人であると見なし、哀願の中に置くべきである。そうして、神から一性の光が降り、彼に新しい生命が与えられる」 さらに、神の一性というイスラームの概念は、人間の種の一体性の実現を教え込み、この観点ですべての障害を取り除くと信じられている。人種、民族、人の色などの多様性は受容されるのに相応しいと考えられている。さらに、神の一性を信じるという考えは創造者と被創造者の絶対的な調和の感覚を造り出し、それは神の言葉と神の行為の間には矛盾することができないと理解されている。 イスラームは神をすべての卓越さの源泉であり、すべての不完全さから自由であると認識している。神はあらゆる場所において自身を顕在し、彼の僕の祈りを聞く活ける神であると認識されている。明確にアハマディー・ムスリムは神の諸属性は永遠であると認識する。このためアハマディーの教えは、神は以前為してきたように人類と交流をするという見解を主張している。 天使はアハマディー・ムスリム・コミュニティーの基本的な信条である。彼等は神の命令を行うために創造された霊的な存在である。人間と異なり、天使らは自由意志はなく独立的行為をすることができない。神の命令の下に、彼らは諸預言者に啓示を伝え、預言者の敵に罰をもたらし、賛歌を以て神を称え、人間の行為を記録保持する。天使は肉の目では見えないが、アハマディー・ムスリム・コミュニティーによれば、彼らは時々は何らかの形で人に現れることがある。しかし、この現れは肉体的ものではなく霊的なものである。また、天使を人格をもつ実体である天的存在であると見なす。彼等の果たす主要な役割は、神から人間へのメッセージの伝達である。クルアーンによれば、物質的な宇宙全体と宗教的宇宙は天使と呼ばれるいくつかの霊的諸力によって支配されているが、彼等が何を為すとしても神の意旨と彼が諸物ために創造した設計への完全な服従にある。アハマディー・ムスリムによって解釈されるように、彼らは定められた進路や割り当てられた機能や神によって創られたものの全体の計画から逸脱することはできない。 第三番目の信仰箇条は、神が諸預言者に啓示したすべての聖なる書に関するものである。それらにはトーラー、詩編、福音書、アブラハムの書巻、そしてクルアーンが含まれる。イスラームの到来以前、宗教の歴史は、各伝達者が時代と場所に適した教えをもたらした連続した天的配剤として理解されている。始まりの時に、神によって送られた教えは、時代と場所において補正された細則を除いて基本において一致している。イスラームの認識では、神は預言者をすべての国々と遠隔の集団に送ったとしている。従って、アハマディーの教えはアブラハム系統の啓典の外に、例えばヴェーダやアヴェスター等も神聖なる起源を持つと考えられている。コミュニティはクルアーンは人類に対する最後の聖なる書である信じている。クルアーンの教えは時代を超えたものであると見なされている。 第四の信仰箇条は神から送られたすべての預言者に関係している。アフマディー・ムスリムは世界が不正義と不道徳で満たされたり、特定の地域部分のこれらのようになった場合、または特定の宗教の信者たちが堕落して、堕落した教えを信仰に取り入れる場合、神はその信仰を廃れたものとするか、あるいは再建者を必要としている場合、神の預言者が神の聖なる意旨を再び確立するために送られる。 預言者に関するイスラーム的用語「警告者」(nathir)「預言者」(nabi)「使徒」(rasul)「使者」(mursal)は同義を意味している。しかしながら、モーセやムハンマドのように宗教法をもたらす預言者と、エレミヤ、イエス、そしてミルザ・グラーム・アハマドのように宗教をもたらさない預言者の二種類がある。アダムはユダヤ教、キリスト教、イスラームにおいて最初の人間であり、神と語らい、神の意志を啓示された初めての預言者であると見なされているが、アハマディー・ムスリムは彼を最初の人間とは見なしていない。この見解はクルアーンに基づいていると主張する。またアハマディーはムハンマドが最終の宗教法をもたした預言者であることを信じ、預言者の継続を教えている。 五番目の信仰箇条は審判の日に関するものである。惟一の神を信じることの後、審判の日を信じることは、クルアーンに述べられた最も強調された教義である。アハマディー・ムスリムの信仰によれば、宇宙全体は審判の日に終わるであろう。これは他の凡てのイスラーム各宗派や学派によって採用されている。死者は復活し、彼等の行為は調べられる。善を記録された人々は天国に入り、悪を記録された人々は地獄へ投げ込まれる。アハマディアでは地獄は一時的な住まいと理解されており、非常に永く続くが、主流派のように永劫のものとは見なさない。それは霊魂が清められる病院のようなものと考えられており、この見解はクルアーンとハディースに基づいている。 神の命令がこの宇宙において最後の結果を支配していると信じている。神の命令の範囲内で、人は自らの進路を選択する自由意志が与えられている。アハマディー・ムスリムは審判の日には、彼等の意図と行為に基づいて審判されると信じている。科学は神の行為の研究であり、宗教は神の言葉の研究であり、両者は矛盾することはないと信じている。 他にアハマディアの信条には以下のものが含まれている。 主流のイスラム信条と対照的に、アハマディー・ムスリムはイエスは十字架に掛けられてから四十時間生き残ったと信じる。後に墓の中より復活した。イエスは失われた十二部族を求めている間に、老年に至りカシミールで死んだ。特に、イエスの再臨に関する聖書とイスラームの預言は本質的には文字通りではなく、ミルザー・グラム・アフマドがこの預言とイエスの再臨を果たしたものと信じられている。アハマディー・ムスリムも「約束のメシア」と「イマーム・マフディー」は同一の人物であると信じている。 アハマディー・ムスリムは、クルアーンが人類のための神の最後のメッセージであると信じているが、神は過去と同様に選ばれた人とコミュニケーションを続けていると信じている。特に、ムハンマドが完全に預言をもたらし、最後の法律を維持する預言者であり、人類の精神的進化の頂点であったと信じている。新しい預言者が来ることはできるが、彼らは完全にムハンマドに従属しなければならず、彼を超越することも、彼の教えを変えることも、新しい法律や宗教をもたらすこともできない。彼らは古代の預言者のように独立して預言者にされたのではなく(モーセに対するイスラエルの諸預言者のように)、ムハンマドの反映と考えられている。 ジハードは三つのカテゴリーに分けることができる。最大ジハードは自己に対するものであり、怒り、欲望、憎しみなどの欲望の低さに挑戦することを指す。大ジハードはイスラーム教を平和的に伝播することを指し、特に真理のメッセージをペンを以て広めることに重点を置いている。小ジハードは、基本的な宗教的信念に従うことが出来ず、極端な迫害の状況下で自衛に頼るしかない時の武力闘争であり、それはカリフの直接指導下で行われる。ミルザ・グラーム・アハマドは、宗教としてイスラームが軍事的に攻撃されているのではく、文学や他のメディアを通じて攻撃されている現代には適用できない軍事的形態のジハードを描写したとアハマディアは指摘している。彼らは憎しみの応えには愛を以てすべきだと信じている。テロリズムについて1989年第四代カリフが書いている。 スンナ派ムスリムと異なり、シーア派と同様に、クルアーンの句は他の句を廃止(ナスフ、nasḫ)したり、取り消したりしないと考えている。クルアーンの全ての句は、その美しさと妥当性において同等である。 宗教の歴史は周期的であり、七千年ごとに更新される。聖書のアダムの時代から現代までの周期は七つの時代に分割される。ミルザ・グラーム・アハマドは第七時代人類最後の時代を告げる第六時代に約束された救世主として登場した。彼によると、週の六日目がジュムア(会衆の礼拝)のために保持されているのと同様に、彼の時代は世界が一つの普遍的な宗教の下で結束する人類の世界的終結に向けられている。 正式には、アハマディア・ムスリム共同体の歴史はミルザ・グラーム・アハマドが1889年3月23日にインドのルディアーナの家で、数多くの仲間から誓いを受けた時に始まる。彼とその信奉者は、彼の出現は預言者ムハンマドおよび世界の多くの宗教文献によって予告されていたと主張する。アフマディーヤは19世紀に広まったキリスト教徒とアーリヤ・サマージの宣教活動に対応する、イスラーム内での運動としてインドに現れた。 海外のアハマディアの宣教活動は早くとも1913年に始まった(例 ロンドンのプットニー)。現代の多くの国々にとって、アハマディア運動はイスラームの宣教者として最初の接触であった。アハマディア運動はアメリカの民権運動の先駆者の一つとしていくつかの歴史によって考慮されている。おそらく1950年代まではアフリカ系アメリカ人のイスラーム教において最も影響力のあるコミュニティであった。今日、アハマディア・ムスリム・コミュニティは世界で最も活発な宣教師プログラムを持っており、アフリカでは特に大きい。 ミルザ・グラーム・アハマドの死後、ハキーム・ヌールッディーン(英語版)は彼の後継者とコミュニティのカリフとして満場一致で選出された。6年続いたカリフ位の中で、彼は満足のいくクルアーンの英訳、イングランドでの最初のアハマディア・ムスリム協会の設立、そして様々な新聞と雑誌の創刊を監督した。 最初のカリフの死後、ミルザ・バシールッディーン・マフムード・アハマド(英語版)は前任者の意向に従って二代目のカリフとして選出された。しかし、マウラーナ・ムハンマド・アリーとフワジャ・カマールッディーンが率いる派閥は彼の継承に強く反対して、彼をカリフとして受け入れることを拒否し、ラホール・アハマディア運動の形成に繋がった。これはミルザ・グラーム・アハマドの預言者性と継承について新カリフとの一定の教義の違いによる。カリフが比較的貧弱な学歴を持つカリフと彼らとの人格的な衝突も考えられる。しかし、ラホールに定住したラホール・アハマディア運動は成功しておらず、大きな支持を集めていない。コミュニティの歴史の中では、この出来事は「分離」と呼ばれ、しばしば創設者の預言に言及される。 若い時代に選出されたマフムード・アハマドのカリフ時代は52年間に渡った。彼はコミュニティの組織体制を確立し、インド亜大陸の外での広範な宣教活動を指揮した。彼の時代には46か国にミッションが設立され、多くのモスクが建設され、クルアーンはいくつかの主要言語で出版された。カリフ制の下にコミュニティの拡大は続いたが、二代目カリフがその発端の大部分に当たる。彼は多くの著作を書いたが、その最も重要なものはクルアーンの10巻の註釈である。 1965年11月8日に選出されたミルザ・ナセル・アハマド(英語版)は、アハマディア・ムスリム・コミュニティの第三代カリフを継承した。パキスタン国会においてコミュニティが非ムスリムと宣言された時期に、大きなリーダーシップと指導を示したとみられている。1970年のアハマディアのカリフが初めて行った西アフリカ訪問の多くの成果の一つが、多くの診療所や学校を運営してアフリカの一部に奉仕する計画であるヌスラト・ジャハーン計画であった。現代スペインの最初のモスクであるバシャラート・モスクの定礎式典の訪問の際に「誰も憎まず、すべてに愛を」というアフマディーヤの広く知られたモットーを造った。 ミルザ・タヘル・アハマド(英語版)は1982年6月10日、前任者の死後翌日に四代目のカリフとして選出された。1984年パキスタン政府によって発布された布告20によって、カリフは自分の任務を遂行することができず、機構は危機に陥った。ミルザー・ターヒル・アフマドはパキスタンを去り、イギリスのロンドンに移住し、本部をロンドンのファズル・モスクに移した。アハマディー・ムスリムにとって、移住はコミュニティの新しい時代を迎えることになった。アフマドは最初のムスリムの衛生テレビネットワーク「ムスリム・テレビジョン・アフマディーヤ」を立ち上げた。アハマディー・ムスリムの子供たちのためにワクフェ・ノウ計画を制定した他、マリユーム・シャーディ基金、シェーダ・ビラール基金、迫害被害者、人道慈善団体などの資金を投じた。 2003年に第四代カリフの死去に続いて、ロンドンで選挙が行われ、ミルザー・マスルール・アフマド(英語版)が選出された。進行中の紛争に対応して、ミルザー・マスルール・アフマドは女王エリザベスや教皇フランシスコを含む世界の首脳に書簡を送った。200以上の国や地域の数百万のアフマディー・ムスリムの精神的な指導者であるため、アハマドは世界を旅し、コミュニティや個人に対応し、イスラーム信仰の原則を明らかにしている。 1935年に神戸市に支部を設けたが第二次世界大戦の勃発により布教は中断され、1970年代に日本での活動を再開した。当初は東京都を拠点としたが1981年に愛知県名古屋市名東区貴船に日本本部を置いた。 2015年11月には、愛知県津島市に日本最大級のモスクとして「ザ・ジャパン・モスク」を完成させている。日本における拠点は、現在津島市に変更されている。 アハマディア・ムスリム協会によるクルアーン日本語訳が存在する。2016年に改版された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アフマディーヤ、アフマディー教団、アハマディア(Ahmadiyya、ウルドゥー語: احمدیہ アラビア語: الأحمدية)は、インド・パンジャーブ州出身のミルザ・グラーム・アハマド(1835年 - 1908年)が起こしたイスラーム改革派。異端と見なされ、迫害を受けることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ミルザ・グラーム・アハマドは41歳の時に神に啓示を受けたといい、1889年に自らをメシアでありマフディーであると主張した。これはムハンマドが最後の預言者であるというイスラームの全体の教え、またムハンマド・ムンタザルがマフディーであるとするシーア派・十二イマーム派の教義に反するが、バーブ教やバハイ教とは異なり、アハマディアの信者は、アハマディアとイスラームとは別個の宗教ではないと考えており、自分らをスンナ派の分派としている。パキスタンがインドから分離したのち信者は1947年に集団移住したが、教義の違いからパキスタン国内で迫害を受けて1974年の憲法改正で非イスラームとされ、1984年にズィヤーウル・ハック政権下でムスリムとしての権利を剥奪・非合法化されたため、同年にイギリスに本部を移した(→アフマディーヤ信者に対する迫害)。開祖の没後はカリフ制を取り、2017年現在は第5代カリフのミルザ・マスルール・アハマド(英語版)が最高指導者となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イスラーム教はムハンマドに啓示された人類に対する最終的な戒めであり、アハマディアは何世紀にも渡って失われた真の本質と元の形に復帰させる必要性を強調している。アハマディア支持者は、宗教的な戦争を終わらせ、流血を非難し、道徳、正義、平和を再建するために神がアフマドを送り込んだと信じており、イエスの再臨にたとえている。彼らは神の指導の下に、ムハンマドと初期イスラーム共同体が行ったような真実かつ本質的な教えを擁護することによって、狂信的で革新的な信仰と実践を放棄すると信じている。従って、アハマディアはイスラームの復興と平和的伝播を導くものと自負している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ミルザ・グラーム・アハマドは1889年3月23日にこの運動を始め、死後、数多くのカリフによって率いられ、2016年には南アジア、西アフリカ、東アフリカ、インドネシアに集中し、世界の209か国と領域に拡大した。アフマディーヤは強力な宣教伝統を持ち、イギリスやほかの西洋諸国に及んだ最初期のイスラーム・コミュニティの一つであった。信者数は世界に1000万から2000万の間だと推定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、1914年に、アハマドの位置づけを巡り、カーディヤーン派とラホール派(英語版)に分裂した。前者はアフマドを預言者とみなしているのに対し、後者は改革者として位置づけている。パキスタン国内に限ったデータだが、ラホール派の信者数は、カーディヤーン派に比べてはるかに少なく、5000-1万人と推定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アハマディア運動は1889年に設立されたが、アハマディアという名称は約十年後に採択された。1900年11月4日のマニフェストで、ミルザ・グラーム・アハマドは、この名称は自分の名前に因むものではなく、預言者ムハンマドの別名のアハマドによると説明した。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "彼によれば「称賛」を意味するアラビア語\"ḥamd\"から派生した「称賛されるもの」を意味するムハンマドとは、預言者の栄光の運命、威厳と権力を指し、ヒジュラの時代からその名を採用した。しかし、「きわめて称賛される」「慰めるもの」を意味するアラビア語の派生形である「アハマド」はムハンマドの説教の美しさ、やさしさ、謙虚さ、愛と慈悲、平和のためによる。アハマドによれば、これらの名前はイスラーム教の二つの局面を指し、後には後者がより大きな注意を払われることになった。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アハマディアの信仰は、イスラームの五つの柱、六つ信仰項目などシーア派に比べてスンナ派により似ている。同様にアハマディアはクルアーンを聖典として受け入れ、礼拝にはカーバに向かい、スンナ(ムハンマドの慣習)を守り、スンナ派のハディースの権威を受け入れている。これらがアハマディーヤのイスラーム思想を構成する中心的な思想である。アハマディア・ムスリム共同体の特徴は、ミルザー・グラム・アハマドを預言者ムハンマドによって預言されたマフディー、約束された救い主として信じることである。彼は主張を要約し書いている。", "title": "教義の大要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「神が私を任命した任務は、神と創造物との関係の悩みを取り除き、彼らの間に愛と誠実の関係を復元することである。真理を宣言し、宗教的紛争を終結させることによって、私は平和をもたらし、世界の目から隠された神の真理を明らかにするであろう。私は自我の闇の中に埋もれている霊性を証明するように呼ばれた。人間に浸透し、祈りや集中によって現れる神の力は、言葉だけではなく実践によって実証するためである。とりわけ多神教のあらゆる不純物から解放され、今は完全に姿を消した、神の純粋かつ輝かしい統一の永遠の樹を人々の心に再び立てるのが私の任務である。すべてこれは私の力ではなく、天と地の神の全能の力によって成就されよう」", "title": "教義の大要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これに対応して、彼はイスラーム教を世界中に平和的な手段で伝播し、忘れられたイスラームの平和、赦し、共感の価値観を全人類のために表し、この教えによって世界に平和を確立することを目的とした。彼は自分のメッセージが西洋世界に特別な意味を持っていると信じていた。 アハマディアの教えによると、主要な世界宗教は全て神聖な起源を持ち、最終的な宗教としてイスラームの確立に向けた神の計画の一部であり、それは他の宗教のこれまでの教えの中で最も完全なものであった。したがってこれらの宗教の創始者たちがもたらしたメッセージは不完全であるが、本質的にイスラームと同じであり、宗教の発展の完成と終結はムハンマドの出現によって生じた。彼のメッセージの世界的な伝達、認識そして最終的な受け入れは、マフディーの到来とともに起こることになっていた。このようにアハマディー・ムスリムはミルザ・グラーム・アハマドをマフディーと呼び、アブラハム系宗教の聖典やゾロアスター教、インドの宗教、先住アメリカ人の伝統などに見られる終末論的預言を果たした「約束された者」とする。また、アハマドが、神の唯一性を確立し、人類に神と創造物に対する彼らの義務を思い起こさせるために、ムハンマドの預言者性の真の反映であると信じている。アハマドはこのように書いている。", "title": "教義の大要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「信仰は二つの完全な部分である。一つは神を愛することであり、もう一つはあなたが他人の苦しみと試練と苦難をあなた自身のものと見なし、あなたが彼らのために祈ると同じように人間を愛することである」", "title": "教義の大要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "", "title": "教義の大要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アハマディア・ムスリムはイスラーム教徒の大多数と同じ信念を支持しているが、「預言者の封印」の意味について意見の相違がある。五つの柱と六つの信条(五行・六信)は、スンナ派ムスリムによって信じられているものと同一であり、ムハンマドとクルアーンの伝統に基づいている。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アハマディー・ムスリムは神の絶対的一性を堅く信じている。この原則を認めることはコミュニティによって解釈されるイスラームの最も重要且つ枢要な原則である。他のイスラーム的信仰箇条もこの原則から生じている。「神は唯一」であるという信仰は、すべての面で人の人生に影響を与えると考えられており、はるかに広い意味と深い応用を持っていると信じられている。例えば、神の一性を詳述する『アッラーの他に、いかなる力も能も存在しない』(La hawla wa la quwata illa Billah)というクルアーンの句は、神への畏怖を除いて、あらゆる形態の恐怖を否定すると信じられた。それは神への完全な服従とすべての善は神より発出するという感覚を植え付ける。一般的に、神の唯一性の信仰はあらゆる肉欲、隷属、地上の投獄の知覚から信者を解放すると信じられている。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ミルザ・グラーム・アハマド曰く「神の一性とは、内なる世界に属していようが外なる世界に属していようが、すべての神的属性の否定の後でのみ、心を照明する光である。それは人間存在のすべての部分に浸透する。神と神の使徒の御助けなくしてどのようにこれを獲得できるだろうか? 人間の義務は自我に死をもたらし、悪魔的な傲慢から背を向けるということだけである。人は知識の揺り籠で育てられたことを自慢するべきではなく、己を無知の人であると見なし、哀願の中に置くべきである。そうして、神から一性の光が降り、彼に新しい生命が与えられる」", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "さらに、神の一性というイスラームの概念は、人間の種の一体性の実現を教え込み、この観点ですべての障害を取り除くと信じられている。人種、民族、人の色などの多様性は受容されるのに相応しいと考えられている。さらに、神の一性を信じるという考えは創造者と被創造者の絶対的な調和の感覚を造り出し、それは神の言葉と神の行為の間には矛盾することができないと理解されている。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イスラームは神をすべての卓越さの源泉であり、すべての不完全さから自由であると認識している。神はあらゆる場所において自身を顕在し、彼の僕の祈りを聞く活ける神であると認識されている。明確にアハマディー・ムスリムは神の諸属性は永遠であると認識する。このためアハマディーの教えは、神は以前為してきたように人類と交流をするという見解を主張している。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "天使はアハマディー・ムスリム・コミュニティーの基本的な信条である。彼等は神の命令を行うために創造された霊的な存在である。人間と異なり、天使らは自由意志はなく独立的行為をすることができない。神の命令の下に、彼らは諸預言者に啓示を伝え、預言者の敵に罰をもたらし、賛歌を以て神を称え、人間の行為を記録保持する。天使は肉の目では見えないが、アハマディー・ムスリム・コミュニティーによれば、彼らは時々は何らかの形で人に現れることがある。しかし、この現れは肉体的ものではなく霊的なものである。また、天使を人格をもつ実体である天的存在であると見なす。彼等の果たす主要な役割は、神から人間へのメッセージの伝達である。クルアーンによれば、物質的な宇宙全体と宗教的宇宙は天使と呼ばれるいくつかの霊的諸力によって支配されているが、彼等が何を為すとしても神の意旨と彼が諸物ために創造した設計への完全な服従にある。アハマディー・ムスリムによって解釈されるように、彼らは定められた進路や割り当てられた機能や神によって創られたものの全体の計画から逸脱することはできない。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第三番目の信仰箇条は、神が諸預言者に啓示したすべての聖なる書に関するものである。それらにはトーラー、詩編、福音書、アブラハムの書巻、そしてクルアーンが含まれる。イスラームの到来以前、宗教の歴史は、各伝達者が時代と場所に適した教えをもたらした連続した天的配剤として理解されている。始まりの時に、神によって送られた教えは、時代と場所において補正された細則を除いて基本において一致している。イスラームの認識では、神は預言者をすべての国々と遠隔の集団に送ったとしている。従って、アハマディーの教えはアブラハム系統の啓典の外に、例えばヴェーダやアヴェスター等も神聖なる起源を持つと考えられている。コミュニティはクルアーンは人類に対する最後の聖なる書である信じている。クルアーンの教えは時代を超えたものであると見なされている。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "第四の信仰箇条は神から送られたすべての預言者に関係している。アフマディー・ムスリムは世界が不正義と不道徳で満たされたり、特定の地域部分のこれらのようになった場合、または特定の宗教の信者たちが堕落して、堕落した教えを信仰に取り入れる場合、神はその信仰を廃れたものとするか、あるいは再建者を必要としている場合、神の預言者が神の聖なる意旨を再び確立するために送られる。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "預言者に関するイスラーム的用語「警告者」(nathir)「預言者」(nabi)「使徒」(rasul)「使者」(mursal)は同義を意味している。しかしながら、モーセやムハンマドのように宗教法をもたらす預言者と、エレミヤ、イエス、そしてミルザ・グラーム・アハマドのように宗教をもたらさない預言者の二種類がある。アダムはユダヤ教、キリスト教、イスラームにおいて最初の人間であり、神と語らい、神の意志を啓示された初めての預言者であると見なされているが、アハマディー・ムスリムは彼を最初の人間とは見なしていない。この見解はクルアーンに基づいていると主張する。またアハマディーはムハンマドが最終の宗教法をもたした預言者であることを信じ、預言者の継続を教えている。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "五番目の信仰箇条は審判の日に関するものである。惟一の神を信じることの後、審判の日を信じることは、クルアーンに述べられた最も強調された教義である。アハマディー・ムスリムの信仰によれば、宇宙全体は審判の日に終わるであろう。これは他の凡てのイスラーム各宗派や学派によって採用されている。死者は復活し、彼等の行為は調べられる。善を記録された人々は天国に入り、悪を記録された人々は地獄へ投げ込まれる。アハマディアでは地獄は一時的な住まいと理解されており、非常に永く続くが、主流派のように永劫のものとは見なさない。それは霊魂が清められる病院のようなものと考えられており、この見解はクルアーンとハディースに基づいている。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "神の命令がこの宇宙において最後の結果を支配していると信じている。神の命令の範囲内で、人は自らの進路を選択する自由意志が与えられている。アハマディー・ムスリムは審判の日には、彼等の意図と行為に基づいて審判されると信じている。科学は神の行為の研究であり、宗教は神の言葉の研究であり、両者は矛盾することはないと信じている。", "title": "六信" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "他にアハマディアの信条には以下のものが含まれている。", "title": "他派との差異" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "主流のイスラム信条と対照的に、アハマディー・ムスリムはイエスは十字架に掛けられてから四十時間生き残ったと信じる。後に墓の中より復活した。イエスは失われた十二部族を求めている間に、老年に至りカシミールで死んだ。特に、イエスの再臨に関する聖書とイスラームの預言は本質的には文字通りではなく、ミルザー・グラム・アフマドがこの預言とイエスの再臨を果たしたものと信じられている。アハマディー・ムスリムも「約束のメシア」と「イマーム・マフディー」は同一の人物であると信じている。", "title": "他派との差異" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アハマディー・ムスリムは、クルアーンが人類のための神の最後のメッセージであると信じているが、神は過去と同様に選ばれた人とコミュニケーションを続けていると信じている。特に、ムハンマドが完全に預言をもたらし、最後の法律を維持する預言者であり、人類の精神的進化の頂点であったと信じている。新しい預言者が来ることはできるが、彼らは完全にムハンマドに従属しなければならず、彼を超越することも、彼の教えを変えることも、新しい法律や宗教をもたらすこともできない。彼らは古代の預言者のように独立して預言者にされたのではなく(モーセに対するイスラエルの諸預言者のように)、ムハンマドの反映と考えられている。", "title": "他派との差異" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ジハードは三つのカテゴリーに分けることができる。最大ジハードは自己に対するものであり、怒り、欲望、憎しみなどの欲望の低さに挑戦することを指す。大ジハードはイスラーム教を平和的に伝播することを指し、特に真理のメッセージをペンを以て広めることに重点を置いている。小ジハードは、基本的な宗教的信念に従うことが出来ず、極端な迫害の状況下で自衛に頼るしかない時の武力闘争であり、それはカリフの直接指導下で行われる。ミルザ・グラーム・アハマドは、宗教としてイスラームが軍事的に攻撃されているのではく、文学や他のメディアを通じて攻撃されている現代には適用できない軍事的形態のジハードを描写したとアハマディアは指摘している。彼らは憎しみの応えには愛を以てすべきだと信じている。テロリズムについて1989年第四代カリフが書いている。", "title": "他派との差異" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "スンナ派ムスリムと異なり、シーア派と同様に、クルアーンの句は他の句を廃止(ナスフ、nasḫ)したり、取り消したりしないと考えている。クルアーンの全ての句は、その美しさと妥当性において同等である。", "title": "他派との差異" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "宗教の歴史は周期的であり、七千年ごとに更新される。聖書のアダムの時代から現代までの周期は七つの時代に分割される。ミルザ・グラーム・アハマドは第七時代人類最後の時代を告げる第六時代に約束された救世主として登場した。彼によると、週の六日目がジュムア(会衆の礼拝)のために保持されているのと同様に、彼の時代は世界が一つの普遍的な宗教の下で結束する人類の世界的終結に向けられている。", "title": "他派との差異" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "正式には、アハマディア・ムスリム共同体の歴史はミルザ・グラーム・アハマドが1889年3月23日にインドのルディアーナの家で、数多くの仲間から誓いを受けた時に始まる。彼とその信奉者は、彼の出現は預言者ムハンマドおよび世界の多くの宗教文献によって予告されていたと主張する。アフマディーヤは19世紀に広まったキリスト教徒とアーリヤ・サマージの宣教活動に対応する、イスラーム内での運動としてインドに現れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "海外のアハマディアの宣教活動は早くとも1913年に始まった(例 ロンドンのプットニー)。現代の多くの国々にとって、アハマディア運動はイスラームの宣教者として最初の接触であった。アハマディア運動はアメリカの民権運動の先駆者の一つとしていくつかの歴史によって考慮されている。おそらく1950年代まではアフリカ系アメリカ人のイスラーム教において最も影響力のあるコミュニティであった。今日、アハマディア・ムスリム・コミュニティは世界で最も活発な宣教師プログラムを持っており、アフリカでは特に大きい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ミルザ・グラーム・アハマドの死後、ハキーム・ヌールッディーン(英語版)は彼の後継者とコミュニティのカリフとして満場一致で選出された。6年続いたカリフ位の中で、彼は満足のいくクルアーンの英訳、イングランドでの最初のアハマディア・ムスリム協会の設立、そして様々な新聞と雑誌の創刊を監督した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最初のカリフの死後、ミルザ・バシールッディーン・マフムード・アハマド(英語版)は前任者の意向に従って二代目のカリフとして選出された。しかし、マウラーナ・ムハンマド・アリーとフワジャ・カマールッディーンが率いる派閥は彼の継承に強く反対して、彼をカリフとして受け入れることを拒否し、ラホール・アハマディア運動の形成に繋がった。これはミルザ・グラーム・アハマドの預言者性と継承について新カリフとの一定の教義の違いによる。カリフが比較的貧弱な学歴を持つカリフと彼らとの人格的な衝突も考えられる。しかし、ラホールに定住したラホール・アハマディア運動は成功しておらず、大きな支持を集めていない。コミュニティの歴史の中では、この出来事は「分離」と呼ばれ、しばしば創設者の預言に言及される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "若い時代に選出されたマフムード・アハマドのカリフ時代は52年間に渡った。彼はコミュニティの組織体制を確立し、インド亜大陸の外での広範な宣教活動を指揮した。彼の時代には46か国にミッションが設立され、多くのモスクが建設され、クルアーンはいくつかの主要言語で出版された。カリフ制の下にコミュニティの拡大は続いたが、二代目カリフがその発端の大部分に当たる。彼は多くの著作を書いたが、その最も重要なものはクルアーンの10巻の註釈である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1965年11月8日に選出されたミルザ・ナセル・アハマド(英語版)は、アハマディア・ムスリム・コミュニティの第三代カリフを継承した。パキスタン国会においてコミュニティが非ムスリムと宣言された時期に、大きなリーダーシップと指導を示したとみられている。1970年のアハマディアのカリフが初めて行った西アフリカ訪問の多くの成果の一つが、多くの診療所や学校を運営してアフリカの一部に奉仕する計画であるヌスラト・ジャハーン計画であった。現代スペインの最初のモスクであるバシャラート・モスクの定礎式典の訪問の際に「誰も憎まず、すべてに愛を」というアフマディーヤの広く知られたモットーを造った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ミルザ・タヘル・アハマド(英語版)は1982年6月10日、前任者の死後翌日に四代目のカリフとして選出された。1984年パキスタン政府によって発布された布告20によって、カリフは自分の任務を遂行することができず、機構は危機に陥った。ミルザー・ターヒル・アフマドはパキスタンを去り、イギリスのロンドンに移住し、本部をロンドンのファズル・モスクに移した。アハマディー・ムスリムにとって、移住はコミュニティの新しい時代を迎えることになった。アフマドは最初のムスリムの衛生テレビネットワーク「ムスリム・テレビジョン・アフマディーヤ」を立ち上げた。アハマディー・ムスリムの子供たちのためにワクフェ・ノウ計画を制定した他、マリユーム・シャーディ基金、シェーダ・ビラール基金、迫害被害者、人道慈善団体などの資金を投じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2003年に第四代カリフの死去に続いて、ロンドンで選挙が行われ、ミルザー・マスルール・アフマド(英語版)が選出された。進行中の紛争に対応して、ミルザー・マスルール・アフマドは女王エリザベスや教皇フランシスコを含む世界の首脳に書簡を送った。200以上の国や地域の数百万のアフマディー・ムスリムの精神的な指導者であるため、アハマドは世界を旅し、コミュニティや個人に対応し、イスラーム信仰の原則を明らかにしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1935年に神戸市に支部を設けたが第二次世界大戦の勃発により布教は中断され、1970年代に日本での活動を再開した。当初は東京都を拠点としたが1981年に愛知県名古屋市名東区貴船に日本本部を置いた。", "title": "日本におけるアハマディア" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2015年11月には、愛知県津島市に日本最大級のモスクとして「ザ・ジャパン・モスク」を完成させている。日本における拠点は、現在津島市に変更されている。", "title": "日本におけるアハマディア" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アハマディア・ムスリム協会によるクルアーン日本語訳が存在する。2016年に改版された。", "title": "日本におけるアハマディア" } ]
アフマディーヤ、アフマディー教団、アハマディアは、インド・パンジャーブ州出身のミルザ・グラーム・アハマドが起こしたイスラーム改革派。異端と見なされ、迫害を受けることが多い。
[[file:Liwa-e-Ahmadiyya 1-2.svg|thumb|アハマディアの旗]] '''アフマディーヤ'''、'''アフマディー教団'''、'''アハマディア'''(Ahmadiyya、{{lang-ur|احمدیہ}} [[アラビア語]]: الأحمدية)は、[[インド]]・[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ州]]出身の[[ミールザー・グラーム・アフマド|ミルザ・グラーム・アハマド]]([[1835年]] - [[1908年]])が起こした[[イスラーム]]改革派。異端と見なされ、[[アフマディーヤ信者に対する迫害|迫害]]を受けることが多い。 [[ファイル:Liwa-e-Ahmadiyya and Minarat-ul-Massih.jpg|サムネイル|カーディヤーン(インド)のホワイト・ミナレットとアハマディア旗]] == 概要 == [[ミールザー・グラーム・アフマド|ミルザ・グラーム・アハマド]]は41歳の時に[[神]]に啓示を受けたといい、[[1889年]]に自らを[[メシア]]であり[[マフディー]]であると主張した。これは[[ムハンマド]]が最後の[[預言者]]であるというイスラームの全体の教え、また[[ムハンマド・ムンタザル]]がマフディーであるとする[[シーア派]]・[[十二イマーム派]]の教義に反するが、[[バーブ教]]や[[バハイ教]]とは異なり、アハマディアの信者は、アハマディアとイスラームとは別個の宗教ではないと考えており、自分らを[[スンナ派]]の分派としている<ref name="hist">{{Cite web|和書|url=https://www.ahmadiyya-islam.org/jp/%E8%AB%96%E8%AA%AC/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A0%E5%8D%94%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%BB%E8%83%8C%E6%99%AF%E3%83%BB/ |title=日本アハマディア・ムスリム協会の歴史・背景・性格について |publisher=日本アハマディア・ムスリム協会 |date=2015-04-10 |accessdate=2017-06-06}}</ref>。[[パキスタン]]がインドから分離したのち信者は1947年に集団移住したが、教義の違いからパキスタン国内で迫害を受けて1974年の憲法改正で非イスラームとされ、1984年に[[ムハンマド・ジア=ウル=ハク|ズィヤーウル・ハック]]政権下でムスリムとしての権利を剥奪・非合法化されたため、同年に[[イギリス]]に本部を移した<ref name="hist" />(→[[アフマディーヤ信者に対する迫害]])。開祖の没後は[[カリフ]]制を取り<ref name="hist" />、2017年現在は第5代カリフの{{仮リンク|ミルザ・マスルール・アハマド|en|Mirza Masroor Ahmad}}が最高指導者となっている。 イスラーム教はムハンマドに啓示された人類に対する最終的な戒めであり、アハマディアは何世紀にも渡って失われた真の本質と元の形に復帰させる必要性を強調している<ref name="名前なし-1">[https://web.archive.org/web/20080919230108/http://www.timesonline.co.uk/tol/comment/faith/article4009445.ece "The Ahmadi Muslim Community"].&nbsp;''The Times''. 27 May 2008.</ref>。アハマディア支持者は、宗教的な戦争を終わらせ、流血を非難し、道徳、正義、平和を再建するために神がアフマドを送り込んだと信じており、[[イエス・キリスト|イエス]]の再臨にたとえている。彼らは神の指導の下に、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]と初期イスラーム共同体が行ったような真実かつ本質的な教えを擁護することによって、狂信的で革新的な信仰と実践を放棄すると信じている<ref>[http://www.alislam.org/introduction/index.html "An Overview"]. Alislam.org. Retrieved&nbsp;2012-11-14.</ref>。従って、アハマディアはイスラームの復興と平和的伝播を導くものと自負している<ref>[http://www.muslimsunrise.com/index.php?option=com_content&task=view&id=133&Itemid=1 "Introduction to the Ahmadiyya Muslim Community"]. Retrieved&nbsp;19 February&nbsp;2016.</ref>。[[file:Hadhrat Mirza Ghulam Ahmad2.jpg|thumb|ミルザ・グラーム・アハマド]]ミルザ・グラーム・アハマドは1889年3月23日にこの運動を始め、死後、数多くのカリフによって率いられ、2016年には南アジア、西アフリカ、東アフリカ、[[インドネシア]]に集中し、世界の209か国と領域に拡大した。アフマディーヤは強力な宣教伝統を持ち、イギリスやほかの西洋諸国に及んだ最初期のイスラーム・コミュニティの一つであった<ref name="名前なし-1"/>。信者数は世界に1000万から2000万の間だと推定されている<ref>[http://www.adherents.com/adh_branches.html "Major Branches of Religions"].&nbsp;Adherents.com. 28 October 2005.&nbsp;[https://web.archive.org/web/20150315022054/http://www.adherents.com/adh_branches.html Archived]&nbsp;from the original on 15 March 2015. Retrieved&nbsp;19 April2015.</ref>。 なお、[[1914年]]に、アハマドの位置づけを巡り、[[カーディヤーン派]]と{{仮リンク|ラホール派|en|Lahore Ahmadiyya Movement|redirect=1}}に分裂した<ref>{{cite journal |author=Herman L. Beck |title=The rupture between the Muhammadiyah and the Ahmadiyya|journal=Journal of the Humanities and Social Sciences of Southeast Asia |issue=161 |publisher=BRILL |date=2009 |page=219 |url=https://brill.com/view/journals/bki/161/2/article-p210_2.xml|format=PDF}}</ref>。前者はアフマドを預言者とみなしているのに対し、後者は改革者として位置づけている。パキスタン国内に限ったデータだが、ラホール派の信者数は、カーディヤーン派に比べてはるかに少なく、5000-1万人と推定されている。<ref>[https://www.refworld.org/cgi-bin/texis/vtx/rwmain?page=country&category=&publisher=IRBC&type=QUERYRESPONSE&coi=PAK&rid=&docid=45f1478f20&skip=0 Pakistan: Situation of members of the Lahori Ahmadiyya Movement in Pakistan; whether differences exist between the treatment of Lahori Ahmadis and Qadiani Ahmadis; procedure for verification of membership in Lahori Ahmadiyya Movement (February 2006)] - カナダ移民難民委員会</ref> == 語源 == アハマディア運動は1889年に設立されたが、アハマディアという名称は約十年後に採択された。1900年11月4日のマニフェストで、ミルザ・グラーム・アハマドは、この名称は自分の名前に因むものではなく、預言者ムハンマドの別名のアハマドによると説明した。 彼によれば「称賛」を意味するアラビア語"ḥamd"から派生した「称賛されるもの」を意味するムハンマドとは、預言者の栄光の運命、威厳と権力を指し、[[ヒジュラ]]の時代からその名を採用した。しかし、「きわめて称賛される」「慰めるもの」を意味するアラビア語の派生形である「アハマド」はムハンマドの説教の美しさ、やさしさ、謙虚さ、愛と慈悲、平和のためによる。アハマドによれば、これらの名前はイスラーム教の二つの局面を指し、後には後者がより大きな注意を払われることになった<ref>Mirza Ghulam Ahmad: ''Tabligh-i-Risalat'', Vol. IX, pp.90–91; Maulana Murtaza Khan: ''[http://www.aaiil.org/text/books/others/murtazakhan/nameahmadiyyanecessity/nameahmadiyyanecessity.pdf The Name Ahmadiyya and Its Necessity]'', 1945.</ref><ref>Falahud Din Shams:[http://www.muslimsunrise.com/index.php?option=com_content&task=view&id=133&Itemid=1 "Introduction to the Ahmadiyya Muslim Community"]</ref>。 == 教義の大要 == アハマディアの信仰は、イスラームの[[五行 (イスラム教)|五つの柱]]、[[六信|六つ信仰項目]]など[[シーア派]]に比べて[[スンナ派]]により似ている。同様にアハマディアはクルアーンを聖典として受け入れ、礼拝には[[カアバ|カーバ]]に向かい、スンナ(ムハンマドの慣習)を守り、[[スンナ派]]のハディースの権威を受け入れている<ref>Annemarie Schimmel ''et al.'': ''Der Islam III. Volksfrömmigkeit, Islamische Kultur, Zeitgenössische Strömungen.'' Kohlhammer, Stuttgart 1990, S. 418–420</ref>。これらがアハマディーヤのイスラーム思想を構成する中心的な思想である。アハマディア・ムスリム共同体の特徴は、ミルザー・グラム・アハマドを預言者ムハンマドによって預言されたマフディー、約束された救い主として信じることである。彼は主張を要約し書いている。<blockquote>「神が私を任命した任務は、神と創造物との関係の悩みを取り除き、彼らの間に愛と誠実の関係を復元することである。真理を宣言し、宗教的紛争を終結させることによって、私は平和をもたらし、世界の目から隠された神の真理を明らかにするであろう。私は自我の闇の中に埋もれている霊性を証明するように呼ばれた。人間に浸透し、祈りや集中によって現れる神の力は、言葉だけではなく実践によって実証するためである。とりわけ多神教のあらゆる不純物から解放され、今は完全に姿を消した、神の純粋かつ輝かしい統一の永遠の樹を人々の心に再び立てるのが私の任務である。すべてこれは私の力ではなく、天と地の神の全能の力によって成就されよう」<ref>A.R. Dard. [http://www.tarbiyyat.org/LifeOfMuhammad/LifeOfAhmad.pdf ''Life of Ahmad''] (PDF). Islami International Publications. p. XV. Retrieved 3 September 2014.</ref></blockquote>これに対応して、彼はイスラーム教を世界中に平和的な手段で伝播し、忘れられたイスラームの平和、赦し、共感の価値観を全人類のために表し、この教えによって世界に平和を確立することを目的とした。彼は自分のメッセージが西洋世界に特別な意味を持っていると信じていた。 アハマディアの教えによると、主要な世界宗教は全て神聖な起源を持ち、最終的な宗教としてイスラームの確立に向けた神の計画の一部であり、それは他の宗教のこれまでの教えの中で最も完全なものであった。したがってこれらの宗教の創始者たちがもたらしたメッセージは不完全であるが、本質的にイスラームと同じであり、宗教の発展の完成と終結はムハンマドの出現によって生じた。彼のメッセージの世界的な伝達、認識そして最終的な受け入れは、マフディーの到来とともに起こることになっていた<ref>[http://www.alislam.org/quran/tafseer/?page=2739&region=E1&CR=EN,E2 "The Holy Quran"]. Alislam.org. [https://web.archive.org/web/20110725000651/http://www.alislam.org/quran/tafseer/?page=2739&region=E1&CR=EN%2CE2 Archived] from the original on 25 July 2011. Retrieved 13 August 2011.</ref>。このようにアハマディー・ムスリムはミルザ・グラーム・アハマドを[[マフディー]]と呼び、[[アブラハム]]系宗教の聖典や[[ゾロアスター教]]、インドの宗教、先住アメリカ人の伝統などに見られる終末論的預言を果たした「約束された者」とする<ref>Invitation to Ahmadiyyat by Mirza Bashir-ud-Din Mahmood Ahmad Part II, Argument 4, Chapter "Promised Messiah, Promised One of All Religions"</ref>。また、アハマドが、神の唯一性を確立し、人類に神と創造物に対する彼らの義務を思い起こさせるために、ムハンマドの預言者性の真の反映であると信じている<ref>Simon Ross Valentine. [https://books.google.com/books?id=Q78O1mjX2tMC&printsec=frontcover&dq=simon+ross+valentine+ahmadiyya&hl=en&ei=TxzyTZTSOMSp8APp55CIBA&sa=X&oi=book_result&ct=book-preview-link&resnum=1&ved=0CC4QuwUwAA#v=onepage&q&f=false ''Islam and the Ahmadiyya jamaʻat: history, belief, practice'']. Columbia University Press. pp. 32–33. ISBN 978-0-231-70094-8.</ref>。アハマドはこのように書いている。<blockquote>「信仰は二つの完全な部分である。一つは神を愛することであり、もう一つはあなたが他人の苦しみと試練と苦難をあなた自身のものと見なし、あなたが彼らのために祈ると同じように人間を愛することである」<ref>http://www.reviewofreligions.org/11030/islam-a-threat-or-a-source-of-peace/ "Islam – A Threat or a Source of Peace"]. Review of Religions. Retrieved 3 September 2014.</ref></blockquote><br /> == 六信 == アハマディア・ムスリムはイスラーム教徒の大多数と同じ信念を支持しているが、「預言者の封印」の意味について意見の相違がある。五つの柱と六つの信条([[五行 (イスラム教)|五行]]・[[六信]])は、[[スンナ派]]ムスリムによって信じられているものと同一であり、ムハンマドと[[クルアーン]]の伝統に基づいている。 === 神の一性 === アハマディー・ムスリムは神の絶対的一性を堅く信じている。この原則を認めることはコミュニティによって解釈されるイスラームの最も重要且つ枢要な原則である。他のイスラーム的信仰箇条もこの原則から生じている。「神は唯一」であるという信仰は、すべての面で人の人生に影響を与えると考えられており、はるかに広い意味と深い応用を持っていると信じられている。例えば、神の一性を詳述する『アッラーの他に、いかなる力も能も存在しない』(La hawla wa la quwata illa Billah)というクルアーンの句は、神への畏怖を除いて、あらゆる形態の恐怖を否定すると信じられた。それは神への完全な服従とすべての善は神より発出するという感覚を植え付ける。一般的に、神の唯一性の信仰はあらゆる肉欲、隷属、地上の投獄の知覚から信者を解放すると信じられている。<blockquote>ミルザ・グラーム・アハマド曰く「神の一性とは、内なる世界に属していようが外なる世界に属していようが、すべての神的属性の否定の後でのみ、心を照明する光である。それは人間存在のすべての部分に浸透する。神と神の使徒の御助けなくしてどのようにこれを獲得できるだろうか? 人間の義務は自我に死をもたらし、悪魔的な傲慢から背を向けるということだけである。人は知識の揺り籠で育てられたことを自慢するべきではなく、己を無知の人であると見なし、哀願の中に置くべきである。そうして、神から一性の光が降り、彼に新しい生命が与えられる」<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20140703080224/http://www.alislam.org/allah/roohani%20khazain.html|title="Mirza Ghulam Ahmad on the Unity of Allah"|accessdate=on 3 July 2014.|publisher=}}</ref></blockquote>さらに、神の一性というイスラームの概念は、人間の種の一体性の実現を教え込み、この観点ですべての障害を取り除くと信じられている。人種、民族、人の色などの多様性は受容されるのに相応しいと考えられている。さらに、神の一性を信じるという考えは創造者と被創造者の絶対的な調和の感覚を造り出し、それは神の言葉と神の行為の間には矛盾することができないと理解されている<ref>{{Cite book|title=Welcome to Ahmadiyyat, the True Islam (PDF).|date=|year=|publisher=Islami International Publications. p. 54.|url=http://www.alislam.org/books/ahmadiyyat/WelcomeBook2ndEd.pdf}}</ref>。 イスラームは神をすべての卓越さの源泉であり、すべての不完全さから自由であると認識している。神はあらゆる場所において自身を顕在し、彼の僕の祈りを聞く活ける神であると認識されている。明確にアハマディー・ムスリムは神の諸属性は永遠であると認識する。このためアハマディーの教えは、神は以前為してきたように人類と交流をするという見解を主張している。 === 天使 === 天使はアハマディー・ムスリム・コミュニティーの基本的な信条である。彼等は神の命令を行うために創造された霊的な存在である。人間と異なり、天使らは自由意志はなく独立的行為をすることができない。神の命令の下に、彼らは諸預言者に啓示を伝え、預言者の敵に罰をもたらし、賛歌を以て神を称え、人間の行為を記録保持する。天使は肉の目では見えないが、アハマディー・ムスリム・コミュニティーによれば、彼らは時々は何らかの形で人に現れることがある。しかし、この現れは肉体的ものではなく霊的なものである。また、天使を人格をもつ実体である天的存在であると見なす。彼等の果たす主要な役割は、神から人間へのメッセージの伝達である。クルアーンによれば、物質的な宇宙全体と宗教的宇宙は天使と呼ばれるいくつかの霊的諸力によって支配されているが、彼等が何を為すとしても神の意旨と彼が諸物ために創造した設計への完全な服従にある。アハマディー・ムスリムによって解釈されるように、彼らは定められた進路や割り当てられた機能や神によって創られたものの全体の計画から逸脱することはできない。 === 啓典 === 第三番目の信仰箇条は、神が諸預言者に啓示したすべての聖なる書に関するものである。それらにはトーラー、詩編、福音書、アブラハムの書巻、そしてクルアーンが含まれる。イスラームの到来以前、宗教の歴史は、各伝達者が時代と場所に適した教えをもたらした連続した天的配剤として理解されている。始まりの時に、神によって送られた教えは、時代と場所において補正された細則を除いて基本において一致している。イスラームの認識では、神は預言者をすべての国々と遠隔の集団に送ったとしている。従って、アハマディーの教えはアブラハム系統の啓典の外に、例えばヴェーダやアヴェスター等も神聖なる起源を持つと考えられている。コミュニティはクルアーンは人類に対する最後の聖なる書である信じている。クルアーンの教えは時代を超えたものであると見なされている。 === 預言者 === 第四の信仰箇条は神から送られたすべての預言者に関係している。アフマディー・ムスリムは世界が不正義と不道徳で満たされたり、特定の地域部分のこれらのようになった場合、または特定の宗教の信者たちが堕落して、堕落した教えを信仰に取り入れる場合、神はその信仰を廃れたものとするか、あるいは再建者を必要としている場合、神の預言者が神の聖なる意旨を再び確立するために送られる。 預言者に関するイスラーム的用語「警告者」(nathir)「預言者」(nabi)「使徒」(rasul)「使者」(mursal)は同義を意味している。しかしながら、モーセやムハンマドのように宗教法をもたらす預言者と、エレミヤ、イエス、そしてミルザ・グラーム・アハマドのように宗教をもたらさない預言者の二種類がある。アダムはユダヤ教、キリスト教、イスラームにおいて最初の人間であり、神と語らい、神の意志を啓示された初めての預言者であると見なされているが、アハマディー・ムスリムは彼を最初の人間とは見なしていない。この見解はクルアーンに基づいていると主張する。またアハマディーはムハンマドが最終の宗教法をもたした預言者であることを信じ、預言者の継続を教えている。 === 審判の日 === 五番目の信仰箇条は審判の日に関するものである。惟一の神を信じることの後、審判の日を信じることは、クルアーンに述べられた最も強調された教義である。アハマディー・ムスリムの信仰によれば、宇宙全体は審判の日に終わるであろう。これは他の凡てのイスラーム各宗派や学派によって採用されている。死者は復活し、彼等の行為は調べられる。善を記録された人々は天国に入り、悪を記録された人々は地獄へ投げ込まれる。アハマディアでは地獄は一時的な住まいと理解されており、非常に永く続くが、主流派のように永劫のものとは見なさない。それは霊魂が清められる病院のようなものと考えられており、この見解はクルアーンとハディースに基づいている。 === 定命 === 神の命令がこの宇宙において最後の結果を支配していると信じている。神の命令の範囲内で、人は自らの進路を選択する自由意志が与えられている。アハマディー・ムスリムは審判の日には、彼等の意図と行為に基づいて審判されると信じている。科学は神の行為の研究であり、宗教は神の言葉の研究であり、両者は矛盾することはないと信じている。 == 他派との差異 == 他にアハマディアの信条には以下のものが含まれている。 === 再臨 === 主流のイスラム信条と対照的に、アハマディー・ムスリムはイエスは十字架に掛けられてから四十時間生き残ったと信じる。後に墓の中より復活した<ref>[http://www.alislam.org/topics/jesus/index.php "Jesus, a Humble Prophet of God"]. Al Islam.</ref>。イエスは失われた十二部族を求めている間に、老年に至り[[カシミール]]で死んだ<ref> [http://www.aaiil.org/uk/newsletters/2001/1001ukbulletin.pdf "Death of Jesus"], by Shahid Aziz, Bulletin October 2001, Ahmadiyya Anjuman Ishaat Islam Lahore (UK)[http://www.alislam.org/library/books/promisedmessiah/index.htm?page=50 The Promised Mehdi and Messiah], p. 50, "Jesus Migrated to India", by Aziz Ahmad Chaudhry, Islam International Publications Limited</ref>。特に、イエスの再臨に関する[[聖書]]とイスラームの預言は本質的には文字通りではなく、ミルザー・グラム・アフマドがこの預言とイエスの再臨を果たしたものと信じられている。アハマディー・ムスリムも「約束の[[メシア]]」と「[[イマーム]]・[[マフディー]]」は同一の人物であると信じている。 === 預言者の封印 === アハマディー・ムスリムは、クルアーンが人類のための神の最後のメッセージであると信じているが、神は過去と同様に選ばれた人とコミュニケーションを続けていると信じている。特に、ムハンマドが完全に預言をもたらし、最後の法律を維持する預言者であり、人類の精神的進化の頂点であったと信じている。新しい預言者が来ることはできるが、彼らは完全にムハンマドに従属しなければならず、彼を超越することも、彼の教えを変えることも、新しい法律や宗教をもたらすこともできない。彼らは古代の預言者のように独立して預言者にされたのではなく(モーセに対するイスラエルの諸預言者のように)、ムハンマドの反映と考えられている<ref>[http://www.alislam.org/library/books/promisedmessiah/index.htm?page=37 The Promised Messiah and Mehdi – The Question of Finality of Prophethood]'', by Dr. Aziz Ahmad Chaudhry, Islam International Publications Limited.''</ref>。 === ジハード === [[ジハード]]は三つのカテゴリーに分けることができる。最大ジハードは自己に対するものであり、怒り、欲望、憎しみなどの欲望の低さに挑戦することを指す。大ジハードはイスラーム教を平和的に伝播することを指し、特に真理のメッセージをペンを以て広めることに重点を置いている。小ジハードは、基本的な宗教的信念に従うことが出来ず、極端な迫害の状況下で自衛に頼るしかない時の武力闘争であり、それはカリフの直接指導下で行われる<ref>[https://web.archive.org/web/20120414065050/http://www.whyahmadi.org/3_10.html "Suspension of Jihad"]. Archived from [http://www.whyahmadi.org/3_10.html the original] on 14 April 2012. Retrieved 3 September 2014.</ref>。ミルザ・グラーム・アハマドは、宗教としてイスラームが軍事的に攻撃されているのではく、文学や他のメディアを通じて攻撃されている現代には適用できない軍事的形態のジハードを描写したとアハマディアは指摘している。彼らは憎しみの応えには愛を以てすべきだと信じている。[[テロリズム]]について1989年第四代カリフが書いている。 : 「あらゆる形態のテロを断罪し、非難する。それは個人、団体、または政府が犯した暴力行為に対して、何の表明も正当化もしていない」<ref>[http://www.reviewofreligions.org/2621/is-islam-a-threat-to-poland-and-world-peace/ "Is Islam a Threat to Poland and World Peace?"]. Review of Religions. Retrieved 3 September 2014. </ref> === クルアーンの章句廃止(ナスフ)思想の否定 === スンナ派ムスリムと異なり、シーア派と同様に、クルアーンの句は他の句を廃止([[ナスフ]]、{{ラテン翻字|ar|nasḫ}})したり、取り消したりしないと考えている。クルアーンの全ての句は、その美しさと妥当性において同等である<ref>Friedmann, ''Jihād in Ahmadī Thought'', ISBN 965-264-014-X, p. 227</ref>。 === 周期 === 宗教の歴史は周期的であり、七千年ごとに更新される。聖書のアダムの時代から現代までの周期は七つの時代に分割される。ミルザ・グラーム・アハマドは第七時代人類最後の時代を告げる第六時代に約束された救世主として登場した。彼によると、週の六日目がジュムア(会衆の礼拝)のために保持されているのと同様に、彼の時代は世界が一つの普遍的な宗教の下で結束する人類の世界的終結に向けられている<ref>[http://www.reviewofreligions.org/4023/from-the-archives-why-i-believe-in-islam/ "From the Archives:Why I believe in Islam"]. Review of Religions. Retrieved 3 September 2014.</ref>。 == 歴史 == 正式には、アハマディア・ムスリム共同体の歴史はミルザ・グラーム・アハマドが1889年3月23日にインドのルディアーナの家で、数多くの仲間から誓いを受けた時に始まる。彼とその信奉者は、彼の出現は預言者ムハンマドおよび世界の多くの宗教文献によって予告されていたと主張する。アフマディーヤは19世紀に広まったキリスト教徒とアーリヤ・サマージの宣教活動に対応する、イスラーム内での運動としてインドに現れた。 海外のアハマディアの宣教活動は早くとも1913年に始まった(例 ロンドンのプットニー)。現代の多くの国々にとって、アハマディア運動はイスラームの宣教者として最初の接触であった。アハマディア運動はアメリカの民権運動の先駆者の一つとしていくつかの歴史によって考慮されている。おそらく1950年代まではアフリカ系アメリカ人のイスラーム教において最も影響力のあるコミュニティであった。今日、アハマディア・ムスリム・コミュニティは世界で最も活発な宣教師プログラムを持っており、アフリカでは特に大きい。 === 初代カリフ === [[File:Khalifatul MasihI.jpg|thumb|right|200px|初代カリフ、{{仮リンク|ハキーム・ヌールッディーン|en|Hakeem Noor-ud-Din}}]] ミルザ・グラーム・アハマドの死後、{{仮リンク|ハキーム・ヌールッディーン|en|Hakeem Noor-ud-Din}}は彼の後継者とコミュニティのカリフとして満場一致で選出された。6年続いたカリフ位の中で、彼は満足のいくクルアーンの英訳、イングランドでの最初のアハマディア・ムスリム協会の設立、そして様々な新聞と雑誌の創刊を監督した。 === 第二代カリフ === [[File:Mirza Bashir-ud-Din Mahmood Ahmads tour of Europe.jpg|thumb|right|200px|第2代カリフ、{{仮リンク|ミルザ・バシールッディーン・マフムード・アハマド|en|Mirza Basheer-ud-Din Mahmood Ahmad}}]] 最初のカリフの死後、{{仮リンク|ミルザ・バシールッディーン・マフムード・アハマド|en|Mirza Basheer-ud-Din Mahmood Ahmad}}は前任者の意向に従って二代目のカリフとして選出された。しかし、マウラーナ・ムハンマド・アリーとフワジャ・カマールッディーンが率いる派閥は彼の継承に強く反対して、彼をカリフとして受け入れることを拒否し、ラホール・アハマディア運動の形成に繋がった。これはミルザ・グラーム・アハマドの預言者性と継承について新カリフとの一定の教義の違いによる。カリフが比較的貧弱な学歴を持つカリフと彼らとの人格的な衝突も考えられる。しかし、ラホールに定住したラホール・アハマディア運動は成功しておらず、大きな支持を集めていない。コミュニティの歴史の中では、この出来事は「分離」と呼ばれ、しばしば創設者の預言に言及される。 若い時代に選出されたマフムード・アハマドのカリフ時代は52年間に渡った。彼はコミュニティの組織体制を確立し、インド亜大陸の外での広範な宣教活動を指揮した。彼の時代には46か国にミッションが設立され、多くのモスクが建設され、クルアーンはいくつかの主要言語で出版された。カリフ制の下にコミュニティの拡大は続いたが、二代目カリフがその発端の大部分に当たる。彼は多くの著作を書いたが、その最も重要なものはクルアーンの10巻の註釈である。 === 第三代カリフ === [[File:Hazrat Mirza Nasir Ahmad Mash III (1967).jpg|thumb|right|200px|第3代カリフ、{{仮リンク|ミルザ・ナセル・アハマド|en|Mirza Nasir Ahmad}}]] 1965年11月8日に選出された{{仮リンク|ミルザ・ナセル・アハマド|en|Mirza Nasir Ahmad}}は、アハマディア・ムスリム・コミュニティの第三代カリフを継承した。パキスタン国会においてコミュニティが非ムスリムと宣言された時期に、大きなリーダーシップと指導を示したとみられている。1970年のアハマディアのカリフが初めて行った西アフリカ訪問の多くの成果の一つが、多くの診療所や学校を運営してアフリカの一部に奉仕する計画であるヌスラト・ジャハーン計画であった。現代スペインの最初のモスクであるバシャラート・モスクの定礎式典の訪問の際に「誰も憎まず、すべてに愛を」というアフマディーヤの広く知られたモットーを造った。 === 第四代カリフ === [[File:KhalifaIV Surrey.jpg|thumb|right|200px|第4代カリフ、{{仮リンク|ミルザ・タヘル・アハマド|en|Mirza Tahir Ahmad}}]] {{仮リンク|ミルザ・タヘル・アハマド|en|Mirza Tahir Ahmad}}は1982年6月10日、前任者の死後翌日に四代目のカリフとして選出された。1984年パキスタン政府によって発布された布告20によって、カリフは自分の任務を遂行することができず、機構は危機に陥った。ミルザー・ターヒル・アフマドはパキスタンを去り、イギリスのロンドンに移住し、本部をロンドンのファズル・モスクに移した。アハマディー・ムスリムにとって、移住はコミュニティの新しい時代を迎えることになった。アフマドは最初のムスリムの衛生テレビネットワーク「ムスリム・テレビジョン・アフマディーヤ」を立ち上げた。アハマディー・ムスリムの子供たちのためにワクフェ・ノウ計画を制定した他、マリユーム・シャーディ基金、シェーダ・ビラール基金、迫害被害者、人道慈善団体などの資金を投じた。 === 第五代カリフ === [[File:Mirza Masroor Ahmad.jpg|thumb|right|200px|第5代カリフ、{{仮リンク|ミルザ・マスルール・アハマド|en|Mirza Masroor Ahmad}}]] 2003年に第四代カリフの死去に続いて、ロンドンで選挙が行われ、{{仮リンク|ミルザー・マスルール・アフマド|en|Mirza Masroor Ahmad}}が選出された。進行中の紛争に対応して、ミルザー・マスルール・アフマドは女王[[エリザベス2世|エリザベス]]や教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]を含む世界の首脳に書簡を送った。200以上の国や地域の数百万のアフマディー・ムスリムの精神的な指導者であるため、アハマドは世界を旅し、コミュニティや個人に対応し、イスラーム信仰の原則を明らかにしている。 == 日本におけるアハマディア == {{Main|日本におけるアフマディーヤ}} 1935年に[[神戸市]]に支部を設けたが第二次世界大戦の勃発により布教は中断され、1970年代に日本での活動を再開した<ref name="kiyo">{{Cite journal|和書|author = 沼尻正之 |title = 越境する世界宗教 ─グローバル化時代の神々のゆくえ─ |journal = 追手門学院大学社会学部紀要 2010年3月29日 |volume = 4 |issue = |pages = 57-72 |publisher = 追手門学院大学社会学部 |location = |date =2010 |language = |url = http://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000145OTEMON_402100006 |jstor = |issn = |doi = |id = |naid =110007673465 |accessdate = 2019-06-21}}</ref>。当初は東京都を拠点としたが1981年に[[愛知県]][[名古屋市]][[名東区]][[貴船 (名古屋市)|貴船]]に日本本部を置いた<ref name="kiyo"/>。 2015年11月には、愛知県[[津島市]]に日本最大級のモスクとして「ザ・ジャパン・モスク」を完成させている<ref>{{cite news | url = http://mainichi.jp/articles/20151124/ddl/k23/040/031000c| title = 国内最大級、津島に完成 「イスラム」知る場所に /愛知 | newspaper = 毎日新聞 | date = 2015-11-24 | accessdate = 2015-12-19 }}</ref>。日本における拠点は、現在津島市に変更されている。 アハマディア・ムスリム協会によるクルアーン日本語訳が存在する<ref>https://www.alislam.org/quran/Holy-Quran-Japanese.pdf</ref>。2016年に改版された。 <gallery> File:Bait-ul-Ahad The Japan Mosque.JPG|日本のアフマディーヤのモスク(愛知県津島市) </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} ==関連項目== {{Commonscat|Ahmadiyya}} * [[アフマディーヤ信者に対する迫害]] ==外部リンク== * [http://www.alislam.org/ Ahmadiyya Muslim Community - Al Islam Online] * [http://www.ahmadiyya-islam.org/jp/ 日本アハマディア・ムスリム協会] * [http://www.ahmadiyya.jp/%E3%82%A2%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2/ 日本アハマディアムスリム協会・ナレッジサイト] {{新宗教}} {{DEFAULTSORT:あふまていいや}} [[Category:アフマディーヤ|*]] [[Category:インドの宗教]] [[Category:インドの新宗教|あ]] {{islam-stub}}{{authority control}}
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計量単位一覧
計量単位一覧(けいりょうたんいいちらん)では、計量単位(取引又は証明、産業、学術、日常生活の分野での計量の単位)を一覧する。物象の状態の量とは対応しないが現象や性質の程度を表す量は「尺度・指標」の項に分類する。 計量単位を定義するには、それが表す「量」の概念が重要である。計量法では、この量を物理量よりも広義に捉えて、「物象の状態の量」としている。物象の状態の量は、次の89量があり、それぞれの量に対応して計量単位が定められている。 「典型72量」と呼ばれる。1)長さ、2)質量、3)時間、4)電流、5)温度、6)物質量、7)光度、8)角度、9)立体角、10)面積、11)体積、12)角速度、13)角加速度、14)速さ、15)加速度、16)周波数、17)回転速度、18)波数、19)密度、20)力、21)力のモーメント、22)圧力、23)応力、24)粘度、25)動粘度、26)仕事、27)工率、28)質量流量、29)流量、30)熱量、31)熱伝導率、32)比熱容量、33)エントロピー、34)電気量、35)電界の強さ、36)電圧、37)起電力、38)静電容量、39)磁界の強さ、40)起磁力、41)磁束密度、42)磁束、43)インダクタンス、44)電気抵抗、45)電気のコンダクタンス、46)インピーダンス、47)電力、48)無効電力、49)皮相電力、50)電力量、51)無効電力量、52)皮相電力量、53)電磁波の減衰量、54)電磁波の電力密度、55)放射強度、56)光束、57)輝度、58)照度、59)音響パワー、60)音圧レベル、61)振動加速度レベル、62)濃度、63)中性子放出率、64)放射能、65)吸収線量、66)吸収線量率、67)カーマ、68)カーマ率、69)照射線量、70)照射線量率、71)線量当量、72)線量当量率の72量である。 (注)各々の物象の状態の量の前に付した数字は、計量法第2条第1項第1号における列挙順の番号である。 73)繊度、74)比重、75)引張強さ、76)圧縮強さ、77)硬さ、78)衝撃値、79)粒度、80)耐火度、81)力率、82)屈折度、83)湿度、84)粒子フルエンス、85)粒子フルエンス率、86)エネルギーフルエンス、87)エネルギーフルエンス率、88)放射能面密度、89)放射能濃度の17量である。 (注)各々の量の前に付した数字は、計量単位令第1条における列挙順序であり、典型72量からの通し番号である。 国際単位系では、単に基本量、組立量または量としている。また計量法の規定とは異なって、量の種類や数を限定していないし限定することも不可能である。これは科学技術などの目的に応じて、量はいくらでも創出できるからである。 現実には、分野や地方によって、同じ物理量に対応する異なる単位が使われているが、混乱を避けるため単位を統一的に扱う様式を単位系という。 同じ物象の状態の量についての計量単位同士は一定の換算式を用いて相互変換できる。 端数のある数字と分数のうち、太字の数字は正確な値である。 次元:長さ 長さは空間の次元の基本要素である。国際単位系ではメートルを用いる。 次元:面積 = 長さ(2次元) 次元:体積 = 長さ(3次元) 次元:時間 時間は基本要素となる次元である。 次元:速さ = 長さ/時間 次元:加速度 = 長さ/時間 ただし、重力加速度は地球上の地点によって微妙に異なる。(0.066 m/s 程度) 次元:躍度 = 長さ/時間 加速度を時間で微分したもの、即ち距離を時間で3階微分したものである。 生物の運動は躍度最小モデルに近似できる。 次元:質量(= エネルギー/速度) ニュートン力学では、質量は基本要素となる次元である。 相対性理論では、エネルギーを基本要素として質量を分解してもよい。 次元:密度 = 質量/体積 次元:力 = 質量×加速度 = 質量×長さ/時間 次元:トルク = 力×長さ = 質量×長さ/時間 次元はエネルギーと同じ。 次元:圧力 = 力/面積 = 力/長さ 次元: 粘度 = 応力/速度勾配 = (力/面積)/(長さ/時間/長さ) = 圧力×時間 周波数(振動数)・回転速度(回転数) 次元:エネルギー = 力×長さ = 質量×長さ/時間 次元はトルクと同じ。 次元:仕事率 = 仕事/時間 = 質量×長さ/時間 温度 エントロピー 角度 電磁気 電気 磁気 硬度
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "計量単位一覧(けいりょうたんいいちらん)では、計量単位(取引又は証明、産業、学術、日常生活の分野での計量の単位)を一覧する。物象の状態の量とは対応しないが現象や性質の程度を表す量は「尺度・指標」の項に分類する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "計量単位を定義するには、それが表す「量」の概念が重要である。計量法では、この量を物理量よりも広義に捉えて、「物象の状態の量」としている。物象の状態の量は、次の89量があり、それぞれの量に対応して計量単位が定められている。", "title": "物象の状態の量" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「典型72量」と呼ばれる。1)長さ、2)質量、3)時間、4)電流、5)温度、6)物質量、7)光度、8)角度、9)立体角、10)面積、11)体積、12)角速度、13)角加速度、14)速さ、15)加速度、16)周波数、17)回転速度、18)波数、19)密度、20)力、21)力のモーメント、22)圧力、23)応力、24)粘度、25)動粘度、26)仕事、27)工率、28)質量流量、29)流量、30)熱量、31)熱伝導率、32)比熱容量、33)エントロピー、34)電気量、35)電界の強さ、36)電圧、37)起電力、38)静電容量、39)磁界の強さ、40)起磁力、41)磁束密度、42)磁束、43)インダクタンス、44)電気抵抗、45)電気のコンダクタンス、46)インピーダンス、47)電力、48)無効電力、49)皮相電力、50)電力量、51)無効電力量、52)皮相電力量、53)電磁波の減衰量、54)電磁波の電力密度、55)放射強度、56)光束、57)輝度、58)照度、59)音響パワー、60)音圧レベル、61)振動加速度レベル、62)濃度、63)中性子放出率、64)放射能、65)吸収線量、66)吸収線量率、67)カーマ、68)カーマ率、69)照射線量、70)照射線量率、71)線量当量、72)線量当量率の72量である。 (注)各々の物象の状態の量の前に付した数字は、計量法第2条第1項第1号における列挙順の番号である。", "title": "物象の状態の量" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "73)繊度、74)比重、75)引張強さ、76)圧縮強さ、77)硬さ、78)衝撃値、79)粒度、80)耐火度、81)力率、82)屈折度、83)湿度、84)粒子フルエンス、85)粒子フルエンス率、86)エネルギーフルエンス、87)エネルギーフルエンス率、88)放射能面密度、89)放射能濃度の17量である。 (注)各々の量の前に付した数字は、計量単位令第1条における列挙順序であり、典型72量からの通し番号である。", "title": "物象の状態の量" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国際単位系では、単に基本量、組立量または量としている。また計量法の規定とは異なって、量の種類や数を限定していないし限定することも不可能である。これは科学技術などの目的に応じて、量はいくらでも創出できるからである。", "title": "物象の状態の量" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現実には、分野や地方によって、同じ物理量に対応する異なる単位が使われているが、混乱を避けるため単位を統一的に扱う様式を単位系という。", "title": "単位系" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "同じ物象の状態の量についての計量単位同士は一定の換算式を用いて相互変換できる。 端数のある数字と分数のうち、太字の数字は正確な値である。", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "次元:長さ", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "長さは空間の次元の基本要素である。国際単位系ではメートルを用いる。", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "次元:面積 = 長さ(2次元)", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "次元:体積 = 長さ(3次元)", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "次元:時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "時間は基本要素となる次元である。", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "次元:速さ = 長さ/時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "次元:加速度 = 長さ/時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ただし、重力加速度は地球上の地点によって微妙に異なる。(0.066 m/s 程度)", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "次元:躍度 = 長さ/時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "加速度を時間で微分したもの、即ち距離を時間で3階微分したものである。 生物の運動は躍度最小モデルに近似できる。", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "次元:質量(= エネルギー/速度)", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ニュートン力学では、質量は基本要素となる次元である。 相対性理論では、エネルギーを基本要素として質量を分解してもよい。", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "次元:密度 = 質量/体積", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "次元:力 = 質量×加速度 = 質量×長さ/時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "次元:トルク = 力×長さ = 質量×長さ/時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "次元はエネルギーと同じ。", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "次元:圧力 = 力/面積 = 力/長さ", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "次元: 粘度 = 応力/速度勾配 = (力/面積)/(長さ/時間/長さ) = 圧力×時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "周波数(振動数)・回転速度(回転数)", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "次元:エネルギー = 力×長さ = 質量×長さ/時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "次元はトルクと同じ。", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "次元:仕事率 = 仕事/時間 = 質量×長さ/時間", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "温度", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "エントロピー", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "角度", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "電磁気", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "電気", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "磁気", "title": "次元別単位" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "硬度", "title": "尺度・指標" } ]
計量単位一覧(けいりょうたんいいちらん)では、計量単位(取引又は証明、産業、学術、日常生活の分野での計量の単位)を一覧する。物象の状態の量とは対応しないが現象や性質の程度を表す量は「尺度・指標」の項に分類する。
{{物理学}} {{出典の明記|date=2023年3月}} '''計量単位一覧'''(けいりょうたんいいちらん)では、[[計量単位]](取引又は証明、産業、学術、日常生活の分野での計量<ref>[https://www.ne.jp/asahi/office/okada/s_keiriou/si.pdf 新計量法とSI化の進め方-重力単位系から国際単位系(SI)へ-] 通商産業省 SI単位等普及推進委員会、p.1、1999年3月発行</ref>の[[単位]])を一覧する。[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]とは対応しないが現象や性質の程度を表す量は「尺度・指標」の項に分類する。 {{main2|[[計量単位]]以外の「単位」については[[単位一覧]]を}} == 物象の状態の量 == 計量単位を定義するには、それが表す「[[量]]」の概念が重要である。[[計量法]]では、この量を[[物理量]]よりも広義に捉えて、「物象の状態の量」としている。物象の状態の量は、次の'''89量'''があり、それぞれの量に対応して計量単位が定められている。 === 確立された計量単位の存在する72の物象の状態の量 === 「'''典型72量'''」と呼ばれる。1)[[長さ]]、2)[[質量]]、3)[[時間]]、4)[[電流]]、5)[[温度]]、6)[[物質量]]、7)[[光度 (光学)|光度]]、8)[[角度]]、9)[[立体角]]、10)[[面積]]、11)[[体積]]、12)[[角速度]]、13)[[角加速度]]、14)[[速さ]]、15)[[加速度]]、16)[[周波数]]、17)[[回転速度]]、18)[[波数]]、19)[[密度]]、20)[[力 (物理学)|力]]、21)[[力のモーメント]]、22)[[圧力]]、23)[[応力]]、24)[[粘度]]、25)[[動粘度]]、26)[[仕事 (物理学)|仕事]]、27)[[工率]]、28)[[質量流量]]、29)[[流量]]、30)[[熱量]]、31)[[熱伝導率]]、32)[[比熱容量]]、33)[[エントロピー]]、34)[[電気量]]、35)[[電界の強さ]]、36)[[電圧]]、37)[[起電力]]、38)[[静電容量]]、39)[[磁場|磁界の強さ]]、40)[[起磁力]]、41)[[磁束密度]]、42)[[磁束]]、43)[[インダクタンス]]、44)[[電気抵抗]]、45)[[コンダクタンス|電気のコンダクタンス]]、46)[[インピーダンス]]、47)[[電力]]、48)[[電力#無効電力 (reactive power)|無効電力]]、49)[[皮相電力]]、50)[[電力量]]、51)[[無効電力量]]、52)[[皮相電力量]]、53)[[電磁波の減衰量]]、54)[[電磁波の電力密度]]、55)[[放射強度]]、56)[[光束]]、57)[[輝度 (光学)|輝度]]、58)[[照度]]、59)[[音響パワー]]、60)[[音圧レベル]]、61)[[振動加速度レベル]]、62)[[濃度]]、63)[[中性子放出率]]、64)[[放射能]]、65)[[吸収線量]]、66)[[吸収線量率]]、67)[[カーマ (物理学)|カーマ]]、68)[[カーマ率]]、69)[[照射線量]]、70)[[照射線量率]]、71)[[線量当量]]、72)[[シーベルト|線量当量率]]の'''72量'''である。 (注)各々の物象の状態の量の前に付した数字は、計量法第2条第1項第1号における列挙順の番号である<ref>[https://www.ne.jp/asahi/office/okada/s_keiriou/si.pdf 新計量法とSI化の進め方-重力単位系から国際単位系(SI)へ-] pp.8-11、通商産業省 SI単位等普及推進委員会、1999年3月発行</ref>。 === 確立された計量単位のない17の物象の状態の量 === 73)[[繊度]]、74)[[比重]]、75)[[引張強さ]]、76)[[圧縮強さ]]、77)[[硬さ]]、78)[[衝撃値]]、79)[[粒度]]、80)[[耐火度]]、81)[[力率]]、82)[[屈折力|屈折度]]、83)[[湿度]]、84)[[粒子フルエンス]]、85)[[粒子フルエンス率]]、86)[[エネルギーフルエンス]]、87)[[エネルギーフルエンス率]]、88)[[放射能面密度]]、89)[[放射能濃度]]の'''17量'''である。 (注)各々の量の前に付した数字は、計量単位令第1条における列挙順序であり、典型72量からの通し番号である。 === 国際単位系における量 === 国際単位系では、単に基本量、組立量または量としている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI) 第9版 (2019)日本語版、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター] p.98, 106, 108, 109, 114 </ref>。また計量法の規定とは異なって、量の種類や数を限定していないし限定することも不可能である<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI) 第9版 (2019)日本語版、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター] p.107 「量の数には限りがないため、組立量と組立単位を全て網羅した一覧を示すことはできない。」 </ref>。これは科学技術などの目的に応じて、量はいくらでも創出できるからである。 == 単位系 == {{main|単位系}} 現実には、分野や地方によって、同じ物理量に対応する異なる単位が使われているが、混乱を避けるため単位を統一的に扱う様式を[[単位系]]という。 * 質量単位系 ** [[メートル法]] *** [[MKS単位系]] **** [[MKSA単位系]] ***** [[国際単位系]] (SI) *** [[cgs単位系]] **** [[電磁単位系]] **** [[静電単位系]] **** [[ガウス単位系]] *** [[MTS単位系]] ** [[ヤード・ポンド法]] *** [[fps単位系]] ** [[尺貫法]] ** [[尺斤法]] * [[重力単位系]] * [[自然単位系]] ** [[プランク単位系]] ** [[幾何単位系]] ** [[原子単位系]] == 次元別単位 == 同じ物象の状態の量についての計量単位同士は一定の換算式を用いて相互変換できる。 端数のある数字と分数のうち、'''太字の数字'''は正確な値である。 === 空間 === ==== 長さ ==== 次元:長さ 長さは[[空間]]の次元の基本要素である。[[国際単位系]]では[[メートル]]を用いる。{{main2|[[長さの単位]]、[[:Category:長さの単位]]も}} * [[メートル]]:m * [[オングストローム]]:1 &Aring; = 10<sup>-10</sup>m * 歯、級:[[写真植字機]]において、1 歯(1H) = 1 級(1Q) = 0.25 mm * [[ポイント (活字の単位)|ポイント]]:ビッグポイント 1 pt = 1/72 in(約0.352 778 mm) * [[尺]]([[曲尺]]):1 尺 = 10[[寸]] = '''10/33'''(=約0.303 030 303 0303) m * [[尺]]([[鯨尺]]):1 尺 = 10[[寸]] = '''25/66'''(=約0.378 787 878 787 88) m * [[寸]]([[曲尺]]):1 寸 = 約3.03 cm * [[寸]]([[鯨尺]]):1 寸 = 約3.78 cm * [[間]]:1 間 = 6 尺(曲尺) = 約1.818 m * [[キュビット]]:1 [[シュメール]]キュビット = 51.72 cm * [[インチ]]:1 in = '''0.0254''' m * [[フィート]](国際フィート):1 ft = '''0.3048''' m * [[フィート#測量フィート|米国測量フィート]] = '''1200 / 3937''' m(=約0.304 800 609 601 219 m) 2022年12月31日限りで廃止された。 * [[ヤード]]:1 yd = '''0.9144''' m * [[スタディオン]]:1 スタディオン = 148.5 m * [[ベルスタ]](露里):1 ベルスタ = 約1067 m * [[マイル]](国際マイル):1 mile = 1 760 yd = '''1 609.344''' m * [[マイル#測量マイル|測量マイル]] :1 survey mile = 5 280[[フィート#測量フィート|測量フィート]] = 約1 609.347 219 m(アメリカ合衆国の測地測量に用いられた) 2022年12月31日限りで廃止された。 * [[海里]](ノーティカルマイル、NM):1 NM = '''1 852''' m(主に[[船舶]]や[[航空機]]) * [[里 (尺貫法)|里]]:1 里 = 約3.927 km * [[天文単位]]:1 au = '''149 597 870 700''' m * [[光年]]:1 光年 = '''9 460 730 472 580 800''' m = 約9.46 × 10<sup>15</sup> m  * [[パーセク]]:1 パーセク = 約3.26 光年 = 約3.085 68 × 10<sup>16</sup> m * [[ピクセル]]:相対的な長さの単位としても使われる。(ノートに関連事項があります) <!-- * em * % --> ==== 面積 ==== 次元:[[面積]] = 長さ<sup>2</sup>(2次元) * [[平方メートル]]:m<sup>2</sup> * [[アール (単位)|アール]]:1 a = 100 m<sup>2</sup> * [[ヘクタール]]:1 ha = 100 a = 10<sup>4</sup> m<sup>2</sup> * [[平方キロメートル]]:1 km<sup>2</sup> = 100 ha = 10<sup>6</sup> m<sup>2</sup> * [[平方インチ]]:1 in<sup>2</sup> = '''{{val|6.4156}}''' cm<sup>2</sup> * [[平方フィート]]:1 ft<sup>2</sup> = '''{{val|0.09290304}}''' m<sup>2</sup> * [[平方ヤード]]:1 yd<sup>2</sup> = '''{{val|0.83612736}}''' m<sup>2</sup> * [[エーカー]]:1 acre = '''{{val|43560}}''' ft<sup>2</sup> = '''{{val|4046.8564224}}''' m<sup>2</sup> = '''{{val|0.40468564224}}''' ha * [[平方マイル]]:1 mile<sup>2</sup> = '''640''' acre = '''{{val|2.589988110336}}''' km<sup>2</sup> * [[畳 (単位)|畳]] - 部屋の大きさを表す単位。 * [[坪]]/[[反]]/[[町歩]] * [[ピクセル]]:相対的な面積の単位として用いられることがある。ピクセルは同時に長さの単位でもあるが、通常は面積の単位としても単にピクセルと言い、ピクセル<sup>2</sup>とは言わない。(ノートに関連事項があります)などなど ==== 体積 ==== 次元:[[体積]] = 長さ<sup>3</sup>(3次元) * [[立方メートル]]:1 m<sup>3</sup> = 1 kL = 1000 L * [[立方センチメートル]]:1 cm<sup>3</sup> = 1 mL = 10<sup>-3</sup> L = 10<sup>-6</sup> m<sup>3</sup> * [[リットル]]:1 L = 1 dm<sup>3</sup> = 1000 cm<sup>3</sup> = 10<sup>-3</sup> m<sup>3</sup> * [[立方インチ]]:1 in<sup>3</sup> = '''{{val|16.387064}}''' cm<sup>3</sup> * [[立方フィート]]:1 ft<sup>3</sup> = 12<sup>3</sup>in<sup>3</sup> = 1728 in<sup>3</sup> = '''{{val|0.028316846592}}''' m<sup>3</sup> = '''{{val|28.316846592}}''' L * [[才]] - 荷物の体積を表す単位:1 才 = 1 立方[[尺]] ≒ {{val|0.027826474107}} m<sup>3</sup> = {{val|27826.474107}} cm<sup>3</sup> = {{val|27.826474107}} L * 米(液量)[[液量オンス|オンス]]:1 US fl. oz = '''{{val|29.5735295625}}''' cm<sup>3</sup> * 米(液量)[[カップ]]- アメリカのレシピにおけるカップ:1 US fl. cup = 8 US fl. oz = '''{{val|236.5882365}}''' cm<sup>3</sup> (日本は 1 カップ = 1 合 ≒ 180 cm<sup>3</sup>) * 米(液量)[[パイント]]:1 US fl. pt. = 2 US fl. cup = '''{{val|473.176473}}''' cm<sup>3</sup> * 米(液量)[[クォート]]:1 US fl. qt. = 2 US fl. pt. = '''{{val|0.946352946}}''' L([[エンジンオイル]]など) * 米(液量)[[ガロン]] (US fluid Gallon, USG):1 USG = 4 US fl. qt. = 231 in<sup>3</sup> = '''{{val|3.785411784}}''' L = '''{{val|3.785412}}''' L<ref group="注">日本の計量法における定義値</ref> * 英[[ガロン]] (Imperial Gallon):1 Imp. gal. = 4 Imp. qt. = 8 Imp. pt. = 160 Imp. oz = '''{{val|4.54609}}''' L * 米[[バレル]] - 石油の体積を表す単位:1 US bbl = 42 USG = '''{{val|158.987294928}}''' L * 英[[バレル]]:1 Imp. bbl = 36 Imp. gal. = '''{{val|163.65924}}''' L * [[勺]]:1 勺 ≒ 18 cm<sup>3</sup> * [[合]]:1 合 = 10 勺 ≒ 180 cm<sup>3</sup> * [[升]]:1 升 = 10 合 ≒ {{val|1.803906837}} L (1804 cm<sup>3</sup>) * [[斗]]:1 斗 = 10 升 ≒ 18 L ({{val|18039}} cm<sup>3</sup>) * [[石 (単位)|石]]:1 石 = 10 斗 ≒ 180 L ( 0.18 m<sup>3</sup>) === 時間 === 次元:時間 [[時間]]は基本要素となる次元である。 * [[世紀]] * [[年]]/周年/年間/歳 * [[月 (暦)|ヶ月]]/ヶ月間 * [[週]] * [[日]] * [[時間 (単位)|時間]]:h(hr、Hrとは'''しない'''。複数形hrs、Hrsは用いない。SIの規定・計量法の規定による。) * [[分]]:min * [[秒]]:s(sec、sec.とはしない){{main|[[秒#単位記号]]}} * [[ミリ秒]]:ms(1/1000秒) === 速さ === 次元:[[速さ]] = 長さ/時間 * [[秒速]]:m/s、ft/s(fps) * [[分速]]:m/min、ft/min(fpm) * [[時速]]:km/h(kph)、mile/h(MPH; Miles Per Hour):1 MPH = '''1.609 344''' km/h * [[ノット]] - [[船舶]]や[[航空機]]の速さを表す単位。:1 kt = 1 NM/h = '''1.852''' km/h *[[マッハ]]:[[音速]]の単位。 * 1 m/s = 3.6 km/h = 約2 kt<!--(←覚えておくと便利)--> * 1 kine =1 cm/s (地震の揺れ方の大きさによく用いられる) === 加速度 === 次元:[[加速度]] = 長さ/時間<sup>2</sup> * [[ガル]]:1 Gal = 1 cm/s<sup>2</sup> = 0.01 m/s<sup>2</sup> * [[重力加速度]]:1 G = '''9.80665''' m/s<sup>2</sup> ただし、重力加速度は地球上の地点によって微妙に異なる。(0.066 m/s<sup>2</sup> 程度) === 躍度(ジャーク・加加速度) === 次元:[[躍度]] = 長さ/時間<sup>3</sup> * [[躍度|メートル毎秒毎秒毎秒]]:m/s<sup>3</sup> * [[躍度|センチメートル毎秒毎秒毎秒]]:cm/s<sup>3</sup> 加速度を時間で微分したもの、即ち距離を時間で3階微分したものである。 生物の運動は躍度最小モデルに近似できる。 === 質量 === 次元:質量(= エネルギー/速度<sup>2</sup>) [[ニュートン力学]]では、[[質量]]は基本要素となる次元である。 [[相対性理論]]では、[[エネルギー]]を基本要素として質量を分解してもよい。 * [[グラム]]:g * [[キログラム]]:1 kg = 1000 g = 約2.205 lb * [[トン]]:1 t = 1000 kg * [[オンス]]:1 oz = '''{{val|28.349523125}}''' g * [[ポンド (質量)|ポンド]]:1 lb = '''{{val|0.45359237}}''' kg = 16 oz * [[カラット]] - ダイヤモンド等、宝石の質量を表す単位。:1 ct = 200 mg * [[匁|匁・もんめ]] - 真珠の質量を表すのに使用される単位。:1 匁 = '''3.75''' g * [[貫]]:1 貫 = '''3.75''' kg ( 3750 g ) * [[斤]]:1 斤 = (16/100) 貫 = '''600g''' ( '''0.6 kg''' ) === 密度 === 次元:[[密度]] = 質量/体積 * [[グラム毎立方センチメートル]]:1 g/cm<sup>3</sup> = 1000 kg/m<sup>3</sup> = 1 t/m<sup>3</sup> * [[キログラム毎立方メートル]]:kg/m<sup>3</sup> ==== 面密度 ==== ==== 線密度 ==== === 力 === 次元:[[力 (物理学)|力]] = 質量×加速度 = 質量×長さ/時間<sup>2</sup> * [[ニュートン (単位)|ニュートン]]:1 N = 1 kg・m/s<sup>2</sup>(約100g) * [[ダイン]]:1 dyn = 10<sup>-5</sup> N * [[キログラム重|重量キログラム]]:1 kgf(kgw) = '''{{val|9.80665}}''' N * [[重量ポンド]]:1 lbf(lbw) = '''{{val|0.45359237}}''' kgf = '''{{val|4.4482216152605}}''' N * [[パウンダル]]:1 pdl = 1 ft・lb/s<sup>2</sup> === トルク === 次元:[[トルク]] = 力×長さ = 質量×長さ<sup>2</sup>/時間<sup>2</sup> 次元はエネルギーと同じ。 * [[ニュートンメートル]]:N・m * [[インチ重量ポンド]](ふつうインチ・ポンドと呼ぶ):in・lbf * [[フィート重量ポンド]](ふつうフィート・ポンドあるいはフート・ポンドと呼ぶ):1 ft・lbf = 12 in・lbf === 圧力・応力 === 次元:[[圧力]] = 力/面積 = 力/長さ<sup>2</sup> * [[パスカル (単位)|パスカル]]:1 Pa = 1 N/m<sup>2</sup> * [[ヘクトパスカル]]:1 hPa = 10<sup>2</sup> Pa * [[メガパスカル]]:1 MPa = 10<sup>6</sup> Pa = 10.197 kgf/cm<sup>2</sup> = 145.0 PSI * [[ミリバール]]:1 mbar = 1 hPa * [[バール (単位)|バール]]:1 bar = 0.1 MPa * [[重量キログラム毎平方センチメートル]]:1 kgf/cm<sup>2</sup> = 0.9678 atm = 14.22 PSI = 28.96 inHg = 10 mH<sub>2</sub>O * [[気圧]]:1 atm = '''1013.25''' hPa = 760 Torr = 29.92 inHg = 14.70 PSI * [[トル]]:1 Torr = 1 mmHg = 1.333 hPa * [[水銀柱ミリメートル]]:1 mmHg = 1 Torr * [[水柱ミリメートル]]([[ミリメートルアクア]]):mmH<sub>2</sub>O(mmAq) * [[水柱インチ]]:1 inHg = 0.4912 PSI = 345.3 mmAq * [[重量ポンド毎平方インチ]](Pound-force per Square Inch, psiとも):1 psi = 2.036 inHg = 0.07 kg/cm<sup>2</sup> ===粘度=== 次元: [[粘度]] = 応力/速度勾配 = (力/面積)/(長さ/時間/長さ) = 圧力×時間 * [[パスカル秒]] * [[ポアズ]]: 1 P = 0.1 Pa・s === 振動・波動 === ==== 周波数・回転数 ==== [[周波数]](振動数)・[[回転速度]](回転数) * [[rpm (単位)|rpm]](revolution per minute、RPMとも // 毎分回転数) * [[rps (単位)|rps]](revolution per second、RPSとも // 毎秒回転数):1 rps = 1 Hz = 60 rpm * [[ヘルツ (単位)|ヘルツ]]:1 Hz = 1/s ===== 対数 ===== * [[セント (音楽)|セント]] * [[オクターブ]] - 音楽で使う[[音程]]を表す単位。 * [[マグニチュード]] - 地震のエネルギーを表す単位。 * [[等級 (天文)|等級]] - 星の明るさを表す単位。 * [[デシベル]] - 音の大きさを表す単位。 ==== 周期 ==== === エネルギー関連 === ==== エネルギー・仕事・熱量 ==== 次元:[[エネルギー]] = 力×長さ = 質量×長さ<sup>2</sup>/時間<sup>2</sup> 次元はトルクと同じ。 * [[ジュール]]:1 J = 1 N・m = 1 W・s * [[キログラム重メートル|重量キログラムメートル]]:1 kgf・m = '''{{val|9.80665}}''' J * [[フィート重量ポンド]]:1 ft・lbs = 1.3558 * [[電子ボルト]](electron volt):1 eV = '''{{val|1.602176634}}'''×<sup>-19</sup> J * [[カロリー]]:1 cal = '''{{val|4.184}}''' J = 0.4269 kgf・m * [[カロリー|キロカロリー]]:1 kcal = 1000 cal = {{val|3.965651}} Btu * [[Btu]](British Thermal Unit、[[英熱量]]):1 Btu = '''1055.06''' J = {{val|252.165392}} cal * [[キロワット時]]:1 kWh(kW・h) = 860.0 kcal = '''3.6''' MJ(メガジュール) * 英[[馬力時]]:1 HP・h = '''{{val|745.69987158227022}}''' Wh<ref group="注">イギリスの法令上の正確な換算値</ref> = 1.014 PS・h * 仏[[馬力時]]1 PS・h = '''0.7355''' kWh * [[エルグ]]:1 erg = 10<sup>-7</sup> J :; [[カロリー]]について : [[熱量]]の単位であるが、「人若しくは動物が摂取する物の熱量又は人若しくは動物が代謝により消費する熱量の計量」に限って使用できる単位である。典型的には、食品の持つ栄養価(いわゆるカロリー値)の表示に見られる。 ==== 仕事率 ==== 次元:[[仕事率]] = 仕事/時間 = 質量×長さ<sup>2</sup>/時間<sup>3</sup> * [[ワット (単位)|ワット]]:1 W = 1 J/s = 1 N・m/s = 1 Pa・m<sup>3</sup>/s * [[キロワット]]:1 kW = 1000 W = 102.0 kgf・m/s * [[馬力]] ** 英馬力:1 HP = '''{{val|745.69987158227022}}''' W<ref group="注">イギリスの法令上の正確な換算値</ref> = 76.07 kgf・m/s = 1.014 PS ** 仏馬力:1 PS = '''0.7355''' kW = 75 kgf・m/s * [[重量キログラムメートル毎秒]]:kgf・m/s * [[フィート重量ポンド毎秒]]:ft・lb/s * [[キロカロリー毎秒]]:1 kcal/s = '''{{val|4.184}}''' kW * 英[[熱量毎秒]]:1 Btu/s = '''{{val|1.05506}}''' kW ==== 温度 ==== [[温度]] * [[ケルビン]] - [[熱力学温度]](絶対温度):K * [[セルシウス度]](摂氏) - セルシウス温度:C deg = 5/9×(F - 32) * [[華氏]] - [[華氏温度]]:F deg = 9/5×C + 32 ==== エントロピー ==== [[エントロピー]] ==== 可視光関係 ==== * [[カンデラ]] - SI [[光度 (光学)|光度]] * [[ルクス]] - [[照度]] * [[ルーメン]] - [[光束]] ** [[ANSIルーメン]] * [[ディオプトリ]] - D、Dptr === 角度 === [[角度]] ==== 平面角 ==== * [[度 (角度)|度]], [[分 (角度)|分]], [[秒 (角度)|秒]] * [[ラジアン]] - 平面角:1 rad = 360/(2π) deg ≈ 57.296 deg * [[グラード (単位)|グラード]] * [[ミル (角度)|ミル]] * [[点 (角度)|点]] * [[turn (角度)|turn]] - 一回転を単位とする:1 turn = 2π rad = 360° ==== 立体角 ==== * [[ステラジアン]] - 立体角 * [[平方度]] - 星座などの大きさを表す単位。 === 数量 === * [[モル]]:1 mol = '''{{val|6.02214076}}'''×10<sup>23</sup> === 原子核・放射線 === * [[放射線]]の[[エネルギー]]を表す単位 **[[電子ボルト]] 1eV = '''{{val|1.602176634}}'''×10<sup>-19</sup>J *[[反応断面積]] **[[バーン_(単位)|バーン]] <!-- 単位ではない * [[放射性崩壊]]の速度。出入りがない単一の放射性物質の放射能や原子数が半分になる時間T<sub>1/2</sub>をln2/λで定義する。ここでλが崩壊定数であり、その逆数が平均寿命である。 ** [[半減期]] ** [[平均寿命#素粒子・放射性同位体の平均寿命|平均寿命]] ** [[崩壊定数]] --> * [[放射能]]の単位。原子核数をN、崩壊定数をλとおいたときそれらの積λNで与えられ、放射性崩壊の時間微分に等しい。次元は時間の逆数だが放射能以外の計量には使えない。 ** [[ベクレル]] ** [[キュリー]] ** [[ラザフォード_(単位)|ラザフォード]] *放射能の濃度等 **[[マッヘ]] 1リットルあたりの物質に含まれる放射能。現代では殆ど用いられない。 **[[比放射能]](単一の放射性物質が単位質量あったときの放射能)はBq/kgなどの誘導単位で表される。 **また単位面積や単位体積あたりの放射能の密度もよく使われるがこれも単位の名前はなく誘導単位のまま用いられる。Bq/m<sup>2</sup>、Bq/m<sup>3</sup>など。 * [[照射線量]]の単位。現代では吸収線量の方がよく使われる。 ** [[レントゲン (単位)|レントゲン]] * [[吸収線量]]の単位。次元はエネルギー/質量。 ** [[グレイ (単位)|グレイ]] ** [[ラド]] *[[実効線量]]、[[等価線量]]、線量当量の単位。吸収線量に生物学的効果を考慮した量。 ** [[シーベルト]] ** [[レム]] {{放射能に関する単位}} === 電磁気 === [[電磁気]] ==== 電気 ==== [[電気]] * [[クーロン]] - [[電荷]]の単位。電荷は基本要素となる次元。:1 C = 1 A・s * [[アンペア]] - SI [[電流]]の単位。次元:電流 = 電荷/時間:1 A = C/s * [[ボルト (単位)|ボルト]] - [[電位]]の単位。次元:エネルギー/電荷:1 V = 1 J/C * [[オーム]] - [[電気抵抗]] - [[インピーダンス]] : 1Ω = V/A * [[ファラド]] - [[静電容量]]:F * [[ジーメンス]]([[ジーメンス#モー|モー]]) - [[電気伝導]]([[コンダクタンス]]) - [[アドミタンス]] ==== 磁気 ==== [[磁気]] * [[ヘンリー (単位)|ヘンリー]] - [[透磁率]]:H * [[エルステッド]] - [[磁界]] * [[磁束密度]]:B ** [[ガウス (単位)|ガウス]] ** [[テスラ (単位)|テスラ]] - 1テスラは、10<sup>4</sup>ガウスに等しい。 * [[ウェーバ]] - [[磁束]]:Wb * [[マクスウェル (単位)|マクスウェル]] - 磁束 * [[ギルバート (単位)|ギルバート]] - [[磁位]] === 比 === * [[パーセント]]:1 % = 1/100 * [[パーミル]]:1 ‰ = 1/1000 * [[ppm]] = parts per million(百万分率)の意で[[濃度]]の単位。同類に[[ppm|ppc,ppb,ppt,ppma,ppmw]]などがある。 ==== 対数 ==== * [[デシベル]]:dB == 尺度・指標 == === エネルギー === * [[マグニチュード]] - 地震の規模を表す指標。 === 硬度 === [[硬度]] * [[ショア]] * [[モース硬度]] * [[ヴィッカース硬度]] === 音の大きさ === * [[デシベル|デシベル(ベル)]]:dB (B) * [[ホン]] == 脚注 == ;注 <references group="注"/> ;出典類 <references /> == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} * {{Cite book|和書 |title= JIS Z8000-1 量及び単位-第1部:一般 |publisher= 日本規格協会発行 |year= 2014 |ref= jisz8000-1 }} * {{Cite book|和書 |title= JIS Z8103 計測用語 |publisher= 日本規格協会発行 |year= 2000 |ref= jisz8103 }} == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|}} --> * [[SI組立単位]] *[[補助単位]] * [[計量法に基づく計量単位一覧]] * [[単位の換算一覧]] - [[数量の比較]] * [[物理学]] * [[量の次元]] - [[無次元量]] * [[単位]] - [[単位系]] - [[単位一覧]] == 外部リンク == *[http://www.yuki-daruma.net/unit/keiryo.htm 計量単位] {{DEFAULTSORT:けいりようたんいいちらん}} [[Category:物理単位|*けいりようたんいいちらん]] [[Category:物理学に関する一覧]]
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2023-07-24T21:32:21Z
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6,942
価電子
価電子(、英: valence electron)とは、原子核の周囲に束縛されている電子のうち、最外殻に存在する電子のことである。価電子は、原子間の化学結合などにおいて重要な役割を果たしていることが多く、物質の性質を特徴づける主要な要素である。原子価電子()ともいう。 基本的に、価電子数は最外殻電子数と等しい。また、典型元素(貴ガスを除く)は各族番号の1の位が価電子数となる。ただし、最外殻電子がちょうどその電子殻の最大収容数の場合、または最外殻電子が8個の場合、価電子の数は0とする。 典型元素の価電子は、その元素より原子番号の小さい最初の貴ガス原子の軌道より外側の軌道を占める電子である。ただし、典型元素でも、ガリウムの3d軌道のように、比較的浅い内殻電子は、価電子的な振る舞いをし物性や化学結合に寄与する場合がある。例えば、窒化ガリウムでは、化合物の構成に関与している。また、遷移元素では、価電子は最外殻電子を意味していないため、特定の価電子を持っていないと言える。特にf電子をもつ元素では、価電子の定義は必ずしもこのようにはならない場合が少なくない。 固体の絶縁体や半導体において、価電子帯を占める電子を価電子ということもある。固体の金属においては、伝導電子(自由電子)に相当する。
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価電子(かでんし、とは、原子核の周囲に束縛されている電子のうち、最外殻に存在する電子のことである。価電子は、原子間の化学結合などにおいて重要な役割を果たしていることが多く、物質の性質を特徴づける主要な要素である。原子価電子ともいう。 基本的に、価電子数は最外殻電子数と等しい。また、典型元素は各族番号の1の位が価電子数となる。ただし、最外殻電子がちょうどその電子殻の最大収容数の場合、または最外殻電子が8個の場合、価電子の数は0とする。 典型元素の価電子は、その元素より原子番号の小さい最初の貴ガス原子の軌道より外側の軌道を占める電子である。ただし、典型元素でも、ガリウムの3d軌道のように、比較的浅い内殻電子は、価電子的な振る舞いをし物性や化学結合に寄与する場合がある。例えば、窒化ガリウムでは、化合物の構成に関与している。また、遷移元素では、価電子は最外殻電子を意味していないため、特定の価電子を持っていないと言える。特にf電子をもつ元素では、価電子の定義は必ずしもこのようにはならない場合が少なくない。 固体の絶縁体や半導体において、価電子帯を占める電子を価電子ということもある。固体の金属においては、伝導電子に相当する。
{{出典の明記| date = 2023年5月}} {{読み仮名|'''価電子'''|かでんし|{{lang-en-short|valence electron}}}}とは、[[原子核]]の周囲に束縛されている[[電子]]のうち、[[電子殻|最外殻]]に存在する電子のことである。価電子は、[[原子]]間の[[化学結合]]などにおいて重要な役割を果たしていることが多く、物質の性質を特徴づける主要な要素である。{{読み仮名|'''原子価電子'''|げんしかでんし}}ともいう。 基本的に、価電子数は最外殻電子数と等しい。また、[[典型元素]]([[貴ガス]]を除く)は各族番号の1の位が価電子数となる。ただし、最外殻電子がちょうどその電子殻の最大収容数の場合、または最外殻電子が8個の場合、価電子の数は0とする。 {| class="wikitable" |- ![[族 (元素)]]||最外殻電子数||価電子数 |- | 第1族 (I) ([[アルカリ金属]]) || 1 || 1 |- | 第2族 (II) ([[アルカリ土類金属]]) || 2 || 2 |- | 第3族 - 第12族 ([[遷移金属]])<ref>[[第12族元素]]は遷移金属として扱わず、[[典型元素#第12族元素(亜鉛族)|典型金属]]とすることがある。</ref> || 3&ndash;12<ref>n個、n-1個の[[d電子]]の数。[[Dブロック元素]]を参照。</ref> || 2&ndash;7<ref>元素によって異なる。各族に属する各元素を参照。</ref> |- | 第13族 (III) ([[ホウ素族]]) || 3 || 3 |- | 第14族 (IV) ([[炭素族]]) || 4 || 4 |- | 第15族 (V) ([[プニクトゲン]]または窒素族) || 5 || 5 |- | 第16族 (VI) ([[カルコゲン]]または酸素族) || 6 || 6 |- | 第17族(VII) ([[ハロゲン]]) || 7 || 7 |- | 第18族 (VIII or 0) (貴ガス) || 8<ref>2個の最外殻電子しかもたない[[ヘリウム]]は除外。</ref> || 0 |} [[典型元素]]の価電子は、その元素より[[原子番号]]の小さい最初の[[貴ガス]]原子の軌道より外側の軌道を占める電子である。ただし、典型元素でも、[[ガリウム]]の[[d軌道|3d軌道]]のように、比較的浅い内殻電子は、価電子的な振る舞いをし物性や化学結合に寄与する場合がある。例えば、[[窒化ガリウム]]では、化合物の構成に関与している。また、[[遷移元素]]では、価電子は[[電子殻|最外殻電子]]を意味していないため、特定の価電子を持っていないと言える。特に[[電子配置|f電子]]をもつ元素では、価電子の定義は必ずしもこのようにはならない場合が少なくない。 固体の[[絶縁体]]や[[半導体]]において、[[価電子帯]]を占める電子を価電子ということもある。固体の[[金属]]においては、[[伝導電子]]([[自由電子]])に相当する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[価電子帯]] *[[伝導帯]] *[[フェルミエネルギー]] *[[バンド理論]] *[[バンド構造]] {{chem-stub}} {{デフォルトソート:かてんし}} [[Category:電子]] [[Category:電子状態]]
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6,943
物性
物性(ぶっせい)とは、物質の示す物理的性質のこと。機械的性質(力学的性質)、熱的性質、電気的性質、磁気的性質(磁性)、光学的性質(光物性)がある。
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物性(ぶっせい)とは、物質の示す物理的性質のこと。機械的性質(力学的性質)、熱的性質、電気的性質、磁気的性質(磁性)、光学的性質(光物性)がある。
{{出典の明記|date=2012年9月17日 (月) 17:39 (UTC)}} '''物性'''(ぶっせい)とは、[[物質]]の示す[[物理]]的性質のこと。[[機械的性質]]([[力学]]的性質)、[[熱]]的性質、[[電気]]的性質、磁気的性質([[磁性]])、[[光学]]的性質([[光物性]])がある。 == 物性値 == {{Main|物性値}} * [[密度]] * [[誘電率]] * [[透磁率]] * [[磁化率]]([[帯磁率]]) * [[導電率]]およびその逆数の[[電気抵抗率]] * [[熱伝導率]] * [[比熱]] * [[線膨張率]] * [[沸点]] * [[融点]] * [[弾性係数]]([[ヤング率|縦弾性係数]]、[[横弾性係数]]) * [[ポアソン比]] <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} --> <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|Physical properties}} * [[物性物理学]] * [[物性値]] <!-- == 外部リンク == --> {{Physics-stub}} {{デフォルトソート:ふつせい}} [[Category:物質の性質|*]] [[Category:物理学]] [[de:Stoffeigenschaft#Physikalische Stoffeigenschaften]] [[es:Magnitud física]]
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6,945
光年
光年(こうねん、英: light-year、独: Lichtjahr、記号 ly)は長さの非SI単位。 主に天文学分野で用いられ、約9.5兆キロメートル(正確に9460730472580800 m)だが、SI併用単位ではなく、日本の法定計量単位でもないので取引・証明に用いることはできない。「年」が付くが時間の単位ではない。 1光年は、光が自由空間かつ重力場及び磁場の影響を受けない空間を1 ユリウス年(365.25 日 = 31557600 秒)の間に通過する長さである。真空中の光速度は正確に 299792458 m/s であるので、1光年は正確に 9460730472580800 m である。概数としては、約9.46×10 メートル(約9.46 ペタメートル)である。 距離の単位として、「光年」を初めて使用したのは、ドイツ人のオットー・エドゥアルト・ヴィンツェンツ・ウレである。ウレは1851年の著作、Deutsches Museum: Zeitschrift für Literatur, Kunst u. Öffentliches ..., Volume 1の中で、初めて「光年」(ドイツ語ではlichtjahre)を距離の単位として用いた。なお、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは1838年にはくちょう座61番星までの距離を、「光が1年間に通過する距離」の10.3倍(最新の観測では11.4光年)であることを見いだしたが、「光年」という単位を用いたわけではない。 国際天文学連合 (IAU) は1964年に定めた太陽年(ユリウス年とは異なる)と光速の実測値(定義値ではない)を天文定数(英語版)体系に含めており、それを1968年から1983年まで使用していた。サイモン・ニューカムは、J1900.0の平均太陽年 31556925.9747 暦表秒と光速度 299792.5 km/s から1光年を 9.460530×10 m と計算した(光速度の有効数字7桁で丸めている)。この値がいくつかの最近の文献にも記載されているが、おそらく1973年の有名な本を参照したものと思われ、この文献は2000年まで改版されていなかった。 他の高精度の値は一貫したIAU体系のみからでは導出できない。9.460536207×10 m という不正確な値がいくつかの現代の文献に見られるが、平均グレゴリオ年365.2425 日(31556952 秒)と光速度の定義(299792458 m/s)を使って計算したものであろう。9.460528405×10 m という不正確な値もあるが、これはJ1900.0の平均太陽年と光速度の定義を使って求めたものであろう。 現在では1光年の値は天文定数からは除外されている。 光年は、銀河や恒星などの天体までの距離を表するのによく用いられる。キロメートル単位で表すと文字通り「天文学的数字」になるからである。 現在天文学では、恒星までの距離を示すときにはパーセクが用いられる。パーセクは、1天文単位動いたときの視差が1秒となる距離のことで、1パーセクは約3.26光年となる。パーセクは観測データから簡単に求めることができ、相互参照できることからよく用いられている。しかし、科学者以外の一般大衆の間では、直感的に理解しやすい「光年」の方が広く使われている。 1光年は約63241 天文単位である。光年で示されることの多い距離のものについては記事「1 E15 m」を参照のこと。 光年に関連して、光が1週間・1日間・1時間・1分間・1秒間に進む距離とし光週・光日・光時・光分・光秒という単位も定義できる。 大まかな距離を表すのに1光年の12分の1の光月という単位も時折使われている。ただし、光月は月の時間間隔を定めていないので厳密な定義が存在しない。 光年は、かならず時間の経過を考慮する必要があることには注意すべきである。例えば地球からの距離が1光年の星を見る場合、見ている光はその星から1年前に発せられたものであるため、1年前に1光年の距離にあったその星をいま地球で見ていることになる。仮に、たった今その星が何らかの原因で消滅したとしても、地球からはその星の1年前の光しか見ることができないため、見かけ上は今後1年間は星がまだ存在しているように“見え”、1年後にやっと星が消滅したように“見える”。 大きな赤方偏移が観測されるような非常に遠方の天体の場合、例えば2014年現在最も遠い天体であるMACS0647-JDは赤方偏移 z = 10.7 の値を持ち、距離は 133 億 9200 万光年、ハッブルの法則により地球からは光速の 98.5% にあたる 295,444 km/s で後退しているように“見える”と計算される。しかし、これはこの天体から133 億 9200 万年前に発せられた光を元に計算されたみかけ上の値(このような距離を光行距離(英語版)、英: Light-travel distance という)であり、実際はいま時点では 319 億 3900 万光年の距離(このような距離を共動距離(英語版)、英: Comoving Distance という)にあり、後退速度は実光速の2倍以上にもなる 695,115 km/s である。このようなスケールでの後退速度は実際は計量自体の拡大速度であり、天体自体はこの計量上を光速度以下で運動していて光速不変の原理とは矛盾しない。 光年は恒星間の距離以上に用いる。 1000光年(約306.6パーセク)は "kly"(Kilo Light Year)と略記され、銀河の構造の寸法などを表記するのに用いる場合がある。 100万光年(約30万6600パーセク)は "Mly"(Mega Light Year)と略記され、銀河や銀河団までの距離を表記するのに用いる場合がある。 “観測可能な宇宙”の大きさは、この共動距離の理解からおよそ 457 億光年(14 ギガパーセク)とされているが、これは 宇宙マイクロ波背景放射(英: cosmic microwave background radiation、CMB)の赤方偏移の観測値 z = 1090 から計算される共動距離の値で、誕生してからおよそ 38 万年後の宇宙が膨張により移動して現在「在る」場所から、それを観測している現在の我々までの距離をいう(つまり、457 億年前の光をいま観察しているのでもないし、457 億光年離れた距離を計測できているわけでもない。観測できる宇宙の過去は宇宙が誕生した138億年前が限界である。{138 億年 - 38 万年}前の光を発した空間が「現在」は 457 億光年先にまで進んでいるという説明にすぎず、「457億年前」から「現在」までに「457億光年先のその空間」で何が起きたかを我々は知る術もない)。宇宙はもっと先にまで広がっているかもしれないが、「(理論の検証のための)観測ができない以上は考えても意味が無い(=理論が証明できない)」とするのが現在の宇宙論の立場である。“観測可能な宇宙”は宇宙論の立場では我々を中心に置いたこの半径 457 億光年の球体内となり、この球面が宇宙論の立場での「宇宙の果て」「宇宙の大きさ」ということになる。CMB の観察結果よりも過去の宇宙の情報を知る手段で観測できるのであれば、“観測可能な宇宙”はさらに大きくなる。 逆説的だが、我々が現在観測している CMB の光は、赤方偏移から逆算すると共動距離で 3600 万光年しか進んでいないことになる(これも、3600 万年前の黒体放射を観測しているのではないし、3600 万光年の距離を実測できているわけでもない)。過去のそれより小さい距離(共動距離)で起きた事象を我々は観測できていない。 このように矛盾に思えるような光年スケールでの解釈は、宇宙の計量が拡大しているという事実と、有限である光速を使った光年を距離の単位に使うという事実の両方からくる非日常さゆえに理解が難しいとされることがある。 「年」がついているが時間の単位ではなく距離の単位である。 人類は古代より移動手段がどれほど時間消費するかで距離を測ってきた。例えば魏志倭人伝に登場する黒歯国までの距離は「船行一年」、つまり船で航行した場合で1年間の時間が必要、と表現されていた。 そのほかにも散文的に「距離」と移動に(最低限)必要な「時間」を明確に区別しない例が見受けられる。 現代でも、山口百恵の「さよならの向う側」(作詞:阿木燿子)、THE YELLOW MONKEYの「BRILLIANT WORLD」(作詞:吉井和哉)などのように、時間を表す表現として「光年」を用いている楽曲がある。 日本の漫画やゲーム作品では、時間の単位と勘違いした誤用を笑いの種として用いる例がある。
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Öffentliches ..., Volume 1の中で、初めて「光年」(ドイツ語ではlichtjahre)を距離の単位として用いた。なお、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは1838年にはくちょう座61番星までの距離を、「光が1年間に通過する距離」の10.3倍(最新の観測では11.4光年)であることを見いだしたが、「光年」という単位を用いたわけではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国際天文学連合 (IAU) は1964年に定めた太陽年(ユリウス年とは異なる)と光速の実測値(定義値ではない)を天文定数(英語版)体系に含めており、それを1968年から1983年まで使用していた。サイモン・ニューカムは、J1900.0の平均太陽年 31556925.9747 暦表秒と光速度 299792.5 km/s から1光年を 9.460530×10 m と計算した(光速度の有効数字7桁で丸めている)。この値がいくつかの最近の文献にも記載されているが、おそらく1973年の有名な本を参照したものと思われ、この文献は2000年まで改版されていなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "他の高精度の値は一貫したIAU体系のみからでは導出できない。9.460536207×10 m という不正確な値がいくつかの現代の文献に見られるが、平均グレゴリオ年365.2425 日(31556952 秒)と光速度の定義(299792458 m/s)を使って計算したものであろう。9.460528405×10 m という不正確な値もあるが、これはJ1900.0の平均太陽年と光速度の定義を使って求めたものであろう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現在では1光年の値は天文定数からは除外されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "光年は、銀河や恒星などの天体までの距離を表するのによく用いられる。キロメートル単位で表すと文字通り「天文学的数字」になるからである。", "title": "光年スケールの実際" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在天文学では、恒星までの距離を示すときにはパーセクが用いられる。パーセクは、1天文単位動いたときの視差が1秒となる距離のことで、1パーセクは約3.26光年となる。パーセクは観測データから簡単に求めることができ、相互参照できることからよく用いられている。しかし、科学者以外の一般大衆の間では、直感的に理解しやすい「光年」の方が広く使われている。", "title": "光年スケールの実際" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1光年は約63241 天文単位である。光年で示されることの多い距離のものについては記事「1 E15 m」を参照のこと。", "title": "光年スケールの実際" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "光年に関連して、光が1週間・1日間・1時間・1分間・1秒間に進む距離とし光週・光日・光時・光分・光秒という単位も定義できる。", "title": "光年スケールの実際" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大まかな距離を表すのに1光年の12分の1の光月という単位も時折使われている。ただし、光月は月の時間間隔を定めていないので厳密な定義が存在しない。", "title": "光年スケールの実際" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "光年は、かならず時間の経過を考慮する必要があることには注意すべきである。例えば地球からの距離が1光年の星を見る場合、見ている光はその星から1年前に発せられたものであるため、1年前に1光年の距離にあったその星をいま地球で見ていることになる。仮に、たった今その星が何らかの原因で消滅したとしても、地球からはその星の1年前の光しか見ることができないため、見かけ上は今後1年間は星がまだ存在しているように“見え”、1年後にやっと星が消滅したように“見える”。", "title": "光年の扱いに注意すべきこと" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大きな赤方偏移が観測されるような非常に遠方の天体の場合、例えば2014年現在最も遠い天体であるMACS0647-JDは赤方偏移 z = 10.7 の値を持ち、距離は 133 億 9200 万光年、ハッブルの法則により地球からは光速の 98.5% にあたる 295,444 km/s で後退しているように“見える”と計算される。しかし、これはこの天体から133 億 9200 万年前に発せられた光を元に計算されたみかけ上の値(このような距離を光行距離(英語版)、英: Light-travel distance という)であり、実際はいま時点では 319 億 3900 万光年の距離(このような距離を共動距離(英語版)、英: Comoving Distance という)にあり、後退速度は実光速の2倍以上にもなる 695,115 km/s である。このようなスケールでの後退速度は実際は計量自体の拡大速度であり、天体自体はこの計量上を光速度以下で運動していて光速不変の原理とは矛盾しない。", "title": "光年の扱いに注意すべきこと" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "光年は恒星間の距離以上に用いる。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1000光年(約306.6パーセク)は \"kly\"(Kilo Light Year)と略記され、銀河の構造の寸法などを表記するのに用いる場合がある。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "100万光年(約30万6600パーセク)は \"Mly\"(Mega Light Year)と略記され、銀河や銀河団までの距離を表記するのに用いる場合がある。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "“観測可能な宇宙”の大きさは、この共動距離の理解からおよそ 457 億光年(14 ギガパーセク)とされているが、これは 宇宙マイクロ波背景放射(英: cosmic microwave background radiation、CMB)の赤方偏移の観測値 z = 1090 から計算される共動距離の値で、誕生してからおよそ 38 万年後の宇宙が膨張により移動して現在「在る」場所から、それを観測している現在の我々までの距離をいう(つまり、457 億年前の光をいま観察しているのでもないし、457 億光年離れた距離を計測できているわけでもない。観測できる宇宙の過去は宇宙が誕生した138億年前が限界である。{138 億年 - 38 万年}前の光を発した空間が「現在」は 457 億光年先にまで進んでいるという説明にすぎず、「457億年前」から「現在」までに「457億光年先のその空間」で何が起きたかを我々は知る術もない)。宇宙はもっと先にまで広がっているかもしれないが、「(理論の検証のための)観測ができない以上は考えても意味が無い(=理論が証明できない)」とするのが現在の宇宙論の立場である。“観測可能な宇宙”は宇宙論の立場では我々を中心に置いたこの半径 457 億光年の球体内となり、この球面が宇宙論の立場での「宇宙の果て」「宇宙の大きさ」ということになる。CMB の観察結果よりも過去の宇宙の情報を知る手段で観測できるのであれば、“観測可能な宇宙”はさらに大きくなる。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "逆説的だが、我々が現在観測している CMB の光は、赤方偏移から逆算すると共動距離で 3600 万光年しか進んでいないことになる(これも、3600 万年前の黒体放射を観測しているのではないし、3600 万光年の距離を実測できているわけでもない)。過去のそれより小さい距離(共動距離)で起きた事象を我々は観測できていない。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このように矛盾に思えるような光年スケールでの解釈は、宇宙の計量が拡大しているという事実と、有限である光速を使った光年を距離の単位に使うという事実の両方からくる非日常さゆえに理解が難しいとされることがある。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「年」がついているが時間の単位ではなく距離の単位である。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "人類は古代より移動手段がどれほど時間消費するかで距離を測ってきた。例えば魏志倭人伝に登場する黒歯国までの距離は「船行一年」、つまり船で航行した場合で1年間の時間が必要、と表現されていた。 そのほかにも散文的に「距離」と移動に(最低限)必要な「時間」を明確に区別しない例が見受けられる。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現代でも、山口百恵の「さよならの向う側」(作詞:阿木燿子)、THE YELLOW MONKEYの「BRILLIANT WORLD」(作詞:吉井和哉)などのように、時間を表す表現として「光年」を用いている楽曲がある。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本の漫画やゲーム作品では、時間の単位と勘違いした誤用を笑いの種として用いる例がある。", "title": "「光年」を使った距離の表現事例" } ]
光年は長さの非SI単位。 主に天文学分野で用いられ、約9.5兆キロメートル(正確に9460730472580800 m)だが、SI併用単位ではなく、日本の法定計量単位でもないので取引・証明に用いることはできない。「年」が付くが時間の単位ではない。
{{単位 |名称=光年 |記号=ly |単位系=[[非SI単位]]、非[[法定計量単位]] |物理量=長さ |定義=光が自由空間を1年間 (365.25 d) に通過する長さ |SI={{val|9460730472580800|u=m|s=(正確に)}} |画像=[[ファイル:1e15m comparison light year month comet 1910a1.png|250px|光年]]<br />外側の球面は太陽から1光年の位置を表し、内側の小さい球が1光月の位置を表す。左の黄色の線は[[:en:Great January comet of 1910|1月の大彗星(1910年)]]の軌道 }} '''光年'''(こうねん、{{lang-en-short|''light-year''}}、{{lang-de-short|''Lichtjahr''}}、記号 ly<ref>理科年表、平成28年版、p. 371、丸善、2015年11月30日発行、ISBN 978-4-621-08966-8</ref><ref>[http://www.iau.org/public/themes/measuring/ Measuring the Universe,The IAU and astronomical units] IAU</ref>)は[[長さ]]の[[非SI単位]]。 主に[[天文学]]分野で用いられ、約9.5兆キロメートル(正確に{{val|9460730472580800|u=m}})だが、[[SI併用単位]]ではなく<ref group="注釈">[[国際単位系国際文書]]より。[[パーセク]]は1970年(第1版)、1973年(第2版)、1977年(第3版)でSI併用単位(実験的に得られるもの)</ref>、日本の[[法定計量単位]]でもないので取引・証明に用いることはできない。「[[年]]」が付くが時間の単位ではない。 == 概要 == 1光年は、[[光]]が自由空間かつ[[重力場]]及び[[磁場]]の影響を受けない空間を{{val|1|ul=ユリウス年}}({{val|365.25|ul=日}} = {{val|31557600|ul=秒}})<ref>[http://www.iau.org/Units.234.0.html IAU Recommendations concerning Units] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070216041250/http://www.iau.org/Units.234.0.html |date=2007年2月16日 }}</ref>の間に通過する長さである<ref name="IAUgen">{{citation| url = http://www.iau.org/public_press/themes/measuring/ | title = The IAU and astronomical units | publisher = [[国際天文学連合|International Astronomical Union]] | accessdate=2008-07-05}}</ref>。[[真空中の光速度]]は正確に {{val|299792458|u=m/s}} であるので、1光年は正確に {{val|9460730472580800|u=m}} である<ref>[http://www.iau.org/public/themes/measuring/ Measuring the Universe: The IAU and astronomical units] International Astronomical Union 本文の第3段落</ref>。概数としては、{{val|p=約|9.46e15|ul=メートル}}({{val|p=約|9.46|ul=ペタメートル}})である。 === 光年の換算 === * {{val|1|u=光年}} * = {{val|9460730472580800|u=m}} * = {{val|9460730472580.8|u=km}} * = {{val|p=約|63241.077084266280|ul=au}} * = {{val|p=約|0.306601|u=pc([[パーセク]])}} === 歴史的な値および不正確な値 === 距離の単位として、「光年」を初めて使用したのは、ドイツ人の[[オットー・エドゥアルト・ヴィンツェンツ・ウレ]]である。ウレは[[1851年]]の著作、Deutsches Museum: Zeitschrift für Literatur, Kunst u. Öffentliches ..., Volume 1<ref>[https://books.google.nl/books?id=QtBGAAAAcAAJ&pg=PA728&dq=%22lichtjahre%22&hl=nl&sa=X&ei=pto5U6byN8TD0QW1v4HIDw&redir_esc=y#v=onepage&q=%22lichtjahre%22&f=false] p.728 p.734</ref>の中で、初めて「光年」(ドイツ語ではlichtjahre)を距離の単位として用いた。なお、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]は[[1838年]]に[[はくちょう座61番星]]までの距離を、「光が1年間に通過する距離」の10.3倍(最新の観測では11.4光年)であることを見いだしたが、「光年」という単位を用いたわけではない。 [[国際天文学連合]] (IAU) は[[1964年]]に定めた[[太陽年]](ユリウス年とは異なる)と光速の実測値(定義値ではない)を{{仮リンク|天文定数|en|Astronomical constant}}体系に含めており、それを[[1968年]]から[[1983年]]まで使用していた<ref name="Seidelmann">P. Kenneth Seidelmann, ed., ''[https://books.google.co.jp/books?ct=result&id=uJ4JhGJANb4C&pg=PP1&lpg=PP1&redir_esc=y&hl=ja#PPA656,M1 Explanatory Supplement to the Astronomical Almanac]'' (Mill Valey, California: University Science Books, 1992) 656. ISBN 0-935702-68-7</ref>。[[サイモン・ニューカム]]は、[[元期|J1900.0]]の平均太陽年 {{val|31556925.9747|ul=暦表秒}}と光速度 {{val|299792.5|u=km/s}} から1光年を {{val|9.460530e15|u=m}} と計算した(光速度の[[有効数字]]7桁で丸めている)。この値がいくつかの最近の文献にも記載されているが<ref>Sierra College, [http://astronomy.sierracollege.edu/Resources/Reference/basic%20Contants%20app2.htm Basic Constants]</ref><ref>Marc Sauvage, [http://marc.sauvage.free.fr/astro_book/Cts_pages/astro.html Table of astronomical constants]</ref><ref>Robert A. Braeunig, [http://www.braeunig.us/space/constant.htm Basic Constants]</ref>、おそらく1973年の有名な本<ref>C. W. Allen, ''Astrophysical Quantities'' (third edition, London: Athlone, 1973) 16. ISBN 0-485-11150-0</ref>を参照したものと思われ、この文献は2000年まで改版されていなかった<ref>Arthur N. Cox, ed., ''[https://books.google.co.jp/books?id=w8PK2XFLLH8C&pg=PP1&lpg=PP1&redir_esc=y&hl=ja#PPA12,M1 Allen's Astrophysical Quantities]'' (fourth edition, New York: Springer-Valeg, 2000) 12. ISBN 0-387-98746-0</ref>。 他の高精度の値は一貫したIAU体系のみからでは導出できない。{{val|9.460536207e15|u=m}} という不正確な値がいくつかの現代の文献に見られるが<ref>Nick Strobel, [http://www.astronomynotes.com/tables/tablesa.htm Astronomical Constants]</ref><ref>[[高エネルギー加速器研究機構|KEK]]B [http://www-acc.kek.jp/kekb/Introduction/misc/astronomical_constant.html Astronomical Constants]</ref>、平均[[グレゴリオ暦|グレゴリオ年]]{{val|365.2425|u=日}}({{val|31556952|u=秒}})と光速度の定義({{val|299792458|u=m/s}})を使って計算したものであろう。{{val|9.460528405e15|u=m}} という不正確な値もあるが<ref>Thomas Szirtes, [https://books.google.co.jp/books?id=8Fk__-TUdCEC&pg=PA60&redir_esc=y&hl=ja ''Applied dimensional analysis and modeling''] (New York: McGraw-Hill, 1997) 60.</ref><ref>[http://www.scienceclarified.com/everyday/Real-Life-Chemistry-Vol-7/Sun-Moon-and-Earth.html Sun, Moon, and Earth: Light-year]</ref>、これはJ1900.0の平均太陽年と光速度の定義を使って求めたものであろう。 現在では1光年の値は天文定数からは除外されている<ref>[http://asa.hmnao.com/static/files/2014/Astronomical_Constants_2014.pdf K6 ASTRONOMICAL CONSTANTS 2014] この表に光年 (light-year) は含まれていない。</ref>。 == 光年スケールの実際 == 光年は、[[銀河]]や[[恒星]]などの[[天体]]までの距離を表するのによく用いられる。キロメートル単位で表すと文字通り「天文学的数字」になるからである。 現在天文学では、恒星までの距離を示すときには[[パーセク]]が用いられる。パーセクは、1[[天文単位]]動いたときの[[視差]]が1[[秒 (角度)|秒]]となる距離のことで、1パーセクは約3.26光年となる<ref name="IAUgen" />。パーセクは観測データから簡単に求めることができ、相互参照できることからよく用いられている。しかし、科学者以外の一般大衆の間では、直感的に理解しやすい「光年」の方が広く使われている。 1光年は{{val|p=約|63241|ul=天文単位}}である。光年で示されることの多い[[距離]]のものについては記事「[[1 E15 m]]」を参照のこと。 光年に関連して、[[光]]が1週間・1日間・1時間・1分間・1秒間に進む距離とし'''光週'''・'''光日'''・'''光時'''・'''光分'''・'''[[光秒]]'''という[[単位]]も定義できる。 * 1光週:{{val|1813144785984000|u=m}} * 1光日:{{val|25902068371200|u=m}} * 1光時:{{val|1079252848800|u=m}} * 1光分:{{val|17987547480|u=m}}、 * 1光秒:{{val|299792458|u=m}} 大まかな距離を表すのに1光年の12分の1の'''光月'''という単位も時折使われている<ref>{{citation | author = Fujisawa, K.; Inoue, M.; Kobayashi, H.; Murata, Y.; Wajima, K.; Kameno, S.; Edwards, P. G.; Hirabayashi, H.; Morimoto, M. | year = 2000 | title = Large Angle Bending of the Light-Month Jet in Centaurus A | url = http://sciencelinks.jp/j-east/article/200123/000020012301A0179284.php | journal = Publ. Astron. Soc. Jpn. | volume = 52 | issue = 6 | pages = 1021–26 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090902035920/http://sciencelinks.jp/j-east/article/200123/000020012301A0179284.php | archivedate = 2009年9月2日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref>{{citation | author = Junor, W.; Biretta, J. A. | year = 1994 | contribution = The Inner Light-Month of the M87 Jet | url = http://articles.adsabs.harvard.edu/full/1994cers.conf...97J | title = Compact Extragalactic Radio Sources, Proceedings of the NRAO workshop held at Socorro, New Mexico, February 11–12, 1994 | editor = Zensus, J. Anton; Kellermann; Kenneth I. | location = Green Bank, WV | publisher = National Radio Astronomy Observatory (NRAO) | page = 97}}</ref>。ただし、光月は月の時間間隔を定めていないので厳密な定義が存在しない<ref group="注釈">ユリウス暦では1か月は平均30.4375日であり、ユリウス年(365.25日)を12で割った値に等しい。ただグレゴリオ暦では30.436875日となるので、どちらの暦由来の値を使うかを指定しないかぎり「光月」は定義できない</ref>。 == 光年の扱いに注意すべきこと == 光年は、かならず時間の経過を考慮する必要がある<ref group="注釈">これは光年に限ったことではなく、距離を測る尺度に有限である光速を使うには、時間との積をとったスケールが必要となることによる要請である。</ref>ことには注意すべきである。例えば[[地球]]からの距離が1光年の星を見る場合、見ている光はその星から1年前に発せられたものであるため、1年前に1光年の距離にあったその星をいま地球で見ていることになる。仮に、たった今その星が何らかの原因で消滅したとしても、地球からはその星の1年前の光しか見ることができないため、見かけ上は今後1年間は星がまだ存在しているように“見え”、1年後にやっと星が消滅したように“見える”。 大きな[[赤方偏移]]が観測されるような非常に遠方の天体の場合、例えば2014年現在最も遠い天体である[[MACS0647-JD]]は赤方偏移 z = 10.7 の値を持ち、距離は 133 億 9200 万光年、[[ハッブルの法則]]により地球からは光速の 98.5% にあたる 295,444 km/s で後退しているように“見える”と計算される<ref group="注釈">この「後退しているように見える」を多くの書籍やメディアで「後退している」「遠ざかっている」と断定的に書かれていることがあり、すると「“そのような運動”をしている」と誤解される懸念がある。実際はこの速度で「運動」しているわけではなく「運動しているように見える」のである。</ref>。しかし、これはこの天体から133 億 9200 万年前に発せられた光を元に計算されたみかけ上の値(このような距離を{{仮リンク|光行距離|en|Distance measures (cosmology)#Light-travel distance}}、{{lang-en-short|''Light-travel distance''}} という)であり、実際はいま時点では 319 億 3900 万光年の距離(このような距離を{{仮リンク|共動距離|en|Comoving distance}}、{{lang-en-short|''Comoving Distance''}} という)<ref group="注釈">例えば、走っている車の位置を測るのに、先に車の後尾の位置を測り、時間を置いてから車の先頭の位置を測って車の長さを割り出すのと同じである。車の速度や時刻を考慮せずに位置だけで測ると、車は進んでしまっているので車の長さは実際より長いと結論してしまう。</ref>にあり、後退速度は実光速の2倍以上にもなる 695,115 km/s である。このようなスケールでの後退速度は実際は[[フリードマン・ルメートル・ロバートソン・ウォーカー計量|計量]]自体の拡大速度であり、天体自体はこの計量上を光速度以下で運動していて[[特殊相対性理論|光速不変の原理]]とは矛盾しない。 == 「光年」を使った距離の表現事例 == 光年は[[恒星]]間の距離以上に用いる。 1000光年(約306.6[[パーセク]])は "kly"(Kilo Light Year)と略記され、[[銀河]]の構造の寸法などを表記するのに用いる場合がある。 100万光年(約30万6600パーセク)は "Mly"(Mega Light Year)と略記され、銀河や[[銀河団]]までの距離を表記するのに用いる場合がある。 {| class="wikitable" |+'''[[長さ|距離]]の一覧''' !尺度 (ly) !値(冪乗) !値 !具体例 |- |{{10^|-9}} |{{val|40.4e-9|u=ly}} |{{val|0.0000000404|u=ly}} |太陽光が[[月]]の表面で反射して[[地球]]の地表に届くまでに1.2秒から1.3秒かかる。月表面と地球表面の距離は平均すると{{val|p=約|376300|u=km}}である。{{val|p=約|376300|u=km}} ÷ {{val|299792458|u=m/s}}([[光速]]) ≈ {{val|1.255|u=光秒}}となる。 |- |{{10^|-6}} |{{val|15.8e-6|u=ly}} |{{val|0.0000158|u=ly}} |1[[天文単位]](au)([[太陽]]と[[地球]]の距離)。[[光]]が[[太陽]]から[[地球]]まで進むには、8.3分かかる。つまり、太陽から地球までの距離(1[[天文単位]])は8.3光分である<ref>''[http://www.iers.org/IERS/EN/Publications/TechnicalNotes/tn32.html IERS Conventions (2003)]'', Chapter 1, Table 1-1.</ref>。 |- |{{10^|-3}} |{{val|3.2e-3|u=ly}} |{{val|0.0032|u=ly}} |地球から最も遠くにある[[宇宙探査機]]である[[ボイジャー1号]]は、2009年7月12日現在、地球から15.22光時の距離にあり<ref>[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] pressrelease (05-131) 24 May 2005: [http://voyager.jpl.nasa.gov/mission/weekly-reports/index.htm Voyager Mission Operations Status Report Week Ending March 9, 2007]</ref>、次に遠い[[パイオニア10号]]は13.79光時の距離にある<ref>[http://www.heavens-above.com/solar-escape.asp Spacecraft escaping the Solar System] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070427184732/http://www.heavens-above.com/solar-escape.asp |date=2007年4月27日 }}</ref>。ボイジャー1号が現在の速度を維持するなら、1光年の距離まで行くには{{val|18000|u=年}}かかる計算になる。 |- | rowspan="4" | {{10^|0}} |{{val|1.6e0|u=ly}} |{{val|1.6|u=ly}} |[[オールトの雲]]の直径は約2光年である。内側の境界は{{val|50000|ul=au}}、外側の境界は{{val|100000|u=au}}と推定されている。 |- |{{val|2.0e0|u=ly}} |{{val|2|u=ly}} |[[太陽]]が重力的に支配している領域([[ヒル球]])の最外縁までの距離。{{val|125000|u=au}}。これより先が真の恒星間空間である。 |- |{{val|4.22e0|u=ly}} |{{val|4.22|u=ly}} |[[太陽系]]から最も近い恒星である[[プロキシマ・ケンタウリ]]は、太陽から4.22光年の距離にある<ref>[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]: [http://heasarc.gsfc.nasa.gov/docs/cosmic/nearest_star_info.html Cosmic Distance Scales - The Nearest Star]</ref><ref>[https://www.daviddarling.info/encyclopedia/P/ProximaCen.html Proxima Centauri (Gliese 551)], ''Encyclopedia of Astrobiology, Astronomy, and Spaceflight''</ref>。 |- |{{val|20e0|u=ly}} |{{val|20|u=ly}} |海や平均気温など、[[生命]]が存在しうる環境がある可能性を持つ[[グリーゼ581c]]は、地球から20光年の距離にある。 |- | rowspan="2" | {{10^|3}} |{{val|26e3|u=ly}} |{{val|26000|u=ly}} |[[銀河系]]の[[銀河核]]までの距離は{{val|p=約|26000|u=光年}}である<ref>F. Eisenhauer, ''et al.'', "[http://iopscience.iop.org/1538-4357/597/2/L121 A Geometric Determination of the Distance to the Galactic Center]", ''Astrophysical Journal'' 597 (2003) L121-L124</ref>。 |- |{{val|100e3|u=ly}} |{{val|100000|u=ly}} |[[銀河系]]の直径は約10万光年である。 |- | rowspan="4" | {{10^|6}} |{{val|2.5e6|u=ly}} |{{val|2500000|u=ly}} |[[アンドロメダ銀河]]までの距離は約250万光年である。 |- |{{val|3.14e6|u=ly}} |{{val|3140000|u=ly}} |[[さんかく座銀河]](M33)までの距離は約314万光年で、裸眼で確認できる最も遠い天体である。 |- |{{val|59e6|u=ly}} |{{val|59000000|u=ly}} |最も近い[[銀河団]]である[[おとめ座銀河団]]までの距離は約5900万光年である。 |- |{{val|150|-|250|e=6|u=ly}} |{{val|150000000|-|250000000|u=ly}} |[[グレートウォール]]は1億5千万光年から2億5千万光年の距離にある(遠い方が最近の推定値)。 |- | rowspan="2" | {{10^|9}} |{{val|1e9|u=ly}} |{{val|1000000000|u=ly}} |[[スローン・グレートウォール]]([[グレートウォール]]とは別物)は約10億光年の距離にあると推定されている。 |- |{{val|45.7e9|u=ly}} |{{val|45700000000|u=ly}} |地球から[[観測可能な宇宙]]の果てまでの[[共動距離]]は約457億光年である。詳細は下記、および[[観測可能な宇宙]]を参照。 |} === 宇宙の大きさと光年の理解との関係 === “[[観測可能な宇宙]]”の大きさは、この共動距離の理解からおよそ 457 億光年(14 ギガパーセク)<ref name="mapofuniverse">{{cite journal|last = Gott III|first = J. Richard|coauthors = Mario Jurić, David Schlegel, Fiona Hoyle, Michael Vogeley, Max Tegmark, Neta Bahcall, Jon Brinkmann|title = A Map of the Universe|url=http://www.astro.princeton.edu/universe/ms.pdf|journal = The Astrophysics Journal|volume = 624|issue = 2|page = 463|year = 2005|doi = 10.1086/428890|bibcode=2005ApJ...624..463G| arxiv=astro-ph/0310571}}</ref>とされているが、これは [[宇宙マイクロ波背景放射]]({{lang-en-short|''cosmic microwave background radiation''}}、CMB)の赤方偏移の観測値 z = 1090 から計算される共動距離の値で、誕生してからおよそ 38 万年後<ref name='planck_cosmological_parameters'>{{cite arXiv |class=astro-ph.CO | eprint=1303.5076 | title=Planck 2013 results. XVI. Cosmological parameters | author=Planck collaboration | year=2013}}</ref>の宇宙が膨張により移動して現在「在る」場所から、それを観測している現在の我々までの距離をいう(つまり、457 億年前の光をいま観察しているのでもないし、457 億光年離れた距離を計測できているわけでもない。観測できる宇宙の過去は宇宙が誕生した138億年前が限界である。{138 億年 - 38 万年}前の光を発した空間が「現在」は 457 億光年先にまで進んでいるという説明にすぎず、「457億年前」から「現在」までに「457億光年先のその空間」で何が起きたかを我々は知る術もない)。宇宙はもっと先にまで広がっているかもしれないが<ref group="注釈">[[宇宙原理]]に従えば、宇宙はどこまでも果てしなく広がっている。ただし完全に等方的であるとはまだ証明されていない。[[宇宙の形|宇宙の曲率]]を参照。</ref>、「(理論の検証のための)観測ができない以上は考えても意味が無い(=理論が証明できない)」とするのが現在の[[宇宙論]]の立場である。“観測可能な宇宙”は宇宙論の立場では我々を中心に置いたこの半径 457 億光年の球体内となり、この球面が宇宙論の立場での「宇宙の果て」「宇宙の大きさ」ということになる。CMB の観察結果よりも過去の宇宙の情報を知る手段で観測できるのであれば、“観測可能な宇宙”はさらに大きくなる<ref group="注釈">例えば[[宇宙ニュートリノ背景]](CνB、{{lang-en-short|''Cosmic neutrino background''}})を考慮した理論計算では、観測可能な宇宙は半径 466 億光年、14.3 ギガパーセクとさらに 2% ほど大きくなる。[[重力波 (相対論)|重力波]]を用いる理論でさらに過去を見ようとする試みもある。宇宙の年齢のすべてを見通せるとすれば、無限遠の宇宙も観測可能となる。</ref>。 逆説的だが、我々が現在観測している CMB の光は、赤方偏移から逆算すると共動距離で 3600 万光年しか進んでいないことになる(これも、3600 万年前の[[黒体]]放射を観測しているのではないし、3600 万光年の距離を実測できているわけでもない)。過去のそれより小さい距離(共動距離)で起きた事象を我々は観測できていない<ref group="注釈">これはその事象が我々をすでに通りすぎてしまったから観測できないのではない。宇宙原理により、過去の事象はその後の[[光円錐]]内の全宇宙で観測できるはずだが、まだ我々は CMB より以前の光を捉える手段がないのである。</ref>。 このように矛盾に思えるような光年スケールでの解釈は、宇宙の計量が拡大しているという事実と、有限である光速を使った'''光年'''を距離の単位に使うという事実の両方からくる非日常さゆえに理解が難しいとされることがある<ref group="注釈">日常生活では光速が有限であることさえも感じとれる場面がほとんどないが、近年では[[放送]]の[[中継放送|衛星中継]]や[[宇宙探査機|惑星探査]]の映像の中継、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]計測などでこれは徐々に認識されつつある。</ref><ref group="注釈">一部の観測できる[[超光速]]の事象についても同様のことが言える。詳細は[[光速]]を参照。</ref>。 === 時間の単位であるとの誤解 === 「年」がついているが[[時間]]の単位ではなく距離の単位である。 人類は古代より移動手段がどれほど時間消費するかで距離を測ってきた。例えば[[魏志倭人伝]]に登場する[[黒歯国]]までの距離は「船行一年」、つまり船で航行した場合で1年間の時間が必要、と表現されていた。 そのほかにも[[散文]]的に「距離」と移動に(最低限)必要な「時間」を明確に区別しない例が見受けられる。 現代でも、[[山口百恵]]の「[[さよならの向う側]]」(作詞:[[阿木燿子]])、[[THE YELLOW MONKEY]]の「[[BRILLIANT WORLD]]」(作詞:[[吉井和哉]])などのように、時間を表す表現として「光年」を用いている楽曲がある。 [[日本]]の漫画やゲーム作品では、時間の単位と勘違いした誤用を笑いの種として用いる例がある<ref group="注釈">漫画では新声社刊『ゲーメストワールドVol5』66頁から70頁に掲載された漫画のキャラクターにこれを用いて頭の悪さを表現している。ゲームボーイソフト『[[ポケットモンスター 赤・緑]]』のポケモントレーナーにこれを台詞に用いたキャラクターがいる。アニメ『[[ドキドキ!プリキュア]]』のエンディングテーマ「[[Happy Go Lucky! ドキドキ!プリキュア/この空の向こう|この空の向こう]]」には誤用だと理解しているという趣旨の歌詞が存在する。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|30em}} === 出典 === {{reflist|30em}} == 関連項目 == {{Wiktionary|光年}} *[[長さの比較]] *[[単位の換算一覧]] *[[天文単位]] - [[天文学]]で使われる長さの単位。 {{天文学の長さの単位}} {{DEFAULTSORT:こうねん}} [[Category:天文学の長さの単位]] [[Category:光]] [[Category:天文学に関する記事]]
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キプロス
キプロス共和国(キプロスきょうわこく、ギリシア語: Κυπριακή Δημοκρατία、トルコ語: Kıbrıs Cumhuriyeti)は、地中海東部に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家。首都はニコシア。EU加盟国。公用語はギリシア語およびトルコ語。 キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断され、島の北部約37%を、国際的にはトルコのみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認している。 キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、キプロス島分断後は、事実上ギリシャ系による単一民族国家となっている。 正式名称は、現代ギリシャ語で Κυπριακή Δημοκρατία [cipriaˈci ðimokraˈti.a](ラテン文字転写: Kypriakí Demokratía; キプリアキ・ディモクラティア)、トルコ語で Kıbrıs Cumhuriyeti [ˈkɯbɾɯs dʒumhuːɾijeti](クブルス・ジュムフーリエティ)。通称は、現代ギリシャ語では Κύπρος [ˈci.pɾos](キプロス)、トルコ語では Kıbrıs (クブルス)。なお、古典ギリシャ語では[ˈky.pros]「キュプロス」と発音された。 公式の英語表記は、Republic of Cyprus(リパブリク・オヴ・サイプラス)。通称は、Cyprus [ˈsaɪprəs]。国民・形容詞の英語はCypriot [ˈsipriət]。 日本語の表記は、キプロス共和国。通称は、ギリシャ語の発音のキプロス。日本の外務省は、かつて英語での発音にならい「サイプラス」とする表記を取っていた。 キプロスの語源は、古代ギリシャ語のイトスギ (kyparissos) 由来説と、同じく古代ギリシャ語の銅 (Chalkos) 由来説とがある。いずれもこの地に多かったもので、銅については、さらにこの地名(キプロス)が、ラテン語や英語で「銅」を意味する単語の語源となった。 1983年以来、北部のトルコ系住民支配地域は、「北キプロス・トルコ共和国」(Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti; クゼイ・クブルス・テュルク・ジュムフーリエティ。より厳密に訳せば「北キプロス・トルコ系住民共和国」)として分離独立を宣言している。キプロス共和国はギリシャ系住民の支配地域のみを統治しており、キプロス共和国支配地域は北キプロスとの対比から、南キプロスやギリシャ系住民だけなので北キプロス風に南キプロス・ギリシャ共和国とも呼ばれることもある。 なお、北キプロスおよびその後援国であるトルコ共和国は、ギリシャ系・トルコ系両住民の連合国家であるキプロス共和国は既に1974年の南北分裂時に解体したのであり、南部のギリシャ系住民のみが不法にキプロス共和国を名乗り続けていると見なす立場から、キプロス共和国を承認せず、キプロス共和国支配地域のことを「南キプロス・ギリシャ系住民管理地域」(Güney Kıbrıs Rum Yönetimi; ギュネイ・クブルス・ルム・ヨネティミ)と称する。 キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古い。有史から当初はヒッタイト、アッシリアといったオリエント諸国の支配を受けた。 アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、エジプト第26王朝のアマシス2世(クネムイブラー・イアフメス2世)によって征服され、エジプトがアケメネス朝(ペルシア)に併合されたのとほぼ同時期にキプロスもペルシアの支配下に入った。住民の多くが入植してきたギリシア系であったため、再三に亘って反ペルシア暴動が生じたものの、ペルシアによって全て鎮圧された。 アレクサンドロス大王によるペルシア滅亡と大王死後のディアドコイ戦争での結果、キプロスはプトレマイオス朝の保護下に置かれ、プトレマイオス朝から総督が派遣された。この時期のキプロスは当時の2大商業都市であったアテネとアレキサンドリアの間の中間貿易港として発展した。 紀元前58年、共和政ローマから派遣された小カトによってキプロスはローマ属州(キュプルス属州)となった。クレオパトラ7世はマルクス・アントニウスと結んでキプロスの支配権を再び手に収めたが、アクティウムの海戦に敗北し、プトレマイオス朝の滅亡と共に再度ローマ属州へ復帰した。 紀元前22年以降は、元老院属州として位置づけられ、イタリア本国と東方属州を結ぶ交通の要衝として機能し、ハドリアヌスやルキウス・ウェルスなどのローマ皇帝もキプロスを訪れた。115年からのユダヤ人の一斉蜂起によりキプロスは損害を被った。4世紀以降にローマ帝国がキリスト教化する中でキプロスもキリスト教が徐々に普及、395年にローマ帝国が東西に分裂後は東ローマ帝国の管轄下となった。7世紀になりアラブ人の侵攻が度重なり、キプロス島は一時的にウマイヤ朝の支配下となる。688年、東ローマ帝国皇帝ユスティニアノス2世とウマイヤ朝カリフ アブドゥルマリクとの間で、キプロスを共同統治することに合意。以後、約300年にわたり東ローマ帝国とアラブの共同主権が行使される。9世紀になり国力を回復した東ローマ帝国は、10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下で、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。その過程で965年にキプロスを再征服した東ローマ帝国が同島の主権を完全に回復した。以後、12世紀末まで東ローマ帝国の支配下に置かれる。 1185年、ヨハネス2世コムネノス死去後の王位継承に不満を抱いた皇族イサキオス・コムネノス(英語版)がキプロスで叛乱を起こし、皇帝を僭称し同島を占拠してしまう。 1191年、第3回十字軍の途上にキプロス島沖を航行していたイングランド王率いる船団の一部がキプロス島に漂着し、僭称帝により捕虜とされてしまう。これに対してイングランド王リチャード1世(獅子心王)はキプロスをわずか5日で攻め落とし、以後キプロスの領有権はイギリス王に帰することになる。キプロス島はギリシャ正教会からカトリック教会の支配下となり、東地中海でのキリスト教国家の「基地」としての位置を約400年間果たすこととなる。1192年、エルサレム王国の王位をモンフェラート侯コンラードに奪われたギー・ド・リュジニャンは、リチャード1世からキプロス島を譲渡され、以後300年間リュジニャン家がキプロス王位を継ぐことになる(キプロス王国)。1489年にリュジニャン家は王位継承者を欠いたことから断絶し、最後の王となったカテリーナ・コルネーロはキプロス王国をヴェネツィア共和国に譲渡した(ヴェネツィア領キプロス(ギリシア語版、英語版))。オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年 - 1573年)(英語版)では、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州(トルコ語版、英語版)(オスマン領キプロス)を置いた。 エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。 さらに1914年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスに一方的に併合された。そしてアメリカのキプロス鉱山会社がやってきた。 第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による抗イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立。翌1961年、イギリス連邦加盟。しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、キプロス紛争を参照)。 南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、キプロス問題を参照)。 2004年、EUに加盟。 キプロスは東ローマ帝国の支配下でギリシャ語を話す正教徒が大多数を占めるようになっていたが、オスマン帝国支配下で、トルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が流入し、トルコ系住民が全島人口の2割から3割程度を占めるまでになった。 イギリス統治下のキプロスではエーゲ海の島々と同じくギリシャに併合されるべきという要求(エノシス enosis)がギリシャ系住民の間で高まり、1948年にはギリシャの国王がキプロスはギリシャに併合されるべきとの声明を出し、1951年にはギリシャ系住民の97%がギリシャへの併合を希望していると報告された。一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャとトルコにそれぞれ帰属させるべきとの主張(タクスィム taksim)がなされており、キプロスの帰属問題がイギリス、ギリシャ、トルコの3か国の間で協議された。その結果、中間案として1959年、チューリッヒでキプロスの独立が3国間で合意された。 1960年、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であったキプロス正教会のマカリオス大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立を果たした。しかし、1963年には早くも民族紛争が勃発し、1964年3月より国際連合キプロス平和維持軍が派遣された。 さらに1974年7月15日にギリシャ軍事政権の支援を受けた併合強硬派がクーデター(英語版)を起こしてマカリオス大統領を追放。トルコはこれに敏感に反応し、トルコ系住民の保護を名目に7月20日キプロスに侵攻した。これにより7月22日にクーデター政権が崩壊するが、トルコ軍はキプロス分割問題の解決をはかって8月13日に第二次派兵を敢行し、首都ニコシア以北のキプロス北部を占領した。トルコの支持を得たトルコ系住民は翌年、キプロス共和国政府から分離してキプロス連邦トルコ人共和国を発足させ、政権に復帰したマカリオスの支配するギリシャ系の共和国政府に対して、連邦制による再統合を要求した。 1970年代以来、南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索が続けられているが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系北キプロスとの主張の隔たりは大きく、再統合は果たされてこなかった。1997年にキプロス共和国がEU加盟候補国となったことは、国際的に孤立し経済的に苦しい北キプロスにとっては大きな危機であったが、その後の国連の仲介案を得た統合交渉も不調に終わった。 2004年5月1日のキプロスのEU加盟を前に、北キプロスが政治的経済的に取り残されることを避けるため、同年2月9日より国連のコフィー・アナン事務総長の仲介で再び南北大統領による統合交渉が行われ、3月31日の交渉期限直前に国連案(アナン・プラン)に基づく住民投票案が合意された。しかし、4月24日に行われた南北同時住民投票はギリシャ系の南側の反対多数という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数にもかかわらず否決された。これは、国連案がトルコ系住民側およびトルコ共和国が主張してきた連邦制を前提とし、ギリシャ系難民の北部帰還を制限、またトルコ軍の駐留を期限付き(最低7年間)ながら認めるなど、ギリシャ系住民側にとって容易に受け入れがたい内容を含んでいたためである。南のキプロス共和国では2004年、2006年の総選挙でいずれも統合反対派が勝利し、以降の統合交渉は停滞した。 一方、失敗に終わったものの統合交渉に前向きな姿勢を示して国際社会での得点を稼いだトルコは、同年10月3日、長年望んでいたEU加盟交渉開始のテーブルにつくことになった。しかし依然としてトルコはキプロス共和国をキプロスの公式の政府として承認することを拒否しつづけ、トルコのEU加盟交渉における課題点となっており、2006年12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因で加盟交渉が一部凍結された。2008年1月のトルコ、ギリシャの首脳会談で、ギリシャ首相コスタス・カラマンリスはトルコが国家承認を拒んでいるギリシャ系のキプロス共和国について「国交正常化がトルコの欧州連合 (EU) 加盟に必要条件だ」と指摘。「すべての条件を満たしたとき、EUはトルコを正式メンバーとして認めるべきだ」と条件付きながら、トルコのEU加盟を支持する考えを明らかにした。 2008年2月に行われたキプロス大統領選挙で再統合推進派のディミトリス・フリストフィアスが当選し、3月に北キプロスのメフメト・アリ・タラート大統領との間で首脳会談が実現。4月にはキプロス分断の象徴とされていたレドラ通りの封鎖開放という融和策も実行された。引き続き再統合の話合いが行なわれ、9月3日に包括的な再統合交渉を開始することが決まり、同年12月までに計13回の交渉が開かれた。 2009年4月21日に北キプロスで行われた議会選挙で、再統合交渉に消極的な野党国民統一党が勝利を収め、タラート大統領の与党共和トルコ党が敗北した。しかしトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が再統合交渉の継続を求める発言をしたため、国民統一党側もトルコの意向を無視できないとみられた。2009年6月までに再統合交渉において統治と権力分割、財産権、EU問題、経済問題、領域、安全保障の6分野について交渉が進められ、2010年3月31日には統治と権力分割、EU問題及び経済問題の分野で重要な進展があった旨を両大統領が共同声明にて発表した。 2010年4月の北キプロス大統領選挙では、統合消極派のデルヴィシュ・エロール首相が当選した。任期中に交渉を進展させられなかったタラート大統領に対する有権者の不満が選挙結果に影響したものと見られ、交渉の後退が懸念された。この結果に対してトルコのエルドアン首相は再統合交渉の年内妥結を目指したい考えを述べ、エロール首相にクギを刺した。これを受け、2010年7月にエロール大統領は交渉を継続し、年内の合意を目指す事を発表した。以降定期的に交渉が実施されたが、2012年1月の会談でも統治、財産権、市民権に関して合意することができなかった。キプロスのEU議長国就任、2013年2月の大統領選挙などの政治日程の都合のため、両国の代表による直接交渉は中断された。 2013年2月に再統合に積極的なニコス・アナスタシアディスがキプロス大統領に就任。2014年2月に国連の仲介の元で両国による交渉が再開されるも、同年10月にトルコによるキプロスのEEZ内に対する調査活動が行われたことを理由に、キプロスの希望により交渉が中断された。 2015年4月、再統合に積極的なムスタファ・アクンジュが北キプロス大統領に就任。同年5月に国連の仲介のもと直接交渉が再開され、2016年内の合意に向けて交渉が行われた。2016年11月7日、南北両首脳による再統合交渉がスイスのモンペルランにて開催。再統合後に連邦制を採用することが合意され、年内の包括合意を目指して協議を進めることとなった。2017年1月11月には和平会議にボリス・ジョンソン英外相やギリシャ、トルコ両国の外相も協議に加わったことで進展が期待されたが、結局2017年中に協議は決裂した。以降しばらく協議は開かれず、2021年4月下旬には非公式協議が行われたが南北の対立は解けず物別れに終わった。 2023年2月12日にキプロス大統領選挙で当選したニコス・フリストドゥリディスは協議再開を求める立場ではあるが、そのためには協議を仲介する国連の枠組みを再交渉する必要があると主張している。 1960年の独立時に制定されたキプロス共和国憲法は、ギリシャ系住民とトルコ系住民の人口比に配慮して、元首で行政府の長でもある大統領をギリシャ系から、その行政権限を分掌し拒否権を持つ副大統領をトルコ系からそれぞれ選出し(任期5年)、国会議員、官吏、軍人などの人数も比率が7対3になるように定めている。代議院は任期5年の一院制議会であるが、その議員の選出にあたってはギリシャ系(56人)とトルコ系(24人)で別々に選挙を行うことになっている。 1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっている(以下、キプロス島南部のギリシャ系キプロス共和国政府支配地域は「南キプロス」と略す)。南キプロスでは、政府における憲法上のトルコ系の定員はそのまま空席となり、副大統領も置かれず、議会の実質上の定数は56人となっている。 一方、分離独立を主張する北キプロスには公選の大統領がおり、一院制の議会(定員50人、任期5年)で選出される首相とともに行政を行う。1983年の独立後、1985年に北キプロスで最初の選挙が行われたが、この手続きを国際的に承認しているのはトルコのみである。 2008年2月24日に大統領選挙の決選投票が行われ、労働人民進歩党 (AKEL) 書記長のディミトリス・フリストフィアスが53.36%で当選し、欧州連合加盟国で異例の共産系大統領が誕生した。再統合推進派のフリストフィアスの当選で、再統合交渉が推進されると期待されている。 2011年5月22日、国会議員選挙が行われた。保守野党の民主運動党 (DISY) が第1党になった。2006年の前回比で3.75ポイント増の34.27%獲得し、総議席56のうち20議席を占めた。与党AKELも前回比1.36ポイント増で32.67%で、1議席増の19議席とした。 日本政府は、これまで在ギリシャ大使館がキプロスを兼轄していたのを改め、2018年にニコシアに大使館の実館(在キプロス日本国大使館)を開設した。 南キプロスではキプロス国家守備隊 (Cypriot National Guard) が組織されている。これは陸海空軍の混成組織(海上部隊は哨戒艦艇のみ、航空部隊は攻撃ヘリコプターや海洋哨戒機のみであり、いずれも補助的な戦力に留まる)である。徴兵制があり、男性は18歳で徴兵され、約25か月の兵役に就く。また、南キプロスにはギリシャ軍が駐留している他、軍事顧問としてギリシャ軍将兵がキプロス国家守備隊に多数出向しているといわれる。 北キプロスにも、北キプロス・トルコ共和国保安軍と呼ばれる国防組織が整備されており、南キプロス同様に陸海空軍混成である(こちらも海上部隊や航空部隊は小規模である)。また、徴兵制も同様に施行されている。実質的な防衛力として、トルコ軍が駐留している。 南北キプロスを隔てる境界線(グリーンライン)には国連キプロス平和維持軍 (UNFICYP) が駐留して監視している。 正確にはキプロス国内ではないが、イギリスの海外領土として島内にイギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリアが存在しており、地中海・中近東方面の軍事拠点としてイギリス軍が駐留している。 キプロスは、キプロス島一島からなる島国で、長さ240km、幅100km。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きい島である。 南のエジプトまで380kmという地理的な面からアジア(中東または西アジア)に分類される場合もあるが、ギリシャ系のキリスト教徒が多いため、ヨーロッパ(南ヨーロッパ)に分類される場合もある。また、地理的にトルコとも関係が深い地域であった。 北部は海岸線に沿って石灰岩のキレニア山脈があり、首都ニコシアを中心とする中央部が平坦地となっている。南部は大部分が火成岩のトゥロードス山地で、海岸線に沿って狭隘な平地がある。北東にカルパス半島が伸びる。 島の最高峰は南部のオリンポス山(英語版)で、標高は1951m。冬は雪も降り、スキーができる。 地中海性気候で、夏は暑く、乾燥する。主に11月から3月に降雨があり、そこから農業に適している面を持つ。高山地帯は島の他の地域よりも涼しく湿っている点が特徴となっている。 キプロス島は、事実上2つの国家に分断されており、南部がキプロス共和国政府(ギリシャ系住民)が支配する地域、北部が北キプロス・トルコ共和国としてトルコ系住民が分離独立を主張している地域となっている。 分断以前のキプロス島は、行政的に右記の6地区(ギリシア語: επαρχία / トルコ語: kaza)に分かれていた。ここでいう地区は「州」とも訳されるが、元来はキプロス州におかれた「郡」にあたる行政区画である。 分断後はキプロス島全6地区のうち、ファマグスタ地区、キレニア地区の全域と、ラルナカ地区およびニコシア地区の一部が北キプロス領となっており、とくに首都ニコシアは町の中心で分断されている。なお、ファマグスタは現在の北キプロスではトルコ語で戦士を意味するガーズィーの称号を冠してガーズィマウサ (Gazimağusa) と呼ばれている。 キプロスは、旧イギリス植民地であり、2つの公用語でそれぞれ異なった地名を持つことから、地名は英語名で呼ばれることが一般的であり、以下の地図もそのように記されている。しかし、南キプロスではギリシャ語の地名、北キプロスではトルコ語の地名に言い換えられることも多い。 以下の地図の斜線部分は独立以後も残されているイギリスの主権基地領域(アクロティリおよびデケリア)で、この領域にはキプロス共和国政府の主権は及ばず、イギリス主権の下に置かれているイギリスの海外領土である。また、灰色部分は南北の衝突を抑止するため国連の引いた緩衝地帯(通称グリーンライン)である。 1980年代から1990年代に大きな経済成長を遂げたが、観光産業に依存していたためヨーロッパでの景気の変動に弱かった。。2005年前後時点において、キプロスは4%前後の経済成長、3%台後半の低い失業率と良好な経済状況を維持していた。しかし、2010年以降は経済的・文化的に関係の深いギリシャの金融危機により銀行が膨大な損失を被ったため、巻き添えを食らう形で金融危機に陥った。しかし、現在は天然ガスの発掘、Citizenshipプログラムによりロシア、EU諸国、中東、アフリカ、中国などから多くの富裕層が集まる場所となっており著しい経済成長をしている。また、観光産業への依存からの脱却を目指しオフィスビルの建築、カジノなど様々な建設がはじまっている。その地理的位置からドバイと同様ハブになる可能性が非常に高い。また、法律は英米法なため安心してビジネスを行えることもハブになりうる一因である。さらに、キプロスは、中東やイスラム諸国とも友好関係にありテロの可能性が極めて低い稀有な国である。 主要産業は、観光業と金融業であったが現在は法人税の低さから実態のある会社の拠点を置く企業も増えている。 観光業については、EU、ドバイ、ロシア、北欧などからの観光地として人気がある。2004年5月1日の欧州連合 (EU) 加盟、さらに2008年1月1日の EU 単一通貨ユーロの導入により、観光客が着実に増加している。また、別荘地としても有名で、それに伴って不動産投資も盛んに行われている。 リマソールでは、ヨーロッパ最大規模のカジノリゾートの建設が進んでいる。 会計士やロンドン大学出身の優秀な弁護士が多い。 南キプロスは観光業を含むサービス産業に労働人口の62%が従事し、GDPの70%を占める。地中海地域の共通問題である水の供給については海水淡水化プラントの稼動により安定し、再生可能エネルギーに特に力をいれている。 北キプロス・トルコ共和国は、南キプロスに比べて経済的に遅れており、一人あたりGDPは3分の1しかない。しかし、現在北と南の統一の試みが積極的に行われており統一の実現は近いとされる。しかし、必ずしも統一を望む意見が多いわけではなく、統一すると逆に混乱を招くというキプロス共和国の人々も少なくない。 多くの国民が自動車を所有し、交通手段に利用している。自動車の通行区分は日本と同じ左側通行であることから、右ハンドル仕様の欧州車に加え、日本から輸入された中古車が多く使われている。そのため対日中古車輸入および関連産業が盛んである。 キプロスの鉱業は5000年の歴史を持つ。紀元前3000年ごろ、まず自然銅がトゥロードス山麓で発見される。銅鉱床としては最も古いと考えられ、銅のラテン語名であるcuprum はキプロスに由来する。自然銅が枯渇した後は銅を含む黄銅鉱から銅を抽出する技術が生まれた。現在でも銅の採掘は続いており、2002年時点では5200トンの銅を産出する。ただし、資源が枯渇している上に内戦によって鉱山施設が分断されたことにより、鉱業はすでにキプロス経済において意味を失ってしまった。このほか、クロムや石綿などを少量産出する。地質学的には地中海が広がった時に海洋底拡大の中心部としてオフィオライトが形成され、更新世に隆起し、現在の位置に移動した。 最近、海域の石油探鉱を行い成功している。現にTotal,ENI,KOGAS,NOBLEENERGY,DELEKDRILLING,など世界の資源会社がすでに採掘を開始している。9月に相当量の天然ガスが発見されるという情報がキプロスの政府機関CIPA(Cyprus InvestmentPromotion Aency)の世界初のCIPA Official Agency AmbassadorとなるMr.Takayoshi Shimoyamada の9月訪問で確認されている。 。この立場は、単なる親善大使を超えて、日本とキプロスとの友好関係構築を深めるためMr.Takayoshi Shimoyamadaが政府にコンセプトを提案しキプロス共和国がこれに応じる形でなされたものである。準大使的な位置にあり、特別の紋章も付与される。 自動車は左側通行である。 キプロスには鉄道機関が存在していない。かつてはキプロス国鉄が存在していたが、国鉄そのものが1952年に解体されて以降は私鉄などの鉄道会社も設立されず、現在まで進展がない状態となっている。 ギリシャ系とトルコ系は歴史的にキプロス島の全域で混住していたが、1974年の南北分断の際、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ギリシャ系の99.5%が南キプロスに、トルコ系の98.7%が北キプロスに住む。その他の系統の住民は、99.2%が南キプロスに居住している。なお、経済的に苦しい北キプロスではかなりの数のトルコ系住民がトルコやヨーロッパに出稼ぎに移住した一方、トルコから多くのトルコ人が流入したため、トルコ系キプロス人の正確な人口を割り出すことは難しい。 民族の帰属意識はおおむね信仰する宗教と一致しており、正教徒のギリシャ系が78%、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ系が18%であるとされる。その他の4%にはマロン派とアルメニア教会派のキリスト教徒がいる。キプロスの正教会はイスタンブールのコンスタンディヌーポリ総主教庁にも、アテネ大主教を首座とするギリシャ正教会にも属さず、大主教を長とするキプロス正教会(ギリシア語版、英語版)のもとに自治を行っている。なお、キプロスのキリスト教については、イエス・キリストの死後、パウロが第1回の宣教旅行でキプロス島のサラミスとパフォスを訪れ、キリスト教が広まってゆく様が「新約聖書」の「使徒言行録(使徒行伝)」第13章に描かれている。 公用語はギリシャ語とトルコ語である。他には少数言語としてクレオール言語であるクルベチャ語(英語版)、キプロス・アラビア語やアルメニア語が存在しており、これらの言語はヨーロッパ地方言語・少数言語憲章によって保持されている。イギリス領であった1960年までは英語が唯一の公用語となっていたために、現在でも標識や看板、広告など英語表記が至る所にあり、英語が第二言語として広く使用されている。1996年までは裁判では英語が使用されていた。 キプロスの初等、中等教育は行き届いているといわれている。 高等教育は以前ギリシャ、トルコ、英国、米国などに依存することが多かったが、近年下記のような大学ができている。 一方で、海外からの留学生も増えている。 キプロスの治安状況は首都ニコシア市から各都市まで比較的良好なものとなっている。ただし、都市部では置き引きや空き巣などの窃盗事件や強盗事件、飲食店(バー)において法外な料金を請求される、いわゆる「ぼったくり」の被害事例も散見されている為、基本的な防犯対策が必要とされる面がある。 キプロス警察は英国植民地時代に設立されたキプロス軍事警察(英語版)を前身としている。 キプロスの料理はアラブ料理(英語版)、ギリシャ料理、トルコ料理の影響を強く受けており、イタリア料理やフランス料理とも類似点が存在する。 キプロスの伝統的な民俗音楽には、ギリシア音楽(英語版)を始め、トルコ音楽やアラビア音楽と共通する幾つかの要素が含まれている。 キプロス国際映画祭(英語版)が毎年開催されている。 キプロス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。 キプロスではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1934年にサッカーリーグのキプロス・ファーストディビジョンが創設された。名門クラブのAPOELニコシアが非常に知られており、通算リーグ優勝は28回を数える。さらに、UEFAチャンピオンズリーグの2011-12シーズンではベスト8に進出する快挙を成し遂げた。この躍進は「アポエルの大冒険」と呼ばれ、UEFAに加盟する小国に大きな勇気を与えた。 キプロスサッカー協会(CFA)によって構成されるサッカーキプロス代表は、これまでFIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権には未出場である。UEFAネーションズリーグにおいては、2022-23シーズンはリーグCに属している。また、著名な女子サッカーの国際大会としてキプロス・カップが存在している。アルガルヴェ・カップ(ポルトガル主催)やシービリーブスカップ(アメリカ主催)程ではないが、権威のある大会の一つである。なお、男子サッカーにも"キプロス国内のカップ戦"として、同名のキプロス・カップは存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "キプロス共和国(キプロスきょうわこく、ギリシア語: Κυπριακή Δημοκρατία、トルコ語: Kıbrıs Cumhuriyeti)は、地中海東部に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家。首都はニコシア。EU加盟国。公用語はギリシア語およびトルコ語。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断され、島の北部約37%を、国際的にはトルコのみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、キプロス島分断後は、事実上ギリシャ系による単一民族国家となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称は、現代ギリシャ語で Κυπριακή Δημοκρατία [cipriaˈci ðimokraˈti.a](ラテン文字転写: Kypriakí Demokratía; キプリアキ・ディモクラティア)、トルコ語で Kıbrıs Cumhuriyeti [ˈkɯbɾɯs dʒumhuːɾijeti](クブルス・ジュムフーリエティ)。通称は、現代ギリシャ語では Κύπρος [ˈci.pɾos](キプロス)、トルコ語では Kıbrıs (クブルス)。なお、古典ギリシャ語では[ˈky.pros]「キュプロス」と発音された。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Republic of Cyprus(リパブリク・オヴ・サイプラス)。通称は、Cyprus [ˈsaɪprəs]。国民・形容詞の英語はCypriot [ˈsipriət]。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、キプロス共和国。通称は、ギリシャ語の発音のキプロス。日本の外務省は、かつて英語での発音にならい「サイプラス」とする表記を取っていた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "キプロスの語源は、古代ギリシャ語のイトスギ (kyparissos) 由来説と、同じく古代ギリシャ語の銅 (Chalkos) 由来説とがある。いずれもこの地に多かったもので、銅については、さらにこの地名(キプロス)が、ラテン語や英語で「銅」を意味する単語の語源となった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1983年以来、北部のトルコ系住民支配地域は、「北キプロス・トルコ共和国」(Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti; クゼイ・クブルス・テュルク・ジュムフーリエティ。より厳密に訳せば「北キプロス・トルコ系住民共和国」)として分離独立を宣言している。キプロス共和国はギリシャ系住民の支配地域のみを統治しており、キプロス共和国支配地域は北キプロスとの対比から、南キプロスやギリシャ系住民だけなので北キプロス風に南キプロス・ギリシャ共和国とも呼ばれることもある。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、北キプロスおよびその後援国であるトルコ共和国は、ギリシャ系・トルコ系両住民の連合国家であるキプロス共和国は既に1974年の南北分裂時に解体したのであり、南部のギリシャ系住民のみが不法にキプロス共和国を名乗り続けていると見なす立場から、キプロス共和国を承認せず、キプロス共和国支配地域のことを「南キプロス・ギリシャ系住民管理地域」(Güney Kıbrıs Rum Yönetimi; ギュネイ・クブルス・ルム・ヨネティミ)と称する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古い。有史から当初はヒッタイト、アッシリアといったオリエント諸国の支配を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、エジプト第26王朝のアマシス2世(クネムイブラー・イアフメス2世)によって征服され、エジプトがアケメネス朝(ペルシア)に併合されたのとほぼ同時期にキプロスもペルシアの支配下に入った。住民の多くが入植してきたギリシア系であったため、再三に亘って反ペルシア暴動が生じたものの、ペルシアによって全て鎮圧された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アレクサンドロス大王によるペルシア滅亡と大王死後のディアドコイ戦争での結果、キプロスはプトレマイオス朝の保護下に置かれ、プトレマイオス朝から総督が派遣された。この時期のキプロスは当時の2大商業都市であったアテネとアレキサンドリアの間の中間貿易港として発展した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "紀元前58年、共和政ローマから派遣された小カトによってキプロスはローマ属州(キュプルス属州)となった。クレオパトラ7世はマルクス・アントニウスと結んでキプロスの支配権を再び手に収めたが、アクティウムの海戦に敗北し、プトレマイオス朝の滅亡と共に再度ローマ属州へ復帰した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "紀元前22年以降は、元老院属州として位置づけられ、イタリア本国と東方属州を結ぶ交通の要衝として機能し、ハドリアヌスやルキウス・ウェルスなどのローマ皇帝もキプロスを訪れた。115年からのユダヤ人の一斉蜂起によりキプロスは損害を被った。4世紀以降にローマ帝国がキリスト教化する中でキプロスもキリスト教が徐々に普及、395年にローマ帝国が東西に分裂後は東ローマ帝国の管轄下となった。7世紀になりアラブ人の侵攻が度重なり、キプロス島は一時的にウマイヤ朝の支配下となる。688年、東ローマ帝国皇帝ユスティニアノス2世とウマイヤ朝カリフ アブドゥルマリクとの間で、キプロスを共同統治することに合意。以後、約300年にわたり東ローマ帝国とアラブの共同主権が行使される。9世紀になり国力を回復した東ローマ帝国は、10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下で、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。その過程で965年にキプロスを再征服した東ローマ帝国が同島の主権を完全に回復した。以後、12世紀末まで東ローマ帝国の支配下に置かれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1185年、ヨハネス2世コムネノス死去後の王位継承に不満を抱いた皇族イサキオス・コムネノス(英語版)がキプロスで叛乱を起こし、皇帝を僭称し同島を占拠してしまう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1191年、第3回十字軍の途上にキプロス島沖を航行していたイングランド王率いる船団の一部がキプロス島に漂着し、僭称帝により捕虜とされてしまう。これに対してイングランド王リチャード1世(獅子心王)はキプロスをわずか5日で攻め落とし、以後キプロスの領有権はイギリス王に帰することになる。キプロス島はギリシャ正教会からカトリック教会の支配下となり、東地中海でのキリスト教国家の「基地」としての位置を約400年間果たすこととなる。1192年、エルサレム王国の王位をモンフェラート侯コンラードに奪われたギー・ド・リュジニャンは、リチャード1世からキプロス島を譲渡され、以後300年間リュジニャン家がキプロス王位を継ぐことになる(キプロス王国)。1489年にリュジニャン家は王位継承者を欠いたことから断絶し、最後の王となったカテリーナ・コルネーロはキプロス王国をヴェネツィア共和国に譲渡した(ヴェネツィア領キプロス(ギリシア語版、英語版))。オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年 - 1573年)(英語版)では、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州(トルコ語版、英語版)(オスマン領キプロス)を置いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。 さらに1914年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスに一方的に併合された。そしてアメリカのキプロス鉱山会社がやってきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による抗イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立。翌1961年、イギリス連邦加盟。しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、キプロス紛争を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、キプロス問題を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2004年、EUに加盟。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "キプロスは東ローマ帝国の支配下でギリシャ語を話す正教徒が大多数を占めるようになっていたが、オスマン帝国支配下で、トルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が流入し、トルコ系住民が全島人口の2割から3割程度を占めるまでになった。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イギリス統治下のキプロスではエーゲ海の島々と同じくギリシャに併合されるべきという要求(エノシス enosis)がギリシャ系住民の間で高まり、1948年にはギリシャの国王がキプロスはギリシャに併合されるべきとの声明を出し、1951年にはギリシャ系住民の97%がギリシャへの併合を希望していると報告された。一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャとトルコにそれぞれ帰属させるべきとの主張(タクスィム taksim)がなされており、キプロスの帰属問題がイギリス、ギリシャ、トルコの3か国の間で協議された。その結果、中間案として1959年、チューリッヒでキプロスの独立が3国間で合意された。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1960年、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であったキプロス正教会のマカリオス大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立を果たした。しかし、1963年には早くも民族紛争が勃発し、1964年3月より国際連合キプロス平和維持軍が派遣された。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "さらに1974年7月15日にギリシャ軍事政権の支援を受けた併合強硬派がクーデター(英語版)を起こしてマカリオス大統領を追放。トルコはこれに敏感に反応し、トルコ系住民の保護を名目に7月20日キプロスに侵攻した。これにより7月22日にクーデター政権が崩壊するが、トルコ軍はキプロス分割問題の解決をはかって8月13日に第二次派兵を敢行し、首都ニコシア以北のキプロス北部を占領した。トルコの支持を得たトルコ系住民は翌年、キプロス共和国政府から分離してキプロス連邦トルコ人共和国を発足させ、政権に復帰したマカリオスの支配するギリシャ系の共和国政府に対して、連邦制による再統合を要求した。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1970年代以来、南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索が続けられているが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系北キプロスとの主張の隔たりは大きく、再統合は果たされてこなかった。1997年にキプロス共和国がEU加盟候補国となったことは、国際的に孤立し経済的に苦しい北キプロスにとっては大きな危機であったが、その後の国連の仲介案を得た統合交渉も不調に終わった。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2004年5月1日のキプロスのEU加盟を前に、北キプロスが政治的経済的に取り残されることを避けるため、同年2月9日より国連のコフィー・アナン事務総長の仲介で再び南北大統領による統合交渉が行われ、3月31日の交渉期限直前に国連案(アナン・プラン)に基づく住民投票案が合意された。しかし、4月24日に行われた南北同時住民投票はギリシャ系の南側の反対多数という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数にもかかわらず否決された。これは、国連案がトルコ系住民側およびトルコ共和国が主張してきた連邦制を前提とし、ギリシャ系難民の北部帰還を制限、またトルコ軍の駐留を期限付き(最低7年間)ながら認めるなど、ギリシャ系住民側にとって容易に受け入れがたい内容を含んでいたためである。南のキプロス共和国では2004年、2006年の総選挙でいずれも統合反対派が勝利し、以降の統合交渉は停滞した。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、失敗に終わったものの統合交渉に前向きな姿勢を示して国際社会での得点を稼いだトルコは、同年10月3日、長年望んでいたEU加盟交渉開始のテーブルにつくことになった。しかし依然としてトルコはキプロス共和国をキプロスの公式の政府として承認することを拒否しつづけ、トルコのEU加盟交渉における課題点となっており、2006年12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因で加盟交渉が一部凍結された。2008年1月のトルコ、ギリシャの首脳会談で、ギリシャ首相コスタス・カラマンリスはトルコが国家承認を拒んでいるギリシャ系のキプロス共和国について「国交正常化がトルコの欧州連合 (EU) 加盟に必要条件だ」と指摘。「すべての条件を満たしたとき、EUはトルコを正式メンバーとして認めるべきだ」と条件付きながら、トルコのEU加盟を支持する考えを明らかにした。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年2月に行われたキプロス大統領選挙で再統合推進派のディミトリス・フリストフィアスが当選し、3月に北キプロスのメフメト・アリ・タラート大統領との間で首脳会談が実現。4月にはキプロス分断の象徴とされていたレドラ通りの封鎖開放という融和策も実行された。引き続き再統合の話合いが行なわれ、9月3日に包括的な再統合交渉を開始することが決まり、同年12月までに計13回の交渉が開かれた。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2009年4月21日に北キプロスで行われた議会選挙で、再統合交渉に消極的な野党国民統一党が勝利を収め、タラート大統領の与党共和トルコ党が敗北した。しかしトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が再統合交渉の継続を求める発言をしたため、国民統一党側もトルコの意向を無視できないとみられた。2009年6月までに再統合交渉において統治と権力分割、財産権、EU問題、経済問題、領域、安全保障の6分野について交渉が進められ、2010年3月31日には統治と権力分割、EU問題及び経済問題の分野で重要な進展があった旨を両大統領が共同声明にて発表した。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2010年4月の北キプロス大統領選挙では、統合消極派のデルヴィシュ・エロール首相が当選した。任期中に交渉を進展させられなかったタラート大統領に対する有権者の不満が選挙結果に影響したものと見られ、交渉の後退が懸念された。この結果に対してトルコのエルドアン首相は再統合交渉の年内妥結を目指したい考えを述べ、エロール首相にクギを刺した。これを受け、2010年7月にエロール大統領は交渉を継続し、年内の合意を目指す事を発表した。以降定期的に交渉が実施されたが、2012年1月の会談でも統治、財産権、市民権に関して合意することができなかった。キプロスのEU議長国就任、2013年2月の大統領選挙などの政治日程の都合のため、両国の代表による直接交渉は中断された。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2013年2月に再統合に積極的なニコス・アナスタシアディスがキプロス大統領に就任。2014年2月に国連の仲介の元で両国による交渉が再開されるも、同年10月にトルコによるキプロスのEEZ内に対する調査活動が行われたことを理由に、キプロスの希望により交渉が中断された。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2015年4月、再統合に積極的なムスタファ・アクンジュが北キプロス大統領に就任。同年5月に国連の仲介のもと直接交渉が再開され、2016年内の合意に向けて交渉が行われた。2016年11月7日、南北両首脳による再統合交渉がスイスのモンペルランにて開催。再統合後に連邦制を採用することが合意され、年内の包括合意を目指して協議を進めることとなった。2017年1月11月には和平会議にボリス・ジョンソン英外相やギリシャ、トルコ両国の外相も協議に加わったことで進展が期待されたが、結局2017年中に協議は決裂した。以降しばらく協議は開かれず、2021年4月下旬には非公式協議が行われたが南北の対立は解けず物別れに終わった。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2023年2月12日にキプロス大統領選挙で当選したニコス・フリストドゥリディスは協議再開を求める立場ではあるが、そのためには協議を仲介する国連の枠組みを再交渉する必要があると主張している。", "title": "キプロス問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1960年の独立時に制定されたキプロス共和国憲法は、ギリシャ系住民とトルコ系住民の人口比に配慮して、元首で行政府の長でもある大統領をギリシャ系から、その行政権限を分掌し拒否権を持つ副大統領をトルコ系からそれぞれ選出し(任期5年)、国会議員、官吏、軍人などの人数も比率が7対3になるように定めている。代議院は任期5年の一院制議会であるが、その議員の選出にあたってはギリシャ系(56人)とトルコ系(24人)で別々に選挙を行うことになっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっている(以下、キプロス島南部のギリシャ系キプロス共和国政府支配地域は「南キプロス」と略す)。南キプロスでは、政府における憲法上のトルコ系の定員はそのまま空席となり、副大統領も置かれず、議会の実質上の定数は56人となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一方、分離独立を主張する北キプロスには公選の大統領がおり、一院制の議会(定員50人、任期5年)で選出される首相とともに行政を行う。1983年の独立後、1985年に北キプロスで最初の選挙が行われたが、この手続きを国際的に承認しているのはトルコのみである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2008年2月24日に大統領選挙の決選投票が行われ、労働人民進歩党 (AKEL) 書記長のディミトリス・フリストフィアスが53.36%で当選し、欧州連合加盟国で異例の共産系大統領が誕生した。再統合推進派のフリストフィアスの当選で、再統合交渉が推進されると期待されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2011年5月22日、国会議員選挙が行われた。保守野党の民主運動党 (DISY) が第1党になった。2006年の前回比で3.75ポイント増の34.27%獲得し、総議席56のうち20議席を占めた。与党AKELも前回比1.36ポイント増で32.67%で、1議席増の19議席とした。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本政府は、これまで在ギリシャ大使館がキプロスを兼轄していたのを改め、2018年にニコシアに大使館の実館(在キプロス日本国大使館)を開設した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "南キプロスではキプロス国家守備隊 (Cypriot National Guard) が組織されている。これは陸海空軍の混成組織(海上部隊は哨戒艦艇のみ、航空部隊は攻撃ヘリコプターや海洋哨戒機のみであり、いずれも補助的な戦力に留まる)である。徴兵制があり、男性は18歳で徴兵され、約25か月の兵役に就く。また、南キプロスにはギリシャ軍が駐留している他、軍事顧問としてギリシャ軍将兵がキプロス国家守備隊に多数出向しているといわれる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "北キプロスにも、北キプロス・トルコ共和国保安軍と呼ばれる国防組織が整備されており、南キプロス同様に陸海空軍混成である(こちらも海上部隊や航空部隊は小規模である)。また、徴兵制も同様に施行されている。実質的な防衛力として、トルコ軍が駐留している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "南北キプロスを隔てる境界線(グリーンライン)には国連キプロス平和維持軍 (UNFICYP) が駐留して監視している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "正確にはキプロス国内ではないが、イギリスの海外領土として島内にイギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリアが存在しており、地中海・中近東方面の軍事拠点としてイギリス軍が駐留している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "キプロスは、キプロス島一島からなる島国で、長さ240km、幅100km。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きい島である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "南のエジプトまで380kmという地理的な面からアジア(中東または西アジア)に分類される場合もあるが、ギリシャ系のキリスト教徒が多いため、ヨーロッパ(南ヨーロッパ)に分類される場合もある。また、地理的にトルコとも関係が深い地域であった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "北部は海岸線に沿って石灰岩のキレニア山脈があり、首都ニコシアを中心とする中央部が平坦地となっている。南部は大部分が火成岩のトゥロードス山地で、海岸線に沿って狭隘な平地がある。北東にカルパス半島が伸びる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "島の最高峰は南部のオリンポス山(英語版)で、標高は1951m。冬は雪も降り、スキーができる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "地中海性気候で、夏は暑く、乾燥する。主に11月から3月に降雨があり、そこから農業に適している面を持つ。高山地帯は島の他の地域よりも涼しく湿っている点が特徴となっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "キプロス島は、事実上2つの国家に分断されており、南部がキプロス共和国政府(ギリシャ系住民)が支配する地域、北部が北キプロス・トルコ共和国としてトルコ系住民が分離独立を主張している地域となっている。", "title": "地域区分" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "分断以前のキプロス島は、行政的に右記の6地区(ギリシア語: επαρχία / トルコ語: kaza)に分かれていた。ここでいう地区は「州」とも訳されるが、元来はキプロス州におかれた「郡」にあたる行政区画である。", "title": "地域区分" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "分断後はキプロス島全6地区のうち、ファマグスタ地区、キレニア地区の全域と、ラルナカ地区およびニコシア地区の一部が北キプロス領となっており、とくに首都ニコシアは町の中心で分断されている。なお、ファマグスタは現在の北キプロスではトルコ語で戦士を意味するガーズィーの称号を冠してガーズィマウサ (Gazimağusa) と呼ばれている。", "title": "地域区分" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "キプロスは、旧イギリス植民地であり、2つの公用語でそれぞれ異なった地名を持つことから、地名は英語名で呼ばれることが一般的であり、以下の地図もそのように記されている。しかし、南キプロスではギリシャ語の地名、北キプロスではトルコ語の地名に言い換えられることも多い。", "title": "地域区分" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "以下の地図の斜線部分は独立以後も残されているイギリスの主権基地領域(アクロティリおよびデケリア)で、この領域にはキプロス共和国政府の主権は及ばず、イギリス主権の下に置かれているイギリスの海外領土である。また、灰色部分は南北の衝突を抑止するため国連の引いた緩衝地帯(通称グリーンライン)である。", "title": "地域区分" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1980年代から1990年代に大きな経済成長を遂げたが、観光産業に依存していたためヨーロッパでの景気の変動に弱かった。。2005年前後時点において、キプロスは4%前後の経済成長、3%台後半の低い失業率と良好な経済状況を維持していた。しかし、2010年以降は経済的・文化的に関係の深いギリシャの金融危機により銀行が膨大な損失を被ったため、巻き添えを食らう形で金融危機に陥った。しかし、現在は天然ガスの発掘、Citizenshipプログラムによりロシア、EU諸国、中東、アフリカ、中国などから多くの富裕層が集まる場所となっており著しい経済成長をしている。また、観光産業への依存からの脱却を目指しオフィスビルの建築、カジノなど様々な建設がはじまっている。その地理的位置からドバイと同様ハブになる可能性が非常に高い。また、法律は英米法なため安心してビジネスを行えることもハブになりうる一因である。さらに、キプロスは、中東やイスラム諸国とも友好関係にありテロの可能性が極めて低い稀有な国である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "主要産業は、観光業と金融業であったが現在は法人税の低さから実態のある会社の拠点を置く企業も増えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "観光業については、EU、ドバイ、ロシア、北欧などからの観光地として人気がある。2004年5月1日の欧州連合 (EU) 加盟、さらに2008年1月1日の EU 単一通貨ユーロの導入により、観光客が着実に増加している。また、別荘地としても有名で、それに伴って不動産投資も盛んに行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "リマソールでは、ヨーロッパ最大規模のカジノリゾートの建設が進んでいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "会計士やロンドン大学出身の優秀な弁護士が多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "南キプロスは観光業を含むサービス産業に労働人口の62%が従事し、GDPの70%を占める。地中海地域の共通問題である水の供給については海水淡水化プラントの稼動により安定し、再生可能エネルギーに特に力をいれている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "北キプロス・トルコ共和国は、南キプロスに比べて経済的に遅れており、一人あたりGDPは3分の1しかない。しかし、現在北と南の統一の試みが積極的に行われており統一の実現は近いとされる。しかし、必ずしも統一を望む意見が多いわけではなく、統一すると逆に混乱を招くというキプロス共和国の人々も少なくない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "多くの国民が自動車を所有し、交通手段に利用している。自動車の通行区分は日本と同じ左側通行であることから、右ハンドル仕様の欧州車に加え、日本から輸入された中古車が多く使われている。そのため対日中古車輸入および関連産業が盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "キプロスの鉱業は5000年の歴史を持つ。紀元前3000年ごろ、まず自然銅がトゥロードス山麓で発見される。銅鉱床としては最も古いと考えられ、銅のラテン語名であるcuprum はキプロスに由来する。自然銅が枯渇した後は銅を含む黄銅鉱から銅を抽出する技術が生まれた。現在でも銅の採掘は続いており、2002年時点では5200トンの銅を産出する。ただし、資源が枯渇している上に内戦によって鉱山施設が分断されたことにより、鉱業はすでにキプロス経済において意味を失ってしまった。このほか、クロムや石綿などを少量産出する。地質学的には地中海が広がった時に海洋底拡大の中心部としてオフィオライトが形成され、更新世に隆起し、現在の位置に移動した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "最近、海域の石油探鉱を行い成功している。現にTotal,ENI,KOGAS,NOBLEENERGY,DELEKDRILLING,など世界の資源会社がすでに採掘を開始している。9月に相当量の天然ガスが発見されるという情報がキプロスの政府機関CIPA(Cyprus InvestmentPromotion Aency)の世界初のCIPA Official Agency AmbassadorとなるMr.Takayoshi Shimoyamada の9月訪問で確認されている。 。この立場は、単なる親善大使を超えて、日本とキプロスとの友好関係構築を深めるためMr.Takayoshi Shimoyamadaが政府にコンセプトを提案しキプロス共和国がこれに応じる形でなされたものである。準大使的な位置にあり、特別の紋章も付与される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "自動車は左側通行である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "キプロスには鉄道機関が存在していない。かつてはキプロス国鉄が存在していたが、国鉄そのものが1952年に解体されて以降は私鉄などの鉄道会社も設立されず、現在まで進展がない状態となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ギリシャ系とトルコ系は歴史的にキプロス島の全域で混住していたが、1974年の南北分断の際、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ギリシャ系の99.5%が南キプロスに、トルコ系の98.7%が北キプロスに住む。その他の系統の住民は、99.2%が南キプロスに居住している。なお、経済的に苦しい北キプロスではかなりの数のトルコ系住民がトルコやヨーロッパに出稼ぎに移住した一方、トルコから多くのトルコ人が流入したため、トルコ系キプロス人の正確な人口を割り出すことは難しい。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "民族の帰属意識はおおむね信仰する宗教と一致しており、正教徒のギリシャ系が78%、ムスリム(イスラム教徒)のトルコ系が18%であるとされる。その他の4%にはマロン派とアルメニア教会派のキリスト教徒がいる。キプロスの正教会はイスタンブールのコンスタンディヌーポリ総主教庁にも、アテネ大主教を首座とするギリシャ正教会にも属さず、大主教を長とするキプロス正教会(ギリシア語版、英語版)のもとに自治を行っている。なお、キプロスのキリスト教については、イエス・キリストの死後、パウロが第1回の宣教旅行でキプロス島のサラミスとパフォスを訪れ、キリスト教が広まってゆく様が「新約聖書」の「使徒言行録(使徒行伝)」第13章に描かれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "公用語はギリシャ語とトルコ語である。他には少数言語としてクレオール言語であるクルベチャ語(英語版)、キプロス・アラビア語やアルメニア語が存在しており、これらの言語はヨーロッパ地方言語・少数言語憲章によって保持されている。イギリス領であった1960年までは英語が唯一の公用語となっていたために、現在でも標識や看板、広告など英語表記が至る所にあり、英語が第二言語として広く使用されている。1996年までは裁判では英語が使用されていた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "キプロスの初等、中等教育は行き届いているといわれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "高等教育は以前ギリシャ、トルコ、英国、米国などに依存することが多かったが、近年下記のような大学ができている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "一方で、海外からの留学生も増えている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "キプロスの治安状況は首都ニコシア市から各都市まで比較的良好なものとなっている。ただし、都市部では置き引きや空き巣などの窃盗事件や強盗事件、飲食店(バー)において法外な料金を請求される、いわゆる「ぼったくり」の被害事例も散見されている為、基本的な防犯対策が必要とされる面がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "キプロス警察は英国植民地時代に設立されたキプロス軍事警察(英語版)を前身としている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "キプロスの料理はアラブ料理(英語版)、ギリシャ料理、トルコ料理の影響を強く受けており、イタリア料理やフランス料理とも類似点が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "キプロスの伝統的な民俗音楽には、ギリシア音楽(英語版)を始め、トルコ音楽やアラビア音楽と共通する幾つかの要素が含まれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "キプロス国際映画祭(英語版)が毎年開催されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "キプロス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "キプロスではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1934年にサッカーリーグのキプロス・ファーストディビジョンが創設された。名門クラブのAPOELニコシアが非常に知られており、通算リーグ優勝は28回を数える。さらに、UEFAチャンピオンズリーグの2011-12シーズンではベスト8に進出する快挙を成し遂げた。この躍進は「アポエルの大冒険」と呼ばれ、UEFAに加盟する小国に大きな勇気を与えた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "キプロスサッカー協会(CFA)によって構成されるサッカーキプロス代表は、これまでFIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権には未出場である。UEFAネーションズリーグにおいては、2022-23シーズンはリーグCに属している。また、著名な女子サッカーの国際大会としてキプロス・カップが存在している。アルガルヴェ・カップ(ポルトガル主催)やシービリーブスカップ(アメリカ主催)程ではないが、権威のある大会の一つである。なお、男子サッカーにも\"キプロス国内のカップ戦\"として、同名のキプロス・カップは存在する。", "title": "スポーツ" } ]
キプロス共和国は、地中海東部に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家。首都はニコシア。EU加盟国。公用語はギリシア語およびトルコ語。 キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断され、島の北部約37%を、国際的にはトルコのみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認している。 キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、キプロス島分断後は、事実上ギリシャ系による単一民族国家となっている。
{{Otheruses|国家|島|キプロス島}} {{脚注の不足|date=2021-05-23}} {{基礎情報 国 |略名 = キプロス |日本語国名 = キプロス共和国 |公式国名 = {{lang|el|'''Κυπριακή Δημοκρατία'''}}{{smaller|(ギリシア語)}}<br />{{lang|tr|'''Kıbrıs Cumhuriyeti'''}}{{smaller|(トルコ語)}} |国旗画像 = Flag of Cyprus.svg |国章画像 = [[File:Cyprus coat of arms 2006.svg|80px]] |国章リンク = ([[キプロスの国章|国章]]) |標語 = なし |国歌 = {{lang|el|[[自由への賛歌|Ύμνος εις την Ελευθερίαν]]}}{{el icon}}<br>''自由への賛歌''<center>[[File:Greece national anthem.ogg]]</center> |位置画像 = EU-Cyprus.svg |公用語 = [[ギリシア語]]、[[トルコ語]]<ref>[https://archive.is/20120530023218/www.cyprus.gov.cy/portal/portal.nsf/0/302578ad62e1ea3ac2256fd5003b61d4?OpenDocument&ExpandSection=3%23_Section3]</ref> |首都 = [[ニコシア]] |最大都市 = ニコシア |元首等肩書 = [[キプロスの大統領|大統領]] |元首等氏名 = [[ニコス・フリストドゥリディス]] |首相等肩書 = [[キプロスの副大統領|副大統領]] |首相等氏名 = 空席<ref group="注記">憲法の規定でトルコ系が就任する規定だが、1974年の南北分断以降は空席となっている。</ref> |面積順位 = 162 |面積大きさ = 1 E9 |面積値 = 9,250 |水面積率 = 0.1% |面積追記 = <ref group="注記">この内、3,355[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]は[[北キプロス・トルコ共和国]]の実効支配地域。</ref> |人口統計年 = 2018 |人口順位 = 158 |人口大きさ = 1 E5 |人口値 = 1,237,088 |人口密度値 = 134 |人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cy.html |title=The World Factbook/Cyprus |publisher=中央情報局 |date=2019-12-18 |accessdate=2020-01-09}}</ref> <ref group="注記">北キプロスを除いた場合は875,900人(2018年)。</ref> |GDP統計年元 = 2013 |GDP値元 = 165億<ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=423&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=24&pr.y=10|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-11-15}}</ref> |GDP統計年MER = 2013 |GDP順位MER = 105 |GDP値MER = 219億<ref name="imf201410" /> |GDP統計年 = 2013 |GDP順位 = 128 |GDP値 = 253億<ref name="imf201410" /> |GDP/人 = 28,748<ref name="imf201410" /> |建国形態 = [[イギリス]]より[[独立]] |確立形態1 = {{仮リンク|ロンドン=チューリッヒ協定|en|London-Zürich Agreements}}<br/>(憲法制定) |確立年月日1 = 1959年2月19日 |確立形態2 = 独立宣言 |確立年月日2 = 1960年8月16日<ref group="注記">ただし独立記念日は10月1日。</ref> |確立形態3 = [[トルコのキプロス侵攻|トルコの北部侵攻]] |確立年月日3 = 1974年7月20日 |通貨 = [[ユーロ]] (€) |通貨コード = EUR |通貨追記 = <ref group="注記">[[キプロスのユーロ硬貨]]も参照。</ref> |時間帯 = +2 |夏時間 = +3 |ISO 3166-1 = CY / CYP |ccTLD = [[.cy]] |国際電話番号 = 357 |注記 = <references group="注記" /> }} '''キプロス共和国'''(キプロスきょうわこく、{{lang-el|Κυπριακή Δημοκρατία}}、{{lang-tr|Kıbrıs Cumhuriyeti}})は、[[地中海]]東部に位置する[[キプロス島]]の大部分を占める[[共和制]][[国家]]。首都は[[ニコシア]]。EU加盟国。[[公用語]]は[[ギリシア語]]および[[トルコ語]]。 キプロス島の一部は、[[イギリスの海外領土|イギリス海外領土]]の[[アクロティリおよびデケリア]]であり、共和国領ではない。さらに[[1974年]]以来、南北に[[分断国家|分断]]され、島の北部約37%を、国際的にはトルコのみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による[[北キプロス・トルコ共和国]]が占めている。一方のキプロス共和国は[[国際連合加盟国]]193か国のうち、192か国(トルコを除く)が[[国家承認]]している。 キプロスは元来はギリシャ系住民と[[トルコ人|トルコ系]]住民の混住する複合民族国家だったが、キプロス島分断後は、事実上[[ギリシャ人|ギリシャ系]]による単一民族国家となっている。 == 国名 == 正式名称は、現代ギリシャ語で {{lang|el|Κυπριακή Δημοκρατία}} {{IPA-el|cipriaˈci ðimokraˈti.a|}}(ラテン文字転写: ''Kypriakí Demokratía''; キプリアキ・ディモクラティア)、トルコ語で {{lang|tr|Kıbrıs Cumhuriyeti}} {{IPA-tr|ˈkɯbɾɯs dʒumhuːɾijeti|}}(クブルス・ジュムフーリエティ)。通称は、現代ギリシャ語では {{lang|el|Κύπρος}} {{IPA-el|ˈci.pɾos|}}(キプロス)、トルコ語では {{lang|tr|Kıbrıs}} (クブルス)。なお、古典ギリシャ語では{{IPA-el|ˈky.pros|}}「キュプロス」と発音された。 公式の英語表記は、{{lang|en|Republic of Cyprus}}(リパブリク・オヴ・サイプラス)。通称は、{{lang|en|Cyprus}} {{IPA-en|ˈsaɪprəs|}}。国民・形容詞の英語はCypriot {{IPA-en|ˈsipriət|}}。 日本語の表記は、'''キプロス共和国'''。通称は、ギリシャ語の発音の'''キプロス'''。日本の[[外務省]]は、かつて英語での発音にならい「サイプラス」とする表記を取っていた。 キプロスの[[語源]]は、古代ギリシャ語の[[イトスギ]] (kyparissos) 由来説と、同じく古代ギリシャ語の[[銅]] (Chalkos) 由来説とがある。いずれもこの地に多かったもので、銅については、さらにこの地名(キプロス)が、[[ラテン語]]や英語で「銅」を意味する単語の語源となった。 [[1983年]]以来、北部のトルコ系住民支配地域は、「北キプロス・トルコ共和国」({{lang|tr|Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti;}} クゼイ・クブルス・テュルク・ジュムフーリエティ。より厳密に訳せば「北キプロス・トルコ系住民共和国」)として分離独立を宣言している。キプロス共和国はギリシャ系住民の支配地域のみを統治しており、キプロス共和国支配地域は北キプロスとの対比から、'''南キプロス'''やギリシャ系住民だけなので北キプロス風に'''南キプロス・ギリシャ共和国'''とも呼ばれることもある。 なお、北キプロスおよびその後援国であるトルコ共和国は、ギリシャ系・トルコ系両住民の連合国家であるキプロス共和国は既に[[1974年]]の南北分裂時に解体したのであり、南部のギリシャ系住民のみが不法にキプロス共和国を名乗り続けていると見なす立場から、キプロス共和国を承認せず、キプロス共和国支配地域のことを「南キプロス・ギリシャ系住民管理地域」({{lang|tr|Güney Kıbrıs Rum Yönetimi;}} ギュネイ・クブルス・[[ローマ人|ルム]]・ヨネティミ)と称する。 == 歴史 == {{see also|[[キプロスの歴史]]}} === オリエント諸国支配時代 === [[ファイル:House of Aion, Paphos - Apollo and Marsyas Mosaic.jpg|250px|right|thumb|[[パフォス]]の壁画([[世界遺産]]。[[アフロディテ]]の神話は、キプロスの地で生まれた)。]] キプロスは東地中海を往来する諸[[民族]]、諸[[文明]]の中継地となったため、その歴史は古い。有史から当初は[[ヒッタイト]]、[[アッシリア]]といったオリエント諸国の支配を受けた。 アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、[[エジプト第26王朝]]の[[アマシス2世]](クネムイブラー・イアフメス2世)によって征服され、エジプトが[[アケメネス朝]](ペルシア)に併合されたのとほぼ同時期にキプロスもペルシアの支配下に入った。住民の多くが入植してきたギリシア系であったため、再三に亘って反ペルシア暴動が生じたものの、ペルシアによって全て鎮圧された。 === ローマ属州時代 === [[ファイル:Cyprus SPQR.png|right|thumb|250px|[[キュプルス属州]]の位置。]] [[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によるペルシア滅亡と大王死後の[[ディアドコイ戦争]]での結果、キプロスは[[プトレマイオス朝]]の保護下に置かれ、プトレマイオス朝から総督が派遣された。この時期のキプロスは当時の2大商業都市であった[[アテネ]]と[[アレキサンドリア]]の間の中間貿易港として発展した。 [[紀元前58年]]、[[共和政ローマ]]から派遣された[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|小カト]]によってキプロスはローマ属州([[キュプルス属州]])となった。[[クレオパトラ7世]]は[[マルクス・アントニウス]]と結んでキプロスの支配権を再び手に収めたが、[[アクティウムの海戦]]に敗北し、プトレマイオス朝の滅亡と共に再度ローマ属州へ復帰した。 紀元前22年以降は、[[元老院属州]]として位置づけられ、イタリア本国と東方属州を結ぶ交通の要衝として機能し、[[ハドリアヌス]]や[[ルキウス・ウェルス]]などのローマ皇帝もキプロスを訪れた。[[115年]]からの[[ユダヤ人]]の一斉蜂起によりキプロスは損害を被った。4世紀以降に[[ローマ帝国]]が[[キリスト教]]化する中でキプロスもキリスト教が徐々に普及、[[395年]]にローマ帝国が東西に分裂後は[[東ローマ帝国]]の管轄下となった。7世紀になりアラブ人の侵攻が度重なり、キプロス島は一時的に[[ウマイヤ朝]]の支配下となる。[[688年]]、東ローマ帝国皇帝[[ユスティニアノス2世]]とウマイヤ朝カリフ [[アブドゥルマリク]]との間で、キプロスを[[共同主権|共同統治]]することに合意。以後、約300年にわたり東ローマ帝国とアラブの共同主権が行使される。9世紀になり国力を回復した東ローマ帝国は、10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝[[ニケフォロス2世フォカス]]、[[ヨハネス1世ツィミスケス]]、[[バシレイオス2世|バシレイオス2世ブルガロクトノス]]の下で、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。その過程で[[965年]]にキプロスを再征服した東ローマ帝国が同島の主権を完全に回復した。以後、12世紀末まで東ローマ帝国の支配下に置かれる。 === 中世 === [[File:Richard coeur de lion.jpg|thumb|right|180px|[[イングランド]]王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]]] 1185年、[[ヨハネス2世コムネノス]]死去後の王位継承に不満を抱いた皇族{{仮リンク|イサキオス・コムネノス|en|Isaac Komnenos of Cyprus}}がキプロスで叛乱を起こし、皇帝を[[僭称]]し同島を占拠してしまう。 [[1191年]]、[[第3回十字軍]]の途上にキプロス島沖を航行していた[[イングランド]]王率いる船団の一部がキプロス島に漂着し、僭称帝により捕虜とされてしまう。これに対して[[イングランド]]王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]](獅子心王)はキプロスをわずか5日で攻め落とし、以後キプロスの領有権はイギリス王に帰することになる。キプロス島は[[正教会|ギリシャ正教会]]から[[カトリック教会]]の支配下となり、東地中海でのキリスト教国家の「基地」としての位置を約400年間果たすこととなる。[[1192年]]、[[エルサレム王国]]の王位を[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|モンフェラート侯コンラード]]に奪われた[[ギー・ド・リュジニャン]]は、[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]からキプロス島を譲渡され、以後300年間リュジニャン家がキプロス王位を継ぐことになる([[キプロス王国]])。[[1489年]]にリュジニャン家は王位継承者を欠いたことから断絶し、最後の王となった[[カテリーナ・コルネーロ]]はキプロス王国を[[ヴェネツィア共和国]]に譲渡した({{仮リンク|ヴェネツィア領キプロス|el|Κύπρος υπό Βενετική κυριαρχία|en|Venetian Cyprus}})。{{仮リンク|オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年 - 1573年)|en|Ottoman–Venetian War (1570–73)}}では、[[1571年]]に[[オスマン帝国]]がヴェネツィアからキプロスを奪い、{{仮リンク|キプロス州|tr|Kıbrıs Eyaleti|en|Ottoman Cyprus}}(オスマン領キプロス)を置いた。 === 近世・近代 === [[エジプト]]の植民地化を進めていた[[イギリス]]はこの島の戦略的価値に目をつけ、[[1878年]]、[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]後の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。 さらに[[1914年]]勃発した[[第一次世界大戦]]でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスに一方的に併合された。そしてアメリカの[[:en:Cyprus Mines Corporation|キプロス鉱山会社]]がやってきた。 [[第二次世界大戦]]後、[[ギリシャ]]併合派、[[トルコ]]併合派による抗イギリス運動が高まったため、[[1960年]]にイギリスから独立。翌[[1961年]]、[[イギリス連邦]]加盟。しかし[[1974年]]にギリシャ併合強硬派による[[クーデター]]をきっかけに[[トルコ軍]]が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、[[キプロス紛争]]を参照)。 南北キプロスの間では[[国際連合]]の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、[[#キプロス問題|キプロス問題]]を参照)。 [[2004年]]、[[欧州連合|EU]]に加盟。 == キプロス問題 == [[ファイル:Cyprus districts named.png|thumb|280px|キプロスの分断地図(青色部分は[[グリーンライン (キプロス)|国連による緩衝地帯]]。緑色部分は[[アクロティリおよびデケリア|イギリス軍主権基地領域]])]] {{main|キプロス紛争}} キプロスは東ローマ帝国の支配下で[[ギリシャ語]]を話す[[正教会|正教徒]]が大多数を占めるようになっていたが、オスマン帝国支配下で、[[トルコ語]]を話す[[ムスリム]](イスラム教徒)が流入し、トルコ系住民が全島人口の2割から3割程度を占めるまでになった。 イギリス統治下のキプロスでは[[エーゲ海]]の島々と同じく[[ギリシャ]]に併合されるべきという要求(エノシス enosis)がギリシャ系住民の間で高まり、[[1948年]]にはギリシャの国王がキプロスはギリシャに併合されるべきとの声明を出し、[[1951年]]にはギリシャ系住民の97%がギリシャへの併合を希望していると報告された。一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャと[[トルコ]]にそれぞれ帰属させるべきとの主張(タクスィム taksim)がなされており、キプロスの帰属問題がイギリス、ギリシャ、トルコの3か国の間で協議された。その結果、中間案として[[1959年]]、[[チューリッヒ]]でキプロスの独立が3国間で合意された。 [[1960年]]、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であった[[キプロス正教会]]の[[マカリオス3世|マカリオス]]大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立を果たした。しかし、[[1963年]]には早くも民族紛争が勃発し、1964年3月より[[国際連合キプロス平和維持軍]]が派遣された。 さらに[[1974年]][[7月15日]]に[[ギリシャ軍事政権]]の支援を受けた併合強硬派が{{仮リンク|1974年キプロスクーデター|en|1974 Cypriot coup d'état|label=クーデター}}を起こしてマカリオス大統領を追放。トルコはこれに敏感に反応し、トルコ系住民の保護を名目に[[7月20日]][[トルコのキプロス侵攻|キプロスに侵攻]]した。これにより[[7月22日]]にクーデター政権が崩壊するが、トルコ軍はキプロス分割問題の解決をはかって[[8月13日]]に第二次派兵を敢行し、首都ニコシア以北のキプロス北部を占領した。トルコの支持を得たトルコ系住民は翌年、キプロス共和国政府から分離して'''キプロス連邦トルコ人共和国'''を発足させ、政権に復帰したマカリオスの支配するギリシャ系の共和国政府に対して、[[連邦制]]による再統合を要求した。 [[1970年代]]以来、南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索が続けられているが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系[[北キプロス・トルコ共和国|北キプロス]]との主張の隔たりは大きく、再統合は果たされてこなかった。[[1997年]]にキプロス共和国が[[欧州連合|EU]]加盟候補国となったことは、国際的に孤立し経済的に苦しい北キプロスにとっては大きな危機であったが、その後の国連の仲介案を得た統合交渉も不調に終わった。 [[2004年]][[5月1日]]のキプロスのEU加盟を前に、北キプロスが政治的経済的に取り残されることを避けるため、同年[[2月9日]]より国連の[[コフィー・アナン]]事務総長の仲介で再び南北大統領による統合交渉が行われ、[[3月31日]]の交渉期限直前に国連案(アナン・プラン)に基づく住民投票案が合意された。しかし、[[4月24日]]に行われた南北同時住民投票はギリシャ系の南側の反対多数という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数にもかかわらず否決された。これは、国連案がトルコ系住民側およびトルコ共和国が主張してきた連邦制を前提とし、ギリシャ系難民の北部帰還を制限、またトルコ軍の駐留を期限付き(最低7年間)ながら認めるなど、ギリシャ系住民側にとって容易に受け入れがたい内容を含んでいたためである。南のキプロス共和国では2004年、[[2006年]]の総選挙でいずれも統合反対派が勝利し、以降の統合交渉は停滞した。 一方、失敗に終わったものの統合交渉に前向きな姿勢を示して国際社会での得点を稼いだトルコは、同年[[10月3日]]、長年望んでいたEU加盟交渉開始のテーブルにつくことになった。しかし依然としてトルコはキプロス共和国をキプロスの公式の政府として承認することを拒否しつづけ、トルコのEU加盟交渉における課題点となっており、[[2006年]]12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因で加盟交渉が一部凍結された。[[2008年]]1月のトルコ、ギリシャの首脳会談で、ギリシャ首相[[コスタス・カラマンリス]]はトルコが国家承認を拒んでいるギリシャ系のキプロス共和国について「国交正常化がトルコの欧州連合 (EU) 加盟に必要条件だ」と指摘。「すべての条件を満たしたとき、EUはトルコを正式メンバーとして認めるべきだ」と条件付きながら、トルコのEU加盟を支持する考えを明らかにした。 [[2008年]][[2月]]に行われたキプロス大統領選挙で再統合推進派の[[ディミトリス・フリストフィアス]]が当選し、3月に北キプロスの[[メフメト・アリ・タラート]]大統領との間で首脳会談が実現。4月にはキプロス分断の象徴とされていたレドラ通りの封鎖開放という融和策も実行された。引き続き再統合の話合いが行なわれ、9月3日に包括的な再統合交渉を開始することが決まり<ref>共同通信 2008年7月25日「[https://web.archive.org/web/20080802024913/http://www.47news.jp/CN/200807/CN2008072501000987.html 9月にキプロス再統合交渉 南北が合意、住民投票も]」</ref>、同年12月までに計13回の交渉が開かれた<ref name="gaimusho">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cyprus/index.html 外務省:キプロス共和国]</ref>。 [[2009年]][[4月21日]]に北キプロスで行われた議会選挙で、再統合交渉に消極的な野党[[国民統一党 (北キプロス)|国民統一党]]が勝利を収め、タラート大統領の与党[[共和トルコ党]]が敗北した。しかしトルコの[[レジェップ・タイイップ・エルドアン]]首相が再統合交渉の継続を求める発言をしたため、国民統一党側もトルコの意向を無視できないとみられた<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20090422AT2M2200322042009.html 日経ネット] 2009年4月22日閲覧</ref>。2009年6月までに再統合交渉において統治と権力分割、財産権、EU問題、経済問題、領域、安全保障の6分野について交渉が進められ、2010年3月31日には統治と権力分割、EU問題及び経済問題の分野で重要な進展があった旨を両大統領が共同声明にて発表した<ref name="gaimusho" />。 2010年4月の北キプロス大統領選挙では、統合消極派の[[デルヴィシュ・エロール]]首相が当選した。任期中に交渉を進展させられなかったタラート大統領に対する有権者の不満が選挙結果に影響したものと見られ、交渉の後退が懸念された。この結果に対してトルコのエルドアン首相は再統合交渉の年内妥結を目指したい考えを述べ、エロール首相にクギを刺した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/100419/mds1004192002006-n1.htm 北キプロス大統領選 統合消極派の首相が当選 - MSN産経ニュース] 2010年4月19日閲覧</ref>。これを受け、2010年7月にエロール大統領は交渉を継続し、年内の合意を目指す事を発表した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100719/erp1007191036002-n1.htm 再統合交渉「年内合意を」北キプロス大統領が意欲-MSN産経ニュース]</ref>。以降定期的に交渉が実施されたが、2012年1月の会談でも統治、財産権、市民権に関して合意することができなかった<ref name="gaimusho" />。キプロスのEU議長国就任、2013年2月の大統領選挙などの政治日程の都合のため、両国の代表による直接交渉は中断された<ref name="gaimusho" />。 2013年2月に再統合に積極的な[[ニコス・アナスタシアディス]]がキプロス大統領に就任。[[2014年]][[2月]]に国連の仲介の元で両国による交渉が再開されるも、同年10月にトルコによるキプロスのEEZ内に対する調査活動が行われたことを理由に、キプロスの希望により交渉が中断された<ref name="gaimusho" />。 [[2015年]][[4月]]、再統合に積極的な[[ムスタファ・アクンジュ]]が北キプロス大統領に就任。同年[[5月]]に国連の仲介のもと直接交渉が再開され、[[2016年]]内の合意に向けて交渉が行われた<ref name="gaimusho" />。2016年11月7日、南北両首脳による再統合交渉が[[スイス]]のモンペルランにて開催。再統合後に連邦制を採用することが合意され、年内の包括合意を目指して協議を進めることとなった<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110700425&g=int キプロス再統合へ交渉=年内合意目指し進展模索] 時事通信(2016年11月20日){{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。2017年1月11月には和平会議に[[ボリス・ジョンソン]]英外相やギリシャ、トルコ両国の外相も協議に加わったことで進展が期待された<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/38592501|title=キプロス再統合目指す和平会議、英外相ら参加へ|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2017-01-12|accessdate=2023-10-21}}</ref>が、結局2017年中に協議は決裂した。以降しばらく協議は開かれず、2021年4月下旬には非公式協議が行われたが南北の対立は解けず物別れに終わった<ref>{{Cite news|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/international/20210429000473|title=キプロス和平協議、再開困難/国連会合、南北首脳物別れ|newspaper=[[四国新聞]]|date=2021-04-29|accessdate=2023-10-21}}</ref>。 2023年2月12日にキプロス大統領選挙で当選した[[ニコス・フリストドゥリディス]]は協議再開を求める立場ではあるが、そのためには協議を仲介する国連の枠組みを再交渉する必要があると主張している<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/cyprus-election-idJPKBN2UM0FM|title=キプロス大統領選の決選投票、前外相が勝利|agency=[[ロイター]]|date=2023-02-13|accessdate=2023-10-21}}</ref>。 === 略年表 === * [[1914年]] - イギリスが併合。 * [[1955年]] - イギリス、ギリシャ、トルコ三国間協議。 * [[1959年]] - チューリッヒ協定。 * [[1960年]] - 独立。 * [[1961年]] - [[イギリス連邦]]に加盟。 * [[1963年]] - 民族紛争勃発。 * [[1964年]] - 国連平和維持軍(UNFICYP)が派遣される。 * [[1974年]] ** [[7月15日]] - ギリシャの支援を受けた併合賛成派が{{仮リンク|1974年キプロスクーデター|en|1974 Cypriot coup d'état|label=クーデター}}を起こす。 ** [[7月20日]] - トルコ軍が[[トルコのキプロス侵攻|キプロスに侵攻]]。 ** [[7月22日]] - クーデター政権が倒壊。 ** [[7月23日]] - クーデター政権を支援した[[ギリシャ軍事政権]]が倒壊。 ** [[8月13日]] - トルコ軍が第二次派兵を敢行し、北部を占拠。 * [[1975年]] - 北部に'''キプロス連邦トルコ人共和国'''が発足。 * [[1977年]] - 最初の統合交渉が決裂。 * [[1983年]] - '''北キプロス・トルコ共和国'''が独立を宣言。 * [[1997年]] - 南部のキプロス共和国がEU加盟候補国となる。 * [[2003年]] ** [[4月16日]] - キプロス共和国がEU加盟条約に調印。 * [[2004年]] ** [[2月9日]] - 国連の仲介により南北大統領の統合住民投票案実施協議が始まる。 ** [[3月31日]] - 国連案の修正による住民投票案が合意。 ** [[4月24日]] - 南北同時住民投票がギリシャ系側(キプロス共和国側)の反対多数により否決。 ** [[5月1日]] - キプロス共和国がEUに加盟。 ** [[10月3日]] - トルコ政府がキプロス共和国を国家承認しないまま、EUはトルコとの加盟交渉を開始。 * [[2006年]] ** [[5月21日]] - キプロス共和国が総選挙を実施。統合反対派が勝利。 ** [[12月11日]] - トルコのキプロス共和国不承認問題のため、EUがトルコとの加盟交渉を一部凍結。 * [[2008年]] ** [[2月24日]] - キプロス共和国大統領選挙で再統合推進派のフリストフィアスが当選。 ** [[3月21日]] - 3月に南北大統領の[[首脳会談]]が実現。以降、同年[[5月23日]]、[[7月1日]]にも開催される。 ** [[4月1日]] - レドラ通りが開放される。 ** [[7月14日]] - 国連が[[アレクサンダー・ダウナー]]オーストラリア前外相を[[国際連合事務総長|国連事務総長]]特別顧問に任命。交渉の仲介に乗り出す。 ** [[9月3日]] - ダウナー特別顧問同席の元、南北両首脳による本格的交渉が開始される。2009年6月までに経済問題の交渉が完了。 * [[2009年]] ** [[4月21日]] - 北キプロス議会選挙において、中道右派野党[[国民統一党 (北キプロス)|国民統一党]]が勝利。 ** [[10月2日]] - [[ロシア]]の[[セルゲイ・ラブロフ]]外相が、トルコによる[[アブハジア共和国]]の独立承認と引き換えに、ロシアが北キプロスの独立を承認することはないと発言<ref>[http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/091003-123005.html アブハジアと北キプロスの相互独立承認を否定―ロシア]</ref>。 * [[2010年]] ** [[4月18日]] - 北キプロス大統領選挙において、再統合に消極的な[[デルヴィシュ・エロール]]首相が、統合推進派のタラート大統領を破って当選。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|キプロスの政治|en|Politics of Cyprus}}}} [[1960年]]の独立時に制定されたキプロス共和国[[憲法]]は、ギリシャ系住民とトルコ系住民の人口比に配慮して、[[元首]]で行政府の長でもある[[大統領]]をギリシャ系から、その[[行政]]権限を分掌し拒否権を持つ副大統領をトルコ系からそれぞれ選出し(任期5年)、国会議員、官吏、軍人などの人数も比率が7対3になるように定めている。[[代議院 (キプロス)|代議院]]は任期5年の[[一院制]][[議会]]であるが、その議員の選出にあたってはギリシャ系(56人)とトルコ系(24人)で別々に選挙を行うことになっている。 1974年に南北分断された後は、キプロス共和国は南部を占め、ギリシャ系住民のみの政府となっている(以下、キプロス島南部のギリシャ系キプロス共和国政府支配地域は「南キプロス」と略す)。南キプロスでは、政府における憲法上のトルコ系の定員はそのまま空席となり、副大統領も置かれず、議会の実質上の定数は56人となっている。 一方、分離独立を主張する北キプロスには公選の大統領がおり、一院制の議会(定員50人、任期5年)で選出される[[首相]]とともに行政を行う。[[1983年]]の独立後、[[1985年]]に北キプロスで最初の選挙が行われたが、この手続きを国際的に承認しているのはトルコのみである。 [[2008年]][[2月24日]]に大統領選挙の決選投票が行われ、[[労働人民進歩党]] (AKEL) 書記長の[[ディミトリス・フリストフィアス]]が53.36%で当選し、[[欧州連合加盟国]]で異例の共産系大統領が誕生した。再統合推進派のフリストフィアスの当選で、再統合交渉が推進されると期待されている。 [[2011年]][[5月22日]]、国会議員選挙が行われた。保守野党の[[民主運動党 (キプロス)|民主運動党]] (DISY) が第1党になった。2006年の前回比で3.75ポイント増の34.27%獲得し、総議席56のうち20議席を占めた。与党AKELも前回比1.36ポイント増で32.67%で、1議席増の19議席とした。 日本政府は、これまで[[在ギリシャ日本国大使館|在ギリシャ大使館]]がキプロスを兼轄していたのを改め、2018年にニコシアに大使館の実館([[在キプロス日本国大使館]])を開設した。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|キプロスの国際関係|en|Foreign relations of Cyprus|el|Διεθνείς σχέσεις της Κύπρου}}}} {{節スタブ}} == 軍事 == 南キプロスでは[[キプロス国家守備隊]] (Cypriot National Guard) が組織されている。これは陸海空軍の混成組織(海上部隊は哨戒艦艇のみ、航空部隊は攻撃ヘリコプターや海洋哨戒機のみであり、いずれも補助的な戦力に留まる)である。[[徴兵制度|徴兵制]]があり、男性は18歳で徴兵され、約25か月の兵役に就く。また、南キプロスには[[ギリシャ軍]]が駐留している他、[[軍事顧問]]としてギリシャ軍将兵がキプロス国家守備隊に多数出向しているといわれる。 北キプロスにも、[[北キプロス・トルコ共和国保安軍]]と呼ばれる国防組織が整備されており、南キプロス同様に陸海空軍混成である(こちらも海上部隊や航空部隊は小規模である)。また、徴兵制も同様に施行されている。実質的な防衛力として、[[トルコ軍]]が駐留している。 南北キプロスを隔てる境界線([[グリーンライン (キプロス)|グリーンライン]])には[[国連キプロス平和維持軍]] (UNFICYP) が駐留して監視している。 正確にはキプロス国内ではないが、[[イギリスの海外領土]]として島内に[[イギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリア]]が存在しており、地中海・中近東方面の軍事拠点として[[イギリス軍]]が駐留している。 == 地理 == [[ファイル:Cy-map-ja.png|300px|thumb|キプロスの地図。]] {{Main|キプロス島|{{仮リンク|キプロスの地理|en|Geography of Cyprus|el|Γεωγραφία της Κύπρου}}}} キプロスは、[[キプロス島]]一島からなる[[島国]]で、長さ240km、幅100km。地中海では[[シチリア|シチリア島]]、[[サルデーニャ|サルデーニャ島]]に次いで3番目に大きい島である。 南の[[エジプト]]まで380kmという地理的な面から[[アジア]]([[中東]]または[[西アジア]])に分類される場合もあるが<ref>アジアへの分類の例として:[http://www.ndl.go.jp/jp/service/kansai/asia/link/middleeast/link_cyp.html キプロス | AsiaLinks -アジア関係リンク集- | アジア情報室 | 国立国会図書館-National Diet Library]</ref>、[[ギリシャ人|ギリシャ系]]の[[正教会|キリスト教]]徒が多いため、[[ヨーロッパ]]([[南ヨーロッパ]])に分類される場合もある<ref>ヨーロッパへの分類の例として:[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cyprus/index.html 外務省: キプロス共和国]</ref>。また、地理的にトルコとも関係が深い地域であった。 北部は海岸線に沿って石灰岩のキレニア山脈があり、首都[[ニコシア]]を中心とする中央部が平坦地となっている。南部は大部分が火成岩の[[トロードス山脈|トゥロードス山地]]で、海岸線に沿って狭隘な平地がある。北東に[[カルパス半島]]が伸びる。 島の最高峰は南部の{{仮リンク|オリンポス山 (キプロス)|en|Mount Olympus (Cyprus)|label=オリンポス山}}で、標高は1951m。冬は雪も降り、スキーができる。 === 気候 === {{Main|{{仮リンク|キプロスの気候|en|Climate of Cyprus}}}} [[地中海性気候]]で、夏は暑く、乾燥する。主に11月から3月に降雨があり、そこから農業に適している面を持つ。高山地帯は島の他の地域よりも涼しく湿っている点が特徴となっている。 {{See also|{{仮リンク|キプロスの気候変動|en|Climate change in Cyprus}}}} == 地域区分 == {{main|キプロスの行政区画}} {| class="wikitable" style="float:right;margin:0 0 0.5em 0.5em" |+'''キプロスの地区'''({{lang|el|επαρχία}} / {{lang|tr|kaza}}) |- !慣用名!!ギリシャ語名!!トルコ語名 |- | [[ファマグスタ]]<br />(Famagusta) || アモホストス<br />({{lang|el|Αμμόχωστος}}) || マウサ<br />({{lang|tr|Mağusa}}) |- | [[キレニア]]<br />(Kyrenia) || ケリニア<br />({{lang|el|Κερύνεια}}) || ギルネ<br />({{lang|tr|Girne}}) |- | [[ラルナカ]]<br />(Larnaca) || ラルナカ<br />({{lang|el|Λάρνακα}}) || ラルナカ<br />({{lang|tr|Larnaka}}) |- | [[ニコシア]]<br />(Nicosia) || レフコシア<br />({{lang|el|Λευκωσία}}) || レフコシャ<br />({{lang|tr|Lefkoşa}}) |- | [[リマソール]]<br />(Limassol) || レメソス<br />({{lang|el|Λεμεσός}}) || レイモスン<br />({{lang|tr|Leymosun}}) |- | [[パフォス]]<br />(Paphos) || パフォス<br />({{lang|el|Πάφος}}) || バフ<br />({{lang|tr|Baf}}) |} キプロス島は、事実上2つの国家に[[分断国家|分断]]されており、南部がキプロス共和国政府([[ギリシャ人|ギリシャ系住民]])が支配する地域、北部が[[北キプロス・トルコ共和国]]として[[トルコ人|トルコ系住民]]が分離独立を主張している地域となっている。 分断以前のキプロス島は、行政的に右記の6地区({{lang-el|επαρχία}} / {{lang-tr|kaza}})に分かれていた。ここでいう地区は「[[州]]」とも訳されるが、元来はキプロス州におかれた「[[郡]]」にあたる行政区画である。 分断後はキプロス島全6地区のうち、ファマグスタ地区、キレニア地区の全域と、ラルナカ地区およびニコシア地区の一部が北キプロス領となっており、とくに首都[[ニコシア]]は町の中心で分断されている。なお、ファマグスタは現在の北キプロスではトルコ語で戦士を意味するガーズィーの称号を冠してガーズィマウサ (Gazimağusa) と呼ばれている。 キプロスは、旧[[イギリス]]植民地であり、2つの公用語でそれぞれ異なった地名を持つことから、地名は英語名で呼ばれることが一般的であり、以下の地図もそのように記されている。しかし、南キプロスではギリシャ語の地名、北キプロスではトルコ語の地名に言い換えられることも多い。 以下の地図の斜線部分は独立以後も残されているイギリスの主権基地領域([[アクロティリおよびデケリア]])で、この領域にはキプロス共和国政府の主権は及ばず、イギリス主権の下に置かれている[[イギリスの海外領土]]である。また、灰色部分は南北の衝突を抑止するため[[国際連合|国連]]の引いた緩衝地帯(通称[[グリーンライン (キプロス)|グリーンライン]])である。 {{See also|欧州連合加盟国の特別領域#キプロス島のうちキプロス共和国実効統治域外}} == 経済 == [[ファイル:Nicosia panorama by day.jpg|thumb|首都[[ニコシア]]]] {{main|{{仮リンク|キプロスの経済|en|Economy of Cyprus|el|Οικονομία της Κύπρου}}}} [[1980年代]]から[[1990年代]]に大きな経済成長を遂げたが、観光産業に依存していたためヨーロッパでの景気の変動に弱かった。<ref name="20071213nikkeibo">『キプロス:低税率が魅了、EUのロシア投資拠点に』2007年12月13日付配信 日経ビジネスオンライン [[日経BP社]]</ref>。2005年前後時点において、キプロスは4%前後の経済成長、3%台後半の低い[[失業率]]と良好な経済状況を維持していた<ref name="20071213nikkeibo" />。しかし、2010年以降は経済的・文化的に関係の深い[[ギリシャ]]の[[ギリシャ危機|金融危機]]により銀行が膨大な損失を被ったため、巻き添えを食らう形で金融危機に陥った。しかし、現在は天然ガスの発掘、Citizenshipプログラムによりロシア、EU諸国、中東、アフリカ、中国などから多くの富裕層が集まる場所となっており著しい経済成長をしている。また、観光産業への依存からの脱却を目指しオフィスビルの建築、カジノなど様々な建設がはじまっている。その地理的位置からドバイと同様ハブになる可能性が非常に高い。また、法律は英米法なため安心してビジネスを行えることもハブになりうる一因である。さらに、キプロスは、中東やイスラム諸国とも友好関係にありテロの可能性が極めて低い稀有な国である。 === 産業 === [[File:Tree map export 2009 Cyprus.jpeg|thumb|色と面積で示したキプロスの輸出品目([[2009年]])]] 主要産業は、[[観光業]]と[[金融業]]であったが現在は法人税の低さから実態のある会社の拠点を置く企業も増えている。 観光業については、EU、ドバイ、ロシア、北欧などからの観光地として人気がある。[[2004年]][[5月1日]]の[[欧州連合]] (EU) 加盟、さらに[[2008年]][[1月1日]]の EU 単一通貨[[ユーロ]]の導入により、観光客が着実に増加している。また、別荘地としても有名で、それに伴って不動産投資も盛んに行われている。 リマソールでは、ヨーロッパ最大規模のカジノリゾートの建設が進んでいる。 会計士やロンドン大学出身の優秀な弁護士が多い<ref name="20071213nikkeibo"/>。 南キプロスは観光業を含むサービス産業に労働人口の62%が従事し、[[国内総生産|GDP]]の70%を占める。地中海地域の共通問題である水の供給については海水淡水化プラントの稼動により安定し、再生可能エネルギーに特に力をいれている。 北キプロス・トルコ共和国は、南キプロスに比べて経済的に遅れており、一人あたりGDPは3分の1しかない。しかし、現在北と南の統一の試みが積極的に行われており統一の実現は近いとされる{{誰2|date=2017年9月}}。しかし、必ずしも統一を望む意見が多いわけではなく、統一すると逆に混乱を招くというキプロス共和国の人々も少なくない。 ==== 自動車関連 ==== 多くの国民が自動車を所有し、交通手段に利用している。自動車の通行区分は日本と同じ[[対面交通|左側通行]]であることから、右ハンドル仕様の欧州車に加え、日本から輸入された中古車が多く使われている。そのため対日中古車輸入および関連産業が盛んである。 ==== 鉱業 ==== キプロスの鉱業は5000年の歴史を持つ。紀元前3000年ごろ、まず[[自然銅]]がトゥロードス山麓で発見される。銅鉱床としては最も古いと考えられ、[[銅]]のラテン語名であるcuprum はキプロスに由来する。自然銅が枯渇した後は銅を含む[[黄銅鉱]]から銅を抽出する技術が生まれた。現在でも銅の採掘は続いており、2002年時点では5200トンの銅を産出する。ただし、資源が枯渇している上に内戦によって鉱山施設が分断されたことにより、鉱業はすでにキプロス経済において意味を失ってしまった。このほか、クロムや石綿などを少量産出する。地質学的には地中海が広がった時に[[海洋底拡大]]の中心部として[[オフィオライト]]が形成され、[[更新世]]に隆起し、現在の位置に移動した。 最近、海域の石油探鉱を行い成功している。現にTotal,ENI,KOGAS,NOBLEENERGY,DELEKDRILLING,など世界の資源会社がすでに採掘を開始している。{{要出典範囲|1=9月に相当量の天然ガスが発見されるという情報がキプロスの政府機関CIPA(Cyprus InvestmentPromotion Aency)の世界初のCIPA Official Agency AmbassadorとなるMr.Takayoshi Shimoyamada の9月訪問で確認されている|date=2017年9月}}。 。この立場は、単なる親善大使を超えて、日本とキプロスとの友好関係構築を深めるためMr.Takayoshi Shimoyamadaが政府にコンセプトを提案しキプロス共和国がこれに応じる形でなされたものである。準大使的な位置にあり、特別の紋章も付与される。 == 交通 == {{Main|{{仮リンク|キプロスの交通|en|Transport in Cyprus}}}} === 道路 === {{Main|{{仮リンク|キプロスの道路と高速道路|en|Roads and motorways in Cyprus}}}} {{節スタブ}} [[自動車]]は[[対面交通|左側通行]]である。 === 鉄道 === キプロスには鉄道機関が存在していない。かつては[[キプロス国鉄]]が存在していたが、国鉄そのものが1952年に解体されて以降は[[私鉄]]などの鉄道会社も設立されず、現在まで進展がない状態となっている。 === 海港 === {{Main|{{仮リンク|キプロス港湾局|en|Cyprus Ports Authority}}}} {{節スタブ}} == 国民 == {{Main|{{仮リンク|キプロスの人口統計|en|Demographics of Cyprus|el|Δημογραφία της Κύπρου}}}} <!-- {{main|キプロスの国民}} --> ギリシャ系とトルコ系は歴史的にキプロス島の全域で混住していたが、1974年の南北分断の際、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ギリシャ系の99.5%が南キプロスに、トルコ系の98.7%が北キプロスに住む。その他の系統の住民は、99.2%が南キプロスに居住している。なお、経済的に苦しい北キプロスではかなりの数のトルコ系住民が[[トルコ]]や[[ヨーロッパ]]に出稼ぎに移住した一方、トルコから多くのトルコ人が流入したため、トルコ系キプロス人の正確な人口を割り出すことは難しい。 === 民族 === {{bar box |title=民族・宗教構成(キプロス) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[ギリシャ人]]([[ギリシャ正教会]])|blue|78}} {{bar percent|[[テュルク系]]([[イスラム教]]([[スンニ派]]))|green|18}} {{bar percent|[[アルメニア人]]他([[キリスト教]]諸派)|lightblue|4}} }} [[民族]]の帰属意識はおおむね信仰する[[宗教]]と一致しており、[[正教会|正教徒]]の[[ギリシャ人|ギリシャ系]]が78%、[[ムスリム]](イスラム教徒)の[[トルコ人|トルコ系]]が18%であるとされる。その他の4%には[[マロン典礼カトリック教会|マロン派]]と[[アルメニア教会|アルメニア教会派]]の[[キリスト教徒]]がいる。キプロスの正教会は[[イスタンブール]]の[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]にも、[[アテネ]][[大主教]]を首座とする[[ギリシャ正教会]]にも属さず、[[大主教]]を長とする{{仮リンク|キプロス正教会|el|Εκκλησία της Κύπρου|en|Church of Cyprus}}のもとに自治を行っている。なお、キプロスのキリスト教については、[[イエス・キリスト]]の死後、[[パウロ]]が第1回の宣教旅行でキプロス島の[[サラミス (キプロス島)|サラミス]]と[[パフォス]]を訪れ、キリスト教が広まってゆく様が「[[新約聖書]]」の「[[使徒言行録|使徒言行録(使徒行伝)]]」第13章に描かれている。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|キプロスの言語|en|Languages of Cyprus}}}} [[公用語]]は[[ギリシャ語]]と[[トルコ語]]である。他には少数言語として[[クレオール言語]]である{{仮リンク|クルベチャ語|en|Kurbet language}}、[[キプロス・アラビア語]]や[[アルメニア語]]が存在しており、これらの言語は[[ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章]]によって保持されている。イギリス領であった1960年までは[[英語]]が唯一の公用語となっていたために、現在でも標識や看板、広告など英語表記が至る所にあり、英語が[[第二言語]]として広く使用されている。1996年までは裁判では英語が使用されていた。 {{節スタブ}} === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|キプロスの宗教|en|Religion in Cyprus}}}} {{節スタブ}} === 教育 === [[File:University of Cyprus in Nicosia capital of the Republic of Cyprus 4.jpg|thumb|{{仮リンク|キプロス大学|en|University of Cyprus}}]] {{Main|{{仮リンク|キプロスの教育|en|Education in Cyprus}}}} キプロスの初等、中等教育は行き届いているといわれている。 {{See also|{{仮リンク|キプロスの中等教育|el|Δευτεροβάθμια εκπαίδευση στην Κύπρο|en|Secondary education in Cyprus}}}} 高等教育は以前ギリシャ、トルコ、英国、米国などに依存することが多かったが、近年下記のような大学ができている。 * {{仮リンク|キプロス国際大学|en|Cyprus International University}} (Cyprus International University) 1997年創立で、北キプロス・トルコ共和国内にある。 * {{仮リンク|キプロス工科大学|en|Cyprus University of Technology}} (Cyprus University of Technology) * {{仮リンク|ヨーロッパ大学キプロス校|en|European University - Cyprus}} (European University - Cyprus) 1961年創立で、2007年にキプロス・カレッジ (Cyprus College) から名称変更した。 * [[中東工科大学|中東工科大学北キプロス校]] (Middle East Technical University - Northern Cyprus Campus) トルコの大学。 * {{仮リンク|キプロス大学|en|University of Cyprus}} (University of Cyprus) * {{仮リンク|ニコシア大学|en|University of Nicosia}} (University of Nicosia) 2007年にインターカレッジ (Intercollege) から名称変更し、3つのキャンパス(ニコシア、リマソール、ラルナカ)に分かれていて、学生が合計5,000人。 一方で、[[海外]]からの留学生も増えている。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|キプロスの保健|en|Health care in Cyprus}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|キプロスの医学の歴史|en|History of medicine in Cyprus}}}} == 治安 == キプロスの治安状況は首都ニコシア市から各都市まで比較的良好なものとなっている。ただし、都市部では[[置き引き]]や[[空き巣]]などの[[窃盗]]事件や[[強盗]]事件、飲食店(バー)において法外な料金を請求される、いわゆる「[[ぼったくり]]」の被害事例も散見されている為、基本的な防犯対策が必要とされる面がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_193.html#ad-image-0|title=キプロス 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-5-15|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|キプロス警察|en|Cyprus Police}}}} キプロス警察は英国植民地時代に設立された{{仮リンク|キプロス軍事警察|en|Cyprus Military Police}}を前身としている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|キプロスにおける人権|en|Human rights in Cyprus}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|キプロスのメディア|en|Mass media in Cyprus}}}} {{節スタブ}} {{Main|{{仮リンク|キプロスにおける通信|en|Telecommunications in Cyprus}}}} == 文化 == {{Main|キプロスの文化}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|キプロス料理|en|Cypriot cuisine|el|Κυπριακή κουζίνα}}}} キプロスの料理は{{仮リンク|アラブ料理|en|Arab cuisine}}、[[ギリシャ料理]]、[[トルコ料理]]の影響を強く受けており、[[イタリア料理]]や[[フランス料理]]とも類似点が存在する。 {{節スタブ}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|キプロス文学|en|Cypriot literature}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|キプロスの音楽|en|Music of Cyprus}}}} キプロスの伝統的な[[民俗音楽]]には、{{仮リンク|ギリシア音楽|en|Music of Greece}}を始め、[[トルコ音楽]]や[[アラビア音楽]]と共通する幾つかの要素が含まれている。 {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|キプロスの映画|en|Cinema of Cyprus}}}} {{仮リンク|キプロス国際映画祭|en|Cyprus International Film Festival}}が毎年開催されている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|キプロス映画の一覧|en|List of Cypriot films}}}} === 美術 === [[File:Nicosia 01-2017 img28 Cyprus Museum.jpg|thumb|{{仮リンク|キプロス博物館|en|Cyprus Museum}}]] {{main|キプロスの芸術|{{仮リンク|古代キプロスの芸術|en|Ancient Cypriot art|es|Arte chipriota antiguo}}|{{仮リンク|古代キプロスの陶器|en|Pottery of ancient Cyprus}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|キプロス芸術アカデミー|de|Akademie der Künste Zypern}}}} === 建築 === [[File:Nicosia Shacolas Tower.jpg|thumb|{{仮リンク|シャコラタワー|en|Shacolas Tower|el|Πύργος Σιακόλα}} <br> 首都ニコシアに存在する[[高層ビル]]である]] {{main|キプロスの建築|{{仮リンク|キプロスの民俗建築|el|Λαϊκή αρχιτεκτονική στην Κύπρο}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|キプロスの世界遺産}} キプロス国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の世界遺産リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件存在する。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|キプロスの祝日|en|Public holidays in Cyprus}}}} <!-- {|class="wikitable" align="center" style="font-size:95%" |+祝祭日 !日付!!日本語表記!!ギリシア語表記!!備考 |- --> {{節スタブ}} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|キプロスのスポーツ|en|Sport in Cyprus}}}} {{See also|オリンピックのキプロス選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|キプロスのサッカー|en|Football in Cyprus}}}} キプロスでは[[サッカー]]が最も人気のスポーツとなっており、[[1934年]]にサッカーリーグの[[キプロス・ファーストディビジョン]]が創設された。名門クラブの[[APOELニコシア]]が非常に知られており、通算リーグ優勝は28回を数える。さらに、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の[[UEFAチャンピオンズリーグ 2011-12|2011-12シーズン]]ではベスト8に進出する快挙を成し遂げた。この躍進は「'''アポエルの大冒険'''」と呼ばれ、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]に加盟する小国に大きな勇気を与えた。 [[キプロスサッカー協会]](CFA)によって構成される[[サッカーキプロス代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]および[[UEFA欧州選手権]]には未出場である。[[UEFAネーションズリーグ]]においては、[[UEFAネーションズリーグ2022-23|2022-23シーズン]]はリーグCに属している。また、著名な[[女子サッカー]]の国際大会として[[キプロス・カップ (女子サッカー)|キプロス・カップ]]が存在している。[[アルガルヴェ・カップ]]([[ポルトガルサッカー連盟|ポルトガル]]主催)や[[シービリーブスカップ]]([[アメリカ合衆国サッカー連盟|アメリカ]]主催)程ではないが、権威のある大会の一つである。なお、男子サッカーにも"キプロス国内のカップ戦"として、同名の[[キプロス・カップ (男子サッカー)|キプロス・カップ]]は存在する。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:キプロスの人物}} == 参考文献 == ; キプロス問題に関する関連文献 * Hinako Hosokawa 「[http://globalnewsview.org/archives/7711 「外交の墓場」:分断されたキプロス島]」GNV(Global News View)、2018年 * 大島直政『複合民族国家キプロスの悲劇』新潮社<新潮選書>、1986年 * 鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ オスマン帝国における諸民族の統合と共存』リブロポート、1993年 * 桜井万里子編『新版 世界各国史17 ギリシア史』山川出版社、2005年 * 内藤正典「中東・西欧マンスリー - トルコのEU加盟交渉とキプロス問題」2006年11月20日 [http://www.global-news.net/ency/naito/daily/061120/01.html] (last accessed February 18, 2007) * マイノリティ・ライツ・グループ(編)『世界のマイノリティ事典』明石書店、1996年 * キリスト教[[聖書]]:「[[新約聖書]]」の「[[使徒言行録]]([[使徒行伝]])」第13章 (上の「国民」の項で、宗教の記述を参照) <!--* その他、ジェトロEUトピックスなど日本貿易振興機構がホームページを通じて公開している情報、新聞・テレビによる報道を参考にした。ただし、桜井及び内藤は上の記述には直接利用していない。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Κύπρος|Cyprus}} * [[キプロスの政党]] * [[キプロス関係記事の一覧]] * [[北キプロス・トルコ共和国]] * [[キプロス文書]][https://interactive.aljazeera.com/aje/2020/cyprus-papers/] [https://www.aljazeera.com/investigations/cypruspapers/] == 外部リンク == ; 政府 * [http://www.cyprus.gov.cy/ キプロス共和国政府] {{el icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cyprus/ 日本外務省 - キプロス] {{ja icon}} * [https://www.cy.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/ 在キプロス日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 * [http://www.cyprus-info.jp/ キプロス・インフォメーションサービス] {{ja icon}} ; その他 * {{Wayback|date=20190326061619|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/middleeast/dhekelia.html|title=デケリア}} - キプロス紛争の解説(世界飛び地領土研究会) * {{Kotobank}} {{アジア}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{イギリス連邦}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きふろす}} [[Category:キプロス|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:アジアの国]] [[Category:島国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:フランコフォニー準加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:第一種地域統計分類単位]] [[Category:分割地域]]
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バングラデシュ
バングラデシュ人民共和国(バングラデシュじんみんきょうわこく、英語 People's Republic of Bangladesh、ベンガル語: গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ)、通称バングラデシュは、南アジアにある共和制国家。首都はダッカである。 北と東西の三方はインド、南東部はミャンマーと国境を接する。南はベンガル湾(「インド洋の一部)に面する。西側で隣接するインドの西ベンガル州、東側で隣接するインドのトリプラ州とともにベンガル語圏に属する。ベンガル湾に注ぐ大河ガンジス川の下流部を有する。 イギリス領インド帝国の一部からパキスタンの飛地領土(東パキスタン)を経て独立し、イギリス連邦加盟国のひとつである。 国名のバングラデシュとはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。国内最大の都市は首都のダッカであり、他の主要都市はチッタゴン、クルナ、ラジシャヒがある。バングラデシュは南アジアにおけるイスラム圏国家の一つである。バングラデシュの人口は1億6,468万人で、都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国であり、人口は世界第8位となっている。 元々はインドの一部であったが、インドが1947年にイギリスから独立するに当ってイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これにより1955年に東パキスタンとなったが、パキスタン本土とは遠く離れた状態であったことや国教たるイスラム教のみで両地域を統一しておくこと自体が困難である点から分離独立が叫ばれ、1971年にパキスタンから独立した。 豊富な水資源から米やジュートの生産に適していて、かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する。しかし近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。第三国への輸出のほか、人口の多さからスマートフォンなどはバングラデシュ国内市場向けにも生産されている。新興国として期待されるNEXT11の一つに数えられている。なお、バングラデシュでは貧困も続いている。 正式国名はগণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ(ベンガル語: ラテン文字転写は、Gônoprojatontri Bangladesh)。通称、বাংলাদেশ 発音 [ˈbaŋlad̪eʃ] ( 音声ファイル) 英語の公式表記は、People's Republic of Bangladesh(ピープルズ・リパブリック・オブ・バングラデシュ)。通称、Bangladesh [ˌbæŋɡləˈdɛʃ] ( 音声ファイル)。国民・形容詞はBangladeshi。 日本語の表記はバングラデシュ人民共和国。通称、バングラデシュ。ベンガル語で、バングラが「ベンガル(人)」を、デシュが「国」を意味し、合わせて「ベンガル人の国」となる。バングラデッシュ、バングラディシュ、バングラディッシュと記述されることもある(後二者はベンガル語の発音に対して不自然な表記である)。日本での漢字表記は孟加拉、1文字では孟と略されるがほぼ使用されない。日本では新聞の見出しなどにおいて、バングラと略称されることがある政体として「人民共和国」と末尾にあるが、バングラデシュは社会主義国ではない。 バングラデシュの国旗は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表す。また、「豊かな自然を表す緑の地に『独立のために流した血を示す赤い丸』を組み合わせた」という説もある。赤丸は真ん中から旗竿寄りにしてある。 初代大統領ムジブル・ラフマンの娘のシェイク・ハシナ首相は、「父は日本の日の丸を参考にした」と証言している。 現在バングラデシュと呼ばれるベンガル地方東部には、古くから文明が発達した。紀元前4世紀のマウリヤ朝から6世紀のグプタ朝まで数々の王朝の属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるが、これには確実な証拠はない。初期の文明は仏教および(あるいはまたは)ヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。 8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝に取って代わられた。13世紀にイスラム教化が始まった。13世紀にはイスラム教のベンガル・スルターン朝の下で、商工業の中心地へと発展した。その後、ベンガルは南アジアで最も豊かで最も強い国になった。16世紀にはムガル帝国の下で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。このころに、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている。 15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリスの東インド会社により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド亜大陸全域に拡大した(英領インド)。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物や米の輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。 やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を企図。1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したことで、英領東ベンガルおよびアッサム(英語版)が確立された(今日のバングラデシュおよびインド東北部のアッサム州、メガラヤ州、アルナーチャル・プラデーシュ州に相当)。1906年にはダッカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き、1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。 当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会で、ベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万〜300万人の死者を出した。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。 そのような中でインドは1947年に英領から独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガル(英語版)(1947年 - 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。 両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。同年12月の選挙において人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、翌年の1971年3月にはパキスタン軍が軍事介入して東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタンと内乱になった(バングラデシュ独立戦争)。西側のパキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がパキスタンの降伏によりインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。尚、この過程においてヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプや虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる。 独立後はアワミ連盟のシェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と先住民族の折り合いは悪く、ジュマ(チッタゴン丘陵地帯の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。このため先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(英語版) (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下のシャンティ・バヒーニー(英語版)とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。内戦や洪水による経済の疲弊により、1975年にクーデターが起き、ムジブル・ラフマンが殺害される。 その後、軍部からジアウル・ラフマン少将が大統領となった。1979年以降、バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。 1981年に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、1983年12月にフセイン・モハンマド・エルシャド中将が再び軍事政権を樹立した。1988年には、チッタゴン丘陵地帯のコルノフリ川(英語版)上流のカプタイ・ダムに国内唯一の水力発電所(230MW)を建設して10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がビルマ(現ミャンマー)へ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。 エルシャド政権は民主化運動により1990年に退陣した。 1991年3月の総選挙で、中道右派勢力バングラデシュ民族主義党 (BNP) がアワミ連盟 (AL) を破り、BNP党首のカレダ・ジアは同国初の女性首相に就任した。1991年に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。5月10日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いた後、1992年に休戦。1997年には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。 1996年の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される。1996年6月の総選挙では、今度はALが勝利し、シェイク・ハシナが同国2人目の女性首相に就任した。 2001年10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。 2002年9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元ダッカ大学教授のイアジュディン・アハメド1名のみだったため無投票当選となった。 2006年10月、軍の圧力でカレダ・ジア率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。2007年1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。イアジュディン・アハメド大統領は、非常事態宣言を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。 2008年12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、シェイク・ハシナ元首相の率いるアワミ連盟が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した 。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。 2014年に行われた第10次総選挙では、BNP率いる野党18連合がボイコットするまま総選挙が実施され,与党アワミ連盟が圧勝した。 1991年に憲法が改正され、大統領(象徴的な存在)を元首とする議院内閣制が確立した。2018年バングラデシュ総選挙ではアワミ連盟が過半数を大きく上回る議席を獲得した。 旧イギリス植民地としてイギリス連邦に加盟するが、共和政体であるため総督を置かず、元首は大統領である。大統領は、原則として、儀礼的職務を行うだけの象徴的地位である。任期5年で、国民議会において選出される。大統領は、首相と最高裁判所長官の任命以外は、首相の助言に従い行動する。ただし、議会と政府が対立して政治的混乱が起きた際は、議会を解散して暫定政府を発足させる権限がある。 行政府の長である首相は、議会選挙後に、勝利した政党の党首を大統領が任命する。内閣の閣僚は、首相が選び、大統領が任命する。 バングラデシュの貧困の一因として、政府のガバナンス(統治能力)の低さがあげられることがある。汚職がひどく、2011年の腐敗認識指数は2.7で世界120位に位置し、2003年の1.2よりかなり改善されたものの未だ低位にいることには変わりない。また地方行政が特に弱体であり、これにより、行政が上手く機能していない。それを補助する形で、各種NGOが多数存在し、開発機能を担う形となっている。特に、アジア最大といわれるNGOのBRACやグラミン銀行などが規模も大きく著名である。 議会は、一院制で、Jatiya Sangsad(国会)と呼ばれる。全350議席。任期5年で小選挙区制選挙によって選出される。また、立法に女性の意見を反映させるため、正規の300議席とは別に、女性専用の50議席が用意されていたが、2001年5月に廃止された。 民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党はストライキや抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。 南部の一部を除き大部分の国境を接するインドとは、独立戦争時の経緯や独立時の与党アワミ連盟が親インド政党だったこともあり独立当初は友好的な関係だった。元々、ムスリムとヒンドゥー教徒の対立がパキスタンへの編入を促した事情もあり、やがて関係は冷却化した。バングラデシュ民族主義党はやや反インド的な姿勢をとり、逆にアメリカ合衆国や中国との友好関係を重視する傾向がある。 バングラデシュは多くの難民を受け入れ、また送り出す国である。東パキスタンとして独立した時には両国内の非主流派の信徒がお互いに難民として流れ込み、またバングラデシュ独立時にもパキスタン軍の侵攻を逃れて100万人近いバングラデシュ人が難民となってインド領へと流れ込んだ。さらに、チッタゴン丘陵地帯では政治的緊張が続いており、この地域の仏教系先住民がインドへと多く難民として流出している。 また、バングラデシュは隣接するミャンマーからムスリムのロヒンギャ難民を多く受け入れている。 バングラデシュは貧困国であるため、世界各国から多額の経済援助を受け取っている。日本は最大の援助国の一つであるが、近年は援助額がやや減少気味である。他に、アジア開発銀行やアメリカ、イギリス、世界銀行、ヨーロッパ連合などからの援助が多い。 バングラデシュ軍は志願兵制度であり、兵力はおよそ14万人。バングラデシュ軍は国際連合平和維持活動(PKO)に積極的に人員を送っている。バングラデシュ軍は過去何度か軍事政権を樹立し、現在でも政治に大きな発言力を持つ。2006年にはBNP政権を退陣させ、アハメド選挙管理内閣を発足させた。 バングラデシュの国土の大部分はインド亜大陸のベンガル湾沿いに形成されたベンガルデルタと呼ばれるデルタ地帯である。このデルタ地帯を大小の河川やカールと呼ばれる水路が網の目のように走っている。耕作可能面積率は59.65%と世界一高い。沼沢地とジャングルの多い低地 であり、ジャングルはベンガルトラの生息地として知られる。北をヒマラヤ山脈南麓部、シロン高原(メガラヤ台地)、東をトリプラ丘陵やチッタゴン丘陵、西をラジュモホル丘陵に囲まれ、南はベンガル湾に面している。東部や東南部に標高100〜500mの丘陵が広がる。 ヒマラヤ山脈に水源を持つ西からガンジス川(ベンガル語でポッダ川)、北からブラマプトラ川(同ジョムナ川)が低地のほぼ中央で合流し、最下流でメグナ川と合流して、流域面積173万平方キロメートルものデルタ地帯を作っている。デルタ地帯は極めて人口密度が高い。バングラデシュの土壌は肥沃で水に恵まれることから水田耕作に適しているが、洪水と旱魃の双方に対して脆弱であり、しばしば河川が氾濫し多くの被害を及ぼす。国内の丘陵地は南東部のチッタゴン丘陵地帯(最高地点:ケオクラドン山(英語版)、1230m)と北東部のシレット管区に限られる。 北回帰線に近いバングラデシュの気候は熱帯性で、10月から3月にかけての冬季は温暖である。夏季は3月から6月にかけて高温多湿な時期が続き、6月から10月にかけてモンスーンが襲来する。ほぼ毎年のようにこの国を襲う洪水、サイクロン、竜巻、海嘯といった自然現象は、一時的な被害にとどまらず、森林破壊、土壌劣化、浸食などを引き起こし、さらなる被害を国土に対して及ぼしている。 地形の大部分が平坦なこと、洪水による地形の変化が多いことなどは、バングラデシュの国土測量を極めて難しいものとしている。日本の国土地理院の協力により、1/25,000の地形図の作成が試みられているが、2016年段階でも詳細な全国地図は完成に至っていない。 なお、主要都市のひとつであるチッタゴンの南に位置するコックスバザールは世界最長の天然のビーチとして知られる。 バングラデシュの殆どの耕作地域は雨季に河川の溢水により水に沈む。時折耕作地域だけでなく、土盛りして高台にしている住宅地や幹線道路も浸水被害を受ける。こういった大洪水はベンガル語で「ボンナ」(Banna)と呼ばれ、破壊と災厄をもたらすものとみなされる一方で、毎年起こる程度の適度な洪水は「ボルシャ」(Barsha)と呼ばれ、土壌に肥沃さをもたらし、豊かな漁場とありあまるほどの水、豊作をもたらす恵みの存在と考えられている。ボンナが発生するとアウス稲、アモン稲の生産量に悪影響があるが、近年大洪水となった2004年および2007年でも10%程度のアモン生産量の減少にとどまっている。 このほかに河岸侵食による土地流出も過去には深刻な被害をもたらしていたが、近年のインフラ整備により、改善されてきている。 最上位の行政単位は、8つある管区である。それぞれ中心となる都市の名が付けられている。しかし、管区には実質的な機能はなく、その下にある県 (ベンガル語:Zila(ジラ)、英語:District) が地方行政の主位的単位となる。2005年1月時点で64県が存在する。県の下には郡(ベンガル語:Upazila(ウポジラ)、英語:Sub-District)が置かれ、その下にいくつかの村落をまとめた行政村(ベンガル語・英語:Union(ユニオン))がある。独立時は管区は4つであったが、人口増加に伴い管区の新設が行われている。 世界銀行によると、2021年のバングラデシュのGDPは2,852億ドルであり、一人当たりのGDPは2,503ドル。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2016年時点で人口の24.3%が貧困線以下である。 同国はガンジス川の氾濫により涵養された、世界有数の豊かな土地を誇り、外からの侵略も絶えなかった。「黄金のベンガル」と言われていた時代もあり、膨大な人口と労働力を持っていることから経済の潜在能力は高いが、洪水などの自然災害の影響で現在では貧困国の一つに数えられる。 バングラデシュは内外問わずに援助を受けているにもかかわらず、過剰な人口や政治汚職などによって未だに貧困を脱しきることが出来ないでいる。バングラデシュの発展を阻害しているものとしては、多発するサイクロンやそれに伴う氾濫などの地理的・気候的要因、能率の悪い国営企業、不適切に運営されている港などインフラの人的要因、第一次産業のみでは賄い切れない増加する労働人口などの人口要因、能率の悪いエネルギー利用法や十分に行き渡っていない電力供給などの資源的要因、加えて政治的な内部争いや汚職などの政治的要因、国内で頻繁に行われているゼネラルストライキの一種であるハルタル(ホルタル)が挙げられる。しかし近年は後述の通り繊維産業の台頭により2005年~2015年にかけては年平均6.2%と高い経済成長率を記録している。また膨大な労働人口と安い労働コスト(英語版)が評価され、NEXT11にも数えられている。 通貨単位はタカ。レートは1米ドル=83.28タカ(2018年2月7日時点)。 人口の42.7%は農業に従事し、国民の7割以上が農村に住む。主要農産品はコメおよびジュート(コウマ・シマツナソ)、茶である。コメの生産量は世界第4位で、かつ生産量も年々微増している。国連食糧農業機関(FAO)によると穀物自給率は90%を超え、特に米に関しては消費量のほぼ全てを自給している。 バングラデシュの稲は雨季前半に栽培されるアウス稲、雨季後半に栽培され収穫の中心となっているアマン稲、乾季に栽培されるボロ稲の3種に分かれる。気候的に二期作や三期作も可能であるが、乾期にはガンジス川の水位が低下するため、行える地域は限られていた。しかし、井戸の普及や改良種の普及により、特に乾季のボロ稲の農業生産が大幅に拡大し、それにつれてアウス稲やアマン稲の生産も増加を示した。それによって、二期作や三期作の可能な地域も増加して米の生産量が大幅に増大した。これがバングラデシュにおける「緑の革命」といわれる農業生産の近代化促進である。緑の革命は国家政策として行われたが、緑の革命は農家の設備投資支出の増大を強いた。一方で生産量増大はその負担を埋めるまでにいたらないという問題を抱えている。 ジュートは農産品として最も重要な輸出品であるが、1980年代以降化学繊維に押され重要性は下がってきている。ジュートに次ぐ輸出農産品の紅茶は主に、紅茶の名産地として知られるインドのアッサム州に隣接する北部シレット地方において栽培されている。19世紀には藍の世界最大の産地であったが、化学染料の発明と普及により生産は激減した。 バングラデシュの繊維工業の発展は経済成長によって繊維生産が不振になり始めた韓国や香港からの投資をきっかけに、1970年代に起こり始めた。近年では中国の労働コスト上昇に伴い、バングラデシュの廉価な労働コスト(月給が中国の1/3)が注目されており、繊維製品などの軽工業製品の輸出は増大している。これにより、ようやく軽工業が発展し経済発展を果たしている。現在、バングラデシュの輸出の80%は繊維製品によって占められている。チャイナ+1の製造国として非常に注目を集めており、大手繊維メーカーなどの進出が多く行われており、バングラデシュ経済を担う一大産業となっている。 軽工業だけでなく、重工業も発展しつつある。日本の本田技研工業がオートバイ工場を建設したほか、廃船の解体から造船業が成長している。 バングラデシュは鉱物資源に恵まれないが、人件費が安いことからチッタゴンには世界最大の船舶解体場があり、国内で使用される鉄の60%はここからのリサイクル品で賄うことができる。 唯一ともいえる地下資源が天然ガスで、1908年に発見される。その後、イギリスの統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式(PS方式)で進められた。政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17のガス田を開発した。1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆ジュール。2008年時点で12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。ガス田はジョムナ川より東側に分布しており、パイプラインで輸送されている。現在ボグラ市まで達している。埋蔵量(『オイル・アンド・ガス・ジャーナル』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、マレーシア80兆、インドネシア72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は発電で約50%、約40%が工場で、約10%が個人世帯・商業で利用されている。ガス管敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%を超えている。 雇用は貧しく40%が不完全な雇用である。産業別の労働人口比率は、2016年のデータで農業が42.7%、サービス業が36.9%、鉱工業が20.5%であり、近年の急速な繊維産業の成長により工業化が進む現在においても、未だ本質的には農業国である。しかし、貧富の差や農地面積に比して人口が多すぎるため、農地だけで充分な生計を立てられる世帯は4割程度に過ぎず、残りの6割は小作農や日雇い労働者として生計を立てている。近年ではグラミン銀行などが進めるマイクロ・クレジットの拡大や経済成長によって貧困層の一部に生活向上の兆しがあるものの、貧困は未だ深刻な問題となっている。 人件費が安いことから、船舶の解体や処分場など3Kの仕事を先進国から引き受けている。労働人口は(2021年)7,096万人である。 バングラデシュの貿易収支は輸入品より輸出品のほうが少なく、常に大幅な赤字となっている。これを多少なりとも埋めるのが、外国へ出稼ぎに行った労働者たちの送金収入である。1997年には出稼ぎ労働者は総計40万人を超えた。出稼ぎ先はイスラム教国が多く、最大の出稼ぎ先はサウジアラビアで出稼ぎ労働者の3分の2を占め、クウェートやアラブ首長国連邦など他のペルシア湾岸産油国にも多く労働者が向かっている。東では、マレーシアやシンガポールに多い。日本にも約1万7千人の在日バングラデシュ人が存在する。 首都のダッカなど都市部ではNGO、農村部ではグラミン銀行による貧困層への比較的低金利の融資を行なう事業(マイクロクレジット)が女性の自立と貧困の改善に大きな貢献をしたとして国際的に注目を集めている。2006年にはグラミン銀行と創設者で総帥のムハマド・ユヌスは「貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献」を理由にノーベル平和賞を受賞し、バングラデシュ初のノーベル賞受賞者となった。また、2008年にはインターネット網が農村、学校などにまで広げられ、大々的にこれを祝った。NGO が多く存在する中でも筆頭がBRAC(Bangladessh Rural Advancement committee バングラデシュ農村向上委員会、通称ブラック)である。BRACは1972年設立、全ての県に事務所を置き、農村や都市の貧困層を対象に活動している。 デルタ地帯にあり縦横に水路が張り巡らされている地形であるため、道路はあまり発達していない。代わりに、舟運の可能な水路は3800kmに及び、バングラデシュの輸送に重要な位置を占めている。雨季と乾季では水位が違い、陸路と水路の利用に大きな差が出る。主要貿易港は海港である東部のチッタゴンである。他に海港としては西部のモングラ港(かつてのチャルナ港)が大きく、またダッカやボリシャル、ナラヨンゴンジなどには規模の大きな河川港がある。 アジアハイウェイ1号線が北部からダッカを通って西部国境まで通じている。 国営鉄道であるバングラデシュ鉄道によって運営され、総延長2706km。ブラマプトラ川を境に軌間が違い、ブラマプトラ以西は1676mmの広軌、ブラマプトラ以東(ダッカやチッタゴンも入る)は1000mmの狭軌である。広軌路線が884km、狭軌路線が1822kmである。 空港はダッカのシャージャラル国際空港やチッタゴンのシャーアマーノト国際空港などがあり、シャージャラル国際空港に本拠を置く国営航空会社ビーマン・バングラデシュ航空などの航空会社が運行している。バンコク(タイ王国)、コルカタ(インド)との空路が主である。国内線はチッタゴン、ジョソール、シレットの空港があるが、不安定で、利用は少ない。 バングラデシュの人口は、2022年現在で1億6,630万人となっている。さらにシンガポールやバーレーンなどの面積の小さい国を除き、世界で最も人口密度の高い国である。1平方kmあたりの人口は2012年時点で1,173人であり、しばしばインドネシアのジャワ島と比較される。ただし山地が少なく耕作可能面積率が非常に高いことから、可住面積を考慮した実質人口密度では、韓国、台湾、マレーシア、エジプトの方が高いと言える。 人口爆発が社会問題となり、政府は1992年より"人口調節"を推進し人口の増加を抑えようとしており、一定の成果を上げつつある。1992年に4.18あった合計特殊出生率は、2001年には2.56に、2011年には2.11まで低下している。人口増加率は独立当初3.4%(1975年)だったが、2.02%(1995年)、2.056%(2007年)、1.26%(2009年)と急激に減少してきている。近年は、南アジア地域においても人口増加率は最低水準にある。 98%がベンガル人。その他、en:Stranded Pakistanis、チャクマ族(英語版)、マルマ族(英語版)、Tipperas、トンチョンギャ族(英語版)、Mros、en:Mughal tribe、Sylheti、en:Kurukh people、en:Khasi people、bn:খুমি、ガロ族、টিপরা、bn:পাংখো、পাংগোন、মগ、en:Meitei people、bn:মুরং、bn:রাজবংশী、en:Santali people、bn:হাজং、en:Rakhine people、en:Magh people、トリプラ族(英語版)、bn:কুকি (উপজাতি)、bn:চক (জাতিগোষ্ঠী)、bn:হাদুই、bn:লুসাই、bn:হদি、bn:বাওয়ালী、bn:বনযোগী、bn:মৌয়ালী ベンガル語が公用語である。文字はデーヴァナーガリーに似たベンガル文字を用いる。ベンガル語に加え、英語も官公庁や教育機関で使用されており事実上の公用語である。住民はベンガル語話者であるベンガル人がほとんどで、人口の98%を占めている。その他に、ウルドゥー語を話す、ビハール州などインド各地を出身とする非ベンガル人ムスリムが2%を占める。他に、南東部のチッタゴン丘陵地帯にはジュマと総称される10以上のモンゴロイド系先住民族が存在する。ジュマの総人口は100万人から150万人とされる。 イスラム教が89.7%、ヒンドゥー教が9.2%、その他が1%である。その他の宗教には仏教、キリスト教などが含まれる。バングラデシュはイスラム教徒が多数派であるが、ヒンドゥー教徒の人口割合もかなり高く、両者はおおむね平和的に共存している。また、パハルプールの仏教寺院遺跡群に見られるように、以前は、仏教が大いに栄えていたため、現在でも、一部の地域では、仏教が信仰されている。どの宗教を信仰しているかという点も重要だが、それ以上に、同じベンガル民族であるという意識の方が重要視され、両者は尊重しあっている。このような意識はインド側の西ベンガル州でも同様に見られる。 婚姻時に改姓する女性(夫婦同姓)もいれば、そうしない女性(夫婦別姓)もいる。 1990年代に確立した現在の教育制度は初等教育(小学校)5年、中等教育(中学校)5年(前期3年、中期2年)、後期中等教育(高校)2年の5-5-2制である。初等教育及び中等教育は毎年行われる学年末試験に合格しないと進級できない。8年生(中等教育前期3年)を修了すると文科系と理科系、商業系に進路が振り分けられる。また10年生(中等教育中期2年)を修了した者は1回目の国家統一試験SSC(Secondary School Certificate)が受験でき、合格すると後期高等教育への入学資格が取得できる。ここで2年間教育を受け修了した者は、2回目の国家統一試験HSC(Higher Secondary Certificate)を受験でき、これに合格すると大学入学資格が取得できる。この二つの試験の試験成績は履歴書に一生書かなければならず人生を大きく左右するため、現在のバングラデシュは超学歴社会となっている。 識字率は2020年時点で74.9%(男性77.8%:女性72%)とやや低めである。。義務教育は小学校5年のみである。就学率は2015年には97.7%である、しかし修了率は78%ほどである。 国民の大多数は土地を所有せず、あるいは洪水の危険が高い低湿地に住んでおり、衛生状態は極めて悪い。このため、水を媒介として、コレラや赤痢といった感染症の流行が度々発生している。こうした状況を改善するため、国際機関が活動を行っている。特に飲用水の衛生状態の改善のため、井戸の整備を独立後に進めてきたが、多くの井戸が元来地層中に存在したヒ素に高濃度に汚染され、新たな問題となっている。全土の44%、5300万人が発癌を含むヒ素中毒の危険に晒されていると考えられている。 バングラデシュでは治安当局による犯罪統計は公表されているものの、新聞などの公開情報では連日のように凶悪事件が起きており、特に銃器を使用した殺人ならびに強盗事件及び違法銃器の押収に関する事件の発生を報道していることから、実際には統計件数以上の犯罪が発生しているものと推測されている。 傍ら、薬物犯罪も発生しており、「ヤーバー」(Ya ba,「狂薬」の意)と呼称される、メタンフェタミンとカフェインの成分混合の覚醒剤による薬物汚染が問題視されている。 それに伴い、2018年から同国では麻薬撲滅キャンペーンが開始され、現在も継続されている。 テロリズム関連の犯罪事件情報においては2016年のダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件発生以降、同国の治安当局による大規模かつ集中的な捜査や警備強化もあり、外国人の被害を伴う新たなテロ事件は発生していない。 一方、首都のダッカにおいては2019年4月に発生したスリランカ連続爆破テロ事件以降、バングラデシュの警察官などを標的とする爆弾テロ事件が複数回発生しており、治安当局によるテロ組織の掃討作戦も継続して実施されていることから、同国を訪れる海外からの人間には引き続き警戒が必要とされている。 特に宗教関連の祝祭日やイベントなどについては一層の注意が欠かせない状況となっている。 バングラデシュ警察は内務省(英語版)の管轄下にある。 同警察は警察総監(英語版)(IGP)の指揮下で活動しており、いくつかの部隊に編成されている。 同国のメディアは、政府系メディアと民間系メディアが混在している状態となっており、憲法上では報道の自由と表現の自由を保証しているとされているが国境なき記者団などの機関によれば、その順位は2018年時点で146位に低下している。 食文化としては大量にとれる米を主食としている。国際連合食糧農業機関の2011年発表の統計によれば、1人あたりの1日の米の消費量は世界一である。ガンジス川流域や海岸、汽水域などで大量にとれる魚も重要な蛋白源となっている。 演劇や詩作もさかんである。 バングラデシュの映画は「ダリーウッド」(ベンガル語: ঢালিউড )として知られている。ダリーウッドとは、「ダッカ」と「ハリウッド」を組み合わせた鞄語である。 バングラデシュのイスラム建築: バングラデシュ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件存在する。 シュンドルボンはインドとバングラデシュ南西部に渡るマングローブ林の湿地域で、バングラデシュがその3分の2を占める。ベンガルトラをはじめ稀少生物種が生息し、自然環境を保護するため、人間の居住は禁止されている。 ※この他には、バンガバンドゥの演説(英語版)記念日が3月7日に制定されている。また、ユネスコにより2017年10月30日付で、この演説が記録遺産として世界の記憶へ追加されている。 バングラデシュではクリケットが一番人気のあるスポーツである。イギリスが統治していた19世紀に伝わったが、本格的に大衆人気を得たのはパキスタンから独立した1971年以降である。1997年にマレーシアで開催されたICCトロフィーで初優勝し、1999年のクリケット・ワールドカップの出場権を獲得した。1999年に初出場したクリケット・ワールドカップでは、グループリーグで敗退したとは言え、パキスタンとスコットランドに勝利し成功を収めた。2000年に国際クリケット評議会の正会員に昇格し、世界で10番目となるテスト・クリケットを行う権利を得た。2011年にクリケット・ワールドカップをインドとスリランカの3カ国共催で開催した。2012年にはプロクリケットリーグの「バングラデシュ・プレミアリーグ」が創設された。さらにワン・デイ・マッチ、テストマッチ、トゥエンティ20インターナショナル(英語版)を定期的に主催している。シャキブ・アル・ハサンは同国で最も偉大な選手の一人とみなされている。 バングラデシュではサッカーも人気のスポーツであり、クリケットよりも5年早い2007年に、プロサッカーリーグの「バングラデシュ・プレミアリーグ」が創設されている。バングラデシュサッカー連盟(BFF)によって構成されるサッカーバングラデシュ代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。しかしAFCアジアカップには、1980年大会で初出場を果たした。なお南アジアサッカー選手権では、自国開催となった2003年大会で初優勝に輝いている。 1971年8月、バングラデシュ独立戦争による多大なる被害に対して、イギリスのロック・ミュージシャン(元ザ・ビートルズメンバー)であるジョージ・ハリスンとインド出身のラビ・シャンカールらが中心となり、ニューヨークでチャリティ・イベント「バングラデシュ難民救済コンサート」が開催された。このコンサートは映画化され、またライブ盤レコード「バングラデシュ・コンサート」として発売され、コンサートの入場料を含めた全収益金がバングラデシュに寄付された。この企画はロック界におけるチャリティー事業のさきがけとなった。また、ジョージ・ハリスンはシングル・レコード「バングラデシュ」を発売し、この売り上げも全額が寄付されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "バングラデシュ人民共和国(バングラデシュじんみんきょうわこく、英語 People's Republic of Bangladesh、ベンガル語: গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ)、通称バングラデシュは、南アジアにある共和制国家。首都はダッカである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北と東西の三方はインド、南東部はミャンマーと国境を接する。南はベンガル湾(「インド洋の一部)に面する。西側で隣接するインドの西ベンガル州、東側で隣接するインドのトリプラ州とともにベンガル語圏に属する。ベンガル湾に注ぐ大河ガンジス川の下流部を有する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イギリス領インド帝国の一部からパキスタンの飛地領土(東パキスタン)を経て独立し、イギリス連邦加盟国のひとつである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国名のバングラデシュとはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。国内最大の都市は首都のダッカであり、他の主要都市はチッタゴン、クルナ、ラジシャヒがある。バングラデシュは南アジアにおけるイスラム圏国家の一つである。バングラデシュの人口は1億6,468万人で、都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国であり、人口は世界第8位となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "元々はインドの一部であったが、インドが1947年にイギリスから独立するに当ってイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これにより1955年に東パキスタンとなったが、パキスタン本土とは遠く離れた状態であったことや国教たるイスラム教のみで両地域を統一しておくこと自体が困難である点から分離独立が叫ばれ、1971年にパキスタンから独立した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "豊富な水資源から米やジュートの生産に適していて、かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する。しかし近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。第三国への輸出のほか、人口の多さからスマートフォンなどはバングラデシュ国内市場向けにも生産されている。新興国として期待されるNEXT11の一つに数えられている。なお、バングラデシュでは貧困も続いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "正式国名はগণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ(ベンガル語: ラテン文字転写は、Gônoprojatontri Bangladesh)。通称、বাংলাদেশ 発音 [ˈbaŋlad̪eʃ] ( 音声ファイル)", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "英語の公式表記は、People's Republic of Bangladesh(ピープルズ・リパブリック・オブ・バングラデシュ)。通称、Bangladesh [ˌbæŋɡləˈdɛʃ] ( 音声ファイル)。国民・形容詞はBangladeshi。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語の表記はバングラデシュ人民共和国。通称、バングラデシュ。ベンガル語で、バングラが「ベンガル(人)」を、デシュが「国」を意味し、合わせて「ベンガル人の国」となる。バングラデッシュ、バングラディシュ、バングラディッシュと記述されることもある(後二者はベンガル語の発音に対して不自然な表記である)。日本での漢字表記は孟加拉、1文字では孟と略されるがほぼ使用されない。日本では新聞の見出しなどにおいて、バングラと略称されることがある政体として「人民共和国」と末尾にあるが、バングラデシュは社会主義国ではない。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "バングラデシュの国旗は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表す。また、「豊かな自然を表す緑の地に『独立のために流した血を示す赤い丸』を組み合わせた」という説もある。赤丸は真ん中から旗竿寄りにしてある。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "初代大統領ムジブル・ラフマンの娘のシェイク・ハシナ首相は、「父は日本の日の丸を参考にした」と証言している。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在バングラデシュと呼ばれるベンガル地方東部には、古くから文明が発達した。紀元前4世紀のマウリヤ朝から6世紀のグプタ朝まで数々の王朝の属領であった。仏教寺院からは紀元前7世紀には文明が存在したことが証明され、この社会構造は紀元前11世紀にまで遡ると考えられるが、これには確実な証拠はない。初期の文明は仏教および(あるいはまたは)ヒンドゥー教の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る遺構からこうした影響を推測することができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "8世紀の中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。12世紀にヒンドゥー教のセーナ朝に取って代わられた。13世紀にイスラム教化が始まった。13世紀にはイスラム教のベンガル・スルターン朝の下で、商工業の中心地へと発展した。その後、ベンガルは南アジアで最も豊かで最も強い国になった。16世紀にはムガル帝国の下で、商工業の中心地へと発展した。11世紀(セーナ朝の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。このころに、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "15世紀末にはヨーロッパの貿易商人が訪れるようになり、18世紀末にイギリスの東インド会社により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド亜大陸全域に拡大した(英領インド)。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な飢饉に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物や米の輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を企図。1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したことで、英領東ベンガルおよびアッサム(英語版)が確立された(今日のバングラデシュおよびインド東北部のアッサム州、メガラヤ州、アルナーチャル・プラデーシュ州に相当)。1906年にはダッカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き、1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会で、ベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万〜300万人の死者を出した。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "そのような中でインドは1947年に英領から独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガル(英語版)(1947年 - 1955年)はパキスタンへの参加を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは言語の違いだった。ベンガル語でほぼ統一された東に対し、西がウルドゥー語を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、1970年11月のボーラ・サイクロンの被害で政府に対する不満がさらに高まった。同年12月の選挙において人口に勝る東パキスタンのアワミ連盟が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、翌年の1971年3月にはパキスタン軍が軍事介入して東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタンと内乱になった(バングラデシュ独立戦争)。西側のパキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がパキスタンの降伏によりインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。尚、この過程においてヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプや虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "独立後はアワミ連盟のシェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と先住民族の折り合いは悪く、ジュマ(チッタゴン丘陵地帯の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。このため先住民族は1972年にチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(英語版) (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下のシャンティ・バヒーニー(英語版)とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。内戦や洪水による経済の疲弊により、1975年にクーデターが起き、ムジブル・ラフマンが殺害される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その後、軍部からジアウル・ラフマン少将が大統領となった。1979年以降、バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1981年に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、1983年12月にフセイン・モハンマド・エルシャド中将が再び軍事政権を樹立した。1988年には、チッタゴン丘陵地帯のコルノフリ川(英語版)上流のカプタイ・ダムに国内唯一の水力発電所(230MW)を建設して10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がビルマ(現ミャンマー)へ、4万人がインドへそれぞれ難民として移住している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "エルシャド政権は民主化運動により1990年に退陣した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1991年3月の総選挙で、中道右派勢力バングラデシュ民族主義党 (BNP) がアワミ連盟 (AL) を破り、BNP党首のカレダ・ジアは同国初の女性首相に就任した。1991年に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。5月10日、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いた後、1992年に休戦。1997年には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1996年の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される。1996年6月の総選挙では、今度はALが勝利し、シェイク・ハシナが同国2人目の女性首相に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2001年10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利しカレダ・ジアが首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2002年9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元ダッカ大学教授のイアジュディン・アハメド1名のみだったため無投票当選となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2006年10月、軍の圧力でカレダ・ジア率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。2007年1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。イアジュディン・アハメド大統領は、非常事態宣言を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、シェイク・ハシナ元首相の率いるアワミ連盟が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した 。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2014年に行われた第10次総選挙では、BNP率いる野党18連合がボイコットするまま総選挙が実施され,与党アワミ連盟が圧勝した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1991年に憲法が改正され、大統領(象徴的な存在)を元首とする議院内閣制が確立した。2018年バングラデシュ総選挙ではアワミ連盟が過半数を大きく上回る議席を獲得した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "旧イギリス植民地としてイギリス連邦に加盟するが、共和政体であるため総督を置かず、元首は大統領である。大統領は、原則として、儀礼的職務を行うだけの象徴的地位である。任期5年で、国民議会において選出される。大統領は、首相と最高裁判所長官の任命以外は、首相の助言に従い行動する。ただし、議会と政府が対立して政治的混乱が起きた際は、議会を解散して暫定政府を発足させる権限がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "行政府の長である首相は、議会選挙後に、勝利した政党の党首を大統領が任命する。内閣の閣僚は、首相が選び、大統領が任命する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "バングラデシュの貧困の一因として、政府のガバナンス(統治能力)の低さがあげられることがある。汚職がひどく、2011年の腐敗認識指数は2.7で世界120位に位置し、2003年の1.2よりかなり改善されたものの未だ低位にいることには変わりない。また地方行政が特に弱体であり、これにより、行政が上手く機能していない。それを補助する形で、各種NGOが多数存在し、開発機能を担う形となっている。特に、アジア最大といわれるNGOのBRACやグラミン銀行などが規模も大きく著名である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "議会は、一院制で、Jatiya Sangsad(国会)と呼ばれる。全350議席。任期5年で小選挙区制選挙によって選出される。また、立法に女性の意見を反映させるため、正規の300議席とは別に、女性専用の50議席が用意されていたが、2001年5月に廃止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党はストライキや抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "南部の一部を除き大部分の国境を接するインドとは、独立戦争時の経緯や独立時の与党アワミ連盟が親インド政党だったこともあり独立当初は友好的な関係だった。元々、ムスリムとヒンドゥー教徒の対立がパキスタンへの編入を促した事情もあり、やがて関係は冷却化した。バングラデシュ民族主義党はやや反インド的な姿勢をとり、逆にアメリカ合衆国や中国との友好関係を重視する傾向がある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "バングラデシュは多くの難民を受け入れ、また送り出す国である。東パキスタンとして独立した時には両国内の非主流派の信徒がお互いに難民として流れ込み、またバングラデシュ独立時にもパキスタン軍の侵攻を逃れて100万人近いバングラデシュ人が難民となってインド領へと流れ込んだ。さらに、チッタゴン丘陵地帯では政治的緊張が続いており、この地域の仏教系先住民がインドへと多く難民として流出している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、バングラデシュは隣接するミャンマーからムスリムのロヒンギャ難民を多く受け入れている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "バングラデシュは貧困国であるため、世界各国から多額の経済援助を受け取っている。日本は最大の援助国の一つであるが、近年は援助額がやや減少気味である。他に、アジア開発銀行やアメリカ、イギリス、世界銀行、ヨーロッパ連合などからの援助が多い。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "バングラデシュ軍は志願兵制度であり、兵力はおよそ14万人。バングラデシュ軍は国際連合平和維持活動(PKO)に積極的に人員を送っている。バングラデシュ軍は過去何度か軍事政権を樹立し、現在でも政治に大きな発言力を持つ。2006年にはBNP政権を退陣させ、アハメド選挙管理内閣を発足させた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "バングラデシュの国土の大部分はインド亜大陸のベンガル湾沿いに形成されたベンガルデルタと呼ばれるデルタ地帯である。このデルタ地帯を大小の河川やカールと呼ばれる水路が網の目のように走っている。耕作可能面積率は59.65%と世界一高い。沼沢地とジャングルの多い低地 であり、ジャングルはベンガルトラの生息地として知られる。北をヒマラヤ山脈南麓部、シロン高原(メガラヤ台地)、東をトリプラ丘陵やチッタゴン丘陵、西をラジュモホル丘陵に囲まれ、南はベンガル湾に面している。東部や東南部に標高100〜500mの丘陵が広がる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヒマラヤ山脈に水源を持つ西からガンジス川(ベンガル語でポッダ川)、北からブラマプトラ川(同ジョムナ川)が低地のほぼ中央で合流し、最下流でメグナ川と合流して、流域面積173万平方キロメートルものデルタ地帯を作っている。デルタ地帯は極めて人口密度が高い。バングラデシュの土壌は肥沃で水に恵まれることから水田耕作に適しているが、洪水と旱魃の双方に対して脆弱であり、しばしば河川が氾濫し多くの被害を及ぼす。国内の丘陵地は南東部のチッタゴン丘陵地帯(最高地点:ケオクラドン山(英語版)、1230m)と北東部のシレット管区に限られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "北回帰線に近いバングラデシュの気候は熱帯性で、10月から3月にかけての冬季は温暖である。夏季は3月から6月にかけて高温多湿な時期が続き、6月から10月にかけてモンスーンが襲来する。ほぼ毎年のようにこの国を襲う洪水、サイクロン、竜巻、海嘯といった自然現象は、一時的な被害にとどまらず、森林破壊、土壌劣化、浸食などを引き起こし、さらなる被害を国土に対して及ぼしている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "地形の大部分が平坦なこと、洪水による地形の変化が多いことなどは、バングラデシュの国土測量を極めて難しいものとしている。日本の国土地理院の協力により、1/25,000の地形図の作成が試みられているが、2016年段階でも詳細な全国地図は完成に至っていない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、主要都市のひとつであるチッタゴンの南に位置するコックスバザールは世界最長の天然のビーチとして知られる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "バングラデシュの殆どの耕作地域は雨季に河川の溢水により水に沈む。時折耕作地域だけでなく、土盛りして高台にしている住宅地や幹線道路も浸水被害を受ける。こういった大洪水はベンガル語で「ボンナ」(Banna)と呼ばれ、破壊と災厄をもたらすものとみなされる一方で、毎年起こる程度の適度な洪水は「ボルシャ」(Barsha)と呼ばれ、土壌に肥沃さをもたらし、豊かな漁場とありあまるほどの水、豊作をもたらす恵みの存在と考えられている。ボンナが発生するとアウス稲、アモン稲の生産量に悪影響があるが、近年大洪水となった2004年および2007年でも10%程度のアモン生産量の減少にとどまっている。 このほかに河岸侵食による土地流出も過去には深刻な被害をもたらしていたが、近年のインフラ整備により、改善されてきている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "最上位の行政単位は、8つある管区である。それぞれ中心となる都市の名が付けられている。しかし、管区には実質的な機能はなく、その下にある県 (ベンガル語:Zila(ジラ)、英語:District) が地方行政の主位的単位となる。2005年1月時点で64県が存在する。県の下には郡(ベンガル語:Upazila(ウポジラ)、英語:Sub-District)が置かれ、その下にいくつかの村落をまとめた行政村(ベンガル語・英語:Union(ユニオン))がある。独立時は管区は4つであったが、人口増加に伴い管区の新設が行われている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "世界銀行によると、2021年のバングラデシュのGDPは2,852億ドルであり、一人当たりのGDPは2,503ドル。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2016年時点で人口の24.3%が貧困線以下である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "同国はガンジス川の氾濫により涵養された、世界有数の豊かな土地を誇り、外からの侵略も絶えなかった。「黄金のベンガル」と言われていた時代もあり、膨大な人口と労働力を持っていることから経済の潜在能力は高いが、洪水などの自然災害の影響で現在では貧困国の一つに数えられる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "バングラデシュは内外問わずに援助を受けているにもかかわらず、過剰な人口や政治汚職などによって未だに貧困を脱しきることが出来ないでいる。バングラデシュの発展を阻害しているものとしては、多発するサイクロンやそれに伴う氾濫などの地理的・気候的要因、能率の悪い国営企業、不適切に運営されている港などインフラの人的要因、第一次産業のみでは賄い切れない増加する労働人口などの人口要因、能率の悪いエネルギー利用法や十分に行き渡っていない電力供給などの資源的要因、加えて政治的な内部争いや汚職などの政治的要因、国内で頻繁に行われているゼネラルストライキの一種であるハルタル(ホルタル)が挙げられる。しかし近年は後述の通り繊維産業の台頭により2005年~2015年にかけては年平均6.2%と高い経済成長率を記録している。また膨大な労働人口と安い労働コスト(英語版)が評価され、NEXT11にも数えられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "通貨単位はタカ。レートは1米ドル=83.28タカ(2018年2月7日時点)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "人口の42.7%は農業に従事し、国民の7割以上が農村に住む。主要農産品はコメおよびジュート(コウマ・シマツナソ)、茶である。コメの生産量は世界第4位で、かつ生産量も年々微増している。国連食糧農業機関(FAO)によると穀物自給率は90%を超え、特に米に関しては消費量のほぼ全てを自給している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "バングラデシュの稲は雨季前半に栽培されるアウス稲、雨季後半に栽培され収穫の中心となっているアマン稲、乾季に栽培されるボロ稲の3種に分かれる。気候的に二期作や三期作も可能であるが、乾期にはガンジス川の水位が低下するため、行える地域は限られていた。しかし、井戸の普及や改良種の普及により、特に乾季のボロ稲の農業生産が大幅に拡大し、それにつれてアウス稲やアマン稲の生産も増加を示した。それによって、二期作や三期作の可能な地域も増加して米の生産量が大幅に増大した。これがバングラデシュにおける「緑の革命」といわれる農業生産の近代化促進である。緑の革命は国家政策として行われたが、緑の革命は農家の設備投資支出の増大を強いた。一方で生産量増大はその負担を埋めるまでにいたらないという問題を抱えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ジュートは農産品として最も重要な輸出品であるが、1980年代以降化学繊維に押され重要性は下がってきている。ジュートに次ぐ輸出農産品の紅茶は主に、紅茶の名産地として知られるインドのアッサム州に隣接する北部シレット地方において栽培されている。19世紀には藍の世界最大の産地であったが、化学染料の発明と普及により生産は激減した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "バングラデシュの繊維工業の発展は経済成長によって繊維生産が不振になり始めた韓国や香港からの投資をきっかけに、1970年代に起こり始めた。近年では中国の労働コスト上昇に伴い、バングラデシュの廉価な労働コスト(月給が中国の1/3)が注目されており、繊維製品などの軽工業製品の輸出は増大している。これにより、ようやく軽工業が発展し経済発展を果たしている。現在、バングラデシュの輸出の80%は繊維製品によって占められている。チャイナ+1の製造国として非常に注目を集めており、大手繊維メーカーなどの進出が多く行われており、バングラデシュ経済を担う一大産業となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "軽工業だけでなく、重工業も発展しつつある。日本の本田技研工業がオートバイ工場を建設したほか、廃船の解体から造船業が成長している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "バングラデシュは鉱物資源に恵まれないが、人件費が安いことからチッタゴンには世界最大の船舶解体場があり、国内で使用される鉄の60%はここからのリサイクル品で賄うことができる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "唯一ともいえる地下資源が天然ガスで、1908年に発見される。その後、イギリスの統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式(PS方式)で進められた。政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17のガス田を開発した。1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆ジュール。2008年時点で12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。ガス田はジョムナ川より東側に分布しており、パイプラインで輸送されている。現在ボグラ市まで達している。埋蔵量(『オイル・アンド・ガス・ジャーナル』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、マレーシア80兆、インドネシア72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は発電で約50%、約40%が工場で、約10%が個人世帯・商業で利用されている。ガス管敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%を超えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "雇用は貧しく40%が不完全な雇用である。産業別の労働人口比率は、2016年のデータで農業が42.7%、サービス業が36.9%、鉱工業が20.5%であり、近年の急速な繊維産業の成長により工業化が進む現在においても、未だ本質的には農業国である。しかし、貧富の差や農地面積に比して人口が多すぎるため、農地だけで充分な生計を立てられる世帯は4割程度に過ぎず、残りの6割は小作農や日雇い労働者として生計を立てている。近年ではグラミン銀行などが進めるマイクロ・クレジットの拡大や経済成長によって貧困層の一部に生活向上の兆しがあるものの、貧困は未だ深刻な問題となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "人件費が安いことから、船舶の解体や処分場など3Kの仕事を先進国から引き受けている。労働人口は(2021年)7,096万人である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "バングラデシュの貿易収支は輸入品より輸出品のほうが少なく、常に大幅な赤字となっている。これを多少なりとも埋めるのが、外国へ出稼ぎに行った労働者たちの送金収入である。1997年には出稼ぎ労働者は総計40万人を超えた。出稼ぎ先はイスラム教国が多く、最大の出稼ぎ先はサウジアラビアで出稼ぎ労働者の3分の2を占め、クウェートやアラブ首長国連邦など他のペルシア湾岸産油国にも多く労働者が向かっている。東では、マレーシアやシンガポールに多い。日本にも約1万7千人の在日バングラデシュ人が存在する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "首都のダッカなど都市部ではNGO、農村部ではグラミン銀行による貧困層への比較的低金利の融資を行なう事業(マイクロクレジット)が女性の自立と貧困の改善に大きな貢献をしたとして国際的に注目を集めている。2006年にはグラミン銀行と創設者で総帥のムハマド・ユヌスは「貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献」を理由にノーベル平和賞を受賞し、バングラデシュ初のノーベル賞受賞者となった。また、2008年にはインターネット網が農村、学校などにまで広げられ、大々的にこれを祝った。NGO が多く存在する中でも筆頭がBRAC(Bangladessh Rural Advancement committee バングラデシュ農村向上委員会、通称ブラック)である。BRACは1972年設立、全ての県に事務所を置き、農村や都市の貧困層を対象に活動している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "デルタ地帯にあり縦横に水路が張り巡らされている地形であるため、道路はあまり発達していない。代わりに、舟運の可能な水路は3800kmに及び、バングラデシュの輸送に重要な位置を占めている。雨季と乾季では水位が違い、陸路と水路の利用に大きな差が出る。主要貿易港は海港である東部のチッタゴンである。他に海港としては西部のモングラ港(かつてのチャルナ港)が大きく、またダッカやボリシャル、ナラヨンゴンジなどには規模の大きな河川港がある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アジアハイウェイ1号線が北部からダッカを通って西部国境まで通じている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "国営鉄道であるバングラデシュ鉄道によって運営され、総延長2706km。ブラマプトラ川を境に軌間が違い、ブラマプトラ以西は1676mmの広軌、ブラマプトラ以東(ダッカやチッタゴンも入る)は1000mmの狭軌である。広軌路線が884km、狭軌路線が1822kmである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "空港はダッカのシャージャラル国際空港やチッタゴンのシャーアマーノト国際空港などがあり、シャージャラル国際空港に本拠を置く国営航空会社ビーマン・バングラデシュ航空などの航空会社が運行している。バンコク(タイ王国)、コルカタ(インド)との空路が主である。国内線はチッタゴン、ジョソール、シレットの空港があるが、不安定で、利用は少ない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "バングラデシュの人口は、2022年現在で1億6,630万人となっている。さらにシンガポールやバーレーンなどの面積の小さい国を除き、世界で最も人口密度の高い国である。1平方kmあたりの人口は2012年時点で1,173人であり、しばしばインドネシアのジャワ島と比較される。ただし山地が少なく耕作可能面積率が非常に高いことから、可住面積を考慮した実質人口密度では、韓国、台湾、マレーシア、エジプトの方が高いと言える。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "人口爆発が社会問題となり、政府は1992年より\"人口調節\"を推進し人口の増加を抑えようとしており、一定の成果を上げつつある。1992年に4.18あった合計特殊出生率は、2001年には2.56に、2011年には2.11まで低下している。人口増加率は独立当初3.4%(1975年)だったが、2.02%(1995年)、2.056%(2007年)、1.26%(2009年)と急激に減少してきている。近年は、南アジア地域においても人口増加率は最低水準にある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "98%がベンガル人。その他、en:Stranded Pakistanis、チャクマ族(英語版)、マルマ族(英語版)、Tipperas、トンチョンギャ族(英語版)、Mros、en:Mughal tribe、Sylheti、en:Kurukh people、en:Khasi people、bn:খুমি、ガロ族、টিপরা、bn:পাংখো、পাংগোন、মগ、en:Meitei people、bn:মুরং、bn:রাজবংশী、en:Santali people、bn:হাজং、en:Rakhine people、en:Magh people、トリプラ族(英語版)、bn:কুকি (উপজাতি)、bn:চক (জাতিগোষ্ঠী)、bn:হাদুই、bn:লুসাই、bn:হদি、bn:বাওয়ালী、bn:বনযোগী、bn:মৌয়ালী", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ベンガル語が公用語である。文字はデーヴァナーガリーに似たベンガル文字を用いる。ベンガル語に加え、英語も官公庁や教育機関で使用されており事実上の公用語である。住民はベンガル語話者であるベンガル人がほとんどで、人口の98%を占めている。その他に、ウルドゥー語を話す、ビハール州などインド各地を出身とする非ベンガル人ムスリムが2%を占める。他に、南東部のチッタゴン丘陵地帯にはジュマと総称される10以上のモンゴロイド系先住民族が存在する。ジュマの総人口は100万人から150万人とされる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "イスラム教が89.7%、ヒンドゥー教が9.2%、その他が1%である。その他の宗教には仏教、キリスト教などが含まれる。バングラデシュはイスラム教徒が多数派であるが、ヒンドゥー教徒の人口割合もかなり高く、両者はおおむね平和的に共存している。また、パハルプールの仏教寺院遺跡群に見られるように、以前は、仏教が大いに栄えていたため、現在でも、一部の地域では、仏教が信仰されている。どの宗教を信仰しているかという点も重要だが、それ以上に、同じベンガル民族であるという意識の方が重要視され、両者は尊重しあっている。このような意識はインド側の西ベンガル州でも同様に見られる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "婚姻時に改姓する女性(夫婦同姓)もいれば、そうしない女性(夫婦別姓)もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1990年代に確立した現在の教育制度は初等教育(小学校)5年、中等教育(中学校)5年(前期3年、中期2年)、後期中等教育(高校)2年の5-5-2制である。初等教育及び中等教育は毎年行われる学年末試験に合格しないと進級できない。8年生(中等教育前期3年)を修了すると文科系と理科系、商業系に進路が振り分けられる。また10年生(中等教育中期2年)を修了した者は1回目の国家統一試験SSC(Secondary School Certificate)が受験でき、合格すると後期高等教育への入学資格が取得できる。ここで2年間教育を受け修了した者は、2回目の国家統一試験HSC(Higher Secondary Certificate)を受験でき、これに合格すると大学入学資格が取得できる。この二つの試験の試験成績は履歴書に一生書かなければならず人生を大きく左右するため、現在のバングラデシュは超学歴社会となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "識字率は2020年時点で74.9%(男性77.8%:女性72%)とやや低めである。。義務教育は小学校5年のみである。就学率は2015年には97.7%である、しかし修了率は78%ほどである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "国民の大多数は土地を所有せず、あるいは洪水の危険が高い低湿地に住んでおり、衛生状態は極めて悪い。このため、水を媒介として、コレラや赤痢といった感染症の流行が度々発生している。こうした状況を改善するため、国際機関が活動を行っている。特に飲用水の衛生状態の改善のため、井戸の整備を独立後に進めてきたが、多くの井戸が元来地層中に存在したヒ素に高濃度に汚染され、新たな問題となっている。全土の44%、5300万人が発癌を含むヒ素中毒の危険に晒されていると考えられている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "バングラデシュでは治安当局による犯罪統計は公表されているものの、新聞などの公開情報では連日のように凶悪事件が起きており、特に銃器を使用した殺人ならびに強盗事件及び違法銃器の押収に関する事件の発生を報道していることから、実際には統計件数以上の犯罪が発生しているものと推測されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "傍ら、薬物犯罪も発生しており、「ヤーバー」(Ya ba,「狂薬」の意)と呼称される、メタンフェタミンとカフェインの成分混合の覚醒剤による薬物汚染が問題視されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "それに伴い、2018年から同国では麻薬撲滅キャンペーンが開始され、現在も継続されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "テロリズム関連の犯罪事件情報においては2016年のダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件発生以降、同国の治安当局による大規模かつ集中的な捜査や警備強化もあり、外国人の被害を伴う新たなテロ事件は発生していない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "一方、首都のダッカにおいては2019年4月に発生したスリランカ連続爆破テロ事件以降、バングラデシュの警察官などを標的とする爆弾テロ事件が複数回発生しており、治安当局によるテロ組織の掃討作戦も継続して実施されていることから、同国を訪れる海外からの人間には引き続き警戒が必要とされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "特に宗教関連の祝祭日やイベントなどについては一層の注意が欠かせない状況となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "バングラデシュ警察は内務省(英語版)の管轄下にある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "同警察は警察総監(英語版)(IGP)の指揮下で活動しており、いくつかの部隊に編成されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "同国のメディアは、政府系メディアと民間系メディアが混在している状態となっており、憲法上では報道の自由と表現の自由を保証しているとされているが国境なき記者団などの機関によれば、その順位は2018年時点で146位に低下している。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "食文化としては大量にとれる米を主食としている。国際連合食糧農業機関の2011年発表の統計によれば、1人あたりの1日の米の消費量は世界一である。ガンジス川流域や海岸、汽水域などで大量にとれる魚も重要な蛋白源となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "演劇や詩作もさかんである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "バングラデシュの映画は「ダリーウッド」(ベンガル語: ঢালিউড )として知られている。ダリーウッドとは、「ダッカ」と「ハリウッド」を組み合わせた鞄語である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "バングラデシュのイスラム建築:", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "バングラデシュ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "シュンドルボンはインドとバングラデシュ南西部に渡るマングローブ林の湿地域で、バングラデシュがその3分の2を占める。ベンガルトラをはじめ稀少生物種が生息し、自然環境を保護するため、人間の居住は禁止されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "※この他には、バンガバンドゥの演説(英語版)記念日が3月7日に制定されている。また、ユネスコにより2017年10月30日付で、この演説が記録遺産として世界の記憶へ追加されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "バングラデシュではクリケットが一番人気のあるスポーツである。イギリスが統治していた19世紀に伝わったが、本格的に大衆人気を得たのはパキスタンから独立した1971年以降である。1997年にマレーシアで開催されたICCトロフィーで初優勝し、1999年のクリケット・ワールドカップの出場権を獲得した。1999年に初出場したクリケット・ワールドカップでは、グループリーグで敗退したとは言え、パキスタンとスコットランドに勝利し成功を収めた。2000年に国際クリケット評議会の正会員に昇格し、世界で10番目となるテスト・クリケットを行う権利を得た。2011年にクリケット・ワールドカップをインドとスリランカの3カ国共催で開催した。2012年にはプロクリケットリーグの「バングラデシュ・プレミアリーグ」が創設された。さらにワン・デイ・マッチ、テストマッチ、トゥエンティ20インターナショナル(英語版)を定期的に主催している。シャキブ・アル・ハサンは同国で最も偉大な選手の一人とみなされている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "バングラデシュではサッカーも人気のスポーツであり、クリケットよりも5年早い2007年に、プロサッカーリーグの「バングラデシュ・プレミアリーグ」が創設されている。バングラデシュサッカー連盟(BFF)によって構成されるサッカーバングラデシュ代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。しかしAFCアジアカップには、1980年大会で初出場を果たした。なお南アジアサッカー選手権では、自国開催となった2003年大会で初優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1971年8月、バングラデシュ独立戦争による多大なる被害に対して、イギリスのロック・ミュージシャン(元ザ・ビートルズメンバー)であるジョージ・ハリスンとインド出身のラビ・シャンカールらが中心となり、ニューヨークでチャリティ・イベント「バングラデシュ難民救済コンサート」が開催された。このコンサートは映画化され、またライブ盤レコード「バングラデシュ・コンサート」として発売され、コンサートの入場料を含めた全収益金がバングラデシュに寄付された。この企画はロック界におけるチャリティー事業のさきがけとなった。また、ジョージ・ハリスンはシングル・レコード「バングラデシュ」を発売し、この売り上げも全額が寄付されている。", "title": "難民" } ]
バングラデシュ人民共和国、通称バングラデシュは、南アジアにある共和制国家。首都はダッカである。 北と東西の三方はインド、南東部はミャンマーと国境を接する。南はベンガル湾(「インド洋の一部)に面する。西側で隣接するインドの西ベンガル州、東側で隣接するインドのトリプラ州とともにベンガル語圏に属する。ベンガル湾に注ぐ大河ガンジス川の下流部を有する。 イギリス領インド帝国の一部からパキスタンの飛地領土(東パキスタン)を経て独立し、イギリス連邦加盟国のひとつである。
{{基礎情報 国 | 略名 =バングラデシュ | 日本語国名 = バングラデシュ人民共和国 | 公式国名 = {{lang|bn|'''গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ'''}} | 国旗画像 = Flag of Bangladesh.svg | 国章画像 = [[ファイル:National emblem of Bangladesh.svg|100px|バングラデシュの国章]] | 国章リンク = ([[バングラデシュの国章|国章]]) | 標語 = {{lang|bn|なし}} | 国歌 = [[我が黄金のベンガルよ|{{lang|bn|আমার সোনার বাংলা}}{{bn icon}}]]<br />我が黄金のベンガルよ<br />{{center|[[ファイル:Amar Sonar Bangla - official vocal music of the National anthem of Bangladesh.ogg]]}} | 位置画像 = Bangladesh (orthographic projection).svg | 公用語 = [[ベンガル語]] | 首都 = [[ダッカ]] | 最大都市 = ダッカ | 元首等肩書 = [[バングラデシュの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[モハンマド・シャハブッディン]] | 首相等肩書 = [[バングラデシュの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[シェイク・ハシナ]] | 他元首等肩書1 = [[国会 (バングラデシュ)|国会議長]] | 他元首等氏名1 = [[w:Shirin Sharmin Chaudhury|シリン・シャーミン・チョードリー]] | 面積順位 = 91 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 147,000<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bangladesh/data.html#section1 |title=バングラデシュ人民共和国基礎データ |publisher=外務省 |accessdate=2018-11-05 }}</ref> | 水面積率 = 7.0% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 8 | 人口大きさ = 1 E8 | 人口値 = 164,689,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/bd.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 1265.2<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 27兆3933億2400万<ref name="imf2020">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=513,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|accessdate = 2021-10-12}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER =40 | GDP値MER = 3230億5700万<ref name="imf2020" /> | GDP MER/人 = 1961.614<ref name="imf2020" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 34 | GDP値 = 8707億9000万<ref name="imf2020" /> | GDP/人 = 5287.469<ref name="imf2020" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 宣言<br />&nbsp;- 承認 | 建国年月日 = [[パキスタン]]より<br />[[1971年]][[3月26日]]<br />[[1971年]][[12月16日]] | 通貨 = [[タカ (通貨)|タカ]] | 通貨コード = BDT | 時間帯 = +6 | 夏時間 =なし | ISO 3166-1 = BD / BGD | ccTLD = [[.bd]] | 国際電話番号 = 880 | 注記 = }} '''バングラデシュ人民共和国'''(バングラデシュじんみんきょうわこく、英語 People's Republic of Bangladesh、{{lang-bn|গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ}})、通称'''バングラデシュ'''は、[[南アジア]]にある[[共和制]][[国家]]。首都は[[ダッカ]]である。 北と東西の三方は[[インド]]、南東部は[[ミャンマー]]と国境を接する。南は[[ベンガル湾]](「[[インド洋]]の一部)に面する。西側で隣接するインドの[[西ベンガル州]]、東側で隣接するインドの[[トリプラ州]]とともに[[ベンガル語]]圏に属する。ベンガル湾に注ぐ大河[[ガンジス川]]の下流部を有する。 [[イギリス領インド帝国]]の一部から[[パキスタン]]の[[飛地]]領土([[東パキスタン]])を経て[[国家の独立|独立]]し、[[イギリス連邦]]加盟国のひとつである。 {| class="infobox borderless" |+ {{仮リンク|バングラデシュの国の象徴|en|National symbols of Bangladesh}}<br />(公式) |- ! '''動物'''<br />[[ベンガルトラ]] | | [[Image:Panthera tigris.jpg|50px]] |- ! '''鳥'''<br />[[シキチョウ]] | | [[Image:Oriental Magpie Robin (Copsychus saularis)- Male calling in the rain at Kolkata I IMG 3746.jpg|50px]] |- ! '''樹木'''<br />[[マンゴー]] | | [[Image:Mango blossoms.jpg|50px]] |- ! '''花'''<br />[[スイレン]] | | [[Image:Nymphaea pubescens (9149867657).jpg|50px]] |- ! '''水生動物'''<br />[[カワイルカ]] | | [[Image:PlatanistaHardwicke.jpg|50px]] |- ! '''爬虫類'''<br />[[インドガビアル]] | | [[Image:Gavial-du-gange.jpg|50px]] |- ! '''果物'''<br />[[パラミツ]] | | [[Image:(Artocarpus heterophyllus) Jack fruits on Simhachalam Hills 01.jpg|50px]] |- ! '''魚'''<br />イリッシュ | | [[Image:Ilish.JPG|50px]] |- ! '''モスク'''<br />バイトゥルムカロム | | [[Image:Baitul Mukarram (Arabic, بيت المكرّم; Bengali, বায়তুল মুকাররম; The Holy House).jpg|50px]] |- ! '''寺院'''<br />ダッケシュワリ寺院 | | [[Image:Hindu Temple in Dhaka.jpg|50px]] |- ! '''川'''<br />ジャムナ川 | | [[Image:Boat on Jamuna River.jpg|50px]] |- ! '''山'''<br />ケオクラドン山 | | [[Image:Keokradong.jpg|50px]] |- |} == 概要 == 国名のバングラデシュとはベンガル語で「'''[[ベンガル人]]の国'''」を意味する。国内最大の都市は[[首都]]の[[ダッカ]]であり、他の主要都市は[[チッタゴン]]、[[クルナ]]、[[ラジシャヒ]]がある。バングラデシュは[[南アジア]]における[[イスラム圏]]国家の一つである。バングラデシュの人口は1億6,468万人で、[[都市国家]]を除くと世界で最も[[人口密度]]が高い国であり、人口は[[国の人口順リスト|世界第8位]]となっている。 元々はインドの一部であったが、インドが[[1947年]]にイギリスから独立するに当って[[イスラム教徒]]と[[ヒンドゥー教徒]]との対立が深まり、イスラム教徒地域を「'''パキスタン'''」として独立させる構想が浮上した。これにより[[1955年]]に東パキスタンとなったが、パキスタン本土とは遠く離れた状態であったことや[[国教]]たるイスラム教のみで両地域を統一しておくこと自体が困難である点から分離独立が叫ばれ、[[1971年]]にパキスタンから独立した。 豊富な[[水資源]]から[[米]]や[[コウマ|ジュート]]の生産に適していて、かつて「'''黄金のベンガル'''」と称された豊かな地域であったが<ref group="注釈">ムガル帝国の時代には経済的に一番豊かな州の一つであり、イギリスによる植民地支配期には英領インドで最も早く西欧文化の影響を受け、西欧化・近代化の先頭に立っていた地域である。中里成章「新しい国の古い歴史」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』([[明石書店]] 【第2版】2009年)20ページ。</ref>、[[インフラストラクチャー|インフラ]]の未整備や行政の非能率から、現在はアジアの[[最貧国]]に属する<ref group="注釈">農村の国であり、2000年の統計では全人口の75%が農村で暮らしている。長畑誠「農村の貧困問題」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)222ページ。</ref>。しかし近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。第三国への輸出のほか、人口の多さから[[スマートフォン]]などはバングラデシュ国内市場向けにも生産されている<ref>【NIKKEI ASIA】バングラにスマホ工場続々 ノキアやサムスン、内需に照準『[[日経産業新聞]]』2021年7月29日アジア・グローバル面</ref>。[[新興国]]として、期待される[[NEXT11]]の一つに数えられている。なお、バングラデシュでは貧困も続いている。 == 国名 == 正式国名は'''{{Lang|bn|গণপ্রজাতন্ত্রী বাংলাদেশ}}'''(<span style="font-size:90%;">ベンガル語: </span>ラテン文字転写は、Gônoprojatontri Bangladesh)。通称、'''{{Lang|bn|বাংলাদেশ}}''' {{IPA-bn|ˈbaŋlad̪eʃ|pron|Bangladesh.ogg}} [[英語]]の公式表記は、''People's Republic of Bangladesh''(ピープルズ・リパブリック・オブ・バングラデシュ)。通称、''Bangladesh'' {{IPA-en|ˌbæŋɡləˈdɛʃ||En-us-Bangladesh.ogg}}。国民・形容詞はBangladeshi。 [[日本語]]の表記は'''バングラデシュ人民共和国'''。通称、'''バングラデシュ'''。[[ベンガル語]]で、バングラが「ベンガル(人)」を、デシュが「国」を意味し、合わせて「ベンガル人の国」となる。'''バングラデッシュ'''、'''バングラディシュ'''、'''バングラディッシュ'''と記述されることもある(後二者はベンガル語の発音に対して不自然な表記である)。[[日本]]での[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''孟加拉'''、1文字では'''孟'''と略されるがほぼ使用されない。日本では新聞の見出しなどにおいて、'''バングラ'''と略称されることがある<ref>{{Cite news |url = http://www.asagumo-news.com/news/201202/120214/12021405.html |title = バングラで多国間PKO演習 自衛隊から4人が参加 |publisher = [[朝雲新聞]] |date = 2012-02-09 |accessdate = 2012-02-09 }}</ref><ref>{{Cite news |url = http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140906-OYT1T50124.html |title = 非常任理事国の選挙、日本を支持…バングラ首相 |publisher = [[読売新聞]] |date = 2014-09-06 |accessdate = 2014-09-07 }}</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000020589.pdf 国連安保理非常任理事国選挙 我が国の過去の選挙結果](外務省)</ref>政体として「人民共和国」と末尾にあるが、バングラデシュは[[社会主義国]]ではない。 == 国旗 == [[バングラデシュの国旗]]は赤が昇る太陽、緑が豊かな大地を表す。また、「豊かな自然を表す緑の地に『独立のために流した血を示す赤い丸』を組み合わせた」という説もある。赤丸は真ん中から旗竿寄りにしてある。 初代[[バングラデシュの大統領|大統領]][[ムジブル・ラフマン]]の娘の[[シェイク・ハシナ]]首相は、「父は[[日本の国旗|日本の日の丸]]を参考にした」と証言している<ref>{{cite news |title=バングラデシュ首相:日の丸参考に国旗…親日アピール |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2014-05-27 |url=http://mainichi.jp/select/news/20140528k0000m030031000c.html |accessdate=2014-05-29|author=清水憲司}}</ref>。 {{節スタブ}} == 歴史 == {{main|バングラデシュの歴史}} === 近代まで === [[Image:Lalbager Kella 01.jpg|thumb|ダッカ市内のラルバグ城(17世紀)]] 現在バングラデシュと呼ばれるベンガル地方東部には、古くから[[文明]]が発達した。[[紀元前4世紀]]の[[マウリヤ朝]]から[[6世紀]]の[[グプタ朝]]まで数々の[[王朝]]の[[属領]]であった。[[仏教]][[寺院]]からは[[紀元前7世紀]]には文明が存在したことが証明され、この社会構造は[[紀元前11世紀]]にまで遡ると考えられるが、これには確実な証拠はない。初期の文明は[[仏教]]および(あるいはまたは)[[ヒンドゥー教]]の影響を受けていた。北部バングラデシュに残る[[遺構]]からこうした影響を推測することができる。 [[8世紀]]の中葉に[[パーラ朝]]がなり、仏教王朝が繁栄した。[[12世紀]]にヒンドゥー教の[[セーナ朝]]に取って代わられた。[[13世紀]]に[[イスラム教]]化が始まった<ref group="注釈">1204年、トルコ系[[ムスリム]]の[[奇襲]]によってムスリム王権が成立した。</ref>。[[13世紀]]にはイスラム教の[[ベンガル・スルターン朝]]の下で、商工業の中心地へと発展した。その後、ベンガルは南アジアで最も豊かで最も強い国になった。[[16世紀]]には[[ムガル帝国]]の下で、商工業の中心地へと発展した。11世紀([[セーナ朝]]の時代)から16世紀(ムガル帝国に編入されたのは1574年)の間はベンガル語が発達した。このころに、ベンガル経済の成長に伴って密林の多かった東ベンガルに開発の手が入り、イスラム教徒を中心に開発が進められていった。16世紀後半になって東ベンガルではイスラム教徒が多数派となっていった。また、17世紀半ばにはムスリムの農民集団が目につくようになっている<ref>臼田雅之「イスラーム教徒が増えた時期」/ 『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 28ページ</ref>。 === イギリス領時代 === [[ファイル:Bengal gazetteer 1907-9.jpg|thumb|left|[[1907年]]当時の東ベンガル]] [[15世紀]]末には[[ヨーロッパ]]の貿易商人が訪れるようになり、[[18世紀]]末に[[イギリス]]の[[イギリス東インド会社|東インド会社]]により[[植民地]]化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルから[[インド亜大陸]]全域に拡大した([[英領インド]])。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な[[飢饉]]に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から[[綿織物]]や米の輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された<ref>臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明ほか 28-29ページ</ref>。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のベンガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。 やがて[[インド]]の他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を企図。[[1905年]]に[[ベンガル分割令]]を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルに分割したことで、{{仮リンク|英領東ベンガルおよびアッサム|en|Eastern Bengal and Assam}}が確立された(今日のバングラデシュおよびインド東北部の[[アッサム州]]、[[メーガーラヤ州|メガラヤ州]]、[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]に相当)。[[1906年]]にはダッカで[[ムスリム連盟]]の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き、[[1911年]]に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。 当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、[[1929年]]全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、[[1936年]]の農民プロシャ党に発展した。[[1930年代]]にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。[[1940年]]のムスリム連盟[[ラホール]]大会で、ベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。[[1943年]]、大飢饉が起こり150万〜300万人の死者を出した<ref>中里成章「新しい国の古い歴史」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)22ページ</ref>。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンドゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。 === インド領東ベンガル === [[ファイル:1952 Bengali Language movement.jpg|thumb|ダッカ市内の[[ベンガル語国語化運動|ベンガル語運動]]([[1952年]])]] そのような中でインドは[[1947年]]に英領から独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域は[[インド連邦 (ドミニオン)|インド]]、イスラム教地域はインドを挟んで東西に分かれた[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]として[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]することになり、{{仮リンク|東ベンガル (パキスタン)|en|East Bengal|label=東ベンガル}}(1947年 - [[1955年]])はパキスタンへの参加を決めた。 === パキスタン領東パキスタン === {{main|東パキスタン}} 両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化の面では違いが大きく、さらに国土はインドによって1000km以上も隔てられていた。このような違いはあちこちで摩擦を起こした。まず最初に問題が起きたのは[[言語]]の違いだった。[[ベンガル語]]でほぼ統一された東に対し、西が[[ウルドゥー語]]を公用語にしたため対立が起きた。この問題はベンガル語とウルドゥー語の両方を公用語にすることで決着がついたものの、政治の中心になっていた西側に偏った政策が実施され、[[1970年]]11月の[[1970年のボーラ・サイクロン|ボーラ・サイクロン]]の被害で政府に対する不満がさらに高まった。同年12月の選挙において人口に勝る東パキスタンの[[アワミ連盟]]が選挙で勝利すると、西パキスタン中心の政府は議会開催を遅らせた上、翌年の[[1971年]]3月には[[パキスタン軍]]が軍事介入して東パキスタン首脳部を拘束した。これによって東西パキスタンの対立は決定的となり、東パキスタンは独立を求めて西パキスタンと内乱になった([[バングラデシュ独立戦争]])。西側のパキスタンと対立していたインドが東パキスタンの独立を支持し、また[[第三次印パ戦争]]が[[パキスタンの降伏文書|パキスタンの降伏]]によりインドの勝利で終わった結果、1971年にバングラデシュの独立が確定した。尚、この過程において[[ヘンリー・キッシンジャー]]は対中国交正常化に向け仲介役を果たしていた[[パキスタン]]がおこなっていた、東パキスタンにおける大規模な[[レイプ]]や[[虐殺]]を外交面から援護したことにより、[[東パキスタン]]は後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3493823?page=2 【解説】キッシンジャー氏の主要実績 論争の種も 写真9枚 国際ニュース:AFPBB News]</ref>。 === 独立、ムジブル・ラフマン政権 === {{main|{{仮リンク|チッタゴン丘陵地帯紛争|en|Chittagong Hill Tracts Conflict}}}} 独立後は[[アワミ連盟]]の[[ムジブル・ラフマン|シェイク・ムジブル・ラフマン]]が首相となった。インドからの独立以前から、イスラムを旗印とするパキスタン政府と[[先住民族]]の折り合いは悪く、ジュマ([[チッタゴン丘陵地帯]]の先住民族)はパキスタン編入をそもそも望んでいなかったために緊張状態が続き、バングラデシュが1971年に独立するとこの状況はさらに悪化した。このため先住民族は1972年に{{仮リンク|チッタゴン丘陵人民連帯連合協会|en|Parbatya Chattagram Jana Sanghati Samiti}} (PCJSS) という政党を作り、翌年からPCJSS傘下の{{仮リンク|シャンティ・バヒーニー|en|Shanti Bahini}}とバングラデシュ軍とが戦闘状態に入った。内戦や洪水による経済の疲弊により、[[1975年]]に[[クーデター]]が起き、ムジブル・ラフマンが殺害される。 === ジアウル・ラフマン政権 === その後、軍部から[[ジアウル・ラフマン]]少将が大統領となった。1979年以降、バングラデシュ政府の政策によってベンガル人がチッタゴン丘陵地帯に大量に入植するようになり、チッタゴン丘陵地帯におけるジュマとベンガル人の人口比はほぼ1対1となった。 === エルシャド政権 === [[1981年]]に軍内部のクーデターによりジアウル・ラフマン大統領が殺害され、[[1983年]]12月に[[フセイン・モハンマド・エルシャド]]中将が再び[[軍事政権]]を樹立した。[[1988年]]には、[[チッタゴン丘陵地帯]]の{{仮リンク|コルノフリ川|en|Karnaphuli River|label=}}上流の[[カプタイ・ダム]]に国内唯一の[[水力発電|水力発電所]](230MW)を建設して10万人近い住民に立ち退きを強制し、うち2万人がビルマ(現ミャンマー)へ、4万人がインドへそれぞれ[[難民]]として移住している。 エルシャド政権は民主化運動により[[1990年]]に退陣した。 === 民主化 === [[1991年]]3月の総選挙で、[[バングラデシュ民族主義党]] (BNP) が[[アワミ連盟]] (AL) を破り、BNP党首の[[カレダ・ジア]]は同国初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]に就任した。[[1991年]]に総選挙が行われて以降は、民主的に選挙で選出された政府が統治している。5月10日、[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領の指示による Operation Sea Angel で被災地への人道支援が行なわれた。チッタゴン丘陵地帯紛争は20年続いた後、[[1992年]]に休戦。[[1997年]]には和平協定が結ばれたものの、根本的な問題は残ったままであり、対立は続いている。 [[1996年]]の憲法改正により前最高裁判所長官を長(首相顧問)とする非政党選挙管理内閣 (Non-Party Care-Taker Government) が導入された。この制度は、現職内閣が選挙活動に干渉したり、投票結果を操作したりする職権乱用防止のためであり、議会解散の後に任命される<ref name="satou" />。[[1996年]]6月の総選挙では、今度はALが勝利し、[[シェイフ・ハシナ|シェイク・ハシナ]]が同国2人目の女性首相に就任した。 [[2001年]]10月1日に行われた総選挙では、BNPなどの野党連合が与党ALに大差をつけ勝利し[[カレダ・ジア]]が首相に返り咲いた。経済建設を重視し、穏健な改革を訴え、都市市民らの支持を集めたとされる。 === 軍政・民政復帰 === [[2002年]]9月6日に予定されていた大統領を選任する投票は、立候補者が元[[ダッカ大学]]教授の[[イアジュディン・アハメド]]1名のみだったため無投票当選となった。 [[2006年]]10月、軍の圧力で[[カレダ・ジア]]率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅や[[イスラム過激派]]対策に取り組んでいる。[[2007年]]1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。[[イアジュディン・アハメド]]大統領は、[[非常事態宣言]]を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。[http://www.janjan.jp/world/0704/0704244403/1.php] [[2008年]]12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、[[シェイフ・ハシナ|シェイク・ハシナ]]元首相の率いる[[アワミ連盟]]が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した [http://bdnews24.com/details.php?id=72656&cid=30]。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党のBNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。 [[2014年]]に行われた第10次総選挙では、BNP率いる野党18連合がボイコットするまま総選挙が実施され,与党アワミ連盟が圧勝した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bangladesh/data.html#section1 バングラデシュ基礎データ-日本国外務省]</ref>。 == 政治 == [[File:Sheikh Hasina, Honourable Prime Minister of Bangladesh.jpg|thumb|[[シェイク・ハシナ|ハシナ]]首相]] [[ファイル:Jatiyo Sangshad Bhaban (Roehl).jpg|thumb|[[国会議事堂 (バングラデシュ)|国会議事堂]]]] {{main|{{仮リンク|バングラデシュの政治|en|Politics of Bangladesh}}}} [[1991年]]に[[憲法]]が改正され、[[バングラデシュの大統領|大統領]](象徴的な存在)を[[元首]]とする[[議院内閣制]]が確立した<ref name="satou">佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)40ページ</ref>。[[2018年バングラデシュ総選挙]]では[[アワミ連盟]]が過半数を大きく上回る議席を獲得した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cnn.co.jp/world/35130812.html |title=バングラ総選挙で与党大勝、ハシナ首相連続3期目に 衝突で死者 |accessdate=2022-06-24}}</ref>。 === 元首 === {{main|バングラデシュの大統領}} 旧イギリス植民地としてイギリス連邦に加盟するが、共和政体であるため[[総督]]を置かず、[[元首]]は[[バングラデシュの大統領|大統領]]である。大統領は、原則として、儀礼的職務を行うだけの象徴的地位である。任期5年で、国民議会において選出される。大統領は、首相と最高裁判所長官の任命以外は、首相の助言に従い行動する。ただし、議会と政府が対立して政治的混乱が起きた際は、議会を解散して[[暫定政府]]を発足させる権限がある。 {{see also|{{仮リンク|バングラデシュ政府|en|Government of Bangladesh}}}} === 行政 === {{main|[[バングラデシュの首相]]}} [[行政府]]の長である[[首相]]は、議会選挙後に、勝利した政党の党首を大統領が任命する。[[内閣]]の閣僚は、首相が選び、大統領が任命する。 バングラデシュの貧困の一因として、政府のガバナンス(統治能力)の低さがあげられることがある。[[汚職]]がひどく、2011年の[[腐敗認識指数]]は2.7で世界120位に位置し、2003年の1.2よりかなり改善されたものの未だ低位にいることには変わりない。また地方行政が特に弱体であり、これにより、行政が上手く機能していない。それを補助する形で、各種[[NGO]]が多数存在し、開発機能を担う形となっている。特に、アジア最大といわれるNGOの[[BRAC]]や[[グラミン銀行]]などが規模も大きく著名である。 === 立法 === {{main|国会 (バングラデシュ)|}} [[議会]]は、[[一院制]]で、''Jatiya Sangsad''([[国会 (バングラデシュ)|国会]])と呼ばれる。全350議席。任期5年で[[小選挙区制]]選挙によって選出される。また、立法に女性の意見を反映させるため、正規の300議席とは別に、女性専用の50議席が用意されていたが、2001年5月に廃止された。 民主化後、総選挙ごとに政権が変わるが、選挙による政権交代が定着してきている<ref group="注釈">BNP=1991〜1996年、AL=1996〜2001年、BNP=2001〜2006年</ref>。とはいえ、議会政治を担う政党に問題が多い<ref>佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)41ページ</ref>。選挙はおおむね公正なものとされるが、政党や政治風土には問題が多い。各政党は配下に政治組織を持ち<ref group="注釈">暴力団や学生組織(BNP系の民族主義学生等:JCD、アワミ連盟系のバングラデシュ学生連盟:BCL、イスラーム党系のイスラーム学生戦線:JCS)佐藤宏「議会制民主油主義のゆくえ」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)43ページ</ref>、選挙ごとに彼らを動員して選挙を繰り広げる。選挙終了後、敗北した政党は[[ストライキ]]や抗議行動に訴えることがほとんどで、しばしば暴動へと発展する。 {{See also|バングラデシュの政党}} === 司法 === {{節スタブ}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|バングラデシュの国際関係|en|Foreign relations of Bangladesh}}|{{仮リンク|バングラデシュの外交政策|en|Foreign policy of Bangladesh}}}} 南部の一部を除き大部分の国境を接するインドとは、独立戦争時の経緯や独立時の与党アワミ連盟が親インド政党だったこともあり独立当初は友好的な関係だった。元々、ムスリムとヒンドゥー教徒の対立がパキスタンへの編入を促した事情もあり、やがて関係は冷却化した。[[バングラデシュ民族主義党]]はやや反インド的な姿勢をとり、逆に[[アメリカ合衆国]]や[[中華人民共和国|中国]]との友好関係を重視する傾向がある。 {{see also|真珠の首飾り戦略|一帯一路}} バングラデシュは多くの難民を受け入れ、また送り出す国である。東パキスタンとして独立した時には両国内の非主流派の信徒がお互いに難民として流れ込み、またバングラデシュ独立時にもパキスタン軍の侵攻を逃れて100万人近いバングラデシュ人が難民となってインド領へと流れ込んだ。さらに、チッタゴン丘陵地帯では政治的緊張が続いており、この地域の仏教系先住民がインドへと多く難民として流出している。 また、バングラデシュは隣接する[[ミャンマー]]からムスリムの[[ロヒンギャ]]難民を多く受け入れている。 バングラデシュは貧困国であるため、世界各国から多額の経済援助を受け取っている。日本は最大の援助国の一つであるが、近年は援助額がやや減少気味である。他に、[[アジア開発銀行]]やアメリカ、イギリス、[[世界銀行]]、[[ヨーロッパ連合]]などからの援助が多い。 {{see also|日本とバングラデシュの関係}} == 軍事 == [[ファイル:Bdunmsn3.jpg|thumb|[[国際連合平和維持活動|PKO]]で活動中のバングラデシュ軍]] {{main|バングラデシュ軍}} [[バングラデシュ軍]]は[[志願兵]]制度であり、兵力はおよそ14万人。バングラデシュ軍は[[国際連合平和維持活動]](PKO)に積極的に人員を送っている。バングラデシュ軍は過去何度か軍事政権を樹立し、現在でも政治に大きな発言力を持つ。2006年にはBNP政権を退陣させ、アハメド選挙管理内閣を発足させた。 == 地理 == {{multiple image | direction = horizontal | align = right | width = | image1 = Map of Bangladesh-de.svg | width1 = 226 | caption1 = バングラデシュの標高図。 | image2 = Bg-map-ja.png | width2 = 260 | caption2 = バングラデシュの地図。 }} {{main|{{仮リンク|バングラデシュの地理|en|Geography of Bangladesh}}}} バングラデシュの国土の大部分は[[インド亜大陸]]の[[ベンガル湾]]沿いに形成された'''ベンガルデルタ'''と呼ばれる[[三角州|デルタ地帯]]である<ref group="注釈">ベンガルデルタとは、ガンジス(ポッダ)川、ブラフマプトラ(ジョムナ)川、メグナ川の3大河川の堆積作用によってできた大地である。</ref>。このデルタ地帯を大小の[[河川]]や'''カール'''と呼ばれる[[水路]]が網の目のように走っている。[[:en:List_of_countries_by_real_population_density_based_on_food_growing_capacity|耕作可能面積率]]は59.65%と世界一高い。沼沢地と[[ジャングル (森林の型)|ジャングル]]の多い低地<ref group="注釈">ベンガル低地、東西約400km、南北約560kmの広がり、標高は北部で40〜50m、南部で2〜3m、洪積台地と沖積低地に大きく分けられ、台地は中央部や北西部に広がっている、首都ダッカは台地の南端に位置する。台地と低地の高低差はおよそ10メートル以下である。畑作が中心で、水田は浅い谷部分に分布する。大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)44〜45ページ。</ref> であり、ジャングルは[[トラ|ベンガルトラ]]の生息地として知られる。北を[[ヒマラヤ山脈]]南麓部、シロン高原(メガラヤ台地)、東をトリプラ丘陵やチッタゴン丘陵、西をラジュモホル丘陵に囲まれ、南はベンガル湾に面している<ref>大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)44ページ</ref>。東部や東南部に標高100〜500mの丘陵が広がる。 ヒマラヤ山脈に水源を持つ西から[[ガンジス川]](ベンガル語でポッダ川)、北から[[ブラマプトラ川]](同ジョムナ川)が低地のほぼ中央で合流し、最下流で[[メグナ川]]と合流して、流域面積173万平方キロメートルものデルタ地帯を作っている。デルタ地帯は極めて[[人口密度]]が高い。バングラデシュの[[土壌]]は肥沃で水に恵まれることから[[水田]]耕作に適しているが、[[洪水]]と[[旱魃]]の双方に対して脆弱であり、しばしば[[河川]]が氾濫し多くの被害を及ぼす。国内の丘陵地は南東部の[[チッタゴン丘陵地帯]](最高地点:{{仮リンク|ケオクラドン山|en|Keokradong}}、1230m)と北東部の[[シレット管区]]に限られる。 [[北回帰線]]に近いバングラデシュの[[気候]]は[[熱帯]]性で、10月から3月にかけての冬季は温暖である。夏季は3月から6月にかけて高温多湿な時期が続き、6月から10月にかけて[[モンスーン]]が襲来する。ほぼ毎年のようにこの国を襲う[[洪水]]、[[サイクロン]]、[[竜巻]]、[[海嘯]]といった自然現象は、一時的な被害にとどまらず、[[森林破壊]]、[[土壌劣化]]、[[浸食]]などを引き起こし、さらなる被害を国土に対して及ぼしている。 地形の大部分が平坦なこと、洪水による地形の変化が多いことなどは、バングラデシュの国土[[測量]]を極めて難しいものとしている。日本の[[国土地理院]]の協力により、1/25,000の[[地形図]]の作成が試みられているが、2016年段階でも詳細な全国地図は完成に至っていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jica.go.jp/bangladesh/office/others/human/15.html|title=地図が創る未来|publisher=独立行政法人[[国際協力機構]]|accessdate=2017年10月10日閲覧}}</ref>。 なお、主要都市のひとつであるチッタゴンの南に位置する[[コックスバザール]]は世界最長の天然の[[海岸|ビーチ]]として知られる。 === 洪水 === バングラデシュの殆どの耕作地域は雨季に河川の[[溢水]]により水に沈む。時折耕作地域だけでなく、土盛りして高台にしている住宅地や幹線道路も浸水被害を受ける。こういった大洪水はベンガル語で「ボンナ」(Banna)と呼ばれ、破壊と災厄をもたらすものとみなされる一方で、毎年起こる程度の適度な洪水は「ボルシャ」(Barsha)と呼ばれ、土壌に肥沃さをもたらし、豊かな漁場とありあまるほどの水、豊作をもたらす恵みの存在と考えられている<ref name="吉谷_他2007">{{cite report|date= 2007-06-01|author=吉谷純一、竹本典道、タレク・メラブテン|title=バングラデシュにおける水災害に関する要因分析|issn=03865878 |series=土木研究所資料|volume=第4052号|publisher=独立行政法人土木研究所 水災害・リスクマネジメント国際センター|pages=49-50|url=https://www.pwri.go.jp/icharm/publication/pdf/pdf_0706/bang_j.pdf|access-date=2023-03-15|ref="吉谷_他2007"}}</ref>。ボンナが発生すると[[#農業|アウス稲、アモン稲]]の生産量に悪影響があるが、近年大洪水となった2004年および2007年でも10%程度のアモン生産量の減少にとどまっている。<ref name="ReferenceA">[Statistical Yearbook of Bangladesh ]Bangladesh Bureau of Statistics 2012</ref> このほかに[[侵食|河岸侵食]]による土地流出も過去には深刻な被害をもたらしていたが、近年のインフラ整備により、改善されてきている。 == 地方行政区分 == [[Image:Bangladesh_divisions_english.svg|300px|right]] {{main|バングラデシュの行政区画}} 最上位の行政単位は、8つある'''管区'''である。それぞれ中心となる都市の名が付けられている。しかし、管区には実質的な機能はなく、その下にある'''県''' (ベンガル語:Zila(ジラ)、英語:District) が地方行政の主位的単位となる。2005年1月時点で64県が存在する。県の下には郡(ベンガル語:Upazila(ウポジラ)、英語:Sub-District)が置かれ、その下にいくつかの村落をまとめた行政村(ベンガル語・英語:Union(ユニオン))がある。独立時は管区は4つであったが、人口増加に伴い管区の新設が行われている。 *[[ダッカ管区]] *[[クルナ管区]] *[[チッタゴン管区]] *[[ラジシャヒ管区]] *[[バリサル管区|ボリシャル管区]] - [[1993年]]、クルナ管区より分離 *[[シレット管区]] - [[1998年]]、チッタゴン管区より分離 *[[ロンプール管区]] - [[2010年]]、ラジシャヒ管区より分離 *[[マイメンシン管区]] - [[2015年]]、ダッカ管区より分離 === 主要都市 === {{main|バングラデシュの都市の一覧}} == 経済 == [[ファイル:Panorama View of Dhaka,2012.jpg|right|thumb|240px|[[ダッカ]]はバングラデシュ経済の中枢で、世界有数の[[メガシティ]]である。]] {{main|{{仮リンク|バングラデシュの経済|en|Economy of Bangladesh}}}} 世界銀行によると、2021年のバングラデシュの[[国内総生産|GDP]]は2,852億ドルであり、一人当たりのGDPは2,503ドル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bangladesh/data.html |title=バングラデシュ基礎データ |accessdate=2023年4月24日 |publisher=外務省}}</ref>。[[国際連合]]による基準に基づき、[[後発開発途上国]]と位置づけられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html |publisher=外務省|title=後発開発途上国|accessdate=2020年3月8日}}</ref>。2016年時点で人口の24.3%が貧困線以下である<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/bangladesh/#economy |title=WORLD FACT BOOK |accessdate=2023年4月24日 |publisher=CIA}}</ref>。 同国はガンジス川の氾濫により[[涵養]]された、世界有数の豊かな土地を誇り、外からの[[侵略]]も絶えなかった。「黄金のベンガル」と言われていた時代もあり、膨大な人口と労働力を持っていることから経済の潜在能力は高いが、洪水などの自然災害の影響で現在では[[後発開発途上国|貧困国]]の一つに数えられる。 バングラデシュは内外問わずに援助を受けているにもかかわらず、[[過剰人口|過剰な人口]]や政治[[汚職]]などによって未だに[[貧困]]を脱しきることが出来ないでいる。バングラデシュの発展を阻害しているものとしては、多発する[[サイクロン]]やそれに伴う氾濫などの地理的・気候的要因、能率の悪い[[国営企業]]、不適切に運営されている[[港]]など[[インフラ]]の人的要因、[[第一次産業]]のみでは賄い切れない増加する[[労働人口]]などの人口要因、能率の悪い[[エネルギー]]利用法や十分に行き渡っていない[[電力供給]]などの資源的要因、加えて政治的な内部争いや汚職などの政治的要因、国内で頻繁に行われている[[ゼネラル・ストライキ|ゼネラルストライキ]]の一種であるハルタル(ホルタル)が挙げられる。しかし近年は後述の通り[[繊維産業]]の台頭により2005年~2015年にかけては年平均6.2%と高い[[経済成長率]]を記録している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jica.go.jp/bangladesh/bangland/about1.html|title=バングラデシュ|publisher=JICA|accessdate=2020年3月8日}}</ref>。また膨大な労働人口と安い{{仮リンク|労働負担|label=労働コスト|en|Labor burden}}が評価され、[[NEXT11]]にも数えられている。 === 通貨 === 通貨単位は[[タカ (通貨)|タカ]]。レートは1[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]=83.28タカ(2018年2月7日時点)。 === 農業 === [[ファイル:Agriculture of Bangladesh 11.jpg|thumb|left|水田]] 人口の42.7%は[[農業]]に従事し<ref name=":0" />、国民の7割以上が[[農村]]に住む。主要農産品は[[米|コメ]]およびジュート([[コウマ]]・[[シマツナソ]])、[[茶]]である。コメの生産量は世界第4位で、かつ生産量も年々微増している。[[国連食糧農業機関]](FAO)によると穀物自給率は90%を超え、特に米に関しては消費量のほぼ全てを自給している。 バングラデシュの稲は雨季前半に栽培されるアウス稲、雨季後半に栽培され収穫の中心となっているアマン稲、乾季に栽培されるボロ稲の3種に分かれる。気候的に[[二期作]]や三期作も可能であるが、乾期にはガンジス川の水位が低下するため、行える地域は限られていた。しかし、井戸の普及や改良種の普及により、特に乾季のボロ稲の農業生産が大幅に拡大し、それにつれてアウス稲やアマン稲の生産も増加を示した。それによって、二期作や三期作の可能な地域も増加して米の生産量が大幅に増大した<ref>大橋正明、村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店、、2003年8月8日初版第1刷)pp.40-41</ref>。これがバングラデシュにおける「[[緑の革命]]」といわれる農業生産の近代化促進である。緑の革命は国家政策として行われたが、緑の革命は農家の設備投資支出の増大を強いた。一方で生産量増大はその負担を埋めるまでにいたらないという問題を抱えている。 [[ジュート]]は農産品として最も重要な輸出品であるが、1980年代以降化学繊維に押され重要性は下がってきている。ジュートに次ぐ輸出農産品の[[紅茶]]は主に、紅茶の名産地として知られるインドの[[アッサム州]]に隣接する北部シレット地方において栽培されている。19世紀には[[アイ (植物)|藍]]の世界最大の産地であったが、化学染料の発明と普及により生産は激減した。 === 繊維工業 === [[ファイル:Garments Factory in Bangladesh.JPG|thumb|バングラデシュの服飾工場]] バングラデシュの[[繊維工業]]の発展は経済成長によって繊維生産が不振になり始めた[[大韓民国|韓国]]や[[香港]]からの投資をきっかけに、[[1970年代]]に起こり始めた。近年では[[中華人民共和国|中国]]の労働コスト上昇に伴い、バングラデシュの廉価な労働コスト(月給が中国の1/3)が注目されており、[[繊維]]製品などの[[軽工業]]製品の輸出は増大している。これにより、ようやく軽工業が発展し経済発展を果たしている。現在、バングラデシュの輸出の80%は繊維製品によって占められている。[[チャイナリスク#チャイナプラスワン|チャイナ+1]]の製造国として非常に注目を集めており、大手繊維メーカーなどの進出が多く行われており、バングラデシュ経済を担う一大産業となっている。 === 重工業 === 軽工業だけでなく、[[重工業]]も発展しつつある。日本の[[本田技研工業]]が[[オートバイ]]工場を建設したほか<ref>[https://www.honda.co.jp/news/2018/c181111a.html バングラデシュにおける二輪車新工場の稼働を開始] 本田技研工業ニュースリリース(2018年11月11日)2018年11月23日閲覧</ref>、[[船舶解体|廃船の解体]]から[[造船]]業が成長している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1905D_Q2A420C1FF2000/ 「バングラ、台頭する造船業 船舶解体業が材料供給」]『日本経済新聞』電子版(2012年4月20日)2018年11月23日閲覧</ref>。 === 鉱業 === バングラデシュは[[鉱物資源]]に恵まれないが、人件費が安いことから[[チッタゴン]]には世界最大の[[船舶解体]]場があり、国内で使用される鉄の60%はここからの[[スクラップ|リサイクル品]]で賄うことができる<ref>{{Cite web|和書|url=http://globalnewsview.org/archives/6772|title=「船の墓場:南アジア」|accessdate=2018年5月3日|publisher=Global News View (GNV)}}</ref>。 唯一ともいえる地下資源が[[天然ガス]]で、1908年に発見される。その後、イギリスの統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式([[:en:Production sharing agreement|PS方式]])で進められた。政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17の[[ガス田]]を開発した。1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆[[ジュール]]。2008年時点で12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。ガス田は[[ジョムナ川]]より東側に分布しており、[[パイプライン輸送|パイプライン]]で輸送されている。現在[[ボグラ|ボグラ市]]まで達している。埋蔵量(『[[:en:Oil & Gas Journal|オイル・アンド・ガス・ジャーナル]]』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、[[マレーシア]]80兆、[[インドネシア]]72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は発電で約50%、約40%が工場で、約10%が個人世帯・商業で利用されている。[[ガス管]]敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%を超えている<ref>松澤猛男「天然ガスと電力」/>大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)133-134ページ</ref>。 === 労働力 === 雇用は貧しく40%が不完全な雇用である。産業別の労働人口比率は、2016年のデータで農業が42.7%、サービス業が36.9%、鉱工業が20.5%であり、近年の急速な繊維産業の成長により工業化が進む現在においても、未だ本質的には[[農業国]]である<ref name=":0" />。しかし、貧富の差や農地面積に比して[[人口過多|人口が多すぎる]]ため、農地だけで充分な生計を立てられる世帯は4割程度に過ぎず、残りの6割は[[小作農]]や[[日雇い労働者]]として生計を立てている。近年では[[グラミン銀行]]などが進める[[マイクロクレジット|マイクロ・クレジット]]の拡大や経済成長によって貧困層の一部に生活向上の兆しがあるものの、貧困は未だ深刻な問題となっている。 人件費が安いことから、船舶の解体や処分場など[[3K]]の仕事を先進国から引き受けている。労働人口は(2021年)7,096万人である<ref name=":0" />。 === 労働力輸出 === バングラデシュの貿易収支は輸入品より輸出品のほうが少なく、常に大幅な赤字となっている。これを多少なりとも埋めるのが、外国へ[[出稼ぎ]]に行った労働者たちの送金収入である。[[1997年]]には出稼ぎ労働者は総計40万人を超えた。出稼ぎ先は[[イスラム教国]]が多く、最大の出稼ぎ先は[[サウジアラビア]]で出稼ぎ労働者の3分の2を占め、[[クウェート]]や[[アラブ首長国連邦]]など他の[[ペルシア湾]]岸産油国にも多く労働者が向かっている。東では、[[マレーシア]]や[[シンガポール]]に多い。日本にも約1万7千人の[[在日バングラデシュ人]]が存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bangladesh/data.html |publisher=外務省 |title=バングラデシュ基礎データ 二国間関係 5在日当該国人数 |accessdate=2023年4月24日}}</ref>。 === NGO === 首都のダッカなど都市部では[[非政府組織|NGO]]、農村部では[[グラミン銀行]]による[[貧困層]]への比較的低[[金利]]の[[融資]]を行なう事業([[マイクロクレジット]])が女性の自立と貧困の改善に大きな貢献をしたとして国際的に注目を集めている。[[2006年]]にはグラミン銀行と創設者で総帥の[[ムハマド・ユヌス]]は「貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献」を理由に[[ノーベル平和賞]]を受賞し、バングラデシュ初の[[ノーベル賞]]受賞者となった。また、2008年にはインターネット網が農村、学校などにまで広げられ、大々的にこれを祝った。NGO が多く存在する中でも筆頭が[[BRAC]](Bangladessh Rural Advancement committee バングラデシュ農村向上委員会、通称ブラック)である。BRACは1972年設立、全ての県に事務所を置き、農村や都市の貧困層を対象に活動している。 == 交通 == [[ファイル:Boats Bangladesh.JPG|left|thumb|[[ボート]]は主要な交通機関]] {{main|{{仮リンク|バングラデシュの交通|en|Transport in Bangladesh}}}} デルタ地帯にあり縦横に[[水路]]が張り巡らされている地形であるため、[[道路]]はあまり発達していない。代わりに、舟運の可能な水路は3800kmに及び、バングラデシュの輸送に重要な位置を占めている。[[雨季]]と[[乾季]]では水位が違い、陸路と水路の利用に大きな差が出る。主要貿易港は海港である東部のチッタゴンである。他に海港としては西部の[[モングラ港]](かつてのチャルナ港)が大きく、またダッカやボリシャル、[[ナラヤンガンジ|ナラヨンゴンジ]]などには規模の大きな[[河川港]]がある。 === 道路 === [[アジアハイウェイ1号線]]が北部からダッカを通って西部国境まで通じている。 === 鉄道 === {{main|バングラデシュの鉄道}} 国営鉄道である[[バングラデシュ鉄道]]によって運営され、総延長2706km。[[ブラマプトラ川]]を境に[[軌間]]が違い、ブラマプトラ以西は1676mmの[[広軌]]、ブラマプトラ以東(ダッカやチッタゴンも入る)は1000mmの[[狭軌]]である。広軌路線が884km、狭軌路線が1822kmである。 === 空運 === [[空港]]はダッカの[[シャージャラル国際空港]]やチッタゴンの[[シャーアマーナト国際空港|シャーアマーノト国際空港]]などがあり、シャージャラル国際空港に本拠を置く国営航空会社[[ビーマン・バングラデシュ航空]]などの航空会社が運行している。[[バンコク]]([[タイ王国]])、[[コルカタ]](インド)との空路が主である。国内線はチッタゴン、[[ジョソール]]、[[シレット]]の空港があるが、不安定で、利用は少ない<ref>里見駿介「リキシャからジャンボ機まで」/>大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)137ページ</ref>。 {{main|バングラデシュの空港の一覧}} {{Clearleft}} == 国民 == {{main|{{仮リンク|バングラデシュの人口統計|label=バングラデシュの人口統計|en|Demographics of Bangladesh}}}} === 人口 === バングラデシュの人口は、[[2022年]]現在で1億6,630万人となっている。さらに[[シンガポール]]や[[バーレーン]]などの面積の小さい国を除き、'''世界で最も[[人口密度]]の高い国'''である。1平方kmあたりの人口は2012年時点で1,173人であり、しばしば[[インドネシア]]の[[ジャワ島]]と比較される。ただし山地が少なく[[:en:List_of_countries_by_real_population_density_based_on_food_growing_capacity|耕作可能面積率]]が非常に高いことから、可住面積を考慮した実質人口密度では、[[大韓民国|韓国]]、[[台湾]]、[[マレーシア]]、[[エジプト]]の方が高いと言える。 [[人口爆発]]が社会問題となり、政府は1992年より"人口調節"を推進し人口の増加を抑えようとしており、一定の成果を上げつつある。1992年に4.18あった[[合計特殊出生率]]は、2001年には2.56に、2011年には2.11まで低下している<ref name="ReferenceA"/><ref>臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)27ページ</ref>。人口増加率は独立当初3.4%(1975年)だったが、2.02%(1995年)、2.056%(2007年)、1.26%(2009年)と急激に減少してきている。近年は、[[南アジア]]地域においても人口増加率は最低水準にある<ref>[[国勢調査]]、1974年7130万人、1981年8994万人、1991年1憶799万人、2001年1億2925万人、(臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章』(明石書店 【第2版】2009年)27ページ)</ref><ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2012/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=53&pr.y=12&sy=2000&ey=2012&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=512%2C558%2C513%2C564%2C514%2C524%2C534&s=LP&grp=0&a=|title=Report for Celected Countries and Subjects |publisher=international monetary found|accessdate=2020年3月8日}}</ref>。 === 住民 === 98%が[[ベンガル人]]。その他、[[:en:Stranded Pakistanis]]、{{仮リンク|チャクマ族|en|Chakma people}}、{{仮リンク|マルマ族|en|Marma people}}、Tipperas、{{仮リンク|トンチョンギャ族|en|Tanchangya people}}、Mros、[[:en:Mughal tribe]]、Sylheti、[[:en:Kurukh people]]、[[:en:Khasi people]]、[[:bn:খুমি]]、[[ガロ族]]、টিপরা、[[:bn:পাংখো]]、পাংগোন、মগ、[[:en:Meitei people]]、[[:bn:মুরং]]、[[:bn:রাজবংশী]]、[[:en:Santali people]]、[[:bn:হাজং]]、[[:en:Rakhine people]]、[[:en:Magh people]]、{{仮リンク|トリプラ族|en|Tripuri people}}、[[:bn:কুকি (উপজাতি)]]、[[:bn:চক (জাতিগোষ্ঠী)]]、[[:bn:হাদুই]]、[[:bn:লুসাই]]、[[:bn:হদি]]、[[:bn:বাওয়ালী]]、[[:bn:বনযোগী]]、[[:bn:মৌয়ালী]] {{See also|チッタゴン丘陵地帯#民族}} {{See also|{{仮リンク|バングラデシュ国籍法|en|Bangladeshi nationality law}}}} === 言語 === {{see|{{仮リンク|バングラデシュの言語|en|Languages of Bangladesh}}}} [[ベンガル語]]が[[公用語]]である。文字は[[デーヴァナーガリー]]に似た[[ベンガル文字]]を用いる。ベンガル語に加え、英語も[[官公庁]]や[[教育機関]]で使用されており事実上の公用語である。住民はベンガル語話者である[[ベンガル人]]がほとんどで、人口の98%を占めている。その他に、[[ウルドゥー語]]を話す、[[ビハール州]]など[[インド]]各地を出身とする非ベンガル人[[ムスリム]]が2%を占める。他に、南東部の[[チッタゴン丘陵地帯]]には[[ジュマ]]と総称される10以上の[[モンゴロイド]]系[[先住民|先住民族]]が存在する。ジュマの総人口は100万人から150万人とされる。 === 宗教 === [[ファイル:Bayt al Mukarram.jpg|thumb|イスラム教の{{仮リンク|バイトゥル・ムカロム|en|Baitul Mukarram}}]] {{see|{{仮リンク|バングラデシュの宗教|en|Religion in Bangladesh}}}} [[イスラム教]]が89.7%、[[ヒンドゥー教]]が9.2%、その他が1%である。その他の宗教には[[仏教]]、[[キリスト教]]などが含まれる。バングラデシュはイスラム教徒が多数派であるが、ヒンドゥー教徒の人口割合もかなり高く、両者はおおむね平和的に共存している。また、[[パハルプールの仏教寺院遺跡群]]に見られるように、以前は、仏教が大いに栄えていたため、現在でも、一部の地域では、仏教が信仰されている。どの宗教を信仰しているかという点も重要だが、それ以上に、同じベンガル民族であるという意識の方が重要視され、両者は尊重しあっている。このような意識はインド側の[[西ベンガル州]]でも同様に見られる。 {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|バングラデシュにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Bangladesh}}}} === 婚姻 === 婚姻時に改姓する女性(夫婦同姓)もいれば、そうしない女性([[夫婦別姓]])もいる<ref>[https://culturalatlas.sbs.com.au/bangladeshi-culture/naming-996f2253-02db-4fae-b7a3-265badd289ba#naming-996f2253-02db-4fae-b7a3-265badd289ba Bangladeshi Culture]、Cultural Atlas.</ref>。 === 教育 === {{see|{{仮リンク|バングラデシュの教育|en|Education in Bangladesh}}}} [[1990年代]]に確立した現在の教育制度は初等教育(小学校)5年、中等教育(中学校)5年(前期3年、中期2年)、後期中等教育(高校)2年の5-5-2制である。初等教育及び中等教育は毎年行われる学年末試験に合格しないと進級できない。8年生(中等教育前期3年)を修了すると文科系と理科系、商業系に進路が振り分けられる。また10年生(中等教育中期2年)を修了した者は1回目の国家統一試験SSC(Secondary School Certificate)が受験でき、合格すると後期高等教育への入学資格が取得できる。ここで2年間教育を受け修了した者は、2回目の国家統一試験HSC(Higher Secondary Certificate)を受験でき、これに合格すると大学入学資格が取得できる。この二つの試験の試験成績は[[履歴書]]に一生書かなければならず人生を大きく左右するため、現在のバングラデシュは超[[学歴社会]]となっている。 識字率は2020年時点で74.9%(男性77.8%:女性72%)とやや低めである。<ref name=":0" />。義務教育は小学校5年のみである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/01asia/infoC11100.html|title=◆国・地域の詳細情報(平成29年12月更新情報)|accessdate=2021年2月4日|publisher=外務省}}</ref>。就学率は2015年には97.7%である、しかし修了率は78%ほどである<ref>{{Cite web|和書|url=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12285565.pdf|title=バングラデシュ国教育プログラム準備調査準備調査報告書|accessdate=2021年2月4日|publisher=JICA}}</ref>。 === 保健 === {{see|{{仮リンク|バングラデシュの保健|en|Health in Bangladesh}}}} {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|バングラデシュにおける保健政策|en|Health policy in Bangladesh}}|{{仮リンク|バングラデシュの医科大学の一覧|en|List of medical colleges in Bangladesh}}|{{仮リンク|バングラデシュの病院の一覧|en|List of hospitals in Bangladesh}}}} ==== 衛生状態 ==== 国民の大多数は[[土地]]を所有せず、あるいは洪水の危険が高い低湿地に住んでおり、[[衛生]]状態は極めて悪い<ref>{{Cite web|title=Report: Flooded Future: Global vulnerability to sea level rise worse than previously understood|url=https://climatecentral.org/news/report-flooded-future-global-vulnerability-to-sea-level-rise-worse-than-previously-understood|website=climatecentral.org|accessdate=2019-11-04|language=en|publisher=|date=2019-10-29}}</ref>。このため、[[水]]を媒介として、[[コレラ]]や[[赤痢]]といった[[感染症]]の流行が度々発生している。こうした状況を改善するため、[[国際機関]]が活動を行っている。特に飲用水の衛生状態の改善のため、[[井戸]]の整備を独立後に進めてきたが、多くの井戸が元来[[地層]]中に存在した[[ヒ素]]に高濃度に汚染され、新たな問題となっている。全土の44%、5300万人が[[発癌性|発癌]]を含むヒ素中毒の危険に晒されていると考えられている<ref>藤井 孝文, モハマド マスド・カリム「[https://doi.org/10.2208/prohe.42.397 バングラディシュの地下水ヒ素汚染について]」『水工学論文集』Vol. 42 (1998) P 397-402</ref>。 {{see also|{{仮リンク|バングラデシュにおける給水と衛生|en|Water supply and sanitation in Bangladesh}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{Main|{{仮リンク|バングラデシュにおける犯罪|en|Crime in Bangladesh}}}} バングラデシュでは治安当局による犯罪統計は公表されているものの、新聞などの公開情報では連日のように凶悪事件が起きており、特に銃器を使用した殺人ならびに強盗事件及び違法銃器の押収に関する事件の発生を報道していることから、実際には統計件数以上の犯罪が発生しているものと推測されている。 傍ら、薬物犯罪も発生しており、「ヤーバー」([[:en:Ya ba|Ya ba]],「狂薬」の意)と呼称される、[[メタンフェタミン]]と[[カフェイン]]の成分混合の[[覚醒剤]]による[[薬物汚染]]が問題視されている。 {{See also|{{仮リンク|バングラデシュにおけるメタンフェタミン|en|Methamphetamine in Bangladesh}}}} それに伴い、2018年から同国では麻薬撲滅キャンペーンが開始され、現在も継続されている。 {{See also|{{仮リンク|バングラデシュ麻薬戦争|en|Bangladesh drug war}}}} [[テロリズム]]関連の犯罪事件情報においては2016年の[[ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件]]発生以降、同国の治安当局による大規模かつ集中的な捜査や警備強化もあり、外国人の被害を伴う新たなテロ事件は発生していない。 一方、首都のダッカにおいては2019年4月に発生した[[スリランカ連続爆破テロ事件]]以降、バングラデシュの警察官などを標的とする[[テロリズム|爆弾テロ]]事件が複数回発生しており、治安当局によるテロ組織の掃討作戦も継続して実施されていることから、同国を訪れる海外からの人間には引き続き警戒が必要とされている。 特に宗教関連の祝祭日やイベントなどについては一層の注意が欠かせない状況となっている。 {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{Main|{{仮リンク|バングラデシュの法執行機関|en|Law enforcement in Bangladesh}}}} ==== 警察 ==== {{Main|{{仮リンク|バングラデシュ警察|en|Bangladesh Police}}}} バングラデシュ警察は{{仮リンク|バングラデシュ人民共和国内務省|label=内務省|en|Ministry of Home Affairs (Bangladesh)}}の管轄下にある。 同警察は{{仮リンク|バングラデシュ警察総監|label=警察総監|en|Inspector General of Police (Bangladesh)}}(IGP)の指揮下で活動しており、いくつかの部隊に編成されている。 === 人権 === {{Main|{{仮リンク|バングラデシュにおける人権|en|Human rights in Bangladesh}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|バングラデシュのメディア|en|Mass media in Bangladesh}}}} {{節スタブ}} 同国のメディアは、政府系メディアと民間系メディアが混在している状態となっており、憲法上では[[報道の自由]]と[[表現の自由]]を保証しているとされているが[[国境なき記者団]]などの機関によれば、その順位は2018年時点で146位に低下している<ref>[https://rsf.org/en/ranking/ 2018 World Press Freedom Index | Reporters Without Borders". ] Welcome to RSF Website RSF</ref>。 {{See also|{{仮リンク|バングラデシュ人民共和国憲法|en|Constitution of Bangladesh}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|バングラデシュの文化|en|Culture of Bangladesh}}}} === 食文化 === {{main|バングラデシュ料理|{{仮リンク|ベンガル料理|en|Bengali cuisine}}}} 食文化としては大量にとれる米を[[主食]]としている。[[国際連合食糧農業機関]]の2011年発表の統計によれば、1人あたりの1日の米の消費量は世界一である<ref>{{Cite web|和書| url= https://tg.tripadvisor.jp/news/graphic/eatrice/ |title=世界で一番米を食べるのはバングラデシュ、日本は50番目|publisher=TRIP ADVISOR|date=2015年4月9日|accessdate=2020年3月8日}}</ref>。ガンジス川流域や海岸、[[汽水域]]などで大量にとれる[[魚]]も重要な蛋白源となっている。 === 文学 === {{main|{{仮リンク|ベンガル文学|en|Bengali literature}}}} [[演劇]]や[[詩]]作もさかんである。 {{See also|{{仮リンク|バングラデシュ民俗文学|en|Bangladeshi folk literature}}}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|バングラデシュの音楽|en|Music of Bangladesh}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{Main|{{仮リンク|バングラデシュの映画|en|Cinema of Bangladesh}}}} バングラデシュの映画は「'''ダリーウッド'''」(ベンガル語: ঢালিউড )として知られている。ダリーウッドとは、「ダッカ」と「[[ハリウッド]]」を組み合わせた[[鞄語]]である。 === 美術 === {{Main|{{仮リンク|バングラデシュの美術|en|Bangladeshi art}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|バングラデシュの織物芸術|en|Textile arts of Bangladesh}}}} === 建築 === {{Main|{{仮リンク|バングラデシュの建築|en|Architecture of Bangladesh}}}} {{節スタブ}} バングラデシュのイスラム建築: <gallery class="center" widths="160px" heights="130px"> ファイル:Shat Gombuj Mosque (ষাট গম্বুজ মসজিদ) 002.jpg Image:Charles_D%27Oyly04.jpg| ファイル:Charles D'Oyly06.jpg| ファイル:Choto Sona Mosque 04.jpg| ファイル:Kusumba014.jpg| ファイル:Lalbager Kella 01.jpg| ファイル:IMG 1578.jpg| ファイル:Hussaini Dalan at Night.jpg| ファイル:Tara-masjid.jpg| ファイル:Front facade of the Chawkbazar Mosque.jpg| ファイル:Bagha Mosque, Rajshahi, Bangladesh 08.jpg </gallery> {{See also|{{仮リンク|インド・イスラーム建築|en|Indo-Islamic architecture}}|{{仮リンク|ベンガル建築|en|Architecture of Bengal}}}} === 世界遺産 === {{Main|バングラデシュの世界遺産}} バングラデシュ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件存在する。 <gallery> ファイル:Sundarbans.jpg|[[シュンドルボン]] ファイル:Shat Gambuj Mosque (18).jpg|[[バゲルハットのモスク都市]] ファイル:Somapura Mahavihara (1).jpg|[[パハルプールの仏教寺院遺跡群]] </gallery> [[シュンドルボン]]はインドとバングラデシュ南西部に渡る[[マングローブ]]林の湿地域で、バングラデシュがその3分の2を占める。[[ベンガルトラ]]をはじめ稀少生物種が生息し、自然環境を保護するため、人間の居住は禁止されている。 === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|バングラデシュの祝日|en|Public holidays in Bangladesh}}}} {|class="wikitable" |- !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |移動祝祭日・3日間||[[犠牲祭]]||Eid-ul-Azha||イスラム教の祭り。2月。 |- |2月21日||ベンガル語国語化運動記念日||Shoheed Dibosh||独立以前の[[ベンガル語]]運動の弾圧による死者の記念日 |- |移動祝祭日||[[アーシューラー]]||Ashura|| |- |3月26日||独立記念日||Shadhinota Dibosh|| |- |4月14日||ベンガル新年||Pôhela Boishakh|| |- |5月1日||[[メーデー]]|| Me Dibôsh|| |- |移動祝祭日||[[釈迦|仏]]誕祭||Buddha Purnima||仏教の祭り。5月。 |- |移動祝祭日||[[預言者生誕祭|ムハンマド生誕祭]]||Eid-e-Milad-un-Nabi||イスラム教の祭り。5月。仏誕祭とほぼ同じ日。 |- |移動祝祭日||クリシュナ・ジョンマシュトミ || Shree Krishna Janmashtami||ヒンドゥー教の神[[クリシュナ]]の聖誕祭。8月 |- |移動祝祭日||ドゥルガー・プージャー||Durga Puja||女神[[ドゥルガー]]を讃えるヒンドゥー教の祭り。9月下旬 |- |移動祝祭日||ショベ・ボラット||Shab-e-Barat||イスラム教の祭り。[[ラマダーン|断食月]]前の祭り。「運命の夜」の意。 |- | 11月7日 || 革命連帯記念日||Nationl Revolution & Solidarity Day||[[1975年]]の[[ジアウル・ラーマン]]のクーデターによる政権掌握を記念 |- |移動祝祭日||ショベ・コドル||Shab-e-Qudr||イスラム教の祭り。断食月の第27夜。 |- |移動祝祭日||ジュマトゥル・ビダ||Jumat-ul-Bida|| |- |移動祝祭日・3日間||[[ラマダーン|断食月]]明け大祭||Eid-ul-Fitr||イスラム教の祭り。 |- |12月16日||戦勝記念 ||Bijoy Dibosh||[[パキスタン軍]]の降伏を記念。 |- |12月25日||[[クリスマス]]||Christmas/Boro Din|| |} ※この他には、{{仮リンク|バンガバンドゥの演説|en|7 March Speech of Sheikh Mujibur Rahman}}記念日が3月7日に制定されている。また、[[ユネスコ]]により2017年10月30日付で、この演説が記録遺産として[[世界の記憶]]へ追加されている<ref>{{Cite news|url=http://www.thedailystar.net/politics/unesco-recognises-bangabandhu-sheikh-mujibur-rahman-7th-march-speech-memory-of-the-world-1484356|title=Unesco recognises Bangabandhu's 7th March speech|date=31 October 2017|work=The Daily Star|access-date=21 October 2023|language=en}}</ref><ref>{{cite web|url=https://en.unesco.org/news/international-advisory-committee-recommends-78-new-nominations-unesco-memory-world|title=International Advisory Committee recommends 78 new nominations on the UNESCO Memory of the World International Register|website=UNESCO|date=30 October 2017|access-date=21 October 2023}}</ref><ref>{{cite news|last1=BSS |first1=Dhaka |title=Nation to observe historic March 7 tomorrow |url=https://www.thedailystar.net/news/bangladesh/news/nation-observe-historic-march-7-tomorrow-2976826|access-date=21 October 2023|work=The Daily Star|date=6 March 2022|language=en}}</ref>。 == スポーツ == {{main|バングラデシュのスポーツ}} {{see also|オリンピックのバングラデシュ選手団}} === クリケット === [[File:Mashrafe 2016 (9).jpg|thumb|200px|[[クリケットバングラデシュ代表]]]] バングラデシュでは[[クリケット]]が一番人気のある[[スポーツ]]である<ref>[https://www.aaastateofplay.com/the-most-popular-sport-in-every-country/ THE MOST POPULAR SPORT IN EVERY COUNTRY] AAA STATE OF PLAY 2023年9月27日閲覧。</ref>。イギリスが統治していた19世紀に伝わったが、本格的に大衆人気を得たのはパキスタンから独立した1971年以降である<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/full/22 Bangladesh Cricket Board] 国際クリケット評議会 2023年9月27日閲覧。</ref>。1997年にマレーシアで開催されたICCトロフィーで初優勝し、1999年の[[クリケット・ワールドカップ]]の出場権を獲得した<ref name="ICC"/>。1999年に初出場したクリケット・ワールドカップでは、グループリーグで敗退したとは言え、パキスタンとスコットランドに勝利し成功を収めた<ref name="ICC"/>。[[2000年]]に[[国際クリケット評議会]]の正会員に昇格し、世界で10番目となる[[テスト・クリケット]]を行う権利を得た<ref name="ICC"/>。[[2011年]]にクリケット・ワールドカップを[[インド]]と[[スリランカ]]の3カ国共催で開催した。[[2012年]]にはプロクリケットリーグの「[[バングラデシュ・プレミアリーグ (クリケット)|バングラデシュ・プレミアリーグ]]」が創設された。さらに[[ワン・デイ・インターナショナル|ワン・デイ・マッチ]]、[[テストマッチ]]、{{仮リンク|トゥエンティ20インターナショナル|en|Twenty20 International}}を定期的に主催している。[[シャキブ・アル・ハサン]]は同国で最も偉大な選手の一人とみなされている<ref>[https://www.espncricinfo.com/story/stats-analysis-why-shakib-al-hasan-is-one-of-cricket-s-greatest-allrounders-1219732 Why Shakib Al Hasan is one of cricket's greatest allrounders] ESPN cricinfo 2023年9月18日閲覧。</ref>。 === サッカー === {{see|{{仮リンク|バングラデシュのサッカー|en|Football in Bangladesh}}}} バングラデシュでは[[サッカー]]も人気のスポーツであり、クリケットよりも5年早い[[2007年]]に、プロサッカーリーグの「[[バングラデシュ・プレミアリーグ]]」が創設されている。[[バングラデシュサッカー連盟]](BFF)によって構成される[[サッカーバングラデシュ代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場となっている。しかし[[AFCアジアカップ]]には、[[AFCアジアカップ1980|1980年大会]]で初出場を果たした。なお[[南アジアサッカー選手権]]では、自国開催となった[[南アジアサッカー選手権2003|2003年大会]]で初[[優勝]]に輝いている。 == 難民 == 1971年8月、バングラデシュ独立戦争による多大なる被害に対して、[[イギリス]]のロック・ミュージシャン(元[[ビートルズ|ザ・ビートルズ]]メンバー)である[[ジョージ・ハリスン]]と[[インド]]出身の[[ラヴィ・シャンカル|ラビ・シャンカール]]らが中心となり、ニューヨークでチャリティ・イベント「バングラデシュ難民救済コンサート」が開催された。このコンサートは映画化され、またライブ盤レコード「[[バングラデシュ・コンサート]]」として発売され、コンサートの入場料を含めた全収益金がバングラデシュに寄付された。この企画はロック界におけるチャリティー事業のさきがけとなった。また、ジョージ・ハリスンはシングル・レコード「バングラデシュ」を発売し、この売り上げも全額が寄付されている。 == 著名な出身者 == {{main|Category:バングラデシュの人物}} * [[ムハマド・ユヌス]] - [[経済学者]]、[[実業家]]([[ノーベル平和賞]]受賞) * [[ショイヨド・ワリウッラー]] - [[作家]](バングラ・アカデミー賞受賞) * [[ハムザ・チョードゥリー]] - [[サッカー選手]]([[レスター・シティFC]]所属) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == *大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 ISBN 978-4-7503-3094-5 == 関連項目 == * [[バングラデシュ関係記事の一覧]] * [[ベンガル分割令]] * [[日本とバングラデシュの関係]] ** [[在日バングラデシュ人]] * [[バングラデシュのスポーツ]] ** [[オリンピックのバングラデシュ選手団]] ** [[サッカーバングラデシュ代表]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Bangladesh|Bangladesh}} {{Wikivoyage|Bangladesh|バングラディッシュ{{en icon}}}} {{osm box|r|184640}} ;政府 * [https://bangladesh.gov.bd/index.php バングラデシュ人民共和国政府]{{bn icon}}{{en icon}} * [https://bangabhaban.gov.bd/ バングラデシュ大統領府]{{bn icon}}{{en icon}} * [http://bdembjp.mofa.gov.bd/ 駐日バングラデシュ大使館]{{en icon}} ** [http://bdembassy.tripod.com/ 駐日バングラデシュ大使館(旧ウェブサイト)]{{ja icon}} * [https://www.bb.org.bd/en/index.php バングラデシュ銀行(中央銀行)]{{en icon}}{{bn icon}} ;日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bangladesh/index.html 日本外務省 - バングラデシュ] {{ja icon}} * [https://www.bd.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在バングラデシュ日本国大使館] {{ja icon}} ;観光 * [http://www.jp.parjatan.gov.bd/index5.php/バングラデシュ政府観光局公式サイト] {{ja icon}} * [http://www.net-ric.com/square/takayama/takayama_1.html ガイドブックのない国、バングラデシュ] - バングラデシュ政府観光局長によるバングラデシュ案内 {{ja icon}} ;その他 * 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ブルネイ
ブルネイ・ダルサラーム国(ブルネイ・ダルサラームこく、マレー語: Negara Brunei Darussalam、نڬارا بروني دارالسلام)、通称ブルネイは、東南アジアのボルネオ島(カリマンタン島)北部に位置する立憲君主制国家、港市国家。首都はバンダルスリブガワン。 イスラム教国で、イギリス連邦(コモンウェルス)加盟国である。北側が南シナ海に面するほかは陸地ではマレーシアに取り囲まれている。 石油や天然ガスなどの資源を多く埋蔵しており、東南アジア諸国連合の一員になっている。環太平洋戦略的経済連携協定の原加盟国でもある。 正式名称は、マレー語のアラビア文字(ジャウィ文字)表記では、نڬارا بروني دارالسلام、ラテン文字表記では、Negara Brunei Darussalam。「ヌガラ・ブルネイ・ダルッサラーム」と読む(日本における呼称「ネガラ・ブルネイ・ダルサラーム」はローマ字読みの転訛に由来したものであるが、ジャウィ文字表記とラテン文字表記を照らし合わせる限りにおいては誤りであると言える)。 マレー語の名称「Negara Brunei Darussalam」が英語に「the Nation of Brunei, the Abode of Peace」と翻訳する。しかし、国際における公式の英語表記は「Brunei Darussalam」しか表記しない。略称は Brunei [bruːˈnaɪ, bruːˈneɪ] (ブルーナイ、ブルーネイ)。 日本語表記は、ブルネイ・ダルサラーム国。通称、ブルネイ。中国語における表記は「文萊」、「汶萊」であり、「汶」と略される。 Negara は、マレー語で「国」を意味する語。Darussalam は、アラビア語の dar(u)(家、土地)と (a)s-salam(平和)で、「平和な土地」の意味。Brunei は、諸説あり。マレー語の buni(亜麻)や buah nyiur(ココナッツ)から転じたなど。 スルターンの称号を有する国王を国家元首とする立憲君主制だが、国王の権限が強化されており、絶対君主制の一種である。国王とは別に首相がおり、閣僚は国王によって指名される。内閣は国王が議長となり、行政執行上の問題を処理する。このほか、宗教的問題に関する諮問機関である宗教会議、憲法改正などに関する諮問機関である枢密院、王位継承に関する諮問機関である継承会議があり、国王に助言をする。1962年、ブルネイ動乱に際して非常事態宣言を発令し、その後2年ごとに更新され現在も宣言は継続中である。 立法機関は、一院制の立法評議会 (Majlis Mesyuarat Negara)。議員の選出は、1970年に選挙制から国王任命制となった。この立法議会は1984年以来活動が停止されていたが、ブルネイ政府は再開を表明。2004年9月に再開されて、議会の構成に関する憲法改正が行われ、公選議員が含まれることとなった。 現在、ブルネイでは定期的な国政選挙が無いものの、国内には3つの政党が存在している。 司法権は最高裁判所に属している。 死刑制度は存在しているが、1957年以降、執行が行われていない為に事実上廃止の状態となっている。 ブルネイの国防費はおよそ290百万ドル(対GDP比4.5%、数値は2004年度のもの)で、国の規模に比べるとかなり多い。ブルネイ軍の装備の大部分はイギリス、フランス、アメリカ合衆国製のものが占めている。陸海空の中では陸軍の兵力が最大であり、ブルネイ国家警察は陸軍の一組織である。ブルネイ軍は志願兵制を採用しており、マレー人のみが軍人に就く事ができる。 陸軍の歩兵が用いる標準的なライフルはM16である。 空軍の任務は陸軍の支援という側面が強く、装備はヘリコプターが中心となっており、UH-1やS-70で構成されている。ヘリ以外の航空機はCN-235輸送機とおよそ5機の練習機に限られる。イギリスのBAe製ホークを数機購入し、戦闘能力を向上させる計画があるが、未だ実現には至っていない。 海軍(マレー語版)は小規模で、主に沿岸の警備と沖合の油田の防衛を任務とする。現在、大規模な装備の近代化を実施中。 この他、治安維持のためグルカ兵大隊(旧イギリス領時代のネパール兵)と1個ヘリコプター飛行隊からなる、ブルネイ駐留イギリス軍が、1,000名規模で駐屯している。 国土は、マレーシア領となっているリンバン川流域によって、二分される。全土が熱帯雨林気候下にある。東側、テンプロン川流域は、海岸付近を除き、ほとんどが未開発の密林で、広大な自然公園となっている。国民の大半は、西側の3つの地区の海岸付近に居住している。ブルネイには西からテンブロン川、ブルネイ川、ツトン川、ブライト川の4つの主要河川が存在し、それぞれの川の流域がほぼ各行政地区の領域となっている。ツトン川には1989年にダムが建設され、ダム湖であるベヌタン湖は首都上水道の水源となっている。面積は日本の三重県とほぼ同じ程度である。 ブルネイの標高最低点は0m、最高峰はパゴン山(1850m)である。 ブルネイは東から順に、テンブロン地区、ブルネイ・ムアラ地区、ツトン地区、ブライト地区の4つの地区に区分される。テンブロン地区は、マレーシアのサラワク州に囲まれ他3地区とは陸続きになっておらず、飛び地となっている。 IMFの統計によると、2010年のブルネイのGDPは119億ドルであり、日本の鳥取県の50%程度の経済規模である。2015年の一人当たり国民総所得(GNI)は37,320米ドルであり、日本を上回りアジアではシンガポールに次ぐ高所得国となっている(2017年は29,600ドル)。 ブルネイの中央銀行はブルネイ通貨金融庁である。これができるまで中央銀行は無かった。その間は歳出入を民間銀行へ預金していた。1984年に独立するまで、預金の運用はクラウン・エージェンツが行っていた。財務長官もイギリス人であった。1967年末のポンド切り下げに直撃され、政府資産は目減りした。1976年にスルタンを議長とする投資諮問委員会が設立されたが、その構成員には財務長官に二人のクラウン・エージェンツと、モルガン・グレンフェル、ジェームス・ケーペル(現HSBC)から一人ずつ派遣された顧問が含まれた。1982年にはクラウン・エージェンツのスキャンダルに関する法廷審判報告が出され、ずさんな経営が公となった。翌年から投資顧問会社はモルガン・シティバンク・大和証券・野村証券の4社となった。 朝鮮民主主義人民共和国と並んで独自の証券取引所を持たないアジアの2か国のうちの一つである。 石油、天然ガスの輸出により、非常に経済は潤っている。石油天然ガス部門がGDPのほぼ半分、輸出のほぼ全てを占めており、それらに依存した経済構造となっている。また、貿易依存度も高い。食料品はそのほとんどを輸入している。物価は他のアジア諸国と比べて高い。 2013年の一人当たりの名目GDPは約44,586ドルと日本を上回る。所得税がないため、購買力では名目の数字よりさらに水準が高いと言える。(2013年の一人当たりの購買力平価GDPは約81,742ドル) 将来の石油資源枯渇に備え、豊富な資金を背景に国外へと積極的に投資しており、イスラム銀行などの金融業や観光業の育成が図られている。 また石油・天然ガスによる収入を元に、政府が社会福祉を充実させており、個人に対する所得税・住民税は課されていない。 マレー系 65.7%、中国系 10.3%、先住系諸民族 3.4%、その他 20.6%(2011年)。 同国の憲法では、マレー語は公用語と定められているが、国語とは呼ばれない。マレー語を表記する文字として、ラテン文字とジャウィ文字がいずれも公の場で用いられる。英語も広く通用する。中国語の方言も、中国系住民の間で用いられる。 実際に日常ブルネイで話されるのは Bahasa Melayu (標準マレー語)ではなくブルネイ語 Bahasa Brunei つまりブルネイ・マレー語 Brunei Malay だが、標準マレー語と語彙の90%が一致し(つまり10%程度の違いはある)、ブルネイ語話者は一般に標準マレー語を話すこともできる。このほか、ブルネイ語の一種とみなされるケダヤン(クダヤン、カダヤン)語 Kedayan (Kadayan) の話者の相当数がブルネイ国内にいる。ケダヤン語と標準マレー語の語彙の一致率は73 - 80%とされる。ブルネイ語とケダヤン語などの方言は語彙の94 - 95%が一致し、ISO言語コードではこれらを同一言語として扱い、同じ kxd を割り当てている。ブルネイ語話者はケダヤン語を「別の言語」と意識するが、言語文化的アイデンティティーの問題であり、言語学的問題ではない。方言差は民族の違いを反映したものでなく地域差による。ブルネイ語とケダヤン語などの方言を区別しない場合、全体としての標準マレー語との語彙一致率は80 - 82%である。 イスラム教が国教である。しかし、クリスマスが国民の休日になっている(イエス・キリストはイスラム教でも預言者の1人)。また、週の休日は金曜日と日曜日である。 イスラム教 78.8%、仏教 7.8%、キリスト教 8.7%、先住系諸民族固有の信仰とその他4.7%。 ブルネイの保健におけるネットワークは約15の保健センター、10の診療所、22の産科施設で構成されている。 またブルネイにおける医療は、保健省(英語版)によって管理され、財務省から資金提供を受ける形で体制を維持している。 ブルネイは石油、天然ガスといった豊かな地下資源が経済基盤となっている点や、国民が医療、教育、その他の公共サービスでの優遇措置を等しく享受していることから凶悪犯罪の発生率が低く、平和で安全な国とされているが、2020年の犯罪件数は5,673件(前年比△667件)で、多くが車上荒らし、家屋侵入といった盗難犯罪で占められている。特定の危険地域はないものの、外国人が多く住む地区の独立家屋や、人通りが少なく空き地に隣接している家屋は比較的標的となり易い為、長期滞在の場合は入居家屋の選定に留意する必要が求められる。 時期としては、毎年イスラム教の断食明け大祭(ハリラヤ)や旧正月の前後に、犯罪の発生率が高くなるとされている。 ブルネイ王立警察(英語版、マレー語版)が主体となっている。 基本となるのはマレー文化であり、近隣国のマレーシアやインドネシアの文化と非常に近い特徴がある。 ブルネイ人の間ではマンディ・ベラワト(英語版)と呼ばれる儀式が慣習的に行われている。 ブルネイの食は周辺国であるマレーシア・シンガポール・インドネシアの強い影響を受けている。ほかにも中国・インド・日本の影響もある。ブルネイ独自の食文化にはサゴヤシを使ったアンブヤットがある。 禁酒法が施行されており、公の場でのアルコール飲料の消費が禁止され、アルコールは一切販売されていない。非ムスリムは、空港など(国外)で一定量までのアルコール飲料を購入して、個人的に飲用することが許されている。18歳以上の非ムスリムは2本(約2リットル)までの酒と12缶までのビールを持ち込むことができる。 ブルネイにおける芸術活動は1950年代初頭まで注目されていなかったが、ブルネイ政府が自国の芸術文化を支援する立場に回ったことから徐々に成長を見せている。 ブルネイの映画は1960年代から制作されている。 歴史的建造物にはクバ・マカム・ディ・ラジャ(英語版)やタンジョン・キンダナ王陵(英語版)が知られている。 また、イスラム教の信徒が多いことからモスクが多い。 近代的な建築物にはルムット灯台(英語版)、セリア・エネルギー研究所(英語版)(SEL)やDSTタワー(英語版)、PGGMBビル(英語版)が代表される。 ブルネイは現在、世界遺産となるものが存在していない国の一つに数えられている。 日付は2010年のもの。イスラム暦で規定されているものも多く、年によってずれる。なお、振替休日は祝日が金曜日か土曜日と重なった場合に設定される。 ブルネイ国内でも他の東南アジア諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。2002年にサッカーリーグのブルネイ・プレミアリーグが創設され、2012年にその上位リーグとしてブルネイ・スーパーリーグを設立した。ブルネイ・ダルサラームサッカー協会(FABD)によって構成されるサッカーブルネイ代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップには未出場である。
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"ブルネイの中央銀行はブルネイ通貨金融庁である。これができるまで中央銀行は無かった。その間は歳出入を民間銀行へ預金していた。1984年に独立するまで、預金の運用はクラウン・エージェンツが行っていた。財務長官もイギリス人であった。1967年末のポンド切り下げに直撃され、政府資産は目減りした。1976年にスルタンを議長とする投資諮問委員会が設立されたが、その構成員には財務長官に二人のクラウン・エージェンツと、モルガン・グレンフェル、ジェームス・ケーペル(現HSBC)から一人ずつ派遣された顧問が含まれた。1982年にはクラウン・エージェンツのスキャンダルに関する法廷審判報告が出され、ずさんな経営が公となった。翌年から投資顧問会社はモルガン・シティバンク・大和証券・野村証券の4社となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "朝鮮民主主義人民共和国と並んで独自の証券取引所を持たないアジアの2か国のうちの一つである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "石油、天然ガスの輸出により、非常に経済は潤っている。石油天然ガス部門がGDPのほぼ半分、輸出のほぼ全てを占めており、それらに依存した経済構造となっている。また、貿易依存度も高い。食料品はそのほとんどを輸入している。物価は他のアジア諸国と比べて高い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2013年の一人当たりの名目GDPは約44,586ドルと日本を上回る。所得税がないため、購買力では名目の数字よりさらに水準が高いと言える。(2013年の一人当たりの購買力平価GDPは約81,742ドル)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "将来の石油資源枯渇に備え、豊富な資金を背景に国外へと積極的に投資しており、イスラム銀行などの金融業や観光業の育成が図られている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": 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"イスラム教が国教である。しかし、クリスマスが国民の休日になっている(イエス・キリストはイスラム教でも預言者の1人)。また、週の休日は金曜日と日曜日である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "イスラム教 78.8%、仏教 7.8%、キリスト教 8.7%、先住系諸民族固有の信仰とその他4.7%。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ブルネイの保健におけるネットワークは約15の保健センター、10の診療所、22の産科施設で構成されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "またブルネイにおける医療は、保健省(英語版)によって管理され、財務省から資金提供を受ける形で体制を維持している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ブルネイは石油、天然ガスといった豊かな地下資源が経済基盤となっている点や、国民が医療、教育、その他の公共サービスでの優遇措置を等しく享受していることから凶悪犯罪の発生率が低く、平和で安全な国とされているが、2020年の犯罪件数は5,673件(前年比△667件)で、多くが車上荒らし、家屋侵入といった盗難犯罪で占められている。特定の危険地域はないものの、外国人が多く住む地区の独立家屋や、人通りが少なく空き地に隣接している家屋は比較的標的となり易い為、長期滞在の場合は入居家屋の選定に留意する必要が求められる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "時期としては、毎年イスラム教の断食明け大祭(ハリラヤ)や旧正月の前後に、犯罪の発生率が高くなるとされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ブルネイ王立警察(英語版、マレー語版)が主体となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "基本となるのはマレー文化であり、近隣国のマレーシアやインドネシアの文化と非常に近い特徴がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ブルネイ人の間ではマンディ・ベラワト(英語版)と呼ばれる儀式が慣習的に行われている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ブルネイの食は周辺国であるマレーシア・シンガポール・インドネシアの強い影響を受けている。ほかにも中国・インド・日本の影響もある。ブルネイ独自の食文化にはサゴヤシを使ったアンブヤットがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "禁酒法が施行されており、公の場でのアルコール飲料の消費が禁止され、アルコールは一切販売されていない。非ムスリムは、空港など(国外)で一定量までのアルコール飲料を購入して、個人的に飲用することが許されている。18歳以上の非ムスリムは2本(約2リットル)までの酒と12缶までのビールを持ち込むことができる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ブルネイにおける芸術活動は1950年代初頭まで注目されていなかったが、ブルネイ政府が自国の芸術文化を支援する立場に回ったことから徐々に成長を見せている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ブルネイの映画は1960年代から制作されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "歴史的建造物にはクバ・マカム・ディ・ラジャ(英語版)やタンジョン・キンダナ王陵(英語版)が知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また、イスラム教の信徒が多いことからモスクが多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "近代的な建築物にはルムット灯台(英語版)、セリア・エネルギー研究所(英語版)(SEL)やDSTタワー(英語版)、PGGMBビル(英語版)が代表される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ブルネイは現在、世界遺産となるものが存在していない国の一つに数えられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "日付は2010年のもの。イスラム暦で規定されているものも多く、年によってずれる。なお、振替休日は祝日が金曜日か土曜日と重なった場合に設定される。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ブルネイ国内でも他の東南アジア諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。2002年にサッカーリーグのブルネイ・プレミアリーグが創設され、2012年にその上位リーグとしてブルネイ・スーパーリーグを設立した。ブルネイ・ダルサラームサッカー協会(FABD)によって構成されるサッカーブルネイ代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップには未出場である。", "title": "スポーツ" } ]
ブルネイ・ダルサラーム国、通称ブルネイは、東南アジアのボルネオ島(カリマンタン島)北部に位置する立憲君主制国家、港市国家。首都はバンダルスリブガワン。 イスラム教国で、イギリス連邦(コモンウェルス)加盟国である。北側が南シナ海に面するほかは陸地ではマレーシアに取り囲まれている。 石油や天然ガスなどの資源を多く埋蔵しており、東南アジア諸国連合の一員になっている。環太平洋戦略的経済連携協定の原加盟国でもある。
{{基礎情報 国 | 略名 = ブルネイ | 日本語国名 = ブルネイ・ダルサラーム国 | 公式国名 = {{lang|ms-Arab|نڬارا بروني دارالسلام}}<br>{{Lang|ms|Negara Brunei Darussalam}} | 国旗画像 = Flag of Brunei.svg | 国章画像 = [[ファイル:Emblem_of_Brunei.svg|125px|ブルネイの国章]] | 国章リンク = ([[ブルネイの国章|国章]]) | 標語 = {{lang|ms-Arab|الدائمون المحسنون بالهدى}}<br>{{lang|ms|Sentiasa membuat kebajikan dengan petunjuk Allah}}<br>''常に神の導きに従いなさい'' | 位置画像 = Brunei on the globe (Asia centered).svg | 公用語 = [[マレー語]]({{仮リンク|ブルネイ・マレー語|en|Brunei Malay}}) | 首都 = [[バンダルスリブガワン]] | 最大都市 = バンダルスリブガワン | 元首等肩書 = [[ブルネイの国王|国王(スルターン)]] | 元首等氏名 = [[ハサナル・ボルキア]] | 首相等肩書 = [[ブルネイの首相|首相]] | 首相等氏名 = ハサナル・ボルキア(国王が兼任) | 面積順位 = 164 | 面積大きさ = 1 E9 | 面積値 = 5,770 | 水面積率 = 8.7% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 174 | 人口大きさ = 1 E5 | 人口値 = 460,345<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/bn.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 83<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 165億6100万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月13日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=516,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 136 | GDP値MER = 120億300万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 2万6060.996<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 118 | GDP値 = 286億9600万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 6万2306.415<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[イギリス]]より<br />[[1984年]][[1月1日]] | 通貨 = [[ブルネイ・ドル]] | 通貨コード = BND | 時間帯 = (+8) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[ブルネイの国歌|{{lang|ms-Arab|الله فليهاراكن سلطن}}<br>{{lang|ms|Allah peliharakan Sultan}}]]<br>''国王陛下に神のご加護を''<br>{{center|[[File:United States Navy Band - Allah Peliharakan Sultan.oga]]}} | ISO 3166-1 = BN / BRN | ccTLD = [[.bn]] | 国際電話番号 = 673 | 注記 = }} '''ブルネイ・ダルサラーム国'''(ブルネイ・ダルサラームこく、{{Lang-ms|Negara Brunei Darussalam}}、{{lang|ms-Arab|نڬارا بروني دارالسلام}})、通称'''ブルネイ'''は、[[東南アジア]]の[[ボルネオ島]](カリマンタン島)北部に位置する[[立憲君主制]][[国家]]、[[港市国家]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=ブルネイとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%A4-127375|website=コトバンク|accessdate=2021-08-25|language=ja|first=日本大百科全書(ニッポニカ),旺文社世界史事典 三訂版,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉プラス,世界大百科事典|last=第2版}}</ref>。[[首都]]は[[バンダルスリブガワン]]。 [[イスラム世界|イスラム教国]]で、[[イギリス連邦]](コモンウェルス)加盟国である。北側が[[南シナ海]]に面するほかは陸地では[[マレーシア]]に取り囲まれている。 [[石油]]や[[天然ガス]]などの資源を多く埋蔵しており、[[東南アジア諸国連合]]の一員になっている。[[環太平洋戦略的経済連携協定]]の原加盟国でもある。 == 国名 == 正式名称は、[[マレー語]]の[[アラビア文字]]([[ジャウィ文字]])表記では、'''{{Lang|ms-arab|نڬارا بروني دارالسلام}}'''、[[ラテン文字]]表記では、{{lang|ms-latn|''Negara Brunei Darussalam''}}。「ヌガラ・ブルネイ・ダルッサラーム」と読む(日本における呼称「ネガラ・ブルネイ・ダルサラーム」は[[ローマ字]]読みの転訛に由来したものであるが、{{独自研究範囲|ジャウィ文字表記とラテン文字表記を照らし合わせる限りにおいては誤りであると言える|date=2018年7月}}<ref group="注">マレー語において {{IPA|/e/}} および {{IPA|/ə/}} の発音はローマ字表記ではともに {{lang|ms-latn|e}} と書かれ区別されないが、ジャウィ文字表記の場合は前者を {{lang|ms-latn|ي}}、後者を無表記として明確に区別している(詳細は「[[ジャウィ文字]]」を参照)。この場合はジャウィ文字表記においてeに該当する部分が無表記になっているため、{{IPA|/ə/}} と発音するのが適切である。</ref>)。 マレー語の名称「{{lang|ms-latn|''Negara Brunei Darussalam''}}」が英語に「{{lang|en|''the Nation of Brunei, the Abode of Peace''}}」と翻訳する。しかし、国際における公式の英語表記は「{{lang|en|''Brunei Darussalam''}}」しか表記しない<ref>{{Cite web |title=Embassy of Brunei Darussalam to the United States of America |url=http://www.bruneiembassy.org/ |url-status=live |website=Brunei Embassy |archive-url=https://web.archive.org/web/20001206220600/http://www.bruneiembassy.org:80/ |archive-date=2000-12-06 |access-date=2000-12-06}}</ref>。略称は {{lang|en|''Brunei''}} {{IPA-en|bruːˈnaɪ, bruːˈneɪ|}} (ブルーナイ、ブルーネイ)。 日本語表記は、'''ブルネイ・ダルサラーム国'''。通称、'''ブルネイ'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|中国語における表記]]は「'''文萊'''」、「'''{{lang|zh|汶}}萊'''」であり、「'''{{lang|zh|汶}}'''」と略される。 {{lang|ms|Negara}} は、マレー語で「国」を意味する語。{{lang|ms|Darussalam}} は、アラビア語の {{lang|ar-latn|dar(u)}}(家、土地)と {{lang|ar-latn|(a)s-salam}}(平和)で、「平和な土地」の意味。{{lang|ms|Brunei}} は、諸説あり。マレー語の {{lang|ms|buni}}(亜麻)や {{lang|ms|buah nyiur}}(ココナッツ)から転じたなど。 == 歴史 == {{main|ブルネイの歴史}} * 1660年代、王室で起こった内紛を鎮圧。援助した[[スールー王国]]へ[[サバ州]]の大部分を割譲。 * 1775年から[[イギリス東インド会社]]がブルネイのスルタンと貿易交渉。 * [[南京条約]]の1842年、[[ジェームズ・ブルック]]によるプランギン・ウソップの乱鎮圧をスルタンが評価、[[サラワク王国|サラワク]]を割譲。3年後、[[トマス・コクラン]]がサバ北端を根城にもつ海賊を掃討。ブルネイの財政基盤である奴隷狩りがイギリスの奴隷貿易廃止方針と利害衝突。1846年にスルタンが親英勢力の排除を命令。 * [[1888年]]、[[サラワク王国]]と[[北ボルネオ会社|北ボルネオ]]が[[イギリス]]の保護領となる。1906年に補足条約締結、イギリスが駐在官を設置。国教に関わらない限り駐在官の意見を全て飲まなければならないと定めた<ref group="注">ブルネイに対するイギリスの高等弁務官は[[海峡植民地]]の総督が兼任しており、駐在官はその監督下におかれた。なお、このころから近代法が導入されてゆき、不備は英国の司法制度に補充された。</ref>。開発が進められ、初め[[プランテーション]]を軸としていたものが1929年から[[セリア油田]]にシフトした。 * [[1941年]]、[[太平洋戦争]]の勃発に伴う[[日本軍]]の侵攻により[[1945年]]まで日本の統治下となる。日本はスルタンを現地勢力として支援した。 * [[1947年]]:[[香港上海銀行]]の開いた支店が国内初の銀行となる。1985年に[[取り付け騒ぎ]]。 * [[1956年]]:ナショナリズムと早期独立を掲げるブルネイ人民党が結成される。 * [[1959年]]:条約改定、イギリスの自治領となる。駐在官制度廃止、高等弁務官が常駐。 * [[1962年]]:ブルネイ人民党内の急進派による{{仮リンク|ブルネイ動乱|en|Brunei Revolt}}。 * [[1963年]]:石油法および石油関連所得税法を制定。 * [[1967年]]:[[シンガポール]]との間に通貨等価交換条約を締結。 * [[1971年]]:条約改定、完全自治を達成するも、外交はイギリスが担当、軍事は両国共管とした<ref name=":0" />。 * [[1975年]]:[[国連]]でブルネイの民族自決と独立のための決議案が採択される<ref name=":0" />。 * [[1984年]]:イギリスより[[独立]]し、国連、[[ASEAN]]に加盟<ref name=":0" />。 *[[1990年]]:国立学校の男女共学を廃止<ref name=":0" />。 *[[1991年]]:[[禁酒令]]施行<ref name=":0" />。 *[[1996年]]:[[経済協力開発機構]]の援助対象国からはずれ、[[開発途上国]]を脱した<ref name=":0" />。 *[[2005年]]:[[TPSEP]]に署名<ref>{{Cite web|title=Trans-Pacific Economic Partnership Agreement - press statements, NZ Ministry of Foreign Affairs and Trade: Trade Agreements|url=https://web.archive.org/web/20060907090445/http://www.mfat.govt.nz/tradeagreements/transpacepa/transpacseppress.html|website=web.archive.org|date=2006-09-07|accessdate=2021-08-25}}</ref>。 *[[2018年]]:[[TPP11]]に署名<ref>{{Cite news|title=米国抜きのTPPに11カ国が署名、人口5億人の貿易圏誕生へ|url=https://jp.reuters.com/article/tpp-idJPKCN1GK2V2|work=Reuters|date=2018-03-09|accessdate=2021-08-25|language=ja|first=Reuters|last=Staff}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Istana-nurul-iman.jpg|thumb|200px|首都[[バンダルスリブガワン]]に所在する王宮、[[イスタナ・ヌルル・イマン]]。]] {{Main|{{仮リンク|ブルネイの政治|en|Politics of Brunei}}}} === 行政 === '''[[スルターン]]'''の称号を有する[[国王]]を国家[[元首]]とする[[立憲君主制]]だが、[[ブルネイの国王|国王]]の権限が強化されており、[[絶対君主制]]の一種である。国王とは別に[[首相]]がおり、[[閣僚]]は国王によって指名される。内閣は国王が議長となり、行政執行上の問題を処理する。このほか、宗教的問題に関する諮問機関である宗教会議、憲法改正などに関する諮問機関である枢密院、王位継承に関する諮問機関である継承会議があり、国王に助言をする。1962年、ブルネイ動乱に際して[[非常事態宣言]]を発令し、その後2年ごとに更新され現在も宣言は継続中である<ref>{{Cite web |url=http://kyotoreview.org/issue-13/brunei-darussalam-royal-absolutism-and-the-modern-state/|title=Brunei Darussalam: Royal Absolutism and the Modern State|accessdate=2014-05-26|author=Naimah S Talib|publisher=京都大学東南アジア研究所|language=English}}</ref>。 {{see also|ブルネイの国王|[[ブルネイ憲法]]}} === 立法 === [[立法府|立法機関]]は、[[一院制]]の[[立法評議会 (ブルネイ)|立法評議会]] ({{lang|ms|Majlis Mesyuarat Negara}})。議員の選出は、[[1970年]]に選挙制から国王任命制となった。この立法議会は[[1984年]]以来活動が停止されていたが、ブルネイ政府は再開を表明。[[2004年]]9月に再開されて、議会の構成に関する憲法改正が行われ、公選議員が含まれることとなった。 {{see also|立法評議会 (ブルネイ)}} === 政党 === 現在、ブルネイでは定期的な[[国政選挙]]が無いものの、国内には3つの政党が存在している。 {{see also|ブルネイの政党}} === 司法 === [[司法]]権は最高裁判所に属している。 {{see also|{{仮リンク|ブルネイ・ダルサラーム最高裁判所|en|Supreme Court of Brunei Darussalam}}}} [[死刑制度]]は存在しているが、[[1957年]]以降、執行が行われていない為に事実上廃止の状態となっている。 {{See also|{{仮リンク|非暴力犯罪に対する死刑|fr|Peine de mort pour infractions non-violentes}}|{{仮リンク|ブルネイにおける鞭打ち刑|en|Caning in Brunei}}}} == 国際関係 == {{main|ブルネイの国際関係}} === 日本との関係 === {{main|日本とブルネイの関係}} * 日本は、長年にわたりブルネイ最大の貿易相手国(2021年には輸出額全体の20.9%が対日輸出。ブルネイから日本への輸出のほとんどが石油・天然ガス。日本からブルネイへの主な輸出品目は、機械輸送機器、化学品。         * ブルネイ・シェル石油会社は、1969年に日本への原油輸出を開始。また、1972年には、三菱商事が出資するブルネイ液化天然ガス会社(BLNG、ブルネイ政府50%、シェル石油25%、三菱商事25%の出資)が日本へのLNG輸出を開始、2022年には50周年を迎え、本邦にて記念式典が開催された。現在、ブルネイのLNGの輸出総額の約7割が日本向けであり、ブルネイ産LNGは日本のLNG総輸入額の約3.8%(2022年財務省貿易統計)を占める(オーストラリア、マレーシア、ロシア、アメリカ合衆国、パプアニューギニア、カタール、インドネシアに次いで第8位)など、ブルネイは日本へのエネルギー資源の安定供給の面からも重要な国となっている。 {{節スタブ}} == 軍事 == {{main|ブルネイ王国軍}} ブルネイの国防費はおよそ290百万ドル(対GDP比4.5%、数値は[[2004年]]度のもの)で、国の規模に比べるとかなり多い。ブルネイ軍の装備の大部分は[[イギリス]]、[[フランス]]、[[アメリカ合衆国]]製のものが占めている。陸海空の中では陸軍の兵力が最大であり、[[ブルネイ国家警察]]は陸軍の一組織である。ブルネイ軍は[[志願兵]]制を採用しており、[[マレー人]]のみが軍人に就く事ができる。 陸軍の歩兵が用いる標準的なライフルは[[M16自動小銃|M16]]である。 空軍の任務は陸軍の支援という側面が強く、装備は[[ヘリコプター]]が中心となっており、[[UH-1 (航空機)|UH-1]]や[[シコルスキー S-70|S-70]]で構成されている。ヘリ以外の航空機は[[CASA CN-235|CN-235]]輸送機とおよそ5機の練習機に限られる。イギリスの[[BAe]]製[[ホーク (航空機)|ホーク]]を数機購入し、戦闘能力を向上させる計画があるが、未だ実現には至っていない。 {{仮リンク|ブルネイ王立海軍|label=海軍|ms|Tentera Laut Diraja Brunei}}は小規模で、主に沿岸の警備と沖合の油田の防衛を任務とする。現在、大規模な装備の近代化を実施中。 この他、治安維持のため[[グルカ兵]]大隊(旧イギリス領時代の[[ネパール]]兵)と1個[[ヘリコプター]]飛行隊からなる、[[ブルネイ駐留イギリス軍]]が、1,000名規模で駐屯している<ref name=":0" />。 == 地理 == [[ファイル:Brunei location map Topographic.png|thumb|ブルネイの標高図]] [[ファイル:Bx-map-ja.png|thumb|ブルネイの地図]] {{main|ブルネイの地理}} 国土は、[[マレーシア]]領となっている[[リンバン川]]流域によって、二分される。全土が[[熱帯雨林気候]]下にある。東側、[[テンプロン川]]流域は、海岸付近を除き、ほとんどが未開発の[[密林]]で、広大な自然公園となっている。国民の大半は、西側の3つの地区の海岸付近に居住している。ブルネイには西からテンブロン川、[[ブルネイ川]]、ツトン川、ブライト川の4つの主要河川が存在し、それぞれの川の流域がほぼ各行政地区の領域となっている。ツトン川には1989年に[[ダム]]が建設され、[[ダム湖]]であるベヌタン湖は首都[[上水道]]の水源となっている<ref>倉田亮 『世界の湖と水環境』p24 成山堂書店、2001年、ISBN 4-425-85041-6</ref>。[[面積]]は[[日本]]の[[三重県]]とほぼ同じ程度である。 ブルネイの標高最低点は0m、[[最高峰]]は[[パゴン山]](1850m)である。 == 地方行政区分 == {{main|ブルネイの行政区画}} [[ファイル:Brunei districts english.png|thumb|ブルネイの地方区分]] ブルネイは東から順に、[[テンブロン地区]]、[[ブルネイ・ムアラ地区]]、[[ツトン地区]]、[[ブライト地区]]の4つの地区に区分される。テンブロン地区は、マレーシアの[[サラワク州]]に囲まれ他3地区とは陸続きになっておらず、飛び地となっている。 === 都市 === {{main|ブルネイの都市の一覧}} * [[バンダルスリブガワン]] ブルネイの[[首都]]。人口14万人(2010年)。ブルネイ・ムアラ地区行政庁所在地 * [[クアラブライト]] - 第二の都市、ブライト地区行政庁所在地 * [[スリア]] - 第三の都市 * [[ラビ (ブルネイ)|ラビ]] * [[ルムト]] * [[ムアラ]] * [[スカン]] == 経済 == {{Main|{{仮リンク|ブルネイの経済|en|Economy of Brunei|ms|Ekonomi Brunei}}}} [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2010年]]のブルネイの[[国内総生産|GDP]]は119億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり<ref>[http://www.imf.org/external/data.htm IMF]</ref>、[[日本]]の[[鳥取県]]の50%程度の経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/toukei.html#kenmin 国民経済計算] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100210185302/http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/toukei.html |date=2010年2月10日 }}</ref>。2015年の一人当たり[[国民総所得]](GNI)は37,320米ドルであり、日本を上回り[[アジア]]では[[シンガポール]]に次ぐ高所得国となっている<ref>[https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/world/index67.html 「1人あたりのGNI 〔2015年〕」]帝国書院</ref><ref>[http://www.morningstar.co.jp/msnews/news?rncNo=1739053 「<新興国eye>世銀所得別国別分類、カンボジアを「低所得国」から「低・中所得国」に格上げ」]モーニングスター2016/07/15</ref>(2017年は29,600ドル<ref>[http://databank.worldbank.org/data/download/GNIPC.pdf Gross national income per capita 2017, Atlas method and PPP]</ref>)。 ブルネイの[[中央銀行]]は[[ブルネイ通貨金融庁]]である<ref>[[在ブルネイ日本国大使館|在ブルネイ日本大使館]] "[http://www.bn.emb-japan.go.jp/ja/brunei-business/keizaigaiyou.html 経済概要]"(2013年6月19日閲覧。)</ref>。これができるまで中央銀行は無かった。その間は歳出入を民間銀行へ預金していた。1984年に独立するまで、預金の運用は[[イングランド銀行#近代|クラウン・エージェンツ]]が行っていた。財務長官もイギリス人であった。1967年末のポンド切り下げに直撃され、政府資産は目減りした。1976年にスルタンを議長とする投資諮問委員会が設立されたが、その構成員には財務長官に二人のクラウン・エージェンツと、[[ジョン・モルガン#J・P・モルガン・アンド・カンパニー|モルガン・グレンフェル]]、ジェームス・ケーペル(現[[HSBC]])から一人ずつ派遣された顧問が含まれた。1982年にはクラウン・エージェンツのスキャンダルに関する法廷審判報告が出され、ずさんな経営が公となった。翌年から[[投資顧問会社]]はモルガン・[[シティバンク]]・[[大和証券]]・[[野村證券|野村証券]]の4社となった。 [[朝鮮民主主義人民共和国]]と並んで独自の[[証券取引所]]を持たないアジアの2か国のうちの一つである<ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2015-12-08/NYZKSO6K50XY01 ミャンマー初の取引所始動、来年売買開始-大和の初接触から22年]ブルームバーグ 2015年12月9日</ref>。 [[石油]]、[[天然ガス]]の輸出により、非常に経済は潤っている。石油天然ガス部門が[[国内総生産|GDP]]のほぼ半分、輸出のほぼ全てを占めており、それらに依存した経済構造となっている。また、貿易依存度も高い。食料品はそのほとんどを輸入している。物価は他のアジア諸国と比べて高い。 [[2013年]]の一人当たりの名目GDPは約44,586ドルと日本を上回る。所得税がないため、購買力では名目の数字よりさらに水準が高いと言える。(2013年の一人当たりの購買力平価GDPは約81,742ドル) 将来の石油資源枯渇に備え、豊富な資金を背景に国外へと積極的に投資しており、[[イスラム銀行]]などの[[金融機関|金融業]]や[[観光業]]の育成が図られている。 また石油・天然ガスによる収入を元に、政府が社会福祉を充実させており、個人に対する所得税・住民税は課されていない。 == 交通 == {{main|ブルネイの交通}} {{節スタブ}} === 鉄道 === {{main|ブルネイの鉄道}} === 航空 === {{main|ブルネイの空港の一覧}} == 国民 == {{Main|{{仮リンク|ブルネイの人口統計|en|Demographics of Brunei|ms|Demografi Brunei}}}} <!-- ''詳細は[[ブルネイの国民]]を参照'' --> === 人種・民族 === [[マレー人|マレー系]] 65.7%、[[中国人|中国系]] 10.3%、先住系諸民族 3.4%、その他 20.6%(2011年)<ref name="ciafact2011">{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/bx.html|title=CIA world fact book - Brunei |accessdate=2016-07-11}}</ref>。 === 言語 === {{Main|{{仮リンク|ブルネイの言語|en|Languages of Brunei}}}} 同国の憲法では、[[マレー語]]は[[公用語]]と定められているが、[[国語]]とは呼ばれない。マレー語を表記する文字として、[[ラテン文字]]と[[ジャウィ文字]]がいずれも公の場で用いられる。[[英語]]も広く通用する。[[中国語]]の方言も、中国系住民の間で用いられる。 実際に日常ブルネイで話されるのは {{lang|ms|Bahasa Melayu}} (標準マレー語)ではなく'''ブルネイ語''' {{lang|ms|Bahasa Brunei}} つまり'''ブルネイ・マレー語''' {{lang|ms|Brunei Malay}} だが、標準マレー語と語彙の90%が一致し(つまり10%程度の違いはある)、ブルネイ語話者は一般に標準マレー語を話すこともできる<ref name="worldmap">{{Cite web |year=2008 |url=http://www.worldmap.org/maps/other/profiles/malaysia/MY.pdf |title=MALAYSIA Basic Facts |format=PDF |work=WorldMap |pages=3 |publisher=worldmap.org |language=英語 |accessdate=2009-04-28 }}</ref>。このほか、ブルネイ語の一種とみなされるケダヤン(クダヤン、カダヤン)語 {{lang|en|Kedayan (Kadayan) }}の話者の相当数がブルネイ国内にいる。ケダヤン語と標準マレー語の語彙の一致率は73 - 80%とされる<ref name="worldmap" />。ブルネイ語とケダヤン語などの方言は語彙の94 - 95%が一致し、ISO言語コードではこれらを同一言語として扱い、同じ kxd を割り当てている<ref name="sil">{{Cite web |author=Gordon, Raymond G., Jr. |year=2005 |url=http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=kxd |title=Ethnologue report for language code:kxd |work=Ethnologue: Languages of the World, Fifteenth edition |publisher=SIL International |language=英語 |accessdate=2009-04-28 }}</ref>。ブルネイ語話者はケダヤン語を「別の言語」と意識するが、言語文化的アイデンティティーの問題であり、言語学的問題ではない。方言差は民族の違いを反映したものでなく地域差による。ブルネイ語とケダヤン語などの方言を区別しない場合、全体としての標準マレー語との語彙一致率は80 - 82%である<ref name="sil" />。 <!--=== 婚姻 ===--> === 宗教 === [[ファイル:Sultan Omar Ali Saifuddin Mosque 02.jpg|thumb|300px|首都[[バンダルスリブガワン]]に所在する[[スルターン・オマール・アリ・サイフディーン・モスク]]。]] {{Main|{{仮リンク|ブルネイの宗教|en|Religion in Brunei}}}} [[イスラム教]]が[[国教]]である。しかし、[[クリスマス]]が国民の休日になっている([[イエス・キリスト]]はイスラム教でも預言者の1人)。また、週の休日は[[金曜日]]と[[日曜日]]である。 イスラム教 78.8%、[[仏教]] 7.8%、[[キリスト教]] 8.7%、先住系諸民族固有の信仰とその他4.7%<ref name="ciafact2011" />。 {{see also|ブルネイのイスラム教}} {{see also|{{仮リンク|ブルネイにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Brunei}}}} === 教育 === {{Main|{{仮リンク|ブルネイの教育|en|Education in Brunei}}}} {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|ブルネイの学校の一覧|en|List of schools in Brunei}}|{{仮リンク|ブルネイの大学の一覧|en|List of universities in Brunei}}}} === 保健 === {{Main|{{仮リンク|ブルネイの保健|en|Health in Brunei}}}} ブルネイの保健におけるネットワークは約15の保健センター、10の診療所、22の産科施設で構成されている。 {{see also|{{仮リンク|ブルネイの医療施設の一覧|en|List of healthcare facilities in Brunei}}}} またブルネイにおける医療は、{{仮リンク|ブルネイ保健省|label=保健省|en|Ministry of Health (Brunei)}}によって管理され、{{仮リンク|ブルネイ財務省|label=財務省|en|Ministry of Finance and Economy (Brunei)}}から資金提供を受ける形で体制を維持している。 {{節スタブ}} == 治安 == ブルネイは石油、天然ガスといった豊かな地下資源が経済基盤となっている点や、国民が医療、教育、その他の公共サービスでの優遇措置を等しく享受していることから凶悪[[犯罪]]の発生率が低く、平和で安全な国とされているが、2020年の犯罪件数は5,673件(前年比△667件)で、多くが[[車上荒らし]]、家屋侵入といった[[盗難]]犯罪で占められている。特定の危険地域はないものの、外国人が多く住む地区の独立家屋や、人通りが少なく空き地に隣接している家屋は比較的標的となり易い為、長期滞在の場合は入居家屋の選定に留意する必要が求められる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_014.html#ad-image-0|title=ブルネイ 危険・スポット・広域情報|accessdate=2021-12-10|publisher=外務省}}</ref>。 時期としては、毎年イスラム教の断食明け大祭(ハリラヤ)や旧正月の前後に、犯罪の発生率が高くなるとされている。 {{See also|{{仮リンク|ブルネイにおける売春|en|Prostitution in Brunei}}}} {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{仮リンク|ブルネイ王立警察|en|Royal Brunei Police Force|ms|Polis Diraja Brunei}}が主体となっている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{節スタブ}} {{see also|ブルネイにおけるLGBTの権利|{{仮リンク|ブルネイにおける人身売買|en|Human trafficking in Brunei}}|{{仮リンク|ブルネイにおける性的人身売買|en|Sex trafficking in Brunei}}}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|ブルネイのメディア|en|Mass media in Brunei}}}} === 電気通信 === {{Main|{{仮リンク|ブルネイの通信|en|Telecommunications in Brunei}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|ブルネイの文化|en|Culture of Brunei|fr|Culture du Brunei}}}} 基本となるのはマレー文化であり、近隣国のマレーシアやインドネシアの文化と非常に近い特徴がある。 ブルネイ人の間では{{仮リンク|マンディ・ベラワト|en|Mandi Belawat}}と呼ばれる儀式が慣習的に行われている。 === 食文化 === {{Main|ブルネイ料理}} ブルネイの食は周辺国であるマレーシア・シンガポール・インドネシアの強い影響を受けている。ほかにも中国・インド・日本の影響もある。ブルネイ独自の[[食文化]]には[[サゴヤシ]]を使った[[アンブヤット]]がある。 禁酒法が施行されており、公の場でのアルコール飲料の消費が禁止され、アルコールは一切販売されていない。非ムスリムは、空港など(国外)で一定量までのアルコール飲料を購入して、個人的に飲用することが許されている。18歳以上の非ムスリムは2本(約2リットル)までの酒と12缶までのビールを持ち込むことができる。 <!--=== 文学 ===--> === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|ブルネイの音楽|en|Music of Brunei}}}} {{節スタブ}} <!--=== 演劇 ===--> === 美術 === [[File:BRUNEI NATIONAL MUSEUM, BRUNEI.jpg|thumb|150px|[[ブルネイ博物館]]]] {{Main|{{仮リンク|ブルネイの美術|en|Bruneian art}}}} ブルネイにおける芸術活動は1950年代初頭まで注目されていなかったが、ブルネイ政府が自国の芸術文化を支援する立場に回ったことから徐々に成長を見せている。 {{節スタブ}} {{see also|{{仮リンク|ブルネイの博物館の一覧|en|List of museums in Brunei}}}} === 映画 === {{Main|ブルネイの映画}} ブルネイの映画は1960年代から制作されている。 {{see also|{{仮リンク|ブルネイの映画の一覧|en|List of Bruneian films}}}} === 建築 === {{Main|ブルネイの建築}} 歴史的建造物には{{仮リンク|クバ・マカム・ディ・ラジャ|en|Kubah Makam Di Raja}}や{{仮リンク|タンジョン・キンダナ王陵|en|Tanjong Kindana Royal Mausoleum}}が知られている。 また、イスラム教の信徒が多いことから[[モスク]]が多い。 {{see also|{{仮リンク|ブルネイのモスクの一覧|en|List of mosques in Brunei}}}} 近代的な建築物には{{仮リンク|ルムット灯台|en|Lumut Lighthouse}}、{{仮リンク|セリア・エネルギー研究所|en|Seria Energy Lab}}(SEL)や{{仮リンク|DSTタワー|en|DST Group Building}}、{{仮リンク|PGGMBビル|en|PGGMB Building}}が代表される。 {{see also|{{仮リンク|ブルネイの灯台の一覧|en|List of lighthouses in Brunei}}}} === 世界遺産 === ブルネイは現在、[[世界遺産]]となるものが存在していない国の一つに数えられている。 {{see also|世界遺産を保有していない国の一覧}} === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|ブルネイの祝日|en|Public holidays in Brunei}}}} {| class="wikitable" |+ 祝祭日 !日付!!日本語表記!!現地語表記 |- |[[1月1日]] |[[元日]] |{{lang|en|New Year's Day}} |- |[[2月14日]] |中国暦正月([[旧正月]]) |{{lang|en|Chinese New Year}} |- |[[2月23日]] |建国記念日 |{{lang|en|National Day of Brunei Darussalam}} |- |[[2月26日]] |[[預言者生誕祭|ムハンマド降誕祭]] |{{lang|en|Birthday of Prophet Mohammad}} |- |[[5月31日]] |ブルネイ王国軍記念日 |{{lang|en|Anniversary of Royal Brunei Armed Forces}} |- |[[7月10日]] |ムハンマド昇天祭 |{{lang|en|Israk Meraj}} |- |[[7月15日]] |国王誕生日 |{{lang|en|Birthday of His Majesty the Sultan of Brunei Darussalam}} |- |[[8月11日]] |[[断食月]]の初日 |{{lang|en|First Day of Ramadan}} |- |[[8月27日]] |[[コーラン]]啓示の祝日 |{{lang|en|Revelation of Holy-Quran}} |- |[[9月10日]] - [[9月13日]] |[[イド・アル=フィトル|断食明け大祭]] |{{lang|en|Hari Raya Aidilfitri}} |- |[[11月16日]] |[[イード・アル=アドハー|犠牲祭]] |{{lang|en|Hari Raya Aidil Adha}} |- |[[12月7日]] |イスラム暦[[新年]] |{{lang|en|Islamic New Year}} |- |[[12月25日]] |[[クリスマス]] |{{lang|en|Christmas Day}} |} 日付は[[2010年]]のもの<ref>日本アセアンセンター(2010)『[http://www.asean.or.jp/ja/asean/know/country/brunei/tourism/calendar 祝祭日カレンダー]』(2010年5月14日閲覧)</ref>。[[イスラム暦]]で規定されているものも多く、年によってずれる。なお、[[振替休日]]は[[祝日]]が[[金曜日]]か[[土曜日]]と重なった場合に設定される。 == スポーツ == {{main|{{仮リンク|ブルネイのスポーツ|en|Sport in Brunei|fr|Sport au Brunei}}}} {{also|オリンピックのブルネイ選手団}} === サッカー === {{see|{{仮リンク|ブルネイのサッカー|en|Football in Brunei}}}} ブルネイ国内でも他の[[東南アジア]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。[[2002年]]にサッカーリーグの[[ブルネイ・プレミアリーグ]]が創設され、[[2012年]]にその上位リーグとして[[ブルネイ・スーパーリーグ]]を設立した。[[ブルネイ・ダルサラームサッカー協会]](FABD)によって構成される[[サッカーブルネイ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]および[[AFCアジアカップ]]には未出場である。 == 著名な出身者 == {{Main|ブルネイ人の一覧|Category:ブルネイの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * (財)自治体国際化協会(編)『ASEAN諸国の地方行政』{{PDFlink|[http://www.clair.or.jp/j/forum/series/pdf/j13.pdf PDF版]}}、2004年 == 関連項目 == {{Commons&cat|Brunei|Brunei}} {{Wikivoyage|Brunei|ブルネイ{{en icon}}}} {{ウィキポータルリンク|東南アジア|[[ファイル:SE-asia.png|45px|Portal:東南アジア]]}} * [[ブルネイ関係記事の一覧]] * [[ブルネイ郵政局]] * [[デワン・バハサ・ダン・プスタカ図書館]] * [[サラワク王国]] * [[スールー王国]] * [[アンブヤット]] * [[ジュルドンパーク]] <!--* [[ブルネイの通信]]--> == 外部リンク == * 政府 ** [https://www.gov.bn/ ブルネイ・ダルサラーム国政府] {{en icon}} ** [http://www.bruemb.jp/ ブルネイ・ダルサラーム国大使館] {{en icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/brunei/ 日本外務省 - ブルネイ] ** [https://www.bn.emb-japan.go.jp/itprtop_en/index.html 在ブルネイ日本国大使館] * 観光 ** [http://www.tourismbrunei.com/ ブルネイ政府観光局] {{en icon}} * その他 ** [https://www.jetro.go.jp/ext_images/world/asia/data/brunei201906.pdf ジェトロ - ブルネイ・ダルサラーム(概況)] ** [https://www.asean.or.jp/ja/asean/country/brunei/ 日本アセアンセンター - ブルネイ] ** {{Wikiatlas|Brunei}} {{en icon}} ** {{Kotobank}} {{アジア}} {{ASEAN}} {{TPP}} {{イギリス連邦}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふるねい}} [[Category:ブルネイ|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:島国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]]
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モンゴル系民族
モンゴル系民族(Mongolic peoples)は、モンゴル語族の言語を母語とする諸民族の総称。主な居住域はモンゴル高原(現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域(中央ユーラシア)。 大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万、中国・内モンゴル自治区に400万、ロシア・ブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。 現在のモンゴル国にあたる「外蒙古(がいもうこ)」とは、「内蒙古」とともに清朝時代につけられた呼び名で、現在も世界的に使われる用語である(英語でOuter Mongoliaと呼ぶ)。しかし、清朝側から見たこの呼称はモンゴル人に嫌われており、モンゴル人自身では「北(アル)モンゴル」と称している。また、モンゴル国の8割弱がハルハ族と呼ばれるモンゴル系の民族で占められているため、「ハルハ・モンゴル」とも呼ばれる。モンゴル国は世界で唯一のモンゴル人の独立国家であり、人口は256万人(2005年)、そのうち8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テュルク系民族の16部族が居住する。言語はハルハ・モンゴル語が標準語で、文字は1941年以来キリル文字であるが、民主化後は古来の縦書きモンゴル文字を復活させようという動きがある。 現在中国領である内モンゴル自治区は、清朝時代に「内蒙古(ないもうこ)」と呼ばれ、もともとはモンゴル帝国(北元)の中心地でチャハル・モンゴルの支配域であったが、17世紀に清に編入されて以降中国領となっている。現在もなお「内蒙古」と呼ばれているが、上記の理由からモンゴル人自身では「南(オボル)モンゴル」と呼ばれている。人口はモンゴル国の外モンゴルに対し、モンゴル系モンゴル族が1割であり、残り8割が漢族で占められており、文化的に漢化が進み、モンゴル語を解さないモンゴル族もいる。文字は伝統的な縦書きモンゴル文字を使用する。 中国の新疆ウイグル自治区のにはかつてオイラトのジュンガル帝国の子孫であるオイラド族が居住しており、ボルタラ・モンゴル自治州・バインゴリン・モンゴル自治州が行政区画に存在する。寧夏・甘粛地方にはイスラム教徒であるドンシャン族、バオアン族が居住している。 ロシア連邦のブリヤート共和国にはモンゴル語北部方言に属するブリヤート語を話すブリヤート人が住んでいる。自治共和国の総人口は97万人(2005年)であり、そのうちの半数はロシア人である。「ブリヤート」とはロシア風の発音で、もともとは「ボリヤド」という。ブリヤート人は12~13世紀ごろ「森の民(オイン・イルゲン)」と呼ばれ、モンゴル北部の森林地帯で狩猟と牧畜を営んでいた。1207年、チンギス・カンの長男ジョチによってモンゴル帝国に編入されて以来、モンゴル民族となり、その影響でチベット仏教も広まった。17世紀よりロシアの侵入が始まり、1689年のネルチンスク条約によってロシア領となる。1920年には赤軍により極東共和国が建てられ、まもなくソ連領となり、1923年にはブリヤート・モンゴル自治共和国に編入され、1958年には現在のブリヤート自治共和国に改称された。また、カスピ海北岸のカルムイク共和国には上記のオイラド族と同族であるカルムイク人が住む。「カルムイク」とはヨーロッパ側からの呼び名であり、自称はやはり「オイラド」という。自治共和国の人口は29万人であるが、カルムイク人はその半数以下である。カルムイク語はモンゴル語西部方言に属し、文字はキリル文字の他縦書きモンゴル文字を改良したトド文字を使用する。 中国の春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。山戎などとともに燕の北に位置し、それぞれ分散して谷あいに居住していた。秦の始皇帝が中国を統一したころ、東胡は北方で強大となったが、匈奴の冒頓単于の侵攻により東胡王が殺され、その国は滅んだ。のちに東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。 匈奴の冒頓単于によって東胡の国家が滅ぼされると、その残存勢力は烏桓山や鮮卑山に逃れたため、それぞれ烏桓、鮮卑と呼ばれるようになる。烏桓は早くから匈奴の臣下となっていたが、匈奴の壺衍鞮単于(こえんていぜんう)(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代以降、叛服を繰り返すようになり、後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当たるようになった。鮮卑も前漢時代は匈奴に属していたが、目立った動きはせず、後漢の時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、檀石槐の時代には大帝国を築いた。檀石槐の死後は部族が分裂し、拓跋部,慕容部,宇文部,段部といった勢力が生まれ、五胡十六国時代、南北朝時代をもたらした。 柔然はもともと鮮卑拓跋部に属していたが、拓跋部が中国へ移住後(北魏)、高車などを吸収してモンゴル高原で勢力を拡大し、可汗(かがん)を中心とする遊牧帝国を築いた。柔然はたびたび中国北部の拓跋氏の王朝北魏や、属民である高車などと衝突したが、6世紀の中頃に鍛鉄奴隷である突厥によって国を奪われてしまう。 契丹は4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。契丹、奚、豆莫婁、室韋は東部鮮卑の流れを汲むとされており、その言語は同じであるとされる。 契丹は10世紀に耶律阿保機のもとで国家を整備し、王朝(遼)を築いた。1004年には北宋と澶淵(せんえん)の盟を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになると、経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。しかし遼の上層部は次第に堕落し、内部抗争も激しさを増したため、1125年、女真族の王朝金の侵攻により遼は滅ぼされた。その余勢は中央アジアに逃れ西遼(カラ・キタイ)を建国した。 室韋・契丹とも中国史書には東胡の子孫であるとか、鮮卑の子孫であると記述されており、室韋の一部族蒙兀室韋(蒙瓦部)がのちのモンゴルであることから、これらの民族系統はモンゴル系と推測される。しかし、大室韋などは「言葉が通じない」とあることから、すべてがモンゴル系というわけではないといえる。 中国の歴史書に室韋の一部族として「蒙兀室韋」、「蒙瓦部」という漢字名で記されたのがモンゴルの初出である。11世紀になると、「萌古国」という表記で『遼史』に登場し、遼帝国に朝貢していた。このころのモンゴル部族はバイカル湖畔に住んであおり、そのころの指導者はトンビナイ・セチェンと考えられる。1125年、女真族の金帝国が遼帝国を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カンとなったのはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンであった。彼は金朝に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりしたため、次のアンバガイ・カンの時にその恨みが返って来て、アンバガイ・カンは金朝に処刑された。その後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇を討つべく、モンゴル諸氏族を率いて金朝に攻め入り、敵軍を破って多数の略奪品を持ち帰った。これによって彼はモンゴルの吟遊詩人が熱愛する英雄となった。クトラ・カンの後、モンゴルのカンは空位となり、代わってクトラ・カンの甥にあたるイェスゲイ・バアトルがキヤン氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。 イェスゲイ・バアトルの子テムジンは周辺諸族を取りまとめ、1206年にチンギス・カンに即位し、イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)を建国した。通常この政権をモンゴル帝国と呼ぶ。モンゴル帝国は14世紀になると、東アジアの元朝、南ロシアのジョチ・ウルス、西アジアのフレグ・ウルス(イルハン朝)、中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の4国に分かれ、一種の世界連邦を構成した。モンゴル系民族がユーラシア全土に広まったのはこの時代といってよい。 元朝が1368年に漢民族の明朝に打倒されると、モンゴル民族は中国を捨ててモンゴル高原に後退した。通常この政権を北元と呼ぶ。しかし、モンゴルに支配されていた漢民族の政権である明朝では「蒙古」とは呼ばず「韃靼」と呼んだ。北元政権ではハーンの王統が不安定であり、クビライの王統であったり、アリクブケの王統であったりで、常にオイラト部族による擁立が頻発した。一時はエセン・ハーンというオイラト部族の出身者がハーンに即位したが、モンゴル部族出身のダヤン・ハーンの中興によってオイラトは打倒され、新たなモンゴル帝国が再構築された。 17世紀、ダヤン・ハーンの一族によって打倒されたオイラト部族連合はモンゴル西部~ジュンガル盆地におり、その盟主はドルベト部で、ドルベト部の左翼を担っていたのが、ジュンガル部であった。やがてオイラト部族連合はモンゴルのハルハ部を破って独立を果たしたが、新たなオイラト盟主ホシュート部で内乱がおこると、オイラトのトルグート部は内乱を避けて遥かヴォルガ河畔へ避難し、これが現在のカルムィク人となる。ホシュート部の内乱を収束し、新たな部族長になったのがグーシ・ハーンであった。彼はチベット仏教のゲルク派を擁護し、施主として青海に本拠を置いた。これが青海ホショト部となり、現在のオイラド族となる。一方、盟主がいなくなったオイラト本国はジュンガル部族長のバートル・ホンタイジに任され、ジュンガル部が新たな盟主となり、次のガルダン・ハーンの代でモンゴルを破って最大版図を実現し、ジュンガル帝国と呼べる政権を築く。1755年、清朝の侵攻によりジュンガルの帝国は崩壊し、その支配下に入ったが、天然痘の流行によりジュンガルの移民はほぼ全滅した。後に無人地帯となったイリ地方にヴォルガ河畔から一部のトルグート部が帰還した。これも現在のオイラド族となる。 ダヤン・ハーンによって再構築されたモンゴル帝国は左翼のチャハル、ハルハ、ウリヤンハイと、右翼のオルドス部、トメト、ヨンシエブの6トゥメンに分かれ、やがて現在のモンゴル国に当たる地域にはハルハ系のチェチェン・ハーン部、トシェート・ハーン部、ジャサクト・ハーン部、サイン・ノヤン部が形成され、清朝の支配下に入ると「外蒙古」と呼ばれた。現在の内モンゴル自治区に当たる地域にはジェリム盟、ジョソト盟、ジョーオダ盟、シリンゴル盟、ウランチャブ盟、イフ・ジョー盟、アラシャン・オーロト部、エジネ・トルグート部などが形成され、清代に「内蒙古」と呼ばれた。 諸説あり、確証はないが、わずかでもモンゴル系民族とされている民族を以下に挙げる。 モンゴル系民族にはY染色体ハプログループがC2系統が高頻度に観察される(モンゴル民族 52%-54%、ダウール族 31%など)。また、ハプログループN (Y染色体)も中頻度で見られる(ブリヤート人 34.5% (20.2%,25.0%,30.9%,48.0%)、モンゴル民族 11%、カルムイク人 10.4%)。
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紀元前68年)の時代以降、叛服を繰り返すようになり、後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当たるようになった。鮮卑も前漢時代は匈奴に属していたが、目立った動きはせず、後漢の時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、檀石槐の時代には大帝国を築いた。檀石槐の死後は部族が分裂し、拓跋部,慕容部,宇文部,段部といった勢力が生まれ、五胡十六国時代、南北朝時代をもたらした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "柔然はもともと鮮卑拓跋部に属していたが、拓跋部が中国へ移住後(北魏)、高車などを吸収してモンゴル高原で勢力を拡大し、可汗(かがん)を中心とする遊牧帝国を築いた。柔然はたびたび中国北部の拓跋氏の王朝北魏や、属民である高車などと衝突したが、6世紀の中頃に鍛鉄奴隷である突厥によって国を奪われてしまう。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "契丹は4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。契丹、奚、豆莫婁、室韋は東部鮮卑の流れを汲むとされており、その言語は同じであるとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "契丹は10世紀に耶律阿保機のもとで国家を整備し、王朝(遼)を築いた。1004年には北宋と澶淵(せんえん)の盟を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになると、経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。しかし遼の上層部は次第に堕落し、内部抗争も激しさを増したため、1125年、女真族の王朝金の侵攻により遼は滅ぼされた。その余勢は中央アジアに逃れ西遼(カラ・キタイ)を建国した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "室韋・契丹とも中国史書には東胡の子孫であるとか、鮮卑の子孫であると記述されており、室韋の一部族蒙兀室韋(蒙瓦部)がのちのモンゴルであることから、これらの民族系統はモンゴル系と推測される。しかし、大室韋などは「言葉が通じない」とあることから、すべてがモンゴル系というわけではないといえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "中国の歴史書に室韋の一部族として「蒙兀室韋」、「蒙瓦部」という漢字名で記されたのがモンゴルの初出である。11世紀になると、「萌古国」という表記で『遼史』に登場し、遼帝国に朝貢していた。このころのモンゴル部族はバイカル湖畔に住んであおり、そのころの指導者はトンビナイ・セチェンと考えられる。1125年、女真族の金帝国が遼帝国を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カンとなったのはトンビナイ・セチェンの子カブル・カンであった。彼は金朝に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりしたため、次のアンバガイ・カンの時にその恨みが返って来て、アンバガイ・カンは金朝に処刑された。その後を継いだクトラ・カンはアンバガイ・カンの仇を討つべく、モンゴル諸氏族を率いて金朝に攻め入り、敵軍を破って多数の略奪品を持ち帰った。これによって彼はモンゴルの吟遊詩人が熱愛する英雄となった。クトラ・カンの後、モンゴルのカンは空位となり、代わってクトラ・カンの甥にあたるイェスゲイ・バアトルがキヤン氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イェスゲイ・バアトルの子テムジンは周辺諸族を取りまとめ、1206年にチンギス・カンに即位し、イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)を建国した。通常この政権をモンゴル帝国と呼ぶ。モンゴル帝国は14世紀になると、東アジアの元朝、南ロシアのジョチ・ウルス、西アジアのフレグ・ウルス(イルハン朝)、中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の4国に分かれ、一種の世界連邦を構成した。モンゴル系民族がユーラシア全土に広まったのはこの時代といってよい。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "元朝が1368年に漢民族の明朝に打倒されると、モンゴル民族は中国を捨ててモンゴル高原に後退した。通常この政権を北元と呼ぶ。しかし、モンゴルに支配されていた漢民族の政権である明朝では「蒙古」とは呼ばず「韃靼」と呼んだ。北元政権ではハーンの王統が不安定であり、クビライの王統であったり、アリクブケの王統であったりで、常にオイラト部族による擁立が頻発した。一時はエセン・ハーンというオイラト部族の出身者がハーンに即位したが、モンゴル部族出身のダヤン・ハーンの中興によってオイラトは打倒され、新たなモンゴル帝国が再構築された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "17世紀、ダヤン・ハーンの一族によって打倒されたオイラト部族連合はモンゴル西部~ジュンガル盆地におり、その盟主はドルベト部で、ドルベト部の左翼を担っていたのが、ジュンガル部であった。やがてオイラト部族連合はモンゴルのハルハ部を破って独立を果たしたが、新たなオイラト盟主ホシュート部で内乱がおこると、オイラトのトルグート部は内乱を避けて遥かヴォルガ河畔へ避難し、これが現在のカルムィク人となる。ホシュート部の内乱を収束し、新たな部族長になったのがグーシ・ハーンであった。彼はチベット仏教のゲルク派を擁護し、施主として青海に本拠を置いた。これが青海ホショト部となり、現在のオイラド族となる。一方、盟主がいなくなったオイラト本国はジュンガル部族長のバートル・ホンタイジに任され、ジュンガル部が新たな盟主となり、次のガルダン・ハーンの代でモンゴルを破って最大版図を実現し、ジュンガル帝国と呼べる政権を築く。1755年、清朝の侵攻によりジュンガルの帝国は崩壊し、その支配下に入ったが、天然痘の流行によりジュンガルの移民はほぼ全滅した。後に無人地帯となったイリ地方にヴォルガ河畔から一部のトルグート部が帰還した。これも現在のオイラド族となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ダヤン・ハーンによって再構築されたモンゴル帝国は左翼のチャハル、ハルハ、ウリヤンハイと、右翼のオルドス部、トメト、ヨンシエブの6トゥメンに分かれ、やがて現在のモンゴル国に当たる地域にはハルハ系のチェチェン・ハーン部、トシェート・ハーン部、ジャサクト・ハーン部、サイン・ノヤン部が形成され、清朝の支配下に入ると「外蒙古」と呼ばれた。現在の内モンゴル自治区に当たる地域にはジェリム盟、ジョソト盟、ジョーオダ盟、シリンゴル盟、ウランチャブ盟、イフ・ジョー盟、アラシャン・オーロト部、エジネ・トルグート部などが形成され、清代に「内蒙古」と呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "諸説あり、確証はないが、わずかでもモンゴル系民族とされている民族を以下に挙げる。", "title": "歴史上のモンゴル系民族" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "モンゴル系民族にはY染色体ハプログループがC2系統が高頻度に観察される(モンゴル民族 52%-54%、ダウール族 31%など)。また、ハプログループN (Y染色体)も中頻度で見られる(ブリヤート人 34.5% (20.2%,25.0%,30.9%,48.0%)、モンゴル民族 11%、カルムイク人 10.4%)。", "title": "遺伝子" } ]
モンゴル系民族は、モンゴル語族の言語を母語とする諸民族の総称。主な居住域はモンゴル高原(現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域(中央ユーラシア)。 大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万、中国・内モンゴル自治区に400万、ロシア・ブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。
{{Otheruses|[[モンゴル諸語]](モンゴルᠮᠣᠩᠭᠤᠯ語族)を話す言語民族|[[モンゴル語]]を話す[[モンゴル高原]]の民族|モンゴル民族}} '''モンゴル系民族'''(Mongolic peoples)は、[[モンゴル語族]]の言語を母語とする諸民族の総称。主な居住域は[[モンゴル高原]](現在の[[モンゴル国]]と[[中華人民共和国]]の[[内モンゴル自治区]]を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域([[中央ユーラシア]])。 大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万、中国・内モンゴル自治区に400万、ロシア・[[ブリヤート共和国]]に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。 ==現在のモンゴル系民族== [[File:Linguistic map of the Mongolic languages.png|thumb|300px|[[モンゴル諸語]]の分布図 {{legend|#CCA7DE|[[ダウール語]]}} {{legend|#F7BC41|[[ブリヤート語]]}} {{legend|#CDEA11|[[モンゴル語]]}} {{legend|#8BBD41|[[オルドスモンゴル語]]}} {{legend|#CDA58A|[[オイラト語]]}} {{legend|#E3955A|[[カルムイク語]]}} {{legend|#3165AA|[[東部ユグル語]]}} {{legend|#FE840F|[[モングォル語]]・[[サンタ語]]}} {{legend|#E17274|[[モゴール語]]}} ]] [[File:Mongols-map.png|thumb|{{legend|#FE0000|現在のモンゴル系民族の居住地域}}{{legend|#FF8040|13世紀後半の[[モンゴル帝国]]}}]] *[[モンゴル民族]]…[[モンゴル国]]と中国[[内モンゴル自治区]]を中心とした地域に住み、[[モンゴル語]]を話す。 **[[ハルハ]]…モンゴル国の人口の8割を占める。 **[[チャハル]]・・・中国内モンゴル自治区に住む。[[モンゴル族 (中国)|モンゴル族]]と呼ばれる。 **[[オイラト]]([[カルムイク人]])…中国青海省の一部と新疆の北部およびロシア連邦の[[カルムイク共和国]]に住み、[[オイラト語]]([[カルムイク語]])を話す。 *[[ダウール族]]…中国の内モンゴル自治区東部と、[[新疆ウイグル自治区]][[塔城県]]に住み、[[ダウール語]]を話す。 *[[ブリヤート人]]…[[ロシア連邦]]の[[ブリヤート共和国]]やその周辺に住み、[[ブリヤート語]]を話す。 *[[トンシャン族]]…中国[[甘粛省]][[臨夏回族自治州]]の[[東郷族自治県]]に住み、[[サンタ語|トンシャン語(サンタ語)]]を話す。 *[[バオアン族]]…中国甘粛省臨夏回族自治州の[[積石山バオアン族ドンシャン族サラール族自治県|積石山保安族東郷族撒拉族自治県]]に住み、[[バオアン語]]を話す。 *[[康家語]]を話す[[回族]]…中国[[青海省]][[黄南蔵族自治州]]の尖扎県に住み、[[康家語]]を話す。 *[[東部ユグル語]]を話す[[ユグル族]]…中国甘粛省の[[粛南裕固族自治県]]に住み、[[東部ユグル語]]を話す。 *[[トゥ族]]…中国青海省の[[互助土族自治県]]および[[民和回族土族自治県]]に住み、[[モングォル語]]を話す。 *[[モゴール人]]…[[アフガニスタン]]北西部[[ヘラート州]]の周辺の山間部に住み、[[モゴール語]]を話す。 *[[ハザーラ人]]…[[アフガニスタン]]中央部の高原地帯に住むが、モゴール人と違い、[[インド・ヨーロッパ語族]]イラン語派[[ダリー語]]方言のハザーラ語を話すなど、言語・文化的にはイラン民族化している。 == 分布 == [[Image:Atlas Mongolica East.png|thumb|280px|モンゴル国および中華人民共和国におけるモンゴル族の自治区域]] ===外モンゴル(モンゴル国)=== 現在のモンゴル国にあたる「[[外蒙古]](がいもうこ)」とは、「[[内蒙古]]」とともに[[清]]朝時代につけられた呼び名で、現在も世界的に使われる用語である(英語でOuter Mongoliaと呼ぶ)。しかし、清朝側から見たこの呼称はモンゴル人に嫌われており、モンゴル人自身では「北(アル)モンゴル」と称している。また、モンゴル国の8割弱が[[ハルハ]]族と呼ばれるモンゴル系の民族で占められているため、「ハルハ・モンゴル」とも呼ばれる。モンゴル国は世界で唯一のモンゴル人の独立国家であり、人口は256万人(2005年)、そのうち8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、[[テュルク系民族]]の16部族が居住する。言語はハルハ・モンゴル語が標準語で、文字は[[1941年]]以来[[キリル文字]]であるが、民主化後は古来の縦書き[[モンゴル文字]]を復活させようという動きがある。 <ref>金岡 2000,p24‐25</ref> ===内モンゴル(中国・内蒙古自治区)=== {{main|モンゴル族 (中国)}} 現在中国領である内モンゴル自治区は、清朝時代に「内蒙古(ないもうこ)」と呼ばれ、もともとはモンゴル帝国([[北元]])の中心地でチャハル・モンゴルの支配域であったが、17世紀に清に編入されて以降中国領となっている。現在もなお「内蒙古」と呼ばれているが、上記の理由からモンゴル人自身では「南(オボル)モンゴル」と呼ばれている。人口はモンゴル国の外モンゴルに対し、モンゴル系モンゴル族が1割であり、残り8割が漢族で占められており、文化的に漢化が進み、モンゴル語を解さないモンゴル族もいる。文字は伝統的な縦書きモンゴル文字を使用する。 <ref>金岡 2000,p25‐27</ref> ===その他中国領内のモンゴル=== 中国の[[新疆ウイグル自治区]]のにはかつて[[オイラト]]の[[ジュンガル]]帝国の子孫であるオイラド族が居住しており、[[ボルタラ・モンゴル自治州]]・[[バインゴリン・モンゴル自治州]]が行政区画に存在する。寧夏・甘粛地方にはイスラム教徒である[[ドンシャン族]]、[[バオアン族]]が居住している。 <ref>金岡 2000,p27</ref> ===ロシア領のモンゴル=== [[ロシア連邦]]の[[ブリヤート共和国]]にはモンゴル語北部方言に属する[[ブリヤート語]]を話す[[ブリヤート人]]が住んでいる。自治共和国の総人口は97万人([[2005年]])であり、そのうちの半数は[[ロシア人]]である。「ブリヤート」とはロシア風の発音で、もともとは「ボリヤド」という。ブリヤート人は12~13世紀ごろ「森の民(オイン・イルゲン)」と呼ばれ、モンゴル北部の森林地帯で狩猟と牧畜を営んでいた。[[1207年]]、[[チンギス・カン]]の長男[[ジョチ]]によってモンゴル帝国に編入されて以来、モンゴル民族となり、その影響で[[チベット仏教]]も広まった。17世紀よりロシアの侵入が始まり、[[1689年]]の[[ネルチンスク条約]]によってロシア領となる。[[1920年]]には[[赤軍]]により[[極東共和国]]が建てられ、まもなく[[ソ連]]領となり、[[1923年]]には[[ブリヤート自治ソビエト社会主義共和国|ブリヤート・モンゴル自治共和国]]に編入され、[[1958年]]には現在のブリヤート自治共和国に改称された。また、[[カスピ海]]北岸の[[カルムイク共和国]]には上記のオイラド族と同族である[[カルムイク人]]が住む。「カルムイク」とはヨーロッパ側からの呼び名であり、自称はやはり「オイラド」という。自治共和国の人口は29万人であるが、カルムイク人はその半数以下である。[[カルムイク語]]はモンゴル語西部方言に属し、文字はキリル文字の他縦書きモンゴル文字を改良した[[トド文字]]を使用する。 <ref>金岡 2000,p28‐29</ref> ==歴史== ===東胡=== 中国の[[春秋戦国時代]]から[[秦]]代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。[[山戎]]などとともに[[燕 (春秋)|燕]]の北に位置し、それぞれ分散して谷あいに居住していた。秦の[[始皇帝]]が中国を統一したころ、[[東胡]]は北方で強大となったが、[[匈奴]]の[[冒頓単于]]の侵攻により東胡王が殺され、その国は滅んだ。のちに東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は[[烏桓]]となり、鮮卑山に逃れた勢力は[[鮮卑]]となった。<ref>『史記』匈奴列伝</ref> ===烏桓・鮮卑=== 匈奴の冒頓単于によって東胡の国家が滅ぼされると、その残存勢力は烏桓山や鮮卑山に逃れたため、それぞれ烏桓、鮮卑と呼ばれるようになる。烏桓は早くから匈奴の臣下となっていたが、匈奴の[[壺衍鞮単于]](こえんていぜんう)(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代以降、叛服を繰り返すようになり、[[後漢]]の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当たるようになった。鮮卑も[[前漢]]時代は匈奴に属していたが、目立った動きはせず、後漢の時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、[[檀石槐]]の時代には大帝国を築いた。檀石槐の死後は部族が分裂し、[[拓跋部]],[[慕容部]],[[宇文部]],[[段部]]といった勢力が生まれ、[[五胡十六国時代]]、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]をもたらした。 <ref>『三国志』烏丸鮮卑等伝、『晋書』載記</ref> ===柔然=== [[柔然]]はもともと鮮卑拓跋部に属していたが、拓跋部が中国へ移住後([[北魏]])、[[高車]]などを吸収してモンゴル高原で勢力を拡大し、[[可汗]](かがん)を中心とする遊牧帝国を築いた。柔然はたびたび中国北部の拓跋氏の王朝北魏や、属民である高車などと衝突したが、6世紀の中頃に鍛鉄奴隷である[[突厥]]によって国を奪われてしまう。 <ref>『魏書』列伝第九十一、『北史』列伝第八十六</ref> ===契丹・奚・豆莫婁=== [[契丹]]は[[4世紀]]から[[14世紀]]にかけて、[[満州]]から[[中央アジア]]の地域に存在した半農半牧の民族。契丹、[[奚]]、[[豆莫婁]]、[[室韋]]は東部鮮卑の流れを汲むとされており、その言語は同じであるとされる。<ref name="『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二">『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二</ref> 契丹は[[10世紀]]に[[耶律阿保機]]のもとで国家を整備し、王朝([[遼]])を築いた。[[1004年]]には[[北宋]]と[[澶淵の盟|澶淵(せんえん)の盟]]を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになると、経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。しかし遼の上層部は次第に堕落し、内部抗争も激しさを増したため、[[1125年]]、[[女真]]族の王朝[[金 (王朝)|金]]の侵攻により遼は滅ぼされた。その余勢は中央アジアに逃れ[[西遼]](カラ・キタイ)を建国した。 ===室韋(三十姓タタル)=== 室韋・契丹とも中国史書には東胡の子孫であるとか、鮮卑の子孫であると記述されており<ref>『隋書』『北史』『新唐書』『新五代史』</ref>、室韋の一部族蒙兀室韋(蒙瓦部)がのちのモンゴルであることから、これらの民族系統はモンゴル系と推測される。しかし、大室韋などは「言葉が通じない」とあることから<ref>『隋書』列伝第四十九 北狄「又西北數千里,至大室韋,徑路險阻,語言不通。」,『北史』列伝第八十二「又西北數千里至大室韋,徑路險阻,言語不通。」</ref>、すべてがモンゴル系というわけではないといえる。 ===モンゴル部=== 中国の歴史書に[[室韋]]の一部族として「蒙兀室韋」<ref>『旧唐書』列伝第一百四十九下 北狄</ref>、「蒙瓦部」<ref>『新唐書』列伝第一百四十四 北狄</ref>という漢字名で記されたのがモンゴルの初出である。[[11世紀]]になると、「萌古国」という表記で『[[遼史]]』に登場し、遼帝国に朝貢していた<ref>『遼史』本紀第二十四 道宗四</ref>。このころのモンゴル部族は[[バイカル湖]]畔に住んであおり、そのころの指導者は[[トンビナイ・セチェン]]と考えられる<ref>宮脇 2002,p66</ref>。[[1125年]]、[[女真]]族の[[金 (王朝)|金帝国]]が遼帝国を滅ぼした頃、モンゴル国の初代[[ハーン|カン]]となったのはトンビナイ・セチェンの子[[カブル・カン]]であった。彼は金朝に朝貢した際に罪を犯したり、[[タタル部]]族と抗争したりしたため、次の[[アンバガイ・カン]]の時にその恨みが返って来て、アンバガイ・カンは金朝に処刑された。その後を継いだ[[クトラ・カン]]はアンバガイ・カンの仇を討つべく、モンゴル諸氏族を率いて金朝に攻め入り、敵軍を破って多数の略奪品を持ち帰った。これによって彼はモンゴルの吟遊詩人が熱愛する英雄となった。クトラ・カンの後、モンゴルのカンは空位となり、代わってクトラ・カンの甥にあたる[[イェスゲイ|イェスゲイ・バアトル]]が[[キヤト氏|キヤン氏族]]とニルン諸氏族をとりまとめた。<ref>村上 1970</ref> ===モンゴル帝国=== イェスゲイ・バアトルの子テムジンは周辺諸族を取りまとめ、[[1206年]]に[[チンギス・カン]]に即位し、イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)を建国した。通常この政権を'''モンゴル帝国'''と呼ぶ。[[モンゴル帝国]]は[[14世紀]]になると、東アジアの[[元朝]]、南ロシアの[[ジョチ・ウルス]]、西アジアのフレグ・ウルス([[イルハン朝]])、中央アジアのチャガタイ・ウルス([[チャガタイ・ハン国]])の4国に分かれ、一種の世界連邦を構成した。モンゴル系民族がユーラシア全土に広まったのはこの時代といってよい。 ===モンゴルとオイラト=== 元朝が[[1368年]]に漢民族の[[明|明朝]]に打倒されると、モンゴル民族は中国を捨ててモンゴル高原に後退した。通常この政権を'''北元'''と呼ぶ。しかし、モンゴルに支配されていた漢民族の政権である明朝では「蒙古」とは呼ばず「韃靼」と呼んだ。[[北元]]政権では[[ハーン]]の王統が不安定であり、[[クビライ]]の王統であったり、[[アリクブケ]]の王統であったりで、常に[[オイラト]]部族による擁立が頻発した。一時は[[エセン・ハーン]]というオイラト部族の出身者がハーンに即位したが、モンゴル部族出身の[[ダヤン・ハーン]]の中興によってオイラトは打倒され、新たなモンゴル帝国が再構築された。<ref>岡田 2004</ref> ===ジュンガル帝国=== [[17世紀]]、ダヤン・ハーンの一族によって打倒されたオイラト部族連合はモンゴル西部~[[ジュンガル盆地]]におり、その盟主は[[ドルベト部]]で、ドルベト部の左翼を担っていたのが、[[ジュンガル]]部であった。やがてオイラト部族連合はモンゴルの[[ハルハ]]部を破って独立を果たしたが、新たなオイラト盟主[[ホシュート]]部で内乱がおこると、オイラトの[[トルグート]]部は内乱を避けて遥かヴォルガ河畔へ避難し、これが現在の[[カルムィク人]]となる。ホシュート部の内乱を収束し、新たな部族長になったのが[[グーシ・ハーン]]であった。彼は[[チベット仏教]]の[[ゲルク派]]を擁護し、施主として[[青海]]に本拠を置いた。これが[[青海ホショト]]部となり、現在の[[オイラド族]]となる。一方、盟主がいなくなったオイラト本国はジュンガル部族長の[[バートル・ホンタイジ]]に任され、ジュンガル部が新たな盟主となり、次の[[ガルダン・ハーン]]の代でモンゴルを破って最大版図を実現し、ジュンガル帝国と呼べる政権を築く。1755年、清朝の侵攻によりジュンガルの帝国は崩壊し、その支配下に入ったが、[[天然痘]]の流行によりジュンガルの移民はほぼ全滅した。後に無人地帯となったイリ地方にヴォルガ河畔から一部のトルグート部が帰還した。これも現在のオイラド族となる。<ref>宮脇 2002,p188-213</ref> === [[清朝]]・外モンゴル(ハルハ)と内モンゴル(チャハル) === ダヤン・ハーンによって再構築されたモンゴル帝国は左翼の[[チャハル]]、[[ハルハ]]、[[ウリャンカイ|ウリヤンハイ]]と、右翼の[[オルドス部]]、[[トメト]]、[[ヨンシエブ]]の6トゥメンに分かれ、やがて現在のモンゴル国に当たる地域にはハルハ系の[[チェチェン・ハーン部]]、[[トシェート・ハーン部]]、[[ジャサクト・ハーン部]]、[[サイン・ノヤン部]]が形成され、[[清朝]]の支配下に入ると「外蒙古」と呼ばれた。現在の[[内モンゴル自治区]]に当たる地域には[[ジェリム盟]]、[[ジョソト盟]]、[[ジョーオダ盟]]、[[シリンゴル盟]]、[[ウランチャブ市|ウランチャブ盟]]、[[イフ・ジョー盟]]、[[アラシャン・オーロト部]]、[[エジネ・トルグート部]]などが形成され、清代に「内蒙古」と呼ばれた。<ref>宮脇 2002,p223</ref> ==歴史上のモンゴル系民族== 諸説あり、確証はないが、わずかでもモンゴル系民族とされている民族を以下に挙げる。 *[[東胡]]…近年は鮮卑(とくに拓跋部)の言語が[[モンゴル諸語|モンゴル系]]であること<ref>Pullyblank(1962)やLigeti(1970)によると、鮮卑語の特徴は[[モンゴル語]]であるという。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》</ref><ref>L.Ligeti(Le Tabghatch,un dialecte de la langue Sien-pi,1970)は、鮮卑拓跋語はモンゴル語の特徴を有し、テュルク語の特徴とは相容れないと強調する。《内田 1975,p4》</ref>、東胡時代の遺跡や遺物から鮮卑や烏丸に特徴的な習俗の痕跡が発見されていることから、東胡もモンゴル系とみる解釈が有力視されている<ref>『東北古代民族研究論網』</ref>。 *[[鮮卑]]…古くは [[テュルク諸語|テュルク系]]であるとする説<ref>{{en|[[ピーター・A・ブドバーグ|Boodberg]] (1936)}} や {{en|Bazin (1950)}} は、東胡の子孫である鮮卑族、特に拓跋部の言語を {{en|turkish}} ないし {{en|proto-turkish original}} であるとした。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》</ref>があったが、近年になって鮮卑(特に[[拓跋部]])の言語、[[鮮卑語]]は[[モンゴル諸語|モンゴル系]]であるという説が有力となっている<ref>{{en|Pullyblank (1962)}} や {{en|Ligeti (1970)}} によると、[[鮮卑語]](特に拓跋語)の特徴は[[モンゴル語]]であるという。《『騎馬民族史1』p9 注15、p218 注2》</ref>。 *[[烏桓]]…『三国志』や『後漢書』に「鮮卑の言語は[[烏桓]]と同じである」とあることから、鮮卑の言語がモンゴル系だとすれば、烏桓の言語もモンゴル系となる<ref>『三国志』鮮卑伝(王沈『魏書』)「其言語習俗與烏丸同。」、『後漢書』鮮卑伝「其言語習俗與烏桓同。」</ref>。 *[[柔然]]…可汗名の研究により、モンゴル系であるとされている。<ref>『騎馬民族史1』p217</ref> *[[契丹]]…[[白鳥庫吉]]は中国史書から契丹語を抽出し、これを当時の北アジア諸民族の言語と比較した結果、ある単語はモンゴル語、またある単語はツングース語で解きえるとし、契丹語はモンゴル語とツングース語の混成であると推論、現代でいえば[[ソロン人]]か[[ダフール人]]かのどちらかに該当するとした。さらにソロン人とダフール人の使用する[[数詞]]と、中国の史書の中から抽出した契丹語の数詞「一、五、百」の三語を対照させて、それが[[ダフール語]]に最も近似しているとした([[1912年]])。またロシアの[[ニコラス・ポッペ]]の研究によってダフール語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言であることが明らかにされた([[1934年]])。よって、契丹語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言に最も近い言語と考えてよい。<ref>島田 2014年,p99-100</ref> *[[室韋]]…中国の史書によると、室韋の言語は[[奚|庫莫奚]],契丹,[[豆莫婁]]と同じであることから<ref name="『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二"/>、モンゴル系である可能性が高い。 *[[奚]]…中国の史書によると、室韋の言語は庫莫奚,契丹,豆莫婁と同じであることから<ref name="『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二"/>、モンゴル系である可能性が高い。 *[[豆莫婁]]…中国の史書によると、室韋の言語は庫莫奚,契丹,豆莫婁と同じであることから<ref name="『魏書』列伝第八十八、『北史』列伝第八十二"/>、モンゴル系である可能性が高い。 *[[九姓タタル]] *[[烏古]] *[[阻卜]] *[[タタル部]] *[[ケレイト]]…[[ラシードゥッディーン]]は『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ([[集史]])』において、[[中央ユーラシア]]草原の遊牧民を大きく四つに分類し、第三類「以前は独立した首長を持っていたが、第二の[[テュルク系民族|テュルク]]部族とも第四の[[モンゴル]]族ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼らと近いテュルク部族」にケレイトを含めている。つまり、[[テュルク系]]ではあるが、[[モンゴル系]]に近い言語、もしくはテュルク系とモンゴル系の中間に位置する言語であったと推測される。そのため、ケレイトはテュルク系ともモンゴル系ともされている<ref>宮脇 2002,p138</ref>。 *[[オイラト]] **[[トルグート]] **[[ホシュート]] **[[ホイト]] **[[バートト]] **[[ドルベト]] **[[ジュンガル]] *[[エルクト・モンゴル族]] ==遺伝子== モンゴル系民族には[[Y染色体ハプログループ]]が[[ハプログループC-M217 (Y染色体)|C2系統]]が高頻度に観察される<ref>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>([[モンゴル民族]] 52%<ref name="Karafet 2001">Karafet T, Xu L, Du R et al. (September 2001). "Paternal population history of East Asia: sources, patterns, and microevolutionary processes". Am. J. Hum. Genet. 69 (3): 615–28. doi:10.1086/323299. PMC 1235490. {{PMID|11481588}}.</ref>-54%<ref name="Xue 2006">Yali Xue, Tatiana Zerjal, Weidong Bao, Suling Zhu, Qunfang Shu, Jiujin Xu, Ruofu Du, Songbin Fu, Pu Li, Matthew E. Hurles, Huanming Yang, and Chris Tyler-Smith, "Male Demography in East Asia: A North–South Contrast in Human Population Expansion Times." Genetics 172: 2431–2439 (April 2006). doi:10.1534/genetics.105.054270</ref>、[[ダウール族]] 31%<ref name="Xue 2006"/>など)。また、[[ハプログループN (Y染色体)]]も中頻度で見られる([[ブリヤート人]] 34.5% (20.2%,<ref name = "Derenko2006">Miroslava Derenko, Boris Malyarchuk, Galina A. Denisova, ''et al.'', "Contrasting patterns of Y-chromosome variation in South Siberian populations from Baikal and Altai-Sayan regions." ''Hum Genet'' (2006) 118: 591–604. DOI 10.1007/s00439-005-0076-y</ref>25.0%,<ref name = "Kim2011">Soon-Hee Kim, Ki-Cheol Kim, Dong-Jik Shin, Han-Jun Jin, Kyoung-Don Kwak, Myun-Soo Han, Joon-Myong Song, Won Kim, and Wook Kim, "High frequencies of Y-chromosome haplogroup O2b-SRY465 lineages in Korea: a genetic perspective on the peopling of Korea." Investigative Genetics 2011, 2:10.</ref>30.9%,<ref name = "Hammer2006">Hammer, Michael F.; Karafet, Tatiana M.; Park, Hwayong; Omoto, Keiichi; Harihara, Shinji; Stoneking, Mark; Horai, Satoshi (2006). "Dual origins of the Japanese: Common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes". Journal of Human Genetics 51 (1): 47–58. doi:10.1007/s10038-005-0322-0. {{PMID|16328082}}.</ref>48.0%<ref name = "Kharkov2014">V. N. Kharkov, K. V. Khamina, O. F. Medvedeva, K. V. Simonova, E. R. Eremina, and V. A. Stepanov, "Gene Pool of Buryats: Clinal Variability and Territorial Subdivision Based on Data of Y-Chromosome Markers." ISSN 1022-7954, ''Russian Journal of Genetics'', 2014, Vol. 50, No. 2, pp. 180–190. {{DOI|10.1134/S1022795413110082}}</ref>)、[[モンゴル民族]] 11%<ref name = "Xue 2006"/><ref name = "Kim2011"/><ref name = "Hammer2006"/><ref name = "Katoh2005">Toru Katoh, Batmunkh Munkhbat, Kenichi Tounai, ''et al.'', "Genetic features of Mongolian ethnic groups revealed by Y-chromosomal analysis." ''Gene'' 346 (2005) 63–70. {{doi|10.1016/j.gene.2004.10.023}}</ref><ref name = "DiCristofaro2013">Di Cristofaro J, Pennarun E, Mazières S, Myres NM, Lin AA, ''et al.'' (2013), "Afghan Hindu Kush: Where Eurasian Sub-Continent Gene Flows Converge." ''PLoS ONE'' 8(10): e76748. {{doi|10.1371/journal.pone.0076748}}</ref><ref name = "Balinova2019" />、[[カルムイク人]] 10.4%<ref name = "Balinova2019">Natalia Balinova, Helen Post, Siiri Rootsi, ''et al.'' (2019), "Y-chromosomal analysis of clan structure of Kalmyks, the only European Mongol people, and their relationship to Oirat-Mongols of Inner Asia." ''European Journal of Human Genetics'' {{doi|10.1038/s41431-019-0399-0}}</ref><ref name = "Malyarchuk2013">Boris Malyarchuk, Miroslava Derenko, Galina Denisova, Sanj Khoyt, Marcin Woźniak, Tomasz Grzybowski, and Ilya Zakharov, "Y-chromosome diversity in the Kalmyks at the ethnical and tribal levels." ''Journal of Human Genetics'' (2013) 58, 804–811; {{doi|10.1038/jhg.2013.108}}; published online 17 October 2013.</ref>)。 ==脚注== {{Reflist}} ==参考資料== *訳注:[[村上正二]]『モンゴル秘史1 チンギス・カン物語』([[平凡社]]、[[1970年]]、ISBN 4582801633) *[[コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン|ドーソン]](訳注:[[佐口透]])『モンゴル帝国史1』([[1989年]]、[[平凡社]]、ISBN 4582801102) *[[宮脇淳子]]『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』([[刀水書房]]、[[2002年]]、ISBN 4887082444) *[[白石典之]]『チンギス・カン “蒼き狼”の実像』(中央公論新社、2006年、ISBN 4121018281) *金岡秀郎『モンゴルを知るための60章』(明石書店、2000年、ISBN 9784750312743) *内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』([[同朋舎出版]]、[[1975年]]、ISBN 4810406261) *『東北古代民族研究論網』(中国社会科学出版社、[[2006年]]、ISBN 978-7-5004-6301-6) *[[内田吟風]]、[[田村実造]]他訳注『騎馬民族史1 正史北狄伝』([[平凡社東洋文庫]]、[[1971年]]) *島田正郎『契丹国―遊牧の民キタイの王朝』(東方書店、ISBN 978-4497933836) == 関連項目 == *[[オノン川]] *[[室韋]] *[[ブフ]](モンゴル相撲) *[[カルムイク人]] *[[ブリヤート人]] *[[モンゴル関係記事の一覧]] *[[モンゴロイド]] *[[モンゴル高原]] *[[モンゴル語]] *[[モンゴル族]] *[[モンゴル文字]] *[[モンゴル料理]] *[[遊牧民]] {{モンゴル系民族}} {{DEFAULTSORT:もんこるけいみんそく}} [[Category:モンゴル|*]] [[Category:モンゴル系民族|!]] [[Category:モンゴルの民族]]
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アルジェリア
アルジェリア民主人民共和国(アルジェリアみんしゅじんみんきょうわこく)、通称アルジェリアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。東にチュニジアとリビア、南東にニジェール、南西にマリとモーリタニア、西にモロッコとサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)と国境を接する。北は地中海を隔ててスペインや旧宗主国のフランスと向かい合う。首都はアルジェ。 アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。 2011年の南スーダン独立によりスーダンが分割され領土が縮小したことで、スーダンを超えてアフリカ大陸において最も領土が広い国となっている。 同国は世界全体でも第10位の領土面積を誇る国家である。 正式名称は、الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية (ラテン文字転写: al-Jumhūrīya al-Jazā'irīya al-Dīmuqrātīya al-Shaʿbīya)。アラビア語における通称はアル=ジャザーイル الجزائر (al-Jazā'ir)。 日本語表記は、アルジェリア民主人民共和国。通称アルジェリアで、英語名 Algeria に由来する。漢語表記は、阿爾及利亜または阿爾及。 アラビア語の国名は、首都アルジェのアラビア語名 الجزائر (アル=ジャザーイル) に由来する。両者ともに同じ綴り・発音で、国名については「アルジェがある国」のような意味合いを持つ。オスマン帝国時代にアルジェ含む一帯を都市と同名で呼んだのが起源で、南方の砂漠地帯と共にフランス領となった際にもその呼び名が引き継がれた。 英語名 Algeria は、アルジェのフランス語名である Alger に地名語尾の -ia を付して作られたもので、「アルジェの国」のような意味合いを持つ。 末尾に「人民共和国」とあるが、これはかつて社会主義を標榜していたからであって、現在は実質的に社会主義を放棄している。 新石器時代の住人は、タッシリ・ナジェール遺跡を遺した。紀元前には内陸部にベルベル人が存在した。沿岸部にはカルタゴの植民都市が存在したが、ポエニ戦争を経てカルタゴは滅亡。ベルベル人のヌミディア王国もユグルタ戦争やローマ内戦を経て、最終的にユリウス・カエサルの征服によってローマ共和国の属州となった。その後、ゲルマン系ヴァンダル族や東ローマ帝国の征服を受けた。 8世紀にウマイヤ朝などアラブ人イスラーム勢力が侵入し、イスラーム化した。アルジェリアには内陸部にルスタム朝が栄え、イスラーム化と共に住民のアラブ化も進み、11世紀のヒラール族の侵入によって農村部でのアラブ化が決定的になった。 イスラーム化した後もある程度の自治は保ち続けた。西から進出したムラービト朝、ムワッヒド朝の支配を経た後に、1229年にハフス朝が成立。1236年にトレムセンを都としたザイヤーン朝が成立した。 16世紀に入ると東からはオスマン帝国の、西からはスペイン帝国の進出が進み、1533年にはアルジェを根拠地とした海賊バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制(オスマン帝国の属州という形であったが、実際にはエジプトのムハンマド・アリー朝のような提督による間接支配に相当)が築かれ、アルジェのデイは沿岸のキリスト教国の船をバルバリア海賊を率いて襲撃していた。 これに対してアメリカ合衆国が武力行使し、第1次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)。第2次バーバリ戦争(1815年)と一連のバーバリ戦争が勃発。1816年8月27日には西欧諸国によるアルジェ砲撃が起きた。 1830年にフランスがアルジェを占領した。フランスによる征服に対してアブド・アルカーディルが激しく抵抗したが、1847年にフランスは全アルジェリアを支配した。アルジェリア北岸にはアルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県が置かれ、これら三県はフランス本土と同等の扱いを受け、多くのヨーロッパ人がフランス領アルジェリアに入植した。 1916年にトゥアレグ族の貴族Kaocen Ag Mohammedが、トゥアレグ族居住地域内のアガデスで蜂起した(en:Kaocen Revolt)。フランス軍が鎮圧したものの、第一次世界大戦が終わると独立運動が激化し始めた。 第二次世界大戦中の1942年のトーチ作戦以降は反ヴィシー政権の拠点となり、シャルル・ド・ゴールを首班とするフランス共和国臨時政府もアルジェで結成された。第二次世界大戦が終結すると独立運動が再び激化し始めた。1954年には現地人(アンディジェーヌ)と入植者(コロン)の対立に火が付きアルジェリア戦争が勃発、100万人に及ぶ死者を出した。アルジェリア戦争中の1960年代にはサハラ砂漠でフランスの核実験が行われた。「ジャミラ・ブーパシャ」も参照。 1962年7月5日にアルジェリア民主人民共和国として独立を達成し、8月4日に誕生した初代のベン・ベラ大統領は社会主義政策を採り、キューバ革命後のキューバと共に非同盟運動と世界革命路線を推進した。一方、独立によってトゥアレグ族居住地がアルジェリアとマリ、ニジェールに分割されていたが、域内アガデス州のアーリットとアクータ鉱山から産出する、冷戦下で重要性が高まっていたウランを巡って、第1次トゥアレグ抵抗運動(英語版)(1962年-1964年)が勃発した。産出するウランの一部は日本に出荷されている。1963年10月、西サハラ国境(ティンドゥフ県、ベシャール県)をめぐる砂戦争(英語版)でモロッコと交戦した。 1965年にウアリ・ブーメディエン(英語版)が軍事クーデターでベン・ベラ政権を打倒し、ベン・ベラを幽閉した。ブーメディエンは、現実的な国造りを進め、社会主義政策に基づいて経済成長を達成した。1976年1月、西サハラのアムガラ(英語版)でモロッコと交戦(第1次アムガラの戦い (1976年)(英語版))し、西サハラ戦争(英語版)(1975年 - 1991年)にサハラ・アラブ民主共和国(1976年2月独立)側で参戦した。1978年にブーメディエンが死去した後、1980年代に入ると民族解放戦線(FLN)の一党制によるアラブ人主導の国造りに対して、ベルベル人からの反発が高まった。 進行していた経済危機の影響もあって1989年に憲法が改正され、複数政党制が認められた。1980年代後半からシャドリ・ベンジェディード(英語版)政権でのFLNによる一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、1991年の選挙でイスラム原理主義政党のイスラム救国戦線(英語版)(FIS)が圧勝したが、直後の1992年1月に世俗主義を標榜した軍部主導のクーデターと国家非常事態宣言によって、選挙結果は事実上無効になった。このクーデターにより国内情勢は不安定化し、軍とイスラム原理主義過激派の武装イスラム集団(GIA)とのアルジェリア内戦(1991年12月26日 - 2002年2月8日)により10万人以上の犠牲者が出た。内戦末期の1998年9月にはGIAから「説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団」(GSPC、2007年以降はイスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構)が誕生した。 1995年に大統領に就任したリアミール・ゼルーアル(英語版)大統領は2000年の任期満了を待たずに辞任したため、1999年4月に行われた大統領選挙でアブデルアジズ・ブーテフリカ大統領が選出された。一時、国情が沈静化しつつあったものの、北部や東部ではAQIM(イスラーム・マグリブ地域のアル=カーイダ組織)によるテロが頻発し、犠牲者が多数出ており、その後も国家非常事態宣言は発令されたままの状況が続いた。 2004年、トランス・サハラにおける不朽の自由作戦に加わった。2009年4月9日大統領選挙が行われ、ブーテフリカ大統領が90.24%で3選されたと同国内務省が10日発表した。任期は5年。投票率は70.11%であった。 2010年-2011年アルジェリア騒乱が発生したこともあり、発令より19年が経過した2011年2月24日になってようやく国家非常事態宣言が解除された。 2013年1月16日、イリジ県イナメナスにある天然ガス関連施設でアルジェリア人質事件が起こった。 2019年、5回目の再選を目指すブーテフリカ大統領に対する大規模抗議運動(en:2019 Algerian protests)が起き、ブーテフリカは続投を断念することとなった。その結果、同年の大統領選に立候補していた元首相のアブデルマジド・テブンが当選を果たした。 2021年8月24日、カビリー地方の独立運動やアルジェリア国内の山火事にモロッコが関与しているとして、アルジェリアはモロッコとの国交断絶を宣言した。断交の背景には、西サハラの領有権を主張するモロッコと、サハラ・アラブ民主共和国としての独立を主張するポリサリオ戦線を支援しているアルジェリアの対立がある。 大統領を国家元首とする共和制を敷いており、現行憲法は1976年憲法である。大統領は民選で、任期は2期5年とされていたが、2008年に当選回数制限は解除され、2014年の大統領選挙でブーテフリカが4度目の当選を決めた。2019年4月18日に予定されていた大統領選挙(英語版)に出馬し5選を目指す意向を示していたが、国内で反対デモが相次いだため3月11日に出馬断念を表明。同時に大統領選挙の延期を発表したほか、ヌレディン・ベドゥイ(英語版)内務大臣を新首相に任命した。同年4月1日、4月28日の任期満了までに大統領を退くことを発表。翌2日、正式に辞任した。その後、2019年大統領選挙により、アブデルマジド・テブンが当選し、2019年12月19日に大統領に就任する。 行政府の長は首相で、大統領が任命する。首相は各大臣を任命する権限がある。1995年以降は複数候補による大統領選挙が行われている。 立法権は議会に属し、議会は、1996年まで一院制をとってきたが、憲法改正により両院制(二院制)へ移行した。下院は407議席、上院は174議席からなる。 主要政党としては民族解放戦線(FLN)、民主国民連合である。その他にも、平和のための社会運動(MSP)、アルジェリア希望の集まり(TAJ)、穏健改革イスラム党連合(MFB)、社会主義勢力戦線(FFN)、アルジェリア人民運動(MPA)などが挙げられる。 司法権は最高裁判所に属している。 基本政策は非同盟中立、アラブ連帯であり、1960年代から1970年代まではキューバや北ベトナムと共に第三世界諸国の中心的存在だったが、1979年のシャドリ政権以降は現実主義・全方位外交を基調としている。近年はG8諸国を中心に先進国との外交活動を積極的に推進している。これはここ数年のアルジェリアはテロのイメージが強く、それを払拭するためである。この努力の結果、アルジェリアへのイメージも改善されてきている。 アフリカ諸国、アラブ諸国の中心的存在にある国の一つであり、アフリカ連合(AU)、アラブ・マグレブ連合、アラブ連盟に加盟している。2005年にはアラブ連盟の議長国を務め、国連の非常任理事国にも度々選出されている。 マグリブ諸国との関係においては、独立以来国家体制の相違や、領土問題、パレスチナ問題への取り組み、アルジェリアによる西サハラ独立運動の支援など様々な要因により、アルジェリアはモロッコとの対立を繰り広げてきた。1994年以来、モロッコとの国境は封鎖されている。 モロッコが大部分を実効支配する西サハラの独立を訴えるサハラ・アラブ民主共和国とポリサリオ戦線を一貫して支持しており、アルジェリア領内には西サハラ難民の難民キャンプが存在する。日本で2019年に開催された第7回アフリカ開発会議でサハラ・アラブ民主共和国代表団はアルジェリアが発給した旅券で日本に入国し、日本政府が黙認する形で参加が実現した。 2021年8月、アルジェリア政府は国内で発生した山火事にモロッコが関与していると発表。 2021年8月24日、アルジェリアはモロッコとの国交断絶を宣言した。アルジェリアは同年9月にはモロッコの航空機に対して領空通過を禁止し、10月にはモロッコを通る天然ガスパイプラインを閉鎖するなど措置をエスカレートし、両国間の軍備競争も進んでいる。 日本との関係においては、独立戦争を全学連 や宇都宮徳馬、北村徳太郎らが支援したことをきっかけに、独立後も友好的な関係が築かれた。アルジェリアは日本企業に多くの開発事業を発注し、1978年には日本人在留者(在アルジェリア日本人)が3,234人に達するなど、日本にとって最も関わりの深いアラブの国となったが、1990年代の内戦勃発以後日本人在留者の数は急速に減少した。 2011年東日本大震災において8億3510万円(世界6位)の義援金を日本に贈る。 アルジェリアの軍隊はアルジェリア人民国軍(ANP)と称される。軍は陸軍、海軍、空軍の3軍と防空軍、ジャンダルメ(国家憲兵)によって構成される。 軍の前身は国民解放戦線の軍事部門だった国民解放軍(ALN)であり、独立後に現在の形に再編された。 兵器体系はソ連に準じていたが、ソ連崩壊後は中華人民共和国や欧米からも導入して装備を多様化させている。 国土の大部分をサハラ砂漠が占め、乾燥した平原地帯となっている。しかし、北部には2000m級のアトラス山脈が走り、地中海沿岸は雨量も多く、草原なども広がり、国民の約95%がこの地域に居住している。地中海の対岸にはスペイン、フランスが存在する。一見して日本より相当南の緯度にあると思われがちだが、首都のアルジェは新潟県南部や石川県中部、長野県北部や富山県北部や栃木県北部や群馬県北部や茨城県北部とほぼ同じ緯度である。ユーラシアプレートとアフリカプレートの境に位置するため、地震国である。 アトラス山脈はアルジェリア北西部でアトラス高原を挟んで北部のテルアトラス山脈と南部のサハラアトラス山脈の2つに分かれている。アトラス高原には塩湖やそれが枯渇した盆地が多数ある。また、アトラス山脈から北にシェリーフ川が流れる。 サハラアトラス山脈の南にはわずかなステップ地帯があり、それ以外は全てサハラ砂漠になる。内陸部の砂漠地帯は標高1000 m以下の平原が多いが、ニジェールとリビアの国境に近いアルジェリア南東部は山がちで、ホガール山地やアドラル山地、ナジェール高原、ホガール高原などがある。ホガール山地は火山性で、アルジェリア最高峰のタハト山 (2,918m) を有する。 北部の地中海沿岸部は温帯で典型的な地中海性気候である。南カリフォルニアとほぼ同じ緯度にあり、気候も類似した部分が多い。平均気温は夏は20から25°C、冬は10から12°Cで、アトラス高原はステップ気候になる。アトラス高原から南に行くにつれて冬と夏、昼夜の温度差が激しくなり、降水量が少なくなる。また、夏には暑く乾燥したシロッコが吹き、その風は海岸部にまで及ぶ。降水量は沿岸部で年間500mm前後。また、東に行くにつれ降水量は多くなり、降水量はコンスタンティーヌで1000mm近くまで及ぶ。地中海沿岸以外の国土の大部分は、砂漠気候となっている。山岳地帯では、冬になると雪が降り、吹雪になることもある。 アルジェリアは58のウィラーヤ(県)、547のダイラ(英語版)(郡)と1,541のバラディヤ(英語版)(基礎自治体)に分けられている。各県の県名は、最大都市の名前からとられている。 主要都市はアルジェ、オラン、コンスタンティーヌ、アンナバなど。 2013年のアルジェリアの国内総生産|(GDP)は約2060億ドルであり、埼玉県とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりのGDPは5,437ドルであり、アフリカ諸国の中では上位に位置する。 膨大な対外債務があるが、天然ガスや石油を産出し、近年の原油価格上昇で貿易黒字が増大している。それ以外にも鉄鉱石やリン鉱石などを産する。国内産業は農業が主で、小麦、オレンジなどを産する。貿易相手は欧米が中心。フランスに存在する100万人以上の出稼ぎアルジェリア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 アルジェリアの鉱業を支えているのは、天然ガス(3213千兆ジュール、世界シェア5位、2003年時点)である。原油(4560万トン)、石炭(2万4000トン)にも恵まれる。アルジェリア産の石油は非常に軽いことで知られる。1992年時点では天然ガスと石油が総輸出額の97%に達した。2003年時点においても98%を維持している。 金属資源としては、300トン(世界シェア同率3位)に達する水銀の採掘が特筆に値する。リン鉱石、鉄鉱石の埋蔵量も多いが開発は進んでいない。ジュベル・オングのリン鉱床は2100平方kmにわたって広がり、埋蔵量は世界最大級とされるものの、採掘量は28万トンに過ぎない。これは1991年時点の109万トンと比較しても低調である。鉄鉱石も234万4000トン(1991年)から70万トン(2003年)に減少している。これは社会主義政策による国営企業を民営化する計画が1995年から始まったことにもよる。 アルジェリアの国土の約9割はサハラ砂漠の一部である。しかしながら、アトラス山脈と地中海に挟まれた帯状の地域は年降水量が600 mm以上に達し、農耕が可能である。国土面積のうち3.5%が耕地であり、人口の10%弱が農業に従事している。主要穀物では、乾燥に強い小麦(260万トン、以下2002年時点の統計)のほか、大麦も栽培されている。特徴的な作物としては地中海性気候に適したナツメヤシ(45万トン)がある。生産量は世界シェア7位に達する。オリーブ(17万トン)や柑橘類の生産も盛んだ。 アルジェリアの貿易はフランスの植民地時代において非常に発展した。現在総輸出額が495億9000万ドル、輸入額が225億3000万ドルとなっており、主な輸出国はアメリカ(22.8%)、イタリア(16.2%)スペイン(10.4%)フランス(10%)、輸入国はフランス(28.2%)、イタリア(7.8%)、スペイン(7.1%)、中華人民共和国(6.6%)となっている。 インフレ率は1995年ごろは30%だったが、その後は減少し、近年は1-3%で推移している。GDP成長率は1990年代は停滞していたものの、近年は5%前後まで回復している。また、貧困率はアフリカ諸国の中では低いが、地域間の経済格差は依然としてまだ残っている。 政府は積極的に経済改革を推進し、諸外国からの投資を誘致したり、国営企業を売却(民営化)したりしているが、経済の多角化は進んでおらず、石油や天然ガスに頼ったままである。失業率も30歳以下で70%前後と高く、未だ解決に至っていない。 製造業はGDPのうちの多くを占めるが、大半は自国向けである。 イスラム銀行の副次国でもある。 1990年代のイスラム原理主義過激派によるテロにより観光者は激減、アルジェリア観光は壊滅的な被害を受けた。しかし、2000年代に入るとテロが沈静化し、それに伴い徐々に再び観光客は増加しているが、それでも全盛期までには至っておらず、日本国外務省の海外安全情報でも未だにアルジェリア全土の危険を喚起している。 観光地としては、アルジェ(特にカスバなど)、ティムガッド遺跡、ティパサ遺跡、ジェミラ遺跡など古代ローマの遺跡観光、ガルダイアのムザブの谷などが有名である。 ブーテフリカ政権時代に中国企業によって建設されたグランド・モスク・アルジェ(英語版)は2019年の完成時点で世界で最も高いミナレットとサウジアラビアの二聖モスク(マスジド・ハラームと預言者のモスク)に次ぐ巨大なモスクである。 交通インフラは、旧態依然の状態であったが、2000年代に入りモロッコ国境からチュニジア国境まで国土を横断する当時世界最大の公共事業の1つとされたアルジェリア東西高速道路計画を中国企業と日本企業が受注し、日本企業としても過去最大級の海外でのインフラ工事であることから国内外から注目を浴び、完成すれば国内の物流が画期的に向上することから経済対策の切り札として期待されていた。中国企業が担当した二つの区間は2010年10月と2012年4月にそれぞれ完成している。しかし、2016年7月に代金の支払いをめぐって工事を打ち切った日本企業の担当した区間も中国企業に建設させると2017年11月にアルジェリア政府は発表した。 また、アルジェリアを縦断する南北高速道路も中国企業によって建設され、2018年4月に一部開通した。 人口の約90%は、北部の地中海沿岸地域に住んでいる。また、人口の約半分が都市部に住んでいる。人口の30%が15歳以下である。義務教育は6歳から16歳までで、全て無料である。人口増加率はアフリカ諸国の中では比較的少ない。平均寿命は73.26歳であり、内訳は男性は71.68年、女性は74.92年となっている。独立後イスラーム法に基づいた家族法の下で、アルジェリアでは一夫多妻制が継続された。2005年の新家族法公布によって女性の地位は以前に比べれば向上したが、それでも一夫多妻制は一定の条件の下で合法のままとされた。 国民の80%がアラブ人で、残りの20%がベルベル人であり、ベルベル人はカビリー地方のカビール人をはじめ、シャウィーア人(英語版)、ムザブ人(英語版)、トゥアレグ人など4つのグループに分かれる。わずかにフランス人(ピエ・ノワールの残留者)も存在する。南部の砂漠地帯には少数派の約150万人の遊牧民(ベドウィン)やスーダン系黒人が住む。難民キャンプには、西サハラからのサハラウィー人(英語版)が46,000人が居住している。2009年、35,000人の華僑(海外中国人労働者)が居住している。 主要言語はアラビア語とベルベル語であり、公用語もこの二つである。口語として話されるのはアラビア語アルジェリア方言(アーンミーヤ)であるが、公用語は文語である正則アラビア語(フスハー)としている。アルジェリア方言はオスマン帝国の軍人がもたらしたトルコ語の影響を受けており、スペイン支配を受けていた西部のオランなどではスペイン語の影響を受けている。 1962年の独立以来植民地時代のフランス語教育への反動として急速なアラビア語化が進んだが、このことはアラブへの同化を拒否するベルベル語話者の反発を招き、1980年代にはベルベル問題を引き起こした。このため、2002年の憲法改正によってベルベル語(タマジグト)が国民語としての地位を認められ、2016年2月7日には公用語となった。 フランス語は公式な公用語には指定されていないが、教育、政府、メディア、ビジネスなどで広く用いられるなど事実上の公用語となっており、大多数の国民はフランス語を話す。2008年の調査では、アルジェリア国民の3人に1人がフランス語を日常的に使用し、読み書きしているという状況であった(「fr:Langues en Algérie」も参照)。 国民が信仰する宗教は、99%がイスラム教で、そのほとんどがスンナ派である。イバード派もわずかに存在し、ムザブ人(英語版)などのベルベル人がこれに属す。また、キリスト教徒やユダヤ教徒もわずかに存在する。キリスト教最大の教父ヒッポのアウグスティヌスはアルジェリアの生まれだった。 6歳から15歳までの義務教育が敷かれている。義務教育は9年間の初等教育と前期中等教育を一貫した基礎教育学校(エコール・フォンダマンタル)で行われ、義務教育期間はアラビア語で教授されるが、大学教育ではフランス語で教授されることも多くなる。2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は69.9%(男性:79.6%、女性:60.1%)である。アルジェリアの独立時の識字率は約10%だった。 現在アルジェリアには43の大学、10の単科大学、7の高等専門学校が存在する。主な高等教育機関としては、アルジェ大学(1879年、1909年)、国立アルジェ工科大学(1923年)などが挙げられる。 アルジェリアの治安は不安定となっている。2019年4月から2度にわたり延期されていた大統領選挙が同年12月12日に実施された結果、テブンが当選し同月19日に大統領へ就任したが、その際の組閣後も金曜日の民衆デモ及び火曜日の学生デモは継続される見込みとなっていて緊張状態が続いている。それに伴い、デモなどの抗議行動が予定されている地域は非常に危険な状況にあり、安全面の確保からもその地域に近付かないよう努めなければならない。 傍らで一般犯罪は引き続き多発しており、侵入盗(強盗、窃盗)や自動車盗、車上狙いや引ったくりの他、誘拐や薬物犯罪などが増加していることから注意する必要が求められている。さらに最近の原油の国際価格低迷による経済悪化が同国の治安に及ぼす影響も懸念されている。 アルジェリア料理は他のマグレブ諸国の料理と同様、地中海沿岸産の果物や野菜、さらには幾つかの熱帯の果物や野菜を生産している為、バリエーションが非常に豊かなものとなっている。同国料理で使用されるスパイスは多種多様で、一部には乾燥させた赤唐辛子が用いられている。 古代には、ラテン語で『黄金のろば』を著したアプレイウスや、『告白』を著したキリスト教の教父アウグスティヌスなどが活躍した。 19世紀末ごろからアルジェリア育ちのヨーロッパ人は自らを「アルジェリア人」と規定し、フランス語でアルジェリアニスム運動を主導した。こうした作家にはルイ・アルトランやロベール・ランドーなどが挙げられる。20世紀のフランス文学を代表するフランス語作家の一人であるアルベール・カミュはアルジェリアで生まれ育ち、カミュの『異邦人』はアルジェリアを舞台としているが、カミュはこうした潮流を継ぐ存在であった。 一方、アルジェリアの原住民(アンディジェーヌ)、つまりムスリムによるフランス語小説としてはムールード・フェラウンの『貧者の息子』(1950年)が最古のものである。代表的な現代アルジェリアの作家としてはムハンマド・ディブ、カテブ・ヤシーン、ラシッド・ブージェドラ、ヤスミナ・カドラ、アフガール・モスタガーネミー、アマーラ・ラフース、アシア・ジェバールなどが挙げられる。 古代において、最大の教父と呼ばれ、キリスト教思想や西欧哲学に大きな影響を与えたアウグスティヌスは現アルジェリアの生まれだった。 中世においてはアルジェリア生まれではないが、チュニス生まれでイスラーム世界最大の学者と呼ばれるイブン=ハルドゥーンは『歴史序説』をイブン・サラーマ城(英語版)(現ティアレット県ティアレット)で著した。また、20世紀後半において脱構築というシニフィアンを初めて唱えたジャック・デリダもアルジェリア生まれのユダヤ人だった。ポストコロニアリズムの先駆者となったマルティニーク生まれのフランツ・ファノンもまたアルジェリアで書いた。 アルジェリアの音楽は、レコンキスタによってスペインから追放されたムーア人のアル・アンダルスの音楽に起源を持つ。 1980年代に世界に広まった音楽のライは、アルジェリアの音楽である。ライ歌手のシェブ・ハスニ(英語版)は、1994年9月29日に武装イスラム集団(GIA)に暗殺された。アルジェリア内戦中の同時期に多くの音楽家(en:Lounès Matoub、en:Rachid Baba Ahmedなど)が暗殺され、アルジェリアの音楽家の多くがフランスに活動拠点を移している。フランスに渡ったアルジェリア人や、その子孫のアルジェリア系フランス人の中には活動の拠点をフランスに移しているアルジェリア人の音楽家もいる。代表的な存在としては、国民的作家カテブ・ヤシーンの息子アマジーグ・カテブ(英語版)がグルノーブルで結成したレゲエバンドグナワ・ディフュージョン、ライを含む幅広いジャンルを演奏するラシッド・タハがなどが挙げられる。ライ歌手のシェブ・マミ(英語版)(サイダ県出身)は、スティングと共演した『Desert Rose』(1999年)などで世界的にその名を知られている。 また、南部の黒人の音楽としてグナワ音楽(英語版)(「ギニア」に由来する)が挙げられ、ブライアン・ジョーンズ、ロバート・プラント、ジミー・ペイジなどは、グナワ音楽家とコラボレートした作品を発表している。 アルジェリア出身の代表的な映像作家としては、モハメド・ラフダル・ハミナ、メフディ・シャレフ、メルザック・アルアーシュなどが挙げられる。 アルジェリア人によるものではないがアルジェリアを舞台にし、アルジェリア戦争を描いた映画として、イタリアのジロ・ポンテルコロポによる『アルジェの戦い』(1966年)やフランスのフローラン=エミリオ・シリによる『いのちの戦場 -アルジェリア1959-』(2007年)などが挙げられる。 アルジェリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、複合遺産が1件存在する。 この他にイスラーム教の祝祭日がある。 アルジェリア国内では植民地時代にフランスからもたらされたサッカーが、1番人気のスポーツとなっている。サッカーアルジェリア代表はFIFAワールドカップには1982年大会、1986年大会、2010年大会、2014年大会の4度出場している。中でも、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督に率いられた2014年大会では、初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。 アルジェリアで人気のサッカー選手であり、世界的にも有名なドリブラーのリヤド・マフレズは、マンチェスター・シティの中心選手として活躍している。また、レスター・シティ所属時代の2016年にはジェイミー・ヴァーディや岡崎慎司らと、クラブ創設132年目にして初のプレミアリーグ優勝という歴史的なメンバーの一員となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アルジェリア民主人民共和国(アルジェリアみんしゅじんみんきょうわこく)、通称アルジェリアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。東にチュニジアとリビア、南東にニジェール、南西にマリとモーリタニア、西にモロッコとサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)と国境を接する。北は地中海を隔ててスペインや旧宗主国のフランスと向かい合う。首都はアルジェ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2011年の南スーダン独立によりスーダンが分割され領土が縮小したことで、スーダンを超えてアフリカ大陸において最も領土が広い国となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "同国は世界全体でも第10位の領土面積を誇る国家である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "正式名称は、الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية (ラテン文字転写: al-Jumhūrīya al-Jazā'irīya al-Dīmuqrātīya al-Shaʿbīya)。アラビア語における通称はアル=ジャザーイル الجزائر (al-Jazā'ir)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語表記は、アルジェリア民主人民共和国。通称アルジェリアで、英語名 Algeria に由来する。漢語表記は、阿爾及利亜または阿爾及。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アラビア語の国名は、首都アルジェのアラビア語名 الجزائر (アル=ジャザーイル) に由来する。両者ともに同じ綴り・発音で、国名については「アルジェがある国」のような意味合いを持つ。オスマン帝国時代にアルジェ含む一帯を都市と同名で呼んだのが起源で、南方の砂漠地帯と共にフランス領となった際にもその呼び名が引き継がれた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "英語名 Algeria は、アルジェのフランス語名である Alger に地名語尾の -ia を付して作られたもので、「アルジェの国」のような意味合いを持つ。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "末尾に「人民共和国」とあるが、これはかつて社会主義を標榜していたからであって、現在は実質的に社会主義を放棄している。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "新石器時代の住人は、タッシリ・ナジェール遺跡を遺した。紀元前には内陸部にベルベル人が存在した。沿岸部にはカルタゴの植民都市が存在したが、ポエニ戦争を経てカルタゴは滅亡。ベルベル人のヌミディア王国もユグルタ戦争やローマ内戦を経て、最終的にユリウス・カエサルの征服によってローマ共和国の属州となった。その後、ゲルマン系ヴァンダル族や東ローマ帝国の征服を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "8世紀にウマイヤ朝などアラブ人イスラーム勢力が侵入し、イスラーム化した。アルジェリアには内陸部にルスタム朝が栄え、イスラーム化と共に住民のアラブ化も進み、11世紀のヒラール族の侵入によって農村部でのアラブ化が決定的になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "イスラーム化した後もある程度の自治は保ち続けた。西から進出したムラービト朝、ムワッヒド朝の支配を経た後に、1229年にハフス朝が成立。1236年にトレムセンを都としたザイヤーン朝が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "16世紀に入ると東からはオスマン帝国の、西からはスペイン帝国の進出が進み、1533年にはアルジェを根拠地とした海賊バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制(オスマン帝国の属州という形であったが、実際にはエジプトのムハンマド・アリー朝のような提督による間接支配に相当)が築かれ、アルジェのデイは沿岸のキリスト教国の船をバルバリア海賊を率いて襲撃していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "これに対してアメリカ合衆国が武力行使し、第1次バーバリ戦争(1801年 - 1805年)。第2次バーバリ戦争(1815年)と一連のバーバリ戦争が勃発。1816年8月27日には西欧諸国によるアルジェ砲撃が起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1830年にフランスがアルジェを占領した。フランスによる征服に対してアブド・アルカーディルが激しく抵抗したが、1847年にフランスは全アルジェリアを支配した。アルジェリア北岸にはアルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県が置かれ、これら三県はフランス本土と同等の扱いを受け、多くのヨーロッパ人がフランス領アルジェリアに入植した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1916年にトゥアレグ族の貴族Kaocen Ag Mohammedが、トゥアレグ族居住地域内のアガデスで蜂起した(en:Kaocen Revolt)。フランス軍が鎮圧したものの、第一次世界大戦が終わると独立運動が激化し始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中の1942年のトーチ作戦以降は反ヴィシー政権の拠点となり、シャルル・ド・ゴールを首班とするフランス共和国臨時政府もアルジェで結成された。第二次世界大戦が終結すると独立運動が再び激化し始めた。1954年には現地人(アンディジェーヌ)と入植者(コロン)の対立に火が付きアルジェリア戦争が勃発、100万人に及ぶ死者を出した。アルジェリア戦争中の1960年代にはサハラ砂漠でフランスの核実験が行われた。「ジャミラ・ブーパシャ」も参照。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1962年7月5日にアルジェリア民主人民共和国として独立を達成し、8月4日に誕生した初代のベン・ベラ大統領は社会主義政策を採り、キューバ革命後のキューバと共に非同盟運動と世界革命路線を推進した。一方、独立によってトゥアレグ族居住地がアルジェリアとマリ、ニジェールに分割されていたが、域内アガデス州のアーリットとアクータ鉱山から産出する、冷戦下で重要性が高まっていたウランを巡って、第1次トゥアレグ抵抗運動(英語版)(1962年-1964年)が勃発した。産出するウランの一部は日本に出荷されている。1963年10月、西サハラ国境(ティンドゥフ県、ベシャール県)をめぐる砂戦争(英語版)でモロッコと交戦した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1965年にウアリ・ブーメディエン(英語版)が軍事クーデターでベン・ベラ政権を打倒し、ベン・ベラを幽閉した。ブーメディエンは、現実的な国造りを進め、社会主義政策に基づいて経済成長を達成した。1976年1月、西サハラのアムガラ(英語版)でモロッコと交戦(第1次アムガラの戦い (1976年)(英語版))し、西サハラ戦争(英語版)(1975年 - 1991年)にサハラ・アラブ民主共和国(1976年2月独立)側で参戦した。1978年にブーメディエンが死去した後、1980年代に入ると民族解放戦線(FLN)の一党制によるアラブ人主導の国造りに対して、ベルベル人からの反発が高まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "進行していた経済危機の影響もあって1989年に憲法が改正され、複数政党制が認められた。1980年代後半からシャドリ・ベンジェディード(英語版)政権でのFLNによる一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、1991年の選挙でイスラム原理主義政党のイスラム救国戦線(英語版)(FIS)が圧勝したが、直後の1992年1月に世俗主義を標榜した軍部主導のクーデターと国家非常事態宣言によって、選挙結果は事実上無効になった。このクーデターにより国内情勢は不安定化し、軍とイスラム原理主義過激派の武装イスラム集団(GIA)とのアルジェリア内戦(1991年12月26日 - 2002年2月8日)により10万人以上の犠牲者が出た。内戦末期の1998年9月にはGIAから「説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団」(GSPC、2007年以降はイスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構)が誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1995年に大統領に就任したリアミール・ゼルーアル(英語版)大統領は2000年の任期満了を待たずに辞任したため、1999年4月に行われた大統領選挙でアブデルアジズ・ブーテフリカ大統領が選出された。一時、国情が沈静化しつつあったものの、北部や東部ではAQIM(イスラーム・マグリブ地域のアル=カーイダ組織)によるテロが頻発し、犠牲者が多数出ており、その後も国家非常事態宣言は発令されたままの状況が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2004年、トランス・サハラにおける不朽の自由作戦に加わった。2009年4月9日大統領選挙が行われ、ブーテフリカ大統領が90.24%で3選されたと同国内務省が10日発表した。任期は5年。投票率は70.11%であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2010年-2011年アルジェリア騒乱が発生したこともあり、発令より19年が経過した2011年2月24日になってようやく国家非常事態宣言が解除された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2013年1月16日、イリジ県イナメナスにある天然ガス関連施設でアルジェリア人質事件が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2019年、5回目の再選を目指すブーテフリカ大統領に対する大規模抗議運動(en:2019 Algerian protests)が起き、ブーテフリカは続投を断念することとなった。その結果、同年の大統領選に立候補していた元首相のアブデルマジド・テブンが当選を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2021年8月24日、カビリー地方の独立運動やアルジェリア国内の山火事にモロッコが関与しているとして、アルジェリアはモロッコとの国交断絶を宣言した。断交の背景には、西サハラの領有権を主張するモロッコと、サハラ・アラブ民主共和国としての独立を主張するポリサリオ戦線を支援しているアルジェリアの対立がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大統領を国家元首とする共和制を敷いており、現行憲法は1976年憲法である。大統領は民選で、任期は2期5年とされていたが、2008年に当選回数制限は解除され、2014年の大統領選挙でブーテフリカが4度目の当選を決めた。2019年4月18日に予定されていた大統領選挙(英語版)に出馬し5選を目指す意向を示していたが、国内で反対デモが相次いだため3月11日に出馬断念を表明。同時に大統領選挙の延期を発表したほか、ヌレディン・ベドゥイ(英語版)内務大臣を新首相に任命した。同年4月1日、4月28日の任期満了までに大統領を退くことを発表。翌2日、正式に辞任した。その後、2019年大統領選挙により、アブデルマジド・テブンが当選し、2019年12月19日に大統領に就任する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "行政府の長は首相で、大統領が任命する。首相は各大臣を任命する権限がある。1995年以降は複数候補による大統領選挙が行われている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "立法権は議会に属し、議会は、1996年まで一院制をとってきたが、憲法改正により両院制(二院制)へ移行した。下院は407議席、上院は174議席からなる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "主要政党としては民族解放戦線(FLN)、民主国民連合である。その他にも、平和のための社会運動(MSP)、アルジェリア希望の集まり(TAJ)、穏健改革イスラム党連合(MFB)、社会主義勢力戦線(FFN)、アルジェリア人民運動(MPA)などが挙げられる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "司法権は最高裁判所に属している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "基本政策は非同盟中立、アラブ連帯であり、1960年代から1970年代まではキューバや北ベトナムと共に第三世界諸国の中心的存在だったが、1979年のシャドリ政権以降は現実主義・全方位外交を基調としている。近年はG8諸国を中心に先進国との外交活動を積極的に推進している。これはここ数年のアルジェリアはテロのイメージが強く、それを払拭するためである。この努力の結果、アルジェリアへのイメージも改善されてきている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アフリカ諸国、アラブ諸国の中心的存在にある国の一つであり、アフリカ連合(AU)、アラブ・マグレブ連合、アラブ連盟に加盟している。2005年にはアラブ連盟の議長国を務め、国連の非常任理事国にも度々選出されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "マグリブ諸国との関係においては、独立以来国家体制の相違や、領土問題、パレスチナ問題への取り組み、アルジェリアによる西サハラ独立運動の支援など様々な要因により、アルジェリアはモロッコとの対立を繰り広げてきた。1994年以来、モロッコとの国境は封鎖されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "モロッコが大部分を実効支配する西サハラの独立を訴えるサハラ・アラブ民主共和国とポリサリオ戦線を一貫して支持しており、アルジェリア領内には西サハラ難民の難民キャンプが存在する。日本で2019年に開催された第7回アフリカ開発会議でサハラ・アラブ民主共和国代表団はアルジェリアが発給した旅券で日本に入国し、日本政府が黙認する形で参加が実現した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2021年8月、アルジェリア政府は国内で発生した山火事にモロッコが関与していると発表。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2021年8月24日、アルジェリアはモロッコとの国交断絶を宣言した。アルジェリアは同年9月にはモロッコの航空機に対して領空通過を禁止し、10月にはモロッコを通る天然ガスパイプラインを閉鎖するなど措置をエスカレートし、両国間の軍備競争も進んでいる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本との関係においては、独立戦争を全学連 や宇都宮徳馬、北村徳太郎らが支援したことをきっかけに、独立後も友好的な関係が築かれた。アルジェリアは日本企業に多くの開発事業を発注し、1978年には日本人在留者(在アルジェリア日本人)が3,234人に達するなど、日本にとって最も関わりの深いアラブの国となったが、1990年代の内戦勃発以後日本人在留者の数は急速に減少した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2011年東日本大震災において8億3510万円(世界6位)の義援金を日本に贈る。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アルジェリアの軍隊はアルジェリア人民国軍(ANP)と称される。軍は陸軍、海軍、空軍の3軍と防空軍、ジャンダルメ(国家憲兵)によって構成される。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "軍の前身は国民解放戦線の軍事部門だった国民解放軍(ALN)であり、独立後に現在の形に再編された。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "兵器体系はソ連に準じていたが、ソ連崩壊後は中華人民共和国や欧米からも導入して装備を多様化させている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "国土の大部分をサハラ砂漠が占め、乾燥した平原地帯となっている。しかし、北部には2000m級のアトラス山脈が走り、地中海沿岸は雨量も多く、草原なども広がり、国民の約95%がこの地域に居住している。地中海の対岸にはスペイン、フランスが存在する。一見して日本より相当南の緯度にあると思われがちだが、首都のアルジェは新潟県南部や石川県中部、長野県北部や富山県北部や栃木県北部や群馬県北部や茨城県北部とほぼ同じ緯度である。ユーラシアプレートとアフリカプレートの境に位置するため、地震国である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "アトラス山脈はアルジェリア北西部でアトラス高原を挟んで北部のテルアトラス山脈と南部のサハラアトラス山脈の2つに分かれている。アトラス高原には塩湖やそれが枯渇した盆地が多数ある。また、アトラス山脈から北にシェリーフ川が流れる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "サハラアトラス山脈の南にはわずかなステップ地帯があり、それ以外は全てサハラ砂漠になる。内陸部の砂漠地帯は標高1000 m以下の平原が多いが、ニジェールとリビアの国境に近いアルジェリア南東部は山がちで、ホガール山地やアドラル山地、ナジェール高原、ホガール高原などがある。ホガール山地は火山性で、アルジェリア最高峰のタハト山 (2,918m) を有する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "北部の地中海沿岸部は温帯で典型的な地中海性気候である。南カリフォルニアとほぼ同じ緯度にあり、気候も類似した部分が多い。平均気温は夏は20から25°C、冬は10から12°Cで、アトラス高原はステップ気候になる。アトラス高原から南に行くにつれて冬と夏、昼夜の温度差が激しくなり、降水量が少なくなる。また、夏には暑く乾燥したシロッコが吹き、その風は海岸部にまで及ぶ。降水量は沿岸部で年間500mm前後。また、東に行くにつれ降水量は多くなり、降水量はコンスタンティーヌで1000mm近くまで及ぶ。地中海沿岸以外の国土の大部分は、砂漠気候となっている。山岳地帯では、冬になると雪が降り、吹雪になることもある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アルジェリアは58のウィラーヤ(県)、547のダイラ(英語版)(郡)と1,541のバラディヤ(英語版)(基礎自治体)に分けられている。各県の県名は、最大都市の名前からとられている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "主要都市はアルジェ、オラン、コンスタンティーヌ、アンナバなど。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2013年のアルジェリアの国内総生産|(GDP)は約2060億ドルであり、埼玉県とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりのGDPは5,437ドルであり、アフリカ諸国の中では上位に位置する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "膨大な対外債務があるが、天然ガスや石油を産出し、近年の原油価格上昇で貿易黒字が増大している。それ以外にも鉄鉱石やリン鉱石などを産する。国内産業は農業が主で、小麦、オレンジなどを産する。貿易相手は欧米が中心。フランスに存在する100万人以上の出稼ぎアルジェリア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アルジェリアの鉱業を支えているのは、天然ガス(3213千兆ジュール、世界シェア5位、2003年時点)である。原油(4560万トン)、石炭(2万4000トン)にも恵まれる。アルジェリア産の石油は非常に軽いことで知られる。1992年時点では天然ガスと石油が総輸出額の97%に達した。2003年時点においても98%を維持している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "金属資源としては、300トン(世界シェア同率3位)に達する水銀の採掘が特筆に値する。リン鉱石、鉄鉱石の埋蔵量も多いが開発は進んでいない。ジュベル・オングのリン鉱床は2100平方kmにわたって広がり、埋蔵量は世界最大級とされるものの、採掘量は28万トンに過ぎない。これは1991年時点の109万トンと比較しても低調である。鉄鉱石も234万4000トン(1991年)から70万トン(2003年)に減少している。これは社会主義政策による国営企業を民営化する計画が1995年から始まったことにもよる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アルジェリアの国土の約9割はサハラ砂漠の一部である。しかしながら、アトラス山脈と地中海に挟まれた帯状の地域は年降水量が600 mm以上に達し、農耕が可能である。国土面積のうち3.5%が耕地であり、人口の10%弱が農業に従事している。主要穀物では、乾燥に強い小麦(260万トン、以下2002年時点の統計)のほか、大麦も栽培されている。特徴的な作物としては地中海性気候に適したナツメヤシ(45万トン)がある。生産量は世界シェア7位に達する。オリーブ(17万トン)や柑橘類の生産も盛んだ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アルジェリアの貿易はフランスの植民地時代において非常に発展した。現在総輸出額が495億9000万ドル、輸入額が225億3000万ドルとなっており、主な輸出国はアメリカ(22.8%)、イタリア(16.2%)スペイン(10.4%)フランス(10%)、輸入国はフランス(28.2%)、イタリア(7.8%)、スペイン(7.1%)、中華人民共和国(6.6%)となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "インフレ率は1995年ごろは30%だったが、その後は減少し、近年は1-3%で推移している。GDP成長率は1990年代は停滞していたものの、近年は5%前後まで回復している。また、貧困率はアフリカ諸国の中では低いが、地域間の経済格差は依然としてまだ残っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "政府は積極的に経済改革を推進し、諸外国からの投資を誘致したり、国営企業を売却(民営化)したりしているが、経済の多角化は進んでおらず、石油や天然ガスに頼ったままである。失業率も30歳以下で70%前後と高く、未だ解決に至っていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "製造業はGDPのうちの多くを占めるが、大半は自国向けである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "イスラム銀行の副次国でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1990年代のイスラム原理主義過激派によるテロにより観光者は激減、アルジェリア観光は壊滅的な被害を受けた。しかし、2000年代に入るとテロが沈静化し、それに伴い徐々に再び観光客は増加しているが、それでも全盛期までには至っておらず、日本国外務省の海外安全情報でも未だにアルジェリア全土の危険を喚起している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "観光地としては、アルジェ(特にカスバなど)、ティムガッド遺跡、ティパサ遺跡、ジェミラ遺跡など古代ローマの遺跡観光、ガルダイアのムザブの谷などが有名である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ブーテフリカ政権時代に中国企業によって建設されたグランド・モスク・アルジェ(英語版)は2019年の完成時点で世界で最も高いミナレットとサウジアラビアの二聖モスク(マスジド・ハラームと預言者のモスク)に次ぐ巨大なモスクである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "交通インフラは、旧態依然の状態であったが、2000年代に入りモロッコ国境からチュニジア国境まで国土を横断する当時世界最大の公共事業の1つとされたアルジェリア東西高速道路計画を中国企業と日本企業が受注し、日本企業としても過去最大級の海外でのインフラ工事であることから国内外から注目を浴び、完成すれば国内の物流が画期的に向上することから経済対策の切り札として期待されていた。中国企業が担当した二つの区間は2010年10月と2012年4月にそれぞれ完成している。しかし、2016年7月に代金の支払いをめぐって工事を打ち切った日本企業の担当した区間も中国企業に建設させると2017年11月にアルジェリア政府は発表した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "また、アルジェリアを縦断する南北高速道路も中国企業によって建設され、2018年4月に一部開通した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "人口の約90%は、北部の地中海沿岸地域に住んでいる。また、人口の約半分が都市部に住んでいる。人口の30%が15歳以下である。義務教育は6歳から16歳までで、全て無料である。人口増加率はアフリカ諸国の中では比較的少ない。平均寿命は73.26歳であり、内訳は男性は71.68年、女性は74.92年となっている。独立後イスラーム法に基づいた家族法の下で、アルジェリアでは一夫多妻制が継続された。2005年の新家族法公布によって女性の地位は以前に比べれば向上したが、それでも一夫多妻制は一定の条件の下で合法のままとされた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "国民の80%がアラブ人で、残りの20%がベルベル人であり、ベルベル人はカビリー地方のカビール人をはじめ、シャウィーア人(英語版)、ムザブ人(英語版)、トゥアレグ人など4つのグループに分かれる。わずかにフランス人(ピエ・ノワールの残留者)も存在する。南部の砂漠地帯には少数派の約150万人の遊牧民(ベドウィン)やスーダン系黒人が住む。難民キャンプには、西サハラからのサハラウィー人(英語版)が46,000人が居住している。2009年、35,000人の華僑(海外中国人労働者)が居住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "主要言語はアラビア語とベルベル語であり、公用語もこの二つである。口語として話されるのはアラビア語アルジェリア方言(アーンミーヤ)であるが、公用語は文語である正則アラビア語(フスハー)としている。アルジェリア方言はオスマン帝国の軍人がもたらしたトルコ語の影響を受けており、スペイン支配を受けていた西部のオランなどではスペイン語の影響を受けている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1962年の独立以来植民地時代のフランス語教育への反動として急速なアラビア語化が進んだが、このことはアラブへの同化を拒否するベルベル語話者の反発を招き、1980年代にはベルベル問題を引き起こした。このため、2002年の憲法改正によってベルベル語(タマジグト)が国民語としての地位を認められ、2016年2月7日には公用語となった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "フランス語は公式な公用語には指定されていないが、教育、政府、メディア、ビジネスなどで広く用いられるなど事実上の公用語となっており、大多数の国民はフランス語を話す。2008年の調査では、アルジェリア国民の3人に1人がフランス語を日常的に使用し、読み書きしているという状況であった(「fr:Langues en Algérie」も参照)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "国民が信仰する宗教は、99%がイスラム教で、そのほとんどがスンナ派である。イバード派もわずかに存在し、ムザブ人(英語版)などのベルベル人がこれに属す。また、キリスト教徒やユダヤ教徒もわずかに存在する。キリスト教最大の教父ヒッポのアウグスティヌスはアルジェリアの生まれだった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "6歳から15歳までの義務教育が敷かれている。義務教育は9年間の初等教育と前期中等教育を一貫した基礎教育学校(エコール・フォンダマンタル)で行われ、義務教育期間はアラビア語で教授されるが、大学教育ではフランス語で教授されることも多くなる。2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は69.9%(男性:79.6%、女性:60.1%)である。アルジェリアの独立時の識字率は約10%だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "現在アルジェリアには43の大学、10の単科大学、7の高等専門学校が存在する。主な高等教育機関としては、アルジェ大学(1879年、1909年)、国立アルジェ工科大学(1923年)などが挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アルジェリアの治安は不安定となっている。2019年4月から2度にわたり延期されていた大統領選挙が同年12月12日に実施された結果、テブンが当選し同月19日に大統領へ就任したが、その際の組閣後も金曜日の民衆デモ及び火曜日の学生デモは継続される見込みとなっていて緊張状態が続いている。それに伴い、デモなどの抗議行動が予定されている地域は非常に危険な状況にあり、安全面の確保からもその地域に近付かないよう努めなければならない。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "傍らで一般犯罪は引き続き多発しており、侵入盗(強盗、窃盗)や自動車盗、車上狙いや引ったくりの他、誘拐や薬物犯罪などが増加していることから注意する必要が求められている。さらに最近の原油の国際価格低迷による経済悪化が同国の治安に及ぼす影響も懸念されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アルジェリア料理は他のマグレブ諸国の料理と同様、地中海沿岸産の果物や野菜、さらには幾つかの熱帯の果物や野菜を生産している為、バリエーションが非常に豊かなものとなっている。同国料理で使用されるスパイスは多種多様で、一部には乾燥させた赤唐辛子が用いられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "古代には、ラテン語で『黄金のろば』を著したアプレイウスや、『告白』を著したキリスト教の教父アウグスティヌスなどが活躍した。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "19世紀末ごろからアルジェリア育ちのヨーロッパ人は自らを「アルジェリア人」と規定し、フランス語でアルジェリアニスム運動を主導した。こうした作家にはルイ・アルトランやロベール・ランドーなどが挙げられる。20世紀のフランス文学を代表するフランス語作家の一人であるアルベール・カミュはアルジェリアで生まれ育ち、カミュの『異邦人』はアルジェリアを舞台としているが、カミュはこうした潮流を継ぐ存在であった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "一方、アルジェリアの原住民(アンディジェーヌ)、つまりムスリムによるフランス語小説としてはムールード・フェラウンの『貧者の息子』(1950年)が最古のものである。代表的な現代アルジェリアの作家としてはムハンマド・ディブ、カテブ・ヤシーン、ラシッド・ブージェドラ、ヤスミナ・カドラ、アフガール・モスタガーネミー、アマーラ・ラフース、アシア・ジェバールなどが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "古代において、最大の教父と呼ばれ、キリスト教思想や西欧哲学に大きな影響を与えたアウグスティヌスは現アルジェリアの生まれだった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "中世においてはアルジェリア生まれではないが、チュニス生まれでイスラーム世界最大の学者と呼ばれるイブン=ハルドゥーンは『歴史序説』をイブン・サラーマ城(英語版)(現ティアレット県ティアレット)で著した。また、20世紀後半において脱構築というシニフィアンを初めて唱えたジャック・デリダもアルジェリア生まれのユダヤ人だった。ポストコロニアリズムの先駆者となったマルティニーク生まれのフランツ・ファノンもまたアルジェリアで書いた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "アルジェリアの音楽は、レコンキスタによってスペインから追放されたムーア人のアル・アンダルスの音楽に起源を持つ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1980年代に世界に広まった音楽のライは、アルジェリアの音楽である。ライ歌手のシェブ・ハスニ(英語版)は、1994年9月29日に武装イスラム集団(GIA)に暗殺された。アルジェリア内戦中の同時期に多くの音楽家(en:Lounès Matoub、en:Rachid Baba Ahmedなど)が暗殺され、アルジェリアの音楽家の多くがフランスに活動拠点を移している。フランスに渡ったアルジェリア人や、その子孫のアルジェリア系フランス人の中には活動の拠点をフランスに移しているアルジェリア人の音楽家もいる。代表的な存在としては、国民的作家カテブ・ヤシーンの息子アマジーグ・カテブ(英語版)がグルノーブルで結成したレゲエバンドグナワ・ディフュージョン、ライを含む幅広いジャンルを演奏するラシッド・タハがなどが挙げられる。ライ歌手のシェブ・マミ(英語版)(サイダ県出身)は、スティングと共演した『Desert Rose』(1999年)などで世界的にその名を知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また、南部の黒人の音楽としてグナワ音楽(英語版)(「ギニア」に由来する)が挙げられ、ブライアン・ジョーンズ、ロバート・プラント、ジミー・ペイジなどは、グナワ音楽家とコラボレートした作品を発表している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "アルジェリア出身の代表的な映像作家としては、モハメド・ラフダル・ハミナ、メフディ・シャレフ、メルザック・アルアーシュなどが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "アルジェリア人によるものではないがアルジェリアを舞台にし、アルジェリア戦争を描いた映画として、イタリアのジロ・ポンテルコロポによる『アルジェの戦い』(1966年)やフランスのフローラン=エミリオ・シリによる『いのちの戦場 -アルジェリア1959-』(2007年)などが挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "アルジェリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、複合遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "この他にイスラーム教の祝祭日がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "アルジェリア国内では植民地時代にフランスからもたらされたサッカーが、1番人気のスポーツとなっている。サッカーアルジェリア代表はFIFAワールドカップには1982年大会、1986年大会、2010年大会、2014年大会の4度出場している。中でも、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督に率いられた2014年大会では、初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "アルジェリアで人気のサッカー選手であり、世界的にも有名なドリブラーのリヤド・マフレズは、マンチェスター・シティの中心選手として活躍している。また、レスター・シティ所属時代の2016年にはジェイミー・ヴァーディや岡崎慎司らと、クラブ創設132年目にして初のプレミアリーグ優勝という歴史的なメンバーの一員となった。", "title": "スポーツ" } ]
アルジェリア民主人民共和国(アルジェリアみんしゅじんみんきょうわこく)、通称アルジェリアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。東にチュニジアとリビア、南東にニジェール、南西にマリとモーリタニア、西にモロッコとサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)と国境を接する。北は地中海を隔ててスペインや旧宗主国のフランスと向かい合う。首都はアルジェ。
{{基礎情報 国 | 略名 =アルジェリア | 日本語国名 =アルジェリア民主人民共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|ar|الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية}}'''<small>(アラビア語)</small><br>'''ⵜⴰⴳⴷⵓⴷⴰ ⵜⴰⵎⴳⴷⴰⵢⵜ ⵜⴰⵖⵔⴼⴰⵏⵜ ⵜⴰⴷⵣⴰⵢⵔⵉⵜ'''<small>(ベルベル語)</small> | 国旗画像 = Flag of Algeria.svg | 国章画像 = [[File:Emblem of Algeria.svg|90px]] | 国章リンク = ([[アルジェリアの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|ar|من الشعب و للشعب}}''<br /> ([[アラビア語]]: 人々により、そして人々のために) | 位置画像 = Algeria (orthographic projection).svg | 公用語 = [[アラビア語]]・[[ベルベル語派]] | 首都 = [[アルジェ]] | 最大都市 = アルジェ | 元首等肩書 = [[アルジェリアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[アブデルマジド・テブン]] | 首相等肩書 = [[アルジェリアの首相|首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|ナディル・ラルバウイ|fr|Nadir Larbaoui}} | 面積順位 = 10 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 2,381,740 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 34 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 4385万1000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/dz.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 18.4<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 20兆4283億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月16日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=612,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 56 | GDP値MER = 1710億7000万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 3939.536<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 33 | GDP値 = 5164億8000万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 1万1893.882<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[国家の独立|独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[フランス]]より<br />[[1962年]][[7月5日]] | 通貨 = [[アルジェリア・ディナール]] | 通貨コード = DZD | 時間帯 = (+1) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[誓い (国歌)|{{lang|ar|قسما}}]]{{ar icon}}<br>''誓い''<br>{{center|[[ファイル:National anthem of Algeria, by the U.S. Navy Band.oga]]}} | ISO 3166-1 = DZ / DZA | ccTLD = [[.dz]] | 国際電話番号 = 213 | 注記 = }} '''アルジェリア民主人民共和国'''(アルジェリアみんしゅじんみんきょうわこく)、通称'''アルジェリア'''は、[[北アフリカ]]の[[マグリブ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。東に[[チュニジア]]と[[リビア]]、南東に[[ニジェール]]、南西に[[マリ共和国|マリ]]と[[モーリタニア]]、西に[[モロッコ]]と[[サハラ・アラブ民主共和国]]([[西サハラ]])と[[国境]]を接する。北は[[地中海]]を隔てて[[スペイン]]や旧[[宗主国]]の[[フランス]]と向かい合う。首都は[[アルジェ]]。 == 概要 == [[アフリカ|アフリカ世界]]と[[地中海世界]]と[[アラブ諸国|アラブ世界]]の一員であり、[[アフリカ連合]]と[[アラブ連盟]]と[[地中海連合]]と[[アラブ・マグレブ連合]]に加盟している。 2011年の[[南スーダン]]独立により[[スーダン]]が分割され[[領土]]が縮小したことで、スーダンを超えて[[アフリカ大陸]]において最も領土が広い国となっている。 同国は世界全体でも第10位の領土面積を誇る国家である。 == 国名 == 正式名称は、'''{{Lang|ar|الجمهورية الجزائرية الديمقراطية الشعبية}}''' ({{Small|ラテン文字転写}}: al-Jumhūrīya al-Jazā'irīya al-Dīmuqrātīya al-Shaʿbīya)。[[アラビア語]]における通称はアル=ジャザーイル الجزائر (al-Jazā'ir)。 [[日本語]]表記は、'''アルジェリア民主人民共和国'''。通称'''アルジェリア'''で、[[英語]]名 ''Algeria'' に由来する。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢語表記]]は、'''阿爾及利亜'''または'''阿爾及'''。 アラビア語の国名は、首都[[アルジェ]]のアラビア語名 ''الجزائر'' (アル=ジャザーイル) に由来する。両者ともに同じ綴り・発音で、国名については「アルジェがある国」のような意味合いを持つ。オスマン帝国時代にアルジェ含む一帯を都市と同名で呼んだのが起源で、南方の砂漠地帯と共にフランス領となった際にもその呼び名が引き継がれた。 英語名 ''Algeria'' は、アルジェの[[フランス語]]名である ''Alger'' に地名語尾の -ia を付して作られたもので、「アルジェの国」のような意味合いを持つ。 末尾に「[[人民共和国]]」とあるが、これはかつて[[社会主義]]を[[標榜]]していたからであって、現在は実質的に社会主義を放棄している。 == 歴史 == {{main|アルジェリアの歴史}} === 古代アルジェリア === [[新石器時代]]の住人は、[[タッシリ・ナジェール]]遺跡を遺した。紀元前には内陸部に[[ベルベル人]]が存在した。沿岸部には[[カルタゴ]]の[[古代の植民都市#フェニキアの植民地|植民都市]]が存在したが、[[ポエニ戦争]]を経てカルタゴは滅亡。ベルベル人の[[ヌミディア王国]]も[[ユグルタ戦争]]や[[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]を経て、最終的に[[ユリウス・カエサル]]の征服によって[[共和政ローマ|ローマ共和国]]の[[属州]]となった。その後、[[ゲルマン人|ゲルマン系]][[ヴァンダル族]]や[[東ローマ帝国]]の征服を受けた。 === イスラーム帝国期 === 8世紀に[[ウマイヤ朝]]など[[アラブ人]][[イスラーム]]勢力が侵入し、イスラーム化した。アルジェリアには内陸部に[[ルスタム朝]]が栄え、イスラーム化と共に住民のアラブ化も進み、11世紀の[[バヌーヒラル|ヒラール族]]の侵入によって農村部でのアラブ化が決定的になった。 イスラーム化した後もある程度の自治は保ち続けた。西から進出した[[ムラービト朝]]、[[ムワッヒド朝]]の支配を経た後に、1229年に[[ハフス朝]]が成立。1236年に[[トレムセン]]を都とした[[ザイヤーン朝]]が成立した。 === オスマン帝国領アルジェリア期 === {{main|{{仮リンク|オスマン・アルジェリア|en|Ottoman Algeria|label=オスマン帝国領アルジェリア}}|[[バルバリア海岸]]}} 16世紀に入ると東からは[[オスマン帝国]]の、西からは[[スペイン帝国]]の進出が進み、[[1533年]]にはアルジェを根拠地とした[[海賊]][[バルバロス・ハイレディン|バルバロッサ]]がオスマン帝国の宗主権を受け入れた。1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。オスマン帝国の治下では[[トルコ人]]による支配体制(オスマン帝国の属州という形であったが、実際にはエジプトの[[ムハンマド・アリー朝]]のような提督による間接支配に相当)が築かれ、[[デイ (オスマン帝国)|アルジェのデイ]]は沿岸の[[キリスト教]]国の船を[[バルバリア海賊]]を率いて襲撃していた。 これに対して[[アメリカ合衆国]]が武力行使し、[[第一次バーバリ戦争|第1次バーバリ戦争]](1801年 - 1805年)。[[第2次バーバリ戦争]]([[1815年]])と一連の[[バーバリ戦争]]が勃発。[[1816年]][[8月27日]]には西欧諸国による[[アルジェ砲撃]]が起きた。 === フランス領アルジェリア期 === [[ファイル:Abdelkader.jpg|thumb|220px|right|フランス人の[[アルジェリア征服]]に抵抗した[[アブド・アルカーディル]](アブデルカーデル)]] {{main|フランス領アルジェリア}} [[1830年]]に[[アルジェリア侵略|フランスがアルジェを占領した]]。フランスによる征服に対して[[アブド・アルカーディル]]が激しく抵抗したが、[[1847年]]にフランスは全アルジェリアを支配した。アルジェリア北岸にはアルジェ県、[[オラン県]]、[[コンスタンティーヌ県]]が置かれ、これら三県はフランス本土と同等の扱いを受け、多くのヨーロッパ人がフランス領アルジェリアに入植した。 [[1916年]]に[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]の貴族[[:en:Ag Mohammed Wau Teguidda Kaocen|Kaocen Ag Mohammed]]が、トゥアレグ族居住地域内の[[アガデス]]で蜂起した([[:en:Kaocen Revolt]])。フランス軍が鎮圧したものの、[[第一次世界大戦]]が終わると独立運動が激化し始めた。 [[第二次世界大戦]]中の1942年の[[トーチ作戦]]以降は反[[ヴィシー政権]]の拠点となり、[[シャルル・ド・ゴール]]を首班とする[[フランス共和国臨時政府]]もアルジェで結成された。第二次世界大戦が終結すると独立運動が再び激化し始めた。[[1954年]]には現地人(アンディジェーヌ)と入植者(コロン)の対立に火が付き[[アルジェリア戦争]]が勃発、100万人に及ぶ死者を出した。アルジェリア戦争中の1960年代には[[サハラ砂漠]]で[[フランスの大量破壊兵器#核実験|フランスの核実験]]が行われた。「[[ジャミラ・ブーパシャ]]」も参照。 === 独立 === [[1962年]][[7月5日]]にアルジェリア民主人民共和国として独立を達成し、[[8月4日]]に誕生した初代の[[ベン・ベラ]]大統領は[[社会主義]]政策を採り、[[キューバ革命]]後の[[キューバ]]と共に[[非同盟]]運動と世界革命路線を推進した。一方、独立によって[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]居住地がアルジェリアと[[マリ共和国|マリ]]、[[ニジェール]]に分割されていたが、域内[[アガデス州]]の[[アーリット]]と[[アクータ鉱山]]から産出する、[[冷戦]]下で重要性が高まっていた[[ウラン]]を巡って、{{仮リンク|第1次トゥアレグ抵抗運動|en|First Tuareg Rebellion}}(1962年-1964年)が勃発した。産出するウランの一部は日本に出荷されている。[[1963年]]10月、[[西サハラ]]国境([[ティンドゥフ県]]、[[ベシャール県]])をめぐる{{仮リンク|砂戦争|en|Sand War}}で[[モロッコ]]と交戦した。 [[1965年]]に{{仮リンク|ウアリ・ブーメディエン|en|Houari Boumediene}}が軍事[[クーデター]]でベン・ベラ政権を打倒し、ベン・ベラを幽閉した。ブーメディエンは、現実的な国造りを進め、社会主義政策に基づいて経済成長を達成した。[[1976年]]1月、西サハラの{{仮リンク|アムガラ|en|Amgala}}でモロッコと交戦({{仮リンク|第1次アムガラの戦い (1976年)|en|First Battle of Amgala (1976)}})し、{{仮リンク|西サハラ戦争|en|Western Sahara War<!-- [[:ja:西サハラ問題]] とリンク -->}}([[1975年]] - [[1991年]])に[[サハラ・アラブ民主共和国]]([[1976年]]2月独立)側で参戦した。1978年にブーメディエンが死去した後、1980年代に入ると[[アルジェリア民族解放戦線|民族解放戦線]](FLN)の[[一党制]]によるアラブ人主導の国造りに対して、[[ベルベル人]]からの反発が高まった。 進行していた経済危機の影響もあって[[1989年]]に憲法が改正され、[[複数政党制]]が認められた。1980年代後半から{{仮リンク|シャドリ・ベンジェディード|en|Chadli Bendjedid}}政権でのFLNによる一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心に[[イスラーム主義]]への支持が進み、[[1991年]]の選挙で[[イスラム原理主義]]政党の{{仮リンク|イスラム救国戦線|en|Islamic Salvation Front}}(FIS)が圧勝したが、直後の[[1992年]][[1月]]に[[世俗主義]]を標榜した軍部主導のクーデターと[[国家非常事態宣言]]によって、選挙結果は事実上無効になった。このクーデターにより国内情勢は不安定化し、軍とイスラム原理主義過激派の[[武装イスラム集団]](GIA)との[[アルジェリア内戦]]([[1991年]][[12月26日]] - [[2002年]][[2月8日]])により10万人以上の犠牲者が出た。内戦末期の1998年9月にはGIAから「説教と戦闘の為のサラフィー主義者集団」(GSPC、2007年以降は[[AQIM|イスラーム・マグリブ諸国のアル=カーイダ機構]])が誕生した。 1995年に大統領に就任した{{仮リンク|リアミール・ゼルーアル|en|Liamine Zéroual}}大統領は2000年の任期満了を待たずに辞任したため、1999年4月に行われた大統領選挙で[[アブデルアジズ・ブーテフリカ]]大統領が選出された。一時、国情が沈静化しつつあったものの、北部や東部では[[AQIM]](イスラーム・マグリブ地域のアル=カーイダ組織)によるテロが頻発し、犠牲者が多数出ており、その後も国家非常事態宣言は発令されたままの状況が続いた。 [[2004年]]、[[トランス・サハラにおける不朽の自由作戦]]に加わった。[[2009年]][[4月9日]]大統領選挙が行われ、ブーテフリカ大統領が90.24%で3選されたと同国内務省が10日発表した。任期は5年。投票率は70.11%であった。 [[2010年-2011年アルジェリア騒乱]]が発生したこともあり、発令より19年が経過した2011年2月24日になってようやく国家非常事態宣言が解除された<ref>{{Cite news |url=https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-19716720110225 |title=アルジェリアが非常事態宣言を解除、反体制派に譲歩 |work=ロイター |publisher=[[ロイター]] |date=2011-02-25 |accessdate=2011-02-25 }}</ref>。 [[2013年]][[1月16日]]、[[イリジ県]][[イナメナス]]にある[[天然ガス]]関連施設で[[アルジェリア人質事件]]が起こった。 2019年、5回目の再選を目指すブーテフリカ大統領に対する大規模抗議運動([[:en:2019 Algerian protests]])が起き、ブーテフリカは続投を断念することとなった。その結果、同年の大統領選に立候補していた元首相の[[アブデルマジド・テブン]]が当選を果たした。 2021年8月24日、[[:en:Kabylia|カビリー地方]]の独立運動やアルジェリア国内の山火事にモロッコが関与しているとして、アルジェリアはモロッコとの国交断絶を宣言した<ref name="AFP20210825" />。断交の背景には、西サハラの領有権を主張するモロッコと、[[サハラ・アラブ民主共和国]]としての独立を主張する[[ポリサリオ戦線]]を支援しているアルジェリアの対立がある<ref name="読売20211122">アルジェ 対モロッコ強硬「西サハラで主権」反発『[[読売新聞]]』朝刊2021年11月22日(国際面)</ref>。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|アルジェリアの政治|en|Politics of Algeria}}}} [[ファイル:Bouteflika (Algiers, Feb 2006).jpeg|thumb|right|150px|元大統領[[アブデルアジズ・ブーテフリカ]](1999年4月~2019年4月)]] [[File:Abdelmadjid Tebboune 20200119.jpg|thumb|right|150px|現大統領[[アブデルマジド・テブン]](2019年12月19日~)]] === 元首 === {{See also|アルジェリアの大統領}} [[大統領]]を国家[[元首]]とする[[共和制]]を敷いており、現行憲法は1976年憲法である。大統領は民選で、任期は2期5年とされていたが、2008年に当選回数制限は解除され、2014年の大統領選挙でブーテフリカが4度目の当選を決めた。2019年4月18日に予定されていた{{ill2|2019年アルジェリア大統領選挙|en| 2019 Algerian presidential election|label=大統領選挙}}に出馬し5選を目指す意向を示していたが、国内で反対デモが相次いだため3月11日に出馬断念を表明。同時に大統領選挙の延期を発表したほか、{{ill2|ヌレディン・ベドゥイ|en|Noureddine Bedoui}}内務大臣を新首相に任命した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20190327091410/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019031200202&g=int|title=アルジェリア大統領、5選出馬撤回=抗議デモで転換、投票も延期|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2019-03-12|accessdate=2019-03-12}}</ref>。同年4月1日、4月28日の任期満了までに大統領を退くことを発表<ref>{{Cite news|url=https://www.france24.com/fr/20190401-algerie-abdelaziz-bouteflika-demission-avant-28-avril-mandat-presidence|title=Le président algérien Abdelaziz Bouteflika démissionnera avant le 28 avril|agency=[[France 24]]|date=2019-04-02|accessdate=2019-04-03}}</ref>。翌2日、正式に辞任した<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/47796417|title=アルジェリアで大統領が辞任 20年の長期政権に批判高まり|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2019-04-03|accessdate=2019-04-04}}</ref>。その後、2019年大統領選挙により、アブデルマジド・テブンが当選し、2019年[[12月19日]]に大統領に就任する<ref>{{Cite web|和書|author=ピエリック・グルニエ|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/12/6a02972c8a1074c1.html|title=大統領選で無党派のテブン元首相が勝利、反体制運動は激化も(アルジェリア)|date=2019-12-18|publisher=[[日本貿易振興機構|独立行政法人日本貿易振興機構]]|accessdate=2022-10-23}}</ref>。 === 行政 === {{See also|アルジェリアの首相}} [[行政]]府の長は首相で、大統領が任命する。首相は各大臣を任命する権限がある。1995年以降は複数候補による大統領選挙が行われている。 === 立法 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアの政党|en|List of political parties in Algeria}}|アルジェリア議会}} [[立法|立法権]]は議会に属し、議会は、1996年まで[[一院制]]をとってきたが、憲法改正により[[両院制]](二院制)へ移行した。下院は407議席、上院は174議席からなる。 主要政党としては[[アルジェリア民族解放戦線|民族解放戦線]](FLN)、[[民主国民連合 (アルジェリア)|民主国民連合]]である。その他にも、[[:fr:Mouvement de la société pour la paix|平和のための社会運動]](MSP)、アルジェリア希望の集まり(TAJ)、[[イスラム再生運動 (アルジェリア)|穏健]][[:fr:ront de la justice et du développement|改革]]イスラム党連合(MFB)、[[:fr:Front des forces socialistes|社会主義勢力戦線]](FFN)、[[:fr:Mouvement populaire algérien|アルジェリア人民運動]](MPA)などが挙げられる。 === 司法 === [[司法|司法権]]は最高裁判所に属している。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|アルジェリアの国際関係|en|Foreign relations of Algeria}}}} 基本政策は[[非同盟]][[中立]]、アラブ連帯であり、1960年代から1970年代まではキューバや[[北ベトナム]]と共に[[第三世界]]諸国の中心的存在だったが、1979年のシャドリ政権以降は現実主義・全方位外交を基調としている。近年は[[G8]]諸国を中心に[[先進国]]との外交活動を積極的に推進している。これはここ数年のアルジェリアはテロのイメージが強く、それを払拭するためである。この努力の結果、アルジェリアへのイメージも改善されてきている。 アフリカ諸国、アラブ諸国の中心的存在にある国の一つであり、[[アフリカ連合]](AU)、[[アラブ・マグレブ連合]]、[[アラブ連盟]]に加盟している。2005年には[[アラブ連盟]]の議長国を務め、[[国際連合|国連]]の[[非常任理事国]]にも度々選出されている。 === モロッコとの関係 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアとモロッコの関係|en|Algeria–Morocco relations}}}} マグリブ諸国との関係においては、独立以来[[国家体制]]の相違や、領土問題、[[パレスチナ問題]]への取り組み、アルジェリアによる西サハラ独立運動の支援など様々な要因により、アルジェリアはモロッコとの対立を繰り広げてきた。1994年以来、モロッコとの国境は封鎖されている。 モロッコが大部分を[[実効支配]]する西サハラの独立を訴える[[サハラ・アラブ民主共和国]]と[[ポリサリオ戦線]]を一貫して支持しており、アルジェリア領内には西サハラ難民の難民キャンプが存在する。日本で2019年に開催された第7回[[アフリカ開発会議]]でサハラ・アラブ民主共和国代表団はアルジェリアが発給した[[旅券]]で[[日本]]に入国し、日本政府が黙認する形で参加が実現した<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20190830/k00/00m/030/010000c|title=西サハラが“日本デビュー”、政府は国家として未承認も、AU側招待を黙認|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2019-08-30|accessdate=2019-08-30}}</ref>。 2021年8月、アルジェリア政府は国内で発生した山火事にモロッコが関与していると発表<ref name="AFP20210825" />。 2021年8月24日、アルジェリアはモロッコとの国交断絶を宣言した<ref name="AFP20210825">{{Cite web|和書|title=アルジェリア、モロッコと国交断絶 「敵対行為」めぐり|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3363273|website=[[フランス通信社|AFP]]|accessdate=2021-08-25|language=ja}}</ref>。アルジェリアは同年9月にはモロッコの航空機に対して[[領空]]通過を禁止し、10月にはモロッコを通る[[天然ガス]][[天然ガスパイプライン|パイプライン]]を閉鎖するなど措置をエスカレートし、両国間の軍備競争も進んでいる<ref name="読売20211122"/>。 === 日本との関係 === {{main|日本とアルジェリアの関係}} * 在留日本人数 - 51名(2023年3月)<ref name="autogenerated1">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/algeria/data.html#section6 アルジェリア基礎データ] 日本国外務省</ref> * 在日アルジェリア人数 - 379人(2021 年5月)<ref name="autogenerated1"/> 日本との関係においては、独立戦争を[[全日本学生自治会総連合|全学連]]<ref>私市正年編『アルジェリアを知るための62章』pp.254-256</ref> や[[宇都宮徳馬]]、[[北村徳太郎]]らが支援したことをきっかけに、独立後も友好的な関係が築かれた。アルジェリアは日本企業に多くの開発事業を発注し、1978年には日本人在留者([[在アルジェリア日本人]])が3,234人に達するなど<ref>私市正年編『アルジェリアを知るための62章』p.257</ref>、日本にとって最も関わりの深いアラブの国となったが、1990年代の内戦勃発以後日本人在留者の数は急速に減少した。 2011年[[東日本大震災]]において8億3510万円(世界6位)の義援金を日本に贈る。 == 軍事 == {{main|{{仮リンク|アルジェリア人民国軍|en|Military of Algeria}}}} アルジェリアの[[軍隊]]は[[アルジェリア人民国軍]](ANP)と称される。軍は[[陸軍]]、[[海軍]]、[[空軍]]の3軍と[[防空軍]]、ジャンダルメ([[国家憲兵]])によって構成される。 軍の前身は国民解放戦線の軍事部門だった[[国民解放軍 (アルジェリア)|国民解放軍]](ALN)であり、独立後に現在{{いつ|date=2013年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の形に再編された。 兵器体系は[[ソビエト連邦|ソ連]]に準じていたが、ソ連崩壊後は[[中華人民共和国]]や欧米からも導入して装備を多様化させている<ref>{{cite web |url=https://www.globalsecurity.org/military/world/algeria/budget.htm |title=Algeria - Military Spending |date=2016-01-14 |website=GlobalSecurity.org |access-date=2018-07-20}}</ref>。 == 地理 == {{main|{{仮リンク|アルジェリアの地理|en|Geography of Algeria}}}} [[ファイル:Algeria-map.png|right|thumb|260px|アルジェリアの地図]] [[ファイル:Hoggar3.jpg|left|180px|thumb|ホガール山地]][[ファイル:Algeria sat.jpg|right|thumb|220px|人工衛星から見たアルジェリア]] 国土の大部分を[[サハラ砂漠]]が占め、乾燥した平原地帯となっている。しかし、北部には2000m級の[[アトラス山脈]]が走り、地中海沿岸は雨量も多く、草原なども広がり、国民の約95%がこの地域に居住している。地中海の対岸にはスペイン、フランスが存在する。一見して日本より相当南の[[緯度]]にあると思われがちだが、首都のアルジェは[[新潟県]]南部や[[石川県]]中部、[[長野県]]北部や[[富山県]]北部や[[栃木県]]北部や[[群馬県]]北部や[[茨城県]]北部とほぼ同じ緯度である。[[ユーラシアプレート]]と[[アフリカプレート]]の境に位置するため、[[地震]]国である。 アトラス山脈はアルジェリア北西部で[[アトラス高原]]を挟んで北部の[[テルアトラス山脈]]と南部の[[サハラアトラス山脈]]の2つに分かれている。アトラス高原には[[塩湖]]やそれが枯渇した[[盆地]]が多数ある。また、アトラス山脈から北に[[シェリーフ川]]が流れる。 サハラアトラス山脈の南にはわずかな[[ステップ (地形)|ステップ]]地帯があり、それ以外は全てサハラ砂漠になる。内陸部の砂漠地帯は[[標高]]1000 m以下の平原が多いが、ニジェールとリビアの国境に近いアルジェリア南東部は山がちで、[[ホガール山地]]や[[アドラル山地]]、[[ナジェール高原]]、[[ホガール高原]]などがある。ホガール山地は火山性で、アルジェリア最高峰の[[タハト]]山 (2,918m) を有する。 === 気候 === [[ファイル:Klimadiagramm-Algier-Algerien-metrisch-deutsch.png|thumb|left|180px|アルジェの気候図]] 北部の地中海沿岸部は[[温帯]]で典型的な[[地中海性気候]]である。南[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]とほぼ同じ緯度にあり、気候も類似した部分が多い。平均気温は夏は20から25℃、冬は10から12℃で、アトラス高原は[[ステップ気候]]になる。アトラス高原から南に行くにつれて冬と夏、昼夜の温度差が激しくなり、降水量が少なくなる。また、夏には暑く乾燥した[[シロッコ]]が吹き、その風は海岸部にまで及ぶ。降水量は沿岸部で年間500mm前後。また、東に行くにつれ降水量は多くなり、降水量はコンスタンティーヌで1000mm近くまで及ぶ。地中海沿岸以外の国土の大部分は、[[砂漠気候]]となっている。山岳地帯では、[[冬]]になると[[雪]]が降り、[[吹雪]]になることもある<ref>{{cite news |title=アルジェリア軍機が墜落 死者77人、生存者1人 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2014-2-12|url=http://www.cnn.co.jp/world/35043735.html |accessdate=2014-2-12}}</ref>。 {{Clearleft}} == 地方行政区分 == {{main|アルジェリアの行政区画}} アルジェリアは58の[[ウィラーヤ]](県)、547の{{仮リンク|ダイラ|en|Daïra}}(郡)と1,541の{{仮リンク|バラディヤ|en|Baladiyah}}(基礎自治体)に分けられている。各県の県名は、最大都市の名前からとられている。 {| |- | * {{Small|1}}[[アドラール県]] * {{Small|2}}[[シュレフ県]] * {{Small|3}}[[ラグアット県]] * {{Small|4}}[[ウメル・ブアーギ県]] * {{Small|5}}[[バトナ県]] * {{Small|6}}[[ベジャイア県]] * {{Small|7}}[[ビスクラ県]] * {{Small|8}}[[ベシャール県]] * {{Small|9}}[[ブリダ県]] * {{Small|10}}[[ブイラ県]] * {{Small|11}}[[タマンラセット県]] * {{Small|12}}[[テベッサ県]] * {{Small|13}}[[トレムセン県]] * {{Small|14}}[[ティアレット県]] * {{Small|15}}[[ティジ・ウズー県]] * {{Small|16}}[[アルジェ県]] * {{Small|17}}[[ジェルファ県]] * {{Small|18}}[[ジジェル県]] * {{Small|19}}[[セティフ県]] * {{Small|20}}[[サイダ県]] | * {{Small|21}}[[スキクダ県]] * {{Small|22}}[[シディ・ベル・アッベス県]] * {{Small|23}}[[アンナバ県]] * {{Small|24}}[[ゲルマ県]] * {{Small|25}}[[コンスタンティーヌ県]] * {{Small|26}}[[メデア県]] * {{Small|27}}[[モスタガネム県]] * {{Small|28}}[[ムシラ県]] * {{Small|29}}[[マスカラ県]] * {{Small|30}}[[ワルグラ県]] * {{Small|31}}[[オラン県]] * {{Small|32}}[[エル・バヤード県]] * {{Small|33}}[[イリジ県]] * {{Small|34}}[[ボルジ・ブ・アレリジ県]] * {{Small|35}}[[ブメルデス県]] * {{Small|36}}[[エル・タルフ県]] * {{Small|37}}[[ティンドゥフ県]] * {{Small|38}}[[ティセムシルト県]] * {{Small|39}}[[エル・ウェッド県]] * {{Small|40}}[[ヘンシュラ県]] | * {{Small|41}}[[スーク・アフラース県]] * {{Small|42}}[[ティパザ県]] * {{Small|43}}[[ミラ県]] * {{Small|44}}[[アインデフラ県]] * {{Small|45}}[[ナーマ県]] * {{Small|46}}[[アイン・ティムシェント県]] * {{Small|47}}[[ガルダイヤ県]] * {{Small|48}}[[ルリザンヌ県]] * {{small|49}}[[エル・ムエラ県]] * {{small|50}}[[エル・メニア県]] * {{small|51}}[[ウレド・ジェラル県]] * {{small|52}}[[ボルジュ・バジ・モウタール県]] * {{small|53}}[[ベニ・アッベス県]] * {{small|54}}[[ティミムン県]] * {{small|55}}[[トゥーグラ県]] * {{small|56}}[[ジャーネット県]] * {{small|57}}[[イン・サラー県]] * {{small|58}}[[イン・ゲザム県]] | |[[ファイル:Algeria, administrative divisions 2019 (+northern) - Nmbrs (geosort) - monochrome.svg|right|thumb|250px|アルジェリアの県]] |} === 主要都市 === {{Main|アルジェリアの都市の一覧}} 主要都市は[[アルジェ]]、[[オラン]]、[[コンスタンティーヌ]]、[[アンナバ]]など。 == 経済 == [[ファイル:Algiers coast.jpg|thumb|left|260px|首都アルジェの景観]] [[ファイル:Ministerefinacealger.jpg|thumb|left|260px|アルジェリア財務省]] {{main|アルジェリアの経済}} [[2013年]]のアルジェリアの[[国内総生産]]|(GDP)は約2060億ドルであり<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=86&pr.y=5&sy=2013&ey=2013&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=612&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMFによるGDP]</ref>、[[埼玉県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}</ref>。同年の一人当たりのGDPは5,437ドルであり、アフリカ諸国の中では上位に位置する。 膨大な対外[[債務]]があるが、[[天然ガス]]や[[石油]]を産出し、近年の[[原油価格]]上昇で貿易黒字が増大している。それ以外にも[[鉄鉱石]]や[[リン鉱石]]などを産する。国内産業は農業が主で、[[小麦]]、[[オレンジ]]などを産する。貿易相手は欧米が中心。フランスに存在する100万人以上の[[出稼ぎ]]アルジェリア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。 アルジェリアの鉱業を支えているのは、天然ガス(3213千兆[[ジュール]]、世界シェア5位、2003年時点)である。[[原油]](4560万トン)、石炭(2万4000トン)にも恵まれる。アルジェリア産の石油は非常に軽いことで知られる。1992年時点では天然ガスと石油が総輸出額の97%に達した。2003年時点においても98%を維持している。 金属資源としては、300トン(世界シェア同率3位)に達する[[水銀]]の採掘が特筆に値する。リン鉱石、鉄鉱石の埋蔵量も多いが開発は進んでいない。ジュベル・オングのリン鉱床は2100平方kmにわたって広がり、埋蔵量は世界最大級とされるものの、採掘量は28万トンに過ぎない。これは1991年時点の109万トンと比較しても低調である。鉄鉱石も234万4000トン(1991年)から70万トン(2003年)に減少している。これは社会主義政策による国営企業を民営化する計画が1995年から始まったことにもよる。 アルジェリアの国土の約9割はサハラ砂漠の一部である。しかしながら、アトラス山脈と地中海に挟まれた帯状の地域は年降水量が600 mm以上に達し、農耕が可能である。国土面積のうち3.5%が耕地であり、人口の10%弱が農業に従事している。主要穀物では、乾燥に強い小麦(260万トン、以下2002年時点の統計)のほか、[[オオムギ|大麦]]も栽培されている。特徴的な作物としては地中海性気候に適した[[ナツメヤシ]](45万トン)がある。生産量は世界シェア7位に達する。[[オリーブ]](17万トン)や[[柑橘類]]の生産も盛んだ。 アルジェリアの貿易はフランスの植民地時代において非常に発展した。現在総輸出額が495億9000万ドル、輸入額が225億3000万ドルとなっており、主な輸出国はアメリカ(22.8%)、[[イタリア]](16.2%)スペイン(10.4%)フランス(10%)、輸入国はフランス(28.2%)、イタリア(7.8%)、スペイン(7.1%)、[[中華人民共和国]](6.6%)となっている。 インフレ率は1995年ごろは30%だったが、その後は減少し、近年は1-3%で推移している。GDP成長率は1990年代は停滞していたものの、近年は5%前後まで回復している。また、貧困率はアフリカ諸国の中では低いが、地域間の経済格差は依然としてまだ残っている。 政府は積極的に経済改革を推進し、諸外国からの投資を誘致したり、国営企業を売却(民営化)したりしているが、経済の多角化は進んでおらず、石油や天然ガスに頼ったままである。[[失業率]]も30歳以下で70%前後と高く、未だ解決に至っていない。 [[製造業]]はGDPのうちの多くを占めるが、大半は自国向けである。 [[イスラム銀行]]の副次国でもある。 === 観光 === [[ファイル:GM Djemila Roman Theatre01.jpg|thumb|right|200px|[[ジェミラ遺跡]]。保存状態の良さで知られる。]] {{Main|{{仮リンク|アルジェリアの観光|en|Tourism in Algeria}}}} 1990年代のイスラム原理主義過激派によるテロにより観光者は激減、アルジェリア観光は壊滅的な被害を受けた。しかし、2000年代に入るとテロが沈静化し、それに伴い徐々に再び観光客は増加しているが、それでも全盛期までには至っておらず、[[日本国外務省]]の海外安全情報でも未だにアルジェリア全土の危険を喚起している。 観光地としては、アルジェ(特に[[アルジェのカスバ|カスバ]]など)、[[ティムガッド遺跡]]、[[ティパサ遺跡]]、[[ジェミラ遺跡]]など古代ローマの遺跡観光、[[ガルダイア]]の[[ムザブの谷]]などが有名である。 ブーテフリカ政権時代に中国企業によって建設された{{仮リンク|グランド・モスク・アルジェ|en|Djamaâ El Djazaïr}}は2019年の完成時点で世界で最も高い[[ミナレット]]と[[サウジアラビア]]の二聖モスク([[マスジド・ハラーム]]と[[預言者のモスク]])に次ぐ巨大な[[モスク]]である<ref>« Algérie : les chinois révèlent le coût de la grande mosquée d'Alger » , sur Observ'Algérie, 29 avril 2019</ref>。 == 交通 == {{Main|{{仮リンク|アルジェリアの交通|en|Transport in Algeria}}}} {{also|アルジェリアの鉄道}} [[交通]][[インフラ]]は、旧態依然の状態であったが、[[2000年代]]に入りモロッコ国境からチュニジア国境まで国土を横断する当時世界最大<ref>{{cite web|url=http://www.roadtraffic-technology.com/projects/eastwesthighway/|accessdate=2010-11-09|title=East-West Highway - Road Traffic Technology| archiveurl= https://web.archive.org/web/20101008212542/http://www.roadtraffic-technology.com/projects/eastwesthighway/| archivedate= 8 October 2010 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>の[[公共事業]]の1つとされた[[アルジェリア東西高速道路]]計画を中国企業と日本企業が受注し、日本企業としても過去最大級<ref>{{cite news|title=鹿島建設・大成建設・西松建設・間組・伊藤忠商事の共同企業体がアルジェリアで高速道路建設工事を受注|url=https://www.kajima.co.jp/news/press/200609/20m1fo-j.htm|publisher=[[鹿島建設]]|accessdate=2018-07-25}}</ref>の海外でのインフラ工事であることから国内外から注目を浴び、完成すれば国内の[[物流]]が画期的に向上することから経済対策の切り札として期待されていた。中国企業が担当した二つの区間は2010年10月と2012年4月にそれぞれ完成している<ref>{{cite news|title=Algerian East-West Expressway Project|url=http://construction.citic/en/content/details_47_2362.html|publisher=中信建設|accessdate=2018-07-25}}</ref>。しかし、[[2016年]]7月に代金の支払いをめぐって工事を打ち切った日本企業の担当した区間も中国企業に建設させると[[2017年]]11月にアルジェリア政府は発表した<ref>{{cite news|title=Algeria deals with Chinese firm to complete last artery motorway section|url=http://www.xinhuanet.com/english/2017-11/23/c_136772600.htm|publisher=[[新華社]]|accessdate=2018-07-25}}</ref>。 また、アルジェリアを縦断する南北高速道路も中国企業によって建設され、[[2018年]]4月に一部開通した<ref>{{cite news|title=中国企業建設のアルジェリア高速道路が一部開通|url=http://j.people.com.cn/n3/2018/0421/c94476-9452174.html|publisher=[[人民網]]|accessdate=2018-07-25}}</ref>。 {{also|{{仮リンク|アルジェリアの鉄道路線の一覧|en|List of railway lines in Algeria}}|アルジェリアの空港の一覧}} == 国民 == [[ファイル:Algeria demography.png|220px|thumb|right|FAOによるアルジェリアの人口推移グラフ(1961年-2003年)]] [[ファイル:Pyramide Algerie.PNG|220px|thumb|right|アルジェリアの人口ピラミッド]] [[ファイル:Panneau de signalisation multilingue à Issers (Algérie).jpg|220px|thumb|right|[[アラビア語]](上段)、[[ベルベル語|タマジグト]](中段)、[[フランス語]](下段)で記された標識]] {{main|{{仮リンク|アルジェリアの人口統計|en|Demographics of Algeria}}}} 人口の約90%は、北部の地中海沿岸地域に住んでいる。また、人口の約半分が都市部に住んでいる。人口の30%が15歳以下である。義務教育は6歳から16歳までで、全て無料である。人口増加率はアフリカ諸国の中では比較的少ない。平均寿命は73.26歳であり、内訳は男性は71.68年、女性は74.92年となっている。独立後[[イスラーム法]]に基づいた家族法の下で、アルジェリアでは[[一夫多妻制]]が継続された。2005年の新家族法公布によって女性の地位は以前に比べれば向上したが、それでも一夫多妻制は一定の条件の下で合法のままとされた。 === 民族 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアの民族|en|Ethnic groups in Algeria|fr|Démographie de l'Algérie}}}} 国民の80%が[[アラブ人]]で、残りの20%が[[ベルベル人]]であり、ベルベル人はカビリー地方の[[カビール人]]をはじめ、{{仮リンク|シャウィーア人|en|Chaoui people}}、{{仮リンク|ムザブ人|en|Mozabite people}}、[[トゥアレグ人]]など4つのグループに分かれる。わずかに[[フランス人]]([[ピエ・ノワール]]の残留者)も存在する。南部の砂漠地帯には少数派の約150万人の[[遊牧民]]([[ベドウィン]])や[[スーダン]]系[[黒人]]が住む。難民キャンプには、西サハラからの{{仮リンク|サハラウィー人|en|Sahrawi people}}が46,000人が居住している。2009年、35,000人の[[華僑]](海外[[中国人]]労働者)が居住している。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアの言語|en|Languages of Algeria|fr|Langues en Algérie}}}} 主要言語は[[アラビア語]]と[[ベルベル語]]であり、[[公用語]]もこの二つである。口語として話されるのはアラビア語アルジェリア方言([[アーンミーヤ]])であるが、公用語は文語である正則アラビア語([[フスハー]])としている。アルジェリア方言はオスマン帝国の軍人がもたらした[[トルコ語]]の影響を受けており、スペイン支配を受けていた西部の[[オラン]]などでは[[スペイン語]]の影響を受けている<ref>私市正年編『アルジェリアを知るための62章』p.35</ref>。 1962年の独立以来植民地時代の[[フランス語]]教育への反動として急速なアラビア語化が進んだが、このことはアラブへの同化を拒否するベルベル語話者の反発を招き、1980年代にはベルベル問題を引き起こした。このため、2002年の憲法改正によってベルベル語(タマジグト)が国民語としての地位を認められ、2016年2月7日には公用語となった<ref>{{Cite news|title=Algeria recognises Berber language|url=https://www.bbc.com/news/world-africa-35515769|date=2016-02-07|accessdate=2019-06-15|language=en-GB}}</ref>。 フランス語は公式な公用語には指定されていないが、教育、政府、メディア、ビジネスなどで広く用いられるなど事実上の公用語となっており、大多数の国民はフランス語を話す。[[2008年]]の調査では、アルジェリア国民の3人に1人がフランス語を日常的に使用し、読み書きしているという状況であった(「[[:fr:Langues en Algérie]]」も参照)。 === 婚姻 === {{節スタブ}} === 宗教 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアの宗教|en|Religion in Algeria}}}} 国民が信仰する宗教は、99%がイスラム教で、そのほとんどが[[スンナ派]]である。[[イバード派]]もわずかに存在し、{{仮リンク|ムザブ人|en|Mozabite people}}などのベルベル人がこれに属す。また、[[キリスト教徒]]や[[ユダヤ教徒]]もわずかに存在する。キリスト教最大の教父[[ヒッポのアウグスティヌス]]はアルジェリアの生まれだった。 === 教育 === [[ファイル:USTHB5.JPG|代替文=|左|サムネイル|220x220ピクセル|ウアリブーメジエン科学技術大学]] {{main|{{仮リンク|アルジェリアの教育|en|Education in Algeria}}}} 6歳から15歳までの[[義務教育]]が敷かれている。義務教育は9年間の[[初等教育]]と前期[[中等教育]]を一貫した基礎教育学校(エコール・フォンダマンタル)で行われ、義務教育期間はアラビア語で教授されるが、大学教育ではフランス語で教授されることも多くなる。2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は69.9%(男性:79.6%、女性:60.1%)である<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ag.html 2009年4月2日閲覧</ref>。アルジェリアの独立時の識字率は約10%だった<ref>私市正年編『アルジェリアを知るための62章』p.355</ref>。 現在アルジェリアには43の大学、10の単科大学、7の高等専門学校が存在する。主な[[高等教育]]機関としては、[[アルジェ大学]](1879年、1909年)、[[国立アルジェ工科大学]](1923年)などが挙げられる。 {{Clearleft}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアの保健|en|Health in Algeria}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|アルジェリアの医療|en|Healthcare in Algeria}}}} {{節スタブ}} == 治安 == アルジェリアの治安は不安定となっている。2019年4月から2度にわたり延期されていた大統領選挙が同年12月12日に実施された結果、テブンが当選し同月19日に大統領へ就任したが、その際の組閣後も金曜日の民衆デモ及び火曜日の学生デモは継続される見込みとなっていて緊張状態が続いている。それに伴い、デモなどの抗議行動が予定されている地域は非常に危険な状況にあり、安全面の確保からもその地域に近付かないよう努めなければならない。 傍らで一般[[犯罪]]は引き続き多発しており、侵入盗([[強盗]]、[[窃盗]])や自動車盗、[[車上狙い]]や[[引ったくり]]の他、[[誘拐]]や[[薬物]]犯罪などが増加していることから注意する必要が求められている。さらに最近の原油の国際価格低迷による経済悪化が同国の治安に及ぼす影響も懸念されている。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアにおける人権|en|Human rights in Algeria}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|アルジェリアのメディア|en|Mass media in Algeria}}}} {{also|{{仮リンク|アルジェリアのテレビ|en|Television in Algeria}}|{{仮リンク|アルジェリアのインターネット|en|Internet in Algeria}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|アルジェリアの文化|en|Culture of Algeria}}}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|アルジェリア料理|en|Algerian cuisine}}}} アルジェリア料理は他の[[マグレブ]]諸国の料理と同様、地中海沿岸産の果物や野菜、さらには幾つかの熱帯の果物や野菜を生産している為、バリエーションが非常に豊かなものとなっている。同国料理で使用されるスパイスは多種多様で、一部には乾燥させた赤[[唐辛子]]が用いられている。 {{節スタブ}} === 文学 === {{main|アラビア語文学|アルジェリア文学}} [[File:Kateb Yacine Nedjma authograph.jpg|thumb|小説『ネジュマ』で知られる20世紀の小説家、[[カテブ・ヤシーン]]。]] 古代には、[[ラテン語]]で『黄金のろば』を著した[[アプレイウス]]や、『[[告白 (アウグスティヌス)|告白]]』を著したキリスト教の教父[[アウグスティヌス]]などが活躍した。 19世紀末ごろからアルジェリア育ちのヨーロッパ人は自らを「アルジェリア人」と規定し、フランス語でアルジェリアニスム運動を主導した。こうした作家には[[ルイ・アルトラン]]や[[ロベール・ランドー]]などが挙げられる。20世紀の[[フランス文学]]を代表するフランス語作家の一人である[[アルベール・カミュ]]はアルジェリアで生まれ育ち、カミュの『[[異邦人 (カミュ)|異邦人]]』はアルジェリアを舞台としているが、カミュはこうした潮流を継ぐ存在であった。 一方、アルジェリアの原住民(アンディジェーヌ)、つまり[[ムスリム]]によるフランス語小説としては[[ムールード・フェラウン]]の『貧者の息子』(1950年)が最古のものである。代表的な現代アルジェリアの作家としては[[ムハンマド・ディブ]]、[[カテブ・ヤシーン]]、[[ラシッド・ブージェドラ]]、[[ヤスミナ・カドラ]]、[[アフガール・モスタガーネミー]]、[[アマーラ・ラフース]]、[[アシア・ジェバール]]などが挙げられる。 === 哲学 === 古代において、最大の教父と呼ばれ、[[キリスト教]]思想や[[西欧哲学]]に大きな影響を与えた[[アウグスティヌス]]は現アルジェリアの生まれだった。 中世においてはアルジェリア生まれではないが、[[チュニス]]生まれでイスラーム世界最大の学者と呼ばれる[[イブン=ハルドゥーン]]は『[[歴史序説]]』を{{仮リンク|イブン・サラーマ城|en|Qalʿat ibn Salama}}(現[[ティアレット県]][[ティアレット]])で著した<ref>私市正年編『アルジェリアを知るための62章』p.72</ref>。また、20世紀後半において[[脱構築]]という[[シニフィアン]]を初めて唱えた[[ジャック・デリダ]]もアルジェリア生まれのユダヤ人だった。[[ポストコロニアリズム]]の先駆者となった[[マルティニーク]]生まれの[[フランツ・ファノン]]もまたアルジェリアで書いた。 === 音楽 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアの音楽|en|Music of Algeria}}}} [[File:Bensari2.jpg|thumb|[[トレムセン]]における伝統的な音楽家達を描いたYellès Bachirの絵画。]] アルジェリアの音楽は、[[レコンキスタ]]によって[[スペイン]]から追放されたムーア人の[[アル・アンダルス]]の音楽に起源を持つ。 1980年代に世界に広まった音楽の[[ライ]]は、アルジェリアの音楽である。ライ歌手の{{仮リンク|シェブ・ハスニ|en|Cheb Hasni}}は、[[1994年]][[9月29日]]に[[武装イスラム集団]](GIA)に暗殺された。[[アルジェリア内戦]]中の同時期に多くの音楽家([[:en:Lounès Matoub]]、[[:en:Rachid Baba Ahmed]]など)が暗殺され、アルジェリアの音楽家の多くがフランスに活動拠点を移している。フランスに渡ったアルジェリア人や、その子孫の[[アルジェリア系フランス人]]の中には活動の拠点をフランスに移しているアルジェリア人の音楽家もいる。代表的な存在としては、国民的作家[[カテブ・ヤシーン]]の息子{{仮リンク|アマジーグ・カテブ|en|Amazigh Kateb}}が[[グルノーブル]]で結成した[[レゲエ]]バンド[[グナワ・ディフュージョン]]、ライを含む幅広いジャンルを演奏する[[ラシッド・タハ]]がなどが挙げられる。ライ歌手の{{仮リンク|シェブ・マミ|en|Cheb Mami}}([[サイダ県]]出身)は、[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]と共演した『[[:en:Desert Rose (Sting song)|Desert Rose]]』([[1999年]])などで世界的にその名を知られている。 また、南部の黒人の音楽として{{仮リンク|グナワ音楽|en|Gnawa music}}(「[[ギニア]]」に由来する)が挙げられ、[[ブライアン・ジョーンズ]]、[[ロバート・プラント]]、[[ジミー・ペイジ]]などは、グナワ音楽家とコラボレートした作品を発表している。 === 映画 === {{main|{{仮リンク|アルジェリアの映画|en|Cinema of Algeria}}}} アルジェリア出身の代表的な[[映像作家]]としては、[[モハメド・ラフダル・ハミナ]]、[[メフディ・シャレフ]]、[[メルザック・アルアーシュ]]などが挙げられる。 アルジェリア人によるものではないがアルジェリアを舞台にし、アルジェリア戦争を描いた映画として、[[イタリア]]の[[ジロ・ポンテルコロポ]]による『[[アルジェの戦い]]』(1966年)やフランスの[[フローラン=エミリオ・シリ]]による『[[いのちの戦場 -アルジェリア1959-]]』(2007年)などが挙げられる。 === 世界遺産 === {{main|[[アルジェリアの世界遺産]]}} アルジェリア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が6件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件存在する。 <gallery> Kalaa des Beni Hammad.2.jpg|[[ベニ・ハンマードの城塞]] -(1980年) Ghardaia.jpg|[[ムザブ|ムザブの谷]] -(1982年) GM Djemila Roman Theatre02.jpg|[[ジェミラ]] -(1982年) Roman Arch of Trajan at Thamugadi (Timgad), Algeria 04966r.jpg|[[ティムガッド]] -(1982年) Algeri01.jpg|[[アルジェのカスバ]] -(1992年) Tassili n'Ajjer Landsat.jpg|[[タッシリ・ナジェール]] -(1982年) </gallery> === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|アルジェリアの祝日|en|Public holidays in Algeria}}}} {| class="wikitable" |- ! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考 |- |[[1月1日]]||[[元日]]||رأس السنة الميلادية || |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]||عيد العمّال || |- |[[7月5日]]||独立記念日||عيد الاستقلال والشباب || |- |[[11月1日]]||革命記念日|| ذكرى الثورة الجزائرية|| |} この他にイスラーム教の祝祭日がある。 == スポーツ == {{main|{{仮リンク|アルジェリアのスポーツ|en|Sport in Algeria}}}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|アルジェリアのサッカー|en|Football in Algeria}}}} アルジェリア国内では[[植民地]]時代に[[フランス]]からもたらされた[[サッカー]]が、1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[サッカーアルジェリア代表]]は[[FIFAワールドカップ]]には[[1982 FIFAワールドカップ|1982年大会]]、[[1986 FIFAワールドカップ|1986年大会]]、[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]、[[2014 FIFAワールドカップ|2014年大会]]の4度出場している。中でも、'''[[ヴァイッド・ハリルホジッチ]]監督'''に率いられた2014年大会では、初めてグループリーグを突破しベスト16に進出した。 アルジェリアで人気の[[サッカー選手]]であり、世界的にも有名な[[ドリブル #サッカー|ドリブラー]]の'''[[リヤド・マフレズ]]'''は、[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]の中心選手として活躍している。また、[[レスター・シティFC|レスター・シティ]]所属時代の[[2016年]]には[[ジェイミー・ヴァーディ]]や[[岡崎慎司]]らと、クラブ創設132年目にして初の[[プレミアリーグ2015-2016|プレミアリーグ優勝]]という歴史的なメンバーの一員となった。 === オリンピック === {{main|オリンピックのアルジェリア選手団}} == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|アルジェリア人の一覧|en|List of Algerians}}|Category:アルジェリアの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author1=シャルル=ロベール・アージュロン|authorlink1=シャルル=ロベール・アージュロン|translator=[[私市正年]]、[[中島節子]]|date=2002年11月|title=アルジェリア近現代史|series=[[文庫クセジュ]]857|publisher=[[白水社]]|location=[[東京]]|isbn=4-560-05857-1|ref=アージュロン/私市、中島訳(2002)}} * {{Cite book|和書|author=川田順造|authorlink=川田順造|date=1971年1月|title=マグレブ紀行|series=中公新書246|publisher=[[中央公論社]]|location=東京||isbn=|ref=川田(1971)}} * {{Cite book|和書|author=私市正年編|date=2009年4月|title=アルジェリアを知るための62章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|location=東京|isbn=978-4-7503-2969-7|ref=私市(2009)}} * {{Cite book|和書|author=日本長期信用銀行調査部|authorlink=日本長期信用銀行|date=1984年3月|title=アルジェリアの経済開発──新五ケ年計画の現状と今後の展望|series=|publisher=[[勁草書房]]|location=東京|isbn=|ref=日本長期信用銀行調査部(1984)}} * {{Cite book|和書|editor=福井英一郎|editor-link=福井英一郎|date=2002年9月|title=アフリカI|series=世界地理9|publisher=[[朝倉書店]]|location=東京|isbn=4-254-16539-0|ref=福井(2002)}} * {{Cite book|和書|author=宮治一雄|authorlink=宮治一雄|edition=2000年4月第2版|title=アフリカ現代史V|series=世界現代史17|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn=4-634-42170-4|ref=宮治(2000)}} == 関連項目 == * [[アルジェリア関係記事の一覧]] <!-- * [[アルジェリアの通信]] * [[アルジェリアの軍事]] * [[アルジェリアの国際関係]] --> == 外部リンク == {{Commons&cat|Algeria|Algeria}} {{Wikinews|アルジェリア国民投票、「平和と国民和解のための憲章」を承認}} '''政府''' * [http://www.el-mouradia.dz/ アルジェリア民主人民共和国大統領府] {{ar icon}}{{fr icon}} '''日本政府''' {{Wikisource|アルジェリア承認の件|アルジェリア承認の件|[[外務省]][[告示]]文}} * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/algeria/ 日本外務省 - アルジェリア] {{ja icon}} * [https://www.dz.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在アルジェリア日本国大使館] {{ja icon}}{{fr icon}} '''観光その他''' * [http://www.algeria.com/ アルジェリア政府観光局] {{en icon}} * [http://www.jccme.or.jp/japanese/08/08-07-03.html JCCME - アルジェリア] * [http://www.japan-algeria-center.jp/ 日本-アルジェリアセンター] * {{Kotobank}} * {{Osmrelation|192756}} * [http://wikitravel.org/ja/アルジェリア ウィキトラベル旅行ガイド - アルジェリア] {{ja icon}} * {{Wikiatlas|Algeria}} {{en icon}} * {{Wikivoyage-inline|en:Algeria|アルジェリア{{en icon}}}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{OPEC}} {{アラブ・マグレブ連合}} {{Normdaten}} ---- ''このページは[[プロジェクト:国|ウィキプロジェクト 国]]のテンプレートを使用しています。'' {{デフォルトソート:あるしえりあ}} [[Category:アルジェリア|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]]
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アンゴラ
アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく、ポルトガル語: República de Angola)、通称アンゴラは、アフリカ南西部にある共和制国家。東はザンビア、南はナミビア、北はコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。コンゴ民主共和国を挟んで飛地のカビンダが存在し、同地の北はコンゴ共和国と接する。首都は大西洋岸のルアンダである。 アンゴラは中部アフリカならび南部アフリカに位置する。現在のアンゴラには旧石器時代から人間が住んでいた事が判明している 。アフリカ大陸においては国土面積が7位の規模を誇る国家であり、ルゾフォニアにおいては総面積と人口の両方で2番目に大きい国家となっている。 かつてはポルトガルの植民地だったものの、1961年にアンゴラ独立戦争が勃発。1975年に独立を認めさせたものの独立後も内戦が2002年まで続き、疲弊した。ただ、内戦終結後は原油やダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に、一定の経済発展が見られた。しかし、20年間以上続いた内戦のために1000万個を超える地雷が敷設されており、さらに首都のルアンダでは2009年時点で物価が世界一高い状態にあったなど、未だに課題も多い。 ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国で、アフリカ最大のポルトガル語話者を擁する国である。 正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(発音 [ʁɛˈpublikɐ dɨ ɐ̃ˈɡɔlɐ] レプブリカ・デ・アンゴーラ)であり、かつてこの地を支配していたンドンゴ王国の王号である「ンゴラ(Ngola)」に由来する。 公式の英語の名称は、Republic of Angola(発音: [rɪˈpʌblɪk əv ænˈgoʊlə] リパブリック・オブ・アンゴウラ)。 日本での表記は、アンゴラ共和国が一般的であり、通称としてアンゴラが用いられている。 独立時の1975年から1992年まで、正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国に変わった。 この地域には1世紀ごろから主にバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。 14世紀に現・アンゴラ北部に居住していたコンゴ人はコンゴ王国を建国し、コンゴ王国は現・アンゴラ北西部ザイーレ州に、首都ンバンザ・コンゴを建設した。 デマルカシオンの下にアフリカの西海岸を南下していたポルトガル人は、1482年にポルトガル人のディオゴ・カンがコンゴ川河口に到着した。1485年に彼はコンゴ王(英語版)のンジンガ・ンクウとの間で、両国の対等な立場の下でコンゴ王国とポルトガル王国の国交を結んだ。1506年に即位したンジンガ・ムベンバの時代に、コンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと改名した。その後、ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていた銀の供給源と見なし、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスがポルトガル領アンゴラ(1575年 - 1975年)を、翌1576年にルアンダを建設し、ポルトガルはルアンダを拠点にさらなる奴隷の供給を求めて、さらにアンゴラ内陸部への侵略を行った。 以降、アンゴラはブラジルやウルグアイ、アルゼンチン、キューバなど南米や西インド諸島への黒人奴隷供給地とされた。1617年にベンゲラが建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、300万人の奴隷が大西洋三角貿易の一環としてアンゴラからラテンアメリカに連行された。ポルトガル支配に対し、ンドンゴ王国やマタンバ王国(英語版)は激しい抵抗を繰り広げた。例えば1622年には、en:Battle of Mbumbiを起こした。特に1623年に権力を握ったンジンガ女王は数十年間にわたって反ポルトガル戦争を続け、一時はポルトガルと戦争状態にあったオランダと同盟を結び、ポルトガルと戦ったが、最終的にサルヴァドール・コレイア・デ・サ(英語版、ポルトガル語版)率いるポルトガル領ブラジル(英語版)から派遣された軍隊が在アンゴラのオランダ軍に勝利した結果、1648年にアンゴラはポルトガルに征服され、ンジンガ女王は1657年にポルトガルと平和条約を結んだ。ポルトガルはオランダとの間に結ばれた1661年のハーグ講和条約で、400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラとオランダ領ブラジル(英語版)(現・ブラジル北東部)領有を国際的に認められた。 一方、アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走して逃亡奴隷となり、ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれるキロンボ(英語版)(逃亡奴隷集落)を築いた。1695年のパルマーレスの戦い(ポルトガル語版)で滅ぼされたブラジル最大の逃亡奴隷国家は、キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)と呼ばれる。1665年のアンブイラの戦い(英語版)をきっかけに、en:Kongo Civil War(1665年 - 1709年)が始まった。 1884年から1885年のベルリン会議でのアフリカ分割の結果、ポルトガルはカビンダ以外のコンゴ川流域を失った。この時期のポルトガルは、大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想を打ち出し、アフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としたが、この政策はカイロからケープタウンまでアフリカ大陸を縦断しようとしていたイギリスの植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部のザンビア、マラウイ、ジンバブエから撤退し、翌1891年の条約によってポルトガル領アンゴラは、ほぼ現在のアンゴラの形に再編された。 20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスやベルギーの資本により植民地開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系のディアマング(英語版)社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系のタンガニーカ・コンセッション社(英: Tanganyika Concessions Ltd.)により、ベンゲラ鉄道の建設が着工され、1929年に完成した。 第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入ると、アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の機運が高まり、これがアンゴラにも波及した。アントニオ・サラザール政権(エスタド・ノヴォ)は、1951年にアンゴラなどのアフリカ植民地を「海外州」(葡: Província Ultramarina de Angola, 英: Overseas Province of Angola)と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。 アンゴラやモザンビークは形式上、本国のポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画によりアンゴラには5000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営するプランテーションで栽培されたコーヒーはアンゴラ最大の輸出品目となった。 だが、形式上の本国との対等の地位と事実上の植民地政策の矛盾は隠せず、アンゴラでは1961年2月4日にアゴスティーニョ・ネト、マリオ・ピント・デ・アンドラーデによって率いられたアンゴラ解放人民運動(MPLA)が、政治犯の解放を求めて首都のルアンダの刑務所を襲撃し、アンゴラ独立戦争(ポルトガルの植民地戦争)が始まった。1961年3月には北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げたアンゴラ人民同盟(UPA、葡: União das Populações de Angola、アンゴラ国民解放戦線 - FNLA の前身)も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いた後、1966年にジョナス・サヴィンビがFNLAからアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を分離した。1960年代を通じてMPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末にポルトガル本国で1974年に勃発したカーネーション革命により、独立3会派の紆余曲折を経てMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。 しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌ったアンゴラ国民解放戦線(FNLA)・アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)連合が、ウアンボ(旧ノーヴァ・リズボア)にアンゴラ人民民主共和国(英語版)の独立を宣言した。MPLAは直ちにアンゴラ人民民主共和国を消滅に追い込んだ。 独立直後から、キューバによる直接介入に加えてソビエト連邦が支援するアンゴラ解放人民運動(MPLA)と、南アフリカ共和国による直接介入、さらにアメリカ合衆国、ザイール、中華人民共和国とフランスが支援するUNITA・FNLA連合の間で、内戦状態に陥った。キューバ軍の支援を受けたMPLAは首都のルアンダの防衛に成功し、政権を掌握したが、1975年の時点で50万人を数えたポルトガル系アンゴラ人の入植者の大規模な引き揚げや戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。 1979年9月にネト議長が死去し、第2代大統領にジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任した。アンゴラ政府はソビエト連邦やキューバなど社会主義陣営との結び付きを強め、MPLAによる社会主義建設のために一党制を敷いた。しかしこの間も内戦が継続したため、多くの人命が失われ経済は疲弊した。さらに戦闘だけでなく、地雷によって負傷した人々も多く発生した。 アンゴラ内戦は政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった南アフリカ共和国(アパルトヘイト時代)とキューバ(カストロ政権)の直接介入を受けていたため、東西冷戦の代理戦争と言われている。 FNLAは1980年代には弱体化し、南アフリカ共和国とキューバも1988年に南アフリカ共和国がクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)でアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止された後に、当時南アフリカ領だったナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が終結を迎える国際情勢に呼応してMPLA政権は1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定(en:Bicesse Accords)に調印した。 1992年に実施された大統領選および議会選を巡る対立から、再び武力衝突が発生した。1994年10月31日に国連の仲介でen:Lusaka Protocolが締結されて和平が成立したものの、アンゴラゲート(英語版)と呼ばれるフランスによるアンゴラ反政府勢力への武器密輸スキャンダルの発覚で、UNITAの武装解除に失敗した。 なお、内戦とは別に第一次コンゴ戦争(1996年11月 - 1997年5月)の際にコンゴを支援するため、ザイールへの出兵を1997年5月にアンゴラ政府軍が行った。アンゴラの人口の1割強は、コンゴ人なのである。しかし1998年にUNITAの再蜂起により戦闘が再燃し、第二次コンゴ戦争が発生した。ジョナス・サヴィンビ議長の私兵勢力と化したUNITAは、ダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けた(紛争ダイヤモンド)。 ところが2002年2月、UNITAのサヴィンビ議長が民間軍事会社(PMC)の攻撃で戦死し、和平機運が高まったため2002年3月15日に双方は休戦で合意した。2002年4月19日にはサンシティ休戦協定(en:Sun City Agreement)が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれた。この結果、飛地のカビンダ(カビンダ共和国(英語版))を除いた全土で、1961年以来初めてアンゴラでの大規模な戦闘が停止した。 2002年4月19日の内戦終結後は、ダイヤモンドや原油の輸出によってアンゴラ経済は急速に回復した。 しかし長期間にわたる内戦の結果、世界最悪の数の地雷が敷設されていると言われる程の地雷原が残った。2010年8月9日、政府の地雷除去委員会は2006年から2010年半ばまでの地雷での死亡者は166人、負傷者は313人であると明らかにした。国連の推定によると、アンゴラ全土に残されている地雷は数百万発に達すると言われている。 さらに政権の腐敗なども見られ、課題は多い。 2002年4月19日の内戦終結後も飛地であるカビンダ州は例外であり、カビンダの独立闘争が続き、アンゴラ政府軍はこれを弾圧し続けている。理由としてはアンゴラの経済の柱の1つである原油がカビンダ州で産出することが挙げられる。2007年1月1日には石油輸出国機構に加盟した程である。 ガビンダの独立を目指す反政府勢力のカビンダ解放戦線(英語版)(FLEC)=カビンダ軍(英語版)(FAC)は、ゲリラ戦を展開している。ゲリラ戦の一環として、2010年1月にはアンゴラで開催されたサッカーの国際大会であるアフリカネイションズカップ2010へ出場するために訪れていたトーゴ代表一行のバスをFACが襲撃した。この結果、トーゴのサッカーチームの関係者3名が死亡し選手も含めた数名が負傷した。このためトーゴ代表は出場を辞退したように、2010年代に入っても依然として不安定要素が残った。 アンゴラは大統領を元首とする共和制国家で、大統領の任期は5年間である。現行憲法は、2010年の憲法である。当該憲法施行に伴い、議会選挙で最多得票を獲得した政党の名簿で第1位にある者が自動的に大統領となる議院大統領制を採用した。首相職が廃止され、代わって副大統領職が設置された。 なお、かつては大統領は直接選挙によって選出されていた。 立法機関は一院制の国民議会であり、議員定数は220名である。 主要政党としてはアンゴラ解放人民運動(MPLA)、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)、社会改革党、アンゴラ民族解放戦線(FNLA)、新民主選挙連合などが存在する。直近の総選挙は2022年8月24日に行われた(2022年アンゴラ総選挙)。 最高司法機関は、最高裁判所である。 1961年から1975年までの独立闘争と建国後の1975年から2002年まで続いた内戦により極めて不安定な時期が長く続いたものの、2002年の内戦終結によりようやく安定の兆しが出てきた。しかし、反政府ゲリラ出現や貧困や政治腐敗など不安定要素も残る。 独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるMPLAだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、反政府ゲリラを支援する南アフリカ共和国、アメリカ合衆国、中華人民共和国、ザイールなどとは敵対政策が続いた。 これに対して、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。 アンゴラはポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル以外にも、カーボ・ヴェルデ、モザンビークなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。 また内戦中、現MPLA政府はキューバ軍の援軍と医療援助や教育援助を受けたため、現在もキューバとは友好関係が続いており、キューバの医師団を受け入れている。 党旗を南ベトナム解放民族戦線の旗に似せるなど、ベトナムとアンゴラは共に欧米諸国や中国による侵略に立ち向かう同盟国同士であった。ベトナムも少数ながらアンゴラに軍事顧問団を送るなどして支援を行った。そのため、両国は現在でも良好な関係にある。 第二次コンゴ戦争勃発以来、隣国のコンゴ民主共和国が不安定な情勢であるためかアンゴラもカビラ側での軍事介入を行い、国内にはコンゴ民主共和国人の難民も流入している。 内戦中、MPLAと対立したUNITAやFNLAをアメリカやザイールなどと連携して支援していた中華人民共和国はMPLAのネト政権から中越戦争を非難されたように敵対関係にあったが、1983年にMPLAのサントス政権と国交を樹立した。冷戦終結後、中国はインフラ整備を行いキランバ新都市のような巨大なゴーストタウン(鬼城)もできた。2007年までに1兆5000億円の資金援助をした。アンゴラは原油の4分の1を中国に輸出しており、最大の輸出先となりアンゴラに利益を還流しない中国の方法にはアンゴラ人からの批判もあり、2004年には反中デモも起きたがMPLA政権はこれを弾圧した。2014年には内戦で破壊されたベンゲラ鉄道を中国の援助で再建した。 日本との関係は1990年代以前は希薄であったが、内戦の終結や豊富な資源などの発見などにより次第に関係を深めている。2005年には日本大使館が開設された。民間からも難民を助ける会などのNGOが現地で援助活動をしていた。 同地の敷地面積は2,787m2で、元証券会社の研修施設を改修したものである。 アンゴラ軍は陸海空の3軍と、緊急即応警察軍から構成される。独立直後に始まったアンゴラ内戦のため、アンゴラ政府軍はソビエト連邦とキューバの支援を受けて南アフリカ共和国や中華人民共和国が支援する反政府ゲリラ(UNITA、FNLA)との戦いを繰り広げた。1988年にキューバ軍が撤退した後も、2002年にUNITAが降伏するまで内戦は続いた。現在もアンゴラ軍の任務は主に国内のゲリラ組織との戦闘である。ただし、内戦終結後も飛地のカビンダ州の独立を志向するカビンダ飛び地解放戦線(ポルトガル語版)(FLEC)との戦い(en:Cabinda Conflict)も続いており、2010年1月にはFLECによるサッカートーゴ代表への襲撃事件(en:Togo national football team attack)が発生した。 対外的な軍事介入においてはコンゴ民主共和国との関わりが強く、第一次コンゴ戦争では反政府ゲリラを支援していたザイールに出兵し、モブツ体制崩壊を助けた。第二次コンゴ戦争(en:Ituri conflict、en:Kivu conflict)においてもローラン・カビラ、ジョゼフ・カビラ父子のコンゴ民主共和国新政府支援のために軍を送った。 兵器体系は旧東側諸国に準ずる。2006年の軍事支出は、GDPの5.7パーセントだった。 国土面積は1,246,700 kmで、ニジェールに次いで世界で23番目である。 アンゴラ本土(カビンダ州を除く地域)は、南はナミビア、東はザンビア、北はコンゴ民主共和国と国境を接する。また飛び地であるカピンダ州はコンゴ民主共和国とコンゴ共和国に挟まれている。 大西洋を流れる寒流のベンゲラ海流の影響により、大西洋沿岸部での降水量は非常に少なく、首都ルアンダを始めとする多くの港湾都市の気候はステップ気候を示す。ナミビアに近い最南部の海岸は砂漠気候さえ示す。 一方で、狭い海岸平野を除いた国土の内陸部の大半は広大な台地状の高原であり降水量もやや多く、赤道に近い北部はサバナ気候、南部は温帯夏雨気候を示す。 このように国内でも場所によって降雨量のみならず地形や気候にも極端なまでの差が見られるが、実際 Burgess et al. (2004) の定義によるエコリージョンは15種類と、アフリカの国という単位で見ると最多に近い部類に入り、植生に関してもカビンダ州含む北部のように高木の生い茂る密林から、ザンビアとの国境地帯の氾濫原、南西部のウェルウィッチアなどが生育する砂漠地帯に至るまで多様である(詳細はアンゴラの植物相を参照)。 18州(províncias)の下に、158の市町村(municípios)に分かれている。 アンゴラでは長年にわたる内戦によって、インフラの破壊や人的資源の損失などが著しい。しかし、沿岸部の埋蔵量80億バレルとされる原油と、内陸部で産出するダイヤモンドなど、鉱産資源には比較的恵まれている。この豊富な資源を背景に、内戦終結後は、貿易によって毎年30億ドル以上の黒字を記録したなど、これからの発展に充分な期待が持たれる国として、外国企業の進出も盛んである。2004年に中国の政府系金融機関中国輸出入銀行(英語版、中国語版)(中国进出口银行)は20億ドルの現金をアンゴラに貸し出した。ローンはアンゴラのインフラの再建に使われ、同国における国際通貨基金(IMF)の影響力を制限した。 アンゴラの経済成長は2005年末の時点で日産140万バレル(220,000 m3/d)を越える石油生産の進展によって後押しされており、生産能力は2007年までに200万バレル(320,000 m3/d)に伸びると予想された。石油産業の支配はアンゴラ政府が所有するコングロマリット、ソナンゴル(Sonangol Group)によって強化される。2007年1月1日にはOPECに加盟した。アンゴラの石油資源の大半は飛地のカビンダ州に埋蔵されている。石油セクターは急速に成長している部門であり、経済活動全体の向上の原動力であるが、それにもかかわらず貧困は依然として拡散している。腐敗の監視人たるトランスペアレンシー・インターナショナルは、2005年にアンゴラを最も腐敗した国家のワースト10にランクした。ブリティッシュ・ペトロリアムが、採掘権料を腐敗した役人から政府の歳入に入るようにしたときは、他の石油会社はそれに賛同しなかった。首都は開発が進み、同国で言及すべき唯一の経済センターだが、ムセーケス(musseques)と呼ばれるスラムがルアンダの周囲を1マイルにわたって取り巻いている。アメリカの保守的なシンクタンクであるヘリテージ財団によれば、アンゴラからの石油生産はアンゴラが現在中国にとっては最大の石油供給国であるため著しく増加している。 内戦の影響で依然としてアンゴラ国内各地に地雷が放置されており、開発の大きな障害となっている。各国のNGOや日本の日立製作所などの技術により、地雷の除去が進められている。 CIAワールドファクトブックによれば、実質GDP成長率は2006年に18.6%、2007年に21.1%、2008年には12.3%と非常に高い数値に達した。 近年の急速な経済成長により、2009年現在の首都のルアンダの物価は世界一高い状態にある。 フラッグキャリアのTAAGアンゴラ航空が国内主要都市の間を運航している他に、アフリカ大陸の近隣諸国やヨーロッパ、南北アメリカ大陸の主要都市との間を結んでいる。なお、同社は近年アメリカ製の最新鋭機であるボーイング777やボーイング737-800を次々と導入し、サービス向上に力を入れている。 陸上交通においては、植民地時代にベンゲラ鉄道が建設されたものの、内戦中に運行停止した。これを中華人民共和国の援助により、復旧した。 15世紀以来長らくポルトガルの支配下に置かれ、アメリカやラテンアメリカへの奴隷供給源だったため、アフリカの中でも人口密度が極めて低い国の1つである。 アンゴラの民族構成は、オヴィンブンド人が37パーセント、キンブンド人が25パーセント、コンゴ人が13パーセントなど、バントゥー系黒人諸民族が大半である。このように、2つのンブンド人が併せて人口の62パーセントを占めている。主に北部に住むコンゴ人は、かつてコンゴ王国の担い手だった民族であり、国境を越えたコンゴ民主共和国やコンゴ共和国にもまとまった数の集団が存在する。 これ以外にも白人と黒人の混血であるメスチーソが2パーセントを占め、1パーセントほどのポルトガル系(ポルトガル系アンゴラ人)を中心とするヨーロッパ系市民も存在する。その他が22パーセントである。 なお、アンゴラ内戦時に派遣され、現在も帰れないまま残留しているキューバ兵が1万人ほど残っている。その他のマイノリティとしては中国人(華僑)も見られる。さらに、アンゴラは2007年末で1万2100人の難民と、2900人の亡命希望者を抱えていると推測されている。 2008年には、40万人のコンゴ民主共和国人の移民労働者が存在したと見積もられ、少なくとも3万人のポルトガル系アンゴラ人、少なくとも2万人の中国人がアンゴラに住んでいる。独立前の1975年には約50万人のポルトガル人のコミュニティを抱えていた。 アンゴラの公用語はポルトガル語である。しかし9割以上の国民はキンブンド語、ウンブンド語、コンゴ語、リンガラ語などのバントゥー諸語を話す。 なお、1990年の時点でポルトガル話者数は国民の2割程度だと見られている。 アンゴラで信仰されている宗教は、キリスト教が最大で人口の53パーセントを占め、そのうちの72パーセントがカトリックで、残りの28%はキリスト教系の諸派であり、バプティスト、プレスビテリアン、改革福音派、ペンテコステ派、メソジスト、キリスト教カルトなどが見られる。 残りの47パーセントは、キリスト教侵入以前から伝統的に信仰されてきた宗教などである。 アンゴラの法律では、初等教育の8年間は必修かつ無料だが、政府の報告によれば、学校施設と教員の不足により、かなりの生徒が学校に出席していない。なお無料とは言っても、生徒はしばしば教科書や学用品など学校関連の追加支出を負担しなければならない。 1999年には初等教育の総就学率は74%であり、1998年には初等教育の純就学率は61%だった。総就学率、純就学率は共に公式に初等学校に登録された生徒の数を基にしており、それゆえ出席実態は実際には反映されていない。また都市と地方の就学状況は顕著な差が開いたままである。1995年には、7歳から14歳までの71.2%の児童が学校に出席していた。男子の方が女子よりも出席率が高い傾向が報告されている。アンゴラ内戦(1975年 - 2002年)の間、半数近い学校が略奪、破壊されたことが報告されており、現在の学校過密の問題を招いている。 教育省は2005年に2万人の新教員を雇い、教員研修を実施している。教員は薄給、研修不足、過重労働の傾向がある。また生徒からの直接の支払いや賄賂を要求する教員もいると報告されている。その他に児童が定期的に学校に通えない理由として、地雷の存在、予算の不足、身分証明書類の不備、劣悪な健康状態などが挙げられる。2004年に教育予算の分配は増加したにもかかわらず、アンゴラの教育システムは依然として極度に資金不足である。 2001年の推計によれば、15歳以上の国民のポルトガル語での識字率は67.4%(男性:82.9% 女性:54.2%)である。植民地時代の1950年の非識字率は96.4%であった。2005年の教育支出はGDPの2.7%と、世界的に見ても低い数値だった。 主要な高等教育機関としてはアゴスティーニョ・ネト大学(1962)やアンゴラ・カトリック大学(1999)が挙げられる。また1975年のポルトガルからの独立以降、アンゴラのエリート層の子女は高等学校、工業専門学校、ポルトガル、ブラジル、キューバの大学などにも協定によって入学している。 2007年の調査では、アンゴラではナイアシンが欠乏した状態が一般的だと結論付けられた。 コレラ、マラリア、狂犬病、マールブルグ熱のようなアフリカ出血熱などの伝染病は、国内のどの地域でも一般的な病気である。 さらにアンゴラの多くの地域では結核の感染率と、HIVの感染率が高い。デング熱、フィラリア症、リーシュマニア症、回旋糸状虫症(英語版)(川失明)は虫によって媒介される病気であり、この地域でも発生する。 アンゴラでは乳幼児死亡率が世界で最も高い。また平均寿命が世界の中で特に短い国の1つでもある。 アンゴラの政情は安定しているものの、経済格差が大きいことから都市部において強盗やスリ・ひったくり、車両盗難・車上荒らし事件などの犯罪が日常的に発生しており、被害者の国籍を問わず単身(もしくは少数での)徒歩移動中やマーケットなどでの買い物後に強盗被害に遭う事例が多数報告されている。 ほか、スリや置き引き、車上荒らしに関しては繁華街やスラム街、空港、路上、駐車場などにおいてその被害に遭う事案が見られる。特に空港や路上などで同国の警察官から金銭などに絡む不当要求を受けるトラブルが発生していることから注意が求められている。 アンゴラはポルトガルから400年以上の長きにわたって支配されていたため、言語(ポルトガル語)や宗教(カトリック教会)など、ポルトガルの文化(英語版、ポルトガル語版)の影響を非常に強く受けている。それでも、アンゴラの文化はその多くが伝統的なバントゥー系の文化を残している。しかしながら植民地支配の長さによるものからか、アンゴラの大衆文化の一部にはポルトガル文化が合わさって独自に形成されているものが見受けられる。 またオヴィンブンド人、キンブンド人、コンゴ人などを含む多様な部族やそれぞれの伝統、言語・方言がさらに文化に幅を持たせている。 この他に、アンゴラ独自の文化ではないがブラジルのカポエィラやサンバ、アルゼンチンやウルグアイのタンゴ、カンドンベなどのアフリカに起源を持つ文化は、アンゴラから連行された黒人奴隷の文化が基になったように、奴隷として連れていかれた先の地域の文化に影響を与えている。 アンゴラの主食は、キャッサバやトウモロコシの粉を湯と混ぜて餅状にしたフンジ(英語版)であり、肉や野菜をパーム油と煮た、シチューのような食べ物であるムアンバ・チキン(フランス語版、英語版)と一緒に食べる場合が多い。 その他、旧宗主国のポルトガル料理やその植民地であったブラジル料理の影響を強く受けている。たとえば、アンゴラにはポルトガルが植林したオリーブが生育しており、料理にもオリーブ・オイルが用いられる。 文字によるアンゴラの文学は、ポルトガル語によって19世紀半ばに始まった。これは、カーボ・ヴェルデの文学の成立と同時期であり、モザンビークに半世紀先駆けた物であった。文学において、アンゴラ文学はポルトガル文学との差異を強調する傾向があり、この傾向は独立以前の文学において、ポルトガル文学に対するこだわりを強く持たなかったモザンビーク文学との差となった。 アンゴラの詩は、1960年代の独立戦争の時期に高揚した。独立戦争の指導者であるアントニオ・ディアス・カルドーゾ、マリオ・ピント・デ・アンドラーデ、アゴスティーニョ・ネトや、亡命者のアルリンド・バルベイトスなど、多くの政治的な人物によりポルトガル語詩が作られた。 小説においては、20世紀前半にポルトガル人行政官としてアンゴラに駐在し作品を著したフェルナンド・モンテイロ・デ・カストロ・ソロメーニョ(英語版)や、『ルーアンダ』(1961)などで知られ、キンブンド語とポルトガル語を巧みに融合してノーベル文学賞受賞も取り沙汰され、現地の口承文学などを取り入れてポルトガルによる植民地支配を描いたジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ、アンゴラ独立戦争における解放軍の戦士の心情描写を通してアンゴラ人の心を描いた『マヨンベ』(1980)で知られ、1997年にカモンイス賞を受賞したペペテラ、ジャーナリストであり、伝記文学や『過去の売人』(O Vendedor de Passados, 2004)で2007年の英インデペンデント紙外国フィクション賞を受賞したジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザらがアンゴラの著名な作家の名として挙げられる。 キンブンド人の音楽だったアンゴラのセンバは、ブラジルに渡ってサンバとなった。1947年にリセウ・ヴィエイラ・ディアス(英語版)が中心となって結成されたンゴラ・リトモスは新たなセンバを創始し、アンゴラのポピュラー音楽の方向を決定づけた。ンゴラ・リトモスによって方向づけられたアンゴラのポピュラー音楽は、1960年代から独立後を通してセンバが主流となり、ボンガ、ヴァルデマール・バストス、パウロ・フローレスのように、国際的な成功を収めたミュージシャンも現れた。センバ以外にアンゴラ発祥の音楽のジャンルには、フランス語圏西インド諸島のズーク(Zouk)とセンバのクロスオーバーであるキゾンバが存在し、アンゴラ発祥のクラブミュージックであるクドゥーロも、ブラカ・ソン・システマの活躍の影響などもあって近年世界的に注目を集めている。近年は、同国初のゴシック・メタルバンドであるネブリナや、キゾンバのネイデ・ヴァン=ドゥーネン(Neide Van-Dúnem)が活動している。 1996年に登録されたサン・ミゲル・デ・ルアンダ要塞(ポルトガル語版)とサン・ペドロ・ダ・バラ・デ・ルアンダ要塞(ポルトガル語版)の2つが唯一の世界遺産となっている。 アンゴラにおける著名なアスリートとしては、総合格闘技団体のRIZIN元バンタム級王者であり、現在はUFCフライ級で活躍するマネル・ケイプが存在する。2021年8月7日にオデー・オズボーン(英語版)と対戦して勝利し、UFC初勝利を挙げた。またバスケットボールの強豪国でもあり、2006年世界選手権でアンゴラ代表は日本代表などと対戦し、3勝2敗のBグループ3位で決勝トーナメントに進出している。 アンゴラ国内でも、他のアフリカ諸国同様にサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1979年にサッカーリーグのジラボーラが創設された。アンゴラサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーアンゴラ代表は、FIFAワールドカップには2006年ドイツ大会のアフリカ最終予選で、アフリカ屈指の強豪ナイジェリアを抑えて初出場を果たした。本大会では旧宗主国であるポルトガル、さらにはメキシコやイランとも対戦し、2分1敗でグループリーグ3位で敗退した。アフリカネイションズカップには8度の出場歴があり、2008年大会と2010年大会ではベスト8に進出している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アンゴラ共和国(アンゴラきょうわこく、ポルトガル語: República de Angola)、通称アンゴラは、アフリカ南西部にある共和制国家。東はザンビア、南はナミビア、北はコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。コンゴ民主共和国を挟んで飛地のカビンダが存在し、同地の北はコンゴ共和国と接する。首都は大西洋岸のルアンダである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アンゴラは中部アフリカならび南部アフリカに位置する。現在のアンゴラには旧石器時代から人間が住んでいた事が判明している 。アフリカ大陸においては国土面積が7位の規模を誇る国家であり、ルゾフォニアにおいては総面積と人口の両方で2番目に大きい国家となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "かつてはポルトガルの植民地だったものの、1961年にアンゴラ独立戦争が勃発。1975年に独立を認めさせたものの独立後も内戦が2002年まで続き、疲弊した。ただ、内戦終結後は原油やダイヤモンドなどの豊富な資源を背景に、一定の経済発展が見られた。しかし、20年間以上続いた内戦のために1000万個を超える地雷が敷設されており、さらに首都のルアンダでは2009年時点で物価が世界一高い状態にあったなど、未だに課題も多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国で、アフリカ最大のポルトガル語話者を擁する国である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "正式名称はポルトガル語でRepública de Angola(発音 [ʁɛˈpublikɐ dɨ ɐ̃ˈɡɔlɐ] レプブリカ・デ・アンゴーラ)であり、かつてこの地を支配していたンドンゴ王国の王号である「ンゴラ(Ngola)」に由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "公式の英語の名称は、Republic of Angola(発音: [rɪˈpʌblɪk əv ænˈgoʊlə] リパブリック・オブ・アンゴウラ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本での表記は、アンゴラ共和国が一般的であり、通称としてアンゴラが用いられている。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "独立時の1975年から1992年まで、正式名称はアンゴラ人民共和国だったが、1992年の憲法改正により現在のアンゴラ共和国に変わった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この地域には1世紀ごろから主にバントゥー系のアフリカ人が住んでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "14世紀に現・アンゴラ北部に居住していたコンゴ人はコンゴ王国を建国し、コンゴ王国は現・アンゴラ北西部ザイーレ州に、首都ンバンザ・コンゴを建設した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "デマルカシオンの下にアフリカの西海岸を南下していたポルトガル人は、1482年にポルトガル人のディオゴ・カンがコンゴ川河口に到着した。1485年に彼はコンゴ王(英語版)のンジンガ・ンクウとの間で、両国の対等な立場の下でコンゴ王国とポルトガル王国の国交を結んだ。1506年に即位したンジンガ・ムベンバの時代に、コンゴ王国は積極的にポルトガルの文化やキリスト教を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語のサン・サルヴァドールと改名した。その後、ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな奴隷と、カンバンベに期待されていた銀の供給源と見なし、1575年にアンゴラに到達したパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスがポルトガル領アンゴラ(1575年 - 1975年)を、翌1576年にルアンダを建設し、ポルトガルはルアンダを拠点にさらなる奴隷の供給を求めて、さらにアンゴラ内陸部への侵略を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以降、アンゴラはブラジルやウルグアイ、アルゼンチン、キューバなど南米や西インド諸島への黒人奴隷供給地とされた。1617年にベンゲラが建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、300万人の奴隷が大西洋三角貿易の一環としてアンゴラからラテンアメリカに連行された。ポルトガル支配に対し、ンドンゴ王国やマタンバ王国(英語版)は激しい抵抗を繰り広げた。例えば1622年には、en:Battle of Mbumbiを起こした。特に1623年に権力を握ったンジンガ女王は数十年間にわたって反ポルトガル戦争を続け、一時はポルトガルと戦争状態にあったオランダと同盟を結び、ポルトガルと戦ったが、最終的にサルヴァドール・コレイア・デ・サ(英語版、ポルトガル語版)率いるポルトガル領ブラジル(英語版)から派遣された軍隊が在アンゴラのオランダ軍に勝利した結果、1648年にアンゴラはポルトガルに征服され、ンジンガ女王は1657年にポルトガルと平和条約を結んだ。ポルトガルはオランダとの間に結ばれた1661年のハーグ講和条約で、400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラとオランダ領ブラジル(英語版)(現・ブラジル北東部)領有を国際的に認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走して逃亡奴隷となり、ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれるキロンボ(英語版)(逃亡奴隷集落)を築いた。1695年のパルマーレスの戦い(ポルトガル語版)で滅ぼされたブラジル最大の逃亡奴隷国家は、キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)と呼ばれる。1665年のアンブイラの戦い(英語版)をきっかけに、en:Kongo Civil War(1665年 - 1709年)が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1884年から1885年のベルリン会議でのアフリカ分割の結果、ポルトガルはカビンダ以外のコンゴ川流域を失った。この時期のポルトガルは、大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想を打ち出し、アフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としたが、この政策はカイロからケープタウンまでアフリカ大陸を縦断しようとしていたイギリスの植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部のザンビア、マラウイ、ジンバブエから撤退し、翌1891年の条約によってポルトガル領アンゴラは、ほぼ現在のアンゴラの形に再編された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスやベルギーの資本により植民地開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系のディアマング(英語版)社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系のタンガニーカ・コンセッション社(英: Tanganyika Concessions Ltd.)により、ベンゲラ鉄道の建設が着工され、1929年に完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入ると、アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の機運が高まり、これがアンゴラにも波及した。アントニオ・サラザール政権(エスタド・ノヴォ)は、1951年にアンゴラなどのアフリカ植民地を「海外州」(葡: Província Ultramarina de Angola, 英: Overseas Province of Angola)と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アンゴラやモザンビークは形式上、本国のポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画によりアンゴラには5000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営するプランテーションで栽培されたコーヒーはアンゴラ最大の輸出品目となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "だが、形式上の本国との対等の地位と事実上の植民地政策の矛盾は隠せず、アンゴラでは1961年2月4日にアゴスティーニョ・ネト、マリオ・ピント・デ・アンドラーデによって率いられたアンゴラ解放人民運動(MPLA)が、政治犯の解放を求めて首都のルアンダの刑務所を襲撃し、アンゴラ独立戦争(ポルトガルの植民地戦争)が始まった。1961年3月には北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げたアンゴラ人民同盟(UPA、葡: União das Populações de Angola、アンゴラ国民解放戦線 - FNLA の前身)も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いた後、1966年にジョナス・サヴィンビがFNLAからアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を分離した。1960年代を通じてMPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末にポルトガル本国で1974年に勃発したカーネーション革命により、独立3会派の紆余曲折を経てMPLAは1975年11月11日にルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌ったアンゴラ国民解放戦線(FNLA)・アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)連合が、ウアンボ(旧ノーヴァ・リズボア)にアンゴラ人民民主共和国(英語版)の独立を宣言した。MPLAは直ちにアンゴラ人民民主共和国を消滅に追い込んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "独立直後から、キューバによる直接介入に加えてソビエト連邦が支援するアンゴラ解放人民運動(MPLA)と、南アフリカ共和国による直接介入、さらにアメリカ合衆国、ザイール、中華人民共和国とフランスが支援するUNITA・FNLA連合の間で、内戦状態に陥った。キューバ軍の支援を受けたMPLAは首都のルアンダの防衛に成功し、政権を掌握したが、1975年の時点で50万人を数えたポルトガル系アンゴラ人の入植者の大規模な引き揚げや戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1979年9月にネト議長が死去し、第2代大統領にジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスが就任した。アンゴラ政府はソビエト連邦やキューバなど社会主義陣営との結び付きを強め、MPLAによる社会主義建設のために一党制を敷いた。しかしこの間も内戦が継続したため、多くの人命が失われ経済は疲弊した。さらに戦闘だけでなく、地雷によって負傷した人々も多く発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アンゴラ内戦は政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった南アフリカ共和国(アパルトヘイト時代)とキューバ(カストロ政権)の直接介入を受けていたため、東西冷戦の代理戦争と言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "FNLAは1980年代には弱体化し、南アフリカ共和国とキューバも1988年に南アフリカ共和国がクイト・クアナヴァレの戦い(英語版)でアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止された後に、当時南アフリカ領だったナミビアの独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が終結を迎える国際情勢に呼応してMPLA政権は1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定(en:Bicesse Accords)に調印した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1992年に実施された大統領選および議会選を巡る対立から、再び武力衝突が発生した。1994年10月31日に国連の仲介でen:Lusaka Protocolが締結されて和平が成立したものの、アンゴラゲート(英語版)と呼ばれるフランスによるアンゴラ反政府勢力への武器密輸スキャンダルの発覚で、UNITAの武装解除に失敗した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、内戦とは別に第一次コンゴ戦争(1996年11月 - 1997年5月)の際にコンゴを支援するため、ザイールへの出兵を1997年5月にアンゴラ政府軍が行った。アンゴラの人口の1割強は、コンゴ人なのである。しかし1998年にUNITAの再蜂起により戦闘が再燃し、第二次コンゴ戦争が発生した。ジョナス・サヴィンビ議長の私兵勢力と化したUNITAは、ダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けた(紛争ダイヤモンド)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ところが2002年2月、UNITAのサヴィンビ議長が民間軍事会社(PMC)の攻撃で戦死し、和平機運が高まったため2002年3月15日に双方は休戦で合意した。2002年4月19日にはサンシティ休戦協定(en:Sun City Agreement)が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれた。この結果、飛地のカビンダ(カビンダ共和国(英語版))を除いた全土で、1961年以来初めてアンゴラでの大規模な戦闘が停止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2002年4月19日の内戦終結後は、ダイヤモンドや原油の輸出によってアンゴラ経済は急速に回復した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "しかし長期間にわたる内戦の結果、世界最悪の数の地雷が敷設されていると言われる程の地雷原が残った。2010年8月9日、政府の地雷除去委員会は2006年から2010年半ばまでの地雷での死亡者は166人、負傷者は313人であると明らかにした。国連の推定によると、アンゴラ全土に残されている地雷は数百万発に達すると言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "さらに政権の腐敗なども見られ、課題は多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2002年4月19日の内戦終結後も飛地であるカビンダ州は例外であり、カビンダの独立闘争が続き、アンゴラ政府軍はこれを弾圧し続けている。理由としてはアンゴラの経済の柱の1つである原油がカビンダ州で産出することが挙げられる。2007年1月1日には石油輸出国機構に加盟した程である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ガビンダの独立を目指す反政府勢力のカビンダ解放戦線(英語版)(FLEC)=カビンダ軍(英語版)(FAC)は、ゲリラ戦を展開している。ゲリラ戦の一環として、2010年1月にはアンゴラで開催されたサッカーの国際大会であるアフリカネイションズカップ2010へ出場するために訪れていたトーゴ代表一行のバスをFACが襲撃した。この結果、トーゴのサッカーチームの関係者3名が死亡し選手も含めた数名が負傷した。このためトーゴ代表は出場を辞退したように、2010年代に入っても依然として不安定要素が残った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "アンゴラは大統領を元首とする共和制国家で、大統領の任期は5年間である。現行憲法は、2010年の憲法である。当該憲法施行に伴い、議会選挙で最多得票を獲得した政党の名簿で第1位にある者が自動的に大統領となる議院大統領制を採用した。首相職が廃止され、代わって副大統領職が設置された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、かつては大統領は直接選挙によって選出されていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "立法機関は一院制の国民議会であり、議員定数は220名である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "主要政党としてはアンゴラ解放人民運動(MPLA)、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)、社会改革党、アンゴラ民族解放戦線(FNLA)、新民主選挙連合などが存在する。直近の総選挙は2022年8月24日に行われた(2022年アンゴラ総選挙)。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "最高司法機関は、最高裁判所である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1961年から1975年までの独立闘争と建国後の1975年から2002年まで続いた内戦により極めて不安定な時期が長く続いたものの、2002年の内戦終結によりようやく安定の兆しが出てきた。しかし、反政府ゲリラ出現や貧困や政治腐敗など不安定要素も残る。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるMPLAだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結びつき、反政府ゲリラを支援する南アフリカ共和国、アメリカ合衆国、中華人民共和国、ザイールなどとは敵対政策が続いた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これに対して、冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アンゴラはポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル以外にも、カーボ・ヴェルデ、モザンビークなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また内戦中、現MPLA政府はキューバ軍の援軍と医療援助や教育援助を受けたため、現在もキューバとは友好関係が続いており、キューバの医師団を受け入れている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "党旗を南ベトナム解放民族戦線の旗に似せるなど、ベトナムとアンゴラは共に欧米諸国や中国による侵略に立ち向かう同盟国同士であった。ベトナムも少数ながらアンゴラに軍事顧問団を送るなどして支援を行った。そのため、両国は現在でも良好な関係にある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "第二次コンゴ戦争勃発以来、隣国のコンゴ民主共和国が不安定な情勢であるためかアンゴラもカビラ側での軍事介入を行い、国内にはコンゴ民主共和国人の難民も流入している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "内戦中、MPLAと対立したUNITAやFNLAをアメリカやザイールなどと連携して支援していた中華人民共和国はMPLAのネト政権から中越戦争を非難されたように敵対関係にあったが、1983年にMPLAのサントス政権と国交を樹立した。冷戦終結後、中国はインフラ整備を行いキランバ新都市のような巨大なゴーストタウン(鬼城)もできた。2007年までに1兆5000億円の資金援助をした。アンゴラは原油の4分の1を中国に輸出しており、最大の輸出先となりアンゴラに利益を還流しない中国の方法にはアンゴラ人からの批判もあり、2004年には反中デモも起きたがMPLA政権はこれを弾圧した。2014年には内戦で破壊されたベンゲラ鉄道を中国の援助で再建した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本との関係は1990年代以前は希薄であったが、内戦の終結や豊富な資源などの発見などにより次第に関係を深めている。2005年には日本大使館が開設された。民間からも難民を助ける会などのNGOが現地で援助活動をしていた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "同地の敷地面積は2,787m2で、元証券会社の研修施設を改修したものである。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アンゴラ軍は陸海空の3軍と、緊急即応警察軍から構成される。独立直後に始まったアンゴラ内戦のため、アンゴラ政府軍はソビエト連邦とキューバの支援を受けて南アフリカ共和国や中華人民共和国が支援する反政府ゲリラ(UNITA、FNLA)との戦いを繰り広げた。1988年にキューバ軍が撤退した後も、2002年にUNITAが降伏するまで内戦は続いた。現在もアンゴラ軍の任務は主に国内のゲリラ組織との戦闘である。ただし、内戦終結後も飛地のカビンダ州の独立を志向するカビンダ飛び地解放戦線(ポルトガル語版)(FLEC)との戦い(en:Cabinda Conflict)も続いており、2010年1月にはFLECによるサッカートーゴ代表への襲撃事件(en:Togo national football team attack)が発生した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "対外的な軍事介入においてはコンゴ民主共和国との関わりが強く、第一次コンゴ戦争では反政府ゲリラを支援していたザイールに出兵し、モブツ体制崩壊を助けた。第二次コンゴ戦争(en:Ituri conflict、en:Kivu conflict)においてもローラン・カビラ、ジョゼフ・カビラ父子のコンゴ民主共和国新政府支援のために軍を送った。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "兵器体系は旧東側諸国に準ずる。2006年の軍事支出は、GDPの5.7パーセントだった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国土面積は1,246,700 kmで、ニジェールに次いで世界で23番目である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アンゴラ本土(カビンダ州を除く地域)は、南はナミビア、東はザンビア、北はコンゴ民主共和国と国境を接する。また飛び地であるカピンダ州はコンゴ民主共和国とコンゴ共和国に挟まれている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大西洋を流れる寒流のベンゲラ海流の影響により、大西洋沿岸部での降水量は非常に少なく、首都ルアンダを始めとする多くの港湾都市の気候はステップ気候を示す。ナミビアに近い最南部の海岸は砂漠気候さえ示す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "一方で、狭い海岸平野を除いた国土の内陸部の大半は広大な台地状の高原であり降水量もやや多く、赤道に近い北部はサバナ気候、南部は温帯夏雨気候を示す。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このように国内でも場所によって降雨量のみならず地形や気候にも極端なまでの差が見られるが、実際 Burgess et al. (2004) の定義によるエコリージョンは15種類と、アフリカの国という単位で見ると最多に近い部類に入り、植生に関してもカビンダ州含む北部のように高木の生い茂る密林から、ザンビアとの国境地帯の氾濫原、南西部のウェルウィッチアなどが生育する砂漠地帯に至るまで多様である(詳細はアンゴラの植物相を参照)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "18州(províncias)の下に、158の市町村(municípios)に分かれている。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アンゴラでは長年にわたる内戦によって、インフラの破壊や人的資源の損失などが著しい。しかし、沿岸部の埋蔵量80億バレルとされる原油と、内陸部で産出するダイヤモンドなど、鉱産資源には比較的恵まれている。この豊富な資源を背景に、内戦終結後は、貿易によって毎年30億ドル以上の黒字を記録したなど、これからの発展に充分な期待が持たれる国として、外国企業の進出も盛んである。2004年に中国の政府系金融機関中国輸出入銀行(英語版、中国語版)(中国进出口银行)は20億ドルの現金をアンゴラに貸し出した。ローンはアンゴラのインフラの再建に使われ、同国における国際通貨基金(IMF)の影響力を制限した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アンゴラの経済成長は2005年末の時点で日産140万バレル(220,000 m3/d)を越える石油生産の進展によって後押しされており、生産能力は2007年までに200万バレル(320,000 m3/d)に伸びると予想された。石油産業の支配はアンゴラ政府が所有するコングロマリット、ソナンゴル(Sonangol Group)によって強化される。2007年1月1日にはOPECに加盟した。アンゴラの石油資源の大半は飛地のカビンダ州に埋蔵されている。石油セクターは急速に成長している部門であり、経済活動全体の向上の原動力であるが、それにもかかわらず貧困は依然として拡散している。腐敗の監視人たるトランスペアレンシー・インターナショナルは、2005年にアンゴラを最も腐敗した国家のワースト10にランクした。ブリティッシュ・ペトロリアムが、採掘権料を腐敗した役人から政府の歳入に入るようにしたときは、他の石油会社はそれに賛同しなかった。首都は開発が進み、同国で言及すべき唯一の経済センターだが、ムセーケス(musseques)と呼ばれるスラムがルアンダの周囲を1マイルにわたって取り巻いている。アメリカの保守的なシンクタンクであるヘリテージ財団によれば、アンゴラからの石油生産はアンゴラが現在中国にとっては最大の石油供給国であるため著しく増加している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "内戦の影響で依然としてアンゴラ国内各地に地雷が放置されており、開発の大きな障害となっている。各国のNGOや日本の日立製作所などの技術により、地雷の除去が進められている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "CIAワールドファクトブックによれば、実質GDP成長率は2006年に18.6%、2007年に21.1%、2008年には12.3%と非常に高い数値に達した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "近年の急速な経済成長により、2009年現在の首都のルアンダの物価は世界一高い状態にある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "フラッグキャリアのTAAGアンゴラ航空が国内主要都市の間を運航している他に、アフリカ大陸の近隣諸国やヨーロッパ、南北アメリカ大陸の主要都市との間を結んでいる。なお、同社は近年アメリカ製の最新鋭機であるボーイング777やボーイング737-800を次々と導入し、サービス向上に力を入れている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "陸上交通においては、植民地時代にベンゲラ鉄道が建設されたものの、内戦中に運行停止した。これを中華人民共和国の援助により、復旧した。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "15世紀以来長らくポルトガルの支配下に置かれ、アメリカやラテンアメリカへの奴隷供給源だったため、アフリカの中でも人口密度が極めて低い国の1つである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "アンゴラの民族構成は、オヴィンブンド人が37パーセント、キンブンド人が25パーセント、コンゴ人が13パーセントなど、バントゥー系黒人諸民族が大半である。このように、2つのンブンド人が併せて人口の62パーセントを占めている。主に北部に住むコンゴ人は、かつてコンゴ王国の担い手だった民族であり、国境を越えたコンゴ民主共和国やコンゴ共和国にもまとまった数の集団が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "これ以外にも白人と黒人の混血であるメスチーソが2パーセントを占め、1パーセントほどのポルトガル系(ポルトガル系アンゴラ人)を中心とするヨーロッパ系市民も存在する。その他が22パーセントである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、アンゴラ内戦時に派遣され、現在も帰れないまま残留しているキューバ兵が1万人ほど残っている。その他のマイノリティとしては中国人(華僑)も見られる。さらに、アンゴラは2007年末で1万2100人の難民と、2900人の亡命希望者を抱えていると推測されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2008年には、40万人のコンゴ民主共和国人の移民労働者が存在したと見積もられ、少なくとも3万人のポルトガル系アンゴラ人、少なくとも2万人の中国人がアンゴラに住んでいる。独立前の1975年には約50万人のポルトガル人のコミュニティを抱えていた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "アンゴラの公用語はポルトガル語である。しかし9割以上の国民はキンブンド語、ウンブンド語、コンゴ語、リンガラ語などのバントゥー諸語を話す。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "なお、1990年の時点でポルトガル話者数は国民の2割程度だと見られている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "アンゴラで信仰されている宗教は、キリスト教が最大で人口の53パーセントを占め、そのうちの72パーセントがカトリックで、残りの28%はキリスト教系の諸派であり、バプティスト、プレスビテリアン、改革福音派、ペンテコステ派、メソジスト、キリスト教カルトなどが見られる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "残りの47パーセントは、キリスト教侵入以前から伝統的に信仰されてきた宗教などである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アンゴラの法律では、初等教育の8年間は必修かつ無料だが、政府の報告によれば、学校施設と教員の不足により、かなりの生徒が学校に出席していない。なお無料とは言っても、生徒はしばしば教科書や学用品など学校関連の追加支出を負担しなければならない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1999年には初等教育の総就学率は74%であり、1998年には初等教育の純就学率は61%だった。総就学率、純就学率は共に公式に初等学校に登録された生徒の数を基にしており、それゆえ出席実態は実際には反映されていない。また都市と地方の就学状況は顕著な差が開いたままである。1995年には、7歳から14歳までの71.2%の児童が学校に出席していた。男子の方が女子よりも出席率が高い傾向が報告されている。アンゴラ内戦(1975年 - 2002年)の間、半数近い学校が略奪、破壊されたことが報告されており、現在の学校過密の問題を招いている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "教育省は2005年に2万人の新教員を雇い、教員研修を実施している。教員は薄給、研修不足、過重労働の傾向がある。また生徒からの直接の支払いや賄賂を要求する教員もいると報告されている。その他に児童が定期的に学校に通えない理由として、地雷の存在、予算の不足、身分証明書類の不備、劣悪な健康状態などが挙げられる。2004年に教育予算の分配は増加したにもかかわらず、アンゴラの教育システムは依然として極度に資金不足である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2001年の推計によれば、15歳以上の国民のポルトガル語での識字率は67.4%(男性:82.9% 女性:54.2%)である。植民地時代の1950年の非識字率は96.4%であった。2005年の教育支出はGDPの2.7%と、世界的に見ても低い数値だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "主要な高等教育機関としてはアゴスティーニョ・ネト大学(1962)やアンゴラ・カトリック大学(1999)が挙げられる。また1975年のポルトガルからの独立以降、アンゴラのエリート層の子女は高等学校、工業専門学校、ポルトガル、ブラジル、キューバの大学などにも協定によって入学している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2007年の調査では、アンゴラではナイアシンが欠乏した状態が一般的だと結論付けられた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "コレラ、マラリア、狂犬病、マールブルグ熱のようなアフリカ出血熱などの伝染病は、国内のどの地域でも一般的な病気である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "さらにアンゴラの多くの地域では結核の感染率と、HIVの感染率が高い。デング熱、フィラリア症、リーシュマニア症、回旋糸状虫症(英語版)(川失明)は虫によって媒介される病気であり、この地域でも発生する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "アンゴラでは乳幼児死亡率が世界で最も高い。また平均寿命が世界の中で特に短い国の1つでもある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "アンゴラの政情は安定しているものの、経済格差が大きいことから都市部において強盗やスリ・ひったくり、車両盗難・車上荒らし事件などの犯罪が日常的に発生しており、被害者の国籍を問わず単身(もしくは少数での)徒歩移動中やマーケットなどでの買い物後に強盗被害に遭う事例が多数報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ほか、スリや置き引き、車上荒らしに関しては繁華街やスラム街、空港、路上、駐車場などにおいてその被害に遭う事案が見られる。特に空港や路上などで同国の警察官から金銭などに絡む不当要求を受けるトラブルが発生していることから注意が求められている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "アンゴラはポルトガルから400年以上の長きにわたって支配されていたため、言語(ポルトガル語)や宗教(カトリック教会)など、ポルトガルの文化(英語版、ポルトガル語版)の影響を非常に強く受けている。それでも、アンゴラの文化はその多くが伝統的なバントゥー系の文化を残している。しかしながら植民地支配の長さによるものからか、アンゴラの大衆文化の一部にはポルトガル文化が合わさって独自に形成されているものが見受けられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "またオヴィンブンド人、キンブンド人、コンゴ人などを含む多様な部族やそれぞれの伝統、言語・方言がさらに文化に幅を持たせている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "この他に、アンゴラ独自の文化ではないがブラジルのカポエィラやサンバ、アルゼンチンやウルグアイのタンゴ、カンドンベなどのアフリカに起源を持つ文化は、アンゴラから連行された黒人奴隷の文化が基になったように、奴隷として連れていかれた先の地域の文化に影響を与えている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "アンゴラの主食は、キャッサバやトウモロコシの粉を湯と混ぜて餅状にしたフンジ(英語版)であり、肉や野菜をパーム油と煮た、シチューのような食べ物であるムアンバ・チキン(フランス語版、英語版)と一緒に食べる場合が多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "その他、旧宗主国のポルトガル料理やその植民地であったブラジル料理の影響を強く受けている。たとえば、アンゴラにはポルトガルが植林したオリーブが生育しており、料理にもオリーブ・オイルが用いられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "文字によるアンゴラの文学は、ポルトガル語によって19世紀半ばに始まった。これは、カーボ・ヴェルデの文学の成立と同時期であり、モザンビークに半世紀先駆けた物であった。文学において、アンゴラ文学はポルトガル文学との差異を強調する傾向があり、この傾向は独立以前の文学において、ポルトガル文学に対するこだわりを強く持たなかったモザンビーク文学との差となった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "アンゴラの詩は、1960年代の独立戦争の時期に高揚した。独立戦争の指導者であるアントニオ・ディアス・カルドーゾ、マリオ・ピント・デ・アンドラーデ、アゴスティーニョ・ネトや、亡命者のアルリンド・バルベイトスなど、多くの政治的な人物によりポルトガル語詩が作られた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "小説においては、20世紀前半にポルトガル人行政官としてアンゴラに駐在し作品を著したフェルナンド・モンテイロ・デ・カストロ・ソロメーニョ(英語版)や、『ルーアンダ』(1961)などで知られ、キンブンド語とポルトガル語を巧みに融合してノーベル文学賞受賞も取り沙汰され、現地の口承文学などを取り入れてポルトガルによる植民地支配を描いたジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ、アンゴラ独立戦争における解放軍の戦士の心情描写を通してアンゴラ人の心を描いた『マヨンベ』(1980)で知られ、1997年にカモンイス賞を受賞したペペテラ、ジャーナリストであり、伝記文学や『過去の売人』(O Vendedor de Passados, 2004)で2007年の英インデペンデント紙外国フィクション賞を受賞したジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザらがアンゴラの著名な作家の名として挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "キンブンド人の音楽だったアンゴラのセンバは、ブラジルに渡ってサンバとなった。1947年にリセウ・ヴィエイラ・ディアス(英語版)が中心となって結成されたンゴラ・リトモスは新たなセンバを創始し、アンゴラのポピュラー音楽の方向を決定づけた。ンゴラ・リトモスによって方向づけられたアンゴラのポピュラー音楽は、1960年代から独立後を通してセンバが主流となり、ボンガ、ヴァルデマール・バストス、パウロ・フローレスのように、国際的な成功を収めたミュージシャンも現れた。センバ以外にアンゴラ発祥の音楽のジャンルには、フランス語圏西インド諸島のズーク(Zouk)とセンバのクロスオーバーであるキゾンバが存在し、アンゴラ発祥のクラブミュージックであるクドゥーロも、ブラカ・ソン・システマの活躍の影響などもあって近年世界的に注目を集めている。近年は、同国初のゴシック・メタルバンドであるネブリナや、キゾンバのネイデ・ヴァン=ドゥーネン(Neide Van-Dúnem)が活動している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1996年に登録されたサン・ミゲル・デ・ルアンダ要塞(ポルトガル語版)とサン・ペドロ・ダ・バラ・デ・ルアンダ要塞(ポルトガル語版)の2つが唯一の世界遺産となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "アンゴラにおける著名なアスリートとしては、総合格闘技団体のRIZIN元バンタム級王者であり、現在はUFCフライ級で活躍するマネル・ケイプが存在する。2021年8月7日にオデー・オズボーン(英語版)と対戦して勝利し、UFC初勝利を挙げた。またバスケットボールの強豪国でもあり、2006年世界選手権でアンゴラ代表は日本代表などと対戦し、3勝2敗のBグループ3位で決勝トーナメントに進出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "アンゴラ国内でも、他のアフリカ諸国同様にサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1979年にサッカーリーグのジラボーラが創設された。アンゴラサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーアンゴラ代表は、FIFAワールドカップには2006年ドイツ大会のアフリカ最終予選で、アフリカ屈指の強豪ナイジェリアを抑えて初出場を果たした。本大会では旧宗主国であるポルトガル、さらにはメキシコやイランとも対戦し、2分1敗でグループリーグ3位で敗退した。アフリカネイションズカップには8度の出場歴があり、2008年大会と2010年大会ではベスト8に進出している。", "title": "スポーツ" } ]
アンゴラ共和国、通称アンゴラは、アフリカ南西部にある共和制国家。東はザンビア、南はナミビア、北はコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面する。コンゴ民主共和国を挟んで飛地のカビンダが存在し、同地の北はコンゴ共和国と接する。首都は大西洋岸のルアンダである。
{{混同|アンドラ公国|x1=ヨーロッパの}}{{Otheruseslist|'''アフリカ南西部に位置する[[国家]]'''|その他の用法|アンゴラ (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 国 | 略名 = アンゴラ | 日本語国名 = アンゴラ共和国 | 公式国名 = {{Lang|pt|'''República de Angola'''}} | 国旗画像 = Flag_of_Angola.svg | 国章画像 = [[File:Coat of arms of Angola.svg|100px|アンゴラの国章]] | 国章リンク = ([[アンゴラの国章|国章]]) | 標語 = [[アンゴラ共和国の国歌|{{lang|la|Virtus Unita Fortior}}]]{{la icon}} | 位置画像 = Angola (orthographic projection).svg | 公用語 = [[ポルトガル語]] | 首都 = [[ルアンダ]] | 最大都市 = ルアンダ | 元首等肩書 = [[アンゴラの大統領一覧|大統領]] | 元首等氏名 = [[ジョアン・ロウレンソ]] | 首相等肩書 = [[アンゴラの副大統領|副大統領]] | 首相等氏名 = {{ill2|エスペランサ・ダ・コスタ|pt|Esperança da Costa}} | 面積順位 = 22 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,246,700 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 45 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 32,866,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ao.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 26.4<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 33兆7564億2200万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月17日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=614,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGSB,GGSB_NPGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 75 | GDP値MER = 583億7600万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 1881.195(推計)<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 103 | GDP値 = 2117億7500万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 6824.551(推計)<ref name="economy" /> | 建国形態 = 独立<br />&nbsp;- 日付 | 建国年月日 = [[ポルトガル]]より<br />[[1975年]][[11月11日]] | 通貨 = [[クワンザ]] | 通貨コード = AOA | 時間帯 = +1 | 夏時間 = なし | 国歌 = [[進めアンゴラ|{{lang|pt|Angola Avante}}]]{{pt icon}}<br>''進めアンゴラ!''<br><center> | ISO 3166-1 = AO / AGO | ccTLD = [[.ao]] | 国際電話番号 = 244 | 注記 = }} '''アンゴラ共和国'''(アンゴラきょうわこく、{{Lang-pt|República de Angola}})、通称'''アンゴラ'''は、[[アフリカ]]南西部にある[[共和制]][[国家]]。東は[[ザンビア]]、南は[[ナミビア]]、北は[[コンゴ民主共和国]]と国境を接し、西は[[大西洋]]に面する。コンゴ民主共和国を挟んで[[飛地]]の[[カビンダ]]が存在し、同地の北は[[コンゴ共和国]]と接する。首都は大西洋岸の[[ルアンダ]]である。 == 概要 == アンゴラは'''[[中部アフリカ]]'''ならび'''[[南部アフリカ]]'''に位置する<ref group="注釈">[[国連]]の分類では中部アフリカに該当されているが、歴史上では南部アフリカとの接点が多く両エリアの国々とも深い関係性を持っている。</ref>。現在のアンゴラには[[旧石器時代]]から人間が住んでいた事が判明している<ref name=Henderson>{{cite book|last=Henderson|first=Lawrence|title=Angola: Five Centuries of Conflict|date=1979|pages=40–42|publisher=Cornell University Press|location=Ithaca|isbn=978-0812216202}}</ref> 。アフリカ大陸においては国土面積が7位の規模を誇る国家であり、[[ルゾフォニア]]においては総面積と人口の両方で2番目に大きい国家となっている<ref group="注釈">どちらの場合も[[ブラジル]]に次ぐ規模となっている。</ref>。 かつては[[ポルトガル]]の[[植民地]]だったものの、1961年に[[アンゴラ独立戦争]]が勃発。[[1975年]]に独立を認めさせたものの独立後も[[アンゴラ内戦|内戦]]が2002年まで続き、疲弊した。ただ、内戦終結後は[[原油]]や[[ダイヤモンド]]などの豊富な資源を背景に、一定の経済発展が見られた。しかし、20年間以上続いた内戦のために1000万個を超える[[地雷]]が敷設されており、さらに首都のルアンダでは2009年時点で物価が世界一高い状態にあったなど<ref name=techinsight1>[https://japan.techinsight.jp/2009/06/southafrica200906112120.html 東京より物価が高い国がアフリカに!世界一物価高の国アンゴラ。2009年6月12日 11:15] - 2009年8月28日閲覧</ref>、未だに課題も多い。 [[ポルトガル語諸国共同体]]、[[ポルトガル語公用語アフリカ諸国]]の加盟国で、アフリカ最大の[[ポルトガル語|ポルトガル語話者]]を擁する国である。 == 国名 == 正式名称はポルトガル語で''República de Angola''({{IPA-pt|ʁɛˈpublikɐ dɨ ɐ̃ˈɡɔlɐ|pron}} レプブリカ・デ・アンゴーラ)であり、かつてこの地を支配していた[[ンドンゴ王国]]の王号である「ンゴラ(Ngola)」に由来する。 公式の英語の名称は、''Republic of Angola''({{IPA-en|rɪˈpʌblɪk əv ænˈgoʊlə|pron}} リパブリック・オブ・アンゴウラ)。 日本での表記は、'''アンゴラ共和国'''が一般的であり、通称として'''アンゴラ'''が用いられている。 独立時の1975年から[[1992年]]まで、正式名称は'''[[アンゴラ人民共和国]]'''だったが、1992年の憲法改正により現在の'''アンゴラ共和国'''に変わった。 == 歴史 == {{main|アンゴラの歴史}} この地域には1世紀ごろから主に[[バントゥー系民族|バントゥー系]]のアフリカ人が住んでいた。 === コンゴ王国時代 === {{main|コンゴ王国}} [[14世紀]]に現・アンゴラ北部に居住していた[[コンゴ人]]は[[コンゴ王国]]を建国し<ref>小田英郎 『世界現代史15──アフリカ現代史III』 [[山川出版社]]、1991年9月第2版。p.25。</ref>、コンゴ王国は現・アンゴラ北西部[[ザイーレ州]]に、首都[[ンバンザ・コンゴ]]を建設した。 === ポルトガル植民地時代 === [[File:Queen Nzinga 1657.png|200px|left|thumb|[[ルアンダ]]の[[ポルトガル人]]総督との和平交渉に臨む[[ンドンゴ王国]]、{{仮リンク|マタンバ王国|en|Kingdom of Matamba}}の[[ンジンガ・ムバンデ (コンゴ女王)|ンジンガ女王]](1657年)。ンジンガ女王を見下していたポルトガル人は女王のために椅子を用意しなかったため、側近が椅子に代わって対等の立場での交渉を繰り広げた。ンドンゴ王国はポルトガル人に敗れたが、ンジンガ女王は今日も多くのアンゴラ人と[[アフリカ系ブラジル人]]の抵抗の象徴となっている。]] {{main|{{仮リンク|アンゴラ植民地の歴史|en|Colonial history of Angola}}|[[ポルトガル領アンゴラ]]|[[ンドンゴ王国]]|{{仮リンク|マタンバ王国|en|Kingdom of Matamba}}}} [[デマルカシオン]]の下にアフリカの西海岸を南下していたポルトガル人は、[[1482年]]にポルトガル人の[[ディオゴ・カン]]が[[コンゴ川]]河口に到着した。1485年に彼は{{仮リンク|マニコンゴ|en|Manikongo|label=コンゴ王}}の[[ジョアン1世 (コンゴ王)|ンジンガ・ンクウ]]との間で、両国の対等な立場の下でコンゴ王国と[[ポルトガル王国]]の国交を結んだ<ref>川田順造編 『新版世界各国史10──アフリカ史』 山川出版社、2009年8月。pp.285-286</ref>。1506年に即位した[[アフォンソ1世 (コンゴ王)|ンジンガ・ムベンバ]]の時代に、コンゴ王国は積極的に[[ポルトガルの文化]]や[[キリスト教]]を採り入れ、ンジンガ・ムベンバは首都ンバンザ・コンゴをポルトガル語の[[サン・サルヴァドール]]と改名した<ref>小田英郎 『世界現代史15──アフリカ現代史III』 山川出版社、1991年9月第2版。p.27。</ref>。その後、ポルトガル人はコンゴに代わって南のアンゴラを新たな[[奴隷]]と、[[カンバンベ]]に期待されていた[[銀]]の供給源と見なし<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳 『ポルトガル2──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。p.86。</ref>、1575年にアンゴラに到達した[[パウロ・ディアス・デ・ノヴァイス]]が{{仮リンク|アンゴラ植民地|en|Portuguese Angola|label=ポルトガル領アンゴラ}}([[1575年]] - [[1975年]])を、翌1576年に[[ルアンダ]]を建設し、ポルトガルはルアンダを拠点にさらなる奴隷の供給を求めて、さらにアンゴラ内陸部への侵略を行った<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳 『ポルトガル2──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.86-87。</ref>。 以降、アンゴラは[[ブラジル]]や[[ウルグアイ]]、[[アルゼンチン]]、[[キューバ]]など[[南アメリカ|南米]]や[[西インド諸島]]への黒人奴隷供給地とされた。1617年に[[ベンゲラ]]が建設されると奴隷貿易はさらに拡大し、1576年から1836年までの間に、300万人の奴隷が大西洋[[三角貿易]]の一環としてアンゴラから[[ラテンアメリカ]]に連行された<ref>福井英一郎編『世界地理10 アフリカII』朝倉書店、1998年。p.136。</ref>。ポルトガル支配に対し、[[ンドンゴ王国]]や{{仮リンク|マタンバ王国|en|Kingdom of Matamba}}は激しい抵抗を繰り広げた。例えば[[1622年]]には、[[:en:Battle of Mbumbi]]を起こした。特に1623年に権力を握った[[ンジンガ・ムバンデ (コンゴ女王)|ンジンガ女王]]は数十年間にわたって反ポルトガル戦争を続け、一時はポルトガルと戦争状態にあった[[オランダ]]と同盟を結び<ref group="注釈">[[オランダ]]は[[オランダ領ブラジル]]{{enlink|Dutch Brazil}}([[1630年]] – [[1654年]])の利権でポルトガルと対立していた。</ref>、ポルトガルと戦ったが、最終的に{{仮リンク|サルヴァドール・コレイア・デ・サ|en|Salvador de Sá|pt|Salvador Correia de Sá e Benevides (militar)}}率いる{{仮リンク|ブラジル植民地|en|Colonial Brazil|label=ポルトガル領ブラジル}}から派遣された軍隊が在アンゴラのオランダ軍に勝利した結果、1648年にアンゴラはポルトガルに征服され、ンジンガ女王は1657年にポルトガルと平和条約を結んだ<ref>岡倉登志 『アフリカの歴史──侵略と抵抗の軌跡』 明石書店、2001年1月。p.22 - 24。</ref><ref>ボリス・ファウスト/鈴木茂訳 『ブラジル史』 明石書店、2008年6月。p.66。</ref>。ポルトガルはオランダとの間に結ばれた1661年の[[ハーグ条約 (1661年)|ハーグ講和条約]]で、400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラと{{仮リンク|ブラジル植民地 (オランダ領)|en|Dutch Brazil|label=オランダ領ブラジル}}(現・ブラジル北東部)領有を国際的に認められた<ref>シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年1月 pp.75 - 76。</ref>。 一方、アンゴラからブラジルに送られた黒人奴隷は脱走して[[マルーン|逃亡奴隷]]となり、ブラジル各地にアンゴラ・ジャンガ(小アンゴラ)と呼ばれる{{仮リンク|キロンボ|en|Quilombo}}(逃亡奴隷集落)を築いた<ref>シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ/東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳『ブラジルの歴史 ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年1月 pp.62-63。</ref>。[[1695年]]の{{仮リンク|パルマーレスの戦い|pt|Guerra dos Palmares}}で滅ぼされたブラジル最大の逃亡奴隷国家は、{{仮リンク|キロンボ・ドス・パルマーレス|pt|Quilombo dos Palmares}}と呼ばれる。[[1665年]]の{{仮リンク|アンブイラの戦い|en|Battle of Mbwila}}をきっかけに、[[:en:Kongo Civil War]]([[1665年]] - [[1709年]])が始まった。 1884年から1885年の[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]での[[アフリカ分割]]の結果、ポルトガルは[[カビンダ]]以外のコンゴ川流域を失った。この時期のポルトガルは、大西洋岸のアンゴラと[[インド洋]]岸の[[モザンビーク]]を結ぶ「{{仮リンク|バラ色地図|pt|Mapa Cor-de-Rosa}}」構想を打ち出し、アフリカ大陸を横断することを植民地政策の目標としたが、この政策は[[カイロ]]から[[ケープタウン]]までアフリカ大陸を縦断しようとしていた[[イギリス]]の植民地政策と衝突したため、1890年にポルトガルはイギリスの圧力によって内陸部の[[ザンビア]]、[[マラウイ]]、[[ジンバブエ]]から撤退し、翌1891年の条約によって{{仮リンク|アンゴラ植民地|en|Portuguese Angola|label=ポルトガル領アンゴラ}}は、ほぼ現在のアンゴラの形に再編された<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳3 『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』 ほるぷ出版、1981年。pp.36 - 40。</ref>。 20世紀に入ると、事実上の強制労働制度とイギリスや[[ベルギー]]の資本により植民地開発が進められた。この時期にベルギー・イギリス系の{{仮リンク|ディアマング|en|Diamang}}社によってダイヤモンド鉱山の開発が始まり、インフラにおいては1907年にイギリス系の[[タンガニーカ・コンセッション]]社({{lang-en-short|Tanganyika Concessions Ltd.}})により、[[ベンゲラ鉄道]]の建設が着工され、1929年に完成した。 === アンゴラ独立戦争 === [[File:Sempreatentos...aoperigo!.jpg|thumb|220px|アンゴラ独立戦争を戦う[[ポルトガル軍]]。1961年から10年以上続いた各植民地での独立戦争は、ポルトガルと植民地の双方を大きく疲弊させた。]] {{main|[[アンゴラ独立戦争]]}} [[第二次世界大戦]]が終結し、[[脱植民地化]]時代に入ると、アフリカ諸国の[[ヨーロッパ]]諸国からの独立の機運が高まり、これがアンゴラにも波及した。[[アントニオ・サラザール]]政権([[エスタド・ノヴォ]])は、1951年にアンゴラなどのアフリカ植民地を「海外州」({{lang-pt-short|Província Ultramarina de Angola}}, {{lang-en-short|Overseas Province of Angola}})と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。 アンゴラや[[モザンビーク]]は形式上、本国のポルトガルと同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画によりアンゴラには5000万ポンドが投資された。アンゴラには多数のポルトガル人の入植が奨励され、ポルトガル人農園主の経営する[[プランテーション]]で栽培された[[コーヒー]]はアンゴラ最大の輸出品目となった。 だが、形式上の本国との対等の地位と事実上の植民地政策の矛盾は隠せず、アンゴラでは[[1961年]][[2月4日]]に[[アゴスティーニョ・ネト]]、[[マリオ・ピント・デ・アンドラーデ]]によって率いられた[[アンゴラ解放人民運動]](MPLA)が、政治犯の解放を求めて首都のルアンダの刑務所を襲撃し、[[アンゴラ独立戦争]]([[ポルトガルの植民地戦争]])が始まった。1961年3月には北部のコンゴ人を主体とし、反共を掲げた[[アンゴラ人民同盟]](UPA、{{lang-pt-short|União das Populações de Angola}}、[[アンゴラ国民解放戦線]] - FNLA の前身)も独立運動を始め、両者の主導権争いが続いた後、1966年に[[ジョナス・サヴィンビ]]がFNLAから[[アンゴラ全面独立民族同盟]](UNITA)を分離した。[[1960年代]]を通じてMPLAによる解放区の拡大は続き、独立派とポルトガル軍(現地採用の黒人兵も多かった)との独立戦争の末にポルトガル本国で1974年に勃発した[[カーネーション革命]]により、独立3会派の紆余曲折を経てMPLAは[[1975年]][[11月11日]]にルアンダで[[アンゴラ人民共和国]]の独立を宣言した。 === アンゴラ内戦 === [[File:Emblem of the People's Republic of Angola (1975-1992).png|thumb|160px|left|独立時の国章]] {{Main|アンゴラ内戦}} しかし、MPLAに主導権を握られるのを嫌った[[アンゴラ国民解放戦線]](FNLA)・[[アンゴラ全面独立民族同盟]](UNITA)連合が、[[ウアンボ]](旧ノーヴァ・リズボア)に{{仮リンク|アンゴラ人民民主共和国|en|Democratic People's Republic of Angola}}の独立を宣言した。MPLAは直ちにアンゴラ人民民主共和国を消滅に追い込んだ。 [[File:South Africa Border War Map.png|thumb|300px|アンゴラ内戦の構図。アンゴラ内の赤はMPLA政府支配地域。アンゴラ内の青と赤の斜線は南アフリカ=UNITA連合軍の最大介入地域。]] 独立直後から、[[キューバ]]による直接介入に加えて[[ソビエト連邦]]が支援する[[アンゴラ解放人民運動]](MPLA)と、[[南アフリカ共和国]]による直接介入、さらに[[アメリカ合衆国]]、[[ザイール]]、[[中華人民共和国]]と[[フランス]]が支援するUNITA・FNLA連合の間で、内戦状態に陥った。[[キューバ軍]]の支援を受けたMPLAは首都のルアンダの防衛に成功し、政権を掌握したが、1975年の時点で50万人を数えた[[ポルトガル系アンゴラ人]]の入植者の大規模な引き揚げや戦争によるインフラ、農地の荒廃によってアンゴラの産業は大混乱に陥った。 [[File:Angola.JoseEduardoDosSantos.01.jpg|thumb|160px|left|第2代大統領、[[ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス]]]] 1979年9月にネト議長が死去し、第2代大統領に[[ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス]]が就任した。アンゴラ政府はソビエト連邦やキューバなど[[社会主義]]陣営との結び付きを強め、MPLAによる社会主義建設のために[[一党制]]を敷いた。しかしこの間も内戦が継続したため、多くの人命が失われ経済は疲弊した。さらに戦闘だけでなく、地雷によって負傷した人々も多く発生した。 アンゴラ内戦は政府・反政府勢力がそれぞれ米ソの後援と、それぞれの勢力の代理人であった[[南アフリカ共和国]]([[アパルトヘイト]]時代)と[[キューバ]]([[フィデル・カストロ|カストロ]]政権)の直接介入を受けていたため、[[冷戦|東西冷戦]]の[[代理戦争]]と言われている。 FNLAは1980年代には弱体化し、南アフリカ共和国とキューバも1988年に南アフリカ共和国が{{仮リンク|クイト・クアナヴァレの戦い|en|Battle of Cuito Cuanavale}}でアンゴラ=キューバ連合軍に侵攻を阻止された後に、当時南アフリカ領だった[[ナミビア]]の独立とキューバ軍のアンゴラ撤退を交換条件に撤退した。外国軍の撤退後、冷戦体制が終結を迎える国際情勢に呼応してMPLA政権は[[1990年]]に社会主義路線を放棄し、翌年には[[複数政党制]]の導入を決めた。ポルトガル政府の仲介で[[1991年]]5月、MPLAとUNITAが[[リスボン]]で和平協定([[:en:Bicesse Accords]])に調印した。 [[1992年]]に実施された大統領選および議会選を巡る対立から、再び武力衝突が発生した。[[1994年]]10月31日に[[国際連合|国連]]の仲介で[[:en:Lusaka Protocol]]が締結されて和平が成立したものの、{{仮リンク|ミッテラン–パスクワ事件|en|Mitterrand–Pasqua affair|label=アンゴラゲート}}と呼ばれるフランスによるアンゴラ反政府勢力への武器密輸スキャンダルの発覚で、UNITAの武装解除に失敗した。 {{Seealso|{{仮リンク|ミッテラン–パスクワ事件|en|Mitterrand–Pasqua affair|label=アンゴラゲート}}|フツ・パワー|ルワンダ虐殺}} なお、内戦とは別に[[第一次コンゴ戦争]]([[1996年]]11月 - [[1997年]]5月)の際にコンゴを支援するため、ザイールへの出兵を1997年5月に'''アンゴラ政府軍'''が行った。アンゴラの人口の1割強は、コンゴ人なのである。しかし[[1998年]]にUNITAの再蜂起により戦闘が再燃し、[[第二次コンゴ戦争]]が発生した。[[ジョナス・サヴィンビ]]議長の私兵勢力と化したUNITAは、ダイヤモンドの密輸を資金源にアンゴラ政府軍と衝突を続けた([[紛争ダイヤモンド]])。 ところが[[2002年]]2月、UNITAのサヴィンビ議長が[[民間軍事会社]](PMC)の攻撃で戦死し、和平機運が高まったため2002年3月15日に双方は休戦で合意した。2002年4月19日には[[サンシティ休戦協定]]([[:en:Sun City Agreement]])が結ばれ、27年間の内戦に終止符が打たれた。この結果、飛地の[[カビンダ]]({{仮リンク|カビンダ共和国|en|Republic of Cabinda}})を除いた全土で、1961年以来初めてアンゴラでの大規模な戦闘が停止した。 === 内戦終結後 === 2002年4月19日の内戦終結後は、ダイヤモンドや原油の輸出によってアンゴラ経済は急速に回復した。 しかし長期間にわたる内戦の結果、世界最悪の数の地雷が敷設されていると言われる程の地雷原が残った。[[2010年]]8月9日、政府の地雷除去委員会は2006年から2010年半ばまでの地雷での死亡者は166人、負傷者は313人であると明らかにした。国連の推定によると、アンゴラ全土に残されている地雷は数百万発に達すると言われている。 さらに政権の腐敗なども見られ、課題は多い。 === カビンダ紛争 === {{main|{{仮リンク|カビンダ紛争|en|Cabinda Conflict}}}} 2002年4月19日の内戦終結後も飛地である[[カビンダ州]]は例外であり、カビンダの独立闘争が続き、アンゴラ政府軍はこれを弾圧し続けている。理由としてはアンゴラの経済の柱の1つである原油がカビンダ州で産出することが挙げられる。[[2007年]]1月1日には[[石油輸出国機構]]に加盟した程である。 ガビンダの独立を目指す反政府勢力の{{仮リンク|カビンダ解放戦線|en|Front for the Liberation of the Enclave of Cabinda}}(FLEC)={{仮リンク|カビンダ軍|en|Forças Armadas de Cabinda}}(FAC)は、ゲリラ戦を展開している。ゲリラ戦の一環として、2010年1月にはアンゴラで開催されたサッカーの国際大会である[[アフリカネイションズカップ2010]]へ出場するために訪れていた[[サッカートーゴ代表|トーゴ代表一行]]のバスをFACが襲撃した。この結果、トーゴのサッカーチームの関係者3名が死亡し選手も含めた数名が負傷した。このためトーゴ代表は出場を辞退したように、2010年代に入っても依然として不安定要素が残った。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|アンゴラの政治|en|Politics of Angola}}}} アンゴラは[[大統領]]を[[元首]]とする[[共和制]]国家で、大統領の任期は5年間である。現行憲法は、2010年の憲法である。当該憲法施行に伴い、議会選挙で最多得票を獲得した政党の名簿で第1位にある者が自動的に大統領となる[[大統領制#議会から大統領を選出する制度|議院大統領制]]を採用した。[[アンゴラの首相一覧|首相職]]が廃止され、代わって副大統領職が設置された。 なお、かつては大統領は直接選挙によって選出されていた<ref>[https://www.angola.emb-japan.go.jp/document/201112angola_jyosei.pdf アンゴラ情勢報告(2011年12月) ] - 2012年1月1日 在アンゴラ日本国大使館 </ref><ref>『出身国情報報告 アンゴラ』、2010年9月1日、英国国境局(法務省入国管理局日本語訳)</ref>。 {{See also|アンゴラの大統領一覧}} [[立法機関]]は[[一院制]]の[[国民議会 (アンゴラ)|国民議会]]であり、議員定数は220名である。 主要政党としては[[アンゴラ解放人民運動]](MPLA)、[[アンゴラ全面独立民族同盟]](UNITA)、[[社会改革党 (アンゴラ)|社会改革党]]、[[アンゴラ民族解放戦線]](FNLA)、[[新民主選挙連合]]などが存在する。直近の総選挙は[[2022年]][[8月24日]]に行われた([[:en:2022 Angolan general election|2022年アンゴラ総選挙]])。 {{See also|アンゴラの政党}} [[司法機関|最高司法機関]]は、最高裁判所である。 1961年から1975年までの独立闘争と建国後の1975年から2002年まで続いた内戦により極めて不安定な時期が長く続いたものの、2002年の内戦終結によりようやく安定の兆しが出てきた。しかし、反政府ゲリラ出現や貧困や政治腐敗など不安定要素も残る。 == 国際関係 == [[File:Diplomatic missions of Angola.PNG|thumb|520px|アンゴラが外交使節を派遣している諸国の一覧図]] {{main|{{仮リンク|アンゴラの国際関係|en|Foreign relations of Angola}}|[[在アンゴラ外国公館の一覧|在アンゴラ在外公館の一覧]]}} 独立時に主導権を握ったのが[[社会主義]]を掲げるMPLAだったために、[[冷戦]]中は国内の内戦の状況がそのまま親[[東側諸国|東側]]政策に結びつき、反政府ゲリラを支援する南アフリカ共和国、アメリカ合衆国、中華人民共和国、ザイールなどとは敵対政策が続いた。 これに対して、冷戦終結後は[[西側諸国]]との友好関係を深め、全方位外交を行っている。 アンゴラは[[ポルトガル語諸国共同体]]の一員であり、ポルトガルやブラジル以外にも、[[カーボ・ヴェルデ]]、[[モザンビーク]]などポルトガル語圏の国々([[ルゾフォニア]])とは深い絆を保っている。 また内戦中、現MPLA政府は[[キューバ軍]]の援軍と医療援助や教育援助を受けたため、現在もキューバとは友好関係が続いており、キューバの医師団を受け入れている。 党旗を南ベトナム解放民族戦線の旗に似せるなど、ベトナムとアンゴラは共に欧米諸国や中国による侵略に立ち向かう同盟国同士であった。ベトナムも少数ながらアンゴラに軍事顧問団を送るなどして支援を行った。そのため、両国は現在でも良好な関係にある。 [[第二次コンゴ戦争]]勃発以来、隣国のコンゴ民主共和国が不安定な情勢であるためかアンゴラもカビラ側での軍事介入を行い、国内にはコンゴ民主共和国人の難民も流入している。 === 中国との関係 === {{main|{{仮リンク|アンゴラと中華人民共和国の関係|en|Angola–China relations}}}} 内戦中、MPLAと対立したUNITAやFNLAをアメリカやザイールなどと連携<ref>{{cite web|url=http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB67/gleijeses4.pdf|format=PDF|title=Document obtained by National Security Archive, from National Archives Record Group 59. Records of the Department of State, Policy Planning Staff, Director’s Files (Winston Lord), 1969-1977, Box 373|website=Gwu.edu|accessdate=2019-02-28}}</ref>して支援していた[[中華人民共和国]]はMPLAのネト政権から[[中越戦争]]を非難<ref>Winrow, Gareth M. (1990). The Foreign Policy of the GDR in Africa. p. 115.</ref>されたように敵対関係にあったが、1983年にMPLAのサントス政権と国交を樹立した<ref>"China in Angola: An emerging energy partnership". The Jamestown Foundation. 2006.</ref>。冷戦終結後、中国は[[インフラ]]整備を行い[[キランバ|キランバ新都市]]のような巨大なゴーストタウン([[鬼城 (地理学)|鬼城]])もできた<ref>{{cite news | url =https://www.bbc.com/news/world-africa-18646243| title =Angola's Chinese-built ghost town| publisher =[[BBC]]| date= 2012-7-3| accessdate =2019-2-20}}</ref>。2007年までに1兆5000億円の資金援助をした。アンゴラは原油の4分の1を中国に輸出しており、最大の輸出先となりアンゴラに利益を還流しない中国の方法にはアンゴラ人からの批判もあり、2004年には反中デモも起きたがMPLA政権はこれを弾圧した<ref>松本仁一『アフリカ・レポート 壊れる国、生きる人々』岩波書店(岩波新書)、2008年8月 pp.121-123</ref>。2014年には内戦で破壊された[[ベンゲラ鉄道]]を中国の援助で再建した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDX1400A_U4A810C1FFE000/ 中国鉄建、アンゴラの鉄道が完工] 日本経済新聞(2014年8月14日)2018年07月23日閲覧</ref>。 === 日本との関係 === {{main|日本とアンゴラの関係}} [[日本]]との関係は[[1990年代]]以前は希薄であったが、内戦の終結や豊富な資源などの発見などにより次第に関係を深めている。[[2005年]]には日本大使館が開設された。民間からも[[難民を助ける会]]などのNGOが現地で援助活動をしていた<ref>[http://www.aarjapan.gr.jp/act/angola/index.html 難民を助ける会はアンゴラで唯一の日本のNGOです] 2009年8月23日閲覧</ref>。 * 在留日本人数 - 34人(2018年10月現在)<ref name="名前なし-1">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/angola/data.html#section6 外務省 アンゴラ基礎データ]</ref> * 在日アンゴラ人数 - 46人(2019年12月末現在)<ref name="名前なし-1"/> ==== 駐日アンゴラ大使館 ==== * 住所:東京都世田谷区代沢2丁目10-24 * アクセス:[[京王井の頭線]][[池ノ上駅]] <gallery> File:アンゴラ大使館正門.jpg|アンゴラ大使館正門 File:アンゴラ共和国の国章.jpg|アンゴラ共和国の国章 File:アンゴラ大使館と大使公邸.jpg|アンゴラ大使館と大使公邸 File:アンゴラ大使公邸門.jpg|アンゴラ大使公邸門 File:アンゴラ大使館裏手.jpg|アンゴラ大使館裏手 </gallery> 同地の敷地面積は2,787m2で、元証券会社の研修施設を改修したものである。 ==== 駐アンゴラ日本大使館 ==== {{節stub}}<!--「加筆を求めています。」とのメッセージが有ったので、タグに変換しました。加筆を行った際に、この節stubのタグも除去してください。--> == 軍事 == {{main|アンゴラ共和国軍}} アンゴラ軍は陸海空の3軍と、緊急即応警察軍から構成される。独立直後に始まったアンゴラ内戦のため、アンゴラ政府軍はソビエト連邦とキューバの支援を受けて南アフリカ共和国や中華人民共和国が支援する反政府ゲリラ(UNITA、FNLA)との戦いを繰り広げた。1988年に[[キューバ軍]]が撤退した後も、2002年にUNITAが降伏するまで内戦は続いた。現在もアンゴラ軍の任務は主に国内の[[ゲリラ]]組織との戦闘である。ただし、内戦終結後も飛地の[[カビンダ州]]の独立を志向する{{仮リンク|カビンダ飛び地解放戦線|pt|Frente para a Libertação do Enclave de Cabinda}}(FLEC)との戦い([[:en:Cabinda Conflict]])も続いており、2010年1月にはFLECによる[[サッカートーゴ代表]]への襲撃事件([[:en:Togo national football team attack]])が発生した。 対外的な軍事介入においては[[コンゴ民主共和国]]との関わりが強く、[[第一次コンゴ戦争]]では反政府ゲリラを支援していたザイールに出兵し、[[モブツ・セセ・セコ|モブツ]]体制崩壊を助けた。[[第二次コンゴ戦争]]([[:en:Ituri conflict]]、[[:en:Kivu conflict]])においても[[ローラン・カビラ]]、[[ジョゼフ・カビラ]]父子の[[コンゴ民主共和国]]新政府支援のために軍を送った。 兵器体系は旧[[東側諸国]]に準ずる。2006年の軍事支出は、GDPの5.7パーセントだった<ref name=2009cia/>。 * [[アンゴラ陸軍]]兵力:10万人 * [[アンゴラ海軍]]兵力:1000人 * [[アンゴラ空軍]]兵力:6000人 * 緊急即応警察軍:1万人 == 地理 == [[File:Angola Topography.png|thumb|left|260px|アンゴラの標高図]] [[File:Pungo Andongo, Malange, Angola.JPG|right|thumb|260px|{{仮リンク|プンゴ・アンドンゴ|en|Pungo-Andongo}}の「黒い岩」({{lang-pt|Pedras Negras de Pungo Andongo}})。[[マランジェ州]]。]] {{main|{{仮リンク|アンゴラの地理|en|Geography of Angola}}}} 国土面積は1,246,700&nbsp;[[平方キロメートル|km{{sup|2}}]]で、[[ニジェール]]に次いで世界で23番目である。 アンゴラ本土(カビンダ州を除く地域)は、南は[[ナミビア]]、東は[[ザンビア]]、北は[[コンゴ民主共和国]]と国境を接する。また飛び地であるカピンダ州はコンゴ民主共和国と[[コンゴ共和国]]に挟まれている。 大西洋を流れる寒流の[[ベンゲラ海流]]の影響により、大西洋沿岸部での降水量は非常に少なく、首都ルアンダを始めとする多くの港湾都市の気候は[[ステップ気候]]を示す。ナミビアに近い最南部の海岸は[[砂漠気候]]さえ示す<ref>「東部・南部アフリカ」(ベラン世界地理体系10)p157 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2019年6月10日初版第1刷</ref>。 一方で、狭い海岸平野を除いた国土の内陸部の大半は広大な台地状の高原であり降水量もやや多く、赤道に近い北部は[[サバナ気候]]、南部は[[温帯夏雨気候]]を示す。 このように国内でも場所によって降雨量のみならず地形や気候にも極端なまでの差が見られる<ref>{{Harvcoltxt|Goyder|Gonçalves|2019|p=84}}.</ref>が、実際 {{Harvcoltxt|Burgess ''et al.''|2004}} の定義による[[エコリージョン]]は15種類と、アフリカの国という単位で見ると最多に近い部類に入り<ref>{{Harvcoltxt|Huntley|2019|p=33}}.</ref>、[[植生]]に関してもカビンダ州含む北部のように高木の生い茂る密林から、ザンビアとの国境地帯の[[氾濫原]]、南西部の[[ウェルウィッチア]]などが生育する砂漠地帯に至るまで多様である(詳細は[[アンゴラの植物相]]を参照)。 == 地方行政区画 == [[File:Provinces of Angola 2014 (numbered).png|thumb|right|260px|番号順に振られたアンゴラの州地図]] [[File:Angola-map-ja.jpeg|right|thumb|260px|アンゴラの地図]] {{main|アンゴラの行政区画}} 18州(''províncias'')の下に、158の市町村(municípios)に分かれている。 # [[ベンゴ州]] (Bengo) # [[ベンゲラ州]] (Benguela) # [[ビエ州]] (Bié) # [[カビンダ|カビンダ州]] (Cabinda) → [[飛地|飛び地]] # [[クアンド・クバンゴ州]] (Cuando Cubango) # [[クアンザ・ノルテ州]] (Cuanza Norte) # [[クアンザ・スル州]] (Cuanza Sul) # [[クネネ州 (アンゴラ)|クネネ州]] (Cunene) # [[ウアンボ州]] (Huambo) # [[ウイラ州]] (Huíla) # [[ルアンダ州]] (Luanda) # [[ルンダ・ノルテ州]] (Lunda Norte) # [[ルンダ・スル州]] (Lunda Sul) # [[マランジェ州]] (Malanje) # [[モシコ州]] (Moxico) # [[ナミベ州]] (Namibe) # [[ウイジェ州]] (Uíge) # [[ザイーレ州]] (Zaire) === 主要都市 === {{main|アンゴラの都市の一覧}} * [[ルアンダ]] * [[ウアンボ]] * [[ロビト]] * [[ベンゲラ]] * [[ルバンゴ]] * [[カビンダ (都市)|カビンダ]] == 経済 == [[File:Luanda from Fortaleza Feb 2006.jpg|thumb|left|240px|首都ルアンダの中心街]] {{main|{{仮リンク|アンゴラの経済|en|Economy of Angola}}|アンゴラにおけるコーヒー生産}} アンゴラでは長年にわたる内戦によって、インフラの破壊や人的資源の損失などが著しい。しかし、沿岸部の埋蔵量80億[[バレル]]とされる原油と、内陸部で産出するダイヤモンドなど、鉱産資源には比較的恵まれている。この豊富な資源を背景に、内戦終結後は、貿易によって毎年30億[[ドル]]以上の黒字を記録したなど、これからの発展に充分な期待が持たれる国として、外国企業の進出も盛んである。2004年に中国の政府系金融機関{{仮リンク|中国輸出入銀行|en|Exim Bank of China|zh|中国进出口银行}}({{lang|zh|中国进出口银行}})は20億ドルの現金をアンゴラに貸し出した。ローンはアンゴラのインフラの再建に使われ、同国における[[国際通貨基金]](IMF)の影響力を制限した<ref>{{cite web|url=http://www.pinr.com/report.php?ac=view_report&report_id=460&language_id=1|title=The Increasing Importance of African Oil|work=Power and Interest Report|date=2006-03-20|accessdate=2009-12-13}}</ref>。 [[File:Offshore platform on move to final destination, Ilha de Luanda.JPG|thumb|沿岸の石油プラットフォーム]] アンゴラの経済成長は2005年末の時点で日産140万バレル(220,000 m3/d)を越える石油生産の進展によって後押しされており、生産能力は2007年までに200万バレル(320,000 m3/d)に伸びると予想された。[[石油産業]]の支配はアンゴラ政府が所有するコングロマリット、[[ソナンゴル]]([[:en:Sonangol Group|Sonangol Group]])によって強化される。アンゴラの石油資源の大半は飛地のカビンダ州に埋蔵されている。石油セクターは急速に成長している部門であり、経済活動全体の向上の原動力であるが、それにもかかわらず貧困は依然として拡散している。腐敗の監視人たる[[トランスペアレンシー・インターナショナル]]は、2005年にアンゴラを最も腐敗した国家のワースト10にランクした。[[ブリティッシュ・ペトロリアム]]が、採掘権料を腐敗した役人から政府の歳入に入るようにしたときは、他の石油会社はそれに賛同しなかった<ref>スティグリッツ教授の経済教室 p-99</ref>。首都は開発が進み、同国で言及すべき唯一の経済センターだが、ムセーケス(''musseques'')と呼ばれる[[スラム]]がルアンダの周囲を1マイルにわたって取り巻いている。アメリカの保守的な[[シンクタンク]]である[[ヘリテージ財団]]によれば、アンゴラからの石油生産はアンゴラが現在中国にとっては最大の石油供給国であるため著しく増加している<ref>[http://www.heritage.org/research/africa/HL1006.CFM Into Africa: China's Grab for Influence and Oil]</ref>。[[石油輸出国機構|OPEC]]には[[2007年]]1月1日に加盟したが、2023年12月21日には自国の利益にならないとして脱退を表明した<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/markets/japan/funds/WMWQ3TXS25JL7M5YHEVDXFQRYM-2023-12-21/|title=アンゴラ、OPEC脱退 「自国の利益にならず」と石油相|agency=[[ロイター]]|date=2023-12-22|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 内戦の影響で依然としてアンゴラ国内各地に地雷が放置されており、開発の大きな障害となっている。各国のNGOや日本の[[日立製作所]]などの技術により、地雷の除去が進められている<ref>[http://www.film.hitachi.jp/movie/movie725.html Hitachi Theater 地雷廃絶への挑戦-アンゴラの地雷原に挑む-] - 2009年8月23日閲覧</ref>。 CIAワールドファクトブックによれば、実質GDP成長率は2006年に18.6%、2007年に21.1%、2008年には12.3%<ref name=2009cia/>と非常に高い数値に達した。 近年の急速な経済成長により、2009年現在の首都のルアンダの物価は世界一高い状態にある<ref name=techinsight1/>。 * 国内総生産: 1067億ドル(2022年)- [[世界銀行]]調べ<ref>http://databank.worldbank.org/data/download/GDP.pdf</ref> * 1人当たり国民所得: 1900ドル(2022年)- 世界銀行調べ<ref>http://databank.worldbank.org/data/download/GNIPC.pdf</ref> == 交通 == {{main|{{仮リンク|アンゴラの交通|en|Transport in Angola}}}} [[フラッグキャリア]]の[[TAAGアンゴラ航空]]が国内主要都市の間を運航している他に、アフリカ大陸の近隣諸国やヨーロッパ、南北アメリカ大陸の主要都市との間を結んでいる。なお、同社は近年アメリカ製の最新鋭機である[[ボーイング777]]や[[ボーイング737]]-800を次々と導入し、サービス向上に力を入れている。 陸上交通においては、植民地時代に[[ベンゲラ鉄道]]が建設されたものの、内戦中に運行停止した。これを中華人民共和国の援助により、復旧した。 {{see also|アンゴラの空港の一覧|アンゴラの鉄道}} == 国民 == [[File:Angola - Pretty smile in Luanda.jpg|right|thumb|180px|ルアンダの女性]] {{main|{{仮リンク|アンゴラの人口統計|en|Demographics of Angola}}}} [[15世紀]]以来長らくポルトガルの支配下に置かれ、アメリカや[[ラテンアメリカ]]への奴隷供給源だったため、アフリカの中でも人口密度が極めて低い国の1つである。 === 民族 === [[File:Angola tribes 1970.jpg|thumb|180px|left|アンゴラ国内の諸民族(部族)の勢力範囲を示した地図(1970年)]] [[File:Angola demography.png|thumb|250px|right|1961年から2003年までのアンゴラの人口動態グラフ]] {{main|{{仮リンク|アンゴラの民族|en|Ethnic groups in Angola}}}} アンゴラの民族構成は、[[オヴィンブンド人]]が37パーセント、[[キンブンド人]]が25パーセント、[[コンゴ人]]が13パーセントなど、[[バントゥー系民族|バントゥー系]]黒人諸民族が大半である。このように、2つのンブンド人が併せて人口の62パーセントを占めている。主に北部に住むコンゴ人は、かつてコンゴ王国の担い手だった民族であり、国境を越えたコンゴ民主共和国やコンゴ共和国にもまとまった数の集団が存在する。 これ以外にも白人と黒人の混血である[[メスチーソ]]が2パーセントを占め、1パーセントほどの[[ポルトガル人|ポルトガル系]]([[ポルトガル系アンゴラ人]])を中心とする[[ヨーロッパ系]]市民も存在する。その他が22パーセントである<ref name=2009cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ao.html CIA World Factbook] - 2009年12月13日閲覧</ref>。 なお、アンゴラ内戦時に派遣され、現在も帰れないまま残留しているキューバ兵が1万人ほど残っている。その他のマイノリティとしては[[中国人]]([[華僑]])も見られる。さらに、アンゴラは2007年末で1万2100人の難民と、2900人の亡命希望者を抱えていると推測されている。 2008年には、40万人のコンゴ民主共和国人の移民労働者が存在したと見積もられ<ref>[http://www.unhcr.org/refworld/country,,USCRI,,COD,456d621e2,485f50c0c,0.html World Refugee Survey 2008 - Angola], UNHCR</ref>、少なくとも3万人のポルトガル系アンゴラ人<ref>[http://www.state.gov/r/pa/ei/bgn/6619.htm Angola], U.S. Department of State</ref>、少なくとも2万人の中国人がアンゴラに住んでいる。独立前の1975年には約50万人のポルトガル人のコミュニティを抱えていた<ref>[http://www.economist.com/world/mideast-africa/displayStory.cfm?story_id=12079340 Flight from Angola], ''The Economist '', August 16, 1975</ref>。 {{Clearleft}} === 言語 === {{main|アンゴラの言語}} アンゴラの[[公用語]]は[[ポルトガル語]]である。しかし9割以上の国民は[[キンブンド語]]、[[ウンブンド語]]、[[コンゴ語]]、[[リンガラ語]]などの[[バントゥー諸語]]を話す。 なお、1990年の時点でポルトガル話者数は国民の2割程度だと見られている<ref>寺尾智史「南部アフリカ・アンゴラにおける多言語政策試行」</ref>。 === 宗教 === [[File:Igreja_Benguela,_Angola.jpg|right|thumb|[[ベンゲラ]]の教会]] {{main|{{仮リンク|アンゴラの宗教|en|Religion in Angola}}}} アンゴラで信仰されている宗教は、[[キリスト教]]が最大で人口の53パーセントを占め、そのうちの72パーセントがカトリックで、残りの28%はキリスト教系の諸派であり、[[バプティスト]]、[[プレスビテリアン]]、[[改革福音派]]、[[ペンテコステ派]]、[[メソジスト]]、キリスト教[[カルト]]などが見られる<ref name="books.google.com">https://books.google.co.jp/books?id=DeVqVy21g9sC&pg=PA40&lpg=PA40&dq=presbyterian+church+in+angola&source=bl&ots=3KbFI1zxSt&sig=vzJ0gD-4N2h0KgEIN9E8SebEh34&hl=en&ei=UnqKSsi_GoWwswPK_4XTDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y</ref><ref>warc.ch/update/up132/09.html</ref><ref>wcc-coe.org/wcc/what/regional/african-mchs.pdf</ref><ref>https://books.google.co.jp/books?id=C5V7oyy69zgC&pg=PA539&lpg=PA539&dq=presbyterian+church+in+angola&source=bl&ots=KP8Anxs5Mb&sig=sEo9W7xjWU3x0o-ancv2pi1UWIo&hl=en&ei=UnqKSsi_GoWwswPK_4XTDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q=&f=false</ref>。 残りの47パーセントは、[[デマルカシオン|キリスト教侵入]]以前から伝統的に信仰されてきた宗教などである<ref name=2009cia/>。 {{See also|{{仮リンク|アンゴラにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Angola}}}} === 教育 === [[File:Kuito_class.jpg|left|thumb|220px|アンゴラの学校]] {{main|{{仮リンク|アンゴラの教育|en|Education in Angola}}}} アンゴラの法律では、[[初等教育]]の8年間は必修かつ無料だが、政府の報告によれば、学校施設と教員の不足により、かなりの生徒が学校に出席していない<ref name="ilab">"Botswana". [http://usinfo.state.gov/infousa/economy/ethics/docs/tda2005.pdf ''2005 Findings on the Worst Forms of Child Labor'']. [[Bureau of International Labor Affairs]], [[U.S. Department of Labor]] (2006). ''This article incorporates text from this source, which is in the [[public domain]].''</ref>。なお無料とは言っても、生徒はしばしば教科書や学用品など学校関連の追加支出を負担しなければならない<ref name=ilab/>。 1999年には初等教育の総就学率は74%であり、1998年には初等教育の純就学率は61%だった<ref name=ilab/>。総就学率、純就学率は共に公式に初等学校に登録された生徒の数を基にしており、それゆえ出席実態は実際には反映されていない<ref name=ilab/>。また都市と地方の就学状況は顕著な差が開いたままである。1995年には、7歳から14歳までの71.2%の児童が学校に出席していた<ref name=ilab/>。男子の方が女子よりも出席率が高い傾向が報告されている<ref name=ilab/>。アンゴラ内戦(1975年 - 2002年)の間、半数近い学校が略奪、破壊されたことが報告されており、現在の学校過密の問題を招いている<ref name=ilab/>。 教育省は2005年に2万人の新教員を雇い、教員研修を実施している<ref name=ilab/>。教員は薄給、研修不足、過重労働の傾向がある<ref name=ilab/>。また生徒からの直接の支払いや賄賂を要求する教員もいると報告されている<ref name=ilab/>。その他に児童が定期的に学校に通えない理由として、地雷の存在、予算の不足、身分証明書類の不備、劣悪な健康状態などが挙げられる<ref name=ilab/>。2004年に教育予算の分配は増加したにもかかわらず、アンゴラの教育システムは依然として極度に資金不足である<ref name=ilab/>。 2001年の推計によれば、15歳以上の国民の[[ポルトガル語]]での[[識字率]]は67.4%(男性:82.9% 女性:54.2%)である<ref name=2009cia/>。植民地時代の[[1950年]]の[[非識字]]率は96.4%であった<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス 『ポルトガル3』 金七紀男訳、ほるぷ出版〈世界の教科書 = 歴史〉、東京、1981年11月1日、初版、163頁。</ref>。2005年の教育支出はGDPの2.7%と、世界的に見ても低い数値だった<ref name=2009cia/>。 主要な高等教育機関としては[[アゴスティーニョ・ネト大学]](1962)や[[アンゴラ・カトリック大学]](1999)が挙げられる。また1975年のポルトガルからの独立以降、アンゴラのエリート層の子女は高等学校、工業専門学校、ポルトガル、ブラジル、キューバの大学などにも協定によって入学している。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|アンゴラの保健|en|Health in Angola}}}} {{See also|{{仮リンク|アンゴラの医療|en|Healthcare in Angola}}|アンゴラのHIV/AIDS}} 2007年の調査では、アンゴラでは[[ナイアシン]]が欠乏した状態が一般的だと結論付けられた<ref>{{cite journal |author=Seal AJ, Creeke PI, Dibari F, ''et al.'' |title=Low and deficient niacin status and pellagra are endemic in postwar Angola |journal=Am. J. Clin. Nutr. |volume=85 |issue=1 |pages=218–24 |year=2007 |month=January |pmid=17209199 |doi= |url=http://www.ajcn.org/cgi/pmidlookup?view=long&pmid=17209199}}</ref>。 [[コレラ]]、[[マラリア]]、[[狂犬病]]、[[マールブルグ熱]]のようなアフリカ出血熱などの伝染病は、国内のどの地域でも一般的な病気である。 さらにアンゴラの多くの地域では[[結核]]の感染率と、[[HIV]]の感染率が高い。[[デング熱]]、[[フィラリア症]]、[[リーシュマニア症]]、{{仮リンク|回旋糸状虫症|en|onchocerciasis}}(川失明)は虫によって媒介される病気であり、この地域でも発生する。 アンゴラでは[[乳幼児死亡率]]が世界で最も高い。また[[平均寿命]]が世界の中で特に短い国の1つでもある。 == 治安 == アンゴラの政情は安定しているものの、経済格差が大きいことから都市部において[[強盗]]や[[スリ]]・[[ひったくり]]、車両[[盗難]]・[[車上荒らし]]事件などの犯罪が日常的に発生しており、被害者の国籍を問わず単身(もしくは少数での)徒歩移動中やマーケットなどでの買い物後に強盗被害に遭う事例が多数報告されている。 ほか、スリや置き引き、車上荒らしに関しては[[繁華街]]や[[スラム街]]、空港、路上、[[駐車場]]などにおいてその被害に遭う事案が見られる。特に空港や路上などで同国の警察官から金銭などに絡む不当要求を受けるトラブルが発生していることから注意が求められている<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_092.html アンゴラ安全対策基礎データ] 海外安全ホームページ</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|アンゴラにおける人権|en|Human rights in Angola}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|アンゴラのメディア|en|Mass media in Angola}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|アンゴラの通信|en|Telecommunications in Angola}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|アンゴラの文化|en|Culture of Angola|pt|Cultura de Angola}}}} アンゴラはポルトガルから400年以上の長きにわたって支配されていたため、言語(ポルトガル語)や宗教(カトリック教会)など、{{仮リンク|ポルトガルの文化|en|Culture of Portugal|pt|Cultura de Portugal}}の影響を非常に強く受けている。それでも、アンゴラの文化はその多くが伝統的な[[バントゥー系民族|バントゥー]]系の文化を残している。しかしながら植民地支配の長さによるものからか、アンゴラの大衆文化の一部にはポルトガル文化が合わさって独自に形成されているものが見受けられる。 また[[オヴィンブンド人]]、[[キンブンド人]]、[[コンゴ人]]などを含む多様な部族やそれぞれの伝統、言語・方言がさらに文化に幅を持たせている。 この他に、アンゴラ独自の文化ではないがブラジルの[[カポエィラ]]や[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]、[[アルゼンチン]]や[[ウルグアイ]]の[[タンゴ]]、[[カンドンベ]]などのアフリカに起源を持つ文化は、アンゴラから連行された黒人奴隷の文化が基になったように、奴隷として連れていかれた先の地域の文化に影響を与えている。 === 食文化 === [[File:Funge.jpg|thumb|{{仮リンク|フンジ|en|Funge (food)}}]] [[File:Chicken moambe with French fries (14792587921).jpg|thumb|{{仮リンク|ムアンバ・チキン|fr|Moambe|en|Moambe chicken}} </div> {{仮リンク|ムアンバ|en|Moambe}}と呼ばれる[[パームヤシ]]から作られた[[バター]]状の調味料を用いており、アンゴラの国民料理の一部となっている。<br /> この料理はアンゴラのみならず[[中部アフリカ]]諸国でも食されている。]] {{main|{{仮リンク|アンゴラ料理|en|Angolan cuisine}}}} アンゴラの主食は、[[キャッサバ]]や[[トウモロコシ]]の粉を湯と混ぜて餅状にした{{仮リンク|フンジ|en|Funge (food)}}であり、肉や野菜を[[パーム油]]と煮た、シチューのような食べ物である{{仮リンク|ムアンバ・チキン|fr|Moambe|en|Moambe chicken}}<ref group="注釈">単に'''ムアンバ'''とも呼ぶ場合がある。</ref>と一緒に食べる場合が多い。 その他、旧宗主国の[[ポルトガル料理]]やその植民地であった[[ブラジル料理]]の影響を強く受けている。たとえば、アンゴラにはポルトガルが植林した[[オリーブ]]が生育しており、料理にも[[オリーブ・オイル]]が用いられる。 === 文学 === [[File:Pep.jpg|thumb|『[[マヨンベ]]』(1980年)の著者、[[ペペテラ]]]] {{main|アンゴラ文学|アフリカ文学}} 文字によるアンゴラの文学は、ポルトガル語によって19世紀半ばに始まった。これは、カーボ・ヴェルデの文学の成立と同時期であり、モザンビークに半世紀先駆けた物であった<ref name=ichinose>市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月</ref>。文学において、[[アンゴラ文学]]は[[ポルトガル文学]]との差異を強調する傾向があり、この傾向は独立以前の文学において、ポルトガル文学に対するこだわりを強く持たなかった[[モザンビーク文学]]との差となった<ref name=ichinose/>。 アンゴラの詩は、1960年代の独立戦争の時期に高揚した。独立戦争の指導者である[[アントニオ・ディアス・カルドーゾ]]、[[マリオ・ピント・デ・アンドラーデ]]、[[アゴスティーニョ・ネト]]や、亡命者の[[アルリンド・バルベイトス]]など、多くの政治的な人物によりポルトガル語詩が作られた。 小説においては、[[20世紀]]前半にポルトガル人行政官としてアンゴラに駐在し作品を著した{{仮リンク|フェルナンド・モンテイロ・デ・カストロ・ソロメーニョ|en|Fernando Monteiro de Castro Soromenho}}や、『ルーアンダ』(1961)などで知られ、[[キンブンド語]]とポルトガル語を巧みに融合してノーベル文学賞受賞も取り沙汰され<ref name=ichinose/>、現地の口承文学などを取り入れてポルトガルによる植民地支配を描いた[[ジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ]]、[[アンゴラ独立戦争]]における解放軍の戦士の心情描写を通してアンゴラ人の心を描いた『[[マヨンベ]]』(1980)<ref>青山森人「アンゴラ人でしか書けないアンゴラの根っこ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英:編 社会評論社、1997/05</ref>で知られ、1997年に[[カモンイス賞]]を受賞した[[ペペテラ]]、ジャーナリストであり、伝記文学や''『過去の売人』''<ref group="注釈">日本語未訳のため、葡語のタイトルから独自に訳した。</ref>(O Vendedor de Passados, 2004)で2007年の英[[インデペンデント]]紙[[:en:Independent Foreign Fiction Prize|外国フィクション賞]]を受賞した[[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]]らがアンゴラの著名な作家の名として挙げられる。 === 音楽 === {{main|アンゴラの音楽}} キンブンド人の音楽だったアンゴラの[[センバ]]は、ブラジルに渡ってサンバとなった。1947年に{{仮リンク|リセウ・ヴィエイラ・ディアス|en|Liceu Vieira Dias}}が中心となって結成された[[ンゴラ・リトモス]]は新たなセンバを創始し、アンゴラのポピュラー音楽の方向を決定づけた。ンゴラ・リトモスによって方向づけられたアンゴラのポピュラー音楽は、1960年代から独立後を通してセンバが主流となり、[[ボンガ]]、[[ヴァルデマール・バストス]]、[[パウロ・フローレス]]のように、国際的な成功を収めたミュージシャンも現れた。センバ以外にアンゴラ発祥の音楽のジャンルには、フランス語圏[[西インド諸島]]の[[ズーク]]([[:en:Zouk|Zouk]])とセンバのクロスオーバーである[[キゾンバ]]が存在し、アンゴラ発祥のクラブミュージックである[[クドゥーロ]]も、[[ブラカ・ソン・システマ]]の活躍の影響などもあって近年世界的に注目を集めている。近年は、同国初の[[ゴシック・メタル]]バンドである[[ネブリナ]]や、キゾンバの[[ネイデ・ヴァン=ドゥーネン]]([[:en:Neide Van-Dúnem|Neide Van-Dúnem]])が活動している。 === 映画 === {{main|{{仮リンク|アンゴラの映画|en|Cinema of Angola}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{main|アンゴラの世界遺産}} 1996年に登録された{{仮リンク|サン・ミゲル・デ・ルアンダ要塞|pt|Fortaleza de São Miguel de Luanda}}と{{仮リンク|サン・ペドロ・ダ・バラ・デ・ルアンダ要塞|pt|Fortaleza de São Pedro da Barra de Luanda}}の2つが唯一の世界遺産となっている。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|アンゴラの祝日|en|Public holidays in Angola}}}} {| class="wikitable" |- ! 日付 !! 日本語表記 !! 現地語表記 !! 備考 |- | [[1月1日]] || [[元日]] || lang="pt" | Ano Novo || |- | [[2月4日]] || 武装闘争開始の日 || lang="pt" | Dia Nacional do Esforço Armado || 独立を求めて宗主国ポルトガルへの闘争を開始した日 |- | [[3月8日]] || [[国際女性デー]] || lang="pt" | Dia Internacional da Mulher || |- | [[3月27日]] || 勝利の日 || lang="pt" | || |- | [[4月14日]] || 青年の日 || lang="pt" | || |- | [[5月1日]] || [[メーデー]] || lang="pt" | Dia do Trabalho || |- | [[6月1日]] || 子供の日 || lang="pt" | Dia Internacional da Criança || |- | [[8月1日]] || 国軍記念日 || lang="pt" | || |- | [[9月17日]] || 国民的英雄の日 || lang="pt" | Fundador da Nação e Dia dos Heróis Nacionais || 最初の大統領[[アゴスティニョ・ネト]]の誕生日 |- | [[11月11日]] || [[独立記念日]] || lang="pt" | Dia da Independência || |- | [[12月1日]] || 開拓者の日 || lang="pt" | || |- | [[12月10日]] || MPLA労働者党設立記念日 || lang="pt" | || |- | [[12月24日]] || [[クリスマスイブ]] || lang="pt" | || |- | [[12月25日]] || [[クリスマス]] || lang="pt" | Natal || |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|アンゴラのスポーツ|pt|Desporto em Angola}}}} {{see also|オリンピックのアンゴラ選手団}} アンゴラにおける著名な[[アスリート]]としては、[[総合格闘技]]団体の[[RIZIN FIGHTING FEDERATION|RIZIN]]元[[バンタム級]]王者であり<ref>[https://www.mmafighting.com/platform/amp/2019/12/31/21044214/rizin-20-results-manel-kape-stops-kai-asakura-to-claim-bantamweight-title RIZIN 20 results: Manel Kape stops Kai Asakura to claim bantamweight title] MMA Fighting 2019年12月31日</ref>、現在は[[UFC]][[フライ級]]で活躍する'''[[マネル・ケイプ]]'''が存在する<ref>[https://efight.jp/news-20200401_416696 UFCへ電撃移籍のRIZIN王者ケイプ「今まで応援ありがとう、将来また日本で戦う」] イーファイト 2020年4月1日</ref>。2021年8月7日に{{仮リンク|オデー・オズボーン|en|Ode' Osbourne}}と対戦して勝利し、UFC初勝利を挙げた<ref>[https://mmajunkie.usatoday.com/2021/08/former-rizin-champ-manel-kape-notches-first-promotional-win-with-violent-flying-knee-ko-at-ufc-265/amp Former RIZIN champ Manel Kape notches first promotional win with violent flying knee KO at UFC 265] MMA Junkie 2021年8月7日</ref>。また[[バスケットボール]]の強豪国でもあり、[[2006年バスケットボール世界選手権|2006年世界選手権]]で[[バスケットボールアンゴラ代表|アンゴラ代表]]は[[バスケットボール男子日本代表|日本代表]]などと対戦し、3勝2敗のBグループ3位で決勝トーナメントに進出している。 === サッカー === {{see|{{仮リンク|アンゴラのサッカー|en|Football in Angola}}}} アンゴラ国内でも、他の[[アフリカ]]諸国同様に[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1979年]]にサッカーリーグの[[ジラボーラ]]が創設された。{{仮リンク|アンゴラサッカー連盟|en|Angolan Football Federation}}によって構成される[[サッカーアンゴラ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツ大会]]の[[2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選|アフリカ最終予選]]で、アフリカ屈指の強豪[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]を抑えて初出場を果たした。本大会では旧[[宗主国]]である[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]、さらには[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]や[[サッカーイラン代表|イラン]]とも対戦し、2分1敗でグループリーグ3位で敗退した。[[アフリカネイションズカップ]]には8度の出場歴があり、[[アフリカネイションズカップ2008|2008年大会]]と[[アフリカネイションズカップ2010|2010年大会]]ではベスト8に進出している。 == 著名な出身者 == {{Main|アンゴラ人の一覧}} * [[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]] - [[文学者]] * [[ペペテラ]] - 文学者 * [[フラヴィオ・アマド|フラヴィオ]] - 元[[サッカー選手]] * [[ファブリス・アルセビアデス・マイエコ|アクワ]] - 元サッカー選手 * [[マテウス・アルベルト・コントレイラス・ゴンサルヴェス|マヌーショ]] - 元サッカー選手 * [[マテウス・ガリアーノ・ダ・コスタ|マテウス]] - [[サッカー選手]] * [[ヴァルデマール・バストス]] - [[ミュージシャン]] * [[パウロ・フローレス]] - ミュージシャン * [[ボンガ]] - ミュージシャン * [[マネル・ケイプ]] - [[総合格闘家]] * [[ブルーノ・フェルナンド]] - [[バスケットボール選手]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == ;日本語 * {{Cite book|和書|author=芝生瑞和|date=1976-01|title=アンゴラ解放戦争|series=岩波新書|publisher=[[岩波書店]]|location=東京|id={{NDLJP|12180542}}|ref=芝生(1976)}} * {{Cite book|和書|author=青木一能|date=2001年2月|title=アンゴラ内戦と国際政治の力学|series=|publisher=[[芦書房]]|location=東京|isbn=4-7556-1156-3|ref=青木(2001)}} * 青山森人「アンゴラ人でしか書けないアンゴラの根っこ」『社会思想史の窓第118号 クレオル文化』石塚正英(編)、[[社会評論社]]、東京、1997年5月。 * 池谷和信、武内進一、佐藤廉也(編)『朝倉世界地理講座 アフリカII 「アンゴラの多様な民族の生活」 』、[[朝倉書店]]、2008年4月。 * {{Cite book|和書|author=市之瀬敦|date=2001年12月|title=ポルトガルの世界-海洋帝国の夢のゆくえ|series=|publisher=[[社会評論社]]|location=東京|isbn=4-7845-0392-7|ref=市之瀬(2001)}} * 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、[[拓殖書房]]、東京、1994年11月。 * {{Cite book|和書|author=岡倉登志|date=2001年1月|title=アフリカの歴史-侵略と抵抗の軌跡|series=|publisher=[[明石書店]]|location=東京|isbn=|ref=岡倉(2001)}} * {{Cite book|和書|author=小田英郎|edition=1991年9月第2版|title=アフリカ現代史III|series=世界現代史15|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn=4-634-42150-X|ref=小田(1991)}} * 神戸育郎「第七章アンゴラ革命」『世界の革命』革命史研究会編、[[十月社]]、1987年2月。 * {{Cite book|和書|author=川田順造(編)|date=2009年8月|title=アフリカ史|series=新版世界各国史10|publisher=[[山川出版社]]|location=東京|isbn= 9784634414006|ref=川田編(2009)}} * {{Cite book|和書|author=金七紀男|edition=2003年4月増補版|title=ポルトガル史(増補版)|publisher=[[彩流社]]|location=東京|isbn=4-88202-810-7|ref=金七(2003)}} * 寺尾智史「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81001673 南部アフリカ・アンゴラにおける多言語政策試行]」『国際文化学』32、pp.33-66、神戸大学大学院国際文化学研究科、2009年7月。 * {{Cite book|和書|author=福井英一郎(編)|date=1998年11月|title=アフリカII|series=世界地理10|publisher=朝倉書店|location=東京|isbn=|ref=福井(1998)}} * {{Cite book|和書|author=星昭、林晃史|date=1978年12月|title=アフリカ現代史I-総説・南部アフリカ|series=世界現代史13|publisher=山川出版社|location=東京|isbn=|ref=星、林(1978)}} * {{Cite book|和書|author=松本仁一|date=2008年8月|title=アフリカ・レポート-壊れる国、生きる人々|series=岩波新書|publisher=岩波書店|location=東京|isbn=9784-00-431146-1|ref=松本(2008)}} ;英語 * {{Cite book|last=Burgess|first=Neil|authorlink=species:Neil D. Burgess|last2=Hales|first2=Jennifer D'Amico|last3=Underwood|first3=Emma|authorlink3=d:Q91585438|last4=Dinerstein|first4=Eric|authorlink4=:de:Eric Dinerstein|last5=Olson|first5=David|authorlink5=d:Q117144700|last6=Illanga|first6=Itoua|last7=Schipper|first7=Jan|authorlink7=d:Q56800857|last8=Ricketts|first8=Taylor|authorlink8=:en:Taylor Ricketts|last9=Newman|first9=Kate|year=2004|title=Terrestrial Ecoregions of Africa and Madagascar – A Conservation Assessment|publisher=Island Press|location=Washington DC|url=https://www.researchgate.net/publication/292588815|ref={{SfnRef|Burgess ''et al.''|2004}}}} 499 pp - アフリカの生育地に関して近年で最も包括的な総合書であり、保全計画の基礎として広く採用されてきた上、アフリカのバイオーム、エコリージョン、生育地の研究にとって有用なものである({{Harvcoltxt|Huntley|2019|p=32}})。 * {{Cite book|last=Goyder|first=David J.|authorlink=:es:David John Goyder|last2=Gonçalves|first2=Francisco Maiato P.|authorlink2=species:Francisco Maiato Pedro Gonçalves|year=2019|chapter=The Flora of Angola: Collectors, Richness and Endemism|editor-last=Huntley|editor-first=Brian J.|editor2-last=Russo|editor2-first=Vladimir|editor3-last=Lages|editor3-first=Fernanda|editor4-last=Ferrand|editor4-first=Nuno|title=Biodiversity of Angola: Science & Conservation: A Modern Synthesis|publisher=Springer Nature, Cham|pages=79–96|id={{ISBN2|978-3-030-03082-7}}, {{ISBN|978-3-030-03083-4}}|doi=10.1007/978-3-030-03083-4_5|ref=harv}} * {{Cite book|last=Huntley|first=Brian J.|authorlink=:en:Brian Huntley|year=2019|chapter=Angola in Outline: Physiography, Climate and Patterns of Biodiversity|editor-last=Huntley|editor-first=Brian J.|editor2-last=Russo|editor2-first=Vladimir|editor3-last=Lages|editor3-first=Fernanda|editor4-last=Ferrand|editor4-first=Nuno|title=Biodiversity of Angola: Science & Conservation: A Modern Synthesis|publisher=Springer Nature, Cham|pages=15–42|id={{ISBN2|978-3-030-03082-7}}, {{ISBN|978-3-030-03083-4}}|doi=10.1007/978-3-030-03083-4_2|ref=harv}} == 関連項目 == * [[アンゴラ関係記事の一覧]] * [[ポルトガル語諸国共同体]] * [[アンゴラ (小惑星)]] - アンゴラに因んで命名された[[小惑星]]。 * [[アノーソサイト]] - アンゴラの南部で採掘された黒いアノーソサイトは「アンゴラブラック」と呼ばれる。 == 外部リンク == {{Commons&cat|Angola|Angola}} {{Wikivoyage|pt:Angola|アンゴラ{{pt icon}}}} * [[政府]] ** [http://www.governo.gov.ao/ アンゴラ共和国政府ポータル] {{pt icon}} ** [http://www.angola.or.jp/ 在日アンゴラ共和国大使館] {{ja icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/angola/ 日本外務省 - アンゴラ] {{ja icon}} ** [https://www.angola.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/ 在アンゴラ日本国大使館] {{ja icon}} * [[その他]] ** {{Wikiatlas|Angola}} {{en icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|アンゴラ|アンゴラ}} {{ja icon}} ** {{Osmrelation}} ** {{Googlemap|アンゴラ}} ** {{Kotobank|アンゴラ(アフリカ)}} {{アフリカ}} {{OPEC}} {{CPLP}} {{Normdaten}} {{Coord|12|30|S|18|30|E|display=title}} {{DEFAULTSORT:あんこら}} [[Category:アンゴラ|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
2003-04-19T13:06:16Z
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サイレンススズカ
サイレンススズカ(欧字名:Silence Suzuka、1994年5月1日 - 1998年11月1日)は、日本の競走馬。 1997年に中央競馬(JRA)でデビュー。デビュー戦となった新馬戦から素質の片鱗を表したが、2戦目の弥生賞で大敗を喫して以降は不安定な走りを続けた。しかし、この年の最終戦となった香港国際カップにおいて武豊と初コンビを組むと、大逃げを打つ戦法に活路を見出す。翌1998年に本格化し、初戦のバレンタインステークスから毎日王冠までGIの宝塚記念と重賞5勝を含む6連勝を果たしたが、最大の目標であった天皇賞(秋)においてレース中に左手根骨粉砕骨折を発症、予後不良と診断され安楽死となった。主戦騎手は上村洋行→河内洋→武豊。宝塚記念のみ南井克巳が騎乗している。 1993年、サイレンススズカの母・ワキアは初年度産駒のワキアオブスズカが牝馬だったということもあり、繋養する稲原牧場の「今度こそ牡馬を」という期待からバイアモンとの種付けが行われたが、ワキアは受胎しなかった。そこで稲原牧場は、次の発情がきたらシンジケートの1株を持っているトニービンとの交配を考え、トニービンが繋養されている社台スタリオンステーション(以下、社台SS)へ向かったものの、その頃のトニービンはうなぎのぼりで評価が上がっている時だったため、種付け予定に空きがなかった。稲原牧場関係者は頭を悩ませたが、見かねた社台SSのスタッフからサンデーサイレンスなら今日にでも交配が可能であることを伝えられ、「サンデーサイレンスならそう悲観することもないか」ということで牧場関係者は同意し、ワキアはその日のうちにサンデーサイレンスとの交配が行われ、一度で受胎した。 1994年5月1日、北海道沙流郡平取町の稲原牧場にて誕生。ワキアにとっては二度目のお産ということと産まれた仔馬が比較的小柄だったこともあってワキアのお産は安産であり、仔馬は産まれてから約30分後に懸命に四肢を踏ん張って立ち上がった。しかし、稲原牧場社長の稲原一美は鹿毛のワキアに青鹿毛のサンデーサイレンスを付けたにもかかわらず栗毛の仔馬が生まれ、さらに普通の仔馬よりもひと回り小柄だったため、両親にも似ていないとすればこの仔馬はそう期待できないかもしれない、という不安を抱いたが、それを別にすれば父や母よりも一層きれいな毛色には仔馬らしからぬ品格が備わっていたといい、立った時のバランスも素晴らしかったため欠点らしい欠点は見当たらなかったという。 稲原牧場の稲原昌幸は生まれたときのサイレンススズカについて「小さくて、華奢で、可愛くて」と振り返るものの、当時のサンデーサイレンス産駒の評価はフジキセキを代表として「走る馬といえば黒い馬」というのが通り相場であり、明るい栗毛として生まれたサイレンススズカは「黒い馬」という条件からかけ離れていたため、不安いっぱいの第一印象であった。産まれて一週間も経っていなかった頃の本馬を見たという後の管理調教師・橋田満は「均整の取れたいい馬でしたよ。でも、これは誰でもそうですけど、その時点でどれくらい走るかなんてわかるはずがありませんし、ましてや、その後のサイレンススズカのように走るかなんて、とても想像することすらできませんでしたね」と振り返っている。 サイレンススズカは誕生前からワキアの初子であったワキアオブスズカと同じく、永井啓弐がオーナーとなることがほぼ決まっていた。永井は生後1ヶ月の本馬と初めて対面し、その時の第一声は「ああ、これはいいねえ...」というものだった。当時は「サンデーの子は黒鹿毛か青鹿毛が走り、それ以外の毛色の馬は走らない」 との噂について、永井は「私は案外、栗毛が好きでね。大物は出なかったけど、結構、栗毛の持ち馬は走っているんです。だから栗毛に対する抵抗感は全然なくて、噂話も全く気になりませんでしたね。そんなことより、「ああ、栗毛がきれいでよかったなあ」「可愛いな」と思っただけでした」と述べている。 2歳の10月に二風谷の二風谷軽種馬育成センターに移動して育成調教を開始。育成を担当した若林幹夫は本馬を一目見たときに「こんなに小さくて競走馬になれるのかな」と不安を抱いたが、馴致を始めて背中に跨り走らせるようになると、若林はサイレンススズカの他馬とのスピードの違い、また馬と馬の間を割って追い抜くトレーニングを課しても一回でクリアしてしまった本馬の能力に驚かされたという。冬に雪が深く積もっている所へ敢えて馬を浸からせて行うトレーニングにおいても、サイレンススズカはお腹のあたりまで雪に埋まっていても平気で進もうとしていたため、これで二風谷のスタッフの注目を集め、若林は「本当にすごい馬だな」と感じたという。育成調教で高い能力を示したことに加え、3歳時の4月に行われた皐月賞で同じく栗毛のサンデーサイレンス産駒であるイシノサンデーが優勝したことで、誕生当時一部で噂されていた「栗毛のサンデーサイレンス産駒は走らない」という風評が払拭されたため、現地での評価はさらに上がっていった。 3歳の11月20日に二風谷から栗東トレーニングセンターの橋田厩舎へ移動し、翌21日に橋田厩舎へ到着。厩務を担当することとなった加茂力は、入厩当時の本馬について「誰が見たって体は小さいし、厩のなかではビッショリ汗をかいている」と不安を抱いた が、新馬戦で鞍上を務めることとなった上村洋行が調教で初めて跨った際に、「ものすごいインパクトがありました。乗り味にしても持っている雰囲気にしても、過去、3歳馬でそんな動きをする馬はいませんでしたから、『これは間違いなく大きいところを取れるな』と確信しましたし、相当な期待を抱きました」と振り返る程に強い印象を与えた。1月5日に初めて時計を出した際には、栗東の坂路コース(800メートル)を52秒3という極めて優秀なタイムを出して周囲を驚かせ、1月24日に準オープン馬のアドマイヤラピス と追い切りを行った際には、馬なりのままでアドマイヤラピスに0秒5先着、6ハロン78秒0という時計を出し、周囲からの目を引き付けたと同時に競馬専門紙・スポーツ紙のトラックマンの間で一気に話題となった。こうした事実から、橋田は登録こそしなかったもののすでに1勝を上げている馬によって行われる500万下条件の特別競走をデビュー戦とすることも考えていたという。 1997年2月1日、京都競馬場での新馬戦(芝1600メートル)で上村を鞍上にデビュー。デビュー前の調教での動きが評判となったことで単勝オッズは1.3倍での一番人気に支持された。スタートから先頭に立つと後続との差を徐々に広げていき、向こう正面に入るとさらに加速し直線に入ると上村がターフビジョンを確認する余裕を見せ、2着のパルスビート(後に重賞2着3回)に7馬身差をつけて圧勝した。勝ちタイムの1分35秒2は当日の分割レースの勝ち時計とは2秒以上の差があるという驚異的なものだった。鞍上の上村も「間違いなく勝てるだろうけど、どういう強い勝ち方をしてくれるのか、期待はその点だけでした」と振り返っている。京都競馬場でレースを観戦していた競馬評論家や専門誌の記者からは「今年のダービーはこの馬でしょうがない」という声も上がり、パルスピードに騎乗していた松永幹夫は「今日は相手が悪すぎました」とコメントし、5着のプレミアートに騎乗していた武豊は「皐月賞もダービーも全部持っていかれる。痛い馬を逃したと思った」といい、レース後には周囲にもそう喧伝したという。この時武は後ろからサイレンススズカの走りを見て、「体は小さいけど、すごくダイナミックな走り方をする。素晴らしいフォームだな、と」感じたという。 新馬戦後にサイレンススズカはソエが出たことで調教の強度を緩めなければならなくなったが、陣営の「なんとしても皐月賞に間に合わせたい」という意気込みから、橋田は3月2日に中山競馬場で行われる皐月賞トライアル・弥生賞にサイレンススズカを出走させることを表明した。今回のレースはサイレンススズカにとって長距離輸送、2000メートルの距離のレースが初めてであるという不安要素があったものの、陣営は「すべて素質だけで克服できる」と踏んでの出走であった。出走メンバーには前年の朝日杯3歳ステークス3着馬のエアガッツ、この年の皐月賞・東京優駿を制するサニーブライアン、武豊が騎乗するランニングゲイルが登録され、当日の単勝オッズでは1番人気にエアガッツが支持されたが、サイレンススズカはデビュー2戦目でありながらこれに次ぐ2番人気に支持された。 ところが、ファンファーレが鳴り各馬がゲートに収まっていく中、サイレンススズカは突然ゲートの下に潜り込み、鞍上の上村を振り落としてゲートの外へ出てしまった。中山競馬場のスタンドからはどよめきが起こり、振り落とされた上村は足を負傷したものの、サイレンススズカを他の騎手に渡したくないという思いからレースでの騎乗を決意し、サイレンススズカは馬体検査で馬体に異常が見られなかったため出走取消とはならなかったが、大外枠に移されての発走となった。再スタートが切られる直前ゲート内で再びサイレンススズカの動きは激しくなり、そのタイミングでゲートが開くとサイレンススズカはゲート内で立ち上がりかけたことでタイミングが合わず、もがくようにして飛び出したものの今度は大きく左にヨレてしまったため、先頭馬から約10馬身近く離された大出遅れを喫した。それでも1コーナーで馬群に取りつき、外々を回って前方へ徐々に進出していくと、4コーナーでは先頭集団に並びかけようとした。しかし最後の直線で力尽き、勝ち馬のランニングゲイルから1秒5離された8着に終わり、皐月賞の優先出走権獲得に失敗した。 レース後に上村はゲートをくぐってしまったことについて「普段は大人しいし、ゲートをくぐる素振りを見せたことは初めて。やっぱりサンデーの子なのかな。能力のある馬だけに、もったいなかった」と振り返り、橋田は「今はスピードが勝ちすぎているが、筋肉の柔らかさからくる瞬発力に非凡なものがある。将来は相当なところで活躍できる」とサイレンススズカの現状を分析したコメントをした。 レース前にゲートをくぐったことを受け、サイレンススズカにはゲートの再試験と3月23日まで20日間の出走停止処分が下された。サイレンススズカがゲートをくぐってしまったことについては、「サンデーサイレンスの気性の悪さが出た」、「まだ馬が若く、精神的に大人になっていない」といった憶測が飛び交った。橋田はなぜゲートをくぐってしまったのかその原因についてはよくわからないとしつつも、ゲート入りまで厩務員の加茂がついており、「その厩務員がいなくなっちゃったから寂しくなって出ちゃったんじゃないかと思うんですが...」と推測しており、加茂も橋田の推測を認めている。前走の新馬戦では1番枠での発走であり、加茂によるとこの時はサイレンススズカ以外の全馬がゲートに収まるまで加茂もゲート内で待機し、出走馬全馬の厩務員がゲートを離れた瞬間にスタートが切られていたが、弥生賞では真ん中よりの5枠に入ったこと、さらにスタンド前からの発走だったことが原因だったと述べているが、「まさかゲートを潜るとは思わなかった」と振り返っている。この日は稲原一美と若林幹夫も北海道から中山競馬場に訪れていたが、サイレンススズカがレース前とレース本番で見せた態を目の当たりにした両名は口をそろえて「もう競馬なんて見たくない」と言うほど大きなショックを受けた。 弥生賞後のゲート練習で、橋田はサイレンススズカをゲートの中に入れ、一緒にゲートに入った他馬がゲートを出てもサイレンススズカをゲート内にとどまらせるという方法をとり、サイレンススズカもゲート内で暴れずに待ち続ける忍耐力を見せ、練習を始めてから3週目に行われたゲート試験をクリアして東京優駿(日本ダービー)を目指すこととなった。 陣営は仕切り直しの一戦として500万下の条件戦(阪神競馬場、芝2000メートル戦)に出走、サイレンススズカが出走することが明らかになると当初出走予定だった有力馬が相次いで回避し、12頭立ての出走メンバーとなった中で単勝では1.2倍の支持を受けた。前走のような気性の激しさは現れずに好スタートを切って1コーナー手前で先頭に立つと、道中は2、3馬身差を保ち、直線に入って上村が1、2発鞭を入れると後続との差をさらに引き離し、残り100メートル地点では上村が腰を挙げる余裕を見せ、新馬戦と同じ2着に7馬身差をつけての圧勝を収めた。2勝目を挙げたものの、東京優駿に出走するための収得賞金を満たせていなかったため、橋田は同レースのトライアル競走であり、本番と同じ東京競馬場の2400mで施行される青葉賞への出走を目指す。しかし、レース1週間前の日曜日の調教後にサイレンススズカの左前脚の球節が腫れて熱を持ち、検査の結果球節炎を患っていることが判明。症状は極めて軽く翌日に症状は治まったものの、橋田は青葉賞を回避してその後の状態を見て出走ローテーションを再編成することを決定し、最終的に青葉賞の翌週土曜日に行われるトライアル競走・プリンシパルステークスに出走させることを決定した。 プリンシパルステークスでは弥生賞で対戦したランニングゲイル、エアガッツと再び顔を合わせ、当日は1番人気ランニングゲイル、2番人気にサイレンススズカ、3番人気エアガッツという人気となった。レース前、橋田は東京優駿を見据えて上村に「抑えて行けるなら控える競馬をしてくれ」と指示を出し、6枠11番からの発走となった上村・サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立ったカイシュウホマレに次ぐ2番手につけた。向こう正面に入っても上村との折り合いを保ち続け、3,4コーナーを回ってマチカネフクキタルが並びかけてきたが、これを待って上村が外へ追い出すと残り400メートル地点で先頭に立った。大外からはランニングゲイルが追い込みを見せて3頭の叩き合いとなったが、マチカネフクキタルをクビ差しのいで勝利を収め、東京優駿の優先出走権を獲得した。 迎えた東京優駿ではメジロブライト、ランニングゲイル、シルクジャスティスに次ぐ4番人気(単勝8.6倍)に支持された。またこのレースでは「ダービーの大歓声に興奮しないように」という配慮から、緑色のメンコを着用して出走することとなった。レース前、橋田は上村に前走と同様に前半を抑えて行ってほしいと指示を出した。しかし、スタートが切られるとサイレンススズカは前方へ行きたがる素振りを見せながら内側へ切れ込んでいき、サニーブライアン、フジヤマビザンに次ぐ3番手につけて向こう正面へ入っていった。第3コーナーに入って内から先頭へ抜け出そうとしたものの前が開かずに抜け出せず、残り150メートル地点で後ろから来た馬群に飲み込まれ、優勝したサニーブライアンとは1秒1離された9着に敗れた。 レース後、橋田は「ホントにチグハグな競馬になってしまった。馬がいこうというときに前がつかえたり、なんかややっこしいことになっちゃって全然スムーズに進まなかった。まったくサイレンススズカの良さを出せずに終わっちゃってね。失敗でした、抑えて行く作戦が」と振り返った。上村は敗因について「ダービーまで押せ押せできた影響でしょうか。あるいは、あまりにも馬にいろいろなことを求めすぎた影響なのかわかりませんが、ダービーの追い切り後、とうとう馬が精神的にキレてしまったんです」と語り、前へ行きたがって行きたがってしまい、3コーナーまで折り合いを欠いたことを原因とした。 ダービーから4日後の6月5日にサイレンススズカは栗東トレーニングセンター近くの栗東ホース倶楽部へ放牧に出され、6月28日に二風谷軽種馬育成センターへ移動して疲労を取った後、7月17日に函館競馬場へ移動して調教を再開した。8月24日に栗東に帰厩し、橋田は秋の最大目標を天皇賞(秋)に定めた。橋田はサイレンススズカのスピード能力を生かそうと今後は中距離のレースに出走させることを永井に提案し、永井もこれに賛成した。サイレンススズカの秋の初戦には天皇賞の前哨戦として距離が同じ2000メートルで行われる菊花賞トライアル・神戸新聞杯に決定し、そしてこの神戸新聞杯から陣営は中距離路線でサイレンススズカを出走させるにあたり、無理に抑えるようなことはせず、馬の気持ちに任せて好きなように走らせることを決定した。 9月14日の神戸新聞杯では小雨が降りしきる天候ではあったものの、馬場状態は「良」という中で行われ、単勝オッズは1番人気に支持された。サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立って1コーナーを回り、2コーナーからは11秒台のラップを刻んでいき、前半1000メートルを59秒3で通過し、後続とは3馬身の差をつけていた。残り200メートル地点では後続に4馬身の差をつけていたが、外からマチカネフクキタルが強烈な追い込みを見せ、ゴール寸前で同馬に交わされ2着に敗れた。橋田は上村の最後の油断が原因で敗れたと考えたが、これに上村は途中で勝ったと思ったが最後に内へモタれたことで敗れ、自身のミスであったことを認めた。そして、この競走を最後に上村は自ら責任を取る形でサイレンススズカの主戦から降板することとなった。 神戸新聞杯後は予定通り天皇賞(秋)へ出走。前述の神戸新聞杯を最後に上村が責任を取って降板した経緯から、このレースではペース判断の良さに定評があるベテランの河内洋が鞍上を務めることとなった。ところが、河内が初めて騎乗した最終追い切りにおいて、サイレンススズカは河内が必死に手綱を抑えても止められないほど掛かって 前半から暴走してしまい、最終的に併せ馬のパートナーを務めたロイヤルスズカに一度も馬体を合わせることができずにスタミナ切れしてしまうという気性の悪さを露呈してしまう。上村によれば、この追い切り後に河内は「もう無理や、これ」と"ギブアップ"していたという。 天皇賞当日は一番人気に前年度の優勝馬バブルガムフェロー、二番人気に8月の札幌記念において牡馬を一蹴した前年のオークス優勝馬エアグルーヴ、三番人気に1995年の皐月賞・前年のマイルチャンピオンシップ優勝馬ジェニュインが支持され、サイレンススズカは単勝17.6倍でジェニュインに次ぐ四番人気に支持された。サイレンススズカは本馬場入場時にスタンドからの歓声を浴びた途端に激しくイレ込み、河内が内ラチ沿いに誘導してなだめようとしたものの、落ち着きが収まらず満足に返し馬ができない状態でスタートを迎えることとなった。 スタートが切られると最初の1ハロンをゆったりと行きつつも2ハロン目から加速して先頭に立ち、2コーナーでは2,3番手につけていたバブルガムフェローに7,8馬身の差をつけた。1000m通過は58秒5というハイペースでの大逃げを見せ、第3コーナー手前では後続に10馬身の差をつけた。しかし直線に入ると後続勢が一気に押し寄せ、残り100メートル地点で勝ち馬のエアグルーヴとバブルガムフェローに交わされ、結果はジェニュイン、ロイヤルタッチ、グルメフロンティアに交わされての6着に敗れた。レース後に河内は「最後の1ハロンは完全にばてた」と振り返ったが、上位二頭を除いてはハナ差、クビ差、ハナ差のきわどい3着争いに加わっていたことで、橋田は「6着でしたが、善戦といっていいでしょう」とコメントした。 天皇賞後は京阪杯(GIII)に出走する予定だったが、急遽12月14日に行われる香港国際カップの日本代表に選出されたため急遽予定を変更し、京阪杯の1週前に行われるマイルチャンピオンシップへ出走した。この頃サイレンススズカの旋回癖を治そうと加茂は天井から畳を吊るして回れないようにしたが、これがかえってサイレンススズカにストレスを溜め込むこととなってしまい、当日のパドックでも落ち着きがない状態を見せてしまう。 スタートが切られると同年の桜花賞馬キョウエイマーチが先頭に立つとサイレンススズカはこれに次ぐ2番手につけ、2頭が激しい競り合いを見せたことで1000m通過は56秒5というハイペースとなった。第3コーナーを回って第4コーナーに差し掛かるとサイレンススズカは鞍ズレを起こして故障発生かと思わせるほど一気に後退し、キョウエイマーチがレースを制したタイキシャトルに次ぐ2着に粘ったのとは対照的に、サイレンススズカはタイキシャトルから2秒9離された、生涯最低着順となる15着と大敗を喫した。 香港国際カップにおいて、当初陣営は前走と同様河内を鞍上に出走させようとしていたが、この日日本ではスプリンターズステークスが開催され、河内はお手馬のマサラッキが出走予定でそちらを優先したため、鞍上が空位となった。すると、「ジョッキーは騎乗依頼が来るのをじっと待つしかない」と言い続けていた自身のスタイルを崩し、同日開催される香港国際ボウルにおいてシンコウキングへの騎乗を予定していた武豊が自ら橋田に騎乗を直訴し、橋田も二つ返事で承諾したことで武との新コンビを組んでの出走となった。永井は武が鞍上を務めることが決まったこの時の心境について、「これまでずっと競馬を見てきて、武さんが馬への当たりが一番いいから、機会があったら乗ってくれないかなあとは思っていたんです」と振り返っている。 出走メンバーにはドバイのアヌスミラビリスや地元香港のオリエンタルエクスプレスらが名を連ねたが、サイレンススズカの強敵は香港のスマッシングパンプキン、イギリスのウィキシムと予想された。当日は8番人気での出走となり、スタートが切られると本馬以外のメンバーに逃げ馬がいなかったことから楽に先頭に立つと、徐々に後続との差を広げていった。1000mの通過タイムは58秒2を記録し、3馬身の差をつけて直線に入り、残り200m地点までは粘ったものの、100m地点でオリエンタルエクスプレスとアメリカのヴァルズプリンスに交わされ、勝ち馬のヴァルズプリンスからコンマ3秒離された5着に敗れた。 レース後、敗れはしたものの抑えるよりも逃げる戦法に手ごたえを得た武は橋田に対して「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言し、そして武はサイレンススズカとのコンビ続行を熱望した。4歳時の最終的な成績は重賞の掲示板に1度載っただけの成績であったにもかかわらず、境勝太郎元調教師は競馬雑誌『サラブレ』誌上で「あの馬は5歳の秋までくらいまでにはバリバリのGIホースになっていると思う。実はデビュー戦から気になっていた馬なんだ。これからがとても楽しみだね」と発言した。橋田は常々「この馬が本当に良くなるのは5歳になってから」と言い続けてきたが、5歳となったサイレンススズカの最大目標を天皇賞(秋)に定めた。 年明け初戦、陣営は「2000メートルは長い。スピード馬ではあるが1600メートルは短く、ベストは1800メートル」という判断で同距離のレースに狙いを絞り、別定戦のため55kgで出走できるオープン特別・バレンタインステークス(東京競馬場、芝1800メートル)に決定。当日は関西を拠点とする武がオープン特別の騎乗のためだけに東上したということもあり、単勝オッズ1.5倍を記録して1番人気に支持された。レース前に激しくイレ込んで暴走気味に先頭に立った結果1000メートル通過は57秒8というハイペースとなったが、3コーナーで落ち着きを取り戻して息が入り、直線でやや失速したもののゴール手前で武は手綱を抑え、2着のホーセズネックに4馬身差をつけて優勝した。レース後に武は「今日は3角に入ってうまく息が入った。こういう形になると強い」と述べ、ホーセズネック鞍上の後藤浩輝は、「それにしても勝った馬はケタ違いだ」とコメントした。 続いて中3週で前走と同距離の中山記念(GII)に出走。一昨年の皐月賞優勝馬イシノサンデー、前走のAJCC勝ち馬ローゼンカバリーが出走メンバーに名を連ねたがこのレースでも1番人気に支持された。スタートで先頭に立つと1000メートル通過時点では後続に10から13馬身ほどの差をつけた。直線に入るとやや内側にモタれたものの、ローゼンカバリーを1馬身3/4馬身差で抑えて逃げ切って重賞初制覇を果たした。しかしこのレースでは馬場のコンディションが悪く上がりは38秒9かかり、直線ではモタれたことに加えて手前を替えることにも苦労したため、右回りでの不器用さを露呈するレースにもなった。 続いて小倉競馬場の改修に伴って本馬が得意と目されていた左回りの中京競馬場での代替開催となった小倉大賞典では、トップハンデの57.5kgを背負わされたものの単勝オッズは1.2倍の圧倒的な一番人気に支持された。前半1000mは57秒5を記録して逃げ、上り3ハロンは36秒4を記録して後方待機策から追い込みを見せたツルマルガイセンを3馬身差抑えて重賞を連勝。勝ちタイムの1分46秒5は1991年に武が手綱を執って優勝したムービースターが記録したコースレコードをコンマ1秒更新する結果となった。武は後にこのレースでの2ハロン目に記録した11秒0というラップについて「中距離戦線ではめったにお目にかかれるものではないでしょう」と振り返っている。 小倉大賞典後は中5週で金鯱賞に出走。馬体重が過去最高となる442kgを記録し、重賞3勝を含む4連勝中の神戸新聞杯で敗れたマチカネフクキタル、デビュー以来着外に落ちたことがないタイキエルドラド、同条件の中京記念勝ち馬のトーヨーレインボー、6連勝中のミッドナイトベットらを抑えて単勝2.0倍で一番人気に支持された。好スタートを切ると2コーナーを回る時点で2番手のテイエムオオアラシとトーヨーレインボーに4,5馬身の差をつけて前半1000mを58秒1で逃げ、後半を59秒7で上がり、2着のミッドナイトベットに1秒8の大差をつけて、1分57秒8のレコードタイムで逃げ切り勝ちを収めた。この時中京競馬場では、残り800m地点ではサイレンススズカが後続に10馬身以上の差をつけていたため大歓声が起こり、最後の直線に差し掛かったところでは拍手で迎え、馬主席にいた永井も観客と一緒に拍手していたという。 金鯱賞において陣営は「今は最高の状態。負けるなんて考えられない」という自信をもってレースに送り出すほどの状態に仕上げてサイレンススズカを出走させ、橋田は後に「レース内容も素晴らしく、なかなか再現しろと言われても再現できないレース」と述べている。レース後に武は「本当にいい体つきになったし、一段と力をつけている。今日のサイレンススズカならどんな馬が出てきても負けないんじゃないか」、「夢みたいな数字だけど、58秒で逃げて58秒で上がってくる競馬もできそうな気がしてきました」 とコメントした。 金鯱賞後は最大目標である天皇賞(秋)を見据えて放牧に出される予定ではあったが、上半期のグランプリ・宝塚記念のファン投票で6位に支持され、レコードを連発した疲れよりも馬体の充実が際立っているということで、急遽宝塚記念へ出走することとなった。しかし、主戦の武には既に年末の有馬記念までエアグルーヴへの騎乗の先約があったため今回のレースはエアグルーヴに乗らざるを得ない状況となっていた。これを受けて、橋田はレース3日前の木曜日に武の代役としてサイレンススズカと同じく永井の所有馬で、出走予定の僚馬ゴーイングスズカの主戦騎手であった南井克巳を鞍上に迎えて出走させることを決定した。この時の心境について武は「正直に言えば内心、どっちかが(出走を)辞めてくれればと。どちらもすごく好きな馬ですから、どっちにも乗りたい。でもそれは不可能だから、どちらか一頭が出てほしいと、願っていたのですが。そうそう自分の都合のいいようにはいきませんね」と振り返っており、一方サイレンススズカに騎乗することとなった南井は「大方、エアグルーヴが出てくるだろうと思っていたから、別にいら立ちはなかった」と振り返っている。 当日の馬体重は金鯱賞から4kg増加した446kgと発表され、単勝では武が騎乗するエアグルーヴ、この年の春の天皇賞勝ち馬で河内洋が騎乗するメジロブライトらを抑え1番人気に支持された。ただし、本馬にとって初めてとなる2200メートル、また南井に乗り替わっている点が不安視され、単勝オッズは3倍近い数字となった。レース前にメジロブライトが立ち上がって脚を引っ掛けるというアクシデントがあったものの落ち着きを失わず、外側の13番枠からスタートを切ると内側に移動してメジロドーベルの機先を制して先頭に立ち、前半1000mを58秒6で通過。第3コーナー手前では後続に8馬身の差をつけたがここからステイゴールドがスパートをかけ、ここで南井がペースを落として息を入れたため残り600m地点では4馬身ほどの差に縮まったが、サイレンススズカも内で粘りこみ、ステイゴールドとエアグルーヴの猛追を凌いで逃げ切り勝ちを収め、GI初勝利を挙げた。勝ちタイムの2分11秒9は前年の勝ち馬マーベラスサンデーが記録したタイムと同じであり、阪神競馬場で行われた宝塚記念においては1994年の勝ち馬ビワハヤヒデが記録した2分11秒2に次いで2番目に早い時計だった。 レース後に南井は「ユタカ君が乗って4連勝してきた馬。この馬の力を出し切ることだけを考えました。あくまでも、この馬の行きたいペースで行かせることだけを心掛けました。さすがに強いメンバーで、これまでより差は縮まりましたが、道中で無理に脚を使っていない分、最後まで頑張ってくれましたね。1番人気に応えることができてホッとしています」とコメントし、橋田は南井の騎乗について「ほんとうに上手く乗ってくれました。気持ち良く走らせてくれればそれでいいと思っていましたが、彼もよく研究してくれていましたからね」と讃えた。3着となったエアグルーヴ鞍上の武は「サイレンススズカが止まりませんでした」と淡々としたコメントを残した。南井の45歳5か月での宝塚記念勝利は1994年にビワハヤヒデで制した岡部幸雄が記録した45歳7か月に次ぐ年長勝利記録となり、また翌年を以って現役を引退した南井にとってはこれが現役最後のGI勝利となった。 秋の初戦には、目標である天皇賞(秋)へのステップとして毎日王冠に出走することとなった。鞍上に武が復帰したが、NHKマイルカップ優勝馬エルコンドルパサーと前年の朝日杯3歳ステークス優勝馬グラスワンダーの無敗の外国産4歳馬2頭が出走するメンバー構成となり、この2頭とサイレンススズカを交えた「3強対決」の様相を呈した。毎日王冠は別定戦のため、負担重量はグラスワンダーが55kg、エルコンドルパサーが57kg、サイレンススズカは過去最高となる59kgを背負っての出走となったが、レース前に武は「強い4歳馬が2頭いますが、サイレンススズカのペースで行くだけです」と余裕のあるコメントをし、橋田はファンに向けて「とにかく競馬場に来てください。きっと素晴らしいレースを堪能できるでしょう」とコメントした。 10月11日の毎日王冠当日は、GII競走ながら東京競馬場には13万3461人の観衆が詰めかけた。当日サイレンススズカは生涯最高体重となる452kgを記録、単勝オッズは1.4倍で1番人気に支持され、2番人気にはグラスワンダーとエルコンドルパサー双方の主戦騎手であった的場均が二頭から選択したグラスワンダーが推され、蛯名正義に乗り替わったエルコンドルパサーは3番人気となった。スタートが切られるとサイレンススズカは前半600メートルを34秒6、1000メートルを57秒7 というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走し、グラスワンダーは中団から後方を進んだ。第3,4コーナーでサイレンススズカは一度1ハロン11秒7から12秒1に落として息を入れ、その第3コーナー過ぎからはグラスワンダーがサイレンススズカを捉えに先団へ進出したもののそこから伸びを欠く。直線に入ってもサイレンススズカの逃げ脚は衰えず、これをエルコンドルパサーが追走したが、2馬身2分の1の着差をつけて逃げ切り勝ちを収めた。上がり3ハロンで記録した35秒1は出走メンバー中最速だったエルコンドルパサーの35秒0と僅かコンマ1秒差という驚異的なものであった。エルコンドルパサーに次いで3着に入ったサンライズフラッグはエルコンドルパサーと5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった。 辛うじて2馬身半差の2着まで差を詰めたエルコンドルパサー鞍上の蛯名は「直線に向いてからも手応えはありましたし、十分、サイレンススズカは射程圏内だと思ったんですが、全く止まりませんでしたね。前にいったサイレンススズカにあれだけ伸びられては仕方ありません」、「相手が強かった。完敗だった」としたが、同馬管理調教師の二ノ宮敬宇は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べた。的場はコメントがなく、武は「後続の馬は気にせず、自分のペースを守ることに集中してレースをしました。できる限りゆっくり行くつもりでしたが、イメージ通りのレースができたと思います。レース前も落ち着いていましたし、道中もものすごくいい感じでした。ホント、楽勝でしたね。いやあ、強かったあ」とコメントし、橋田は「競馬場に集まってくれたファンの方に存分にレースを楽しんでいただけたかと思うと、これ以上の喜びはありません」と語った。稲原は後年、「このレースだけは、絶対に勝ってほしかった」と振り返っている。なお、レース後にはGII競走でありながら武はウイニングランも行った。 毎日王冠後、橋田がこの年の最大の目標として定めていた第118回天皇賞(秋)に出走。サイレンススズカが出走するとあって他馬の陣営が恐れをなしてか同レースとしては珍しい12頭立てと少頭数でのレースとなった。さらに逃げ馬としては有利となる1枠1番を引き当て、当日の単勝支持率は61.8%、単勝オッズは1.2倍と圧倒的な一番人気に支持された。レース前、多くのTVや競馬紙も上記の有利な条件も踏まえて、サイレンススズカが負ける要素を探したものの、アクシデントがない限りサイレンススズカは負けないという意見が大勢を占め、サイレンススズカのレースの勝ち負けよりも、「どう逃げるのか」「どういう内容の競馬をするのか」という点に注目が注がれた。武は天皇賞の週の半ばに受けたインタビューにおいて、インタビュアーから「オーバーペースにならないように?」と問われると、「オーバーペースでいきますよ。」と宣言していた。 当日の体調について、加茂と武は「あの時が間違いなく一番具合が良かった」と口をそろえて言うほど優れていた。サイレンススズカは好スタートを切り、2ハロン目から加速して後続を突き放すと、毎日王冠を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうった。競りかける馬はサイレントハンターも含めて1頭もおらず3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と後続を大きく引き離し、この時点で二番手サイレントハンターとは約2秒差、最後方ローゼンカバリーとは6秒ほどの差となっていた。 しかし、4コーナーの手前で突然の失速。左前脚の手根骨粉砕骨折を発症し、競走を中止した。結局予後不良と診断され安楽死の処置がとられた。 ※タイム欄のRはレコード勝ちを示す。 粉砕骨折の詳しい原因は現在も判明しておらず、武はレース後、「悪夢としか言いようがない」とコメントし、死因となった粉砕骨折については「原因は分からないのではなく、ない」とコメントした。橋田は故障の原因について、サイレンススズカのスピードが馬の骨の丈夫さの限界を超えてしまい、それによってショックアブソーバーの役目をする部分が耐えられずに壊れてしまったのではないかと分析している。 レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武自身も後に「泥酔したの、あんときが生まれて初めて」と振り返っており、同レースでテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。後に武はこのときの出来事について「なかなかいない。あのトップスピードで、あれだけの骨折をして転倒しない馬は。僕を守ってくれたのかなと思いましたね。今でもすごくよく、サイレンススズカのことを思い出すんですよ。せめてあと数百メートル、走らせてやりたかったな。うん、すごい残念。今でも悔しいですもん」と語った。 永井のもとにはファンから励ましの手紙が多く寄せられたが、その中には「もう競馬は見たくない」「府中にはしばらくいけない」という内容の手紙もあった。 その後、サイレンススズカはこの年のJRA賞特別賞を受賞している。 サイレンススズカの死後、エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍によりサイレンススズカの評価はさらに上がることになった。エルコンドルパサーは毎日王冠の次走となったジャパンカップを優勝、翌1999年はフランスのG1(サンクルー大賞典)、G2で1勝ずつを挙げ、なおかつ凱旋門賞ではモンジューの半馬身差2着に入る成績を挙げ、結果的にエルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのはサイレンススズカのみとなった。グラスワンダーも1998年末の有馬記念を制し、翌年も宝塚記念と有馬記念を制している。1999年の宝塚記念において、実況の杉本清はレース前に「あなたの夢はスペシャルウィークかグラスワンダーか。私の夢は、サイレンススズカです。夢、叶わぬとはいえ、もう一度この舞台でダービー馬やグランプリホースと走ってほしかった。」という言葉を残した。 サイレンススズカの墓は生まれ故郷である北海道・平取町の稲原牧場に建てられ、たてがみと蹄鉄は稲原牧場と阪神競馬場の馬頭観音に納められた。追悼歌「天馬のように(星野豊:作詞/作曲 因幡晃:歌)」も作られた。 スタートから先頭に立って後続との差を徐々に大きく引き離し、直線に入っても衰えない末脚を発揮して逃げ切るというレーススタイルを身上としていた。デビュー当初、陣営は将来を見据えて「抑える競馬を覚えさせたい」という意見で一致しており、新馬戦で橋田は上村に「できれば中団につけ、馬込みに入れて控える競馬をしてほしい」と指示を出した。しかし、このレースでサイレンススズカはスタートからゴールまで馬なりで勝利し、香港国際カップのレース後に武は橋田に「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言した。 5歳となってから出走した全7戦では、全てのレースでスタートから1000メートルまでの通過タイムが57~58秒を記録し、これは普通の馬であれば非常に速いペースとなり、たとえ1800メートルの距離であっても上がり は直線で失速することが多くなる。このようなペースとなった場合追い込み馬の場合は上り35秒の脚を使えば逃げ馬をとらえることができるという計算になる。ところが、サイレンススズカにとって前半58秒台というのは楽な馬なりでのペースになり、後半の上がりも36秒台でまとめるため、そうなると後続馬は上がりを34秒台、もしくはそれ以上のタイムの脚で追い込まないとサイレンススズカを捉えることはできないということになる。このような数字的な裏付けについて橋田は、「普通先行馬が行ったきりでゴールインするのは、前半スローペースに落とし、上がりの勝負に持ち込んで勝つんです。でもサイレンススズカは、最初から飛ばしていって、そのまま早いタイムで直線も乗り切ってしまうんです。これは並みの馬のできることじゃありません」と述べている。南井克巳によるとサイレンススズカはゲートを出てからのダッシュが違うとしており、それは「バカみたいにガーッと行くんではなくて、あくまでも自分のペースなんですよ」としており、そのため普通に走っていても並みの馬とは断然違っただろうと述べており、「とにかくすごいスピード。スピード的にホント、他馬とまったく違うスピードで押し切っちゃうんだから」と付け加えている。 距離適性について、橋田は宝塚記念出走前の時点には多少の心配はあったというものの、「2000までは問題ない、2200までも我慢するだろう」と思っていたといい、大きな意味では安心してみていたという。毎日王冠後には、同レースでのメンバー構成での勝ち方から「東京なら左回りだし、2400メートルでも大丈夫じゃないか」と確信し、ジャパンカップへの出走を予定していた。距離についての議論はさまざまであるが、武は仮に(距離3200mの)天皇賞(春)でも道中3秒差をつける逃げを展開できれば勝てるはず、というコメントを残している。 小島貞博は、1992年のクラシック戦線において自身が騎乗し、無敗で皐月賞・ダービーの二冠を制した逃げ馬・ミホノブルボンとサイレンススズカの違いについて、「サイレンススズカは典型的な逃げ馬だという気がします」と述べている。小島によるとミホノブルボンはやや仕掛け気味に先頭に立っていたというが、サイレンススズカの場合は楽に先頭に立っているとしており普通の馬であれば最後には掴まってしまうところをサイレンススズカは最後まで掴まらず、逆に伸びているところを見るとこれはもう能力の違いというしかない、と述べている。当初短距離馬として見られていたミホノブルボンは徹底した坂路調教によって長距離のレースを克服したが、小島はサイレンススズカもミホノブルボンと同様に「調教で鍛え上げたからこそ天性の才能に磨きがかかった」と評している。 ライターの柴田哲孝は、サイレンススズカは芝2000m級のレースに関する限りであればシンボリルドルフ、ナリタブライアン、テイエムオペラオー、ディープインパクトらと比較しても「"彼"こそは日本の競馬史上"最強馬"ではなかったか」と述べており、「もし時間をコントロールすることができたとして、それらの馬を全盛期のコンディションで一堂に介し、2000メートルのレースを行ったとしたら...。おそらく、いや間違いなく、勝つのはサイレンススズカだ。しかも、圧勝するだろう」と断言しており、東京中日スポーツ記者の野村英俊は、ディープインパクトがサイレンススズカの逃げを自ら潰しに行ったら確実に他馬の餌食になるだろうと推測している。 当歳時のサイレンススズカは病気になったことがなく、医者にかかったことがないという健康で丈夫な体質をしていた。上村はサイレンススズカのすごさについて「スピードがある、瞬発力がある、体が柔らかい、バネがある。その辺は、すべてにおいて、これまでの馬よりレベルが2つくらい上でした」と述べている。馬体はデビュー当初はしなやかだけだったが、5歳になってから体重が増えただけでなく肩は広く、胸は厚くなって筋肉も強靭になり、スピードと持久力が向上した。肉体面の成長に加えてそれまでは闘争本能のみに頼ってがむしゃらに走っていただけであったが、武豊が騎乗するようになってからその後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど内容もよくなると精神面でも成長を果たした。 橋田はサイレンススズカの気性について「本当に気っ風の良い気性をしてましたね。実に大人しい馬」と述べている。前述の馬体の成長が成長して以降は精神的な落ち着きが目立っていたと振り返っており、かつて野平祐二が調教師として管理したシンボリルドルフを『馬が楽しそうに走っている』と評したことを挙げ、サイレンススズカの走りにも野平の言葉と同じことを感じたという。 稲原牧場社長の稲原一美は、『牝馬みたいに可愛い顔をしていても、内に秘めた気性が激しい』とし、これは非常に気性が激しいことで知られたサンデーサイレンスから譲り受け、それが後述の旋回癖にモロに出てしまったのではないかと述べ、橋田もこの気性の激しさはサンデーサイレンスから受け継いだものであるという見解を示している。ただし普段は大人しく、人の言うことをよく聞く馬だったといい、上村も気性について「大人しいし、頭もいいし、優等生的な感じ。お坊ちゃんっていう雰囲気もありました」と述べている。カメラマンの本間日呂志は、毎日王冠の直前に雑誌の依頼で武豊とサイレンススズカのツーショットを撮影した際、サイレンススズカがあまりに素直な性格をしていたため驚いたといい、武のいうことも、自身の希望もよく聞いてくれたと述べている。 古馬となってからは宝塚記念を制し、左回りの東京、中京での両競馬場でも実績を残した。ただし武によれば中山記念を勝利した際、サイレンススズカは直線でモタれた上に手前を変えるのに苦労したことで、後に「左回りのほうがいい競馬をする。競馬をしやすい」と語っている。 左回りに関して、当歳のころから「旋回癖」と呼ばれる馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖がエピソードとして語られている。旋回癖は当歳時の9月に母・ワキアから離乳されて3日が経った時に寂しさを紛らわすために始めたとされており、狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので、見ている側が「事故が起こるのでは」と心配するほどだったが、結局最後まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮といった原因によるものではなかったようであるが、この癖が治ることもなかった。この癖を矯正することでレースで我慢することを覚えさせられるのではないかと、馬房に畳を吊すことが試みられたが、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらにタイヤなど吊す物の数を増やして旋回をやめさせたところ、膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまったため、4歳の冬には元に戻された。 管理する厩舎のスタッフにとっては、旋回そのもので事故が起こるおそれがないとはいえ蹄鉄が余りにも早く摩耗するため、蹄を削るにも少しでも薄くすると致命的な負傷に繋がりかねず、神経をすり減らす毎日だったという。 武は1999年にSports Graphic Numberが行ったアンケート『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』『最強馬アンケート 私が手掛けた馬編』というアンケートでは双方でサイレンススズカを挙げ、「エルコンドルが活躍するほどスズカの評価が上がる気がして今でもドキドキするんですよ」とコメントした。5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから「古今東西の名馬を集めてレースをした場合に、一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている。2000年に行われたインタビューではサイレンススズカを「サラブレッドの理想だと思う」と評し、「どんなレースでも、最初から抜群のスピードで他馬を引き離していって、最後までそのままのいい脚でゴールに入ったら、それが一番強いわけでしょう。そういう馬は負けるわけがありません。絶対能力とは、そういうことですよね。その理想を、サイレンススズカという馬は追及していたんです。またその能力を持った馬でした。こういう馬は、めったにいるものじゃありません。何十年に一頭の馬だと思いますよ」と述べた。ディープインパクトのデビュー前の2003年に行われたインタビューでは、「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、オグリキャップ、サイレンススズカ、そしてクロフネぐらい」と述べており、ディープインパクトが引退した2007年にもサイレンススズカを「理想のサラブレッド」と評し、「どちらが勝つかはわかりませんが、ディープインパクトにとって、サイレンススズカが最も負かしにくいタイプであるとは言えるでしょうね」と述べている。 武はサイレンススズカに対して「『本当にこんな馬がいるんだ』という相棒がやっとできて、夢が広がってきたときに、すべてがプツッと途切れてしまった」とその死を惜しむと同時に、「サイレンスに関しては、『この馬は現時点では世界一だ』という自信があった。あの馬には、普通では考えられない結果を出す力があったんですよ。例えば、GIで2着を3秒離して勝つこともあり得る馬だった」とインタビューで語っている。また、2007年に行われたインタビューにおいて、「今でも不意に思い出すことがあります。あんなことになってなかったらなぁって。天皇賞は間違いなく勝っていたんだろうなあとか、そのあとのジャパンカップはとか、ブリーダーズカップも行っていただろうなあとか考えてしまいますね。サンデーサイレンス産駒の種牡馬がいま活躍してるじゃないですか。そういうのを見ると、余計に『いたらなあ』と思います。『きっと、凄い子供が出てるんだろうなあ』って」と述べており、2019年のインタビューでも「(競走中止した天皇賞では)大レコードで、10馬身以上のぶっちぎりで勝っていたと思います」「アメリカへ行ったらどうだったんだろう、ドバイWCに出たら誰もついて来られないんじゃないか、とか。種牡馬としても、日本の競馬史を変える可能性があった」と述べている。また、金鯱賞の翌週、全盛期のナリタブライアンやトウカイテイオーが出てきても負けないかと尋ねられた際は「と、思いますよ」と即答した。 サイレンススズカは武以外の競馬関係者からも高い評価を得ている。調教師の橋田は武と同様に前述のアンケートでいずれもサイレンススズカを挙げ、「斤量や、相手、展開などの条件にかかわらず負けないところが強かった」、「今までの競馬の常識を超える馬だった」 と評価している。宝塚記念で騎乗した南井克己は、サイレンススズカに初めて跨った宝塚記念前の最終追い切り後に、「この馬の能力は、(自身が主戦騎手を務めた)ナリタブライアンに匹敵する」とコメントした。サイレンススズカを生産した稲原牧場の牧場長稲原美彦はとあるインタビューで「またこの牧場からサイレンススズカのような馬を?」と聞かれた際に「あれほどのスピードを持った馬をもう一度生産するのは難しい」と答えている。前述の『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』では5票が集まり、橋田・武以外には吉田照哉、岡田繁幸、武幸四郎が投票した。 杉本清によると、1998年のジャパンカップ翌日に蛯名正義と京都駅で偶然会った際に「昨日はおめでとう」と声をかけて少し話をしたが、その際蛯名は「ウチの馬も強かったんですけど、すいません、もっと強い馬いますよ」と言われ、「どういうこと?」と聞くと蛯名は「サイレンススズカという馬は、本当に強い馬ですから」と言ったという。杉本はこの時について「毎日王冠でエルコンドルパサーは影さえ踏めなかったですから、ジャパンカップが終わった後なのに、まだ毎日王冠のことを言っていたので驚きでした」と回想しており、この時の蛯名の様子については「あの馬が生きていれば、今後もどれだけ強くなったかわからないのに、本当に惜しいことをした」とサイレンススズカの死を心から悼んでいる様子だったと振り返っている。翌1999年にエルコンドルパサーはフランス遠征を行い、サンクルー大賞優勝、凱旋門賞2着と顕著な成績を残すが、杉本はその遠征後にも「ああいう形で、海外のレースを走るサイレンススズカを見てみたかったなあと、つくづく思いました」と述べている。 他にも、柴田政人は「ファンを魅了する馬だった」、鈴木淑子は「強い逃げ馬がいたらこんなに競馬は面白い、ということを久々に見せてくれた馬だった」と評し、野平祐二は華奢な体型ながらも奇麗な線を持った馬で、「あれだけ軽快に、また非常にスマート、かつ鮮やかに走る馬は他にいないでしょう。鞍上ともマッチして、実に美しい走りをする馬です」、「あんなに美しい格好で突っ走っていって我慢しちゃう馬なんか、過去でもないですよ」と評し、またその存在価値についても、「『片足でも生かせるものなら生かしておきたい』と思う馬だった」と述べている。競馬評論家の井崎脩五郎は「この世で最も強い馬は、ハイペースで逃げ切ってしまう馬である」と述べ、日本ダービーを逃げ切った馬の中で最も前半1200mの通過タイムが速かったのはカブラヤオーの1分11秒8だったことを引き合いに出し、そのカブラヤオーがサラ平地の最多連勝記録「9」を記録していたことでサイレンススズカはカブラヤオーの連勝記録を20年ぶりに打ち破る可能性があった「久々に表れた、ケタ違いに強い馬だった」と述べ、第118回天皇賞での死を「競馬界の宝の損失」として惜しんだ。同じく競馬評論家の大川慶次郎は「私は相当競馬を見てきているが、こういうタイプの逃げ馬は全く見たことがない」とした上で「こんな馬はこれから出るんだろうか、と思うくらい」と述べている 2000年に日本中央競馬会がファンを対象に行われたアンケート「20世紀の名馬大投票」においては、25,110票を集めて4位にランクインした。 2012年に行われた優駿実施のアンケート「距離別最強馬はこの馬だ!」の芝2,000m部門では、2位に圧倒的な差を付けて1位となった。数ある距離別部門の中で、当該距離でのGI勝利がない競走馬の1位は本馬が唯一であった。 2013年、「中京競馬場開設60周年記念 思い出のベストホース大賞」で1位に選出された。 2014年、JRA60周年記念競走(JRA全10場各1レース)当日の特別競走のレース名を決める、『JRA60周年記念競走メモリアルホースファン投票』では、阪神競馬場の記念競走である「宝塚記念」部門でディープインパクト、オルフェーヴルの2頭のクラシック三冠馬を抑え1位となり、当日(6月29日)の第10レースは『永遠の疾風 サイレンススズカカップ』として行われた。 アメリカ遠征に関しては、すべての競馬場が同馬の得意とみられていた左回りで、加えて芝は日本に近い高速馬場、しかも芝路線のレベルは日本と比べればそれほど高いとは言えず、同馬の得意な中距離路線のGIレースが多く施行されていた。武はそうした事実から、「左回りのほうがよかったから、アメリカの芝戦線に一緒に行きたかったですね」と口にしており、「アメリカの2000メートル前後の芝の重賞でスローな流れになったときなんかは、サイレンススズカみたいな馬がビュンビュン飛ばせば絶対に負けないだろうな、と思うことはありますよ」と述べている。ライターの関口隆哉によると、陣営がはっきりと明言をしていたわけではないというものの第118回天皇賞でサイレンススズカが順当に勝利を収めていたとしてもマイルチャンピオンシップ・ジャパンカップに出走する可能性は極めて薄かったといい、毎日王冠に出走する前の9月の時点でサイテーションハンデキャップに出走登録を行っていた。 サイレンススズカの人気が高くなると、馬主の永井は「サイレンススズカは私の馬ではありません。ファンの方、全員の馬なんです」と公言した。永井によるとサイレンススズカの葬儀の日に稲原牧場についた際にはすでに400から500程のファンが集まっていたといい、「大事にしな、あかんな」と改めて思ったと述べている。死後も花や好物であったバナナ を持ってお墓参りをしてくれるファンも多く、永井はそうしたファンに向けて何か記念になるものを持って帰ってもらおうかと、ぬいぐるみやタオル、携帯電話のストラップなどのグッズをあるだけ送ったというが、それでもなお多くのファンがお参りに稲原牧場へお参りに来てくれるという。橋田は「日本人は憎らしいほど強いものを嫌う傾向がある」とし、古馬となってのサイレンススズカは同じように憎らしいほど強い馬だったとしつつも高い人気を集めたことについて、弥生賞での出来事があったことでファンに支持されたのではないかと述べている。 サイレンススズカは5歳時のレースで示したそのレースぶりによって、サンデーサイレンスの後継種牡馬候補として期待を集めることになった。5歳時からすでに橋田や永井のもとへアメリカから種牡馬としての購買のオファーがあり、橋田は公表こそ控えたものの「相当な金額での買い付け希望が出された」とし、「具体的に金額を提示し、『すぐ買う』と言ってきたんですから、これは本物でしょう」と述べている。永井もアメリカから種牡馬としてのオファーが殺到していたことを認め、種牡馬入りさせてまたそこから産駒を預かりたいと考えていたが、「日高の人たちが種牡馬としてのサイレンススズカに期待していましたから、できるなら北海道においてやりたかった」と述べ、オファーをことごとく断ったものの、それでもシャトル種牡馬としての依頼を提示され、『とにかくアメリカにサイレンススズカの血を残してくれ』『何かいい方法を考えてくれ』と依頼されたという。死後には社台グループが以下の追悼コメントを発表し、その死を悼んだ。 新聞記者の野元賢一は、「優秀ではあるがどこか父の縮小再生産のような馬が多いサンデーサイレンス産駒の中で、例外はサイレンススズカとアグネスタキオンである」 と評しており、数多のサンデーサイレンス産駒の中においても際立って高い能力を持っていると目されていたことも、種牡馬としての期待を高めさせる要因となっていた。が、様々な期待や評価があったものの事故死により子孫を残せず、サイレンススズカの種牡馬能力については全て推測の域を出ないままとなった。 死亡時に全兄弟はおらず、母のワキアが1996年に死亡していたため、生産でサイレンススズカ同様の配合を再現するのは不可能であった。サイレンススズカの事実上の代替馬として期待を集めたのは半弟のラスカルスズカであったが、種牡馬入りしたものの重賞勝ち馬を出せないまま2010年に種牡馬登録を抹消されている。サイレンススズカの事故死の翌年に、姉のワキアオブスズカにサンデーサイレンスが交配され生まれたスズカドリームが2003年のクラシック戦線に顔を出し、サイレンススズカの甥として期待を集めたものの、2005年に調教中の事故で死亡している。 サイレンススズカが誕生した1994年5月1日はイタリアでF1・サンマリノグランプリが行われ、この大会でアイルトン・セナがレース中の事故により亡くなった日でもあった。馬主の永井が所有馬に付ける「スズカ」の冠号は鈴鹿山脈が由来であるが、第118回天皇賞が行われた1998年11月1日は鈴鹿サーキットにおいて日本グランプリが行われていた日でもあり、そのため当日は「スズカ、ポールトゥウィン」という見出しが新聞各紙において活字となっていた。 父・サンデーサイレンスは現役時代にGI6勝を挙げ、1989年には全米年度代表馬に選出。1990年に社台グループ総帥の吉田善哉が輸入し、1995年から13年連続でリーディングサイアーとなった種牡馬である。 母ワキアは、1000mを57秒台で逃げた快速スプリンターであったが、その父Miswakiはスピードに優れたミスタープロスペクター系の中では、珍しく産駒の距離適性に幅のある種牡馬であった。また母母Rascal Rascalは、Silver Hawkとの間に英ダービー馬Benny the Dipを産んでいる。ワキアの産駒は全て中央競馬で複数の勝利を上げ、唯一残した牝馬のワキアオブスズカも重賞馬スズカドリームを出すなど優秀な繁殖成績をあげた。 兄弟 近親
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サイレンススズカ(欧字名:Silence Suzuka、1994年5月1日 - 1998年11月1日)は、日本の競走馬。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1997年に中央競馬(JRA)でデビュー。デビュー戦となった新馬戦から素質の片鱗を表したが、2戦目の弥生賞で大敗を喫して以降は不安定な走りを続けた。しかし、この年の最終戦となった香港国際カップにおいて武豊と初コンビを組むと、大逃げを打つ戦法に活路を見出す。翌1998年に本格化し、初戦のバレンタインステークスから毎日王冠までGIの宝塚記念と重賞5勝を含む6連勝を果たしたが、最大の目標であった天皇賞(秋)においてレース中に左手根骨粉砕骨折を発症、予後不良と診断され安楽死となった。主戦騎手は上村洋行→河内洋→武豊。宝塚記念のみ南井克巳が騎乗している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1993年、サイレンススズカの母・ワキアは初年度産駒のワキアオブスズカが牝馬だったということもあり、繋養する稲原牧場の「今度こそ牡馬を」という期待からバイアモンとの種付けが行われたが、ワキアは受胎しなかった。そこで稲原牧場は、次の発情がきたらシンジケートの1株を持っているトニービンとの交配を考え、トニービンが繋養されている社台スタリオンステーション(以下、社台SS)へ向かったものの、その頃のトニービンはうなぎのぼりで評価が上がっている時だったため、種付け予定に空きがなかった。稲原牧場関係者は頭を悩ませたが、見かねた社台SSのスタッフからサンデーサイレンスなら今日にでも交配が可能であることを伝えられ、「サンデーサイレンスならそう悲観することもないか」ということで牧場関係者は同意し、ワキアはその日のうちにサンデーサイレンスとの交配が行われ、一度で受胎した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1994年5月1日、北海道沙流郡平取町の稲原牧場にて誕生。ワキアにとっては二度目のお産ということと産まれた仔馬が比較的小柄だったこともあってワキアのお産は安産であり、仔馬は産まれてから約30分後に懸命に四肢を踏ん張って立ち上がった。しかし、稲原牧場社長の稲原一美は鹿毛のワキアに青鹿毛のサンデーサイレンスを付けたにもかかわらず栗毛の仔馬が生まれ、さらに普通の仔馬よりもひと回り小柄だったため、両親にも似ていないとすればこの仔馬はそう期待できないかもしれない、という不安を抱いたが、それを別にすれば父や母よりも一層きれいな毛色には仔馬らしからぬ品格が備わっていたといい、立った時のバランスも素晴らしかったため欠点らしい欠点は見当たらなかったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "稲原牧場の稲原昌幸は生まれたときのサイレンススズカについて「小さくて、華奢で、可愛くて」と振り返るものの、当時のサンデーサイレンス産駒の評価はフジキセキを代表として「走る馬といえば黒い馬」というのが通り相場であり、明るい栗毛として生まれたサイレンススズカは「黒い馬」という条件からかけ離れていたため、不安いっぱいの第一印象であった。産まれて一週間も経っていなかった頃の本馬を見たという後の管理調教師・橋田満は「均整の取れたいい馬でしたよ。でも、これは誰でもそうですけど、その時点でどれくらい走るかなんてわかるはずがありませんし、ましてや、その後のサイレンススズカのように走るかなんて、とても想像することすらできませんでしたね」と振り返っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "サイレンススズカは誕生前からワキアの初子であったワキアオブスズカと同じく、永井啓弐がオーナーとなることがほぼ決まっていた。永井は生後1ヶ月の本馬と初めて対面し、その時の第一声は「ああ、これはいいねえ...」というものだった。当時は「サンデーの子は黒鹿毛か青鹿毛が走り、それ以外の毛色の馬は走らない」 との噂について、永井は「私は案外、栗毛が好きでね。大物は出なかったけど、結構、栗毛の持ち馬は走っているんです。だから栗毛に対する抵抗感は全然なくて、噂話も全く気になりませんでしたね。そんなことより、「ああ、栗毛がきれいでよかったなあ」「可愛いな」と思っただけでした」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2歳の10月に二風谷の二風谷軽種馬育成センターに移動して育成調教を開始。育成を担当した若林幹夫は本馬を一目見たときに「こんなに小さくて競走馬になれるのかな」と不安を抱いたが、馴致を始めて背中に跨り走らせるようになると、若林はサイレンススズカの他馬とのスピードの違い、また馬と馬の間を割って追い抜くトレーニングを課しても一回でクリアしてしまった本馬の能力に驚かされたという。冬に雪が深く積もっている所へ敢えて馬を浸からせて行うトレーニングにおいても、サイレンススズカはお腹のあたりまで雪に埋まっていても平気で進もうとしていたため、これで二風谷のスタッフの注目を集め、若林は「本当にすごい馬だな」と感じたという。育成調教で高い能力を示したことに加え、3歳時の4月に行われた皐月賞で同じく栗毛のサンデーサイレンス産駒であるイシノサンデーが優勝したことで、誕生当時一部で噂されていた「栗毛のサンデーサイレンス産駒は走らない」という風評が払拭されたため、現地での評価はさらに上がっていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "3歳の11月20日に二風谷から栗東トレーニングセンターの橋田厩舎へ移動し、翌21日に橋田厩舎へ到着。厩務を担当することとなった加茂力は、入厩当時の本馬について「誰が見たって体は小さいし、厩のなかではビッショリ汗をかいている」と不安を抱いた が、新馬戦で鞍上を務めることとなった上村洋行が調教で初めて跨った際に、「ものすごいインパクトがありました。乗り味にしても持っている雰囲気にしても、過去、3歳馬でそんな動きをする馬はいませんでしたから、『これは間違いなく大きいところを取れるな』と確信しましたし、相当な期待を抱きました」と振り返る程に強い印象を与えた。1月5日に初めて時計を出した際には、栗東の坂路コース(800メートル)を52秒3という極めて優秀なタイムを出して周囲を驚かせ、1月24日に準オープン馬のアドマイヤラピス と追い切りを行った際には、馬なりのままでアドマイヤラピスに0秒5先着、6ハロン78秒0という時計を出し、周囲からの目を引き付けたと同時に競馬専門紙・スポーツ紙のトラックマンの間で一気に話題となった。こうした事実から、橋田は登録こそしなかったもののすでに1勝を上げている馬によって行われる500万下条件の特別競走をデビュー戦とすることも考えていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1997年2月1日、京都競馬場での新馬戦(芝1600メートル)で上村を鞍上にデビュー。デビュー前の調教での動きが評判となったことで単勝オッズは1.3倍での一番人気に支持された。スタートから先頭に立つと後続との差を徐々に広げていき、向こう正面に入るとさらに加速し直線に入ると上村がターフビジョンを確認する余裕を見せ、2着のパルスビート(後に重賞2着3回)に7馬身差をつけて圧勝した。勝ちタイムの1分35秒2は当日の分割レースの勝ち時計とは2秒以上の差があるという驚異的なものだった。鞍上の上村も「間違いなく勝てるだろうけど、どういう強い勝ち方をしてくれるのか、期待はその点だけでした」と振り返っている。京都競馬場でレースを観戦していた競馬評論家や専門誌の記者からは「今年のダービーはこの馬でしょうがない」という声も上がり、パルスピードに騎乗していた松永幹夫は「今日は相手が悪すぎました」とコメントし、5着のプレミアートに騎乗していた武豊は「皐月賞もダービーも全部持っていかれる。痛い馬を逃したと思った」といい、レース後には周囲にもそう喧伝したという。この時武は後ろからサイレンススズカの走りを見て、「体は小さいけど、すごくダイナミックな走り方をする。素晴らしいフォームだな、と」感じたという。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "新馬戦後にサイレンススズカはソエが出たことで調教の強度を緩めなければならなくなったが、陣営の「なんとしても皐月賞に間に合わせたい」という意気込みから、橋田は3月2日に中山競馬場で行われる皐月賞トライアル・弥生賞にサイレンススズカを出走させることを表明した。今回のレースはサイレンススズカにとって長距離輸送、2000メートルの距離のレースが初めてであるという不安要素があったものの、陣営は「すべて素質だけで克服できる」と踏んでの出走であった。出走メンバーには前年の朝日杯3歳ステークス3着馬のエアガッツ、この年の皐月賞・東京優駿を制するサニーブライアン、武豊が騎乗するランニングゲイルが登録され、当日の単勝オッズでは1番人気にエアガッツが支持されたが、サイレンススズカはデビュー2戦目でありながらこれに次ぐ2番人気に支持された。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ところが、ファンファーレが鳴り各馬がゲートに収まっていく中、サイレンススズカは突然ゲートの下に潜り込み、鞍上の上村を振り落としてゲートの外へ出てしまった。中山競馬場のスタンドからはどよめきが起こり、振り落とされた上村は足を負傷したものの、サイレンススズカを他の騎手に渡したくないという思いからレースでの騎乗を決意し、サイレンススズカは馬体検査で馬体に異常が見られなかったため出走取消とはならなかったが、大外枠に移されての発走となった。再スタートが切られる直前ゲート内で再びサイレンススズカの動きは激しくなり、そのタイミングでゲートが開くとサイレンススズカはゲート内で立ち上がりかけたことでタイミングが合わず、もがくようにして飛び出したものの今度は大きく左にヨレてしまったため、先頭馬から約10馬身近く離された大出遅れを喫した。それでも1コーナーで馬群に取りつき、外々を回って前方へ徐々に進出していくと、4コーナーでは先頭集団に並びかけようとした。しかし最後の直線で力尽き、勝ち馬のランニングゲイルから1秒5離された8着に終わり、皐月賞の優先出走権獲得に失敗した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "レース後に上村はゲートをくぐってしまったことについて「普段は大人しいし、ゲートをくぐる素振りを見せたことは初めて。やっぱりサンデーの子なのかな。能力のある馬だけに、もったいなかった」と振り返り、橋田は「今はスピードが勝ちすぎているが、筋肉の柔らかさからくる瞬発力に非凡なものがある。将来は相当なところで活躍できる」とサイレンススズカの現状を分析したコメントをした。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "レース前にゲートをくぐったことを受け、サイレンススズカにはゲートの再試験と3月23日まで20日間の出走停止処分が下された。サイレンススズカがゲートをくぐってしまったことについては、「サンデーサイレンスの気性の悪さが出た」、「まだ馬が若く、精神的に大人になっていない」といった憶測が飛び交った。橋田はなぜゲートをくぐってしまったのかその原因についてはよくわからないとしつつも、ゲート入りまで厩務員の加茂がついており、「その厩務員がいなくなっちゃったから寂しくなって出ちゃったんじゃないかと思うんですが...」と推測しており、加茂も橋田の推測を認めている。前走の新馬戦では1番枠での発走であり、加茂によるとこの時はサイレンススズカ以外の全馬がゲートに収まるまで加茂もゲート内で待機し、出走馬全馬の厩務員がゲートを離れた瞬間にスタートが切られていたが、弥生賞では真ん中よりの5枠に入ったこと、さらにスタンド前からの発走だったことが原因だったと述べているが、「まさかゲートを潜るとは思わなかった」と振り返っている。この日は稲原一美と若林幹夫も北海道から中山競馬場に訪れていたが、サイレンススズカがレース前とレース本番で見せた態を目の当たりにした両名は口をそろえて「もう競馬なんて見たくない」と言うほど大きなショックを受けた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "弥生賞後のゲート練習で、橋田はサイレンススズカをゲートの中に入れ、一緒にゲートに入った他馬がゲートを出てもサイレンススズカをゲート内にとどまらせるという方法をとり、サイレンススズカもゲート内で暴れずに待ち続ける忍耐力を見せ、練習を始めてから3週目に行われたゲート試験をクリアして東京優駿(日本ダービー)を目指すこととなった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "陣営は仕切り直しの一戦として500万下の条件戦(阪神競馬場、芝2000メートル戦)に出走、サイレンススズカが出走することが明らかになると当初出走予定だった有力馬が相次いで回避し、12頭立ての出走メンバーとなった中で単勝では1.2倍の支持を受けた。前走のような気性の激しさは現れずに好スタートを切って1コーナー手前で先頭に立つと、道中は2、3馬身差を保ち、直線に入って上村が1、2発鞭を入れると後続との差をさらに引き離し、残り100メートル地点では上村が腰を挙げる余裕を見せ、新馬戦と同じ2着に7馬身差をつけての圧勝を収めた。2勝目を挙げたものの、東京優駿に出走するための収得賞金を満たせていなかったため、橋田は同レースのトライアル競走であり、本番と同じ東京競馬場の2400mで施行される青葉賞への出走を目指す。しかし、レース1週間前の日曜日の調教後にサイレンススズカの左前脚の球節が腫れて熱を持ち、検査の結果球節炎を患っていることが判明。症状は極めて軽く翌日に症状は治まったものの、橋田は青葉賞を回避してその後の状態を見て出走ローテーションを再編成することを決定し、最終的に青葉賞の翌週土曜日に行われるトライアル競走・プリンシパルステークスに出走させることを決定した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プリンシパルステークスでは弥生賞で対戦したランニングゲイル、エアガッツと再び顔を合わせ、当日は1番人気ランニングゲイル、2番人気にサイレンススズカ、3番人気エアガッツという人気となった。レース前、橋田は東京優駿を見据えて上村に「抑えて行けるなら控える競馬をしてくれ」と指示を出し、6枠11番からの発走となった上村・サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立ったカイシュウホマレに次ぐ2番手につけた。向こう正面に入っても上村との折り合いを保ち続け、3,4コーナーを回ってマチカネフクキタルが並びかけてきたが、これを待って上村が外へ追い出すと残り400メートル地点で先頭に立った。大外からはランニングゲイルが追い込みを見せて3頭の叩き合いとなったが、マチカネフクキタルをクビ差しのいで勝利を収め、東京優駿の優先出走権を獲得した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "迎えた東京優駿ではメジロブライト、ランニングゲイル、シルクジャスティスに次ぐ4番人気(単勝8.6倍)に支持された。またこのレースでは「ダービーの大歓声に興奮しないように」という配慮から、緑色のメンコを着用して出走することとなった。レース前、橋田は上村に前走と同様に前半を抑えて行ってほしいと指示を出した。しかし、スタートが切られるとサイレンススズカは前方へ行きたがる素振りを見せながら内側へ切れ込んでいき、サニーブライアン、フジヤマビザンに次ぐ3番手につけて向こう正面へ入っていった。第3コーナーに入って内から先頭へ抜け出そうとしたものの前が開かずに抜け出せず、残り150メートル地点で後ろから来た馬群に飲み込まれ、優勝したサニーブライアンとは1秒1離された9着に敗れた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "レース後、橋田は「ホントにチグハグな競馬になってしまった。馬がいこうというときに前がつかえたり、なんかややっこしいことになっちゃって全然スムーズに進まなかった。まったくサイレンススズカの良さを出せずに終わっちゃってね。失敗でした、抑えて行く作戦が」と振り返った。上村は敗因について「ダービーまで押せ押せできた影響でしょうか。あるいは、あまりにも馬にいろいろなことを求めすぎた影響なのかわかりませんが、ダービーの追い切り後、とうとう馬が精神的にキレてしまったんです」と語り、前へ行きたがって行きたがってしまい、3コーナーまで折り合いを欠いたことを原因とした。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ダービーから4日後の6月5日にサイレンススズカは栗東トレーニングセンター近くの栗東ホース倶楽部へ放牧に出され、6月28日に二風谷軽種馬育成センターへ移動して疲労を取った後、7月17日に函館競馬場へ移動して調教を再開した。8月24日に栗東に帰厩し、橋田は秋の最大目標を天皇賞(秋)に定めた。橋田はサイレンススズカのスピード能力を生かそうと今後は中距離のレースに出走させることを永井に提案し、永井もこれに賛成した。サイレンススズカの秋の初戦には天皇賞の前哨戦として距離が同じ2000メートルで行われる菊花賞トライアル・神戸新聞杯に決定し、そしてこの神戸新聞杯から陣営は中距離路線でサイレンススズカを出走させるにあたり、無理に抑えるようなことはせず、馬の気持ちに任せて好きなように走らせることを決定した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "9月14日の神戸新聞杯では小雨が降りしきる天候ではあったものの、馬場状態は「良」という中で行われ、単勝オッズは1番人気に支持された。サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立って1コーナーを回り、2コーナーからは11秒台のラップを刻んでいき、前半1000メートルを59秒3で通過し、後続とは3馬身の差をつけていた。残り200メートル地点では後続に4馬身の差をつけていたが、外からマチカネフクキタルが強烈な追い込みを見せ、ゴール寸前で同馬に交わされ2着に敗れた。橋田は上村の最後の油断が原因で敗れたと考えたが、これに上村は途中で勝ったと思ったが最後に内へモタれたことで敗れ、自身のミスであったことを認めた。そして、この競走を最後に上村は自ら責任を取る形でサイレンススズカの主戦から降板することとなった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "神戸新聞杯後は予定通り天皇賞(秋)へ出走。前述の神戸新聞杯を最後に上村が責任を取って降板した経緯から、このレースではペース判断の良さに定評があるベテランの河内洋が鞍上を務めることとなった。ところが、河内が初めて騎乗した最終追い切りにおいて、サイレンススズカは河内が必死に手綱を抑えても止められないほど掛かって 前半から暴走してしまい、最終的に併せ馬のパートナーを務めたロイヤルスズカに一度も馬体を合わせることができずにスタミナ切れしてしまうという気性の悪さを露呈してしまう。上村によれば、この追い切り後に河内は「もう無理や、これ」と\"ギブアップ\"していたという。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "天皇賞当日は一番人気に前年度の優勝馬バブルガムフェロー、二番人気に8月の札幌記念において牡馬を一蹴した前年のオークス優勝馬エアグルーヴ、三番人気に1995年の皐月賞・前年のマイルチャンピオンシップ優勝馬ジェニュインが支持され、サイレンススズカは単勝17.6倍でジェニュインに次ぐ四番人気に支持された。サイレンススズカは本馬場入場時にスタンドからの歓声を浴びた途端に激しくイレ込み、河内が内ラチ沿いに誘導してなだめようとしたものの、落ち着きが収まらず満足に返し馬ができない状態でスタートを迎えることとなった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "スタートが切られると最初の1ハロンをゆったりと行きつつも2ハロン目から加速して先頭に立ち、2コーナーでは2,3番手につけていたバブルガムフェローに7,8馬身の差をつけた。1000m通過は58秒5というハイペースでの大逃げを見せ、第3コーナー手前では後続に10馬身の差をつけた。しかし直線に入ると後続勢が一気に押し寄せ、残り100メートル地点で勝ち馬のエアグルーヴとバブルガムフェローに交わされ、結果はジェニュイン、ロイヤルタッチ、グルメフロンティアに交わされての6着に敗れた。レース後に河内は「最後の1ハロンは完全にばてた」と振り返ったが、上位二頭を除いてはハナ差、クビ差、ハナ差のきわどい3着争いに加わっていたことで、橋田は「6着でしたが、善戦といっていいでしょう」とコメントした。 天皇賞後は京阪杯(GIII)に出走する予定だったが、急遽12月14日に行われる香港国際カップの日本代表に選出されたため急遽予定を変更し、京阪杯の1週前に行われるマイルチャンピオンシップへ出走した。この頃サイレンススズカの旋回癖を治そうと加茂は天井から畳を吊るして回れないようにしたが、これがかえってサイレンススズカにストレスを溜め込むこととなってしまい、当日のパドックでも落ち着きがない状態を見せてしまう。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "スタートが切られると同年の桜花賞馬キョウエイマーチが先頭に立つとサイレンススズカはこれに次ぐ2番手につけ、2頭が激しい競り合いを見せたことで1000m通過は56秒5というハイペースとなった。第3コーナーを回って第4コーナーに差し掛かるとサイレンススズカは鞍ズレを起こして故障発生かと思わせるほど一気に後退し、キョウエイマーチがレースを制したタイキシャトルに次ぐ2着に粘ったのとは対照的に、サイレンススズカはタイキシャトルから2秒9離された、生涯最低着順となる15着と大敗を喫した。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "香港国際カップにおいて、当初陣営は前走と同様河内を鞍上に出走させようとしていたが、この日日本ではスプリンターズステークスが開催され、河内はお手馬のマサラッキが出走予定でそちらを優先したため、鞍上が空位となった。すると、「ジョッキーは騎乗依頼が来るのをじっと待つしかない」と言い続けていた自身のスタイルを崩し、同日開催される香港国際ボウルにおいてシンコウキングへの騎乗を予定していた武豊が自ら橋田に騎乗を直訴し、橋田も二つ返事で承諾したことで武との新コンビを組んでの出走となった。永井は武が鞍上を務めることが決まったこの時の心境について、「これまでずっと競馬を見てきて、武さんが馬への当たりが一番いいから、機会があったら乗ってくれないかなあとは思っていたんです」と振り返っている。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "出走メンバーにはドバイのアヌスミラビリスや地元香港のオリエンタルエクスプレスらが名を連ねたが、サイレンススズカの強敵は香港のスマッシングパンプキン、イギリスのウィキシムと予想された。当日は8番人気での出走となり、スタートが切られると本馬以外のメンバーに逃げ馬がいなかったことから楽に先頭に立つと、徐々に後続との差を広げていった。1000mの通過タイムは58秒2を記録し、3馬身の差をつけて直線に入り、残り200m地点までは粘ったものの、100m地点でオリエンタルエクスプレスとアメリカのヴァルズプリンスに交わされ、勝ち馬のヴァルズプリンスからコンマ3秒離された5着に敗れた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "レース後、敗れはしたものの抑えるよりも逃げる戦法に手ごたえを得た武は橋田に対して「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言し、そして武はサイレンススズカとのコンビ続行を熱望した。4歳時の最終的な成績は重賞の掲示板に1度載っただけの成績であったにもかかわらず、境勝太郎元調教師は競馬雑誌『サラブレ』誌上で「あの馬は5歳の秋までくらいまでにはバリバリのGIホースになっていると思う。実はデビュー戦から気になっていた馬なんだ。これからがとても楽しみだね」と発言した。橋田は常々「この馬が本当に良くなるのは5歳になってから」と言い続けてきたが、5歳となったサイレンススズカの最大目標を天皇賞(秋)に定めた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "年明け初戦、陣営は「2000メートルは長い。スピード馬ではあるが1600メートルは短く、ベストは1800メートル」という判断で同距離のレースに狙いを絞り、別定戦のため55kgで出走できるオープン特別・バレンタインステークス(東京競馬場、芝1800メートル)に決定。当日は関西を拠点とする武がオープン特別の騎乗のためだけに東上したということもあり、単勝オッズ1.5倍を記録して1番人気に支持された。レース前に激しくイレ込んで暴走気味に先頭に立った結果1000メートル通過は57秒8というハイペースとなったが、3コーナーで落ち着きを取り戻して息が入り、直線でやや失速したもののゴール手前で武は手綱を抑え、2着のホーセズネックに4馬身差をつけて優勝した。レース後に武は「今日は3角に入ってうまく息が入った。こういう形になると強い」と述べ、ホーセズネック鞍上の後藤浩輝は、「それにしても勝った馬はケタ違いだ」とコメントした。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "続いて中3週で前走と同距離の中山記念(GII)に出走。一昨年の皐月賞優勝馬イシノサンデー、前走のAJCC勝ち馬ローゼンカバリーが出走メンバーに名を連ねたがこのレースでも1番人気に支持された。スタートで先頭に立つと1000メートル通過時点では後続に10から13馬身ほどの差をつけた。直線に入るとやや内側にモタれたものの、ローゼンカバリーを1馬身3/4馬身差で抑えて逃げ切って重賞初制覇を果たした。しかしこのレースでは馬場のコンディションが悪く上がりは38秒9かかり、直線ではモタれたことに加えて手前を替えることにも苦労したため、右回りでの不器用さを露呈するレースにもなった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "続いて小倉競馬場の改修に伴って本馬が得意と目されていた左回りの中京競馬場での代替開催となった小倉大賞典では、トップハンデの57.5kgを背負わされたものの単勝オッズは1.2倍の圧倒的な一番人気に支持された。前半1000mは57秒5を記録して逃げ、上り3ハロンは36秒4を記録して後方待機策から追い込みを見せたツルマルガイセンを3馬身差抑えて重賞を連勝。勝ちタイムの1分46秒5は1991年に武が手綱を執って優勝したムービースターが記録したコースレコードをコンマ1秒更新する結果となった。武は後にこのレースでの2ハロン目に記録した11秒0というラップについて「中距離戦線ではめったにお目にかかれるものではないでしょう」と振り返っている。 小倉大賞典後は中5週で金鯱賞に出走。馬体重が過去最高となる442kgを記録し、重賞3勝を含む4連勝中の神戸新聞杯で敗れたマチカネフクキタル、デビュー以来着外に落ちたことがないタイキエルドラド、同条件の中京記念勝ち馬のトーヨーレインボー、6連勝中のミッドナイトベットらを抑えて単勝2.0倍で一番人気に支持された。好スタートを切ると2コーナーを回る時点で2番手のテイエムオオアラシとトーヨーレインボーに4,5馬身の差をつけて前半1000mを58秒1で逃げ、後半を59秒7で上がり、2着のミッドナイトベットに1秒8の大差をつけて、1分57秒8のレコードタイムで逃げ切り勝ちを収めた。この時中京競馬場では、残り800m地点ではサイレンススズカが後続に10馬身以上の差をつけていたため大歓声が起こり、最後の直線に差し掛かったところでは拍手で迎え、馬主席にいた永井も観客と一緒に拍手していたという。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "金鯱賞において陣営は「今は最高の状態。負けるなんて考えられない」という自信をもってレースに送り出すほどの状態に仕上げてサイレンススズカを出走させ、橋田は後に「レース内容も素晴らしく、なかなか再現しろと言われても再現できないレース」と述べている。レース後に武は「本当にいい体つきになったし、一段と力をつけている。今日のサイレンススズカならどんな馬が出てきても負けないんじゃないか」、「夢みたいな数字だけど、58秒で逃げて58秒で上がってくる競馬もできそうな気がしてきました」 とコメントした。 金鯱賞後は最大目標である天皇賞(秋)を見据えて放牧に出される予定ではあったが、上半期のグランプリ・宝塚記念のファン投票で6位に支持され、レコードを連発した疲れよりも馬体の充実が際立っているということで、急遽宝塚記念へ出走することとなった。しかし、主戦の武には既に年末の有馬記念までエアグルーヴへの騎乗の先約があったため今回のレースはエアグルーヴに乗らざるを得ない状況となっていた。これを受けて、橋田はレース3日前の木曜日に武の代役としてサイレンススズカと同じく永井の所有馬で、出走予定の僚馬ゴーイングスズカの主戦騎手であった南井克巳を鞍上に迎えて出走させることを決定した。この時の心境について武は「正直に言えば内心、どっちかが(出走を)辞めてくれればと。どちらもすごく好きな馬ですから、どっちにも乗りたい。でもそれは不可能だから、どちらか一頭が出てほしいと、願っていたのですが。そうそう自分の都合のいいようにはいきませんね」と振り返っており、一方サイレンススズカに騎乗することとなった南井は「大方、エアグルーヴが出てくるだろうと思っていたから、別にいら立ちはなかった」と振り返っている。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "当日の馬体重は金鯱賞から4kg増加した446kgと発表され、単勝では武が騎乗するエアグルーヴ、この年の春の天皇賞勝ち馬で河内洋が騎乗するメジロブライトらを抑え1番人気に支持された。ただし、本馬にとって初めてとなる2200メートル、また南井に乗り替わっている点が不安視され、単勝オッズは3倍近い数字となった。レース前にメジロブライトが立ち上がって脚を引っ掛けるというアクシデントがあったものの落ち着きを失わず、外側の13番枠からスタートを切ると内側に移動してメジロドーベルの機先を制して先頭に立ち、前半1000mを58秒6で通過。第3コーナー手前では後続に8馬身の差をつけたがここからステイゴールドがスパートをかけ、ここで南井がペースを落として息を入れたため残り600m地点では4馬身ほどの差に縮まったが、サイレンススズカも内で粘りこみ、ステイゴールドとエアグルーヴの猛追を凌いで逃げ切り勝ちを収め、GI初勝利を挙げた。勝ちタイムの2分11秒9は前年の勝ち馬マーベラスサンデーが記録したタイムと同じであり、阪神競馬場で行われた宝塚記念においては1994年の勝ち馬ビワハヤヒデが記録した2分11秒2に次いで2番目に早い時計だった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "レース後に南井は「ユタカ君が乗って4連勝してきた馬。この馬の力を出し切ることだけを考えました。あくまでも、この馬の行きたいペースで行かせることだけを心掛けました。さすがに強いメンバーで、これまでより差は縮まりましたが、道中で無理に脚を使っていない分、最後まで頑張ってくれましたね。1番人気に応えることができてホッとしています」とコメントし、橋田は南井の騎乗について「ほんとうに上手く乗ってくれました。気持ち良く走らせてくれればそれでいいと思っていましたが、彼もよく研究してくれていましたからね」と讃えた。3着となったエアグルーヴ鞍上の武は「サイレンススズカが止まりませんでした」と淡々としたコメントを残した。南井の45歳5か月での宝塚記念勝利は1994年にビワハヤヒデで制した岡部幸雄が記録した45歳7か月に次ぐ年長勝利記録となり、また翌年を以って現役を引退した南井にとってはこれが現役最後のGI勝利となった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "秋の初戦には、目標である天皇賞(秋)へのステップとして毎日王冠に出走することとなった。鞍上に武が復帰したが、NHKマイルカップ優勝馬エルコンドルパサーと前年の朝日杯3歳ステークス優勝馬グラスワンダーの無敗の外国産4歳馬2頭が出走するメンバー構成となり、この2頭とサイレンススズカを交えた「3強対決」の様相を呈した。毎日王冠は別定戦のため、負担重量はグラスワンダーが55kg、エルコンドルパサーが57kg、サイレンススズカは過去最高となる59kgを背負っての出走となったが、レース前に武は「強い4歳馬が2頭いますが、サイレンススズカのペースで行くだけです」と余裕のあるコメントをし、橋田はファンに向けて「とにかく競馬場に来てください。きっと素晴らしいレースを堪能できるでしょう」とコメントした。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "10月11日の毎日王冠当日は、GII競走ながら東京競馬場には13万3461人の観衆が詰めかけた。当日サイレンススズカは生涯最高体重となる452kgを記録、単勝オッズは1.4倍で1番人気に支持され、2番人気にはグラスワンダーとエルコンドルパサー双方の主戦騎手であった的場均が二頭から選択したグラスワンダーが推され、蛯名正義に乗り替わったエルコンドルパサーは3番人気となった。スタートが切られるとサイレンススズカは前半600メートルを34秒6、1000メートルを57秒7 というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走し、グラスワンダーは中団から後方を進んだ。第3,4コーナーでサイレンススズカは一度1ハロン11秒7から12秒1に落として息を入れ、その第3コーナー過ぎからはグラスワンダーがサイレンススズカを捉えに先団へ進出したもののそこから伸びを欠く。直線に入ってもサイレンススズカの逃げ脚は衰えず、これをエルコンドルパサーが追走したが、2馬身2分の1の着差をつけて逃げ切り勝ちを収めた。上がり3ハロンで記録した35秒1は出走メンバー中最速だったエルコンドルパサーの35秒0と僅かコンマ1秒差という驚異的なものであった。エルコンドルパサーに次いで3着に入ったサンライズフラッグはエルコンドルパサーと5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "辛うじて2馬身半差の2着まで差を詰めたエルコンドルパサー鞍上の蛯名は「直線に向いてからも手応えはありましたし、十分、サイレンススズカは射程圏内だと思ったんですが、全く止まりませんでしたね。前にいったサイレンススズカにあれだけ伸びられては仕方ありません」、「相手が強かった。完敗だった」としたが、同馬管理調教師の二ノ宮敬宇は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べた。的場はコメントがなく、武は「後続の馬は気にせず、自分のペースを守ることに集中してレースをしました。できる限りゆっくり行くつもりでしたが、イメージ通りのレースができたと思います。レース前も落ち着いていましたし、道中もものすごくいい感じでした。ホント、楽勝でしたね。いやあ、強かったあ」とコメントし、橋田は「競馬場に集まってくれたファンの方に存分にレースを楽しんでいただけたかと思うと、これ以上の喜びはありません」と語った。稲原は後年、「このレースだけは、絶対に勝ってほしかった」と振り返っている。なお、レース後にはGII競走でありながら武はウイニングランも行った。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "毎日王冠後、橋田がこの年の最大の目標として定めていた第118回天皇賞(秋)に出走。サイレンススズカが出走するとあって他馬の陣営が恐れをなしてか同レースとしては珍しい12頭立てと少頭数でのレースとなった。さらに逃げ馬としては有利となる1枠1番を引き当て、当日の単勝支持率は61.8%、単勝オッズは1.2倍と圧倒的な一番人気に支持された。レース前、多くのTVや競馬紙も上記の有利な条件も踏まえて、サイレンススズカが負ける要素を探したものの、アクシデントがない限りサイレンススズカは負けないという意見が大勢を占め、サイレンススズカのレースの勝ち負けよりも、「どう逃げるのか」「どういう内容の競馬をするのか」という点に注目が注がれた。武は天皇賞の週の半ばに受けたインタビューにおいて、インタビュアーから「オーバーペースにならないように?」と問われると、「オーバーペースでいきますよ。」と宣言していた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "当日の体調について、加茂と武は「あの時が間違いなく一番具合が良かった」と口をそろえて言うほど優れていた。サイレンススズカは好スタートを切り、2ハロン目から加速して後続を突き放すと、毎日王冠を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうった。競りかける馬はサイレントハンターも含めて1頭もおらず3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と後続を大きく引き離し、この時点で二番手サイレントハンターとは約2秒差、最後方ローゼンカバリーとは6秒ほどの差となっていた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "しかし、4コーナーの手前で突然の失速。左前脚の手根骨粉砕骨折を発症し、競走を中止した。結局予後不良と診断され安楽死の処置がとられた。", "title": "競走馬時代" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "※タイム欄のRはレコード勝ちを示す。", "title": "競走成績" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "粉砕骨折の詳しい原因は現在も判明しておらず、武はレース後、「悪夢としか言いようがない」とコメントし、死因となった粉砕骨折については「原因は分からないのではなく、ない」とコメントした。橋田は故障の原因について、サイレンススズカのスピードが馬の骨の丈夫さの限界を超えてしまい、それによってショックアブソーバーの役目をする部分が耐えられずに壊れてしまったのではないかと分析している。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武自身も後に「泥酔したの、あんときが生まれて初めて」と振り返っており、同レースでテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。後に武はこのときの出来事について「なかなかいない。あのトップスピードで、あれだけの骨折をして転倒しない馬は。僕を守ってくれたのかなと思いましたね。今でもすごくよく、サイレンススズカのことを思い出すんですよ。せめてあと数百メートル、走らせてやりたかったな。うん、すごい残念。今でも悔しいですもん」と語った。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "永井のもとにはファンから励ましの手紙が多く寄せられたが、その中には「もう競馬は見たくない」「府中にはしばらくいけない」という内容の手紙もあった。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その後、サイレンススズカはこの年のJRA賞特別賞を受賞している。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "サイレンススズカの死後、エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍によりサイレンススズカの評価はさらに上がることになった。エルコンドルパサーは毎日王冠の次走となったジャパンカップを優勝、翌1999年はフランスのG1(サンクルー大賞典)、G2で1勝ずつを挙げ、なおかつ凱旋門賞ではモンジューの半馬身差2着に入る成績を挙げ、結果的にエルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのはサイレンススズカのみとなった。グラスワンダーも1998年末の有馬記念を制し、翌年も宝塚記念と有馬記念を制している。1999年の宝塚記念において、実況の杉本清はレース前に「あなたの夢はスペシャルウィークかグラスワンダーか。私の夢は、サイレンススズカです。夢、叶わぬとはいえ、もう一度この舞台でダービー馬やグランプリホースと走ってほしかった。」という言葉を残した。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "サイレンススズカの墓は生まれ故郷である北海道・平取町の稲原牧場に建てられ、たてがみと蹄鉄は稲原牧場と阪神競馬場の馬頭観音に納められた。追悼歌「天馬のように(星野豊:作詞/作曲 因幡晃:歌)」も作られた。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "スタートから先頭に立って後続との差を徐々に大きく引き離し、直線に入っても衰えない末脚を発揮して逃げ切るというレーススタイルを身上としていた。デビュー当初、陣営は将来を見据えて「抑える競馬を覚えさせたい」という意見で一致しており、新馬戦で橋田は上村に「できれば中団につけ、馬込みに入れて控える競馬をしてほしい」と指示を出した。しかし、このレースでサイレンススズカはスタートからゴールまで馬なりで勝利し、香港国際カップのレース後に武は橋田に「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言した。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "5歳となってから出走した全7戦では、全てのレースでスタートから1000メートルまでの通過タイムが57~58秒を記録し、これは普通の馬であれば非常に速いペースとなり、たとえ1800メートルの距離であっても上がり は直線で失速することが多くなる。このようなペースとなった場合追い込み馬の場合は上り35秒の脚を使えば逃げ馬をとらえることができるという計算になる。ところが、サイレンススズカにとって前半58秒台というのは楽な馬なりでのペースになり、後半の上がりも36秒台でまとめるため、そうなると後続馬は上がりを34秒台、もしくはそれ以上のタイムの脚で追い込まないとサイレンススズカを捉えることはできないということになる。このような数字的な裏付けについて橋田は、「普通先行馬が行ったきりでゴールインするのは、前半スローペースに落とし、上がりの勝負に持ち込んで勝つんです。でもサイレンススズカは、最初から飛ばしていって、そのまま早いタイムで直線も乗り切ってしまうんです。これは並みの馬のできることじゃありません」と述べている。南井克巳によるとサイレンススズカはゲートを出てからのダッシュが違うとしており、それは「バカみたいにガーッと行くんではなくて、あくまでも自分のペースなんですよ」としており、そのため普通に走っていても並みの馬とは断然違っただろうと述べており、「とにかくすごいスピード。スピード的にホント、他馬とまったく違うスピードで押し切っちゃうんだから」と付け加えている。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "距離適性について、橋田は宝塚記念出走前の時点には多少の心配はあったというものの、「2000までは問題ない、2200までも我慢するだろう」と思っていたといい、大きな意味では安心してみていたという。毎日王冠後には、同レースでのメンバー構成での勝ち方から「東京なら左回りだし、2400メートルでも大丈夫じゃないか」と確信し、ジャパンカップへの出走を予定していた。距離についての議論はさまざまであるが、武は仮に(距離3200mの)天皇賞(春)でも道中3秒差をつける逃げを展開できれば勝てるはず、というコメントを残している。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "小島貞博は、1992年のクラシック戦線において自身が騎乗し、無敗で皐月賞・ダービーの二冠を制した逃げ馬・ミホノブルボンとサイレンススズカの違いについて、「サイレンススズカは典型的な逃げ馬だという気がします」と述べている。小島によるとミホノブルボンはやや仕掛け気味に先頭に立っていたというが、サイレンススズカの場合は楽に先頭に立っているとしており普通の馬であれば最後には掴まってしまうところをサイレンススズカは最後まで掴まらず、逆に伸びているところを見るとこれはもう能力の違いというしかない、と述べている。当初短距離馬として見られていたミホノブルボンは徹底した坂路調教によって長距離のレースを克服したが、小島はサイレンススズカもミホノブルボンと同様に「調教で鍛え上げたからこそ天性の才能に磨きがかかった」と評している。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ライターの柴田哲孝は、サイレンススズカは芝2000m級のレースに関する限りであればシンボリルドルフ、ナリタブライアン、テイエムオペラオー、ディープインパクトらと比較しても「\"彼\"こそは日本の競馬史上\"最強馬\"ではなかったか」と述べており、「もし時間をコントロールすることができたとして、それらの馬を全盛期のコンディションで一堂に介し、2000メートルのレースを行ったとしたら...。おそらく、いや間違いなく、勝つのはサイレンススズカだ。しかも、圧勝するだろう」と断言しており、東京中日スポーツ記者の野村英俊は、ディープインパクトがサイレンススズカの逃げを自ら潰しに行ったら確実に他馬の餌食になるだろうと推測している。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "当歳時のサイレンススズカは病気になったことがなく、医者にかかったことがないという健康で丈夫な体質をしていた。上村はサイレンススズカのすごさについて「スピードがある、瞬発力がある、体が柔らかい、バネがある。その辺は、すべてにおいて、これまでの馬よりレベルが2つくらい上でした」と述べている。馬体はデビュー当初はしなやかだけだったが、5歳になってから体重が増えただけでなく肩は広く、胸は厚くなって筋肉も強靭になり、スピードと持久力が向上した。肉体面の成長に加えてそれまでは闘争本能のみに頼ってがむしゃらに走っていただけであったが、武豊が騎乗するようになってからその後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど内容もよくなると精神面でも成長を果たした。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "橋田はサイレンススズカの気性について「本当に気っ風の良い気性をしてましたね。実に大人しい馬」と述べている。前述の馬体の成長が成長して以降は精神的な落ち着きが目立っていたと振り返っており、かつて野平祐二が調教師として管理したシンボリルドルフを『馬が楽しそうに走っている』と評したことを挙げ、サイレンススズカの走りにも野平の言葉と同じことを感じたという。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "稲原牧場社長の稲原一美は、『牝馬みたいに可愛い顔をしていても、内に秘めた気性が激しい』とし、これは非常に気性が激しいことで知られたサンデーサイレンスから譲り受け、それが後述の旋回癖にモロに出てしまったのではないかと述べ、橋田もこの気性の激しさはサンデーサイレンスから受け継いだものであるという見解を示している。ただし普段は大人しく、人の言うことをよく聞く馬だったといい、上村も気性について「大人しいし、頭もいいし、優等生的な感じ。お坊ちゃんっていう雰囲気もありました」と述べている。カメラマンの本間日呂志は、毎日王冠の直前に雑誌の依頼で武豊とサイレンススズカのツーショットを撮影した際、サイレンススズカがあまりに素直な性格をしていたため驚いたといい、武のいうことも、自身の希望もよく聞いてくれたと述べている。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "古馬となってからは宝塚記念を制し、左回りの東京、中京での両競馬場でも実績を残した。ただし武によれば中山記念を勝利した際、サイレンススズカは直線でモタれた上に手前を変えるのに苦労したことで、後に「左回りのほうがいい競馬をする。競馬をしやすい」と語っている。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "左回りに関して、当歳のころから「旋回癖」と呼ばれる馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖がエピソードとして語られている。旋回癖は当歳時の9月に母・ワキアから離乳されて3日が経った時に寂しさを紛らわすために始めたとされており、狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので、見ている側が「事故が起こるのでは」と心配するほどだったが、結局最後まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮といった原因によるものではなかったようであるが、この癖が治ることもなかった。この癖を矯正することでレースで我慢することを覚えさせられるのではないかと、馬房に畳を吊すことが試みられたが、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらにタイヤなど吊す物の数を増やして旋回をやめさせたところ、膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまったため、4歳の冬には元に戻された。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "管理する厩舎のスタッフにとっては、旋回そのもので事故が起こるおそれがないとはいえ蹄鉄が余りにも早く摩耗するため、蹄を削るにも少しでも薄くすると致命的な負傷に繋がりかねず、神経をすり減らす毎日だったという。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "武は1999年にSports Graphic Numberが行ったアンケート『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』『最強馬アンケート 私が手掛けた馬編』というアンケートでは双方でサイレンススズカを挙げ、「エルコンドルが活躍するほどスズカの評価が上がる気がして今でもドキドキするんですよ」とコメントした。5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから「古今東西の名馬を集めてレースをした場合に、一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている。2000年に行われたインタビューではサイレンススズカを「サラブレッドの理想だと思う」と評し、「どんなレースでも、最初から抜群のスピードで他馬を引き離していって、最後までそのままのいい脚でゴールに入ったら、それが一番強いわけでしょう。そういう馬は負けるわけがありません。絶対能力とは、そういうことですよね。その理想を、サイレンススズカという馬は追及していたんです。またその能力を持った馬でした。こういう馬は、めったにいるものじゃありません。何十年に一頭の馬だと思いますよ」と述べた。ディープインパクトのデビュー前の2003年に行われたインタビューでは、「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、オグリキャップ、サイレンススズカ、そしてクロフネぐらい」と述べており、ディープインパクトが引退した2007年にもサイレンススズカを「理想のサラブレッド」と評し、「どちらが勝つかはわかりませんが、ディープインパクトにとって、サイレンススズカが最も負かしにくいタイプであるとは言えるでしょうね」と述べている。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "武はサイレンススズカに対して「『本当にこんな馬がいるんだ』という相棒がやっとできて、夢が広がってきたときに、すべてがプツッと途切れてしまった」とその死を惜しむと同時に、「サイレンスに関しては、『この馬は現時点では世界一だ』という自信があった。あの馬には、普通では考えられない結果を出す力があったんですよ。例えば、GIで2着を3秒離して勝つこともあり得る馬だった」とインタビューで語っている。また、2007年に行われたインタビューにおいて、「今でも不意に思い出すことがあります。あんなことになってなかったらなぁって。天皇賞は間違いなく勝っていたんだろうなあとか、そのあとのジャパンカップはとか、ブリーダーズカップも行っていただろうなあとか考えてしまいますね。サンデーサイレンス産駒の種牡馬がいま活躍してるじゃないですか。そういうのを見ると、余計に『いたらなあ』と思います。『きっと、凄い子供が出てるんだろうなあ』って」と述べており、2019年のインタビューでも「(競走中止した天皇賞では)大レコードで、10馬身以上のぶっちぎりで勝っていたと思います」「アメリカへ行ったらどうだったんだろう、ドバイWCに出たら誰もついて来られないんじゃないか、とか。種牡馬としても、日本の競馬史を変える可能性があった」と述べている。また、金鯱賞の翌週、全盛期のナリタブライアンやトウカイテイオーが出てきても負けないかと尋ねられた際は「と、思いますよ」と即答した。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "サイレンススズカは武以外の競馬関係者からも高い評価を得ている。調教師の橋田は武と同様に前述のアンケートでいずれもサイレンススズカを挙げ、「斤量や、相手、展開などの条件にかかわらず負けないところが強かった」、「今までの競馬の常識を超える馬だった」 と評価している。宝塚記念で騎乗した南井克己は、サイレンススズカに初めて跨った宝塚記念前の最終追い切り後に、「この馬の能力は、(自身が主戦騎手を務めた)ナリタブライアンに匹敵する」とコメントした。サイレンススズカを生産した稲原牧場の牧場長稲原美彦はとあるインタビューで「またこの牧場からサイレンススズカのような馬を?」と聞かれた際に「あれほどのスピードを持った馬をもう一度生産するのは難しい」と答えている。前述の『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』では5票が集まり、橋田・武以外には吉田照哉、岡田繁幸、武幸四郎が投票した。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "杉本清によると、1998年のジャパンカップ翌日に蛯名正義と京都駅で偶然会った際に「昨日はおめでとう」と声をかけて少し話をしたが、その際蛯名は「ウチの馬も強かったんですけど、すいません、もっと強い馬いますよ」と言われ、「どういうこと?」と聞くと蛯名は「サイレンススズカという馬は、本当に強い馬ですから」と言ったという。杉本はこの時について「毎日王冠でエルコンドルパサーは影さえ踏めなかったですから、ジャパンカップが終わった後なのに、まだ毎日王冠のことを言っていたので驚きでした」と回想しており、この時の蛯名の様子については「あの馬が生きていれば、今後もどれだけ強くなったかわからないのに、本当に惜しいことをした」とサイレンススズカの死を心から悼んでいる様子だったと振り返っている。翌1999年にエルコンドルパサーはフランス遠征を行い、サンクルー大賞優勝、凱旋門賞2着と顕著な成績を残すが、杉本はその遠征後にも「ああいう形で、海外のレースを走るサイレンススズカを見てみたかったなあと、つくづく思いました」と述べている。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "他にも、柴田政人は「ファンを魅了する馬だった」、鈴木淑子は「強い逃げ馬がいたらこんなに競馬は面白い、ということを久々に見せてくれた馬だった」と評し、野平祐二は華奢な体型ながらも奇麗な線を持った馬で、「あれだけ軽快に、また非常にスマート、かつ鮮やかに走る馬は他にいないでしょう。鞍上ともマッチして、実に美しい走りをする馬です」、「あんなに美しい格好で突っ走っていって我慢しちゃう馬なんか、過去でもないですよ」と評し、またその存在価値についても、「『片足でも生かせるものなら生かしておきたい』と思う馬だった」と述べている。競馬評論家の井崎脩五郎は「この世で最も強い馬は、ハイペースで逃げ切ってしまう馬である」と述べ、日本ダービーを逃げ切った馬の中で最も前半1200mの通過タイムが速かったのはカブラヤオーの1分11秒8だったことを引き合いに出し、そのカブラヤオーがサラ平地の最多連勝記録「9」を記録していたことでサイレンススズカはカブラヤオーの連勝記録を20年ぶりに打ち破る可能性があった「久々に表れた、ケタ違いに強い馬だった」と述べ、第118回天皇賞での死を「競馬界の宝の損失」として惜しんだ。同じく競馬評論家の大川慶次郎は「私は相当競馬を見てきているが、こういうタイプの逃げ馬は全く見たことがない」とした上で「こんな馬はこれから出るんだろうか、と思うくらい」と述べている", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2000年に日本中央競馬会がファンを対象に行われたアンケート「20世紀の名馬大投票」においては、25,110票を集めて4位にランクインした。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2012年に行われた優駿実施のアンケート「距離別最強馬はこの馬だ!」の芝2,000m部門では、2位に圧倒的な差を付けて1位となった。数ある距離別部門の中で、当該距離でのGI勝利がない競走馬の1位は本馬が唯一であった。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2013年、「中京競馬場開設60周年記念 思い出のベストホース大賞」で1位に選出された。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2014年、JRA60周年記念競走(JRA全10場各1レース)当日の特別競走のレース名を決める、『JRA60周年記念競走メモリアルホースファン投票』では、阪神競馬場の記念競走である「宝塚記念」部門でディープインパクト、オルフェーヴルの2頭のクラシック三冠馬を抑え1位となり、当日(6月29日)の第10レースは『永遠の疾風 サイレンススズカカップ』として行われた。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "アメリカ遠征に関しては、すべての競馬場が同馬の得意とみられていた左回りで、加えて芝は日本に近い高速馬場、しかも芝路線のレベルは日本と比べればそれほど高いとは言えず、同馬の得意な中距離路線のGIレースが多く施行されていた。武はそうした事実から、「左回りのほうがよかったから、アメリカの芝戦線に一緒に行きたかったですね」と口にしており、「アメリカの2000メートル前後の芝の重賞でスローな流れになったときなんかは、サイレンススズカみたいな馬がビュンビュン飛ばせば絶対に負けないだろうな、と思うことはありますよ」と述べている。ライターの関口隆哉によると、陣営がはっきりと明言をしていたわけではないというものの第118回天皇賞でサイレンススズカが順当に勝利を収めていたとしてもマイルチャンピオンシップ・ジャパンカップに出走する可能性は極めて薄かったといい、毎日王冠に出走する前の9月の時点でサイテーションハンデキャップに出走登録を行っていた。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "サイレンススズカの人気が高くなると、馬主の永井は「サイレンススズカは私の馬ではありません。ファンの方、全員の馬なんです」と公言した。永井によるとサイレンススズカの葬儀の日に稲原牧場についた際にはすでに400から500程のファンが集まっていたといい、「大事にしな、あかんな」と改めて思ったと述べている。死後も花や好物であったバナナ を持ってお墓参りをしてくれるファンも多く、永井はそうしたファンに向けて何か記念になるものを持って帰ってもらおうかと、ぬいぐるみやタオル、携帯電話のストラップなどのグッズをあるだけ送ったというが、それでもなお多くのファンがお参りに稲原牧場へお参りに来てくれるという。橋田は「日本人は憎らしいほど強いものを嫌う傾向がある」とし、古馬となってのサイレンススズカは同じように憎らしいほど強い馬だったとしつつも高い人気を集めたことについて、弥生賞での出来事があったことでファンに支持されたのではないかと述べている。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "サイレンススズカは5歳時のレースで示したそのレースぶりによって、サンデーサイレンスの後継種牡馬候補として期待を集めることになった。5歳時からすでに橋田や永井のもとへアメリカから種牡馬としての購買のオファーがあり、橋田は公表こそ控えたものの「相当な金額での買い付け希望が出された」とし、「具体的に金額を提示し、『すぐ買う』と言ってきたんですから、これは本物でしょう」と述べている。永井もアメリカから種牡馬としてのオファーが殺到していたことを認め、種牡馬入りさせてまたそこから産駒を預かりたいと考えていたが、「日高の人たちが種牡馬としてのサイレンススズカに期待していましたから、できるなら北海道においてやりたかった」と述べ、オファーをことごとく断ったものの、それでもシャトル種牡馬としての依頼を提示され、『とにかくアメリカにサイレンススズカの血を残してくれ』『何かいい方法を考えてくれ』と依頼されたという。死後には社台グループが以下の追悼コメントを発表し、その死を悼んだ。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "新聞記者の野元賢一は、「優秀ではあるがどこか父の縮小再生産のような馬が多いサンデーサイレンス産駒の中で、例外はサイレンススズカとアグネスタキオンである」 と評しており、数多のサンデーサイレンス産駒の中においても際立って高い能力を持っていると目されていたことも、種牡馬としての期待を高めさせる要因となっていた。が、様々な期待や評価があったものの事故死により子孫を残せず、サイレンススズカの種牡馬能力については全て推測の域を出ないままとなった。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "死亡時に全兄弟はおらず、母のワキアが1996年に死亡していたため、生産でサイレンススズカ同様の配合を再現するのは不可能であった。サイレンススズカの事実上の代替馬として期待を集めたのは半弟のラスカルスズカであったが、種牡馬入りしたものの重賞勝ち馬を出せないまま2010年に種牡馬登録を抹消されている。サイレンススズカの事故死の翌年に、姉のワキアオブスズカにサンデーサイレンスが交配され生まれたスズカドリームが2003年のクラシック戦線に顔を出し、サイレンススズカの甥として期待を集めたものの、2005年に調教中の事故で死亡している。", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "", "title": "競走馬としての特徴・評価" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "サイレンススズカが誕生した1994年5月1日はイタリアでF1・サンマリノグランプリが行われ、この大会でアイルトン・セナがレース中の事故により亡くなった日でもあった。馬主の永井が所有馬に付ける「スズカ」の冠号は鈴鹿山脈が由来であるが、第118回天皇賞が行われた1998年11月1日は鈴鹿サーキットにおいて日本グランプリが行われていた日でもあり、そのため当日は「スズカ、ポールトゥウィン」という見出しが新聞各紙において活字となっていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "父・サンデーサイレンスは現役時代にGI6勝を挙げ、1989年には全米年度代表馬に選出。1990年に社台グループ総帥の吉田善哉が輸入し、1995年から13年連続でリーディングサイアーとなった種牡馬である。", "title": "血統" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "母ワキアは、1000mを57秒台で逃げた快速スプリンターであったが、その父Miswakiはスピードに優れたミスタープロスペクター系の中では、珍しく産駒の距離適性に幅のある種牡馬であった。また母母Rascal Rascalは、Silver Hawkとの間に英ダービー馬Benny the Dipを産んでいる。ワキアの産駒は全て中央競馬で複数の勝利を上げ、唯一残した牝馬のワキアオブスズカも重賞馬スズカドリームを出すなど優秀な繁殖成績をあげた。", "title": "血統" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "兄弟", "title": "血統" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "近親", "title": "血統" } ]
サイレンススズカは、日本の競走馬。 1997年に中央競馬(JRA)でデビュー。デビュー戦となった新馬戦から素質の片鱗を表したが、2戦目の弥生賞で大敗を喫して以降は不安定な走りを続けた。しかし、この年の最終戦となった香港国際カップにおいて武豊と初コンビを組むと、大逃げを打つ戦法に活路を見出す。翌1998年に本格化し、初戦のバレンタインステークスから毎日王冠までGIの宝塚記念と重賞5勝を含む6連勝を果たしたが、最大の目標であった天皇賞(秋)においてレース中に左手根骨粉砕骨折を発症、予後不良と診断され安楽死となった。主戦騎手は上村洋行→河内洋→武豊。宝塚記念のみ南井克巳が騎乗している。
{{馬齢旧}} {{競走馬 |名 = サイレンススズカ |漢 = {{Lang|zh|無聲鈴鹿}} |英 = {{lang|en|Silence Suzuka}} |画 = [[ファイル:Silence Suzuka.jpg|240px]] |説 = [[第118回天皇賞]]本馬場入場時<br />(1998年11月1日、東京競馬場にて撮影) |性 = [[牡馬|牡]] |色 = [[栗毛]] |種 = [[サラブレッド]] |生 = [[1994年]][[5月1日]] |死 = [[1998年]][[11月1日]](4歳没・旧5歳) |登 = 1997年2月1日 |抹 = 1998年11月1日 |父 = [[サンデーサイレンス]] |母 = [[ワキア]] |母父 = [[ミスワキ|Miswaki]] |産 = [[稲原牧場]] |国 = {{JPN}}([[北海道]][[平取町]]) |主 = [[永井啓弍|永井啓弐]] |調 = [[橋田満]]([[栗東トレーニングセンター|栗東]]) |助 = [[楠孝志]] |厩 = 加茂力 |冠 = [[JRA賞特別賞]](1998年) |績 = 16戦9勝<br />([[中央競馬]])15戦9勝<br />([[香港の競馬|香港]])1戦0勝 |金 = (中央競馬)4億5598万4000円<br />(香港)23万1000[[香港ドル]] |レ = [[インターナショナル・クラシフィケーション|IC]] |レ値 = M122 / 1998年<ref>{{Cite journal |和書|year=1999 |month=2 |journal=[[優駿]] |publisher=[[日本中央競馬会]] |page=33}}</ref> |medaltemplates = {{MedalGI|[[宝塚記念]]|1998年}} {{MedalGII|[[中山記念]]|1998年}} {{MedalGII|[[金鯱賞]]|1998年}} {{MedalGII|[[毎日王冠]]|1998年}} {{MedalGIII|[[小倉大賞典]]|1998年}} }} '''サイレンススズカ'''(欧字名:{{Lang|en|Silence Suzuka}}、[[1994年]][[5月1日]] - [[1998年]][[11月1日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]。 1997年に[[中央競馬]](JRA)でデビュー。デビュー戦となった新馬戦から素質の片鱗を表したが、2戦目の[[弥生賞]]で大敗を喫して以降は不安定な走りを続けた。しかし、この年の最終戦となった[[香港カップ|香港国際カップ]]において[[武豊]]と初コンビを組むと、[[脚質#大逃げ|大逃げ]]を打つ戦法に活路を見出す。翌1998年に本格化し、初戦のバレンタインステークスから[[毎日王冠]]までGIの[[宝塚記念]]と重賞5勝を含む6連勝を果たしたが、最大の目標であった[[第118回天皇賞|天皇賞(秋)]]においてレース中に左手根骨粉砕骨折を発症、[[予後不良 (競馬)|予後不良]]と診断され[[安楽死]]となった。主戦騎手は[[上村洋行]]→[[河内洋]]→武豊。宝塚記念のみ[[南井克巳]]が騎乗している。 == 生涯 == === 誕生に至る経緯 === 1993年、サイレンススズカの母・[[ワキア]]は初年度産駒のワキアオブスズカが牝馬だったということもあり、繋養する稲原牧場の「今度こそ牡馬を」という期待からバイアモンとの種付けが行われたが、ワキアは受胎しなかった<ref name="都地-2226">都地(1999)pp.22-26</ref>。そこで稲原牧場は、次の発情がきたらシンジケートの1株を持っている[[トニービン]]との交配を考え、トニービンが繋養されている[[社台スタリオンステーション]](以下、社台SS)へ向かったものの、その頃のトニービンはうなぎのぼりで評価が上がっている時だったため、種付け予定に空きがなかった<ref name="都地-2226"/>。稲原牧場関係者は頭を悩ませたが、見かねた社台SSのスタッフから[[サンデーサイレンス]]なら今日にでも交配が可能であることを伝えられ<ref name="都地-2226"/>{{Refnest|group="†"|当時はサンデーサイレンスの産駒はまだデビュー前であり、後にサンデーサイレンスの種付け料は2500万円(不受胎8割返金条件付き)にまで値上げされるものの、当時の種付け料は400〜500万円程度だった<ref name="都地-2226"/>。}}、「サンデーサイレンスならそう悲観することもないか」ということで牧場関係者は同意し、ワキアはその日のうちにサンデーサイレンスとの交配が行われ、一度で受胎した<ref name="都地-2226"/>{{#tag:ref|なお、当初ワキアの繁殖相手にバイアモンが選ばれたことについて、稲原牧場の稲原昌幸は当時を振り返り、「当時のバイアモンは、まさに鳴り物入りだったんですよ。ですから、一番期待している繁殖牝馬にバイアモンを配合するのは当然すぎる選択でした」と語った。クラシックを狙える重厚な血統背景をもつバイアモンに比べ、当時のサンデーサイレンスは1991年に種付けを開始していたものの、産駒はまだデビューしておらず、サンデーサイレンス自身の競走成績は優れていたものの、母系の血統が貧弱であったことから、種牡馬としての真価は未知数であった<ref name="片山-76">『Sports Graphic Number』689号、p.76</ref>。|group="†"}}。 === 生い立ち === 1994年5月1日、[[北海道]][[沙流郡]][[平取町]]の[[稲原牧場]]にて誕生<ref name="都地-1621">都地(1999)pp.16-21</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/keiba/news/202206090001213.html|title=悲運の快速馬サイレンススズカと目指していたゴールは“究極の種牡馬”/橋田満調教師|publisher=日刊スポーツ|date=2022-06-10|accessdate=2022-06-10}}</ref>。ワキアにとっては二度目のお産ということと産まれた仔馬が比較的小柄だったこともあってワキアのお産は安産であり、仔馬は産まれてから約30分後に懸命に四肢を踏ん張って立ち上がった<ref name="都地-1621"/>。しかし、[[稲原牧場]]社長の稲原一美は鹿毛のワキアに青鹿毛のサンデーサイレンスを付けたにもかかわらず栗毛の仔馬が生まれ、さらに普通の仔馬よりもひと回り小柄だったため、両親にも似ていないとすればこの仔馬はそう期待できないかもしれない、という不安を抱いたが、それを別にすれば父や母よりも一層きれいな毛色には仔馬らしからぬ品格が備わっていたといい、立った時のバランスも素晴らしかったため欠点らしい欠点は見当たらなかったという<ref name="都地-1621"/>。 稲原牧場の稲原昌幸は生まれたときのサイレンススズカについて「小さくて、華奢で、可愛くて」と振り返るものの、当時のサンデーサイレンス産駒の評価は[[フジキセキ]]を代表として「走る馬といえば黒い馬」というのが通り相場であり、明るい栗毛として生まれたサイレンススズカは「黒い馬」という条件からかけ離れていたため、不安いっぱいの第一印象であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/844008?page=3|title=宝塚記念馬サイレンススズカの記憶。武豊が見たサラブレッドの「理想」。|accessdate=2020/06/29|publisher=}}</ref>。産まれて一週間も経っていなかった頃の本馬を見たという後の管理調教師・[[橋田満]]は「均整の取れたいい馬でしたよ。でも、これは誰でもそうですけど、その時点でどれくらい走るかなんてわかるはずがありませんし、ましてや、その後のサイレンススズカのように走るかなんて、とても想像することすらできませんでしたね」と振り返っている<ref name="都地-1621" />。 サイレンススズカは誕生前からワキアの初子であったワキアオブスズカと同じく、[[永井啓弐]]がオーナーとなることがほぼ決まっていた<ref name="都地-3237">都地(1999)pp.32-37</ref>。永井は生後1ヶ月の本馬と初めて対面し、その時の第一声は「ああ、これはいいねえ…」というものだった<ref name="都地-3237" />。当時は「サンデーの子は黒鹿毛か青鹿毛が走り、それ以外の毛色の馬は走らない」<ref name="都地-3237" /><ref group="†">2年目の産駒が[[中央競馬クラシック三冠|クラシック競走]]に出走した1996の[[皐月賞]]では[[イシノサンデー]]が優勝して栗毛のサンデーサイレンス産駒初のGI馬となっており、その後も多数のGI馬が誕生している。</ref> との噂について、永井は「私は案外、栗毛が好きでね。大物は出なかったけど、結構、栗毛の持ち馬は走っているんです。だから栗毛に対する抵抗感は全然なくて、噂話も全く気になりませんでしたね。そんなことより、「ああ、栗毛がきれいでよかったなあ」「可愛いな」と思っただけでした」と述べている<ref name="都地-3237" />。 2歳の10月に[[二風谷]]の二風谷軽種馬育成センター{{#tag:ref|[[トウカイテイオー]]も2歳の10月から翌年の10月まで当施設で育成調教を受けた<ref name="都地-4651"/>。|group="†"}}に移動して育成調教を開始<ref name="都地-4651">都地(1999)pp.46-51</ref>。育成を担当した若林幹夫は本馬を一目見たときに「こんなに小さくて競走馬になれるのかな」と不安を抱いたが<ref name="meiba-1618">『名馬物語 The Best Selection』pp.16-18</ref>、馴致を始めて背中に跨り走らせるようになると、若林はサイレンススズカの他馬とのスピードの違い、また馬と馬の間を割って追い抜くトレーニングを課しても一回でクリアしてしまった本馬の能力に驚かされたという<ref name="meiba-1618" />。冬に雪が深く積もっている所へ敢えて馬を浸からせて行うトレーニングにおいても、サイレンススズカはお腹のあたりまで雪に埋まっていても平気で進もうとしていたため、これで二風谷のスタッフの注目を集め<ref name="都地-5661">都地(1999)pp.56-61</ref>、若林は「本当にすごい馬だな」と感じたという<ref name="meiba-1618" />。育成調教で高い能力を示したことに加え、3歳時の4月に行われた[[皐月賞]]で同じく栗毛のサンデーサイレンス産駒である[[イシノサンデー]]が優勝したことで、誕生当時一部で噂されていた「栗毛のサンデーサイレンス産駒は走らない」という風評が払拭されたため、現地での評価はさらに上がっていった<ref name="都地-6871">都地(1999)pp.68-71</ref>。 [[ファイル:Mitsuru-Hashida20100116.jpg|thumb|180px|橋田満(2011年)]] 3歳の11月20日に二風谷から[[栗東トレーニングセンター]]の橋田厩舎へ移動し、翌21日に橋田厩舎へ到着<ref name="都地-7480"/>。厩務を担当することとなった加茂力は、入厩当時の本馬について「誰が見たって体は小さいし、厩のなかではビッショリ汗をかいている」と不安を抱いた<ref name="都地-7480"/> が、新馬戦で鞍上を務めることとなった[[上村洋行]]が調教で初めて跨った際に、「ものすごいインパクトがありました。乗り味にしても持っている雰囲気にしても、過去、3歳馬でそんな動きをする馬はいませんでしたから、『これは間違いなく大きいところを取れるな』と確信しましたし、相当な期待を抱きました」と振り返る程に強い印象を与えた<ref name="都地-7480"/>。1月5日に初めて時計を出した際には、栗東の坂路コース(800メートル)を52秒3という極めて優秀なタイムを出して周囲を驚かせ、1月24日に準オープン馬のアドマイヤラピス<ref group="†">後にオープンの特別競走2勝を挙げている。</ref> と追い切りを行った際には、馬なりのままでアドマイヤラピスに0秒5先着、6ハロン78秒0という時計を出し、周囲からの目を引き付けたと同時に競馬専門紙・スポーツ紙のトラックマンの間で一気に話題となった<ref name="都地-7480"/>。こうした事実から、橋田は登録こそしなかったもののすでに1勝を上げている馬によって行われる500万下条件の特別競走をデビュー戦とすることも考えていたという<ref name="都地-7480">都地(1999)pp.74-80</ref>。 == 競走馬時代 == === 4歳(1997年) === ==== 新馬戦を圧勝、弥生賞での頓挫 ==== [[ファイル:Hiroyuki-Uemura20120204.jpg|thumb|180px|上村洋行(2012年)]] {{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=MDXVD6yp6e0&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1997年 新馬戦<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}[[1997年]][[2月1日]]、[[京都競馬場]]での[[新馬|新馬戦]](芝1600メートル)で上村を鞍上にデビュー。デビュー前の調教での動きが評判となったことで単勝オッズは1.3倍での一番人気に支持された<ref>安西(1999)pp.79-80</ref>。スタートから先頭に立つと後続との差を徐々に広げていき、向こう正面に入るとさらに加速し直線に入ると上村がターフビジョンを確認する余裕を見せ、2着のパルスビート(後に重賞2着3回)に7馬身差をつけて圧勝した<ref name="都地-7480"/>。勝ちタイムの1分35秒2は当日の[[分割競走|分割レース]]の勝ち時計とは2秒以上の差があるという驚異的なものだった<ref name="都地-7480"/>。鞍上の上村も「間違いなく勝てるだろうけど、どういう強い勝ち方をしてくれるのか、期待はその点だけでした」と振り返っている<ref name="都地-7480"/>。京都競馬場でレースを観戦していた競馬評論家や専門誌の記者からは「今年のダービーはこの馬でしょうがない」という声も上がり<ref name="都地-7480"/>、パルスピードに騎乗していた[[松永幹夫]]は「今日は相手が悪すぎました」とコメントし<ref name="tsuitou-2628">『追悼 サイレンススズカ』pp.26-28</ref>、5着のプレミアートに騎乗していた[[武豊]]は「[[皐月賞]]もダービーも全部持っていかれる。痛い馬を逃したと思った」といい<ref name="watanabe1216">渡辺(2004)pp.12-16</ref><ref name="片山-77"/>、レース後には周囲にもそう喧伝したという<ref name="島田113-116">島田(2003)pp.113-116</ref>。この時武は後ろからサイレンススズカの走りを見て、「体は小さいけど、すごくダイナミックな走り方をする。素晴らしいフォームだな、と」感じたという<ref name="島田113-116"/>。 新馬戦後にサイレンススズカはソエ{{#tag:ref|菅骨[[骨膜炎]]のことで、骨が完全に化骨していない若馬に強い調教を行うと、管骨(第3中手骨)の前面で炎症を起こすことがある。調教初期の若馬に多く見られる<ref>{{Cite news|url= https://www.jra.go.jp/kouza/yougo/w539.html |title=ソエ(競馬用語辞典)|publisher=JRA|accessdate=2020-05-20}}</ref>。|group="†"}}が出たことで調教の強度を緩めなければならなくなったが、陣営の「なんとしても[[皐月賞]]に間に合わせたい」という意気込みから、橋田は3月2日に[[中山競馬場]]で行われる皐月賞[[トライアル競走|トライアル]]・[[弥生賞]]にサイレンススズカを出走させることを表明した<ref name="都地-8188">都地(1999)pp.81-88</ref>。今回のレースはサイレンススズカにとって長距離輸送、2000メートルの距離のレースが初めてであるという不安要素があったものの、陣営は「すべて素質だけで克服できる」と踏んでの出走であった<ref name="柴田-153156"/>。出走メンバーには前年の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]3着馬の[[エアガッツ]]、この年の皐月賞・東京優駿を制する[[サニーブライアン]]、武豊が騎乗する[[ランニングゲイル]]が登録され、当日の単勝オッズでは1番人気にエアガッツが支持されたが、サイレンススズカはデビュー2戦目でありながらこれに次ぐ2番人気に支持された<ref name="柴田-153156">柴田(2008)pp.153-156</ref>。 ところが、ファンファーレが鳴り各馬がゲートに収まっていく中、サイレンススズカは突然ゲートの下に潜り込み、鞍上の上村を振り落としてゲートの外へ出てしまった<ref name="都地-8188"/>。中山競馬場のスタンドからはどよめきが起こり<ref name="都地-8188"/>、振り落とされた上村は足を負傷したものの<ref name="100meiba-12">『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.12</ref>、サイレンススズカを他の騎手に渡したくないという思いからレースでの騎乗を決意し{{#tag:ref|橋田はこのアクシデントの直後、上村が騎乗できなくなった時のことを考えて[[岡部幸雄]]に騎乗を依頼していた<ref name="安西-8386"/>。|group="†"}}、サイレンススズカは馬体検査で馬体に異常が見られなかったため出走取消とはならなかったが、[[外枠発走|大外枠]]に移されての発走となった<ref name="都地-8188"/>。再スタートが切られる直前ゲート内で再びサイレンススズカの動きは激しくなり、そのタイミングでゲートが開くとサイレンススズカはゲート内で立ち上がりかけたことでタイミングが合わず、もがくようにして飛び出したものの今度は大きく左にヨレてしまったため、先頭馬から約10馬身近く離された大出遅れを喫した<ref name="都地-8188"/>。それでも1コーナーで馬群に取りつき、外々を回って前方へ徐々に進出していくと、4コーナーでは先頭集団に並びかけようとした<ref name="安西-8386">安西(1999)pp.83-86</ref>。しかし最後の直線で力尽き、勝ち馬のランニングゲイルから1秒5離された8着に終わり、皐月賞の優先出走権獲得に失敗した<ref name="都地-8188"/><ref name="100meiba-12"/>。 レース後に上村はゲートをくぐってしまったことについて「普段は大人しいし、ゲートをくぐる素振りを見せたことは初めて。やっぱりサンデーの子なのかな。能力のある馬だけに、もったいなかった」と振り返り<ref name="100meiba-12"/>、橋田は「今はスピードが勝ちすぎているが、筋肉の柔らかさからくる瞬発力に非凡なものがある。将来は相当なところで活躍できる」とサイレンススズカの現状を分析したコメントをした<ref name="都地-8188"/>。 レース前にゲートをくぐったことを受け、サイレンススズカにはゲートの再試験と3月23日まで20日間の出走停止処分が下された<ref>『追悼 サイレンススズカ』pp.28-30</ref><ref name="yusyun">『優駿』(日本中央競馬会)2008年11月号</ref>。サイレンススズカがゲートをくぐってしまったことについては、「サンデーサイレンスの気性の悪さが出た<ref group="†">生前のサンデーサイレンスは非常に気性が激しいことで知られていた([[サンデーサイレンス#競走馬としての特徴・評価]]も参照)。</ref>」、「まだ馬が若く、精神的に大人になっていない」といった憶測が飛び交った<ref name="都地-8188"/>。橋田はなぜゲートをくぐってしまったのかその原因についてはよくわからないとしつつも、ゲート入りまで厩務員の加茂がついており、「その厩務員がいなくなっちゃったから寂しくなって出ちゃったんじゃないかと思うんですが…」と推測しており、加茂も橋田の推測を認めている<ref name="都地-8188"/>。前走の新馬戦では1番枠での発走であり、加茂によるとこの時はサイレンススズカ以外の全馬がゲートに収まるまで加茂もゲート内で待機し、出走馬全馬の厩務員がゲートを離れた瞬間にスタートが切られていたが、弥生賞では真ん中よりの5枠に入ったこと、さらにスタンド前からの発走だったことが原因だったと述べているが、「まさかゲートを潜るとは思わなかった」と振り返っている<ref name="都地-8188"/>。この日は稲原一美と若林幹夫も北海道から中山競馬場に訪れていたが、サイレンススズカがレース前とレース本番で見せた態を目の当たりにした両名は口をそろえて「もう競馬なんて見たくない」と言うほど大きなショックを受けた<ref name="都地-8893">都地(1999)pp.88-93</ref>。 弥生賞後のゲート練習で、橋田はサイレンススズカをゲートの中に入れ、一緒にゲートに入った他馬がゲートを出てもサイレンススズカをゲート内にとどまらせるという方法をとり、サイレンススズカもゲート内で暴れずに待ち続ける忍耐力を見せ、練習を始めてから3週目に行われたゲート試験をクリアして[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]を目指すこととなった<ref name="100meiba-12"/><ref name="都地-8893"/>。 ==== 善戦と惨敗 ==== 陣営は仕切り直しの一戦として500万下の条件戦([[阪神競馬場]]、芝2000メートル戦)に出走、サイレンススズカが出走することが明らかになると当初出走予定だった有力馬が相次いで回避し<ref name="柴田-157160">柴田(2008)pp.157-160</ref>、12頭立ての出走メンバーとなった中で単勝では1.2倍の支持を受けた<ref name="安西-8386"/>。前走のような気性の激しさは現れずに好スタートを切って1コーナー手前で先頭に立つと<ref name="100meiba-13">『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.13</ref>、道中は2、3馬身差を保ち、直線に入って上村が1、2発鞭を入れると後続との差をさらに引き離し、残り100メートル地点では上村が腰を挙げる余裕を見せ、新馬戦と同じ2着に7馬身差をつけての圧勝を収めた<ref name="安西-8386"/>。2勝目を挙げたものの、東京優駿に出走するための収得賞金を満たせていなかったため、橋田は同レースのトライアル競走であり、本番と同じ東京競馬場の2400mで施行される[[青葉賞]]への出走を目指す<ref name="都地-9398">都地(1999)pp.93-98</ref>。しかし、レース1週間前の日曜日の調教後にサイレンススズカの左前脚の球節が腫れて熱を持ち、検査の結果球節炎を患っていることが判明<ref name="100meiba-13"/><ref name="都地-9398"/>。症状は極めて軽く翌日に症状は治まったものの、橋田は青葉賞を回避してその後の状態を見て出走ローテーションを再編成することを決定し、最終的に青葉賞の翌週土曜日に行われるトライアル競走・[[プリンシパルステークス]]に出走させることを決定した<ref name="yusyun"/><ref name="都地-9398"/>。 プリンシパルステークスでは弥生賞で対戦したランニングゲイル、エアガッツと再び顔を合わせ、当日は1番人気ランニングゲイル、2番人気にサイレンススズカ、3番人気エアガッツという人気となった<ref name="都地-9398"/>。レース前、橋田は東京優駿を見据えて上村に「抑えて行けるなら控える競馬をしてくれ」と指示を出し、6枠11番からの発走となった上村・サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立ったカイシュウホマレに次ぐ2番手につけた<ref name="都地-9398"/>。向こう正面に入っても上村との折り合いを保ち続け、3,4コーナーを回って[[マチカネフクキタル]]が並びかけてきたが、これを待って上村が外へ追い出すと残り400メートル地点で先頭に立った<ref name="都地-9398"/>。大外からはランニングゲイルが追い込みを見せて3頭の叩き合いとなったが、マチカネフクキタルをクビ差しのいで勝利を収め、東京優駿の優先出走権を獲得した<ref>『追悼 サイレンススズカ』pp.34-35</ref>。 迎えた東京優駿では[[メジロブライト]]、ランニングゲイル、[[シルクジャスティス]]に次ぐ4番人気(単勝8.6倍)に支持された<ref name="都地-99105">都地(1999)pp.99-105</ref>。またこのレースでは「ダービーの大歓声に興奮しないように」という配慮から、緑色の[[馬具#メンコ|メンコ]]を着用して出走することとなった<ref name="都地-99105"/>。レース前、橋田は上村に前走と同様に前半を抑えて行ってほしいと指示を出した<ref name="都地-99105"/>。しかし、スタートが切られるとサイレンススズカは前方へ行きたがる素振りを見せながら内側へ切れ込んでいき、サニーブライアン、フジヤマビザンに次ぐ3番手につけて向こう正面へ入っていった<ref name="都地-99105"/>。第3コーナーに入って内から先頭へ抜け出そうとしたものの前が開かずに抜け出せず、残り150メートル地点で後ろから来た馬群に飲み込まれ、優勝したサニーブライアンとは1秒1離された9着に敗れた<ref name="100meiba14">『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.14</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=yy2d5i843DA&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=2&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1997年 東京優駿(日本ダービー)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}レース後、橋田は「ホントにチグハグな競馬になってしまった。馬がいこうというときに前がつかえたり、なんかややっこしいことになっちゃって全然スムーズに進まなかった。まったくサイレンススズカの良さを出せずに終わっちゃってね。失敗でした、抑えて行く作戦が」と振り返った<ref name="都地-99105"/>。上村は敗因について「ダービーまで押せ押せできた影響でしょうか。あるいは、あまりにも馬にいろいろなことを求めすぎた影響なのかわかりませんが、ダービーの追い切り後、とうとう馬が精神的にキレてしまったんです」と語り、前へ行きたがって行きたがってしまい、3コーナーまで折り合いを欠いたことを原因とした<ref name="都地-99105"/><ref name="100meiba14"/>{{#tag:ref|上村は後に、ダービーにおいて前方へつける作戦で行かせた場合は馬も自分も楽だったかもしれないと推測しているが、この場合でも勝てたとは思っていないといい、仮に作戦通りに逃げた場合の勝ち馬はサニーブライアンではなくシルクジャスティスが勝ったであろうと推測している<ref name="都地-99105"/>。|group="†"}}。 ダービーから4日後の6月5日にサイレンススズカは栗東トレーニングセンター近くの栗東ホース倶楽部へ放牧に出され、6月28日に二風谷軽種馬育成センターへ移動して疲労を取った後、7月17日に[[函館競馬場]]へ移動して調教を再開した<ref name="都地-106111">都地(1999)pp.106-111</ref>。8月24日に栗東に帰厩し、橋田は秋の最大目標を[[天皇賞(秋)]]に定めた。橋田はサイレンススズカのスピード能力を生かそうと今後は中距離のレースに出走させることを永井に提案し<ref>『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.7</ref>、永井もこれに賛成した<ref name="都地-106111"/>。サイレンススズカの秋の初戦には天皇賞の前哨戦として距離が同じ2000メートルで行われる[[菊花賞]]トライアル・[[神戸新聞杯]]に決定し、そしてこの神戸新聞杯から陣営は中距離路線でサイレンススズカを出走させるにあたり、無理に抑えるようなことはせず、馬の気持ちに任せて好きなように走らせることを決定した<ref name="都地-106111"/>。 9月14日の神戸新聞杯では小雨が降りしきる天候ではあったものの、馬場状態は「良」という中で行われ<ref name="都地-106111"/>、単勝オッズは1番人気に支持された<ref>『追悼 サイレンススズカ』pp.40-42</ref>。サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立って1コーナーを回り、2コーナーからは11秒台のラップを刻んでいき、前半1000メートルを59秒3で通過し、後続とは3馬身の差をつけていた<ref name="都地-106111"/>。残り200メートル地点では後続に4馬身の差をつけていたが、外から[[マチカネフクキタル]]が強烈な追い込みを見せ、ゴール寸前で同馬に交わされ2着に敗れた<ref name="都地-106111"/>。橋田は上村の最後の油断が原因で敗れたと考えたが、これに上村は途中で勝ったと思ったが最後に内へモタれたことで敗れ、自身のミスであったことを認めた<ref>安西(1999)pp.92-93</ref>。そして、この競走を最後に上村は自ら責任を取る形でサイレンススズカの主戦から降板することとなった<ref>『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.15</ref>。 神戸新聞杯後は予定通り天皇賞(秋)へ出走。前述の神戸新聞杯を最後に上村が責任を取って降板した経緯から、このレースではペース判断の良さに定評があるベテランの[[河内洋]]が鞍上を務めることとなった<ref name="都地-111115">都地(1999)pp.111-115</ref>。ところが、河内が初めて騎乗した最終追い切りにおいて、サイレンススズカは河内が必死に手綱を抑えても止められないほど掛かって<ref group="†">掛かる、引っ掛かる=抑えようとする騎手の手綱に反し、ペース配分ができないこと。</ref> 前半から暴走してしまい、最終的に併せ馬のパートナーを務めたロイヤルスズカに一度も馬体を合わせることができずにスタミナ切れしてしまうという気性の悪さを露呈してしまう<ref name="都地-111115"/>。上村によれば、この追い切り後に河内は「もう無理や、これ」と"ギブアップ"していたという<ref>松永(2000)pp.43-47</ref>。 天皇賞当日は一番人気に前年度の優勝馬[[バブルガムフェロー]]、二番人気に8月の[[札幌記念]]において牡馬を一蹴した前年の[[優駿牝馬|オークス]]優勝馬[[エアグルーヴ]]、三番人気に1995年の皐月賞・前年の[[マイルチャンピオンシップ]]優勝馬[[ジェニュイン]]が支持され、サイレンススズカは単勝17.6倍でジェニュインに次ぐ四番人気に支持された<ref name="都地-111115"/>。サイレンススズカは本馬場入場時にスタンドからの歓声を浴びた途端に激しくイレ込み、河内が内ラチ沿いに誘導してなだめようとしたものの、落ち着きが収まらず満足に返し馬ができない状態でスタートを迎えることとなった<ref name="都地-111115"/>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=JSRRqu4uyv0&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=3&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1997年 天皇賞(秋)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}スタートが切られると最初の1ハロンをゆったりと行きつつも2ハロン目から加速して先頭に立ち、2コーナーでは2,3番手につけていたバブルガムフェローに7,8馬身の差をつけた<ref name="都地-111115" />。1000m通過は58秒5というハイペースでの大逃げを見せ、第3コーナー手前では後続に10馬身の差をつけた<ref name="都地-111115" />。しかし直線に入ると後続勢が一気に押し寄せ、残り100メートル地点で勝ち馬のエアグルーヴとバブルガムフェローに交わされ、結果はジェニュイン、[[ロイヤルタッチ]]、[[グルメフロンティア]]に交わされての6着に敗れた<ref>『追悼 サイレンススズカ』pp.42-44</ref>。レース後に河内は「最後の1ハロンは完全にばてた」と振り返ったが、上位二頭を除いてはハナ差、クビ差、ハナ差のきわどい3着争いに加わっていたことで、橋田は「6着でしたが、善戦といっていいでしょう」とコメントした<ref name="都地-111115" />。 天皇賞後は[[京阪杯]](GIII)に出走する予定だったが、急遽12月14日に行われる[[香港カップ|香港国際カップ]]の日本代表に選出されたため急遽予定を変更し、京阪杯の1週前に行われる[[マイルチャンピオンシップ]]へ出走した<ref name="都地-115120">都地(1999)pp.115-120</ref>。この頃サイレンススズカの旋回癖を治そうと加茂は天井から畳を吊るして回れないようにしたが、これがかえってサイレンススズカにストレスを溜め込むこととなってしまい、当日のパドックでも落ち着きがない状態を見せてしまう<ref name="都地-115120" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=pX89Gmd-l0g&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=4&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1997年 マイルチャンピオンシップ(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}スタートが切られると同年の桜花賞馬[[キョウエイマーチ]]が先頭に立つとサイレンススズカはこれに次ぐ2番手につけ、2頭が激しい競り合いを見せたことで1000m通過は56秒5というハイペースとなった<ref name="都地-115120" />。第3コーナーを回って第4コーナーに差し掛かるとサイレンススズカは鞍ズレを起こして故障発生かと思わせるほど一気に後退し<ref name="100meiba16">『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.16</ref>、キョウエイマーチがレースを制した[[タイキシャトル]]に次ぐ2着に粘ったのとは対照的に、サイレンススズカはタイキシャトルから2秒9離された、生涯最低着順となる15着と大敗を喫した<ref name="都地-115120" /><ref>『追悼 サイレンススズカ』pp.44-45</ref>。 ==== 香港国際カップ、武豊との初コンビ ==== [[ファイル:Yutaka Take IMG 0359 20121224.JPG|thumb|180px|武豊(2012年)]] 香港国際カップにおいて、当初陣営は前走と同様河内を鞍上に出走させようとしていたが、この日日本では[[スプリンターズステークス]]が開催され、河内はお手馬の[[マサラッキ]]が出走予定でそちらを優先したため、鞍上が空位となった<ref name="都地-120122">都地(1999)pp.120-122</ref>。すると、「ジョッキーは騎乗依頼が来るのをじっと待つしかない」と言い続けていた自身のスタイルを崩し<ref name="片山-77">『Sports Graphic Number』689号、p.77</ref>、同日開催される[[香港マイル|香港国際ボウル]]において[[シンコウキング]]への騎乗を予定していた武豊が自ら橋田に騎乗を直訴し、橋田も二つ返事で承諾したことで武との新コンビを組んでの出走となった<ref name="watanabe1216"/>。永井は武が鞍上を務めることが決まったこの時の心境について、「これまでずっと競馬を見てきて、武さんが馬への当たりが一番いいから、機会があったら乗ってくれないかなあとは思っていたんです」と振り返っている<ref name="都地-120125">都地(1999)pp.120-125</ref>。 出走メンバーにはドバイの[[アヌスミラビリス]]や地元香港の[[オリエンタルエクスプレス]]らが名を連ねたが、サイレンススズカの強敵は香港のスマッシングパンプキン、イギリスのウィキシムと予想された<ref name="都地-120125"/>。当日は8番人気での出走となり<ref name="100meiba16"/>、スタートが切られると本馬以外のメンバーに逃げ馬がいなかったことから楽に先頭に立つと、徐々に後続との差を広げていった<ref name="100meiba16"/><ref name="都地-120125"/>。1000mの通過タイムは58秒2を記録し<ref name="100meiba16"/><ref name="都地-120125"/>、3馬身の差をつけて直線に入り、残り200m地点までは粘ったものの、100m地点でオリエンタルエクスプレスとアメリカのヴァルズプリンスに交わされ、勝ち馬のヴァルズプリンスからコンマ3秒離された5着に敗れた<ref name="100meiba16"/><ref name="都地-120125"/><ref>『追悼 サイレンススズカ』pp.48-50</ref>。 レース後、敗れはしたものの抑えるよりも逃げる戦法に手ごたえを得た武は橋田に対して「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言し<ref name="松永28-30"/>、そして武はサイレンススズカとのコンビ続行を熱望した<ref name="100meiba16"/>。4歳時の最終的な成績は重賞の掲示板に1度載っただけの成績であったにもかかわらず、[[境勝太郎]]元[[調教師]]は競馬雑誌『[[サラブレ]]』誌上で「あの馬は5歳の秋までくらいまでにはバリバリのGIホースになっていると思う。実はデビュー戦から気になっていた馬なんだ。これからがとても楽しみだね」と発言した<ref>『サラブレ』1998年1月号、p.18</ref><ref>『追悼 サイレンススズカ』p.79</ref>。橋田は常々「この馬が本当に良くなるのは5歳になってから」と言い続けてきたが、5歳となったサイレンススズカの最大目標を天皇賞(秋)に定めた<ref name="都地-128133">都地(1999)pp.128-133</ref>。 === 5歳(1998年) === ==== 本格化 - 宝塚記念制覇 ==== 年明け初戦、陣営は「2000メートルは長い。スピード馬ではあるが1600メートルは短く、ベストは1800メートル」という判断で同距離のレースに狙いを絞り、別定戦のため55kgで出走できるオープン特別・バレンタインステークス([[東京競馬場]]、芝1800メートル)に決定。当日は関西を拠点とする武がオープン特別の騎乗のためだけに東上したということもあり、単勝オッズ1.5倍を記録して1番人気に支持された<ref name="tsuitou-5051">『追悼 サイレンススズカ』pp.50-51</ref>。レース前に激しくイレ込んで暴走気味に先頭に立った結果1000メートル通過は57秒8というハイペースとなったが、3コーナーで落ち着きを取り戻して息が入り、直線でやや失速したもののゴール手前で武は手綱を抑え、2着のホーセズネックに4馬身差をつけて優勝した<ref name="tsuitou-5051"/>。レース後に武は「今日は3角に入ってうまく息が入った。こういう形になると強い」と述べ、ホーセズネック鞍上の[[後藤浩輝]]は、「それにしても勝った馬はケタ違いだ」とコメントした<ref name="tsuitou-5051"/>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=Zdei0TeG75U&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=5&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1998年 中山記念(GII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}続いて中3週で前走と同距離の[[中山記念]](GII)に出走。一昨年の皐月賞優勝馬イシノサンデー、前走の[[アメリカジョッキークラブカップ|AJCC]]勝ち馬[[ローゼンカバリー]]が出走メンバーに名を連ねたがこのレースでも1番人気に支持された<ref name="tsuitou-5153" />。スタートで先頭に立つと1000メートル通過時点では後続に10から13馬身ほどの差をつけた<ref name="tsuitou-5153" />。直線に入るとやや内側にモタれたものの、ローゼンカバリーを1馬身3/4馬身差で抑えて逃げ切って重賞初制覇を果たした<ref name="tsuitou-5153" />。しかしこのレースでは馬場のコンディションが悪く上がりは38秒9かかり、直線ではモタれたことに加えて手前を替える{{#tag:ref|手前を替える=走行中に回転する四肢の送りを左右で入れ替えること。地面を蹴る軸足が左右入れ替わるため、疲労が軽減される。直線で武は頭を外に向けさせて手前を右から左に替えさせていた<ref name="tsuitou-5153"/>。|group="†"}}ことにも苦労したため、右回りでの不器用さを露呈するレースにもなった<ref name="tsuitou-5153" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=nk9hiP71IJk&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=6&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1998年 小倉大賞典(GIII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}続いて[[小倉競馬場]]の改修に伴って本馬が得意と目されていた左回りの[[中京競馬場]]での代替開催となった[[小倉大賞典]]では、トップハンデの57.5kgを背負わされたものの単勝オッズは1.2倍の圧倒的な一番人気に支持された<ref name="追悼-5657">『追悼 サイレンススズカ』pp.56-57</ref><ref name="都地-141146">都地(1999)pp.141-146</ref><ref name="100meiba19">『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.19</ref>。前半1000mは57秒5を記録して逃げ、上り3ハロンは36秒4を記録して後方待機策から追い込みを見せたツルマルガイセンを3馬身差抑えて重賞を連勝<ref name="追悼-5657" />。勝ちタイムの1分46秒5は1991年に武が手綱を執って優勝した[[ムービースター (競走馬)|ムービースター]]が記録したコースレコードをコンマ1秒更新する結果となった<ref name="追悼-5657" /><ref name="都地-141146" /><ref name="100meiba19" />。武は後にこのレースでの2ハロン目に記録した11秒0というラップについて「中距離戦線ではめったにお目にかかれるものではないでしょう」と振り返っている<ref name="片山-78">『Sports Graphic Number』689号、p.78</ref>。 小倉大賞典後は中5週で[[金鯱賞]]に出走。馬体重が過去最高となる442kgを記録し<ref name="都地-147156"/>、[[重賞]]3勝を含む4連勝中の神戸新聞杯で敗れたマチカネフクキタル、デビュー以来着外に落ちたことがないタイキエルドラド、同条件の[[中京記念]]勝ち馬の[[トーヨーレインボー]]、6連勝中の[[ミッドナイトベット]]らを抑えて単勝2.0倍で一番人気に支持された<ref name="追悼スズカ-5760">『追悼 サイレンススズカ』pp.57-60</ref>。好スタートを切ると2コーナーを回る時点で2番手の[[テイエムオオアラシ]]と[[トーヨーレインボー]]に4,5馬身の差をつけて前半1000mを58秒1で逃げ、後半を59秒7で上がり、2着のミッドナイトベットに1秒8の大差をつけて、1分57秒8のレコードタイムで逃げ切り勝ちを収めた<ref name="片山-78"/>。この時中京競馬場では、残り800m地点ではサイレンススズカが後続に10馬身以上の差をつけていたため大歓声が起こり、最後の直線に差し掛かったところでは拍手で迎え、馬主席にいた永井も観客と一緒に拍手していたという<ref name="都地-147156">都地(1999)pp.147-156</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=ePqcDX1SWiI&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=7&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1998年 金鯱賞(GII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}金鯱賞において陣営は「今は最高の状態。負けるなんて考えられない」という自信をもってレースに送り出すほどの状態に仕上げてサイレンススズカを出走させ<ref name="都地-147156" />、橋田は後に「レース内容も素晴らしく、なかなか再現しろと言われても再現できないレース」と述べている<ref name="都地-147156" />。レース後に武は「本当にいい体つきになったし、一段と力をつけている。今日のサイレンススズカならどんな馬が出てきても負けないんじゃないか」<ref name="追悼スズカ-5760" /><ref name="安西113-115">安西(1999)pp.113-115</ref>、「夢みたいな数字だけど、58秒で逃げて58秒で上がってくる競馬もできそうな気がしてきました」<ref name="片山-78" /> とコメントした。 金鯱賞後は最大目標である天皇賞(秋)を見据えて放牧に出される予定ではあったが、上半期の[[グランプリ (中央競馬)|グランプリ]]・[[宝塚記念]]のファン投票で6位に支持され、レコードを連発した疲れよりも馬体の充実が際立っているということで、急遽宝塚記念へ出走することとなった<ref name="都地-156167">都地(1999)pp.156-167</ref>{{#tag:ref|こうした経緯に加えて、橋田は「普通で考えたら1000メートルを58秒台で行って2200メートルを逃げ切る馬なんか一頭もいませんから、そこに出走させて逃げ切りを狙うというのは非常識なんですよ。過去にそんな馬は見たことがありませんからね。だけど、私から見たら今のサイレンススズカなら、そうした非常識を非常識でなくしてしまう力があると思うんですよ。換言すれば、常識への挑戦ということですね。この馬なら十分、それが可能だと思いますから」と付け加えている<ref name="都地-156167"/>。|group="†"}}{{#tag:ref|この時橋田は中1週で[[安田記念]]への登録も行っていた。安田記念にはマイルCSで敗れたタイキシャトルや武が主戦を務める[[シーキングザパール]]も出走を表明しており、武も「もし出るなら乗る」と発言していたが、結局サイレンススズカの体調面を考慮してこれは回避した<ref name="都地-156167"/>。|group="†"}}。しかし、主戦の武には既に年末の[[有馬記念]]まで[[エアグルーヴ]]への騎乗の先約があったため今回のレースはエアグルーヴに乗らざるを得ない状況となっていた<ref name="都地-156167"/>{{#tag:ref|ただこの時のエアグルーヴは体調が優れず、調教の結果次第では宝塚記念を回避する可能性もあったため、出走可否については調教師の[[伊藤雄二]]の判断を待つという状況になったため、レース数日前までサイレンススズカの鞍上が決まらないという状態となった<ref name="渡辺-1922"/>。しかし、水曜日に行われた最終追い切りでエアグルーヴの調教の結果が同馬の陣営にとって「予想以上にいい」結果だったため出走することとなり、武はエアグルーヴで宝塚記念に臨むこととなった<ref name="渡辺-1922"/>。|group="†"}}。これを受けて、橋田はレース3日前の木曜日に武の代役としてサイレンススズカと同じく永井の所有馬で、出走予定の僚馬ゴーイングスズカの主戦騎手であった[[南井克巳]]を鞍上に迎えて出走させることを決定した<ref name="都地-156167"/><ref name="渡辺-2224">渡辺(2004)pp.22-24</ref>{{#tag:ref|南井はそれまでサイレンススズカと4度対戦しており、神戸新聞杯でマチカネフクキタルの鞍上を務めていた。なお、ゴーイングスズカの鞍上は[[芹沢純一]]が務めることとなった<ref name="都地-156167"/>。|group="†"}}。この時の心境について武は「正直に言えば内心、どっちかが(出走を)辞めてくれればと。どちらもすごく好きな馬ですから、どっちにも乗りたい。でもそれは不可能だから、どちらか一頭が出てほしいと、願っていたのですが。そうそう自分の都合のいいようにはいきませんね」と振り返っており<ref name="渡辺-1922"/>、一方サイレンススズカに騎乗することとなった南井は「大方、エアグルーヴが出てくるだろうと思っていたから、別にいら立ちはなかった」と振り返っている<ref name="都地-156167"/>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=4Y7L4c1V1JQ&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=8&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1998年 宝塚記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}当日の馬体重は金鯱賞から4kg増加した446kgと発表され、単勝では武が騎乗するエアグルーヴ、この年の[[天皇賞(春)|春の天皇賞]]勝ち馬で河内洋が騎乗する[[メジロブライト]]らを抑え1番人気に支持された。ただし、本馬にとって初めてとなる2200メートル、また南井に乗り替わっている点が不安視され、単勝オッズは3倍近い数字となった<ref name="渡辺-1618" />。レース前にメジロブライトが立ち上がって脚を引っ掛けるというアクシデントがあったものの落ち着きを失わず、外側の13番枠からスタートを切ると内側に移動して[[メジロドーベル]]の機先を制して先頭に立ち、前半1000mを58秒6で通過<ref name="都地-156167" />。第3コーナー手前では後続に8馬身の差をつけたがここから[[ステイゴールド (競走馬)|ステイゴールド]]がスパートをかけ、ここで南井がペースを落として息を入れたため残り600m地点では4馬身ほどの差に縮まったが、サイレンススズカも内で粘りこみ、ステイゴールドとエアグルーヴの猛追を凌いで逃げ切り勝ちを収め、GI初勝利を挙げた<ref name="都地-156167" />。勝ちタイムの2分11秒9は前年の勝ち馬[[マーベラスサンデー]]が記録したタイムと同じであり、阪神競馬場で行われた宝塚記念においては1994年の勝ち馬[[ビワハヤヒデ]]が記録した2分11秒2に次いで2番目に早い時計だった<ref name="gallop98-8283">『臨時増刊 Gallop'98』pp.82-83</ref>。 レース後に南井は「ユタカ君が乗って4連勝してきた馬。この馬の力を出し切ることだけを考えました。あくまでも、この馬の行きたいペースで行かせることだけを心掛けました。さすがに強いメンバーで、これまでより差は縮まりましたが、道中で無理に脚を使っていない分、最後まで頑張ってくれましたね。1番人気に応えることができてホッとしています」とコメントし、橋田は南井の騎乗について「ほんとうに上手く乗ってくれました。気持ち良く走らせてくれればそれでいいと思っていましたが、彼もよく研究してくれていましたからね」と讃えた<ref name="gallop98-8283"/>。3着となったエアグルーヴ鞍上の武は「サイレンススズカが止まりませんでした」と淡々としたコメントを残した<ref name="都地-156167"/>。南井の45歳5か月での宝塚記念勝利は1994年にビワハヤヒデで制した[[岡部幸雄]]が記録した45歳7か月に次ぐ年長勝利記録となり、また翌年を以って現役を引退した南井にとってはこれが現役最後のGI勝利となった<ref name="gallop98-8283"/>。 ==== 毎日王冠 ==== 秋の初戦には、目標である天皇賞(秋)へのステップとして[[第49回毎日王冠|毎日王冠]]に出走することとなった<ref name="都地-168179">都地(1999)pp.168-179</ref>。鞍上に武が復帰したが、[[NHKマイルカップ]]優勝馬[[エルコンドルパサー]]と前年の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]優勝馬[[グラスワンダー]]の無敗の外国産4歳馬2頭が出走するメンバー構成となり、この2頭とサイレンススズカを交えた「3強対決」の様相を呈した<ref name="tsuitou-7073"/>。毎日王冠は別定戦のため、負担重量はグラスワンダーが55kg、エルコンドルパサーが57kg、サイレンススズカは過去最高となる59kgを背負っての出走となったが、レース前に武は「強い4歳馬が2頭いますが、サイレンススズカのペースで行くだけです」と余裕のあるコメントをし、橋田はファンに向けて「とにかく競馬場に来てください。きっと素晴らしいレースを堪能できるでしょう」とコメントした<ref name="都地-168179"/>。 10月11日の毎日王冠当日は、GII競走ながら[[東京競馬場]]には13万3461人の観衆が詰めかけた<ref name="都地-168179"/><ref name="tsuitou-7073">『追悼 サイレンススズカ』pp.70-73</ref>。当日サイレンススズカは生涯最高体重となる452kgを記録、単勝オッズは1.4倍で1番人気に支持され、2番人気にはグラスワンダーとエルコンドルパサー双方の主戦騎手であった[[的場均]]が二頭から選択したグラスワンダーが推され、[[蛯名正義]]に乗り替わったエルコンドルパサーは3番人気となった<ref name="yu0102">『優駿』2001年2月号、pp.92-95</ref>。スタートが切られるとサイレンススズカは前半600メートルを34秒6<ref name="yu0102" />、1000メートルを57秒7<ref name="都地-168179"/><ref name="yu0712">『優駿』2007年12月号、pp.56-63</ref> というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走し、グラスワンダーは中団から後方を進んだ<ref name="yu0102" />。第3,4コーナーでサイレンススズカは一度1ハロン11秒7から12秒1に落として息を入れ<ref name="都地-168179"/><ref name="tsuitou-7073"/>、その第3コーナー過ぎからはグラスワンダーがサイレンススズカを捉えに先団へ進出したもののそこから伸びを欠く<ref name="yu0102" />。直線に入ってもサイレンススズカの逃げ脚は衰えず、これをエルコンドルパサーが追走したが、2馬身2分の1の着差をつけて逃げ切り勝ちを収めた<ref name="yu0102" />。上がり3ハロンで記録した35秒1は出走メンバー中最速だったエルコンドルパサーの35秒0と僅かコンマ1秒差という驚異的なものであった<ref name="都地-168179"/>。エルコンドルパサーに次いで3着に入ったサンライズフラッグはエルコンドルパサーと5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった<ref name="yu0102" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=S69v-3lO5c0&list=PLhZFZK9xnQ38tPIVhzzZPYZzHzjc5Yq65&index=9&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1998年 毎日王冠(GII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}辛うじて2馬身半差の2着まで差を詰めたエルコンドルパサー鞍上の蛯名は「直線に向いてからも手応えはありましたし、十分、サイレンススズカは射程圏内だと思ったんですが、全く止まりませんでしたね。前にいったサイレンススズカにあれだけ伸びられては仕方ありません」<ref name="都地-156167" />、「相手が強かった。完敗だった<ref name="yu9901">『優駿』1999年1月号、pp.12-19</ref>」としたが、同馬管理調教師の[[二ノ宮敬宇]]は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べた<ref name="yu9901" />。的場はコメントがなく<ref name="都地-168179" />、武は「後続の馬は気にせず、自分のペースを守ることに集中してレースをしました。できる限りゆっくり行くつもりでしたが、イメージ通りのレースができたと思います。レース前も落ち着いていましたし、道中もものすごくいい感じでした。ホント、楽勝でしたね。いやあ、強かったあ」とコメントし<ref name="都地-168179" />、橋田は「競馬場に集まってくれたファンの方に存分にレースを楽しんでいただけたかと思うと、これ以上の喜びはありません」と語った<ref name="都地-168179" />。稲原は後年、「このレースだけは、絶対に勝ってほしかった」と振り返っている<ref name="松永-2022" />。なお、レース後にはGII競走でありながら武はウイニングランも行った<ref name="都地-168179" /><ref name="tsuitou-7073" />。 ==== 天皇賞(秋) ==== 毎日王冠後、橋田がこの年の最大の目標として定めていた[[第118回天皇賞|第118回天皇賞(秋)]]に出走。サイレンススズカが出走するとあって他馬の陣営が恐れをなしてか同レースとしては珍しい12頭立てと少頭数でのレースとなった<ref name="100meiba-26">『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』p.26</ref>。さらに逃げ馬としては有利となる1枠1番を引き当て、当日の単勝支持率は61.8%、単勝オッズは1.2倍と圧倒的な一番人気に支持された<ref name="100meiba-26"/>。レース前、多くのTVや競馬紙も上記の有利な条件も踏まえて、サイレンススズカが負ける要素を探したものの、アクシデントがない限りサイレンススズカは負けないという意見が大勢を占め、サイレンススズカのレースの勝ち負けよりも、「どう逃げるのか」「どういう内容の競馬をするのか」という点に注目が注がれた<ref name="松永-2022">松永(2000)pp.20-22</ref>。武は天皇賞の週の半ばに受けたインタビューにおいて、インタビュアーから「オーバーペースにならないように?」と問われると、「オーバーペースでいきますよ。」と宣言していた<ref name="tsuitou-1617">『追悼 サイレンススズカ』pp.16-17</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=-nCC15u6cA0&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1998年 天皇賞(秋)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}当日の体調について、加茂と武は「あの時が間違いなく一番具合が良かった」と口をそろえて言うほど優れていた<ref name="片山-79" />。サイレンススズカは好スタートを切り、2ハロン目から加速して後続を突き放すと、毎日王冠を上回る1000m57秒4の超ハイペースで大逃げをうった<ref name="100meiba-26" />。競りかける馬はサイレントハンターも含めて1頭もおらず3コーナー手前では2番手に10馬身、さらにそこから3番手までが5馬身と後続を大きく引き離し<ref>[[サラブレ]] 2007年9月号、[[Sports Graphic Number|Number]] 2007年[[10月25日]]号より</ref>、この時点で二番手サイレントハンターとは約2秒差、最後方ローゼンカバリーとは6秒ほどの差となっていた<ref>『サイレンススズカ スピードの向こう側へ』</ref>。 しかし、4コーナーの手前で突然の失速。左前脚の手根骨粉砕骨折を発症し、競走を中止した<ref name=keibabook>{{Cite web|和書|date=|url=https://www.keibado.ne.jp/keibabook/981109/itwnp.html#02|title=ニュースぷらざ|publisher=ケイバブック|accessdate=2015-07-03}}</ref>。結局[[予後不良 (競馬)|予後不良]]と診断され[[予後不良 (競馬)|安楽死]]の処置がとられた<ref name=keibabook/>。 == 競走成績 == {| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;;white-space:nowrap" |- |colspan="3"|年月日 | nowrap="nowrap" |[[競馬場]] |競走名 |[[競馬の競走格付け|格]] |頭<br/>数 |枠<br/>番 |馬<br/>番 |colspan="2"|オッズ<br/>(人気) |着順 |[[騎手]] |斤量<br/>(kg) |[[距離 (競馬)|距離]](馬場) |タイム<br/>([[上がり (競馬)|上り3]][[ハロン (単位)|F]]) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|着差 |勝ち馬/(2着馬) |- |[[1997年|1997]]. |2. |[[2月1日|1]] |[[京都競馬場|京都]] |[[新馬|4歳新馬]] | |11 |1 |1 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.3 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} | nowrap="nowrap" |[[上村洋行]] |55 | nowrap="nowrap" |芝1600m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.35.2 (35.5) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -1.1 |(パルスビート) |- | |3. |[[3月2日|2]] |[[中山競馬場|中山]] |[[弥生賞ディープインパクト記念|弥生賞]] | {{JRAGII}} |14 |5 |8 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|3.5 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(2人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|8着 |上村洋行 |55 |芝2000m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.03.7 (36.9) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.5 |[[ランニングゲイル]] |- | |4. |[[4月5日|5]] |[[阪神競馬場|阪神]] |4歳500万下 | |12 |5 |5 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.2 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |上村洋行 |55 |芝2000m(重) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.03.0 (37.1) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -1.1 |(ロングミゲル) |- | |5. |[[5月10日|10]] |[[東京競馬場|東京]] | nowrap="nowrap" |[[プリンシパルステークス|プリンシパルS]] |{{OP}} |16 |6 |11 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.3 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(2人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |上村洋行 |56 |芝2200m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.13.4 (34.7) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.0 |([[マチカネフクキタル]]) |- | |6. |[[6月1日|1]] |東京 |[[東京優駿]] | {{JRAGI}} |17 |4 |8 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|8.6 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(4人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|9着 |上村洋行 |57 |芝2400m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.27.0 (35.8) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.1 |[[サニーブライアン]] |- | |9. |[[9月15日|15]] |阪神 |[[神戸新聞杯]] | {{JRAGII}} |11 |7 |8 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.1 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|{{color|darkblue|2着}} |上村洋行 |56 |芝2000m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.00.2 (36.5) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.2 |マチカネフクキタル |- | |10. |[[10月26日|26]] |東京 |[[天皇賞(秋)]] | {{JRAGI}} |16 |5 |9 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|17.6 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(4人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|6着 |[[河内洋]] |56 |芝2000m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.00.0 (37.0) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.0 |[[エアグルーヴ]] |- | |11. |[[11月16日|16]] |京都 |[[マイルチャンピオンシップ|マイルCS]] | {{JRAGI}} |18 |5 |10 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|19.1 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(6人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|15着 |河内洋 |55 |芝1600m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.36.2 (39.4) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.9 |[[タイキシャトル]] |- | |12. |[[12月14日|14]] |[[沙田競馬場|沙田]] |[[香港国際カップ|香港国際C]] | {{G2}} |14 |13 |1 | |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(8人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|5着 |[[武豊]] |56.5 |芝1800m(良) |style="text-align: center; white-space: nowrap;"|1.47.5 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|0.3 |Val's Prince |- |[[1998年|1998]]. |2. |[[2月14日|14]] |東京 |バレンタインS |OP |12 |8 |12 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.5 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |武豊 |55 |芝1800m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.46.3 (36.0) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -0.7 |(ホーセズネック) |- | |3. |[[3月15日|15]] |中山 |[[中山記念]] | {{JRAGII}} |9 |8 |9 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.4 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |武豊 |56 |芝1800m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.48.6 (38.9) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -0.3 |([[ローゼンカバリー]]) |- | |4. |[[4月18日|18]] |[[中京競馬場|中京]] |[[小倉大賞典]] | {{JRAGIII}} |16 |7 |14 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.2 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |武豊 |57.5 |芝1800m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|R1.46.5}} (36.4) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -0.5 |(ツルマルガイセン) |- | |5. |[[5月30日|30]] |中京 |[[金鯱賞]] | {{JRAGII}} |9 |5 |5 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.0 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |武豊 |58 |芝2000m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|R1.57.8}} (36.3) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -1.8 |([[ミッドナイトベット]]) |- | |7. |[[7月12日|12]] |阪神 |[[宝塚記念]] | {{JRAGI}} |13 |8 |13 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.8 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |[[南井克巳]] |58 |芝2200m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.11.9 (36.3) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -0.1 |([[ステイゴールド (競走馬)|ステイゴールド]]) |- | |10. |[[10月11日|11]] |東京 |[[毎日王冠]] | {{JRAGII}} |9 |2 |2 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.4 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| {{color|darkred|1着}} |武豊 |59 |芝1800m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.44.9 (35.1) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"| -0.4 | nowrap="nowrap" |([[エルコンドルパサー]]) |- | |11. |[[11月1日|1]] |東京 |天皇賞(秋) | {{JRAGI}} |12 |1 |1 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.2 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|(1人) | |武豊 |58 |芝2000m(良) |colspan="2"|[[競走中止]] |[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]] |} ※タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。 == 死後 == 粉砕骨折の詳しい原因は現在も判明しておらず、武はレース後、「悪夢としか言いようがない」とコメントし<ref>『ニッポンの名馬』p.85</ref>、死因となった粉砕骨折については「原因は分からないのではなく、ない」とコメントした<ref>『サンデーサイレンス大全』p.14</ref>。橋田は故障の原因について、サイレンススズカのスピードが馬の骨の丈夫さの限界を超えてしまい、それによってショックアブソーバーの役目をする部分が耐えられずに壊れてしまったのではないかと分析している<ref>『星になった名馬たち』p.16</ref>。 レース後の武の落胆ぶりは相当なもので、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武自身も後に「泥酔したの、あんときが生まれて初めて」と振り返っており、同レースで[[テイエムオオアラシ]]に騎乗していた[[福永祐一]]も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。後に武はこのときの出来事について「なかなかいない。あのトップスピードで、あれだけの骨折をして転倒しない馬は。僕を守ってくれたのかなと思いましたね。今でもすごくよく、サイレンススズカのことを思い出すんですよ。せめてあと数百メートル、走らせてやりたかったな。うん、すごい残念。今でも悔しいですもん」と語った<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20131128_228820.html?PAGE=2 武豊 サイレンススズカ故障の夜に生まれて初めて泥酔した] - NEWSポストセブン・2013年11月28日</ref>。 永井のもとにはファンから励ましの手紙が多く寄せられたが、その中には「もう競馬は見たくない」「府中にはしばらくいけない」という内容の手紙もあった<ref>松永(2000)pp.22-25</ref>。 その後、サイレンススズカはこの年の[[JRA賞特別賞]]を受賞している。 サイレンススズカの死後、エルコンドルパサーやグラスワンダーの活躍によりサイレンススズカの評価はさらに上がることになった。エルコンドルパサーは毎日王冠の次走となった[[ジャパンカップ]]を優勝、翌[[1999年]]はフランスのG1([[サンクルー大賞|サンクルー大賞典]])、G2で1勝ずつを挙げ、なおかつ[[凱旋門賞]]では[[モンジュー]]の半馬身差2着に入る成績を挙げ、結果的にエルコンドルパサーに日本国内で土をつけたのはサイレンススズカのみとなった。グラスワンダーも1998年末の[[有馬記念]]を制し、翌年も宝塚記念と有馬記念を制している。1999年の宝塚記念において、実況の[[杉本清]]はレース前に「あなたの夢は[[スペシャルウィーク]]か[[グラスワンダー]]か。私の夢は、サイレンススズカです。夢、叶わぬとはいえ、もう一度この舞台でダービー馬やグランプリホースと走ってほしかった。」という言葉を残した<ref name="松永25-27">松永(2000)pp.25-27</ref>。 [[File:Silence Suzuka - tomb.jpg|thumb|サイレンススズカの墓]] サイレンススズカの墓は生まれ故郷である北海道・平取町の稲原牧場に建てられ、たてがみと[[蹄鉄]]は稲原牧場と[[阪神競馬場]]の馬頭観音に納められた<ref>『サラブレッド99頭の死に方』p.29</ref>。追悼歌「[[天馬のように]]([[星野豊]]:作詞/作曲 [[因幡晃]]:歌)」も作られた。 == 競走馬としての特徴・評価 == === レースぶりに関する特徴・評価 === スタートから先頭に立って後続との差を徐々に大きく引き離し、直線に入っても衰えない末脚を発揮して逃げ切るというレーススタイルを身上としていた。デビュー当初、陣営は将来を見据えて「抑える競馬を覚えさせたい」という意見で一致しており、新馬戦で橋田は上村に「できれば中団につけ、馬込みに入れて控える競馬をしてほしい」と指示を出した<ref name="松永32-34"/>。しかし、このレースでサイレンススズカはスタートからゴールまで馬なりで勝利し<ref name="松永32-34">松永(2000)pp.32-34</ref>、香港国際カップのレース後に武は橋田に「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言した<ref name="松永28-30">松永(2000)pp.28-30</ref>。 5歳となってから出走した全7戦では、全てのレースでスタートから1000メートルまでの通過タイムが57~58秒を記録し、これは普通の馬であれば非常に速いペースとなり、たとえ1800メートルの距離であっても上がり<ref group="†">ゴールまでの残り600メートルの距離におけるタイムのこと。</ref> は直線で失速することが多くなる<ref name="渡辺-1618">渡辺(2004)pp.16-18</ref>。このようなペースとなった場合追い込み馬の場合は上り35秒の脚を使えば逃げ馬をとらえることができるという計算になる。ところが、サイレンススズカにとって前半58秒台というのは楽な馬なりでのペースになり、後半の上がりも36秒台でまとめるため、そうなると後続馬は上がりを34秒台、もしくはそれ以上のタイムの脚で追い込まないとサイレンススズカを捉えることはできないということになる<ref name="渡辺-1618"/>。このような数字的な裏付けについて橋田は、「普通先行馬が行ったきりでゴールインするのは、前半スローペースに落とし、上がりの勝負に持ち込んで勝つんです。でもサイレンススズカは、最初から飛ばしていって、そのまま早いタイムで直線も乗り切ってしまうんです。これは並みの馬のできることじゃありません」と述べている<ref name="渡辺-1618"/>。南井克巳によるとサイレンススズカはゲートを出てからのダッシュが違うとしており、それは「バカみたいにガーッと行くんではなくて、あくまでも自分のペースなんですよ」としており、そのため普通に走っていても並みの馬とは断然違っただろうと述べており、「とにかくすごいスピード。スピード的にホント、他馬とまったく違うスピードで押し切っちゃうんだから」と付け加えている<ref>松永(2000)pp.27-28</ref>。 距離適性について、橋田は宝塚記念出走前の時点には多少の心配はあったというものの、「2000までは問題ない、2200までも我慢するだろう」と思っていたといい、大きな意味では安心してみていたという<ref>『星になった名馬たち』pp.12-15</ref>。毎日王冠後には、同レースでのメンバー構成での勝ち方から「東京なら左回りだし、2400メートルでも大丈夫じゃないか」と確信し、ジャパンカップへの出走を予定していた<ref name="都地-192199"/>。距離についての議論はさまざまであるが、武は仮に(距離3200mの)天皇賞(春)でも道中3秒差をつける逃げを展開できれば勝てるはず、というコメントを残している。 [[小島貞博]]は、1992年のクラシック戦線において自身が騎乗し、無敗で皐月賞・ダービーの二冠を制した逃げ馬・[[ミホノブルボン]]とサイレンススズカの違いについて、「サイレンススズカは典型的な逃げ馬だという気がします」と述べている<ref name="都地-182192">都地(2000)pp.182-192</ref>。小島によるとミホノブルボンはやや仕掛け気味に先頭に立っていたというが、サイレンススズカの場合は楽に先頭に立っているとしており普通の馬であれば最後には掴まってしまうところをサイレンススズカは最後まで掴まらず、逆に伸びているところを見るとこれはもう能力の違いというしかない、と述べている<ref name="都地-182192"/>。当初短距離馬として見られていたミホノブルボンは徹底した坂路調教によって長距離のレースを克服したが、小島はサイレンススズカもミホノブルボンと同様に「調教で鍛え上げたからこそ天性の才能に磨きがかかった」と評している<ref name="都地-182192"/>。 ライターの[[柴田哲孝]]は、サイレンススズカは芝2000m級のレースに関する限りであれば[[シンボリルドルフ]]、ナリタブライアン、[[テイエムオペラオー]]、ディープインパクトらと比較しても「"彼"こそは日本の競馬史上"最強馬"ではなかったか」と述べており、「もし時間をコントロールすることができたとして、それらの馬を全盛期のコンディションで一堂に介し、2000メートルのレースを行ったとしたら…。おそらく、いや間違いなく、勝つのはサイレンススズカだ。しかも、圧勝するだろう」と断言しており<ref>柴田(2008)pp.178-182</ref>、[[東京中日スポーツ]]記者の野村英俊は、ディープインパクトがサイレンススズカの逃げを自ら潰しに行ったら確実に他馬の餌食になるだろうと推測している<ref>『ニッポンの名馬』p.34</ref>。 <!--出典がないためコメントアウト/ 現在と芝の重さの違いもあるので、現在の上がり3ハロンの平均値と単純に比べることはできないものの、サイレンススズカは3コーナーから4コーナーにかけて息を入れる(=ペースを落としラストスパートに備える)ことや、瞬発力を活かしてレース後半は後続馬に合わせた展開になることもあり、実際の上がり3ハロンは実際はそれほど速いわけではない。毎日王冠で上がり3ハロンが2番目に速かったのは、東京競馬場の直線が長く上がり3ハロンのうちコーナーの占める割合が少ないためと、スパートのタイミングによるものである。--> === 身体面・精神面の特徴 === 当歳時のサイレンススズカは病気になったことがなく、医者にかかったことがないという健康で丈夫な体質をしていた<ref name="都地-3237"/>。上村はサイレンススズカのすごさについて「スピードがある、瞬発力がある、体が柔らかい、バネがある。その辺は、すべてにおいて、これまでの馬よりレベルが2つくらい上でした」と述べている<ref name="松永32-34"/>。馬体はデビュー当初はしなやかだけだったが、5歳になってから体重が増えただけでなく肩は広く、胸は厚くなって筋肉も強靭になり、スピードと持久力が向上した<ref name="柴田-163166173174"/>。肉体面の成長に加えてそれまでは闘争本能のみに頼ってがむしゃらに走っていただけであったが、武豊が騎乗するようになってからその後は息を入れることを覚えたためか二の脚を使えるようになるなど内容もよくなると精神面でも成長を果たした<ref name="柴田-163166173174">柴田(2008)pp.163-166・173-174</ref>。 橋田はサイレンススズカの気性について「本当に気っ風の良い気性をしてましたね。実に大人しい馬」と述べている<ref name="都地-199208">都地(1999)pp.199-208</ref>。前述の馬体の成長が成長して以降は精神的な落ち着きが目立っていたと振り返っており、かつて[[野平祐二]]が調教師として管理した[[シンボリルドルフ]]を『馬が楽しそうに走っている』と評したことを挙げ、サイレンススズカの走りにも野平の言葉と同じことを感じたという<ref name="渡辺-1922">渡辺(2004)pp.19-22</ref>。 稲原牧場社長の稲原一美は、『牝馬みたいに可愛い顔をしていても、内に秘めた気性が激しい』とし、これは非常に気性が激しいことで知られたサンデーサイレンスから譲り受け、それが後述の旋回癖にモロに出てしまったのではないかと述べ<ref name="都地-3843"/>、橋田もこの気性の激しさはサンデーサイレンスから受け継いだものであるという見解を示している<ref name="都地-199208"/>。ただし普段は大人しく、人の言うことをよく聞く馬だったといい<ref name="都地-3843"/>、上村も気性について「大人しいし、頭もいいし、優等生的な感じ。お坊ちゃんっていう雰囲気もありました」と述べている<ref name="松永32-34"/>。カメラマンの本間日呂志は、毎日王冠の直前に雑誌の依頼で武豊とサイレンススズカのツーショットを撮影した際、サイレンススズカがあまりに素直な性格をしていたため驚いたといい、武のいうことも、自身の希望もよく聞いてくれたと述べている<ref name="都地-199208"/>。 ==== 左回りでの競馬と「旋回癖」 ==== 古馬となってからは宝塚記念を制し、左回りの東京、中京での両競馬場でも実績を残した。ただし武によれば中山記念を勝利した際、サイレンススズカは直線でモタれた上に手前を変えるのに苦労したことで、後に「左回りのほうがいい競馬をする。競馬をしやすい」と語っている<ref name="tsuitou-5153">『追悼 サイレンススズカ』pp.51-53</ref>。 左回りに関して、当歳のころから「旋回癖」と呼ばれる馬房で長時間左回りにクルクル回り続ける癖がエピソードとして語られている。旋回癖は当歳時の9月に母・ワキアから離乳されて3日が経った時に寂しさを紛らわすために始めたとされており<ref name="都地-3843">都地(1999)pp.38-43</ref>、狹い馬房の中をあまりにも速いスピードで旋回するので、見ている側が「事故が起こるのでは」と心配するほどだったが、結局最後まで何も起きなかった。止めさせようと担当厩務員が馬房に入ると途端に中止するので、自己抑制ができないほどの興奮といった原因によるものではなかったようであるが、この癖が治ることもなかった。この癖を矯正することでレースで我慢することを覚えさせられるのではないかと、馬房に畳を吊すことが試みられたが、体の柔らかいサイレンススズカは狭いスペースでも以前と同様にくるくると回り続けた。そこでさらにタイヤなど吊す物の数を増やして旋回をやめさせたところ、膨大なストレスを溜め込んでその後のレースに大きな影響を与えてしまったため、4歳の冬には元に戻された。 管理する厩舎のスタッフにとっては、旋回そのもので事故が起こるおそれがないとはいえ[[蹄鉄]]が余りにも早く摩耗するため、[[蹄]]を削るにも少しでも薄くすると致命的な負傷に繋がりかねず、神経をすり減らす毎日だったという。 === 競馬関係者の評価 === ==== 武豊による評価 ==== 武は1999年に[[Sports Graphic Number]]が行ったアンケート『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』『最強馬アンケート 私が手掛けた馬編』というアンケートでは双方でサイレンススズカを挙げ、「エルコンドルが活躍するほどスズカの評価が上がる気がして今でもドキドキするんですよ」とコメントした<ref name="『Sports Graphic Number PLUS』p.23">『Sports Graphic Number PLUS』p.23</ref>。5歳時はハイペースで逃げつつゴールまでなかなかペースが落ちないというパフォーマンスを見せていたことから「古今東西の名馬を集めてレースをした場合に、一番勝ちやすい馬だった気がします。」とコメントしている<ref name="numberplusp17">『Sports Graphic Number PLUS』p.17</ref>。2000年に行われたインタビューではサイレンススズカを「サラブレッドの理想だと思う」と評し、「どんなレースでも、最初から抜群のスピードで他馬を引き離していって、最後までそのままのいい脚でゴールに入ったら、それが一番強いわけでしょう。そういう馬は負けるわけがありません。絶対能力とは、そういうことですよね。その理想を、サイレンススズカという馬は追及していたんです。またその能力を持った馬でした。こういう馬は、めったにいるものじゃありません。何十年に一頭の馬だと思いますよ」と述べた<ref>『星になった名馬たち』p.26</ref>。ディープインパクトのデビュー前の2003年に行われたインタビューでは、「今まで乗った馬で『凄さ』を感じたのは、[[オグリキャップ]]、サイレンススズカ、そして[[クロフネ]]ぐらい」と述べており<ref>『名馬物語 - The best selection(3)』pp.18-24</ref>、ディープインパクトが引退した2007年にもサイレンススズカを「理想のサラブレッド」と評し、「どちらが勝つかはわかりませんが、ディープインパクトにとって、サイレンススズカが最も負かしにくいタイプであるとは言えるでしょうね」と述べている<ref name="片山-79">『Sports Graphic Number』689号、p.79</ref>。 武はサイレンススズカに対して「『本当にこんな馬がいるんだ』という相棒がやっとできて、夢が広がってきたときに、すべてがプツッと途切れてしまった」とその死を惜しむと同時に、「サイレンスに関しては、『この馬は現時点では世界一だ』という自信があった。あの馬には、普通では考えられない結果を出す力があったんですよ。例えば、GIで2着を3秒離して勝つこともあり得る馬だった」とインタビューで語っている<ref name="島田2004-116-117">島田(2004)pp.116-117</ref><ref name="numberplus-5657">『Sports Graphic Number PLUS』pp.56-57</ref>。また、2007年に行われたインタビューにおいて、「今でも不意に思い出すことがあります。あんなことになってなかったらなぁって。天皇賞は間違いなく勝っていたんだろうなあとか、そのあとのジャパンカップはとか、[[ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ|ブリーダーズカップ]]も行っていただろうなあとか考えてしまいますね。サンデーサイレンス産駒の種牡馬がいま活躍してるじゃないですか。そういうのを見ると、余計に『いたらなあ』と思います。『きっと、凄い子供が出てるんだろうなあ』って」と述べており<ref name="片山-79"/>、2019年のインタビューでも「(競走中止した天皇賞では)大レコードで、10馬身以上のぶっちぎりで勝っていたと思います」「アメリカへ行ったらどうだったんだろう、ドバイWCに出たら誰もついて来られないんじゃないか、とか。種牡馬としても、日本の競馬史を変える可能性があった」と述べている<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/839320?page=5 武豊「50歳ユタカに50の質問」] - Sports Graphic Number Web 2019年5月16日</ref>。また、金鯱賞の翌週、全盛期のナリタブライアンや[[トウカイテイオー]]が出てきても負けないかと尋ねられた際は「と、思いますよ」と即答した<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/846022?page=2 伝説の毎日王冠、武豊がサイレンススズカに感じた「絶対的な強さ」…“現役最強vs無敗の3歳2頭”の興奮] - Sports Graphic Number Web 2020年11月28日</ref>。 ==== 武以外の関係者による評価 ==== サイレンススズカは武以外の競馬関係者からも高い評価を得ている。調教師の橋田は武と同様に前述のアンケートでいずれもサイレンススズカを挙げ、「斤量や、相手、展開などの条件にかかわらず負けないところが強かった」<ref name="numberplusp17"/>、「今までの競馬の常識を超える馬だった」<ref name="『Sports Graphic Number PLUS』p.23"/> と評価している。宝塚記念で騎乗した南井克己は、サイレンススズカに初めて跨った宝塚記念前の最終追い切り後に、「この馬の能力は、(自身が主戦騎手を務めた)[[ナリタブライアン]]に匹敵する」とコメントした<ref name="柴田-174178">柴田(2008)pp.174-178</ref>。サイレンススズカを生産した[[稲原牧場]]の牧場長[[稲原美彦]]はとあるインタビューで「またこの牧場からサイレンススズカのような馬を?」と聞かれた際に「あれほどのスピードを持った馬をもう一度生産するのは難しい」と答えている。前述の『ホースメンが選ぶ20世紀最強馬』では5票が集まり、橋田・武以外には[[吉田照哉]]、[[岡田繁幸]]、[[武幸四郎]]が投票した<ref name="numberplusp17"/>。 杉本清によると、1998年のジャパンカップ翌日に蛯名正義と[[京都駅]]で偶然会った際に「昨日はおめでとう」と声をかけて少し話をしたが、その際蛯名は「ウチの馬も強かったんですけど、すいません、もっと強い馬いますよ」と言われ、「どういうこと?」と聞くと蛯名は「サイレンススズカという馬は、本当に強い馬ですから」と言ったという<ref name="松永25-27"/>。杉本はこの時について「毎日王冠でエルコンドルパサーは影さえ踏めなかったですから、ジャパンカップが終わった後なのに、まだ毎日王冠のことを言っていたので驚きでした」と回想しており、この時の蛯名の様子については「あの馬が生きていれば、今後もどれだけ強くなったかわからないのに、本当に惜しいことをした」とサイレンススズカの死を心から悼んでいる様子だったと振り返っている<ref name="松永25-27"/>。翌1999年にエルコンドルパサーは[[フランスの競馬|フランス遠征]]を行い、[[サンクルー大賞]]優勝、[[凱旋門賞]]2着と顕著な成績を残すが、杉本はその遠征後にも「ああいう形で、海外のレースを走るサイレンススズカを見てみたかったなあと、つくづく思いました」と述べている<ref name="松永25-27"/>。 他にも、[[柴田政人]]は「ファンを魅了する馬だった」<ref name="gallop98-14"/>、[[鈴木淑子]]は「強い逃げ馬がいたらこんなに競馬は面白い、ということを久々に見せてくれた馬だった」と評し<ref name="gallop98-14">『臨時増刊 Gallop'98』p.14</ref>、[[野平祐二]]は華奢な体型ながらも奇麗な線を持った馬で、「あれだけ軽快に、また非常にスマート、かつ鮮やかに走る馬は他にいないでしょう。鞍上ともマッチして、実に美しい走りをする馬です」<ref name="都地-182192"/>、「あんなに美しい格好で突っ走っていって我慢しちゃう馬なんか、過去でもないですよ」と評し、またその存在価値についても、「『片足でも生かせるものなら生かしておきたい』と思う馬だった」と述べている<ref name="gallop98-14"/>。競馬評論家の[[井崎脩五郎]]は「この世で最も強い馬は、ハイペースで逃げ切ってしまう馬である」と述べ、日本ダービーを逃げ切った馬の中で最も前半1200mの通過タイムが速かったのは[[カブラヤオー]]の1分11秒8だったことを引き合いに出し、そのカブラヤオーがサラ平地の最多連勝記録「9」を記録していたことでサイレンススズカはカブラヤオーの連勝記録を20年ぶりに打ち破る可能性があった「久々に表れた、ケタ違いに強い馬だった」と述べ、第118回天皇賞での死を「競馬界の宝の損失」として惜しんだ<ref>『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』pp.36-37</ref>。同じく競馬評論家の[[大川慶次郎]]は「私は相当競馬を見てきているが、こういうタイプの逃げ馬は全く見たことがない」とした上で「こんな馬はこれから出るんだろうか、と思うくらい」と述べている<ref group="†">こう述べたのは1998年の有馬記念当日で、併せて同レースに出走予定のセイウンスカイとの比較を問われ「(もしサイレンススズカが出走していたら)結果はどうあれ、道中はセイウンスカイより絶対に先に行く」と断言していた。</ref> === 投票による評価 === [[2000年]]に日本中央競馬会がファンを対象に行われたアンケート「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」においては、25,110票を集めて4位にランクインした。 [[2012年]]に行われた優駿実施のアンケート「距離別最強馬はこの馬だ!」の芝2,000m部門では、2位に圧倒的な差を付けて1位となった。数ある距離別部門の中で、当該距離でのGI勝利がない競走馬の1位は本馬が唯一であった。 [[2013年]]、「中京競馬場開設60周年記念 思い出のベストホース大賞」で1位に選出された<ref>{{Cite web|和書|date=2013-09-29 |url=http://www.jra.go.jp/news/201309/092901.html |title=思い出のベストホース大賞 最終結果発表!【中京競馬場】 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2013-12-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131210105800/http://www.jra.go.jp/news/201309/092901.html|archivedate=2013-12-10}}</ref>。 [[2014年]]、JRA60周年記念競走(JRA全10場各1レース)当日の特別競走のレース名を決める、『JRA60周年記念競走メモリアルホースファン投票』では、阪神競馬場の記念競走である「宝塚記念」部門で[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]、[[オルフェーヴル]]の2頭のクラシック三冠馬を抑え1位となり、当日(6月29日)の第10レースは『永遠の疾風 サイレンススズカカップ』として行われた<ref>『優駿』2015年2月号、p.51</ref>。 === 海外遠征への期待 === アメリカ遠征に関しては、すべての競馬場が同馬の得意とみられていた左回りで<ref name="島田2004-116-117"/>、加えて芝は日本に近い高速馬場、しかも芝路線のレベルは日本と比べればそれほど高いとは言えず、同馬の得意な中距離路線のGIレースが多く施行されていた。武はそうした事実から、「左回りのほうがよかったから、アメリカの芝戦線に一緒に行きたかったですね」と口にしており<ref name="島田2004-116-117"/><ref name="numberplus-5657"/>、「アメリカの2000メートル前後の芝の重賞でスローな流れになったときなんかは、サイレンススズカみたいな馬がビュンビュン飛ばせば絶対に負けないだろうな、と思うことはありますよ」と述べている<ref>島田(2002)p.210</ref>。ライターの関口隆哉によると、陣営がはっきりと明言をしていたわけではないというものの第118回天皇賞でサイレンススズカが順当に勝利を収めていたとしてもマイルチャンピオンシップ・ジャパンカップに出走する可能性は極めて薄かったといい、毎日王冠に出走する前の9月の時点で[[シービスケットハンデキャップ|サイテーションハンデキャップ]]に出走登録を行っていた<ref>関口(2002)pp.196-197</ref>。 <!--出典がないためコメントアウト/ [[伊藤雄二]]は「アメリカでも勝てるんじゃないか?最も理想に近い競走馬」という言葉を残している。--> === 人気 === サイレンススズカの人気が高くなると、馬主の永井は「サイレンススズカは私の馬ではありません。ファンの方、全員の馬なんです」と公言した<ref name="都地-3237"/>。永井によるとサイレンススズカの葬儀の日に稲原牧場についた際にはすでに400から500程のファンが集まっていたといい、「大事にしな、あかんな」と改めて思ったと述べている<ref name="99tou-26-29">『サラブレッド99頭の死に方』pp.26-29</ref>。死後も花や好物であったバナナ<ref>『サラブレッド99頭の死に方』p.16</ref> を持ってお墓参りをしてくれるファンも多く、永井はそうしたファンに向けて何か記念になるものを持って帰ってもらおうかと、ぬいぐるみやタオル、携帯電話のストラップなどのグッズをあるだけ送ったというが、それでもなお多くのファンがお参りに稲原牧場へお参りに来てくれるという<ref name="99tou-26-29"/>。橋田は「日本人は憎らしいほど強いものを嫌う傾向がある」とし、古馬となってのサイレンススズカは同じように憎らしいほど強い馬だったとしつつも高い人気を集めたことについて、弥生賞での出来事があったことでファンに支持されたのではないかと述べている<ref>『優駿』2015年7月号、p.81</ref>。 === 種牡馬としての可能性 === サイレンススズカは5歳時のレースで示したそのレースぶりによって、サンデーサイレンスの後継種牡馬候補として期待を集めることになった。5歳時からすでに橋田や永井のもとへアメリカから種牡馬としての購買のオファーがあり<ref name="都地-192199">都地(1999)pp.192-199</ref>、橋田は公表こそ控えたものの「相当な金額での買い付け希望が出された」とし<ref name="都地-192199"/>、「具体的に金額を提示し、『すぐ買う』と言ってきたんですから、これは本物でしょう」と述べている<ref name="都地-192199"/>。永井もアメリカから種牡馬としてのオファーが殺到していたことを認め、種牡馬入りさせてまたそこから産駒を預かりたいと考えていたが、「[[日高町 (北海道)|日高]]の人たちが種牡馬としてのサイレンススズカに期待していましたから、できるなら北海道においてやりたかった」と述べ、オファーをことごとく断ったものの、それでも[[種牡馬#シャトル種牡馬|シャトル種牡馬]]としての依頼を提示され、『とにかくアメリカにサイレンススズカの血を残してくれ』『何かいい方法を考えてくれ』と依頼されたという<ref name="都地-192199"/>。死後には[[社台グループ]]が以下の追悼コメントを発表し、その死を悼んだ<ref name="都地-192199"/>。 {{Quotation|まだまだこれからもっと走れると思っていた矢先のことで、非常に残念な思いでいっぱいです。うちの生産馬ではないので詳しいコメントは失礼になりますが、サンデーサイレンスの産駒としては異質なタイプで、その卓越したスピードから生産地では種牡馬として大変期待を懸けていたことは窺われます。残念としか申し上げられません}} 新聞記者の[[野元賢一]]は、「優秀ではあるがどこか父の縮小再生産のような馬が多いサンデーサイレンス産駒の中で、例外はサイレンススズカと[[アグネスタキオン]]である」<ref>{{Cite web|和書|date=2002-08-25 |url=http://www.nikkei.co.jp/keiba/column/20020825e1hi00o525.html |title=ポストサンデーの日本競馬――名種牡馬の死は何をもたらすのか? |publisher=サラブnet |accessdate=2018-07-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180726170152/http://www.nikkei.co.jp/keiba/column/20020825e1hi00o525.html|archivedate=2018-07-26}}</ref><ref group="†">この記述はディープインパクトのデビュー前になされたものである。</ref> と評しており、数多のサンデーサイレンス産駒の中においても際立って高い能力を持っていると目されていたことも、種牡馬としての期待を高めさせる要因となっていた<ref group="†">アグネスタキオンは2008年にリーディングサイアーとなり、父サンデーサイレンスの連続リーディングサイアー戴冠を止めた。上記野元の評価は、アグネスタキオンの初年度産駒が誕生する前年に書かれたものである。</ref>。が、様々な期待や評価があったものの事故死により子孫を残せず、サイレンススズカの種牡馬能力については全て推測の域を出ないままとなった。 死亡時に全兄弟はおらず、母のワキアが1996年に死亡していたため<ref name="都地-208215">都地(1999)pp.208-215</ref>、生産でサイレンススズカ同様の配合を再現するのは不可能であった。サイレンススズカの事実上の代替馬として期待を集めたのは半弟の[[ラスカルスズカ]]であったが、種牡馬入りしたものの重賞勝ち馬を出せないまま2010年に種牡馬登録を抹消されている。サイレンススズカの事故死の翌年に、姉のワキアオブスズカにサンデーサイレンスが交配され生まれた[[スズカドリーム]]が2003年のクラシック戦線に顔を出し、サイレンススズカの甥として期待を集めたものの、2005年に調教中の事故で死亡している。 <!--出典がないためコメントアウト/ 個体の能力の魅力に加え、サンデーサイレンス直仔の上に[[ノーザンダンサー]]の血が入っていないというその血統は、ノーザンダンサー系の血で飽和状態にあった当時の<ref group="†">1998年時点で見れば、繁殖馬についていえばサンデーサイレンスの血はほぼ直仔世代に限られ、当時の最大勢力の血筋はノーザンダンサーであった。サンデーサイレンス孫世代の種牡馬・繁殖牝馬が爆発的に広まり、同時期の[[ブライアンズタイム]]の成功もあいまって[[ヘイルトゥリーズン系]]の血が一気に飽和状態になっていったのは後年のことである。</ref>日本のサラブレッド牝馬の交配相手として特に優れた条件の一つであり、これに父馬としての能力の遺伝という両面で期待を集めていた。そのため、本馬の事故死に対する生産界のショック・落胆には大きなものがあった。本馬の事故死に対する生産界のショック・落胆には大きなものがあった。死後には、 * 「サンデーサイレンスの最良の仔であり最高の後継種牡馬になり得た」(吉田照哉) * 「文句なしに競走馬として最高の1頭であり種牡馬としても最高の資質があった」(ラフィアン[[岡田繁幸]]) など、競馬・馬産関係者に限っても本馬を高評価するコメントは枚挙に暇が無い。 現代の競馬において重要度が増している中距離戦線での優れたパフォーマンス(レコード勝ち、圧勝)、馬体の美しさも高い評価を受ける要因であった。--> == エピソード == サイレンススズカが誕生した1994年5月1日は[[イタリア]]で[[フォーミュラ1|F1]]・[[1994年サンマリノグランプリ|サンマリノグランプリ]]が行われ、この大会で[[アイルトン・セナ]]が[[アイルトン・セナの死|レース中の事故]]により亡くなった日でもあった<ref>{{Cite news|url= https://www.prcenter.jp/yushun/blog/2014/05/post-1204.html |title= セナが旅立ち、サイレンススズカが誕生した日 |publisher=優駿 Official Blog|accessdate=2020-05-20}}</ref>。馬主の永井が所有馬に付ける「スズカ」の冠号は[[鈴鹿山脈]]が由来であるが<ref>{{Cite book|和書|author=松永郁子|year=2000|month=3|isbn=4796694927|title=競馬名馬&amp;名勝負年鑑1999-2000 ファンのファンによるファンのための年度代表馬|publisher=[[宝島社]]|page=62|chapter=日本一、競馬が好きな馬主 永井啓弐インタビュー}}</ref>、第118回天皇賞が行われた1998年11月1日は[[鈴鹿サーキット]]において[[1998年日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]が行われていた日でもあり<ref name="tsuitou-1617"/>、そのため当日は「スズカ、[[ポールトゥーウィン|ポールトゥウィン]]」という見出しが新聞各紙において活字となっていた<ref name="tsuitou-1617"/>。 == 血統 == === 血統背景 === 父・[[サンデーサイレンス]]は現役時代にGI6勝を挙げ、1989年には[[エクリプス賞|全米年度代表馬]]に選出。1990年に[[社台グループ]]総帥の[[吉田善哉]]が輸入し、1995年から13年連続で[[リーディングサイアー]]となった種牡馬である。 母ワキアは、1000mを57秒台で逃げた快速スプリンターであったが<ref name="100meiba-5254">『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』pp.52-54</ref>、その父Miswakiはスピードに優れた[[ミスタープロスペクター系]]の中では、珍しく産駒の距離適性に幅のある種牡馬であった。また母母Rascal Rascalは、[[シルヴァーホーク (競走馬)|Silver Hawk]]との間に英ダービー馬Benny the Dipを産んでいる<ref name="100meiba-5254"/>。ワキアの産駒は全て中央競馬で複数の勝利を上げ、唯一残した牝馬のワキアオブスズカも重賞馬スズカドリームを出すなど優秀な繁殖成績をあげた。 === 血統表 === {{競走馬血統表 |name = サイレンススズカ |f = *[[サンデーサイレンス]]<br/>Sunday Silence<br />1986 [[青鹿毛]]<br />[[アメリカ合衆国|アメリカ]] |ff = [[ヘイロー (競走馬)|Halo]]<br />1969 [[黒鹿毛]]<br />アメリカ |fm = [[ウィッシングウェル|Wishing Well]]<br />1975 鹿毛<br />アメリカ |fff = [[ヘイルトゥリーズン|Hail to Reason]] |ffm = [[コスマー|Cosmah]] |fmf = Understanding |fmm = Mountain Flower |ffff = [[ターントゥ|Turn To]] |fffm = Nothirdchance |ffmf = [[コズミックボム|Cosmic Bomb]] |ffmm = [[アルマームード|Almahmoud]] |fmff = Promised Land |fmfm = Pretty Ways |fmmf = Montparnasse |fmmm = Edelweiss |m = *[[ワキア]]<br/>Wakia<br />1987 [[鹿毛]]<br />アメリカ |mf = [[ミスワキ|Miswaki]]<br />1978 [[栗毛]]<br />アメリカ |mm = Rascal Rascal<br />1981 黒鹿毛<br />アメリカ |mff = [[ミスタープロスペクター|Mr.Prospector]] |mfm = Hopespringseternal |mmf = [[アックアック|Ack Ack]] |mmm = Savage Bunny |mfff = [[レイズアネイティヴ|Raise a Native]] |mffm = [[ゴールドディガー|Gold Digger]] |mfmf = [[バックパサー|Buckpasser]] |mfmm = Rose Bower |mmff = Battle Joined |mmfm = Fast Turn |mmmf = [[ネヴァーベンド|Never Bend]] |mmmm = Tudor Jet [[ファミリーナンバー|F-No.]][[9号族|9-a]] |ref1 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000282236/pedigree/ JBISサーチ サイレンススズカ 5代血統表] 2017年8月28日閲覧。 |mlin = [[サンデーサイレンス系]]([[ヘイロー系]]) |ref2 = [http://db.netkeiba.com/horse/ped/1994103997/ netkeiba.com サイレンススズカ 5代血統表] 2017年8月28日閲覧。 |flin = [[9号族]] |FN = 9-a |ref3 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000282236/pedigree/ JBISサーチ サイレンススズカ 5代血統表] 2017年8月28日閲覧。 |inbr = [[ターントゥ|Turn-to]] 4×5 |ref4 = [http://www.jbis.or.jp/horse/0000282236/pedigree/ JBISサーチ サイレンススズカ 5代血統表] 2017年8月28日閲覧。 }} [[競走馬の血縁関係|兄弟]] * ワキアオブスズカ(姉) - 父ダンスオブライフ。中央競馬2勝。スズカドリームの母。 * コマンドスズカ(弟) - 父[[コマンダーインチーフ]]。中央競馬5勝。[[腸ねん転]]で急死。 * [[ラスカルスズカ]](弟) - 父コマンダーインチーフ。中央競馬4勝。天皇賞(春)2着・[[阪神大賞典]]2着 近親 * [[ベニーザディップ|Benny the Dip]](叔父)- [[ダービーステークス|英ダービー]]優勝。父Silver Hawk * クリプティックラスカル(叔父) - フォアラナーステークスなど米GIII3勝。父Cryptoclearance。日本で種牡馬として供用された。 * スズカドリーム (甥)- 中央競馬2勝。[[京成杯]]優勝・[[毎日杯]]3着。調教中に故障発生安楽死。父サンデーサイレンス。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *[[安西美穂子]]『サイレンススズカ物語~地上で見た夢~』(イースト・プレス、1999年)ISBN 4872571916 *柴田哲孝『サンデーサイレンスの奇跡』(KKベストセラーズ、2008年)ISBN 4584130841 *[[島田明宏]]『武豊インタビュー集 戴冠』(広済堂出版、2002年)ISBN 4331509311 *島田明宏『武豊インタビュー集〈2〉美技』(広済堂出版、2003年)ISBN 4331510077 *島田明宏『武豊インタビュー集〈3〉躍動』(広済堂出版、2004年)ISBN 4331510646 *関口隆哉『THE LAST RUN―名馬たちが繰り広げた最後の戦い』(オークラ出版、2002年)ISBN 4775500953 *松永郁子『名馬は劇的に生きる』(講談社、2000年)ISBN 4062102803 *都地政治『サイレンススズカ-無垢なる疾走』(ザ・マサダ、1999年)ISBN 4883970000 *渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』(講談社、2004年)ISBN 4062722402 *『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 4160081088 *『サラブレッド99頭の死に方』(流星社、2000年)ISBN 4947770007 *『星になった名馬たち』(渡辺敬一郎監修、オークラ出版、2000年)ISBN 4872785185 *『名馬物語 The Best Selection』(エンターブレイン、2002年)ISBN 4757708750 *『名馬物語 - The best selection(3)』(エンターブレイン、2003年)ISBN 4757720793 *『競馬モンスター列伝 ターフに降臨した"絶対王者"たちの系譜!』(洋泉社、2005年)ISBN 4896919564 *『サンデーサイレンス大全―重賞連対産駒完全リスト』(宝島社、2006年)ISBN 4796652000 *『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 4022744278 *『[[サラブレ]]』1998年1月号 *『追悼 サイレンススズカ』(『サラブレ』1998年12月号別冊) *『臨時増刊号 Gallop'98』(産業経済新聞社、1999年) *『優駿』(日本中央競馬会)1999年1月号、2001年2月号、2007年12月号、2008年11月号、2015年2月号、2015年7月号 *『週刊100名馬 Vol.74 サイレンススズカ』(産業経済新聞社、2001年) *『[[Sports Graphic Number]]』689号([[文藝春秋]]、2007年) **片山良三『サイレンススズカ「1分56秒」』 == 関連項目 == * [[長谷川涼香]] - 当馬が名前の由来の[[競泳選手]] == 外部リンク == * {{競走馬成績|netkeiba=1994103997|yahoo=1994103997|jbis=0000282236|racingpost=468768/silence-suzuka}} * {{競走馬のふるさと案内所|0000282236|サイレンススズカ}} * [https://ameblo.jp/uechin-hitorigoto/ 上村洋行公式ブログ] ** [https://ameblo.jp/uechin-hitorigoto/entry-10384272303.html 【サイレンススズカ】NO1] ** [https://ameblo.jp/uechin-hitorigoto/entry-10389778791.html 【サイレンススズカ】NO2] ** [https://ameblo.jp/uechin-hitorigoto/entry-10395166403.html 【サイレンススズカ】NO3] ** [https://ameblo.jp/uechin-hitorigoto/entry-10401155221.html 【サイレンススズカ】最終章] {{宝塚記念勝ち馬}} {{JRA賞特別賞}} {{デフォルトソート:さいれんすすすか}} [[Category:1994年生 (競走馬)|日さいれんすすすか]] [[Category:1998年没]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:日本生産の競走馬]] [[Category:日本調教の競走馬]] [[Category:現役中に死亡した競走馬]] [[Category:安楽死された競走馬]]
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ウガンダ
座標: 北緯1度 東経32度 / 北緯1度 東経32度 / 1; 32 ウガンダ共和国(ウガンダきょうわこく、英語: Republic of Uganda、スワヒリ語: Jamhuri ya Uganda)、通称ウガンダは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にケニア、南にタンザニア、南西にルワンダ、西にコンゴ民主共和国、北に南スーダンとの国境に囲まれた内陸国である。首都はカンパラ。 ナイル川(白ナイル)の始まるヴィクトリア湖に接している。旧イギリス植民地。国獣はウガンダ・コープ、国鳥はホオジロカンムリヅルであり、国旗や国章にも採用されている。 スワヒリ語での正式名称は、Jamhuri ya Uganda(ジャムフリ・ヤ・ウガンダ)、英語での正式名称は、Republic of Uganda(リパブリック・オヴ・ウガンダ或はユガンダ)。通称、Uganda。 日本語の表記は、ウガンダ共和国。通称、ウガンダ。 「ウガンダ」の名はブガンダ王国のスワヒリ語名称にちなむ。 16世紀初頭、ブニョロ、ブガンダ、アンコーレ、ルワンダ、ブルンディなどの大湖地方の諸王国が成立した。17世紀中ごろ、ウガンダ西部に位置するブニョロ王国が最盛期を迎えたが、19世紀に入るとやや勢力が衰えを見せ、1830年代には南部地方がトロ王国として独立した。19世紀になるとブガンダ王国がブニョロに代わってこの地域の覇権を握り、ブニョロと抗争を繰り返した。 19世紀末になるとヨーロッパ諸国の宣教団がこの地域に入り、盛んに布教を行う一方、ドイツとイギリスの間でこの地域の領有をめぐり競争が起こった。この競争は1890年7月1日、ヘルゴランド=ザンジバル条約締結によってイギリスの勢力範囲となることで決着し、1894年にはウガンダ王国を保護領化することでイギリス領ウガンダ植民地(英語版)が成立した。イギリスはさらにブニョロ、アンコーレ、トロなどの諸王国や周辺各地を保護領に統合したが、保護領の統治は間接統治を旨としたため諸王国の統治体制は維持された。なかでも保護領の中心的存在であるブガンダ王国の影響力は大きく、以後の保護領統治に大きな影響を与え続けた。1901年にはウガンダ鉄道がインド洋からヴィクトリア湖畔にあるケニアのキスムにまで到達し、湖の汽船との連絡で海外貿易ルートが大きく改善されたため、綿花が導入されて盛んに栽培されるようになり、1970年ごろまでウガンダの主要輸出品となった。1931年にはウガンダ鉄道の本線がキスムからカンパラまで延長されたが、敷設に英領インド人が投入されたことにより、インド系の移民がその後も増えていった。 第二次世界大戦後、徐々にウガンダでも民族運動が盛んとなってきたものの、ウガンダ保護領内で最も有力な地域であるブガンダ王国は連邦制を強く主張し、保護領内に残存する諸王国もそれに賛同して、王国を持たない諸地域の支持する単一国家制と激しく対立し、独立への動きはやや遅れた。やがて1961年には建国されるべき新国家においてブガンダに連邦の地位を、その他諸王国に関しては半連邦の地位を認めることでこの問題はやっと終息した。独立時には北部や東部を地盤とするウガンダ人民会議、南部のカトリック教徒を中心とする民主党、そしてブガンダの保守派に強く支持される王党派のカバカ・イェッカの3大政党がしのぎを削り、結局ウガンダ人民会議とカバカ・イェッカの連立内閣が成立してウガンダ人民会議のミルトン・オボテが首相に就任し、1962年10月9日に英連邦王国の一員として独立した。 翌1963年10月8日にイギリス総督に代わってブガンダのムテサ2世が大統領に就任し共和制へ移行した。 ウガンダは独立したものの、諸王国、とくにブガンダ王国が国内で大きな権力を持っていることで中央政府とブガンダ政府との間で不協和音が生じ始めた。1966年、首相のウガンダ人民会議のミルトン・オボテは憲法を停止して連邦制を廃止し、これに反対した大統領兼ブガンダ国王ムテサ2世を排除して一党制を敷き、社会主義路線を掲げた。 1971年1月に軍司令官イディ・アミンがクーデターで政権を掌握、独裁政治を敷いた。アミンは恐怖政治を行い、経済を握っていたインド人を追放することで国家経済は破綻し、社会的にも大混乱が起きた。1978年にウガンダ軍はタンザニアに侵攻しウガンダ・タンザニア戦争が勃発したが、逆にタンザニア軍に反攻され、1979年には反体制派のウガンダ民族解放軍(英語版) (UNLA) とタンザニア軍の連合軍に首都のカンパラまで攻め込まれ、アミンは失脚してサウジアラビアに亡命した。 アミン失脚後暫定政権のトップに立ったユスフ・ルレは間もなく失脚し、次いで大統領となったゴッドフリー・ビナイサもクーデターで失脚した。政権を握った軍はすぐに選挙を実施し、1980年には選挙で勝利したオボテが大統領に復帰した。しかしオボテ政権は安定せず、1981年にはヨウェリ・ムセベニが国民抵抗運動を率いて蜂起し、ウガンダ内戦(英語版)(1981年 - 1986年)が始まった。国民抵抗運動が徐々に勢力範囲を広げていく中、1985年にはティト・オケロがクーデターを起こしてオボテを追放し政権を握ったものの、国民抵抗運動の総攻撃によって1986年にカンパラが陥落、ムセベニが大統領に就任した。 政権を握ったムセベニは経済や社会の安定化に力を注ぎ、ウガンダは安定を取り戻した。一方で北部では、アチョリ人のアリス・アウマが聖霊運動(HSM)を率いて反乱を起こしたが、1987年にウガンダ政府軍に敗北してアウマはケニアに亡命し、ジョゼフ・コニー率いる神の抵抗軍 (LRA) に残存勢力が合流して強力な反政府勢力が登場し、21世紀にいたるまで抗争が続いている。 1996年、コンゴ東部でローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) が蜂起すると、ムセベニはルワンダのポール・カガメとともに反乱軍側に支援を行い、これによってAFDLはザイールの首都キンシャサを掌握、カビラは大統領に就任した。しかし権力を握ったカビラはAFDLの主力であったバニャムレンゲを遠ざけるようになり、バニャムレンゲはコンゴ民主連合を結成して今度はカビラ政権に対して1998年に反乱を起こし、第二次コンゴ戦争が勃発した。ウガンダとルワンダはコンゴ民主連合に軍事支援を行い、さらに直接コンゴ東部に出兵して一部地域を占領した。2002年にウガンダ軍はコンゴ東部から撤兵したが、この紛争はウガンダの対外関係を大きく悪化させることとなった。 2006年8月12日、ウガンダ政府と反政府武装組織「神の抵抗軍」 (LRA) との和平交渉は(en:2006–2008 Juba talks)、双方の戦闘行為停止に関する合意が出来ないまま14日まで休会されることになった。26日、3週間以内にスーダン南部に設けられる2か所のキャンプに集結し、戦闘と敵対的宣伝の停止において合意した。 2007年8月3日、アルバート湖(ホイマ県タロー石油)で石油探査中ヘリテージ・オイル社がコンゴと交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。ヘリテージ・オイルは民間軍事会社のエグゼクティブ・アウトカムズで共同経営者だったトニー・バッキンガム(英語版)の設立した紛争地帯専門の石油会社である。 2007年11月29日、ウガンダでエボラ出血熱が発生し、51人が感染し、16人が死亡した。新種のエボラウイルスである。 2008年12月14日から2009年3月15日まで、ウガンダと南スーダン自治政府、コンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍に対するガランバ攻勢(英語版)が行われた。 2010年7月11日、ウガンダの首都カンパラでソマリアの反政府軍勢力アル=シャバーブ(犯行声明を出した)による同時自爆テロが起き、W杯観戦中の73人が死亡した。政府は16日、現在ソマリアにアフリカ連合 (AU) ソマリア派遣団 (AMISOM) ウガンダ部隊2500人に2000人増派する方針を明らかにした。これに対し従来から派兵を批判してきた野党は、「軍事冒険主義が恐ろしい結末を招いた」と批判を強めている。 ウガンダは1995年10月に発効した憲法に基づき統治されている。国家元首は大統領で、国民の直接選挙で選出され任期は5年。大統領は首相・閣僚任免権など強大な権力が保障されている。 かつては国民抵抗運動 (National Resistance Movement) (NRM) が1986年以降無党制を導入していたため、他にウガンダ人民会議、ウガンダ愛国運動 (Uganda Patriotic Movement) (解散)、保守党などの政党が存在するものの、NRM以外の政治活動は禁止されていた。ウガンダ議会選挙への立候補も特定の党員資格を持つ者は許されず、個人資格のみ許可されていたが、しかし個人資格といってもNRMの選挙機関「ムーブメント」の組織的支援を受けた者しか、事実上当選しない仕組みとなっていた。しかしこの体制には不満も多く、これを受けて複数政党制の導入をめぐる国民投票が2000年6月に実施されたが、野党のボイコットにより一党制が「圧倒的支持」を受けた。しかしその後も不満が多いことを見て取った国民抵抗運動は2005年7月に再度国民投票を行い、複数政党制が支持されたため、2006年の選挙以降は登録された政党が公的に活動し、選挙に候補者を送ることができるようになった。 また、ウガンダ自体は共和制であるが、ウガンダ国内にトロ、ブニョロ、ブガンダ、ブソガ、アンコーレの伝統的な地方王国が存在している。これらは1967年に一度廃止されたものが1990年代に復活したものであり、各王国の国王は「文化的指導者」と位置づけられ、政治的な力を持たない儀礼的な存在である。しかしながら、廃止以前に最も有力だったブガンダ王国ではいまだに自治や連邦制の復活要求が絶えず、南西部のアンコーレ王国は階級対立によって王国自体の復活ができず、ブソガ王国では王の選出方法で対立が生じるなど、様々な問題も起きている。 地方行政は、地方評議会 (LC) 制度によって行われている。地方自治体への予算配分は、2005年度には政府予算総額の32%が充てられた。2000年代末ごろから条件付き交付金、無条件交付金平等化交付金の3種類の割合が大きく増加した。しかし、地方自治体の自主財源で賄われる割合が低下し、中央政府の交付金に頼らざるを得なくなってきている。 ウガンダは「東アフリカ高原」(英語: East African plateau)に位置し、国平均の面積は241,039平方キロメートルであるが、ヴィクトリア湖などの領域内水面積約43,900平方キロメートル(全体の18%)を除くと陸地面積は約197,000平方キロメートルで、平均標高1,100mで北のスーダン平原(英語版)になだらかに下る。中部にキョガ湖(英語: Lake Kyoga)があり、南部と共に湿地帯である。全体がナイル盆地(英語: Nile basin)の中にあり、ナイル川の水はキョガ湖に続き、コンゴ民主共和国との国境のアルバート湖に注ぎ、そこから北の南スーダンに流れる。西部国境のアルバート湖からエドワード湖にかけては大地溝帯の西リフトに位置する。ウガンダの国立公園は10ヶ所存在しており、他には野生生物保護区が13ヶ所、中央森林保護区が506ヶ所指定されている。 赤道直下であるが、気候は場所により少し異なる。南部は通年で雨が多い。ヴィクトリア湖北岸のエンテベの雨季は3月から6月と11月から12月である。北部では乾季が多く、南スーダン国境から120kmのグルでは11月から2月が非常に乾燥している。コンゴ民主共和国に近い南西部のルウェンゾリは一年を通して雨が多い。ビクトリア湖が気候に大きく影響し、気温の変化を妨げ、雲と雨を発生させている。首都カンパラはエンテベに近い北岸に位置する。 約345種の哺乳類と1020種の鳥類の生息が確認されている。 ウガンダではムセベニ政権の成立以後、県の増設が盛んに行われてきた。1990年代初頭には33の県があったものが、2006年には80県、2010年には112県と年々増加している。2020年7月時点で、135の県と県と同格のカンパラ市(カンパラを県に含めた場合は136県)から成り立つ。 これらの県は、中央地域、東部地域、北部地域、西部地域の4つの地域に大きく分けられている。ただし地域に行政機構は設置されていないため、地理的概念としてのみ地域は存在している。 ウガンダで最も大きな都市は首都のカンパラであり、2011年の人口は165万人に上る。さらにカンパラ近郊にはナンサナ、キラ、マキンダイなどの衛星都市が連なり、大都市圏を形成している。またカンパラ南郊のエンテベにはウガンダ唯一の国際空港であるエンテベ国際空港が存在する。 カンパラ都市圏以外では、西部ではムバララやカセセ、北部の中心都市であるグル、中央地域南部のマサカなどが10万人を超える都市である。 広大で肥沃な土地、豊富な降雨、鉱物資源に恵まれ、大きな開発ポテンシャルを持つが、これまでの政治的不安定と誤った経済運営で、ウガンダは世界最貧国として開発から取り残された。アミン統治の混乱後、1981年に経済回復計画で外国支援を受け始めたが、1984年以降の金融拡大政策と市民闘争の勃発が回復を遅らせた。1986年に経済再生を掲げた政府は交通と通信の再構築を始めた。1987年に外部支援の必要性からIMFと世界銀行に対し政策を明言した。この政策は実行され、インフレは2003年の7.3%まで着実に減少した。 農業ではアフリカでも有数のコーヒー生産国で、2002年の輸出額の27%を占める。ウガンダのコーヒーはプランテーション方式で生産されるのではなく、土着の小農民が生産し、その生産物を買い付け業者が買い、輸出するという方式である。かつては綿花が最も有力な産品であり、第二次世界大戦前は日本の商社も多く買い付けに訪れたほどであったが、1970年ごろを境として衰退し、輸出品としてほとんど重要性を持たなくなった。ほかに輸出品として衣料、動物の皮、バニラ、野菜、果物、切花、魚が成長しており、茶、タバコも依然重要な産品である。 農業生産としてはバナナの生産量が非常に多く、なかでも料理用バナナは世界でも突出した最大の生産国である。料理用バナナの生産量は2009年には951万トンを記録したが、これは世界の料理用バナナ生産量の4分の1を占める。さらに果物バナナも含めた総生産量は2008年に約1000万トンとなり、インドに次ぐ世界2位の生産量となっている。ただしこのほとんどは国内で消費され、輸出はほとんど行われない。ウガンダのバナナは、主食用のハイランド・バナナ、軽食用のプランテン・バナナ、果物バナナの3種類に大別され、ハイランド・バナナの生産量が最も大きく文化的にも重要である。 工業はセメントなど再生中である。プラスチック、石けん、ビールなど飲料は国内生産されている。Tororoセメント社などは東アフリカ諸国の需要に応えている。 ウガンダの交通は、主としてカンパラから伸びる道路網が約3万km、うち舗装が2800km。鉄道は1350kmで、インド洋に面したケニアのモンバサからトロロまで、さらにカンパラ、ムバレなどへの支線がある。国際空港はビクトリア湖に面したエンテベ空港で、カンパラから32kmである。 通信はウガンダ通信委員会(UCC)が管理する。 1980年代までは国内エネルギー需要の95%は木炭と木材で賄われていた。商業需要の23%が石油製品により、わずか3%が電力に頼っていた。政府は薪ストーブ使用を奨励したが普及に至らなかった。現在改善されたとは言え、数時間に及ぶ停電が、とくに農村部で頻発する。 白ナイル川を利用した電力開発は遅れていたが、2000年のナルバーレ発電所による380メガワット供給開始で、東アフリカでも主要発電国となった。ブジャガリ滝での発電計画は環境破壊が指摘され、世界銀行も2002年に支援中止した。下流のカルマ滝発電所も、この影響で建設開始が遅れている。 ウガンダは国内石油需要日量27千バレル(2015年)の全量をケニアのモンバサ港を介して運ばれる輸入品に頼っている。石油製品パイプラインはケニアのエルドレットまで延びており、その先はトラック輸送である。カンパラまで320kmのパイプライン延伸を調査することで両国が1995年に合意した。しかし、2006年イギリスの石油会社(ヘリテージ・オイル社)によりアルバート湖付近で油田が発見されたことにより、ウガンダからインド洋への原油パイプライン建設計画が石油会社から出された。大統領は原油輸出に反対で、カンパラに製油所を建設し、近隣諸国への石油製品輸出を見込んでいる。一方、2007年8月アルバート湖での石油探査作業中に、コンゴ民主共和国軍からヘリテージ・オイル社が攻撃を受け交戦状態になり、死者が出ると共にウガンダ兵が拘束されるという事件が発生した。両国はアルバート湖の国境、とくにルクワンジ島の領有を巡って協議している。 もっとも人口が多い民族は首都カンパラを中心とした中央地域に主に居住するバンツー系のガンダ族であり、2002年には人口の約17%を占めている。国土の南部はバンツー系民族が多数を占める地域であり、マサバ族(英語版)、ソガ族(フランス語版)、ニャンコレ族(Nkole、Nyankore)、ニョロ族、キガ族(英語版)などのバンツー系諸民族が暮らしている。これに対し北部はナイル系諸民族が多数を占め、ランゴ族(英語版)、アチョリ族、カラモジョン族(英語版)、テソ族(英語版)などのナイル系諸民族が存在する。北西部にはルグバラ人などの中央スーダン系諸民族が生活する。インド系は主に都市部に居住し、ウガンダ経済の大きな部分を担っている。1970年代にイディ・アミン政権がインド人追放を行った時に大半は出国したが、アミン政権が倒れるとかなりの数のインド系住民が再びウガンダに戻った。 公用語は英語であるが、2005年にスワヒリ語が公用語に追加された。しかしスワヒリ語は話者が少なく、北部を除いて共通語としても普及していないため、ウガンダ国内における重要性はそれほど高くない。スワヒリ語よりも使用頻度が高いのは首都カンパラを中心に話されるガンダ語であり、旧ブガンダ地域を中心に国内の多くの地域において共通語として通用する。このほか、ソガ語、マサバ語、ニャンコレ語、ニョロ語、キガ語、テソ語、ルオ語、ランゴ語、トロ語などの各民族語が使用されている。 結婚時に改姓すること(夫婦同姓)をしないこと(夫婦別姓)も可能。 2002年の統計では、ウガンダで最も多数派の宗教はローマ・カトリックであり、全人口の42%を占める。次いでプロテスタントが36%を占め、他宗派も含めたキリスト教の信者は全人口の85%にのぼる。イスラム教徒は12%を占め、のこり3%が伝統宗教や諸宗教を信仰する。 1991年にアレクサンドリア総主教座を離れ、その後、いくつかの古暦派の管轄を移っていた信者グループの代表であるヨアキム・チインバは、2012年にロシア正教古儀式派教会の指導者であるコルニーリイ府主教に手紙を書いた。この手紙の中で、チインバはロシア正教古儀式派教会に参加したいという気持ちを表明した。2013年には、ロシア正教古儀式派教会の府主教評議会は、ロシア正教古儀式派教会のもとで、チインバを司祭として按手し、彼によって導かれている信者を受け入れることを決定した。 2017年現在、ウガンダには約150人の正教古儀式派信徒が住んでおり、ほぼ同人数の3つの会衆に分かれている。ウガンダにある唯一の古儀式派教会はカンパラ郊外のムペルバにある。ガンダ語が祈祷の言語として使用されている。この会衆は、2015年のヨアキム・チインバ神父の死後、ロシア正教会首都圏教会評議会で選出されたヨアヒム・バルシンビ神父によって司牧されている。 土着の呪術への信仰が根強く、その呪術の犠牲として子供やアルビノの人の人体や臓器が使われるため、そのための殺人が社会問題となっている。特に選挙が行われる直前にはその被害者の数が増えると言う。 ウガンダの成人識字率は73%(15歳以上、2005〜2009年)である。初等教育においては1997年より無償化政策が開始され就学率は大きく向上したが、児童数の急増に施設や教育の質が追い付かず様々な問題も起きている。高等教育においては1922年に設立されたマケレレ大学が名門校として知られている。 慢性的なビタミンA欠乏症に悩まされる住民が多い。2010年代においても、ウガンダの5歳未満の子どもの52%がビタミン欠乏症からなる発育不良や失明の危険にさらされている。このため、政府や国際的な研究機関の協力により遺伝子組み換え作物の導入といった対策も講じられている。 ウガンダはアフリカ大陸の国のうちで、HIV/AIDSの流行に対する国家的な対策が、効果的であった国のひとつである。1986年の内戦の後のムセベニ政権がエイズ対策を掲げ世界のエイズ研究者が集まり、新しくHIVに感染する割合が劇的に低下した。 1990年代初期のHIV感染率は18.5%と推測されたが、婚姻外の禁欲や夫婦間の貞潔などの純潔教育を推進した甲斐あって、2002年には5%にまで減少した。しかし最新の統計では約7%に増加している。2013年12月には性的興奮を促す商品や行動などを違法とする「反ポルノ法案」が国会で可決された。 2014年にウガンダ国内で発生した誘拐事件は、未遂を含め2,898件が発生している。被害者の半数以上が未成年者であり、強姦目的のほか新生児が悪魔払いなどの目的で誘拐されることも多い。 ウガンダの警察は、1906年に英国政府によって「保護領警察」という立ち位置で設立された。 設立当初は現地民の暴動などを鎮圧することを主な責務としていた為に軍警察の色合いを見せていたが、ウガンダ独立後は国家警察としての体を成して行った。 ウガンダ料理は、イギリス料理やアラブ料理(英語版)、アジア料理の影響を各所で受けている面を持つ。 多くの料理には、ジャガイモやヤムをはじめとする様々な野菜類、プランテンなどのバナナ類、その他にトロピカルフルーツが用いられている。 ウガンダを代表する詩人にはムコタニ・ルギエンド(英語版)が挙げられる。彼は作家としても活動しており、ジャーナリストの一面も持ち合わせている。 ウガンダは現在、アフリカ大陸における音楽とエンターテインメントの部門で3位にランクされている。 ウガンダには文化遺産が1件、自然遺産が2件ある。 文化遺産 自然遺産 ウガンダ国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。サッカーの他にはホッケーやロードレースに人気が集まっており、格闘技ではボクシングに注目が集まっている。陸上競技においては2014年アフリカクロスカントリー選手権(英語版、ロシア語版)と、2017年IAAF世界クロスカントリー選手権(英語版、ロシア語版)が同国で開催されている。 1968年にプロサッカーリーグの「ウガンダ・プレミアリーグ」が創設された。ウガンダサッカー連盟(英語版)によって運営されており、中国のメディア企業である四達時代(英語版)の協賛を得ている。サッカーウガンダ代表はFIFAワールドカップへの出場歴はないものの、アフリカネイションズカップには7度出場しており、1978年大会では準優勝に輝いている。
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"16世紀初頭、ブニョロ、ブガンダ、アンコーレ、ルワンダ、ブルンディなどの大湖地方の諸王国が成立した。17世紀中ごろ、ウガンダ西部に位置するブニョロ王国が最盛期を迎えたが、19世紀に入るとやや勢力が衰えを見せ、1830年代には南部地方がトロ王国として独立した。19世紀になるとブガンダ王国がブニョロに代わってこの地域の覇権を握り、ブニョロと抗争を繰り返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "19世紀末になるとヨーロッパ諸国の宣教団がこの地域に入り、盛んに布教を行う一方、ドイツとイギリスの間でこの地域の領有をめぐり競争が起こった。この競争は1890年7月1日、ヘルゴランド=ザンジバル条約締結によってイギリスの勢力範囲となることで決着し、1894年にはウガンダ王国を保護領化することでイギリス領ウガンダ植民地(英語版)が成立した。イギリスはさらにブニョロ、アンコーレ、トロなどの諸王国や周辺各地を保護領に統合したが、保護領の統治は間接統治を旨としたため諸王国の統治体制は維持された。なかでも保護領の中心的存在であるブガンダ王国の影響力は大きく、以後の保護領統治に大きな影響を与え続けた。1901年にはウガンダ鉄道がインド洋からヴィクトリア湖畔にあるケニアのキスムにまで到達し、湖の汽船との連絡で海外貿易ルートが大きく改善されたため、綿花が導入されて盛んに栽培されるようになり、1970年ごろまでウガンダの主要輸出品となった。1931年にはウガンダ鉄道の本線がキスムからカンパラまで延長されたが、敷設に英領インド人が投入されたことにより、インド系の移民がその後も増えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、徐々にウガンダでも民族運動が盛んとなってきたものの、ウガンダ保護領内で最も有力な地域であるブガンダ王国は連邦制を強く主張し、保護領内に残存する諸王国もそれに賛同して、王国を持たない諸地域の支持する単一国家制と激しく対立し、独立への動きはやや遅れた。やがて1961年には建国されるべき新国家においてブガンダに連邦の地位を、その他諸王国に関しては半連邦の地位を認めることでこの問題はやっと終息した。独立時には北部や東部を地盤とするウガンダ人民会議、南部のカトリック教徒を中心とする民主党、そしてブガンダの保守派に強く支持される王党派のカバカ・イェッカの3大政党がしのぎを削り、結局ウガンダ人民会議とカバカ・イェッカの連立内閣が成立してウガンダ人民会議のミルトン・オボテが首相に就任し、1962年10月9日に英連邦王国の一員として独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "翌1963年10月8日にイギリス総督に代わってブガンダのムテサ2世が大統領に就任し共和制へ移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ウガンダは独立したものの、諸王国、とくにブガンダ王国が国内で大きな権力を持っていることで中央政府とブガンダ政府との間で不協和音が生じ始めた。1966年、首相のウガンダ人民会議のミルトン・オボテは憲法を停止して連邦制を廃止し、これに反対した大統領兼ブガンダ国王ムテサ2世を排除して一党制を敷き、社会主義路線を掲げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1971年1月に軍司令官イディ・アミンがクーデターで政権を掌握、独裁政治を敷いた。アミンは恐怖政治を行い、経済を握っていたインド人を追放することで国家経済は破綻し、社会的にも大混乱が起きた。1978年にウガンダ軍はタンザニアに侵攻しウガンダ・タンザニア戦争が勃発したが、逆にタンザニア軍に反攻され、1979年には反体制派のウガンダ民族解放軍(英語版) (UNLA) とタンザニア軍の連合軍に首都のカンパラまで攻め込まれ、アミンは失脚してサウジアラビアに亡命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アミン失脚後暫定政権のトップに立ったユスフ・ルレは間もなく失脚し、次いで大統領となったゴッドフリー・ビナイサもクーデターで失脚した。政権を握った軍はすぐに選挙を実施し、1980年には選挙で勝利したオボテが大統領に復帰した。しかしオボテ政権は安定せず、1981年にはヨウェリ・ムセベニが国民抵抗運動を率いて蜂起し、ウガンダ内戦(英語版)(1981年 - 1986年)が始まった。国民抵抗運動が徐々に勢力範囲を広げていく中、1985年にはティト・オケロがクーデターを起こしてオボテを追放し政権を握ったものの、国民抵抗運動の総攻撃によって1986年にカンパラが陥落、ムセベニが大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "政権を握ったムセベニは経済や社会の安定化に力を注ぎ、ウガンダは安定を取り戻した。一方で北部では、アチョリ人のアリス・アウマが聖霊運動(HSM)を率いて反乱を起こしたが、1987年にウガンダ政府軍に敗北してアウマはケニアに亡命し、ジョゼフ・コニー率いる神の抵抗軍 (LRA) に残存勢力が合流して強力な反政府勢力が登場し、21世紀にいたるまで抗争が続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1996年、コンゴ東部でローラン・カビラ率いるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) が蜂起すると、ムセベニはルワンダのポール・カガメとともに反乱軍側に支援を行い、これによってAFDLはザイールの首都キンシャサを掌握、カビラは大統領に就任した。しかし権力を握ったカビラはAFDLの主力であったバニャムレンゲを遠ざけるようになり、バニャムレンゲはコンゴ民主連合を結成して今度はカビラ政権に対して1998年に反乱を起こし、第二次コンゴ戦争が勃発した。ウガンダとルワンダはコンゴ民主連合に軍事支援を行い、さらに直接コンゴ東部に出兵して一部地域を占領した。2002年にウガンダ軍はコンゴ東部から撤兵したが、この紛争はウガンダの対外関係を大きく悪化させることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2006年8月12日、ウガンダ政府と反政府武装組織「神の抵抗軍」 (LRA) との和平交渉は(en:2006–2008 Juba talks)、双方の戦闘行為停止に関する合意が出来ないまま14日まで休会されることになった。26日、3週間以内にスーダン南部に設けられる2か所のキャンプに集結し、戦闘と敵対的宣伝の停止において合意した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2007年8月3日、アルバート湖(ホイマ県タロー石油)で石油探査中ヘリテージ・オイル社がコンゴと交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。ヘリテージ・オイルは民間軍事会社のエグゼクティブ・アウトカムズで共同経営者だったトニー・バッキンガム(英語版)の設立した紛争地帯専門の石油会社である。 2007年11月29日、ウガンダでエボラ出血熱が発生し、51人が感染し、16人が死亡した。新種のエボラウイルスである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2008年12月14日から2009年3月15日まで、ウガンダと南スーダン自治政府、コンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍に対するガランバ攻勢(英語版)が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2010年7月11日、ウガンダの首都カンパラでソマリアの反政府軍勢力アル=シャバーブ(犯行声明を出した)による同時自爆テロが起き、W杯観戦中の73人が死亡した。政府は16日、現在ソマリアにアフリカ連合 (AU) ソマリア派遣団 (AMISOM) ウガンダ部隊2500人に2000人増派する方針を明らかにした。これに対し従来から派兵を批判してきた野党は、「軍事冒険主義が恐ろしい結末を招いた」と批判を強めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ウガンダは1995年10月に発効した憲法に基づき統治されている。国家元首は大統領で、国民の直接選挙で選出され任期は5年。大統領は首相・閣僚任免権など強大な権力が保障されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつては国民抵抗運動 (National Resistance Movement) (NRM) が1986年以降無党制を導入していたため、他にウガンダ人民会議、ウガンダ愛国運動 (Uganda Patriotic Movement) (解散)、保守党などの政党が存在するものの、NRM以外の政治活動は禁止されていた。ウガンダ議会選挙への立候補も特定の党員資格を持つ者は許されず、個人資格のみ許可されていたが、しかし個人資格といってもNRMの選挙機関「ムーブメント」の組織的支援を受けた者しか、事実上当選しない仕組みとなっていた。しかしこの体制には不満も多く、これを受けて複数政党制の導入をめぐる国民投票が2000年6月に実施されたが、野党のボイコットにより一党制が「圧倒的支持」を受けた。しかしその後も不満が多いことを見て取った国民抵抗運動は2005年7月に再度国民投票を行い、複数政党制が支持されたため、2006年の選挙以降は登録された政党が公的に活動し、選挙に候補者を送ることができるようになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、ウガンダ自体は共和制であるが、ウガンダ国内にトロ、ブニョロ、ブガンダ、ブソガ、アンコーレの伝統的な地方王国が存在している。これらは1967年に一度廃止されたものが1990年代に復活したものであり、各王国の国王は「文化的指導者」と位置づけられ、政治的な力を持たない儀礼的な存在である。しかしながら、廃止以前に最も有力だったブガンダ王国ではいまだに自治や連邦制の復活要求が絶えず、南西部のアンコーレ王国は階級対立によって王国自体の復活ができず、ブソガ王国では王の選出方法で対立が生じるなど、様々な問題も起きている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "地方行政は、地方評議会 (LC) 制度によって行われている。地方自治体への予算配分は、2005年度には政府予算総額の32%が充てられた。2000年代末ごろから条件付き交付金、無条件交付金平等化交付金の3種類の割合が大きく増加した。しかし、地方自治体の自主財源で賄われる割合が低下し、中央政府の交付金に頼らざるを得なくなってきている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ウガンダは「東アフリカ高原」(英語: East African plateau)に位置し、国平均の面積は241,039平方キロメートルであるが、ヴィクトリア湖などの領域内水面積約43,900平方キロメートル(全体の18%)を除くと陸地面積は約197,000平方キロメートルで、平均標高1,100mで北のスーダン平原(英語版)になだらかに下る。中部にキョガ湖(英語: Lake Kyoga)があり、南部と共に湿地帯である。全体がナイル盆地(英語: Nile basin)の中にあり、ナイル川の水はキョガ湖に続き、コンゴ民主共和国との国境のアルバート湖に注ぎ、そこから北の南スーダンに流れる。西部国境のアルバート湖からエドワード湖にかけては大地溝帯の西リフトに位置する。ウガンダの国立公園は10ヶ所存在しており、他には野生生物保護区が13ヶ所、中央森林保護区が506ヶ所指定されている。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "赤道直下であるが、気候は場所により少し異なる。南部は通年で雨が多い。ヴィクトリア湖北岸のエンテベの雨季は3月から6月と11月から12月である。北部では乾季が多く、南スーダン国境から120kmのグルでは11月から2月が非常に乾燥している。コンゴ民主共和国に近い南西部のルウェンゾリは一年を通して雨が多い。ビクトリア湖が気候に大きく影響し、気温の変化を妨げ、雲と雨を発生させている。首都カンパラはエンテベに近い北岸に位置する。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "約345種の哺乳類と1020種の鳥類の生息が確認されている。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ウガンダではムセベニ政権の成立以後、県の増設が盛んに行われてきた。1990年代初頭には33の県があったものが、2006年には80県、2010年には112県と年々増加している。2020年7月時点で、135の県と県と同格のカンパラ市(カンパラを県に含めた場合は136県)から成り立つ。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これらの県は、中央地域、東部地域、北部地域、西部地域の4つの地域に大きく分けられている。ただし地域に行政機構は設置されていないため、地理的概念としてのみ地域は存在している。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ウガンダで最も大きな都市は首都のカンパラであり、2011年の人口は165万人に上る。さらにカンパラ近郊にはナンサナ、キラ、マキンダイなどの衛星都市が連なり、大都市圏を形成している。またカンパラ南郊のエンテベにはウガンダ唯一の国際空港であるエンテベ国際空港が存在する。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カンパラ都市圏以外では、西部ではムバララやカセセ、北部の中心都市であるグル、中央地域南部のマサカなどが10万人を超える都市である。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "広大で肥沃な土地、豊富な降雨、鉱物資源に恵まれ、大きな開発ポテンシャルを持つが、これまでの政治的不安定と誤った経済運営で、ウガンダは世界最貧国として開発から取り残された。アミン統治の混乱後、1981年に経済回復計画で外国支援を受け始めたが、1984年以降の金融拡大政策と市民闘争の勃発が回復を遅らせた。1986年に経済再生を掲げた政府は交通と通信の再構築を始めた。1987年に外部支援の必要性からIMFと世界銀行に対し政策を明言した。この政策は実行され、インフレは2003年の7.3%まで着実に減少した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "農業ではアフリカでも有数のコーヒー生産国で、2002年の輸出額の27%を占める。ウガンダのコーヒーはプランテーション方式で生産されるのではなく、土着の小農民が生産し、その生産物を買い付け業者が買い、輸出するという方式である。かつては綿花が最も有力な産品であり、第二次世界大戦前は日本の商社も多く買い付けに訪れたほどであったが、1970年ごろを境として衰退し、輸出品としてほとんど重要性を持たなくなった。ほかに輸出品として衣料、動物の皮、バニラ、野菜、果物、切花、魚が成長しており、茶、タバコも依然重要な産品である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "農業生産としてはバナナの生産量が非常に多く、なかでも料理用バナナは世界でも突出した最大の生産国である。料理用バナナの生産量は2009年には951万トンを記録したが、これは世界の料理用バナナ生産量の4分の1を占める。さらに果物バナナも含めた総生産量は2008年に約1000万トンとなり、インドに次ぐ世界2位の生産量となっている。ただしこのほとんどは国内で消費され、輸出はほとんど行われない。ウガンダのバナナは、主食用のハイランド・バナナ、軽食用のプランテン・バナナ、果物バナナの3種類に大別され、ハイランド・バナナの生産量が最も大きく文化的にも重要である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "工業はセメントなど再生中である。プラスチック、石けん、ビールなど飲料は国内生産されている。Tororoセメント社などは東アフリカ諸国の需要に応えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ウガンダの交通は、主としてカンパラから伸びる道路網が約3万km、うち舗装が2800km。鉄道は1350kmで、インド洋に面したケニアのモンバサからトロロまで、さらにカンパラ、ムバレなどへの支線がある。国際空港はビクトリア湖に面したエンテベ空港で、カンパラから32kmである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "通信はウガンダ通信委員会(UCC)が管理する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1980年代までは国内エネルギー需要の95%は木炭と木材で賄われていた。商業需要の23%が石油製品により、わずか3%が電力に頼っていた。政府は薪ストーブ使用を奨励したが普及に至らなかった。現在改善されたとは言え、数時間に及ぶ停電が、とくに農村部で頻発する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "白ナイル川を利用した電力開発は遅れていたが、2000年のナルバーレ発電所による380メガワット供給開始で、東アフリカでも主要発電国となった。ブジャガリ滝での発電計画は環境破壊が指摘され、世界銀行も2002年に支援中止した。下流のカルマ滝発電所も、この影響で建設開始が遅れている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ウガンダは国内石油需要日量27千バレル(2015年)の全量をケニアのモンバサ港を介して運ばれる輸入品に頼っている。石油製品パイプラインはケニアのエルドレットまで延びており、その先はトラック輸送である。カンパラまで320kmのパイプライン延伸を調査することで両国が1995年に合意した。しかし、2006年イギリスの石油会社(ヘリテージ・オイル社)によりアルバート湖付近で油田が発見されたことにより、ウガンダからインド洋への原油パイプライン建設計画が石油会社から出された。大統領は原油輸出に反対で、カンパラに製油所を建設し、近隣諸国への石油製品輸出を見込んでいる。一方、2007年8月アルバート湖での石油探査作業中に、コンゴ民主共和国軍からヘリテージ・オイル社が攻撃を受け交戦状態になり、死者が出ると共にウガンダ兵が拘束されるという事件が発生した。両国はアルバート湖の国境、とくにルクワンジ島の領有を巡って協議している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "もっとも人口が多い民族は首都カンパラを中心とした中央地域に主に居住するバンツー系のガンダ族であり、2002年には人口の約17%を占めている。国土の南部はバンツー系民族が多数を占める地域であり、マサバ族(英語版)、ソガ族(フランス語版)、ニャンコレ族(Nkole、Nyankore)、ニョロ族、キガ族(英語版)などのバンツー系諸民族が暮らしている。これに対し北部はナイル系諸民族が多数を占め、ランゴ族(英語版)、アチョリ族、カラモジョン族(英語版)、テソ族(英語版)などのナイル系諸民族が存在する。北西部にはルグバラ人などの中央スーダン系諸民族が生活する。インド系は主に都市部に居住し、ウガンダ経済の大きな部分を担っている。1970年代にイディ・アミン政権がインド人追放を行った時に大半は出国したが、アミン政権が倒れるとかなりの数のインド系住民が再びウガンダに戻った。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "公用語は英語であるが、2005年にスワヒリ語が公用語に追加された。しかしスワヒリ語は話者が少なく、北部を除いて共通語としても普及していないため、ウガンダ国内における重要性はそれほど高くない。スワヒリ語よりも使用頻度が高いのは首都カンパラを中心に話されるガンダ語であり、旧ブガンダ地域を中心に国内の多くの地域において共通語として通用する。このほか、ソガ語、マサバ語、ニャンコレ語、ニョロ語、キガ語、テソ語、ルオ語、ランゴ語、トロ語などの各民族語が使用されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "結婚時に改姓すること(夫婦同姓)をしないこと(夫婦別姓)も可能。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2002年の統計では、ウガンダで最も多数派の宗教はローマ・カトリックであり、全人口の42%を占める。次いでプロテスタントが36%を占め、他宗派も含めたキリスト教の信者は全人口の85%にのぼる。イスラム教徒は12%を占め、のこり3%が伝統宗教や諸宗教を信仰する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1991年にアレクサンドリア総主教座を離れ、その後、いくつかの古暦派の管轄を移っていた信者グループの代表であるヨアキム・チインバは、2012年にロシア正教古儀式派教会の指導者であるコルニーリイ府主教に手紙を書いた。この手紙の中で、チインバはロシア正教古儀式派教会に参加したいという気持ちを表明した。2013年には、ロシア正教古儀式派教会の府主教評議会は、ロシア正教古儀式派教会のもとで、チインバを司祭として按手し、彼によって導かれている信者を受け入れることを決定した。 2017年現在、ウガンダには約150人の正教古儀式派信徒が住んでおり、ほぼ同人数の3つの会衆に分かれている。ウガンダにある唯一の古儀式派教会はカンパラ郊外のムペルバにある。ガンダ語が祈祷の言語として使用されている。この会衆は、2015年のヨアキム・チインバ神父の死後、ロシア正教会首都圏教会評議会で選出されたヨアヒム・バルシンビ神父によって司牧されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "土着の呪術への信仰が根強く、その呪術の犠牲として子供やアルビノの人の人体や臓器が使われるため、そのための殺人が社会問題となっている。特に選挙が行われる直前にはその被害者の数が増えると言う。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ウガンダの成人識字率は73%(15歳以上、2005〜2009年)である。初等教育においては1997年より無償化政策が開始され就学率は大きく向上したが、児童数の急増に施設や教育の質が追い付かず様々な問題も起きている。高等教育においては1922年に設立されたマケレレ大学が名門校として知られている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "慢性的なビタミンA欠乏症に悩まされる住民が多い。2010年代においても、ウガンダの5歳未満の子どもの52%がビタミン欠乏症からなる発育不良や失明の危険にさらされている。このため、政府や国際的な研究機関の協力により遺伝子組み換え作物の導入といった対策も講じられている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ウガンダはアフリカ大陸の国のうちで、HIV/AIDSの流行に対する国家的な対策が、効果的であった国のひとつである。1986年の内戦の後のムセベニ政権がエイズ対策を掲げ世界のエイズ研究者が集まり、新しくHIVに感染する割合が劇的に低下した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1990年代初期のHIV感染率は18.5%と推測されたが、婚姻外の禁欲や夫婦間の貞潔などの純潔教育を推進した甲斐あって、2002年には5%にまで減少した。しかし最新の統計では約7%に増加している。2013年12月には性的興奮を促す商品や行動などを違法とする「反ポルノ法案」が国会で可決された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2014年にウガンダ国内で発生した誘拐事件は、未遂を含め2,898件が発生している。被害者の半数以上が未成年者であり、強姦目的のほか新生児が悪魔払いなどの目的で誘拐されることも多い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ウガンダの警察は、1906年に英国政府によって「保護領警察」という立ち位置で設立された。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "設立当初は現地民の暴動などを鎮圧することを主な責務としていた為に軍警察の色合いを見せていたが、ウガンダ独立後は国家警察としての体を成して行った。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ウガンダ料理は、イギリス料理やアラブ料理(英語版)、アジア料理の影響を各所で受けている面を持つ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "多くの料理には、ジャガイモやヤムをはじめとする様々な野菜類、プランテンなどのバナナ類、その他にトロピカルフルーツが用いられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ウガンダを代表する詩人にはムコタニ・ルギエンド(英語版)が挙げられる。彼は作家としても活動しており、ジャーナリストの一面も持ち合わせている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ウガンダは現在、アフリカ大陸における音楽とエンターテインメントの部門で3位にランクされている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ウガンダには文化遺産が1件、自然遺産が2件ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "文化遺産", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "自然遺産", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ウガンダ国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。サッカーの他にはホッケーやロードレースに人気が集まっており、格闘技ではボクシングに注目が集まっている。陸上競技においては2014年アフリカクロスカントリー選手権(英語版、ロシア語版)と、2017年IAAF世界クロスカントリー選手権(英語版、ロシア語版)が同国で開催されている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1968年にプロサッカーリーグの「ウガンダ・プレミアリーグ」が創設された。ウガンダサッカー連盟(英語版)によって運営されており、中国のメディア企業である四達時代(英語版)の協賛を得ている。サッカーウガンダ代表はFIFAワールドカップへの出場歴はないものの、アフリカネイションズカップには7度出場しており、1978年大会では準優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" } ]
ウガンダ共和国、通称ウガンダは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にケニア、南にタンザニア、南西にルワンダ、西にコンゴ民主共和国、北に南スーダンとの国境に囲まれた内陸国である。首都はカンパラ。 ナイル川(白ナイル)の始まるヴィクトリア湖に接している。旧イギリス植民地。国獣はウガンダ・コープ、国鳥はホオジロカンムリヅルであり、国旗や国章にも採用されている。
{{Coord|1|N|32|E|display=title}} {{otheruses||イギリス海軍の軍艦|ウガンダ (軽巡洋艦)|日本のタレント|ウガンダ・トラ}} {{基礎情報 国 | 略名 = ウガンダ | 日本語国名 = ウガンダ共和国 | 公式国名 = {{Lang|en|'''Republic of Uganda'''}}(英語)<br />{{Lang|sw|'''Jamhuri ya Uganda'''}}(スワヒリ語) | 国旗画像 = Flag_of_Uganda.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Uganda.svg|100px]] | 国章リンク =([[ウガンダの国章|国章]]) | 標語 = [[神と我が国のために|{{Lang|en|For God and My Country}}]]{{en icon}}<br/>''神と我が国のために'' | 位置画像 = Uganda (orthographic projection).svg | 公用語 = [[英語]](第一言語)<br />[[スワヒリ語]](第二言語)<ref>[http://www.parliament.go.ug/images/stories/constitution/Constitutional_Amendment_Act,_2005.pdf THE CONSTITUTION (AMENDMENT)ACT, 2005(ウガンダ2005年憲法)]</ref> | 首都 = [[カンパラ]] | 最大都市 = カンパラ | 元首等肩書 = [[ウガンダの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ヨウェリ・ムセベニ]] | 首相等肩書 = 副大統領 | 首相等氏名 = {{ill2|ジェシカ・アルポ|en|Jessica Alupo}} | 他元首等肩書1 = [[ウガンダの首相|首相]] | 他元首等氏名1 = {{ill2|ロビナ・ナッバンジャ|en|Robinah Nabbanja}} | 面積順位 = 80 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 236,040 | 水面積率 = 15.4% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 32 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 45,741,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ug.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 228.9<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 143兆9040億<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月17日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=746,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 92 | GDP値MER = 381億4100万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 925.264(推計)<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 88 | GDP値 = 1068億2500万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 2591.443(推計)<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br/>&nbsp;- 日付 | 建国年月日 = [[イギリス]]より<br/>[[1962年]][[10月9日]] | 通貨 = [[ウガンダ・シリング]] | 通貨コード = UGX | 時間帯 = +3 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = UG / UGA | ccTLD = [[.ug]] | 国際電話番号 = 256 <sup>1</sup> | 注記 = 註1: ケニアとタンザニアから掛ける場合は、006 |国歌=[[おおウガンダ、美しき地|{{lang|en|Oh Uganda, Land of Beauty}}]]{{en icon}}<br>''おおウガンダ、美しき地''<br>[[ファイル:Ugandan national anthem, performed by the U.S. Navy Band.wav]]}} '''ウガンダ共和国'''(ウガンダきょうわこく、{{Lang-en|Republic of Uganda}}、{{Lang-sw|Jamhuri ya Uganda}})、通称'''ウガンダ'''は、[[東アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]で、[[イギリス連邦]]加盟国である。東に[[ケニア]]、南に[[タンザニア]]、南西に[[ルワンダ]]、西に[[コンゴ民主共和国]]、北に[[南スーダン]]との[[国境]]に囲まれた[[内陸国]]である。首都は[[カンパラ]]。 [[ナイル川]](白ナイル)の始まる[[ヴィクトリア湖]]に接している。旧[[イギリス]][[植民地]]。国獣は[[ウガンダ・コープ]]、国鳥は[[ホオジロカンムリヅル]]であり、[[ウガンダの国旗|国旗]]や[[ウガンダの国章|国章]]にも採用されている<ref>[https://pretoria.mofa.go.ug/data-smenu-5-THE-UGANDA-NATIONAL-FLAG-.html THE UGANDA NATIONAL FLAG AND MEANING](在[[プレトリア]]ウガンダ[[高等弁務官 (コモンウェルス)|高等弁務官事務所]]公式サイト、英語)</ref>。 [[画像:Crested_Crane,_Bunyonyi,_Uganda.jpg|thumb|200px|ホオジロカンムリヅル]] == 国名 == [[スワヒリ語]]での正式名称は、''Jamhuri ya Uganda''(ジャムフリ・ヤ・ウガンダ)、[[英語]]での正式名称は、''Republic of Uganda''(リパブリック・オヴ・ウガンダ或はユガンダ)。通称、''Uganda''。 [[日本語]]の表記は、'''ウガンダ共和国'''。通称、'''ウガンダ'''。 「ウガンダ」の名は[[ブガンダ]]王国のスワヒリ語名称にちなむ。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|ウガンダの歴史|en|History of Uganda}}|{{仮リンク|初期ウガンダの歴史|en|Early history of Uganda}}}} === 植民地以前 === {{main|{{仮リンク|バントゥー拡張|en|Bantu_expansion}}|}} 16世紀初頭、[[ブニョロ]]、[[ブガンダ]]、[[アンコーレ王国|アンコーレ]]、[[ルワンダ王国|ルワンダ]]、[[ブルンジ王国|ブルンディ]]などの大湖地方の諸王国が成立した。17世紀中ごろ、ウガンダ西部に位置するブニョロ王国が最盛期を迎えたが、19世紀に入るとやや勢力が衰えを見せ、1830年代には南部地方が[[トロ王国]]として独立した。19世紀になると[[ブガンダ|ブガンダ王国]]がブニョロに代わってこの地域の覇権を握り、ブニョロと抗争を繰り返した。 === 植民地時代 === 19世紀末になると[[ヨーロッパ]]諸国の宣教団がこの地域に入り、盛んに布教を行う一方、[[ドイツ]]と[[イギリス]]の間でこの地域の領有をめぐり競争が起こった。この競争は[[1890年]][[7月1日]]、[[ヘルゴランド=ザンジバル条約]]締結によってイギリスの勢力範囲となることで決着し、[[1894年]]にはウガンダ王国を保護領化することで{{仮リンク|イギリス保護領ウガンダ|en|Uganda Protectorate|label=イギリス領ウガンダ植民地}}が成立した。イギリスはさらにブニョロ、アンコーレ、トロなどの諸王国や周辺各地を保護領に統合したが、保護領の統治は[[間接統治]]を旨としたため諸王国の統治体制は維持された。なかでも保護領の中心的存在であるブガンダ王国の影響力は大きく、以後の保護領統治に大きな影響を与え続けた。[[1901年]]には[[ウガンダ鉄道]]がインド洋からヴィクトリア湖畔にあるケニアの[[キスム]]にまで到達し、湖の[[汽船]]との連絡で海外貿易ルートが大きく改善されたため、綿花が導入されて盛んに栽培されるようになり、1970年ごろまでウガンダの主要輸出品となった。1931年には[[ウガンダ鉄道]]の本線がキスムからカンパラまで延長されたが、敷設に英領インド人が投入されたことにより、[[インド]]系の[[移民]]がその後も増えていった<ref name=sekiya>関谷雄一、「[https://www.agulin.aoyama.ac.jp/repo/repository/1000/11830/ 東アフリカにおける南アジア系移民]」『青山学院女子短期大学総合文化研究所年報』 17巻 p.141-165, 2010-03, {{issn|0919-5939}}</ref>。 === 独立 === [[第二次世界大戦]]後、徐々にウガンダでも民族運動が盛んとなってきたものの、[[ウガンダ保護領]]内で最も有力な地域である[[ブガンダ|ブガンダ王国]]は連邦制を強く主張し、保護領内に残存する諸王国もそれに賛同して、王国を持たない諸地域の支持する単一国家制と激しく対立し、独立への動きはやや遅れた。やがて[[1961年]]には建国されるべき新国家においてブガンダに連邦の地位を、その他諸王国に関しては半連邦の地位を認めることでこの問題はやっと終息した。独立時には北部や東部を地盤とするウガンダ人民会議、南部のカトリック教徒を中心とする民主党、そしてブガンダの保守派に強く支持される王党派のカバカ・イェッカの3大政党がしのぎを削り、結局ウガンダ人民会議とカバカ・イェッカの連立内閣が成立して[[ウガンダ人民会議]]の[[ミルトン・オボテ]]が首相に就任し、[[1962年]][[10月9日]]に[[英連邦王国]]の一員として独立した。 翌[[1963年]][[10月8日]]にイギリス総督に代わってブガンダのムテサ2世が大統領に就任し[[共和制]]へ移行した<ref>吉田昌夫「独立達成までの混乱」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 69ページ</ref>。 === オボテ政権(第1次) === ウガンダは独立したものの、諸王国、とくにブガンダ王国が国内で大きな権力を持っていることで中央政府とブガンダ政府との間で不協和音が生じ始めた。[[1966年]]、首相の[[ウガンダ人民会議]]の[[ミルトン・オボテ]]は憲法を停止して連邦制を廃止し、これに反対した大統領兼ブガンダ国王[[ムテサ2世]]を排除して[[一党制]]を敷き、[[社会主義]]路線を掲げた。 === アミン政権 === [[1971年]]1月に軍司令官[[イディ・アミン]]が[[クーデター]]で[[政権]]を掌握、[[独裁政治]]を敷いた。アミンは[[恐怖政治]]を行い、経済を握っていたインド人を追放することで国家経済は破綻し、社会的にも大混乱が起きた。[[1978年]]にウガンダ軍は[[タンザニア]]に侵攻し[[ウガンダ・タンザニア戦争]]が勃発したが、逆に[[タンザニア軍]]に反攻され、[[1979年]]には反体制派の{{仮リンク|ウガンダ民族解放戦線|en|Uganda National Liberation Front|label=ウガンダ民族解放軍}} (UNLA) とタンザニア軍の連合軍に首都の[[カンパラ]]まで攻め込まれ、アミンは失脚して[[サウジアラビア]]に[[亡命]]した。 === オボテ政権(第2次) === アミン失脚後暫定政権のトップに立ったユスフ・ルレは間もなく失脚し、次いで大統領となった[[ゴッドフリー・ビナイサ]]もクーデターで失脚した。政権を握った軍はすぐに選挙を実施し、1980年には選挙で勝利したオボテが大統領に復帰した。しかしオボテ政権は安定せず、[[1981年]]には[[ヨウェリ・ムセベニ]]が国民抵抗運動を率いて蜂起し、{{仮リンク|ウガンダ・ブッシュ戦争|en|Ugandan Bush War|label=ウガンダ内戦}}([[1981年]] - [[1986年]])が始まった。国民抵抗運動が徐々に勢力範囲を広げていく中、1985年には[[ティト・オケロ]]がクーデターを起こしてオボテを追放し政権を握ったものの、国民抵抗運動の総攻撃によって1986年にカンパラが陥落、ムセベニが大統領に就任した<ref>吉田昌夫「独立後の政治混乱の時代」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 77ページ</ref>。 === ムセベニ政権 === [[ファイル:Ugandan districts affected by Lords Resistance Army.png|thumb|[[神の抵抗軍|LRA]]による反乱の影響を受けた地域([[2002年]]以降)]] 政権を握ったムセベニは経済や社会の安定化に力を注ぎ、ウガンダは安定を取り戻した。一方で北部では、アチョリ人の[[アリス・アウマ]]が聖霊運動(HSM)を率いて反乱を起こしたが、[[1987年]]にウガンダ政府軍に敗北してアウマは[[ケニア]]に亡命し、[[ジョゼフ・コニー]]率いる[[神の抵抗軍]] (LRA) に残存勢力が合流して強力な反政府勢力が登場し、21世紀にいたるまで抗争が続いている。 [[1996年]]、コンゴ東部で[[ローラン・カビラ]]率いる[[コンゴ・ザイール解放民主勢力連合]] (AFDL) が蜂起すると、ムセベニは[[ルワンダ]]の[[ポール・カガメ]]とともに反乱軍側に支援を行い、これによってAFDLは[[ザイール]]の首都[[キンシャサ]]を掌握、カビラは大統領に就任した。しかし権力を握ったカビラはAFDLの主力であった[[バニャムレンゲ]]を遠ざけるようになり、バニャムレンゲは[[コンゴ民主連合]]を結成して今度はカビラ政権に対して[[1998年]]に反乱を起こし、[[第二次コンゴ戦争]]が勃発した。ウガンダとルワンダはコンゴ民主連合に軍事支援を行い、さらに直接コンゴ東部に出兵して一部地域を占領した。[[2002年]]にウガンダ軍はコンゴ東部から撤兵したが、この紛争はウガンダの対外関係を大きく悪化させることとなった<ref>吉田昌夫「ムセベニ政権による政治 安定化と経済復興への道のり」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 80-81ページ</ref>。 [[2006年]][[8月12日]]、ウガンダ政府と反政府武装組織「[[神の抵抗軍]]」 (LRA) との和平交渉は([[:en:2006–2008 Juba talks]])、双方の戦闘行為停止に関する合意が出来ないまま14日まで休会されることになった。26日、3週間以内に[[スーダン]]南部に設けられる2か所のキャンプに集結し、戦闘と敵対的宣伝の停止において合意した。 [[2007年]][[8月3日]]、[[アルバート湖]]([[ホイマ県]]タロー石油)で[[石油]]探査中[[ヘリテージ・オイル]]社がコンゴと交戦し、両国が国境に軍隊を派遣。ヘリテージ・オイルは[[民間軍事会社]]の[[エグゼクティブ・アウトカムズ]]で共同経営者だった{{仮リンク|トニー・バッキンガム|en|Tony Buckingham}}の設立した紛争地帯専門の石油会社である。 [[2007年]][[11月29日]]、ウガンダで[[エボラ出血熱]]が発生し、51人が感染し、16人が死亡した。新種の[[エボラウイルス属|エボラウイルス]]である。 2008年12月14日から2009年3月15日まで、ウガンダと[[南スーダン]]自治政府、[[コンゴ民主共和国]]軍による[[神の抵抗軍]]に対する{{仮リンク|ガランバ攻勢 (2008年 - 2009年)|en|2008–09 Garamba offensive|label=ガランバ攻勢}}が行われた。 [[2010年]][[7月11日]]、ウガンダの首都カンパラで[[ソマリア]]の反政府軍勢力[[アル・シャバブ (ソマリア)|アル・シャバブ]](犯行声明を出した)による同時[[自爆テロ]]が起き、[[2010 FIFAワールドカップ|W杯]]観戦中の73人が死亡した。政府は16日、現在ソマリアに[[アフリカ連合]] (AU) ソマリア派遣団 (AMISOM) ウガンダ部隊2500人に2000人増派する方針を明らかにした。これに対し従来から派兵を批判してきた[[野党]]は、「軍事冒険主義が恐ろしい結末を招いた」と批判を強めている。 == 政治 == [[File:Yoweri Museveni.jpg|thumb|160px|第7代大統領[[ヨウェリ・ムセベニ]]]] {{Main|{{仮リンク|ウガンダの政治|en|Politics of Uganda}}|{{仮リンク|ウガンダの憲法|en|Constitution of Uganda}}}} ウガンダは[[1995年]][[10月]]に発効した[[憲法]]に基づき統治されている。[[国家元首]]は[[ウガンダの大統領|大統領]]で、国民の直接[[選挙]]で選出され任期は5年。大統領は[[ウガンダの首相|首相]]・[[閣僚]]任免権など強大な権力が保障されている。 かつては[[国民抵抗運動]]{{enlink|National Resistance Movement}} (NRM) が[[1986年]]以降[[ヘゲモニー政党制|無党制]]を導入していたため、他に[[ウガンダ人民会議]]、[[ウガンダ愛国運動]]{{enlink|Uganda Patriotic Movement}}(解散)、[[保守党 (ウガンダ)|保守党]]などの政党が存在するものの、NRM以外の政治活動は禁止されていた。[[ウガンダ議会]]選挙への立候補も特定の党員資格を持つ者は許されず、個人資格のみ許可されていたが、しかし個人資格といってもNRMの選挙機関「ムーブメント」の組織的支援を受けた者しか、事実上当選しない仕組みとなっていた。しかしこの体制には不満も多く、これを受けて[[複数政党制]]の導入をめぐる国民投票が[[2000年]][[6月]]に実施されたが、野党のボイコットにより[[一党制]]が「圧倒的支持」を受けた。しかしその後も不満が多いことを見て取った国民抵抗運動は2005年7月に再度国民投票を行い、複数政党制が支持されたため、2006年の選挙以降は登録された政党が公的に活動し、選挙に候補者を送ることができるようになった<ref>吉田昌夫「ムセベニ政権による政治 安定化と経済復興への道のり」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 81-82ページ</ref>。 また、ウガンダ自体は共和制であるが、ウガンダ国内に[[トロ王国|トロ]]、[[ブニョロ]]、[[ブガンダ]]、[[ブソガ]]、[[アンコーレ王国|アンコーレ]]の伝統的な地方王国が存在している。これらは[[1967年]]に一度廃止されたものが1990年代に復活したものであり、各王国の国王は「文化的指導者」と位置づけられ、政治的な力を持たない儀礼的な存在である。しかしながら、廃止以前に最も有力だったブガンダ王国ではいまだに自治や連邦制の復活要求が絶えず、南西部のアンコーレ王国は階級対立によって王国自体の復活ができず、ブソガ王国では王の選出方法で対立が生じるなど、様々な問題も起きている<ref>中林伸浩「王様と大統領」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 269-273ページ</ref>。 地方行政は、地方評議会 (LC) 制度によって行われている。地方自治体への予算配分は、2005年度には政府予算総額の32%が充てられた。2000年代末ごろから条件付き交付金、無条件交付金平等化交付金の3種類の割合が大きく増加した。しかし、地方自治体の自主財源で賄われる割合が低下し、中央政府の交付金に頼らざるを得なくなってきている<ref>斎藤文彦「地方行政と開発」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 93-94ページ</ref>。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ウガンダの国際関係|en|Foreign relations of Uganda}}}} {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{main|日本とウガンダの関係}} * 在留日本人数 - 235名(2020年10月現在,外務省在留邦人数調査統計)<ref name="名前なし-1">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uganda/data.html#section6 外務省 ウガンダ基礎データ]</ref> * 在日ウガンダ人数 - 794名(2020年6月現在,外務省在留外国人統計) === 駐日ウガンダ大使館 === * 住所:東京都渋谷区鉢山町9-23 * アクセス:[[東急東横線]][[代官山駅]]西口 <gallery> File:ウガンダ大使館全景.jpg|ウガンダ大使館全景 File:ウガンダ大使館側面.jpg|ウガンダ大使館側面 File:ウガンダ大使館正面玄関.jpg|ウガンダ大使館正面玄関 </gallery> === 駐日ウガンダ大使公邸 === * 住所:東京都品川区東五反田五丁目16-18 * アクセス:JR山手線五反田駅東口、もしくは都営浅草線A4 <gallery> File:ウガンダ大使公邸.jpg|ウガンダ大使公邸 File:ウガンダ大使公邸全景は北マケドニア大使館の隣.jpg|大使公邸は北マケドニア大使館の隣 File:ウガンダ大使公邸表札.jpg|ウガンダ大使公邸表札 </gallery> == 軍事 == {{main|{{仮リンク|ウガンダ人民防衛軍|label=ウガンダ軍|en|Uganda People's Defence Force}}}} {{節スタブ}} == 地理・気候 == [[ファイル:Ug-map.png|right|thumb|280px|ウガンダの地図]] {{main|{{仮リンク|ウガンダの地理|en|Geography of Uganda}}}} ウガンダは「東アフリカ[[台地|高原]]」({{lang-en|East African plateau}})に位置し、国平均の面積は241,039平方キロメートルであるが、ヴィクトリア湖などの領域内水面積約43,900平方キロメートル(全体の18%)を除くと陸地面積は約197,000平方キロメートルで<ref>吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 18ページ</ref>、平均標高1,100mで北の{{仮リンク|東スーダン平原|en|East Sudanian Savanna|label=スーダン平原}}になだらかに下る。中部に[[キョガ湖]]({{lang-en|Lake Kyoga}})があり、南部と共に[[湿地帯]]である。全体が[[ナイル盆地]]({{lang-en|Nile basin}})の中にあり、[[ナイル川]]の水はキョガ湖に続き、[[コンゴ民主共和国]]との国境の[[アルバート湖]]に注ぎ、そこから北の[[南スーダン]]に流れる。西部国境のアルバート湖からエドワード湖にかけては[[大地溝帯]]の西リフトに位置する。ウガンダの[[国立公園]]は10ヶ所存在しており、他には野生生物保護区が13ヶ所、中央森林保護区が506ヶ所指定されている。 {{See also|{{仮リンク|国有林局|en|National Forestry Authority}}|{{仮リンク|ウガンダの中央森林保護区の一覧|en|List of Central Forest Reserves of Uganda}}|{{仮リンク|ウガンダの保護地域の一覧|en|List of protected areas of Uganda}}}} [[赤道]]直下であるが、気候は場所により少し異なる。南部は通年で雨が多い。ヴィクトリア湖北岸の[[エンテベ]]の雨季は3月から6月と11月から12月である。北部では乾季が多く、南スーダン国境から120kmのグルでは11月から2月が非常に乾燥している。コンゴ民主共和国に近い南西部の[[ルウェンゾリ]]は一年を通して雨が多い。ビクトリア湖が気候に大きく影響し、気温の変化を妨げ、雲と雨を発生させている。首都カンパラはエンテベに近い北岸に位置する。 {{See also|{{仮リンク|ウガンダにおける保全活動|en|Conservation in Uganda}}}} === 生態系 === {{main|{{仮リンク|ウガンダの野生生物|en|Wildlife of Uganda}}}} 約345種の[[哺乳類]]と1020種の[[鳥類]]の生息が確認されている。 {{節スタブ}} == 地方行政区分 == [[ファイル:Districts of Uganda 2020-07.png|thumb|280px|ウガンダの県。黄色が[[北部地域 (ウガンダ)|北部地域]]、青色が[[西部地域 (ウガンダ)|西部地域]]、赤色が[[中央地域 (ウガンダ)|中央地域]]、緑色が[[東部地域 (ウガンダ)|東部地域]]である]] === 県 === {{Main|ウガンダの行政区画}} ウガンダではムセベニ政権の成立以後、県の増設が盛んに行われてきた。1990年代初頭には33の県があったものが、[[2006年]]には80県、[[2010年]]には112県と年々増加している<ref>斎藤文彦「地方行政と開発」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 95ページ</ref>。2020年7月時点で、135の県<ref>{{Cite web |url=https://molg.go.ug/content/local-governments |title=Districts in Uganda |publisher=ウガンダ地方自治省 |accessdate=2020-10-01}}</ref>と県と同格のカンパラ市(カンパラを県に含めた場合は136県<ref>{{Cite web |url=https://www.pmldaily.com/news/2020/05/number-of-districts-hits-136-mark-as-parliament-approves-creation-of-terego-district.html |title=Number of districts hits 136-mark as Parliament approves creation of Terego District |publisher=PML Daily |date=2020-05-05 |accessdate=2020-10-01}}</ref>)から成り立つ。 これらの県は、[[中央地域 (ウガンダ)|中央地域]]、[[東部地域 (ウガンダ)|東部地域]]、[[北部地域 (ウガンダ)|北部地域]]、[[西部地域 (ウガンダ)|西部地域]]の4つの地域に大きく分けられている。ただし地域に行政機構は設置されていないため、地理的概念としてのみ地域は存在している。 === 主要都市 === {{Main|ウガンダの都市の一覧}} ウガンダで最も大きな都市は首都のカンパラであり、2011年の人口は165万人に上る。さらにカンパラ近郊には[[ナンサナ]]、[[キラ (ウガンダ)|キラ]]、[[マキンダイ]]などの衛星都市が連なり、大都市圏を形成している。またカンパラ南郊の[[エンテベ]]にはウガンダ唯一の国際空港である[[エンテベ国際空港]]が存在する。 カンパラ都市圏以外では、西部ではムバララやカセセ、北部の中心都市である[[グル (ウガンダ)|グル]]、中央地域南部の[[マサカ]]などが10万人を超える都市である。 == 経済 == [[Image:Uganda-Development.JPG|left|thumb|260px|首都カンパラの高層ビル]] {{Main|{{仮リンク|ウガンダの経済|en|Economy of Uganda}}}} 広大で肥沃な土地、豊富な降雨、鉱物資源に恵まれ、大きな開発ポテンシャルを持つが、これまでの政治的不安定と誤った経済運営で、ウガンダは世界最貧国として開発から取り残された。アミン統治の混乱後、1981年に経済回復計画で外国支援を受け始めたが、1984年以降の金融拡大政策と市民闘争の勃発が回復を遅らせた。1986年に経済再生を掲げた政府は交通と通信の再構築を始めた。1987年に外部支援の必要性からIMFと世界銀行に対し政策を明言した。この政策は実行され、[[インフレーション|インフレ]]は2003年の7.3%まで着実に減少した。 [[農業]]では[[アフリカ]]でも有数の[[コーヒーノキ|コーヒー]]生産国で、2002年の輸出額の27%を占める。ウガンダのコーヒーはプランテーション方式で生産されるのではなく、土着の小農民が生産し、その生産物を買い付け業者が買い、輸出するという方式である<ref>吉田昌夫「小農輸出経済の形成」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 99ページ</ref>。かつては[[綿花]]が最も有力な産品であり、[[第二次世界大戦]]前は日本の[[商社]]も多く買い付けに訪れたほどであったが、[[1970年]]ごろを境として衰退し、輸出品としてほとんど重要性を持たなくなった<ref>吉田昌夫「小農輸出経済の形成」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 99-101ページ</ref>。ほかに輸出品として衣料、動物の皮、[[バニラ]]、[[野菜]]、[[果物]]、切花、[[魚類|魚]]が成長しており、[[チャノキ|茶]]、[[タバコ]]も依然重要な産品である。 農業生産としては[[バナナ]]の生産量が非常に多く、なかでも料理用バナナは世界でも突出した最大の生産国である。料理用バナナの生産量は[[2009年]]には951万トンを記録したが、これは世界の料理用バナナ生産量の4分の1を占める<ref name="fao">{{cite web |title = FAOSTAT: ProdSTAT: Crops |publisher = [[国際連合食糧農業機関]] |year = 2005 |url = http://faostat.fao.org/site/567/DesktopDefault.aspx?PageID=567 |accessdate =2012-06-23}}</ref>。さらに果物バナナも含めた総生産量は2008年に約1000万トンとなり、[[インド]]に次ぐ世界2位の生産量となっている。ただしこのほとんどは国内で消費され、輸出はほとんど行われない<ref>佐藤靖明「人とバナナの豊かな関係」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 114ページ</ref>。ウガンダのバナナは、[[主食]]用のハイランド・バナナ、軽食用の[[プランテン・バナナ]]、果物バナナの3種類に大別され、ハイランド・バナナの生産量が最も大きく文化的にも重要である<ref>佐藤靖明「人とバナナの豊かな関係」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 116-118ページ</ref>。 工業はセメントなど再生中である。プラスチック、石けん、[[ビール]]など飲料は国内生産されている。Tororoセメント社などは東アフリカ諸国の需要に応えている。 ウガンダの交通は、主としてカンパラから伸びる道路網が約3万km、うち[[舗装]]が2800km。鉄道は1350kmで、インド洋に面したケニアのモンバサからトロロまで、さらにカンパラ、ムバレなどへの支線がある。国際空港はビクトリア湖に面したエンテベ空港で、カンパラから32kmである。 通信はウガンダ通信委員会(UCC)が管理する。 {{Clearleft}} === エネルギー === [[File:From top of Nalubaale Power Station.jpg|thumb|ナルバーレ水力発電所]] {{Main|{{仮リンク|ウガンダのエネルギー|en|Energy in Uganda}}}} 1980年代までは国内エネルギー需要の95%は木炭と木材で賄われていた。商業需要の23%が[[石油]]製品により、わずか3%が電力に頼っていた。政府は薪ストーブ使用を奨励したが普及に至らなかった。現在改善されたとは言え、数時間に及ぶ[[停電]]が、とくに農村部で頻発する。 白ナイル川を利用した電力開発は遅れていたが、2000年のナルバーレ発電所による380メガワット供給開始で、東アフリカでも主要発電国となった。ブジャガリ滝での発電計画は環境破壊が指摘され、世界銀行も2002年に支援中止した。下流のカルマ滝発電所も、この影響で建設開始が遅れている。 ウガンダは国内石油需要日量27千バレル(2015年)の全量をケニアの[[モンバサ]]港を介して運ばれる輸入品に頼っている。石油製品パイプラインはケニアのエルドレットまで延びており、その先はトラック輸送である。カンパラまで320kmのパイプライン延伸を調査することで両国が1995年に合意した。しかし、2006年イギリスの石油会社([[ヘリテージ・オイル]]社)によりアルバート湖付近で[[油田]]が発見されたことにより、ウガンダから[[インド洋]]への原油[[パイプライン輸送|パイプライン]]建設計画が石油会社から出された。大統領は原油輸出に反対で、カンパラに製油所を建設し、近隣諸国への石油製品輸出を見込んでいる。一方、2007年8月アルバート湖での石油探査作業中に、コンゴ民主共和国軍からヘリテージ・オイル社が攻撃を受け交戦状態になり、死者が出ると共にウガンダ兵が拘束されるという事件が発生した。両国はアルバート湖の国境、とくにルクワンジ島の領有を巡って協議している。 == 国民 == [[ファイル:Languages of Uganda.png|thumb|right|280px|ウガンダの言語分布図。色は'''語群'''を示す。例えば、[[ガンダ語]]、[[ニャンコレ語]]は緑色の[[バントゥー語群]]に入る。]] {{Main|{{仮リンク|ウガンダの人口統計|en|Demographics of Uganda}}}} === 民族 === もっとも人口が多い民族は首都カンパラを中心とした中央地域に主に居住するバンツー系の[[ガンダ族]]であり、2002年には人口の約17%を占めている<ref>白石壮一郎「多民族国家の民族分布」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 42ページ</ref>。国土の南部はバンツー系民族が多数を占める地域であり、{{仮リンク|マサバ人|en|Masaba people|label=マサバ族}}、{{仮リンク|ソガ族|fr|Soga (peuple d'Afrique)}}、[[アンコーレ族|ニャンコレ族]]({{lang|en|Nkole}}、{{lang|en|Nyankore}})、[[ニョロ族]]、{{仮リンク|キガ人|en|Kiga people|label=キガ族}}などのバンツー系諸民族が暮らしている。これに対し北部はナイル系諸民族が多数を占め、{{仮リンク|ランギ人|en|Langi people|label=ランゴ族}}、[[アチョリ族]]、{{仮リンク|カラモジョン人|en|Karamojong people|label=カラモジョン族}}、{{仮リンク|テソ人|en|Teso people|label=テソ族}}などのナイル系諸民族が存在する。北西部にはルグバラ人などの中央スーダン系諸民族が生活する。[[インド系移民と在外インド人|インド系]]は主に都市部に居住し、ウガンダ経済の大きな部分を担っている。1970年代にイディ・アミン政権がインド人追放を行った時に大半は出国したが、アミン政権が倒れるとかなりの数のインド系住民が再びウガンダに戻った。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|ウガンダの言語|en|Languages of Uganda}}}} [[公用語]]は[[英語]]であるが、[[2005年]]に[[スワヒリ語]]が公用語に追加された。しかしスワヒリ語は話者が少なく、北部を除いて[[共通語]]としても普及していないため、ウガンダ国内における重要性はそれほど高くない<ref>「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp352-354 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。スワヒリ語よりも使用頻度が高いのは首都カンパラを中心に話される[[ガンダ語]]であり、旧ブガンダ地域を中心に国内の多くの地域において共通語として通用する。このほか、[[ソガ語]]、[[マサバ語]]、[[ニャンコレ語]]、[[ニョロ語]]、[[キガ語]]、[[テソ語]]、[[ルオ語]]、[[ランゴ語]]、[[トロ語]]などの各民族語が使用されている。 === 婚姻 === 結婚時に改姓すること(夫婦同姓)をしないこと([[夫婦別姓]])も可能<ref>[https://www.observer.ug/lifestyle/38808-what-s-in-a-name-after-marriage What’s in a name… after marriage?], The Observer, July 17, 2015.</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ウガンダの宗教|en|Religion in Uganda}}}} 2002年の統計では、ウガンダで最も多数派の宗教はローマ・カトリックであり、全人口の42%を占める。次いでプロテスタントが36%を占め、他宗派も含めた[[キリスト教]]の信者は全人口の85%にのぼる。[[イスラム教]]徒は12%を占め、のこり3%が伝統宗教や諸宗教を信仰する<ref>吉田昌夫「ウガンダの教会」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 171ページ</ref>。 1991年にアレクサンドリア総主教座を離れ、その後、いくつかの古暦派の管轄を移っていた信者グループの代表であるヨアキム・チインバは、2012年に[[ロシア正教古儀式派教会]]の指導者であるコルニーリイ府主教に手紙を書いた。この手紙の中で、チインバはロシア正教古儀式派教会に参加したいという気持ちを表明した。2013年には、ロシア正教古儀式派教会の府主教評議会は、ロシア正教古儀式派教会のもとで、チインバを司祭として按手し、彼によって導かれている信者を受け入れることを決定した<ref>[http://starove.ru/news/arhiv-gazety-obshhina/ Община — новая, вера — старая] «Община» 2020年02月02日</ref><ref name="名前なし-2">[http://journals.tsu.ru//siberia/&journal_page=archive&id=1686&article_id=37316/ Из России с верой: появление старообрядчества в Уганде как отражение культурных процессов в современной Африке]</ref>。 2017年現在、ウガンダには約150人の正教[[古儀式派]]信徒が住んでおり、ほぼ同人数の3つの会衆に分かれている<ref name="名前なし-2"/>。ウガンダにある唯一の古儀式派教会はカンパラ郊外のムペルバにある。[[ガンダ語]]が祈祷の言語として使用されている<ref name="名前なし-2"/>。この会衆は、2015年のヨアキム・チインバ神父の死後、ロシア正教会首都圏教会評議会で選出されたヨアヒム・バルシンビ神父によって司牧されている<ref name="名前なし-2"/>。 土着の[[呪術]]への信仰が根強く、その呪術の犠牲として子供や[[アルビノ]]の人の人体や臓器が使われるため、そのための殺人が社会問題となっている。特に選挙が行われる直前にはその被害者の数が増えると言う<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3051985 富と権力求め子どもをいけにえに、ウガンダで横行する呪術殺人] [[APF通信社|APF]]日本語版 2015年06月19日 13:50</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3047166 選挙と呪術、タンザニアでおびえ暮らすアルビノの人々] [[APF通信社|APF]]日本語版 2015年05月01日 17:02</ref>。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ウガンダの教育|en|Education in Uganda}}}} ウガンダの成人識字率は73%(15歳以上、2005〜2009年)である<ref>吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 15ページ</ref>。[[初等教育]]においては1997年より無償化政策が開始され就学率は大きく向上したが、児童数の急増に施設や教育の質が追い付かず様々な問題も起きている<ref>楠和樹「村の学校から」/ 吉田昌夫・白石壮一郎編著『ウガンダを知るための53章』 明石書店 2012年 156-157ページ</ref>。[[高等教育]]においては[[1922年]]に設立された[[マケレレ大学]]が名門校として知られている。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|ウガンダの保健|en|Health in Uganda}}}} 慢性的な[[ビタミンA]]欠乏症に悩まされる住民が多い。2010年代においても、ウガンダの5歳未満の子どもの52%が[[ビタミン欠乏症]]からなる発育不良や[[失明]]の危険にさらされている。このため、政府や国際的な研究機関の協力により[[遺伝子組み換え作物]]の導入といった対策も講じられている<ref>{{Cite web|和書|date= 2012-09-13|url=https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20120905/163101/ |title= 国際アグリバイオ事業団(ISAAA)アグリバイオ最新情報【2012年8月31日】|publisher= 日経バイオテクオンライン|accessdate=2018-04-13}}</ref>。 ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|ウガンダの医療|en|Healthcare in Uganda}}}} {{節スタブ}} ===== HIV/AIDS ===== {{Main|{{仮リンク|ウガンダのHIV/エイズ|en|HIV/AIDS in Uganda}}}} ウガンダはアフリカ大陸の国のうちで、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]/[[後天性免疫不全症候群|AIDS]]の流行に対する国家的な対策が、効果的であった国のひとつである。1986年の内戦の後のムセベニ政権がエイズ対策を掲げ世界のエイズ研究者が集まり、新しくHIVに感染する割合が劇的に低下した。 1990年代初期のHIV感染率は18.5%と推測されたが、婚姻外の禁欲や夫婦間の貞潔などの純潔教育を推進した甲斐あって、2002年には5%にまで減少した。しかし最新の統計では約7%に増加している。2013年12月には性的興奮を促す商品や行動などを違法とする「反ポルノ法案」が国会で可決された<ref>{{Cite news|url= http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20131221-1234290.html |title= ウガンダで女性のミニスカ着用禁止法可決 |newspaper= nikkansports.com |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2013-12-21 |accessdate= 2022-10-07 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20131224074218/http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20131221-1234290.html |archivedate= 2013-12-24}}</ref>。 == 治安 == [[2014年]]にウガンダ国内で発生した[[誘拐]]事件は、未遂を含め2,898件が発生している。被害者の半数以上が未成年者であり、[[強姦]]目的のほか[[新生児]]が[[悪魔払い]]などの目的で誘拐されることも多い<ref>[http://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcterror_093.html テロ・誘拐情勢 誘拐事件の発生状況] 日本国外務省海外安全ホームページ(2016年1月26日)2017年12月9日閲覧</ref>。 {{節スタブ}} === 警察 === {{main|{{仮リンク|ウガンダ国家警察|en|Uganda National Police}}}} ウガンダの警察は、1906年に[[英国]]政府によって「'''保護領警察'''」という立ち位置で設立された。 設立当初は現地民の暴動などを鎮圧することを主な責務としていた為に軍警察の色合いを見せていたが、ウガンダ独立後は国家警察としての体を成して行った。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ウガンダにおける人権|en|Human rights in Uganda}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ウガンダにおける人身売買|en|Human trafficking in Uganda}}}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ウガンダのメディア|en|Mass media in Uganda}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ウガンダ通信委員会|en|Uganda Communications Commission}}|{{仮リンク|ウガンダにおける情報伝達|en|Communications in Uganda}}}} == 文化 == [[File:Museum Entrance 2.JPG|thumb|{{仮リンク|ウガンダ国立博物館|en|Uganda Museum|ru|Музей Уганды}}]] {{main|{{仮リンク|ウガンダの文化|en|Culture of Uganda}}}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|ウガンダ料理|en|Ugandan cuisine}}}} ウガンダ料理は、[[イギリス料理]]や{{仮リンク|アラブ料理|en|Arab cuisine}}、[[アジア料理]]の影響を各所で受けている面を持つ。 多くの料理には、[[ジャガイモ]]や[[ヤム]]をはじめとする様々な[[野菜]]類、[[プランテン]]などの[[バナナ]]類、その他に[[トロピカルフルーツ]]が用いられている。 {{節スタブ}} === 文学 === ウガンダを代表する[[詩人]]には{{仮リンク|ムコタニ・ルギエンド|en|Mukotani Rugyendo}}が挙げられる。彼は[[作家]]としても活動しており、[[ジャーナリスト]]の一面も持ち合わせている。 {{See also|{{仮リンク|ハイネマン・アフリカンライターズシリーズ|en|Heinemann African Writers Series}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|[[ウガンダの音楽]]}} ウガンダは現在、アフリカ大陸における音楽とエンターテインメントの部門で3位にランクされている。 {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ウガンダの映画|en|Cinema of Uganda}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === [[画像:Cultural celebrations resumed with the end of the LRA conflict in Northern Uganda (7269658432).jpg|thumb|300px|北ウガンダのお祭り]] {{main|ウガンダの世界遺産}} ウガンダには文化遺産が1件、自然遺産が2件ある。 文化遺産 * [[カスビのブガンダ歴代国王の墓]] -(2001年) 自然遺産 * [[ブウィンディ原生国立公園]] -(1994年) * [[ルウェンゾリ山地国立公園]] -(1994年) === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ウガンダの祝日|en|Public holidays in Uganda}}}} {| class="wikitable" align="center" <caption style="font-weight:bold;font-size:120%">祝祭日</caption> |- style="background:#efefef" !日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考 |- |[[1月1日]] ||[[元日]] ||New year Day || |- |[[1月26日]] ||[[解放記念日]] ||Liberation Day || |- |[[3月8日]] ||[[国際女性デー]] ||International Women's Day || |- |3月or4月 ||聖金曜日 ||Good Friday ||変動祝日 |- |3月or4月 ||イースター・マンデー ||Easter Monday ||変動祝日 |- |[[5月1日]] ||[[メーデー]] ||Labour Day || |- |[[6月3日]] ||ウガンダ殉教者の日 ||Martyrs of Uganda || |- |[[6月9日]] ||英雄の日 || || |- |[[10月9日]] ||独立記念日 ||Independence Day || |- |[[12月25日]] ||[[クリスマス]] ||Christmas Day || |- |[[12月26日]] ||[[ボクシング・デー]] ||Boxing Day|| |- | ||[[イード・アル=フィトル]]{{enlink|Eid ul-Fitr}}||Eid ul-Fitr ||[[ラマダーン]]明けの祝日 |- | ||[[イード・アル=アドハー]] ||Eid ul-Adha ||ラマダーン明けから70日後 |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|ウガンダのスポーツ|en|Sport in Uganda}}}} ウガンダ国内でも他の[[アフリカ]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。サッカーの他には[[ホッケー]]や[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]に人気が集まっており、[[格闘技]]では[[ボクシング]]に注目が集まっている。[[陸上競技]]においては{{仮リンク|2014年アフリカクロスカントリー選手権|en|2014 African Cross Country Championships|ru|Чемпионат Африки по бегу по пересечённой местности 2014}}と、{{仮リンク|2017年IAAF世界クロスカントリー選手権|en|2017 IAAF World Cross Country Championships|ru|Чемпионат мира по бегу по пересечённой местности 2017}}が同国で開催されている。 {{See also|オリンピックのウガンダ選手団}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|ウガンダのサッカー|en|Football in Uganda}}}} [[1968年]]にプロサッカーリーグの「[[ウガンダ・プレミアリーグ]]」が創設された。{{仮リンク|ウガンダサッカー連盟|en|Federation of Uganda Football Associations}}によって運営されており、[[中華人民共和国|中国]]のメディア企業である{{仮リンク|四達時代|en|StarTimes}}の協賛を得ている。[[サッカーウガンダ代表]]は[[FIFAワールドカップ]]への出場歴はないものの、[[アフリカネイションズカップ]]には7度出場しており、[[アフリカネイションズカップ1978|1978年大会]]では準優勝に輝いている。 == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|ウガンダ人の一覧|en|List of Ugandans}}}} * [[アユブ・カルレ]] - 元[[プロボクサー]] * [[オケロ・ピーター]] - 元プロボクサー * [[モーゼス・キプシロ]] - 元[[陸上競技]]選手 * [[スティーブン・キプロティチ]] - [[陸上競技]]選手 * [[イブラヒム・セカギャ]] - 元[[サッカー選手]] * [[デニス・オニャンゴ]] - 元サッカー選手 * [[ジェフリー・マッサ]] - 元サッカー選手 * [[ファルク・ミヤ]] - [[サッカー選手]] * [[マイケル・アジラ]] - サッカー選手 * [[ジョシュア・チェプテゲイ]]-陸上競技選手 * [[:en:Jacob_Kiplimo|ジェイコブ・キプリモ]]-陸上競技選手 * [[:en:Oscar_Chelimo|オスカー・チェリモ]]-陸上競技選手 * [[:en:Bobi_Wine|ボビ・ワイン]]-レゲエ歌手、政治家。歌を通し、ムセベニ政権へ反抗を続ける。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ウガンダ関係記事の一覧]] * [[イディ・アミン]](元大統領) * [[神の抵抗軍]] (Lord's Resistance Army): 北部で活動する反政府勢力。キリスト教系の武装教団。子供の集団誘拐を行っていると非難されている。 * [[エンテベ空港奇襲作戦]] * [[ウガンダにおける死刑]] * [[柏田雄一]] - ウガンダにヤマトシャツ(現:[[ヤマトインターナショナル]])の工場を作り、雇用を創出し、長年、同国に貢献した。アミン大統領やムセベニ大統領とも親しく、ウガンダの父と呼ばれている。 == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Uganda|Uganda}} {{osm box|r|192796}} {{Wikivoyage|Uganda|ウガンダ{{en icon}}}} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}} ; 政府 * [https://www.statehouse.go.ug/ ウガンダ共和国大統領府] {{en icon}} * [http://www.uganda-embassy.jp/ 在日ウガンダ大使館] {{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uganda/ 日本外務省 - ウガンダ] {{ja icon}} * [https://www.ug.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ウガンダ日本国大使館] ; 観光 * [https://www.ugandatourisminfo.com/ ウガンダ政府観光局] {{en icon}} * [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [https://wikitravel.org/ja/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80 ウガンダ] {{ja icon}} * [https://www.sekai-no-tenki.com/category/%E3%82%A6%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E8%A1%97%E4%B8%80%E8%A6%A7/ ウガンダの都市一覧] {{ja icon}} ; その他 * {{CIA World Factbook link|ug|Uganda}} {{en icon}} * {{Curlie|Regional/Africa/Uganda}} {{en icon}} * {{wikiatlas|Uganda}} {{en icon}} * {{Googlemap|ウガンダ}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:うかんた}} [[Category:ウガンダ|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
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6,958
二酸化炭素
二酸化炭素(にさんかたんそ、英: carbon dioxide)は、炭素の酸化物の一つで、化学式が CO 2 {\displaystyle {\ce {CO2}}} と表される無機化合物である。化学式から「シーオーツー」とも呼ばれる。地球温暖化対策の文脈などで、「カーボンフリー」「カーボンニュートラル」など「カーボン」が使われることがあるが、これは二酸化炭素由来の炭素を意味する。 二酸化炭素は温室効果を持ち、地球の気温を保つのに必要な温室効果ガスの一つである。しかし、濃度の上昇は地球温暖化の原因となる。 地球大気中の二酸化炭素をはじめ地球上で最も代表的な炭素の酸化物であり、炭素単体や有機化合物の燃焼によって容易に生じる。気体は炭酸ガス、固体はドライアイス、液体は液体二酸化炭素、水溶液は炭酸や炭酸水と呼ばれる。また、金星、火星は大気の主成分が二酸化炭素であることが知られている。 多方面の産業で幅広く使われている(後述)。日本では高圧ガス保安法容器保安規則第十条により、二酸化炭素(液化炭酸ガス)の容器(ボンベ)の色は緑色と定められている。 温室効果ガスの排出量を示すための換算指標でもあり、メタンや亜酸化窒素(一酸化二窒素)、フロンガスなどが変換される。日本では、2014年度で13.6億トンが総排出量として算出された。 常温常圧では無色無臭の気体。常圧では液体にならず、−79 °C で凝華して固体(ドライアイス)となる。水に比較的よく溶け、水溶液(炭酸水)は弱酸性を示す。このためアルカリ金属およびアルカリ土類金属の水酸化物の水溶液および固体は二酸化炭素を吸収して、炭酸塩または炭酸水素塩を生ずる。高圧で二酸化炭素の飽和水溶液を冷却すると八水和物 CO 2 ⋅ 8 H 2 O {\displaystyle {\ce {CO2.8H2O}}} を生ずる。 炭素を含む石油、石炭、木材などの燃焼、動植物の呼吸や微生物による有機物の分解、火山活動などによって発生する。安定な物質で、マグネシウムなど還元性の強い金属を除けば二酸化炭素中で燃焼は起こらない。また植物の光合成によって二酸化炭素は様々な有機化合物へと固定される。 また、三重点 (−56.6 °C、0.52 MPa) 以上の温度と圧力条件下では、二酸化炭素は液化する。さらに温度と圧力が臨界点 (31.1 °C、7.4 MPa) を超えると超臨界状態となり、気体と液体の特徴を兼ね備えるようになる。これらの状態の二酸化炭素は圧縮二酸化炭素または高密度二酸化炭素と呼ばれている。 二酸化炭素は空気など地球の環境中にごくありふれた物質で、その有毒性が問題となることはまずない。しかし、空気中の二酸化炭素濃度が高くなると、ヒト(人間)は危険な状態に置かれる。濃度が 3 - 4 % を超えると頭痛・めまい・吐き気などを催し、7 % を超えると炭酸ガスナルコーシスのため数分で意識を失う。この状態が継続すると麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため呼吸が停止し、死に至る(二酸化炭素中毒)。比較的苦痛を感じないまま死に到るとされ、脊椎動物の屠殺や殺処分の法規制においては、二酸化炭素による安楽殺のみが許されることも多い。また、湖水爆発や、締め切った部屋で大量のドライアイスを昇華させる行為、また、二酸化炭素を使用した消火設備の誤作動や誤操作により、人間が二酸化炭素中毒で死傷する事故もある(湖水爆発については「ニオス湖#1986年の災害」が有名)。 ストレスや疲労で、呼吸(換気)をし過ぎたり、呼吸(換気)が速くなり過ぎたりして、人体の血中の二酸化炭素濃度が異常に低くなることがある。これを過呼吸、あるいは過換気症候群(過呼吸症候群)と呼ぶ。過換気症候群の病態自体が命に関わる事は無いが、背景に身体疾患が隠れていることがあるので注意を要する。 二酸化炭素は非常に安定な化合物であるが、塩基性あるいは求核性を持つ物質と反応しやすい性質がある。特にグリニャール試薬やアルキルリチウムなどの試薬に対しては、高い反応性を示してカルボン酸を与える。 また、金属マグネシウムは二酸化炭素中でも燃焼し、二酸化炭素は還元されて炭素の粉末になる。炭素、亜鉛および鉄でさえ、高温では反応して一酸化炭素を生成する。 高温では可逆的に分解して、一酸化炭素および酸素となる。 水素とも高温で以下のような平衡を生ずるが、触媒の存在など条件次第では、メタンおよびメタノールを生成することもある(水性ガスシフト反応)。 なお、学校教育の理科実験などで、二酸化炭素を石灰水に通すと白濁する性質が広く知られている。これは難溶性の炭酸カルシウムを生成するためである。 さらに二酸化炭素を通し続けると可溶性の炭酸水素カルシウムを生成し濁りが消えていく。 日本で工業原料としての利用される炭酸ガスは、石油化学プラントなどから排出されたものを回収し、洗浄・精製を繰り返すことで生産される。清涼飲料水で使用する炭酸ガスも石油由来のものを回収して使用している。工業製品としての炭酸ガスの 2018 年度日本国内生産量は 991,138 t、工業消費量は 149,035 t である。実験室的製法は石灰石に希塩酸を加えるか、炭酸水素ナトリウムの加熱である。 イギリスでは、アンモニアを製造する際の副産物を利用している。 工業においては、以下の用途がある。 農業においては、以下の用途がある。 二酸化炭素は赤外線の 2.5 - 3 μm、4 - 5 μm の波長帯域に強い吸収帯を持つため、地上からの熱が宇宙へと拡散することを防ぐ、いわゆる温室効果ガスとして働く。 二酸化炭素の温室効果は、同じ体積あたりではメタンやフロンに比べ小さいものの、排出量が莫大であることから、地球温暖化の最大の原因とされる。 世界気象機関 (WMO) は2015年に世界の年平均二酸化炭素濃度が400ppmに到達したことを報じたが、氷床コアなどの分析から産業革命以前は、およそ280 ppm (0.028 %) の濃度であったと推定されている。濃度増加の要因は、主に化石燃料の大量消費と考えられている。 また、二酸化炭素そのものの海水中への溶存量が増えることによって海水が酸性化し、生態系に悪影響を与える海洋酸性化も懸念されている。 1997年には京都議定書によって二酸化炭素を含めた各国の温室効果ガス排出量の削減目標が示され、各国でその削減を努力することを締結した。 その手法は多岐に亘る。エネルギーや農業・畜産業など人為起源の二酸化炭素の排出量を抑制する努力、および森林の維持・育成や二酸化炭素回収貯留 (CCS) 技術の開発など、二酸化炭素を固定する努力が進められている。また排出権取引などを活用して、世界的に二酸化炭素の排出量を削減を促進する努力も行われている。 2013年5月、米国ハワイ州のマウナロア観測所、サンディエゴのスクリップス海洋研究所の観測で日間平均二酸化炭素量が人類史上初めて400ppmを突破したことが発表された。 二酸化炭素濃度は様々な研究機関によって世界各地で測定されているが、それらは必ずしも統一的な基準で測定されているとは限らない(つまり各測定値の比較可能性が保証されていない場合がある)。世界気象機関 (WMO) の全球大気監視 (Global Atmosphere Watch) プログラムは世界各地で統一した基準や手法で二酸化炭素濃度を含む様々な地球の大気成分の測定を行っている。そして、それを用いた世界平均された二酸化炭素濃度は、WMO温室効果ガス年報(WMO Greenhouse Gas bulletin)で発表されている。これは気候変動枠組み条約の締約国会議に合わせて毎年1回刊行され、この世界平均濃度は世界の主要メディアによって報道されている。また、全球大気監視プログラムにおける各地の測定データは、WMO温室効果ガス世界データセンター (World Data Centre for Greenhouse Gases) から無償で公開されている(データを利用する場合には利用ポリシーに従う必要がある)。このデータセンターはWMOから委託を受けて日本の気象庁が運営している。 上記のような地球温暖化を抑制するため、二酸化炭素の新たな排出を減らす努力だけでなく、工場・火力発電所などの排気に含まれる二酸化炭素の回収(前述のCCS)のほか、大気からの二酸化炭素回収(DAC=Direct Air Capture, ダイレクト・エア・キャプチャー)により、大気から切り離す技術が開発されている。二酸化炭素の新たな排出抑制だけでは地球温暖化の緩和には不十分で、植林による光合成促進やCCS、DACといった「負の排出」(ネガティブ・エミッション)が必要という危機感が技術開発の背景にある。DACはアメリカ合衆国やカナダ、スイスなど15カ所の施設があり(2021年時点)、日本も『グリーン成長戦略』で2050年の実用化を掲げた。スイスのクライムワークスのように排出権取引を利用して既に商業化した企業も登場している。DACには以下の方式がある。 こうして得られた二酸化炭素は地中に貯留したり、プラスチックや医薬品などの原料として利用したりする。アミンや水酸化カリウムに吸収させる手法のほか、九州大学では大気中の窒素を通しにくく、二酸化炭素を通しやすい膜を開発した。 東京工業大学などは、電気化学触媒としてレニウム錯体を使うことで、二酸化炭素の濃度が低くても効率よく回収できる手法の開発を2018年に発表している。東京工業大学ではこれに先立ち、岩澤伸治らが、二酸化炭素を炭化水素と反応させる有機合成反応を開発した。触媒としてロジウムを用い、炭素と水素の結合を弱めて反応させる。大気圧で反応が進むが、特定の化合物やアルミニウムが必要になるなどの実用化に向けた課題もある。
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4 % を超えると頭痛・めまい・吐き気などを催し、7 % を超えると炭酸ガスナルコーシスのため数分で意識を失う。この状態が継続すると麻酔作用による呼吸中枢の抑制のため呼吸が停止し、死に至る(二酸化炭素中毒)。比較的苦痛を感じないまま死に到るとされ、脊椎動物の屠殺や殺処分の法規制においては、二酸化炭素による安楽殺のみが許されることも多い。また、湖水爆発や、締め切った部屋で大量のドライアイスを昇華させる行為、また、二酸化炭素を使用した消火設備の誤作動や誤操作により、人間が二酸化炭素中毒で死傷する事故もある(湖水爆発については「ニオス湖#1986年の災害」が有名)。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ストレスや疲労で、呼吸(換気)をし過ぎたり、呼吸(換気)が速くなり過ぎたりして、人体の血中の二酸化炭素濃度が異常に低くなることがある。これを過呼吸、あるいは過換気症候群(過呼吸症候群)と呼ぶ。過換気症候群の病態自体が命に関わる事は無いが、背景に身体疾患が隠れていることがあるので注意を要する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "二酸化炭素は非常に安定な化合物であるが、塩基性あるいは求核性を持つ物質と反応しやすい性質がある。特にグリニャール試薬やアルキルリチウムなどの試薬に対しては、高い反応性を示してカルボン酸を与える。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、金属マグネシウムは二酸化炭素中でも燃焼し、二酸化炭素は還元されて炭素の粉末になる。炭素、亜鉛および鉄でさえ、高温では反応して一酸化炭素を生成する。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "高温では可逆的に分解して、一酸化炭素および酸素となる。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "水素とも高温で以下のような平衡を生ずるが、触媒の存在など条件次第では、メタンおよびメタノールを生成することもある(水性ガスシフト反応)。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、学校教育の理科実験などで、二酸化炭素を石灰水に通すと白濁する性質が広く知られている。これは難溶性の炭酸カルシウムを生成するためである。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "さらに二酸化炭素を通し続けると可溶性の炭酸水素カルシウムを生成し濁りが消えていく。", "title": "性質" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本で工業原料としての利用される炭酸ガスは、石油化学プラントなどから排出されたものを回収し、洗浄・精製を繰り返すことで生産される。清涼飲料水で使用する炭酸ガスも石油由来のものを回収して使用している。工業製品としての炭酸ガスの 2018 年度日本国内生産量は 991,138 t、工業消費量は 149,035 t である。実験室的製法は石灰石に希塩酸を加えるか、炭酸水素ナトリウムの加熱である。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イギリスでは、アンモニアを製造する際の副産物を利用している。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "工業においては、以下の用途がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "農業においては、以下の用途がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "二酸化炭素は赤外線の 2.5 - 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二酸化炭素は、炭素の酸化物の一つで、化学式が CO 2 と表される無機化合物である。化学式から「シーオーツー」とも呼ばれる。地球温暖化対策の文脈などで、「カーボンフリー」「カーボンニュートラル」など「カーボン」が使われることがあるが、これは二酸化炭素由来の炭素を意味する。 二酸化炭素は温室効果を持ち、地球の気温を保つのに必要な温室効果ガスの一つである。しかし、濃度の上昇は地球温暖化の原因となる。 地球大気中の二酸化炭素をはじめ地球上で最も代表的な炭素の酸化物であり、炭素単体や有機化合物の燃焼によって容易に生じる。気体は炭酸ガス、固体はドライアイス、液体は液体二酸化炭素、水溶液は炭酸や炭酸水と呼ばれる。また、金星、火星は大気の主成分が二酸化炭素であることが知られている。 多方面の産業で幅広く使われている(後述)。日本では高圧ガス保安法容器保安規則第十条により、二酸化炭素(液化炭酸ガス)の容器(ボンベ)の色は緑色と定められている。 温室効果ガスの排出量を示すための換算指標でもあり、メタンや亜酸化窒素(一酸化二窒素)、フロンガスなどが変換される。日本では、2014年度で13.6億トンが総排出量として算出された。
{{出典の明記|date=2019-12}} {{Chembox |ImageFile1 = Carbon-dioxide-2D-dimensions.svg |ImageFile2 = Carbon-dioxide-3D-vdW.png |ImageFile3 = Dry Ice Pellets Subliming.jpg |ImageSize3 = 250px |ImageName3 = Sample of solid carbon dioxide or "dry ice", pellets |IUPACName = 二酸化炭素<br />Carbon dioxide |SystematicName = |OtherNames = 炭酸ガス<br />[[ドライアイス]]([[固体]]) |Section1 = {{Chembox Identifiers |Abbreviations = |CASNo = 124-38-9 |EINECS = 204-696-9 |EINECSCASNO = |PubChem = |SMILES = C(=O)=O |InChI = 1/CO2/c2-1-3 |RTECS = FF6400000 |MeSHName = |ChEBI = |KEGG = D00004 |ATCCode_prefix = |ATCCode_suffix = |ATC_Supplemental = }} | Section2 = {{Chembox Properties |C=1|O=2 |Appearance = 無色気体 |Density = 1.562 g/cm{{sup|3}}(固体、1 atm, −78.5 {{℃}})<br />0.770 g/cm{{sup|3}}(液体, 56 atm, 20 {{℃}})<br />0.001977 g/cm{{sup|3}}(気体, 1 atm, 0 {{℃}}) |MeltingPt = −56.6 {{℃}}, 216.6 K,-69.88{{°F}} |Melting_notes = 5.2 atm<ref name=Merck>Merck Index 12th ed., 1857.</ref>, [[三重点]] |BoilingPt = −78.5 {{℃}}, 194.7 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|NFPA-H = |NFPA-F = |NFPA-R = |NFPA-O = |RPhrases = {{R-phrases| }} |SPhrases = {{S-phrases| }} |RSPhrases = |FlashPt = 不燃性 |Autoignition = |ExploLimits = |LD50 = |PEL = }} |Section8 = {{Chembox Related |OtherAnions = [[二硫化炭素]] |OtherCations = [[二酸化ケイ素]]<br />[[二酸化ゲルマニウム]]<br />[[二酸化スズ]]<br />[[二酸化鉛]] |OtherFunctn = [[一酸化炭素]]<br />[[炭酸]] |Function = 化合物 |OtherCpds = }} }} '''二酸化炭素'''(にさんかたんそ、{{lang-en-short|carbon dioxide}})は、[[炭素]]の[[酸化物]]の一つで、[[分子式|化学式]]が <chem>CO2</chem> と表される[[無機化合物]]である。化学式から「シーオーツー」とも呼ばれる。[[地球温暖化]]対策の文脈などで、「カーボンフリー<ref>[http://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/suisokihonsenryaku.html カーボンフリーな水素社会の構築を目指す「水素基本戦略」][[経済産業省]][[資源エネルギー庁]](2018年2月13日)2019年1月27日閲覧</ref>」「[[カーボンニュートラル]]」など「[[炭素|カーボン]]」が使われることがあるが、これは二酸化炭素由来の[[炭素]]を意味する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=4734 |title=環境用語 |publisher=環境イノベーション情報機構 |accessdate=2022-03-23}}</ref>。 二酸化炭素は[[温室効果]]を持ち、地球の気温を保つのに必要な[[温室効果ガス]]の一つである。しかし、濃度の上昇は[[地球温暖化]]の原因となる<ref>{{Cite journal|和書 |author=玉置元則 |author2=正賀 充 |author3=平木隆年 |author4= 守富寛 |year=1994 |title=地球温暖化ガス: 亜酸化窒素の人為的排出 (1) |journal=環境技術 |volume=2 |issue=9 |pages=47-53 |publisher=環境技術学会 |doi=10.5956/jriet.23.575 |ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/chishiki_ondanka/p04.html#:~:text=二酸化炭素は地球温暖,年々増加しています。|title=温室効果ガスの種類 |publisher=気象庁 |accessdate=2022-03-19}}</ref>。 [[地球大気中の二酸化炭素]]をはじめ[[地球]]上で最も代表的な炭素の酸化物であり、炭素単体や[[有機化合物]]の[[燃焼]]によって容易に生じる。[[気体]]は'''炭酸ガス'''、[[固体]]は'''[[ドライアイス]]'''、[[液体]]は液体二酸化炭素、[[水溶液]]は'''[[炭酸]]'''や'''[[炭酸水]]'''と呼ばれる。また、[[金星の大気|金星]]、[[火星の大気|火星]]は大気の主成分が二酸化炭素であることが知られている。 多方面の産業で幅広く使われている([[#用途|後述]])。[[日本]]では[[高圧ガス保安法]]容器保安規則第十条により、二酸化炭素(液化炭酸ガス)の容器(ボンベ)の色は緑色と定められている。<!--ここから二酸化炭素のボンベが'''ミドボン'''と呼ばれることもある。{{要出典|date=2011年4月|}}無出典で表に出さないこと。--> [[温室効果ガス]]の排出量を示すための換算指標でもあり、[[メタン]]や[[亜酸化窒素]](一酸化二窒素)、[[フロン]]ガスなどが変換される。日本では、2014年度で13.6億[[トン]]が総排出量として算出された<ref>{{PDFlink|[https://www.env.go.jp/earth/ondanka/ghg/2014_kakuho_gaiyou.pdf 2014 年度(平成26年度)の温室効果ガス排出量(確報値)<概要>][[環境省]]}}</ref>。 == 性質 == [[画像:Carbon dioxide pressure-temperature phase diagram international.svg|275px|thumb|left|二酸化炭素の[[相図|状態図]] 1:[[固体]]、2:[[液体]]、3:[[気体]]、4:[[超臨界状態]]、A:三重点、B:臨界点]] [[常温]]常圧では無色無臭の[[気体]]。常圧では[[液体]]にならず、−79 {{℃}} で[[凝華]]して[[固体]](ドライアイス)となる。水に比較的よく溶け、水溶液(炭酸水)は弱酸性を示す。このため[[アルカリ金属]]および[[アルカリ土類金属]]の[[水酸化物]]の水溶液および固体は二酸化炭素を吸収して、[[炭酸塩]]または[[炭酸水素塩]]を生ずる。高圧で二酸化炭素の[[飽和]]水溶液を冷却すると[[水和物|八水和物]] <chem>CO2.8H2O </chem> を生ずる。 [[炭素]]を含む[[石油]]、[[石炭]]、[[木材]]などの[[燃焼]]、動植物の[[呼吸]]や[[微生物]]による[[有機物]]の分解、[[火山]]活動などによって発生する。安定な物質で、[[マグネシウム]]など還元性の強い金属を除けば二酸化炭素中で燃焼は起こらない。また[[植物]]の[[光合成]]によって二酸化炭素は様々な[[有機化合物]]へと[[炭素固定|固定]]される。 また、[[三重点]] (−56.6 {{℃}}、0.52 [[メガパスカル|MPa]]) 以上の温度と圧力条件下では、二酸化炭素は液化する。さらに温度と圧力が[[臨界点]] (31.1 {{℃}}、7.4 MPa) を超えると[[超臨界状態]]となり、気体と液体の特徴を兼ね備えるようになる。これらの状態の二酸化炭素は'''圧縮二酸化炭素'''または'''高密度二酸化炭素'''と呼ばれている。 === 毒性 === <!--(暫定的メモ)節ごと大きく消すならば、せめて理由説明を要約やノート等でお願いします。--> 二酸化炭素は[[空気]]など地球の環境中にごくありふれた物質で、その有毒性が問題となることはまずない。しかし、空気中の二酸化炭素濃度が高くなると、[[ヒト]](人間)は危険な状態に置かれる。濃度が 3 - 4 % を超えると[[頭痛]]・[[めまい]]・[[嘔吐|吐き気]]などを催し、7 % を超えると[[炭酸ガスナルコーシス]]のため数分で意識を失う。この状態が継続すると[[麻酔]]作用による[[呼吸中枢]]の抑制のため呼吸が停止し、[[死]]に至る(二酸化炭素中毒)<ref>{{PDFlink|[http://www.nonrisk.co.jp/co2jintai-eikyou.pdf 二酸化炭素(CO2)の人体における影響] 沖縄CO2削減推進協議会}}</ref>。比較的苦痛を感じないまま死に到るとされ、[[脊椎動物]]の[[屠殺]]や[[殺処分]]の法規制においては、二酸化炭素による[[安楽死|安楽殺]]のみが許されることも多い。また、[[湖水爆発]]や、締め切った部屋で大量のドライアイスを昇華させる行為、また、二酸化炭素を使用した消火設備の誤作動や誤操作により、人間が二酸化炭素中毒で死傷する事故もある(湖水爆発については「[[ニオス湖#1986年の災害]]」が有名)<ref>{{Cite journal|author=佐藤暢,飯野守男|year=2016|title=厚労省も陥ったか,ヒューマンエラーと二酸化炭素中毒事故にまつわる謎|url=https://jsta.net/pic/magic.pdf|journal=麻酔・集中治療とテクノロジー|volume=2016|pages=87-96}}</ref>。 [[ストレス (生体)|ストレス]]や疲労で、呼吸(換気)をし過ぎたり、呼吸(換気)が速くなり過ぎたりして、人体の血中の二酸化炭素濃度が異常に低くなることがある。これを[[過呼吸]]、あるいは[[過換気症候群]](過呼吸症候群)と呼ぶ。過換気症候群の病態自体が命に関わる事は無いが、背景に身体疾患が隠れていることがあるので注意を要する。 === 反応性 === 二酸化炭素は非常に安定な化合物であるが、[[塩基]]性あるいは[[求核剤|求核性]]を持つ物質と反応しやすい性質がある。特に[[グリニャール試薬]]や[[アルキルリチウム]]などの試薬に対しては、高い反応性を示して[[カルボン酸]]を与える。 : <chem>R-MgBr + CO2 -> R-COOH</chem> ([[加水分解]]後) また、金属[[マグネシウム]]は二酸化炭素中でも燃焼し、二酸化炭素は[[還元]]されて炭素の粉末になる。炭素、[[亜鉛]]および[[鉄]]でさえ、高温では反応して[[一酸化炭素]]を生成する。 : <chem>CO2 + 2Mg -> C + 2MgO</chem> 高温では可逆的に分解して、一酸化炭素および[[酸素]]となる。 : <chem>2CO2 <=> 2CO + O2</chem> [[水素]]とも高温で以下のような平衡を生ずるが、[[触媒]]の存在など条件次第では、[[メタン]]および[[メタノール]]を生成することもある([[水性ガスシフト反応]])。 : <chem>CO2 + H2 <=> CO + H2O</chem> なお、[[学校教育]]の[[理科]][[実験#教育の場で|実験]]などで、二酸化炭素を[[石灰水]]に通すと白濁する性質が広く知られている。これは難溶性の[[炭酸カルシウム]]を生成するためである。 : <chem>Ca(OH)2 + CO2 <=> CaCO3 + H2O</chem> さらに二酸化炭素を通し続けると可溶性の[[炭酸水素カルシウム]]を生成し濁りが消えていく。 : <chem>CaCO3 + CO2 + H2O <=> Ca(HCO3)2</chem> == 生産 == 日本で工業原料としての利用される炭酸ガスは、[[石油化学]][[プラント]]などから排出されたものを回収し、洗浄・精製を繰り返すことで生産される<ref>[https://www.rgp.resonac.com/dryice/process.html 株式会社レゾナック・ガスプロダクツによる解説]または[http://www.n-eco.co.jp/company/environment/index.html 日本液炭による解説]</ref>。[[清涼飲料水]]で使用する炭酸ガスも石油由来のものを回収して使用している。<!--統計項目と合致させるために炭酸ガスの語を使用する-->工業製品としての炭酸ガスの 2018 年度日本国内生産量は 991,138 [[トン|t]]<ref group="注釈">肥料、清涼飲料製造用の自家使用分は除く。</ref>、工業消費量<ref group="注釈">当該工場で他の製品の原材料用、加工用、燃料用として消費されたものをいう。従って他の工場での生産に消費した量は含まない。</ref>は 149,035 t である<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/seidou/result/ichiran/08_seidou.html#menu5 『経済産業省生産動態統計年報 化学工業統計編』]</ref>。実験室的製法は[[石灰石]]に希[[塩酸]]を加えるか、[[炭酸水素ナトリウム]]の加熱である。 [[イギリス]]では、[[アンモニア]]を製造する際の副産物を利用している<ref>{{Cite web |date=2018-06-28 |url=https://www.cnn.co.jp/business/35121589.html |title=W杯観戦のビールが飲めない?炭酸ガス不足、英で業界を直撃 |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |accessdate=2018-06-30}}</ref>。 == 用途 == ;工業用途 工業においては、以下の用途がある。 * 工業で加工に使用する[[レーザー]]として、[[炭酸ガスレーザー]]が一般的である。炭酸ガスレーザーは医療用[[レーザーメス]]としても使用されている。 * [[造船]]・[[橋]]・[[高層建築物]]など、鋼構造物の[[溶接]]作業には[[炭酸ガスアーク溶接]]が一般的である。 * 温室効果ガスである二酸化炭素の削減が急務となっていることから、触媒を使うなどして二酸化炭素を直接または一酸化炭素に変換するなどして、様々な化学品の原料とする技術が研究されている<ref>[http://www.nedo.go.jp/activities/EV_00296.html 二酸化炭素原料化基幹化学品製造プロセス技術開発] 国立研究開発法人[[新エネルギー・産業技術総合開発機構]](2018年7月6日閲覧)</ref>。 * [[フロン類|フロン]]系[[冷媒]]の代替として、CO{{sub|2}} [[冷媒]][[コンプレッサ]]が主に[[自動販売機]]などで実用化されつつあるが、高圧にする必要があるため費用面での課題が残り、エネルギー効率も悪い。 * 生産工場における冷却用[[ドライアイス]]の新しい利用方法として、[[ドライアイス洗浄]]にも使用されている。これは[[ペレット]]状のドライアイスを[[タービン]]などの構造物に噴射することによって付着した対象物を取り除くもので、ショット[[ブラスト]]などと呼ばれる<ref>{{PDFlink|[http://www.n-eco.co.jp/blast/product/pdf/blast-general-catalog.pdf ドライアイスブラスト] 日本液炭}}</ref>。 ;農業用途 [[農業]]においては、以下の用途がある。 * [[イチゴ]]の[[促成栽培]]、観賞用水槽の[[水草]]など、植物の成長を加速させる二酸化炭素施肥に使用されている。 * 鮮農産物のCA貯蔵 (controlled atmosphere storage) にも二酸化炭素が使用される。<!--二酸化炭素の役割は生鮮農産物から発生する[[エチレン]]の後熟作用を抑制するためで、エチレンの[[酵素]]反応に於ける[[酵素阻害剤]]の中の[[拮抗阻害(競争阻害,competitive inhibition)]]剤として作用すると推定される(村田敏、農産物貯蔵の基本原理、冷凍、vol.72,no.832,1997)。--> ;その他 * [[炭酸飲料]]や[[入浴剤]]、消火剤などの発泡用ガスとして用いられている。 * 冷却用ドライアイスとして広く用いられている。またドライアイスとエタノールとの混合物は寒剤として利用できる。 * [[自転車]]の緊急補充用エアーとしても使われるようになった。 * [[超臨界状態]]の二酸化炭素は[[カフェイン]]の[[抽出]][[溶媒]]として、[[コーヒー]]の[[デカフェ]]などに利用されている。 * [[げっ歯類]]や小動物などの動物を[[殺処分]]する方法にも使われる。通常は[[麻酔]]状態になった後に意識を喪失し、そのまま死に至るため[[安楽死]]の手段として使われる<ref>[http://www.med.akita-u.ac.jp/~doubutu/ouu/euthanasia2.html 安楽死法] 動物実験手技</ref>。 * ドライアイスは[[昇華 (化学)|昇華]]時に白煙を生じることから、舞台やパレードでの演出などでも用いられる。これを放送業界などでは俗に「炭ガス」と呼ぶ。この白煙は二酸化炭素そのものではなく、温度低下により空気中の水分が[[氷結]]するからである。 * CO2からブドウ糖・油脂へ<ref>{{Cite journal|last=Zhang|first=Shanshan|last2=Sun|first2=Jiahui|last3=Feng|first3=Dandan|last4=Sun|first4=Huili|last5=Cui|first5=Jinyu|last6=Zeng|first6=Xuexia|last7=Wu|first7=Yannan|last8=Luan|first8=Guodong|last9=Lu|first9=Xuefeng|date=2023-06-09|title=Unlocking the potentials of cyanobacterial photosynthesis for directly converting carbon dioxide into glucose|url=https://www.nature.com/articles/s41467-023-39222-w|journal=Nature Communications|volume=14|issue=1|pages=3425|language=en|doi=10.1038/s41467-023-39222-w|issn=2041-1723}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中国の科学者、CO2からブドウ糖・油脂への人工合成を実現 {{!}} Science Portal China |url=https://spc.jst.go.jp/news/220404/topic_5_04.html |website=spc.jst.go.jp |access-date=2023-07-28}}</ref>、[[澱粉]]へ<ref>{{Cite web|和書|title=二酸化炭素からでんぷんを人工合成するプロセスを開発――農業によるでんぷん生産を置換する - fabcross for エンジニア |url=https://engineer.fabcross.jp/archeive/211110_starch-synthesis-from-co2.html |website=fabcross for エンジニア - エンジニアのためのキャリア応援マガジン |date=2021-11-10 |access-date=2023-07-28}}</ref>、プラスチックへ<ref>{{Cite web|和書|title=常圧二酸化炭素からプラスチックの直接合成に世界で初めて成功 |url=https://www.osaka-cu.ac.jp/ja/news/2021/210727 |website=Osaka City University |access-date=2023-07-28 |language=ja}}</ref>合成する実験が報道された。 == 二酸化炭素による温室効果 == [[画像:CO2-Mauna-Loa.png|300px|thumb|[[ハワイ島]][[マウナ・ロア山|マウナロア火山]]で観測された二酸化炭素の大気中濃度(Y軸が 310 [[ppm]] から始まっていることに注意。また周期的に濃度が上下しているのは、冬と夏とで植物が吸収する二酸化炭素の量が異なるためである。植物が枯れる冬は、夏に比べ植物の二酸化炭素の吸収量は低下する)。]] 二酸化炭素は[[赤外線]]の 2.5 - 3 [[マイクロメートル|μm]]、4 - 5 μm の波長帯域に強い吸収帯を持つため、地上からの熱が宇宙へと拡散することを防ぐ、いわゆる[[温室効果ガス]]として働く。 二酸化炭素の[[温室効果]]は、同じ体積あたりでは[[メタン]]や[[フロン類|フロン]]に比べ小さいものの、排出量が莫大であることから、[[地球温暖化]]の最大の原因とされる。 {{See also|地球温暖化の原因}} [[世界気象機関]] (WMO) は2015年に世界の年平均二酸化炭素濃度が400[[ppm]]に到達したことを報じたが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.data.jma.go.jp/gmd/env/info/wdcgg/GHG_Bulletin-12_j.pdf |title=WMO温室効果ガス年報の和訳 12号 |accessdate=2019-04-03 |publisher=気象庁}}</ref>、[[氷床コア]]などの分析から[[産業革命]]以前は、およそ280 ppm (0.028 %) の濃度であったと推定されている。濃度増加の要因は、主に[[化石燃料]]の大量消費と考えられている。 {{See also|IPCC第4次評価報告書}} また、二酸化炭素そのものの[[海水]]中への溶存量が増えることによって海水が酸性化し、[[生態系]]に悪影響を与える[[海洋酸性化]]も懸念されている。 {{See also|地球温暖化の影響}} [[1997年]]には[[京都議定書]]によって二酸化炭素を含めた各国の温室効果ガス排出量の削減目標が示され、各国でその削減を努力することを締結した。 その手法は多岐に亘る。[[エネルギー]]や農業・[[畜産業]]など人為起源の二酸化炭素の排出量を抑制する努力、および[[森林]]の維持・育成や[[二酸化炭素貯留|二酸化炭素回収貯留]] (CCS) 技術の開発など、二酸化炭素を固定する努力が進められている。また[[排出量取引|排出権取引]]などを活用して、世界的に二酸化炭素の排出量を削減を促進する努力も行われている。 {{See also|地球温暖化への対策}} 2013年5月、[[アメリカ合衆国|米国]][[ハワイ州]]の[[マウナロア観測所]]、[[サンディエゴ]]のスクリップス海洋研究所の観測で日間平均二酸化炭素量が人類史上初めて400ppmを突破したことが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2943370?pid=10723482 |title=大気中のCO2量が歴史的水準を突破、専門家らが行動を呼びかけ |publisher=[[フランス通信|AFP]] |date=2013-05-11 |accessdate=2013-05-11}}</ref>。 === 世界平均濃度の算出 === 二酸化炭素濃度は様々な研究機関によって世界各地で測定されているが、それらは必ずしも統一的な基準で測定されているとは限らない(つまり各測定値の比較可能性が保証されていない場合がある)。世界気象機関 (WMO) の[[全球大気監視計画|全球大気監視]] (Global Atmosphere Watch) プログラムは世界各地で統一した基準や手法で二酸化炭素濃度を含む様々な[[地球の大気]]成分の測定を行っている<ref>{{Cite journal |author=堤之智 |year=2017 |title=新たなWMO/GAW 実施計画:2016-2023について |journal=天気 |volume=64 |page=607-614}}</ref>。そして、それを用いた世界平均された二酸化炭素濃度は、[https://www.data.jma.go.jp/env/info/wdcgg/wdcgg_bulletin.html WMO温室効果ガス年報]([https://public.wmo.int/en/resources/library/wmo-greenhouse-gas-bulletin WMO Greenhouse Gas bulletin])で発表されている。これは[[気候変動枠組条約|気候変動枠組み条約]]の締約国会議に合わせて毎年1回刊行され、この世界平均濃度は世界の主要メディアによって報道されている。また、全球大気監視プログラムにおける各地の測定データは、[https://gaw.kishou.go.jp/jp/ WMO温室効果ガス世界データセンター] (World Data Centre for Greenhouse Gases) から無償で公開されている(データを利用する場合には利用ポリシーに従う必要がある)。このデータセンターはWMOから委託を受けて日本の[[気象庁]]が運営している。 == 二酸化炭素の回収・資源化・分離 == 上記のような地球温暖化を抑制するため、二酸化炭素の新たな排出を減らす努力だけでなく、[[工場]]・[[火力発電所]]などの排気に含まれる二酸化炭素の回収(前述のCCS)のほか、[[直接空気回収技術|大気からの二酸化炭素回収]](DAC=Direct Air Capture, ダイレクト・エア・キャプチャー)により、大気から切り離す技術が開発されている。二酸化炭素の新たな排出抑制だけでは地球温暖化の緩和には不十分で、植林による[[光合成]]促進やCCS、DACといった「負の排出」(ネガティブ・エミッション)が必要という危機感が技術開発の背景にある。DACは[[アメリカ合衆国]]や[[カナダ]]、[[スイス]]など15カ所の施設があり(2021年時点)、日本も『グリーン成長戦略』で2050年の実用化を掲げた。スイスのクライムワークスのように[[排出権取引]]を利用して既に商業化した企業も登場している。DACには以下の方式がある<ref>【サイエンスReport】挑戦 カーボンゼロ/CO2削減 究極の技術「DAC」海外で商業化『[[読売新聞]]』朝刊2021年9月5日くらしサイエンス面</ref>。 #溶液を使う化学吸収・吸着法 #固体に吸着させる物理吸着法 #膜分離法 #空気を冷やしてドライアイス化させる深冷法 こうして得られた二酸化炭素は地中に貯留したり、[[プラスチック]]や医薬品などの原料として利用したりする。[[アミン]]や[[水酸化カリウム]]に吸収させる手法のほか、[[九州大学]]では大気中の[[窒素]]を通しにくく、二酸化炭素を通しやすい膜を開発した<ref name="日経20210201">[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHD068CY0W1A100C2000000/ 「CO2 大気から直接回収/脱炭素の救世主に 経済活動に制約なく」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2021年2月1日(科学技術面)同日閲覧</ref>。 [[東京工業大学]]などは、[[電気化学]]触媒として[[レニウム]][[錯体]]を使うことで、二酸化炭素の濃度が低くても効率よく回収できる手法の開発を2018年に発表している<ref>[https://www.titech.ac.jp/news/2018/043049.html 「希薄な二酸化炭素を捕捉して資源化できる新触媒の発見 低濃度二酸化炭素の直接利用に道」]東工大ニュース(2018年12月4日)2019年1月27日閲覧。</ref>。東京工業大学ではこれに先立ち、[[岩澤伸治]]らが、二酸化炭素を[[炭化水素]]と反応させる有機合成反応を開発した。触媒として[[ロジウム]]を用い、炭素と水素の結合を弱めて反応させる。大気圧で反応が進むが、特定の化合物や[[アルミニウム]]が必要になるなどの実用化に向けた課題もある<ref>「※記事名不明※」『[[朝日新聞]]』朝刊2011年1月25日22面</ref>。 {|class="wikitable" |+CCUS/カーボンリサイクル<ref>{{Cite report |author=経済産業省 |authorlink=経済産業省 |title=カーボンリサイクル技術ロードマップ |date=2019-06-07 |url=https://www.enecho.meti.go.jp/category/others/carbon_recycling/pdf/20190607002-1.pdf}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://cs2.toray.co.jp/news/tbr/newsrrs01.nsf/0/45DB346601DA7A3E4925852D00257270 |title=資源としてのCO2の利用は温室効果ガス削減の切り札となるか |author=福田佳之 |publisher=東レ経営研究所 |accessdate=2021-11-16}}</ref> |- !rowspan="7"|CO{{sub|2}}回収!!rowspan="6"|利用 |rowspan="4"|カーボンリサイクル|| '''化学品'''<br />含酸素化合物(ポリカーボネート、ウレタンなど)<br />バイオマス由来化学品<br />汎用物質(オレフィン、BTXなど) |- |'''燃料'''<br />微細藻類バイオ燃料(ジェット燃料・ディーゼル)<br />CO2由来燃料またはバイオ燃料(微細藻類由来 を除く)(メタノール、エタノール、ディーゼルなど)<br />ガス燃料(メタン) |- |'''鉱物'''<br />コンクリート製品・コンクリート構造物<br />炭酸塩 など |- |'''その他''' <br />ネガティブ・エミッション(BECCS, ブルーカーボンなど) |- |CO{{sub|2}}の直接利用||溶接用途(シールドガス)<br />食品用途(米麦燻製、冷凍食品製造、ドライアイス)<br />飲料用途(ワイン醸造、炭酸飲料)<br />農業(施設園芸や植物工場における CO2 施肥)<br />溶剤用途(抽出溶媒としての超臨界 CO2)<br />赤泥処理用途(ボーキサイト残渣の中和)など |- |colspan="2"|石油増進回収法 EOR (Enhanced Oil Recovery) |- |colspan="3"|貯留 |} == 関連画像 == <!-- 大変お手数をおかけしますが、画像の最適な説明文を加筆編集お願いします。--> <gallery caption="二酸化炭素"> 3D dioxyde de carbone.PNG|棒球モデル C+O2=CO2.svg|炭素の完全燃焼の反応式と模式図 Carbon-dioxide-unit-cell-3D-balls.png|結晶 Carbon-exchange-and-loss-process-pia20163 (1).jpg|Carbon-exchange-and-loss-process-pia CO2 8737.JPG|原子の手を表現したもの。 </gallery> == 関連項目 == {{Commons|Carbon dioxide}} {{Commonscat|CO2 molecule}} * [[二酸化炭素貯留]] * [[二酸化炭素の電気分解]] * [[炭素循環]] * [[二酸化炭素飢餓]] * [[溶存無機炭素]] * [[国の二酸化炭素排出量リスト]] * [[炭酸飽和]] * [[放射強制力]] * [[湖水爆発]] * {{ill2|カルバミノヘモグロビン|en|Carbaminohemoglobin}} - 二酸化炭素が[[ヘモグロビン]]のアミノ基と結合した形態。血中二酸化炭素輸送の約23%がこの形態で、70%が[[炭酸脱水酵素]]で変換された[[炭酸水素塩|炭酸水素イオン]]、7%が二酸化炭素として[[血漿]]に溶け込んだ状態で肺に送られる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{EoE|Carbon_dioxide|Carbon dioxide}} * {{ICSC|0021}} * {{Kotobank}} {{炭素の無機化合物}} {{炭素酸化物}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にさんかたんそ}} [[Category:二酸化炭素|*]] [[Category:オキソカーボン]] [[Category:酸化物]] [[Category:温室効果ガス]] [[Category:冷却材]]
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シュレーディンガー
シュレーディンガーまたはシュレディンガー (Schrödinger)
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シュレーディンガーまたはシュレディンガー (Schrödinger) エルヴィン・シュレーディンガー - オーストリア出身の物理学者。 ルドルフ・シュレーディンガー - オーストリアの植物学者。エルヴィンの父。
'''シュレーディンガー'''、'''シュレディンガー''' (Schrödinger) == 人物 == * [[エルヴィン・シュレーディンガー]] - オーストリア出身の物理学者 * [[ルドルフ・シュレーディンガー]] - オーストリアの植物学者。エルヴィンの父。 == 物理学 == * [[シュレーディンガーの猫]] * [[シュレーディンガー方程式]] * [[シュレーディンガー描像]] * [[シュレーディンガー場]] == その他 == * [[シュレーディンガー (曲)]] - [[KinKi Kids]]のシングル == 関連項目 == * [[シュレーダー]] * {{prefix}} * {{intitle}} {{人名の曖昧さ回避}} {{デフォルトソート:しゆれえていんかあ}} [[Category:ドイツ語の姓]]
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ガーナ
ガーナ共和国(ガーナきょうわこく)、通称ガーナは、西アフリカにある共和制国家。イギリス連邦加盟国。東はトーゴ、北はブルキナファソ、西はコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はアクラ。 ガーナは脱植民地化が活発であった最中の1957年、サハラ以南のアフリカにおいて初めて現地人が中心となってヨーロッパの宗主国から独立を達成した国家である。 イギリス領ゴールド・コーストと呼ばれていたが、独立に際して国名を「ガーナ」に変更した。 また、初代大統領クワメ・エンクルマは、アフリカ統一運動を推進したことで有名。 ダイヤモンドや金を産出しており、カカオ豆の産地としても有名。2010年12月から沖合油田で原油・ガス生産が始まり、国際的に大きな注目を集めている。 正式名称は英語で、Republic of Ghana(リパブリク・オブ・ガーナ)。通称、Ghana [ˈɡɑːnə] ( 音声ファイル) ガーナ)。 日本語の表記は、ガーナ共和国。 漢字表記では、加納。 植民地時代はイギリス領ゴールド・コースト(黄金海岸)と呼ばれていたが、独立に際してかつて西アフリカに栄えたガーナ帝国から新国名を採用した。「ガーナ」とは現地語で「戦士王」という意味になる。 この地域が注目されるのは、紀元前2000年紀のキンタンポ文化の出現からである。新石器時代後期に位置づけられるこの文化の人々は、森林とサバンナの境界地帯に住み、交易を行いつつも狩猟と採集によって暮らしていた。2世紀ごろからハニ遺跡で製鉄が行われたことがわかっている。 現在のモーリタニアとマリを部分的にカバーする内陸国としてガーナ王国が8世紀 - 13世紀に存在した。サヘル地域にいたアカン族が現在のガーナを含むギニア湾以西の海岸付近にやってきたのは11世紀ごろである。 13世紀から16世紀は、ベゴーをはじめいくつかの町がサハラ交易の一端を担ったとも思われるが、ボノ・マンソに見られるように地域的なものにとどまった町もあったと思われる。また、西方からアカン人(英語版)、モシ人、エウェ人、ゲン人(英語版)(英: Mina-Gen people、グベ人 - 英: Gebe people)が移住し、先住民と対立しその後圧迫していった。 15世紀にはポルトガル人が到来し、エルミナなどに城塞を築き、奴隷貿易の拠点とした。その後、金が産出することがわかると「黄金海岸」と呼ばれるようになった。その後、ドイツ人やデンマーク人、イギリス人、オランダ人が来航し、金と奴隷の貿易を奴隷制が廃止される19世紀まで続けた。大西洋三角貿易により多くの人々がアメリカ大陸に連行され、1776年に独立したアメリカ合衆国においては、労働力として使われることとなった。 17世紀には奴隷貿易で力を蓄え、ヨーロッパ人から購入した銃火器で周辺の民族に対して優位に立ったアシャンティ人(英語版)のオセイ・トゥトゥ(英語版)がアシャンティ王国を建設し、大いに繁栄した。王国は18世紀から19世紀初頭にかけて全盛期を迎え、海岸部のファンテや北部のダゴンバなどを支配下に収めて現在のガーナの版図の大部分を勢力下とした。しかし、19世紀初頭にイギリスをはじめとする各国が奴隷貿易を禁止すると、アシャンティの主力輸出品は金となった。 19世紀初頭には、この地域の海岸部にはケープコーストを拠点とするイギリスとエルミナを拠点とするオランダ、そしてデンマークの3か国が勢力を持っていた。このうち有力なのはイギリスであったが、奴隷貿易の禁止と海岸部のファンテ人の支配権をめぐってアシャンティとの関係が悪化し、1824年には第一次イギリス・アシャンティ戦争が勃発した。この戦争によってイギリスは沿岸部の支配権を確立し、1850年にはデンマークの砦を買収してさらに支配を固めたが、このころから再びアシャンティとの関係が悪化した。アシャンティはオランダ人と協力することでイギリスと対抗していたが、1872年にオランダがエルミナをはじめとするこの地方のすべての拠点をイギリスに売却し撤退したため交易ルートが途絶し、経済的に打撃をこうむった。このため同年第二次イギリス・アシャンティ戦争が勃発したが、イギリスは勝利を重ね、1874年にはアシャンティの首都クマシに入城して講和が締結された。この戦いのあと、イギリスは沿岸部の開発を進め、一方アシャンティは権威の失墜により勢力は大幅に縮小した。 アフリカ分割が激化した1896年、イギリスは3度アシャンティに侵攻し、国王プレンペー2世を捕らえセーシェルへと流罪にした。この時点でアシャンティはイギリスの保護下に置かれたが、1900年にホジソン総督がアシャンティのレガリアである「黄金の床几」を要求したことで全土に及ぶ大反乱が勃発した(黄金の床几戦争)。この戦争でアシャンティは完全に滅亡し、イギリス領ゴールド・コーストは従来の沿岸部に加えアシャンティや北部などを編入した。 英領ゴールド・コーストにおいては、従来の金や木材に加え、1879年にテテ・クワシによって持ち込まれたカカオ豆の栽培が急速に普及し、1911年には世界最大の生産国となった。こうした産品の輸出でゴールド・コースト経済は繁栄し、鉄道の敷設や学校の建設などが行われた。 イギリスは第二次世界大戦に連合国の1国として勝利したものの、その国力は衰退しており、これを受けて民族主義の気運が高まった。1947年には独立を目的とした「連合ゴールドコースト会議」が設立され、クワメ・エンクルマが1949年には会議人民党(英語版)を設立した。部族間の争いを越えて独立を標榜する会議人民党は人々の広範な支持を得て、1951年の選挙では圧倒的過半数を占める第一党となった。 1956年にはエンクルマの下に自治政府が成立し、翌1957年に東隣のイギリス領トーゴランドと合わせて独立を達成し、ブラック・アフリカ初の独立国となった。独立当初のガーナはイギリス国王を立憲君主に頂く英連邦王国であったが、1960年に共和制へ移行し、エンクルマが初代大統領となった。エンクルマは汎アフリカ主義を掲げ、冷戦下において社会主義圏(東側諸国)やギニアとの友好関係を強化し、財政強化に努めたが、債務超過など失政を招き1966年にクーデターで失脚した。政権を掌握した国家解放評議会はエンクルマの政策から脱し、1969年には選挙を実施した。同選挙でコフィ・ブシアが首相に選ばれ民政に移管したが、反エンクルマ政策によるアカン人(英語版)中心主義的な政策が国内の諸民族の反発を招き、1972年にはイグナティウス・アチャンポン将軍がクーデターを起こし、政権を握った。しかし国情は安定せず、経済停滞から幾度か政変が発生した。 1979年に軍事クーデターを起こしたジェリー・ローリングス空軍大尉が政権を掌握し、民政移管期間を挟んで1981年に完全な軍政を敷いた。ローリングスはガーナ経済再建のためにIMFや世界銀行の構造調整計画を受け入れ、所得格差の拡大とともにガーナ経済と政治の安定化を達成した。ローリングスは複数政党制を認めた1992年の選挙で大統領に選出され、軍政から民政移管した。これを受けて、政治をボイコットしてきた野党も国政に参加を表明し、国情は安定を迎えた。ローリングスは2001年まで大統領を務め、後任には選挙に勝利した新愛国党のジョン・アジェクム・クフォーが大統領に就任した。 政情が安定し、自由選挙により平和的に政権が移譲されるようになったことから、現在は西アフリカにおける数少ない議会制民主主義国として知られるようになった。2009年の選挙では国民民主会議が勝利し、ジョン・アッタ・ミルズが大統領に就任した。2012年7月24日、ミルズは首都アクラの病院で急死。副大統領のジョン・ドラマニ・マハマが大統領に昇格した。2016年の選挙では新愛国党が政権を奪回し、ナナ・アクフォ=アドが大統領の座に就いた。 ガーナは国家体制として共和制、大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は1992年4月28日に制定されたもの。 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は4年。3選は禁止。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは大統領により任命されるが、国民議会の承認が必要である。首相職はかつて存在したが、現行憲法下では存在しない。 立法府は一院制の国民議会。定数は230議席で、議員は小選挙区制に基づき国民の直接選挙によって選出される。議員の任期は4年である。 ガーナは1992年に現行憲法が施行されて以降、複数政党制が認められており、実質的には二大政党制が機能している。1つは自由民主主義を掲げる中道右派の新愛国党(NPP)、もう1つは社会民主主義を掲げる中道左派の国民民主会議(NDC)である。その他の勢力は二大政党ほどの影響力は持っていないが、比較的有力なものに人民国家会議(PNC)がある。かつてクワメ・ンクルマ初代大統領のもとで権勢を振るった会議人民党(CPP)は現在も存続しているが、勢力は弱体化している。 司法府の最高機関は最高裁判所であり、その下に高等裁判所、巡回裁判所、地方裁判所が置かれている。 西アフリカ諸国経済共同体の主導的な立場にある国のひとつである。アフリカの周辺諸国のみならず、旧宗主国のイギリスをはじめとした欧米諸国とも友好関係を保っている。 日本との関係では、野口英世がイギリスの植民地下のガーナで黄熱病の研究中に死去しているなど、古くから関係があり、英世の故郷である福島県の福島県立医科大学が医師を派遣するなど関係も深い。日本の援助で、1979年にガーナ大学に野口記念医学研究所が設立された。また2006年には、千葉県浦安市などから自転車などの無償援助を受けている。2009年の国際交流基金による日本語教育機関調査では、ガーナにおける日本語学習者の数は906人であり、サハラ以南では、中央アフリカ、マダガスカル、ケニアに継ぐ第4位である。2021年10月現在の在留日本人数は267人、2020年12月現在の在日ガーナ人数は2,506人である。 日本のガーナからの輸入品の大半はカカオであり、2013年にはガーナからの輸入の76.7%を占めていた。大手菓子メーカーロッテの商品「ガーナチョコレート」により、日本においてはガーナがカカオ豆の産出地であることが知られている。 ガーナ軍(GAF)は地上軍(英語版)と海軍(英語版)、空軍の3つで構成されている。また、同国では国境警備隊(英語版)が配備されており、警備隊の最高軍事司令官は同国軍と同じく大統領が兼任している。 ギニア湾に面しており、ヴォルタ川流域の低地が国土の大半を占めるため、最高標高点は885メートルに過ぎない。ヴォルタ川水系の面積は国土面積の67%を占める。特に1965年にヴォルタ川をせき止めて作ったアコソンボダムが有名。自然湖としてボスムトゥイ湖が存在する。 気候的には全土が熱帯に属する。西部州やアシャンティ州をはじめとする南西部は熱帯モンスーン気候(Am)に属し、多量の降雨に恵まれて熱帯雨林が広がっている。ガーナ経済を支えるカカオはおもにこの地域で栽培される。海岸部でも首都アクラを中心とする東部は降水量が少なく、サバナ気候(Aw)に属する。中部から北部にかけてもサバナ気候に属し、サバンナが広がる。北に行くほど降水量は少なくなり、乾燥の度合いが強くなるが、少ない地域でも1,000ミリ前後の降水量はある。 ガーナは2018年以降16州(region)から構成されている。 最大都市は南部海岸にある首都のアクラである。第二都市であるクマシは旧アシャンティ王国の首都であり、英領となったあともカカオなどこの地域の物産の集散地として栄えた。南部海岸にあるセコンディ・タコラディも植民地時代からの都市であり、深水港を持つ。北部の中心都市はタマレである。 2013年のガーナのGDPは約442億ドルであり、長崎県とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりのGDPは1,729ドルであり、世界平均の2割程度で世界的に下位に留まっているが、近年は原油の商業生産が始まったことにより経済成長も著しい。 経済は農業・鉱業などなどの一次産業に依存し、特にカカオは世界有数の産出量を誇る。独立直後から債務超過に悩んでいたが、1983年以降、構造調整を実施して経済の再建に取り組んだ結果、1980年代後半から平均5%のGDP成長率を達成しアフリカにおける構造調整の優等生として評価されてきた。 2000年代に入ると金やカカオの国際価格の低迷、主要輸入品である原油価格の高騰などにより経済は低迷。2001年3月、拡大HIPC(重債務貧困国)イニシアティブ適用による債務救済申請を行う政策転換を行い、経済再建へ向けた努力を行っている。その結果、マクロ経済状況は改善、安定してきている。 ガーナ最大の輸出品は金であり、2013年度には総輸出額の42.6%を占めた。金は古くからこの地域の特産品であり、アシャンティ王国の隆盛を支えた。植民地時代の黄金海岸(ゴールド・コースト)の名もこれに由来している。かつては原油の純輸入国であったが、2007年6月から沖合で油田がいくつか発見され、2010年以降ガーナは原油の輸出国へと転じた。2013年には原油輸出は総輸出額の23.8%を占め、ガーナ第2の輸出品となっている。 電力はアコソンボダムによる大規模な水力発電が行われており、総発電量のうち水力の割合は6割強を占める。この電力はトーゴやベナン、コートジボワールに輸出されており、テマ市ではこの電力によるアルミニウム精錬も行われている。しかし水力発電は旱魃に弱く、また近年の経済成長と送電網の不備により電力不足がたびたび生じている。 近年、金やダイヤモンドなどの詐欺事件が多発し、対策として高価値鉱物マーケティング公社(PMMC)という公的機関も設立されているが、公的機関の書類自体も偽造されている場合があり注意が必要である。2000年代後半には金の価格が高騰し、関連産業も賑わいを見せるようになったが、次第に中国人が流入した。2013年には3万人とも5万人とも推定される労働者(鉱夫)が違法労働を行うようになり、当局に検挙される事例が増えている。 2020年、フォルクスワーゲンがガーナに進出して自動車組み立て工場の建設に着手。年間生産量は5000台を計画しているが、2019年のガーナの新車登録台数は5700台となっており、余剰生産分は周辺国などへの輸出が検討されている。 カカオ豆は、1879年にテテ・クワシによって導入されたのち栽培が順調に拡大し、1911年にはガーナは世界最大の生産国となった。その後も植民地期を通じてカカオはガーナ最大の産業であり続け、1960年代中盤までその地位は揺らがなかった。しかし独立後のカカオ政策の混乱と価格低落によって生産量は急減し、コートジボワールに生産量1位の座を明け渡すこととなった。その後生産量は回復し、2013年度には生産世界第2位、ガーナ総輸出額の10.9%を占めた。 カカオ豆の生産は、ほとんどが貧困にあえぐ零細農家の手により行われており、農地(焼畑農業)拡大のための場当たり的な森林伐採、児童労働の誘発など環境や社会経済に大きな影響を与えている。2019年11月、アフリカへの投資フォーラムへ出席したナナ・アクフォ=アド大統領は、コートジボワールとともに豆の価格管理を進めることを発表した。演説の中で「チョコレート産業は1,000億ドル規模だが、農家が労働と引き換えに手にする額は60億ドルにすぎない」として農家への還元を求めた。 農林産品としてはこのほか、カシューナッツや木材の輸出もある。自給用作物としては、キャッサバ・ヤムイモ・タロイモの生産が世界10位以内となっている。 1990年時点の森林率は42%であるが漸減傾向にある。これは木材生産量の95%が国内向けの燃料用材となっており、大規模な伐採が続いているためである。 2022年12月19日、ガーナは経済危機に見舞われ、事実上のデフォルト(債務不履行)に陥った。 コトカ国際空港は同国におけるハブ空港であり、国内線のみならずアフリカの近辺国や欧米との航空路線も多く運航されている。鉄道は1903年の開通後、アクラ、クマシ、セコンディ・タコラディの3都市を互いに結ぶ路線網を維持しているが貨物主体であり、2011年時点で、旅客列車はアクラ近郊の2路線(テマなど)のみの運転となっている。一般の旅客輸送はトロトロ(ワゴンタイプのミニバス)や大型の都市間バスなどが主体となっている。 2000年のセンサスによれば、アカン人(英語版)(ファンティ人(英語版)、en:Akyem、アシャンティ人(英語版)、en:Kwahu、en:Akuapem people、en:Nzema people、Bono、en:Akwamu、en:Ahanta people、その他)が45.3%、モシ・ダゴンバ人(英語版)が15.2%、エウェ人が11.7%、ガー人(英語版)が4%、グルマ人が3.6%、グルシ人(英語版)が2.6%、マンデ(英語版)・ブサンガ人が1%、その他の民族が1.4%、ヨーロッパ人やアラブ人などその他が7.8%となっている。 公用語は英語であり、その他にアカン語、ダバニ語、エウェ語、ガー語などが使われる。 政府公認言語として、トウィ語アクアペム方言(Akuapem Twi)、トウィ語アサンテ方言(Asante Twi)、エウェ語(Ewe)、ダガリ語(Dagaare)、ダバニ語(Dagbani)、アダングメ語(ダンメ語)(Dangme)、ガ語(Ga)、ゴンジャ語(Gonja)、カセム語(Kasem)、ファンティ語(Mfantse)、ンゼマ語(Nzema)がある。 女性は婚姻時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと(夫婦別姓)も可能である。 2000年のセンサスによれば、国民の68.8%がキリスト教徒である。そのうちの24.1%がペンテコステ派、18.6%がプロテスタント、15.1%がカトリック、その他のキリスト教が11.5%である。イスラームは国民の15.9%を擁し、伝統宗教が8.5%、その他の宗教が0.7%、無宗教が6.1%となる。 2年間の就学前教育と6年間の初等教育が義務教育であり、初等教育の後に3年間の前期中等教育と4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。初等教育から学校教育における教授言語は英語であり、ガーナの公立学校では小学校1年生から英語で授業が行われる。2000年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は57.9%(男性:66.4%、女性:49.8%)である。2005年にはGDPの5.4%が教育費に支出された。 おもな高等教育機関としてはガーナ大学(1948)、クマシ大学(英語版)、クワメ=エンクルマ科学技術大学(英語版)、ケープ・コースト大学(英語版)などの名が挙げられる。 ガーナはユニバーサルヘルスケアが実現され、政府所管の国民健康保険(NHIS)にて実現されている。医療はさまざまなものが提供され、1,200万人が国民健康保険に加入している。都市部は病院、診療所、薬局とも十分に整備され、国内には200以上の病院が存在し医療観光の受入国になっている。 2013年の平均寿命は、男性66歳、女性67歳、乳児死亡率は1,000出生あたり39である。2010年では、人口10万あたり医師は15人、看護師93人であり、GDPの5.2%が保健支出であった。ガーナ市民はプライマリヘルスケアにアクセスする権利がある。ガーナの医療制度はアフリカ諸国においてもっとも成功したものであるとビル&メリンダ・ゲイツ財団は評している。2012年では、15 - 49歳成人のHIV罹患率は1.40%であった。 同国の治安情勢は、西アフリカ諸国において比較的良い部類とされているが、日本外務省における2017年時点での危険情報によればガーナ全域が危険レベル1との注意が発令されており、2020年2月時点から隣国ブルキナファソの治安悪化に伴い、ブルキナファソとの国境地域とトーゴ、コートジボワールとの一部の国境地域に対する危険度がレベル2に引き上げられている。加えて、首都アクラを中心に外国人を狙った犯行が発生している問題点がある。 また、ガーナでは治安の良くない地域がピンポイントに存在しており、北部州のビンビラやクパティンガ、ブンプルクならびにヴォルタ州のアラヴァンヨやウコンヤは首長が没したことによって次代首長の座を巡って争いが勃発していたり、部族と同国政府の衝突が起きていることをはじめ、当該エリアから夜間外出禁止令も出されている事情により治安が安定しておらず、他のアフリカ諸国地域同様に今後の変化が大きいものとなる可能性があることを留意する必要がある。 更に、観光客を狙った巧妙な詐欺事件も発生しているとの報告があり、悪質なガイドに気を付けるよう注意が発されている点から現時点で治安の心配がないと言い切るのは難しい面が見える。 ガーナの食事は主食にシチューを付け合わせるのが基本であるが、主食の種類は数多い。ヤムイモ、キャッサバ、プランテンバナナ、モロコシ、トウモロコシ、トウジンビエなどが主食として食されるほか、都市化の進展に伴い米の消費も伸びている。食べ方としてはイモ類やバナナはそのまま、キャッサバや穀物は一度製粉してから練粥にして食べる。また、イモ類やバナナを杵と臼でついて餅状にしたフフも広く食べられている。 小説家を数多く輩出している。代表的な人物にはクオブナ・オトバ・クゴアーノ(フランス語版)、アイシャ・ハルーナ・アッタ(フランス語版)、ナナ・オフォリアッタ・アイム(フランス語版)らが存在する。 1920年代にリベリアやシエラ・レオネで生まれたパームワイン・ミュージック(英語版)を発展する形でハイライフが生まれた。ハイライフは最初期に成立したアフリカのポピュラー音楽であり、近隣のナイジェリアやシエラ・レオネなど英語圏に拡大したほか、ベルギー領コンゴにも波及してフランコ(英語版)やパパ・ウェンバらに影響を与え、キューバ音楽(英語版)とともにリンガラ・ポップス(ルンバ・ロック)成立に大きな影響を与えた。 1990年代にはハイライフ、アフロ=レゲエ、ダンスホール、ヒップ・ホップなどの影響を受けた若者によって新たなジャンルが創造された。この新たなハイブリッド音楽はヒップライフ(英語版)と呼ばれている。R&B/ソウルの歌手ライアン・ベンソン(英語版)やハイライフ歌手のコージョ・アントウィ(英語版)、ラッパーのティンチー・ストライダー(英語版)などのガーナのミュージシャンは国際的な成功を収めている。 ガーナ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。 ガーナ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツであり、国民的なアイデンティティである。ガーナサッカー協会(GFA)によって構成されるサッカーガーナ代表は「ブラック・スターズ (The Black Stars)」の愛称で国中から絶大な支持を集めており、アフリカネイションズカップでは1963年大会、1965年大会、1978年大会、1982年大会と4度の優勝を飾っている。さらに1992年のバルセロナ五輪では、銅メダルを獲得している。 FIFAワールドカップには2006年ドイツ大会で初出場しグループリーグを突破したが、決勝トーナメントで前回大会王者のブラジル代表と当たりベスト16で敗退した。続く2010年南アフリカ大会にも出場し、アフリカ勢では1990年のカメルーン代表、2002年のセネガル代表以来となるベスト8に進出した。2014年ブラジル大会では、まさかのグループリーグ最下位での敗退となった。2022年カタール大会にも2大会ぶりに出場を果たした。 国内リーグとしては1956年にガーナ・プレミアリーグが創設されており、アサンテ・コトコSCとアクラ・ハーツ・オブ・オークの二強によってリーグは圧倒的に支配されている。また、リーグ戦以外にもガーナFAカップ(英語版)やガーナ・スーパーカップ(英語版)なども存在する。 ガーナではサッカーの次にボクシングも盛んであり、元WBA世界ウェルター級王者のアイク・クォーティや、元IBF世界ウェルター級王者のジョシュア・クロッティなど、単なる一王者ではなく世界水準でも評価の高い好選手を輩出している。さらにアズマー・ネルソンは、ガーナのみならず「アフリカボクシング界」全体の象徴になるまでの評価を得た選手である。
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"植民地時代はイギリス領ゴールド・コースト(黄金海岸)と呼ばれていたが、独立に際してかつて西アフリカに栄えたガーナ帝国から新国名を採用した。「ガーナ」とは現地語で「戦士王」という意味になる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この地域が注目されるのは、紀元前2000年紀のキンタンポ文化の出現からである。新石器時代後期に位置づけられるこの文化の人々は、森林とサバンナの境界地帯に住み、交易を行いつつも狩猟と採集によって暮らしていた。2世紀ごろからハニ遺跡で製鉄が行われたことがわかっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現在のモーリタニアとマリを部分的にカバーする内陸国としてガーナ王国が8世紀 - 13世紀に存在した。サヘル地域にいたアカン族が現在のガーナを含むギニア湾以西の海岸付近にやってきたのは11世紀ごろである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "13世紀から16世紀は、ベゴーをはじめいくつかの町がサハラ交易の一端を担ったとも思われるが、ボノ・マンソに見られるように地域的なものにとどまった町もあったと思われる。また、西方からアカン人(英語版)、モシ人、エウェ人、ゲン人(英語版)(英: Mina-Gen people、グベ人 - 英: Gebe people)が移住し、先住民と対立しその後圧迫していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "15世紀にはポルトガル人が到来し、エルミナなどに城塞を築き、奴隷貿易の拠点とした。その後、金が産出することがわかると「黄金海岸」と呼ばれるようになった。その後、ドイツ人やデンマーク人、イギリス人、オランダ人が来航し、金と奴隷の貿易を奴隷制が廃止される19世紀まで続けた。大西洋三角貿易により多くの人々がアメリカ大陸に連行され、1776年に独立したアメリカ合衆国においては、労働力として使われることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "17世紀には奴隷貿易で力を蓄え、ヨーロッパ人から購入した銃火器で周辺の民族に対して優位に立ったアシャンティ人(英語版)のオセイ・トゥトゥ(英語版)がアシャンティ王国を建設し、大いに繁栄した。王国は18世紀から19世紀初頭にかけて全盛期を迎え、海岸部のファンテや北部のダゴンバなどを支配下に収めて現在のガーナの版図の大部分を勢力下とした。しかし、19世紀初頭にイギリスをはじめとする各国が奴隷貿易を禁止すると、アシャンティの主力輸出品は金となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "19世紀初頭には、この地域の海岸部にはケープコーストを拠点とするイギリスとエルミナを拠点とするオランダ、そしてデンマークの3か国が勢力を持っていた。このうち有力なのはイギリスであったが、奴隷貿易の禁止と海岸部のファンテ人の支配権をめぐってアシャンティとの関係が悪化し、1824年には第一次イギリス・アシャンティ戦争が勃発した。この戦争によってイギリスは沿岸部の支配権を確立し、1850年にはデンマークの砦を買収してさらに支配を固めたが、このころから再びアシャンティとの関係が悪化した。アシャンティはオランダ人と協力することでイギリスと対抗していたが、1872年にオランダがエルミナをはじめとするこの地方のすべての拠点をイギリスに売却し撤退したため交易ルートが途絶し、経済的に打撃をこうむった。このため同年第二次イギリス・アシャンティ戦争が勃発したが、イギリスは勝利を重ね、1874年にはアシャンティの首都クマシに入城して講和が締結された。この戦いのあと、イギリスは沿岸部の開発を進め、一方アシャンティは権威の失墜により勢力は大幅に縮小した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アフリカ分割が激化した1896年、イギリスは3度アシャンティに侵攻し、国王プレンペー2世を捕らえセーシェルへと流罪にした。この時点でアシャンティはイギリスの保護下に置かれたが、1900年にホジソン総督がアシャンティのレガリアである「黄金の床几」を要求したことで全土に及ぶ大反乱が勃発した(黄金の床几戦争)。この戦争でアシャンティは完全に滅亡し、イギリス領ゴールド・コーストは従来の沿岸部に加えアシャンティや北部などを編入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "英領ゴールド・コーストにおいては、従来の金や木材に加え、1879年にテテ・クワシによって持ち込まれたカカオ豆の栽培が急速に普及し、1911年には世界最大の生産国となった。こうした産品の輸出でゴールド・コースト経済は繁栄し、鉄道の敷設や学校の建設などが行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "イギリスは第二次世界大戦に連合国の1国として勝利したものの、その国力は衰退しており、これを受けて民族主義の気運が高まった。1947年には独立を目的とした「連合ゴールドコースト会議」が設立され、クワメ・エンクルマが1949年には会議人民党(英語版)を設立した。部族間の争いを越えて独立を標榜する会議人民党は人々の広範な支持を得て、1951年の選挙では圧倒的過半数を占める第一党となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1956年にはエンクルマの下に自治政府が成立し、翌1957年に東隣のイギリス領トーゴランドと合わせて独立を達成し、ブラック・アフリカ初の独立国となった。独立当初のガーナはイギリス国王を立憲君主に頂く英連邦王国であったが、1960年に共和制へ移行し、エンクルマが初代大統領となった。エンクルマは汎アフリカ主義を掲げ、冷戦下において社会主義圏(東側諸国)やギニアとの友好関係を強化し、財政強化に努めたが、債務超過など失政を招き1966年にクーデターで失脚した。政権を掌握した国家解放評議会はエンクルマの政策から脱し、1969年には選挙を実施した。同選挙でコフィ・ブシアが首相に選ばれ民政に移管したが、反エンクルマ政策によるアカン人(英語版)中心主義的な政策が国内の諸民族の反発を招き、1972年にはイグナティウス・アチャンポン将軍がクーデターを起こし、政権を握った。しかし国情は安定せず、経済停滞から幾度か政変が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1979年に軍事クーデターを起こしたジェリー・ローリングス空軍大尉が政権を掌握し、民政移管期間を挟んで1981年に完全な軍政を敷いた。ローリングスはガーナ経済再建のためにIMFや世界銀行の構造調整計画を受け入れ、所得格差の拡大とともにガーナ経済と政治の安定化を達成した。ローリングスは複数政党制を認めた1992年の選挙で大統領に選出され、軍政から民政移管した。これを受けて、政治をボイコットしてきた野党も国政に参加を表明し、国情は安定を迎えた。ローリングスは2001年まで大統領を務め、後任には選挙に勝利した新愛国党のジョン・アジェクム・クフォーが大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "政情が安定し、自由選挙により平和的に政権が移譲されるようになったことから、現在は西アフリカにおける数少ない議会制民主主義国として知られるようになった。2009年の選挙では国民民主会議が勝利し、ジョン・アッタ・ミルズが大統領に就任した。2012年7月24日、ミルズは首都アクラの病院で急死。副大統領のジョン・ドラマニ・マハマが大統領に昇格した。2016年の選挙では新愛国党が政権を奪回し、ナナ・アクフォ=アドが大統領の座に就いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ガーナは国家体制として共和制、大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は1992年4月28日に制定されたもの。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は4年。3選は禁止。内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは大統領により任命されるが、国民議会の承認が必要である。首相職はかつて存在したが、現行憲法下では存在しない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "立法府は一院制の国民議会。定数は230議席で、議員は小選挙区制に基づき国民の直接選挙によって選出される。議員の任期は4年である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ガーナは1992年に現行憲法が施行されて以降、複数政党制が認められており、実質的には二大政党制が機能している。1つは自由民主主義を掲げる中道右派の新愛国党(NPP)、もう1つは社会民主主義を掲げる中道左派の国民民主会議(NDC)である。その他の勢力は二大政党ほどの影響力は持っていないが、比較的有力なものに人民国家会議(PNC)がある。かつてクワメ・ンクルマ初代大統領のもとで権勢を振るった会議人民党(CPP)は現在も存続しているが、勢力は弱体化している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "司法府の最高機関は最高裁判所であり、その下に高等裁判所、巡回裁判所、地方裁判所が置かれている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "西アフリカ諸国経済共同体の主導的な立場にある国のひとつである。アフリカの周辺諸国のみならず、旧宗主国のイギリスをはじめとした欧米諸国とも友好関係を保っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本との関係では、野口英世がイギリスの植民地下のガーナで黄熱病の研究中に死去しているなど、古くから関係があり、英世の故郷である福島県の福島県立医科大学が医師を派遣するなど関係も深い。日本の援助で、1979年にガーナ大学に野口記念医学研究所が設立された。また2006年には、千葉県浦安市などから自転車などの無償援助を受けている。2009年の国際交流基金による日本語教育機関調査では、ガーナにおける日本語学習者の数は906人であり、サハラ以南では、中央アフリカ、マダガスカル、ケニアに継ぐ第4位である。2021年10月現在の在留日本人数は267人、2020年12月現在の在日ガーナ人数は2,506人である。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日本のガーナからの輸入品の大半はカカオであり、2013年にはガーナからの輸入の76.7%を占めていた。大手菓子メーカーロッテの商品「ガーナチョコレート」により、日本においてはガーナがカカオ豆の産出地であることが知られている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ガーナ軍(GAF)は地上軍(英語版)と海軍(英語版)、空軍の3つで構成されている。また、同国では国境警備隊(英語版)が配備されており、警備隊の最高軍事司令官は同国軍と同じく大統領が兼任している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ギニア湾に面しており、ヴォルタ川流域の低地が国土の大半を占めるため、最高標高点は885メートルに過ぎない。ヴォルタ川水系の面積は国土面積の67%を占める。特に1965年にヴォルタ川をせき止めて作ったアコソンボダムが有名。自然湖としてボスムトゥイ湖が存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "気候的には全土が熱帯に属する。西部州やアシャンティ州をはじめとする南西部は熱帯モンスーン気候(Am)に属し、多量の降雨に恵まれて熱帯雨林が広がっている。ガーナ経済を支えるカカオはおもにこの地域で栽培される。海岸部でも首都アクラを中心とする東部は降水量が少なく、サバナ気候(Aw)に属する。中部から北部にかけてもサバナ気候に属し、サバンナが広がる。北に行くほど降水量は少なくなり、乾燥の度合いが強くなるが、少ない地域でも1,000ミリ前後の降水量はある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ガーナは2018年以降16州(region)から構成されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最大都市は南部海岸にある首都のアクラである。第二都市であるクマシは旧アシャンティ王国の首都であり、英領となったあともカカオなどこの地域の物産の集散地として栄えた。南部海岸にあるセコンディ・タコラディも植民地時代からの都市であり、深水港を持つ。北部の中心都市はタマレである。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2013年のガーナのGDPは約442億ドルであり、長崎県とほぼ同じ経済規模である。同年の一人当たりのGDPは1,729ドルであり、世界平均の2割程度で世界的に下位に留まっているが、近年は原油の商業生産が始まったことにより経済成長も著しい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "経済は農業・鉱業などなどの一次産業に依存し、特にカカオは世界有数の産出量を誇る。独立直後から債務超過に悩んでいたが、1983年以降、構造調整を実施して経済の再建に取り組んだ結果、1980年代後半から平均5%のGDP成長率を達成しアフリカにおける構造調整の優等生として評価されてきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると金やカカオの国際価格の低迷、主要輸入品である原油価格の高騰などにより経済は低迷。2001年3月、拡大HIPC(重債務貧困国)イニシアティブ適用による債務救済申請を行う政策転換を行い、経済再建へ向けた努力を行っている。その結果、マクロ経済状況は改善、安定してきている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ガーナ最大の輸出品は金であり、2013年度には総輸出額の42.6%を占めた。金は古くからこの地域の特産品であり、アシャンティ王国の隆盛を支えた。植民地時代の黄金海岸(ゴールド・コースト)の名もこれに由来している。かつては原油の純輸入国であったが、2007年6月から沖合で油田がいくつか発見され、2010年以降ガーナは原油の輸出国へと転じた。2013年には原油輸出は総輸出額の23.8%を占め、ガーナ第2の輸出品となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "電力はアコソンボダムによる大規模な水力発電が行われており、総発電量のうち水力の割合は6割強を占める。この電力はトーゴやベナン、コートジボワールに輸出されており、テマ市ではこの電力によるアルミニウム精錬も行われている。しかし水力発電は旱魃に弱く、また近年の経済成長と送電網の不備により電力不足がたびたび生じている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "近年、金やダイヤモンドなどの詐欺事件が多発し、対策として高価値鉱物マーケティング公社(PMMC)という公的機関も設立されているが、公的機関の書類自体も偽造されている場合があり注意が必要である。2000年代後半には金の価格が高騰し、関連産業も賑わいを見せるようになったが、次第に中国人が流入した。2013年には3万人とも5万人とも推定される労働者(鉱夫)が違法労働を行うようになり、当局に検挙される事例が増えている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2020年、フォルクスワーゲンがガーナに進出して自動車組み立て工場の建設に着手。年間生産量は5000台を計画しているが、2019年のガーナの新車登録台数は5700台となっており、余剰生産分は周辺国などへの輸出が検討されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "カカオ豆は、1879年にテテ・クワシによって導入されたのち栽培が順調に拡大し、1911年にはガーナは世界最大の生産国となった。その後も植民地期を通じてカカオはガーナ最大の産業であり続け、1960年代中盤までその地位は揺らがなかった。しかし独立後のカカオ政策の混乱と価格低落によって生産量は急減し、コートジボワールに生産量1位の座を明け渡すこととなった。その後生産量は回復し、2013年度には生産世界第2位、ガーナ総輸出額の10.9%を占めた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "カカオ豆の生産は、ほとんどが貧困にあえぐ零細農家の手により行われており、農地(焼畑農業)拡大のための場当たり的な森林伐採、児童労働の誘発など環境や社会経済に大きな影響を与えている。2019年11月、アフリカへの投資フォーラムへ出席したナナ・アクフォ=アド大統領は、コートジボワールとともに豆の価格管理を進めることを発表した。演説の中で「チョコレート産業は1,000億ドル規模だが、農家が労働と引き換えに手にする額は60億ドルにすぎない」として農家への還元を求めた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "農林産品としてはこのほか、カシューナッツや木材の輸出もある。自給用作物としては、キャッサバ・ヤムイモ・タロイモの生産が世界10位以内となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1990年時点の森林率は42%であるが漸減傾向にある。これは木材生産量の95%が国内向けの燃料用材となっており、大規模な伐採が続いているためである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2022年12月19日、ガーナは経済危機に見舞われ、事実上のデフォルト(債務不履行)に陥った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "コトカ国際空港は同国におけるハブ空港であり、国内線のみならずアフリカの近辺国や欧米との航空路線も多く運航されている。鉄道は1903年の開通後、アクラ、クマシ、セコンディ・タコラディの3都市を互いに結ぶ路線網を維持しているが貨物主体であり、2011年時点で、旅客列車はアクラ近郊の2路線(テマなど)のみの運転となっている。一般の旅客輸送はトロトロ(ワゴンタイプのミニバス)や大型の都市間バスなどが主体となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2000年のセンサスによれば、アカン人(英語版)(ファンティ人(英語版)、en:Akyem、アシャンティ人(英語版)、en:Kwahu、en:Akuapem people、en:Nzema people、Bono、en:Akwamu、en:Ahanta people、その他)が45.3%、モシ・ダゴンバ人(英語版)が15.2%、エウェ人が11.7%、ガー人(英語版)が4%、グルマ人が3.6%、グルシ人(英語版)が2.6%、マンデ(英語版)・ブサンガ人が1%、その他の民族が1.4%、ヨーロッパ人やアラブ人などその他が7.8%となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "公用語は英語であり、その他にアカン語、ダバニ語、エウェ語、ガー語などが使われる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "政府公認言語として、トウィ語アクアペム方言(Akuapem Twi)、トウィ語アサンテ方言(Asante Twi)、エウェ語(Ewe)、ダガリ語(Dagaare)、ダバニ語(Dagbani)、アダングメ語(ダンメ語)(Dangme)、ガ語(Ga)、ゴンジャ語(Gonja)、カセム語(Kasem)、ファンティ語(Mfantse)、ンゼマ語(Nzema)がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "女性は婚姻時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと(夫婦別姓)も可能である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2000年のセンサスによれば、国民の68.8%がキリスト教徒である。そのうちの24.1%がペンテコステ派、18.6%がプロテスタント、15.1%がカトリック、その他のキリスト教が11.5%である。イスラームは国民の15.9%を擁し、伝統宗教が8.5%、その他の宗教が0.7%、無宗教が6.1%となる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2年間の就学前教育と6年間の初等教育が義務教育であり、初等教育の後に3年間の前期中等教育と4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。初等教育から学校教育における教授言語は英語であり、ガーナの公立学校では小学校1年生から英語で授業が行われる。2000年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は57.9%(男性:66.4%、女性:49.8%)である。2005年にはGDPの5.4%が教育費に支出された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "おもな高等教育機関としてはガーナ大学(1948)、クマシ大学(英語版)、クワメ=エンクルマ科学技術大学(英語版)、ケープ・コースト大学(英語版)などの名が挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ガーナはユニバーサルヘルスケアが実現され、政府所管の国民健康保険(NHIS)にて実現されている。医療はさまざまなものが提供され、1,200万人が国民健康保険に加入している。都市部は病院、診療所、薬局とも十分に整備され、国内には200以上の病院が存在し医療観光の受入国になっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2013年の平均寿命は、男性66歳、女性67歳、乳児死亡率は1,000出生あたり39である。2010年では、人口10万あたり医師は15人、看護師93人であり、GDPの5.2%が保健支出であった。ガーナ市民はプライマリヘルスケアにアクセスする権利がある。ガーナの医療制度はアフリカ諸国においてもっとも成功したものであるとビル&メリンダ・ゲイツ財団は評している。2012年では、15 - 49歳成人のHIV罹患率は1.40%であった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "同国の治安情勢は、西アフリカ諸国において比較的良い部類とされているが、日本外務省における2017年時点での危険情報によればガーナ全域が危険レベル1との注意が発令されており、2020年2月時点から隣国ブルキナファソの治安悪化に伴い、ブルキナファソとの国境地域とトーゴ、コートジボワールとの一部の国境地域に対する危険度がレベル2に引き上げられている。加えて、首都アクラを中心に外国人を狙った犯行が発生している問題点がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、ガーナでは治安の良くない地域がピンポイントに存在しており、北部州のビンビラやクパティンガ、ブンプルクならびにヴォルタ州のアラヴァンヨやウコンヤは首長が没したことによって次代首長の座を巡って争いが勃発していたり、部族と同国政府の衝突が起きていることをはじめ、当該エリアから夜間外出禁止令も出されている事情により治安が安定しておらず、他のアフリカ諸国地域同様に今後の変化が大きいものとなる可能性があることを留意する必要がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "更に、観光客を狙った巧妙な詐欺事件も発生しているとの報告があり、悪質なガイドに気を付けるよう注意が発されている点から現時点で治安の心配がないと言い切るのは難しい面が見える。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ガーナの食事は主食にシチューを付け合わせるのが基本であるが、主食の種類は数多い。ヤムイモ、キャッサバ、プランテンバナナ、モロコシ、トウモロコシ、トウジンビエなどが主食として食されるほか、都市化の進展に伴い米の消費も伸びている。食べ方としてはイモ類やバナナはそのまま、キャッサバや穀物は一度製粉してから練粥にして食べる。また、イモ類やバナナを杵と臼でついて餅状にしたフフも広く食べられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "小説家を数多く輩出している。代表的な人物にはクオブナ・オトバ・クゴアーノ(フランス語版)、アイシャ・ハルーナ・アッタ(フランス語版)、ナナ・オフォリアッタ・アイム(フランス語版)らが存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1920年代にリベリアやシエラ・レオネで生まれたパームワイン・ミュージック(英語版)を発展する形でハイライフが生まれた。ハイライフは最初期に成立したアフリカのポピュラー音楽であり、近隣のナイジェリアやシエラ・レオネなど英語圏に拡大したほか、ベルギー領コンゴにも波及してフランコ(英語版)やパパ・ウェンバらに影響を与え、キューバ音楽(英語版)とともにリンガラ・ポップス(ルンバ・ロック)成立に大きな影響を与えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1990年代にはハイライフ、アフロ=レゲエ、ダンスホール、ヒップ・ホップなどの影響を受けた若者によって新たなジャンルが創造された。この新たなハイブリッド音楽はヒップライフ(英語版)と呼ばれている。R&B/ソウルの歌手ライアン・ベンソン(英語版)やハイライフ歌手のコージョ・アントウィ(英語版)、ラッパーのティンチー・ストライダー(英語版)などのガーナのミュージシャンは国際的な成功を収めている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ガーナ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ガーナ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツであり、国民的なアイデンティティである。ガーナサッカー協会(GFA)によって構成されるサッカーガーナ代表は「ブラック・スターズ (The Black Stars)」の愛称で国中から絶大な支持を集めており、アフリカネイションズカップでは1963年大会、1965年大会、1978年大会、1982年大会と4度の優勝を飾っている。さらに1992年のバルセロナ五輪では、銅メダルを獲得している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "FIFAワールドカップには2006年ドイツ大会で初出場しグループリーグを突破したが、決勝トーナメントで前回大会王者のブラジル代表と当たりベスト16で敗退した。続く2010年南アフリカ大会にも出場し、アフリカ勢では1990年のカメルーン代表、2002年のセネガル代表以来となるベスト8に進出した。2014年ブラジル大会では、まさかのグループリーグ最下位での敗退となった。2022年カタール大会にも2大会ぶりに出場を果たした。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "国内リーグとしては1956年にガーナ・プレミアリーグが創設されており、アサンテ・コトコSCとアクラ・ハーツ・オブ・オークの二強によってリーグは圧倒的に支配されている。また、リーグ戦以外にもガーナFAカップ(英語版)やガーナ・スーパーカップ(英語版)なども存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ガーナではサッカーの次にボクシングも盛んであり、元WBA世界ウェルター級王者のアイク・クォーティや、元IBF世界ウェルター級王者のジョシュア・クロッティなど、単なる一王者ではなく世界水準でも評価の高い好選手を輩出している。さらにアズマー・ネルソンは、ガーナのみならず「アフリカボクシング界」全体の象徴になるまでの評価を得た選手である。", "title": "スポーツ" } ]
ガーナ共和国(ガーナきょうわこく)、通称ガーナは、西アフリカにある共和制国家。イギリス連邦加盟国。東はトーゴ、北はブルキナファソ、西はコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はアクラ。
{{Otheruseslist|ガーナ共和国|[[ニジェール川]]上流を中心とする西アフリカで栄えた黒人王国|ガーナ王国|ロッテのチョコレート|ガーナチョコレート}} {{基礎情報 国 | 略名 = ガーナ | 日本語国名 = ガーナ共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|en|Republic of Ghana}}''' | 国旗画像 = Flag of Ghana.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat_of_arms_of_Ghana.svg|100px]] | 国章リンク = ([[ガーナの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|en|Freedom and Justice}}''<br />(英語: 自由と正義) | 位置画像 = Ghana (orthographic projection).svg | 公用語 = [[英語]] | 首都 = [[アクラ]] | 最大都市 = アクラ | 元首等肩書 = [[ガーナの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ナナ・アクフォ=アド]] | 首相等肩書 = {{ill2|ガーナの副大統領|label=副大統領|en|Vice-President of Ghana}} | 首相等氏名 = {{ill2|マハムドゥ・バウミア|en|Mahamudu Bawumia}} | 面積順位 = 77 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 238,537 | 水面積率 = 3.6% | 人口統計年 = 2021 | 人口順位 = 46 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 31,732,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/gh.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2022年8月20日}}</ref> | 人口密度値 = 139.5<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2018 | GDP値元 = 3085億8700万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月18日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=652,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2018 | GDP順位MER = 70 | GDP値MER = 672億5900万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 2275.769<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2018 | GDP順位 = 79 | GDP値 = 1619億9900万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 5481.368<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[イギリス]]から<br />[[1957年]][[3月6日]] | 通貨 = [[セディ]] | 通貨コード = GHS (GH¢) | 時間帯 = (0) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[神よ、祖国ガーナを賛美したもう|{{lang|en|God Bless Our Homeland Ghana}}]]{{en icon}}<br> 神よ、祖国ガーナを賛美したもう<br><center>[[ファイル:National Anthem of Ghana.ogg]] | ISO 3166-1 = GH / GHA | ccTLD = [[.gh]] | 国際電話番号 = 233 | 注記 = }} '''ガーナ共和国'''(ガーナきょうわこく)、通称'''ガーナ'''は、[[西アフリカ]]にある[[共和制]][[国家]]。[[イギリス連邦]]加盟国。東は[[トーゴ]]、北は[[ブルキナファソ]]、西は[[コートジボワール]]と国境を接し、南は[[大西洋]]に面する。首都は[[アクラ]]。 == 概要 == ガーナは[[脱植民地化]]が活発であった最中の1957年、[[サブサハラ|サハラ以南]]の[[アフリカ]]において初めて現地人が中心となって[[ヨーロッパ]]の[[宗主国]]から独立を達成した国家である。 [[英領ゴールド・コースト|イギリス領ゴールド・コースト]]と呼ばれていたが、独立に際して国名を「ガーナ」に変更した。 また、初代[[大統領]][[クワメ・エンクルマ]]は、[[パン・アフリカ主義|アフリカ統一運動]]を推進したことで有名。 [[ダイヤモンド]]や[[金]]を産出しており、[[カカオ豆]]の産地としても有名。2010年12月から沖合[[油田]]で原油・ガス生産が始まり、国際的に大きな注目を集めている。 == 国名 == 正式名称は英語で、''Republic of Ghana''(リパブリク・オブ・ガーナ)。通称、''Ghana'' {{IPA-en|ˈɡɑːnə||En-us-Ghana.ogg}} '''ガーナ''')。 日本語の表記は、'''ガーナ共和国'''。 漢字表記では、'''加納'''。 植民地時代は[[英領ゴールド・コースト|イギリス領ゴールド・コースト]](黄金海岸)と呼ばれていたが、独立に際してかつて西アフリカに栄えた[[ガーナ王国|ガーナ帝国]]から新国名を採用した。「ガーナ」とは現地語で「戦士王」という意味になる。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|ガーナの歴史|en|History of Ghana}}}} === 紀元前後 === この地域が注目されるのは、紀元前2000年紀の[[キンタンポ文化]]の出現からである。新石器時代後期に位置づけられるこの文化の人々は、[[森林]]と[[サバナ (地理)|サバンナ]]の境界地帯に住み、交易を行いつつも[[狩猟]]と[[採集]]によって暮らしていた。2世紀ごろからハニ遺跡で製鉄が行われたことがわかっている。 === 13世紀以前 === 現在のモーリタニアとマリを部分的にカバーする内陸国として[[ガーナ王国]]が8世紀 - 13世紀に存在した。[[サヘル]]地域にいた[[:en:Akan people|アカン族]]が現在のガーナを含むギニア湾以西の海岸付近にやってきたのは11世紀ごろである。 === 13 - 16世紀 === [[ファイル:ElminaCastle1668.jpg|thumb|200px|1688年の[[エルミナ城]]。この城砦から多くの[[奴隷]]が南北[[アメリカ大陸]]に連行されていった。]] 13世紀から16世紀は、[[ベゴー]]をはじめいくつかの町が[[サハラ交易]]の一端を担ったとも思われるが、[[ボノ・マンソ]]に見られるように地域的なものにとどまった町もあったと思われる。また、西方から{{仮リンク|アカン人|en|Akan people}}、[[モシ人]]、[[エウェ人]]、{{仮リンク|ゲン語|en|Gen language|label=ゲン人}}({{lang-en-short|Mina-Gen people}}、[[グベ語群|グベ人]] - {{lang-en-short|Gebe people}})が移住し、先住民と対立しその後圧迫していった。 15世紀には[[ポルトガル]]人が到来し、[[エルミナ]]などに城塞を築き、[[奴隷貿易]]の拠点とした。その後、金が産出することがわかると「[[黄金海岸]]」と呼ばれるようになった。その後、[[ドイツ人]]や[[デンマーク人]]、[[イギリス人]]、[[オランダ人]]が来航し、[[金]]と[[奴隷]]の貿易を[[奴隷制]]が廃止される19世紀まで続けた。[[大西洋]][[三角貿易]]により多くの人々が[[アメリカ大陸]]に連行され、[[1776年]]に独立した[[アメリカ合衆国]]においては、労働力として使われることとなった。 === アシャンティ王国 === [[ファイル:Máscara de oro - tesoro del rey Kofi Kolkalli.jpg|180px|thumb|right|アシャンティ王[[コフィ・カルカリ]](位:1867年 - 1874年)の黄金のマスク]] 17世紀には[[奴隷貿易]]で力を蓄え、ヨーロッパ人から購入した銃火器で周辺の民族に対して優位に立った{{仮リンク|アシャンティ人|en|Ashanti people}}の{{仮リンク|オセイ・コフィー・トゥトゥ1世|en|Osei Kofi Tutu I|label=オセイ・トゥトゥ}}が[[アシャンティ王国]]を建設し、大いに繁栄した。王国は18世紀から19世紀初頭にかけて全盛期を迎え、海岸部のファンテや北部のダゴンバなどを支配下に収めて現在のガーナの版図の大部分を勢力下とした。しかし、19世紀初頭にイギリスをはじめとする各国が奴隷貿易を禁止すると、アシャンティの主力輸出品は金となった。 === イギリス植民地 === 19世紀初頭には、この地域の海岸部にはケープコーストを拠点とする[[イギリス]]とエルミナを拠点とする[[オランダ]]、そして[[デンマーク]]の3か国が勢力を持っていた。このうち有力なのはイギリスであったが、奴隷貿易の禁止と海岸部のファンテ人の支配権をめぐってアシャンティとの関係が悪化し、[[1824年]]には第一次[[イギリス・アシャンティ戦争]]が勃発した。この戦争によってイギリスは沿岸部の支配権を確立し、[[1850年]]にはデンマークの砦を買収してさらに支配を固めたが<ref>{{Harvnb|高根|2003|p=33}}</ref>、このころから再びアシャンティとの関係が悪化した。アシャンティはオランダ人と協力することでイギリスと対抗していたが、[[1872年]]にオランダがエルミナをはじめとするこの地方のすべての拠点をイギリスに売却し撤退したため交易ルートが途絶し、経済的に打撃をこうむった。このため同年第二次イギリス・アシャンティ戦争が勃発したが、イギリスは勝利を重ね、[[1874年]]にはアシャンティの首都クマシに入城して講和が締結された。この戦いのあと、イギリスは沿岸部の開発を進め、一方アシャンティは権威の失墜により勢力は大幅に縮小した<ref>{{Harvnb|高根|2003|pp=42-43}}</ref>。 ===イギリス領ゴールドコーストへ=== アフリカ分割が激化した1896年、イギリスは3度アシャンティに侵攻し、国王プレンペー2世を捕らえセーシェルへと流罪にした。この時点でアシャンティはイギリスの保護下に置かれたが、[[1900年]]にホジソン総督がアシャンティの[[レガリア]]である「[[黄金の床几]]」を要求したことで全土に及ぶ大反乱が勃発した<ref>{{Harvnb|高根|2003|pp=45-46}}</ref>([[黄金の床几戦争]])。この戦争でアシャンティは完全に滅亡し、[[イギリス領ゴールド・コースト]]は従来の沿岸部に加えアシャンティや北部などを編入した。[[ファイル:Near Accra 1942-12-12.jpg|サムネイル|[[1942年]][[12月12日]]に撮影されたガーナの首都[[アクラ]]近郊で墜落した爆撃機|左]]英領ゴールド・コーストにおいては、従来の金や木材に加え、[[1879年]]に[[テテ・クワシ]]によって持ち込まれた[[カカオ]]豆の栽培が急速に普及し、[[1911年]]には世界最大の生産国となった<ref>{{Harvnb|高根|2003|p=58}}</ref>。こうした産品の輸出でゴールド・コースト経済は繁栄し、鉄道の敷設や学校の建設などが行われた。 イギリスは[[第二次世界大戦]]に連合国の1国として勝利したものの、その国力は衰退しており、これを受けて[[民族主義]]の気運が高まった。[[1947年]]には独立を目的とした「[[連合ゴールドコースト会議]]」が設立され、[[クワメ・エンクルマ]]が[[1949年]]には{{仮リンク|会議人民党|en|Convention People's Party}}を設立した。部族間の争いを越えて独立を標榜する会議人民党は人々の広範な支持を得て、[[1951年]]の選挙では圧倒的過半数を占める第一党となった。 === 独立以降 === [[ファイル:1989 CPA 6101.jpg|180px|thumb|right|独立の父[[クワメ・エンクルマ]]。[[汎アフリカ主義]]構想に基づいて[[アフリカ合衆国]]の建国を目指したが、1966年に失脚した。]] [[1956年]]にはエンクルマの下に自治政府が成立し、翌1957年に東隣の[[イギリス領トーゴランド]]と合わせて独立を達成し、ブラック・アフリカ初の独立国となった。独立当初のガーナは[[イギリス国王]]を[[立憲君主]]に頂く[[英連邦王国]]であったが、[[1960年]]に共和制へ移行し、エンクルマが初代大統領となった。エンクルマは[[汎アフリカ主義]]を掲げ、[[冷戦]]下において[[社会主義]]圏([[東側諸国]])や[[ギニア]]との友好関係を強化し、財政強化に努めたが、債務超過など失政を招き[[1966年]]にクーデターで失脚した。政権を掌握した[[国家解放評議会]]はエンクルマの政策から脱し、[[1969年]]には選挙を実施した。同選挙で[[コフィ・ブシア]]が首相に選ばれ民政に移管したが、反エンクルマ政策による{{仮リンク|アカン人|en|Akan people}}中心主義的な政策が国内の諸民族の反発を招き、1972年には[[イグナティウス・アチャンポン]]将軍がクーデターを起こし、政権を握った。しかし国情は安定せず、経済停滞から幾度か政変が発生した。 [[1979年]]に軍事クーデターを起こした[[ジェリー・ローリングス]][[ガーナ空軍|空軍]][[大尉]]が政権を掌握し、民政移管期間を挟んで1981年に完全な軍政を敷いた。ローリングスはガーナ経済再建のために[[国際通貨基金|IMF]]や[[世界銀行]]の[[構造調整]]計画を受け入れ、所得格差の拡大とともにガーナ経済と政治の安定化を達成した。ローリングスは[[複数政党制]]を認めた[[1992年]]の選挙で大統領に選出され、軍政から民政移管した。これを受けて、政治をボイコットしてきた野党も国政に参加を表明し、国情は安定を迎えた。ローリングスは2001年まで大統領を務め、後任には選挙に勝利した[[新愛国党]]の[[ジョン・アジェクム・クフォー]]が大統領に就任した。 === 近年 === 政情が安定し、自由選挙により平和的に政権が移譲されるようになったことから、現在は西アフリカにおける数少ない[[議会制民主主義]]国として知られるようになった。[[2009年]]の選挙では[[国民民主会議 (ガーナ)|国民民主会議]]が勝利し、[[ジョン・アッタ・ミルズ]]が大統領に就任した<ref>{{Cite news|title=ガーナ大統領選決選投票、野党ミルズ氏が当選|newspaper=[[AFP通信]]|date=2009-1-3|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2554145|accessdate=2021-8-31}}</ref>。2012年7月24日、ミルズは首都アクラの病院で急死。副大統領の[[ジョン・ドラマニ・マハマ]]が大統領に昇格した<ref>{{Cite news|title=ガーナのミルズ大統領が急死、後任に副大統領が昇格|newspaper=AFP通信|date=2012-7-25|last=Adadevoh|first=David|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2891428|accessdate=2021-8-31}}</ref>。2016年の選挙では新愛国党が政権を奪回し、[[ナナ・アクフォ=アド]]が大統領の座に就いた<ref>{{Cite news|title=ガーナ大統領選 野党候補の元外相が当選|newspaper=[[産経新聞]]|date=2016-12-10|agency=[[共同通信]]|url=https://www.sankei.com/world/news/161210/wor1612100034-n1.html|accessdate=2021-8-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190414063116/https://www.sankei.com/world/news/161210/wor1612100034-n1.html|archivedate=2019-4-14}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Supreme Court of Ghana.jpg|260px|thumb|ガーナの最高裁判所]] {{main|{{仮リンク|ガーナの政治|en|Politics of Ghana}}}} ガーナは[[国家体制]]として[[共和制]]、[[大統領制]]をとる立憲国家である。現行[[憲法]]は[[1992年]][[4月28日]]に制定されたもの。 {{See also|{{仮リンク|ガーナ政府|en|Government of Ghana}}}} === 行政 === {{Main|ガーナの大統領}} [[元首|国家元首]]である[[大統領]]は、国民の直接選挙により選出される。任期は4年。3選は禁止。[[内閣]]に相当する'''閣僚評議会'''のメンバーは大統領により任命されるが、国民議会の承認が必要である。首相職はかつて存在したが、現行憲法下では存在しない。 === 立法 === {{Main|国民議会 (ガーナ)}} {{See also|ガーナの政党の一覧}} [[立法府]]は[[一院制]]の[[国民議会 (ガーナ)|国民議会]]。定数は230議席で、議員は[[小選挙区制]]に基づき国民の直接選挙によって選出される。議員の任期は4年である。 ガーナは[[1992年]]に現行憲法が施行されて以降、[[複数政党制]]が認められており、実質的には[[二大政党制]]が機能している。1つは[[自由民主主義]]を掲げる[[中道右派]]の[[新愛国党]](NPP)、もう1つは[[社会民主主義]]を掲げる[[中道左派]]の[[国民民主会議 (ガーナ)|国民民主会議]](NDC)である。その他の勢力は二大政党ほどの影響力は持っていないが、比較的有力なものに[[人民国家会議]](PNC)がある。かつて[[クワメ・ンクルマ]]初代大統領のもとで権勢を振るった[[会議人民党]](CPP)は現在も存続しているが、勢力は弱体化している。 === 司法 === [[司法]]府の最高機関は最高裁判所であり、その下に高等裁判所、巡回裁判所、地方裁判所が置かれている。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|ガーナの国際関係|en|Foreign relations of Ghana}}}} [[西アフリカ諸国経済共同体]]の主導的な立場にある国のひとつである。アフリカの周辺諸国のみならず、旧[[宗主国]]のイギリスをはじめとした[[欧米]]諸国とも友好関係を保っている。 [[日本]]との関係では、[[野口英世]]がイギリスの植民地下のガーナで[[黄熱病]]の研究中に死去しているなど、古くから関係があり、英世の故郷である[[福島県]]の[[福島県立医科大学]]が医師を派遣するなど関係も深い。日本の援助で、1979年に[[ガーナ大学]]に野口記念医学研究所が設立された<ref>{{Cite web|和書|date=2019 |url=https://www.jica.go.jp/topics/2019/20190408_01.html |title=感染症の早期封じ込めを目指す:ガーナの野口記念医学研究所に「先端感染症研究センター」が完成 |publisher=JICA |accessdate=2020-02-01}}</ref>。また[[2006年]]には、[[千葉県]][[浦安市]]などから[[自転車]]などの無償援助を受けている。2009年の国際交流基金による日本語教育機関調査では、ガーナにおける日本語学習者の数は906人であり、サハラ以南では、中央アフリカ、マダガスカル、ケニアに継ぐ第4位である。2021年10月現在の在留日本人数は267人、2020年12月現在の在日ガーナ人数は2,506人である<ref name="外務省 ガーナ基礎データ">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ghana/data.html#section6|title=ガーナ共和国 基礎データ|accessdate=2021-8-31|publisher=[[外務省]]|date=2021-3-17}}</ref>。 日本のガーナからの輸入品の大半はカカオであり、2013年にはガーナからの輸入の76.7%を占めていた<ref name=":0">「データブック オブ・ザ・ワールド 2016年版 世界各国要覧と最新統計」p261 二宮書店 平成28年1月10日発行</ref>。大手菓子メーカー[[ロッテ]]の商品「[[ガーナチョコレート]]」により、日本においてはガーナがカカオ豆の産出地であることが知られている。 === 日本との関係 === {{Main|日本とガーナの関係}} ==== 駐日ガーナ大使館 ==== {{Main|駐日ガーナ大使館}} *住所:東京都港区西麻布1丁目5-21 *アクセス:[[東京メトロ日比谷線]]/[[都営大江戸線]][[六本木駅]]2番出口 <gallery> File:ガーナ大使館全景.jpg|ガーナ大使館全景 File:ガーナ大使館開館時間.jpg|ガーナ大使館開館時間 File:ガーナ大使館正面玄関.jpg|ガーナ大使館正面玄関 </gallery> == 軍事 == {{main|{{仮リンク|ガーナ軍|en|Ghana Armed Forces}}}} ガーナ軍(GAF)は{{仮リンク|ガーナ陸軍|label=地上軍|en|Ghana_Army}}と{{仮リンク|ガーナ海軍|label=海軍|en|Ghana Navy}}、[[ガーナ空軍|空軍]]の3つで構成されている。また、同国では{{仮リンク|ガーナ国境警備隊|label=国境警備隊|en|Border Guard Unit}}が配備されており、警備隊の最高軍事司令官は同国軍と同じく大統領が兼任している。 == 地理 == [[ファイル:Gh-map.png|thumb|ガーナの地図]] [[ファイル:Ghana Topography.png|thumb|ガーナの標高図]] {{main|{{仮リンク|ガーナの地理|en|Geography of Ghana}}}} [[ギニア湾]]に面しており、[[ヴォルタ川]]流域の低地が国土の大半を占めるため、最高標高点は885メートルに過ぎない。ヴォルタ川水系の面積は国土面積の77%を占める。特に[[1965年]]にヴォルタ川をせき止めて作った[[アコソンボダム]]が有名。自然湖として[[ボスムトゥイ湖]]が存在している。 気候的には全土が[[熱帯]]に属する。西部州やアシャンティ州をはじめとする南西部は[[熱帯モンスーン気候]](Am)に属し、多量の降雨に恵まれて[[熱帯雨林]]が広がっている。ガーナ経済を支えるカカオはおもにこの地域で栽培される。海岸部でも首都アクラを中心とする東部は降水量が少なく、[[サバナ気候]](Aw)に属する。中部から北部にかけてもサバナ気候に属し、[[サバンナ]]が広がる。北に行くほど降水量は少なくなり、乾燥の度合いが強くなるが、少ない地域でも1,000ミリ前後の降水量はある<ref>{{Harvnb|高根|山田|2011|pp=60-61}}</ref>。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Ghana, administrative divisions 2018 - de - colored.svg|240px|thumb|ガーナの州]] {{main|ガーナの地方行政区画}} ガーナは2018年以降16州(region)から構成されている。 * [[アハフォ州]](Ahafo) * [[アシャンティ州]](Ashanti) * [[ボノ州]](Bono) * [[ボノ・イースト州]](''東ボノ州''、Bono East) * [[セントラル州]](''中央州''、Central) * [[イースタン州]](''東部州''、Eastern) * [[グレーター・アクラ州]](''大アクラ州''、Greater Accra) * [[ノース・イースト州]](''北東州''、North East) * [[ノーザン州]](''北部州''、Northern) * [[オティ州]](Oti) * [[サバンナ州]](Savannah) * [[アッパー・イースト州]](''上東州''、Upper East) * [[アッパー・ウエスト州]](''上西州''、Upper West) * [[ヴォルタ州]](Volta) * [[ウェスタン州]](''西部州''、Western) * [[ウェスタン・ノース州]](''北西部州''、Western North) ===主要都市=== {{Main|ガーナの都市の一覧}} 最大都市は南部海岸にある首都の[[アクラ]]である。第二都市である[[クマシ]]は旧アシャンティ王国の首都であり、英領となったあともカカオなどこの地域の物産の集散地として栄えた。南部海岸にある[[セコンディ・タコラディ]]も植民地時代からの都市であり、深水港を持つ。北部の中心都市は[[タマレ]]である。 == 経済 == {{main|{{仮リンク|ガーナの経済|en|Economy of Ghana}}}} [[ファイル:Downtown accra.jpg|thumb|left|首都[[アクラ]]のダウンタウン]] [[ファイル:Tema Harbour, Greater Accra.jpg|thumb|left|左テマ港、右タコラディ港]] [[ファイル:Kumasi highstreet (shopping street) – The Panoramic view.jpg|thumb|left|250px|クマシ]] [[2013年]]のガーナの[[国内総生産|GDP]]は約442億ドルであり<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=53&pr.y=6&sy=2013&ey=2013&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=652&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= IMFによるGDP]</ref>、[[長崎県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}</ref>。同年の一人当たりのGDPは1,729ドルであり、世界平均の2割程度で世界的に下位に留まっているが、近年は原油の商業生産が始まったことにより経済成長も著しい。 経済は農業・鉱業などなどの一次産業に依存し、特にカカオは世界有数の産出量を誇る。独立直後から債務超過に悩んでいたが、[[1983年]]以降、構造調整を実施して経済の再建に取り組んだ結果、[[1980年代]]後半から平均5%のGDP成長率を達成しアフリカにおける[[構造調整]]の優等生として評価されてきた。 2000年代に入ると[[金]]や[[カカオ]]の国際価格の低迷、主要輸入品である[[原油価格]]の高騰などにより経済は低迷。[[2001年]]3月、拡大HIPC(重債務貧困国)イニシアティブ適用による債務救済申請を行う政策転換を行い、経済再建へ向けた努力を行っている。その結果、マクロ経済状況は改善、安定してきている。 === 鉱工業 === ガーナ最大の輸出品は[[金]]であり、2013年度には総輸出額の42.6%を占めた<ref name=":0" />。金は古くからこの地域の特産品であり、アシャンティ王国の隆盛を支えた。植民地時代の黄金海岸(ゴールド・コースト)の名もこれに由来している。かつては[[原油]]の純輸入国であったが、[[2007年]]6月から沖合で[[油田]]がいくつか発見され<ref>{{Harvnb|高根|山田|2011|p=85}}</ref>、2010年以降ガーナは原油の輸出国へと転じた。2013年には原油輸出は総輸出額の23.8%を占め、ガーナ第2の輸出品となっている<ref name=":0" />。 [[電力]]は[[アコソンボダム]]による大規模な水力発電が行われており、総発電量のうち水力の割合は6割強を占める。この電力はトーゴやベナン、コートジボワールに輸出されており<ref>田辺裕、島田周平、柴田匡平、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』p94、朝倉書店 ISBN 4254166621 </ref>、テマ市ではこの電力による[[アルミニウム]][[精錬]]も行われている。しかし水力発電は[[旱魃]]に弱く、また近年の経済成長と送電網の不備により電力不足がたびたび生じている<ref>{{Cite report|title=ガーナ BOP層実態調査レポート - 電力事情|year=2013|publisher=日本貿易振興機構|url=https://www.jetro.go.jp/ext_images/theme/bop/precedents/pdf/lifestyle_electricity_gh.pdf|format=PDF|accessdate=2022-2-16|language=ja}}</ref>。 近年、金や[[ダイヤモンド]]などの詐欺事件が多発し、対策として高価値鉱物マーケティング公社(PMMC)という公的機関も設立されているが、公的機関の書類自体も偽造されている場合があり注意が必要である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_096.html|title=ガーナ 安全対策基礎データ 「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-8-31|publisher=外務省|date=2020-1-27|work=海外安全情報}}</ref>。2000年代後半には金の価格が高騰し、関連産業も賑わいを見せるようになったが、次第に中国人が流入した。2013年には3万人とも5万人とも推定される労働者(鉱夫)が違法労働を行うようになり、当局に検挙される事例が増えている<ref>{{Cite news|url=https://newsphere.jp/world-report/20130611-1/|title=ガーナで中国人大量逮捕 身勝手すぎる理由とは?|date=2013-6-11|accessdate=2021-8-31|newspaper=NewSphere}}</ref>。 [[2020年]]、[[フォルクスワーゲン]]がガーナに進出して自動車組み立て工場の建設に着手。年間生産量は5000台を計画しているが、2019年のガーナの新車登録台数は5700台となっており、余剰生産分は周辺国などへの輸出が検討されている<ref>{{Cite web|和書|date=2020-08-14 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/08/f52b168ba2d6221e.html |title=フォルクスワーゲンがガーナに組み立て工場を設立 |publisher=JETRO |accessdate=2020-12-30}}</ref>。 === 農林業 === [[カカオ豆]]は、[[1879年]]にテテ・クワシによって導入されたのち栽培が順調に拡大し、[[1911年]]にはガーナは世界最大の生産国となった。その後も植民地期を通じてカカオはガーナ最大の産業であり続け、[[1960年代]]中盤までその地位は揺らがなかった。しかし独立後のカカオ政策の混乱と価格低落によって生産量は急減し、コートジボワールに生産量1位の座を明け渡すこととなった。その後生産量は回復し、2013年度には生産世界第2位、ガーナ総輸出額の10.9%を占めた<ref name=":0" />。 カカオ豆の生産は、ほとんどが貧困にあえぐ零細農家の手により行われており、農地([[焼畑農業]])拡大のための場当たり的な[[森林伐採]]、[[児童労働]]の誘発など環境や社会経済に大きな影響を与えている。[[2019年]]11月、アフリカへの投資フォーラムへ出席したナナ・アクフォ=アド大統領は、コートジボワールとともに豆の価格管理を進めることを発表した。演説の中で「[[チョコレート]]産業は1,000億ドル規模だが、農家が労働と引き換えに手にする額は60億ドルにすぎない」として農家への還元を求めた<ref>「チョコレート産業 甘み少ない農家」『読売新聞』2020年2月28日6面</ref>。 農林産品としてはこのほか、[[カシューナッツ]]や[[木材]]の輸出もある。自給用作物としては、[[キャッサバ]]・[[ヤムイモ]]・[[タロイモ]]の生産が世界10位以内となっている<ref name=":0" />。 1990年時点の[[森林率]]は42%であるが<ref>日本林業技術協会『森林・林業百科辞典』p777 丸善 2001年 {{全国書誌番号|20184122}}</ref>漸減傾向にある。これは木材生産量の95%が国内向けの燃料用材となっており、大規模な伐採が続いているためである<ref>{{Cite web|和書|url=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/11529203_01.pdf |title=ガーナ国移行帯地域森林保全管理計画調査 |publisher=JICA |date=1999 |accessdate=2021-06-30}}</ref>。 === 2022年デフォルト === 2022年12月19日、ガーナは経済危機に見舞われ、事実上のデフォルト([[デフォルト (金融)|債務不履行]])に陥った<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/ghana-economy-debt-idJPKBN2T31IZ|title=ガーナが事実上のデフォルト、大半の対外債務支払いを停止|accessdate=2022-12-20|publisher=ロイター通信}}</ref>。 == 交通 == [[ファイル:Railway Station Kumasi 2005.jpg|thumb|[[クマシ]]の鉄道駅]] {{main|{{仮リンク|ガーナの交通|en|Transport in Ghana}}}} {{see also|ガーナの空港の一覧|ガーナの鉄道}} [[コトカ国際空港]]は同国における[[ハブ空港]]であり、国内線のみならずアフリカの近辺国や欧米との航空路線も多く運航されている。[[鉄道]]は1903年の開通後、アクラ、クマシ、セコンディ・タコラディの3都市を互いに結ぶ路線網を維持しているが貨物主体であり、2011年時点で、旅客列車はアクラ近郊の2路線(テマなど)のみの運転となっている<ref>{{Harvnb|高根|山田|2011|p=146}}</ref>。一般の旅客輸送はトロトロ(ワゴンタイプのミニバス)や大型の都市間[[バス (交通機関)|バス]]などが主体となっている<ref>{{Harvnb|高根|山田|2011|p=148}}</ref>。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|ガーナの人口統計|en|Demographics of Ghana}}|{{仮リンク|ガーナへの移民|en|Immigration to Ghana}}}} === 民族 === 2000年のセンサスによれば、{{仮リンク|アカン人|en|Akan people}}({{仮リンク|ファンティ人|en|Fante people}}、[[:en:Akyem]]、{{仮リンク|アシャンティ人|en|Ashanti people}}、[[:en:Kwahu]]、[[:en:Akuapem people]]、[[:en:Nzema people]]、[[:en:Abron tribe|Bono]]、[[:en:Akwamu]]、[[:en:Ahanta people]]、その他)が45.3%、[[モシ人|モシ]]・{{仮リンク|ダゴンバ人|en|Dagomba people}}が15.2%、[[エウェ人]]が11.7%、{{仮リンク|ガー=ダングメ人|en|Ga-Adangbe people|label=ガー人}}が4%、[[グルマ人]]が3.6%、{{仮リンク|グルンシ人|en|Gurunsi peoples|label=グルシ人}}が2.6%、{{仮リンク|マンデ人|en|Mandé peoples|label=マンデ}}・[[ブサンガ人]]が1%、その他の民族が1.4%、[[ヨーロッパ人]]や[[アラブ人]]などその他が7.8%となっている<ref name=2009cia/>。 === 言語 === {{main|ガーナの言語}} [[公用語]]は[[英語]]であり、その他に[[アカン語]]、[[ダバニ語]]<!--[[モシ・ダゴンバ語]]-->、[[エウェ語]]、[[ガー語]]などが使われる。 政府公認言語として、[[アクアペム方言|トウィ語アクアペム方言]](Akuapem Twi)、[[トウィ語アサンテ方言]](Asante Twi)、[[エウェ語]](Ewe)、[[ダガリ語]](Dagaare)、[[ダバニ語]](Dagbani)、[[アダングメ語]](ダンメ語)(Dangme)、[[ガ語]](Ga)、[[ゴンジャ語]](Gonja)、[[カセム語]](Kasem)、[[ファンティ語]](Mfantse)、[[ンゼマ語]](Nzema)がある。 === 婚姻 === 女性は婚姻時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと([[夫婦別姓]])も可能である<ref>[https://www.ghanaweb.com/GhanaHomePage/entertainment/Relationship-Ghanaian-women-rejecting-men-with-scary-names-385356 Relationship: Ghanaian women rejecting men with ‘scary’ names], 2 Oct 2015, GhanaWeb.</ref>。 === 宗教 === [[ファイル:Wesley Methodist Cathedral, Kumasi, Ghana.jpg|thumb|[[クマシ]]の[[キリスト教]]大聖堂]] {{main|{{仮リンク|ガーナの宗教|en|Religion in Ghana}}}} 2000年のセンサスによれば、国民の68.8%が[[キリスト教徒]]である。そのうちの24.1%が[[ペンテコステ派]]、18.6%が[[プロテスタント]]、15.1%が[[カトリック教会|カトリック]]、その他の[[キリスト教]]が11.5%である。[[イスラム教|イスラーム]]は国民の15.9%を擁し、伝統宗教が8.5%、その他の宗教が0.7%、[[無宗教]]が6.1%となる<ref name=2009cia/>。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ガーナの教育|en|Education in Ghana}}}} 2年間の就学前教育と6年間の[[初等教育]]が[[義務教育]]であり、初等教育の後に3年間の[[前期中等教育]]と4年間の[[後期中等教育]]を経て[[高等教育]]への道が開ける。初等教育から学校教育における[[教授言語]]は英語であり、ガーナの公立学校では小学校1年生から英語で授業が行われる。2000年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は57.9%(男性:66.4%、女性:49.8%)である<ref name=2009cia>[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/gh.html CIA World Factbook]2009年11月26日閲覧。</ref>。2005年にはGDPの5.4%が教育費に支出された<ref name=2009cia/>。 おもな[[高等教育]]機関としては[[ガーナ大学]](1948)、{{仮リンク|クマシ工科大学|label=クマシ大学|en|Kumasi Technical University}}、{{仮リンク|クワメ=エンクルマ科学技術大学|en|Kwame Nkrumah University of Science and Technology}}、{{仮リンク|ケープ・コースト大学|en|University of Cape Coast}}などの名が挙げられる。 {{See also|{{仮リンク|ガーナの大学一覧|en|List of universities in Ghana}}}} === 保健 === {{Main|{{仮リンク|ガーナの保健|en|Health in Ghana}}}} {{sectstub}} {{See also|{{仮リンク|ガーナにおける障害|en|Disability in Ghana}}}} ==== 医療 ==== {{Main|ガーナの医療}} ガーナは[[ユニバーサルヘルスケア]]が実現され、政府所管の国民健康保険(NHIS)にて実現されている<ref>{{cite web|url=http://www.nhis.gov.gh/|title=National Health Insurance Scheme (NHIS)|publisher=nhis.gov.gh |accessdate=2014-05-10}}</ref>。医療はさまざまなものが提供され、1,200万人が国民健康保険に加入している<ref name="Ghana: National Health Insurance Scheme (NHIS)">{{cite web|url=http://jointlearningnetwork.org/content/national-health-insurance-scheme-nhis |title=Ghana: National Health Insurance Scheme (NHIS) |publisher=jointlearningnetwork.org |accessdate=2014-05-10}}</ref>。都市部は病院、診療所、薬局とも十分に整備され、国内には200以上の病院が存在し[[医療観光]]の受入国になっている<ref>{{cite web|url=http://www.eturbonews.com/10800/medical-tourism-emerging-market-ghana |title=Medical tourism is emerging market for Ghana|publisher=eturbonews.com |date=5 August 2009|accessdate=2014-05-10}}</ref>。 2013年の平均寿命は、男性66歳、女性67歳<ref name=" Field Listing: Life expectancy at birth">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2102.html Field Listing :: Life expectancy at birth]. Retrieved 24 June 2013.</ref>、[[乳児死亡率]]は1,000出生あたり39である<ref name="Listing: Infant mortality rate">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2091.html Field Listing :: Infant mortality rate].cia.gov. Retrieved 24 June 2013.</ref>。2010年では、人口10万あたり医師は15人、看護師93人<ref name="afro.who.int">{{cite web|url=http://www.afro.who.int/home/countries/fact_sheets/ghana.pdf |title=Afro.who.int |publisher=Afro.who.int |accessdate=2014-05-10}}</ref>であり、GDPの5.2%が保健支出であった<ref name="Field Listing: Health expenditures">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2225.html Field Listing :: Health expenditures]. Retrieved 24 June 2013.</ref>。ガーナ市民はプライマリヘルスケアにアクセスする権利がある<ref name="Bill Gates Ghana" />。ガーナの[[医療制度]]は[[アフリカ]]諸国においてもっとも成功したものであると[[ビル&メリンダ・ゲイツ財団]]は評している<ref name="Bill Gates Ghana">{{cite web|url=http://www.thejournal.ie/bill-gates-africa-visit-847307-Mar2013/|title=These are the countries where I'm the least known" – Bill Gates visits Ghana|publisher=thejournal.ie |accessdate=2014-05-10}}</ref>。2012年では、15 - 49歳成人のHIV罹患率は1.40%であった<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/rankorder/2155rank.html|title=Library publications|accessdate=2015-02-05}}</ref>。 == 治安 == {{main|{{仮リンク|ガーナにおける犯罪|en|Crime in Ghana}}}} 同国の治安情勢は、西アフリカ諸国において比較的良い部類とされているが、[[日本外務省]]における2017年時点での危険情報によればガーナ全域が危険レベル1との注意が発令されており、2020年2月時点から隣国[[ブルキナファソ]]の治安悪化に伴い、ブルキナファソとの国境地域と[[トーゴ]]、[[コートジボワール]]との一部の国境地域に対する危険度がレベル2に引き上げられている。加えて、首都アクラを中心に[[外国人]]を狙った犯行が発生している問題点がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_096.html#ad-image-0|title=ガーナ 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-1-15|publisher=外務省}}</ref>。 また、ガーナでは治安の良くない地域がピンポイントに存在しており、北部州の[[ビンビラ]]や[[クパティンガ]]、[[ブンプルク]]ならびにヴォルタ州の[[アラヴァンヨ]]や[[ウコンヤ]]は[[首長]]が没したことによって次代首長の座を巡って争いが勃発していたり、[[部族]]と同国政府の衝突が起きていることをはじめ、当該エリアから夜間外出禁止令も出されている事情により治安が安定しておらず、他のアフリカ諸国地域同様に今後の変化が大きいものとなる可能性があることを留意する必要がある。 更に、[[観光客]]を狙った巧妙な[[詐欺]]事件も発生しているとの報告があり、悪質な[[ガイド]]に気を付けるよう注意が発されている点から現時点で治安の心配がないと言い切るのは難しい面が見える。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ガーナにおける人権|en|Human rights in Ghana}}}} {{節スタブ}} == マスコミ == {{main|{{仮リンク|ガーナのメディア|en|Mass media in Ghana}}}} {{sectstub}} {{See also|{{仮リンク|ガーナの通信|en|Telecommunications in Ghana}}|{{仮リンク|ガーナの新しいメディア|en|New media in Ghana}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|ガーナの文化|en|Culture of Ghana}}}} === 食文化 === [[File:Kulikuli.jpg|180px|left|thumb|{{仮リンク|クリクリ (菓子)|label=クリクリ|en|Kuli-kuli}}。[[ピーナッツ]]から作られる[[菓子]]で、ガーナをはじめとする西アフリカ諸国で広く食されている。]] {{main|{{仮リンク|ガーナ料理|en|Ghanaian cuisine}}}} ガーナの食事は主食に[[シチュー]]を付け合わせるのが基本であるが、主食の種類は数多い。[[ヤムイモ]]、[[キャッサバ]]、[[プランテンバナナ]]、[[モロコシ]]、[[トウモロコシ]]、[[トウジンビエ]]などが主食として食されるほか、[[都市化]]の進展に伴い[[米]]の消費も伸びている。食べ方としてはイモ類やバナナはそのまま、キャッサバや[[穀物]]は一度[[製粉]]してから[[練粥]]にして食べる。また、イモ類やバナナを杵と臼でついて餅状にした[[フフ]]も広く食べられている<ref>{{Harvnb|高根|山田|2011|pp=151-152}}</ref><ref>{{Harvnb|高根|2003|pp=162-168}}</ref>。 === 文学 === {{main|{{仮リンク|ガーナ文学|en|Ghanaian literature}}}} [[小説家]]を数多く輩出している。代表的な人物には{{仮リンク|クオブナ・オトバ・クゴアーノ|fr|Quobna Ottobah Cugoano}}、{{仮リンク|アイシャ・ハルーナ・アッタ|fr|Ayesha Harruna Attah}}、{{仮リンク|ナナ・オフォリアッタ・アイム|fr|Nana Oforiatta Ayim}}らが存在する。 {{See also|アフリカ文学}} === 音楽 === [[ファイル:Dashiki and kufi.jpg|thumb|220px|ガーナの鼓手]] {{main|{{仮リンク|ガーナの音楽|en|Music of Ghana}}}} [[1920年代]]に[[リベリア]]や[[シエラ・レオネ]]で生まれた{{仮リンク|パームワイン・ミュージック|en|Palm-wine music}}を発展する形で[[ハイライフ]]が生まれた。ハイライフは最初期に成立したアフリカの[[ポピュラー音楽]]であり、近隣の[[ナイジェリア]]や[[シエラ・レオネ]]など英語圏に拡大したほか、[[ベルギー領コンゴ]]にも波及して{{仮リンク|フランコ・ルアンボ|label=フランコ|en|Franco Luambo}}や[[パパ・ウェンバ]]らに影響を与え、{{仮リンク|キューバ音楽|en|Music of Cuba}}とともに[[スークース|リンガラ・ポップス]](ルンバ・ロック)成立に大きな影響を与えた。 [[1990年代]]にはハイライフ、[[アフロ=レゲエ]]、[[ダンスホールレゲエ|ダンスホール]]、[[ヒップ・ホップ]]などの影響を受けた若者によって新たなジャンルが創造された。この新たなハイブリッド音楽は'''{{仮リンク|ヒップライフ|en|Hiplife}}'''と呼ばれている。R&B/ソウルの歌手{{仮リンク|リアン・ベンソン|label=ライアン・ベンソン|en|Rhian Benson}}やハイライフ歌手の{{仮リンク|コージョ・アントウィ|en|Kojo Antwi}}、[[ラッパー]]の{{仮リンク|ティンチー・ストライダー|en|Tinchy Stryder}}などのガーナのミュージシャンは国際的な成功を収めている。 === 映画 === [[File:Road Intersection and Road Junction, Accra.jpg|thumb|{{仮リンク|ガーナ国立劇場|en|National Theatre of Ghana}} <br> アクラにて撮影]] {{main|{{仮リンク|ガーナの映画|en|Cinema of Ghana}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|ガーナの世界遺産}} ガーナ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件存在する。 <gallery> Cape coast castle II.JPG|[[ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群]] - (1979年、文化遺産) Gold Coast Map 1896.jpg|[[アシャンティの伝統的建築物群]] - (1980年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ガーナの祝日|en|Public holidays in Ghana}}}} {| class="wikitable" style="margin:auto;" |+ !日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考 |- |[[1月1日]] || [[元日]] || || |- |[[1月7日]] || [[憲法記念日]]|| || 新たに確定された祝日の一つで2019年から開始。1992年の憲法公表と1993年の[[第四共和政]]制定に基づいて制定された。 |- |[[3月6日]] || [[独立記念日]]|| || 1957年に独立したことを記念して制定された。 |- |[[3月]]から[[5月]]、年により移動 || [[復活祭]]|| || 前日に[[聖金曜日]]を祝い、終了後には[[イースターマンデー]]を祝う。 |- |[[5月1日]] || [[メーデー]]|| || |- |[[8月4日]] || {{仮リンク|創設者の日|en|Founder's Day (Ghana)}} || ||同国の独立運動に貢献した[[The Big Six (ガーナ)|The Big Six]]を称えて制定された。 |- |[[9月21日]] || クワメ・エンクルマ記念日 || || 同国の初代首相(1957年-1960年)および初代大統領(1960年-1966年)である[[クワメ・エンクルマ|エンクルマ]]の誕生日を記念したものである。 |- |[[12月]]第1金曜日 || {{仮リンク|農民の日|en|Farmers' Day}} || ||同国の食品農業省によって導入されたもので、勤勉な農民と漁師を称える為の祝日として制定された。 |- |[[12月25日]] || [[クリスマス]] || || |- |[[12月26日]] || [[ボクシングデー]] || || |- |[[ヒジュラ暦]]第10月 ||{{仮リンク|シャウワール|en|Shawwal}} || ||1日から[[イド・アル=フィトル]]となる。別名で『[[断食]]の[[祭典]]』とも呼ばれる。 |- |ヒジュラ暦第12月 ||{{仮リンク|ズー・アル=ヒッジャ|en|Dhu al-Hijjah}} || ||10日から[[イード・アル=アドハー]]([[犠牲祭]])となる。別名で『[[犠牲]]の饗宴』とも呼ばれる。 |- |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ガーナのスポーツ|en|Sports in Ghana}}}} {{See also|オリンピックのガーナ選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ガーナのサッカー|en|Football in Ghana}}}} [[File:ACON_2015_GHA_GUI_(16512008192).jpg|thumb|right|200px|熱狂的な事で知られる[[サッカーガーナ代表]]のサポーター。]] ガーナ国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]であり、国民的なアイデンティティである。[[ガーナサッカー協会]](GFA)によって構成される[[サッカーガーナ代表]]は「'''ブラック・スターズ''' (The Black Stars)」の愛称で国中から絶大な支持を集めており、[[アフリカネイションズカップ]]では[[アフリカネイションズカップ1963|1963年大会]]、[[アフリカネイションズカップ1965|1965年大会]]、[[アフリカネイションズカップ1978|1978年大会]]、[[アフリカネイションズカップ1982|1982年大会]]と4度の優勝を飾っている。さらに[[1992年]]の[[1992年バルセロナオリンピックのサッカー競技|バルセロナ五輪]]では、銅メダルを獲得している。 [[FIFAワールドカップ]]には[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツ大会]]で初出場しグループリーグを突破したが、決勝トーナメントで[[2002 FIFAワールドカップ|前回大会王者]]の[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]と当たりベスト16で敗退した。続く[[2010 FIFAワールドカップ|2010年南アフリカ大会]]にも出場し、アフリカ勢では[[1990年]]の[[サッカーカメルーン代表|カメルーン代表]]、[[2002年]]の[[サッカーセネガル代表|セネガル代表]]以来となるベスト8に進出した。[[2014 FIFAワールドカップ|2014年ブラジル大会]]では、まさかのグループリーグ最下位での敗退となった。[[2022 FIFAワールドカップ|2022年カタール大会]]にも2大会ぶりに出場を果たした<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20220330/1635412.html ハリル率いるモロッコ、カメルーン、チュニジアがW杯へ 出場5カ国決定/アフリカ最終予選]サッカーキング 2022年3月30日</ref>。 国内リーグとしては[[1956年]]に[[ガーナ・プレミアリーグ]]が創設されており、[[アサンテ・コトコSC]]と[[アクラ・ハーツ・オブ・オーク]]の二強によってリーグは圧倒的に支配されている。また、[[リーグ戦]]以外にも{{仮リンク|ガーナFAカップ|en|Ghanaian FA Cup}}や{{仮リンク|ガーナ・スーパーカップ|en|Ghana Super Cup}}なども存在する。 === ボクシング === ガーナではサッカーの次に[[ボクシング]]も盛んであり、元[[世界ボクシング協会|WBA]]世界[[ウェルター級]]王者の[[アイク・クォーティ]]や、元[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[ウェルター級]]王者の[[ジョシュア・クロッティ]]など、単なる一王者ではなく世界水準でも評価の高い好選手を輩出している。さらに[[アズマー・ネルソン]]は、ガーナのみならず「アフリカボクシング界」全体の象徴になるまでの評価を得た選手である。 == 著名な出身者 == {{Main|{{仮リンク|ガーナ人の一覧|en|List of Ghanaians}}}} * [[ヤァ・アサンテワァ]] - {{仮リンク|王母 (アフリカ)|label=王母|en|Queen mothers (Africa)}} * [[コフィー・アナン]] - [[国際連合事務総長]] * [[ニャホ・ニャホ=タマクロー]] - [[ガーナサッカー協会]]会長 * [[マイケル・エッシェン]] - [[サッカー選手]] * [[サリー・ムンタリ]] - サッカー選手 * [[アサモア・ギャン]] - サッカー選手 * [[ケヴィン=プリンス・ボアテング]] - サッカー選手 * [[クワドォー・アサモア]] - サッカー選手 * [[クリスティアン・アツ]] - サッカー選手 * [[トーマス・パーテイ]] - サッカー選手 * [[アイク・クォーティ]] - [[プロボクサー]] * [[ジョシュア・クロッティ]] - プロボクサー == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=ガーナ : 混乱と希望の国|year=2003|publisher=日本貿易振興機構アジア経済研究所|ref=harv|last=高根|first=務|series=アジアを見る眼 104|isbn=4258051047|NCID=BA64253338|month=11}} * {{Cite book|和書|title=ガーナを知るための47章|year=2011|publisher=[[明石書店]]|ref=harv|last=高根|first=務|last2=山田|first2=肖子|series=エリア・スタディーズ 92|isbn=9784750334394|NCID=BB0643554X|month=8|edition=初版}} {{脚注の不足|date=2022-2|section=1}} * {{Cite book|和書|author=砂野幸稔|authorlink=砂野幸稔|translator= |editor=岡倉登志|editor-link=岡倉登志|others= |chapter=アフリカ文化のダイナミズム |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |date=2002年12月 |publisher=明石書店 |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=砂野(2002)}} == 関連項目 == * [[ガーナ関係記事の一覧]] * [[汎アフリカ色]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Ghana|Ghana}} {{Wikivoyage|Ghana|ガーナ{{en icon}}}} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}} * 政府 ** [https://tokyo.mfa.gov.gh/ 在日ガーナ大使館] {{ja icon}}{{en icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ghana/ 日本外務省 - ガーナ] {{ja icon}} * 観光 ** [https://www.touringghana.com/ ガーナ政府観光局] {{en icon}} ** {{ウィキトラベル インライン|ガーナ|ガーナ}} {{ja icon}} * その他 ** {{CIA World Factbook link|gh|Ghana}} {{en icon}} ** {{Curlie|Regional/Africa/Ghana}} {{en icon}} ** {{Osmrelation|192781}} ** {{Wikiatlas|Ghana}} {{en icon}} ** {{Googlemap|ガーナ}} ** {{Kotobank}} {{アフリカ}} {{国連安全保障理事会理事国}} {{イギリス連邦}} {{OIF}} {{GH-stub}} {{Normdaten}} {{Coord|5|33|N|0|12|W|type:city|display=title}} {{デフォルトソート:かあな}} [[Category:ガーナ|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:フランコフォニー準加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]]
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昇華 (心理学)
心理学・倫理における昇華(しょうか、英: sublimation)とは防衛機制の一つ。社会的に実現不可能な(反社会的な)目標や葛藤、満たすことができない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること。 「満たせない欲求」や「社会的に評価されがたい欲求」のよくある例は「性的欲求」や「攻撃欲求」などであるが、昇華の例はより具体的には次のようなことである。
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心理学・倫理における昇華とは防衛機制の一つ。社会的に実現不可能な(反社会的な)目標や葛藤、満たすことができない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること。
[[心理学]]・[[倫理]]における'''昇華'''(しょうか、{{lang-en-short|'''sublimation'''}})とは[[防衛機制]]の一つ。社会的に実現不可能な(反社会的な)目標や葛藤、満たすことができない[[欲求]]から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること<ref name="Kaplan">{{Cite |和書| |author=B.J.Kaplan |author2=V.A.Sadock |title=カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 |edition=3 |publisher=メディカルサイエンスインターナショナル |date=2016-05-31 |isbn=978-4895928526 |at=Chapt.4}}</ref>。 == 昇華の病状表現 == 「満たせない欲求」や「社会的に評価されがたい欲求」のよくある例は「性的欲求」や「攻撃欲求」などであるが、昇華の例はより具体的には次のようなことである。 *性的欲求が満たされなかった経験を直接異性に向けるのではなく、[[小説]]を書く時に登場人物の心理描写に活かす<ref name="direct-commu">。[https://www.direct-commu.com/terms/sublimation/]</ref> *社会への怒りや不満を社会を直接的に攻撃・破壊するのに使うのではなく、[[歌詞]]という作品にして発信する<ref name="direct-commu" />。 *いじめられた体験や感じた苦しみを直接復讐して晴らすのではなく、おなじような苦しみを抱いている人々の話を聴いて理解する仕事に就くこと。カウンセラー、社会福祉士、臨床心理士など<ref name="direct-commu" />。 *怒りっぽくて人々を攻撃したくなる性質を(人々を片っ端からなぐったりするのに使うのではなく)スポーツに使うのも昇華である<ref name="direct-commu" />。たとえばボクシング、キックボクシングなど(定められたルールの中で)決められた相手をなぐるのに使ったり、またラグビー選手になり相手チーム選手と激突したり、さらにバレーボールやテニスでボールを相手コートにおもいきりたたきこんで試合に勝つのに使うというのも昇華の一種である。 == 脚注 == {{reflist}} {{防衛機制}} {{Psych-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようか}} [[Category:防衛機制]] [[Category:フロイト派心理学]] [[Category:精神分析用語]]
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カメルーン
カメルーン共和国(カメルーンきょうわこく)、通称カメルーンは、アフリカ大陸西部に位置する共和制国家である。 西にナイジェリア、北東にチャド、東に中央アフリカ共和国、南東にコンゴ共和国、南にガボン、南西は赤道ギニアに隣接する。首都はヤウンデ。国土の南西部が大西洋のギニア湾に面している。 カメルーンは中部アフリカに位置している。だが稀に西アフリカの一部に数え上げられる場合がある。現在の同国地域を植民地としていたドイツ帝国が敗れた第一次世界大戦後の1922年、イギリスとフランスの植民地に分かれた経緯がある。 独立後は非同盟路線を歩むが、経済・文化・軍事の面でフランスとの関係が深く、フランコフォニー国際機関に加盟している。1995年にはイギリス連邦にも加盟している。 正式名称は英語で、Republic of Cameroon(リパブリック・オブ・キャメルーン)。フランス語で、République du Cameroun(レピュブリク・デュ・カムルン)。 日本語の表記は、カメルーン共和国。通称、カメルーン。 国名は、1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人がエビの多いことから「カマラウン(camarão、ポルトガル語で「小エビ」を意味する)」と名付けたことに由来する。 カメルーン内の遺跡からは約8000年前の歴史までさかのぼることができる。カメルーンの先住民はバカ・ピグミーである。バントゥー系民族はカメルーン高地に起源を持つが、他民族による侵入が行われる前に別の土地に移動している。 1394年から北西部地域にはバムン王国が存在しており、独自の文化体系を固持していた。この国家は20世紀前半のヨーロッパ各国による侵攻まで勢力を維持し続けた。 1470年12月にポルトガル人がカメルーンに到達したが、拠点を築くことはなかった。 1806年にイスラム系諸王国の支配下に置かれた。1870年代になると、ヨーロッパ列強に数え上げられるようになったドイツ帝国が、アフリカ分割を背景に沿岸部の都市ドゥアラを中心に入植を開始した。1884年にはドイツ保護領カメルーンが成立した(ドイツ植民地帝国)。1911年、ドイツは第二次モロッコ事件の代償としてフランスから国境付近を中心とした新カメルーンの譲渡を受け、カメルーンの領土は拡大したものの、第一次世界大戦後には新カメルーンは再び隣接するフランスの各植民地の領域へと戻った。 第一次世界大戦でドイツが敗れたあと、1918年のヴェルサイユ条約の規定により、1922年に北西部がイギリスの「イギリス領カメルーン」(西カメルーンとも。現在の北西州と南西州およびナイジェリア領アダマワ州とタラバ州からなる)、東南部がフランスのフランス領カメルーン(東カメルーン)として委任統治領となる。第二次世界大戦中には、ドゴールの自由フランスの拠点のひとつとなった。第二次世界大戦後、1946年には信託統治領となり、1957年にフランス領カメルーンには自治が認められた。 アフリカの年と呼ばれる1960年、フランス領カメルーンが独立した。大統領は北部出身のイスラーム教徒アマドゥ・アヒジョである。イギリス領カメルーンは北部と南部で別々に住民投票を実施した結果、1961年には北部がナイジェリアと合併、南部はカメルーンとの連邦制となり、アヒジョが大統領、イギリス領カメルーン首相のジョン・フォンチャが副大統領に就任した。しかし徐々に圧倒的に規模の大きな旧フランス領の勢力が増大していき、フォンチャが副大統領を辞任したのち連邦制の是非を問う国民投票が行われ、この連邦制は1972年に廃止されて、アヒジョ大統領は国号をカメルーン連合共和国に変更した。アヒジョ大統領は1965年・1970年・1975年・1980年の大統領選挙で再選されたが、1982年には南部出身のポール・ビヤを後継に指名して大統領を辞任した。 アヒジョからビヤへの政権交代そのものは平和的なものであり、またアヒジョも与党党首の座にはとどまるなど一定の権力は保持しつづけたが、やがてビヤが権力基盤を固めるとともに両者の関係は険悪化し、1983年にはアヒジョがクーデターを計画したとしてフランスに追放され、1984年には国外のアヒジョに死刑判決が下される(アヒジョは国外にいたため実行はされていない)など、ビヤは独裁権力を樹立していった。また同年、国号を現在のカメルーン共和国に変更した。その後、ビヤ政権とカメルーン人民民主連合(英語版)(CPDM)の一党支配が嫌われ、1990年には政党の結成を合法化した。民主化後もビヤは選挙に勝利し続け、長期政権を維持しているが選挙自体の公正さに疑問もある。2018年の大統領選挙でもビヤが再選され、通算で7期目に入った。 カメルーンは国家体制として共和制、大統領制をとる立憲国家である。 1996年の憲法改正により、カメルーン大統領はカメルーン政府内で行政執行権を行使できるようになった。大統領は広範囲な権力を与えられており、両院制の議会に諮ることなく行使できる。 議会の定数は180人。年3回開催される議会の目的は法案を通過させることである。実際、議会が法案を変更すること、成立を阻むことはめったにない。 主要政党としては、与党カメルーン人民民主連合(英語版)(CPDM)が常に議会の過半数を占めており、一党優位政党制となっている。このほか、カメルーン民主連合(英語版)、社会民主戦線(英語版)、民主化と進歩のための全国連合(英語版)、進歩運動(英語版)など。ほかに民主主義開発同盟(英語版)、カメルーン人民連合(英語版)、カメルーン民主党(英語版)がある。 司法部は行政部門である法務省の下に置かれている。最高裁判所は、大統領が要求した場合に限り、違憲立法審査に着手できる。 カメルーンの憲法は1972年に制定された。 1998年、最西端に位置するバカシ半島の帰属をめぐって、隣国のナイジェリアとの間でバカシ半島領有権問題が発生した。現在、この地域では2つの反政府武装組織ニジェールデルタ防衛治安評議会(ニジェール・デルタ解放運動)とバカシ自由闘士(en:Bakassi Movement for Self-Determination)が広範な自治を求めて活動している。 南カメルーン国民会議(英語版)(SCNC)は1999年に、元イギリス委任統治領だった、英語話者が多い北西州と南西州の2州で南カメルーン連邦共和国(アンバゾニア共和国)の名のもと分離独立を求めている。南カメルーンの分離独立運動の背景には、1982年のビヤ大統領就任以来、フランス語話者が中央政府の要職を占め、フランス語圏がインフラ整備で優遇され経済格差が開いていることへの不満がある。2016年には、フランス語圏出身裁判官が任命されたことへの抗議デモが発生。2017年10月1日にもアンバゾニアの国名で独立派が独立宣言し、治安部隊と衝突した。分離独立派の武装勢力は農村部で支配地域を広げ、アンバゾニアの「首都」とみなす南西州都ブエアに迫り、都市部に駐屯する政府軍も分離独立派とみなした住民を拘束するなどしている。2016年以降に60万人以上が国内避難民となったが、国際社会の関心は薄いことにノルウェーの人権団体が警鐘を鳴らしている。「#言語」節も参照。 同国の軍隊は、陸軍と海軍と空軍の3軍に編成されている。準軍事組織として憲兵隊(フランス語版)が存在している。 また特殊部隊として迅速介入大隊(フランス語版、ドイツ語版)ならびに迅速介入旅団(フランス語版)が結成されており、この部隊は陸軍が管轄している。 5つの地理区分に分けられる。海岸平野はギニア湾から15 km - 150 km まで広がり、森林で覆われ、平均標高は90 m。非常に暑く、世界で最も湿度が高いところがある。南部カメルーン高地は熱帯降雨林で覆われるが、乾季と雨季が海岸平野より区別されるため湿度はやや低い。平均標高は650 m。 4つの保護指定区が設けられており、エリアは国立公園をはじめ、野生生物保護区・動物保護区・植物保護区として構成される。さらに同国の一部と近隣諸国において越境保護地域(英語版)(TBPA)が存在する。 また、同国は世界有数の火山国として知られており、カメルーン火山列はその所以ともなっている。この火山列は隣国のナイジェリア東部と同国西部との間に存在し、最高峰のカメルーン山(4,095 m)のある海岸から北部で国を東西に横断する形で連なる。加えて、カメルーン山はアフリカ大陸において最も大きい火山の一つとなっている。 気候は、特に西部高地(英語版)(フランス語: Grassland)は温暖で雨が多く、土地は肥沃である。その中でも広大な地域に当たるカメルーン草原(ドイツ語版)は同国を代表する草原で、19世紀末の植民地時代から国際的に知られている。 サバナ地帯である中部のアダマワ高地を境に、ステップが広がる北部と熱帯林に覆われた南部とに分かれる。平均標高は1,100 m、気温は22 - 25°Cで雨が多い。アダマワ高地は分水嶺でもあり、主要河川は北部のベヌエ川、北東部のウォリ川(英語版、フランス語版、ドイツ語版)、南部のサナガ川、そして隣国チャドの河川の一部を成すロゴーヌ川で構成されている。サナガ川は全長890 km の最大河川で、国土中央部のムバカウ湖(フランス語: Lac Mbakaou)を水源として同国の最大都市であるドゥアラ市の南方でギニア湾に注ぐ。ウォリ川は約160 kmで、サナガ川に次ぐ長い河川となっていてビアフラ湾(英語版)に位置するウォリ河口(英語版)へ繋がっており、この川もドゥアラに接している。 ケッペンの気候区分ではほぼ全域が熱帯(A)に属す。北部 (ステップ気候、BS、サバナ気候、Aw)から南部(熱帯雨林気候、Af)に移動するにしたがい、気候が湿潤となる。このような気候分布をアフリカ大陸の縮図ととらえ、「ミニアフリカ」と呼ぶことがある。北部低地の標高は300 - 350 mで、気温は高いが、雨が少ない。 北部の乾季は7月と8月だが、南部はこの時期に雨季となる。アフリカ大陸で7番目に高いギニア湾岸のカメルーン山の南西斜面は多雨で有名であり、年降水量10,680 mmに達する。 気温の年較差は全国で5 - 10°C。首都ヤウンデ(北緯3度50分、標高730 m)の年平均気温は23.2°C。年降水量は1,560 mm。 北部のチャド湖に近いマンダラ山地のルムスィキ(英語版)は高くそびえる奇岩で知られる観光地である。これはマグマが噴出したときに溶岩が火山の中で固まった岩頸と呼ばれるもので、最も高い山峰は1,224 mである。 なお、北西州にあるオク火山(英語版)の火口湖のひとつであるニオス湖では1986年に最大規模の火山ガス災害が起こった。湖底に溶け込んでいた二酸化炭素の噴出により、1,700人以上が死亡した。 カメルーンは10州(現・Région、旧・Province)、58県(フランス語: Départements)に分けられる。ナイジェリアと接する北西州と南西州の2州は、元・イギリスの委任統治領であり、その他の8州はフランス領だった。 カメルーン最大の都市は南部にあるドゥアラであり、人口は約190万人(2005年)を数える。ドゥアラはカメルーン最大の港湾を擁し、鉄道で内陸部と結ばれて商品の集散地ともなっており、カメルーン経済の中心となっている。これに次ぐのが国土中央にある首都のヤウンデであり、人口は約181万人(2005年)である。ヤウンデの産業界はドゥアラほど大きくなく、政府部門が経済の大きな部分を担っている。カメルーンはこの2都市が他に比べて飛び抜けて大きく、他に30万人を超える都市は存在しない。 カメルーンの2013年のGDPは約279億ドルであり、日本の佐賀県とほぼ同じ経済規模である。 独立後四半世紀はカカオ、コーヒー、バナナなどの農産物、次いで1970年代後半に採掘が始まった原油など第一次産品の輸出によって、アフリカ諸国の中でも経済的に成功していた。その後、1980年代後半から石油と農産物の価格が同時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため10年間の長期不況に陥り、一人当たりのGDPが1986年から1994年までに60パーセント以上低下した。しかしながら、電力をほぼ水力発電で賄えるようになったこと、石油増産に成功したこと、農地に適した地勢などの条件が重なり、2000年時点ではサブサハラでは経済的に成功している。 一方で観光産業にも注力しているものの、観光自体は現時点では隅々まで開拓されておらず、世界観光機関(UNWTO)からは正式な「観光地」として認可されていない。 主な輸出用の農産物は北部の綿花、南西部のコーヒーとカカオであり、2015年にはカカオが総輸出の18.9%、綿花が4.1%を占めていた。主食は南部ではプランテンバナナやキャッサバ、北部ではトウモロコシやソルガムなどであり、イモ、特にキャッサバやタロイモ、ヤムイモの収穫量が多い。大部分の農業は簡単な道具による自給自足レベルで、余剰生産物が都市部の重要な食料となっている。農業人口は1990年時点の74パーセントから2000年時点の42パーセントまで減少し、第一次産品の加工を中心とする工業やサービス部門が成長している。 家畜放牧は北部で盛んであり、中でも中北部のアダマワ高原で広く行われている。漁業には5,000人ほどが従事し、年間2万トンの漁獲量がある。国土の37パーセントを占める南部熱帯雨林は木材の供給源だが、大部分の土地は入るのが困難である。木材伐採は外国企業により行われ、政府に毎年6千万ドルの収入をもたらす。また、木材輸出も盛んに行われ、2015年には第3位の輸出品として総輸出の11.2%を占めていた。同国はアフリカ諸国の中で最も伐採率が高く、安全で持続可能な伐採を義務づけているが、林業への規制は最もゆるく、そのほとんどが無認可で 、大半は違法伐材であり問題は根深い。 カメルーン最大の輸出品は原油であり、2015年には総輸出の40.1%を占めた。石油以外の鉱業資源には恵まれておらず、わずかな量の石炭、金、スズが見られるだけである。エネルギーの大部分は水力発電により、残りは石油である。 同国は現在、国土の大部分で電力不足となっており、農村部では電力供給は非常に低く約14%ほどしかない。産業活動はドゥアラに集中している。 カメルーンを含む旧フランス領中央アフリカ諸国で用いられている通貨CFAフランは、フランス・フランとの交換レートが固定されており、安定した経済運営の下地となった。一方、フランの為替レートに引きずられる弊害もあった。経済圏としては、フランス経済ブロックに組み込まれていたと言える。 カメルーンは、西アフリカ諸国経済共同体と南部アフリカ開発共同体に挟まれた位置にあるが、いずれにも加盟していない。2国間経済援助ではフランスの出資が最も多い。一人あたりの援助受け取り額は30米ドル(1998年)であり、アフリカ諸国としては平均的である。 貿易相手国はフランス、ドイツ、日本の順である。対日貿易ではカメルーンの大幅な貿易赤字となっており、カメルーンからの輸出では木材が54%(2016年)、カカオ豆が34%を占め、この2品目で約88%に達する。輸入では化学繊維が4割を占め、次いで機械、医薬品となっている。 同国はトランス・アフリカ・ハイウェイの重要ポイントであり、その領土を横断する3つのルートが存在する。 道路は1割のみが舗装されており、悪天候も重なり、国内輸送を困難にしている。また、各地で警官などによる旅行者への賄賂要求や強盗が発生しており問題とされている。 鉄道は軌間1000mmで、カムレール社によって運営されており、本線はドゥアラ港を起点に西の首都ヤウンデを通り、北部の玄関口であるンガウンデレまでの約950kmを結んでいる。またドゥアラからは、北のクンバへの短い支線が存在する。 国際空港はドゥアラとヤウンデ、ガルアにあり、ドゥアラの規模がもっとも大きい。 最も大きな港はドゥアラ港で、鉄道の通じる内陸部への物資の集散地となっている。このほか、海港としてはリンベやクリビも重要である。旧イギリス領カメルーンの海港であったリンベ港は周囲に油田が存在し、石油産業の重要拠点となっている。ドゥアラから南へ約150 km のクリビ港はかつて木材の輸出港だったが、チャドのドバ油田と結ぶ原油パイプラインを受ける原油積出基地がある。また、ベヌエ川に面する北部のガルア港も重要な河川港であるが、利用は増水期に限られている。 住民は、南部と西部はバントゥー系のファン族、バミレケ族(英語版)、バカ・ピグミー、中部はバントゥー系のウテ族、北部はスーダン系のドゥル族、フラニ族(サヘルに居住)などに分かれる。民族集団は275以上に分かれている。 公用語はフランス語と英語であるが、両言語のバイリンガルの住民はきわめて少ない。最大都市ドゥアラや首都ヤウンデなどがあり、国民の大半が居住する旧フランス領地域で使用されるフランス語を公用語として使用する者が圧倒的に多く、この地域では英語の通用度は低い。一方、英語は旧イギリス領カメルーンの領域であった北西州と南西州のみで使われ、現地ではカムトク(ドイツ語版、英語版)と呼ばれている。この地域はフランス語の通用度が低く、独立運動も起こっている。旧ドイツ植民地であったことからドイツ語の学習者も多く、アフリカで最もドイツ語話者が多い国とされる。 ほかに土着言語としてファン語、フラニ語、イエンバ語、バサ語、カヌリ語、バムン語、ドゥアラ語、アゲム語などが話されている。 カメルーンでは一夫多妻制が認められている。 婚姻時、婚前の姓をそのまま用いることも、夫の姓に変更することも可能である。 カメルーンの宗教は、キリスト教が人口の約40パーセント、イスラム教が約30パーセント、アフリカの伝統宗教(英語版)(アニミズム)が約30%である。4万人のバハイ教徒が国内にいる。そのほか、カメルーンやガボンや赤道ギニア沿岸部のバントゥー系民族グループのいくつかでは、呪物崇拝のen:Okuyiが信仰され、Okuyiの宗教チャントがベンガ語で歌われている。20世紀末、沿岸部のンドウェ人(フランス語版)(en:Kombe people)がンビニ(Mbini、リオ・ムニ)に儀式を広めた。 宗教の儀式のために殺人や体の一部を切除する事件が発生しており、社会問題となっている。 カメルーンの識字率は75.0%(2015年)である。教育制度は小学校6年、中等学校4年、高等学校3年、大学3年であり、義務教育は小学校6年間のみである。教授言語は旧・フランス領地域ではフランス語、旧・英領地域では英語である。 小学校より上の学制は5年制の中等教育下級、2年制の同上級(高等学校)、その上の高等教育課程(大学)の3部に分かれる。 学校暦は9月から翌年6月までを1年と定め、学年末に進級試験を行う。英語圏の学力証明試験として GCE(General Certificate of Education)に普通レベル(Ordinary level)と上級レベル(Advanced level)がある。フランス語圏はバカロレアを発行する。 中等教育課程は旧・宗主国の制度援用によりイギリス式とフランス式の2系統があるが、大まかに中学校(下級)と高等学校(上級)にそれぞれ相当する。小学校を卒業した生徒の多くは家計に私立学校の学費を払う余裕がなく、中等教育課程には手が届かない。 5年制の中等教育を終えた者は GCE 普通レベルを、高等学校2年を修了した者は同上級レベルをそれぞれ受験できる。大学課程へ進むには GCE 上級レベルとバカロレア(フランス式教育を受けた者の高等学校修了証明)の取得が必須である。 高等学校卒業後の進路に、学業を極めるほかにも「職業訓練」として、失業者の就労を支援する労働省管轄の研修制度がある。 学力の評価にはフランス式とイギリス式がある。 同国は風土病による死者が絶えない現状が続いており、黄熱病の流行地帯と化していることが今も問題となっている。病没する人々の一番の死因はマラリアとなっており、次いでHIVならびにAIDSの発症により亡くなっている人が多い。 水系感染症として住血吸虫症やツェツェバエによって流布される眠り病が挙げられており、この病症も深刻なものとなっている。 カメルーンは「歴史上、政治的安定を保っている」とされてきた国であるが、近年では殺人や強盗および窃盗などの凶悪犯罪が日常的に発生しており、旅行などで現地に滞在する際には細心の注意を払う必要がある。 犯罪情勢としては、全国的に殺人、強盗、窃盗、強姦などの凶悪犯罪や電子メールを用いた詐欺事件が日常的に発生している面が窺えるが、沿岸州のドゥアラでは犯罪発生数及び犯罪発生率ともに毎月全国1位であり、殺人、強盗、身代金目的の誘拐などが多発している。更にドゥアラではマフィアの活動が活発化しており、これらマフィアが殺人、強盗、麻薬密売などに深く関わっていることが判明している。 一方、中央州では北部において障害物などを道路に置いて走行中の車両を停車させ、運転手や乗客を銃で脅して金品を強奪する道路封鎖強盗が多発している。また、中央州に位置する首都ヤウンデも地域別犯罪発生率が毎月上位を占めており、殺人、強盗などの凶悪犯罪が多発している現状がある他、2020年6月以降ヤウンデ市内で即席爆弾による小規模爆発事案が散発的に発生している。 傍ら、現地では売春が問題となっている。 加えて、国境地帯においては襲撃事案や誘拐事案などが頻発している他に政府軍との衝突も続くことから、隣国と同国の両政府が海外諸国に対し「渡航しないよう」呼び掛ける事態となっている。 現在、ボコ・ハラムなどの勢力の強いテロ組織や英語圏分離派の過激な活動が続発していることから日本政府外務省は2018年4月に、北西州ならびに南西州の危険情報を引き上げたが、他国は既に「さらに高いレベル」の注意喚起を発している。 カメルーンはアフリカにおいて汚職が蔓延している国家の一つである。2004年にカメルーンの世帯の50%以上が「少なくとも賄賂を支払ったことがあった」という事実を訴えていたことが判明している。 人権侵害が著しい面が目立ち、政府軍が非人道的な姿勢で接しているとして今も非難されている。 2014年に可決されたテロ対策法は、国内の表現の自由と政治における賛否の意見を厳しく制限しているものとして激しく批判されている。 また、同国の兵士が目隠しされた女性と子供を処刑する様子を撮影したとされる録画が2018年に公開されたことから、さらに政府軍への非難が強まっている。2020年、政府軍がヌトゥボ村で民間人を虐殺する事件を起こしたことから、より一層非難を強める事態へと繋がっている。 人権団体は、少数民族や同性愛者、政治活動家そして犯罪容疑者を虐待したり拷問したりしたとして現地警察と同国軍を非難している。 2009年、デモ中に約100人の民間人が殺害されたことからアムネスティは同国の治安部隊による暴力についての懸念を報告している。 カメルーンは難民問題を抱える国の一つとなっている。 主要ラジオ・テレビ局は国営で、電信電話局もほとんど政府の管理下にあるが、最近インターネットが普及し、規制を受けないインターネットサービスプロバイダが増えている。 カメルーンの主食は、米・トウモロコシ・豆・キビなどの穀類を主体としている。また、料理にはココヤム(英語版)などのヤムイモ類やジャガイモ・サツマイモなどの野菜類、キャッサバやプランテンを用いる。 スイーツやデザート料理には、アリーワ(フランス語版)と呼ばれる飴菓子やアバアクル(フランス語版)と呼ばれるピーナッツをベースとした生地を油で揚げたケーキが知られている。 同国がアフリカ大陸において北・西・中央部の交差点に当たることや、ドイツ植民地帝国時代ならびにフランスとイギリスの植民地時代の名残りでヨーロッパ文化の影響が見受けられることから、カメルーン料理は同大陸で最も多様な特徴を持ち合わせた料理の一つとして知られている。 カメルーン出身の著名な文学者として、小説『下僕の生活』(1956年)で知られるフェルディナン・オヨノ (en) や反植民地主義作家として知られるモンゴ・ベティ(英語版、フランス語版)、音楽家でありながら小説『アガト・ムディオの息子』(1967年)を残したフランシス・ベベイ、言語学者でありながら詩人・エッセイスト・寓話作者として活動していたイサーク・モゥメ・エチア(フランス語版)、文学家で「カメルーン詩人作家協会」(APEC)の創設者の一人であるルネ・フィロンベ(フランス語版、ドイツ語版、英語版)、劇作家のエンドゥンベ3世らの名が挙げられる。 アフロビートのマヌ・ディバンゴがカメルーン出身のサックス奏者として著名であり、彼は1973年に「ソウル・マコッサ(英語版)」の世界的ヒットを残した。また、アメリカで活動している女性シンガーソングライター、アンディ・アローもカメルーン出身である。 カメルーン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が2件存在する(うち1件は中央アフリカ共和国、コンゴ共和国と共有)。 サッカーはドイツ保護領時代の1880年代に伝わって以降、カメルーン国内で1番人気のスポーツであり続けている。カメルーンサッカー連盟によって構成されるサッカーカメルーン代表はアフリカ屈指の強豪として知られており、アフリカネイションズカップではエジプト代表に次ぐ通算5回の優勝を飾っている。さらにFIFAワールドカップ出場の常連国としても知られ、1982年大会で初出場して以降、2022年大会まで通算8度の出場を経験している。その中でも、1990年大会では開幕戦で前回優勝国であるアルゼンチン代表を下す大金星を挙げ、最終的にはアフリカ勢初のベスト8まで勝ち進んだ。 同国代表は日本との関係も深く、中津江村(現在は大分県日田市の一部)では2002年日韓W杯の際にキャンプ地にして以降交流が続いている。さらに日本代表とは2010年大会のグループリーグで対戦し、0-1で敗れている。なお、2019年にはアフリカネイションズカップの開催国となる予定であったが、ボコ・ハラム反乱(英語版)およびアンバゾニア紛争(英語版)を理由に開催権を剥奪された。しかし、その代わりに続く2021年大会がカメルーンで開催されている。 バスケットボールカメルーン代表はかつてアフリカ選手権4位となったことがあるものの、近年は長らく低迷が続いていた。しかし2007年に15年ぶりのアフリカ選手権出場を果たすと、準優勝となり2008年北京五輪の世界最終予選まで進出するなどしている。 カメルーンがオリンピックに初出場を果たしたのは1964年東京大会であり、それ以降は夏季オリンピックに出場する選手を毎大会派遣している。冬季オリンピックにはアイザック・メニオリ(フランス語版、英語版)が、2002年ソルトレークシティ大会にスキー選手として初出場を果たしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カメルーン共和国(カメルーンきょうわこく)、通称カメルーンは、アフリカ大陸西部に位置する共和制国家である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "西にナイジェリア、北東にチャド、東に中央アフリカ共和国、南東にコンゴ共和国、南にガボン、南西は赤道ギニアに隣接する。首都はヤウンデ。国土の南西部が大西洋のギニア湾に面している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "カメルーンは中部アフリカに位置している。だが稀に西アフリカの一部に数え上げられる場合がある。現在の同国地域を植民地としていたドイツ帝国が敗れた第一次世界大戦後の1922年、イギリスとフランスの植民地に分かれた経緯がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "独立後は非同盟路線を歩むが、経済・文化・軍事の面でフランスとの関係が深く、フランコフォニー国際機関に加盟している。1995年にはイギリス連邦にも加盟している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "正式名称は英語で、Republic of Cameroon(リパブリック・オブ・キャメルーン)。フランス語で、République du Cameroun(レピュブリク・デュ・カムルン)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語の表記は、カメルーン共和国。通称、カメルーン。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国名は、1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人がエビの多いことから「カマラウン(camarão、ポルトガル語で「小エビ」を意味する)」と名付けたことに由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "カメルーン内の遺跡からは約8000年前の歴史までさかのぼることができる。カメルーンの先住民はバカ・ピグミーである。バントゥー系民族はカメルーン高地に起源を持つが、他民族による侵入が行われる前に別の土地に移動している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1394年から北西部地域にはバムン王国が存在しており、独自の文化体系を固持していた。この国家は20世紀前半のヨーロッパ各国による侵攻まで勢力を維持し続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1470年12月にポルトガル人がカメルーンに到達したが、拠点を築くことはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1806年にイスラム系諸王国の支配下に置かれた。1870年代になると、ヨーロッパ列強に数え上げられるようになったドイツ帝国が、アフリカ分割を背景に沿岸部の都市ドゥアラを中心に入植を開始した。1884年にはドイツ保護領カメルーンが成立した(ドイツ植民地帝国)。1911年、ドイツは第二次モロッコ事件の代償としてフランスから国境付近を中心とした新カメルーンの譲渡を受け、カメルーンの領土は拡大したものの、第一次世界大戦後には新カメルーンは再び隣接するフランスの各植民地の領域へと戻った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦でドイツが敗れたあと、1918年のヴェルサイユ条約の規定により、1922年に北西部がイギリスの「イギリス領カメルーン」(西カメルーンとも。現在の北西州と南西州およびナイジェリア領アダマワ州とタラバ州からなる)、東南部がフランスのフランス領カメルーン(東カメルーン)として委任統治領となる。第二次世界大戦中には、ドゴールの自由フランスの拠点のひとつとなった。第二次世界大戦後、1946年には信託統治領となり、1957年にフランス領カメルーンには自治が認められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アフリカの年と呼ばれる1960年、フランス領カメルーンが独立した。大統領は北部出身のイスラーム教徒アマドゥ・アヒジョである。イギリス領カメルーンは北部と南部で別々に住民投票を実施した結果、1961年には北部がナイジェリアと合併、南部はカメルーンとの連邦制となり、アヒジョが大統領、イギリス領カメルーン首相のジョン・フォンチャが副大統領に就任した。しかし徐々に圧倒的に規模の大きな旧フランス領の勢力が増大していき、フォンチャが副大統領を辞任したのち連邦制の是非を問う国民投票が行われ、この連邦制は1972年に廃止されて、アヒジョ大統領は国号をカメルーン連合共和国に変更した。アヒジョ大統領は1965年・1970年・1975年・1980年の大統領選挙で再選されたが、1982年には南部出身のポール・ビヤを後継に指名して大統領を辞任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アヒジョからビヤへの政権交代そのものは平和的なものであり、またアヒジョも与党党首の座にはとどまるなど一定の権力は保持しつづけたが、やがてビヤが権力基盤を固めるとともに両者の関係は険悪化し、1983年にはアヒジョがクーデターを計画したとしてフランスに追放され、1984年には国外のアヒジョに死刑判決が下される(アヒジョは国外にいたため実行はされていない)など、ビヤは独裁権力を樹立していった。また同年、国号を現在のカメルーン共和国に変更した。その後、ビヤ政権とカメルーン人民民主連合(英語版)(CPDM)の一党支配が嫌われ、1990年には政党の結成を合法化した。民主化後もビヤは選挙に勝利し続け、長期政権を維持しているが選挙自体の公正さに疑問もある。2018年の大統領選挙でもビヤが再選され、通算で7期目に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "カメルーンは国家体制として共和制、大統領制をとる立憲国家である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1996年の憲法改正により、カメルーン大統領はカメルーン政府内で行政執行権を行使できるようになった。大統領は広範囲な権力を与えられており、両院制の議会に諮ることなく行使できる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "議会の定数は180人。年3回開催される議会の目的は法案を通過させることである。実際、議会が法案を変更すること、成立を阻むことはめったにない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "主要政党としては、与党カメルーン人民民主連合(英語版)(CPDM)が常に議会の過半数を占めており、一党優位政党制となっている。このほか、カメルーン民主連合(英語版)、社会民主戦線(英語版)、民主化と進歩のための全国連合(英語版)、進歩運動(英語版)など。ほかに民主主義開発同盟(英語版)、カメルーン人民連合(英語版)、カメルーン民主党(英語版)がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "司法部は行政部門である法務省の下に置かれている。最高裁判所は、大統領が要求した場合に限り、違憲立法審査に着手できる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "カメルーンの憲法は1972年に制定された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1998年、最西端に位置するバカシ半島の帰属をめぐって、隣国のナイジェリアとの間でバカシ半島領有権問題が発生した。現在、この地域では2つの反政府武装組織ニジェールデルタ防衛治安評議会(ニジェール・デルタ解放運動)とバカシ自由闘士(en:Bakassi Movement for Self-Determination)が広範な自治を求めて活動している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "南カメルーン国民会議(英語版)(SCNC)は1999年に、元イギリス委任統治領だった、英語話者が多い北西州と南西州の2州で南カメルーン連邦共和国(アンバゾニア共和国)の名のもと分離独立を求めている。南カメルーンの分離独立運動の背景には、1982年のビヤ大統領就任以来、フランス語話者が中央政府の要職を占め、フランス語圏がインフラ整備で優遇され経済格差が開いていることへの不満がある。2016年には、フランス語圏出身裁判官が任命されたことへの抗議デモが発生。2017年10月1日にもアンバゾニアの国名で独立派が独立宣言し、治安部隊と衝突した。分離独立派の武装勢力は農村部で支配地域を広げ、アンバゾニアの「首都」とみなす南西州都ブエアに迫り、都市部に駐屯する政府軍も分離独立派とみなした住民を拘束するなどしている。2016年以降に60万人以上が国内避難民となったが、国際社会の関心は薄いことにノルウェーの人権団体が警鐘を鳴らしている。「#言語」節も参照。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同国の軍隊は、陸軍と海軍と空軍の3軍に編成されている。準軍事組織として憲兵隊(フランス語版)が存在している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また特殊部隊として迅速介入大隊(フランス語版、ドイツ語版)ならびに迅速介入旅団(フランス語版)が結成されており、この部隊は陸軍が管轄している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "5つの地理区分に分けられる。海岸平野はギニア湾から15 km - 150 km まで広がり、森林で覆われ、平均標高は90 m。非常に暑く、世界で最も湿度が高いところがある。南部カメルーン高地は熱帯降雨林で覆われるが、乾季と雨季が海岸平野より区別されるため湿度はやや低い。平均標高は650 m。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "4つの保護指定区が設けられており、エリアは国立公園をはじめ、野生生物保護区・動物保護区・植物保護区として構成される。さらに同国の一部と近隣諸国において越境保護地域(英語版)(TBPA)が存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、同国は世界有数の火山国として知られており、カメルーン火山列はその所以ともなっている。この火山列は隣国のナイジェリア東部と同国西部との間に存在し、最高峰のカメルーン山(4,095 m)のある海岸から北部で国を東西に横断する形で連なる。加えて、カメルーン山はアフリカ大陸において最も大きい火山の一つとなっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "気候は、特に西部高地(英語版)(フランス語: Grassland)は温暖で雨が多く、土地は肥沃である。その中でも広大な地域に当たるカメルーン草原(ドイツ語版)は同国を代表する草原で、19世紀末の植民地時代から国際的に知られている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "サバナ地帯である中部のアダマワ高地を境に、ステップが広がる北部と熱帯林に覆われた南部とに分かれる。平均標高は1,100 m、気温は22 - 25°Cで雨が多い。アダマワ高地は分水嶺でもあり、主要河川は北部のベヌエ川、北東部のウォリ川(英語版、フランス語版、ドイツ語版)、南部のサナガ川、そして隣国チャドの河川の一部を成すロゴーヌ川で構成されている。サナガ川は全長890 km の最大河川で、国土中央部のムバカウ湖(フランス語: Lac Mbakaou)を水源として同国の最大都市であるドゥアラ市の南方でギニア湾に注ぐ。ウォリ川は約160 kmで、サナガ川に次ぐ長い河川となっていてビアフラ湾(英語版)に位置するウォリ河口(英語版)へ繋がっており、この川もドゥアラに接している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分ではほぼ全域が熱帯(A)に属す。北部 (ステップ気候、BS、サバナ気候、Aw)から南部(熱帯雨林気候、Af)に移動するにしたがい、気候が湿潤となる。このような気候分布をアフリカ大陸の縮図ととらえ、「ミニアフリカ」と呼ぶことがある。北部低地の標高は300 - 350 mで、気温は高いが、雨が少ない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "北部の乾季は7月と8月だが、南部はこの時期に雨季となる。アフリカ大陸で7番目に高いギニア湾岸のカメルーン山の南西斜面は多雨で有名であり、年降水量10,680 mmに達する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "気温の年較差は全国で5 - 10°C。首都ヤウンデ(北緯3度50分、標高730 m)の年平均気温は23.2°C。年降水量は1,560 mm。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "北部のチャド湖に近いマンダラ山地のルムスィキ(英語版)は高くそびえる奇岩で知られる観光地である。これはマグマが噴出したときに溶岩が火山の中で固まった岩頸と呼ばれるもので、最も高い山峰は1,224 mである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、北西州にあるオク火山(英語版)の火口湖のひとつであるニオス湖では1986年に最大規模の火山ガス災害が起こった。湖底に溶け込んでいた二酸化炭素の噴出により、1,700人以上が死亡した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "カメルーンは10州(現・Région、旧・Province)、58県(フランス語: Départements)に分けられる。ナイジェリアと接する北西州と南西州の2州は、元・イギリスの委任統治領であり、その他の8州はフランス領だった。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "カメルーン最大の都市は南部にあるドゥアラであり、人口は約190万人(2005年)を数える。ドゥアラはカメルーン最大の港湾を擁し、鉄道で内陸部と結ばれて商品の集散地ともなっており、カメルーン経済の中心となっている。これに次ぐのが国土中央にある首都のヤウンデであり、人口は約181万人(2005年)である。ヤウンデの産業界はドゥアラほど大きくなく、政府部門が経済の大きな部分を担っている。カメルーンはこの2都市が他に比べて飛び抜けて大きく、他に30万人を超える都市は存在しない。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "カメルーンの2013年のGDPは約279億ドルであり、日本の佐賀県とほぼ同じ経済規模である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "独立後四半世紀はカカオ、コーヒー、バナナなどの農産物、次いで1970年代後半に採掘が始まった原油など第一次産品の輸出によって、アフリカ諸国の中でも経済的に成功していた。その後、1980年代後半から石油と農産物の価格が同時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため10年間の長期不況に陥り、一人当たりのGDPが1986年から1994年までに60パーセント以上低下した。しかしながら、電力をほぼ水力発電で賄えるようになったこと、石油増産に成功したこと、農地に適した地勢などの条件が重なり、2000年時点ではサブサハラでは経済的に成功している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "一方で観光産業にも注力しているものの、観光自体は現時点では隅々まで開拓されておらず、世界観光機関(UNWTO)からは正式な「観光地」として認可されていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "主な輸出用の農産物は北部の綿花、南西部のコーヒーとカカオであり、2015年にはカカオが総輸出の18.9%、綿花が4.1%を占めていた。主食は南部ではプランテンバナナやキャッサバ、北部ではトウモロコシやソルガムなどであり、イモ、特にキャッサバやタロイモ、ヤムイモの収穫量が多い。大部分の農業は簡単な道具による自給自足レベルで、余剰生産物が都市部の重要な食料となっている。農業人口は1990年時点の74パーセントから2000年時点の42パーセントまで減少し、第一次産品の加工を中心とする工業やサービス部門が成長している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "家畜放牧は北部で盛んであり、中でも中北部のアダマワ高原で広く行われている。漁業には5,000人ほどが従事し、年間2万トンの漁獲量がある。国土の37パーセントを占める南部熱帯雨林は木材の供給源だが、大部分の土地は入るのが困難である。木材伐採は外国企業により行われ、政府に毎年6千万ドルの収入をもたらす。また、木材輸出も盛んに行われ、2015年には第3位の輸出品として総輸出の11.2%を占めていた。同国はアフリカ諸国の中で最も伐採率が高く、安全で持続可能な伐採を義務づけているが、林業への規制は最もゆるく、そのほとんどが無認可で 、大半は違法伐材であり問題は根深い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "カメルーン最大の輸出品は原油であり、2015年には総輸出の40.1%を占めた。石油以外の鉱業資源には恵まれておらず、わずかな量の石炭、金、スズが見られるだけである。エネルギーの大部分は水力発電により、残りは石油である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "同国は現在、国土の大部分で電力不足となっており、農村部では電力供給は非常に低く約14%ほどしかない。産業活動はドゥアラに集中している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "カメルーンを含む旧フランス領中央アフリカ諸国で用いられている通貨CFAフランは、フランス・フランとの交換レートが固定されており、安定した経済運営の下地となった。一方、フランの為替レートに引きずられる弊害もあった。経済圏としては、フランス経済ブロックに組み込まれていたと言える。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "カメルーンは、西アフリカ諸国経済共同体と南部アフリカ開発共同体に挟まれた位置にあるが、いずれにも加盟していない。2国間経済援助ではフランスの出資が最も多い。一人あたりの援助受け取り額は30米ドル(1998年)であり、アフリカ諸国としては平均的である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "貿易相手国はフランス、ドイツ、日本の順である。対日貿易ではカメルーンの大幅な貿易赤字となっており、カメルーンからの輸出では木材が54%(2016年)、カカオ豆が34%を占め、この2品目で約88%に達する。輸入では化学繊維が4割を占め、次いで機械、医薬品となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "同国はトランス・アフリカ・ハイウェイの重要ポイントであり、その領土を横断する3つのルートが存在する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "道路は1割のみが舗装されており、悪天候も重なり、国内輸送を困難にしている。また、各地で警官などによる旅行者への賄賂要求や強盗が発生しており問題とされている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "鉄道は軌間1000mmで、カムレール社によって運営されており、本線はドゥアラ港を起点に西の首都ヤウンデを通り、北部の玄関口であるンガウンデレまでの約950kmを結んでいる。またドゥアラからは、北のクンバへの短い支線が存在する。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国際空港はドゥアラとヤウンデ、ガルアにあり、ドゥアラの規模がもっとも大きい。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "最も大きな港はドゥアラ港で、鉄道の通じる内陸部への物資の集散地となっている。このほか、海港としてはリンベやクリビも重要である。旧イギリス領カメルーンの海港であったリンベ港は周囲に油田が存在し、石油産業の重要拠点となっている。ドゥアラから南へ約150 km のクリビ港はかつて木材の輸出港だったが、チャドのドバ油田と結ぶ原油パイプラインを受ける原油積出基地がある。また、ベヌエ川に面する北部のガルア港も重要な河川港であるが、利用は増水期に限られている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "住民は、南部と西部はバントゥー系のファン族、バミレケ族(英語版)、バカ・ピグミー、中部はバントゥー系のウテ族、北部はスーダン系のドゥル族、フラニ族(サヘルに居住)などに分かれる。民族集団は275以上に分かれている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "公用語はフランス語と英語であるが、両言語のバイリンガルの住民はきわめて少ない。最大都市ドゥアラや首都ヤウンデなどがあり、国民の大半が居住する旧フランス領地域で使用されるフランス語を公用語として使用する者が圧倒的に多く、この地域では英語の通用度は低い。一方、英語は旧イギリス領カメルーンの領域であった北西州と南西州のみで使われ、現地ではカムトク(ドイツ語版、英語版)と呼ばれている。この地域はフランス語の通用度が低く、独立運動も起こっている。旧ドイツ植民地であったことからドイツ語の学習者も多く、アフリカで最もドイツ語話者が多い国とされる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ほかに土着言語としてファン語、フラニ語、イエンバ語、バサ語、カヌリ語、バムン語、ドゥアラ語、アゲム語などが話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "カメルーンでは一夫多妻制が認められている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "婚姻時、婚前の姓をそのまま用いることも、夫の姓に変更することも可能である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "カメルーンの宗教は、キリスト教が人口の約40パーセント、イスラム教が約30パーセント、アフリカの伝統宗教(英語版)(アニミズム)が約30%である。4万人のバハイ教徒が国内にいる。そのほか、カメルーンやガボンや赤道ギニア沿岸部のバントゥー系民族グループのいくつかでは、呪物崇拝のen:Okuyiが信仰され、Okuyiの宗教チャントがベンガ語で歌われている。20世紀末、沿岸部のンドウェ人(フランス語版)(en:Kombe people)がンビニ(Mbini、リオ・ムニ)に儀式を広めた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "宗教の儀式のために殺人や体の一部を切除する事件が発生しており、社会問題となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "カメルーンの識字率は75.0%(2015年)である。教育制度は小学校6年、中等学校4年、高等学校3年、大学3年であり、義務教育は小学校6年間のみである。教授言語は旧・フランス領地域ではフランス語、旧・英領地域では英語である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "小学校より上の学制は5年制の中等教育下級、2年制の同上級(高等学校)、その上の高等教育課程(大学)の3部に分かれる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "学校暦は9月から翌年6月までを1年と定め、学年末に進級試験を行う。英語圏の学力証明試験として GCE(General Certificate of Education)に普通レベル(Ordinary level)と上級レベル(Advanced level)がある。フランス語圏はバカロレアを発行する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "中等教育課程は旧・宗主国の制度援用によりイギリス式とフランス式の2系統があるが、大まかに中学校(下級)と高等学校(上級)にそれぞれ相当する。小学校を卒業した生徒の多くは家計に私立学校の学費を払う余裕がなく、中等教育課程には手が届かない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "5年制の中等教育を終えた者は GCE 普通レベルを、高等学校2年を修了した者は同上級レベルをそれぞれ受験できる。大学課程へ進むには GCE 上級レベルとバカロレア(フランス式教育を受けた者の高等学校修了証明)の取得が必須である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "高等学校卒業後の進路に、学業を極めるほかにも「職業訓練」として、失業者の就労を支援する労働省管轄の研修制度がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "学力の評価にはフランス式とイギリス式がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "同国は風土病による死者が絶えない現状が続いており、黄熱病の流行地帯と化していることが今も問題となっている。病没する人々の一番の死因はマラリアとなっており、次いでHIVならびにAIDSの発症により亡くなっている人が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "水系感染症として住血吸虫症やツェツェバエによって流布される眠り病が挙げられており、この病症も深刻なものとなっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "カメルーンは「歴史上、政治的安定を保っている」とされてきた国であるが、近年では殺人や強盗および窃盗などの凶悪犯罪が日常的に発生しており、旅行などで現地に滞在する際には細心の注意を払う必要がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "犯罪情勢としては、全国的に殺人、強盗、窃盗、強姦などの凶悪犯罪や電子メールを用いた詐欺事件が日常的に発生している面が窺えるが、沿岸州のドゥアラでは犯罪発生数及び犯罪発生率ともに毎月全国1位であり、殺人、強盗、身代金目的の誘拐などが多発している。更にドゥアラではマフィアの活動が活発化しており、これらマフィアが殺人、強盗、麻薬密売などに深く関わっていることが判明している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "一方、中央州では北部において障害物などを道路に置いて走行中の車両を停車させ、運転手や乗客を銃で脅して金品を強奪する道路封鎖強盗が多発している。また、中央州に位置する首都ヤウンデも地域別犯罪発生率が毎月上位を占めており、殺人、強盗などの凶悪犯罪が多発している現状がある他、2020年6月以降ヤウンデ市内で即席爆弾による小規模爆発事案が散発的に発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "傍ら、現地では売春が問題となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "加えて、国境地帯においては襲撃事案や誘拐事案などが頻発している他に政府軍との衝突も続くことから、隣国と同国の両政府が海外諸国に対し「渡航しないよう」呼び掛ける事態となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "現在、ボコ・ハラムなどの勢力の強いテロ組織や英語圏分離派の過激な活動が続発していることから日本政府外務省は2018年4月に、北西州ならびに南西州の危険情報を引き上げたが、他国は既に「さらに高いレベル」の注意喚起を発している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "カメルーンはアフリカにおいて汚職が蔓延している国家の一つである。2004年にカメルーンの世帯の50%以上が「少なくとも賄賂を支払ったことがあった」という事実を訴えていたことが判明している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "人権侵害が著しい面が目立ち、政府軍が非人道的な姿勢で接しているとして今も非難されている。 2014年に可決されたテロ対策法は、国内の表現の自由と政治における賛否の意見を厳しく制限しているものとして激しく批判されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "また、同国の兵士が目隠しされた女性と子供を処刑する様子を撮影したとされる録画が2018年に公開されたことから、さらに政府軍への非難が強まっている。2020年、政府軍がヌトゥボ村で民間人を虐殺する事件を起こしたことから、より一層非難を強める事態へと繋がっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "人権団体は、少数民族や同性愛者、政治活動家そして犯罪容疑者を虐待したり拷問したりしたとして現地警察と同国軍を非難している。 2009年、デモ中に約100人の民間人が殺害されたことからアムネスティは同国の治安部隊による暴力についての懸念を報告している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "カメルーンは難民問題を抱える国の一つとなっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "主要ラジオ・テレビ局は国営で、電信電話局もほとんど政府の管理下にあるが、最近インターネットが普及し、規制を受けないインターネットサービスプロバイダが増えている。", "title": "マスコミ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "カメルーンの主食は、米・トウモロコシ・豆・キビなどの穀類を主体としている。また、料理にはココヤム(英語版)などのヤムイモ類やジャガイモ・サツマイモなどの野菜類、キャッサバやプランテンを用いる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "スイーツやデザート料理には、アリーワ(フランス語版)と呼ばれる飴菓子やアバアクル(フランス語版)と呼ばれるピーナッツをベースとした生地を油で揚げたケーキが知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "同国がアフリカ大陸において北・西・中央部の交差点に当たることや、ドイツ植民地帝国時代ならびにフランスとイギリスの植民地時代の名残りでヨーロッパ文化の影響が見受けられることから、カメルーン料理は同大陸で最も多様な特徴を持ち合わせた料理の一つとして知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "カメルーン出身の著名な文学者として、小説『下僕の生活』(1956年)で知られるフェルディナン・オヨノ (en) や反植民地主義作家として知られるモンゴ・ベティ(英語版、フランス語版)、音楽家でありながら小説『アガト・ムディオの息子』(1967年)を残したフランシス・ベベイ、言語学者でありながら詩人・エッセイスト・寓話作者として活動していたイサーク・モゥメ・エチア(フランス語版)、文学家で「カメルーン詩人作家協会」(APEC)の創設者の一人であるルネ・フィロンベ(フランス語版、ドイツ語版、英語版)、劇作家のエンドゥンベ3世らの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "アフロビートのマヌ・ディバンゴがカメルーン出身のサックス奏者として著名であり、彼は1973年に「ソウル・マコッサ(英語版)」の世界的ヒットを残した。また、アメリカで活動している女性シンガーソングライター、アンディ・アローもカメルーン出身である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "カメルーン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された自然遺産が2件存在する(うち1件は中央アフリカ共和国、コンゴ共和国と共有)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "サッカーはドイツ保護領時代の1880年代に伝わって以降、カメルーン国内で1番人気のスポーツであり続けている。カメルーンサッカー連盟によって構成されるサッカーカメルーン代表はアフリカ屈指の強豪として知られており、アフリカネイションズカップではエジプト代表に次ぐ通算5回の優勝を飾っている。さらにFIFAワールドカップ出場の常連国としても知られ、1982年大会で初出場して以降、2022年大会まで通算8度の出場を経験している。その中でも、1990年大会では開幕戦で前回優勝国であるアルゼンチン代表を下す大金星を挙げ、最終的にはアフリカ勢初のベスト8まで勝ち進んだ。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "同国代表は日本との関係も深く、中津江村(現在は大分県日田市の一部)では2002年日韓W杯の際にキャンプ地にして以降交流が続いている。さらに日本代表とは2010年大会のグループリーグで対戦し、0-1で敗れている。なお、2019年にはアフリカネイションズカップの開催国となる予定であったが、ボコ・ハラム反乱(英語版)およびアンバゾニア紛争(英語版)を理由に開催権を剥奪された。しかし、その代わりに続く2021年大会がカメルーンで開催されている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "バスケットボールカメルーン代表はかつてアフリカ選手権4位となったことがあるものの、近年は長らく低迷が続いていた。しかし2007年に15年ぶりのアフリカ選手権出場を果たすと、準優勝となり2008年北京五輪の世界最終予選まで進出するなどしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "カメルーンがオリンピックに初出場を果たしたのは1964年東京大会であり、それ以降は夏季オリンピックに出場する選手を毎大会派遣している。冬季オリンピックにはアイザック・メニオリ(フランス語版、英語版)が、2002年ソルトレークシティ大会にスキー選手として初出場を果たしている。", "title": "スポーツ" } ]
カメルーン共和国(カメルーンきょうわこく)、通称カメルーンは、アフリカ大陸西部に位置する共和制国家である。 西にナイジェリア、北東にチャド、東に中央アフリカ共和国、南東にコンゴ共和国、南にガボン、南西は赤道ギニアに隣接する。首都はヤウンデ。国土の南西部が大西洋のギニア湾に面している。
{{Otheruses|アフリカの国||カメルーン (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 国 | 略名 = カメルーン | 日本語国名 = カメルーン共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|fr|République du Cameroun}}'''<small>(フランス語)</small><br />'''{{Lang|en|Republic of Cameroon}}'''<small>(英語) </small><br />'''{{Lang|de|Republik Kamerun}}'''<small>(ドイツ語)</small> | 国旗画像 = Flag of Cameroon.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Cameroon.svg|100px|カメルーンの国章]] | 国章リンク =([[カメルーンの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|fr|Paix, Travail, Patrie}}''<br />([[フランス語]]: 平和、労働、祖国) | 位置画像 = Cameroon (orthographic projection).svg | 公用語 = [[フランス語]]、[[英語]] | 首都 = [[ヤウンデ]]<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cameroon/data.html#section1 カメルーン共和国(Republic of Cameroon)基礎データ] 日本国外務省ホームページ(2022年12月18日閲覧)</ref> | 最大都市 = [[ドゥアラ]] | 元首等肩書 = [[カメルーンの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ポール・ビヤ]] | 首相等肩書 = [[カメルーンの首相|首相]] | 首相等氏名 = {{仮リンク|ジョセフ・ディオン・ングテ|en|Joseph Ngute}} | 他元首等肩書1 = [[w:Senate (Cameroon)|元老院議長]] | 他元首等氏名1 = {{仮リンク|マルセル・ナイアット・ニフェンジ|en|Marcel Niat Njifenji}} | 他元首等肩書2 = [[w:National Assembly (Cameroon)|国民議会議長]] | 他元首等氏名2 = {{仮リンク|カヴァイェ・イェギエ・ジブリル|en|Cavayé Yéguié Djibril}} | 面積順位 = 52 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 475,440<ref name="日本国外務省"/> | 水面積率 = 1.3% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 52 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 2654万6000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/cm.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 56.2<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 10兆4100億<ref name="economy">{{cite web|title=IMF Data and Statistics|accessdate= 2021年10月18日|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=622,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|at=WEO data}}</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 90 | GDP値MER = 390億900万<ref name="economy"/> | GDP MER/人 = 1507.514<ref name="economy"/> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 94 | GDP値 = 982億2700万<ref name="economy"/> | GDP/人 = 3795.998<ref name="economy"/> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[フランス]]から<br />[[1960年]][[1月1日]](西南部はイギリスから[[1961年]]) | 通貨 = [[CFAフラン]] | 通貨コード = XAF | 時間帯 = (+1) | 夏時間 = なし | 国歌名 = カメルーンの国歌|Chant de Ralliement | ISO 3166-1 = CM / CMR | ccTLD = [[.cm]] | 国際電話番号 = 237 | 注記 = |国歌=[[カメルーンの国歌|{{lang|fr|Chant de Ralliement}}]]{{fr icon}}<br>カメルーンの国歌<br><center> }} '''カメルーン共和国'''(カメルーンきょうわこく)、通称'''カメルーン'''は、[[アフリカ大陸]]西部に位置する[[共和制]][[国家|国家である]]。 西に[[ナイジェリア]]、北東に[[チャド]]、東に[[中央アフリカ共和国]]、南東に[[コンゴ共和国]]、南に[[ガボン]]、南西は[[赤道ギニア]]に隣接する。[[首都]]は[[ヤウンデ]]。国土の南西部が[[大西洋]]の[[ギニア湾]]に面している。 == 概要 == カメルーンは'''[[中部アフリカ]]'''に位置している。だが稀に'''[[西アフリカ]]'''の一部に数え上げられる場合がある。現在の同国地域を[[植民地]]としていた[[ドイツ帝国]]が敗れた[[第一次世界大戦]]後の[[1922年]]、[[イギリス]]と[[フランス]]の植民地に分かれた経緯がある<ref name="読売20201130">カメルーン紛争長期化/人権団体「無視された危機」60万人国内避難『[[読売新聞]]』[[朝刊]]、[[2020年]]11月30日(国際面)</ref>。 [[国家の独立|独立]]後は[[非同盟]]路線を歩むが、経済・文化・軍事の面でフランスとの関係が深く、'''[[フランコフォニー国際機関]]'''に加盟している。[[1995年]]には'''[[イギリス連邦]]'''にも加盟している。 == 国名 == 正式名称は英語で、''Republic of Cameroon''(リパブリック・オブ・キャメルーン)。フランス語で、''République du Cameroun''(レピュブリク・デュ・カムルン)。 [[日本語]]の表記は、'''カメルーン共和国'''。通称、'''カメルーン'''。 国名は、[[1470年]]にカメルーンを最初に訪れた[[ポルトガル人]]が[[エビ]]の多いことから「'''カマラウン'''(camarão、[[ポルトガル語]]で「小エビ」を[[意味]]する)」と名付けたことに由来する<ref group="注釈">なお、このエビは'''{{仮リンク|カメルーンユウレイエビ|en|Cameroon ghost shrimp|de|Lepidophthalmus turneranus}}'''と呼ばれる[[甲殻類]]の一種であり、当該生物は同国の主要[[河川]]のひとつである{{仮リンク|ウォリ川|en|Wouri river|fr|Wouri|de|Wouri (Fluss)}}にて発見された</ref>。 * カメルーン共和国時代([[1960年]] - [[1961年]]) * カメルーン連邦共和国時代([[1961年]] - [[1972年]]) * カメルーン連合共和国([[1972年]] - [[1984年]]) * カメルーン共和国([[1984年]] - ) == 歴史 == [[ファイル:Karte von Camerun.jpg|thumb|right|歴史的なカメルーンの地図(1888年ごろに作成されたもの)]] === 独立前 === {{Main|カメルーンの歴史}} カメルーン内の遺跡からは約8000年前の歴史までさかのぼることができる。カメルーンの[[先住民]]は[[バカ・ピグミー]]である。[[バントゥー系民族]]はカメルーン高地に起源を持つが、他民族による侵入が行われる前に別の土地に移動している。 [[ファイル:Cameroon boundary changes.PNG|thumb|left|カメルーンの領域の推移([[1901年]]-[[1973年]]) {{legend|#ff8040|[[ドイツ保護領カメルーン]]}} {{legend|#ff0000|[[イギリス領カメルーン]]}} {{legend|#0000ff|フランス領カメルーン}} {{legend|#008000|独立後のカメルーン}}]] [[1394年]]から北西部地域には[[バムン王国]]が存在しており、独自の文化体系を固持していた。この国家は20世紀前半のヨーロッパ各国による侵攻まで勢力を維持し続けた。 [[1470年]][[12月]]に[[ポルトガル人]]がカメルーンに到達したが、拠点を築くことはなかった。 [[1806年]]にイスラム系諸王国の支配下に置かれた。[[1870年代]]になると、ヨーロッパ列強に数え上げられるようになった[[ドイツ帝国]]が、[[アフリカ分割]]を背景に沿岸部の都市[[ドゥアラ]]を中心に入植を開始した。[[1884年]]には[[ドイツ保護領カメルーン]]が成立した([[ドイツ植民地帝国]])。[[1911年]]、ドイツは[[第二次モロッコ事件]]の代償としてフランスから国境付近を中心とした[[新カメルーン]]の譲渡を受け、カメルーンの領土は拡大したものの、第一次世界大戦後には新カメルーンは再び隣接するフランスの各植民地の領域へと戻った。 [[第一次世界大戦]]でドイツが敗れたあと、1918年の[[ヴェルサイユ条約]]の規定により、[[1922年]]に北西部が[[イギリス]]の「[[イギリス領カメルーン]]」([[南カメルーン連邦共和国|西カメルーン]]とも。現在の[[北西州 (カメルーン)|北西州]]と[[南西州]]およびナイジェリア領[[アダマワ州 (ナイジェリア)|アダマワ州]]と[[タラバ州]]からなる)、東南部が[[フランス]]の{{仮リンク|フランス領カメルーン|en|French Cameroons}}(東カメルーン)として[[委任統治領]]となる。[[第二次世界大戦]]中には、[[シャルル・ド・ゴール|ドゴール]]の[[自由フランス]]の拠点のひとつとなった。第二次世界大戦後、[[1946年]]には[[信託統治領]]となり、[[1957年]]にフランス領カメルーンには自治が認められた。 === 独立後 === [[アフリカの年]]と呼ばれる[[1960年]]、フランス領カメルーンが独立した。大統領は北部出身のイスラーム教徒[[アマドゥ・アヒジョ]]である。イギリス領カメルーンは北部と南部で別々に住民投票を実施した結果、[[1961年]]には北部が[[ナイジェリア]]と合併、南部はカメルーンとの[[連邦制]]となり、アヒジョが大統領、イギリス領カメルーン首相のジョン・フォンチャが副大統領に就任した。しかし徐々に圧倒的に規模の大きな旧フランス領の勢力が増大していき、フォンチャが副大統領を辞任したのち連邦制の是非を問う国民投票が行われ、この連邦制は[[1972年]]に廃止されて、アヒジョ大統領は国号をカメルーン連合共和国に変更した{{sfn|『世界地理大百科事典2 アフリカ』|1998|page=126}}。アヒジョ大統領は[[1965年]]・[[1970年]]・[[1975年]]・[[1980年]]の大統領選挙で再選されたが、[[1982年]]には南部出身の[[ポール・ビヤ]]を後継に指名して大統領を辞任した。 アヒジョからビヤへの政権交代そのものは平和的なものであり、またアヒジョも与党党首の座にはとどまるなど一定の権力は保持しつづけたが、やがてビヤが権力基盤を固めるとともに両者の関係は険悪化し、[[1983年]]にはアヒジョがクーデターを計画したとしてフランスに追放され、[[1984年]]には国外のアヒジョに死刑判決が下される(アヒジョは国外にいたため実行はされていない)など、ビヤは独裁権力を樹立していった{{sfn|『世界地理大百科事典2 アフリカ』|1998|page=126}}。また同年、国号を現在の'''カメルーン共和国'''に変更した。その後、ビヤ政権と{{仮リンク|カメルーン人民民主連合|en|Cameroon People's Democratic Movement}}(CPDM)の一党支配が嫌われ、[[1990年]]には[[政党]]の結成を合法化した{{sfn|『世界地理大百科事典2 アフリカ』|1998|page=126}}。民主化後もビヤは選挙に勝利し続け、長期政権を維持しているが選挙自体の公正さに疑問もある。2018年の大統領選挙でもビヤが再選され、通算で7期目に入った<ref>{{cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3194318?cx_part=search |title=カメルーン大統領選、85歳ビヤ氏が7期目の再選|agency=[[フランス通信社]](AFP)|date=2018年10月23日|accessdate=2019年12月22日}}</ref>。 {{Clearleft}} == 政治 == [[ファイル:Paul Biya 2014.png|thumb|right|1982年から長期政権を保持している[[ポール・ビヤ|ビヤ]]大統領]] [[ファイル:YaoundeUnityPalace.png|thumb|大統領府]] {{main|{{仮リンク|カメルーンの政治|fr|Politique au Cameroun|en|Politics of Cameroon}}}} カメルーンは[[国家体制]]として[[共和制]]、[[大統領制]]をとる立憲国家である。 {{See also|{{仮リンク|カメルーン政府|en|Government of Cameroon}}}} === 行政 === {{Main|カメルーンの大統領}} [[1996年]]の憲法改正により、カメルーン大統領はカメルーン政府内で行政執行権を行使できるようになった。大統領は広範囲な権力を与えられており、[[両院制]]の[[議会]]に諮ることなく行使できる。 === 立法 === {{Main|カメルーンの議会}} 議会の定数は180人。年3回開催される議会の目的は法案を通過させることである。実際、議会が法案を変更すること、成立を阻むことはめったにない。 {{節スタブ}} === 政党 === {{see|カメルーンの政党}} 主要政党としては、与党{{仮リンク|カメルーン人民民主連合|en|Cameroon People's Democratic Movement}}(CPDM)が常に議会の過半数を占めており、[[一党優位政党制]]となっている。このほか、{{仮リンク|カメルーン民主連合|en|Cameroon Democratic Union|label=カメルーン民主連合}}、{{仮リンク|社会民主戦線 (カメルーン)|en|Social Democratic Front (Cameroon)|label=社会民主戦線}}、{{仮リンク|民主化と進歩のための全国連合|en|National Union for Democracy and Progress (Cameroon)}}、{{仮リンク|進歩運動|en|Progressive Movement (Cameroon)}}など。ほかに{{仮リンク|民主主義開発同盟|en|Alliance for Democracy and Development (Cameroon)}}、{{仮リンク|カメルーン人民連合|en|Union of the Peoples of Cameroon}}、{{仮リンク|カメルーン民主党|en|Cameroonian Party of Democrats}}がある。 === 司法 === [[司法]]部は[[行政]]部門である[[法務省]]の下に置かれている。[[最高裁判所]]は、大統領が要求した場合に限り、[[違憲審査制|違憲立法審査]]に着手できる。 {{See also|{{仮リンク|カメルーン最高裁判所|fr|Cour suprême (Cameroun)|en|Supreme Court of Cameroon}}}} {{節スタブ}} ==== 法律 ==== {{Main|{{仮リンク|カメルーンの法律|fr|Droit camerounais}}}} {{節スタブ}} === 憲法 === カメルーンの憲法は[[1972年]]に制定された。 {{See also|{{仮リンク|カメルーン憲法|fr|Constitution du Cameroun|en|Constitution of Cameroon}}}} === 国内における政情 === 1998年、最西端に位置するバカシ半島の帰属をめぐって、隣国のナイジェリアとの間で[[バカシ半島領有権問題]]が発生した。現在、この地域では2つの反政府武装組織'''ニジェールデルタ防衛治安評議会'''([[ニジェール・デルタ解放運動]])と'''バカシ自由闘士'''([[:en:Bakassi Movement for Self-Determination]])が広範な自治を求めて活動している。 {{仮リンク|南カメルーン国民会議|en|Southern Cameroons National Council}}(SCNC)は1999年に、元イギリス委任統治領だった、英語話者が多い[[北西州 (カメルーン)|北西州]]と[[南西州]]の2州で'''[[南カメルーン連邦共和国]]'''('''アンバゾニア共和国''')の名のもと分離独立を求めている。南カメルーンの分離独立運動の背景には、1982年のビヤ大統領就任以来、フランス語話者が中央政府の要職を占め、フランス語圏がインフラ整備で優遇され<ref name="読売20201130"/>経済格差が開いていることへの不満がある<ref>[http://www.southerncameroons.info/ 南カメルーン政府のサイト]</ref>。2016年には、フランス語圏出身裁判官が任命されたことへの抗議デモが発生<ref name="読売20201130"/>。2017年10月1日にもアンバゾニアの国名で独立派が独立宣言し、治安部隊と衝突した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3145161|title=カメルーン英語圏が「独立宣言」 治安部隊との衝突で7人死亡|work=AFPBB News|publisher=[[フランス通信社]]|date=2017-10-02|accessdate=2017-10-03}}</ref>。分離独立派の武装勢力は農村部で支配地域を広げ、アンバゾニアの「首都」とみなす南西州都[[ブエア]]に迫り、都市部に駐屯する政府軍も分離独立派とみなした住民を拘束するなどしている。2016年以降に60万人以上が[[国内避難民]]となったが、国際社会の関心は薄いことに[[ノルウェー]]の人権団体が警鐘を鳴らしている<ref name="読売20201130"/>。「[[#言語]]」節も参照。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|カメルーンの国際関係|fr|Politique étrangère du Cameroun|en|Foreign relations ofCameroon}}}} {{節スタブ}} === 日本との関係 === {{see|日本とカメルーンの関係}} * 在留[[日本人]]数 - 77人(2022年6月時点)<ref name="日本国外務省"/> * 在日カメルーン人数 - 1,052人(2021年6月時点)<ref name="日本国外務省"/> == 軍事 == [[File:Dairou Yaouba with Rapid Battlion Intervention authorities.JPG|180px|left|thumb|迅速介入大隊に所属するカメルーン兵(2007年撮影)]] {{main|カメルーン軍}} 同国の軍隊は、[[陸軍]]と[[海軍]]と[[空軍]]の3軍に編成されている。[[準軍事組織]]として{{仮リンク|カメルーン国家憲兵隊|label=憲兵隊|fr|Gendarmerie nationale camerounaise}}が存在している。 また[[特殊部隊]]として{{仮リンク|迅速介入大隊|fr|Bataillon d'intervention rapide|de|Bataillon d’intervention rapide}}ならびに{{仮リンク|迅速介入旅団|fr|Brigade d’intervention rapide}}が結成されており、この部隊は陸軍が管轄している。 == 地理 == {{main|{{仮リンク|カメルーンの地理|fr|Géographie du Cameroun|en|Geography of Cameroon}}}} {{右|<gallery widths="180px" heights="180px"> Cameroon Topography.png|地形図 Cameroon sat.png|衛星写真 </gallery>}} 5つの地理区分に分けられる。海岸平野はギニア湾から15 km - 150 km まで広がり、[[森林]]で覆われ、平均[[標高]]は90 m。非常に暑く、世界で最も湿度が高いところがある。南部カメルーン高地は[[熱帯降雨林]]で覆われるが、[[乾季]]と[[雨季]]が海岸平野より区別されるため[[湿度]]はやや低い。平均標高は650 m。 4つの保護指定区が設けられており、エリアは[[国立公園]]をはじめ、野生生物保護区・動物保護区・植物保護区として構成される。さらに同国の一部と近隣諸国において{{仮リンク|越境保護地域|en|Transboundary protected area}}(TBPA)が存在する。 {{see also|{{仮リンク|カメルーンの保護地域|en|Protected areas of Cameroon}}}} また、同国は世界有数の[[火山]]国として知られており、[[カメルーン火山列]]はその所以ともなっている。この火山列は隣国のナイジェリア東部と同国西部との間に存在し、最高峰の[[カメルーン山]](4,095 m)のある海岸から北部で国を東西に横断する形で連なる。加えて、カメルーン山は[[アフリカ大陸]]において最も大きい火山の一つとなっている。 気候は、特に{{仮リンク|西部高地|en|Western High Plateau}}({{lang-fr|Grassland}})は温暖で雨が多く、土地は肥沃である。その中でも広大な地域に当たる{{仮リンク|カメルーン草原|de|Kameruner Grasland}}は同国を代表する[[草原]]で、19世紀末の植民地時代から国際的に知られている。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンの環境|fr|Environnement au Cameroun}}}} [[サバナ (地理)|サバナ]]地帯である中部の[[アダマワ高地]]を境に、[[ステップ (地形)|ステップ]]が広がる北部と熱帯林に覆われた南部とに分かれる。平均標高は1,100 m、気温は22 - 25℃で雨が多い。アダマワ高地は[[分水界|分水嶺]]でもあり、主要河川は北部の[[ベヌエ川]]、北東部の{{仮リンク|ウォリ川|en|Wouri river|fr|Wouri|de|Wouri (Fluss)}}、南部の[[サナガ川]]、そして隣国チャドの河川の一部を成す[[ロゴーヌ川]]で構成されている。サナガ川は全長890 km の最大河川で、国土中央部の[[ムバカウ湖]]({{lang-fr|Lac Mbakaou}})を水源として同国の最大都市であるドゥアラ市の南方でギニア湾に注ぐ。ウォリ川は約160 kmで、サナガ川に次ぐ長い河川となっていて{{仮リンク|ビアフラ湾|en|Bight of Biafra}}に位置する{{仮リンク|ウォリ河口|en|Wouri estuary}}へ繋がっており、この川もドゥアラに接している。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンの河川一覧|en|List of rivers of Cameroon}}}} [[File:Cameroon map of Köppen climate classification.svg|right|thumb|[[ケッペンの気候区分]]で観たカメルーンの地図]] [[ケッペンの気候区分]]ではほぼ全域が[[熱帯]](A)に属す。北部 ([[ステップ気候]]、BS、[[サバナ気候]]、Aw)から南部([[熱帯雨林気候]]、Af)に移動するにしたがい、気候が湿潤となる。このような気候分布をアフリカ大陸の縮図ととらえ、「ミニアフリカ」と呼ぶことがある。北部低地の標高は300 - 350 mで、気温は高いが、雨が少ない。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンのエコリージョンの一覧|en|List of ecoregions in Cameroon}}}} 北部の乾季は7月と8月だが、南部はこの時期に雨季となる。アフリカ大陸で7番目に高いギニア湾岸のカメルーン山の南西斜面は多雨で有名であり、年降水量10,680 mmに達する。 気温の[[年較差]]は全国で5 - 10[[セルシウス度|℃]]。首都ヤウンデ(北緯3度50分、標高730 m)の年平均気温は23.2℃。年降水量は1,560 mm。 [[ファイル:Rhumsiki Peak.jpg|thumb|left|{{仮リンク|ルムスィキ|en|Rhumsiki}}]] 北部の[[チャド湖]]に近いマンダラ山地の{{仮リンク|ルムスィキ|en|Rhumsiki}}は高くそびえる奇岩で知られる観光地である。これは[[マグマ]]が噴出したときに溶岩が火山の中で固まった[[岩頸]]と呼ばれるもので、最も高い山峰は1,224 mである。 なお、北西州にある{{仮リンク|オク山|label=オク火山|en|Mount Oku}}の[[火口湖]]のひとつである[[ニオス湖]]では[[1986年]]に最大規模の[[火山ガス]]災害が起こった。湖底に溶け込んでいた[[二酸化炭素]]の噴出により、1,700人以上が死亡した。 {{-}} === 地質 === {{see|{{仮リンク|カメルーンの地質|fr|Géologie du Cameroun|en|Geology of Cameroon}}}} {{節スタブ}} == 地方行政区分 == [[ファイル:Cameroon Provinces numbered 300px.png|right|thumb|カメルーンの州]] {{Main|[[カメルーンの州]]|{{仮リンク|カメルーンの県|en|Departments of Cameroon}}}} カメルーンは10州(現・{{lang|fr|Région}}、旧・{{lang|fr|Province}})、58県({{lang-fr|Départements|links=no}})に分けられる。ナイジェリアと接する[[北西州 (カメルーン)|北西州]]と[[南西州]]の2州は、元・[[イギリス]]の[[委任統治領]]であり、その他の8州は[[フランス]]領だった。 # [[アダマワ州 (カメルーン)|アダマワ州]]({{lang-fr|Région de l'Adamaoua|links=no}})- [[ヌガウンデレ|ンガウンデレ]] # [[中央州 (カメルーン)|中央州]]({{lang-fr|Région du Centre|links=no}})- 首都:[[ヤウンデ]] # [[東部州 (カメルーン)|東部州]]({{lang-fr|Région de l'Est|links=no}})- [[ベルトゥア]] # [[極北州]]({{lang-fr|Région de l'Extrême-Nord|links=no}})- [[マルア]]{{enlink|Maroua}} # [[リトラル州]]({{lang-fr|Région du Littoral|links=no}}<ref group="注釈">フランス語: "{{lang|fr|Littoral}}"は「沿海」の意味。</ref>)- [[ドゥアラ]]: ドゥアラは[[主要道路]]、[[鉄道]]、[[空路]]で全国と結ばれており、カメルーン最大の[[港湾]]を備える。 # [[北部州 (カメルーン)|北部州]]({{lang-fr|Région du Nord|links=no}})- [[ガルア]]{{enlink|Garoua}} # [[北西州 (カメルーン)|北西州]]({{lang-fr|Région du Nord-Ouest|links=no}})- [[バメンダ]]{{enlink|Bamenda}} : [[南カメルーン連邦共和国]]の最大都市。 # [[西部州 (カメルーン)|西部州]]({{lang-fr|Région de l'Ouest|links=no}})- [[バフーサム]] # [[南部州 (カメルーン)|南部州]]({{lang-fr|Région du Sud|links=no}})- [[エボロワ]]{{enlink|Ebolowa}}、[[クリビ]]([[チャド]]の[[ドバ油田]] とパイプラインで結ばれた石油積み出し港) # [[南西州]]({{lang-fr|Région du Sud-Ouest|links=no}}) - [[ブエア]] === 主要都市 === {{Main|カメルーンの都市の一覧}} {{右|<gallery widths="180px" heights="180px"> Cameroon-CIA WFB Map.png|カメルーンの地図 Cameroon-Yaounde01.jpg|カメルーンの首都[[ヤウンデ]] </gallery>}} カメルーン最大の都市は南部にある[[ドゥアラ]]であり、[[人口]]は約190万人(2005年)を数える{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2016|page=264}}。ドゥアラはカメルーン最大の港湾を擁し、鉄道で内陸部と結ばれて商品の集散地ともなっており、カメルーン経済の中心となっている。これに次ぐのが国土中央にある首都の[[ヤウンデ]]であり、人口は約181万人(2005年)である{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2016|page=264}}。ヤウンデの産業界はドゥアラほど大きくなく、政府部門が経済の大きな部分を担っている。カメルーンはこの2都市が他に比べて飛び抜けて大きく、他に30万人を超える都市は存在しない{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2016|page=264}}。 {{-}} === 国境 === {{Main|{{仮リンク|カメルーンの国境|fr|Frontières du Cameroun}}}} {{節スタブ}} == 経済 == {{main|{{仮リンク|カメルーンの経済|fr|Économie du Cameroun|en|Economy of Cameroon}}}} === 総論 === [[ファイル:Cameroon Export Treemap.jpg|thumb|色と面積で示したカメルーンの輸出品目]] カメルーンの[[2013年]]の[[国内総生産|GDP]]は約279億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]であり<ref>{{cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/01/weodata/weorept.aspx?pr.x=13&pr.y=8&sy=2013&ey=2013&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=622&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a= |title= WEO Report |publisher=IMF|accessdate=2014-05-10}}</ref>、[[日本]]の[[佐賀県]]とほぼ同じ経済規模である<ref>{{PDFlink|[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 内閣府による県民経済計算]}}</ref>。 独立後四半世紀は[[カカオ]]、[[コーヒー]]、[[バナナ]]などの農産物、次いで[[1970年代]]後半に採掘が始まった[[原油]]など第一次産品の輸出によって、アフリカ諸国の中でも経済的に成功していた。その後、[[1980年代]]後半から石油と農産物の価格が同時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため10年間の長期不況に陥り、一人当たりのGDPが1986年から1994年までに60パーセント以上低下した。しかしながら、電力をほぼ[[水力発電]]で賄えるようになったこと、石油増産に成功したこと、農地に適した地勢などの条件が重なり、2000年時点では[[サブサハラ]]では経済的に成功している。 一方で[[観光]]産業にも注力しているものの、観光自体は現時点では隅々まで開拓されておらず、[[世界観光機関]](UNWTO)からは正式な「観光地」として認可されていない。 {{see also|{{仮リンク|カメルーンの観光地|fr|Tourisme au Cameroun}}}} === 産業 === 主な輸出用の農産物は北部の[[綿花]]、南西部の[[コーヒー]]と[[カカオ]]であり、2015年にはカカオが総輸出の18.9%、綿花が4.1%を占めていた{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2018|page=265}}。[[主食]]は南部では[[プランテンバナナ]]や[[キャッサバ]]、北部では[[トウモロコシ]]や[[ソルガム]]などであり{{sfn|週刊朝日百科世界の地理|1985|pages=11-76, 77}}、[[イモ]]、特にキャッサバや[[タロイモ]]、[[ヤムイモ]]の収穫量が多い。大部分の農業は簡単な道具による自給自足レベルで、余剰生産物が都市部の重要な食料となっている。農業人口は1990年時点の74パーセントから2000年時点の42パーセントまで減少し、第一次産品の加工を中心とする工業やサービス部門が成長している。 {{see also|{{仮リンク|カメルーンの農業|fr|Agriculture au Cameroun}}}} [[File:Logging truck and bush taxi accident.jpg|200px|right|thumb|カメルーンにおける木材輸送の様子 <br /> 木材は同国の主要な輸出品の1つとなっている]] [[File:Transport ferroviaire 05.jpg|200px|left|thumb|カメルーン国内を移動中の[[貨物列車]] <br /> 積載されているのは国外輸送の為に出荷する木材である]] [[家畜]][[放牧]]は北部で盛んであり、中でも中北部のアダマワ高原で広く行われている{{Sfn|『世界地理大百科事典2 アフリカ』|1998|p=200}}。漁業には5,000人ほどが従事し、年間2万トンの漁獲量がある。国土の37パーセントを占める南部熱帯雨林は木材の供給源だが、大部分の土地は入るのが困難である。[[木材]]伐採は外国企業により行われ、政府に毎年6千万ドルの収入をもたらす。また、木材輸出も盛んに行われ、2015年には第3位の輸出品として総輸出の11.2%を占めていた{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2018|page=265}}。同国はアフリカ諸国の中で最も伐採率が高く、安全で持続可能な伐採を義務づけているが、[[林業]]への規制は最もゆるく、そのほとんどが無認可で<ref>[http://archiv.onlinereports.ch/2000/KamerunJaeggi.htm Satte Gewinne für den Schweizer Tropenholzhändler Fritz Jäggi]</ref> 、大半は違法伐材であり問題は根深い<ref>[http://www.regenwald.org/themen/tropenholz/fragen-und-antworten Fragen und Antworten zu Tropenholz]</ref>。 カメルーン最大の輸出品は[[原油]]であり、2015年には総輸出の40.1%を占めた{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2018|page=265}}。[[石油]]以外の[[鉱業]][[資源]]には恵まれておらず、わずかな量の[[石炭]]、[[金]]、[[スズ]]が見られるだけである。[[エネルギー]]の大部分は水力発電により、残りは石油である。 同国は[[現在]]、国土の大部分で電力不足となっており、農村部では電力供給は非常に低く約14%ほどしかない。産業活動はドゥアラに集中している。 === 対外経済関係 === カメルーンを含む旧フランス領中央アフリカ諸国で用いられている通貨[[CFAフラン]]は、[[フランス・フラン]]との交換レートが固定されており、安定した経済運営の下地となった。一方、フランの[[為替レート]]に引きずられる弊害もあった。[[経済圏]]としては、フランス経済ブロックに組み込まれていたと言える。 カメルーンは、[[西アフリカ諸国経済共同体]]と[[南部アフリカ開発共同体]]に挟まれた位置にあるが、いずれにも加盟していない。2国間経済援助ではフランスの出資が最も多い。一人あたりの援助受け取り額は30米ドル(1998年)であり、アフリカ諸国としては平均的である。 貿易相手国はフランス、[[ドイツ]]、[[日本]]の順である。対日貿易ではカメルーンの大幅な[[貿易]][[黒字と赤字|赤字]]となっており、カメルーンからの輸出では木材が54%(2016年)、カカオ豆が34%を占め、この2品目で約88%に達する。輸入では[[化学繊維]]が4割を占め、次いで[[機械]]、[[医薬品]]となっている{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2018|page=265}}。 {{see also|{{仮リンク|カメルーンの企業の一覧|fr|Liste d'entreprises camerounaises}}}} == 交通 == [[File:Bateau au port de Douala1.jpg|200px|right|thumb|ドゥアラ港]] {{Main|{{仮リンク|カメルーンの交通|fr|Transport au Cameroun|en|Cameroon traffic}}}} 同国は[[トランス・アフリカ・ハイウェイ]]の重要ポイントであり、その領土を横断する3つのルートが存在する。 道路は1割のみが[[舗装]]されており、悪天候も重なり、国内輸送を困難にしている。また、各地で警官などによる旅行者への[[賄賂]]要求や強盗が発生しており問題とされている。 === 鉄道 === {{Main|カメルーンの鉄道}} [[鉄道]]は[[軌間]]1000㎜で、[[カムレール]]社によって運営されており、本線はドゥアラ港を起点に西の首都ヤウンデを通り、北部の玄関口である[[ンガウンデレ]]までの約950㎞を結んでいる。またドゥアラからは、北の[[クンバ]]への短い[[支線]]が存在する{{sfn|世界の鉄道|2015|page=341}}。 === 空港 === {{see|カメルーンの空港の一覧}} [[国際空港]]はドゥアラとヤウンデ、[[ガルア]]にあり、ドゥアラの規模がもっとも大きい。 === 河川・港湾 === 最も大きな港は[[ドゥアラ港]]で、鉄道の通じる内陸部への物資の集散地となっている。このほか、海港としては[[リンベ]]や[[クリビ]]も重要である。旧イギリス領カメルーンの海港であった[[リンベ港]]は周囲に[[油田]]が存在し、石油産業の重要拠点となっている。ドゥアラから南へ約150 km の[[クリビ港]]はかつて木材の輸出港だったが、チャドの[[ドバ油田]]と結ぶ[[原油]]パイプラインを受ける原油積出基地がある。また、ベヌエ川に面する北部のガルア港も重要な[[河川港]]であるが、利用は増水期に限られている{{sfn|『世界地理大百科事典2 アフリカ』|1998|page=125}}。 == 国民 == [[ファイル:Baka dancers June 2006.jpg|thumb|200px|東部地域のダンサー]] {{main|{{仮リンク|カメルーンの人口統計|en|Demography of Cameroon|fr|Démographie du Cameroun}}}} [[File:Frauenfigur, Amulett mu po, Kameruner Grasland, Bamunkung; im Staedtischen Museum Braunschweig.jpg|thumb|160px|女性をかたどった魔除けの[[お守り]]<br />[[象牙]]製。現地の古来の文化や伝統工芸をうかがい知ることが出来る]] === 民族 === {{see|{{仮リンク|カメルーンの民族|fr|Groupes ethniques du Cameroun}}}} [[住民]]は、南部と西部は[[バントゥー系民族|バントゥー系]]の[[ファン族]]、{{仮リンク|バミレケ族|en|Bamileke people}}、[[バカ・ピグミー]]、中部はバントゥー系の[[ウテ族]]、北部は[[スーダン]]系の[[ドゥル族]]、[[フラニ族]]([[サヘル]]に居住)などに分かれる。民族集団は275以上に分かれている。 === 言語 === {{see|{{仮リンク|カメルーンの言語|fr|Langues au Cameroun|en|Languages of Cameroon}}}} [[ファイル:Langues du Cameroun Carte.png|thumb|right|200px|カメルーンの言語圏分布図 {{legend|#6cb6ff|[[フランス語]]}} {{legend|#ff8484|[[英語]]}} {{legend|#3f70ff|その他}} ※青はフランス語、赤は英語。南西部の2州が英語圏。 <hr> {{legend|#006cd9|周辺国([[フランス語]])}} {{legend|#ff3e3e|周辺国([[英語]])}} {{legend|#c3c3c3|周辺国([[スペイン語]]とフランス語)}}]] [[公用語]]は[[フランス語]]と[[英語]]であるが、両言語の[[二言語話者|バイリンガル]]の住民はきわめて少ない。最大都市[[ドゥアラ]]や首都[[ヤウンデ]]などがあり、国民の大半が居住する旧フランス領地域で使用されるフランス語を公用語として使用する者が圧倒的に多く、この地域では英語の通用度は低い。一方、英語は旧[[南カメルーン連邦共和国|イギリス領カメルーン]]の領域であった[[北西州 (カメルーン)|北西州]]と[[南西州]]のみで使われ、現地では{{仮リンク|カメルーン・ピジン|label=カムトク|de|Kamtok|en|Cameroonian Pidgin English}}と呼ばれている。この地域はフランス語の通用度が低く、独立運動も起こっている。旧ドイツ植民地であったことから[[ドイツ語]]の学習者も多く、アフリカで最もドイツ語話者が多い国とされる。 {{see also|{{仮リンク|カムフラングレ|fr|Camfranglais|en|Camfranglais}}}} ほかに土着言語として[[ファン語]]、[[フラニ語]]、[[イエンバ語]]、[[バサ語]]、[[カヌリ語]]、[[バムン語]]、[[ドゥアラ語]]、[[アゲム語]]などが話されている。 === 婚姻 === カメルーンでは一夫多妻制が認められている。 {{see also|{{仮リンク|カメルーンにおける一夫多妻制|en|Polygamy in Cameroon}}}} 婚姻時、婚前の姓をそのまま用いることも、夫の姓に変更することも可能である<ref>Hansel Ndumbe Eyoh, Albert Azeyeh, Nalova Lyonga. "Critical Perspectives on Cameroon Writing", 2013.</ref>。 === 宗教 === {{see|{{仮リンク|カメルーンの宗教|fr|Religion au Cameroun|en|Religion in Cameroon}}}} カメルーンの[[宗教]]は、[[キリスト教]]が人口の約40パーセント、[[イスラム教]]が約30パーセント、{{仮リンク|アフリカの伝統宗教|en|Traditional African religion}}([[アニミズム]])が約30%である<ref>[https://www.cmr.emb-japan.go.jp/jp/Came_letter1.html カメルーン便り 在カメルーン日本国大使館]</ref>。4万人の[[バハイ教]]徒が国内にいる。そのほか、'''カメルーン'''や[[ガボン]]や[[赤道ギニア]]沿岸部の[[バントゥー系民族]]グループのいくつかでは、[[呪物崇拝]]の[[:en:Okuyi]]が信仰され、Okuyiの宗教チャントが[[ベンガ語]]で歌われている。20世紀末、沿岸部の{{仮リンク|ンドウェ人|fr|Ndowe (peuple)}}([[:en:Kombe people]])が[[ンビニ]](Mbini、[[リオ・ムニ]])に儀式を広めた。 宗教の[[儀式]]のために殺人や体の一部を切除する事件が発生しており、社会問題となっている<ref>{{Cite web|和書|title=眼球など体の一部切除する連続殺人、2週間で18人犠牲 カメルーン |url=https://www.cnn.co.jp/world/35027307.html |website=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN.co.jp]] |accessdate=2020-12-03 |language=ja|date=2013-01-24}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Cameroon}}}} === 教育 === {{see|{{仮リンク|カメルーンの教育|en|Education in Cameroon|fr|système éducatif au Cameroun}}}} <!-- {{節スタブ}} --> カメルーンの[[識字率]]は75.0%(2015年)である{{sfn|世界各国要覧と最新統計|2018|page=264}}。[[教育]]制度は[[小学校]]6年、[[中等教育|中等学校]]4年、高等学校3年、[[大学]]3年であり、[[義務教育]]は小学校6年間のみである。教授言語は旧・フランス領[[地域]]では[[フランス語]]、旧・[[イギリス|英領]][[地域]]では[[英語]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC71000.html |title=諸外国・地域の学校情報 カメルーン共和国|publisher=日本国外務省|date=2017年(平成29年)11月 |accessdate=2019年12月22日}}</ref>。 <!-- Translated from [[:en:Education in Cameroon#Structure of the educational system]] &oldid=916532367, [https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Education_in_Cameroon&oldid=916532367 enwp by Monkbot at 11:04 (UTC), 19 September 2019]. 英語版の節を翻訳。 --><!-- 学制の説明が外務省典拠と異なるものの、コメントアウトすると学歴証明試験の説明と齟齬が出る。 --> [[小学校]]より上の学制は5年制の[[中等教育]]下級、2年制の同上級(高等学校)、その上の[[高等教育]]課程(大学)の3部に分かれる。 [[学校暦]]は9月から翌年6月までを1年と定め、学年末に[[進級|進級試験]]を行う。英語圏の学力証明試験として GCE(General Certificate of Education)に普通レベル(Ordinary level)と上級レベル(Advanced level)がある。フランス語圏は[[バカロレア]]を発行する。 中等教育課程は旧・[[宗主国]]の制度援用によりイギリス式とフランス式の2系統があるが、大まかに中学校(下級)と高等学校(上級)にそれぞれ相当する。小学校を卒業した生徒の多くは家計に私立学校の学費を払う余裕がなく、中等教育課程には手が届かない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.classbase.com/Countries/Cameroon/Education-System |title=Cameroon Education System(カメルーンの教育制度)|website=Classbase.com |date= |accessdate=2017-08-26}}</ref>。 5年制の中等教育を終えた者は GCE 普通レベルを、[[高等学校]]2年を[[修了]]した者は同上級レベルをそれぞれ受験できる。大学課程へ進むには GCE 上級レベルと[[バカロレア (フランス)|バカロレア]](フランス式教育を受けた者の高等学校修了証明)の取得が必須である。 高等学校卒業後の進路に、学業を極めるほかにも「職業訓練」として、失業者の就労を支援する労働省管轄の研修制度がある。 学力の評価にはフランス式とイギリス式<ref name="e_grade">{{Cite web|和書|url=http://www.classbase.com/Countries/Cameroon/Grading-System|title=Cameroon Grading System(カメルーンの学力評価制度)|website=Classbase.com|accessdate=2017-08-27}}</ref>がある。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- |+ フランス式学力評価 |- ! 評点 ! 学力の説明 ! アメリカ式の評価 ! 備考 |- | align=right|15.00-20.00 | Très bien(秀) | A | |- | 13.00-14.99 | Bien(優) | A- | |- | 12.00-12.99 | Assez bien(良) | B+ | |- | 11.00-11.99 | Passable(可) | B | |- | 10.00-10.99 | Moyen(並) | C | |- | 0.00-9.99 | Insuffisant(不良) | F | Failure(1年間の成績次第で進級) |} {| class="wikitable" style="text-align:center" |- |+ イギリス式学力評価 |- ! 評点 ! 学力の説明 ! 分岐 ! [[アメリカ合衆国]]式の評価 |- | A | 1級 | | A |- | A- | 2級の上 | |A- / B+ |- | B | 2級の下 | |B |- | C+ | 進級可能 | | C |} === 保健 === {{see|{{仮リンク|カメルーンの保健|en|Health in Cameroon|fr|Santé au Cameroun}}}} 同国は[[風土病]]による死者が絶えない現状が続いており、[[黄熱病]]の流行地帯と化していることが今も問題となっている。[[病没]]する人々の一番の死因は[[マラリア]]となっており、次いで[[HIV]]ならびに[[AIDS]]の発症により亡くなっている人が多い。 [[水系感染症]]として[[住血吸虫症]]や[[ツェツェバエ]]によって流布される[[アフリカ睡眠病|眠り病]]が挙げられており、この[[病症]]も深刻なものとなっている。 == 治安 == カメルーンは「歴史上、政治的安定を保っている」とされてきた国であるが、近年では殺人や強盗および窃盗などの凶悪犯罪が日常的に発生しており、旅行などで現地に滞在する際には細心の注意を払う必要がある<ref>[https://medicihiroba.com/kikimap/country/cameroon.php カメルーン(首都:ヤウンデ)の治安・テロ最新危険情報] KikiMap</ref>。 犯罪情勢としては、全国的に[[殺人]]、[[強盗]]、[[窃盗]]、[[強姦]]などの凶悪犯罪や[[電子メール]]を用いた[[詐欺]]事件が日常的に発生している面が窺えるが、沿岸州のドゥアラでは犯罪発生数及び犯罪発生率ともに毎月全国1位であり、殺人、強盗、身代金目的の誘拐などが多発している。更にドゥアラでは[[マフィア]]の活動が活発化しており、これらマフィアが殺人、強盗、麻薬密売などに深く関わっていることが判明している。 一方、中央州では北部において障害物などを道路に置いて走行中の車両を停車させ、運転手や乗客を[[銃]]で脅して金品を強奪する道路封鎖強盗が多発している。また、中央州に位置する首都ヤウンデも地域別犯罪発生率が毎月上位を占めており、殺人、強盗などの凶悪犯罪が多発している現状がある他、2020年6月以降ヤウンデ市内で即席爆弾による小規模爆発事案が散発的に発生している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_098.html|title=カメルーン 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2022-1-2|publisher=外務省}}</ref>。 傍ら、現地では[[売春]]が問題となっている。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンにおける売春|en|Prostitution in Cameroon}}}} 加えて、国境地帯においては襲撃事案や[[誘拐]]事案などが頻発している他に政府軍との衝突も続くことから、隣国と同国の両政府が海外諸国に対し「[[出国|渡航]]しないよう」呼び掛ける事態となっている。 現在、[[ボコ・ハラム]]などの勢力の強い[[テロ組織]]や英語圏分離派の過激な活動が続発<ref>「[https://www.afpbb.com/articles/-/3179376 カメルーン英語圏独立派、治安部隊員ら180人超殺害 政府が報告書]」フランス通信社(2018年6月21日)2020年12月3日閲覧</ref>していることから[[日本政府]][[外務省]]は[[2018年]]4月に、北西州ならびに南西州の[[危険情報]]を引き上げた<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcterror_098.html カメルーン テロ・誘拐情勢] 海外安全ホームページ テロ・誘拐情勢</ref>が、他国は既に「さらに高いレベル」の注意喚起を発している。 カメルーンはアフリカにおいて[[汚職]]が蔓延している国家の一つである。2004年にカメルーンの世帯の50%以上が「少なくとも[[賄賂]]を支払ったことがあった」という事実を訴えていたことが判明している<ref>[http://ww1.transparency.org/pressreleases_archive/2004/2004.12.09.barometer_fr.html  baromètre 2004 TI]</ref>。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンにおける汚職|fr|Corruption au Cameroun}}}} === 警察 === {{Main|{{仮リンク|カメルーンの警察|fr|Police au Cameroun}}}} {{sectstub}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|カメルーンにおける人権|en|Human rights in Cameroon}}}} [[人権侵害]]が著しい面が目立ち、政府軍が非人道的な姿勢で接しているとして今も非難されている。 2014年に可決されたテロ対策法は、国内の表現の自由と政治における賛否の意見を厳しく制限しているものとして激しく批判されている<ref>[https://www.spiegel.de/politik/ausland/kamerun-deutscher-vor-militaergericht-angeklagt-a-1288095.html Deutscher Ingenieur vor Militärgericht angeklagt] 2019年9月24日 DER SPIEGEL</ref>。 また、同国の兵士が目隠しされた女性と子供を[[処刑]]する様子を撮影したとされる録画が2018年に公開されたことから、さらに政府軍への非難が強まっている<ref>[https://theintercept.com/2018/07/26/cameroon-executions-us-ally/ Cameroon Is a Close U.S. Ally — and Its Soldiers Carried Out a Shocking Execution of Women and Children]</ref>。2020年、政府軍がヌトゥボ村で民間人を虐殺する事件を起こしたことから、より一層非難を強める事態へと繋がっている。{{See also|ヌトゥボ村虐殺事件}} [[人権団体]]は、[[少数民族]]や[[同性愛者]]、[[政治活動家]]そして犯罪[[容疑者]]を[[虐待]]したり[[拷問]]したりしたとして現地警察と同国軍を非難している。 [[2009年]]、デモ中に約100人の民間人が殺害されたことから[[アムネスティ・インターナショナル|アムネスティ]]は同国の治安部隊による暴力についての懸念を報告している<ref>[https://www.amnesty.org/en/for-media/press-releases/cameroon-catalogue-human-rights-abuses-20090129 Cameroon: A catalogue of human rights abuses, Amnesty International]</ref>。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンにおける人身売買|en|Human trafficking in Cameroon}}}} {{sectstub}} ==== 難民 ==== {{Main|{{仮リンク|カメルーンにおける難民|en|Refugees in Cameroon}}}} カメルーンは[[難民]]問題を抱える国の一つとなっている。 {{sectstub}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|カメルーンのメディア|en|Media of Cameroon|fr|Médias au Cameroun}}}} 主要[[ラジオ]]・[[テレビ]]局は国営で、[[電信]][[電話]]局もほとんど政府の管理下にあるが、最近[[インターネット]]が普及し、規制を受けない[[インターネットサービスプロバイダ]]が増えている。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンの通信|en|Communications in Cameroon}}}} {{sectstub}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|カメルーンの文化|en|Culture of Cameroon|fr|Culture du Cameroun}}}} === 食文化 === [[File:Ndolé camerounais.JPG|160px|left|thumb|[[ンドレ]]<br />同国における[[郷土料理]]の一つである]] {{Main|{{仮リンク|カメルーン料理|fr|Cuisine camerounaise|en|Cameroonian cuisine}}}} カメルーンの主食は、[[米]]・[[トウモロコシ]]・[[豆]]・[[キビ]]などの[[穀類]]を主体としている。また、料理には{{仮リンク|ココヤム|en|Cocoyam}}などの[[ヤムイモ]]類や[[ジャガイモ]]・[[サツマイモ]]などの[[野菜]]類、[[キャッサバ]]や[[プランテン]]を用いる。 [[スイーツ]]や[[デザート]]料理には、{{仮リンク|アリーワ|fr|Bonbon aleewa}}と呼ばれる[[飴]][[菓子]]や{{仮リンク|アバアクル|fr|Abaakuru}}と呼ばれる[[ピーナッツ]]をベースとした生地を[[油]]で揚げた[[ケーキ]]が知られている。 同国がアフリカ大陸において北・西・中央部の交差点に当たることや、[[ドイツ植民地帝国]][[時代]]ならびにフランスとイギリスの植民地時代の名残りで[[ヨーロッパ]]文化の影響が見受けられることから、カメルーン料理は同大陸で最も多様な特徴を持ち合わせた料理の一つとして知られている。 === 文学 === {{Main|{{仮リンク|カメルーン文学|fr|Littérature camerounaise|en|Literature of Cameroon}}}} カメルーン出身の著名な文学者として、[[小説]]『下僕の生活』(1956年)で知られるフェルディナン・オヨノ ([[:en:Ferdinand Oyono|en]]) {{sfn|加藤恒彦; 北島義信; 山本伸|2000}}や反[[植民地主義]]作家として知られる{{仮リンク|モンゴ・ベティ|en|Mongo Beti|fr|Mongo Beti|label=}}、[[音楽家]]でありながら小説『アガト・ムディオの息子』(1967年)を残した[[フランシス・ベベイ]]、[[言語学者]]でありながら[[詩人]]・[[エッセイスト]]・[[寓話]]作者として活動していた{{仮リンク|イサーク・モゥメ・エチア|fr|Isaac Moumé Etia}}、文学家で「カメルーン詩人作家協会」(APEC)の創設者の一人である{{仮リンク|ルネ・フィロンベ|fr|René Philombé|de|René Philombé|en|René Philombé}}、[[劇作家]]の[[エンドゥンベ3世]]らの名が挙げられる{{sfn|A・ノルトマン=ザイラー、松田忠徳|1978|pages=90 - 91頁、96頁}}{{sfn|片岡幸彦|1995|pages=213-214}}。 {{See also|{{仮リンク|カメルーンの作家の一覧|fr|Liste d'écrivains camerounais|en|List of Cameroonian writers}}}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|カメルーンの音楽|fr|Musique camerounaise|en|Music of Cameroon}}}} [[アフロビート]]の[[マヌ・ディバンゴ]]がカメルーン出身の[[サックス]]奏者として著名であり、彼は1973年に「{{仮リンク|ソウル・マコッサ|en|Soul Makossa|label=}}」の世界的ヒットを残した。また、アメリカで活動している女性[[シンガーソングライター]]、[[アンディ・アロー]]もカメルーン出身である。 === 美術 === {{Main|{{仮リンク|カメルーンの芸術|fr|Art au Cameroun}}}} {{sectstub}} === 映画 === {{Main|{{仮リンク|カメルーンの映画|fr|Cinéma camerounais|en|Cinema of Cameroon}}}} {{sectstub}} {{See also|{{仮リンク|カメルーンの映画の一覧|fr|Liste de films camerounais|en|List of Cameroonian films}}}} === 世界遺産 === [[ファイル:Dja River and pirogue.JPG|thumb|[[ジャー動物保護区]] - (1987年、自然遺産)]] {{Main|カメルーンの世界遺産}} カメルーン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が2件存在する(うち1件は[[中央アフリカ共和国]]、[[コンゴ共和国]]と共有)。 === 祝祭日 === {{see|カメルーンの祝日}} {| class="wikitable" |- !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- ||[[1月1日]]||[[元日]]||New Year's Day|| |- ||[[2月11日]]||青年の日||National Youth Day|| |- ||[[5月1日]]||[[メーデー]]||Labor Day|| |- ||[[5月20日]]||[[建国記念日]]||National Day|| |- ||[[8月15日]]||[[聖母の被昇天]]||Assumption|| |- ||[[12月25日]]||[[クリスマス]]||Christmas|| |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|カメルーンのスポーツ|fr|Sport au Cameroun|en|Sport in Cameroon}}}} [[File:Cameroon-Australia (9).jpg|thumb|right|200px|[[FIFAコンフェデレーションズカップ2017|2017年コンフェデ杯]]での[[サッカーカメルーン代表]]。]] [[ファイル:Samuel Eto'o.jpg|thumb|right|150px|アフリカ史上最高のサッカー選手と評される[[サミュエル・エトー]]。]] === サッカー === {{Main|{{仮リンク|カメルーンのサッカー|fr|Football au Cameroun|en|Football in Cameroon}}}} [[サッカー]]は[[ドイツ]]保護領時代の[[1880年代]]に伝わって以降、カメルーン国内で1番人気の[[スポーツ]]であり続けている。[[カメルーンサッカー連盟]]によって構成される[[サッカーカメルーン代表]]は[[アフリカ]]屈指の強豪として知られており、[[アフリカネイションズカップ]]では[[サッカーエジプト代表|エジプト代表]]に次ぐ通算5回の優勝を飾っている。さらに[[FIFAワールドカップ]]出場の常連国としても知られ、[[1982 FIFAワールドカップ|1982年大会]]で初出場して以降、[[2022 FIFAワールドカップ|2022年大会]]まで通算8度の出場を経験している。その中でも、[[1990 FIFAワールドカップ|1990年大会]]では開幕戦で[[1986 FIFAワールドカップ|前回優勝国]]である[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]を下す大金星を挙げ、最終的にはアフリカ勢初のベスト8まで勝ち進んだ。 同国代表は日本との関係も深く、[[中津江村]](現在は[[大分県]][[日田市]]の一部)では[[2002 FIFAワールドカップ|2002年日韓W杯]]の際にキャンプ地にして以降[[中津江村 #カメルーンとの交流|交流が続いている]]。さらに[[サッカー日本代表|日本代表]]とは[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]の[[2010 FIFAワールドカップ・グループE|グループリーグ]]で対戦し、0-1で敗れている。なお、[[2019年]]には[[アフリカネイションズカップ]]の開催国となる予定であったが、{{仮リンク|ボコ・ハラム反乱|en|Boko Haram insurgency}}および{{仮リンク|アンバゾニア紛争|en|Anglophone Crisis}}を理由に開催権を剥奪された<ref>{{Cite web|和書|title=Cameroon to host 2019, Cote d'Ivoire for 2021, Guinea 2023(ホスト国は2019年カメルーン、2021年コートジボワール、2023年ギニア)|url=http://www.cafonline.com/en-US/NewsCenter/News/NewsDetails?id=RNUWLOob5ehe2u9fTPwoPg==|website=web.archive.org|date=2014-12-20|accessdate=2020-12-03|publisher=CAF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141220071058/http://www.cafonline.com/en-US/NewsCenter/News/NewsDetails?id=RNUWLOob5ehe2u9fTPwoPg==|archivedate=2014-12-20}} </ref>。しかし、その代わりに続く[[アフリカネイションズカップ2021|2021年大会]]がカメルーンで開催されている。 === バスケットボール === [[バスケットボールカメルーン代表]]はかつてアフリカ選手権4位となったことがあるものの、近年は長らく低迷が続いていた。しかし2007年に15年ぶりのアフリカ選手権出場を果たすと、準優勝となり[[2008年北京オリンピック|2008年北京五輪]]の世界最終予選まで進出するなどしている。 === オリンピック === {{Main|オリンピックのカメルーン選手団}} {{See also|{{仮リンク|オリンピックにおけるカメルーン|fr|Cameroun aux Jeux olympiques|en|Cameroon at the Olympics}}}} カメルーンが[[近代オリンピック|オリンピック]]に初出場を果たしたのは[[1964年東京オリンピック|1964年東京大会]]であり、それ以降は[[夏季オリンピック]]に出場する選手を毎大会派遣している。[[冬季オリンピック]]には{{仮リンク|アイザック・メニオリ|fr|Isaac Menyoli|en|Isaac Menyoli}}が、[[2002年ソルトレークシティオリンピック|2002年ソルトレークシティ大会]]に[[スキー]]選手として初出場を果たしている。 == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|カメルーン人の一覧|en|List of Cameroonians}}}} ; 文化人 * {{仮リンク|ジャン=マリー・テノ|fr|Jean-Marie Teno|de|Jean-Marie Teno|en|Jean-Marie Teno}} - [[プロデューサー]] * {{仮リンク|ジャン=ピエール・ベコロ|fr|Jean-Pierre Bekolo|de|Jean-Pierre Bekolo|en|Jean-Pierre Bekolo}} - [[映画監督]] * {{仮リンク|エミール・アボソロ=ムボ|fr|Emil Abossolo-Mbo|de|Émil Abossolo-Mbo|en|Émil Abossolo-Mbo}} - [[俳優]] * {{仮リンク|イマネ・アイシ|fr|Imane Ayissi|en|Imane Ayissi}} - [[ファッションデザイナー]] ; スポーツ選手 * [[サミュエル・エトー]] - 元[[プロサッカー|サッカー選手]] * [[ロジェ・ミラ]] - 元サッカー選手 * [[パトリック・エムボマ]] - 元サッカー選手 * [[アレクサンドル・ソング]] - 元サッカー選手 * [[カルロス・カメニ]] - 元サッカー選手 * [[ジョエル・マティプ]] - サッカー選手([[リヴァプールFC]]所属) * [[エリック・マキシム・シュポ=モティング|シュポ=モティング]] - サッカー選手([[FCバイエルン・ミュンヘン]]所属) * [[フランシス・ガヌー]] - [[総合格闘家]]([[UFC]][[ヘビー級]]王者) * [[ジョエル・エンビード]] ‐ [[バスケットボール選手]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|series=週刊朝日百科世界の地理|volume=103 |title=ナイジェリア・カメルーン・中央アフリカ|ref={{sfnref|週刊朝日百科世界の地理|1985}}|pages=11-76,77 |date=1985年(昭和60年)10月13日|publisher= [[朝日新聞社]](編)}} * {{Cite book|和書|author1=A・ノルトマン=ザイラー|title=新しいアフリカの文学|translator=松田忠徳|publisher= [[白水社]]|series=[[文庫クセジュ]]622|location=東京|date=1978年9月10日|edition=初版|ref={{sfnref|A・ノルトマン=ザイラー、松田忠徳|1978}}|pages=90-91,96}} * {{Cite book|和書|author1=片岡幸彦|chapter=アフリカ――フランス語|title=激動の文学――アジア・アフリカ・ラテンアメリカの世界|publisher= 信濃毎日新聞社|location=長野市|date=1995年3月15日|edition=初版|ref={{sfnref|片岡幸彦|1995}}|pages=213-214}} * {{Cite book|和書|author1=田辺裕|author2=島田周平|author3=柴田匡平|year=1998|title=世界地理大百科事典2 アフリカ|publisher=[[朝倉書店]]| ISBN=4254166621|ref={{sfnref|『世界地理大百科事典2 アフリカ』|1998}}|page=126}} * {{Cite book|和書|chapter=アフリカ黒人文学概論|title=世界の黒人文学 : アフリカ・カリブ・アメリカ|others=加藤恒彦; 北島義信; 山本伸 (編著)|publisher=鷹書房弓プレス|year=2000|isbn=480340447X|ref={{sfnref|加藤恒彦; 北島義信; 山本伸|2000}}}} * {{Cite book|和書|title=世界の鉄道|author=一般社団法人海外鉄道技術協力協会|authorlink=海外鉄道技術協力協会|publisher=ダイヤモンド・ビッグ社|date=2015年10月2日|edition=初版|ref={{sfnref|世界の鉄道|2015}}|page=341}} * {{Cite book|和書|author1=|title=データブック オブ・ザ・ワールド世界各国要覧と最新統計|number=2016年版|chapter= |publisher=二宮書店|date=2016年(平成28年)1月10日|ref={{sfnref|世界各国要覧と最新統計|2016}}|page=264}} * {{Cite book|和書|title=データブック オブ・ザ・ワールド 世界各国要覧と最新統計|number= 2018年版 |ref={{sfnref|世界各国要覧と最新統計|2018}}|page=265|publisher=二宮書店|date=2018年(平成30年)1月10日}} <!-- いったんコメントアウト。本文出典の詳細を書くところでありスタブに相当しません。{ {節スタブ}} --> == 関連項目 == * [[カメルーン関係記事の一覧]] - 英語版{{enlink|List of Cameroon-related topics}} * [[セネガル]] * [[セネガンビア]] - カメルーンと同じフランス語圏国家[[セネガル]]と、英語圏国家[[ガンビア]]が一緒になった連合国家。1982年発足、1989年解消。 * [[ナイジェリア]] * [[マリ共和国|マリ]] * 石油関連 ** [[ドバ油田]] - カメルーン南部を横断する[[パイプライン輸送]]路が存在する。 ** [[バカシ半島]] - 隣国[[ナイジェリア]]と油田がらみの領有権問題を抱えている。 * [[ジャー動物保護区]] - 2007年[[現在]]ではカメルーンの唯一の[[世界遺産]] * [[カメルーン海軍艦艇一覧]] === 関連文献 === '''発行年順''' * 端信行『サバンナの農民 : アフリカ文化史への序章』中央公論社〈[[中公新書]]629〉、1981年、NCID:BN00763595。 * 「農民」佐藤次高、富岡倍雄、後藤晃、永田雄三、[[村井吉敬]]、日野舜也、中野暁雄、三木亘『イスラム世界の人びと』2、上岡弘二 (ほか編)、1984年、[[東洋経済新報社]]、ISBN:4492812628、NCID:BN04450252。 * 片倉もとこ、大塚和夫、原隆一『イスラーム教徒の社会と生活』、西野節男、宮本勝、張承志、赤堀雅幸、清水芳見、中山紀子、鷹木恵子、宮治美江子、日野舜也、中村光男、板垣雄三、栄光教育文化研究所; 悠思社 (発売)〈講座イスラーム世界 1〉、1994年、ISBN:4946424849、NCID:BN11693866。 * 『アフリカ経済』末原達郎、池上甲一、辻村英之、高根務、武内進一、大林稔、世界思想社〈Sekaishiso seminar〉、1998年、ISBN:4790706923、NCID:BA33850999。 * 佐々木重洋『仮面パフォーマンスの人類学 : アフリカ、豹の森の仮面文化と近代』、世界思想社、2000、ISBN:4790708403、NCID:BA49475946 * 宮本正興、松田素二、砂野幸稔『現代アフリカの社会変動 : ことばと文化の動態観察』栗本英世、松田凡、戸田真紀子、梶茂樹、米田信子、小森淳子、竹村景子、稗田乃、赤阪賢、[[嘉田由紀子]]、中山節子、MalekanoLawrence、三島禎子、末原達郎、澤田昌人、元木淳子、楠瀬佳子、木村大治、人文書院、2002年、ISBN:4409530275、NCID:BA56698612。 * 亀井伸孝『森の小さな「ハンター」たち : 狩猟採集民の子どもの民族誌』[[京都大学]]学術出版会、2010年、ISBN:9784876987825。 * 重田眞義、伊谷樹一、泉直亮『争わないための生業実践 : 生態資源と人びとの関わり』、加藤太、桐越仁美、山本佳奈、佐藤靖明、近藤史、吉村友希、大山修一、藤岡悠一郎、四方篝、黒崎龍悟、重田眞義、京都大学学術出版会〈アフリカ潜在力 / 太田至シリーズ総編、4〉、2016年、ISBN:9784814000081。 *『紛争をおさめる文化 : 不完全性とブリコラージュの実践』総編、松田素二、平野美佐、太田至、松田素二、松本尚之、Lengja NgnemzueAnge B.、石田慎一郎、HeboMamo、HolzmanJon、楠和樹、木村大治、SadombaWilbert Z.、金子守恵、重田眞義、NyamnjohFrancis B.、京都大学学術出版会〈アフリカ潜在力 / 太田至シリーズ 1〉、2016年。ISBN:9784814000050。 *[[国立民族学博物館]]、江口一久「北カメルーンの王さま」『みんぱく映像民族誌』第23集、国立民族学博物館、2017年。 == 外部リンク == {{Commons&cat|Cameroun|Cameroon}} ; [[政府]] * [http://www.prc.cm/indexen.php カメルーン共和国大統領府] {{en icon}}{{fr icon}} * [http://www.spm.gov.cm/acceuil.php?lang=en カメルーン共和国首相府] {{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cameroon/ 日本外務省 - カメルーン] {{ja icon}} * [https://www.cmr.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在カメルーン日本国大使館]{{ja icon}}{{en icon}}{{fr icon}} ; [[観光]] * [http://www.cameroun-infotourisme.com/ カメルーン政府観光局] {{fr icon}} ; [[研究]] * [http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/CameroonFS/wiki.cgi Cameroon Field Station] {{ja icon}} * [http://www.pygmies.org/ カメルーンのピグミー] {{en icon}}{{it icon}} ; [[その他]] * {{Osmrelation|192830}} * {{Kotobank}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{OIC}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かめるうん}} [[Category:カメルーン|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]]
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フラーレン
フラーレン (英: fullerene [ˈfʊləˌriːn]、独: Fulleren [fʊləˈreːn]) は、閉殻空洞状の多数の炭素原子のみで構成される、クラスターの総称である。共有結合結晶であるダイヤモンドおよびグラファイトと異なり、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の同素体である。呼び名はバックミンスター・フラーの建築物であるジオデシック・ドームに似ていることからフラーレンと名づけられたとされる。最初に発見されたフラーレンは、炭素原子60個で構成されるサッカーボール状のような構造を持ったC60フラーレンである。 C60フラーレンの発見は1985年であるが、それ以前に C60 構造の存在は予測されていた。 1965年、C60H60の二十面体トポロジー構造が可能であることが報告された。 1970年、当時北海道大学の大澤映二は、ベンゼンが5つ集まって皿状になった「コランニュレン」という物質の構造がサッカーボールの一部と同じであることに気づいた。ここから、実際にサッカーボール状の C60 も存在しうると考え、考察の結果を和文雑誌などに公表した。だが、これが掲載されたのは日本語の文献のみで、英語などでは発表していなかったため、欧米の科学者には知られることはなかった。 同じく1970年、R. W. HensonはC60の構造モデルを提唱した。だが、このモデルが現実に存在するとは誰にも思われず、彼の同僚にすら受け入れられなかった。そのため、このアイデアの論文は発表されることはなかったことが、1999年のCarbon誌に明かされている。 これらの成果とは独立に、1973年、Prof.Bochvar率いるロシアの科学者グループは、C60の安定性の量子化学的分析を行い、この分子構造の電子状態を計算した。この計算結果も学界では受け入れられなかった。この論文は1973年のロシアの"Proceeding of USSR Academy of Sciences"から発表された 。 1985年、C60フラーレンの実在がハロルド・クロトー、リチャード・スモーリー、ロバート・カールらによって初めて発見された。この発見により、発見者の三人は、1996年度のノーベル化学賞を受賞した。 1992年、ロシアのカレリア共和国産の"炭素鉱物シュンガ石(shungite)"(まだ正式に鉱物種とは認められていない) に C60 が含まれていると報告された。その後京都大学で分析が行われ、2004年に重量比で約20ppmの C60 が含まれていると発表された。2007年現在、生成の機構は不明である。 2010年9月4日、C60フラーレン発見25年を記念して、Googleホームページのロゴが特別バージョンとなった(画像)。 炭素原子60個からなる切頂二十面体(サッカーボール状)構造、直径7.1Åのフラーレンを、C60フラーレンと呼ぶ。IUPAC命名法では (C60-Ih)[5,6]フラーレンという。また、同様の構造を持ったドームジオデシック・ドームのデザイナーであるバックミンスター・フラーの名をとって、バックミンスターフラーレン (Buckminsterfullerene) 、バッキーボール (Buckyball) とも呼ぶ。6員環が20、5員環が12、60本の単結合、30本の二重結合で形成されており、余った結合が出ない安定な構造である。 フラーレン (C60) は、固体構造(ファンデルワールス結晶)をとる場合がある。C60 を一つの粒子とみなして、その粒子が面心立方構造(常温での安定相)をとる。260 K以下では、単純立方構造が安定となる。また、常温での準安定相として六方晶構造も存在する。これらの構造で、個々のフラーレンは高速で回転している。常温で毎秒およそ10から10回転するが、低温では回転は遅くなる。さらに、その粒子間(C60間)にアルカリ金属などがインターカレートした構造も存在(面心立方的構造、体心立方的構造などとなる)する。アルカリ金属などをインターカレートした構造の中には、超伝導を示すものも存在する。カリウムをドープした K3C60 は C60 を面心立方 (fcc) で組み上げ C60 分子間に K が入り込む形になっていて、その転移温度は30 Kを超える。他に二価金属のBaでも Ba4C60 となり、10 K以下だがやはり超伝導を示す。 炭素原子の数が60個を超えているクラスターも存在する。これを高次フラーレンと呼ぶ。アーク放電法などによるC60フラーレン合成の際、これら高次フラーレンが少量ながら生成される。炭素数が70, 74, 76, 78......のものなどが単離されている。これらも全て5員環・6員環から成っており、7員環以上の環を持つフラーレンは実際には発見されていない。炭素の数がいくつになっても5員環の数は12と決まっており、6員環の数だけが増えていく(オイラーの多面体定理より)。 また、フラーレン骨格においては5員環は隣り合わせにならないという規則がある(孤立5員環則、IPR)。C60 フラーレンはIPRを満たす最小のフラーレンであり、その次が C70 となる。C62 や C68 などが発見されないのは、これらがIPRを満たし得ない炭素数だからと考えられる(ただし後述のように、内包フラーレンでは例外が存在する)。 炭素原子が60個以下のフラーレンは、特殊な例を除いて安定しては存在できない。 炭素によって作られる六員環ネットワーク(グラフェンシート)が単層あるいは多層の同軸管状になった物質。炭素の同素体で、フラーレンの一種に分類されることがある。詳しくはカーボンナノチューブを参照。 フラーレンを原料に高温高圧下で生成される物質。ダイヤモンド・ナノロッド凝集体(Aggregated diamond nanorod、ADNR)とも呼ばれる。市販の多結晶質ダイヤモンドより3倍程度硬い(摩耗抵抗、破壊靱性)とされる。詳しくはハイパーダイヤモンドを参照。 クロトー、スモーリー、カールは真空状態でグラファイトにレーザー光線を当てて蒸発させ、フラーレンを発見した。この方法によって得られるフラーレンの量は極少量であったが、1990年にドイツでアーク放電により大量にフラーレンを合成する方法が発見され、フラーレンの研究が進展するきっかけとなった。その後、炭化水素を燃焼させたりプラズマで分解するなど、さまざまな方法が開発されている。2000年代に入り、燃焼法によるトン単位の大量生産も行われるようになった。 一方、フラーレンの有機化学的手法による合成は難航したが、2002年になって、11段階で作った前駆体を瞬間真空熱分解(英語版)で処理することにより初めて成功した(収率は約0.1%–1%)。その後、トルキセンから三段階で作った前駆体を白金上で加熱することにより効率よくフラーレンに変換することに成功した。また、単層グラフェンに担持した同じ前駆体に電子線照射することによってフラーレンに変換される様子を原子分解能の電子顕微鏡映像として記録することにも成功している。 フラーレン生成時にある種の金属元素をグラファイト中に加えておくと、中空の骨格内に金属原子を包み込んだフラーレンが得られる。これを内包フラーレンと呼び、M@C60 などと書き表す。これまでスカンジウム、ランタン、セリウム、チタンなどを内包したフラーレンが得られているが、アルミニウムや鉄、金などを内包したものは得られておらず、こうした選択性の理由ははっきりしていない。 金属ではなく窒素原子を閉じこめた N@C60、2つ以上の金属原子を含んだ (Sc2C2)@C72、2種以上の元素を内包した (Sc3N)@C80 などの化合物も得られている。ウランは C82 に、トリウムは C84 に入る。また、ウラン2個が C80 に入るなど、元素によって炭素数との相性がある。 京都大学の小松紘一らは、有機化学的な手法によってフラーレン骨格に穴を開け、水素分子を封入した上で穴を閉じて元のフラーレン骨格を再生し、H2@C60 という分子を人工合成することに成功している。小松はこれを「分子手術(Molecular Surgery)」と呼んでいる。 名古屋大学の坂田誠らはSPring-8の放射光と最大エントロピー法 (MEM) を用いて Sc2@C66 の構造解析を行い、孤立5員環則を破るフラーレンの存在を証明した。 フラーレンは物理的に極めて安定で、水や有機溶媒に溶けにくい性質を持つ。このため、この物体単体の利用開発が妨げられている。だが、化学反応性に富み、化学修飾をほどこし水溶性を増すことで、様々な試薬と反応することが知られており、様々な分野での開発研究が進められている。これは球面状に芳香環が歪められているため芳香族性が低下し、適当な反応性を持つためと考えられる。現在までに様々な反応が報告されており、C60は単一分子として最も反応性がよく調べられた分子となっている。 主な反応として水素やハロゲンの付加反応、有機金属試薬の求核付加反応、[3+2]・[4+2]などの環化付加反応などがある。また二重結合は白金やイリジウムなどの配位子としても働き、錯体を形成することが知られている。また、2個の C60 が結合して出来た二量体や、さらに密に結合した落花生型などの C120、3個が結合したトリマーの C180 や、多数のフラーレンが結合したポリマーなども合成されている。 フラーレンに置換基を導入する反応の中でも、以下の二つの反応がよく知られている。 Bingel-Hirsh反応とも呼ばれる。ブロモマロン酸エステルをDBUによりエノラート化し、フラーレンに求核付加する。その後、フラーレンに生じた負電荷がSN2反応でマロン酸部位を攻撃し、三員環構造を形成する。ヨウ素やテトラブロモメタンを共存させることで、ハロゲン化されていないマロン酸エステルも反応させることが可能である。 アルデヒド化合物とグリシンなどのアミノ酸をまず反応させ、アゾメチンイリドを形成させる。次いでフラーレンと1,3-双極子付加反応を起こさせ、最終的にフラーレン上にピロリジン環が形成される。 ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の特効薬としての利用が検討されている。HIVは増殖の際にHIVプロテアーゼという酵素を必要とする。この酵素は脂溶性の空隙があり、ここにちょうどフラーレンがはまり込んでその作用を阻害する。このためある種のフラーレン誘導体は抗HIV活性を示し、臨床試験が進行中である。 遺伝子の導入にフラーレンが有効であることが判明している。C60フラーレンに四つのアミノ基をつけた水溶性フラーレン(TPFE)はDNAとの結合が可能である。DNAと結合したTPFEは細胞膜を通り抜けた後に分離し、放たれたDNAは発現する。フラーレンは低毒性で、TPFEを使った遺伝子治療は安全だといわれている。遺伝子導入には今までウイルスや脂質類似物を「運び屋」として使う方法があったが、臓器障害などの安全性の問題があった。しかし、東大大学院理学系研究科の中村栄一教授と東大医学部付属病院の野入英世准教授らの、マウスを使った実験ではTPFEによる遺伝子導入に臓器障害が見られなかったという。また、TPFEは安価で大量生産できるため、TPFEによる遺伝子治療は安価で利用できるという。 活性酸素やラジカルを消去する作用により、美肌効果や肌の老化防止効果があるとされており、美容液やローションなどに配合されている。 n型半導体材料として、PCBMなどの誘導体を用いた研究が進められている。 基礎研究の段階ではC60フラーレンをボールベアリングのボールのように用いて動摩擦をほぼゼロにできる事が分かっており、ナノマシンの潤滑剤としての用途などが考えられている。日本では、2000年代にバーディークラブという過去に存在したメーカーがフラーレンC60を使用し、摩擦低減を効果的に実現する添加剤を製造していた。しかし、製造コストが高かった事もあり、短期間で製造が打ち切られた。
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"text": "名古屋大学の坂田誠らはSPring-8の放射光と最大エントロピー法 (MEM) を用いて Sc2@C66 の構造解析を行い、孤立5員環則を破るフラーレンの存在を証明した。", "title": "内包フラーレン" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "フラーレンは物理的に極めて安定で、水や有機溶媒に溶けにくい性質を持つ。このため、この物体単体の利用開発が妨げられている。だが、化学反応性に富み、化学修飾をほどこし水溶性を増すことで、様々な試薬と反応することが知られており、様々な分野での開発研究が進められている。これは球面状に芳香環が歪められているため芳香族性が低下し、適当な反応性を持つためと考えられる。現在までに様々な反応が報告されており、C60は単一分子として最も反応性がよく調べられた分子となっている。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "主な反応として水素やハロゲンの付加反応、有機金属試薬の求核付加反応、[3+2]・[4+2]などの環化付加反応などがある。また二重結合は白金やイリジウムなどの配位子としても働き、錯体を形成することが知られている。また、2個の C60 が結合して出来た二量体や、さらに密に結合した落花生型などの C120、3個が結合したトリマーの C180 や、多数のフラーレンが結合したポリマーなども合成されている。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "フラーレンに置換基を導入する反応の中でも、以下の二つの反応がよく知られている。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Bingel-Hirsh反応とも呼ばれる。ブロモマロン酸エステルをDBUによりエノラート化し、フラーレンに求核付加する。その後、フラーレンに生じた負電荷がSN2反応でマロン酸部位を攻撃し、三員環構造を形成する。ヨウ素やテトラブロモメタンを共存させることで、ハロゲン化されていないマロン酸エステルも反応させることが可能である。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アルデヒド化合物とグリシンなどのアミノ酸をまず反応させ、アゾメチンイリドを形成させる。次いでフラーレンと1,3-双極子付加反応を起こさせ、最終的にフラーレン上にピロリジン環が形成される。", "title": "反応" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の特効薬としての利用が検討されている。HIVは増殖の際にHIVプロテアーゼという酵素を必要とする。この酵素は脂溶性の空隙があり、ここにちょうどフラーレンがはまり込んでその作用を阻害する。このためある種のフラーレン誘導体は抗HIV活性を示し、臨床試験が進行中である。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "遺伝子の導入にフラーレンが有効であることが判明している。C60フラーレンに四つのアミノ基をつけた水溶性フラーレン(TPFE)はDNAとの結合が可能である。DNAと結合したTPFEは細胞膜を通り抜けた後に分離し、放たれたDNAは発現する。フラーレンは低毒性で、TPFEを使った遺伝子治療は安全だといわれている。遺伝子導入には今までウイルスや脂質類似物を「運び屋」として使う方法があったが、臓器障害などの安全性の問題があった。しかし、東大大学院理学系研究科の中村栄一教授と東大医学部付属病院の野入英世准教授らの、マウスを使った実験ではTPFEによる遺伝子導入に臓器障害が見られなかったという。また、TPFEは安価で大量生産できるため、TPFEによる遺伝子治療は安価で利用できるという。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "活性酸素やラジカルを消去する作用により、美肌効果や肌の老化防止効果があるとされており、美容液やローションなどに配合されている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "n型半導体材料として、PCBMなどの誘導体を用いた研究が進められている。", "title": "応用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "基礎研究の段階ではC60フラーレンをボールベアリングのボールのように用いて動摩擦をほぼゼロにできる事が分かっており、ナノマシンの潤滑剤としての用途などが考えられている。日本では、2000年代にバーディークラブという過去に存在したメーカーがフラーレンC60を使用し、摩擦低減を効果的に実現する添加剤を製造していた。しかし、製造コストが高かった事もあり、短期間で製造が打ち切られた。", "title": "応用" } ]
フラーレン は、閉殻空洞状の多数の炭素原子のみで構成される、クラスターの総称である。共有結合結晶であるダイヤモンドおよびグラファイトと異なり、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の同素体である。呼び名はバックミンスター・フラーの建築物であるジオデシック・ドームに似ていることからフラーレンと名づけられたとされる。最初に発見されたフラーレンは、炭素原子60個で構成されるサッカーボール状のような構造を持ったC60フラーレンである。
[[ファイル:Fullerene-C60.png|thumb|{{chem|C|60}} の球棒モデル]]'''フラーレン''' ({{lang-en-short|fullerene}} {{IPA-en|ˈfʊləˌriːn|}}、{{lang-de-short|Fulleren}} {{IPA-de|fʊləˈreːn|}}) は、閉殻空洞状の多数の[[炭素]]原子のみで構成される、[[クラスター (物質科学)|クラスター]]の総称である。共有結合結晶である[[ダイヤモンド]]および[[グラファイト]]と異なり、数十個の原子からなる構造を単位とする炭素の[[同素体]]である。呼び名は[[バックミンスター・フラー]]の建築物である[[ジオデシック・ドーム]]に似ていることからフラーレンと名づけられたとされる<ref>{{Cite |和書 |author = 浜島書店編集部 |title = ニューステージ新化学図表 |date = 2011 |pages = 134 |edition = |publisher = 浜島書店 |isbn = 9784834340082 |series = |ref = harv}}</ref>。最初に発見されたフラーレンは、炭素[[原子]]60個で構成される[[サッカーボール]]状のような構造を持った[[バックミンスターフラーレン|{{chem|C|60}}フラーレン]]である。 == 歴史 == {{chem|C|60}}フラーレンの発見は1985年であるが、それ以前に {{chem|C|60}} 構造の存在は予測されていた。 1965年、{{chem|C|60}}{{chem|H|60}}の二十面体トポロジー構造が可能であることが報告された<ref> {{cite journal |last1=Schultz|first1=H.P. |year = 1965 |title = Topological Organic Chemistry. Polyhedranes and Prismanes |journal = [[Journal of Organic Chemistry]] |volume = 30|pages = 1361 |doi = 10.1021/jo01016a005 }}</ref>。 [[ファイル:Biosphère Montréal.jpg|サムネイル|[[バックミンスター・フラー]]の建築物であるジオデシック・ドーム]] 1970年、当時[[北海道大学]]の[[大澤映二]]は、[[ベンゼン]]が5つ集まって皿状になった「[[コランニュレン]]」という物質の構造がサッカーボールの一部と同じであることに気づいた。ここから、実際にサッカーボール状の {{chem|C|60}} も存在しうると考え、考察の結果を和文雑誌などに公表した<ref> {{cite journal |last = Osawa|first = E. |year = 1970 |journal = Kagaku |volume = 25|pages = 854 }}</ref><ref> {{cite journal |last = Halford|first = B. |date = 9 October 2006 |title = The World According to Rick |url = http://pubs.acs.org/cen/coverstory/84/8441cover.html |journal = [[Chemical & Engineering News]] |volume = 84|issue = 41|pages = 13 }}</ref>。だが、これが掲載されたのは日本語の文献のみで、英語などでは発表していなかったため、欧米の科学者には知られることはなかった。 同じく1970年、R. W. Hensonは{{chem|C|60}}の構造モデルを提唱した。だが、このモデルが現実に存在するとは誰にも思われず、彼の同僚にすら受け入れられなかった。そのため、このアイデアの論文は発表されることはなかったことが、1999年の''[[:en:Carbon (journal)|Carbon]]誌''に明かされている<ref> {{cite journal |last = Thrower|first = P.A.|authorlink=Peter Thrower |year = 1999 |title = Editorial |journal = [[Carbon (journal)|Carbon]] |volume = 37|pages = 1677 |doi = 10.1016/S0008-6223(99)00191-8 }}</ref><ref> {{cite web |last = Henson|first = R.W. |url = http://www.solina.demon.co.uk/c60.htm |title = The History of Carbon 60 or Buckminsterfullerene |accessdate = 2010-07-04 }}</ref>。 これらの成果とは独立に、1973年、Prof.Bochvar率いるロシアの科学者グループは、{{chem|C|60}}の安定性の量子化学的分析を行い、この分子構造の電子状態を計算した。この計算結果も学界では受け入れられなかった。この論文は1973年のロシアの"Proceeding of USSR Academy of Sciences"から発表された <ref> {{cite journal |last = Bochvar|first = D.A. |last2 = Galpern|first2 = E.G. |year = 1973 |journal = [[Proceedings_of_the_USSR_Academy_of_Sciences|Dokl. Acad. Nauk SSSR]] |volume = 209 |pages = 610 }}</ref>。 1985年、[[バックミンスターフラーレン|{{chem|C|60}}フラーレン]]の実在が[[ハロルド・クロトー]]、[[リチャード・スモーリー]]、[[ロバート・カール]]らによって初めて発見された。この発見により、発見者の三人は、[[1996年]]度の[[ノーベル化学賞]]を受賞した。 [[1992年]]、[[ロシア]]の[[カレリア共和国]]産の"炭素鉱物シュンガ石([[:w:Shungite|shungite]])"(まだ正式に鉱物種とは認められていない) に {{chem|C|60}} が含まれていると報告された。その後[[京都大学]]で分析が行われ、[[2004年]]に重量比で約20[[ppm]]の {{chem|C|60}} が含まれていると発表された<ref>[https://web.archive.org/web/20070812035659/http://www.nanostruct-mater.jst.go.jp/dew/2004/tanaka01.html 霧のカレリアと天然C60](2007年8月12日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。2007年現在、生成の機構は不明である。 [[2010年]][[9月4日]]、{{chem|C|60}}フラーレン発見25年を記念して、[[Google]]ホームページのロゴが特別バージョンとなった([https://www.google.co.jp/logos/2010/buckyball10-hp.gif 画像])。 == バリエーション == === {{chem|C|60}}フラーレン === {{main|バックミンスターフラーレン}} 炭素[[原子]]60個からなる[[切頂二十面体]]([[サッカーボール]]状)構造、直径7.1Å<ref>ブリタニカ百科事典</ref>のフラーレンを、[[バックミンスターフラーレン|{{chem|C|60}}フラーレン]]と呼ぶ。[[IUPAC命名法]]では '''({{chem|C|60}}-I<sub>h</sub>)[5,6]フラーレン'''という。また、同様の構造を持ったドーム[[ジオデシック・ドーム]]のデザイナーである'''[[バックミンスター・フラー]]'''の名をとって、[[バックミンスターフラーレン]] (Buckminsterfullerene) 、バッキーボール (Buckyball) とも呼ぶ。6員環が20、5員環が12、60本の単結合、30本の二重結合で形成されており、余った結合が出ない安定な構造である。 フラーレン ({{chem|C|60}}) は、固体構造([[ファンデルワールス結晶]])をとる場合がある。{{chem|C|60}} を一つの粒子とみなして、その粒子が[[面心立方構造]](常温での安定相)をとる。260&nbsp;[[ケルビン|K]]以下では、[[単純立方構造]]が安定となる。また、常温での[[準安定相]]として[[六方最密充填構造|六方晶構造]]も存在する。これらの構造で、個々のフラーレンは高速で回転している。常温で毎秒およそ10<sup>8</sup>から10<sup>9</sup>回転するが、低温では回転は遅くなる。さらに、その粒子間({{chem|C|60}}間)に[[アルカリ金属]]などが[[インターカレート]]した構造も存在(面心立方的構造、体心立方的構造などとなる)する。アルカリ金属などをインターカレートした構造の中には、[[超伝導]]を示すものも存在する。[[カリウム]]をドープした {{chem|K|3}}{{chem|C|60}} は {{chem|C|60}} を面心立方 (fcc) で組み上げ {{chem|C|60}} 分子間に K<sup>+</sup> が入り込む形になっていて、その転移温度は30&nbsp;Kを超える。他に二価金属のBaでも {{chem|Ba|4}}{{chem|C|60}} となり、10&nbsp;K以下だがやはり超伝導を示す。 === 高次フラーレン === {{main|高次フラーレン}} 炭素原子の数が60個を超えているクラスターも存在する。これを高次フラーレンと呼ぶ。アーク放電法などによる{{chem|C|60}}フラーレン合成の際、これら高次フラーレンが少量ながら生成される。炭素数が70, 74, 76, 78……のものなどが単離されている。これらも全て5員環・6員環から成っており、7員環以上の環を持つフラーレンは実際には発見されていない。炭素の数がいくつになっても5員環の数は12と決まっており、6員環の数だけが増えていく([[オイラーの多面体定理]]より)。 また、フラーレン骨格においては5員環は隣り合わせにならないという規則がある(孤立5員環則、IPR)。{{chem|C|60}} フラーレンはIPRを満たす最小のフラーレンであり、その次が [[C70フラーレン|C<sub>70</sub>]] となる。C<sub>62</sub> や C<sub>68</sub> などが発見されないのは、これらがIPRを満たし得ない炭素数だからと考えられる(ただし後述のように、内包フラーレンでは例外が存在する)。 === 低次フラーレン === {{main|低次フラーレン}} 炭素原子が60個以下のフラーレンは、特殊な例を除いて安定しては存在できない。 === カーボンナノチューブ === {{main|カーボンナノチューブ}} 炭素によって作られる六員環ネットワーク([[グラフェン]]シート)が単層あるいは多層の同軸管状になった物質。炭素の同素体で、フラーレンの一種に分類されることがある。詳しくは[[カーボンナノチューブ]]を参照。 === ハイパーダイヤモンド === {{main|ハイパーダイヤモンド}} フラーレンを原料に高温高圧下で生成される物質。ダイヤモンド・ナノロッド凝集体(Aggregated diamond nanorod、ADNR)とも呼ばれる。市販の多結晶質ダイヤモンドより3倍程度硬い(摩耗抵抗、破壊靱性)とされる<ref>{{cite journal |author=Natalia Dubrovinskaia ''et al.''|title=Superior Wear Resistance of Aggregated Diamond Nanorods|journal=Nano Letters|volume=6|pages=824-864|year=2006|doi=10.1021/nl0602084}}</ref><ref name=05sasaki>[https://web.archive.org/web/20130328054744/http://jdream2.jst.go.jp/jdream/action/JD71001Disp?APP=jdream&action=reflink&origin=JGLOBAL&versiono=1.0&lang-japanese&db=JSTPlus&doc=06A0388335&fulllink=no&md5=a5e83252b5340bcb8315eff15c0edf6d JST ダイヤモンド・ナノロッド凝集体の優れた磨耗抵抗性](2013年3月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。詳しくは[[ハイパーダイヤモンド]]を参照。 == 合成法 == [[ファイル:C60-Fulleren-kristallin.JPG|thumb|C60の結晶]] クロトー、スモーリー、カールは真空状態で[[グラファイト]]に[[レーザー光線]]を当てて蒸発させ、フラーレンを発見した。この方法によって得られるフラーレンの量は極少量であったが、[[1990年]]にドイツで[[アーク放電]]により大量にフラーレンを合成する方法が発見され、フラーレンの研究が進展するきっかけとなった。その後、[[炭化水素]]を燃焼させたり[[プラズマ]]で分解するなど、さまざまな方法が開発されている。2000年代に入り、燃焼法によるトン単位の大量生産も行われるようになった。 一方、フラーレンの有機化学的手法による合成は難航したが、[[2002年]]になって、11段階で作った前駆体を{{仮リンク|瞬間真空熱分解|en|Flash vacuum pyrolysis}}で処理することにより初めて成功した(収率は約0.1%–1%)<ref>Scott, L. T. et al. (2002). ''Science'' '''295''': 1500.</ref>。その後、[[トルキセン]]から三段階で作った前駆体を[[白金]]上で加熱することにより効率よくフラーレンに変換することに成功した<ref>G. Otero et al. (2008). ''Nature'' ''454'', ''865''. </ref><ref>[https://www.chem-station.com/archives/2011/10/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%BB%E3%83%B3-truxene.html トルキセン]、Chem-station</ref>。また、単層グラフェンに担持した同じ前駆体に電子線照射することによってフラーレンに変換される様子を原子分解能の電子顕微鏡映像として記録することにも成功している<ref>{{Cite journal|last=Lungerich|first=Dominik|last2=Hoelzel|first2=Helen|last3=Harano|first3=Koji|last4=Jux|first4=Norbert|last5=Amsharov|first5=Konstantin Yu.|last6=Nakamura|first6=Eiichi|date=2021-05-21|title=A Singular Molecule-to-Molecule Transformation on Video: The Bottom-Up Synthesis of Fullerene C 60 from Truxene Derivative C 60 H 30|url=https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acsnano.1c02222|journal=ACS Nano|pages=acsnano.1c02222|language=en|doi=10.1021/acsnano.1c02222|issn=1936-0851}}</ref>。 == 内包フラーレン == フラーレン生成時にある種の金属元素をグラファイト中に加えておくと、中空の骨格内に金属原子を包み込んだフラーレンが得られる。これを内包フラーレンと呼び、M@{{chem|C|60}} などと書き表す。これまで[[スカンジウム]]、[[ランタン]]、[[セリウム]]、[[チタン]]などを内包したフラーレンが得られているが、[[アルミニウム]]や[[鉄]]、[[金]]などを内包したものは得られておらず、こうした選択性の理由ははっきりしていない。 金属ではなく窒素原子を閉じこめた N@{{chem|C|60}}、2つ以上の金属原子を含んだ ({{chem|Sc|2}}C<sub>2</sub>)@C<sub>72</sub>、2種以上の元素を内包した (Sc<sub>3</sub>N)@C<sub>80</sub> などの化合物も得られている。[[ウラン]]は C<sub>82</sub> に、[[トリウム]]は C<sub>84</sub> に入る。また、ウラン2個が C<sub>80</sub> に入るなど、元素によって炭素数との相性がある。 [[京都大学]]の小松紘一らは、有機化学的な手法によってフラーレン骨格に穴を開け、水素分子を封入した上で穴を閉じて元のフラーレン骨格を再生し、H<sub>2</sub>@{{chem|C|60}} という分子を人工合成することに成功している。小松はこれを「分子手術(Molecular Surgery)」と呼んでいる。 [[名古屋大学]]の坂田誠らは[[SPring-8]]の放射光と最大エントロピー法 (MEM) を用いて {{chem|Sc|2}}@C<sub>66</sub> の構造解析を行い、孤立5員環則を破るフラーレンの存在を証明した。 == 反応 == フラーレンは物理的に極めて安定で、水や[[有機溶媒]]に溶けにくい性質を持つ。このため、この物体単体の利用開発が妨げられている。だが、[[化学反応]]性に富み、化学修飾をほどこし水溶性を増すことで、様々な試薬と反応することが知られており、様々な分野での開発研究が進められている。これは球面状に芳香環が歪められているため芳香族性が低下し、適当な反応性を持つためと考えられる。現在までに様々な反応が報告されており、{{chem|C|60}}は単一分子として最も反応性がよく調べられた分子となっている。 主な反応として[[水素]]や[[ハロゲン]]の付加反応、[[有機金属化学|有機金属試薬]]の求核付加反応、[3+2]・[4+2]などの環化付加反応などがある。また二重結合は[[白金]]や[[イリジウム]]などの配位子としても働き、[[錯体]]を形成することが知られている。また、2個の {{chem|C|60}} が結合して出来た二量体や、さらに密に結合した落花生型などの C<sub>120</sub>、3個が結合したトリマーの C<sub>180</sub> や、多数のフラーレンが結合したポリマーなども合成されている。 フラーレンに置換基を導入する反応の中でも、以下の二つの反応がよく知られている。 === Bingel反応 === Bingel-Hirsh反応とも呼ばれる。[[臭素|ブロモ]][[マロン酸]][[エステル]]を[[ジアザビシクロウンデセン|DBU]]によりエノラート化し、フラーレンに求核付加する。その後、フラーレンに生じた負電荷が[[SN2反応|S<sub>N</sub>2反応]]でマロン酸部位を攻撃し、三員環構造を形成する。[[ヨウ素]]や[[四臭化炭素|テトラブロモメタン]]を共存させることで、ハロゲン化されていないマロン酸エステルも反応させることが可能である。 [[ファイル:Bingel_reaction.png|center|Bingel反応]] === Prato反応 === [[アルデヒド]]化合物と[[グリシン]]などの[[アミノ酸]]をまず反応させ、[[アゾメチンイリド]]を形成させる。次いでフラーレンと[[1,3-双極子付加反応]]を起こさせ、最終的にフラーレン上に[[ピロリジン]]環が形成される。 == 応用 == === 医薬 === [[ヒト免疫不全ウイルス]](HIV)の特効薬としての利用が検討されている。HIVは増殖の際に[[HIVプロテアーゼ]]という[[酵素]]を必要とする。この酵素は脂溶性の空隙があり、ここにちょうどフラーレンがはまり込んでその作用を阻害する。このためある種のフラーレン誘導体は抗HIV活性を示し、[[臨床試験]]が進行中である。 [[遺伝子工学|遺伝子の導入]]にフラーレンが有効であることが判明している<ref>[http://www.s.u-tokyo.ac.jp/press/press-2010-07.html 世界初、フラーレンによる動物への遺伝子導入に成功] [[東京大学]]大学院理工系研究科・理学科 プレスリリース 2010年2月23日付 (2010年3月13日閲覧.)</ref><ref>[http://www.h.u-tokyo.ac.jp/news/news.php?newsid=631 世界初、フラーレンによる動物への遺伝子導入に成功] 東京大学医学部付属病院 2010年2月23日付 (2010年3月13日閲覧.)</ref>。{{chem|C|60}}フラーレンに四つのアミノ基をつけた水溶性フラーレン(TPFE)はDNAとの結合が可能である。[[DNA]]と結合したTPFEは細胞膜を通り抜けた後に分離し、放たれたDNAは[[転写 (生物学)|発現]]する。フラーレンは低毒性で、TPFEを使った[[遺伝子治療]]は安全だといわれている。遺伝子導入には今まで[[ウイルス]]や[[脂質]]類似物を「運び屋」として使う方法があったが、臓器障害などの安全性の問題があった。しかし、東大大学院理学系研究科の[[中村栄一]]教授と東大医学部付属病院の[[野入英世]]准教授らの、マウスを使った実験ではTPFEによる[[遺伝子導入]]に臓器障害が見られなかったという。また、TPFEは安価で大量生産できるため、TPFEによる遺伝子治療は安価で利用できるという。 === 化粧品 === [[活性酸素]]や[[ラジカル (化学)|ラジカル]]を消去する作用<ref>{{Cite press release |和書 |title=ナノ炭素材料に自然界最高レベルの活性酸素除去能を発見|publisher=産総研|date=2007-02-09|url=https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2007/pr20070209/pr20070209.html|accessdate=2017-07-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.f-carbon.com/special_03.html|title=フラーレンによる熱分解抑制効果|publisher=フロンティアカーボン|accessdate=2017-07-22}}</ref>により、{{要出典|[[美肌]]効果や肌の[[老化防止]]効果があるとされており|date=2017年7月}}、[[美容液]]や[[化粧水|ローション]]などに配合されている。 === 電子材料 === n型[[半導体]]材料として、[[PCBM]]などの誘導体を用いた研究が進められている。 === 潤滑 === [[基礎研究]]の段階では{{chem|C|60}}フラーレンを[[ボールベアリング]]のボールのように用いて[[摩擦|動摩擦]]をほぼゼロにできる事が分かっており、[[ナノマシン]]の[[潤滑剤]]としての用途などが考えられている<ref>『[http://www.jst.go.jp/kisoken/seika/zensen/05sasaki/ 世界初、摩擦ゼロの超潤滑システムを開発]』 科学技術振興機構 基礎研究最前線 Vol.5</ref>。日本では、2000年代にバーディークラブという過去に存在したメーカーがフラーレンC60を使用し、摩擦低減を効果的に実現する添加剤を製造していた。しかし、製造コストが高かった事もあり、短期間で製造が打ち切られた。 == 出典 == {{reflist|2}} == 参考文献 == *[[篠原久典]]・齋藤弥八 『フラーレンの化学と物理』名古屋大学出版会 ISBN 978-4-8158-0307-0 *[[伊達宗行]] 『新しい物性物理』 講談社ブルーバックス ISBN 4-06-257483-7 *[[篠原久典]] 『ナノカーボンの科学』講談社ブルーバックス ISBN 978-4-06-257566-9 *季刊化学総説No.43 『炭素第三の同素体 フラーレンの化学』日本化学会編 ==関連文献== *{{Cite journal |和書|author =松尾豊|author2=中村栄一|authorlink2=中村栄一|title =官能基化フラーレンの合成と構造|date =2007|publisher =有機合成化学協会|journal =有機合成化学協会誌|volume =65|issue =1|doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.65.44|pages =44-53|ref = }} == 関連項目 == {{Commonscat|Fullerenes}} * [[バックミンスターフラーレン]] * [[金属フラーレン]] * [[カーボンナノチューブ]] * [[カーボンナノホーン]] * [[グラファイト]] * [[ダイヤモンド]] * [[ハイパーダイヤモンド]] * [[飯島澄男]] * [[遠藤守信]] * [[コランニュレン]] * [[スマネン]] * [[ヘテロフラーレン]] == 外部リンク == *[https://omoshirobunshisukan.blogspot.com/2019/09/blog-post_17.html フラーレンの種類や変わったフラーレン] *[http://www.fullerene-jp.org/ フラーレン・ナノチューブ学会] * [http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2005/051226/index.html フラーレンで光触媒コート材料の耐久性が2倍に向上] - 高耐久のフラーレン複合化光触媒組成物を提供- 2005/12/26 (独立行政法人 [[理化学研究所]]) * [http://www.org-chem.org/yuuki/C60/C60.html サッカーボール分子・バックミンスターフラーレン] - 有機化学美術館 ** [http://www.org-chem.org/yuuki/fullerene1/fullerene.html 続・フラーレンの話] ** [http://www.org-chem.org/yuuki/C60syn/C60syn.html フラーレンの全合成] ** [http://www.org-chem.org/yuuki/fullerene/fullerene2.html フラーレンの新世界] ** [http://www.org-chem.org/yuuki/fullerene5/fullerene5.html フラーレンと超分子] * [http://www.sigmaaldrich.com/japan/materialscience/org-electronics/pcbmlibrarys.html フラーレン・フラーレン誘導体] - [[シグマアルドリッチ]] {{炭素の同素体}} {{新技術|topics=yes|materials=yes}}{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふられん}} [[Category:フラーレン|*]] [[Category:炭素の単体]] [[Category:ナノテクノロジー]] [[Category:同素体]] [[Category:リチャード・スモーリー]]
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ギニア
ギニア共和国(ギニアきょうわこく)、通称ギニアは、西アフリカにある共和制国家。北にセネガル、北西にギニアビサウ、北東にマリ、南にシエラレオネ、リベリア、南東にコートジボワールと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はコナクリである。 旧フランス植民地帝国の中でも、1958年に他の植民地に先駆けて国民投票で独立した国家の一つ。 国名が似ているため混同しやすいが、ギニア共和国と赤道ギニア共和国は全く別の国である。 正式名称はフランス語でRépublique de Guinée(レピュブリク・ドゥ・ギネ)。通称はGuinée(ギネ)。 公式の英語表記はRepublic of Guinea(リパブリック・オブ・ギニー)。通称はGuinea(ギニー)。 日本語の表記はギニア共和国で、通称はギニア。1958年、フランス領西アフリカからの独立時には現在と同じ国名であったが、1978年には当時のセク・トゥーレ政権によって「ギニア人民革命共和国」と改称した。その後、1984年にトゥーレが死去してランサナ・コンテ政権になると、ギニア共和国という国名を復活させた。 「ギニア」の国名の由来には諸説ある。赤道ギニアやギニアビサウ、パプアニューギニアとは、それぞれ別の国である。これらを区別するため、首都の名を冠して「ギニア・コナクリ」と呼ばれることも多い。 12世紀にガーナ王国が滅ぼされると、スースー族(英語版)は反イスラムのスースー王国(英語版)を興して、ベルベル人によるイスラム国家であるムラービト朝に対抗した。 大航海時代の16世紀初頭、ヨーロッパ人が海岸部に到達し、奴隷貿易を行なった。18世紀に入るとフラニ人の聖戦の波がこの地方に押し寄せ、1725年にはフータ・ジャロンのen:Timboを王都とするフータ・ジャロン王国が興った。上ギニアでは1878年、サモリ・トゥーレがen:Bissanduguを王都とするジュラ族(英語版)のサモリ帝国(英語版)を興した。一方、海岸部では19世紀に入るとフランスが勢力を拡大し、1890年にコナクリを首都とする植民地フランス領ギニア(英語版)(Guinée française)が建設され、ノエル・バレイ(フランス語版)が初代総督に就任した。フランスは内陸部の諸王国へと侵攻し、1896年にはフータ・ジャロンを屈服させ、1898年にはサモリ帝国を滅ぼしてギニア全域に支配権を確立した。 内陸部の開発のため、1913年にはコナクリからカンカンまでの鉄道が建設された。1946年には他のフランス領西アフリカ諸国と同様に限定的な選挙権を獲得した。以後の選挙ではアフリカ民主連合に属するギニア民主党(PDG)が勝利し続け、1952年にはセク・トゥーレが同党の書記長に就任した。 1958年に行われた国民投票でギニアは、フランス共同体内の自治共和国となることを拒否したため、セク・トゥーレ大統領の下でギニア共和国として完全独立することとなった。しかしフランスはこれを受けてフランス人の全職員・技術者および施設を即座に引き揚げたためギニアの行政機能は麻痺し、また両国間の関係は悪化の一途をたどって1965年には国交断絶となった。この状況を打開するためトゥーレは社会主義施策を敷き、政敵および人権論者の抑圧を行った。また、1958年には同じく先進諸国からの自立を志向するガーナとアフリカ諸国連合を結成している。1970年11月22日、ギニアビサウ独立戦争の中で、隣接するポルトガル領ギニアの独立運動を支援していたトゥーレ政権を打倒するためにポルトガル軍が侵入して緑海作戦が行われたが、目的であったアミルカル・カブラルの殺害やトゥーレ政権の打倒は失敗した。この事件の後、トゥーレ政権の独裁化はさらに進行し、アフリカ統一機構初代事務総長だったディアロ・テリなど多くの人々が殺害された。こうした暴政や経済混乱を逃れるため、当時のギニア人口500万人のうち、200万人が難民となってセネガルやコートジボワールなど近隣諸国に脱出したといわれている。 1984年3月26日にトゥーレが死亡すると、ルイス・ランサナ・ベアボギが暫定大統領となったもののわずか一週間後の4月3日には無血クーデター(英語版)が起き、ランサナ・コンテ大佐が政権を掌握した。コンテはトゥーレの政治路線を大きく改め、国際通貨基金や世界銀行などの国際機関からの支援を得つつ、旧社会主義体制から自由主義体制への移行を推進した。1990年代に入ると民主化運動が盛んとなり、複数政党制が導入され、1993年に初の大統領選挙が行われた後、1998年、2003年に大統領選が行われたが、いずれもコンテが当選している。しかしその選挙結果や、2001年の国民投票で大統領任期を5年から7年に延長するなど独裁色を強めたコンテの政治手法については多くの議論が交わされている。 2007年1月には、コンテ政権下における政治腐敗の横行や物価上昇・財政悪化に抗議し、大統領辞任と首相ポストの新設を要求する労働組合によりゼネストが発生。首都で発生したデモでは市民と治安部隊、警察の間で衝突が発生し、数十人もの死者、200人以上の負傷者が生じた。ストライキは18日間にも及び、コンテ大統領と組合間で合意が結ばれ終結が見られたものの治安は悪化。2月には、大統領が国家非常事態を宣言、戒厳令を敷いた。その後も不安定な政情が続き、クーデター発生の可能性も出ていた。 首相の任命をめぐるギニア政府と労組の立場は対立していたが、近隣諸国及び西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) 仲裁ミッションの働きかけもあり、2月23日に戒厳令は解除され、労組は同27日よりゼネストを中断することを発表。3月2日までに労組及び市民団体により推薦される首相候補の中から新首相を任命することが合意され、アフメド・ティジャンヌ・スアレが新首相に就任した。 2008年12月22日、コンテ大統領が死去し、国民議会のアブバカル・ソンパレ下院議長が大統領代行に就任したと報じられたが、翌12月23日、軍の一部勢力がクーデターを起こし、士官ら数千人の兵士がコナクリの国営テレビ局を占拠。陸軍・燃料補給部隊長のムーサ・ダディ・カマラ大尉は憲法停止や政府各機関の解散、軍人や文民から構成する評議機関「民主主義発展国家評議会」(National Council for Democracy and Development)の設置を宣言。政府側による目立った抵抗はなく、コナクリを制圧した。ただギニア陸軍軍参謀総長は「クーデターに参加したのは兵士の一部」と語り、コナクリ近郊の軍駐屯地で反乱軍と政府軍の代表が交渉を行っていると説明。カマラ大尉もフランスのテレビ局に「軍内部で多数派ではない」と語り、軍として憲法に基づく権力移譲を支持していることを明らかにした。一方スアレ首相はフランスのラジオ局に「政府は今も実権を握っている」と述べ、クーデターは成功しなかったと強調、軍関係者らに事態の沈静化を求めた。 24日、カマラ大尉は「今後2年間、陸軍が暫定的に権力を保持し、2010年12月に自由で公正な選挙を実施する。権力を握り続ける意図はない」との声明を発表。地元記者らに対し、自らが「暫定政府大統領として指名された」と宣言した。カマラ大尉と「民主主義発展国家評議会」の勢力は同日、コナクリ市内をパレード。手を振って市民に呼び掛けたところ、数千人の市民から歓迎の声が上がった。また「民主主義発展国家評議会」は同日、国内全域に夜間外出禁止令を敷いた。スアレ首相は24日未明に「政府は今も実権を握っている」と重ねて表明したが、その後身の安全のため所在を明らかにせず、首相に連絡が取れない事態になるなど混乱した。 しかし翌25日、カマラ大尉の求めに応じたスアレ首相と閣僚ら約30人はコナクリ近郊の陸軍基地に投降し、基地内でカマラ大尉と面会。スアレ首相らは同グループへの降伏の意思を伝え、カマラ大尉の新政権を正統な政権と認めると述べた。地元ラジオ局はスアレ首相がカマラ大尉を「大統領」と呼び「我々はあなたに従います」と述べた肉声を伝えた。スアレ首相は記者会見でも同様の意思を示し、カマラ大尉の実権掌握と暫定大統領就任が確定した。カマラ大尉はスアレ首相と閣僚らに身の安全を約束した上で、「国を内戦に引き込む武力衝突を避けられるようにして欲しい」と述べ、スアレ首相に無血クーデター成功への協力と新政権を支援するよう促した。暫定大統領に就任したカマラは2009年中に選挙を行うと公表。カマラ自身が選挙出馬を表明した。 2009年9月28日、9月28日スタジアムで大規模抗議集会が起きたものの軍が発砲し、87人以上が死亡した(en:2009 Guinea protest)。12月3日に側近のアブバカール・ディアキテ(フランス語版)中尉による暗殺未遂事件でカマラ暫定大統領は頭を撃たれ重症を負う。同日に暫定大統領に就任した防衛大臣のセクバ・コナテ大将が大統領選挙実施を引き継ぎ、2010年6月27日に投票が行われた。 2010年11月7日大統領選挙の決選投票が行われた。独立国家選挙管理委員会は野党指導者であるアルファ・コンデが得票率52.52%で、セル・ダーレン・ディアロ元首相の得票率は47.48%であったと発表。この結果に不満を持ったディアロ支持派が暴動を起こし、一時は非常事態宣言が発出されたものの、同年12月21日にコンデが大統領に就任した。 2011年7月19日、コナクリ市キペ地区にあるコンデ大統領の私邸が軍人の集団により襲撃される事件が発生した。 2014年2月には南部で正体不明の病気が発生し、3月22日にはこの病気がエボラ出血熱であることが確認された。さらに同月には隣国リベリアおよびシエラレオネへの感染の拡大が確認され、2014年8月13日、コンデ大統領は公衆衛生上の非常事態宣言を出した。エボラ流行によってギニア経済は打撃を受けたが、やがて流行は終息していき、2015年12月29日には世界保健機関(WHO)がギニアでのエボラ流行の終息を宣言した。 2015年の大統領選挙ではコンデ大統領が再選されたものの、対立候補支持者との間で再び衝突が起き、敗れたディアロ元首相らは不正選挙を訴えた。 2021年9月5日朝に軍の特殊部隊が大統領官邸に侵入してコンデ大統領を拘束し、国家和解発展委員会を名乗って政権を掌握するクーデターが発生。憲法の停止や政府の解散を発表した。そして、首謀したママディ・ドゥンブヤ大佐が10月1日、軍事政権の暫定大統領に就任した。 ドゥンブヤ暫定大統領率いる暫定政権は、民主的選挙に向けた政権移行のロードマップを示すよう要求する西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)に対し、当初民政移行期間を39ヶ月とすると発表したが、1年半程度を要求していたECOWASはこれに反発、ギニアのECOWAS資格停止、暫定政権閣僚の国外渡航禁止を含む制裁を発動した。その後の交渉により移行期間は2023年年明けを起点に24ヶ月と合意された。 ギニアは、立憲共和制国家である。最新の現行憲法は2020年3月22日に国民投票で承認され4月7日に公布されたものであるが、2021年9月5日に発生した軍事クーデターで権力を掌握した軍事政権により憲法は停止されている。 国家元首でもある大統領は国民の直接選挙により選出され、任期は5年。再選制限は無い。首相と、内閣に相当する閣僚評議会 (Conseil de Ministres)のメンバーは大統領により任命されるが、閣僚人事案は首相が推薦する。 議会は一院制の国民議会(Assemblée Nationale)。定数114議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は5年。国民議会は2007年に任期を終えたのち2008年末にクーデター政権により解散され、2010年に設立された国家暫定評議会(CNT)が暫定の立法機関となっていたが、2013年に選挙が実施された。 主要政党には、コンデ大統領が党首であるギニア人民連合(RPG)を中心に結成された「虹同盟」(Alliance Arc-en-ciel)が与党連合を形成している。主要野党としては、大統領選の対立候補だったセル・ダーレン・ディアロが党首であるギニア民主勢力連合(UFDG)などがある。ギニアは政治に民族対立が持ち込まれる傾向があり、マリンケ人であるコンデ大統領とプル人であるディアロ党首はそれぞれの民族からの支持を集めていて、これが大統領選挙での騒乱の要因となっている。 最高司法機関は最高裁判所(Cour Suprême)である。 旧宗主国でもあるフランスとの関係が深いが、必ずしも全期間において友好的であったわけではない。1958年の独立時、フランス内の自治共和国として半独立する提案を拒否して即時完全独立を行ったため、両国間の関係は悪化し、1965年には完全に断交した。その後、徐々に関係改善が進み、1975年には両国間の関係は回復した。トゥーレ時代前半は西側諸国との関係が悪化しており、ソビエト連邦や中華人民共和国との関係が深かったものの、経済の悪化とともに徐々に西側との関係が改善され、コンテ政権時には自由主義経済の導入によりその関係はさらに深まった。 ギニアは地理的には沿岸ギニア(英語版)・中部ギニア(英語版)・上ギニア(英語版)・森林ギニア(英語版)の4つの区分からなる。この区分は州の境界と大まかには対応しているものの、完全に州境と対応しているわけではない。 沿岸ギニアは首都のコナクリのほか、キンディア州全域とボケ州海岸部を含む。この地域の海岸部はマングローブ林に覆われ、海岸線から離れると森林とサバンナが交互に広がる平野となっている。沿岸ギニアの年間降水量は年間3000mmを越え、非常に高温多湿である。コナクリの沖合にはロス諸島が浮かんでいる。海岸平野から内陸に入るに従い降水量は減じていき、標高は高くないが分水嶺をなすフータ・ジャロン山地が広がる。フータ・ジャロン山地はほぼそのまま中部ギニア地域と対応しており、ボケ州内陸部やラベ州、マムー州が含まれる。この山地は降水量が2000mmから1500mm程度とやや少ないこともあって森林は形成されず、草原が広がる。またこの山地はニジェール川やセネガル川、ガンビア川など多くの河川の源流がある。フータ・ジャロンを越えると上ギニアと呼ばれる地域となる。ファラナ州の大部分とカンカン州全域が含まれるこの地域はギニアで最も降水量が少ない地域であるが、それでもおおよそ1000mm以上の降水量はあり、サバンナが広がる。南端のンゼレコレ州付近は森林ギニアと呼ばれ、リベリアやシエラレオネ付近の気候の影響を受けるため再び高温多湿となり、リベリアやコートジボワールとの国境にある最高峰のニンバ山付近には熱帯雨林が広がる。 気候区分は沿岸ギニアと森林ギニア西部が熱帯モンスーン気候(Am)、中部ギニアと上ギニア、森林ギニア東部がサバナ気候(As)である。 ギニアの地方行政は8州で構成される。コナクリ州を除く7州はさらに計33県に分かれている。 最大都市は首都のコナクリである。コナクリは港湾都市であり、人口は166万人(2014年)に達する。このほかの主要都市としては、森林ギニアの農産物集散地であるンゼレコレ、かつて鉄道の終点であった上ギニアの中心都市であるカンカン、ボーキサイト鉱山のある鉱山町であるキンディア、ボーキサイト鉱山と輸出港の中間にある同地域の中心都市であるボケ、金山を擁するシギリなどがある。 ギニアは後発開発途上国の一つであり、経済開発は非常に遅れている。国民総所得は1人あたり930ドル(2021年)に過ぎない。通貨はギニア・フランである。 労働人口の74.8%(2012年)が農業に従事する。農業は自給農業が主であり、稲(米)やキャッサバ、フォニオを主に栽培しているが、主食である米の輸入が総輸入の10.7%(2015年)を占め、機械や石油に次いで第3位の輸入品となっているように食糧自給ができていない状況である。 独立時には、バナナをはじめとしてコーヒー、ピーナッツ、パーム油などの農作物が主要輸出物であったが独立後すぐに鉱物輸出が主体となり、1978年には農産物輸出の割合はごくわずかなものとなっていた。これは、主にトゥーレ政権時の農業政策の失敗に主因があるとされている。この時期に行われた農産物の価格統制と農業の集団化は農民の生産意欲を減退させ、バナナ、コーヒー、パイナップル、パーム油の生産は1980年代半ばにはほぼ壊滅しており、農民は輸出農業から自給農業へと回帰してしまった。その後も農業生産は低調な状態が続いている。 農法や作物は地域差が大きく、各地区で特徴のある農法が行われている。海岸平野においては、伝統農法によってマングローブ地帯の干拓が積極的に行われ、水田稲作とフォニオ栽培を中心とした穀物栽培が広まっている。フータ・ジャロン山地においては谷間でフォニオ栽培が行われているものの、高原上ではプル(フラニ)人によってウシの飼育が行われており、国内牧畜の中心地となっている。ンゼレコレ州周辺の森林ギニアにおいては天水による陸稲農業が盛んであり、かつてはコーヒー栽培も行われていた。上ギニアではトウモロコシやソルガム、ラッカセイが主に栽培され、牧畜も行われている。 森林が広がっているため林業は可能性があるが、搬出経路の問題によって開発は進んでいない。漁業も沿岸で小規模に行われているに過ぎない。 ギニアの最大の輸出品は、全世界の約3分の1の埋蔵量を誇るボーキサイトであり、世界5位の生産量と2015年の輸出の36.6%を占め、ギニアの経済を支えている。ギニアのボーキサイト鉱山はいずれも海岸部寄りの丘陵地帯に存在し、北からサンガレディにあるボケ鉱山、フリア鉱山、キンディア鉱山の3つの大鉱山が存在する。フリア鉱山はフランス資本によって1950年代からの開発され、ボケ・キンディア両鉱山は1970年代に開発が始まった。サンガレディ鉱山からの鉱石はカムサル港から、フリアおよびキンディア鉱山からの鉱石はコナクリ港から輸出される。ギニア経済のもう一つの柱はシギリ周辺で産出する金であり、2015年には総輸出の40.1%を占めて第1位の輸出品となった。このほかには、ダイヤモンドも産出する。 ニンバ山にはリベリアから続く鉄鉱石の鉱床が存在するが、開発は進んでいない。同じくギニア東南部のシマンドゥも未開発鉱山としては世界最大級の鉄鉱石埋蔵量と推計されており、リオ・ティントや中華人民共和国企業が開発を目指している。 2021年、シンガポールや中国などの企業が参加するコンソーシアムがダピロン港とサントウ鉱床間を結ぶ鉄道を完成させた。 ギニア国内には、サンガレディからボケを通りカムサル港までを結ぶボケ鉄道をはじめフリア鉱山とキンディア鉱山もコナクリ港までボーキサイト輸送用鉄道を運行しており、三大鉱山がすべておのおのの鉱山鉄道を所持している。コナクリからの古い鉄道は、1913年にキンディアやマムーを通ってカンカンまで開通したものの、老朽化が進み長く運行されていない。 コナクリにあるコナクリ国際空港からは、近隣諸国に国際線が就航している。主要港はコナクリ港とカムサル港であり、いずれもボーキサイトの輸出を柱としている。 ギニアの人口は急増を続けており、1963年に335万人だった人口は1986年には622万人、2017年には1271万人にまで増加した。 住民は、主に海岸部に居住するスースー族(英語版)(12.2%、2000年)、フータ・ジャロン山地に居住するフラニ族(38.3%、2000年)、内陸のサバンナ地帯に居住するマリンケ族(25.6%、2000年)の3民族が中心的である。この3大民族は政治的に対立しており、政情不安の原因の一つとなっている。サバンナ地帯は上記の三大民族が多数を占めているが、南部内陸の熱帯雨林地帯では一民族が多数を占めることはなく、キッシ族などいくつかの民族が居住している。 言語はフランス語が公用語だが、日常生活では各民族ごとの言語を用いている。 宗教は2005年データでイスラム教が85%、キリスト教が8%、現地宗教が7%である。 一夫多妻制は一般的には法律で禁止されているが、例外が存在する。ユニセフは、15〜49歳のギニア人女性の53.4%が一夫多妻結婚をしていると報告している。 教育制度は小学校6年、中学校4年、高校3年、大学4年であり、義務教育は小学校6年間である。教授言語はフランス語である。識字率は非常に低く、2015年には30.5%にすぎなかった。 ギニアの治安は、危険な状況に陥っている。ギニアの治安・市民保護省によれば、スリや置引きといった軽度の犯罪の増加と共に、強盗や殺人といった重大な犯罪も報告されている。 中でも、一般人が軍人になりすまして強盗を行なう事案が多く報告されている。首都のコナクリ市内においてはほぼ全域で犯罪が発生しているが、特にコナクリの中心部でもあるラトマやマトトの両地区では、強盗・殺人などの凶悪犯罪が発生している。 最も狙われやすいのは裕福なギニア人であり、次いでギニア経済に深く浸透しているレバノン人と言われているが、ギニア駐在の外交団・国際機関及び外資系企業関係者や日本人に対する被害も少なからず報告されている。 ギニア国内で最も一般的な主食は米である。さらにキャッサバも広く消費されている。 ギニアを含む西アフリカ地域で用いられる打楽器ジャンベが有名。ジャンベを世界的に普及させたママディ・ケイタはギニア出身である。彼が1994年鹿児島県三島村を訪問したことをきっかけに同村ではアジア初のジャンベスクールが開設された。 ニンバ山厳正自然保護区が唯一の世界遺産となっている。 ギニア国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1965年にはプロサッカーリーグのギニア・シャンピオナ・ナシオナルが創設された。 ギニアサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーギニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場であり、1966年イングランド大会では棄権し、2002年日韓大会ではギニア政府が代表チームに介入したとして失格となっている。しかしアフリカネイションズカップにはこれまで13度出場しており、1976年大会では準優勝の成績を収めるなどしている。 ギニアはオリンピックには1968年メキシコシティ大会で初出場し、1980年モスクワ大会以降は連続して出場し続けているものの、メダル獲得経験はない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ギニア共和国(ギニアきょうわこく)、通称ギニアは、西アフリカにある共和制国家。北にセネガル、北西にギニアビサウ、北東にマリ、南にシエラレオネ、リベリア、南東にコートジボワールと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はコナクリである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧フランス植民地帝国の中でも、1958年に他の植民地に先駆けて国民投票で独立した国家の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国名が似ているため混同しやすいが、ギニア共和国と赤道ギニア共和国は全く別の国である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称はフランス語でRépublique de Guinée(レピュブリク・ドゥ・ギネ)。通称はGuinée(ギネ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "公式の英語表記はRepublic of Guinea(リパブリック・オブ・ギニー)。通称はGuinea(ギニー)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語の表記はギニア共和国で、通称はギニア。1958年、フランス領西アフリカからの独立時には現在と同じ国名であったが、1978年には当時のセク・トゥーレ政権によって「ギニア人民革命共和国」と改称した。その後、1984年にトゥーレが死去してランサナ・コンテ政権になると、ギニア共和国という国名を復活させた。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「ギニア」の国名の由来には諸説ある。赤道ギニアやギニアビサウ、パプアニューギニアとは、それぞれ別の国である。これらを区別するため、首都の名を冠して「ギニア・コナクリ」と呼ばれることも多い。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "12世紀にガーナ王国が滅ぼされると、スースー族(英語版)は反イスラムのスースー王国(英語版)を興して、ベルベル人によるイスラム国家であるムラービト朝に対抗した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大航海時代の16世紀初頭、ヨーロッパ人が海岸部に到達し、奴隷貿易を行なった。18世紀に入るとフラニ人の聖戦の波がこの地方に押し寄せ、1725年にはフータ・ジャロンのen:Timboを王都とするフータ・ジャロン王国が興った。上ギニアでは1878年、サモリ・トゥーレがen:Bissanduguを王都とするジュラ族(英語版)のサモリ帝国(英語版)を興した。一方、海岸部では19世紀に入るとフランスが勢力を拡大し、1890年にコナクリを首都とする植民地フランス領ギニア(英語版)(Guinée française)が建設され、ノエル・バレイ(フランス語版)が初代総督に就任した。フランスは内陸部の諸王国へと侵攻し、1896年にはフータ・ジャロンを屈服させ、1898年にはサモリ帝国を滅ぼしてギニア全域に支配権を確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "内陸部の開発のため、1913年にはコナクリからカンカンまでの鉄道が建設された。1946年には他のフランス領西アフリカ諸国と同様に限定的な選挙権を獲得した。以後の選挙ではアフリカ民主連合に属するギニア民主党(PDG)が勝利し続け、1952年にはセク・トゥーレが同党の書記長に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1958年に行われた国民投票でギニアは、フランス共同体内の自治共和国となることを拒否したため、セク・トゥーレ大統領の下でギニア共和国として完全独立することとなった。しかしフランスはこれを受けてフランス人の全職員・技術者および施設を即座に引き揚げたためギニアの行政機能は麻痺し、また両国間の関係は悪化の一途をたどって1965年には国交断絶となった。この状況を打開するためトゥーレは社会主義施策を敷き、政敵および人権論者の抑圧を行った。また、1958年には同じく先進諸国からの自立を志向するガーナとアフリカ諸国連合を結成している。1970年11月22日、ギニアビサウ独立戦争の中で、隣接するポルトガル領ギニアの独立運動を支援していたトゥーレ政権を打倒するためにポルトガル軍が侵入して緑海作戦が行われたが、目的であったアミルカル・カブラルの殺害やトゥーレ政権の打倒は失敗した。この事件の後、トゥーレ政権の独裁化はさらに進行し、アフリカ統一機構初代事務総長だったディアロ・テリなど多くの人々が殺害された。こうした暴政や経済混乱を逃れるため、当時のギニア人口500万人のうち、200万人が難民となってセネガルやコートジボワールなど近隣諸国に脱出したといわれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1984年3月26日にトゥーレが死亡すると、ルイス・ランサナ・ベアボギが暫定大統領となったもののわずか一週間後の4月3日には無血クーデター(英語版)が起き、ランサナ・コンテ大佐が政権を掌握した。コンテはトゥーレの政治路線を大きく改め、国際通貨基金や世界銀行などの国際機関からの支援を得つつ、旧社会主義体制から自由主義体制への移行を推進した。1990年代に入ると民主化運動が盛んとなり、複数政党制が導入され、1993年に初の大統領選挙が行われた後、1998年、2003年に大統領選が行われたが、いずれもコンテが当選している。しかしその選挙結果や、2001年の国民投票で大統領任期を5年から7年に延長するなど独裁色を強めたコンテの政治手法については多くの議論が交わされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2007年1月には、コンテ政権下における政治腐敗の横行や物価上昇・財政悪化に抗議し、大統領辞任と首相ポストの新設を要求する労働組合によりゼネストが発生。首都で発生したデモでは市民と治安部隊、警察の間で衝突が発生し、数十人もの死者、200人以上の負傷者が生じた。ストライキは18日間にも及び、コンテ大統領と組合間で合意が結ばれ終結が見られたものの治安は悪化。2月には、大統領が国家非常事態を宣言、戒厳令を敷いた。その後も不安定な政情が続き、クーデター発生の可能性も出ていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "首相の任命をめぐるギニア政府と労組の立場は対立していたが、近隣諸国及び西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS) 仲裁ミッションの働きかけもあり、2月23日に戒厳令は解除され、労組は同27日よりゼネストを中断することを発表。3月2日までに労組及び市民団体により推薦される首相候補の中から新首相を任命することが合意され、アフメド・ティジャンヌ・スアレが新首相に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2008年12月22日、コンテ大統領が死去し、国民議会のアブバカル・ソンパレ下院議長が大統領代行に就任したと報じられたが、翌12月23日、軍の一部勢力がクーデターを起こし、士官ら数千人の兵士がコナクリの国営テレビ局を占拠。陸軍・燃料補給部隊長のムーサ・ダディ・カマラ大尉は憲法停止や政府各機関の解散、軍人や文民から構成する評議機関「民主主義発展国家評議会」(National Council for Democracy and Development)の設置を宣言。政府側による目立った抵抗はなく、コナクリを制圧した。ただギニア陸軍軍参謀総長は「クーデターに参加したのは兵士の一部」と語り、コナクリ近郊の軍駐屯地で反乱軍と政府軍の代表が交渉を行っていると説明。カマラ大尉もフランスのテレビ局に「軍内部で多数派ではない」と語り、軍として憲法に基づく権力移譲を支持していることを明らかにした。一方スアレ首相はフランスのラジオ局に「政府は今も実権を握っている」と述べ、クーデターは成功しなかったと強調、軍関係者らに事態の沈静化を求めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "24日、カマラ大尉は「今後2年間、陸軍が暫定的に権力を保持し、2010年12月に自由で公正な選挙を実施する。権力を握り続ける意図はない」との声明を発表。地元記者らに対し、自らが「暫定政府大統領として指名された」と宣言した。カマラ大尉と「民主主義発展国家評議会」の勢力は同日、コナクリ市内をパレード。手を振って市民に呼び掛けたところ、数千人の市民から歓迎の声が上がった。また「民主主義発展国家評議会」は同日、国内全域に夜間外出禁止令を敷いた。スアレ首相は24日未明に「政府は今も実権を握っている」と重ねて表明したが、その後身の安全のため所在を明らかにせず、首相に連絡が取れない事態になるなど混乱した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし翌25日、カマラ大尉の求めに応じたスアレ首相と閣僚ら約30人はコナクリ近郊の陸軍基地に投降し、基地内でカマラ大尉と面会。スアレ首相らは同グループへの降伏の意思を伝え、カマラ大尉の新政権を正統な政権と認めると述べた。地元ラジオ局はスアレ首相がカマラ大尉を「大統領」と呼び「我々はあなたに従います」と述べた肉声を伝えた。スアレ首相は記者会見でも同様の意思を示し、カマラ大尉の実権掌握と暫定大統領就任が確定した。カマラ大尉はスアレ首相と閣僚らに身の安全を約束した上で、「国を内戦に引き込む武力衝突を避けられるようにして欲しい」と述べ、スアレ首相に無血クーデター成功への協力と新政権を支援するよう促した。暫定大統領に就任したカマラは2009年中に選挙を行うと公表。カマラ自身が選挙出馬を表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2009年9月28日、9月28日スタジアムで大規模抗議集会が起きたものの軍が発砲し、87人以上が死亡した(en:2009 Guinea protest)。12月3日に側近のアブバカール・ディアキテ(フランス語版)中尉による暗殺未遂事件でカマラ暫定大統領は頭を撃たれ重症を負う。同日に暫定大統領に就任した防衛大臣のセクバ・コナテ大将が大統領選挙実施を引き継ぎ、2010年6月27日に投票が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2010年11月7日大統領選挙の決選投票が行われた。独立国家選挙管理委員会は野党指導者であるアルファ・コンデが得票率52.52%で、セル・ダーレン・ディアロ元首相の得票率は47.48%であったと発表。この結果に不満を持ったディアロ支持派が暴動を起こし、一時は非常事態宣言が発出されたものの、同年12月21日にコンデが大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2011年7月19日、コナクリ市キペ地区にあるコンデ大統領の私邸が軍人の集団により襲撃される事件が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2014年2月には南部で正体不明の病気が発生し、3月22日にはこの病気がエボラ出血熱であることが確認された。さらに同月には隣国リベリアおよびシエラレオネへの感染の拡大が確認され、2014年8月13日、コンデ大統領は公衆衛生上の非常事態宣言を出した。エボラ流行によってギニア経済は打撃を受けたが、やがて流行は終息していき、2015年12月29日には世界保健機関(WHO)がギニアでのエボラ流行の終息を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2015年の大統領選挙ではコンデ大統領が再選されたものの、対立候補支持者との間で再び衝突が起き、敗れたディアロ元首相らは不正選挙を訴えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2021年9月5日朝に軍の特殊部隊が大統領官邸に侵入してコンデ大統領を拘束し、国家和解発展委員会を名乗って政権を掌握するクーデターが発生。憲法の停止や政府の解散を発表した。そして、首謀したママディ・ドゥンブヤ大佐が10月1日、軍事政権の暫定大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ドゥンブヤ暫定大統領率いる暫定政権は、民主的選挙に向けた政権移行のロードマップを示すよう要求する西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)に対し、当初民政移行期間を39ヶ月とすると発表したが、1年半程度を要求していたECOWASはこれに反発、ギニアのECOWAS資格停止、暫定政権閣僚の国外渡航禁止を含む制裁を発動した。その後の交渉により移行期間は2023年年明けを起点に24ヶ月と合意された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ギニアは、立憲共和制国家である。最新の現行憲法は2020年3月22日に国民投票で承認され4月7日に公布されたものであるが、2021年9月5日に発生した軍事クーデターで権力を掌握した軍事政権により憲法は停止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国家元首でもある大統領は国民の直接選挙により選出され、任期は5年。再選制限は無い。首相と、内閣に相当する閣僚評議会 (Conseil de Ministres)のメンバーは大統領により任命されるが、閣僚人事案は首相が推薦する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "議会は一院制の国民議会(Assemblée Nationale)。定数114議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は5年。国民議会は2007年に任期を終えたのち2008年末にクーデター政権により解散され、2010年に設立された国家暫定評議会(CNT)が暫定の立法機関となっていたが、2013年に選挙が実施された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "主要政党には、コンデ大統領が党首であるギニア人民連合(RPG)を中心に結成された「虹同盟」(Alliance Arc-en-ciel)が与党連合を形成している。主要野党としては、大統領選の対立候補だったセル・ダーレン・ディアロが党首であるギニア民主勢力連合(UFDG)などがある。ギニアは政治に民族対立が持ち込まれる傾向があり、マリンケ人であるコンデ大統領とプル人であるディアロ党首はそれぞれの民族からの支持を集めていて、これが大統領選挙での騒乱の要因となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "最高司法機関は最高裁判所(Cour Suprême)である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "旧宗主国でもあるフランスとの関係が深いが、必ずしも全期間において友好的であったわけではない。1958年の独立時、フランス内の自治共和国として半独立する提案を拒否して即時完全独立を行ったため、両国間の関係は悪化し、1965年には完全に断交した。その後、徐々に関係改善が進み、1975年には両国間の関係は回復した。トゥーレ時代前半は西側諸国との関係が悪化しており、ソビエト連邦や中華人民共和国との関係が深かったものの、経済の悪化とともに徐々に西側との関係が改善され、コンテ政権時には自由主義経済の導入によりその関係はさらに深まった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ギニアは地理的には沿岸ギニア(英語版)・中部ギニア(英語版)・上ギニア(英語版)・森林ギニア(英語版)の4つの区分からなる。この区分は州の境界と大まかには対応しているものの、完全に州境と対応しているわけではない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "沿岸ギニアは首都のコナクリのほか、キンディア州全域とボケ州海岸部を含む。この地域の海岸部はマングローブ林に覆われ、海岸線から離れると森林とサバンナが交互に広がる平野となっている。沿岸ギニアの年間降水量は年間3000mmを越え、非常に高温多湿である。コナクリの沖合にはロス諸島が浮かんでいる。海岸平野から内陸に入るに従い降水量は減じていき、標高は高くないが分水嶺をなすフータ・ジャロン山地が広がる。フータ・ジャロン山地はほぼそのまま中部ギニア地域と対応しており、ボケ州内陸部やラベ州、マムー州が含まれる。この山地は降水量が2000mmから1500mm程度とやや少ないこともあって森林は形成されず、草原が広がる。またこの山地はニジェール川やセネガル川、ガンビア川など多くの河川の源流がある。フータ・ジャロンを越えると上ギニアと呼ばれる地域となる。ファラナ州の大部分とカンカン州全域が含まれるこの地域はギニアで最も降水量が少ない地域であるが、それでもおおよそ1000mm以上の降水量はあり、サバンナが広がる。南端のンゼレコレ州付近は森林ギニアと呼ばれ、リベリアやシエラレオネ付近の気候の影響を受けるため再び高温多湿となり、リベリアやコートジボワールとの国境にある最高峰のニンバ山付近には熱帯雨林が広がる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "気候区分は沿岸ギニアと森林ギニア西部が熱帯モンスーン気候(Am)、中部ギニアと上ギニア、森林ギニア東部がサバナ気候(As)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ギニアの地方行政は8州で構成される。コナクリ州を除く7州はさらに計33県に分かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最大都市は首都のコナクリである。コナクリは港湾都市であり、人口は166万人(2014年)に達する。このほかの主要都市としては、森林ギニアの農産物集散地であるンゼレコレ、かつて鉄道の終点であった上ギニアの中心都市であるカンカン、ボーキサイト鉱山のある鉱山町であるキンディア、ボーキサイト鉱山と輸出港の中間にある同地域の中心都市であるボケ、金山を擁するシギリなどがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ギニアは後発開発途上国の一つであり、経済開発は非常に遅れている。国民総所得は1人あたり930ドル(2021年)に過ぎない。通貨はギニア・フランである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "労働人口の74.8%(2012年)が農業に従事する。農業は自給農業が主であり、稲(米)やキャッサバ、フォニオを主に栽培しているが、主食である米の輸入が総輸入の10.7%(2015年)を占め、機械や石油に次いで第3位の輸入品となっているように食糧自給ができていない状況である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "独立時には、バナナをはじめとしてコーヒー、ピーナッツ、パーム油などの農作物が主要輸出物であったが独立後すぐに鉱物輸出が主体となり、1978年には農産物輸出の割合はごくわずかなものとなっていた。これは、主にトゥーレ政権時の農業政策の失敗に主因があるとされている。この時期に行われた農産物の価格統制と農業の集団化は農民の生産意欲を減退させ、バナナ、コーヒー、パイナップル、パーム油の生産は1980年代半ばにはほぼ壊滅しており、農民は輸出農業から自給農業へと回帰してしまった。その後も農業生産は低調な状態が続いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "農法や作物は地域差が大きく、各地区で特徴のある農法が行われている。海岸平野においては、伝統農法によってマングローブ地帯の干拓が積極的に行われ、水田稲作とフォニオ栽培を中心とした穀物栽培が広まっている。フータ・ジャロン山地においては谷間でフォニオ栽培が行われているものの、高原上ではプル(フラニ)人によってウシの飼育が行われており、国内牧畜の中心地となっている。ンゼレコレ州周辺の森林ギニアにおいては天水による陸稲農業が盛んであり、かつてはコーヒー栽培も行われていた。上ギニアではトウモロコシやソルガム、ラッカセイが主に栽培され、牧畜も行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "森林が広がっているため林業は可能性があるが、搬出経路の問題によって開発は進んでいない。漁業も沿岸で小規模に行われているに過ぎない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ギニアの最大の輸出品は、全世界の約3分の1の埋蔵量を誇るボーキサイトであり、世界5位の生産量と2015年の輸出の36.6%を占め、ギニアの経済を支えている。ギニアのボーキサイト鉱山はいずれも海岸部寄りの丘陵地帯に存在し、北からサンガレディにあるボケ鉱山、フリア鉱山、キンディア鉱山の3つの大鉱山が存在する。フリア鉱山はフランス資本によって1950年代からの開発され、ボケ・キンディア両鉱山は1970年代に開発が始まった。サンガレディ鉱山からの鉱石はカムサル港から、フリアおよびキンディア鉱山からの鉱石はコナクリ港から輸出される。ギニア経済のもう一つの柱はシギリ周辺で産出する金であり、2015年には総輸出の40.1%を占めて第1位の輸出品となった。このほかには、ダイヤモンドも産出する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ニンバ山にはリベリアから続く鉄鉱石の鉱床が存在するが、開発は進んでいない。同じくギニア東南部のシマンドゥも未開発鉱山としては世界最大級の鉄鉱石埋蔵量と推計されており、リオ・ティントや中華人民共和国企業が開発を目指している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2021年、シンガポールや中国などの企業が参加するコンソーシアムがダピロン港とサントウ鉱床間を結ぶ鉄道を完成させた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ギニア国内には、サンガレディからボケを通りカムサル港までを結ぶボケ鉄道をはじめフリア鉱山とキンディア鉱山もコナクリ港までボーキサイト輸送用鉄道を運行しており、三大鉱山がすべておのおのの鉱山鉄道を所持している。コナクリからの古い鉄道は、1913年にキンディアやマムーを通ってカンカンまで開通したものの、老朽化が進み長く運行されていない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "コナクリにあるコナクリ国際空港からは、近隣諸国に国際線が就航している。主要港はコナクリ港とカムサル港であり、いずれもボーキサイトの輸出を柱としている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ギニアの人口は急増を続けており、1963年に335万人だった人口は1986年には622万人、2017年には1271万人にまで増加した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "住民は、主に海岸部に居住するスースー族(英語版)(12.2%、2000年)、フータ・ジャロン山地に居住するフラニ族(38.3%、2000年)、内陸のサバンナ地帯に居住するマリンケ族(25.6%、2000年)の3民族が中心的である。この3大民族は政治的に対立しており、政情不安の原因の一つとなっている。サバンナ地帯は上記の三大民族が多数を占めているが、南部内陸の熱帯雨林地帯では一民族が多数を占めることはなく、キッシ族などいくつかの民族が居住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "言語はフランス語が公用語だが、日常生活では各民族ごとの言語を用いている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "宗教は2005年データでイスラム教が85%、キリスト教が8%、現地宗教が7%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "一夫多妻制は一般的には法律で禁止されているが、例外が存在する。ユニセフは、15〜49歳のギニア人女性の53.4%が一夫多妻結婚をしていると報告している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "教育制度は小学校6年、中学校4年、高校3年、大学4年であり、義務教育は小学校6年間である。教授言語はフランス語である。識字率は非常に低く、2015年には30.5%にすぎなかった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ギニアの治安は、危険な状況に陥っている。ギニアの治安・市民保護省によれば、スリや置引きといった軽度の犯罪の増加と共に、強盗や殺人といった重大な犯罪も報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "中でも、一般人が軍人になりすまして強盗を行なう事案が多く報告されている。首都のコナクリ市内においてはほぼ全域で犯罪が発生しているが、特にコナクリの中心部でもあるラトマやマトトの両地区では、強盗・殺人などの凶悪犯罪が発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "最も狙われやすいのは裕福なギニア人であり、次いでギニア経済に深く浸透しているレバノン人と言われているが、ギニア駐在の外交団・国際機関及び外資系企業関係者や日本人に対する被害も少なからず報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ギニア国内で最も一般的な主食は米である。さらにキャッサバも広く消費されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ギニアを含む西アフリカ地域で用いられる打楽器ジャンベが有名。ジャンベを世界的に普及させたママディ・ケイタはギニア出身である。彼が1994年鹿児島県三島村を訪問したことをきっかけに同村ではアジア初のジャンベスクールが開設された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ニンバ山厳正自然保護区が唯一の世界遺産となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ギニア国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1965年にはプロサッカーリーグのギニア・シャンピオナ・ナシオナルが創設された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ギニアサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーギニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場であり、1966年イングランド大会では棄権し、2002年日韓大会ではギニア政府が代表チームに介入したとして失格となっている。しかしアフリカネイションズカップにはこれまで13度出場しており、1976年大会では準優勝の成績を収めるなどしている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ギニアはオリンピックには1968年メキシコシティ大会で初出場し、1980年モスクワ大会以降は連続して出場し続けているものの、メダル獲得経験はない。", "title": "スポーツ" } ]
ギニア共和国(ギニアきょうわこく)、通称ギニアは、西アフリカにある共和制国家。北にセネガル、北西にギニアビサウ、北東にマリ、南にシエラレオネ、リベリア、南東にコートジボワールと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はコナクリである。 旧フランス植民地帝国の中でも、1958年に他の植民地に先駆けて国民投票で独立した国家の一つ。 国名が似ているため混同しやすいが、ギニア共和国と赤道ギニア共和国は全く別の国である。
{{otheruses|'''ギニア共和国'''|その他の'''ギニア'''|ギニア (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 国 | 略名 = ギニア | 日本語国名 = ギニア共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|fr|République de Guinée}}''' | 国旗画像 = Flag of Guinea.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat_of_arms_of_Guinea.svg|80px]] | 国章リンク = ([[ギニアの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|fr|Travail, Justice, Solidarité}}''<br />(フランス語: 労働、正義、連帯) | 位置画像 = Guinea (orthographic projection).svg | 公用語 = [[フランス語]] | 首都 = [[コナクリ]] | 最大都市 = コナクリ | 元首等肩書 = [[ギニアの大統領|暫定大統領]] | 元首等氏名 = [[ママディ・ドゥンブヤ]] | 首相等肩書 = [[ギニアの首相|首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|ベルナール・ゴモウ|fr|Bernard Gomou}} | 面積順位 = 75 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 245,857 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 =74 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 1313万3000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/gn.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-7}}</ref> | 人口密度値 = 53.4<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2018 | GDP値元 = 106兆8452億9200万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月19日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=656,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2016&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2018 | GDP順位MER = 123 | GDP値MER = 118億5700万{{R|economy}} | GDP MER/人 = 891.887 | GDP統計年 = 2018 | GDP順位 = 147 | GDP値 = 317億7300万{{R|economy}} | GDP/人 = 2389.998{{R|economy}} | 建国形態 = [[国家の独立|独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[フランス]]より<br />[[1958年]][[10月2日]] | 通貨 = [[ギニア・フラン]] | 通貨コード = GNF | 時間帯 = (0) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[自由 (ギニア国歌)|{{lang|fr|Liberté}}]]{{fr icon}}<br>自由<br><center>[[ファイル:National Anthem of Guinea by US Navy Band.ogg]] | ISO 3166-1 = GN / GIN | ccTLD = [[.gn]] | 国際電話番号 = 224 | 注記 = }} '''ギニア共和国'''(ギニアきょうわこく)、通称'''ギニア'''は、[[西アフリカ]]にある[[共和制]][[国家]]。北に[[セネガル]]、北西に[[ギニアビサウ]]、北東に[[マリ共和国|マリ]]、南に[[シエラレオネ]]、[[リベリア]]、南東に[[コートジボワール]]と[[国境]]を接し、西は[[大西洋]]に面する。[[首都]]は[[コナクリ]]である<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/guinea/data.html#section1 ギニア共和国(Republic of Guinea)基礎データ] [[日本国外務省]](2022年8月28日閲覧)</ref>。 旧[[フランス植民地帝国]]の中でも、1958年に他の[[植民地]]に先駆けて[[国民投票]]で独立した国家の一つ。 国名が似ているため混同しやすいが、'''ギニア共和国'''と'''赤道ギニア共和国'''は全く別の国である。 == 国名 == 正式名称は[[フランス語]]で''République de Guinée''(レピュブリク・ドゥ・ギネ)。通称は''Guinée''('''ギネ''')。 公式の[[英語]]表記は''Republic of Guinea''<ref name="日本国外務省"/>(リパブリック・オブ・ギニー)。通称は''Guinea''('''ギニー''')。 日本語の表記は'''ギニア共和国'''<ref name="日本国外務省"/>で、通称は'''ギニア'''。[[1958年]]、[[フランス領西アフリカ]]からの[[国家の独立|独立]]時には現在と同じ国名であったが、1978年には当時の[[セク・トゥーレ]]政権によって「ギニア人民革命共和国」と改称した。その後、[[1984年]]にトゥーレが死去して[[ランサナ・コンテ]]政権になると、ギニア共和国という国名を復活させた。 「'''ギニア'''」の国名の由来には諸説ある。'''[[赤道ギニア]]'''や'''[[ギニアビサウ]]'''、'''[[パプアニューギニア]]'''とは、それぞれ別の国である。これらを区別するため、首都の名を冠して「'''ギニア・コナクリ'''」と呼ばれることも多い。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|ギニアの歴史|fr|Histoire de la Guinée|en|History of Guinea}}}} [[ファイル:Shoulder mask nimba Louvre MHNT-ETH-AF127.jpg|thumb|left|180px|ニンバのマスク]] [[12世紀]]に[[ガーナ王国]]が滅ぼされると、{{仮リンク|スースー人|en|Susu people|label=スースー族}}は反[[イスラム]]の{{仮リンク|スースー王国|en|Sosso Empire}}を興して、[[ベルベル人]]によるイスラム国家である[[ムラービト朝]]に対抗した。 [[大航海時代]]の[[16世紀]]初頭、ヨーロッパ人が海岸部に到達し、[[奴隷貿易]]を行なった。18世紀に入ると[[フラニ人]]の聖戦の波がこの地方に押し寄せ、[[1725年]]には[[フータ・ジャロン]]の[[:en:Timbo]]を王都とする[[フータ・ジャロン王国]]が興った。上ギニアでは[[1878年]]、[[サモリ・トゥーレ]]が[[:en:Bissandugu]]を王都とする{{仮リンク|ジュラ人|en|Dyula people|label=ジュラ族}}の{{仮リンク|サモリ帝国|en|Wassoulou Empire}}を興した。一方、海岸部では19世紀に入るとフランスが勢力を拡大し、[[1890年]]にコナクリを首都とする[[植民地]]{{仮リンク|フランス領ギニア (植民地)|en|French Guinea|label=フランス領ギニア}}({{lang|fr|Guinée française}})が建設され、{{仮リンク|ノエル・バレイ|fr|Noël Ballay}}が初代総督に就任した。フランスは内陸部の諸王国へと侵攻し、[[1896年]]にはフータ・ジャロンを屈服させ、[[1898年]]にはサモリ帝国を滅ぼしてギニア全域に支配権を確立した。 内陸部の開発のため、1913年にはコナクリから[[カンカン (ギニア)|カンカン]]までの鉄道が建設された<ref>{{Harvnb|中村|1982|p=73}}</ref>。1946年には他のフランス領西アフリカ諸国と同様に限定的な[[選挙権]]を獲得した。以後の選挙では[[アフリカ民主連合]]に属するギニア民主党(PDG)が勝利し続け、1952年には[[セク・トゥーレ]]が同党の書記長に就任した<ref>{{Harvnb|中村|1982|p=152}}</ref>。 === 独立・トゥーレ政権 === [[1958年]]に行われた国民投票でギニアは、[[フランス共同体]]内の自治共和国となることを拒否したため、セク・トゥーレ大統領の下で'''ギニア共和国'''として完全独立することとなった。しかしフランスはこれを受けてフランス人の全職員・技術者および施設を即座に引き揚げたため<ref>{{Harvnb|各国別世界の現勢 第1|1964|p=334}}</ref>ギニアの行政機能は麻痺し<ref>{{Harvnb|片山|2005|p=211}}</ref>、また両国間の関係は悪化の一途をたどって1965年には国交断絶となった<ref name=":0">{{Harvnb|島田|田辺|柴田|1998|p=148}} </ref>。この状況を打開するためトゥーレは[[社会主義]]施策を敷き、政敵および人権論者の抑圧を行った。また、1958年には同じく先進諸国からの自立を志向する[[ガーナ]]と[[アフリカ諸国連合]]を結成している。[[1970年]][[11月22日]]、[[ギニアビサウ独立戦争]]の中で、隣接する[[ポルトガル領ギニア]]の独立運動を支援していたトゥーレ政権を打倒するために[[ポルトガル軍]]が侵入して[[緑海作戦]]が行われたが、目的であったアミルカル・カブラルの殺害やトゥーレ政権の打倒は失敗した<ref>{{Harvnb|片山|2005|pp=212-213}}</ref>。この事件の後、トゥーレ政権の独裁化はさらに進行し、[[アフリカ統一機構]]初代事務総長だった[[ディアロ・テリ]]など多くの人々が殺害された<ref name=":0" />。こうした暴政や経済混乱を逃れるため、当時のギニア人口500万人のうち、200万人が[[難民]]となって[[セネガル]]や[[コートジボワール]]など近隣諸国に脱出したといわれている<ref>{{Harvnb|勝俣|1991|p=94}}</ref>。 === コンテ政権 === [[1984年]]3月26日にトゥーレが死亡すると、[[ルイス・ランサナ・ベアボギ]]が暫定大統領となったもののわずか一週間後の4月3日には無血{{仮リンク|1984年ギニアクーデター|en|1984 Guinean coup d'état|label=クーデター}}が起き、[[ランサナ・コンテ]]大佐が政権を掌握した<ref>{{Harvnb|片山|2005|p=405}}</ref>。コンテはトゥーレの政治路線を大きく改め、[[国際通貨基金]]や[[世界銀行]]などの国際機関からの支援を得つつ、旧社会主義体制から[[自由主義]]体制への移行を推進した。1990年代に入ると[[民主化運動]]が盛んとなり、[[複数政党制]]が導入され、[[1993年]]に初の大統領選挙が行われた後<ref>{{Harvnb|片山|2005|p=515}}</ref>、[[1998年]]、[[2003年]]に大統領選が行われたが、いずれもコンテが当選している。しかしその選挙結果や、2001年の国民投票で大統領任期を5年から7年に延長するなど独裁色を強めたコンテの政治手法については多くの議論が交わされている。 [[2007年]]1月には、コンテ政権下における政治腐敗の横行や物価上昇・財政悪化に抗議し、大統領辞任と[[首相]]ポストの新設を要求する[[労働組合]]により[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]が発生。首都で発生したデモでは市民と治安部隊、警察の間で衝突が発生し、数十人もの死者、200人以上の負傷者が生じた。ストライキは18日間にも及び、コンテ大統領と組合間で合意が結ばれ終結が見られたものの治安は悪化。2月には、大統領が国家非常事態を宣言、[[戒厳令]]を敷いた<ref>{{Cite news|title=ゼネスト長期化、大統領が戒厳令を発令 - ギニア|newspaper=[[フランス通信社|AFP通信]]|date=2007-2-13|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2181346|accessdate=2021-9-1}}</ref>。その後も不安定な政情が続き、クーデター発生の可能性も出ていた。 首相の任命をめぐるギニア政府と労組の立場は対立していたが、近隣諸国及び[[西アフリカ諸国経済共同体]] (ECOWAS) 仲裁ミッションの働きかけもあり、2月23日に戒厳令は解除され、労組は同27日よりゼネストを中断することを発表<ref>{{Cite news|title=新首相の任命に合意でゼネスト中止へ - ギニア|newspaper=AFP通信|date=2007-2-26|last=Gobet|first=Georges|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2186863|accessdate=2021-9-1}}</ref>。3月2日までに労組及び市民団体により推薦される首相候補の中から新首相を任命することが合意され、[[アフメド・ティジャンヌ・スアレ]]が新首相に就任した。 === カマラ大尉時代 === [[ファイル:Dadis Camara portrait.JPG|thumb|160px|第3代大統領[[ムサ・ダディス・カマラ]]。]] [[2008年]][[12月22日]]、コンテ大統領が死去し、国民議会の[[アブバカル・ソンパレ]]下院議長が大統領代行に就任したと報じられたが、翌12月23日、軍の一部勢力が[[2008年ギニアクーデター|クーデター]]を起こし、士官ら数千人の兵士がコナクリの国営テレビ局を占拠。陸軍・燃料補給部隊長の[[ムーサ・ダディ・カマラ]]大尉は憲法停止や政府各機関の解散、軍人や文民から構成する評議機関「民主主義発展国家評議会」(National Council for Democracy and Development)の設置を宣言。政府側による目立った抵抗はなく、コナクリを制圧した。ただギニア陸軍軍参謀総長は「クーデターに参加したのは兵士の一部」と語り、コナクリ近郊の軍駐屯地で反乱軍と政府軍の代表が交渉を行っていると説明。カマラ大尉もフランスの[[テレビ局]]に「軍内部で多数派ではない」と語り、軍として憲法に基づく権力移譲を支持していることを明らかにした。一方スアレ首相はフランスの[[ラジオ局]]に「政府は今も実権を握っている」と述べ、クーデターは成功しなかったと強調、軍関係者らに事態の沈静化を求めた<ref>{{Cite news|title=ギニアでクーデター、政府は「依然権力を掌握」と主張|newspaper=AFP通信|date=2008-12-24|last=Bah|first=Mouctar|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2552407|accessdate=2021-9-1}}</ref>。 24日、カマラ大尉は「今後2年間、陸軍が暫定的に権力を保持し、[[2010年]]12月に自由で公正な選挙を実施する。権力を握り続ける意図はない」との声明を発表。地元記者らに対し、自らが「暫定政府大統領として指名された」と宣言した。カマラ大尉と「民主主義発展国家評議会」の勢力は同日、コナクリ市内をパレード。手を振って市民に呼び掛けたところ、数千人の市民から歓迎の声が上がった。また「民主主義発展国家評議会」は同日、国内全域に夜間外出禁止令を敷いた。スアレ首相は24日未明に「政府は今も実権を握っている」と重ねて表明したが、その後身の安全のため所在を明らかにせず、首相に連絡が取れない事態になるなど混乱した<ref>{{Cite news|title=ギニア、クーデター側が外出禁止令を発令 実権掌握強める|newspaper=AFP通信|date=2008-12-25|last=Bah|first=Mouctar|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2552553|accessdate=2021-9-1}}</ref>。 しかし翌25日、カマラ大尉の求めに応じたスアレ首相と閣僚ら約30人はコナクリ近郊の陸軍基地に投降し、基地内でカマラ大尉と面会。スアレ首相らは同グループへの降伏の意思を伝え、カマラ大尉の新政権を正統な政権と認めると述べた。地元ラジオ局はスアレ首相がカマラ大尉を「大統領」と呼び「我々はあなたに従います」と述べた肉声を伝えた。スアレ首相は記者会見でも同様の意思を示し、カマラ大尉の実権掌握と暫定大統領就任が確定した。カマラ大尉はスアレ首相と閣僚らに身の安全を約束した上で、「国を内戦に引き込む武力衝突を避けられるようにして欲しい」と述べ、スアレ首相に無血クーデター成功への協力と新政権を支援するよう促した<ref>{{Cite news|title=ギニア軍事評議会、国際社会との会合求める 首相は権限移譲を表明|newspaper=AFP通信|date=2008-12-26|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2552709|accessdate=2021-9-1}}</ref>。暫定大統領に就任したカマラは2009年中に選挙を行うと公表。カマラ自身が選挙出馬を表明した。 [[2009年]][[9月28日]]、[[9月28日スタジアム]]で大規模抗議集会が起きたものの軍が発砲し、87人以上が死亡した([[:en:2009 Guinea protest]])<ref>{{Cite news|title=軍事政権への抗議デモに発砲、87人死亡 ギニア|newspaper=AFP通信|date=2009-9-29|last=Bah|first=Mouctar|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2647757|accessdate=2021-9-1}}</ref>。[[12月3日]]に側近の{{仮リンク|アブバカール・ディアキテ|fr|Aboubacar Sidiki Diakité}}中尉による暗殺未遂事件でカマラ暫定大統領は頭を撃たれ重症を負う<ref>{{Cite news|title=ギニア大統領、側近に撃たれ負傷 9月のデモ鎮圧に関連か|newspaper=AFP通信|date=2009-12-4|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2671039|accessdate=2021-9-1}}</ref>。同日に暫定大統領に就任した防衛大臣の[[セクバ・コナテ]]大将が大統領選挙実施を引き継ぎ、[[2010年]][[6月27日]]に投票が行われた。 === コンデ政権 === [[2010年]][[11月7日]]大統領選挙の決選投票が行われた。独立国家選挙管理委員会は野党指導者である[[アルファ・コンデ]]が得票率52.52%で、[[セル・ダーレン・ディアロ]]元首相の得票率は47.48%であったと発表。この結果に不満を持ったディアロ支持派が暴動を起こし、一時は非常事態宣言が発出されたものの<ref>{{Cite news|title=ギニアで非常事態宣言、大統領選結果めぐる混乱で死者7人|newspaper=AFP通信|date=2010-11-18|last=Boutreux|first=Laurence|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2776009|accessdate=2021-9-1}}</ref>、同年12月21日にコンデが大統領に就任した。 2011年7月19日、コナクリ市キペ地区にあるコンデ大統領の私邸が軍人の集団により襲撃される事件が発生した。 2014年2月には南部で正体不明の病気が発生し<ref>{{Cite news|title=ギニアで謎の病気発生、6週間で23人死亡|newspaper=AFP通信|date=2014-3-21|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3010695|accessdate=2021-9-1}}</ref>、3月22日にはこの病気が[[エボラ出血熱]]であることが確認された<ref>{{Cite news|title=ギニアの伝染病、エボラ出血熱と確認 死者59人に|newspaper=AFP通信|date=2014-3-23|last=Bah|first=Mouctar|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3010813|accessdate=2021-9-1}}</ref>。さらに同月には隣国リベリアおよびシエラレオネへの感染の拡大が確認され<ref>{{Cite news|title=ギニアで発生したエボラ出血熱、隣国リベリアに拡大か|newspaper=AFP通信|date=2014-3-25|last=Bah|first=Mouctar|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3010932|accessdate=2021-9-1}}</ref><ref>{{Cite news|title=ギニアで発生のエボラ出血熱、隣国シエラレオネにも拡大か|newspaper=AFP通信|date=2014-3-26|last=Bah|first=Mouctar|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3010983|accessdate=2021-9-1}}</ref>、2014年8月13日、コンデ大統領は公衆衛生上の[[非常事態宣言]]を出した<ref>{{Cite news|title=ギニア、エボラ熱拡大で非常事態宣言|newspaper=AFP通信|date=2014-8-14|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3023042|accessdate=2021-9-1}}</ref>。エボラ流行によってギニア経済は打撃を受けたが、やがて流行は終息していき、2015年12月29日には[[世界保健機関]](WHO)がギニアでのエボラ流行の終息を宣言した<ref>{{Cite news|title=ギニアのエボラ終息を宣言 WHO|newspaper=AFP通信|date=2015-12-29|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3071743|accessdate=2021-9-1}}</ref>。 {{main|2014年の西アフリカエボラ出血熱流行}} 2015年の大統領選挙ではコンデ大統領が再選されたものの<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/guinea/data.html|title=ギニア共和国 基礎データ|accessdate=2021-9-1|publisher=[[外務省]]|date=2021-3-3}}</ref>、対立候補支持者との間で再び衝突が起き、敗れたディアロ元首相らは不正選挙を訴えた<ref>{{Cite news|title=ギニア大統領選で現職再選 野党は無効を主張|newspaper=[[47NEWS]]|date=2015-10-18|agency=[[共同通信]]|url=https://www.47news.jp/CN/201510/CN2015101801001229.html|accessdate=2021-9-1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151019122430/https://www.47news.jp/CN/201510/CN2015101801001229.html|archivedate=2015-10-19}}</ref>。 2021年9月5日朝に軍の特殊部隊が大統領官邸に侵入してコンデ大統領を拘束し、国家和解発展委員会を名乗って政権を掌握する[[2021年ギニアクーデター|クーデター]]が発生。憲法の停止や政府の解散を発表した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210905153517/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021090600010&g=int|title=ギニアでクーデター 特殊部隊が大統領拘束|work=時事ドットコム|agency=[[時事通信社]]|date=2021-09-06|accessdate=2021-09-06}}</ref>。そして、首謀した[[ママディ・ドゥンブヤ]]大佐が10月1日、軍事政権の暫定大統領に就任した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20211002152745/https://nordot.app/816821631192809472?c=39546741839462401 |title= ギニア、暫定大統領が就任 |newspaper= 47NEWS |publisher= 共同通信社 |date= 2021-10-19 |accessdate= 2021-10-02 }}</ref>。 [[ファイル:Mamadi Doumbouya 2022.jpg|サムネイル|216x216ピクセル|[[ママディ・ドゥンブヤ]]暫定大統領]] === ドゥンブヤ暫定政権 === ドゥンブヤ暫定大統領率いる暫定政権は、民主的選挙に向けた政権移行のロードマップを示すよう要求する[[西アフリカ諸国経済共同体]](ECOWAS)に対し、当初民政移行期間を39ヶ月とすると発表したが<ref>{{Cite news |title=Guinea to move to civilian rule in three years |url=https://www.bbc.com/news/world-africa-61288641 |work=BBC News |date=2022-05-01 |access-date=2023-05-13 |language=en-GB}}</ref>、1年半程度を要求していたECOWASはこれに反発、ギニアのECOWAS資格停止、暫定政権閣僚の国外渡航禁止を含む制裁を発動した。その後の交渉により移行期間は2023年年明けを起点に24ヶ月と合意された<ref>{{Cite web |title=Guinea junta agrees to leave power after two years - ECOWAS |url=https://www.africanews.com/2022/10/22/guinea-junta-agrees-to-leave-power-after-two-years-ecowas/ |website=Africanews |date=2022-10-22CEST12:42:27+02:00 |access-date=2023-05-13 |language=en |last=AfricaNews}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Alpha Conde - World Economic Forum Annual Meeting 2012.jpg|thumb|160px|第4代大統領[[アルファ・コンデ]]]] {{Main|{{仮リンク|ギニアの政治|fr|Politique en Guinée|en|Politics of Guinea}}}} ギニアは、立憲共和制国家である。最新の現行[[憲法]]は[[2020年]][[3月22日]]に[[国民投票]]で承認され[[4月7日]]に公布されたものであるが、2021年9月5日に発生した[[2021年ギニアクーデター|軍事クーデター]]で権力を掌握した軍事政権により憲法は停止されている<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/guinea-security-idJPKBN2G10JQ|title=西アフリカのギニア、軍の特殊部隊が大統領拘束 憲法停止を宣言|agency=[[ロイター]]|date=2021-09-06|accessdate=2021-11-16}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|2020年におけるギニア憲法国民投票|fr|Référendum constitutionnel guinéen de 2020}}}} [[元首|国家元首]]でもある[[ギニアの大統領|大統領]]は[[国民]]の直接選挙により選出され、任期は5年。再選制限は無い。[[ギニアの首相|首相]]と、[[内閣]]に相当する閣僚評議会 (''Conseil de Ministres'')のメンバーは大統領により任命されるが、閣僚人事案は首相が推薦する。 議会は[[一院制]]の[[国民議会 (ギニア)|国民議会]](''Assemblée Nationale'')。定数114議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は5年。国民議会は2007年に任期を終えたのち2008年末にクーデター政権により解散され、2010年に設立された国家暫定評議会(CNT)が暫定の立法機関となっていたが、2013年に選挙が実施された。 主要[[政党]]には、コンデ大統領が党首である[[ギニア人民連合]](RPG)を中心に結成された「虹同盟」(Alliance Arc-en-ciel)が与党連合を形成している。主要野党としては、大統領選の対立候補だったセル・ダーレン・ディアロが党首であるギニア民主勢力連合(UFDG)などがある。ギニアは政治に民族対立が持ち込まれる傾向があり、マリンケ人であるコンデ大統領とプル人であるディアロ党首はそれぞれの民族からの支持を集めていて、これが大統領選挙での騒乱の要因となっている。 最高[[司法]]機関は最高裁判所(''Cour Suprême'')である。 {{See also|{{仮リンク|ギニアの法律|fr|Droit guinéen}}}} == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|ギニアの国際関係|en|Foreign relations of Guinea}}}} 旧宗主国でもあるフランスとの関係が深いが、必ずしも全期間において友好的であったわけではない。1958年の独立時、フランス内の自治共和国として半独立する提案を拒否して即時完全独立を行ったため、両国間の関係は悪化し、1965年には完全に断交した。その後、徐々に関係改善が進み、1975年には両国間の関係は回復した<ref name=":0" />。トゥーレ時代前半は西側諸国との関係が悪化しており、[[ソビエト連邦]]や[[中華人民共和国]]との関係が深かったものの、経済の悪化とともに徐々に西側との関係が改善され<ref name=":0" />、コンテ政権時には自由主義経済の導入によりその関係はさらに深まった。 === 日本との関係 === {{Main|日本とギニアの関係}} *在留日本人数 - 55人(2021年10月時点)<ref name="日本国外務省"/> *在日ギニア人数 - 469人(2021年12月時点)<ref name="日本国外務省"/> === 駐日ギニア大使館 === {{Main|駐日ギニア大使館}} *住所:[[東京都]][[渋谷区]][[鉢山町]]12-9 *アクセス:[[東急東横線]][[代官山駅]]正面口 <gallery> File:ギニア大使館全景.jpg|ギニア大使館全景 File:ギニア大使館.jpg|ギニア大使館表札 </gallery> == 地理 == [[ファイル:Guinea-CIA WFB Map.png|thumb|left|ギニアの地図]] [[File:Koppen-Geiger Map GIN present.svg|thumb|upright=1.35|ギニアのケッペン気候区分図]] {{main|{{仮リンク|ギニアの地理|en|Geography of Guinea}}}} ギニアは地理的には{{仮リンク|沿岸ギニア|en|Maritime Guinea}}・{{仮リンク|中部ギニア|en|Middle Guinea}}・{{仮リンク|上ギニア|en|Upper Guinea}}・{{仮リンク|森林ギニア|en|Guinée forestière}}の4つの区分からなる。この区分は州の境界と大まかには対応しているものの、完全に州境と対応しているわけではない。 沿岸ギニアは首都のコナクリのほか、[[キンディア州]]全域と[[ボケ州]]海岸部を含む。この地域の海岸部は[[マングローブ]]林に覆われ、海岸線から離れると[[森林]]と[[サバナ (植生)|サバンナ]]が交互に広がる平野となっている。沿岸ギニアの年間[[降水量]]は年間3000mmを越え、非常に高温多湿である。コナクリの沖合には[[ロス諸島]]が浮かんでいる。海岸平野から内陸に入るに従い降水量は減じていき、標高は高くないが分水嶺をなす[[フータ・ジャロン]]山地が広がる。フータ・ジャロン山地はほぼそのまま中部ギニア地域と対応しており、ボケ州内陸部や[[ラベ州]]、[[マムー州]]が含まれる。この山地は降水量が2000mmから1500mm程度とやや少ないこともあって森林は形成されず、草原が広がる。またこの山地は[[ニジェール川]]や[[セネガル川]]、[[ガンビア川]]など多くの河川の源流がある<ref>{{Harvnb|島田|田辺|柴田|1998|p=144}} </ref>。フータ・ジャロンを越えると上ギニアと呼ばれる地域となる。[[ファラナ州]]の大部分と[[カンカン州]]全域が含まれるこの地域はギニアで最も降水量が少ない地域であるが、それでもおおよそ1000mm以上の降水量はあり、[[サバンナ]]が広がる。南端の[[ンゼレコレ州]]付近は森林ギニアと呼ばれ、リベリアやシエラレオネ付近の気候の影響を受けるため再び高温多湿となり、リベリアやコートジボワールとの国境にある最高峰の[[ニンバ山]]付近には[[熱帯雨林]]が広がる。 気候区分は沿岸ギニアと森林ギニア西部が[[熱帯モンスーン気候]](Am)、中部ギニアと上ギニア、森林ギニア東部が[[サバナ気候]](As)である。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Guinea Regions.png|thumb|ギニアの州]] {{main|ギニアの行政区画}} ギニアの地方行政は8州で構成される。[[コナクリ州]]を除く7州はさらに計33県に分かれている。 === 主要都市 === {{main|ギニアの都市の一覧}} 最大都市は首都のコナクリである。コナクリは[[港湾都市]]であり、人口は166万人(2014年)に達する<ref name=":3">{{Harvnb|データブック オブ・ザ・ワールド|2018|p=267}}</ref>。このほかの主要都市としては、森林ギニアの農産物集散地である[[ンゼレコレ]]、かつて鉄道の終点であった上ギニアの中心都市である[[カンカン (ギニア)|カンカン]]、[[ボーキサイト]]鉱山のある鉱山町である[[キンディア]]、ボーキサイト鉱山と輸出港の中間にある同地域の中心都市である[[ボケ (ギニア)|ボケ]]、金山を擁する[[シギリ]]などがある。 == 経済 == [[ファイル:Conakry.jpg|thumb|left|首都コナクリの街並み]] [[File:Guinea Export Treemap.jpg|thumb|色と面積で示したギニアの輸出品目]] {{main|{{仮リンク|ギニアの経済|fr|Économie de la Guinée|en|Economy of Guinea}}}} ギニアは[[後発開発途上国]]の一つであり、経済開発は非常に遅れている。[[国民総所得]]は1人あたり930ドル(2021年)に過ぎない<ref>{{Cite web|url=https://databank.worldbank.org/data/download/GNIPC.pdf|title=GNI Per Capita Ranking, Atlas Method And PPP Based|accessdate=2021-9-1|publisher=[[世界銀行]]|date=2021-2-12|format=PDF|page=3|language=en}}</ref>。[[通貨]]は[[ギニア・フラン]]である<ref name=":1" />。 === 農業 === 労働人口の74.8%(2012年)が農業に従事する<ref name=":3" />。農業は自給農業が主であり、[[稲]]([[米]])や[[キャッサバ]]、[[フォニオ]]<ref>小林裕三「ギニアのフォニオは今」『国際農林業協力』Vol.46 No.1 p.36 公益社団法人国際農林業協働協会 2023年7月31日</ref>を主に栽培しているが、[[主食]]である米の輸入が総輸入の10.7%(2015年)を占め、[[機械]]や[[石油]]に次いで第3位の輸入品となっている<ref name=":3" />ように食糧自給ができていない状況である。 独立時には、[[バナナ]]をはじめとして[[コーヒー]]、[[ピーナッツ]]、[[パーム油]]などの農作物が主要輸出物であったが独立後すぐに鉱物輸出が主体となり<ref name=":4">{{Harvnb|各国別世界の現勢 第1|1964|p=337}}</ref>、1978年には農産物輸出の割合はごくわずかなものとなっていた<ref name=":5">{{Harvnb|伊谷|赤阪|1989|p=108}}</ref>。これは、主にトゥーレ政権時の農業政策の失敗に主因があるとされている。この時期に行われた農産物の価格統制と農業の集団化は農民の生産意欲を減退させ、バナナ、コーヒー、[[パイナップル]]、パーム油の生産は1980年代半ばにはほぼ壊滅しており、農民は輸出農業から自給農業へと回帰してしまった<ref>{{Harvnb|末松|野澤|田辺|竹内|2017|pp=131-133}}</ref>。その後も農業生産は低調な状態が続いている。 農法や作物は地域差が大きく、各地区で特徴のある農法が行われている。海岸平野においては、伝統農法によってマングローブ地帯の干拓が積極的に行われ、[[水田]]稲作とフォニオ栽培を中心とした[[穀物]]栽培が広まっている。フータ・ジャロン山地においては谷間でフォニオ栽培が行われているものの、高原上ではプル(フラニ)人によって[[ウシ]]の飼育が行われており、国内[[牧畜]]の中心地となっている<ref>{{Harvnb|末松|野澤|田辺|竹内|2017|p=132}}</ref>。ンゼレコレ州周辺の森林ギニアにおいては天水による[[陸稲]]農業が盛んであり、かつてはコーヒー栽培も行われていた。上ギニアでは[[トウモロコシ]]や[[ソルガム]]、ラッカセイが主に栽培され、牧畜も行われている<ref>{{Harvnb|末松|野澤|田辺|竹内|2017|p=134}}</ref>。 森林が広がっているため[[林業]]は可能性があるが、搬出経路の問題によって開発は進んでいない。[[漁業]]も沿岸で小規模に行われているに過ぎない。 === 鉱業 === {{main|{{仮リンク|ギニアの鉱業|en|Mining industry of Guinea}}}} ギニアの最大の輸出品は、全世界の約3分の1の埋蔵量を誇る[[ボーキサイト]]であり<ref>{{Cite report|author=ザボロフスキ真幸|title=世界の鉱業の趨勢2018 ギニア|publisher=[[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]]|date=2018-8-13|series=世界の鉱業の趨勢|url=http://mric.jogmec.go.jp/wp-content/uploads/2018/10/trend2018_gn.pdf|format=PDF|page=1|language=ja|accessdate=2021-9-1}}</ref>、世界5位の生産量と2015年の輸出の36.6%を占め<ref name=":3" />、ギニアの経済を支えている。ギニアのボーキサイト鉱山はいずれも海岸部寄りの丘陵地帯に存在し、北から[[サンガレディ]]にあるボケ鉱山、[[フリア (ギニア)|フリア]]鉱山、[[キンディア]]鉱山の3つの大鉱山が存在する。フリア鉱山はフランス資本によって1950年代からの開発され、ボケ・キンディア両鉱山は1970年代に開発が始まった<ref name=":5" />。サンガレディ鉱山からの鉱石は[[カムサル]]港から、フリアおよびキンディア鉱山からの鉱石はコナクリ港から輸出される。ギニア経済のもう一つの柱はシギリ周辺で産出する[[金]]であり、2015年には総輸出の40.1%を占めて第1位の輸出品となった<ref name=":3" />。このほかには、[[ダイヤモンド]]も産出する<ref>{{Harvnb|島田|田辺|柴田|1998|p=152}} </ref>。 [[ニンバ山]]にはリベリアから続く鉄鉱石の鉱床が存在するが、開発は進んでいない。同じくギニア東南部のシマンドゥも未開発鉱山としては世界最大級の[[鉄鉱石]]埋蔵量と推計されており、[[リオ・ティント]]や[[中華人民共和国]]企業が開発を目指している<ref>「流転のギニア鉱山開発へ前進/官民で合弁設立、中国が積極関与」『[[日経産業新聞]]』2022年8月25日グローバル面</ref>。 2021年、シンガポールや中国などの企業が参加するコンソーシアム<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gn.emb-japan.go.jp/files/100146647.pdf|title=ギニア月報(2020年11月)|publisher=[[在ギニア日本国大使館]]|date=2020-11|accessdate=2021-06-19|format=PDF}}</ref>がダピロン港とサントウ鉱床間を結ぶ鉄道を完成させた<ref>{{Cite news|title=中国企業が建設を請け負ったギニアの鉄道が開通|newspaper=[[新華社通信]]日本語版|date=2021-6-19|url=https://web.archive.org/web/20210619143308/https://nordot.app/778987140308992000|accessdate=2021-9-1}}</ref>。 === エネルギー === {{main|{{仮リンク|ギニアのエネルギー|fr|Énergie en Guinée}}}} {{節スタブ}} === 観光 === {{main|{{仮リンク|ギニアの観光|fr|Tourisme en Guinée}}}} {{節スタブ}} == 交通 == {{main|ギニアの鉄道|{{仮リンク|ギニアの交通|en|Transport in Guinea}}}} ギニア国内には、サンガレディからボケを通りカムサル港までを結ぶボケ鉄道をはじめフリア鉱山とキンディア鉱山もコナクリ港までボーキサイト輸送用鉄道を運行しており、三大鉱山がすべておのおのの鉱山鉄道を所持している<ref>{{Harvnb|島田|田辺|柴田|1998|pp=146-147}} </ref>。コナクリからの古い鉄道は、1913年にキンディアやマムーを通ってカンカンまで開通したものの、老朽化が進み長く運行されていない。 コナクリにある[[コナクリ国際空港]]からは、近隣諸国に国際線が就航している。主要港はコナクリ港とカムサル港であり、いずれもボーキサイトの輸出を柱としている<ref>{{Harvnb|島田|田辺|柴田|1998|p=147}} </ref>。 == 国民 == [[ファイル:Guinee Fouta Djalon Doucky.jpg|thumb|right|ギニアの子供たち]] {{main|{{仮リンク|ギニアの人口統計|en|Demographics of Guinea}}}} === 人口 === ギニアの人口は急増を続けており、1963年に335万人だった<ref name=":4" />人口は1986年には622万人<ref name=":6">{{Harvnb|伊谷|赤阪|1989|p=106}}</ref>、2017年には1271万人にまで増加した<ref>{{Harvnb|データブック オブ・ザ・ワールド|2018|p=266}}</ref>。 === 民族 === 住民は、主に海岸部に居住する{{仮リンク|スースー人|en|Susu people|label=スースー族}}<ref name=":7">{{Harvnb|島田|田辺|柴田|1998|p=145}} </ref>(12.2%、2000年)<ref name=":3" />、フータ・ジャロン山地に居住する[[フラニ族]]<ref name=":7" />(38.3%、2000年)<ref name=":3" />、内陸のサバンナ地帯に居住する[[マンディンカ族|マリンケ族]]<ref name=":7" />(25.6%、2000年)<ref name=":3" />の3民族が中心的である。この3大民族は政治的に対立しており、政情不安の原因の一つとなっている。サバンナ地帯は上記の三大民族が多数を占めているが、南部内陸の熱帯雨林地帯では一民族が多数を占めることはなく、[[キッシ族]]などいくつかの民族が居住している<ref name=":6" />。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|ギニアの言語|en|Languages of Guinea|fr|Langues en Guinée}}}} 言語は[[フランス語]]が[[公用語]]だが、日常生活では各民族ごとの言語を用いている<ref>{{Cite report|title=ギニア|series=出身国情報-主要な情報文書|language=ja|publisher=[[法務省]][[入国管理局]]|date=2006-4-13|url=https://www.moj.go.jp/content/000056409.pdf|format=PDF|accessdate=2021-9-1|page=4}}</ref>。 *[[フラニ語]] **{{仮リンク|Pular語|en|Pular language}} (プール語) *[[マンディング諸語]] **[[マニンカ語]] (マリンケ語) ***[[ンコ語]] *[[スースー語]] (スス語) *{{仮リンク|キッシ語|en|Kissi language}} (キシ語) *[[クペレ語]] *{{仮リンク|トマ語|en|Loma language}} (Toma language) (ロマ語) *{{仮リンク|バサリ語|en|Bassari language}} *{{仮リンク|コニアギ語|en|Wamey language}} (Konyagi language) === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ギニアにおけるイスラム教|en|Islam in Guinea}}}} 宗教は2005年データで[[イスラム教]]が85%、[[キリスト教]]が8%、現地宗教が7%である<ref name=":3" />。 === 婚姻 === [[一夫多妻制]]は一般的には法律で禁止されているが、例外が存在する<ref>[http://ddata.over-blog.com/xxxyyy/2/86/20/02/CODE-CIVIL.pdf Articles 315-319] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130521165450/http://ddata.over-blog.com/xxxyyy/2/86/20/02/CODE-CIVIL.pdf |date=21 May 2013 }}, Civil Code of the Republic of Guinea (Code Civil de la Republique de Guinee)</ref>。[[ユニセフ]]は、15〜49歳のギニア人女性の53.4%が一夫多妻結婚をしていると報告している<ref>[http://www.unicef.org/publications/files/Early_Marriage_12.lo.pdf "''Early Marriage A Harmful Traditional Practice – A Statistical Exploration''"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140828013412/http://www.unicef.org/publications/files/Early_Marriage_12.lo.pdf |date=28 August 2014 }} UNICEF, 2005, p. 38.</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ギニアにおける一夫多妻制|en|Polygamy in Guinea}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|ギニアの教育|fr|Système éducatif en Guinée|en|Education in Guinea}}}} 教育制度は小学校6年、中学校4年、高校3年、大学4年であり、[[義務教育]]は小学校6年間である。[[教授言語]]はフランス語である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC71200.html|title=国・地域の詳細情報 ギニア共和国|accessdate=2020-1-7|publisher=外務省|website=諸外国・地域の学校情報|date=2016-1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160321134033/https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/07africa/infoC71200.html|archivedate=2016-3-21|deadlinkdate=2021-9}}</ref>。[[識字率]]は非常に低く、2015年には30.5%にすぎなかった<ref name=":3" />。 {{See also|{{仮リンク|ギニアの大学の一覧|en|List of universities in Guinea}}}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|ギニアの保健|en|Health in Guinea}}}} {{節スタブ}} == 治安 == ギニアの治安は、危険な状況に陥っている。ギニアの治安・市民保護省によれば、[[スリ]]や[[置引き]]といった軽度の[[犯罪]]の増加と共に、[[強盗]]や[[殺人]]といった重大な犯罪も報告されている。 中でも、一般人が[[軍人]]になりすまして強盗を行なう事案が多く報告されている。首都のコナクリ市内においてはほぼ全域で犯罪が発生しているが、特にコナクリの中心部でもあるラトマやマトトの両地区では、強盗・殺人などの凶悪犯罪が発生している。 最も狙われやすいのは裕福なギニア人であり、次いでギニア経済に深く浸透している[[レバノン人]]と言われているが、ギニア駐在の外交団・国際機関及び外資系企業関係者や日本人に対する被害も少なからず報告されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_099.html|title=ギニア 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-9-1|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ギニアにおける人権|en|Human rights in Guinea}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|ギニアの文化|fr|Culture de la Guinée}}}} {{節スタブ}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|ギニア料理|fr|Cuisine guinéenne|en|Cuisine of Guinea}}}} ギニア国内で最も一般的な主食は[[米]]である。さらに[[キャッサバ]]も広く消費されている。 {{節スタブ}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|ギニア文学|fr|Littérature guinéenne}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ギニアの音楽|en|Music of Guinea}}}}ギニアを含む西アフリカ地域で用いられる打楽器[[ジャンベ]]が有名。ジャンベを世界的に普及させた[[ママディ・ケイタ]]はギニア出身である。彼が1994年鹿児島県三島村を訪問したことをきっかけに同村ではアジア初のジャンベスクールが開設された<ref>{{Cite web|和書|title=ジャンベスクール {{!}} 鹿児島県三島村 |url=http://mishimamura.com/education-culture-history/janbe/ |website=鹿児島県三島村 {{!}} |date=2019-10-17 |access-date=2023-05-13 |language=ja}}</ref>。{{節スタブ}} === 世界遺産 === [[ニンバ山厳正自然保護区]]が唯一の[[世界遺産]]となっている。 {{節スタブ}} === 祝祭日 === {| class="wikitable" |+ 祝祭日 !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |} {{節スタブ}} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|ギニアのスポーツ|en|Sport in Guinea}}}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|ギニアのサッカー|en|Football in Guinea}}}} ギニア国内でも他のアフリカ諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1965年]]にはプロサッカーリーグの[[ギニア・シャンピオナ・ナシオナル]]が創設された。 {{仮リンク|ギニアサッカー連盟|en|Guinean Football Federation}}によって構成される[[サッカーギニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場であり、[[1966 FIFAワールドカップ|1966年イングランド大会]]では棄権し、[[2002 FIFAワールドカップ|2002年日韓大会]]ではギニア政府が代表チームに介入したとして失格となっている。しかし[[アフリカネイションズカップ]]にはこれまで13度出場しており、[[アフリカネイションズカップ1976|1976年大会]]では準優勝の成績を収めるなどしている。 === オリンピック === {{main|オリンピックのギニア選手団}} ギニアは[[近代オリンピック|オリンピック]]には[[1968年メキシコシティーオリンピック|1968年メキシコシティ大会]]で初出場し、[[1980年モスクワオリンピック|1980年モスクワ大会]]以降は連続して出場し続けているものの、メダル獲得経験はない。 == 著名な出身者 == {{main|ギニア人の一覧|Category:ギニアの人物}} * [[オスマン・サンコン]] - [[タレント]]、[[著作家]] * [[ママディ・ケイタ]] - [[ジャンベ]]奏者 * [[イスマエル・バングラ]] - 元[[サッカー選手]] * [[ケヴィン・コンスタン]] - 元サッカー選手 * [[フロランタン・ポグバ]] - サッカー選手([[ポール・ポグバ]]の実兄) * [[ナビ・ケイタ]] - サッカー選手([[リヴァプールFC]]所属) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=アフリカ現代史IV 西アフリカ|year=1982|publisher=[[山川出版社]]|ref=harv|first=弘光|last=中村|series=世界現代史 16|month=12|isbn=9784634421608|NCID=BA38283692}} * {{Cite book|和書|title=各国別世界の現勢 第1|year=1964|publisher=[[岩波書店]]|series=岩波講座現代 別巻1|NCID=BN01110382|DOI=10.11501/2966773|ref={{SfnRef|各国別世界の現勢 第1|1964}}}} * {{Cite book|和書|title=現代アフリカ・クーデター全史|year=2005|publisher=[[叢文社]]|ref=harv|last=片山|first=正人|month=8|NCID=BA73330236|isbn=9784794705235}} * {{Cite book|和書|title=世界地理大百科事典2 アフリカ|year=1998|publisher=[[朝倉書店]]|ref=harv|last=島田|first=周平|first2=裕|last2=田辺|last3=柴田|first3=匡平|NCID=BA37904590|isbn=4254166621|month=10}} * {{Cite book|和書|title=現代アフリカ入門|year=1991|publisher=岩波書店|month=11|ref=harv|first=誠|last=勝俣|isbn=9784004301936|NCID=BN06914139}} * {{Cite book|和書|title=データブック オブ・ザ・ワールド 世界各国要覧と最新統計 2018年版|publisher=[[二宮書店]]|isbn=9784817604286|date=2018-1-10|ref={{SfnRef|データブック オブ・ザ・ワールド|2018}}}} * {{Cite book|和書|title=アフリカを知る事典|year=1989|publisher=[[平凡社]]|ref=harv|month=2|last=伊谷|first=純一郎|last2=赤阪|first2=賢|isbn=4582126111|NCID=BN03146256}} * {{Cite 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オパール
オパール(英語: opal)は、鉱物(酸化鉱物)の一種。潜晶質であるため、厳密には準鉱物であるが、国際鉱物学連合ではオパールを正式な鉱物としている。和名と中国語名は蛋白石(たんぱくせき)。 西洋語のオパールを指す語は、ギリシア語 opallios、または、そのラテン語化 opalus に起源を持つ。これらの語は、サンスクリット語で(宝)石を意味する upālā[s] という語との関係が指摘されている。 主な産地はオーストラリアのクーバーペディやライトニング・リッジ等と、メキシコなど。 日本でも広く産出するが、宝石級のものはほとんどない。福島県西会津町宝坂には宝石級のものが見られたが、2006年に閉山し、埋め立てられており採集不可能である。 化学組成は SiO2・nH2Oで、成分中に10%ぐらいまでの水分を含む。モース硬度 5 - 6。比重 1.9 - 2.2。劈開性なし。 非晶質である「opal-A」と、結晶構造の始まりを示す潜晶質(隠微晶質)であり肉眼では非晶質のようにみえる「opal-CT」がある。opal-Aは二酸化ケイ素の凝集した球の積み重なりの間に水が充満したもので、二酸化ケイ素の球の大きさによって「プレシャス・オパール」と「コモン・オパール」に分けられる。opal-CTはクリストバライトや鱗珪石の非常に細かい結晶の積み重なりであり、またの名を Lussatite とも言う。これは高圧下で水分含有量が少ない lussatine(またの名を「opal-C」)となり、水分が蒸発したのちに結晶構造を持つクリストバライトや鱗珪石となり、最終的に水晶や玉髄に変化する。 ブドウ状または鍾乳状の集合体や小球状のものとして産出される。透明なものから、半透明・不透明なものまである。ガラス光沢・樹脂光沢をもつものは宝石として扱われ、無色のものから乳白色、褐色、黄色、緑色、青色と様々な色のものが存在する。まれに遊色効果を持つものも存在する。 主に火成岩または堆積岩のすき間に、ケイ酸分を含んだ熱水が充填することで含水ケイ酸鉱物としてできる。そのほかにも、埋没した貝の貝殻や樹木などがケイ酸分と交代することで生成されたり、温泉の沈殿物として生成されるなど、各種の産状がある。特に、樹木の化石を交代したものは珪化木と呼ばれる。オーストラリアでは、恐竜や哺乳類の歯などの化石がアパタイトからケイ酸分に入れ替わり、オパール化して発掘されたこともある。 なお、微化石の一種にプラントオパールと呼ばれるものがあるが、これは植物が生きているうちに組織内に形成した非晶質のケイ酸分であり、風化しにくいため、年代当時の地層中にある植物を同定することにも用いられる。 遊色効果をもつオパールをプレシャス・オパール (precious opal) といい、遊色効果が無いか、あっても不十分なオパールをコモン・オパール(Common opal)または普通蛋白石と言う。両者の違いは内部構造である。 プレシャス・オパールは遊色があり、キラキラと輝く(これをオパールの「火」(fire) と言う)。そのため、宝石としての価値が高い。 プレシャス・オパールは、直径150nmから300nmくらいの二酸化ケイ素の分子が六方最密充填構造または立方最密充填構造を形成しており、それゆえ準鉱物(Mineraloid)として扱われる。分子の大きさがどれだけ揃っているかと、分子の充填度が、宝石としてのオパールの品質を決定する。分子の大きさがバラバラで、あまり充填されていないものは遊色を見せず、コモン・オパールに分類される。 プレシャス・オパールは、地色によってブラック・オパール(黒蛋白石、black opal)、ファイアー・オパール(火蛋白石、fire opal)と区別される。ファイアー・オパールのファイアーとは斑を意味し、play of color または playing fire ともいい、遊色効果を意味する。 コモン・オパールは遊色がなく、石の地色しか見えない。そのため、宝石としての価値が低い。 ミルキーオパールは乳白色から緑がかった青色で、色がきれいなものは宝石として扱われる。他に珍重されるコモン・オパールは、玉滴石(hyalite)、乳珪石(Menilite)、間欠石(geyserite)、木蛋白石(wood opal)などがある。 古くは石器の材料の一つとして用いられ、日本でも東北から九州にかけて広範な遺跡から出土する。新潟県佐渡市の堂の貝塚では、精巧に加工された鉄石英および蛋白石製の石鏃を副葬した墓壙が発見されている。 色の美しいものは宝石として扱われ、10月の誕生石とされている。特に日本で好まれている宝石で、乳白色の地に虹色の輝き(遊色効果)をもつものは中でも人気が高く、「虹色石」とも呼ばれる。 カボション・カットでカットされ、ブローチや各種の装飾品に加工されている。 オパールは宝石の中で唯一水分を含むため、宝石店などでは保湿のため、水を入れた瓶やグラスを置くところもある。水分がなくなると濁ってヒビが入ることがあるためである。オパールの原石はカットされる前に充分天日で乾燥させなければならない。乾燥に耐えられたオパールだけをカットし指輪などの宝飾品に加工される。このようなオパールは普通に取り扱っている限りは特に問題がない。 オクタビアヌスは、ローマ帝国の3分の1を売って入手しようとしたとされる。大プリニウスは、『博物誌』第37巻で、オパールについて言及している。宮沢賢治は、彼の作品『貝の火』、『楢ノ木大学士の野宿』でオパールを取り上げて、その輝きについて描写している。 石言葉は希望、無邪気、潔白。 水分が蒸発したものを透蛋白石 (hydrophane) という。水につけると乳白色から透明に色が変わるので、「カメレオンオパール」などと称して販売されているが、水中の塩素などと反応してしまう可能性があるので宝石を水につけない方がよい。 ウォーターオパールとして市場に出回っているメキシコ産オパールがある。これは地色が無色透明に近いと確認されたメキシコオパールである。ウォーターオパールは地色が無色であるため、斑の弱いものは宝飾品に加工すると石そのものの存在感が薄くなる場合が多い。裸石(ルース)の状態ではそのようなことは気にならないため、裸石(ルース)収集家向きのオパールと言える。極上のウォーターオパールは文字通り水滴のように透明感のあるオパール石である。白い紙の上に置くとオパール石自体が極めて透明であたかも水滴を垂らしたようにみえるがこれを抜けの良いオパールまたは白メキと呼んでいる。ウォーターオパールの高品質とされる石はやはりファイアーすなわち斑の豊かな遊色効果のすぐれたものが珍重され特に赤、橙、黄、青、緑のピンファイアーまたはジュビア (lluvia) が出る石は極めて高価である。日本国内ではファイアーオパールよりも人気のあるオパール石である。 ファイアーオパールのファイアー (fire) とは、遊色 (play of color)、いわゆる斑を意味する言葉で、playing fire(チラチラと揺れる炎)とも呼ぶ。したがって無遊色オパールはたとえ地色が赤橙系の色であれファイアーオパールとは定義できない。しかしながら市場では赤橙系の無遊色オパールがファイアーオパールと称され販売されている。この背景について解説する。80年代にこの無遊色の赤橙系のオパールがファセットカットされてドイツの市場に出現した。その時のドイツ語商品名は Feueropal すなわちファイアーオパールである。この無遊色の赤橙系のオパールは現地メキシコでは vidrio rojo = red glass、単に赤ガラスと呼んでいる。ドイツ人バイヤーも現地では赤ガラスと呼びファイアーオパールとは呼ばない。赤ガラスはほとんどすべてのオパール鉱山で産出し以前は大変安価なオパールであったがヨーロッパ市場での需要拡大により最近ではインドのバイヤーも参入している。日本市場でも赤い無遊色オパールがファイアーオパールとして販売されているがこのネーミングには宝石業界の恣意性がかなり反映されているとみてよい。現地メキシコでは本来の遊色のあるファイアーオパールを opalo de fuego、すなわち炎 (fuego) のオパールと呼んでいる。オパール自体の客観的な属性を的確に反映したネーミングといえる。 メキシコでは1200年ごろアステカ族により宗教儀式における装飾に使用されて ハミングバードの宝石 と呼ばれていた。この小鳥の羽毛がオパールの虹色の遊色を連想させるからである。メキシコオパールの鉱山の周辺ではハミングバードの飛翔がよく観察される。特に地色が赤、橙またはオレンジ色のメキシコオパールで遊色効果の優れたものをファイアーオパールと呼んでいる。16世紀にアステカ族の神殿で発見されたオパールのひとつはアステカ太陽神の名で世界的にも知られるところとなり1881年にシカゴの自然博物館に売却され保存されている。メキシコのハリスコ州は主要なオパールの産出地のひとつである。鉱脈はケレタロ州の Tequisquiapan, Colon, ハリスコ州の Magdalena、El Cobano, Hostotipaquillo, Tequila, Antonio escobedo, San Cristobal de la Barranca にあり60年代の初期にオパールの採掘がはじめられた。ハリスコ州で行われた調査によると La Quemada, San Andres, San Simon, El Cobano,Magdalena の5地区が形成する3000kmの長方形の地域にオパールの鉱脈がある。マグダレナ地区が他の地域に比較して著名なのは産出されるオパールの色の階調が変化に富んでいるということである。赤、青、オレンジ、緑の色調がすべてそろっているのである。ここで最も希少な石は opalo negro (black) であるが,オーストラリアのブラックオパールと決定的に違うのは opalo negro(現地で azabache と呼称)はまったく透明であるということである。オパールは純粋性、透明性、色調、遊色、形状という多様な品質に分けられる。より優れた遊色と透明性と色調をもつオパールが高品質であることは言うを待たない。98種にランクづけられるとまで言われているほど多様である。オパールは光の入射角により色調と色の階調の幅が大きく変わる宝石のひとつである。オパールの重要な性質のひとつは熱による乾燥またはカットをされるときの激しい振動によりひきおこされる内部のミクロな断層または craquelacion である。水分をあたえるともとにもどるが1日から8日の間に再び同じ変質をこうむるのである。オパールはあたかも指紋のような石である;世界に同じ石は存在しないからである。 20世紀にオーストラリアで発見された原石、オリンピック・オーストラリス(英語版)は重さ3.15kg、価格は190万ドルと世界最大級かつ最大価格と推測されている。
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glass、単に赤ガラスと呼んでいる。ドイツ人バイヤーも現地では赤ガラスと呼びファイアーオパールとは呼ばない。赤ガラスはほとんどすべてのオパール鉱山で産出し以前は大変安価なオパールであったがヨーロッパ市場での需要拡大により最近ではインドのバイヤーも参入している。日本市場でも赤い無遊色オパールがファイアーオパールとして販売されているがこのネーミングには宝石業界の恣意性がかなり反映されているとみてよい。現地メキシコでは本来の遊色のあるファイアーオパールを opalo de fuego、すなわち炎 (fuego) のオパールと呼んでいる。オパール自体の客観的な属性を的確に反映したネーミングといえる。", "title": "サイド・ストーリー" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "メキシコでは1200年ごろアステカ族により宗教儀式における装飾に使用されて ハミングバードの宝石 と呼ばれていた。この小鳥の羽毛がオパールの虹色の遊色を連想させるからである。メキシコオパールの鉱山の周辺ではハミングバードの飛翔がよく観察される。特に地色が赤、橙またはオレンジ色のメキシコオパールで遊色効果の優れたものをファイアーオパールと呼んでいる。16世紀にアステカ族の神殿で発見されたオパールのひとつはアステカ太陽神の名で世界的にも知られるところとなり1881年にシカゴの自然博物館に売却され保存されている。メキシコのハリスコ州は主要なオパールの産出地のひとつである。鉱脈はケレタロ州の Tequisquiapan, Colon, ハリスコ州の Magdalena、El Cobano, Hostotipaquillo, Tequila, Antonio escobedo, San Cristobal de la Barranca にあり60年代の初期にオパールの採掘がはじめられた。ハリスコ州で行われた調査によると La Quemada, San Andres, San Simon, El Cobano,Magdalena の5地区が形成する3000kmの長方形の地域にオパールの鉱脈がある。マグダレナ地区が他の地域に比較して著名なのは産出されるオパールの色の階調が変化に富んでいるということである。赤、青、オレンジ、緑の色調がすべてそろっているのである。ここで最も希少な石は opalo negro (black) であるが,オーストラリアのブラックオパールと決定的に違うのは opalo negro(現地で azabache と呼称)はまったく透明であるということである。オパールは純粋性、透明性、色調、遊色、形状という多様な品質に分けられる。より優れた遊色と透明性と色調をもつオパールが高品質であることは言うを待たない。98種にランクづけられるとまで言われているほど多様である。オパールは光の入射角により色調と色の階調の幅が大きく変わる宝石のひとつである。オパールの重要な性質のひとつは熱による乾燥またはカットをされるときの激しい振動によりひきおこされる内部のミクロな断層または craquelacion である。水分をあたえるともとにもどるが1日から8日の間に再び同じ変質をこうむるのである。オパールはあたかも指紋のような石である;世界に同じ石は存在しないからである。", "title": "サイド・ストーリー" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "20世紀にオーストラリアで発見された原石、オリンピック・オーストラリス(英語版)は重さ3.15kg、価格は190万ドルと世界最大級かつ最大価格と推測されている。", "title": "サイド・ストーリー" } ]
オパールは、鉱物(酸化鉱物)の一種。潜晶質であるため、厳密には準鉱物であるが、国際鉱物学連合ではオパールを正式な鉱物としている。和名と中国語名は蛋白石(たんぱくせき)。 西洋語のオパールを指す語は、ギリシア語 opallios、または、そのラテン語化 opalus に起源を持つ。これらの語は、サンスクリット語で(宝)石を意味する upālā[s] という語との関係が指摘されている。
{{Otheruses|3=オパール (曖昧さ回避)}}{{Infobox 鉱物 |name = オパール(蛋白石) |boxwidth = |boxbgcolor = |image = Opal banded.jpg |imagesize = 250 |alt = オパール |caption = オパール([[オーストラリア]]産) |category = [[酸化鉱物]](ケイ酸鉱物)<br>または[[準鉱物]] |strunz = 4.DA.10 |dana = 75.2.1.1 |formula = SiO<sub>2</sub>・nH<sub>2</sub>O |system = [[非晶質]] |symmetry = <!-- 対称 --> |unit cell = <!-- 単位格子 --> |molweight = <!-- モル質量 --> |habit = <!-- 晶癖 --> |twinning = <!-- 双晶 --> |cleavage = なし |fracture = <!-- 断口 --> |tenacity = <!-- 粘靱性 --> |mohs = 6.5 |luster = [[ガラス光沢]] |color = [[白色]]([[琥珀色]]、[[虹#虹のスペクトル|虹色]]の光を放つものもある) |streak = 白色 |diaphaneity = <!-- 透明度 --> |gravity = 2.1 |density = <!-- 密度 --> |polish = <!-- Polish luster --> |opticalprop = <!-- 光学性 --> |refractive = <!-- 屈折率 --> |birefringence = <!-- 複屈折 --> |pleochroism = <!-- 多色性 --> |2V = <!-- 光軸角 2V --> |dispersion = <!-- 分散 --> |extinction = <!-- 消光角 --> |length fast/slow = <!-- 伸長 --> |fluorescence = <!-- 蛍光 --> |absorption = <!-- 吸収スペクトル --> |melt = <!-- 融点 --> |fusibility = <!-- 可融性 --> |diagnostic = <!-- Diagnostic features --> |solubility = <!-- 溶解度 --> |impurities = <!-- 不純物? --> |alteration = <!-- 変質? --> |other = <!-- その他の特性 --> |prop1 = |prop1text = |references = <ref>{{Cite book|和書 |author = [[国立天文台]]編 |title = [[理科年表]] 平成20年 |year = 2007 |publisher = [[丸善]] |isbn = 978-4-621-07902-7 |page = 646 }}</ref><ref name="mindat">{{Mindat |name = Opal |id = 3004 |accessdate = 2011-12-13 }} {{En icon}}</ref><ref name="webmineral">{{WebMineral |name = Opal |url = http://webmineral.com/data/Opal.shtml |accessdate = 2011-12-13 }} {{En icon}}</ref> |var1 = |var1text = |var2 = |var2text = |var3 = |var3text = |var4 = |var4text = |var5 = |var5text = |var6 = |var6text = }} '''オパール'''<ref name="terms">{{Cite book|和書 |author = [[文部省]]編 |title = [[学術用語集]] 地学編 |url = http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi |year = 1984 |publisher = [[日本学術振興会]] |isbn = 4-8181-8401-2 |page = 312 }}ただし英語では{{IPA-en|ˈoʊpəl||en-au-Opal.ogg}}と前に強勢をおき「'''オウ'''パル」のように発音する。ドイツ語では{{IPA-de|oˈpaːl||De-Opal.ogg}}と後ろに強勢がある。</ref>({{Lang-en|opal}})は、[[鉱物]]([[酸化鉱物]])の一種。[[潜晶質]]であるため、厳密には[[準鉱物]]であるが、[[国際鉱物学連合]]ではオパールを正式な鉱物としている。和名と中国語名は'''蛋白石'''(たんぱくせき)。 西洋語のオパールを指す語は、[[ギリシア語]] {{el|opallios}}、または、その[[ラテン語]]化 {{la|opalus}} に起源を持つ。これらの語は、[[サンスクリット語]]で(宝)石を意味する {{lang|sa-latn|upālā[s]}} という語との関係が指摘されている。 == 産出地 == 主な産地は[[オーストラリア]]の[[クーバーペディ]]や[[:en:Lightning Ridge, New South Wales|ライトニング・リッジ]]等と、[[メキシコ]]など。 [[日本]]でも広く産出するが、宝石級のものはほとんどない。[[福島県]][[西会津町]]宝坂<ref>{{Cite journal|和書 |title=福島県宝坂産オパールの組織とその構成鉱物 |url=https://doi.org/10.2465/ganko1941.74.274 |author=秋月瑞彦, 島田昱郎 |journal=岩石鉱物鉱床学会誌 |volume=74 |issue=7 |pages=274-279 |year=1979 |publisher=日本鉱物科学会 |doi=10.2465/ganko1941.74.274}}</ref>には宝石級のものが見られたが、2006年に閉山し、埋め立てられており採集不可能である。 火星においては、2012年に行われた火星探査機[[マーズ・サイエンス・ラボラトリー|キュリオシティ]]による[[ゲール (クレーター)|ゲールクレーター]]の現地調査で、破砕ヘイロー(fracture halo)という鉱物の帯にてオパールが多く含まれていることが確認されており、かつて水が存在して作用して形成された可能性が示唆されている<ref>{{Cite journal |last=Rapin |first=W. |last2=Chauviré |first2=B. |last3=Gabriel |first3=T. S. J. |last4=McAdam |first4=A. C. |last5=Ehlmann |first5=B. L. |last6=Hardgrove |first6=C. |last7=Meslin |first7=P.‐Y. |last8=Rondeau |first8=B. |last9=Dehouck |first9=E. |date=2018-08 |title=In Situ Analysis of Opal in Gale Crater, Mars |url=https://agupubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1029/2017JE005483 |journal=Journal of Geophysical Research: Planets |volume=123 |issue=8 |pages=1955–1972 |language=en |doi=10.1029/2017JE005483 |issn=2169-9097}}</ref><ref>{{Cite web|和書| |url=https://gigazine.net/news/20230111-mars-opal-gemstone-crater/ |title=火星のクレーターには「オパール」の原石がぎっしり詰まっていることが判明、水と生命の存在を示すカギか - GIGAZINE |access-date=2023-12-02 |date=2023-01-11 |website=gigazine.net |language=ja}}</ref>。 == 性質・特徴 == [[化学組成]]は {{chem|SiO|2|・''n''H|2|O}}で、成分中に10%ぐらいまでの水分を含む。[[モース硬度]] 5 - 6。[[比重]] 1.9 - 2.2。[[へき開|劈開性]]なし。 [[非晶質]]である「opal-A」と、結晶構造の始まりを示す潜晶質([[隠微晶質]])であり肉眼では非晶質のようにみえる「opal-CT」がある。opal-Aは二酸化ケイ素の凝集した球の積み重なりの間に水が充満したもので、二酸化ケイ素の球の大きさによって「プレシャス・オパール」と「コモン・オパール」に分けられる。opal-CTは[[クリストバライト]]や[[鱗珪石]]の非常に細かい結晶の積み重なりであり、またの名を {{lang|en|Lussatite}} とも言う。これは高圧下で水分含有量が少ない {{lang|en|lussatine}}(またの名を「opal-C」)となり、水分が蒸発したのちに結晶構造を持つ[[クリストバライト]]や[[鱗珪石]]となり、最終的に[[水晶]]や[[玉髄]]に変化する。 [[ブドウ]]状または[[鍾乳]]状の集合体や小球状のものとして産出される。透明なものから、半透明・不透明なものまである。[[ガラス光沢]]・[[樹脂光沢]]をもつものは[[宝石]]として扱われ、[[無色]]のものから[[乳白色]]、[[褐色]]、[[黄色]]、[[緑色]]、[[青色]]と様々な[[色]]のものが存在する。まれに[[遊色効果]]を持つものも存在する。 === 成因 === 主に[[火成岩]]または[[堆積岩]]のすき間に、[[ケイ酸]]分を含んだ[[熱水]]が充填することで含水ケイ酸鉱物としてできる。そのほかにも、埋没した[[貝]]の[[貝殻]]や[[樹木]]などがケイ酸分と交代することで生成されたり、[[温泉]]の[[沈殿物]]として生成されるなど、各種の産状がある。特に、樹木の[[化石]]を交代したものは[[珪化木]]と呼ばれる。オーストラリアでは、[[恐竜]]や[[哺乳類]]の[[歯]]などの[[化石]]が[[アパタイト]]からケイ酸分に入れ替わり、オパール化して発掘されたこともある。 なお、[[微化石]]の一種に[[プラントオパール]]と呼ばれるものがあるが、これは植物が生きているうちに[[組織 (生物学)|組織]]内に形成した非晶質のケイ酸分であり、[[風化]]しにくいため、年代当時の[[地層]]中にある植物を同定することにも用いられる。 == 分類 == 遊色効果をもつオパールを'''プレシャス・オパール''' ({{en|precious opal}}) といい、遊色効果が無いか、あっても不十分なオパールを'''コモン・オパール'''({{lang|en|Common opal}})または普通蛋白石と言う。両者の違いは内部構造である。 === プレシャス・オパール === プレシャス・オパールは遊色があり、キラキラと輝く(これをオパールの「火」({{lang|en|fire}}) と言う)。そのため、宝石としての価値が高い。 プレシャス・オパールは、直径150nmから300nmくらいの[[二酸化ケイ素]]の分子が[[六方最密充填構造]]または[[立方最密充填構造]]を形成しており、それゆえ[[準鉱物]]({{lang|en|Mineraloid}})として扱われる。分子の大きさがどれだけ揃っているかと、分子の充填度が、宝石としてのオパールの品質を決定する。分子の大きさがバラバラで、あまり充填されていないものは遊色を見せず、コモン・オパールに分類される。 プレシャス・オパールは、[[地色]]によって[[ブラック・オパール]](黒蛋白石、{{en|black opal}})、ファイアー・オパール(火蛋白石、{{en|fire opal}})と区別される。ファイアー・オパールのファイアーとは[[斑]]を意味し、{{en|play of color}} または {{en|playing fire}} ともいい、遊色効果を意味する。 === コモン・オパール === コモン・オパールは遊色がなく、石の地色しか見えない。そのため、宝石としての価値が低い。 ミルキーオパールは乳白色から緑がかった青色で、色がきれいなものは宝石として扱われる。他に珍重されるコモン・オパールは、玉滴石({{en|hyalite}})、乳珪石({{lang|en|Menilite}})、間欠石({{lang|en|geyserite}})、木蛋白石({{lang|en|wood opal}})などがある。 *玉滴石 … [[岩石]]の表面に球状に付着して産出するものを、玉滴石(ぎょくてきせき、{{interlang|en|hyalite}})という。[[紫外線]]を照射すると[[蛍光]]を発するものがある。日本では[[飛越地震]]の際に[[立山温泉]]の[[新湯]]とともに噴出したことがある(発見後すぐに採り尽され、深く掘ったために温泉が[[打たせ湯]]になったという)現在でも玉滴石の沈殿は生成されているが、明治時代の透明な玉滴石は産出していない。なお、[[立山カルデラ砂防博物館]]には採掘された玉滴石が展示されている。 *木蛋白石 … 堆積岩中に埋没した樹木の[[幹]]や[[動物]]の[[遺骸]]と交代したものがあり、樹と交代したものを木蛋白石 ({{en|wood opal}}) という。研磨するときれいな木目がでることから珍重されている。 <gallery> Nev opal09.jpg|「火」が見えるプレシャス・オパール MilkyRawOpal.jpg|地色しか見えないコモン・オパール </gallery> == 用途・加工法 == 古くは石器の材料の一つとして用いられ、日本でも東北から九州にかけて広範な遺跡から出土する。新潟県佐渡市の堂の貝塚では、精巧に加工された鉄石英および蛋白石製の石鏃を副葬した墓壙が発見されている。 色の美しいものは[[宝石]]として扱われ、10月の[[誕生石]]とされている。特に[[日本]]で好まれている宝石で、乳白色の地に[[虹#虹のスペクトル|虹色]]の輝き(遊色効果)をもつものは中でも人気が高く、「虹色石」とも呼ばれる。 [[カボション・カット]]でカットされ、[[ブローチ (装身具)|ブローチ]]や各種の[[装飾品]]に加工されている。 オパールは宝石の中で唯一水分を含むため、宝石店などでは保湿のため、水を入れた瓶やグラスを置くところもある。水分がなくなると濁ってヒビが入ることがあるためである。オパールの原石はカットされる前に充分天日で乾燥させなければならない。乾燥に耐えられたオパールだけをカットし指輪などの宝飾品に加工される。このようなオパールは普通に取り扱っている限りは特に問題がない。 <gallery> ファイル:Opal_Armband_800pix.jpg|オパール ファイル:Opal red.jpg|プレシャス・オパールの指輪 </gallery> == サイド・ストーリー == [[オクタビアヌス]]は、[[ローマ帝国]]の3分の1を売って入手しようとしたとされる。[[大プリニウス]]は、『[[博物誌]]』第37巻で、オパールについて言及している。[[宮沢賢治]]は、彼の作品『[[貝の火]]』、『[[楢ノ木大学士の野宿]]』でオパールを取り上げて、その輝きについて描写している。 石言葉は希望、無邪気、潔白。 === 透蛋白石 === 水分が[[蒸発]]したものを透蛋白石 ({{en|hydrophane}}) という。水につけると乳白色から透明に色が変わるので、「カメレオンオパール」などと称して販売されているが、水中の塩素などと反応してしまう可能性があるので宝石を水につけない方がよい。 === ウォーターオパール === ウォーターオパールとして市場に出回っているメキシコ産オパールがある。これは地色が無色透明に近いと確認されたメキシコオパールである。ウォーターオパールは地色が無色であるため、斑の弱いものは宝飾品に加工すると石そのものの存在感が薄くなる場合が多い。裸石(ルース)の状態ではそのようなことは気にならないため、裸石(ルース)収集家向きのオパールと言える。極上のウォーターオパールは文字通り水滴のように透明感のあるオパール石である。白い紙の上に置くとオパール石自体が極めて透明であたかも水滴を垂らしたようにみえるがこれを抜けの良いオパールまたは白メキと呼んでいる。ウォーターオパールの高品質とされる石はやはりファイアーすなわち斑の豊かな遊色効果のすぐれたものが珍重され特に赤、橙、黄、青、緑のピンファイアーまたはジュビア ({{es|lluvia}}) が出る石は極めて高価である。日本国内ではファイアーオパールよりも人気のあるオパール石である。 === ファイアーオパール === {{出典の明記|section=1|date=2012年7月}} [[File:Opledefeu2.jpg|thumb|ファイアーオパール]] ファイアーオパールのファイアー ({{en|fire}}) とは、遊色 ({{en|play of color}})、いわゆる斑を意味する言葉で、{{en|playing fire}}(チラチラと揺れる炎)とも呼ぶ。したがって無遊色オパールはたとえ地色が赤橙系の色であれファイアーオパールとは定義できない。しかしながら市場では赤橙系の無遊色オパールがファイアーオパールと称され販売されている。この背景について解説する。80年代にこの無遊色の赤橙系のオパールがファセットカットされてドイツの市場に出現した。その時のドイツ語商品名は {{de|Feueropal}} すなわちファイアーオパールである。この無遊色の赤橙系のオパールは現地メキシコでは {{es|vidrio rojo}} = {{en|red glass}}、単に赤ガラスと呼んでいる。ドイツ人バイヤーも現地では赤ガラスと呼びファイアーオパールとは呼ばない。赤ガラスはほとんどすべてのオパール鉱山で産出し以前は大変安価なオパールであったがヨーロッパ市場での需要拡大により最近ではインドのバイヤーも参入している。日本市場でも赤い無遊色オパールがファイアーオパールとして販売されているがこのネーミングには宝石業界の恣意性がかなり反映されているとみてよい。現地メキシコでは本来の遊色のあるファイアーオパールを {{es|opalo de fuego}}、すなわち炎 ({{es|fuego}}) のオパールと呼んでいる。オパール自体の客観的な属性を的確に反映したネーミングといえる。 === メキシコオパール === {{出典の明記|section=1|date=2008年2月}} メキシコでは1200年ごろアステカ族により宗教儀式における装飾に使用されて ハミングバードの宝石 と呼ばれていた。この小鳥の羽毛がオパールの虹色の遊色を連想させるからである。メキシコオパールの鉱山の周辺ではハミングバードの飛翔がよく観察される。特に地色が赤、橙またはオレンジ色のメキシコオパールで遊色効果の優れたものをファイアーオパールと呼んでいる。16世紀にアステカ族の神殿で発見されたオパールのひとつはアステカ太陽神の名で世界的にも知られるところとなり1881年にシカゴの自然博物館に売却され保存されている。メキシコのハリスコ州は主要なオパールの産出地のひとつである。鉱脈はケレタロ州の {{lang|es|Tequisquiapan, Colon,}} ハリスコ州の {{lang|es|Magdalena}}、{{lang|es|El Cobano, Hostotipaquillo, Tequila, Antonio escobedo, San Cristobal de la Barranca}} にあり60年代の初期にオパールの採掘がはじめられた。ハリスコ州で行われた調査によると {{lang|es|La Quemada, San Andres, San Simon, El Cobano,Magdalena}} の5地区が形成する3000[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]の長方形の地域にオパールの鉱脈がある。マグダレナ地区が他の地域に比較して著名なのは産出されるオパールの色の階調が変化に富んでいるということである。赤、青、オレンジ、緑の色調がすべてそろっているのである。ここで最も希少な石は {{lang|es|opalo negro}} ({{lang|en|black}}) であるが,オーストラリアのブラックオパールと決定的に違うのは {{lang|es|opalo negro}}(現地で {{lang|es|azabache}} と呼称)はまったく透明であるということである。オパールは純粋性、透明性、色調、遊色、形状という多様な品質に分けられる。より優れた遊色と透明性と色調をもつオパールが高品質であることは言うを待たない。98種にランクづけられるとまで言われているほど多様である。オパールは光の入射角により色調と色の階調の幅が大きく変わる宝石のひとつである。オパールの重要な性質のひとつは熱による乾燥またはカットをされるときの激しい振動によりひきおこされる内部のミクロな断層または {{lang|es|craquelacion}} である。水分をあたえるともとにもどるが1日から8日の間に再び同じ変質をこうむるのである。オパールはあたかも指紋のような石である;世界に同じ石は存在しないからである。 ===世界最高額のオパール原石=== 20世紀に[[オーストラリア]]で発見された原石、{{仮リンク|オリンピック・オーストラリス|en|Olympic Australis}}は重さ3.15kg、価格は190万ドルと世界最大級かつ最大価格と推測されている<ref>[http://www.cnn.co.jp/fringe/35096019.html?tag=rcol;editorSelect 7600万円相当の希少なオパール原石、豪博物館で初展示] CNN(2017年2月3日)2017年2月12日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} --> * {{Cite book|和書|author = 松原聰|author-link = 松原聰|title = 日本の鉱物|year = 2003|publisher = [[学習研究社]]|series = フィールドベスト図鑑|isbn = 4-05-402013-5|pages = 228-229 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author = 産業技術総合研究所地質標本館編|title = 地球 - 図説アースサイエンス|year = 2006|publisher = [[誠文堂新光社]]|isbn = 4-416-20622-4|pages = |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author = 青木正博|author-link = 青木正博|title = 鉱物分類図鑑 : 見分けるポイントがわかる|year = 2011|publisher = 誠文堂新光社|isbn = 978-4-416-21104-5|pages = 190-191 |ref=harv}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Opal|Opal}} {{ウィキポータルリンク|鉱物・宝石|[[画像:HVBriljant.PNG|34px|Portal:鉱物・宝石]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|鉱物|[[ファイル:Spinel-4mb4c.jpg|34px]]}} * [[蛋白光]] * [[鉱物]] - [[酸化鉱物]] * [[鉱物の一覧]] * [[宝石]]、[[宝石の一覧]] * [[二酸化ケイ素]] * [[貝の火]] * [[楢ノ木大学士の野宿]] * [[カクル]] * [[ウモーナサウルス]] == 外部リンク == <!-- {{Cite web}} --> * {{Cite web|和書 |author = |date = |url = https://gbank.gsj.jp/musee/#M17129 |title = 蛋白石(オパール,タンパクセキ) |work = [[地質標本館]] |publisher = [[産業技術総合研究所]][[地質調査総合センター]] |accessdate = 2011-12-13 }} * {{Cite web|和書 |author = Masafumi Senoo |date = |url = https://web.archive.org/web/20090722075335/http://www.geocities.jp/mexicanfireopal/ |title = マグダレナのメキシコオパールwww.magdalenaopal.com |work = |publisher = |accessdate = 2011-12-13 }} {{Silica minerals}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おはる}} [[Category:酸化鉱物]] [[Category:宝石]] [[Category:二酸化ケイ素]] [[Category:アモルファス]] [[Category:オーストラリアの国の象徴]] [[Category:水和物]]
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サファイア
サファイア(sapphire)は、呈色コランダム(Al2O3)のうち、赤色(ルビー)以外の鉱物の総称である。 サファイアの石言葉には「誠実」「慈愛」「徳望」といった意味合いがあり、ほかにも平和を祈り、一途な想いを貫くという意味が込められている。 歴史的経緯から、「青色」を意味するラテン語の「sapphirus(サッピルス)」、ギリシャ語の「sappheiros(サピロス)」に由来する名で呼ばれ、蒼玉、青玉(せいぎょく)とも呼ばれる。 酸化アルミニウムの結晶で、モース硬度はダイヤモンドに次ぐ9。宝石として用いられる。 コランダムのうち、宝石としての価値があり、かつ色が赤(ルビー:不純物のクロムで濃赤色を呈す)でないものをいう。一般に(不純物の鉄、チタンによる)、濃紺あるいは青紫色を呈する青玉(蒼玉)を指すと思われているが、黄色や茶色、薄紅色などを呈するものも含む。青味が特に濃いものは、ミッドナイトブルーサファイア、インクブルーサファイア等と呼ばれ宝石として珍重される。 工業的に生成される単結晶コランダムは人工サファイアと呼ばれる。サファイアガラスとも呼ばれるが、結晶質のサファイアは非晶質のガラスとは異なる。 メインカラーとされる青色系統以外のものを「ファンシーカラーサファイア」と呼び、ピンクがかったオレンジ色をしたものを特に「パパラチア(Padparadscha。蓮の花のつぼみの色の意)」と呼ぶ。 外光を照射すると、六条の光条を呈する(スター効果)ものは、スターサファイアと呼ばれ、珍重される。針状の内包物(インクルージョン、多くは二酸化チタン鉱物のルチル)を持ち、星型の輝きを生じる。大きさ(カラット)以外に地色の美しさや星型の輝きの強さなどで評価されている。 光源の種類(自然光と人工光)によって色が変わる(アレキサンドライトに似る)ものは、カラーチェンジサファイアと呼ばれ、こちらも希少価値がある。 加熱処理により色調を変える技術が古来よりあり、色や透明度の低いものは、ルビーとして流通されている。 ヨーロッパで知られるようになったのはトラヤヌス帝ローマ以降で、当時盛んだったインドとの交易でもたらされたとされる。インドでは、ヒンズー教徒には不幸をもたらす不吉な石とされていたが、インドの仏教徒には逆に尊重され、その風習がヨーロッパに広まった。 キリスト教文化では司教叙任にサファイアの指輪を人差指にはめる習わしがあったとされる。 マルボドゥスの「宝石誌」に、サファイアが指輪の宝石にふさわしいとされているのも、この反映だと見られる。 主にタイ王国、ミャンマー、カシミール地方、スリランカ、マダガスカル、オーストラリア、中国、カンボジアなどで採掘される。産地により色の濃淡が異なり、色の良し悪しにより価値が上下する。 カシミール産のブルーサファイアはコーンフラワーブルーと呼ばれる。またミャンマー産の深い青色のサファイアはロイヤルブルーと呼ばれ、どちらの産地も市場での評価が高い。 現在、日本の鑑別書では、ミャンマー産と確定した上で一定の色でなければ、サファイアのカラーに「ロイヤルブルー」と記載することが出来ないが、海外での鑑別書では産地を不問とされ、一定以上の深い青であれば「ロイヤルブルー」と記載される。 もともとロイヤルブルーカラー自体、イギリスの王室がミャンマー産サファイアに与えた色の為、日本の鑑別業界はそれを守っているためである。海外の鑑別書で「ロイヤルブルーカラー」と記載された場合でも、産地はミャンマー産以外のサファイアであることが多々ある。 宝飾品として市場に供給されているルビー・サファイア等のコランダムは、そのほとんどが人為的な加熱処理(約500°C - 1,600°C)によって鮮やかな色彩や内部的に汚れの少ない状態に変化させられたものである。 非加熱なのか加熱処理されているかの判定方法としては、一般的な拡大検査による内部特徴の観察の他にも、下記のように様々な方法がある。 人工サファイアとして、ほぼ無色透明なものがサファイアクリスタルやサファイアガラスとして供給されている。 硬度の高さから腕時計の風防や軸受け、レコード針、iPhoneのカメラレンズの保護やiPhone 5s以降のTouch ID保護にも使われている。 また、絶縁性と熱伝導率の高さから半導体基板(シリコン オン サファイア:silicon on sapphire:SOS)に利用される。 極低温まで冷やすと振動が少なくなる性質を利用して、人工サファイア鏡は重力波望遠鏡「KAGRA(かぐら)」にも使われる。
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サファイア(sapphire)は、呈色コランダム(Al2O3)のうち、赤色(ルビー)以外の鉱物の総称である。 サファイアの石言葉には「誠実」「慈愛」「徳望」といった意味合いがあり、ほかにも平和を祈り、一途な想いを貫くという意味が込められている。 歴史的経緯から、「青色」を意味するラテン語の「sapphirus(サッピルス)」、ギリシャ語の「sappheiros(サピロス)」に由来する名で呼ばれ、蒼玉、青玉(せいぎょく)とも呼ばれる。 酸化アルミニウムの結晶で、モース硬度はダイヤモンドに次ぐ9。宝石として用いられる。
{{Otheruses}} {{Infobox 鉱物 |name = サファイア |boxwidth = |boxbgcolor = |image = Sapphire Gem.jpg |imagesize = |alt = |caption = サファイア |category = [[酸化鉱物]] |strunz = <!-- シュツルンツ分類 --> |dana = <!-- Dana Classification --> |formula = Al<sub>2</sub>O<sub>3</sub> |system = 三方晶系 |symmetry = <!-- 対称 --> |unit cell = <!-- 単位格子 --> |molweight = <!-- モル質量 --> |habit = <!-- 晶癖 --> |twinning = <!-- 双晶 --> |cleavage = <!-- へき開 --> |fracture = <!-- 断口 --> |tenacity = <!-- 粘靱性 --> |mohs = 9.0 |luster = <!-- 光沢 --> |color = 青 |streak = <!-- 条痕 --> |diaphaneity = <!-- 透明度 --> |gravity = 3.98 - 4.06 |density = <!-- 密度 --> |polish = <!-- Polish luster --> |opticalprop = <!-- 光学性 --> |refractive = <!-- 屈折率 --> |birefringence = <!-- 複屈折 --> |pleochroism = <!-- 多色性 --> |2V = <!-- 光軸角 2V --> |dispersion = |extinction = <!-- 消光角 --> |length fast/slow = <!-- 伸長 --> |fluorescence = <!-- 蛍光 --> |absorption = <!-- 吸収スペクトル --> |melt = <!-- 融点 --> |fusibility = <!-- 可融性 --> |diagnostic = <!-- Diagnostic features --> |solubility = <!-- 溶解度 --> |impurities = <!-- 不純物? 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ケニア
ケニア共和国(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。 首都のナイロビはアフリカ大陸有数の世界都市で、国際連合環境計画と国際連合人間居住計画の本部が置かれている。 正式名称はスワヒリ語で「Jamhuri ya Kenya」、英語では「Republic of Kenya」。日本語での表記はケニア共和国。通称「ケニア」。「ケニヤ」とも表記する。国名はアフリカ大陸で二番目に高いケニア山(5,199メートル)に由来する。 紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。 紀元前1000年までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した(en:Bantu expansion)。 7、8世紀ごろにはアラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までに、ケニア沿岸部にはバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年ごろに明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び、奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。 1828年にはオマーン帝国のスルタンであるサイイド・サイードがモンバサを攻略した。 19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社(英語版)(IBEA)により統治されるようになった。1895年にイギリス領東アフリカが成立。1895年から1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896年のアングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタンがザンジバル・スルタン国(1856年 - 1964年)に根拠地を移した。1902年、ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。1920年には直轄のケニア植民地(英語版)となる。 1921年6月10日、ハリー・トゥク(英語版)によってキクユ青年協会(YKA)が設立され、政治運動が始まった。1924年にYKAの政治活動が禁止されると、ジェームス・ボータ(英語版)らによってキクユ中央協会(英語版)(KCA)が結成された。 1940年、第二次世界大戦でイタリア領東アフリカとの戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。のちにマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたためである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(Kenya African Study Union、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わりケニア・アフリカ同盟(英語版)(KAU)に改組された。 1952年 - 1956年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952年 - 1959年)であった。 反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADUが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ2つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、James Gichuru、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ、トム・ムボヤ(英語版)が率いるKANUが主導となる。 1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行し、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中の当時「アフリカ社会主義」を掲げて親ソビエト連邦の姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。のちにKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタ政権下でケニアは経済成長を遂げた。 1978年のケニヤッタ死去後、ダニエル・アラップ・モイが第2代大統領に就任した。1982年8月、空軍クーデター未遂事件(英語版)が起きた。 1991年に複数政党制を導入。ムワイ・キバキはKANUを飛び出して民主党(DP)を結成。2000年、モイがケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタをKANUの後継者とし、en:The National Allianceと改組された。 1998年8月7日には、首都ナイロビの在ケニアアメリカ合衆国大使館がアルカーイダによって攻撃されるアメリカ大使館爆破事件が発生し、数千名の死傷者を出した。 2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織「国民虹の連合(英語版)(NARC)」が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかしキバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(のちにODMに発展)に分裂する。改革派の中心はライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月にケニア議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代を余儀なくされた。 そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムやリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1,000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。 国際連合事務総長コフィー・アナンにより翌年1月に行われた調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する(2007年-2008年のケニア危機)。 連合政権はその後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日、国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化など、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年)、en:Constitution of Kenya、en:Kenyan constitutional referendum, 2010)。 2013年3月の大統領選挙(英語版)でウフル・ケニヤッタが当選、4月に就任。2013年9月21日にケニアショッピングモール襲撃事件が発生し、ソマリアで活動していたアル・シャバブが犯行声明を出した。 2017年8月の大統領選挙でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケースである。同年10月にやり直しの大統領選挙(英語版)が執行されたが、野党候補のライラ・オディンガがボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。 2022年8月9日に実施された大統領選挙について、選挙管理委員長は同月15日、副大統領のウィリアム・ルトが50.49%の得票で勝利したと発表した(オディンガの得票率は48.85%)。オディンガは翌16日、選管委員の半数が疑義を呈しているなどとして、委員長が発表した選挙結果の受け入れを拒否と法的対抗手段をとることを表明した。 大統領制をとる。ケニア議会は224議席、任期5年、一院制の国民議会(英語版)からなっていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。 初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より複数政党制が導入された。 ケニアの首都ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビはカヤツリグサが茂る沼地に位置する。ケニアはアフリカ大陸北部の赤道付近に位置しており、インド洋やヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が26°Cの熱帯性気候である。東部には平野が広がるが、国土の大部分は標高1,100 - 1,800メートルの高原となっているため、年間平均気温が19°Cの乾燥した高原サバンナ地帯となっている。11月から3月にかけては北東モンスーン、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通るケニア山(標高5,199メートル)。エチオピアからタンザニアにかけて西部を走る大地溝帯は大地を切り裂いた壮大な地質形態で、「リフト・バレー」と呼ばれる。北からトゥルカナ湖、ナクル湖、ナイバシャ湖、マガディ湖などが並ぶ。 2010年の国民投票により新憲法が制定され、独立以来続いてきた州を基本とする中央政府主導の国家体制から47のカウンティ(County:日本のイメージで「県」)を地方行政の単位とすることが決定された(地方分権化)。2013年3月に行われた総選挙後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された。カウンティ政府法によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。 新憲法施行以前の行政区分は州(Mikoa, Province)が設置されていた。 主要な都市はナイロビ(首都)、モンバサ、キスムがある。 ケニアは東アフリカ地域経済の中心として発展し、サファリパークやビーチ・リゾートなどの観光資源に多くの観光客を集めている。 同国の主要産業は農業であり、国内総生産(GDP)の約30%を占めている。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている。農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが、労働力人口全体(1,891万人)で見ると70.6%(1,335万人)が農業に従事している(2010年)。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。 2010年代には欧州向けの紅茶、花卉の輸出が増加した。自然条件(起伏に富んだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により欧州連合(EU)向け花卉の最大の供給源である。さらに2020年代にはアボカドの輸出も好調さを見せている。 しかし、2020年の輸出額が6.8655億ケニア・シリング、輸入額が20.187億ケニア・シリングと、輸入に頼っている傾向にある。 工業化は他のアフリカ諸国と比べると進んでいる方で、特に製造業の発展が著しい。 独立以来、資本主義体制を堅持し、東アフリカでは最も経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009 - 2010年は4 -5%の成長に戻った。 ナイロビは東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、モンバサは東アフリカ最大の港湾都市であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニアやウガンダとともに地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した東アフリカ共同体(EAC)を形成した(のちにルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年までの自由化と共通通貨の達成を目標としていた。 LAPSSETはインド洋のラム港と、エチオピアや南スーダンを結び、ケニア北部の開発を目的とするインフラ計画である。 ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石、石灰岩、金である。日本の経済産業調査会の『鉱業便覧』によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16キログラム、蛍石10万トン、採掘後に工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部のグリーンストーン帯(英語版)に分布する。金の採掘は機械化されておらず、手工業の段階に留まっている。現在石油は100%輸入に頼っているが、近年探査が進み発見されており、その生産開発が検討されている。また、大地溝帯が南北に貫くナイロビ西方では地下の地熱を開発中で日本企業も参加している。 2012年のケニアの貿易額は、輸出額が51億6,900万ドル、輸入額が120億9,300万ドルである(69億2,400万ドルの貿易赤字)。 対日輸出額は4,600万ドル、対日輸入額は9億1,100万ドルである。 ケニアの経済は、極端に富が一部に集中している。5300万人の人口の0.1%以下が、その他の99.9%よりも多くの富を所有している。 2009年の国勢調査によると、ケニアの総人口は3,861万0,097人(男性:1,919万2,458人,女性:1,941万7,639人)である。また、CIAワールドファクトブックによる推計では2014年7月時点の総人口は4,501万0,056人である。 ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。 ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他にアジア系、ヨーロッパ人、アラブ人などが少数存在する。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった。人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「インド系(印僑)」も、政治経済に大きな影響力を保っている。 南部からタンザニア北部にかけて、遊牧民であるマサイ族も存在する。 2010年に制定された憲法では、ケニアの国語(National Language)はスワヒリ語、公用語(Official Language)はスワヒリ語および英語と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある。 ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており、大きく分けてニジェール・コンゴ語族のバンツー諸語、ナイル・サハラ語族のナイル諸語、アフロ・アジア語族のクシ諸語がある。 シェン(Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、いくつかの民族語の混合言語・スラングであり、主に首都ナイロビで若者を中心として話されている。 結婚時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと(夫婦別姓)も可能。 宗教は、キリスト教のプロテスタントが47.7%、カトリック教徒が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、ムスリムが11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、ヒンドゥー教徒が0.1%、その他が1.5%、無宗教が2.4%となっている。 2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性:90.6%、女性:84.2%)である。 主な高等教育機関としてナイロビ大学(1956、1970)の名が挙げられる。 ケニアの治安は現在、安定しているとは言えない状況にある。発展が著しい反面、国内での貧富の格差拡大による都市部スラムへの人口流入、異なる部族間の土地や資源を巡る対立、不安定な近隣諸国からの難民を含む人口の流入や違法武器・物資の流入などを背景に、各地で様々な凶悪犯罪や暴力事件、日常的な窃盗、置き引きが発生している。 ナイロビ郡においては「シティ・センター」と呼ばれるナイロビ中心街やウエストランド地区で、白昼堂々と武装集団による強盗および禁止薬物売買などの犯罪が起きており、モンバサ郡では現地ツアー・ガイドを装った犯行グループが、モンバサ島のオールドタウンへのツアーと称して外国人観光客を誘導し、銃器を使用して金品を強奪する事案が発生していて、北部や北東部及び北西部地域では部族間で土地、家畜、水を巡る抗争が頻繁に繰り広げられている。さらに沿岸部のリゾート地では、外国人を狙った窃盗、路上強盗及び押し売りなどが発生している。 傍らで日本人の被害事案も多発しており、一部には殺人事件も含まれているとの報告がされている。 小説においては英語で書いた『夜が明けるまで(英語版)』(1964)でケニア独立戦争を描いたあと、キクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974年)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981年)のトマス・アカレ、ケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990年)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。 ケニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が3件存在する。 ケニア国内では、陸上競技とサッカーが最も人気のスポーツとなっている。とりわけ陸上競技の長距離走の人気は高く、隣国エチオピアと並んで世界屈指の強豪国として知られている。2008年北京五輪・男子マラソンの金メダリストサムエル・ワンジルをはじめ、オリンピックや世界陸上などでは優勝者を輩出している。 ケニアではサッカーも盛んであり、1963年にプロサッカーリーグのケニア・プレミアリーグ(英語版)が創設された。ケニアサッカー連盟(FKF)によって構成されるサッカーケニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。アフリカネイションズカップには6度出場しているものの、いずれの大会もグループリーグで敗退している。 ケニア人の著名なサッカー選手として、マイケル・オルンガが特にアジア諸国においては知られており、2020年Jリーグ得点王および最優秀選手賞(MVP)を受賞し、翌年にアル・ドゥハイルSCに移籍したのち、AFCチャンピオンズリーグ2021では得点王に輝いている。さらに2021-22シーズンのカタール・スターズリーグにおいても、25ゴールを挙げ得点王となった。またオルンガの他にも、マクドナルド・マリガがイタリアのセリエAで活躍し、さらにマリガの弟であるビクター・ワニアマは、イングランドのプレミアリーグでプレーした。 ケニア人のバラク・オバマ・シニアとアン・ダナムの間に生まれたバラク・オバマが、アメリカ合衆国初の黒人大統領に就任した。オバマは同国では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが、生存している祖母サラ・オバマの元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。 ムワイ・キバキ大統領(当時)は、ジョン・マケイン候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。更に祝意を表するため、11月6日を国民の祝日にすると宣言した。オバマという姓はルオ族の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカ独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母はイギリス人の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。
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"1940年、第二次世界大戦でイタリア領東アフリカとの戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。のちにマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたためである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(Kenya African Study Union、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わりケニア・アフリカ同盟(英語版)(KAU)に改組された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1952年 - 1956年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952年 - 1959年)であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADUが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ2つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、James Gichuru、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ、トム・ムボヤ(英語版)が率いるKANUが主導となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行し、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中の当時「アフリカ社会主義」を掲げて親ソビエト連邦の姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。のちにKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタ政権下でケニアは経済成長を遂げた。", 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"そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムやリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1,000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "国際連合事務総長コフィー・アナンにより翌年1月に行われた調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する(2007年-2008年のケニア危機)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "連合政権はその後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日、国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化など、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年)、en:Constitution of Kenya、en:Kenyan constitutional referendum, 2010)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2013年3月の大統領選挙(英語版)でウフル・ケニヤッタが当選、4月に就任。2013年9月21日にケニアショッピングモール襲撃事件が発生し、ソマリアで活動していたアル・シャバブが犯行声明を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2017年8月の大統領選挙でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケースである。同年10月にやり直しの大統領選挙(英語版)が執行されたが、野党候補のライラ・オディンガがボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2022年8月9日に実施された大統領選挙について、選挙管理委員長は同月15日、副大統領のウィリアム・ルトが50.49%の得票で勝利したと発表した(オディンガの得票率は48.85%)。オディンガは翌16日、選管委員の半数が疑義を呈しているなどとして、委員長が発表した選挙結果の受け入れを拒否と法的対抗手段をとることを表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "大統領制をとる。ケニア議会は224議席、任期5年、一院制の国民議会(英語版)からなっていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より複数政党制が導入された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ケニアの首都ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビはカヤツリグサが茂る沼地に位置する。ケニアはアフリカ大陸北部の赤道付近に位置しており、インド洋やヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が26°Cの熱帯性気候である。東部には平野が広がるが、国土の大部分は標高1,100 - 1,800メートルの高原となっているため、年間平均気温が19°Cの乾燥した高原サバンナ地帯となっている。11月から3月にかけては北東モンスーン、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる季節風が吹く。最高地点は赤道が通るケニア山(標高5,199メートル)。エチオピアからタンザニアにかけて西部を走る大地溝帯は大地を切り裂いた壮大な地質形態で、「リフト・バレー」と呼ばれる。北からトゥルカナ湖、ナクル湖、ナイバシャ湖、マガディ湖などが並ぶ。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年の国民投票により新憲法が制定され、独立以来続いてきた州を基本とする中央政府主導の国家体制から47のカウンティ(County:日本のイメージで「県」)を地方行政の単位とすることが決定された(地方分権化)。2013年3月に行われた総選挙後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された。カウンティ政府法によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "新憲法施行以前の行政区分は州(Mikoa, Province)が設置されていた。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "主要な都市はナイロビ(首都)、モンバサ、キスムがある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ケニアは東アフリカ地域経済の中心として発展し、サファリパークやビーチ・リゾートなどの観光資源に多くの観光客を集めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "同国の主要産業は農業であり、国内総生産(GDP)の約30%を占めている。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている。農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが、労働力人口全体(1,891万人)で見ると70.6%(1,335万人)が農業に従事している(2010年)。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2010年代には欧州向けの紅茶、花卉の輸出が増加した。自然条件(起伏に富んだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により欧州連合(EU)向け花卉の最大の供給源である。さらに2020年代にはアボカドの輸出も好調さを見せている。 しかし、2020年の輸出額が6.8655億ケニア・シリング、輸入額が20.187億ケニア・シリングと、輸入に頼っている傾向にある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "工業化は他のアフリカ諸国と比べると進んでいる方で、特に製造業の発展が著しい。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "独立以来、資本主義体制を堅持し、東アフリカでは最も経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009 - 2010年は4 -5%の成長に戻った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ナイロビは東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、モンバサは東アフリカ最大の港湾都市であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニアやウガンダとともに地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した東アフリカ共同体(EAC)を形成した(のちにルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年までの自由化と共通通貨の達成を目標としていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "LAPSSETはインド洋のラム港と、エチオピアや南スーダンを結び、ケニア北部の開発を目的とするインフラ計画である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石、石灰岩、金である。日本の経済産業調査会の『鉱業便覧』によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16キログラム、蛍石10万トン、採掘後に工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部のグリーンストーン帯(英語版)に分布する。金の採掘は機械化されておらず、手工業の段階に留まっている。現在石油は100%輸入に頼っているが、近年探査が進み発見されており、その生産開発が検討されている。また、大地溝帯が南北に貫くナイロビ西方では地下の地熱を開発中で日本企業も参加している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2012年のケニアの貿易額は、輸出額が51億6,900万ドル、輸入額が120億9,300万ドルである(69億2,400万ドルの貿易赤字)。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "対日輸出額は4,600万ドル、対日輸入額は9億1,100万ドルである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ケニアの経済は、極端に富が一部に集中している。5300万人の人口の0.1%以下が、その他の99.9%よりも多くの富を所有している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2009年の国勢調査によると、ケニアの総人口は3,861万0,097人(男性:1,919万2,458人,女性:1,941万7,639人)である。また、CIAワールドファクトブックによる推計では2014年7月時点の総人口は4,501万0,056人である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他にアジア系、ヨーロッパ人、アラブ人などが少数存在する。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった。人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「インド系(印僑)」も、政治経済に大きな影響力を保っている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "南部からタンザニア北部にかけて、遊牧民であるマサイ族も存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2010年に制定された憲法では、ケニアの国語(National Language)はスワヒリ語、公用語(Official Language)はスワヒリ語および英語と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており、大きく分けてニジェール・コンゴ語族のバンツー諸語、ナイル・サハラ語族のナイル諸語、アフロ・アジア語族のクシ諸語がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "シェン(Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、いくつかの民族語の混合言語・スラングであり、主に首都ナイロビで若者を中心として話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "結婚時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと(夫婦別姓)も可能。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "宗教は、キリスト教のプロテスタントが47.7%、カトリック教徒が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、ムスリムが11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、ヒンドゥー教徒が0.1%、その他が1.5%、無宗教が2.4%となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87.4%(男性:90.6%、女性:84.2%)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としてナイロビ大学(1956、1970)の名が挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ケニアの治安は現在、安定しているとは言えない状況にある。発展が著しい反面、国内での貧富の格差拡大による都市部スラムへの人口流入、異なる部族間の土地や資源を巡る対立、不安定な近隣諸国からの難民を含む人口の流入や違法武器・物資の流入などを背景に、各地で様々な凶悪犯罪や暴力事件、日常的な窃盗、置き引きが発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ナイロビ郡においては「シティ・センター」と呼ばれるナイロビ中心街やウエストランド地区で、白昼堂々と武装集団による強盗および禁止薬物売買などの犯罪が起きており、モンバサ郡では現地ツアー・ガイドを装った犯行グループが、モンバサ島のオールドタウンへのツアーと称して外国人観光客を誘導し、銃器を使用して金品を強奪する事案が発生していて、北部や北東部及び北西部地域では部族間で土地、家畜、水を巡る抗争が頻繁に繰り広げられている。さらに沿岸部のリゾート地では、外国人を狙った窃盗、路上強盗及び押し売りなどが発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "傍らで日本人の被害事案も多発しており、一部には殺人事件も含まれているとの報告がされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "小説においては英語で書いた『夜が明けるまで(英語版)』(1964)でケニア独立戦争を描いたあと、キクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974年)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981年)のトマス・アカレ、ケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990年)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ケニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、自然遺産が3件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ケニア国内では、陸上競技とサッカーが最も人気のスポーツとなっている。とりわけ陸上競技の長距離走の人気は高く、隣国エチオピアと並んで世界屈指の強豪国として知られている。2008年北京五輪・男子マラソンの金メダリストサムエル・ワンジルをはじめ、オリンピックや世界陸上などでは優勝者を輩出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ケニアではサッカーも盛んであり、1963年にプロサッカーリーグのケニア・プレミアリーグ(英語版)が創設された。ケニアサッカー連盟(FKF)によって構成されるサッカーケニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。アフリカネイションズカップには6度出場しているものの、いずれの大会もグループリーグで敗退している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ケニア人の著名なサッカー選手として、マイケル・オルンガが特にアジア諸国においては知られており、2020年Jリーグ得点王および最優秀選手賞(MVP)を受賞し、翌年にアル・ドゥハイルSCに移籍したのち、AFCチャンピオンズリーグ2021では得点王に輝いている。さらに2021-22シーズンのカタール・スターズリーグにおいても、25ゴールを挙げ得点王となった。またオルンガの他にも、マクドナルド・マリガがイタリアのセリエAで活躍し、さらにマリガの弟であるビクター・ワニアマは、イングランドのプレミアリーグでプレーした。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ケニア人のバラク・オバマ・シニアとアン・ダナムの間に生まれたバラク・オバマが、アメリカ合衆国初の黒人大統領に就任した。オバマは同国では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが、生存している祖母サラ・オバマの元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。", "title": "著名な出身者" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ムワイ・キバキ大統領(当時)は、ジョン・マケイン候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。更に祝意を表するため、11月6日を国民の祝日にすると宣言した。オバマという姓はルオ族の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカ独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母はイギリス人の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。", "title": "著名な出身者" } ]
ケニア共和国(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。 首都のナイロビはアフリカ大陸有数の世界都市で、国際連合環境計画と国際連合人間居住計画の本部が置かれている。
{{基礎情報 国 | 略名 = ケニア | 日本語国名 = ケニア共和国 | 公式国名 = {{Lang|sw|'''Jamhuri ya Kenya'''}}(スワヒリ語)<br />{{Lang|en|'''Republic of Kenya'''}}(英語) | 国旗画像 = Flag of Kenya.svg | 国章画像 = [[ファイル:Alternate Coat of arms of Kenya.svg|85px|ケニアの国章]] | 国章リンク =([[ケニアの国章|国章]]) | 標語 = [[共に働こう|{{Lang|sw|Harambee}}]]{{sw icon}}<br />''共に働こう'' | 位置画像 = Kenya (orthographic projection).svg | 公用語 = [[スワヒリ語]]、[[英語]] | 首都 = [[ナイロビ]] | 最大都市 = ナイロビ | 元首等肩書 = [[ケニアの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ウィリアム・ルト]] | 首相等肩書 = [[ケニアの副大統領|副大統領]] | 首相等氏名 = {{仮リンク|リガティ・ガチャグア|en|Rigathi Gachagua}} | 面積順位 = 49| | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 580,367 | 水面積率 = 1.9% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 27 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 53,771,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ke.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 94.5<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 10兆2556億5400万<ref name=imf>[https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=664,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1](2021年10月17日閲覧)</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 61 | GDP値MER = 1004億5800万<ref name=imf/> | GDP MER/人 = 2110.46<ref name=imf/> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 73 | GDP値 = 2439億8000万<ref name=imf/> | GDP/人 = 5125.633<ref name=imf/> | 建国形態 = [[国家の独立|独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 = [[イギリス]]から<br />[[1963年]][[12月12日]] | 通貨 = [[ケニア・シリング]] | 通貨コード = KES | 時間帯 = (+3) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[おお、万物の神よ|{{lang|sw|Ee Mungu Nguvu Yetu}}]]{{sw icon}}<br>[[おお、万物の神よ|{{lang|en|Oh God of All Creation}}]]{{en icon}}<br />''おお、万物の神よ''<br />{{center|[[ファイル:National anthem of Kenya, performed by the United States Navy Band.wav]]}} | ISO 3166-1 = KE / KEN | ccTLD = [[.ke]] | 国際電話番号 = 254 | 注記 = }} {{読み仮名_ruby不使用|'''ケニア共和国'''|ケニアきょうわこく}}、通称'''ケニア'''は、[[東アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]で、[[イギリス連邦]]加盟国である。北に[[エチオピア]]、北西に[[南スーダン]]、西に[[ウガンダ]]、南に[[タンザニア]]、東に[[ソマリア]]と[[国境]]を接し、南東は[[インド洋]]に面する。 首都の[[ナイロビ]]は[[アフリカ大陸]]有数の[[世界都市]]で、[[国際連合環境計画]]と[[国際連合人間居住計画]]の本部が置かれている。 == 国名 == 正式名称は[[スワヒリ語]]で「{{lang|sw|Jamhuri ya Kenya}}」<ref group="注釈">{{IPA-sw|ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ|pron}}、ジャム'''フ'''リ・ヤ・'''ケ'''ニャ</ref>、英語では「{{lang|en|Republic of Kenya}}」<ref group="注釈">{{IPA-en|rɪˈpʌb·lɪk əv ˈken.jə|pron}}、リ'''パ'''ブリック・オヴ・'''ケ'''ンニャ</ref>。[[日本語]]での表記は'''ケニア共和国'''。通称「'''ケニア'''」。「ケニヤ」とも表記する。国名は[[アフリカ大陸]]で二番目に高い[[ケニア山]](5,199メートル<ref>{{Cite web|和書|title=アフリカで一番高い山はどこ? - アフリカ大陸最高峰 |url=http://www.tabi2ikitai.com/geography/j0101a/a01013.html |website=www.tabi2ikitai.com |access-date=2022-12-22}}</ref>)に由来する。<ref name=":0">{{Cite book|edition=Shohan|title=Kokusai jōhō daijiten : Pasupo = Paspo.|url=https://www.worldcat.org/oclc/31669709|publisher=Gakken|date=1992|location=Tōkyō|isbn=4-05-106027-6|oclc=31669709|others=Gakushū Kenkyūsha, 学習研究社.}}</ref> == 歴史 == {{main|{{仮リンク|ケニアの歴史|en|History of Kenya}}}} === クシ語系の民族移動 === [[紀元前2000年]]ごろに[[北アフリカ]]からケニア地域へ[[クシ語派|クシ語系]]の民族移動が行われた。 === バンツー系の民族移動 === [[紀元前1000年]]までに、[[バントゥー系民族|バンツー語系]]、[[ナイル諸語|ナイル語系]]の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した([[:en:Bantu expansion]])。 === アラブの進出とスワヒリ文明の勃興 === 7、8世紀ごろには[[アラブ人]]が海岸地域に定住しており、[[モンバサ]]や[[マリンディ]]など交易の拠点を建設した。10世紀までに、ケニア沿岸部にはバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語の[[スワヒリ文明]]が栄え始めた。1418年ごろに[[明]]の[[鄭和]]の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。[[15世紀]]末、[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]の来訪をきっかけに[[ポルトガル]]人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。[[18世紀]]にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び、[[奴隷貿易]]や[[象牙]]貿易などが活発になる。 === オマーン帝国 === 1828年には[[オマーン帝国]]の[[スルタン]]である[[サイイド・サイード]]がモンバサを攻略した。 === イギリスの進出 === [[ファイル:Britisheastafrica 1.png|thumb|200px|[[イギリス領東アフリカ]]([[1911年]])]] 19世紀に[[アフリカ分割|アフリカの植民地化]]が進むと、ケニア沿岸には[[イギリス]]と[[ドイツ帝国]]が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、[[1888年]]には沿岸部が{{仮リンク|帝国イギリス東アフリカ会社|en|Imperial British East Africa Company}}(IBEA)により統治されるようになった。1895年に[[イギリス領東アフリカ]]が成立。1895年から1901年の間に、モンバサから[[キスム]]までの鉄道が英国によって完成した。[[1896年]]の[[イギリス・ザンジバル戦争|アングロ=ザンジバル戦争]]で敗れたスルタンが[[ザンジバル・スルタン国]](1856年 - 1964年)に根拠地を移した。[[1902年]]、[[ウガンダ]]もイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。[[1920年]]には直轄の{{仮リンク|ケニア植民地|en|Kenya Colony}}となる。 === 政治運動の始まり === {{Seealso|[[:en:History of the Kenya African National Union]]}} [[ファイル:Harry-Thuku-banner.jpg|サムネイル|ハリー・トゥクと1920年代の東アフリカ一帯|250x250ピクセル]] [[ファイル:James Beauttah and son Henry Rohara Beauttah.jpg|サムネイル|333x333ピクセル|ジェームス・ボータ(右)と息子]] [[1921年]][[6月10日]]、{{仮リンク|ハリー・トゥク|en|Harry Thuku}}によって[[キクユ青年協会]](YKA)が設立され、政治運動が始まった。[[1924年]]にYKAの政治活動が禁止されると、{{仮リンク|ジェームス・ボータ|en|James Beauttah}}らによって{{仮リンク|キクユ中央協会|en|Kikuyu Central Association}}(KCA)が結成された。 [[1940年]]、[[第二次世界大戦]]で[[イタリア領東アフリカ]]との戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。のちに[[マウマウ団の乱]]の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたためである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟({{lang|en|Kenya African Study Union}}、KASU)が設立され、1947年に[[ジョモ・ケニヤッタ]]が加わり{{仮リンク|ケニア・アフリカ同盟|en|Kenya African Union}}(KAU)に改組された。 === マウマウ団の乱 === 1952年 - 1956年[[ケニア土地自由軍]](KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、[[グレンデールのホウィック男爵]]の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952年 - 1959年)であった。 === 独立とケニヤッタ政権 === [[ファイル:Jomo Kenyatta.jpg|thumb|right|140px|[[ジョモ・ケニヤッタ]]初代大統領]] 反乱を契機に独立の機運が高まった。[[1960年]]には、KAUの中心メンバーによって、[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)が結成され、同時期に[[:en:Kenya African Democratic Union|KADU]]が結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ2つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、[[:en:James Gichuru|James Gichuru]]、[[ジャラモギ・オギンガ・オディンガ]]、{{仮リンク|トム・ムボヤ|en|Tom Mboya}}が率いるKANUが主導となる。 [[1963年]]に[[英連邦王国]]として独立。翌[[1964年]]に共和制へ移行し、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタや[[ダニエル・アラップ・モイ]]は、[[冷戦]]中の当時「[[アフリカ社会主義]]」を掲げて親[[ソビエト連邦]]の姿勢を示した。国内的には[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)の[[一党制]]が敷かれ、その後は一貫して[[西側諸国|西側]]寄りの政策を採った。のちにKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタ政権下でケニアは[[経済成長]]を遂げた。 === モイ政権 === [[1978年]]のケニヤッタ死去後、[[ダニエル・アラップ・モイ]]が第2代大統領に就任した。[[1982年]]8月、{{仮リンク|ケニア・クーデター未遂事件 (1982年)|en|1982 Kenyan coup d'état attempt|label=空軍クーデター未遂事件}}が起きた。 1991年に[[複数政党制]]を導入。[[ムワイ・キバキ]]はKANUを飛び出して[[民主党 (ケニア)|民主党]](DP)を結成。[[2000年]]、モイがケニヤッタの息子、[[ウフル・ケニヤッタ]]をKANUの後継者とし、[[:en:The National Alliance]]と改組された。 [[1998年]][[8月7日]]には、首都ナイロビの[[在ケニアアメリカ合衆国大使館]]が[[アルカーイダ]]によって攻撃される[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]が発生し、数千名の死傷者を出した。 === キバキ政権 === 2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとした[[ムワイ・キバキ]]を代表とする大小多数の政党による連合組織「{{仮リンク|国民虹の連合|en|National Rainbow Coalition}}(NARC)」が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかしキバキは、公約である[[憲法]]見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族である[[キクユ人]]優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(のちにODMに発展)に分裂する。改革派の中心は[[ライラ・オディンガ]]であった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月に[[ケニア議会]]で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に[[国民投票]]を行ったが、改正案は国民投票により否決され、[[ムワイ・キバキ]]大統領は閣僚の交代を余儀なくされた。 === ケニア危機 === [[ファイル:ODM - Raila Odina portrait.jpg|thumb|160px|[[オレンジ民主運動]]の支持者たち]] そして、[[2007年]][[12月]]の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:[[オレンジ民主運動]])との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビの[[スラム]]や[[リフト・バレー州]]において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1,000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。 [[国際連合事務総長]][[コフィー・アナン]]により翌年1月に行われた調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する([[ケニア危機 (2007年-2008年)|2007年-2008年のケニア危機]])。  連合政権はその後、本格的に憲法改正作業に着手する。[[2010年]][[8月4日]]、国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による[[三権分立]]の強化など、より制度的な民主化を促進するとみられる([[ケニア共和国憲法 (2010年)]]、[[:en:Constitution of Kenya]]、[[:en:Kenyan constitutional referendum, 2010]])。 === 東アフリカ大旱魃 === {{main|東アフリカ大旱魃 (2011年)}} === ウフル・ケニヤッタ政権 === 2013年3月の{{仮リンク|ケニア大統領選挙 (2013年)|en|Kenyan presidential election, 2013|label=大統領選挙}}で[[ウフル・ケニヤッタ]]が当選、4月に就任。[[2013年]][[9月21日]]に[[ケニアショッピングモール襲撃事件]]が発生し、[[ソマリア]]で活動していた[[アル・シャバブ (ソマリア)|アル・シャバブ]]が犯行声明を出した。 [[2017年ケニア国政選挙|2017年8月の大統領選挙]]でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケースである<ref>{{Cite web|和書|url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50998|title=ケニア選挙やり直しの英断、司法独立への期待に火 アフリカ初の無効判決、一躍国民のヒーローになった最高裁判事|publisher=|date=2017-09-07|accessdate=2017-09-18}}</ref>。同年10月にやり直しの{{仮リンク|ケニア大統領選挙 (2017年10月)|en|Kenyan presidential election, October 2017|label=大統領選挙}}が執行されたが、野党候補の[[ライラ・オディンガ]]がボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。 === 2022年大統領選挙 === 2022年8月9日に実施された大統領選挙について、選挙管理委員長は同月15日、副大統領のウィリアム・ルトが50.49%の得票で勝利したと発表した(オディンガの得票率は48.85%)<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/196134 ケニア大統領選 副大統領「勝利」対立陣営、敗北認めず]『[[東京新聞]]』朝刊2022年8月17日国際面掲載の[[共同通信]]記事(2022年8月22日閲覧)</ref>。オディンガは翌16日、選管委員の半数が疑義を呈しているなどとして、委員長が発表した選挙結果の受け入れを拒否と法的対抗手段をとることを表明した<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/196371 「元首相、大統領選結果拒否 ケニア、法的措置も示唆」]東京新聞 TOKYO Web 2022年8月16日配信の共同通信記事(2022年8月22日閲覧)</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Parliament Buildings, Nairobi, Kenya-21April2010.jpg|thumb|180px|ケニア[[国民議会 (ケニア)|国民議会]]議事堂]] {{main|{{仮リンク|ケニアの政治|en|Politics of Kenya}}}} [[大統領制]]をとる。[[ケニア議会]]は224議席、任期5年、[[一院制]]の{{仮リンク|国民議会 (ケニア)|label=国民議会|en|National Assembly (Kenya)}}からなっていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。 === 政党 === {{see|ケニアの政党}} 初代大統領[[ジョモ・ケニヤッタ]]、二代目[[ダニエル・アラップ・モイ]]と建国以来[[ケニア・アフリカ民族同盟]](KANU)が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より[[複数政党制]]が導入された。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ケニアの国際関係|en|Foreign relations of Kenya}}}} === 日本との関係 === {{Main|日本とケニアの関係}} * 在日ケニア大使館汚職事件 - [[2009年]]に[[駐日ケニア大使館|大使館]]用地購入を巡る汚職疑惑事件が起こり、翌年、{{ill2|モーゼス・ウェタングラ|en|Moses Wetangula}}外務大臣が辞任した(のちに復職)。日本政府から好立地で無料の大使館用地の提示があったにもかかわらず、[[東京都]][[目黒区]]の敷地を大使館用地として市井価格より高い金額で現金購入したことが問題となった<ref>[http://www.english.rfi.fr/africa/20101027-expensive-tokyo-embassy-leads-kenyan-resignations Expensive Tokyo embassy leads to Kenyan resignations] RFI, 27/10/2010</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20131230224106/http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102001000542.html 「在日ケニア大使館、不当に高い? 反汚職委が経緯調査」]共同通信(2010年10月20日)</ref>。 * 在留日本人数 - 681人(2022年10月時点)<ref name="Basic Fata by MOFA of Japan">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kenya/data.html#section6 外務省 ケニア基礎データ]</ref> * 在日ケニア人数 - 897人(2021年06月時点)<ref name="Basic Fata by MOFA of Japan"/> == 地理 == [[ファイル:Ke-map.png|280px|thumb|right|ケニアの地図。ルドルフ湖は現在[[トゥルカナ湖]]と呼ばれる。北西部に、ケニアと南スーダンとエチオピアとの係争地で、ケニアが実効支配する[[イレミ・トライアングル]]がある。]] [[Image:Kenya Topography.png|thumb|250px|地形図]] {{main|{{仮リンク|ケニアの地理|en|Geography of Kenya}}}} ケニアの首都ナイロビは[[マサイ族]]の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビは[[カヤツリグサ]]が茂る沼地に位置する。ケニアは[[赤道|アフリカ大陸]]北部の[[赤道]]付近に位置しており、[[インド洋]]や[[ヴィクトリア湖]]沿岸は年間平均気温が26[[セルシウス度|℃]]の[[熱帯]]性気候である。東部には平野が広がる<ref name=":0" />が、国土の大部分は[[標高]]1,100 - 1,800メートルの[[高原]]となっているため、年間平均気温が19℃の乾燥した高原[[サバナ (地理)|サバンナ]]地帯となっている。11月から3月にかけては北東[[モンスーン]]、5月から9月には南東モンスーンと呼ばれる[[季節風]]が吹く。最高地点は赤道が通る[[ケニア山]](標高5,199メートル)。エチオピアからタンザニアにかけて西部を走る[[大地溝帯]]は大地を切り裂いた壮大な地質形態で、「リフト・バレー」と呼ばれる。北から[[トゥルカナ湖]]、[[ナクル湖]]、[[ナイバシャ湖]]、[[マガディ湖]]などが並ぶ。 === 国立公園・国立保護区 === * [[アンボセリ国立公園]] * [[アバデア国立公園]] * [[海洋国立公園]] * [[ケニア山国立公園]] * [[サンブル国立保護区]] * [[ツァボ国立公園]] * [[トゥルカナ湖国立公園群]]([[シビロイ国立公園]]、[[セントラル・アイランド国立公園]]、[[サウス・アイランド国立公園]]) * [[ナイロビ国立公園]] * [[ナクル湖国立公園]] * [[ヘルズ・ゲート国立公園]] * [[マサイマラ国立保護区]] * [[シンバヒルズ国立保護区]] == 地方行政区分 == {{main|ケニアの地方行政区画|ケニアのカウンティ}} 2010年の国民投票により新憲法が制定され、独立以来続いてきた州を基本とする中央政府主導の国家体制から47のカウンティ(County:日本のイメージで「県」)を地方行政の単位とすることが決定された(地方分権化)。2013年3月に行われた総選挙<ref group="注釈">大統領、上院議員(Senator)、カウンティの知事、国会議員などを選出。</ref>後にカウンティ政府が設立された。カウンティ政府には中央から多くの権限が委譲され、必要な予算・職員も従来の地方行政区や中央から配置・配転された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jica.go.jp/kenya/office/information/event/130124.html|title=ケニアで地方分権が始まる。日本が支援する、分権実施に向けた人材育成もスタート|publisher=国際協力機構|accessdate=2014-10-24}}</ref>。カウンティ政府法<ref group="注釈">County Governments Act No.17 of 2012</ref>によって各カウンティの下にはサブ・カウンティ(sub-county)、区(ward)、村(village)などの下位行政区分が設置されている。サブ・カウンティは国会議員(290名)を選出するための選挙区(constituency)に対応している。 === 2013年以前の行政区分 === 新憲法施行以前の行政区分は州(Mikoa, Province)が設置されていた。 {{main|ケニアの州}} ===主要都市=== {{Main|ケニアの都市の一覧}} 主要な都市は[[ナイロビ]](首都)、[[モンバサ]]、[[キスム]]がある。 == 経済 == [[ファイル:A view of Nairobi from the Kenyatta International Conference Centre.jpg|thumb|260px|left|首都ナイロビの景観]] {{main|{{仮リンク|ケニアの経済|en|Economy of Kenya}}}} ケニアは東アフリカ地域経済の中心として発展し、[[サファリパーク]]やビーチ・リゾートなどの観光資源に多くの観光客を集めている。 同国の主要産業は[[農業]]であり、[[国内総生産]](GDP)の約30%を占めている<ref name=WDI>{{Cite web|url=http://data.worldbank.org/products/wdi|title=World Development Indicators|publisher=World Bank|accessdate=2014-10-11}}</ref>。また、農業部門はケニアの輸出総額の65%を占めている<ref name=vision>{{Cite web|url=http://www.vision2030.go.ke|title=Kenya Vision 2030|publisher=Republic of Kenya|accessdate=2014-10-11}}</ref>。農業部門は雇用面でもケニア経済において重要な役割を果たしており、正規雇用に占める割合は約18%(2005年)ほどであるが<ref name=vision/>、労働力人口全体(1,891万人)で見ると70.6%(1,335万人)が農業に従事している(2010年)<ref>{{Cite web|url=http://faostat.fao.org|title=FAOSTAT|publisher=Food and Agriculture Organization|accessdate=2014-10-11}}</ref>。さらにケニアの人口の約8割の人々が農業によって生計を立てている。 2010年代には欧州向けの[[紅茶]]、花卉の輸出が増加した。自然条件(起伏に富んだ国土、温暖な平野部と冷涼な高地が混在)とケニア政府による園芸産業育成により[[欧州連合]](EU)向け花卉の最大の供給源である<ref>『[[日本経済新聞]]』2013年12月19日【初歩からのアフリカ】ケニアの園芸産業に続け</ref>。さらに2020年代には[[アボカド]]の輸出も好調さを見せている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3340660?cx_part=top_category&cx_position=2 |title=密猟ではなくアボカド…ケニアのゾウに新たな脅威 |publisher=AFP |date=2021-04-17 |accessdate=2021-04-18}}</ref> しかし、2020年の輸出額が6.8655億ケニア・シリング、輸入額が20.187億ケニア・シリング<ref name="Basic Fata by MOFA of Japan" />と、輸入に頼っている傾向にある。 {{also|{{仮リンク|ケニアの農業|en|Agriculture in Kenya}}|ケニアにおけるコーヒー生産}} 工業化は他のアフリカ諸国と比べると進んでいる方で、特に製造業の発展が著しい。 独立以来、資本主義体制を堅持し、東アフリカでは最も経済の発達した国となった。しかし、政情不安や政治の腐敗・非能率、貧富の差の増大という問題を抱える。2007年の経済成長率は約7%、2008年は国内混乱の影響で成長率は低迷したが、2009 - 2010年は4 -5%の成長に戻った。 ナイロビは東アフリカの通信・金融・交通の中心都市であり、モンバサは東アフリカ最大の[[港湾都市]]であり内陸部への重要な入り口である。1999年にタンザニアやウガンダとともに地域経済の発展のため、関税、人の移動、インフラの向上を目指した[[東アフリカ共同体]](EAC)を形成した(のちにルワンダ、ブルンジが参加)。2004年には関税同盟を確立し、2010年にはEACの共同市場化が発足し、2012年までの自由化と共通通貨の達成を目標としていた。 {{Clearleft}} [[:en:LAPSSET|LAPSSET]]はインド洋の[[ラム (ケニア)|ラム港]]と、エチオピアや[[南スーダン]]を結び、ケニア北部の開発を目的とするインフラ計画である。 === 鉱業 === ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源は[[ソーダ灰]]、塩、[[マグネシウム]]鉱物、[[蛍石]]、[[石灰岩]]、[[金]]である。日本の[[経済産業調査会]]の『鉱業便覧』によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。塩9.2万トン、金16キログラム、蛍石10万トン、採掘後に工場で加工されたソーダ灰24万トンも記録されている。2004年時点では塩が1.9万トンに減少、その他の鉱物は記録されていない。唯一、金の産出量が1.6トンに拡大している。主な金鉱山は南西部の{{仮リンク|グリーンストーン帯|en|Greenstone belt}}に分布する。金の採掘は機械化されておらず、手工業の段階に留まっている。現在石油は100%輸入に頼っているが、近年探査が進み発見されており、その生産開発が検討されている。また、大地溝帯が南北に貫くナイロビ西方では地下の地熱を開発中で日本企業も参加している。 === 貿易 === 2012年のケニアの貿易額は、輸出額が51億6,900万ドル、輸入額が120億9,300万ドルである(69億2,400万ドルの貿易赤字)<ref name=jetro>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/world/africa/ke/|title=海外ビジネス情報:ケニア|publisher=日本貿易振興機構|accessdate=2014-10-11}}</ref>。 *主要な輸出品:[[紅茶]](輸出額全体の21.1%)、[[園芸作物]](16.9%)、[[コーヒー]](4.6%)、衣料品・アクセサリー(4.3%)、たばこ・同製造品(3.5%) *輸入品:産業用機械、[[自動車]]、[[原油]]、[[鋼|鉄]] *主要な輸出先:[[ウガンダ]](輸出額全体の13.0%)、[[タンザニア]](8.9%)、[[英国]](7.8%)、[[オランダ]](6.0%)、[[アラブ首長国連邦]](5.5%) *主要な輸入先:[[インド]](14.2%)、[[中華人民共和国]](12.2%)、[[アラブ首長国連邦]](10.9%)、[[サウジアラビア]](4.9%)、[[米国]](4.8%) ==== 日本との貿易 ==== 対日輸出額は4,600万ドル、対日輸入額は9億1,100万ドルである<ref name=jetro/>。 *主要な輸出品:植物性原料(34.4%)、[[コーヒー]]・[[紅茶|茶]]・[[香辛料]](27.7%)、[[加工食品]](19.3%) *主要な輸入品:輸送機器(59.5%)、[[鋼|鉄鋼]](19.5%)、一般機械(9.8%) ==== 格差 ==== ケニアの経済は、極端に富が一部に集中している。5300万人の人口の0.1%以下が、その他の99.9%よりも多くの富を所有している<ref>{{cite news |title=アフリカの大都市、ナイロビの新型コロナ対策 外出禁止令で格差が浮き彫りに|newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナルジオグラフィック]] |date=2020-4-16 |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/stories/20/041500019/ |accessdate=2020-4-17 |author=NICHOLE SOBECKI }}</ref>。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|ケニアの交通|en|Transport in Kenya}}}} {{節スタブ}} == 国民 == [[ファイル:Maasai tribe.jpg|thumb|伝統衣装をまとったマサイ族]] [[ファイル:Catholic Church in Mombasa.JPG|thumb|モンバサの[[カトリック教会|カトリック]]大聖堂]] {{main|{{仮リンク|ケニアの人口統計|en|Demographics of Kenya}}}} === 人口 === 2009年の[[国勢調査]]によると、ケニアの総人口は3,861万0,097人(男性:1,919万2,458人,女性:1,941万7,639人)である<ref name=census>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20130810185221/http://www.knbs.or.ke/docs/PresentationbyMinisterforPlanningrevised.pdf|title=2009 POPULATION & HOUSING CENSUS RESULTS|publisher=Minister of State for Planning, National Development and Vision 2030|accessdate=2014-10-11}}</ref>。また、[[CIAワールドファクトブック]]による推計では2014年7月時点の総人口は4,501万0,056人である<ref name="cia2014">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ke.html The World Factbook]2014年10月11日閲覧</ref>。 === 民族 === ケニアの主要な民族の人口は、以下の表の通りである。 {| class="wikitable" |+ ケニアの主要民族<ref name=census/> ! !! 民族 !! 人口 !! 人口比(%) |- ! 1 | [[キクユ族|キクユ]] || 6,622,576 || 17.2 |- ! 2 | {{仮リンク|ルヒヤ人|en|Luhya people|label=ルヒヤ}} || 5,338,666 || 13.8 |- ! 3 | {{仮リンク|カレンジン人|en|Kalenjin people|label=カレンジン}} || 4,967,328 || 12.9 |- ! 4 | [[ルオ族|ルオ]] || 4,044,440 || 10.5 |- ! 5 | [[カンバ族|カンバ]] || 3,893,157 || 10.1 |- ! 6 | [[ソマリ族|ソマリ]] || 2,385,572 || 6.2 |- ! 7 | [[キシイ族|キシイ]] || 2,205,669 || 5.7 |- ! 8 | [[ミジケンダ]] || 1,960,574 || 5.1 |- ! 9 | [[メルー]]|| 1,658,108 || 4.3 |- ! 10 | {{仮リンク|トゥルカナ人|en|Turkana people|label=トゥルカナ}} || 988,592 || 2.6 |- |} ケニアには全部で42の民族が存在していると言われるが、上表の通り上位5位までの民族でケニアの総人口の約3分の2を、上位10位まででその約9割を占めている。また、その他に[[アジア系民族|アジア系]]、[[ヨーロッパ人]]、[[アラブ人]]などが少数存在する。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった<ref>[[松田素二]]「民族対立の社会理論」『現代アフリカの紛争を理解するために』[[アジア経済研究所]] 1998年</ref>。人口比では少数派だが、イギリス系などの大土地所有者や、鉄道建設時に労働力を補いのちに商人としてやってきた「[[インド系移民と在外インド人|インド系]](印僑)」も、政治経済に大きな影響力を保っている。 南部から[[タンザニア]]北部にかけて、[[遊牧民]]である[[マサイ族]]も存在する。 === 言語 === {{main|ケニアの言語}} ==== 公用語・国語 ==== 2010年に制定された憲法では、ケニアの[[国語]](National Language)は[[スワヒリ語]]、[[公用語]](Official Language)は[[スワヒリ語]]および[[英語]]と定められている。司法機関はスワヒリ語よりも英語を重視しており、国民感情にも同様の傾向がある<ref>宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]編 [[明石書店]]、2002年12月</ref>。 ==== 民族語 ==== ケニアには英語やスワヒリ語の他に60以上の言語が存在しており<ref>Lewis, M. Paul, Gary F. Simons, and Charles D. Fennig (eds.). 2015. Ethnologue: Languages of the World, Eighteenth edition. Dallas, Texas: SIL International. Online version: http://www.ethnologue.com.</ref>、大きく分けて[[ニジェール・コンゴ語族]]の[[バンツー諸語]]、[[ナイル・サハラ語族]]の[[ナイル諸語]]、[[アフロ・アジア語族]]の[[クシ諸語]]がある。 *[[ニジェール・コンゴ語族]] [[バンツー諸語]] **[[キクユ語]](話者数約660万人)、[[ルイヤ語]]<ref group="注釈">ルイヤ語はさらに14の言語に分類することができ、主なものとして[[ブクス語]](約140万人)、{{仮リンク|ロゴーリ語|en|Logoli language}}(約62万人)、{{仮リンク|イダホ=イスハ=ティリキ語|en|Idaxo-Isuxa-Tiriki language}}などがある。</ref>(約510万人)、[[カンバ語]](約390万人)、[[キシイ語]](約220万人)、[[メル語|メルー語]](約170万人) *[[ナイル・サハラ語族]] [[ナイル諸語]] **[[カレンジン語]]<ref group="注釈">カレンジン語は幾つかの言語をまとめた方言群であり、{{仮リンク|キプシギス語|en|Kipsigis language}}(約190万人)、[[ナンディ語]](約95万人)などを含む。</ref>(約480万人)、[[ルオ語]](約400万人)、{{仮リンク|トゥルカナ語|en|Turkana language}}(約100万人) *[[アフロ・アジア語族]] [[クシ諸語]] **[[ソマリ語]](約240万人) ==== シェン ==== [[シェン(言語)|シェン]](Sheng)とは、1970年代以降に生まれたスワヒリ語や英語、いくつかの民族語の[[混合言語]]・[[スラング]]であり、主に首都ナイロビで若者を中心として話されている。 === 婚姻 === 結婚時に改姓すること(夫婦同姓)もしないこと([[夫婦別姓]])も可能<ref>[https://www.the-star.co.ke/news/2015/09/19/why-dont-some-women-take-their-husbands-names-after-marriage_c1205014 Why don't some women take their husbands' names after marriage?], The STAR, Sep 19, 2015.</ref>。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ケニアの宗教|en|Religion in Kenya}}}} 宗教は、[[キリスト教]]の[[プロテスタント]]が47.7%、[[カトリック教会|カトリック教徒]]が23.5%、その他のキリスト教徒が11.9%、[[ムスリム]]が11.2%、伝統宗教の信徒が1.7%、[[ヒンドゥー教徒]]が0.1%、その他が1.5%、[[無宗教]]が2.4%となっている<ref name=census/>。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|ケニアの教育|en|Education in Kenya}}}} 2010年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は87.4%(男性:90.6%、女性:84.2%)である<ref name=cia2014/>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin: 0 0 0 4em" |+ ケニアの教育関連指標(2009年)<ref>{{Cite| author=The World Bank| title=Africa Development Indicators 2012/13| date=2013| url=http://data.worldbank.org/data-catalog/africa-development-indicators| ref=harv}}</ref> ! rowspan="2" | ! colspan="3" | 純就学率(%) ! rowspan="2" style="width:7em" | 教師一人当たりの生徒数 ! rowspan="2" style="width:7em" | 生徒一人当たり教育支出(%)<ref group="注釈">一人当たりGDPに対する生徒一人当たり公共教育支出額の割合。初等・中等教育は2006年、高等教育は2004年の数値。</ref> |- ! 男子 || 女子 || 合計 |- ! 初等教育 | 82.3 || 83.2 || 82.8 || 46.8 || 22.3 |- ! 中等教育 | 51.6 || 48.4 || 50.0 || 29.7 || 21.1 |- ! 高等教育 | 4.7 || 3.3 || 4.0 || - || 273.6 |} 主な[[高等教育]]機関として[[ナイロビ大学]](1956、1970)の名が挙げられる。 === 保健 === {{main|{{仮リンク|ケニアの保健|en|Health in Kenya}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|ケニアの医療|en|Healthcare in Kenya}}}} {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|ケニアにおける犯罪|en|Crime in Kenya}}}} ケニアの治安は現在、安定しているとは言えない状況にある。発展が著しい反面、国内での貧富の格差拡大による都市部[[スラム]]への人口流入、異なる部族間の土地や資源を巡る対立、不安定な近隣諸国からの難民を含む人口の流入や違法武器・物資の流入などを背景に、各地で様々な凶悪[[犯罪]]や[[暴力]]事件、日常的な[[窃盗]]、[[置き引き]]が発生している。 ナイロビ郡においては「シティ・センター」と呼ばれるナイロビ中心街やウエストランド地区で、白昼堂々と武装集団による[[強盗]]および禁止薬物売買などの犯罪が起きており、モンバサ郡では現地ツアー・ガイドを装った犯行グループが、モンバサ島のオールドタウンへのツアーと称して外国人観光客を誘導し、[[銃器]]を使用して金品を強奪する事案が発生していて、北部や北東部及び北西部地域では[[部族]]間で土地、家畜、水を巡る[[抗争]]が頻繁に繰り広げられている。さらに沿岸部のリゾート地では、外国人を狙った窃盗、路上強盗及び[[押し売り]]などが発生している。 傍らで日本人の被害事案も多発しており、一部には[[殺人]]事件も含まれているとの報告がされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_100.html|title=ケニア 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」|accessdate=2021-12-05|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ケニアにおける人権|en|Human rights in Kenya}}}} {{節スタブ}} ==マスコミ == {{main|{{仮リンク|ケニアのメディア|en|Mass media in Kenya}}}} {{節スタブ}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|ケニアの文化|en|Culture of Kenya|fr|Culture du Kenya}}}} [[ファイル:Ngũgĩ wa Thiong'o (signing autographs in London).jpg|thumb|220px|ケニア出身の文学者『[[グギ・ワ・ジオンゴ]]』は、植民地時代以来の公用語の英語ではなく、民族語である[[キクユ語]]のみで創作することを宣言している。]] [[ファイル:Pt Thomson Batian Nelion Mt Kenya.JPG|thumb|220px|ケニア最高峰の『[[ケニア山]]』は[[1997年]]に[[世界遺産]]に登録された。]] === 食文化 === {{main|{{仮リンク|ケニア料理|fr|Cuisine kényane}}}} {{節スタブ}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|ケニア文学|en|Kenyan literature}}}} 小説においては英語で書いた『{{仮リンク|泣くな、わが子よ|en|Weep Not, Child|label=夜が明けるまで}}』(1964)でケニア独立戦争を描いたあと、[[キクユ語]]のみで創作することを新たに宣言した[[グギ・ワ・ジオンゴ]]、『猟犬のための死体』(1974年)の[[メジャ・ムアンギ]]、『スラム』(1981年)の[[トマス・アカレ]]、[[ケニア土地自由軍]]の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990年)で知られる[[サムエル・カヒガ]]などが著名な作家の名として挙げられる。 {{See also|アフリカ文学}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ケニアの音楽|en|Music of Kenya}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ケニアの映画|en|Cinema of Kenya}}}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|ケニアの世界遺産}} ケニア国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が4件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が3件存在する。 <gallery> ファイル:MtKenyaMackinder.jpg|[[ケニア山国立公園|ケニア山国立公園/自然林]](1997年、自然遺産) ファイル:Lake turkana.jpg|[[トゥルカナ湖国立公園群]](1997年、自然遺産) ファイル:Lamu Town.jpg|[[ラム_(ケニア)|ラム旧市街]](2001年、文化遺産) ファイル:Kaya-skog.jpg|[[カヤ (ケニア)|ミジケンダのカヤの聖なる森林群]](2008年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ケニアの祝日|en|Public holidays in Kenya}}}} {| class="wikitable" |+祝祭日 !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |1月1日 || [[元日]] || New Year's Day || |- |3月or4月 || [[聖金曜日]] || Good Friday || [[移動祝日]] |- |3月or4月 || [[復活祭|イースター・マンデー]] || Easter Monday || 移動祝日 |- |5月1日 || [[メーデー]] || Labour Day || |- |6月1日 || [[マダラカデー]] || Madaraka Day ||独立前の自治獲得記念(1963年) |- |10月10日 || フドゥマデー|| Huduma Day ||2019年まで Moi Day |- |10月20日 || マシュジャアデー || Mashujaa Day ||旧称のケニヤッタ・デーから2010年に独立の英雄を祝う日へと名称・趣旨を変更 |- |12月12日 || 独立記念日 || Jamuhuri Day ||1963年12月12日 |- |12月25日 || [[クリスマス]] || Christmas Day || |- |12月26日 || [[ボクシング・デー]] || Boxing Day || |} * [[10月10日]]に指定されていたモイデーは[[2010年]]に廃止されたが、[[2017年]]に復元され、[[2019年]][[12月]]に閣議を経て、フドゥマデーへ改名された。 == スポーツ == {{main|ケニアのスポーツ}} ケニア国内では、[[陸上競技]]と[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。とりわけ陸上競技の[[長距離走]]の人気は高く、隣国エチオピアと並んで世界屈指の強豪国として知られている。[[2008年北京オリンピック|2008年北京五輪]]・男子[[マラソン]]の金メダリスト'''[[サムエル・ワンジル]]'''をはじめ、[[近代オリンピック|オリンピック]]や[[世界陸上]]などでは優勝者を輩出している。 {{See also|オリンピックのケニア選手団}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|ケニアのサッカー|en|Football in Kenya}}}} ケニアではサッカーも盛んであり、[[1963年]]にプロサッカーリーグの{{仮リンク|ケニア・プレミアリーグ|en|Kenyan Premier League}}が創設された。[[ケニアサッカー連盟]](FKF)によって構成される[[サッカーケニア代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場となっている。[[アフリカネイションズカップ]]には6度出場しているものの、いずれの大会もグループリーグで敗退している。 [[ケニア人]]の著名な[[プロサッカー選手|サッカー選手]]として、'''[[マイケル・オルンガ]]'''が特に[[アジア]]諸国においては知られており、[[2020年のJ1リーグ|2020年Jリーグ]]得点王および[[Jリーグアウォーズ #最優秀選手賞|最優秀選手賞]](MVP)を受賞し、翌年に[[アル・ドゥハイルSC]]に移籍したのち、[[AFCチャンピオンズリーグ2021]]では得点王に輝いている。さらに[[:en:2021–22 Qatar Stars League|2021-22シーズン]]の[[カタール・スターズリーグ]]においても、25ゴールを挙げ得点王となった。またオルンガの他にも、[[マクドナルド・マリガ]]が[[イタリア]]の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]で活躍し、さらにマリガの弟である[[ビクター・ワニアマ]]は、[[イングランド]]の[[プレミアリーグ]]でプレーした。 == 著名な出身者 == {{main|{{仮リンク|ケニア人の一覧|en|List of Kenyans}}}} {{colbegin|2}} * [[バラク・オバマ・シニア]] - [[エコノミスト]] * [[グリンダ・チャーダ]] - [[映画監督]] * [[トマス・アカレ]] - [[作家]] * [[ムワイ・キバキ]] - 元大統領 * [[ワンガリ・マータイ]] - 政治家 * [[エリウド・キプチョゲ]] - マラソン選手 * [[ダニエル・ジェンガ]] - マラソン選手 * [[ポール・テルガト]] - マラソン選手 * [[キャサリン・ヌデレバ]] - マラソン選手 * [[エリック・ワイナイナ]] - マラソン選手 * [[ダグラス・ワキウリ]] - マラソン選手 * [[サムエル・ワンジル]] - マラソン選手 * [[ウィルソン・キプケテル]] - [[陸上競技|陸上]]選手 * [[ピーター・コエチ]] - 陸上選手 * [[ウィリアム・シゲイ]] - 陸上選手 * [[ウィリアム・タヌイ]] - 陸上選手 * [[リチャード・チェリモ]] - 陸上選手 * [[ポール・ビトク]] - 陸上選手 * [[デニス・オリエク]] - 元[[サッカー選手]] * [[マクドナルド・マリガ]] - 元サッカー選手 * [[ヨハンナ・オモロ]] - 元サッカー選手 * [[ローレンス・オルム]] - 元サッカー選手 * [[ビクター・ワニアマ]] - [[サッカー選手]] * [[アユブ・マシカ]] - サッカー選手 * [[マイケル・オルンガ]] - サッカー選手 {{colend}} === バラク・オバマ === {{main|バラク・オバマ|アメリカ合衆国大統領}} ケニア人の[[バラク・オバマ・シニア]]と[[アン・ダナム]]の間に生まれたバラク・オバマが、[[アメリカ合衆国]]初の[[アフリカ系アメリカ人|黒人]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に就任した。オバマは同国では育てられていないが、過去にケニアを数回訪問している。両親は既に故人であるが、生存している祖母サラ・オバマの元には大統領就任の際、国外を含む10以上のメディアが押し寄せたと伝えられている。 [[ムワイ・キバキ]]大統領(当時)は、[[ジョン・マケイン]]候補が敗北を認めた直後に、「オバマ氏の勝利はケニアにとっての勝利でもある」と歓迎する声明を発表。更に祝意を表するため、11月6日を国民の祝日にすると宣言した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2535758?pid=3498917 |title=ケニアでもオバマ氏勝利を祝福、6日は「国民祝日」に |website=AFPBB News |date=2008-11-06 |accessdate=2009-06-02}}</ref>。オバマという姓は[[ルオ族]]の姓であり、ヨーロッパ系の姓のみであった歴代アメリカ大統領の中に初のアフリカ独自の姓が現れたのである。またオバマの父はイギリス植民地時代に生まれ、オバマの母は[[イギリス人]]の血を引くためにオバマは大英帝国に関わりが深いアメリカ人でもある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=砂野幸稔|authorlink=砂野幸稔|translator= |editor=岡倉登志|editor-link=岡倉登志|others= |chapter=アフリカ文化のダイナミズム |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |edition |date=2002年12月 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=砂野(2002)}} * {{Cite book|和書|author=宮本正興|authorlink=宮本正興|translator= |editor=岡倉登志|editor-link=岡倉登志|others= |chapter=アフリカの言語――その生態と機能 |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |edition |date=2002年12月 |publisher=明石書店 |location=東京 |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=宮本(2002)}} == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[ケニア関係記事の一覧]] * [[ケニア海軍艦艇一覧]] * {{仮リンク|ケニア植民地|en|Kenya Colony}} ** [[マウマウ団の乱]] * {{仮リンク|ケニアの政治|en|Politics of Kenya}} ** [[ケニア危機 (2007年-2008年)]] * [[イレミ・トライアングル]] * [[バラク・オバマ]] * [[ケニアのスポーツ]] ** {{仮リンク|ケニアのサッカー|en|Football in Kenya}} * [[マイケル・オルンガ]] * [[オリンピックのケニア選手団]] * [[少年ケニヤ]] {{colend}} == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Kenya|Kenya}} {{Wikipedia|sw}} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[画像:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}} ; 政府 * [http://www.kenya.go.ke/ ケニア共和国政府] {{en icon}} * [http://www.statehousekenya.go.ke/ ケニア大統領府] {{en icon}} * [http://www.kenyarep-jp.com/ 在日ケニア大使館] ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kenya/ 日本外務省 - ケニア] * [https://www.ke.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在ケニア日本国大使館] ; 観光 * [https://magicalkenya.com/ MAGICAL Kenya](ケニア観光局) * {{Wikivoyage-inline|en:Kenya|ケニア{{en icon}}}} * [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [https://wikitravel.org/ja/%E3%82%B1%E3%83%8B%E3%82%A2 ケニア] ; その他 * {{Wikiatlas|Kenya}} {{en icon}} * {{Googlemap|ケニア}} * {{Osmrelation|192798}} * [https://www.jetro.go.jp/world/africa/ke/ JETRO - ケニア] * {{NHK for School clip|D0005311294_00000|ケニア}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{Normdaten}} {{Coord|1|N|38|E|display=title}} {{デフォルトソート:けにあ}} [[Category:ケニア|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]]
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SI 国際単位系 スロベニアのISO 3166-1国名コード 鉄道のサインシステムにおいて、西武鉄道池袋線・西武秩父線・西武有楽町線・豊島線・狭山線 の路線記号として用いられる。 MPEG-2システムのService Information SI値 - 地震動の破壊力(強さ)を表す指標の一種。 システム統合。またはそれを行うシステムインテグレーター 制御文字の一つ、シフトイン(shift in) 日本の海外渡航用ナンバープレートで、「滋」(Shiga) の代わりの地名表示 船積指図書 シエーナ県の略号およびISO 3166-2:IT県名コード - イタリアの県 ソードインパルス の略。 サレカット・イスラーム - インドネシアのイスラーム系大衆団体。 システムインテグレーター の略。 ソフトウェア開発工程における結合試験 の略。 静岡朝日テレビ (SATV) のコールサイン (JOSI-DTV)。 社会主義インターナショナル 社会民主主義や民主社会主義を掲げる中道左派政党の国際組織 スポーツ・イラストレイテッド - アメリカ・ワーナーメディアが発行するスポーツ週刊誌 SI (亀と山Pのアルバム) - 亀と山Pのアルバム。 SI (南関東公営競馬)(SI) - 南関東公営競馬で使われる格付表記。 Si ケイ素の元素記号 かつてホンダ車に多く存在した、高性能DOHCエンジンを搭載したグレード ガスコンロに搭載される安全装置、Siセンサー。 2008年10月以降家庭用製品には全口センサー搭載が義務化。 si .si - スロベニアの国名コードトップレベルドメイン シンハラ語のISO 639-1言語コード [síː] - 堂本剛のアルバム タガログ語やセブアノ語などで、人名の前に付ける主語を表すマーカー。 S&I エス・アンド・アイ - 住友電工・日本IBMが設立母体の情報サービス会社。
{{Wiktionarypar|si}} '''SI''' * [[国際単位系]] ({{lang-fr-short|Le Système International d'Unités}}) * [[スロベニア]]の[[ISO 3166-1]][[国名コード]] * [[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[西武鉄道]][[西武池袋線|池袋線]]・[[西武秩父線]]・[[西武有楽町線]]・[[西武豊島線|豊島線]]・[[西武狭山線|狭山線]] ('''S'''eibu '''I'''kebukuro) の[[路線記号]]として用いられる。 * [[MPEG-2システム]]のService Information * [[SI値]] - 地震動の破壊力(強さ)を表す指標の一種。 * システム統合。またはそれを行う[[システムインテグレーター]] * [[制御文字]]の一つ、[[シフトイン]](shift in) * [[国際ナンバー|日本の海外渡航用ナンバープレート]]で、「[[滋賀県|滋]]」(Shiga) の代わりの地名表示 * [[船積指図書]] (shipping instruction) * [[シエーナ県]]の[[イタリア共和国の県名略記号|略号]]および[[ISO 3166-2:IT]]県名コード - イタリアの県 * [[インパルスガンダム#ソードインパルスガンダム|ソードインパルス]] (Sword Impulse) の略。 * [[サレカット・イスラーム]] (Sarekat Islam) - [[インドネシア]]の[[イスラーム]]系大衆団体。 * [[システムインテグレーター]] (System Integrator) の略。 * [[ソフトウェア開発工程]]における結合試験 (System Integration) の略。 * [[静岡朝日テレビ]] (SATV) の[[コールサイン]] (JOSI-DTV)。 * [[社会主義インターナショナル]](Socialist International) [[社会民主主義]]や[[民主社会主義]]を掲げる[[中道左派]]政党の国際組織 * [[スポーツ・イラストレイテッド]](Sports Illustrated) - アメリカ・[[ワーナーメディア]]が発行するスポーツ[[週刊誌]] * [[SI (亀と山Pのアルバム)]] - [[修二と彰|亀と山P]]のアルバム。 * SI ([[南関東公営競馬]])(S(South・Super)I) - [[南関東公営競馬]]で使われる格付表記。 '''Si''' * [[ケイ素]]の[[元素記号]] * かつて[[本田技研工業|ホンダ]]車に多く存在した、高性能[[DOHC]]エンジンを搭載したグレード * [[ガスコンロ]]に搭載される安全装置、Siセンサー<ref>{{Cite web|和書|title=最新のガスコンロのSiセンサー(温度センサー)とは? その仕組みと解除方法とは? |url=https://tg-uchi.jp/topics/5541 |website=東京ガス ウチコト |access-date=2023-04-07}}</ref>。 [[2008年]]10月以降家庭用製品には全口センサー搭載が義務化。 '''si''' * [[.si]] - スロベニアの[[国名コードトップレベルドメイン]] * [[シンハラ語]]の[[ISO 639|ISO 639-1言語コード]] * [[[síː]|<nowiki>[síː]</nowiki>]] - [[堂本剛]]の[[アルバム]] * [[タガログ語]]や[[セブアノ語]]などで、人名の前に付ける主語を表す[[標識 (言語学)|マーカー]]。 '''S&I''' * [[エス・アンド・アイ]] - [[住友電気工業|住友電工]]・[[日本アイ・ビー・エム|日本IBM]]が設立母体の情報サービス会社。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[IS (曖昧さ回避)]] * {{prefix}} * {{intitle}} {{Aimai}}
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マリ共和国
座標: 北緯17度 西経4度 / 北緯17度 西経4度 / 17; -4 マリ共和国(マリきょうわこく、バンバラ語:Mali ka Fasojamana)、通称マリ(仏: Mali)は、西アフリカにある共和制国家。首都はバマコである。 西をモーリタニア、セネガル、北をアルジェリア、東をニジェール、南をブルキナファソ、コートジボワール、ギニアに囲まれた内陸国でもある。 国土面積は124万平方キロメートル(日本の約3.3倍)、人口は2020年時点で2025万人。国土の北側3分の1はサハラ砂漠の一部であり、ちょうど中心を流れるニジェール川沿岸に農耕地が広がり、南部はやや降水量の多いサバンナ地帯となっている。 正式な国名は公用語のバンバラ語でMali ka Fasojamana、通称Mali。 かつての公用語でのフランス語表記はRépublique du Mali(レピュブリク・デュ・マリ)。通称、Mali。 公式の英語表記はRepublic of Mali(リパブリク・オヴ・マーリ)。通称、Mali。 日本語の表記はマリ共和国。通称、マリ。漢字表記は馬里。 植民地時代はフランス領スーダンと呼ばれていたが、独立時に現在の国名となった。マリの名はかつてこの地にあったマリ帝国の繁栄にあやかって名づけられた。マリとはバンバラ語で「カバ」という意味で、首都のバマコにはカバの銅像がある。 現在のマリの領域において確認できる最古の国家は、7世紀に興りマリ西部を領したソニンケ族のガーナ王国と、東部のガオに起こったガオ王国とされている。特にガーナ王国は、北アフリカのアラブ人から塩を輸入して金や象牙を輸出するサハラ交易(いわゆる塩金交易)によって8世紀に絶頂期を迎えた。しかしガーナ王国はサヘル(サハラ砂漠の南側)の乾燥化によって勢力を減退させ、1076年にベルベル人のイスラーム国家ムラービト朝に攻撃され小国へと転落した。 ガーナ王国の衰退後、マリ西部はスス族(英語版)の興した反イスラームのスス王国(英語版)が覇権を握った。 13世紀に入るとニジェール川上流部にいたマンディンカ族のスンジャタ・ケイタがマリ帝国を興し、1235年、キリナの戦い(英語版)でスス王国を滅ぼしてこの地域の覇権を握った。マリ帝国はニジェール川中流域へと勢力を拡大し、ジェンネやトンブクトゥといった交易都市が繁栄した。マリ帝国はマンサ・ムーサ王の時代に最盛期を迎え、豪華なメッカ巡礼の様子は後世まで語り継がれたが、14世紀末から衰退に向かい、やがて15世紀後半にはマリ東端のガオに都を置いたソンガイ族のソンガイ帝国がこの地域の覇者となった。ソンガイ帝国はソンニ・アリ(-1492年)やアスキア・ムハンマド1世(1493年 - 1528年)といった優れた統治者の下で大いに繁栄した。 16世紀末になるとソンガイ帝国は王位継承争いで大きく国力を落とし、それをついてサハラ砂漠中央部のテガーザの岩塩をめぐって対立していたサアド朝モロッコが砂漠を越えて侵攻してきた。ソンガイ帝国は1591年のトンディビの戦い(英語版)に敗れ、1592年には滅亡した。ソンガイに代わって新たにニジェール川中流域を治めることになったサアド朝は、しかしこの地域を統治し続けることに失敗した。英主アフマド・マンスール・ザハビーが1603年に死去するとサアド朝内部では内紛が続き、サハラを越えてニジェール川中流部に勢力を保ち続けることが不可能になったのである。1612年にこの地方のモロッコ人たちはサアド朝から独立し、以後は土着化しながら1833年まで統治を続けるものの、その勢力は微弱なものだった。 ソンガイ帝国崩壊後、17世紀にはこの地域ではKaarta(1753年-1854年)(英語)、Kénédougou Kingdom(1650年-1898年)(英語)など、多くの小王国が乱立したが、その中でもセグーのバンバラ族によるバンバラ王国(英語版)(1712年–1861年)が勢力を拡大し、18世紀後半にはニジェール川中流域を支配した。 19世紀に入ると、この地域ではフラニ族によって数度のジハードが行われ、イスラーム国家が成立した。1820年にはマシーナ王国(英語版)が成立してニジェール内陸デルタを支配下に置いた。19世紀半ばには内陸デルタではエルハジ・ウマール(英語版)がトゥクロール帝国(1848年–1890年)を建国してバンバラ王国やマシーナ王国を滅ぼし、ニジェール川上流域ではサモリ・トゥーレがワスルー(英語版)地方にサモリ帝国(英語版)(1878年–1898年)を建国したが、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割を抑えることは出来ず、いずれの国もフランスによって滅ぼされた(マンディンゴ戦争(英語版))。 フランスは、既に自国領としていたセネガルからセネガル川を遡って侵攻してきた。そのフランスは1880年にカイに首都を置くオー・セネガル植民地を成立させ、1890年にはこの植民地はフランス領スーダンと改称された(「スーダン (地理概念)」も参照)。1904年には首都はバマコへと移転した。フランス植民地期には綿花の栽培が推進され、また内陸デルタでは水田開発が行われた。第二次世界大戦後、植民地独立の動きが広がる中でマリでも独立への動きが始まり、1958年にはフランスの自治国スーダンとなった。 1960年6月、隣国のセネガルと共にマリ連邦を結成しフランスから独立。しかし、その年の8月にセネガルが連邦から離脱したため、翌9月にマリ共和国と国名を改めた。 初代大統領モディボ・ケイタの下で社会主義政策が推進されたが徐々に行き詰まり、1968年にムーサ・トラオレのクーデタが発生し、長い軍事独裁体制の時期に入った。1974年には東部のAgacher地区で、オートボルタとの間にAgacher Strip War(The First War(英語)、11月25日 - 12月中旬)と呼ばれる小規模な軍事衝突が起きた。 1979年に単一政党マリ人民民主同盟が結成され、トラオレが大統領に選出されて形式上は民政移管が行われたものの、一党独裁体制はそのまま継続していた。1985年には再びAgacher地区で、ブルキナファソとの間にAgacher Strip War(Christmas War(英語)、12月14日 - 12月30日)が起きた。 1991年にクーデターが起こり、実権を握ったアマドゥ・トゥマニ・トゥーレの下で暫定政府が発足。トゥーレ暫定政権は民主化を進めると翌1992年に憲法を制定し、大統領選挙が行われてアルファ・ウマル・コナレが就任した。このころ、マリ北部とニジェールでトゥアレグ族のen:Popular Movement for the Liberation of Azawad(MPLA)とHassaniya Arabic(英語)のArab Islamic Front of Azawad(FIAA(英語))が過激な分離闘争(トゥアレグ抵抗運動 (1990年-1995年)(英語版))を繰り返してきたが、1996年に武装解除が行われた。 コナレ政権は民主的な政権運営を行い、言論の自由や複数政党制をよく維持した。2002年には任期満了で退任したコナレ大統領に代わり、軍を退役していたアマドゥ・トゥマニ・トゥーレが大統領に就任したが、トゥーレ政権でもマリの民主制はよく維持され、アフリカで最も民主的な政府の一つに数えられるようになった。 一方で2004年にlocust outbreak(英語)が勃発、2006年にはイブラヒム・アグ・バハンガ(フランス語版)が反政府武装組織「5月23日同盟(英語版)」(ADC)を結成し、マリ北部において再び武装闘争を展開(トゥアレグ抵抗運動 (2007年-2009年)(英語版))。2011年リビア内戦への合流によりさらに戦闘能力や武器を強化した。 2012年1月、トゥアレグ族は新たに独立を求め、トゥアレグ抵抗運動 (2012年)(英語版)で蜂起し、マリの北部各州(アザワド)を制圧した。戦いの中で政府軍内部からは武器が足りないなどといった不満が噴出し、同年3月にマリ軍事クーデターが起きてトゥーレ政権が打倒される事態となった。さらに4月6日にはトゥアレグ族の反政府武装組織「アザワド解放民族運動」(MNLA、タマシェク語: ⵜⴰⵏⴾⵔⴰ ⵏ ⵜⵓⵎⴰⵙⵜ ⴹ ⴰⵙⵍⴰⵍⵓ ⵏ ⴰⵣⴰⵓⴷ)とサラフィー・ジハード主義組織「アンサル・ディーン」が北部三州(アザワド)を制圧し、一方的にアザワド独立宣言を発表した。5月5日にはアザワドを制圧中の国際テロ組織アルカーイダ系武装組織「イスラム・マグレブ諸国のアルカーイダ」(AQIM)がトンブクトゥの聖墓を破壊したと発表した。その後、アンサル・ディーンと対立したMNLAは攻撃を受け、アザワド内の拠点を全て失い、アザワドは事実上崩壊。現在、マリ北部はアンサル・ディーンの支配下にある。 2013年1月、フランスが軍事介入を開始(セルヴァル作戦)し、政府軍とともにアンサル・ディーンやイスラム・マグレブ諸国のアルカイダなど、イスラム系反政府勢力に対して攻勢をかけた。 マリ政府側では2013年8月に大統領選挙が行われ、9月にイブラヒム・ブバカール・ケイタ大統領が就任して民主制が復活した。ケイタは2018年に再選されたが政権腐敗や経済失政、紛争の継続などで不満が広まり、2020年8月18日に一部兵士よりクーデターを起こされ翌8月19日に辞任。新たに設立された国民救済委員会が権力を掌握し、適切な時期に選挙を行い民政に移管することを表明。アシミ・ゴイタ大佐が委員長に就任した(マリ軍事クーデター (2020年))。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は1年での民政復帰と、それまで設置される暫定政権のトップには文民を据えるよう要求したが、9月25日に発足した暫定政権の期間はECOWASの要求より6カ月長い18カ月となったほか、ゴイタ大佐が元軍人のバ・ヌダウ元国防大臣を暫定大統領に指名し、自らは暫定副大統領に就任した。 2021年5月24日、軍はヌダウ大統領やウアンヌ首相ら政権関係者を拘束し、権限を剥奪した(マリ軍事クーデター (2021年)(英語版))。28日、憲法裁判所はゴイタ大佐を暫定大統領に任命した。 2022年までに暫定政府がロシアの民間軍事会社であるワグネル・グループの支援を受けて、イスラム系武装組織と対抗していることが明らかにされている。マリ政府とロシア政府は否定しているが、アメリカとフランスの関係者はロシア政府の関与を示唆している。同年2月17日、フランスのマクロン大統領は、軍事政権との関係悪化を理由に、年内に駐留部隊を撤退させることを発表し、同年8月15日にフランス大統領府が完全に撤収したと発表した。 同年2月21日には、国民評議会がゴイタ率いる暫定政権がさらに5年の統治を可能にする移行憲章を賛成120、反対・棄権0票で承認した。しかし6月6日、ゴイタは民政復帰までの期間を5年間から2年間に短縮し、2024年3月の文民政権移行を想定していると表明した。 2022年から2023年にかけて、イスラム国サヘル州(ISIL)はマリ戦争で大きく戦績を稼ぎ、マリ南東部の広大な領土を占領した。アンソンゴとティダメヌもISIL系武装勢力に占領された。2023年半ばまでに、ISIL系武装勢力は前政権の転覆と政権樹立以来、支配地域を倍増させている。 ロシアの外相であるセルゲイ・ラブロフは2023年2月7日にバマコを訪問し、モスクワはマリの軍事力向上を引き続き支援すると述べた。2023年6月、マリは旧植民地の言語であったフランス語を公用語から外し、国民投票で有権者の97%が新憲法を承認した。 マリは共和制、大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は1992年1月12日に制定されたもの。同憲法は2012年の軍事クーデター後、一時的に停止されたものの後に復活している。 国家元首である大統領(Président de la République du Mali)は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。 マリの首相は大統領により任命される。内閣に相当する閣僚評議会(Conseil des Ministres)のメンバーは、首相が大統領に推薦し任命される。 議会は一院制で、正式名称は国民議会 (Assemblée Nationale)。憲法によると、国家唯一の立法機関とされている。定数147議席。国民議会議員は、マリを構成する8州と1特別区の人口比に基づき、国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。 マリは実質的に複数政党制が機能する、アフリカでは数少ない国家である。宗教や民族を基盤とした政党、地域政党、性別による差別を主張する政党は禁止されている。 主要政党としては、ムーサ・トラオレ軍事独裁政権の打倒後に政権の座に就いたマリ民主同盟(英語版)(ADEMA)が最大の政党として挙げられる。他の有力政党にはマリ連合(英語版)(RPM)があり、民主化主導全国会議(英語版)(CNID)、愛国復興運動(英語版)(MPR)という小政党と共に選挙同盟希望2002を形成している。国民議会内の勢力は以下の通り。 最高司法機関は最高裁判所(Cour suprême)である。 2022年1月9日、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)はガーナの首都アクラで臨時首脳会議を開催、マリで2度のクーデターを起こし実権を掌握した軍事政権であるゴイタ政権による民政移管プロセスの延期を受け、厳しく制裁することを決議した。ECOWASからの決定を受けた同日、同政権は「ECOWASのマリに対する制裁は、「違法」で「非人道的」だ」と非難するコミュニケを発表しており、翌日の1月10日、暫定大統領であるゴイタは「ECOWASはマリ情勢の複雑性に鑑みず、われわれの努力を無視した」と言明している。 日本政府は、マリ政府と2008年(平成20年)5月17日にODA計画2件の書簡を交換した。飲み水を引く「シカソ地域飲料水供給計画」と、かつての紛争地帯の道路や橋を復旧する「マリーセネガル南回廊道路橋梁建設計画」である。外務・国際協力大臣モクタール・ウアンヌ(仏: Son Excellence Monsieur Moctar OUANE、仏: Ministre des Affaires Etrangeres et de la Cooperation Internationale)と在マリ国臨時代理大使の迫久展との間で交わされた。 前者は対象の村で1万5200人とされた安全な水が手に入る人口を、完成時に7万8500人に増やすといい、水が原因の体調不良を減らしたり、水汲みの仕事を任される女性や子供の労働の負担も軽くなると見込まれる。この計画により、給水施設が未整備だった74の村に水が引かれ、対象地域の給水率は16.6%から85.5%に上がる予定。 マリは内陸国で、地理的には3区分される。北部のサハラ砂漠、中部のサヘル地帯、南部のスーダン帯である。国の65%が砂漠(サハラ砂漠)と半砂漠であり、南部の低地サバナから北東部丘陵で標高1000メートルに達するものの、一部の山地を除けは全般的に平坦な地形をしている。最高地点は中部のブルキナファソ国境に近いオンボリ山 (Hombori Tondo)(英語版)(1155メートル)。 ケッペンの気候区分によれば、マリの気候は北部が砂漠気候、南西部は亜熱帯気候である。北部全域にサハラ砂漠が分布し、人口は希薄。国土のほぼ中央部を西から東に流れるニジェール川はマリの国土の軸となっており、古代よりこの中流域では大帝国が興亡を繰り返してきた。現代でも食料・飲み水・農業・輸送などあらゆる面で国民生活を支えている。なかでもモプティ周辺に広がるニジェール内陸デルタは非常に豊かな氾濫原である。南部に広がるサバナ地帯は、国内で最も降水量が多く人口も多い。 以下の10州とバマコ特別区に分かれている。 最大都市は首都のバマコである。バマコは国土の南西部のサバンナ地帯に位置し、ニジェール川に面する。マリの経済の重心は国土南部のサバンナ地帯にあり、バマコをはじめシカソやセグーといった都市も南部で重要な位置を占めている。シカソは南部の農業地帯の中心都市であり、またバマコからコートジボワールの港湾都市アビジャンへと向かうマリ最大の貿易ルート上に位置するため、綿花などの集散地としても栄えている。 一方、国土の軸となっているニジェール川沿いにも、西端のバマコから東にセグー、モプティ、トンブクトゥ、ガオといった都市が連なる。セグーは18世紀からバンバラ帝国とトゥクロール帝国が相次いで首都を置き、植民地化された後もマラカラ・ダムからの灌漑によって豊かな農耕地帯の中心となっている。モプティはニジェール川と支流のバニ川との合流地点にフランスによって建設された町であり、ニジェール内陸デルタの中心都市となっている。トンブクトゥはニジェール川がもっとも北に湾曲した部分に存在する砂漠の都市であり、マリ帝国からソンガイ帝国時代(15世紀–)には大繁栄したものの、交易ルートの変化や周囲の砂漠化によって現代では小都市に過ぎなくなっている。マリ最東端の都市であるガオも砂漠気候に属するが、ニジェール川本流沿いに位置するため豊かな水に恵まれ、マリ北部最大の都市となっている。 マリは生産人口の80%が第一次産業に従事しており、農業および牧畜が主要産業となっている。マリ最大の輸出品は金であり、2012年度には輸出総額の75%、総生産の25%を占めている。これに次ぐ主力産品は、植民地時代からマリ経済の主力であった綿花であり、2012年度には輸出総額の15%、総生産の15%を占めている。綿花栽培は90年代以降好調を続けており、農民の多くが従事する綿花栽培の好調が民主化以降のマリの政情安定を支えた。 農業は、国の2大農業地域であるニジェール川流域とマリ南部のサバンナ地帯によって異なった形で行われている。ニジェール川内陸デルタでは川の氾濫を利用した自然灌漑と、大規模な灌漑施設を備えた人工灌漑の双方で稲作が盛んに行われている。サバンナ地帯においては綿花が主力であり、穀物としてはソルガムが主に栽培される。やや乾燥したサヘル地帯においてはソルガムに代わり、乾燥に強いトウジンビエが栽培される。西部のセネガル川流域ではソルガムや綿花のほか、ピーナツも栽培される。しかし国土全域において灌漑設備が弱く、また砂漠化の影響を受け、収量は天候に大きく左右される。 北部ではトゥアレグ族が遊牧を行っている。また、ニジェール川、特に内陸デルタは非常に豊かな漁場となっており、河川漁業もさかんに行われている。この漁業は古代からこの地域の主要産業の一つであり、ボゾ人やソモノ人のように漁業を専門に行う民族も内陸デルタには存在していて、1950年代から70年代にかけてはニジェール川の魚はマリの主要輸出品の一つとなっていた。 輸出入の経路は、独立以前はセネガルのダカール港からダカール・ニジェール鉄道経由が圧倒的だったが、マリ連邦崩壊時の政治的対立によりコートジボワールとの結びつきを強め、1997年には輸出入の70%がコートジボワールのアビジャン経由、30%がダカール経由となった。 国内産業では労働力が吸収しきれないため出稼ぎが盛んで、行き先はコートジボワールと旧宗主国フランスが多い。しかしコートジボワールでは地元民と移民してきたブルキナファソ人やマリ人との対立が激しく、この対立を一つの原因として第1次コートジボワール内戦(英語版)となった。 クリコロへは隣国セネガルからダカール・ニジェール鉄道が敷設されている。この鉄道はクリコロでニジェール川水運と接続し、かつてはマリの交通の大動脈であった。増水期のこの川はクリコロとガオ間約2000kmが大型船舶の運航ができることから、インフラの乏しいマリの北部・東部の重要な輸送手段ではあるものの、1年の半分にわたる渇水期は航行不能で、物流の水運部分が断たれてしまう。 マリは多くの民族が居住する多民族国家である。最も大きな民族は国土南西部のサバンナ地帯に居住する農耕民族のバンバラ人(Bambara)であり、人口の30から35%を占めている。またかつてマリ帝国を築き上げたマリンケ人(Malinke)やソニンケ人(Soninke)なども含むマンデ系(英語版)(Mande)の人口は、マリの約50%を占めている。マンデ系の民族はいずれも国土の南西部に多く住む。次いで多いのは主にニジェール川内陸デルタに居住する半農半牧のフラニ人であり、人口の約17%を占める。ヴォルタ人(Voltaic)は人口の約12%を占める。人口の6%を占める農耕民のソンガイ人は国土東部のガオ地方に集住しており、かつてはソンガイ帝国を築いてニジェール川中流域を支配していたことがある。ベルベル人(トゥアレグ族、ムーア人)は人口のおよそ10%を占め、国土の北部に多く居住する遊牧民である。 その他の小民族は人口の5%を占める。これらの小民族の中には、ニジェール内陸デルタの東側に伸びるバンディアガラの断崖に居住し独特の文化を持つドゴン人や、漁業を専業としニジェール川内陸デルタを中心に河川近辺に居住するボゾ人など特色ある民族が存在する。 かつての公用語はフランス語であったが、2023年にフランス語を公用語から排除し、バンバラ語など13の諸言語を公用語とした。国内の多数部族が使用している4つの言語を、国語と定め、教育その他の分野で使用している。なかでも首都バマコを中心とした南西部で使用されるバンバラ語は理解できる者が多く、共通語化の道を歩みつつある。このほか、フルフルデ語はニジェール内陸デルタで、ソンガイ語はガオを中心とする東部で話者が多い。 マリの結婚に関する法律は緩く、児童婚が一般的とされている面を持つ。 右図の通り、イスラム教が90%、伝統的宗教が5%、キリスト教が5%である。 教育制度は小学校6年、中学校3、高校3年。新年度は10月から。義務教育は6~15歳までの9年となっている。 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は46.4%(男性:53.5% 女性:39.6%)である。 マリの治安は非常に危険な状況に立たされている。同国北部・中部では、連日のように武装集団による殺人・強盗及び部族間抗争による殺戮が発生している。特に中部では遊牧部族及び農耕・狩猟部族間の衝突が多発し、双方に多数の死傷者が発生していて、身の安全が脅かされる可能性を高めている。一方で南部においても襲撃及び凶悪犯罪などが発生しており、首都バマコではバイクを使用した武装強盗などの凶悪犯罪が頻発している状態が続く。 加えて、地元警察と憲兵が癒着と共犯を繰り返しているとの報告が挙がっている。 2022年10月現在、外務省は首都バマコを除くマリ全土に対して「レベル4:退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)」 、バマコに対しては「レベル3:渡航は止めてください。(渡航中止勧告)」の危険情報を発出している。 児童労働事案や強制労働事案が未だ根深く、それに絡む子供の人身売買(英語版)が依然として深刻な問題となっている。 現代におけるマリの女性が直面している問題には、女性に対する暴力の割合が高いこと、児童婚の横行、因習として今も続けられている女性器の切除(女子割礼)などがある。 国境なき記者団(RSF)による2020年の世界報道自由度ランキングでは108位(180か国中)に位置付けられている。 マリには古くから息衝くグリオーによる演奏があるが、1960年にマリは独立後、政府主導で芸術振興政策を促進、ポピュラー音楽が盛んになり始める。各地域が提供者となり、オルケストル・レジオナル・ド・モプティやオルケストル・レジオナル・ド・セグー、レイル・バンドなどの国営楽団が出現した。レイル・バンド出身のサリフ・ケイタが1970年代にデビューし、1980年代より世界に躍り出て、メジャーデビューを果たす。ケイタの他にも西洋音楽に影響されたミュージシャンが多く育つ。 サリフを初めとしたマンデ・ポップが流行る中で、民主化を背景とした南西部のワスル音楽も広がりつつあった。非マンデ系民族の音楽も注目されるようになり、北東部出身のトゥアレグ人のグループ、ティナリウェンによる「砂漠のブルース」がポピュラー音楽として知られるようになる。 ソロ・ミュージシャンとしてはギタリストのアリ・ファルカ・トゥーレは国際的に人気がある。彼はアメリカのライ・クーダーとの共作Talking Timbuktuで1995年グラミー賞ベスト・ワールド・ミュージック・アルバム賞(英語)を受賞したことがある。彼の息子、ヴィユーもギタリストとして活動している。ワスル音楽の女性歌手ウム・サンガレも活躍している。 グリオー家系のミュージシャンも多くおり、中でもコラ奏者のシディキ・ジャバテは70代以上続くコラ奏者の家系に生まれ、「コラの王」と呼ばれたほどの名手であった。彼はマリが独立した後に国立楽団に加わっていた。彼と歌手のネネ・コイタとの間に生まれたトゥマニ(トゥマニ・ジャバテ)もコラ奏者として知られている。彼は元来は伴奏楽器であったコラを独奏楽器として発展させた。またトゥマニはグラミー賞ベスト・トラディショナル・ワールド・ミュージック賞(英語)を、2006年にアリー・ファルカ・トゥーレとの共作『In the Heart of the Moon』で、また2011年にはジャバテが客演した『Ali and Toumani』でも受賞した。また、トゥマニの甥にあたるママドゥもコラ奏者として活動している。 コラ奏者トゥマニを中心に、歌手の相関関係をまとめる。 映像作家のスレイマン・シセは社会的メッセージ性の強い作品で知られ、国内外から高い評価を受けている。 マリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、複合遺産が1件ある。 マリ国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。マリサッカー連盟(FMF)によって構成されるサッカーマリ代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。しかしアフリカネイションズカップには12度出場しており、1972年大会では準優勝に輝いている。同国の英雄的な存在にスペインのセビージャFCなどで活躍したフレデリック・カヌーテがおり、2007年にはアフリカ年間最優秀選手賞を受賞している。
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"16世紀末になるとソンガイ帝国は王位継承争いで大きく国力を落とし、それをついてサハラ砂漠中央部のテガーザの岩塩をめぐって対立していたサアド朝モロッコが砂漠を越えて侵攻してきた。ソンガイ帝国は1591年のトンディビの戦い(英語版)に敗れ、1592年には滅亡した。ソンガイに代わって新たにニジェール川中流域を治めることになったサアド朝は、しかしこの地域を統治し続けることに失敗した。英主アフマド・マンスール・ザハビーが1603年に死去するとサアド朝内部では内紛が続き、サハラを越えてニジェール川中流部に勢力を保ち続けることが不可能になったのである。1612年にこの地方のモロッコ人たちはサアド朝から独立し、以後は土着化しながら1833年まで統治を続けるものの、その勢力は微弱なものだった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ソンガイ帝国崩壊後、17世紀にはこの地域ではKaarta(1753年-1854年)(英語)、Kénédougou Kingdom(1650年-1898年)(英語)など、多くの小王国が乱立したが、その中でもセグーのバンバラ族によるバンバラ王国(英語版)(1712年–1861年)が勢力を拡大し、18世紀後半にはニジェール川中流域を支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "19世紀に入ると、この地域ではフラニ族によって数度のジハードが行われ、イスラーム国家が成立した。1820年にはマシーナ王国(英語版)が成立してニジェール内陸デルタを支配下に置いた。19世紀半ばには内陸デルタではエルハジ・ウマール(英語版)がトゥクロール帝国(1848年–1890年)を建国してバンバラ王国やマシーナ王国を滅ぼし、ニジェール川上流域ではサモリ・トゥーレがワスルー(英語版)地方にサモリ帝国(英語版)(1878年–1898年)を建国したが、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割を抑えることは出来ず、いずれの国もフランスによって滅ぼされた(マンディンゴ戦争(英語版))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "フランスは、既に自国領としていたセネガルからセネガル川を遡って侵攻してきた。そのフランスは1880年にカイに首都を置くオー・セネガル植民地を成立させ、1890年にはこの植民地はフランス領スーダンと改称された(「スーダン (地理概念)」も参照)。1904年には首都はバマコへと移転した。フランス植民地期には綿花の栽培が推進され、また内陸デルタでは水田開発が行われた。第二次世界大戦後、植民地独立の動きが広がる中でマリでも独立への動きが始まり、1958年にはフランスの自治国スーダンとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1960年6月、隣国のセネガルと共にマリ連邦を結成しフランスから独立。しかし、その年の8月にセネガルが連邦から離脱したため、翌9月にマリ共和国と国名を改めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "初代大統領モディボ・ケイタの下で社会主義政策が推進されたが徐々に行き詰まり、1968年にムーサ・トラオレのクーデタが発生し、長い軍事独裁体制の時期に入った。1974年には東部のAgacher地区で、オートボルタとの間にAgacher Strip War(The First War(英語)、11月25日 - 12月中旬)と呼ばれる小規模な軍事衝突が起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1979年に単一政党マリ人民民主同盟が結成され、トラオレが大統領に選出されて形式上は民政移管が行われたものの、一党独裁体制はそのまま継続していた。1985年には再びAgacher地区で、ブルキナファソとの間にAgacher Strip War(Christmas War(英語)、12月14日 - 12月30日)が起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1991年にクーデターが起こり、実権を握ったアマドゥ・トゥマニ・トゥーレの下で暫定政府が発足。トゥーレ暫定政権は民主化を進めると翌1992年に憲法を制定し、大統領選挙が行われてアルファ・ウマル・コナレが就任した。このころ、マリ北部とニジェールでトゥアレグ族のen:Popular Movement for the Liberation of Azawad(MPLA)とHassaniya Arabic(英語)のArab Islamic Front of Azawad(FIAA(英語))が過激な分離闘争(トゥアレグ抵抗運動 (1990年-1995年)(英語版))を繰り返してきたが、1996年に武装解除が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "コナレ政権は民主的な政権運営を行い、言論の自由や複数政党制をよく維持した。2002年には任期満了で退任したコナレ大統領に代わり、軍を退役していたアマドゥ・トゥマニ・トゥーレが大統領に就任したが、トゥーレ政権でもマリの民主制はよく維持され、アフリカで最も民主的な政府の一つに数えられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一方で2004年にlocust outbreak(英語)が勃発、2006年にはイブラヒム・アグ・バハンガ(フランス語版)が反政府武装組織「5月23日同盟(英語版)」(ADC)を結成し、マリ北部において再び武装闘争を展開(トゥアレグ抵抗運動 (2007年-2009年)(英語版))。2011年リビア内戦への合流によりさらに戦闘能力や武器を強化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2012年1月、トゥアレグ族は新たに独立を求め、トゥアレグ抵抗運動 (2012年)(英語版)で蜂起し、マリの北部各州(アザワド)を制圧した。戦いの中で政府軍内部からは武器が足りないなどといった不満が噴出し、同年3月にマリ軍事クーデターが起きてトゥーレ政権が打倒される事態となった。さらに4月6日にはトゥアレグ族の反政府武装組織「アザワド解放民族運動」(MNLA、タマシェク語: ⵜⴰⵏⴾⵔⴰ ⵏ ⵜⵓⵎⴰⵙⵜ ⴹ ⴰⵙⵍⴰⵍⵓ ⵏ ⴰⵣⴰⵓⴷ)とサラフィー・ジハード主義組織「アンサル・ディーン」が北部三州(アザワド)を制圧し、一方的にアザワド独立宣言を発表した。5月5日にはアザワドを制圧中の国際テロ組織アルカーイダ系武装組織「イスラム・マグレブ諸国のアルカーイダ」(AQIM)がトンブクトゥの聖墓を破壊したと発表した。その後、アンサル・ディーンと対立したMNLAは攻撃を受け、アザワド内の拠点を全て失い、アザワドは事実上崩壊。現在、マリ北部はアンサル・ディーンの支配下にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2013年1月、フランスが軍事介入を開始(セルヴァル作戦)し、政府軍とともにアンサル・ディーンやイスラム・マグレブ諸国のアルカイダなど、イスラム系反政府勢力に対して攻勢をかけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "マリ政府側では2013年8月に大統領選挙が行われ、9月にイブラヒム・ブバカール・ケイタ大統領が就任して民主制が復活した。ケイタは2018年に再選されたが政権腐敗や経済失政、紛争の継続などで不満が広まり、2020年8月18日に一部兵士よりクーデターを起こされ翌8月19日に辞任。新たに設立された国民救済委員会が権力を掌握し、適切な時期に選挙を行い民政に移管することを表明。アシミ・ゴイタ大佐が委員長に就任した(マリ軍事クーデター (2020年))。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は1年での民政復帰と、それまで設置される暫定政権のトップには文民を据えるよう要求したが、9月25日に発足した暫定政権の期間はECOWASの要求より6カ月長い18カ月となったほか、ゴイタ大佐が元軍人のバ・ヌダウ元国防大臣を暫定大統領に指名し、自らは暫定副大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2021年5月24日、軍はヌダウ大統領やウアンヌ首相ら政権関係者を拘束し、権限を剥奪した(マリ軍事クーデター (2021年)(英語版))。28日、憲法裁判所はゴイタ大佐を暫定大統領に任命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2022年までに暫定政府がロシアの民間軍事会社であるワグネル・グループの支援を受けて、イスラム系武装組織と対抗していることが明らかにされている。マリ政府とロシア政府は否定しているが、アメリカとフランスの関係者はロシア政府の関与を示唆している。同年2月17日、フランスのマクロン大統領は、軍事政権との関係悪化を理由に、年内に駐留部隊を撤退させることを発表し、同年8月15日にフランス大統領府が完全に撤収したと発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "同年2月21日には、国民評議会がゴイタ率いる暫定政権がさらに5年の統治を可能にする移行憲章を賛成120、反対・棄権0票で承認した。しかし6月6日、ゴイタは民政復帰までの期間を5年間から2年間に短縮し、2024年3月の文民政権移行を想定していると表明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2022年から2023年にかけて、イスラム国サヘル州(ISIL)はマリ戦争で大きく戦績を稼ぎ、マリ南東部の広大な領土を占領した。アンソンゴとティダメヌもISIL系武装勢力に占領された。2023年半ばまでに、ISIL系武装勢力は前政権の転覆と政権樹立以来、支配地域を倍増させている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ロシアの外相であるセルゲイ・ラブロフは2023年2月7日にバマコを訪問し、モスクワはマリの軍事力向上を引き続き支援すると述べた。2023年6月、マリは旧植民地の言語であったフランス語を公用語から外し、国民投票で有権者の97%が新憲法を承認した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "マリは共和制、大統領制をとる立憲国家である。現行憲法は1992年1月12日に制定されたもの。同憲法は2012年の軍事クーデター後、一時的に停止されたものの後に復活している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "国家元首である大統領(Président de la République du Mali)は、国民の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "マリの首相は大統領により任命される。内閣に相当する閣僚評議会(Conseil des Ministres)のメンバーは、首相が大統領に推薦し任命される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "議会は一院制で、正式名称は国民議会 (Assemblée Nationale)。憲法によると、国家唯一の立法機関とされている。定数147議席。国民議会議員は、マリを構成する8州と1特別区の人口比に基づき、国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マリは実質的に複数政党制が機能する、アフリカでは数少ない国家である。宗教や民族を基盤とした政党、地域政党、性別による差別を主張する政党は禁止されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "主要政党としては、ムーサ・トラオレ軍事独裁政権の打倒後に政権の座に就いたマリ民主同盟(英語版)(ADEMA)が最大の政党として挙げられる。他の有力政党にはマリ連合(英語版)(RPM)があり、民主化主導全国会議(英語版)(CNID)、愛国復興運動(英語版)(MPR)という小政党と共に選挙同盟希望2002を形成している。国民議会内の勢力は以下の通り。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "最高司法機関は最高裁判所(Cour suprême)である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2022年1月9日、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)はガーナの首都アクラで臨時首脳会議を開催、マリで2度のクーデターを起こし実権を掌握した軍事政権であるゴイタ政権による民政移管プロセスの延期を受け、厳しく制裁することを決議した。ECOWASからの決定を受けた同日、同政権は「ECOWASのマリに対する制裁は、「違法」で「非人道的」だ」と非難するコミュニケを発表しており、翌日の1月10日、暫定大統領であるゴイタは「ECOWASはマリ情勢の複雑性に鑑みず、われわれの努力を無視した」と言明している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本政府は、マリ政府と2008年(平成20年)5月17日にODA計画2件の書簡を交換した。飲み水を引く「シカソ地域飲料水供給計画」と、かつての紛争地帯の道路や橋を復旧する「マリーセネガル南回廊道路橋梁建設計画」である。外務・国際協力大臣モクタール・ウアンヌ(仏: Son Excellence Monsieur Moctar OUANE、仏: Ministre des Affaires Etrangeres et de la Cooperation Internationale)と在マリ国臨時代理大使の迫久展との間で交わされた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "前者は対象の村で1万5200人とされた安全な水が手に入る人口を、完成時に7万8500人に増やすといい、水が原因の体調不良を減らしたり、水汲みの仕事を任される女性や子供の労働の負担も軽くなると見込まれる。この計画により、給水施設が未整備だった74の村に水が引かれ、対象地域の給水率は16.6%から85.5%に上がる予定。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "マリは内陸国で、地理的には3区分される。北部のサハラ砂漠、中部のサヘル地帯、南部のスーダン帯である。国の65%が砂漠(サハラ砂漠)と半砂漠であり、南部の低地サバナから北東部丘陵で標高1000メートルに達するものの、一部の山地を除けは全般的に平坦な地形をしている。最高地点は中部のブルキナファソ国境に近いオンボリ山 (Hombori Tondo)(英語版)(1155メートル)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分によれば、マリの気候は北部が砂漠気候、南西部は亜熱帯気候である。北部全域にサハラ砂漠が分布し、人口は希薄。国土のほぼ中央部を西から東に流れるニジェール川はマリの国土の軸となっており、古代よりこの中流域では大帝国が興亡を繰り返してきた。現代でも食料・飲み水・農業・輸送などあらゆる面で国民生活を支えている。なかでもモプティ周辺に広がるニジェール内陸デルタは非常に豊かな氾濫原である。南部に広がるサバナ地帯は、国内で最も降水量が多く人口も多い。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "以下の10州とバマコ特別区に分かれている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "最大都市は首都のバマコである。バマコは国土の南西部のサバンナ地帯に位置し、ニジェール川に面する。マリの経済の重心は国土南部のサバンナ地帯にあり、バマコをはじめシカソやセグーといった都市も南部で重要な位置を占めている。シカソは南部の農業地帯の中心都市であり、またバマコからコートジボワールの港湾都市アビジャンへと向かうマリ最大の貿易ルート上に位置するため、綿花などの集散地としても栄えている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方、国土の軸となっているニジェール川沿いにも、西端のバマコから東にセグー、モプティ、トンブクトゥ、ガオといった都市が連なる。セグーは18世紀からバンバラ帝国とトゥクロール帝国が相次いで首都を置き、植民地化された後もマラカラ・ダムからの灌漑によって豊かな農耕地帯の中心となっている。モプティはニジェール川と支流のバニ川との合流地点にフランスによって建設された町であり、ニジェール内陸デルタの中心都市となっている。トンブクトゥはニジェール川がもっとも北に湾曲した部分に存在する砂漠の都市であり、マリ帝国からソンガイ帝国時代(15世紀–)には大繁栄したものの、交易ルートの変化や周囲の砂漠化によって現代では小都市に過ぎなくなっている。マリ最東端の都市であるガオも砂漠気候に属するが、ニジェール川本流沿いに位置するため豊かな水に恵まれ、マリ北部最大の都市となっている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "マリは生産人口の80%が第一次産業に従事しており、農業および牧畜が主要産業となっている。マリ最大の輸出品は金であり、2012年度には輸出総額の75%、総生産の25%を占めている。これに次ぐ主力産品は、植民地時代からマリ経済の主力であった綿花であり、2012年度には輸出総額の15%、総生産の15%を占めている。綿花栽培は90年代以降好調を続けており、農民の多くが従事する綿花栽培の好調が民主化以降のマリの政情安定を支えた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "農業は、国の2大農業地域であるニジェール川流域とマリ南部のサバンナ地帯によって異なった形で行われている。ニジェール川内陸デルタでは川の氾濫を利用した自然灌漑と、大規模な灌漑施設を備えた人工灌漑の双方で稲作が盛んに行われている。サバンナ地帯においては綿花が主力であり、穀物としてはソルガムが主に栽培される。やや乾燥したサヘル地帯においてはソルガムに代わり、乾燥に強いトウジンビエが栽培される。西部のセネガル川流域ではソルガムや綿花のほか、ピーナツも栽培される。しかし国土全域において灌漑設備が弱く、また砂漠化の影響を受け、収量は天候に大きく左右される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "北部ではトゥアレグ族が遊牧を行っている。また、ニジェール川、特に内陸デルタは非常に豊かな漁場となっており、河川漁業もさかんに行われている。この漁業は古代からこの地域の主要産業の一つであり、ボゾ人やソモノ人のように漁業を専門に行う民族も内陸デルタには存在していて、1950年代から70年代にかけてはニジェール川の魚はマリの主要輸出品の一つとなっていた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "輸出入の経路は、独立以前はセネガルのダカール港からダカール・ニジェール鉄道経由が圧倒的だったが、マリ連邦崩壊時の政治的対立によりコートジボワールとの結びつきを強め、1997年には輸出入の70%がコートジボワールのアビジャン経由、30%がダカール経由となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国内産業では労働力が吸収しきれないため出稼ぎが盛んで、行き先はコートジボワールと旧宗主国フランスが多い。しかしコートジボワールでは地元民と移民してきたブルキナファソ人やマリ人との対立が激しく、この対立を一つの原因として第1次コートジボワール内戦(英語版)となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "クリコロへは隣国セネガルからダカール・ニジェール鉄道が敷設されている。この鉄道はクリコロでニジェール川水運と接続し、かつてはマリの交通の大動脈であった。増水期のこの川はクリコロとガオ間約2000kmが大型船舶の運航ができることから、インフラの乏しいマリの北部・東部の重要な輸送手段ではあるものの、1年の半分にわたる渇水期は航行不能で、物流の水運部分が断たれてしまう。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "マリは多くの民族が居住する多民族国家である。最も大きな民族は国土南西部のサバンナ地帯に居住する農耕民族のバンバラ人(Bambara)であり、人口の30から35%を占めている。またかつてマリ帝国を築き上げたマリンケ人(Malinke)やソニンケ人(Soninke)なども含むマンデ系(英語版)(Mande)の人口は、マリの約50%を占めている。マンデ系の民族はいずれも国土の南西部に多く住む。次いで多いのは主にニジェール川内陸デルタに居住する半農半牧のフラニ人であり、人口の約17%を占める。ヴォルタ人(Voltaic)は人口の約12%を占める。人口の6%を占める農耕民のソンガイ人は国土東部のガオ地方に集住しており、かつてはソンガイ帝国を築いてニジェール川中流域を支配していたことがある。ベルベル人(トゥアレグ族、ムーア人)は人口のおよそ10%を占め、国土の北部に多く居住する遊牧民である。 その他の小民族は人口の5%を占める。これらの小民族の中には、ニジェール内陸デルタの東側に伸びるバンディアガラの断崖に居住し独特の文化を持つドゴン人や、漁業を専業としニジェール川内陸デルタを中心に河川近辺に居住するボゾ人など特色ある民族が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "かつての公用語はフランス語であったが、2023年にフランス語を公用語から排除し、バンバラ語など13の諸言語を公用語とした。国内の多数部族が使用している4つの言語を、国語と定め、教育その他の分野で使用している。なかでも首都バマコを中心とした南西部で使用されるバンバラ語は理解できる者が多く、共通語化の道を歩みつつある。このほか、フルフルデ語はニジェール内陸デルタで、ソンガイ語はガオを中心とする東部で話者が多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "マリの結婚に関する法律は緩く、児童婚が一般的とされている面を持つ。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "右図の通り、イスラム教が90%、伝統的宗教が5%、キリスト教が5%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "教育制度は小学校6年、中学校3、高校3年。新年度は10月から。義務教育は6~15歳までの9年となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は46.4%(男性:53.5% 女性:39.6%)である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "マリの治安は非常に危険な状況に立たされている。同国北部・中部では、連日のように武装集団による殺人・強盗及び部族間抗争による殺戮が発生している。特に中部では遊牧部族及び農耕・狩猟部族間の衝突が多発し、双方に多数の死傷者が発生していて、身の安全が脅かされる可能性を高めている。一方で南部においても襲撃及び凶悪犯罪などが発生しており、首都バマコではバイクを使用した武装強盗などの凶悪犯罪が頻発している状態が続く。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "加えて、地元警察と憲兵が癒着と共犯を繰り返しているとの報告が挙がっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2022年10月現在、外務省は首都バマコを除くマリ全土に対して「レベル4:退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)」 、バマコに対しては「レベル3:渡航は止めてください。(渡航中止勧告)」の危険情報を発出している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "児童労働事案や強制労働事案が未だ根深く、それに絡む子供の人身売買(英語版)が依然として深刻な問題となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "現代におけるマリの女性が直面している問題には、女性に対する暴力の割合が高いこと、児童婚の横行、因習として今も続けられている女性器の切除(女子割礼)などがある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "国境なき記者団(RSF)による2020年の世界報道自由度ランキングでは108位(180か国中)に位置付けられている。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "マリには古くから息衝くグリオーによる演奏があるが、1960年にマリは独立後、政府主導で芸術振興政策を促進、ポピュラー音楽が盛んになり始める。各地域が提供者となり、オルケストル・レジオナル・ド・モプティやオルケストル・レジオナル・ド・セグー、レイル・バンドなどの国営楽団が出現した。レイル・バンド出身のサリフ・ケイタが1970年代にデビューし、1980年代より世界に躍り出て、メジャーデビューを果たす。ケイタの他にも西洋音楽に影響されたミュージシャンが多く育つ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "サリフを初めとしたマンデ・ポップが流行る中で、民主化を背景とした南西部のワスル音楽も広がりつつあった。非マンデ系民族の音楽も注目されるようになり、北東部出身のトゥアレグ人のグループ、ティナリウェンによる「砂漠のブルース」がポピュラー音楽として知られるようになる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ソロ・ミュージシャンとしてはギタリストのアリ・ファルカ・トゥーレは国際的に人気がある。彼はアメリカのライ・クーダーとの共作Talking Timbuktuで1995年グラミー賞ベスト・ワールド・ミュージック・アルバム賞(英語)を受賞したことがある。彼の息子、ヴィユーもギタリストとして活動している。ワスル音楽の女性歌手ウム・サンガレも活躍している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "グリオー家系のミュージシャンも多くおり、中でもコラ奏者のシディキ・ジャバテは70代以上続くコラ奏者の家系に生まれ、「コラの王」と呼ばれたほどの名手であった。彼はマリが独立した後に国立楽団に加わっていた。彼と歌手のネネ・コイタとの間に生まれたトゥマニ(トゥマニ・ジャバテ)もコラ奏者として知られている。彼は元来は伴奏楽器であったコラを独奏楽器として発展させた。またトゥマニはグラミー賞ベスト・トラディショナル・ワールド・ミュージック賞(英語)を、2006年にアリー・ファルカ・トゥーレとの共作『In the Heart of the Moon』で、また2011年にはジャバテが客演した『Ali and Toumani』でも受賞した。また、トゥマニの甥にあたるママドゥもコラ奏者として活動している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "コラ奏者トゥマニを中心に、歌手の相関関係をまとめる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "映像作家のスレイマン・シセは社会的メッセージ性の強い作品で知られ、国内外から高い評価を受けている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "マリ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、複合遺産が1件ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "マリ国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。マリサッカー連盟(FMF)によって構成されるサッカーマリ代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場となっている。しかしアフリカネイションズカップには12度出場しており、1972年大会では準優勝に輝いている。同国の英雄的な存在にスペインのセビージャFCなどで活躍したフレデリック・カヌーテがおり、2007年にはアフリカ年間最優秀選手賞を受賞している。", "title": "スポーツ" } ]
マリ共和国、通称マリは、西アフリカにある共和制国家。首都はバマコである。 西をモーリタニア、セネガル、北をアルジェリア、東をニジェール、南をブルキナファソ、コートジボワール、ギニアに囲まれた内陸国でもある。 国土面積は124万平方キロメートル(日本の約3.3倍)、人口は2020年時点で2025万人。国土の北側3分の1はサハラ砂漠の一部であり、ちょうど中心を流れるニジェール川沿岸に農耕地が広がり、南部はやや降水量の多いサバンナ地帯となっている。
{{Coord|17|N|4|W|display=title}} {{Otheruses|'''西アフリカ'''のマリ共和国|'''ロシア'''の自治共和国|マリ・エル共和国}} {{基礎情報 国 | 略名 =マリ | 日本語国名 = マリ共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|fr|Mali ka Fasojamana}}''' | 国旗画像 = Flag of Mali.svg | 国旗リンク = ([[マリ共和国の国旗|国旗]]) | 国章画像 = [[ファイル:Coat_of_arms_of_Mali.svg|100px]] | 国章リンク = ([[マリ共和国の国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|fr|Un Peuple, Un But, Une Foi}}''<br />(フランス語: 1つの国民、1つの目標、1つの信念) | 国歌 = [[アフリカのため、そして君、マリのため|{{lang|fr|Pour l'Afrique et pour toi, Mali}}]]{{fr icon}}<br>''アフリカのため、そして君、マリのため''<br><center>[[ファイル:Malian national anthem, performed by the United States Navy Band.oga]] | 位置画像 = Mali (orthographic projection).svg | 公用語 = [[バンバラ語]]など13言語 (詳細は[[マリの言語]])<ref name="Lingua 2023">{{cite web |url=https://sgg-mali.ml/JO/2023/mali-jo-2023-13-sp-2.pdf |title=JOURNAL OFFICIEL DE LA REPUBLIQUE DU MALI SECRETARIAT GENERAL DU GOUVERNEMENT - DECRET N°2023-0401/PT-RM DU 22 JUILLET 2023 PORTANT PROMULGATION DE LA CONSTITUTION |date=22 July 2023 |website=sgg-mali.ml |access-date=26 July 2023 |quote=Article 31 : Les langues nationales sont les langues officielles du Mali. |trans-quote=Article 31: The national languages are the official languages of Mali. |lang=fr}}</ref><ref name="LangNat">{{cite web |url=https://sgg-mali.ml/JO/2017/mali-jo-2017-39.pdf |title=JOURNAL OFFICIEL DE LA REPUBLIQUE DU MALI SECRETARIAT GENERAL DU GOUVERNEMENT - DECRET N°2017-0735/P-RM DU 21 AOUT 2017 FIXANT L'ORGANISATION ET LES MODALITES DE FONCTIONNEMENT DES STRUCTURES DE L'EDUCATION NON FORMELLE |date=21 August 2017 |website=sgg-mali.ml |access-date=21 October 2023 |quote=Selon la Loi n°96- 049 du 23 août 1996, les langues nationales du Mali sont : (...) |trans-quote=According to Law No. 96-049 of 23 August 1996, the national languages of Mali are: (...) |lang=fr}}</ref> | 首都 = [[バマコ]] | 最大都市 = バマコ | 元首等肩書 = [[マリの大統領一覧|移行大統領]] | 元首等氏名 = [[アシミ・ゴイタ]] | 首相等肩書 = [[マリの首相|首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|ショゲル・コカラ・マイガ|en|Choguel Kokalla Maïga}}(暫定) | 面積順位 = 23 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,240,000 | 水面積率 = 1.6% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 =59 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 20,251,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ml.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 |language=en,fr}}</ref> | 人口密度値 = 16.6<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2018 | GDP値元 = 9兆5382億<ref name="economy">{{cite web|title=IMF Data and Statistics |accessdate=2020-05-10|url=https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2019/02/weodata/weorept.aspx?sy=2017&ey=2024&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=678&s=NGDP%2CNGDPD%2CPPPGDP%2CNGDPDPC%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=3&pr.y=12|language=en}}</ref> | GDP統計年MER = 2018 | GDP順位MER = 119 | GDP値MER = 171億8000万{{R|economy}}<!-- 億万の区切り子を使うなら半角カンマは除去。以下同。--> | GDP統計年 = 2018 | GDP順位 = 114 | GDP値 = 441億3000万{{R|economy}} | GDP/人 = 2,380{{R|economy}} | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;- 日付 | 建国年月日 = [[フランス]]より<br />[[1960年]][[9月22日]] | 通貨 = [[CFAフラン]] | 通貨コード = XOF | 時間帯 = +0 | 夏時間 = なし | 国歌名 = ル・マリ | ISO 3166-1 = ML / MLI | ccTLD = [[.ml]] | 国際電話番号 = 223 | 注記 = }} [[ファイル:Mali map.png|right|thumb|260px|マリの地図]] '''マリ共和国'''(マリきょうわこく、[[バンバラ語]]:'''Mali ka Fasojamana''')、通称'''マリ'''({{lang-fr-short|Mali}})は、[[西アフリカ]]にある[[共和制]][[国家]]。首都は[[バマコ]]である<ref name="日本国外務省"/>。 西を[[モーリタニア]]、[[セネガル]]、北を[[アルジェリア]]、東を[[ニジェール]]、南を[[ブルキナファソ]]、[[コートジボワール]]、[[ギニア]]に囲まれた[[内陸国]]でもある。 国土面積は124万平方キロメートル(日本の約3.3倍)、人口は2020年時点で2025万人<ref name="日本国外務省"/>。国土の北側3分の1は[[サハラ砂漠]]の一部であり、ちょうど中心を流れる[[ニジェール川]]沿岸に農耕地が広がり、南部はやや降水量の多い[[サバンナ]]地帯となっている。 == 国名 == 正式な国名は公用語のバンバラ語で'''Mali ka Fasojamana'''、通称'''Mali'''。 かつての公用語でのフランス語表記は''République du Mali''(レピュブリク・デュ・マリ)。通称、{{lang|fr|Mali}}。 公式の[[英語]]表記は''Republic of Mali''<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mali/data.html マリ共和国(Republic of Mali)基礎データ] 日本国外務省(2022年9月23日閲覧)</ref>(リパブリク・オヴ・マーリ)。通称、''{{lang|en|Mali}}''。 日本語の表記は'''マリ共和国'''。通称、'''マリ'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''{{lang|ja|馬里}}'''。 [[フランス植民地帝国|植民地]]時代は'''[[フランス領スーダン]]'''と呼ばれていたが、独立時に現在の国名となった。'''マリ'''の名はかつてこの地にあった[[マリ帝国]]の繁栄にあやかって名づけられた。マリとは[[バンバラ語]]で「[[カバ]]」という意味で、首都のバマコにはカバの銅像がある。 == 歴史 == {{main|マリの歴史}} === 古代 === {{main|[[:en:Pre-Imperial Mali]]}} 現在のマリの領域において確認できる最古の国家は、7世紀に興りマリ西部を領した[[ソニンケ族]]の[[ガーナ王国]]と、東部のガオに起こったガオ王国とされている。特にガーナ王国は、[[北アフリカ]]の[[アラブ人]]から[[塩]]を輸入して[[金]]や[[象牙]]を輸出する[[サハラ交易]](いわゆる塩金交易)によって8世紀に絶頂期を迎えた。しかしガーナ王国は[[サヘル]](サハラ砂漠の南側)の乾燥化によって勢力を減退させ、[[1076年]]に[[ベルベル人]]の[[イスラム王朝|イスラーム国家]][[ムラービト朝]]に攻撃され小国へと転落した。 ガーナ王国の衰退後、マリ西部は{{仮リンク|スス人|en|Susu people|label=スス族}}の興した反イスラームの{{仮リンク|スス王国|en|Sosso Empire}}が覇権を握った。 === マリ帝国とソンガイ帝国 === [[ファイル:Kanga Moussa Atlas Catalan.jpg|thumb|left|260px|[[マリ帝国]]の[[マンサ・ムーサ]]帝]] 13世紀に入るとニジェール川上流部にいた[[マンディンカ族]]の[[スンジャタ・ケイタ]]が[[マリ帝国]]を興し、[[1235年]]、{{仮リンク|キリナの戦い|en|Battle of Kirina}}でスス王国を滅ぼしてこの地域の覇権を握った。マリ帝国はニジェール川中流域へと勢力を拡大し、[[ジェンネ]]や[[トンブクトゥ]]といった交易都市が繁栄した<ref>{{Harvnb|伊東|竹沢|2015|page=140}}</ref>。マリ帝国は[[マンサ・ムーサ]]王の時代に最盛期を迎え、豪華な[[メッカ]][[巡礼]]の様子は後世まで語り継がれたが、14世紀末から衰退に向かい、やがて15世紀後半にはマリ東端の[[ガオ (都市)|ガオ]]に都を置いた[[ソンガイ族]]の[[ソンガイ帝国]]がこの地域の覇者となった。ソンガイ帝国は[[ソンニ・アリ]](-[[1492年]])や[[アスキア・ムハンマド1世]]([[1493年]] - [[1528年]])といった優れた統治者の下で大いに繁栄した。 === サアド朝モロッコ支配期 === 16世紀末になるとソンガイ帝国は王位継承争いで大きく国力を落とし、それをついてサハラ砂漠中央部の[[テガーザ]]の[[岩塩]]をめぐって対立していた[[サアド朝]][[モロッコ]]が砂漠を越えて侵攻してきた。ソンガイ帝国は[[1591年]]の{{仮リンク|トンディビの戦い|en|Battle of Tondibi}}に敗れ、[[1592年]]には滅亡した。ソンガイに代わって新たにニジェール川中流域を治めることになったサアド朝は、しかしこの地域を統治し続けることに失敗した。英主[[アフマド・マンスール・ザハビー]]が[[1603年]]に死去するとサアド朝内部では内紛が続き、サハラを越えてニジェール川中流部に勢力を保ち続けることが不可能になったのである。[[1612年]]にこの地方のモロッコ人たちはサアド朝から独立し、以後は土着化しながら[[1833年]]まで統治を続ける<ref>{{Harvnb|宮本|松田|2003|page=200}}</ref>ものの、その勢力は微弱なものだった。 === 小国乱立期 === ソンガイ帝国崩壊後、17世紀にはこの地域では[[:en:Kaarta|Kaarta]]([[1753年]]-[[1854年]]){{En icon}}、[[:en:Kénédougou Kingdom|Kénédougou Kingdom]]([[1650年]]-[[1898年]]){{En icon}}など、多くの小王国が乱立したが、その中でも[[セグー]]の[[バンバラ族]]による{{仮リンク|バンバラ王国|en|Bamana Empire}}([[1712年]]–[[1861年]])が勢力を拡大し、18世紀後半にはニジェール川中流域を支配した。 [[19世紀]]に入ると、この地域では[[フラニ族]]によって数度の[[ジハード]]が行われ、イスラーム国家が成立した。[[1820年]]には{{仮リンク|マシーナ王国|en|Massina Empire}}が成立して[[ニジェール内陸デルタ]]を支配下に置いた。19世紀半ばには内陸デルタでは{{仮リンク|エルハジ・ウマール|en|El Hadj Umar Tall}}が[[トゥクロール帝国]]([[1848年]]–[[1890年]])を建国してバンバラ王国やマシーナ王国を滅ぼし、ニジェール川上流域では[[サモリ・トゥーレ]]が{{仮リンク|ワスルー|en|Wassoulou}}地方に{{仮リンク|ワスルー帝国|en|Wassoulou Empire|label=サモリ帝国}}([[1878年]]–[[1898年]])を建国したが、[[ヨーロッパ]][[列強]]による[[アフリカ分割]]を抑えることは出来ず、いずれの国もフランスによって滅ぼされた({{仮リンク|マンディンゴ戦争|en|Mandingo Wars}})。 === フランス植民地期 === フランスは、既に[[フランス領西アフリカ|自国領]]としていた[[セネガル]]からセネガル川を遡って侵攻してきた。そのフランスは[[1880年]]に[[カイ (マリ)|カイ]]に首都を置くオー・セネガル植民地を成立させ、[[1890年]]にはこの植民地は[[フランス領スーダン]]と改称された(「[[スーダン (地理概念)]]」も参照)。[[1904年]]には首都はバマコへと移転した。フランス植民地期には[[綿花]]の栽培が推進され、また内陸デルタでは[[水田]]開発が行われた。[[第二次世界大戦]]後、植民地独立の動きが広がる中でマリでも独立への動きが始まり、[[1958年]]にはフランスの自治国スーダンとなった。 === 独立 === [[1960年]][[6月]]、隣国のセネガルと共に[[マリ連邦]]を結成しフランスから独立<ref>{{Harvnb|コネ|竹沢|2015|page=83|loc=「独立後の政治」}}</ref>。しかし、その年の8月にセネガルが連邦から離脱したため、翌9月に'''マリ共和国'''と国名を改めた。 初代大統領[[モディボ・ケイタ]]の下で[[社会主義]]政策が推進されたが徐々に行き詰まり、[[1968年]]に[[ムーサ・トラオレ]]のクーデタが発生し、長い[[軍事政権|軍事独裁体制]]の時期に入った<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|コネ|竹沢|2015|loc=「独立後の政治」|page=85}}</ref>。[[1974年]]には東部のアガッハ地帯で、[[オートボルタ]]との間に[[:en:Agacher Strip War|アガッハ地帯戦争]](Agacher Strip War、The First War、[[11月25日]] - 12月中旬)と呼ばれる小規模な軍事衝突が起きた。 [[1979年]]に単一政党マリ人民民主同盟が結成され、トラオレが大統領に選出されて形式上は民政移管が行われたものの、一党独裁体制はそのまま継続していた。[[1985年]]には再びAgacher地区で、[[ブルキナファソ]]との間に[[:en:Agacher Strip War|アガッハ地帯戦争]](Agacher Strip War、Christmas War、[[12月14日]] - [[12月30日]])が起きた。 [[1991年]]に[[クーデター]]が起こり、実権を握った[[アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ]]の下で暫定政府が発足。トゥーレ暫定政権は[[民主化]]を進めると翌[[1992年]]に憲法を制定し、大統領選挙が行われて[[アルファ・ウマル・コナレ]]が就任した<ref name="名前なし-1"/>。このころ、マリ北部と[[ニジェール]]で[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]の[[:en:Popular Movement for the Liberation of Azawad|アザワド解放人民運動]](Popular Movement for the Liberation of Azawad、MPLA)と[[アラビア語ハッサニア方言|ハッサニア系アラブ人]]の[[:en:Arab Islamic Front of Azawad|アザワド・アラブイスラム前線]](Arab Islamic Front of Azawad、FIAA)が過激な分離闘争({{仮リンク|トゥアレグ抵抗運動 (1990年-1995年)|en|Tuareg rebellion (1990–1995)}})を繰り返してきたが、[[1996年]]に武装解除が行われた。 コナレ政権は民主的な政権運営を行い、[[言論の自由]]や[[複数政党制]]をよく維持した。[[2002年]]には任期満了で退任したコナレ大統領に代わり、軍を退役していたアマドゥ・トゥマニ・トゥーレが大統領に就任したが、トゥーレ政権でもマリの民主制はよく維持され、アフリカで最も民主的な政府の一つに数えられるようになった<ref>{{Harvnb|コネ|竹沢|2015|loc= 「独立後の政治」 |page=86}}</ref>。 一方で[[2004年]]に[[サバクトビバッタ]]の[[サバクトビバッタの大量発生 (2004年)|大量発生]]による大規模な蝗害が発生、[[2006年]]には{{仮リンク|イブラヒム・アグ・バハンガ|fr|Ibrahim ag Bahanga}}が反政府武装組織「{{仮リンク|5月23日同盟|en|May 23, 2006 Democratic Alliance for Change}}」(ADC)を結成し、マリ北部において再び武装闘争を展開({{仮リンク|トゥアレグ抵抗運動 (2007年-2009年)|en|Tuareg rebellion (2007–2009)}})。[[2011年リビア内戦]]への合流によりさらに戦闘能力や武器を強化した。 === マリ北部紛争 === [[ファイル:Mali niger border un.png|thumb|right|300px|マリ([[キダル州]]・[[ガオ州]])、[[ニジェール]]([[アガデス州]]・[[タウア州]])、[[アルジェリア]]([[アドラール県]]・[[タマンラセット県]])の国境地域]] {{main|マリ北部紛争 (2012年)}} 2012年1月、[[トゥアレグ|トゥアレグ族]]は新たに独立を求め、{{仮リンク|トゥアレグ抵抗運動 (2012年)|en|Tuareg rebellion (2012)}}で蜂起し、マリの北部各州([[アザワド]])を制圧した。戦いの中で政府軍内部からは武器が足りないなどといった不満が噴出し、同年3月に[[マリ軍事クーデター (2012年)|マリ軍事クーデター]]が起きてトゥーレ政権が打倒される事態となった<ref>{{Harvnb| |竹沢|2015|loc=「2013年の政変とサハラの混乱」|page=94}}</ref>。さらに[[4月6日]]にはトゥアレグ族の反政府武装組織「[[アザワド解放民族運動]]」(MNLA、[[タマシェク語]]: {{lang|taq| ⵜⴰⵏⴾⵔⴰ ⵏ ⵜⵓⵎⴰⵙⵜ ⴹ ⴰⵙⵍⴰⵍⵓ ⵏ ⴰⵣⴰⵓⴷ}})と[[サラフィー主義|サラフィー]]・ジハード主義組織「[[アンサール・アッ=ディーン|アンサル・ディーン]]」が北部三州([[アザワド]])を制圧し、一方的に[[アザワド独立宣言]]を発表した<ref>{{cite news|title=マリ北部で反政府武装勢力が独立宣言、仏国防相は「承認せず」|publisher=[[:ロイター通信|ロイター]]|date=2012-04-06|url=http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE83504V20120406|accessdate=2012-04-08|newspaper=[[:ロイター通信|ロイター]]}}</ref>。5月5日にはアザワドを制圧中の国際テロ組織[[アルカーイダ]]系武装組織「[[AQIM|イスラム・マグレブ諸国のアルカーイダ]]」({{lang|en|AQIM}})が[[トンブクトゥ]]の聖墓を破壊したと発表した<ref>「[http://www.jiji.com/jc/zc?key=%a5%c8%a5%f3%a5%d6%a5%af%a5%c8%a5%a5&k=201205/2012050600017 アルカイダ系が聖墓破壊=世界遺産のトンブクトゥ-マリ]{{リンク切れ|date=2022年1月}}」[[時事通信|時事ドットコム]](2012年5月6日)</ref><ref>{{Cite news|title=マリ北部のイスラム過激派、世界遺産の都市で聖墓破壊|url=https://jp.reuters.com/article/tk0797250-mali-timbuktu-unesco-idJPTYE84603B20120507|work=Reuters|date=2012-05-07|accessdate=2022-01-25|language=ja}}</ref>。その後、アンサル・ディーンと対立したMNLAは攻撃を受け、アザワド内の拠点を全て失い、アザワドは事実上崩壊<ref>{{Cite news|url=http://www.france24.com/en/20120712-al-qaeda-linked-islamists-drive-malis-tuaregs-last-stronghold-ansogo-timbuktu-mnla-ansar-dine-mujao|title=Al Qaeda-linked Islamists drive Mali's Tuaregs from last stronghold|work=The Voice of Russia|newspaper=[[France 24]]|date=2012-07-12|accessdate=2012-10-07}}</ref>。現在、マリ北部はアンサル・ディーンの支配下にある<ref>{{cite news|author=Tiemoko Diallo|author2=Adama Diarra|url=http://www.reuters.com/article/2012/06/28/us-mali-crisis-idUSBRE85R15720120628|title=Islamists declare full control of Mali's north|work=ロイター|publisher=ロイター|date=2012-06-28|accessdate=2012-10-13}}</ref>。 2013年1月、フランスが軍事介入を開始([[セルヴァル作戦]])し、政府軍とともにアンサル・ディーンやイスラム・マグレブ諸国のアルカイダなど、イスラム系反政府勢力に対して攻勢をかけた<ref>{{Cite news|和書|url=http://topics.jp.msn.com/world/general/article.aspx?articleid=1614105|title=西アフリカ・マリの戦闘で市民10人が死亡|work=AFPBB News|publisher=[[フランス通信社]]|date=2011-01-13|accessdate=2013-01-14}}</ref>。 === 民政化から軍政への揺り戻し === マリ政府側では2013年8月に大統領選挙が行われ、9月に[[イブラヒム・ブバカール・ケイタ]]大統領が就任して民主制が復活した。ケイタは2018年に再選されたが政権腐敗や経済失政、紛争の継続などで不満が広まり、2020年8月18日に一部兵士よりクーデターを起こされ翌8月19日に辞任。新たに設立された国民救済委員会が権力を掌握し、適切な時期に選挙を行い民政に移管することを表明。[[アシミ・ゴイタ]][[大佐]]が委員長に就任した([[マリ軍事クーデター (2020年)]])<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/53817018|title=マリでクーデターか、大統領が拘束後に辞任 政府と議会も解散|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2020-08-19|accessdate=2020-08-19}}</ref><ref>「[https://web.archive.org/web/20200821061329/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020082000165&g=int 暫定政権トップに軍大佐 クーデター発生のマリ]」時事通信社(2020年8月20日配信)同日閲覧</ref>。[[西アフリカ諸国経済共同体]](ECOWAS)は1年での民政復帰と、それまで設置される暫定政権のトップには文民を据えるよう要求したが、9月25日に発足した暫定政権の期間はECOWASの要求より6カ月長い18カ月となったほか、ゴイタ大佐が元軍人の[[バ・ヌダウ]]元国防大臣を暫定大統領に指名し、自らは暫定副大統領に就任した<ref>{{Cite news|url=https://www.africanews.com/2020/09/21/mali-pronounces-ex-defence-minister-ba-n-daou-as-interim-president/|title=Mali Pronounces Ex- Defence Minister Ba N'Daou as Interim President|agency=[[アフリカニュース]]|date=2020-09-21|accessdate=2020-09-28}}</ref>。 [[2021年]][[5月24日]]、軍はヌダウ大統領やウアンヌ首相ら政権関係者を拘束し、権限を剥奪した({{仮リンク|マリ軍事クーデター (2021年)|en|2021 Malian coup d'état}})<ref>{{Cite news|和書| url=https://mainichi.jp/articles/20210525/k00/00m/030/195000c |title=マリ軍、大統領や首相を拘束 閣僚ポスト失い、不満か |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2021-05-25 |accessdate=2021-05-25}}</ref>。28日、憲法裁判所はゴイタ大佐を暫定大統領に任命した<ref>{{Cite news |和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3349067?cx_part=search |title=マリ憲法裁、ゴイタ大佐を暫定大統領に任命 |newspaper=AFP |date=2021-05-29 |accessdate=2021-05-30}}</ref>。 2022年までに暫定政府が[[ロシア]]の[[民間軍事会社]]である[[ワグネル・グループ]]の支援を受けて、イスラム系武装組織と対抗していることが明らかにされている。マリ政府とロシア政府は否定しているが、アメリカとフランスの関係者はロシア政府の関与を示唆している<ref>{{Cite news|和書 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3386669 |title=マリにロシア人傭兵、米軍が確認 |publisher=AFP |date=2022-01-24 |accessdate=2022-01-24}}</ref>。同年[[2月17日]]、フランスの[[エマニュエル・マクロン|マクロン大統領]]は、軍事政権との関係悪化を理由に、年内に駐留部隊を撤退させることを発表し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3390649?cx_part=top_category&cx_position=3 |title=対テロ戦のマリ駐留仏軍が撤退へ 軍政との関係悪化で |publisher=AFP |date=2020-02-17 |accessdate=2022-02-19}}</ref>、同年8月15日にフランス大統領府が完全に撤収したと発表した<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR166EO0W2A810C2000000/ 仏、マリから完全撤収 てこずるアフリカ外交 中ロ勢力拡大]」『[[日本経済新聞]]』朝刊2022年8月17日(国際面)2022年9月23日閲覧</ref>。 同年2月21日には、国民評議会がゴイタ率いる暫定政権がさらに5年の統治を可能にする移行憲章を賛成120、反対・棄権0票で承認した<ref>{{Cite news|url=https://www.africanews.com/2022/02/21/mali-parliament-approves-new-charter-allowing-a-five-year-democratic-transition/|title=Mali parliament approves new charter allowing a five-year democratic transition|agency=[[アフリカニュース]]|date=2022-02-21|accessdate=2022-02-22}}</ref>。しかし6月6日、ゴイタは民政復帰までの期間を5年間から2年間に短縮し、2024年3月の文民政権移行を想定していると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.aljazeera.com/news/2022/6/7/mali-military-promises-return-to-civilian-rule-in-march-2024|title=Mali military promises return to civilian rule in March 2024|work=Al Jazeera English|agency=[[アルジャジーラ]]|date=2022-06-07|accessdate=2022-06-12}}</ref>。 [[File:MaliWar.svg|thumb|right|マリにおける軍事状況(2023年)]] 2022年から2023年にかけて、[[イスラム国サヘル州]]([[ISIL]])は[[マリ北部紛争 (2012年)|マリ戦争]]で大きく戦績を稼ぎ、マリ南東部の広大な領土を占領した。[[アンソンゴ]]と[[ティダメヌ圏|ティダメヌ]]も[[ISIL]]系武装勢力に占領された<ref name=bbc_africatoday>{{citation | url=https://www.bbc.co.uk/programmes/p0fgbb9g | publisher=BBC | year=2023 | language=English | title=BBC Africa Today: Islamic State Sahel Province fighters seize commune in Mali}}</ref>。2023年半ばまでに、[[ISIL]]系武装勢力は前政権の転覆と政権樹立以来、支配地域を倍増させている<ref name=npr>{{citation | url=https://www.npr.org/2023/08/26/1196189708/islamic-state-mali-al-qaida-west-africa-extremist | publisher=NPR | year=2023 | language=English | title=NPR: Islamic State group almost doubled its territory in Mali in under a year, U.N. says}}</ref>。 [[ロシア]]の外相である[[セルゲイ・ラブロフ]]は2023年2月7日に[[バマコ]]を訪問し、[[モスクワ]]はマリの軍事力向上を引き続き支援すると述べた<ref>{{Cite web |date=8 February 2023 |title=Russian Foreign Minister visits Mali in sign of deepening ties |url=https://www.euronews.com/2023/02/08/russian-foreign-minister-sergei-lavrov-visits-mali-in-sign-of-deepening-ties |access-date=9 February 2023 |website=EuroNews }}</ref>。2023年6月、マリは旧植民地の言語であった[[フランス語]]を公用語から外し、[[国民投票]]で有権者の97%が新憲法を承認した<ref>{{Cite news |date=4 August 2023 |title=Mali demotes French, language of its former colonizer, in symbolic move |url=https://www.washingtonpost.com/world/2023/08/03/mali-french-new-constitution/ |access-date=9 February 2023 |newspaper=Washington Post }}</ref>。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|マリの政治|en|Politics of Mali}}}} マリは[[共和制]]、[[大統領制]]をとる立憲国家である。1991年、[[ムサ・トラオレ]]将軍の独裁政権に対する[[アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ]]の[[クーデター]]後、民衆蜂起を経て[[民主主義]]が確立された。現行[[憲法]]は[[1992年]][[1月12日]]に制定されたもの。しかし、1997年の大統領選挙と国民議会議員選挙をはじめ、選挙中の大きな混乱やクーデターによる現職大統領・政権の転覆(2012年、2020年、2021年)が続くなど、非常に脆弱な状態が続いている。さらに、投票率が低く、国民の多くが選挙で何が争われているのかを理解していないことが、この民主主義をより脆弱なものにしている<ref>{{Cite web |author=François L'Écuyer |title=Lent développement au Mali |périodique=Le Journal des alternatives (Québec) |jour=25 |mois=janvier |année=2006 | url=http://www.alternatives.ca/fra/journal-alternatives/publications/nos-publications/articles-et-analyses/articles-d-alternatives/article/lent-developpement-au-mali |accessdate=6 mai 2010}}</ref>。 {{see also|{{仮リンク|マリの憲法|en|Constitution of Mali}}}} === 元首 === [[元首|国家元首]]である[[大統領]](''Président de la République du Mali'')は、[[国民]]の直接選挙により選出され、任期は5年。3選は禁止されている<ref>{{Cite book|title=The Constitution of the Republic of Mali "The Republic of Mali One People – One Purpose – One Faith"|publisher=[[:en:University of Richmond|University of Richmond]] School of Law(リッチモンド大学法学大学院)|url=http://confinder.richmond.edu/admin/docs/Mali.pdf|format=pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090704011745/http://confinder.richmond.edu/admin/docs/Mali.pdf|archivedate=2009-07-04|translator=Craver, Jeffrey|website=Constitution Finder}} (Translation for Constitution Finder)</ref>。マリ共和国の独立以来、9人の[[元首|国家元首]](暫定大統領を含む)が誕生しているが、民主的に選出されたのはそのうち3人だけである。 {{see also|マリの大統領一覧}} === 行政 === [[マリの首相]]は大統領により任命される。[[内閣]]に相当する'''閣僚評議会'''(''Conseil des Ministres'')のメンバーは、首相が大統領に推薦し任命される。 === 立法 === 議会は[[一院制]]で、正式名称は'''[[国民議会 (マリ)|国民議会]]''' (''Assemblée Nationale'')。憲法によると、国家唯一の[[立法]]機関とされている。定数147議席。国民議会議員は、マリを構成する8州と1特別区の人口比に基づき、国民の直接選挙で選出され、任期は5年である。 === 政党 === マリは実質的に[[複数政党制]]が機能する、アフリカでは数少ない国家である。[[宗教]]や[[民族]]を基盤とした政党、[[地域政党]]、[[性別]]による差別を主張する政党は禁止されている。 主要政党としては、[[ムーサ・トラオレ]]軍事独裁政権の打倒後に政権の座に就いた{{ill2|マリ民主同盟|en|Alliance for Democracy in Mali}}(ADEMA)が最大の政党として挙げられる。他の有力政党には{{ill2|マリ連合|en|Rally for Mali}}(RPM)があり、{{ill2|民主化主導全国会議|en|National Congress for Democratic Initiative}}(CNID)、{{ill2|愛国復興運動|en|Patriotic Movement for Renewal}}(MPR)という小政党と共に選挙同盟'''希望2002'''を形成している。国民議会内の勢力は以下の通り。 * {{ill2|マリ連合|en|Rally for Mali}} - 51議席 * {{ill2|マリ民主同盟|en|Alliance for Democracy in Mali}} - 24議席 * {{ill2|共和国と民主主義のための連合|en|Union for the Republic and Democracy}} - 19議席 * マリ運動 - 10議席 * その他の諸政党 - 43議席 {{see also|マリの政党}} === 司法 === 最高[[司法]]機関は[[最高裁判所]](''Cour suprême'')である。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|マリの国際関係|en|Foreign relations of Mali}}}} {{Main|バングラデシュとマリの関係}} 2022年1月9日、[[西アフリカ諸国経済共同体]](ECOWAS)は[[ガーナ]]の首都[[アクラ]]で臨時首脳会議を開催、マリで2度のクーデターを起こし実権を掌握した軍事政権であるゴイタ政権による民政移管プロセスの延期を受け、厳しく制裁することを決議した。ECOWASからの決定を受けた同日、同政権は「ECOWASのマリに対する制裁は、「違法」で「非人道的」だ」と非難する[[コミュニケ]]を発表しており、翌日の1月10日、暫定大統領であるゴイタは「ECOWASはマリ情勢の複雑性に鑑みず、われわれの努力を無視した」と言明している<ref>{{Cite news|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2022/01/d6c0266c280cc1d9.html|title=西アフリカ諸国経済共同体がマリに制裁を発動(マリ)|newspaper=[[日本貿易振興機構|JETRO]]|date=2022-01-13|accessdate=2022-01-28}}</ref>。 === 日本との関係 === * [[駐日マリ共和国大使館]] * 在留日本人数 - 10人(2022年10月時点)<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=マリ基礎データ |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mali/data.html |website=Ministry of Foreign Affairs of Japan |accessdate=2022-11-11 |language=ja |date=2020年(令和3年)10月28日}}</ref> *在日マリ人数 - 198人(2021年12月時点)<ref name=":1" /> 日本政府は、マリ政府と2008年(平成20年)5月17日に[[政府開発援助|ODA計画]]2件の書簡を交換した。飲み水を引く「[[シカソ圏|シカソ]]地域飲料水供給計画」と、かつての紛争地帯の道路や橋を復旧する「マリーセネガル南回廊道路橋梁建設計画」<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=外務省: マリ共和国に対する無償資金協力(「シカソ地域飲料水供給計画」及び「マリーセネガル南回廊道路橋梁建設計画」)に関する書簡の交換について|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h20/5/1180054_907.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2022-01-01}}</ref>である。外務・国際協力大臣モクタール・ウアンヌ({{Lang-fr-short|Son Excellence Monsieur Moctar OUANE}}、{{Lang-fr-short|Ministre des Affaires Etrangeres et de la Cooperation Internationale|links=no}})と在マリ国臨時代理大使の迫久展との間で交わされた。 前者は対象の村で1万5200人とされた安全な水が手に入る人口を、完成時に7万8500人に増やすといい、水が原因の体調不良を減らしたり、水汲みの仕事を任される女性や子供の労働の負担も軽くなると見込まれる。この計画により、給水施設が未整備だった74の村に水が引かれ、対象地域の給水率は16.6%から85.5%に上がる予定<ref name=":0" />。 == 軍事 == {{main|マリ軍}} == 地理 == [[ファイル:Mali map of Köppen climate classification.svg|thumb|マリの[[ケッペンの気候区分|ケッペン気候図]]。赤が[[砂漠気候]]、オレンジが[[ステップ気候]]、水色が[[サバナ気候]]である。]] [[ファイル:Hombori Tondo from Hombori.JPG|left|thumb|オンボリ山 (Hombori Tondo)<ref name="ProjetHombori">{{Cite web|url=http://www.hombori.org/english/home/index.html|title=Mount Hombori|accessdate=2020-08-15|website=Projet Hombori|language=en}}</ref>]] [[ファイル:Hand der Fatima.jpg|left|thumb|[[:de:Hand der Fatima (Berg)|Aiguilles de Gami, Main de Fatima]]<ref>{{Cite book|title=The Rough Guide to West Africa|publisher=Rough Guides Ltd. (distributed by Penguin)|year=2010|last=Trillo|first=Richard|url=https://books.google.co.jp/books?id=8-GCQyrotgMC&pg=PT939#v=onepage&q&f=false|language=en|isbn=9781405380706|page=|origyear=2008|at=PT939}} (p PT939にAiguilles de GamiとMain de Fatimaの各種別名記載)</ref>(仮訳'''左''':「ガミの針岩」、'''右''':「ファチマの手岩」)]] [[ファイル:Mali Topography.png|thumb|260px|right|地形図]] {{main|{{仮リンク|マリの地理|en|Geography of Mali}}}} マリは[[内陸国]]で、地理的には3区分される。北部の[[サハラ砂漠]]、中部の[[サヘル]]地帯、南部の[[スーダン (地理概念)|スーダン]]帯である。国の65%が砂漠(サハラ砂漠)と半砂漠であり、南部の低地[[サバナ (地理)|サバナ]]から標高1000[[メートル]]に達する北東部山地まで変化に富むものの、一部の山地を除けは全般的に平坦な地形をしている。最高地点は中部のブルキナファソ国境に近い{{仮リンク|オンボリ山|en|Hombori Tondo}}(Hombori Tondo、1155メートル<ref name=ciaMali>{{Cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ml.html|title=Mali|accessdate=2020-08-15|publisher=[[CIA]]|website=[[CIA The World factbook]]|language=en}}</ref><ref name="Walther2008">{{Cite journal|journal=[[:fr:Articulo]] Journal of Urban Research|year=2008|title=Heaven on Earth? The development of tourism in the Dogon Country and the Hombori Mountains (Mali)|last=Walther|first=Olivier|url=https://journals.openedition.org/articulo/417|issue=4|publisher=Articulo-Revue de Sciences Humaines|language=en|format=HTML|DOI=10.4000/articulo.417|doiaccess=free|last2=Renaud|first2=Thierry|last3=Kissling|first3=Jonathan}} * [https://journals.openedition.org/articulo/docannexe/image/417/img-2.png Hombori周辺山地地図] 東から西へ、Hombori Tondo(1155m), Kissim Tondo(1122m), Quallam, Fatma's Hand, <!-- Aiguilles de Gami -->などの奇岩が並ぶ。</ref>)。 [[ケッペンの気候区分]]によれば、マリの気候は北部が[[砂漠気候]]、南西部は[[亜熱帯|亜熱帯気候]]である。北部全域にサハラ砂漠が分布し、人口は希薄。国土のほぼ中央部を西から東に流れる[[ニジェール川]]はマリの国土の軸となっており、古代よりこの中流域では大帝国が興亡を繰り返してきた。現代でも食料・[[灌漑|飲み水]]・農業・輸送などあらゆる面で国民生活を支えている。なかでもモプティ周辺に広がる[[ニジェール内陸デルタ]]は非常に豊かな[[氾濫原]]である。南部に広がるサバナ地帯は、国内で最も降水量が多く人口も多い。 {{Clearleft}} == 地方行政区分 == [[ファイル:Regions of Mali 2016.png|right|thumb|260px|マリの地方行政化区画]] {{main|マリ共和国の地方行政区画}} 以下の10州と[[バマコ|バマコ特別区]]に分かれている。 * [[キダル州]] (Kidal) --- [[キダル]] * [[ガオ州]] (Gao) --- [[ガオ (都市)|ガオ]] * [[トンブクトゥ州]] (Tombouctou) --- [[トンブクトゥ]]、[[タウデニ]] * [[モプティ州]] (Mopti) --- [[モプティ]]、[[ジェンネ]] * [[セグー州]] (Segou) --- [[セグー]] * [[シカソ州]] (Sikasso) --- [[シカソ]] * [[クリコロ州]] (Koulikoro) --- [[首都]]: [[バマコ]] * [[カイ州]] (Kayes) --- [[カイ (マリ)|カイ]] * [[タウデニ州]](Taoudénit) - 2016年成立 * [[メナカ州]](Ménaka) - 2016年成立 ===主要都市=== {{main|マリ共和国の都市の一覧}} 最大都市は首都の[[バマコ]]である。バマコは国土の南西部のサバンナ地帯に位置し、ニジェール川に面する。マリの経済の重心は国土南部のサバンナ地帯にあり、バマコをはじめ[[シカソ]]や[[セグー]]といった都市も南部で重要な位置を占めている。シカソは南部の農業地帯の中心都市であり、またバマコから[[コートジボワール]]の港湾都市[[アビジャン]]へと向かうマリ最大の貿易ルート上に位置するため、綿花などの集散地としても栄えている。 一方、国土の軸となっているニジェール川沿いにも、西端のバマコから東にセグー、[[モプティ]]、[[トンブクトゥ]]、[[ガオ (都市)|ガオ]]といった都市が連なる。セグーは18世紀からバンバラ帝国とトゥクロール帝国が相次いで首都を置き、植民地化された後もマラカラ・ダムからの灌漑によって豊かな農耕地帯の中心となっている。モプティはニジェール川と支流のバニ川との合流地点にフランスによって建設された町であり、[[ニジェール内陸デルタ]]の中心都市となっている。トンブクトゥはニジェール川がもっとも北に湾曲した部分に存在する砂漠の都市であり、マリ帝国からソンガイ帝国時代(15世紀–)には大繁栄した<ref>{{Cite web|和書|title=特集:トンブクトゥ探訪記 2011年1月号 ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1101/feature04/ |website=natgeo.nikkeibp.co.jp |accessdate=2022-01-25 |publisher=日経ナショナル ジオグラフィックInc. |author=ピーター・グウィン(文) |coauthors=ブレント・スタートン(写真) |work=『[[ナショナル ジオグラフィック]]』誌 > トップ > マガジン |year=2011 |month=1}}</ref>ものの、交易ルートの変化や周囲の砂漠化によって現代では小都市に過ぎなくなっている<ref>{{Cite web|和書|title=土造りの町、世界遺産トンブクトゥに迫る2つの危機 |url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/080300346/ |website=natgeo.nikkeibp.co.jp |accessdate=2022-01-25 |language=ja |publisher=日経ナショナル ジオグラフィックInc. |date=2018.08.06 |author=PAUL CHESLEY(撮影、NATIONAL GEOGRAPHIC CREATIVE) |coauthors=NATIONAL GEOGRAPHIC STAFF(文)、鈴木和博(訳)}}</ref>。マリ最東端の都市であるガオも砂漠気候に属するが、ニジェール川本流沿いに位置するため豊かな水に恵まれ、マリ北部最大の都市となっている。 == 経済 == [[ファイル:Usine de coton CMDT.png|thumb|綿花の加工]] {{main|{{仮リンク|マリの経済|en|Economy of Mali}}}} マリは生産人口の80%が[[第一次産業]]に従事しており、[[農業]]および[[牧畜]]が主要産業となっている<ref>{{Harvnb|ファマンタ|竹沢|2015|loc=「独立後の経済」|page=268}}</ref>。マリ最大の輸出品は[[金]]であり、2012年度には輸出総額の75%、総生産の25%を占めている。これに次ぐ主力産品は、植民地時代からマリ経済の主力であった[[綿花]]であり、2012年度には輸出総額の15%、総生産の15%を占めている<ref>{{Harvnb|ファマンタ|竹沢|2015|loc=「独立後の経済」|page=270}}</ref>。綿花栽培は90年代以降好調を続けており、農民の多くが従事する綿花栽培の好調が民主化以降のマリの政情安定を支えた<ref>{{Harvnb|コネ|竹沢|2015|loc=「独立後の政治」|page=86}}</ref>。 農業は、国の2大農業地域であるニジェール川流域とマリ南部のサバンナ地帯によって異なった形で行われている。ニジェール川内陸デルタでは川の氾濫を利用した自然灌漑と、大規模な[[灌漑]]施設を備えた人工灌漑の双方で[[稲作]]が盛んに行われている<ref>{{Harvnb|竹沢|2015|loc=「稲作」|pages=298-299}}</ref>。サバンナ地帯においては綿花が主力であり、[[穀物]]としては[[ソルガム]]が主に栽培される。やや乾燥したサヘル地帯においてはソルガムに代わり、乾燥に強い[[トウジンビエ]]が栽培される。西部のセネガル川流域ではソルガムや綿花のほか、[[ラッカセイ|ピーナツ]]も栽培される<ref>{{Harvnb|嶋田|竹沢|2015|loc=「農業」|page=286-287}}</ref>。しかし国土全域において灌漑設備が弱く、また[[砂漠化]]の影響を受け、収量は天候に大きく左右される。 北部では[[トゥアレグ族]]が[[遊牧]]を行っている。また、ニジェール川、特に内陸デルタは非常に豊かな漁場となっており、河川[[漁業]]もさかんに行われている。この漁業は古代からこの地域の主要産業の一つであり、ボゾ人やソモノ人のように漁業を専門に行う民族も内陸デルタには存在していて、1950年代から70年代にかけてはニジェール川の魚はマリの主要輸出品の一つとなっていた<ref>{{Harvnb|竹沢|2015|loc=「漁業」|page=304}}</ref>。 輸出入の経路は、独立以前はセネガルの[[ダカール]]港から[[ダカール・ニジェール鉄道]]経由が圧倒的だったが、マリ連邦崩壊時の政治的対立によりコートジボワールとの結びつきを強め、1997年には輸出入の70%がコートジボワールの[[アビジャン]]経由、30%がダカール経由となった。 国内産業では労働力が吸収しきれないため[[出稼ぎ]]が盛んで、行き先はコートジボワールと旧宗主国フランスが多い。しかしコートジボワールでは地元民と移民してきたブルキナファソ人やマリ人との対立が激しく、この対立を一つの原因として{{仮リンク|第1次コートジボワール内戦|en|First Ivorian Civil War}}となった<ref>{{Harvnb|オフ|2007|page=214}}</ref>。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|マリの交通|en|Transport in Mali}}}} [[クリコロ]]へは隣国セネガルから[[ダカール・ニジェール鉄道]]が敷設されている。この鉄道はクリコロでニジェール川水運と接続し、かつてはマリの交通の大動脈であった。増水期のこの川はクリコロとガオ間約2000kmが大型船舶の運航ができることから、インフラの乏しいマリの北部・東部の重要な輸送手段ではあるものの、1年の半分にわたる渇水期は航行不能で、物流の水運部分が断たれてしまう。 == 国民 == [[ファイル:Mali-demography.png|thumb|300px|マリの人口推移(1961年-2003年)]] {{main|{{仮リンク|マリの人口統計|en|Demographics of Mali|fr|Démographie du Mali}}}} === 民族 === マリは多くの民族が居住する[[多民族国家]]である。最も大きな民族は国土南西部のサバンナ地帯に居住する農耕民族の[[バンバラ人]](''Bambara'')であり、人口の30から35%を占めている。またかつてマリ帝国を築き上げた[[マンディンカ族|マリンケ人]](''Malinke'')や[[ソニンケ人]](''Soninke'')なども含む{{仮リンク|マンデ人|en|Mandé peoples|label=マンデ系}}(''Mande'')の人口は、マリの約50%を占めている。マンデ系の民族はいずれも国土の南西部に多く住む。次いで多いのは主にニジェール川内陸デルタに居住する半農半牧の[[フラニ人]]であり、人口の約17%を占める。[[ヴォルタ人]](''Voltaic'')は人口の約12%を占める。人口の6%を占める農耕民の[[ソンガイ人]]は国土東部のガオ地方に集住しており、かつてはソンガイ帝国を築いてニジェール川中流域を支配していたことがある。[[ベルベル人]]([[トゥアレグ族]]、[[ムーア人]])は人口のおよそ10%を占め、国土の北部に多く居住する遊牧民である。 その他の小民族は人口の5%を占める。これらの小民族の中には、ニジェール内陸デルタの東側に伸びる[[バンディアガラの断崖]]に居住し独特の文化を持つ[[ドゴン人]]や、漁業を専業としニジェール川内陸デルタを中心に河川近辺に居住するボゾ人など特色ある民族が存在する。 === 言語 === {{main|[[マリの言語]]}} かつての[[公用語]]は[[フランス語]]であったが、2023年にフランス語を公用語から排除し、バンバラ語など13の諸言語を公用語とした。<ref name="Lingua 2023">{{cite web |url=https://sgg-mali.ml/JO/2023/mali-jo-2023-13-sp-2.pdf |title=JOURNAL OFFICIEL DE LA REPUBLIQUE DU MALI SECRETARIAT GENERAL DU GOUVERNEMENT - DECRET N°2023-0401/PT-RM DU 22 JUILLET 2023 PORTANT PROMULGATION DE LA CONSTITUTION |date=22 July 2023 |website=sgg-mali.ml |access-date=26 July 2023 |quote=Article 31 : Les langues nationales sont les langues officielles du Mali. |trans-quote=Article 31: The national languages are the official languages of Mali. |lang=fr}}</ref><ref name="LangNat">{{cite web |url=https://sgg-mali.ml/JO/2017/mali-jo-2017-39.pdf |title=JOURNAL OFFICIEL DE LA REPUBLIQUE DU MALI SECRETARIAT GENERAL DU GOUVERNEMENT - DECRET N°2017-0735/P-RM DU 21 AOUT 2017 FIXANT L'ORGANISATION ET LES MODALITES DE FONCTIONNEMENT DES STRUCTURES DE L'EDUCATION NON FORMELLE |date=21 August 2017 |website=sgg-mali.ml |access-date=21 October 2023 |quote=Selon la Loi n°96- 049 du 23 août 1996, les langues nationales du Mali sont : (...) |trans-quote=According to Law No. 96-049 of 23 August 1996, the national languages of Mali are: (...) |lang=fr}}</ref><ref>{{cite web |url=https://www.washingtonpost.com/world/2023/08/03/mali-french-new-constitution/ |title=Mali demotes French, language of its former colonizer, in symbolic move|date=17 December 2023|website=www.washingtonpost.com|access-date=17 December 2023}}</ref>国内の多数部族が使用している4つの言語を、'''国語'''と定め、教育その他の分野で使用している。なかでも首都バマコを中心とした南西部で使用されるバンバラ語は理解できる者が多く、[[共通語]]化の道を歩みつつある。このほか、フルフルデ語はニジェール内陸デルタで、ソンガイ語はガオを中心とする東部で話者が多い。 * [[ニジェール・コンゴ語族]] ** {{仮リンク|マンデ人|en|Mandé peoples|label=マンデ系}} *** [[バンバラ語]] - [[バンバラ人]] *** [[マニンカ語|マリンケ語]] - [[マンディンカ族|マリンケ人]] *** [[ソニンケ語]] - [[ソニンケ人]] ** [[フルフルデ語]] - [[フラニ人]](フルベ、プール、プルともいう) ** [[ドゴン語群]] - [[ドゴン人]] * [[ナイル・サハラ語族]] ** {{仮リンク|ソンガイ語|en|Songhay languages}} - [[ソンガイ人]] * [[アフロ・アジア語族]] ** [[タマシェク語]]([[トゥアレグ語]]) - [[トゥアレグ|トゥアレグ人]] === 婚姻 === マリの結婚に関する法律は緩く、[[児童婚]]が一般的とされている面を持つ。 {{See also|{{仮リンク|マリにおける一夫多妻制|en|Polygamy in Mali}}}} {{節スタブ}} === 宗教 === {{main|{{仮リンク|マリの宗教|en|Religion in Mali|fr|Religion au Mali}}}} {{bar box |title=マリの宗教<ref name = IRFR>{{cite web|url=https://www.state.gov/j/drl/rls/irf/2008/108379.htm |title=International Religious Freedom Report 2008: Mali|publisher=State.gov |date=19 September 2008|accessdate=4 May 2012|language=en}}</ref> |titlebar=#ddd |left1= |right1= |float=right |bars= {{bar percent|[[イスラム教]]|green|90}} {{bar percent|[[キリスト教]]|blue|5}} {{bar percent|伝統宗教|red|5}} }} 右図の通り、イスラム教が90%、伝統的宗教が5%、キリスト教が5%である。 === 教育 === {{main|{{仮リンク|マリの教育|en|Education in Mali}}}} 教育制度は{{要出典範囲|date=2019年12月|小学校6年、中学校3、高校3年。新年度は10月から}}。[[義務教育]]は6~15歳までの9年となっている。 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の[[識字率]]は46.4%(男性:53.5% 女性:39.6%)である<ref>{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ml.html|title=Mali|work=World Factbook|accessdate=2009-04-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090402193739/https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ml.html|archivedate=2009-04-02|publisher=CIA|website=www.cia.gov/library}}</ref>。 {{節スタブ}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|マリの保健|en|Health in Mali}}}} {{節スタブ}} == 治安 == マリの治安は非常に危険な状況に立たされている。同国北部・中部では、連日のように武装集団による[[殺人]]・[[強盗]]及び部族間抗争による[[殺戮]]が発生している。特に中部では遊牧部族及び農耕・狩猟部族間の衝突が多発し、双方に多数の死傷者が発生していて、身の安全が脅かされる可能性を高めている。一方で南部においても襲撃及び凶悪犯罪などが発生しており、首都バマコでは[[オートバイ|バイク]]を使用した武装強盗などの凶悪犯罪が頻発している状態が続く。 加えて、地元警察と[[憲兵]]が癒着と共犯を繰り返しているとの報告が挙がっている<ref>{{Cite web |title=2018 Trafficking in Persons Report Country Narrative: Mali |url=https://web.archive.org/web/20180729230448/https://www.state.gov/j/tip/rls/tiprpt/countries/2018/282703.htm |website=web.archive.org |date=2018-07-29 |accessdate=2022-01-25 |publisher=[[:en:United States Department of State|アメリカ合衆国連邦政府内務省]]{{en icon}}}} </ref>。 2022年10月現在、[[外務省]]は首都バマコを除くマリ全土に対して「レベル4:退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)」 、バマコに対しては「レベル3:渡航は止めてください。(渡航中止勧告)」の[[危険情報]]を発出している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_121.html|title=マリ 安全対策基礎データ|accessdate=2022-11-18|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|マリにおける人権|en|Human rights in Mali}}}} [[児童労働]]事案や[[強制労働]]事案が未だ根深く、それに絡む{{仮リンク|子供の人身売買|en|Trafficking of children}}が依然として深刻な問題となっている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|マリにおける子供の権利|en|Children's rights in Mali|fr|Droits de l'enfant au Mali}}|{{仮リンク|奴隷制 (マリ) |en|Slavery in Mali}}}} ==== 女性の権利 ==== [[ファイル:Bamako Cloth2.jpg|thumb|left|150px|ベジン布を染める女性。バマコにて撮影。<br> 現地の女性は、しばしば農作業や子育てを担っているが、マリにおいては有給労働者の15%を女性が占めている。]] 現代におけるマリの女性が直面している問題には、女性に対する暴力の割合が高いこと、[[児童婚]]の横行、[[因習]]として今も続けられている[[女性器]]の切除(女子[[割礼]])などがある。 {{See also|{{仮リンク|マリの女性|en|Women in Mali}}}} == メディア == {{main|{{仮リンク|マリのメディア|en|Mass media in Mali}}}} [[国境なき記者団]](RSF)による2020年の世界報道自由度ランキングでは108位(180か国中)に位置付けられている<ref>{{Cite web |title=Mali |url=https://medialandscapes.org/country/mali |website=Media Landscapes |accessdate=2022-01-25 |language=en |author=Konaté, Modibo(Head of section Planning and Statistic) |quote=(前略)[[:fr:Commission Nationale des Droits de l'Homme|Commission Nationale des Droits de l'Homme]] - CNDH{{fr icon}}([[:en:National Human Rights Commission|National Human Rights Commission]]{{en icon}})ならびに複数の国際人権組織の分析によると、[[公民権]]および政治家の権利はおおよそ尊重されている。メディア環境は当該地域で最も自由(リベラル)と見なされる。そこでマリは西アフリカにおける報道と情報の自由のランドマーク({{lang|en|landmark for press freedom and information in West Africa}})と評された。しかし2012年の事態により国家安全保障、政治、経済の危機に面し、マリの報道界全体が暗黒の時期を過ごあう。わけても北部と中部の政情不安が続く地域で目立ち、通信員の中には誘拐の脅迫を受けた者もある。国内のその他の地域、特にバマコに駐在するジャーナリストは脅迫や暴行の的となり行方不明者も出た。これらはマリのメディアの外観に影響し、情報に敏感な市民に加え媒体として生み出す広告収入に注目する人々まで、社会層と専門性の全ての分野で関心を増した。 国営新聞『Essor』と放送局{{lang|fr|Office de Radio diffusion Télévision du Mali}} - ORTM({{lang|en|Mali Broadcasting and Television Board}})を除くと、報道媒体は個別または分野全体が政治または宗教指導者の配下にある。メディアは政治および宗教の特定の意見を広めようと介入する。ラジオ局によっては聴取者に対立意見または司法の状況を伝える番組を設けており、たとえば{{lang|fr|Studio Tamani}}(番組名『{{lang|fr|Grand Dialogue}}』)は様々な立場を代表する人が出演し、地域のデリケートな問題についてそれぞれの立場を擁護し討論する。{{lang|fr|Radio Kledu}}は市民社会や政界、政府、宗教界からゲストを迎え、ニュース論評や質疑応答を設けた番組がある。(後略) |coauthors=[[:国境なき記者団|Reporters Without Borders]] (RSF), "World Press Freedom Index".}} </ref>。 {{節スタブ}} == 文化 == [[ファイル:Bandiagara escarpment 1.jpg|thumb|right|200px|[[バンディアガラの断崖]]に設けられた[[ドゴン族]]の住居]] {{main|{{仮リンク|マリの文化|en|Culture of Mali|fr|Culture du Mali}}}} === 食文化 === {{Main|マリ料理}} {{節スタブ}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|マリ文学|en|Malian literature}}}} {{See also|{{仮リンク|マリの作家の一覧|en|List of Malian writers}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === [[ファイル:Amadou & Mariam.jpg|thumb|マリのミュージシャン{{仮リンク|アマドウ・エ・マリアム|en|Amadou & Mariam}}]] {{main|マリの音楽}} マリには古くから息衝く[[グリオー]]による演奏があるが、1960年にマリは独立後、政府主導で芸術振興政策を促進、ポピュラー音楽が盛んになり始める。各地域が提供者となり、オルケストル・レジオナル・ド・モプティやオルケストル・レジオナル・ド・セグー、レイル・バンドなどの国営楽団が出現した。レイル・バンド出身の[[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]]が1970年代にデビューし、1980年代より世界に躍り出て、メジャーデビューを果たす。ケイタの他にも西洋音楽に影響されたミュージシャンが多く育つ<ref name="popafrica">{{Harvnb|萩原|2009|pages=}}{{要ページ番号|date=2022年1月}}</ref>。 サリフを初めとしたマンデ・ポップが流行る中で、民主化を背景とした南西部のワスル音楽も広がりつつあった。非マンデ系民族の音楽も注目されるようになり、北東部出身の[[トゥアレグ人]]のグループ、[[ティナリウェン]]による「砂漠のブルース」がポピュラー音楽として知られるようになる<ref name="popafrica"/>。 ソロ・ミュージシャンとしてはギタリストの[[アリ・ファルカ・トゥーレ]]は国際的に人気がある<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/4782176.stm |title=African star Ali Farka Toure dies|newspaper=[[BBC|BBC News]] d.d. |date=March 7, 2006.|accessdate= September 22, 2009|website=www.bbc.co.uk/ BBC Online d.d.}}</ref>。彼はアメリカの[[ライ・クーダー]]との共作''Talking Timbuktu''で1995年[[グラミー賞]][[:en:Grammy Award for Best World Music Album|ベスト・ワールド・ミュージック・アルバム賞]]{{en icon}}を受賞したことがある。彼の息子、[[ヴィユー・ファルカ・トゥーレ|ヴィユー]]もギタリストとして活動している。ワスル音楽の女性歌手[[ウム・サンガレ]]も活躍している。 [[グリオー]]家系のミュージシャンも多くおり、中でも[[コラ (楽器)|コラ]]奏者の[[シディキ・ジャバテ]]は70代以上続くコラ奏者の家系に生まれ、「コラの王」と呼ばれたほどの名手であった。彼はマリが独立した後に国立楽団に加わっていた。彼と歌手の[[ネネ・コイタ]]との間に生まれた[[トゥマニ・ジャバテ|トゥマニ]](トゥマニ・ジャバテ)もコラ奏者として知られている。彼は元来は伴奏楽器であったコラを独奏楽器として発展させた。またトゥマニはグラミー賞[[:en:Grammy Award for Best Traditional World Music Album|ベスト・トラディショナル・ワールド・ミュージック賞]]{{en icon}}を、2006年にアリー・ファルカ・トゥーレとの共作『In the Heart of the Moon』で{{要出典|date=2022年1月}}、また2011年にはジャバテが客演した『Ali and Toumani』でも受賞した{{efn|アリ・ファルカ・トゥーレ&トゥマニ・ジャバテ『''Ali and Toumani''』(アルバム)の日本版ライナーノーツ掲載{{要出典|date=2022年1月}}。}}。また、トゥマニの甥にあたる[[ママドゥ・ジャバテ|ママドゥ]]もコラ奏者として活動している。 コラ奏者トゥマニを中心に、歌手の相関関係をまとめる。 *トゥマニ(トゥマニ・ジャバテ=息子) **『''In the Heart of the Moon''』2006年、共演者はアリー・ファルカ・トゥーレ。 **『''Ali and Toumani''』2011年、共演者は父ジャバテ、アリ・ファルカ・トゥーレと共作。 *シディキ・ジャバテ(父) *ネネ・コイタ(母) *ママドゥ(ママドゥ・ジャバテ=シャバテの孫) === 映画 === 映像作家の[[スレイマン・シセ]]は社会的メッセージ性の強い作品で知られ、国内外から高い評価を受けている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|マリの映画の一覧|en|List of Malian films}}|アフリカ映画}} === 世界遺産 === マリ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が3件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]が1件ある。 {{Main|マリ共和国の世界遺産}} <gallery> ファイル:Great Mosque of Djenné 1.jpg|[[ジェンネ|ジェンネ旧市街]] - (1988年、文化遺産) ファイル:Djingareiber cour.jpg|[[トンブクトゥ]] - (1988年、文化遺産) ファイル:Bandiagara Escarpment Mali.jpg|[[バンディアガラの断崖]](ドゴン人の地) - (1989年、複合遺産) ファイル:Askia.jpg|[[アスキアの墓]] - (2004年、文化遺産) </gallery> === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|マリの祝日|en|Public holidays in Mali}}}} {| class="wikitable" |- style="background:#efefef" !日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考 |- |[[1月1日]] ||[[元日]] ||''Jour de l'an'' || |- |[[1月20日]] ||[[軍隊記念日]] ||''Fête de l'armée'' || |- |[[3月26日]] ||[[殉教者の日]] ||''Journée des Martyrs'' ||[[ムーサ・トラオレ]]政権崩壊の日 |- |[[5月1日]] ||[[メーデー]] ||''Fête du Travail'' || |- |[[5月25日]] ||[[アフリカの日]] ||''Fête de l'Afrique'' ||[[アフリカ統一機構]]発足の日 |- |[[9月22日]] ||[[独立記念日]] ||''Jour de l'Indépendance'' || |- |[[12月25日]] ||[[クリスマス]] ||''Noël'' ||[[イエズス・クリストゥス]]生誕の日 |} == スポーツ == {{Main|マリのスポーツ}} {{See also|オリンピックのマリ選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|マリのサッカー|en|Football in Mali}}}} マリ国内でも他のアフリカ諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[マリサッカー連盟]](FMF)によって構成される[[サッカーマリ代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場となっている。しかし[[アフリカネイションズカップ]]には12度出場しており、[[アフリカネイションズカップ1972|1972年大会]]では準優勝に輝いている。同国の英雄的な存在に[[スペイン]]の[[セビージャFC]]などで活躍した'''[[フレデリック・カヌーテ]]'''がおり、2007年には[[アフリカ年間最優秀選手賞]]を受賞している。 == 著名な出身者 == {{Main|Category:マリ共和国の人物}} {{colbegin|2}} * [[イスマエル・ディアディエ・ハイダラ]] - [[歴史家]]、[[哲学者]] * [[シェイック・モディボ・ディアラ]] - [[宇宙工学者]]、[[科学者]] * [[ウスビ・サコ]] - [[京都精華大学]][[学長]] * [[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]] - [[シンガーソングライター]] * [[ブバカール・トラオレ]] - [[歌手]]、[[ギタリスト]] * [[シェイク・ウマール・シソコ]] - [[映画監督]] * [[スレイマン・シセ]] - 映画監督 * [[セイドゥ・ケイタ]] - 元[[サッカー選手]] * [[マアマドゥ・ディアッラ]] - 元サッカー選手 * [[フレデリック・カヌーテ]] - 元サッカー選手 * [[モハメド・シソッコ]] - 元サッカー選手 * [[ムサ・マレガ]] - サッカー選手 * [[カリファ・クリバリ]] - サッカー選手 * [[アマドゥ・ハイダラ]] - サッカー選手 {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}}<!-- 文中のefn構文とリンク。 --> === 出典 === {{Reflist|30em}}<!-- 文中のsfn構文とリンク。 --><!-- 強制段組みを解除、画面幅に対する相対段組みにしました。 --> == 参考文献 == {{参照方法|date=2022年1月}} 主な執筆者の姓の順。同一項目内は数値順。 * {{cite book|和書|title=マリを知るための58章|author1=ムーサ・コネ|author2=伊東未来|author3=イスマエル・ファマンタ|author4=嶋田義仁|editor1=竹沢尚一郎(編著)|publisher=[[明石書店]]|date=2015-11-15|edition=初版第1刷|ref=Harv}} ** ムーサ・コネ「独立後の政治」pp83, 85, 86。 ** 竹沢尚一郎「2013年の政変とサハラの混乱」p.94。 ** 伊東未来「ジェンネ」p.140。 ** イスマエル・ファマンタ「独立後の経済」p.268、270。 ** 嶋田義仁「農業」p.286-287。 ** 竹沢尚一郎「稲作」p.298-299。 ** 竹沢尚一郎「漁業」p.304。 * {{cite book|和書|author=|title=チョコレートの真実|edition=第1版|publisher= 英治出版|date=2007年9月1日|ref=Harv|year=2007|last=オフ|first=キャロル}} * {{Cite book|和書|author=砂野幸稔|authorlink=砂野幸稔|translator= |editor=岡倉登志|editor-link=岡倉登志|others= |chapter=アフリカ文化のダイナミズム |title=ハンドブック現代アフリカ |series= |date=2002年12月 |publisher=明石書店 |location=[[東京]] |id= |isbn= |volume= |page= |pages= |url= |ref=砂野(2002)}}{{要ページ番号|date=2022年1月}} * {{Cite book|和書|title=ポップ・アフリカ700 アフリカン・ミュージック・ディスク・ガイド|date=2009/03/02|publisher=アルテスパブリッシング|pages=|author=萩原和也|ref=Harv}}{{ISBN2|9784903951133}}。{{Full citation needed|date=2022年1月}}<!-- 脚注タグはref name="popafrica"。 --> * {{cite book|和書|title=新書アフリカ史|edition=第8版|editor1=|editor2=松田素二|date=2003-02-20|series=[[講談社現代新書]]|ref=Harv|publisher=講談社|author=宮本正興|author-link=宮本正興|author2=松田素二|author2-link=松田素二}} ; 洋書 * {{cite book|author1=Milet, Eric|author2= Manaud, Jean-Luc |year= 2007|title= Mali|location=[[ジュネーブ| Genève]] |publisher=Editions Olizane|ref=Harv}} == 関連項目 == {{Commons&cat|Mali|Mali}} * [[:Category:マリ共和国関連一覧|マリ関係記事の一覧]] * [[マリ料理]] * [[マリの音楽]] * [[サッカーマリ代表]] == 外部リンク == * 政府 ** [https://www.ambamali-jp.org/ 在日マリ共和国大使館]{{ja icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mali/ 日本外務省 - マリ]{{ja icon}} * 観光 ** [http://www.malitourisme.com/fr/cgi-bin/index.pl マリ共和国観光省]{{fr icon}} ** [http://www.kamit.jp/27_mali/mali.htm マリのイスラーム建築]{{ja icon}} ** {{wikivoyage-inline|fr:Mali|マリ共和国{{fr icon}}}} * その他 ** {{Osmrelation|192785}} ** {{Wikiatlas|Mali}}{{en icon}} ** {{Googlemap|マリ共和国}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:まり}} [[Category:マリ共和国|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:共和国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]] [[Category:軍事政権]]
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マリ
マリ・まり・Mari カルデア人にはマラトゥ、ユダヤ人にはマーラー、ペルシア人にはマリハム、キリスト教徒にはマリアとして知られている女神の基本となる名前である。そのほかにもマリアン、ミリアム、マリアンヌ、ミュライン、ミュルティア、ミュラー、マライア、マリーナなどの名も派生している。 フランス語の Marie、北欧語などの Mari。ただしフランス語の Marie は「マリー」とも。スペイン語の María(マリア)から派生したもの。 ハンガリー語の Mari はマリア Mária の短縮形である。 日本語にも見られるが、女神マリ、聖母マリアに由来する女性名ばかりではなく、摩利支天(まりしてん)に由来する仏教系の女性名もある。漢字表記では「麻里」、「真理」、「茉莉」等の組み合わせが用いられる。 姓としては英語の姓 Murry、またはフランス語の女性名 Marie から派生した姓 Marie。
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マリ・まり・Mari 手まり(毬・鞠)
{{Wiktionary|マリ|まり|mari}} '''マリ・まり・Mari''' * [[手まり]](毬・鞠) == 地名 == * [[マリ共和国]] ({{en|Mali}}) - [[アフリカ]]北西部に現存している共和国。マリ共和国の略。 * [[マリ連邦]] ({{fr|Fédération du Mali}}) - 1959年から1960年中頃まで存在したアフリカ北西部に存在した連邦国家。現在の[[マリ共和国]]と[[セネガル]]に当たる。 * [[マリ帝国]] ({{en|Mali}}) - 13世紀から15世紀にかけて繁栄したアフリカの国家。現在のマリ共和国の辺りにあり、国名の由来となった。 * [[マリ (ギニア)]] ({{en|Mali}})- [[ギニア共和国]]北部フータジャロン地方にある都市。 * [[マリ (シリア)]] ({{en|Mari}}) - [[シリア]]の古代[[都市国家]]遺跡。 * [[マリ (ユタ州)]] ({{en|Murray}}) - アメリカ合衆国ユタ州の都市。 * マリ共和国 ({{en|Mariy}}) - [[ロシア連邦]]の構成国[[マリ・エル共和国]]の略称または旧称。 * [[マリー湾]] ({{en|Moray}}) - [[イギリス]]の湾。 * [[マリー州]] ({{en|Moray}}) - イギリスの州。 * [[マル (トルクメニスタン)]] ({{en|Mary}}) - [[トルクメニスタン]]の都市。 * [[マル州]] ({{en|Mary}}) - トルクメニスタンの州。 * [[アルマラ県]] ([[:en:Mahra Sultanate|{{en|Mahra, Mahri}}]]) - [[イエメン]]の県、または旧[[南アラビア連邦]]の構成国。 == 人名等 == === 個人名 === {{Main|en:Mari (given name)}} カルデア人にはマラトゥ、ユダヤ人にはマーラー、ペルシア人にはマリハム、キリスト教徒にはマリアとして知られている女神の基本となる名前である。そのほかにもマリアン、ミリアム、マリアンヌ、ミュライン、ミュルティア、ミュラー、マライア、マリーナなどの名も派生している。 [[フランス語]]の {{fr|Marie}}、[[北欧語]]などの {{lang|sv|Mari}}。ただしフランス語の {{fr|Marie}} は「[[マリー (曖昧さ回避)|マリー]]」とも。[[スペイン語]]の {{lang|hu|María}}([[マリア (曖昧さ回避)|マリア]])から派生したもの。 [[ハンガリー語]]の {{lang|hu|Mari}} はマリア {{lang|hu|Mária}} の[[名前の短縮形|短縮形]]である。 日本語にも見られるが、女神マリ、聖母マリアに由来する女性名ばかりではなく、[[摩利支天]](まりしてん)に由来する仏教系の女性名もある。漢字表記では「[[麻里]]」、「[[真理]]」、「[[茉莉]]」等の組み合わせが用いられる。 * [[アンドレ=マリ・アンペール]] ({{fr|André-Marie Ampère}}) - フランスの物理学者 (1775–1836)。男性。 * [[マリ・キュリー]] ({{fr|Marie Curie}}) - ポーランド出身の物理学者・化学者 (1867–1934)。 * [[中本マリ]] - 日本の歌手 (1947–)。 * [[マリ・アルカティリ]] ({{pt|Marí Alkatiri}}) - 東ティモールの初代首相 (1949–)。男性。 * [[辺見マリ]] - 日本の歌手・タレント・俳優 (1950–)。 * [[夏木マリ]] - 日本の俳優・歌手 (1952–)。 * [[金子マリ]] - 日本の歌手 (1954–)。 * [[濱田マリ]] - 日本の歌手・タレント・俳優 (1968–)。 * [[藤沢マリ]] - 日本のAV女優 (1985–)。別名、稲森 亜美。 * [[観月マリ]] - 日本の元AV女優 (1973–)。 * [[マリ・バシュキルツェフ]] ({{en|Marie Bashkirtseff}}) - ウクライナ出身の画家 (1858-1884)。 * [[マリ・クリスティーヌ]] - 日本のタレント。 * [[マリ・ヤングブラッド]](マリ、マリ・ティタニナ)({{en|Mari Youngblood}}) - アメリカのソプラノ歌手。 * '''摩離''' - 高句麗の長寿。男性。 === 姓 === {{Main|en:Mari (surname)}} 姓としては英語の姓 {{En|Murry}}、またはフランス語の女性名 {{fr|Marie}} から派生した姓 {{fr|Marie}}。 * [[アンドレ・マリ]] ([[:en:André Marie|{{fr|André Marie}}]]) - フランスの政治家 (1897–1974)。 * {{仮リンク|エンツォ・マリ|en|Enzo Mari}} (Mari, 1932 - 2020) - イタリアの家具デザイナー * [[ガブリエル・マリ]] ({{fr|Gabriel Marie}}) - フランスの指揮者・作曲家 (1852–1928)。 * {{仮リンク|ジャコモ・マリ|en|Giacomo Mari}} (Mari, 1924 - 1991) - イタリアのサッカー選手 ([[ミッドフィールダー|MF]])、[[サッカーイタリア代表|同国代表]] * [[ジャン=バティスト・マリ]] ({{fr|Jean-Baptiste Mari}}) - フランスの指揮者・チェリスト (1912– )。 * [[ジョン・ミドルトン・マリ]] ({{en|John Middleton Murry}}) - イギリスの批評家 (1889–1957)。 * [[パブロ・マリ]] (Marí, 1993 - ) - スペインのサッカー選手 ([[ディフェンダー (サッカー)|DF]]) * {{仮リンク|ホセ・マリ|en|José Mari}} (José Mari) - 曖昧さ回避 * [[ホセ・マリア・マルティン=ベハラーノ・セラーノ]] (Mari, 1987 - ) - スペインのサッカー選手 ([[ミッドフィールダー|MF]]) * [[ホセ・マリア・ロメロ・ポジョン]] (Mari, 1978 - ) - スペインのサッカー選手 ([[フォワード (サッカー)|FW]])、[[サッカースペイン代表|同国代表]] * [[ミケーレ・マーリ]] (Mari, 1955 - ) - イタリアの作家 * {{仮リンク|ミゲル・マリ|en|Miguel Marí}} (Marí, 1997 - ) - スペインのサッカー選手 ([[ミッドフィールダー|MF]]) === マリ等のみ === * [[マリ (バスク神話)]]([[:en:Mari (goddess)|Mari]]) - バスク地方の女神。 * [[いざわまり|MARI]] - 日本のタレント (1982-)、[[YURIMARI]]の元メンバー。 * [[池田麻理子|MALI]] - 日本のタレント (1982-)。 * [[MARI (グラビアアイドル)]] - 日本のグラビアアイドル (1984-)。2005年に下村真理から改名。 * MARI - 日本のお笑い芸人 (1978-)、[[なめたらいかんぜよ。MARI]]の略名、別名義。 * [[新潟県中越地震]]の時に当時の[[山古志村]](現在の[[長岡市]])に取り残されて生き延びた犬の名前。2007年に「[[マリと子犬の物語]]」の題名で映画化された。 * [[まり (シナリオライター)]] === 架空 === * ゲーム『[[天外魔境II 卍MARU]]』に登場する神。悪神ヨミと対をなす存在。 * 桜野マリ - アニメ『[[勇者ライディーン]]』のヒロイン。 * 勅使瓦マリ - ゲーム『[[銀河お嬢様伝説ユナ]]』シリーズに登場するキャラクター。「お花のマリ」とも呼ばれる。 * 鷹塔摩利 - [[木原敏江]]の漫画『[[摩利と新吾]]』の主人公。 * [[真希波・マリ・イラストリアス]] - 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]』の登場人物。 * 松原真理 - 特撮『[[スーパーロボット レッドバロン]]』の登場人物。 * MARI - コンピュータRPG『[[OMORI]]』の登場人物。 *小原鞠莉-アニメ『[[ラブライブ!サンシャイン!! ]]』の登場人物。 *志村まり-[[おのえりこ]]の漫画『[[こっちむいて!みい子]]の登場人物。 == 電報略号 == * 東日本旅客鉄道の車両基地[[幕張車両センター]]の[[電報略号 (鉄道)|電報略号]]。 * 東日本旅客鉄道秋田新幹線・奥羽本線・田沢湖線の[[大曲駅 (秋田県)]]の電報略号。 * 東日本旅客鉄道総武本線の[[幕張駅]]の電報略号。 * 九州旅客鉄道筑肥線の[[上伊万里駅]]の電報略号。 == 関連項目 == * [[マリー (曖昧さ回避)]] * [[マーリー (曖昧さ回避)]] * [[マリア (曖昧さ回避)]] * [[リマ (曖昧さ回避)]] * 先頭一致ページ名一覧 : 「{{Prefix|マリ|マリ}}」、「{{Prefix|まり|まり}}」、「{{Prefix|mari|mari}}」。 * 語句含むページ名一覧 : 「{{Intitle|マリ|マリ}}」、「{{Intitle|まり|まり}}」、「{{Intitle|mari|mari}}」。 * [[Wikipedia:索引 まり#まり]] * [[:en:Special:PrefixIndex/Mali]] * [[:en:Special:PrefixIndex/Mari]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:まり}} [[Category:女性名]] [[Category:日本語の女性名]] [[Category:英語の姓]] [[Category:フランス語の姓]] [[Category:スペイン語の姓]] [[Category:イタリア語の姓]] [[Category:英語の地名]] [[Category:同名の地名]]
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マリ帝国
マリ帝国(マリていこく、1230年代 - 1645年)又はマリ王国は、中世西アフリカのサヘル地帯に栄えた王国の1つである。王権の担い手が誰であったかについては諸説あるが、少なくともマンデ人(英語版)だと考えられている。現代のマンディンカ人はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない。13世紀中ごろに英雄スンジャタ・ケイタが現れ、支配域の帝国的膨張を見た。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろにマンサ・ムーサ王が派手なメッカ巡礼を行うなど王国は最盛期を迎えた。イスラームとマリとの関係について、マリが「イスラーム国家」であったか否か、いつごろからどのような人々がイスラームを受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在のマリ共和国の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めた憲章(英語版)が世代を超えて受け継がれ、2009年にユネスコが「人類の口承及び無形遺産の傑作」宣言をした。 歴史学は19世紀に誕生した比較的新しい学問であるが、当該19世紀中ごろに哲学者ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中で、「アフリカは人類の歴史に寄与したことがない」などと述べた。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカ人は森の中の子供同然で、人類の発展の歴史の埒外にあった。こうしたヘーゲルのアフリカ観は、以後の西洋知識人のブラックアフリカ観に影響を与えた。19世紀以後に最初に中世マリの歴史を研究し始めた研究者はモリス・ドゥラフォスやシャルル・モンテイユなど、植民地経営のエコシステムの中で実務官僚等として暮らすセミ・プロが主体であった。ドゥラフォスは1912年にイブン・ハルドゥーンの『イバルの書』を中心としたアラビア語文献に基づいて、以下のようなマリ王のリストを作成した。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証によると、このリストは捏造や恣意的な解釈を含む。例えば、1310年から1312年までマリ王であったとドゥラフォスが主張する「アブバカリ2世」は、イブン・ハルドゥーンが記載しておらず口承伝統にも現れない捏造である。 例えばバジル・デヴィッドソン(英語版)やレモン・モニ(フランス語版)といった、専門の歴史学者による研究が始まるのは、植民地主義に立脚した帝国主義国家に崩壊をもたらした第二次世界大戦の後からである。「アフリカの年」1960年に始まったユネスコの記念事業、『ユネスコ・アフリカの歴史(フランス語版)』(l’Histoire générale de l'Afrique)の発刊(1964-1999年)は、中世マリ史研究を含むアフリカ史研究の画期になった。同書には、前世紀にヘーゲルが示したアフリカの歴史に対する認識を覆すような学術的成果が示され、中世マリ史を含めたアフリカの歴史の実相が明らかになった。その中には、特にドゥラフォスにより明らかになったように見えた、マリの君主の系譜や王国社会の構造が、根拠薄弱な推論であって実際のところは史料の不足によって文献学的に明らかにできないという結論も含まれる。 サハラ以南のアフリカの諸地域について一般的に言えることではあるが、中世マリに関する歴史叙述を裏付ける資料となる史料は、北アフリカやヨーロッパに比べると、少ない。 最重要の史資料が、モロッコやエジプトなどの北アフリカのアラブ人やベルベル人が書き残したアラビア語文献である。まず、アブー・ウバイド・バクリー(1014年頃生 - 1094年)は11世紀のサハラ以南の西アフリカについて、そこを訪れた商人からの伝聞という間接的な手段によってではあるが、いくつかの情報を書き残している。イドリースィーは12世紀のサハラ以南の西アフリカについて、断片的な情報を残している。 最盛期のマリには多数のアラブ人やベルベル人が旅行者として訪れ、マリに関する記録をアラビア語で書き残した。また、マリ人も巡礼等の目的で北アフリカやヒジャーズ地方を訪れたため、エジプトなどに彼らが語ったことの記録が残っている。このようなアラビア語文献としては、イブン・ファドルッラー・ウマリー(英語版)、イブン・バットゥータ、イブン・ハルドゥーン、マクリーズィーらが書いた歴史書があり、これらに依拠すると13~15世紀のマリの大まかな歴史の流れがわかる。イブン・バットゥータ(1304年-1368年)は、1352年2月から1353年12月までサーヘル地帯を周遊した。彼の旅行記『リフラ』は唯一無二であり、マリ王国の歴史全体に関して最も重要である。イブン・バットゥータはマリの首都に8ヶ月間にわたり滞在し、町の構造に関する貴重な情報を残している。しかし彼の旅行記からは判然としない部分も数多くあることも同時に、旅行記を読むとわかり、歴史叙述の上で興味深い点がある。イブン・ハルドゥーン(1332年-1406年)は『イバルの書』にマリのことを記載するために、カイロまで行ってさまざまな情報を収集した。 マリ人やその子孫が書き残した文字資料も皆無というわけではなく、トンブクトゥやガオには中世西アフリカ社会内部から見たマリの歴史を書いた年代記(ターリーフ)が残されている。アブドゥッラフマーン・サアーディー(フランス語版)が書いた16世紀の『ターリーフ・スーダーン(フランス語版)』とマフムード・カアティ(フランス語版)が書いた17世紀の『ターリーフ・ファッターシュ(フランス語版)』が利用できる。ただし、どちらもソンガイ帝国の歴史を遡って叙述することに主眼があるので、マリ王国の歴史にはあまり多くの叙述量を割いていない。 さらに中世マリ史の場合は、上記文献資料のほかに利用できる史料として、「グリオ」と呼ばれる吟遊詩人による口承伝統(oral tradition)が存在する点が特徴である。グリオは民族の歴史や過去の王族の事跡を語り伝える職能カーストであり、その記憶内容は特定の家系で相伝される。口承伝統を利用することで、マリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる。 さらに発掘調査による出土資料も重要な史料となりうると言われている。 欧米諸語で国号として認識されている "Mali"(日本語では「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、この国が "مالّي" と記載されていることに基づく。その200年前に書かれたバクリーの『諸道と諸国の書(英語版)』にもガーナのみやこの近くに "ملل"(ド・スラーヌ(英語版)は "Melil" と母音を入れた)という集落があるという情報があり、イドリースィーにも同様の情報がある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号は正式には「ニアニ」といい、それは首都の名前であるという旨の情報を書いている。 近代以後にマリの首都の所在地について最初に議論したのは、大英帝国の地理学者ウィリアム・デズボラ・クーリー(英語版)である。クーリーは1841年に、マリの首都がジョリバ川(ニジェール川上流域の別名)のほとり、サメエの村あたりにあったとする仮説を発表した。ハインリヒ・バルトは、1850年代にアフリカ大陸の内陸を探検してトンブクトゥまで行ったが、マリの首都であった場所を見つけることはできなかった。フランス植民地官僚のルイ=ギュスターヴ・バンジェ(フランス語版)は、1892年にサーヘル地帯を横断して、ヤミナ(Yamina)の近くにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡がマリの首都であった場所という説を発表した。 これまでの仮説はすべて、首都がニジェール川の左岸にあったとする点では共通する。また、まったく文献資料に依拠していなかった。初めてこれらの説に理由付けを与えたのがモリス・ドゥラフォスである。ドゥラフォスは Haut-Sénégal-Niger (1912) のなかでバンジェの説がアラビア語文献の記載と矛盾しないことを示し、当初の間はバンジェ説を支持した。 この頃が首都論争の最も華やかであった時代である。ヴィダルやガイヤールなどが一連の論説を発表し、サンカラニ川(英語版)のほとりにある小さな村こそが文献史料にある地名、ニアニであるという説を唱えた。ドゥラフォスもニアニ説を支持した。1920年代には実地調査も行われたが、遺跡は見つからなかった。1958年にギニアが独立し、ニアニ村は新生ギニア共和国に属すことになった。発掘や調査は中断する。 ニアニ村は1965年、1968年、1973年と、3回にわたり考古学的発掘調査の対象になった。ヴワディスワフ・フィリポヴィアク(ポーランド語版)教授率いるポーランド隊が発掘を行った。ポーランド人たちはD. T. ニアヌの協力も得、レモン・モニ(フランス語版)から適宜助言を得て調査を続け、成果が1979年に発表された。Études archéologiques sur la capitale médiévale du Mali と題された調査報告書では「マリ王国の首都がニアニにあったことが確認された」とされた。 ポーランド隊の結論には問題があると早くから言われていた。調査報告書が刊行される前から、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行記の読み直しを通してフィリポヴィアク説を批判して、首都のあった場所について新説を発表した。レモン・モニはフィリポヴィアクが行った放射性炭素年代測定法に関する記述に矛盾があることを指摘した。 全盛期マリの首都と目された場所のすべてが否定されることとなった状況に直面し、より原始的なマリ王国像を提示する研究者が現れた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、英米の研究者は、「首都」(capitale)という用語に代えて、「マンサの宮廷」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮」(cour royale des Mansa)という中立的なタームを使って、宮廷が複数の町の間を巡回移動していたとする「ノマド型宮廷」仮説を提示した。当該仮説によっても疑問は残り続ける。これまで研究されてきた遺跡からはこの説を支持する確かな証拠が得られていない。しかし研究は端緒についたばかりで、その後疑問を払拭するかも知れず、過去の研究の検証と新説の提唱が待たれる。 それまで西部サヘル地方を支配していたガーナ王国が1076年にムラービト朝によって首都クンビー・サーリフ(英語版)を落とされ勢力を大きく減退させ、ムラービト朝もすぐに衰退すると、この地域には覇権勢力が存在しなくなった。その中でソソ人(英語版)のソソ王国(英語版)が12世紀末に入ると勢力を伸ばし、ニジェール川上流のマンデ人(英語版)をも支配下に置いていた。 この状況下で、伝説的英雄スンジャタ・ケイタが現れ、マンデの各クランを糾合した。スンジャタは1235年にキリナの戦い(英語版)でソソの王スマングルをやぶり、さらにその後、セネガル川流域の地方にまで勢力を伸ばした。 その後、14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥ・ガオまで、南はブレ(フランス語版)・バンブクにある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。スンジャタ・ケイタの死後は長男のマンサ・ウリ・ケイタが継いで領土をさらに拡大した。その後一時王位継承に伴う混乱が生じたが、1298年にマンサ・サクラが即位して混乱を収拾した。 14世紀には王のマンサ・ムーサ(マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、マンサ・スレイマン(英語版)(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。マンサ・ムーサは、1324年にムスリムとして数千人もの従者を引き連れてメッカへ巡礼し、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたため、ウマリーによるとカイロの金の価値が長期にわたって下落した。王はマリに戻ると、イスラム教とイスラム文化を進んで住民に広めている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設し、ここが学問の中心地となる端緒を作ったのもマンサ・ムーサ治下のことである。 マンサ・スレイマンの統治期も、マリは変わらず繁栄を続けていた。1352年にマリを訪れたベルベル人の旅行家イブン・バットゥータは、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している。 しかし、1387年にマンサ・ムーサ2世が没すると、マリでは激しい後継者争いが勃発して国力は疲弊し、そのためソンガイ王国などの従属していた国々が相次いで離反した。また、マリの国力の衰退に乗じて南方のモシ族や北方のトゥアレグ族の侵攻が激化し、1433年にはトゥアレグ人にトンブクトゥを占領された。こうしてマリは自国で最も豊かな地域であったニジェール川内陸デルタを失ったが、一方でブレやバンブクなどのニジェール川上流域の産金地帯は保持し続け、さらに大西洋に面したガンビア川流域なども依然として保持していた。1468年にはソンガイ王国のスンニ・アリがトゥアレグを討ってトンブクトゥを占領し、ニジェール川内陸デルタを制圧して西アフリカに覇を唱えるようになってマリとソンガイの力関係は逆転した。その後もマリの国力は緩やかに衰退を続けた。16世紀末にはガンビア川流域も失い、マリは内陸国家となっていた。 1591年にモロッコのサアド朝の侵攻によってソンガイ帝国が滅亡すると、その混乱に乗じてマリのマフムード4世は1599年にジェンネへと出兵するもののモロッコに敗れ、これが衰退し続けるマリへの最後の一撃となった。その後マリは地方小国家として細々と存続し、18世紀に滅亡した。 西アフリカ内陸部に広域帝国が成立したのはそもそもサハラ交易の利益によるものであり、最初の広域帝国であるガーナ王国の覇権を引き継いだマリも同じくサハラ交易を主な経済基盤とする国家であったが、その交易の様相はガーナ時代とは幾分異なったものとなっていた。 マリはサハラ砂漠の中央部にあるテガーザ岩塩鉱山にまで交易圏を広げたため、それまで塩の交易を握っていたベルベル人からその主導権を奪い、塩金交易は北アフリカのベルベル人とサヘル地帯との間のものではなく、サヘル地帯を制したマリとその南にある産金地帯との間で行われるようになった。またマリの領土内においても金は産出されており、これらの多量の金はマリ帝国の主力商品として北アフリカへと輸出され、マンサ・ムーサ王の逸話に代表されるようなマリの繁栄を支えた。 またマリ帝国治下においては、同じくサハラの北からもたらされる主要商品であった銅鉱石の輸入が停止し、逆に銅を北アフリカへと輸出するようになった。これはマリ領内またはその交易圏において銅鉱山が開発され、さらにマリ国内において精錬まで行われるようになったことを示している。この時期、ガオの東に位置するタケッダは銅生産の中心地となっていた。またこの時期、ガーナ時代にはほぼ存在しなかった綿がマリ国内に普及し、織物の生産が盛んとなった。こうしてマリは銅や綿を自給できるようになったものの、それを加工した銅製品や衣服・織物については輸入が続いており、むしろこの時期には北アフリカからの主力の輸出品となっていた。このほか、馬やタカラガイなども北アフリカから主に輸入されていた。 一方、マリは南方の森林地帯とも活発に交易を行っていた。マリからの輸出品は塩や銅、綿布が中心であり、南方からは金のほか、コーラの実が主に輸入された。 また、サハラ交易のメインルートも以前に比べて変化していた。ガーナ王国期にはモロッコからアウダゴストを通ってサヘルへと向かうサハラ西側ルートが主流であったのに対し、マリ帝国期にはトンブクトゥから中央サハラを通って北アフリカへと向かうルートが主流となり、これがジェンネやトンブクトゥなどニジェール川中流域の交易都市の繁栄を生んだ。 上記のような盛んな交易がおこなわれた一方で、国民の多くは農業に従事していた。国内では主にソルガムやトウジンビエ、フォニオといった雑穀や稲が主に栽培され、食料は豊富に供給されていた。ニジェール川ではボゾ人やソモノ人などの漁業民族が内陸デルタを中心に、盛んに漁業を行っていた。 こうして経済が成長する一方で、貨幣の鋳造は行われなかった。金が大量に輸出されたのも、マリ国内においては装飾品以外の用途がなく、本来国内で貨幣として流通する分の金も輸出用に回されていたためでもある。通貨としては布地、タカラガイ、塩などが用いられた。 こうした交易の活況によって、マリ帝国内に存在するジェンネ・トンブクトゥ・ガオといった都市もまた繁栄した。トンブクトゥとガオではサハラ砂漠を越えてきたキャラバンが商品を積み下ろして川船へと乗せ換え、ニジェール内陸デルタの中央部に位置するジェンネまで運ばれた。ジェンネには南の森林地帯から積み出された金などもやはり船に乗せられて運ばれてきており、交易拠点として繁栄した。トンブクトゥはこの時期からソンガイ王国期にかけて最盛期を迎えた。メッカ巡礼帰路のマンサ・ムーサによって1324年にジンガリベリ・モスクが建設され、同時期にサンコーレ・モスクが建設されることで、トンブクトゥは学問の都としても名声を高めていった。ガオは交易の要衝として7世紀ごろから独立王国が存在していたが、13世紀ごろにマリに服属した。しかし国内の混乱から一時期サハラ交易を断念していたエジプトが14世紀半ばからサハラ交易を復活させると、交易ルートの東漸が起こり、ニジェール川交易の東端にあたるガオが繁栄して、14世紀末には再独立を果たし、やがてマリに代わり西アフリカ内陸部の覇権を握るようになった。 帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家だった可能性もある。 マリはイスラーム教を受容したが、祖先信仰などの土着信仰も残っていた。イスラームの受容がいつごろから、どのように広まっていったのかについては議論がある。D.T.ニアヌはスンジャタ・ケイタがムスリムであったと考えているが、異論もある。赤阪賢は「14世紀にはイスラーム国家の外見を整えた」という表現をしている。1325年のマンサ・ムーサの巡礼の際、エジプトでマンサ・ムーサに拝謁した現地のウラマーは、ムーサがマーリク派の儀礼をよく知っていたと証言している。ムーサをはじめとした最盛期のマリのマンサは、帝国内の安寧と社会の秩序を保ち、マドラサを各所に建てた。マリのマドラサには、マグリブやアンダルスからイスラーム学徒が多く集まり「知」のセンターになった。また、マリのマドラサからもウラマーが多く育った。 イスラームがこの地で受容されていくに従い、マリからメッカへの巡礼者も増加していった。マンサ・ムーサのメッカ巡礼は非常に著名であるが、彼以前の王も、また彼以後の王も、メッカへの巡礼は行っていた。この王による巡礼は、サハラ越え交易ルートの開発という目的も持っていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マリ帝国(マリていこく、1230年代 - 1645年)又はマリ王国は、中世西アフリカのサヘル地帯に栄えた王国の1つである。王権の担い手が誰であったかについては諸説あるが、少なくともマンデ人(英語版)だと考えられている。現代のマンディンカ人はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない。13世紀中ごろに英雄スンジャタ・ケイタが現れ、支配域の帝国的膨張を見た。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろにマンサ・ムーサ王が派手なメッカ巡礼を行うなど王国は最盛期を迎えた。イスラームとマリとの関係について、マリが「イスラーム国家」であったか否か、いつごろからどのような人々がイスラームを受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在のマリ共和国の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めた憲章(英語版)が世代を超えて受け継がれ、2009年にユネスコが「人類の口承及び無形遺産の傑作」宣言をした。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "歴史学は19世紀に誕生した比較的新しい学問であるが、当該19世紀中ごろに哲学者ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中で、「アフリカは人類の歴史に寄与したことがない」などと述べた。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカ人は森の中の子供同然で、人類の発展の歴史の埒外にあった。こうしたヘーゲルのアフリカ観は、以後の西洋知識人のブラックアフリカ観に影響を与えた。19世紀以後に最初に中世マリの歴史を研究し始めた研究者はモリス・ドゥラフォスやシャルル・モンテイユなど、植民地経営のエコシステムの中で実務官僚等として暮らすセミ・プロが主体であった。ドゥラフォスは1912年にイブン・ハルドゥーンの『イバルの書』を中心としたアラビア語文献に基づいて、以下のようなマリ王のリストを作成した。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証によると、このリストは捏造や恣意的な解釈を含む。例えば、1310年から1312年までマリ王であったとドゥラフォスが主張する「アブバカリ2世」は、イブン・ハルドゥーンが記載しておらず口承伝統にも現れない捏造である。", "title": "研究史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "例えばバジル・デヴィッドソン(英語版)やレモン・モニ(フランス語版)といった、専門の歴史学者による研究が始まるのは、植民地主義に立脚した帝国主義国家に崩壊をもたらした第二次世界大戦の後からである。「アフリカの年」1960年に始まったユネスコの記念事業、『ユネスコ・アフリカの歴史(フランス語版)』(l’Histoire générale de l'Afrique)の発刊(1964-1999年)は、中世マリ史研究を含むアフリカ史研究の画期になった。同書には、前世紀にヘーゲルが示したアフリカの歴史に対する認識を覆すような学術的成果が示され、中世マリ史を含めたアフリカの歴史の実相が明らかになった。その中には、特にドゥラフォスにより明らかになったように見えた、マリの君主の系譜や王国社会の構造が、根拠薄弱な推論であって実際のところは史料の不足によって文献学的に明らかにできないという結論も含まれる。", "title": "研究史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "サハラ以南のアフリカの諸地域について一般的に言えることではあるが、中世マリに関する歴史叙述を裏付ける資料となる史料は、北アフリカやヨーロッパに比べると、少ない。", "title": "史資料論" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最重要の史資料が、モロッコやエジプトなどの北アフリカのアラブ人やベルベル人が書き残したアラビア語文献である。まず、アブー・ウバイド・バクリー(1014年頃生 - 1094年)は11世紀のサハラ以南の西アフリカについて、そこを訪れた商人からの伝聞という間接的な手段によってではあるが、いくつかの情報を書き残している。イドリースィーは12世紀のサハラ以南の西アフリカについて、断片的な情報を残している。", "title": "史資料論" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "最盛期のマリには多数のアラブ人やベルベル人が旅行者として訪れ、マリに関する記録をアラビア語で書き残した。また、マリ人も巡礼等の目的で北アフリカやヒジャーズ地方を訪れたため、エジプトなどに彼らが語ったことの記録が残っている。このようなアラビア語文献としては、イブン・ファドルッラー・ウマリー(英語版)、イブン・バットゥータ、イブン・ハルドゥーン、マクリーズィーらが書いた歴史書があり、これらに依拠すると13~15世紀のマリの大まかな歴史の流れがわかる。イブン・バットゥータ(1304年-1368年)は、1352年2月から1353年12月までサーヘル地帯を周遊した。彼の旅行記『リフラ』は唯一無二であり、マリ王国の歴史全体に関して最も重要である。イブン・バットゥータはマリの首都に8ヶ月間にわたり滞在し、町の構造に関する貴重な情報を残している。しかし彼の旅行記からは判然としない部分も数多くあることも同時に、旅行記を読むとわかり、歴史叙述の上で興味深い点がある。イブン・ハルドゥーン(1332年-1406年)は『イバルの書』にマリのことを記載するために、カイロまで行ってさまざまな情報を収集した。", "title": "史資料論" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "マリ人やその子孫が書き残した文字資料も皆無というわけではなく、トンブクトゥやガオには中世西アフリカ社会内部から見たマリの歴史を書いた年代記(ターリーフ)が残されている。アブドゥッラフマーン・サアーディー(フランス語版)が書いた16世紀の『ターリーフ・スーダーン(フランス語版)』とマフムード・カアティ(フランス語版)が書いた17世紀の『ターリーフ・ファッターシュ(フランス語版)』が利用できる。ただし、どちらもソンガイ帝国の歴史を遡って叙述することに主眼があるので、マリ王国の歴史にはあまり多くの叙述量を割いていない。", "title": "史資料論" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "さらに中世マリ史の場合は、上記文献資料のほかに利用できる史料として、「グリオ」と呼ばれる吟遊詩人による口承伝統(oral tradition)が存在する点が特徴である。グリオは民族の歴史や過去の王族の事跡を語り伝える職能カーストであり、その記憶内容は特定の家系で相伝される。口承伝統を利用することで、マリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる。", "title": "史資料論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "さらに発掘調査による出土資料も重要な史料となりうると言われている。", "title": "史資料論" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "欧米諸語で国号として認識されている \"Mali\"(日本語では「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、この国が \"مالّي\" と記載されていることに基づく。その200年前に書かれたバクリーの『諸道と諸国の書(英語版)』にもガーナのみやこの近くに \"ملل\"(ド・スラーヌ(英語版)は \"Melil\" と母音を入れた)という集落があるという情報があり、イドリースィーにも同様の情報がある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号は正式には「ニアニ」といい、それは首都の名前であるという旨の情報を書いている。", "title": "首都探し" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近代以後にマリの首都の所在地について最初に議論したのは、大英帝国の地理学者ウィリアム・デズボラ・クーリー(英語版)である。クーリーは1841年に、マリの首都がジョリバ川(ニジェール川上流域の別名)のほとり、サメエの村あたりにあったとする仮説を発表した。ハインリヒ・バルトは、1850年代にアフリカ大陸の内陸を探検してトンブクトゥまで行ったが、マリの首都であった場所を見つけることはできなかった。フランス植民地官僚のルイ=ギュスターヴ・バンジェ(フランス語版)は、1892年にサーヘル地帯を横断して、ヤミナ(Yamina)の近くにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡がマリの首都であった場所という説を発表した。", "title": "首都探し" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これまでの仮説はすべて、首都がニジェール川の左岸にあったとする点では共通する。また、まったく文献資料に依拠していなかった。初めてこれらの説に理由付けを与えたのがモリス・ドゥラフォスである。ドゥラフォスは Haut-Sénégal-Niger (1912) のなかでバンジェの説がアラビア語文献の記載と矛盾しないことを示し、当初の間はバンジェ説を支持した。", "title": "首都探し" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この頃が首都論争の最も華やかであった時代である。ヴィダルやガイヤールなどが一連の論説を発表し、サンカラニ川(英語版)のほとりにある小さな村こそが文献史料にある地名、ニアニであるという説を唱えた。ドゥラフォスもニアニ説を支持した。1920年代には実地調査も行われたが、遺跡は見つからなかった。1958年にギニアが独立し、ニアニ村は新生ギニア共和国に属すことになった。発掘や調査は中断する。", "title": "首都探し" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ニアニ村は1965年、1968年、1973年と、3回にわたり考古学的発掘調査の対象になった。ヴワディスワフ・フィリポヴィアク(ポーランド語版)教授率いるポーランド隊が発掘を行った。ポーランド人たちはD. T. ニアヌの協力も得、レモン・モニ(フランス語版)から適宜助言を得て調査を続け、成果が1979年に発表された。Études archéologiques sur la capitale médiévale du Mali と題された調査報告書では「マリ王国の首都がニアニにあったことが確認された」とされた。", "title": "首都探し" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ポーランド隊の結論には問題があると早くから言われていた。調査報告書が刊行される前から、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行記の読み直しを通してフィリポヴィアク説を批判して、首都のあった場所について新説を発表した。レモン・モニはフィリポヴィアクが行った放射性炭素年代測定法に関する記述に矛盾があることを指摘した。", "title": "首都探し" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "全盛期マリの首都と目された場所のすべてが否定されることとなった状況に直面し、より原始的なマリ王国像を提示する研究者が現れた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、英米の研究者は、「首都」(capitale)という用語に代えて、「マンサの宮廷」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮」(cour royale des Mansa)という中立的なタームを使って、宮廷が複数の町の間を巡回移動していたとする「ノマド型宮廷」仮説を提示した。当該仮説によっても疑問は残り続ける。これまで研究されてきた遺跡からはこの説を支持する確かな証拠が得られていない。しかし研究は端緒についたばかりで、その後疑問を払拭するかも知れず、過去の研究の検証と新説の提唱が待たれる。", "title": "首都探し" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "それまで西部サヘル地方を支配していたガーナ王国が1076年にムラービト朝によって首都クンビー・サーリフ(英語版)を落とされ勢力を大きく減退させ、ムラービト朝もすぐに衰退すると、この地域には覇権勢力が存在しなくなった。その中でソソ人(英語版)のソソ王国(英語版)が12世紀末に入ると勢力を伸ばし、ニジェール川上流のマンデ人(英語版)をも支配下に置いていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この状況下で、伝説的英雄スンジャタ・ケイタが現れ、マンデの各クランを糾合した。スンジャタは1235年にキリナの戦い(英語版)でソソの王スマングルをやぶり、さらにその後、セネガル川流域の地方にまで勢力を伸ばした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、14世紀には西は大西洋岸まで、東はトンブクトゥ・ガオまで、南はブレ(フランス語版)・バンブクにある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。スンジャタ・ケイタの死後は長男のマンサ・ウリ・ケイタが継いで領土をさらに拡大した。その後一時王位継承に伴う混乱が生じたが、1298年にマンサ・サクラが即位して混乱を収拾した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "14世紀には王のマンサ・ムーサ(マンサは「王の中の王」の意、在位:1312年 - 1337年)と、マンサ・スレイマン(英語版)(在位:1341年 - 1360年)のもとで帝国は最盛期を迎えた。マンサ・ムーサは、1324年にムスリムとして数千人もの従者を引き連れてメッカへ巡礼し、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたため、ウマリーによるとカイロの金の価値が長期にわたって下落した。王はマリに戻ると、イスラム教とイスラム文化を進んで住民に広めている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設し、ここが学問の中心地となる端緒を作ったのもマンサ・ムーサ治下のことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "マンサ・スレイマンの統治期も、マリは変わらず繁栄を続けていた。1352年にマリを訪れたベルベル人の旅行家イブン・バットゥータは、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、1387年にマンサ・ムーサ2世が没すると、マリでは激しい後継者争いが勃発して国力は疲弊し、そのためソンガイ王国などの従属していた国々が相次いで離反した。また、マリの国力の衰退に乗じて南方のモシ族や北方のトゥアレグ族の侵攻が激化し、1433年にはトゥアレグ人にトンブクトゥを占領された。こうしてマリは自国で最も豊かな地域であったニジェール川内陸デルタを失ったが、一方でブレやバンブクなどのニジェール川上流域の産金地帯は保持し続け、さらに大西洋に面したガンビア川流域なども依然として保持していた。1468年にはソンガイ王国のスンニ・アリがトゥアレグを討ってトンブクトゥを占領し、ニジェール川内陸デルタを制圧して西アフリカに覇を唱えるようになってマリとソンガイの力関係は逆転した。その後もマリの国力は緩やかに衰退を続けた。16世紀末にはガンビア川流域も失い、マリは内陸国家となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1591年にモロッコのサアド朝の侵攻によってソンガイ帝国が滅亡すると、その混乱に乗じてマリのマフムード4世は1599年にジェンネへと出兵するもののモロッコに敗れ、これが衰退し続けるマリへの最後の一撃となった。その後マリは地方小国家として細々と存続し、18世紀に滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "西アフリカ内陸部に広域帝国が成立したのはそもそもサハラ交易の利益によるものであり、最初の広域帝国であるガーナ王国の覇権を引き継いだマリも同じくサハラ交易を主な経済基盤とする国家であったが、その交易の様相はガーナ時代とは幾分異なったものとなっていた。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "マリはサハラ砂漠の中央部にあるテガーザ岩塩鉱山にまで交易圏を広げたため、それまで塩の交易を握っていたベルベル人からその主導権を奪い、塩金交易は北アフリカのベルベル人とサヘル地帯との間のものではなく、サヘル地帯を制したマリとその南にある産金地帯との間で行われるようになった。またマリの領土内においても金は産出されており、これらの多量の金はマリ帝国の主力商品として北アフリカへと輸出され、マンサ・ムーサ王の逸話に代表されるようなマリの繁栄を支えた。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "またマリ帝国治下においては、同じくサハラの北からもたらされる主要商品であった銅鉱石の輸入が停止し、逆に銅を北アフリカへと輸出するようになった。これはマリ領内またはその交易圏において銅鉱山が開発され、さらにマリ国内において精錬まで行われるようになったことを示している。この時期、ガオの東に位置するタケッダは銅生産の中心地となっていた。またこの時期、ガーナ時代にはほぼ存在しなかった綿がマリ国内に普及し、織物の生産が盛んとなった。こうしてマリは銅や綿を自給できるようになったものの、それを加工した銅製品や衣服・織物については輸入が続いており、むしろこの時期には北アフリカからの主力の輸出品となっていた。このほか、馬やタカラガイなども北アフリカから主に輸入されていた。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、マリは南方の森林地帯とも活発に交易を行っていた。マリからの輸出品は塩や銅、綿布が中心であり、南方からは金のほか、コーラの実が主に輸入された。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、サハラ交易のメインルートも以前に比べて変化していた。ガーナ王国期にはモロッコからアウダゴストを通ってサヘルへと向かうサハラ西側ルートが主流であったのに対し、マリ帝国期にはトンブクトゥから中央サハラを通って北アフリカへと向かうルートが主流となり、これがジェンネやトンブクトゥなどニジェール川中流域の交易都市の繁栄を生んだ。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "上記のような盛んな交易がおこなわれた一方で、国民の多くは農業に従事していた。国内では主にソルガムやトウジンビエ、フォニオといった雑穀や稲が主に栽培され、食料は豊富に供給されていた。ニジェール川ではボゾ人やソモノ人などの漁業民族が内陸デルタを中心に、盛んに漁業を行っていた。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "こうして経済が成長する一方で、貨幣の鋳造は行われなかった。金が大量に輸出されたのも、マリ国内においては装飾品以外の用途がなく、本来国内で貨幣として流通する分の金も輸出用に回されていたためでもある。通貨としては布地、タカラガイ、塩などが用いられた。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうした交易の活況によって、マリ帝国内に存在するジェンネ・トンブクトゥ・ガオといった都市もまた繁栄した。トンブクトゥとガオではサハラ砂漠を越えてきたキャラバンが商品を積み下ろして川船へと乗せ換え、ニジェール内陸デルタの中央部に位置するジェンネまで運ばれた。ジェンネには南の森林地帯から積み出された金などもやはり船に乗せられて運ばれてきており、交易拠点として繁栄した。トンブクトゥはこの時期からソンガイ王国期にかけて最盛期を迎えた。メッカ巡礼帰路のマンサ・ムーサによって1324年にジンガリベリ・モスクが建設され、同時期にサンコーレ・モスクが建設されることで、トンブクトゥは学問の都としても名声を高めていった。ガオは交易の要衝として7世紀ごろから独立王国が存在していたが、13世紀ごろにマリに服属した。しかし国内の混乱から一時期サハラ交易を断念していたエジプトが14世紀半ばからサハラ交易を復活させると、交易ルートの東漸が起こり、ニジェール川交易の東端にあたるガオが繁栄して、14世紀末には再独立を果たし、やがてマリに代わり西アフリカ内陸部の覇権を握るようになった。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家だった可能性もある。", "title": "制度" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "マリはイスラーム教を受容したが、祖先信仰などの土着信仰も残っていた。イスラームの受容がいつごろから、どのように広まっていったのかについては議論がある。D.T.ニアヌはスンジャタ・ケイタがムスリムであったと考えているが、異論もある。赤阪賢は「14世紀にはイスラーム国家の外見を整えた」という表現をしている。1325年のマンサ・ムーサの巡礼の際、エジプトでマンサ・ムーサに拝謁した現地のウラマーは、ムーサがマーリク派の儀礼をよく知っていたと証言している。ムーサをはじめとした最盛期のマリのマンサは、帝国内の安寧と社会の秩序を保ち、マドラサを各所に建てた。マリのマドラサには、マグリブやアンダルスからイスラーム学徒が多く集まり「知」のセンターになった。また、マリのマドラサからもウラマーが多く育った。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "イスラームがこの地で受容されていくに従い、マリからメッカへの巡礼者も増加していった。マンサ・ムーサのメッカ巡礼は非常に著名であるが、彼以前の王も、また彼以後の王も、メッカへの巡礼は行っていた。この王による巡礼は、サハラ越え交易ルートの開発という目的も持っていた。", "title": "宗教" } ]
マリ帝国又はマリ王国は、中世西アフリカのサヘル地帯に栄えた王国の1つである。王権の担い手が誰であったかについては諸説あるが、少なくともマンデ人だと考えられている。現代のマンディンカ人はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない。13世紀中ごろに英雄スンジャタ・ケイタが現れ、支配域の帝国的膨張を見た。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろにマンサ・ムーサ王が派手なメッカ巡礼を行うなど王国は最盛期を迎えた。イスラームとマリとの関係について、マリが「イスラーム国家」であったか否か、いつごろからどのような人々がイスラームを受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在のマリ共和国の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めた憲章が世代を超えて受け継がれ、2009年にユネスコが「人類の口承及び無形遺産の傑作」宣言をした。
[[File:The Mali Empire.jpg|thumb|200px|right|赤枠内が'''マリ帝国'''の版図]] '''マリ帝国'''(マリていこく、[[1230年代]] - [[1645年]])又はマリ王国は、中世[[西アフリカ]]の[[サヘル]]地帯に栄えた王国の1つである<ref name="EAAH66-68" />。王権の担い手が誰であったかについては諸説あるが、少なくとも{{ill2|マンデ人|en|Mandé peoples}}だと考えられている。現代の[[マンディンカ族|マンディンカ人]]はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない<ref name="heibon_islam_1982">{{Cite book|和書|title=イスラム事典|publisher=平凡社|date=1982-04-10|isbn=4-582-12601-4|ref=平凡社1982}}、「マリ帝国」の項(執筆者:[[川田順造]])。</ref><ref name="akasaka1987" />。13世紀中ごろに英雄[[スンジャタ・ケイタ]]が現れ、支配域の帝国的膨張を見た<ref name="heibon_islam_1982" />。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろに'''[[マンサ・ムーサ]]'''王が派手な[[メッカ巡礼]]を行うなど王国は最盛期を迎えた<ref name="heibon_islam_1982" />。イスラームとマリとの関係について、マリが「[[イスラーム国家]]」であったか否か、いつごろからどのような人々が[[イスラーム]]を受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在の[[マリ共和国]]の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めた{{ill2|クルカン・フガ|en|Kouroukan Fouga|label=憲章}}が世代を超えて受け継がれ、2009年に[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]が「[[人類の口承及び無形遺産の傑作]]」宣言をした。 == 研究史 == [[歴史学]]は19世紀に誕生した比較的新しい学問であるが、当該19世紀中ごろに哲学者[[ヘーゲル]]は『[[歴史哲学講義]]』の中で、「アフリカは人類の歴史に寄与したことがない」などと述べた<ref name="camara2005">{{cite journal|title=The Falsity of Hegel's Theses on Africa |first=Babacar |last=Camara |journal=Journal of Black Studies |volume=36 |number=1 |date=2005-09 |pages=82-96 |publisher=Sage Publications, Inc. |url=http://www.jstor.org/stable/40027323 |accessdate=2018-04-26}}</ref>。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカ人は森の中の子供同然で、人類の発展の歴史の埒外にあった<ref name="camara2005" />。こうしたヘーゲルのアフリカ観は、以後の西洋知識人のブラックアフリカ観に影響を与えた<ref name="camara2005" />。19世紀以後に最初に中世マリの歴史を研究し始めた研究者は[[モリス・ドゥラフォス]]や[[シャルル・モンテイユ]]など、[[フランス植民地帝国|植民地経営]]のエコシステムの中で実務官僚等として暮らすセミ・プロが主体であった。ドゥラフォスは1912年に[[イブン・ハルドゥーン]]の『イバルの書』を中心としたアラビア語文献に基づいて、以下のようなマリ王のリストを作成した。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証によると、このリストは捏造や恣意的な解釈を含む<ref name="Levtzion1963" />。例えば、1310年から1312年までマリ王であったとドゥラフォスが主張する「[[アブバカリ2世]]」は、イブン・ハルドゥーンが記載しておらず口承伝統にも現れない捏造である<ref name="Levtzion1963" />{{rp|345 ff.}}。 [[File:Genealogy kings Mali Empire.svg|thumbnail|upright=1.5|[[イブン・ハルドゥーン]]が示したスンジャタ以後13, 14世紀の王統図(Levtzion (1963) の検証による)<ref name="Levtzion1963" />]] *Sundiata Keita([[スンジャタ・ケイタ]]) (1240-1255) *Wali Keita (1255-1270)(マンサ・ウリ・ケイタ) *Ouati Keita (1270-1274)(マンサ・ワティ・ケイタ) *Khalifa Keita (1274-1275)(マンサ・ハリファ・ケイタ) *Abu Bakr (1275-1285) *Sakura (1285-1300) *Gao (1300-1305) *Mohammed ibn Gao (1305-1310) *Abubakari II (1310-1312) *Kankan Musa I ('''[[マンサ・ムーサ]]''')(1312-1337) *Maghan (1337-1341) *Suleyman (1341-1360)(マンサ・スレイマン) *Kassa (1360) *Mari Diata II (1360-1374) *Musa II (1374-1387)(マンサ・ムーサ2世) *Maghan II (1387-1389) *Sandaki (1389-1390) *Madhan III (Mahmud I) (1390-1400) *Unknown Mansas (1400-1441) *Musa III (1440年代) *Ouali II (1460年代) *Mahmud II (1481-1496) *Mahmud III (1496-1559) *Mahmud IV (1590年代-1600年代)(マフムード4世) 例えば{{ill2|バジル・デヴィッドソン|en|Basil Davidson}}や{{ill2|レモン・モニ|fr|Raymond Mauny}}といった、専門の歴史学者による研究が始まるのは、[[植民地主義]]に立脚した[[帝国主義]]国家に崩壊をもたらした[[第二次世界大戦]]の後からである。「[[アフリカの年]]」1960年に始まったユネスコの記念事業、『{{ill2|ユネスコ・アフリカの歴史|fr|Histoire générale de l'Afrique}}』(l’''Histoire générale de l'Afrique'')の発刊(1964-1999年)は、中世マリ史研究を含むアフリカ史研究の画期になった。同書には、前世紀にヘーゲルが示したアフリカの歴史に対する認識を覆すような学術的成果が示され、中世マリ史を含めたアフリカの歴史の実相が明らかになった。その中には、特にドゥラフォスにより明らかになったように見えた、マリの君主の系譜や王国社会の構造が、根拠薄弱な推論であって実際のところは史料の不足によって文献学的に明らかにできないという結論も含まれる。 == 史資料論 == [[File:Mosqueetombou 01.JPG|thumb|14世紀に建てられた{{ill2|ジンガレイベル・モスク|fr|Mosquée Djingareyber}}([[トンブクトゥ]])の[[ミナレット]]。マリ帝国においては同モスクのような{{ill2|スーダーン様式|fr|Architecture soudanaise}}と呼ばれる建築様式が発展した<ref name="EAAH73-74" />。]] [[サハラ以南のアフリカ]]の諸地域について一般的に言えることではあるが、中世マリに関する歴史叙述を裏付ける資料となる[[史料]]は、北アフリカやヨーロッパに比べると、少ない<ref name="Niane1992" />。 最重要の史資料が、モロッコやエジプトなどの北アフリカのアラブ人やベルベル人が書き残したアラビア語文献である<ref name="Niane1992" />。まず、[[アブー・ウバイド・バクリー]](1014年頃生 - 1094年)は11世紀のサハラ以南の西アフリカについて、そこを訪れた商人からの伝聞という間接的な手段によってではあるが、いくつかの情報を書き残している<ref name="Levtzion1981" />{{rp|82-83}}<ref>Cuoq, J, ''Recueil des sources arabes concernant l'Afrique occidentale du VIIIe au XVIe siècle'', Paris, Centre national de la recherche scientifique, 1975, 490 p (Pour toutes les sources arabes consulter ce même ouvrage).</ref>。[[イドリースィー]]は12世紀のサハラ以南の西アフリカについて、断片的な情報を残している<ref name="Levtzion1981" />{{rp|103}}。 最盛期のマリには多数のアラブ人やベルベル人が旅行者として訪れ、マリに関する記録をアラビア語で書き残した<ref name="Niane1992" />。また、マリ人も[[ハッジ|巡礼]]等の目的で北アフリカや[[ヒジャーズ地方]]を訪れたため、エジプトなどに彼らが語ったことの記録が残っている<ref name="Niane1992" />。このようなアラビア語文献としては、{{仮リンク|イブン・ファドルッラー・ウマリー|en|Chihab_al-Umari}}、[[イブン・バットゥータ]]、[[イブン・ハルドゥーン]]、[[マクリーズィー]]らが書いた歴史書があり、これらに依拠すると13~15世紀のマリの大まかな歴史の流れがわかる<ref name="Niane1992" /><ref name="Levtzion1963" /><ref name="akasaka2010" />。[[イブン・バットゥータ]](1304年-1368年)は、1352年2月から1353年12月まで[[サヘル|サーヘル地帯]]を周遊した。彼の旅行記『リフラ』は唯一無二であり、マリ王国の歴史全体に関して最も重要である。イブン・バットゥータはマリの首都に8ヶ月間にわたり滞在し、町の構造に関する貴重な情報を残している。しかし彼の旅行記からは判然としない部分も数多くあることも同時に、旅行記を読むとわかり、歴史叙述の上で興味深い点がある<ref> voir les articles de Meillassoux, Delafosse, et Hunwick signalés dans l'historiographie</ref>。[[イブン・ハルドゥーン]](1332年-1406年)は『イバルの書』にマリのことを記載するために、カイロまで行ってさまざまな情報を収集した。 マリ人やその子孫が書き残した文字資料も皆無というわけではなく、トンブクトゥやガオには中世西アフリカ社会内部から見たマリの歴史を書いた年代記(ターリーフ)が残されている<ref name="Niane1992" />。{{ill2|アブドゥッラフマーン・サアーディー|fr|Abderrahmane Es Saâdi}}が書いた16世紀の『{{ill2|ターリーフ・スーダーン|fr|Tarikh es-Soudan}}』と{{ill2|マフムード・カアティ|fr|Mahmud Kati}}が書いた17世紀の『{{ill2|ターリーフ・ファッターシュ|fr|Tarikh el-fettach}}』が利用できる。ただし、どちらも[[ソンガイ帝国]]の歴史を遡って叙述することに主眼があるので、マリ王国の歴史にはあまり多くの叙述量を割いていない。 さらに中世マリ史の場合は、上記文献資料のほかに利用できる史料として、「[[グリオ]]」と呼ばれる吟遊詩人による[[口承|口承伝統]]({{lang|en|oral tradition}})が存在する点が特徴である<ref name="Niane1992" />。グリオは民族の歴史や過去の王族の事跡を語り伝える職能カーストであり、その記憶内容は特定の家系で相伝される。口承伝統を利用することで、マリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる<ref name="Niane1992" />。 さらに発掘調査による出土資料も重要な史料となりうると言われている<ref name="takezawa2014" />。 == 首都探し == {{see also|ニアニ|カンガバ}} [[File:Senegal River according to al-Bakri.jpg|thumb|バクリーの地理書には Melil という地名が確認できる。]] [[File:Senegal River according to al-Idrisi.jpg|thumb|イドリースィーの地理書にも Melil という地名が確認できる。]] 欧米諸語で国号として認識されている "Mali"(日本語では「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、この国が "{{rtl-lang|ar|مالّي}}" と記載されていることに基づく<ref group="前近代の文献" name="b.battuta" />。その200年前に書かれたバクリーの『{{ill2|諸道と諸国の書 (バクリー)|en|Book of Roads and Kingdoms (al-Bakrī)|label=諸道と諸国の書}}』にも[[ガーナ王国|ガーナ]]のみやこの近くに "{{rtl-lang|ar|ملل}}"({{ill2|ウィリアム・マグキン・ド・スラーヌ|en|William McGuckin de Slane|label=ド・スラーヌ}}は "{{transl|ar|Melil}}" と母音を入れた)という集落があるという情報があり、イドリースィーにも同様の情報がある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号は正式には「ニアニ」といい、それは首都の名前であるという旨の情報を書いている。 === 初期の仮説 (1841-1912) === 近代以後にマリの首都の所在地について最初に議論したのは、[[大英帝国]]の地理学者{{ill2|ウィリアム・デズボラ・クーリー|en|William Desborough Cooley}}である。クーリーは1841年に、マリの首都がジョリバ川(ニジェール川上流域の別名)のほとり、サメエの村あたりにあったとする仮説を発表した<ref>William Cooley, The Negroland of the Arabs, London, Frank Casse and Co, 1966 (2e édition) (1re édition 1841), 143 p</ref>。[[ハインリヒ・バルト]]は、1850年代にアフリカ大陸の内陸を探検してトンブクトゥまで行ったが、マリの首都であった場所を見つけることはできなかった。フランス植民地官僚の{{ill2|ルイ=ギュスターヴ・バンジェ|fr|Louis-Gustave Binger}}は、1892年にサーヘル地帯を横断して、ヤミナ(Yamina)の近くにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡がマリの首都であった場所という説を発表した。 これまでの仮説はすべて、首都がニジェール川の左岸にあったとする点では共通する。また、まったく文献資料に依拠していなかった<ref>C'est-à-dire toutes les études parues après cette première hypothèse, voire les références dans la bibliographie</ref>。初めてこれらの説に理由付けを与えたのが[[モリス・ドゥラフォス]]である。ドゥラフォスは ''Haut-Sénégal-Niger'' (1912) のなかでバンジェの説がアラビア語文献の記載と矛盾しないことを示し、当初の間はバンジェ説を支持した。 === 「ニアニこそがマリの首都である」 (1923-1958) === この頃が首都論争の最も華やかであった時代である。ヴィダルやガイヤールなどが一連の論説を発表し、{{ill2|サンカラニ川|en|Sankarani}}のほとりにある小さな村こそが文献史料にある地名、ニアニであるという説を唱えた<ref>J. Vidal, « Le véritable emplacement de Mali », Bulletin du comité d'Études historiques et scientifiques de l'AOF, octobre-décembre 1923, no 4, p. 606-619.</ref><ref>M. Gaillard, « Niani ancienne capitale de l'Empire mandingue », Bulletin du comité d'études historiques et scientifiques de l'Afrique Occidentale Française, Tome VIII, 1923, p. 620-636.</ref>。ドゥラフォスもニアニ説を支持した。1920年代には実地調査も行われたが、遺跡は見つからなかった。1958年にギニアが独立し、ニアニ村は新生ギニア共和国に属すことになった。発掘や調査は中断する。 === ニアニにおける考古学的調査 (1965-1973) === ニアニ村は1965年、1968年、1973年と、3回にわたり考古学的発掘調査の対象になった。{{ill2|ヴワディスワフ・フィリポヴィアク|pl|Władysław Filipowiak}}教授率いるポーランド隊が発掘を行った。ポーランド人たちは[[ジブリル・タムシル・ニアヌ|D. T. ニアヌ]]の協力も得、{{ill2|レモン・モニ|fr|Raymond Mauny}}{{efn|中世スーダーン史の専門家、ソルボンヌ大学教授}}から適宜助言を得て調査を続け、成果が1979年に発表された。''Études archéologiques sur la capitale médiévale du Mali'' と題された調査報告書では「マリ王国の首都がニアニにあったことが確認された」とされた。 ポーランド隊の結論には問題があると早くから言われていた。調査報告書が刊行される前から、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行記の読み直しを通してフィリポヴィアク説を批判して、首都のあった場所について新説を発表した。レモン・モニはフィリポヴィアクが行った[[放射性炭素年代測定]]法に関する記述に矛盾があることを指摘した<ref>Hirsch, Fauvelle-Aymar, « La correspondance entre Raymond Mauny et Wladislaw Filipowiak au sujet de la fouille de Niani (Guinée), capitale supposée de l'empire médiéval du Mali », in ''Mélange offert à [[Jean Boulègue]]'', 2009 à paraître</ref>。 === 「ニアニ遺跡=首都」説の検証をめぐって・新しい仮説 === 全盛期マリの首都と目された場所のすべてが否定されることとなった状況に直面し、より原始的なマリ王国像を提示する研究者が現れた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、英米の研究者は、「首都」(capitale)という用語に代えて、「マンサの宮廷」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮」(cour royale des Mansa)という中立的なタームを使って、宮廷が複数の町の間を巡回移動していたとする「ノマド型宮廷」仮説を提示した<ref>On peut citer notamment Conrad et Green, voir les références pour leurs articles dans la bibliographie</ref>。当該仮説によっても疑問は残り続ける。これまで研究されてきた遺跡からはこの説を支持する確かな証拠が得られていない。しかし研究は端緒についたばかりで、その後疑問を払拭するかも知れず、過去の研究の検証と新説の提唱が待たれる。 ==歴史== === 建国 === [[ファイル:Map of Trans-Saharan Trade from 13th to Early 15th Century.JPG|thumb|upright=1.5|14世紀半ば、最盛期のマリが支配権を及ぼした領域と[[サハラ交易|サハラ交易路]]。]] [[Image:Palolus river (Senegal-Niger) in 1413 Mecia de Viladestes map.jpg|thumb|400px|right|15世紀のセネガル川河口から上流を示す図、'''金の川'''と記される。]] それまで西部[[サヘル]]地方を支配していた[[ガーナ王国]]が[[1076年]]に[[ムラービト朝]]によって首都{{ill2|クンビー・サーリフ|en|Koumbi-Saleh}}を落とされ勢力を大きく減退させ、ムラービト朝もすぐに衰退すると、この地域には覇権勢力が存在しなくなった。その中で{{仮リンク|ソソ人|en|Susu people}}の{{仮リンク|ソソ王国|en|Sosso Empire}}が12世紀末に入ると勢力を伸ばし、ニジェール川上流の{{ill2|マンデ人|en|Mandé peoples}}をも支配下に置いていた。 この状況下で、伝説的英雄[[スンジャタ・ケイタ]]が現れ、マンデの各クランを糾合した<ref name="EAAH66-68" />。スンジャタは1235年に{{仮リンク|キリナの戦い|en|Battle of Kirina}}でソソの王[[スマングル・カンテ|スマングル]]をやぶり、さらにその後、[[セネガル川]]流域の地方にまで勢力を伸ばした<ref name="EAAH66-68" />。 === 最盛期 === その後、[[14世紀]]には西は[[大西洋]]岸まで、東は[[トンブクトゥ]]・[[ガオ (都市)|ガオ]]まで、南は{{仮リンク|ブレ地方|fr|Bouré (région)|label=ブレ}}・[[バンブク]]にある金鉱に達し最大の繁栄を極めた。スンジャタ・ケイタの死後は長男のマンサ・ウリ・ケイタが継いで領土をさらに拡大した。その後一時王位継承に伴う混乱が生じたが、[[1298年]]にマンサ・サクラが即位して混乱を収拾した<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p212 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。 14世紀には王の[[マンサ・ムーサ]](マンサは「王の中の王」の意、在位:[[1312年]] - [[1337年]])と、{{仮リンク|マンサ・スレイマン|en|Suleyman (mansa)}}(在位:[[1341年]] - [[1360年]])のもとで帝国は最盛期を迎えた。マンサ・ムーサは、[[1324年]]に[[ムスリム]]として数千人もの従者を引き連れて[[メッカ]]へ[[巡礼]]し、その道中のあちこちで大量の金の贈り物をしたため、ウマリーによると[[カイロ]]の金の価値が長期にわたって下落した<ref>{{cite book|url={{google books|F_DfBgAAQBAJ|An Economic History of West Africa|page=47|plainurl=yes}}|title=An Economic History of West Africa|author=A. G. Hopkins|publisher=Routledge |date=2014-09-19|isbn=9781317868941}} p.47</ref>。王はマリに戻ると、イスラム教と[[イスラム文化]]を進んで住民に広めている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設し、ここが学問の中心地となる端緒を作ったのもマンサ・ムーサ治下のことである。 マンサ・スレイマンの統治期も、マリは変わらず繁栄を続けていた。[[1352年]]にマリを訪れたベルベル人の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は、「彼らの国はまったく安全である」ことに驚き、住民たちはもてなしが良く、正義感が強いことを称賛している<ref group="前近代の文献" name="b.battuta" />。 === 覇権の喪失と領土の西遷 === [[File:WestAfrica1530.png|thumb|1530年ごろのマリ領土]] しかし、[[1387年]]にマンサ・ムーサ2世が没すると、マリでは激しい後継者争いが勃発して国力は疲弊し、そのため[[ソンガイ王国]]などの従属していた国々が相次いで離反した。また、マリの国力の衰退に乗じて南方の[[モシ族]]や北方の[[トゥアレグ族]]の侵攻が激化し、[[1433年]]にはトゥアレグ人にトンブクトゥを占領された<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p256 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。こうしてマリは自国で最も豊かな地域であった[[ニジェール川内陸デルタ]]を失ったが、一方でブレやバンブクなどのニジェール川上流域の'''産金地帯'''は保持し続け、さらに大西洋に面した[[ガンビア川]]流域なども依然として保持していた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p257 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。[[1468年]]にはソンガイ王国の[[スンニ・アリ]]がトゥアレグを討ってトンブクトゥを占領し、ニジェール川内陸デルタを制圧して西アフリカに覇を唱えるようになってマリとソンガイの力関係は逆転した。その後もマリの国力は緩やかに衰退を続けた。16世紀末にはガンビア川流域も失い、マリは内陸国家となっていた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p268 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。 === 滅亡 === [[File:WestAfrica1625.png|thumb|1625年ごろのマリ領土]] [[1591年]]に[[モロッコ]]の[[サアド朝]]の侵攻によってソンガイ帝国が滅亡すると、その混乱に乗じてマリのマフムード4世は[[1599年]]にジェンネへと出兵するもののモロッコに敗れ、これが衰退し続けるマリへの最後の一撃となった<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第七章「マリ帝国の衰退」M.リータル p269 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。その後マリは地方小国家として細々と存続し、[[18世紀]]に滅亡した<ref>「マリを知るための58章」内収録「マリ帝国)」p60 竹沢尚一郎 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。 == 制度 == === 交易 === [[File:Catalan Atlas BNF Sheet 6 Western Sahara.jpg|thumb|upright=1.5|1375年に[[マヨルカ島]]で製作された『{{ill2|カタルーニャ地図|ca|Atles Català}}』には、[[ベルベル人]]が[[ラクダ]]に乗って、[[サハラ砂漠|サハラ]]を越えたところにあるマリの黒人王のところへ交易に向かう様子が描かれている。]] 西アフリカ内陸部に広域帝国が成立したのはそもそも[[サハラ交易]]の利益によるものであり、最初の広域帝国であるガーナ王国の覇権を引き継いだマリも同じくサハラ交易を主な経済基盤とする国家であったが、その交易の様相はガーナ時代とは幾分異なったものとなっていた。 マリはサハラ砂漠の中央部にある[[テガーザ岩塩鉱山]]にまで交易圏を広げたため、それまで[[塩]]の交易を握っていたベルベル人からその主導権を奪い<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p50 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>、塩金交易は北アフリカのベルベル人とサヘル地帯との間のものではなく、[[サヘル]]地帯を制したマリとその南にある産金地帯との間で行われるようになった。またマリの領土内においても金は産出されており、これらの多量の金はマリ帝国の主力商品として北アフリカへと輸出され、マンサ・ムーサ王の逸話に代表されるようなマリの繁栄を支えた。 またマリ帝国治下においては、同じくサハラの北からもたらされる主要商品であった銅鉱石の輸入が停止し、逆に[[銅]]を北アフリカへと輸出するようになった<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p51 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。これはマリ領内またはその交易圏において銅鉱山が開発され、さらにマリ国内において精錬まで行われるようになったことを示している。この時期、ガオの東に位置する[[タケッダ]]は銅生産の中心地となっていた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p241 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。またこの時期、ガーナ時代にはほぼ存在しなかった[[綿]]がマリ国内に普及し、織物の生産が盛んとなった<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p53 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。こうしてマリは銅や綿を自給できるようになったものの、それを加工した銅製品や衣服・織物については輸入が続いており、むしろこの時期には北アフリカからの主力の輸出品となっていた。このほか、[[馬]]や[[タカラガイ]]なども北アフリカから主に輸入されていた<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p63-64 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。 一方、マリは南方の森林地帯とも活発に交易を行っていた。マリからの輸出品は塩や銅、綿布が中心であり、南方からは金のほか、[[コーラ (植物)|コーラの実]]が主に輸入された<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p240-241 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。 また、サハラ交易のメインルートも以前に比べて変化していた。ガーナ王国期にはモロッコからアウダゴストを通ってサヘルへと向かうサハラ西側ルートが主流であったのに対し、マリ帝国期にはトンブクトゥから中央サハラを通って北アフリカへと向かうルートが主流となり、これがジェンネやトンブクトゥなどニジェール川中流域の交易都市の繁栄を生んだ<ref name="名前なし-1">「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p192</ref>。 === 経済 === 上記のような盛んな交易がおこなわれた一方で、国民の多くは[[農業]]に従事していた。国内では主に[[ソルガム]]や[[トウジンビエ]]、[[フォニオ]]といった[[雑穀]]や[[稲]]が主に栽培され、食料は豊富に供給されていた。ニジェール川ではボゾ人やソモノ人などの漁業民族が内陸デルタを中心に、盛んに漁業を行っていた<ref>「ユネスコ・アフリカの歴史 第4巻(上)一二世紀から一六世紀までのアフリカ」内第六章「マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張」D.T.ニアヌ p234-235 1992年9月20日第1版第1刷 同朋舎出版</ref>。 こうして経済が成長する一方で、[[貨幣]]の鋳造は行われなかった。金が大量に輸出されたのも、マリ国内においては装飾品以外の用途がなく、本来国内で貨幣として流通する分の金も輸出用に回されていたためでもある。[[通貨]]としては布地、[[タカラガイ]]、塩などが用いられた<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p60 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>。 こうした交易の活況によって、マリ帝国内に存在する[[ジェンネ]]・[[トンブクトゥ]]・[[ガオ]]といった都市もまた繁栄した。トンブクトゥとガオではサハラ砂漠を越えてきた[[キャラバン]]が商品を積み下ろして川船へと乗せ換え、[[ニジェール内陸デルタ]]の中央部に位置するジェンネまで運ばれた。ジェンネには南の森林地帯から積み出された金などもやはり船に乗せられて運ばれてきており、交易拠点として繁栄した<ref>「マリを知るための58章」内収録「ジェンネ」p140 伊東未来 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。トンブクトゥはこの時期からソンガイ王国期にかけて最盛期を迎えた。メッカ巡礼帰路のマンサ・ムーサによって[[1324年]]にジンガリベリ・モスクが建設され<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2887349 「伝説の黄金都市トンブクトゥ、破壊の危機にある世界遺産」AFPBB 2012年7月2日 2018年6月22日閲覧</ref>、同時期にサンコーレ・モスクが建設されることで、トンブクトゥは学問の都としても名声を高めていった<ref>「マリを知るための58章」内収録「トンブクトゥ」p145 坂井信三 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。ガオは交易の要衝として7世紀ごろから独立王国が存在していたが、13世紀ごろにマリに服属した<ref>「マリを知るための58章」内収録「ガオ王国(ソンガイ王国・ガオ帝国)」p64 竹沢尚一郎 竹沢尚一郎編著 明石書店 2015年11月15日初版第1刷発行</ref>。しかし国内の混乱から一時期サハラ交易を断念していたエジプトが14世紀半ばからサハラ交易を復活させると、交易ルートの東漸が起こり<ref>「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p66 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷</ref>、ニジェール川交易の東端にあたるガオが繁栄して、14世紀末には再独立を果たし、やがてマリに代わり西アフリカ内陸部の覇権を握るようになった。 帝国というが、中央集権体制の国家ではなく、マリを中心とする緩やかな連合国家だった可能性もある<ref name="EAAH66-68" /><ref name="akasaka1987" />。 == 宗教 == [[ファイル:Great Mosque of Djenné 1.jpg|thumb|[[ジェンネ]]の[[泥のモスク]]。登録世界遺産。ただし写真の建築はフランスの植民地統治が良好であることをアピールするため1907年に建てられたものである<ref name="naitou2013" />。]] マリは[[イスラーム教]]を受容したが、[[祖先信仰]]などの土着信仰も残っていた<ref name="EAAH66-68" />。イスラームの受容がいつごろから、どのように広まっていったのかについては議論がある。D.T.ニアヌはスンジャタ・ケイタがムスリムであったと考えているが、異論もある。赤阪賢は「14世紀にはイスラーム国家の外見を整えた」という表現をしている。1325年のマンサ・ムーサの巡礼の際、エジプトでマンサ・ムーサに拝謁した現地のウラマーは、ムーサが[[マーリク派]]の儀礼をよく知っていたと証言している。ムーサをはじめとした最盛期のマリのマンサは、帝国内の安寧と社会の秩序を保ち、[[マドラサ]]を各所に建てた<ref name="ishikawakohama2018" />。マリのマドラサには、[[マグリブ]]や[[アンダルス]]からイスラーム学徒が多く集まり「知」のセンターになった<ref name="ishikawakohama2018" />。また、マリのマドラサからも[[ウラマー]]が多く育った<ref name="ishikawakohama2018">{{cite book|title=「未解」のアフリカ|last=石川|first=薫|last2=小浜|first2=裕久|publisher=勁草書房|date=2018-01|isbn=978-4-326-24847-6}} pp66-71</ref>。 イスラームがこの地で受容されていくに従い、マリから[[メッカ]]への巡礼者も増加していった。マンサ・ムーサのメッカ巡礼は非常に著名であるが、彼以前の王も、また彼以後の王も、メッカへの巡礼は行っていた。この王による巡礼は、サハラ越え交易ルートの開発という目的も持っていた<ref name="名前なし-1"/>。 ==注釈== {{notelist}} ==古い文献からの出典== {{reflist|group="前近代の文献"|refs= <ref name="b.battuta">[[イブン・バットゥータ]]の『[[リフラ]]』よりビラード・スーダーンへの旅を記載した章。例えば、以下のような翻訳がある。 *[http://www.fordham.edu/halsall/source/1354-ibnbattuta.html Ibn Battuta: Travels in Asia and Africa 1325–1354] [[ハミルトン・ギブ|H. A. R. ギブ]]の英語翻訳(1929年)。 *{{Cite book |和書|author=イブン・バットゥータ|authorlink=イブン・バットゥータ|title=[[三大陸周遊記]]抄|series=[[中公文庫]]|translator=[[前嶋信次]]|publisher=[[中央公論新社]]|date=2004-03-25|isbn=412204345X|ref=harv}}</ref> }} ==出典== {{reflist|2|refs= <ref name="Niane1992">{{cite journal |和書|title=第6章マリとマンディンゴ人の第二次勢力拡張|journal=一二世紀から一六世紀までのアフリカ|author=D.T.ニアヌ|authorlink=ジブリル・タムシル・ニアヌ|editor=D.T.ニアヌ|series=ユネスコ「アフリカの歴史」日本語版|translator=元木淳子|date=1992-09-20|publisher=[[同朋舎出版]]|isbn=4-8104-1096-X|pages=188-193}}</ref> <ref name="akasaka1987">{{cite journal |和書|title=マンデ、王国形成の先駆者たち|author=[[赤阪賢]]|editor=[[川田順造]]|journal=民族の世界史12(黒人アフリカの歴史世界)|date=1987-02-28|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-44120-9|ref=harv}}</ref> <ref name="akasaka2010">{{Cite book |和書|date=2010-02|author=福井勝義|authorlink=福井勝義|author2=大塚和夫|authorlink2=大塚和夫|author3=赤阪賢|authorlink3=赤阪賢|title=世界の歴史24(アフリカの民族と社会)|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公文庫]]|ISBN=978-4122052895|ref=harv}}(主に第二章、執筆担当:赤阪賢)</ref> <ref name="Levtzion1963">{{cite journal | last=Levtzion | first=N. | year=1963 | title=The thirteenth- and fourteenth-century kings of Mali | journal=Journal of African History | volume=4 | issue=3 | pages=341–353 | jstor=180027 | doi=10.1017/S002185370000428X | ref=harv }}</ref> <ref name="Levtzion1981">{{cite book | editor1-last=Levtzion | editor1-first=Nehemia | editor2-last=Hopkins | editor2-first=John F.P. |title=Corpus of Early Arabic Sources for West Africa | publisher=Marcus Weiner Press | place=New York | year=2000 | isbn=1-55876-241-8}} First published in 1981 by Cambridge University Press, {{ISBN2|0-521-22422-5}}</ref> <ref name="naitou2013">{{Cite book |和書|title=マリ近現代史|author=内藤陽介|authorlink=内藤陽介|date=2013-05-05|publisher=[[彩流社]]|ISBN=978-4-7791-1888-3|ref=harv}} pp.11-15</ref> <ref name="EAAH73-74">{{cite encyclopedia|last=Terdiman|first=Moshe|editor=Alexander, Leslie|title=Mansa Musa|encyclopedia=Encyclopedia of African American History|date=2010|publisher=ABC-CLIO|isbn=1851097694|pages=73–74|edition=American Ethnic Experience|url= https://books.google.com/books?id=Uhh7GggNxQoC&pg=PA73&dq=mali+musa+maghrib&hl=id&sa=X&ved=0CD4Q6AEwBWoVChMIpMCFzZb0yAIVQZ-UCh0GrQWg#v=onepage&q=mali%20musa%20maghrib&f=false}}</ref> <ref name="EAAH66-68">{{cite encyclopedia|last=Terdiman|first=Moshe|editor=Alexander, Leslie|title=Mali|encyclopedia=Encyclopedia of African American History|date=2010|publisher=ABC-CLIO|isbn=1851097694|pages=66–68|edition=American Ethnic Experience|url= https://books.google.com/books?id=Uhh7GggNxQoC&pg=PA73&dq=mali+musa+maghrib&hl=id&sa=X&ved=0CD4Q6AEwBWoVChMIpMCFzZb0yAIVQZ-UCh0GrQWg#v=onepage&q=mali%20musa%20maghrib&f=false}}</ref> <ref name="takezawa2014">{{Cite book|和書|author=[[竹沢尚一郎]]|title=西アフリカの王国を掘る--文化人類学から考古学へ |publisher=[[臨川書店]] |date=2014-08}}</ref> }} == 参考文献 == *アンソニー・ブリアリー著、古賀浩訳 『古代アフリカ(古代遺跡シリーズ)』 ニュートンプレス、1997年。ISBN 4-315-51358-X。 *世界史小辞典編纂委員会編 『世界史小辞典(改訂新版)』 山川出版社、2004年。ISBN 4-634-62110-X。 *イブン・バットゥータ 『[[旅行記 (イブン・バットゥータ)|大旅行記]]』全8巻 [[家島彦一]]訳、[[平凡社]]〈[[平凡社東洋文庫]]〉、1996-2002年。 == 関連項目 == *[[サハラ交易]] *[[モディボ・ケイタ]] - マリ帝国の王家の子孫とされる。 *[[サリフ・ケイタ (ミュージシャン)|サリフ・ケイタ]] - マリ帝国の王家の子孫とされる。 *[[ソンガイ帝国]] *[[植民地化以前のアフリカ諸国]] == 外部リンク == {{commonscat|Mali Empire}} *[http://www.africankingdoms.com African Kingdoms Mali] *[http://www.metmuseum.org/toah/hd/mali/hd_mali.htm Metropolitan Museum – Empires of the Western Sudan: Mali Empire] *[http://www.bbc.co.uk/worldservice/africa/features/storyofafrica/4chapter3.shtml The Story of Africa: Mali] — BBC World Service * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まりていこく}} [[Category:マリ帝国|*]] [[Category:サヘル諸王国]] [[Category:1230年代に成立した国家・領域]]
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スーダン
スーダン共和国(スーダンきょうわこく、アラビア語: جمهورية السودان、英語: Republic of the Sudan)、通称スーダンは、北東アフリカに位置する共和制国家である。首都はハルツーム。国境を接する隣国は北がエジプト、西北がリビア、西がチャドと中央アフリカ、南が南スーダン、南東がエチオピアとエリトリア。東側は紅海に面しており、その対岸側にはサウジアラビアがある。 アルジェリア、コンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を有する。2011年7月に南スーダン共和国が分離独立する前は、面積250万5813平方キロメートルとアフリカ大陸最大の国土を有していた。 正式名称はアラビア語で、جمهورية السودان(ラテン文字転写 : Jumhūrīyat as-Sūdān; ジュムフーリーヤト・アッ=スーダーン,つなげ読みするとジュンフーリヤトゥ・ッ=スーダーン)。通称は、السودان(as-Sūdān; アッ=スーダーン)。 公式の英語表記は、Republic of the Sudan。通称、Sudan ([suˈdæn, suːˈdɑːn])。 日本語の表記はスーダン共和国で、通称はスーダン。漢字表記は、蘇丹。 「スーダーン」はアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称で、国名としてのスーダンと区別するため「歴史的スーダン」ともいう。国家としてのスーダンは、地域名としての「スーダン」の東部を占め、歴史的には東スーダーンと呼ばれた地域に当たる。南スーダンの独立後、スーダン共和国を指して「北スーダン」と呼ばれることは稀だが、二国間関係を表す際に「南北スーダン」とする表現はよく見られる。 かつてこのスーダンのナイル川流域北部はヌビアと呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けた地域である。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返した。そうした中、紀元前2200年ごろに、南部から移動してきた黒人の集団がこの地域にクシュ王国と呼ばれるはじめての王国を建国した。この王国は中王国時代のエジプトの影響を受けながら勢力を拡大していった。その後、エジプトが新王国時代に入るとトトメス1世がクシュを滅亡させた。 紀元前900年ごろ、ナパタを都としてクシュは再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入ってエジプト第25王朝を建国した。第25王朝はアッシリアに敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は保持し続けた。紀元前6世紀半ばにクシュは首都をさらに南のメロエへと遷都し、以後この王国はメロエ王国の名で知られることとなった。メロエは牧畜とソルガムの農耕を主産業とし、さらに鉄の産地としても知られた。 4世紀ごろ、メロエはエチオピア高原のアクスム王国によって滅ぼされ、その故地は北からノバティア王国(英語版)、マクリア王国(英語版)、アルワ王国(英語版)の三王国に分かれた。三国ともに5世紀ごろにキリスト教を受容し、以後1000年近くキリスト教を信仰し続けた イスラム教勢力によって吞み込まれ、1505年にはイスラム教のフンジ・スルターン国(英語版)が建国されてキリスト教勢力は消滅した。1596年には西のダルフールにおいてもイスラム教のダルフール・スルターン国が建国され、この地方は完全にイスラム化された。 1821年、エジプトのムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャにより後のスーダン北部が征服された。エジプトは次第に南部に支配を広げた。 1840年、エジプト・エヤレトそのものがロンドン条約によってイギリスの保護国となった en:Khedivate of Egypt(1867年–1914年)。1874年、ダルフール・スルターン国を併合。 1883年にムハンマド・アフマドをマフディー指導者とするマフディーの乱が起こり、1885年には、エジプト/イギリス軍(英挨軍)のチャールズ・ゴードンをハルツームで戦死させ、マフディー国家(英語版)が建設された。 1898年イギリスのホレイショ・キッチナー率いる英埃軍がオムダーマンの戦い(オムドゥルマンの戦い)などでマフディー国家を制圧した。しかし、この十余年のマフディ国家の支配下で進出していたフランスのマルシャン部隊とイギリス軍がファショダ(現在のコドク) で衝突し、ファショダ事件が発生した。この事件はアフリカ分割の過程で、イギリスの南下政策とフランスの東進政策が背景にあったが、本国政府同士で話し合い、スーダンとモロッコの利権を交換することで解決をみた。 1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下(英埃領スーダン)に置かれた。 1924年以降、北部を中心に独立運動が続けられた為、1924年以降は南北を分断して統治する手法 (Britain's Southern Policy)を採用し、マラリアなどの予防の名目で8度以北の者が南、10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことも分裂の元となった。 1942年の第二次世界大戦中には、米軍がワディ・セイドナ空軍基地(英語版)を設置した(戦後はスーダン空軍に譲渡)。 1945年、en:Ismail al-Azhariらを中心にウンマ党を結成。独立運動を主導した。 1954年自治政府が発足。 独立運動の主体及び自治政府が北部のイスラム教徒中心だったため、1955年に第一次スーダン内戦(南北内戦)が勃発し北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の「非アラブ系 - アニャニャ(英語版)」(主にアニミズム、一部キリスト教徒)が戦った。 1956年1月1日にスーダン共和国(英: Republic of Sudan、1956年 - 1969年)として独立した。 1958年11月イブラヒーム・アッブード(英語版)将軍がクーデタを起こし、アブード政権(1958年 - 1964年)が誕生した。 1960年ごろ、エジプトのムスリム同胞団の支援を受けてハサン・トラービー(英語版)がイスラム憲章戦線(ICF)を結成した。 1964年のアッブード政権崩壊後、1965年4月にウンマ党と国民統一党との連立政権が誕生。 1969年5月、陸軍のクーデターでジャーファル・ヌメイリを議長とする革命評議会が全権を掌握、国名をスーダン民主共和国に改め、1971年にヌメイリが大統領に就任した。1971年7月には、左派将校によるクーデターが発生してヌメイリ議長が一時追放されたが、同月中に反クーデターが発生して政権へ復帰した。第一次スーダン内戦は1972年のアディスアベバ合意まで続いた。 1975年にシェブロンにより油田がアビエイで発見されると、ジャーファル・ヌメイリは南北境界のヘグリグ油田地帯を北部に組入れるために地域区分の組替えを始めた。 1978年、アニャニャII(英語版)が結成された。 1983年始め、南部に「新スーダン」建設を掲げる非アラブ系黒人有力民族のディンカ人が主体の反政府組織スーダン人民解放軍(SPLA)が、ソ連とエチオピアの支援を受けたジョン・ガランの指導下に組織され、アニャニャII(英語版)と反政府組織の主導権を争うようになった。ヌメイリ政権は1983年9月にイスラム法を導入したため、これに反発するSPLAがゲリラ闘争を拡大、第二次スーダン内戦に突入した。1984年からは旱魃()とエチオピアからの難民流入で経済困難に陥った。 1985年4月6日にアブドッラフマーン・スワール・アッ=ダハブ(英語版)率いる軍部によるクーデターでヌメイリ大統領は失脚し、エジプトに亡命した。12月に国名はスーダン共和国に戻され、翌1986年4月、議会選で、ムハンマド・アフマドの曾孫にあたるサーディク・アル=マフディー(英語版)を首相とする文民政権が成立した。 1989年6月30日、オマル・アル=バシール准将がイスラム主義組織の民族イスラム戦線(NIF)と連携して無血クーデター(英語版)を成功させた。バシールは、「革命委員会」を設置して非常事態を宣言し、自ら元首、首相、革命委員会議長、国防相に就任し、NIFの主張に沿ったイスラーム化を推進した。 1991年に隣国エチオピアに「アフリカ最大の人権抑圧者」と呼ばれるメレス・ゼナウィ新大統領が就任し、SPLAは後ろ盾を失い3分裂した。 最高機関だった革命委員会は1993年10月、民政移管に向け解散し、同委員会の権限は内閣に委譲されたが、バシールが首相を兼任したまま大統領に就任した。1994年にコルドファン州が、北コルドファン州、南コルドファン州、西コルドファン州の3州に分割された。同年、SPLAの新たな後ろ盾となっていたウガンダを非難すると、2月6日にはヨウェリ・ムセベニ大統領から神の抵抗軍へ最後通牒が伝えられたが、その2週間後に神の抵抗軍は南スーダンへの越境を開始した (en:Lord's Resistance Army insurgency (1994–2002))。 1996年3月の議会選では欧米諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝し、バシール政権が存続した。1997年に第一次コンゴ戦争が終結すると、ウガンダへの姿勢も軟化させた。 1998年5月、政党結成の自由などを含む新憲法の可否を問う国民投票を実施し、96.7 %が賛成により成立、1989年以来禁止されていた政党活動が解禁となった(政党登録開始は1999年1月)。しかし、バシール大統領は大統領の権限縮小を狙う国民議会のハサン・トラービー(英語版)議長との確執から、1999年12月に非常事態を宣言し国民議会を解散、内閣も総辞職し、2000年1月に親トラービー派を排除した新内閣が発足、トラービーはバシール政権の与党「国民会議」(NC、NIFを母胎とするイスラム主義政党)の書記長を解任された。 トラービーは新党「人民国民会議(PNC)」を結成し対抗したが、12月の議会選、大統領選では野党はボイコットし、バシール大統領とバシール派政党が勝利した。2001年2月、PNCと南部のスーダン人民解放運動(SPLA)がスイスのジュネーヴで第二次内戦終結や民主化に向け協力するとの覚書に調印したため、政府はトラービーらを逮捕して対抗した。 バシール大統領は2002年8月19日、小規模な内閣改造を実施し、イスラム主義中道派のウンマ党(UP)の分派メンバーを閣僚に登用した。さらに11月30日には中道リベラル政党「民主統一党」(DUP)の分派メンバーも入閣させるなど、野党勢力の取り込みを図ることで、SPLAとの和平交渉と併せて柔軟姿勢を示した。2005年1月9日には、バシールとSPLMとの間で包括和平(CPA)、半年後の暫定政府発足について合意に達した。 西部のダルフール地方3州でも2003年以降、アラブ系と非アラブ系の定住民フール人や遊牧民ザガワ人などとの対立が激化し、ダルフール紛争が勃発した。双方が武装勢力を組織したが、特に政府の支援を受けたアラブ系の民兵組織ジャンジャウィードの勢力が強く、民族浄化が行なわれたとして非難の対象となった。また、多くの難民がチャドに流れ込み、ザガワ人のイドリス・デビ大統領が実権を握るチャドとの関係も極度に悪化した。2004年アフリカ連合(AU)が監視要員の派遣を決定した。 2005年7月9日、バシールを大統領、SPLAのジョン・ガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった。 7月30日、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死。ヘリコプターが悪天候のため墜落したとされる。これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。また、SPLAを束ねてきたガランの死は、SPLA内部の権力争いにつながる可能性を帯びている。さらに、SPLAは南部側の政府代表といってもそのうちの旧主流派はディンカ人中心だった。南部のヌアー族が政権の支援を受け、SPLAへの攻撃を開始するとの憶測も流れた。 ウガンダとコンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍掃討作戦ガランバ攻勢(英語版)(2008年12月14日 - 2009年3月15日)に南スーダン自治政府が協力する部隊を派遣した。2009年3月4日、ダルフールでの戦犯容疑(人道に対する罪などの容疑)でバシール大統領が国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を出されている。同大統領は、逮捕状発行後、エリトリアとエジプトを訪問している。2009年3月26日、バシール大統領はリビアを訪問し、アフリカ連合(AU)の議長でもあるカダフィ大佐と会談した。リビアが3国目。 2010年7月11日、国際連合とAUの合同ダルフール派遣団は、同地方での武力紛争により、6月の死者は221人に達したことを明らかにした。2010年7月12日、国際刑事裁判所 (ICC)は、バシール大統領にジェノサイド(大量殺害)犯罪容疑で2回目の逮捕状を発行した。7月15日、スーダンの2005年包括和平合意(CPA)の北部のスーダン国民会議(NC)と南部のSPLAは、南北境界画定合同委員会を補佐する小委員会の設置で合意したことを明らかにした。この南北境界画定合同委員会は3年前に発足した。7月21日、バシール大統領はサヘル(サハラ南縁)諸国首脳会議のためチャドを訪れた。同大統領がICC 締結国を訪問するのは初めてである。 南北和平協定における協定事項の一つであるアビエイの境界を巡り、北部側が提案を拒絶しディンカ系住民を攻撃し2007年末より戦闘が激化し、2008年には正規軍同士が衝突するに至った。その後、調停により帰属未決定のアビエイ地域を除くアビエイ地区はスーダン側の支配下となったが、アビエイ地域以外のアビエイ地区に含まれていたヘグリグ油田は、南スーダンに帰属すると主張し、2012年3月に南スーダン軍が同油田に侵攻。南北スーダン国境紛争が発生した。 2011年1月9日、南部の自治政府による独立の是非を問う住民投票が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票のために国連はスーダン派遣団を送り、住民投票監視団の一員として元アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターがスーダン入りしている。 2011年7月9日に南スーダンは独立したが、南スーダンには石油など豊富な地下資源が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に新たな混乱が生じる可能性もある。 2011年11月10日、スーダン軍は、南スーダン北部ユニティ州イダや上ナイル州の難民キャンプを爆撃した。また、同軍は南コルドファン州と青ナイル州でスーダン人民解放運動・北部(SPLM・N)民兵の掃討作戦を進めている。 2012年には国境の油田を巡って武力衝突が発生している。 2018年末よりパンの値上げをきっかけとして反政府運動が全土で発生し、2019年4月11日に国防軍がバシールを大統領から解任し身柄を拘束。ここに30年にも及ぶバシール独裁政権は終焉を迎えた(2019年スーダンクーデター)。政権は軍による暫定軍事評議会が掌握し、これに対し民主化勢力「自由・変革同盟」は民選による政権樹立を要求。双方による協議は幾度となく中断したものの、8月17日、両者は3年3か月間の暫定政権で共同統治を行い、そのトップはまず軍人が1年9か月務め、その後に文民が1年6か月務めることとし、2022年に選挙を実施することで最終合意し、暫定憲法に調印した。8月21日に新たな統治機構である最高評議会が発足し、11人のメンバーが宣誓したほか、経済学者のアブダッラー・ハムドゥークが首相への就任宣誓を行い、新政権が発足した。アフリカ連合(AU)は軍部とデモ隊の衝突が発生したことを機に加盟国としての資格を停止したが、暫定政権樹立を受け、9月6日に停止処分を解除した。 2021年10月25日、暫定政権のハムドゥーク首相が軍に拘束され、統治評議会のブルハン議長が同評議会と暫定政権の解散を宣言。全土への非常事態発令を表明した(2021年10月スーダンクーデター)。11月21日、ブルハン将軍が、自宅に軟禁されていたハムドゥーク首相の復職に同意した。 スーダン軍は民政移管に向けた枠組みについて2022年に民主派勢力と合意したが、アラブ系民兵組織ジャンジャウィードを前身とする準軍事組織RSF(即応支援部隊)と組織統合を巡って対立し、2023年4月15日から首都ハルツームなど国内各地で戦闘に突入した。 2019年4月11日に軍部によりクーデターが実行され、憲法を停止し暫定軍事政権が実権を握ったため、議会は機能を停止している。同年8月21日よりアブダッラー・ハムドゥークが首相となり組閣。軍と民主化勢力による3年3ヶ月の暫定共同統治を行っており、2022年の選挙実施を目指している。 クーデター前の議会は一院制の国民議会(360議席)で、全議席の60 %を小選挙区制、15 %を比例代表制で選出する。残り25 %は女性議員枠である。 バシール政権下では自身が結成した国民会議が与党であった。20年以上も軍事独裁政権が続いたが、2010年4月11日に24年ぶりの複数政党制選挙が行なわれた。しかし、大統領選挙では政権側の不正を理由に、最大野党のスーダン人民解放運動(SPLM)が大統領選挙を、一部野党が各種選挙をボイコットしたため、バシールが得票率68.24 %で再選を果たした。 行政府の長たる首相職は1989年を最後に廃止されたが、2016年に議会が復活を決議。2017年3月1日にバシール大統領が側近のバクリー・ハサン・サーレハ(英語版)第1副大統領を首相に指名し、翌2日に就任宣誓を行った。2019年4月のクーデターにより首相職が空席となったが、同年8月に発足した暫定政権では再び首相が就任している。 一方で法の改正も進められており、中東地域やアフリカ各国で現在も続けられている因習を違法化する法律改正が承認されている。2020年7月10日、同国の軍民共同の統治評議会により、因習として続けられている女性器の切除(女子割礼)を違法化するとの承認が報道された。 バシール政権は、湾岸戦争時にはイラクのサッダーム・フセインを支持してオサマ・ビンラディンの国際テロ組織アルカイダも支援したとされたことで、1993年にはアメリカ合衆国にテロ支援国家の指定を受け、以後、2020年12月に指定が解除されるまで経済制裁が続いた。この間、一時改善の兆しがあったものの、2003年のダルフール紛争勃発後はさらに欧米諸国と対立した。このため、バシール政権はヌメイリ政権時代から友好的でスーダンの豊富な資源を求めている中華人民共和国との関係を深めて中国企業はスーダンの産油企業2つの最大株主となっており、国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団で中国からの国連平和維持部隊も受け入れ、中国の援助で自らの大統領府も建設するなど、経済・軍事両面で両国は密接な関係を持っている。 またロシア連邦もプーチン大統領が、2017年11月に訪露したバシール大統領と会談するなど、スーダンとの関係を重視している。 2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことで、サウジアラビアとイランの関係は急速に悪化。イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけに、サウジアラビアはイランとの国交を断絶した。スーダンもこれに続いて、イランとの国交断絶を表明した。 2017年12月、トルコのエルドアン大統領がスーダンを訪問し、かつてオスマン帝国の影響下にあった紅海沿岸のスワーキン島(英語版)をトルコが開発する計画を発表。トルコと対立するサウジアラビアやエジプトが反発している。 2020年、隣国のエチオピア北部ティグレ州でエチオピア政府軍とティグレ人民解放戦線の間でティグレ紛争が始まると、2万人を超す難民がガダーレフ州やカッサラ州に流入、難民キャンプが設営された。スーダンは、1980年代にエチオピアで発生した飢饉の際にも難民キャンプの設営を許容している。 在留日本人数 - 134名(2017年10月時点) 在日スーダン人数 - 230名(2017年12月時点) スーダンは、北のエジプト、南の南スーダンとの間に領土問題を抱えている。 対エジプトではエジプトが領有権を主張して実効支配しているハラーイブ・トライアングルとワジハルファ突出部について、スーダンは領有権を主張している。 対南スーダンでは、将来的に住民投票によってスーダン領になるか南スーダン領となるかを決定することになっているアビエイ地域と、南スーダンが領有権を主張しているカフィア・キンギ地域について、スーダンが実効支配している。 なお、エジプトとの間にあるビル・タウィール地域は、スーダンもエジプトも、またその他の国のいずれもが領有権を主張しておらず、世界的にも珍しい無主地となっている。 イギリスとソビエト連邦、中国の軍事顧問団が政変の度に入れ替わりつつ指導し、育成が続けられてきた。スーダン内戦を通じての対ゲリラ戦の実績はあるが、他国との本格的な交戦実績はない。2000年代に入り、石油輸出で得られた外貨を武器購入に充て、紛争を行っていることから国際的な非難を浴びている。 主に中国製の武器が使用された。 戦車は中国から96式戦車が輸出されている。ソ連と対立し始めたヌメイリ政権時代の1972年から購入された62式軽戦車70輌、59式戦車50輌なども保有している。また、85-IIM式戦車のライセンス生産版である「アル・バシール」を開発している。 自動小銃も、中国から81式自動小銃、56式自動小銃が輸出され、ライセンス生産も行われている。また、M16のコピー品であるノリンコ社のCQ 311を「テラブ」という名前でライセンス生産している。 また、多連装ロケット砲「WS2」の輸出が行われた模様である。 これら中国から輸出された武器により、ダルフールでの虐殺が行われており、スーダンならびに中国は国際的な非難を浴びている。 保有機数や運用実態の詳細は不明であるが、スーダン空軍では固定翼機はMiG-21(主として中国生産型のJ-7)及びMiG-29を、回転翼機はMi-24/35やMi-8/17などを保有している。 MiG-29については、ダルフール紛争に関する国際的な批判にも拘らず、2003年から2004年にかけてロシアより最新派生型の一つMiG-29ESh戦闘機10機とMiG-29UB練習機2機が輸出され、国際的な注目を集めた。ロシアは、MiG-29のこの派生型は対地攻撃には使用できない仕様であり紛争には関係しないと説明していたが、一方で対地攻撃ヘリコプターMi-35の新型を引渡している。 空軍機材の主となっているのはこのような旧ソ連製や中国製の機材であるが、その他に補助的ながら西側諸国製の機材も運用している。 国土の大部分は広大な平原で、ほぼ中央をナイル川とその支流が縦貫する。北部はヌビア砂漠、南部はステップ気候であり、サヘル地帯が広がっている。 北部は乾燥した砂漠気候であり年間降水量は100ミリメートル以下である。わずかにナイル川や紅海沿岸に少数の人々が住むに過ぎない。紅海沿岸は起伏が多く、平野はあまり発達していないが、湾入も少なく良港はほとんどない。 中部は乾季には乾燥するが、雨季にはまとまった降水量があり、特に白ナイル川以東のゲジラ地区などは肥沃な農業地帯となっている。南部のコルドファンや西部のダルフールでも事情は同じで、雨季には農耕も行われ、さらに雨を受けて広大な草原となった土地を牧草地として、牧畜が盛んである。 西部のダルフール地域にあるマッラ山地や中央部のヌバ山地など、いくつかの山地が孤立して存在している。最高地点はマッラ山地のデリバ・カルデラ(標高3042メートル)。南にいくに従って雨量が増え、ステップ気候となっていく。 なお、北部の砂漠と紅海沿岸は一年中、日中の気温が40°Cを超す炎熱の地である。 水系は、ほぼ全てがナイル川へと流入する。中央を縦貫する白ナイル川を基軸としている。ナイル川の流量は南スーダン最北部のスッドにて激減しているが、これが増大するのは、青ナイル川を合わせる首都ハルツーム以北である。 青ナイルは乾季には雨量が減少するものの、雨季にはエチオピア高原に降った大量の雨を運んでくるため流量が極度に増大し、かつては下流のエジプトで定期的に洪水を引き起こしていた。 その後、北のアトバラで、やはりエチオピア高原から流れてきたアトバラ川を合わせた後、エジプト領内へと流れ下っていく。 18の州がある。()内は主要都市。 主要都市は、首都ハルツームの他、オムドゥルマン、アル・ハルツーム・バフリ、ポートスーダンがある。ハルツーム、オムドゥルマン、アル・ハルツーム・バフリはナイル川を挟んで隣接しており、三つ子都市とも呼ばれ、スーダン最大の都市圏を形成している。 国際通貨基金(IMF)の推計によると、2013年のスーダンの国内総生産(GDP)は667億ドルであり、アフリカ全体では7位に位置する。一方、一人当たりのGDPは1941ドルと、世界平均の20 %を下回る水準にある。1990年代までは、長引く内戦や経済制裁などで、経済は完全に破綻状態であり、2019年現在スーダンは平和基金会が発表している「世界失敗国家ランキング」8位の国である。 他方で、石油資源ではMelut Basin(英語版)(Adar/Yale油田)やMuglad Basin(英語版)(ヘグリグ〈Heglig〉油田、ユニティ〈Unity〉油田、Abu Gabra油田)やBlue Nile Riftが大きく世界の注目を浴び、アメリカの経済制裁が加えられた期間に石油メジャーの間隙を突く形で、1990年代後半から中国政府のバックアップを受けた中国系企業が進出した。数万人規模の中国人労働者がスーダンに派遣され、石油プラント、石油パイプライン(Greater Nile Oil Pipeline, PetroDar Pipeline)が建設された。 Greater Nile Oil Pipelineは全長1600キロメートルで、ユニティ油田 - ヘグリグ油田 - ハルツーム (Khartoum Crude Oil refinery) - ポートスーダン(紅海に面する港)を繋いでいる。Muglad Basinから産出する石油は “Nile Blend” と呼ばれている。後に、Thar Jath油田からヘグリグまで172キロメートルパイプラインが延伸された。 PetroDar Pipelineは全長1380キロメートルで、Palogue油田 - Adar/Yale油田 - Fula油田 - ポートスーダン(紅海に面する港、Port Sudan Crude Oil Refinery)を繋いでいる。Melud Basinから産出する石油は “Dar Blend” と呼ばれている。これら油田の大部分と南北合計の原油確認埋蔵量の約80 %が南スーダンに帰属するため、政府は南スーダンに対し高額の原油通過量を要求し、独立後の火種となっている。 同様にレアメタルの埋蔵量も注目を集めている。そのほか、メロウェダムに象徴される大規模な水力発電所及びダム、鉄道(老朽化したポートスーダンからハルツーム間)の建設も中国系企業が受注するなど、極めて濃厚な協力の下、徐々に経済が立ち直る兆しが見られる。以上の理由から、特に東部では経済が急成長しており、首都ハルツームでは総工費40億円を掛けて63塔もの高層ビルの建築が進行中である。しかし、石油資源などが豊富な地域は南部スーダン地域であり、スーダンの支援国である中国は南スーダンにも国連平和維持部隊を派兵して油田権益を確保している。 東部に限れば、「アフリカのパン篭」とも言われる肥沃なナイル川周辺の農地を使っての小麦、トウモロコシの栽培が盛んである。とくに、ハルツームより南の白ナイル川と青ナイル川に挟まれた三角地帯では、1925年にイギリスの植民地政府によってゲジラ計画がおこなわれ、大規模灌漑によって小麦や綿花の大穀倉地帯となった。 1993年の内戦時に大規模な飢饉(英語版)が、1998年により大規模の飢饉(英語版)が発生したことから一時期は低迷状態にあったが、最近はトルコやサウジアラビアなどの周辺諸国の企業による農業投資が盛んである。とりわけ湾岸アラブ諸国は、国土の大半が農業に不向きな砂漠のため食料供給地としてのスーダンに着目している。2008年の農業投資契約数は33件で07年度の3倍である。スーダン政府は、投資企業に土地を安く提供、関税免除などの特典で、投資国を引き付けようとしている。 国営のスーダン鉄道が運行している。1890年代に建設が開始され、現在の総延長は5311キロメートルにのぼる。国営の全てが狭軌で、うち1067ミリメートルが4595キロメートル、610ミリメートルが716キロメートルある。首都ハルツームから北のワジハルファや北東のポートスーダンへ向かう線路と、南のセンナールを経由して西のダルフールの中心都市ニヤラや南部スーダン北部のワーウへと向かう線路があるが、ワーウへ向かう線路は現在運休しており、他の区間も老朽化が進んでいる。最も重要な路線は首都ハルツームとスーダン唯一の外港であるポートスーダンを結ぶ路線でスーダンの鉄道輸送の3分の2はこの路線であり、中国によって車両は近代化されている。 ポートスーダンが主な港湾都市になっている。 北部のナイル・サハラ語族ヌビア諸語を話すヌビア人(英語版)、中部のヌバ山地(英語版)のニジェール・コンゴ語族コルドファン語派を話すヌバ族や、南部のカドゥ諸語(英語版)を話す民族など非アラブ黒人が52 %、北部を中心にアラブ化した黒人や黒人との混血を含む「アラブ系」(en:Sudanese Arabs) が総人口の約39 %、東部のアフロ・アジア語族クシ語派ベジャ語を話すベジャ人(英語版) (en:Ababda people、Rashaida people) が6 %、外国人が2 %、その他1 %。 ダルフールの北部にザガワ族、中部にフール人、南部にバッガーラ族(英語版)が居住している。 アラビア語(スーダン方言)と英語が公用語。ヌビア語など非アラブ民族語も広く話される。 2005年の現行憲法は公用語について以下のように定めている。 第八条 スンナ派を中心とするイスラム教が70 %。南部非アラブ人を中心にアニミズムなどの伝統宗教(18 %)とキリスト教(5 %)。北部に20万人程コプト教徒がいる。 キリスト教徒の多い南スーダンの分離独立に伴い、相対的にスーダンにおける非イスラム教徒比率は下がり、現在はスーダンにおけるイスラム教徒比率は、周辺の北アフリカ諸国同様絶対多数派となっている。現在は北部のコプト教徒、コルドファン丘陵地域のいくつかの伝統宗教やキリスト教を信仰する民族グループを除き、国民の大多数がイスラム教徒である。 南スーダンが独立したことで、キリスト教徒への迫害が強まっており、スーダン国内のキリスト教徒は市民権を失った状態にある。 教育制度は8・3・4制で構成されており、中等教育が小学校8年、中学校(Secondary School)3年、高等教育は大学4年となっている。 スーダンの義務教育は小学校8年のみであり、加えて日本の高等学校やアメリカのハイスクールに該当する教育機関は存在していない。 大学は約25〜30校が存在しており、代表的なものとしてはゴードン記念大学(英語版)が挙げられる。 バシール政権成立後、教育のイスラム化が重視され、1991年にはイスラム教育が導入された。これは非イスラム教圏にも適用されたため、国内の非イスラム教徒の反発を招いた。 同国は歴史的背景などの諸事情により経済状況が不安定で未だに解消されていない為、その影響から40 %以上の子供が学校へ充分に通えていない問題点を抱えている。 大きく分けると、スーダンにイスラームを持ち込んだアラブ化されたエジプト人、彼らと現地先住黒人との混血児、そして彼らに帰順しイスラームのみならずアラビア語を受け入れた先住黒人達、この3者の子孫で構成され、現代口語アラビア語スーダン変種を話す「アラブ人」が北部を中心に勢力を張り、宗教的にはイスラム教を受容しつつもアラビア語は受け入れなかったイスラム系先住民が西部に勢力を張り、そしてイスラームすらも受け入れず先祖伝来のアニミズムを守るか、一部キリスト教に改宗した先住民が南部に勢力を張っている。この3者が現代スーダンの住民対立の大きなグループとして挙げられる。 この中でも「アラブ人」と他の2者との対立が強く、支配者「アラブ」対周辺化された「非アラブ」という対立軸が現代のスーダンの紛争においてしばしば見られる。宗教の対立は近年のスーダンの紛争では、決定的な対立軸ではない。人種的には前述されているように、北部はホワイトアフリカに属するエジプトと隣接しているためにコーカソイド系との混血が進み、南部はニグロイドとコーカソイドの混血は余り起きなかった。なお北部住民のアラブ系住民は南部の住民を「黒人」と呼ぶが、人種的な分類というよりは、アラブ化を受けなかった先住民というニュアンスで用いている。 2019年に旧政権であるバシール政権が退陣してから同国内の治安状況は一定の落ち着きを見せているものの、暫定政府が当面の課題として掲げている経済政策が現時点では十分な成果を上げていると言いがたく、物資(主に燃料や小麦粉)の不足に加えて物価の高騰はいまだ解消されず終いとなっている侭である。これに対する散発的かつ小規模なデモが発生しているほか、首都ハルツームでは更なる改革を求めるデモも発生しており、負傷者も出る騒動へと発展している。 この為、スーダン各地で今後、大規模な抗議活動が発生する可能性は完全に否定できない状態となっており、同国での滞在における危険度が高まっている。 また、ハルツームや各州都では警察などの治安機関が比較的機能していると言われているが、現今のこうした経済情勢を背景に近年はひったくりや車上狙いといった犯罪が増加傾向にある。一方で外国人は、一般的に裕福と捉えられていることから格好のターゲットになり易く、滞在中は細心の注意が求められる。 スーダンは北部アフリカにおいて小説家や詩人などの作家を多く輩出している国の一つである。代表的な人物としてハメド・アル=ナジル(英語版)やアミール・タージ・アル=サー(英語版)が知られている。 また、同国の人権活動家であり教師のマフジョーブ・シャリフ(英語版)は、作家としての一面を持っていた。 スーダン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件、暫定リストが9件存在する(2019年の第43回世界遺産委員会終了時点)。 スーダンの祝祭日はイスラム暦に固定されているため、世界において一般的となっているグレゴリオ暦とは異なる面があることを留意する必要がある。 スーダン国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に一番人気のスポーツとなっており、1965年にプロサッカーリーグのスーダン・プレミアリーグが創設されている。スーダンサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカースーダン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには9度出場しており、1970年大会では初優勝に輝いている。また、東部・中部アフリカサッカー協会評議会 (CECAFA) が主催するCECAFAカップでは3度の優勝経験を持つ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スーダン共和国(スーダンきょうわこく、アラビア語: جمهورية السودان、英語: Republic of the Sudan)、通称スーダンは、北東アフリカに位置する共和制国家である。首都はハルツーム。国境を接する隣国は北がエジプト、西北がリビア、西がチャドと中央アフリカ、南が南スーダン、南東がエチオピアとエリトリア。東側は紅海に面しており、その対岸側にはサウジアラビアがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アルジェリア、コンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を有する。2011年7月に南スーダン共和国が分離独立する前は、面積250万5813平方キロメートルとアフリカ大陸最大の国土を有していた。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "正式名称はアラビア語で、جمهورية السودان(ラテン文字転写 : Jumhūrīyat as-Sūdān; ジュムフーリーヤト・アッ=スーダーン,つなげ読みするとジュンフーリヤトゥ・ッ=スーダーン)。通称は、السودان(as-Sūdān; アッ=スーダーン)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Republic of the Sudan。通称、Sudan ([suˈdæn, suːˈdɑːn])。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本語の表記はスーダン共和国で、通称はスーダン。漢字表記は、蘇丹。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「スーダーン」はアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称で、国名としてのスーダンと区別するため「歴史的スーダン」ともいう。国家としてのスーダンは、地域名としての「スーダン」の東部を占め、歴史的には東スーダーンと呼ばれた地域に当たる。南スーダンの独立後、スーダン共和国を指して「北スーダン」と呼ばれることは稀だが、二国間関係を表す際に「南北スーダン」とする表現はよく見られる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "かつてこのスーダンのナイル川流域北部はヌビアと呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けた地域である。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返した。そうした中、紀元前2200年ごろに、南部から移動してきた黒人の集団がこの地域にクシュ王国と呼ばれるはじめての王国を建国した。この王国は中王国時代のエジプトの影響を受けながら勢力を拡大していった。その後、エジプトが新王国時代に入るとトトメス1世がクシュを滅亡させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紀元前900年ごろ、ナパタを都としてクシュは再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入ってエジプト第25王朝を建国した。第25王朝はアッシリアに敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は保持し続けた。紀元前6世紀半ばにクシュは首都をさらに南のメロエへと遷都し、以後この王国はメロエ王国の名で知られることとなった。メロエは牧畜とソルガムの農耕を主産業とし、さらに鉄の産地としても知られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "4世紀ごろ、メロエはエチオピア高原のアクスム王国によって滅ぼされ、その故地は北からノバティア王国(英語版)、マクリア王国(英語版)、アルワ王国(英語版)の三王国に分かれた。三国ともに5世紀ごろにキリスト教を受容し、以後1000年近くキリスト教を信仰し続けた", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "イスラム教勢力によって吞み込まれ、1505年にはイスラム教のフンジ・スルターン国(英語版)が建国されてキリスト教勢力は消滅した。1596年には西のダルフールにおいてもイスラム教のダルフール・スルターン国が建国され、この地方は完全にイスラム化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1821年、エジプトのムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャにより後のスーダン北部が征服された。エジプトは次第に南部に支配を広げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1840年、エジプト・エヤレトそのものがロンドン条約によってイギリスの保護国となった", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "en:Khedivate of Egypt(1867年–1914年)。1874年、ダルフール・スルターン国を併合。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1883年にムハンマド・アフマドをマフディー指導者とするマフディーの乱が起こり、1885年には、エジプト/イギリス軍(英挨軍)のチャールズ・ゴードンをハルツームで戦死させ、マフディー国家(英語版)が建設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1898年イギリスのホレイショ・キッチナー率いる英埃軍がオムダーマンの戦い(オムドゥルマンの戦い)などでマフディー国家を制圧した。しかし、この十余年のマフディ国家の支配下で進出していたフランスのマルシャン部隊とイギリス軍がファショダ(現在のコドク) で衝突し、ファショダ事件が発生した。この事件はアフリカ分割の過程で、イギリスの南下政策とフランスの東進政策が背景にあったが、本国政府同士で話し合い、スーダンとモロッコの利権を交換することで解決をみた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下(英埃領スーダン)に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1924年以降、北部を中心に独立運動が続けられた為、1924年以降は南北を分断して統治する手法 (Britain's Southern Policy)を採用し、マラリアなどの予防の名目で8度以北の者が南、10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことも分裂の元となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1942年の第二次世界大戦中には、米軍がワディ・セイドナ空軍基地(英語版)を設置した(戦後はスーダン空軍に譲渡)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1945年、en:Ismail al-Azhariらを中心にウンマ党を結成。独立運動を主導した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1954年自治政府が発足。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "独立運動の主体及び自治政府が北部のイスラム教徒中心だったため、1955年に第一次スーダン内戦(南北内戦)が勃発し北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の「非アラブ系 - アニャニャ(英語版)」(主にアニミズム、一部キリスト教徒)が戦った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1956年1月1日にスーダン共和国(英: Republic of Sudan、1956年 - 1969年)として独立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1958年11月イブラヒーム・アッブード(英語版)将軍がクーデタを起こし、アブード政権(1958年 - 1964年)が誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1960年ごろ、エジプトのムスリム同胞団の支援を受けてハサン・トラービー(英語版)がイスラム憲章戦線(ICF)を結成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1964年のアッブード政権崩壊後、1965年4月にウンマ党と国民統一党との連立政権が誕生。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1969年5月、陸軍のクーデターでジャーファル・ヌメイリを議長とする革命評議会が全権を掌握、国名をスーダン民主共和国に改め、1971年にヌメイリが大統領に就任した。1971年7月には、左派将校によるクーデターが発生してヌメイリ議長が一時追放されたが、同月中に反クーデターが発生して政権へ復帰した。第一次スーダン内戦は1972年のアディスアベバ合意まで続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1975年にシェブロンにより油田がアビエイで発見されると、ジャーファル・ヌメイリは南北境界のヘグリグ油田地帯を北部に組入れるために地域区分の組替えを始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1978年、アニャニャII(英語版)が結成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1983年始め、南部に「新スーダン」建設を掲げる非アラブ系黒人有力民族のディンカ人が主体の反政府組織スーダン人民解放軍(SPLA)が、ソ連とエチオピアの支援を受けたジョン・ガランの指導下に組織され、アニャニャII(英語版)と反政府組織の主導権を争うようになった。ヌメイリ政権は1983年9月にイスラム法を導入したため、これに反発するSPLAがゲリラ闘争を拡大、第二次スーダン内戦に突入した。1984年からは旱魃()とエチオピアからの難民流入で経済困難に陥った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1985年4月6日にアブドッラフマーン・スワール・アッ=ダハブ(英語版)率いる軍部によるクーデターでヌメイリ大統領は失脚し、エジプトに亡命した。12月に国名はスーダン共和国に戻され、翌1986年4月、議会選で、ムハンマド・アフマドの曾孫にあたるサーディク・アル=マフディー(英語版)を首相とする文民政権が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1989年6月30日、オマル・アル=バシール准将がイスラム主義組織の民族イスラム戦線(NIF)と連携して無血クーデター(英語版)を成功させた。バシールは、「革命委員会」を設置して非常事態を宣言し、自ら元首、首相、革命委員会議長、国防相に就任し、NIFの主張に沿ったイスラーム化を推進した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1991年に隣国エチオピアに「アフリカ最大の人権抑圧者」と呼ばれるメレス・ゼナウィ新大統領が就任し、SPLAは後ろ盾を失い3分裂した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最高機関だった革命委員会は1993年10月、民政移管に向け解散し、同委員会の権限は内閣に委譲されたが、バシールが首相を兼任したまま大統領に就任した。1994年にコルドファン州が、北コルドファン州、南コルドファン州、西コルドファン州の3州に分割された。同年、SPLAの新たな後ろ盾となっていたウガンダを非難すると、2月6日にはヨウェリ・ムセベニ大統領から神の抵抗軍へ最後通牒が伝えられたが、その2週間後に神の抵抗軍は南スーダンへの越境を開始した (en:Lord's Resistance Army insurgency (1994–2002))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1996年3月の議会選では欧米諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝し、バシール政権が存続した。1997年に第一次コンゴ戦争が終結すると、ウガンダへの姿勢も軟化させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1998年5月、政党結成の自由などを含む新憲法の可否を問う国民投票を実施し、96.7 %が賛成により成立、1989年以来禁止されていた政党活動が解禁となった(政党登録開始は1999年1月)。しかし、バシール大統領は大統領の権限縮小を狙う国民議会のハサン・トラービー(英語版)議長との確執から、1999年12月に非常事態を宣言し国民議会を解散、内閣も総辞職し、2000年1月に親トラービー派を排除した新内閣が発足、トラービーはバシール政権の与党「国民会議」(NC、NIFを母胎とするイスラム主義政党)の書記長を解任された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "トラービーは新党「人民国民会議(PNC)」を結成し対抗したが、12月の議会選、大統領選では野党はボイコットし、バシール大統領とバシール派政党が勝利した。2001年2月、PNCと南部のスーダン人民解放運動(SPLA)がスイスのジュネーヴで第二次内戦終結や民主化に向け協力するとの覚書に調印したため、政府はトラービーらを逮捕して対抗した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "バシール大統領は2002年8月19日、小規模な内閣改造を実施し、イスラム主義中道派のウンマ党(UP)の分派メンバーを閣僚に登用した。さらに11月30日には中道リベラル政党「民主統一党」(DUP)の分派メンバーも入閣させるなど、野党勢力の取り込みを図ることで、SPLAとの和平交渉と併せて柔軟姿勢を示した。2005年1月9日には、バシールとSPLMとの間で包括和平(CPA)、半年後の暫定政府発足について合意に達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "西部のダルフール地方3州でも2003年以降、アラブ系と非アラブ系の定住民フール人や遊牧民ザガワ人などとの対立が激化し、ダルフール紛争が勃発した。双方が武装勢力を組織したが、特に政府の支援を受けたアラブ系の民兵組織ジャンジャウィードの勢力が強く、民族浄化が行なわれたとして非難の対象となった。また、多くの難民がチャドに流れ込み、ザガワ人のイドリス・デビ大統領が実権を握るチャドとの関係も極度に悪化した。2004年アフリカ連合(AU)が監視要員の派遣を決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2005年7月9日、バシールを大統領、SPLAのジョン・ガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "7月30日、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死。ヘリコプターが悪天候のため墜落したとされる。これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。また、SPLAを束ねてきたガランの死は、SPLA内部の権力争いにつながる可能性を帯びている。さらに、SPLAは南部側の政府代表といってもそのうちの旧主流派はディンカ人中心だった。南部のヌアー族が政権の支援を受け、SPLAへの攻撃を開始するとの憶測も流れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ウガンダとコンゴ民主共和国軍による神の抵抗軍掃討作戦ガランバ攻勢(英語版)(2008年12月14日 - 2009年3月15日)に南スーダン自治政府が協力する部隊を派遣した。2009年3月4日、ダルフールでの戦犯容疑(人道に対する罪などの容疑)でバシール大統領が国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を出されている。同大統領は、逮捕状発行後、エリトリアとエジプトを訪問している。2009年3月26日、バシール大統領はリビアを訪問し、アフリカ連合(AU)の議長でもあるカダフィ大佐と会談した。リビアが3国目。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2010年7月11日、国際連合とAUの合同ダルフール派遣団は、同地方での武力紛争により、6月の死者は221人に達したことを明らかにした。2010年7月12日、国際刑事裁判所 (ICC)は、バシール大統領にジェノサイド(大量殺害)犯罪容疑で2回目の逮捕状を発行した。7月15日、スーダンの2005年包括和平合意(CPA)の北部のスーダン国民会議(NC)と南部のSPLAは、南北境界画定合同委員会を補佐する小委員会の設置で合意したことを明らかにした。この南北境界画定合同委員会は3年前に発足した。7月21日、バシール大統領はサヘル(サハラ南縁)諸国首脳会議のためチャドを訪れた。同大統領がICC 締結国を訪問するのは初めてである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "南北和平協定における協定事項の一つであるアビエイの境界を巡り、北部側が提案を拒絶しディンカ系住民を攻撃し2007年末より戦闘が激化し、2008年には正規軍同士が衝突するに至った。その後、調停により帰属未決定のアビエイ地域を除くアビエイ地区はスーダン側の支配下となったが、アビエイ地域以外のアビエイ地区に含まれていたヘグリグ油田は、南スーダンに帰属すると主張し、2012年3月に南スーダン軍が同油田に侵攻。南北スーダン国境紛争が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2011年1月9日、南部の自治政府による独立の是非を問う住民投票が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票のために国連はスーダン派遣団を送り、住民投票監視団の一員として元アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターがスーダン入りしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2011年7月9日に南スーダンは独立したが、南スーダンには石油など豊富な地下資源が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に新たな混乱が生じる可能性もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2011年11月10日、スーダン軍は、南スーダン北部ユニティ州イダや上ナイル州の難民キャンプを爆撃した。また、同軍は南コルドファン州と青ナイル州でスーダン人民解放運動・北部(SPLM・N)民兵の掃討作戦を進めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2012年には国境の油田を巡って武力衝突が発生している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2018年末よりパンの値上げをきっかけとして反政府運動が全土で発生し、2019年4月11日に国防軍がバシールを大統領から解任し身柄を拘束。ここに30年にも及ぶバシール独裁政権は終焉を迎えた(2019年スーダンクーデター)。政権は軍による暫定軍事評議会が掌握し、これに対し民主化勢力「自由・変革同盟」は民選による政権樹立を要求。双方による協議は幾度となく中断したものの、8月17日、両者は3年3か月間の暫定政権で共同統治を行い、そのトップはまず軍人が1年9か月務め、その後に文民が1年6か月務めることとし、2022年に選挙を実施することで最終合意し、暫定憲法に調印した。8月21日に新たな統治機構である最高評議会が発足し、11人のメンバーが宣誓したほか、経済学者のアブダッラー・ハムドゥークが首相への就任宣誓を行い、新政権が発足した。アフリカ連合(AU)は軍部とデモ隊の衝突が発生したことを機に加盟国としての資格を停止したが、暫定政権樹立を受け、9月6日に停止処分を解除した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2021年10月25日、暫定政権のハムドゥーク首相が軍に拘束され、統治評議会のブルハン議長が同評議会と暫定政権の解散を宣言。全土への非常事態発令を表明した(2021年10月スーダンクーデター)。11月21日、ブルハン将軍が、自宅に軟禁されていたハムドゥーク首相の復職に同意した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "スーダン軍は民政移管に向けた枠組みについて2022年に民主派勢力と合意したが、アラブ系民兵組織ジャンジャウィードを前身とする準軍事組織RSF(即応支援部隊)と組織統合を巡って対立し、2023年4月15日から首都ハルツームなど国内各地で戦闘に突入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2019年4月11日に軍部によりクーデターが実行され、憲法を停止し暫定軍事政権が実権を握ったため、議会は機能を停止している。同年8月21日よりアブダッラー・ハムドゥークが首相となり組閣。軍と民主化勢力による3年3ヶ月の暫定共同統治を行っており、2022年の選挙実施を目指している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "クーデター前の議会は一院制の国民議会(360議席)で、全議席の60 %を小選挙区制、15 %を比例代表制で選出する。残り25 %は女性議員枠である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "バシール政権下では自身が結成した国民会議が与党であった。20年以上も軍事独裁政権が続いたが、2010年4月11日に24年ぶりの複数政党制選挙が行なわれた。しかし、大統領選挙では政権側の不正を理由に、最大野党のスーダン人民解放運動(SPLM)が大統領選挙を、一部野党が各種選挙をボイコットしたため、バシールが得票率68.24 %で再選を果たした。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "行政府の長たる首相職は1989年を最後に廃止されたが、2016年に議会が復活を決議。2017年3月1日にバシール大統領が側近のバクリー・ハサン・サーレハ(英語版)第1副大統領を首相に指名し、翌2日に就任宣誓を行った。2019年4月のクーデターにより首相職が空席となったが、同年8月に発足した暫定政権では再び首相が就任している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "一方で法の改正も進められており、中東地域やアフリカ各国で現在も続けられている因習を違法化する法律改正が承認されている。2020年7月10日、同国の軍民共同の統治評議会により、因習として続けられている女性器の切除(女子割礼)を違法化するとの承認が報道された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "バシール政権は、湾岸戦争時にはイラクのサッダーム・フセインを支持してオサマ・ビンラディンの国際テロ組織アルカイダも支援したとされたことで、1993年にはアメリカ合衆国にテロ支援国家の指定を受け、以後、2020年12月に指定が解除されるまで経済制裁が続いた。この間、一時改善の兆しがあったものの、2003年のダルフール紛争勃発後はさらに欧米諸国と対立した。このため、バシール政権はヌメイリ政権時代から友好的でスーダンの豊富な資源を求めている中華人民共和国との関係を深めて中国企業はスーダンの産油企業2つの最大株主となっており、国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団で中国からの国連平和維持部隊も受け入れ、中国の援助で自らの大統領府も建設するなど、経済・軍事両面で両国は密接な関係を持っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "またロシア連邦もプーチン大統領が、2017年11月に訪露したバシール大統領と会談するなど、スーダンとの関係を重視している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことで、サウジアラビアとイランの関係は急速に悪化。イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけに、サウジアラビアはイランとの国交を断絶した。スーダンもこれに続いて、イランとの国交断絶を表明した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2017年12月、トルコのエルドアン大統領がスーダンを訪問し、かつてオスマン帝国の影響下にあった紅海沿岸のスワーキン島(英語版)をトルコが開発する計画を発表。トルコと対立するサウジアラビアやエジプトが反発している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2020年、隣国のエチオピア北部ティグレ州でエチオピア政府軍とティグレ人民解放戦線の間でティグレ紛争が始まると、2万人を超す難民がガダーレフ州やカッサラ州に流入、難民キャンプが設営された。スーダンは、1980年代にエチオピアで発生した飢饉の際にも難民キャンプの設営を許容している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "在留日本人数 - 134名(2017年10月時点)", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "在日スーダン人数 - 230名(2017年12月時点)", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "スーダンは、北のエジプト、南の南スーダンとの間に領土問題を抱えている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "対エジプトではエジプトが領有権を主張して実効支配しているハラーイブ・トライアングルとワジハルファ突出部について、スーダンは領有権を主張している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "対南スーダンでは、将来的に住民投票によってスーダン領になるか南スーダン領となるかを決定することになっているアビエイ地域と、南スーダンが領有権を主張しているカフィア・キンギ地域について、スーダンが実効支配している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、エジプトとの間にあるビル・タウィール地域は、スーダンもエジプトも、またその他の国のいずれもが領有権を主張しておらず、世界的にも珍しい無主地となっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "イギリスとソビエト連邦、中国の軍事顧問団が政変の度に入れ替わりつつ指導し、育成が続けられてきた。スーダン内戦を通じての対ゲリラ戦の実績はあるが、他国との本格的な交戦実績はない。2000年代に入り、石油輸出で得られた外貨を武器購入に充て、紛争を行っていることから国際的な非難を浴びている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "主に中国製の武器が使用された。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "戦車は中国から96式戦車が輸出されている。ソ連と対立し始めたヌメイリ政権時代の1972年から購入された62式軽戦車70輌、59式戦車50輌なども保有している。また、85-IIM式戦車のライセンス生産版である「アル・バシール」を開発している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "自動小銃も、中国から81式自動小銃、56式自動小銃が輸出され、ライセンス生産も行われている。また、M16のコピー品であるノリンコ社のCQ 311を「テラブ」という名前でライセンス生産している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、多連装ロケット砲「WS2」の輸出が行われた模様である。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "これら中国から輸出された武器により、ダルフールでの虐殺が行われており、スーダンならびに中国は国際的な非難を浴びている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "保有機数や運用実態の詳細は不明であるが、スーダン空軍では固定翼機はMiG-21(主として中国生産型のJ-7)及びMiG-29を、回転翼機はMi-24/35やMi-8/17などを保有している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "MiG-29については、ダルフール紛争に関する国際的な批判にも拘らず、2003年から2004年にかけてロシアより最新派生型の一つMiG-29ESh戦闘機10機とMiG-29UB練習機2機が輸出され、国際的な注目を集めた。ロシアは、MiG-29のこの派生型は対地攻撃には使用できない仕様であり紛争には関係しないと説明していたが、一方で対地攻撃ヘリコプターMi-35の新型を引渡している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "空軍機材の主となっているのはこのような旧ソ連製や中国製の機材であるが、その他に補助的ながら西側諸国製の機材も運用している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "国土の大部分は広大な平原で、ほぼ中央をナイル川とその支流が縦貫する。北部はヌビア砂漠、南部はステップ気候であり、サヘル地帯が広がっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "北部は乾燥した砂漠気候であり年間降水量は100ミリメートル以下である。わずかにナイル川や紅海沿岸に少数の人々が住むに過ぎない。紅海沿岸は起伏が多く、平野はあまり発達していないが、湾入も少なく良港はほとんどない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "中部は乾季には乾燥するが、雨季にはまとまった降水量があり、特に白ナイル川以東のゲジラ地区などは肥沃な農業地帯となっている。南部のコルドファンや西部のダルフールでも事情は同じで、雨季には農耕も行われ、さらに雨を受けて広大な草原となった土地を牧草地として、牧畜が盛んである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "西部のダルフール地域にあるマッラ山地や中央部のヌバ山地など、いくつかの山地が孤立して存在している。最高地点はマッラ山地のデリバ・カルデラ(標高3042メートル)。南にいくに従って雨量が増え、ステップ気候となっていく。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "なお、北部の砂漠と紅海沿岸は一年中、日中の気温が40°Cを超す炎熱の地である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "水系は、ほぼ全てがナイル川へと流入する。中央を縦貫する白ナイル川を基軸としている。ナイル川の流量は南スーダン最北部のスッドにて激減しているが、これが増大するのは、青ナイル川を合わせる首都ハルツーム以北である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "青ナイルは乾季には雨量が減少するものの、雨季にはエチオピア高原に降った大量の雨を運んでくるため流量が極度に増大し、かつては下流のエジプトで定期的に洪水を引き起こしていた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "その後、北のアトバラで、やはりエチオピア高原から流れてきたアトバラ川を合わせた後、エジプト領内へと流れ下っていく。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "18の州がある。()内は主要都市。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "主要都市は、首都ハルツームの他、オムドゥルマン、アル・ハルツーム・バフリ、ポートスーダンがある。ハルツーム、オムドゥルマン、アル・ハルツーム・バフリはナイル川を挟んで隣接しており、三つ子都市とも呼ばれ、スーダン最大の都市圏を形成している。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "国際通貨基金(IMF)の推計によると、2013年のスーダンの国内総生産(GDP)は667億ドルであり、アフリカ全体では7位に位置する。一方、一人当たりのGDPは1941ドルと、世界平均の20 %を下回る水準にある。1990年代までは、長引く内戦や経済制裁などで、経済は完全に破綻状態であり、2019年現在スーダンは平和基金会が発表している「世界失敗国家ランキング」8位の国である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "他方で、石油資源ではMelut Basin(英語版)(Adar/Yale油田)やMuglad Basin(英語版)(ヘグリグ〈Heglig〉油田、ユニティ〈Unity〉油田、Abu Gabra油田)やBlue Nile Riftが大きく世界の注目を浴び、アメリカの経済制裁が加えられた期間に石油メジャーの間隙を突く形で、1990年代後半から中国政府のバックアップを受けた中国系企業が進出した。数万人規模の中国人労働者がスーダンに派遣され、石油プラント、石油パイプライン(Greater Nile Oil Pipeline, PetroDar Pipeline)が建設された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "Greater Nile Oil Pipelineは全長1600キロメートルで、ユニティ油田 - ヘグリグ油田 - ハルツーム (Khartoum Crude Oil refinery) - ポートスーダン(紅海に面する港)を繋いでいる。Muglad Basinから産出する石油は “Nile Blend” と呼ばれている。後に、Thar Jath油田からヘグリグまで172キロメートルパイプラインが延伸された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "PetroDar Pipelineは全長1380キロメートルで、Palogue油田 - Adar/Yale油田 - Fula油田 - ポートスーダン(紅海に面する港、Port Sudan Crude Oil Refinery)を繋いでいる。Melud Basinから産出する石油は “Dar Blend” と呼ばれている。これら油田の大部分と南北合計の原油確認埋蔵量の約80 %が南スーダンに帰属するため、政府は南スーダンに対し高額の原油通過量を要求し、独立後の火種となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "同様にレアメタルの埋蔵量も注目を集めている。そのほか、メロウェダムに象徴される大規模な水力発電所及びダム、鉄道(老朽化したポートスーダンからハルツーム間)の建設も中国系企業が受注するなど、極めて濃厚な協力の下、徐々に経済が立ち直る兆しが見られる。以上の理由から、特に東部では経済が急成長しており、首都ハルツームでは総工費40億円を掛けて63塔もの高層ビルの建築が進行中である。しかし、石油資源などが豊富な地域は南部スーダン地域であり、スーダンの支援国である中国は南スーダンにも国連平和維持部隊を派兵して油田権益を確保している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "東部に限れば、「アフリカのパン篭」とも言われる肥沃なナイル川周辺の農地を使っての小麦、トウモロコシの栽培が盛んである。とくに、ハルツームより南の白ナイル川と青ナイル川に挟まれた三角地帯では、1925年にイギリスの植民地政府によってゲジラ計画がおこなわれ、大規模灌漑によって小麦や綿花の大穀倉地帯となった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1993年の内戦時に大規模な飢饉(英語版)が、1998年により大規模の飢饉(英語版)が発生したことから一時期は低迷状態にあったが、最近はトルコやサウジアラビアなどの周辺諸国の企業による農業投資が盛んである。とりわけ湾岸アラブ諸国は、国土の大半が農業に不向きな砂漠のため食料供給地としてのスーダンに着目している。2008年の農業投資契約数は33件で07年度の3倍である。スーダン政府は、投資企業に土地を安く提供、関税免除などの特典で、投資国を引き付けようとしている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "国営のスーダン鉄道が運行している。1890年代に建設が開始され、現在の総延長は5311キロメートルにのぼる。国営の全てが狭軌で、うち1067ミリメートルが4595キロメートル、610ミリメートルが716キロメートルある。首都ハルツームから北のワジハルファや北東のポートスーダンへ向かう線路と、南のセンナールを経由して西のダルフールの中心都市ニヤラや南部スーダン北部のワーウへと向かう線路があるが、ワーウへ向かう線路は現在運休しており、他の区間も老朽化が進んでいる。最も重要な路線は首都ハルツームとスーダン唯一の外港であるポートスーダンを結ぶ路線でスーダンの鉄道輸送の3分の2はこの路線であり、中国によって車両は近代化されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ポートスーダンが主な港湾都市になっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "北部のナイル・サハラ語族ヌビア諸語を話すヌビア人(英語版)、中部のヌバ山地(英語版)のニジェール・コンゴ語族コルドファン語派を話すヌバ族や、南部のカドゥ諸語(英語版)を話す民族など非アラブ黒人が52 %、北部を中心にアラブ化した黒人や黒人との混血を含む「アラブ系」(en:Sudanese Arabs) が総人口の約39 %、東部のアフロ・アジア語族クシ語派ベジャ語を話すベジャ人(英語版) (en:Ababda people、Rashaida people) が6 %、外国人が2 %、その他1 %。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ダルフールの北部にザガワ族、中部にフール人、南部にバッガーラ族(英語版)が居住している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "アラビア語(スーダン方言)と英語が公用語。ヌビア語など非アラブ民族語も広く話される。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2005年の現行憲法は公用語について以下のように定めている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "第八条", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "スンナ派を中心とするイスラム教が70 %。南部非アラブ人を中心にアニミズムなどの伝統宗教(18 %)とキリスト教(5 %)。北部に20万人程コプト教徒がいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "キリスト教徒の多い南スーダンの分離独立に伴い、相対的にスーダンにおける非イスラム教徒比率は下がり、現在はスーダンにおけるイスラム教徒比率は、周辺の北アフリカ諸国同様絶対多数派となっている。現在は北部のコプト教徒、コルドファン丘陵地域のいくつかの伝統宗教やキリスト教を信仰する民族グループを除き、国民の大多数がイスラム教徒である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "南スーダンが独立したことで、キリスト教徒への迫害が強まっており、スーダン国内のキリスト教徒は市民権を失った状態にある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "教育制度は8・3・4制で構成されており、中等教育が小学校8年、中学校(Secondary School)3年、高等教育は大学4年となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "スーダンの義務教育は小学校8年のみであり、加えて日本の高等学校やアメリカのハイスクールに該当する教育機関は存在していない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "大学は約25〜30校が存在しており、代表的なものとしてはゴードン記念大学(英語版)が挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "バシール政権成立後、教育のイスラム化が重視され、1991年にはイスラム教育が導入された。これは非イスラム教圏にも適用されたため、国内の非イスラム教徒の反発を招いた。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "同国は歴史的背景などの諸事情により経済状況が不安定で未だに解消されていない為、その影響から40 %以上の子供が学校へ充分に通えていない問題点を抱えている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "大きく分けると、スーダンにイスラームを持ち込んだアラブ化されたエジプト人、彼らと現地先住黒人との混血児、そして彼らに帰順しイスラームのみならずアラビア語を受け入れた先住黒人達、この3者の子孫で構成され、現代口語アラビア語スーダン変種を話す「アラブ人」が北部を中心に勢力を張り、宗教的にはイスラム教を受容しつつもアラビア語は受け入れなかったイスラム系先住民が西部に勢力を張り、そしてイスラームすらも受け入れず先祖伝来のアニミズムを守るか、一部キリスト教に改宗した先住民が南部に勢力を張っている。この3者が現代スーダンの住民対立の大きなグループとして挙げられる。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "この中でも「アラブ人」と他の2者との対立が強く、支配者「アラブ」対周辺化された「非アラブ」という対立軸が現代のスーダンの紛争においてしばしば見られる。宗教の対立は近年のスーダンの紛争では、決定的な対立軸ではない。人種的には前述されているように、北部はホワイトアフリカに属するエジプトと隣接しているためにコーカソイド系との混血が進み、南部はニグロイドとコーカソイドの混血は余り起きなかった。なお北部住民のアラブ系住民は南部の住民を「黒人」と呼ぶが、人種的な分類というよりは、アラブ化を受けなかった先住民というニュアンスで用いている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2019年に旧政権であるバシール政権が退陣してから同国内の治安状況は一定の落ち着きを見せているものの、暫定政府が当面の課題として掲げている経済政策が現時点では十分な成果を上げていると言いがたく、物資(主に燃料や小麦粉)の不足に加えて物価の高騰はいまだ解消されず終いとなっている侭である。これに対する散発的かつ小規模なデモが発生しているほか、首都ハルツームでは更なる改革を求めるデモも発生しており、負傷者も出る騒動へと発展している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "この為、スーダン各地で今後、大規模な抗議活動が発生する可能性は完全に否定できない状態となっており、同国での滞在における危険度が高まっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "また、ハルツームや各州都では警察などの治安機関が比較的機能していると言われているが、現今のこうした経済情勢を背景に近年はひったくりや車上狙いといった犯罪が増加傾向にある。一方で外国人は、一般的に裕福と捉えられていることから格好のターゲットになり易く、滞在中は細心の注意が求められる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "スーダンは北部アフリカにおいて小説家や詩人などの作家を多く輩出している国の一つである。代表的な人物としてハメド・アル=ナジル(英語版)やアミール・タージ・アル=サー(英語版)が知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "また、同国の人権活動家であり教師のマフジョーブ・シャリフ(英語版)は、作家としての一面を持っていた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "スーダン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が1件、暫定リストが9件存在する(2019年の第43回世界遺産委員会終了時点)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "スーダンの祝祭日はイスラム暦に固定されているため、世界において一般的となっているグレゴリオ暦とは異なる面があることを留意する必要がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "スーダン国内でも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが圧倒的に一番人気のスポーツとなっており、1965年にプロサッカーリーグのスーダン・プレミアリーグが創設されている。スーダンサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカースーダン代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには9度出場しており、1970年大会では初優勝に輝いている。また、東部・中部アフリカサッカー協会評議会 (CECAFA) が主催するCECAFAカップでは3度の優勝経験を持つ。", "title": "スポーツ" } ]
スーダン共和国、通称スーダンは、北東アフリカに位置する共和制国家である。首都はハルツーム。国境を接する隣国は北がエジプト、西北がリビア、西がチャドと中央アフリカ、南が南スーダン、南東がエチオピアとエリトリア。東側は紅海に面しており、その対岸側にはサウジアラビアがある。 アルジェリア、コンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を有する。2011年7月に南スーダン共和国が分離独立する前は、面積250万5813平方キロメートルとアフリカ大陸最大の国土を有していた。
{{Otheruseslist|スーダン共和国|歴史的な広域地名|スーダン (地理概念)|その他の用法|スーダン (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 国 | 略名 = スーダン | 日本語国名 = スーダン共和国 | 公式国名 = '''{{lang|ar|جمهورية السودان}}'''<small>(アラビア語)</small><br />'''{{lang|en|Republic of the Sudan}}'''<small>(英語)</small> | 国旗画像 = Flag of Sudan.svg | 国章画像 =[[ファイル:Emblem of Sudan.svg|108px]] | 国章リンク =([[スーダンの国章|国章]]) | 標語 = {{Lang|ar|النصر لنا}} ({{transl|ar|DIN|al-naṣr lanā}})<br />(アラビア語:勝利は我々のもの) | 国歌 = [[我ら、神と祖国の兵士]]{{center|[[ファイル:Sudanese national anthem, performed by the U.S. Navy Band.oga]]}} | 位置画像 = Sudan (orthographic projection) highlighted.svg | 公用語 = [[アラビア語]]、[[英語]] | 首都 = [[ハルツーム]] | 最大都市 = [[オムドゥルマン]] | 元首等肩書 = [[スーダンの大統領一覧|主権評議会議長]] | 元首等氏名 = [[アブドゥルファッターハ・アブドッラフマーン・ブルハーン|アブドゥルファッターハ・ブルハーン]] {{Efn|[[2019年スーダンクーデター|2019年のクーデター]]以降3年間の暫定統治期間は、最高機関として、11名による合議制である主権評議会が設置されていた<ref name="主権評議会">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_005104.html スーダンにおける暫定的な統治機構の設立に向けた合意について(外務報道官談話)][[日本国外務省]](2019年7月9日)2023年4月18日閲覧</ref>が、2021年10月25日にブルハーン議長が一方的に解散を宣言し、11月11日に14名による新たな主権評議会を組織。}} | 首相等肩書 = [[スーダンの首相の一覧|首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|オスマン・フセイン (政治家)|en|Osman Hussein (politician)|label=オスマン・フセイン}}(暫定) | 面積順位 = 16 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 1,846,972 | 水面積率 = 5.2% | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 30 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 47,958,856 | 人口密度値 = 26.0 | 人口追記 = <ref>{{Cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/sudan/ |title=Sudan |publisher=[[ザ・ワールド・ファクトブック]] |language=en |accessdate=2022年8月26日}}</ref> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 2兆297億5300万[[スーダン・ディナール]]<ref name="imf2019">{{Cite web|url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=732,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|accessdate=2021-10-20}}</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 96 | GDP値MER = 335億6400万{{R|imf2019}} | GDP MER/人 = 776.549(推計){{R|imf2019}} | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 69 | GDP値 = 1862億2600万{{R|imf2019}} | GDP/人 = 4308.614(推計){{R|imf2019}} | 建国形態 = [[国家の独立|独立]]<br />&nbsp;- 日付 | 建国年月日 = [[エジプト]]と[[イギリス]]より<br />[[1956年]][[1月1日]] | 通貨 = [[スーダン・ポンド]] | 通貨コード = SDG | 時間帯 = +2 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = SD / SDN | ccTLD = [[.sd]] | 国際電話番号 = 249 | 注記 = }} '''スーダン共和国'''(スーダンきょうわこく、{{lang-ar|جمهورية السودان}}、{{lang-en|Republic of the Sudan}})、通称'''スーダン'''は、[[北東アフリカ]]に位置する[[共和制]][[国家]]である。[[首都]]は[[ハルツーム]]。[[国境]]を接する隣国は北が[[エジプト]]、西北が[[リビア]]、西が[[チャド]]と[[中央アフリカ]]、南が[[南スーダン]]、南東が[[エチオピア]]と[[エリトリア]]。東側は[[紅海]]に面しており、その対岸側には[[サウジアラビア]]がある。 [[アルジェリア]]、[[コンゴ民主共和国]]に次いで[[アフリカ大陸]]で3位の面積を有する。[[2011年]]7月に南スーダン共和国が分離独立する前は、面積250万5813[[平方キロメートル]]とアフリカ大陸最大の国土を有していた。 {{TOC limit}} {{clear}} == 国名 == 正式名称は[[アラビア語]]で、'''{{Lang|ar|جمهورية السودان}}'''(<small>[[ラテン文字]]転写</small> : Jumhūrīyat as-Sūdān; ジュムフーリーヤト・アッ=スーダーン,つなげ読みするとジュンフーリヤトゥ・ッ=スーダーン)。通称は、'''{{Lang|ar|السودان}}'''(as-Sūdān; アッ=スーダーン)。 公式の[[英語]]表記は、{{en|''Republic of the Sudan''}}。通称、{{en|''Sudan''}} ({{IPA-en|suˈdæn, suːˈdɑːn|}})。 [[日本語]]の表記は'''スーダン共和国'''で、通称は'''スーダン'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、'''蘇丹'''。 * [[1899年]] - [[1956年]] [[英埃領スーダン]] * [[1956年]] - [[1969年]] スーダン共和国 * [[1969年]] - [[1985年]] スーダン民主共和国 * [[1985年]] - スーダン共和国 「スーダーン」はアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は[[北アフリカ]]の[[アラブ人]]たちからみて南に住む[[黒人]]の居住地域、すなわち[[西アフリカ]]から[[東アフリカ]]に至るまでの[[サハラ砂漠]]以南の広い地域を指す地域名称で、国名としてのスーダンと区別するため「[[スーダン (地理概念)|歴史的スーダン]]」ともいう。国家としてのスーダンは、地域名としての「スーダン」の東部を占め、歴史的には東スーダーンと呼ばれた地域に当たる。南スーダンの独立後、スーダン共和国を指して「北スーダン」と呼ばれることは稀だが、二国間関係を表す際に「南北スーダン」とする表現はよく見られる。 == 歴史 == {{main|{{仮リンク|スーダンの歴史|en|History of Sudan}}}} === 古代ヌビア諸王国 === [[ファイル:Sudan Meroe Pyramids 2001.JPG|サムネイル|300ピクセル|[[メロエ]]の[[ヌビアのピラミッド|ピラミッド]]上空写真]] かつてこのスーダンの[[ナイル川]]流域北部は[[ヌビア]]と呼ばれ、北に栄えた[[古代エジプト]]の影響を強く受けた地域である。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して[[金]]や[[象牙]]の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返した。そうした中、紀元前2200年ごろに、南部から移動してきた黒人の集団がこの地域に[[クシュ王国]]と呼ばれるはじめての王国を建国した。この王国は[[エジプト中王国|中王国時代のエジプト]]の影響を受けながら勢力を拡大していった。その後、エジプトが[[エジプト新王国|新王国時代]]に入ると[[トトメス1世]]がクシュを滅亡させた。 紀元前900年ごろ、[[ゲベル・バルカル|ナパタ]]を都としてクシュは再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入って[[エジプト第25王朝]]を建国した。第25王朝は[[アッシリア]]に敗れヌビアへと撤退したが、ヌビアの支配権は保持し続けた。[[紀元前6世紀]]半ばにクシュは首都をさらに南の[[メロエ]]へと遷都し、以後この王国は[[メロエ王国]]の名で知られることとなった。メロエは[[牧畜]]と[[ソルガム]]の農耕を主産業とし、さらに[[鉄]]の産地としても知られた。 === キリスト教化 === [[4世紀]]ごろ、メロエは[[エチオピア高原]]の[[アクスム王国]]によって滅ぼされ、その故地は北から{{仮リンク|ノバティア王国|en|Nobatia}}、{{仮リンク|マクリア王国|en|Kingdom of Makuria}}、{{仮リンク|アルワ王国|en|Alodia}}の三王国に分かれた。三国ともに[[5世紀]]ごろに[[キリスト教]]を受容し、以後1000年近くキリスト教を信仰し続けた === イスラム化 === {{main|{{仮リンク|スーダンのイスラム化|en|Islamization of Sudan}}}} [[イスラム教]]勢力によって吞み込まれ、[[1505年]]にはイスラム教の{{仮リンク|センナール (スルターン国)|en|Sennar (sultanate)|label=フンジ・スルターン国}}が建国されてキリスト教勢力は消滅した。[[1596年]]には西の[[ダルフール]]においてもイスラム教の[[ダルフール・スルターン国]]が建国され、この地方は完全にイスラム化された<ref>宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』第8版([[講談社現代新書]]、2003年2月20日)pp.{{nbsp}}149&ndash;158</ref>。 === ムハンマド・アリー朝 === {{main|ムハンマド・アリー朝|[[:en:History of Sudan under Muhammad Ali and his successors]]}} [[1821年]]、エジプトの[[ムハンマド・アリー朝]]の[[イスマーイール・パシャ]]により後のスーダン北部が征服された。エジプトは次第に南部に支配を広げた。<!--([[:en:History_of_Sudan_under_Muhammad_Ali_and_his_successors|History of Sudan under Muhammad Ali and his successors (1821–1885)]])--> [[1840年]]、[[エジプト・エヤレト]]そのものが[[ロンドン条約 (1840年)|ロンドン条約]]によって[[イギリス]]の[[保護国]]となった<!--イギリスの力を借りて支配を広げていった。--> [[:en:Khedivate of Egypt]]([[1867年]]–[[1914年]])。[[1874年]]、[[ダルフール・スルターン国]]を併合。 === マフディー国家 === [[ファイル:Muhammad Ahmad al-Mahdi.jpg|サムネイル|[[マフディーの乱]]指導者ムハンマド・アフマド]] [[1883年]]に[[ムハンマド・アフマド・アル=マフディー|ムハンマド・アフマド]]を[[マフディー]]指導者とする[[マフディーの乱]]が起こり、1885年には、エジプト/イギリス軍(英挨軍)の[[チャールズ・ゴードン]]をハルツームで戦死させ、{{仮リンク|マフディー国家|en|Mahdist State}}が建設された。 [[1898年]]イギリスの[[ホレイショ・ハーバート・キッチナー|ホレイショ・キッチナー]]率いる英埃軍が[[オムダーマンの戦い]](オムドゥルマンの戦い)などでマフディー国家を制圧した。しかし、この十余年のマフディ国家の支配下で進出していた[[フランス]]のマルシャン部隊と[[イギリス軍]]がファショダ(現在の[[コドク]]) で衝突し、[[ファショダ事件]]が発生した。この事件は[[アフリカ分割]]の過程で、イギリスの南下政策とフランスの東進政策が背景にあったが、本国政府同士で話し合い、スーダンと[[モロッコ]]の利権を交換することで解決をみた。 === 英埃領スーダン === {{main|英埃領スーダン}} [[1899年]]から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下<ref group="注釈">イギリス・エジプト二元管理協定のもと、事実上イギリスの[[植民地]]となった。</ref>([[英埃領スーダン]])に置かれた。 1924年以降、北部を中心に独立運動が続けられた為、1924年以降は南北を分断して統治する手法 ([[:en:History of the Anglo-Egyptian Condominium#Britain's Southern Policy|Britain's Southern Policy]])を採用し、[[マラリア]]などの予防の名目で8度以北の者が南、10度以南の者が北に行くことはどちらも違法とされたことも分裂の元となった。 1942年の[[第二次世界大戦]]中には、[[米軍]]が{{仮リンク|ワディ・セイドナ空軍基地|en|Wadi_Seidna_Air_Base|preserve=1}}を設置した(戦後はスーダン空軍に譲渡)。 [[1945年]]、[[:en:Ismail al-Azhari]]らを中心に[[ウンマ党 (スーダン)|ウンマ党]]を結成。独立運動を主導した。 [[1954年]]自治政府が発足。 === 第一次内戦 === ==== 反イスラム蜂起 ==== 独立運動の主体及び自治政府が北部の[[イスラム教徒]]中心だったため、[[1955年]]に[[第一次スーダン内戦]](南北内戦)が勃発し北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の「非アラブ系 - {{仮リンク|アニャニャ|en|Anyanya}}」(主に[[アニミズム]]、一部[[キリスト教徒]])が戦った。 ==== 独立・第一次ウンマ党政権 ==== {{main|{{仮リンク|スーダン共和国 (1956年-1969年)|en|Republic of the Sudan (1956–1969)}}}} [[ファイル:Sudan map-ja.png|サムネイル|250ピクセル|[[1956年]]の独立から[[2011年]]の[[南スーダン]]分離までのスーダン]] [[1956年]][[1月1日]]に'''スーダン共和国'''({{lang-en-short|Republic of Sudan}}、[[1956年]] - [[1969年]])として独立した。 ==== クーデター・アブード政権 ==== [[1958年]]11月{{仮リンク|イブラヒーム・アッブード|en|Ibrahim Abboud}}将軍が[[クーデタ]]を起こし、アブード政権([[1958年]] - [[1964年]])が誕生した。 [[1960年]]ごろ、エジプトの[[ムスリム同胞団]]の支援を受けて{{仮リンク|ハサン・トラービー|en|Hassan al-Turabi}}が[[民族イスラーム戦線|イスラム憲章戦線]](ICF)を結成した。 ==== 第二次ウンマ党政権 ==== [[1964年]]のアッブード政権崩壊後、[[1965年]]4月にウンマ党と国民統一党との[[連立政権]]が誕生。 ==== クーデター・ヌメイリ政権 ==== {{main|{{仮リンク|スーダン民主共和国|en|Democratic Republic of the Sudan}}}} [[ファイル:Flag of Sudan (1956-1970).svg|サムネイル|左|モハメド・アン=ヌメイリ政権以前の国旗]] [[ファイル:Coat of arms of Sudan pre-1970.svg|サムネイル|左|モハメド・アン=ヌメイリ政権以前の国章]] [[ファイル:Emblem of the Democratic Republic of the Sudan.svg|サムネイル|左|1970年から1985年までの国章]] [[1969年]]5月、[[陸軍]]のクーデターで[[モハメド・アン=ヌメイリ|ジャーファル・ヌメイリ]]を議長とする革命評議会が全権を掌握、国名を'''スーダン民主共和国'''に改め、[[1971年]]にヌメイリが[[スーダンの大統領|大統領]]に就任した。[[1971年]]7月には、左派将校によるクーデターが発生してヌメイリ議長が一時追放されたが、同月中に反クーデターが発生して政権へ復帰した<ref>「スーダンで反クーデター 再びヌメイリ議長」『中國新聞』夕刊1971年(昭和46年)7月23日1面</ref>。第一次スーダン内戦は[[1972年]]の[[アディスアベバ合意 (1972年)|アディスアベバ合意]]まで続いた。 1975年に[[シェブロン]]により[[油田]]が[[アビエイ]]で発見されると、[[モハメド・アン=ヌメイリ|ジャーファル・ヌメイリ]]は南北境界の[[ヘグリグ|ヘグリグ油田]]地帯を北部に組入れるために地域区分の組替えを始めた<ref name="breaking2">{{PDFlink|[http://www.crisisgroup.org/library/documents/b47_sudan_abyei_web.pdf "Sudan: Breaking the Abyei Deadlock"]|456&nbsp;[[キビバイト|KiB]]<!-- application/pdf, 467229 bytes -->}}, [[国際危機グループ|International Crisis Group]], [[10月12日|12 October]] [[2007年|2007]], p. 2</ref>。 [[1978年]]、{{仮リンク|アニャニャII|en|Anyanya II}}が結成された。 === 第二次内戦 === [[1983年]]始め、南部に「新スーダン」建設を掲げる非アラブ系黒人有力民族の[[ディンカ人]]が主体の反政府組織[[スーダン人民解放軍]](SPLA)が、[[ソ連]]とエチオピアの支援を受けた[[ジョン・ガラン]]の指導下に組織され、{{仮リンク|アニャニャII|en|Anyanya II}}と反政府組織の主導権を争うようになった。ヌメイリ政権は[[1983年]]9月に[[シャリーア|イスラム法]]を導入したため、これに反発するSPLAがゲリラ闘争を拡大、[[第二次スーダン内戦]]に突入した。[[1984年]]からは{{読み仮名|[[旱魃]]|かんばつ}}とエチオピアからの[[難民]]流入で経済困難に陥った。 ==== クーデター・第三次ウンマ党政権(サディク・アル=マフディ政権) ==== {{main|{{仮リンク|スーダン共和国 (1985年-2019年)|en|History of Sudan (1985-2019)}}}} [[1985年]][[4月6日]]に{{仮リンク|アブドッラフマーン・スワール・アッ=ダハブ|en|Abdel Rahman Swar al-Dahab}}率いる軍部によるクーデターでヌメイリ大統領は失脚し、エジプトに[[亡命]]した。12月に国名は'''スーダン共和国'''に戻され、翌[[1986年]]4月、議会選で、ムハンマド・アフマドの曾孫にあたる{{仮リンク|サーディク・アル=マフディー|en|Sadiq al-Mahdi}}を首相とする文民政権が成立した。 ==== クーデター・バシール政権 ==== [[1989年]][[6月30日]]<ref>片山正人『現代アフリカ・クーデター全史』叢文社 2005年 ISBN 4-7947-0523-9 p333</ref>、[[オマル・アル=バシール]][[准将]]が[[イスラム主義]]組織の[[民族イスラム戦線]](NIF)と連携して無血{{仮リンク|1989年スーダンクーデター|label=クーデター|en|1989 Sudanese coup d'état}}を成功させた。バシールは、「革命委員会」を設置して[[非常事態宣言|非常事態]]を宣言し、自ら[[元首]]、首相、革命委員会議長、国防相に就任し、NIFの主張に沿ったイスラーム化を推進した。 [[1991年]]に隣国エチオピアに「アフリカ最大の人権抑圧者」と呼ばれる[[メレス・ゼナウィ]]新大統領が就任し、SPLAは後ろ盾を失い3分裂した。 最高機関だった革命委員会は[[1993年]]10月、民政移管に向け解散し、同委員会の権限は[[内閣]]に委譲されたが、バシールが首相を兼任したまま大統領に就任した。[[1994年]]にコルドファン州が、[[北コルドファン州]]、[[南コルドファン州]]、[[西コルドファン州]]の3州に分割された。同年、SPLAの新たな後ろ盾となっていた[[ウガンダ]]を非難すると、[[2月6日]]には[[ヨウェリ・ムセベニ]]大統領から[[神の抵抗軍]]へ[[最後通牒]]が伝えられたが、その2週間後に神の抵抗軍は南スーダンへの越境を開始した ([[:en:Lord's Resistance Army insurgency (1994–2002)]])。 [[1996年]]3月の議会選では[[欧米]]諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝し、バシール政権が存続した。[[1997年]]に[[第一次コンゴ戦争]]が終結すると、ウガンダへの姿勢も軟化させた。 [[1998年]]5月、[[政党]]結成の自由などを含む新[[憲法]]の可否を問う[[国民投票]]を実施し、96.7{{nbsp}}%が賛成により成立、1989年以来禁止されていた政党活動が解禁となった(政党登録開始は[[1999年]]1月)。しかし、バシール大統領は大統領の権限縮小を狙う国民議会の{{仮リンク|ハサン・トラービー|en|Hassan al-Turabi}}議長との確執から、1999年12月に非常事態を宣言し国民議会を解散、内閣も総辞職し、[[2000年]]1月に親トラービー派を排除した新内閣が発足、トラービーはバシール政権の[[与党]]「[[国民会議 (スーダン)|国民会議]]」(NC、NIFを母胎とするイスラム主義政党)の書記長を解任された。 トラービーは新党「人民国民会議(PNC)」を結成し対抗したが、12月の議会選、大統領選では[[野党]]はボイコットし、バシール大統領とバシール派政党が勝利した。[[2001年]]2月、PNCと南部のスーダン人民解放運動(SPLA)が[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]で第二次内戦終結や[[民主化]]に向け協力するとの覚書に調印したため、政府はトラービーらを逮捕して対抗した。 ==== バシール政権(第4次ウンマ党連立政権) ==== バシール大統領は[[2002年]][[8月19日]]、小規模な[[内閣改造]]を実施し、イスラム主義中道派のウンマ党(UP)の分派メンバーを閣僚に登用した。さらに[[11月30日]]には中道[[自由主義|リベラル]]政党「民主統一党」(DUP)の分派メンバーも入閣させるなど、野党勢力の取り込みを図ることで、SPLAとの和平交渉と併せて柔軟姿勢を示した。[[2005年]][[1月9日]]には、バシールとSPLMとの間で包括和平(CPA)、半年後の暫定政府発足について合意に達した。 === ダルフール紛争 === {{main|ダルフール紛争}} 西部のダルフール地方3州でも2003年以降、アラブ系と非アラブ系の定住民[[フール人]]や遊牧民[[ザガワ人]]などとの対立が激化し、[[ダルフール紛争]]が勃発した。双方が武装勢力を組織したが、特に政府の支援を受けたアラブ系の[[民兵]]組織[[ジャンジャウィード]]の勢力が強く、[[民族浄化]]が行なわれたとして非難の対象となった。また、多くの難民が[[チャド]]に流れ込み、ザガワ人の[[イドリス・デビ]]大統領が実権を握るチャドとの関係も極度に悪化した。2004年[[アフリカ連合]](AU)が監視要員の派遣を決定した。 === バシール政権(SPLA連立政権) === 2005年[[7月9日]]、バシールを大統領、SPLAの[[ジョン・ガラン]]最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の[[連邦]]を形成するか、南部が独立するかを決めることになった<ref>[[小田英郎]]・[[川田順造]]・[[伊谷純一郎]]・[[田中二郎 (人類学者)|田中二郎]]・[[米山俊直]]監修『新版アフリカを知る事典』([[平凡社]]、2010年11月25日新版第1刷)p.{{nbsp}}540</ref>。 [[ファイル:Political Regions of Sudan, July 2010.svg|サムネイル| {{legend|#f7931d|中央・北部諸州(アラブ系が多数派)}} {{legend|#8cc63f|[[ダルフール]]}} {{legend|#800080|東部地区([[ベジャ人]]が優勢)}} {{legend|#FFFF00|[[アビエイ]](南北の係争地)}} {{legend|#fb6282|南コルドファンと[[青ナイル州]](南北の係争地)}}]] [[ファイル:John Garang.jpg|サムネイル|左|[[ジョン・ガラン]]元スーダン人民解放軍(SPLA)最高司令官]] [[7月30日]]、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死。[[ヘリコプター]]が悪天候のため墜落したとされる。これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。また、SPLAを束ねてきたガランの死は、SPLA内部の権力争いにつながる可能性を帯びている。さらに、SPLAは南部側の政府代表といってもそのうちの旧主流派はディンカ人中心だった。南部の[[ヌアー族]]が政権の支援を受け、SPLAへの攻撃を開始するとの憶測も流れた。 ウガンダと[[コンゴ民主共和国]]軍による[[神の抵抗軍]]掃討作戦{{仮リンク|ガランバ攻勢 (2008年 - 2009年)|en|2008–09 Garamba offensive|label=ガランバ攻勢}}([[2008年]][[12月14日]] - [[2009年]][[3月15日]])に[[南スーダン]]自治政府が協力する部隊を派遣した。[[2009年]][[3月4日]]、ダルフールでの戦犯容疑([[人道に対する罪]]などの容疑)でバシール大統領が[[国際刑事裁判所]](ICC)から逮捕状を出されている。同大統領は、逮捕状発行後、エリトリアとエジプトを訪問している。[[2009年]][[3月26日]]、バシール大統領は[[リビア]]を訪問し、アフリカ連合(AU)の議長でもある[[ムアンマル・アル=カッザーフィー|カダフィ大佐]]と会談した。リビアが3国目。 [[2010年]][[7月11日]]、[[国際連合]]とAUの合同ダルフール派遣団は、同地方での武力紛争により、6月の死者は221人に達したことを明らかにした。[[2010年]][[7月12日]]、国際刑事裁判所 (ICC)は、バシール大統領に[[ジェノサイド]](大量殺害)犯罪容疑で2回目の逮捕状を発行した。[[7月15日]]、スーダンの2005年包括和平合意(CPA)の北部のスーダン国民会議(NC)と南部のSPLAは、南北境界画定合同委員会を補佐する小委員会の設置で合意したことを明らかにした。この南北境界画定合同委員会は3年前に発足した。[[7月21日]]、バシール大統領は[[サヘル]](サハラ南縁)諸国首脳会議のため[[チャド]]を訪れた。同大統領がICC 締結国を訪問するのは初めてである。 === アビエイ問題 === 南北和平協定における協定事項の一つである[[アビエイ]]の境界を巡り、北部側が提案を拒絶しディンカ系住民を攻撃し2007年末より戦闘が激化し、2008年には正規軍同士が衝突するに至った。その後、調停により帰属未決定のアビエイ地域を除くアビエイ地区はスーダン側の支配下となったが、アビエイ地域以外のアビエイ地区に含まれていた[[ヘグリグ]]油田は、南スーダンに帰属すると主張し、2012年3月に南スーダン軍が同油田に侵攻。[[南北スーダン国境紛争 (2012年)|南北スーダン国境紛争]]が発生した。 === 南スーダンの独立 === {{main|南スーダン|2011年南部スーダン独立住民投票|南北スーダン国境紛争 (2012年)}} [[2011年]]1月9日、南部の自治政府による独立の是非を問う[[住民投票]]が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票のために国連はスーダン派遣団を送り、住民投票監視団の一員として元[[アメリカ合衆国大統領]][[ジミー・カーター]]がスーダン入りしている。 2011年7月9日に南スーダンは独立したが、南スーダンには[[石油]]など豊富な[[地下資源]]が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に新たな混乱が生じる可能性もある。 2011年11月10日、スーダン軍は、南スーダン北部[[ユニティ州]]イダ<ref group="注釈">ユニティ州[[ヌバ山地]]から戦闘を逃れてきた南部系住民2万人を収容している。</ref>や[[上ナイル州]]の[[難民]]キャンプを爆撃した。また、同軍は[[南コルドファン州]]と[[青ナイル州]]でスーダン人民解放運動・北部(SPLM・N)民兵の掃討作戦を進めている。 2012年には国境の油田を巡って[[南北スーダン国境紛争 (2012年)|武力衝突]]が発生している。 === バシール政権の崩壊と暫定政権の成立 === 2018年末よりパンの値上げをきっかけとして反政府運動が全土で発生し、2019年4月11日に国防軍がバシールを大統領から解任し身柄を拘束。ここに30年にも及ぶバシール独裁政権は終焉を迎えた([[2019年スーダンクーデター]])。政権は軍による暫定軍事評議会が掌握し、これに対し民主化勢力「自由・変革同盟」は民選による政権樹立を要求。双方による協議は幾度となく中断したものの、8月17日、両者は3年3か月間の暫定政権で共同統治を行い、そのトップはまず軍人が1年9か月務め、その後に文民が1年6か月務めることとし、2022年に選挙を実施することで最終合意し、暫定憲法に調印した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3233929|title=スーダンのデモ隊、軍事評議会との歴史的合意に歓喜|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2019-07-06|accessdate=2019-10-10}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3240276|title=スーダンで暫定憲法に調印、8か月の混乱に終止符 喜びの声 夜更けまで|work=AFPBB News|agency=フランス通信社|date=2019-08-18|accessdate=2019-10-10}}</ref>。8月21日に新たな統治機構である最高評議会が発足し、11人のメンバーが宣誓したほか、経済学者の[[アブダッラー・ハムドゥーク]]が首相への就任宣誓を行い、新政権が発足した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3240858|title=スーダンで文民多数の統治機構発足 首相就任|work=AFPBB News|agency=フランス通信社|date=2019-08-22|accessdate=2019-10-10}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.voanews.com/africa/sudans-opposition-alliance-chooses-prime-minister|title=Sudan's Opposition Alliance Chooses Prime Minister|agency=[[ボイス・オブ・アメリカ]]|date=2019-08-16|accessdate=2019-10-10}}</ref>。アフリカ連合(AU)は軍部とデモ隊の衝突が発生したことを機に加盟国としての資格を停止したが、暫定政権樹立を受け、9月6日に停止処分を解除した<ref>{{Cite news|url=https://www.trt.net.tr/japanese/shi-jie/2019/06/07/ahurikalian-he-gasudannojia-meng-zi-ge-woting-zhi-1214464|title=アフリカ連合がスーダンの加盟資格を停止|work=TRT 日本語|agency=[[トルコ国営放送]]|date=2019-06-07|accessdate=2019-06-09}}{{リンク切れ|date=2021年10月}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.jiji.com/jc/article?k=2019090800378&g=int |title= スーダン、AUに復帰=組閣受け資格停止解除 |newspaper= 時事ドットコム |publisher= [[時事通信]] |date= 2019-09-08 |accessdate= 2021-10-25 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20191106133943/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019090800378&g=int |archivedate= 2019-11-06 }}</ref>。 2021年10月25日、暫定政権のハムドゥーク首相が軍に拘束され、統治評議会のブルハン議長が同評議会と暫定政権の解散を宣言<ref name="jiji20211025">{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20211025125029/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021102500617&g=int |title= スーダン、暫定政権を解散 軍が首相ら拘束、クーデターか |newspaper= 時事ドットコム |publisher= 時事通信社 |date= 2021-10-25 |accessdate= 2021-10-25 }}</ref>。全土への[[非常事態宣言|非常事態発令]]を表明した<ref name="jiji20211025"/>([[2021年10月スーダンクーデター]])。11月21日、ブルハン将軍が、自宅に軟禁されていたハムドゥーク首相の復職に同意した<ref>{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20211121063523/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021112100282&g=int |title= 軍、首相の復職に同意 拘束の高官ら解放へ―スーダン |newspaper= 時事ドットコム |publisher= 時事通信社 |date= 2021-11-21 |accessdate= 2021-11-21 }}</ref>。 スーダン軍は民政移管に向けた枠組みについて2022年に民主派勢力と合意したが、アラブ系民兵組織ジャンジャウィードを前身とする[[準軍事組織]]RSF([[即応支援部隊]])と組織統合を巡って対立し、2023年4月15日から首都ハルツームなど国内各地で戦闘に突入した<ref>「[https://www.asahi.com/articles/ASR4K74JRR4KUHBI021.html スーダン 民間97人死亡 各地で戦闘、被害拡大も]」『[[朝日新聞]]』朝刊2023年4月18日(国際面)同日閲覧</ref>。{{see also|2023年スーダンでの戦闘}} == 政治 == {{main|{{仮リンク|スーダンの政治|en|Politics of Sudan}}}} {{main|スーダンの首相の一覧|スーダンの大統領一覧}} [[ファイル:Omar al-Bashir, 12th AU Summit, 090131-N-0506A-342.jpg|サムネイル|第8代大統領[[オマル・アル=バシール]]]] 2019年4月11日に軍部によりクーデターが実行され、憲法を停止し暫定軍事政権が実権を握ったため、議会は機能を停止している。同年8月21日より[[アブダッラー・ハムドゥーク]]が首相となり組閣<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-06 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3243249?cx_part=related_yahoo |title=スーダン首相、新内閣の陣容発表 民政移管へ大きく前進 |publisher=AFP |accessdate=2020-05-14}}</ref>。軍と民主化勢力による3年3ヶ月の暫定共同統治を行っており、2022年の選挙実施を目指している。 クーデター前の議会は[[一院制]]の国民議会(360議席)で、全議席の60{{nbsp}}[[%]]を[[小選挙区制]]、15{{nbsp}}%を[[比例代表制]]で選出する。残り25{{nbsp}}%は女性議員枠である。 {{main|スーダンの政党}} * 政党 ** [[国民会議 (スーダン)]](NC) ** [[人民国民会議]](PNC) ** [[ウンマ党 (スーダン)|ウンマ党]](UP) ** [[民主統一党 (スーダン)|民主統一党]](DUP) ** [[スーダン民族党]] (SNP) ** {{仮リンク|スーダン共産党|en|Sudanese Communist Party}}(SCP) ** {{仮リンク|スーダンバアス党|en|Sudanese Ba'ath Party}} バシール政権下では自身が結成した国民会議が与党であった。20年以上も軍事独裁政権が続いたが、[[2010年]][[4月11日]]に24年ぶりの[[複数政党制]]選挙が行なわれた。しかし、大統領選挙では政権側の不正を理由に、最大野党の[[スーダン人民解放運動]](SPLM)が大統領選挙を、一部野党が各種選挙をボイコットしたため、バシールが得票率68.24{{nbsp}}%で再選を果たした。 行政府の長たる首相職は1989年を最後に廃止されたが、2016年に議会が復活を決議。2017年3月1日にバシール大統領が側近の{{ill2|バクリー・ハサン・サーレハ|en|Bakri Hassan Saleh}}第1副大統領を首相に指名し、翌2日に就任宣誓を行った<ref>{{Cite news|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2017030500201&g=int|title=四半世紀ぶり首相復活=大統領側近バクリ氏が就任-スーダン|work=時事ドットコム|newspaper=時事通信|date=2017-03-05|accessdate=2017-03-12}}</ref>。2019年4月のクーデターにより首相職が空席となったが、同年8月に発足した暫定政権では再び首相が就任している。 {{main|{{仮リンク|Category∶スーダンの法律|ar|تصنيف:قوانين السودان}}}} 一方で法の改正も進められており、[[中東]]地域やアフリカ各国で現在も続けられている[[因習]]を違法化する法律改正が承認されている。2020年[[7月10日]]、同国の軍民共同の統治評議会により、因習として続けられている[[女性器]]の切除(女子[[割礼]])を違法化するとの承認が報道された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/42079/|title=スーダン、女子割礼を違法に 長期政権崩壊で権利向上|publisher=[[東京新聞]]|date=2020-07-12|accessdate=2020-07-13}}</ref>。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|スーダンの国際関係|en|Foreign relations of Sudan}}}} バシール政権は、[[湾岸戦争]]時には[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]を支持して[[ウサーマ・ビン・ラーディン|オサマ・ビンラディン]]の国際テロ組織[[アルカイダ]]も支援したとされたことで、[[1993年]]には[[アメリカ合衆国]]に[[テロ支援国家]]の指定を受け、以後、2020年12月に指定が解除されるまで[[経済制裁]]が続いた<ref>{{Cite web|和書|date=2020-12-20 |url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/12/ef788c0cedf2c7ce.html |title=米国がスーダンのテロ支援国家リスト指定を解除 |publisher=[[JETRO]] |accessdate=2020-12-30}}</ref>。この間、一時改善の兆しがあったものの、[[2003年]]のダルフール紛争勃発後はさらに欧米諸国と対立した。このため、バシール政権はヌメイリ政権時代から友好的でスーダンの豊富な資源を求めている[[中華人民共和国]]との関係を深めて中国企業はスーダンの産油企業2つの最大株主となっており<ref>Duncan Clarke『Africa: Crude Continent: The Struggle for Africa's Oil Prize』210頁</ref>、[[国際連合アフリカ連合ダルフール派遣団]]で中国からの国連平和維持部隊も受け入れ<ref>{{Cite news|title=Chinese peace-keeping force formed for Sudan mission|newspaper=[[人民網]] 英語版|date=2005-9-9|agency=[[新華社通信]]|language=en|url=http://en.people.cn/200509/09/eng20050909_207452.html|accessdate=2021-8-31}}</ref>、中国の援助で自らの大統領府も建設するなど<ref>{{cite news |title=中国資本の新大統領府が完成、スーダン|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3025905|work=[[AFPBB]]|date=2014-09-21|accessdate=2018-07-18}}</ref>、経済・軍事両面で両国は密接な関係を持っている。 また[[ロシア連邦]]も[[ウラジーミル・プーチン|プーチン大統領]]が、2017年11月に訪露したバシール大統領と会談するなど、スーダンとの関係を重視している<ref>「[https://web.archive.org/web/20180116135503/https://www.jiji.com/jc/article?k=2017112400856 スーダン大統領訪ロ=プーチン氏と会談]」AFP時事(2017年11月24日)2018年1月16日閲覧</ref>。 2016年1月2日に[[サウジアラビア]]が[[イスラム教]][[シーア派]]の有力指導者を処刑したことで、サウジアラビアと[[イラン]]の関係は急速に悪化。イランの首都[[テヘラン]]にあるサウジアラビア[[大使館]]が襲撃されたことをきっかけに、サウジアラビアはイランとの[[国交]]を断絶した。スーダンもこれに続いて、イランとの国交断絶を表明した<ref>{{Cite news | url=https://jp.reuters.com/article/saudi-iran-sudan-idJPKBN0UI1DB20160104 | title=スーダンもイランと断交 UAEは外交格下げ、周辺国に影響拡大 | work=ロイター | publisher=[[ロイター]] | date=2016-01-04 | accessdate=2016-01-04 }}</ref>。 2017年12月、[[トルコ]]の[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン大統領]]がスーダンを訪問し、かつて[[オスマン帝国]]の影響下にあった紅海沿岸の{{仮リンク|スワーキン島|en|Suakin}}をトルコが開発する計画を発表。トルコと対立するサウジアラビアやエジプトが反発している<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180116/ddm/007/030/110000c 紅海の島巡り対立/トルコが開発権 サウジなど反発]『[[毎日新聞]]』朝刊2017年1月16日</ref>。 2020年、隣国のエチオピア北部[[ティグレ州]]でエチオピア政府軍と[[ティグレ人民解放戦線]]の間で[[ティグレ紛争]]が始まると、2万人を超す難民が[[ガダーレフ州]]や[[カッサラ州]]に流入、難民キャンプが設営された。スーダンは、1980年代にエチオピアで発生した飢饉の際にも難民キャンプの設営を許容している<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-16 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3316078?cx_part=search |title=エチオピア人約2.5万人、戦闘逃れスーダンに流入 |publisher=AFP |accessdate=2020-11-22}}</ref>。 === 日本との関係 === {{main|日本とスーダンの関係}} 在留日本人数 - 134名(2017年10月時点)<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/data.html#section6|title=スーダン基礎データ|accessdate=2021-8-31|publisher=[[外務省]]|date=2020-11-30}}</ref> 在日スーダン人数 - 230名(2017年12月時点)<ref name=":0" /> === 領土問題 === スーダンは、北のエジプト、南の南スーダンとの間に領土問題を抱えている。 対エジプトではエジプトが領有権を主張して[[実効支配]]している[[ハラーイブ・トライアングル]]と[[ワジハルファ突出部]]について、スーダンは領有権を主張している。 対南スーダンでは、将来的に住民投票によってスーダン領になるか南スーダン領となるかを決定することになっている[[アビエイ]]地域と、南スーダンが領有権を主張している[[カフィア・キンギ]]地域について、スーダンが実効支配している。 なお、エジプトとの間にある[[ビル・タウィール]]地域は、スーダンもエジプトも、またその他の国のいずれもが領有権を主張しておらず、世界的にも珍しい[[無主地]]となっている。 == 軍事 == {{main|{{仮リンク|スーダン軍|en|Sudanese Armed Forces}}}} イギリスとソビエト連邦、中国の[[軍事顧問|軍事顧問団]]が政変の度に入れ替わりつつ指導し、育成が続けられてきた。スーダン内戦を通じての対[[ゲリラ]]戦の実績はあるが、他国との本格的な交戦実績はない。[[2000年代]]に入り、石油輸出で得られた[[外貨]]を武器購入に充て、紛争を行っていることから国際的な非難を浴びている。 === 陸軍 === 主に中国製の武器が使用された。 戦車は中国から[[96式戦車]]が輸出されている。ソ連と対立し始めたヌメイリ政権時代の[[1972年]]から購入された[[62式軽戦車]]70輌、[[59式戦車]]50輌なども保有している<ref>{{cite web |url=http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php |title=Arms Transfers Database |date= |website=[[ストックホルム国際平和研究所]] |access-date=2018-06-27}}</ref>。また、[[85式戦車|85-IIM式戦車]]のライセンス生産版である「[[アル・バシール]]」を開発している<ref>{{Cite web|url=http://mic.sd/images/products/wepons/ar/endb/dbalbshir.htm|title=Al-BASHIER Battle Tanks|access-date=2009-11-5|publisher=Military Industry Corporation|work=Military Products|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120802232906/http://mic.sd/images/products/wepons/ar/endb/dbalbshir.htm|archivedate=2012-8-2|deadlinkdate=2021-8}}</ref>。 自動小銃も、中国から[[81式自動小銃]]、[[56式自動小銃]]が輸出され、[[ライセンス生産]]も行われている。また、[[M16自動小銃|M16]]のコピー品である[[ノリンコ]]社の[[CQ 311]]を「テラブ」という名前でライセンス生産している。 また、[[多連装ロケット砲]]「WS2」の輸出が行われた模様である<ref>{{Cite news|title=スーダン陸軍がアフリカ最強に? 中国がロケット砲輸出か|newspaper=MSN産経ニュース|date=2009-5-21|agency=共同通信|url=http://sankei.jp.msn.com/world/china/090521/chn0905211836009-n1.htm|accessdate=2021-8-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090526132302/http://sankei.jp.msn.com/world/china/090521/chn0905211836009-n1.htm|archivedate=2009-5-26}}</ref>。 これら中国から輸出された武器により、[[ダルフール]]での虐殺が行われており、スーダンならびに中国は国際的な非難を浴びている。 === 空軍 === [[ファイル:Sudanese Air Force Hongdu JL-8.jpeg|thumb|スーダン空軍の[[JL-8 (航空機)|JL-8]]練習機]] 保有機数や運用実態の詳細は不明であるが、[[スーダン空軍]]では固定翼機は[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]](主として中国生産型の[[J-7 (航空機)|J-7]])及び[[MiG-29 (航空機)|MiG-29]]を、回転翼機は[[Mi-24 (航空機)|Mi-24/35]]や[[Mi-8 (航空機)|Mi-8]]/[[Mi-17 (航空機)|17]]などを保有している。 MiG-29については、ダルフール紛争に関する国際的な批判にも拘らず、[[2003年]]から[[2004年]]にかけてロシアより最新派生型の一つMiG-29ESh戦闘機10機とMiG-29UB練習機2機が輸出され、国際的な注目を集めた。ロシアは、MiG-29のこの派生型は対地攻撃には使用できない仕様であり紛争には関係しないと説明していたが、一方で対地[[攻撃ヘリコプター]][[Mi-24 (航空機)|Mi-35]]の新型を引渡している。 空軍機材の主となっているのはこのような旧ソ連製や中国製の機材であるが、その他に補助的ながら[[西側諸国]]製の機材も運用している。 == 地理 == [[ファイル:Sudan sat.jpg|サムネイル|スーダンの衛星写真。北部の乾燥にくらべ、南部はやや湿潤であることがはっきりわかる]] {{main|{{仮リンク|スーダンの地理|en|Geography of Sudan}}}} <!-- 本文 --> 国土の大部分は広大な平原で、ほぼ中央を[[ナイル川]]とその支流が縦貫する。北部は[[ヌビア砂漠]]、南部は[[ステップ気候]]であり、[[サヘル]]地帯が広がっている。 北部は乾燥した[[砂漠気候]]であり年間降水量は100[[ミリメートル]]以下である。わずかにナイル川や[[紅海]]沿岸に少数の人々が住むに過ぎない。紅海沿岸は起伏が多く、平野はあまり発達していないが、湾入も少なく良港はほとんどない。 中部は[[乾季]]には乾燥するが、[[雨季]]にはまとまった降水量があり、特に白ナイル川以東のゲジラ地区などは肥沃な農業地帯となっている。南部のコルドファンや西部のダルフールでも事情は同じで、雨季には農耕も行われ、さらに雨を受けて広大な草原となった土地を牧草地として、牧畜が盛んである。 西部のダルフール地域にある[[マッラ山地]]や中央部の[[ヌバ山地]]など、いくつかの山地が孤立して存在している。最高地点はマッラ山地のデリバ・カルデラ([[標高]]3042[[メートル]])。南にいくに従って雨量が増え、[[ステップ気候]]となっていく。 なお、北部の砂漠と紅海沿岸は一年中、日中の気温が40[[セルシウス度|℃]]を超す炎熱の地である。 [[ファイル:Sudan Jebel Marra Deriba Lakes edited.jpg|サムネイル|250ピクセル|デリバ・カルデラ]] === 水系 === 水系は、ほぼ全てがナイル川へと流入する。中央を縦貫する白ナイル川を基軸としている。ナイル川の流量は南スーダン最北部の[[スッド]]にて激減しているが、これが増大するのは、[[青ナイル川]]を合わせる首都ハルツーム以北である。 青ナイルは乾季には雨量が減少するものの、雨季には[[エチオピア高原]]に降った大量の雨を運んでくるため流量が極度に増大し、かつては下流のエジプトで定期的に洪水を引き起こしていた。 その後、北の[[アトバラ]]で、やはりエチオピア高原から流れてきたアトバラ川を合わせた後、エジプト領内へと流れ下っていく<ref>『朝倉世界地理講座 アフリカI』初版所収「ナイル川の自然形態」春山成子、2007年4月10日([[朝倉書店]])197頁。</ref>。 == 地方行政区分 == {{main|スーダンの地方行政区画}} [[ファイル:Su-map.png|サムネイル|300ピクセル|スーダンの地図(英語)]] 18の州がある。()内は主要都市。 * ハルツーム ** [[ハルツーム州]]([[ハルツーム]]) * カッサラ ** [[カッサラ州]]([[カッサラ]]) ** [[紅海州]]([[ポートスーダン]]) ** [[ガダーレフ州]]([[ガダーレフ]]) * 青ナイル ** 青ナイル *** [[青ナイル州]]([[ダマジン]]) *** [[センナール州]]([[センナール]]) ** [[ジャジーラ州]]([[ワドメダニ]]) ** [[白ナイル州]]([[ラバク]]) * 北部 ** [[北部州 (スーダン)|北部州]]([[ドンゴラ]]) ** [[ナイル川州]](ダーマル) * [[コルドファン]] ** [[北コルドファン州]]([[オベイド]]) ** [[南コルドファン州]](カードゥクリー) ** [[西コルドファン州]](フラーフ) * [[ダルフール]] ** [[北ダルフール州]]([[エル=ファーシル]]) ** [[南ダルフール州]]([[ニヤラ]]) ** [[西ダルフール州]]([[ジュナイナ]]) ** [[中部ダルフール州]](ザリンゲイ) ** [[東ダルフール州]]([[ダイーン]]) <!--* [[バハル・アル・ガザール地方|バハル・アル・ガザール]] ** [[ブハイラート州]]--> ===主要都市=== {{main|スーダンの都市の一覧}} 主要都市は、首都[[ハルツーム]]の他、[[オムドゥルマン]]、[[アル・ハルツーム・バフリ]]、[[ポートスーダン]]がある。ハルツーム、オムドゥルマン、アル・ハルツーム・バフリは[[ナイル川]]を挟んで隣接しており、三つ子都市とも呼ばれ、スーダン最大の都市圏を形成している。 == 経済 == {{main|スーダンの経済}} [[ファイル:WN 06-0142-39 - Flickr - NZ Defence Force.jpg|サムネイル|左|首都[[ハルツーム]]]] [[国際通貨基金]](IMF)の推計によると、[[2013年]]のスーダンの[[国内総生産]](GDP)は667億ドルであり、アフリカ全体では7位に位置する。一方、一人当たりのGDPは1941ドルと、世界平均の20{{nbsp}}%を下回る水準にある。1990年代までは、長引く内戦や[[経済制裁]]などで、経済は完全に破綻状態であり、2019年現在スーダンは[[平和基金会]]が発表している「世界[[失敗国家]]ランキング」8位の国である。 他方で、[[石油]]資源では{{仮リンク|Melut Basin|en|Melut Basin}}(Adar/Yale油田)や{{仮リンク|Muglad Basin|en|Muglad Basin}}([[ヘグリグ]]〈{{en|Heglig}}〉油田、ユニティ〈[[ユニティ州|Unity]]〉油田、Abu Gabra油田)やBlue Nile Riftが大きく世界の注目を浴び、アメリカの経済制裁が加えられた期間に[[石油メジャー]]の間隙を突く形で、[[1990年代]]後半から中国政府のバックアップを受けた中国系企業が進出した。数万人規模の[[中国人]]労働者がスーダンに派遣され、石油プラント、石油パイプライン([[:en:Greater Nile Oil Pipeline|Greater Nile Oil Pipeline]], [[:en:PetroDar#The Melut oil export pipeline|PetroDar Pipeline]])が建設された。 Greater Nile Oil Pipelineは全長1600[[キロメートル]]で、ユニティ油田 - ヘグリグ油田 - ハルツーム ([[:en:Sudan Khartoum Refinery Company|Khartoum Crude Oil refinery]]) - ポートスーダン(紅海に面する港)を繋いでいる。Muglad Basinから産出する石油は “Nile Blend” と呼ばれている。後に、Thar Jath油田からヘグリグまで172キロメートルパイプラインが延伸された。 PetroDar Pipelineは全長1380キロメートルで、Palogue油田 - Adar/Yale油田 - Fula油田 - ポートスーダン(紅海に面する港、[[:en:Port Sudan Refinery|Port Sudan Crude Oil Refinery]])を繋いでいる。Melud Basinから産出する石油は “Dar Blend” と呼ばれている。これら油田の大部分と南北合計の原油確認埋蔵量の約80{{nbsp}}%が南スーダンに帰属するため、政府は南スーダンに対し高額の原油通過量を要求し、独立後の火種となっている。 同様に[[レアメタル]]の[[埋蔵量]]も注目を集めている。そのほか、[[メロウェダム]]に象徴される大規模な[[水力発電]]所及びダム、[[スーダンの鉄道|鉄道]](老朽化したポートスーダンからハルツーム間)の建設も中国系企業が受注するなど、極めて濃厚な協力の下、徐々に経済が立ち直る兆しが見られる。以上の理由から、特に東部では経済が急成長しており、首都ハルツームでは総工費40億円を掛けて63塔もの[[高層ビル]]の建築が進行中{{いつ|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->である。しかし、石油資源などが豊富な地域は南部スーダン地域であり、スーダンの支援国である中国は南スーダンにも国連平和維持部隊を派兵して油田権益を確保している<ref>{{Cite news|title=中国、南スーダンで存在感 病院、レストラン、油田も…|newspaper=産経新聞|date=2017-9-28|last=佐藤|first=貴生|url=https://www.sankei.com/article/20170928-ERUACMSX6FNOTH26URLTRPEK6U/|accessdate=2021-8-31}}</ref>。 {{Clearleft}} === 農業 === {{main|{{仮リンク|スーダンの農業|en|Agriculture in Sudan}}}} 東部に限れば、「アフリカのパン篭」とも言われる肥沃なナイル川周辺の農地を使っての[[小麦]]、[[トウモロコシ]]の[[栽培]]が盛んである。とくに、ハルツームより南の白ナイル川と青ナイル川に挟まれた三角地帯では、[[1925年]]に[[イギリス]]の[[植民地]][[政府]]によって[[ゲジラ計画]]がおこなわれ、大規模[[灌漑]]によって小麦や[[綿花]]の大穀倉地帯となった<ref>吉田昌夫『世界現代史14 アフリカ現代II』山川出版社、1990年2月第2版、106-108頁。</ref>。 1993年の内戦時に{{仮リンク|スーダン飢饉 (1993年)|label=大規模な飢饉|en|1993 Sudan famine}}が、1998年に{{仮リンク|スーダン飢饉 (1998年)|label=より大規模の飢饉|en|1998 Sudan famine}}が発生したことから一時期は低迷状態にあったが、最近はトルコやサウジアラビアなどの周辺諸国の企業による農業投資が盛んである。とりわけ湾岸アラブ諸国は、国土の大半が農業に不向きな砂漠のため食料供給地としてのスーダンに着目している。2008年の農業投資契約数は33件で07年度の3倍である<ref>[[NHK衛星第1テレビジョン|NHK-BS1]]「[[きょうの世界]]」2008年10月21日放送回より。{{出典無効|date=2022年8月}}</ref>。スーダン政府は、投資企業に土地を安く提供、[[関税]]免除などの特典で、投資国を引き付けようとしている。 == 交通 == {{節スタブ}} [[ファイル:Railways in Sudan.svg|サムネイル|スーダンの鉄道網]] {{main|{{仮リンク|スーダンの交通|en|Transport in Sudan}}}} === 鉄道 === {{節スタブ}} {{main|スーダンの鉄道}} 国営の[[スーダン鉄道]]が運行している。1890年代に建設が開始され、現在{{いつ|date=2014年1月}}の総延長は5311[[キロメートル]]にのぼる。国営の全てが[[狭軌]]で、うち1067[[ミリメートル]]が4595キロメートル、610ミリメートルが716キロメートルある。首都ハルツームから北の[[ワジハルファ]]や北東の[[ポートスーダン]]へ向かう線路と、南の[[センナール]]を経由して西の[[ダルフール]]の中心都市[[ニヤラ]]や南部スーダン北部のワーウへと向かう線路があるが、[[ワーウ]]へ向かう線路は現在{{いつ|date=2014年1月}}運休しており、他の区間も老朽化が進んでいる。最も重要な路線は首都ハルツームとスーダン唯一の外港である[[ポートスーダン]]を結ぶ路線でスーダンの鉄道輸送の3分の2はこの路線であり、中国によって車両は近代化されている<ref>[https://www.theguardian.com/global-development/2016/nov/14/nile-train-us-united-states-lifting-sanctions-sudan-railway-on-track Riding the Nile train: could lifting US sanctions get Sudan's railway on track?]</ref>。 === 航空 === {{節スタブ}} {{main|スーダンの空港の一覧}} === 道路 === {{empty section}} === 海運 === {{節スタブ}} [[ポートスーダン]]が主な[[港湾都市]]になっている。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|スーダンの人口統計|en|Demographics of Sudan}}}} === 民族 === [[ファイル:Bedscha.jpg|サムネイル|{{仮リンク|ベジャ人|en|Beja people}}の[[遊牧民]]]] 北部の[[ナイル・サハラ語族]][[ヌビア諸語]]を話す{{仮リンク|ヌビア人|en|Nubian people}}、中部の{{仮リンク|ヌバ山地|en|Nuba Mountains}}の[[ニジェール・コンゴ語族]][[コルドファン語派]]を話す[[ヌバ族]]や、南部の{{仮リンク|カドゥ諸語|en|Kadu languages}}<ref group="注釈">{{仮リンク|カドゥ諸語|en|Kadu languages}}は、[[ジョーゼフ・グリーンバーグ]]の説で[[ニジェール・コンゴ語族]][[コルドファン語派]]に分類されたが、その後政治的な思惑もあり[[ナイル・サハラ語族]]とする説が浮上したものの分類に関する態度は政治的な緊張から保留されたままである。</ref>を話す民族など非アラブ黒人が52{{nbsp}}%、北部を中心にアラブ化した黒人や黒人との混血を含む「[[アラブ人|アラブ系]]」([[:en:Sudanese Arabs]]) が総人口の約39{{nbsp}}[[%]]、東部の[[アフロ・アジア語族]][[クシ語派]][[ベジャ語]]を話す{{仮リンク|ベジャ人|en|Beja people}} ([[:en:Ababda people]]、[[ラシャイダ人|Rashaida people]]) が6{{nbsp}}%、外国人が2{{nbsp}}%、その他1{{nbsp}}%。 [[ダルフール]]の北部に[[ザガワ族]]、中部に[[フール人]]、南部に{{仮リンク|バッガーラ人|en|Baggara|label=バッガーラ族}}が居住している。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|スーダンの言語|en|Languages of Sudan}}}} [[アラビア語]]([[アラビア語スーダン方言|スーダン方言]])と[[英語]]が[[公用語]]。[[ヌビア語]]など非アラブ民族語も広く話される。 2005年の現行憲法は公用語について以下のように定めている。 第八条 # 全てのスーダン固有の言語は国語であり、敬意をもって扱われ、開発され、普及される。 # アラビア語はスーダンで広く話される国語である。 # アラビア語は国家レベルで主要な言語であり、英語は国家政府の公用作業言語にして、高等教育における[[教授言語]]である。 # 英語とアラビア語にくわえ、地方議会においては、それ以外の国語が追加の公的作業言語として受け入れられなければならない。 # 政府と教育のいかなる段階にあっても、英語とアラビア語の使用に差別があってはならない。 === 婚姻 === {{empty section}} === 宗教 === {{main|{{仮リンク|スーダンの宗教|en|Religion in Sudan}}}} {{Bar box |title=スーダンの宗教<ref name="CWF-people">{{cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/fields/2122.html?countryName=Sudan&countryCode=SU&regionCode=af&#SU |title=Religion in Sudan according to the CIA World Factbook |publisher=Cia.gov |date= |accessdate=2010-12-23}}</ref> |titlebar=#ddd |width=320px |left1=宗教 |right1=パーセント |float=right |bars= {{Bar percent|[[イスラム教]]|Green|70}} {{Bar percent|[[アニミズム]]|Red|25}} {{Bar percent|[[キリスト教]]|Blue|5}} }} [[スンナ派]]を中心とする[[イスラム教]]が70{{nbsp}}%。南部非アラブ人を中心に[[アニミズム]]などの[[伝統宗教]](18{{nbsp}}%)と[[キリスト教]](5{{nbsp}}%)。北部に20万人程[[コプト正教会|コプト教徒]]がいる。 キリスト教徒の多い南スーダンの分離独立に伴い、相対的にスーダンにおける非イスラム教徒比率は下がり、現在はスーダンにおけるイスラム教徒比率は、周辺の北アフリカ諸国同様絶対多数派となっている。現在は北部のコプト教徒、コルドファン丘陵地域のいくつかの伝統宗教やキリスト教を信仰する民族グループを除き、国民の大多数がイスラム教徒である。 南スーダンが独立したことで、キリスト教徒への迫害が強まっており、スーダン国内のキリスト教徒は市民権を失った状態にある<ref>{{Cite news |url=http://www.christiantoday.co.jp/article/5671.html |title=キリスト教徒、迫害でスーダンから脱国 南部スーダン独立後、迫害深刻に |newspaper = クリスチャントゥデイ |date=2013-01-10 |accessdate=2013-01-10 }}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|スーダンにおける信教の自由|en|Freedom of religion in Sudan}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|スーダンの教育|en|Education in Sudan}}}} 教育制度は8・3・4制で構成されており、[[中等教育]]が[[小学校]]8年、中学校(Secondary School)3年、[[高等教育]]は[[大学]]4年となっている。 スーダンの[[義務教育]]は小学校8年のみであり、加えて日本の[[高等学校]]やアメリカの[[ハイスクール]]に該当する教育機関は存在していない。 大学は約25〜30校が存在しており、代表的なものとしては{{仮リンク|ゴードン記念大学|en|Gordon Memorial College}}が挙げられる。 バシール政権成立後、教育のイスラム化が重視され、[[1991年]]にはイスラム教育が導入された。これは非イスラム教圏にも適用されたため、国内の非イスラム教徒の反発を招いた。 同国は歴史的背景などの諸事情により経済状況が不安定で未だに解消されていない為、その影響から40{{nbsp}}%以上の子供が学校へ充分に通えていない問題点を抱えている。 === 保健 === {{節スタブ}} {{see|{{仮リンク|スーダンの保健|en|Health in Sudan}}}} == 社会 == {{節スタブ}} === 対立 === {{節スタブ}} 大きく分けると、スーダンにイスラームを持ち込んだアラブ化された[[エジプト民族|エジプト人]]、彼らと現地先住黒人との混血児、そして彼らに帰順しイスラームのみならずアラビア語を受け入れた先住黒人達、この3者の子孫で構成され、現代口語アラビア語スーダン変種を話す「アラブ人」が北部を中心に勢力を張り、宗教的にはイスラム教を受容しつつもアラビア語は受け入れなかったイスラム系先住民が西部に勢力を張り、そしてイスラームすらも受け入れず先祖伝来のアニミズムを守るか、一部キリスト教に改宗した先住民が南部に勢力を張っている。この3者が現代スーダンの住民対立の大きなグループとして挙げられる。 この中でも「アラブ人」と他の2者との対立が強く、支配者「アラブ」対周辺化された「非アラブ」という対立軸が現代のスーダンの紛争においてしばしば見られる。宗教の対立は近年{{いつ|date=2014年1月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->のスーダンの紛争では、決定的な対立軸ではない。人種的には前述されているように、北部はホワイトアフリカに属するエジプトと隣接しているためにコーカソイド系との混血が進み、南部はニグロイドとコーカソイドの混血は余り起きなかった。なお北部住民のアラブ系住民は南部の住民を「黒人」と呼ぶが、人種的な分類というよりは、アラブ化を受けなかった先住民というニュアンスで用いている。 == 治安 == {{節スタブ}} 2019年に旧政権であるバシール政権が退陣してから同国内の治安状況は一定の落ち着きを見せているものの、暫定政府が当面の課題として掲げている経済政策が現時点では十分な成果を上げていると言いがたく、物資(主に燃料や[[小麦粉]])の不足に加えて物価の高騰はいまだ解消されず終いとなっている侭である。これに対する散発的かつ小規模なデモが発生しているほか、首都ハルツームでは更なる改革を求めるデモも発生しており、負傷者も出る騒動へと発展している。 この為、スーダン各地で今後、大規模な抗議活動が発生する可能性は完全に否定できない状態となっており、同国での滞在における危険度が高まっている。 また、ハルツームや各州都では警察などの治安機関が比較的機能していると言われているが、現今のこうした経済情勢を背景に近年は[[ひったくり]]や[[車上狙い]]といった犯罪が増加傾向にある。一方で外国人は、一般的に裕福と捉えられていることから格好のターゲットになり易く、滞在中は細心の注意が求められる。 === 人権 === {{節スタブ}} {{see|{{仮リンク|スーダンにおける人権|en|Human rights in Sudan}}}} == マスコミ == {{節スタブ}} {{see|{{仮リンク|スーダンのメディア|en|Media of Sudan}}|{{仮リンク|スーダンのテレビ|en|Television in Sudan}}}} == 文化 == {{main|{{仮リンク|スーダンの文化|ar|ثقافة السودان}}}} <!-- 本文 --> === 食文化 === {{節スタブ}} {{see|スーダン料理}} === 文学 === {{節スタブ}} {{main|{{仮リンク|スーダン文学|en|Sudanese literature}}}} スーダンは北部アフリカにおいて小説家や詩人などの作家を多く輩出している国の一つである。代表的な人物として{{仮リンク|ハメド・アル=ナジル|en|Hamed al-Nazir}}や{{仮リンク|アミール・タージ・アル=サー|en|Amir Taj al-Sir}}が知られている。 また、同国の[[人権活動家]]であり[[教員|教師]]の{{仮リンク|マフジョーブ・シャリフ|en|Mahjoub Sharif}}は、作家としての一面を持っていた。 {{See also|{{仮リンク|スーダン作家連合|en|Sudanese Writers Union}}|{{仮リンク|スーダンの作家の一覧|en|List of Sudanese writers}}}} === 音楽 === {{節スタブ}} {{see|スーダンの音楽}} === 美術 === {{節スタブ}} {{see|{{仮リンク|スーダンにおける芸術写真|en|Photography of Sudan}}}} === 映画 === {{節スタブ}} {{see|{{仮リンク|スーダンの映画|en|Cinema of Sudan}}}} === 建築 === {{節スタブ}} {{see|{{仮リンク|スーダンの建築|en|Architecture of Sudan}}}} === 世界遺産 === {{main|スーダンの世界遺産}} スーダン国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が2件、[[自然遺産 (世界遺産)|自然遺産]]が1件、暫定リストが9件存在する(2019年の[[第43回世界遺産委員会]]終了時点)。 [[ファイル:Gebel Barkal.jpg|サムネイル|左|[[ゲベル・バルカル|ゲベル・バルカルとナパタ地方の遺跡群]] - (2003年、文化遺産)]] {{-}} * [[メロエ|メロエ島の考古学遺跡群]] - (2011年、文化遺産) * [[サンガネーブ海洋国立公園とドンゴナーブ湾=ムカッワー島海洋国立公園]] - (2016年、自然遺産) === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|スーダンの祝日|en|Public holidays in Sudan}}}} スーダンの祝祭日は[[イスラム暦]]に固定されているため、世界において一般的となっている[[グレゴリオ暦]]とは異なる面があることを留意する必要がある。 {| class="wikitable" |+祝祭日 !日付!!日本語表記!!現地語表記!!備考 |- |1月1日 ||[[独立記念日]] || ||1956年に国家独立を勝ち取ったことを記念して制定 |- |1月7日 ||コプト[[クリスマス]] || || |- |12月19日 ||革命記念日 || || |- |12月25日 ||クリスマス || || |- |移動祝祭日 ||{{仮リンク|アル=マウリド・アル・ナバウィ|en|Mawlid}} || ||[[預言者生誕祭]] |- |移動祝祭日 ||[[イド・アル=フィトル]] || ||[[ラマダーン]]の終了日 |- |移動祝祭日 ||[[イード・アル=アドハー]] || ||犠牲祭 |- |移動祝祭日 ||[[ヒジュラ暦]][[正月]] || || |- |移動祝祭日 ||コプトイースター || || |} == スポーツ == {{main|{{仮リンク|スーダンのスポーツ|ar|الرياضة في السودان}}}} === サッカー === {{main|{{仮リンク|スーダンのサッカー|en|Football in Sudan}}}} スーダン国内でも他のアフリカ諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に一番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1965年]]にプロサッカーリーグの[[スーダン・プレミアリーグ]]が創設されている。{{仮リンク|スーダンサッカー協会|en|Sudan Football Association}}によって構成される[[サッカースーダン代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし[[アフリカネイションズカップ]]には9度出場しており、[[アフリカネイションズカップ1970|1970年大会]]では初優勝に輝いている。また、[[東部・中部アフリカサッカー協会評議会]] (CECAFA) が主催する[[CECAFAカップ]]では3度の優勝経験を持つ。 === オリンピック === {{see|オリンピックのスーダン選手団}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[ファイル:Africa satellite orthographic.jpg|36ピクセル|Portal:アフリカ]]}} * [[スーダン関係記事の一覧]] * [[駐日スーダン大使館]] <!-- * [[スーダンの通信]] * [[スーダンの軍事]] --> == 外部リンク == {{Wikinews|スーダン第1副大統領、ヘリ墜落死}} {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Sudan|Sudan}} '''政府''' * [http://www.sudan.gov.sd/ スーダン共和国政府] {{ar icon}}{{en icon}} * [https://www.sudanembassy.jp/ 在日スーダン大使館] {{ja icon}} * [https://www.sdn.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在スーダン日本国大使館] {{ja icon}} '''日本政府''' * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/ 日本外務省 - スーダン] {{ja icon}} '''その他''' * {{Osmrelation|192789}} * [https://wikitravel.org/ja/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3 ウィキトラベル旅行ガイド - スーダン] {{ja icon}} * {{Wikiatlas|Sudan}} {{en icon}} * {{Wikivoyage-inline|en:Sudan|スーダン{{en icon}}}} * {{CIA World Factbook link|su|Sudan}} {{en icon}} * {{Kotobank}} * {{Kotobank|スーダン(国)}} {{アフリカ}} {{OIC}} {{Normdaten}} {{Coord|15|38|N|032|32|E|type:city|display=title}} {{DEFAULTSORT:すうたん}} [[Category:スーダン|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
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モザンビーク
モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家。南に南アフリカ共和国、南西をエスワティニ、西にジンバブエ、北西にザンビアとマラウイ、北はタンザニアと国境を接する。東はインド洋で、モザンビーク海峡内や対岸にマダガスカルとコモロ、フランス領のマヨットおよび無人島群の一部が存在する。首都はマプトである。 国土面積は約79万9000平方キロメートル(日本のおよそ2倍)、人口は約3036万人で増加傾向にある。 同国は東アフリカに位置する。かつてはポルトガルの旧植民地であり、1964年からモザンビーク独立戦争を戦い抜いた後の1975年に独立を達成した。その後も政情は不安定で、1977年から1992年までモザンビーク内戦が続いた。 内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV感染とAIDS発症の蔓延が問題となっている。 ポルトガル語諸国共同体ならびにポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国となっているが、隣接国が全て英語圏の国家であるため1995年からイギリス連邦へ加盟している。 正式名称は、ポルトガル語でRepública de Moçambique(IPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ レプーブリカ・デ・ムサンビーケ)。通称、Moçambique(ムサンビーケ)。 公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambique(モウザンビーク)。 日本語の表記はモザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首府が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。 この地域には約300万年前から人類が居住し、生活していた(「猿人」参照)。紀元前後にはサン人(ブッシュマン)が居住していたものの、次第にバントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人やローマ人が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ人の商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。 この地域の記録に残る歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称したモノモタパ王国に遡ることができる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は、スワヒリ文明最南端に位置した都市である現モザンビーク領のソファラを拠点に、アラブ人の商人と香辛料や象牙、金などの交易を行っており、中国の陶磁器や、インドの綿製品も手に入れていた。 ヨーロッパが大航海時代を迎えていた1498年、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭からポルトガルによる植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立した(ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ、通称ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)。植民地支配のための首府はモザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止した結果、西アフリカからの奴隷輸出が困難になると、ポルトガルはブラジルへの新たな奴隷供給地としてモザンビークに目を向け、ザンジバルを拠点にしたサイイド・サイード王の奴隷貿易と相俟って、19世紀前半の東アフリカ内陸部は、拡大する奴隷貿易の輸出用奴隷供給地となった。 19世紀に入り、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による労働契約制により、事実上は奴隷労働制度が継続していた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルは、モザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図(ポルトガル語版)」計画を発表した。しかし、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルは、ザンビアとジンバブエとマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された。また、同1891年にポルトガル領モザンビーク総督はイギリス・フランス資本の勅許会社、モザンビーク会社(英語版)・ニアサ会社(英語版)・ザンベジア会社(ポルトガル語版)に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも拘らず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対して、例えば1894年のロウレンソ・マルケス襲撃など、先住民による抵抗運動が頻発したものの、それらは全てポルトガル軍により武力鎮圧された。 1898年にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が遷都され、以降ロウレンソ・マルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。 第二次世界大戦が終結し、世界的に脱植民地化の流れが出てくると、アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立が叫ばれるようになり、その影響はモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、1951年にモザンビークなどのアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは形式上ポルトガル本国と同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められた。ただ、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために、南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。 その後、形式上に過ぎない本国ポルトガルとの対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連と中華人民共和国の援助を受けていたFRELIMOは、冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以てFRELIMOに対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたものの、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続。約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。 1975年の独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年の国連制裁決議に従って、白人支配国家ローデシアの国境を封鎖した。この措置は輸出入の8割をモザンビーク間の鉄道輸送に頼るローデシア経済に大きな打撃を与えたが、一方でモザンビーク側も鉄道や港湾収入から得る収益を失うことを意味しており痛み分けとなった。 1977年にローデシア諜報機関によって、ポルトガル領時代の秘密警察であったPIDE(英語版)を母体として結成された反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(MNR,RENAMO)が政府軍と衝突し、モザンビーク内戦が勃発した。イデオロギー的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。 1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家のジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共産主義の砦を自認していた南アフリカ共和国は、ローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を仕掛けた。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは、農村部で略奪・暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間にンコマチ協定が締結された。南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークはアフリカ民族会議(ANC)に対する支援を相互に打ち切り、両国の間で不可侵条約が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死し、後任としてジョアキン・アルベルト・シサノが新たな大統領に就任した。 モザンビーク内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、東欧革命とソ連崩壊により東側諸国の勢力が低下した。1989年、シサノ大統領率いるモザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年に複数政党制と自由市場経済を規定した新憲法を制定した。これにより反共産主義を掲げていた南アフリカなどから干渉される理由が少なくなった。南アフリカ政府も黒人を差別するアパルトヘイト政策の廃止を1991年に宣言した。モザンビーク側でも1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年にローマ和平協定(英語版)がローマで締結され、内戦は終結した。 内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙および議会選挙が実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。 1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結び付きを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。ただ、翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結び付きを深めるために、ポルトガル語諸国共同体にも加盟した。1998年にはアルミニウム精錬を行うモザール社が、南アフリカと日本などの投資により誕生した。 シサノ大統領は2003年にはアフリカ連合(AU)の第2代総会議長に選出され、更に引退後の2007年にはモ・イブラヒム賞の第1回受賞者となった。2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。2014年1月には中華人民共和国の援助で新しい大統領府が建設された。停戦後もFRELIMOとRENAMOの間に軍事的対立は続いたが水面下では和平交渉が続けられ、2019年8月1日に両者は改めて和平協定に調印し、内戦終結後も27年間続いた軍事的緊張は終わりを告げ、RENAMOの軍事部門は武装解除されることとなった。 なお、停戦に伴う和平協定締結後は比較的安定した政治と、アルミニウム精錬を行うなどして年率8%の経済成長を実現したものの、国民の約半分が貧困ライン以下である。しかも内戦時代には学校への襲撃もあったなど教育は立ち遅れている。国民の教育水準は低いままで、識字率は60%程度に過ぎない。慢性的な医師不足の改善も進まず、教育水準の低い国民はHIV感染者が多く、AIDSの蔓延が深刻な問題となっている。2018年において平均寿命は60.2歳であり、世界平均より12年短い。 新たな有力産業として、東方のインド洋沖を含めて天然ガス開発が進んでいる。モザンビーク政府は、2020年代には液化天然ガス(LNG)輸出拡大により高い経済成長を持続することをめざしている(「鉱業」も参照)。 一方で、イスラム過激派が武装闘争を展開しており、LNG開発基地となる北東部のカボ・デルガード州にも戦火が及んでいる。 大統領を国家元首とする共和制をとっている。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に行政府の長たる首相が存在する。 立法府たる共和国議会(en:Assembly of the Republic (Mozambique))は一院制であり、全250議席は全て直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。 主要な政党としては、社会民主主義・民主社会主義のモザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、保守主義のモザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、中道右派のモザンビーク民主運動(en:Democratic Movement of Mozambique、MDM)の名が挙げられる。 司法権は最高司法機関たる最高裁判所が司る。 独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結び付き、親西側の立場から反政府ゲリラを支援するローデシアや南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いた。冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。 ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル、カーボベルデ、アンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。 周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。 隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。 織田信長の家来として活躍した弥助は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領東アフリカ出身で、1581年にイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノにより日本に渡航したと推定される。また、1582年にヨーロッパへ向かった天正遣欧少年使節が、帰路にて1586年にモザンビーク島に寄港し、約6か月間を過ごした。1980年代以降日本に留学する者が現れており、ベンビンダ・ツレのように長期間の留学を経て日本で就職後帰国した者もいる。このベンビンダは小学生向けの学習雑誌に読み物が掲載されたり、帰国の年にはラジオ番組で特別企画が長期間にわたって組まれるなど多くの日本人に名前が知られた。第5回アフリカ開発会議中の2013年6月1日に、横浜で日本との間に投資協定が結ばれた。2018年にはIHIにより最新鋭のガスタービン火力発電所が首都マプトに建設されている。 モザンビーク国防軍は陸軍、海軍、空軍から構成されている。また徴兵制を採用している国としても認知されている。 総人員は約11,200人で小規模ではあるものの、他のアフリカの国軍に比べると機能的に編成されている面がある。2018年の軍事支出は国内総生産(GDP)の0.99%だった。 モザンビークの国土面積は約79万9000km。国内最高峰はビンガ山(2436m)である。2500 km以上におよぶ海岸線には、熱帯のビーチとサンゴ礁の浅瀬が見られる。マダガスカル島とはモザンビーク海峡を挟んで向かい合っている。 モザンビークには5つの大きな河川が流れており、最も大きく重要なものはザンベジ川である。国土はザンベジ川によって地勢上、2つの地域に分かれる。ザンベジ川の北では、なだらかな海岸線が内陸部に入って丘陵や低い台地である。その西は、ミオンボ森林に覆われたニアサ高原やナムリ高原(シレ高原)、アンゴニア高原、テテ高原、マコンデ台地のような険しい高原である。なお、主要な湖としては、ニアサ湖(またはマラウイ湖)、シウタ湖、シルワ湖と3つが挙げられ、これらはいずれも北部に位置する。ザンベジ川の南では、低地は広く、マショナランド台地とレンボ山地が深南部に存在する。 一方、南部アフリカの山脈であるレボンボ山脈(英語版)の一部が同国に繋がっており、その姿を眺めることが出来る。 ケッペンの気候区分によれば、気候は熱帯雨林気候とサバナ気候に分かれるが、首都マプトが位置する南部は冬季には平均気温が20°C以下まで下がり、5月から9月までは比較的しのぎやすい。 モザンビークは、10の州(província,プロヴィンシア)、および州と同格の1つの市(cidade,シダーデ)に分かれる。 主要な都市はマプト(首都)、マトラ、ベイラ、ナンプラがある。 通貨は新メティカルであり1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行(英語版)によって償還された。USドル、南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。 鉱産資源開発が活発化する前は、第1次産品である農産物の生産が主であった。日本向け輸出はエビが多かった。ただ、鉱産資源に恵まれており、その生産も活発化してきた。 1980年代は内政の失敗に加え、内戦や旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、1999年、2000年と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した。 日本の三菱商事も出資したアルミニウム精錬事業のモザール社(主たる出資はBHPグループ)は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、オーストラリアのアルミナを原料として輸入した上で、南アフリカから供給される豊富・安価な電力を使い溶融塩電解を行ってアルミニウムの地金として輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。背景として、植民地時代にポルトガルが建設した、モザンビーク北西部のテテ州にあるザンベジ川流域のカオラ・バッサダムで水力発電(英語版)を行い、大量の電力を南アフリカに供給・売電していることがある。そのことが、南アから安価な電力をモザールに対して安定供給するシステムへとつながった。 2010年9月1日、首都マプトでパンの値段が30%引き上げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子供2人を含む市民7人が死亡した。2日、政府はデモ隊が築いたバリケードを取り除くために軍隊を導入した。民間テレビ局STVでは10人が死亡し、27人が重軽傷を負い、140人が拘束されたと報道している。 2020年7月、日本の政府開発援助(ODA)事業の一環として2011年から開始された日本・ブラジル・モザンビークの三角協力により行われている農業支援事業「プロサバンナ」(ProSAVANA-JBM)が中止される事態となった。この事案は現地の小規模農家の生活を破壊するものとしてプロジェクト開始時から批判が相次いでおり、事業に携わるNPO法人の関係者へビザ発給が拒否されるなどのトラブルを引き起こしていたことから関係国の間で燻り続けていたものでもあった。 モザンビークは石炭や宝石などの鉱物資源に恵まれており、資源開発が行われている。2012年からは大規模な天然ガス田の資源が沖合いに発見され注目を集めている。 鉱物資源の背景は、モザンビーク北東部の地層が南北方向に傾いたモザンビーク帯と、東西方向に傾いたザンベジ帯間の分岐合流点に位置し、新原生代(約8億年前~5億年前)の造山帯であることから、長年の複合的な熱と変形がルビーやガーネットなどの鉱物形成に理想的な温度と圧力をもたらしたと言われている。この他、鉄鉱石やマンガン、チタン(重砂)などもある。 1980年代後半からルビーが産出されるようになり、特に2009年以降になると世界のルビー需要を担うようになってきている。北東部でのルビー採鉱、またトルマリンの一種であるパライバトルマリンも産出されており、ブラジル産やナイジェリア産のパライバトルマリンが枯渇している現状において良質な宝石質のパライバトルマリンはここでのみの産出となっている。 モザンビークの観光は自然環境や野生生物、歴史的遺産を主体としている。同国における観光事業は、国内総生産(GDP)の成長に大きな可能性を秘めているとされている。 約40の部族が存在する。 マクア人(英語版)(Emakhuwa)・ロムウェ人(フランス語版)(Elomwe)が40%、マコンデ人、シャンガーン人、ショナ人、スワジ人などのバントゥー系黒人の諸民族が国民全体の99%を構成し、その他メスチーソ(黒人と白人の混血。ムラート)が0.8%、インド人(印僑)が0.08%、ポルトガル系モザンビーク人を主とする白人が0.06%とごく少数の非黒人系マイノリティが存在する。2007年時点では1,500人から12,000人に達する規模の中国系コミュニティが存在するとも推定されている。 2010年代初頭より、経済的停滞が続く旧宗主国ポルトガルから経済的に勃興を遂げつつあるモザンビークに専門職従事者の移住が進んでおり、首都マプトには約2万人のポルトガル人が存在すると推定されている。 モザンビークの公用語はポルトガル語(モザンビーク・ポルトガル語(英語版))である。その他、バントゥー諸語(マクア語、セナ語、ツォンガ語、ニュングウェ語、チェワ語、ショナ語、ロムウェ語、マコンデ語、ツワ語(英語版)、ロンガ語(英語版)、チョピ語(英語版)、ヤオ語、コティ語(英語版)、ンワニ語(英語版)など)や、北部ではスワヒリ語も用いられる。 モザンビークの言語状況は複雑である。1997年の国勢調査によれば公用語のポルトガル語を第1言語とする人々は国民の8.8%であり、第2言語とする人々の27%を合わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず、諸言語が混在する状態にある。 キリスト教が約40%、イスラム教が約20%、ほかに伝統宗教が信仰されている。2017年の推定によれば、キリスト教のカトリック教会が27.2%、ペンテコステ派が15.3%、ザイオニスト教会(Zionist Churches)が15.6%。イスラム教が18.9%、無宗教が13.9%である。 1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦(1977-1992年)の後、就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質はその影響を受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを義務付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年時点でも、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学数は2002年に300万人だったが2006年には410万人に増加し、修了率も31,000人から90,000人に増加したが、修了率は著しく低い水準を保っている。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受ける必要があり、中等学校は8年から10年までである。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強に進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に進学できる準大学である。 2017年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は60.7%(男性:72.6%、女性:50.3%)である。ただ、植民地時代の1950年時点では、非識字率が97.8%であった。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった。 主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962年)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。 出生率は女性1人につき、約4.89人である。2004年の保健への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった。2004年の1人当たりの保健費は42USドル(PPP)だった。2017年の人口100,000人に対して医者は8人。2021年の推定乳幼児死亡率は新生児1000人に対して63.03人。15歳から49歳までのHIV感染は10%を越える。モザンビークのHIV感染率は高く、2019年のHIV感染者は約220万人であり、感染率は12.1%である。 2017年、マラリアとコレラの流行が深刻化した。マラリアは2017年1月から3月の間に148万人が診断され、288人が死亡した。コレラは3年連続の流行となり1222人が感染し、うち2人が死亡している。 同国では近年の資源価格の下落に加え、対外債務問題により経済情勢が悪化している影響から所得格差が拡大しており、そこから強盗や誘拐、性犯罪、空き巣、車上荒らしなどの犯罪が多発し、治安の悪化が社会問題となっている。 また、1992年の内戦終了後もその当時の戦争で活動していた政府与党のFRELIMOと野党であるRENAMOとの間の政治的な緊張関係が存続し、RENAMO支持者の多い北中部地域の一部では、政府軍・警察とRENAMO側の武装集団との間で今も衝突が発生している。 イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響があったのにもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最もよく知られた美術・芸術としては、モザンビーク北部のマコンデ人による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と言語的影響を今も強く受けている。 文字によるモザンビークの活字文学は、植民地時代の20世紀前半にルイ・デ・ノローニャ(ドイツ語版)によるポルトガル語の詩によって始まった。これは、アンゴラやカーボベルデといった大西洋側のポルトガル植民地に比べて約半世紀遅れたものだった。その後、植民地主義を批判する詩を残した女性詩人ノエーミア・デ・ソウザや、後の1991年にカモンイス賞を受賞し、ポルトガル語世界において偉大な詩人の1人とされるジョゼ・クラヴェイリーニャにより、モザンビークのポルトガル語詩は発達を続けた。独立後には、マルクス主義的なプロパガンダ詩が目立つようになった。独立後の注目される詩人としてはルイス・カルロス・パトラキン(英語版)の名が挙げられる。 モザンビークの小説の歴史は、ジョアン・ディアス(ドイツ語版)によってポルトガル語で書かれた『ゴディド』(1952年発表)によって始まった。その後の代表的な作家としては『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(1964)で国内外からの評価を得たルイス・ベルナルド・ホンワナや、1980年代から活動し、『夢遊の大地』(1992年)などで新語の創造に励むミア・コウト、『ウアララピ』(1987)でデビューしたウングラニ・バ・カ・コーサなどの名が挙げられる。 同国はマラベンタ発祥の地である。 モザンビーク国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。 モザンビークでも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。モザンビークサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーモザンビーク代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには4度出場している。 ポルトガル植民地時代には、エウゼビオなどの選手がポルトガル代表として活躍し、指導者ではカルロス・ケイロスなどを輩出している。 陸上競技では、マリア・ムトラが2000年シドニー五輪女子800mで金メダルを獲得している。頭脳スポーツではチェスが盛んであり、同国のチェス連盟であるモザンビークチェス連盟(ポルトガル語版)は国際チェス連盟に所属している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家。南に南アフリカ共和国、南西をエスワティニ、西にジンバブエ、北西にザンビアとマラウイ、北はタンザニアと国境を接する。東はインド洋で、モザンビーク海峡内や対岸にマダガスカルとコモロ、フランス領のマヨットおよび無人島群の一部が存在する。首都はマプトである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国土面積は約79万9000平方キロメートル(日本のおよそ2倍)、人口は約3036万人で増加傾向にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "同国は東アフリカに位置する。かつてはポルトガルの旧植民地であり、1964年からモザンビーク独立戦争を戦い抜いた後の1975年に独立を達成した。その後も政情は不安定で、1977年から1992年までモザンビーク内戦が続いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、HIV感染とAIDS発症の蔓延が問題となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ポルトガル語諸国共同体ならびにポルトガル語公用語アフリカ諸国の加盟国となっているが、隣接国が全て英語圏の国家であるため1995年からイギリス連邦へ加盟している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "正式名称は、ポルトガル語でRepública de Moçambique(IPA: /rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ/ レプーブリカ・デ・ムサンビーケ)。通称、Moçambique(ムサンビーケ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambique(モウザンビーク)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日本語の表記はモザンビーク共和国。通称、モザンビーク。国名はかつてポルトガル領東アフリカの首府が置かれたモザンビーク島に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "この地域には約300万年前から人類が居住し、生活していた(「猿人」参照)。紀元前後にはサン人(ブッシュマン)が居住していたものの、次第にバントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人やローマ人が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ人の商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この地域の記録に残る歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称したモノモタパ王国に遡ることができる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は、スワヒリ文明最南端に位置した都市である現モザンビーク領のソファラを拠点に、アラブ人の商人と香辛料や象牙、金などの交易を行っており、中国の陶磁器や、インドの綿製品も手に入れていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ヨーロッパが大航海時代を迎えていた1498年、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭からポルトガルによる植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立した(ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ、通称ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)。植民地支配のための首府はモザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。1782年にロウレンソ・マルケスが建設された。1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止した結果、西アフリカからの奴隷輸出が困難になると、ポルトガルはブラジルへの新たな奴隷供給地としてモザンビークに目を向け、ザンジバルを拠点にしたサイイド・サイード王の奴隷貿易と相俟って、19世紀前半の東アフリカ内陸部は、拡大する奴隷貿易の輸出用奴隷供給地となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "19世紀に入り、1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による労働契約制により、事実上は奴隷労働制度が継続していた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルは、モザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図(ポルトガル語版)」計画を発表した。しかし、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルは、ザンビアとジンバブエとマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された。また、同1891年にポルトガル領モザンビーク総督はイギリス・フランス資本の勅許会社、モザンビーク会社(英語版)・ニアサ会社(英語版)・ザンベジア会社(ポルトガル語版)に開発の権利と司法権を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧宗主国であるにも拘らず、独立後にイギリス連邦の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対して、例えば1894年のロウレンソ・マルケス襲撃など、先住民による抵抗運動が頻発したものの、それらは全てポルトガル軍により武力鎮圧された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1898年にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が遷都され、以降ロウレンソ・マルケスはポルトガル領東アフリカの首都となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が終結し、世界的に脱植民地化の流れが出てくると、アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立が叫ばれるようになり、その影響はモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は、1951年にモザンビークなどのアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは形式上ポルトガル本国と同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3800万ポンドが投資された。さらに、リンポポ川流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められた。ただ、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために、南アフリカ連邦の鉱山への黒人労働者の出稼ぎによって経済は支えられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、形式上に過ぎない本国ポルトガルとの対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。マルクス主義を掲げ、ソ連と中華人民共和国の援助を受けていたFRELIMOは、冷戦構造の中で西側諸国の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以てFRELIMOに対処した。1969年にモンドラーネは暗殺されたものの、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続。約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1975年の独立後、出国したポルトガル系モザンビーク人に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、一党制による社会主義路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは1976年の国連制裁決議に従って、白人支配国家ローデシアの国境を封鎖した。この措置は輸出入の8割をモザンビーク間の鉄道輸送に頼るローデシア経済に大きな打撃を与えたが、一方でモザンビーク側も鉄道や港湾収入から得る収益を失うことを意味しており痛み分けとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1977年にローデシア諜報機関によって、ポルトガル領時代の秘密警察であったPIDE(英語版)を母体として結成された反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(MNR,RENAMO)が政府軍と衝突し、モザンビーク内戦が勃発した。イデオロギー的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家のジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共産主義の砦を自認していた南アフリカ共和国は、ローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を仕掛けた。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは、農村部で略奪・暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間にンコマチ協定が締結された。南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークはアフリカ民族会議(ANC)に対する支援を相互に打ち切り、両国の間で不可侵条約が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死し、後任としてジョアキン・アルベルト・シサノが新たな大統領に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "モザンビーク内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、東欧革命とソ連崩壊により東側諸国の勢力が低下した。1989年、シサノ大統領率いるモザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年に複数政党制と自由市場経済を規定した新憲法を制定した。これにより反共産主義を掲げていた南アフリカなどから干渉される理由が少なくなった。南アフリカ政府も黒人を差別するアパルトヘイト政策の廃止を1991年に宣言した。モザンビーク側でも1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年にローマ和平協定(英語版)がローマで締結され、内戦は終結した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "内戦後の新政権樹立のため、1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙および議会選挙が実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結び付きを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。ただ、翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結び付きを深めるために、ポルトガル語諸国共同体にも加盟した。1998年にはアルミニウム精錬を行うモザール社が、南アフリカと日本などの投資により誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "シサノ大統領は2003年にはアフリカ連合(AU)の第2代総会議長に選出され、更に引退後の2007年にはモ・イブラヒム賞の第1回受賞者となった。2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。2014年1月には中華人民共和国の援助で新しい大統領府が建設された。停戦後もFRELIMOとRENAMOの間に軍事的対立は続いたが水面下では和平交渉が続けられ、2019年8月1日に両者は改めて和平協定に調印し、内戦終結後も27年間続いた軍事的緊張は終わりを告げ、RENAMOの軍事部門は武装解除されることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "なお、停戦に伴う和平協定締結後は比較的安定した政治と、アルミニウム精錬を行うなどして年率8%の経済成長を実現したものの、国民の約半分が貧困ライン以下である。しかも内戦時代には学校への襲撃もあったなど教育は立ち遅れている。国民の教育水準は低いままで、識字率は60%程度に過ぎない。慢性的な医師不足の改善も進まず、教育水準の低い国民はHIV感染者が多く、AIDSの蔓延が深刻な問題となっている。2018年において平均寿命は60.2歳であり、世界平均より12年短い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "新たな有力産業として、東方のインド洋沖を含めて天然ガス開発が進んでいる。モザンビーク政府は、2020年代には液化天然ガス(LNG)輸出拡大により高い経済成長を持続することをめざしている(「鉱業」も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方で、イスラム過激派が武装闘争を展開しており、LNG開発基地となる北東部のカボ・デルガード州にも戦火が及んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "大統領を国家元首とする共和制をとっている。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に行政府の長たる首相が存在する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "立法府たる共和国議会(en:Assembly of the Republic (Mozambique))は一院制であり、全250議席は全て直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "主要な政党としては、社会民主主義・民主社会主義のモザンビーク解放戦線 (FRELIMO)、保守主義のモザンビーク民族抵抗運動 (Renamo-UE)、中道右派のモザンビーク民主運動(en:Democratic Movement of Mozambique、MDM)の名が挙げられる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "司法権は最高司法機関たる最高裁判所が司る。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "独立時に主導権を握ったのが社会主義を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親東側政策に結び付き、親西側の立場から反政府ゲリラを支援するローデシアや南アフリカ共和国などとは敵対政策が続いた。冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ポルトガル語諸国共同体の一員であり、ポルトガルやブラジル、カーボベルデ、アンゴラなどポルトガル語圏の国々(ルゾフォニア)とは深い絆を保っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、タンザニアとは独立戦争以来の友好関係が存在する。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "隣接国が全て英語圏であるため、1987年からイギリス連邦のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "織田信長の家来として活躍した弥助は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領東アフリカ出身で、1581年にイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノにより日本に渡航したと推定される。また、1582年にヨーロッパへ向かった天正遣欧少年使節が、帰路にて1586年にモザンビーク島に寄港し、約6か月間を過ごした。1980年代以降日本に留学する者が現れており、ベンビンダ・ツレのように長期間の留学を経て日本で就職後帰国した者もいる。このベンビンダは小学生向けの学習雑誌に読み物が掲載されたり、帰国の年にはラジオ番組で特別企画が長期間にわたって組まれるなど多くの日本人に名前が知られた。第5回アフリカ開発会議中の2013年6月1日に、横浜で日本との間に投資協定が結ばれた。2018年にはIHIにより最新鋭のガスタービン火力発電所が首都マプトに建設されている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "モザンビーク国防軍は陸軍、海軍、空軍から構成されている。また徴兵制を採用している国としても認知されている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "総人員は約11,200人で小規模ではあるものの、他のアフリカの国軍に比べると機能的に編成されている面がある。2018年の軍事支出は国内総生産(GDP)の0.99%だった。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "モザンビークの国土面積は約79万9000km。国内最高峰はビンガ山(2436m)である。2500 km以上におよぶ海岸線には、熱帯のビーチとサンゴ礁の浅瀬が見られる。マダガスカル島とはモザンビーク海峡を挟んで向かい合っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "モザンビークには5つの大きな河川が流れており、最も大きく重要なものはザンベジ川である。国土はザンベジ川によって地勢上、2つの地域に分かれる。ザンベジ川の北では、なだらかな海岸線が内陸部に入って丘陵や低い台地である。その西は、ミオンボ森林に覆われたニアサ高原やナムリ高原(シレ高原)、アンゴニア高原、テテ高原、マコンデ台地のような険しい高原である。なお、主要な湖としては、ニアサ湖(またはマラウイ湖)、シウタ湖、シルワ湖と3つが挙げられ、これらはいずれも北部に位置する。ザンベジ川の南では、低地は広く、マショナランド台地とレンボ山地が深南部に存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "一方、南部アフリカの山脈であるレボンボ山脈(英語版)の一部が同国に繋がっており、その姿を眺めることが出来る。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分によれば、気候は熱帯雨林気候とサバナ気候に分かれるが、首都マプトが位置する南部は冬季には平均気温が20°C以下まで下がり、5月から9月までは比較的しのぎやすい。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "モザンビークは、10の州(província,プロヴィンシア)、および州と同格の1つの市(cidade,シダーデ)に分かれる。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "主要な都市はマプト(首都)、マトラ、ベイラ、ナンプラがある。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "通貨は新メティカルであり1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までにモザンビーク銀行(英語版)によって償還された。USドル、南アフリカランド、そして近年ではユーロもまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定最低賃金は月60USドルである。モザンビークは南部アフリカ開発共同体(SADC)の加盟国である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "鉱産資源開発が活発化する前は、第1次産品である農産物の生産が主であった。日本向け輸出はエビが多かった。ただ、鉱産資源に恵まれており、その生産も活発化してきた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1980年代は内政の失敗に加え、内戦や旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、1999年、2000年と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本の三菱商事も出資したアルミニウム精錬事業のモザール社(主たる出資はBHPグループ)は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、オーストラリアのアルミナを原料として輸入した上で、南アフリカから供給される豊富・安価な電力を使い溶融塩電解を行ってアルミニウムの地金として輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。背景として、植民地時代にポルトガルが建設した、モザンビーク北西部のテテ州にあるザンベジ川流域のカオラ・バッサダムで水力発電(英語版)を行い、大量の電力を南アフリカに供給・売電していることがある。そのことが、南アから安価な電力をモザールに対して安定供給するシステムへとつながった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2010年9月1日、首都マプトでパンの値段が30%引き上げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子供2人を含む市民7人が死亡した。2日、政府はデモ隊が築いたバリケードを取り除くために軍隊を導入した。民間テレビ局STVでは10人が死亡し、27人が重軽傷を負い、140人が拘束されたと報道している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2020年7月、日本の政府開発援助(ODA)事業の一環として2011年から開始された日本・ブラジル・モザンビークの三角協力により行われている農業支援事業「プロサバンナ」(ProSAVANA-JBM)が中止される事態となった。この事案は現地の小規模農家の生活を破壊するものとしてプロジェクト開始時から批判が相次いでおり、事業に携わるNPO法人の関係者へビザ発給が拒否されるなどのトラブルを引き起こしていたことから関係国の間で燻り続けていたものでもあった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "モザンビークは石炭や宝石などの鉱物資源に恵まれており、資源開発が行われている。2012年からは大規模な天然ガス田の資源が沖合いに発見され注目を集めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "鉱物資源の背景は、モザンビーク北東部の地層が南北方向に傾いたモザンビーク帯と、東西方向に傾いたザンベジ帯間の分岐合流点に位置し、新原生代(約8億年前~5億年前)の造山帯であることから、長年の複合的な熱と変形がルビーやガーネットなどの鉱物形成に理想的な温度と圧力をもたらしたと言われている。この他、鉄鉱石やマンガン、チタン(重砂)などもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1980年代後半からルビーが産出されるようになり、特に2009年以降になると世界のルビー需要を担うようになってきている。北東部でのルビー採鉱、またトルマリンの一種であるパライバトルマリンも産出されており、ブラジル産やナイジェリア産のパライバトルマリンが枯渇している現状において良質な宝石質のパライバトルマリンはここでのみの産出となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "モザンビークの観光は自然環境や野生生物、歴史的遺産を主体としている。同国における観光事業は、国内総生産(GDP)の成長に大きな可能性を秘めているとされている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "約40の部族が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "マクア人(英語版)(Emakhuwa)・ロムウェ人(フランス語版)(Elomwe)が40%、マコンデ人、シャンガーン人、ショナ人、スワジ人などのバントゥー系黒人の諸民族が国民全体の99%を構成し、その他メスチーソ(黒人と白人の混血。ムラート)が0.8%、インド人(印僑)が0.08%、ポルトガル系モザンビーク人を主とする白人が0.06%とごく少数の非黒人系マイノリティが存在する。2007年時点では1,500人から12,000人に達する規模の中国系コミュニティが存在するとも推定されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2010年代初頭より、経済的停滞が続く旧宗主国ポルトガルから経済的に勃興を遂げつつあるモザンビークに専門職従事者の移住が進んでおり、首都マプトには約2万人のポルトガル人が存在すると推定されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "モザンビークの公用語はポルトガル語(モザンビーク・ポルトガル語(英語版))である。その他、バントゥー諸語(マクア語、セナ語、ツォンガ語、ニュングウェ語、チェワ語、ショナ語、ロムウェ語、マコンデ語、ツワ語(英語版)、ロンガ語(英語版)、チョピ語(英語版)、ヤオ語、コティ語(英語版)、ンワニ語(英語版)など)や、北部ではスワヒリ語も用いられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "モザンビークの言語状況は複雑である。1997年の国勢調査によれば公用語のポルトガル語を第1言語とする人々は国民の8.8%であり、第2言語とする人々の27%を合わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず、諸言語が混在する状態にある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "キリスト教が約40%、イスラム教が約20%、ほかに伝統宗教が信仰されている。2017年の推定によれば、キリスト教のカトリック教会が27.2%、ペンテコステ派が15.3%、ザイオニスト教会(Zionist Churches)が15.6%。イスラム教が18.9%、無宗教が13.9%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦(1977-1992年)の後、就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質はその影響を受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを義務付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年時点でも、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学数は2002年に300万人だったが2006年には410万人に増加し、修了率も31,000人から90,000人に増加したが、修了率は著しく低い水準を保っている。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受ける必要があり、中等学校は8年から10年までである。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強に進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に進学できる準大学である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2017年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は60.7%(男性:72.6%、女性:50.3%)である。ただ、植民地時代の1950年時点では、非識字率が97.8%であった。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962年)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "出生率は女性1人につき、約4.89人である。2004年の保健への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった。2004年の1人当たりの保健費は42USドル(PPP)だった。2017年の人口100,000人に対して医者は8人。2021年の推定乳幼児死亡率は新生児1000人に対して63.03人。15歳から49歳までのHIV感染は10%を越える。モザンビークのHIV感染率は高く、2019年のHIV感染者は約220万人であり、感染率は12.1%である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2017年、マラリアとコレラの流行が深刻化した。マラリアは2017年1月から3月の間に148万人が診断され、288人が死亡した。コレラは3年連続の流行となり1222人が感染し、うち2人が死亡している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "同国では近年の資源価格の下落に加え、対外債務問題により経済情勢が悪化している影響から所得格差が拡大しており、そこから強盗や誘拐、性犯罪、空き巣、車上荒らしなどの犯罪が多発し、治安の悪化が社会問題となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "また、1992年の内戦終了後もその当時の戦争で活動していた政府与党のFRELIMOと野党であるRENAMOとの間の政治的な緊張関係が存続し、RENAMO支持者の多い北中部地域の一部では、政府軍・警察とRENAMO側の武装集団との間で今も衝突が発生している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響があったのにもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最もよく知られた美術・芸術としては、モザンビーク北部のマコンデ人による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と言語的影響を今も強く受けている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "文字によるモザンビークの活字文学は、植民地時代の20世紀前半にルイ・デ・ノローニャ(ドイツ語版)によるポルトガル語の詩によって始まった。これは、アンゴラやカーボベルデといった大西洋側のポルトガル植民地に比べて約半世紀遅れたものだった。その後、植民地主義を批判する詩を残した女性詩人ノエーミア・デ・ソウザや、後の1991年にカモンイス賞を受賞し、ポルトガル語世界において偉大な詩人の1人とされるジョゼ・クラヴェイリーニャにより、モザンビークのポルトガル語詩は発達を続けた。独立後には、マルクス主義的なプロパガンダ詩が目立つようになった。独立後の注目される詩人としてはルイス・カルロス・パトラキン(英語版)の名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "モザンビークの小説の歴史は、ジョアン・ディアス(ドイツ語版)によってポルトガル語で書かれた『ゴディド』(1952年発表)によって始まった。その後の代表的な作家としては『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(1964)で国内外からの評価を得たルイス・ベルナルド・ホンワナや、1980年代から活動し、『夢遊の大地』(1992年)などで新語の創造に励むミア・コウト、『ウアララピ』(1987)でデビューしたウングラニ・バ・カ・コーサなどの名が挙げられる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "同国はマラベンタ発祥の地である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "モザンビーク国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "モザンビークでも他のアフリカ諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっている。モザンビークサッカー連盟(英語版)によって構成されるサッカーモザンビーク代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしアフリカネイションズカップには4度出場している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ポルトガル植民地時代には、エウゼビオなどの選手がポルトガル代表として活躍し、指導者ではカルロス・ケイロスなどを輩出している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "陸上競技では、マリア・ムトラが2000年シドニー五輪女子800mで金メダルを獲得している。頭脳スポーツではチェスが盛んであり、同国のチェス連盟であるモザンビークチェス連盟(ポルトガル語版)は国際チェス連盟に所属している。", "title": "スポーツ" } ]
モザンビーク共和国(モザンビークきょうわこく)、通称モザンビークは、アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家。南に南アフリカ共和国、南西をエスワティニ、西にジンバブエ、北西にザンビアとマラウイ、北はタンザニアと国境を接する。東はインド洋で、モザンビーク海峡内や対岸にマダガスカルとコモロ、フランス領のマヨットおよび無人島群の一部が存在する。首都はマプトである。 国土面積は約79万9000平方キロメートル(日本のおよそ2倍)、人口は約3036万人で増加傾向にある。
{{Otheruseslist|'''[[アフリカ]]の[[国]]'''|同国の島および都市|モザンビーク島|[[その他]]|モザンビーク (曖昧さ回避)}} {{基礎情報 国 | 略名 = モザンビーク | 日本語国名 = モザンビーク共和国 | 公式国名 = {{native name|pt|República de Moçambique}} | 国旗画像 = Flag of Mozambique.svg | 国章画像 = [[ファイル:Emblem of Mozambique.svg|85px]] | 国章リンク =([[モザンビークの国章|国章]]) | 標語 = なし | 国歌 = [[最愛の祖国|{{lang|pt|Pátria Amada}}]]{{pt icon}}<br>''最愛の祖国''<br><center>[[ファイル:Mozambican national anthem, performed by the United States Navy Band.wav]] | 位置画像 = Mozambique (orthographic projection).svg |位置画像説明 = モザンビークの位置 | 公用語 = [[ポルトガル語]] | 首都 = [[マプト]] | 最大都市 = [[マプト]] | 元首等肩書 = [[モザンビークの大統領一覧|大統領]] | 元首等氏名 = [[フィリペ・ニュシ]] | 首相等肩書 = [[モザンビークの首相一覧|首相]] | 首相等氏名 = {{ill2|アドリアーノ・マレイアーネ|en|Adriano Maleiane}} | 面積順位 = 35 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 801,590 | 水面積率 = 2.2% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 =47 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 31,255,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/mz.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-10 }}</ref> | 人口密度値 = 39.7<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 9626億2100万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年11月7日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=688,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2018&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 121 | GDP値MER = 153億9000万<ref name="economy"/> | GDP MER/人 = 506.817(推計)<ref name="economy"/> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 119 | GDP値 = 405億6500万<ref name="economy"/> | GDP/人 = 1,335.876(推計)<ref name="economy"/> | 建国形態 = [[独立]] | 確立形態1 = [[ポルトガル]]より | 確立年月日1 = [[1975年]][[6月25日]] | 通貨 = [[メティカル]] | 通貨コード = MZM | 時間帯 = (+2) | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = MZ / MOZ | ccTLD = [[.mz]] | 国際電話番号 = 258 | 注記 = }} '''モザンビーク共和国'''(モザンビークきょうわこく)、通称'''モザンビーク'''は、[[アフリカ大陸]]南東部に位置する[[共和制]][[国家]]。南に[[南アフリカ共和国]]、南西を[[エスワティニ]]、西に[[ジンバブエ]]、北西に[[ザンビア]]と[[マラウイ]]、北は[[タンザニア]]と国境を接する。東は[[インド洋]]で、[[モザンビーク海峡]]内や対岸に[[マダガスカル]]と[[コモロ]]、[[フランス]]領の[[マヨット]]および[[フランス領インド洋無人島群|無人島群の一部]]が存在する。[[首都]]は[[マプト]]である。 国土面積は約79万9000[[平方キロメートル]]([[日本]]のおよそ2倍)、人口は約3036万人で増加傾向にある<ref name="外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mozambique/data.html モザンビーク共和国(Republic of Mozambique)基礎データ] [[日本国外務省]](2021年4月18日閲覧)</ref>。 == 概要 == 同国は[[東アフリカ]]に位置する。かつては[[ポルトガル]]の旧[[植民地]]であり、1964年から[[モザンビーク独立戦争]]を戦い抜いた後の[[1975年]]に独立を達成した。その後も政情は不安定で、1977年から1992年まで[[モザンビーク内戦]]が続いた。 内戦終結後は好調な経済成長を続ける反面、[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV感染]]と[[後天性免疫不全症候群|AIDS発症]]の蔓延が問題となっている。 [[ポルトガル語諸国共同体]]ならびに[[ポルトガル語公用語アフリカ諸国]]の加盟国となっているが、隣接国が全て[[英語圏]]の国家であるため1995年から[[イギリス連邦]]へ加盟している。 == 国名 == 正式名称は、[[ポルトガル語]]で''{{Lang|pt|República de Moçambique}}''({{small|[[国際音声記号|IPA]]: }}{{ipa|rɨˈpublikɐ dɨ musɐ̃ˈbikɨ}} {{Small|レ'''プー'''ブリカ・デ・ムサン'''ビー'''ケ}})。通称、''{{Lang|pt|Moçambique}}''({{Small|ムサン'''ビー'''ケ}})。 公式の英語表記は、''Republic of Mozambique''。通称、''Mozambique''({{Small|モウザン'''ビー'''ク}})。 日本語の表記は'''モザンビーク共和国'''。通称、'''モザンビーク'''。国名はかつて[[ポルトガル領東アフリカ]]の首府が置かれた[[モザンビーク島]]に由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の[[1975年]]から[[1990年]]までは'''[[モザンビーク人民共和国]]'''だったが、1990年の[[憲法]]改正により現在の'''モザンビーク共和国'''となった。 == 歴史 == {{Main|モザンビークの歴史}} [[ファイル:Sofala1683.jpg|thumb|180px|1683年の[[ソファラ]]]] {{See also|{{仮リンク|バントゥー系民族の拡張|en|Bantu expansion}}}} この地域には約300万年前から人類が居住し、生活していた(「[[猿人]]」参照)。[[西暦紀元|紀元前後]]には[[サン人]](ブッシュマン)が居住していたものの、次第に[[バントゥー系民族|バントゥー系]]アフリカ人諸[[部族]]が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀には[[古代ギリシア|ギリシャ人]]や[[ローマ人]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月16日}}が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀には[[アラブ人]]の商人が[[金]]・[[銀]]を求めて港に現れるようになった。 この地域の記録に残る歴史は、[[11世紀]]から[[19世紀]]の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称した[[モノモタパ王国]]に遡ることができる。現在のジンバブエを中心に栄えたモノモタパ王国は、[[スワヒリ文明]]最南端に位置した都市である現モザンビーク領の[[ソファラ]]を拠点に、アラブ人の商人と[[香辛料]]や[[象牙]]、金などの交易を行っており、[[中国]]の[[陶磁器]]や、[[インド]]の[[綿]]製品も手に入れていた。 === ポルトガル植民地時代 === {{main|ポルトガル領モザンビーク}} [[ヨーロッパ]]が[[大航海時代]]を迎えていた[[1498年]]、[[ポルトガル人]]の[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が[[喜望峰]]を越えてこの地に到達したのをきっかけに、[[16世紀]]初頭からポルトガルによる植民が始まり、[[17世紀]]半ばにはポルトガルの植民地支配が確立した([[ポルトガル領モザンビーク|ポルトガル領モザンビーク・東アフリカ]]、通称{{lang-pt|Província Ultramarina de Moçambique}})。植民地支配のための首府は[[モザンビーク島]]に置かれた。モザンビークからは遥か遠くの[[ブラジル]]にまで[[奴隷|黒人奴隷]]が連行された。1782年に[[マプト|ロウレンソ・マルケス]]が建設された。1807年に[[イギリス]]が[[奴隷貿易]]を禁止した結果、[[西アフリカ]]からの奴隷輸出が困難になると、ポルトガルはブラジルへの新たな奴隷供給地としてモザンビークに目を向け、[[ザンジバル]]を拠点にした[[サイイド・サイード]]王の奴隷貿易と相俟って、19世紀前半の[[東アフリカ]]内陸部は、拡大する奴隷貿易の輸出用奴隷供給地となった<ref>吉田昌夫『〈世界現代史14〉アフリカ現代史II──東アフリカ』([[山川出版社]]、1990年2月10日、2版1刷発行)25-26頁</ref>。 19世紀に入り、[[1858年]]にポルトガル領では[[奴隷制度]]が廃止されたものの、劣悪な労働環境による労働契約制により、事実上は奴隷労働制度が継続していた。19世紀末に進んだ[[アフリカ分割]]の中でポルトガルは、モザンビークと[[アンゴラ]]を横断しようとする「{{仮リンク|バラ色地図|pt|Mapa Cor-de-Rosa}}」計画を発表した。しかし、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルは、[[ザンビア]]とジンバブエと[[マラウイ]]の領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス/金七紀男訳『ポルトガル3──世界の教科書=歴史』([[ほるぷ出版]]、1981年)pp.36-40</ref>。また、同1891年に[[ポルトガル領モザンビーク]][[総督]]はイギリス・[[フランス]]資本の[[勅許会社]]、{{仮リンク|モザンビーク会社|en|Mozambique Company}}・{{仮リンク|ニアサ会社|en|Nyassa Company}}・{{仮リンク|ザンベジア会社|pt|Companhia da Zambézia}}に開発の権利と[[司法権]]を除く自治権を与えた。このためポルトガルが旧[[宗主国]]であるにも拘らず、独立後に[[イギリス連邦]]の加盟国となっている。また、ポルトガルの圧政に対して、例えば1894年の[[マプト|ロウレンソ・マルケス]]襲撃など、先住民による抵抗運動が頻発したものの、それらは全て[[ポルトガル軍]]により武力鎮圧された。 [[1898年]]にモザンビーク島からロウレンソ・マルケスに植民地の首都が[[遷都]]され、以降ロウレンソ・マルケスは[[ポルトガル領東アフリカ]]の首都となった。 === 脱植民地化 === [[ファイル:Propagandalançadadeavião....jpg|thumb|180px|「FRELIMOは嘘をついた!あなたたちは苦しんでいる」<br/>モザンビーク解放戦線(FRELIMO)に対するポルトガルのプロパガンダ]] [[第二次世界大戦]]が終結し、世界的に[[脱植民地化]]の流れが出てくると、アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立が叫ばれるようになり、その影響はモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルの[[アントニオ・サラザール]]政権は、[[1951年]]にモザンビークなどのアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。モザンビークやアンゴラは形式上ポルトガル本国と同等の立場であるとされ、1959年のポルトガルの開発計画により、モザンビークには3800万[[ポンド (通貨)|ポンド]]が投資された。さらに、[[リンポポ川]]流域へのポルトガル人の入植や、港湾の能力拡大のための鉄道建設が進められた。ただ、モザンビーク植民地の慢性的なポルトガルへの輸入超過を補うために、[[南アフリカ連邦]]の鉱山への黒人労働者の[[出稼ぎ]]によって経済は支えられた。 その後、形式上に過ぎない本国ポルトガルとの対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも[[1964年]]9月に、[[エドゥアルド・モンドラーネ]]を議長とした[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)が[[タンザニア]]を拠点に武装闘争を開始し、[[モザンビーク独立戦争]]が始まった。[[マルクス主義]]を掲げ、[[ソビエト連邦|ソ連]]と[[中華人民共和国]]の援助を受けていたFRELIMOは、[[冷戦]]構造の中で[[西側諸国]]の脅威であり、そのためポルトガル軍も強権を以てFRELIMOに対処した。[[1969年]]にモンドラーネは暗殺されたものの、[[サモラ・マシェル]]らが後を継いで独立戦争を継続。約10年を経てポルトガル本国での[[カーネーション革命]]がきっかけとなり、[[1975年]][[6月25日]]にモザンビークは[[モザンビーク人民共和国]]として[[独立|完全独立]]を果たした。 === 独立と内戦 === {{Main|[[モザンビーク内戦]]}} 1975年の独立後、出国した[[ポルトガル系モザンビーク人]]に代わって権力を握ったFRELIMOは政党化し、[[一党制]]による[[社会主義]]路線を推進した。社会主義を掲げるモザンビークは[[1976年]]の[[国際連合|国連]]制裁決議に従って、白人支配国家[[ローデシア]]の国境を封鎖した。この措置は輸出入の8割をモザンビーク間の鉄道輸送に頼るローデシア経済に大きな打撃を与えたが、一方でモザンビーク側も鉄道や港湾収入から得る収益を失うことを意味しており痛み分けとなった<ref>「アフリカ南部、動乱の兆し モザンビークの戦争状態宣言」『[[朝日新聞]]』朝刊1976年([[昭和]]51年)3月4日7面(13版)</ref>。 [[1977年]]にローデシア[[諜報機関]]によって、ポルトガル領時代の[[秘密警察]]であった{{仮リンク|ポルトガル国家防衛警察|label=PIDE|en|PIDE}}を母体として結成された反政府組織[[モザンビーク民族抵抗運動]](MNR,RENAMO)が政府軍と衝突し、[[モザンビーク内戦]]が勃発した。[[イデオロギー]]的正当性を欠いていたRENAMOは、当初は成人男子や少年を強制徴収することによってしか兵力を集めることができず<ref>舩田クラーセンさやか「紛争後モザンビーク社会の課題──村に戻らない人々」『朝倉世界地理講座 アフリカII』(池谷和信、武内進一、佐藤廉也編、[[朝倉書店]]、2008年4月)pp.658-659</ref>、暴力と恐怖を旨に学校や病院への襲撃作戦を遂行した。 [[1980年]]にローデシアが崩壊し、黒人国家の[[ジンバブエ]]が独立すると、アフリカにおける[[反共産主義]]の砦を自認していた[[南アフリカ共和国]]は、ローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を仕掛けた。南アフリカをはじめとする西側諸国の援助を受けたRENAMOは、農村部で略奪・暴行を激化させたため、1984年にはモザンビークと南アフリカ両国の間に[[ンコマチ協定]]が締結された。南アフリカはRENAMOに対する支援を、モザンビークは[[アフリカ民族会議]](ANC)に対する支援を相互に打ち切り、両国の間で[[不可侵条約]]が結ばれた。しかし、その後も実質的にこの協定は反故にされ、以降も南アフリカによるRENAMO支援が続けられた<ref>レナード・トンプソン/宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城訳『南アフリカの歴史【最新版】』([[明石書店]]、2009年11月)p.404</ref>。さらに、1986年にはマシェル大統領が事故死し、後任として[[ジョアキン・アルベルト・シサノ]]が新たな大統領に就任した。 モザンビーク内戦が長期化し、経済が疲弊する中で、[[東欧革命]]と[[ソ連崩壊]]により[[東側諸国]]の勢力が低下した。[[1989年]]、シサノ大統領率いるモザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、翌[[1990年]]に[[複数政党制]]と[[自由市場経済]]を規定した新憲法を制定した。これにより反共産主義を掲げていた南アフリカなどから干渉される理由が少なくなった。南アフリカ政府も黒人を差別する[[アパルトヘイト]]政策の廃止を1991年に宣言した<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol49/index.html わかる!国際情勢>Vol.49 躍進する南アフリカ~途上国のリーダーとして] 日本国外務省(2009年11月2日)2021年4月18日閲覧</ref>。モザンビーク側でも1990年から1991年にかけての大[[旱魃]]の影響もあり、和平交渉の結果、[[1992年]]に{{仮リンク|ローマ和平協定|en|Rome General Peace Accords}}が[[ローマ]]で締結され、内戦は終結した。 === 内戦終結以降 === [[ファイル:Mozambique.JoaquimAlbertoChissano.01.jpg|thumb|160px|[[ジョアキン・アルベルト・シサノ]]。内戦終結後のモザンビークを安定した発展の軌道に乗せた。]] 内戦後の新政権樹立のため、[[1994年]]10月に[[国際連合モザンビーク活動]](ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙および議会選挙が実施された。この結果、与党のFRELIMOが勝利し、新政権が創設された。 [[1995年]]に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結び付きを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していた[[イギリス連邦]]に正式に加盟した。ただ、翌1996年にはポルトガル語世界([[ルゾフォニア]])との結び付きを深めるために、[[ポルトガル語諸国共同体]]にも加盟した。1998年には[[アルミニウム]][[精錬]]を行う[[モザール]]社が、南アフリカと[[日本]]などの投資により誕生した。 シサノ大統領は2003年には[[アフリカ連合]](AU)の第2代総会議長に選出され、更に引退後の2007年には[[モ・イブラヒム賞]]の第1回受賞者となった。2005年の大統領選挙では、与党FRELIMOから[[アルマンド・ゲブーザ]]が新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。2014年1月には中華人民共和国の援助で新しい大統領府が建設された<ref>{{cite news|publisher=China Aidd|title=China Built New Presidential Palace in Mozambique|url=https://china.aiddata.org/projects/40732|accessdate=2018-07-26}}</ref>。停戦後もFRELIMOとRENAMOの間に軍事的対立は続いたが水面下では和平交渉が続けられ、2019年8月1日に両者は改めて和平協定に調印し、内戦終結後も27年間続いた軍事的緊張は終わりを告げ、RENAMOの軍事部門は武装解除されることとなった<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3238083|title=モザンビークの政府と野党、歴史的な和平協定に調印|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2019-08-02|accessdate=2022-03-09}}</ref>。 なお、停戦に伴う和平協定締結後は比較的安定した政治と、アルミニウム精錬を行うなどして年率8%の[[経済成長]]を実現したものの、国民の約半分が[[貧困]]ライン以下である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000621028.pdf|title=モザンビーク|accessdate=2020年11月29日|publisher=日本国[[総務省]]}}</ref>。しかも内戦時代には学校への襲撃もあったなど教育は立ち遅れている。国民の教育水準は低いままで、[[識字率]]は60%程度に過ぎない。慢性的な医師不足の改善も進まず、教育水準の低い国民はHIV感染者が多く、AIDSの蔓延が深刻な問題となっている。2018年において平均寿命は60.2歳であり<ref>{{Cite web|和書|url=https://afdb-org.jp/wp-content/uploads/Social_Index.pdf|title=主要な社会指標|accessdate=2020年11月29日|publisher=アフリカ開発銀行グループ}}</ref>、世界平均より12年短い<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43367210V00C19A4CR0000/|title=世界の平均寿命は72歳 国の豊かさで格差顕在|accessdate=2020年11月29日|publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。 新たな有力産業として、東方の[[インド洋]]沖を含めて[[天然ガス]]開発が進んでいる。モザンビーク政府は、2020年代には[[液化天然ガス]](LNG)輸出拡大により高い経済成長を持続することをめざしている<ref>[https://plaza.rakuten.co.jp/airhead39/diary/201908040000/ 「東アフリカ産LNG台頭/モザンビークなど 日本にも恩恵」] 、[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO49272500R30C19A8EA5000/ モザンビーク財務相「24年から6~7%成長」生産本格化で]、『日本経済新聞』朝刊2019年9月1日(総合5面)2019年9月3日閲覧</ref>(「[[#鉱業|鉱業]]」も参照)。 一方で、[[イスラム過激派]]が武装闘争を展開しており、LNG開発基地となる北東部の[[カボ・デルガード州]]にも戦火が及んでいる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/world/20210406-OYT1T50293/ 「モザンビーク 戦闘激化/対過激派 ガス田開発に影響」]『[[読売新聞]]』朝刊2021年4月7日(国際面)2021年4月18日閲覧</ref>。 {{Clearleft}} == 政治 == [[File:Filipe Nyusi, President, Republic of Mozambique - 2018 (40689535485) (cropped).jpg|thumb|160px|第4代大統領[[フィリペ・ニュシ]]]] {{main|{{仮リンク|モザンビークの政治|pt|Política de Moçambique|en|Politics of Mozambique}}}} [[大統領]]を[[元首|国家元首]]とする[[共和制]]をとっている。大統領は1994年1月以来、直接選挙で選出され、任期5年。大統領の他に[[行政]]府の長たる[[首相]]が存在する。 {{See also|モザンビークの大統領一覧|モザンビークの首相一覧}} [[立法]]府たる[[共和国議会 (モザンビーク)|共和国議会]]([[:en:Assembly of the Republic (Mozambique)]])は[[一院制]]であり、全250議席は全て直接選挙によって選出される。任期5年。1994年1月に国民選挙委員会が設置された。 主要な政党としては、[[社会民主主義]]・[[民主社会主義]]の[[モザンビーク解放戦線]] (FRELIMO)、[[保守主義]]の[[モザンビーク民族抵抗運動]] (Renamo-UE)、[[中道右派]]の[[モザンビーク民主運動]]([[:en:Democratic Movement of Mozambique]]、MDM)の名が挙げられる。 {{See also|モザンビークの政党}} [[司法]]権は最高司法機関たる最高裁判所が司る。 === これまでの選挙 === * 第1回大統領・国政選挙:1994年10月。[[ジョアキン・アルベルト・シサノ|シサノ]]大統領再任、得票率53%。民主化の行方を占う選挙であった。 **[[モザンビーク解放戦線]] (FRELIMO) : 44.7% ** [[モザンビーク民族抵抗運動]] (Renamo-UE) : 37.8% * 1998年6月、地方選挙が実施された。投票率は極めて低く、33自治体の平均投票率が15%に満たなかった。この背景には、教育水準の低位と環境の不整備などが挙げられる。 * 第2回大統領・国民議会選挙:1999年12月3日から5日。[[ジョアキン・アルベルト・シサノ|シサノ]]大統領が再選された。 政党別の獲得議席数は、以下の通り。 **[[モザンビーク解放戦線]] (FRELIMO) : 133 ** [[モザンビーク民族抵抗運動]] (Renamo-UE) : 117 * 第3回大統領・国民議会選挙:2004年12月1日から2日。[[アルマンド・ゲブーザ|ゲブーザ]]与党公認候補(FRELIMO幹事長)が大統領に選出された。政党別の獲得議席数は、以下の通り。 **モザンビーク解放戦線(FRELIMO): 160 ** モザンビーク民族抵抗運動(Renamo-UE): 90 * 第4回大統領・国民議会選挙:2009年10月。[[アルマンド・ゲブーザ|ゲブーザ]]与党公認候補(現職大統領)が大統領に選出。政党別の獲得議席数は、以下の通りで与党の勝利となった。 **モザンビーク解放戦線(FRELIMO): 191 ** モザンビーク民族抵抗運動(Renamo-UE): 51 ** [[モザンビーク民主運動]] (MDM): 8 == 国際関係 == {{Main|モザンビークの国際関係|モザンビークの在外公館の一覧}} [[ファイル:Diplomatic missions of Mozambique.png|thumb|left|260px|モザンビークが外交使節を派遣している諸国の一覧図]] 独立時に主導権を握ったのが[[社会主義]]を掲げるFRELIMOだったために、冷戦中は国内の内戦の状況がそのまま親[[東側諸国|東側]]政策に結び付き、親[[西側諸国|西側]]の立場から反政府ゲリラを支援する[[ローデシア]]や[[南アフリカ共和国]]などとは敵対政策が続いた。冷戦終結後は西側諸国との友好関係を深め、全方位外交を行っている。 [[ポルトガル語諸国共同体]]の一員であり、[[ポルトガル]]や[[ブラジル]]、[[カーボベルデ]]、[[アンゴラ]]などポルトガル語圏の国々([[ルゾフォニア]])とは深い絆を保っている。 周辺諸国との関係においては、特に南アフリカ共和国との関係が経済的に大きい。また、[[タンザニア]]とは独立戦争以来の友好関係が存在する。 隣接国が全て[[英語圏]]であるため、1987年から[[イギリス連邦]]のオブザーバーとなっていた。モザンビークが南アフリカとジンバブエの民主化に大きな役割を果たした功績が認められたため<ref>市之瀬敦『ポルトガルの世界 海洋帝国の夢のゆくえ』([[社会評論社]]、2001年12月)pp.164-165</ref>、1995年に正式にイギリス連邦に加盟した。 === 日本との関係 === {{Main|日本とモザンビークの関係}} [[織田信長]]の家来として活躍した[[弥助]]は、現在のモザンビークにあたるポルトガル領東アフリカ出身で、1581年にイタリア人[[宣教師]][[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]により日本に渡航したと推定される。また、1582年にヨーロッパへ向かった[[天正遣欧少年使節]]が、帰路にて1586年にモザンビーク島に寄港し、約6か月間を過ごした<ref name="first_M">{{PDFlink|[https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000480416.pdf 初めて日本に渡ったアフリカ人はモザンビーク人(在モザンビーク日本国大使館)]}}</ref>。<br/>1980年代以降日本に留学する者が現れており、[[ベンビンダ・ツレ]]のように長期間の留学を経て日本で就職後帰国した者もいる。このベンビンダは小学生向けの学習雑誌に読み物が掲載されたり、帰国の年にはラジオ番組で特別企画が長期間にわたって組まれるなど多くの日本人に名前が知られた。第5回[[アフリカ開発会議]]中の2013年6月1日に、[[横浜市|横浜]]で日本との間に投資協定が結ばれた<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/page5_000168.html 日・モザンビーク投資協定の署名] 日本国外務省</ref>。2018年には[[IHI]]により最新鋭の[[ガスタービンエンジン|ガスタービン]]火力発電所が首都マプトに建設されている<ref>{{Cite web|和書|title=人事制度と人財育成 {{!}} IHI原動機 リクルーティングサイト2021|url=https://www.ihi.co.jp/ips/recruit/project02.html|website=IHI原動機 リクルーティングサイト2021|accessdate=2021-02-06|publisher=}}</ref>。 * 在留日本人数 - 195人(2018年10月時点)<ref name="外務省"/> * 在日モザンビーク人数 - 約130人(2019年12月時点)<ref name="外務省"/> == 軍事 == [[ファイル:Mozambique army personnel.jpg|thumb|モザンビーク陸軍の軍人]] {{Main|モザンビークの軍事}} モザンビーク国防軍は[[陸軍]]、[[海軍]]、[[空軍]]から構成されている。また[[徴兵制度|徴兵制]]を採用している国としても認知されている。 総人員は約11,200人で小規模ではあるものの、他のアフリカの国軍に比べると機能的に編成されている面がある。2018年の軍事支出は[[国内総生産]](GDP)の0.99%だった<ref>{{Cite web|url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/mozambique/#military-and-security|title=Military and Security|accessdate=2021年2月1日|publisher=CIA}}</ref>。 == 地理 == [[ファイル:Mozambique_sat.png|thumb|180px|モザンビークの衛星写真]] {{main|{{仮リンク|モザンビークの地理|en|Geography of Mozambique|pt|Geografia de Moçambique}}}} モザンビークの国土面積は約79万9000km<sup>2</sup><ref name="外務省"/>。国内最高峰は[[ビンガ山]](2436m)である。2500 km以上におよぶ[[海岸#海岸線|海岸線]]には、[[熱帯]]のビーチと[[サンゴ礁]]の浅瀬が見られる。[[マダガスカル島]]とは[[モザンビーク海峡]]を挟んで向かい合っている。 モザンビークには5つの大きな[[河川]]が流れており、最も大きく重要なものは[[ザンベジ川]]である。国土はザンベジ川によって地勢上、2つの地域に分かれる。ザンベジ川の北では、なだらかな海岸線が内陸部に入って[[丘陵]]や低い[[台地]]である。その西は、[[ミオンボ]]森林に覆われた[[ニアサ高原]]や[[ナムリ高原]](シレ高原)、[[アンゴニア高原]]、[[テテ高原]]、[[マコンデ台地]]のような険しい[[高原]]である。なお、主要な[[湖]]としては、[[ニアサ湖]](またはマラウイ湖)、[[シウタ湖]]、[[シルワ湖]]と3つが挙げられ、これらはいずれも北部に位置する。ザンベジ川の南では、低地は広く、[[マショナランド台地]]と[[レンボ山地]]が深南部に存在する。 一方、[[南部アフリカ]]の[[山脈]]である{{仮リンク|レボンボ山脈|en|Lebombo Mountains}}の一部が同国に繋がっており、その姿を眺めることが出来る。 {{See also|{{仮リンク|モザンビークの保護地域の一覧|en|Protected areas of Mozambique}}}} === 気候 === [[ケッペンの気候区分]]によれば、気候は[[熱帯雨林気候]]と[[サバナ気候]]に分かれるが、首都マプトが位置する南部は冬季には平均気温が20[[セルシウス度|℃]]以下まで下がり、5月から9月までは比較的しのぎやすい。 === 生態系 === {{Main|{{仮リンク|モザンビークの野生生物|en|Wildlife of Mozambique}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|モザンビークの保護地域の一覧|en|Protected areas of Mozambique}}}} == 地方行政区画 == [[File:Mozambique, administrative divisions - Nmbrs - colored 2018.svg|thumb|180px|[[モザンビークの州]]]] {{Main|モザンビークの州}} モザンビークは、10の[[州]](província,プロヴィンシア)、および州と同格の1つの[[市]](cidade,シダーデ)に分かれる。 # [[ニアサ州]] (Niassa) 州都 - [[リシンガ]] (Lichinga) # [[カーボ・デルガード州]] (Cabo Delgado) 州都 - [[ペンバ (モザンビーク)|ペンバ]] (Pemba) # [[ナンプーラ州]] (Nampula) 州都 - [[ナンプーラ]] (Nampula) # [[テテ州]] (Tete) 州都 - [[テテ (モザンビーク)|テテ]] (Tete) # [[ザンベジア州]] (Zambezia) 州都 - [[ケリマネ]] (Quelimane) # [[マニカ州]] (Manica) 州都 - [[シモイオ]] (chimoio) # [[ソファラ州]] (Sofala) 州都 - [[ベイラ (モザンビーク)|ベイラ]] (Beira) # [[ガザ州]] (Gaza) 州都 - [[シャイシャイ]] (Xai-Xai) # [[イニャンバネ州]] (Inhambane) 州都 - [[イニャンバネ]] (Inhambane) # [[マプト]]市 (Maputo cidade) # [[マプト州]] (Maputo província) 州都 - [[マトラ (モザンビーク)|マトラ]] (Matola) === 主要都市 === {{Main|モザンビークの都市の一覧}} 主要な都市は[[マプト]](首都)、[[マトラ (モザンビーク)|マトラ]]、[[ベイラ (モザンビーク)|ベイラ]]、[[ナンプラ]]がある。 == 経済 == {{Main|{{仮リンク|モザンビークの経済|en|Economy of Mozambique|pt|Economia de Moçambique }}}} [[ファイル:Maputo seen from southeast - October 2006.jpg|thumb|left|250px|首都[[マプト]]]] 通貨は新[[メティカル]]であり1000:1のレートで旧メティカルと置き換わっている。旧通貨は2012年末までに{{仮リンク|モザンビーク銀行|en|Bank of Mozambique}}によって償還された。[[USドル]]、[[南アフリカランド]]、そして近年では[[ユーロ]]もまた広く受け入れられ、ビジネスの取引で使われている。法定[[最低賃金]]は月60[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]である。モザンビークは[[南部アフリカ開発共同体]](SADC)の加盟国である。 [[ファイル:Gurue Mount Murresse.jpg|thumb|250px|[[ザンベジア州]]グルエー付近の[[チャノキ]]のプランテーション。]] 鉱産資源開発が活発化する前は、第1次産品である農産物の生産が主であった。日本向け輸出は[[エビ]]が多かった。ただ、鉱産資源に恵まれており、その生産も活発化してきた。 1980年代は内政の失敗に加え、内戦や旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。内戦終結後も、[[1999年]]、[[2000年]]と続いて起きた大洪水などの自然災害などで経済は打撃を受けていたが、1990年代後半以降から経済が急速に発展しており、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成した<ref>[http://www.iceida.is/english/main-activities/mozambique/ 記事名不明]{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。 日本の[[三菱商事]]も出資したアルミニウム精錬事業の[[モザール]]社(主たる出資は[[BHPグループ]])は、2000年より事業を開始した。国内最大級企業であるモザール社は、[[オーストラリア]]の[[アルミナ]]を原料として輸入した上で、南アフリカから供給される豊富・安価な電力を使い[[溶融塩電解]]を行って[[アルミニウム]]の地金として輸出しており、モザンビークの輸出市場での位置づけは高い。背景として、植民地時代にポルトガルが建設した、モザンビーク北西部の[[テテ州]]にあるザンベジ川流域の{{仮リンク|カオラ・バッサダム|en|Cahora Bassa Dam|label=カオラ・バッサダムで水力発電}}を行い、大量の電力を南アフリカに供給・売電していることがある。そのことが、南アから安価な電力をモザールに対して安定供給するシステムへとつながった。 2010年9月1日、首都マプトで[[パン]]の値段が30%引き上げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子供2人を含む市民7人が死亡した。2日、政府はデモ隊が築いたバリケードを取り除くために軍隊を導入した。民間テレビ局STVでは10人が死亡し、27人が重軽傷を負い、140人が拘束されたと報道している<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30000069.html 「食料と燃料の値上げで暴動、死傷者多数 モザンビーク」]{{リンク切れ|date=2021年4月}}[[CNN]](2010年9月2配信)</ref>。 2020年7月、日本の[[政府開発援助]](ODA)事業の一環として2011年から開始された日本・ブラジル・モザンビークの三角協力により行われている農業支援事業「プロサバンナ」(ProSAVANA-JBM)が中止される事態となった<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000090.000030680.html モザンビークでのODA事業が人々の声を受け中止へ︕現地からの反対の声に寄り添い活動してきた日本のNGOが8/12(水)にオンラインイベントで生報告(聞き手:ジャーナリスト堀潤氏)][[PR TIMES]](2020年8月6日配信)2021年4月18日閲覧</ref>。この事案は現地の小規模農家の生活を破壊するものとしてプロジェクト開始時から批判が相次いでおり、事業に携わる[[NPO法人]]の関係者へ[[査証|ビザ]]発給が拒否されるなどのトラブルを引き起こしていたことから関係国の間で燻り続けていたものでもあった<ref>樫田秀樹「[https://hbol.jp/157022 日本のODA事業がモザンビークの小規模農家の生活を破壊する!]」[[HARBOR BUSINESS Online]](2017年12月20日配信)2021年4月18日閲覧</ref><ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000078.000030680.html 35億円超の国費が投入されている日本のODA「プロサバンナ」に現地からの反発の声、事態を憂慮する国会議員による一般公開勉強会を12/23(月)に開催] PR TIMES(2019年12月17日配信)2021年4月18日閲覧</ref>。 === 鉱業 === {{See also|{{仮リンク|モザンビークの鉱業|en|Mineral industry of Mozambique}}}} モザンビークは[[石炭]]や[[宝石]]などの[[鉱物]]資源に恵まれており、資源開発が行われている。2012年からは大規模な[[天然ガス田]]の資源が沖合いに発見され注目を集めている<ref>[http://bizgate.nikkei.co.jp/special/emerging/topics/index.aspx?n=MMBIb4000020122012 記事名不明]{{リンク切れ|date=2021年4月}}日経BizGate</ref>。 鉱物資源の背景は、モザンビーク北東部の[[地層]]が南北方向に傾いたモザンビーク帯と、東西方向に傾いたザンベジ帯間の分岐合流点に位置し、[[新原生代]](約8億年前~5億年前)の[[造山帯]]であることから、長年の複合的な熱と変形が[[ルビー]]や[[ガーネット]]などの鉱物形成に理想的な温度と圧力をもたらしたと言われている<ref>[http://www.gia.edu/JP/gia-news-research-mozambique-expedition-ruby-discovery-new-millennium モザンビーク:21世紀に向けたルビーの発見] 米国宝石学会(GIA)2014年12月3日配信/2021年4月18日閲覧</ref>。この他、[[鉄鉱石]]や[[マンガン]]、[[チタン]](重砂)などもある。 ;[[石炭]] : 石炭埋蔵量は約7億トンで、モザンビークの主要鉱産物の1つである。日本の主導で「[[石炭産業]]発展5カ年プラン」が進められており、2011年には探査活動の結果としてテテ州で約200億トンの資源量が報告されている<ref>[http://www.jogmec.go.jp/library/recommend_library_10_000004.html 記事名不明]{{リンク切れ|date=2021年4月}}[[石油天然ガス・金属鉱物資源機構]]</ref>。 ;[[天然ガス]] : モザンビークでは世界でも最大規模の埋蔵力を誇る[[ガス田]]が発見されている。2003年には南アフリカの企業による陸上のガス田が生産開始し、南アフリカと輸出用ガス[[パイプライン輸送|パイプライン]]で結ばれるなど、同国からの投資が近年増えている。また、モザンビーク北部沖合いにおける[[オフショア]]の天然ガスの液化設備計画が[[三井物産]]らによって進められている。プラント建設は、[[千代田化工建設]]と米[[CB&I]]社、[[イタリア]]のサイペン社の3社連合が請け負う。[[LNG]]の生産能力は年1200万トンで、インフラも含めた事業総額は少なくとも1兆円規模とみられる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ18HXP_Y5A510C1TJC000/ 「千代田化工、モザンビークのLNG基地受注へ 1兆円規模」]日本経済新聞ニュースサイト(2015年5月18日配信)2021年4月18日閲覧</ref>。 ;宝石 1980年代後半から[[ルビー]]が産出されるようになり、特に[[2009年]]以降になると世界のルビー需要を担うようになってきている。北東部でのルビー採鉱、また[[トルマリン]]の一種である[[パライバトルマリン]]も産出されており、ブラジル産や[[ナイジェリア]]産のパライバトルマリンが[[枯渇]]している現状において良質な宝石質のパライバトルマリンはここでのみの産出となっている<ref>[https://www.feelsogood.jp/paraiba.html パライバトルマリンの品質と価値、産出動向、処理について] 福岡宝石市場(2021年4月18日閲覧)</ref>。 === 観光 === {{main|{{仮リンク|モザンビークの観光|en|Tourism in Mozambique}}}} モザンビークの観光は自然環境や野生生物、歴史的遺産を主体としている。同国における観光事業は、国内総生産(GDP)の成長に大きな可能性を秘めているとされている<ref>[https://web.archive.org/web/20210205083321/https://www.britannica.com/place/Mozambique Mozambique Culture, History, & People Britannica] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopedia Britannica]]</ref>。 {{節スタブ}} == 交通 == {{main|{{仮リンク|モザンビークの交通|en|Transport in Mozambique}}}} {{節スタブ}} === 鉄道 === {{main|モザンビークの鉄道}} === 航空 === {{main|モザンビークの空港の一覧}} == 国民 == [[ファイル:Mozambique-demography.png|thumb|240px|1961年から2003年までのモザンビークの人口動態グラフ]] [[ファイル:Mosque Mozambique Island.jpg|thumb|220px|[[モザンビーク島]]の[[モスク]]]] {{Main|{{仮リンク|モザンビークの人口統計|pt|Demografia de Moçambique|en|Demographics of Mozambique}}}} === 民族 === 約40の[[部族]]が存在する<ref name="外務省"/>。 {{仮リンク|マクア人|en|Makua people}}(Emakhuwa)・{{仮リンク|ロムウェ人|fr|Lomwe (peuple d'Afrique)}}(Elomwe)が40%、[[マコンデ人]]、[[シャンガーン人]]、[[ショナ人]]、[[スワジ人]]などの[[バントゥー系民族|バントゥー系]]黒人の諸民族が国民全体の99%を構成し<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/countries/mozambique/#people-and-society|title=People and Society|accessdate=2021年2月1日|publisher=CIA}}</ref>、その他[[メスチーソ]](黒人と白人の混血。[[ムラート]])が0.8%、[[インド人]]([[印僑]])が0.08%、[[ポルトガル系モザンビーク人]]を主とする白人が0.06%とごく少数の非黒人系マイノリティが存在する<ref name="2009cia">[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/mz.html 『CIA World Factbook』](2020年11月29日閲覧)</ref>。2007年時点では1,500人から12,000人に達する規模の[[中国系モザンビーク人|中国系]]コミュニティが存在するとも推定されている<ref>{{citation|last=Jian|first=Hong|year=2007|title=莫桑比克华侨的历史与现状 (The History and Status Quo of Overseas Chinese in Mozambique)|journal=West Asia and Africa|publisher=[[Chinese Academy of Social Sciences]]|url=http://scholar.ilib.cn/A-xyfz200705010.html|accessdate=2008-10-29|issue=5|issn=1002-7122|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110617044234/http://scholar.ilib.cn/A-xyfz200705010.html|archivedate=2011年6月17日|deadurldate=2017年9月}}</ref><ref name="ISN">{{citation|title=China, Mozambique: old friends, new business|date=2007-08-13|periodical=International Relations and Security Network Update|accessdate=2007-11-03|url=http://www.isn.ethz.ch/isn/Current-Affairs/Security-Watch/Detail/?id=53470&lng=en|last=Horta|first=Loro}}</ref>。 2010年代初頭より、経済的停滞が続く旧宗主国ポルトガルから経済的に勃興を遂げつつあるモザンビークに[[専門職]]従事者の移住が進んでおり、首都マプトには約2万人の[[ポルトガル人]]が存在すると推定されている<ref>{{cite news |title=ポルトガルから旧植民地への「逆頭脳流出」|publisher=JBPress|date=2012-03-21 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34805 |accessdate=2013-07-04}}</ref>。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|モザンビークの言語|en|Languages of Mozambique}}}} モザンビークの[[公用語]]は[[ポルトガル語]]({{仮リンク|モザンビーク・ポルトガル語|en|Mozambican Portuguese}})である。その他、[[バントゥー諸語]]([[マクア語]]、[[セナ語]]、[[ツォンガ語]]、[[ニュングウェ語]]、[[チェワ語]]、[[ショナ語]]、[[ロムウェ語]]、[[マコンデ語]]、{{仮リンク|ツワ語|en|Tswa language}}、{{仮リンク|ロンガ語|en|Ronga language}}、{{仮リンク|チョピ語|en|Chopi language}}、[[ヤオ語 (バントゥー)|ヤオ語]]、{{仮リンク|コティ語|en|Koti language}}、{{仮リンク|ンワニ語|en|Mwani language}}など)や、北部では[[スワヒリ語]]も用いられる。 モザンビークの言語状況は複雑である。1997年の[[国勢調査]]によれば公用語のポルトガル語を第1言語とする人々は国民の8.8%であり<ref name=2009cia/>、第2言語とする人々の27%<ref name=2009cia/>を合わせても35%ほどにしかならない。バントゥー諸語も最大話者数を擁するマクア語でも26.1%程にしかならず<ref name=2009cia/>、諸言語が混在する状態にある。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|モザンビークの宗教|en|Religion in Mozambique|pt|Religião em Moçambique}}}} [[キリスト教]]が約40%、[[イスラム教]]が約20%、ほかに伝統宗教が信仰されている<ref name="外務省"/>。2017年の推定によれば、キリスト教の[[カトリック教会]]が27.2%、[[ペンテコステ派]]が15.3%、[[ザイオニスト教会]]([[:en:Zionist Churches|Zionist Churches]])が15.6%。イスラム教が18.9%、[[無宗教]]が13.9%である<ref name=":0" />。 === 教育 === [[ファイル:Mozambique school.jpg|thumb|left|320px|[[ナンプーラ]]の学校の生徒たち]] [[ファイル:Universidade Eduardo Mondlane.jpg|thumb|220px|[[エドゥアルド・モンドラーネ大学]](1962年創立)]] {{Main|{{仮リンク|モザンビークの教育|en|Education in Mozambique}}}} 1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特に[[モザンビーク内戦]](1977-1992年)の後、就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質はその影響を受けている。全てのモザンビーク人は法律によって初等教育レベルの学校に出席することを[[義務教育|義務]]付けられているが、多くのモザンビークの児童は家族の生活のために農場で働かなければならないため、初等学校に通っていない。2007年時点でも、100万人の児童が未だに学校に通っておらず、彼らの多くは農村部の貧しい地域出身である。モザンビークの教員のほぼ半数は未だに無資格である。女児の就学数は2002年に300万人だったが2006年には410万人に増加し、修了率も31,000人から90,000人に増加したが、修了率は著しく低い水準を保っている<ref>[http://www.dfid.gov.uk/casestudies/files/africa/mozambique-primary-schools.asp Key facts] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090109185153/http://www.dfid.gov.uk/casestudies/files/africa/mozambique-primary-schools.asp |date=2009年1月9日 }}, Department for International Development (DFID), a part of the UK Government (24 May 2007)</ref>。7年生の後、生徒は中等学校に通うために標準化された国家試験を受ける必要があり、中等学校は8年から10年までである{{要出典|date=2009年5月}}。モザンビークの大学の枠は極端に限られており、そのため多くの準大学教育を終えた学生はすぐには大学の勉強に進めない。多くは教員として働くか、無職となる。職業訓練を提供する機関も存在し、農業学校、工業学校、教育学校などは10年生の後に進学できる準大学である。 2017年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は60.7%(男性:72.6%、女性:50.3%)である<ref name=":0" />。ただ、植民地時代の1950年時点では、非識字率が97.8%であった<ref>A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス著、金七紀男訳『ポルトガル3』([[ほるぷ出版]]〈世界の教科書=歴史〉、1981年11月1日初版)163頁</ref>。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった<ref name=2009cia/>。 主な[[高等教育]]機関としては、[[エドゥアルド・モンドラーネ大学]](1962年)や[[モザンビーク教育大学]]の名が挙げられる。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|モザンビークの保健|en|Health in Mozambique}}}} {{See also|{{仮リンク|モザンビークの医療|en|Health care in Mozambique}}|モザンビークのHIV/AIDS}} [[出生率]]は女性1人につき、約4.89人である<ref name=":0" />。2004年の保健への公的支出はGDP比2.7%であり、一方で同年の私的支出は1.3%だった<ref name="hdrstats.undp.org">{{Cite web|和書|url=http://hdrstats.undp.org/en/countries/data_sheets/cty_ds_MOZ.html|title=アーカイブされたコピー|accessdate=2010年5月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100130152549/http://hdrstats.undp.org/en/countries/data_sheets/cty_ds_MOZ.html|archivedate=2010年1月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。2004年の1人当たりの保健費は42USドル(PPP)だった<ref name="hdrstats.undp.org"/>。2017年の人口100,000人に対して医者は8人。2021年の推定乳幼児死亡率は新生児1000人に対して63.03人<ref name=":0" />。15歳から49歳までの[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]感染は10%を越える<ref name="hdrstats.undp.org"/>。モザンビークのHIV感染率は高く、2019年のHIV感染者は約220万人であり、感染率は12.1%である<ref name=":0" />。 2017年、[[マラリア]]と[[コレラ]]の流行が深刻化した。マラリアは2017年1月から3月の間に148万人が診断され、288人が死亡した。コレラは3年連続の流行となり1222人が感染し、うち2人が死亡している<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3121512?cx_part=popin 「モザンビークでコレラ流行、1222人感染」][[フランス通信社|AFP]](2017年3月15日配信)2017年3月15日閲覧</ref>。 == 治安 == 同国では近年の資源価格の下落に加え、対外債務問題により経済情勢が悪化している影響から所得格差が拡大しており、そこから[[強盗]]や[[誘拐]]、[[性犯罪]]、[[空き巣]]、[[車上荒らし]]などの[[犯罪]]が多発し、治安の悪化が社会問題となっている。 また、1992年の内戦終了後もその当時の戦争で活動していた政府与党のFRELIMOと野党であるRENAMOとの間の政治的な緊張関係が存続し、RENAMO支持者の多い北中部地域の一部では、政府軍・警察とRENAMO側の武装集団との間で今も衝突が発生している。 {{sectstub}} === 人権 === {{Main|{{仮リンク|モザンビークにおける人権|en|Human rights in Mozambique}}}} {{sectstub}} {{See also|{{仮リンク|モザンビークにおける人身売買|en|Human trafficking in Mozambique}}}} == マスコミ == {{Main|{{仮リンク|モザンビークのメディア|en|Mass media in Mozambique}}}} {{sectstub}} == 文化 == {{Main|モザンビークの文化}} [[ファイル:Ilha de Moçambique.jpg|right|thumb|260px|[[モザンビーク島]] - (1991年、文化遺産)]] イスラームの沿岸商人とヨーロッパの植民者の影響があったのにもかかわらず、モザンビークの人々は小規模農業に基づいた土着の文化を保っている。モザンビークで最もよく知られた美術・芸術としては、モザンビーク北部の[[マコンデ人]]による木彫品とダンスが特に有名である。中流階級や上流階級はポルトガル植民地時代の遺産と言語的影響を今も強く受けている。 === 食文化 === {{Main|{{仮リンク|モザンビーク料理|en|Cuisine of Mozambique|pt|Culinária de Moçambique}}}} {{節スタブ}} === 文学 === {{Main|モザンビーク文学|アフリカ文学}} [[ファイル:Mia Couto cropped.jpg|thumb|260px|現代モザンビークの作家[[ミア・コウト]]。モザンビークのみならず、[[アフリカ文学]]やポルトガル語文学界に広く知られる世界的な文学者でもある。]] 文字によるモザンビークの活字文学は、植民地時代の20世紀前半に{{仮リンク|ルイ・デ・ノローニャ|de|Rui de Noronha}}によるポルトガル語の詩によって始まった<ref name=ichinose>市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク 「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、[[拓殖書房]]、1994年11月</ref>。これは、アンゴラや[[カーボベルデ]]といった[[大西洋]]側のポルトガル植民地に比べて約半世紀遅れたものだった<ref name=ichinose/>。その後、植民地主義を批判する詩を残した女性詩人[[ノエーミア・デ・ソウザ]]や、後の1991年に[[カモンイス賞]]を受賞し、ポルトガル語世界において偉大な詩人の1人とされる<ref name=ichinose/>[[ジョゼ・クラヴェイリーニャ]]により、モザンビークのポルトガル語詩は発達を続けた。独立後には、[[マルクス主義]]的な[[プロパガンダ詩]]が目立つようになった。独立後の注目される詩人としては{{仮リンク|ルイス・カルロス・パトラキン|en|Luís Carlos Patraquim}}の名が挙げられる。 モザンビークの小説の歴史は、{{仮リンク|ジョアン・ディアス|de|João Dias}}によってポルトガル語で書かれた『ゴディド』(1952年発表)によって始まった<ref name=ichinose/>。その後の代表的な作家としては『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(1964)で国内外からの評価を得た<ref name=ichinose/>[[ルイス・ベルナルド・ホンワナ]]や、1980年代から活動し、『夢遊の大地』(1992年)などで新語の創造に励む[[ミア・コウト]]、『ウアララピ』(1987)でデビューした[[ウングラニ・バ・カ・コーサ]]などの名が挙げられる。 === 音楽 === {{Main|モザンビークの音楽}} 同国は[[マラベンタ]]発祥の地である。 === 世界遺産 === {{Main|モザンビークの世界遺産}} モザンビーク国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]が1件存在する。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|モザンビークの祝日|en|Public holidays in Mozambique}}}} {| class="wikitable" align= |- |+ style="font-weight:bold;font-size:120%" | |- style="background:#efefef" !日付 !!日本語表記 !!現地語表記 !!備考 |- ||[[1月1日]]||[[元日]]||Dia da Fraternidade universal|| |- ||[[2月3日]]||モザンビーク英雄の日||Dia dos Heróis Moçambicanos||[[エドゥアルド・モンドラーネ]]の命日 |- ||[[4月7日]]||モザンビーク女性の日||Dia da Mulher Moçambicana|| |- ||[[5月1日]]||[[メーデー]]||Dia Internacional dos Trabalhadores|| |- ||[[6月25日]]||[[独立記念日]]||Dia da Independência Nacional|| |- ||[[9月7日]]||ルサカ協定記念日||Dia da Vitória|| |- ||[[9月25日]]||国民解放軍記念日||Dia das Forças Armadas de Libertação Nacional|| |- |[[10月4日]]||平和と和解の日||Dia da Paz e Reconciliação|| |- ||[[10月19日]]||[[サモラ・マシェル]]誕生日||||初代大統領 |- ||[[11月10日]]||[[マプト]]市民の日||||マプトのみ |- ||[[12月25日]]||家族の日/[[クリスマス]]||Dia da Família|| |} == スポーツ == [[ファイル:Eusebio Benfica.JPG|thumb|180px|"[[ヒョウ|黒豹]]"の愛称で[[サッカーポルトガル代表]]として活躍した[[エウゼビオ]]]] {{Main|モザンビークのスポーツ}} {{See also|オリンピックのモザンビーク選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|モザンビークのサッカー|en|Football in Mozambique}}}} モザンビークでも他の[[アフリカ]]諸国同様に、[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている。{{仮リンク|モザンビークサッカー連盟|en|Mozambican Football Federation}}によって構成される[[サッカーモザンビーク代表]]は、これまで[[FIFAワールドカップ]]には未出場である。しかし[[アフリカネイションズカップ]]には4度出場している。 [[ポルトガル]]植民地時代には、[[エウゼビオ]]などの選手が[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]として活躍し、指導者では[[カルロス・ケイロス]]などを輩出している。 === その他の競技 === [[陸上競技]]では、[[マリア・ムトラ]]が[[2000年シドニーオリンピック|2000年シドニー五輪]]女子800mで金メダルを獲得している。[[マインドスポーツ|頭脳スポーツ]]では[[チェス]]が盛んであり、同国のチェス連盟である{{仮リンク|モザンビークチェス連盟|pt|Federação Moçambicana de Xadrez}}は[[国際チェス連盟]]に所属している。 == 著名な出身者 == {{Main|モザンビーク人の一覧}} * [[弥助]] - [[織田信長]]の[[家臣団|家臣]] * [[ジョアキン・アルベルト・シサノ]] - 元[[アフリカ連合]]議長 * [[マランガタナ・ングウェニア]] - [[画家]] * [[ミア・コウト]] - [[文学者]] * [[ネイマ]] - [[ミュージシャン]] * [[カルロス・ケイロス]] - サッカー指導者 * [[エウゼビオ]] - 元[[サッカー選手]] * [[アルマンド・サ]] - 元サッカー選手 * [[シマオ・マテ・ジュニオール|シマオ・マテ]] - サッカー選手 * [[マリア・ムトラ]] - [[陸上競技]]選手 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=市之瀬敦|date=2001年12月|title=ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ|series=|publisher=社会評論社|location=東京|isbn=4-7845-0392-7|ref=市之瀬(2001)}} * {{Cite book|和書|author=金七紀男|edition=2003年4月増補版|title=ポルトガル史(増補版)|series=|publisher=彩流社|location=東京|isbn=4-88202-810-7|ref=金七(2003)}} * [[舩田クラーセンさやか]]「紛争後モザンビーク社会の課題──村に戻らない人々」『朝倉世界地理講座──アフリカII』池谷和信、武内進一、佐藤廉也 編、朝倉書店、2008年4月。 * {{Cite book|和書|author=星昭、林晃史|date=1978年12月|title=アフリカ現代史I──総説・南部アフリカ|series=世界現代史13|publisher=山川出版社|location=東京|isbn=|ref=星、林(1978)}} * {{Cite book|和書|author=「モザンビーク」刊行チーム|date=1994年11月|title=モザンビーク──「救われるべき」国の過去・現在・未来|series=|publisher=拓殖書房|location=東京|isbn=|ref=「モザンビーク」刊行チーム(1994)}} ** 市之瀬敦「モザンビーク文学と公用語問題」『モザンビーク──「救われるべき」国の過去・現在・未来』「モザンビーク」刊行チーム、拓殖書房、1994年11月。 * {{Cite book|和書|author=レナード・トンプソン/宮本正興、吉國恒雄、峯陽一、鶴見直城 訳|date=2009年11月|title=南アフリカの歴史【最新版】|series=世界歴史叢書|publisher=明石書店|location=東京|isbn=4-7503-3100-7|ref=トンプソン/宮本、吉國、峯、鶴見訳(2009)}} * {{Cite book|和書|author=吉田昌夫 |translator= |editor= |others= |chapter= |title=アフリカ現代史II──東アフリカ |series=世界現代史14 |edition=2版 |date=1990年2月10日 |publisher=山川出版社 |location=東京 |id= |isbn=4-634-42140-2 |volume= |page= |pages= |url= |ref=吉田(1990)}} == 関連項目 == * [[モザンビーク関係記事の一覧]] * [[交換船]] <!-- * [[モザンビークの通信]] * [[モザンビークの交通]] --> * [[ポルトガル語諸国共同体]] * [[モザンビーク島]] * [[モザンビークにおけるLGBTの権利]] {{Commons&cat|Moçambique|Mozambique}} {{Wikivoyage|pt:Moçambique|モザンビーク{{pt icon}}}} {{Wikivoyage|Mozambique|モザンビーク{{en icon}}}} == 外部リンク == ; 政府 * [https://web.archive.org/web/20070509052601/http://www.mozambique.mz/ モザンビーク共和国政府] {{pt icon}}{{en icon}} * [https://www.presidencia.gov.mz/ モザンビーク大統領官邸] {{pt icon}} * [http://www.embamoc.jp/ 在日モザンビーク大使館] {{ja icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mozambique/ 日本外務省 - モザンビーク] {{ja icon}} * [https://www.mz.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在モザンビーク日本国大使館] {{ja icon}} ;その他 * [https://www.jetro.go.jp/world/africa/mz/ ジェトロ - モザンビーク(概況)]{{ja icon}} * {{CIA World Factbook link|mz|Mozambique}} {{en icon}} * {{Curlie|Regional/Africa/Mozambique}} {{en icon}} * {{Wikiatlas|Mozambique}} {{en icon}} * {{Googlemap|モザンビーク}} * {{kotobank|モザンビーク(国)}} {{アフリカ}} {{イギリス連邦}} {{CPLP}} {{OIC}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:もさんひいく}} [[Category:モザンビーク|*]] [[Category:アフリカの国]] [[Category:共和国]] [[Category:フランコフォニーのオブザーバー]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:アフリカ連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
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スワヒリ語
スワヒリ語(スワヒリご、Kiswahili)は、ニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群(英語版)のバントゥー語群 に属す、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語。ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語となっている。 スワヒリ語自体では、「〜語」を意味する接頭辞ki-を付けてKiswahili(キスワヒリ)という。なおWaswahiliはスワヒリ語圏の人々を、Uswahiliはスワヒリの人々の文化を指す。 スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つである。 数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約50%はアラビア語に由来する(ただし、21世紀初頭において使用されているアラビア語由来の語彙は30%程度であり、しかも英語などによって置き換えられつつあるため減少傾向にある)。しかしあくまでもアラビア語の影響は語彙の借用にとどまっており、語幹はあくまでもバントゥー諸語のものであるため、ピジン言語やクレオール言語ではなく、バントゥー諸語のひとつに分類されている。また、ペルシャ語、ドイツ語、ポルトガル語、インドの言語、英語からの借用語も見られる。母語としての使用者は、ザンジバル全域で使用されているほかはケニアおよびタンザニアの沿岸部において使用されるのみであるが、現在、東アフリカでは主に第二言語として数千万人に使用されており、異なる母語を持つ民族同士の共通語としての役割を果たしている。 タンザニア、ケニアでは公用語、コンゴ民主共和国では国語に定められている。また、ウガンダは1992年にスワヒリ語を小学校の必修科目に指定し(実態は伴っていない)、2005年には東アフリカ連邦構想を念頭に公用語に指定した。スワヒリ語とその近縁の言語は、コモロのほぼ全域(コモロ語参照)、ブルンジ・ルワンダ・ザンビア北部・マラウイ・モザンビーク・ソマリア南部沿岸地域の一部でも話されている。コモロ語はスワヒリ語の近縁の言語であるが、アラビア語からの借用要素がより多いものである。スワヒリ語話者はかつて北はモガディシュまで広がっており、紅海南部の港市やアラビア半島南岸、ペルシャ湾岸でも通用した。しかし、20世紀半ばまでにソマリアにおけるスワヒリ語の範囲はキスマヨ、バラワおよび周辺の海岸沿いと沖合の小島のみへと狭まり、1990年にはスワヒリ語話者を含む多くのバントゥー系が内戦を避けてケニアへ流れた。現在ソマリアに残っているスワヒリ語話者の人口は定かでない。また、アフリカ連合においては英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語と並んで6つの公用語のうちのひとつとなっている。スワヒリ語話者の増大と言語の地位上昇に伴い、世界各国の放送局がスワヒリ語放送を開始している。スワヒリ語圏以外でスワヒリ語放送を行っている、あるいは行っていた放送局は、BBCワールドサービス、ボイス・オブ・アメリカ、ドイチェ・ヴェレ、ロシアの声、中国国際放送、ラジオ・フランス・アンテルナショナル、ラジオ・スーダン、ラジオ・南アフリカなどである。 ガスリーによるバントゥー諸語の分類法では、スワヒリ語はGゾーンに属する。 スワヒリという語は、アラビア語で「海岸に住む人」を意味する「sawāhalii سواحلي」に由来する(sawāhaliiは「sāhil ساحل」(海岸、境界)の複数形「sawāhil سواحل」の派生語)。 知られている最も古いスワヒリ語文献は、1711年にキルワ島でアラビア文字で書かれた手紙である。これはキルワ王国のスルターンが、モザンビークのポルトガル人と、地元の同盟国に向けて書いたものである。この手紙は、現在はインドのゴアにある歴史的公文書館に収蔵されている。このほか、知られている最古のスワヒリ語文献の一つには1728年の『Utendi wa Tambuka』(Tambukaの物語)と題するアラビア文字による叙事詩がある。ラテン文字が一般化したのはヨーロッパ諸国による植民地化以後のことである。 スワヒリ語は「メサリ(スワヒリ語版) (methali)」、すなわち言葉遊び・洒落・韻文の形をとる諺・寓話の類が発達している(例:Haraka haraka haina baraka 英訳:Hurry hurry has no blessing)。メサリはスワヒリラップ(Swahili rap, Swah rap)の中にも見ることができ、音楽に文化・歴史・地域的な質感を与えている。 現代スワヒリ語にはアラビア語やペルシャ語以外にも英語からなどの借用語が多く含まれており、とくに語彙の5割がアラビア語であると言われているため、クレオール言語の一つと見なされているが、学説上では単一言語起源説と複数の言語的な核の存在を想定する説で分かれている。 上記のようなさまざまな説があるものの、アフリカ東部沿岸にポルトガルが来航した16世紀初頭までにはスワヒリ語としてある程度整った言語体系がすでに成立していたと考えられている。しかし、その範囲はそれほど広いものではなかった。スワヒリ語が沿岸部全体に拡散していくのは、ポルトガルがこの地域の覇権を握った16世紀からと考えられている。アラブ人がポルトガルによって排除されたことから、それまでこの地域の商業用言語であったアラビア語の影響力が衰退し、かわってスワヒリ語が商業言語として台頭してきた。スワヒリ語を母語とするシラジ人がこのころザンジバルを中心に勢力を拡大しているのもスワヒリ語拡散の一因となった。17世紀にはポルトガルに代わってアラビア語を母語とするオマーンのヤアーリバ朝がこの地域の覇権を握るが、ほどなくしてオマーン本土で混乱が生じたため強力な統治を行うことができず、文化的影響はそれほど大きくなかった。 こうしてイスラーム化した海岸部を中心に海岸部諸都市の母語となったスワヒリ語は、1800年ごろから内陸部への伝播がはじまる。海岸部と内陸部との交易がさかんとなり、とくに海岸部のザンジバルシティに本拠を置いたオマーン王国ブーサイード朝のサイイド・サイード王の下でキャラバン交易は急拡大する。奴隷や象牙などを求めて内陸部にキャラバンが分け入っていき、それに伴ってリンガフランカとしてのスワヒリ語の拡大が始まった。1880年代にキリスト教の宣教師によってスワヒリ語のラテン文字表記が開発されると、それまでアラビア文字を通してあったイスラム教との強いつながりが弱まり、純粋な交易用言語となったスワヒリ語はキリスト教徒などにも受け入れやすいものとなった。19世紀末になるとザンジバル・スルタン国領だった海岸部はイギリスとドイツに分割されたが、両国ともに支配用の言語としてスワヒリ語を重視し、積極的な普及を行った。第一次世界大戦が終わり、ドイツ領だったタンガニーカがイギリス領となると、イギリスはこの地域を英領東アフリカ植民地としてまとめ、域内のリンガフランカとしてスワヒリ語を利用した。 しかし、この時期までのスワヒリ語は方言の連続体であり、いわゆる標準語が存在しなかった。そこで1928年6月にモンバサで東アフリカの植民地間会議が行われ、そこで標準語採用が正式決定された。候補はケニアのモンバサ方言とザンジバルのザンジバル都市部方言であったが、イスラムと結びついているモンバサ方言に対し交易用言語としてより広範囲に広がっていたザンジバル都市部方言のほうが好適と判断され、1930年には領土間言語委員会が設置されてザンジバル都市部方言を元とした標準語制定が開始された。この委員会にはスワヒリ母語話者が存在しなかったが、これによって正書法が確立され、また辞書編纂などによって標準スワヒリ語はこの時期に確立した。 さまざまな言語・文化を背景に持つ広範囲の地域で通用する共通語として発展した経緯があるためか、スワヒリ語はサハラ以南の言語としては珍しく声調を持たない。ただしモンバサで話されるMvita方言は例外。 標準スワヒリ語は /ɑ/、/ɛ/、/i/、/ɔ/、/u/ の5母音。音素 /u/ の発音はIPAにおける [u] と [o] の中間である(イタリア語のuに似る)。母音弱化は強勢にかかわらず起こらない。欧米の言語に多い二重母音はなく、連続する母音は別々の母音として発音される(例:chui [tʃu.i](豹)) 註: かつてはアラビア文字が使われたが、現在では公的な場面や学校教育ではラテン文字表記を用いている。ただし、現在でもイスラム教徒の私信などにおいてアラビア文字で書かれることがある。 スワヒリ語をアラビア文字で表記する場合、アラビア語に由来する単語に関しては元々のアラビア語の通りに綴られる。その際、スワヒリ語では発音上、区別されない音素も、アラビア語の通りに表記し分けられる。 以下スワヒリ語に特有のアラビア文字表記に関して説明する。nd、nj、nyに関してはそれに対応するアラビア文字を二字並べて表記する。p,chを表記する文字はアラビア語には存在しないが、スワヒリ語ではペルシア語と同様、b、jの点を3点に増やした形で表記する。gはアラビア文字のghの点を2点に増やし、点を横に並べた形で表記し、ngはnとghの点を2点にしたものを並べて表記する。vはアラビア文字のwのものの上部に点を3点加えた形で表記する。母音の表記に関しては大陸のものとザンジバルのものとで若干異なる。スワヒリ語は原則母音の長短を区別しない言語であり、アラビア語に由来する語彙以外は、全て母音は母音符号のみで表記する。a,i,uはアラビア語の母音符号と同様のものを使用する。eに関しては、大陸では子音の下部に縦に直線を引き、ザンジバルではレ点のような符号を子音の下部に打つ。oに関しては大陸ではuの符号を、180度回転させたものを子音の上部に打ち、ザンジバルではレ点を子音の上部に打つ。 バントゥー諸語全体の特徴でもあるが、名詞はいくつかの部類に分類され、部類ごとに特定の接頭辞が付く。その部類を名詞クラスと称する。さらにどの部類の名詞を形容するかによって形容詞が変化し、どの部類の名詞を主語あるいは目的語にするかによって動詞が変化する。このため、文脈上明らかな場合は 主語や目的語を省略できる。 Meinhof systemに則って単数と複数を別々に数えるなら、祖語には22クラスあったとされ、ほとんどのバントゥー諸語が少なくともそのうち10クラスを有している。スワヒリ語には16クラスあり、うち6クラスが単数名詞、5クラスが複数名詞、1クラスが抽象名詞、1クラスが動詞の不定詞(名詞的な扱い)、3クラスが場所を主として示す。 単数がm-、複数がwa-で始まる名詞は「生物」、とくに「人」を示す(例:mtu(人)・watu(複数)、mdudu(虫)・wadudu(複数))。 単数がm-、複数がmi-で始まる名詞は「植物」を示すことが多い(例:mti(木)・miti(複数))。動詞の不定詞はku-で始められる(例:kusoma(読む))。それ以外のクラスは区分が複雑である。単数がki-、複数がvi-で始まる名詞は、しばしば工具などの「人工物」を示す。このki-/vi-交替は、語根がki-で始まる外来語にまで適用される(例:kitabu(本、アラビア語のkitābに由来)→vitabu(複数))。このクラスは「言語」も示し(例:Kiswahili(スワヒリ語))、指小辞としても使われる。かつてのバントゥー語では別々だったクラスが合流したものである。u-で始まる名詞はたいてい抽象名詞を示し、複数はない(例:utoto(子供であること?))。n-やm-または接頭辞なしで始まり、単複同形のクラスもある。単数がji-または接頭辞なし、複数がma-で始まるクラスは、しばしば指大辞(英語版)として使用される。 名詞だけ見る限り所属クラスが不明確な場合でも一致を確かめれば分かる。形容詞や数詞は通常、名詞の接頭辞をとる。動詞は別の接頭辞の体系をとる。(下記参照) 同一の名詞語根に異なる名詞クラスの接頭辞を付加することで派生語を作れる。 スワヒリ語の名詞クラスのシステムは文法性の一種とされるが、ヨーロッパの言語に見られる文法性とは異なる点がある。ヨーロッパの言語の文法性がほぼ恣意的であるのに対し、スワヒリ語における名詞のクラス分類は多分に意味的な関連性に基づいているのだ。しかし、名詞クラスを「人」や「木」といった単純なカテゴリーと捉えることはできない。意味が拡張され、拡張された意味に似た単語意味がまた拡張され、ということが行われた結果、名詞クラスは意味で繋がった網となっている。今でもその繋がりは広く理解されているが、非スワヒリ語話者には分かりづらいものがある。 スワヒリ語では普通の人の名詞クラスは「人」だが、盲人などの障害者は「もの」で表現されていた。この障害者差別的な語法に反対し、近年多くの障害者や人権団体などが障害者を「人」クラスで表す語法を広めている。 有名なスワヒリ語にはJamboがあるが、「物事」の意味で、"Hujambo.", "Hamjambo." のように人称接頭辞をつけることで、挨拶の言葉となる。 スワヒリ語の動詞が動詞そのまま(動詞語幹そのまま)で使われるのは命令形のみであり、通常は主語と対応した接頭辞、時制標識、目的語を示す接頭辞など様々な接頭辞が複合的に付加される。さらに動詞の意味を拡張する接尾辞も追加されることもある。こうした複合体を動詞複合体という。 なお目的語の接頭辞は目的語と照応したものが使われる。 標準スワヒリ語は1930年にザンジバル方言を元に定められているが、スワヒリ語には多くの方言が存在する。特に20世紀にスワヒリ語使用域が急拡大するのに伴い、白人入植者や各地のアフリカ人との混交から生まれたケニア内陸部のアップカントリー・スワヒリ(内陸スワヒリ)や、コンゴ盆地のコンゴ・スワヒリなどといった新たな方言が生まれた。とくにコンゴ民主共和国のマニエマ地方などで話される方言はキングワナとよばれる。スワヒリ語を統制する機関は1967年に設立されたタンザニアの国立スワヒリ語審議会(Baraza la Kiswahili la Taifa、BAKITA)と、1998年に設立されたケニアの国立スワヒリ語協会(Chama cha Kiswahili cha Taifa、CHAKITA)がある。 2012年現在、最もスワヒリ語の重要性が高いのはタンザニアである。タンザニアにおいてはスワヒリ語は元々タンガニーカ海岸部のスワヒリ系民族の母語であり、内陸部にも広く浸透していた。これを受けて1960年のタンガニーカ独立と同時においてスワヒリ語は公用語に指定された。1964年には沖合いに浮かぶザンジバルと合併してタンザニア連合共和国となるが、ザンジバルにおいてはもともとスワヒリ語の母語話者がほとんどを占めており、この政策はより推進されることとなった。このスワヒリ語重視政策を立案し推進したのは、タンガニーカ初代大統領のジュリウス・ニエレレである。ニエレレは言語統一こそが国家統一において最も重要なものの一つであると考え、スワヒリ語の普及と整備に多大な貢献をした。スワヒリ語公用語化はニエレレの政策であるが、ほかのアフリカ新独立国においては、共通語として現地の言葉が広い地域で通用することはあるものの、在来の言葉を公用語化した国家は存在しない。1967年には国立スワヒリ語審議会を設立し、語彙や文法の整備を政府の手で行った。 その結果、タンザニアにおいて、政府関係の文書は基本的にスワヒリ語で作られている。マスコミにおいてもスワヒリ語は積極的に使用され、また、初等教育はすべてスワヒリ語で行われ、政府もさまざまな形で普及を図っている。これはタンザニア人としてのアイデンティティ創出の一環として推進された。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる。一方で、語彙の整備が行われスワヒリ語が高等教育にも十分耐えうる言語となっているにもかかわらず、高等教育においては英語教育が貫かれ、スワヒリ語での高等教育は行われていない。これは他のアフリカ諸国と同様、エリート層においては英語能力がほぼ必須であり、高等教育をスワヒリ語化することでエリート層の優位性の一つが崩れてしまうことへの反発や、研究書等のスワヒリ語訳にはコストがかかり、そのまま英語を使用した方が安上がりに済む場合が多いなどの理由がある。また、小学校から学校では一貫してスワヒリ語中心の生活を子供たちが送るため、タンザニア国内各地に点在する諸語の利用が低下し、各民族語の継承が困難になるケースも散見されている。 ケニアにおいてはスワヒリ語は国語とされ、また英語とともに公用語に定められている。これまで正式には定められていなかったが、2010年8月27日に発布された新憲法においてその地位は明確に規定された。ケニアにおいてもスワヒリ語はリンガフランカとしての地位を保っており、かなりの数の人々が共通語としてスワヒリ語を解することができる。ただし、特に首都ナイロビで話されるスワヒリ語は標準スワヒリ語からはかなりかけ離れたものであり、ナイロビ・スワヒリ語とも呼ばれる方言が使用されている。いっぽうで、隣国タンザニアと異なり学校教育においては英語が教育言語として使用されており、初期教育においては諸民族語も指定されているものの、母語話者の少ないスワヒリ語は海岸部の母語話者地域を除いては教育言語とはなっていない。また、公用語としても英語の使用が優勢である。首都ナイロビは本来はキクユ語圏であり、キクユ語を中心に話すものも数多い。 1970年代より、首都ナイロビを中心に、上記のナイロビ・スワヒリ語とはまた別の、シェン(Sheng)と呼ばれるスワヒリ語の方言が発生した。シェン(Sheng)とはスワヒリ語(Swahili)と英語(English)の合成語であり、その名のとおりスワヒリ語のナイロビ方言に英語やルヒヤ語、キクユ語、カンバ語、ルオ語といった近隣諸民族の言語の語彙を多く導入したもので、マタツ(乗り合いタクシー)の運転手などから若者言葉として広まり、音楽などのポップカルチャーなどにも使用されるようになった。 ウガンダにおいては、スワヒリ語の地位は上記2国に比べてもなお低い。ウガンダは首都カンパラを擁する旧ブガンダ王国地域が主導権を握っており、共通語もガンダ人の話すガンダ語が使用されることが多い。これに反発するブガンダ以外の諸地域はガンダ語の普及に消極的であり、国内のどの民族の母語でもないスワヒリ語は彼らの支持によって2005年に英語と並ぶ公用語に指定された。これは、スワヒリ語が重要な役割を果たすケニアおよびタンザニアとの東アフリカ連邦構想を念頭においたものでもある。しかし、ウガンダ国内ではスワヒリ語は北部のナイロート系民族が共通語として使用しているだけであり、公用語として長く使用されてきた英語や共通語として力を持つガンダ語に比べるとスワヒリ語の重要性は低いものとなっている。 コンゴ民主共和国においては、スワヒリ語は公用語ではないが4大共通語のひとつであり、リンガラ語、ルバ語、コンゴ語とならんで国語に指定されている。スワヒリ語の使用地域は東部および南部であり、旧カタンガ州や北キヴ州、南キヴ州、マニエマ州、旧東部州南部、旧西カサイ州東部などが使用地域である。ただし、あくまでもリンガフランカとしての普及であり、母語話者は存在しない。また、教育言語はフランス語であり、スワヒリ語をはじめとする4つの国語は小学校の最初の2年間のみ教授言語とされ、その後は学科としても教えられない。コンゴは多民族・多言語国家であるが、首都キンシャサはリンガラ語圏に属する。このため、モイーズ・チョンベやローラン・カビラ、ジョゼフ・カビラといったスワヒリ語圏出身の政治家との間に摩擦が起きることがある。2006年のコンゴ大統領選挙時には、東部のスワヒリ語圏を固めたジョゼフ・カビラに対し、リンガラ語圏出身の対立候補であるジャンピエール・ベンバが排外主義をあおり、大きな混乱が起きた。 ルワンダではほぼ100%の国民にルワンダ語が普及しており、スワヒリ語は商用言語として使われる程度であったが、周辺国との関係から2017年に公用語に制定された。また、2015年以来学校教育での必修言語となっている。なお、ルワンダでは2008年まではフランス語が、それ以降は英語が教授言語となっている。 日本において専門的にスワヒリ語を学ぶことのできる大学は、大阪大学の外国語学部スワヒリ語専攻が唯一のものである。これは、大阪外国語大学に開設されていたスワヒリ語専攻が2007年の大阪大学と大阪外国語大学の統合によって同大に引き継がれたものである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スワヒリ語(スワヒリご、Kiswahili)は、ニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群(英語版)のバントゥー語群 に属す、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語。ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "スワヒリ語自体では、「〜語」を意味する接頭辞ki-を付けてKiswahili(キスワヒリ)という。なおWaswahiliはスワヒリ語圏の人々を、Uswahiliはスワヒリの人々の文化を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つである。 数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約50%はアラビア語に由来する(ただし、21世紀初頭において使用されているアラビア語由来の語彙は30%程度であり、しかも英語などによって置き換えられつつあるため減少傾向にある)。しかしあくまでもアラビア語の影響は語彙の借用にとどまっており、語幹はあくまでもバントゥー諸語のものであるため、ピジン言語やクレオール言語ではなく、バントゥー諸語のひとつに分類されている。また、ペルシャ語、ドイツ語、ポルトガル語、インドの言語、英語からの借用語も見られる。母語としての使用者は、ザンジバル全域で使用されているほかはケニアおよびタンザニアの沿岸部において使用されるのみであるが、現在、東アフリカでは主に第二言語として数千万人に使用されており、異なる母語を持つ民族同士の共通語としての役割を果たしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "タンザニア、ケニアでは公用語、コンゴ民主共和国では国語に定められている。また、ウガンダは1992年にスワヒリ語を小学校の必修科目に指定し(実態は伴っていない)、2005年には東アフリカ連邦構想を念頭に公用語に指定した。スワヒリ語とその近縁の言語は、コモロのほぼ全域(コモロ語参照)、ブルンジ・ルワンダ・ザンビア北部・マラウイ・モザンビーク・ソマリア南部沿岸地域の一部でも話されている。コモロ語はスワヒリ語の近縁の言語であるが、アラビア語からの借用要素がより多いものである。スワヒリ語話者はかつて北はモガディシュまで広がっており、紅海南部の港市やアラビア半島南岸、ペルシャ湾岸でも通用した。しかし、20世紀半ばまでにソマリアにおけるスワヒリ語の範囲はキスマヨ、バラワおよび周辺の海岸沿いと沖合の小島のみへと狭まり、1990年にはスワヒリ語話者を含む多くのバントゥー系が内戦を避けてケニアへ流れた。現在ソマリアに残っているスワヒリ語話者の人口は定かでない。また、アフリカ連合においては英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語と並んで6つの公用語のうちのひとつとなっている。スワヒリ語話者の増大と言語の地位上昇に伴い、世界各国の放送局がスワヒリ語放送を開始している。スワヒリ語圏以外でスワヒリ語放送を行っている、あるいは行っていた放送局は、BBCワールドサービス、ボイス・オブ・アメリカ、ドイチェ・ヴェレ、ロシアの声、中国国際放送、ラジオ・フランス・アンテルナショナル、ラジオ・スーダン、ラジオ・南アフリカなどである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ガスリーによるバントゥー諸語の分類法では、スワヒリ語はGゾーンに属する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "スワヒリという語は、アラビア語で「海岸に住む人」を意味する「sawāhalii سواحلي」に由来する(sawāhaliiは「sāhil ساحل」(海岸、境界)の複数形「sawāhil سواحل」の派生語)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "知られている最も古いスワヒリ語文献は、1711年にキルワ島でアラビア文字で書かれた手紙である。これはキルワ王国のスルターンが、モザンビークのポルトガル人と、地元の同盟国に向けて書いたものである。この手紙は、現在はインドのゴアにある歴史的公文書館に収蔵されている。このほか、知られている最古のスワヒリ語文献の一つには1728年の『Utendi wa Tambuka』(Tambukaの物語)と題するアラビア文字による叙事詩がある。ラテン文字が一般化したのはヨーロッパ諸国による植民地化以後のことである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "スワヒリ語は「メサリ(スワヒリ語版) (methali)」、すなわち言葉遊び・洒落・韻文の形をとる諺・寓話の類が発達している(例:Haraka haraka haina baraka 英訳:Hurry hurry has no blessing)。メサリはスワヒリラップ(Swahili rap, Swah rap)の中にも見ることができ、音楽に文化・歴史・地域的な質感を与えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現代スワヒリ語にはアラビア語やペルシャ語以外にも英語からなどの借用語が多く含まれており、とくに語彙の5割がアラビア語であると言われているため、クレオール言語の一つと見なされているが、学説上では単一言語起源説と複数の言語的な核の存在を想定する説で分かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "上記のようなさまざまな説があるものの、アフリカ東部沿岸にポルトガルが来航した16世紀初頭までにはスワヒリ語としてある程度整った言語体系がすでに成立していたと考えられている。しかし、その範囲はそれほど広いものではなかった。スワヒリ語が沿岸部全体に拡散していくのは、ポルトガルがこの地域の覇権を握った16世紀からと考えられている。アラブ人がポルトガルによって排除されたことから、それまでこの地域の商業用言語であったアラビア語の影響力が衰退し、かわってスワヒリ語が商業言語として台頭してきた。スワヒリ語を母語とするシラジ人がこのころザンジバルを中心に勢力を拡大しているのもスワヒリ語拡散の一因となった。17世紀にはポルトガルに代わってアラビア語を母語とするオマーンのヤアーリバ朝がこの地域の覇権を握るが、ほどなくしてオマーン本土で混乱が生じたため強力な統治を行うことができず、文化的影響はそれほど大きくなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "こうしてイスラーム化した海岸部を中心に海岸部諸都市の母語となったスワヒリ語は、1800年ごろから内陸部への伝播がはじまる。海岸部と内陸部との交易がさかんとなり、とくに海岸部のザンジバルシティに本拠を置いたオマーン王国ブーサイード朝のサイイド・サイード王の下でキャラバン交易は急拡大する。奴隷や象牙などを求めて内陸部にキャラバンが分け入っていき、それに伴ってリンガフランカとしてのスワヒリ語の拡大が始まった。1880年代にキリスト教の宣教師によってスワヒリ語のラテン文字表記が開発されると、それまでアラビア文字を通してあったイスラム教との強いつながりが弱まり、純粋な交易用言語となったスワヒリ語はキリスト教徒などにも受け入れやすいものとなった。19世紀末になるとザンジバル・スルタン国領だった海岸部はイギリスとドイツに分割されたが、両国ともに支配用の言語としてスワヒリ語を重視し、積極的な普及を行った。第一次世界大戦が終わり、ドイツ領だったタンガニーカがイギリス領となると、イギリスはこの地域を英領東アフリカ植民地としてまとめ、域内のリンガフランカとしてスワヒリ語を利用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかし、この時期までのスワヒリ語は方言の連続体であり、いわゆる標準語が存在しなかった。そこで1928年6月にモンバサで東アフリカの植民地間会議が行われ、そこで標準語採用が正式決定された。候補はケニアのモンバサ方言とザンジバルのザンジバル都市部方言であったが、イスラムと結びついているモンバサ方言に対し交易用言語としてより広範囲に広がっていたザンジバル都市部方言のほうが好適と判断され、1930年には領土間言語委員会が設置されてザンジバル都市部方言を元とした標準語制定が開始された。この委員会にはスワヒリ母語話者が存在しなかったが、これによって正書法が確立され、また辞書編纂などによって標準スワヒリ語はこの時期に確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "さまざまな言語・文化を背景に持つ広範囲の地域で通用する共通語として発展した経緯があるためか、スワヒリ語はサハラ以南の言語としては珍しく声調を持たない。ただしモンバサで話されるMvita方言は例外。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "標準スワヒリ語は /ɑ/、/ɛ/、/i/、/ɔ/、/u/ の5母音。音素 /u/ の発音はIPAにおける [u] と [o] の中間である(イタリア語のuに似る)。母音弱化は強勢にかかわらず起こらない。欧米の言語に多い二重母音はなく、連続する母音は別々の母音として発音される(例:chui [tʃu.i](豹))", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "註:", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "かつてはアラビア文字が使われたが、現在では公的な場面や学校教育ではラテン文字表記を用いている。ただし、現在でもイスラム教徒の私信などにおいてアラビア文字で書かれることがある。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "スワヒリ語をアラビア文字で表記する場合、アラビア語に由来する単語に関しては元々のアラビア語の通りに綴られる。その際、スワヒリ語では発音上、区別されない音素も、アラビア語の通りに表記し分けられる。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "以下スワヒリ語に特有のアラビア文字表記に関して説明する。nd、nj、nyに関してはそれに対応するアラビア文字を二字並べて表記する。p,chを表記する文字はアラビア語には存在しないが、スワヒリ語ではペルシア語と同様、b、jの点を3点に増やした形で表記する。gはアラビア文字のghの点を2点に増やし、点を横に並べた形で表記し、ngはnとghの点を2点にしたものを並べて表記する。vはアラビア文字のwのものの上部に点を3点加えた形で表記する。母音の表記に関しては大陸のものとザンジバルのものとで若干異なる。スワヒリ語は原則母音の長短を区別しない言語であり、アラビア語に由来する語彙以外は、全て母音は母音符号のみで表記する。a,i,uはアラビア語の母音符号と同様のものを使用する。eに関しては、大陸では子音の下部に縦に直線を引き、ザンジバルではレ点のような符号を子音の下部に打つ。oに関しては大陸ではuの符号を、180度回転させたものを子音の上部に打ち、ザンジバルではレ点を子音の上部に打つ。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "バントゥー諸語全体の特徴でもあるが、名詞はいくつかの部類に分類され、部類ごとに特定の接頭辞が付く。その部類を名詞クラスと称する。さらにどの部類の名詞を形容するかによって形容詞が変化し、どの部類の名詞を主語あるいは目的語にするかによって動詞が変化する。このため、文脈上明らかな場合は 主語や目的語を省略できる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Meinhof systemに則って単数と複数を別々に数えるなら、祖語には22クラスあったとされ、ほとんどのバントゥー諸語が少なくともそのうち10クラスを有している。スワヒリ語には16クラスあり、うち6クラスが単数名詞、5クラスが複数名詞、1クラスが抽象名詞、1クラスが動詞の不定詞(名詞的な扱い)、3クラスが場所を主として示す。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "単数がm-、複数がwa-で始まる名詞は「生物」、とくに「人」を示す(例:mtu(人)・watu(複数)、mdudu(虫)・wadudu(複数))。 単数がm-、複数がmi-で始まる名詞は「植物」を示すことが多い(例:mti(木)・miti(複数))。動詞の不定詞はku-で始められる(例:kusoma(読む))。それ以外のクラスは区分が複雑である。単数がki-、複数がvi-で始まる名詞は、しばしば工具などの「人工物」を示す。このki-/vi-交替は、語根がki-で始まる外来語にまで適用される(例:kitabu(本、アラビア語のkitābに由来)→vitabu(複数))。このクラスは「言語」も示し(例:Kiswahili(スワヒリ語))、指小辞としても使われる。かつてのバントゥー語では別々だったクラスが合流したものである。u-で始まる名詞はたいてい抽象名詞を示し、複数はない(例:utoto(子供であること?))。n-やm-または接頭辞なしで始まり、単複同形のクラスもある。単数がji-または接頭辞なし、複数がma-で始まるクラスは、しばしば指大辞(英語版)として使用される。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "名詞だけ見る限り所属クラスが不明確な場合でも一致を確かめれば分かる。形容詞や数詞は通常、名詞の接頭辞をとる。動詞は別の接頭辞の体系をとる。(下記参照)", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同一の名詞語根に異なる名詞クラスの接頭辞を付加することで派生語を作れる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "スワヒリ語の名詞クラスのシステムは文法性の一種とされるが、ヨーロッパの言語に見られる文法性とは異なる点がある。ヨーロッパの言語の文法性がほぼ恣意的であるのに対し、スワヒリ語における名詞のクラス分類は多分に意味的な関連性に基づいているのだ。しかし、名詞クラスを「人」や「木」といった単純なカテゴリーと捉えることはできない。意味が拡張され、拡張された意味に似た単語意味がまた拡張され、ということが行われた結果、名詞クラスは意味で繋がった網となっている。今でもその繋がりは広く理解されているが、非スワヒリ語話者には分かりづらいものがある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "スワヒリ語では普通の人の名詞クラスは「人」だが、盲人などの障害者は「もの」で表現されていた。この障害者差別的な語法に反対し、近年多くの障害者や人権団体などが障害者を「人」クラスで表す語法を広めている。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "有名なスワヒリ語にはJamboがあるが、「物事」の意味で、\"Hujambo.\", \"Hamjambo.\" のように人称接頭辞をつけることで、挨拶の言葉となる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スワヒリ語の動詞が動詞そのまま(動詞語幹そのまま)で使われるのは命令形のみであり、通常は主語と対応した接頭辞、時制標識、目的語を示す接頭辞など様々な接頭辞が複合的に付加される。さらに動詞の意味を拡張する接尾辞も追加されることもある。こうした複合体を動詞複合体という。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお目的語の接頭辞は目的語と照応したものが使われる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "標準スワヒリ語は1930年にザンジバル方言を元に定められているが、スワヒリ語には多くの方言が存在する。特に20世紀にスワヒリ語使用域が急拡大するのに伴い、白人入植者や各地のアフリカ人との混交から生まれたケニア内陸部のアップカントリー・スワヒリ(内陸スワヒリ)や、コンゴ盆地のコンゴ・スワヒリなどといった新たな方言が生まれた。とくにコンゴ民主共和国のマニエマ地方などで話される方言はキングワナとよばれる。スワヒリ語を統制する機関は1967年に設立されたタンザニアの国立スワヒリ語審議会(Baraza la Kiswahili la Taifa、BAKITA)と、1998年に設立されたケニアの国立スワヒリ語協会(Chama cha Kiswahili cha Taifa、CHAKITA)がある。", "title": "方言と統制機関" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2012年現在、最もスワヒリ語の重要性が高いのはタンザニアである。タンザニアにおいてはスワヒリ語は元々タンガニーカ海岸部のスワヒリ系民族の母語であり、内陸部にも広く浸透していた。これを受けて1960年のタンガニーカ独立と同時においてスワヒリ語は公用語に指定された。1964年には沖合いに浮かぶザンジバルと合併してタンザニア連合共和国となるが、ザンジバルにおいてはもともとスワヒリ語の母語話者がほとんどを占めており、この政策はより推進されることとなった。このスワヒリ語重視政策を立案し推進したのは、タンガニーカ初代大統領のジュリウス・ニエレレである。ニエレレは言語統一こそが国家統一において最も重要なものの一つであると考え、スワヒリ語の普及と整備に多大な貢献をした。スワヒリ語公用語化はニエレレの政策であるが、ほかのアフリカ新独立国においては、共通語として現地の言葉が広い地域で通用することはあるものの、在来の言葉を公用語化した国家は存在しない。1967年には国立スワヒリ語審議会を設立し、語彙や文法の整備を政府の手で行った。", "title": "各国の現況" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "その結果、タンザニアにおいて、政府関係の文書は基本的にスワヒリ語で作られている。マスコミにおいてもスワヒリ語は積極的に使用され、また、初等教育はすべてスワヒリ語で行われ、政府もさまざまな形で普及を図っている。これはタンザニア人としてのアイデンティティ創出の一環として推進された。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる。一方で、語彙の整備が行われスワヒリ語が高等教育にも十分耐えうる言語となっているにもかかわらず、高等教育においては英語教育が貫かれ、スワヒリ語での高等教育は行われていない。これは他のアフリカ諸国と同様、エリート層においては英語能力がほぼ必須であり、高等教育をスワヒリ語化することでエリート層の優位性の一つが崩れてしまうことへの反発や、研究書等のスワヒリ語訳にはコストがかかり、そのまま英語を使用した方が安上がりに済む場合が多いなどの理由がある。また、小学校から学校では一貫してスワヒリ語中心の生活を子供たちが送るため、タンザニア国内各地に点在する諸語の利用が低下し、各民族語の継承が困難になるケースも散見されている。", "title": "各国の現況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ケニアにおいてはスワヒリ語は国語とされ、また英語とともに公用語に定められている。これまで正式には定められていなかったが、2010年8月27日に発布された新憲法においてその地位は明確に規定された。ケニアにおいてもスワヒリ語はリンガフランカとしての地位を保っており、かなりの数の人々が共通語としてスワヒリ語を解することができる。ただし、特に首都ナイロビで話されるスワヒリ語は標準スワヒリ語からはかなりかけ離れたものであり、ナイロビ・スワヒリ語とも呼ばれる方言が使用されている。いっぽうで、隣国タンザニアと異なり学校教育においては英語が教育言語として使用されており、初期教育においては諸民族語も指定されているものの、母語話者の少ないスワヒリ語は海岸部の母語話者地域を除いては教育言語とはなっていない。また、公用語としても英語の使用が優勢である。首都ナイロビは本来はキクユ語圏であり、キクユ語を中心に話すものも数多い。", "title": "各国の現況" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1970年代より、首都ナイロビを中心に、上記のナイロビ・スワヒリ語とはまた別の、シェン(Sheng)と呼ばれるスワヒリ語の方言が発生した。シェン(Sheng)とはスワヒリ語(Swahili)と英語(English)の合成語であり、その名のとおりスワヒリ語のナイロビ方言に英語やルヒヤ語、キクユ語、カンバ語、ルオ語といった近隣諸民族の言語の語彙を多く導入したもので、マタツ(乗り合いタクシー)の運転手などから若者言葉として広まり、音楽などのポップカルチャーなどにも使用されるようになった。", "title": "各国の現況" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ウガンダにおいては、スワヒリ語の地位は上記2国に比べてもなお低い。ウガンダは首都カンパラを擁する旧ブガンダ王国地域が主導権を握っており、共通語もガンダ人の話すガンダ語が使用されることが多い。これに反発するブガンダ以外の諸地域はガンダ語の普及に消極的であり、国内のどの民族の母語でもないスワヒリ語は彼らの支持によって2005年に英語と並ぶ公用語に指定された。これは、スワヒリ語が重要な役割を果たすケニアおよびタンザニアとの東アフリカ連邦構想を念頭においたものでもある。しかし、ウガンダ国内ではスワヒリ語は北部のナイロート系民族が共通語として使用しているだけであり、公用語として長く使用されてきた英語や共通語として力を持つガンダ語に比べるとスワヒリ語の重要性は低いものとなっている。", "title": "各国の現況" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "コンゴ民主共和国においては、スワヒリ語は公用語ではないが4大共通語のひとつであり、リンガラ語、ルバ語、コンゴ語とならんで国語に指定されている。スワヒリ語の使用地域は東部および南部であり、旧カタンガ州や北キヴ州、南キヴ州、マニエマ州、旧東部州南部、旧西カサイ州東部などが使用地域である。ただし、あくまでもリンガフランカとしての普及であり、母語話者は存在しない。また、教育言語はフランス語であり、スワヒリ語をはじめとする4つの国語は小学校の最初の2年間のみ教授言語とされ、その後は学科としても教えられない。コンゴは多民族・多言語国家であるが、首都キンシャサはリンガラ語圏に属する。このため、モイーズ・チョンベやローラン・カビラ、ジョゼフ・カビラといったスワヒリ語圏出身の政治家との間に摩擦が起きることがある。2006年のコンゴ大統領選挙時には、東部のスワヒリ語圏を固めたジョゼフ・カビラに対し、リンガラ語圏出身の対立候補であるジャンピエール・ベンバが排外主義をあおり、大きな混乱が起きた。", "title": "各国の現況" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ルワンダではほぼ100%の国民にルワンダ語が普及しており、スワヒリ語は商用言語として使われる程度であったが、周辺国との関係から2017年に公用語に制定された。また、2015年以来学校教育での必修言語となっている。なお、ルワンダでは2008年まではフランス語が、それ以降は英語が教授言語となっている。", "title": "各国の現況" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本において専門的にスワヒリ語を学ぶことのできる大学は、大阪大学の外国語学部スワヒリ語専攻が唯一のものである。これは、大阪外国語大学に開設されていたスワヒリ語専攻が2007年の大阪大学と大阪外国語大学の統合によって同大に引き継がれたものである。", "title": "その他" } ]
スワヒリ語(スワヒリご、Kiswahili)は、ニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群のバントゥー語群 に属す、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語。ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語となっている。 スワヒリ語自体では、「〜語」を意味する接頭辞ki-を付けてKiswahili(キスワヒリ)という。なおWaswahiliはスワヒリ語圏の人々を、Uswahiliはスワヒリの人々の文化を指す。
{{Infobox Language |name=スワヒリ語 |nativename=Kiswahili |familycolor=ニジェール・コンゴ語族 |states={{TZA}}<br />{{KEN}}<br />{{UGA}}<br />{{COD}}<br />{{RWA}}<br />{{BDI}}<br />{{SOM}}<br />{{COM}}<br />{{MOZ}}<br />{{MWI}}<br />{{MYT}} |region=[[東アフリカ]] |speakers=~500万人(第一言語)<br />3000万~5000万人(第二言語) |fam1=[[ニジェール・コンゴ語族]] |fam2=[[大西洋・コンゴ諸語]] |fam3=ボルタ・コンゴ語群 |fam4={{仮リンク|ベヌエ・コンゴ語群|en|Benue–Congo languages}} |fam5=バントイド諸語 |fam6=南部バントイド諸語 |fam7=[[バントゥー語群]] |fam8=中央狭義バントゥー諸語 |fam9=Zone G |script=[[ラテン文字]]、[[アラビア文字]] |nation={{KEN}}<br />{{TZA}}<br />{{UGA}}<br />{{RWA}} |agency={{flagicon|KEN}} {{仮リンク|国立スワヒリ語協会|en|Chama cha Kiswahili cha Taifa|sw|Chama cha Kiswahili cha Taifa}}<br /> {{flagicon|TZA}} {{仮リンク|国立スワヒリ語評議会|en|Baraza la Kiswahili la Taifa|sw|Baraza la Kiswahili la Taifa}} |iso1=sw |iso2=swa |iso3=swa |lc1=swc|ld1=コンゴ・スワヒリ語 |lc2=swh|ld2=スワヒリ語|ll2=none }} '''スワヒリ語'''(スワヒリご、''Kiswahili'')は、[[ニジェール・コンゴ語族]]の{{仮リンク|ベヌエ・コンゴ語群|en|Benue–Congo languages}}の[[バントゥー語群]] に属す、[[アフリカ]]東岸部で国を越えて広く使われている[[言語]]。[[ケニア]]、[[タンザニア]]、[[ウガンダ]]、[[ルワンダ]]では[[公用語]]となっている。 スワヒリ語自体では、「〜語」を意味する接頭辞ki-<ref group="注釈">Kijapani = 日本語、Kiingereza = 英語、など</ref>を付けて''Kiswahili''(キスワヒリ)という。なお''Waswahili''はスワヒリ語圏の人々を、''Uswahili''はスワヒリの人々の文化を指す。 == 概要 == [[File:Swahili-pn.jpg|thumb|left|160px|もともとスワヒリ語はアラビア文字で書かれていたが、19世紀末以後宣教団によって[[ラテン文字]]の記述法が開発され、主流となった。この文章は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の[[主の祈り]]である。最上部にスワヒリ語でBaba Yetu(ババ・イェトゥ、我らの父)との表記がある<ref>http://wikisource.org/wiki/Baba_yetu</ref>]] スワヒリ語は[[東アフリカ]]沿岸地域の多くの民族の[[母語]]となっている[[バントゥー諸語]]の一つである。 数世紀にわたる[[アラブ人|アラブ系]]商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語に[[アラビア語]]の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約50%はアラビア語に由来する(ただし、21世紀初頭において使用されているアラビア語由来の語彙は30%程度であり、しかも英語などによって置き換えられつつあるため減少傾向にある)<ref name="ReferenceA">「アラビア語の世界 歴史と現在」p478 ケース・フェルステーヘ著 長渡陽一訳 三省堂 2015年9月20日第1刷</ref>。しかしあくまでもアラビア語の影響は語彙の借用にとどまっており、語幹はあくまでもバントゥー諸語のものであるため、[[ピジン言語]]や[[クレオール言語]]ではなく、バントゥー諸語のひとつに分類されている。また、[[ペルシャ語]]、[[ドイツ語]]、[[ポルトガル語]]、[[インドの言語]]、[[英語]]からの[[借用語]]も見られる。母語としての使用者は、[[ザンジバル]]全域で使用されているほかはケニアおよびタンザニアの沿岸部において使用されるのみであるが、現在、東アフリカでは主に[[第二言語]]として数千万人に使用されており、異なる母語を持つ民族同士の[[共通語]]としての役割を果たしている。 [[タンザニア]]、[[ケニア]]では[[公用語]]、[[コンゴ民主共和国]]では[[国語]]に定められている。また、[[ウガンダ]]は1992年にスワヒリ語を小学校の必修科目に指定し(実態は伴っていない)、2005年には[[東アフリカ連邦]]構想を念頭に公用語に指定した。スワヒリ語とその近縁の言語は、[[コモロ]]のほぼ全域([[コモロ語]]参照)、[[ブルンジ]]・[[ルワンダ]]・[[ザンビア]]北部・[[マラウイ]]・[[モザンビーク]]・[[ソマリア]]南部沿岸地域の一部でも話されている<ref>Nurse & Thomas Spear (1985) ''The Swahili''<br /></ref>。コモロ語はスワヒリ語の近縁の言語であるが、アラビア語からの借用要素がより多いものである<ref>[[田辺裕 (地理学者)|田辺裕]]、[[島田周平]]、[[柴田匡平]]、1998、『世界地理大百科事典2 アフリカ』、朝倉書店  p197 ISBN 4254166621</ref>。スワヒリ語話者はかつて北は[[モガディシュ]]まで広がっており、[[紅海]]南部の港市や[[アラビア半島]]南岸、[[ペルシャ湾]]岸でも通用した<ref>Kharusi, N. S. (2012). The ethnic label Zinjibari: Politics and language choice implications among Swahili speakers in Oman. Ethnicities 12(3) 335–353, http://etn.sagepub.com/content/12/3/335</ref><ref>Adriaan Hendrik Johan Prins (1961) ''The Swahili-speaking Peoples of [[Zanzibar]] and the East African Coast.'' ''(Ethnologue)''</ref>。しかし、20世紀半ばまでにソマリアにおけるスワヒリ語の範囲は[[キスマヨ]]、[[バラワ]]および周辺の海岸沿いと沖合の小島のみへと狭まり、1990年にはスワヒリ語話者を含む多くのバントゥー系が内戦を避けてケニアへ流れた。現在ソマリアに残っているスワヒリ語話者の人口は定かでない。また、[[アフリカ連合]]においては英語、フランス語、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[アラビア語]]と並んで6つの公用語のうちのひとつとなっている。スワヒリ語話者の増大と言語の地位上昇に伴い、世界各国の放送局がスワヒリ語放送を開始している。スワヒリ語圏以外でスワヒリ語放送を行っている、あるいは行っていた放送局は、[[BBCワールドサービス]]、[[ボイス・オブ・アメリカ]]、[[ドイチェ・ヴェレ]]、[[ロシアの声]]、[[中国国際放送]]、[[ラジオ・フランス・アンテルナショナル]]、ラジオ・スーダン、ラジオ・南アフリカなどである。 [[:en:Guthrie classification of Bantu languages|ガスリーによるバントゥー諸語の分類法]]では、スワヒリ語はGゾーンに属する。 スワヒリという語は、[[アラビア語]]で「海岸に住む人」を意味する「sawāhalii سواحلي」に由来する(sawāhaliiは「sāhil ساحل」(海岸、境界)の複数形「sawāhil سواحل」の派生語)。 知られている最も古いスワヒリ語文献は、1711年に[[キルワ島 (タンザニア)|キルワ島]]でアラビア文字で書かれた手紙である。これは[[キルワ王国]]のスルターンが、[[モザンビーク]]の[[ポルトガル人]]と、地元の同盟国に向けて書いたものである。この手紙は、現在は[[インド]]の[[ゴア州|ゴア]]にある歴史的公文書館に収蔵されている<ref>E.A. Alpers, ''Ivory and Slaves in East Central Africa'', London, 1975, pp. 98–99 ; T. Vernet, "Les cités-Etats swahili et la puissance omanaise (1650–1720), ''Journal des Africanistes'', 72(2), 2002, pp. 102–105.</ref>。このほか、知られている最古のスワヒリ語文献の一つには1728年の『Utendi wa Tambuka』(Tambukaの物語)と題する[[アラビア文字]]による[[叙事詩]]がある。[[ラテン文字]]が一般化したのはヨーロッパ諸国による植民地化以後のことである。 スワヒリ語は「{{仮リンク|メサリ|sw|Methali}} (methali)」、すなわち言葉遊び・洒落・韻文の形をとる諺・寓話の類が発達している(例:''Haraka haraka haina baraka'' 英訳:Hurry hurry has no blessing)<ref>Lemelle, Sidney J. "'Ni wapi Tunakwenda': Hip Hop Culture and the Children of Arusha." In ''The Vinyl Ain't Final: Hip Hop and the Globalization of Black Popular Culture'', ed. by Dipannita Basu and Sidney J. Lemelle, 230-54. London; Ann Arbor, Michigan. Pluto Pres</ref>。メサリはスワヒリラップ(Swahili rap, Swah rap)の中にも見ることができ、音楽に文化・歴史・地域的な質感を与えている。 == 歴史 == === スワヒリ語の由来 === 現代スワヒリ語には[[アラビア語]]や[[ペルシャ語]]以外にも英語からなどの[[借用語]]が多く含まれており、とくに語彙の5割がアラビア語であると言われている<ref name="ReferenceA"/>ため、[[クレオール言語]]の一つと見なされているが、学説上では単一言語起源説と複数の言語的な核の存在を想定する説で分かれている。 ; 単一起源説 : マインホフやレールによれば、現在の{{仮リンク|ザラモ人|en|Zaramo people|label=ザラモ族}}の祖先(Washombi族)が{{仮リンク|スワヒリ族|en|Swahili people}}であり、スワヒリ海岸に住んでいた彼らが利用していた言語にアラブやペルシャ語の語彙が混じったものがスワヒリ語だったというものである。根拠としては[[マサイ語]]でスワヒリ語がEnguduku ol-Ashumbaとすることがあげられている。 ; 非単一起源説 : イスラーム化した海岸諸民族は、他の民族と区別されアラブ人と同一の社会を構成した。その場合14-15世紀にスワヒリ語を媒介とした薄い連帯が16世紀に完成したと見なす。その場合の発祥の中心としてラム島を想定するクルムなどがいるが、アラビア人の最初の逗留地はソマリア海岸であることから反論されている。 === 発展・伝播 === [[File:Zanzibar-pysa-coin.jpg|thumb|right|199x199px|アラビア文字で書かれたスワヒリ語のコイン。ザンジバルの1Pysar硬貨。イスラム暦1299年(西暦[[1882年]])発行]] [[File:Lamu door.jpg|thumb|right|200px|アラビア文字で書かれたスワヒリ語。ケニア、[[ラム島]]の家屋の木のドア]] [[File:Fortjesusdoor.JPG|thumb|right|200px|アラビア文字で書かれたスワヒリ語。ケニア、[[モンバサ]]の[[ジーザス要塞|フォート・ジーザス]]]] 上記のようなさまざまな説があるものの、アフリカ東部沿岸に[[ポルトガル]]が来航した16世紀初頭までにはスワヒリ語としてある程度整った言語体系がすでに成立していたと考えられている。しかし、その範囲はそれほど広いものではなかった。スワヒリ語が沿岸部全体に拡散していくのは、ポルトガルがこの地域の覇権を握った[[16世紀]]からと考えられている。アラブ人がポルトガルによって排除されたことから、それまでこの地域の商業用言語であったアラビア語の影響力が衰退し、かわってスワヒリ語が商業言語として台頭してきた。スワヒリ語を母語とする[[シラジ]]人がこのころザンジバルを中心に勢力を拡大しているのもスワヒリ語拡散の一因となった。[[17世紀]]にはポルトガルに代わってアラビア語を母語とするオマーンの[[ヤアーリバ朝]]がこの地域の覇権を握るが、ほどなくしてオマーン本土で混乱が生じたため強力な統治を行うことができず、文化的影響はそれほど大きくなかった。 こうしてイスラーム化した海岸部を中心に海岸部諸都市の母語となったスワヒリ語は、[[1800年]]ごろから内陸部への伝播がはじまる。海岸部と内陸部との交易がさかんとなり、とくに海岸部の[[ザンジバルシティ]]に本拠を置いた[[オマーン王国]][[ブーサイード朝]]の[[サイイド・サイード]]王の下でキャラバン交易は急拡大する。[[奴隷]]や[[象牙]]などを求めて内陸部に[[キャラバン]]が分け入っていき、それに伴って[[リングワ・フランカ|リンガフランカ]]としてのスワヒリ語の拡大が始まった。[[1880年代]]に[[キリスト教]]の[[宣教師]]によってスワヒリ語の[[ラテン文字]]表記が開発されると、それまで[[アラビア文字]]を通してあった[[イスラム教]]との強いつながりが弱まり、純粋な交易用言語となったスワヒリ語は[[キリスト教徒]]などにも受け入れやすいものとなった<ref>「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)pp244-247</ref>。[[19世紀]]末になると[[ザンジバル・スルタン国]]領だった海岸部はイギリスとドイツに分割されたが、両国ともに支配用の言語としてスワヒリ語を重視し、積極的な普及を行った。第一次世界大戦が終わり、ドイツ領だった[[タンガニーカ]]がイギリス領となると、イギリスはこの地域を英領東アフリカ植民地としてまとめ、域内のリンガフランカとしてスワヒリ語を利用した。 しかし、この時期までのスワヒリ語は方言の連続体であり、いわゆる[[標準語]]が存在しなかった。そこで[[1928年]]6月に[[モンバサ]]で東アフリカの植民地間会議が行われ、そこで標準語採用が正式決定された。候補はケニアのモンバサ方言と[[ザンジバル]]のザンジバル都市部方言であったが、イスラムと結びついているモンバサ方言に対し交易用言語としてより広範囲に広がっていたザンジバル都市部方言のほうが好適と判断され、[[1930年]]には領土間言語委員会が設置されてザンジバル都市部方言を元とした標準語制定が開始された。この委員会にはスワヒリ母語話者が存在しなかったが、これによって正書法が確立され、また辞書編纂などによって標準スワヒリ語はこの時期に確立した<ref>「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp388-392 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。 == 音韻 == さまざまな言語・文化を背景に持つ広範囲の地域で通用する共通語として発展した経緯があるためか、スワヒリ語はサハラ以南の言語としては珍しく[[声調]]を持たない。ただし[[モンバサ]]で話されるMvita方言は例外。 === 母音 === 標準スワヒリ語は {{ipa|ɑ}}、{{ipa|ɛ}}、{{ipa|i}}、{{ipa|ɔ}}、{{ipa|u}} の5母音。[[音素]] {{ipa|u}} の発音は[[国際音声記号|IPA]]における {{IPA|u}} と {{IPA|o}} の中間である([[イタリア語]]のuに似る)。[[母音弱化]]は[[強勢]]にかかわらず起こらない。欧米の言語に多い[[二重母音]]はなく、連続する母音は[[ヒアートゥス|別々の母音]]として発音<ref group="注釈">[[日本語]]では母音の連続は、早い発音では二重母音に、ゆっくりとした丁寧な発音ではヒアートゥスになる傾向がある。</ref>される(例:''chui'' {{IPA|tʃu.i}}(豹)) === 子音 === {| class="wikitable" |- ! ! [[両唇音]] ! [[唇歯音]] ! [[歯音]] ! [[歯茎音]] ! [[後部歯茎音]] ! [[硬口蓋音]] ! [[軟口蓋音]] ! [[声門音]] |- ! [[鼻音|鼻音化閉鎖音]] | m {{ipa|m}} | | | n {{ipa|n}} | | ny {{ipa|ɲ}} | ng’ {{ipa|ŋ}} | |- ! [[前鼻音化]][[閉鎖音]] | mb {{ipa|ᵐb}} | | | nd {{ipa|ⁿd}} | | nj {{ipa|ᶮɟ~ⁿdʒ}} | ng {{ipa|ᵑɡ}} | |- ! [[入破音]] | b {{ipa|ɓ}} | | | d {{ipa|ɗ}} | | j {{ipa|ʄ}} | g {{ipa|ɠ}} | |- ! [[無気音|無気]]閉鎖音 | p {{ipa|p}} | | | t {{ipa|t}} | ch {{ipa|tʃ}} | | k {{ipa|k}} | |- ! [[有気音|有気]]閉鎖音 | (p {{ipa|pʰ}}) | | | (t {{ipa|tʰ}}) | (ch {{ipa|tʃʰ}}) | | (k {{ipa|kʰ}}) | |- ! 前鼻音化[[摩擦音]] | | mv {{ipa|ᵐv}} | | nz {{ipa|ⁿz}} | | | | |- ! [[有声音|有声]]摩擦音 | | v {{ipa|v}} | (dh {{ipa|ð}}) | z {{ipa|z}} | | | (gh {{ipa|ɣ}}) | |- ! [[無声音|無声]]摩擦音 | | f {{ipa|f}} | (th {{ipa|θ}}) | s {{ipa|s}} | sh {{ipa|ʃ}} | | (kh {{ipa|x}}) | h {{ipa|h}} |- ! [[ふるえ音]] | | | | r {{ipa|r}} | | | | |- ! [[側面音|側面接近音]] | | | | l {{ipa|l}} | | | | |- ! [[接近音]] | | | | | | y {{ipa|j}} | w {{ipa|w}} | |- |} 註: * 鼻音化閉鎖音は閉鎖音の直前に現れるとき独立した[[音節]]をなす(例:''mtoto'' {{IPA|m.to.to}}(子供)、''nilimpiga'' {{IPA|ni.li.m.pi.ɠa}}(私は彼を殴った))。また、前鼻音化閉鎖音は二音節に分割される場合( 例:''mbwa'' {{IPA|m.bwa}}(犬))があるが、普通は起こらない(例:''ndizi'' {{IPA|ndi.zi}}(バナナ)、''nenda'' {{IPA|ne.nda}}(行く) ※{{IPA|nen.da}}ではない)。 * 摩擦音 ''th dh kh gh'' はアラビア語からの借用である。多くのスワヒリ語話者はそれぞれ {{IPA|s}} {{IPA|z}} {{IPA|h}} {{IPA|r}} と発音する。 * スワヒリ語の正書法は無気音と有気音を区別しない。[[#名詞クラス|Nクラスの名詞]]が閉鎖音で始まる場合、帯気によって弁別する方言もあるが(例:''tembo'' {{IPA|tembo}}(ヤシ酒)に対してN[[#名詞クラス|クラス名詞]] ''tembo'' {{IPA|tʰembo}}(象))、一般的ではない。有気音を[[アポストロフィー]]で書き表す方法もある(''t'embo''(象))。 * ''l'' と ''r'' は多く混同されており(その程度は各話者の母語の音韻構造による)、どちらもしばしば {{IPA|ɺ}} (日本語では、語頭の「ら」行に表れる)と発音される。 == 表記 == かつては[[アラビア文字]]が使われたが、現在では公的な場面や学校教育では[[ラテン文字]]表記を用いている。ただし、現在でもイスラム教徒の私信などにおいてアラビア文字で書かれることがある。 === ラテン文字表記 === {| bgcolor = #eef8ff cellspacing=0 cellpadding=3 style="border: 1px solid #ced8df; " !style="white-space:nowrap" bgcolor=#ccccff colspan=30 align=center|スワヒリ語アルファベット |-align=center |[[A]] |[[B]] |[[Ch]] |[[D]] |[[E]] |[[F]] |[[G]] |[[H]] |[[I]] |[[J]] |[[K]] |[[L]] |[[M]] |[[N]] |[[O]] |[[P]] |[[R]] |[[S]] |[[T]] |[[U]] |[[V]] |[[W]] |[[Y]] |[[Z]] |-align=center |/a/ |/b/ |{{ipa|ʧ}} |/d/ |/e/ |/f/ |/g/ |/h/ |/i/ |{{ipa|ɟ}} |/k/ |/l/ |/m/ |/n/ |/o/ |/p/ |/r/ |/s/ |/t/ |/u/ |/v/ |/w/ |/j/ |/z/ |-align=center |bgcolor=#dee8ff|[[dh]] |bgcolor=#dee8ff|[[gh]] |bgcolor=#dee8ff|[[ng']] |bgcolor=#dee8ff|[[ny]] |bgcolor=#dee8ff|[[sh]] |bgcolor=#dee8ff|[[th]] |-align=center |bgcolor=#dee8ff|{{ipa|ð}} |bgcolor=#dee8ff|{{ipa|γ}} |bgcolor=#dee8ff|{{ipa|ŋ}} |bgcolor=#dee8ff|{{ipa|ɲ}} |bgcolor=#dee8ff|{{ipa|ʃ}} |bgcolor=#dee8ff|{{ipa|θ}} |} * q と x は使用されない。 * c は単独で使われることはなく、常に ch と書かれる。 * ng' は子音 {{ipa|ŋ}} を表すが、ng のようにアポストロフィーがないと二重子音 {{ipa|ng}} となる。 === アラビア文字表記 === {|class=wikitable !アラビア文字 <br />スワヒリ!!ラテン文字<br />スワヒリ |- |ا ||aa |- |ب ||b p mb mp bw pw mbw mpw |- |ت ||t nt |- |ث ||th? |- |ج ||j nj ng ng' ny |- |ح ||h |- |خ||kh h |- |د ||d nd |- |ذ ||dh? |- |ر ||r d nd |- |ز ||z nz |- |س ||s |- |ش ||sh ch |- |ص ||s, sw |- |ض ||? |- |ط ||t tw chw |- |ظ ||z th dh dhw |- |ع ||? |- |غ ||gh g ng ng' |- |ف ||f fy v vy mv p |- |ق ||rowspan=2|k g ng ch sh ny |- |ك |- |ل ||l |- |م ||m |- |ن ||n |- |ه ||h |- |و ||w |- |ي ||y ny |- |} [[File:Bundesarchiv Bild 105-DOA0075, Deutsch-Ostafrika, Einheimisches Mädchen.jpg|thumb|200px|アラビア文字で書かれたスワヒリ語の服を着た女性。タンザニア、1900年代初頭]] スワヒリ語をアラビア文字で表記する場合、アラビア語に由来する単語に関しては元々のアラビア語の通りに綴られる。その際、スワヒリ語では発音上、区別されない[[音素]]も、アラビア語の通りに表記し分けられる。 以下スワヒリ語に特有のアラビア文字表記に関して説明する。nd、nj、nyに関してはそれに対応するアラビア文字を二字並べて表記する。p,chを表記する文字はアラビア語には存在しないが、スワヒリ語ではペルシア語と同様、b、jの点を3点に増やした形で表記する。gはアラビア文字のghの点を2点に増やし、点を横に並べた形で表記し、ngはnとghの点を2点にしたものを並べて表記する。vはアラビア文字のwのものの上部に点を3点加えた形で表記する。母音の表記に関しては大陸のものとザンジバルのものとで若干異なる。スワヒリ語は原則母音の長短を区別しない言語であり、アラビア語に由来する語彙以外は、全て母音は母音符号のみで表記する。a,i,uはアラビア語の母音符号と同様のものを使用する。eに関しては、大陸では子音の下部に縦に直線を引き、ザンジバルではレ点のような符号を子音の下部に打つ。oに関しては大陸ではuの符号を、180度回転させたものを子音の上部に打ち、ザンジバルではレ点を子音の上部に打つ。<ref>Taathira za Kiarabu katika Kiswahili pamoja na kamusi thulathiya (Kiswahili-Kiarabu-Kiingereza) / I. Bosha ; edited by A.S. Nchimbi Dar es Salaam : Dar es Salaam University Press 1993</ref> == 文法 == === 名詞クラス === バントゥー諸語全体の特徴でもあるが、[[名詞]]はいくつかの部類に分類され、部類ごとに特定の接頭辞が付く。その部類を'''[[性 (文法)|名詞クラス]]'''と称する。さらにどの部類の名詞を形容するかによって[[形容詞]]が変化し、どの部類の名詞を[[主語]]あるいは[[目的語]]にするかによって[[動詞]]が変化する。このため、文脈上明らかな場合は 主語や目的語を省略できる。 [[:en:Carl Meinhof|Meinhof system]]に則って単数と複数を別々に数えるなら、祖語には22クラスあったとされ、ほとんどのバントゥー諸語が少なくともそのうち10クラスを有している。スワヒリ語には16クラスあり、うち6クラスが単数名詞、5クラスが複数名詞、1クラスが抽象名詞、1クラスが動詞の[[不定詞]](名詞的な扱い)、3クラスが場所を主として示す。 {| class=wikitable !クラス!!接頭辞!!単数!!意味!!複数!!意味 |- |'''1, 2''' || m-/mu-, wa- || mtu || ''人'' || watu || ''人(複数)'' |- |'''3, 4''' || m-/mu-, mi- || mti || ''木'' || miti || ''木(複数)'' |- |'''5, 6''' || Ø/ji-, ma- || jicho || ''目'' || macho || ''目(複数)'' |- |'''7, 8''' || ki-, vi- || kisu || ''ナイフ'' || visu || ''ナイフ(複数)'' |- |'''9, 10''' || Ø/n-, Ø/n- || ndoto || ''夢'' || ndoto || ''夢(複数)'' |- |'''11''' || u- || ua || ''花'' || rowspan=2 colspan=2 | &nbsp; |- |'''14''' || u- || utoto || ''子供であること'' |} 単数が''m-''、複数が''wa-''で始まる名詞は「生物」、とくに「人」を示す(例:''mtu''(人)・''watu''(複数)、''mdudu''(虫)・''wadudu''(複数))。 単数が''m-''、複数が''mi-''で始まる名詞は「植物」を示すことが多い(例:''mti''(木)・''miti''(複数))。動詞の不定詞は''ku-''で始められる(例:''kusoma''(読む))。それ以外のクラスは区分が複雑である。単数が''ki-''、複数が''vi-''で始まる名詞は、しばしば工具などの「人工物」を示す。この''ki-/vi-''交替は、語根が''ki-''で始まる外来語にまで適用される(例:''kitabu''(本、[[アラビア語]]の''kitāb''に由来)→''vitabu''(複数))。このクラスは「言語」も示し(例:''Kiswahili''(スワヒリ語))、[[指小辞]]としても使われる。かつてのバントゥー語では別々だったクラスが合流したものである。''u-''で始まる名詞はたいてい抽象名詞を示し、複数はない(例:''utoto''(子供であること?))。''n-''や''m-''または接頭辞なしで始まり、単複同形のクラスもある。単数が''ji-''または接頭辞なし、複数が''ma-''で始まるクラスは、しばしば[[指大辞]]として使用される。 === 照応 === 名詞だけ見る限り所属クラスが不明確な場合でも一致を確かめれば分かる。形容詞や数詞は通常、名詞の接頭辞をとる。動詞は別の接頭辞の体系をとる。(下記参照) {| align=center |colspan=3|'''単数'''||&nbsp;&nbsp;&nbsp;||colspan=3|'''複数''' |- |&nbsp; |- |'''m'''toto||'''m'''moja||'''a'''nasoma|| ||'''wa'''toto||'''wa'''wili||'''wa'''nasoma |- |子供||1||読んでいる|| ||子供(複数)||2||読んでいる(複数) |- |colspan=3|(一人の)子供が読書している|| ||colspan=3|二人の子供が読書している |- |&nbsp; |- |'''ki'''tabu||'''ki'''moja||'''ki'''natosha|| ||'''vi'''tabu||'''vi'''wili||'''vi'''natosha |- |本||1||十分だ|| ||本(複数)||2||十分だ(複数) |- |colspan=3|一冊の本で十分だ|| ||colspan=3|二冊の本で十分だ |- |&nbsp; |- |'''n'''dizi||moja||'''i'''natosha|| ||'''n'''dizi||'''m'''bili||'''zi'''natosha |- |バナナ||1||十分だ|| ||バナナ(複数)||2||十分だ(複数) |- |colspan=3|一本のバナナで十分だ|| ||colspan=3|二本のバナナで十分だ |} 同一の名詞語根に異なる名詞クラスの接頭辞を付加することで派生語を作れる。 :例1:「人」クラス''mtoto (watoto)''(子供)・抽象名詞クラス''utoto''(子供であること)・縮小語クラス''kitoto (vitoto)''(幼児)・増大語クラス''toto (matoto)''(年長の子供) :例2:「植物」クラス''mti (miti)''(木)・「人工物」クラス''kiti (viti)''(椅子)・増大語クラス''jiti (majiti)''(大木)・''kijiti (vijiti)''(棒)・''ujiti (njiti)''(細く高い木) スワヒリ語の名詞クラスのシステムは[[性 (文法)|文法性]]の一種とされるが、ヨーロッパの言語に見られる文法性とは異なる点がある。ヨーロッパの言語の文法性がほぼ恣意的であるのに対し、スワヒリ語における名詞のクラス分類は多分に[[意味論 (言語学)|意味]]的な関連性に基づいているのだ。しかし、名詞クラスを「人」や「木」といった単純なカテゴリーと捉えることはできない。意味が拡張され、拡張された意味に似た単語意味がまた拡張され、ということが行われた結果、名詞クラスは意味で繋がった網となっている。今でもその繋がりは広く理解されているが、非スワヒリ語話者には分かりづらいものがある。 スワヒリ語では普通の人の名詞クラスは「人」だが、盲人などの[[障害者]]は「もの」で表現されていた。この障害者差別的な語法に反対し、近年多くの障害者や人権団体などが障害者を「人」クラスで表す語法を広めている。 有名なスワヒリ語にはJamboがあるが、「物事」の意味で、"Hujambo.", "Hamjambo." のように[[所有接辞|人称接頭辞]]をつけることで、挨拶の言葉となる。 === 動詞複合体 === スワヒリ語の動詞が動詞そのまま(動詞語幹そのまま)で使われるのは命令形のみであり、通常は主語と対応した接頭辞、時制標識、目的語を示す接頭辞など様々な接頭辞が複合的に付加される。さらに動詞の意味を拡張する接尾辞も追加されることもある。こうした複合体を動詞複合体という。 なお目的語の接頭辞は目的語と照応したものが使われる。 == 方言と統制機関 == 標準スワヒリ語は[[1930年]]にザンジバル方言を元に定められているが、スワヒリ語には多くの方言が存在する。特に[[20世紀]]にスワヒリ語使用域が急拡大するのに伴い、白人入植者や各地のアフリカ人との混交から生まれたケニア内陸部のアップカントリー・スワヒリ(内陸スワヒリ)や、コンゴ盆地のコンゴ・スワヒリなどといった新たな方言が生まれた<ref>『アフリカを知る事典』、平凡社、ISBN 4-582-12623-5 1989年2月6日、初版第1刷、p.232</ref>。とくにコンゴ民主共和国の[[マニエマ州|マニエマ地方]]などで話される方言はキングワナとよばれる<ref>「現代アフリカの民族関係」所収「民族の共存・交流のかたち 一九七〇年代、コンゴ(旧ザイール)東部における多言語併用の動態から」赤坂賢 2001年、ISBN 4-7503-1420-X、pp.248-249</ref>。スワヒリ語を統制する機関は[[1967年]]に設立されたタンザニアの国立スワヒリ語審議会(Baraza la Kiswahili la Taifa、BAKITA)と、[[1998年]]に設立されたケニアの国立スワヒリ語協会(Chama cha Kiswahili cha Taifa、CHAKITA)がある。 == 各国の現況 == === タンザニア === 2012年現在、最もスワヒリ語の重要性が高いのは[[タンザニア]]である。タンザニアにおいてはスワヒリ語は元々[[タンガニーカ]]海岸部のスワヒリ系民族の母語であり、内陸部にも広く浸透していた。これを受けて[[1960年]]のタンガニーカ独立と同時においてスワヒリ語は[[公用語]]に指定された。[[1964年]]には沖合いに浮かぶ[[ザンジバル人民共和国|ザンジバル]]と合併して'''タンザニア連合共和国'''となるが、ザンジバルにおいてはもともとスワヒリ語の母語話者がほとんどを占めており、この政策はより推進されることとなった。このスワヒリ語重視政策を立案し推進したのは、タンガニーカ初代大統領の[[ジュリウス・ニエレレ]]である。ニエレレは言語統一こそが国家統一において最も重要なものの一つであると考え、スワヒリ語の普及と整備に多大な貢献をした。スワヒリ語公用語化はニエレレの政策であるが、ほかのアフリカ新独立国においては、[[共通語]]として現地の言葉が広い地域で通用することはあるものの、在来の言葉を公用語化した国家は存在しない。1967年には国立スワヒリ語審議会を設立し、語彙や文法の整備を政府の手で行った。 その結果、タンザニアにおいて、政府関係の文書は基本的にスワヒリ語で作られている。マスコミにおいてもスワヒリ語は積極的に使用され、また、初等教育はすべてスワヒリ語で行われ、政府もさまざまな形で普及を図っている。これはタンザニア人としてのアイデンティティ創出の一環として推進された。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる<ref>『民主主義がアフリカ経済を殺す: 最底辺の10億人の国で起きている真実』p92-93、甘糟智子訳、日経BP社、2010年1月18日</ref>。一方で、語彙の整備が行われスワヒリ語が高等教育にも十分耐えうる言語となっているにもかかわらず、高等教育においては英語教育が貫かれ、スワヒリ語での高等教育は行われていない<ref>「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp407-409 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。これは他のアフリカ諸国と同様、エリート層においては英語能力がほぼ必須であり、高等教育をスワヒリ語化することでエリート層の優位性の一つが崩れてしまうことへの反発や、研究書等のスワヒリ語訳にはコストがかかり、そのまま英語を使用した方が安上がりに済む場合が多いなどの理由がある。また、小学校から学校では一貫してスワヒリ語中心の生活を子供たちが送るため、タンザニア国内各地に点在する諸語の利用が低下し、各民族語の継承が困難になるケースも散見されている<ref>「事典世界のことば141」p496 梶茂樹・中島由美・林徹編 大修館書店 2009年4月20日初版第1刷</ref>。 === ケニア === [[ケニア]]においてはスワヒリ語は国語とされ、また[[英語]]とともに公用語に定められている。これまで正式には定められていなかったが、[[2010年]][[8月27日]]に発布された新憲法においてその地位は明確に規定された。ケニアにおいてもスワヒリ語は[[リングワ・フランカ|リンガフランカ]]としての地位を保っており、かなりの数の人々が[[共通語]]としてスワヒリ語を解することができる。ただし、特に首都ナイロビで話されるスワヒリ語は標準スワヒリ語からはかなりかけ離れたものであり、ナイロビ・スワヒリ語とも呼ばれる方言が使用されている<ref>「ケニアを知るための55章」pp228-229 [[松田素二]]・[[津田みわ]]編著 明石書店 2012年7月1日初版第1刷</ref>。いっぽうで、隣国タンザニアと異なり学校教育においては英語が教育言語として使用されており、初期教育においては諸民族語も指定されているものの、母語話者の少ないスワヒリ語は海岸部の母語話者地域を除いては教育言語とはなっていない。また、公用語としても英語の使用が優勢である。首都ナイロビは本来は[[キクユ語]]圏であり、キクユ語を中心に話すものも数多い<ref>「言語的多様性とアイデンティティ、エスニシティ、そしてナショナリティ ケニアの言語動態」品川大輔(「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」所収 pp335-336 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。 [[1970年代]]より、首都[[ナイロビ]]を中心に、上記のナイロビ・スワヒリ語とはまた別の、[[シェン (言語)|シェン]](Sheng)と呼ばれるスワヒリ語の方言が発生した。シェン(Sheng)とはスワヒリ語(Swahili)と英語(English)の合成語であり、その名のとおりスワヒリ語のナイロビ方言に英語や[[ルヒヤ語]]、[[キクユ語]]、[[カンバ語]]、[[ルオ語]]といった近隣諸民族の言語の語彙を多く導入したもので、マタツ([[乗り合いタクシー]])の運転手などから[[若者言葉]]として広まり、[[音楽]]などの[[ポップカルチャー]]などにも使用されるようになった。 === ウガンダ === ウガンダにおいては、スワヒリ語の地位は上記2国に比べてもなお低い。ウガンダは首都[[カンパラ]]を擁する旧[[ブガンダ王国]]地域が主導権を握っており、共通語も[[ガンダ人]]の話す[[ガンダ語]]が使用されることが多い。これに反発するブガンダ以外の諸地域はガンダ語の普及に消極的であり、国内のどの民族の母語でもないスワヒリ語は彼らの支持によって[[2005年]]に英語と並ぶ公用語に指定された。これは、スワヒリ語が重要な役割を果たすケニアおよびタンザニアとの[[東アフリカ連邦]]構想を念頭においたものでもある。しかし、ウガンダ国内ではスワヒリ語は北部のナイロート系民族が共通語として使用しているだけであり、公用語として長く使用されてきた英語や共通語として力を持つガンダ語に比べるとスワヒリ語の重要性は低いものとなっている<ref>「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」pp352-354 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。 === コンゴ民主共和国 === [[コンゴ民主共和国]]においては、スワヒリ語は公用語ではないが4大共通語のひとつであり、[[リンガラ語]]、[[ルバ語]]、[[コンゴ語]]とならんで国語に指定されている。スワヒリ語の使用地域は東部および南部であり、旧[[カタンガ州]]や[[北キヴ州]]、[[南キヴ州]]、[[マニエマ州]]、旧[[東部州 (コンゴ)|東部州]]南部、旧[[西カサイ州]]東部などが使用地域である。ただし、あくまでもリンガフランカとしての普及であり、母語話者は存在しない。また、教育言語は[[フランス語]]であり、スワヒリ語をはじめとする4つの国語は[[小学校]]の最初の2年間のみ教授言語とされ、その後は学科としても教えられない<ref>「アフリカのことばと社会 多言語状況を生きるということ」p240 梶茂樹+砂野幸稔編著 三元社 2009年4月30日初版第1刷</ref>。コンゴは多民族・多言語国家であるが、首都[[キンシャサ]]はリンガラ語圏に属する。このため、[[モイーズ・チョンベ]]や[[ローラン・カビラ]]、[[ジョゼフ・カビラ]]といったスワヒリ語圏出身の政治家との間に摩擦が起きることがある。[[2006年]]のコンゴ大統領選挙時には、東部のスワヒリ語圏を固めたジョゼフ・カビラに対し、リンガラ語圏出身の対立候補である[[ジャンピエール・ベンバ]]が排外主義をあおり、大きな混乱が起きた。 === ルワンダ === ルワンダではほぼ100%の国民に[[ルワンダ語]]が普及しており、スワヒリ語は商用言語として使われる程度であったが、周辺国との関係から2017年に公用語に制定された。また、2015年以来学校教育での必修言語となっている。なお、ルワンダでは2008年まではフランス語が、それ以降は英語が[[教授言語]]となっている。 == その他 == [[日本]]において専門的にスワヒリ語を学ぶことのできる大学は、[[大阪大学]]の外国語学部スワヒリ語専攻が唯一のものである<ref>http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/jpn/edu_fl_swa.html 大阪大学外国語学部スワヒリ語専攻</ref><ref>「アフリカ学入門 ポップカルチャーから政治経済まで」p311 舩田クラーセンさやか編 明石書店 2010年7月10日初版第1刷</ref>。これは、[[大阪外国語大学]]に開設されていたスワヒリ語専攻が2007年の大阪大学と大阪外国語大学の統合によって同大に引き継がれたものである。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[Baba Yetu]] - ゲーム「[[シヴィライゼーション#Sid Meier's Civilization IV|Sid Meier's Civilization IV]]」のオープニングテーマ。歌詞はスワヒリ語版の[[主の祈り]]。 * [[サファリ (曖昧さ回避)]] - アラビア語由来で『長い旅』を意味する。現代では、[[サファリ (旅行)|野生動物を見物するツアー]]や[[サファリパーク|開放的な環境で動物を展示する施設]]など、非スワヒリ語圏でも使われる。 * [[ジャンボ]] - [[ロンドン動物園]]で飼育されていた[[アフリカゾウ]]の名前であるが、元々はスワヒリ語の挨拶。 *[[UA (歌手)|UA]] - 日本の歌手、アーティスト名のUA(ウーア)はスワヒリ語である。 == 外部リンク == {{Wikipedia|sw}} * [https://web.archive.org/web/20091025033551/http://kamusiproject.org/ Kamusi Project] Internet Living Swahili Dictionary * {{Kotobank}} {{アフリカ連合の言語}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すわひりこ}} [[Category:ケニアの言語]] [[Category:タンザニアの言語]] [[Category:ウガンダの言語]] [[Category:ルワンダの言語]] [[Category:ブルンジの言語]] [[Category:コンゴ民主共和国の言語]] [[Category:ソマリアの言語]] [[Category:モザンビークの言語]] [[Category:マラウイの言語]] [[Category:バントゥー語群]]
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オルトコロナウイルス亜科
オルトコロナウイルス亜科(オルトコロナウイルスあか、Orthocoronavirinae / コロナウイルス〈Coronavirus〉)は、ゲノムとしてリボ核酸 (RNA) をもつ一本鎖プラス鎖RNAウイルスで、哺乳類や鳥類に病気を引き起こすウイルスのグループの1つ。ニドウイルス目コロナウイルス科に属する。 含まれるウイルスは、コロナウイルス科から両生類に感染するレトウイルス亜科を除いた、いわゆるアルファからデルタまでのコロナウイルスである。過去の記録として、2018年以前は「コロナウイルス亜科」、2009年以前は「コロナウイルス属」と呼ばれていた。分類名としては、2018年に「オルトコロナウイルス亜科」に改名された。 単にコロナウイルスと言った場合、コロナウイルス科、あるいはこのオルトコロナウイルス亜科を指すとされている。コロナウイルス科は、アルファからデルタまでのコロナウイルス以外にも、レトウイルス亜科を含んでいるため、実際の分類範囲としては、コロナウイルス=オルトコロナウイルス亜科となっている。 オルトコロナウイルスは、ウイルス粒子表面のエンベロープ(膜構造)に、花弁状の長いスパイク蛋白の突起(S蛋白、約 20 nm)を持ち、外観がコロナ(太陽の光冠)に似ている。らせん対称性のヌクレオカプシドをもつエンベロープウイルスである。多形性で、大きさは直径80-220nm程度である。ゲノムサイズは約26〜32キロベース (kb) で、既知のRNAウイルスでは最大級である。 症状は生物の種類によって異なり、鶏の場合は上気道疾患を引き起こし、牛や豚の場合は下痢を引き起こす。 ヒトでは、風邪を含む呼吸器感染症を引き起こす。SARSコロナウイルス (SARS-CoV)、MERSコロナウイルス (MERS-CoV) およびSARSコロナウイルス2 (SARS-CoV-2) のようなタイプのウイルスでは、致死性を持つ。 コロナウイルス (Coronavirus) の名称は、ウイルスを電子顕微鏡で観察したときに見られる、ビリオン(感染性を有するウイルス粒子)の特徴的な外観に由来する。ビリオンは大きな球状の表面突起の縁をもち、太陽コロナを思わせる像をつくる。 また「コロナ: Corona」は、ラテン語: corona(コロナ)=光冠(丸い光の輪)を意味するギリシア語: κορώνη(korṓnē コロネ)に由来している。 亜科名の「オルト: Ortho-」は、ギリシア語で「歪みのない」を意味する ορθός(オルソス)が由来である。 このグループで最初に発見されたのは、1931年に報告されたニワトリの伝染性気管支炎ウイルスである。1940年代にはマウス肝炎ウイルス、豚伝染性胃腸炎ウイルスも報告されている。 ヒトの病原体としては、1960年に風邪をひいたヒトから、ヒトコロナウイルスB814が発見された。この株は培養が難しかったため後に失われた。1960年代には風邪をひいたヒト患者の鼻腔からヒトコロナウイルス229EおよびヒトコロナウイルスOC43の2つのウイルスが発見された。当初はこれらのウイルスの関係は定かではなかった。ヒトコロナウイルスも一時はヒト呼吸器ウイルス(Human respiratory virus)とも呼ばれていた。 1960年代になると、電子顕微鏡写真で構造の類似が指摘され、コロナウイルスと呼ぶ人が多くなった。1971年にはこれらがコロナウイルス属としてまとめられた。 2009年には、分子系統解析の進展により分類の整理が進んだ。コロナウイルス属は解体され、新たにアルファからデルタコロナウイルスが設置された。また、コロナウイルスに近縁なウイルスとしてトロウイルス亜科(後にトロウイルス科として独立)が発見され、アルファからデルタまでのコロナウイルスのグループとしてコロナウイルス亜科が設定された。 2018年にはまた新たな動きがあり、トロウイルス亜科がトロウイルス科として独立した一方で、コロナウイルス科の新たなグループとしてレトウイルス亜科が設定された。この時コロナウイルス亜科はオルトコロナウイルス亜科に改名され、現在に至っている。 1971年 2009年 2018年 ウイルスの分類においてオルトコロナウイルス亜科は、レトウイルス亜科と共にコロナウイルス科に含まれる。オルトコロナウイルスには4属45種を含む。 オルトコロナウイルス亜科に属するウイルスは粒子状であり、その表面は細胞一般と同じ脂質二重膜である。電子顕微鏡で撮影すると表面にスパイクタンパク質が多数生えている様子が王冠のように見える。この脂質二重膜はエンベロープと呼ばれ、スパイクと共に感染先となる宿主細胞を認識する機能を持つヘマグルチニンタンパクが埋め込まれている(特にベータコロナウイルスサブグループAのメンバー)。エンベロープの内部にはウイルスのゲノムがある。ゲノムはタンパク質に包まれた一本のRNAであり、このゲノムRNAがタンパク質に包まれた状態をヌクレオカプシドと呼ぶ。 オルトコロナウイルス亜科(及び他の殆どのニドウイルス目)の特徴の一つは、そのゲノムがDNAではなくRNAであることである。そのゲノムRNAは宿主細胞の中でそのまま伝令RNA(messenger RNA、mRNA、タンパク質に翻訳され得る塩基配列情報と構造を持ったRNA)として機能する配列構造になっている。mRNAは、ゲノムRNAの ‘3 側から ‘5 側に違う長さで伸張する数本のmRNAから構成され、各mRNAの ‘5 末端はゲノムRNAの 5’ 末端にあるリーダー配列を持つ。 ウイルスタンパクの翻訳は一般に各mRNAの ‘5 末端に存在するオープンリーディングフレーム (ORF) からのみ翻訳される。ゲノムRNA (mRNA-1) の ‘5 末端約 20kb には2つのORF(1a と 1b で 802kDa をコードする)からなり、このORF間にはシュードノット (pseudoknot, Pn) と呼ばれる核酸の三次構造を持つ。1a タンパクだけで翻訳が終止する場合と、Pn により 1a + 1b 融合タンパクが合成されるケースがある。1a + 1b タンパクは16個の調節タンパクに解裂され、プロテアーゼ(ペプチド結合加水分解酵素)、RNAポリメラーゼとして働く。 ウイルス粒子の構造タンパクとしては、ゲノムRNAに結合するヌクレオタンパク (N) の量が最も多い。これはゲノムRNAと結合し、ヌクレオカプシドとなる。ヌクレオカプシドを包み込むエンベロープには、コロナウイルスに特徴的な王冠様突起をなすスパイクタンパク質 (S)、内在性膜タンパク質 (M)、エンベロープタンパク質 (E) がある。 オルトコロナウイルスは動物細胞に感染することによって増殖する。その過程は、おおむね、感染 (1、2)、複製 (3 - 5)、放出 (6) の3段階からなる。 SARSコロナウイルスの特異的な例では、S上の定義された受容体結合ドメインがウイルスの細胞受容体であるアンジオテンシン変換酵素2 (ACE2) への結合を仲介する。 すべてのコロナウイルス(=オルトコロナウイルス亜科)の最新の最も近い共通祖先 (MRCA)は、紀元前8000年には存在していたと考えられているが、一部のモデルのMRCAは5500万年以上前に遡ってコウモリとの長期的な共進化を示唆する。 アルファコロナウイルス属(英語版)のMRCAは紀元前2400年頃、ベータコロナウイルス属(英語版)紀元前3300年頃、ガンマコロナウイルス属(英語版)は紀元前2800年頃、デルタコロナウイルス属(英語版)は紀元前3000年頃と考えられている。飛翔温血脊椎動物であるコウモリと鳥は、コロナウイルスの遺伝子源(アルファコロナウイルスとベータコロナウイルスはコウモリ 、ガンマコロナウイルスとデルタコロナウイルスは鳥)にとって、コロナウイルスの進化と普及を促進する宿主として理想的である。 このため多くのヒトコロナウイルスはコウモリに起源をもつ。ヒトコロナウイルスNL63は、紀元1190~1449年の間に、コウモリコロナウイルス (ARCoV 2) と共通の祖先を有していた。ヒトコロナウイルス229Eも、1686~1800年の間に、コウモリコロナウイルス(GhanaGrp1 Bt CoV)と共通の祖先を有していた。より最近の例では、1960年以前にアルパカコロナウイルスとヒトコロナウイルス229Eが分岐した。MERSコロナウイルスは、コウモリから中間宿主としてラクダを介してヒトに現れた。MERSコロナウイルスは、数種のコウモリコロナウイルスに関連しており、数世紀前にこれらの種から分岐したようである。 特に、SARSコロナウイルスは、コウモリコロナウイルスとの関係が他のヒトコロナウイルスより深く、ごく最近の1986年ごろ分岐した。キーンコウモリコロナウイルス類とSARSコロナウイルスの進化経路は、SARS関連コロナウイルスが長期間コウモリで共進化していた可能性を示唆する。SARSコロナウイルスの祖先は、カグラコウモリ科のleaf-nose batsに最初に感染した。その後、キクガシラコウモリ科のhorseshoe batsに、更にはジャコウネコ、最後にヒトに感染した。 他のベータコロナウイルスとは異なり、ベータコロナウイルス1およびエンベコウイルス亜属のウシコロナウイルスは、コウモリ由来ではなくネズミに起源を持つと考えられている。1790年代には、ウマコロナウイルスが種をまたいでウシコロナウイルスから分岐した 1890年代後半には別の種間伝播(英語版)が起こり、ヒトコロナウイルスOC43がウシコロナウイルスから分岐した。1890年のインフルエンザ大流行は、病原体が実際には特定されていないこと、時期やその神経症状から、インフルエンザウイルスではなく、このウイルス(のスピルオーバー)によって引き起こされた可能性があると推測されている。ヒトコロナウイルスOC43は、呼吸器疾患を引き起こすほか、神経疾患への関与が疑われている。現在最も一般的な遺伝子型が出現したのは、1950年代である。 マウスの肝臓と中枢神経系に感染するマウス肝炎ウイルスは、系統的にヒトコロナウイルスOC43とウシコロナウイルスに関連する。ヒトコロナウイルスHKU1も、同様にげっ歯類に起源を持つ。 ヒトに感染するコロナウイルスは、風邪症候群の4種類と動物から感染する重症肺炎ウイルス2種類 (SARS-CoV, MERS-CoV) が知られていて、更にSARS-CoV-2を加えた計7種類(2020年3月時点)である。アルファコロナウイルス属、ベータコロナウイルス属の下記のものが知られている。 コロナウイルスは家畜、実験動物、ペット、野生動物などあらゆる動物に感染し、様々な疾患を引き起こす。イヌ、ネコ、ウシ、ブタ、ニワトリ、ウマ、ラクダなどの家畜、シロイルカ、キリン、フェレット、スンクス、コウモリ、スズメなどからも固有のコロナウイルスが検出されている。
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オルトコロナウイルス亜科は、ゲノムとしてリボ核酸 (RNA) をもつ一本鎖プラス鎖RNAウイルスで、哺乳類や鳥類に病気を引き起こすウイルスのグループの1つ。ニドウイルス目コロナウイルス科に属する。 含まれるウイルスは、コロナウイルス科から両生類に感染するレトウイルス亜科を除いた、いわゆるアルファからデルタまでのコロナウイルスである。過去の記録として、2018年以前は「コロナウイルス亜科」、2009年以前は「コロナウイルス属」と呼ばれていた。分類名としては、2018年に「オルトコロナウイルス亜科」に改名された。
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Cunningham CH, Hamre D, Hofstad MS, Mulluci L and McIntosh K. (1968) Coronaviruses. Nature (Lond.) 220: 650.</ref>。 亜科名の「'''オルト''': Ortho-」は、ギリシア語で「歪みのない」を意味する {{lang|el|ορθός}}(オルソス)が由来である。 === 歴史 === このグループで最初に発見されたのは、1931年に報告されたニワトリの[[鶏伝染性気管支炎ウイルス|伝染性気管支炎ウイルス]]である<ref>{{Cite journal| vauthors = Estola T |date=1970|title=Coronaviruses, a New Group of Animal RNA Viruses|journal=Avian Diseases|volume=14|issue=2|pages=330-336|doi=10.2307/1588476|jstor=1588476|issn=0005-2086}}</ref>。1940年代にはマウス肝炎ウイルス、豚伝染性胃腸炎ウイルスも報告されている<ref group="注">ただしこれらのウイルスは、単に病原菌として分離されたのみで、電子顕微鏡などで特徴づけられたわけではない。</ref>。 ヒトの病原体としては、1960年に風邪をひいたヒトから、[[ヒトコロナウイルス]]B814が発見された。この株は培養が難しかったため後に失われた。1960年代には[[風邪]]をひいたヒト患者の[[鼻腔]]から[[ヒトコロナウイルス229E]]および[[ヒトコロナウイルスOC43]]の2つのウイルスが発見された<ref name="pmid23202515">{{Cite journal|date=November 2012|title=Human coronaviruses: insights into environmental resistance and its influence on the development of new antiseptic strategies|journal=Viruses|volume=4|issue=11|pages=3044-3068|DOI=10.3390/v4113044|PMID=23202515|PMC=3509683}}</ref>。当初はこれらのウイルスの関係は定かではなかった。ヒトコロナウイルスも一時はヒト呼吸器ウイルス(Human respiratory virus)とも呼ばれていた。 1960年代になると、電子顕微鏡写真で構造の類似が指摘され<ref>{{Cite web|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC224637/|title=Recovery in tracheal organ cultures of novel viruses from patients with respiratory disease. - PMC|accessdate=2022/05/16}}</ref>、コロナウイルスと呼ぶ人が多くなった<ref>{{Cite journal|url=https://www.nature.com/articles/220650b0|title=Virology: Coronaviruses|date=1968/11/16|journal=Nature|volume=220|issue=5168|pages=650–650|accessdate=2022/05/16|via=www.nature.com|doi=10.1038/220650b0}}</ref>。1971年にはこれらが'''コロナウイルス属'''としてまとめられた。 2009年には、分子系統解析の進展により分類の整理が進んだ。コロナウイルス属は解体され、新たにアルファからデルタコロナウイルスが設置された。また、コロナウイルスに近縁なウイルスとしてトロウイルス亜科(後にトロウイルス科として独立)が発見され、アルファからデルタまでのコロナウイルスのグループとして'''コロナウイルス亜科'''が設定された。 2018年にはまた新たな動きがあり、トロウイルス亜科がトロウイルス科として独立した一方で、コロナウイルス科の新たなグループとしてレトウイルス亜科が設定された。この時コロナウイルス亜科は'''オルトコロナウイルス亜科'''に改名され、現在に至っている。 === コロナウイルス及び近縁系統の分類の変遷 === 1971年 {| class="wikitable" !上位分類 !! !! 下位分類 |- |rowspan="3"| (設定無し) ||rowspan="3"| '''コロナウイルス属''' || 伝染性気管支炎ウイルス |- | マウス肝炎ウイルス |- | ヒト呼吸器ウイルス 等 |} 2009年 {| class="wikitable" !上位分類 !! !! 下位分類 |- |rowspan="5"| コロナウイルス科 ||rowspan="4"| '''コロナウイルス亜科''' || アルファコロナウイルス属 |- |ベータコロナウイルス属 |- |デルタコロナウイルス属 |- |ガンマコロナウイルス属 |- |トロウイルス亜科||トロウイルス属 |} 2018年 {| class="wikitable" !上位分類 !! !! 下位分類 |- |rowspan="5"| コロナウイルス科 ||rowspan="4"| '''オルトコロナウイルス亜科''' || アルファコロナウイルス属 |- |ベータコロナウイルス属 |- |デルタコロナウイルス属 |- |ガンマコロナウイルス属 |- |レトウイルス亜科||アルファレトウイルス属 |} == 分類 == [[ウイルスの分類]]においてオルトコロナウイルス亜科は、レトウイルス亜科と共に[[コロナウイルス科]]に含まれる<ref name=ictv2019-taxon>[https://talk.ictvonline.org/taxonomy/ Virus Taxonomy: 2019 Release]ICTV</ref>。オルトコロナウイルスには4属45種を含む。 === オルトコロナウイルス亜科 === ==== アルファコロナウイルス属 ==== *{{仮リンク|アルファコロナウイルス属|en|Alphacoronavirus}}(''Alphacoronavirus'') タイプ種:[[アルファコロナウイルス1]] **種:''Bat coronavirus CDPHE15、Bat coronavirus HKU10、Rhinolophus ferrumequinum alphacoronavirus HuB-2013''、[[ヒトコロナウイルス229E]]、''Lucheng Rn rat coronavirus、Mink coronavirus 1、Miniopterus bat coronavirus 1、Miniopterus bat coronavirus HKU8、Myotis ricketti alphacoronavirus Sax-2011、Nyctalus velutinus alphacoronavirus SC-2013、Pipistrellus kuhlii coronavirus 3398''、[[豚流行性下痢ウイルス]](''Porcine epidemic diarrhea virus'')、''Scotophilus bat coronavirus 512、Rhinolophus bat coronavirus HKU2、Human coronavirus NL63、NL63-related bat coronavirus strain BtKYNL63-9b、Sorex araneus coronavirus T14、Suncus murinus coronavirus X74''、アルファコロナウイルス1 ==== ベータコロナウイルス属 ==== *{{仮リンク|ベータコロナウイルス属|en|Betacoronavirus}}(''Betacoronavirus'') タイプ種:マウスコロナウイルス **種:[[ベータコロナウイルス1]]、''China Rattus coronavirus HKU24''、[[ヒトコロナウイルスHKU1]]、[[マウスコロナウイルス]]、''Myodes coronavirus 2JL14、Bat Hp-betacoronavirus Zhejiang2013、Hedgehog coronavirus 1''、[[MERSコロナウイルス]]、''Pipistrellus bat coronavirus HKU5、Tylonycteris bat coronavirus HKU4、Eidolon bat coronavirus C704、Rousettus bat coronavirus GCCDC1、Rousettus bat coronavirus HKU9''、[[SARS関連コロナウイルス]] ==== ガンマコロナウイルス属 ==== *{{仮リンク|ガンマコロナウイルス属|en|Gammacoronavirus}}(''Gammacoronavirus'') タイプ種:[[鶏伝染性気管支炎ウイルス]] **種:''Goose coronavirus CB17、Beluga whale coronavirus SW1''、鶏伝染性気管支炎ウイルス、''Avian coronavirus 9203、Duck coronavirus 2714'' ==== デルタコロナウイルス属 ==== *{{仮リンク|デルタコロナウイルス属|en|Deltacoronavirus}}(''Deltacoronavirus'') タイプ種:ヒヨドリコロナウイルスHKU11 **種:''Wigeon coronavirus HKU20''、ヒヨドリコロナウイルスHKU11、''Common moorhen coronavirus HKU21、Coronavirus HKU15、Munia coronavirus HKU13、White-eye coronavirus HKU16、Night heron coronavirus HKU19'' == 構造 == [[File:3D medical animation corona virus.jpg|alt=Cross-sectional model of a coronavirus|thumb|コロナウイルスの外観および内部の模式図]] オルトコロナウイルス亜科に属するウイルスは粒子状であり、その表面は細胞一般と同じ脂質二重膜である。電子顕微鏡で撮影すると表面にスパイクタンパク質が多数生えている様子が王冠のように見える。この脂質二重膜はエンベロープと呼ばれ、スパイクと共に感染先となる宿主細胞を認識する機能を持つ[[ヘマグルチニン]]タンパクが埋め込まれている(特にベータコロナウイルスサブグループAのメンバー)<ref name="groot"/>。エンベロープの内部にはウイルスのゲノムがある。ゲノムはタンパク質に包まれた一本のRNAであり、このゲノムRNAがタンパク質に包まれた状態をヌクレオカプシドと呼ぶ。 === ゲノム === オルトコロナウイルス亜科(及び他の殆どの[[ニドウイルス目]])の特徴の一つは、そのゲノムがDNAではなくRNAであることである。そのゲノムRNAは宿主細胞の中でそのまま[[伝令RNA]](messenger RNA、mRNA、[[タンパク質]]に[[翻訳 (生物学)|翻訳]]され得る[[塩基配列]]情報と構造を持った[[リボ核酸|RNA]])として機能する配列構造になっている{{sfn|田口|2011}}。mRNAは、ゲノムRNAの ‘3 側から ‘5 側に違う長さで伸張する数本のmRNAから構成され、各mRNAの ‘5 末端はゲノムRNAの 5’ 末端にある[[シグナルペプチド|リーダー配列]]を持つ{{sfn|田口|2011}}。 ウイルスタンパクの[[翻訳 (生物学)|翻訳]]は一般に各mRNAの ‘5 末端に存在する[[オープンリーディングフレーム]] (ORF) からのみ翻訳される{{sfn|田口|2011}}。ゲノムRNA (mRNA-1) の ‘5 末端約 20kb には2つのORF(1a と 1b で 802kDa をコードする)からなり、このORF間には[[シュードノット]] (pseudoknot, Pn) と呼ばれる[[核酸の三次構造]]を持つ{{sfn|田口|2011}}。1a タンパクだけで翻訳が終止する場合と、Pn により 1a + 1b 融合タンパクが合成されるケースがある。1a + 1b タンパクは16個の調節タンパクに解裂され、[[プロテアーゼ]]([[ペプチド結合]][[加水分解酵素]])、[[RNAポリメラーゼ]]として働く{{sfn|田口|2011}}。 === タンパク質 === ウイルス粒子の構造[[タンパク]]としては、ゲノムRNAに結合するヌクレオタンパク (N) の量が最も多い。これはゲノムRNAと結合し、[[ヌクレオカプシド]]となる{{sfn|田口|2011}}。ヌクレオカプシドを包み込む[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープ]]には、コロナウイルスに特徴的な王冠様突起をなす[[スパイクタンパク質]] (S)、[[膜タンパク質|内在性膜タンパク質]] (M)、[[エンベロープ (ウイルス)|エンベロープタンパク質]] (E) がある{{sfn|田口|2011}}。 == 増殖過程 == [[ファイル:Coronavirus replication.png|thumb|200px|コロナウイルスの増殖過程]] オルトコロナウイルスは動物細胞に感染することによって増殖する。その過程は、おおむね、感染 (1、2)、複製 (3 - 5)、放出 (6) の3段階からなる。 # ウイルスエンベロープ表面に露出しているスパイクタンパク質Sおよび、種によっては[[ヘマグルチニン]]タンパク質 HE が標的細胞表面の分子を認識し、結合する。 # TMPRSS2などの宿主プロテアーゼによって、スパイクタンパク質が切断、活性化を受ける。 # ウイルスエンベロープと標的細胞の細胞膜が直接融合、あるいは[[エンドサイトーシス]]によってウイルスが細胞内に取り込まれる。直接融合の場合、ウイルスゲノムが細胞内に直接導入されるが、エンドサイトーシスによって取り込まれる場合は、一旦ウイルスが含まれた[[エンドソーム]]が細胞内に作られ、そこでエンドソーム膜とウイルスが融合することによってウイルスゲノムが導入される。エンドソーム内は通常、[[プロトンポンプ]]でその内部のpHが下げられるが、これは[[リソソーム]]への移送とともにウイルスによって阻害される。 # コロナウイルスはプラス鎖の一本鎖RNAをゲノムとして持つため、標的細胞の細胞質でそのまま[[mRNA]]として機能する。標的細胞の[[リボソーム]]に結合して、RNA合成酵素を含むウイルスのタンパク質が作られる。ウイルスのRNA合成酵素はウイルスのゲノム配列以外は複製せず、ウイルスのゲノムRNAだけを鋳型にして、マイナス鎖のRNAとして複製する。これにより、ウイルス自身のRNA塩基配列だけを複製していく準備が整う。 # マイナス鎖ウイルスゲノムRNAから遺伝子ごとにプラス鎖RNAが合成され、それらが標的細胞のリボソームに結合し、それぞれからウイルスタンパク質が作られる。またマイナス鎖ゲノムから、ウイルスを構成するプラス鎖ゲノムが複製される。そのゲノムは細胞に侵入してきたRNA配列と同じである。 # 作られたウイルスタンパク質Nがプラス鎖ゲノムRNAに結合して[[ヌクレオカプシド]]を作り、標的細胞の[[小胞体]] (ER) に取り込まれる。ウイルス膜タンパク質M、スパイクタンパク質S、ヘマグルチニン HE は標的細胞の小胞体の膜に組み込まれる。この小胞体の膜がそのままウイルスの膜となる。ヌクレオカプシドと小胞体の膜(エンベロープになる)からウイルスが作られる。 # 小胞体から[[ゴルジ体]]を経由して、[[エキソサイトーシス]]によって標的細胞からウイルスが細胞外に放出される。そのとき、ウイルスのスパイクタンパク質はエキソサイトーシスの膜にしがみつくような形で放出される。これにより、ウイルスが複製される。 SARSコロナウイルスの特異的な例では、S上の定義された[[受容体]]結合ドメインがウイルスの細胞受容体である[[アンジオテンシン変換酵素|アンジオテンシン変換酵素2 (ACE2)]] への結合を仲介する<ref name="li">{{Cite journal|date=September 2005|title=Structure of SARS coronavirus spike receptor-binding domain complexed with receptor|url=https://semanticscholar.org/paper/bbedaafec1ea70e9ae405d1f2ac4c143951630bc|journal=Science|volume=309|issue=5742|pages=1864-1868|bibcode=2005Sci...309.1864L|DOI=10.1126/science.1116480|PMID=16166518}}</ref>。 == 進化過程 == すべてのコロナウイルス(=オルトコロナウイルス亜科)の最新の[[最も近い共通祖先]] (MRCA)は、紀元前8000年には存在していたと考えられているが、一部のモデルのMRCAは5500万年以上前に遡って[[コウモリ]]との[[コウモリ由来のウイルス|長期的な共進化]]を示唆する<ref name="Wertheim2013">{{cite journal|date=June 2013|title=A case for the ancient origin of coronaviruses|journal=Journal of Virology|volume=87|issue=12|pages=7039-45|doi=10.1128/JVI.03273-1 2|pmid=23596293|pmc=3676139|vauthors=Wertheim JO, Chu DK, Peiris JS, Kosakovsky Pond SL, Poon LL}}</ref>。 {{仮リンク|アルファコロナウイルス属|en|Alphacoronavirus}}のMRCAは紀元前2400年頃、{{仮リンク|ベータコロナウイルス属|en|Betacoronavirus}}紀元前3300年頃、{{仮リンク|ガンマコロナウイルス属|en|Gammacoronavirus|label=}}は紀元前2800年頃、{{仮リンク|デルタコロナウイルス属|en|Deltacoronavirus|label=}}は紀元前3000年頃と考えられている。飛翔温血[[脊椎動物]]であるコウモリと鳥は、コロナウイルスの遺伝子源(アルファコロナウイルスとベータコロナウイルスはコウモリ 、ガンマコロナウイルスとデルタコロナウイルスは鳥)にとって、コロナウイルスの進化と普及を促進する宿主として理想的である<ref name="Woo2012">{{cite journal|date=April 2012|title=Discovery of seven novel Mammalian and avian coronaviruses in the genus deltacoronavirus supports bat coronaviruses as the gene source of alphacoronavirus and betacoronavirus and avian coronaviruses as the gene source of gammacoronavirus and deltacoronavirus|journal=Journal of Virology|volume=86|issue=7|pages=3995-4008|doi=10.1128/JVI.06540-11|pmid=22278237|pmc=3302495|vauthors=Woo PC, Lau SK, Lam CS, Lau CC, Tsang AK, Lau JH, Bai R, Teng JL, Tsang CC, Wang M, Zheng BJ, Chan KH, Yuen KY|display-authors=6}}</ref>。 このため多くのヒトコロナウイルスはコウモリに起源をもつ<ref name=":8" />。ヒトコロナウイルスNL63は、紀元1190~1449年の間に、コウモリコロナウイルス (ARCoV 2) と共通の祖先を有していた<ref name="Huynh2012">{{cite journal | vauthors = Huynh J, Li S, Yount B, Smith A, Sturges L, Olsen JC, Nagel J, Johnson JB, Agnihothram S, Gates JE, Frieman MB, Baric RS, Donaldson EF | display-authors = 6 | title = Evidence supporting a zoonotic origin of human coronavirus strain NL63 | journal = Journal of Virology | volume = 86 | issue = 23 | pages = 12816-25 | date = December 2012 | pmid = 22993147 | pmc = 3497669 | doi = 10.1128/JVI.00906-12 | quote = If these predictions are correct, this observation suggests that HCoV-NL63 may have originated from bats between 1190 and 1449 CE. }}</ref>。ヒトコロナウイルス229Eも、1686~1800年の間に、コウモリコロナウイルス(GhanaGrp1 Bt CoV)と共通の祖先を有していた<ref>{{cite journal | vauthors = Pfefferle S, Oppong S, Drexler JF, Gloza-Rausch F, Ipsen A, Seebens A, Müller MA, Annan A, Vallo P, Adu-Sarkodie Y, Kruppa TF, Drosten C | display-authors = 6 | title = Distant relatives of severe acute respiratory syndrome coronavirus and close relatives of human coronavirus 229E in bats, Ghana | journal = Emerging Infectious Diseases | volume = 15 | issue = 9 | pages = 1377-84 | date = September 2009 | pmid = 19788804 | pmc = 2819850 | doi = 10.3201/eid1509.090224 | quote = The most recent common ancestor of hCoV-229E and GhanaBt-CoVGrp1 existed in ≈1686-1800 AD. }}</ref>。より最近の例では、1960年以前にアルパカコロナウイルスとヒトコロナウイルス229Eが分岐した<ref name="Crossley2012">{{cite journal | vauthors = Crossley BM, Mock RE, Callison SA, Hietala SK | title = Identification and characterization of a novel alpaca respiratory coronavirus most closely related to the human coronavirus 229E | journal = Viruses | volume = 4 | issue = 12 | pages = 3689-700 | date = December 2012 | pmid = 23235471 | pmc = 3528286 | doi = 10.3390/v4123689 }}</ref>。MERSコロナウイルスは、コウモリから中間宿主としてラクダを介してヒトに現れた<ref>{{cite journal | vauthors = Forni D, Cagliani R, Clerici M, Sironi M | title = Molecular Evolution of Human Coronavirus Genomes | journal = Trends in Microbiology | volume = 25 | issue = 1 | pages = 35-48 | date = January 2017 | pmid = 27743750 | pmc = 7111218 | doi = 10.1016/j.tim.2016.09.001 }}</ref>。MERSコロナウイルスは、数種のコウモリコロナウイルスに関連しており、数世紀前にこれらの種から分岐したようである<ref name="Lau2013">{{cite journal | vauthors = Lau SK, Li KS, Tsang AK, Lam CS, Ahmed S, Chen H, Chan KH, Woo PC, Yuen KY | display-authors = 6 | title = Genetic characterization of Betacoronavirus lineage C viruses in bats reveals marked sequence divergence in the spike protein of pipistrellus bat coronavirus HKU5 in Japanese pipistrelle: implications for the origin of the novel Middle East respiratory syndrome coronavirus | journal = Journal of Virology | volume = 87 | issue = 15 | pages = 8638-50 | date = August 2013 | pmid = 23720729 | pmc = 3719811 | doi = 10.1128/JVI.01055-13 }}</ref>。 特に、SARSコロナウイルスは、コウモリコロナウイルスとの関係が他のヒトコロナウイルスより深く、ごく最近の1986年ごろ分岐した<ref name="Vijaykrishna2007">{{cite journal | vauthors = Vijaykrishna D, Smith GJ, Zhang JX, Peiris JS, Chen H, Guan Y | title = Evolutionary insights into the ecology of coronaviruses | journal = Journal of Virology | volume = 81 | issue = 8 | pages = 4012-20 | date = April 2007 | pmid = 17267506 | pmc = 1866124 | doi = 10.1128/jvi.02605-06 }}</ref>。キーンコウモリコロナウイルス類とSARSコロナウイルスの進化経路は、SARS関連コロナウイルスが長期間コウモリで共進化していた可能性を示唆する。SARSコロナウイルスの祖先は、カグラコウモリ科のleaf-nose batsに最初に感染した。その後、キクガシラコウモリ科のhorseshoe batsに、更にはジャコウネコ、最後にヒトに感染した<ref>{{cite journal | vauthors = Gouilh MA, Puechmaille SJ, Gonzalez JP, Teeling E, Kittayapong P, Manuguerra JC | title = SARS-Coronavirus ancestor's foot-prints in South-East Asian bat colonies and the refuge theory | journal = Infection, Genetics and Evolution | volume = 11 | issue = 7 | pages = 1690-702 | date = October 2011 | pmid = 21763784 | doi = 10.1016/j.meegid.2011.06.021 | pmc = 7106191 }}</ref><ref name="pmid18258002">{{cite journal | vauthors = Cui J, Han N, Streicker D, Li G, Tang X, Shi Z, Hu Z, Zhao G, Fontanet A, Guan Y, Wang L, Jones G, Field HE, Daszak P, Zhang S | display-authors = 6 | title = Evolutionary relationships between bat coronaviruses and their hosts | journal = Emerging Infectious Diseases | volume = 13 | issue = 10 | pages = 1526-32 | date = October 2007 | pmid = 18258002 | pmc = 2851503 | doi = 10.3201/eid1310.070448 }}</ref>。 他のベータコロナウイルスとは異なり、ベータコロナウイルス1およびエンベコウイルス亜属のウシコロナウイルスは、コウモリ由来ではなくネズミに起源を持つと考えられている<ref name=":8">{{cite journal | vauthors = Forni D, Cagliani R, Clerici M, Sironi M | title = Molecular Evolution of Human Coronavirus Genomes | journal = Trends in Microbiology | volume = 25 | issue = 1 | pages = 35-48 | date = January 2017 | pmid = 27743750 | pmc = 7111218 | doi = 10.1016/j.tim.2016.09.001 | quote = Specifically, all HCoVs are thought to have a bat origin, with the exception of lineage A beta-CoVs, which may have reservoirs in rodents [2]. }}</ref><ref>{{cite journal | vauthors = Lau SK, Woo PC, Li KS, Tsang AK, Fan RY, Luk HK, Cai JP, Chan KH, Zheng BJ, Wang M, Yuen KY | display-authors = 6 | title = Discovery of a novel coronavirus, China Rattus coronavirus HKU24, from Norway rats supports the murine origin of Betacoronavirus 1 and has implications for the ancestor of Betacoronavirus lineage A | journal = Journal of Virology | volume = 89 | issue = 6 | pages = 3076-92 | date = March 2015 | pmid = 25552712 | pmc = 4337523 | doi = 10.1128/JVI.02420-14 }}</ref>。1790年代には、ウマコロナウイルスが種をまたいでウシコロナウイルスから分岐した<ref name=":7">{{cite journal | vauthors = Bidokhti MR, Tråvén M, Krishna NK, Munir M, Belák S, Alenius S, Cortey M | title = Evolutionary dynamics of bovine coronaviruses: natural selection pattern of the spike gene implies adaptive evolution of the strains | journal = The Journal of General Virology | volume = 94 | issue = Pt 9 | pages = 2036-2049 | date = September 2013 | pmid = 23804565 | doi = 10.1099/vir.0.054940-0 | quote = See Table 1 }}</ref> 1890年代後半には別の{{仮リンク|種間伝播|en|Cross-species transmission|label=}}が起こり、ヒトコロナウイルスOC43がウシコロナウイルスから分岐した<ref name=":7" /><ref name="Vijgen2005">{{cite journal | vauthors = Vijgen L, Keyaerts E, Moës E, Thoelen I, Wollants E, Lemey P, Vandamme AM, Van Ranst M | display-authors = 6 | title = Complete genomic sequence of human coronavirus OC43: molecular clock analysis suggests a relatively recent zoonotic coronavirus transmission event | journal = Journal of Virology | volume = 79 | issue = 3 | pages = 1595-604 | date = February 2005 | pmid = 15650185 | pmc = 544107 | doi = 10.1128/jvi.79.3.1595-1604.2005 }}</ref>。1890年のインフルエンザ大流行は、病原体が実際には特定されていないこと、時期やその神経症状から、インフルエンザウイルスではなく、このウイルス(のスピルオーバー)によって引き起こされた可能性があると推測されている<ref>{{cite journal | vauthors = Vijgen L, Keyaerts E, Moës E, Thoelen I, Wollants E, Lemey P, Vandamme AM, Van Ranst M | display-authors = 6 | title = Complete genomic sequence of human coronavirus OC43: molecular clock analysis suggests a relatively recent zoonotic coronavirus transmission event | journal = Journal of Virology | volume = 79 | issue = 3 | pages = 1595-604 | date = February 2005 | pmid = 15650185 | pmc = 544107 | doi = 10.1128/JVI.79.3.1595-1604.2005 | quote = However, it is tempting to speculate about an alternative hypothesis, that the 1889-1890 pandemic may have been the result of interspecies transmission of bovine coronaviruses to humans, resulting in the subsequent emergence of HCoV-OC43. }}</ref>。ヒトコロナウイルスOC43は、呼吸器疾患を引き起こすほか、神経疾患への関与が疑われている<ref>{{cite journal | vauthors = Corman VM, Muth D, Niemeyer D, Drosten C | title = Hosts and Sources of Endemic Human Coronaviruses | journal = Advances in Virus Research | volume = 100 | pages = 163-188 | date = 2018 | pmid = 29551135 | pmc = 7112090 | doi = 10.1016/bs.aivir.2018.01.001 | isbn = 9780128152010 }}</ref>。現在最も一般的な遺伝子型が出現したのは、1950年代である<ref name="Lau2011">{{cite journal | vauthors = Lau SK, Lee P, Tsang AK, Yip CC, Tse H, Lee RA, So LY, Lau YL, Chan KH, Woo PC, Yuen KY | display-authors = 6 | title = Molecular epidemiology of human coronavirus OC43 reveals evolution of different genotypes over time and recent emergence of a novel genotype due to natural recombination | journal = Journal of Virology | volume = 85 | issue = 21 | pages = 11325-37 | date = November 2011 | pmid = 21849456 | pmc = 3194943 | doi = 10.1128/JVI.05512-11 }}</ref>。 マウスの肝臓と中枢神経系に感染するマウス肝炎ウイルスは、系統的にヒトコロナウイルスOC43とウシコロナウイルスに関連する<ref>{{cite journal | vauthors = Schaumburg CS, Held KS, Lane TE | title = Mouse hepatitis virus infection of the CNS: a model for defense, disease, and repair | journal = Frontiers in Bioscience | volume = 13 | pages = 4393-406 | date = May 2008 | issue = 13 | pmid = 18508518 | pmc = 5025298 | doi = 10.2741/3012 }}</ref>。ヒトコロナウイルスHKU1も、同様にげっ歯類に起源を持つ<ref name=":8" />。 == ヒトコロナウイルス == {{main|ヒトコロナウイルス}} ヒトに感染するコロナウイルスは、風邪症候群の4種類と動物から感染する重症肺炎ウイルス2種類 (SARS-CoV, MERS-CoV) が知られていて<ref name="niid_1" />、更にSARS-CoV-2を加えた計7種類(2020年3月時点)<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/334358|title=中国・新型コロナ「遺伝子情報」封じ込めの衝撃|date=2020-03-05|accessdate=2020-03-06|publisher=東洋経済オンライン}}</ref>である。アルファコロナウイルス属、ベータコロナウイルス属の下記のものが知られている<ref name=":0" /><ref group="注">[[ヒト腸コロナウイルス4408]] - Human enteric coronavirus 4408 (HECV-4408):については除外する。</ref>。 *{{仮リンク|アルファコロナウイルス属|en|Alphacoronavirus}} **[[ヒトコロナウイルス229E]]:'''<u>[[風邪]]</u>の病原体''' **[[ヒトコロナウイルスNL63]]:'''<u>風邪</u>の病原体''' *{{仮リンク|ベータコロナウイルス属|en|Betacoronavirus}} **[[ヒトコロナウイルスHKU1]]:'''<u>風邪</u>の病原体''' **[[ヒトコロナウイルスOC43]] :'''<u>風邪</u>の病原体''' **[[SARSコロナウイルス]] (SARS-CoV):'''[[重症急性呼吸器症候群]] (SARS'''<sub>サーズ</sub>''') の病原体''' **[[MERSコロナウイルス]] (MERS-CoV):'''[[中東呼吸器症候群]] (MERS'''<sub>マーズ</sub>''') の病原体''' **[[SARSコロナウイルス2]] (SARS-CoV-2) :'''[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]] (COVID-19'''<sub>コヴィット・ナインティーン</sub>''') の病原体''' == 動物コロナウイルス == コロナウイルスは[[家畜]]、[[実験動物]]、[[ペット]]、[[野生動物]]などあらゆる[[動物]]に感染し、様々な疾患を引き起こす<ref name="niid_1">[https://www.niid.go.jp/niid/ja/from-idsc/2482-2020-01-10-06-50-40/9303-coronavirus.html コロナウイルスとは] 国立感染症研究所, Jan 10, 2020 Accessed: 2020-01-20</ref>。[[イヌ]]、[[ネコ]]、[[ウシ]]、[[ブタ]]、[[ニワトリ]]、[[ウマ]]、[[ラクダ]]などの家畜、[[シロイルカ]]、[[キリン]]、[[フェレット]]、[[スンクス]]、[[コウモリ]]、[[スズメ]]などからも固有のコロナウイルスが検出されている<ref name="niid_1" />。 === 家畜 === *'''コロナウイルス科''' - ''Coronaviridae'' **{{仮リンク|アルファコロナウイルス属|en|Alphacoronavirus}} - ''Alphacoronavirus'' ***ペダコウイルス亜属 (''Pedacovirus'') ****{{仮リンク|ブタ流行性下痢ウイルス|en|Porcine epidemic diarrhea virus}}:[[豚流行性下痢]]ウイルス (PEDV):致死的<ref name="niid_1" />。哺乳豚は下痢に伴う脱水によりほぼ100%が死亡するが、日齢が進むにしたがって症状は軽度<ref name="naro" />。 ***テガコウイルス亜属 (''Tegacovirus'') ****{{仮リンク|ブタ伝染性胃腸炎ウイルス|en|Transmissible gastroenteritis virus|label=}}:[[豚伝染性胃腸炎]]ウイルス (TGEV):致死的<ref name="niid_1" />。7日齢以下は致死率ほぼ100%<ref name="naro" />。 **{{仮リンク|ベータコロナウイルス属|en|Betacoronavirus}} - ''Betacoronavirus'' ***{{仮リンク|エンベコウイルス亜属|en|Embecovirus}} - ''Embecovirus'' ****ブタ血球凝集性脳脊髄炎ウイルス (''Porcine hemagglutinating encephalomyelitis virus''; HEV):成豚の症状は軽度<ref name="naro" />。 ****[[牛コロナウイルス病|牛コロナウイルス]]<ref name="naro" /> - ''Bovine coronavirus'' **{{仮リンク|ガンマコロナウイルス属|en|Gammacoronavirus}} - ''Gammacoronavirus'' ***イガコウイルス亜属 - Igacovirus ****{{仮リンク|鶏コロナウイルス|en|Avian coronavirus}} - ''Avian coronavirus'' *****[[鶏伝染性気管支炎ウイルス]] - ''Avian infectious bronchitis virus'' (IBV):致死的<ref name="niid_1" />。幼齢なものほど死亡率も高い<ref name="naro" />。 *ブタ呼吸器コロナウイルス (''Porcine respiratory coronavirus; PRCoV''):不顕性であり症状を示さない<ref name="naro" />。 *ウマコロナウイルス:死亡率約25%<ref name="naro" /> *シチメンチョウコロナウイルス性腸炎:幼鳥での死亡率は高い<ref name="naro" />。 === 実験動物 === *[[マウス肝炎ウイルス]] (MHV):致死的<ref name="niid_1" /> === ペット === *[[猫伝染性腹膜炎]]ウイルス (FIPV):致死的<ref name="niid_1" /> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === <references/> {{Commonscat}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=田口文広(日本獣医生命科学大学獣医感染症学教室) |title=特集 Positive Strand RNA Virus のウイルス学 - 3.コロナウイルス |year=2011 |publisher= |journal=ウイルス |volume=第61巻 |issue=2号 |id= |url=http://jsv.umin.jp/journal/v61-2pdf/virus61-2_205-210.pdf |format=PDF |pages=205-210 |ref={{sfnref|田口|2011}} }} * 原澤亮 「動物ウイルスの新しい分類 (2005)」 『獣医畜産新報』 58号 921-931頁 [[2005年]] ISSN 0447-0192 * 見上彪監修 『獣医感染症カラーアトラス』 文永堂出版 [[2006年]] ISBN 4830032030 * {{cite book|和書|title=標準微生物学|edition=第12版|publisher=[[医学書院]]|editor=中込治・神谷茂(編集)|date=2015-02-15|isbn=978-4-260-02046-6|ncid=BB18056640|id={{全国書誌番号|22540957}}|oclc=904535631|ref=|year=2015}} * Tyrell DA, Almeida JD, Berry DM. Cunningham CH, Hamre D, Hofstad MS, Mulluci L and McIntosh K. (1968) Coronaviruses. Nature (Lond.) 220: 650. * [https://science.sciencemag.org/content/early/2020/02/19/science.abb2507 Cryo-EM structure of the 2019-nCoV spike in the prefusion conformation], Daniel Wrapp, Nianshuang Wang, Kizzmekia S. Corbett, Jory A. Goldsmith, Ching-Lin Hsieh, Olubukola Abiona, Barney S. Graham, Jason S. McLellan1, [[サイエンス|Science]], 19 Feb 2020: eabb2507, DOI: 10.1126/science.abb2507 == 外部リンク == * [https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/9303-coronavirus.html コロナウイルスとは] - [[国立感染症研究所]] {{コロナウイルス}} {{気道感染}} {{Biosci-stub}} {{DEFAULTSORT:ころなういるす}} [[Category:コロナウイルス科|*]] <!--合意により下位分類群の個別の疾病についてのカテゴリは付与しない。-->
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パーセク
パーセク(英語: parsec、記号: pc)は、長さを表す計量単位であり、約3.0856775814671916×10 m(約3.2615637771418798 光年)である。主として天文学で使われる。 1977年の国際単位系国際文書第3版までは天文学の分野に限り国際単位系 (SI) と併用してよい単位(SI併用単位)であったが、1981年以降はSI併用単位にも含まれない非SI単位である。日本の計量法においては、非法定計量単位であり、取引・証明に使用することはできない。 年周視差が1秒角 (3600分の1度) となる長さが1 パーセクである。つまり、1 天文単位 (au) の長さが1秒角の角度を張るような長さを1 パーセクと定義する。すなわち1 pc = cot(π/648000) auである。 1 パーセクは次の値に等しい。 名称は「parallax (視差) 」と「second (秒角) 」を組み合わせたものである。「per sec (毎秒) 」の意味と説明されることがあるが、これは誤りである。 天文学では、100万(10)パーセクであるMpcがしばしば登場する。1 Mpc = 326.16 万光年。 科学者の間で冗談として パーセクの10倍の長さのアトパーセク(attoparsec)という単位が使われることがあり、約30.85 ミリメートルにあたる。
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パーセクは、長さを表す計量単位であり、約3.0856775814671916×1016 m(約3.2615637771418798 光年)である。主として天文学で使われる。 1977年の国際単位系国際文書第3版までは天文学の分野に限り国際単位系 (SI) と併用してよい単位(SI併用単位)であったが、1981年以降はSI併用単位にも含まれない非SI単位である。日本の計量法においては、非法定計量単位であり、取引・証明に使用することはできない。 年周視差が1秒角 (3600分の1度) となる長さが1 パーセクである。つまり、1 天文単位 (au) の長さが1秒角の角度を張るような長さを1 パーセクと定義する。すなわち1 pc = cot⁡(π/648000) auである。 1 パーセクは次の値に等しい。 約3.0856775814671916×1016 m = 約30.857 Pm 約206264.80624548031 au 約3.2615637771418798 ly 名称は「parallax (視差) 」と「second (秒角) 」を組み合わせたものである。「per sec (毎秒) 」の意味と説明されることがあるが、これは誤りである。
{{Otheruses|天文学上の長さの単位|その他|Parsec}} {{単位 |名称 = パーセク |読み = |フランス語 = |英語 = |英字 = parsec |他言語 = |画像 = [[File:Parsec-fr.svg|200px|パーセク]] |記号 = pc |度量衡 = |単位系 = [[非SI単位]] |物理量 = [[長さ]] |SI = {{val|p=約|3.0856775814671916e16|ul=m}} |組立 = L |定義 = 1[[天文単位]]が1[[秒 (角度)|秒]]の[[角度]]を張る[[長さ]] |由来 = |語源 = 「{{Lang|en|'''par'''allax}} ([[視差]]) 」と「{{Lang|en|'''sec'''ond}} (秒角) 」 }} '''パーセク'''({{Lang-en|parsec}}、[[記号]]: pc)は、[[長さ]]を表す[[計量単位]]であり、{{val|p=約|3.0856775814671916e16|u=m}}({{val|p=約|3.2615637771418798|ul=光年}})である。主として[[天文学]]で使われる。 [[1977年]]の[[国際単位系国際文書]]第3版までは天文学の分野に限り[[国際単位系]] (SI) と併用してよい単位([[SI併用単位]])であったが、[[1981年]]以降は[[SI併用単位]]にも含まれない[[非SI単位]]である。日本の[[計量法]]においては、非[[計量法#法定計量単位|法定計量単位]]であり、[[計量法#取引、証明とは|取引・証明]]に使用することはできない。 [[年周視差]]が1[[秒 (角度)|秒角]] ({{#expr:60*60}}分の1度) となる[[長さ]]が{{val|1|u=パーセク}}である。つまり、{{val|1|ul=天文単位}} (au) の長さが1秒角の角度を張るような長さを{{val|1|u=パーセク}}と定義する<ref>{{Cite book|和書|editor=国立天文台|title=『理科年表』平成26年(2014年)版|page=369|publisher=丸善出版|date=2013-11-30|isbn=978-4-621-08738-1}}</ref>。すなわち{{math|{{val|1|u=pc}} {{=}} cot&#8289;(&pi;/{{#expr:360*3600/2}}) {{val||u=au}}}}である。 {{val|1|u=パーセク}}は次の値に等しい。 * {{val|p=約|3.0856775814671916e16|u=m}} = {{val|p=約|30.857|ul=Pm}}<ref>{{Cite web|url=http://www.iau.org/publications/proceedings_rules/units/|publisher=[[国際天文学連合]]|title=Recommendation concerning Units (SI Units), Table 5. Non-SI units that are recognised for use in astronomny.|accessdate=2017-03-03}}</ref> * {{val|p=約|206264.80624548031|ul=au}} * {{val|p=約|3.2615637771418798|ul=ly}} 名称は「{{Lang|en|'''par'''allax}} ([[視差]]) 」と「{{Lang|en|'''sec'''ond}} (秒角) 」を組み合わせたものである。「{{Lang|en|per sec}} (毎秒) 」の意味と説明されることがあるが、これは誤りである。 == 倍量単位 == * キロパーセク(kpc)= {{val|p=約|3.0856775814671916e19|u=m}} * [[メガパーセク]](Mpc)<ref>理科年表、2022、p.156 表中</ref>= {{val|p=約|3.0856775814671916e22|u=m}} * [[ギガパーセク]](Gpc)= {{val|p=約|3.0856775814671916e25|u=m}} == 具体例 == 天文学では、100万({{math|10{{sup|6}}}})パーセクであるMpcがしばしば登場する。{{val|1|u=Mpc}} = {{val|326.16|u=万光年}}。 * 宇宙膨張を考慮した最大観測可能距離([[共動距離]]):{{val|14000|u=Mpc}} * 見かけ上の最大観測可能距離:{{val|4200|u=Mpc}} * 各[[クエーサー]]までの距離:600〜{{val|4000|u=Mpc}} * [[ヘルクレス座・かんむり座グレートウォール]]の大きさ:{{val|3000|u=Mpc}} * [[うお座・くじら座超銀河団Complex]]の全長:{{val|300|u=Mpc}} * [[シャプレー超銀河団]]までの距離:{{val|200|u=Mpc}} * [[かみのけ座銀河団]]までの距離:{{val|90|u=Mpc}} * [[グレートアトラクター]]までの距離:{{val|68|u=Mpc}} * [[ケンタウルス座銀河団]]までの距離:{{val|48|u=Mpc}} * [[宇宙の晴れ上がり|晴れ上がり]]時の宇宙の大きさ(観測可能宇宙の直径):{{val|25|u=Mpc}} * [[おとめ座銀河団]]までの平均距離:{{val|20|u=Mpc}} * [[アンドロメダ銀河]]までの距離:{{val|0.7|u=Mpc}} * [[銀河系]]の直径:{{val|0.03|u=Mpc}} * [[ハッブル定数]]:{{val|67|u=km/s/Mpc}} === 解説 === * おとめ座超銀河団の隣の超銀河団は、うみへび座ケンタウルス座超銀河団であるが、両者は非常に近い関係にある。 * クエーサーは、天体の中でも最も明るいものであるが、宇宙が若い頃(20億〜{{val|30|u=億歳}}の頃)に多く形成された天体であるため、遠くに見えている。(遠くの天体は過去の事象が見えている) * ヘルクレス座かんむり座グレートウォールは、今までに観測された中で最も大きな宇宙の大規模構造 * かみのけ座銀河団を核とする[[かみのけ座超銀河団]]も、おとめ座超銀河団の隣の超銀河団であるが、所属するフィラメントは異なる。かみのけ座超銀河団はかみのけ座ウォールの中心部である。 * [[ハッブルの法則]]をおとめ座銀河団に当てはめてみると、{{val|20|u=Mpc}} x {{val|67|u=km/s/Mpc}} = {{val|{{#expr:20 * 67}}|u=km/s}} となり、おとめ座銀河団は、{{val|{{#expr:20 * 67}}|u=km/s}}という速度で、我々から遠ざかっている。ここから、おとめ座銀河団の重力による銀河系がおとめ座方向へ近づく速度 {{val|185|u=km/s}}を引くことにより、実際の相対速度{{val|{{#expr:20 * 67-185}}|u=km/s}}が導かれる。 * シャプレー超銀河団は、ラニアケア超銀河団の隣の超銀河団。 == その他 == 科学者の間で冗談として パーセクの{{10^|-18}}倍の長さの[[アトパーセク]](attoparsec)という単位が使われることがあり<ref>[http://jargon.net/jargonfile/a/attoparsec.html Attoparsec] Cool Jargon of the Day{{要高次出典|date=2017-01}}</ref>、{{val|p=約|30.85|ul=ミリメートル}}にあたる<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=g80P_4v4QbIC&pg=PA49&lpg=PA49&dq=attoparsec+unit&source=bl&ots=6ogrnvmqU5&sig=5HWgsH_FOrWncA4bHDlc3FH1MgA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjg5s33mtXRAhVHNpQKHb3UBCI4ChDoAQhXMAg#v=onepage&q=attoparsec%20unit&f=false The New Hacker's Dictionary] Third Edition, compiled by Eric S. Raymond,pp.49-50, The MIT Press, 1996, ISBN 0-262-18178-9</ref>。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|13174|3376|-|SQUARE PC}} |} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Parsec (unit of length)}} * [[長さの比較]] * [[絶対等級]] * [[パーセク (小惑星)]] - [[小惑星番号]]{{val|30857|u=番}}の[[小惑星]]。小惑星番号から提案・命名された。 {{天文学の長さの単位}} {{DEFAULTSORT:はあせく}} [[Category:天文学の長さの単位]] [[Category:天文学に関する記事]]
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十干
十干(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなる集合。干支を書くとき干を支の前に書くことから天干(てんかん)とも言う。 古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支と合わせて干支(かんし、えと)といい、暦の表示などに用いられる。五行に当てはめて、2つずつを木(もく、き)・火(か、ひ)・土(と、つち)・金(こん、か)・水(すい、みず)にそれぞれ当て、さらに陰陽を割り当てている。日本では陽を兄、陰を弟として、例えば「甲」を「木の兄」(きのえ)、「乙」を「木の弟」(きのと)などと呼ぶようになった。「干支」を「えと」と読むのは、この「兄弟」(えと)に由来する。 十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなる。十干の本義は、古代研究に便利な漢の釈名や、史記の歴書によっても、実は生命消長の循環過程を分説したものであって、実際の木、火、鼠、牛といった存在に直接関係のあることではない。 殷では、10個の太陽が存在してそれが毎日交代で上り、10日で一巡りすると考えられており、十干はそれぞれの太陽につけられた名前と言われている。この太陽が10日で一巡りすることを「旬」と呼ぶ。上旬、中旬、下旬と言う呼び名もこれに由来する。中国には、堯帝の時代に10個の太陽が一度に出、草木が燃えるほど暑くなってしまったので堯帝が弓の巧みな羿という者に命じて9つの太陽を撃ち落とした、という神話があり、この説を裏付けている。 なお、古代エジプト暦でも、10日が1週間で、1ヶ月=30日=3週間であった。フランス革命暦でも1ヶ月を10日ずつの3つのデカード(週)に分けた。 十干は五行説によって説明されるようになると五行が表す五方と結びつけられた。後に十二支・八卦を交えた細かい二十四方が用いられるようにもなった。 恵方は年の十干によって決められる。 漢字圏では、何かの分野で甲を A 、乙を B 、丙を C ... 壬を I 、癸を J の意味で用いる例がある。 十干は、日本や韓国、ベトナム、台湾、中国などの漢字圏において、ものの階級・等級や種類を示すために使われることもある。焼酎は甲類・乙類に分類される。防火管理者や危険物取扱者、動力車操縦者などの資格は甲種・乙種と区分されている。かつては学校の成績や徴兵検査の結果を表すのに甲・乙・丙・丁・戊を用いていた。 中国語では有機化合物の命名に十干が用いられる。主鎖にある炭素の数が1個なら甲、2個なら乙...となる。例えばメタンは甲烷・エタンは乙烷であり、メタノールは甲醇・エタノールは乙醇である(烷、醇はそれぞれアルカン、アルコールを表す漢字)。ただし、主鎖の炭素原子の数が十を超える場合は漢数字が用いられる。例えばウンデカンは十一烷となる。 中国や台湾ではスポーツのリーグにおいて甲級(1部)、乙級(2部)という区分けしている。なお中国のサッカーリーグは1部を超級、2部を甲級、3部を乙級として再編成された。 日本や韓国、台湾、中国において、法的議論における事案の登場人物の仮名や、契約書などにおける当事者その他の者の氏名又は名称の略称として十干が使われる。 例1:甲男は、乙女に対し殺意をもって拳銃を撃ったところ、発射された弾丸は乙女にかすり傷を負わせた後、たまたま側にいた丙男の飼っていた犬のAに命中し、よってAは死亡した。 例2:本件は、甲野太郎が、乙野次郎に対し、売買契約に基づく代金の支払を請求したところ、これに対し、乙野次郎が、丙野三郎による第三者弁済を主張した事案である。 例3:ABC建設株式会社(以下「甲」とする。)、株式会社DEF商事(以下「乙」とする。)及びGHI市(以下「丙」とする。)は、以下の条項によって共同事業に関する協定を締結する。 漢文の訓読では、上下点を跨いで返る場合に、返り点として十干を用いる。また、上下点は上中下の三字しか使えず二回までしか返れないため、本来なら上下点を使うところでも三回以上返る場合には十干を用いる。Unicodeには、返り点としての甲乙丙丁が、U+3199-U+319Cの範囲に収録されている。 茨城県筑西市や下妻市、栃木県宇都宮市新里町、石川県内の市町村などでは、住所に甲・乙・丙を用いる。これらは、明治初期の地租改正に関連して行われた土地制度改革によって便宜的に与えられたものである。 石川県では定着しているが、他県では珍しいため、県外の人に甲・乙・丙の入った住所を伝えると驚かれることがある。筑西市では旧町名復活運動が起きたり、宇都宮市新里町では手続きをすれば甲・乙・丙・丁を住所から外すことができるようになったりと甲・乙・丙の住所表記は、地域によっては好意的に見られていない。
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十干(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなる集合。干支を書くとき干を支の前に書くことから天干(てんかん)とも言う。
'''十干'''(じっかん)は、'''[[甲]]'''・'''[[乙]]'''・'''[[丙]]'''・'''[[丁]]'''・'''[[戊]]'''・'''[[己]]'''・'''[[庚]]'''・'''[[辛]]'''・'''[[壬]]'''・'''[[癸]]'''の[[10]]の要素からなる集合。[[干支]]を書くとき干を[[十二支|支]]の前に書くことから'''天干'''(てんかん)とも言う<ref>縦書きの場合は上に干がくる。</ref>。 == 概要 == [[古代中国]]で考えられ、[[日本]]に伝えられた。[[十二支]]と合わせて[[干支]](かんし、えと)といい、[[暦]]の表示などに用いられる。[[五行思想|五行]]に当てはめて、2つずつを[[木]](もく、き)・[[火]](か、ひ)・[[土壌|土]](と、つち)・[[金属|金]](こん、か)・[[水]](すい、みず)にそれぞれ当て、さらに[[陰陽]]を割り当てている。日本では陽を[[兄]]、陰を[[弟]]として、例えば「甲」を「木の兄」(きのえ)、「乙」を「木の弟」(きのと)などと呼ぶようになった。「干支」を「えと」と読むのは、この「兄弟」(えと)に由来する。 == 種類 == 十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなる。十干の本義は、古代研究に便利な[[漢]]の[[釈名]]や、[[史記]]の歴書によっても、実は生命消長の循環過程を分説したものであって、実際の木、火、鼠、牛といった存在に直接関係のあることではない<ref>参考文献:『易学入門』(著:[[安岡正篤]] 版:[[明徳出版社]])</ref>。 == 十干表 == === 各言語による読み方 === {| class="wikitable" style="text-align:center;white-space:nowrap;" |- !rowspan=2|十干 !colspan=4|[[日本語]] ! rowspan="2" |[[中国語]] ! rowspan="2" |[[広東語]] ! rowspan="2" |[[台湾語]] ! rowspan="2" |[[朝鮮語]] !rowspan=2|[[ベトナム語]] !rowspan=2|本義<ref>参考文献:『中国的実在観の研究』(著:[[木村英一]])、『中国上代陰陽五行思想の研究』(著:[[小林信明]])、『宋代易学の研究』(著:[[今井宇三郎]])</ref> |- !style="white-space:nowrap"|音読み !訓読み !意味 !占い読み/五行読み |- |[[甲]]||コウ||きのえ||style="white-space:nowrap"|木の兄||こうぼく |lang="zh-tw"|jiǎ |lang="zh-hk"|gaap<sup>3</sup> |kah |lang="ko"|갑 (gap) |lang="vi"|giáp |草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意 |- |[[乙]]||オツ||きのと||木の弟||おつぼく |lang="zh-tw"|yǐ |lang="zh-hk"|jyut<sup>3</sup> |it |lang="ko"|을 (eul) |lang="vi"|ất |“軋”に通じ、陽気のまだ伸びない、かがまっているところ |- |[[丙]]||ヘイ||ひのえ||火の兄||へいか |lang="zh-tw"|bǐng |lang="zh-hk"|bing<sup>2</sup> |piáⁿ |lang="ko"|병 (byeong) |lang="vi"|bính |“炳”に通じ、陽気の発揚 |- |[[丁]]||テイ||ひのと||火の弟||ていか |lang="zh-tw"|dīng |lang="zh-hk"|ding<sup>1</sup> |teng |lang="ko"|정 (jeong) |lang="vi"|đinh |陽気の充溢 |- |[[戊]]||ボ||style="white-space:nowrap"|つちのえ||土の兄||ぼど |lang="zh-tw"|wù |lang="zh-hk"|mou<sup>6</sup> |bō͘ |lang="ko"|무 (mu) |lang="vi"|mậu |“茂”に通じ、陽気による分化繁栄 |- |[[己]]||キ||つちのと||土の弟||きど |lang="zh-tw"|jǐ |lang="zh-hk"|gei<sup>2</sup> |kí |lang="ko"|기 (gi) |lang="vi"|kỷ |“紀”に通じ、分散を防ぐ統制作用 |- |[[庚]]||コウ||かのえ||金の兄||こうきん |lang="zh-tw"|gēng |lang="zh-hk"|gang<sup>1</sup> |keⁿ/kiⁿ |lang="ko"|경 (gyeong) |lang="vi"|canh |結実、形成、陰化の段階 |- |[[辛]]||シン||かのと||金の弟||しんきん |lang="zh-tw"|xīn |lang="zh-hk"|san<sup>1</sup> |sin |lang="ko"|신 (sin) |lang="vi"|tân |陰による統制の強化 |- |[[壬]]||ジン||みずのえ||水の兄||じんすい |lang="zh-tw"|rén |lang="zh-hk"|jam<sup>4</sup> |jîm |lang="ko"|임 (im) |lang="vi"|nhâm |“妊”に通じ、陽気を下に姙む意 |- |[[癸]]||キ||みずのと||水の弟||きすい |lang="zh-tw"|guǐ |lang="zh-hk"|gwai<sup>3</sup> |kùi |lang="ko"|계 (gye) |lang="vi"|quý |“揆”に同じく生命のない残物を清算して<br />地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態 |} === 各要素との関連 === {| border="1" class="wikitable" style="text-align:center;white-space:nowrap;" |- ![[西暦]]の<br />下1桁<br />(年の十干)!![[修正ユリウス日]]の<br />下1桁<br />(日の十干) !十干 ![[陰陽]]||([[二十四方]])[[五方]]!!([[五行思想]])[[五星]] |- |0||6 |[[庚]]|| style="background-color:#FB9" |陽||(255°)[[西]] | rowspan="2" style="background-color:#FFF" |([[金]])[[金星]] |- |1||7 |[[辛]]|| style="background-color:#9DF" |陰||(285°)[[西]] |- |2||8 |[[壬]]|| style="background-color:#FB9" |陽||(345°)[[北]] | rowspan="2" style="background-color:#CCC" |([[水]])[[水星]] |- |3||9 |[[癸]]|| style="background-color:#9DF" |陰||(15°)[[北]] |- |4||0 |[[甲]]|| style="background-color:#FB9" |陽||(75°)[[東]] | rowspan="2" style="background-color:#CFD" |([[木]])[[木星]] |- |5||1 |[[乙]]|| style="background-color:#9DF" |陰||(105°)[[東]] |- |6||2 |[[丙]]|| style="background-color:#FB9" |陽||(165°)[[南]] | rowspan="2" style="background-color:#FDC" |([[火]])[[火星]] |- |7||3 |[[丁]]|| style="background-color:#9DF" |陰||(195°)[[南]] |- |8||4 |[[戊]]|| style="background-color:#FB9" |陽|| rowspan="2" |[[中央]] | rowspan="2" style="background-color:#EFC" |([[土]])[[土星]] |- |9||5 |[[己]]|| style="background-color:#9DF" |陰 |} == 十日 == [[殷]]では、10個の[[太陽]]が存在してそれが毎日交代で上り、10日で一巡りすると考えられており、十干はそれぞれの太陽につけられた名前と言われている。この太陽が10日で一巡りすることを「[[旬 (単位)|旬]]」と呼ぶ。上旬、中旬、下旬と言う呼び名もこれに由来する。中国には、[[堯]]帝の時代に10個の太陽が一度に出、草木が燃えるほど暑くなってしまったので堯帝が弓の巧みな[[羿]]という者に命じて9つの太陽を撃ち落とした、という神話があり、この説を裏付けている。 なお、[[暦法|古代エジプト暦]]でも、10日が1週間で、1ヶ月=30日=3週間であった。[[週|フランス革命暦]]でも1ヶ月を10日ずつの3つのデカード(週)に分けた。 == 方位 == [[ファイル:China 24 cardinal directions.png|thumb|二十四方表]] 十干は五行説によって説明されるようになると五行が表す五方と結びつけられた。後に十二支・[[八卦]]を交えた細かい[[二十四方]]が用いられるようにもなった。 [[恵方]]は年の十干によって決められる。 ==現代での使用== {{seealso|アルファベット}} 漢字圏では、何かの分野で甲を [[A]] 、乙を [[B]] 、丙を [[C]] … 壬を [[I]] 、癸を [[J]] の意味で用いる例がある。 === 順位 === 十干は、日本や韓国、ベトナム、台湾、中国などの漢字圏において、ものの階級・等級や種類を示すために使われることもある。[[焼酎]]は甲類・乙類に分類される。[[防火管理者]]や[[危険物取扱者]]、[[動力車操縦者]]などの資格は甲種・乙種と区分されている。かつては学校の成績や[[徴兵検査]]の結果を表すのに甲・乙・丙・丁・戊を用いていた。 [[中国語]]では[[有機化合物]]の命名に十干が用いられる。主鎖にある炭素の数が1個なら甲、2個なら乙…となる。例えば[[メタン]]は'''[[:zh:甲烷|甲{{lang|zh|烷}}]]'''・[[エタン]]は'''[[:zh:乙烷|乙{{lang|zh|烷}}]]'''であり、[[メタノール]]は'''[[:zh:甲醇|甲醇]]'''・[[エタノール]]は'''[[:zh:乙醇|乙醇]]'''である({{lang|zh|烷}}、醇はそれぞれ[[アルカン]]、[[アルコール]]を表す漢字)。ただし、主鎖の炭素原子の数が十を超える場合は漢数字が用いられる。例えば[[ウンデカン]]は'''[[:zh:十一烷|十一{{lang|zh|烷}}]]'''となる。 中国や台湾ではスポーツのリーグにおいて甲級(1部)、乙級(2部)という区分けしている。なお中国のサッカーリーグは1部を[[中国サッカー・スーパーリーグ|超級]]、2部を[[中国サッカー・甲級リーグ|甲級]]、3部を[[中国サッカー・乙級リーグ|乙級]]として再編成された。 === 仮名 === 日本や韓国、台湾、中国において、法的議論における事案の登場人物の仮名や、契約書などにおける当事者その他の者の氏名又は名称の略称として十干が使われる。 例1:甲男は、乙女に対し殺意をもって拳銃を撃ったところ、発射された弾丸は乙女にかすり傷を負わせた後、たまたま側にいた丙男の飼っていた犬のAに命中し、よってAは死亡した。 例2:本件は、甲野太郎が、乙野次郎に対し、売買契約に基づく代金の支払を請求したところ、これに対し、乙野次郎が、丙野三郎による第三者弁済を主張した事案である。 例3:ABC建設株式会社(以下「甲」とする。)、株式会社DEF商事(以下「乙」とする。)及びGHI市(以下「丙」とする。)は、以下の条項によって共同事業に関する協定を締結する。 === 返り点 === [[漢文]]の[[訓読]]では、上下点を跨いで返る場合に、返り点として十干を用いる。また、上下点は上中下の三字しか使えず二回までしか返れないため、本来なら上下点を使うところでも三回以上返る場合には十干を用いる。[[Unicode]]には、返り点としての甲乙丙丁が、U+3199-U+319Cの範囲に収録されている。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|12697|3199|‐|{{nowrap|返り点 甲}}}} {{CharCode|12698|319A|‐|{{nowrap|返り点 乙}}}} {{CharCode|12699|319B|‐|{{nowrap|返り点 丙}}}} {{CharCode|12700|319C|‐|{{nowrap|返り点 丁}}}} |} === 住所 === [[茨城県]][[筑西市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.chikusei.lg.jp/data/gappei/jyuusyo/jyuusyo.pdf|title=筑西市の住所表示はこのようになります|publisher=筑西市|accessdate=2021-06-08}}</ref>や[[下妻市]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gappei-archive.soumu.go.jp/db/08ibaraki/0812simo/pdf/new_guide.pdf|title=合併に伴う行政サービスのご案内 新・下妻市 くらしのガイド|publisher=下妻市・千代川村合併協議会|date=2005-12|accessdate=2021-06-08}}</ref>、[[栃木県]][[宇都宮市]][[新里町 (宇都宮市)|新里町]]<ref name="km">{{cite book|和書|author=鷹觜信|chapter=新里の甲乙丙丁について|title=国本地区のむかしといま|date=1997-03-30|editor=宇都宮市制100周年記念国本地区地域イベント実行委員会 編|publisher=宇都宮市制100周年記念国本地区地域イベント実行委員会|page=36-38}}</ref>、[[石川県]]内の市町村などでは、[[住所]]に甲・乙・丙を用いる<ref name="mn">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20130702-a064/|title=石川県の七不思議? 住所に「イロハ」「甲乙丙」「子丑寅」など謎の地名が|publisher=[[マイナビ]]|author=OFFICE-SANGA|date=2013-07-02|accessdate=2021-06-08}}</ref>。これらは、明治初期の[[地租改正]]に関連して行われた土地制度改革によって便宜的に与えられたものである<ref name="km"/><ref name="mn"/>。 石川県では定着しているが、他県では珍しいため、県外の人に甲・乙・丙の入った住所を伝えると驚かれることがある<ref name="mn"/>。筑西市では[[旧町名復活運動]]が起きたり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page004292.html|title=総務部長 菊池雅裕のブログ|publisher=筑西市総務課|work=部課長ブログ|date=2018-01-19|accessdate=2021-06-08}}</ref>、宇都宮市新里町では手続きをすれば甲・乙・丙・丁を住所から外すことができるようになったり<ref name="km"/>と甲・乙・丙の住所表記は、地域によっては好意的に見られていない<ref name="km"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[甲乙人]] * [[名 (単位)#長崎県]] - 長崎県における市町村下の行政区画である[[町・字#字|字]](あざ)の単位の一種。「名」の地名を十干に置き換えて表記する地域が存在する。 {{Chronology}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しつかん}} [[Category:名数10|かん]] [[Category:中国の名数10|かん]] [[Category:天文学史]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:中国天文学]] [[Category:太陽]] [[Category:暦法]] [[Category:太陰暦]] [[Category:太陰太陽暦]] [[Category:太陽暦]] [[Category:農事暦]] [[Category:紀年法]] [[Category:中国の紀年法]] [[Category:干支|*1]] [[Category:周期現象]] [[Category:動物に関する文化]] [[Category:思想]] [[Category:縁起物]] [[Category:占星術]] [[Category:占い]] [[Category:術数学]] [[Category:陰陽道]] [[Category:暦注]]
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十二支
十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称である(それぞれ音訓2通りの読み方がある:下表参照)。十干を天干というのに対して、十二支を地支(ちし)ともいう。 十二支は、「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類からなっている。 十二支は戦国時代(中国)に作られた陰陽五行説よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであり、占いの道具としての設定にすぎない。また十二支を生命消長の循環過程とする説もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による後漢時代の解釈であって、ともに学問的な意味はない。 西暦2023年の十二支は卯である。 十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。戦国以降、日だけでなく、年・月・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。 戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の一つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に12等分したもので、この名称には十二支が当てられた。また、木星が約12年で天球を西から東に1周することから、十二次という別の天球分割法における木星の位置が年の記述に利用されていたが、十二辰の方向と順序に対しては逆方向であるため、紀元前4世紀頃、十二辰の方向に合わせるべく木星とは1直径を境に逆回りに天球を巡る太歳という架空の星を考え、太歳の十二辰における位置で年を示す紀年法が使われるようになった。これが後漢以後に始まり現在まで使われている干支による紀年法の起源である。 12という数が1年の月数と同じであることから、月を表すのにも用いられるようになった。これを月建といい、建子(子月)の月は冬至を含む月となり、周暦の周正では1月、夏暦の夏正では11月、殷暦の殷正では12月に子月が置かれた(周正では冬至を新年とするため、1月に置かれた子月は新旧年どちらも含むことになる)。時刻(十二時辰)や方位の表示にも用いられるようになった。真夜中を「子の刻」「子夜」「正子」、真昼を「午の刻」「正午」、南北を結ぶ線つまり経線を「子午線」、東西を結ぶ線を「卯酉線」(局所的に緯線と一致するが、厳密には両者は別のもの)などと呼ぶのは、これに由来する。十二支の各文字の原意は不明である。一説に草木の成長における各相を象徴したものとされるがこれは漢代の字音による解釈説である(『漢書』律暦志)。また各十二支は12の動物でもある。 元々十二支は順序を表す記号であって動物とは本来は関係なく、後から割り振られたものという立場からはこの動物を十二生肖と呼ぶ。しかし日本では十二支という言葉自体で12の動物を指すことが多い。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)や、バビロニア天文学の十二宮が後から伝播してきて十二支と結びついたという説がある。もともと動物を表していたという説では、バビロニアの十二宮が十二支そのものの起源だという説のほか、諸説がある。 十二支は古来、「甲子」「丙午」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」である。十干十二支を合わせたものを干支(「かんし」または「えと」)といい、干支(十干十二支)が一巡し起算点となった年の干支にふたたび戻ることを還暦という。 「えと」という呼称は本来、十干を「ひのえ」「ひのと」のように、兄(え)と弟(と)の組み合わせとして訓読したことに由来するが、今日では、「干支」(えと)と言えば十二支のことを指すことが多い。この逆転現象は、干支のうち、五行思想とともに忘れ去られつつある十干に対して、動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っている。 今日の日本では、十二支は、人々の生活との関わりが、近世までと比べて、ずっと希薄になっている。十二支が十干のように忘れ去られずにいるのは、年賀状の図案にその年の十二支の動物が多用されていることと、人々がその生まれ年の干支によって、「○○年(どし)の生まれ」のように年齢を表現する習慣があること、からである。 また、十二支に因んで、年齢差などの表現方法として、12年(=144箇月)をひと回りと呼ぶこともある。 東西南北の四方位が卯・酉・午・子に配当されるのに加えて、北東・南東・南西・北西はそれぞれ「うしとら」「たつみ」「ひつじさる」「いぬい」と呼ばれ、該当する八卦から、「艮」「巽」「坤」「乾」の字を当てる(→方位)。 北東を「鬼門」、南西を「裏鬼門」として忌むのは、日本独自の風習だが、(ウシのような)角をはやし、トラの皮のふんどしをしめた「鬼(オニ)」という妖怪のイメージは、この「うしとら」から来ていると思われる。 日本の城郭建築では、曲輪(郭)の四隅に隅櫓を築いて防御の拠点としたが、「巽櫓(辰巳櫓)」等のように、方角の名称を以て櫓に命名することが行われていた。現存建築としては高松城艮櫓(香川県高松市)、江戸城巽櫓(東京都千代田区)、明石城巽櫓・坤櫓、高崎城乾櫓等が存在している。 「辰巳芸者(巽芸者、たつみげいしゃ)」とは、深川仲町(辰巳の里)の芸者を指す。この地が江戸城の南東に位置したことから。日本橋葭町の人気芸者、菊弥が移り住んで店を構えたことに始まる。幕府公認の遊里ではないために、巽芸者は男名前を名乗り、男が着る羽織を身につけたため、羽織芸者、また、単に羽織とも呼ばれたが、鉄火で伝法、気風(きっぷ)がよくて粋であることで知られた。 船舶航行時に使われた「おもかじ」「とりかじ」という言葉は、「卯面梶」「酉梶」から来ているとする説もある。 十二生肖(じゅうにせいしょう)または十二属相(じゅうにぞくしょう)は十二支に鼠・牛・虎・兎・龍・蛇・馬・羊(山羊)・猿・鶏・犬・猪(豚)の十二の動物を当てたものである。 「酉」は漢字の読みとしては「とり」だが、意味は「にわとり」である。 十干の相互関係が干合だけであるのに対し、十二支の相互関係は複雑であり、十二支に中の3つが関係する相互関係、2つが関係する相互関係がある。本来は年、月、日、刻や方位などの間に生ずる十二支の関係について生じるものであり、単に生まれ年の十二支同士による対人関係をさすものではない。 3支の相互関係には、三合会局と三方合の2つがある。 十二支を円形に配置したとき、正三角形を構成する三支が全て揃うこと。仲春である卯を含む局は木局、仲夏である午を含む局は火局、仲秋の酉を含む局は金局、仲冬の子を含む局は水局と呼ばれる。局の五行は、各季節の中心である、卯、午、酉、子の五行と同じである。会局となる三支のうち2つが揃うことを会と呼ぶことがある。また三支が揃わなくても、各季節の中心の十二支と会となる十二支の2つが揃うことを半会と呼ぶ。会局が成立すると三支全ての五行が局の五行に変化するとされる。いずれも安定した吉の関係とされる。 東西南北の四方(つまり春夏秋冬の四季でもある)に対応する三支が全て揃うことであり、方合の三支が揃うと、全てが季節の五行に変化する。 二支の相互関係には、刑、沖(衝)、破、害、合(支合、六合)がある。刑は中でも特殊で、輪刑、朋刑、互刑、自刑がある。名前の通り傷付けあう関係である。沖(衝)は、真反対の方位に対応する十二支同志の関係で衝突の意味がある。破は軽い衝突の意味があり、俗に四悪十惑と呼ばれる陽支から数えて10番目、陰支から数えて4番目の十二支をいう。害は合と関係していて、合となる十二支の冲が害である。停滞を意味する。合は対応する黄道十二宮で支配星が同じとなる十二支同志の関係である。ただし午と未の合は異なっており、それぞれ支配星は太陽と月である。
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十二支(じゅうにし)は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称である。十干を天干というのに対して、十二支を地支(ちし)ともいう。
{{Otheruses||十二支に対応する動物|生肖}} '''十二支'''(じゅうにし)は、'''子'''・'''丑'''・'''寅'''・'''卯'''・'''辰'''・'''巳'''・'''午'''・'''未'''・'''申'''・'''酉'''・'''戌'''・'''亥'''の総称である(それぞれ音訓2通りの読み方がある:[[十二支#各国での名称|下表]]参照)。[[十干]]を天干というのに対して、十二支を'''地支'''(ちし)ともいう。 [[ファイル:Daoist-symbols Qingyanggong Chengdu.jpg|350px|thumb|right|十二支と[[太極]]の彫刻。上の[[子]]から[[時計回り]]に下が[[午]]。]] == 種類 == '''十二支'''は、「'''[[子 (十二支)|子]]・[[丑]]・[[寅]]・[[卯]]・[[辰]]・[[巳]]・[[午]]・[[未]]・[[申]]・[[酉]]・[[戌]]・[[亥]]'''」の12種類からなっている。 十二支は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]](中国)に作られた[[陰陽五行思想|陰陽五行説]]よりもはるかに古い起源をもつので、陰陽五行説による説明は後付けであり、占いの道具としての設定にすぎない。また十二支を生命消長の循環過程とする説<ref>NHK総合テレビで2018年6月1日(翌日再放送)に放送された『[[チコちゃんに叱られる!]]』#8ではこの説が取られた。(典拠・[https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/72821/1167878/ gooテレビ番組の記載])</ref>もあるが、これは干支を幹枝と解釈したため生じた植物の連想と、同音漢字を利用した一般的な語源俗解手法による[[後漢]]時代の解釈<ref>『[[釈名]]』、『[[史記]]』暦書、『[[漢書]]』律暦志など</ref>であって、ともに学問的な意味はない。 [[西暦]][[{{#time:Y年}}]]の十二支は{{今年の十二支 (UTC) ‎}}である。 {{-}} ==十二支== ===各国での名称=== {| class="wikitable" ! rowspan="2" |十二支 ! colspan="2" |[[日本語]] ![[中国語]] ![[広東語]] ![[台湾語]] ![[韓国語]] ![[ベトナム語]] ! rowspan="2" |概要<ref>『[[漢書]]』律暦志</ref> |- ![[音読み]]{{Refnest|group=注|括弧内の片仮名は[[字音仮名遣]]、「[[漢音|漢]]」「[[呉音|呉]]」「[[慣用音|慣]]」は音読みの種別を示す<ref>{{Cite | 和書 | author = 小川環樹, 西田太一郎, 赤塚忠, 阿辻哲次, 釜谷武志, 木津祐子 | title = 角川新字源改訂新版特装版 | date = 2018 | edition = 改訂新版再 | publisher = KADOKAWA | isbn = 9784046219664 | series = 角川新字源 | ref = harv}}</ref>。}} ! style="white-space:nowrap" | [[訓読み]] ![[拼音]] ![[粤拼]] ![[白話字]] ![[ハングル]] ![[チュ・クオック・グー|字国語]] |- |[[子 (十二支)|子]] |シ([[漢音|漢]]・[[呉音|呉]]) |ね | lang="zh" |zǐ |zi2 |chú | lang="ko" |자 (ja) | lang="vi" |tý |「孳」(し:「[[wikt:ふえる|ふえる]]」の意味)。 新しい[[生命]]が[[種子]]の中に萌し始める状態を表しているとされる。 |- |[[丑]] |チュウ(チウ/漢・呉) |うし | lang="zh" |chǒu |cau2 |thiú | lang="ko" |축 (chuk) | lang="vi" |sửu |「紐」(ちゅう:「[[ひも]]」「[[wikt:からむ|からむ]]」の意味)。 芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされ、 指をかぎ型に曲げて糸を撚ったり編んだりする象形ともされる。 |- |[[寅]] |イン(漢・呉) |とら | lang="zh" |yín |jan4 |în | lang="ko" |인 (in) | lang="vi" |dần |「螾」(いん:「[[wikt:動く|動く]]」の意味)。 [[春]]が来て[[草木]]が生ずる状態を表しているとされる。 |- |[[卯]] |ボウ(バウ/漢) |う | lang="zh" |mǎo |maau5 |báu | lang="ko" |묘 (myo) | lang="vi" |mão/mẹo |「冒」、『史記』律書によると「茂」(ぼう:「[[wikt:しげる|しげる]]」の意味)。 草木が[[地面]]を蔽うようになった状態を表しているとされる。 |- |[[辰]] |シン(漢) |たつ | lang="zh" |chén |san4 |sîn | lang="ko" |진 (jin) | lang="vi" |thìn |「振」(しん:「[[wikt:ふるう|ふるう]]」「[[wikt:ととのう|ととのう]]」の意味)。 草木の形が整った状態を表しているとされる。 |- |[[巳]] |シ(漢・呉) |み | lang="zh" |sì |zi6 |chī | lang="ko" |사 (sa) | lang="vi" |tỵ |「已」(い:「[[wikt:止む|止む]]」の意味)。 草木の成長が極限に達した状態を表しているとされる。 |- |[[午]] |ゴ(漢・呉) |うま | lang="zh" |wǔ |ng5 |ngó͘ | lang="ko" |오 (o) | lang="vi" |ngọ |「忤」(ご:「[[wikt:つきあたる|つきあたる]]」「[[wikt:さからう|さからう]]」の意味)。 草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しているとされる。 |- |[[未]] |ビ(漢) |ひつじ | lang="zh" |wèi |mei6 |bī | lang="ko" |미 (mi) | lang="vi" |mùi |「昧」(まい:「[[wikt:暗い|暗い]]」の意味)。 [[植物]]が鬱蒼と茂って暗く覆う状態を表しているとされる。 『[[説文解字]]』によると「味」(み:「あじ」の意味)。 [[果実]]が熟して滋味が生じた状態を表しているとされる。 |- |[[申]] |シン(漢・呉) |さる | lang="zh" |shēn |san1 |sin | lang="ko" |신 (sin) | lang="vi" |thân |「呻」(しん:「[[wikt:うめく|うめく]]」の意味)。 果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされる。 |- |[[酉]] |ユウ(イウ/漢・呉) |とり | lang="zh" |yǒu |jau5 |iú | lang="ko" |유 (yu) | lang="vi" |dậu |「緧」(しゅう:「[[wikt:ちぢむ|ちぢむ]]」の意味)。 果実が成熟の極限に達した状態を表しているとされる。 |- |[[戌]] |ジュツ([[慣用音|慣]]) |いぬ | lang="zh" |xū |seot1 |sut | lang="ko" |술 (sul) | lang="vi" |tuất |「滅」(めつ:「[[wikt:ほろぶ|ほろぶ]]」の意味)。 草木が枯れる状態を表しているとされる。 |- |[[亥]] |ガイ(呉) |い | lang="zh" |hài |hoi6 |hāi | lang="ko" |해 (hae) | lang="vi" |hợi |「閡」(がい:「[[wikt:とざす|とざす]]」の意味)。 草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表しているとされる。 |} ===配当=== {| class="wikitable" style="text-align:center;white-space:nowrap" |- !rowspan=2|[[西暦]]年を12で [[除算|割った]][[剰余|余り]] !rowspan=2|十二支 ![[生肖|十二生肖]] !colspan=2|[[十二時辰]] !colspan=2|[[十二辰]] !rowspan=2|[[方位]] !rowspan=2|[[月 (暦)|月]]<br />([[新暦]]) !rowspan=2|[[五行思想|五行]] !rowspan=2|[[陰陽]] |- ![[動物]] ![[時刻]]!!名称 !colspan=2|天区 |- |0 |申 | [[サル|猿(猴)]] |{{0}}15:00-16:59 |哺時 |実沈 |[[獅子宮]]<br />[[処女宮]] |西南西 |{{0}}[[8月|新暦8月]]上旬-[[9月|新暦9月]]上旬 | style="background-color:#FFF" |金 | style="background-color:#fb9" |陽 |- |1 |酉 |[[ニワトリ|鶏]] |{{0}}17:00-18:59 |日入 |大梁 |[[処女宮]]<br />[[天秤宮]] |西 |{{0}}[[9月|新暦9月]]上旬-[[10月|新暦10月]]上旬 | style="background-color:#FFF" |金 | style="background-color:#9df" |陰 |- |2 |戌 |[[イヌ|犬(狗)]] |{{0}}19:00-20:59 |黄昏 |降婁 |[[天秤宮]]<br />[[天蝎宮]] |西北西 |{{0}}[[10月|新暦10月]]上旬-[[11月|新暦11月]]上旬 | style="background-color:#FFF" |金・土 | style="background-color:#fb9" |陽 |- |3 |亥 |[[ブタ|豚]]([[イノシシ|猪]]) |{{0}}21:00-22:59 |人定 |娵訾 |[[天蝎宮]]<br />[[人馬宮]] |北北西 |{{0}}[[11月|新暦11月]]上旬-[[12月|新暦12月]]上旬 | style="background-color:#CCC" |水 | style="background-color:#9df" |陰 |- |4 |子 |[[ネズミ|鼠]] |{{0}}23:00-0:59 |夜半 |玄枵 |[[人馬宮]]<br />[[磨羯宮]] |北 |{{0}}[[12月|新暦12月]]上旬-[[1月|新暦1月]]上旬 | style="background-color:#CCC" |水 | style="background-color:#fb9" |陽 |- |5 |丑 |[[ウシ|牛]] |{{0}}1:00-2:59 |鶏鳴 |星紀 |[[磨羯宮]]<br />[[宝瓶宮]] |北北東 |{{0}}[[1月|新暦1月]]上旬-[[2月|新暦2月]]上旬 | style="background-color:#CCC" |水・土 | style="background-color:#9df" |陰 |- |6 |寅 |[[トラ|虎]] |{{0}}3:00-4:59 |平旦 |析木 |[[宝瓶宮]]<br />[[双魚宮]] |東北東 |{{0}}[[2月|新暦2月]]上旬-[[3月|新暦3月]]上旬 | style="background-color:#CFD" |木 | style="background-color:#fb9" |陽 |- |7 |卯 | [[ウサギ|兎]] |{{0}}5:00-6:59 |日出 |大火 |[[双魚宮]]<br />[[白羊宮]] |東 |{{0}}[[3月|新暦3月]]上旬-[[4月|新暦4月]]上旬 | style="background-color:#CFD" |木 | style="background-color:#9df" |陰 |- |8 |辰 |[[龍]] |{{0}}7:00-8:59 |食時 |寿星 |[[白羊宮]]<br />[[金牛宮]] |東南東 |{{0}}[[4月|新暦4月]]上旬-[[5月|新暦5月]]上旬 | style="background-color:#CFD" |木・土 | style="background-color:#fb9" |陽 |- |9 |巳 |[[ヘビ|蛇]] |{{0}}9:00-10:59 |隅中 |鶉尾 |[[金牛宮]]<br />[[双児宮]] |南南東 |{{0}}[[5月|新暦5月]]上旬-[[6月|新暦6月]]上旬 | style="background-color:#FDC" |火 | style="background-color:#9df" |陰 |- |10 |午 |[[ウマ|馬]] |{{0}}11:00-12:59 |日中 |鶉火 |[[双児宮]]<br />[[巨蟹宮]] |南 |{{0}}[[6月|新暦6月]]上旬-[[7月|新暦7月]]上旬 | style="background-color:#FDC" |火 | style="background-color:#fb9" |陽 |- |11 |未 |[[ヒツジ|羊]] |{{0}}13:00-14:59 |日昳 |鶉首 |[[巨蟹宮]]<br />[[獅子宮]] |南南西 |{{0}}[[7月|新暦7月]]上旬-[[8月|新暦8月]]上旬 | style="background-color:#FDC" |火・土 | style="background-color:#9df" |陰 |} ====備考==== * 天区は[[十二次]]や[[十二宮]]と領域を同じくするが、逆方向に配されている。 * 生肖は、実物では亥に当てられる動物が中国ではブタ、日本ではイノシシと異なっている。また漢字では申に中国が「猴」、日本が「猿」を当てていて、戌に中国が「狗」、日本が「犬」を当てて異なっているが、意味はほぼ同じである。本来は、「猿」は[[テナガザル]]を、「猴」は[[マカク属]]のサルを表す文字であり、「犬」は「狗」以外のイヌを、「狗」は小型犬や子犬を表す漢字である。 * ベトナムにおいては[[卯]]年にあたる年が兎の年ではなく、[[猫 (十二支)|猫]]の年となる<ref>{{Cite web|和書|title=ベトナムは「ねこ年」 旧正月の準備着々 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3447817 |website=www.afpbb.com |access-date=2023-01-20 |language=ja}}</ref>。 * 時刻の異称は『[[春秋左氏伝]]』[[杜預]]注による<ref>{{Cite wikisource|title=通俗編|wslanguage=zh}}</ref>。 ==概説== [[ファイル:China 24 cardinal directions.png|thumb|二十四方表]] [[ファイル:Mount Hôrai-ji Buddhist Temple - Stone monument with a carving of a mouse.jpg|thumb|240px|子の像(愛知県[[新城市]]・[[鳳来寺山]])]] 十二支は古く[[殷]]の[[亀甲獣骨文字|甲骨文]]では[[十干]]と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。[[戦国時代 (中国)|戦国]]以降、[[日]]だけでなく、[[年]]・[[月]]・[[時刻]]・[[方位]]の記述にも利用されるようになる。 [[戦国時代 (中国)|戦国]]時代の中国[[天文学]]において[[天球]]の分割方法の一つであった[[十二辰]]は、[[天球]]を[[天の赤道]]帯に沿って東から西に12等分したもので、この名称には十二支が当てられた。また、[[木星]]が約[[12]]年で[[天球]]を西から東に1周することから、[[十二次]]という別の[[天球]]分割法における[[木星]]の位置が[[年]]の記述に利用されていたが、[[十二辰]]の方向と順序に対しては逆方向であるため、[[紀元前4世紀]]頃、[[十二辰]]の方向に合わせるべく[[木星]]とは1直径を境に逆回りに天球を巡る[[太歳]]という架空の星を考え、[[太歳]]の[[十二辰]]における位置で年を示す[[紀年法]]が使われるようになった。これが[[後漢]]以後に始まり現在まで使われている[[干支]]による[[紀年法]]の起源である。 12という数が1年の[[月 (暦)|月]]数と同じであることから、月を表すのにも用いられるようになった。これを月建といい、建子(子月)の月は[[冬至]]を含む月となり、[[周暦]]の[[周正]]では1月、[[夏暦]]の[[夏正]]では11月、[[殷暦]]の[[殷正]]では12月に子月が置かれた(周正では冬至を新年とするため、1月に置かれた子月は新旧年どちらも含むことになる)。[[時刻]]([[十二時辰]])や[[方位]]の表示にも用いられるようになった。[[真夜中]]を「子の刻」「子夜」「正子」、[[真昼]]を「午の刻」「正午」、南北を結ぶ線つまり[[経線]]を「[[子午線]]」、東西を結ぶ線を「[[卯酉線]]」(局所的に[[緯線]]と一致するが、厳密には両者は別のもの)などと呼ぶのは、これに由来する。十二支の各文字の原意は不明である。一説に草木の成長における各相を象徴したものとされるがこれは漢代の字音による解釈説である(『[[漢書]]』律暦志)。また各十二支は12の[[動物]]でもある。 元々十二支は順序を表す記号であって動物とは本来は関係なく、後から割り振られたものという立場からはこの動物を十二生肖と呼ぶ。しかし日本では十二支という言葉自体で12の動物を指すことが多い。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説([[後漢]]の[[王充]]『論衡』)や、[[バビロニア]][[天文学]]の[[十二宮]]が後から伝播してきて十二支と結びついたという説がある。もともと動物を表していたという説では、バビロニアの十二宮が十二支そのものの起源だという説のほか、諸説がある。 == 日本における十二支 == === 干支(十干と十二支)=== 十二支は古来、「'''甲子'''」「'''丙午'''」のように、[[十干]]と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「'''[[幹]]'''」、十二支は「'''[[枝]]'''」である。十干十二支を合わせたものを[[干支]](「'''かんし'''」または「'''えと'''」)といい、干支(十干十二支)が一巡し起算点となった年の干支にふたたび戻ることを[[還暦]]という。 「'''えと'''」という呼称は本来、十干を「'''ひのえ'''」「'''ひのと'''」のように、'''兄(え)'''と'''弟(と)'''の組み合わせとして訓読したことに由来するが、今日では、'''「干支」(えと)'''と言えば十二支のことを指すことが多い。この逆転現象は、干支のうち、[[五行思想]]とともに忘れ去られつつある十干に対して、動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っている。 ===現代の十二支=== 今日の日本では、十二支は、人々の生活との関わりが、[[近世]]までと比べて、ずっと希薄になっている。十二支が十干のように忘れ去られずにいるのは、[[年賀状]]の図案にその年の十二支の動物が多用されていることと、人々がその生まれ年の干支によって、「'''○○年(どし)の生まれ'''」のように年齢を表現する習慣があること、からである。 また、十二支に因んで、年齢差などの表現方法として、12年(=[[144]]箇月)をひと回りと呼ぶこともある。 ===古方位=== 東西南北の四方位が卯・酉・午・子に配当されるのに加えて、'''北東'''・'''南東'''・'''南西'''・'''北西'''はそれぞれ「'''うしとら'''」「'''たつみ'''」「'''ひつじさる'''」「'''いぬい'''」と呼ばれ、該当する[[八卦]]から、「'''[[艮]]'''」「'''[[巽]]'''」「'''[[坤]]'''」「'''[[乾]]'''」の字を当てる(→'''[[方位]]''')。 北東を「'''[[鬼門]]'''」、南西を「'''裏鬼門'''」として忌むのは、日本独自の風習だが、([[ウシ]]のような)角をはやし、[[トラ]]の皮のふんどしをしめた「'''[[鬼]](オニ)'''」という[[妖怪]]のイメージは、この「'''うしとら'''」から来ていると思われる。 日本の城郭建築では、曲輪(郭)の四隅に隅櫓を築いて防御の拠点としたが、「'''巽櫓(辰巳櫓)'''」等のように、方角の名称を以て櫓に命名することが行われていた。現存建築としては[[高松城 (讃岐国)|高松城]]艮櫓(香川県高松市)、[[江戸城]]巽櫓(東京都千代田区)、[[明石城]]巽櫓・坤櫓、[[高崎城]]乾櫓等が存在している。 「'''辰巳芸者(巽芸者、たつみげいしゃ)'''」とは、[[深川 (江東区)|深川]]仲町(辰巳の里)の[[芸者]]を指す。この地が[[江戸城]]の南東に位置したことから。日本橋葭町の人気芸者、菊弥が移り住んで店を構えたことに始まる。[[江戸幕府|幕府]]公認の遊里ではないために、巽芸者は男名前を名乗り、男が着る[[羽織]]を身につけたため、羽織芸者、また、単に羽織とも呼ばれたが、[[鉄火]]で伝法、気風(きっぷ)がよくて粋であることで知られた。 船舶航行時に使われた「'''おもかじ'''」「'''とりかじ'''」という言葉は、「'''卯面梶'''」「'''酉梶'''」から来ているとする説もある。 == 十二生肖(動物) == {{main|生肖}} '''十二生肖'''(じゅうにせいしょう)または'''十二属相'''(じゅうにぞくしょう)は十二支に[[ネズミ|鼠]]・[[ウシ|牛]]・[[トラ|虎]]・[[ウサギ|兎]]・[[龍]]・[[ヘビ|蛇]]・[[ウマ|馬]]・[[ヒツジ|羊]]([[ヤギ|山羊]])・[[サル|猿]]・[[ニワトリ|鶏]]・[[犬]]・[[イノシシ|猪]]([[ブタ|豚]])の十二の動物を当てたものである。 「酉」は漢字の読みとしては「とり」だが、意味は「にわとり」である。 ==十二支の相互関係== [[ファイル:Earth branch associate.png|300px|right|thumb|十二支相関図]] 十干の相互関係が干合だけであるのに対し、十二支の相互関係は複雑であり、十二支に中の3つが関係する相互関係、2つが関係する相互関係がある。本来は年、月、日、刻や方位などの間に生ずる十二支の関係について生じるものであり、単に生まれ年の十二支同士による対人関係をさすものではない。 ===三支の相互関係=== 3支の相互関係には、三合会局と三方合の2つがある。 ==== 三合会局 ==== 十二支を円形に配置したとき、正三角形を構成する三支が全て揃うこと。仲春である卯を含む局は木局、仲夏である午を含む局は火局、仲秋の酉を含む局は金局、仲冬の子を含む局は水局と呼ばれる。局の五行は、各季節の中心である、卯、午、酉、子の五行と同じである。会局となる三支のうち2つが揃うことを'''会'''と呼ぶことがある。また三支が揃わなくても、各季節の中心の十二支と会となる十二支の2つが揃うことを'''半会'''と呼ぶ。会局が成立すると三支全ての五行が局の五行に変化するとされる。いずれも安定した吉の関係とされる。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !四季 !局の五行 !十二支 |- |春 |木 |亥卯未 |- |夏 |火 |寅午戌 |- |秋 |金 |巳酉丑 |- |冬 |水 |申子辰 |} ==== 三方合 ==== 東西南北の四方(つまり春夏秋冬の四季でもある)に対応する三支が全て揃うことであり、方合の三支が揃うと、全てが季節の五行に変化する。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !四季 !四方 !十二支 |- |春 |東 |寅卯辰 |- |夏 |南 |巳午未 |- |秋 |西 |申酉戌 |- |冬 |北 |亥子丑 |} ===二支の相互関係=== [[ファイル:Earth branch destroy.png|200px|right|thumb|十二支相克図]] 二支の相互関係には、刑、沖(衝)、破、害、合(支合、六合)がある。刑は中でも特殊で、輪刑、朋刑、互刑、自刑がある。名前の通り傷付けあう関係である。沖(衝)は、真反対の方位に対応する十二支同志の関係で衝突の意味がある。破は軽い衝突の意味があり、俗に四悪十惑と呼ばれる陽支から数えて10番目、陰支から数えて4番目の十二支をいう。害は合と関係していて、合となる十二支の冲が害である。停滞を意味する。合は対応する黄道十二宮で支配星が同じとなる十二支同志の関係である。ただし午と未の合は異なっており、それぞれ支配星は太陽と月である。 ==== 刑 ==== # 輪刑 寅が巳を、巳が申を、申が寅を刑する。持勢之刑ともよばれる。 # 朋刑 丑が戌を、戌が未を、未が丑を刑する。無恩之刑ともよばれる。また同朋刑ともよばれる。 # 互刑 子が卯を、卯が子を刑する。無礼之刑ともよばれる。 # 自刑 辰が辰を、午が午を、酉が酉を、亥が亥を刑する。 [[ファイル:Earth branch harm.png|200px|right|thumb|十二支相性(相刑)図]] ==== 沖(衝)、破、害、合(支合、六合)==== {| class="wikitable" style="text-align:center;" !十二支||沖(衝)||破||害||合 |- |子||午||酉||未||丑 |- |丑||未||辰||午||子 |- |寅||申||亥||巳||亥 |- |卯||酉||午||辰||戌 |- |辰||戌||丑||卯||酉 |- |巳||亥||申||寅||申 |- |午||子||卯||丑||未 |- |未||丑||戌||子||午 |- |申||寅||巳||亥||巳 |- |酉||卯||子||戌||辰 |- |戌||辰||未||酉||卯 |- |亥||巳||寅||申||寅 |} == 十二支をモチーフにした作品 == === 物語 === *[[アルナムの牙 獣族十二神徒伝説]] - 獣族は十二支にちなんだ12の部族から成る。 *[[iS internal section]] - 12種類のショットに十二支の名前が付けられている。 *[[えとたま]] - 十二支が[[萌え擬人化]]された上で「干支神」と呼ばれている。 *[[大神 (ゲーム)|大神]] - 主人公の特株能力である13の筆しらべを司っている(猫も含む)。 *[[グランブルーファンタジー]] - 十二支をモチーフにした、正月限定のキャラクターが登場する。 *[[黒虎]] - 徳川十二支神将という十二支と対応する武士と武家が存在し、その内の寅に対応する黒縞家の次男・虎鉄が主人公。 *[[獣拳戦隊ゲキレンジャー]] - 終盤に登場する敵、幻獣拳の拳士達が十二支をモチーフにしたデザインになっている。 *12支キッズのしかけえほん - [[木村裕一]](作)・[[ふくざわゆみこ]](絵)の絵本。十二支の動物が通う[[幼稚園]]「じゅうにしえん」が舞台。 *[[十二戦支 爆烈エトレンジャー]] - 十二支をモチーフにした主人公たちが大邪神バギからノベルワールドを救うべく立ち上がる。 *[[新ビックリマン]] - 新界王(カーネルダース):聖神ナディアから、次界の周辺に存在する12のエリア「ハートタンク」の統治を任されている12人の王。 *[[デジタルモンスター]] - 「十二神将(デーヴァ)」というデジモン達がそれぞれ十二支にあやかっている。アニメ『[[デジモンテイマーズ]]』では敵キャラクターとして登場。 *[[Twelve〜戦国封神伝〜]] - 主人公達が保有する神器は、十二支の動物の精霊が転じたものである。 *[[どうしても干支にはいりたい]] - 干支のネズミが公園で出会った普通のネコを大好きになってしまい、何とか干支の仲間にしようとほかの干支たちや神様にお願いして回る。 *[[NINKU -忍空-]] - 主人公たち忍空使いの部隊長が干支忍と呼ばれ、十二支にあやかっている。 *[[NARUTO -ナルト-]] - 術を発動させる為に結ぶ印の形がそれぞれ十二支をモチーフとしている。また、火の国の大名を守護する為の精鋭部隊「守護忍十二支」が登場する。 *[[バトルスピリッツ]] - Xレアスピリット「十二神皇」が十二支にちなんでいる。アニメ『[[バトルスピリッツ ダブルドライブ|ダブルドライブ]]』では主要スピリットとして登場。 *[[HUNTER×HUNTER]] - 「[[HUNTER×HUNTERの登場人物#ハンター十二支ん|ハンター十二支ん]]」というハンター協会の12人の最高幹部が登場。それぞれが外見・性格等を宛がわれた十二支の動物に合わせて改造しているが、一部例外もある。 *[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]] - 主要登場人物がそれぞれ十二支の物の怪に取り憑かれているという設定。 *[[Mr.FULLSWING]] - 主要登場人物がそれぞれ十二支にあやかっている。 *[[有言実行三姉妹シュシュトリアン]] - [[1993年]](酉年)が舞台。酉年の平和を守る任務を放棄した「お酉様」の代わりに1年間の平和を守る羽目になった三姉妹が主人公。 *[[烈火の炎]] - 作品中の武闘大会・裏武闘殺陣の審判達の名前が十二支にあやかっており、服装もそれぞれの動物を意識。 *[[恨み来、恋、恨み恋。]] - 登場人物の姓がそれぞれ干支(もしくは、妖怪)にあやかっている。 *[[十二大戦]] - 十二年に一度、十二支の戦士が集い争う「大戦」を開き、勝利した者が願いを叶えられるという物語。 *[[遊☆戯☆王オフィシャルカードゲーム]] - 「十二獣」というカード群が存在する。 *[[TRIBAL 12]] - 主人公達はそれぞれ十二支の動物に由来する能力を持っている。 *[[ヘボット!]] - 十二支をモチーフとした「エトボキャボット」と呼ばれるキャラクターが登場する。 *[[えとせとら]] - 登場する武器「干支銃」は十二支の動物の成分を込めて12種の弾を撃つ。 === 歌 === * 『ね・うし・とら・う』 * 『十二支の歌』フジテレビ系『ひらけ!ポンキッキ』歌:くらっぷ * 『[[エトはメリーゴーランド]]』NHK『みんなのうた』歌:田中星児、東京放送児童合唱団 * 『Zodiac Shit』[[フライング・ロータス]]<ref>{{Citation|和書|title=Flying Lotus - Zodiac Shit|year=2014|last=|first=|date=2014-06-25|url=https://www.youtube.com/watch?v=0ScYz9sNaQk|publisher=|isbn=|accessdate=2018-05-21}}</ref> * 『なかよし じゅうに エトセトラ』テレビせとうち『はっけん たいけん だいすき! しまじろう』歌:勝誠二、ひまわりキッズ * 『十二支のタンゴ』NHK『コレナンデ商会』 === 美術 === * [[円明園十二生肖獣首銅像]] - [[円明園]]に飾られていた12の獣首像。[[アロー戦争]]で散逸した。 *[[中国自動車道]] - [[山口県]]内の区間に干支のイラストによる[[キロポスト]]がある。 *[[東京駅]]と[[武雄温泉]] - 東京駅の南北の八角形大広間のドーム天井には、十二支の「八支」をモチーフに装飾したが、武雄温泉の楼門には他の4つの干支がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2014年6月|section=1}} *江川清・青木隆・平田嘉男編『記号の事典(セレクト版) 第3版』三省堂、1996年9月。{{ISBN2|4-385-13258-5}}。 ==関連項目== {{wiktionary|十二支}} {{commonscat|Chinese Zodiac}} *[[干支]] *[[十干]] *[[四神相応]] *[[和暦]] *[[和時計]] === 陰陽五行説 === *[[陰陽]] *[[陰陽五行]] *[[八卦]] *[[十二天将]] === その他 === *[[十二支考]] - 十二支の動物についての随想 *[[十二神将]] - 仏教に取り入れられた十二支 *[[守護本尊]] - 十二支と対応している守護仏 *[[干支 (北方町)]] - [[北方町 (宮崎県)]] は旧町時代に全町の[[住所表記]]が十二支を使っていた。[[延岡市]]と合併した後も[[地番]]名として使い続けている(延岡市北方町曽木子、川水流卯など)。 {{Chronology}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆうにし}} [[Category:名数12|し]] [[Category:中国の名数12|し]] [[Category:天文学史]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:中国天文学]] [[Category:月]] [[Category:太陽]] [[Category:暦法]] [[Category:太陰暦]] [[Category:太陰太陽暦]] [[Category:太陽暦]] [[Category:農事暦]] [[Category:紀年法]] [[Category:中国の紀年法]] [[Category:干支|*2]] [[Category:節気]] [[Category:周期現象]] [[Category:動物に関する文化]] [[Category:思想]] [[Category:縁起物]] [[Category:占星術]] [[Category:占い]] [[Category:術数学]] [[Category:陰陽道]] [[Category:暦注]]
2003-04-19T20:08:40Z
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八卦
八卦(はっけ、はっか)は、古代中国から伝わる易における8つの基本図像。すなわち、 の八つ。 卦は爻と呼ばれる記号を3つ組み合わた三爻によりできたものである。爻には⚊陽(剛)と⚋陰(柔)の2種類があり、組み合わせにより八卦ができる。なお八爻の順位は下から上で、下爻・中爻・上爻の順である。また八卦を2つずつ組み合わせることにより六十四卦が作られる。 八卦は伏羲が天地自然に象って作ったという伝説があり、卦の形はさまざまな事物事象を表しているとされる。 下表のように方位などに当てて運勢や方位の吉凶を占うことが多い。 なお朱子学系統の易学における八卦の順序には「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を「伏羲八卦次序(先天八卦)」、後者を「文王八卦次序(後天八卦)」という。 伏羲八卦次序(先天八卦)は繋辞上伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の宇宙の万物生成過程に基づいており、陰陽未分の太極から陰陽両儀が生まれ、陰と陽それぞれから新しい陰陽が生じることによって四象となり、四象それぞれからまた新しい陰陽が生じることによって八卦となることを、☰・☱・☲・☳・☴・☵・☶・☷の順で表している。下記の図はその様子を描いたものであり、陽爻は白で、陰爻は黒で表されている。次序の通りに「乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八」と呼ばれる事が多い。 一方、文王八卦次序(後天八卦)は卦の象徴の意味にもとづいており、父母(乾☰ 坤☷)が陰陽二気を交合して長男長女(震☳ 巽☴)・中男中女(坎☵ 離☲)・少男少女(艮☶ 兌☱)を生むという順を表す。ここで子は下爻が長子、中爻が次子、上爻が末子を表し、陽爻が男、陰爻が女を象徴している。この順番の通りに「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」と呼ばれるが、実際に使われる値の「一坎, 二坤, 三震, 四巽, (五合太極,) 六乾, 七兌, 八艮, 九離」も併せて呼ばれる。 占筮では筮竹を算数的に操作していった結果、「卦」と呼ばれる6本の棒(爻)からできた記号を選ぶ。易経では全部で六十四卦が設けられているが、これは三爻ずつの記号が上下に重ねられてできていると考えられた。この三爻で構成される記号が全部で8種類あり、これを「八卦」と称している。いわばおみくじを選ぶための道具であるが、易伝ではこの八卦がさまざまなものを象っていると考え、特に説卦伝において八卦がそれぞれ何の象形であるかを一々列挙している。漢代の易学(漢易)ではさらに五行思想と結合して解釈されるようになり、五行を属性としてもつ五時・五方・五常...といったものが八卦に配当され、さらには六十干支を卦と結びつけて占う納甲が行われたりもした。また1年12ヶ月を卦と結びつけた十二消息卦など天文・楽律・暦学におよぶ卦気説と呼ばれる理論体系も構築された。卦在(日影)圭(立竿)卜 伝説によれば、『易経』は、まず伏羲が八卦をつくり、周の文王がこれに卦辞を作ったという。この伝承にもとづき南宋の朱熹は、繋辞上伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の生成論による「乾兌離震巽坎艮坤」の順序を伏羲が天地自然に象って卦を作ったことに見立てて伏羲先天八卦とし、説卦伝にある「父母-長男長女-中男中女-少男少女」の生成論にもとづく「乾坤震巽坎離艮兌」の順序を文王が人々に倫理道徳を示すために卦辞を作ったことに見立てて文王後天八卦とした。これにもとづいて配置された図を先天図・後天図という。後天図はもともと説卦伝で配当されていた方位であるため従来からのものであるが、先天図系の諸図は実際は11世紀の北宋の邵雍の著作『皇極経世書』が初出であり、邵雍の創作と推測されている。 朱熹は八卦の手本となったという伝説上の河図洛書を陰陽を表す黒白点による十数図・九数図と規定するとともに、周敦頤の太極図、邵雍の先天諸図を取り入れ、図書先天の学にもとづく体系的な世界観を構築した。 清代になると実証主義を重んじる考証学が興起し、神秘的な図や数にもとづいた宋易は否定され、漢代易学の復元が試みられた。黄宗羲は『易学象数論』において宋易の先天諸図が繋辞上伝の「太極-両儀-四象-八卦」を1爻ずつを2進法的に積み重ねたものと解釈して「太極(1)→両儀(2)→四象(4)→八卦(8)→16→32→六十四卦(64)」とし、陰陽2爻を2画組み合わせたものを四象とするなど経文に基づかない無意味なものを描いていることを批判した。黄宗羲は「四象」は三画八卦を、「八卦」は六十四卦を表していると解釈し、これにより六十四卦は三画の八卦の組み合わせであって爻の積み重ねではないとし、宋易の図説が根拠のない創作であることを主張した。これをうけて胡渭は『易図明辨』において宋易が重んじた図像は道教に由来することを著し、図書先天の学を厳しく攻撃した。 易を先天易と後天易に分ける考え方以外に、風水において連山易・帰蔵易・周易の三易に分ける考え方もある(連山易・帰蔵易は先天易系)。 連山は神農の別名とされ、連山易は神農もしくは夏王朝の易とされることが多く、また帰蔵は黄帝の別名とされ、帰蔵易は黄帝もしくは殷の易とされることが多い。周易については、後天易が充てられる。 連山は天・帰蔵は地・周易は人の三才に当てられることもある。その方位図は風水の道具、羅盤などに使用されている。帰蔵については『歸藏』とよばれている竹簡文書が王家台秦墓から発見されている。爻辞は易経のものと異なっているが、この『歸藏』が帰蔵易のテキストかどうかははっきりしていない。 三易の違いは八卦および六十四卦の配列方法であり、連山は震を、帰蔵は坤を首卦とする。 2019年以降、敦煌『輔行訣蔵府用薬法要』加える考え方もある。香港で広まりつつある。連山は震を、帰蔵は坤を首卦。 雒粤の「雒」は水田を意味し。 「河図」、銀河之図。連山氏在随州。 「雒書」、雒粤之書。帰蔵氏在秭帰。 京劇の太上老君すなわち老子や、諸葛亮は「八卦衣」という独特のデザインの衣装を着る。これは八卦と太極図を刺繍した豪華な衣装で、天文地理の奥義に通じていることを示す。道教でも、一部の道士が八卦衣を着用することがある。 『西遊記』の初めのほうで、太上老君の金丹を盗み食いした孫悟空は、太上老君によって「八卦炉」の中に放り込まれる。 相撲の行司の「はっけよい」という掛け声の語源は「八卦良い」であるという説もある。 Yijing trigram symbols
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八卦(はっけ、はっか)は、古代中国から伝わる易における8つの基本図像。すなわち、 ☰(乾) ☱(兌) ☲(離) ☳(震) ☴(巽) ☵(坎) ☶(艮) ☷(坤) の八つ。 卦は爻と呼ばれる記号を3つ組み合わた三爻によりできたものである。爻には⚊陽(剛)と⚋陰(柔)の2種類があり、組み合わせにより八卦ができる。なお八爻の順位は下から上で、下爻・中爻・上爻の順である。また八卦を2つずつ組み合わせることにより六十四卦が作られる。
{{八卦}} '''八卦'''(はっけ、はっか)は、古代[[中国]]から伝わる[[易]]における8つの基本図像。すなわち、 *{{resize|175%|'''☰'''}}('''乾''') *{{resize|175%|'''☱'''}}('''兌''') *{{resize|175%|'''☲'''}}('''離''') *{{resize|175%|'''☳'''}}('''震''') *{{resize|175%|'''☴'''}}('''巽''') *{{resize|175%|'''☵'''}}('''坎''') *{{resize|175%|'''☶'''}}('''艮''') *{{resize|175%|'''☷'''}}('''坤''') の八つ。 '''卦'''は[[爻]]と呼ばれる記号を3つ組み合わた三爻によりできたものである。爻には{{large|'''⚊'''}}陽(剛)と{{large|'''⚋'''}}陰(柔)の2種類があり、組み合わせにより八卦ができる。なお八爻の順位は下から上で、下爻・中爻・上爻の順である。また八卦を2つずつ組み合わせることにより[[六十四卦]]が作られる。 == 卦象 == [[ファイル:Acht-trigramme.svg|thumb|後天図。上が坎(北)になった物]] 八卦は[[伏羲]]が天地自然に象って作ったという伝説があり、卦の形はさまざまな事物事象を表しているとされる。 下表のように[[方位]]などに当てて[[運勢]]や方位の[[吉凶]]を占うことが多い。 {| class="wikitable sortable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" style="text-align:center;" |- style="background-color:#CCCCCC" !八卦!![[二進法]]!!卦名!![[音読み]]!![[訓読み]]!!自然!!性情!!家族!!身体!!動物!!先天八卦方位!!後天八卦方位!!五行 と 五星!!伏羲八卦次序!!文王八卦次序 |- |{{resize|175%|'''☰'''|valign=normal}}||111||[[乾]]||ケン||いぬい||天||健||父||首||馬||[[南]]||[[北西]]||金|海王星||1||1 |- |{{resize|175%|'''☱'''|valign=normal}}||110||[[兌]]||ダ||-||沢||悦||少女||口||羊||[[南東]]||[[西]]||金|金星||2||8 |- |{{resize|175%|'''☲'''|valign=normal}}||101||[[離]]||リ||-||火||麗||中女||目||雉||[[東]]||[[南]]||火|火星||3||6 |- |{{resize|175%|'''☳'''|valign=normal}}||100||[[震]]||シン||-||雷||動||長男||足||龍||[[北東]]||[[東]]||木|木星||4||3 |- |{{resize|175%|'''☴'''|valign=normal}}||011||[[巽]]||ソン||たつみ||風||入||長女||股||鶏||[[南西]]||[[南東]]||木|冥王星||5||4 |- |{{resize|175%|'''☵'''|valign=normal}}||010||[[坎]]||カン||-||水||陥||中男||耳||豚||[[西]]||[[北]]||水|水星||6||5 |- |{{resize|175%|'''☶'''|valign=normal}}||001||[[艮]]||ゴン||うしとら||山||止||少男||手||犬||[[北西]]||[[北東]]||土|天王星||7||7 |- |{{resize|175%|'''☷'''|valign=normal}}||000||[[坤]]||コン||ひつじさる||地||順||母||腹||牛||[[北]]||[[南西]]||土|土星||8||2 |} <gallery perrow=4 style="margin: auto"> File:bagua-name-earlier.svg|先天図。配列自体に呪力があるとされ、呪符などで使われる配列 File:bagua-name-later.svg|後天図。占いなどで使われる配列 File:Magic Square Lo Shu.svg|九数図。占いなどで後天図と組み合わせて使われる File:Family Ba Gua.gif|八卦と家族 </gallery> == 次序 == なお[[朱子学]]系統の易学における八卦の順序には「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を「[[先天図|伏羲八卦次序(先天八卦)]]」、後者を「文王八卦次序(後天八卦)」という。 伏羲八卦次序(先天八卦)は繋辞上伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の宇宙の万物生成過程に基づいており、[[陰陽]]未分の[[太極]]から陰陽両儀が生まれ、陰と陽それぞれから新しい陰陽が生じることによって[[四象 (易)|四象]]となり、四象それぞれからまた新しい陰陽が生じることによって八卦となることを、{{resize|125%|'''☰'''}}・{{resize|125%|'''☱'''}}・{{resize|125%|'''☲'''}}・{{resize|125%|'''☳'''}}・{{resize|125%|'''☴'''}}・{{resize|125%|'''☵'''}}・{{resize|125%|'''☶'''}}・{{resize|125%|'''☷'''}}の順で表している。下記の図はその様子を描いたものであり、陽爻は白で、陰爻は黒で表されている。次序の通りに「乾一、兌二、離三、震四、巽五、坎六、艮七、坤八」と呼ばれる事が多い。 {| class=wikitable style="text-align:center;color:#000000;background-color:#ffffff;" |+ 朱熹『周易本義』<br />伏羲八卦次序図より |- | |1||2||3||4||5||6||7||8 |- |八卦 |乾 |style="color:#ffffff;background-color:#000000;"|兌 |離 |style="color:#ffffff;background-color:#000000;"|震 |巽 |style="color:#ffffff;background-color:#000000;"|坎 |艮 |style="color:#ffffff;background-color:#000000;"|坤 |- |四象 |colspan=2|太陽 |colspan=2 style="color:#ffffff;background-color:#000000;"|少陰 |colspan=2|少陽 |colspan=2 style="color:#ffffff;background-color:#000000;"|太陰 |- |両儀 |colspan=4|陽 |colspan=4 style="color:#ffffff;background-color:#000000;"|陰 |- | |colspan=8|太極 |} 一方、文王八卦次序(後天八卦)は卦の象徴の意味にもとづいており、父母(乾{{resize|125%|'''☰'''}} 坤{{resize|125%|'''☷'''}})が陰陽二気を交合して長男長女(震{{resize|125%|'''☳'''}} 巽{{resize|125%|'''☴'''}})・中男中女(坎{{resize|125%|'''☵'''}} 離{{resize|125%|'''☲'''}})・少男少女(艮{{resize|125%|'''☶'''}} 兌{{resize|125%|'''☱'''}})を生むという順を表す。ここで子は下爻が長子、中爻が次子、上爻が末子を表し、陽爻が男、陰爻が女を象徴している。この順番の通りに「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」と呼ばれるが、実際に使われる値の「一坎, 二坤, 三震, 四巽, (五合太極,) 六乾, 七兌, 八艮, 九離」も併せて呼ばれる。 {{-}} == 八卦の歴史 == [[ファイル:Pakua with name.svg|150px|thumb|right|八卦爻と[[太極]]]] 占筮では[[筮竹]]を算数的に操作していった結果、「卦」と呼ばれる6本の棒([[爻]])からできた記号を選ぶ。易経では全部で[[六十四卦]]が設けられているが、これは三爻ずつの記号が上下に重ねられてできていると考えられた。この三爻で構成される記号が全部で8種類あり、これを「八卦」と称している。いわば[[おみくじ]]を選ぶための道具であるが、易伝ではこの八卦がさまざまなものを象っていると考え、特に説卦伝において八卦がそれぞれ何の象形であるかを一々列挙している。漢代の易学(漢易)ではさらに[[五行思想]]と結合して解釈されるようになり、五行を属性としてもつ五時・五方・五常…といったものが八卦に配当され、さらには[[六十干支]]を卦と結びつけて占う[[納甲]]が行われたりもした。また1年12ヶ月を卦と結びつけた[[十二消息卦]]など[[天文]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}・[[十二律|楽律]]・[[暦|暦学]]におよぶ[[卦気]]説と呼ばれる理論体系も構築された。卦在(日影)圭(立竿)卜 伝説によれば、『[[易経]]』は、まず[[伏羲]]が八卦をつくり、[[周]]の[[文王 (周)|文王]]がこれに卦辞を作ったという。この伝承にもとづき[[南宋]]の[[朱熹]]は、繋辞上伝にある「太極-両儀-四象-八卦」の生成論による「乾兌離震巽坎艮坤」の順序を伏羲が天地自然に象って卦を作ったことに見立てて'''伏羲先天八卦'''とし、説卦伝にある「父母-長男長女-中男中女-少男少女」の生成論にもとづく「乾坤震巽坎離艮兌」の順序を文王が人々に倫理道徳を示すために卦辞を作ったことに見立てて'''文王後天八卦'''とした。これにもとづいて配置された図を'''[[先天図]]・後天図'''という。後天図はもともと説卦伝で配当されていた方位であるため従来からのものであるが、先天図系の諸図は実際は11世紀の[[北宋]]の[[邵雍]]の著作『[[皇極経世書]]』が初出であり、邵雍の創作と推測されている。 {| |- |style="padding:0 15px;"| {| class=wikitable style="text-align:center;background-color:#ffffff;" |+ 先天図<br>([[伏羲]]先天八卦) |- |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☱'''|175%|0%}}<br />兌 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☰'''|175%|0%}}<br />乾 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☴'''|175%|0%}}<br />巽 |- |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☲'''|175%|0%}}<br />離 |style="padding:5px 15px"|宋 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☵'''|175%|0%}}<br />坎 |- |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☳'''|175%|0%}}<br />震 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☷'''|175%|0%}}<br />坤 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☶'''|175%|0%}}<br />艮 |} |style="padding:0 15px;"| {| class=wikitable style="text-align:center;background-color:#ffffff;" |+ 後天図<br>([[文王 (周)|文王]]後天八卦) |- |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☴'''|175%|0%}}<br />巽 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☲'''|175%|0%}}<br />離 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☷'''|175%|0%}}<br />坤 |- |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☳'''|175%|0%}}<br />震 |style="padding:5px 15px"|周 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☱'''|175%|0%}}<br />兌 |- |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☶'''|175%|0%}}<br />艮 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☵'''|175%|0%}}<br />坎 |style="padding:5px 15px"|{{huge|'''☰'''|175%|0%}}<br />乾 |} |} 朱熹は八卦の手本となったという伝説上の[[河図洛書]]を[[陰陽]]を表す黒白点による十数図・九数図と規定するとともに、[[周敦頤]]の[[太極図]]、邵雍の先天諸図を取り入れ、[[図書先天の学]]にもとづく体系的な世界観を構築した。 清代になると実証主義を重んじる[[考証学]]が興起し、神秘的な図や数にもとづいた宋易は否定され、漢代易学の復元が試みられた。[[黄宗羲]]は『[[易学象数論]]』において宋易の先天諸図が繋辞上伝の「太極-両儀-四象-八卦」を1爻ずつを2進法的に積み重ねたものと解釈して「太極(1)→両儀(2)→四象(4)→八卦(8)→16→32→六十四卦(64)」とし、陰陽2爻を2画組み合わせたものを四象とするなど経文に基づかない無意味なものを描いていることを批判した。黄宗羲は「四象」は三画八卦を、「八卦」は六十四卦を表していると解釈し、これにより六十四卦は三画の八卦の組み合わせであって爻の積み重ねではないとし、宋易の図説が根拠のない創作であることを主張した。これをうけて[[胡渭]]は『[[易図明辨]]』において宋易が重んじた図像は[[道教]]に由来することを著し、図書先天の学を厳しく攻撃した。 == 風水 == === 三易 === [[ファイル:Bagua-2005.JPG|thumb|[[風水]]の八卦鏡に使用された先天八卦図 (昔の中国では、南を上にしたためこの地図は南が上になっている)]] 易を先天易と後天易に分ける考え方以外に、風水において'''連山易・帰蔵易・周易'''の[[三易]]に分ける考え方もある(連山易・帰蔵易は先天易系)。 連山は神農の別名とされ、連山易は神農もしくは[[夏 (三代)|夏]]王朝の易とされることが多く、また帰蔵は黄帝の別名とされ、帰蔵易は黄帝もしくは[[殷]]の易とされることが多い。周易については、後天易が充てられる。 連山は天・帰蔵は地・周易は人の[[三才]]に当てられることもある。その方位図は風水の道具、[[風水羅盤|羅盤]]などに使用されている。帰蔵については『歸藏』とよばれている[[竹簡]]文書が王家台秦墓から発見されている。爻辞は易経のものと異なっているが、この『歸藏』が帰蔵易のテキストかどうかははっきりしていない。 三易の違いは八卦および[[六十四卦]]の配列方法であり、連山は[[震]]を、帰蔵は[[坤]]を首卦とする。 === 雒粤中天八卦 === 2019年以降、敦煌『輔行訣蔵府用薬法要』加える考え方もある。[[香港]]で広まりつつある。連山は[[震]]を、帰蔵は[[坤]]を首卦。 [[百越|雒粤]]の「雒」は水田を意味し。 「河図」、銀河之図。連山氏在[[随州]]。 「雒書」、雒粤之書。帰蔵氏在[[秭帰]]。 {| | style="padding:0 15px;" | {| class="wikitable" style="text-align:center;background-color:#ffffff;" |+中天図例1(龍図:春金、夏木、秋水、冬火) | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☲'''|175%|0%}}離 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☳'''|175%|0%}}震 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☰'''|175%|0%}}乾 |- | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☶'''|175%|0%}}艮 | style="padding:5px 15px" |連山氏龍図 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☱'''|175%|0%}}兌 |- | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☷'''|175%|0%}}坤 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☴'''|175%|0%}}巽 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☵'''|175%|0%}}坎 |} | style="padding:0 15px;" | {| class="wikitable" style="text-align:center;background-color:#ffffff;" |+中天図例2(亀書:春小陰火、夏大陰金、秋小陽木、冬大陽水) | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☶'''|175%|0%}}艮 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☷'''|175%|0%}}坤 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☳'''|175%|0%}}震 |- | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☵'''|175%|0%}}坎 | style="padding:5px 15px" |帰蔵氏亀書 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☲'''|175%|0%}}離 |- | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☴'''|175%|0%}}巽 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☰'''|175%|0%}}乾 | style="padding:5px 15px" |{{huge|'''☱'''|175%|0%}}兌 |} |} {| |- | style="padding:0 15px;" | |} == フィクションなど == === 八卦衣 === [[File:Costume of ZHUGE LIANG Peking Opera backstage 2022-08-08.jpg|thumb|[[京劇]]で[[諸葛亮]]が着る八卦衣。]] [[京劇]]の[[太上老君]]すなわち老子や、[[諸葛亮]]は「八卦衣」という独特のデザインの衣装を着る。これは八卦と太極図を刺繍した豪華な衣装で、天文地理の奥義に通じていることを示す<ref>加藤徹『京劇 政治の国の俳優群像』中央公論新社</ref>。[[道教]]でも、一部の[[道士]]が八卦衣を着用することがある。 === 八卦炉 === 『[[西遊記]]』の初めのほうで、太上老君の金丹を盗み食いした孫悟空は、太上老君によって「八卦炉」の中に放り込まれる。 === 相撲 === 相撲の[[行司]]の「はっけよい」という掛け声の語源は「八卦良い」であるという説もある<ref>主な国語辞典では『大言海』『新明解国語辞典』がこの説を採る。『広辞苑』『大辞泉』は『「八卦良い」の意か』にどどまる。なお、日本相撲協会は「発気揚々」説を採っており、『大辞林』『明鏡国語辞典』は両説併記。</ref>。 == 符号位置 == Yijing trigram symbols {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|9776|2630||TRIGRAM FOR HEAVEN}} {{CharCode|9777|2631||TRIGRAM FOR LAKE}} {{CharCode|9778|2632||TRIGRAM FOR FIRE}} {{CharCode|9779|2633||TRIGRAM FOR THUNDER}} {{CharCode|9780|2634||TRIGRAM FOR WIND}} {{CharCode|9781|2635||TRIGRAM FOR WATER}} {{CharCode|9782|2636||TRIGRAM FOR MOUNTAIN}} {{CharCode|9783|2637||TRIGRAM FOR EARTH}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == {{commons category|Ba Gua}} * [[六十四卦]] * [[相撲]] * [[八卦掌]] * [[八卦鏡]] * [[ダーマ・イニシアティブ]] * [[ジオマンシー]] * [[算木]] * [[引両紋]] * [[大韓民国の国旗]](太極旗) - 太極図の周囲に乾・坤・坎・離の四卦が配置されている。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はつけ}} [[Category:易]] [[Category:シンボル]] [[Category:名数8|け]] [[Category:秘教のコスモロジー]]
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九字
九字(くじ)は、道家により呪力を持つとされた9つの漢字。 西晋と東晋の葛洪が著した『抱朴子』内篇巻17「登渉篇」に、抱朴子が「入山宜知六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と入山時に唱えるべき「六甲秘祝」として、「臨兵鬥者皆陣列前行」があると言った、と記されており、以後古代中国の道家によって行われた。これが日本に伝えられ、修験道、陰陽道等で主に護身のための呪文として行われた。詳しくは種類を参照のこと。この文句を唱えながら、手で印を結ぶか指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきた。ただし『抱朴子』の中では、手印や四縦五横に切るといった所作は見られないため、所作自体は後世の付加物であるとされる(九字護身法)。また、十字といって、九字の後に一文字の漢字を加えて効果を一点に特化させるのもある。一文字の漢字は特化させたい効果によって異なる。 ※発表順
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九字(くじ)は、道家により呪力を持つとされた9つの漢字。 西晋と東晋の葛洪が著した『抱朴子』内篇巻17「登渉篇」に、抱朴子が「入山宜知六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也」と入山時に唱えるべき「六甲秘祝」として、「臨兵鬥者皆陣列前行」があると言った、と記されており、以後古代中国の道家によって行われた。これが日本に伝えられ、修験道、陰陽道等で主に護身のための呪文として行われた。詳しくは種類を参照のこと。この文句を唱えながら、手で印を結ぶか指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきた。ただし『抱朴子』の中では、手印や四縦五横に切るといった所作は見られないため、所作自体は後世の付加物であるとされる(九字護身法)。また、十字といって、九字の後に一文字の漢字を加えて効果を一点に特化させるのもある。一文字の漢字は特化させたい効果によって異なる。
'''九字'''(くじ)は、[[道教|道家]]により呪力を持つとされた9つの[[漢字]]。 [[西晋]]と[[東晋]]の[[葛洪]]が著した『[[抱朴子]]』内篇巻17「登渉篇」<ref>{{Cite wikisource|title=抱朴子/卷17|author=葛洪|wslanguage=zh}}</ref>に、抱朴子が「{{Lang|zh-tw|入山宜知六甲秘祝 祝曰 臨兵鬥者 皆陣列前行 凡九字 常當密祝之 無所不辟 要道不煩 此之謂也}}」と入山時に唱えるべき「六甲秘祝」として、「{{Lang|zh-tw|臨兵鬥者皆陣列前行}}」があると言った、と記されており、以後古代[[中国]]の[[道教|道家]]によって行われた。これが日本に伝えられ、[[修験道]]、[[陰陽道]]等で主に護身のための[[呪文]]として行われた。詳しくは[[#種類|種類]]を参照のこと。この文句を唱えながら、手で印を結ぶか指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきた。ただし『抱朴子』の中では、手印や四縦五横に切るといった所作は見られないため、所作自体は後世の付加物であるとされる([[九字護身法]])。また、十字といって、九字の後に一文字の漢字を加えて効果を一点に特化させるのもある。一文字の漢字は特化させたい効果によって異なる。 ==種類== ;臨兵闘者 皆陣列前行 :読みはりん・ぴょう(びょう)・とう・しゃ(じゃ)・かい・じん・れつ・ぜん・ぎょう。意味は「臨む兵よ、闘う者よ、皆 陣列べて(ねて)前を行け」。九字の元祖で、人によっては最も強力な九字とされる。 ;臨兵闘者 皆陣列在前 :読みはりん・ぴょう(びょう)・とう・しゃ(じゃ)・かい・じん・れつ・ざい・ぜん。意味は「臨む兵よ、闘う者よ、皆 陣列べて(ねて)前に在れ」。 ;臨兵闘者 皆陣烈(裂)在前 :読みはりん・ぴょう(びょう)・とう・しゃ(じゃ)・かい・じん・れつ・ざい・ぜん。意味は「臨む兵よ、闘う者よ、皆 陣烈(裂)れて(きて)前に在れ」。 ;臨兵闘者 皆陳列在前 :読みはりん・ぴょう(びょう)・とう・しゃ(じゃ)・かい・ちん(じん)・れつ・ざい・ぜん。意味は「臨む兵よ、闘う者よ、皆 陳列べて(ねて)前に在れ」。 ;天元行躰神変神通力 :読みはてん・げん・ぎょう・たい・しん・ぺん・じん・つう・りき。 ;朱雀・玄武・白虎・勾陣(陳)・帝久(帝公、帝正、帝台、帝后、帝禹)・文王・三台・玉女・青龍 :読みはすざく・げんぶ・びゃっこ・こうちん・ていきゅう・ぶんおう・さんたい・ぎょくにょ・せいりゅう。初出は鎌倉時代の反閇について書かれた文献。この文献では帝の後の一文字が読めないため、あらゆる仮説が出されている。[[土御門家#土御門家(安倍氏)|土御門家]]が用いる。 ;青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女 :陰陽道が九字を取り入れた際に字を四神、神人、星神の名に置き換えたもの。 ;青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳(空陳、空珍)・南斗(南儒)・北斗・三台(三態)・玉女(玉如) :読みはせいりゅう・びゃっこ・すざく・げんぶ・くうちん・なんじゅ・ほくと・さんたい(さんだい)・ぎょくにょ。中国で用いられ、日本にも伝えられた。 ;令百由旬内 無諸衰患 :読みはりょう・ひゃく・ゆ・じゅん・ない・む・しょ・すい・げん。読み下しは、「百由旬の内に諸の衰患無からしむ」。由旬は古代インドでの単位で、一由旬で牛車の一日分の行程を表わす。初出は法華経陀羅尼品第二十六。病魔等を払う九字として紹介される。 ;阿耨多羅 三藐三菩提 :読みはあ・のく・た・ら・さん・みゃく・さん・ぼ・だい。大乗仏教が[[悟り]]を定める文、Anuttara samyaksaMbodhiに当てた字群。三を二回使っているため、これを九字とするのには異議が唱えられている。 == 九字を取りあげた作品 == <small>※発表順</small> ; 映画 * [[魔界転生#映画|魔界転生]] (1981年) - [[クライマックス (物語)|クライマックス]]で[[千葉真一]]演ずる[[柳生三厳|柳生十兵衛三厳]]が無刀取りをしているときに唱える * [[梟の城#梟の城 owl's castle|梟の城 owl's castle]] (1999年) - [[伊賀流|伊賀忍者]]の拠り所として登場 * [[新・影の軍団|新・影の軍団シリーズ]] (2003年・2005年) - 伊賀忍者の拠り所として登場 ; TVドラマ * [[スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇]] (1986 - 1987年) - 帯庵和尚(真言宗の住職)および般若(=依田 一也)が唱える * [[ゴーストハンター早紀]](1996年) - 早紀が除霊をする際に唱える。 * [[妖怪シェアハウス]](2020年) - 主題歌「[[DAITAN!|DAITAN!]]」([[miwa]])の冒頭の歌詞に、九字が含まれる ; 漫画 * [[陰陽師 (漫画)|陰陽師]] - 主人公である安部清明が怨霊を浄霊する時に唱える。 * [[東京BABYLON]] - 主人公が除霊をする時に唱える * [[孔雀王]](1985年 - 1989年) - 主人公が除霊をする時に唱える * [[銀魂]] - 第287話の結野晴明と巳厘野道満の戦いにて、九字をきるときに使用されている ; ゲーム * [[東脳]] (1994年) - 9人の操作キャラクターの名前に使用されている。 * [[天誅 (ゲーム)|天誅]] (1998年 - 2010年) - このゲームの世界観を表現する上でのコンセプトの一つとして、シリーズを通して表記または要素として使用されている *[[魔装機神シリーズ]] - 火の魔装機神、グランヴェールを駆るホワン・ヤンロンが火風青雲剣を発動するときに唱える *[[CHUNITHM|CHUNITHM AIR]] - オリジナル楽曲「BOKUTO」のサビで使用されている *[[CHUNITHM|CHUNITHM SUN]] - オリジナル楽曲「任せてJC陰陽師☆八雲ちゃん」の曲中で使用されている *[[ナムコ クロス カプコン]] - 有栖零児のコマンドスキル「九字を切る」 *[[東方Project]] - 東風谷早苗のスペルカード 秘法「九字刺し」にて名称が使用されている ; アニメ * [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]] - [[火野レイ]](セーラーマーズ)の敵の攻撃時に唱える * [[忍たま乱太郎]] - 精神統一し幻術を防ぐための呪文として登場するが、間違えて「かんぴょう豆腐いかオムレツぜんざい」と唱えてしまう * [[少年陰陽師#テレビアニメ|少年陰陽師]] * [[NARUTO -ナルト- (アニメ)|NARUTO -ナルト-]] - 主に行っているのは原作者 [[岸本斉史]]考案によるオリジナルの印であるが、元のアイデアは[[九字護身法]]からである。 * [[東京レイヴンズ]] ;小説 * [[妖界ナビ・ルナ]] * 池月映『合気の武田惣角』(歴史春秋社/2015) 易者中川万之丞が九字を用い、[[大東流合気柔術]]の創始者[[武田惣角]]に教えた実話がある。 ; 舞台 * [[ニンジャバットマン]] ザ・ショー (2021年) - [[バットマン]]が飛影蝙蝠侠センゴクバットマンになる際に必要な日本刀にコウモリ衆の魂を込めるシーンで、[[プロジェクションマッピング]]として1字ずつセットに映し出される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:くし}} [[Category:道教]] [[Category:修験道]] [[Category:中国の名数9|し]] [[Category:シンボル]] [[sh:Mandra]]
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コンコルド
コンコルド ブリティッシュ・エアウェイズのコンコルド コンコルド(フランス語: Concorde)は、イギリスのBACやフランスのシュド・アビアシオンなどが共同で開発した超音速旅客機(英語: SST; supersonic transport)。コンコルドという名前は「調和」「協調」等を意味する。1969年3月1日に試験飛行として初飛行後、1970年11月にマッハ2を超す速度を記録し、1975年に就航、1976年1月21日に運用が開始された。 定期国際航空路線に就航した唯一の超音速旅客機であったが、元々燃費が悪く定員の少なさもあって収益性が低い機体であり、2000年に墜落事故が発生したことや、2001年のアメリカ同時多発テロ事件によって、航空需要全体が低迷する中での収益性の改善が望めなかったことなどから運航停止が決定され、2003年10月までに営業飛行を終了し、同年11月26日に退役した。 コンコルドは計20機が生産された。そのうち2機はプロトタイプで、先行量産型が2機、量産型が16機である。 開発当時は世界各国のフラッグ・キャリアから発注があったものの、ソニックブーム(騒音)、オゾン層の破壊などの環境問題やオイルショック、開発の遅滞やそれに伴う価格の高騰、また大量輸送と低コスト化の流れを受けてその多くがキャンセルとなった。最終的にはエールフランスと、英国海外航空を継いだブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運航に留まった。 コンコルドは巡航高度5万5,000から6万フィート(およそ20,000 m)という、通常の旅客機の飛行高度の2倍もの高度(成層圏)を、マッハ2.2で飛行した。定期国際運航路線に就航した唯一の超音速民間旅客機でもあった。2020年3月現在、ボーイング747-400がニューヨークからロンドン間をジェット気流に乗り、3,459マイル(約5,570キロメートル)を4時間56分で飛ぶという、超音速を除く旅客機としては過去最速の記録を有する が、コンコルドは2時間52分59秒で同区間を飛行した。 しかしながらコンコルドは、2000年7月25日に発生した墜落事故、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロによって、低迷していた航空需要下での収益性改善が望めなくなった事で、2003年5月にエールフランス、同年10月24日にブリティッシュ・エアウェイズが営業飛行を終了、2003年11月26日のヒースロー空港着陸をもって、同日までに全機が退役した。 超音速飛行を追求した美しいデザインや、数少ない超音速旅客機だったこともあり、全機が退役した現在でもなお、根強い人気を持つ。 コンコルドは三角翼の主翼下にターボジェットエンジンを4基装備したクワッドジェット、フラップやスポイラー等は装備されておらず、両翼にエレボンを3枚ずつ持つ。そして、全長62.1 m、全幅25.6m、翼面積358.3m、最大重量185.1 t、最大乗客数128人、最大速度マッハ2.02(2180 km/h)、航続距離7,250 km。 1950年代後半のデハビランド・コメットやボーイング707などの大型ジェット旅客機の就航に次いで、各国が超音速旅客機開発競争にしのぎを削る中、イギリスはブリストル223、フランスはシュド シュペル・カラベルなどの超音速旅客機の研究を独自に行っていた。 しかし開発予算の削減や営業上の競合を避けることから、英仏両国はそれまで独自に行っていた開発を共同で行う方針に転換し、1962年11月29日に両国間で協定書が締結された。イギリスからはBAC、フランスからはシュド・アビアシオンが開発に参加した。 開発の主導権や名称などについて2国間での対立はあったものの、その後開発が進み、エールフランスや英国海外航空、パンアメリカン航空や日本航空、カンタス航空やエア・カナダなど世界各国のフラッグ・キャリアから100機を超える注文が舞い込み、1967年11月12日にはフランスのトゥールーズで原型機が公開された。 1969年3月2日に原型機が初飛行に成功、同年10月1日には音速の壁を突破した。同時にアメリカ合衆国でも超音速旅客機の開発が行われ、ボーイングやロッキード、マクドネル・ダグラスなどによる提案が行われた結果、より高速、大型で可変翼を備えたボーイング2707の開発が進んでおり、同じくパンアメリカン航空や日本航空などからの注文を受けていたが、その後開発がキャンセルされた。 またソビエト連邦でも、同国初の超音速旅客機であるツポレフTu-144の開発が行われ、1968年12月31日に初飛行し、1971年7月1日には量産型が初飛行したが、アエロフロート航空以外に発注する航空会社はなかった。 1972年に入ると、プロトタイプ機が発注を受けた日本やアメリカ合衆国、メキシコをはじめとする世界各国の主要空港をテストを兼ねて飛行したが、その後ソニックブームやオイルショックによる燃料費高騰などを受けて、多くの航空会社が発注をキャンセルした。 1976年、フランス政府は再びコンコルドを各国に飛行させて航空会社への売り込みを図った。アジアではシンガポール、香港、マニラ、ジャカルタ、ソウルを回ったが日本は外された。既に日本航空が売り込みに冷淡な態度を示していたことと、騒音に対して厳しい国情であることが知られていたためである。 なお、テスト飛行を重ねた結果、テールコーンや超音速飛行時のコックピット部分のキャノピーなどの形状変更などの改良がなされている。 1976年1月21日から定期的な運航を開始し、この日にエールフランスはパリ-ダカール-リオデジャネイロ線に、ブリティッシュ・エアウェイズはロンドン-バーレーン線に就航させ、間もなく他の路線にも就航させた。 エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズのわずか2社により、十数機が限られた路線に使用されていたのみだが、高い人気を博したため、2社ともに両社のイメージリーダー兼フラグシップ機として各種広告に使用した。 両社ともに1クラスのみの設定とされたが、在来機種のファーストクラスの上のクラスと位置付けられた。就航先のパリやロンドン、ニューヨークの空港内に専用のラウンジとゲートを備えたほか、これらの空港では、関係当局の協力を受けて発着時に最優先権を与えられた。 またコンコルド専用の資格を持った客室乗務員による、コンコルド専用の機内食メニューや飲み物の提供、コンコルドの乗客専用の各種ギブアウェイや機内販売品の提供など、他の機種にはない特別なサービスが提供された。さらに高い人気を受けて、1990年代後半には、21世紀に入っても継続使用できるように最新のアビオニクスの導入や個人テレビの装着をはじめとする様々な近代化改修を行うことも検討された。 1979年には、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランス航空がそれぞれロンドンとパリからワシントンD.C.に乗り入れるコンコルドを、ブラニフ航空がワシントンD.C.からダラスの区間を引き継いで共同運航した。 しかし、超音速飛行時に発生する衝撃波に対する反対運動などから、アメリカ大陸上空における超音速飛行が許可されなかった上、当初の思惑に反し乗客が集まらなかったことから共同運航は短期間で中止された。 なおブリティッシュ・エアウェイズとシンガポール航空が共同運航した際のような、右舷と左舷サイドで両社の塗装を塗り分けるような施策は行われなかったが、専用の航空券や安全のしおりが用意された。 一時は上記のとおり世界中から受注したもののキャンセルが相次ぎ、最終的に量産機は英仏の航空会社向けに僅か16機が製造されたに過ぎず、1976年11月2日に製造中止が決定された。開発当時は「250機で採算ラインに乗る」ともいわれたが、その採算ラインを大幅に下回る製造数となった。キャンセルされた、または不人気だった理由には、以下のようなものがある。 これらの理由により、最終的にエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運航にとどまった上、1980年代後半以降は、競争が激しいロンドン発バーレーン経由のシンガポール線や、亜音速機による無着陸飛行が可能なパリ発のダカール経由のリオデジャネイロ線が運休し、需要と収益性が高い大西洋横断路線への定期運航に集約された。 これらの定期便は、飛行時間短縮を望む裕福な顧客を中心に利用されたほか、余剰機材も団体客向けのチャーター便や、英仏両国の政府専用機としてチャーターされた。 2000年7月25日、エールフランス機(Model No.101、登録番号F-BTSC)がパリのシャルル・ド・ゴール国際空港を離陸時に、滑走路上に落ちていたコンチネンタル航空のマクドネル・ダグラス DC-10型機から脱落した部品により主脚のタイヤが破裂し、タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出たケロシンに引火、そのまま炎上し墜落した。空港に隣接したホテルの敷地内に墜落したことから、地上で巻き込まれた犠牲者を含め、113人が死亡するという大惨事になった。 小さなトラブルは頻繁にあったが、1969年の初飛行以来大規模な事故は初めてだった。エールフランスは即日、ブリティッシュ・エアウェイズもイギリスの航空当局が、コンコルドの耐空証明を取り消すことが確実視されたことにより、8月15日に運航停止を決定した。 事故調査に続いて、燃料タンクのケブラー繊維の補強、耐パンク性を強化したミシュラン製のタイヤ、燃焼装置の隔離処理等の改修を受けた後、2001年11月7日に運航が再開された。 しかし、超音速飛行を行うために燃費が悪く、メンテナンスコストも亜音速機に比べて高くついた。さらに、初就航から25年経ったこともあり航空機関士が必要なコックピットなどの旧式のシステムであるコンコルドの運航はコストがかかっていた。加えて、運航再開直前の9月11日に就航先のニューヨークで発生した同時多発テロで低迷していた航空需要下では、収益性の改善は望み薄となった。この為運航の継続が議論された。 2003年4月10日、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表した。エールフランス機は5月、ブリティッシュ・エアウェイズ機も2003年10月24日に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。 一時はヴァージン・アトランティック航空が、普段から貶しているライバルでもあるブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを「1機1ポンドで買い取る」と表明した。ヴァージン・アトランティック航空はコンコルドを買い取る事に熱心だった模様で、機内販売グッズとしてヴァージン・アトランティック航空カラーリングのコンコルド模型を限定販売していた。しかし、これまでに莫大なコストをかけてコンコルドの運航とメンテナンスを行っていたブリティッシュ・エアウェイズは、この申し出を拒絶した。 英仏両国で就役していたコンコルド各機は、イギリスやフランス、アメリカをはじめとする世界各地の航空関連博物館に売却、寄贈され、往時の姿を示している。 「コンコルド」という名称は、フランス語の「concorde」と英語の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、ローマ神話のコンコルディアに由来している。当初イギリスでは英語表記が、フランスではフランス語表記がそれぞれ使用され、日本語表記も「コンコルド」「コンコード」双方が用いられ統一されていなかった。しかし最終的にはフランス語式の最後にeの付く「concorde」表記が、フランス語のみならず英語にもおける両言語共通の正式スペリングとなった。これはフランス側の強い希望による。ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。 イギリス国内ではフランス語表記への変更に少なからぬ抵抗があったが、末尾のeはExcellence(優秀)、England(イングランド)、Europe(ヨーロッパ)、Entente(英仏協商)を表すとして妥協が図られた。 なお、フランス語のconcordeは「調和」の意味では女性名詞だが、この航空機の意味では男性名詞である。 アナログ式のフライ・バイ・ワイヤを採用した世界初の旅客機である。主翼後縁の左右合計6枚のエレボンと上下分割式の2枚の方向舵の、合計8枚の操縦翼面のコントロールはコックピットからの電気信号により制御されている。またトリム制御用の燃料移送システムを備えた。超音速への加速時や超音速からの減速時には揚力中心の位置が変動する。このとき操縦翼面によってトリム制御を行うと空気抵抗を増加させてしまうため、コンコルドでは必要に応じて燃料を前部または後部のタンクに移送することで揚力中心に応じた機体重心の位置を制御した。このシステムにより、空気抵抗を増加させることなくトリム調節を可能にした。 コンコルドは超音速飛行での空気抵抗を小さくするために細長い機首を備えているが、これは離着陸時のパイロットの前下方視界を遮ってしまう。特に着陸時には、フラップがないことをカバーするため大きなフレア操作(機首を上に向ける)で進入する。そのため着陸時には12.5度、離陸時には5度、機首が下方に折れ曲がるドループ・ノーズを採用した。これに加えバイザーが折れた機首内に格納され、パイロットの視界を確保する。試作機では17度下方に折れ曲がるようにされたが、これはキャノピーから前に何も見えないので、テストパイロットは断崖絶壁に立たされているような感覚を持ったという。そのため、12.5度に修正された。大きな迎え角は通常で考えると乗客にとっての乗り心地が悪い様に誤解されるが、実際に搭乗すると減速により前下方へと加速度がかかるため迎え角はあまり感じない。進入速度が高速であるため、オーバーランに備え緊急時用に減速用のドラッグシュートも備えられた。 エンジンにはアフターバーナー付きロールス・ロイス オリンパス593 Mk610ターボジェットエンジン、さらに可変空気取り入れ口制御システムを採用した。アフターバーナーは離陸時と超音速への加速時に使用したが、超音速巡航時には使用しなかった。吸気系統は注意深く設計され、超音速巡航時には推力の63%がインテーク系統で、29%が排気ノズルで、8%がエンジンに分布していた。 音速飛行時は機首先端の温度が120 °C程になる上、マッハ2を超えた場合胴体は91 °Cになる。さらに熱による機体の膨張により、20cmほど全長が伸びる。 客席はエコノミークラス程度のピッチのものが横4列に並び、合計100席が設けられていた。なお機体と窓の熱膨張率が異なるため、前述の高温から窓を大きくできず、その実効面積ははがき程度の大きさである。マッハ2を超えた場合、機内側の窓も継続的に触るのが困難なほど加熱された。 超音速飛行のため様々な新技術を導入したことでメンテナンスコストが増大し、燃費の悪さと相まって導入を躊躇する航空会社が多かったことも、商業飛行の失敗に繋がった。 客室はフランス出身のインダストリアルデザイナーであるレイモンド・ローウィが担当した。 コンコルド機体毎経歴(英文)参考 フラッグキャリアの日本航空が国際線向けに3機の導入を計画し、1965年に1973年受領の計画で仮発注を行ったが、その後開発遅延により、1973年の第7次契約延長時に翌年末までの仮契約締結意志のない場合、発注の無条件解約を行う文言を加え、発注時に支払った開発分担金70万ドルを返却の上、1974年から78年までの中期計画における機材計画で導入計画を除外、1974年12月の常務会で契約延長が否定的となり、他の大手航空会社と同様にコンコルドの導入をキャンセルした。 計画時には、就航時を想定した2種類の塗装案も作成されてマスメディアに公開され、各種記念品も製作されるなど、大々的な広報・広告活動が行われた。この際に日本航空が展示用として、銀座の模型店・天賞堂に発注した1/35スケールの大型模型が存在する。白地の胴体に赤と青のライン、尾翼には鶴丸マークという日本航空旅客機の標準塗色に仕上げられたこの模型は、1968年に完成して日本航空に納入された。大型模型は同社より神田の旧交通博物館に寄贈されて長らく展示された(右の写真参照)。交通博物館閉館後は鉄道博物館に移管され、現在は2階のコレクションルームに保存されている。 1972年6月12日には羽田空港にもデモンストレーションのため飛来し、午前10時15分に羽田空港へ到着した時には、約5,000名が見物に訪れた。 日本航空が多くの航空会社と同様に発注をキャンセルした上に、大陸間横断のような長距離飛行が不可能だったこともあり、エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの両社ともに、日本への定期路線に就航させることはなかったが、その後も数回に渡りエールフランスのコンコルドが日本へ飛来した。 1979年6月27日には、日本で初めての開催となる東京サミットに出席するフランスのヴァレリー・ジスカールデスタン大統領の搭乗機として、羽田空港に飛来した。また1990年には「'90長崎旅博覧会」のイベント(チャーター便)として長崎空港に飛来したほか、1994年には開港翌日の関西国際空港に飛来した。 日本へ来たのは以下の5回で、デモフライトと、エールフランスの運航によるものである。 日本航空はコンコルドの導入はキャンセルしたが、2017年に超音速旅客機の開発を行うブーム・テクノロジーと資本提携し、20機の優先発注権を確保する予定があると発表した。
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"またコンコルド専用の資格を持った客室乗務員による、コンコルド専用の機内食メニューや飲み物の提供、コンコルドの乗客専用の各種ギブアウェイや機内販売品の提供など、他の機種にはない特別なサービスが提供された。さらに高い人気を受けて、1990年代後半には、21世紀に入っても継続使用できるように最新のアビオニクスの導入や個人テレビの装着をはじめとする様々な近代化改修を行うことも検討された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1979年には、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランス航空がそれぞれロンドンとパリからワシントンD.C.に乗り入れるコンコルドを、ブラニフ航空がワシントンD.C.からダラスの区間を引き継いで共同運航した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "しかし、超音速飛行時に発生する衝撃波に対する反対運動などから、アメリカ大陸上空における超音速飛行が許可されなかった上、当初の思惑に反し乗客が集まらなかったことから共同運航は短期間で中止された。 なおブリティッシュ・エアウェイズとシンガポール航空が共同運航した際のような、右舷と左舷サイドで両社の塗装を塗り分けるような施策は行われなかったが、専用の航空券や安全のしおりが用意された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一時は上記のとおり世界中から受注したもののキャンセルが相次ぎ、最終的に量産機は英仏の航空会社向けに僅か16機が製造されたに過ぎず、1976年11月2日に製造中止が決定された。開発当時は「250機で採算ラインに乗る」ともいわれたが、その採算ラインを大幅に下回る製造数となった。キャンセルされた、または不人気だった理由には、以下のようなものがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": 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"しかし、超音速飛行を行うために燃費が悪く、メンテナンスコストも亜音速機に比べて高くついた。さらに、初就航から25年経ったこともあり航空機関士が必要なコックピットなどの旧式のシステムであるコンコルドの運航はコストがかかっていた。加えて、運航再開直前の9月11日に就航先のニューヨークで発生した同時多発テロで低迷していた航空需要下では、収益性の改善は望み薄となった。この為運航の継続が議論された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2003年4月10日、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表した。エールフランス機は5月、ブリティッシュ・エアウェイズ機も2003年10月24日に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一時はヴァージン・アトランティック航空が、普段から貶しているライバルでもあるブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを「1機1ポンドで買い取る」と表明した。ヴァージン・アトランティック航空はコンコルドを買い取る事に熱心だった模様で、機内販売グッズとしてヴァージン・アトランティック航空カラーリングのコンコルド模型を限定販売していた。しかし、これまでに莫大なコストをかけてコンコルドの運航とメンテナンスを行っていたブリティッシュ・エアウェイズは、この申し出を拒絶した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "英仏両国で就役していたコンコルド各機は、イギリスやフランス、アメリカをはじめとする世界各地の航空関連博物館に売却、寄贈され、往時の姿を示している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "「コンコルド」という名称は、フランス語の「concorde」と英語の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、ローマ神話のコンコルディアに由来している。当初イギリスでは英語表記が、フランスではフランス語表記がそれぞれ使用され、日本語表記も「コンコルド」「コンコード」双方が用いられ統一されていなかった。しかし最終的にはフランス語式の最後にeの付く「concorde」表記が、フランス語のみならず英語にもおける両言語共通の正式スペリングとなった。これはフランス側の強い希望による。ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。 イギリス国内ではフランス語表記への変更に少なからぬ抵抗があったが、末尾のeはExcellence(優秀)、England(イングランド)、Europe(ヨーロッパ)、Entente(英仏協商)を表すとして妥協が図られた。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、フランス語のconcordeは「調和」の意味では女性名詞だが、この航空機の意味では男性名詞である。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アナログ式のフライ・バイ・ワイヤを採用した世界初の旅客機である。主翼後縁の左右合計6枚のエレボンと上下分割式の2枚の方向舵の、合計8枚の操縦翼面のコントロールはコックピットからの電気信号により制御されている。またトリム制御用の燃料移送システムを備えた。超音速への加速時や超音速からの減速時には揚力中心の位置が変動する。このとき操縦翼面によってトリム制御を行うと空気抵抗を増加させてしまうため、コンコルドでは必要に応じて燃料を前部または後部のタンクに移送することで揚力中心に応じた機体重心の位置を制御した。このシステムにより、空気抵抗を増加させることなくトリム調節を可能にした。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "コンコルドは超音速飛行での空気抵抗を小さくするために細長い機首を備えているが、これは離着陸時のパイロットの前下方視界を遮ってしまう。特に着陸時には、フラップがないことをカバーするため大きなフレア操作(機首を上に向ける)で進入する。そのため着陸時には12.5度、離陸時には5度、機首が下方に折れ曲がるドループ・ノーズを採用した。これに加えバイザーが折れた機首内に格納され、パイロットの視界を確保する。試作機では17度下方に折れ曲がるようにされたが、これはキャノピーから前に何も見えないので、テストパイロットは断崖絶壁に立たされているような感覚を持ったという。そのため、12.5度に修正された。大きな迎え角は通常で考えると乗客にとっての乗り心地が悪い様に誤解されるが、実際に搭乗すると減速により前下方へと加速度がかかるため迎え角はあまり感じない。進入速度が高速であるため、オーバーランに備え緊急時用に減速用のドラッグシュートも備えられた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "エンジンにはアフターバーナー付きロールス・ロイス オリンパス593 Mk610ターボジェットエンジン、さらに可変空気取り入れ口制御システムを採用した。アフターバーナーは離陸時と超音速への加速時に使用したが、超音速巡航時には使用しなかった。吸気系統は注意深く設計され、超音速巡航時には推力の63%がインテーク系統で、29%が排気ノズルで、8%がエンジンに分布していた。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "音速飛行時は機首先端の温度が120 °C程になる上、マッハ2を超えた場合胴体は91 °Cになる。さらに熱による機体の膨張により、20cmほど全長が伸びる。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "客席はエコノミークラス程度のピッチのものが横4列に並び、合計100席が設けられていた。なお機体と窓の熱膨張率が異なるため、前述の高温から窓を大きくできず、その実効面積ははがき程度の大きさである。マッハ2を超えた場合、機内側の窓も継続的に触るのが困難なほど加熱された。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "超音速飛行のため様々な新技術を導入したことでメンテナンスコストが増大し、燃費の悪さと相まって導入を躊躇する航空会社が多かったことも、商業飛行の失敗に繋がった。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "客室はフランス出身のインダストリアルデザイナーであるレイモンド・ローウィが担当した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "コンコルド機体毎経歴(英文)参考", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "フラッグキャリアの日本航空が国際線向けに3機の導入を計画し、1965年に1973年受領の計画で仮発注を行ったが、その後開発遅延により、1973年の第7次契約延長時に翌年末までの仮契約締結意志のない場合、発注の無条件解約を行う文言を加え、発注時に支払った開発分担金70万ドルを返却の上、1974年から78年までの中期計画における機材計画で導入計画を除外、1974年12月の常務会で契約延長が否定的となり、他の大手航空会社と同様にコンコルドの導入をキャンセルした。", "title": "日本におけるコンコルド" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "計画時には、就航時を想定した2種類の塗装案も作成されてマスメディアに公開され、各種記念品も製作されるなど、大々的な広報・広告活動が行われた。この際に日本航空が展示用として、銀座の模型店・天賞堂に発注した1/35スケールの大型模型が存在する。白地の胴体に赤と青のライン、尾翼には鶴丸マークという日本航空旅客機の標準塗色に仕上げられたこの模型は、1968年に完成して日本航空に納入された。大型模型は同社より神田の旧交通博物館に寄贈されて長らく展示された(右の写真参照)。交通博物館閉館後は鉄道博物館に移管され、現在は2階のコレクションルームに保存されている。", "title": "日本におけるコンコルド" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1972年6月12日には羽田空港にもデモンストレーションのため飛来し、午前10時15分に羽田空港へ到着した時には、約5,000名が見物に訪れた。", "title": "日本におけるコンコルド" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本航空が多くの航空会社と同様に発注をキャンセルした上に、大陸間横断のような長距離飛行が不可能だったこともあり、エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの両社ともに、日本への定期路線に就航させることはなかったが、その後も数回に渡りエールフランスのコンコルドが日本へ飛来した。", "title": "日本におけるコンコルド" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1979年6月27日には、日本で初めての開催となる東京サミットに出席するフランスのヴァレリー・ジスカールデスタン大統領の搭乗機として、羽田空港に飛来した。また1990年には「'90長崎旅博覧会」のイベント(チャーター便)として長崎空港に飛来したほか、1994年には開港翌日の関西国際空港に飛来した。", "title": "日本におけるコンコルド" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本へ来たのは以下の5回で、デモフライトと、エールフランスの運航によるものである。", "title": "日本におけるコンコルド" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本航空はコンコルドの導入はキャンセルしたが、2017年に超音速旅客機の開発を行うブーム・テクノロジーと資本提携し、20機の優先発注権を確保する予定があると発表した。", "title": "日本におけるコンコルド" } ]
コンコルドは、イギリスのBACやフランスのシュド・アビアシオンなどが共同で開発した超音速旅客機。コンコルドという名前は「調和」「協調」等を意味する。1969年3月1日に試験飛行として初飛行後、1970年11月にマッハ2を超す速度を記録し、1975年に就航、1976年1月21日に運用が開始された。 定期国際航空路線に就航した唯一の超音速旅客機であったが、元々燃費が悪く定員の少なさもあって収益性が低い機体であり、2000年に墜落事故が発生したことや、2001年のアメリカ同時多発テロ事件によって、航空需要全体が低迷する中での収益性の改善が望めなかったことなどから運航停止が決定され、2003年10月までに営業飛行を終了し、同年11月26日に退役した。
{{Otheruses|超音速旅客機のコンコルド}} {{出典の明記|date=2015年9月}} {{Infobox 航空機 | 名称 = コンコルド | 画像 = File:G-boab (32758231448).jpg | キャプション = [[ブリティッシュ・エアウェイズ]]のコンコルド | 用途 = [[旅客機]] | 分類 = [[超音速]]民間旅客機 | 設計者 = <!-- [[アエロスパシアル]]、[[ブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーション|BAC]] --> | 製造者 = [[アエロスパシアル]]、[[ブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーション|BAC]] | 運用者 more = <nowiki/> **{{flagicon|GBR}}[[ブリティッシュ・エアウェイズ]] **{{flagicon|FRA}}[[エールフランス]] | 初飛行年月日 = [[1969年]][[3月2日]] | 生産数 = 原型2機 先行量産型2機 量産型16機 合計20機 | 生産開始年月日 = | 運用開始年月日 = [[1976年]][[1月21日]] | 退役年月日 = [[2003年]][[11月26日]] | 運用状況 = 退役 | ユニットコスト = <!-- £23M (US$46M) (1977年) unref --> }} '''コンコルド'''({{lang-fr|Concorde}})は、[[イギリス]]の[[ブリティッシュ・エアクラフト・コーポレーション|BAC]]や[[フランス]]の[[シュド・アビアシオン]]などが共同で開発した[[超音速輸送機|超音速旅客機]]({{lang-en|SST; supersonic transport}})。コンコルドという名前は「[[調和]]」「協調」等を意味する<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=コンコルド |encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 |accessdate=2023-01-10}}</ref>。[[1969年]][[3月1日]]に試験飛行として初飛行後、[[1970年]][[11月]]に[[マッハ]]2を超す[[速度]]を記録し、[[1975年]]に就航、[[1976年]][[1月21日]]に運用が開始された。 定期国際航空路線に就航した唯一の超音速旅客機であった<ref>{{Cite web|和書|title=「コンコルドに勝ったぞ!」世界初の超音速旅客機とは? 快挙から転落もライバル国に拾われる(乗りものニュース) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/4b9510e98f6a449d9dcce3fb1a8f96862a5e885a |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref>が、元々燃費が悪く定員の少なさもあって収益性が低い機体であり、[[2000年]]に[[コンコルド墜落事故|墜落事故]]が発生したことや、[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]によって、航空需要全体が低迷する中での収益性の改善が望めなかったことなどから運航停止が決定され、[[2003年]]10月までに営業飛行を終了し、同年[[11月26日]]に退役した。 == 概要 == コンコルドは計20機が生産された。そのうち2機は[[プロトタイプ]]で、先行量産型が2機、量産型が16機である。 開発当時は世界各国の[[フラッグ・キャリア]]から発注があったものの、[[ソニックブーム]]([[騒音]])、[[オゾン層]]の破壊などの[[環境問題]]や[[オイルショック]]、開発の遅滞やそれに伴う価格の高騰、また大量輸送と低コスト化の流れを受けてその多くがキャンセルとなった。最終的には[[エールフランス]]と、[[英国海外航空]]を継いだ[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]の2社のみによる運航に留まった。 コンコルドは巡航高度5万5,000から6万フィート(およそ20,000 m)という、通常の旅客機の飛行高度の2倍もの高度([[成層圏]])を、[[マッハ]]2.2で飛行した。定期国際運航路線に就航した唯一の超音速民間旅客機でもあった。2020年3月現在、[[ボーイング747-400]]が[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク]]から[[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン]]間を[[ジェット気流]]に乗り、3,459[[マイル]](約5,570[[キロメートル]])を4時間56分で飛ぶという、超音速を除く旅客機としては過去最速の記録を有する<ref group="注釈">2018年現在5時間13分の記録だったが https://www.cnn.co.jp/travel/35149187.html によると大型低気圧シアラの暴風に乗って記録を更新した。</ref> が、コンコルドは2時間52分59秒で同区間を飛行した<ref name="SST makes record flight">{{cite news|url=http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=SL&p_theme=sl&p_action=search&p_maxdocs=200&p_topdoc=1&p_text_direct-0=0EB04F816AA79462&p_field_direct-0=document_id&p_perpage=10&p_sort=YMD_date:D|last=Reuters News Service|title=SST makes record flight|work=St Louis Post|accessdate=30 June 2011|date=9 February 1996}}</ref>。 しかしながらコンコルドは、[[2000年]][[7月25日]]に発生した[[コンコルド墜落事故|墜落事故]]、[[2001年]][[9月11日]]に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件|アメリカ同時多発テロ]]によって、低迷していた航空需要下での収益性改善が望めなくなった事で、[[2003年]][[5月]]にエールフランス、同年[[10月24日]]にブリティッシュ・エアウェイズが営業飛行を終了、[[2003年]][[11月26日]]の[[ヒースロー空港]][[着陸]]をもって、同日までに全機が退役した。 超音速飛行を追求した美しいデザインや、数少ない超音速旅客機だったこともあり、全機が退役した現在でもなお、根強い人気を持つ<ref name=":1">{{Cite book|和書 |title=世界の民間航空図鑑 |date=2013年11月28日 |publisher=[[原書房]] |page=94 |author=Andreas Fecker |author2=[[青木謙知]]}}</ref>。 コンコルドは三角翼の主翼下に[[ターボジェットエンジン]]を4基装備した{{efn|エンジンは、主翼下に2基ずつまとめた[[エンジンクラスター]]となっている。}}[[クワッドジェット]]、フラップや[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]等は装備されておらず、両翼に[[エレボン]]を3枚ずつ持つ。そして、全長62.1 m、全幅25.6m、翼面積358.3m<sup>2</sup>、最大重量185.1 t、最大乗客数128人、最大速度マッハ2.02(2180&nbsp;km/h)<ref name=":0" />、[[航続距離]]7,250&nbsp;km。 == 歴史 == === 開発 === [[File:11.12.67 Présentation officielle du Concorde (1967) - 53Fi1788.jpg|thumb|225px|コンコルドの初公開式典(1967年11月12日)]] [[File:02.03.69 1er vol de Concorde (1969) - 53Fi1931 - cropped.jpg|thumb|225px|コンコルドの初飛行(1969年3月2日)]] [[File:ConcordePrototype.JPG|thumb|225px|コンコルドのプロトタイプ機]][[File:Sud-BAC Concorde, British Aircraft Corporation - Aerospatiale France AN1804818.jpg|thumb|225px|ヒースロー国際空港をタクシングするコンコルドのプロトタイプ機(1972年)]] [[1950年代]]後半の[[デ・ハビランド DH.106 コメット|デハビランド・コメット]]や[[ボーイング707]]などの大型ジェット旅客機の就航に次いで、各国が超音速旅客機開発競争にしのぎを削る中、イギリスは[[ブリストル223]]、フランスは[[シュド シュペル・カラベル]]などの超音速旅客機の研究を独自に行っていた。 しかし開発予算の削減や営業上の競合を避けることから、英仏両国はそれまで独自に行っていた開発を共同で行う方針に転換し、[[1962年]][[11月29日]]に両国間で協定書が締結された<ref>{{Cite web|title=‘The end of a fantastic era’— a look back on the Concorde|url=https://www.heraldnet.com/nation-world/the-end-of-a-fantastic-era-a-look-back-on-the-concorde/|website=HeraldNet.com|date=2019-03-04|accessdate=2019-05-19|language=en-US}}</ref>。イギリスからはBAC、フランスからは[[シュド・アビアシオン]]が開発に参加した<ref name="tsubasa197802-159">{{Cite journal |和書|author = |authorlink = |title =フリート・カタログ (1) アエロスパシアル・コンコルド |date =1978-02-01 |publisher =航空新聞社 |journal =翼 |volume =第140号 |issue =1978年2月 |pages =P.159 }}</ref>。 開発の主導権や名称などについて2国間での対立はあったものの、その後開発が進み、[[エールフランス]]や[[英国海外航空]]、[[パンアメリカン航空]]や[[日本航空]]、[[カンタス航空]]や[[エア・カナダ]]など世界各国のフラッグ・キャリアから100機を超える注文が舞い込み、[[1967年]][[11月12日]]にはフランスの[[トゥールーズ]]で原型機が公開された。 [[1969年]]3月2日に原型機が初飛行に成功<ref name="tsubasa197802-159" />、同年10月1日には音速の壁を突破した。同時に[[アメリカ合衆国]]でも超音速旅客機の開発が行われ、[[ボーイング]]や[[ロッキード]]、[[マクドネル・ダグラス]]などによる提案が行われた結果、より高速、大型で可変翼を備えた[[ボーイング2707]]の開発が進んでおり、同じくパンアメリカン航空や日本航空などからの注文を受けていたが、その後開発がキャンセルされた。 また[[ソビエト連邦]]でも、同国初の超音速旅客機である[[ツポレフ]][[Tu-144 (航空機)|Tu-144]]の開発が行われ、[[1968年]][[12月31日]]に初飛行し、[[1971年]][[7月1日]]には量産型が初飛行したが、[[アエロフロート航空]]以外に発注する航空会社はなかった。 [[1972年]]に入ると、プロトタイプ機が発注を受けた[[日本]]やアメリカ合衆国、[[メキシコ]]をはじめとする世界各国の主要空港をテストを兼ねて飛行したが、その後[[ソニックブーム]]や[[オイルショック]]による燃料費高騰などを受けて、多くの航空会社が発注をキャンセルした。 1976年、フランス政府は再びコンコルドを各国に飛行させて航空会社への売り込みを図った。アジアではシンガポール、香港、マニラ、ジャカルタ、ソウルを回ったが日本は外された。既に日本航空が売り込みに冷淡な態度を示していたことと、騒音に対して厳しい国情であることが知られていたためである<ref>SST売り込み飛行『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月26日夕刊、3版、8面</ref>。 なお、テスト飛行を重ねた結果、テールコーンや超音速飛行時のコックピット部分の[[キャノピー]]などの形状変更などの改良がなされている。 === 就航 === [[1976年]][[1月21日]]から定期的な運航を開始し、この日に[[エールフランス]]は[[パリ]]-[[ダカール]]-[[リオデジャネイロ]]線に、[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]は[[ロンドン]]-[[バーレーン]]線に就航させ、間もなく他の路線にも就航させた<ref>{{Cite web|和書|title=伝説の超音速旅客機「コンコルド」 劇的な幕切れの背景とは “スピード全振り”も退役の一因?(乗りものニュース) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/9ef7003b715e56a0c5fcfdf3c16a791d01acdaf4 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-01-10 |language=ja}}</ref><ref name="tsubasa197802-159" />。 === 定期運航路線 === ==== エールフランス ==== * [[パリ]]-[[ニューヨーク]] * パリ-[[ダカール]]-[[リオデジャネイロ]] ==== ブリティッシュ・エアウェイズ ==== * [[ロンドン]]-[[ニューヨーク]] * ロンドン-[[ワシントンD.C.]] * ロンドン-[[バルバドス]] * ロンドン-[[バーレーン]]-[[シンガポール]](バーレーンからは[[シンガポール航空]]との共同運航) * ロンドン-ワシントンD.C.-ダラス・フォートワース(ワシントンD.C.からは[[ブラニフ航空]]との共同運航) <gallery widths="250"> File:Aerospatiale-BAC Concorde 101, Air France AN0839843.jpg|エールフランスのコンコルド(1983年) File:British Concorde.jpg|ブリティッシュ・エアウェイズのコンコルド([[ヒースロー空港]]、[[1980年代]]前半) File:Singapore Airlines Concorde Fitzgerald-1.jpg|ブリティッシュ・エアウェイズのシンガポール航空塗装のコンコルド(ヒースロー空港、[[1979年]]) File:Air France Concorde (F-BTSD) short-lived Pepsi logojet.jpg|エールフランスの[[ペプシ]]特別塗装のコンコルド([[1996年]]) </gallery> ===フラグシップ機=== [[File:Concorde G-BBDG Cabin.JPG|thumb|225px|客室内部]] エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズのわずか2社により、十数機が限られた路線に使用されていたのみだが、高い人気を博したため、2社ともに両社のイメージリーダー兼[[フラグシップ機]]として各種広告に使用した。 両社ともに1クラスのみの設定とされたが、在来機種のファーストクラスの上のクラスと位置付けられた。就航先のパリやロンドン、ニューヨークの空港内に専用のラウンジとゲートを備えたほか、これらの空港では、関係当局の協力を受けて発着時に最優先権を与えられた。 またコンコルド専用の資格を持った[[客室乗務員]]による、コンコルド専用の機内食メニューや飲み物の提供、コンコルドの乗客専用の各種ギブアウェイや機内販売品の提供など、他の機種にはない特別なサービスが提供された。さらに高い人気を受けて、[[1990年代]]後半には、[[21世紀]]に入っても継続使用できるように最新の[[アビオニクス]]の導入や個人テレビの装着をはじめとする様々な近代化改修を行うことも検討された。 [[1979年]]には、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランス航空がそれぞれロンドンとパリからワシントンD.C.に乗り入れるコンコルドを、ブラニフ航空がワシントンD.C.からダラスの区間を引き継いで共同運航した。 しかし、超音速飛行時に発生する[[ソニックブーム|衝撃波]]に対する反対運動などから、アメリカ大陸上空における超音速飛行が許可されなかった上、当初の思惑に反し乗客が集まらなかったことから共同運航は短期間で中止された。 なおブリティッシュ・エアウェイズとシンガポール航空が共同運航した際のような、右舷と左舷サイドで両社の塗装を塗り分けるような施策は行われなかったが、専用の航空券や安全のしおりが用意された。 === 商業的失敗 === [[File:Air France Concorde; F-BVFF@GVA;09.09.1995 (6083478845).jpg|thumb|225px|エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズのコンコルド]] [[File:Queen Elizabeth II and Prince Philip disembark from a British Airways Concorde.jpg|thumb|225px|アメリカ合衆国テキサス州訪問にブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを使用した、イギリスの[[エリザベス2世]]女王と[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公]]夫妻(1991年5月20日)]] 一時は上記のとおり世界中から受注したもののキャンセルが相次ぎ、最終的に量産機は英仏の航空会社向けに僅か16機が製造されたに過ぎず、[[1976年]][[11月2日]]に製造中止が決定された。開発当時は「250機で採算ラインに乗る」ともいわれたが、その採算ラインを大幅に下回る製造数となった。キャンセルされた、または不人気だった理由には、以下のようなものがある。 * 通常よりも長い滑走距離を必要とすること、またその雷鳴に近い音圧の[[騒音]]および[[ソニックブーム]]の影響<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-24 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3295297?cx_part=top_topstory&cx_position=4 |title=超音速旅客機「コンコルド」 墜落事故から20年 |publisher=AFP |accessdate=2020-07-23}}</ref> を避けるために、航路や乗り入れ先を選ぶコンコルドは、限られた[[航路]]に就航できたにすぎなかった。さらに、「ソニックブームを発生させる」という理由で[[アメリカ合衆国]]を始めとするいくつかの国では、超音速飛行を海上でしか認めなかった。また、[[ニューヨーク]]の[[ジョン・F・ケネディ国際空港]]への離着陸が認められるまでにも、環境保護団体からの訴訟があって、裁判による決着を必要とした。<!--なお、このようになったのは、超音速機[[ボーイング2707|B2707]]の開発を断念した[[ボーイング]]からアメリカ政府への工作があったからといわれている。--> * 航続距離が短いことに加えて、上記の諸事情から、[[大西洋]]は飛び越せても、無給油では[[太平洋]]を越えられず、[[西ヨーロッパ]]や[[アメリカ合衆国本土]]から[[日本]]や[[香港]]への無着陸直行便という、当時需要が伸びていた[[極東]]路線への就航ができなかった。 * 乗客の定員が100人と少なく、運賃は他機種の[[ファーストクラス]]の約20%増し<ref>「世界のエアライン」1979年 ブリティッシュ・エアウェイズ広告(表4)</ref> と高額であったため、利用者はごく限られていた。経済的にも収益が上がらない上、[[オイルショック]]による[[原油価格]]の高騰が、これに拍車をかけた。 * [[旅客機]]による飛行が、エグゼクティブ層向けから運賃が安くなることで大衆化するにつれ、航空業界は[[ボーイング747]]のように低コストでかつ大量輸送が可能な機体を重視するようになった。なおボーイング747は、コンコルドやボーイング2707の就航後は貨物機に改修されたり、団体客用の[[チャーター便]]専用機になることが予想されていた。 これらの理由により、最終的にエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの2社のみによる運航にとどまった上、[[1980年代]]後半以降は、競争が激しいロンドン発バーレーン経由のシンガポール線や、亜音速機による無着陸飛行が可能なパリ発のダカール経由のリオデジャネイロ線が運休し、需要と収益性が高い大西洋横断路線への定期運航に集約された。 これらの定期便は、飛行時間短縮を望む裕福な顧客を中心に利用されたほか、余剰機材も団体客向けのチャーター便や、英仏両国の[[政府専用機]]としてチャーターされた。 === 墜落事故 === [[File:Aerospatiale-BAC Concorde 101, Air France AN0702255.jpg|thumb|225px|事故機のF-BTSC(1985年)]] [[2000年]][[7月25日]]、[[エールフランス]]機(Model No.101、登録番号F-BTSC)が[[パリ]]の[[シャルル・ド・ゴール国際空港]]を離陸時に、滑走路上に落ちていた[[コンチネンタル航空]]の[[マクドネル・ダグラス DC-10]]型機から脱落した部品により主脚のタイヤが破裂し、タイヤ片が主翼下面に当たり燃料タンクを破損、直後に漏れ出た[[ケロシン]]に引火、そのまま炎上し[[墜落]]した。空港に隣接したホテルの敷地内に墜落したことから、地上で巻き込まれた犠牲者を含め、113人が死亡するという大惨事になった。 小さなトラブルは頻繁にあったが、1969年の初飛行以来大規模な事故は初めてだった。エールフランスは即日、[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]もイギリスの航空当局が、コンコルドの[[耐空証明]]を取り消すことが確実視されたことにより、[[8月15日]]に運航停止を決定した。{{main|コンコルド墜落事故}} 事故調査に続いて、燃料タンクの[[ケブラー]]繊維の補強、耐パンク性を強化した[[ミシュラン]]製のタイヤ、燃焼装置の隔離処理等の改修を受けた後、[[2001年]][[11月7日]]に運航が再開された。 === 終焉 === [[Image:Concorde on Bristol.jpg|thumb|225px|[[ロンドン・ヒースロー空港]]からブリストルへのコンコルドの最終飛行(2003年11月26日)]] しかし、超音速飛行を行うために燃費が悪く、[[メンテナンス]]コストも亜音速機に比べて高くついた。さらに、初就航から25年経ったこともあり[[航空機関士]]が必要なコックピットなどの旧式のシステムであるコンコルドの運航はコストがかかっていた。加えて、運航再開直前の[[9月11日]]に就航先のニューヨークで発生した[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]で低迷していた航空需要下では、収益性の改善は望み薄となった。この為運航の継続が議論された。 [[2003年]][[4月10日]]、ブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表した。エールフランス機は5月、ブリティッシュ・エアウェイズ機も[[2003年]][[10月24日]]に最後の営業飛行を終え、後継機もなく超音速旅客機は姿を消した。 一時は[[ヴァージン・アトランティック航空]]が、普段から貶しているライバルでもあるブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを「1機1ポンドで買い取る」と表明した。ヴァージン・アトランティック航空はコンコルドを買い取る事に熱心だった模様で、[[機内販売]]グッズとしてヴァージン・アトランティック航空カラーリングのコンコルド模型を限定販売していた。しかし、これまでに莫大なコストをかけてコンコルドの運航とメンテナンスを行っていたブリティッシュ・エアウェイズは、この申し出を拒絶した。 英仏両国で就役していたコンコルド各機は、イギリスやフランス、アメリカをはじめとする世界各地の航空関連博物館に売却、寄贈され、往時の姿を示している。 == 名称 == 「コンコルド」という名称は、[[フランス語]]の「concorde」と[[英語]]の「concord」、両単語とも「協調」や「調和」を意味し、[[ローマ神話]]の[[コンコルディア (ローマ神話)|コンコルディア]]に由来している。当初イギリスでは英語表記が、フランスではフランス語表記がそれぞれ使用され、日本語表記も「コンコルド」「コンコード」双方が用いられ統一されていなかった<ref name="tsubasa197802-160">{{Cite journal |和書|author = |authorlink = |title =フリート・カタログ (1) アエロスパシアル・コンコルド |date =1978-02-01 |publisher =航空新聞社 |journal =翼 |volume =第140号 |issue =1978年2月 |pages =P.160 }}</ref>。しかし最終的にはフランス語式の最後に'''e'''の付く「'''concorde'''」表記が、[[フランス語]]のみならず英語にもおける両言語共通の正式スペリングとなった<ref name="tsubasa197802-160" />。これはフランス側の強い希望による。ただし、英語圏での発音は、フランス語式の「concorde(コンコルド)」よりはむしろ、英語の「concord(コンコード)」の読みに近い。 イギリス国内ではフランス語表記への変更に少なからぬ抵抗があったが、末尾のeはExcellence(優秀)、England(イングランド)、Europe(ヨーロッパ)、Entente([[英仏協商]])を表すとして妥協が図られた。<ref group="注釈">もっとも、この発表を行った技術省大臣トニー・ベンは、スコットランド在住者からイングランドのみを含めるのは不公平だとの手紙を受け取ったと明かしている。</ref> なお、フランス語のconcordeは「調和」の意味では女性名詞だが、この航空機の意味では男性名詞である。 == 技術 == [[File:2001concordewingduxfordJM.jpg|thumb|225px|[[ロールス・ロイス オリンパス]]593 Mk610ターボジェットのノズル]] [[File:Concorde Ramp.jpg|thumb|225px|[[エアインテーク]]]] [[File:ConcordeFuselageSinsheim.jpg|thumb|225px|胴体側面<br />非常に小さい窓が並ぶ]] アナログ式の[[フライ・バイ・ワイヤ]]を採用した世界初の旅客機である。主翼後縁の左右合計6枚の[[エレボン]]と上下分割式の2枚の[[方向舵]]の、合計8枚の操縦翼面のコントロールはコックピットからの電気信号により制御されている<ref name="tsubasa197802-156">{{Cite journal |和書|author = |authorlink = |title =フリート・カタログ (1) アエロスパシアル・コンコルド |date =1978-02-01 |publisher =航空新聞社 |journal =翼 |volume =第140号 |issue =1978年2月 |pages =P.156 }}</ref>。またトリム制御用の燃料移送システムを備えた。超音速への加速時や超音速からの減速時には[[揚力]]中心の位置が変動する。このとき操縦翼面によってトリム制御を行うと空気抵抗を増加させてしまうため、コンコルドでは必要に応じて燃料を前部または後部のタンクに移送することで揚力中心に応じた機体[[重心]]の位置を制御した<ref name="tsubasa197802-156" />。このシステムにより、空気抵抗を増加させることなくトリム調節を可能にした。 コンコルドは超音速飛行での空気抵抗を小さくするために細長い機首を備えているが、これは離着陸時のパイロットの前下方視界を遮ってしまう。特に着陸時には、[[フラップ]]がないことをカバーするため大きなフレア操作(機首を上に向ける)で進入する。そのため着陸時には12.5度、離陸時には5度、機首が下方に折れ曲がるドループ・ノーズを採用した。これに加え[[バイザー]]が折れた機首内に格納され、パイロットの視界を確保する。試作機では17度下方に折れ曲がるようにされたが、これは[[キャノピー]]から前に何も見えないので、[[テストパイロット]]は断崖絶壁に立たされているような感覚を持ったという。そのため、12.5度に修正された。大きな迎え角は通常で考えると乗客にとっての乗り心地が悪い様に誤解されるが、実際に搭乗すると減速により前下方へと加速度がかかるため迎え角はあまり感じない。進入速度が高速であるため、[[オーバーラン]]に備え緊急時用に減速用の[[空力ブレーキ|ドラッグシュート]]も備えられた。 エンジンには[[アフターバーナー]]付き[[ロールス・ロイス オリンパス]]593 Mk610[[ターボジェットエンジン]]、さらに可変空気取り入れ口制御システムを採用した<ref name="tsubasa197802-156" />。アフターバーナーは離陸時と超音速への加速時に使用したが、超音速巡航時には使用しなかった{{efn|「アフターバーナー」という名称は[[ゼネラル・エレクトリック]]の[[登録商標]]であり、コンコルド用の[[ロールス・ロイス オリンパス|オリンパス]]593エンジンを製造した[[ロールス・ロイス]]では「リヒート」と呼んでいた。}}。吸気系統は注意深く設計され、超音速巡航時には推力の63%がインテーク系統で、29%が排気ノズルで、8%がエンジンに分布していた<ref>{{Cite web |title=CONCORDE SST : Powerplant |url=http://www.concordesst.com/powerplant.html |website=www.concordesst.com |access-date=2023-01-10 |last=Gordon}}</ref>。 音速飛行時は機首先端の温度が120 ℃程になる上、マッハ2を超えた場合胴体は91 ℃になる。さらに熱による機体の膨張により、20cmほど全長が伸びる。 客席は[[エコノミークラス]]程度のピッチのものが横4列に並び、合計100席が設けられていた。なお機体と窓の[[熱膨張率]]が異なるため、前述の高温から窓を大きくできず、その実効面積は[[はがき]]程度の大きさである<ref name="tsubasa197802-159" />。マッハ2を超えた場合、機内側の窓も継続的に触るのが困難なほど加熱された。 超音速飛行のため様々な新技術を導入したことでメンテナンスコストが増大し、燃費の悪さと相まって導入を躊躇する航空会社が多かったことも、商業飛行の失敗に繋がった。 <gallery widths="250"> File:Concordeintake.gif|エアインテーク内部の詳細 File:Concorde undercarriage Speyer 02 with disc brakes.JPG|タイヤとブレーキ File:BAW BAC&Aérospatiale CONC G-BOAE.JPG|尾翼 File:02.03.69 1er vol de Concorde avec Jacqueline Auriol (1969) - 53Fi1927.jpg|ドラッグシュートの展開 </gallery> == 仕様 == [[File:Concordev1.0.png|thumb|350px|コンコルドの図面]] [[File:Aerospatiale BAC Concorde by bagera3005.png|thumb|350px|]] [[File:Concorde G-BOAC.png|thumb|真横から見たコンコルド]] [[File:Concorde.planview.arp.jpg|thumb|下面から見たコンコルド]] === 寸法 === * 全長:61.66 m<ref name=":1" /> * 全幅:25.6 m<ref name=":1" /> * 高さ:12.19 m * 機体幅:2.88 m * 主翼面積:358.2 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]] === エンジン === * [[ロールス・ロイス・ホールディングス|ロールス・ロイス]]・[[スネクマ]] [[ロールス・ロイス オリンパス|オリンパス593 Mk610]] リヒート付きターボジェット4基 === 重量 === * [[最大離陸重量]]:186,800&nbsp;kg<ref name=":1" /> * [[最大着陸重量]]:111,130&nbsp;kg === 飛行性能 === * 最大速度 : 2330km/h<ref name=":1" /> * 巡航速度:[[マッハ]] 2.04(約2,160km/h) * 航続距離:7,250&nbsp;km<ref name=":1" /> * 離陸速度:400&nbsp;km/h * 着陸速度:296&nbsp;km/h === 客室 === 客室はフランス出身の[[インダストリアルデザイナー]]である[[レイモンド・ローウィ]]が担当した。 * 座席数:100席 スーパーソニッククラス(予約クラスコード - R) *: 座席は通路の両側に2席づつ計25列で100席の構成<ref name="tsubasa197802-159" />。全席エコノミークラスとするなどした場合最大140席まで配置可能とされていた<ref name="tsubasa197802-159" />。化粧室もついていたが非常に狭かった<ref>{{Cite web|和書|date=2018-09-17 |url=https://www.cnn.co.jp/travel/35115857-2.html |title= 超音速機コンコルド、実際の乗り心地は? 経験者が振り返る|publisher=CNN |accessdate=2018-10-08}}</ref>。機内隔壁には[[マッハ計]]が設けられ、乗客に巡航速度を知らせていた<ref name="tsubasa197802-159" />。 *: この予約クラスはコンコルドの運航が停止された後、しばらくどの航空会社でも前面に押し出して利用することはなかったが、以前ブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドを共同運航していたシンガポール航空が、[[エアバスA380]]を導入した際に新規導入したクラス「シンガポール航空スイート」の予約クラスとして利用している。 === 製造機材一覧 === [[:en:Concorde aircraft histories|コンコルド機体毎経歴(英文)]]参考 {| class="wikitable sortable" |- bgcolor="#cccccc" !製造番号 !製造型式 !機体登録記号 !使用用途 !航空会社 !初飛行 !履歴 !現状 |- |001 |プロトタイプ |F-WTSS |原型1号機 | |1969年3月2日 |[[1973年6月30日の日食|1973年の日食観測]]に使用 |フランス [[ル・ブルジェ空港]]内 [[ル・ブルジェ航空宇宙博物館]] 展示 |- |002 |プロトタイプ |G-BSST |原型2号機 | |1969年4月9日 |イギリス製造初号機 |イングランド ヨービルトン航空博物館 展示 |- |01 |Series100 |G-AXDN |量産先行型1号機 | |1971年12月17日 |1974年に最高速度Mach2.23を記録<br /> 1977年に引退後回航時、最短着陸距離1800m以下で成功 |イングランド ダックスフォード航空博物館 展示 |- |02 |Series100 |F-WTSA |量産先行型2号機 | |1973年1月10日 |1973年初訪米時の帰路ワシントン-パリ間で3時間33分を記録 |フランス パリ [[オルリー空港]] 展示 |- |201 |Series100 |F-WTSB |量産型1号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1973年12月6日 | |フランス [[エアバス|トゥルーズ空港]]内博物館 展示 |- |202 |Series100 |G-BBDG |量産型2号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1974年2月13日 | |イングランド [[ブルックランズ]]博物館 シミュレーターと併設展示 |- |203 |Series101 |F-BTSC(ex.F-WTSC) |量産型3号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1975年1月31日 | |2000年7月25日<br /> フランス パリ [[シャルル・ド・ゴール空港]]離陸後、[[コンコルド墜落事故|墜落事故]]により喪失 |- |204 |Series102 |G-BOAC |量産型4号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1975年2月27日 |一時米[[ブラニフ航空]]にリース(N81AC)<br /> 1985年に商業飛行で2,380km/hを記録 |イングランド [[マンチェスター空港]]内航空公園 展示 |- |205 |Series101 |F-BVFA |量産型5号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1975年10月25日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94FA) |アメリカ ワシントン [[スミソニアン国立航空宇宙博物館]] 展示 |- |206 |Series102 |G-BOAA |量産型6号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1975年11月5日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94AA)<br /> 1988年ニューヨーク-ロンドン間で2時間55分15秒を記録 |スコットランド イースト・フォーチュン国立航空博物館 展示 |- |207 |Series101 |F-BVFB |量産型7号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1976年3月6日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94FB) |ドイツ [[ジンスハイム自動車・技術博物館]]<br />[[Tu-144 (航空機)|Tu-144]]と併設展示、いずれも機内見学可能 |- |208 |Series102 |G-BOAB |量産型8号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1976年5月18日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94AB)<br /> 1984年ワシントン-ニース間の最長航続距離を記録 |イングランド ロンドン [[ヒースロー空港]] 保管 |- |209 |Series101 |F-BVFC |量産型9号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1976年7月9日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94FC) |フランス [[エアバス|トゥルーズ空港]] 保管 |- |210 |Series102 |G-BOAD |量産型10号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1976年8月25日 |一時[[シンガポール航空]]と共同運航機となり塗装を一部変更、<br /> その後米ブラニフ航空にリース(N94AD) |アメリカ ニューヨーク [[イントレピッド海上航空宇宙博物館]] 展示 |- |211 |Series101 |F-BVFD |量産型11号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1977年2月10日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94FD)<br /> 1982年に引退 |1994年に解体処分 |- |212 |Series102 |G-BOAE |量産型12号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1977年3月17日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94AE) |[[バルバドス]] クライストチャーチ [[グラントレー・アダムス国際空港]] 展示 |- |213 |Series101 |F-BTSD(ex.F-WJAM) |量産型13号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1978年6月26日 |一時米ブラニフ航空にリース(N94SD)<br /> 1996年に2週間限定でペプシコーラアドカラーに塗装 |フランス ル・ブルジェ空港内航空宇宙博物館 展示 |- |214 |Series102 |G-BOAG(ex.G-BFKW) |量産型14号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1978年4月21日 | |アメリカ シアトル [[キング郡国際空港|ボーイング・フィールド]]航空博物館 展示 |- |215 |Series101 |F-BVFF(ex.F-WJAN) |量産型15号機 |[[エールフランス|エールフランス航空]] |1978年12月26日 | |フランス シャルル・ド・ゴール空港 展示 |- |216 |Series102 |G-BOAF(ex.G-BFKX) |量産型16号機 |[[ブリティッシュ・エアウェイズ|英国航空]] |1979年4月20日 |最終製造機 |イングランド [[ブリストル]] フィルトン空港内博物館 展示 |} <gallery widths="250"> ファイル:BAC Concorde 102 G-BOAB British Airways (10446819256).jpg|ロンドン・ヒースロー空港に保管されているG-BOAB ファイル:BA Concorde G-BOAD at the USS Intrepid Museum in New York City.jpg|イントレピッド海上航空宇宙博物館に展示されているG-BOAD ファイル:France-003396 - Goodbye France (16051458638).jpg|シャルル・ド・ゴール空港に展示されているF-BVFF </gallery> == 日本におけるコンコルド == [[Image:concord_kohaku.jpg|thumb|225px|[[日本航空]]に3機の導入が予定されていた当時の想像模型([[交通博物館|旧交通博物館]]所蔵)]] [[File:Concorde 1 94-9-5 kix.jpg|thumb|225px|[[関西国際空港]]に飛来した[[エールフランス]]のコンコルド(1994年9月5日)]] [[フラッグキャリア]]の[[日本航空]]が国際線向けに3機の導入を計画し、[[1965年]]に1973年受領の計画で仮発注を行ったが、その後開発遅延により、1973年の第7次契約延長時に翌年末までの仮契約締結意志のない場合、発注の無条件解約を行う文言を加え、発注時に支払った開発分担金70万ドルを返却の上、1974年から78年までの中期計画における機材計画で導入計画を除外、1974年12月の常務会で契約延長が否定的となり、他の大手航空会社と同様にコンコルドの導入をキャンセルした<ref>第2編石油危機と企業体質の強化 第3章航空公害の低減を目指して 第4節低騒音新機材の導入 コンコルド導入放棄 - 日本航空社史1971〜1981(日本航空 1985年)</ref>。 計画時には、就航時を想定した2種類の塗装案も作成されてマスメディアに公開され、各種記念品も製作されるなど、大々的な広報・広告活動が行われた。この際に日本航空が展示用として、[[銀座]]の模型店・[[天賞堂]]に発注した1/35スケールの大型模型が存在する。白地の胴体に赤と青のライン、尾翼には鶴丸マークという日本航空旅客機の標準塗色に仕上げられたこの模型は、[[1968年]]に完成して日本航空に納入された。大型模型は同社より[[神田 (千代田区)|神田]]の旧[[交通博物館]]に寄贈されて長らく展示された(右の写真参照)。交通博物館閉館後は[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]に移管され、現在は2階のコレクションルームに保存されている。 [[1972年]][[6月12日]]には<!--世界中をまわるデモフライトの一環として-->[[東京国際空港|羽田空港]]にもデモンストレーションのため飛来し、午前10時15分に羽田空港へ到着した時には、約5,000名が見物に訪れた。 日本航空が多くの航空会社と同様に発注をキャンセルした上に、大陸間横断のような長距離飛行が不可能だったこともあり、エールフランスとブリティッシュ・エアウェイズの両社ともに、日本への定期路線に就航させることはなかったが、その後も数回に渡りエールフランスのコンコルドが日本へ飛来した。 [[1979年]][[6月27日]]には、日本で初めての開催となる[[主要国首脳会議|東京サミット]]に出席するフランスの[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ヴァレリー・ジスカールデスタン]]大統領の搭乗機として、羽田空港に飛来した。また[[1990年]]には「[['90長崎旅博覧会]]」のイベント(チャーター便)として[[長崎空港]]に飛来したほか、[[1994年]]には開港翌日の[[関西国際空港]]に飛来した。 日本へ来たのは以下の5回で、デモフライトと、エールフランスの運航によるものである。 * 1972年6月12日-6月15日 [[東京国際空港|羽田空港]]へデモフライト(登録記号:G-BSST) * 1986年5月4日-5月7日 羽田空港 - エールフランスによるフランス大統領東京サミット特別機として2機が来訪(登録記号:F-BVFAとF-BVFB) * 1989年2月23日-2月25日 羽田空港 - エールフランスによる[[昭和天皇]]の[[大喪の礼]]へのフランス大統領特別機(登録記号:F-BVFC) * 1990年9月2日-9月3日 [[長崎空港]] - エールフランスによる[['90長崎旅博覧会]]訪欧親善団チャーター便<ref>[https://this.kiji.is/408096087616603233 【平成の長崎】コンコルド飛来 旅博訪欧親善団乗せ] - 長崎新聞 2018年9月2日</ref>(登録記号:F-BVFF) * 1994年9月5日 [[関西国際空港]] - エールフランスによる関西空港開港記念チャーター便(登録記号:F-BVFC) ** またこのチャーター便が、最後の日本寄港となった事にちなみ、関西空港の展望ホール棟にはレストラン「レジェンド・オブ・コンコルド」が2019年まで存在した<ref>[https://rocketnews24.com/2019/02/03/1170273/ 空の旅気分を地上で満喫 / 機内食が食べられるレストラン「レジェンドオブコンコルド」が超楽しい! 関西国際空港] - ロケットニュース24 2019年2月3日</ref><ref>[https://flyteam.jp/news/article/118696 関空のレジェンドオブコンコルドとスカイビューカフェ、クリスマスに閉店] - FlyTeam 2019年12月5日</ref>。 日本航空はコンコルドの導入はキャンセルしたが、[[2017年]]に[[超音速旅客機]]の開発を行う{{仮リンク|ブーム・テクノロジー|en|Boom Technology}}と資本提携し、20機の優先発注権を確保する予定があると発表した<ref>[https://www.sankei.com/photo/story/news/171205/sty1712050016-n1.html 超音速旅客機導入へ提携 日航、優先発注権を確保 - 読んで見フォト - 産経フォト]</ref>。 == その他 == [[File:G-BOAF rudder damage.jpg|thumb|225px|超音速飛行中にラダーが破損したブリティッシュ・エアウェイズのコンコルド(1989年)]] * [[1971年]][[9月24日]]、イギリス政府がソ連外交官ら105人をスパイ容疑で国外追放した<ref>{{Cite news|title=取り消さねば対抗措置 ソ連 追放事件で英に抗議|date=1971-09-27|newspaper=朝日新聞}}</ref>。このスパイ網は、コンコルドの開発を妨害し、就航を遅らせようとしたものであった<ref>{{Cite news|title=コンコルド開発妨害?|date=1971-09-26|newspaper=朝日新聞|page=7}}</ref>。 * [[1989年]][[4月12日]]に、[[クライストチャーチ]]から[[シドニー]]に向けて飛行中のブリティッシュ・エアウェイズのコンコルドの[[ラダー]]が破損したものの、無事に[[シドニー国際空港]]に到着した。 * ブリティッシュ・エアウェイズは、ヒースロー空港ターミナル5とジョン・F・ケネディ国際空港に、コンコルド搭乗客専用の[[空港ラウンジ]]『コンコルド・ルーム』を用意していた。退役後は[[ファーストクラス]]専用ラウンジとして利用されている<ref>[http://www.britishairways.com/ja-jp/information/lounges/first-lounges Firstラウンジ] - ブリティッシュ・エアウェイズ</ref>。 * フランスの研究チームが[[1973年6月30日の日食|1973年6月30日に西アフリカで見られた皆既日食]]の調査のため、001号機に観測窓などを追加した改造機を使用した。その際、添乗した科学調査団が機内から「[[未確認飛行物体|UFO]]のようなもの」を撮影<!--UFOと断定した専門家も複数いた模様←「未確認」飛行物体だと「断定」する事は日本語的に不可能です。-->、[[ORTF|フランス放送協会]]のテレビ放送でその写真が公開されたことがある<ref>『コズモ別冊UFO写真集1』コズモ出版社、1974年10月20日発行(58-59ページ)。ORTFの放送画面を撮った掲載写真は当時の[[UPI]]{{要曖昧さ回避|date=2021年5月}}-サンテレフォート提供のもの。</ref>。 * [[フランク・プゥルセル]]、[[クロード=ミシェル・シェーンベルク|C・M・シェーンベルク]]共同作曲の『夢の飛行(コンコルド)』という、コンコルドをテーマにした楽曲がある。フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラの演奏によるこの曲では、効果音としてエンジン音(左右方向に飛び去る音)が使われており、曲自体もこのエンジン音から始まる。 * 映画「[[エアポート'80]]」で、主役の[[アラン・ドロン]]が操縦するなど主役級の座を得ている。 * 映画「[[ワイルド・ギース (映画)|ワイルド・ギース]]」で、[[リチャード・バートン]]演じるフォークナー[[大佐]]が、[[イギリス]][[ヒースロー空港]]に到着する際の乗機として登場する。 * 映画「[[007 ムーンレイカー|007/ムーンレイカー]]」で、[[ロジャー・ムーア]]演じる[[ジェームズ・ボンド]][[中佐]]が、[[ブラジル]][[リオデジャネイロ国際空港]]に到着する際の乗機として登場する。 *「[[空飛ぶモンティ・パイソン]]」の初期のスケッチに、コンコルドをネタにした「英仏共同開発の空飛ぶヒツジ」がある。 * 性能は高いが、あまりにも費用も高く採算性の取れないもの、つまり[[コストパフォーマンス|費用対効果]]が低い(コストの回収ができない)ものや、失敗することを予測しつつも、[[埋没費用|これまでに投じた投資]]を無駄にしたくないという心理から、計画を中止できずに更に失敗を重ねてしまう様子などに対して、比喩的にコンコルドが使われることがある。[[コンコルド効果]]を参照。 * 当時のコンコルド関係者からなる「Club Concorde」が、[[2019年]]までにコンコルドを復活させるというプロジェクトを行っているが、計画は難航している。 * かつてはロンドン・ヒースロー空港の隣を走る道路の脇にも、コンコルドの大型模型が展示されていたものの、現在、その模型があった場所は[[エミレーツ航空]]のエアバスA380の模型に入れ替えられてしまい、コンコルドの模型は見られなくなった。 <gallery widths="250"> ファイル:Heathrow Airport - geograph.org.uk - 231165.jpg|ヒースロー空港の近所に展示されていたコンコルドの模型 (画像の左上) ファイル:Emirates A380 Model (6058320187).jpg|かつてコンコルド模型があった場所には、現在エミレーツ航空のA380の模型に変わった。 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書| author=遠藤欽作 | author2= |title=コンコルド: SST(超音速旅客機) 航空輸送時代の革命 | publisher=航空新聞社 | date=1972年|pages=|url=|isbn= }} * {{cite book|和書| author=Wolfgang Tillmans | author2= |title=Concorde (写真集) | publisher= | date=|pages=|url=|isbn=3-88375-273-8 }} * {{cite book|和書| author= | author2= |title=超音速旅客機CONCORDE(AIRLINE旅客機形式シリーズ・スペシャル | publisher=[[イカロス出版]]| date=|pages=|url=|isbn=4-87149-515-9 }} * {{cite book|和書| author=ブライアン・トラブショー| author2= |translator=小路浩史 |title=コンコルド・プロジェクト~栄光と悲劇の怪鳥を支えた男たち | publisher=[[原書房]]| date=2001年|pages=|url=|isbn=9784562034192 }} * {{cite book|和書| author=帆足孝治| author2=遠藤欽作 |title=コンコルド狂想曲: 米、欧、ソ三つどもえの夢の跡‐超音速旅客機に明日はあるか | publisher=[[イカロス出版]]| date=2008年|pages=|url=|isbn=9784863200104 }} == 関連項目 == * 航空会社 ** [[ブリティッシュ・エアウェイズ]](British Airways) ** [[エールフランス]](Air France) ** [[シンガポール航空]](運航はBAが行っていた) ** [[ブラニフ航空]](運航はBA及びAFが行っていた) * 展示 ** [[イントレピッド海上航空宇宙博物館]] ** [[国立航空宇宙博物館#博物館別館|アメリカ国立航空宇宙博物館別館]] ** [[パリ=シャルル・ド・ゴール空港|シャルル・ド・ゴール空港]] * 機体構造 ** [[テールスキッド]] * その他 ** [[Microsoft Flight Simulator|Microsoft Flight Simulator 2000]] - パッケージ表紙に大きく描かれ、コンコルドがデフォルトで収録されたフライトシミュレーター。 ** [[コンコルド効果]] ** [[青木功]] - 日本のプロゴルファー。1983年には日本人で初めて[[PGAツアー]]で優勝を果たすなど、日本を代表する名ゴルファーの一人である。ライバル[[尾崎将司]]のニックネーム「[[ボーイング747|ジャンボ]]尾崎」に比して「'''コンコルド'''青木」と讃えられた。 ** [[淡口憲治]] - 元プロ野球選手。ゴロやライナーの打球が鋭く速いことをコンコルドに例えられた。 ** [[琴若央雄]] - 元大相撲幕内力士。長身をコンコルドに例えられた。 ** [[フサイチコンコルド]] - 競走馬。馬名の由来は[[コンコルド広場]]だが、ダービーを勝った時のスポーツ紙での見出し等で本機にちなみ「音速の末脚」と表現されたことが多かった。 ** [[ロンドン・ヒースロー空港]] - かつて使用されたコンコルドの機体が、今もなお保管されている。 * [[航空工学]] * [[飛行力学]] * [[Tu-144 (航空機)|Tu-144]] - [[ソ連]]で同時期に開発された超音速旅客機。 * {{Portal-inline|航空}} == 外部リンク == {{commonscat|Concorde}} * [https://www.britishairways.com/en-gb/information/about-ba/history-and-heritage/celebrating-concorde British Airways - Celebrating Concorde] {{en icon}} * [http://www.eads.com/web/printout/fr/800/content/400005/3/66/624663.html EADS N.V. - Concorde] {{fr icon}} * {{kotobank}} {{超音速輸送機}} {{Aviation-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こんこると}} [[Category:フランスの旅客機]] [[Category:イギリスの旅客機]] [[Category:超音速輸送機]] [[Category:フランス語の語句]] [[Category:BACの航空機]] [[Category:航空工学]] [[Category:4発ジェット機]]
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1835年
1835年(1835 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1835年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1835}} {{year-definition|1835}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[乙未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[天保]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2495年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]]:[[道光]]15年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]:[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4168年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]]:[[明命]]16年 * [[仏滅紀元]]:2377年 - 2378年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1250年9月1日 - 1251年9月11日 * [[ユダヤ暦]]:5595年3月30日 - 5596年4月10日 * [[ユリウス暦]]:1834年12月20日 - 1835年12月19日 * [[修正ユリウス日]] (MJD): -8721 - -8357 * [[リリウス日]] (LD): 92120 - 92484 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1835}} == できごと == * [[1月6日]]-[[2月6日]] - [[イギリス]]で{{仮リンク|1835年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1835}}。野党[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が多数派を維持。 * [[1月30日]] - 第7代[[アメリカ合衆国大統領]][[アンドリュー・ジャクソン]]の暗殺未遂事件 * [[3月2日]] - [[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]が[[オーストリア皇帝]]に即位 * [[4月18日]] - イギリスで第2次[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]内閣(ホイッグ党政権)成立(-[[1841年]]) * [[10月2日]] - [[ゴンザレスの戦い]]により[[テキサス革命]]が始まる * [[11月16日]] - [[ハレー彗星]]の近日点通過日 * [[12月7日]] - [[ニュルンベルク]]・フュルト間で[[ドイツ]]初の鉄道が開通 == 誕生 == {{see also|Category:1835年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月9日]]([[天保]]5年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]])- [[岩崎弥太郎]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Iwasaki-Yataro Iwasaki Yatarō Japanese industrialist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[三菱財閥]]創業者(&dagger; [[1885年]]) * [[1月10日]](天保5年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]])- [[福澤諭吉|福沢諭吉]]、[[思想家]]・[[慶應義塾]]創設者(&dagger; [[1901年]]) * 1月10日 - [[ハリー・ライト]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手・監督(&dagger; [[1895年]]) * [[1月18日]] - [[ツェーザリ・キュイ]]、[[作曲家]](&dagger; [[1918年]]) * [[2月4日]](天保6年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]])- [[前島密]]、日本近代[[郵便]]創設者(&dagger; [[1919年]]) * [[2月15日]] - [[ディミトリオス・ヴィケラス]]、[[国際オリンピック委員会]]初代会長(&dagger; [[1908年]]) * [[3月3日]](天保6年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]])- [[福岡孝弟]]、[[土佐藩]][[家老]]・[[枢密院 (日本)|枢密]]顧問官(&dagger; 1919年) * [[3月12日]] - [[サイモン・ニューカム]]、[[天文学者]](&dagger; [[1909年]]) * [[3月14日]] - [[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]、天文学者(&dagger; [[1910年]]) * [[3月15日]](天保6年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]])- [[高橋泥舟]]、幕臣・[[幕末の三舟]]の一人(&dagger; [[1903年]]) * 3月15日 - [[エドゥアルト・シュトラウス1世]]、作曲家(&dagger; [[1916年]]) * [[3月17日]](天保6年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]])- [[有栖川宮熾仁親王]]、日本の[[皇族]](&dagger; [[1895年]]) * [[3月23日]](天保6年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]])- [[松方正義]]、第4・6代[[内閣総理大臣]](&dagger; [[1924年]]) * [[3月24日]] - [[ヨーゼフ・シュテファン]]、[[物理学者]](&dagger; [[1893年]]) * [[4月9日]] - [[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]、[[ベルギー]]王(&dagger; 1909年) * [[5月5日]](天保6年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]])- [[松平定安]]、第10代[[松江藩]]主(&dagger; [[1882年]]) * [[5月31日]](天保6年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]])- [[土方歳三]]、[[新選組]]副長(&dagger; [[1869年]]) * [[6月2日]] - [[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]、第256代[[ローマ教皇]](&dagger; [[1914年]]) * 6月2日 - [[ニコライ・ルビンシテイン]]、作曲家(&dagger; [[1881年]]) * [[6月26日]](天保6年[[6月1日 (旧暦)|6月1日]]) - [[三島通庸]]、[[薩摩藩]]士・[[内務省 (日本)|内務]]官僚(&dagger; [[1888年]]) * [[7月10日]] - [[ヘンリク・ヴィエニャフスキ]]、作曲家(+ [[1880年]]) * [[7月23日]](天保6年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]])- [[細川韶邦]]、第11代[[熊本藩]]主(&dagger; [[1876年]]) * [[7月27日]] - [[ジョズエ・カルドゥッチ]]、[[詩人]](&dagger; [[1907年]]) * [[8月2日]] - [[イライシャ・グレイ]]、[[発明家]](&dagger; [[1901年]]) * [[8月21日]](天保6年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[橋本雅邦]]、[[日本画家]](&dagger; [[1908年]]) * [[8月29日]] - [[ジョージ・ワシントン・マクラリー]]、第33代[[アメリカ合衆国陸軍長官]](&dagger; [[1890年]]) * [[10月7日]] - [[フェリクス・ドレーゼケ]]、作曲家(&dagger; [[1913年]]) * [[10月9日]] - [[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]、フランスの作曲家・[[オルガニスト]](&dagger; [[1921年]]) * [[10月11日]] - [[セオドア・トマス]]、指揮者(&dagger; [[1905年]]) * [[10月23日]] - [[アドレー・E・スティーブンソン]]、第23代[[アメリカ合衆国副大統領]](&dagger; [[1914年]]) * [[10月31日]] - [[アドルフ・フォン・バイヤー]]、[[化学者]](&dagger; [[1917年]]) * [[11月25日]] - [[アンドリュー・カーネギー|カーネギー]]、アメリカの[[実業家]](&dagger; 1919年) * [[11月29日]]([[道光]]15年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]])- [[西太后]]、清・[[咸豊帝]]の皇后(&dagger; 1908年) * [[11月30日]] - [[マーク・トウェイン]]、アメリカの[[作家]](&dagger; [[1910年]]) * [[12月3日]](天保6年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]) - [[小松清廉|小松帯刀]]、[[薩摩藩|薩摩藩士]]・[[政治家]](&dagger; [[1870年]]) * [[12月4日]] - [[サミュエル・バトラー]]、作家(&dagger; [[1902年]]) * [[12月11日]] - [[ベンジャミン・スミス・ライマン]]、鉱山学者(&dagger; [[1920年]]) * [[12月17日]] - [[アレキザンダー・アガシー]]、[[エンジニア]]・[[海洋学者]](&dagger; 1910年) == 死去 == {{see also|Category:1835年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]]([[天保]]5年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]])- [[宇田川玄真]]、[[蘭学|蘭学者]]・[[医師]](* [[1769年]]) * [[2月25日]] - [[フリードリヒ・マクシミリアン・クリンガー]]、作家(* [[1752年]]) * [[3月2日]] - [[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Francis-II-Holy-Roman-emperor Francis II Holy Roman emperor] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ]]・[[オーストリア帝国|オーストリア皇帝]](* [[1768年]]) * [[4月8日]] - [[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]、[[言語学|言語学者]]・[[フンボルト大学ベルリン]]創設者(* [[1767年]]) * [[4月26日]] - [[ヘンリー・ケーター]]、[[天文学者]](* [[1777年]]) * [[6月24日]](天保6年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]])- [[松平定通]]、第11代[[伊予松山藩]]主(* [[1805年]]) * [[6月25日]] - [[アントワーヌ=ジャン・グロ]]、[[画家]](* [[1771年]]) * [[7月6日]] - [[ジョン・マーシャル (政治家)|ジョン・マーシャル]]、第4代[[アメリカ合衆国国務長官]](* [[1755年]]) * [[7月28日]] - [[エドワール・モルティエ]]、[[フランス帝国]][[元帥]]・[[フランスの首相|首相]](* [[1768年]]) * [[8月18日]] - [[フリードリヒ・シュトロマイヤー]]、化学者(* [[1776年]]) * [[8月25日]](天保6年[[閏]][[7月2日 (旧暦)|7月2日]])- [[松平斉承]]、第12代[[福井藩]]主(* [[1811年]]) * [[8月30日]] - [[ウィリアム・テイラー・バリー]]、第10代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1784年]]) * [[9月23日]] - [[ヴィンチェンツォ・ベッリーニ]]、作曲家(* [[1801年]]) * [[10月19日]] - [[ヘンドリック・ドゥーフ]]、[[オランダ]]の[[カピタン]](* 1777年) * 10月19日(天保6年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]])- [[赤星因徹]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1810年]]) * [[10月20日]](天保6年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]])- [[田能村竹田]]、[[南画|南画家]](* 1777年) * [[11月21日]](天保6年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]])- [[華岡青洲]]、医師(* [[1760年]]) * [[12月12日]](天保6年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]])- [[細川斉茲]]、第8代[[熊本藩]]主(* 1755年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1835}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1835ねん}} [[Category:1835年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1835%E5%B9%B4
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サラブレッド
サラブレッド(英語: Thoroughbred)とは、18世紀初頭にイギリスでアラブ馬やハンター(狩猟に用いられたイギリス在来の品種)等から競走用に品種改良された軽種馬である。 競馬以外には乗馬やポロなど多数の用途に使用される。オリンピックなどの馬術競技で活躍するサラブレッドも少数ながら存在し、アメリカ合衆国の障害飛越殿堂馬22頭のうち、サラブレッドは15頭にもおよぶ。 語源は thorough [ 完璧な、徹底的な ] + bred [ 品種 ] で人為的に完全管理された血統を意味する。ここから「名家の出」「名門の出」の比喩としても用いられる。 体高(肩までの高さ)は160-170cmほど、体重は450〜500kgが標準的。頭は小さく、四肢は長く、胸や臀部の筋肉は発達しており、速く走ることに向いている。一方でケガや病気をしやすく、物音や閃光に敏感など、虚弱かつ神経質な面もある。 標準的な毛色は、鹿毛・黒鹿毛・栗毛・芦毛で、他に青鹿毛・青毛・栃栗毛がある。白毛・月毛・河原毛・佐目毛・駁毛・粕毛・薄墨毛はかなり珍しい(→馬の毛色参照)。 競走時には人を背負った状態で、数分間継続して50〜70km/hの速度で走る能力を持つ。2002年に日本国内で行われた1000mのレースにおいて、600m-800m区間の200m通過時間9.6秒(時速75km)が計測されたことがある。この馬は負担重量として56キロを背負っていた。 競馬において1000mのレースは短距離に分類されているとはいえ人間の陸上競技でいうと400-800mの中距離走のカテゴリーに当るのでサラブレッドもこの距離をずっとトップスピードで走り続けるのは無理とされるが、2005年にマウントプレザントメドウズで行われた402mの下級戦という更に短距離の競走では終端速度時速84kmを観測している。ただし、この距離ではクォーターホースのほうが早く、同じ競馬場の同じコースにおいて、レース"中間で"時速92.4kmを観測している。 1791年以来、サラブレッドには厳格な血統登録が行われており、1頭1頭に必ず血統書が存在している。原則として、両親がサラブレッドでなければサラブレッドとは認められないが、サラブレッド系種に8代連続サラブレッドを掛け合わせたものは審査を経てサラブレッドと認められる場合がある。 現在の全てのサラブレッドは、父系(サイアーライン)を遡るとゴドルフィンアラビアン、バイアリーターク、ダーレーアラビアンのいずれかにたどりつく。これらを「三大始祖」という。ただしサラブレッドは前述のように品種改良によって生み出された品種であり、三大始祖はいずれもサラブレッドではない。牝系(母系)も1号族・2号族・3号族...とファミリーナンバーで分類されている。 アラブ種の血が混じった馬は、アラブ血量が25%未満ならば「サラブレッド系」、25%以上ならば「アングロアラブ」となる。但し、1974年6月1日の登録規定改正までは、アラブ血量25%未満は「準サラブレッド(準サラ)」としてさらに区別して扱われており、アラブ系限定の競走への出走が不可能となっていたが、規約改正後はサラブレッド系としての扱いとなり、かつ、連続して8代以上サラブレッドと交配して生まれた馬については純粋なサラブレッドの扱いとするルールが定められた。 サラブレッドの生産は繁殖牝馬に種付けすることから始まる。3月から6月までが馬の発情期間であり、その間に適当な種牡馬を種付けするのだが、種付け料は種牡馬によって違い、数千万円にも上る人気種牡馬から、事実上無料の馬もいる。なお人工授精など人為的な方法による受精は認められておらず、自然交配でなければサラブレッドとして認められない。 種付け後無事に受胎(妊娠)し、その後流産などがなければ翌春には仔馬が誕生する。馬の妊娠期間は11か月なので、4月に種付けすれば翌3月には生まれてくるのが普通である。仔馬は生後まもなく立ち上がり母馬から初乳をもらう。生後5,6か月で離乳を迎え、春に生まれた仔馬は秋には仔分されることになり、親から引き離される。さらに2歳になるころから調教を受け人を乗せることを覚えさせられ、早いものでは2歳の春頃から競走馬としてデビューする(以降競走馬参照)。なおこれとは別に最初から馬術競技馬として生産されるサラブレッドもいる。以下競走馬を参照。 国別では右の表に示すようにアメリカ合衆国、オーストラリア、ヨーロッパで数多く生産されている。世界合計は1年間に約9万頭である。特にアメリカのケンタッキー州は世界の馬産の中心といわれ数多くの種牡馬が繋養されていることで知られている。また、アイルランドではクールモアグループが大生産拠点を築いており、イギリスで走っている馬の多くがここで生産される。オーストラリアは世界で最も競馬が盛んとまで言われており、15,000-18,000頭の大きな生産規模を誇っている。 日本における生産頭数は1992年の時点では12,874頭(世界第3位)を数えたが、その後景気低迷とともに減少し、2011年には7,085頭まで落ち込んだ。この内9割程が北海道で生産され、その中でも日高地方は特に重要である。次に多いのは青森県で、他、九州、茨城県等でも生産されている。 馬の年齢の数え方は、生まれたときを0歳(当歳)とし、以後毎年1月1日(南半球では8月1日)に1歳ずつ年をとっていく。なお、日本では2000年まで数え年を採用し生まれたときを1歳として数えていたため、2000年以前の年齢については注意が必要である。詳しくは馬齢参照。 サラブレッドは、イギリス在来のハンター種などの牝馬とアラブ牡馬を交配させ、競争の能力に長けた馬を生産しようとしたことが始まりとされている。 ジェイムズ一世の時代までにはバルブ種が競馬で好成績を残していた記録が残っており、16世紀以前からアラブ馬の輸入はされていたと考えられるが、軍事的な輸出入規制や継続的な在来馬と輸入馬の交配が行われなかったことからサラブレッドという品種は確立していなかった。 現在主にサラブレッドの血統へ影響を与えている輸入馬はバイアリーターク、ダーレイアラビアン、ゴドルフィンアラビアンの三大始祖と呼ばれる3頭である。詳しくは三大始祖を参照。 17世紀から18世紀にかけ、競馬を通じて徐々に淘汰・改良が行われ確立した。当時は体高15ハンド(約152.4cm)が標準的で、当時のサラブレッドを描いた絵画にはアラブ馬の特徴を示すものがよくある。その後次第に大型化、19世紀初頭に16ハンド(約162.56cm)と現在のものに近くなり、体型も変化した。競馬のスタイルがスタミナから末脚を備えたスピードを求めたことも含め、速力も現在ではアラブ種と比較にならないほど高速化している。 現在サラブレッドを定義付けている血統書、ジェネラルスタッドブックは1791年に創刊された。第1巻にサラブレッドという単語はまったく登場せず、1836年に刊行された第4巻で初めて「本書はサラブレッドの登録書である」の旨が明記された。それ以前は単にランニングホースと呼ばれており、一般にサラブレッドという呼び方が定着したのはジェネラルスタッドブックより少しさかのぼるが、それでも18世紀末であった。 転じて
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サラブレッドとは、18世紀初頭にイギリスでアラブ馬やハンター(狩猟に用いられたイギリス在来の品種)等から競走用に品種改良された軽種馬である。 競馬以外には乗馬やポロなど多数の用途に使用される。オリンピックなどの馬術競技で活躍するサラブレッドも少数ながら存在し、アメリカ合衆国の障害飛越殿堂馬22頭のうち、サラブレッドは15頭にもおよぶ。
{{otheruses||映画|サラブレッド (映画)}} {{出典の明記|date=2021-03}} {{Expand English|Thoroughbred|date=2021年3月|fa=yes}} [[ファイル:Equinox 20231126a4.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|[[イクイノックス]](2023年11月26日、ジャパンカップ)]] '''サラブレッド'''({{lang-en|Thoroughbred}})とは、[[18世紀]]初頭に[[イギリス]]で[[アラブ種|アラブ馬]]やハンター([[狩猟]]に用いられたイギリス在来の[[品種]])等から[[競走馬|競走]]用に品種改良された軽種[[ウマ|馬]]である。 競馬以外には[[乗馬]]や[[ポロ]]など多数の用途に使用される。[[近代オリンピック|オリンピック]]などの[[馬術]]競技で活躍するサラブレッドも少数ながら存在し、アメリカ合衆国の障害飛越殿堂馬22頭のうち、サラブレッドは15頭にもおよぶ。 == 名称 == 語源は '''''thorough''''' [ 完璧な、徹底的な ] + '''''bred''''' [ 品種 ] で人為的に完全管理された血統を意味する。ここから「名家の出」「[[名門]]の出」の比喩としても用いられる。 <!--「新・競馬百科」では1700年頃にはまだサラブレッドという語が存在していなかったと記載されており、情報の裏付けが取れない限り記載しないほうが無難と判断。 元々は「名家の出」「[[名門]]の出」の比喩としての良血という意味で用いられており、後年になって当項目の意味合いでも使われるようになった。<ref>{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |page=54}}</ref>--> == 身体的特徴 == [[ファイル:Muybridge race horse animated.gif|300px|right|thumb|疾走するサラブレッド([[エドワード・マイブリッジ|マイブリッジ]]が撮影した連続写真『[[動く馬]]』より)]] 体高(肩までの高さ)は160-170[[センチメートル|cm]]ほど、体重は450〜500kgが標準的。頭は小さく、四肢は長く、胸や臀部の[[筋肉]]は発達しており、速く走ることに向いている。一方でケガや病気をしやすく、物音や閃光に敏感など、虚弱かつ神経質な面もある。 標準的な[[馬の毛色|毛色]]は、[[鹿毛]]・[[黒鹿毛]]・[[栗毛]]・[[芦毛]]で、他に[[青鹿毛]]・[[青毛]]・[[栃栗毛]]がある。[[白毛]]・[[月毛]]・[[河原毛]]・[[佐目毛]]・[[駁毛]]・[[粕毛]]・[[薄墨毛]]はかなり珍しい(→[[馬の毛色]]参照)。 == 能力 == <!-- サラブレッドの大まかな特有さは以下の点が挙げられる。<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |pages=54-59}}</ref> * 神経が鋭敏で気性が荒い * 長い四肢、全身の均等的な美しさ * 薄い皮膚と筋肉の発達 * ストライドを大きく取ったスピードのある雄大な走行 * 綿密な管理の必要性 * 瞬発力、爆発力 * 闘争心、競争心の激しさ * 強く確実な遺伝 --> 競走時には人を背負った状態で、数分間継続して50〜70[[キロメートル毎時|km/h]]の速度で走る能力を持つ。2002年に日本国内で行われた1000mのレースにおいて、600m-800m区間の200m通過時間9.6秒(時速75km)が計測されたことがある<ref name="2002ibissummerdush">[https://p.nikkansports.com/goku-uma/news/article.zpl?topic_id=1&id=1684575&year=2016&month=7&day=26 最速ラップ9秒6は時速75キロ/競走馬総合研究所]</ref>。この馬は負担重量として56キロを背負っていた。 競馬において1000mのレースは短距離に分類されているとはいえ人間の陸上競技でいうと400-800mの中距離走のカテゴリーに当るのでサラブレッドもこの距離をずっとトップスピードで走り続けるのは無理とされる<ref name="2002ibissummerdush"></ref>が、2005年にマウントプレザントメドウズで行われた402mの下級戦という更に短距離の競走では終端速度時速84kmを観測している。ただし、この距離では[[クォーターホース]]のほうが早く、同じ競馬場の同じコースにおいて、レース"中間で"時速92.4kmを観測している<ref>{{cite journal | author = Nielsen BD, Turner KK, Ventura BA, Woodward AD, O'Connor CI | title = アラブ種及びサラブレッド、クォーターホースの競走速度 | journal = 馬獣医学雑誌 |date= 2006 | pages = 128-32 | volume = 38 | issue = S36 }}</ref>。 == 血統 == [[1791年]]以来、サラブレッドには厳格な血統登録が行われており、1頭1頭に必ず[[血統書]]が存在している。原則として、両親がサラブレッドでなければサラブレッドとは認められないが、[[サラブレッド系種]]に8代連続サラブレッドを掛け合わせたものは審査を経てサラブレッドと認められる場合がある。 現在の全てのサラブレッドは、父系([[サイアーライン]])を遡ると[[ゴドルフィンアラビアン]]、[[バイアリーターク]]、[[ダーレーアラビアン]]のいずれかにたどりつく。これらを「[[三大始祖]]」という。ただしサラブレッドは前述のように品種改良によって生み出された品種であり、三大始祖はいずれもサラブレッドではない。牝系(母系)も[[1号族]]・2号族・3号族…と[[ファミリーナンバー]]で分類されている。 [[アラブ種]]の血が混じった馬は、アラブ血量が25%未満ならば「[[サラブレッド系]]」、25%以上ならば「[[アングロアラブ]]」となる。但し、[[1974年]][[6月1日]]の登録規定改正までは、アラブ血量25%未満は「準サラブレッド(準サラ)」としてさらに区別して扱われており、アラブ系限定の競走への出走が不可能となっていたが、規約改正後はサラブレッド系としての扱いとなり、かつ、連続して8代以上サラブレッドと交配して生まれた馬については純粋なサラブレッドの扱いとするルールが定められた<ref>[https://www.jra.go.jp/kouza/yougo/w513.html 競馬用語辞典・準サラ](日本中央競馬会)</ref>。 == 生産 == {| class="floatright wikitable" style="text-align:right" |+ 国別生産頭数(2022年) |- !アメリカ |18,700頭 |- !オーストラリア |12,666頭 |- !アイルランド |9,401頭 |- !日本 |7,782頭 |- !アルゼンチン |6,126頭 |- !フランス |5,024頭 |- !イギリス |4,601頭 |- !ニュージーランド |2,852頭 |- !トルコ |2,293頭 |- !南アフリカ |1,928頭 |- !ブラジル |1,645頭 |- !チリ |1,539頭 |- !ウルグアイ |1,500頭 |- !サウジアラビア |1,483頭 |- !韓国 |1,249頭 |- !カナダ |1,075頭 |- !インド |848頭 |- !ドイツ |677頭 |- !イタリア |670頭 |} サラブレッドの生産は[[繁殖牝馬]]に種付けすることから始まる。3月から6月までが馬の発情期間であり、その間に適当な[[種牡馬]]を種付けするのだが、種付け料は種牡馬によって違い、数千万円にも上る人気種牡馬から、事実上無料の馬もいる。なお人工授精など人為的な方法による受精は認められておらず、自然交配でなければサラブレッドとして認められない。 種付け後無事に受胎([[妊娠]])し、その後流産などがなければ翌春には仔馬が誕生する。馬の妊娠期間は11か月なので、4月に種付けすれば翌3月には生まれてくるのが普通である。仔馬は生後まもなく立ち上がり母馬から初乳をもらう。生後5,6か月で離乳を迎え、春に生まれた仔馬は秋には仔分されることになり、親から引き離される。さらに2歳になるころから[[調教]]を受け人を乗せることを覚えさせられ、早いものでは2歳の春頃から[[競走馬]]としてデビューする(以降[[競走馬]]参照)。なおこれとは別に最初から[[馬術]]競技馬として生産されるサラブレッドもいる。以下[[競走馬]]を参照。 === 各国の生産状況 === 国別では右の表に示すように[[アメリカ合衆国]]、[[オーストラリア]]、[[ヨーロッパ]]で数多く生産されている。世界合計は1年間に約9万頭である。特にアメリカの[[ケンタッキー州]]は世界の馬産の中心といわれ数多くの[[種牡馬]]が繋養されていることで知られている。また、[[アイルランド]]では[[クールモアスタッド|クールモアグループ]]が大生産拠点を築いており、[[イギリス]]で走っている馬の多くがここで生産される。オーストラリアは世界で最も競馬が盛んとまで言われており、15,000-18,000頭の大きな生産規模を誇っている。 日本における生産頭数は[[1992年]]の時点では12,874頭(世界第3位)を数えたが、その後景気低迷とともに減少し、[[2011年]]には7,085頭<ref>[http://www.jairs.jp/contents/archives/2012/7.html 2011年の生産頭数] - [[ジャパン・スタッドブック・インターナショナル]] 軽種馬登録ニュース 2012年1月31日閲覧</ref>まで落ち込んだ。この内9割程が[[北海道]]で生産され、その中でも[[日高振興局|日高地方]]は特に重要である。次に多いのは[[青森県]]で、他、[[九州]]、[[茨城県]]等でも生産されている。 === 年齢の数え方 === 馬の年齢の数え方は、生まれたときを0歳(当歳)とし、以後毎年1月1日(南半球では8月1日)に1歳ずつ年をとっていく。なお、日本では[[2000年]]まで[[数え年]]を採用し生まれたときを1歳として数えていたため、2000年以前の年齢については注意が必要である。詳しくは[[馬齢]]参照。 == 歴史 == [[ファイル:Godolphin_Arabian.jpg|240px|thumb|サラブレッドの元となった馬の中で最大の影響を持つ[[ゴドルフィンアラビアン]]。[[三大始祖]]の1頭でもある]] サラブレッドは、[[イギリス]]在来の[[ハンター]]種などの牝馬と[[アラブ種|アラブ牡馬]]を交配させ、競争の能力に長けた馬を生産しようとしたことが始まりとされている。<ref name=":0" /> [[ジェイムズ1世|ジェイムズ一世]]の時代までには[[バルブ種]]が競馬で好成績を残していた記録が残っており、[[16世紀]]以前からアラブ馬の輸入はされていたと考えられるが、軍事的な輸出入規制や継続的な在来馬と輸入馬の交配が行われなかったことからサラブレッドという品種は確立していなかった。<ref name=":0" /> 現在主にサラブレッドの血統へ影響を与えている輸入馬は[[バイアリーターク]]、[[ダーレイアラビアン]]、[[ゴドルフィンアラビアン]]の三大始祖と呼ばれる3頭である。<ref name=":0" />詳しくは[[三大始祖]]を参照。 [[17世紀]]から[[18世紀]]にかけ、[[競馬]]を通じて徐々に[[選択 (進化)|淘汰]]・[[改良]]が行われ確立した。当時は体高15[[ハンド (単位)|ハンド]](約152.4cm)が標準的で、当時のサラブレッドを描いた[[絵画]]にはアラブ馬の特徴を示すものがよくある。その後次第に大型化、19世紀初頭に16ハンド(約162.56cm)と現在のものに近くなり、体型も変化した。競馬のスタイルがスタミナから末脚を備えたスピードを求めたことも含め、速力も現在ではアラブ種と比較にならないほど高速化している。<!--ドバイワールドカップデーに行われる純血アラブ競走[[ドバイカハイラクラシック]]は2分15秒近辺での決着が一般的だが、同日同条件で行われるサラブレッド競走[[ドバイワールドカップ]]は2分付近での決着が一般的である。仮に同時にスタートすれば、アラブ馬が直線半ばを走っているときすでにゴールしていることになる。--> 現在サラブレッドを定義付けている[[血統書]]、[[ジェネラルスタッドブック]]は[[1791年]]に[[創刊]]された。第1巻にサラブレッドという単語はまったく登場せず、[[1836年]]に刊行された第4巻で初めて「本書はサラブレッドの登録書である」の旨が明記された。それ以前は単に''ランニングホース''と呼ばれており、一般にサラブレッドという呼び方が定着したのはジェネラルスタッドブックより少しさかのぼるが、それでも[[18世紀]]末であった。 {{節スタブ}} == 関連 == 転じて * 名門に生まれた人を指して、'''サラブレッド'''に喩えることがある(政界のサラブレッドなど)。 * 純血種の犬や馬のことを'''"thoroughbred"'''という。 * AMD製のCPUの[[AthlonXP]]プロセッサの[[コード名]]は'''"Thoroughbred"'''。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=イギリス文化と近代競馬 |date=2013年10月25日 |publisher=彩流社 |pages=54-59}}</ref> }} == 関連項目 == {{commons&cat|Thoroughbred}} * [[サラブレッド系種]] * [[ジェネラルスタッドブック]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さらふれつと}} [[Category:サラブレッド|*]] [[Category:馬の品種]] [[Category:競走馬|*さらふれつと]]
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サラブレッド系種
サラブレッド系種(サラブレッドけいしゅ)とは、血統書紛失などで血統が不確かでサラブレッドの条件である三大始祖に遡れない馬。あるいはサラブレッドとアングロアラブ(アラ・サラ雑種)の掛け合わせでアラブ血量が25%未満の馬である。 単にサラブレッド系、サラ系などとも呼ぶ。 なお、JRAは競馬番組一般事項において、サラブレッドとサラブレッド系種を総称してサラブレッド系と称している。こちらもサラ系と略す場合がある。このため、サラブレッド系種をサラブレッド系、サラ系と呼ぶ場合は注意が必要な場合がある。 サラブレッドという語が登場するのは早くても18世紀の終わりか、19世紀になってからとされている。それ以前は、ランニングホースと呼ばれていた。しかし人間の都合で作られたサラブレッドは、イギリスではこの馬の血統を記録したジェネラルスタッドブックが刊行され、やがて同書がサラブレッドの血統の権威となった。同書では1836年の版で初めて「サラブレッド」という語が登場する。 日本への洋種馬の本格的な導入は、記録が不明確ではあるものの、幕末から明治初期の19世紀半ばから始まっており、この時代に持ち込まれた馬の中にはサラブレッドであると記録されているものもある。日露戦争(1904-1905年)を経て明治末期には日本国内でも本格的な馬産・競馬が行われるようになったが、早いものでは19世紀末から20世紀の初頭に日本に持ち込まれたり、日本国内で生産されたサラブレッドもいた。 しかし豪サラと呼ばれたオーストラリアから輸入した馬の中には血統書がなかったり、紛失した馬がいた。 当時「サラブレッド」は単に「競走で速い馬」を意味しており、サラブレッドとサラブレッドを交配して得たウマはサラブレッドとみなされた。日本国内では1922年に馬籍法が整備されたが、単に品種を登録すればサラブレッドと認められるものであり、祖先の血統の証明までは必要とされていなかった。 しかし、1901年に刊行されたジェネラルスタッドブックで初めてサラブレッドの定義が示され、1913年にはジャージー規則が完成した。これによると、すべての祖先馬が過去に刊行されたジェネラルスタッドブックに遡ることができなければ、サラブレッドとは認められないことになった。それにより過去にサラブレッドとされた馬も、その血統が書面で証明されなければ、サラブレッドではないものとされるようになった。こうした馬や、これらを祖先にもつ馬も日本国内では「サラブレッド(純粋種)ではない」とされ、血統不明の「サラ系」と呼称するようになった。 ジャージー規則によって、アメリカやフランスでも同様の問題が起きた。アメリカやフランス国内では「サラブレッド」とされる馬が、イギリスでは「サラブレッド系」とされた。ジャージー規則は1949年に廃止され、1969年にはさらに緩和されて、必ずしもジェネラルスタッドブックにたどり着かずともサラブレッドと認められる要件が整備された。 また以前はサラブレッドとの交配でアラブ血量が25%を下回ったアングロアラブ馬は「準サラブレッド(準サラとも)」と呼ばれていたが、1974年(昭和49年)6月1日の登録規程の改正により、準サラはサラ系に含まれると見なされ、準サラという品種は廃止された。 なお、日本の在来馬に4代続けてサラブレッド、アラブ馬、アングロアラブ、アラブ系種、サラブレッド系種を配合した仔はサラブレッド系種と認められる(アラブ血量が25%未満の場合)。サラブレッド系種は8代続けてサラブレッドと配合された仔で国際血統書委員会よりサラブレッドと同等の能力を有すると認められた場合は純粋なサラブレッドの扱いとして認められる。しかし国際血統書委員会の審査を受けなければサラブレッドとは認められないため、実際には8代以上続けてサラブレッドを配合されているにもかかわらず審査を受けていないために「サラ系」の称号が消えていないままの馬も見られる。(以前は日本の軽種馬協会が独自に「8代続けてサラブレッドと配合されたサラ系の仔はサラブレッドと認める」という基準を示していたが、現在は国際血統書委員会を通さないと認められなくなった。) 例として、血統書が紛失していたためサラ系とされたミラの子孫のナリタマイスターのファミリーラインを挙げる。 第三ミラから8代続けてサラブレッドが交配され、ナリタマイスターはサラブレッドと認められた。 また、先祖が全て国際血統書委員会に登録されている馬でも、8代以内に血統不明の馬がいる馬はサラ系とみなす。19世紀中頃以降発祥の比較的歴史の浅い母系(コロニアルナンバーなど)の血を引く馬に見られ、1979年の菊花賞馬ハシハーミットの母系は祖母の代まではサラ系とみなされていた。 「サラ系」の馬は、明治から昭和中期の頃はレースで強さを見せればさほど問題にはならなかった。これは、競馬開催の目的が、軍馬の改良を主に置いており、血統よりも強く、能力の高い馬こそが重要であり、馬匹改良に役立つと考えられていたからであるが、戦後を迎え、純粋に競馬を目的とした馬産に移行するにともない、サラブレッドにとって「強さより血統」の重要性が認識され、一方サラ系の馬は嫌われた。 牝馬はある程度の競走能力が認められ、仔出しが良ければ、牧場・生産者にとって大切な存在になったが、牡馬の場合は能力以前に種牡馬になると種付けをして生まれた仔が全てサラ系になってしまうため嫌われた。昭和以降ではサラ系で種牡馬として一応成功といえるの実績を残した馬はキタノダイオーなどごく一部で、キタノオー、ヒカルイマイといったダービーや天皇賞などに勝ったウマですら嫌われ、種牡馬としては全くと言っていいほどチャンスを与えられなかった。 結果として、サラ系の馬は消えていった。1970年代までは中央競馬でも条件戦では1レースに1頭くらいはサラ系の馬は見つけられたし、1980年代前半まではグランパズドリームなどクラシック路線に進むサラ系馬も少なくなかったのだが、1980年代以降はほとんど見られなくなっている。しかし実力主義の地方競馬ではサラ系馬も多く見られた。1990年代以降は1920年あたりまでに輸入されたサラ系牝馬から8代前後続けてサラブレッドを交配された時期に来ており、サラブレッドとして認められた牝系が増え始めている。2009年度に登録されているサラ系の繁殖牝馬は僅か6頭に過ぎない。21世紀を迎えた現在でも生き残っているサラ系馬は多くがミラとバウアーストツクの子孫である。 なお、JRAはヒカルイマイやランドプリンスの登場をきっかけに、ミラなどの「豪サラ」と通称されるサラ系の血統を調査するべくオーストラリアに職員を派遣したことがある。しかし、調査時点でも既に70年以上前の古い馬であるために調査も限界があり、結局つきとめられなかった。 また最近、アングロアラブ馬産の壊滅により用途が無くなったアングロアラブ牝馬を活かす、または牧場にとって由緒の深いアラブ系の血統を残すための手段として、アラブ血量が比較的薄い(30%以下)アングロアラブ牝馬にサラブレッド種牡馬を配合して産まれたサラ系馬(準サラ)が再び出現している。 この馬の場合、母のアラブ血量は26.91%とかなり薄く、サラブレッドを配合された本馬はアラブ血量13.46%のサラ系馬になる。血統の86%以上はサラブレッドだけに、ほぼサラブレッドと変わりない能力も期待しうる。
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サラブレッド系種(サラブレッドけいしゅ)とは、血統書紛失などで血統が不確かでサラブレッドの条件である三大始祖に遡れない馬。あるいはサラブレッドとアングロアラブ(アラ・サラ雑種)の掛け合わせでアラブ血量が25%未満の馬である。 単にサラブレッド系、サラ系などとも呼ぶ。 サラブレッド × サラブレッド系種 サラブレッド系種 × サラブレッド系種 サラブレッド × アングロアラブ(アラブ系種) サラブレッド系種 × アングロアラブ(アラブ系種) 軽半種にサラブレッド種(あるいは同系種)を2代掛け合わせたもの なお、JRAは競馬番組一般事項において、サラブレッドとサラブレッド系種を総称してサラブレッド系と称している。こちらもサラ系と略す場合がある。このため、サラブレッド系種をサラブレッド系、サラ系と呼ぶ場合は注意が必要な場合がある。
{{出典の明記|date=2015年7月}} '''サラブレッド系種'''(サラブレッドけいしゅ)とは、血統書紛失などで血統が不確かで[[サラブレッド]]の条件である三大始祖に遡れない馬。あるいはサラブレッドとアングロアラブ(アラ・サラ雑種)の掛け合わせで[[アラブ血量]]が25%未満の馬である。 単に'''サラブレッド系'''、'''サラ系'''などとも呼ぶ。 * [[サラブレッド]] × サラブレッド系種 * サラブレッド系種 × サラブレッド系種 * サラブレッド × [[アングロアラブ]]([[アラブ系種]]) * サラブレッド系種 × アングロアラブ(アラブ系種) * 軽半種にサラブレッド種(あるいは同系種)を2代掛け合わせたもの なお、JRAは競馬番組一般事項において、サラブレッドとサラブレッド系種を総称してサラブレッド系と称している。こちらもサラ系と略す場合がある。このため、サラブレッド系種をサラブレッド系、サラ系と呼ぶ場合は注意が必要な場合がある。 == 概要 == [[サラブレッド]]という語が登場するのは早くても18世紀の終わりか、19世紀になってからとされている。それ以前は、ランニングホースと呼ばれていた。しかし人間の都合で作られたサラブレッドは、イギリスではこの馬の血統を記録した[[ジェネラルスタッドブック]]が刊行され、やがて同書がサラブレッドの血統の権威となった。同書では1836年の版で初めて「サラブレッド」という語が登場する。 日本への洋種馬の本格的な導入は、記録が不明確ではあるものの、幕末から明治初期の19世紀半ばから始まっており、この時代に持ち込まれた馬の中にはサラブレッドであると記録されているものもある。日露戦争(1904-1905年)を経て明治末期には日本国内でも本格的な馬産・競馬が行われるようになったが、早いものでは19世紀末から20世紀の初頭に日本に持ち込まれたり、日本国内で生産されたサラブレッドもいた。 しかし[[豪サラ]]と呼ばれたオーストラリアから輸入した馬の中には血統書がなかったり、紛失した馬がいた。 当時「サラブレッド」は単に「競走で速い馬」を意味しており、サラブレッドとサラブレッドを交配して得たウマはサラブレッドとみなされた。日本国内では1922年に馬籍法が整備されたが、単に品種を登録すればサラブレッドと認められるものであり、祖先の血統の証明までは必要とされていなかった。 しかし、1901年に刊行されたジェネラルスタッドブックで初めてサラブレッドの定義が示され、1913年には[[ジャージー規則]]が完成した。これによると、すべての祖先馬が過去に刊行されたジェネラルスタッドブックに遡ることができなければ、サラブレッドとは認められないことになった。それにより過去にサラブレッドとされた馬も、その血統が書面で証明されなければ、サラブレッドではないものとされるようになった。こうした馬や、これらを祖先にもつ馬も日本国内では「サラブレッド(純粋種)ではない」とされ、血統不明の「サラ系」と呼称するようになった。 ジャージー規則によって、アメリカやフランスでも同様の問題が起きた。アメリカやフランス国内では「サラブレッド」とされる馬が、イギリスでは「サラブレッド系」とされた。ジャージー規則は1949年に廃止され、1969年にはさらに緩和されて、必ずしもジェネラルスタッドブックにたどり着かずともサラブレッドと認められる要件が整備された。 また以前はサラブレッドとの交配でアラブ血量が25%を下回ったアングロアラブ馬は「'''準サラブレッド(準サラとも)'''」と呼ばれていたが、[[1974年]](昭和49年)[[6月1日]]の登録規程の改正により、準サラはサラ系に含まれると見なされ、準サラという品種は廃止された<ref name=競馬用語辞典>[https://www.jra.go.jp/kouza/yougo/w513.html 競馬用語辞典・準サラ](日本中央競馬会)</ref>。 なお、日本の在来馬に4代続けてサラブレッド、[[アラブ馬]]、アングロアラブ、アラブ系種、サラブレッド系種を配合した仔はサラブレッド系種と認められる(アラブ血量が25%未満の場合)。サラブレッド系種は8代続けてサラブレッドと配合された仔で[[国際血統書委員会]]よりサラブレッドと同等の能力を有すると認められた場合は純粋なサラブレッドの扱いとして認められる<ref name=競馬用語辞典/>。しかし国際血統書委員会の審査を受けなければサラブレッドとは認められないため、実際には8代以上続けてサラブレッドを配合されているにもかかわらず審査を受けていないために「サラ系」の称号が消えていないままの馬も見られる。(以前は日本の軽種馬協会が独自に「8代続けてサラブレッドと配合されたサラ系の仔はサラブレッドと認める」という基準を示していたが、現在は国際血統書委員会を通さないと認められなくなった。) 例として、血統書が紛失していたためサラ系とされた[[ミラ (競走馬)|ミラ]]の子孫のナリタマイスターの[[ファミリーライン]]を挙げる。 第三ミラから8代続けてサラブレッドが交配され、ナリタマイスターはサラブレッドと認められた。 *サラ系 *[[ミラ (競走馬)|ミラ]]([[1895年]]生まれ、オーストラリアより輸入。血統不詳) **サラ系 第三ミラ([[1912年]]生まれ、父サラ系 第二スプーネー) ***サラ系 竜玉([[1928年]]生まれ、父[[サラブレッド|サラ]] *[[チヤペルブラムプトン]]) ****サラ系 安俊([[1939年]]生まれ、父サラ [[月友]]) *****サラ系 ムールドカール([[1947年]]生まれ、父サラ [[トキノチカラ]]) ******サラ系 ミスカツクモ([[1953年]]生まれ、父サラ *ヴイーノーピユロー) *******サラ系 ハナカイドウ([[1967年]]生まれ、父サラ *エイトラックス) ********サラ系 ヤグララナー([[1979年]]生まれ、父サラ *ラナーク) *********サラ系 ヤグラステラ([[1985年]]生まれ、父サラ *[[シーホーク (競走馬)|シーホーク]]) **********サラ ナリタマイスター([[1993年]]生まれ、父サラ *[[サンデーサイレンス]]) * シャトレーダンサー - ヴィークル・メアとして国際血統書委員会に承認された馬。この馬の仔の代からサラブレッドに昇格する。ヒカリデュールの妹の孫にあたる<ref>[http://www.studbook.jp/ja/news/archives/archive_2005.php 財団法人 日本軽種馬登録協会 -- 過去のニュース --]</ref>。 また、先祖が全て国際血統書委員会に登録されている馬でも、8代以内に血統不明の馬がいる馬はサラ系とみなす。[[19世紀]]中頃以降発祥の比較的歴史の浅い母系([[コロニアルナンバー]]など)の血を引く馬に見られ、[[1979年]]の菊花賞馬[[ハシハーミット]]の母系は祖母の代まではサラ系とみなされていた。 == 「サラ系」の烙印 == 「サラ系」の馬は、明治から昭和中期の頃はレースで強さを見せればさほど問題にはならなかった。これは、競馬開催の目的が、軍馬の改良を主に置いており、血統よりも強く、能力の高い馬こそが重要であり、馬匹改良に役立つと考えられていたからであるが、戦後を迎え、純粋に競馬を目的とした馬産に移行するにともない、サラブレッドにとって「強さより血統」の重要性が認識され、一方サラ系の馬は嫌われた。 牝馬はある程度の競走能力が認められ、仔出しが良ければ、牧場・生産者にとって大切な存在になったが、牡馬の場合は能力以前に種牡馬になると種付けをして生まれた仔が全てサラ系になってしまうため嫌われた。昭和以降ではサラ系で種牡馬として一応成功といえるの実績を残した馬は[[キタノダイオー]]などごく一部で、[[キタノオー]]、[[ヒカルイマイ]]といったダービーや天皇賞などに勝ったウマですら嫌われ、種牡馬としては全くと言っていいほどチャンスを与えられなかった。 結果として、サラ系の馬は消えていった。[[1970年代]]までは[[中央競馬]]でも条件戦では1レースに1頭くらいはサラ系の馬は見つけられたし、[[1980年代]]前半までは[[グランパズドリーム]]などクラシック路線に進むサラ系馬も少なくなかったのだが、1980年代以降はほとんど見られなくなっている。しかし実力主義の[[地方競馬]]ではサラ系馬も多く見られた。1990年代以降は[[1920年]]あたりまでに輸入されたサラ系牝馬から8代前後続けてサラブレッドを交配された時期に来ており、サラブレッドとして認められた牝系が増え始めている。[[2009年]]度に登録されているサラ系の繁殖牝馬は僅か6頭に過ぎない。[[21世紀]]を迎えた現在でも生き残っているサラ系馬は多くがミラとバウアーストツクの子孫である。 なお、JRAはヒカルイマイや[[ランドプリンス]]の登場をきっかけに、ミラなどの「[[豪サラ]]」と通称されるサラ系の血統を調査するべく[[オーストラリア]]に職員を派遣したことがある。しかし、調査時点でも既に70年以上前の古い馬であるために調査も限界があり、結局つきとめられなかった。 また最近、アングロアラブ馬産の壊滅により用途が無くなったアングロアラブ牝馬を活かす、または牧場にとって由緒の深いアラブ系の血統を残すための手段として、アラブ血量が比較的薄い(30%以下)アングロアラブ牝馬にサラブレッド種牡馬を配合して産まれたサラ系馬(準サラ)が再び出現している。 * 例:トライバルジャパン この馬の場合、母のアラブ血量は26.91%とかなり薄く、サラブレッドを配合された本馬はアラブ血量13.46%のサラ系馬になる。血統の86%以上はサラブレッドだけに、ほぼサラブレッドと変わりない能力も期待しうる。 == 有名なサラブレッド系種の馬 == * [[ミラ (競走馬)|ミラ]] - オーストラリアから輸入。血統書が紛失していたためサラ系とされた。[[1900年]]春の[[帝室御賞典|横濱御賞典]]などを制している。 * [[第二メルボルン]] - オーストラリアから輸入。血統書が紛失していたためサラ系とされた。[[1907年]]春の横濱御賞典馬。 * [[バウアーストツク]] - オーストラリアから輸入。血統書に血統不明の馬がいたためサラ系とされたが、最近の研究ではほぼサラブレッドに間違いないということが判明している。 * [[バイカ]] - [[1904年]]産まれだが輸入年次は不明であり、血統も不明。仔の[[バイクワ]](繁殖名第三シャエロック)が[[1923年]]の[[帝室御賞典|函館御賞典]]を勝ち、その血脈を広めた。 * 宝永 - オーストラリアから輸入。血統が不明であったためサラ系とされた。産駒に4頭の帝室御賞典優勝馬がおり、宝永自身も1914年春の阪神御賞典優勝馬「ホーエイ」ではないかと考えられている。 * [[ガロン_(競走馬)#ピューアゴウルド|ピューアゴールド]] - 1923年春の東京御賞典優勝馬。牝馬ながら10戦9勝という成績を残し、[[クリフジ]]が出るまで10戦以上出走馬の最高勝率記録を保持した。宝永の仔。 * [[バンザイ (競走馬)|バンザイ]] - 1924年春の東京御賞典優勝馬。宝永の仔。 * [[カーネーション (競走馬)|カーネーション]] - 1925年秋の東京御賞典優勝馬。繁殖名「国宝」として第7回[[東京優駿|東京優駿競走]]優勝馬[[スゲヌマ]]を産んだ。宝永の仔。 *[[コウエイ (競走馬)|コウエイ]] - 1926年秋の東京御賞典優勝馬。宝永の仔。 * [[ガロン (競走馬)#ナスノ|ナスノ]] - 1929年秋の横濱御賞典優勝馬。祖母が血統不詳であったためサラ系とされた。[[ハクシヨウ (1924年生)|初代ハクショウ]]とともに、昭和初期を代表する名馬の一頭。 * [[ワカタカ]] - 第1回[[東京優駿|東京優駿大競走]]に優勝。ミラ系。 * [[ハセパーク]] - 第2回[[天皇賞(春)|帝室御賞典(春)]]に優勝。 * [[スゲヌマ]] - 東京優駿競走と帝室御賞典(春)に優勝。国宝(カーネーション)の仔。 * [[カイソウ]] - [[1944年]][[東京優駿]]。軽半([[トロッター]]系)の母系をもっていたためサラ系とされ、種牡馬失格の烙印を押され軍馬となり、[[名古屋大空襲]]で行方不明となる。 * [[ブラウニー (競走馬)|ブラウニー]] - [[1947年]][[桜花賞]]・[[菊花賞]]。サラ系馬天の川に遡る。クラシックでは同期の[[トキツカゼ]]に劣らぬ戦果を挙げたが、血統が災いし繁殖では完敗に終わる。 * [[ワカクサ]] - [[1952年]][[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]・[[1953年]][[神戸新聞杯|神戸盃]]など28勝。バイカ系。 * [[ダイニカツフジ]] - [[1953年]][[朝日チャレンジカップ]]・[[1955年]] - [[1956年]][[京都大障害]](秋)。ブラウニーの弟。日本競馬界では貴重な平地と障害の重賞を制した馬。 * [[ヨシフサ]] -[[1955年]][[クモハタ記念]]、[[1956年]][[安田記念|安田賞]]、南関東競馬で[[1958年]][[金盃]]、[[報知オールスターカップ|川崎記念]]。6代母ホーソーンの父が純血アラブユスーフ、5代母第五ホーソーンの父はアングロアラブの第七ガイヨル。 * [[セカイオー]] - [[1956年]] - [[1958年]][[鳴尾記念]]3連覇。[[幕末]]に[[フランス]]から寄贈された牝馬・[[高砂 (馬)|高砂]]を先祖に持つ。 * [[キタノオー]]、[[キタノヒカリ]]、[[キタノオーザ]] - バウアーストツクの孫。キタノオーとキタノオーザは共に菊花賞を制覇。牝馬のキタノヒカリも兄・キタノオーが制した[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]を制している。 * [[ダイニコトブキ]] - [[1958年]][[桜花賞 (浦和競馬)|浦和桜花賞]]、[[羽田盃]]、春の鞍(現在の[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]])、秋の鞍(現在の[[東京大賞典]])。1950年代の[[南関東公営競馬]]の最強馬の一頭。ミラの末裔。 * [[ケニイモア]] - [[1958年]][[中山大障害]](春・秋)。ブラウニー及びダイニカツフジの妹。姉や兄と違い、血の継続を果たすことが出来た。 * [[アイテイオー]] - [[1963年]][[優駿牝馬]]。キタノヒカリの仔。娘のアイテイシローも[[京都牝馬ステークス|京都牝馬特別]]を制している。 * [[キタノダイオー]] - キタノヒカリの仔。終始故障に悩まされたが7戦不敗の成績を残し、種牡馬としてもまずまず成功を収めた。 * [[シーエース]] - [[1967年]]桜花賞。ミラ系。 * [[ヒカルイマイ]] - [[1971年]][[皐月賞]]・東京優駿。ミラ系。種牡馬として北海道から鹿児島県のニルキング牧場へ。同地にて死去。産駒にナンシンミラー・ヒカルロレンスオー。 * [[ランドプリンス]] - [[1972年]]皐月賞。ミラの末裔で、[[テスコボーイ]]初年度代表産駒でもある。 * [[イナボレス]] - [[1972年]][[オールカマー]]・[[1974年]][[中山金杯|金杯(東)]]・[[目黒記念|目黒記念(秋)]]、[[1975年]][[愛知杯]]。'''走る労働者'''の異名を持つ。アラブ馬・高砂の末裔である。馬主は旧[[民社党]]の[[国会議員]]、[[稲富稜人]]で、[[1972年]]の[[第33回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]の年にも多額の賞金を稼ぎ出した。 * [[ヒダコガネ]] - [[1973年]][[クイーンステークス]]。母系を辿ると、豊泉系と呼ばれる日本在来馬の血統に行き着く。 * [[ハシハーミット]]- [[1979年]][[菊花賞]]。イースタオー系。 * [[ヒカリデユール]] - [[1982年]][[有馬記念]]。同年、サラ系競走馬として初めて[[JRA賞|年度代表馬]]に選ばれた。アイテイオーの孫。 * [[キョウワサンダー]] - [[1984年]][[エリザベス女王杯]]。キタノヒカリの曾孫。2019年現在までの所、グレード制施行後サラ系で唯一の中央GI競走優勝馬。産駒は1頭しか残せなかった。 * [[リュウズイショウ]] - [[1984年]][[東海ダービー]]など。バイカ系。 * [[グランパズドリーム]] - [[1986年]]東京優駿2着。ケニイモアの孫。[[サラブレッドクラブ・ラフィアン|マイネル軍団]]総帥[[岡田繁幸]]の最初期の持ち馬。父は[[カブラヤオー]]。 * [[コーナンルビー]] - [[1987年]][[帝王賞]]。セカイオー・イナボレスと同じく、母系はアラブ馬・高砂に遡る。 * [[ヤグラステラ]] - [[1988年]][[サファイヤステークス]]、[[1991年]][[福島記念]] 産駒は1頭しか残せなかった。ミラの末裔。 * [[ハクホウクン]] - [[白毛|白毛馬]]。父ハクタイユー(白毛)はサラブレッドだが、母ウインドアポロツサが[[アングロアラブ]]。ただし、この馬については、遺伝による白毛馬再現のための配合という実験的な意味合いが小さくない。 * [[マイネルビンテージ]] - [[2000年]][[京成杯]]。母系はフロリースカップ系だが、母(マイネセラヴィ)の父がサラ系のグランパズドリーム。岡田繁幸が立ち上げた[[サラブレッドクラブ・ラフィアン]]の所有馬である。2019年現在までの所最新のサラ系中央重賞勝ち馬。 * [[バイオレットマーチ]] - [[2000年]]和布刈特別。父は[[リュウズイショウ]]。 * [[ハートランドヒリュ]] - 中央競馬のサラブレッド系種最多出走記録(127戦)。バイカ系。調教中に循環器不全で死亡した。父は[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]、[[日経新春杯]]勝ちの[[ランドヒリュウ]]。 * [[ツルオカオウジ]] - [[2010年]][[黒潮盃]]。母の母の父がヒカリデユール。 * [[ゴーディー]] - [[2012年]] [[2017年]][[サンタアニタトロフィー]]。母がアングロアラブの活躍馬[[イケノエメラルド]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[サラブレッド]] * [[アラブ種]] * [[アングロアラブ]] * [[アラブ系種]] * [[ブリティッシュ・ハーフブレッド]] == 外部リンク == * [http://www.studbook.jp/ja/guide.php#vehicle ヴィークル・メア] - サラ系馬をサラブレッドへ昇格させるための条件 {{DEFAULTSORT:さらふれつとけいしゆ}} [[Category:馬の品種]] [[Category:競走馬|*さらふれつとけいしゆ]]
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シヴィライゼーション
『シヴィライゼーション』(Civilization) は、文明をモチーフとしたターン制のシミュレーションゲーム(ストラテジーゲーム)シリーズ。 人類文明の歴史と発展をテーマにしたターン制のストラテジーゲームである。その内容は国土の整備や技術開発、他国との外交関係などであり、単純に数値の大きさや強さのみを求めるのではなく、ゲーム内で有機的に繰り広げられる国際秩序を注視し、常に一手先を読んだ総合戦略が求められる(#ゲームシステム)。 ボードゲームとコンピュータゲームがあり、特にコンピュータゲームでは1991年にマイクロプローズ社より発売された『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』(Sid Meier's Civilization)をはじめ、複数のメーカーから多数のシヴィライゼーションの名を冠する作品が発売されている(#コンピュータゲーム版)。2016年3月現在、25年間で66バージョン、累計3300万本以上が販売された。 なお本記事では派生版、オープンソースのクローンも合わせて記述する。 もともと一人用のゲームであるが、後に多人数対戦用のCivNetが発売され、続編には当初からその機能が組み込まれている。プレイヤーは、ある文明の支配者として、1つか2つの植民者 (Settler) ユニットから帝国の建設を始める(IIIでは、労働者 (Worker) ユニットも与えられる)。2つから6つの競争相手となる文明を設定することができる。ゲームはターン制であり、細かく行動を決めていく必要がある。紀元前4000年からゲームは始まり、21世紀にゲームは終了する。その間にユニットを使い、新しい都市を作り、大地を均し、鉱山を開発し、道、そして後には鉄道を建設することができる。 探検、戦争、外交の3つは重要な戦略ではあるが、より細かい戦略も重視される。どの都市でどのユニットを生産し、どこに新しい都市を作るか、それにどのように最大の発展をするために都市の周囲を開発していくかもプレイヤーの手にゆだねられる。ゲーム開始後、すべての土地が発見されるまでの間は、バーバリアンと呼ばれるどの文明にも属さないユニットが都市を襲撃することがある。 ゲームを始める前に、どの文明を選ぶか決める。それぞれの文明には得意、不得手とする分野があるが、文明の真価はプレイヤーではなく、コンピューターが動かす時により強く発揮され、文明ごとに戦略方針が変わってくることに表れる。例えばアステカ文明は、強硬な拡張主義を取り、外交より戦争を好む。他に、アメリカやモンゴル、ローマ等の文明を選択することができ、それぞれの文明を代表する歴史的指導者によって指揮される。 時代が進むにつれ、新しい技術が開発される。序盤は、陶芸や車輪、それに文字といった技術しか開発できないが、終盤には核技術や宇宙飛行なども開発できるようになる。最初に有効な技術を手に入れることは大きな優位をもたらす。技術の開発により、新しいユニットの生産や都市を発展させる技術の利用、それにその技術から派生する新たな技術の開発ができるようになる。新しい技術はそれまでに獲得された1つ、または複数の技術の組み合わせを元に達成される。車輪の技術を開発する事によりチャリオット・ユニットを生産できるようになり、陶芸の開発終了により、貯蔵用陶器を手に入れたことで穀物貯蔵所を利用できる。このように技術を開発するごとにさらに他の技術が開発できるようになることを、枝分かれする木に例え「テクノロジーツリー」と呼ぶことがある。これ以後、他のゲームでもこのアイデアは利用された(テクノロジー・ツリーのアイデアは最初イギリスで発表され、アメリカではアバロンヒル社から発売された同題の多人数ボードゲームに由来する)。 プレイヤーの最終的な目的は武力による征服だけではない。宇宙船を開発し、最初にほかの惑星(アルファ・ケンタウリ)に移住できるかを競うこともできる。国連事務総長選挙で勝てば平和的勝利となる。シリーズが進むにつれ、文化勝利、経済的勝利というルールも追加された。これらは新しいゲームをスタートした時に勝利条件として設定され、いずれかを満たせばその時点で勝利したことになるし、期限までプレイを続けなくてもかまわない(その場合点数で順位がつけられる)。プレイヤーは様々な戦略、プレイスタイルでゲームに挑むことができる。 1982年にアバロンヒル社よりCivilizationのタイトルで発売されたボードゲーム。後にホビージャパンから『文明の曙(英語版)』のタイトルで日本語解説書つきで発売された。 1991年にアバロンヒル社よりAdvanced Civilizationのタイトルで発売されたボードゲーム。1995年に 『アドヴァンスト シヴィライゼーション 文明の曙(英語版) 』のタイトルでコンピューターゲーム化もされた。Windows 95 で動作する。アドヴァンストシヴィライゼーション文明の曙ハンドブック(アバロンヒルゲームソフトコレクション 歴史シミュレーション)という攻略本も発売されている。 コンピュータゲームの第1作『シヴィライゼーション』は、MS-DOSベースのIBM互換機向けに発売された。以後、Windows 3.1に対応した『シヴィライゼーションII』、Windows 95以降の環境に対応した『アルファ・ケンタウリ』と『シヴィライゼーションIII』。Windows XP以降の環境に対応した『シヴィライゼーションIV』、Windows XP SP3 / Vista SP2 / 7/ 8に対応した『シヴィライゼーションV』が発売され、最新作の『シヴィライゼーションVI』ではWindows 7 64bit / 8.1 64bit / 10 64bitに対応するなど、主にパソコン用ゲームとして開発販売されている。 日本国内ではPC-98版が1992年に発売、その後Windows、Macintoshや各種家庭用ゲーム機用に日本語版が発売されている。 2009年に各種プラットホーム向けに発売された『シヴィライゼーション レボリューション』は、翌年ニンテンドーDS用のものがiPhone/iPad用に移植された。 『シヴィライゼーションV』については、2014年より、LinuxとLinuxをベースにしたSteamOSでも、サポートされるようになった。ただし、Linuxについては、すべてのディストリビューションがサポートされているわけではなく、一部のディストリビューションをテストしているだけである。 『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』シリーズのタイトルには、アメリカのゲームデザイナーであるシド・マイヤー(又はシド・メイヤー)の名前が冠されている。しかし、彼が実際に制作に関わったのは第1作の『シヴィライゼーション』と2008年に家庭用ゲーム機向きに展開された『シヴィライゼーション・レボリューション』の2作のみである。『シヴィライゼーションII』以降の作品では、監修のみを担当し、実際の制作には関わっていない。 シリーズ第2作の『シヴィライゼーションII』や、外伝の『シド・マイヤーズ・アルファ・ケンタウリ』を担当したブライアン・レイノルズ(英語版)は、後に独立しBig Huge Games(英語版)社で『ライズ オブ ネイション』を担当。また、シリーズ第4作の『シヴィライゼーションIV』を担当したソーレン・ジョンソン(英語版)は、その後、エレクトロニックアーツでウィル・ライトの新作『Spore』の制作に携わっている。 1991年にマイクロプローズ社よりSid Meier's Civilizationのタイトルで英語版が発売。ゲームデザイナーのシド・マイヤーによりデザインされた、コンピュータゲームとしての最初のシヴィライゼーションである。誤解されることが多いが、上述したようにアバロンヒル社のボードゲームが存在するため、一連のゲームのオリジナルアイデアそのものはシド・マイヤーの発案ではない。ただし、シド・マイヤーは後のインタビューで「ボードゲームの話を聞いたことはあったが、ゲームデザインを始める前にプレイしたことはない」と語っている。海外版の対応機種はATARI ST、アミーガ、MAC、DOS、Windows 3.xである。 日本国内においては、1992年に98版が発売された。1993年には、北島秀樹著「シヴィライゼーション ハンドブック」も発売されている。 又、ネット上には『シヴィライゼーション ~紀元前アルファケンタウリ到着を目指して~』も公開されている。 シヴィライゼーションに触発されてBC4000-文明モデルというゲームが iPhone にリリースされた。 家庭用ゲーム機用では初のシヴィライゼーションである。1994年にSFC版『シヴィライゼーション 世界七大文明』がアスミックより発売された。 ゲームの操作方法はパソコン版とあまり変わらないものの、ルール、シナリオ、攻略方(攻略方法)、登場人物等が変更されており、パソコン版とは別のゲームとなっている。 『シヴィライゼーション 世界七大文明 必勝攻略法』(スーパーファミコン完璧攻略シリーズ74)が1994年10月25日双葉社から880円(税込)で発売されている。 パソコン版シヴィライゼーションのネットワーク対戦型バージョンである。LAN、インターネット、BBSに対応。1995年、Windows 3.x用でアメリカ、イギリス、ドイツでのみ発売された。日本ではスペクトラストリームが『Sid Meier's CivNet(日本語マニュアル付き英語版)』の名称で輸入販売を実施。スペクトラストリームでの動作確認機種はWindowsw3.1/95/98でCD媒体である。 1996年にはPS版・SS版『シヴィライゼーション新世界七大文明』(アスミック)が発売された。 攻略本としては以下の物が発売されている: (1)『シヴィライゼーション 新・世界七大文明 徹底攻略ガイド』がマイナビ出版から1996年8月に発売されている。対応機種はプレイステーションである。 (2)『シヴィライゼーション 新・世界七大文明 (ナビブック)』が発売された。対応機種はプレイステーションである。 1994年発売。コロナイゼーションとは植民地化という意味である。『シヴィライゼーションIV コロナイゼーション』はこの作品のリメイクになる。そのため、本作品はコロナイゼーション(クラシック)などと呼ばれている。対応機種は Microsoft Windows(Windows XP/Vista/7), Linux, Classic Mac OS, DOS, AmigaOS,iPhone,iPad。対応言語はドイツ語、スペイン語、フランス語、英語。日本語版は CD-ROM for Windows (Windows3.1(PC-98、DOS/V)) とパッケージに記載されている。iPhone/iPad/iPod touch/Mac用は App store で購入できるが操作性が悪く評判が悪い。他にもフリーで開発された、Colonization tooと FreeCol がある。 1996年にマイクロプローズ社よりSid Meier's Civilization IIのタイトルで発売された後、日本では『シヴィライゼーションII〜完全日本語版〜』の名称でサイバーフロントより、Windows 3.1/Windows 95用が発売されている。 ゲームデザインは、ブライアン・レイノルズ(英語版)が担当し、本作よりシド・マイヤー自身は直接の制作には関わっていない。 ゲームは、マップがクォータービュー表示に変更されるなど、画面描写が大幅に改善された。さらにゲームバランスの改善、テクノロジーやユニットが大幅に追加されるなど、正統的な進化を遂げている。 数百万本を売り上げる人気作となったが、マイクロプローズ社は当初、この作品にほとんど期待をかけておらず、あくまでも前作ファン向けのマイナー作品として扱っていたため、ゲーム発売前にほとんど販促プロモーションが行われなかったとされる。 後に「わくわくパソコンソフト」という名称で1,980円で再販売されている。1998年にはPS版『シヴィライゼーションII』 が、ヒューマン社から発売されている。 拡張パックとしてCivilization II:Gold Editionと『シヴィライゼーションII テスト オブ タイム』(w:Civilization II: Test of Time)がある。また、豪華版である『シヴィライゼーションII完全日本語版 日本語公式ガイドブック付 VALUE PACK』(販売元:メディアクエスト)が発売されたほか、『シヴィライゼーションII』本編にシナリオと日本語公式戦略ガイドブックを付けた『ゴールド・シヴィライゼーションII 』(開発元はマイクロプローズ、販売元はメディアクエスト、発売元は三井物産)、シナリオ集「シヴィライゼーションII ファンタスティック・ワールド 完全日本語版」(販売元はメディアクエスト、発売元は三井物産)、『シヴィライゼーションII』本編と追加シナリオのセット品『シヴィライゼーションII プレミアパック』などがある。 これらの拡張パックやシナリオ集の中には、ファンタジーやSFを題材としたモードも収録されている。 1999年にアクティビジョン社よりCivilization: Call to Powerのタイトルで発売。シド・マイヤーは関わっていない。アバロンヒル社よりシヴィライゼーションに関するライセンスを受けたため、マイクロプロース社との裁判となった。裁判の結果、マイクロプロース社よりライセンスを受けることになった。つまり、サブライセンス作品であり、シリーズ名を冠しているものの、公式にはシド・マイヤーズ・シヴィライゼーションには含まれない。同年にサイバーフロント社より日本語版が発売されている。Linux版も存在する。 本家シヴィライゼーションと異なり、海底や宇宙空間での都市開発など、近未来の技術が大きく拡張されている。奴隷商人を使ってライバル文明から人々を誘拐し自文明の生産力に割り当てることや、七不思議、奴隷解放運動によって奴隷制度を無効化してライバル文明を陥れること、支店ユニットによってライバル文明の都市にフランチャイズして戦争をせずに生産力をライバル文明から詐取することや、それに対抗して弁護士で支店を提訴するという面白いアイデアが大量に導入された。エコテロリスト、エコレンジャーという環境保護を目的とした、ナノテクノロジーによるテロ活動を行うユニットも生産できるようになった。政治体制には、圧政、ファシズム、神権政治、多国籍企業(企業共同体)、テクノクラシー(技術至上主義)、サイバー民主主義、エコトピアが追加された。 また、ゲームシステム上の特徴として、「インフラ」の導入により土地改善の作業が大幅に軽減されたことや、交易品の導入により交易路の維持が経済戦略上の重要な鍵になったことが挙げられる。 今作では、地球外での勝利を求める場合の選択肢は、ワームホールを発見し、人工的に誕生させたエイリアンを別の宇宙に送り出すことである。 2000年11月にアクティビジョン社よりCall to Power IIのタイトルで発売。ライセンス問題を解決するため、タイトルからシヴィライゼーションの名前は無くなっている。2001年にメディアクエスト社より日本語版が発売された。日本語版に関しては、移植元が変更されたことにより、前作でのような誤訳は無い。 本作の勝利条件として、世界征服、ハイスコア、他文明との恒久的な平和共存に加え、地球のリソースを自由に操ることが出来るガイアコントローラの開発が含まれる。 『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』シリーズの実質的な続編。2000年にエレクトロニック・アーツ社よりSid Meier's Alpha Centauriのタイトルで発売。シリーズの最終目標の一つである、アルファ・ケンタウリへの植民後の世界を舞台とした作品で、架空の兵器や技術が多く登場する。ゼロから様々なユニットを自由に設計できる柔軟なカスタマイズ性や国境線の導入に始まり、各勢力の首脳に強い個性が与えられ、外交に様々な選択肢が追加されるなど、後のシリーズ発展の基盤となる多くのアイデアが示されている。拡張パックとしては Sid Meier's Alien Crossfire (SMAX) がある。 開発元はシド・マイヤーらが新たに設立したフィラクシス・ゲームズ社で、以降の作品も同社により開発されている。同年には日本語版も発売されている。ゲームデザインは、前作にあたる『シヴィライゼーションII』に引き続き、ブライアン・レイノルズが担当。彼は、ゲーム内への数々の革新的要素を導入したことでその評価を不動の物としたが、続編にあたる『III』の開発中に開発メンバーと共にフィラクシス社を退社。Big Huge Games(英語版)社を設立し、『ライズ オブ ネイション』の開発を担当した。 2001年にインフォグラム社よりSid Meier's Civilization IIIのタイトルで発売。Windows 95以降のWindowsプラットフォームへ正式対応し、加えて『II』や『アルファ・ケンタウリ』で示された、新要素の取り込みが主な変更点となっている。日本国外ではMac OS X版も発売されている。日本では、サイバーフロント社より日本語版が発売され、全世界で300万本以上の売り上げを達成した。 拡張パックとしてw:Civilization III: Play the World(PTW)とw:Civilization III: Conquests(C3C)がある。 === シヴィライゼーションIV === 2005年10月24日に2K Games社よりSid Meier's Civilization IVのタイトルで発売。Windows用のPCゲームであり、2006年6月にはMac OS X版も発売された。また、同年6月17日にはサイバーフロント社より日本語版が発売されている。2007年7月時点で、全世界で150万本以上の売り上げを達成している。画面がフル3Dへと一新され、操作性が大幅に向上した。さらに、ゲームシステムが大きく変更され、従来作でプレイヤーの手を煩わせていた公害の除去や汚職の管理といった要素が削除され、プレイアビリティが高まった。また、AI指導者達の振る舞いも大きく改良された。 ゲームの発売から6年後、オープニングテーマ曲であるBaba Yetuが、第53回グラミー賞の「Best Instrumental Arrangement Accompanying Vocalist」部門を受賞した。作曲者のクリストファー・ティン(英語版)が2010年に発売したアルバムにBaba Yetuが収録されていたことから改めて評価されたもので、ゲーム音楽としては史上初の受賞である。。 拡張パックとして『シヴィライゼーション4 ウォーロード』(w:Civilization IV: Warlords)と 『シヴィライゼーション4 ビヨンド ザ ソード』(w:Civilization IV: Beyond the Sword)がある。 2006年発売(英語版のみ)。第1作の『シヴィライゼーション』から『シヴィライゼーションIV』までのセット(『アルファ・ケンタウリ』を除く)と、96ページに渡る小冊子 (Chronicles)、カードゲーム、ビデオDVD、ポスター、デスクトップ用の壁紙、MP3ファイル等のボーナスアイテムを加えたコレクター向けのボックスセットである。 シヴィライゼーション2(テストオブタイム)、シヴィライゼーション3(コンクエスト)、シヴィライゼーション4(ウィーロードとビヨンド・ザ・ソード)と3つのバージョンと4本のシナリオをセットにした物。 2008年6月に2K Games社より北米・欧州・豪州でPLAYSTATION 3・Xbox 360でSid Meier's Civilization Revolutionのタイトルで発売された、家庭用ゲーム機向けに開発された初めてのシヴィライゼーション。インターネット対戦を前提とした設計だがシングルプレイも可能である。オンライン対戦は1ゲームのプレイ時間が平均3時間から平均1時間に短縮されている。 システムが他シリーズに比べて大幅に簡略化されユニットの種類が少なく、小さめのMAP構成にくわえて都市には衛生度・幸福度・飢餓・交易路といった要素も存在しない上に破産もないため管理の手間(防衛等)さえ惜しまなければ都市をあちこちに建てることで大幅に優位にたてる。一方で同じユニットを3つ重ねることで「軍団」に編成し直し攻撃力・防御力を3倍にするといった独自のシステムが搭載され下位ユニットでも軍団にすることで上位ユニット単体にも上回る強さを発揮する。 2008年12月25日にサイバーフロントよりPLAYSTATION 3・XBOX 360の日本語版が、翌2009年1月29日にニンテンドーDS版が発売された。ニンテンドーDS版はハード性能からMAP表示が2Dであったり、CPU文明が巨大化すると数十秒待たされる、またユニットが売却できないなどいくつか仕様が異なる。2010年1月14日に2K Games社よりiPhone・iPod Touch・iPad対応の日本語版が発売された。 2009年3月27日に2K Games社よりSid Meier's Civilization IV Colonizationのタイトルで発売。1994年に発売されたSid Meier's Colonizationを『シヴィライゼーションIV』のゲームエンジンを使ってリメイクした作品である。『IV』の拡張パックではなく、独立した単体作品としてリリースされている。ゲームの舞台は16世紀のアメリカ新大陸であり、イギリス、フランス、スペイン、オランダといった列強諸国による、新大陸への入植競争とアメリカ合衆国の独立をテーマとしている。 2010年9月21日に2K Games社より英語版Sid Meier's Civilization Vが北米で、9月24日に欧州でそれぞれ発売された。日本語版の発売は、2010年10月29日となっている。『IV』から、さらなるグラフィック面での進化に加えて、プレイヤーが煩わしさを感じる要素を整理再編し、より快適なプレイを実現する方向へとデザインが指向されている。それに基づいてスタック制の廃止など戦争に関する多くの変更が導入されたが、一方で外交や経済政策は簡略化された。そのため『IV』とのプレイ感覚の違いから賛否両論がある。 拡張版として、2012年6月23日にw:Civilization V: Gods & Kingsが、2013年7月にw:Civilization V: Brave New Worldがそれぞれ発売され、当初単純化されていたゲーム性はある程度複雑化されている。 プロセッサ:インテル デュアルコアCPU、メモリ:2GB RAM、HDD 容量:9.6GB以上、DVD-ROM:ディスクインストールで使用、ビデオカード:256MB DirectXのNVIDIA 7900GS以上 DirectX 9.0c対応のビデオカードとなっており、また初回インストール時の認証時やマルチプレイヤーゲーム時にインターネット接続が必要。 Facebook上でのブラウザゲームとして提供されていたバージョン。2011年7月5日よりオープンβテストが開始されたが、2013年5月に運営終了となり、2014年現在は後継製品としてiOSで展開中のCivilization Revolutionへ誘導される。 2014年に2K Games社より発売。『シヴィライゼーション レボリューション』の改良版だが、iOS/Android版向けのみが提供されている。 2015年12月3日に2K Games社より発売。上記のRevolution 2を基にPlayStation Vita用に改良・追加されたもの。 2014年に2K Games社より発売。『アルファ・ケンタウリ』の精神的続編であり、同様に地球を脱出した後の、新しい惑星を舞台としたSF的な作品となっている。また、2015年3月には、同様にシヴィライゼーションのエンジンを用いた、世界観の近いSid Meier's Starshipsもリリースされている。 2016年10月21日に2K Games社よりSid Meier's Civilization VIのタイトルでダウンロード版とパッケージ版が発売された。 新たに協力プレイモードや新チュートリアルシステムなどが盛り込まれた。 これまでに何度かアップデートや拡張パックの発売が行われている。 拡張パックとしては「文明の興亡」のほか、2019年2月14日には「嵐の訪れ」が配信された。「嵐の訪れ」ではユニットの生産方式が変更されるほか、ペストをモチーフとしたシナリオ「黒い死神」が収録されている 他にシリーズ作品としては異色のMMORPGであるCivilization Onlineがある。2K Games社とXL Games社によって共同開発されておりベータテストが行われている。 Freecivはシヴィライゼーションを模したクローンゲームの一つ。GPLのソフトウェアとして開発されている。Windows、Mac OS X、Linux対応。またブラウザーで動作するFreeciv-webも存在する。 C-evoはシヴィライゼーションを模したクローンゲームの一つ。パブリックドメインのソフトウェアとして開発されている。 FreeColはSid Meier's Colonization (1994年版)を模したクローンゲームの一つ。GPLのソフトウェアとして開発されている。Windows、Mac OS X、Linux対応。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『シヴィライゼーション』(Civilization) は、文明をモチーフとしたターン制のシミュレーションゲーム(ストラテジーゲーム)シリーズ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人類文明の歴史と発展をテーマにしたターン制のストラテジーゲームである。その内容は国土の整備や技術開発、他国との外交関係などであり、単純に数値の大きさや強さのみを求めるのではなく、ゲーム内で有機的に繰り広げられる国際秩序を注視し、常に一手先を読んだ総合戦略が求められる(#ゲームシステム)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ボードゲームとコンピュータゲームがあり、特にコンピュータゲームでは1991年にマイクロプローズ社より発売された『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』(Sid Meier's Civilization)をはじめ、複数のメーカーから多数のシヴィライゼーションの名を冠する作品が発売されている(#コンピュータゲーム版)。2016年3月現在、25年間で66バージョン、累計3300万本以上が販売された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお本記事では派生版、オープンソースのクローンも合わせて記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "もともと一人用のゲームであるが、後に多人数対戦用のCivNetが発売され、続編には当初からその機能が組み込まれている。プレイヤーは、ある文明の支配者として、1つか2つの植民者 (Settler) ユニットから帝国の建設を始める(IIIでは、労働者 (Worker) ユニットも与えられる)。2つから6つの競争相手となる文明を設定することができる。ゲームはターン制であり、細かく行動を決めていく必要がある。紀元前4000年からゲームは始まり、21世紀にゲームは終了する。その間にユニットを使い、新しい都市を作り、大地を均し、鉱山を開発し、道、そして後には鉄道を建設することができる。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "探検、戦争、外交の3つは重要な戦略ではあるが、より細かい戦略も重視される。どの都市でどのユニットを生産し、どこに新しい都市を作るか、それにどのように最大の発展をするために都市の周囲を開発していくかもプレイヤーの手にゆだねられる。ゲーム開始後、すべての土地が発見されるまでの間は、バーバリアンと呼ばれるどの文明にも属さないユニットが都市を襲撃することがある。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ゲームを始める前に、どの文明を選ぶか決める。それぞれの文明には得意、不得手とする分野があるが、文明の真価はプレイヤーではなく、コンピューターが動かす時により強く発揮され、文明ごとに戦略方針が変わってくることに表れる。例えばアステカ文明は、強硬な拡張主義を取り、外交より戦争を好む。他に、アメリカやモンゴル、ローマ等の文明を選択することができ、それぞれの文明を代表する歴史的指導者によって指揮される。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "時代が進むにつれ、新しい技術が開発される。序盤は、陶芸や車輪、それに文字といった技術しか開発できないが、終盤には核技術や宇宙飛行なども開発できるようになる。最初に有効な技術を手に入れることは大きな優位をもたらす。技術の開発により、新しいユニットの生産や都市を発展させる技術の利用、それにその技術から派生する新たな技術の開発ができるようになる。新しい技術はそれまでに獲得された1つ、または複数の技術の組み合わせを元に達成される。車輪の技術を開発する事によりチャリオット・ユニットを生産できるようになり、陶芸の開発終了により、貯蔵用陶器を手に入れたことで穀物貯蔵所を利用できる。このように技術を開発するごとにさらに他の技術が開発できるようになることを、枝分かれする木に例え「テクノロジーツリー」と呼ぶことがある。これ以後、他のゲームでもこのアイデアは利用された(テクノロジー・ツリーのアイデアは最初イギリスで発表され、アメリカではアバロンヒル社から発売された同題の多人数ボードゲームに由来する)。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "プレイヤーの最終的な目的は武力による征服だけではない。宇宙船を開発し、最初にほかの惑星(アルファ・ケンタウリ)に移住できるかを競うこともできる。国連事務総長選挙で勝てば平和的勝利となる。シリーズが進むにつれ、文化勝利、経済的勝利というルールも追加された。これらは新しいゲームをスタートした時に勝利条件として設定され、いずれかを満たせばその時点で勝利したことになるし、期限までプレイを続けなくてもかまわない(その場合点数で順位がつけられる)。プレイヤーは様々な戦略、プレイスタイルでゲームに挑むことができる。", "title": "ゲームシステム" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1982年にアバロンヒル社よりCivilizationのタイトルで発売されたボードゲーム。後にホビージャパンから『文明の曙(英語版)』のタイトルで日本語解説書つきで発売された。", "title": "ボードゲーム版" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1991年にアバロンヒル社よりAdvanced Civilizationのタイトルで発売されたボードゲーム。1995年に 『アドヴァンスト シヴィライゼーション 文明の曙(英語版) 』のタイトルでコンピューターゲーム化もされた。Windows 95 で動作する。アドヴァンストシヴィライゼーション文明の曙ハンドブック(アバロンヒルゲームソフトコレクション 歴史シミュレーション)という攻略本も発売されている。", "title": "ボードゲーム版" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "コンピュータゲームの第1作『シヴィライゼーション』は、MS-DOSベースのIBM互換機向けに発売された。以後、Windows 3.1に対応した『シヴィライゼーションII』、Windows 95以降の環境に対応した『アルファ・ケンタウリ』と『シヴィライゼーションIII』。Windows XP以降の環境に対応した『シヴィライゼーションIV』、Windows XP SP3 / Vista SP2 / 7/ 8に対応した『シヴィライゼーションV』が発売され、最新作の『シヴィライゼーションVI』ではWindows 7 64bit / 8.1 64bit / 10 64bitに対応するなど、主にパソコン用ゲームとして開発販売されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "日本国内ではPC-98版が1992年に発売、その後Windows、Macintoshや各種家庭用ゲーム機用に日本語版が発売されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2009年に各種プラットホーム向けに発売された『シヴィライゼーション レボリューション』は、翌年ニンテンドーDS用のものがiPhone/iPad用に移植された。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『シヴィライゼーションV』については、2014年より、LinuxとLinuxをベースにしたSteamOSでも、サポートされるようになった。ただし、Linuxについては、すべてのディストリビューションがサポートされているわけではなく、一部のディストリビューションをテストしているだけである。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』シリーズのタイトルには、アメリカのゲームデザイナーであるシド・マイヤー(又はシド・メイヤー)の名前が冠されている。しかし、彼が実際に制作に関わったのは第1作の『シヴィライゼーション』と2008年に家庭用ゲーム機向きに展開された『シヴィライゼーション・レボリューション』の2作のみである。『シヴィライゼーションII』以降の作品では、監修のみを担当し、実際の制作には関わっていない。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "シリーズ第2作の『シヴィライゼーションII』や、外伝の『シド・マイヤーズ・アルファ・ケンタウリ』を担当したブライアン・レイノルズ(英語版)は、後に独立しBig Huge Games(英語版)社で『ライズ オブ ネイション』を担当。また、シリーズ第4作の『シヴィライゼーションIV』を担当したソーレン・ジョンソン(英語版)は、その後、エレクトロニックアーツでウィル・ライトの新作『Spore』の制作に携わっている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1991年にマイクロプローズ社よりSid Meier's Civilizationのタイトルで英語版が発売。ゲームデザイナーのシド・マイヤーによりデザインされた、コンピュータゲームとしての最初のシヴィライゼーションである。誤解されることが多いが、上述したようにアバロンヒル社のボードゲームが存在するため、一連のゲームのオリジナルアイデアそのものはシド・マイヤーの発案ではない。ただし、シド・マイヤーは後のインタビューで「ボードゲームの話を聞いたことはあったが、ゲームデザインを始める前にプレイしたことはない」と語っている。海外版の対応機種はATARI ST、アミーガ、MAC、DOS、Windows 3.xである。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本国内においては、1992年に98版が発売された。1993年には、北島秀樹著「シヴィライゼーション ハンドブック」も発売されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "又、ネット上には『シヴィライゼーション ~紀元前アルファケンタウリ到着を目指して~』も公開されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "シヴィライゼーションに触発されてBC4000-文明モデルというゲームが iPhone にリリースされた。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "家庭用ゲーム機用では初のシヴィライゼーションである。1994年にSFC版『シヴィライゼーション 世界七大文明』がアスミックより発売された。 ゲームの操作方法はパソコン版とあまり変わらないものの、ルール、シナリオ、攻略方(攻略方法)、登場人物等が変更されており、パソコン版とは別のゲームとなっている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "『シヴィライゼーション 世界七大文明 必勝攻略法』(スーパーファミコン完璧攻略シリーズ74)が1994年10月25日双葉社から880円(税込)で発売されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "パソコン版シヴィライゼーションのネットワーク対戦型バージョンである。LAN、インターネット、BBSに対応。1995年、Windows 3.x用でアメリカ、イギリス、ドイツでのみ発売された。日本ではスペクトラストリームが『Sid Meier's CivNet(日本語マニュアル付き英語版)』の名称で輸入販売を実施。スペクトラストリームでの動作確認機種はWindowsw3.1/95/98でCD媒体である。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1996年にはPS版・SS版『シヴィライゼーション新世界七大文明』(アスミック)が発売された。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "攻略本としては以下の物が発売されている:", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "(1)『シヴィライゼーション 新・世界七大文明 徹底攻略ガイド』がマイナビ出版から1996年8月に発売されている。対応機種はプレイステーションである。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "(2)『シヴィライゼーション 新・世界七大文明 (ナビブック)』が発売された。対応機種はプレイステーションである。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1994年発売。コロナイゼーションとは植民地化という意味である。『シヴィライゼーションIV コロナイゼーション』はこの作品のリメイクになる。そのため、本作品はコロナイゼーション(クラシック)などと呼ばれている。対応機種は Microsoft Windows(Windows XP/Vista/7), Linux, Classic Mac OS, DOS, AmigaOS,iPhone,iPad。対応言語はドイツ語、スペイン語、フランス語、英語。日本語版は CD-ROM for Windows (Windows3.1(PC-98、DOS/V)) とパッケージに記載されている。iPhone/iPad/iPod touch/Mac用は App store で購入できるが操作性が悪く評判が悪い。他にもフリーで開発された、Colonization tooと FreeCol がある。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1996年にマイクロプローズ社よりSid Meier's Civilization IIのタイトルで発売された後、日本では『シヴィライゼーションII〜完全日本語版〜』の名称でサイバーフロントより、Windows 3.1/Windows 95用が発売されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ゲームデザインは、ブライアン・レイノルズ(英語版)が担当し、本作よりシド・マイヤー自身は直接の制作には関わっていない。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ゲームは、マップがクォータービュー表示に変更されるなど、画面描写が大幅に改善された。さらにゲームバランスの改善、テクノロジーやユニットが大幅に追加されるなど、正統的な進化を遂げている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "数百万本を売り上げる人気作となったが、マイクロプローズ社は当初、この作品にほとんど期待をかけておらず、あくまでも前作ファン向けのマイナー作品として扱っていたため、ゲーム発売前にほとんど販促プロモーションが行われなかったとされる。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "後に「わくわくパソコンソフト」という名称で1,980円で再販売されている。1998年にはPS版『シヴィライゼーションII』 が、ヒューマン社から発売されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "拡張パックとしてCivilization II:Gold Editionと『シヴィライゼーションII テスト オブ タイム』(w:Civilization II: Test of Time)がある。また、豪華版である『シヴィライゼーションII完全日本語版 日本語公式ガイドブック付 VALUE PACK』(販売元:メディアクエスト)が発売されたほか、『シヴィライゼーションII』本編にシナリオと日本語公式戦略ガイドブックを付けた『ゴールド・シヴィライゼーションII 』(開発元はマイクロプローズ、販売元はメディアクエスト、発売元は三井物産)、シナリオ集「シヴィライゼーションII ファンタスティック・ワールド 完全日本語版」(販売元はメディアクエスト、発売元は三井物産)、『シヴィライゼーションII』本編と追加シナリオのセット品『シヴィライゼーションII プレミアパック』などがある。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これらの拡張パックやシナリオ集の中には、ファンタジーやSFを題材としたモードも収録されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1999年にアクティビジョン社よりCivilization: Call to Powerのタイトルで発売。シド・マイヤーは関わっていない。アバロンヒル社よりシヴィライゼーションに関するライセンスを受けたため、マイクロプロース社との裁判となった。裁判の結果、マイクロプロース社よりライセンスを受けることになった。つまり、サブライセンス作品であり、シリーズ名を冠しているものの、公式にはシド・マイヤーズ・シヴィライゼーションには含まれない。同年にサイバーフロント社より日本語版が発売されている。Linux版も存在する。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "本家シヴィライゼーションと異なり、海底や宇宙空間での都市開発など、近未来の技術が大きく拡張されている。奴隷商人を使ってライバル文明から人々を誘拐し自文明の生産力に割り当てることや、七不思議、奴隷解放運動によって奴隷制度を無効化してライバル文明を陥れること、支店ユニットによってライバル文明の都市にフランチャイズして戦争をせずに生産力をライバル文明から詐取することや、それに対抗して弁護士で支店を提訴するという面白いアイデアが大量に導入された。エコテロリスト、エコレンジャーという環境保護を目的とした、ナノテクノロジーによるテロ活動を行うユニットも生産できるようになった。政治体制には、圧政、ファシズム、神権政治、多国籍企業(企業共同体)、テクノクラシー(技術至上主義)、サイバー民主主義、エコトピアが追加された。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、ゲームシステム上の特徴として、「インフラ」の導入により土地改善の作業が大幅に軽減されたことや、交易品の導入により交易路の維持が経済戦略上の重要な鍵になったことが挙げられる。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "今作では、地球外での勝利を求める場合の選択肢は、ワームホールを発見し、人工的に誕生させたエイリアンを別の宇宙に送り出すことである。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2000年11月にアクティビジョン社よりCall to Power IIのタイトルで発売。ライセンス問題を解決するため、タイトルからシヴィライゼーションの名前は無くなっている。2001年にメディアクエスト社より日本語版が発売された。日本語版に関しては、移植元が変更されたことにより、前作でのような誤訳は無い。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "本作の勝利条件として、世界征服、ハイスコア、他文明との恒久的な平和共存に加え、地球のリソースを自由に操ることが出来るガイアコントローラの開発が含まれる。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』シリーズの実質的な続編。2000年にエレクトロニック・アーツ社よりSid Meier's Alpha Centauriのタイトルで発売。シリーズの最終目標の一つである、アルファ・ケンタウリへの植民後の世界を舞台とした作品で、架空の兵器や技術が多く登場する。ゼロから様々なユニットを自由に設計できる柔軟なカスタマイズ性や国境線の導入に始まり、各勢力の首脳に強い個性が与えられ、外交に様々な選択肢が追加されるなど、後のシリーズ発展の基盤となる多くのアイデアが示されている。拡張パックとしては Sid Meier's Alien Crossfire (SMAX) がある。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "開発元はシド・マイヤーらが新たに設立したフィラクシス・ゲームズ社で、以降の作品も同社により開発されている。同年には日本語版も発売されている。ゲームデザインは、前作にあたる『シヴィライゼーションII』に引き続き、ブライアン・レイノルズが担当。彼は、ゲーム内への数々の革新的要素を導入したことでその評価を不動の物としたが、続編にあたる『III』の開発中に開発メンバーと共にフィラクシス社を退社。Big Huge Games(英語版)社を設立し、『ライズ オブ ネイション』の開発を担当した。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2001年にインフォグラム社よりSid Meier's Civilization IIIのタイトルで発売。Windows 95以降のWindowsプラットフォームへ正式対応し、加えて『II』や『アルファ・ケンタウリ』で示された、新要素の取り込みが主な変更点となっている。日本国外ではMac OS X版も発売されている。日本では、サイバーフロント社より日本語版が発売され、全世界で300万本以上の売り上げを達成した。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "拡張パックとしてw:Civilization III: Play the World(PTW)とw:Civilization III: Conquests(C3C)がある。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "=== シヴィライゼーションIV ===", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2005年10月24日に2K Games社よりSid Meier's Civilization IVのタイトルで発売。Windows用のPCゲームであり、2006年6月にはMac OS X版も発売された。また、同年6月17日にはサイバーフロント社より日本語版が発売されている。2007年7月時点で、全世界で150万本以上の売り上げを達成している。画面がフル3Dへと一新され、操作性が大幅に向上した。さらに、ゲームシステムが大きく変更され、従来作でプレイヤーの手を煩わせていた公害の除去や汚職の管理といった要素が削除され、プレイアビリティが高まった。また、AI指導者達の振る舞いも大きく改良された。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ゲームの発売から6年後、オープニングテーマ曲であるBaba Yetuが、第53回グラミー賞の「Best Instrumental Arrangement Accompanying Vocalist」部門を受賞した。作曲者のクリストファー・ティン(英語版)が2010年に発売したアルバムにBaba Yetuが収録されていたことから改めて評価されたもので、ゲーム音楽としては史上初の受賞である。。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "拡張パックとして『シヴィライゼーション4 ウォーロード』(w:Civilization IV: Warlords)と 『シヴィライゼーション4 ビヨンド ザ ソード』(w:Civilization IV: Beyond the Sword)がある。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2006年発売(英語版のみ)。第1作の『シヴィライゼーション』から『シヴィライゼーションIV』までのセット(『アルファ・ケンタウリ』を除く)と、96ページに渡る小冊子 (Chronicles)、カードゲーム、ビデオDVD、ポスター、デスクトップ用の壁紙、MP3ファイル等のボーナスアイテムを加えたコレクター向けのボックスセットである。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "シヴィライゼーション2(テストオブタイム)、シヴィライゼーション3(コンクエスト)、シヴィライゼーション4(ウィーロードとビヨンド・ザ・ソード)と3つのバージョンと4本のシナリオをセットにした物。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2008年6月に2K Games社より北米・欧州・豪州でPLAYSTATION 3・Xbox 360でSid Meier's Civilization Revolutionのタイトルで発売された、家庭用ゲーム機向けに開発された初めてのシヴィライゼーション。インターネット対戦を前提とした設計だがシングルプレイも可能である。オンライン対戦は1ゲームのプレイ時間が平均3時間から平均1時間に短縮されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "システムが他シリーズに比べて大幅に簡略化されユニットの種類が少なく、小さめのMAP構成にくわえて都市には衛生度・幸福度・飢餓・交易路といった要素も存在しない上に破産もないため管理の手間(防衛等)さえ惜しまなければ都市をあちこちに建てることで大幅に優位にたてる。一方で同じユニットを3つ重ねることで「軍団」に編成し直し攻撃力・防御力を3倍にするといった独自のシステムが搭載され下位ユニットでも軍団にすることで上位ユニット単体にも上回る強さを発揮する。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2008年12月25日にサイバーフロントよりPLAYSTATION 3・XBOX 360の日本語版が、翌2009年1月29日にニンテンドーDS版が発売された。ニンテンドーDS版はハード性能からMAP表示が2Dであったり、CPU文明が巨大化すると数十秒待たされる、またユニットが売却できないなどいくつか仕様が異なる。2010年1月14日に2K Games社よりiPhone・iPod Touch・iPad対応の日本語版が発売された。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2009年3月27日に2K Games社よりSid Meier's Civilization IV Colonizationのタイトルで発売。1994年に発売されたSid Meier's Colonizationを『シヴィライゼーションIV』のゲームエンジンを使ってリメイクした作品である。『IV』の拡張パックではなく、独立した単体作品としてリリースされている。ゲームの舞台は16世紀のアメリカ新大陸であり、イギリス、フランス、スペイン、オランダといった列強諸国による、新大陸への入植競争とアメリカ合衆国の独立をテーマとしている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2010年9月21日に2K Games社より英語版Sid Meier's Civilization Vが北米で、9月24日に欧州でそれぞれ発売された。日本語版の発売は、2010年10月29日となっている。『IV』から、さらなるグラフィック面での進化に加えて、プレイヤーが煩わしさを感じる要素を整理再編し、より快適なプレイを実現する方向へとデザインが指向されている。それに基づいてスタック制の廃止など戦争に関する多くの変更が導入されたが、一方で外交や経済政策は簡略化された。そのため『IV』とのプレイ感覚の違いから賛否両論がある。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "拡張版として、2012年6月23日にw:Civilization V: Gods & Kingsが、2013年7月にw:Civilization V: Brave New Worldがそれぞれ発売され、当初単純化されていたゲーム性はある程度複雑化されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "プロセッサ:インテル デュアルコアCPU、メモリ:2GB RAM、HDD 容量:9.6GB以上、DVD-ROM:ディスクインストールで使用、ビデオカード:256MB DirectXのNVIDIA 7900GS以上 DirectX 9.0c対応のビデオカードとなっており、また初回インストール時の認証時やマルチプレイヤーゲーム時にインターネット接続が必要。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "Facebook上でのブラウザゲームとして提供されていたバージョン。2011年7月5日よりオープンβテストが開始されたが、2013年5月に運営終了となり、2014年現在は後継製品としてiOSで展開中のCivilization Revolutionへ誘導される。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2014年に2K Games社より発売。『シヴィライゼーション レボリューション』の改良版だが、iOS/Android版向けのみが提供されている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2015年12月3日に2K Games社より発売。上記のRevolution 2を基にPlayStation Vita用に改良・追加されたもの。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2014年に2K Games社より発売。『アルファ・ケンタウリ』の精神的続編であり、同様に地球を脱出した後の、新しい惑星を舞台としたSF的な作品となっている。また、2015年3月には、同様にシヴィライゼーションのエンジンを用いた、世界観の近いSid Meier's Starshipsもリリースされている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2016年10月21日に2K Games社よりSid Meier's Civilization VIのタイトルでダウンロード版とパッケージ版が発売された。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "新たに協力プレイモードや新チュートリアルシステムなどが盛り込まれた。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "これまでに何度かアップデートや拡張パックの発売が行われている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "拡張パックとしては「文明の興亡」のほか、2019年2月14日には「嵐の訪れ」が配信された。「嵐の訪れ」ではユニットの生産方式が変更されるほか、ペストをモチーフとしたシナリオ「黒い死神」が収録されている", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "他にシリーズ作品としては異色のMMORPGであるCivilization Onlineがある。2K Games社とXL Games社によって共同開発されておりベータテストが行われている。", "title": "コンピュータゲーム版" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "Freecivはシヴィライゼーションを模したクローンゲームの一つ。GPLのソフトウェアとして開発されている。Windows、Mac OS X、Linux対応。またブラウザーで動作するFreeciv-webも存在する。", "title": "クローンゲーム" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "C-evoはシヴィライゼーションを模したクローンゲームの一つ。パブリックドメインのソフトウェアとして開発されている。", "title": "クローンゲーム" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "FreeColはSid Meier's Colonization (1994年版)を模したクローンゲームの一つ。GPLのソフトウェアとして開発されている。Windows、Mac OS X、Linux対応。", "title": "クローンゲーム" } ]
『シヴィライゼーション』(Civilization) は、文明をモチーフとしたターン制のシミュレーションゲーム(ストラテジーゲーム)シリーズ。 人類文明の歴史と発展をテーマにしたターン制のストラテジーゲームである。その内容は国土の整備や技術開発、他国との外交関係などであり、単純に数値の大きさや強さのみを求めるのではなく、ゲーム内で有機的に繰り広げられる国際秩序を注視し、常に一手先を読んだ総合戦略が求められる(#ゲームシステム)。 ボードゲームとコンピュータゲームがあり、特にコンピュータゲームでは1991年にマイクロプローズ社より発売された『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』(Sid Meier's Civilization)をはじめ、複数のメーカーから多数のシヴィライゼーションの名を冠する作品が発売されている(#コンピュータゲーム版)。2016年3月現在、25年間で66バージョン、累計3300万本以上が販売された。 なお本記事では派生版、オープンソースのクローンも合わせて記述する。
{{redirect|シヴィリゼーション|映画『シヴィリゼーション』|シヴィリゼーション (映画)}} {{コンピュータゲームシリーズ | タイトル = シヴィライゼーション | 画像 = [[File:Civilization logo.png|280px]] | 開発元 = | 発売元 = [[マイクロプローズ]]他 | ジャンル = [[ターン制ストラテジー]] | 製作者 = [[シド・マイヤー]]<br />{{仮リンク|ブライアン・レイノルズ (ゲームデザイナー)|en|Brian Reynolds (game designer)|label=ブライアン・レイノルズ}}<br />{{仮リンク|ソーレン・ジョンソン|en|Soren Johnson}}、他 | 1作目 = Civilization | 1作目発売日 = [[1982年]] | 最新作 = Sid Meier's Civilization VI | 最新作発売日 = [[2016年]]10月 }} 『'''シヴィライゼーション'''』(''Civilization'') は、[[文明]]を[[話題|モチーフ]]とした[[ターン制ストラテジー|ターン制]]の[[シミュレーションゲーム]](ストラテジーゲーム)シリーズ。 人類文明の歴史と発展をテーマにした[[ターン制ストラテジー|ターン制のストラテジーゲーム]]である。その内容は国土の整備や技術開発、他国との外交関係などであり、単純に数値の大きさや強さのみを求めるのではなく、ゲーム内で有機的に繰り広げられる国際秩序を注視し、常に一手先を読んだ総合戦略が求められる([[#ゲームシステム]])。 [[ボードゲーム]]と[[コンピュータゲーム]]があり、特にコンピュータゲームでは[[1991年]]に[[マイクロプローズ]]社より発売された『'''シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション'''』(''Sid Meier's Civilization'')をはじめ、複数のメーカーから多数のシヴィライゼーションの名を冠する作品が発売されている([[#コンピュータゲーム版]])。[[2016年]]3月現在、25年間で66バージョン、累計3300万本以上が販売された<ref>{{Cite web|和書|url=https://thebridge.jp/2016/03/civilization-25-years-66-versions-33m-copies-sold-1-billion-hours-played|title=人気ゲーム『シヴィライゼーション』の25年:66バージョンで累計3300万本の売上、総プレイ時間は10億時間に|date=2016-03-06|publisher=THE BRIDGE |accessdate=2020-10-03}}</ref>。 なお本記事では派生版、[[オープンソース]]のクローンも合わせて記述する。 == ゲームシステム == もともと一人用のゲームであるが、後に多人数対戦用のCivNetが発売され、続編には当初からその機能が組み込まれている。プレイヤーは、ある文明の支配者として、1つか2つの植民者 (Settler) ユニットから帝国の建設を始める(IIIでは、労働者 (Worker) ユニットも与えられる)。2つから6つの競争相手となる文明を設定することができる。ゲームはターン制であり、細かく行動を決めていく必要がある。[[紀元前4千年紀|紀元前4000年]]からゲームは始まり、[[21世紀]]にゲームは終了する。その間にユニットを使い、新しい[[都市]]を作り、大地を均し、鉱山を開発し、道、そして後には鉄道を建設することができる。 [[探検]]、[[戦争]]、[[外交]]の3つは重要な戦略ではあるが、より細かい戦略も重視される。どの都市でどのユニットを生産し、どこに新しい都市を作るか、それにどのように最大の発展をするために都市の周囲を開発していくかもプレイヤーの手にゆだねられる。ゲーム開始後、すべての土地が発見されるまでの間は、[[野蛮|バーバリアン]]と呼ばれるどの文明にも属さないユニットが都市を襲撃することがある。 ゲームを始める前に、どの文明を選ぶか決める。それぞれの文明には得意、不得手とする分野があるが、文明の真価はプレイヤーではなく、コンピューターが動かす時により強く発揮され、文明ごとに戦略方針が変わってくることに表れる。例えば[[アステカ文明]]は、強硬な拡張主義を取り、外交より戦争を好む。他に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[モンゴル]]、[[古代ローマ|ローマ]]等の文明を選択することができ、それぞれの文明を代表する歴史的指導者によって指揮される。 時代が進むにつれ、新しい技術が開発される。序盤は、[[陶芸]]や[[車輪]]、それに[[文字]]といった技術しか開発できないが、終盤には核技術や[[宇宙飛行]]なども開発できるようになる。最初に有効な技術を手に入れることは大きな優位をもたらす。技術の開発により、新しいユニットの生産や都市を発展させる技術の利用、それにその技術から派生する新たな技術の開発ができるようになる。新しい技術はそれまでに獲得された1つ、または複数の技術の組み合わせを元に達成される。車輪の技術を開発する事によりチャリオット・ユニットを生産できるようになり、陶芸の開発終了により、貯蔵用陶器を手に入れたことで穀物貯蔵所を利用できる。このように技術を開発するごとにさらに他の技術が開発できるようになることを、枝分かれする木に例え「テクノロジーツリー」と呼ぶことがある。これ以後、他のゲームでもこのアイデアは利用された(テクノロジー・ツリーのアイデアは最初イギリスで発表され、アメリカでは[[アバロンヒル]]社から発売された同題の多人数ボードゲームに由来する)。 プレイヤーの最終的な目的は武力による征服だけではない。[[宇宙船]]を開発し、最初にほかの惑星([[ケンタウルス座アルファ星|アルファ・ケンタウリ]])に移住できるかを競うこともできる。[[国際連合事務総長|国連事務総長]]選挙で勝てば平和的勝利となる。シリーズが進むにつれ、文化勝利、経済的勝利というルールも追加された。これらは新しいゲームをスタートした時に勝利条件として設定され、いずれかを満たせばその時点で勝利したことになるし、期限までプレイを続けなくてもかまわない(その場合点数で順位がつけられる)。プレイヤーは様々な戦略、プレイスタイルでゲームに挑むことができる。 == ボードゲーム版 == === 文明の曙 === [[1982年]]{{Refnest|group="注"|一部メディアでは1980年とされている<ref>{{Cite web|和書|title=テクノロジーをよりよく理解するために遊んでみたい、傑作ボードゲーム6選|url=https://wired.jp/2017/12/23/tech-centric-board-games/|website=WIRED.jp|accessdate=2020-05-13|date=2017-12-23|author=CHRIS WRIGHT}}</ref>。}}に[[アバロンヒル]]社より''Civilization''のタイトルで発売されたボードゲーム。後に[[ホビージャパン]]から『{{仮リンク|文明の曙|en|Civilization (1980 board game)}}』のタイトルで[[日本語]]解説書つきで発売された。 === アドヴァンスト シヴィライゼーション 文明の曙 === [[1991年]]にアバロンヒル社より''Advanced Civilization''のタイトルで発売されたボードゲーム。[[1995年]]に 『{{仮リンク|アドヴァンスト シヴィライゼーション 文明の曙|en|Avalon Hill's Advanced Civilization}} 』のタイトルで[[コンピューターゲーム]]化もされた。Windows 95 で動作する。アドヴァンストシヴィライゼーション文明の曙ハンドブック(アバロンヒルゲームソフトコレクション 歴史シミュレーション)という攻略本も発売されている。 == コンピュータゲーム版 == コンピュータゲームの第1作『シヴィライゼーション』は、[[MS-DOS]]ベースの[[PC/AT互換機|IBM互換機]]向けに発売された。以後、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]に対応した『シヴィライゼーションII』、[[Windows 95]]以降の環境に対応した『アルファ・ケンタウリ』と『シヴィライゼーションIII』。[[Windows XP]]以降の環境に対応した『シヴィライゼーションIV』、Windows XP SP3 / [[Microsoft Windows Vista|Vista]] SP2 / 7/ 8に対応した『シヴィライゼーションV』が発売され、最新作の『[[シヴィライゼーションVI]]』では[[Microsoft Windows 7|Windows 7]] 64bit / [[Microsoft Windows 8.1|8.1]] 64bit / [[Microsoft Windows 10|10]] 64bitに対応するなど、主に[[パソコン]]用ゲームとして開発販売されている。 日本国内では[[PC-9800シリーズ|PC-98]]版が1992年に発売、その後[[Windows]]、[[Macintosh]]や各種家庭用[[ゲーム機]]用に日本語版が発売されている。 [[2009年]]に各種プラットホーム向けに発売された『シヴィライゼーション レボリューション』は、翌年ニンテンドーDS用のものが[[iPhone]]/[[iPad]]用に移植された。 『シヴィライゼーションV』については、2014年より、[[Linux]]とLinuxをベースにした[[SteamOS]]でも、サポートされるようになった。ただし、Linuxについては、すべてのディストリビューションがサポートされているわけではなく、一部のディストリビューションをテストしているだけである。 === 開発 === 『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』シリーズのタイトルには、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のゲームデザイナーである[[シド・マイヤー]](又はシド・メイヤー)の名前が冠されている。しかし、彼が実際に制作に関わったのは第1作の『シヴィライゼーション』と[[2008年]]に家庭用[[ゲーム機]]向きに展開された『シヴィライゼーション・レボリューション』の2作のみである。『シヴィライゼーションII』以降の作品では、監修のみを担当し、実際の制作には関わっていない。 シリーズ第2作の『シヴィライゼーションII』や、外伝の『シド・マイヤーズ・アルファ・ケンタウリ』を担当した{{仮リンク|ブライアン・レイノルズ (ゲームデザイナー)|en|Brian Reynolds (game designer)|label=ブライアン・レイノルズ}}は、後に独立し{{仮リンク|Big Huge Games|en|Big Huge Games}}社で『[[ライズ オブ ネイション 〜民族の興亡〜|ライズ オブ ネイション]]』を担当。また、シリーズ第4作の『シヴィライゼーションIV』を担当した{{仮リンク|ソーレン・ジョンソン|en|Soren Johnson}}は、その後、[[エレクトロニックアーツ]]で[[ウィル・ライト]]の新作『[[Spore]]』の制作に携わっている。 === シヴィライゼーション === {{See also|w:Civilization (video game)}} [[1991年]]に[[マイクロプローズ]]社より''Sid Meier's Civilization''のタイトルで英語版が発売。ゲームデザイナーの[[シド・マイヤー]]によりデザインされた、コンピュータゲームとしての最初のシヴィライゼーションである。誤解されることが多いが、上述したようにアバロンヒル社のボードゲームが存在するため、一連のゲームのオリジナルアイデアそのものはシド・マイヤーの発案ではない。ただし、シド・マイヤーは後のインタビューで「ボードゲームの話を聞いたことはあったが、ゲームデザインを始める前にプレイしたことはない」と語っている<ref>{{Cite web|和書 |last=Chick|first=Tom|url=http://www.cgonline.com/features/010829-i1-f1.html|title=The fathers of Civilization An interview with Sid Meier and Bruce Shelley |language=en |date=2001-08-31 |accessdate=2007-12-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20011120212556/http://www.cgonline.com/features/010829-i1-f1.html |archivedate=2001-11-20}}</ref>。海外版の対応機種は[[Atari ST|ATARI ST]]、[[アミーガ]]、[[Macintosh|MAC]]、DOS、Windows 3.xである。 日本国内においては、[[1992年]]に[[PC-9800シリーズ|98]]版が発売された。1993年には、北島秀樹著「シヴィライゼーション ハンドブック」も発売されている。 又、ネット上には『シヴィライゼーション ~紀元前アルファケンタウリ到着を目指して~』<ref>url=http://www.kiwi-us.com/~hkitajim/Civ.txt</ref>も公開されている。 シヴィライゼーションに触発されてBC4000-文明モデル<ref>url=http://catchapp.net/item/detail/1524740429</ref>というゲームが iPhone にリリースされた。 ==== シヴィライゼーション 世界七大文明 ==== 家庭用ゲーム機用では初のシヴィライゼーションである。[[1994年]]に[[スーパーファミコン|SFC]]版『シヴィライゼーション 世界七大文明』が[[アスミック・エース|アスミック]]より発売された。 ゲームの操作方法はパソコン版とあまり変わらないものの、ルール、シナリオ、攻略方(攻略方法)、登場人物等が変更されており、パソコン版とは別のゲームとなっている。 『シヴィライゼーション 世界七大文明 必勝攻略法』(スーパーファミコン完璧攻略シリーズ74)が1994年10月25日双葉社から880円(税込)で発売されている。 ==== Sid Meier's CivNet ==== パソコン版シヴィライゼーションのネットワーク対戦型バージョンである。LAN、インターネット、BBSに対応。1995年、Windows 3.x用でアメリカ、イギリス、ドイツでのみ発売された。日本ではスペクトラストリームが『Sid Meier's CivNet(日本語マニュアル付き英語版)』の名称で輸入販売を実施。スペクトラストリームでの動作確認機種はWindowsw3.1/95/98でCD媒体である。 ==== シヴィライゼーション 新世界七大文明 ==== [[1996年]]には[[PlayStation (ゲーム機)|PS]]版・[[セガサターン|SS]]版『シヴィライゼーション新世界七大文明』(アスミック)が発売された。 攻略本としては以下の物が発売されている: (1)『シヴィライゼーション 新・世界七大文明 徹底攻略ガイド』がマイナビ出版から1996年8月に発売されている。対応機種はプレイステーションである。 (2)『シヴィライゼーション 新・世界七大文明 (ナビブック)』が発売された。対応機種はプレイステーションである。 === コロナイゼーション === {{See also|w:Sid Meier's Colonization}} 1994年発売。コロナイゼーションとは植民地化という意味である。『シヴィライゼーションIV コロナイゼーション』はこの作品のリメイクになる。そのため、本作品はコロナイゼーション(クラシック)などと呼ばれている。対応機種は Microsoft Windows(Windows XP/Vista/7), Linux, Classic Mac OS, DOS, AmigaOS,iPhone,iPad。対応言語はドイツ語、スペイン語、フランス語、英語。日本語版は CD-ROM for Windows (Windows3.1(PC-98、DOS/V)) とパッケージに記載されている。iPhone/iPad/iPod touch/Mac用は App store で購入できるが操作性が悪く評判が悪い。他にもフリーで開発された、Colonization too<ref>url=https://sourceforge.net/projects/coltoo/</ref>と FreeCol がある。 === シヴィライゼーションII === {{See also|w:Civilization II}} [[1996年]]にマイクロプローズ社より''Sid Meier's Civilization II''のタイトルで発売された後、日本では『シヴィライゼーションII〜完全日本語版〜』の名称で[[サイバーフロント]]より、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.1]]/[[Windows 95]]用が発売されている。 ゲームデザインは、{{仮リンク|ブライアン・レイノルズ (ゲームデザイナー)|en|Brian Reynolds (game designer)|label=ブライアン・レイノルズ}}が担当し、本作よりシド・マイヤー自身は直接の制作には関わっていない。 ゲームは、マップがクォータービュー表示に変更されるなど、画面描写が大幅に改善された。さらにゲームバランスの改善、テクノロジーやユニットが大幅に追加されるなど、正統的な進化を遂げている。 数百万本を売り上げる人気作となったが、マイクロプローズ社は当初、この作品にほとんど期待をかけておらず、あくまでも前作ファン向けのマイナー作品として扱っていたため、ゲーム発売前にほとんど販促プロモーションが行われなかったとされる。 後に「わくわくパソコンソフト」という名称で1,980円で再販売されている<ref name="GameWatch20070221">{{Cite web|和書|title=ソースネクスト、WIN「シヴィライゼーションII」シリーズ3タイトルの廉価版をVista対応で発売|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20070221/civi.htm|website=Game Watch|date=2007年2月21日|author=石田賀津男|accessdate=2020-05-13}}</ref>。1998年にはPS版『シヴィライゼーションII』 が、[[ヒューマン (ゲーム会社) |ヒューマン]]社から発売されている。 拡張パックとして''Civilization II:Gold Edition''と『シヴィライゼーションII テスト オブ タイム』(''[[w:Civilization II: Test of Time]]'')がある。また、豪華版である『シヴィライゼーションII完全日本語版 日本語公式ガイドブック付 VALUE PACK』(販売元:メディアクエスト)が発売されたほか、『シヴィライゼーションII』本編にシナリオと日本語公式戦略ガイドブックを付けた『ゴールド・シヴィライゼーションII 』(開発元はマイクロプローズ、販売元はメディアクエスト、発売元は三井物産)、シナリオ集「シヴィライゼーションII ファンタスティック・ワールド 完全日本語版」(販売元はメディアクエスト、発売元は三井物産)、『シヴィライゼーションII』本編と追加シナリオのセット品『シヴィライゼーションII プレミアパック』などがある。 これらの拡張パックやシナリオ集の中には、ファンタジーやSFを題材としたモードも収録されている{{R|GameWatch20070221}}。 === シヴィライゼーション コール・トゥ・パワー === {{See also|w:Civilization: Call to Power}} [[1999年]]に[[アクティビジョン]]社より''Civilization: Call to Power''のタイトルで発売。シド・マイヤーは関わっていない。アバロンヒル社よりシヴィライゼーションに関するライセンスを受けたため、マイクロプロース社との裁判となった。裁判の結果、マイクロプロース社よりライセンスを受けることになった。つまり、サブライセンス作品であり、シリーズ名を冠しているものの、公式にはシド・マイヤーズ・シヴィライゼーションには含まれない。同年に[[サイバーフロント]]社より日本語版が発売されている{{Efn2|サイバーフロント社による日本語版は、実在する史跡も含め、ゲーム中の名詞の誤訳が非常に多い。}}。Linux版も存在する。 本家シヴィライゼーションと異なり、海底や[[宇宙空間]]での都市開発など、近未来の技術が大きく拡張されている。[[奴隷]]商人を使ってライバル文明から人々を誘拐し自文明の生産力に割り当てることや、[[七不思議]]、[[奴隷解放運動]]によって[[奴隷制度]]を無効化してライバル文明を陥れること、[[支店]]ユニットによってライバル文明の都市に[[フランチャイズ]]して戦争をせずに生産力をライバル文明から詐取することや、それに対抗して[[弁護士]]で支店を[[提訴]]するという面白いアイデアが大量に導入された。[[エコテロリスト]]、エコレンジャーという[[環境保護]]を目的とした、[[ナノテクノロジー]]による[[テロ活動]]を行うユニットも生産できるようになった。[[政治体制]]には、圧政、[[ファシズム]]、[[神権政治]]、[[多国籍企業]](企業共同体)、[[テクノクラシー]](技術至上主義)、サイバー民主主義、[[エコトピア]]が追加された。 また、ゲームシステム上の特徴として、「インフラ」の導入により土地改善の作業が大幅に軽減されたことや、交易品の導入により交易路の維持が経済戦略上の重要な鍵になったことが挙げられる。 今作では、地球外での勝利を求める場合の選択肢は、[[ワームホール]]を発見し、人工的に誕生させた[[エイリアン]]を別の宇宙に送り出すことである。 === コール トゥ パワーII === {{See also|w:Call to Power II}} [[2000年]]11月にアクティビジョン社より''Call to Power II''のタイトルで発売。ライセンス問題を解決するため、タイトルからシヴィライゼーションの名前は無くなっている。[[2001年]]にメディアクエスト社より日本語版が発売された{{Refnest|group="注"|文献によってはマイピックとなっているものもある{{R|GameWatch20100724}}}}。日本語版に関しては、移植元が変更されたことにより、前作でのような誤訳は無い。 本作の勝利条件として、世界征服、ハイスコア、他文明との恒久的な平和共存に加え、地球のリソースを自由に操ることが出来るガイアコントローラの開発が含まれる<ref name="GameWatch20100724">{{Cite web|和書|title=PCゲームレビュー 「コール トゥ パワー II 完全日本語版」|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010724/ctp2.htm|website=Game Watch|date=2001-07-24|accessdate=2020-05-13}}</ref>。 === シド・マイヤーズ・アルファ・ケンタウリ === {{See also|w:Sid Meier's Alpha Centauri}} 『シド・マイヤーズ・シヴィライゼーション』シリーズの実質的な続編{{R|4Gamer.net20000915}}。[[2000年]]に[[エレクトロニック・アーツ]]社より''Sid Meier's Alpha Centauri''のタイトルで発売。シリーズの最終目標の一つである、[[ケンタウルス座アルファ星|アルファ・ケンタウリ]]への植民後の世界を舞台とした作品{{R|4Gamer.net20000915}}で、架空の兵器や技術が多く登場する<ref>{{Cite web|和書|author=駒沢丈治 |title=窓の杜 - 【連載】Winゲームデモ! 第101回:「シド・マイヤーズ アルファ・ケンタウリ 完全版」|url=https://forest.watch.impress.co.jp/article/2000/09/27/game101.html|website=窓の杜|publisher=インプレス|date=2000-09-27|accessdate=2020-05-13}}</ref>。ゼロから様々なユニットを自由に設計できる柔軟なカスタマイズ性や国境線の導入に始まり、各勢力の首脳に強い個性が与えられ、外交に様々な選択肢が追加されるなど、後のシリーズ発展の基盤となる多くのアイデアが示されている。拡張パックとしては ''Sid Meier's Alien Crossfire'' (SMAX) がある。 開発元は[[シド・マイヤー]]らが新たに設立した[[フィラクシス・ゲームズ]]社<ref name="4Gamer.net20000915">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/review/live/acen.html|title=シド・マイヤーズ アルファ・ケンタウリ 完全版 レビュー|website=4gamer.net|accessdate=2020-05-13|date=2000-09-15|author= トライゼット 西川善司}}</ref>で、以降の作品も同社により開発されている。同年には日本語版も発売されている。ゲームデザインは、前作にあたる『シヴィライゼーションII』に引き続き、ブライアン・レイノルズが担当。彼は、ゲーム内への数々の革新的要素を導入したことでその評価を不動の物としたが、続編にあたる『III』の開発中に開発メンバーと共にフィラクシス社を退社。{{仮リンク|Big Huge Games|en|Big Huge Games}}社を設立し、『[[ライズ オブ ネイション 〜民族の興亡〜|ライズ オブ ネイション]]』の開発を担当した。 === シヴィライゼーションIII === {{See also|w:Civilization III}} [[2001年]]に[[インフォグラム]]社より''Sid Meier's Civilization III''のタイトルで発売。Windows 95以降のWindowsプラットフォームへ正式対応し、加えて『II』や『アルファ・ケンタウリ』で示された、新要素の取り込みが主な変更点となっている。日本国外ではMac OS X版も発売されている。日本では、[[サイバーフロント]]社より日本語版が発売され、全世界で300万本以上の売り上げを達成した<ref name="sell">{{Cite web|和書 |url=https://www.4gamer.net/weekly/civ4/001/civ4_001.shtml|title=シヴィライゼーション4 (午前)3時のおやつは文明道 第1回|publisher=[[4Gamer.net]] |accessdate=2006-07-08|author=虹川 瞬}}</ref>。 拡張パックとして''[[w:Civilization III: Play the World]]''(PTW)と''[[w:Civilization III: Conquests]]''(C3C)がある。 === シヴィライゼーションIV === {{Anchors|Sid Meier's Civilization IV}} {{See also|w:Civilization IV}} [[2005年]][[10月24日]]に[[2K Games]]社より''Sid Meier's Civilization IV''のタイトルで発売。Windows用のPCゲームであり、[[2006年]]6月にはMac OS X版も発売された。また、同年[[6月17日]]にはサイバーフロント社より日本語版が発売されている。2007年7月時点で、全世界で150万本以上の売り上げを達成している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/news/history/2007.03/20070329131714detail.html|title=「Civilization IV」の拡張パック第2弾が2007年7月に発売|date=2007-03-29|publisher=[[4Gamer.net]] |accessdate=2011年7月14日 }}</ref>。画面がフル3Dへと一新され、操作性が大幅に向上した。さらに、ゲームシステムが大きく変更され、従来作でプレイヤーの手を煩わせていた公害の除去や汚職の管理といった要素が削除され、プレイアビリティが高まった。また、AI指導者達の振る舞いも大きく改良された。 ゲームの発売から6年後、オープニングテーマ曲である''[[ババイェツの歌|Baba Yetu]]''が、[[第53回グラミー賞]]の「Best Instrumental Arrangement Accompanying Vocalist」部門を受賞した<ref name="grammy">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/015/G001538/20110215019/|author=奥谷海人|title=ゲーム音楽史上初の快挙。「Sid Meier's Civilization IV」のテーマソング「Baba Yetu」がグラミー賞を受賞|date=2011-02-15|accessdate=2011-02-15|publisher=[[4Gamer.net]]}}</ref>。作曲者の{{仮リンク|クリストファー・ティン|en|Christopher Tin}}が2010年に発売したアルバムに''Baba Yetu''が収録されていたことから改めて評価されたもので、ゲーム音楽としては史上初の受賞である。<ref name="grammy" />。 拡張パックとして『シヴィライゼーション4 ウォーロード』(''[[w:Civilization IV: Warlords]]'')と 『シヴィライゼーション4 ビヨンド ザ ソード』(''[[w:Civilization IV: Beyond the Sword]]'')がある。 === Sid Meier's Civilization Chronicles === [[2006年]]発売(英語版のみ)。第1作の『シヴィライゼーション』から『シヴィライゼーションIV』までのセット(『アルファ・ケンタウリ』を除く)と、96ページに渡る小冊子 (Chronicles)、カードゲーム、ビデオDVD、ポスター、デスクトップ用の壁紙、[[MP3]]ファイル等のボーナスアイテムを加えたコレクター向けのボックスセットである。 === シヴィライゼーション特別限定パッケージ === シヴィライゼーション2(テストオブタイム)、シヴィライゼーション3(コンクエスト)、シヴィライゼーション4(ウィーロードとビヨンド・ザ・ソード)と3つのバージョンと4本のシナリオをセットにした物。 === シヴィライゼーション レボリューション === {{See also|w:Civilization Revolution}} [[2008年]]6月に2K Games社より北米・欧州・豪州で[[PlayStation 3|PLAYSTATION 3]]・[[Xbox 360]]で''Sid Meier's Civilization Revolution''のタイトルで発売された、家庭用[[ゲーム機]]向けに開発された初めてのシヴィライゼーション。インターネット対戦を前提とした設計だがシングルプレイも可能である。オンライン対戦は1ゲームのプレイ時間が平均3時間から平均1時間に短縮されている。 システムが他シリーズに比べて大幅に簡略化<ref name="impress">[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080821/civrev.htm PCからコンシューマ機へ、革命的な変身! 海外ゲームレビュー「Civilization Revolution」]</ref>されユニットの種類が少なく、小さめのMAP構成にくわえて都市には衛生度・幸福度・飢餓・交易路といった要素も存在しない上に破産もないため管理の手間(防衛等)さえ惜しまなければ都市をあちこちに建てることで大幅に優位にたてる。一方で同じユニットを3つ重ねることで「軍団」に編成し直し攻撃力・防御力を3倍にするといった独自のシステムが搭載され下位ユニットでも軍団にすることで上位ユニット単体にも上回る強さを発揮する。<ref name="impress" /> [[2008年]][[12月25日]]に[[サイバーフロント]]よりPLAYSTATION 3・XBOX 360<ref>{{Cite web |title=文明の発見と発展をテーマにしたシミュレーション「シヴィライゼーション レボリューション」のSS集を掲載 |url=https://www.4gamer.net/games/040/G004095/20090115003/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-11-22 |publisher=Aetas |date=2009/01/15}}</ref>の日本語版が、翌[[2009年]][[1月29日]]に[[ニンテンドーDS]]版が発売された。ニンテンドーDS版はハード性能からMAP表示が2Dであったり、CPU文明が巨大化すると数十秒待たされる、またユニットが売却できないなどいくつか仕様が異なる。[[2010年]][[1月14日]]に2K Games社よりiPhone・iPod Touch・iPad対応の日本語版が発売された。 === シヴィライゼーションIV コロナイゼーション === {{See also|w:Civilization IV: Colonization}} [[2009年]][[3月27日]]に2K Games社より''Sid Meier's Civilization IV Colonization''のタイトルで発売。[[1994年]]に発売された''Sid Meier's Colonization''を『シヴィライゼーションIV』のゲームエンジンを使ってリメイクした作品である<ref name="4Gamer.net20090415">{{Cite web |title=最新エンジンで甦った植民地開拓シム,「シヴィライゼーション4 コロナイゼーション」のレビューを掲載 |url=https://www.4gamer.net/games/049/G004990/20090414020/ |website=4Gamer.net |access-date=2023-11-22 |publisher=Aetas |date=2009/04/15}}</ref>。『IV』の拡張パックではなく、独立した単体作品としてリリースされている。ゲームの舞台は[[16世紀]]のアメリカ新大陸であり、イギリス、フランス、スペイン、オランダといった列強諸国による、新大陸への入植競争とアメリカ合衆国の独立をテーマとしている<ref name="4Gamer.net20090415"/>。 === シヴィライゼーションV === {{See also|w:Civilization V}} [[2010年]][[9月21日]]に2K Games社より英語版''Sid Meier's Civilization V''が北米で、[[9月24日]]に欧州でそれぞれ発売された。日本語版の発売は、2010年[[10月29日]]となっている。『IV』から、さらなるグラフィック面での進化に加えて、プレイヤーが煩わしさを感じる要素を整理再編し、より快適なプレイを実現する方向へとデザインが指向されている。それに基づいてスタック制の廃止など戦争に関する多くの変更が導入されたが、一方で外交や経済政策は簡略化された。そのため『IV』とのプレイ感覚の違いから賛否両論がある<ref name="famitsu20161008">{{Cite web |title=『シドマイヤーズ シヴィライゼーション VI』ゲームデザイナーに聞く、スタック制のこと、マルチプレイのこと、北条時宗のこと【インタビュー】 |url=https://www.famitsu.com/news/201610/08117804.html |website=ファミ通.com |date=2016-10-08 |access-date=2023-11-22 |language=ja}}</ref>。 拡張版として、[[2012年]][[6月23日]]に''[[w:Civilization V: Gods & Kings]]''が、[[2013年]][[7月]]に''[[w:Civilization V: Brave New World]]''がそれぞれ発売され、当初単純化されていたゲーム性はある程度複雑化されている。 ==== 必要動作環境 ==== [[プロセッサ]]:[[インテル]] デュアルコアCPU、[[メモリ]]:2GB [[Random Access Memory|RAM]]、[[ハードディスクドライブ|HDD]] 容量:9.6GB以上、[[DVD-ROM]]:ディスクインストールで使用、[[ビデオカード]]:256MB [[Microsoft DirectX|DirectX]]の[[NVIDIA]] 7900GS以上 DirectX 9.0c対応の[[ビデオカード]]となっており、また初回インストール時の認証時やマルチプレイヤーゲーム時にインターネット接続が必要。 === Civilization World (CivWorld) === {{See also|w:Civilization World}} [[Facebook]]上での[[ブラウザゲーム]]として提供されていたバージョン。2011年7月5日より[[ベータ版|オープンβテスト]]が開始されたが、2013年5月に運営終了となり、2014年現在は後継製品としてiOSで展開中の''Civilization Revolution''へ誘導される。 === Sid Meier's Civilization Revolution 2 === {{See also|w:Civilization Revolution 2}} [[2014年]]に2K Games社より発売。『シヴィライゼーション レボリューション』の改良版だが、iOS/Android版向けのみが提供されている。 ==== シヴィライゼーション レボリューション2+ ==== [[2015年]][[12月3日]]に2K Games社より発売。上記の''Revolution 2''を基に[[PlayStation Vita]]用に改良・追加されたもの<ref>[https://www.4gamer.net/games/320/G032036/20151006050/ 2K,PS Vita向け「シヴィライゼーション レボリューション 2+」を12月3日にリリース] 4Gamer.net 2015年10月6日</ref><ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/733541.html 「シヴィライゼーション レボリューション2+」、本日発売!] GAME Watch 2015年12月3日</ref>。 === Sid Meier's Civilization: Beyond Earth === {{See also|w:Civilization: Beyond Earth}} 2014年に2K Games社より発売。『アルファ・ケンタウリ』の[[精神的続編]]であり、同様に地球を脱出した後の、新しい惑星を舞台としたSF的な作品となっている<ref>{{Cite web|和書|title=ついに発売された「Sid Meier's Civilization: Beyond Earth」を徹底レビュー。人気シリーズの最新作は,宇宙の果てで繰り広げられる惑星開拓の物語|url=https://www.4gamer.net/games/253/G025372/20141107123/|website=4gamer.net|accessdate=2020-05-13|publisher=Aetas}}</ref>。また、2015年3月には、同様にシヴィライゼーションのエンジンを用いた、世界観の近い''Sid Meier's Starships''もリリースされている。 === シヴィライゼーションVI === {{main|シヴィライゼーションVI}} 2016年10月21日に2K Games社より''Sid Meier's Civilization VI''のタイトルでダウンロード版とパッケージ版が発売された。 新たに協力プレイモードや新チュートリアルシステムなどが盛り込まれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/news/201605/12105608.html |title=ストラテジーゲーム『Sid Meier’s Civilization VI』が発表。新たな都市開発やユニットシステム、Co-opモードなどを搭載し、10月21日発売予定 |accessdate=2016-05-17 |author=ミル☆吉村 |publisher=[[ファミ通.com]] |date=2016-05-12}}</ref>。 これまでに何度かアップデートや拡張パックの発売が行われている。 拡張パックとしては「[[Civilization VI: 文明の興亡|文明の興亡]]」のほか、2019年2月14日には「嵐の訪れ」が配信された。「嵐の訪れ」ではユニットの生産方式が変更されるほか、ペストをモチーフとしたシナリオ「黒い死神」が収録されている<ref name="4Gamer.net20190214">{{Cite web|和書|title=天変地異が文明を襲う! 「シヴィライゼーション VI」最新拡張パック「嵐の訪れ」プレイレポート。“黒死病”渦巻く「黒い死神」に挑む|url=https://www.4gamer.net/games/342/G034279/20190212096/|website=4gamer.net|accessdate=2019-10-18|publisher=Aetas|date=2019-02-14日|author=徳岡正肇}}</ref> === その他 === 他にシリーズ作品としては異色の[[MMORPG]]である''Civilization Online''がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/133/G013341/20130808052/ |title=XLGAMESと2K Gamesが「Civilization Online」を制作中。シド・マイヤー氏の傑作シム“Civ”が,CryENGINE 3ベースでMMORPGに |accessdate=2016-05-17 |author=Kim Dong Wook |publisher=[[4gamer]] |date=2013-08-08}}</ref>。2K Games社とXL Games社によって共同開発されており[[ベータ版|ベータテスト]]が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/133/G013341/20151125042/ |title=「Civilization Online」のオープンβテストが韓国で12月2日開始 |accessdate=2016-05-17 |author=Gueed |publisher=[[4gamer]] |date=2015-11-25}}</ref>。 == クローンゲーム == === Freeciv === {{main|Freeciv}} ''Freeciv''はシヴィライゼーションを模したクローンゲームの一つ。[[GNU General Public License|GPL]]のソフトウェアとして開発されている。Windows、Mac OS X、Linux対応。またブラウザーで動作するFreeciv-webも存在する<ref>{{Cite web|和書|title=名作歴史戦略ゲーム「シヴィライゼーション」を元に製作されたブラウザでサクッとプレイ可能なオープンソースのフリーゲーム「Freeciv-web」|url=https://gigazine.net/news/20190428-freeciv-web/|website=Gigazine|accessdate=2022-06-10|date=2019-04-28|author=log1k_iy}}</ref>。 === C-evo === ''[http://c-evo.org/ C-evo]''はシヴィライゼーションを模したクローンゲームの一つ。[[パブリックドメイン]]のソフトウェアとして開発されている。 === FreeCol === ''[https://www.freecol.org/ FreeCol]''は''Sid Meier's Colonization'' (1994年版)を模したクローンゲームの一つ。[[GNU General Public License|GPL]]のソフトウェアとして開発されている。Windows、Mac OS X、Linux対応。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 外部リンク == {{Portal|コンピュータゲーム}} * [https://civilization.com/ja-JP/ シドマイヤーズ シヴィライゼーション VI] * [https://civilization5.jp/ Civilization V]{{ja icon}} * {{Epic Games Store|sid-meiers-civilization-vi|シドマイヤーズ シヴィライゼーション VI}} * {{Wayback|url=http://www.japan.ea.com/alphacentauri/ |title=Sid Meier's Alpha Centauri 日本語版公式サイト |date=20001019200131}} {{DEFAULTSORT:しういらいせいしよん}} [[Category:ウォー・シミュレーションゲーム]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]] [[Category:Linux用ゲームソフト]] [[Category:Classic Mac OS用ゲームソフト]] [[Category:Windows用ゲームソフト]] [[Category:スーパーファミコン用ソフト]] [[Category:PlayStation用ソフト]] [[Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト]] [[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]] [[Category:オールタイム100ビデオゲーム選出]] [[Category:ファミ通クロスレビューシルバー殿堂入りソフト]]
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公法
公法(こうほう、英語:public law、ドイツ語:öffentliches Recht)とは、私法に対置される概念であり、一般には、国家と国民の関係の規律および国家の規律を行う法を意味する用語として用いられる。 公法の定義に関する観念が未確定な部分があることから、どこまでを公法に含めるかという問題も、また確定的なものではない。最も狭い用法では、民事法と刑事法と対置されて、憲法と行政法のみを指す。これに租税法、財政法、社会保障法を独立の法分野として加える見解もある。さらには、国際法を公法に含める場合もある。 より広義には、刑法や訴訟法を含める場合もあり、私法と公法の二分論的に用いられる場合の公法はこの意味に理解される場合が多い。 最広義では、環境法のような私法との交錯領域も、公法に含める場合がある 。 公法と私法の峻別は、ローマ法に溯るが、そこでは利益関心理論 (Interessentheorie) がとられていた。つまり、公法(ius publicum)は公の利益関心のためにあり、私法(ius privatum)は私人の利益関心のために存在する。国家反逆などの公益侵害にかかわるのが公法であり、債権法などのほか私人に対する殺人や窃盗など、私人間の争いにかかわるのが私法であった。このことを表現したウルピアーヌスの「publicum ius est quod ad statum rei Romanae spectat, privatum quod ad singulorum utilitatem」という法諺は有名である。 19世紀になり、公共性を保持し続ける「国家」と経済的利益を交換し合う「社会」が分離したため、国家は社会を公権力により規律するというモデルが成立した。その結果、公法とは国家と市民の上下関係を規律するものであり、私法は市民同士の対等な関係を規律するという、いわゆる従属理論 (Subordinationstheorie) が支配的となった。この影響を受けて、日本では、「国家と国民の関係に関わる法、または行政のあり方を規定する法の総称」などと定義されることもあるようである。 しかし、行政契約などの形で、国家が経済活動に広く関わるようになると、このような分類は適切でなくなった。ドイツにおいては、従属理論が修正されて帰属理論 (Zuordnungstheorie) が有力となった。また、日本では、塩野宏の公法・私法二元論否定説により、単純な公法・私法の分類に反対する学説が有力となった。 公法の規律を受ける行政主体と私人との関係をいう。その内容である権利・義務を公権・公義務という。
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公法とは、私法に対置される概念であり、一般には、国家と国民の関係の規律および国家の規律を行う法を意味する用語として用いられる。 公法の定義に関する観念が未確定な部分があることから、どこまでを公法に含めるかという問題も、また確定的なものではない。最も狭い用法では、民事法と刑事法と対置されて、憲法と行政法のみを指す。これに租税法、財政法、社会保障法を独立の法分野として加える見解もある。さらには、国際法を公法に含める場合もある。 より広義には、刑法や訴訟法を含める場合もあり、私法と公法の二分論的に用いられる場合の公法はこの意味に理解される場合が多い。 最広義では、環境法のような私法との交錯領域も、公法に含める場合がある。
{{出典の明記|date=2020年7月}} '''公法'''(こうほう、[[英語]]:public law、[[ドイツ語]]:öffentliches Recht)とは、[[私法]]に対置される概念であり、一般には、国家と国民の関係の規律および国家の規律を行う法を意味する用語として用いられる。 公法の定義に関する観念が未確定な部分があることから、どこまでを公法に含めるかという問題も、また確定的なものではない。最も狭い用法では、民事法と刑事法と対置されて、[[憲法]]と[[行政法]]のみを指す。これに[[租税法]]、[[財政法]]、[[社会保障法]]を独立の法分野として加える見解もある{{要出典|date=2020年7月}}。さらには、[[国際法]]を公法に含める場合もある。 より広義には、[[刑法]]や[[訴訟法]]を含める場合もあり、私法と公法の二分論的に用いられる場合の公法はこの意味に理解される場合が多い。 最広義では、[[環境法]]のような私法との交錯領域も、公法に含める場合がある{{要出典|date=2020年7月}} 。 == 歴史 == 公法と私法の峻別は、[[ローマ法]]に溯るが、そこでは[[利益関心理論]] (Interessentheorie) がとられていた。つまり、公法(ius publicum)は[[公]]の利益関心のためにあり、私法(ius privatum)は私人の利益関心のために存在する。国家反逆などの公益侵害にかかわるのが公法であり、債権法などのほか私人に対する殺人や窃盗など、私人間の争いにかかわるのが私法であった<ref group="注釈">このような背景から、フランスでは今日も刑法は私法に分類されている。</ref>。このことを表現した[[ドミティウス・ウルピアーヌス|ウルピアーヌス]]の「publicum ius est quod ad statum rei Romanae spectat, privatum quod ad singulorum utilitatem」という[[法諺]]は有名である。 19世紀になり、公共性を保持し続ける「[[国家]]」と経済的利益を交換し合う「[[社会]]」が分離したため、国家は社会を公権力により規律するというモデルが成立した。その結果、公法とは国家と[[市民]]の上下関係を規律するものであり、私法は市民同士の対等な関係を規律するという、いわゆる[[従属理論]] (Subordinationstheorie) が支配的となった。この影響を受けて、日本では、「[[国家]]と[[国民]]の関係に関わる[[法 (法学)|法]]、または[[行政]]のあり方を規定する法の総称」などと定義されることもあるようである。 しかし、[[行政契約]]などの形で、国家が[[経済]]活動に広く関わるようになると、このような分類は適切でなくなった。[[ドイツ]]においては、従属理論が修正されて[[帰属理論]] (Zuordnungstheorie) が有力となった。また、日本では、[[塩野宏]]の公法・私法二元論否定説により、単純な公法・私法の分類に反対する学説が有力となった。 == 公法関係 == 公法の規律を受ける行政主体と私人との関係をいう。その内容である権利・義務を[[公権]]・公義務という。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} == 関連項目 == * [[法学]] * [[憲法]] * [[裁判法]] * [[行政法]] * [[租税法]] * [[財政法]] * [[国際法]] * [[環境法]] * [[教育法]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Law-stub}} {{法学のテンプレート}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:こうほう}} [[Category:公法|*]]
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占い
占い(うらない)とは様々な方法で、人の心の内や運勢や未来など、直接観察することのできないものについて判断、予言することや、その方法をいう。卜占(ぼくせん)や占卜(せんぼく)ともいう。 占いを鑑定する人を、占い師、占い鑑定師、卜者(ぼくしゃ)、易者(えきしゃ)などと呼ぶ。また、場合によって、「手相家」、「気学家」、「人相家」などとも呼ばれる。客からは先生と呼ばれることが多い。また日本では、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と昔から言われているように、占いは他の業界と違い、必ずしも当たらなくても通用する面もあることから、占いを裏(外れ)が無いという意味で「裏無い」と軽蔑の意味を込めて書く場合もある。 占いの関係者の中には占いは「統計」によるものと説明する者もいるが、占いは独自の理論や個人の経験で構成されている面が強く、必ずしも統計や統計学、科学としての研究との関連があるとは言いがたい。 例えば占星術は古代においては天文学と関連したものであったが、天文学が自然科学として発展したため現在では学問的な裏付けが無い。またこれは風水においても同様で風水に地理の別名があるように、かつて地理は社会科学の地理学に相当する知識と地理による吉凶を占う地相術が渾然となったものであった。 実際、これまで占いには、統計学などの科学的要素が入っていると言う説が提示されたことはあるが、科学的な根拠があると認められたことはない。古代ギリシャや古代ローマで行われていた生贄の動物の肝臓の色を見ることや、中国で行われていた、熱した細い金属棒で動物の肩甲骨や亀の甲羅を焼く(亀甲獣骨文字を参照)行為に関しては、その占いに使われた動物の栄養状態が分かるため、都市建設と農作物の育成に関してだけはそれなりの根拠があった。時代が下るにつれて本来の目的以外の占いに用いられるようになり、また生贄を採取する場所も問わなくなってきたため、根拠が無くなっていった。しかし、現代においても、占いを信じる者は少なくないため、占いはしばしばビジネスとして扱われている。中には霊感商法などの悪徳商法に発展することもあるが、こうなると占い師が詐欺罪に問われることもある。 占いの提供のされ方としては従来より、雑誌や本の他に、占い師が直接占う対面鑑定、電話で鑑定する電話占い、チャットを利用したチャット鑑定等がある。インターネット業界の進展により、オンラインで占いコンテンツとして提供されるケースが多くなっている。 占いは、その信憑性が科学的には証明されていないが、不思議な効果を発揮したと見なされることがある。例えば昭和の易聖とよばれた加藤大岳は野球くじを占い、小額の購入の時は良く当てたという伝説が残っている。そのため占いが当っていようがいまいが、当たったように見せる機構があるのではないかという考えがある。その機構として想定されているのが、バーナム効果、コールド・リーディング、ホット・リーディングといったものである。 本来、占いと霊感は別のものであるが、どちらも運勢や未来などを判断するという点が共通している。そのため、霊能者を名乗った方が営業上得策であるということで、占い師が霊能者を自称することがままある。 占いの中には、天空の星の配置などから市場の動向を読み取る事もある。 占いは、大別すると命(めい)・卜(ぼく)・相(そう)の三種類に分かれ、占う者は目的に応じて占いを使い分け、組み合わせる。また命・卜・相に医、山(肉体的および精神的な鍛錬)を加えて「五術」ともいわれる。 「五術」や「命・卜・相」は、中国では一般的な言い方であるが、日本には、1967年頃台湾の張明澄(張耀文)が伝えたのが最初とされる。 実際、台湾の占い師の看板は、たいてい「命・卜・相」か「五術」のどちらかである。 張明澄によれば、中国の五術は記号類型化による経験則の集大成であり、科学とはいえないものの、霊感などのような反科学的な要素は含まないという。逆に、科学は時間に記号をつけて類型化するという発想はないし、観察した経験もないから、五術を否定する根拠を持てないという。 五術に医が含まれるのは、中国医学は五術の命などと全く同じ方法で、つまり記号類型によって成り立った伝統医学だからである。 五術というのは機能面からの分類だが、方法論的な分類としては六大課ともいわれ、太乙神数、奇門遁甲、六壬神課、河洛易数、星平会海、宿曜演禽、という六種の術数を、五術六大課という。 運命、宿命などを占うもの。誕生した生年月日・時間や、生まれた場所の要素も加えることによって、その人の生来の性質、傾向、人生の流れなどを占う。推命(すいめい)とも呼ばれる。 人が関わりあう事柄(事件)を占うもの。何かを決断するときなどに使う事が多く、卜(ぼく)によってあることを定めることを卜定(ぼくじょう)と称される(斎宮#卜定参照)。時間、事象、方位など基本にして占う。占う事象を占いをする時期、出た内容などとシンクロニシティさせて(ある意味、偶然性や気運を利用して)観る。わかりやすい例として、 一輪の花を手にとって花びらを一枚一枚摘んで「好き・嫌い」を判断する恋愛占いや、えんぴつを転がして行う「えんぴつ野球」(ヒットの代わりに吉としたら...)などもその一種である。ちなみに卜の文字は、亀甲占い(亀卜)の割れ目を意味する象形文字を原形としている。また占の文字も同じ系列に属する。 姿や形など目に見える事象や環境から、対象となるの人への現在の影響や今後の運勢などをみる占い。 増川宏一によれば、いわゆる「当てっこゲーム」は、嘗て神託を伝えるための儀礼であり、そのような呪具としての賽子等が、ありとあらゆる宗教で用いられたらしい。朝鮮には4世紀頃、「占いとしてのばくち」が取り入れられ、1910年に日本によって禁止されるまで、祭礼で巫女が賭場(増川によれば、さいころ賭博の可能性がある)を開き、自己の延長としての財産を賭けて占いを行ったらしい。また、いわゆる将棋やチェス等の盤上遊戯も、元来「天体の動きを真似て、将来を伺う」行為であったらしい。また、神社では「鳥居へ投石をして、乗るかどうかで」占う風習があったという。 旧約聖書のイザヤ書には、雲の形を読む卜者(2章6節、57章3節)、肝臓占い、あるいは口寄せによる占い師(8章)、星占いや夢説きをする占い者(3章2節、44章25節)が糾弾され、エゼキエル書21章26節では、バベルの王が、「矢をすばやく動かし、神の像に伺いを立て、肝臓を見て」占ったと書かれている 占いは古代から行われてきたが、アブラハムの宗教ではこれを異教のものとして否定している。例えば旧約聖書では『民数記』18章9-14節、23章23節、『サムエル記』15章23節、『エレミヤ書』27章9節、新約聖書では『使徒行伝』16章16-19節、『クルアーン』では4章90節で邪悪な行いとして退けられている。これら三つの唯一神教は共通して占いを悪魔や悪霊のわざとしている。とはいえ中世のキリスト教圏、イスラム世界では占星術が行われていた。現代でもイスラム圏にはコーヒー占いが親しまれる地域があり、欧米でも各種占いが盛んである。信仰者の中にはこの状況を嫌う人も多く、占いがニューエイジ思想や心霊主義とともに非難の対象になることも少なくない。尚預言者は、エフォデと呼ばれる法衣の胸ポケットに入れた「ウリム(呪われた の意)」と「トンミム(完全な の意)」と呼ばれる石のくじを無作為に取って、どちらが出たかで神の啓示を得る,という方法を用いていた。サムエル記14章41節には、預言者サウルがそのように使う様が描かれている。使徒言行録1章26節の「くじ」もそれに類するものと考えられている。 『スッタニパータ』360節では占いを完全にやめた修行者は正しい遍歴をするようになる、と語られている。927節では『アタルヴァ・ヴェーダ』の呪法をはじめとする占いや術が、仏教の徒である以上やってはいけないこととして否定されている。 チベット仏教ではサイコロ占いが仏教の教えと矛盾しないものとして行われている。サイコロ占いの手引書を書いたラマも存在している。 『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』という占星術を説く経典があり、これをもとにした宿曜道が空海によって日本に持ち込まれている。 『観無量寿経』には占いの結果によって親子が疑心暗鬼となり、一国が滅亡の危機にさらされる説話が含まれている。 浄土真宗では占いが無益な迷信として否定されている。 未来を予知し、物事の可否や良し悪しを判断する卜占があり、方法は多種多様である。多様な方術を『漢書』「芸文志・数術略」の分類法においては天文、暦譜、五行、蓍亀、雑占、形法の6種類に分類される。 正統とされたのは卜筮で、殷代は亀甲占いによって国家の大事を謀り、周代は筮竹占いが流行し、漢代は現在の『易経』が完成したとされる。 雑占のうち、道教と関係が深かったのは杯珓(ポエとも)・籤・扶箕(扶乩・扶鸞とも)である。杯珓は廟とよばれる道士たちが修行する寺院などに常備されている占いの道具である。木や竹製の蛤型をしており、これを2つ同時に投げて裏表で吉凶を占う。籤は日本のおみくじに相当する占いの道具で、杯珓と同じく廟に常備されている。扶箕は木や弓や箕などに、長さがおよそ70センチほどの柳や桃の木の股になった枝の筆を吊るして、砂の入った盤の上に2人がそれぞれ枝分かれしている端を一方は右手で、もう一方は左手で支えながら立てると、神霊が筆に依りついてひとりでに動き神様の答えが書かれる。
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占い(うらない)とは様々な方法で、人の心の内や運勢や未来など、直接観察することのできないものについて判断、予言することや、その方法をいう。卜占(ぼくせん)や占卜(せんぼく)ともいう。
{{redirect|うらない|漢字の部首|卜部}} {{redirect|卜|姓|卜 (姓)|[[カタカナ]]のト|ト}} [[File:Fortuneteller.jpg|thumb|明治時代の占い師]] '''占い'''(うらない)とは様々な方法で、人の心の内や[[運勢]]や[[未来]]など、直接観察することのできないものについて判断、予言することや、その方法をいう。'''卜占'''(ぼくせん)や'''占卜'''(せんぼく)ともいう。 == 概要 == [[ファイル:真実の口 占い機.jpg|thumb|「[[真実の口]]」をモチーフにした業務用占い機。口の中に手を挿し入れる事で手相を占える。]] [[ファイル:Fortune Teller on the street of Japan (1914 by Elstner Hilton).jpg|サムネイル|辻占い師。大正時代]] 占いを[[鑑定]]する人を、'''占い師'''、'''占い鑑定師'''、'''卜者'''(ぼくしゃ)、'''易者'''(えきしゃ)などと呼ぶ。また、場合によって、「手相家」、「気学家」、「人相家」などとも呼ばれる。客からは[[先生]]と呼ばれることが多い。また日本では、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と昔から言われているように、占いは他の業界と違い、必ずしも当たらなくても通用する面もあることから、占いを裏(外れ)が無いという意味で「裏無い」と軽蔑の意味を込めて書く場合もある。 占いの関係者の中には占いは「統計」によるものと説明する者もいるが、占いは独自の理論や個人の経験で構成されている面が強く、必ずしも[[統計]]や[[統計学]]、[[科学]]としての研究との関連があるとは言いがたい。 例えば[[占星術]]は古代においては[[天文学]]と関連したものであったが、天文学が[[自然科学]]として発展したため現在では学問的な裏付けが無い。またこれは[[風水]]においても同様で風水に[[地理]]の別名があるように、かつて地理は社会科学の地理学に相当する知識と地理による吉凶を占う地相術が渾然となったものであった。 実際、これまで占いには、[[統計学]]などの科学的要素が入っていると言う説が提示されたことはあるが、科学的な根拠があると認められたことはない。[[古代ギリシャ]]や[[古代ローマ]]で行われていた生贄の動物の[[肝臓]]の色を見ることや、中国で行われていた、熱した細い金属棒で動物の肩甲骨や亀の甲羅を焼く([[亀甲獣骨文字]]を参照)行為に関しては、その占いに使われた動物の栄養状態が分かるため、都市建設と農作物の育成に関してだけはそれなりの根拠があった。時代が下るにつれて本来の目的以外の占いに用いられるようになり、また生贄を採取する場所も問わなくなってきたため、根拠が無くなっていった。しかし、現代においても、占いを信じる者は少なくないため、占いはしばしばビジネスとして扱われている。中には[[霊感商法]]などの[[悪徳商法]]に発展することもあるが、こうなると占い師が[[詐欺]]罪に問われることもある。 占いの提供のされ方としては従来より、[[雑誌]]や[[本]]の他に、占い師が直接占う対面鑑定、電話で鑑定する[[電話占い]]、[[チャット]]を利用したチャット鑑定等がある。インターネット業界の進展により、オンラインで占い[[コンテンツ]]として提供されるケースが多くなっている。 占いは、その信憑性が科学的には証明されていないが、不思議な効果を発揮したと見なされることがある。例えば昭和の易聖とよばれた[[加藤大岳]]は[[野球くじ]]を占い、小額の購入の時は良く当てたという伝説が残っている。そのため占いが当っていようがいまいが、当たったように見せる機構があるのではないかという考えがある。その機構として想定されているのが、[[バーナム効果]]、[[コールド・リーディング]]、[[ホット・リーディング]]といったものである。 本来、占いと[[霊感]]は別のものであるが、どちらも運勢や未来などを判断するという点が共通している。そのため、[[霊能者]]を名乗った方が営業上得策であるということで、占い師が霊能者を自称することがままある。 占いの中には、天空の星の配置などから市場の動向を読み取る事もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2529550 |title=「土星としし座が原因」、インドの占星術専門家が金融危機を分析 |access-date=2023-04-28 |publisher=AFP |archive-url=https://web.archive.org/web/20190623004846/https://www.afpbb.com/articles/-/2529550 |archive-date=2019-06-23}}</ref>。 == 命・卜・相 == 占いは、大別すると'''命'''(めい)・'''卜'''(ぼく)・'''相'''(そう)の三種類に分かれ、占う者は目的に応じて占いを使い分け、組み合わせる。また命・卜・相に医、山(肉体的および精神的な鍛錬)を加えて「[[五術]]」ともいわれる。 「[[五術]]」や「命・卜・相」は、中国では一般的な言い方であるが、日本には、[[1967年]]頃台湾の[[張明澄]]([[張耀文]])が伝えたのが最初とされる。 実際、台湾の占い師の看板は、たいてい「命・卜・相」か「[[五術]]」のどちらかである。 [[張明澄]]によれば、中国の[[五術]]は[[記号類型]]化による経験則の集大成であり、科学とはいえないものの、霊感などのような反科学的な要素は含まないという。逆に、科学は時間に記号をつけて類型化するという発想はないし、観察した経験もないから、[[五術]]を否定する根拠を持てないという。 [[五術]]に[[医]]が含まれるのは、[[中国医学]]は[[五術]]の[[命]]などと全く同じ方法で、つまり[[記号類型]]によって成り立った[[伝統医学]]だからである。 [[五術]]というのは機能面からの分類だが、方法論的な分類としては[[六大課]]ともいわれ、[[太乙神数]]、[[奇門遁甲]]、[[六壬神課]]、[[河洛易数]]、[[星平会海]]、[[宿曜演禽]]、という六種の術数を、[[五術]][[六大課]]という。 === 命(めい) === [[ファイル:Birthday Horoscopes.jpg|thumb|誕生日ごとの「あなたの運勢」]] 運命、宿命などを占うもの。誕生した生年月日・時間や、生まれた場所の要素も加えることによって、その人の生来の性質、傾向、人生の流れなどを占う。推命(すいめい)とも呼ばれる。 * [[四柱推命]](子平命理|八字) * [[紫微斗数]]([[紫薇斗数]]ともいう) * 河洛命理 * 星平会海([[子平]]と[[七政星学]]を合わせたもの) * 奇門命理 * 太乙命理 * 六壬命理 * [[七政命理]](中国占星術) * [[演禽命理]] * [[星座占い]]([[西洋占星術]]を簡略化したもの) ** [[13星座占い]] * [[占星術]] * [[西洋占星術]]([[ホロスコープ]]) * [[数秘術]] * [[九星気学]] * [[算命学]] * [[0学占い]] * [[六星占術]]([[細木数子]]) * [[動物占い]]([[四柱推命]]を簡略化したもの) * [[誕生日占い]] * [[属性占い]] * [[血液型占い]] === 卜(ぼく) === 人が関わりあう事柄(事件)を占うもの。何かを決断するときなどに使う事が多く、卜(ぼく)によってあることを定めることを'''卜定'''(ぼくじょう)と称される([[斎宮#卜定]]参照)。時間、事象、方位など基本にして占う。占う事象を占いをする時期、出た内容などと[[シンクロニシティ]]させて(ある意味、偶然性や気運を利用して)観る。わかりやすい例として、 一輪の花を手にとって花びらを一枚一枚摘んで「好き・嫌い」を判断する恋愛占いや、えんぴつを転がして行う「えんぴつ野球」(ヒットの代わりに吉としたら…)などもその一種である。ちなみに卜の文字は、亀甲占い([[亀卜]])の割れ目を意味する象形文字を原形としている。また占の文字も同じ系列に属する。 * [[周易]] * [[断易]]([[五行易]]、[[卜易]]、[[鬼谷易]]) * [[梅花心易]] * [[六壬神課]] * [[奇門遁甲]] * [[太乙神数]] * [[皇極経世]] * [[アウグル]] (鳥卜) * [[ホラリー占星術]] * [[コイン占い|銭占]](コイン占い) * [[ルーン文字|ルーン占い]] * [[タロット占い]] * [[ジプシー占い]] * [[カード占い]] * [[ダイス占術]] * [[水晶占い]]([[スクライング]]) * [[ダウジング]] * [[六爻占術]] * [[おみくじ|御神籤]](おみくじ) * [[あみだくじ|阿弥陀籤]](あみだくじ) * [[辻占|辻占い]](辻占、つじうら) * [[花占い]] * [[えんぴつ占い]] * [[ジオマンシー]] * [[ポエ占い]] * [[うけい]] ** [[盟神探湯]] === 相 === 姿や形など目に見える事象や環境から、対象となるの人への現在の影響や今後の運勢などをみる占い<ref>有元裕美子 『スピリチュアル市場の研究:データで読む急拡大マーケットの真実』 東洋経済新報社 2011 ISBN 9784492761991 p.21.</ref>。 * [[姓名判断]] * [[手相占い]] * [[人相占い]] * [[印相占い]](印鑑占い) * [[名刺相占い]] * [[夢占い]] * [[風水]] * [[ヴァーストゥ・シャーストラ]] * [[家相]] * [[墓相]] == 占いと宗教との関係 == 増川宏一によれば、いわゆる「当てっこゲーム」は、嘗て神託を伝えるための儀礼であり、そのような呪具としての賽子等が、ありとあらゆる宗教で用いられたらしい。朝鮮には4世紀頃、「占いとしてのばくち」が取り入れられ、1910年に日本によって禁止されるまで、祭礼で巫女が賭場(増川によれば、さいころ賭博の可能性がある)を開き、自己の延長としての財産を賭けて占いを行ったらしい。また、いわゆる将棋やチェス等の盤上遊戯も、元来「天体の動きを真似て、将来を伺う」行為であったらしい<ref>増川宏一 『盤上遊戯』 法政大学出版局</ref>。また、神社では「鳥居へ投石をして、乗るかどうかで」占う風習があったという。<ref>中沢厚 『つぶて』 法政大学出版局</ref> 旧約聖書の[[イザヤ書]]には、雲の形を読む卜者(2章6節、57章3節)、肝臓占い、あるいは口寄せによる占い師(8章)、星占いや夢説きをする占い者(3章2節、44章25節)が糾弾<ref>[[岩波委員会訳聖書]]『イザヤ書』</ref>され、[[エゼキエル書]]21章26節では、バベルの王が、「矢をすばやく動かし、神の像に伺いを立て、肝臓を見て」占ったと書かれている<ref>[[岩波委員会訳聖書]]『エゼキエル書』</ref> ===アブラハムの宗教=== 占いは古代から行われてきたが、[[アブラハムの宗教]]ではこれを[[異教]]のものとして否定している。例えば[[旧約聖書]]では『民数記』18章9-14節、23章23節、『[[サムエル記]]』15章23節、『[[エレミヤ書]]』27章9節、[[新約聖書]]では『[[使徒行伝]]』16章16-19節、『[[クルアーン]]』では4章90節で邪悪な行いとして退けられている。これら三つの[[唯一神教]]は共通して占いを[[悪魔]]や[[悪霊]]のわざとしている。とはいえ中世のキリスト教圏、イスラム世界では占星術が行われていた。現代でもイスラム圏にはコーヒー占いが親しまれる地域があり、欧米でも各種占いが盛んである。信仰者の中にはこの状況を嫌う人も多く、占いが[[ニューエイジ]]思想や[[心霊主義]]とともに非難の対象になることも少なくない。尚預言者は、エフォデと呼ばれる法衣の胸ポケットに入れた「ウリム(呪われた の意)」と「トンミム(完全な の意)」と呼ばれる石のくじを無作為に取って、どちらが出たかで神の啓示を得る,という方法を用いていた。[[サムエル記]]14章41節には、預言者サウルがそのように使う様が描かれている。[[使徒言行録]]1章26節の「くじ」もそれに類するものと考えられている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/message-station/Acts05.pdf|title=使徒の働き(5)―使徒の補充―|accessdate=2020/07/08|publisher=}}</ref> ===仏教=== 『[[スッタニパータ]]』360節では占いを完全にやめた修行者は正しい遍歴をするようになる、と語られている。927節では『[[アタルヴァ・ヴェーダ]]』の呪法をはじめとする占いや術が、仏教の徒である以上やってはいけないこととして否定されている。 [[チベット仏教]]ではサイコロ占いが仏教の教えと矛盾しないものとして行われている。サイコロ占いの手引書を書いた[[ラマ (チベット)|ラマ]]も存在している<ref name="ダライ・ラマ法王">[http://www.tibethouse.jp/culture/fotune.html ダライ・ラマ法王日本代表部事務所ホームページ>チベットの占い]「占いと仏教」「さいころによる占い」</ref>。 『[[文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経]]』という占星術を説く経典があり、これをもとにした[[宿曜道]]が空海によって日本に持ち込まれている。 『[[観無量寿経]]』には占いの結果によって親子が疑心暗鬼となり、一国が滅亡の危機にさらされる説話が含まれている。 [[浄土真宗]]では占いが無益な迷信として否定されている。 === 道教 === {{See also|術数学}} 未来を予知し、物事の可否や良し悪しを判断する卜占があり、方法は多種多様である。多様な方術を『漢書』「芸文志・数術略」の分類法においては天文、暦譜、五行、蓍亀、雑占、形法の6種類に分類される。 正統とされたのは卜筮で、殷代は亀甲占いによって国家の大事を謀り、周代は筮竹占いが流行し、漢代は現在の『易経』が完成したとされる。 雑占のうち、道教と関係が深かったのは杯珓([[ポエ]]とも)・[[おみくじ|籤]]・扶箕(扶乩・扶鸞とも)である。杯珓は[[廟]]とよばれる道士たちが修行する寺院などに常備されている占いの道具である。木や竹製の蛤型をしており、これを2つ同時に投げて裏表で吉凶を占う。[[籤]]は日本のおみくじに相当する占いの道具で、杯珓と同じく[[廟]]に常備されている。扶箕は木や弓や箕などに、長さがおよそ70センチほどの柳や桃の木の股になった枝の筆を吊るして、砂の入った盤の上に2人がそれぞれ枝分かれしている端を一方は右手で、もう一方は左手で支えながら立てると、神霊が筆に依りついてひとりでに動き神様の答えが書かれる<ref>{{Cite book|title=道教事典|date=1994年3月15日|publisher=平河出版社|author=野口鐵郎|isbn=4892032352|author2=福井文雅|author3=坂出祥伸|author4=山田利明}}</ref><ref>{{Cite book|title=【講座 道教】第四巻 道教と中国思想|date=2000年8月25日|publisher=雄山閣出版|author=野口鐵郎|isbn=4639016948|author2=福井文雅|author3=山田利明|author4=前田繁樹}}</ref><ref>{{Cite book|title=道教の世界|date=1987年7月25日|publisher=学生社|author=窪徳忠|isbn=9784311200656}}</ref>。 == 参考文献 == *板橋作美 『占いの謎』いまも流行るそのわけ 文春新書 文藝春秋 ISBN 4166604120 *和泉宗章 『和泉宗章が明かす占いの謎』 集英社 ISBN 4087830675 *増川宏一 『さいころ』『賭博』『盤上遊戯』 法政大学出版局 *中沢厚 『つぶて』 法政大学出版局 *池月映『[[合気]]の[[武田惣角]]』歴史春秋社 ISBN 978-4-89757-862-0 *池月映『会津人群像№46』「会津一の天才易師中川万之丞・呪法」歴史春秋社 2023.8 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == *[[血液型占い]] *[[声相鑑定]] *[[運勢]] *[[予言]] *[[予知]] *[[神託]] *[[疑似科学]] *[[霊能者]] *[[相場師]] *[[臓卜師]] - 古代ローマにおいて生贄の動物の内臓から占いを行った者。 *[[カウンセリング]] *[[電話占い]] *[[心理学]] **[[バーナム効果]] *[[卜部]] *{{ill2|フォーチュンテイラー・マシーン|en|Fortune teller machine}}、[[ルーレット式おみくじ器]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:うらない}} [[Category:占い|*]] [[Category:神秘学]] [[Category:民間信仰]] [[Category:民俗学]] [[Category:迷信]]
2003-04-20T05:23:02Z
2023-12-28T06:13:45Z
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六法
六法(ろっぽう)とは、 日本法の強い影響を受けている中華民国(台湾)および大韓民国においても同様の意味で用いられているが、台湾では民商統一主義が採用されており、商法に相当する内容が民法に組み込まれていることもあり、商法ではなく行政法が含まれる。 「六法」という語は、箕作麟祥が、フランス法を邦訳した書籍である『仏蘭西法律書』(1874年)の中で、ナポレオン五法典(民法典、商法典、刑法典、民事訴訟法典および治罪法典)と呼ばれるナポレオン諸法典 (Codes napoléoniens) に憲法を加えた用語として使用したことに由来すると考えられている。本来、これらの中に行政法典が加わるはずだったが、当時は完成しておらず、これらは六法にとどまった。 六法は、6つの法典という意味において、次に掲げる6つの法典のことで、これを形式的意義という。 なお、日本国憲法以外の5つの法典の所管官庁は法務省である。 六法は、6つの法典に対応する6つの法分野という意味において、次に掲げる6つの法分野のことで、これを実質的意義という。 2021年現在の司法試験においては、当該6分野に加えて行政法が必須科目となっており、これらを併せて「七法」と呼ぶことがある。 6つの法典との意味から転じて、これらの6つの法典を中心として主要な法令を収録した書籍を「六法全書」と呼び、さらにこれを略して「六法」と呼ぶ。なお、現在では有斐閣のみが『六法全書』と題する法令集を毎年発行しているため、単に「六法全書」と呼ぶときは、これを指すことも多い。 また、本来の意味から離れて、特定分野の範疇内において主要な法令を収録した書籍もその分野に合わせた六法の名称で呼ばれる場合がある(『金融六法』や『福祉六法』など)。この場合には、6という数に特に意味があるわけではなく、主要法令集という意味でこの語が使われているに過ぎない。 なお、「○○六法」という複合語の一部として、郵政民営化関連六法や社会福祉六法のように、関連する法律を6つ数え上げて、「六法」と呼ぶ場合もある。 同様に、二法、三法、四法、五法などと称する例もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "六法(ろっぽう)とは、", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本法の強い影響を受けている中華民国(台湾)および大韓民国においても同様の意味で用いられているが、台湾では民商統一主義が採用されており、商法に相当する内容が民法に組み込まれていることもあり、商法ではなく行政法が含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「六法」という語は、箕作麟祥が、フランス法を邦訳した書籍である『仏蘭西法律書』(1874年)の中で、ナポレオン五法典(民法典、商法典、刑法典、民事訴訟法典および治罪法典)と呼ばれるナポレオン諸法典 (Codes napoléoniens) に憲法を加えた用語として使用したことに由来すると考えられている。本来、これらの中に行政法典が加わるはずだったが、当時は完成しておらず、これらは六法にとどまった。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "六法は、6つの法典という意味において、次に掲げる6つの法典のことで、これを形式的意義という。", "title": "6つの法典" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、日本国憲法以外の5つの法典の所管官庁は法務省である。", "title": "6つの法典" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "六法は、6つの法典に対応する6つの法分野という意味において、次に掲げる6つの法分野のことで、これを実質的意義という。", "title": "6つの法分野" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2021年現在の司法試験においては、当該6分野に加えて行政法が必須科目となっており、これらを併せて「七法」と呼ぶことがある。", "title": "6つの法分野" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "6つの法典との意味から転じて、これらの6つの法典を中心として主要な法令を収録した書籍を「六法全書」と呼び、さらにこれを略して「六法」と呼ぶ。なお、現在では有斐閣のみが『六法全書』と題する法令集を毎年発行しているため、単に「六法全書」と呼ぶときは、これを指すことも多い。", "title": "法令集" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、本来の意味から離れて、特定分野の範疇内において主要な法令を収録した書籍もその分野に合わせた六法の名称で呼ばれる場合がある(『金融六法』や『福祉六法』など)。この場合には、6という数に特に意味があるわけではなく、主要法令集という意味でこの語が使われているに過ぎない。", "title": "法令集" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、「○○六法」という複合語の一部として、郵政民営化関連六法や社会福祉六法のように、関連する法律を6つ数え上げて、「六法」と呼ぶ場合もある。", "title": "6つの法律" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "同様に、二法、三法、四法、五法などと称する例もある。", "title": "6つの法律" } ]
六法(ろっぽう)とは、 日本における6つの主要な法典。すなわち、形式的意義の憲法ならびに民法、商法、刑法、民事訴訟法および刑事訴訟法。 転じて、当該6法典に対応する6つの法分野。すなわち、実質的意義の憲法ならびに民法、商法、刑法、民事訴訟法および刑事訴訟法。 当該6法典を含む様々な法令を収録している書籍である「六法全書」の略称、または、一般に法令集のこと。 日本法の強い影響を受けている中華民国(台湾)および大韓民国においても同様の意味で用いられているが、台湾では民商統一主義が採用されており、商法に相当する内容が民法に組み込まれていることもあり、商法ではなく行政法が含まれる。
{{otheruses|日本の法令|歌舞伎の演出|六方|古代中国の画論|六法 (画論)|19世紀イギリスの法律|治安六法}} '''六法'''(ろっぽう)とは、 * [[日本]]における6つの主要な[[法典]]。すなわち、'''形式的意義'''の[[日本国憲法|憲法]]ならびに[[民法 (日本)|民法]]、[[商法]]、[[刑法 (日本)|刑法]]、[[民事訴訟法]]および[[刑事訴訟法]]。 * 転じて、当該6法典に対応する6つの法分野。すなわち、'''実質的意義'''の[[憲法]]ならびに[[民法]]、[[商法]]、[[刑法]]、[[民事訴訟法]]および[[刑事訴訟法]]。 * 当該6法典を含む様々な法令を収録している書籍である「六法全書」の略称、または、一般に法令集のこと。 [[日本法]]の強い影響を受けている[[中華民国]]([[台湾]])および[[大韓民国]]においても同様の意味で用いられているが、台湾では民商統一主義が採用されており、商法に相当する内容が民法に組み込まれていることもあり、商法ではなく[[行政法]]が含まれる。 == 語の由来 == 「六法」という語は、[[箕作麟祥]]が、フランス法を邦訳した書籍である『仏蘭西法律書』([[1874年]])の中で、[[ナポレオン五法典]]([[フランス民法典|民法典]]、商法典、刑法典、民事訴訟法典および治罪法典)と呼ばれるナポレオン諸法典 (Codes napoléoniens) に[[憲法]]を加えた用語として使用したことに由来すると考えられている。本来、これらの中に行政法典が加わるはずだったが、当時は完成しておらず、これらは六法にとどまった。 == 6つの法典 == 六法は、6つの法典という意味において、次に掲げる6つの法典のことで、これを'''形式的意義'''という。 * [[日本国憲法]](昭和21年憲法)(旧[[大日本帝国憲法]]〈明治22年憲法〉) * [[民法 (日本)|民法]](明治29年法律第89号)<!-- 明治31年法律第9号は、[[民法現代化]]後においては明治29年法律の改正法という位置づけが明確にされたので、明記しない方がよい。 --> * [[商法]](明治32年法律第48号) * [[刑法 (日本)|刑法]](明治40年法律第45号)(旧刑法〈明治13年[[太政官布告・太政官達|太政官布告]]第36号〉) * [[民事訴訟法]](平成8年法律第109号)(旧民事訴訟法〈明治23年法律第29号〉) * [[刑事訴訟法]](昭和23年法律第131号)(旧治罪法〈明治13年太政官布告第37号〉、旧々刑事訴訟法〈明治23年法律第96号〉、旧刑事訴訟法〈大正11年法律第75号〉) なお、日本国憲法以外の5つの法典の所管官庁は[[法務省]]である<ref>[https://www.moj.go.jp/SYOKAN-HOREI/horitsu.html 法務省所管の法律]に掲載あり。</ref>。 == 6つの法分野 == 六法は、6つの法典に対応する6つの法分野という意味において、次に掲げる6つの法分野のことで、これを'''実質的意義'''という。 * 憲法([[国会法]]および[[内閣法]]などを含む) * 民法([[不動産登記法]]および[[借地借家法]]などを含む) * 商法([[会社法]]、[[保険法]]、[[保険業法]]、[[手形法]]および[[小切手法]]などを含む) * 刑法([[特別刑法]]などを含む) * 民事訴訟法(民事手続法)([[民事調停法]]、[[仲裁法]]、[[民事執行法]]、[[民事保全法]]および[[倒産法]]などを含む) * 刑事訴訟法(刑事手続法) 2021年現在の[[司法試験 (日本)|司法試験]]においては、当該6分野に加えて[[行政法]]が必須科目となっており、これらを併せて「七法」と呼ぶことがある。 == 法令集 == 6つの法典との意味から転じて、これらの6つの法典を中心として主要な[[法令]]を収録した書籍を「'''六法全書'''」と呼び、さらにこれを略して「六法」と呼ぶ。なお、{{いつ範囲|現在では[[有斐閣]]のみが『六法全書』と題する法令集を毎年発行している|date=2020年10月}}ため、単に「六法全書」と呼ぶときは、これを指すことも多い。 また、本来の意味から離れて、特定分野の範疇内において主要な法令を収録した書籍もその分野に合わせた六法の名称で呼ばれる場合がある(『金融六法』や『福祉六法』など)。この場合には、6という数に特に意味があるわけではなく、主要法令集という意味でこの語が使われているに過ぎない。 == 6つの法律 == なお、「○○六法」という複合語の一部として、[[郵政民営化]]関連六法<ref group="注">[[郵政民営化法]]、[[日本郵政|日本郵政株式会社法]]、[[郵便事業|郵便事業株式会社法]]、[[郵便局 (企業)|郵便局株式会社法]]、[[郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構|独立行政法人郵便貯金簡易生命保険管理・郵便局ネットワーク支援機構法]]、郵政民営化法等の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律</ref>や[[社会福祉六法]]<ref group="注">[[児童福祉法]]、[[身体障害者福祉法]]、[[生活保護法]]、[[知的障害者福祉法]]、[[老人福祉法]]、[[母子及び父子並びに寡婦福祉法]]</ref>のように、関連する法律を6つ数え上げて、「六法」と呼ぶ場合もある。 同様に、二法<ref group="注">例えば[[教育二法]]など。</ref>、三法<ref group="注">例えば[[電源三法]]、[[工場三法]]、[[電波三法]]、[[景観緑三法]]、[[メディア規制三法]]、[[海上交通三法]]、[[武力攻撃事態対処関連三法]]、[[労働三法]]、歯科三法([[歯科医師法]]、[[歯科衛生士法]]。[[歯科技工士法]])、救済三法([[国家賠償法]]、[[行政不服審査法]]、[[行政事件訴訟法]])、福祉三法([[生活保護法]]、[[児童福祉法]]、[[母子及び父子並びに寡婦福祉法]])、組織的犯罪対策三法([[組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律|組織的犯罪処罰法]]、[[犯罪捜査のための通信傍受に関する法律|通信傍受法]]、刑事訴訟法の一部を改正する法律)など。</ref>、四法<ref group="注">例えば薬物四法([[麻薬及び向精神薬取締法]]、[[大麻取締法]]、[[覚醒剤取締法]]、[[あへん法]])、工業所有権四法([[特許法]]、[[実用新案法]]、[[意匠法]]、[[商標法]])など。</ref>、五法<ref group="注">例えば[[個人情報保護法関連五法]]、麻薬五法([[麻薬及び向精神薬取締法]]、[[大麻取締法]]、[[あへん法]]、[[覚醒剤取締法]]、[[麻薬特例法]])など。</ref>などと称する例もある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[デイリー六法]]([[三省堂]]) * [[ポケット六法]]([[有斐閣]]) * [[判例六法]] == 外部リンク == * [{{NDLDC|787823}} 箕作麟祥『仏蘭西法律書』]([[近代デジタルライブラリー]]) {{日本関連の項目}} {{DEFAULTSORT:ろつほう}} [[Category:日本の法 (分野別)]] [[Category:日本の法令集]] [[Category:日本の名数6|ほう]] [[Category:日本の法典]]
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古書店
古書店(こしょてん、アメリカ英語:used bookstores, イギリス英語:second-hand bookshops)は、古書や古本を取り扱う書店。古本屋(ふるほんや)とも。 20世紀末に成立した業態である新古書店も古書店の一形態だが、この項目では伝統的な古書店を中心に扱う。 フランスのパリのセーヌ川沿いにはブキニスト(Bouquinistes)と呼ばれる露店の古書店が立ち並んでいる(ユネスコ無形文化遺産の登録も目指している)。 一般に、主に通俗的な古本を売買する店(古本屋)と、主に高価な古書を売買する店に分かれる。 とはいえ「古本屋」と「古書店」の厳密な区分は存在しない。2300以上の事業者が加盟する全国古書籍商組合連合会(全古書連)が、インターネットで在庫販売や加盟店、古書即売会の案内などを行うサイトの名称は「日本の古本屋」である。 また、2000年代に入ってからはアマゾン、ヤフオク、メルカリなどで、誰もが古書販売が可能な状態になっており、実店舗の古書店でネットでの販売を並行的に行う店も増えている(実店舗に陳列してある本に「ネットで出品中」などといった札がつけられることも増えている)。 日本では法的に古物商の一種とされており、日本で買い取りにより仕入をする古書店を営業するためには古物営業法に基づく許可が必要である。 本が羊皮紙に手書きされ、それの複製をつくる場合は手作業で一文字一文字書きうつすことで写本が作られていた時代、1冊の写本を作るのも数カ月や数年という年月がかかるわけで、本は非常に貴重で(お金に換算する場合)高価なものであった。中世ヨーロッパで知識の集積場所として機能した場所は(西ヨーロッパで支配的であったカトリック教会の)修道院や、あるいは大学(ヨーロッパ最古の大学はイタリアのボローニャの国立大学であり、1158年神聖ローマ帝国皇帝から法学研究をする大学として公認され、後に総合大学に発展していった。このボローニャ大学がヨーロッパ中世の諸国の大学の原型となった。)であったが、写本時代の本というのは(修道院でも、大学などでも)盗難防止のために鍵をかけた部屋に保管したり、もし修道院のメンバーや大学の学生が比較的気軽に読めるようにする場合は、わざわざ一冊一冊、鎖で「書見台」につないでおくというようなこともされた(なにしろ当時は、写本一冊が普通の人の1年分や数年分もの収入に相当するような高価なものなので、鎖にでもつないでおかないと眼を離したすきに盗まれ大事件になってしまうからである)。中世では、写本を作成させて(修道院や大学、あるいは富裕な王族などが趣味で)入手したら、それを半永久的に一種の「宝」として保管しつづけた。仮に売買するとしても、あくまできわめて例外的であった。(「本は読み終わったら売ってしまえばいい」というような現代人の感覚とは全く異なっていた。)このようなわけで、中世ヨーロッパでは本というのは基本的に売買するようなものではなかったわけであり、古本屋というのもまだ成立していなかった。 古書店が成立するにはいくつもの壁があり、まず本というものが大量に安価に作られるようになる段階を経なければならなかった。グーテンベルクが活版印刷を開始 したのは1450年頃と云われているが、グーテンベルクによって印刷されたのは聖書であり、きわめて限定的であり、まだ古書店の登場にはつながらなかった。(古書店が登場したのは、その数百年も後の話になる。)つまり「一度手放したら、二度と手に入れられない可能性が高い」と思えるほど貴重な段階では、人は(本に限らず、何であれ)そのモノを滅多なことで手放そうとしない。古書店が成立するためには「手放しても、必要なら多分また入手できる」と思えるほどに本が世の中に大量に出回る必要があった。 世界最古の古書店はイギリスのロンドンにある1761年創業のヘンリー・サザラン(Henry Sotheran)といわれている。 日本では(でも)中世まで書物は主に寺院や朝廷が所蔵する貴重なもので、個人が所蔵する本などを売らざるを得なくなることを「沽却」といい、不名誉なこととされていた。保延6年(1140年)10月に書家の藤原定信の家に本を製造する経師の妻が古書を販売しており、製本を行っていた経師が古書も扱っていたと考えられる。 江戸時代の大坂や江戸で古本の販売が先に始まり、17世紀後半になって出版も行うようになった。江戸時代の書店は出版、自店の出版物の卸売・販売、他店の出版物の販売、古本の販売を広く行っていた。 新刊書店と古書店が分離されるようになったのは明治以降である。現代では、大手新刊書店が古書の買取・販売を行う例がある(三省堂や有隣堂)。 日本の大都市の一部では古書店が複数集まる古書店街が形成されている。たとえば東京では神田古書店街である。
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古書店は、古書や古本を取り扱う書店。古本屋(ふるほんや)とも。 20世紀末に成立した業態である新古書店も古書店の一形態だが、この項目では伝統的な古書店を中心に扱う。
'''古書店'''(こしょてん、[[アメリカ英語]]:used bookstores, [[イギリス英語]]:second-hand bookshops)は、古書や[[古本]]を取り扱う[[書店]]<ref name="tjg">『図書館情報学用語辞典』第5版【古書店】</ref>。'''古本屋'''(ふるほんや)とも。 20世紀末に成立した業態である[[新古書店]]も古書店の一形態だが、この項目では伝統的な古書店を中心に扱う。 == 概説 == === 世界の古書店 === [[フランス]]の[[パリ]]の[[セーヌ川]]沿いにはブキニスト(Bouquinistes)と呼ばれる露店の古書店が立ち並んでいる(ユネスコ無形文化遺産の登録も目指している)<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3178734 パリの古本屋「ブキニスト」、ユネスコ無形文化遺産の登録目指す] AFP 2018年6月16日(2020年5月22日閲覧)。</ref>。 <gallery> File:Bouquinistes seine2.jpg|フランス・パリのブキニスト(露店の古書店) File:Paris - A bookshop - 2697.jpg|[[パリ]]の古書店(しっかりした店舗をかまえている例) File:MADRID 060310 MXALX 105.jpg|スペイン、[[マドリッド]]の古書店 File:Lecturas para una Vida - Flickr - Eneas.jpg|[[ボリビア]]の古本屋 </gallery> === 日本の古書店 === 一般に、主に通俗的な古本を売買する店(古本屋)と、主に高価な古書を売買する店に分かれる<ref name="tjg" />。 とはいえ「古本屋」と「古書店」の厳密な区分は存在しない。2300以上の事業者が加盟する全国古書籍商組合連合会(全古書連)が、[[インターネット]]で在庫販売や加盟店、古書即売会の案内などを行うサイトの名称は「[[日本の古本屋]]」である<ref>{{Cite news|url=https://www.kosho.or.jp/wppost/plg_WpPost_post.php?postid=82|title=日本の古本屋について|work=|publisher=日本の古本屋ホームページ|accessdate=2017-8-6}}</ref>。 また、2000年代に入ってからは[[Amazon.co.jp|アマゾン]]、[[ヤフオク!|ヤフオク]]、[[メルカリ]]などで、誰もが古書販売が可能な状態になっており、実店舗の古書店でネットでの販売を並行的に行う店も増えている(実店舗に陳列してある本に「ネットで出品中」などといった札がつけられることも増えている)。 日本では法的に[[古物商]]の一種とされており、日本で買い取りにより[[仕入]]をする古書店を営業するためには[[古物営業法]]に基づく許可が必要である。 <gallery> ファイル:Unisuga Shoten 001.JPG|日本の古書店の例([[宇仁菅書店]]。兵庫県[[神戸市]][[灘区]]) ファイル:Used bookstore in Jinbōchō 003.jpg|古書店の店内(松雲堂書店。東京都千代田区[[神田神保町]]) </gallery> == 歴史 == === 欧州 === ;古書店が登場する前の段階 [[本]]が[[羊皮紙]]に手書きされ、それの複製をつくる場合は手作業で一文字一文字書きうつすことで[[写本]]が作られていた時代、1冊の写本を作るのも数カ月や数年という年月がかかるわけで、本は非常に貴重で(お金に換算する場合)高価なものであった。[[中世]]ヨーロッパで知識の集積場所として機能した場所は(西ヨーロッパで支配的であった[[カトリック教会]]の)[[修道院]]や、あるいは[[大学]](ヨーロッパ最古の大学はイタリアの[[ボローニャ大学|ボローニャの国立大学]]であり、1158年[[神聖ローマ帝国]]皇帝から法学研究をする大学として公認され、後に総合大学に発展していった。このボローニャ大学がヨーロッパ中世の諸国の大学の原型となった。)であったが、写本時代の本というのは(修道院でも、大学などでも)盗難防止のために鍵をかけた部屋に保管したり、もし修道院のメンバーや大学の学生が比較的気軽に読めるようにする場合は、わざわざ一冊一冊、鎖で「書見台」につないでおくというようなこともされた(なにしろ当時は、写本一冊が普通の人の1年分や数年分もの収入に相当するような高価なものなので<ref group="注">次のような費用がかかる。筆写する作業をする人に支払うお金(たとえば筆写に6カ月かかれば6カ月分の代金を、1年かかれば1年分の代金(その期間の生活費以上)を払わなければならない。羊皮紙(貴重で高価)の代金。インクの代金。製本の代金(羊皮紙を綴じたあと、表紙をつけ、高価な皮で本の外側も覆い、さらに書物の題名の文字を金箔で入れるなどする。高度な技をもつ職人の仕事であり、相応の代金を支払わないと仕事を引き受けてくれない。)。それらを合算した代金は、簡単に普通の人の1年分の収入の額を超えてしまう。</ref>、鎖にでもつないでおかないと眼を離したすきに盗まれ大事件になってしまうからである)。中世では、写本を作成させて(修道院や大学、あるいは富裕な王族などが趣味で)入手したら、それを半永久的に一種の「宝」として保管しつづけた。仮に売買するとしても、あくまできわめて例外的であった。(「本は読み終わったら売ってしまえばいい」というような現代人の感覚とは全く異なっていた。)このようなわけで、中世ヨーロッパでは本というのは基本的に売買するようなものではなかったわけであり、古本屋というのもまだ成立していなかった。 古書店が成立するにはいくつもの壁があり、まず本というものが大量に安価に作られるようになる段階を経なければならなかった。[[グーテンベルク]]が[[活版印刷]]を開始 したのは[[1450年]]頃と云われているが、グーテンベルクによって印刷されたのは[[聖書]]であり、きわめて限定的であり、まだ古書店の登場にはつながらなかった。(古書店が登場したのは、その数百年も後の話になる。)つまり「一度手放したら、二度と手に入れられない可能性が高い」と思えるほど貴重な段階では、人は(本に限らず、何であれ)そのモノを滅多なことで手放そうとしない。古書店が成立するためには「手放しても、必要なら多分また入手できる」と思えるほどに本が世の中に大量に出回る必要があった。 ;古書店の登場 世界最古の古書店は[[イギリス]]の[[ロンドン]]にある[[1761年]]創業のヘンリー・サザラン(Henry Sotheran)といわれている<ref>「[https://www.travel.co.jp/guide/article/22176/ 本屋好き必訪の名店 ロンドンの歴史を感じさせる本屋3選]」LINEトラベルjp 旅行ガイド、2020年5月22日閲覧。</ref>。 === 日本 === [[日本]]では(でも)中世まで書物は主に寺院や朝廷が所蔵する貴重なもので、個人が所蔵する本などを売らざるを得なくなることを「沽却」といい、不名誉なこととされていた<ref name="2013B" />。保延6年(1140年)10月に書家の[[藤原定信]]の家に本を製造する[[経師]]の妻が古書を販売しており、製本を行っていた経師が古書も扱っていたと考えられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://books.j-cast.com/2019/03/19008789.html |title=日本最古の古本売買は? 売られた書籍は? 『江戸の古本屋』 |access-date=2022-11-11 |date=2022-10-28 |website=BOOKウォッチ |language=ja}}</ref>。 [[江戸時代]]の大坂や江戸で古本の販売が先に始まり、17世紀後半になって出版も行うようになった<ref name="2013B">「[http://www.book-seishindo.jp/seikei_tanq/tanq_2013B-08.pdf 成蹊大学 日本探求特別講義 B 橋口 侯之介「第8回 本を伝える古書の世界」]」誠心堂書店、2020年5月22日閲覧。</ref>。江戸時代の書店は出版、自店の出版物の卸売・販売、他店の出版物の販売、古本の販売を広く行っていた<ref name="2013B" />。 新刊書店と古書店が分離されるようになったのは[[明治]]以降である<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO45068330R20C19A5BC8000/ 橋口侯之介「お江戸のよろず本屋事情◇徳川時代に始まる書店の歴史 現役古書店主が研究◇」]『[[日本経済新聞]]』朝刊2019年5月22日(文化面)2019年5月28日閲覧。</ref>。現代では、大手新刊書店が古書の買取・販売を行う例がある([[三省堂]]<ref>[http://jinbocho.books-sanseido.co.jp/shop/koshokan 三省堂古書館](2019年5月28日閲覧)。</ref>や[[有隣堂]]<ref>[https://www.kanaloco.jp/article/entry-132433.html 有隣堂が古本事業本格参入「ReBOOKS(リブックス)」を24日開業]『[[神奈川新聞]]』2010年04月21日(2019年5月28日閲覧)。</ref>)。 == 古書店街 == {{main|古書店街}} 日本の大都市の一部では古書店が複数集まる[[古書店街]]が形成されている。たとえば東京では[[神田古書店街]]である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==関連項目== *[[古本]] *[[書店]] *[[古物商]] *[[新古書店]] *[[古書店街]] *[[貸本]] *[[漫画喫茶]] *[[レンタルビデオ]] *[[サイン本]] *[[全国古書籍商組合連合会]] *[[日本古書籍商協会]] * {{ill2|アメリカにおける古書業|en|Antiquarian book trade in the United States}} * {{ill2|古代の書籍販売業|de|Buchhandel der Antike}} - 紀元前5世紀の古代ギリシャ喜劇に書籍販売業が登場していることから、その頃にはあった。 * [[図書館]] - 古代世界においては知の集積地とされた。紀元前6世紀にあったのは確かで、それ以前については議論されている。 * [[神田神保町]] - [[東京都]][[千代田区]]神田神保町のことで、数多くの古書店が軒を列ねている全国屈指の古書店街。[[神田古書センター]]が在るのもこの地である。 * [[西荻]] - 東京都[[杉並区]]西荻のことで、神田に次ぐ規模の古書店街として知られる。 * [[早稲田]] - 東京都[[新宿区]]早稲田のことで、古書店街として著名。現在も営業を続ける店舗は在るが、全盛期に比べると殆どが閉店しており、全体的に衰退している。 * [[まんだらけ]] - 東京都[[中野区]][[中野 (中野区)|中野]]に本社・本店(中野店)を置く古書店企業。主に[[漫画]]を取り扱う。当初は漫画のみを取り扱っていたが、事業拡大に伴い、現在は[[サブカルチャー]]全体を取扱対象としている。特に本店である中野店は[[中野ブロードウェイ]]内に店舗を構え、施設全体の凡そ1割が『まんだらけ』で占められており、「'''サブカルの[[聖地]]'''」として広く知られる。 * [[敗者復活戦!]] - [[辻灯子]]の原作による、古書店を舞台・テーマとした[[4コマ漫画]]。 ==外部リンク== *[http://www.kosho.or.jp/ 日本の古本屋] *[http://kosyo.net/ the古書] *[http://www.kosho.ne.jp/~job/jlist.htm 全古書連の古本屋] *[http://www.hankyu-kosho.com/ 阪急古書のまち] *[http://jimbou.info/ BOOK TOWN じんぼう] {{Normdaten}} [[Category:古書店|*]]
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書店
書店(しょてん、英:bookstore, bookshop)とは、本の店、という意味で、より具体的には書籍や雑誌の小売店や卸業者や出版社である。本屋(ほんや)とも呼ばれ、古い時代の呼称として「書肆(しょし)」もある。本項では小売書店を中心に概説する。 書籍を扱う業者には、本を作る出版社、出版社から本を大量に仕入れ各地の小売店に卸売する業者、本を読者となる個人や組織に販売する業者などがある。出版・印刷業界では、出版社を「版元(はんもと)」、卸業者を「取次(とりつぎ)」、小売店を「小売書店」などと呼び分けている。 古代ローマで共和制の末期には、人々の間で本を自宅で多数持つことが流行したので、書籍を扱う商人も栄えた。 中世ヨーロッパにおいて書籍を大量に持っていたのは修道院であり、修道院内で写本の作成などが行われていた。この段階では書籍を扱う業者が出る幕はあまりなかったが、グーテンベルクの印刷技術が実現し、キリスト教関連の書籍である『聖書』や聖歌集等が日常語で印刷されて人々に大量に届けられる必要が出てきた段階で、書籍取り扱い業者としての書店の役割が大きくなっていった。 アメリカ合衆国では小売書店以外の販売ルートが数多くあったため、昔から小売書店の地位は日本ほど高くない。例えば1930年代にマスマーケット・ペーパーバックが登場したが、書店ではなく新聞スタンドが取り扱った。第二次世界大戦後もブック・クラブのような通信販売が人気を博した。書籍販売に占める小売書店の割合は歴史的に3割程度で、現在でも割合に変化はない。 アメリカの小売書店は、1960年代まではハードカバーを取り扱う個人書店が主流だった。1970年代にビー・ドルトンやウォルデンブックスのような郊外型の大型チェーン店が登場し、急速に発展した。両社はマス・ペーパーバックの販売に力を入れるとともに新刊書や超ベストセラー(ブロックバスター)を重視し、回転率を至上命令としたため返本が問題となった。1980年代にはビー・ドルトンやウォルデンブックスは更に発展し、マス・ペーパーバックだけでなく、雑誌販売にも力を入れるとともに、副商品としてビデオソフトやコンピューターゲーム、カレンダーの販売も開始した。一方で書籍の大幅割引(1割引から3割引)を行うクラウン書店が一世を風靡した。また買取制が始まった。 1990年代には10万点以上の在庫を持つ超大型書店(スーパーストア)が流行した。一方でコストコの親会社であるウェアハウス・クラブが食料品や雑貨などとともに書籍の大幅割引(4割引から9割引)を行った。 業界再編が行われ、ビー・ドルトンはバーンズ・アンド・ノーブルに、ウォルデンブックスはボーダーズ・グループに、クラウン書店もランダムハウスに買収された。 2011年現在、アメリカでは書店ビジネスそのものが消滅の危機に瀕している。上述のボーダーズ・グループはアメリカで2位の書店チェーンだったが、連邦倒産法の適用を申請して倒産した。背景にはインターネットでの書籍販売や電子書籍の普及が指摘されている。 古代中国においては、後漢時代に最初の書店の記録が見られる。唐代、宋代になると商業出版が盛んになり、書店の数は飛躍的に増えた。 日本では中世まで書物は寺院や朝廷が所蔵するもので外にはなかなか出ないものだった。個人の所蔵する本などが子孫に伝わらず何らかの事情で売らざるを得なくなることを「沽却」といったが、それは不名誉なことで表には出にくかった。12世紀になると京都で経などの造本を行う経師が本の売買も手がけるようになった。 江戸時代になると京都で出版を兼ねた書店(書林)が出現した。大坂や江戸では古本の販売が先に始まり、17世紀後半になって出版も行うようになった。江戸時代の書店は出版、自店の出版物の卸売・販売、他店の出版物の販売、古本の販売を広く行っていた。 明治20年代には近代の書籍関連業界の形態として、版元、取次、書店などが別々に存在するようになった。三省堂(三省堂書店)や岩波書店、東京堂出版(東京堂書店)のように、明治期、大正期から続く出版社は小売書店(古書店を含む)をその祖に持つものも多く、また現在でも大規模小売書店や大手卸業者の多くが出版部門を持っていることから、厳密な分類は困難かつ無意味という面がある。 書籍と雑誌を両方販売している。欧米では、雑誌は新聞スタンドやキヨスクで売られている。 再販制度による定価販売制と、出版社からの委託販売制を取っている。 商店街に店を構える小規模店や、駅前の百貨店や郊外の大型店の内部に店を構える店舗、都市の中心となる地場書店、広い駐車場を確保して車での利用者を狙うチェーン店、レンタルビデオやテレビゲーム(ハード・ソフト)などを同時に扱う店舗などがしのぎを削る。看板には店舗名より「本」の文字を大きく掲げている店舗が多い。雑誌を揃えて長時間営業を行うコンビニエンスストアも広い意味では競合相手である。また、一部の書店では、特定の領域に特化した品揃えを行うことによって差別化を図っている。 2023年8月22日更新時点で共有書店マスタに登録された書店店舗は11,260店舗。 インターネット黎明期の1995年12月に、つるや書店が取次を経由してインターネットを利用した「ツルヤオンラインブックショップ」を開設した。 2023年8月22日更新時点で共有書店マスタに登録されたネット店は89店舗。 独立系書店(英語版)とは、オーナーや書店員が選書したおすすめ本を販売している書店を指す。新刊・古本・ZINE、本にまつわる雑貨など、さまざまなジャンルの商品を扱い、本のセレクトショップとも呼ばれる。「恵文社一乗寺店」や「誠光社」、「ブックスキューブリック」などが有名。 書店チェーンとしては「TSUTAYA」「蔦屋書店」を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(書籍・雑誌の2021年年間国内販売額1376億円)が紀伊國屋書店(2021年8月期単独売上高978億円9000万円、店売総本部売上高450億4800万円)を上回る国内最大手である。 書籍は出版社から取次を経て、書店に入荷する。書店への入荷を配本と言うが、配本される本の種類・部数などは、取次側が決定するのが基本である(パターン配本)。配本された本は書店で陳列され販売される。委託販売制を取っているので、一定期間を過ぎても売れ残った本は取次を経由して出版社に返却される(返本)。 このシステムのメリットは、書店にとっては売れ残りのリスクを負わず、パターン配本により仕入れに頭を悩ませる必要がなく値付けの手間がかからない。出版社にとっては返本可能にしたことで書店に販売を引き受けてもらいやすくなり、物流や書店からの代金回収を取次が代行してくれ身軽になれる、という点にある。 しかし現実には各者それぞれの不満もある。 1990年代の終わりに2万3,000店ほどあった書店は、2018年には1万2,026店にまで半減。さらにこの店舗数には雑誌スタンドなども含まれるため、書籍を販売する「書店」の数としては図書カード端末機を設置する約8,800店(日本図書普及発表)が実態に近いとされる。日本の書店は書籍に比べ雑誌の取り扱い比率が高いという特徴があり、インターネットの普及と出版不況による「雑誌離れ」により、雑誌販売の比率が高い町の書店は急速に数を減らしていった。 インターネットの普及による情報源の多元化、雑誌発売時点での情報鮮度の低下により雑誌が売れなくなり、書籍でも電子書籍の登場により書店利用者は減少傾向にある。さらに長引く平成不況(失われた30年)や消費税増税などによる嗜好品の購買抑制傾向により、雑誌や娯楽書籍の売上が低下し、活字離れ・出版不況の状況となった。 こうした状況でも数字が見込めたのがヘイト本や日本礼賛本であり、1990年代後半から徐々に増加し書店に溢れるようになり、2013年から2014年にかけてのブーム期には本棚を占拠、その後2016年のヘイトスピーチ解消法などで一時盛り下がるがまた増加した。 また大都市圏における大型書店と中小規模書店の客の奪い合いも激化し、特に大型書店の旗艦店がある都市へJRや私鉄で乗り換えなしで行ける都市ではその傾向が強い。中小書店の廃業や倒産により、書店が1店もない自治体も増加している。 こうした状況から、特に小規模な書店では経営が難しくなり廃業が相次いでいる。小規模書店は商店街に店を構えるケースも多く中心市街地の衰退の影響も大きい。地域の小さな書店で本を買える環境を守るためとして、再販価格制度の維持が主張されているという面もある。 その他、書店業界を取り巻く現状の問題点をここに挙げる。
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"商店街に店を構える小規模店や、駅前の百貨店や郊外の大型店の内部に店を構える店舗、都市の中心となる地場書店、広い駐車場を確保して車での利用者を狙うチェーン店、レンタルビデオやテレビゲーム(ハード・ソフト)などを同時に扱う店舗などがしのぎを削る。看板には店舗名より「本」の文字を大きく掲げている店舗が多い。雑誌を揃えて長時間営業を行うコンビニエンスストアも広い意味では競合相手である。また、一部の書店では、特定の領域に特化した品揃えを行うことによって差別化を図っている。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2023年8月22日更新時点で共有書店マスタに登録された書店店舗は11,260店舗。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "インターネット黎明期の1995年12月に、つるや書店が取次を経由してインターネットを利用した「ツルヤオンラインブックショップ」を開設した。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2023年8月22日更新時点で共有書店マスタに登録されたネット店は89店舗。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "独立系書店(英語版)とは、オーナーや書店員が選書したおすすめ本を販売している書店を指す。新刊・古本・ZINE、本にまつわる雑貨など、さまざまなジャンルの商品を扱い、本のセレクトショップとも呼ばれる。「恵文社一乗寺店」や「誠光社」、「ブックスキューブリック」などが有名。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "書店チェーンとしては「TSUTAYA」「蔦屋書店」を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(書籍・雑誌の2021年年間国内販売額1376億円)が紀伊國屋書店(2021年8月期単独売上高978億円9000万円、店売総本部売上高450億4800万円)を上回る国内最大手である。", "title": 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"インターネットの普及による情報源の多元化、雑誌発売時点での情報鮮度の低下により雑誌が売れなくなり、書籍でも電子書籍の登場により書店利用者は減少傾向にある。さらに長引く平成不況(失われた30年)や消費税増税などによる嗜好品の購買抑制傾向により、雑誌や娯楽書籍の売上が低下し、活字離れ・出版不況の状況となった。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "こうした状況でも数字が見込めたのがヘイト本や日本礼賛本であり、1990年代後半から徐々に増加し書店に溢れるようになり、2013年から2014年にかけてのブーム期には本棚を占拠、その後2016年のヘイトスピーチ解消法などで一時盛り下がるがまた増加した。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また大都市圏における大型書店と中小規模書店の客の奪い合いも激化し、特に大型書店の旗艦店がある都市へJRや私鉄で乗り換えなしで行ける都市ではその傾向が強い。中小書店の廃業や倒産により、書店が1店もない自治体も増加している。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "こうした状況から、特に小規模な書店では経営が難しくなり廃業が相次いでいる。小規模書店は商店街に店を構えるケースも多く中心市街地の衰退の影響も大きい。地域の小さな書店で本を買える環境を守るためとして、再販価格制度の維持が主張されているという面もある。", "title": "日本の書店" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その他、書店業界を取り巻く現状の問題点をここに挙げる。", "title": "日本の書店" } ]
書店とは、本の店、という意味で、より具体的には書籍や雑誌の小売店や卸業者や出版社である。本屋(ほんや)とも呼ばれ、古い時代の呼称として「書肆(しょし)」もある。本項では小売書店を中心に概説する。 書籍を扱う業者には、本を作る出版社、出版社から本を大量に仕入れ各地の小売店に卸売する業者、本を読者となる個人や組織に販売する業者などがある。出版・印刷業界では、出版社を「版元(はんもと)」、卸業者を「取次(とりつぎ)」、小売店を「小売書店」などと呼び分けている。
{{複数の問題 | 独自研究 = 2016年9月 | 出典の明記 = 2016年9月 | 雑多な内容の箇条書き = 2021年7月 | 更新 = 2021年7月 }} [[File:William Fettes Douglas - The Bibliophilist's Haunt or Creech's Bookshop.jpg|thumb|right|書店を描いた1891年の絵画([[:en:William Fettes Douglas|William Fettes Douglas]] 画)]] [[File:Bouquinistes seine2.jpg|thumb|right|[[フランス]]で非常に多い [[:fr:bouquiniste|bouquiniste]] [[ブキニスト]]。[[古書]]を中心に広く書籍や、またしばしば[[デッサン]]類・[[写真]]類や音楽メディアなど様々なものを扱う[[露店]]。写真は[[パリ]]の[[セーヌ川|セーヌ]]の川岸にずらりと並んだブキニスト。閉店時には本を箱の中に収め蓋を閉じて鍵をかける。]] [[File:Bookshop_in_Much_Wenlock.jpg|thumb|right|イギリスの現代の書店(Much Wenlockにて)]] [[File:Księgarnia Gdańscy we Włocławku.jpg|thumb|right|[[ポーランド]]の書店の店内。客が座るための[[ソファー]]が置いてある。]] [[File:20131207 Istanbul 082.jpg|thumb|right|[[トルコ]]、[[イスタンブール]]の書店の店頭。]] [[File:Barnes_%26_Noble_Interior.JPG|thumb|right|アメリカ合衆国、[[ロサンゼルス|L.A.]]にある[[バーンズ・アンド・ノーブル]]の店内]] [[File:El Ateneo Bookstore.jpg|thumb|right|[[ブエノスアイレス]]、[[アルゼンチン]]の書店]] [[File:Periplus Bookshop Pondoh Indah Mall (2023-07-07).jpg|thumb|right|[[インドネシア]]、[[ジャカルタ]]の書店]] '''書店'''(しょてん、英:bookstore, bookshop)とは、[[本]]の[[店]]、という意味で、より具体的には[[本|書籍]]や[[雑誌]]の[[小売|小売店]]や[[卸売|卸業者]]や[[出版社]]である。'''本屋'''(ほんや)とも呼ばれ、古い時代の呼称として「'''書肆'''(しょし)」もある。本項では小売書店を中心に概説する。 書籍を扱う業者には、本を作る出版社、出版社から本を大量に仕入れ各地の小売店に卸売する業者、本を読者となる個人や組織に販売する業者などがある。出版・[[印刷]]業界では、出版社を「[[版元]](はんもと)」、卸業者を「[[出版取次|取次]](とりつぎ)」、小売店を「小売書店」などと呼び分けている。 == 歴史 == === ヨーロッパ === [[古代ローマ]]で[[共和制]]の末期には、人々の間で本を自宅で多数持つことが流行したので、書籍を扱う商人も栄えた。 [[中世]][[ヨーロッパ]]において書籍を大量に持っていたのは[[修道院]]であり、修道院内で[[写本]]の作成などが行われていた。この段階では書籍を扱う業者が出る幕はあまりなかったが、[[グーテンベルク]]の[[印刷]]技術が実現し、[[キリスト教]]関連の書籍である『[[聖書]]』や[[聖歌集]]等が日常語で印刷されて人々に大量に届けられる必要が出てきた段階で、書籍取り扱い業者としての書店の役割が大きくなっていった。 === アメリカ合衆国 === アメリカ合衆国では小売書店以外の[[販売]]ルートが数多くあったため、昔から小売書店の地位は日本ほど高くない。例えば[[1930年代]]に[[ペーパーバック|マスマーケット・ペーパーバック]]が登場したが、書店ではなく新聞スタンドが取り扱った。[[第二次世界大戦後]]もブック・クラブのような通信販売が人気を博した。書籍販売に占める小売書店の割合は歴史的に3割程度で、{{いつ範囲|現在でも|date=2021-07}}割合に変化はない。 アメリカの小売書店は、[[1960年代]]までは[[ハードカバー]]を取り扱う個人書店が主流だった。[[1970年代]]に[[:en:B. Dalton|ビー・ドルトン]]や[[:en:Waldenbooks|ウォルデンブックス]]のような郊外型の大型[[チェーン店]]が登場し、急速に発展した。両社はマス・ペーパーバックの販売に力を入れるとともに新刊書や超ベストセラー(ブロックバスター)を重視し、回転率を至上命令としたため返本が問題となった。[[1980年代]]にはビー・ドルトンやウォルデンブックスは更に発展し、マス・ペーパーバックだけでなく、雑誌販売にも力を入れるとともに、副商品として[[ビデオソフト]]や[[コンピューターゲーム]]、[[カレンダー]]の販売も開始した。一方で書籍の大幅割引(1割引から3割引)を行う[[:en:Crown Publishing Group|クラウン書店]]が一世を風靡した。また買取制が始まった。 [[1990年代]]には10万点以上の在庫を持つ超大型書店(スーパーストア)が流行した。一方で[[コストコ]]の親会社である[[:en:Warehouse club|ウェアハウス・クラブ]]が食料品や雑貨などとともに書籍の大幅割引(4割引から9割引)を行った。 業界再編が行われ<ref>[[金平聖之助]]『アメリカの出版・書店』1992年 ISBN 978-4893862303</ref>、ビー・ドルトンは[[バーンズ・アンド・ノーブル]]に、ウォルデンブックスは[[ボーダーズ・グループ]]に、クラウン書店も[[ランダムハウス]]に買収された。 2011年現在、アメリカでは書店ビジネスそのものが消滅の危機に瀕している<ref name="asahi2011">『[[朝日新聞]]』2011年2月18日、朝刊12面</ref>。上述の[[ボーダーズ・グループ]]はアメリカで2位の書店チェーンだったが、[[連邦倒産法]]の適用を申請して倒産した<ref name="asahi2011" />。背景にはインターネットでの書籍販売や電子書籍の普及が指摘されている<ref name="asahi2011" />。 === 中国 === {{See also|中国の書店|木版印刷}} 古代中国においては、[[後漢]]時代に最初の書店の記録が見られる<ref>{{Citation|和書|title=中国目録学|publisher=筑摩書房|year=1991|last=清水|first=茂|p=97|authorlink=清水茂 (中国文学者)|isbn=4480836055}}</ref>。[[唐]]代、[[宋 (王朝)|宋]]代になると商業出版が盛んになり、書店の数は飛躍的に増えた<ref>{{Citation|和書|title=中国出版文化史 : 書物世界と知の風景|publisher=名古屋大学出版会|year=2002|ISBN=4815804206|last=井上|first=進|authorlink=井上進 (東洋史研究者)|}}</ref>。 === 日本 === 日本では[[中世]]まで書物は[[寺院]]や[[朝廷 (日本)|朝廷]]が所蔵するもので外にはなかなか出ないものだった<ref name="2013B">[http://www.book-seishindo.jp/seikei_tanq/tanq_2013B-08.pdf 成蹊大学 日本探求特別講義 B 橋口 侯之介「第8回 本を伝える古書の世界」] [[誠心堂書店]]、2020年5月22日閲覧。</ref>。個人の所蔵する本などが子孫に伝わらず何らかの事情で売らざるを得なくなることを「沽却」といったが、それは不名誉なことで表には出にくかった<ref name="2013B" />。[[12世紀]]になると[[京都]]で経などの造本を行う[[経師]]が本の売買も手がけるようになった<ref name="2013B" />。 [[江戸時代]]になると京都で出版を兼ねた書店(書林)が出現した<ref name="2013B" />。[[大坂]]や[[江戸]]では[[古本]]の販売が先に始まり、17世紀後半になって出版も行うようになった<ref name="2013B" />。江戸時代の書店は出版、自店の出版物の卸売・販売、他店の出版物の販売、古本の販売を広く行っていた<ref name="2013B" />。 [[明治]]20年代には[[近代]]の書籍関連業界の形態として、版元、取次、書店などが別々に存在するようになった<ref name="2013B" />。[[三省堂]]([[三省堂書店]])や[[岩波書店]]、[[東京堂出版]]([[東京堂書店]])のように、明治期、大正期から続く出版社は小売書店([[古書店]]を含む)をその祖に持つものも多く、また現在でも大規模小売書店や大手卸業者の多くが出版部門を持っていることから、厳密な分類は困難かつ無意味という面がある。 == 日本の書店 == 書籍と雑誌を両方販売している。欧米では、雑誌は新聞[[スタンド]]や[[キヨスク]]で売られている。 [[再販制度]]による定価販売制と、出版社からの[[委託販売]]制を取っている。 === 種類 === ; 新刊書店 商店街に店を構える小規模店や、駅前の[[百貨店]]や郊外の大型店の内部に店を構える店舗、都市の中心となる地場書店、広い駐車場を確保して車での利用者を狙うチェーン店、[[レンタルビデオ]]や[[テレビゲーム]]([[ハードウェア|ハード]]・[[ゲームソフト|ソフト]])などを同時に扱う店舗などがしのぎを削る。看板には店舗名より「'''本'''」の文字を大きく掲げている店舗が多い。雑誌を揃えて長時間営業を行う[[コンビニエンスストア]]も広い意味では競合相手である。また、一部の書店では、特定の領域に特化した品揃えを行うことによって差別化を図っている。 2023年8月22日更新時点で共有書店マスタに登録された書店店舗は11,260店舗<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.jpoksmaster.jp/Info/documents/top_registration.pdf |title=共有書店マスタ書店登録状況 |access-date=2022-01-10 |format=PDF}}</ref>。 ; 古書店 {{Main|古書店}} ; オンライン書店 {{Main|オンライン書店}} インターネット黎明期の1995年12月に、[[つるや書店]]が取次を経由してインターネットを利用した「ツルヤオンラインブックショップ」を開設した<ref>[http://www.sogotosho.daimokuroku.com/?index=hon&date=20090720 出版文化論・書評家 永江朗 氏] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120312023748/http://www.sogotosho.daimokuroku.com/?index=hon |date=2012年3月12日 }}</ref>。 2023年8月22日更新時点で共有書店マスタに登録されたネット店は89店舗<ref name=":0" />。 ; 独立系書店(本のセレクトショップ) {{仮リンク|独立書店|en|Independent bookstore|label=独立系書店}}とは、オーナーや書店員が選書したおすすめ本を販売している書店を指す<ref>{{Cite web|和書|title=【全国20選】本のセレクトショップ・魅力的な独立系書店を紹介|東京・京都だけじゃない! |url=https://abc-by.com/book-store-cafe-hotel/ |website=abc-by.com |date=2020-09-11 |access-date=2023-02-19 |language=ja |first=Life Work |last=Cafe}}</ref>。新刊・古本・[[ZINE]]、本にまつわる雑貨など、さまざまなジャンルの商品を扱い、本の[[セレクトショップ]]とも呼ばれる。「恵文社一乗寺店」や「誠光社」、「ブックスキューブリック」などが有名。 === 日本の主な書店 === {{更新|date=2021-07 |section=1}} 書店チェーンとしては「TSUTAYA」「蔦屋書店」を運営する[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]](書籍・雑誌の2021年年間国内販売額1376億円<ref>{{Cite web|和書|title=TSUTAYA書籍・雑誌2021年年間販売総額1376億円 |url=https://www.ccc.co.jp/news/2021/20210330_002318.html |website=カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社 |access-date=2022-08-10 |language=ja}}</ref>)が[[紀伊國屋書店]](2021年8月期単独売上高978億円9000万円、店売総本部売上高450億4800万円<ref>{{Cite web|和書|title=新文化 - 出版業界紙 - ニュース特集「決算」 |url=https://www.shinbunka.co.jp/kessan/kessan-kinokuniya.htm |website=www.shinbunka.co.jp |access-date=2022-08-10}}</ref>)を上回る国内最大手である<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20171114202159/http://www.sankeibiz.jp/business/news/171004/bsg1710040500001-n1.htm|title=【高論卓説】「リアル書店」が生き残る道 カフェ併設型が人気、カギは“体験”|publisher= 株式会社産経デジタル|accessdate=2017-11-14}}</ref>。 {| class="wikitable" |+日本の主な書店<ref>{{Cite web|和書|title=出版状況クロニクル160(2021年8月1日~8月31日) |url=https://odamitsuo.hatenablog.com/entry/2021/09/01/000000 |website=出版・読書メモランダム |date=1630422000 |access-date=2022-08-10 |language=ja |last=}}</ref> !会社名 !店舗名 !店舗数 !補足情報 |- |[[紀伊國屋書店]] | |68 | |- |[[丸善ジュンク堂書店]] |丸善、ジュンク堂書店、[[戸田書店]]、EHONS | | |- |[[有隣堂]] | | | |- |[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ]] |蔦屋書店、TSUTAYA、軽井沢書店 | | |- |NICリテールズ |[[リブロ]]、よむよむ、CROSSBOOKS、[[オリオン書房]]、あゆみBOOKS、PAPER WALL 文禄堂、パルコブックセンター、TSUTAYA、[[積文館書店]]、BOOKSえみたすなど | |[[日販グループホールディングス]]の子会社 |- |[[未来屋書店]] | | |[[イオン (企業)|イオン株式会社]]の子会社 |- |[[くまざわ|くまざわ書店]] |くまざわ書店、いけだ書店、ACADEMIAなど | | |- |[[トップカルチャー]] |蔦屋書店、TSUTAYA | |[[トーハン]]の関連会社 |- |[[三洋堂書店]] | | | |- |[[精文館書店]] |精文館書店、TSUTAYA | |[[日本出版販売]]とカルチュア・コンビニエンス・クラブの関連会社 |- |[[文教堂]] | | | |- |[[三省堂書店]] | | | |- |[[リラィアブル]] |[[コーチャンフォー]]、リラィアブル | | |- |[[明屋書店]] | |79<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.tohan.jp/news/upload_pdf/20220531_kessan2021.pdf |title=2021年度決算説明会 |access-date=2022-08-11 |publisher=トーハン |format=PDF }}</ref> |[[トーハン]]の子会社 |- |[[大垣書店]] | | | |- |[[オー・エンターテイメント]] |WAY書店、TSUTAYA WAY | | |- |[[キクヤ図書販売]] |喜久屋書店 | | |- |[[ブックエース]] |ブックエース、川又書店 | |カルチュア・コンビニエンス・クラブの関連会社 |- |[[宮脇書店]] | |220 | |- |[[明林堂書店]] | |59 |[[宮脇書店]] の子会社 |- |[[ブックファースト]] |[[ブックファースト]]、アミーゴ書店、アバンティブックセンター |69<ref name=":1" /> |[[トーハン]]の子会社 |- |スーパーブックス |スーパーブックス、[[住吉書房]]、オークスブックセンター、山下書店、[[あおい書店]] |59<ref name=":1" /> |[[トーハン]]の子会社 |- |[[京王書籍販売]] |啓文堂書店 | |[[京王電鉄]]の子会社 |- |[[ブックオフコーポレーション]] |BOOKOFF(流水書房)、青山ブックセンター | |古本屋チェーン大手 |- |[[アニメイト]] | | | |- |[[ヴィレッジヴァンガード (書籍・雑貨店)|ヴィレッジヴァンガード]] | | | |- |ゲオストア |[[ゲオ]] | | |- |[[ジーンズメイト|REXT]] |WonderGOO | | |} {| class="wikitable" |+ 東京商工リサーチ2015年度書籍・雑誌小売業 売上高トップ10<ref>東京商工リサーチ2015年度「全国書店1,128社の業績動向」調査「雑誌・書籍小売業」売上高ランキング</ref> ! 順位 !! 会社名 !! 本社所在地 !! 設立(創業) !! 売上高 |- ! 1 | [[紀伊國屋書店]] | 東京都新宿区 |1946(1927) |1086億3200万円 |- ! 2 | [[ジュンク堂書店|丸善ジュンク堂書店]] | 東京都中央区   | 2010 |759億 700万円 |- ! 3 | [[未来屋書店]] | 千葉県千葉市 | 1985 |548億4600万円 |- ! 4 | [[有隣堂]] | 神奈川県横浜市 | 1953(1909) |524億1500万円 |- ! 5 | [[フタバ図書]] | 広島県広島市 | 1951(1913) |348億2100万円 |- !6 | [[トップカルチャー]] | 新潟県新潟市 | 1986 |323億5400万円 |- !7 | [[文教堂]] | 神奈川県川崎市 | 2008(1949) |304億7400万円 |- !8 | [[宮脇書店]] | 香川県高松市 | 1947 |245億 900万円 |- !9 | [[三省堂書店]] | 東京都千代田区 | 1928(1881) |216億2300万円 |- ! 10 |[[くまざわ|くまざわ書店]] |東京都八王子市 |1952(1890) |211億9400万円 |} === 取次と配本システム === 書籍は出版社から[[出版取次|取次]]を経て、書店に入荷する。書店への入荷を'''配本'''と言うが、配本される本の種類・部数などは、取次側が決定するのが基本である(パターン配本)。配本された本は書店で陳列され販売される。委託販売制を取っているので、一定期間を過ぎても売れ残った本は取次を経由して出版社に返却される(返本)。 このシステムのメリットは、書店にとっては売れ残りのリスクを負わず、パターン配本により仕入れに頭を悩ませる必要がなく値付けの手間がかからない。出版社にとっては返本可能にしたことで書店に販売を引き受けてもらいやすくなり、[[物流]]や書店からの代金回収を取次が代行してくれ身軽になれる、という点にある。 しかし現実には各者それぞれの不満もある。 * 書店 ** パターン配本により、いらない本まで送られてくる。いる本が来ない。 ** 特に[[中国地方|中国]]・[[九州]]では、[[平成30年7月豪雨]]以降、[[首都圏 (日本)|首都圏]]よりも3〜5日遅れて配本されることが常態化している<ref>[https://hbol.jp/188148 地方に「本が来ない!!」――物流危機で書店業界全体が「危機的状況」に] ハーバービジネスオンライン、2019年3月18日</ref>。 ** 特に小規模な書店では、取次の配本が大型店やコンビニに重点的に行われているため、客を奪われてしまう。実際、昨今の版元の初版部数は全国の書店に1冊ずつも行き渡らない部数のため、小規模書店は初版時には配本されず、販売時期を逸することが慢性化してきている。 ** 新刊が小規模な書店へと行き渡らないことで客足は遠のき、既刊や雑誌まで売れなくなる。 ** 配本される書籍の原価が定価の80%と高く、粗利が低い(ただし、仕入れのリスクを負っていない以上、リターンが少ないのは当然とも言える)。 ** 再販制度の元では値下げできないので、買い切りの本が売れ残ると損切りもできない。 * 出版社 ** 売上の4割とも言われる多数の返本に苦しんでいる。ひどい場合には[[ベストセラー]]を出したにもかかわらず、返品多数で倒産してしまうことすらある([[ベストセラー倒産]])。これは書店がリスクを負わない仕組みのため、どうしても注文数が過剰になってしまうからである。これを防ぐため、出版社の中には[[岩波書店]]のように買い切りしか認めないところもある。 ** 全国書店への配本を活性化させるはずの取次連動型[[POSシステム]]が、一部大型書店による更なるベストセラーの寡占を生み出し、結果的に全国での販売総冊数が落ち込み、その一方で返本が増大するという悪循環へと陥っている。そのため、出版社の一部には流通や書店を介さずインターネットなどで直接自社販売を行うところも出始めている。 <!-- (?)[[出版取次|取次]]会社は、配本した時点で、配本分の金額を[[取次]]会社に前払いで支払わねばならないため、[[出版取次|取次]]会社への支払いが出来ずに配本を受けられないと言う事態も現実として起きている。 --> === 書店数の減少 === [[1990年代]]の終わりに2万3,000店ほどあった書店は、[[2018年]]には1万2,026店にまで半減。さらにこの店舗数には雑誌スタンドなども含まれるため、書籍を販売する「書店」の数としては[[図書カード]]端末機を設置する約8,800店([[日本図書普及]]発表)が実態に近いとされる<ref name="toyo" />。日本の書店は書籍に比べ[[雑誌]]の取り扱い比率が高いという特徴があり、[[インターネット]]の普及と[[出版不況]]による「雑誌離れ」により、雑誌販売の比率が高い町の書店は急速に数を減らしていった<ref name="toyo">{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/253083|title=日本の書店がどんどん潰れていく本当の理由 |accessdate=2020年2月27日 |website=東洋経済オンライン|publisher=[[東洋経済新報社]]}}</ref>。 インターネットの普及による情報源の多元化、雑誌発売時点での情報鮮度の低下により雑誌が売れなくなり、書籍でも[[電子書籍]]の登場により書店利用者は減少傾向にある。さらに長引く[[平成不況]]([[失われた30年]])や[[消費税法|消費税]]増税などによる嗜好品の購買抑制傾向により、雑誌や娯楽書籍の売上が低下し、[[活字離れ]]・[[出版不況]]の状況となった。 こうした状況でも数字が見込めたのが[[ヘイト本]]や日本礼賛本であり、1990年代後半から徐々に増加し書店に溢れるようになり<ref>[https://wezz-y.com/archives/71086 ヘイト本を生んだ「無自覚」。出版社と本屋の“罪”を問う/永江朗インタビュー - wezzy|ウェジー]</ref><ref>[https://wpb.shueisha.co.jp/news/society/2015/07/28/51312/ 売れるという理由だけで醜悪なヘイト本が生まれた構造。ヘイトスピーチは表現ではない! - 社会 - ニュース|週プレNEWS]</ref><ref>[https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-53980.html 時代の正体〈43〉ヘイト本(上) | 社会, 時代の正体 | カナロコ by 神奈川新聞]</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20190313/dde/012/040/004000c 特集ワイド:ヘイト本「慣例」が後押し 注文していないのに中小書店に 多く売れば報奨金も/自浄作用働く仕組みを | 毎日新聞]</ref>、2013年から2014年にかけてのブーム期には本棚を占拠、その後2016年の[[ヘイトスピーチ解消法]]などで一時盛り下がるがまた増加した<ref>[https://nikkan-spa.jp/1394897 「ヘイト本」はどうして生まれたのか? 嫌韓中本の異例のヒットから考える | 日刊SPA!]</ref>。 また大都市圏における大型書店と中小規模書店の客の奪い合いも激化し、特に大型書店の旗艦店がある都市へ[[JR]]や[[私鉄]]で乗り換えなしで行ける都市ではその傾向が強い<ref name="harber" />。中小書店の廃業や倒産により、書店が1店もない自治体も増加している<ref name="harber">[https://hbol.jp/197179 「中規模書店」で相次ぐ経営危機――大都市近郊でも増える「書店ゼロエリア」] ハーバービジネスオンライン、2019年7月17日</ref>。 こうした状況から、特に小規模な書店では経営が難しくなり廃業が相次いでいる。小規模書店は[[商店街]]に店を構えるケースも多く中心市街地の衰退の影響も大きい。地域の小さな書店で本を買える環境を守るためとして、再販価格制度の維持が主張されているという面もある。 {{節スタブ|1=日本における書店数の急激な減少とその問題 |date=2021-07}} === 日本の書店業界の問題 === {{雑多な内容の箇条書き|date=2021-07 |section=1}} その他、書店業界を取り巻く現状の問題点をここに挙げる。 * {{要出典範囲|[[古書店]]の出店拡大により換金目的での[[万引き]]が増加|date=2021-07}}。前述の通り書籍は単品当たりの利益幅が低いため、一冊あたりの損失を補填するためにその何倍もの売り上げが必要となる。 * 分冊百科や付録付き書籍などの大型商品の増加により売場スペースが占有され、取扱商品総数が減少する問題。一般的に書店の場合は店舗あたりの取扱商品総数が多ければ多いほど売上が増えるため、これが間接的に利益減少を招く要因のひとつとなっている。 * 年間あたりの新刊出版数が増加の一方を辿り、もはや従来の手書き手法では発注管理が不可能となる。対策として[[POSシステム]]を導入しても専任の担当者が必要となることで、更なるコストの増大と労働時間の増加を招くものの、以前のように単純なレジシステムに戻すに戻せないというジレンマがある。 === 日本での業界用語 === ;客注(きゃくちゅう) :[[本|書籍]]を顧客が依頼して取り寄せる際、書店内や[[版元]]・[[出版取次|取次]]に対して特に客からの注文であるということを指す用語。「客」と呼び捨てにしていることなどから顧客向けには一般的に使用しない。ただしこの用語は書店業界以外でも広く用いられている。 ;短冊(たんざく) :[[短冊|注文短冊]]とも。書店が出版社や取次などへ発注する際に利用される。ただし中規模以上の書店はPOSと連動した発注システムを構築し、短冊を用いた注文はしないようになってきている。 ;番線(ばんせん) :書籍の取次会社が取引関係のある個々の書店に対して割り当てるコード。中規模以上の書店は「普通番線」の他、「客注番線」を分けて持つ場合が多い。版元が書店に対し書籍を送付する際、番線を伝票に記入し取次に搬入すればその番線の書店に届けられる。また、書店が版元に対して注文を出す場合は'''番線印'''を注文書に押印することになる。 ;売れ筋(うれすじ) :回転率が良く、棚に置けば高確率で売れる商品のこと。ロングセラーとも。 ;死に筋(しにすじ) :回転率が悪く、長い間売れていない商品のこと。一般書店ではスペースの無駄として順次撤去されるが、専門書店などではこれを希少価値と見てあえてそのまま並べている場合もある。 ;拡材(かくざい) :いわゆる販促品。ポスターやPOPのほか、[[旗]]や専用棚などの大型の物もある。 ;ストック :店頭には並んでいないが、在庫としてバックヤードや本棚下の引き出しなどに保管されている商品。この用語も書店業界以外でも広く用いられる。<!--客が勝手に取り出すとPOSシステムのエラー原因となる場合もあるので、店員に尋ねて出してもらうのがよい。--> == 海外の主な書店 == === アメリカ合衆国 === * [[バーンズ・アンド・ノーブル]] * [[ボーダーズ・グループ]] === イギリス === * [[W・H・スミス]] * [[:en:Waterstone's|ウォーターストーンズ]] === フランス === [[File:Strasbourg_Librairie_Oberlin_décembre_2013_05.jpg|thumb|right|220px|ストラスブールの書店 [[:fr:Librairie Oberlin]]の店内]] * [[フナック]] === ドイツ === * [[:de:DBH Deutsche Buch Handels GmbH & Co. KG|DBH]] * [[:de:Thalia (Buchhandel)|タリア]] * [[:en:Hugendubel|フーゲンドゥーベル]] ===中国=== *[[新華書店]] === 香港 === * [[商務印書館]] * [[中華書局]] === 台湾 === * [[誠品書店]] === 韓国 === * [[教保文庫]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[金平聖之助]]『アメリカの出版・書店』1992年 ISBN 978-4893862303 * [[川井良介]]『出版メディア入門』2006年 ISBN 978-4535584624 == 関連項目 == {{Commonscat|Bookshops}} {{Wiktionary}} * [[古書店]]、[[古書店街]] * [[シェア型書店]] * [[日本書店商業組合連合会]] * [[ブックカバー]] * [[本屋大賞]] * [[活字離れ]] / [[出版不況]] - 書店数の減少の一因 * [[青木まりこ現象]] * [[中国の書店]] * [[図書館]] - 古代世界においては国立の図書館が置かれ、知の集積地とされた。紀元前6世紀にあったのは確かで、それ以前については議論されている。 * [[ムラッツォ]] - イタリアにある市。分離集落のモンテレッジョは、15世紀頃に印刷機を導入し、本の行商やイベントで有名となった。 * {{ill2|リブラリア・ベルトラン|en|Livraria_Bertrand}} - 世界最古の書店としてギネス記録を持つ1732年創業のポルトガルの書店 * {{ill2|古代の書籍販売業|de|Buchhandel der Antike}} - 紀元前5世紀の古代ギリシャ喜劇に書籍販売業が登場していることから、その頃にはあった。 * [[イブン・ナディーム]] - 10世紀のバグダードにいた書籍商 {{専門店}} {{Normdaten}} {{Book-stub}} {{DEFAULTSORT:しよてん}} [[Category:書店|*]]
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書誌
書誌(しょし、英: bibliography)とは、本を探すための情報(「書誌情報」あるいは「書誌事項」ともいう)、すなわち著者名、書名、版次、発行地、発行者、発行年、ISBN、DOI、日本全国書誌番号などのこと。本の奥付に記されることが多い。また、書誌情報を記載した書物等のことを指す場合も多い。 いかにして書籍を分類するかという方法論は、書誌学として研究の対象にもなっている。テーマごとに、数え切れないほどの種類の書誌が発行されており、書誌をリストアップした「書誌の書誌」と呼ばれるものもある。ビブリオグラフィともいう。 ある人物、あるテーマについての関連文献目録を指すこともあり、その場合には書誌目録ともいう。最初のものは、コンラート・ゲスナーによって編纂された書誌目録で、1545年に出版された。その書誌目録は、3,000人の著者による数万の本を記載していたとされる。 NDL-OPAC(国立国会図書館蔵書検索・申込システム)を活用して蔵書を検索した際には、個々の蔵書の情報には、必ず「書誌情報」、「全国書誌番号」、「書誌ID」が表示される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "書誌(しょし、英: bibliography)とは、本を探すための情報(「書誌情報」あるいは「書誌事項」ともいう)、すなわち著者名、書名、版次、発行地、発行者、発行年、ISBN、DOI、日本全国書誌番号などのこと。本の奥付に記されることが多い。また、書誌情報を記載した書物等のことを指す場合も多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "いかにして書籍を分類するかという方法論は、書誌学として研究の対象にもなっている。テーマごとに、数え切れないほどの種類の書誌が発行されており、書誌をリストアップした「書誌の書誌」と呼ばれるものもある。ビブリオグラフィともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ある人物、あるテーマについての関連文献目録を指すこともあり、その場合には書誌目録ともいう。最初のものは、コンラート・ゲスナーによって編纂された書誌目録で、1545年に出版された。その書誌目録は、3,000人の著者による数万の本を記載していたとされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "NDL-OPAC(国立国会図書館蔵書検索・申込システム)を活用して蔵書を検索した際には、個々の蔵書の情報には、必ず「書誌情報」、「全国書誌番号」、「書誌ID」が表示される。", "title": "例" } ]
書誌とは、本を探すための情報(「書誌情報」あるいは「書誌事項」ともいう)、すなわち著者名、書名、版次、発行地、発行者、発行年、ISBN、DOI、日本全国書誌番号などのこと。本の奥付に記されることが多い。また、書誌情報を記載した書物等のことを指す場合も多い。 いかにして書籍を分類するかという方法論は、書誌学として研究の対象にもなっている。テーマごとに、数え切れないほどの種類の書誌が発行されており、書誌をリストアップした「書誌の書誌」と呼ばれるものもある。ビブリオグラフィともいう。 ある人物、あるテーマについての関連文献目録を指すこともあり、その場合には書誌目録ともいう。最初のものは、コンラート・ゲスナーによって編纂された書誌目録で、1545年に出版された。その書誌目録は、3,000人の著者による数万の本を記載していたとされる。
{{出典の明記|date=2015年3月}} [[File:P1030602.JPG|thumb|図書館の[[蔵書目録]]カード。書名や著者名、発行年などの書誌情報が記載される。]] '''書誌'''(しょし、[[英語|英]]: bibliography)とは、[[本]]を探すための情報(「書誌情報」あるいは「書誌事項」ともいう)、すなわち著者名、書名、版次、発行地、発行者、発行年、[[ISBN]]、[[デジタルオブジェクト識別子|DOI]]、[[国立国会図書館#書誌データの提供|日本全国書誌番号]]などのこと。本の[[奥付]]に記されることが多い。また、書誌情報を[[記載]]した書物等のことを指す場合も多い。 いかにして書籍を[[分類]]するかという[[方法論]]は、[[書誌学]]として研究の対象にもなっている。テーマごとに、数え切れないほどの種類の書誌が発行されており、書誌をリストアップした「書誌の書誌」と呼ばれるものもある。'''ビブリオグラフィ'''ともいう。 ある人物、あるテーマについての関連文献目録を指すこともあり、その場合には'''書誌目録'''<ref name="tosho"/>ともいう。最初のものは、[[コンラート・ゲスナー]]によって編纂された書誌目録で、[[1545年]]に出版された{{Sfn|ピーター・バーク|2004|p=142}}。その書誌目録は、3,000人の著者による数万の本を記載していたとされる{{Sfn|ピーター・バーク|2004|p=142}}。 == 例 == NDL-[[OPAC]]([[国立国会図書館]]蔵書検索・申込システム)を活用して蔵書を検索した際には、個々の蔵書の情報には、必ず「書誌情報」、「全国書誌番号」、「書誌ID」が表示される<ref name="tosho">[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001015383-00 書誌ID 000001015383 国立国会図書館蔵書「アジアに関する書誌目録 : 人文科学・社会科学. 1957年度」]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考文献 == * Classification of hyperlipidaemias and hyperlipoproteinaemias,Bull,vol.43,891-915,1970 *{{Cite |和書 | author = ピーター・バーク | translator = 井上弘幸, 城戸淳 | title = 知識の社会史:知と情報はいかにして商品化したか | date = 2004 | publisher = 新曜社 | ref = harv }} == 関連項目 == {{Wiktionary|書誌|ビブリオグラフィ}} *[[書誌学]] *[[図書目録]] - [[検索]] *[[参考文献|文献]] - [[文献学]] *[[図書館学]] - [[図書館情報学]] - [[図書分類法]] *[[参考文献]] - [[参考図書]] *[[書]] - [[書物]] *[[文]] *[[出版]] *[[目録学]] {{Book-stub}} {{DEFAULTSORT:しよし}} [[Category:書誌学|*しよし]] [[Category:ジャンル別の書物]] [[Category:図書館情報学]] [[Category:文献学]] [[Category:出版用語]]
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ネーレーイス
ネーレーイス(古希: Νηρηΐς, Nērēïs)は、ギリシア神話に登場する海に棲む女神たち、あるいはニュムペーたちの総称である。ネーレーイスは単数形で、複数形ではネーレーイデス(古希: Νηρηΐδες, NērēÏdes)。長母音を省略してネレイス、ネレイデスと呼ばれる。英語ではネレイド。 彼女たちは「海の老人」ネーレウスとオーケアノスの娘ドーリスの娘たちで、姉妹の数は50人とも、100人ともいわれ、エーゲ海の海底にある銀の洞窟で父ネーレウスとともに暮らし、イルカやヒッポカムポスなどの海獣の背に乗って海を移動するとされた。 海王星の第2衛星ネレイドはネーレーイスにちなんで名付けられた。 大半のネーレーイスは独立の神話を持たず、これらの叙事詩では名前を数え上げるために海にちなんだ名や水と関連する名をつけたとも推測されている。 主なネーレーイスには、ポセイドーンの妻であるアムピトリーテー、トロイア戦争の英雄アキレウスの母テティス、アイアコスの妻プサマテーなどがいる。また、ネーレーイスは美しいことで知られ、ガラテイアはキュクロープスのポリュペーモスに恋慕された。ペルセウスの伝説では、カッシオペイアが自分の娘であるアンドロメダーのほうがネーレーイスよりも美しいと言ったことがポセイドーンを怒らせている。 ネーレーイスのリストについてはヘーシオドスの『神統記』243-62行 に列挙されており、ホメーロスの『イーリアス』第18巻39行 以下においても、親友パトロクロスの死を悼むアキレウスの母テティスの周囲に仲間たちが集まってくる場面で、ネーレーイスの名前が列挙されている。この他にはアポロドーロスの『ビブリオテーケー』1巻2・7、ヒュギーヌスの『神話集』序 でもネーレーイスの名前についての記述があるが、アポロドーロスのリストはヘーシオドスのものと類似しており、対してヒュギーヌスはホメーロスと類似している。 これら4文献に共通のネーレーイスは、アガウエー、アクタイエー、ガラテイア、キューモトエー、スペイオー、デュナメネー、ドートー、ネーサイエー、パノペー、プロートー、ペルーサにとどまる。アムピトリーテー、テティス、プサマテーといった有名なネーレーイスですら、必ずしも挙げられてはいない。 以下にリストを挙げる(同一文献における重複は除く。『イーリアス』はテティスを含む)。
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ネーレーイスは、ギリシア神話に登場する海に棲む女神たち、あるいはニュムペーたちの総称である。ネーレーイスは単数形で、複数形ではネーレーイデス。長母音を省略してネレイス、ネレイデスと呼ばれる。英語ではネレイド。 彼女たちは「海の老人」ネーレウスとオーケアノスの娘ドーリスの娘たちで、姉妹の数は50人とも、100人ともいわれ、エーゲ海の海底にある銀の洞窟で父ネーレウスとともに暮らし、イルカやヒッポカムポスなどの海獣の背に乗って海を移動するとされた。 海王星の第2衛星ネレイドはネーレーイスにちなんで名付けられた。
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閲覧
閲覧(えつらん、英語: browsing または reading あるいは inspection)とは、図書館関連の用語で、利用者が資料を館外に持ち出さずに見ることを言う。 また、近年では、インターネットの用語として、ウェブブラウザを用いてウェブページを見ることも閲覧と呼ぶ。 閲覧は、利用者が資料を入手し、閲覧に適当な場所を見つけることで可能となる。開架式の図書館においては、このいずれもが利用者の判断に任されている。利用者は、比較的自由に書架を歩いて周り、閲覧したい資料を書架から取り出し、どこか椅子や机のある場所などで資料を閲覧することになる。 この際、利用者の便宜を図るために、書架の配列などを説明するための情報が図書館内で提供されているのが普通である。これは次のような形をとることが多い。 こうした情報提供の手法は、巨大なスーパーマーケットやデパートや書店、駅構内などにおけるそれと共通している部分が多い。 閉架式の図書館では、利用者が資料の取り寄せを貸し出しデスクに依頼する。依頼の際には、閲覧申込書に資料名や資料の請求番号を記入することが多い。取り寄せた資料は、指定された閲覧室で閲覧しなければならない場合もある。これは、貴重な資料の紛失や盗難を防ぐための方法である。図書館がウェブ上で資料を公開しているケースもある。 インターネットにおけるウェブページ(HTMLファイル1ページ)アクセス数の計測にはいくつかの方法が使われており、それぞれ意味するところが異なっている。
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閲覧とは、図書館関連の用語で、利用者が資料を館外に持ち出さずに見ることを言う。 また、近年では、インターネットの用語として、ウェブブラウザを用いてウェブページを見ることも閲覧と呼ぶ。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} '''閲覧'''(えつらん、{{lang-en|browsing または reading あるいは inspection}})とは、[[図書館]]関連の用語で、利用者が資料を館外に持ち出さずに見ることを言う。 また、近年では、[[インターネット]]の用語として、[[ウェブブラウザ]]を用いて[[ウェブページ]]を見ることも閲覧と呼ぶ。 == 図書館における閲覧 == 閲覧は、利用者が資料を入手し、閲覧に適当な場所を見つけることで可能となる。[[開架式図書館|開架式の図書館]]においては、このいずれもが利用者の判断に任されている。利用者は、比較的自由に書架を歩いて周り、閲覧したい資料を書架から取り出し、どこか椅子や机のある場所などで資料を閲覧することになる。 この際、利用者の便宜を図るために、書架の配列などを説明するための情報が図書館内で提供されているのが普通である。これは次のような形をとることが多い。 * 壁面や柱、書架などに資料の分類番号、資料の分野の説明などを表示したプレートを設置する。 * 天井からプレートを吊るす。 * 入り口付近に図書館内全体の資料の配置を説明した見取り図を設置する。 * パンフレットやチラシなどの形で館内の見取り図を提供する。 * エレベーターや階段の入り口付近に見取り図やプレートを記す。 こうした情報提供の手法は、巨大なスーパーマーケットやデパートや書店、駅構内などにおけるそれと共通している部分が多い。 [[閉架式図書館|閉架式の図書館]]では、利用者が資料の取り寄せを貸し出しデスクに依頼する。依頼の際には、閲覧申込書に資料名や資料の請求番号を記入することが多い。取り寄せた資料は、指定された閲覧室で閲覧しなければならない場合もある。これは、貴重な資料の紛失や盗難を防ぐための方法である。図書館がウェブ上で資料を公開しているケースもある。 == インターネットにおける閲覧 == インターネットにおけるウェブページ([[HyperText Markup Language|HTMLファイル]]1ページ)アクセス数の計測にはいくつかの方法が使われており、それぞれ意味するところが異なっている。 *ユニークユーザー({{Lang-en-short|Unique User}}、略称:'''{{Lang|en|UU}}''') **サイトを訪問したユーザーの人数。サイトへのセッションがいったん切れたあと、同じユーザーが再度同一サイトにアクセスした場合に合算せず、1[[ユーザー]]とカウント。ただし、例えば、月間のユニークユーザー数と称する場合、日ごとのユニークユーザー数を単純に合算した数値を月間ユニークユーザー数としている場合もあり、この場合は月間内で同じユーザーが二重にカウントされている可能性もある。トップページから下位ページにアクセスした場合、1ユーザーとカウントし、下位ページ分をその都度合算するカウントは行わない。 *セッション({{Lang-en-short|Session}}、略称:'''{{Lang|en|SS}}''') **サイトにアクセスした訪問数({{Lang|en|Visits}})。サイトにアクセスして、サイトから離脱するまでを1セッションとカウント。ユニークユーザーと異なり、同一ユーザーが再度同一サイトにアクセスした場合、2セッションとカウント(延べ人数でカウントする方式)。下位ページをその都度合算するカウントを行わない点は、ユニークユーザーと共通。 *ページビュー({{Lang-en-short|Page View}}、略称:'''{{Lang|en|PV}}''') **アクセスしたページの総数。ユニークユーザーやセッションと異なり、サイトへのセッションが続いている間でも、同一サイト内の下位ページへのアクセスをその都度合算し、カウントが増大する。さらに、同じページを何度もリロードすることでもカウントが増大し、外部から数値を操作・調整可能なことから、正確なアクセス数を判断するには他のアクセス数値情報と複合して判断する必要があるとされる<ref>{{Cite web|和書|author = 英代株式会社|date = |url = http://www.eidai-inc.co.jp/faqanswer205.html|title = アクセス解析:ページビュー(PV)とは? | |work = |publisher = |accessdate = 2012-04-05}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} --> == 関連項目 == {{Wiktionary}} <!-- {{Commonscat|}} --> * [[図書館情報学用語の一覧]] <!-- == 外部リンク == {{Cite web}} --> {{Culture-stub}} {{Internet-stub}} {{デフォルトソート:えつらん}} [[Category:図書館情報学]] <!-- [[en:]] -->
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7,001
開架式図書館
開架式図書館(かいかしきとしょかん)とは、書架が公開されている図書館のことである。 資料を手にとって見ることができ、実際の本を見ながら探すことができる。ほとんどの公共図書館はこの方式を採用している。通常、開架式図書館では来館者が本をその場で読むことができるよう、読書のためのスペースが用意されている。また、蔵書を検索するための端末(OPAC)を設置している図書館も多い。図書の性質によって一部を開架、一部を閉架とする図書館もある。 書庫については通常、閉架となっており利用者が立ち入ることが出来ないが、イベントを行い公開の機会を設けることもある。また、大学図書館においては開架書庫と称し、利用者も立ち入れるエリアが設けられている事例が多くみられる。
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開架式図書館(かいかしきとしょかん)とは、書架が公開されている図書館のことである。 資料を手にとって見ることができ、実際の本を見ながら探すことができる。ほとんどの公共図書館はこの方式を採用している。通常、開架式図書館では来館者が本をその場で読むことができるよう、読書のためのスペースが用意されている。また、蔵書を検索するための端末(OPAC)を設置している図書館も多い。図書の性質によって一部を開架、一部を閉架とする図書館もある。 書庫については通常、閉架となっており利用者が立ち入ることが出来ないが、イベントを行い公開の機会を設けることもある。また、大学図書館においては開架書庫と称し、利用者も立ち入れるエリアが設けられている事例が多くみられる。
'''開架式図書館'''(かいかしきとしょかん)とは、[[本棚|書架]]が公開されている[[図書館]]のことである。 [[資料]]を手にとって見ることができ、実際の本を見ながら探すことができる。ほとんどの[[公共図書館]]はこの方式を採用している。通常、開架式図書館では来館者が本をその場で読むことができるよう、[[読書]]のための[[スペース]]が用意されている。また、[[蔵書]]を[[検索]]するための[[端末]]([[OPAC]])を設置している図書館も多い。図書の性質によって一部を開架、一部を閉架とする図書館もある。 書庫については通常、閉架となっており利用者が立ち入ることが出来ないが、イベントを行い公開の機会を設けることもある。また、[[大学図書館]]においては開架書庫と称し、利用者も立ち入れるエリアが設けられている事例が多くみられる。 == メリットとデメリット == ; 開架式のメリット :* 館員に出納を依頼せずとも、気軽に図書を読むことができる。 :* 借りる図書が予め決まっていなくても、興味に合う図書を自分で探すことができる。 : ; 開架式のデメリット :* 図書の破損や汚れが、閉架式よりも進みやすい。 :* 閉架式に比べて、広い面積を必要とする(来館者が図書を読むためのスペースが必要になるため)。 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} --> <!-- == 参考文献 == --><!-- {{Cite book}}、{{Cite journal}} --> == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|}} --> * [[図書館]] * [[閉架式図書館]] * [[立ち読み]] <!-- == 外部リンク == --><!-- {{Cite web}} --> {{Education-stub}} {{デフォルトソート:かいかしきとしよかん}} [[Category:図書館の種別]] <!-- [[en:]] -->
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7,002
貸出
貸出(かしだし)は、特定の場所にあるものを有料または無料で一定期間持ち出すことを許可すること。比較的短期の貸出をレンタル、長期の貸出をリースと呼ぶことがある。CD・ビデオソフトや本、工具、行楽地におけるスキー道具などの貸出が一般的であるが、家電製品、アパレル、玩具などのサービスも増加している。一般的には「Category:貸与」を参照。 ただし銀行の貸し出しは信用創造によるものだので意味が変わってくる。 貸出(かしだし)は図書館用語で、所蔵の図書、資料などを利用者が一定期間外に持ち出すことを許可するもの。 開架式図書館においては、「貸出」は、通常、図書館外へ持ち出すことを意味し、館内の閲覧は意味しない。ただし、パソコンなどの機器類については館内への貸し出しもある。閉架式図書館においては、書庫から取り出して閲覧室に図書などをもっていく場合を「館内貸出」、図書館外へ持ち出すことを「館外貸出」として区別することがある。 貸し出しの手続きは通常、図書館内の一定の場所(貸し出し窓口、デスク)で行われるが、自動貸出機(後述)も次第に普及している。 手続きは、図書館側が貸し出す資料と貸し出す相手である利用者の名前、貸し出し日などを控え、利用者に返却日時などを伝える、という形をとることが多い。この際、利用者は、図書館の利用カードなどを提示する。処理が済むと、貸し出した資料および既に貸出中の資料のタイトルと返却日が掲載されたレシートを発行することが多い。また、希望者に読書通帳を発行し、利用者が読書実績を記録していくことができる館もある。読書通帳は手書きのものが殆どであるが、預金通帳と同様のフォーマットの冊子を用い、機械で印字できるタイプも存在する。 貸出冊数と期間には制限があることがほとんどで、たいていの図書館では一人2、3週間で8冊から10冊程度で定められている一方、期間内であれば貸出冊数は無制限という図書館もある。障害者手帳を保有する利用者の場合は、貸出点数の増加や、返却期限の延長を行っていることもある。ただし、近接自治体間相互利用サービス対象者や、大学図書館において学外者が利用する場合は、貸出できる資料の種類や点数が通常より限定されていることがある。 利用者が他の図書館の本を借りるための「図書館間貸し出し」(図書館間相互貸借)という制度もある。 貸し出しの対象外の図書には禁帯出のラベルを貼って区別することがよく行われる。 なお、貸出方式にはニューアーク式、ブラウン式、逆ブラウン式、回数券式、一括ブラウン式、フォトチャージング式、リーダーズ・トークン式、ライブラリー・トークン式、コンピューター方式などがある。 図書館では蔵書の管理にRFIDが使われるようになったことで、RFIDを用いた自動貸出機の導入が広がっている。初期投資は必要であるものの、カウンターの混雑抑制や、プライバシー確保といったメリットがあるため利用者にもおおむね好評となっている。
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貸出(かしだし)は、特定の場所にあるものを有料または無料で一定期間持ち出すことを許可すること。比較的短期の貸出をレンタル、長期の貸出をリースと呼ぶことがある。CD・ビデオソフトや本、工具、行楽地におけるスキー道具などの貸出が一般的であるが、家電製品、アパレル、玩具などのサービスも増加している。一般的には「Category:貸与」を参照。 ただし銀行の貸し出しは信用創造によるものだので意味が変わってくる。
{{出典の明記|date=2018年12月7日 (金) 02:49 (UTC)}} '''貸出'''(かしだし)は、特定の場所にあるものを有料または無料で一定期間持ち出すことを許可すること。比較的短期の貸出を[[レンタル]]、長期の貸出を[[リース]]と呼ぶことがある。CD・ビデオソフトや本、工具、行楽地におけるスキー道具などの貸出が一般的であるが、家電製品、アパレル、玩具などのサービスも増加している。一般的には「[[:Category:貸与]]」を参照。 ただし銀行の貸し出しは[[信用創造]]によるものだので意味が変わってくる。 == 図書館における貸出 == '''貸出'''(かしだし)は[[図書館]]用語で、所蔵の図書、資料などを利用者が一定期間外に持ち出すことを許可するもの。 [[開架式図書館]]においては、「貸出」は、通常、図書館外へ持ち出すことを意味し、館内の閲覧は意味しない。ただし、パソコンなどの機器類については館内への貸し出しもある。[[閉架式図書館]]においては、書庫から取り出して閲覧室に図書などをもっていく場合を「館内貸出」、図書館外へ持ち出すことを「館外貸出」として区別することがある。 貸し出しの手続きは通常、図書館内の一定の場所(貸し出し窓口、デスク)で行われるが、自動貸出機(後述)も次第に普及している。 手続きは、図書館側が貸し出す資料と貸し出す相手である利用者の名前、貸し出し日などを控え、利用者に返却日時などを伝える、という形をとることが多い。この際、利用者は、図書館の利用カードなどを提示する。処理が済むと、貸し出した資料および既に貸出中の資料のタイトルと返却日が掲載されたレシートを発行することが多い。また、希望者に[[読書通帳]]を発行し、利用者が読書実績を記録していくことができる館もある。読書通帳は手書きのものが殆どであるが、[[預金通帳]]と同様のフォーマットの冊子を用い、機械で印字できるタイプも存在する。 貸出冊数と期間には制限があることがほとんどで、たいていの図書館では一人2、3週間で8冊から10冊程度で定められている一方、期間内であれば貸出冊数は無制限という図書館もある。<!-- 期間無制限の図書館は、ないでしょうね… -->[[障害者手帳]]を保有する利用者の場合は、貸出点数の増加や、返却期限の延長を行っていることもある。ただし、近接自治体間相互利用サービス対象者や、[[大学図書館]]において学外者が利用する場合は、貸出できる資料の種類や点数が通常より限定されていることがある。 利用者が他の図書館の本を借りるための「図書館間貸し出し」([[図書館間相互貸借]])という制度もある。 貸し出しの対象外の図書には[[禁帯出]]のラベルを貼って区別することがよく行われる。 なお、貸出方式には[[ニューアーク方式|ニューアーク式]]、[[ブラウン方式|ブラウン式]]、逆ブラウン式、回数券式、一括ブラウン式、[[フォトチャージング方式|フォトチャージング式]]、リーダーズ・トークン式、ライブラリー・トークン式、コンピューター方式などがある。 == 自動貸出機 == {{節スタブ}} 図書館では蔵書の管理に[[RFID]]が使われるようになったことで、RFIDを用いた自動貸出機の導入が広がっている。初期投資は必要であるものの、カウンターの混雑抑制や、プライバシー確保といったメリットがあるため利用者にもおおむね好評となっている。 == 関連項目 == * [[貸出文庫]] * [[図書館間相互貸借]] {{オートメーション}} {{デフォルトソート:かしたし}} [[Category:図書館]] [[Category:図書館情報学]] [[Category:貸与]]
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閉架式図書館
閉架式図書館(へいかしきとしょかん)とは書架が外部からの閲覧者に公開されていない図書館のことである。 目録や検索端末・インターネット検索画面などを元に資料を探す方式で、一般利用者は実際に書架の間を歩いたり本を直接手にとったりしながら探すことはできない。国立国会図書館や専門図書館や一般図書館の一部の書架など、資料の希少性が高いところで採用されている方式。 貴重な資料の収集、保管、整理、研究などを目的とする図書館や資料館などでは資料の破損を防ぐことができる、収納スペースを有効に活用することができる、不適切な場所へ資料を置くことから生じる紛失が防げるなどの理由から閉架式を採用することがある。ただし、資料の盗難対策としては完璧ではない。 また、利用者側にも資料の保存状態がよいことや紛失物件が少ないことの他、巨大な図書館から異なる主題の資料を多数取り集めたい場合などには閉架式であれば申し込みをして待っていればよいという利点がある。 完全閉架の図書館は、利用者に対応する図書館員がより多く必要となることなどからそう多くはないが、地方自治体の図書館などでも、収納スペースの都合や貴重書の保管対策、保管期間内ではあるが1年程度の閲覧の多い時期を過ぎた雑誌などの逐次刊行物など、閉架で扱ったほうが都合の良い資料も多いため、開架と閉架を併用した図書館は多い。
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閉架式図書館(へいかしきとしょかん)とは書架が外部からの閲覧者に公開されていない図書館のことである。 目録や検索端末・インターネット検索画面などを元に資料を探す方式で、一般利用者は実際に書架の間を歩いたり本を直接手にとったりしながら探すことはできない。国立国会図書館や専門図書館や一般図書館の一部の書架など、資料の希少性が高いところで採用されている方式。 貴重な資料の収集、保管、整理、研究などを目的とする図書館や資料館などでは資料の破損を防ぐことができる、収納スペースを有効に活用することができる、不適切な場所へ資料を置くことから生じる紛失が防げるなどの理由から閉架式を採用することがある。ただし、資料の盗難対策としては完璧ではない。 また、利用者側にも資料の保存状態がよいことや紛失物件が少ないことの他、巨大な図書館から異なる主題の資料を多数取り集めたい場合などには閉架式であれば申し込みをして待っていればよいという利点がある。 完全閉架の図書館は、利用者に対応する図書館員がより多く必要となることなどからそう多くはないが、地方自治体の図書館などでも、収納スペースの都合や貴重書の保管対策、保管期間内ではあるが1年程度の閲覧の多い時期を過ぎた雑誌などの逐次刊行物など、閉架で扱ったほうが都合の良い資料も多いため、開架と閉架を併用した図書館は多い。
'''閉架式図書館'''(へいかしきとしょかん)とは[[書架]]が外部からの[[閲覧]]者に公開されていない[[図書館]]のことである。 [[目録]]や[[検索]][[端末]]・[[インターネット]]検索画面などを元に資料を探す方式で、一般利用者は実際に書架の間を歩いたり[[本]]を直接手にとったりしながら探すことはできない。[[国立国会図書館]]や[[専門図書館]]や一般図書館の一部の書架など、資料の希少性が高いところで採用されている方式。 貴重な資料の収集、保管、整理、研究などを目的とする図書館や[[資料館]]などでは資料の破損を防ぐことができる、収納スペースを有効に活用することができる、不適切な場所へ資料を置くことから生じる紛失が防げるなどの理由から閉架式を採用することがある。ただし、資料の盗難対策としては完璧ではない。 また、利用者側にも資料の保存状態がよいことや紛失物件が少ないことの他、巨大な図書館から異なる主題の資料を多数取り集めたい場合などには閉架式であれば申し込みをして待っていればよいという利点がある。 完全閉架の図書館は、利用者に対応する[[図書館員]]がより多く必要となることなどからそう多くはないが、地方自治体の図書館などでも、収納スペースの都合や貴重書の保管対策、保管期間内ではあるが1年程度の閲覧の多い時期を過ぎた雑誌などの[[逐次刊行物]]<ref>図書館の方針と雑誌の種類などにより恒久的に保存する場合もある。</ref>など、閉架で扱ったほうが都合の良い資料も多いため、開架と閉架を併用した図書館は多い。 ==注== <references/> ==関連項目== *[[図書館]] *[[開架式図書館]] {{デフォルトソート:へいかしきとしよかん}} [[Category:図書館の種別]]
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目録
目録(もくろく)とは、物の所在を明確にする目的あるいは物の譲渡や寄進が行われる際に作成される、品名や内容、数量などを書き並べて見やすくした文書。 「目録」という言葉は一覧・リスト・カタログなどの意味で使われる場合が多い。 しかし、歴史上において「目録」の用例を細かく分類した場合、 などに分けることが可能である。 大量の情報を分かりやすい形で一覧可能となるように箇条書きなどの方法が取り入れられている。 また歴史学の世界では、文書目録は当時の政治経済などの情報伝達のあり方を、図書目録は当時の学術水準や書籍流通の状況を知る上において貴重な史料となりえる。 中国では、早くより目録学の考え方が発達しており、日本にも奈良時代以前の段階に伝来したと考えられている。 古代から寺院や行政機関では、財産管理や業務上の必要から多くの目録が作成されていた。公式令には官司は15日ごとに作成・伝達された公文書及び草案をまとめて保管するとともにその所蔵目録作成が義務付けられていた。 例えば、寺院では寺院の住持の交替の際に仏具・法具などの什器や文書などの一覧を記した資財帳や土地を記した水陸田目録が作成された。官司でも国司の交替の際に正税などの在庫を確認する交替実録帳や班田実施時に作成する班田帳簿目録などが作られた。平安時代に入ると、個人による目録が作成された。まず、唐に留学していた「入唐八僧」(「入唐八家」とも、最澄、空海、恵運、円行、常暁、宗叡、円仁、円珍)と呼ばれる僧侶達が帰国した際に持ち帰った書物などを記録した将来目録(請来目録)が作成された。貴族達においては2つの特徴的な目録が作成される。まず、現代の図書目録の祖にあたる「書目」が作成された。藤原佐世が勅命を奉じて作成した『日本国見在書目録』や藤原通憲(信西)が個人蔵書を記した『通憲入道蔵書目録』、滋野井実冬説などがある『本朝書籍目録』などが知られている。また、時代が下ると既存の目録の刊行も行われ、初期のものとしては安達泰盛が高野山にある空海の請来目録を刊行したことが知られ、江戸時代には出版業の隆盛とともに多数の書籍が刊行されたことから、それらを対象とした目録も刊行されるようになった。もう1つは日記や文書を内容ごとに目録を作成して後日に先例を調べる際の参考とするもので、藤原実資の『小右記』には『小記目録』という目録が存在している。勿論、財産関係の目録も作成され、所領や財産の生前または死後に譲渡するために作成された譲状・処分状も目録の形式となっている。特に財産関係の目録は所領などの相論が発生した場合には、文書の存在の有無が判断の最大の決め手になったことから、こうした目録や公験、絵図その他の文書をまとめて保管し、かつ文書目録(具書目録・重書目録)を作成して万が一に備えた。12世紀に東大寺寛信が文書目録を作成した際の記録が今日も残されている。 中世に入ると荘園領主や公家・武士・僧侶達によって多くの目録が作られるようになる。荘園や所領に関する荘園目録、所領目録、検注の結果を示す検注目録、耕作面積と人員を示す作田目録、年貢の進納状況を示す結解目録などがあった。江戸時代に江戸幕府や諸藩によって作成された勘定帳や年貢皆済目録もこの流れを汲んだものである。更に戦国時代に今川氏が作成した分国法も「今川仮名目録」と呼ぶ。これは個々の行政文書の形式で出されていた法令を1つの法典の形式に集積・分類した目録の形式によって公布されたものと考えられたことによる。 さて、寄進の際に出される目録は相手が上位の身分者(寺社に鎮座する神仏を含む)であったため、相応の儀礼を伴うものとなり、後世の礼法においては転じて相手に進物・贈物をする際の目録の書札礼へと発展していった。寄進のための目録は鳥子紙の折紙を用いて端と中奥を折って三等分とし、更に同じ紙をもう一枚礼紙として添えて厚く包む厚礼を用いている。進物目録や結納目録になると半折の折紙となり、出す対象によって用いる紙が異なっていた。更に古い書札礼では「目録」と書かないことされていたが、明治以後は書かれる事が多くなった。今日では卒業式や結婚など、記念に物を贈る場合も、何を贈ったかを一覧に記し、式典等ではその目録を手渡すこととされ、進物として実際に金円を送る場合にも婉曲的言換えとして「目録」の語が用いられる。 更に武術・芸能など目には見えない技術を伝授する際にもその内容をまとめた文書を目録と呼んだ。これがそのまま奥義伝授を証明する免許目録(通常切紙以上免許以下に置かれる場合が多い)としても用いられるようになった。 蔵書目録も中世・近世を通じて作成され続けた。明治になると、図書館が設置されるようになり、図書館に置いてある資料のリストである図書目録を作成するための図書館学の技術として資料組織論や図書分類法などが導入されるようになった。
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目録(もくろく)とは、物の所在を明確にする目的あるいは物の譲渡や寄進が行われる際に作成される、品名や内容、数量などを書き並べて見やすくした文書。
'''目録'''(もくろく)とは、物の所在を明確にする目的あるいは物の[[譲渡]]や[[寄進]]が行われる際に作成される、品名や内容、数量などを書き並べて見やすくした[[文書]]。 == 概要 == 「目録」という言葉は[[一覧]]・[[リスト]]・[[カタログ]]などの意味で使われる場合が多い。 しかし、歴史上において「目録」の用例を細かく分類した場合、 *物の所在を明確にする目的で品名や内容、数量を記した文書。 *物の授受にあたって作成された証文・明細に相当する文書。 *有形・無形の進物などを贈る際に実物の代わりに品目などのみを記した文書。 *行政行為の目的及び結果を記録した公文書。 *大量の文書・史料・蔵書などの索引機能を持たせた文書([[図書目録]])。 などに分けることが可能である。 大量の情報を分かりやすい形で一覧可能となるように[[箇条書き]]などの方法が取り入れられている。 また[[歴史学]]の世界では、文書目録は当時の政治経済などの情報伝達のあり方を、図書目録は当時の学術水準や書籍流通の状況を知る上において貴重な史料となりえる。 == 歴史 == 中国では、早くより[[目録学]]の考え方が発達しており、日本にも[[奈良時代]]以前の段階に伝来したと考えられている。 古代から寺院や行政機関では、財産管理や業務上の必要から多くの目録が作成されていた。[[公式令 (律令法)|公式令]]には[[官司]]は15日ごとに作成・伝達された公文書及び草案をまとめて保管するとともにその所蔵目録作成が義務付けられていた。 [[File:日本国見在書目録.jpg|thumb|[[日本国見在書目録]]]] 例えば、寺院では寺院の住持の交替の際に仏具・法具などの什器や文書などの一覧を記した[[資財帳]]や土地を記した水陸田目録が作成された。官司でも国司の交替の際に正税などの在庫を確認する交替実録帳や班田実施時に作成する班田帳簿目録などが作られた。[[平安時代]]に入ると、個人による目録が作成された。まず、[[唐]]に留学していた「入唐八僧」(「入唐八家」とも、[[最澄]]、[[空海]]、[[恵運]]、[[円行]]、[[常暁]]、[[宗叡]]、[[円仁]]、[[円珍]])と呼ばれる僧侶達が帰国した際に持ち帰った書物などを記録した将来目録(請来目録)が作成された。貴族達においては2つの特徴的な目録が作成される。まず、現代の図書目録の祖にあたる「書目」が作成された。[[藤原佐世]]が勅命を奉じて作成した『[[日本国見在書目録]]』や藤原通憲([[信西]])が個人蔵書を記した『通憲入道蔵書目録』、[[滋野井実冬]]説などがある『本朝書籍目録』などが知られている。また、時代が下ると既存の目録の刊行も行われ、初期のものとしては[[安達泰盛]]が[[金剛峯寺|高野山]]にある空海の請来目録を刊行したことが知られ、江戸時代には出版業の隆盛とともに多数の書籍が刊行されたことから、それらを対象とした目録も刊行されるようになった<ref>福井保「書目」(『国史大辞典 7』(吉川弘文館、1986年) ISBN 978-4-642-00507-4) </ref>。もう1つは[[日記]]や文書を内容ごとに目録を作成して後日に先例を調べる際の参考とするもので、[[藤原実資]]の『[[小右記]]』には『[[小記目録]]』という目録が存在している。勿論、財産関係の目録も作成され、所領や財産の生前または死後に譲渡するために作成された[[譲状]]・[[処分状]]も目録の形式となっている。特に財産関係の目録は所領などの相論が発生した場合には、文書の存在の有無が判断の最大の決め手になったことから、こうした目録や[[公験]]、絵図その他の文書をまとめて保管し、かつ文書目録(具書目録・重書目録)を作成して万が一に備えた。[[12世紀]]に[[東大寺]][[寛信]]が文書目録を作成した際の記録が今日も残されている。 中世に入ると[[荘園領主]]や公家・武士・僧侶達によって多くの目録が作られるようになる。[[荘園 (日本)|荘園]]や[[所領]]に関する荘園目録、所領目録、[[検注]]の結果を示す検注目録、耕作面積と人員を示す作田目録、[[年貢]]の進納状況を示す結解目録などがあった。江戸時代に[[江戸幕府]]や[[諸藩]]によって作成された[[勘定帳]]や[[年貢皆済目録]]もこの流れを汲んだものである。更に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[今川氏]]が作成した[[分国法]]も「[[今川仮名目録]]」と呼ぶ。これは個々の行政文書の形式で出されていた法令を1つの法典の形式に集積・分類した目録の形式によって公布されたものと考えられたことによる。 さて、寄進の際に出される目録は相手が上位の身分者(寺社に鎮座する神仏を含む)であったため、相応の儀礼を伴うものとなり、後世の礼法においては転じて相手に進物・贈物をする際の目録の[[書札礼]]へと発展していった。寄進のための目録は鳥子紙の折紙を用いて端と中奥を折って三等分とし、更に同じ紙をもう一枚礼紙として添えて厚く包む厚礼を用いている。進物目録や結納目録になると半折の折紙となり、出す対象によって用いる紙が異なっていた。更に古い書札礼では「目録」と書かないことされていたが、[[明治]]以後は書かれる事が多くなった。今日では卒業式や[[結婚]]など、記念に物を贈る場合も、何を贈ったかを一覧に記し、式典等ではその目録を手渡すこととされ、進物として実際に金円を送る場合にも婉曲的言換えとして「目録」の語が用いられる。 更に[[古武道|武術]]・[[伝統芸能|芸能]]など目には見えない技術を伝授する際にもその内容をまとめた文書を目録と呼んだ。これがそのまま奥義伝授を証明する免許目録(通常[[切紙]]以上[[免許]]以下に置かれる場合が多い)としても用いられるようになった。 蔵書目録も中世・近世を通じて作成され続けた。明治になると、[[図書館]]が設置されるようになり、図書館に置いてある資料のリストである[[図書目録]]を作成するための[[図書館学]]の技術として[[資料組織論]]や[[図書分類法]]などが導入されるようになった。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == {{参照方法|date=2023年9月}} {{Wiktionary}} *大野瑞男/[[千々和到]]「目録」(『日本史大事典 6』(平凡社、1994年) ISBN 978-4-582-13106-2) *大内田貞郎「目録」(『国史大辞典 13』(吉川弘文館、1992年) ISBN 978-4-642-00513-5) *[[加藤友康]]「目録」(『歴史学事典 14 <SMALL>ものとわざ</SMALL>』(弘文堂、2006年) ISBN 978-4-335-21044-0) {{DEFAULTSORT:もくろく}} [[Category:図書館情報学]] [[Category:書誌学]] [[Category:生活]] [[Category:資料学]] [[Category:日本の律令制]] [[Category:古文書]] [[Category:日本の制度史]] [[Category:文献目録|*]] [[Category:文化・芸能の称号]] [[Category:武道・武術の称号]]
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アフリカ
アフリカ(ラテン語: Āfrica、英語: Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、大州の一つ。漢字表記は阿弗利加であり阿州(阿洲、あしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は「阿」を用いる。 地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。 赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある。面積は3037万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を、人口は約12億人、世界人口比では14.72%を占める。2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国がある(西サハラを含めると55カ国)。経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%である。 アフリカはアフリカ単一起源説からヒトの起源とされ、エチオピアからは20万年前のホモ・サピエンスの化石が発見され、世界遺産の南アフリカの人類化石遺跡群は人類の発祥の地と呼ばれている。アフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際にはヨーロッパより古い歴史と文明があった。 アフリカの地理的区分ではサハラ砂漠が大きな境界となり、サハラ砂漠より南を「サブサハラアフリカ」と呼ぶ場合もある。また、北アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アフリカに分ける区分もある。 当初は、サハラ砂漠以北の地域をさす言葉であった。正確な語源ははっきりとはわからないが、有力説としては、現在のチュニジアに当たるカルタゴ近郊の北部アフリカに居住していたセム系部族を指す「Afri」(アフリ)と推測される。この言葉はフェニキア語の「afar」(「dust」の意)に結びつけられがちだが、1981年にはベルベル語の「洞窟に住む人々」を指す「ifri」が転じたものという仮説が提示された。これら「afar」「ifri」「Afri」は現在のアルジェリアおよびリビアに住むベルベル人のことである。ほかに、カルタゴ人が使っていたファラカ(faraqa:植民地の意)の変形または転訛という説や先住民の一部族アフェル(Afer、複数形Ifei)に由来するという説もある。他にも様々な仮説が提唱されており、歴史家レオ・アフリカヌス(1488年 - 1554年)は、ギリシア語の「phrike (φρίκη)」(「寒い」または「怖い」の意)に否定を意味する接頭辞 a-(α-)が上接し、寒さや恐れが無いところを意味する「aphrike (Αφρική)」となったと主張した。またジェラルド・マッセイ(英語版)は1881年に、エジプト語の「af-rui-ka」が語源だとの仮説を発表した。それによると、「af-rui-ka」は「カーの始まりに回帰する」を意味する。この「カー」は「すべての人々」と、カーの始まりという用法で「子宮・生誕地」両方の語源である。エジプト人にとってアフリカとはまさに「誕生したところ」を意味する。 起源が上述のいずれの説であるにしろ、ローマ時代、カルタゴがアフリカ属州になると、ラテン語で「アフリカ人の土地」を表す「Africa terra」(「-ca」は形容詞化接尾辞女性形)から「Africa」という語形が生じた。これが現在の『アフリカ』という言葉の直接の始まりである。その後、サハラ砂漠以南についての人類の知見が広がるに従い、サハラ砂漠の南北を含めて一つの大陸の名となった。 アイルランド語の女性名 Aifric は Africa と英語化されるが、地名とは関係が無い。 中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した。その状況下で、獣脚類や竜脚形亜目また原始的な鳥盤類が、三畳紀終わり頃まで繁殖していた。これらの化石はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる。三畳紀とジュラ紀を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない。 初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なって分布し、南部で多く露頭する。しかし化石層は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく。ジュラ紀には、アフリカでは竜脚下目や鳥脚目などの恐竜が広い範囲で隆盛を極めた。中期の研究はあまり進んでいない。後期も発掘は遅れているが、数少ない例外に当るタンザニアのテンダグル層(英語版)では、北アメリカ西部で見つかったモリソン層(英語版)の古生物学的様相(英語版)と非常に近似したところが見られた。 1億6千年前-1億5千年前の中生代の中頃、ゴンドワナ大陸には後のインド亜大陸とマダガスカルが繋がっていた。そのため、マダガスカルからはアベリサウルス(英語版)やティタノサウルス上科(英語版)の化石が発見される。 その後、白亜紀初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後期にはこの2つの陸塊も分離して現在に至る。中生代、マダガスカルとアフリカ大陸の相対的な位置には変化が無かった。その一方でパンゲア大陸そのものの変化は進行し、白亜紀後期の初め頃には南アメリカがアフリカから分離し、南大西洋が形成された。この出来事は海流の変動を呼び、地球規模の気候形成に影響を与えた。 この白亜紀には、アロサウルス類(英語版)や最大の肉食恐竜として知られているものを含むスピノサウルス類(英語版)などが繁栄していた。ティタノサウルス属(英語版)は当時の生態系の重要な草食動物であった。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少なく、今後の調査が待たれる。 ほとんどの古人類学者は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている。アフリカは大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。「イーストサイドストーリー」では、豊かなコンゴ盆地の森林から一部のサルが乾燥したサバンナへ分かれ、進化が始まったという。 南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる。20世紀中頃には、人類学者たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、放射年代測定から紀元前390-300万年頃に生きたと考えられるアウストラロピテクス・アファレンシスや紀元前230-140万年頃のパラントロプス・ボイセイ(英語版)、紀元前190-60万年頃のホモ・エルガステルが人類へ進化したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、国家を持たず、現代のコイコイ人やサン人のように狩猟採集社会の集団をつくって生活していた。 アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また牛の牧畜なども行っていた。 しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり、砂漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西や南、ナイル川流域などに移住して行った。 アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカがコプト正教会のエチオピアとイスラム教のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。 最古の史料が残っているのはファラオによる支配が始まったナイル川流域の古代エジプト王国であり、紀元前3300年頃の文字記録が発見されている。これは世界最古の文明の一つで、ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源になったとされる。紀元前2900年頃、メネス王が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれたピラミッドでも世界的に知られている。紀元前1000年頃には製鉄技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄器が使われるようになった。 一方、チュニジアでも紀元前800年頃にフェニキアの植民都市としてカルタゴが築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは共和政ローマに滅ぼされ、ローマ支配下のアフリカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、ゲルマン民族の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設したが、地中海世界の再統一に燃える東ローマ帝国によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くは続かず、636年、パレスチナのヤルムク河畔で日の昇る勢いのイスラム帝国(正統カリフ)に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカはウマイヤ朝時代にイスラム勢力の支配下に入った。アッバース朝時代に勢力争いで、ハールーン=アッラシードに敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、フェズにイドリース朝を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアのアグラブ朝、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を世襲して事実上エジプト独自のイスラム王朝となったトゥルーン朝、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、イフシード朝の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。 西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶と製鉄技術をもったノク文化がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のやイボ文化(英語版)やイボ=ウクゥ遺跡(英語版)(イボ=ウクゥ(英語版))、10-13世紀のヨルバ文化(英語版)(イフェ)、14-18世紀のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトやヌビア、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで発掘されている。これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す。この交易を背景に繁栄したのがセネガル川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれるガーナ王国であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、マリ帝国がニジェール川上流のニアニを首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図に含んで13-15世紀前半まで繁栄、ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統一する広大な版図を誇った。 一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフリカ西部、マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉-12世紀中葉にムラービト朝、12世紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキヤと呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興ると、926年には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、カリフを称した。西カリフ国と呼ばれたイベリア半島の後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、そのもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年にハフス朝がオスマン帝国によって併合される。 モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区分される。 東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト正教会を国教としたアクスム王国が、ギリシャ、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃にザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。沿岸部では、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、モガディシオ、キルワ、マリンディなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、モザンビーク南部の港町ソファラからジンバブエのザンベジ川流域、リンポポ川流域にまで及び14-15世紀にショナ人によるモノモタパ王国が金や象牙の輸出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目されるグレート・ジンバブエ遺跡からは、中国(宋、元、明代)の青花などの陶磁器、インドの綿製品、インドネシアの数珠玉、ペルシャの壺などの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰退すると、ロズウィ王国(英語版)(1660年 - 1866年)が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。 長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴隷貿易は継続して行われ、1800万人がサハラ交易やインド洋貿易で取引された。大航海時代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ州向けの奴隷貿易(英語版)が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された。 1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部でのイギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊(英語版)は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した。 また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラゴスの略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された。この動きに、国力があったアシャンティ王国、ダホメ王国、オヨ王国(英語版)は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油やカカオ、ランバー材(英語版)や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した。 19世紀後半には、アメリカ解放奴隷が建国したリベリアと第一次エチオピア戦争で独立を維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が行われ、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の民族紛争の原因ともなった。緯線や経線を基準に引かれていることが多い。 ヨーロッパ列強の帝国主義は第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の独立への機運が高まった。1951年にはリビアがイタリアから、1956年にはチュニジアとモロッコがフランスから独立を果たした。翌年にはガーナが続き、サブサハラ初の脱植民地を成した。 1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生したが、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消してアフリカ連合が成立した。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している。 北は地中海、西は大西洋、東はインド洋および紅海に面する。南端のアガラス岬で大西洋とインド洋が接する。南北約8,000km、東西約7,400km。海岸線は総延長26,000kmである。かつてはスエズ地峡によりユーラシア大陸とつながっていたが、現在ではスエズ運河が開通して分断され、この運河がアフリカとアジアの境界と受け取られる場合もある。 大陸北側に世界最大の砂漠であるサハラ砂漠をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。また大陸東部にはパンゲア大陸がゴンドワナ・ローラシア大陸に分裂したときの名残である2,000kmの隆起地帯(ドーミング)と、それを東西に切り裂く世界最大長のアフリカ大地溝帯(東アフリカ地溝帯)が南北に走る。この南端にはアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山(5,895m)があり、これは他の五大陸最高峰が非火山であるのに対し唯一火山活動で形成されたものである。大地溝帯には複数の火山や東アフリカ大湖沼群があり、西側で接するエチオピア高原などの高地部分にもニアムラギラ山(英語版)やニーラゴンゴ山などの活火山やヴィクトリア湖などの古代湖が残る。しかしアフリカ大陸全体で、標高500m以上の領域は半分程度に過ぎない。理由はこれも大陸移動が関係しており、アフリカはパンゲア大陸の中心部として移動した距離が短く、山脈が形成されにくかったことが挙げられる。マダガスカルを始めとした6つの島国が存在する。 アフリカ大陸全般の経済成長で自然保護区が設置されるものの、依然として色濃く豊かな自然、人類学術的な側面から、生物の多様性とヒトを含めたその起源の候補地とされている。 気候は多様である。ほぼ赤道直下に位置する大陸中央部は西部のギニア湾沿岸から大陸中部のコンゴ盆地にかかる熱帯雨林で高温多湿な地域が広がり、これを挟んでセレンゲティ高原などのサバンナ地域が広がる。さらに高緯度に向かうと砂漠気候域に入り、北にはサハラ砂漠、南にはカラハリ砂漠が広がる。大陸北端と南端は地中海性気候域となる。 アフリカの多くの国々は情勢が非常に不安定であり、ヨーロッパなどに比べると遙かに治安が悪い地区が多い。政治的に安定している国はごくわずかである。イギリスの雑誌『エコノミスト』は、2008年にアフリカ各国の政治情勢を民主主義達成度から分析し公表した。これによると、対象50カ国(ソマリア、セーシェル、サントメ・プリンシペ及び西サハラ、ソマリランドは含まれない)のうち、完全な民主主義を実現している国はモーリシャスただ1国で、6カ国は欠陥のある民主主義、9カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な独裁体制と分析されている。 このような体制が出来上がった背景には、植民地支配の影響がある。現在のアフリカ各国の国境線は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。これはヨーロッパ列強間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。そのため独立後にも国民はまとまりを欠き、強権的な政府体制としてアフリカ型社会主義もしくは開発独裁体制が選択された。しかし前者は構造的に経済発展には向かず、後者は汚職や主導権争いが絶えなかった。さらには非アフリカ人を排除したために人材不足にも陥り、結果的に、かつては「AA」もしくは南北問題と呼ばれて同じように発展途上に苦しんだアジア各国が急速な経済発展を実現しつつあるのに対し、アフリカは「例外的に成長しない」経済体制と評され、取り残されたまま現在に至る。 そのために内戦や紛争も多く、代表的なものでは1991年からのソマリア内戦、1997年からのコンゴ内戦、2003年からのダルフール紛争などが尾を引いている。国民の大多数がイスラム教徒であり、比較的に安定した政治を行っていた北アフリカも、2010年に発生した各国の動乱以来、政権が大きく揺らいでいる。 終わりが見えない内戦や紛争、および貧困から、アフリカでは多くの難民が発生している。国際連合難民高等弁務官事務所推計による2009年末のアフリカ難民は約230万人、さらに国内の避難民は約650万人にのぼる。また、農村疲弊による人口の都市部集中に伴ったスラム化も進展し、モザンビークやタンザニアなどでは人口の90%に相当するまで膨れ上がり、治安悪化などの問題が生じている。 IMFによると、2009年のアフリカ52ヶ国の合計のGDPは1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。アフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、鳥取県(平成18-19年度)とほぼ同じ経済規模である。アフリカ最大の経済大国は南アフリカである。アフリカ唯一のG20参加国であり、2010年には史上初めてアフリカ大陸でサッカーのワールドカップを開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、北部アフリカにおいて影響力の強い国の一つになっている。 豊富な天然資源を持ちながら、アフリカは世界で最も貧しい発展途上の状態にある。これは、エイズやマラリアなど深刻な感染症の蔓延、高い腐敗認識指数で指摘される政治によって引き起こされる人権の抑圧や経済政策の失策、また国民の低水準なリテラシーや不得手な外交、さらにゲリラから大量殺戮まで含まれる部族間や軍隊による戦闘など、さまざまな要因の結果である。国際連合の2003年度人間開発報告書によると、開発の度合いを示す尺度において調査対象の最低ランク25か国(151位から175位まで)を全てアフリカの国々が占めた。 貧困、文盲、栄養失調、不充分な給水体制や衛生管理、病気の蔓延などの悪影響をアフリカに住む多くの人々が受けている。2008年、世界銀行は国際的な貧困率の定義を1日当たり所得1USドル未満から1.25USドル未満に引き上げた。サブサハラ諸国では、人口の80.5%が1日当たり2.5USドル未満(PPP)で暮らしている。 この統計は、サブサハラが1日1.25USドルという貧困の基準を脱することが世界中で非常に難しい地域であることを示す。1981年のデータではこの地域に住む50%(2億人に相当)の人々が貧困層に相当していたが、1996年には58%まで上昇し、2005年には率は50%となったが人口の絶対数は3.8億人に増加している。貧困層平均所得は1日0.7USドルに過ぎず、2003年の数値は1973年よりも悪化している。 この原因を、外国企業と外国政府主導による経済自由化政策の失敗に求めることもあるが、このような外的要因よりも国内政治の失策が大きいという指摘もある。 1995年から10年間にアフリカは経済成長を続け、2005年の平均成長率は5%に達した。さらに、埋蔵石油を持ち輸出に振り分けるため掘削に着手したアンゴラ・スーダン・赤道ギニアなど数カ国はさらなる成長が見込まれる。さらにアフリカには世界中のコバルト90%、白金90%と金の50%、クロム98%、タンタライト(英語版)70%、マンガン64%、ウラン33%が存在すると考えられている。コンゴ民主共和国には、携帯電話の製造に欠かせないコルタンが世界の70%に相当する量に上り、ダイヤモンドも世界の30%以上が同国に存在する。ギニアは世界最大のボーキサイト供給国である。このようにアフリカの経済成長はほとんどが資源提供を背景としたもので、工業や農業の発展ではなく、雇用創出や貧困からの脱却に寄与していない。実際に、2008年にリーマンショックを原因として起こった食糧危機では、1億人が飢餓状態に陥った。 特に中華人民共和国はかねてからアフリカ諸国へのスタジアム外交(英語版)や大統領府などの箱物やタンザン鉄道の建設に象徴される強い結びつきを構築してアフリカ連合本部も建設しており、2009年に中国はアフリカ最大の貿易相手国になった。 鉱業を除けばアフリカの主要産業は農業であり、他国と産業構造が著しく異なる南アフリカを除くとその就業人口比は66.1%、輸出比は15.4%(2000年)である。しかしこれらはカカオなど特定地域の特定産物を除けば農業生産性が高いアメリカ合衆国等農業先進国との競争には弱く、大半の農産物はアフリカ内部で消費される。しかしながら、1961年から2000年にかけて人口が3倍になったのに対し、穀物は1.35倍程度しか伸長していない。土地の生産性もアジアや南アメリカが大きく伸ばしているのに対し4割以下まで落ち込んでいる。このような状況に陥った要因は、アフリカでは人口増加に対応する農業生産を高める手段をもっぱら耕地面積の拡大に依存した点がある。しかしこれは痩せた土地の利用や少ない水資源の制約等がからみ、充分な効果をあげることができなかったことを物語る。2010年にハーバード大学は、政治さえ安定していればアフリカは食糧自給が可能との研究結果を発表した。低い農業生産性は、従事者の貧困を招く原因のひとつであり、農業改革を行う技術や人材の育成が望まれる。 アフリカの農地は、その65%が土壌浸食の被害を受けている。また、国際連合環境計画 (UNEP) によると、アフリカの森林破壊は世界平均の2倍の速度で進行している。報告の中には、西アフリカの約9割が既に破壊されたというものもある。これはマダガスカルでも同様で、人類が進出してからの2000年で90%以上の原生林が失われた。干ばつや灌漑などによる環境への影響もあり、チャド湖は40年前と比較して面積が1/10まで減少した。 現在、アフリカの人口は爆発的に増え、特にこの40年は顕著である。国によっては人口の半数以上が25歳以下という所もある。総人口は、1950年に2億2100万人だったが、2009年には10億人まで膨れ上がった。世界の人口は増え続ける傾向にあるが、アフリカ地域の増加分がかなりの量を占めている。この人口増加は経済成長を伴っていないため、環境破壊や貧困層の増大などさまざまな問題をもたらしている。大陸全体がリカードの罠に陥っているとの指摘もある。 北アフリカは、イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。 中南アフリカでは、従来からの先住民族が暮らす。 アフリカは言語の種類が多い。系統分類では4語族に大別されるが、部族毎に異なる特徴を持つために多くの言語数に分岐し、世界の言語数のうち30%程度を占めるとも言われる。また、同じ人々が使う言語にも、部族語と地域共通語、さらに公用語と状況に応じて使い分けられる垂直型の多層言語が存在し、総言語数を多くしている。 ほとんどの国では植民地支配の影響をそのまま受け、欧米の言語を公用語としており、政府機関の作業言語や教授言語となっている。一方、エリート層と旧宗主国・欧米先進国との密接な関係から、国家ぐるみでもアフリカ固有の言語の普及や促進には力が入れられていないため、エリート層と庶民の間の教育格差という問題の発生につながっている。特にサブサハラ諸国においては、一部の国でアフリカ固有の言語も公用語に加えられているものの、実際にはタンザニア(スワヒリ語)やエチオピア(アムハラ語)、ソマリア(ソマリ語)の例外を除き、ほとんどが形骸化している。 アフリカには1500以上の民族集団があり、それぞれが固有の信仰と儀礼体系を持っている。さらに、イスラム教スンナ派、キリスト教のローマ・カトリック、プロテスタントの各派が分布している。また、これらの世界宗教と土着宗教が混淆し、シンクレティズムによって独自に発展した宗派もある。 伝統的な土着宗教は、祖霊信仰や自然崇拝に加え、サブサハラでは創造神の概念も存在する。また、呪術信仰も根強く、これを担うシャーマニズムも健在である。 多くのアフリカの土着宗教には、予測不能な不幸が発生したとき、不幸の原因を想像力で理解するための適切な解釈を与え、その不幸に対処するための複数の観念や制度を内包したものであること、農耕儀礼や人生の通過儀礼など幸福を希求する儀礼的実践であることが、共通する特徴として見られる。 世界宗教のアフリカ伝播は、ローマ帝国の領土拡大に伴うローマ・カトリックが最初に当たり、これは4-5世紀に北アフリカで最盛期を迎える。しかしこれは同帝国の衰退とアラブ人の進出によって衰退した。19世紀のアフリカ分割に伴うヨーロッパ列強の植民地化によって再びローマ・カトリックは広まったが、この地域は中央アフリカに場所を変えていた。イスラム教スンナ派は北アフリカを中心に人口の30-40%を占める。その伝播経路は、ナイル川に沿ったアラブ人の進出、サハラ交易による伝播、海上貿易による東海岸沿岸への伝播の3つがある。プロテスタントもまたアフリカ分割とともに広まったが、その地域は南部が主流となった。南アフリカにはいち早くアフリカ人によって教会が建設された。その特色は聖書中心主義があり、またペンテコステ派と土着宗教が融合した精霊教会という形態も存在する。 アフリカの教育は世界の中でも未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で就学率が低い。学校は基礎設備に欠き、アフリカの大学は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて西側諸国に移住する為の不足が問題となっている。ユネスコ2000年の調査「Regional overview on sub-Saharan Africa」では、児童就学率は58%に止まった。 アフリカでは出生登録が充分に行われず、親が子供に教育を受けさせようとする意識が低い。これらに貧困が加わり、教育現場からの脱落のみならず、児童労働や人身売買、育児放棄や犯罪、子供が戦場へ狩り出されるなど様々な問題が生じている。 ステレンボッシュ大学は、南アフリカのラグビーの「メッカ」と評され、「アフリカ民族主義のルーツ」を明らかにすることで、英語圏の大学に対抗していた。 アフリカは栄養・医療・衛生面でさまざまな問題を抱えている。2008年度世界の栄養不足率が高い10位(同率があり12カ国)はハイチを除いてアフリカ諸国に占められ、1位のコンゴ民主共和国は76%の国民が相当する。このような環境は乳幼児にも悪影響を及ぼし、サブサハラ全体で5歳未満の死亡率は15-20%で推移している。これも、下痢やはしかなど医療環境が整っていれば助かるものだが、世界保健機関 (WHO)が定める最低医療体制である人口10万人あたりの医師20人・看護師100人・その他医療従事者228人という基準を満たすサブサハラの国は南アフリカのみである(2007年度)。 また、後天性免疫不全症候群(エイズ)の蔓延も大きな問題となっており、国家予算の半分近くがエイズ対策に費やされる国家すら出現している。特にサブサハラではひどく、15歳以上の感染率はスワジランドでは26.1%、ボツワナでは23.9%にのぼる(2008年)。感染者数最大は医療体制が比較的充実している南アフリカの570万人である。世界中のエイズ感染者のうち2/3がサブサハラに集中している。この蔓延には女性の社会的地位が低いことも一因であり、レイプの多発や一夫多妻制などが影響していると考えられ、実際に感染率は女性の方が軒並み高い。これらの要因から中南部諸国における平均寿命は著しく低下し、10カ国以上で50歳を下回っている。 アフリカの治安は現今、どのエリアにおいても確実に安定しているとは言い難い。その理由の一つとして挙げられるのは紛争による経済の発展の停滞である。アフリカでは近年、紛争が特定地域に集中する傾向があり、北アフリカではリビア、西アフリカではマリからナイジェリア北部地域、中部アフリカでは中央アフリカ共和国とコンゴ民主共和国東部地域、東アフリカでは南スーダンとソマリア南部地域がその一例に挙げられる。 原因となるものは主にイスラーム急進主義と国家そのものを巡る問題の二つが挙げられる。 一つ目の問題であるイスラーム急進主義は宗教に関係する面を持っているが、一般的な宗教問題と違い、内容がテロリズムに絡んだものが殆どであることから宗教とは別次元の問題とされている。 イスラーム急進主義を掲げる組織が活動を広げる理由は地域によって異なるが、共通するものには地理的に近い中東の影響が深い点がある。アラブ人が住民の圧倒的多数を占める北アフリカは勿論のこと、サハラ砂漠南縁部もほとんどの住民がムスリムである事から中東で活発化したイスラーム急進主義の余波が、武器や資金の供与などを通じて、広がりやすい社会環境を作り上げている。 上述した国々の中で、リビアは今日イスラーム急進主義組織の一つであるIS(イスラム国)の主要拠点の一つになっており、マリ、ナイジェリア、ソマリアなど、サハラ砂漠周辺地域でも、しばしばアルカーイダやISとの関係を強調しイスラーム急進主義を掲げる組織が紛争の原因となっている。 もう一つの問題は国家が国民からの信頼を失っている点にある。多くの場合、開発の失敗や汚職をはじめ人種差別や言語の違いによる対立などにより政府が人々の信頼を失った状況に立たされている。一例として南部アフリカの南アフリカ共和国と中部アフリカのカメルーンが挙げられる。 南アフリカ共和国ではアパルトヘイト廃止後に起きた失業問題に端を発する形で治安が急速に悪化してしまっており、同国の都市では、殺人や強盗(強盗殺人を含む)、強姦、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。また、カメルーンでは公用語に対する意識の違いから、国内地域が仏語話者と英語話者の2グループによって仕切られていて、英語圏地域が分離賛成派を中心に独立を掲げて同国政府へ反発する形で対立している。さらに言語による独立運動には過激な活動が相次ぎ、武装蜂起する流れも常態化している。 そして、その渦中の国家に数え上げるイスラム圏該当エリアの国では、そこに急進主義勢力が「正しいイスラーム」を掲げて武装活動を活発化させているのである。イスラーム急進主義には一種の「世直し運動」という性格があり、自爆テロなどの過激かつ凄惨な内容の手段を取ることが「命を懸けた主張」として捉えられている面を持つ。これらが現地政府への不信感と相俟って、大義名分に等しい扱いを受ける形で支持を受ける状態となっている。そういった考えや価値観が先に挙げた地域における社会で一定の共感を得たり共有されている為、問題の解決を非常に困難としてしまっている。 これらの国家や地域ではそうした事情から深刻な経済停滞が続いており、先述の国々は現状では解消される様子が見受けられず、現地住民の大半は常に逼迫した社会環境の中で危険と隣り合わせな生活を余儀なくされている。 しかし、それ以外の地域では大きな紛争はあまり発生しておらず、治安などが比較的安定した面が窺える。東アフリカのルワンダでは、1994年に少数派民族(トゥチ)を標的とした大量虐殺が起こり、少なくとも50万人が殺害されたとされている。同国は現在、政治的に安定しており、大きな事件が起こる確率も当時に比べて格段に低くなっている。 アフリカでは人権侵害をはじめとして、先の欄で挙げた干魃や飢餓、内戦や民族紛争などの危機的状況により自国を脱出する人々が後を絶たない。中には難民として他国へ亡命を図る人が大勢存在する。これに絡み、亡命先の国では幾多もの騒動や排他的な姿勢をとる人物の出現によって引き起こされる事件が問題化している面を持つ。 エジプトからモロッコまでの北アフリカ諸国は、アラブ文化(英語版)と関わりを持つ人々がいる。 アフリカの食文化は、狩猟民族的特長が強い。すなわち、肉やイモ類などをそれぞれ単一で料理し、複数の食材を混ぜて調理することは少ない。また、米を除く穀類のほとんどを挽いて粉食する点も特徴である。この代表が、イネ科穀物の粉を用いる西アフリカの「トー」や東アフリカの「ウガリ」が代表的である。 酒では西部から中央部で作られるヤシ酒、熱帯地方のバナナ酒などの特色がある。トウモロコシ類からビール、もろみやバナナ酒から蒸留酒も造られる。ワイン醸造も行われ、現代では南アフリカが盛んな地域に当る。 特にサブサハラのアフリカ音楽は儀礼と結びつきが強く、ダンスに伴って演奏される。体鳴楽器や膜鳴楽器は独自のものが多様に存在し、前者ではラメラフォーンやコラ、後者では様々なドラムが知られる。中には伝達手段に用いられるトーキングドラムなどもある。 また、リンガラ音楽こと旧ザイール(現コンゴ民主共和国)のスークースや、フェラ・クティやマヌ・ディバンゴらによるファンキーなアフロビート、ガーナのハイライフ、アルジェリアのライ、アンゴラのクドゥーロ、タンザニアのボンゴフレーバー、モザンビークのマラベンタなどのアフリカのポピュラー音楽もよく知られている。 アフリカ美術のうち、古代文明を築いたエジプトは独自の美術体系を発達させた。神聖文字と組み合わせた形式の連続性は、やはり独自の形式であるピラミッドや寺院および墳墓などのエジプト建築と組み合わされ、壁画や彫刻類、そしてツタンカーメンに代表される棺などで複雑かつ華麗な体系を持った。この芸術の系統は、紀元前30年にローマによる征服を受けて途絶えた。 サブサハラの芸術は民俗学と美術史の両面から論じられるが、その分析は未だ途上にある。大きな特徴は多様な造形分野であるが、これは美術品として単独で成り立つものではなく、生活および宗教と深く関連している。木材を好んで用い、仮面など身体装飾や彫刻など、また宗教や祭祀用道具および日用品なども彩色されたものなど種類も多い。その一方で建築分野ではあまり見るべきものがない アフリカの建築は非常に多様で、現地の民族ごとにその差異が現れているほか、人類の文化史や歴史の道のりにおいて重要な位置付けが成されている面を持つ。また、芸術的に付加価値の高いものが揃っていることも特徴の一つとなっている。 建材には棒などの木材をはじめ、茅葺や泥、煉瓦、石など、自然由来の様々な素材が使用されており、版築を中心とした技法での家づくりなどが主体となっている。だが、同エリアの建築文化の基礎としては簡素でありながらも確立されたものとなっていて、アフリカの風景と調和したものも多い。 一部地域の建築は何世紀にも亘ってアフリカ大陸外部の文化の影響を受けており、特に西洋の建築文化は15世紀後半からアフリカ沿岸地域へ多大な影響を与えていて、現在においても主要都市では西洋建築が多くの巨大建造物の重要なインスピレーションの源ともなっている。 アフリカ諸国の国々では、ほぼ全般的にサッカーが盛んである。一部の国々ではバスケットボールや格闘技なども人気がある。アフリカ人を象徴するスポーツ選手としては、サミュエル・エトーやディディエ・ドログバを筆頭に、近年ではモハメド・サラーやサディオ・マネが存在する。 アフリカサッカー連盟(CAF)が主催する『アフリカネイションズカップ』は、1957年より開始されており、最多優勝はエジプト代表の7回である。また、CAFは『アフリカ年間最優秀選手賞』も主催しており、最多受賞はサミュエル・エトーとヤヤ・トゥーレの4回となっている。 括弧内は首都、その後ろの言語名は公用語を示す。 肌が黒い人類、いわゆるネグロイドの存在が他の文明に初めて記録されたのは、7世紀に北部アフリカを支配下に置いたアラブ人が、ナイル川を遡ってサハラ砂漠以南に到達したことに始まる。以後、アフリカの地名にはこの肌の色を語源として名づけられた所もあり、現在の国名に受け継がれているものもある。スーダンは、かつてのイギリス領やフランス領を含めるとアフリカ大陸の1/3を占める広大な土地を意味したが、これはアラビア語が意味する「黒い人」が語源である。 このフランス領スーダンから独立したモーリタニアはムーア人の国という意味だが、このムーアも古代ギリシア語のmauros(肌が黒い人々)を語源とする。ギニアも現在の領土よりも広い地域を指す言葉だったが、これもベルベル人の言葉で「黒い人の土地」を意味した。エチオピアもギリシア語の「aitos(日焼けした)」+「ops(顔)」+「ia(地名接尾語)」の合成語であり、やはり古代ギリシア人にとってサハラ砂漠より南の土地を包括的に示す言葉だった。ソマリアはアムハラ語で「ゾムマ(家畜を持つ人)」という説の他に、ヌビア地方の言葉で「黒い人の国」という意味だという説もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アフリカ(ラテン語: Āfrica、英語: Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、大州の一つ。漢字表記は阿弗利加であり阿州(阿洲、あしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は「阿」を用いる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。 赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある。面積は3037万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を、人口は約12億人、世界人口比では14.72%を占める。2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国がある(西サハラを含めると55カ国)。経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アフリカはアフリカ単一起源説からヒトの起源とされ、エチオピアからは20万年前のホモ・サピエンスの化石が発見され、世界遺産の南アフリカの人類化石遺跡群は人類の発祥の地と呼ばれている。アフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際にはヨーロッパより古い歴史と文明があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アフリカの地理的区分ではサハラ砂漠が大きな境界となり、サハラ砂漠より南を「サブサハラアフリカ」と呼ぶ場合もある。また、北アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アフリカに分ける区分もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "当初は、サハラ砂漠以北の地域をさす言葉であった。正確な語源ははっきりとはわからないが、有力説としては、現在のチュニジアに当たるカルタゴ近郊の北部アフリカに居住していたセム系部族を指す「Afri」(アフリ)と推測される。この言葉はフェニキア語の「afar」(「dust」の意)に結びつけられがちだが、1981年にはベルベル語の「洞窟に住む人々」を指す「ifri」が転じたものという仮説が提示された。これら「afar」「ifri」「Afri」は現在のアルジェリアおよびリビアに住むベルベル人のことである。ほかに、カルタゴ人が使っていたファラカ(faraqa:植民地の意)の変形または転訛という説や先住民の一部族アフェル(Afer、複数形Ifei)に由来するという説もある。他にも様々な仮説が提唱されており、歴史家レオ・アフリカヌス(1488年 - 1554年)は、ギリシア語の「phrike (φρίκη)」(「寒い」または「怖い」の意)に否定を意味する接頭辞 a-(α-)が上接し、寒さや恐れが無いところを意味する「aphrike (Αφρική)」となったと主張した。またジェラルド・マッセイ(英語版)は1881年に、エジプト語の「af-rui-ka」が語源だとの仮説を発表した。それによると、「af-rui-ka」は「カーの始まりに回帰する」を意味する。この「カー」は「すべての人々」と、カーの始まりという用法で「子宮・生誕地」両方の語源である。エジプト人にとってアフリカとはまさに「誕生したところ」を意味する。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "起源が上述のいずれの説であるにしろ、ローマ時代、カルタゴがアフリカ属州になると、ラテン語で「アフリカ人の土地」を表す「Africa terra」(「-ca」は形容詞化接尾辞女性形)から「Africa」という語形が生じた。これが現在の『アフリカ』という言葉の直接の始まりである。その後、サハラ砂漠以南についての人類の知見が広がるに従い、サハラ砂漠の南北を含めて一つの大陸の名となった。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アイルランド語の女性名 Aifric は Africa と英語化されるが、地名とは関係が無い。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した。その状況下で、獣脚類や竜脚形亜目また原始的な鳥盤類が、三畳紀終わり頃まで繁殖していた。これらの化石はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる。三畳紀とジュラ紀を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なって分布し、南部で多く露頭する。しかし化石層は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく。ジュラ紀には、アフリカでは竜脚下目や鳥脚目などの恐竜が広い範囲で隆盛を極めた。中期の研究はあまり進んでいない。後期も発掘は遅れているが、数少ない例外に当るタンザニアのテンダグル層(英語版)では、北アメリカ西部で見つかったモリソン層(英語版)の古生物学的様相(英語版)と非常に近似したところが見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1億6千年前-1億5千年前の中生代の中頃、ゴンドワナ大陸には後のインド亜大陸とマダガスカルが繋がっていた。そのため、マダガスカルからはアベリサウルス(英語版)やティタノサウルス上科(英語版)の化石が発見される。 その後、白亜紀初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後期にはこの2つの陸塊も分離して現在に至る。中生代、マダガスカルとアフリカ大陸の相対的な位置には変化が無かった。その一方でパンゲア大陸そのものの変化は進行し、白亜紀後期の初め頃には南アメリカがアフリカから分離し、南大西洋が形成された。この出来事は海流の変動を呼び、地球規模の気候形成に影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この白亜紀には、アロサウルス類(英語版)や最大の肉食恐竜として知られているものを含むスピノサウルス類(英語版)などが繁栄していた。ティタノサウルス属(英語版)は当時の生態系の重要な草食動物であった。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少なく、今後の調査が待たれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ほとんどの古人類学者は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている。アフリカは大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。「イーストサイドストーリー」では、豊かなコンゴ盆地の森林から一部のサルが乾燥したサバンナへ分かれ、進化が始まったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる。20世紀中頃には、人類学者たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、放射年代測定から紀元前390-300万年頃に生きたと考えられるアウストラロピテクス・アファレンシスや紀元前230-140万年頃のパラントロプス・ボイセイ(英語版)、紀元前190-60万年頃のホモ・エルガステルが人類へ進化したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、国家を持たず、現代のコイコイ人やサン人のように狩猟採集社会の集団をつくって生活していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また牛の牧畜なども行っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり、砂漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西や南、ナイル川流域などに移住して行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカがコプト正教会のエチオピアとイスラム教のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "最古の史料が残っているのはファラオによる支配が始まったナイル川流域の古代エジプト王国であり、紀元前3300年頃の文字記録が発見されている。これは世界最古の文明の一つで、ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源になったとされる。紀元前2900年頃、メネス王が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれたピラミッドでも世界的に知られている。紀元前1000年頃には製鉄技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄器が使われるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方、チュニジアでも紀元前800年頃にフェニキアの植民都市としてカルタゴが築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは共和政ローマに滅ぼされ、ローマ支配下のアフリカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、ゲルマン民族の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設したが、地中海世界の再統一に燃える東ローマ帝国によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くは続かず、636年、パレスチナのヤルムク河畔で日の昇る勢いのイスラム帝国(正統カリフ)に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカはウマイヤ朝時代にイスラム勢力の支配下に入った。アッバース朝時代に勢力争いで、ハールーン=アッラシードに敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、フェズにイドリース朝を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアのアグラブ朝、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を世襲して事実上エジプト独自のイスラム王朝となったトゥルーン朝、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、イフシード朝の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶と製鉄技術をもったノク文化がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のやイボ文化(英語版)やイボ=ウクゥ遺跡(英語版)(イボ=ウクゥ(英語版))、10-13世紀のヨルバ文化(英語版)(イフェ)、14-18世紀のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトやヌビア、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで発掘されている。これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す。この交易を背景に繁栄したのがセネガル川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれるガーナ王国であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、マリ帝国がニジェール川上流のニアニを首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図に含んで13-15世紀前半まで繁栄、ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統一する広大な版図を誇った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフリカ西部、マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉-12世紀中葉にムラービト朝、12世紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキヤと呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興ると、926年には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、カリフを称した。西カリフ国と呼ばれたイベリア半島の後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、そのもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年にハフス朝がオスマン帝国によって併合される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区分される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト正教会を国教としたアクスム王国が、ギリシャ、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃にザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。沿岸部では、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、モガディシオ、キルワ、マリンディなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、モザンビーク南部の港町ソファラからジンバブエのザンベジ川流域、リンポポ川流域にまで及び14-15世紀にショナ人によるモノモタパ王国が金や象牙の輸出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目されるグレート・ジンバブエ遺跡からは、中国(宋、元、明代)の青花などの陶磁器、インドの綿製品、インドネシアの数珠玉、ペルシャの壺などの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰退すると、ロズウィ王国(英語版)(1660年 - 1866年)が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "長い間アフリカは、奴隷制度に蝕まれてきた。7世紀から20世紀に至るまでアラブ世界への奴隷貿易は継続して行われ、1800万人がサハラ交易やインド洋貿易で取引された。大航海時代を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた。15世紀から19世紀までの500年にはアメリカ州向けの奴隷貿易(英語版)が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1820年代、西アフリカは大西洋航路の奴隷貿易が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における奴隷制度廃止運動の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部でのイギリス海軍駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から1860年の間に、イギリスの西アフリカ小艦隊(英語版)は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「ラゴスの略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された。この動きに、国力があったアシャンティ王国、ダホメ王国、オヨ王国(英語版)は順応する動きを取り、アシャンティやダホメはパーム油やカカオ、ランバー材(英語版)や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "19世紀後半には、アメリカ解放奴隷が建国したリベリアと第一次エチオピア戦争で独立を維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が行われ、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の民族紛争の原因ともなった。緯線や経線を基準に引かれていることが多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ヨーロッパ列強の帝国主義は第二次世界大戦以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の独立への機運が高まった。1951年にはリビアがイタリアから、1956年にはチュニジアとモロッコがフランスから独立を果たした。翌年にはガーナが続き、サブサハラ初の脱植民地を成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生したが、独裁政治の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、新植民地主義への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963年5月に発足したアフリカ統一機構(OAU)が、2002年7月9日には発展解消してアフリカ連合が成立した。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "北は地中海、西は大西洋、東はインド洋および紅海に面する。南端のアガラス岬で大西洋とインド洋が接する。南北約8,000km、東西約7,400km。海岸線は総延長26,000kmである。かつてはスエズ地峡によりユーラシア大陸とつながっていたが、現在ではスエズ運河が開通して分断され、この運河がアフリカとアジアの境界と受け取られる場合もある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大陸北側に世界最大の砂漠であるサハラ砂漠をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。また大陸東部にはパンゲア大陸がゴンドワナ・ローラシア大陸に分裂したときの名残である2,000kmの隆起地帯(ドーミング)と、それを東西に切り裂く世界最大長のアフリカ大地溝帯(東アフリカ地溝帯)が南北に走る。この南端にはアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山(5,895m)があり、これは他の五大陸最高峰が非火山であるのに対し唯一火山活動で形成されたものである。大地溝帯には複数の火山や東アフリカ大湖沼群があり、西側で接するエチオピア高原などの高地部分にもニアムラギラ山(英語版)やニーラゴンゴ山などの活火山やヴィクトリア湖などの古代湖が残る。しかしアフリカ大陸全体で、標高500m以上の領域は半分程度に過ぎない。理由はこれも大陸移動が関係しており、アフリカはパンゲア大陸の中心部として移動した距離が短く、山脈が形成されにくかったことが挙げられる。マダガスカルを始めとした6つの島国が存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アフリカ大陸全般の経済成長で自然保護区が設置されるものの、依然として色濃く豊かな自然、人類学術的な側面から、生物の多様性とヒトを含めたその起源の候補地とされている。", "title": "動植物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "気候は多様である。ほぼ赤道直下に位置する大陸中央部は西部のギニア湾沿岸から大陸中部のコンゴ盆地にかかる熱帯雨林で高温多湿な地域が広がり、これを挟んでセレンゲティ高原などのサバンナ地域が広がる。さらに高緯度に向かうと砂漠気候域に入り、北にはサハラ砂漠、南にはカラハリ砂漠が広がる。大陸北端と南端は地中海性気候域となる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アフリカの多くの国々は情勢が非常に不安定であり、ヨーロッパなどに比べると遙かに治安が悪い地区が多い。政治的に安定している国はごくわずかである。イギリスの雑誌『エコノミスト』は、2008年にアフリカ各国の政治情勢を民主主義達成度から分析し公表した。これによると、対象50カ国(ソマリア、セーシェル、サントメ・プリンシペ及び西サハラ、ソマリランドは含まれない)のうち、完全な民主主義を実現している国はモーリシャスただ1国で、6カ国は欠陥のある民主主義、9カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な独裁体制と分析されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このような体制が出来上がった背景には、植民地支配の影響がある。現在のアフリカ各国の国境線は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。これはヨーロッパ列強間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。そのため独立後にも国民はまとまりを欠き、強権的な政府体制としてアフリカ型社会主義もしくは開発独裁体制が選択された。しかし前者は構造的に経済発展には向かず、後者は汚職や主導権争いが絶えなかった。さらには非アフリカ人を排除したために人材不足にも陥り、結果的に、かつては「AA」もしくは南北問題と呼ばれて同じように発展途上に苦しんだアジア各国が急速な経済発展を実現しつつあるのに対し、アフリカは「例外的に成長しない」経済体制と評され、取り残されたまま現在に至る。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "そのために内戦や紛争も多く、代表的なものでは1991年からのソマリア内戦、1997年からのコンゴ内戦、2003年からのダルフール紛争などが尾を引いている。国民の大多数がイスラム教徒であり、比較的に安定した政治を行っていた北アフリカも、2010年に発生した各国の動乱以来、政権が大きく揺らいでいる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "終わりが見えない内戦や紛争、および貧困から、アフリカでは多くの難民が発生している。国際連合難民高等弁務官事務所推計による2009年末のアフリカ難民は約230万人、さらに国内の避難民は約650万人にのぼる。また、農村疲弊による人口の都市部集中に伴ったスラム化も進展し、モザンビークやタンザニアなどでは人口の90%に相当するまで膨れ上がり、治安悪化などの問題が生じている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "IMFによると、2009年のアフリカ52ヶ国の合計のGDPは1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。アフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、鳥取県(平成18-19年度)とほぼ同じ経済規模である。アフリカ最大の経済大国は南アフリカである。アフリカ唯一のG20参加国であり、2010年には史上初めてアフリカ大陸でサッカーのワールドカップを開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、北部アフリカにおいて影響力の強い国の一つになっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "豊富な天然資源を持ちながら、アフリカは世界で最も貧しい発展途上の状態にある。これは、エイズやマラリアなど深刻な感染症の蔓延、高い腐敗認識指数で指摘される政治によって引き起こされる人権の抑圧や経済政策の失策、また国民の低水準なリテラシーや不得手な外交、さらにゲリラから大量殺戮まで含まれる部族間や軍隊による戦闘など、さまざまな要因の結果である。国際連合の2003年度人間開発報告書によると、開発の度合いを示す尺度において調査対象の最低ランク25か国(151位から175位まで)を全てアフリカの国々が占めた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "貧困、文盲、栄養失調、不充分な給水体制や衛生管理、病気の蔓延などの悪影響をアフリカに住む多くの人々が受けている。2008年、世界銀行は国際的な貧困率の定義を1日当たり所得1USドル未満から1.25USドル未満に引き上げた。サブサハラ諸国では、人口の80.5%が1日当たり2.5USドル未満(PPP)で暮らしている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この統計は、サブサハラが1日1.25USドルという貧困の基準を脱することが世界中で非常に難しい地域であることを示す。1981年のデータではこの地域に住む50%(2億人に相当)の人々が貧困層に相当していたが、1996年には58%まで上昇し、2005年には率は50%となったが人口の絶対数は3.8億人に増加している。貧困層平均所得は1日0.7USドルに過ぎず、2003年の数値は1973年よりも悪化している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この原因を、外国企業と外国政府主導による経済自由化政策の失敗に求めることもあるが、このような外的要因よりも国内政治の失策が大きいという指摘もある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1995年から10年間にアフリカは経済成長を続け、2005年の平均成長率は5%に達した。さらに、埋蔵石油を持ち輸出に振り分けるため掘削に着手したアンゴラ・スーダン・赤道ギニアなど数カ国はさらなる成長が見込まれる。さらにアフリカには世界中のコバルト90%、白金90%と金の50%、クロム98%、タンタライト(英語版)70%、マンガン64%、ウラン33%が存在すると考えられている。コンゴ民主共和国には、携帯電話の製造に欠かせないコルタンが世界の70%に相当する量に上り、ダイヤモンドも世界の30%以上が同国に存在する。ギニアは世界最大のボーキサイト供給国である。このようにアフリカの経済成長はほとんどが資源提供を背景としたもので、工業や農業の発展ではなく、雇用創出や貧困からの脱却に寄与していない。実際に、2008年にリーマンショックを原因として起こった食糧危機では、1億人が飢餓状態に陥った。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "特に中華人民共和国はかねてからアフリカ諸国へのスタジアム外交(英語版)や大統領府などの箱物やタンザン鉄道の建設に象徴される強い結びつきを構築してアフリカ連合本部も建設しており、2009年に中国はアフリカ最大の貿易相手国になった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "鉱業を除けばアフリカの主要産業は農業であり、他国と産業構造が著しく異なる南アフリカを除くとその就業人口比は66.1%、輸出比は15.4%(2000年)である。しかしこれらはカカオなど特定地域の特定産物を除けば農業生産性が高いアメリカ合衆国等農業先進国との競争には弱く、大半の農産物はアフリカ内部で消費される。しかしながら、1961年から2000年にかけて人口が3倍になったのに対し、穀物は1.35倍程度しか伸長していない。土地の生産性もアジアや南アメリカが大きく伸ばしているのに対し4割以下まで落ち込んでいる。このような状況に陥った要因は、アフリカでは人口増加に対応する農業生産を高める手段をもっぱら耕地面積の拡大に依存した点がある。しかしこれは痩せた土地の利用や少ない水資源の制約等がからみ、充分な効果をあげることができなかったことを物語る。2010年にハーバード大学は、政治さえ安定していればアフリカは食糧自給が可能との研究結果を発表した。低い農業生産性は、従事者の貧困を招く原因のひとつであり、農業改革を行う技術や人材の育成が望まれる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アフリカの農地は、その65%が土壌浸食の被害を受けている。また、国際連合環境計画 (UNEP) によると、アフリカの森林破壊は世界平均の2倍の速度で進行している。報告の中には、西アフリカの約9割が既に破壊されたというものもある。これはマダガスカルでも同様で、人類が進出してからの2000年で90%以上の原生林が失われた。干ばつや灌漑などによる環境への影響もあり、チャド湖は40年前と比較して面積が1/10まで減少した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "現在、アフリカの人口は爆発的に増え、特にこの40年は顕著である。国によっては人口の半数以上が25歳以下という所もある。総人口は、1950年に2億2100万人だったが、2009年には10億人まで膨れ上がった。世界の人口は増え続ける傾向にあるが、アフリカ地域の増加分がかなりの量を占めている。この人口増加は経済成長を伴っていないため、環境破壊や貧困層の増大などさまざまな問題をもたらしている。大陸全体がリカードの罠に陥っているとの指摘もある。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "北アフリカは、イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。 中南アフリカでは、従来からの先住民族が暮らす。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アフリカは言語の種類が多い。系統分類では4語族に大別されるが、部族毎に異なる特徴を持つために多くの言語数に分岐し、世界の言語数のうち30%程度を占めるとも言われる。また、同じ人々が使う言語にも、部族語と地域共通語、さらに公用語と状況に応じて使い分けられる垂直型の多層言語が存在し、総言語数を多くしている。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ほとんどの国では植民地支配の影響をそのまま受け、欧米の言語を公用語としており、政府機関の作業言語や教授言語となっている。一方、エリート層と旧宗主国・欧米先進国との密接な関係から、国家ぐるみでもアフリカ固有の言語の普及や促進には力が入れられていないため、エリート層と庶民の間の教育格差という問題の発生につながっている。特にサブサハラ諸国においては、一部の国でアフリカ固有の言語も公用語に加えられているものの、実際にはタンザニア(スワヒリ語)やエチオピア(アムハラ語)、ソマリア(ソマリ語)の例外を除き、ほとんどが形骸化している。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アフリカには1500以上の民族集団があり、それぞれが固有の信仰と儀礼体系を持っている。さらに、イスラム教スンナ派、キリスト教のローマ・カトリック、プロテスタントの各派が分布している。また、これらの世界宗教と土着宗教が混淆し、シンクレティズムによって独自に発展した宗派もある。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "伝統的な土着宗教は、祖霊信仰や自然崇拝に加え、サブサハラでは創造神の概念も存在する。また、呪術信仰も根強く、これを担うシャーマニズムも健在である。 多くのアフリカの土着宗教には、予測不能な不幸が発生したとき、不幸の原因を想像力で理解するための適切な解釈を与え、その不幸に対処するための複数の観念や制度を内包したものであること、農耕儀礼や人生の通過儀礼など幸福を希求する儀礼的実践であることが、共通する特徴として見られる。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "世界宗教のアフリカ伝播は、ローマ帝国の領土拡大に伴うローマ・カトリックが最初に当たり、これは4-5世紀に北アフリカで最盛期を迎える。しかしこれは同帝国の衰退とアラブ人の進出によって衰退した。19世紀のアフリカ分割に伴うヨーロッパ列強の植民地化によって再びローマ・カトリックは広まったが、この地域は中央アフリカに場所を変えていた。イスラム教スンナ派は北アフリカを中心に人口の30-40%を占める。その伝播経路は、ナイル川に沿ったアラブ人の進出、サハラ交易による伝播、海上貿易による東海岸沿岸への伝播の3つがある。プロテスタントもまたアフリカ分割とともに広まったが、その地域は南部が主流となった。南アフリカにはいち早くアフリカ人によって教会が建設された。その特色は聖書中心主義があり、またペンテコステ派と土着宗教が融合した精霊教会という形態も存在する。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "アフリカの教育は世界の中でも未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で就学率が低い。学校は基礎設備に欠き、アフリカの大学は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて西側諸国に移住する為の不足が問題となっている。ユネスコ2000年の調査「Regional overview on sub-Saharan Africa」では、児童就学率は58%に止まった。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "アフリカでは出生登録が充分に行われず、親が子供に教育を受けさせようとする意識が低い。これらに貧困が加わり、教育現場からの脱落のみならず、児童労働や人身売買、育児放棄や犯罪、子供が戦場へ狩り出されるなど様々な問題が生じている。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ステレンボッシュ大学は、南アフリカのラグビーの「メッカ」と評され、「アフリカ民族主義のルーツ」を明らかにすることで、英語圏の大学に対抗していた。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アフリカは栄養・医療・衛生面でさまざまな問題を抱えている。2008年度世界の栄養不足率が高い10位(同率があり12カ国)はハイチを除いてアフリカ諸国に占められ、1位のコンゴ民主共和国は76%の国民が相当する。このような環境は乳幼児にも悪影響を及ぼし、サブサハラ全体で5歳未満の死亡率は15-20%で推移している。これも、下痢やはしかなど医療環境が整っていれば助かるものだが、世界保健機関 (WHO)が定める最低医療体制である人口10万人あたりの医師20人・看護師100人・その他医療従事者228人という基準を満たすサブサハラの国は南アフリカのみである(2007年度)。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また、後天性免疫不全症候群(エイズ)の蔓延も大きな問題となっており、国家予算の半分近くがエイズ対策に費やされる国家すら出現している。特にサブサハラではひどく、15歳以上の感染率はスワジランドでは26.1%、ボツワナでは23.9%にのぼる(2008年)。感染者数最大は医療体制が比較的充実している南アフリカの570万人である。世界中のエイズ感染者のうち2/3がサブサハラに集中している。この蔓延には女性の社会的地位が低いことも一因であり、レイプの多発や一夫多妻制などが影響していると考えられ、実際に感染率は女性の方が軒並み高い。これらの要因から中南部諸国における平均寿命は著しく低下し、10カ国以上で50歳を下回っている。", "title": "人口統計" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アフリカの治安は現今、どのエリアにおいても確実に安定しているとは言い難い。その理由の一つとして挙げられるのは紛争による経済の発展の停滞である。アフリカでは近年、紛争が特定地域に集中する傾向があり、北アフリカではリビア、西アフリカではマリからナイジェリア北部地域、中部アフリカでは中央アフリカ共和国とコンゴ民主共和国東部地域、東アフリカでは南スーダンとソマリア南部地域がその一例に挙げられる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "原因となるものは主にイスラーム急進主義と国家そのものを巡る問題の二つが挙げられる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "一つ目の問題であるイスラーム急進主義は宗教に関係する面を持っているが、一般的な宗教問題と違い、内容がテロリズムに絡んだものが殆どであることから宗教とは別次元の問題とされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "イスラーム急進主義を掲げる組織が活動を広げる理由は地域によって異なるが、共通するものには地理的に近い中東の影響が深い点がある。アラブ人が住民の圧倒的多数を占める北アフリカは勿論のこと、サハラ砂漠南縁部もほとんどの住民がムスリムである事から中東で活発化したイスラーム急進主義の余波が、武器や資金の供与などを通じて、広がりやすい社会環境を作り上げている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "上述した国々の中で、リビアは今日イスラーム急進主義組織の一つであるIS(イスラム国)の主要拠点の一つになっており、マリ、ナイジェリア、ソマリアなど、サハラ砂漠周辺地域でも、しばしばアルカーイダやISとの関係を強調しイスラーム急進主義を掲げる組織が紛争の原因となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "もう一つの問題は国家が国民からの信頼を失っている点にある。多くの場合、開発の失敗や汚職をはじめ人種差別や言語の違いによる対立などにより政府が人々の信頼を失った状況に立たされている。一例として南部アフリカの南アフリカ共和国と中部アフリカのカメルーンが挙げられる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "南アフリカ共和国ではアパルトヘイト廃止後に起きた失業問題に端を発する形で治安が急速に悪化してしまっており、同国の都市では、殺人や強盗(強盗殺人を含む)、強姦、麻薬売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。また、カメルーンでは公用語に対する意識の違いから、国内地域が仏語話者と英語話者の2グループによって仕切られていて、英語圏地域が分離賛成派を中心に独立を掲げて同国政府へ反発する形で対立している。さらに言語による独立運動には過激な活動が相次ぎ、武装蜂起する流れも常態化している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "そして、その渦中の国家に数え上げるイスラム圏該当エリアの国では、そこに急進主義勢力が「正しいイスラーム」を掲げて武装活動を活発化させているのである。イスラーム急進主義には一種の「世直し運動」という性格があり、自爆テロなどの過激かつ凄惨な内容の手段を取ることが「命を懸けた主張」として捉えられている面を持つ。これらが現地政府への不信感と相俟って、大義名分に等しい扱いを受ける形で支持を受ける状態となっている。そういった考えや価値観が先に挙げた地域における社会で一定の共感を得たり共有されている為、問題の解決を非常に困難としてしまっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "これらの国家や地域ではそうした事情から深刻な経済停滞が続いており、先述の国々は現状では解消される様子が見受けられず、現地住民の大半は常に逼迫した社会環境の中で危険と隣り合わせな生活を余儀なくされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "しかし、それ以外の地域では大きな紛争はあまり発生しておらず、治安などが比較的安定した面が窺える。東アフリカのルワンダでは、1994年に少数派民族(トゥチ)を標的とした大量虐殺が起こり、少なくとも50万人が殺害されたとされている。同国は現在、政治的に安定しており、大きな事件が起こる確率も当時に比べて格段に低くなっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "アフリカでは人権侵害をはじめとして、先の欄で挙げた干魃や飢餓、内戦や民族紛争などの危機的状況により自国を脱出する人々が後を絶たない。中には難民として他国へ亡命を図る人が大勢存在する。これに絡み、亡命先の国では幾多もの騒動や排他的な姿勢をとる人物の出現によって引き起こされる事件が問題化している面を持つ。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "エジプトからモロッコまでの北アフリカ諸国は、アラブ文化(英語版)と関わりを持つ人々がいる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "アフリカの食文化は、狩猟民族的特長が強い。すなわち、肉やイモ類などをそれぞれ単一で料理し、複数の食材を混ぜて調理することは少ない。また、米を除く穀類のほとんどを挽いて粉食する点も特徴である。この代表が、イネ科穀物の粉を用いる西アフリカの「トー」や東アフリカの「ウガリ」が代表的である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "酒では西部から中央部で作られるヤシ酒、熱帯地方のバナナ酒などの特色がある。トウモロコシ類からビール、もろみやバナナ酒から蒸留酒も造られる。ワイン醸造も行われ、現代では南アフリカが盛んな地域に当る。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "特にサブサハラのアフリカ音楽は儀礼と結びつきが強く、ダンスに伴って演奏される。体鳴楽器や膜鳴楽器は独自のものが多様に存在し、前者ではラメラフォーンやコラ、後者では様々なドラムが知られる。中には伝達手段に用いられるトーキングドラムなどもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また、リンガラ音楽こと旧ザイール(現コンゴ民主共和国)のスークースや、フェラ・クティやマヌ・ディバンゴらによるファンキーなアフロビート、ガーナのハイライフ、アルジェリアのライ、アンゴラのクドゥーロ、タンザニアのボンゴフレーバー、モザンビークのマラベンタなどのアフリカのポピュラー音楽もよく知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アフリカ美術のうち、古代文明を築いたエジプトは独自の美術体系を発達させた。神聖文字と組み合わせた形式の連続性は、やはり独自の形式であるピラミッドや寺院および墳墓などのエジプト建築と組み合わされ、壁画や彫刻類、そしてツタンカーメンに代表される棺などで複雑かつ華麗な体系を持った。この芸術の系統は、紀元前30年にローマによる征服を受けて途絶えた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "サブサハラの芸術は民俗学と美術史の両面から論じられるが、その分析は未だ途上にある。大きな特徴は多様な造形分野であるが、これは美術品として単独で成り立つものではなく、生活および宗教と深く関連している。木材を好んで用い、仮面など身体装飾や彫刻など、また宗教や祭祀用道具および日用品なども彩色されたものなど種類も多い。その一方で建築分野ではあまり見るべきものがない", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "アフリカの建築は非常に多様で、現地の民族ごとにその差異が現れているほか、人類の文化史や歴史の道のりにおいて重要な位置付けが成されている面を持つ。また、芸術的に付加価値の高いものが揃っていることも特徴の一つとなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "建材には棒などの木材をはじめ、茅葺や泥、煉瓦、石など、自然由来の様々な素材が使用されており、版築を中心とした技法での家づくりなどが主体となっている。だが、同エリアの建築文化の基礎としては簡素でありながらも確立されたものとなっていて、アフリカの風景と調和したものも多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "一部地域の建築は何世紀にも亘ってアフリカ大陸外部の文化の影響を受けており、特に西洋の建築文化は15世紀後半からアフリカ沿岸地域へ多大な影響を与えていて、現在においても主要都市では西洋建築が多くの巨大建造物の重要なインスピレーションの源ともなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "アフリカ諸国の国々では、ほぼ全般的にサッカーが盛んである。一部の国々ではバスケットボールや格闘技なども人気がある。アフリカ人を象徴するスポーツ選手としては、サミュエル・エトーやディディエ・ドログバを筆頭に、近年ではモハメド・サラーやサディオ・マネが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "アフリカサッカー連盟(CAF)が主催する『アフリカネイションズカップ』は、1957年より開始されており、最多優勝はエジプト代表の7回である。また、CAFは『アフリカ年間最優秀選手賞』も主催しており、最多受賞はサミュエル・エトーとヤヤ・トゥーレの4回となっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "括弧内は首都、その後ろの言語名は公用語を示す。", "title": "アフリカの国" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "肌が黒い人類、いわゆるネグロイドの存在が他の文明に初めて記録されたのは、7世紀に北部アフリカを支配下に置いたアラブ人が、ナイル川を遡ってサハラ砂漠以南に到達したことに始まる。以後、アフリカの地名にはこの肌の色を語源として名づけられた所もあり、現在の国名に受け継がれているものもある。スーダンは、かつてのイギリス領やフランス領を含めるとアフリカ大陸の1/3を占める広大な土地を意味したが、これはアラビア語が意味する「黒い人」が語源である。", "title": "アフリカと「黒」" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "このフランス領スーダンから独立したモーリタニアはムーア人の国という意味だが、このムーアも古代ギリシア語のmauros(肌が黒い人々)を語源とする。ギニアも現在の領土よりも広い地域を指す言葉だったが、これもベルベル人の言葉で「黒い人の土地」を意味した。エチオピアもギリシア語の「aitos(日焼けした)」+「ops(顔)」+「ia(地名接尾語)」の合成語であり、やはり古代ギリシア人にとってサハラ砂漠より南の土地を包括的に示す言葉だった。ソマリアはアムハラ語で「ゾムマ(家畜を持つ人)」という説の他に、ヌビア地方の言葉で「黒い人の国」という意味だという説もある。", "title": "アフリカと「黒」" } ]
アフリカは、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、大州の一つ。漢字表記は阿弗利加であり阿州(阿洲、あしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は「阿」を用いる。
{{Otheruses}} {{Infobox Continent | image = [[ファイル:Africa (orthographic projection).svg|200px]] | area = 3037万 [[平方キロメートル]] | population = 14億人<ref name="https://www.populationpyramid.net/ja/アフリカ/2022/">{{Cite web|和書 |url=http://www.prb.org/pdf13/2013-WPDS-infographic_MED.pdf |title= 人口: アフリカ 2022 - PopulationPyramid.net |format=PDF |last=Gudmastad |first=Ericha |date=2022 |website=www.prb.org |publisher=[[:en:Population Reference Bureau|Population Reference Bureau]] |access-date=18 August 2015 }}</ref> (2022年, [[大陸#面積と人口|2位]]) | density = 30.51 人/平方キロメートル | demonym = [[アフリカ人]] | countries = 56<ref group="注">[[西サハラ]]・[[ソマリランド]]を含む</ref> | list_countries = アフリカの主権国家及び属領の一覧#主権国家 | dependencies = {{Collapsible list |title={{voidd}} |frame_style=border:none;padding:0; |list_style=display:none; |1=[[マヨット]] |2=[[レユニオン]] |3=[[カナリア諸島]] |4=[[セウタ]] |5=[[メリリャ]] |6=[[マデイラ諸島]] |7=[[セントヘレナ]] }} | languages = | time = [[UTC-1]] - [[UTC+4]] | cities = {{flagicon|ナイジェリア}}[[ラゴス]] }} {{ウィキポータルリンク|アフリカ|[[ファイル:Africa_satellite_orthographic.jpg|36px|Portal:アフリカ]]}} [[ファイル:United Nations geographical subregions.png|thumb|[[国連による世界地理区分]]]] [[ファイル:Africa satellite plane.jpg|サムネイル|200px|衛星画像]] [[ファイル:Topography of africa.jpg|サムネイル|200px|アフリカの地形([[アメリカ航空宇宙局|NASA]])]] [[ファイル:Africa-regions.png|サムネイル|200px|[[国連による世界地理区分|国際連合によるアフリカの地域の分類]]<ref>{{cite web |url=http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm |title=Composition of macro geographical (continental) regions, geographical sub-regions, and selected economic and other groupings |language=英語 |publisher=[[国際連合]] |accessdate=2015-2-23 }}</ref> {{legend|#0000FF|[[北アフリカ]]}} {{legend|#00FF00|[[西アフリカ]]}} {{legend|#FF00FF|[[中部アフリカ]]}} {{legend|#FFC000|[[東アフリカ]]}} {{legend|#FF0000|[[南部アフリカ]]}}]] '''アフリカ'''({{Lang-la|'''Āfrica'''}}、{{Lang-en|'''Africa'''}}<ref name=koujien70>{{Cite book|和書 |year=1999 |title=[[広辞苑]] |edition=第五版第一刷 |publisher=[[岩波書店]] |page=70 |chapter=【アフリカ】 |isbn=4-00-080113-9 }}</ref>)は、広義には[[アフリカ大陸]]およびその周辺の[[マダガスカル島]]などの[[島嶼]]・[[海域]]を含む[[地域]]の総称で、[[大州]]の一つ<ref name=koujien70 />。漢字表記は'''阿弗利加'''であり'''阿州'''(阿洲、あしゅう)とも呼ぶ。省略する場合は「'''阿'''」を用いる。 == 概要 == 地理的には[[地中海]]を挟んで[[ヨーロッパ]]の南に位置する。 [[赤道]]を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の[[大陸]]でもあり<ref group="注">アメリカ大陸を、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸に分ける場合。</ref>、それに伴って多様な[[気候]]領域がある<ref>{{cite web |url=http://www.visualgeography.com/continents/africa.html |title=Africa. General info |author=Visual Geography |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。面積は3037万[[平方キロメートル]]で、[[地球]]表面の6%、陸地全体の20.4%を<ref name="Sayre">Sayre, April Pulley. (1999) ''Africa'', Twenty-First Century Books. ISBN 0-7613-1367-2.</ref>、人口は約12億人、世界人口比では14.72%を占める。2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国がある(西サハラを含めると55カ国)。経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%である<ref>{{cite web |url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/pdf/c2.pdf |format=PDF |publisher=International Monetary Fund |title=WEO Oct. 2010 |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。 アフリカは[[アフリカ単一起源説]]から[[ヒト]]の起源とされ、[[エチオピア]]からは20万年前の[[ホモ・サピエンス]]の化石が発見され<ref>{{cite web |url=http://web.utah.edu/unews/releases/05/feb/homosapiens.html |publisher=[[ユタ大学]] |title=The Oldest Homo sapiens |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>、[[世界遺産]]の[[南アフリカの人類化石遺跡群]]は[[人類]]の[[発祥]]の地と呼ばれている。アフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「[[暗黒大陸]]」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際にはヨーロッパより古い歴史と[[文明]]があった。 アフリカの地理的区分ではサハラ砂漠が大きな境界となり、サハラ砂漠より南を「'''[[サブサハラアフリカ]]'''」と呼ぶ場合もある。また、北アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アフリカに分ける区分もある。 == 語源 == 当初は、サハラ砂漠以北の地域をさす言葉であった。正確な語源ははっきりとはわからないが、有力説としては、現在の[[チュニジア]]に当たる[[カルタゴ]]近郊の北部アフリカに居住していた[[セム語派|セム]]系部族を指す「[[:en:Afri|Afri]]」(アフリ)と推測される。この言葉は[[フェニキア語]]の「afar」(「dust」の意)に結びつけられがちだが、1981年には[[ベルベル語]]の「[[洞窟]]に住む人々」を指す「ifri」が転じたものという仮説が提示された<ref name="book on ligne">The Berbers, by Geo. Babington Michell, p 161, 1903, Journal of Royal African people [http://www.jstor.org/pss/714549 book on ligne]</ref>。これら「afar」<ref name="book on ligne"/>「ifri」「Afri」は現在の[[アルジェリア]]および[[リビア]]に住むベルベル人のことである<ref>Itineraria Phoenicia, Edward Lipinski, Peeters Publishers, p200, 2004, ISBN 90-429-1344-4 [https://books.google.fr/books?id=SLSzNfdcqfoC&pg=PA200&dq=Itineraria+Phoenicia+Ifren&sig=opSH-an97IhmB6GtJjMvn7bt4tc#PPA200,M1 Book on ligne]</ref>。ほかに、カルタゴ人が使っていたファラカ(faraqa:植民地の意)の変形または転訛という説や先住民の一部族アフェル(Afer、複数形Ifei)に由来するという説もある<ref>鷹木恵子「地中海世界・アフリカ世界・中東世界の中のチュニジア」/ 鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』明石書店 2010年 18ページ</ref>。他にも様々な仮説が提唱されており、歴史家[[レオ・アフリカヌス]](1488年 - 1554年)は、[[ギリシア語]]の「phrike ({{lang|grc|φρίκη}})」(「寒い」または「怖い」の意)に否定を意味する[[接頭辞]] [[α (欠性辞)|a-]](α-)が上接し、寒さや恐れが無いところを意味する「aphrike ({{lang|grc|Αφρική}})」となったと主張した。また{{仮リンク|ジェラルド・マッセイ|en|Gerald Massey}}は1881年に、[[エジプト語]]の「af-rui-ka」が語源だとの仮説を発表した。それによると、「af-rui-ka」は「カーの始まりに回帰する」を意味する。この「カー」は「すべての人々」と、カーの始まりという用法で「子宮・生誕地」両方の語源である。エジプト人にとってアフリカとはまさに「誕生したところ」を意味する<ref>{{cite web |url=http://gerald-massey.org.uk/massey/cmc_nile_genesis.htm |title='Nile Genesis:the opus of Gerald Massey' |publisher=Gerald-massey.org.uk |date=1907-10-29 |accessdate=2011-03-01 }}</ref>。 起源が上述のいずれの説であるにしろ、[[ローマ時代]]、カルタゴが[[アフリカ属州]]になると、ラテン語で「アフリカ人の土地」を表す「Africa terra」<ref>ランダムハウス英和大辞典「Africa」の項。</ref>(「-ca」は形容詞化[[接尾辞]]女性形)から「Africa」という語形が生じた。これが現在の『アフリカ』という言葉の直接の始まりである。その後、サハラ砂漠以南についての人類の知見が広がるに従い、サハラ砂漠の南北を含めて一つの大陸の名となった。 [[アイルランド語]]の女性名 {{lang|ga|''Aifric''}} は {{lang|en|''Africa''}} と英語化されるが、地名とは関係が無い。 == 歴史 == {{See also|{{仮リンク|アフリカの歴史学|en|African historiography}}}} === アフリカの形成 === [[ファイル:Massospondylus BW.jpg|サムネイル|150px|アフリカの古竜脚類/基盤的竜脚形類である[[マッソスポンディルス]]]] [[中生代]]初期、アフリカは他の大陸と同じく[[超大陸]][[パンゲア]]を形成した<ref name="dinopedia-african">Jacobs, Louis L. (1997). "African Dinosaurs." ''Encyclopedia of Dinosaurs''. Edited by Phillip J. Currie and Kevin Padian. Academic Press. pp. 2–4.</ref>。その状況下で、[[獣脚類]]や[[竜脚形亜目]]また原始的な[[鳥盤類]]が、[[三畳紀]]終わり頃まで繁殖していた。これらの[[化石]]はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる<ref name="dinopedia-african" />。三畳紀と[[ジュラ紀]]を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない<ref name="dinopedia-african" />。 初期ジュラ紀の地層は三畳紀後期と重なって分布し、南部で多く露頭する。しかし化石層は南部では少なく、北に行くほどその数は優勢になってゆく<ref name="dinopedia-african" />。ジュラ紀には、アフリカでは[[竜脚下目]]や[[鳥脚目]]などの[[恐竜]]が広い範囲で隆盛を極めた<ref name="dinopedia-african" />。中期の研究はあまり進んでいない<ref name="dinopedia-african" />。後期も発掘は遅れている<ref name="dinopedia-african" />が、数少ない例外に当る[[タンザニア]]の{{仮リンク|テンダグル層|en|Tendaguru Formation}}では、北アメリカ西部で見つかった{{仮リンク|モリソン層|en|Morrison Formation|preserve=1}}の{{仮リンク|古生物学的様相|en|Paleobiota of the Morrison Formation}}と非常に近似したところが見られた<ref name="dinopedia-african" />。 [[ファイル:Spinosaurus BW2.png|サムネイル|左|200px|[[スピノサウルス]]はアフリカを代表する肉食恐竜である。]] 1億6千年前-1億5千年前の[[中生代]]の中頃、[[ゴンドワナ大陸]]には後の[[インド亜大陸]]と[[マダガスカル]]が繋がっていた。そのため、マダガスカルからは{{仮リンク|アベリサウルス|en|abelisaur|preserve=1}}や{{仮リンク|ティタノサウルス上科|en|titanosaur|preserve=1}}の化石が発見される<ref name="dinopedia-african" />。 その後、[[白亜紀]]初期にインドとマダガスカルは分離を始め、後期にはこの2つの陸塊も分離して現在に至る<ref name="dinopedia-african" />。中生代、マダガスカルとアフリカ大陸の相対的な位置には変化が無かった。その一方で[[パンゲア大陸]]そのものの変化は進行し、白亜紀後期の初め頃には[[南アメリカ]]がアフリカから分離し、[[南大西洋]]が形成された<ref name="dinopedia-african" />。この出来事は[[海流]]の変動を呼び、地球規模の気候形成に影響を与えた<ref name="dinopedia-african" />。 この白亜紀には、{{仮リンク|アロサウルス|en|allosauroids|label=アロサウルス類|preserve=1}}や最大の[[肉食恐竜]]として知られているものを含む{{仮リンク|スピノサウルス|en|spinosaurids|label=スピノサウルス類|preserve=1}}などが繁栄していた<ref name="dinopedia-african" />。{{仮リンク|ティタノサウルス|en|Titanosaurs|label=ティタノサウルス属|preserve=1}}は当時の[[生態系]]の重要な草食動物であった<ref name="dinopedia-african" />。アフリカでは、発掘された白亜紀の遺物は多いがジュラ紀のそれは少なく、今後の調査が待たれる<ref name="dinopedia-african" />。 === 先史時代 === [[ファイル:Lucy blackbg.jpg|サムネイル|150px|[[アウストラロピテクス・アファレンシス]]の[[ルーシー (アウストラロピテクス)|ルーシー]]。この骨は1974年11月24日、エチオピアの[[アファール盆地]]、[[アワッシュ川下流域]]で発見された。]] {{Main|アフリカ単一起源説|ミトコンドリア・イブ}} ほとんどの[[古人類学|古人類学者]]は、人類はアフリカで生まれたという説を採っている<ref name=BBC>{{cite web |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/1058484.stm |publisher=[[BBC]] News |title=Genetic study roots humans in Africa |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.sciencedaily.com/releases/2007/08/070828155004.htm |publisher=Science Daily |title=Migration of Early Humans From Africa Aided |author=Wet Weather |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。アフリカは大陸移動や地殻変動から、大規模な気候変動を繰り返していた。人類の発生は約4000万年前に遡る東部での隆起帯が形成され、乾燥化が進展したことが要因にあると考えられる。「[[イーストサイドストーリー]]」では、豊かな[[コンゴ盆地]]の[[森林]]から一部のサルが乾燥したサバンナへ分かれ、進化が始まったという<ref name=Kadomura>{{Cite web|和書 |url=https://webcache.googleusercontent.com/search?hl=ja&lr=&rlz=1W1GGHP_ja&q=cache:9IVj3rch43wJ:http://www.meijigakuin.ac.jp/~iism/open_lecture/open_lecture08/Kadomurareport.pdf+%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%A3%AE%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7&ct=clnk |title=アフリカの森の変遷‐長期の気候変動から‐ |author=門村浩/[[東京都立大学 (1949-2011)]]名誉教授 |publisher=[[明治学院大学]]国際学部付属研究所 |accessdate=2011-03-01 |archiveurl=https://archive.fo/FEZO |archivedate=2012年12月2日 |deadlinkdate=2018年1月22日 }}</ref>。 南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる<ref name=BBC />。20世紀中頃には、[[人類学者]]たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、[[放射年代測定]]から紀元前390-300万年頃に生きたと考えられる[[アウストラロピテクス・アファレンシス]]<ref>Kimbel, William H. and Yoel Rak and Donald C. Johanson. (2004) ''The Skull of Australopithecus Afarensis'', Oxford University Press US. ISBN 0-19-515706-0.</ref>や紀元前230-140万年頃の{{仮リンク|パラントロプス・ボイセイ|en|Paranthropus boisei}}<ref>Tudge, Colin. (2002) ''The Variety of Life.'', Oxford University Press. ISBN 0-19-860426-2.</ref>、紀元前190-60万年頃の[[ホモ・エルガステル]]<ref name=Sayre />が人類へ[[進化]]したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、[[国家]]を持たず、現代の[[コイコイ人]]や[[サン人]]のように[[狩猟採集社会]]の集団をつくって生活していた<ref>Ivan van Sertima. (1995) ''Egypt:Child of Africa/S V12 (Ppr)'', Transaction Publishers. pp. 324–325. ISBN 1-56000-792-3.</ref><ref>Mokhtar, G. (1990) ''UNESCO General History of Africa, Vol. II, Abridged Edition:Ancient Africa'', University of California Press. ISBN 0-85255-092-8.</ref><ref>Eyma, A. K. and C. J. Bennett. (2003) ''Delts-Man in Yebu:Occasional Volume of the Egyptologists' Electronic Forum No. 1'', Universal Publishers. p. 210. SBN 1-58112-564-X.</ref>。 アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともに[[チャド湖]]など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈また[[牛]]の牧畜<ref>Diamond, Jared. (1999) "Guns, Germs and Steel:The Fates of Human Societies. New York:Norton, pp.167.</ref>なども行っていた。 しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり<ref name="O'Brien">O'Brien, Patrick K. (General Editor). Oxford Atlas of World History. New York:Oxford University Press, 2005. pp.22–23</ref>、砂漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西<ref name="O'Brien" />や南、[[ナイル川]]流域などに移住して行った<ref name=Kadomura />。 === エジプト・地中海文明の発生 === {{Main|アフリカ史}} アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカが[[コプト正教会]]のエチオピアと[[イスラム教]]のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特な[[アニミズム]]の伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。 [[ファイル:Africa map from Atlas 1648.png|200px|サムネイル|'''アフリカの[[地図]]'''(G. and I. Blaeuによる1648年の地図) [[ポルトガル]]人の[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]がインド洋航路を発見した150年後に制作された。海岸線は正確だが、内陸部、特に河川の流路に関する情報が極端に不足していたことが分かる。例えばナイル川が南部アフリカに達しており、[[ニジェール川]]の流路は全く異なっている。冒頭の地図と比較されたい。]] 最古の史料が残っているのは[[ファラオ]]による支配が始まったナイル川流域の[[古代エジプト]]王国であり、紀元前3300年頃の[[文字]]記録が発見されている<ref>{{cite web |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/235724.stm |publisher=BBC News Sci/Tech |title=Were Egyptians the first scribes? |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。これは世界最古の[[文明]]の一つで<ref>Hassan, Fekri A. (2002) ''Droughts, Food and Culture'', Springer. p. 17. ISBN 0-306-46755-0.</ref><ref>McGrail, Sean. (2004) ''Boats of the World'', Oxford University Press. p. 48. ISBN 0-19-927186-0.</ref>、[[ヒエログリフ]]から派生した[[ワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字]]([[原カナン文字]])は世界の殆どの[[アルファベット]]の起源になったとされる。紀元前2900年頃、[[メネス|メネス王]]が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれた[[ピラミッド]]でも世界的に知られている。紀元前1000年頃には[[製鉄]]技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄器が使われるようになった<ref>Martin and O'Meara. "Africa, 3rd Ed." Indiana:Indiana University Press, 1995. [http://princetonol.com/groups/iad/lessons/middle/history1.htm#Irontechnology]</ref>。 一方、チュニジアでも紀元前800年頃に[[フェニキア]]の植民都市としてカルタゴが築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは[[共和政ローマ]]に滅ぼされ、ローマ支配下のアフリカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、[[ゲルマン民族]]の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地に[[ヴァンダル王国]]を建設したが、[[地中海世界]]の再統一に燃える[[東ローマ帝国]]によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くは続かず、636年、[[パレスチナ]]のヤルムク河畔で日の昇る勢いの[[イスラム帝国]]([[正統カリフ]])に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカは[[ウマイヤ朝]]時代にイスラム勢力の支配下に入った。[[アッバース朝]]時代に勢力争いで、[[ハールーン=アッラシード]]に敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、[[フェズ]]に[[イドリース朝]]を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアの[[アグラブ朝]]、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を[[世襲]]して事実上エジプト独自のイスラム王朝となった[[トゥールーン朝|トゥルーン朝]]、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、[[イフシード朝]]の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。 === 西アフリカ・北アフリカ === [[ファイル:WestAfrica1625.png|サムネイル|300px|1625年の[[西アフリカ]]]] 西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる[[土偶]]と製鉄技術をもった[[ノク文化]]がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のや{{仮リンク|イボ文化|en|Igbo culture}}や{{仮リンク|イボ=ウクゥ遺跡|en|Archaeology of Igbo-Ukwu}}({{仮リンク|イボ=ウクゥ|en|Igbo-Ukwu}})、10-13世紀の{{仮リンク|ヨルバ文化|en|Yoruba culture}}([[イフェ]])、14-18世紀の[[ベニン王国]]が繁栄し、優れた[[青銅]][[製品]]で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトや[[ヌビア]]、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの[[青銅器]]が西アフリカで発掘されている。これは当時から[[サハラ交易]]が行われていた事を示す<ref name="O'Brien" />。この交易を背景に繁栄したのが[[セネガル川]]上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれる[[ガーナ王国]]であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、[[マリ帝国]]がニジェール川上流の[[ニアニ]]を[[首都]]とし湾曲部の[[トンブクトゥ]]を版図に含んで13-15世紀前半まで繁栄、[[ソンガイ帝国]]が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西[[スーダン (地理概念)|スーダン]]を統一する広大な版図を誇った。 一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの[[キャラバン|隊商]]による交易に利害のあった北アフリカ西部、[[マグリブ]]にも[[ベルベル人]]によって11世紀中葉-12世紀中葉に[[ムラービト朝]]、12世紀中葉-13世紀頃に[[ムワッヒド朝]]、13-15世紀に[[マリーン朝]]という強力なイスラム王朝が建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力な[[サアド朝]](サーディ朝)に攻め滅ぼされた。[[イフリーキヤ]]と呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、[[ファーティマ朝]]が興ると、926年には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、[[カリフ]]を称した。西カリフ国と呼ばれた[[イベリア半島]]の[[後ウマイヤ朝]]に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではその後対[[十字軍]]戦争で活躍した[[サラディン]]による[[アイユーブ朝]]、そのもとで実力をつけたバフリーヤなどの[[マムルーク]]の力によって建国された[[マムルーク朝]]が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立した[[ハフス朝]]があり、これらの強力な王朝のもとで優れた[[イスラム建築]]が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年にハフス朝が[[オスマン帝国]]によって併合される。 モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアや[[モーリタニア]]も含められる。ただし、モーリタニアの南部は、歴史的に西スーダンのガーナ王国の中心部で、マリ帝国の版図に属していたことから、通常は西アフリカに区分される。 === 東アフリカ・南アフリカ === 東アフリカの北部にあたるエチオピアでは、4世紀にコプト正教会を国教とした[[アクスム王国]]が、[[ギリシャ]]、ローマ帝国、そして東ローマ帝国との交流をもち、紅海貿易で繁栄した。11世紀頃に[[ザグウェ朝]]が興り、世界遺産になっている[[ラリベラの岩窟教会群]]が造られた。沿岸部では、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、[[モガディシオ]]、[[キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群|キルワ]]、マリンディなどの港湾都市が繁栄した。交易路は、[[モザンビーク]]南部の港町[[ソファラ]]から[[ジンバブエ共和国|ジンバブエ]]の[[ザンベジ川]]流域、[[リンポポ川]]流域にまで及び14-15世紀に[[ショナ人]]による[[モノモタパ王国]]が[[金]]や[[象牙]]の輸出で繁栄した。モノモタパ王国の首都と目される[[グレート・ジンバブエ遺跡]]からは、中国([[宋 (王朝)|宋]]、[[元 (王朝)|元]]、[[明]]代)の青花などの[[陶磁器]]、[[インド]]の[[綿]]製品、[[インドネシア]]の数珠玉、[[ペルシャ]]の[[壺]]などの出土がみられ、当時の交易が盛んであったことを物語っている。モノモタパ王国が衰退すると、{{仮リンク|ロズウィ王国|en|Rozwi Empire}}(1660年 - 1866年)が19世紀半ばまでジンバブエの地を支配した。 === 奴隷貿易 === [[ファイル:Point du Non Retour1.jpg|サムネイル|[[ベナン]]の[[ウィダー]]にある「帰らずの門」。この門をくぐって[[奴隷船]]に積み込まれた[[奴隷]]たちは、故郷を見ることは二度となかった]] {{Main|奴隷貿易}} 長い間アフリカは、[[奴隷制度]]に蝕まれてきた<ref name=Slavery>{{cite web |url=http://www.britannica.com/blackhistory/article-24157 |publisher=Encyclopædia Britannica |title=Historical survey > Slave societies |accessdate=2011-03-01 |language=英語}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www7.nationalgeographic.com/ngm/data/2001/10/01/html/ft_20011001.6.html |publisher=National Geographic |title=Swahili Coast |author=Robert Caputo |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。7世紀から20世紀に至るまで[[アラブ人の奴隷貿易|アラブ世界への奴隷貿易]]は継続して行われ、1800万人がサハラ交易や[[インド洋]]貿易で取引された。[[大航海時代]]を迎えたヨーロッパのアフリカ進出は金が目的だったが、既にアラブ諸国への交易路が形成されていることを知ると、対象を奴隷の確保に変えた<ref name=Recca17>[[#レッカ2011|レッカ (2011)、pp.17-19、奴隷貿易、アフリカ分割を乗り越えて独立へ]]</ref>。15世紀から19世紀までの500年には{{仮リンク|大西洋奴隷貿易|en|Atlantic slave trade|label=アメリカ州向けの奴隷貿易|preserve=1}}が行われ、700-1200万人が新世界の奴隷として輸出された<ref name=Slavery /><ref>{{cite web |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/1523100.stm |publisher=BBC News |title=Focus on the slave trade |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=5t5ERBlosqUC&pg=PA25&dq=%22muslim+slave+trade%22&sig=XSpyahikSAcJv9wxLcLOJxylVL4&redir_esc=y&hl=ja ''Transformations in Slavery:A History of Slavery in Africa''] p 25 by Paul E. Lovejoy</ref>。 1820年代、西アフリカは大西洋航路の[[奴隷貿易]]が衰退し、地域の経済活動に変革を迫られた。ヨーロッパや新世界における[[奴隷制度廃止運動]]の沸きあがりに応じたジリ貧や、海岸部での[[イギリス海軍]]駐留数の増加は、アフリカ諸国に新しい経済体制の選択をさせた。1808年から1860年の間に、イギリスの{{仮リンク|西アフリカ小艦隊|en|West Africa Squadron}}は約1600隻の奴隷船を拿捕し、15万人のアフリカ人を解放した<ref>{{cite web |url=http://www.bbc.co.uk/devon/content/articles/2007/03/20/abolition_navy_feature.shtml |publisher=BBC News |title=Sailing against slavery |author=Jo Loosemore |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。 また、奴隷貿易非合法化に抵抗する指導者層に対しても行動を起こし、例えば1851年「[[ラゴス]]の略奪王 (the usurping King of Lagos)」攻略などが挙げられる。反奴隷貿易の協定はアフリカ50カ国以上の国々で締結された<ref>{{cite web |url=http://www.pdavis.nl/Background.htm#WAS |title=The West African Squadron and slave trade |publisher=Pdavis.nl |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。この動きに、国力があった[[アシャンティ王国]]、[[ダホメ王国]]、{{仮リンク|オヨ王国|en|Oyo Empire|preserve=1}}は順応する動きを取り、アシャンティやダホメは[[パーム油]]や[[カカオ]]、{{仮リンク|ランバー材|en|timber|preserve=0}}や金など、現在の主力でもある商品輸出という「合法的な通商」へ転換した。しかしオヨ王国は適応できず、内戦の末に崩壊した<ref>Simon, Julian L. (1995) ''State of Humanity'', Blackwell Publishing. p. 175. ISBN 1-55786-585-X.</ref>。 === アフリカ分割 === [[ファイル:Map of Africa from Encyclopaedia Britannica 1890.jpg|サムネイル|200px|アフリカの地図 1890年]] {{Main|アフリカ分割}} [[19世紀]]後半には、アメリカ解放奴隷が建国した[[リベリア]]と[[第一次エチオピア戦争]]で独立を維持したエチオピアを除いて、ヨーロッパ諸国による[[アフリカ分割]]が行われ<ref name=Recca17 />、西アフリカの小王国が滅ぼされた。このとき国境線が民族や宗教に関係なく勝手に引かれたため、後の[[民族紛争]]の原因ともなった<ref>[[#地名2000|地名の世界地図 (2000)、第8章、pp.190-193、勝手に線引きされた国境]]</ref>。[[緯線]]や[[経線]]を基準に引かれていることが多い。 === 脱植民地化 === {{Main|アジア・アフリカ諸国の独立年表|[[:en:Decolonization of Africa]]}} ヨーロッパ列強の[[帝国主義]]は[[第二次世界大戦]]以降も続いたが、次第に弱まってアフリカ諸国の独立への機運が高まった。1951年にはリビアが[[イタリア]]から、1956年にはチュニジアと[[モロッコ]]が[[フランス]]から独立を果たした<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=Ltzav890zpIC&pg=PA118&dq=tunisia+morocco+independance+1956&hl=fr&ei=M-AVTafIN4is8QPWosSDBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false Lucien Bély, ''History of France''. Editions Jean-paul Gisserot. 2001. page 118]</ref>。翌年には[[ガーナ]]が続き<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=87V55ZHppSYC&pg=PA5&dq=ghana+independance+1957&hl=fr&ei=KeMVTfTRMImo8QPe5c2EBw&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false Ernest Aryeetey, Jane Harrigan and Machiko Nissanke, ''Economic reforms in Ghana:the miracle and the mirage''. Africa World Press. 2000. page 5]</ref>、サブサハラ初の脱植民地を成した。 1960年のいわゆる「アフリカの年」ごろからヨーロッパの植民地から次々に独立国が誕生したが<ref name=Recca17 />、[[独裁政治]]の発生や内戦などの問題を抱えつつ今日に至っている。なお、政治的統合をして、[[新植民地主義]]への対抗や民主主義の促進、アフリカ地域の国際的地位向上などを目指し1963年5月に発足した[[アフリカ統一機構]](OAU)が、2002年7月9日には発展解消して[[アフリカ連合]]が成立した<ref name=Recca17 />。これは、個々の国を超えた枠でのアフリカ政治の中心的役割を担い、今日でも紛争、貧困、エイズなど山積みする問題の解決や国際的地位の向上を目指している<ref name=Recca17 />。 == 地理 == {{Main|アフリカの地理}} [[ファイル:AfricaCIA-HiRes.jpg|左|サムネイル|200px|現在のアフリカ]] 北は地中海、西は[[大西洋]]、東は[[インド洋]]および[[紅海]]に面する<ref name=Recca20>レッカ (2011)、pp.20-23、アフリカの地形と気候</ref>。南端の[[アガラス岬]]で大西洋とインド洋が接する。南北約8,000[[キロメートル|km]]<ref>Lewin, Evans. (1924) ''Africa'', Clarendon press.</ref>、東西約7,400km<ref name="MW">(1998) ''Merriam-Webster's Geographical Dictionary (Index)'', Merriam-Webster. pp. 10–11. ISBN 0-87779-546-0.</ref>。海岸線は総延長26,000kmである<ref name=MW />。かつてはスエズ地峡により[[ユーラシア大陸]]とつながっていたが、現在では[[スエズ運河]]が開通して分断され<ref>Drysdale, Alasdair and Gerald H. Blake. (1985) ''The Middle East and North Africa'', Oxford University Press US. ISBN 0-19-503538-0.</ref>、この運河がアフリカとアジアの境界と受け取られる場合もある<ref>{{cite web |url=http://www.nationalgeographic.com/xpeditions/atlas/index.html?Parent=africa&Rootmap=&Mode=d |title=Atlas - Xpeditions @ nationalgeographic.com |publisher=National Geographic Society |year=2003 |accessdate=2011-03-01 }}</ref>。 大陸北側に世界最大の[[砂漠]]であるサハラ砂漠をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。また大陸東部にはパンゲア大陸が[[ゴンドワナ]]・[[ローラシア]]大陸に分裂したときの名残である2,000kmの[[隆起地帯]](ドーミング)と、それを東西に切り裂く世界最大長の[[アフリカ大地溝帯]](東アフリカ地溝帯)が南北に走る<ref name=Hamaguchi>{{Cite web|和書 |url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/kazan/J/koukai/98/hamaguchi.html |title=日本火山学会第5回公開講座・1:アフリカの火山・東北の火山 |author=浜口博之 |publisher=[[京都大学]]生態学研究センター |accessdate=2011-03-01 |deadlinkdate=2018-1-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120825024804/http://wwwsoc.nii.ac.jp/kazan/J/koukai/98/hamaguchi.html |archivedate=2012-8-25 }}</ref>。この南端にはアフリカ大陸[[最高峰]]の[[キリマンジャロ山]](5,895[[メートル|m]])があり、これは他の五大陸最高峰が非火山であるのに対し唯一[[火山活動]]で形成されたものである<ref name=Hamaguchi />。大地溝帯には複数の[[火山]]や東アフリカ大湖沼群<ref name=Take>{{Cite web|和書 |url=http://www.ecology.kyoto-u.ac.jp/~nokuda/research&education/member.files/Takeyama/21COE.htm |title=安定同位体を用いたダンガニイカ湖シクリッドの食物網の解明 |author=武山智博/[[東北大学]]大学院理学研究科教授 |publisher=[[日本火山学会]] |accessdate=2011-03-01 }}</ref>があり、西側で接するエチオピア高原などの高地部分にも{{仮リンク|ニアムラギラ山|en|Mount Nyamuragira|preserve=1}}や[[ニーラゴンゴ山]]などの[[活火山]]や<ref name=Hamaguchi />[[ヴィクトリア湖]]などの[[古代湖]]が残る<ref name=Take />。しかしアフリカ大陸全体で、標高500m以上の領域は半分程度に過ぎない。理由はこれも大陸移動が関係しており、アフリカは[[パンゲア大陸]]の中心部として移動した距離が短く、山脈が形成されにくかったことが挙げられる<ref name=Recca20 />。[[マダガスカル]]を始めとした6つの島国が存在する。 == 動植物 == アフリカ大陸全般の経済成長で[[自然保護区]]が設置されるものの、依然として色濃く豊かな自然、人類学術的な側面から、生物の多様性とヒトを含めたその起源の候補地とされている。 * [[マルーラ]] - アフリカ各地に分布する[[植物]]の一種で[[ウルシ科]]に属する。分布地域では伝統的に[[食品]]や[[油]]として利用して来た歴史がある。 * [[ケイアップル]] - アフリカの原生植物の一つで[[ヤナギ科]]に属する。[[グレイト・ケイ川]]流域からアフリカ大陸東海岸沿いにかけて栽培されており、原産地は[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]となっている。 == 気候 == 気候は多様である。ほぼ赤道直下に位置する大陸中央部は西部の[[ギニア湾]]沿岸から大陸中部のコンゴ盆地にかかる[[熱帯雨林]]で高温多湿な地域が広がり、これを挟んでセレンゲティ高原などの[[サバナ (地理)|サバンナ]]地域が広がる。さらに高緯度に向かうと[[砂漠気候]]域に入り、北にはサハラ砂漠、南には[[カラハリ砂漠]]が広がる。大陸北端と南端は[[地中海性気候]]域となる<ref name=Recca23>レッカ (2011)、pp23、ときには氷点下を記録する砂漠気候</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Ruined tank in Hargeisa, Somaliland.jpg|200px|サムネイル|[[ソマリア]]で放棄された戦車。長期化する[[ソマリア内戦|内戦]]は解決の糸口を見出せない。]] [[ファイル:Somalis lining up for food.jpg|200px|サムネイル|食糧配給に列をなす[[ソマリア]]の人々。]] アフリカの多くの国々は情勢が非常に不安定であり、ヨーロッパなどに比べると遙かに[[治安]]が悪い地区が多い。政治的に安定している国はごくわずかである。イギリスの雑誌『[[エコノミスト]]』は、2008年にアフリカ各国の政治情勢を民主主義達成度から分析し公表した。これによると、対象50カ国(ソマリア、セーシェル、サントメ・プリンシペ及び西サハラ、ソマリランドは含まれない)のうち、完全な[[民主主義]]を実現している国は[[モーリシャス]]ただ1国で、6カ国は欠陥のある民主主義、9カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な[[独裁体制]]と分析されている<ref name=Recca28>レッカ (2011)、pp.28-31、紛争によって国を追われる難民</ref>。 このような体制が出来上がった背景には、[[植民地|植民地支配]]の影響がある。現在のアフリカ各国の[[国境線]]は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。これはヨーロッパ[[列強]]間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。そのため独立後にも国民はまとまりを欠き、強権的な政府体制として[[アフリカ社会主義|アフリカ型社会主義]]もしくは[[開発独裁]]体制が選択された。しかし前者は構造的に経済発展には向かず、後者は[[汚職]]や主導権争いが絶えなかった。さらには非アフリカ人を排除したために人材不足にも陥り<ref name=Uchida>{{Cite web|和書 |url=http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~tetsuta/jeps/no3/uchida.pdf |format=PDF |title=アフリカにおける開発経済学 |author=内田しのぶ |publisher=[[香川大学]]経済学部経済政策研究 |accessdate=2011-03-01 |language=日本語 }}</ref>、結果的に、かつては「[[アジア・アフリカ会議|AA]]」もしくは[[南北問題]]と呼ばれて同じように発展途上に苦しんだ[[アジア]]各国が急速な経済発展を実現しつつあるのに対し、アフリカは「例外的に成長しない」経済体制と評され、取り残されたまま現在に至る<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2006/08.KATSUMURA.pdf |format=PDF |author=勝村務 |publisher=[[筑波学院大学]]紀要 |date=2006年 |title=世界経済論の焦点としてのアフリカ |accessdate=2011-03-03 |language=日本語 }}</ref>。 そのために[[内戦]]や紛争も多く、代表的なものでは1991年からの[[ソマリア内戦]]、1997年からの[[コンゴ内戦]]、2003年からの[[ダルフール紛争]]などが尾を引いている<ref name=Recca28 />。国民の大多数が[[イスラム教]]徒であり、比較的に安定した政治を行っていた北アフリカ<ref name=Recca244>レッカ (2011)、pp.244-245、第8章 北アフリカ 序文</ref>も、2010年に発生した[[アラブの春|各国の動乱]]以来、政権が大きく揺らいでいる。 終わりが見えない内戦や紛争、および貧困から、アフリカでは多くの[[難民]]が発生している。[[国際連合難民高等弁務官事務所]]推計による2009年末のアフリカ難民は約230万人、さらに国内の避難民は約650万人にのぼる<ref name=Recca28 />。また、農村疲弊による人口の都市部集中に伴った[[スラム]]化も進展し、モザンビークやタンザニアなどでは人口の90%に相当するまで膨れ上がり、治安悪化などの問題が生じている<ref name=Recca28 />。 {{See|アフリカ連合|{{仮リンク|アフリカの国別の政党の一覧|en|List of political parties in Africa by country}}}} {{also|{{仮リンク|アフリカの政治制度 (書籍)|en|African Political Systems}}}} == 経済 == {|class="wikitable" style="float:right;text-align:right;font-size:80%;margin:1em" |- |colspan=4|{{center|'''アフリカの名目GDP順位 (2022年)'''}} |- |colspan=1|順位 |colspan=1|{{center|国}} |colspan=1|単位:100万ドル |- |1 |align=left|{{NGA}} |510,588 |- |2 |align=left|{{EGY}} |435,621 |- |3 |align=left|{{ZAF}} |426,166 |- |4 |align=left|{{DZA}} |193,601 |- |5 |align=left|{{MAR}} |133,062 |- |6 |align=left|{{KEN}} |123,827 |- |7 |align=left|{{ETH}} |105,325 |- |8 |align=left|{{TZA}} |77,506 |- |9 |align=left|{{AGO}} |74,495 |- |10 |align=left|{{GHA}} |73,894 |- |11 |align=left|{{CIV}} |73,047 |- |12 |align=left|{{COD}} |64,795 |- |13 |align=left|{{LBY}} |48,773 |- |14 |align=left|{{UGA}} |46,377 |- |15 |align=left|{{CMR}} |45,713 |- |16 |align=left|{{TUN}} |45,642 |- |17 |align=left|{{ZWE}} |36,387 |- |18 |align=left|{{SDN}} |31,460 |- |19 |align=left|{{SEN}} |28,435 |- |20 |align=left|{{ZMB}} |26,665 |- |21 |align=left|{{GAB}} |22,456 |- |22 |align=left|{{GIN}} |20,952 |- |colspan=3|''出典:[[国際通貨基金|IMF]]''{{R|GDP}} |}[[ファイル:Joburg top.jpg|サムネイル|200px|南アフリカ最大の都市[[ヨハネスブルグ]]。アフリカ最大の[[金融センター]]である<ref>[http://www.zyen.com/GFCI/GFCI%209.pdf The Global Financial Centres Index 9]</ref>。]] [[ファイル:Kobli1.jpg|200px|サムネイル|[[ベナン]]、2008年。農業はアフリカの主要な産業だが、決して経済性は高くない。]] {{main|{{仮リンク|アフリカの経済|en|Economy of Africa}}}} IMFによると、2009年のアフリカ52ヶ国の合計の[[国内総生産|GDP]]は1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。アフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、[[鳥取県]](平成18-19年度<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h19/gaiyou.pdf |format=PDF |publisher=内閣経済社会総合研究所 |title=平成19年度の県民経済計算について |accessdate=2011-03-03 |language=日本語 }}</ref>)とほぼ同じ経済規模である<ref name="GDP">{{cite web |url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2009/02/weodata/index.aspx |publisher=国際通貨基金 |title=IMF:World Economic Outlook Database |accessdate=2011-03-03 |language=英語 }}</ref>。アフリカ最大の経済大国は南アフリカである。アフリカ唯一の[[G20]]参加国であり、2010年には史上初めてアフリカ大陸でサッカーの[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]を開催している。またアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、[[北部アフリカ]]において影響力の強い国の一つになっている。 豊富な[[天然資源]]を持ちながら、アフリカは世界で最も貧しい発展途上の状態にある。これは、[[エイズ]]や[[マラリア]]など深刻な感染症の蔓延、高い[[腐敗認識指数]]で指摘される政治によって引き起こされる[[人権]]の抑圧や経済政策の失策、また国民の低水準な[[リテラシー]]や不得手な[[外交]]、さらに[[ゲリラ]]から大量殺戮まで含まれる[[部族]]間や[[軍隊]]による[[戦闘]]など、さまざまな要因の結果である<ref>Richard Sandbrook, The Politics of Africa's Economic Stagnation, Cambridge University Press, Cambridge, 1985 passim</ref>。国際連合の2003年度人間開発報告書によると、開発の度合いを示す尺度において調査対象の最低ランク25か国(151位から175位まで)を全てアフリカの国々が占めた<ref>{{cite web |url=http://hdr.undp.org/ |publisher=国際連合 |title=Human Development Report |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。 貧困、文盲、栄養失調、不充分な給水体制や衛生管理、病気の蔓延などの悪影響をアフリカに住む多くの人々が受けている。2008年、[[世界銀行]]は国際的な[[貧困率]]の定義を1日当たり所得1USドル未満から1.25USドル未満に引き上げた<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.csr-magazine.com/knowledge/q_07.html |title=絶対的貧困と相対的貧困 |publisher=CSR Magazine |accessdate=2011-03-01 |language=日本語 }}</ref>。サブサハラ諸国では、人口の80.5%が1日当たり2.5USドル未満([[購買力平価説|PPP]])で暮らしている<ref>{{cite web |url=http://siteresources.worldbank.org/JAPANINJAPANESEEXT/Resources/515497-1201490097949/080827_The_Developing_World_is_Poorer_than_we_Thought.pdf |format=PDF |title=The developing world is poorer than we thought, but no less successful in the fight against poverty |publisher=World Bank |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。 この統計は、サブサハラが1日1.25USドルという貧困の基準を脱することが世界中で非常に難しい地域であることを示す。1981年のデータではこの地域に住む50%(2億人に相当)の人々が貧困層に相当していたが、1996年には58%まで上昇し、2005年には率は50%となったが人口の絶対数は3.8億人に増加している。貧困層平均所得は1日0.7USドルに過ぎず、2003年の数値は1973年よりも悪化している<ref>{{cite web |url=http://www.un.org/Depts/rcnyo/newsletter/survs/ecasurv2004.doc |format=DOC |title=Economic report on Africa 2004:unlocking Africa’s potential in the global economy, (Substantive session 28 June-23 July 2004) |publisher=国際連合 |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。 この原因を、外国企業と外国政府主導による経済自由化政策の失敗に求めることもあるが、このような外的要因よりも国内政治の失策が大きいという指摘もある<ref>{{cite web |url=http://www.globalpolitician.com/21498-africa-malawi-poverty |title=Neo-Liberalism and the Economic and Political Future of Africa |publisher=Globalpolitician.com |date=2005-12-19 |accessdate=2010-05-18 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://science.jrank.org/pages/8526/Capitalism-Africa-Neoliberalism-Structural-Adjustment-African-Reaction.html |title=Capitalism – Africa – Neoliberalism, Structural Adjustment, And The African Reaction |publisher=Science.jrank.org |accessdate=2011-03-01 }}</ref>。 1995年から10年間にアフリカは経済成長を続け、2005年の平均成長率は5%に達した。さらに、埋蔵[[石油]]を持ち輸出に振り分けるため掘削に着手したアンゴラ・スーダン・[[赤道ギニア]]など数カ国はさらなる成長が見込まれる。さらにアフリカには世界中の[[コバルト]]90%、[[白金]]90%と金の50%、[[クロム]]98%、{{仮リンク|タンタル石|en|tantalite|label=タンタライト|preserve=1}}70%<ref>{{cite web |url=http://allafrica.com/stories/200802070635.html |title=Africa:Developed Countries' Leverage On the Continent |publisher=all Africa .com |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>、[[マンガン]]64%、[[ウラン]]33%<ref>{{cite web |url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/africa/article3319909.ece |title=Africa, China's new frontier |publisher=The Times Online |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>が存在すると考えられている。[[コンゴ民主共和国]]には、[[携帯電話]]の製造に欠かせない[[コルタン]]が世界の70%に相当する量に上り、[[ダイヤモンド]]も世界の30%以上が同国に存在する<ref>{{cite web |url=http://siteresources.worldbank.org/JAPANINJAPANESEEXT/Resources/515497-1201490097949/08 http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/5209428.stm |title=DR Congo poll crucial for Africa |publisher=BBC News |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。[[ギニア]]は世界最大の[[ボーキサイト]]供給国である<ref>{{cite web |url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/africa/article6871943.ece |title=China tightens grip on Africa with $4.4bn lifeline for Guinea junta |publisher=The Times Online |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。このようにアフリカの経済成長はほとんどが資源提供を背景としたもので、工業や農業の発展ではなく、雇用創出や貧困からの脱却に寄与していない。実際に、2008年にリーマンショックを原因として起こった食糧危機では、1億人が飢餓状態に陥った<ref>{{cite web |url=http://www.strategicforesight.com/african_decade.htm |title=The African Decade? |author=Ilmas Futehally |publisher=Strategic Foresight Group |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。 特に[[中華人民共和国]]はかねてからアフリカ諸国への{{仮リンク|スタジアム外交|en|Stadium diplomacy}}や大統領府<ref>{{Cite web|和書|url=http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12452|title=中国がアフリカを新たに植民地化?|author=岡崎研究所 |publisher=WEDGE Infinity|accessdate=2018-07-24|language=英語}}</ref>などの[[箱物]]や[[タンザン鉄道]]の建設に象徴される強い結びつきを構築してアフリカ連合本部も建設しており、2009年に中国はアフリカ最大の貿易相手国になった<ref name=Africa>{{Cite web|和書 |url=https://www.huffingtonpost.jp/foresight/china-africa-industrialization_b_9015870.html |title=「アフリカの工業化」を打ち出した「中国の新戦略」への評価 |author=[[ハフポスト]] |accessdate=2016-01-20 |language=日本語 }}</ref>。 鉱業を除けばアフリカの主要産業は農業であり、他国と産業構造が著しく異なる南アフリカを除くとその就業人口比は66.1%、輸出比は15.4%(2000年)である。しかしこれらはカカオなど特定地域の特定産物を除けば農業生産性が高い[[アメリカ合衆国]]等農業先進国との競争には弱く、大半の農産物はアフリカ内部で消費される。しかしながら、1961年から2000年にかけて人口が3倍になったのに対し、穀物は1.35倍程度しか伸長していない。土地の生産性もアジアや南アメリカが大きく伸ばしているのに対し4割以下まで落ち込んでいる。このような状況に陥った要因は、アフリカでは人口増加に対応する農業生産を高める手段をもっぱら耕地面積の拡大に依存した点がある。しかしこれは痩せた土地の利用や少ない水資源の制約等がからみ、充分な効果をあげることができなかったことを物語る<ref name=Uchida />。2010年に[[ハーバード大学]]は、政治さえ安定していればアフリカは食糧自給が可能との研究結果を発表した<ref>{{cite web |url=http://www.sciencedaily.com/releases/2010/12/101202124337.htm |title=Africa Can Feed Itself in a Generation, Experts Say. |publisher=Science Daily |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。低い農業生産性は、従事者の貧困を招く原因のひとつであり、農業改革を行う技術や人材の育成が望まれる<ref name=Uchida />。 アフリカの農地は、その65%が土壌浸食の被害を受けている<ref>{{cite web |url=http://www.independent.co.uk/news/world/africa/nature-laid-waste-the-destruction-of-africa-844370.html |title=Nature laid waste:The destruction of Africa |publisher=The Independent |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。また、[[国際連合環境計画]] (UNEP) によると、アフリカの[[森林破壊]]は世界平均の2倍の速度で進行している<ref>{{cite web |url=http://www.africanews.com/site/list_messages/18831 |title=Deforestation reaches worrying level – UN |publisher=Africa News |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。報告の中には、西アフリカの約9割が既に破壊されたというものもある<ref>{{cite web |url=http://www.afrol.com/features/10278 |title=Forests and deforestation in Africa – the wasting of an immense resource |publisher=afrol News |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。これはマダガスカルでも同様で、人類が進出してからの2000年で90%以上の原生林が失われた<ref>{{cite web |url=http://www.nationalgeographic.com/wildworld/profiles/terrestrial/at/at0118.html |title=Terrestrial Ecoregions – Madagascar subhumid forests (AT0118) |publisher=National Geographic |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。干ばつや[[灌漑]]などによる環境への影響もあり、チャド湖は40年前と比較して面積が1/10まで減少した<ref name=Recca28 />。 {{See also|アフリカ経済委員会|{{仮リンク|アフリカにおける貧困|en|Poverty in Africa}}}} == 人口統計 == {{main|{{仮リンク|アフリカの人口統計|en|Demographics of Africa}}}} [[ファイル:African_language_families_en.svg|サムネイル|200px|アフリカの語族および主要なアフリカ言語の分布を示す地図。]] [[ファイル:Official languages in Africa.svg|サムネイル|upright=1.5|多くのアフリカ諸国では1つ以上の公用語を話す {|cellpadding="0" |- |{{legend|#FF8C00|[[アフリカーンス語]]}} ||{{legend|#8EB423|[[ポルトガル語]]}} |- |{{legend|#19822D|[[アラビア語]]}} ||{{legend|#DAC716|[[スペイン語]]}} |- |{{legend|#C35A91|英語}} ||{{legend|#55433B|[[スワヒリ語]]}} |- |{{legend|#415096|[[フランス語]]}} ||{{legend|#8A8B8D|その他の言語}} |}]] 現在、アフリカの人口は爆発的に増え、特にこの40年は顕著である。国によっては人口の半数以上が25歳以下という所もある<ref>{{cite web |url=http://www.overpopulation.org/Africa.html |title=Africa Population Dynamics |accessdate=2011-03-01 }}</ref>。総人口は、1950年に2億2100万人だったが、2009年には10億人まで膨れ上がった<ref>{{cite web |url=http://bioweb.wku.edu/courses/Biol115/wyatt/Population/pop1.htm |publisher=Western Kentucky University |title=The World Balance Population |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.africanews.com/site/Africas_population_now_1_billion/list_messages/26588 |publisher=Africa News |title=Africa's population now 1 billion |author=Kingsley Kobo |accessdate=2011-03-01 |language=英語 }}</ref>。世界の人口は増え続ける傾向にあるが、アフリカ地域の増加分がかなりの量を占めている。この人口増加は経済成長を伴っていないため、環境破壊や貧困層の増大などさまざまな問題をもたらしている。大陸全体が[[リカードの等価定理|リカードの罠]]に陥っているとの指摘もある。 === 民族 === {{Main|アフリカ人}} 北アフリカは、イスラム教とともに[[アラブ人]]が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。 中南アフリカでは、従来からの先住民族が暮らす。 {{See also|{{仮リンク|アフリカのディアスポラ|en|African diaspora}}}} === 言語 === {{Main|アフリカの言語}} アフリカは[[言語]]の種類が多い。系統分類では4語族に大別されるが、部族毎に異なる特徴を持つために多くの言語数に分岐し、世界の言語数のうち30%程度を占めるとも言われる。また、同じ人々が使う言語にも、部族語と地域共通語、さらに[[公用語]]と状況に応じて使い分けられる垂直型の多層言語が存在し、総言語数を多くしている<ref>{{Cite web|和書 |url=http://gcoe.hus.osaka-u.ac.jp/kaji.pdf |format=PDF |author=梶茂樹/京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授 |publisher=[[大阪大学]]グローバルCOEプログラム |title=共生社会を生きるアフリカの言語と社会 |accessdate=2011-03-01 |language=日本語 }}</ref>。 ほとんどの国では植民地支配の影響をそのまま受け、欧米の言語を公用語としており、政府機関の作業言語や[[教授言語]]となっている。一方、エリート層と旧宗主国・欧米先進国との密接な関係から、国家ぐるみでもアフリカ固有の言語の普及や促進には力が入れられていないため、エリート層と庶民の間の教育格差という問題の発生につながっている。特に[[サブサハラ]]諸国においては、一部の国でアフリカ固有の言語も公用語に加えられているものの、実際にはタンザニア(スワヒリ語)やエチオピア(アムハラ語)、ソマリア(ソマリ語)の例外を除き、ほとんどが形骸化している。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|アフリカの宗教|en|Religion in Africa}}}} アフリカには1500以上の民族集団があり、それぞれが固有の信仰と儀礼体系を持っている<ref name="Mizoguchi">溝口大助 [[櫻井義秀]] ・平藤喜久子(編)「アフリカの宗教」『よくわかる宗教学』 ミネルヴァ書房 <やわらかアカデミズム<わかる>シリーズ> 2015年、ISBN 9784623072750 pp.106-107.</ref>。さらに、イスラム教[[スンナ派]]、[[キリスト教]]の[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]、[[プロテスタント]]の各派が分布している。また、これらの[[世界宗教]]と土着宗教が混淆し、[[シンクレティズム]]によって独自に発展した宗派もある<ref name="Mizoguchi"/>。 伝統的な土着宗教は、[[祖霊信仰]]や[[自然崇拝]]に加え、サブサハラでは[[創造神]]の概念も存在する<ref name=Recca84>レッカ (2011)、pp.84-85、アフリカ宗教分布MAP</ref>。また、[[呪術]]信仰も根強く、これを担う[[シャーマニズム]]も健在である<ref name=Recca86>レッカ (2011)、p.86、シャーマンと呪術</ref>。 多くのアフリカの土着宗教には、予測不能な不幸が発生したとき、不幸の原因を想像力で理解するための適切な解釈を与え、その不幸に対処するための複数の観念や制度を内包したものであること、農耕儀礼や人生の通過儀礼など幸福を希求する儀礼的実践であることが、共通する特徴として見られる<ref name="Mizoguchi"/>。 {{see also|{{仮リンク|アフリカの伝統宗教|en|Traditional African religions|fr|Religions traditionnelles africaines}}}} 世界宗教のアフリカ伝播は、ローマ帝国の領土拡大に伴うローマ・カトリックが最初に当たり、これは4-5世紀に北アフリカで最盛期を迎える。しかしこれは同帝国の衰退とアラブ人の進出によって衰退した。19世紀のアフリカ分割に伴うヨーロッパ列強の植民地化によって再びローマ・カトリックは広まったが、この地域は中央アフリカに場所を変えていた<ref name=Recca84 />。イスラム教スンナ派は北アフリカを中心に人口の30-40%を占める。その伝播経路は、ナイル川に沿ったアラブ人の進出、サハラ交易による伝播、海上貿易による東海岸沿岸への伝播の3つがある<ref name=Recca84 />。プロテスタントもまたアフリカ分割とともに広まったが、その地域は南部が主流となった。南アフリカにはいち早くアフリカ人によって教会が建設された。その特色は[[聖書中心主義]]があり、また[[ペンテコステ派]]と土着宗教が融合した精霊教会という形態も存在する<ref name=Recca84 />。 {{See also|{{仮リンク|アフリカの国別における宗教の自由|en|Freedom of religion in Africa by country}}}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|アフリカの教育|en|Education in Africa}}}} アフリカの[[教育]]は世界の中でも未発達で、特にサハラ以南の多くの国々で[[就学率]]が低い。学校は基礎設備に欠き、[[アフリカの大学]]は生徒の増加と、教職員がより高い給料を求めて西側諸国に移住する為の不足が問題となっている。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]2000年の調査「Regional overview on sub-Saharan Africa」では、児童就学率は58%に止まった<ref>{{cite web |url=http://www.unesco.org/education/efa_report/zoom_regions_pdf/ssafrica.pdf |format=PDF |publisher=国際連合教育科学文化機関 |title=Regional overview on sub-Saharan Africa |accessdate=2011-03-01 |pages=1 |chapter=Universal primary education:still a long way to go, especially for girls |language=英語 }}</ref>。 アフリカでは出生登録が充分に行われず、親が子供に教育を受けさせようとする意識が低い。これらに貧困が加わり、教育現場からの脱落のみならず、児童労働や人身売買、育児放棄や犯罪、子供が戦場へ狩り出されるなど様々な問題が生じている<ref name=Uchida />。 ステレンボッシュ大学は、南アフリカのラグビーの「メッカ」と評され、「アフリカ民族主義のルーツ」を明らかにすることで、英語圏の大学に対抗していた<ref>{{Cite web|title=Summon 2.0|url=https://aucegypt.summon.serialssolutions.com/#!/search?bookMark=eNqNkE1PAjEYhGtEo6xcjD8AT57At9_bo2xQSUi8GK9N231LQNzFbTHRXy-EAx49TubJzGT6pNe0DRJyQ2HMOOj71TjkL9r8LFgwJ6RPDStFCVzq07_ifCfYjjdKK3FBBiktPQjYe4JdkutZM6yXMWKHTR7m5QemK3IW3TrhgPRyt8WCvD1OX6vn0fzlaVY9zEeOCQAYlUrWSgIqI4ORQtU1Fy6KqD16XYOQUaAzFEoZfZQOqObclCXWxocotOEFuT0Eu23Axfcm2-CyW7cL6zkFqaWirCB3B2bTtZ9bTNmib9v3sBvbubWdTirFGaXaHMlVym1n91SyFOz-Kruyx6vYf3p_AXKhZGo|website=aucegypt.summon.serialssolutions.com|accessdate=2021-12-01}}</ref>。 ==== 運動 ==== *[[アフリカ開発のための新パートナーシップ|NEPAD]]'s [[NEPAD E-School program|E-school program]], [[インターネット]]・[[コンピュータ]]設備を大陸全学校に備える事を目的としている<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ticad/new_afi.html |title=アフリカ開発のための新パートナーシップ |publisher=[[外務省]] |accessdate=2011-03-01 |language=日本語 }}</ref>。 *[[ブリティッシュ・エアウェイズ]] は[[国際連合児童基金|ユニセフ]]と共に "Change for Good in Africa" プロジェクトとして、 モデルスクール・Kuje Science Primary Schoolをナイジェリアに建てた(2002年)<ref>{{Cite web|和書 |url=http://website.informer.com/change+for+good+in+africa |title=Web sites related to change for good in africa |publisher=website.informer.com |accessdate=2011-03-01 |language=日本語 }}</ref>。 === 保健 === [[ファイル:Starved girl.jpg|150px|サムネイル|[[ナイジェリア]]救援キャンプの少女。栄養失調から来る[[クワシオルコル]]の症状が見られる。1960年代に撮影された。]] アフリカは栄養・医療・衛生面でさまざまな問題を抱えている。2008年度世界の栄養不足率が高い10位(同率があり12カ国)は[[ハイチ]]を除いてアフリカ諸国に占められ、1位のコンゴ民主共和国は76%の国民が相当する<ref>The State of Food Insecurity in the World 2008</ref>。このような環境は乳幼児にも悪影響を及ぼし、サブサハラ全体で5歳未満の死亡率は15-20%で推移している。これも、[[下痢]]や[[はしか]]など医療環境が整っていれば助かるものだが、[[世界保健機関]] (WHO)が定める最低医療体制である人口10万人あたりの[[医師]]20人・[[看護師]]100人・その他医療従事者228人という基準を満たすサブサハラの国は南アフリカのみである(2007年度)<ref name=Recca26>レッカ (2011)、pp.26-28、不足する医療と増加するHIV感染者</ref>。 {{main|{{仮リンク|アフリカのHIV/AIDS|en|HIV/AIDS in Africa}}}} また、[[後天性免疫不全症候群]](エイズ)の蔓延も大きな問題となっており<ref name=Recca26 />、国家予算の半分近くがエイズ対策に費やされる国家すら出現している。特にサブサハラではひどく、15歳以上の感染率はスワジランドでは26.1%、ボツワナでは23.9%にのぼる(2008年<ref>2008 Report on the global AIDS epidemic</ref>)。感染者数最大は医療体制が比較的充実している南アフリカの570万人である。世界中のエイズ感染者のうち2/3がサブサハラに集中している<ref name=Recca26 />。この蔓延には女性の社会的地位が低いことも一因であり、[[強姦|レイプ]]の多発や[[一夫多妻制]]などが影響していると考えられ、実際に感染率は女性の方が軒並み高い<ref name=Recca26 />。これらの要因から中南部諸国における[[平均寿命]]は著しく低下し、10カ国以上で50歳を下回っている<ref name=Recca26 />。 {{see also|{{仮リンク|アフリカン・ヘルス・サイエンス|en|African Health Sciences}}}} == 治安 == アフリカの治安は現今、どのエリアにおいても確実に安定しているとは言い難い。その理由の一つとして挙げられるのは[[紛争]]による経済の発展の停滞である。アフリカでは近年、紛争が特定地域に集中する傾向があり、北アフリカでは[[リビア]]、西アフリカでは[[マリ共和国|マリ]]から[[ナイジェリア]]北部地域、中部アフリカでは[[中央アフリカ共和国]]と[[コンゴ民主共和国]]東部地域、東アフリカでは[[南スーダン]]と[[ソマリア]]南部地域がその一例に挙げられる。 原因となるものは主に[[イスラーム過激主義|イスラーム急進主義]]と国家そのものを巡る問題の二つが挙げられる。 一つ目の問題であるイスラーム急進主義は宗教に関係する面を持っているが、一般的な宗教問題と違い、内容が[[テロリズム]]に絡んだものが殆どであることから宗教とは別次元の問題とされている。 イスラーム急進主義を掲げる組織が活動を広げる理由は地域によって異なるが、共通するものには地理的に近い[[中東]]の影響が深い点がある。アラブ人が住民の圧倒的多数を占める北アフリカは勿論のこと、サハラ砂漠南縁部もほとんどの住民が[[ムスリム]]である事から中東で活発化したイスラーム急進主義の余波が、武器や資金の供与などを通じて、広がりやすい社会環境を作り上げている。 上述した国々の中で、リビアは今日イスラーム急進主義組織の一つである[[ISIL|IS]](イスラム国)の主要拠点の一つになっており、マリ、ナイジェリア、ソマリアなど、サハラ砂漠周辺地域でも、しばしば[[アルカーイダ]]やISとの関係を強調しイスラーム急進主義を掲げる組織が紛争の原因となっている。 もう一つの問題は国家が国民からの信頼を失っている点にある。多くの場合、開発の失敗や汚職をはじめ人種差別や言語の違いによる対立などにより政府が人々の信頼を失った状況に立たされている。一例として南部アフリカの[[南アフリカ共和国]]と中部アフリカの[[カメルーン]]が挙げられる。 南アフリカ共和国では[[アパルトヘイト]]廃止後に起きた失業問題に端を発する形で治安が急速に悪化してしまっており、同国の都市では、[[殺人]]や[[強盗]](強盗殺人を含む)、[[強姦]]、[[麻薬]]売買などの凶悪犯罪が昼夜を問わず多発している。また、カメルーンでは公用語に対する意識の違いから、国内地域が仏語話者と英語話者の2グループによって仕切られていて、英語圏地域が分離賛成派を中心に独立を掲げて同国政府へ反発する形で対立している。さらに言語による独立運動には過激な活動が相次ぎ、武装蜂起する流れも常態化している。 そして、その渦中の国家に数え上げるイスラム圏該当エリアの国では、そこに急進主義勢力が「'''正しいイスラーム'''」を掲げて武装活動を活発化させているのである。イスラーム急進主義には一種の「世直し運動」という性格があり、[[自爆テロ]]などの過激かつ凄惨な内容の手段を取ることが「命を懸けた主張」として捉えられている面を持つ。これらが現地政府への不信感と相俟って、[[大義名分]]に等しい扱いを受ける形で支持を受ける状態となっている。そういった考えや[[価値観]]が先に挙げた地域における社会で一定の共感を得たり共有されている為、問題の解決を非常に困難としてしまっている。 これらの国家や地域ではそうした事情から深刻な経済停滞が続いており、先述の国々は現状では解消される様子が見受けられず、現地住民の大半は常に逼迫した社会環境の中で危険と隣り合わせな生活を余儀なくされている。 しかし、それ以外の地域では大きな紛争はあまり発生しておらず、治安などが比較的安定した面が窺える。東アフリカの[[ルワンダ]]では、1994年に[[少数派]][[民族]]([[ツチ|トゥチ]])を標的とした[[ルワンダ紛争|大量虐殺]]が起こり、少なくとも50万人が殺害されたとされている。同国は現在、政治的に安定しており、大きな事件が起こる確率も当時に比べて格段に低くなっている。 {{節スタブ}} === 人権 === アフリカでは人権侵害をはじめとして、先の欄で挙げた干魃や飢餓、内戦や民族紛争などの危機的状況により自国を脱出する人々が後を絶たない。中には[[難民]]として他国へ[[亡命]]を図る人が大勢存在する。これに絡み、亡命先の国では幾多もの騒動や排他的な姿勢をとる人物の出現によって引き起こされる事件が問題化している面を持つ。 {{節スタブ}} {{See also|人及び人民の権利に関するアフリカ憲章|{{仮リンク|アフリカ人権委員会|en|African Commission on Human and Peoples' Rights}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|アフリカの文化|en|Culture of Africa}}}} エジプトからモロッコまでの北アフリカ諸国は、{{仮リンク|アラブ文化|en|Arab culture}}と関わりを持つ人々がいる。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|アフリカニズム|en|Africanisms}}}} === 食文化 === [[ファイル:Ugali and cabbage.jpg|200px|サムネイル|[[ウガリ]]]] {{Main|アフリカ料理}} アフリカの食文化は、[[狩猟民族]]的特長が強い。すなわち、肉やイモ類などをそれぞれ単一で料理し、複数の食材を混ぜて調理することは少ない<ref name=Recca240>レッカ (2011)、pp.240-241、アフリカ料理MAP</ref>。また、[[米]]を除く[[穀類]]のほとんどを挽いて[[粉食]]する点も特徴である。この代表が、イネ科穀物の粉を用いる西アフリカの「トー」や東アフリカの「[[ウガリ]]」が代表的である<ref name=Recca240 />。 [[酒]]では西部から中央部で作られる[[ヤシ酒]]、熱帯地方のバナナ酒などの特色がある。トウモロコシ類から[[ビール]]、もろみやバナナ酒から[[蒸留酒]]も造られる。[[ワイン]]醸造も行われ、現代では南アフリカが盛んな地域に当る<ref name=Recca240 />。 === 文学 === {{Main|アフリカ文学}} {{節スタブ}} === 哲学 === {{Main|{{仮リンク|アフリカ哲学|en|African philosophy}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === [[ファイル:Ke-Nako Music-Performance Vienna2008c.jpg|150px|サムネイル|2010年、南アフリカでドラムを演奏する男性。]] {{Main|{{仮リンク|アフリカ音楽|en|Music of Africa}}}} 特にサブサハラのアフリカ音楽は儀礼と結びつきが強く、[[ダンス]]に伴って演奏される。[[体鳴楽器]]や[[膜鳴楽器]]は独自のものが多様に存在し、前者では[[ラメラフォン|ラメラフォーン]]や[[コラ (楽器)|コラ]]、後者では様々な[[太鼓|ドラム]]が知られる。中には伝達手段に用いられる[[トーキングドラム]]などもある<ref name=Recca142>レッカ (2011)、p.142、アフリカ音楽と楽器</ref>。 また、リンガラ音楽こと旧[[ザイール]](現コンゴ民主共和国)の[[スークース]]や、[[フェラ・クティ]]や[[マヌ・ディバンゴ]]らによるファンキーな[[アフロビート]]、ガーナの[[ハイライフ]]、アルジェリアの[[ライ]]、アンゴラの[[クドゥーロ]]、タンザニアの[[ボンゴフレーバー]]、モザンビークの[[マラベンタ]]などの[[アフリカのポピュラー音楽]]もよく知られている。 {{See also|{{仮リンク|アフリカ音楽国際図書館|en|International Library of African Music}}|{{仮リンク|アフリカ音楽 (学術誌)|en|African Music (journal)}}}} === 美術 === {{Main|アフリカ美術}} アフリカ美術のうち、古代文明を築いたエジプトは独自の美術体系を発達させた。神聖文字と組み合わせた形式の連続性は、やはり独自の形式である[[ピラミッド]]や[[寺院]]および墳墓などのエジプト建築と組み合わされ、壁画や彫刻類、そして[[ツタンカーメン]]に代表される[[棺]]などで複雑かつ華麗な体系を持った。この芸術の系統は、紀元前30年にローマによる征服を受けて途絶えた<ref>[[#アルテ1999|アルテ (1999)、pp.42-45、第二章 美術史の時代区分と領域 Ⅱ.先史時代と古代 1.エジプト芸術]]</ref>。 [[サブサハラアフリカ|サブサハラ]]の芸術は[[民俗学]]と[[美術史]]の両面から論じられるが、その分析は未だ途上にある。大きな特徴は多様な[[造形]]分野であるが、これは美術品として単独で成り立つものではなく、生活および宗教と深く関連している。[[木材]]を好んで用い、[[仮面]]など身体装飾や[[彫刻]]など、また宗教や祭祀用道具および日用品なども彩色されたものなど種類も多い。その一方で[[建築]]分野ではあまり見るべきものがない<ref>アルテ (1999)、pp.80-82、第二章 美術史の時代区分と領域 Ⅳ.非西欧の緒芸術 4.アメリカ、アフリカ、オセアニアの各大陸の芸術</ref> === 建築 === [[File:Case Mousgoum.jpg|250px|right|thumb|{{仮リンク|マスガム小屋|en|Musgum mud huts}} </div> カメルーンの民族の一団、{{仮リンク|マスガム族|en|Musgum people}}の伝統的な[[住居]]である。 <div> この住居の建材には[[泥]]が用いられている。]] {{Main|{{仮リンク|アフリカ建築|en|Architecture of Africa}}}} アフリカの建築は非常に多様で、現地の民族ごとにその差異が現れているほか、人類の文化史や歴史の道のりにおいて重要な位置付けが成されている面を持つ。また、芸術的に付加価値の高いものが揃っていることも特徴の一つとなっている。 建材には[[棒]]などの[[木材]]をはじめ、[[茅葺]]や[[泥]]、[[煉瓦]]、[[石]]など、自然由来の様々な素材が使用されており、[[版築]]を中心とした技法での家づくりなどが主体となっている。だが、同エリアの建築文化の基礎としては簡素でありながらも確立されたものとなっていて、アフリカの風景と調和したものも多い。 一部地域の建築は何世紀にも亘ってアフリカ大陸外部の文化の影響を受けており、特に[[西洋]]の建築文化は15世紀後半からアフリカ沿岸地域へ多大な影響を与えていて、現在においても主要都市では西洋建築が多くの巨大建造物の重要な[[インスピレーション]]の源ともなっている。 {{See also|{{仮リンク|アーキアフリカ|en|ArchiAfrika}}}} === 服飾 === {{Main|{{仮リンク|アフリカの被服|en|Clothing in Africa}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|アフリカの織物|en|African textiles}}}} === 映画 === {{Main|アフリカ映画}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{Main|世界遺産の一覧 (アフリカ)}} {{節スタブ}} == メディア == * {{仮リンク|アフリカのメディア|en|Media of Africa}} ** {{仮リンク|アフリカのラジオ局の一覧|en|List of radio stations in Africa}} ** {{仮リンク|アフリカのテレビ局の一覧|en|List of television stations in Africa}} == インターネット == * {{仮リンク|アフリカにおけるインターネット|en|Internet in Africa}} ** {{仮リンク|アフリカにおける地上光ファイバーケーブル普及プロジェクトの一覧|en|List of terrestrial fibre optic cable projects in Africa}} ** {{仮リンク|アフリカにおけるモバイル・テクノロジー|en|Mobile technology in Africa}} * {{仮リンク|アフリカデジタルアワード|en|Africa Digital Awards}} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|アフリカのスポーツ|en|Sport in Africa}}}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|アフリカのサッカー|en|Football in Africa}}}} アフリカ諸国の国々では、'''ほぼ全般的に[[サッカー]]が盛ん'''である<ref>{{Cite web|和書|title=アフリカでサッカーが熱いのは、夢を運んでくれるから |url=https://globe.asahi.com/article/11874630 |website=GLOBE+ |access-date=2023-04-07 |date=2018-10-12}}</ref>。一部の国々では[[バスケットボール]]や[[格闘技]]なども人気がある。[[アフリカ人]]を象徴する[[アスリート|スポーツ選手]]としては、[[サミュエル・エトー]]や[[ディディエ・ドログバ]]を筆頭に<ref>{{Cite web|和書|title=コートジボワールの内戦を止めた英雄・ドログバのメッセージから考えるスポーツの力 |url=https://www.parasapo.tokyo/topics/27052 |website=パラサポWEB |access-date=2023-04-07 |date=2020-07-27}}</ref>、近年では[[モハメド・サラー]]や[[サディオ・マネ]]が存在する<ref>{{Cite web|和書|title=マネがアフリカ年間最優秀選手に!…盟友サラー、同胞メンディを上回り2度目の受賞 |url=https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20220722/1669737.html |website=SOCCER KING |access-date=2023-04-07 |date=2022-07-22}}</ref>。 [[アフリカサッカー連盟]](CAF)が主催する『[[アフリカネイションズカップ]]』は、[[1957年]]より開始されており、最多優勝は[[サッカーエジプト代表|エジプト代表]]の7回である。また、CAFは『[[アフリカ年間最優秀選手賞]]』も主催しており、最多受賞はサミュエル・エトーと[[ヤヤ・トゥーレ]]の4回となっている。 == アフリカの国 == {{Main|アフリカの主権国家及び属領の一覧}} 括弧内は首都、その後ろの言語名は公用語を示す。 === 北アフリカ === *{{ALG}} ([[アルジェ]]) アラビア語 *{{EGY}} ([[カイロ]]) アラビア語 *{{LBY}} ([[トリポリ]]) アラビア語 *{{MAR}} ([[ラバト]]) アラビア語、ベルベル語 *{{SDN}} ([[ハルツーム]]) アラビア語、英語 *{{TUN}} ([[チュニス]]) アラビア語 === 西アフリカ === *{{BEN}} ([[ポルトノボ]]) フランス語 *{{BFA}} ([[ワガドゥグー]]) フランス語 *{{CPV}} ([[プライア]]) ポルトガル語、カーボベルデ・クレオール語 *{{CIV}} ([[ヤムスクロ]]) フランス語 *{{GMB}} ([[バンジュール]]) 英語 *{{GHA}} ([[アクラ]]) 英語 *{{GIN}} ([[コナクリ]]) フランス語 *{{GNB}} ([[ビサウ]]) ポルトガル語 *{{LBR}} ([[モンロビア]]) 英語 *{{MLI}} ([[バマコ]]) フランス語 *{{MRT}} ([[ヌアクショット]])アラビア語 *{{NIG}} ([[ニアメ]]) フランス語 *{{NGA}} ([[アブジャ]]) 英語 *{{SEN}} ([[ダカール]]) フランス語 *{{SLE}} ([[フリータウン]]) 英語 *{{TGO}} ([[ロメ]]) フランス語 *{{STP}}([[サントメ]]) ポルトガル語 *{{AGO}}([[ルアンダ]]) ポルトガル語 === 中部アフリカ === *{{CMR}} ([[ヤウンデ]]) フランス語、英語 *{{CAF}} ([[バンギ]]) フランス語、サンゴ語 *{{COD}} ([[キンシャサ]]) フランス語 *{{COG}} ([[ブラザヴィル]]) フランス語 *{{GNQ}} ([[マラボ]]) スペイン語、フランス語、ポルトガル語 *{{GAB}} ([[リーブルヴィル]]) フランス語 *{{TCD}} ([[ンジャメナ]]) フランス語、アラビア語 === 東アフリカ === *{{BDI}} ([[ブジュンブラ]])、([[ギテガ]]) ルンディ語、フランス語 *{{COM}} ([[モロニ]]) フランス語、アラビア語、コモロ語 *{{DJI}} ([[ジブチ市|ジブチ]]) フランス語、アラビア語 *{{ERI}} ([[アスマラ]]) ティグリニャ語、アラビア語、英語 *{{ETH}} ([[アディスアベバ]])アムハラ語 *{{KEN}} ([[ナイロビ]]) 英語、スワヒリ語 *{{MDG}} ([[アンタナナリボ]]) フランス語、マダガスカル語 *{{MWI}} ([[リロングウェ]]) 英語、チェワ語 *{{MUS}} ([[ポートルイス]]) 英語、フランス語、モーリシャス・クレオール語 *{{MOZ}} ([[マプト]]) ポルトガル語 *{{RWA}} ([[キガリ]]) ルワンダ語、フランス語、英語、スワヒリ語 *{{SOM}} ([[モガディシュ]]) ソマリ語、アラビア語 *{{SYC}} ([[ヴィクトリア (セーシェル)|ヴィクトリア]]) フランス語、英語、セーシェル・クレオール語 *{{SSD}} ([[ジュバ]]) 英語 *{{TZA}} ([[ドドマ]]) 英語、スワヒリ語 *{{UGA}} ([[カンパラ]]) 英語、スワヒリ語 === 南部アフリカ === *{{BWA}} ([[ハボローネ]]) 英語、ツワナ語 *{{LSO}} ([[マセル]]) 英語、ソト語 *{{NAM}} ([[ウィントフーク|ウィントフック]]) 英語 *{{SWZ}} ([[ムババーネ]]) 英語、スワジ語 *{{ZMB}} ([[ルサカ]]) 英語 *{{ZWE}} ([[ハラレ]]) 英語 *{{ZAF}} ([[プレトリア]])、([[ケープタウン]])、([[ブルームフォンテーン]]) 英語、アフリカーンス語他 === 独立国以外の地域 === ==== イギリス領 ==== *{{Flagicon|セントヘレナ}} [[セントヘレナ・アセンションおよびトリスタンダクーニャ]](セントヘレナ、[[アセンション島]]、[[トリスタンダクーニャ]]) *{{Flagicon|イギリス領インド洋地域}} [[イギリス領インド洋地域]] ([[チャゴス諸島]]、[[ディエゴガルシア島]]) ==== フランス領 ==== *{{MYT}} ''Mayotte'' (海外領土) *{{REU}} ''Réunion'' (海外県)([[グロリオソ島]] ''Glorioso Is.''、[[トロメリン島]] ''Tromelin Is.''、[[ファン・デ・ノヴァ島]] ''Juan de Nova Is.''などを含む) *[[フランス領インド洋無人島群]] ==== スペイン領 ==== *{{Flagicon|ESP}} [[カナリア諸島]] ''Islas Canarias'' (自治州) *{{Flagicon|ESP}} [[セウタ]] ([[飛地]]) *{{Flagicon|ESP}} [[メリリャ]] (飛地) *{{Flagicon|ESP}} [[プラサス・デ・ソベラニア]]([[チャファリナス諸島]]、[[ペニョン・デ・アルセマス]]、[[ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラ]]) ==== ポルトガル領 ==== *{{Flagicon2|マデイラ諸島}} [[マデイラ諸島]] - 本国領土の一部である離島 ==== モーリシャス領 ==== *[[ロドリゲス島]] *[[カルガドス・カラホス諸島]] *[[アガレガ諸島]] ==== その他 ==== *{{Flagicon|ソマリランド}} [[ソマリランド]]([[ハルゲイサ]]) ソマリ語、アラビア語、英語 *{{Flagicon|西サハラ}} [[西サハラ]]([[アイウン]]) アラビア語、スペイン語、フランス語 *[[ファイル:Flag of The Federal Republic of Southern Cameroons.svg|border|25px]] [[南カメルーン]]([[バメンダ]]) 英語 === 消滅した国 === *[[ファイル:Flag of Biafra.svg|border|25px]] [[ビアフラ共和国]] *[[ファイル:Flag of the Orange Free State.svg|border|25px]] [[オレンジ自由国]] *{{ZAR}} *[[ファイル:Flag of Natalia Republic.svg|border|25px]] [[ナタール共和国]] == アフリカと「黒」 == 肌が黒い人類、いわゆる[[ネグロイド]]の存在が他の文明に初めて記録されたのは、7世紀に北部アフリカを支配下に置いたアラブ人が、ナイル川を遡ってサハラ砂漠以南に到達したことに始まる。以後、アフリカの地名にはこの[[ヒトの肌の色|肌の色]]を語源として名づけられた所もあり、現在の国名に受け継がれているものもある。スーダンは、かつてのイギリス領やフランス領を含めるとアフリカ大陸の1/3を占める広大な土地を意味したが、これはアラビア語が意味する「黒い人」が語源である。 このフランス領スーダンから独立したモーリタニアは[[ムーア人]]の国という意味だが、このムーアも古代ギリシア語のmauros(肌が黒い人々)を語源とする。ギニアも現在の領土よりも広い地域を指す言葉だったが、これもベルベル人の言葉で「黒い人の土地」を意味した。エチオピアもギリシア語の「aitos(日焼けした)」+「ops(顔)」+「ia(地名接尾語)」の合成語であり、やはり古代ギリシア人にとってサハラ砂漠より南の土地を包括的に示す言葉だった。[[ソマリア]]は[[アムハラ語]]で「ゾムマ(家畜を持つ人)」という説の他に、ヌビア地方の言葉で「黒い人の国」という意味だという説もある<ref>地名の世界地図 (2000)、第8章、pp.186-188、黒い人の国</ref>。 == 地域機構 == [[ファイル:RECs of the AEC.svg|サムネイル|200px|アフリカの経済共同体[[:en:African Economic Community|(en)]] {{legend|#691717|CEN-SAD}} {{legend|#4F4FB1|COMESA}} {{legend|#E88356|EAC}} {{legend|#272759|ECCAS}} {{legend|#C43C7F|ECOWAS}} {{legend|#4DB34D|IGAD}} {{legend|#D22E2E|SADC}} {{legend|#7E8000|UMA}} ]] *AU:African Union([[アフリカ連合]]) **54カ国と地域が加盟。(2017年1月にモロッコが加盟)地域機関としては世界最大。本部:エチオピア、[[アジスアベバ]]。旧[[アフリカ統一機構]](OAU、1963年5月設立)を改組し2002年7月に設立<ref name=AIPPI>{{Cite web|和書 |url=http://www.jpo.go.jp/shiryou/toushin/chousa/pdf/zaisanken_kouhyou/h20_report_02.pdf |format=PDF |title=アフリカ諸国における産業財産権の保護・活用状況、及びアフリカ諸国への知財分野におけるキャパシティビルディング支援のあり方に関する調査研究報告書 |publisher=社団法人 日本国際知的財産保護協会 |accessdate=2011-03-01 |language=日本語 }}</ref>。 *ADB:African Development Bank([[アフリカ開発銀行]]) *CEEAC/ECCAS:Communauté Économique des États de L’Afrique Centrale([[中部アフリカ諸国経済共同体]]) **中部アフリカ域の11カ国が加盟。本部:[[ガボン]]、リーブルヴィル。1981年12月に設立<ref name=AIPPI />。 *CEMAC:Communate Economique et Monetaire de L'Afrique Centarale([[中部アフリカ経済通貨共同体|中央アフリカ経済通貨共同体]]) **中部アフリカ域の6カ国が加盟。1996年7月に設立<ref name=AIPPI />。 *CEN-SAD/COMESSA:Community of Sahel-Saharan States([[サヘル・サハラ諸国国家共同体]]) **北部および中部アフリカ域の28国が加盟。本部:リビア、トリポリ <ref name=AIPPI />。 *COMESA::Common Market for Eastern and Southern Africa([[東南部アフリカ市場共同体]]) **東および中央アフリカ19カ国が加盟。1981年発足の国際交易圏を改組し1994年に発足。2000年から自由貿易圏となる。事務局:ザンビア、ルサカ <ref name=AIPPI />。 *EAC:East African Community([[東アフリカ共同体]]) **東アフリカ域の5カ国が加盟。本部:タンザニア、[[アルーシャ]]。1970年代の東アフリカ共同体が1978年に消滅後、2001年に3カ国で再発足し、2007年に2カ国が加わり現在に至る<ref name=AIPPI />。 *ECOWAS:Economic Community of West African States([[西アフリカ諸国経済共同体]]) **西アフリカ域の15カ国が加盟。経済統合を目的とする<ref name=AIPPI />。 *IGAD:Intergovernmental Authority on Development in Eastern Africa([[政府間開発機構]]) **東アフリカ域の7カ国が加盟<ref name=AIPPI />。 *SACU:Southern Africa Customs Union([[南部アフリカ関税同盟]]) **南アフリカ域の5カ国が加盟。1910年に旧イギリス連邦国間で締結された、関税同盟としては世界初の組織<ref name=AIPPI />。 *SADC:Southern African Development Community([[南部アフリカ開発共同体]]) **南アフリカ域の15カ国が加盟。事務局:[[ボツワナ]]、[[ハボロネ]]。[[アパルトヘイト]]政策当時の南アフリカからの経済的自立をめざして1980年に発足。1992年に民主化した南アフリカも加わり、現在の組織に改組<ref name=AIPPI />。 *UEMOA:Union Economique et Monétaire Ouest Africaine([[西アフリカ経済通貨同盟]]) **西アフリカ域の8カ国が加盟<ref name=AIPPI />。 *UMA/AMU:Union of the Arab Maghreb([[アラブ・マグレブ連合]]) **北アフリカ域のマグリブ地区5カ国が加盟。本部:モロッコ、ラバト。1989年に経済協力を目的に設立<ref name=AIPPI />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=「アフリカ53国」のすべて|author=監修:平野克己、編:株式会社レッカ社|publisher=[[PHP文庫]]|edition=第1刷|year=2011|isbn=978-4-569-67581-7|ref=レッカ2011}} * {{Cite book|和書|title=地名の世界地図|author=編:21世紀研究会|publisher=[[文春新書]]|edition=第1刷|year=2000|isbn=4-16-660147-4|ref=地名2000}} * {{Cite book|和書|title=美術史入門|author=グザヴィエ・バラル・イ・アルテ|translator=吉岡健二郎、上村博|publisher=[[白水社]]|edition=第5刷|oriyear=1999年|year=2009|isbn=978-4-560-05821-3|ref=アルテ1999}} == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[アフリカ (小惑星)]] * [[アフリカ系アメリカ人]] * [[アジア・アフリカ諸国の独立年表]] * [[アジア・アフリカ法律諮問機関]] * [[アフリカ日本協議会]] * [[アフリカ合衆国]] * {{仮リンク|アフリカ系アジア人|en|Afro-Asians}} * {{仮リンク|アジア・アフリカ人民連帯機構|en|Afro-Asian People's Solidarity Organisation}} * {{仮リンク|アフリカ商法調和機構|fr|Organisation pour l'harmonisation en Afrique du droit des affaires|en|OHADA}} * {{仮リンク|南大西洋平和協力地帯|en|South Atlantic Peace and Cooperation Zone|pt|Zona de Paz e Cooperação do Atlântico Sul}} * {{仮リンク|アフリカ・南米サミット|en|Africa–South America Summit}} * {{仮リンク|アフリカのスポーツ|en|Sport in Africa}} * {{仮リンク|アフリカのサッカー|en|Football in Africa}} * {{仮リンク|アフリカにおけるエチケット|en|Etiquette in Africa}} * {{仮リンク|アフリカにおける利用客の多い空港の一覧|en|List of busiest airports in Africa}} {{colend}} == 外部リンク == {{Sisterlinks|commons=Africa|commonscat=Africa|b=中学校社会 地理/アフリカ州|voy=ja:アフリカ|d=Q15}} * [http://www.dmoz.com/World/Japanese/%e5%9c%b0%e5%9f%9f/%e3%82%a2%e3%83%95%e3%83%aa%e3%82%ab/ Open Directory Project - アフリカ] * [http://directory.google.com/Top/World/Japanese/%e5%9c%b0%e5%9f%9f/%e3%82%a2%e3%83%95%e3%83%aa%e3%82%ab/ google Directory - アフリカ] * {{Kotobank}} * {{Wikiatlas|Africa|アフリカ}} {{en icon}} * {{ウィキトラベル インライン|アフリカ|アフリカ}} * {{OSM|n|36966057}} ; 教育 * [http://www.portal-education-africa.org/wiki/index_en.php/Main_Page PEA Portal Education Africa] * [http://dmoz.org/Regional/Africa/Education Open Directory Project - アフリカの教育] directory category * [http://dir.yahoo.com/Regional/Regions/Africa/Education/ Yahoo!- アフリカの教育] directory category * [http://www.africaalmanac.com/top20highschools.html Africa's best and oldest schools] * {{PDFlink|[http://www.unesco.org/education/efa_report/zoom_regions_pdf/ssafrica.pdf Unesco Regional overview on sub-Saharan Africa]}} * [http://www.sos-schools.org/africa.htm SOS Schools in Africa] * [http://www.elearning-africa.com/ eLearning Africa] {{大州横}} {{世界の地理}} {{アフリカ}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:あふりか}} [[Category:アフリカ|*]]
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7,006
郵政記念日
郵政記念日(ゆうせいきねんび)とは1871年4月20日(明治4年3月1日)に日本でそれまでの飛脚制度に代わり、郵便制度が始まったことに因む記念日である。 1934年(昭和9年)に一般会計から分離して通信事業特別会計が創設されたことに伴う記念事業の一環として、逓信省によって4月20日を逓信記念日(ていしんきねんび)として制定した。 逓信省が1949年(昭和24年)6月1日に郵政省と電気通信省の2省に分割され逓信記念日は郵政省に引き継がれたため、翌1950年(昭和25年)からは郵政記念日と改称して記念行事が行われるようになった。 1959年(昭和34年)に郵政省の省名を逓信省に復帰させる法律案が国会に提出され同年2月に衆議院では可決されたため参議院でも可決されることを見越して同年4月20日の開催行事を逓信記念日の名称で実施し、これ以降は逓信記念日の名称が使用されることとなった。省名を逓信省に復帰させる法律案は結局は参議院で「逓」の文字を使用することに慎重な意見が多数を占めたため実現しなかったのだが、記念日の名称はそのまま逓信記念日が使われることとなった。 2001年(平成13年)の中央省庁再編に伴い郵政事業庁が設置され、また将来の公社化が予定されていたため、この年の4月20日実施分からは再び郵政記念日の名称で実施されることとなった。 郵政記念日には郵政関係者の表彰が行われている。かつては全日本切手展が行われていたが、2014年以降は7月開催となっている。
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郵政記念日(ゆうせいきねんび)とは1871年4月20日(明治4年3月1日)に日本でそれまでの飛脚制度に代わり、郵便制度が始まったことに因む記念日である。
{{出典の明記|date=2021年4月}} '''郵政記念日'''(ゆうせいきねんび)とは[[1871年]][[4月20日]]([[明治]]4年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]])に[[日本]]でそれまでの[[飛脚]]制度に代わり、[[郵便]]制度が始まったことに因む[[記念日]]である。 ==制定== [[1934年]]([[昭和]]9年)に一般会計から分離して通信事業特別会計が創設されたことに伴う記念事業の一環として、[[逓信省]]によって[[4月20日]]を'''逓信記念日'''(ていしんきねんび)として制定した。 逓信省が[[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]に[[郵政省]]と[[電気通信省]]の2省に分割され逓信記念日は郵政省に引き継がれたため、翌[[1950年]](昭和25年)からは'''郵政記念日'''と改称して記念行事が行われるようになった。 [[1959年]](昭和34年)に郵政省の省名を逓信省に復帰させる法律案が国会に提出され同年2月に衆議院では可決されたため参議院でも可決されることを見越して同年4月20日の開催行事を逓信記念日の名称で実施し、これ以降は逓信記念日の名称が使用されることとなった。省名を逓信省に復帰させる法律案は結局は参議院で「逓」の文字を使用することに慎重な意見が多数を占めたため実現しなかったのだが、記念日の名称はそのまま逓信記念日が使われることとなった。 [[2001年]]([[平成]]13年)の[[中央省庁再編]]に伴い[[郵政事業庁]]が設置され、また将来の[[日本郵政公社|公社化]]が予定されていたため、この年の4月20日実施分からは再び郵政記念日の名称で実施されることとなった。 == イベント == 郵政記念日には郵政関係者の表彰が行われている。かつては[[全日本切手展]]が行われていたが、2014年以降は7月開催となっている。 == 関連項目 == * [[日本の記念日一覧]] * [[切手趣味週間]] * [[日本郵政]] * [[世界郵便の日]] * [[電信電話記念日]] * [[電波の日]] == 外部リンク == * [https://www.japanpost.jp/index.html 日本郵政株式会社] {{DEFAULTSORT:ゆうせいきねんひ}} [[Category:日本郵政グループ]] [[Category:日本の記念日]] [[Category:4月の記念日]]
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PGM-11 (ミサイル)
PGM-11 レッドストーン (Redstone) は、アメリカ合衆国の初期の短距離弾道ミサイル (SRBM) である。アメリカ陸軍とヴェルナー・フォン・ブラウンらのチームによって開発され、後に人工衛星やマーキュリー計画の有人宇宙船を打ち上げるロケットとして転用された。名称は、アメリカ陸軍のレッドストーン兵器廠にちなむ。 レッドストーンはナチス・ドイツのV2ロケットの技術を用いて改良・大型化された弾道ミサイルで、本体全長21 m、直径1.8 m、質量約28,000 kg。生産はクライスラーが担当した。ロケットエンジンとして25%の水と75%のエチルアルコール(エタノール)を燃料とし、液体酸素を酸化剤として用いたA-6型を採用、真空中の推力は414.3 kN (42,251 kgf) であった。 アラバマ州ハンツビルのアメリカ陸軍弾道ミサイル局でヴェルナー・フォン・ブラウンの指揮の下で地対地ミサイルとして本格開発が開始されたのは1950年のことであり、生産開始は1952年のことであった。名称は1952年4月8日に兵器廠に由来する。レッドストーンとはこの地域の赤い岩と土に由来する。初の実射試験は1953年に行われている。クライスラーが1952年にミサイルの生産と支援機器の生産を受注してミシガン州ワーレンのミシガンミサイル工廠で生産した。アメリカ海軍が所有するこの工廠は以前は海軍の航空機工場として知られ、ジェットエンジンの生産に使用されていた。海軍のジェットエンジンの製造計画が中止された事により施設はクライスラー社によってミサイルの生産に使用できるようになった。ノースアメリカン航空機会社のロケットダイン部門はロケットエンジンを供給し、スペリー・ランド社の一部門であるフォードインスツルメント社は誘導と制御装置を供給し、レイノルズメタル社はクライスラー社の下請けとして胴体の組み立てを請け負った。 部隊配備開始は1958年6月で射程320 kmの核ミサイルとして西ドイツ駐留の第40野戦砲兵群へ配備された。これらの部隊は西ドイツのKreuznach とWackernheimに1964年6月まで配備された。レッドストーンが配備された第2の部隊はオクラホマ州のフォート・シルの第46特科群で1959年から1964年6月まで西ドイツのNeckarsulmに配備された。レッドストーンが配備された第3の部隊はオクラホマ州のフォート・シルの大209特科群で1958年から1964年まで担当した。第209部隊の最初の任務は西ドイツに駐留する二つのレッドストーンの部隊を支援する事が目的でニューメキシコ州のホワイトサンズ・ミサイル実験場で駐留する部隊の訓練を行った。それぞれのレッドストーン部隊は打ち上げの為にAとBの二つの隊によって構成され司令部、液体酸素、液体窒素製造部、整備部等から構成された。4基の移動式打ち上げ装置と再装填により計8基のレッドストーンが西ドイツに駐留した4隊に1964年前半まで配備された。レッドストーンの射程は57.5マイル (92.5 km)から201マイル (323 km)だった。燃焼中は25%の水と75%のエチルアルコールを混合した燃料と液体酸素を燃焼した。ミサイルの本体はエンジンの停止後20から30秒後に予め設定された目標までの距離に応じて分離される。本体は弾道軌道上を落下地点へ向かって制御が継続される。推進ユニットは制御されず弾道軌道上を飛行して目標よりも低い地点に落ちる。レッドストーンは予め設定された軌道を慣性誘導装置によって軌道を飛行する。慣性誘導装置は地上からの支援によらず制御されるので外部からの妨害に対して耐性がある。 レッドストーンは初期の500kTのW18"Super Oralloy"弾頭や3.8 MTのW39水素爆弾を備えた最初のロケット運搬型核爆弾で1958年8月に太平洋のジョンストン島でのハードタック作戦で使用された。1958年8月1日にレッドストーンNo.CC50が核実験Teakで打ち上げられ高度77.8キロメートル (48.3 mi)に達した。1958年8月12日にレッドストーンNo.CC51が核実験Orangeで打ち上げられ高度43キロメートル (27 mi)に達した。両方のペイロードは3.75 MTだった。 生産は1961年まで行なわれ、1964年に退役した。 「レッドストーン」ミサイルの派生型の「ジュノーI」ロケットによりアメリカ初の人工衛星「エクスプローラー1号」が打ち上げられた。また、マーキュリー計画では、「レッドストーン」ミサイルの派生型「レッドストーン・マーキュリー」ロケットにより、無人機および2機の有人宇宙船「フリーダム7」および「リバティ・ベル7」を弾道飛行させることに成功した。 ジュピターC (Jupiter-C) は弾道ミサイルジュピターIRBMの前の世代の弾道ミサイルレッドストーンSRBMを改良した大気圏再突入テスト用又は衛星打ち上げ用ロケットである。似通った名前を使っているジュピターIRBMとは設計が全く異なる。 1段目は、レッドストーンSRBMの燃料タンクを延長し容量を増やし燃焼時間を延ばした。エンジンはA-6の改良型のA-7を用いた。また、燃料はエタノール水溶液からHydyneに変更し、毒性があるが、推力と比推力を向上させた。さらに、サージェントSRBMから派生した小型の固体燃料ロケット「ベイビー・サージェント」を、11本円環状に並べたものを2段目とした。その2段目の中央に、第3段として同型の固体燃料ロケットが3本備わる。 ジュピターCロケットの上に、先端の衛星と一体となった推力816kgの「ベイビー・サージェント」固体ロケット1本を4段目として備えたものをジュノー (Juno)またはジュノーI(Juno‐I) と呼ぶ。このロケットモーターは最後まで衛星と分離されないで、一体となって軌道を回る。 マーキュリー宇宙船を弾道飛行させるために、ジュピターCをもとに開発されたロケットである。マーキュリー宇宙船を飛行距離約380km 、高度220km 、飛行速度6800km/hに到達させる能力を持つ。宇宙飛行士を安全・確実に飛行させるために、必要な改良が施されている。 燃料タンクはジュピターCの1段目と同様の延長拡大されたものを用いた。エンジンはジュピターCと同様のA-7を用いた。さらに使用燃料を有害なHydyneからエタノール水溶液に戻した。 マーキュリーカプセルとロケットの燃料タンクの間の部分には「後方セクション」と呼ばれるロケットの慣性誘導装置を含む電子機器や装備機器を搭載する部分がある。この「後部セクション」はロケット部分と一体となっていて、マーキュリーカプセルとは分離される。分離後のカプセルは、自身の誘導装置で誘導される。その他の変更点としては、レッドストーンミサイルで使用された慣性誘導装置ST-80が、LEV-3自動操縦装置に変更された。LEV-3はST-80ほど洗練されても精密でもないが、マーキュリーのミッションには充分な精度をもっており、その簡素なシステムは飛行を確実にさせた。 出典:Designation-Systems.Net
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PGM-11 レッドストーン (Redstone) は、アメリカ合衆国の初期の短距離弾道ミサイル (SRBM) である。アメリカ陸軍とヴェルナー・フォン・ブラウンらのチームによって開発され、後に人工衛星やマーキュリー計画の有人宇宙船を打ち上げるロケットとして転用された。名称は、アメリカ陸軍のレッドストーン兵器廠にちなむ。
{{Infobox Weapon |name= SSM-A14/M8/PGM-11 レッドストーン |image= [[Image:Redstone 09.jpg|200px]] |caption= レッドストーン No. CC-56, 1958年9月17日<br />[[フロリダ州]][[ケープカナベラル]] |origin= [[アメリカ合衆国]] |type= 地対地ミサイル<br>短距離弾道ミサイル |is_missile= yes |is_vehicle= yes |service= 1958年&ndash;1964年 |used_by= {{USA}} |designer= [[アメリカ陸軍弾道ミサイル局]] |design_date= 1950年&ndash;1952年 |manufacturer=[[クライスラー]] |unit_cost= |production_date= 1952年&ndash;1961年 |number= 128機 ABMA 27機, [[クライスラー]] 101機 |variants= ブロック I, ブロック II |weight= 点火時{{convert|61207|lb|kg|0}} |length= {{convert|69.3|ft|m|1}} |diameter= {{convert|5.83|ft|m|1}} |range= {{convert|57.5|mi|km}}から{{convert|201|mi|km}} |altitude=最小到達高度{{convert|28.4|mi|km}}から最大到達高度{{convert|58.7|mi|km}} |velocity= 再突入時に最大[[マッハ]]5.5 |accuracy= {{convert|300|m|ft}} [[平均誤差半径|CEP]] |payload= {{convert|6305|lb|kg|0}} |yield= 3.5 メガトン TNT (15 PJ)<br />または<br />500 キロトン TNT (2.1 PJ)<br />熱核弾頭 |engine=[[ロケットダイン]] ノースアメリカン アビエーション 75-110 A-7 |propellant= [[エタノール]], [[液体酸素]], [[過酸化水素]] 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[[アラバマ州]][[ハンツビル]]の[[アメリカ陸軍弾道ミサイル局]]で[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]の指揮の下で地対地ミサイルとして本格開発が開始されたのは[[1950年]]のことであり、生産開始は[[1952年]]のことであった。名称は1952年4月8日に兵器廠に由来する。レッドストーンとはこの地域の[[酸化鉄(III)|赤い]][[赤鉄鉱|岩]]と[[:en:Geography of Alabama#Climate and soil|土]]に由来する。<ref>{{Cite web | last = Cagle | first = Mary T. | authorlink = | title = The Origin of Redstone's Name | work = | publisher = US Army, Redstone Arsenal | date = 1955 | url = http://www.redstone.army.mil/history/studies/ix.html | accessdate =9 October 2010}}</ref>初の実射試験は[[1953年]]に行われている。[[クライスラー]]が1952年にミサイルの生産と支援機器の生産を受注して[[ミシガン州]]ワーレンのミシガンミサイル工廠で生産した。[[アメリカ海軍]]が所有するこの工廠は以前は海軍の航空機工場として知られ、[[ジェットエンジン]]の生産に使用されていた。海軍のジェットエンジンの製造計画が中止された事により施設はクライスラー社によってミサイルの生産に使用できるようになった。[[ノースアメリカン]]航空機会社の[[ロケットダイン]]部門はロケットエンジンを供給し、スペリー・ランド社の一部門であるフォードインスツルメント社は誘導と制御装置を供給し、レイノルズメタル社はクライスラー社の下請けとして胴体の組み立てを請け負った。 部隊配備開始は[[1958年]]6月で射程320 [[キロメートル|km]]の[[核ミサイル]]として[[西ドイツ]]駐留の第40野戦砲兵群へ配備された。これらの部隊は西ドイツのKreuznach とWackernheimに1964年6月まで配備された。レッドストーンが配備された第2の部隊は[[オクラホマ州]]の[[:en:Fort Sill|フォート・シル]]の第46特科群で1959年から1964年6月まで西ドイツのNeckarsulmに配備された。レッドストーンが配備された第3の部隊はオクラホマ州の[[:en:Fort Sill|フォート・シル]]の大209特科群で1958年から1964年まで担当した。第209部隊の最初の任務は西ドイツに駐留する二つのレッドストーンの部隊を支援する事が目的で[[ニューメキシコ州]]の[[ホワイトサンズ・ミサイル実験場]]で駐留する部隊の訓練を行った。それぞれのレッドストーン部隊は打ち上げの為にAとBの二つの隊によって構成され司令部、液体酸素、液体窒素製造部、整備部等から構成された。4基の移動式打ち上げ装置と再装填により計8基のレッドストーンが西ドイツに駐留した4隊に1964年前半まで配備された。レッドストーンの射程は{{convert|57.5|mi|km}}から{{convert|201|mi|km}}だった。燃焼中は25%の水と75%のエチルアルコールを混合した燃料と液体酸素を燃焼した。ミサイルの本体はエンジンの停止後20から30秒後に予め設定された目標までの距離に応じて分離される。本体は弾道軌道上を落下地点へ向かって制御が継続される。推進ユニットは制御されず弾道軌道上を飛行して目標よりも低い地点に落ちる。レッドストーンは予め設定された軌道を慣性誘導装置によって軌道を飛行する。慣性誘導装置は地上からの支援によらず制御されるので外部からの妨害に対して耐性がある。 レッドストーンは初期の500kTの[[Mark 18 (核爆弾)|W18]]"Super Oralloy"弾頭や3.8 MTの[[Mark 39 (核爆弾)|W39]]水素爆弾を備えた最初のロケット運搬型核爆弾で1958年8月に太平洋の[[ジョンストン島]]での[[ハードタック作戦]]で使用された。1958年8月1日にレッドストーンNo.CC50が核実験''Teak''で打ち上げられ高度{{convert|77.8|km|mi}}に達した。1958年8月12日にレッドストーンNo.CC51が核実験''Orange''で打ち上げられ高度{{convert|43|km|mi}}に達した。両方のペイロードは3.75 MTだった。 生産は[[1961年]]まで行なわれ、[[1964年]]に退役した。 「レッドストーン」ミサイルの派生型の「ジュノーI」ロケットによりアメリカ初の人工衛星「[[エクスプローラー1号]]」が打ち上げられた。また、マーキュリー計画では、「レッドストーン」ミサイルの派生型「レッドストーン・マーキュリー」ロケットにより、無人機および2機の有人宇宙船「[[マーキュリー・レッドストーン3号|フリーダム7]]」および「[[マーキュリー・レッドストーン4号|リバティ・ベル7]]」を弾道飛行させることに成功した。 == 派生機種 == {{see also|レッドストーン (ロケット)}} === ジュピターC/ジュノーI === {{main|ジュピターC}} ジュピターC ({{en|Jupiter-C}}) は弾道ミサイル[[ジュピター (ミサイル)|ジュピターIRBM]]の前の世代の弾道ミサイル'''レッドストーンSRBM'''を改良した大気圏再突入テスト用又は衛星打ち上げ用ロケットである。似通った名前を使っているジュピターIRBMとは設計が全く異なる。 1段目は、レッドストーンSRBMの燃料タンクを延長し容量を増やし燃焼時間を延ばした。エンジンはA-6の改良型のA-7を用いた。また、燃料は[[エタノール]]水溶液から[[Hydyne]]に変更し、毒性があるが、推力と比推力を向上させた。さらに、[[サージェント]]SRBMから派生した小型の固体燃料ロケット「ベイビー・サージェント」を、11本円環状に並べたものを2段目とした。その2段目の中央に、第3段として同型の固体燃料ロケットが3本備わる。 ジュピターCロケットの上に、先端の衛星と一体となった推力816kgの「ベイビー・サージェント」固体ロケット1本を4段目として備えたものをジュノー ({{en|Juno}})またはジュノーI({{en|Juno‐I}}) と呼ぶ。このロケットモーターは最後まで衛星と分離されないで、一体となって軌道を回る。 === マーキュリー・レッドストーン打上げ機 === [[マーキュリー計画|マーキュリー]]宇宙船を弾道飛行させるために、ジュピターCをもとに開発されたロケットである。マーキュリー宇宙船を飛行距離約380km 、高度220km 、飛行速度6800km/hに到達させる能力を持つ。宇宙飛行士を安全・確実に飛行させるために、必要な改良が施されている。 燃料タンクはジュピターCの1段目と同様の延長拡大されたものを用いた。エンジンはジュピターCと同様のA-7を用いた。さらに使用燃料を有害なHydyneからエタノール水溶液に戻した。 マーキュリーカプセルとロケットの燃料タンクの間の部分には「後方セクション」と呼ばれるロケットの[[慣性誘導装置]]を含む電子機器や装備機器を搭載する部分がある。この「後部セクション」はロケット部分と一体となっていて、マーキュリーカプセルとは分離される。分離後のカプセルは、自身の誘導装置で誘導される。その他の変更点としては、レッドストーンミサイルで使用された[[慣性誘導装置]]ST-80が、LEV-3[[自動操縦装置]]に変更された。LEV-3はST-80ほど洗練されても精密でもないが、マーキュリーのミッションには充分な精度をもっており、その簡素なシステムは飛行を確実にさせた。 == 仕様 == === PGM-11A === [[File:Redstone-jupiterc-mercuryredstone-compared.jpg|thumb|レッドストーン(左)・[[マーキュリー計画|マーキュリー]]型レッドストーン(右)とジュピターC(中)]] <small>''出典:Designation-Systems.Net<ref name="DSN">{{cite web |last = Parsch|first = Andreas|date = 2002-01-22|url = http://www.designation-systems.net/dusrm/m-11.html|title = PGM-11|work = Directory of U.S. Military Rockets and Missiles|publisher = Designation-Systems.Net|language = 英語 |accessdate=2007年7月29日 }}</ref>''</small> * 全長: 21.1 m (69 ft 4 in) * 翼幅: 3.66 m (12 ft) * 直径: 1.78 m (70 in) * 発射重量: 27,800 kg (61,300 lb) * 機関: [[ノースアメリカン]]/[[ロケットダイン]] NAA75-100 (A-6) 液体燃料ロケット・モーター * 燃料/酸化剤: [[エタノール]]水溶液/[[液体酸素]] * 推力: 347 kN (78,000 lbf) * 速度: [[マッハ数|M]] 5.5 * 到達高度: 92 km (57 mi) * 射程: 325 km (175 mi) * 精度: 300 m (1000 ft) [[平均誤差半径|CEP]] * 弾頭: [[Mark 39 (核爆弾)|W39]][[水素爆弾|熱核弾頭]]([[核出力]]:4 Mt) == ギャラリー == <gallery widths="180px" heights="150px"> Image:Redstone msl 1 53 01.jpg|初期のレッドストーンの生産 (1953年) Image:PGM-11 Redstone CC-1004.jpg|陸軍演習場で垂直に立てられるレッドストーンミサイル Image:Redstone 05.jpg|ホワイトサンズ・ミサイル実験場でのレッドストーン Image:PGM-11 Redstone RS-1002.jpg|アメリカ陸軍によるレッドストーンの最初の打ち上げ Image:redstone_trainer_08_60.jpg|レッドストーンの演習 Image:Redstone 06.jpg|展示されているレッドストーン Image:Redstone Missile.JPG|Warren, N.H.で展示されているレッドストーン Image:Redstone.jpgレッドストーン([[ホワイトサンズ・ミサイル実験場|ホワイトサンズ・ミサイル実験場博物館]]) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 文献 == *{{cite book |last=Bullard |first=John W |title=History Of The Redstone Missile System (Historical Monograph Project Number: AMC 23 M) |url= |date=October 15, 1965 |accessdate= |edition= |publisher=Historical Division, Administrative Office, Army Missile Command |isbn=}} *{{cite book |last= |first= |title=The Redstone Missile System |url= |date = August 1960|accessdate= |edition= |publisher=United States Army |id=Publication L 619 |location=Fort Sill, Oklahoma }} *{{cite book |last= |first= |title=Standing Operating Procedure For Conduct Of Redstone Annual Service Practice At White Sands Missile Range New Mexico |url= |date=March 31, 1962 |accessdate= |edition= |publisher=Headquarters, United States Army Artillery And Missile Center |location=Fort Sill, Oklahoma |isbn=}} *{{cite book |last= |first= |title=Operator, Organizational, And Field Maintenance Manual - Ballistic Guided Missile M8, Ballistic Shell (Field Artillery Guided Missile System Redstone)|url= |date = September 1960|accessdate= |edition= |publisher= |id=TM 9-1410-350-14/2 }} *{{cite book |last= |first= |title=Field Artillery Missile Redstone |url= |date = February 1962|accessdate= |edition= |publisher=Department Of The Army |id=FM 6-35 }} *{{cite book |last=von Braun |first=Wernher |title=The Redstone, Jupiter and Juno}} ''Technology and Culture'', Vol. 4, No. 4, The History of Rocket Technology (Autumn 1963), pp.&nbsp;452–465. == 関連項目 == * [[MGM-31 (ミサイル)|MGM-31 パーシング]] * [[オルガー・トフトイ|オルガー・N・トフトイ]] * [[アメリカ合衆国のミサイル一覧]] == 外部リンク == {{commons|Category:Redstone (rocket)}} * [http://www.redstone.army.mil/history/systems/redstone/welcome.html Redstone Arsenal History Information - REDSTONE](英語) * [http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19670028606_1967028606.pdf The Mercury Redstone Project (PDF) December 1964] * [http://www.astronautix.com/lvs/redstone.htm Redstone] from Encyclopedia Astronautica * [http://www.boeing.com/history/bna/redstone.htm Boeing: History– Products - North American Aviation Rocketdyne Redstone Rocket Engine] * [http://www.myarmyredstonedays.com/page12.html Appendix A: The Redstone Missile in Detail] * [http://www.wsmr-history.org/Redstone.htm Redstone at the White Sands Missile Range] * [http://usarmygermany.com/Units/FieldArtillery/USAREUR_40th%20Arty%20Group.htm 40th Artillery Group (Redstone)] * [http://usarmygermany.com/Units/FieldArtillery/USAREUR_46th%20Arty%20Group.htm 46th Artillery Group (Redstone)] * [http://stripes.com/article.asp?section=104&article=52665&archive=true From the ''Stars & Stripes'' Archives: "Redstone Rocketeers"] * [http://www.spaceline.org/rocketsum/jupiter-a.html Jupiter A] * [http://www.allpar.com/history/military/missiles.html The Chrysler Corporation Missile Division and the Redstone missiles] {{アメリカ合衆国の弾道ミサイル}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:PGM-11れつとすとん}} [[Category:アメリカ合衆国の弾道ミサイル]] 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7,008
アトラス (曖昧さ回避)
アトラス、Atlas
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アトラス、Atlas
[[ファイル:Titanen Atlas, Nordisk familjebok.png|thumb|right|115px|ギリシア神話のアトラース]] '''アトラス'''、'''Atlas''' ==アトラス== * '''[[アトラース]]''' - [[ギリシア神話]]に登場する神。 * {{仮リンク|アトラース (マウレタニア王)|en|Atlas of Mauretania}} - ギリシア神話に登場する[[マウレタニア]]の王。上記の神と混同されることもある。{{main2|[[アトランティス]]も}} * [[地図帳]]のこと。上記のアトラースあるいはマウレタニア王アトラスが由来。また、言語地図 (language atlas) や方言地図 (dialect atlas) についても言う。 * [[アトラス (多様体)]] - 座標近傍系とも。[[多様体]]の「地図帳」。 * [[アトラス山脈]] - [[モロッコ]]から[[チュニジア]]にかけて東西に伸びる山脈。 * [[アトラスオオカブト]] - [[カブトムシ]]の一種。 * [[アトラス (建築)]] - 男像柱 * アトラス - [[タジキスタン]]の[[民族衣装]]である[[絣]][[織物]]。 ; 天体 * [[アトラス (衛星)]] - [[土星]]の[[衛星]]の一つ。 * アトラス - [[おうし座27番星]]の固有名。[[プレアデス星団]] (M45) の東の端にある3.6等星。ギリシャ神話に登場する[[プレイアデス|プレアデス]]の父の名に由来する。 * 第1[[頸椎]](C1,[[環椎]])のこと。[[頭蓋骨]]を直接支える骨であることから、アトラスが天空を荷う姿に見立て、アトラスと呼ばれる。 ; 企業・団体 * [[アトラス航空]] - アメリカ合衆国の貨物航空会社。 * [[アトラスネットワーク]] - [[欧州連合]](EU)諸国の[[対テロ作戦|対テロ]][[特殊部隊]]の[[社会的ネットワーク|ネットワーク]]。 * [[アトラスにじゅういち]] - 株式会社アトラスにじゅういち(アトラス21)。日本のアダルトビデオメーカー。ATLASというレーベルを持つ。 * [[アトラスピアノ製造]] - アトラスピアノ製造株式会社。日本のピアノメーカー。 * アトラス ([[:en:Atlas Model Railroad|Atlas Model Railroad Company, Inc.]]) - アメリカ合衆国の[[鉄道模型]]製作・販売会社。 * アトラスグループ - かつて存在した日本の企業グループ。 ** [[アトラスプロモーション]] - 東京都にあった、子供モデル専門の芸能事務所。2007年破産。 ** 富山アトラス - [[富山市]]にあった、男子サッカークラブ「[[ヴァリエンテ富山]]」と男子バスケットボールクラブ「[[富山グラウジーズ]]」を運営していた会社。 * [[CFアトラス]] - [[メキシコ]]・[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]に本拠地を置くサッカークラブ。 ;商業施設 *[[アトラス萩]] - [[山口県]][[萩市]]のショッピングセンター。[[丸久|丸久グループ]]運営の商業施設で、グループ唯一の大型店。 ; 艦船 * [[アトラス (戦列艦・1782年)]] - [[イギリス海軍]]の[[2等艦|2等]][[戦列艦]]。 ; 機器名 * [[アトラス (ミサイル)]] - アメリカ合衆国の[[大陸間弾道ミサイル]]。 * [[アトラス (ロケット)]] - 大陸間弾道ミサイルを転用したアメリカ合衆国の人工衛星打ち上げ用ロケット、及びその後継機。 ** [[アトラスV]] - 人工衛星打ち上げ用ロケットのアトラスシリーズのひとつ。 * [[日産・アトラス]] - [[日産自動車]]が発売している自動車。 * [[フォルクスワーゲン・アトラス]] - [[フォルクスワーゲン]]が発売している自動車。 * [[UNIVAC 1101]]の商用製品化前の名称(''Atlas'') * [[スターライト・コーポレーション]]の開発した[[天体望遠鏡]]のシリーズ名。 * [[アトラス (ロボット)]] - [[ボストン・ダイナミクス]]社の人型ロボット。 * [[エアバス A400M|エアバスA400M アトラス]] - エアバス・ミリタリー(現[[エアバス・ディフェンス・アンド・スペース]])社の開発した[[輸送機|軍用輸送機]]。 ; 作品名 * [[THE ATLAS]] - [[アートディンク]]が開発・発売した[[シミュレーションゲーム]]。 * [[Neo ATLAS]] - [[アートディンク]]、[[メディアクエスト]]から発売された、THE ATLASをアレンジした[[シミュレーションゲーム]]。 ; 人物名 * [[ダリア・アトラス]] - [[イスラエル]]出身の[[指揮者]]。 * [[トニー・アトラス]] - [[アメリカ合衆国]]の[[プロレスラー]]。本名アンソニー・ホワイト。 * [[フィル・アトラス]] - [[カナダ]]のプロレスラー。 * [[テディ・アトラス]] - アメリカの[[ボクシング]]トレーナー、解説者。 * [[ナターシャ・アトラス]] - [[ベルギー]]の歌手。 ; 漫画・アニメ・ゲームなどの架空のキャラクター・機器等の名 * 漫画・アニメ『[[鉄腕アトム]]』に登場するロボット。 * アニメ『[[機動警察パトレイバー]]』に登場する[[機動警察パトレイバー#レイバー|レイバー]](有人ロボット)、[[機動警察パトレイバーの登場メカ#アトラス|AL-97 アトラス]]。 * カリム・アトラス(声 - [[福士秀樹]]) - アニメ『[[サイコアーマー ゴーバリアン]]』の登場人物。 * ゲーム『[[FRONT MISSION SERIES GUN HAZARD]]』に登場する。宇宙の資源と太陽エネルギーを得るために開発された[[軌道エレベータ]]。 * ゲーム『[[ドラゴンクエストII 悪霊の神々]]』に登場する中ボス。 * ゲーム『[[ドラゴンスレイヤー英雄伝説II]]』の主人公。 * アトラスガンダム - 漫画・アニメ『[[機動戦士ガンダム サンダーボルト]]』に登場する[[モビルスーツ]](有人ロボット)。 ==ATLAS== {{see|ATLAS}} ==ATLUS== * [[アトラス (ゲーム会社)]] - 日本のゲーム企業。 ==関連項目== *{{prefix|アトラス}} *{{intitle|アトラス}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:あとらす}} [[Category:アトラス|*]] [[Category:英語の姓]] [[Category:ユダヤ人の姓]]
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7,009
BANCS
BANCS (バンクス、英語: BANks Cash Service 都銀キャッシュサービス)とは、都市銀行間を接続するCD/ATMの相互接続ネットワーク。1984年1月4日稼働開始。 大蔵省は1977年6月に、「オンライン処理による普通預金の代受け・代払い業務提携について」の事務連絡通達を発し、地方銀行、相互銀行、信用金庫の同種または異種金融機関相互についてオンライン提携を認めた。 また翌年6月16日付の銀行局長通達および事務連絡「オンライン処理による金融機関相互の業務提携について」で、オンライン提携をそれまでの事前届出制から承認制に改め、その対象金融機関を局長通達では、銀行、相互銀行、信用金庫とした。だが、事務連絡では都銀、長期信用銀行、信託銀行については、金融秩序維持の観点から漸進的にオンライン提携を進めていくが適当とされ、オンライン提携から除外されることになった。 その後、都銀についてもCD・ATM設置による顧客利便性の向上や、窓口業務の合理化の観点から都銀相互間のオンライン提携が検討され、1979年12月14日付の大蔵省の事務連絡で一部が改正され、都銀もオンライン提携が認められるになった。しかし、大蔵省からこの改正は都銀間のオンライン提携を認めるものであって、都銀と他の業態の金融機関とのオンライン提携は当面認めるものではない旨が口頭で連絡された。 改正を受け、都銀はオンライン提携の準備を始めるが、中下位行である6行(協和銀行、大和銀行、東海銀行、北海道拓殖銀行、太陽神戸銀行、埼玉銀行)が「一本化すれば預金口座を上位行に移され、中下位行は機械を使われるだけ」と統合に反対したため、1980年3月から中下位行は、六都銀キャッシュサービス(SICS)、翌月から上位行の7行(第一勧業銀行、三井銀行、富士銀行、三菱銀行、三和銀行、住友銀行、東京銀行)は都銀オンラインキャッシュサービス(TOCS)を稼働し、都銀は2系統に分かれてオンライン提携を開始した。 だが、1984年3月から郵便貯金の全国オンラインシステムネットワークの稼働を踏まえ、2系統間で統合の機運が盛り上がり、1984年1月4日から両者を統一して新たに、都銀キャッシュサービス(BANCS)がスタートした。さらに都銀は地銀に業態間で郵貯ネットワークに対抗できるネットワークを構築しなければならないと申し入れ、1990年2月5日から地銀の全国カードサービス(ACS)とBANCSの業態間のオンライン提携である全国キャッシュサービス(MICS)が稼動した。この地銀と都銀の提携を機に、MICSを介した業態間のオンライン提携が進められ、オンライン提携の民間大合同が実現した。 BANCSはシステムの運用をNTTデータ通信に委託。その管理運営は当初、専務・常務級で構成する「BANCS運営委員会」を最高の決議機関とし、その実務は幹事行が3ヶ月で交代で担当するとした。しかし、オンライン提携が業態内提携システムから前述の通り、民間金融機関のすべてを網羅するMICSへ拡大されることとなった。このため都銀は、従来の幹事行持ち回りの制度ではなく、恒常的な事務局を設置すべきと判断。BANCS事務局の事務を東京銀行協会(東銀協)に委託すること申し入れ、東銀協は1989年5月からBANCS事務局の運営事務の受託を開始した。 BANCSは都銀相互のATM提携を行うとともに、MICSを介して、LONGS、ACS等とも提携している。また、1991年1月13日から、日曜日の稼働も開始した。このほか、SMBC信託銀行(ACSとも接続)、セブン銀行及びイオン銀行(みずほ銀行経由でMICSにも接続)とも相互提携している(正式な加盟ではない)。ただし、法人キャッシュカードは自行以外のATMを使用することはできない。 2015年4月現在、接続銀行間で利用可能な取引は引き出しと残高照会、振り込みのみであり、預け入れは原則不可となっている。 1980年4月1日稼働開始 1980年3月11日稼働開始
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BANCS とは、都市銀行間を接続するCD/ATMの相互接続ネットワーク。1984年1月4日稼働開始。
'''BANCS''' (バンクス、{{Lang-en|BANks Cash Service}} '''都銀キャッシュサービス''')とは、[[都市銀行]]間を接続する[[現金自動預け払い機|CD]]/[[現金自動預け払い機|ATM]]の相互接続ネットワーク。[[1984年]][[1月4日]]稼働開始。 == 概要 == [[大蔵省]]は[[1977年]]6月に、「オンライン処理による[[普通預金]]の代受け・代払い業務提携について」の事務連絡通達を発し、[[地方銀行]]、[[相互銀行]]、[[信用金庫]]の同種または異種金融機関相互についてオンライン提携を認めた。 また翌年6月16日付の[[銀行局]]長通達および事務連絡「オンライン処理による金融機関相互の業務提携について」で、オンライン提携をそれまでの事前届出制から承認制に改め、その対象金融機関を局長通達では、銀行、相互銀行、信用金庫とした。だが、事務連絡では都銀、[[長期信用銀行]]、[[信託銀行]]については、金融秩序維持の観点から漸進的にオンライン提携を進めていくが適当とされ、オンライン提携から除外されることになった<ref name="kyokai793">『銀行協会五十年史』p.793</ref>。 その後、都銀についてもCD・ATM設置による顧客利便性の向上や、窓口業務の合理化の観点から都銀相互間のオンライン提携が検討され、[[1979年]]12月14日付の大蔵省の事務連絡で一部が改正され、都銀もオンライン提携が認められるになった。しかし、大蔵省からこの改正は都銀間のオンライン提携を認めるものであって、都銀と他の業態の金融機関とのオンライン提携は当面認めるものではない旨が口頭で連絡された<ref name="kyokai793" />。 改正を受け、都銀はオンライン提携の準備を始めるが、中下位行である6行([[協和銀行]]、[[大和銀行]]、[[東海銀行]]、[[北海道拓殖銀行]]、[[太陽神戸銀行]]、[[埼玉銀行]])が「一本化すれば預金口座を上位行に移され、中下位行は機械を使われるだけ」と統合に反対したため<ref name="yomiuri19830219">「自動支払いどの都銀でも」『読売新聞』1983年2月19日</ref>、[[1980年]]3月から中下位行は、六都銀キャッシュサービス(SICS)、翌月から上位行の7行([[第一勧業銀行]]、[[三井銀行]]、[[富士銀行]]、[[三菱銀行]]、[[三和銀行]]、[[住友銀行]]、[[東京銀行]])は都銀オンラインキャッシュサービス(TOCS)を稼働し<ref name="kyokai793" />、都銀は2系統に分かれてオンライン提携を開始した。 だが、[[1984年]]3月から[[郵便貯金]]の全国オンラインシステムネットワークの稼働を踏まえ、2系統間で統合の機運が盛り上がり<ref name="yomiuri19830219" />、1984年1月4日から両者を統一して新たに、都銀キャッシュサービス(BANCS)がスタートした<ref name="kyokai794">『全国地方銀行協会五十年史』p.794</ref>。さらに都銀は地銀に業態間で郵貯ネットワークに対抗できるネットワークを構築しなければならないと申し入れ<ref name="kyokai794" />、[[1990年]]2月5日から地銀の[[全国カードサービス]](ACS)とBANCSの業態間のオンライン提携である[[全国キャッシュサービス]](MICS)が稼動した。この地銀と都銀の提携を機に、MICSを介した業態間のオンライン提携が進められ、オンライン提携の民間大合同が実現した<ref>『銀行協会五十年史』p.795</ref>。 BANCSはシステムの運用を[[NTTデータグループ|エヌ・ティ・ティ・データ通信]]に委託。その管理運営は当初、専務・常務級で構成する「BANCS運営委員会」を最高の決議機関とし、その実務は幹事行が3ヶ月で交代で担当するとした<ref>『銀行協会五十年史』p.797</ref>。しかし、オンライン提携が業態内提携システムから前述の通り、民間金融機関のすべてを網羅するMICSへ拡大されることとなった。このため都銀は、従来の幹事行持ち回りの制度ではなく、恒常的な事務局を設置すべきと判断。BANCS事務局の事務を東京銀行協会(東銀協)<ref group="注">現:[[全国銀行協会]]。</ref>に委託すること申し入れ、東銀協は[[1989年]]5月からBANCS事務局の運営事務の受託を開始した<ref>『銀行協会五十年史』p.798</ref>。 == サービス内容 == BANCSは都銀相互のATM提携を行うとともに、MICSを介して、[[LONGS]]、[[全国カードサービス|ACS]]等とも提携している。また、[[1991年]][[1月13日]]から、[[日曜日]]の稼働も開始した<ref>[http://www3.boj.or.jp/josa/past_release/chosa199102k.pdf ◆BANCSおよびACS、CD・ATMの日曜稼働を実施 - 日本銀行]([[Portable Document Format|PDF]])</ref>。このほか、[[SMBC信託銀行]]([[全国カードサービス|ACS]]とも接続)、[[セブン銀行]]及び[[イオン銀行]]([[みずほ銀行]]経由で[[MICS]]にも接続)とも相互提携している('''正式な加盟ではない''')<ref group="注">[[ローソン銀行]]は、[[三菱UFJ銀行]]経由で[[MICS]]に接続。</ref>。ただし、法人キャッシュカードは自行以外のATMを使用することはできない。 [[2015年]]4月現在、接続銀行間で利用可能な取引は引き出しと残高照会、振り込みのみであり、預け入れは'''原則'''不可となっている<ref group="注">[[第一勧業銀行]]と[[富士銀行]]は、統合決定後の[[2000年]][[9月]]から預け入れを「マイナス額の引き出し」とデータ送信する事でBANCS経由による預け入れの相互提携を行っていた。尚、[[長期信用銀行]]である[[日本興業銀行]]は[[LONGS]]に加盟していたため、この入金提携には[[みずほ銀行]]が発足するまで参加しなかった。</ref>。 == 加盟金融機関 == *[[みずほ銀行]] *[[三菱UFJ銀行]] *[[三井住友銀行]] *[[りそな銀行]] *[[埼玉りそな銀行]] == BANCS成立前のネットワーク == === TOCS(都銀オンラインキャッシュサービス)加盟行 === 1980年4月1日稼働開始 *[[第一勧業銀行]](現・みずほ銀行) *[[三井銀行]](現・三井住友銀行) *[[富士銀行]](現・みずほ銀行) *[[三菱銀行]](現・三菱UFJ銀行) *[[三和銀行]](現・三菱UFJ銀行) *[[住友銀行]](現・三井住友銀行) *[[東京銀行]](現・三菱UFJ銀行) === SICS(六都銀キャッシュサービス)加盟行 === 1980年3月11日稼働開始 *[[協和銀行]](現・りそな銀行) *[[大和銀行]](現・りそな銀行) *[[東海銀行]](現・三菱UFJ銀行) *[[北海道拓殖銀行]](経営破綻し、その業務を現[[三井住友信託銀行]]・[[北洋銀行]]が引き継ぐ。) *[[太陽神戸銀行]](現・三井住友銀行) *[[埼玉銀行]](現・りそな銀行および埼玉りそな銀行) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注 === <references group="注" /> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 全国銀行協会連合会、東京銀行協会編『銀行協会五十年史』全国銀行協会連合会、1997年。 {{都市銀行}} {{DEFAULTSORT:はんくす}} [[Category:ATMネットワーク]] [[Category:都市銀行|*BANCS]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/BANCS
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国際連合機関
国際連合機関(こくさいれんごうきかん、英: United Nations organizations)とは、国際連合を構成する六つの主要機関と補助機関および、国際連合と連携関係にある国際機関の総称である。国際連合と連携関係にある国際機関のうち、特に、国際連合との間で「連携協定」を結んでいる機関は専門機関と呼ばれる。 国際連合の中心となる6つの主要機関(principal organs)に以下がある。総会の決議も国連の組織内にしか拘束力は及ばず、加盟国に対しては勧告に留まり、国際連合安全保障理事会の決議が唯一加盟国を法的に拘束する力を持つため、事実上の最高意思決定機関となっている。 また2006年6月に「Council(理事会)」を称する機関として、国際連合人権理事会(United Nations Human Rights Council:UNHRC)が設置されている。 以前の国際連合人権委員会(United Nations Commission on Human Rights:UNCHR)を発展させて設立された。形式上は総会の下部組織とされている。 国際連合における基金(Funds)、計画(programmes)、調査(research)、訓練/研究所(training institutes)他の組織として以下がある。 直接、国際連合総会に報告する。国際連合総会の決議によって設立される。 国際連合で採択された各条約(Convention)の事務局(secretariat)また条約に基づく組織として以下がある。 2010年に、国際連合婦人開発基金(UNIFEM)、経済社会局女性の地位向上部(DAW)、国際連合国際婦人調査訓練研修所(INSTRAW)、ジェンダー問題と女性の地位向上に関する事務総長特別顧問室(OSAGI)の4組織を統合して、新しく「UN Women(国際連合男女平等と女性権限付与の実現)」が設立された。 国際連合の専門機関(Specialized agency)は、国際連合憲章第57条に定義され、経済、社会、文化、教育、保健などの分野で広い国際的責任を有する国際機関のうち、国際連合と連携関係をもつものとされている。第63条では、経済社会理事会は、専門機関との間で連携関係についての条件を定める協定を締結することができるとしている。この協定を「連携協定」と呼んで、これを結んだ機関が厳密な意味での「専門機関」である。専門機関には、国際連合よりも古い歴史を持つものがあり、例えば、国際労働機関(ILO)は、1919年に国際連盟と同時に設立されて国際連合の発足後に連携協定を結んで専門機関となった。個々の専門機関に関する条約を批准することにより国際連合非加盟国であっても専門機関には参加できる。 国際連合の関連機関(Related organization)とは、国際連合との間で連携協定を結んでいないが、総会、安全保障理事会または経済社会理事会への報告を行うなど、国際連合と密接な関係にある国際機関である。 国際移住機関(International Organization for Migration:IOM)とは、世界的な移住問題を専門に扱う国際機関。本部はスイスのジュネーヴ。 包括的核実験禁止条約機構準備委員会(Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty Organization Preparatory Commission:CTBTO PrepCom)とは、包括的核実験禁止条約の発効予定組織。本部はオーストリアのウィーン。 国際原子力機関(International Atomic Energy Agency:IAEA)とは、原子力の平和利用と監視を行う国際機関。本部はオーストリアのウィーン。 化学兵器禁止機関(Organization for the Prohibition of Chemical Weapons:OPCW)とは、化学兵器の禁止と拡散防止活動を目的とする国際機関。本部はオランダのハーグ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国際連合機関(こくさいれんごうきかん、英: United Nations organizations)とは、国際連合を構成する六つの主要機関と補助機関および、国際連合と連携関係にある国際機関の総称である。国際連合と連携関係にある国際機関のうち、特に、国際連合との間で「連携協定」を結んでいる機関は専門機関と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国際連合の中心となる6つの主要機関(principal organs)に以下がある。総会の決議も国連の組織内にしか拘束力は及ばず、加盟国に対しては勧告に留まり、国際連合安全保障理事会の決議が唯一加盟国を法的に拘束する力を持つため、事実上の最高意思決定機関となっている。", "title": "主要機関" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また2006年6月に「Council(理事会)」を称する機関として、国際連合人権理事会(United Nations Human Rights Council:UNHRC)が設置されている。", "title": "主要機関" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "以前の国際連合人権委員会(United Nations Commission on Human Rights:UNCHR)を発展させて設立された。形式上は総会の下部組織とされている。", "title": "主要機関" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国際連合における基金(Funds)、計画(programmes)、調査(research)、訓練/研究所(training institutes)他の組織として以下がある。 直接、国際連合総会に報告する。国際連合総会の決議によって設立される。", "title": "基金・計画・調査・訓練/研究所他" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "国際連合で採択された各条約(Convention)の事務局(secretariat)また条約に基づく組織として以下がある。", "title": "基金・計画・調査・訓練/研究所他" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2010年に、国際連合婦人開発基金(UNIFEM)、経済社会局女性の地位向上部(DAW)、国際連合国際婦人調査訓練研修所(INSTRAW)、ジェンダー問題と女性の地位向上に関する事務総長特別顧問室(OSAGI)の4組織を統合して、新しく「UN Women(国際連合男女平等と女性権限付与の実現)」が設立された。", "title": "基金・計画・調査・訓練/研究所他" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "国際連合の専門機関(Specialized agency)は、国際連合憲章第57条に定義され、経済、社会、文化、教育、保健などの分野で広い国際的責任を有する国際機関のうち、国際連合と連携関係をもつものとされている。第63条では、経済社会理事会は、専門機関との間で連携関係についての条件を定める協定を締結することができるとしている。この協定を「連携協定」と呼んで、これを結んだ機関が厳密な意味での「専門機関」である。専門機関には、国際連合よりも古い歴史を持つものがあり、例えば、国際労働機関(ILO)は、1919年に国際連盟と同時に設立されて国際連合の発足後に連携協定を結んで専門機関となった。個々の専門機関に関する条約を批准することにより国際連合非加盟国であっても専門機関には参加できる。", "title": "専門機関" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "国際連合の関連機関(Related organization)とは、国際連合との間で連携協定を結んでいないが、総会、安全保障理事会または経済社会理事会への報告を行うなど、国際連合と密接な関係にある国際機関である。", "title": "関連機関" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "国際移住機関(International Organization for Migration:IOM)とは、世界的な移住問題を専門に扱う国際機関。本部はスイスのジュネーヴ。", "title": "関連機関" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "包括的核実験禁止条約機構準備委員会(Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty Organization Preparatory Commission:CTBTO PrepCom)とは、包括的核実験禁止条約の発効予定組織。本部はオーストリアのウィーン。", "title": "関連機関" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "国際原子力機関(International Atomic Energy Agency:IAEA)とは、原子力の平和利用と監視を行う国際機関。本部はオーストリアのウィーン。", "title": "関連機関" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "化学兵器禁止機関(Organization for the Prohibition of Chemical Weapons:OPCW)とは、化学兵器の禁止と拡散防止活動を目的とする国際機関。本部はオランダのハーグ。", "title": "関連機関" } ]
国際連合機関とは、国際連合を構成する六つの主要機関と補助機関および、国際連合と連携関係にある国際機関の総称である。国際連合と連携関係にある国際機関のうち、特に、国際連合との間で「連携協定」を結んでいる機関は専門機関と呼ばれる。
{{出典の明記|date=2022年9月}} [[File:United Nations Flags - cropped.jpg|thumb|300px|[[国際連合ジュネーブ事務局]]]] '''国際連合機関'''(こくさいれんごうきかん、{{lang-en-short|United Nations organizations}})とは、[[国際連合]]を構成する六つの'''主要機関'''と'''補助機関'''および、国際連合と連携関係にある[[国際機関]]の総称である。国際連合と連携関係にある国際機関のうち、特に、国際連合との間で「連携協定」を結んでいる機関は'''[[専門機関]]'''と呼ばれる。 == 主要機関 == 国際連合の中心となる6つの主要機関(principal organs)に以下がある。[[国際連合総会|総会]]の決議も国連の組織内にしか拘束力は及ばず、加盟国に対しては勧告に留まり、[[国際連合安全保障理事会]]の[[国際連合安全保障理事会決議|決議]]が唯一加盟国を法的に拘束する力を持つため、事実上の最高意思決定機関となっている。 また[[2006年]]6月に「Council(理事会)」を称する機関として、[[国際連合人権理事会]](United Nations Human Rights Council:UNHRC)が設置されている。 <div style="padding-top:15px;padding-bottom:10px;">{{navbar-header |{{big|'''国際連合主要機関'''}}<ref>{{cite web |url=http://www.un.org/en/sections/un-charter/chapter-iii/index.html |title=UN Charter: Chapter III |access-date=2 November 2017 |publisher=United Nations}}</ref> |United Nations organs}}</div> <div style="overflow-x:auto;"> {| cellspacing="0" cellpadding="2" style="width:100%;background:#e0e0e0;" |- style="text-align:center;" |width="34%" style="padding-left:15px;padding-top:10px;"| '''[[国際連合総会]]<br/>(United Nations General Assembly)'''<br/>&mdash;&nbsp;国際連合加盟国の[[本会議]] &nbsp;&mdash; |rowspan="7" style="background:white;"| |width="34%" style="padding-left:15px;padding-top:10px;"| '''[[国際連合事務局]]<br/>(United Nations Secretariat)'''<br/>&mdash;&nbsp;行政組織機構 &nbsp;&mdash; |rowspan="7" style="background:white;"| |width="34%" style="padding-left:15px;padding-top:10px;"| '''[[国際司法裁判所]]<br/>(International Court of Justice)'''<br/>&mdash;&nbsp;[[国際法]]一般を扱う[[裁判所]]&nbsp;&mdash; |- style="text-align:center;" | <div style="position:relative;height:120px;overflow:hidden;"> <div style="position:relative;top:-30px;left:0px;"><div style="width:100%;overflow-x:hidden;overflow:hidden;"> [[File:UN General Assembly hall.jpg|260px|UN General Assembly hall]]</div></div></div> | <div style="position:relative;height:120px;overflow:hidden;"> <div style="position:relative;top:-0px;left:0px;"><div style="width:100%;overflow-x:hidden;overflow:hidden;"> [[File:United Nations Headquarters in New York City, view from Roosevelt Island.jpg|260px|Headquarters of the UN in New York City]]</div></div></div> | <div style="position:relative;height:120px;overflow:hidden;"> <div style="position:relative;top:-32px;left:0px;"><div style="width:100%;overflow-x:hidden;overflow:hidden;"> [[File:International Court of Justice HQ 2006.jpg|260px|International Court of Justice]]</div></div></div> |- |style="vertical-align:top;padding-left:15px;padding-bottom:10px;padding-right:10px;font-size:95%;"| * [[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]の非常任理事国の選出、[[国際連合経済社会理事会|経済社会理事会]]の理事国の選出、[[国際連合事務総長|事務総長]]の選出、[[国際司法裁判所]]の判事の選出を行う。 |style="vertical-align:top;padding-left:15px;padding-bottom:10px;padding-right:10px;font-size:95%;"| * 国際連合本体業務を統括する。 |style="vertical-align:top;padding-left:15px;padding-bottom:10px;padding-right:10px;font-size:95%;"| * 当事者たる国家により付託された国家間の紛争について裁判を行う。 |- |colspan="7" style="background:white;"| |- style="text-align:center;" |style="padding-left:15px;padding-top:10px;"| '''[[国際連合安全保障理事会]]<br/>(United Nations Security Council)'''<br/>&mdash;&nbsp;国際的な安全保障問題を扱う&nbsp;&mdash; |style="padding-left:15px;padding-top:10px;"| '''[[国際連合経済社会理事会]]<br/>(United Nations Economic and Social Council)'''<br/>&mdash;&nbsp;世界経済と社会問題を扱う&nbsp;&mdash; |style="padding-left:15px;padding-top:10px;"| '''[[国際連合信託統治理事会]]<br/>(United Nations Trusteeship Council)'''<br/>&mdash;&nbsp;[[信託統治]]を扱う&nbsp;&mdash; |- style="text-align:center;" | <div style="position:relative;height:120px;overflow:hidden;"> <div style="position:relative;top:-50px;left:0px;"><div style="width:100%;overflow-x:hidden;overflow:hidden;"> [[File:UN-Sicherheitsrat - UN Security Council - New York City - 2014 01 06.jpg|260px|UN security council]]</div></div></div> | <div style="position:relative;height:120px;overflow:hidden;"> <div style="position:relative;top:-50px;left:0px;"><div style="width:100%;overflow-x:hidden;overflow:hidden;"> [[File:United Nations Economic and Social Council.jpg|260px|UN Economic and Social Council]]</div></div></div> | <div style="position:relative;height:120px;overflow:hidden;"> <div style="position:relative;top:0px;left:0px;"><div style="width:100%;overflow-x:hidden;overflow:hidden;"> [[File:United Nations Trusteeship Council chamber in New York City 2.JPG|260px|UN Trusteeship Council]]</div></div></div> |- |style="vertical-align:top;padding-left:15px;padding-bottom:10px;padding-right:10px;font-size:95%;"| * 5か国の[[常任理事国]]と10か国の[[非常任理事国]]で構成される。 |style="vertical-align:top;padding-left:15px; padding-bottom:10px;padding-right:10px;font-size:95%;"| * [[国際連合総会]]で選出された54か国で構成される。 |style="vertical-align:top;padding-left:15px; padding-bottom:10px;padding-right:10px;font-size:95%;"| * [[1994年]]に最後の信託統治地域であった[[パラオ]]が独立を果たしたためほぼ業務を終了した。今後は必要がある時に会議が開かれるとされている。 |} </div> === 国際連合総会 === {{main|国際連合総会}} === 国際連合事務局 === {{main|国際連合事務局}} * [[国際連合ジュネーブ事務局]](UNOG) * [[国際連合ナイロビ事務局]](UNON) * [[国際連合ウィーン事務局]](UNOV) === 国際司法裁判所 === {{main|国際司法裁判所}} === 安全保障理事会 === {{main|国際連合安全保障理事会}} === 経済社会理事会 === {{main|国際連合経済社会理事会}} === 信託統治理事会 === {{main|国際連合信託統治理事会}} === 人権理事会 === {{main|国際連合人権理事会}} 以前の[[国際連合人権委員会]](United Nations Commission on Human Rights:UNCHR)を発展させて設立された。形式上は[[国際連合総会|総会]]の下部組織とされている。 == 基金・計画・調査・訓練/研究所他 == 国際連合における基金(Funds)、計画(programmes)、調査(research)、訓練/研究所(training institutes)他の組織として以下がある。 直接、国際連合総会に報告する。国際連合総会の決議によって設立される。 === 基金・計画 === {| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:left;" |+ style="padding-top:1em;" |'''基金・計画''' ! 名称 !! !! 本部 !! 代表 !! 設立 !! |- | [[国際連合開発計画]] || '''UNDP:United Nations Development Programme'''||{{flagicon|USA}} [[米国]] [[ニューヨーク]] || {{Flagicon|Germany}} {{Flagicon|Brazil}} Achim Steiner || [[1965年]] || |- | [[国際連合児童基金]] || '''UNICEF:United Nations Children's Fund'''||{{flagicon|USA}} [[米国]] [[ニューヨーク]] || {{Flagicon|USA}} Catherine M. Russell || [[1946年]] || |- | [[国連資本開発基金]]|| '''UNCDF:United Nations Capital Development Fund'''||{{flagicon|USA}} [[米国]] [[ニューヨーク]] || {{Flagicon|Luxembourg}} Marc Bichler || [[1966年]] || |- | [[国際連合世界食糧計画]] || '''WFP:World Food Programme'''|| {{flagicon|Italy}} [[イタリア]] [[ローマ]] || {{Flagicon|USA}} David Beasley || [[1963年]] || |- | [[国際連合環境計画]] || '''UNEP:United Nations Environment Programme'''||{{flagicon|Kenya}} [[ケニア]] [[ナイロビ]] || {{Flagicon|Denmark}} Inger Andersen || [[1972年]] || |- | [[国際連合人口基金]]|| '''UNFPA:United Nations Population Fund'''||{{flagicon|USA}} [[米国]] [[ニューヨーク]] || {{Flagicon|USA}} Natalia Kanem || [[1969年]] || |- | [[国際連合人間居住計画]]|| '''UN-HABITAT:United Nations Human Settlements Programme'''||{{flagicon|Kenya}} [[ケニア]] [[ナイロビ]] || {{Flagicon|Malaysia}} Maimunah Mohd Sharif || [[1978年]] || |- | [[国連ボランティア計画|国際連合ボランティア計画]]||'''UNV:United Nations Volunteers'''||{{flagicon|Germany}} [[ドイツ]] [[ボン]] || {{Flagicon|Netherlands}} Richard Dictus || [[1978年]] || |} === 調査・訓練/研究所 === * [[国際連合軍縮研究所]] : United Nations Institute for Disarmament Research (UNIDIR) * [[国際連合訓練調査研究所]] : United Nations Institute for Training and Research (UNITAR) * [[国連地域間犯罪司法研究所]] : United Nations Interregional Crime and Justice Research Institute (UNICRI) * [[国連社会開発研究所]] : United Nations Research Institute for Social Development (UNRISD) * 国連システム職員学校 : United Nations System Staff College (UNSSC) * [[国際連合大学]] : United Nations University (UNU) === 条約事務局 === [[国際連合]]で採択された各条約(Convention)の事務局(secretariat)また条約に基づく組織として以下がある。 * [[障害者の権利に関する条約]](Convention on the Rights of Persons with Disabilities) * [[国連砂漠化対処条約]](United Nations Convention to Combat Desertification:UNCCD) * [[気候変動に関する国際連合枠組条約]](United Nations Framework Convention on Climate Change:UNFCCC) * [[海洋法に関する国際連合条約]](United Nations Convention on the Law of the Sea:UNCLOS) ** [[国際海底機構]](International Seabed Authority:ISA) ** [[国際海洋法裁判所]](International Tribunal for the Law of the Sea:ITLOS) === その他 === [[2010年]]に、国際連合婦人開発基金(UNIFEM)、経済社会局女性の地位向上部(DAW)、国際連合国際婦人調査訓練研修所(INSTRAW)、ジェンダー問題と女性の地位向上に関する事務総長特別顧問室(OSAGI)の4組織を統合して、新しく「UN Women(国際連合男女平等と女性権限付与の実現)」が設立された。 * [[国際連合エイズ合同計画]] : Joint United Nations Programme on HIV/AIDS (UNAIDS) * [[国際貿易センター]] : International Trade Centre (ITC) * [[国際連合プロジェクトサービス機関]] : United Nations Office for Project Services (UNOPS) * [[国際連合貿易開発会議]] : United Nations Conference on Trade and Development (UNCTAD) {| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:left;" |+ style="padding-top:1em;" |'''Other Entities and Bodies''' ! 名称 !! !! 本部 !! 代表 !! 設立 !! |- | [[国連難民高等弁務官事務所|国際連合難民高等弁務官事務所]] | '''UNHCR:United Nations High Commissioner for Refugees''' |{{flagicon|Switzerland}} [[スイス]] [[ジュネーブ]] | {{flagicon|Italy}} Filippo Grandi | [[1951年]] | |- | [[UNウィメン|国際連合男女平等と女性権限付与の実現]] || '''UN Women:United Nations Entity for Gender Equality and the Empowerment of Women'''||{{flagicon|USA}} [[米国]] [[ニューヨーク]] || {{flagicon|Jordan}} Sima Sami Bahous || [[2010年]] || |- | [[国際連合パレスチナ難民救済事業機関|国際連合近東パレスチナ難民救済事業機関]] | '''UNRWA:United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East''' |{{flagicon|Palestine}} [[パレスチナ]] [[ガザ]] <br> {{flagicon|Jordan}} [[ヨルダン]] [[アンマン]] || {{Flagicon|Switzerland}} Pierre Krähenbühl |[[1949年]] | |} == 専門機関 == [[国際連合]]の専門機関(Specialized agency)は、[[国際連合憲章]][[s:国際連合憲章#57|第57条]]に定義され、経済、社会、文化、教育、保健などの分野で広い国際的責任を有する国際機関のうち、国際連合と連携関係をもつものとされている。第63条では、経済社会理事会は、専門機関との間で連携関係についての条件を定める協定を締結することができるとしている。この協定を「連携協定」と呼んで、これを結んだ機関が厳密な意味での「専門機関」である。専門機関には、国際連合よりも古い歴史を持つものがあり、例えば、国際労働機関(ILO)は、[[1919年]]に[[国際連盟]]と同時に設立されて国際連合の発足後に連携協定を結んで専門機関となった。個々の専門機関に関する条約を批准することにより国際連合非加盟国であっても専門機関には参加できる。 <!--略称のアルファベット順に整列--> * [[国際連合食糧農業機関]](FAO) * [[国際民間航空機関]](ICAO) * [[国際農業開発基金]](IFAD) * [[国際労働機関]](ILO) * [[国際通貨基金]](IMF) * [[国際海事機関]](IMO) * [[国際電気通信連合]](ITU) * [[国際連合地域開発センター]](UNCRD) * [[国際連合工業開発機関]](UNIDO) * [[国際連合教育科学文化機関]](UNESCO) * [[世界観光機関]](UNWTO) * [[万国郵便連合]](UPU) * [[世界銀行]](WB)グループ ** [[国際復興開発銀行]](IBRD) ** [[国際投資紛争解決センター]](ICSID) ** [[国際開発協会]](IDA) ** [[国際金融公社]](IFC) ** [[多国間投資保証機関]](MIGA) * [[世界保健機関]](WHO) * [[世界知的所有権機関]](WIPO) * [[世界気象機関]](WMO) == 関連機関 == [[国際連合]]の関連機関(Related organization)とは、国際連合との間で連携協定を結んでいないが、総会、安全保障理事会または経済社会理事会への報告を行うなど、国際連合と密接な関係にある国際機関である。 === 国際移住機関 === {{main|国際移住機関}} [[国際移住機関]](International Organization for Migration:IOM)とは、世界的な移住問題を専門に扱う国際機関。本部は[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]。 === 包括的核実験禁止条約機構準備委員会 === {{main|包括的核実験禁止条約}} [[包括的核実験禁止条約]]機構準備委員会(Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty Organization Preparatory Commission:CTBTO PrepCom)とは、包括的核実験禁止条約の発効予定組織。本部は[[オーストリア]]の[[ウィーン]]。 === 国際原子力機関 === {{main|国際原子力機関}} [[国際原子力機関]](International Atomic Energy Agency:IAEA)とは、[[原子力]]の平和利用と監視を行う国際機関。本部は[[オーストリア]]の[[ウィーン]]。 === 化学兵器禁止機関 === {{main|化学兵器禁止機関}} [[化学兵器禁止機関]](Organization for the Prohibition of Chemical Weapons:OPCW)とは、化学兵器の禁止と拡散防止活動を目的とする国際機関。本部は[[オランダ]]の[[ハーグ]]。 === 世界貿易機関 === {{main|世界貿易機関}} * [[世界貿易機関]](World Trade Organization:WTO)とは、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関。常設事務局は[[スイス]]の[[ジュネーブ]]。 == 最高責任者調整会議・上級管理集団 == *最高責任者調整会議(Chief Executives' Board for Coordination:CEB) :[[国連システム]]における最高調整会議。 *上級管理集団(Senior Management Group:SMG) :[[1997年]]に設置された[[国際連合事務総長|事務総長]]以下の政策会議。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国際機関]] == 外部リンク == * [https://www.unic.or.jp/files/organize.pdf 国際連合機構図(日本語)] - [https://www.unic.or.jp/ 国際連合広報センター] {{国際連合}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくさいれんこうきかん}} [[Category:国際連合機関|*こくさいれんこうきかん]]
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ネーレウス
ネーレウス、ネレウス
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ネーレウス、ネレウス ネーレウス (ギリシア神話の神) - ギリシア神話に登場する神。 ネーレウス (ギリシア神話の英雄) - ギリシア神話に登場する人物。ポセイドーンとテューローの息子。ペリアースとは双子。ネストールの父。 ネーレウス - ギリシア神話に登場する人物。上記の人物の子孫で、アテーナイ王コドロスの息子。 ネレウス (小惑星4660番) - アポロ群の小惑星。 ネレウス (小惑星136557番) - トロヤ群の小惑星。 ネレウス (給炭艦) - アメリカ海軍の給炭艦。 ネーレウス (無人潜水機) - ウッズホール海洋研究所で開発された無人潜水機。1万メートルまで潜れる。2009年5月にマリアナ海溝に潜水した。自立運行モードと光ファイバーケーブルによる母船からの操縦の両方が可能。
'''ネーレウス'''、'''ネレウス''' <!-- 曖昧さ回避をする必要のある語にだけリンクを張ること --> <!-- 記事のあるものだけ記載すること --> * [[ネーレウス (ギリシア神話の神)]] (Νηρεύς, Nereus) - ギリシア神話に登場する神。 * [[ネーレウス (ギリシア神話の英雄)]] (Νηλεύς, Neleus) - ギリシア神話に登場する人物。ポセイドーンとテューローの息子。ペリアースとは双子。ネストールの父。 * ネーレウス (Νηλεύς, Neleus) - ギリシア神話に登場する人物。上記の人物の子孫で、アテーナイ王コドロスの息子。 * [[ネレウス (小惑星4660番)]] (4660 Nereus) - アポロ群の小惑星。 * [[ネレウス (小惑星136557番)]] (136557 Neleus) - トロヤ群の小惑星。 * [[ネレウス (給炭艦)]] (USS Nereus) - アメリカ海軍の給炭艦。 * [[ネーレウス (無人潜水機)]] - [[ウッズホール海洋研究所]]で開発された無人潜水機。1万メートルまで潜れる。2009年5月に[[マリアナ海溝]]に潜水した。自立運行モードと光ファイバーケーブルによる母船からの操縦の両方が可能。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ねえれうす}}
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人権
人権(じんけん、英: human rights)とは、単に人間であるということに基づく普遍的権利であり、「人間の生存にとって欠くことのできない権利および自由」とされる。「対国家権力」または「革命権」から由来している。ブルジョア革命(資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代憲法の不可欠の原理」とされる。 人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり、国際人権法(international human rights law)によって国際的に保障されている。ブルジョア革命の例としては 等があり、これらは人権を古典的に表現している。自由主義(リベラリズム)に基づくブルジョア革命・産業革命・資本主義等と共に、人権法も発展していった。 人権には基本的人権や基本権のように関連する概念がある。これらが相互に区別して論じられることもあれば、同義的に使用されることもある。 法的には(実定法を越えた)自然権としての性格が強調されて用いられている場合と、憲法が保証する権利の同義語として理解される場合がある。また、もっぱら国家権力からの自由について言う場合と、参政権や社会権やさまざまな新しい人権を含めて用いられることもある。 人権保障には2つの考え方があるとされる。その第一は、いわゆる自然権思想に立つもので、全ての人には国家から与えられたのではない人として生得する権利があり、憲法典における個人権の保障は、そのような自然的権利を確認するものとの考え方である。広辞苑では、実定法上の権利のように恣意的に剥奪されたり制限されたりしないと記述されている。その第二は、自然的権利の確認という考え方を排し、個人の権利を憲法典が創設的に保障しているとの考え方である。18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し、法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となったとされ、1814年のフランス憲法などがその例となっている。 歴史的には、人権が成文化されたのは1215年のマグナ・カルタにまで遡り、「生まれながらにして当然に人間としての権利を有する」という意味で国法上に初めて確認されたのは1776年のバージニア権利章典である。基本的人権の概念は、18世紀の人権宣言にある前国家的な自然権という点を厳密に解すれば、それは自由権を意味する(最狭義の基本的人権観念)。また、自由権をいかにして現実に保障するかという点に立ち至ると、参政権も基本的人権に観念されることとなる(狭義の基本的人権観念)。上記のような狭義の基本的人権観念が18世紀から19世紀にかけての支配的な人権観念であった。18世紀の人権宣言は、合理的に行為する完全な個人を措定するものであったが、19世紀末から20世紀にかけての困難な社会経済状態の中で、そのような措定を裏切るような事態が次第に明らかとなり、具体的な人間の状況に即して権利を考える傾向を生じ、いわゆる社会権も基本的人権に観念されるようになった(広義の基本的人権観念)。 最広義には、憲法が掲げる権利はすべて基本的人権と観念されることもある(最広義の基本的人権観念)。しかし、自然権的発想を重視する立場からは、国家によってのみ創設することができるような権利は、これに含ませることができないと解されている。日本の憲法学説でも、自然権的発想を重視する限り「基本的人権」(日本国憲法第11条)と「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)が同じ内容を持つものではありえないと解されており、従来、一般には国家賠償請求権(日本国憲法第17条)や刑事補償請求権(日本国憲法第40条)については、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)に含まれることはもちろんであるが、基本的人権を具体化または補充する権利として、基本的人権そのものとは区別されてきた。「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)には、広く憲法改正の承認権や最高裁判所裁判官の国民審査権まで含まれるとする学説もある。国によっては、憲法が国民に保障する自由及び権利については「基本権」(独: Grundrechte)と呼んで区別されることがある。 近年の憲法学では「人権」よりも「憲法上の権利」という表現が使われることが多い。 近代的な人権保障の歴史は1215年のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)にまで遡る。マグナ・カルタはもともと封建貴族たちの要求に屈して国王ジョンがなした譲歩の約束文書にすぎず、それ自体は近代的な意味での人権宣言ではない。しかし、エドワード・コーク卿がこれに近代的な解釈を施して「既得権の尊重」「代表なければ課税なし」「抵抗権」といった原理の根拠として援用したことから、マグナ・カルタは近代的人権宣言の古典としての意味を持つようになった。マグナ・カルタは、1628年の権利請願、1679年の人身保護法、1689年の権利章典などとともに人権保障の象徴として広く思想的な影響を有し続けている。 また、16世紀の宗教改革を経て徐々に達成された信教の自由の確立は、やがて近世における人間精神の解放への一里塚となった。中世ヨーロッパでは、人々は国家の公認した宗教以外のいかなる宗教の信仰も許されず、公認宗教を信仰しない者は異端者として処罰されたり、差別的な扱いを受けることが普通であった。このような恣意的な制度に対して立ち上がった人々の戦いは、単に信教の自由の確立にとどまらず、近代における人間の精神の自由への自覚を生みだす役割を果たすこととなった。 市民階級の台頭を背景にグローティウス、ロック、ルソーなどにより生成発展された近代自然法論は、のちの人権宣言の形成に重要な役割を果たすこととなった。例えば、ロックは生命、自由及び財産に対する権利を天賦の人権として主張するとともに、信教の自由についても国家は寛容であるべきことを主張している。 「天賦の権利」について実定化した最初の人権宣言は1776年のバージニア権利章典である。アメリカ植民地の人々は、印紙法に対する反対闘争以来、権利請願や権利章典などを援用することで自らの権利を主張しイギリス本国の圧制に抗していたが、アメリカ独立戦争に突入すると「イギリス人の権利」から進んで、自然法思想に基づく天賦の人権を主張するに至った。 — バージニア権利章典 アメリカで結実した自然法思想は、フランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった。フランス人権宣言では、人は生まれながらにして自由かつ平等であることを前提に、人身の自由、言論・出版の自由、財産権、抵抗権などの権利を列挙するとともに、同時に国民主権や権力分立の原則を不可分の原理と定めている。人権思想はフランス革命の進行とともにいっそう高まり、1793年憲法では抵抗権の規定が不可欠の義務にまで高められたが、財産権については公共の必要性と正当な事前補償があれば制限し得る相対的なものとなった(ただし、1793年憲法は施行されることはなかった)。 18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となった。 フランスの1814年欽定憲法では国民の権利は法の下の平等や人身の自由など数の上でも制限されたばかりでなく、質的にも天賦の権利から国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した。 ドイツの1850年のプロイセン憲法(英語版)も多数の権利規定を置いてはいたが、保障されている権利や自由は天賦のものではなく「法律によるのでなければ侵されない」というものに過ぎなくなった。 個人権の考え方を支配していたのは国家の主たる任務は国民の自由の確保にあり、国家は社会に干渉しないことが望ましいという「自由国家」の思想である。憲法による権利保障では法の適用の平等と各種の自由権の保障が中心的な位置を占めていた。自由権は1850年のプロイセン憲法に至って飽和状態となり、以後の諸憲法はほぼこれを踏襲して第一次世界大戦に至ることとなった。 18世紀から19世紀にかけて資本主義は急速に発展したが、それとともに諸々の社会的矛盾が現れ始めた。自由競争は社会の進歩をもたらすが、それが正義感覚で是認されるためには競争の出発点は平等でなければならない。産業革命の進展に伴って大量生産時代が普及するとともに生産手段を持たない労働者の数が増大したが、このような無産階級の人々にとって憲法の保障する財産権や自由権の多くは空しいものに過ぎなくなり、自由主義理念に基づく自由放任経済は著しい富の偏在と無産階級の困窮化をもたらした。国家は社会的な権利を保障するため積極的に関与することを求められるようになった。 そこで20世紀の憲法にはヴァイマル憲法の流れをくむ自由主義諸国の憲法とソビエト連邦の憲法などの社会主義諸国の憲法の2つの流れを生じた。 1919年のヴァイマル憲法は、「社会国家」思想または「福祉国家」思想に基づき、生存権や労働者の権利といった社会的人権を保障した最初の憲法である。ふつう自由主義諸国においては「自由国家」と「社会国家」の共存が理想とされている。 一方、社会主義諸国の憲法は本質的に自由主義諸国の憲法とは異なっていた。自由権の権利保障の場合、単に抽象的な自由を保障するのではなく、自由権の行使に必要な物質的条件の保障もあわせて定められているという特色がある。また、1936年のソビエト社会主義共和国連邦憲法は、市民の消費の対象となる物の所有及び相続は認めていたが、土地や生産手段などの私的所有は禁じていた。 しかし、ブルジョア民主主義を経験しなかったロシアや東欧諸国などの社会主義諸国においては、憲法そのものが十分に機能せず、そこで保障されていた権利や自由も画餅に帰していた。結局、一党独裁や硬直した官僚主義などの要因によって旧ソ連や東欧の社会主義国家は行き詰まり、これらの国々の憲法も効力を失うこととなった。ただ、そこでの権利保障の発想は自由主義諸国の憲法にも影響を与えたとされている。 国連憲章体制のもとでは、人権の普遍的概念はアプリオリには存在せず、また、人権保障は原則として国内管轄事項であって国連機関による干渉が禁止される領域のものであった。このため、人権の国際的実施は、条約の形で具体化された国家の合意の枠内でまず発展した。条約制度の枠組みを離れた、とくに国連による人権の国際的保護活動が本格的に展開するのは、1980年代以降のことである。 1948年12月10日、国際連合は世界人権宣言を採択して宣言した。 1966年12月16日には、世界人権宣言に法的拘束力を与えるため、国際連合は国際人権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約及び市民的及び政治的権利に関する国際規約、市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書)を採択した。 自由権規約第40条には報告制度、自由権規約第41条には国家間通報制度、選択議定書には個人通報制度が定められている。 世界人権宣言の具体的な実現のため、国際連合は国際人権規約以外に人権に関する諸条約を制定している。また欧州評議会は「人権と基本的自由の保護のための条約」を、米州機構は「米州人権条約」を、アフリカ連合は「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」を制定し、人権の国際法上の保障のためそれぞれ人権裁判所を設置している。 ゲオルグ・イェリネックの公権論からは国家に対する国民の地位によって「積極的地位」(受益権)や「消極的地位」(自由権)といった分類が行われた。 宮沢俊義は「消極的な受益関係」での国民の地位を「自由権」、「積極的な受益関係」での国民の地位を「社会権」とし、請願権や裁判を受ける権利などは「能動的関係における権利」に分類した。 佐藤幸治は「包括的基本権」、「消極的権利」(自由権)、「積極的権利」(受益権・社会国家的基本権)、「能動的権利」(参政権・請願権)に分類する。 人権の分類は法学者によっても異なるほか、多面的な権利と考えられているものもある。 我妻栄は『新憲法と基本的人権』(1948年)などで、基本的人権を「自由権的基本権」と「生存権的基本権」に大別し、人権の内容について前者は「自由」という色調を持つのに対して後者は「生存」という色調をもつものであること、また保障の方法も前者は「国家権力の消極的な規整・制限」であるのに対して後者は「国家権力の積極的な関与・配慮」にあるとして特徴づけ通説的見解の基礎となった。 しかし、社会権と自由権は截然と二分される異質な権利なのかといった問題や社会権において国家の積極的な関与が当然の前提となるのかといった問題も指摘されている。教育を受ける権利と教育の自由や労働基本権と団結の自由など自由権的側面の問題が認識されるようになり、時代の要請から強く主張される新しい人権(学習権、環境権等)も自由権と社会権の双方にまたがった特色を持っていることが背景にある。 現代では「積極的権利」や「福祉的権利」の比重が著しく増大し、国際人権規約でもまず社会権的なA規約があり、然る後に自由権的なB規約があるなど、具体的人間に即して人権の問題を考えようとする傾向がみられ、「自由権」と「社会権」あるいは「消極的権利」と「積極的権利」という区別はあまり意識されなくなっている(市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)には法の下の平等や生存権なども保障されている)。社会権と自由権の区別そのものを放棄する学説もあるが、社会権と自由権の区別の有用性を認めた上で両者の区別は相対的であり相互関連性を有するとする学説が一般的となっている。 1919年のドイツのヴァイマル憲法は社会国家思想を強く打ち出したものであったが、憲法起草時までドイツでは憲法典は政治上の宣言にすぎないと考えられ、憲法典では社会体制や経済的基盤から遊離した政治理想が奔放に述べられた。そのため、憲法典の実施に当たっては裁判所が直接有効な法としての効果を与えるために、「法たる規定」と「プログラム規定」に区分する以外になかった。 第二次世界大戦後の各国の憲法典では次のような3つの類型が出現することとなった。 日本国憲法では憲法第25条、憲法第26条、憲法第27条などについてプログラム規定と解する説(プログラム規定説)があるが、安易にプログラム規定と性格づけることは疑問とされている。 また、例えば日本の憲法25条におけるプログラム規定説は、自由権的側面については国に対してのみならず私人間においても裁判規範としての法的効力を認めており、請求権的側面についても憲法第25条が下位にある法律の解釈上の基準となることは認めている。したがって、文字通りのプログラム規定ではないことから、このような用語を使用することは議論を混乱させ問題点を不明瞭にさせるもので適当でないという指摘がある。 請求権的性格を有する基本的人権をめぐっては抽象的権利と具体的権利の区別の問題を生じる。 例えば、日本国憲法第25条の権利を、抽象的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しているときにはその法律に基づく訴訟において憲法第25条違反を主張することができるとしつつ、立法または行政権の不作為の違憲性を憲法第25条を根拠に争うことまでは認められないとする。一方、具体的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しない場合でも、国の不作為に対しては違憲確認訴訟を提起できるとする。 ただ、立法不作為の確認訴訟にとどまるものに「具体的」、憲法第25条違反として裁判で争う可能性まで残されているものに「抽象的」といった名称を用いることには疑問の余地があるとする指摘もある。 制度的保障とは、一般には、議会が憲法の定める制度を創設し維持することを義務づけられ、その制度の本質的内容を侵害することが禁じられているものをいう。制度的保障では直接の保障対象は制度それ自体であるから個人の基本的人権そのものではないが、制度的保障は基本的人権の保障を強化する意味を有する。 制度的保障として捉えられることがある制度には次のようなものがある。 国民が人権の享有主体であることは説明を必要としない。国籍の要件は憲法や法律で定められる。国民の要件は憲法で定めている場合もあれば法律に委ねている場合もある。 日本の場合、日本国憲法第10条が「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と定めており、国籍の取得と喪失について国籍法(昭和25年法律第147号)が定めている。 日本では、天皇及び皇族について、ともに憲法10条の「国民」に含まれるが世襲制や天皇の象徴たる地位から一定の異なる扱いを受けるとする説(宮沢俊義)、天皇については象徴たる地位から憲法10条の「国民」には含まれないが、皇族は憲法10条の「国民」に含まれ皇位継承に関係のある限りで一定の変容を受けるとする説(伊藤正己)、皇位の世襲制を重視し天皇・皇族ともに憲法10条の「国民」には含まれないとする説(佐藤幸治)など、学説は分かれていて一様ではない。 2004年、皇太子徳仁親王が記者会見で皇太子妃雅子に関して述べたいわゆる人格否定発言に関して議論が起きた際、評論家の西尾幹二らは皇族に一般に言われる人権はないとする論陣をはった。その論旨は 天皇および皇族は「一般国民」ではなく、その日常生活にはすべて公的な意味があり、プライバシーや自由が制限されるのは当然とするものである。また、「人権」という言葉は「抑圧されている側が求める概念の革命用語」であり、天皇や皇族が「抑圧」されているのはあってはならない(ありえない)とする。これについて自然権としての人権ということが理解されていないという批判があるが、西尾は人権そのものを否定したのではなく、その適用の対象または範囲に限定して論じたと応答している。この論については竹田恒泰が「人格否定発言について、『皇太子殿下の強い抗議は、ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較、視野に入れてのことであろう』というが、これも一体どのような取材をした結果だというのか」などと反論し、雑誌記事にコメントする立場にない皇族に対して妄想のいりまじった、無根拠な非難は「卑怯」とした。 多くの国において、未成年者の人権は制限される。未成年者は保護者の親権に服することとされる。未成年者は、契約を締結する権利、選挙権、被選挙権、飲酒・喫煙をする権利などを制限される。ただし、養育や教育を受ける権利など、未成年だからこそ認められる権利もある。 人権の前国家性からは、外国人にも人権の保障は及ぶと解されている。 日本では、法理的には日本国憲法第三章の規定はその表題にあるように「国民の権利及び義務」であるとした上で憲法前文の政治道徳の尊重から外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説と、人権の前国家性や憲法の国際協調主義及び日本国憲法第13条前段の趣旨の帰結として外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説がある。 ただし、外国人の人権享有主体性を認める場合でも、その法的地位は国民と全く同一というわけではない。たとえば、外交、国防、幣制などを担う国政選挙の参政権は、伝統的な国民主権原理のもとでは自国民に限られると解されている。 法人については、ドイツ連邦共和国基本法のように憲法典で法人にも人権保障が及ぶことを明文で規定している場合がある。 日本国憲法には明文の規定がないが、性質上可能な限り内国の法人にも権利の保障は及ぶとするのが確立された法理となっている(八幡製鉄事件判例最大判昭和45・6・24民集24巻6号625頁)。 男女同権、良心の自由、婚姻に関する保障などは、その性質上法人には保障が及ばない。 法人に対して人間は「自然人」と呼ばれる。 動物に人権があるのかについては、様々な説がある。人権は人間しか享有できないということは、決して自明なことではない。 人工知能の発展により、人権を認めるかが議論されている。法人格や限定的な権利は法技術的に認めることが可能とされる。 国民は一般的には国(または地方自治体)の権力的支配に服しているが、これとは別に法律上の特別の原因に基づいて特別の権力的な支配関係に入ることがある。このような特別の権力的な支配関係としては、公務員や国公立学校の学生や生徒のように本人の同意に基づく場合と、刑事収容施設の被勾留者や受刑者のような場合がある。 かつての公法理論である「特別権力関係論」では、このような関係においては法治主義の原則が排除され、特別権力主体には包括的な支配権が認められ、それに服する者に対しては法律の根拠なく権利や自由を制限でき、特別権力関係の内部行為についても司法審査が及ばないとされていた。しかし、現代では、このような人権の制約も、その特殊な法律関係の設定や存続のために内在する必要最小限度で合理的なものでなければならず、権利や自由の侵害に対しては司法審査が及ばなければならないと解されている。 外部から隔離された刑務所などの刑事施設の処遇をみれば、その国の人権意識のレベルがわかるといわれている。 日本においては、国際人権規約の下で設置された国連人権委員会において代用監獄の問題を指摘された。人権委員会は1998年の第4回日本政府報告の審査において代用監獄の廃止を勧告している。 元来、憲法による基本的人権の保障は国家と国民との関係で国家による侵害から国民の自由を保全しようとするものである。私人相互間の問題は原則として私的自治の原則に委ねられ、問題があれば立法措置で対処すべきと考えられていた。 憲法には私人間の適用を明示しているものや明示がなくても性質上私人間での妥当性が措定されているものがある。日本国憲法の場合、第15条第4項、第16条、第18条、第27条第3項、第28条などには私人間の適用があると解されている。 そのような規定でない場合の私人間効力については問題となる。 日本では、三菱樹脂事件で最高裁が憲法第19条及び憲法第14条について「他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」としつつ「場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存する」と判示した(最大判昭和48・12・12民集27巻11号1536頁)。この判例は間接適用説とみられている。しかし実質的に無適用説的発想であるという見解もある。 人権は原則として尊重されるべきで「不可侵」とされているものだが、制限の無い人権同士では矛盾・衝突するために「他人の権利を不当に侵害しない限り」「本人保護のため」には常に制限されている。そのため、人権は絶対無制限でなく、日本国憲法においても人権同士の衝突調整基準の「公共の福祉に反しない限り」で制限している。例えば、表現の自由や人権は尊重されるが交通渋滞を起こすような路上での行使は、他者の「移動する自由」を侵害しているために許されない。また集合住宅において、大声で歌ったり足を踏み鳴らしたりする権利は制限される。また、授業中に、教師の許可なく教室の外に出る権利は制限される。あるいは、犯罪を犯した時は、身体の自由へ制限される(逮捕される)場合がある。このように人権は、少なくとも人権の相互調整という観点から一定の規制は免れ難い。 近代立憲主義では法律によって人権の限界が認定されるが、法律による人権侵害の可能性をどう考えるかが問題となる。 かつては議会に最終判断権が委ねられ、憲法は「法律の範囲内において」権利を保障するという形式が一般的にとられていた。しかし、この方法では議会のあり方によっては人権保障は実のないものとなる。 アメリカ合衆国憲法のほか、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法やドイツ連邦共和国基本法では、立法部といえども侵害できない部分をも含む形での保障を採用している。この場合でも私的権利の行使や私的活動が絶対的で無制約というわけではなく、立法による制約の対象となりうるが、ただそれが一定の限度を超える場合には違憲という判断を受けることとなる。 大日本帝国憲法(明治憲法)は日本で最初の立憲主義憲法である。1850年のプロイセン憲法をモデルとしているが、その権利は恩恵的性格が強いもので、その保障も法律の範囲内で認められるものにすぎなかった。したがって、これらの権利は立法権によりほとんど自由に制限し得るものであった(一元的外在制約型)。 日本国憲法第11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とし、また日本国憲法第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と定めており、これらの規定は自然権の考え方に立脚したものと考えられている。 当初、アメリカ合衆国憲法は権利章典の規定を欠いていた。それは合衆国政府は列挙された権限のみを有する「制限された政府」であり、権利章典を付する必要がないだけでなく、それを付することは「制限された政府」の理念に反すると考えられたためであった。人権保障は各州の憲法や権利章典によって確保すればよいという基本的な考え方がとられていた。しかし、急進派から連邦憲法にも権利章典を追加すべきとの主張が出され、各州の批准手続を経て1791年に修正10カ条が付け加えられることとなった。 アメリカで結実した自然法思想はフランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった。人権思想は一層の高まりをみせ1793年憲法に至った。しかし、1795年憲法では権利規定が減少するとともに義務規定が増加して人権思想は顕著に後退し始めることとなる。1799年憲法では人権宣言そのものが憲法に置かれなかった。1814年欽定憲法では国民の権利は法の下の平等や人身の自由などに限られ、質的にも天賦のものから国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した。1830年憲法でも天賦人権思想が復活することはなかった。 フランスでこのような思想が復活するのは第二次世界大戦後の第四共和国憲法(1946年)であり、前文で1789年の人権宣言にある権利や自由の保障を再確認している。第五共和国憲法(1958年)も前文で1789年の人権宣言によって保障された諸権利の尊重を宣言している。 フランスの二月革命はドイツにも波及し、フランクフルト憲法は多くの権利や自由を「ドイツ人の基本権」として保障した画期的な憲法であったが、18世紀にみられたような前国家的人権という性質はみられない(フランクフルト憲法は未発効に終わった)。1850年のプロイセン憲法も多数の権利規定を盛り込んでいたが、それらの権利や自由は天賦のものではなく法律の範囲内で認められるものにすぎず、それはヴァイマル憲法でも変わることはなかった。ドイツで法律によっても制限することのできない保障として天賦人権思想が登場するのは1949年のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)においてである。 日本のゲーマー用語やIT用語として、別の意味を持つ比喩や俗語として用いられる。 ゲーマー用語としては、持っている人と持っていない人で圧倒的に差が開いてしまう、そのゲームを快適にプレイする上でほぼ必須となる武器・能力・装備・アイテム・キャラクター(キャラ)・スキルを意味する。それらを未所持だとゲームに勝ちにくくなり、周回効率が悪くなるからと協力プレイを拒否されたりチームからキックされたり、対戦型アクションゲームでは一方的に不利な状況となるなど、他プレイヤーに相手にされないと感じるような状態を生む。 または有人協力ゲームにおいて、チームへの貢献(度)が高い者に人権が与えられると表現されることもある。Pacific Metaマガジンの『ゲーム用語集』では、人権の本来の意味である「人間が生まれながらに持っている人間らしく生きるための権利」から転じて、オンラインゲーム用語として「所持することが前提となるような重要な武器やキャラクター」「その装備やキャラを所持して初めて、そのゲームのプレイヤーとして権利が得られる」「(そのゲームの)プレイヤーなら誰でも持つべき」と言うような意味と記している。 IT用語としては、パソコン等電子機器の必要最低限スペックを意味する。「人権スペック」とも呼ばれる。 特にビジネスで使うパソコンのメインメモリの大小は、「○○GB 以上は人権」「メモリ○○GB以下は人権がない」「エンジニアの人権が認められるパソコンのスペック」のような言い方がされるほど重要なパーツとなっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "人権(じんけん、英: human rights)とは、単に人間であるということに基づく普遍的権利であり、「人間の生存にとって欠くことのできない権利および自由」とされる。「対国家権力」または「革命権」から由来している。ブルジョア革命(資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代憲法の不可欠の原理」とされる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり、国際人権法(international human rights law)によって国際的に保障されている。ブルジョア革命の例としては", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "等があり、これらは人権を古典的に表現している。自由主義(リベラリズム)に基づくブルジョア革命・産業革命・資本主義等と共に、人権法も発展していった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "人権には基本的人権や基本権のように関連する概念がある。これらが相互に区別して論じられることもあれば、同義的に使用されることもある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "法的には(実定法を越えた)自然権としての性格が強調されて用いられている場合と、憲法が保証する権利の同義語として理解される場合がある。また、もっぱら国家権力からの自由について言う場合と、参政権や社会権やさまざまな新しい人権を含めて用いられることもある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "人権保障には2つの考え方があるとされる。その第一は、いわゆる自然権思想に立つもので、全ての人には国家から与えられたのではない人として生得する権利があり、憲法典における個人権の保障は、そのような自然的権利を確認するものとの考え方である。広辞苑では、実定法上の権利のように恣意的に剥奪されたり制限されたりしないと記述されている。その第二は、自然的権利の確認という考え方を排し、個人の権利を憲法典が創設的に保障しているとの考え方である。18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し、法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となったとされ、1814年のフランス憲法などがその例となっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "歴史的には、人権が成文化されたのは1215年のマグナ・カルタにまで遡り、「生まれながらにして当然に人間としての権利を有する」という意味で国法上に初めて確認されたのは1776年のバージニア権利章典である。基本的人権の概念は、18世紀の人権宣言にある前国家的な自然権という点を厳密に解すれば、それは自由権を意味する(最狭義の基本的人権観念)。また、自由権をいかにして現実に保障するかという点に立ち至ると、参政権も基本的人権に観念されることとなる(狭義の基本的人権観念)。上記のような狭義の基本的人権観念が18世紀から19世紀にかけての支配的な人権観念であった。18世紀の人権宣言は、合理的に行為する完全な個人を措定するものであったが、19世紀末から20世紀にかけての困難な社会経済状態の中で、そのような措定を裏切るような事態が次第に明らかとなり、具体的な人間の状況に即して権利を考える傾向を生じ、いわゆる社会権も基本的人権に観念されるようになった(広義の基本的人権観念)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "最広義には、憲法が掲げる権利はすべて基本的人権と観念されることもある(最広義の基本的人権観念)。しかし、自然権的発想を重視する立場からは、国家によってのみ創設することができるような権利は、これに含ませることができないと解されている。日本の憲法学説でも、自然権的発想を重視する限り「基本的人権」(日本国憲法第11条)と「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)が同じ内容を持つものではありえないと解されており、従来、一般には国家賠償請求権(日本国憲法第17条)や刑事補償請求権(日本国憲法第40条)については、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)に含まれることはもちろんであるが、基本的人権を具体化または補充する権利として、基本的人権そのものとは区別されてきた。「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)には、広く憲法改正の承認権や最高裁判所裁判官の国民審査権まで含まれるとする学説もある。国によっては、憲法が国民に保障する自由及び権利については「基本権」(独: Grundrechte)と呼んで区別されることがある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近年の憲法学では「人権」よりも「憲法上の権利」という表現が使われることが多い。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "近代的な人権保障の歴史は1215年のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)にまで遡る。マグナ・カルタはもともと封建貴族たちの要求に屈して国王ジョンがなした譲歩の約束文書にすぎず、それ自体は近代的な意味での人権宣言ではない。しかし、エドワード・コーク卿がこれに近代的な解釈を施して「既得権の尊重」「代表なければ課税なし」「抵抗権」といった原理の根拠として援用したことから、マグナ・カルタは近代的人権宣言の古典としての意味を持つようになった。マグナ・カルタは、1628年の権利請願、1679年の人身保護法、1689年の権利章典などとともに人権保障の象徴として広く思想的な影響を有し続けている。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、16世紀の宗教改革を経て徐々に達成された信教の自由の確立は、やがて近世における人間精神の解放への一里塚となった。中世ヨーロッパでは、人々は国家の公認した宗教以外のいかなる宗教の信仰も許されず、公認宗教を信仰しない者は異端者として処罰されたり、差別的な扱いを受けることが普通であった。このような恣意的な制度に対して立ち上がった人々の戦いは、単に信教の自由の確立にとどまらず、近代における人間の精神の自由への自覚を生みだす役割を果たすこととなった。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "市民階級の台頭を背景にグローティウス、ロック、ルソーなどにより生成発展された近代自然法論は、のちの人権宣言の形成に重要な役割を果たすこととなった。例えば、ロックは生命、自由及び財産に対する権利を天賦の人権として主張するとともに、信教の自由についても国家は寛容であるべきことを主張している。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「天賦の権利」について実定化した最初の人権宣言は1776年のバージニア権利章典である。アメリカ植民地の人々は、印紙法に対する反対闘争以来、権利請願や権利章典などを援用することで自らの権利を主張しイギリス本国の圧制に抗していたが、アメリカ独立戦争に突入すると「イギリス人の権利」から進んで、自然法思想に基づく天賦の人権を主張するに至った。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "— バージニア権利章典", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アメリカで結実した自然法思想は、フランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった。フランス人権宣言では、人は生まれながらにして自由かつ平等であることを前提に、人身の自由、言論・出版の自由、財産権、抵抗権などの権利を列挙するとともに、同時に国民主権や権力分立の原則を不可分の原理と定めている。人権思想はフランス革命の進行とともにいっそう高まり、1793年憲法では抵抗権の規定が不可欠の義務にまで高められたが、財産権については公共の必要性と正当な事前補償があれば制限し得る相対的なものとなった(ただし、1793年憲法は施行されることはなかった)。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となった。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "フランスの1814年欽定憲法では国民の権利は法の下の平等や人身の自由など数の上でも制限されたばかりでなく、質的にも天賦の権利から国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ドイツの1850年のプロイセン憲法(英語版)も多数の権利規定を置いてはいたが、保障されている権利や自由は天賦のものではなく「法律によるのでなければ侵されない」というものに過ぎなくなった。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "個人権の考え方を支配していたのは国家の主たる任務は国民の自由の確保にあり、国家は社会に干渉しないことが望ましいという「自由国家」の思想である。憲法による権利保障では法の適用の平等と各種の自由権の保障が中心的な位置を占めていた。自由権は1850年のプロイセン憲法に至って飽和状態となり、以後の諸憲法はほぼこれを踏襲して第一次世界大戦に至ることとなった。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "18世紀から19世紀にかけて資本主義は急速に発展したが、それとともに諸々の社会的矛盾が現れ始めた。自由競争は社会の進歩をもたらすが、それが正義感覚で是認されるためには競争の出発点は平等でなければならない。産業革命の進展に伴って大量生産時代が普及するとともに生産手段を持たない労働者の数が増大したが、このような無産階級の人々にとって憲法の保障する財産権や自由権の多くは空しいものに過ぎなくなり、自由主義理念に基づく自由放任経済は著しい富の偏在と無産階級の困窮化をもたらした。国家は社会的な権利を保障するため積極的に関与することを求められるようになった。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "そこで20世紀の憲法にはヴァイマル憲法の流れをくむ自由主義諸国の憲法とソビエト連邦の憲法などの社会主義諸国の憲法の2つの流れを生じた。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1919年のヴァイマル憲法は、「社会国家」思想または「福祉国家」思想に基づき、生存権や労働者の権利といった社会的人権を保障した最初の憲法である。ふつう自由主義諸国においては「自由国家」と「社会国家」の共存が理想とされている。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一方、社会主義諸国の憲法は本質的に自由主義諸国の憲法とは異なっていた。自由権の権利保障の場合、単に抽象的な自由を保障するのではなく、自由権の行使に必要な物質的条件の保障もあわせて定められているという特色がある。また、1936年のソビエト社会主義共和国連邦憲法は、市民の消費の対象となる物の所有及び相続は認めていたが、土地や生産手段などの私的所有は禁じていた。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかし、ブルジョア民主主義を経験しなかったロシアや東欧諸国などの社会主義諸国においては、憲法そのものが十分に機能せず、そこで保障されていた権利や自由も画餅に帰していた。結局、一党独裁や硬直した官僚主義などの要因によって旧ソ連や東欧の社会主義国家は行き詰まり、これらの国々の憲法も効力を失うこととなった。ただ、そこでの権利保障の発想は自由主義諸国の憲法にも影響を与えたとされている。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国連憲章体制のもとでは、人権の普遍的概念はアプリオリには存在せず、また、人権保障は原則として国内管轄事項であって国連機関による干渉が禁止される領域のものであった。このため、人権の国際的実施は、条約の形で具体化された国家の合意の枠内でまず発展した。条約制度の枠組みを離れた、とくに国連による人権の国際的保護活動が本格的に展開するのは、1980年代以降のことである。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1948年12月10日、国際連合は世界人権宣言を採択して宣言した。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1966年12月16日には、世界人権宣言に法的拘束力を与えるため、国際連合は国際人権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約及び市民的及び政治的権利に関する国際規約、市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書)を採択した。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "自由権規約第40条には報告制度、自由権規約第41条には国家間通報制度、選択議定書には個人通報制度が定められている。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "世界人権宣言の具体的な実現のため、国際連合は国際人権規約以外に人権に関する諸条約を制定している。また欧州評議会は「人権と基本的自由の保護のための条約」を、米州機構は「米州人権条約」を、アフリカ連合は「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」を制定し、人権の国際法上の保障のためそれぞれ人権裁判所を設置している。", "title": "人権思想の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ゲオルグ・イェリネックの公権論からは国家に対する国民の地位によって「積極的地位」(受益権)や「消極的地位」(自由権)といった分類が行われた。", "title": "人権の類型化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "宮沢俊義は「消極的な受益関係」での国民の地位を「自由権」、「積極的な受益関係」での国民の地位を「社会権」とし、請願権や裁判を受ける権利などは「能動的関係における権利」に分類した。", "title": "人権の類型化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "佐藤幸治は「包括的基本権」、「消極的権利」(自由権)、「積極的権利」(受益権・社会国家的基本権)、「能動的権利」(参政権・請願権)に分類する。", "title": "人権の類型化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "人権の分類は法学者によっても異なるほか、多面的な権利と考えられているものもある。", "title": "人権の類型化" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "我妻栄は『新憲法と基本的人権』(1948年)などで、基本的人権を「自由権的基本権」と「生存権的基本権」に大別し、人権の内容について前者は「自由」という色調を持つのに対して後者は「生存」という色調をもつものであること、また保障の方法も前者は「国家権力の消極的な規整・制限」であるのに対して後者は「国家権力の積極的な関与・配慮」にあるとして特徴づけ通説的見解の基礎となった。", "title": "人権の類型化" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし、社会権と自由権は截然と二分される異質な権利なのかといった問題や社会権において国家の積極的な関与が当然の前提となるのかといった問題も指摘されている。教育を受ける権利と教育の自由や労働基本権と団結の自由など自由権的側面の問題が認識されるようになり、時代の要請から強く主張される新しい人権(学習権、環境権等)も自由権と社会権の双方にまたがった特色を持っていることが背景にある。", "title": "人権の類型化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現代では「積極的権利」や「福祉的権利」の比重が著しく増大し、国際人権規約でもまず社会権的なA規約があり、然る後に自由権的なB規約があるなど、具体的人間に即して人権の問題を考えようとする傾向がみられ、「自由権」と「社会権」あるいは「消極的権利」と「積極的権利」という区別はあまり意識されなくなっている(市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)には法の下の平等や生存権なども保障されている)。社会権と自由権の区別そのものを放棄する学説もあるが、社会権と自由権の区別の有用性を認めた上で両者の区別は相対的であり相互関連性を有するとする学説が一般的となっている。", "title": "人権の類型化" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1919年のドイツのヴァイマル憲法は社会国家思想を強く打ち出したものであったが、憲法起草時までドイツでは憲法典は政治上の宣言にすぎないと考えられ、憲法典では社会体制や経済的基盤から遊離した政治理想が奔放に述べられた。そのため、憲法典の実施に当たっては裁判所が直接有効な法としての効果を与えるために、「法たる規定」と「プログラム規定」に区分する以外になかった。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後の各国の憲法典では次のような3つの類型が出現することとなった。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本国憲法では憲法第25条、憲法第26条、憲法第27条などについてプログラム規定と解する説(プログラム規定説)があるが、安易にプログラム規定と性格づけることは疑問とされている。 また、例えば日本の憲法25条におけるプログラム規定説は、自由権的側面については国に対してのみならず私人間においても裁判規範としての法的効力を認めており、請求権的側面についても憲法第25条が下位にある法律の解釈上の基準となることは認めている。したがって、文字通りのプログラム規定ではないことから、このような用語を使用することは議論を混乱させ問題点を不明瞭にさせるもので適当でないという指摘がある。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "請求権的性格を有する基本的人権をめぐっては抽象的権利と具体的権利の区別の問題を生じる。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "例えば、日本国憲法第25条の権利を、抽象的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しているときにはその法律に基づく訴訟において憲法第25条違反を主張することができるとしつつ、立法または行政権の不作為の違憲性を憲法第25条を根拠に争うことまでは認められないとする。一方、具体的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しない場合でも、国の不作為に対しては違憲確認訴訟を提起できるとする。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ただ、立法不作為の確認訴訟にとどまるものに「具体的」、憲法第25条違反として裁判で争う可能性まで残されているものに「抽象的」といった名称を用いることには疑問の余地があるとする指摘もある。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "制度的保障とは、一般には、議会が憲法の定める制度を創設し維持することを義務づけられ、その制度の本質的内容を侵害することが禁じられているものをいう。制度的保障では直接の保障対象は制度それ自体であるから個人の基本的人権そのものではないが、制度的保障は基本的人権の保障を強化する意味を有する。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "制度的保障として捉えられることがある制度には次のようなものがある。", "title": "人権の権利性" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "国民が人権の享有主体であることは説明を必要としない。国籍の要件は憲法や法律で定められる。国民の要件は憲法で定めている場合もあれば法律に委ねている場合もある。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本の場合、日本国憲法第10条が「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と定めており、国籍の取得と喪失について国籍法(昭和25年法律第147号)が定めている。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "日本では、天皇及び皇族について、ともに憲法10条の「国民」に含まれるが世襲制や天皇の象徴たる地位から一定の異なる扱いを受けるとする説(宮沢俊義)、天皇については象徴たる地位から憲法10条の「国民」には含まれないが、皇族は憲法10条の「国民」に含まれ皇位継承に関係のある限りで一定の変容を受けるとする説(伊藤正己)、皇位の世襲制を重視し天皇・皇族ともに憲法10条の「国民」には含まれないとする説(佐藤幸治)など、学説は分かれていて一様ではない。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2004年、皇太子徳仁親王が記者会見で皇太子妃雅子に関して述べたいわゆる人格否定発言に関して議論が起きた際、評論家の西尾幹二らは皇族に一般に言われる人権はないとする論陣をはった。その論旨は 天皇および皇族は「一般国民」ではなく、その日常生活にはすべて公的な意味があり、プライバシーや自由が制限されるのは当然とするものである。また、「人権」という言葉は「抑圧されている側が求める概念の革命用語」であり、天皇や皇族が「抑圧」されているのはあってはならない(ありえない)とする。これについて自然権としての人権ということが理解されていないという批判があるが、西尾は人権そのものを否定したのではなく、その適用の対象または範囲に限定して論じたと応答している。この論については竹田恒泰が「人格否定発言について、『皇太子殿下の強い抗議は、ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較、視野に入れてのことであろう』というが、これも一体どのような取材をした結果だというのか」などと反論し、雑誌記事にコメントする立場にない皇族に対して妄想のいりまじった、無根拠な非難は「卑怯」とした。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "多くの国において、未成年者の人権は制限される。未成年者は保護者の親権に服することとされる。未成年者は、契約を締結する権利、選挙権、被選挙権、飲酒・喫煙をする権利などを制限される。ただし、養育や教育を受ける権利など、未成年だからこそ認められる権利もある。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "人権の前国家性からは、外国人にも人権の保障は及ぶと解されている。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "日本では、法理的には日本国憲法第三章の規定はその表題にあるように「国民の権利及び義務」であるとした上で憲法前文の政治道徳の尊重から外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説と、人権の前国家性や憲法の国際協調主義及び日本国憲法第13条前段の趣旨の帰結として外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説がある。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ただし、外国人の人権享有主体性を認める場合でも、その法的地位は国民と全く同一というわけではない。たとえば、外交、国防、幣制などを担う国政選挙の参政権は、伝統的な国民主権原理のもとでは自国民に限られると解されている。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "法人については、ドイツ連邦共和国基本法のように憲法典で法人にも人権保障が及ぶことを明文で規定している場合がある。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "日本国憲法には明文の規定がないが、性質上可能な限り内国の法人にも権利の保障は及ぶとするのが確立された法理となっている(八幡製鉄事件判例最大判昭和45・6・24民集24巻6号625頁)。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "男女同権、良心の自由、婚姻に関する保障などは、その性質上法人には保障が及ばない。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "法人に対して人間は「自然人」と呼ばれる。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "動物に人権があるのかについては、様々な説がある。人権は人間しか享有できないということは、決して自明なことではない。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "人工知能の発展により、人権を認めるかが議論されている。法人格や限定的な権利は法技術的に認めることが可能とされる。", "title": "人権の享有主体性" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "国民は一般的には国(または地方自治体)の権力的支配に服しているが、これとは別に法律上の特別の原因に基づいて特別の権力的な支配関係に入ることがある。このような特別の権力的な支配関係としては、公務員や国公立学校の学生や生徒のように本人の同意に基づく場合と、刑事収容施設の被勾留者や受刑者のような場合がある。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "かつての公法理論である「特別権力関係論」では、このような関係においては法治主義の原則が排除され、特別権力主体には包括的な支配権が認められ、それに服する者に対しては法律の根拠なく権利や自由を制限でき、特別権力関係の内部行為についても司法審査が及ばないとされていた。しかし、現代では、このような人権の制約も、その特殊な法律関係の設定や存続のために内在する必要最小限度で合理的なものでなければならず、権利や自由の侵害に対しては司法審査が及ばなければならないと解されている。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "外部から隔離された刑務所などの刑事施設の処遇をみれば、その国の人権意識のレベルがわかるといわれている。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "日本においては、国際人権規約の下で設置された国連人権委員会において代用監獄の問題を指摘された。人権委員会は1998年の第4回日本政府報告の審査において代用監獄の廃止を勧告している。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "元来、憲法による基本的人権の保障は国家と国民との関係で国家による侵害から国民の自由を保全しようとするものである。私人相互間の問題は原則として私的自治の原則に委ねられ、問題があれば立法措置で対処すべきと考えられていた。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "憲法には私人間の適用を明示しているものや明示がなくても性質上私人間での妥当性が措定されているものがある。日本国憲法の場合、第15条第4項、第16条、第18条、第27条第3項、第28条などには私人間の適用があると解されている。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "そのような規定でない場合の私人間効力については問題となる。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "日本では、三菱樹脂事件で最高裁が憲法第19条及び憲法第14条について「他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」としつつ「場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存する」と判示した(最大判昭和48・12・12民集27巻11号1536頁)。この判例は間接適用説とみられている。しかし実質的に無適用説的発想であるという見解もある。", "title": "人権の適用領域" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "人権は原則として尊重されるべきで「不可侵」とされているものだが、制限の無い人権同士では矛盾・衝突するために「他人の権利を不当に侵害しない限り」「本人保護のため」には常に制限されている。そのため、人権は絶対無制限でなく、日本国憲法においても人権同士の衝突調整基準の「公共の福祉に反しない限り」で制限している。例えば、表現の自由や人権は尊重されるが交通渋滞を起こすような路上での行使は、他者の「移動する自由」を侵害しているために許されない。また集合住宅において、大声で歌ったり足を踏み鳴らしたりする権利は制限される。また、授業中に、教師の許可なく教室の外に出る権利は制限される。あるいは、犯罪を犯した時は、身体の自由へ制限される(逮捕される)場合がある。このように人権は、少なくとも人権の相互調整という観点から一定の規制は免れ難い。", "title": "人権への制限・制約原理" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "近代立憲主義では法律によって人権の限界が認定されるが、法律による人権侵害の可能性をどう考えるかが問題となる。", "title": "人権への制限・制約原理" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "かつては議会に最終判断権が委ねられ、憲法は「法律の範囲内において」権利を保障するという形式が一般的にとられていた。しかし、この方法では議会のあり方によっては人権保障は実のないものとなる。", "title": "人権への制限・制約原理" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国憲法のほか、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法やドイツ連邦共和国基本法では、立法部といえども侵害できない部分をも含む形での保障を採用している。この場合でも私的権利の行使や私的活動が絶対的で無制約というわけではなく、立法による制約の対象となりうるが、ただそれが一定の限度を超える場合には違憲という判断を受けることとなる。", "title": "人権への制限・制約原理" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法(明治憲法)は日本で最初の立憲主義憲法である。1850年のプロイセン憲法をモデルとしているが、その権利は恩恵的性格が強いもので、その保障も法律の範囲内で認められるものにすぎなかった。したがって、これらの権利は立法権によりほとんど自由に制限し得るものであった(一元的外在制約型)。", "title": "国家別人権規定" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "日本国憲法第11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とし、また日本国憲法第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と定めており、これらの規定は自然権の考え方に立脚したものと考えられている。", "title": "国家別人権規定" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "当初、アメリカ合衆国憲法は権利章典の規定を欠いていた。それは合衆国政府は列挙された権限のみを有する「制限された政府」であり、権利章典を付する必要がないだけでなく、それを付することは「制限された政府」の理念に反すると考えられたためであった。人権保障は各州の憲法や権利章典によって確保すればよいという基本的な考え方がとられていた。しかし、急進派から連邦憲法にも権利章典を追加すべきとの主張が出され、各州の批准手続を経て1791年に修正10カ条が付け加えられることとなった。", "title": "国家別人権規定" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "アメリカで結実した自然法思想はフランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった。人権思想は一層の高まりをみせ1793年憲法に至った。しかし、1795年憲法では権利規定が減少するとともに義務規定が増加して人権思想は顕著に後退し始めることとなる。1799年憲法では人権宣言そのものが憲法に置かれなかった。1814年欽定憲法では国民の権利は法の下の平等や人身の自由などに限られ、質的にも天賦のものから国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した。1830年憲法でも天賦人権思想が復活することはなかった。", "title": "国家別人権規定" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "フランスでこのような思想が復活するのは第二次世界大戦後の第四共和国憲法(1946年)であり、前文で1789年の人権宣言にある権利や自由の保障を再確認している。第五共和国憲法(1958年)も前文で1789年の人権宣言によって保障された諸権利の尊重を宣言している。", "title": "国家別人権規定" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "フランスの二月革命はドイツにも波及し、フランクフルト憲法は多くの権利や自由を「ドイツ人の基本権」として保障した画期的な憲法であったが、18世紀にみられたような前国家的人権という性質はみられない(フランクフルト憲法は未発効に終わった)。1850年のプロイセン憲法も多数の権利規定を盛り込んでいたが、それらの権利や自由は天賦のものではなく法律の範囲内で認められるものにすぎず、それはヴァイマル憲法でも変わることはなかった。ドイツで法律によっても制限することのできない保障として天賦人権思想が登場するのは1949年のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)においてである。", "title": "国家別人権規定" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "日本のゲーマー用語やIT用語として、別の意味を持つ比喩や俗語として用いられる。", "title": "ゲームやITにおける比喩・俗語" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ゲーマー用語としては、持っている人と持っていない人で圧倒的に差が開いてしまう、そのゲームを快適にプレイする上でほぼ必須となる武器・能力・装備・アイテム・キャラクター(キャラ)・スキルを意味する。それらを未所持だとゲームに勝ちにくくなり、周回効率が悪くなるからと協力プレイを拒否されたりチームからキックされたり、対戦型アクションゲームでは一方的に不利な状況となるなど、他プレイヤーに相手にされないと感じるような状態を生む。", "title": "ゲームやITにおける比喩・俗語" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "または有人協力ゲームにおいて、チームへの貢献(度)が高い者に人権が与えられると表現されることもある。Pacific Metaマガジンの『ゲーム用語集』では、人権の本来の意味である「人間が生まれながらに持っている人間らしく生きるための権利」から転じて、オンラインゲーム用語として「所持することが前提となるような重要な武器やキャラクター」「その装備やキャラを所持して初めて、そのゲームのプレイヤーとして権利が得られる」「(そのゲームの)プレイヤーなら誰でも持つべき」と言うような意味と記している。", "title": "ゲームやITにおける比喩・俗語" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "IT用語としては、パソコン等電子機器の必要最低限スペックを意味する。「人権スペック」とも呼ばれる。", "title": "ゲームやITにおける比喩・俗語" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "特にビジネスで使うパソコンのメインメモリの大小は、「○○GB 以上は人権」「メモリ○○GB以下は人権がない」「エンジニアの人権が認められるパソコンのスペック」のような言い方がされるほど重要なパーツとなっている。", "title": "ゲームやITにおける比喩・俗語" } ]
人権とは、単に人間であるということに基づく普遍的権利であり、「人間の生存にとって欠くことのできない権利および自由」とされる。「対国家権力」または「革命権」から由来している。ブルジョア革命(資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代憲法の不可欠の原理」とされる。 人権は人が生まれつき持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり、国際人権法によって国際的に保障されている。ブルジョア革命の例としては イギリス革命 アメリカ革命 フランス革命 等があり、これらは人権を古典的に表現している。自由主義(リベラリズム)に基づくブルジョア革命・産業革命・資本主義等と共に、人権法も発展していった。
{{権利}} '''人権'''(じんけん、{{lang-en-short|human rights}})とは、単に[[人間]]であるということに基づく普遍的[[権利]]であり{{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|loc=「基本的人権」}}、「人間の[[生命|生存]]にとって欠くことのできない権利および[[自由]]」とされる{{Sfn|平凡社|2022|loc=「基本的人権」}}。「対[[国家権力]]」または「[[革命権]]」から由来している{{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|loc=「基本的人権」}}{{sfn|鈴木|1997|p=94}}<!--学術論文-->。[[ブルジョア革命]](資本主義革命)によって確立された権利であり、「近代[[憲法]]の不可欠の[[原理]]」とされる{{Sfn|平凡社|2018|loc=「基本的人権」}}。 人権は人が[[先天性|生まれつき]]持ち、国家権力によっても侵されない基本的な諸権利であり{{Sfn|平凡社|2018|loc=「基本的人権」}}、[[国際人権法]](international human rights law)によって国際的に[[保障]]されている{{Sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018b|loc=「国際人権法」}}。ブルジョア革命の例としては * [[イギリス革命]]([[権利の章典|権利章典]] 1689年) * [[アメリカ革命]]([[アメリカ独立宣言|独立宣言]] 1776年) * [[フランス革命]]([[人間と市民の権利の宣言|人権宣言]] 1789年) 等があり、これらは人権を[[古典]]的に表現している{{Sfn|平凡社|2018|loc=「基本的人権」}}。[[自由主義]](リベラリズム)に基づくブルジョア革命・[[産業革命]]・[[資本主義]]等と共に、人権法も発展していった{{Sfn|田中|2018|loc=「自由主義」}}。 {{see also|[[市民社会|市民社会(資本主義社会)]]|[[ブルジョア憲法|ブルジョア憲法(資本主義憲法)]]|ブルジョア民主主義|経済的自由主義}} == 概説 == 人権には'''基本的人権'''や'''基本権'''のように関連する概念がある。これらが相互に区別して論じられることもあれば、同義的に使用されることもある<ref name="chz176">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 176 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 法的には([[実定法]]を越えた)[[自然権]]としての性格が強調されて用いられている場合と、憲法が保証する[[権利]]の同義語として理解される場合がある<ref name="I_ts">{{Cite book |和書 |author=樋口陽一 |author-link=樋口陽一 |editor=廣松 渉、子安 宣邦、三島 憲一 |title=岩波 哲学・思想事典 |url=https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E5%93%B2%E5%AD%A6_%E6%80%9D%E6%83%B3%E4%BA%8B%E5%85%B8/E90wAQAAIAAJ |date=1998年3月 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080089-2 |page=813 |chapter=人権 |oclc=39296942}}</ref>。また、もっぱら{{Underline|国家権力からの自由}}について言う場合と、[[参政権]]や[[社会権]]やさまざまな[[新しい人権]]を含めて用いられることもある<ref name="I_ts" />{{refnest|group="注"|「かように〈人権〉の理解は一様ではないが、西洋近代の個人主義思想を多かれ少なかれ基本に置いている点では共通」と樋口陽一は説明した<ref name="I_ts" />。人権を尊重しない政権や、アラブやアフリカ、アジアなどでは、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の相違などとして反発することがある。だが、一般的に言えば文化の多元性を尊重しつつも、人権価値の普遍性を擁護するという立場が欧米ではコンセンサスを得つつある。}}。 人権保障には2つの考え方があるとされる<ref name="yus69">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 69 |isbn= 4-641-11278-9 }}</ref>。その第一は、いわゆる自然権思想に立つもので、全ての人には国家から与えられたのではない人として生得する権利があり、憲法典における個人権の保障は、そのような自然的権利を確認するものとの考え方である<ref name="yus69"/>。広辞苑では、実定法上の権利のように恣意的に剥奪されたり制限されたりしない<ref name="kj5">{{Cite book |和書 |title=広辞苑 |edition=第六版 |page=10165}}</ref>と記述されている。その第二は、自然的権利の確認という考え方を排し、個人の権利を憲法典が創設的に保障しているとの考え方である<ref name="yus69"/>。18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し、[[法実証主義]]的ないし[[功利主義]]的な思考態度が支配的となったとされ<ref name="chz176"/>、1814年の[[1814年憲章|フランス憲法]]などがその例となっている<ref name="yus69"/>。 歴史的には、人権が[[成文法主義|成文化]]されたのは1215年の[[マグナ・カルタ]]にまで遡り、「生まれながらにして当然に人間としての権利を有する」という意味で[[国法]]上に初めて確認されたのは1776年の[[バージニア権利章典]]である<ref>{{Cite web|和書|title=人権とは |url=https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E6%A8%A9-81632 |website=コトバンク |accessdate=2022-02-17 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 |last=小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=基本的人権とは |url=https://kotobank.jp/word/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84%E4%BA%BA%E6%A8%A9-51583 |website=コトバンク |accessdate=2022-02-17 |language=ja |first=日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,知恵蔵,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 |last=第2版,世界大百科事典内言及 }}</ref>。基本的人権の概念は、[[18世紀]]の人権宣言にある前国家的な自然権という点を厳密に解すれば、それは[[自由権]]を意味する(最狭義の基本的人権観念)<ref name="chz176"/>。また、自由権をいかにして現実に保障するかという点に立ち至ると、参政権も基本的人権に観念されることとなる(狭義の基本的人権観念)<ref name="chz176"/>。上記のような狭義の基本的人権観念が18世紀から[[19世紀]]にかけての支配的な人権観念であった<ref name="chz176"/>。18世紀の人権宣言は、合理的に行為する{{Underline|完全な個人}}を措定するものであったが、19世紀末から[[20世紀]]にかけての困難な社会経済状態の中で、そのような措定を裏切るような事態が次第に明らかとなり、具体的な人間の状況に即して権利を考える傾向を生じ、いわゆる社会権も基本的人権に観念されるようになった(広義の基本的人権観念)<ref name="chz176"/>。 最広義には、憲法が掲げる権利はすべて基本的人権と観念されることもある(最広義の基本的人権観念)<ref name="chz177">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 177 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。しかし、自然権的発想を重視する立場からは、国家によってのみ創設することができるような権利は、これに含ませることができないと解されている<ref name="yus71">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 71 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。日本の憲法学説でも、自然権的発想を重視する限り「基本的人権」([[日本国憲法第11条]])と「この憲法が国民に保障する自由及び権利」([[日本国憲法第12条]])が同じ内容を持つものではありえないと解されており<ref name="yus71"/>、従来、一般には[[国家賠償請求権]]([[日本国憲法第17条]])や[[刑事補償請求権]]([[日本国憲法第40条]])については、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)に含まれることはもちろんであるが、基本的人権を具体化または補充する権利として、基本的人権そのものとは区別されてきた<ref name="chz177"/>。「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)には、広く[[憲法改正]]の承認権や[[最高裁判所裁判官国民審査|最高裁判所裁判官の国民審査権]]まで含まれるとする学説もある<ref>{{Cite book |和書 |author1= 宮沢俊義 |author2= 芦部信喜 |year= 1978 |title= 全訂日本国憲法 |publisher= 日本評論社 |pages= 195-196 }}</ref>。国によっては、憲法が国民に保障する自由及び権利については「[[:de:Grundrechte (Deutschland)|基本権]]」({{Lang-de-short|Grundrechte}})と呼んで区別されることがある<ref name="yus71"/>。 近年の[[憲法学]]では「人権」よりも「憲法上の権利」という表現が使われることが多い<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=AIに、「人権」や責任はあるか? AIと共存するために必要な法整備を考える {{!}} 一般財団法人 Next Wisdom Foundation ネクストウィズダムファウンデーション |url=https://nextwisdom.org/article/3223/ |website=nextwisdom.org |access-date=2023-04-21 |language=ja}}</ref>。 == 人権思想の歴史 == === 前史 === 近代的な人権保障の歴史は[[1215年]]のイギリスの[[マグナ・カルタ]](大憲章)にまで遡る<ref name="kokusai3">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 3 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。マグナ・カルタはもともと封建貴族たちの要求に屈して国王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]がなした譲歩の約束文書にすぎず、それ自体は近代的な意味での人権宣言ではない<ref name="kokusai3"/>。しかし、[[エドワード・コーク|エドワード・コーク卿]]がこれに近代的な解釈を施して「既得権の尊重」「代表なければ課税なし」「抵抗権」といった原理の根拠として援用したことから、マグナ・カルタは近代的人権宣言の古典としての意味を持つようになった<ref name="kokusai3"/>。マグナ・カルタは、1628年の[[権利請願]]、1679年の[[人身保護法 (イギリス)|人身保護法]]、1689年の[[権利章典 (イギリス)|権利章典]]などとともに人権保障の象徴として広く思想的な影響を有し続けている<ref name="kokusai3-4">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |pages= 3-4 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。 また、16世紀の宗教改革を経て徐々に達成された[[信教の自由]]の確立は、やがて近世における人間精神の解放への一里塚となった<ref name="kokusai4">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 4 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。中世ヨーロッパでは、人々は国家の公認した宗教以外のいかなる宗教の信仰も許されず、公認宗教を信仰しない者は異端者として処罰されたり、差別的な扱いを受けることが普通であった<ref name="kokusai4"/>。このような恣意的な制度に対して立ち上がった人々の戦いは、単に信教の自由の確立にとどまらず、近代における人間の精神の自由への自覚を生みだす役割を果たすこととなった<ref name="kokusai4"/>。 === 17世紀–18世紀 === 市民階級の台頭を背景に[[フーゴー・グローティウス|グローティウス]]、[[ジョン・ロック|ロック]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]などにより生成発展された近代自然法論は、のちの人権宣言の形成に重要な役割を果たすこととなった<ref name="kokusai4"/>。例えば、ロックは生命、自由及び財産に対する権利を天賦の人権として主張するとともに、信教の自由についても国家は寛容であるべきことを主張している<ref name="kokusai4-5">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |pages= 4-5 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。 「天賦の権利」について実定化した最初の人権宣言は[[1776年]]の[[バージニア権利章典]]である<ref name="kokusai5">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 5 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。アメリカ植民地の人々は、[[1765年印紙法|印紙法]]に対する反対闘争以来、権利請願や権利章典などを援用することで自らの権利を主張しイギリス本国の圧制に抗していたが、[[アメリカ独立戦争]]に突入すると「イギリス人の権利」から進んで、自然法思想に基づく天賦の人権を主張するに至った<ref name="kokusai5"/>。 {{quotation| ; バージニア権利章典第1条 : 人は生まれながらにして自由かつ独立であり、一定の生来の権利を有する。これらの権利は、人民が社会状態に入るにあたり、いかなる契約によっても、人民の子孫から奪うことのできないものである。かかる権利とは、財産を取得・所有し、幸福と安全とを追求する手段を伴って生命と自由を享受する権利である。 |バージニア権利章典<ref name="kokusai5"/> }} アメリカで結実した自然法思想は、フランスの[[人間と市民の権利の宣言]](フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった<ref name="kokusai6">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 6 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。フランス人権宣言では、人は生まれながらにして自由かつ平等であることを前提に、人身の自由、言論・出版の自由、財産権、抵抗権などの権利を列挙するとともに、同時に国民主権や権力分立の原則を不可分の原理と定めている<ref name="kokusai6"/>。人権思想はフランス革命の進行とともにいっそう高まり、[[1793年憲法]]では抵抗権の規定が不可欠の義務にまで高められたが、財産権については公共の必要性と正当な事前補償があれば制限し得る相対的なものとなった<ref name="kokusai8">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 8 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>(ただし、1793年憲法は施行されることはなかった)。 === 19世紀 === 18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となった<ref name="chz176"/>。 フランスの[[1814年憲章|1814年欽定憲法]]では国民の権利は法の下の平等や人身の自由など数の上でも制限されたばかりでなく、質的にも天賦の権利から国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した<ref name="kokusai8"/>。 ドイツの{{仮リンク|1850年のプロイセン憲法|en|Constitution of Prussia (1850)}}も多数の権利規定を置いてはいたが、保障されている権利や自由は天賦のものではなく「法律によるのでなければ侵されない」というものに過ぎなくなった<ref name="kokusai9">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 9 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。 個人権の考え方を支配していたのは国家の主たる任務は国民の自由の確保にあり、国家は社会に干渉しないことが望ましいという「自由国家」の思想である<ref name="yus72">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 72 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。憲法による権利保障では法の適用の平等と各種の自由権の保障が中心的な位置を占めていた<ref name="yus72"/>。自由権は1850年のプロイセン憲法に至って飽和状態となり、以後の諸憲法はほぼこれを踏襲して第一次世界大戦に至ることとなった<ref name="yus72"/>。 === 20世紀以降 === ==== 自由主義諸国の憲法と社会主義諸国の憲法 ==== 18世紀から19世紀にかけて[[資本主義]]は急速に発展したが、それとともに諸々の社会的矛盾が現れ始めた<ref name="kokusai11">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 9 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。自由競争は社会の進歩をもたらすが、それが正義感覚で是認されるためには競争の出発点は平等でなければならない<ref name="yus73">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 73 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。[[産業革命]]の進展に伴って大量生産時代が普及するとともに生産手段を持たない労働者の数が増大したが、このような無産階級の人々にとって憲法の保障する財産権や自由権の多くは空しいものに過ぎなくなり、自由主義理念に基づく自由放任経済は著しい富の偏在と無産階級の困窮化をもたらした<ref name="kokusai11"/>。国家は社会的な権利を保障するため積極的に関与することを求められるようになった<ref name="kokusai11"/>。 そこで20世紀の憲法には[[ヴァイマル憲法]]の流れをくむ自由主義諸国の憲法と[[ソビエト連邦の憲法]]などの社会主義諸国の憲法の2つの流れを生じた<ref name="kokusai14">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 14 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。 [[1919年]]のヴァイマル憲法は、「社会国家」思想または「福祉国家」思想に基づき、生存権や労働者の権利といった社会的人権を保障した最初の憲法である<ref name="kokusai11"/><ref name="yus73"/>。ふつう自由主義諸国においては「自由国家」と「社会国家」の共存が理想とされている<ref name="yus74">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 74 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 一方、社会主義諸国の憲法は本質的に自由主義諸国の憲法とは異なっていた<ref name="kokusai15">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 15 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。自由権の権利保障の場合、単に抽象的な自由を保障するのではなく、自由権の行使に必要な物質的条件の保障もあわせて定められているという特色がある<ref name="kokusai15"/>。また、1936年の[[ソビエト社会主義共和国連邦憲法 (1936年)|ソビエト社会主義共和国連邦憲法]]は、市民の消費の対象となる物の所有及び相続は認めていたが、土地や生産手段などの私的所有は禁じていた<ref name="kokusai16">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 16 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。 しかし、ブルジョア民主主義を経験しなかったロシアや東欧諸国などの社会主義諸国においては、憲法そのものが十分に機能せず、そこで保障されていた権利や自由も画餅に帰していた<ref name="kokusai17">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 17 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。結局、一党独裁や硬直した官僚主義などの要因によって旧ソ連や東欧の社会主義国家は行き詰まり、これらの国々の憲法も効力を失うこととなった<ref name="kokusai16"/>。ただ、そこでの権利保障の発想は自由主義諸国の憲法にも影響を与えたとされている<ref name="kokusai16"/>。 ==== 人権の国際化 ==== [[国連憲章]]体制のもとでは、人権の普遍的概念は[[アプリオリ]]には存在せず、また、人権保障は原則として国内管轄事項であって国連機関による干渉が禁止される領域のものであった。このため、人権の国際的実施は、条約の形で具体化された国家の合意の枠内でまず発展した。条約制度の枠組みを離れた、とくに国連による人権の国際的保護活動が本格的に展開するのは、1980年代以降のことである。 [[1948年]][[12月10日]]、[[国際連合]]は[[世界人権宣言]]を採択して宣言した。 [[1966年]][[12月16日]]には、世界人権宣言に法的拘束力を与えるため、国際連合は[[国際人権規約]]([[経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約]]及び[[市民的及び政治的権利に関する国際規約]]、[[市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書]])を採択した。 自由権規約第40条には報告制度、自由権規約第41条には国家間通報制度、選択議定書には個人通報制度が定められている<ref>アムネスティ・インターナショナル[http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/ihrl/report_system.html 『国連の人権条約が持っている個人通報制度一覧』]。</ref>。 世界人権宣言の具体的な実現のため、国際連合は国際人権規約以外に[[国際人権法|人権に関する諸条約]]を制定している。また[[欧州評議会]]は「[[人権と基本的自由の保護のための条約]]」を、[[米州機構]]は「[[米州人権条約]]」を、[[アフリカ連合]]は「[[人及び人民の権利に関するアフリカ憲章]]」を制定し、人権の国際法上の保障のためそれぞれ人権裁判所を設置している。 == 人権の類型化 == [[ゲオルグ・イェリネック]]の公権論からは国家に対する国民の地位によって「積極的地位」(受益権)や「消極的地位」(自由権)といった分類が行われた<ref>{{Cite journal |和書|author = 奥平康弘 |title = 人権体系及び内容の変容 |year = 1977 |publisher = 有斐閣 |journal = ジあわなよふろュリスト |volume = 638 |pages = 243-244 }}</ref>。 [[宮沢俊義]]は「消極的な受益関係」での国民の地位を「自由権」、「積極的な受益関係」での国民の地位を「[[社会権]]」とし、請願権や裁判を受ける権利などは「能動的関係における権利」に分類した<ref>{{Cite book |和書 |author= 宮沢俊義 |year= 1958 |title= 法律学全集(4)憲法II新版 |publisher= 有斐閣 |pages= 90-94 }}</ref>。 [[佐藤幸治]]は「包括的基本権」、「消極的権利」(自由権)、「積極的権利」(受益権・社会国家的基本権)、「能動的権利」(参政権・請願権)に分類する<ref name="chz178-179">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |pages= 178-179 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 ; 包括的権利(包括的基本権) : [[幸福追求権|生命・自由・幸福追求権]]や[[法の下の平等]]は、それ自体が権利としての性質を有するとともに他の個別的諸権利の保障の基礎的条件をなす権利であり「包括的権利」などとして位置づけられる<ref name="chz178">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 178 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 ; 消極的権利(自由権) :* 精神活動の自由としては、[[思想・良心の自由]]、[[信教の自由]]、[[学問の自由]]、[[表現の自由]]、集会・結社の自由([[集会の自由]]及び[[結社の自由]])、[[居住移転の自由|居住・移転の自由]]、外国移住・国籍離脱の自由がある<ref name="chz178"/>。 :* 経済活動の自由としては、[[職業選択の自由]]や[[財産権]]の保障がある<ref name="chz178"/>。 :* 私的生活の不可侵としては、住居等の不可侵や[[通信の秘密]]がある<ref name="chz178"/>。 :* 人身の自由及び刑事裁判手続上の保障としては、奴隷的拘束・苦役からの自由、適正手続の保障、不法な逮捕からの自由、不法な抑留や拘禁からの自由、拷問及び残虐刑の禁止、刑事裁判手続上の保障がある<ref name="chz178"/>。 ; 積極的権利 :* [[国務請求権|受益権]]として、[[裁判を受ける権利]]、[[国家賠償請求権]]、[[刑事補償請求権]]がある<ref name="chz178"/>。 :* 社会国家的基本権として、生存権、[[教育を受ける権利]]、[[勤労権]]、[[労働基本権]]がある<ref name="chz178-179"/>。 ; 能動的権利 : 能動的権利として、公務員選定罷免権([[参政権]])と[[請願権]]がある<ref name="chz179">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 179 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 人権の分類は法学者によっても異なるほか、多面的な権利と考えられているものもある。 * 従来、請願権は請願の受理を求める権利であるとの理解から[[国務請求権]](受益権)に分類されてきたが、現代の請願は民意を直接に議会や政府に伝えるという意味が重要視されており参政権的機能をも有するものと理解されている<ref name="chz353">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一|author2= 佐藤幸治|author3= 中村睦男|author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 353 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。請願権を参政権に分類する学説もあるが、請願権は国家意思の決定に参与する権利ではないから典型的参政権とは異なる補充的参政権として捉えられることがある<ref name="chz354">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一|author2= 佐藤幸治|author3= 中村睦男|author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 354 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 * 日本国憲法に定められる権利の場合、学説は一般には[[日本国憲法第25条]](生存権)、[[日本国憲法第26条]](教育権)、[[日本国憲法第27条]](労働権)、[[日本国憲法第28条]](労働基本権)に定められる権利を「社会権」として一括して分類している<ref name="chzII140">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |page= 140 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。ただし生存権などについて「社会国家的国務請求権」として分類されることもある<ref name="yus151">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 151 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 [[我妻栄]]は『新憲法と基本的人権』(1948年)などで、基本的人権を「自由権的基本権」と「生存権的基本権」に大別し、人権の内容について前者は「自由」という色調を持つのに対して後者は「生存」という色調をもつものであること、また保障の方法も前者は「国家権力の消極的な規整・制限」であるのに対して後者は「国家権力の積極的な関与・配慮」にあるとして特徴づけ通説的見解の基礎となった<ref name="chzII141">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |page= 141 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。 しかし、社会権と自由権は截然と二分される異質な権利なのかといった問題や社会権において国家の積極的な関与が当然の前提となるのかといった問題も指摘されている<ref name="chzII141"/>。教育を受ける権利と教育の自由や労働基本権と団結の自由など自由権的側面の問題が認識されるようになり、時代の要請から強く主張される新しい人権(学習権、環境権等)も自由権と社会権の双方にまたがった特色を持っていることが背景にある<ref name="chzII141"/>。 現代では「積極的権利」や「福祉的権利」の比重が著しく増大し、[[国際人権規約]]でもまず社会権的なA規約があり、然る後に自由権的なB規約があるなど、具体的人間に即して人権の問題を考えようとする傾向がみられ、「自由権」と「社会権」あるいは「消極的権利」と「積極的権利」という区別はあまり意識されなくなっている<ref name="chz177"/>([[市民的及び政治的権利に関する国際規約]](自由権規約)には[[法の下の平等]]や[[生存権]]なども保障されている)。社会権と自由権の区別そのものを放棄する学説もあるが、社会権と自由権の区別の有用性を認めた上で両者の区別は相対的であり相互関連性を有するとする学説が一般的となっている<ref name="chzII141-142">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |pages= 141-142 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。 == 人権の権利性 == === プログラム規定 === 1919年のドイツのヴァイマル憲法は社会国家思想を強く打ち出したものであったが、憲法起草時までドイツでは憲法典は政治上の宣言にすぎないと考えられ、憲法典では社会体制や経済的基盤から遊離した政治理想が奔放に述べられた<ref name="yus151"/>。そのため、憲法典の実施に当たっては裁判所が直接有効な法としての効果を与えるために、「法たる規定」と「[[プログラム規定]]」に区分する以外になかった<ref name="yus151-152">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |pages= 151-152 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 第二次世界大戦後の各国の憲法典では次のような3つの類型が出現することとなった<ref name="yus152">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 152 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 * 法としての効果を有する規定のみを掲げているもの([[ドイツ連邦共和国基本法]])<ref name="yus152"/> * 裁判所が強制しうる規定と立法に対する指導原則を指示するにとどまる規定を区分して規定するもの([[スペイン1978年憲法|スペイン憲法]])<ref name="yus152"/> * 直接に法的効果をもつ規定とそうでない規定が混在しているもの([[イタリア共和国憲法]])<ref name="yus152"/> 日本国憲法では[[日本国憲法第25条|憲法第25条]]、[[日本国憲法第26条|憲法第26条]]、[[日本国憲法第27条|憲法第27条]]などについてプログラム規定と解する説(プログラム規定説)があるが、安易にプログラム規定と性格づけることは疑問とされている<ref name="chz180">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 180 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 また、例えば日本の憲法25条におけるプログラム規定説は、自由権的側面については国に対してのみならず私人間においても裁判規範としての法的効力を認めており、請求権的側面についても憲法第25条が下位にある法律の解釈上の基準となることは認めている<ref name="chzII143">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |page= 143 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref><ref name="chzII150">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |page= 150 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。したがって、文字通りのプログラム規定ではないことから、このような用語を使用することは議論を混乱させ問題点を不明瞭にさせるもので適当でないという指摘がある<ref name="chzII150-151">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |pages= 150-151 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。 === 具体的権利と抽象的権利 === 請求権的性格を有する基本的人権をめぐっては抽象的権利と具体的権利の区別の問題を生じる<ref name="chz179">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 179 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 例えば、日本国憲法第25条の権利を、抽象的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しているときにはその法律に基づく訴訟において憲法第25条違反を主張することができるとしつつ、立法または行政権の不作為の違憲性を憲法第25条を根拠に争うことまでは認められないとする<ref name="chzII144">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |page= 144 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。一方、具体的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しない場合でも、国の不作為に対しては違憲確認訴訟を提起できるとする<ref name="chzII144"/><ref>{{Cite journal |和書|author = 大須賀明 |title = 社会権の法理 |year = 1972 |publisher = 有斐閣 |journal = 公法研究 |volume = 34 |page = 119 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 大須賀明 |year= 1984 |title= 生存権論 |publisher= 日本評論社 |page= 71}}</ref>。 ただ、立法不作為の確認訴訟にとどまるものに「具体的」、憲法第25条違反として裁判で争う可能性まで残されているものに「抽象的」といった名称を用いることには疑問の余地があるとする指摘もある<ref name="chz231">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 231 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 === 制度的保障 === 制度的保障とは、一般には、議会が憲法の定める制度を創設し維持することを義務づけられ、その制度の本質的内容を侵害することが禁じられているものをいう<ref name="chz181">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 181 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。制度的保障では直接の保障対象は制度それ自体であるから個人の基本的人権そのものではないが、制度的保障は基本的人権の保障を強化する意味を有する<ref name="chz181"/>。 制度的保障として捉えられることがある制度には次のようなものがある。 ; [[大学の自治]] : 大学の自治の法的性格については学問の自由を保障するための客観的な制度的保障とする制度的保障論が有力である<ref name="chzII126">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |page= 126 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。 ; 私有財産制度 : 私有財産制度は財産権の保障との関連で制度的保障として捉えられることがある。 : ただし、日本国憲法第29条第1項(財産権の保障)については、客観的法秩序としての私有財産制の制度的保障のみを認める趣旨であるとする説<ref>{{Cite book |和書 |author= 柳瀬良幹 |year= 1949 |title= 人権の歴史 |publisher= 明治書院 |pages= 60-61 }}</ref>もあるが、多数説は私有財産制の制度的保障とともに個人が現に有する財産権をも個別的に保障していると解している<ref name="chzII237">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1997 |title= 注解法律学全集(2)憲法II |publisher= 青林書院 |page= 237 |isbn= 4-417-01040-4 }}</ref>。 ; [[政教分離原則]] : 政教分離原則は信教の自由との関連で制度的保障として捉えられる<ref>{{Cite book |和書 |author= 橋本公亘 |year= 1988 |title= 日本国憲法改訂版 |publisher= 有斐閣 |page= 233 }}</ref>。ただし、政教分離原則を制度的保障として捉えることは微妙であるとする消極的な見解もある<ref name="chz181"/>。{{see|制度的保障}} == 人権の享有主体性 == === 国民 === 国民が人権の享有主体であることは説明を必要としない<ref name="chz182">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 182 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。国籍の要件は憲法や法律で定められる。国民の要件は憲法で定めている場合もあれば法律に委ねている場合もある。 日本の場合、[[日本国憲法第10条]]が「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と定めており、国籍の取得と喪失について[[国籍法 (日本)|国籍法]](昭和25年法律第147号)が定めている<ref name="yus75">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 75 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 日本では、天皇及び皇族について、ともに憲法10条の「国民」に含まれるが世襲制や天皇の象徴たる地位から一定の異なる扱いを受けるとする説(宮沢俊義)、天皇については象徴たる地位から憲法10条の「国民」には含まれないが、皇族は憲法10条の「国民」に含まれ皇位継承に関係のある限りで一定の変容を受けるとする説(伊藤正己)、皇位の世襲制を重視し天皇・皇族ともに憲法10条の「国民」には含まれないとする説(佐藤幸治)など、学説は分かれていて一様ではない<ref>{{Cite book |和書|author1=野中俊彦|author2=高橋和之|author3=中村睦男|author4=高見勝利|edition=第3版|year=2001|title=憲法|volume=I|pages=216-217|publisher=有斐閣|location= |isbn=4641128936|quote= }}</ref>。 [[2004年]]、[[皇太子徳仁親王]]が記者会見で[[皇太子徳仁親王妃雅子|皇太子妃雅子]]に関して述べたいわゆる[[人格否定発言]]に関して議論が起きた際、評論家の[[西尾幹二]]らは[[皇族]]に一般に言われる'''人権'''はないとする論陣をはった。その論旨は [[天皇]]および皇族は「一般国民」ではなく<ref group="注">[[神道]]信者である事が義務付けられ、[[皇室典範]]により結婚・独立には[[皇室会議]]の同意が必要で[[家制度]]と[[家長]]制度が存在する。[[選挙権]]ももちろんない</ref>、その日常生活にはすべて公的な意味があり、[[プライバシー]]や自由が制限されるのは当然とするものである。また、「人権」という言葉は「抑圧されている側が求める概念の革命用語」であり、天皇や皇族が「抑圧」されているのはあってはならない(ありえない)とする<ref name="will">西尾『皇太子さまへのご忠言』ワック 2008年(ISBN 4898311245)、「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2008年5月-8月号</ref>。これについて[[自然権]]としての人権ということが理解されていないという批判があるが、西尾は人権そのものを否定したのではなく、その適用の対象または範囲に限定して論じたと応答している<ref name="will"/>。この論については[[竹田恒泰]]が「人格否定発言について、『皇太子殿下の強い抗議は、ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較、視野に入れてのことであろう』というが、これも一体どのような取材をした結果だというのか」などと反論し、雑誌記事にコメントする立場にない皇族に対して妄想のいりまじった、無根拠な非難は「卑怯」とした<ref>『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』2008年7月号</ref>。 === 未成年者 === 多くの国において、[[未成年者]]の人権は制限される。未成年者は保護者の[[親権]]に服することとされる。未成年者は、契約を締結する権利、選挙権、被選挙権、飲酒・喫煙をする権利などを制限される。ただし、養育や教育を受ける権利など、未成年だからこそ認められる権利もある。 === 外国人 === 人権の前国家性からは、外国人にも人権の保障は及ぶと解されている<ref name="chz185">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 185 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 日本では、法理的には日本国憲法第三章の規定はその表題にあるように「国民の権利及び義務」であるとした上で憲法前文の政治道徳の尊重から外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説<ref name="yus77">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 77 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>と、人権の前国家性や憲法の国際協調主義及び日本国憲法第13条前段の趣旨の帰結として外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説<ref name="chz185"/>がある。 ただし、外国人の人権享有主体性を認める場合でも、その法的地位は国民と全く同一というわけではない<ref name="chz185"/>。たとえば、外交、国防、幣制などを担う国政選挙の参政権は、伝統的な国民主権原理のもとでは自国民に限られると解されている<ref>{{Cite book |和書|author1=野中俊彦|author2=高橋和之|author3=中村睦男|author4=高見勝利|edition=第3版|year=2001|title=憲法|volume=I|page=211|publisher=有斐閣|location= |isbn=4641128936|quote= }}</ref>。{{see|外国人}} === 法人 === 法人については、ドイツ連邦共和国基本法のように憲法典で法人にも人権保障が及ぶことを明文で規定している場合がある<ref name="yus78-79">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |pages= 78-79 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 日本国憲法には明文の規定がないが、性質上可能な限り内国の法人にも権利の保障は及ぶとするのが確立された法理となっている(八幡製鉄事件判例最大判昭和45・6・24民集24巻6号625頁)<ref name="yus79">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 79 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 男女同権、良心の自由、婚姻に関する保障などは、その性質上法人には保障が及ばない<ref name="yus79"/>。 法人に対して人間は「[[自然人]]」と呼ばれる。 === 動物 === {{Main|動物の権利}} 動物に人権があるのかについては、様々な説がある。人権は人間しか享有できないということは、決して自明なことではない。 === 人工知能 === [[人工知能]]の発展により、人権を認めるかが議論されている<ref name=":3" />。法人格や限定的な権利は法技術的に認めることが可能とされる<ref name=":3" />。 == 人権の適用領域 == === 特別の法律関係 === 国民は一般的には国(または地方自治体)の権力的支配に服しているが、これとは別に法律上の特別の原因に基づいて特別の権力的な支配関係に入ることがある<ref name="yus81">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 81 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref><ref name="chz193">{{Cite book |和書 |author=樋口陽一 |title=注解法律学全集(1)憲法I |year=1994 |publisher=青林書院 |isbn=4-417-00936-8 |page=193 |author2=佐藤幸治 |author3=中村睦男 |author4=浦部法穂}}</ref>。このような特別の権力的な支配関係としては、公務員や国公立学校の学生や生徒のように本人の同意に基づく場合と、刑事収容施設の被勾留者や受刑者のような場合がある<ref name="yus81"/><ref name="chz193" />。 かつての公法理論である「[[特別権力関係論]]」では、このような関係においては法治主義の原則が排除され、特別権力主体には包括的な支配権が認められ、それに服する者に対しては法律の根拠なく権利や自由を制限でき、特別権力関係の内部行為についても司法審査が及ばないとされていた<ref name="chz193-164">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |pages= 193-194 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。しかし、現代では、このような人権の制約も、その特殊な法律関係の設定や存続のために内在する必要最小限度で合理的なものでなければならず、権利や自由の侵害に対しては司法審査が及ばなければならないと解されている<ref name="chz194">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 194 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 {{see|特別権力関係論}} ==== 公務員関係 ==== {{see|公務員|日本の公務員}} ==== 在監関係 ==== 外部から隔離された刑務所などの刑事施設の処遇をみれば、その国の人権意識のレベルがわかるといわれている<ref>{{Cite book |和書 |author=荒井彰 |author-link=荒井彰 |title=実録!ムショの本…パクられた私たちの刑務所体験 |edition=初版 |series=[[別冊宝島]] |date=1992-08-24 |access-date=2009-11-27 |publisher=[[宝島社]] |isbn=9784796691611 |page=66 |chapter=僕の学校は監獄だった!}}</ref>。 日本においては、[[国際人権規約]]の下で設置された[[国連人権委員会]]において[[代用刑事施設|代用監獄]]の問題を指摘された。人権委員会は[[1998年]]の第4回日本政府報告の審査において代用監獄の廃止を勧告している。 === 憲法の私人間効力 === 元来、憲法による基本的人権の保障は国家と国民との関係で国家による侵害から国民の自由を保全しようとするものである<ref name="chz191">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 191 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。私人相互間の問題は原則として私的自治の原則に委ねられ、問題があれば立法措置で対処すべきと考えられていた<ref name="chz191"/>。 憲法には私人間の適用を明示しているものや明示がなくても性質上私人間での妥当性が措定されているものがある<ref name="chz191"/>。日本国憲法の場合、第15条第4項、第16条、第18条、第27条第3項、第28条などには私人間の適用があると解されている<ref name="chz191"/>。 そのような規定でない場合の私人間効力については問題となる。 ; 直接適用(効力)説 : [[憲法]]に定める人権の効力は公私の別を問わず該当するから、私人間にも憲法の適用を直接できるという説。 : 直接適用説に対しては、私人間にこのような考え方を徹底すれば「基本的人権」はもはや権利というより道徳的ないし法的義務と化してしまうという批判がある<ref name="chz192">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 192 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 ; 間接適用(効力)説 : 憲法が直接適用されるのは一部の例外を除いて[[公権力]]と私人の関係であるが、私法上の解釈において憲法の人権保障の趣旨を汲むことにより私人間における人権保障を図ろうとする説。 ; 無適用(効力)説 : 憲法が直接適用されるのは一部の例外を除いて公権力と私人の関係であり,憲法の人権規定は私人間の関係に全く効力を及ぼさないとする説。 : 無適用説に対しては、「基本的人権」は私人間に無関係と機械的に割り切るのは現代社会の実情を無視するものであるとの批判がある<ref name="chz192"/>。 日本では、[[三菱樹脂事件]]で最高裁が憲法第19条及び憲法第14条について「他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」としつつ「場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存する」と判示した(最大判昭和48・12・12民集27巻11号1536頁)。この判例は間接適用説とみられている。しかし実質的に無適用説的発想であるという見解もある<ref name="chz193" />。 {{see|私人間効力}} == 人権への制限・制約原理 == 人権は原則として尊重されるべきで「不可侵」とされているものだが、制限の無い人権同士では矛盾・衝突するために「'''他人の権利を不当に侵害しない限り'''」「'''本人保護のため'''<ref group="注">未成年の飲酒・喫煙制限等</ref>」には常に制限されている<ref name=":1" />。そのため、人権は絶対無制限でなく、日本国憲法においても人権同士の衝突調整基準の「'''公共の福祉に反しない限り'''」で制限している<ref name=":1">[https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/6353.pdf 「人権」は絶対無制限ではない 「人権」は他の「人権」と矛盾]広島大学</ref>。例えば、表現の自由や人権は尊重されるが[[交通渋滞]]を起こすような路上での行使は、他者の「移動する自由」を侵害しているために許されない<ref name=":1" />。また[[集合住宅]]において、大声で歌ったり足を踏み鳴らしたりする権利は制限される。また、授業中に、教師の許可なく教室の外に出る権利は制限される。あるいは、犯罪を犯した時は、身体の自由へ制限される(逮捕される)場合がある。このように人権は、少なくとも人権の相互調整という観点から一定の規制は免れ難い<ref name="chz181">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 181 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 近代立憲主義では法律によって人権の限界が認定されるが、法律による人権侵害の可能性をどう考えるかが問題となる<ref name="chz181"/>。 かつては議会に最終判断権が委ねられ、憲法は「法律の範囲内において」権利を保障するという形式が一般的にとられていた<ref name="chz181-182">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |pages= 181-182 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。しかし、この方法では議会のあり方によっては人権保障は実のないものとなる<ref name="chz182">{{Cite book |和書 |author1= 樋口陽一 |author2= 佐藤幸治 |author3= 中村睦男 |author4= 浦部法穂 |year= 1994 |title= 注解法律学全集(1)憲法I |publisher= 青林書院 |page= 182 |isbn= 4-417-00936-8 }}</ref>。 アメリカ合衆国憲法のほか、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法やドイツ連邦共和国基本法では、立法部といえども侵害できない部分をも含む形での保障を採用している<ref name="yus82">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 82 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。この場合でも私的権利の行使や私的活動が絶対的で無制約というわけではなく、立法による制約の対象となりうるが、ただそれが一定の限度を超える場合には違憲という判断を受けることとなる<ref name="yus83">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 83 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 {{see|法律の留保|公共の福祉}} == 国家別人権規定 == === 日本 === ==== 大日本帝国憲法(明治憲法) ==== [[大日本帝国憲法]](明治憲法)は日本で最初の立憲主義憲法である<ref name="kokusai9"/>。1850年のプロイセン憲法をモデルとしているが、その権利は恩恵的性格が強いもので、その保障も法律の範囲内で認められるものにすぎなかった<ref name="kokusai9-10">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |pages= 9-10 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。したがって、これらの権利は立法権によりほとんど自由に制限し得るものであった<ref name="kokusai10">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 10 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>(一元的外在制約型)。 {{Columns-list|colwidth=30em| * [[大日本帝国憲法第19条]](公務就任権) * [[大日本帝国憲法第22条]](居住移転の自由) * [[大日本帝国憲法第23条]](人身の自由) * [[大日本帝国憲法第24条]](裁判を受ける権利) * [[大日本帝国憲法第25条]](住居の不可侵) * [[大日本帝国憲法第26条]](信書の秘密) * [[大日本帝国憲法第27条]](所有権の不可侵) * [[大日本帝国憲法第28条]](信教の自由) * [[大日本帝国憲法第29条]](言論、著作、集会、結社等の自由) * [[大日本帝国憲法第30条]](請願権) }} ==== 日本国憲法 ==== [[日本国憲法第11条]]は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とし、また[[日本国憲法第97条]]は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と定めており、これらの規定は自然権の考え方に立脚したものと考えられている<ref name="yus70">{{Cite book |和書 |author1= 小嶋和司 |author2= 立石眞 |year= 2011 |title= 有斐閣双書(9)憲法概観 第7版 |publisher= 有斐閣 |page= 70 |isbn= 978-4-641-11278-0 }}</ref>。 {{Columns-list|colwidth=32em| * [[日本国憲法第13条]](生命、自由及び幸福追求権) * [[日本国憲法第14条]](法の下の平等) * [[日本国憲法第15条]](公務員選定罷免権) * [[日本国憲法第16条]](請願権) * [[日本国憲法第17条]](国家賠償請求権) * [[日本国憲法第18条]](奴隷的拘束・苦役からの自由) * [[日本国憲法第19条]](思想・良心の自由) * [[日本国憲法第20条]](信教の自由) * [[日本国憲法第21条]](表現の自由) * [[日本国憲法第22条]](居住移転の自由・職業選択の自由・国籍離脱の自由) * [[日本国憲法第23条]](学問の自由) * [[日本国憲法第24条]](家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等) * [[日本国憲法第25条]](生存権) * [[日本国憲法第26条]](教育を受ける権利) * [[日本国憲法第27条]](勤労権) * [[日本国憲法第28条]](団結権・団体交渉権・団体行動権) * [[日本国憲法第29条]](財産権) * [[日本国憲法第31条]](適正手続の保障) * [[日本国憲法第32条]](裁判を受ける権利) * [[日本国憲法第33条]](令状主義) * [[日本国憲法第34条]](不当な抑留・拘禁からの自由) * [[日本国憲法第35条]](住居の不可侵) * [[日本国憲法第36条]](拷問・残虐刑の禁止) * [[日本国憲法第37条]](刑事被告人の諸権利) * [[日本国憲法第38条]]([[自己負罪拒否特権]]等) * [[日本国憲法第39条]](事後法・遡及処罰の禁止・一事不再理) * [[日本国憲法第40条]](刑事補償請求権) }} {{wikiversity|Topic:憲法_(人権)|憲法(人権)}} === アメリカ合衆国 === 当初、[[アメリカ合衆国憲法]]は権利章典の規定を欠いていた<ref name="kokusai7">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |page= 7 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。それは合衆国政府は列挙された権限のみを有する「制限された政府」であり、権利章典を付する必要がないだけでなく、それを付することは「制限された政府」の理念に反すると考えられたためであった<ref name="kokusai7"/>。人権保障は各州の憲法や権利章典によって確保すればよいという基本的な考え方がとられていた<ref name="kokusai7"/>。しかし、急進派から連邦憲法にも権利章典を追加すべきとの主張が出され、各州の批准手続を経て1791年に修正10カ条が付け加えられることとなった<ref name="kokusai7"/>。 === フランス === アメリカで結実した自然法思想はフランスの[[人間と市民の権利の宣言]](フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった<ref name="kokusai6"/>。人権思想は一層の高まりをみせ[[1793年憲法]]に至った<ref name="kokusai8"/>。しかし、[[共和暦3年憲法|1795年憲法]]では権利規定が減少するとともに義務規定が増加して人権思想は顕著に後退し始めることとなる<ref name="kokusai8"/>。[[共和暦8年憲法|1799年憲法]]では人権宣言そのものが憲法に置かれなかった<ref name="kokusai8"/>。[[1814年憲章|1814年欽定憲法]]では国民の権利は法の下の平等や人身の自由などに限られ、質的にも天賦のものから国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した<ref name="kokusai8"/>。[[1830年憲章|1830年憲法]]でも天賦人権思想が復活することはなかった<ref name="kokusai8-9">{{Cite book |和書 |author1= 畑博行 |author2= 水上千之 |year= 2006 |title= 国際人権法概論第4版 |publisher= 有信堂高文社 |pages= 8-9 |isbn= 4-842-04047-5 }}</ref>。 フランスでこのような思想が復活するのは第二次世界大戦後の[[1946年10月27日憲法|第四共和国憲法]](1946年)であり、前文で1789年の人権宣言にある権利や自由の保障を再確認している<ref name="kokusai9"/>。[[フランス共和国憲法|第五共和国憲法]](1958年)も前文で1789年の人権宣言によって保障された諸権利の尊重を宣言している<ref name="kokusai9"/>。 === ドイツ === フランスの[[1848年のフランス革命|二月革命]]はドイツにも波及し、[[パウロ教会憲法|フランクフルト憲法]]は多くの権利や自由を「ドイツ人の基本権」として保障した画期的な憲法であったが、18世紀にみられたような前国家的人権という性質はみられない<ref name="kokusai9"/>(フランクフルト憲法は未発効に終わった)。1850年のプロイセン憲法も多数の権利規定を盛り込んでいたが、それらの権利や自由は天賦のものではなく法律の範囲内で認められるものにすぎず、それはヴァイマル憲法でも変わることはなかった<ref name="kokusai9"/>。ドイツで法律によっても制限することのできない保障として天賦人権思想が登場するのは1949年の[[ドイツ連邦共和国基本法]](ボン基本法)においてである<ref name="kokusai9"/>。 == ゲームやITにおける比喩・俗語 == 日本の[[ゲーマー|ゲーマー用語]]や[[情報技術|IT用語]]として、別の意味を持つ[[比喩]]や[[俗語]]として用いられる。 === ゲーマー用語 === ゲーマー用語としては、持っている人と持っていない人で圧倒的に[[差]]が開いてしまう、そのゲームを[[快適]]にプレイする上でほぼ必須となる[[武器]]・[[能力]]・[[装備]]・[[アイテム]]・[[キャラクター|キャラクター(キャラ)]]・[[スキル]]を意味する。それらを未所持だとゲームに勝ちにくくなり、周回効率が悪くなるからと協力プレイを拒否されたりチームから[[キック (曖昧さ回避)|キック]]されたり、[[対戦型アクションゲーム]]では一方的に不利な状況となるなど、他プレイヤーに相手にされないと感じるような状態を生む<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=人権の意味とは?【ゲーム用語集】 |url=https://espo-game.jp/article/glossary/47728/ |website=Pacific Metaマガジン |accessdate=2022-02-16 |publisher=株式会社レジャー }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=人権/ 人権キャラ/ 同人用語の基礎知識 |url=http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_jinken_character.htm |website=《ぱら☆あみ》的 同人用語の基礎知識 ウェブサイト |accessdate=2022-02-16 |publisher=窪田光純}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=同人用語の基礎知識 が 同人用語辞典 として書籍に(秀和システム) |url=https://www.paradisearmy.com/doujin/doujinyougojiten.html |website=《ぱら☆あみ》的 同人用語の基礎知識 ウェブサイト |accessdate=2022-02-16 |publisher=窪田光純}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「人権(じんけん)キャラ」の意味とは?使い方から語源まで例文付きで解説 – スッキリ |url=https://gimon-sukkiri.jp/jinkenchara/ |accessdate=2022-02-16 |language=ja |publisher=株式会社WIDEPINE }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【パズドラ】ヘイスト?マイティ?指奪い?人権?実はよく知らないパズドラの専門用語を解説してみた! |url=https://appget.com/c/%e3%83%91%e3%82%ba%e3%83%89%e3%83%a9/387195/%e3%83%91%e3%82%ba%e3%83%89%e3%83%a9%e7%94%a8%e8%aa%9e%e8%a7%a3%e8%aa%ac-2/ |website=アプリゲット |accessdate=2022-02-16 |publisher=[[スパイシーソフト]] }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://appmedia.jp/pazudora/3417157 |title=【パズドラ】龍楽士ガチャの当たりキャラと評価┃引くべきキャラは? |access-date=2022-02-16 |date=2021-11-12 |website=AppMedia}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://appmedia.jp/pazudora/80957 |title=【パズドラ】夏休みガチャ2021の当たりと評価┃引くべきキャラは? |access-date=2022-02-16 |date=2021-08-08 |website=AppMedia |publisher=AppMedia株式会社 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【パズドラ】史上最強の人権キャラといえばコイツ!? 『範馬勇次郎』の強さ・使い道を徹底評価! |url=https://www.appbank.net/2021/12/08/iphone-application/2163804.php |website=[[Appbank]] |accessdate=2022-02-16 |language=ja }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【パズドラ】コイツだけは『人権』と言わせてください…。『アースクェイク』の強さ・使い道を徹底評価! |url=https://www.appbank.net/2021/04/30/iphone-application/2061930.php |website=[[AppBank]] |accessdate=2022-02-16 |language=ja }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2022年の『FGO』プレイヤーはどのサーヴァントが欲しいのか!?「福袋2022」の人気傾向で実態に迫る(インサイド) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/5dde1ca9139812f0279719fd8c661ae73f85fc78 |website=Yahoo!ニュース |accessdate=2022-02-16 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【パズドラ】妖怪ウォッチ★5の人権キャラ!? このキャラは売らないように! |url=https://www.appbank.net/2022/01/21/iphone-application/2183397.php |website=[[AppBank]] |accessdate=2022-02-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【意味知ってる?】ネット用語クイズ「人権キャラ」 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/spv/2010/08/news003_2.html |website=[[ねとらぼ]] |accessdate=2022-02-16 |language=ja }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://appmedia.jp/fategrandorder/26939866 |title=【FGO】ゴッホと沖田オルタは引くべき? |access-date=2022-02-16 |date=2021-09-29 |website=AppMedia : みんなのソーシャルゲーム攻略情報サイト! |publisher=Appmedia株式会社 |language=ja}}</ref>。 または[[協力ゲーム|有人協力ゲーム]]において、チームへの[[貢献|貢献(度)]]が高い者に人権が与えられると表現されることもある<ref>{{Cite web|和書|title=「Apex Legends」あるある漫画 「アイテム横取りの恨み」「ダメージを出した方が偉い?」 |url=https://game.asahi.com/article/14334091 |website=GAMEクロス |accessdate=2022-02-17 |publisher=朝日新聞社 }}</ref>。Pacific Metaマガジンの『ゲーム用語集』では、人権の本来の意味である「人間が生まれながらに持っている人間らしく生きるための権利」から転じて、オンラインゲーム用語として「所持することが前提となるような重要な武器やキャラクター」「その装備やキャラを所持して初めて、そのゲームのプレイヤーとして権利が得られる」「(そのゲームの)プレイヤーなら誰でも持つべき」と言うような意味と記している<ref name=":0" />。 === IT用語 === IT用語としては、[[パソコン]]等[[電子機器]]の必要最低限[[スペック]]を意味する。「'''人権スペック'''」とも呼ばれる<ref name=":2" />。 特にビジネスで使うパソコンの[[メインメモリ]]の大小は、「○○[[ギガバイト|GB]] 以上は人権」「メモリ○○GB以下は人権がない」「[[エンジニア]]の人権が認められるパソコンのスペック」のような言い方がされるほど重要な[[パーツ]]となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://engineerblog.mynavi.jp/technology/handmade_pc_2/ |title=【現役エンジニアが語る自作PCの世界~後編~】各パーツのおすすめ選び方 |access-date=2022-02-17 |website=マイナビエンジニアブログ |publisher=[[マイナビ]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「ビジネスPCに投資しないなんてあり得ない」 澤円氏が説く“高性能モデルを選ぶ意義”とは |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2106/23/news006.html |website=ITmedia NEWS |date=2021-06-22 |accessdate=2022-02-16 }}</ref><ref name=":2">{{Cite web|和書|title=新年度、会社支給のPCは人権スペックを備えているのか「Cinebench」で調べてみよう/筆者のスコアは“1137”で問題外。Twitterで参考になるスコアを共有して!【やじうまの杜】 |url=https://forest.watch.impress.co.jp/docs/serial/yajiuma/1317817.html |website=[[窓の杜]] |date=2021-04-12 |accessdate=2022-02-16 |last=株式会社[[インプレス]] }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=エンジニアの人権が認められるパソコンのスペックはどれくらい? |url=https://nextgate-inc.com/archives/231 |website=Next Gate |date=2018-10-13 |accessdate=2022-02-16 |publisher=メディアテクノロジー株式会社 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Refbegin}} === 辞事典 === * {{Cite book|和書|author=Britannica Japan Co., Ltd.|chapter=基本的人権|title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|year=2018a|publisher=Britannica Japan Co., Ltd.・[[朝日新聞社]]・[[VOYAGE GROUP]]|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84%E4%BA%BA%E6%A8%A9-51583#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=Britannica Japan Co., Ltd.|chapter=国際人権法|title=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|year=2018b|publisher=Britannica Japan Co., Ltd.・朝日新聞社・VOYAGE GROUP|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E6%B3%95-174801#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=平凡社|authorlink=平凡社|chapter=基本的人権|title=百科事典マイペディア|year=2018|publisher=平凡社・朝日新聞社・VOYAGE GROUP|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84%E4%BA%BA%E6%A8%A9-51583#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=平凡社|chapter=基本的人権|title=世界大百科事典 第2版|year=2022|publisher=平凡社・DIGITALIO|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84%E4%BA%BA%E6%A8%A9-51583#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88|ref=harv}} * {{Cite book|和書|last = 田中|first = 浩|authorlink=田中浩 (政治学者)|chapter=自由主義|title=日本大百科全書(ニッポニカ)|year=2018|publisher=[[小学館]]・朝日新聞社・VOYAGE GROUP|url=https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9-77046#%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%9A%84%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9|ref=harv}} === 学術論文 === * {{Cite journal |和書 |last=鈴木 |first=剛 |date=1997 |title=人権概念の歴史的展開と人権教育の課題 |journal=愛知教育大学教科教育センター研究報告 |volume=21 |pages=93-99 |publisher=愛知教育大学教科教育センター |ref=harv |NAID=110000099759}} === その他 === * 「アムネスティ・レポート 世界の人権」編集部編『世界の人権2010 アムネスティ・レポート』現代人文社、2010年 * 高木八尺、末延三次、宮沢俊義編『人権宣言集』岩波書店、1957年 * Donnelly, J. 1985. 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A8%A9
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複素平面
数学において、複素平面(ふくそへいめん、独: Komplexe Zahlenebene, 英: complex plane)あるいは数平面(すうへいめん、独: Zahlenebene)、z-平面とは、複素数 z = x + iy を直交座標 (x, y) に対応させた直交座標平面のことである。複素数の実部を表す軸を実軸 (real axis)(実数直線)、虚部を表す軸を虚軸 (imaginary axis) という。 1811年頃にガウスによって導入されたため、ガウス平面 (Gaussian plane) とも呼ばれる。一方、それに先立つ1806年に Jean-Robert Argand(英語版)も同様の手法を用いたため、アルガン図 (Argand Diagram) とも呼ばれている。さらに、それ以前の1797年の Caspar Wessel(英語版)の書簡にも登場している。このように複素数の幾何的表示はガウス以前にも知られていたが、今日用いられているような形式で複素平面を論じたのはガウスである。三者の名前をとってガウス・アルガン平面、ガウス・ウェッセル平面などとも言われる。 英称 complex plane の訳として複素数平面と呼ぶことも少なくなく、大学以上の数学書では『複素平面』または『ガウス平面』の方が〔複素数平面よりも〕圧倒的に主流であるとの見解がある。しかし、接頭辞「複素—」を「係数体を複素数体とする」という意味に解釈すると、複素数を成分とする「平面」という意味になり、C(実部と虚部に分けると実4次元線形空間)(二次元複素解析空間)を指すので、文脈によってどちらを指しているかは注意が必要である。日本の高等学校の学習指導要領では現在は「複素数平面」が用いられている。 複素数 z = r(cosα + i sinα)(r ≥ 0, α は実数)に cosβ + i sinβ(β は実数)を掛けると、z の偏角が β 増える。このことから、虚数単位 i = cosπ/2 + i sinπ/2 は、実数直線における実数単位 1 を原点中心、反時計回りに 90° 回転した位置にあると考えることができる。そこで、実数直線を拡張し、実軸と虚軸からなる座標平面を導入すると、複素数の演算が幾何学的な操作に対応し、見通しが良くなる。この平面を複素平面という。複素平面では、複素数の実部、虚部が点(位置ベクトル)のそれぞれ x座標(x成分)、y座標(y成分)に対応する。 絶対値は、複素平面においては、その複素数が表す点と原点 O(0) の距離に等しい。複素共役は、実軸対称に当たる。 複素数 z を直交座標表示すると、z = x + yi(x, y は実数)となり、加法・減法・実数倍 は、幾何学的には平面上の平行移動および原点中心の拡大縮小(英語版)に対応する。z を極形式表示すると、z = r(cosθ + i sinθ)(r ≥ 0, θ は実数)となり、ド・モアブルの定理より、乗法・除法・冪乗は原点中心の θ 回転に対応する。 複素数を、複素数への左からの作用と考えると、平面 R 上での原点を動かさない反転や回転を含む線型変換(一次変換)を引き起こす。この一次変換の表現行列は、複素数の実二次正方行列としての実現と考えることができる。 複素数の代数的演算により、ガウス平面上で平行移動と任意の一次変換が行えるから、したがって任意のアフィン変換を施すことが可能である。ここで、ガウス平面に無限遠点を付け加えて1点コンパクト化し、ガウス平面を拡張したリーマン球面(補完数平面)上で考えると、複素数 x + iy はリーマン球面上の点 [x : y : 1] と見なせる。リーマン球面上のアフィン変換は一次分数変換であり、複素数をアフィン変換の表現行列として実現することもできる。 歴史上、複素平面のアイデアをはじめて発表したのは、当時デンマークの支配下にあったノルウェー生まれの測量技師、Caspar Wessel(英語版)(1745~1818)だといわれている。Wesselは、虚数および複素数を測量技師の仕事に役立てるための研究を独自に行った。その結果、今でいう複素平面のアイデアにたどり着き、それを『方程式の解析的表現について』と題する論文にまとめて1799年に発表した。またその2年前の1797年には、同じ内容をデンマーク科学アカデミーに発表している。しかし、これらの発表はデンマーク語で行われたものだった。当時のヨーロッパではデンマーク語で書かれた文献が国外で広く読まれることは多くなく、それから100年もの間、日の目を見ることはなかった。彼のアイデアが社会に広く知れわたることになったのは、彼の死からはるか後の1899年、論文がフランス語に翻訳されたときのことだった。このときには既に、フランスの数学者Jean-Robert Argand(英語版)(1768~1822)やドイツの数学者カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)の発見したアイデアとして広く知られるようになっていた。とくにガウスは、Wesselより先に複素平面のアイデアにたどり着いていた可能性が高いとみられている。1796年、ガウスは正十七角形が定規とコンパスだけで作図できることを発見した。この作図には、複素数や複素平面を駆使しなければならない。この事実は、ガウスが少なくとも1796年の時点で複素数平面のアイデアにたどり着いていたことを示している。 複素数平面の導入により、複素数全体 C には幾何学的な意味づけができる。 複素数平面は、実数体 R 上の2次元線形空間である。(1, i) は、複素数平面の基底である。 複素数の絶対値により、複素数平面は乗法的ノルム空間である。 係数体を複素数体 C とすると、C は複素「直線」(次元 1)である。 複素数平面 C は、距離函数 について完備距離空間である。 この事実は、代数学の基本定理の証明に使われる。 複素数全体 C に無限遠点を付け加えるとコンパクト空間 C ∪ {∞} になる(1点コンパクト化)。C ∪ {∞} は2次元球面 S に同相である。この2次元球面をリーマン球面という。 係数体を C と見た場合、 C は複素直線と呼ばれ、C ∪ {∞} は複素射影直線と呼ばれる。 複素数の乗除は、極形式表示し、ガウス平面上での幾何学的操作を考えると、見通しが良くなる。 複素数 z = x + yi(x, y は実数)に対して、直交座標表示 (x, y) の極座標表示を (r, θ) (r ≥ 0) とすると、x = r cosθ, y = r sinθ より、 と表すことができる。この右辺の表示式を複素数 z の極形式 (polar form) と呼ぶ。 r は z の絶対値 | z | = x 2 + y 2 {\displaystyle |z|={\sqrt {x^{2}+y^{2}}}} に等しく、θ を z の偏角 (argument) と呼び、記号で argz で表す。 オイラーの公式 e = cosθ + i sinθ を使うと、極形式は と簡単に記述できる。 2つの複素数 z, w の積 zw を計算するのに、z, w を極形式表示し とすると、三角関数の加法定理: より、 となり、zw の極形式が得られる。ゆえに となり、積 zw は、複素平面において、z を原点中心に argw 回転、|w| 倍に相似拡大して得られる点だと分かる。 特に、絶対値が 1 の複素数を掛けることは、複素数平面において原点中心の回転を施すことと同等であると分かる。
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"複素数平面は、実数体 R 上の2次元線形空間である。(1, i) は、複素数平面の基底である。", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "複素数の絶対値により、複素数平面は乗法的ノルム空間である。", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "係数体を複素数体 C とすると、C は複素「直線」(次元 1)である。", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "複素数平面 C は、距離函数", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "について完備距離空間である。", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この事実は、代数学の基本定理の証明に使われる。", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "複素数全体 C に無限遠点を付け加えるとコンパクト空間 C ∪ {∞} になる(1点コンパクト化)。C ∪ {∞} は2次元球面 S に同相である。この2次元球面をリーマン球面という。", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "係数体を C と見た場合、 C は複素直線と呼ばれ、C ∪ {∞} は複素射影直線と呼ばれる。", "title": "空間としての複素数平面" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "複素数の乗除は、極形式表示し、ガウス平面上での幾何学的操作を考えると、見通しが良くなる。", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "複素数 z = x + yi(x, y は実数)に対して、直交座標表示 (x, y) の極座標表示を (r, θ) (r ≥ 0) とすると、x = r cosθ, y = r sinθ より、", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "と表すことができる。この右辺の表示式を複素数 z の極形式 (polar form) と呼ぶ。", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "r は z の絶対値 | z | = x 2 + y 2 {\\displaystyle |z|={\\sqrt {x^{2}+y^{2}}}} に等しく、θ を z の偏角 (argument) と呼び、記号で argz で表す。", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "オイラーの公式 e = cosθ + i sinθ を使うと、極形式は", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "と簡単に記述できる。", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2つの複素数 z, w の積 zw を計算するのに、z, w を極形式表示し", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "とすると、三角関数の加法定理:", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "より、", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "となり、zw の極形式が得られる。ゆえに", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "となり、積 zw は、複素平面において、z を原点中心に argw 回転、|w| 倍に相似拡大して得られる点だと分かる。", "title": "複素数の積と回転" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特に、絶対値が 1 の複素数を掛けることは、複素数平面において原点中心の回転を施すことと同等であると分かる。", "title": "複素数の積と回転" } ]
数学において、複素平面あるいは数平面、z-平面とは、複素数 z = x + iy を直交座標 に対応させた直交座標平面のことである。複素数の実部を表す軸を実軸(実数直線)、虚部を表す軸を虚軸 という。 1811年頃にガウスによって導入されたため、ガウス平面 とも呼ばれる。一方、それに先立つ1806年に Jean-Robert Argandも同様の手法を用いたため、アルガン図 とも呼ばれている。さらに、それ以前の1797年の Caspar Wesselの書簡にも登場している。このように複素数の幾何的表示はガウス以前にも知られていたが、今日用いられているような形式で複素平面を論じたのはガウスである。三者の名前をとってガウス・アルガン平面、ガウス・ウェッセル平面などとも言われる。 英称 complex plane の訳として複素数平面と呼ぶことも少なくなく、大学以上の数学書では『複素平面』または『ガウス平面』の方が〔複素数平面よりも〕圧倒的に主流であるとの見解がある。しかし、接頭辞「複素—」を「係数体を複素数体とする」という意味に解釈すると、複素数を成分とする「平面」という意味になり、C2(実部と虚部に分けると実4次元線形空間)(二次元複素解析空間)を指すので、文脈によってどちらを指しているかは注意が必要である。日本の高等学校の学習指導要領では現在は「複素数平面」が用いられている。
{{Otheruses|複素数全体を表す {{mathbf|C}}(実数で考えると[[実数空間|平面]]、複素数で考えると「直線」)|複素数を成分とする「平面」{{math|'''C'''{{sup|2}}}}|[[複素数空間]]}} {{Wikibooks|高等学校数学III/複素数平面|複素数平面}} [[画像:ComplexPlane.png|thumb|複素平面]] [[数学]]において、'''複素平面'''(ふくそへいめん、{{lang-de-short|Komplexe Zahlenebene}}, {{lang-en-short|complex plane}})<ref>竹内『函数概論』p.6, 高木貞治『代数学講義』など</ref>あるいは'''数平面'''<ref>{{Citation|和書 |author=竹内端三 |title=函数概論 |page=6 |quote="数平面 : complex or Gaussian plane : Zahlenebene(p.123 巻末用語対訳)" |url={{google books|plainurl=yes|id=-ylngTBxvl4C|page=6|text=数平面}}}}</ref>(すうへいめん、{{lang-de-short|Zahlenebene}})、'''{{mvar|z}}-平面'''とは、[[複素数]] {{math2|1=''z'' = ''x'' + ''iy''}} を直交座標 {{math|(''x'', ''y'')}} に対応させた[[直交座標系|直交座標]]平面のことである。複素数の実部を表す軸を'''実軸''' (real axis)([[実数直線]])、虚部を表す軸を'''虚軸''' (imaginary axis) という。 [[1811年]]頃に[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]によって導入されたため、'''ガウス平面''' (Gaussian plane) とも呼ばれる<ref name="b">{{kotobank|ガウス平面|ブリタニカ国際大百科事典小項目事典}}</ref>。一方、それに先立つ[[1806年]]に {{仮リンク|Jean-Robert Argand|en|Jean-Robert Argand}}も同様の手法を用いたため、'''アルガン図''' (Argand Diagram)<ref>{{MathWorld|urlname=ArgandDiagram|title=Argand Diagram}}</ref> とも呼ばれている。さらに、それ以前の[[1797年]]の {{仮リンク|Caspar Wessel|en|Caspar Wessel}}の[[手紙|書簡]]にも登場している。このように複素数の幾何的表示はガウス以前にも知られていたが、今日用いられているような形式で複素平面を論じたのはガウスである<ref name="b"/>。三者の名前をとってガウス・アルガン平面、ガウス・ウェッセル平面などとも言われる<ref name="b"/>。 英称 complex plane の訳として'''複素数平面'''と呼ぶことも少なくなく<ref>例えば岩波数学辞典</ref>、大学以上の数学書では『複素平面』または『ガウス平面』の方が〔複素数平面よりも〕圧倒的に主流であるとの見解がある<ref>{{Cite web |url=http://mathsci.blog41.fc2.com/blog-entry-60.html |author=示野信一 |title=複素数平面 vs 複素平面 |work=blog: 数学雑談 |date=2012-11-05 |accessdate=2019-08-12}}</ref>。しかし、[[接頭辞]]「複素—」を「係数[[体 (数学)|体]]を複素数体とする」という意味に解釈すると、複素数を成分とする「平面」という意味になり、{{math|'''C'''{{sup|2}}}}(実部と虚部に分けると実4次元線形空間){{efn|この文脈で {{mathbf|C}} は複素直線である。 {{See also|en:Complex_plane#Other meanings of "complex plane"|en:complex space}}}}(二次元[[複素解析空間]])を指すので、文脈によってどちらを指しているかは注意が必要である。日本の高等学校の学習指導要領では現在は「複素数平面」が用いられている。 == 概観 == [[複素数]] {{math2|''z'' {{=}} ''r''(cos&#8289;''α'' + ''i'' sin&#8289;''α'')}}({{math2|''r'' ≥ 0}}, {{mvar|α}} は実数)に {{math|cos&#8289;''β'' + ''i'' sin&#8289;''β''}}({{mvar|β}} は実数)を掛けると、{{mvar|z}} の[[複素数の偏角|偏角]]が {{mvar|β}} 増える。このことから、[[虚数単位]] {{math2|''i'' {{=}} cos&#8289;{{sfrac|''π''|2}} + ''i'' sin&#8289;{{sfrac|''π''|2}}}} は、[[実数直線]]における実数単位 {{math|1}} を原点中心、反時計回りに {{math|90°}} 回転した位置にあると考えることができる。そこで、実数直線を拡張し、実軸と虚軸からなる[[直交座標系|座標平面]]を導入すると、複素数の演算が幾何学的な操作に対応し、見通しが良くなる。この平面を'''複素平面'''という。複素平面では、複素数の実部、虚部が点([[位置]]ベクトル)のそれぞれ {{mvar|x}}座標({{mvar|x}}成分)、{{mvar|y}}座標({{mvar|y}}成分)に対応する。 [[複素数の絶対値|絶対値]]は、複素平面においては、その複素数が表す点と原点 {{math|O(0)}} の[[距離函数|距離]]に等しい。[[複素共役]]は、実軸対称に当たる。 複素数 {{mvar|z}} を[[直交座標系|直交座標]]表示すると、{{math2|''z'' {{=}} ''x'' + ''yi''}}({{math2|''x'', ''y''}} は実数)となり、[[加法]]・[[減法]]・{{仮リンク|スカラー倍|en|scalar multiplication|label=実数倍}} は、幾何学的には平面上の[[平行移動]]および原点中心の{{仮リンク|拡大縮小|en|homothety}}に対応する。{{mvar|z}} を極形式表示すると、{{math2|''z'' {{=}} ''r''(cos&#8289;''θ'' + ''i'' sin&#8289;''θ'')}}({{math2|''r'' ≥ 0}}, {{mvar|θ}} は実数)となり、[[ド・モアブルの定理]]より、[[乗法]]・[[除法]]・[[冪乗]]は原点中心の {{mvar|θ}} 回転に対応する。 複素数を、複素数への左からの{{efn|左から掛けるとしたのは[[写像]]の記法との整合のためである。複素数の積は[[交換法則|可換]]であるから、記法として右から掛けても支障はない。}}[[作用 (数学)|作用]]と考えると、平面 {{math|'''R'''{{sup|2}}}} 上での原点を動かさない[[反転幾何学|反転]]や回転を含む[[線型写像|線型変換]](一次変換)を引き起こす。この一次変換の[[線型写像#行列表現|表現行列]]は、複素数の[[実二次正方行列]]としての実現と考えることができる。 複素数の代数的演算により、ガウス平面上で平行移動と任意の一次変換が行えるから、したがって任意の[[アフィン写像|アフィン変換]]を施すことが可能である。ここで、ガウス平面に[[無限遠点]]を付け加えて1点コンパクト化し、ガウス平面を拡張した[[リーマン球面]](補完数平面)上で考えると、複素数 {{math|''x'' + ''iy''}} はリーマン球面上の点 {{math|[''x'' : ''y'' : 1]}} と見なせる。リーマン球面上のアフィン変換は[[一次分数変換]]であり、複素数をアフィン変換の表現行列として実現することもできる。 == 導入 == 歴史上、複素平面のアイデアをはじめて発表したのは、当時[[デンマーク]]の支配下にあった[[ノルウェー]]生まれの[[測量技師]]、{{仮リンク|Caspar Wessel|en|Caspar Wessel}}(1745~1818)だといわれている。Wesselは、虚数および複素数を測量技師の仕事に役立てるための研究を独自に行った。その結果、今でいう複素平面のアイデアにたどり着き、それを『[[方程式]]の[[解析学|解析的]]表現について』と題する論文にまとめて1799年に発表した。またその2年前の1797年には、同じ内容をデンマーク科学アカデミーに発表している。しかし、これらの発表はデンマーク語で行われたものだった。当時のヨーロッパではデンマーク語で書かれた文献が国外で広く読まれることは多くなく、それから100年もの間、日の目を見ることはなかった。彼のアイデアが社会に広く知れわたることになったのは、彼の死からはるか後の1899年、論文がフランス語に翻訳されたときのことだった。このときには既に、[[フランス]]の数学者{{仮リンク|Jean-Robert Argand|en|Jean-Robert Argand}}(1768~1822)や[[ドイツ]]の数学者[[カール・フリードリヒ・ガウス]](1777~1855)の発見したアイデアとして広く知られるようになっていた。とくにガウスは、Wesselより先に複素平面のアイデアにたどり着いていた可能性が高いとみられている。1796年、ガウスは[[十七角形#作図可能性|正十七角形が定規とコンパスだけで作図できること]]を発見した。この作図には、複素数や複素平面を駆使しなければならない。この事実は、ガウスが少なくとも1796年の時点で複素数平面のアイデアにたどり着いていたことを示している<ref>{{Cite book|和書|title=Newton別冊 虚数がよくわかる[改訂第二版]|date=2020年4月10日|year=2020|publisher=ニュートンプレス|page=68}}</ref>。 == 空間としての複素数平面 == 複素数平面の導入により、複素数全体 {{mathbf|C}} には幾何学的な意味づけができる。 === 線形空間 === 複素数平面は、[[実数]]体 {{mathbf|R}} 上の2[[ハメル次元|次元]][[ベクトル空間|線形空間]]である。{{math|(1, ''i'')}} は、複素数平面の[[基底 (線型代数学)|基底]]である。 [[複素数の絶対値]]により、複素数平面は[[ノルム代数|乗法的]][[ノルム線型空間|ノルム空間]]である。 係数体を複素数体 {{mathbf|C}} とすると、{{mathbf|C}} は複素「直線」(次元 {{math|1}})である。 === 距離空間 === 複素数平面 {{math|'''C'''}} は、[[距離函数]] :<math>d(z_1, z_2) = |z_1 - z_2|\quad (z_1,z_2\in \Complex)</math> について[[完備距離空間]]である。 この事実は、[[代数学の基本定理]]の証明に使われる。 === コンパクト化 === 複素数全体 {{mathbf|C}} に[[無限遠点]]を付け加えると[[コンパクト空間]] {{math|'''C''' ∪ {{mset|∞}}}} になる(1点コンパクト化)。{{math|'''C''' ∪ {{mset|∞}}}} は2次元球面 {{math|''S''{{sup|2}}}} に[[位相同型|同相]]である。この2次元球面を[[リーマン球面]]という。 {{main2|[[位相同型|同相写像]]の具体的な構成法|複素数#複素数球面}} 係数体を {{mathbf|C}} と見た場合、 {{mathbf|C}} は複素直線と呼ばれ、{{math|'''C''' ∪ {{mset|∞}}}} は複素[[射影直線]]と呼ばれる。 == 複素数の積と回転 == 複素数の乗除は、極形式表示し、ガウス平面上での幾何学的操作を考えると、見通しが良くなる。 複素数 {{math2|''z'' {{=}} ''x'' + ''yi''}}({{math2|''x'', ''y''}} は[[実数]])に対して、[[直交座標系|直交座標]]表示 {{math|(''x'', ''y'')}} の[[極座標系|極座標]]表示を {{math|(''r'', ''θ'')}} {{math2|(''r'' ≥ 0)}} とすると、{{math2|''x'' {{=}} ''r'' cos&#8289;''θ'', ''y'' {{=}} ''r'' sin&#8289;''θ''}} より、 :<math>z=r\,(\cos \theta + i\sin \theta)</math> と表すことができる。この右辺の表示式を複素数 {{mvar|z}} の'''極形式''' (polar form) と呼ぶ<ref name="クライツィグ">E.クライツィグ(著)、近藤次郎(監訳)、堀素夫(監訳)、丹生慶四郎(訳)『技術者のための高等数学4 複素関数論(原書第8版)』 培風館、2003/03, ISBN 978-4-563-01118-5, pp.6-9</ref><ref name="理工数学5">松田哲 『複素関数 (理工系の基礎数学 5)』岩波書店 (1996/6) ISBN 978-4000079754, pp.4-6</ref>。 {{mvar|r}} は {{mvar|z}} の[[複素数の絶対値|絶対値]] <math>|z|=\sqrt{x^2 +y^2}</math> に等しく、{{mvar|θ}} を {{mvar|z}} の[[複素数の偏角|'''偏角''']] (argument) と呼び、記号で {{math|arg&#8289;''z''}} で表す<ref name="理工数学5" />。 :<math>\theta =\arg z=\arctan \frac{y}{x} \qquad (z\neq 0)</math> :({{mvar|θ}} は {{math|2''π''}} の整数倍の差[[違いを除いて|を除いて]]決まり、一つの値ではない。一つの値に決める場合、{{mvar|θ}} の範囲を[[区間 (数学)|区間]] {{math2|(&minus;''π'', ''π'']}} などに制限する。この区間を偏角の[[主値]]といい、値域を制限した {{math|arg}} を、大文字のAを使って {{math|Arg&#8289;''z''}} で表す)<ref name="クライツィグ" /> [[オイラーの公式]] {{math2|''e{{sup|iθ}}'' {{=}} cos&#8289;''θ'' + ''i'' sin&#8289;''θ''}} を使うと、極形式は :<math>z=re^{i\theta}</math> と簡単に記述できる<ref name="理工数学5" />。 2つの複素数 {{math2|''z'', ''w''}} の積 {{mvar|zw}} を計算するのに、{{math2|''z'', ''w''}} を極形式表示し :{{math|1=''z'' = ''r''(cos&#8289;''α'' + ''i'' sin&#8289;''α'')}}, :{{math|1=''w'' = ''s''(cos&#8289;''β'' + ''i'' sin&#8289;''β'')}} とすると、[[三角関数]]の[[三角関数の公式の一覧#加法定理|加法定理]]: :{{math|1=cos&#8289;(''α'' + ''β'') = cos&#8289;''α'' cos&#8289;''β'' &minus; sin&#8289;''α'' sin&#8289;''β''}} :{{math|1=sin&#8289;(''α'' + ''β'') = sin&#8289;''α'' cos&#8289;''β'' + cos&#8289;''α'' sin&#8289;''β''}} より、 :<math>zw=rs \{ \cos (\alpha + \beta )+i\sin (\alpha +\beta )\}</math> となり、{{mvar|zw}} の極形式が得られる。ゆえに :<math>|zw|=|z||w|</math> :<math>\arg zw \equiv \arg z + \arg w \pmod {2\pi}</math> となり、積 {{mvar|zw}} は、複素平面において、{{mvar|z}} を原点中心に {{math|arg&#8289;''w''}} 回転、{{math|{{abs|''w''}}}} 倍に相似拡大して得られる点だと分かる。 特に、絶対値が {{math|1}} の複素数を掛けることは、複素数平面において原点中心の回転を施すことと同等であると分かる。 == 注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=竹内端三|authorlink=竹内端三 |title=函数概論 |publisher=共立社書店 |year=1934 |url={{google books|plainurl=yes|id=-ylngTBxvl4C}}}} 第一章: 複素数(特に §3: 数平面) == 関連項目 == {{Commonscat|Complex plane|Complex plane}} *[[複素数]] *[[オイラーの公式]] *[[アイゼンシュタイン整数]] == 外部リンク == * {{MathWorld|urlname=ComplexPlane|title=Complex Plane}} * {{nlab|urlname=complex+number#geometry_of_complex_numbers|title=complex plane}}{{en icon}} * {{PlanetMath|urlname=TopologyOfTheComplexPlane|title=topology of the complex plane}} * {{ProofWiki|urlname=Definition:Complex_Number/Complex_Plane|title=Definition:Complex Number/Complex Plane}}{{en icon}} <!-- {{複素数}}--> {{DEFAULTSORT:ふくそへいめん}} [[Category:複素数]] [[Category:初等数学]] [[Category:カール・フリードリヒ・ガウス]] [[Category:数学に関する記事]]
2003-04-20T08:19:24Z
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日本の地域
日本の地域(にほんのちいき、にっぽんのちいき)とは、日本における地域のこと。本項では日本の地域ブロック(地方区分)についても述べる。 日本国内には、歴史的な経緯・交通機関の発達・経済の変化・文化や住民の帰属意識などにより、様々な地域的まとまりが存在する。多くの場合、歴史・経済・文化的繋がりは都道府県等の行政区域とは一致しないため、これらのまとまりに名称を与える場合、複数の都道府県に跨ったり、地域名の指す範囲どうしが重複したりする。 一方、選挙区やスポーツ、道州制などによる地方区分の場合、重複が許されないため、明確な線引きを伴う定義が各機関によってなされている(次節を参照)。 一方、国の出先機関や全国展開する企業の支店は、主に支店経済都市と呼ばれる都市に拠点を置いてその周囲を管轄する形がとられ、機関や企業によって管轄範囲は様々である。 国土や地域をいくつかに区分した場合の、それぞれのまとまりを地域ブロックという。日本においては都道府県の上位の地方公共団体が存在しないため、統一的な定義は存在せず、選挙区やスポーツ、各省庁の管轄区域などによって様々な分け方がある。 現代の日本の初等教育では、国内を都道府県単位で「北海道」「東北」「関東」「中部」「近畿」「中国・四国」「九州」に分ける「七地方区分」、または中国と四国を分離した「八地方区分」が用いられることが多い。しかしながら、いずれも法的根拠は明確ではなく、「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」とされる。国の出先機関である地方支分部局も、この区分に従わないものがほとんどである(地方整備局、地方農政局など)。 なお、明治期の教育では関東八州甲信越地方、奥羽地方、本州中部地方、北州地方などの名称、中国地方に兵庫県が含まれていたり、台湾地方が存在しているなど、現在とは名称も地方区分の範囲も異なる9地方区分が用いられる例もあった。 主な地域ブロックの一覧を以下に示す。 他の区分の補助的に用いられるもの。日本国内における方角、または、畿内や東京から見た方角での命名による。 物流業界においては、物流網に応じて様々なエリア定義がなされており、「○○地方限定」と称した販促キャンペーン等が必ずしも同じ地域を指すとは限らない。
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日本の地域(にほんのちいき、にっぽんのちいき)とは、日本における地域のこと。本項では日本の地域ブロック(地方区分)についても述べる。
{{Pathnav|地域|frame=1}} '''日本の地域'''(にほんのちいき、にっぽんのちいき)とは、[[日本]]における[[地域]]のこと。本項では日本の地域ブロック([[地方区分]])についても述べる。 == 概要 == [[File:Japanese dialects-ja.png|thumb|250px|[[方言区画論|方言による区分]]の例]] 日本国内には、歴史的な経緯・[[日本の交通|交通機関]]の発達・[[日本の経済|経済]]の変化・[[文化 (代表的なトピック)|文化]]や住民の帰属意識などにより、様々な地域的まとまりが存在する。多くの場合、歴史・経済・文化的繋がりは都道府県等の行政区域とは一致しないため、これらのまとまりに名称を与える場合、複数の都道府県に跨ったり、地域名の指す範囲どうしが重複したりする。 一方、選挙区やスポーツ、[[道州制]]などによる地方区分の場合、重複が許されないため、明確な線引きを伴う定義が各機関によってなされている([[#主な地域ブロック|次節]]を参照)。 一方、国の出先機関や全国展開する企業の支店は、主に[[支店経済都市]]と呼ばれる都市に拠点を置いてその周囲を管轄する形がとられ、機関や企業によって管轄範囲は様々である。 == 主な地域ブロック == 国土や地域をいくつかに区分した場合の、それぞれのまとまりを地域ブロックという。日本においては都道府県の上位の[[地方公共団体]]が存在しないため、統一的な定義は存在せず、選挙区やスポーツ、各省庁の管轄区域などによって様々な分け方がある。 現代の日本の初等教育では、国内を都道府県単位で「[[北海道]]」「[[東北地方|東北]]」「[[関東地方|関東]]」「[[中部地方|中部]]」「[[近畿地方|近畿]]」「[[中国・四国地方|中国・四国]]」「[[九州]]<ref>[[谷岡武雄]]・[[山口恵一郎]]監修・三省堂編集所編『コンサイス日本地名事典 第3版』([[三省堂]]、[[1989年]]12月発行)の「九州地方」の項目によれば「本来,福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・鹿児島の7県。実質的に1972(昭和47)復帰の沖縄を加え8県。」と記されている。</ref><ref>『[[広辞苑]]』の「九州」の項目の①によると「現在は福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・鹿児島の7県の総称。沖縄を含めていう場合もある。」と記されている。</ref>」に分ける「'''七地方区分'''」、または[[中国地方|中国]]と[[四国地方|四国]]を分離した「'''八地方区分'''」が用いられることが多い。しかしながら、いずれも法的根拠は明確ではなく、「そもそも『〜地方』といわれる範囲に、法律上の明確な定義はない(総務省)」とされる<ref>「首都圏と関東地方・山梨県を含むか含まないか」『日本経済新聞』(2012年6月16日付、S3面)</ref>。国の出先機関である[[地方支分部局]]も、この区分に従わないものがほとんどである([[地方整備局]]、[[地方農政局]]など)。 なお、明治期の教育では関東八州甲信越地方、奥羽地方、本州中部地方、北州地方などの名称、中国地方に兵庫県が含まれていたり、[[台湾]]地方が存在しているなど、現在とは名称も地方区分の範囲も異なる9地方区分が用いられる例もあった<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|762725|女子日本地理教科書. 明治34年2月}}</ref>。 主な地域ブロックの一覧を以下に示す。 {|class="sortable wikitable" style="text-align:left;font-size:80%" !rowspan="2"|七地方区分 !colspan="4"|その他の区分 !rowspan="2" class="unsortable"|[[都道府県|都府県]]<br />[[北海道庁|道]][[支庁|振興局]] !rowspan="2" class="unsortable"|[[都道府県庁所在地|都府県庁所在地]]<br >道振興局所在地 !rowspan="2" class="unsortable"|都道府県内地域区分 |- ![[国土形成計画#広域地方計画|広域]] ! ! ! |- !rowspan="14"|[[北海道|北海道地方]] !rowspan="14" style="text-align:center"|— !rowspan="3" colspan="3"|[[道北]] |[[宗谷総合振興局|宗谷]]||[[稚内市]]||[[宗谷総合振興局#地域]] |- |[[留萌振興局|留萌]]||[[留萌市]]||[[留萌振興局#所管]] |- |[[上川総合振興局|上川]]||[[旭川市]]||[[上川総合振興局#地域]] |- !rowspan="4" colspan="3"|[[道東]] |[[オホーツク総合振興局|オホーツク]]||[[網走市]]||[[オホーツク総合振興局#地域]] |- |[[根室振興局|根室]]||[[根室市]]||[[根室振興局#地域]] |- |[[釧路総合振興局|釧路]]||[[釧路市]]||[[釧路総合振興局#地理]] |- |[[十勝総合振興局|十勝]]||[[帯広市]]||[[十勝総合振興局]] |- !rowspan="5" colspan="3"|[[道央]] |[[空知総合振興局|空知]]||[[岩見沢市]]||[[空知総合振興局#所管]] |- |[[石狩振興局|石狩]]||'''[[札幌市]]'''||[[石狩振興局#地域]] |- |[[後志総合振興局|後志]]||[[虻田郡]][[倶知安町]]||[[後志総合振興局#地域]] |- |[[胆振総合振興局|胆振]]||[[室蘭市]]||[[胆振総合振興局#地域]] |- |[[日高振興局|日高]]||[[浦河郡]][[浦河町]]||[[日高振興局#所管]] |- !rowspan="2" colspan="3"|[[道南]] |[[渡島総合振興局|渡島]]||[[函館市]]||[[渡島総合振興局#地理]] |- |[[檜山振興局|檜山]]||[[檜山郡]][[江差町]]||[[檜山振興局#地域]] |- !rowspan="6"|[[東北地方]] !rowspan="6"|東北圏 !rowspan="3" colspan="3"|[[北東北]] |[[青森県]]||'''[[青森市]]'''||[[青森県#地域区分]] |- |[[岩手県]]||'''[[盛岡市]]'''||[[岩手県#地域]] |- |[[秋田県]]||'''[[秋田市]]'''||[[秋田県#地域圏(広域都市圏)]] |- 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!rowspan="3"|北<br />陸 |[[富山県]]||'''[[富山市]]'''||[[富山県#地域区分]] |- |[[石川県]]||'''[[金沢市]]'''||[[石川県#地域区分]] |- |[[福井県]]||'''[[福井市]]'''||[[福井県#自治体]] |- !rowspan="4"|中部圏 !rowspan="4" colspan="1"|[[東海地方|東<br />海]] !colspan="2" style="text-align:center"|— |[[静岡県]]||'''[[静岡市]]'''||[[静岡県の地域]] |- !rowspan="3"|[[東海3県|東<br />海]] !rowspan="3"|[[中京圏|中<br />京]] |[[愛知県]]||'''[[名古屋市]]'''||[[愛知県#行政区画]] |- |[[岐阜県]]||'''[[岐阜市]]'''||[[岐阜県#地方区分分類]] |- !rowspan="7"|[[近畿地方]] |[[三重県]]||'''[[津市]]'''||[[三重県#地域区分]] |- !rowspan="6"|近畿圏 !rowspan="6" colspan="3"|[[関西]] |[[滋賀県]]||'''[[大津市]]'''||[[滋賀県#地域区分]] |- |[[京都府]]||'''[[京都市]]'''||[[京都府#地域圏]] |- |[[大阪府]]||'''[[大阪市]]'''||[[大阪府#自治体]] |- |[[兵庫県]]||'''[[神戸市]]'''||[[兵庫県#行政区画]] |- |[[奈良県]]||'''[[奈良市]]'''||[[奈良県#地理・地域]] |- |[[和歌山県]]||'''[[和歌山市]]'''||[[和歌山県#地域区分]] |- !rowspan="9"|[[中国・四国地方]] !rowspan="5"|中国圏 !rowspan="5"|[[中国地方|中<br />国]] !rowspan="2" style="text-align:center"|— !rowspan="2"|[[山陰地方|山<br />陰]] |[[鳥取県]]||'''[[鳥取市]]'''||[[鳥取県#地域区分]] |- |[[島根県]]||'''[[松江市]]'''||[[島根県#自治体]] |- !rowspan="5"|[[瀬戸内地方|瀬<br />戸<br />内]] !rowspan="3"|[[山陽地方|山<br />陽]] |[[岡山県]]||'''[[岡山市]]'''||[[岡山県#地域圏]] |- |[[広島県]]||'''[[広島市]]'''||[[広島県#自治体]] |- |[[山口県]]||'''[[山口市]]'''||[[山口県#地域圏]] |- !rowspan="4"|四国圏 !rowspan="4"|[[四国地方|四<br />国]] !rowspan="2"|[[北四国|北<br />四<br />国]] |[[香川県]]||'''[[高松市]]'''||[[香川県#地域区分]] |- |[[愛媛県]]||'''[[松山市]]'''||[[愛媛県#地域区分]] |- !rowspan="2" style="text-align:center"|— !rowspan="2"|[[南四国|南<br />四<br />国]] |[[徳島県]]||'''[[徳島市]]'''||[[徳島県#自治体]] |- |[[高知県]]||'''[[高知市]]'''||[[高知県#地理・地域]] |- !rowspan="8"|[[九州|九州地方]] !rowspan="7"|九州圏 !rowspan="5" colspan="3"|[[北部九州]] |[[福岡県]]||'''[[福岡市]]'''||[[福岡県#地域区分と市町村]] |- |[[佐賀県]]||'''[[佐賀市]]'''||[[佐賀県#自治体]] |- |[[長崎県]]||'''[[長崎市]]'''||[[長崎県#地域区分]] |- |[[熊本県]]||'''[[熊本市]]'''||[[熊本県#地域区分]] |- |[[大分県]]||'''[[大分市]]'''||[[大分県#地理・地域]] |- !rowspan="2" colspan="3"|[[南九州]] |[[宮崎県]]||'''[[宮崎市]]'''||[[宮崎県#地理・地域]] |- |[[鹿児島県]]||'''[[鹿児島市]]'''||[[鹿児島県#地理・地域]] |- !style="text-align:center"|— !colspan="3"|沖縄 |[[沖縄県]]||'''[[那覇市]]'''||[[沖縄県#地域区分]] |} * 北海道地方には、一度は3県が置かれたが廃止された。表では例外的に、[[北海道庁]]の[[支庁#北海道|(総合)振興局]]および同所在地を他の都府県および同所在地と同列にして表にした。 * 東北地方は、歴史などでは旧[[陸奥国]]と旧[[出羽国]]の2分割、[[日本の気候|気候]]・交通などでは[[太平洋側]]と[[日本海側]]の2分割が主だった分け方だった。ただし、太平洋側・日本海側の分け方では、青森県と福島県において[[奥羽山脈]]の東西に県が分割されてしまう。近年、陸上交通の再編と政治・経済情勢から、県単位の南北2分割が多用されるようになっている。 * 関東地方では、[[日本の首都]]であり、人口や経済力が突出している東京都を[[東京地方]]として単独扱いする場合もある。また、関東地方に周辺地域([[山梨県|山梨]]・[[長野県|長野]]・[[新潟県|新潟]]・[[静岡県|静岡]]など)を含めた「[[広域関東圏]]」とする事例もある(詳細は[[広域関東圏]]を参照)。 * 中部地方には[[中央高地]]が広がっているため、交通・文化・経済・政治など様々な結び付きの違いにより地域区分が多様である。以下に示す以外にも[[東山地方]]、[[信越地方]]などの区分もある。 * [[近畿地方]]は、隣県を含んだり含まなかったりなどにより範囲が異なる場合がある。[[近畿地方#範囲]]などを参照。関西地方と呼ばれることもある(関西と呼ぶ場合は、[[三重県]]を含まないことが多い)。 * 九州では以下のほかに、九州と山口県をまとめて九州・山口、沖縄県単独で沖縄地方、沖縄県および[[奄美群島]]で[[南西諸島]]などと呼ばれたり、[[中九州]]・[[東九州]]・[[西九州]]といった区分もある。 <gallery> Regions and Prefectures of Japan (ja).svg|地方区分の例である八地方区分([[全国地方公共団体コード#都道府県コード|ISO自治体番号]]順)。法的根拠はない。 Japanese football regions colored.png|[[地域リーグ (サッカー)|サッカー地域リーグ]]の地域分け Japanese House of Representatives Proportional Representation Blocks.svg|[[衆議院比例代表制選挙区一覧|衆議院比例ブロック]] Region system13.png|2006年2月に示された[[道州制]]の「区域例」(13道州)。あくまでも「例」である。 </gallery> == 「七地方区分」より大きな区分 == === 二区分 === ;[[東日本]](東北日本)・[[西日本]](西南日本) :地理的な分類の他、[[東京]]と[[大阪]]の二大[[都市圏]]、または歴史的に首都や中央政権が置かれてきた[[畿内]]または[[南関東]]を中心にした経済圏や文化圏としての分類でもある。 ;[[太平洋]]側・[[日本海]]側 :[[日本の気候|気候]]や[[海運]]に関する区分。[[瀬戸内]]や内陸部の扱いはまちまちである。 ;[[表日本]]・[[裏日本]] :国内での経済格差が大きかった[[高度経済成長]]時代に頻繁に用いられた。 === 三区分 === ;東日本・[[中日本]]・西日本 :交通、または[[三大都市圏]]の経済圏を基にした分類。 ;[[北日本]]・東日本・西日本 :気象情報で用いられる分類。北日本は北海道・東北、東日本は関東・中部(三重含む)、西日本は近畿(三重除く(=[[関西]]))から九州までを指す。奄美地方・沖縄県は除く。 === 補助的な用法 === 他の区分の補助的に用いられるもの。日本国内における方角、または、畿内や東京から見た方角での命名による。 ;北日本・[[南日本]] :畿内または東京を中心に見たもの。気象予報の際に北日本は用いられるが、南日本は用いられない。 ;[[北国]](ほっこく)・[[東国]]・[[西国]] :畿内を中心に見たもの。 == 物流と地域 == 物流業界においては、物流網に応じて様々なエリア定義がなされており、「○○地方限定」と称した販促キャンペーン等が必ずしも同じ地域を指すとは限らない{{refnest|group="注"|例:[[コンビニエンスストア|コンビニ]]大手3社、[[セブンイレブン]]<ref>[https://www.sej.co.jp/products/area.html 地域区分 セブン-イレブンジャパン]</ref>・[[ファミリーマート]]<ref>[https://www.family.co.jp/other/aboutarea.html 地区・価格表記について ファミリーマート]</ref>・[[ローソン]]<ref>[https://www.lawson.co.jp/area/area.html 地域区分について ローソン]</ref>。}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本列島]]、[[本土]]、[[離島]]、[[四島]] * [[五畿七道]]([[北海道]]や[[南西諸島]]は入っていない) ** [[令制国一覧]] * [[日本の地理]] * [[日本の交通]] * [[日本の地方公共団体一覧]] * [[都道府県]] * [[都道府県の面積一覧]] * [[Portal:日本の都道府県|日本の都道府県]] * [[日本の首都]] * [[政令指定都市]] * [[道州制]] * [[国の地方区分]] * [[七大都市圏]] * その他の地域区分 ** [[広域関東圏]]・[[両毛]]・[[上信越]]・[[関越]]・[[三遠南信]]・[[北近畿]]・[[南紀]]・[[九州・山口地方]]・[[沖縄諸島]] {{日本の都道府県}} {{日本の地域}} {{日本関連の項目}} {{DEFAULTSORT:にほんのちいき}} [[Category:日本の地域|* にほんのちいき]] [[Category:日本の地域ブロック|*]] [[Category:日本の地理|*にほんのちいき]] [[Category:日本の地方区分|*にほんのちいき]] [[Category:地方区分の一覧]]
2003-04-20T08:25:29Z
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