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7,190 | SRAMカード | SRAMカード(エスラム-)は、SRAMとバックアップ用の電池で情報を記憶するメモリーカードの一種。
JEIDA/PCMCIA(PCカード)の初期の頃に普及した。
書き込みはきわめて高速だが、容量が小さく高価。キャパシタを用いるDRAMよりも少ない電力でデータを維持でき、EEPROMよりも使い勝手が良い為、小容量ながら磁気メディアを補完するコンパクトな外部記憶装置として、フラッシュメモリ登場までは広範囲に利用された。インタフェースとコントローラを一体化したSRAMカードとしては、ノートパソコンやワープロ専用機、電子手帳などの外部記憶メディアとして頻繁に利用されていた(PCカード規格ではない独自規格のものも存在した)。
SRAM自体は揮発性である為、保存にはボタン型電池などの電源を必要とし、電池が切れるとデータは全て消える。電池の持続期間はカタログスペックでは1年程度だったが、10年近く放置していたSRAMカードにデータが残っていたという例もあり、環境による差が大きい。電池交換を行ってもデータが消えないよう、短期間データを維持することが可能な低容量の二次電池を搭載していたものもある。
やがてフラッシュメモリなどが普及したため、旧式の機器や特定の業務用途を除いて一般にはほとんど使われなくなっており、パソコン用OSでのサポートもなくなっている。 | [
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JEIDA/[[PCMCIA]]([[PCカード]])の初期の頃に普及した。
書き込みはきわめて高速だが、容量が小さく高価。キャパシタを用いる[[Dynamic Random Access Memory|DRAM]]よりも少ない電力でデータを維持でき、[[EEPROM]]よりも使い勝手が良い為、小容量ながら磁気メディアを補完するコンパクトな外部記憶装置として、フラッシュメモリ登場までは広範囲に利用された。インタフェースとコントローラを一体化したSRAMカードとしては、[[ノートパソコン]]や[[ワードプロセッサ|ワープロ専用機]]、[[電子手帳]]などの外部記憶メディアとして頻繁に利用されていた(PCカード規格ではない独自規格のものも存在した)。
SRAM自体は揮発性である為、保存には[[ボタン型電池]]などの電源を必要とし、電池が切れるとデータは全て消える。電池の持続期間はカタログスペックでは1年程度だったが、10年近く放置していたSRAMカードにデータが残っていたという例もあり、環境による差が大きい。電池交換を行ってもデータが消えないよう、短期間データを維持することが可能な低容量の[[二次電池]]を搭載していたものもある。
やがて[[フラッシュメモリ]]などが普及したため、旧式の機器や特定の業務用途を除いて一般にはほとんど使われなくなっており、パソコン用OSでのサポートもなくなっている。
== 関連項目 ==
*[[ネオジオ]] - 専用メモリーカードとして2KBのSRAMカードを採用
{{Computer-stub}}
[[Category:メモリーカード|えすらむかあど]] | null | 2017-03-22T02:35:25Z | false | false | false | [
"Template:Computer-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SRAM%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89 |
7,192 | マークアップ言語 | マークアップ言語(マークアップげんご、英: markup language)は、組版指定に使われる言語と言える。視覚表現や文章構造などを記述するための形式言語である。テキストファイルであることが多いが、バイナリデータによる形式もある。
英語の「markup」という語は英語圏の出版業界で著者、編集者、印刷者の間で指示を伝える方法を意味していた(#語源を参照)。
マークアップ言語には様々なものがあるが、ここでは例としてHTMLにおける短い節を示す。
HTMLでは、山括弧で囲ったタグにより、要素をマークアップする。要素の頭部と尾部にあるものがタグである。つまり、タグで囲まれた全体が要素である(タグも含む)。このHTMLの例では、h1 という第1レベルの見出し (headline) の要素があり、それに引き続いて1段落の文章が含まれているp要素(paragraph = 段落)がある。
HTMLの変遷などの結果意識されるようになった、Web業界などにおけるマークアップ言語に対する理解として、3つに分類するものがある。視覚マークアップ、手続きマークアップ、意味マークアップである。
視覚マークアップとはテキスト中の「手掛かり」から文書構造を推論しようという試みである。例えば、テキストファイルでは文書のタイトルの前にいくつか改行を入れたり、スペースを空けたりすることがあり、これらはレイアウトなどの視覚表現を暗示している。ワードプロセッサ、デスクトップパブリッシングソフト、いくつかのテキストエディタにはその種の慣習から構造を推論するものがある。
視覚マークアップが暗黙的であったのに対し、手続きマークアップは明示的に視覚表現の命令(ディレクティブ)を記述する。処理系はこの命令をファイル中の出現順に解釈する。例えば、タイトル文の直前に「中央揃えモードに移る」「文字サイズを大きくする」「書体をボールドにする」などの命令を記述し、タイトル文の後にそれらの命令の終了を記述する、といったものである。手続きマークアップの処理系の例としては、nroff・troff・TeX・Loutがある。
手続きマークアップは特定の視覚表現を実現する処理上の命令を付与するものであるが、意味マークアップはテキストの断片に印を付けていくものである。例えば、ウェブサイトの更新情報を記述するための Atom という言語には updated タイムスタンプを印すマークアップがあり、情報項目が最後にいつ更新されたのかを発行者が表明するのに使われる。Atom の規格では updated の意味するものについて論じており、そのマークアップ形式についても規定されているが、それがユーザに対してどのように表示されるのか、またそもそも表示されるべきなのかについては何の規定もない。このマークアップは処理系ごとに様々な用途に使われ、その中には Atom 言語の設計者たちが予想もしなかったものが多く含まれるだろう。SGMLとXMLは意味マークアップ言語の設計を支援するために設計された仕様(メタ言語)である。
以上は概念的な分類であって、実際にはどのシステムでも別種のマークアップが共存している。例えばHTMLでは、純粋な手続きマークアップ(ボールドのための B など)と純粋な意味マークアップ(BLOCKQUOTE や href 属性など)が共存している。HTMLにはさらに PRE 要素があり、視覚マークアップの領域を囲んで、テキストをタイプしたとおりに表示させることもできる。
マークアップ要素とその使用に関する規則は通例、特定の企業やコミュニティごとの様々な種類の文書に対応するため、標準化団体によって開発される。最初期の例としては CALS があり、アメリカ軍で技術マニュアルに利用されていた。すぐに大規模文書を管理する必要のある企業がこれに続きだし、航空機、電気通信、自動車、コンピュータハードウェアのマニュアル用のタグ群が開発された。これはこの種のマニュアルの多くが電子的に配布されるきっかけとなり、企業は1つの(意味マークアップによる)オリジナルから印刷物、オンライン、CD版などを作り出すことができた。特筆すべき例は、サン・マイクロシステムズであり、ジョン・ボサック(英語版)がSGMLを複数媒体向けの文書配布に採用し、大幅なコスト削減を達成したことである。
現在では多くのマークアップ言語が存在する。よく知られたものでも DocBook・MathML・SVG・Open eBook・TEI・XBRLなどがある。多くはテキストのためのものだが、その他の用途で使われる専門化された言語もある。
汎用マークアップとは意味マークアップの別名である。現在のほとんどの意味マークアップシステムは文書を木構造に構造化する。また同時に、文書の一部分を文書内の他の箇所から参照する(クロス・リファレンス)手段を提供している。構造化によって、ソフトウェアが文書構造を(BLOBではないものとして)把握することができ、文書はデータベースとして扱うことが可能になる。関係データベースが持っているような厳格なスキーマを持たないので、「半構造化データベース」と呼ばれる。
2000年を過ぎたころから、木構造以外の文書構造に関する大きな関心が現れてきた。例えば、古代の宗教文学では文献構造(本・章・節・文)以外にも、修辞構造や散文構造が広く用いられる(ストーリー・引用章句・段落など)。これらの文書単位は文中でたびたび交差するので、簡単には木構造のマークアップシステムでデータ化することはできない。このような構造をサポートする文書モデリングシステムにはMECS、TEI Guidelines の一部やLMNL・CLIXなどがある。
意味マークアップの第一の長所はその自由度だとみなされている。テキストの断片が「どのように表示されるべきか」ではなく「何であるか」と印されていたなら、その言語の設計者が予想もしていなかった便利な用途でその断片を処理する処理系が作られるかもしれない。例を挙げると、HTMLのハイパーリンクは、元々、リンクをたどる人の手で利用されるために設計されたが、検索エンジンによって、インデックスするべき新しいリソースを発見するため、またウェブ上のリソースの人気を測るためにも利用されている。
意味マークアップはまた、文書の視覚表現の変更を効率化する。例えば、イタリック(斜体)の表現を「強調」あるいは「外国語」の意図を示すために使うとする。両方とも単に表示方法の命令でイタリックとマークアップすると、両者の意図の違いが記録されず、区別が困難になる。後に外国語をイタリックにしない視覚表現に変更しようとすると、全てのイタリック部分をひとつずつ人間が判断して選り分ける作業が必要になる。しかし意味マークアップでは両者を区別してマークアップするので、視覚表現の変更が容易になる。
「マークアップ」という用語は、英語圏で伝統的な出版の作業過程である原稿の「マーキング・アップ」という作業から派生した。「marking up」とは、原稿用紙の余白に印刷に関する指示の記号を書き加えることである。「マークアップ・マン」や校正者と呼ばれる専門家が、文章の各部分にどんなスタイル、書体、サイズを適用すべきかなどを記して組版の担当者に原稿を渡すという作業が、何世紀にもわたって行われていた(校正記号についての詳細は「校正」の項目にある)。 英語のmarkupに対応する印刷用語は、組版指定であり、書体・文字サイズ・行数・行間・字数・字送りなど,組体裁を定めるうえで必要となる情報を指定することである。英語では、電子組版、コンピュータ上での組版へと移行してもmarkupが用語としてそのまま使われている。
マークアップ言語のアイデアは、1967年のある会議で、アメリカ出版界の大物であったウィリアム・W・タニクリフ(英語版)によって「汎用符号」という名で、おそらく最初に発表された。彼はその後にGenCode()と呼ばれる標準仕様の策定において出版業界で中心的な役割を果たしたとされる。1960年代末に、本のデザイナーであったスタンレイ・フィッシュもまた類似したアイデアを発表している。ブライアン・リード(英語版)は、1980年にカーネギーメロン大学の学位論文において、実用となる意味マークアップシステムの理論と実装を開発した。
しかしながら、IBMの研究者であるチャールズ・ゴールドファーブ(英語版)が現在では広く「マークアップ言語の父」として知られている。ゴールドファーブはGMLの開発で大きな役割を果たし、そして、初めて広く使われた意味マークアップシステムであるSGMLを開発したISOの委員会で議長を務めた。ゴールドファーブは、正確な日付は記録にないが、新聞のワークフローの電算化に関する初期のプロジェクトで働いているときに、その基本的なアイデアを思いついた。後にタニクリフとフィッシュの発表を知り、またリードの話をその初期に聞いたことで、彼の興味にさらに火が付くこととなった。
出版業界の外部で利用可能な初期のマークアップ言語の例にはUNIX上の組版ソフトウェアであるroffがある。これらのシステムでは書式指定命令は文書のテキストの中に挿入され、組版処理系はその指定に従ってテキストフォーマットし出力する。その後WYSIWYG()を実現したDTPソフトウェアが登場したが、それらはバッチ処理などには不向きといったことから、引き続きroffが使用された分野もある。
出版におけるもう1つの主要な標準はTeXである。TeXはドナルド・クヌースが開発し、1970年代から1980年代にかけて継続的に改良した。TeXは数学書を業務品質で組むためのテキストやフォントに関する綿密なレイアウト機能を目標としている。この目標のため、クヌースはかなりの時間を組版技術の調査に費やした。主に学術分野で使われ、理数系の出版物・論文などの多くではデファクトスタンダードとなっている。TeXのマクロパッケージであるLaTeXはTeX上で意味マークアップシステムを構築しており、広く用いられている。
構造と視覚表現を明確に区別した最初の言語はブライアン・リードが開発し、1980年に彼の博士論文で述べているScribe()であった。Scribeは多くの点で画期的であり、マークアップされた文書からスタイルを分離するというアイデアだけではなく、意味要素の使用を統制する文法(一種のスキーマ)をも持っていた。ScribeはGML(後のSGML)の開発に影響を与え、またHTMLやLaTeXの直接の祖先ともなった。
1980年代の初期に、マークアップは文書の構造面に専念し、視覚的な表現に関しては処理系に任せるべきだ、という思想によってSGMLが誕生した。この言語はゴールドファーブが議長を務める委員会によって策定され、複数の研究・プロジェクト(GenCode など)から成果を取り込んでいた。シャロン・アドラーやアンデルス・ベルクルント、ジェームズ・D・メイソンも委員会の主要メンバーであった。
SGMLは文書にマークアップを含める構文や、どんなタグがどこで使えるのかなどを記述する構文(DTD)を規定していた。これによって、文書作成者は望むマークアップを、最も意図に近いものや母語で名前が付いているものなど、何でも作成し、利用することができた。それゆえ、SGMLは正しくはメタ言語であり、多くの具体的なマークアップ言語がそれから派生していった。1980年代から現在に至るまで、ほとんどの新しいマークアップ言語はSGMLに基づいたものであった。TEIやDocBookなどがその例である。SGMLは1986年にISO 8879として国際標準になった。
SGMLは非常に大きな規模の文書を扱う現場で広く受け入れられ、利用された。しかしながら、一般的には覚えるのが煩わしくて難しいとみなされている。これは多彩すぎる機能と高すぎる柔軟性を実現した副作用である。複雑な仕様の例として、SGMLでは終了タグ(または開始タグかその両方)が文脈によって省略可能となっているが、これは過労気味の入力作業員がマークアップを手動で行うような場合にキーストロークの節約が望まれている、との配慮によるものである。
1991年になると、SGMLが商用のデータベース用途にしか使われない傾向が強くなってきた。一方、(文書をプロプライエタリなバイナリフォーマットで保存する)WYSIWYGツールがその他の文書処理用途では受け入れられていた。
この状況が変化したのは、欧州原子核研究機構に在籍していたティム・バーナーズ=リーが同僚のアンデルス・ベルクルントたちからSGMLの存在を知り、SGMLの構文を使ってHTMLを作ったときである。HTMLは他のSGMLベースのタグ言語とよく似ているが、よりシンプルなものとして誕生し、当初は形式的なDTDを持っていなかった。スティーブン・J・デローズはHTMLによる意味マークアップの使用が、ウェブに柔軟性と拡張性をもたらし、その成功の有力な要因となったと主張している(その他の要因にはハイパーリンクの概念やブラウザの無料配布などがある)。
しかしながら、HTMLがマークアップ言語であるという事実については異論を唱える研究者もいる。その異論とは、HTMLはタグの配置を制限しており、タグに他のタグの内に入れ子になることと文書のルートタグになることの両方を要求している、というものである。このため、そのような研究者たちはHTMLは階層型データモデルに従う「コンテナ言語」ではないかと述べている。
もうひとつの、現在広く利用されているマークアップ言語はXMLである。XMLはW3Cの、ジョン・ボサックが立ち上げ、議長を務めた委員会によって開発された。XMLの主目的は対象をインターネット上の文書に特化することで、SGMLを単純化したサブセットを作ることである。XMLはSGMLと同じようにメタ言語である。また、利用者が必要な要素を追加したり、名前空間を使って複合文書を作ったりして拡張することが容易にできる。
名前空間などを用いないXML文書はSGML文書でもあるため、XMLへの乗り換えはそれほど困難でなく、既存のSGMLの利用者およびソフトウェアは比較的容易にXMLに移行することができた。XMLはSGMLの多くのより複雑な機能を省いており、学習や実装を容易にしている。他の改良点には、多言語環境でのSGMLの問題点を修正したことや、スキーマがない文書でも利用を可能にしたことなどがある。
XMLはそもそも文書や出版物などの半構造データのために設計されたものである。しかしながら、その単純さと柔軟性のバランスの良さから、他の用途でも急速に受け入れられていった。例えば、アプリケーション間でデータをやりとりするために利用されたり、アプリケーションの設定ファイルの構造として利用されたりもしている。
2000年の1月から、HTMLについてのすべてのW3C勧告は、SGMLではなくXMLに基づいたものになり、XML で HTML と等価のマークアップができる XHTML が制定された。
HTMLとXHTMLとの違いで顕著なもののひとつは、すべてのタグを閉じなければならないことである。<br>のような「空の」HTMLタグは「閉じる」必要がある。XHTML 1.0 勧告内の「Appendix」の章にある「HTML Compatibility Guidelines」では、<br />のように要素名の後に空白文字と斜線を入れて閉じる形を推奨している。ほかには、開始タグ内の属性値はすべて引用符で囲わなければならないという点がある。また、HTMLとは異なり、大文字と小文字は厳密に区別される。
マークアップ言語のアイデアはテキスト文書に関するものとして生まれたが、ベクターグラフィックス、ウェブ・サービス、ウェブシンディケーション、セマンティック・ウェブ、ユーザーインタフェースなどの分野での利用も増えている。これらのほとんどはXMLのアプリケーションである。XMLを使用することで、複数のマークアップ言語を合成することが可能となる。例としては、XHTML+SMIL やXHTML+MathML+SVGがある。 | [
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"text": "構造と視覚表現を明確に区別した最初の言語はブライアン・リードが開発し、1980年に彼の博士論文で述べているScribe()であった。Scribeは多くの点で画期的であり、マークアップされた文書からスタイルを分離するというアイデアだけではなく、意味要素の使用を統制する文法(一種のスキーマ)をも持っていた。ScribeはGML(後のSGML)の開発に影響を与え、またHTMLやLaTeXの直接の祖先ともなった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "1980年代の初期に、マークアップは文書の構造面に専念し、視覚的な表現に関しては処理系に任せるべきだ、という思想によってSGMLが誕生した。この言語はゴールドファーブが議長を務める委員会によって策定され、複数の研究・プロジェクト(GenCode など)から成果を取り込んでいた。シャロン・アドラーやアンデルス・ベルクルント、ジェームズ・D・メイソンも委員会の主要メンバーであった。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "SGMLは文書にマークアップを含める構文や、どんなタグがどこで使えるのかなどを記述する構文(DTD)を規定していた。これによって、文書作成者は望むマークアップを、最も意図に近いものや母語で名前が付いているものなど、何でも作成し、利用することができた。それゆえ、SGMLは正しくはメタ言語であり、多くの具体的なマークアップ言語がそれから派生していった。1980年代から現在に至るまで、ほとんどの新しいマークアップ言語はSGMLに基づいたものであった。TEIやDocBookなどがその例である。SGMLは1986年にISO 8879として国際標準になった。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "SGMLは非常に大きな規模の文書を扱う現場で広く受け入れられ、利用された。しかしながら、一般的には覚えるのが煩わしくて難しいとみなされている。これは多彩すぎる機能と高すぎる柔軟性を実現した副作用である。複雑な仕様の例として、SGMLでは終了タグ(または開始タグかその両方)が文脈によって省略可能となっているが、これは過労気味の入力作業員がマークアップを手動で行うような場合にキーストロークの節約が望まれている、との配慮によるものである。",
"title": "歴史"
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"text": "1991年になると、SGMLが商用のデータベース用途にしか使われない傾向が強くなってきた。一方、(文書をプロプライエタリなバイナリフォーマットで保存する)WYSIWYGツールがその他の文書処理用途では受け入れられていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "この状況が変化したのは、欧州原子核研究機構に在籍していたティム・バーナーズ=リーが同僚のアンデルス・ベルクルントたちからSGMLの存在を知り、SGMLの構文を使ってHTMLを作ったときである。HTMLは他のSGMLベースのタグ言語とよく似ているが、よりシンプルなものとして誕生し、当初は形式的なDTDを持っていなかった。スティーブン・J・デローズはHTMLによる意味マークアップの使用が、ウェブに柔軟性と拡張性をもたらし、その成功の有力な要因となったと主張している(その他の要因にはハイパーリンクの概念やブラウザの無料配布などがある)。",
"title": "歴史"
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"text": "しかしながら、HTMLがマークアップ言語であるという事実については異論を唱える研究者もいる。その異論とは、HTMLはタグの配置を制限しており、タグに他のタグの内に入れ子になることと文書のルートタグになることの両方を要求している、というものである。このため、そのような研究者たちはHTMLは階層型データモデルに従う「コンテナ言語」ではないかと述べている。",
"title": "歴史"
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"text": "もうひとつの、現在広く利用されているマークアップ言語はXMLである。XMLはW3Cの、ジョン・ボサックが立ち上げ、議長を務めた委員会によって開発された。XMLの主目的は対象をインターネット上の文書に特化することで、SGMLを単純化したサブセットを作ることである。XMLはSGMLと同じようにメタ言語である。また、利用者が必要な要素を追加したり、名前空間を使って複合文書を作ったりして拡張することが容易にできる。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "名前空間などを用いないXML文書はSGML文書でもあるため、XMLへの乗り換えはそれほど困難でなく、既存のSGMLの利用者およびソフトウェアは比較的容易にXMLに移行することができた。XMLはSGMLの多くのより複雑な機能を省いており、学習や実装を容易にしている。他の改良点には、多言語環境でのSGMLの問題点を修正したことや、スキーマがない文書でも利用を可能にしたことなどがある。",
"title": "歴史"
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"text": "XMLはそもそも文書や出版物などの半構造データのために設計されたものである。しかしながら、その単純さと柔軟性のバランスの良さから、他の用途でも急速に受け入れられていった。例えば、アプリケーション間でデータをやりとりするために利用されたり、アプリケーションの設定ファイルの構造として利用されたりもしている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "2000年の1月から、HTMLについてのすべてのW3C勧告は、SGMLではなくXMLに基づいたものになり、XML で HTML と等価のマークアップができる XHTML が制定された。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "HTMLとXHTMLとの違いで顕著なもののひとつは、すべてのタグを閉じなければならないことである。<br>のような「空の」HTMLタグは「閉じる」必要がある。XHTML 1.0 勧告内の「Appendix」の章にある「HTML Compatibility Guidelines」では、<br />のように要素名の後に空白文字と斜線を入れて閉じる形を推奨している。ほかには、開始タグ内の属性値はすべて引用符で囲わなければならないという点がある。また、HTMLとは異なり、大文字と小文字は厳密に区別される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "マークアップ言語のアイデアはテキスト文書に関するものとして生まれたが、ベクターグラフィックス、ウェブ・サービス、ウェブシンディケーション、セマンティック・ウェブ、ユーザーインタフェースなどの分野での利用も増えている。これらのほとんどはXMLのアプリケーションである。XMLを使用することで、複数のマークアップ言語を合成することが可能となる。例としては、XHTML+SMIL やXHTML+MathML+SVGがある。",
"title": "他の用途での利用"
}
] | マークアップ言語は、組版指定に使われる言語と言える。視覚表現や文章構造などを記述するための形式言語である。テキストファイルであることが多いが、バイナリデータによる形式もある。 英語の「markup」という語は英語圏の出版業界で著者、編集者、印刷者の間で指示を伝える方法を意味していた(#語源を参照)。 | {{WikipediaPage|[[ウィキペディア]]上でのページのマークアップ方法については[[Help:ページの編集#マークアップ]]や[[Wikipedia:スタイルマニュアル]]をごらんください。}}
{{告知|要望|「マークアップ」と「マークアップ言語」の使い分け}}
[[画像:OED-LEXX-Bungler.jpg|right|thumb|250px|[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]で定義されたマークアップ言語が[[オックスフォード英語辞典]]の電子版を記述するのに利用されている。これによって、[[HyperText Markup Language|HTML]]への変換が容易となるだけでなく、高度なクエリの実行が可能となる。]]
{{読み仮名_ruby不使用|'''マークアップ言語'''|マークアップげんご|{{lang-en-short|markup language}}}}は、'''[[組版]]指定'''に使われる言語と言える<ref name="W3C">W3C. 日本語組版処理の要件(日本語版). 2014. https://www.w3.org/TR/2012/NOTE-jlreq-20120403/ja/#term.page-format 2018/08/17 閲覧</ref><ref name="印刷用語集703">日本印刷産業連合会. https://www.jfpi.or.jp/webyogo/sp/index.php?term=703 2018/08/17 閲覧</ref>。視覚表現や文章構造などを記述するための[[形式言語]]である。[[テキストファイル]]であることが多いが、[[バイナリデータ]]による形式もある。
英語の「{{lang|en|markup}}」という語は英語圏の[[出版]]業界で著者、編集者、印刷者の間で指示を伝える方法を意味していた([[#語源]]を参照)。
== 特徴 ==
マークアップ言語には様々なものがあるが、ここでは例としてHTMLにおける短い節を示す。
<syntaxhighlight lang="html">
<h1>ガンカモ科</h1>
<p>
ガンカモ科にはカモ、ガン、ハクチョウが含まれるが、
それらは<em>非常に近い種であるというわけではない</em>。
</p>
</syntaxhighlight>
HTMLでは、[[括弧#山括弧〈〉|山括弧]]で囲った'''タグ'''により、'''要素'''をマークアップする。'''要素'''の頭部と尾部にあるものが'''タグ'''である。つまり、'''タグ'''で囲まれた全体が'''要素'''である('''タグ'''も含む)。このHTMLの例では、{{tt|h1}} という第1レベルの見出し (headline) の要素があり、それに引き続いて1段落の文章が含まれているp要素(paragraph = 段落)がある。
== 分類 ==
HTMLの変遷などの結果意識されるようになった、Web業界などにおけるマークアップ言語に対する理解として、3つに分類するものがある。視覚マークアップ、手続きマークアップ、意味マークアップである。
=== 視覚マークアップ ===
'''視覚マークアップ'''とはテキスト中の「手掛かり」から文書構造を推論しようという試みである。例えば、[[テキストファイル]]では文書のタイトルの前にいくつか[[改行]]を入れたり、[[スペース]]を空けたりすることがあり、これらはレイアウトなどの視覚表現を暗示している。[[ワードプロセッサ]]、[[DTP|デスクトップパブリッシング]]ソフト、いくつかの[[テキストエディタ]]にはその種の慣習から構造を推論するものがある。
=== 手続きマークアップ ===
視覚マークアップが暗黙的であったのに対し、'''手続きマークアップ'''は明示的に視覚表現の命令([[ディレクティブ]])を記述する。[[処理系]]はこの命令をファイル中の出現順に解釈する。例えば、タイトル文の直前に「[[中央揃え]]モードに移る」「文字サイズを大きくする」「[[書体]]を[[太字|ボールド]]にする」などの命令を記述し、タイトル文の後にそれらの命令の終了を記述する、といったものである。<!--たいていの場合、手続きマークアップの能力は[[チューリング完全]]な[[プログラミング言語]]に相当する。--><!-- ← ラムダ算法などと違い「記法の能力」と考えるのは誤りである。たとえば「ラムダ算法をマークアップの書式で書く言語」というものを想像してみればわかるが、その能力を持っているのは背景にあるモデルであるラムダ算法であって、マークアップ自身ではない。-->手続きマークアップの処理系の例としては、[[roff|nroff・troff]]・[[TeX|{{TeX}}]]・[[Lout]]がある。
<!-- Procedural markup has been widely used in professional publishing applications, where professional [[typographers]] can be expected to learn the languages required. -->
=== 意味マークアップ ===
手続きマークアップは特定の視覚表現を実現する処理上の命令を付与するものであるが、'''意味マークアップ'''はテキストの断片に印を付けていくものである。例えば、ウェブサイトの更新情報を記述するための {{lang|en|[[Atom (ウェブ標準)|Atom]]}} という言語には <code>updated</code> [[タイムスタンプ]]を印すマークアップがあり、情報項目が最後にいつ更新されたのかを発行者が表明するのに使われる。{{lang|en|Atom}} の規格では <code>updated</code> の意味するものについて論じており、そのマークアップ形式についても規定されているが、それがユーザに対してどのように表示されるのか、またそもそも表示されるべきなのかについては何の規定もない。このマークアップは処理系ごとに様々な用途に使われ、その中には {{lang|en|Atom}} 言語の設計者たちが予想もしなかったものが多く含まれるだろう。[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]と[[Extensible Markup Language|XML]]は意味マークアップ言語の設計を支援するために設計された仕様([[メタ言語]])である。
以上は概念的な分類であって、実際にはどのシステムでも別種のマークアップが共存している。例えば[[HyperText Markup Language|HTML]]では、純粋な手続きマークアップ(ボールドのための <code>B</code> など)と純粋な意味マークアップ(<code>BLOCKQUOTE</code> や <code>href</code> 属性など)が共存している。HTMLにはさらに <code>PRE</code> 要素があり、視覚マークアップの領域を囲んで、テキストをタイプしたとおりに表示させることもできる。
マークアップ要素とその使用に関する規則は通例、特定の企業やコミュニティごとの様々な種類の文書に対応するため、[[標準化団体]]によって開発される。最初期の例としては {{lang|en|[[CALS]]}} があり、[[アメリカ軍]]で技術マニュアルに利用されていた。すぐに大規模文書を管理する必要のある企業がこれに続きだし、航空機、電気通信、自動車、コンピュータハードウェアのマニュアル用のタグ群が開発された。これはこの種のマニュアルの多くが電子的に配布されるきっかけとなり、企業は1つの(意味マークアップによる)オリジナルから印刷物、オンライン、CD版などを作り出すことができた。特筆すべき例は、[[サン・マイクロシステムズ]]であり、{{仮リンク|ジョン・ボサック|en|Jon Bosak}}がSGMLを複数媒体向けの文書配布に採用し、大幅なコスト削減を達成したことである。
現在では多くのマークアップ言語が存在する。よく知られたものでも {{lang|en|[[DocBook]]}}・{{lang|en|[[MathML]]}}・[[Scalable Vector Graphics|SVG]]・{{lang|en|[[Open eBook]]}}・[[Text Encoding Initiative|TEI]]・[[Extensible Business Reporting Language|XBRL]]などがある。多くはテキストのためのものだが、その他の用途で使われる専門化された言語もある。
'''汎用マークアップ'''とは意味マークアップの別名である。現在のほとんどの意味マークアップシステムは文書を[[木構造 (データ構造)|木構造]]に構造化する。また同時に、文書の一部分を文書内の他の箇所から参照する(クロス・リファレンス)手段を提供している。構造化によって、ソフトウェアが文書構造を([[BLOB]]ではないものとして)把握することができ、文書は[[データベース]]として扱うことが可能になる。[[関係データベース]]が持っているような厳格な[[スキーマ]]を持たないので、「[[半構造化データベース]]」と呼ばれる。
2000年を過ぎたころから、木構造以外の文書構造に関する大きな関心が現れてきた。例えば、古代の宗教文学では文献構造(本・章・節・文)以外にも、[[修辞構造]]や[[散文]]構造が広く用いられる([[ストーリー]]・[[引用章句]]・[[段落]]など)。これらの文書単位は文中でたびたび交差するので、簡単には木構造のマークアップシステムでデータ化することはできない。このような構造をサポートする文書モデリングシステムには{{lang|en|[[MECS]]}}{{Efn|[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の作品を電子化するために開発された。}}、{{lang|en|[[Text Encoding Initiative|TEI Guidelines]]}} の一部や[[LMNL]]・{{lang|en|[[CLIX]]}}などがある。
意味マークアップの第一の長所はその自由度だとみなされている。テキストの断片が「どのように表示されるべきか」ではなく「何であるか」と印されていたなら、その言語の設計者が予想もしていなかった便利な用途でその断片を処理する処理系が作られるかもしれない。例を挙げると、HTMLの[[ハイパーリンク]]は、元々、リンクをたどる人の手で利用されるために設計されたが、[[検索エンジン]]によって、インデックスするべき新しいリソースを発見するため、またウェブ上のリソースの人気を測るためにも利用されている。
意味マークアップはまた、文書の視覚表現の変更を効率化する。例えば、[[イタリック体|イタリック]]([[斜体]])の表現を「強調」あるいは「外国語」の意図を示すために使うとする。両方とも単に表示方法の命令でイタリックとマークアップすると、両者の意図の違いが記録されず、区別が困難になる。後に外国語をイタリックにしない視覚表現に変更しようとすると、全てのイタリック部分をひとつずつ人間が判断して選り分ける作業が必要になる。しかし意味マークアップでは両者を区別してマークアップするので、視覚表現の変更が容易になる。
== 歴史 ==
=== 語源 ===
「マークアップ」{{Efn|{{lang-en-short|markup}}}}という用語は、英語圏で伝統的な出版の作業過程である[[原稿]]の「マーキング・アップ」{{Efn|{{lang-en-short|marking up}}}}という作業から派生した。「{{lang|en|marking up}}」とは、原稿用紙の余白に印刷に関する指示の記号を書き加えることである。「マークアップ・マン」{{Efn|{{lang-en-short|markup men}}}}や校正者と呼ばれる専門家が、文章の各部分にどんなスタイル、[[書体]]、サイズを適用すべきかなどを記して[[組版]]の担当者に原稿を渡すという作業が、何世紀にもわたって行われていた(校正記号についての詳細は「[[校正]]」の項目にある)。
英語の''markup''に対応する印刷用語は、'''[[組版]]指定'''であり、書体・文字サイズ・行数・行間・字数・字送りなど,組体裁を定めるうえで必要となる情報を指定することである<ref name="印刷用語集704">日本印刷産業連合会 印刷用語集 - 組版指定 https://www.jfpi.or.jp/webyogo/index.php?term=704 2018/08/17閲覧 </ref>。英語では、電子組版、コンピュータ上での組版へと移行してもmarkupが用語としてそのまま使われている。
=== 初期 ===
マークアップ言語のアイデアは、[[1967年]]のある会議で、アメリカ出版界の大物であった{{仮リンク|ウィリアム・W・タニクリフ|en|William W. Tunnicliffe}}によって「汎用符号」{{Efn|{{lang-en-short|generic coding}}}}という名で、おそらく最初に発表された<ref>{{lang|en|Charles F. Goldfarb}}「{{lang|en|The SGML Handbook}}」567ページ。ISBN 0198537379</ref>。彼はその後に{{読み仮名|{{lang|en|GenCode}}|ジェンコード}}と呼ばれる標準仕様の策定において出版業界で中心的な役割を果たしたとされる。1960年代末に、本のデザイナーであったスタンレイ・フィッシュ{{Efn|{{lang-en-short|Stanley Fish}}}}もまた類似したアイデアを発表している。{{仮リンク|ブライアン・リード (計算機科学者)|label=ブライアン・リード|en|Brian Reid (computer scientist)}}は、[[1980年]]に[[カーネギーメロン大学]]の学位論文において、実用となる意味マークアップシステムの理論と実装を開発した。
しかしながら、[[IBM]]の研究者である{{仮リンク|チャールズ・ゴールドファーブ|en|Charles Goldfarb}}が現在では広く「マークアップ言語の父」として知られている。ゴールドファーブは[[Generalized Markup Language|GML]]の開発で大きな役割を果たし、そして、初めて広く使われた意味マークアップシステムであるSGMLを開発した[[国際標準化機構|ISO]]の委員会で議長を務めた。ゴールドファーブは、正確な日付は記録にないが、新聞の[[ワークフロー]]の電算化に関する初期のプロジェクトで働いているときに、その基本的なアイデアを思いついた。後にタニクリフとフィッシュの発表を知り、またリードの話をその初期に聞いたことで、彼の興味にさらに火が付くこととなった。
=== roff ===
{{main|roff}}{{seealso|groff}}
出版業界の外部で利用可能な初期のマークアップ言語の例には{{lang|en|[[UNIX]]}}上の組版ソフトウェアであるroffがある。これらのシステムでは書式指定命令は文書のテキストの中に挿入され、組版処理系はその指定に従ってテキストフォーマットし出力する。その後{{読み仮名|[[WYSIWYG]]|ウィズィウィグ}}を実現したDTPソフトウェアが登場したが、それらはバッチ処理などには不向きといったことから、引き続きroffが使用された分野もある。
=== TeX ===
{{Main|TeX}}
[[画像:TeX logo.svg|right|150px|TeXのロゴ]]
出版におけるもう1つの主要な標準は{{lang|el-Latn|'''{{TeX}}'''}}である。{{lang|el-Latn|{{TeX}}}}は[[ドナルド・クヌース]]が開発し、1970年代から1980年代にかけて継続的に改良した。{{TeX}}は数学書を業務品質で組むためのテキストや[[フォント]]に関する綿密なレイアウト機能を目標としている。この目標のため、クヌースはかなりの時間を組版技術の調査に費やした。主に学術分野で使われ、理数系の出版物・論文などの多くでは[[デファクトスタンダード]]となっている。{{lang|el-Latn|{{TeX}}}}のマクロパッケージである{{lang|en|[[LaTeX|{{LaTeX}}]]}}は{{lang|el-Latn|{{TeX}}}}上で意味マークアップシステムを構築しており、広く用いられている。
=== SGML ===
{{Main|Standard Generalized Markup Language}}
構造と視覚表現を明確に区別した最初の言語はブライアン・リードが開発し、[[1980年]]に彼の博士論文で述べている{{読み仮名|{{lang|en|[[Scribe]]}}|スクライブ}}であった<ref>{{lang|en|Reid, Brian}}「{{lang|en|Scribe: A Document Specification Language and its Compiler}}」カーネギー・メロン大学、{{lang|en|Technical Report}} CMU-CS-81-100</ref>。{{lang|en|Scribe}}は多くの点で画期的であり、マークアップされた文書からスタイルを分離するというアイデアだけではなく、意味要素の使用を統制する[[文法]](一種のスキーマ)をも持っていた。{{lang|en|Scribe}}は[[Generalized Markup Language|GML]](後のSGML)の開発に影響を与え、またHTMLや{{lang|en|{{LaTeX}}}}の直接の祖先ともなった。
1980年代の初期に、マークアップは文書の構造面に専念し、視覚的な表現に関しては処理系に任せるべきだ、という思想によって{{lang|en|SGML}}が誕生した。この言語はゴールドファーブが議長を務める委員会によって策定され、複数の研究・プロジェクト({{lang|en|GenCode}} など)から成果を取り込んでいた。シャロン・アドラー{{Efn|{{lang-en-short|Sharon Adler}}}}やアンデルス・ベルクルント{{Efn|{{lang-sv|Anders Berglund}}}}、ジェームズ・D・メイソン{{Efn|{{lang-en-short|James D. Mason}}}}も委員会の主要メンバーであった。
SGMLは文書にマークアップを含める構文や、どんなタグがどこで使えるのかなどを記述する構文([[Document Type Definition|DTD]])を規定していた。これによって、文書作成者は望むマークアップを、最も意図に近いものや母語で名前が付いているものなど、何でも作成し、利用することができた。それゆえ、SGMLは正しくは[[メタ言語]]であり、多くの具体的なマークアップ言語がそれから派生していった。1980年代から現在に至るまで、ほとんどの新しいマークアップ言語はSGMLに基づいたものであった。[[Text Encoding Initiative|TEI]]や{{lang|en|[[DocBook]]}}などがその例である。SGMLは[[1986年]]にISO 8879として国際標準になった。
SGMLは非常に大きな規模の文書を扱う現場で広く受け入れられ、利用された。しかしながら、一般的には覚えるのが煩わしくて難しいとみなされている。これは多彩すぎる機能と高すぎる柔軟性を実現した副作用である。複雑な仕様の例として、SGMLでは終了タグ(または開始タグかその両方)が文脈によって省略可能となっているが、これは過労気味の入力作業員がマークアップを手動で行うような場合にキーストロークの節約が望まれている、との配慮によるものである。
=== HTML ===
{{Main|HyperText Markup Language}}
[[画像:Html-source-code2.png|thumb|right|200px|HTMLのソースコード例]]
[[1991年]]になると、SGMLが商用のデータベース用途にしか使われない傾向が強くなってきた。一方、(文書をプロプライエタリなバイナリフォーマットで保存する){{lang|en|WYSIWYG}}ツールがその他の[[ワードプロセッサ|文書処理]]用途では受け入れられていた。
この状況が変化したのは、[[欧州原子核研究機構]]に在籍していた[[ティム・バーナーズ=リー]]が同僚のアンデルス・ベルクルントたちからSGMLの存在を知り、SGMLの構文を使って'''HTML'''を作ったときである。HTMLは他のSGMLベースのタグ言語とよく似ているが、よりシンプルなものとして誕生し、当初は形式的なDTDを持っていなかった。スティーブン・J・デローズ{{Efn|{{lang-en-short|Steven J. DeRose}}}}はHTMLによる意味マークアップの使用が、ウェブに柔軟性と拡張性をもたらし、その成功の有力な要因となったと主張している<ref>スティーブン・J・デローズ「{{lang|en|The SGML FAQ Book}}」クラワー・アカデミック出版、1997年。ISBN 0-7923-9943-9</ref>(その他の要因には[[ハイパーリンク]]の概念や[[ウェブブラウザ|ブラウザ]]の無料配布などがある)。
しかしながら、HTMLがマークアップ言語であるという事実については異論を唱える研究者もいる。その異論とは、HTMLはタグの配置を制限しており、タグに他のタグの内に入れ子になることと文書のルートタグになることの両方を要求している、というものである。このため、そのような研究者たちはHTMLは[[階層型データモデル]]に従う「コンテナ言語」ではないかと述べている。
=== XML ===
{{Main|Extensible Markup Language}}
もうひとつの、現在広く利用されているマークアップ言語は'''XML'''である。XMLは[[World Wide Web Consortium|W3C]]の、ジョン・ボサックが立ち上げ、議長を務めた委員会によって開発された。XMLの主目的は対象を[[インターネット]]上の文書に特化することで、SGMLを単純化したサブセットを作ることである<ref>https://www.w3.org/TR/2008/REC-xml-20081126/ Extensible Markup Language (XML)</ref>。XMLはSGMLと同じようにメタ言語である。また、利用者が必要な要素を追加したり、名前空間を使って[[複合文書]]を作ったりして拡張することが容易にできる。
名前空間などを用いないXML文書はSGML文書でもあるため、XMLへの乗り換えはそれほど困難でなく、既存のSGMLの利用者およびソフトウェアは比較的容易にXMLに移行することができた。XMLはSGMLの多くのより複雑な機能を省いており、学習や実装を容易にしている。他の改良点には、多言語環境でのSGMLの問題点を修正したことや、スキーマがない文書でも利用を可能にしたことなどがある。
XMLはそもそも文書や出版物などの半構造データのために設計されたものである。しかしながら、その単純さと柔軟性のバランスの良さから、他の用途でも急速に受け入れられていった。例えば、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]間でデータをやりとりするために利用されたり、アプリケーションの設定ファイルの構造として利用されたりもしている。
==== XHTML ====
{{Main|Extensible HyperText Markup Language}}
[[2000年]]の1月から、HTMLについてのすべてのW3C勧告は、SGMLではなくXMLに基づいたものになり、XML で HTML と等価のマークアップができる '''XHTML'''{{Efn|「{{lang|en|<u>Ex</u>tensible <u>H</u>yper<u>t</u>ext <u>M</u>arkup <u>L</u>anguage}}」の略。}} が制定された。
HTMLとXHTMLとの違いで顕著なもののひとつは、すべてのタグを閉じなければならないことである。<code><nowiki><br></nowiki></code>のような「空の」HTMLタグは「閉じる」必要がある。XHTML 1.0 勧告内の「{{lang|en|Appendix}}」の章にある「{{lang|en|HTML Compatibility Guidelines}}」<ref>https://www.w3.org/TR/2002/REC-xhtml1-20020801/#guidelines</ref>では、<code><nowiki><br /></nowiki></code>のように要素名の後に空白文字と斜線を入れて閉じる形を推奨している。ほかには、開始タグ内の属性値はすべて引用符で囲わなければならないという点がある。また、HTMLとは異なり、大文字と小文字は厳密に区別される。
== 他の用途での利用 ==
マークアップ言語のアイデアはテキスト文書に関するものとして生まれたが、[[ベクトル画像|ベクターグラフィックス]]、[[Webサービス|ウェブ・サービス]]、[[フィード|ウェブシンディケーション]]、[[セマンティック・ウェブ]]、[[グラフィカルユーザインターフェース|ユーザーインタフェース]]などの分野での利用も増えている。これらのほとんどはXMLのアプリケーションである。XMLを使用することで、複数のマークアップ言語を合成することが可能となる。例としては、[http://www.w3.org/TR/XHTMLplusSMIL/ XHTML+SMIL] や[http://www.w3.org/TR/XHTMLplusMathMLplusSVG/xhtml-math-svg.html XHTML+MathML+SVG]がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[コンピュータ言語]]
** [[データ記述言語]]
*** '''マークアップ言語'''
**** [[軽量マークアップ言語]]
* [[スタイルシート]]
* [[関心の分離]]
* {{lang|en|[[WYSIWYG]]}}
== 外部リンク ==
* [http://www.w3.org/ W3C]
* [http://www.iso.org/ ISO]
* [http://www.tei-c.org/Guidelines2/index.html TEI guidelines]
* [http://xml.coverpages.org/coombs.html Markup systems and the future of scholarly text processing] James H. Coombs, Allen H. Renear, and Steven J. DeRose
* [http://www.renater.fr/Video/2002ATHENS/P/DC/History/all.htm History of Markup Languages (Didier Courtaud)]
* [http://www.sgmlsource.com/history/roots.htm The Roots of SGML -- A Personal Recollection] (C)1996 Charles F. Goldfarb
{{マークアップ言語一覧}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まあくあつふけんこ}}
[[Category:マークアップ言語|*]]
[[Category:コンピュータ言語]] | 2003-04-24T03:42:36Z | 2023-10-16T15:14:15Z | false | false | false | [
"Template:読み仮名 ruby不使用",
"Template:TeX",
"Template:仮リンク",
"Template:Main",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:告知",
"Template:Reflist",
"Template:Efn",
"Template:Notelist",
"Template:Normdaten",
"Template:WikipediaPage",
"Template:Lang",
"Template:Tt",
"Template:読み仮名",
"Template:Seealso",
"Template:マークアップ言語一覧"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%97%E8%A8%80%E8%AA%9E |
7,194 | スティーブン・ピンカー | スティーブン・アーサー・ピンカー(英語: Steven Arthur Pinker、1954年9月18日 - )は、カナダ・モントリオール生まれのアメリカ合衆国の実験心理学者、認知心理学者。2009年現在はハーバード大学で心理学教授。近年は人類史・科学的根拠に基づいた啓蒙主義論客として知られる。
専門分野は視覚的認知能力と子供の言語能力の発達である。ノーム・チョムスキーの生成文法の影響を受け、脳機能としての言語能力や、言語獲得の問題について研究し著作を発表している。言語が自然選択によって形作られた「本能」あるいは生物学的適応であるという概念を大衆化したことでよく知られている。この点では言語能力が他の適応の副産物であると考えるチョムスキーやその他の人々と対立する。
The Language Instinct (1994年、邦訳『言語を生みだす本能』)、How the Mind Works (1997年、邦訳『心の仕組み』)、Words and Rules (2000年)、The Blank Slate (2002年、邦訳『人間の本性を考える』)、The Stuff of Thought (2007)は数多くの賞を受賞し、いずれもベストセラーになった。特に『心の仕組み』と『人間の本性を考える』はピューリツァー賞の最終候補になった。また、2004年には米タイム誌の「最も影響力のある100人」に選ばれた。2005年にはプロスペクト誌、フォーリンポリシー誌で「知識人トップ100人」のうち一人に選ばれた。
カナダの中流のユダヤ人の家に生まれた。父親は法律家として教育を受けたが、訪問販売員として働いていた。母親は最初は主婦、その後は学生指導カウンセラー、高校の副校長となった。子供時代は、「文化的ユダヤ人 cultural Jewish」であったという。のちに無神論に転向した。また子供の頃は、1969年に市民暴動と警察の衝突を目撃するまで、無政府主義者だった。
1973年にモントリオールのドーソン・カレッジを卒業した。1976年にマギル大学で実験心理学の学士を、1979年にハーバード大学で博士号を取得した。1年間マサチューセッツ工科大学で研究を行った後、ハーバードとスタンフォード大学で助教授となった。1982年から2003年までMITの脳・認知科学科で教え、その間に認知神経科学センターのセンター長になった。またこの時期の間に一年間カリフォルニア大学サンタバーバラ校(進化心理学研究の拠点の一つでもある)でサバティカルを送っている。
2005年1月に、数学と科学的能力の性差について発言をし多くの人々の怒りを買ったハーバードの学長ローレンス・サマーズを弁護した。2006年3月にはアメリカヒューマニスト協会から、人類の進化の理解の普及に対してヒューマニスト・オブザイヤー賞を受賞した。
弟妹がおり、弟はカナダ政府の政策アナリストである。妹スーザン・ピンカーは教育心理学者で作家である。1980年にナンシー・エトコフと結婚し1992年に離婚した。その後イラビニル・サビアと結婚し再び離婚した。現在の妻は哲学者、小説家レベッカ・ゴールドスタインである。
ピンカーは子どもがどのように言語を獲得するか、およびチョムスキーの生得的な心的能力としての言語の研究について大衆向けに書いた『言語を生みだす本能』でよく知られている。またピンカーは進化的に発達した言語モジュールを提案したが、この主張は目下議論が継続中である。さらに、彼は人間の多くの精神的構造が適応であると提案する。この点でチョムスキーとピンカーの立場は異なる。また進化に関する論争においてピンカーはダニエル・デネット、リチャード・ドーキンスの主要な同盟者である。
彼は、ヒトの精神を「我々の祖先が更新世に直面した問題を乗り越えるために専門化された、ひとそろいのツール(あるいはモジュール)を備えたアーミーナイフのようなものだ」と考える進化心理学の伝統に従っている。ピンカーと他の進化心理学者はこのツールが他の器官と同じように自然選択によって形作られたと考えている。ピンカーはこの視点を『心の仕組み』と『人間の本性を考える』で一般向けに論じた。『言語を生みだす本能』はジェフリー・サンプソンの『The 'Language Instinct' Debate』で批判された。マイケル・トマセロも有力な批判者の一人である。また彼の理論を支える生得主義の仮定はジェフリー・エルマンの『認知発達と生得性』で批判された。
ピンカーは、理性、科学、ヒューマニズム、進歩という啓蒙主義の理念を重視し、我々は啓蒙主義の恩恵を蒙りながら、そのことにあまりにも慣れてしまっているという。その一方で、マルクス主義やアナーキズム、環境運動などを批判する。
農業技術の進歩は、環境や伝統農業を破壊し、自然に反して、大企業に利益をもたらすだけだと環境運動家らによって攻撃されているが、こうした非難は、農業技術の進歩による飢饉の克服といった事実を見ようとしない不当なものだとピンカーはいう。人類は近代以前には数十年ごとに飢饉に襲われてきたが、1700年から2013年までの間に1日一人あたり供給カロリーは、先進国でも途上国でも、また富裕層だけでなく貧困層においても上昇し、また、栄養不足による子供の発育不全も、先進国でも貧困国においても減少した。20世紀なかばから70年間で世界の人口は50億人増加したにも関わらず、飢餓率は減少した。
20世紀末から21世紀にかけて、109の発展途上国のうち70ヵ国が所得倍増という高度成長を遂げ、2008年には一人当たりGDPの世界平均が、1964年の西欧のレベルに達した。しかも、富裕層が富裕になったというだけでなく、極貧も根絶されつつあり、世界全体に中流階級が広がっている。産業革命初期の1800年には世界人口の95%が極度の貧困に置かれていたが、2000年頃には30-40%に減少した。富は昔から金鉱脈のようにあるとみなされがちだが、紀元1年から1800年までは世界の豊かさ (世界総生産) は大差なかったのに対して、1820年から1900年までに世界の所得は3倍になり、21世紀現在には、1820年のほぼ100倍となった。つまり、富は増大し、貧困は減少したのであり、さらに、技術の進歩によって、衣服、医療、冷蔵庫、携帯電話、ウィキペディア、ノートパソコン、経口避妊薬などを現代人は利用できるようになっており、総生産の増大以上に人類は豊かになった。
世界の貧困からの脱出を可能にしたのは、
20世紀の飢饉によって7000万人が死亡したが、その80%は共産主義国家が強引にすすめた集団農場、懲罰的な没収、全体主義的な計画経済が原因であった。その実例としては、ロシア革命とその後の内戦および第二次世界大戦後のソ連の飢饉、ウクライナに対する計画的な大飢饉ホロドモール(1932-33)、毛沢東による大躍進政策(1958-61)、ポル・ポトによる圧政(1975-79)、1990年代の北朝鮮の大飢饉 (苦難の行軍)などがあり、20世紀の飢餓の最大要因は共産主義と政府の無策にあった。また、共産主義イデオロギーを採用した独立したアジア・アフリカ諸国が、大規模な集団農場化、自給自足を促すための輸入制限、食料品の価格統制などの政策を行ったことで、悲惨な結果を招いた。
ピンカーは、マルクス主義者は、自分が北朝鮮よりも韓国に、また、かつての東ドイツよりも西ドイツに住みたいと思う理由を説明する義務があるにもかかわらず、それをせずに、現実の歴史を無視していると批判する。
また、歴史上もっとも環境を汚染したのは資本主義国家ではなく共産主義国家であり、毛沢東は大製鉄・製鋼運動で、原始的な溶鉱炉で重工業化を目指したが、鉄としては使い物にならなかっただけでなく、経済生産高に比した二酸化炭素排出量が史上最大だった。
ピンカーは、知識人がマルクス主義を好むのは、計画経済では知識人がトップダウンで指導する特別な立場に就任できるが、市場経済では無数の人々の意思決定からボトムアップで富が生産されていくため知識人が経済を操作したりできる特別な役割がないからだと指摘する。無数の人々の情報伝達で自生的秩序が登場する「見えざる手」よりも、「階級闘争」や「政府による計画」といった解決策のほうが知識人にとっては理解しやすいのであるとピンカーはいう。
アナーキズム人類学者のデヴィッド・グレーバーとウェングローの『万物の黎明』では、狩猟採集民や古代人の生活は現代よりも危険で過酷であった、というピンカーやジャレド・ダイアモンドらを批判し、過去の世界の豊かさや平和さが強調されている。ピンカーは、マシュー・ホワイトも『殺戮の世界史』で述べるように、中国の軍閥時代やメキシコの内戦時代、17世紀ロシアの動乱時代では、政府が弱すぎたことが原因で大量の犠牲が発生したのであり、無政府状態では政府が存在する状態よりもずっと死者が増えやすいと反論する。
また、ルトガー・ブレグマンは『Humankind 希望の歴史』で、本来の人間は利他的で、平和な生き物であり、平和で協力的な社会を築くことは可能であるとし、ピンカーを「人間は利己的だとするイデオロギーをもたらした」と批判した。ピンカーは、ブレグマンのような議論は、戦争や虐殺や奴隷制などの暴力や搾取が長く続いた現実を説明できないし、「人間の本性は優しい」という考えは妄想でしかないし、「世界がこうあってほしい」という規範に関する主張のために、「世界はこうである」という事実に関する主張をする「道徳主義の誤謬」に落ちており、希望と事実を混同しているという。「人間の本性は平和で利他的である」という心地よい幻想は、人々は自発的に協力するので、法律や政府が必要なくなるとするアナーキズムと親和的であるが、実際に無政府状態だったアメリカの西部開拓時代、シチリア島やスコットランドのハイランド地方、中国の山岳地帯などでは、部族的な争いや血で血を洗う復讐が多発し、政府のある社会と無政府社会とを体系的に比較すれば、無政府社会の方が暴力の頻度が高いとピンカーは反論する。人間には、暴力的な本能が存在するが、人間はその本能を抑制することが可能であり、「本性であるから変えられない」といった運命論を述べてはいないとピンカーは反論する。 | [
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] | スティーブン・アーサー・ピンカーは、カナダ・モントリオール生まれのアメリカ合衆国の実験心理学者、認知心理学者。2009年現在はハーバード大学で心理学教授。近年は人類史・科学的根拠に基づいた啓蒙主義論客として知られる。 | {{脚注の不足|date=2018-09-18}}
{{Infobox scientist
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|caption = ピンカー(2011年撮影)
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|thesis_title = 心的イメージにおける三次元空間の表象(The Representation of Three-dimensional Space in Mental Images)
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|influences = [[ノーム・チョムスキー]], [[トマス・ソウェル]], [[レダ・コスミデス]], [[ジョン・トゥービー]], [[リチャード・ドーキンス]], [[トマス・シェリング]]<ref>C-SPAN | BookTV [http://www.c-spanvideo.org/program/282181-1 "In Depth with Steven Pinker"] November 2nd 2008</ref>
|prizes = [https://web.archive.org/web/20130126003831/http://www.nasonline.org/about-nas/awards/troland-research-awards.html トロランド賞] (1993, [[米国科学アカデミー]]),<br />ヘンリー・デール賞(2004, [[王立研究所]]),<br />ウォルター・P・キストラー著作賞 (2005),<br />年間ヒューマニスト賞 (2006, [[アメリカヒューマニスト協会]]),<br />ジョージ・ミラー賞 (2010, [[認知神経科学協会]]), [[リチャード・ドーキンス賞]] (2013)
|website = {{URL|https://www.stevenpinker.com/}}
| module = {{Listen| embed=yes |filename = Steven Pinker BBC Radio4 Desert Island Discs 30 June 2013 b0366xsb.flac
|title = スティーブン・ピンカーの声 |type = speech |description = BBCの番組『Desert Island Discs』(2013年6月30日)より<ref name="b0366xsb">{{Cite episode |title= Steven Pinker |series= Desert Island Discs |serieslink= Desert Island Discs |url= http://www.bbc.co.uk/programmes/b0366xsb |accessdate= 18 January 2014 |station= BBC Radio 4 |date= 30 June 2013 |season= |seriesno= |number= |transcript= |transcripturl= }}</ref> }}
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'''スティーブン・アーサー・ピンカー'''({{lang-en|'''Steven Arthur Pinker'''}}、[[1954年]][[9月18日]] - )は、[[カナダ]]・[[モントリオール]]生まれの[[アメリカ合衆国]]の[[実験心理学|実験心理学者]]、[[認知心理学|認知心理学者]]。[[2009年]]現在は[[ハーバード大学]]で[[心理学]]教授。近年は人類史・科学的根拠に基づいた啓蒙主義論客として知られる。
== 業績 ==
専門分野は視覚的認知能力と子供の言語能力の発達である。[[ノーム・チョムスキー]]の[[生成文法]]の影響を受け、[[脳]]機能としての[[言語|言語能力]]や、[[言語獲得]]の問題について研究し著作を発表している。言語が[[自然選択]]によって形作られた「[[本能]]」あるいは[[適応 (生物学)|生物学的適応]]であるという概念を大衆化したことでよく知られている。この点では言語能力が他の適応の副産物であると考えるチョムスキーやその他の人々と対立する。
The Language Instinct (1994年、邦訳『言語を生みだす本能』)、How the Mind Works (1997年、邦訳『心の仕組み』)、Words and Rules (2000年)、The Blank Slate (2002年、邦訳『人間の本性を考える』)、The Stuff of Thought (2007)は数多くの賞を受賞し、いずれもベストセラーになった。特に『心の仕組み』と『人間の本性を考える』は[[ピューリツァー賞]]の最終候補になった。また、[[2004年]]には米[[タイム (雑誌)|タイム]]誌の「最も影響力のある100人」に選ばれた。2005年にはプロスペクト誌、フォーリンポリシー誌で「知識人トップ100人」のうち一人に選ばれた。
== 経歴 ==
カナダの中流の[[ユダヤ人]]の家に生まれた。父親は法律家として教育を受けたが、訪問販売員として働いていた。母親は最初は主婦、その後は学生指導カウンセラー、高校の副校長となった。子供時代は、「[[文化的ユダヤ人]] [[:en:Jewish secularism|cultural Jewish]]」であったという。のちに[[無神論]]に転向した。また子供の頃は、1969年に市民暴動と警察の衝突を目撃するまで、[[無政府主義]]者だった。
1973年に[[モントリオール]]の[[ドーソン・カレッジ]]を卒業した。1976年に[[マギル大学]]で実験心理学の学士を、1979年にハーバード大学で博士号を取得した。1年間[[マサチューセッツ工科大学]]で研究を行った後、ハーバードと[[スタンフォード大学]]で助教授となった。1982年から2003年までMITの脳・認知科学科で教え、その間に認知神経科学センターのセンター長になった。またこの時期の間に一年間[[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]](進化心理学研究の拠点の一つでもある)で[[サバティカル]]を送っている。
2005年1月に、数学と科学的能力の性差について発言をし多くの人々の怒りを買ったハーバードの学長[[ローレンス・サマーズ]]を弁護した。2006年3月にはアメリカヒューマニスト協会から、人類の進化の理解の普及に対してヒューマニスト・オブザイヤー賞を受賞した。
弟妹がおり、弟はカナダ政府の政策アナリストである。妹スーザン・ピンカーは教育心理学者で作家である。1980年に[[ナンシー・エトコフ]]と結婚し1992年に離婚した。その後イラビニル・サビアと結婚し再び離婚した。現在の妻は哲学者、小説家レベッカ・ゴールドスタインである。
== 言語と心の理論 ==
ピンカーは子どもがどのように言語を獲得するか、およびチョムスキーの生得的な心的能力としての言語の研究について大衆向けに書いた『言語を生みだす本能』でよく知られている。またピンカーは進化的に発達した言語[[心のモジュール性|モジュール]]を提案したが、この主張は目下議論が継続中である。さらに、彼は人間の多くの精神的構造が適応であると提案する。この点でチョムスキーとピンカーの立場は異なる。また進化に関する論争においてピンカーは[[ダニエル・デネット]]、[[リチャード・ドーキンス]]の主要な同盟者である。
彼は、ヒトの精神を「我々の祖先が更新世に直面した問題を乗り越えるために専門化された、ひとそろいのツール(あるいは[[心のモジュール性|モジュール]])を備えたアーミーナイフのようなものだ」と考える進化心理学の伝統に従っている。ピンカーと他の進化心理学者はこのツールが他の器官と同じように自然選択によって形作られたと考えている。ピンカーはこの視点を『心の仕組み』と『人間の本性を考える』で一般向けに論じた。『言語を生みだす本能』はジェフリー・サンプソンの『The 'Language Instinct' Debate』で批判された。[[マイケル・トマセロ]]も有力な批判者の一人である。また彼の理論を支える生得主義の仮定は[[ジェフリー・エルマン]]の『認知発達と生得性』で批判された。
== 社会思想 ==
ピンカーは、[[理性]]、[[科学]]、[[ヒューマニズム]]、[[進歩]]という[[啓蒙主義]]の理念を重視し、我々は啓蒙主義の恩恵を蒙りながら、そのことにあまりにも慣れてしまっているという{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻27}}。その一方で、[[マルクス主義]]や[[アナーキズム]]、環境運動などを批判する。
=== 世界の貧困からの脱出 ===
[[農業技術]]の進歩は、[[環境]]や伝統農業を破壊し、自然に反して、大企業に利益をもたらすだけだと[[環境運動家]]らによって攻撃されているが、こうした非難は、農業技術の進歩による[[飢饉]]の克服といった事実を見ようとしない不当なものだとピンカーはいう{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻153-155}}。人類は近代以前には数十年ごとに飢饉に襲われてきたが、[[1700年]]から2013年までの間に1日一人あたり供給カロリーは、先進国でも途上国でも、また富裕層だけでなく貧困層においても上昇し、また、栄養不足による子供の発育不全も、先進国でも貧困国においても減少した{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻139-147}}。20世紀なかばから70年間で世界の人口は50億人増加したにも関わらず、飢餓率は減少した{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻139-147}}。
20世紀末から21世紀にかけて、109の[[発展途上国]]のうち70ヵ国が所得倍増という高度成長を遂げ、2008年には一人当たりGDPの世界平均が、[[1964年]]の西欧のレベルに達した{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻167-169}}。しかも、富裕層が富裕になったというだけでなく、極貧も根絶されつつあり、世界全体に中流階級が広がっている{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻167-169}}。[[産業革命]]初期の[[1800年]]には世界人口の95%が極度の貧困に置かれていたが、2000年頃には30-40%に減少した{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻167-169}}。富は昔から[[金]][[鉱脈]]のようにあるとみなされがちだが、紀元1年から1800年までは世界の豊かさ ([[GWP|世界総生産]]) は大差なかったのに対して、1820年から1900年までに世界の所得は3倍になり、21世紀現在には、1820年のほぼ100倍となった{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻157-161}}。つまり、富は増大し、貧困は減少したのであり、さらに、技術の進歩によって、衣服、医療、冷蔵庫、[[携帯電話]]、[[ウィキペディア]]、[[ノートパソコン]]、[[経口避妊薬]]などを現代人は利用できるようになっており、総生産の増大以上に人類は豊かになった{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻157-162}}。
世界の貧困からの脱出を可能にしたのは、
*1)科学の応用による物質的生活の向上
*2) [[モノ]]と[[サービス]]と[[アイデア]]の交換を促進する制度の構築 - 18世紀イギリスで縁故主義から開かれた経済に置き換えられ、誰とでも取引できるようになり、その取引を、法規、財産権、法的強制力のある契約、銀行といった、個人的つながりではない、信任義務に基づいた制度が人々の経済行動を支えるようになった{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻163-166}}。
*3) [[商業]]精神の評価 - 貴族・宗教・軍事文化においては商業は下品で腐敗したものとみなされていたが、18世紀のイギリスとオランダや啓蒙思想において商業精神は、派閥間・宗派間の憎悪を克服する力があるとみなされるようになった。啓蒙主義は、「どうしたら救われるのか」という問いを、「どうしたら幸せになるのか」という現実的な問いに置き換えたとピンカーは指摘する{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻163-166}}。
=== マルクス主義批判 ===
{{Seealso|マルクス主義批判|マルクス経済学への批判}}
20世紀の[[飢饉]]によって7000万人が死亡したが、その80%は共産主義国家が強引にすすめた集団農場、懲罰的な没収、全体主義的な計画経済が原因であった{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻155-156}}。その実例としては、ロシア革命とその後の内戦および第二次世界大戦後のソ連の飢饉、[[ウクライナ]]に対する計画的な大飢饉[[ホロドモール]](1932-33)、[[毛沢東]]による[[大躍進政策]](1958-61)、[[ポル・ポト]]による圧政(1975-79)、[[苦難の行軍|1990年代の北朝鮮の大飢饉 (苦難の行軍)]]などがあり、20世紀の飢餓の最大要因は共産主義と政府の無策にあった{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻155-156}}。また、共産主義イデオロギーを採用した独立した[[アジア・アフリカ諸国の独立年表|アジア・アフリカ諸国]]が、大規模な集団農場化、自給自足を促すための輸入制限、食料品の価格統制などの政策を行ったことで、悲惨な結果を招いた{{Sfn| ピンカー | 2019 | p=上巻155-156}}。
ピンカーは、マルクス主義者は、自分が[[北朝鮮]]よりも[[韓国]]に、また、かつての[[東ドイツ]]よりも[[西ドイツ]]に住みたいと思う理由を説明する義務があるにもかかわらず、それをせずに、現実の歴史を無視していると批判する<ref name="Pin-gen">スティーブン・ピンカー、ベンジャミン・クリッツァー「[https://gendai.media/articles/-/102389?imp=0 【独占インタビュー】スティーブン・ピンカーが語った「マルクス主義とアナーキズムの何が間違っているのか」]」、2022.11.25 現代ビジネス、講談社</ref>。
また、歴史上もっとも環境を汚染したのは資本主義国家ではなく共産主義国家であり、[[毛沢東]]は[[大躍進政策#大製鉄・製鋼運動|大製鉄・製鋼運動]]で、原始的な溶鉱炉で重工業化を目指したが、鉄としては使い物にならなかっただけでなく、経済生産高に比した二酸化炭素排出量が史上最大だった<ref name="Pin-gen"/>{{Refnest|group="注"|2019年でも中国の二酸化炭素排出量は世界最大である。2019年の二酸化炭素排出量は、世界の排出量合計約335億トンのうち、1位は中国の98億8200万トンで全体の29.5%を占め、2位は米国の47億4400万トンで全体の14.1%、3位はインドの23億1000万トンで全体の6.9%、4位はロシアで16億3200万トンで全体の4.9%、5位は日本で10億5900万トンで全体の3.2%、6位はドイツで6億4400万トンで全体の1.9%だった<ref>[https://www.jccca.org/global-warming/knowleadge04 データで見る温室効果ガス排出量(世界)]全国地球温暖化防止活動推進センター(JCCCA)</ref>}}。
ピンカーは、[[知識人]]がマルクス主義を好むのは、[[計画経済]]では知識人が[[トップダウン]]で指導する特別な立場に就任できるが、[[市場経済]]では無数の人々の意思決定から[[ボトムアップ]]で富が生産されていくため知識人が経済を操作したりできる特別な役割がないからだと指摘する<ref name="Pin-gen"/>。無数の人々の情報伝達で自生的秩序が登場する「[[見えざる手]]」よりも、「[[階級闘争]]」や「政府による計画」といった解決策のほうが知識人にとっては理解しやすいのであるとピンカーはいう<ref name="Pin-gen"/>。
=== アナーキズム批判 ===
[[アナーキズム]]人類学者の[[デヴィッド・グレーバー]]とウェングローの『万物の黎明』では、狩猟採集民や古代人の生活は現代よりも危険で過酷であった、というピンカーや[[ジャレド・ダイアモンド]]らを批判し、過去の世界の豊かさや平和さが強調されている<ref name="Pin-gen"/>。ピンカーは、マシュー・ホワイトも『殺戮の世界史』で述べるように、中国の軍閥時代やメキシコの内戦時代、17世紀ロシアの動乱時代では、政府が弱すぎたことが原因で大量の犠牲が発生したのであり、無政府状態では政府が存在する状態よりもずっと死者が増えやすいと反論する<ref name="Pin-gen"/>{{Refnest|group="注"|心理学者・人類学者のデニス・ジャンクも、グレーバーらの主張は科学的・客観的な学問的知見に裏付けされておらず、政治的意図に基づくものである、と批判している<ref>Dennis J. Junk, ‘[https://quillette.com/2022/10/22/the-dawn-of-everything-and-the-politics-of-human-prehistory/ The Dawn of Everything’ and the Politics of Human Prehistory],22 Oct 2022,Quillette.</ref><ref name="Pin-gen"/>}}。
また、ルトガー・ブレグマンは『Humankind 希望の歴史』で、本来の人間は利他的で、平和な生き物であり、平和で協力的な社会を築くことは可能であるとし、ピンカーを「人間は利己的だとする[[イデオロギー]]をもたらした」と批判した<ref name="Pin-gen"/>。ピンカーは、ブレグマンのような議論は、戦争や虐殺や奴隷制などの暴力や搾取が長く続いた現実を説明できないし、「人間の本性は優しい」という考えは[[妄想]]でしかないし、「世界がこうあってほしい」という[[規範]]に関する主張のために、「世界はこうである」という[[事実]]に関する主張をする「道徳主義の誤謬」に落ちており、希望と事実を混同しているという<ref name="Pin-gen"/>。「人間の本性は平和で利他的である」という心地よい幻想は、人々は自発的に協力するので、法律や政府が必要なくなるとするアナーキズムと親和的であるが、実際に無政府状態だったアメリカの西部開拓時代、[[シチリア島]]や[[スコットランド]]の[[ハイランド地方]]、中国の山岳地帯などでは、部族的な争いや血で血を洗う復讐が多発し、政府のある社会と無政府社会とを体系的に比較すれば、無政府社会の方が暴力の頻度が高いとピンカーは反論する<ref name="Pin-gen"/>。人間には、暴力的な本能が存在するが、人間はその本能を抑制することが可能であり、「本性であるから変えられない」といった運命論を述べてはいないとピンカーは反論する<ref name="Pin-gen"/>。
== 著書 ==
=== 単著 ===
* ''Language Learnability and Language Development'' (1984)
* ''Visual Cognition'' (1985)
* ''Connections and Symbols'' (1988)
* ''Learnability and Cognition: The Acquisition of Argument Structure'' (1989)
* ''Lexical and Conceptual Semantics'' (1992)
* ''[[The Language Instinct]]'' (1994)
** [[椋田直子]]訳『言語を生みだす本能 (上下)』[[日本放送出版協会]]〈[[NHKブックス]]〉、1995年
* ''[[How the Mind Works]]'' (1997)
** 椋田直子・[[山下篤子]]訳『心の仕組み――人間関係にどう関わるか(上中下)』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2003年
***新版『心の仕組み(上下)』[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2013年
* ''[[Words and Rules|Words and Rules: The Ingredients of Language]]'' (1999)
* ''[[The Blank Slate|The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature]]'' (2002)
** 山下篤子訳『人間の本性を考える――心は「空白の石版」か(上中下)』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2004年
* ''The Best American Science and Nature Writing'' (editor and introduction author, 2004)
* ''Hotheads'' (an extract from ''How the Mind Works'', 2005) ISBN 978-0-14-102238-3
* ''[[The Stuff of Thought|The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature]]'' (2007)
** [[幾島幸子]]・桜内篤子訳『思考する言語 ――「ことばの意味」から人間性に迫る(上中下)』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2009年
* ''[[The Better Angels of Our Nature|The Better Angels of Our Nature: Why Violence Has Declined]]'' (2011)
** 幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史(上下)』[[青土社]]、2015年
* ''Language, Cognition, and Human Nature: Selected Articles'' (2013)
* ''The Sense of Style: The Thinking Person's Guide to Writing in the 21st Century'' (September 30, 2014)
* ''Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress'' (February 13, 2018)
** 橘明美・坂田雪子訳『21世紀の啓蒙 ――理性、科学、ヒューマニズム、進歩(上下)』[[草思社]]、2019年/草思社文庫、2023年
* ''Rationality: What It Is, Why It Seems Scarce, Why It Matters'' (September 28, 2021)
** 橘明美訳『人はどこまで合理的か(上下)』草思社、2022年
=== 論文・エッセイ ===
* [http://pinker.wjh.harvard.edu/articles/ Selective compilation of articles and other works, hosted at Harvard faculty pages]
* {{cite journal | doi = 10.1126/science.1857983 | last1 = Pinker | first1 = S. | year = 1991 | title = Rules of Language | url = | journal = [[Science (journal)|Science]] | volume = 253 | issue = 5019| pages = 530–535 | pmid=1857983}}
* {{cite journal | last1 = Ullman | first1 = M. | last2 = Corkin | first2 = S. | last3 = Coppola | first3 = M. | last4 = Hickok | first4 = G. | last5 = Growdon | first5 = J. H. | last6 = Koroshetz | first6 = W. J. | last7 = Pinker | first7 = S. | year = 1997 | title = A neural dissociation within language: Evidence that the mental dictionary is part of declarative memory, and that grammatical rules are processed by the procedural system | url = | journal = [[Journal of Cognitive Neuroscience]] | volume = 9 | issue = | pages = 289–299 }}
* Pinker, S. (2003) "Language as an adaptation to the cognitive niche" In M. Christiansen & S. Kirby (Eds.), ''Language evolution: States of the Art'' New York: Oxford University Press.
** 野村泰幸訳「認知的ニッチへの適応としての言語」、ナターリア・L・コマーロヴァ、ジェームズ・R・ハーフォード、マーティン・A・ノヴァク共著、野村泰幸編訳『言語進化とはなにか――ことばが生物学と出会うとき』大学教育出版、2006年、所収。
* {{cite journal | doi = 10.1111/j.0268-1064.2005.00274.x | last1 = Pinker | first1 = S. | year = 2005 | title = So How Does the Mind Work? | url = | journal = [[Mind & Language|Mind and Language]] | volume = 20 | issue = 1| pages = 1–24 }}
* {{cite journal | doi = 10.1016/j.cognition.2005.04.006 | last1 = Jackendoff | first1 = R. | last2 = Pinker | first2 = S. | year = 2005 | title = The nature of the language faculty and its implications for evolution of language" (Reply to Fitch, Hauser, & Chomsky) | url = | journal = Cognition | volume = 97 | issue = 2| pages = 211–225 }}
* [http://old.richarddawkins.net/articles/1449,Steven-Pinker) Pinker, S. (2007), "In Defense of Dangerous Ideas" ''Chicago Sun-Times'', July 15, 2007]
* Pinker, S. (2012). [http://edge.org/conversation/the-false-allure-of-group-selection "The False Allure of Group Selection"]. ''Edge'', Jun 19, 2012.
* Pinker, S. (2013). [http://www.newrepublic.com/article/114127/science-not-enemy-humanities Science Is Not Your Enemy]. ''New Republic'', Aug 6, 2013.
* Pinker, S. (2014). [http://www.newrepublic.com/article/119321/harvard-ivy-league-should-judge-students-standardized-tests "The Trouble With Harvard: The Ivy League is broken and only standardized tests can fix it"]. ''New Republic'', Sep 4, 2014.
== 脚注 ==
{{Reflist|33em}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
== 関連項目 ==
* [[生得論]]
* [[心の理論]]
* [[心の計算理論]]
* [[ハーバード大学の人物一覧]]
== 参考資料 ==
* 「世界の知性が語る21世紀」(S.グリフィスス 編/渡辺政隆・松下展子 訳/[[岩波書店]] (ISBN 4-00-023620-2) / [[2000年]][[11月]])
* {{Citation| last = ピンカー | first = スティーブン |authorlink= スティーブン・ピンカー| year = 2019 | title =21世紀の啓蒙 — 理性、科学、ヒューマニズム、進歩 (原著2018) |translator=橘明美、坂田雪子 | publisher = 草思社}}
== 外部リンク ==
{{wikiquotelang|en|Steven Pinker|スティーブン・ピンカー}}
{{commonscat|Steven Pinker}}
* {{Official website|https://stevenpinker.com/}}
* {{C-SPAN|Steven Pinker}}
* {{Goodreads author|3915.Steven_Pinker}}
=== インタビュー ===
* [https://7thavenueproject.com/post/89583301445/steven-pinker-interview-why-violence-has-declined 7th Avenue interview on "Better Angels"], 2014
* [https://www.reitstoen.com/pinker.php Steven Pinker Multimedia] audio and video files
* [https://mosaicscience.com/story/conversation-with%e2%80%a6-steven-pinker/ Mosaic Science (Wellcome) interview]
=== 講演映像 ===
* {{TED speaker|steven_pinker}}
* [http://richannel.org/steven-pinker-the-better-angels-of-our-nature The Better Angels of our Nature], [[Royal Institution]], November 2011
* [http://richannel.org/linguistics-style-and-writing-in-the-21st-century Linguistics, Style and Writing in the 21st Century: With Steven Pinker], [[Royal Institution]], October 2015
** [http://richannel.org/qampa--linguistics-style-and-writing Q&A – Linguistics, style and writing with Steven Pinker], [[Royal Institution]], October 2015
=== 討論 ===
* [https://www.edge.org/3rd_culture/pinker_rose/pinker_rose_p1.html The Two Steves] Debate with neurobiologist [[Steven Rose]]
* [https://www.edge.org/3rd_culture/debate05/debate05_index.html The Science of Gender and Science] Debate with cognitive psychologist [[Elizabeth Spelke]] ([https://www.youtube.com/watch?v=-Hb3oe7-PJ8 Video of the debate on YouTube])
* [https://iai.tv/video/the-decline-of-violence The Decline of Violence] Debate with economist Judith Marquand, [[British Humanist Association|BHA]] chief executive [[Andrew Copson]] and BBC broadcaster Roger Bolton
{{進化心理学}}{{Normdaten}}
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[[Category:アメリカ合衆国の心理学者]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC |
7,197 | GPS (曖昧さ回避) | GPS | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "GPS",
"title": null
}
] | GPS | '''GPS'''
== 測位システム ==
* [[グローバル・ポジショニング・システム]] (GPS: Global Positioning System) - [[アメリカ軍]]によって運用される全地球[[衛星測位システム]]。
* 以下のものの、代名詞的用法、あるいは誤用としての"GPS”。
** [[衛星測位システム]]、衛星航法システム (NSS: Navigation Satellite System)
*** 全地球[[衛星測位システム]]、全地球衛星航法システム (GNSS: Global NSS)
**** [[グローバル・ポジショニング・システム]](GPS)
**** GPS以外のシステム ([[GLONASS]]、[[ガリレオ (測位システム)|ガリレオ]]、[[北斗 (衛星測位システム)|北斗/Compass]]、[[準天頂衛星システム|みちびき]]、[[インド地域航法衛星システム|NavIC]]など)
** GPS受信機、NSS(GNSS)受信機のこと - 単に"GPS"と呼ぶ場合がある。
*** [[カーナビゲーション]]、[[ハンドヘルドGPS]]、[[PND]] - 単に"GPS"と呼ぶ場合がある。
* GPS/GNSSにより決定された高精度の地理座標、位置情報の事で、一般には緯度・経度。地表面上の誤差は[[メートル]]単位から[[センチメートル|cm]]単位まで。これを指して「GPS情報」と言う場合もある。
== その他 ==
* [[General Problem Solver]] - 任意の形式化された記号問題を解くことが可能な、汎用の問題解決のためのプログラム。
* [[製図#製図の一般的な規格|製品の幾何特性仕様]] (Geometrical Product Specifications) - 形状、姿勢、位置及び振れ等の表示方法や定義を体系化した標準規格([[ISO]]や[[JIS]])。
* [[ギャップ (企業)]] - 同社の[[ニューヨーク証券取引所]]での[[ティッカーシンボル]]。
* [[GLOBAL PIMP SYSTEM]] - 神奈川県横須賀市にある自転車店。
* [[GPS将棋]] - 東京大学大学院総合文化研究科が開発した将棋プログラム。名称は、Game Programming Seminarから。
* [[GPS (バンド)]] - ジョン・ペイン、[[ガスリー・ゴーヴァン]]、[[ジェイ・シェレン]]による[[プログレッシブ・ロック]]・グループ。名称は、3人のイニシャル(Govan、Payne、Schellen)から。
* [[Global Proficiency Skills program]]。[[ベネッセ]]が開発した、「問題を解決する力」の現状を「思考力」「姿勢・態度」「経験」の観点で確認する[[アセスメント]]で、生徒・学生用のGPS-Academic と、社会人用のGPS-Businessがある。汎用的能力を客観的に測定する。
== 関連項目 ==
* {{Prefix|GPS}}
{{Aimai}}
[[Category:頭字語]] | null | 2021-04-16T01:38:55Z | true | false | false | [
"Template:Prefix",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/GPS_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
7,201 | DTP | DTP(Desktop publishing、デスクトップ・パブリッシング)とは、日本語で卓上出版(「机上出版」とされていた時期もあったが「きじょう」を読めない層が情報伝達に関わった故の変化)を意味し、書籍、新聞などの編集に際して行う割り付けなどの作業をパソコン上で行い、プリンターで出力を行うこと。
"Desktop publishing" の言葉は、そのさきがけとなったページレイアウトソフト「PageMaker」の販売開始にあたって、Aldus社(アルダス)の社長ポール・ブレイナードが1985年に提唱した言葉である。
商用印刷においてかつては版下の制作から印刷まで様々な工程に分かれていた作業が、DTPの登場によりパソコン1台で行えるようになり、簡単・迅速・省コストになった。また、家庭やオフィスにおいてもパソコンとプリンターを使って同様のことができるようになった。
市販のパソコンに最初から入っているワープロソフトでも簡易的なDTP機能を備えており、ある程度のデザイン制作ができる。より高度で細かいレイアウト制御やデザイン要素を組み込み、商用印刷に適した仕様の印刷データを制作する際には専用のDTPソフトを使うのが一般的である。
DTP制作を行うパソコンとしては歴史的にMacが多く利用されてきたが、これはMacintosh用ソフトとしてPageMakerが発売された1985年当時においてMacintoshだけが唯一の実用的なWYSIWYGを実現したシステムを持っており、その後の時代においてもしばらくはハードウェアやアプリケーションソフトウェアの機能面でMacintosh版が先行し充実していたことと、それにまつわる規格のデファクトスタンダード面で有利を得ていたのが理由である。業界で使われる主流のDTPソフトがPageMakerからQuark,_Inc.社のQuarkXPress、2000年代にAdobe(アドビ)社のAdobe InDesignへと移り変わってWindowsにおいても同様の環境が整ってきた2010年代にはそこにこだわらない向きもありつつも、大きくは変わっていない。
DTPが登場する以前、1970年代から1990年代にかけて使われていた業務用の電算写植システムにはUNIX上で動作していたものも多いが、DTPで制作する現場ではそれらにUNIXやLinuxが使われることはほぼない。また、一般のビジネス用途パソコンとしてはデファクトスタンダードとなっているWindowsもDTP制作現場ではあまり使われず、Macが主流である(WindowsやLinux用の制作ソフトもある)。
なお、当初「DTP」という呼称については紛らわしい場面もあった。印刷所における印刷工程は「プリプレス(印刷前の組版、製版など)」「プレス(印刷、本刷り)」「ポストプレス(印刷後の加工・製本など)」の三つの工程に分かれている。DTPの登場初期において、このうちのプリプレス工程をパソコン制作で置き換えたことを「デスクトップ・プリプレス」 (Desktop prepress) と呼んでおり、それを指して「DTP」と呼ぶことがあった(本項の意味のDTPと区別するために「DTPr」「DTPR」と呼ぶことも)。やがてDTPソフトでの組版・版下制作が普及しプリプレス工程をパソコンで行うことが普通になると「デスクトップ・プリプレス」の意はなくなった。
業務用の出版物において、かつては熟練の職工が活字を組む作業が出版業界では一般であったが、コンピュータの出現と普及と共にその作業を電子化する試みが模索されるようになった。1970年代にはいくつかの会社によって業務用の電算写植システムが開発され、アメリカにおいてはAtex社が有名となり、新聞社や大手出版社などに採用されていた。
また、1978年にはレイアウトに関する命令を記述したタグを用いる組版ソフトとしてTeXが開発され、コンピュータ上で印刷原稿の編集作業を行う環境が実現されたが、これはDTPと呼ぶものではなかった。これらのシステムとDTPとの最大の違いはWYSIWYG(逐次出来上がった組版を確認)がないことである。WYSIWYGがない状態では作業の結果の確認を出力(あるいはプレビュー)といった形の工程によってしか実現できなかった(ちなみにTeXでWYSIWYGができるソフトにGNU TeXmacsなどがあるが、日本語の扱いが完全ではないために一般普及化はしていない)。
WYSIWYGを不完全ながら最初に実現したのは1970年代のゼロックスのパロアルト研究所で、その成果は1981年にXerox Starワークステーションとして市販化された。
比較的単純な印字物としてタイプ原稿を作成する環境としては1980年代以前の欧米ではタイプライターが一般的に用いられていた。1984年1月、WYSIWYG(パソコンの画面に表示されたものとプリンターで印刷したものが同じ)を実現したアップル純正ワープロソフトであるMacWriteを標準搭載したパソコンのMacintosh(初代Mac)がApple Computer, Inc.より発売され、さらに1985年1月にMicrosoft社からMacintosh版のMicrosoft Wordが発売されると、そうした文書制作の環境がパソコン+ワープロソフトという形に置き換わり「Macをタイプライターとして使う」ことが一般的に行われるようになっていった。
1984年、Atexの社員であったポール・ブレイナードがAtexを辞めてアルダスを創業する。1985年にアルダスがMacintosh用ソフトとしてPageMakerを発売するにあたってはMicrosoft Wordとの差別化のために「Macはタイプライターではない」ことを示す必要があった。そのためのマーケティング用語としてブレイナードが打ち出したのが「デスクトップ・パブリッシング」である。Apple、アドビ、アルダスなどのメーカーが一堂に会した1985年1月のAppleの株主総会において発表された。
PageMakerと競合するソフトの中でも特にMicrosoft Wordは高度なWYSIWYGを実現し、さらにApple純正プリンターのLaserWriterに対応するなどDTPに相当する機能を多少は持っていたので、Macintosh用ワープロソフトとして1985年当時はデファクトスタンダードと呼ばれるほど売れたが、PageMakerは優れたレイアウト機能と「MacとPageMakerがあれば業務用の高価な電算写植システムを置き換えることが可能」だと掲げることで、Microsoft Wordのような単なる文書編集ソフトではないことを示すマーケティングを行った。
DTPの発祥はアメリカ合衆国である。現在のDTPの萌芽はアメリカの3つの企業で生まれた。
1984年1月、Appleから初代Macintoshが発売される。プラットフォームとして様々な周辺機器やソフトウェアが生み出された。ただし初期のMacintoshは本格的なDTPを行うにはスペックが厳しく、プロユースでDTPが急拡大するのは1987年発売のMacintosh II頃からである。
1985年5月、Apple純正のレーザープリンターであるApple LaserWriterが発売される。このプリンターはアドビの開発したページ記述言語・PostScript技術を用いた「Adobe PostScriptフォント」がROMに組み込まれており、これによって画面に表示されているものをそのままに印刷することが可能となる「WYSIWYG」を実現したほか、プリンターにPostScriptフォントを搭載している限りはコンピュータとプリンターの組み合わせが変わっても出力結果を維持するという「デバイスインディペンデント」(使用機器に依存しない)な性質を実現していた。
1985年7月、Macintoshプラットフォームにおける最初の実用的なDTPアプリケーションとなるアルダスのPageMakerが発売される。これによってDTP環境が実現された。
プラットフォームを作り出したアップル、ページ記述言語を生み出したアドビ、そして実用的なアプリケーションを世に送り出したアルダスによってDTPはそのスタートを切った。この3社の頭文字を取って、これを『3A宣言』という。
なお、1980年代の出版・印刷業界におけるDTPのデファクトスタンダードであったAldus Pagemakerは、1990年代には機能がより豊富なQuarkXPress 3.3(1992年発売)にシェアを急速に奪われていった。その後アルダスはアドビに買収されPageMakerはアドビ製品として販売されることとなったが、1996年発売のQuarkXPress 4.0にもシェアを奪われ続ける一方であった。アドビは「Quarkキラー」として新たにInDesignを開発し1999年に発売、PageMakerは2001年発売のバージョン7.0をもって開発が終了した。
PostScript(PS)フォントは基本的に、プリンターにインストールするプリンターアウトラインフォントと作業に用いるコンピュータ(編集機)にインストールする画面表示用ビットマップフォントの2種類から構成され、これが同期して働くことによって確実かつ高速な動作を果たしている。
これに対してTrueType(TT)フォントはプリンターフォントを持たず、編集機からプリンターに各文字の形状の情報を送って印刷する仕様であったため、DTP勃興当時のコンピュータには処理が重すぎるという欠点も抱えていた。
アウトラインフォントは文字の形に関する情報を持っているだけなのでそのままでは印字に用いることができず、文字の輪郭の内側を「塗りつぶした」面状態のデータに変換する必要があり、これをラスタライズという。編集機側でラスタライズするTTフォントの場合、プリントアウトしている間の編集機はこの処理のために拘束されることになる。それに対してPSフォントの場合はラスタライズをPSプリンター側でおこなうため、文字の種類・サイズと位置などのレイアウト情報(実際には画像などの情報が入るため、より複雑だが)をプリンターに送信し終えた時点で編集機はプリントアウト処理から開放される。
ただし画面表示がビットマップフォントであることから、そのフォントにあらかじめ用意された表示サイズ以外の大きさの文字は画面上でドットの粗いギザギザの状態で表示されるため、これは真の意味でWYSIWYGとは言えなかった。そのため開発されたのがAdobe Type Manager(ATM)で、ATM専用版フォントを編集機側にインストールすることでビットマップフォントに代わってアウトライン表示を行うことができるようになった。コンピュータの処理能力の向上や技術の進展により、その後開発・採用されたOpenTypeフォントはプリンターフォントを持たず、ダイナミックダウンロード(字形も含めて編集機から送信する)する仕様になっている。
発祥の地アメリカでは瞬く間にDTP革命が進行し、活版の印刷所を駆逐していった。Mac以外のパソコンでもDTPソフトが盛んにリリースされ、例えば有名なものとして1986年にはMS-DOSを搭載したパソコンでDTPを可能にするGEMベースのVentura Publisher(後のCorel Ventura、現在のCorelDRAW)なども発売されている。1987年には大型カラーマルチモニタディスプレイやSCSIストレージインターフェイスをサポートするなどDTP向けの拡張機能を搭載したMacintosh IIが発売され、DTP界隈におけるMacの優位性が確立した。
日本では事情は異なり、急速な普及や変化には難しい部分があった。ASCIIコードだけで書籍組版ができる1バイト言語の英語とは違い、日本語は多数の漢字を抱えるマルチバイト言語であることが大きな理由のひとつとしてあげられる。当時のデスクトップマシンの処理能力や記憶容量では多数の2バイトフォントを搭載して自由自在に組版するというわけにはいかなかった。
多数の漢字を抱える日本語ではフォント1書体あたりのデータ量が多いことなどもあり、DTP黎明期においてはかつての活字や初期の写真植字が事実上そうであったのと同様に、明朝体とゴシック体それぞれ1書体しか使えなかった。また、その価格も極めて高額であった。しかし一方で、文字通り机上で実際の仕上がりに近いものが確認できることからグラフィックデザイナーなどの間で支持され、地歩を固めていった。
この2書体はモリサワのリュウミンL-KLと中ゴシックBBBである。これが同社の投入した、そして日本で最初の和文PostScriptフォントであった。アドビと提携しDTP向けフォントの開発・販売にいち早く参入、漢字Talk 7.1へのバンドル提供などからモリサワは和文フォントのトップベンダーとなっていく。
かつての日本国内の出版・印刷業界において1990年代初めまでAldus PageMakerと勢力が拮抗していたQuarkXPress 3.31Jが、1990年代中頃から事実上の標準(デファクトスタンダード)となった。「Macintosh|Macで組む」という言葉は「QuarkXPressで組む」という意味であることが多かった。前述の通り、最初に発売され利用が進んでいたのはPageMakerであったが、QuarkXPressは早い段階でカラー対応を果たしたほか、扱いやすい操作性と軽快な動作などが受け入れられ、価格(最も普及した日本語版3.31は約20万円と、印刷業界プロ向けソフトとしては安価)と相まって業界を席巻していった。
Macintoshによる組版は仕上がりをその場で確認できることや、ぎりぎりまでデータ修正が可能なことなどのアドバンテージを持っていたが、上述したように当初は扱える書体が少なかった。だが活字・写植機向けに書体を開発していたベンダーや、あるいはDTP時代から書体開発を始めた新興勢力が次々と参入し、和文PostScriptフォントのラインナップを豊富なものにしていった。
そしてMacintosh対応のイメージセッターの発展や、印刷会社、あるいは製版専門の会社などにおいて対応されたことで足場が整い、デザイン現場での普及、また制作コストを下げたいという出版社の需要の中で次第にDTPへの移行が進んでいった。
前述したWYSIWYGとも関連するが、カラー対応とその後の進化においてDTPを普及させたもののひとつに、カラーマネージメント(色の管理)がある。
ディスプレイ画面に出力される色彩と、プリンター出力の色彩、そして最終的な印刷物の色彩に整合性を持たせることは極めて困難なことであった。第一にはそれらの出力機器の原理が異なっているためである。作業するためのディスプレイ画面(CRT、LCD)表示はRGBカラーであり、校正のために使用するプリンターは(レーザーの場合)CMYKカラーのトナー(粉末)、最終的な完成品となる印刷機はCMYK(さらに特色を使用することも少なくない)のインクであるからカラーマネージメントはDTPにおいてとても重要なものである。
また、同じ原理で動作している装置であっても、メーカーごと、あるいは個体差、経年変化、湿度や温度(気温、機械内の温度)によって出力結果は異なる。これを解消するために用いられているのが、ウィリアム・シュライバーの開発した色管理システムで、1985年に成立したシュライバー特許により、その後のカラープロファイル技術は支えられている。
MacにおいてはAppleのColorSync技術により優れたカラーマネージメントが行えたことで優位性があった。
和文PostScriptフォントは、当初OCFと呼ばれる形式のものが販売され、普及していった。OCFは少ない文字数しか扱えないフォーマットのフォントをいくつも積み重ねて多数の文字を扱えるようにした規格であった。その後データ構造を簡略化したCIDフォントが登場し、フォントベンダーはこちらへの置き換えを推奨していくことになる。しかしフォントは高価な資産であり簡単にリプレースがしにくいこと、また互換性においての問題などもあり、OCFフォントが根強く使用されている時代も長かった。CIDフォントののちにOpenType(OTF)が発売され、以後はこちらが主流となっていく。
WindowsのDTPではTrueTypeフォントが使われることが多かった。スプライン曲線を使うTrueTypeはベジェ曲線を使うPostScriptフォントに比べ多彩な曲線の表現において見劣りがした点や、無数のTrueTypeフォントが乱立し有力なフォントベンダーが出現しなかったこと(これによりデータの標準化が困難となる)など様々な要因で普及は進まなかった。
しかし顧客の要望で「Microsoft Wordで作成したビジネス文書を印刷する」というものが発生した場合、印刷会社は対応しなくてはいけないこともあり、そうした中でWindows向けDTPソフトも次第に充実していった。ただし、Mac版と同じアプリケーションでも完全な互換性が確保できず、Windows版で作ったデータをMacintosh版で開くと文字がずれているなどの不具合が出ることもあった。特に日本ではフォントの問題が係わり、WindowsとMacintoshでは採用している文字セットが異なるため、特に英数字や外字において互換性を完全に維持することができなかった。また、横組みでは問題なくとも縦組みの箇所のみ画面表示に問題がある、などの例もあった。
和文フォントのトップベンダーとなっていたモリサワからはViewフォントと呼ばれる、Windows上で組版をする際に同社のPostScriptフォントを指定できるフォントが販売されて一定の支持を受けていたが、英数字などの互換性がないという問題があった。
しかし昨今においては、OpenTypeフォントとそれに対応したレイアウトソフトの登場によって状況が変化している。InDesignはいち早くOpenTypeに完全対応し、同じバージョン・同じOpenTypeを使っている限りWindows版とMac版で完全な互換性を達成している。
新たにDTP部門を立ち上げるなど新規の設備投資においては、Windows版が伸びている。現に、地方自治体による市政だよりなどの内製化においては、WindowsとMacintosh間における文字セットの差異の問題、異なるOSを並行稼動させるコスト・スキルの問題などのためにWindows版が主に導入されている。
Appleは従来のMac OS 9から、Mac OS Xへの移行を進め、2002年のWWDCにおいてMac OS 9の埋葬という演出までしてユーザーに新OSへの移行を奨めていたが、(アメリカにおいても)印刷・出版業界においてはなかなかそれは進まなかった。その最大の理由はQuarkXPressがMac OS Xに対応していなかったことと言われていた。2004年発売のQuarkXpress 6.5Jから対応しているが、Mac OS Xに移行するということは高機能で自由度が高いInDesignを中心としたAdobe Creative Suiteでのワークフローへの移行と同義になり、OpenType ProフォントやPDF導入によるコスト削減とともに移行が進み、2009年までに8割以上がMac OS XでのDTPとなった。
QuarkXPressやInDesignなどのDTPソフトが、一ページのレイアウト・デザインに重きを置き、一ページの制作費用を比較的高く設定できる環境での使用から、ページ物印刷での組版作業という環境で使用され始めると、生産性というWYSIWYG方式でのDTPの基本的な要素と矛盾する要求を満足させる必要性が出てきた。
また、印刷する内容(ソースデータ)も、紙での原稿入稿から、テキストデータファイルやスプレッドシートファイルのような電子媒体での入稿にシフトし、多種類のデータフォーマットの取り込みを行わなければならなくなった。このような、電子媒体でのデータが一般的になると、インターネットやCD-ROMなど多種類の表示方法の普及にともない、紙への印刷という範疇を超えて、データの互換性・再利用性の問題から、SGMLやXMLのような意味性に重きを置いたマークアップデータ構造によるデータ入稿が、印刷クライアントからの要求として印刷会社に求められるようになった。
このような背景から、大量の電子媒体データから、人手を省力化でき、生産性を高めることの出来る自動組版処理の機能をDTPソフトに付加することが課題となって登場した。
QuarkXPressやInDesignなどは、Xtention,Plug-In等という形で、DTPソフトの機能拡張を可能としているほか、AppleScriptやVBScriptなどでDTPソフトが内蔵する機能を外部から利用する手段も公開し、第三者の各種の利用に供している。
これらのDTPソフトの公開機能を使用して、様々な「自動組版処理」のアプリケーションが開発され販売されている。
自動組版の方法としては、
といった、レイアウト、文字属性設定への対処方法と、
の2種類の入稿データへの対処方法ということの考え方の違いにより、アプリケーションベンダー各社で異なった実現方法となっている。
このようなデータベースやXMLのデータが、データベースやXMLデータとして蓄積保存される価値があるデータとして成立するのに対して、そこまでは利用しないが、データ量としては大きい、あるいは、一時入力では、データベース化するまでの資力がないといったような様々な要因から、データベースやXMLにならないデータに対する自動組版ということも、一方では潜在化した需要として存在する。この用途に対して、従来の専用組版システム(電算写植)で用いられた「バッチ・コマンド組版」を、DTPソフト上で実現しようとする考え方があり、開発あるいは販売されている。
自動組版には上に述べたようなWYSIWYGを基本とするDTPソフトによる方法という流れとは別の流れもある。例えば、TeXは原稿に組版を意識したマークアップを追加して自動組版する方法である。また、SGMLやXMLのように要素をマークアップした原稿に対して、別途用意したスタイルシートをあてて自動組版する方法もある。こうした用途の為にSGMLに対してはDSSSL、XMLに対してはXSLというスタイル指定言語が標準化されている。
ワープロソフトやデザインソフトなど、DTPソフトではないものが使われる場合が多い。これらはパソコン用のプリンターで印刷する場合は問題がないが商業印刷特有の仕様に適合していないため、印刷を拒否されたり、原稿再調整のための作業料金を請求されることがある。なお対応業者は限られるが、PDF/Xで出力することで商業印刷特有の仕様に適合させる方法(いわゆるPDF入稿)もある。
大企業ですら業務用のデータ入稿にPowerPoint原稿を利用する場合が多いが、2021年現在、専門のデザイナーが手掛ける商業出版物では普通はAdobe InDesignが使われる。業務用では、2000年代まではQuark XPressの利用者が多かったが、次第に日本語組版機能が充実していたInDesignにシェアを奪われた。
一方、辞書などの大規模組版や、複雑な数式が含まれた専門書、鉄道の時刻表といった、汎用のDTPソフトでは手に負えない特殊な組版に特化した業務用システムもある。
「新聞組版」という特殊な業態に特化している。ニュース配信の標準フォーマットである「NewsML」形式の記事を受け取って自動組版する機能などが必要とされる。
オープンソースのフリーソフトがいくつかあるが日本語組版機能への対応は不十分であるため、TeX以外のソフトは本格的なDTPには向かない。 | [
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"text": "DTP(Desktop publishing、デスクトップ・パブリッシング)とは、日本語で卓上出版(「机上出版」とされていた時期もあったが「きじょう」を読めない層が情報伝達に関わった故の変化)を意味し、書籍、新聞などの編集に際して行う割り付けなどの作業をパソコン上で行い、プリンターで出力を行うこと。",
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"text": "\"Desktop publishing\" の言葉は、そのさきがけとなったページレイアウトソフト「PageMaker」の販売開始にあたって、Aldus社(アルダス)の社長ポール・ブレイナードが1985年に提唱した言葉である。",
"title": "概要"
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"text": "商用印刷においてかつては版下の制作から印刷まで様々な工程に分かれていた作業が、DTPの登場によりパソコン1台で行えるようになり、簡単・迅速・省コストになった。また、家庭やオフィスにおいてもパソコンとプリンターを使って同様のことができるようになった。",
"title": "概要"
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"text": "市販のパソコンに最初から入っているワープロソフトでも簡易的なDTP機能を備えており、ある程度のデザイン制作ができる。より高度で細かいレイアウト制御やデザイン要素を組み込み、商用印刷に適した仕様の印刷データを制作する際には専用のDTPソフトを使うのが一般的である。",
"title": "概要"
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"text": "DTP制作を行うパソコンとしては歴史的にMacが多く利用されてきたが、これはMacintosh用ソフトとしてPageMakerが発売された1985年当時においてMacintoshだけが唯一の実用的なWYSIWYGを実現したシステムを持っており、その後の時代においてもしばらくはハードウェアやアプリケーションソフトウェアの機能面でMacintosh版が先行し充実していたことと、それにまつわる規格のデファクトスタンダード面で有利を得ていたのが理由である。業界で使われる主流のDTPソフトがPageMakerからQuark,_Inc.社のQuarkXPress、2000年代にAdobe(アドビ)社のAdobe InDesignへと移り変わってWindowsにおいても同様の環境が整ってきた2010年代にはそこにこだわらない向きもありつつも、大きくは変わっていない。",
"title": "概要"
},
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"text": "DTPが登場する以前、1970年代から1990年代にかけて使われていた業務用の電算写植システムにはUNIX上で動作していたものも多いが、DTPで制作する現場ではそれらにUNIXやLinuxが使われることはほぼない。また、一般のビジネス用途パソコンとしてはデファクトスタンダードとなっているWindowsもDTP制作現場ではあまり使われず、Macが主流である(WindowsやLinux用の制作ソフトもある)。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "なお、当初「DTP」という呼称については紛らわしい場面もあった。印刷所における印刷工程は「プリプレス(印刷前の組版、製版など)」「プレス(印刷、本刷り)」「ポストプレス(印刷後の加工・製本など)」の三つの工程に分かれている。DTPの登場初期において、このうちのプリプレス工程をパソコン制作で置き換えたことを「デスクトップ・プリプレス」 (Desktop prepress) と呼んでおり、それを指して「DTP」と呼ぶことがあった(本項の意味のDTPと区別するために「DTPr」「DTPR」と呼ぶことも)。やがてDTPソフトでの組版・版下制作が普及しプリプレス工程をパソコンで行うことが普通になると「デスクトップ・プリプレス」の意はなくなった。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "業務用の出版物において、かつては熟練の職工が活字を組む作業が出版業界では一般であったが、コンピュータの出現と普及と共にその作業を電子化する試みが模索されるようになった。1970年代にはいくつかの会社によって業務用の電算写植システムが開発され、アメリカにおいてはAtex社が有名となり、新聞社や大手出版社などに採用されていた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "また、1978年にはレイアウトに関する命令を記述したタグを用いる組版ソフトとしてTeXが開発され、コンピュータ上で印刷原稿の編集作業を行う環境が実現されたが、これはDTPと呼ぶものではなかった。これらのシステムとDTPとの最大の違いはWYSIWYG(逐次出来上がった組版を確認)がないことである。WYSIWYGがない状態では作業の結果の確認を出力(あるいはプレビュー)といった形の工程によってしか実現できなかった(ちなみにTeXでWYSIWYGができるソフトにGNU TeXmacsなどがあるが、日本語の扱いが完全ではないために一般普及化はしていない)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
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"text": "WYSIWYGを不完全ながら最初に実現したのは1970年代のゼロックスのパロアルト研究所で、その成果は1981年にXerox Starワークステーションとして市販化された。",
"title": "歴史"
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"text": "ディスプレイ画面に出力される色彩と、プリンター出力の色彩、そして最終的な印刷物の色彩に整合性を持たせることは極めて困難なことであった。第一にはそれらの出力機器の原理が異なっているためである。作業するためのディスプレイ画面(CRT、LCD)表示はRGBカラーであり、校正のために使用するプリンターは(レーザーの場合)CMYKカラーのトナー(粉末)、最終的な完成品となる印刷機はCMYK(さらに特色を使用することも少なくない)のインクであるからカラーマネージメントはDTPにおいてとても重要なものである。",
"title": "歴史"
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"text": "また、同じ原理で動作している装置であっても、メーカーごと、あるいは個体差、経年変化、湿度や温度(気温、機械内の温度)によって出力結果は異なる。これを解消するために用いられているのが、ウィリアム・シュライバーの開発した色管理システムで、1985年に成立したシュライバー特許により、その後のカラープロファイル技術は支えられている。",
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"text": "MacにおいてはAppleのColorSync技術により優れたカラーマネージメントが行えたことで優位性があった。",
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"text": "和文PostScriptフォントは、当初OCFと呼ばれる形式のものが販売され、普及していった。OCFは少ない文字数しか扱えないフォーマットのフォントをいくつも積み重ねて多数の文字を扱えるようにした規格であった。その後データ構造を簡略化したCIDフォントが登場し、フォントベンダーはこちらへの置き換えを推奨していくことになる。しかしフォントは高価な資産であり簡単にリプレースがしにくいこと、また互換性においての問題などもあり、OCFフォントが根強く使用されている時代も長かった。CIDフォントののちにOpenType(OTF)が発売され、以後はこちらが主流となっていく。",
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"text": "WindowsのDTPではTrueTypeフォントが使われることが多かった。スプライン曲線を使うTrueTypeはベジェ曲線を使うPostScriptフォントに比べ多彩な曲線の表現において見劣りがした点や、無数のTrueTypeフォントが乱立し有力なフォントベンダーが出現しなかったこと(これによりデータの標準化が困難となる)など様々な要因で普及は進まなかった。",
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"text": "しかし顧客の要望で「Microsoft Wordで作成したビジネス文書を印刷する」というものが発生した場合、印刷会社は対応しなくてはいけないこともあり、そうした中でWindows向けDTPソフトも次第に充実していった。ただし、Mac版と同じアプリケーションでも完全な互換性が確保できず、Windows版で作ったデータをMacintosh版で開くと文字がずれているなどの不具合が出ることもあった。特に日本ではフォントの問題が係わり、WindowsとMacintoshでは採用している文字セットが異なるため、特に英数字や外字において互換性を完全に維持することができなかった。また、横組みでは問題なくとも縦組みの箇所のみ画面表示に問題がある、などの例もあった。",
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"text": "和文フォントのトップベンダーとなっていたモリサワからはViewフォントと呼ばれる、Windows上で組版をする際に同社のPostScriptフォントを指定できるフォントが販売されて一定の支持を受けていたが、英数字などの互換性がないという問題があった。",
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"text": "しかし昨今においては、OpenTypeフォントとそれに対応したレイアウトソフトの登場によって状況が変化している。InDesignはいち早くOpenTypeに完全対応し、同じバージョン・同じOpenTypeを使っている限りWindows版とMac版で完全な互換性を達成している。",
"title": "歴史"
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"text": "新たにDTP部門を立ち上げるなど新規の設備投資においては、Windows版が伸びている。現に、地方自治体による市政だよりなどの内製化においては、WindowsとMacintosh間における文字セットの差異の問題、異なるOSを並行稼動させるコスト・スキルの問題などのためにWindows版が主に導入されている。",
"title": "歴史"
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"text": "Appleは従来のMac OS 9から、Mac OS Xへの移行を進め、2002年のWWDCにおいてMac OS 9の埋葬という演出までしてユーザーに新OSへの移行を奨めていたが、(アメリカにおいても)印刷・出版業界においてはなかなかそれは進まなかった。その最大の理由はQuarkXPressがMac OS Xに対応していなかったことと言われていた。2004年発売のQuarkXpress 6.5Jから対応しているが、Mac OS Xに移行するということは高機能で自由度が高いInDesignを中心としたAdobe Creative Suiteでのワークフローへの移行と同義になり、OpenType ProフォントやPDF導入によるコスト削減とともに移行が進み、2009年までに8割以上がMac OS XでのDTPとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "QuarkXPressやInDesignなどのDTPソフトが、一ページのレイアウト・デザインに重きを置き、一ページの制作費用を比較的高く設定できる環境での使用から、ページ物印刷での組版作業という環境で使用され始めると、生産性というWYSIWYG方式でのDTPの基本的な要素と矛盾する要求を満足させる必要性が出てきた。",
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"text": "また、印刷する内容(ソースデータ)も、紙での原稿入稿から、テキストデータファイルやスプレッドシートファイルのような電子媒体での入稿にシフトし、多種類のデータフォーマットの取り込みを行わなければならなくなった。このような、電子媒体でのデータが一般的になると、インターネットやCD-ROMなど多種類の表示方法の普及にともない、紙への印刷という範疇を超えて、データの互換性・再利用性の問題から、SGMLやXMLのような意味性に重きを置いたマークアップデータ構造によるデータ入稿が、印刷クライアントからの要求として印刷会社に求められるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "このような背景から、大量の電子媒体データから、人手を省力化でき、生産性を高めることの出来る自動組版処理の機能をDTPソフトに付加することが課題となって登場した。",
"title": "歴史"
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"text": "QuarkXPressやInDesignなどは、Xtention,Plug-In等という形で、DTPソフトの機能拡張を可能としているほか、AppleScriptやVBScriptなどでDTPソフトが内蔵する機能を外部から利用する手段も公開し、第三者の各種の利用に供している。",
"title": "歴史"
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"text": "これらのDTPソフトの公開機能を使用して、様々な「自動組版処理」のアプリケーションが開発され販売されている。",
"title": "歴史"
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"text": "自動組版の方法としては、",
"title": "歴史"
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"text": "といった、レイアウト、文字属性設定への対処方法と、",
"title": "歴史"
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"text": "の2種類の入稿データへの対処方法ということの考え方の違いにより、アプリケーションベンダー各社で異なった実現方法となっている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "このようなデータベースやXMLのデータが、データベースやXMLデータとして蓄積保存される価値があるデータとして成立するのに対して、そこまでは利用しないが、データ量としては大きい、あるいは、一時入力では、データベース化するまでの資力がないといったような様々な要因から、データベースやXMLにならないデータに対する自動組版ということも、一方では潜在化した需要として存在する。この用途に対して、従来の専用組版システム(電算写植)で用いられた「バッチ・コマンド組版」を、DTPソフト上で実現しようとする考え方があり、開発あるいは販売されている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "自動組版には上に述べたようなWYSIWYGを基本とするDTPソフトによる方法という流れとは別の流れもある。例えば、TeXは原稿に組版を意識したマークアップを追加して自動組版する方法である。また、SGMLやXMLのように要素をマークアップした原稿に対して、別途用意したスタイルシートをあてて自動組版する方法もある。こうした用途の為にSGMLに対してはDSSSL、XMLに対してはXSLというスタイル指定言語が標準化されている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "ワープロソフトやデザインソフトなど、DTPソフトではないものが使われる場合が多い。これらはパソコン用のプリンターで印刷する場合は問題がないが商業印刷特有の仕様に適合していないため、印刷を拒否されたり、原稿再調整のための作業料金を請求されることがある。なお対応業者は限られるが、PDF/Xで出力することで商業印刷特有の仕様に適合させる方法(いわゆるPDF入稿)もある。",
"title": "代表的なDTPソフト、システム"
},
{
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"text": "大企業ですら業務用のデータ入稿にPowerPoint原稿を利用する場合が多いが、2021年現在、専門のデザイナーが手掛ける商業出版物では普通はAdobe InDesignが使われる。業務用では、2000年代まではQuark XPressの利用者が多かったが、次第に日本語組版機能が充実していたInDesignにシェアを奪われた。",
"title": "代表的なDTPソフト、システム"
},
{
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"text": "一方、辞書などの大規模組版や、複雑な数式が含まれた専門書、鉄道の時刻表といった、汎用のDTPソフトでは手に負えない特殊な組版に特化した業務用システムもある。",
"title": "代表的なDTPソフト、システム"
},
{
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"text": "「新聞組版」という特殊な業態に特化している。ニュース配信の標準フォーマットである「NewsML」形式の記事を受け取って自動組版する機能などが必要とされる。",
"title": "代表的なDTPソフト、システム"
},
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"text": "オープンソースのフリーソフトがいくつかあるが日本語組版機能への対応は不十分であるため、TeX以外のソフトは本格的なDTPには向かない。",
"title": "代表的なDTPソフト、システム"
}
] | DTPとは、日本語で卓上出版(「机上出版」とされていた時期もあったが「きじょう」を読めない層が情報伝達に関わった故の変化)を意味し、書籍、新聞などの編集に際して行う割り付けなどの作業をパソコン上で行い、プリンターで出力を行うこと。 | {{Otheruses|コンピュータ編集}}
{{出典の明記|date=2009年9月}}
[[ファイル:Scribus.png|right|250px|thumb|オープンソースのDTPソフト[[Scribus]]]]
'''DTP'''(Desktop publishing、デスクトップ・パブリッシング)とは、日本語で'''卓上出版'''(「机上出版」とされていた時期もあったが{{独自研究範囲|date=2023年3月|「きじょう」を読めない層が情報伝達に関わった故の変化}})を意味し、[[本|書籍]]、[[新聞]]などの[[編集]]に際して行う割り付けなどの作業を[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]上で行い、[[プリンター]]で出力を行うこと。
== 概要 ==
"Desktop publishing" の言葉は、そのさきがけとなったページレイアウトソフト「[[Adobe PageMaker|PageMaker]]」の販売開始にあたって、Aldus社([[アルダス]])の社長ポール・ブレイナードが[[1985年]]に提唱した言葉である。
商用印刷においてかつては版下の制作から印刷まで様々な工程に分かれていた作業が、DTPの登場によりパソコン1台で行えるようになり、簡単・迅速・省コストになった。また、家庭やオフィスにおいてもパソコンとプリンターを使って同様のことができるようになった。
市販のパソコンに最初から入っている[[ワープロソフト]]でも簡易的なDTP機能を備えており、ある程度のデザイン制作ができる。より高度で細かいレイアウト制御やデザイン要素を組み込み、商用印刷に適した仕様の印刷データを制作する際には専用のDTPソフトを使うのが一般的である。
DTP制作を行うパソコンとしては歴史的に[[Macintosh|Mac]]が多く利用されてきたが、これはMacintosh用ソフトとしてPageMakerが発売された1985年当時においてMacintoshだけが唯一の実用的な[[WYSIWYG]]を実現したシステムを持っており、その後の時代においてもしばらくは[[ハードウェア]]や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]ソフトウェアの機能面でMacintosh版が先行し充実していたことと、それにまつわる規格の[[デファクトスタンダード]]面で有利を得ていたのが理由である。業界で使われる主流のDTPソフトがPageMakerから[[クォーク|Quark,_Inc.]]社の[[QuarkXPress]]、2000年代にAdobe([[アドビ]])社の[[Adobe InDesign]]へと移り変わって[[Microsoft Windows|Windows]]においても同様の環境が整ってきた2010年代にはそこにこだわらない向きもありつつも、大きくは変わっていない。
DTPが登場する以前、1970年代から1990年代にかけて使われていた業務用の[[電算写植]]システムには[[UNIX]]上で動作していたものも多いが、DTPで制作する現場ではそれらにUNIXや[[Linux]]が使われることはほぼない。また、一般のビジネス用途パソコンとしてはデファクトスタンダードとなっているWindowsもDTP制作現場ではあまり使われず、Macが主流である(WindowsやLinux用の制作ソフトもある)。
なお、当初「DTP」という呼称については紛らわしい場面もあった。印刷所における印刷工程は「プリプレス(印刷前の組版、製版など)」「プレス(印刷、本刷り)」「ポストプレス(印刷後の加工・製本など)」の三つの工程に分かれている。DTPの登場初期において、このうちのプリプレス工程をパソコン制作で置き換えたことを「デスクトップ・プリプレス」 (Desktop prepress) と呼んでおり、それを指して「DTP」と呼ぶことがあった(本項の意味のDTPと区別するために「DTPr」「DTPR」と呼ぶことも)。やがてDTPソフトでの組版・版下制作が普及しプリプレス工程をパソコンで行うことが普通になると「デスクトップ・プリプレス」の意はなくなった。
== 歴史 ==
=== DTP以前 ===
業務用の出版物において、かつては熟練の職工が活字を組む作業が出版業界では一般であったが、コンピュータの出現と普及と共にその作業を電子化する試みが模索されるようになった。1970年代にはいくつかの会社によって業務用の電算写植システムが開発され、アメリカにおいてはAtex社が有名となり、新聞社や大手出版社などに採用されていた。
また、1978年にはレイアウトに関する命令を記述したタグを用いる[[組版]]ソフトとして[[TeX]]が開発され、コンピュータ上で印刷原稿の編集作業を行う環境が実現されたが、これはDTPと呼ぶものではなかった。これらのシステムとDTPとの最大の違いは[[WYSIWYG]](逐次出来上がった組版を確認)がないことである。WYSIWYGがない状態では作業の結果の確認を出力(あるいは[[プレビュー]])といった形の工程によってしか実現できなかった(ちなみにTeXでWYSIWYGができるソフトに[[GNU TeXmacs]]などがあるが、日本語の扱いが完全ではないために一般普及化はしていない)。
WYSIWYGを不完全ながら最初に実現したのは1970年代の[[ゼロックス]]の[[パロアルト研究所]]で、その成果は1981年に[[Xerox Star]][[ワークステーション]]として市販化された。
比較的単純な印字物としてタイプ原稿を作成する環境としては1980年代以前の欧米では[[タイプライター]]が一般的に用いられていた。1984年1月、WYSIWYG(パソコンの画面に表示されたものとプリンターで印刷したものが同じ)を実現した[[Apple|アップル]]純正ワープロソフトである[[MacWrite]]を標準搭載したパソコンのMacintosh(初代Mac)がApple Computer, Inc.より発売され、さらに1985年1月に[[マイクロソフト|Microsoft]]社からMacintosh版の[[Microsoft Word]]が発売されると、そうした文書制作の環境がパソコン+ワープロソフトという形に置き換わり「Macをタイプライターとして使う」ことが一般的に行われるようになっていった。
1984年、Atexの社員であったポール・ブレイナードがAtexを辞めてアルダスを創業する。1985年にアルダスがMacintosh用ソフトとしてPageMakerを発売するにあたってはMicrosoft Wordとの差別化のために「Macはタイプライターではない」ことを示す必要があった。そのためのマーケティング用語としてブレイナードが打ち出したのが「デスクトップ・パブリッシング」である。Apple、アドビ、アルダスなどのメーカーが一堂に会した1985年1月のAppleの株主総会において発表された。
PageMakerと競合するソフトの中でも特にMicrosoft Wordは高度なWYSIWYGを実現し、さらにApple純正プリンターの[[LaserWriter]]に対応するなどDTPに相当する機能を多少は持っていたので、Macintosh用ワープロソフトとして1985年当時はデファクトスタンダードと呼ばれるほど売れたが、PageMakerは優れたレイアウト機能と「MacとPageMakerがあれば業務用の高価な電算写植システムを置き換えることが可能」だと掲げることで、Microsoft Wordのような単なる文書編集ソフトではないことを示すマーケティングを行った。
=== 3A宣言 ===
DTPの発祥は[[アメリカ合衆国]]である。現在のDTPの萌芽はアメリカの3つの企業で生まれた。
1984年1月、Appleから初代Macintoshが発売される。プラットフォームとして様々な周辺機器やソフトウェアが生み出された。ただし初期のMacintoshは本格的なDTPを行うにはスペックが厳しく、プロユースでDTPが急拡大するのは1987年発売の[[Macintosh II]]頃からである。
1985年5月、Apple純正の[[レーザープリンター]]であるApple LaserWriterが発売される。このプリンターはアドビの開発した[[ページ記述言語]]・[[PostScript]]技術を用いた「Adobe PostScriptフォント」が[[Read only memory|ROM]]に組み込まれており、これによって画面に表示されているものをそのままに印刷することが可能となる「WYSIWYG」を実現したほか、プリンターにPostScriptフォントを搭載している限りはコンピュータとプリンターの組み合わせが変わっても出力結果を維持するという「デバイスインディペンデント」(使用機器に依存しない)な性質を実現していた。
1985年7月、Macintoshプラットフォームにおける最初の実用的なDTPアプリケーションとなるアルダスのPageMakerが発売される。これによってDTP環境が実現された。
プラットフォームを作り出した'''アップル'''、ページ記述言語を生み出した'''アドビ'''、そして実用的なアプリケーションを世に送り出した'''アルダス'''によってDTPはそのスタートを切った。この3社の頭文字を取って、これを『3A宣言』という{{要出典|date=2010年6月}}。
なお、1980年代の出版・印刷業界におけるDTPのデファクトスタンダードであったAldus Pagemakerは、1990年代には機能がより豊富なQuarkXPress 3.3(1992年発売)にシェアを急速に奪われていった。その後アルダスはアドビに買収されPageMakerはアドビ製品として販売されることとなったが、1996年発売のQuarkXPress 4.0にもシェアを奪われ続ける一方であった。アドビは「Quarkキラー」として新たに[[Adobe InDesign|InDesign]]を開発し1999年に発売、PageMakerは2001年発売のバージョン7.0をもって開発が終了した。
=== WYSIWYG の実現 ===
PostScript(PS)フォントは基本的に、プリンターにインストールするプリンター[[フォント|アウトラインフォント]]と作業に用いる[[コンピュータ]](編集機)にインストールする画面表示用[[フォント|ビットマップフォント]]の2種類から構成され、これが同期して働くことによって確実かつ高速な動作を果たしている。
これに対して[[TrueType]](TT)フォントはプリンターフォントを持たず、編集機からプリンターに各文字の形状の情報を送って印刷する仕様であったため、DTP勃興当時のコンピュータには処理が重すぎるという欠点も抱えていた。
アウトラインフォントは文字の形に関する情報を持っているだけなのでそのままでは印字に用いることができず、文字の輪郭の内側を「塗りつぶした」面状態のデータに変換する必要があり、これをラスタライズという。編集機側でラスタライズするTTフォントの場合、プリントアウトしている間の編集機はこの処理のために拘束されることになる。それに対してPSフォントの場合はラスタライズをPSプリンター側でおこなうため、文字の種類・サイズと位置などのレイアウト情報(実際には画像などの情報が入るため、より複雑だが)をプリンターに送信し終えた時点で編集機はプリントアウト処理から開放される。
ただし画面表示がビットマップフォントであることから、そのフォントにあらかじめ用意された表示サイズ以外の大きさの文字は画面上でドットの粗いギザギザの状態で表示されるため、これは真の意味でWYSIWYGとは言えなかった。そのため開発されたのが[[Adobe Type Manager]](ATM)で、ATM専用版フォントを編集機側にインストールすることでビットマップフォントに代わってアウトライン表示を行うことができるようになった。コンピュータの処理能力の向上や技術の進展により、その後開発・採用された[[OpenType]]フォントはプリンターフォントを持たず、ダイナミックダウンロード(字形も含めて編集機から送信する)する仕様になっている。
=== 日本におけるDTP化 ===
発祥の地アメリカでは瞬く間に'''DTP革命'''が進行し、活版の印刷所を駆逐していった{{要出典|date=2010年6月}}。Mac以外のパソコンでもDTPソフトが盛んにリリースされ、例えば有名なものとして1986年には[[MS-DOS]]を搭載したパソコンでDTPを可能にする[[Graphical Environment Manager|GEM]]ベースのVentura Publisher(後のCorel Ventura、現在の[[CorelDRAW]])なども発売されている。1987年には大型カラーマルチモニタディスプレイや[[SCSI]]ストレージインターフェイスをサポートするなどDTP向けの拡張機能を搭載したMacintosh IIが発売され、DTP界隈におけるMacの優位性が確立した。
日本では事情は異なり、急速な普及や変化には難しい部分があった。[[ASCII]]コードだけで書籍組版ができる[[1バイト言語]]の[[英語]]とは違い、[[日本語]]は多数の漢字を抱えるマルチバイト言語であることが大きな理由のひとつとしてあげられる{{要出典|date=2011年9月}}。当時のデスクトップマシンの処理能力や記憶容量では多数の2バイト[[フォント]]を搭載して自由自在に組版するというわけにはいかなかった。
多数の漢字を抱える日本語ではフォント1書体あたりのデータ量が多いことなどもあり、DTP黎明期においてはかつての[[活字]]や初期の写真植字が事実上そうであったのと同様に、[[明朝体]]と[[ゴシック体]]それぞれ1書体しか使えなかった。また、その価格も極めて高額であった<ref group="注釈"> [[1985年]]、[[キヤノン]]から「[[EZPS]]」シリーズという、ゼロックス社のXerox Starと似た[[GUI]]を有する[[ワークステーション]]が発売された。A4判縦サイズと同じ[[ペーパーホワイト]]ディスプレイを備え、レーザープリンターとセットで300~700万円もする高価なシステムであったが、主にマニュアルなど図形の多い印刷物の編集に重宝され用いられた。[[ノンフィクション]]作家の[[山根一眞]]も自著「DTPの仕事術」でEZPSについて紹介している。</ref>。しかし一方で、文字通り机上で実際の仕上がりに近いものが確認できることから[[グラフィックデザイナー]]などの間で支持され、地歩を固めていった。
この2書体は[[モリサワ]]の[[リュウミン]]L-KLと[[中ゴシックBBB]]である。これが同社の投入した、そして日本で最初の和文[[PostScriptフォント]]であった。アドビと提携しDTP向けフォントの開発・販売にいち早く参入、[[Mac OS#System 7系統|漢字Talk 7.1]]へのバンドル提供などからモリサワは和文フォントのトップベンダーとなっていく。
=== 「Mac組版」の興隆 ===
かつての日本国内の出版・印刷業界において1990年代初めまで[[Adobe PageMaker|Aldus PageMaker]]と勢力が拮抗していた[[QuarkXPress|QuarkXPress 3.31J]]が、1990年代中頃から[[デファクトスタンダード|事実上の標準(デファクトスタンダード)]]となった。「Macintosh|Macで組む」という言葉は「QuarkXPressで組む」という意味であることが多かった。前述の通り、最初に発売され利用が進んでいたのはPageMakerであったが、QuarkXPressは早い段階でカラー対応を果たしたほか、扱いやすい操作性と軽快な動作などが受け入れられ、価格(最も普及した日本語版3.31は約20万円と、印刷業界プロ向けソフトとしては安価)と相まって業界を席巻していった。
Macintoshによる組版は仕上がりをその場で確認できることや、ぎりぎりまでデータ修正が可能なことなどのアドバンテージを持っていたが、上述したように当初は扱える書体が少なかった。だが活字・写植機向けに書体を開発していたベンダーや、あるいはDTP時代から書体開発を始めた新興勢力が次々と参入し、和文PostScriptフォントのラインナップを豊富なものにしていった。
そしてMacintosh対応の[[イメージセッター]]の発展や、[[印刷会社]]、あるいは製版専門の会社などにおいて対応されたことで足場が整い、デザイン現場での普及、また制作コストを下げたいという[[出版社]]の需要の中で次第にDTPへの移行が進んでいった。
=== カラーマネージメント ===
前述したWYSIWYGとも関連するが、カラー対応とその後の進化においてDTPを普及させたもののひとつに、[[色空間|カラーマネージメント]]([[色]]の管理)がある。
ディスプレイ画面に出力される色彩と、プリンター出力の色彩、そして最終的な印刷物の色彩に整合性を持たせることは極めて困難なことであった。第一にはそれらの出力機器の原理が異なっているためである。作業するためのディスプレイ画面([[ブラウン管|CRT]]、[[液晶ディスプレイ|LCD]])表示は[[RGB]]カラーであり、校正のために使用するプリンターは(レーザーの場合)[[CMYK]]カラーの[[トナー]](粉末)、最終的な完成品となる印刷機はCMYK(さらに[[特色]]を使用することも少なくない)の[[インク]]であるからカラーマネージメントはDTPにおいてとても重要なものである。
また、同じ原理で動作している装置であっても、メーカーごと、あるいは個体差、経年変化、湿度や温度(気温、機械内の温度)によって出力結果は異なる。<ref group="注釈">現場では、[[カラープロファイル]]を使って色の管理を図り、非PSのカラープリンターでも[[色校正]]ができるような[[ワークフロー]]を確立しつつある。</ref>これを解消するために用いられているのが、ウィリアム・シュライバーの開発した色管理システムで、[[1985年]]に成立したシュライバー特許により、その後のカラープロファイル技術は支えられている。
MacにおいてはAppleの'''[[ColorSync]]'''技術により優れたカラーマネージメントが行えたことで優位性があった。
=== 日本のDTPにおけるOCFフォント ===
和文PostScriptフォントは、当初[[OCFフォント|OCF]]と呼ばれる形式のものが販売され、普及していった。OCFは少ない文字数しか扱えないフォーマットのフォントをいくつも積み重ねて多数の文字を扱えるようにした規格であった。その後データ構造を簡略化したCIDフォントが登場し、フォントベンダーはこちらへの置き換えを推奨していくことになる。しかしフォントは高価な資産であり簡単にリプレースがしにくいこと、また互換性においての問題などもあり、OCFフォントが根強く使用されている時代も長かった。CIDフォントののちにOpenType(OTF)が発売され、以後はこちらが主流となっていく。
=== Windows DTP ===
WindowsのDTPでは[[TrueType|TrueTypeフォント]]が使われることが多かった。[[スプライン曲線]]を使うTrueTypeは[[ベジェ曲線]]を使うPostScriptフォントに比べ多彩な曲線の表現において見劣りがした点や、無数のTrueTypeフォントが乱立し有力なフォントベンダーが出現しなかったこと(これによりデータの標準化が困難となる)など様々な要因で普及は進まなかった。
しかし顧客の要望で「[[Microsoft Word]]で作成したビジネス文書を印刷する」というものが発生した場合、印刷会社は対応しなくてはいけないこともあり、そうした中でWindows向けDTPソフトも次第に充実していった。ただし、Mac版と同じアプリケーションでも完全な互換性が確保できず、Windows版で作ったデータをMacintosh版で開くと文字がずれているなどの不具合が出ることもあった。特に日本ではフォントの問題が係わり、WindowsとMacintoshでは採用している文字セットが異なるため、特に英数字や外字において互換性を完全に維持することができなかった。また、[[横組み]]では問題なくとも[[縦組み]]の箇所のみ画面表示に問題がある、などの例<!--EDICOLOR、Windows版-->もあった。
和文フォントのトップベンダーとなっていたモリサワからは[[Viewフォント]]と呼ばれる、Windows上で組版をする際に同社のPostScriptフォントを指定できるフォントが販売されて一定の支持を受けていたが、英数字などの互換性がないという問題があった。
しかし{{いつ範囲|date=2020-12|昨今においては}}、[[OpenType|OpenTypeフォント]]とそれに対応したレイアウトソフトの登場によって状況が変化している。[[Adobe InDesign|InDesign]]はいち早くOpenTypeに完全対応し、同じバージョン・同じOpenTypeを使っている限りWindows版とMac版で完全な互換性を達成している。
{{独自研究範囲|新たにDTP部門を立ち上げるなど新規の設備投資においては、Windows版が伸びている。現に、地方自治体による市政だよりなどの内製化においては、WindowsとMacintosh間における文字セットの差異の問題、異なるOSを並行稼動させるコスト・スキルの問題などのためにWindows版が主に導入されている|date=2011年1月}}。
=== Mac OS Xへの移行 ===
Appleは従来の[[Classic Mac OS#Mac OS 9|Mac OS 9]]から、[[macOS|Mac OS X]]への移行を進め、[[2002年]]の[[Worldwide Developers Conference|WWDC]]においてMac OS 9の埋葬という演出までしてユーザーに新OSへの移行を奨めていたが、(アメリカにおいても)印刷・出版業界においてはなかなかそれは進まなかった。その最大の理由はQuarkXPressがMac OS Xに対応していなかったことと言われていた{{要出典|date=2010年6月}}。2004年発売のQuarkXpress 6.5Jから対応しているが、Mac OS Xに移行するということは高機能で自由度が高い[[InDesign]]を中心とした[[Adobe Creative Suite]]でのワークフローへの移行と同義になり、OpenType ProフォントやPDF導入によるコスト削減とともに移行が進み、2009年までに8割以上がMac OS XでのDTPとなった<ref>[http://dtp-s2.seesaa.net/article/135222399.html DTPはMac OS X、CS3/4に移行したのか:アンケートに見る日本のDTPの現場]</ref>。
=== DTPソフトによる自動組版 ===
[[QuarkXPress]]や[[InDesign]]などのDTPソフトが、一ページのレイアウト・デザインに重きを置き、一ページの制作費用を比較的高く設定できる環境での使用から、ページ物印刷での組版作業という環境で使用され始めると、生産性という[[WYSIWYG]]方式でのDTPの基本的な要素と矛盾する要求を満足させる必要性が出てきた。
また、印刷する内容(ソースデータ)も、紙での原稿入稿から、[[テキストデータ]]ファイルや[[スプレッドシート]]ファイルのような電子媒体での入稿にシフトし、多種類のデータフォーマットの取り込みを行わなければならなくなった。このような、電子媒体でのデータが一般的になると、[[インターネット]]や[[CD-ROM]]など多種類の表示方法の普及にともない、紙への[[印刷]]という範疇を超えて、データの互換性・再利用性の問題から、[[SGML]]や[[Extensible Markup Language|XML]]のような意味性に重きを置いたマークアップデータ構造によるデータ入稿が、印刷クライアントからの要求として印刷会社に求められるようになった{{要出典|date=2010年6月}}。
このような背景から、大量の電子媒体データから、人手を省力化でき、生産性を高めることの出来る自動組版処理の機能をDTPソフトに付加することが課題となって登場した。
[[QuarkXPress]]や[[InDesign]]などは、Xtention,Plug-In等という形で、DTPソフトの機能拡張を可能としているほか、[[AppleScript]]や[[VBScript]]などでDTPソフトが内蔵する機能を外部から利用する手段も公開し、第三者の各種の利用に供している。
これらのDTPソフトの公開機能を使用して、様々な「自動組版処理」のアプリケーションが開発され販売されている。
自動組版の方法としては、
* レイアウト指定のないデータに、如何にして、レイアウトを付加するのか。
* 付加されるレイアウトが定形レイアウトなのか、非定形レイアウトなのか。
* 文字の大きさや色などを部分的に変えたりする場合の方法は。
といった、レイアウト、文字属性設定への対処方法と、
* [[データベース]]のデータのように、項目に対して、属性を持たせられないデータ。
* XMLデータのように、タグに対して、属性を持たせられえるデータ。
の2種類の入稿データへの対処方法ということの考え方の違いにより、アプリケーションベンダー各社で異なった実現方法となっている。
このようなデータベースやXMLのデータが、データベースやXMLデータとして蓄積保存される価値があるデータとして成立するのに対して、そこまでは利用しないが、データ量としては大きい、あるいは、一時入力では、データベース化するまでの資力がないといったような様々な要因から、データベースやXMLにならないデータに対する自動組版ということも、一方では潜在化した需要として存在する{{要出典|date=2010年6月}}。この用途に対して、従来の専用組版システム([[電算写植]])で用いられた「バッチ・コマンド組版」を、DTPソフト上で実現しようとする考え方があり、開発あるいは販売されている。
===マークアップデータの自動組版===
自動組版には上に述べたようなWYSIWYGを基本とするDTPソフトによる方法という流れとは別の流れもある。例えば、[[TeX]]は原稿に組版を意識した[[マークアップ言語|マークアップ]]を追加して自動組版する方法である。また、[[Standard Generalized Markup Language|SGML]]や[[Extensible Markup Language|XML]]のように要素をマークアップした原稿に対して、別途用意したスタイルシートをあてて自動組版する方法もある。こうした用途の為にSGMLに対しては[[Document Style Semantics and Specification Language|DSSSL]]、XMLに対しては[[Extensible Stylesheet Language|XSL]]というスタイル指定言語が標準化されている。
== 代表的なDTPソフト、システム ==
<!-- 以下ABC順に -->
=== 民生用 ===
ワープロソフトやデザインソフトなど、DTPソフトではないものが使われる場合が多い。これらはパソコン用のプリンターで印刷する場合は問題がないが商業印刷特有の仕様に適合していないため、印刷を拒否されたり、原稿再調整のための作業料金を請求されることがある。なお対応業者は限られるが、[[PDF/X]]で出力することで商業印刷特有の仕様に適合させる方法(いわゆるPDF入稿)もある。
* [[Adobe Creative Cloud]] - [[Adobe]]のグラフィックデザイン・動画編集・ウェブデザインの統合パッケージ。月額・年額[[サブスクリプション]]制。買い切り版は存在しない。
** [[Adobe InDesign]] - DTP業界における事実上の標準ソフト<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=20周年を迎えたInDesign日本語版が、日本でトップシェアになるまでの歴史 (1) |url=https://news.mynavi.jp/article/20210217-1733333/ |website=マイナビニュース |date=2021-02-17 |access-date=2023-04-06 |language=ja}}</ref>で、民生用から業務用まであらゆる局面で使用されている。日本語組版機能は日本語版独自のもので<ref>大谷イビサ「[https://ascii.jp/elem/000/004/086/4086797/3/ PostScript、デジタルフォント、InDesign 日本語DTPを当たり前にしたアドビの技術]」『ASCII.jp』 角川アスキー総合研究所、2022年3月24日</ref>、非常に強力である。
** [[Adobe Illustrator]] - デザインソフト。単ページの簡易なDTPで使用することがあるが、DTPソフトとしての機能はそれほど高くなく、欧米ではフィニッシュワークにはInDesignのようなレイアウトソフトを使うのが主流であるとして、Adobeの公式ブログでもInDesignを使うことが推奨されている<ref>[https://blogs.adobe.com/creativestation/dtp-make-good-use-of-indesign-layout-tatechuyoko-ruby こんなときはイラレよりInDesignが断然便利 ─画像配置&縦中横&ルビ編─] - Adobe Creative Station</ref>。
* [[Affinity Publisher]] - AffinityシリーズのDTPソフト。廉価であるため、欧米では人気がある。Adobe Illustratorの代替ソフトとして紹介されることもあるが、日本語組版機能は最低限のものしか備えておらず、右綴じ・縦書きができない。
* [[CorelDRAW]] - デザインソフトだがDTPにも使える。日本語組版機能は最低限のものしか備えていない。
* [[iWork]] - Apple純正のオフィススイート。全てのmacOSおよびiOS・iPadOS搭載機器で無料で利用できる。[[iCloud#提供サービス|iCloud.com]]では、他OSのウェブブラウザからでもKeynote for iCloud・Pages for iCloudを使用することができる。
** [[Keynote]] - Microsoft PowerPointより高度なレイアウト機能を備えたプレゼンテーションソフト。PDF形式の出力も可能で、簡易なDTPにも使われる。
** [[Pages]] - Microsoft WordやMicrosoft Publisherより高度なレイアウト機能を備えたワープロソフト。PDF・EPUB形式の出力も可能で、簡易なDTPにも使われる。
** [[Numbers (ソフトウェア)|Numbers]] - 1ページに複数のスプレッドシートを持てるなど、Microsoft Excelより強力なレイアウト機能を備えた表計算ソフト。PDF形式の出力も可能で、簡易なDTPにも使われる。
* [[JUST Office]] - ジャストシステムのオフィススイート。
** [[一太郎]] - 日本語ワープロソフト。小説誌や簡易な新聞・会報の制作に強みを持ち、ワープロソフトの中では日本語組版機能が非常に強い。
** [[花子 (グラフィックソフト)|花子]] - デザインソフトだが、簡易な単ページのDTPにも使える。学校のプリント制作などに便利なテンプレートが付属している。一太郎の上位版に付属しており、連携ができる。
* [[Microsoft Office]] - マイクロソフト社のオフィススイート。[[Microsoft 365]]ではウェブブラウザからも使用することができる。
**[[Microsoft Excel]] - 表計算ソフト。エクセルのセルを升目として使ってオブジェクトの配置を決める[[Excel方眼紙]]と言うテクニックがあり、DTPソフトの代用として使われることがある。ただし作成画面・印刷プレビューどおりに印刷されず、ずれが生じることも多い。
** [[Microsoft PowerPoint]] - プレゼンテーションソフト。簡易なDTPでも使われる。
** [[Microsoft Publisher]] - 簡易DTPソフト。Microsoft Officeと同一のインターフェイスを持つことが特徴。単体販売、もしくはMicrosoft Office・Microsoft 365の上位エディションに同梱。右綴じができない。
** [[Microsoft Word]] - ワープロソフトだが、簡易なDTPでも使われる。
* [[パーソナル編集長]] - [[ソースネクスト]]の新聞用DTPソフト。会報や[[学級新聞]]などの簡易な[[新聞]]制作向けに特化している。テンプレートとして「段組み」が用意されているため、小説誌も作ることができる。2016年度の日本の一般向けのDTP市場におけるシェアは約8割(BCN調べ)。
* [[ラベルマイティ]] - ジャストシステムが提供するラベル作成ソフト。ラベル・カード・チラシなどが作成できる、単ページのDTPソフト。店舗などのPOP制作に便利なテンプレートが付属した「POP in Shop」と言うパッケージもある。
=== 業務用 ===
大企業ですら業務用のデータ入稿にPowerPoint原稿を利用する場合が多いが<ref>[http://d.hatena.ne.jp/peh01404/20070217/1171683577 Power PointをDTPソフト的に使う人が増えています。] - 印刷通販運営日誌</ref>、[[2021年]]現在、専門のデザイナーが手掛ける商業出版物では普通はAdobe InDesignが使われる<ref name=":0" />。業務用では、2000年代までは[[Quark XPress]]の利用者が多かったが、次第に日本語組版機能が充実していたInDesignにシェアを奪われた。
一方、辞書などの大規模組版や、複雑な数式が含まれた専門書、鉄道の時刻表といった、汎用のDTPソフトでは手に負えない特殊な組版に特化した業務用システムもある。
* [[Adobe FrameMaker]] - マニュアルなどの大規模出版物に向く。
* [[Adobe InDesign]] - DTP業界における事実上の標準ソフト。2020年代からは[[地方紙]]の新聞組版でも使用されている。
* [[MC-Smart]] - [[モリサワ]]提供。表組や数式など、高度な組版機能を必要とする専門書に向く。また自動組版に対応し、大量のページがある辞書などに向く。
* [[Quark XPress]] - 1990年代から2000年代にかけてはDTP業界の事実上の標準ソフトだったが、2010年代以降はその地位をInDesignに取って代わられた。
==== 新聞組版システム ====
「新聞組版」という特殊な業態に特化している。ニュース配信の標準フォーマットである「[[NewsML]]」形式の記事を受け取って自動組版する機能などが必要とされる。
* [[SUPER DIGITORIAL]]/EW - [[NECネクサソリューションズ]]製。書籍など一般の印刷物にも対応する汎用の業務用DTPシステムであるが、新聞特有の紙面レイアウトを組版する機能を持つ。また、[[予想紙]]などの特殊な組版にも対応している。
* 新聞王システム - [[東京機械製作所|東機]]システムサービス製。
* 新聞統合編集システム - 東京ソフトウェア製。
=== フリーソフト ===
オープンソースのフリーソフトがいくつかあるが日本語組版機能への対応は不十分であるため、{{TeX}}以外のソフトは本格的なDTPには向かない。
* [[Apache OpenOffice]] - [[OpenOffice.org]]の直系の後継で、Microsoft Officeの代替ソフト。Linux, Windows, macOSで使える。ただ開発・バグ修正の停滞が常態化しており、兄弟関係にあるLibreOfficeの利用のほうが多い。
* [[Inkscape]] - Adobe Illustratorに相当するデザインソフト。Linux, Unix, Windows, macOSで使える。単ページのDTPで使えるが、縦書き機能は不十分で、CMYKカラーでの出力には非対応。
* [[LibreOffice]] - OpenOffice.orgの事実上の後継で、Microsoft Officeの代替ソフト。Linux, Windows, macOS, Solaris, FreeBSDで使える。Apache OpenOfficeとは兄弟関係である。
**[[LibreOffice Draw]] - [[Microsoft Visio]]に相当するデザインソフト。単ページの簡易DTPにも使える。
**[[LibreOffice Impress]] - Microsoft PowerPointに相当するプレゼンテーションソフト。複数ページの簡易DTPにも使える。
**[[LibreOffice Writer]] - Microsoft Wordに相当するワープロソフト。簡易DTPにも使える。
* [[Scribus]] - オープンソースのDTPソフト。Linuxでも使える。高度な組版機能を持つが、日本語組版機能は最低限のものしか備えておらず、右綴じ・縦書きができない。
* [[TeX|{{TeX}}]] - 数学者が作成したソフトウェア。論文制作を目的としており、数式に関しては非常に高機能である。理系の大学を始めとした研究機関で多用されている。様々なOSで使用することができ、{{LaTeX|a}}, [[Publishing TeX|{{pTeX}}]], [[TeX Live|{{TeX}} Live]]などの派生版も多い。ただしインストール・設定・カスタマイズなどの難易度が高く、それを解説するための書籍も多く販売されている。
=== 販売が終了したソフト ===
* [[Adobe PageMaker]] - Aldus PageMakerとして発売され、1980年代にははDTP業界の事実上の標準ソフトだった。Adobeによる買収後に開発が停滞したため、1990年代にはその地位をQuark XPressに取って代わられた。Adobe InDesignの登場とともに開発を終了した。
* 日本のDTP黎明期から発展期までを支えた業務用ソフト
** AVANAS BookStudio - [[SCREENホールディングス|SCREEN]]製。
** [[EDICOLOR]] - [[キヤノンITソリューションズ]]製。
** EZPS - [[キヤノンITソリューションズ]]製。
** [[HITCAP]] - [[日立製作所]]製。
** UrbanPress - [[NISSHA|ニッシャインターシステムズ]]製。
** [[大地 (DTPシステム)]] - [[ジャストシステム]]製。
== DTP自動組版ソフト ==
* [[SpicyLibraCS]](定型レイアウト自動組版)
* [[SpicyTrad]](バッチ・コマンド自動組版)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[出版]]
* [[版下]]
* [[組版]]
* [[製版]]
* [[印刷]]
* [[デジタル印刷]]
* [[オンデマンド印刷]]
* [[バリアブル印刷]]
* [[電算写植]]
* [[Computer Typesetting System]](CTS)
* [[写研]]
* [[PostScript]]
* [[プリプレス]]
* [[ポストプレス]]
* [[書体]]
* [[フォント]]
* [[コンピューター・トゥ・プレート]](CTP)
* [[クリップアート]]
* [[Lorem ipsum]]
{{Normdaten}}
[[Category:DTP|*]]
[[Category:印刷|DTP]]
[[Category:編集|DTP]] | 2003-04-24T06:51:23Z | 2023-11-27T06:37:09Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/DTP |
7,204 | フランス国立宇宙研究センター | フランス国立宇宙研究センター(フランスこくりつうちゅうけんきゅうセンター、フランス語: Centre national d'études spatiales、略称:CNES、クネス)は、フランスの宇宙開発・研究を行う政府機関である。ヨーロッパ各国が共同で設立した欧州宇宙機関(ESA)で中心的な役割を果たしている。
本部はパリにあり、トゥールーズに研究部門、南米のフランス領ギアナのクールーにギアナ宇宙センターを持ち、アリアンロケットはすべてここから発射される。
第二次世界大戦の終盤以降、ロケットに関するドイツの技術が同盟諸国の関心を集めるようになった。各国は最大限の技術情報を収集し、V2ロケットの開発に加ったドイツ人技術者の協力を要請しようとした。フランスではヴェロニク観測ロケットに結実する最初のロケットを開発する任務が、LRBA(Laboratoire de Recherche Balistiques et aérodynamiques、弾道学・空気力学研究所)に課せられた。科学者も軍人もこの開発に熱意を示した。冷戦、スプートニク衛星の打ち上げ、ド・ゴール将軍の独立主義政策という背景があり、宇宙開発はやがて政府の優先政策の一つになった。1959年に、フランスの宇宙活動を統括するCRS(Comité de Recherche Spatiale、宇宙開発研究委員会)が創設された。同年、航空宇宙産業界によって設立されたSEREB(ミサイル開発管理機関)は、宝石 (Pierres Précieuses) 計画でフランス最初の衛星打上げロケット、「ディアマン」の開発に成功する。ここに至って、真の宇宙開発計画を統括・推進する機関が必要となり、フランス国立宇宙研究センター(CNES)が公共機関として、1961年12月19日に創立される。その一番の使命は、フランスが宇宙大国として米ソに肩を並べることだった。この使命は1965年11月26日にアマギール宇宙センターからフランス初の人工衛星「アステリックス」の打ち上げ成功によって達成される。1961年から1981年に至るまでの期間、CNESは欧州の宇宙開発を索引した。この間、他の欧州国が手をこまねいていたのに対して、CNESは打ち上げロケット、人工衛星、発射設備、運用センター、地上局ネットワーク、研究施設など、宇宙開発計画に不可欠な基幹施設を整備した。これに対応して、フランスには競争力のある活発な宇宙産業が育まれた。80年代、CNESは欧州宇宙機関(ESA)の設立に力を尽くし、その為にアリアンロケットを開発した。そして、ESAは重要な機関になり、多様な国際計画の委託を受けるようになった。CNESはESAに於いてフランスを代表し、それ自体はより実用指向の野心的な国家プログラムに活動の重点を置くようになった。
1974年になると、フランスの宇宙予算の大部分は欧州の宇宙計画に与えられるようになる。結果としてCNESのいくつかの計画(地球観測Géole計画とその衛星 Dialogue、ギアナ宇宙センター、ディアマンB-P4ロケット)が凍結され、国内プログラムも(気象衛星計画メテオサット、アリアンロケット)段階的にESAへ移転された。この時代は、CNESにとって、社会的にも技術的にも困難な時代で、イーブ・シヤル長官とユベール・キュリアン理事長以下の執行部の下で、数年にわたる改革が行われた。1977年には、政府がCNESの優先ミッションについて以下の指針を示した。
1979年12月24日にクールー宇宙センターからアリアン1ロケットが成功裡に打ち上げられ、この目標は達成された。数回の改良を経てアリアン4ロケットに進化し、商業打ち上げシェアの大半を占めるようになった。2003年までに、この第一世代アリアンロケットの打ち上げは144回に上り(内116機がアリアン4ロケット)、並外れた成功率を誇っている。より出力高いアリアン5ロケットが2003年に後継機となった。
SPOT衛星計画を生み出す検討が、トゥールーズスペースセンターで行われた。この計画は、新政策によって主要な計画を凍結され、エンジニア達への代償のようだった。しかし、スポット計画がCNESの重要な計画の一つになった事実から、正しい判断であったと言える。衛星5機が打ち上げられ、1986年に運用が開始した。又、軍用衛星Heliosは、新世代のSPOT衛星との技術協力の恩恵に浴している。
フランス宇宙プログラム、そして欧州プログラムを通じて、ロケットや衛星に係わる技術及び宇宙システム全体の管理技術が産業として成長した。CNESは産業としての強化に貢献し、現在も品質・信頼性、経営管理手法、宇宙技術者育成などに、努力を続けている。
CNESは、アリアンスペース社や欧州宇宙機関(ESA)と協力して5つの分野で活動している。
ロケットや衛星の製造を担当しない場合でも、数多くの宇宙計画の誕生にCNESはかかわっている。ロケットに関しては、アリアンシリーズを計画し、打ち上げ国であるフランスの為に設計と認証を指導している。また欧州宇宙機関(ESA)がプライムコントラクターである新しい開発に取り込む手助けをしている。船舶、航空機、陸上車両が地球上いかなる場所で遭難しても、捜索・救難する目的の国際計画コスパス・サーサットにCNESは参画している。1982年に第一歩を踏み出したコスパス・サーサットは、地球を常時カバーする衛星コンステレーションで形成され、ビーコンが発信する遭難信号を検出する。今後コスパス・サーサットのミッションペイロードが欧州のガリレオ衛星に搭載されれば、性能は改善され、遭難信号をほぼリアルタイムに受信し、信号発信位置も精度数メートルで特定できるようになる。
創設以来CNESは、アトラクション、出版物、展示会、体験活動、人材育成など、多様な教育手段を通して青少年に向けた活発的な啓蒙活動を行っている。科学協会Planete Science、科学技術産業文化センターCCSTI、及び様々な地方組織等と連携して活動している。
トゥールーズ宇宙センターはRangueil-Lespinet地域において、ほぼ50ヘクタールに亘る敷地を有している。航空郵便の歴史上名高いMontaudranに近く、航空宇宙分野の研究施設や大学が点在する巨大複合施設の中核をなしている。ここには航空宇宙分野の専門学校、研究所、企業(EADS アストリウム(EADS-Astrium)、スポット・イマージュ(Spot-Image)、CLSアルゴス(CLS-Argos)、Intespace等)も集っている。トゥールーズ宇宙センターは、ロケットと打ち上げ以外のCNESが統括する研究やプロジェクトの中枢を担っており、DORISなどで衛星の位置把握や測位も行われている。事業内容:
大部分がエンジニアと管理職である1500人の職員を擁している。
ギアナ宇宙センターは1964年にフランス領ギアナのクールーに設置された。欧州の宇宙港と呼ばれ、ここからアリアンロケット(ソユーズとヴェガロケットも)が宇宙に向けて送り出されている。信頼性と安全性に優れ、稼動力が高い宇宙基地として、CNESはESAおよびにアリアンスペース社にギアナ宇宙センターを提供し、フランスの名において施設と職員の安全を保障している。ギアナ宇宙センターは、赤道に近く、絶好の地理的条件を満たしている。地球の回転速を利用して東方向へ打ち上げができ、又北方向へ打ち上げた場合4000キロまで海上を飛行するのでリスクも最小限にとどまる。
ロケット局は、1974年のBretigny-sur-Orgeセンターの閉差に伴って、新しい町エヴリーに移転した。アリアンロケットの開発を請負い、アリアンスペースに代わって、工業的製造段階をサポートする。ヴェガロケットの第一段を受け持ち、ギアナにおけるソユーズの打ち上げ台も担当する。また、次世代の打ち上げロケットや推進システムを研究し、将来に備えている。
CNESはまた、未確認大気宇宙現象研究グループ、通称GEIPANという機関を設立している。アメリカ空軍によるプロジェクトブルーブック亡き後、UFO(フランスではOVNIという)に関する研究及び調査を行っている現在世界で唯一の国の機関である。調査結果はホームページ上で公開されている。
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CNESMAGはフランス宇宙研究センターの広報季刊紙で、仏英両各国語によって記載。CNESホームページよりアクセス出来る。 | [
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[[File:Ariane42P rocket.png|thumb|アリアン4ロケット]]
'''フランス国立宇宙研究センター'''(フランスこくりつうちゅうけんきゅうセンター、{{lang-fr|Centre national d'études spatiales}}、略称:CNES、'''クネス''')は、[[フランス]]の宇宙開発・研究を行う政府機関である。[[ヨーロッパ]]各国が共同で設立した[[欧州宇宙機関]](ESA)で中心的な役割を果たしている。
本部は[[パリ]]にあり、[[トゥールーズ]]に研究部門、南米の[[フランス領ギアナ]]の[[クールー (フランス領ギアナ)|クールー]]に[[ギアナ宇宙センター]]を持ち、[[アリアン]]ロケットはすべてここから発射される。
== フランス国立宇宙研究センターの歩み ==
=== 初期(1961年 - 1981年) ===
[[第二次世界大戦]]の終盤以降、ロケットに関する[[ドイツ]]の技術が同盟諸国の関心を集めるようになった。各国は最大限の技術情報を収集し、[[V2ロケット]]の開発に加ったドイツ人技術者の協力を要請しようとした。フランスでは[[ヴェロニク (ロケット)|ヴェロニク]][[観測ロケット]]に結実する最初のロケットを開発する任務が、LRBA(Laboratoire de Recherche Balistiques et aérodynamiques、[[弾道学]]・[[空気力学]]研究所)に課せられた。科学者も軍人もこの開発に熱意を示した。[[冷戦]]、[[スプートニク1号|スプートニク衛星]]の打ち上げ、[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]将軍の独立主義政策という背景があり、宇宙開発はやがて政府の優先政策の一つになった。1959年に、フランスの宇宙活動を統括するCRS(Comité de Recherche Spatiale、宇宙開発研究委員会)が創設された。同年、航空宇宙産業界によって設立された[[SEREB]](ミサイル開発管理機関)は、宝石 (Pierres Précieuses) 計画でフランス最初の衛星打上げ[[ロケット]]、「[[ディアマンロケット|ディアマン]]」の開発に成功する。ここに至って、真の宇宙開発計画を統括・推進する機関が必要となり、フランス国立宇宙研究センター(CNES)が公共機関として、1961年12月19日に創立される。その一番の使命は、フランスが宇宙大国として米ソに肩を並べることだった。この使命は1965年11月26日に[[アマギール|アマギール宇宙センター]]からフランス初の人工衛星「[[アステリックス (人工衛星)|アステリックス]]」の打ち上げ成功によって達成される。1961年から1981年に至るまでの期間、CNESは欧州の宇宙開発を索引した。この間、他の欧州国が手をこまねいていたのに対して、CNESは打ち上げロケット、[[人工衛星]]、[[射場|発射設備]]、[[ミッションコントロールセンター|運用センター]]、地上局ネットワーク、研究施設など、宇宙開発計画に不可欠な基幹施設を整備した。これに対応して、フランスには競争力のある活発な宇宙産業が育まれた。80年代、CNESは[[欧州宇宙機関]](ESA)の設立に力を尽くし、その為に[[アリアン]]ロケットを開発した。そして、ESAは重要な機関になり、多様な国際計画の委託を受けるようになった。CNESはESAに於いてフランスを代表し、それ自体はより実用指向の野心的な国家プログラムに活動の重点を置くようになった。
=== 宇宙利用の発展(1980年 - 1995年) ===
1974年になると、フランスの宇宙予算の大部分は欧州の宇宙計画に与えられるようになる。結果としてCNESのいくつかの計画(地球観測Géole計画とその衛星 Dialogue、[[ギアナ宇宙センター]]、ディアマンB-P4ロケット)が凍結され、国内プログラムも([[気象衛星]]計画[[メテオサット]]、アリアンロケット)段階的にESAへ移転された。この時代は、CNESにとって、社会的にも技術的にも困難な時代で、イーブ・シヤル長官とユベール・キュリアン理事長以下の執行部の下で、数年にわたる改革が行われた。1977年には、政府がCNESの優先ミッションについて以下の指針を示した。
* 早急にアリアンロケットを実証し、[[欧州宇宙機関]]において製造を開始する。CNESは計画の3分の2の資金を分担し、代理人として開発と製造を指揮する。
1979年12月24日に[[クールー宇宙センター]]から[[アリアン1]]ロケットが成功裡に打ち上げられ、この目標は達成された。数回の改良を経て[[アリアン4]]ロケットに進化し、商業打ち上げシェアの大半を占めるようになった。2003年までに、この第一世代アリアンロケットの打ち上げは144回に上り(内116機がアリアン4ロケット)、並外れた成功率を誇っている。より出力高い[[アリアン5]]ロケットが2003年に後継機となった。
* 地球観測国家プログラムをCNES内部で検討する。
[[SPOT]]衛星計画を生み出す検討が、[[トゥールーズ]]スペースセンターで行われた。この計画は、新政策によって主要な計画を凍結され、エンジニア達への代償のようだった。しかし、[[スポット]]計画がCNESの重要な計画の一つになった事実から、正しい判断であったと言える。衛星5機が打ち上げられ、1986年に運用が開始した。又、軍用衛星Heliosは、新世代のSPOT衛星との技術協力の恩恵に浴している。
* 市場におけるフランスの優位性を確保する。
フランス宇宙プログラム、そして欧州プログラムを通じて、ロケットや衛星に係わる技術及び宇宙システム全体の管理技術が産業として成長した。CNESは産業としての強化に貢献し、現在も品質・信頼性、経営管理手法、宇宙技術者育成などに、努力を続けている。
* ドイツとの協力による世界初の[[通信衛星]]Symphonie計画は成功したが、以後CNESはフランス一国レベルではなく、欧州の[[電気通信]]([[携帯電話]]、[[テレビ]]、[[データ通信]])計画であるECSプログラムを支援することによって、欧州としてこの分野に貢献する。
== 5つの主要なプログラム ==
CNESは、[[アリアンスペース]]社や[[欧州宇宙機関]](ESA)と協力して5つの分野で活動している。
#[[宇宙]]へのアクセス
#地球観測
#宇宙利用(測位、航法、[[通信]]、[[放送]])
#科学技術・革新
#[[安全保障]]・[[防衛]]
ロケットや衛星の製造を担当しない場合でも、数多くの宇宙計画の誕生にCNESはかかわっている。ロケットに関しては、[[アリアン]]シリーズを計画し、打ち上げ国であるフランスの為に設計と認証を指導している。また[[欧州宇宙機関]](ESA)がプライムコントラクターである新しい開発に取り込む手助けをしている。船舶、[[航空機]]、陸上車両が地球上いかなる場所で遭難しても、捜索・救難する目的の国際計画{{仮リンク|コスパス・サーサット|en|Cospas-Sarsat}}にCNESは参画している。1982年に第一歩を踏み出したコスパス・サーサットは、地球を常時カバーする[[衛星コンステレーション]]で形成され、[[ビーコン]]が発信する[[遭難信号]]を検出する。今後コスパス・サーサットのミッション[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]が欧州の[[ガリレオ衛星]]に搭載されれば、性能は改善され、[[遭難信号]]をほぼリアルタイムに受信し、信号発信位置も精度数メートルで特定できるようになる。
== 青少年向け活動 ==
創設以来CNESは、アトラクション、出版物、展示会、体験活動、人材育成など、多様な教育手段を通して青少年に向けた活発的な啓蒙活動を行っている。科学協会Planete Science、科学技術産業文化センターCCSTI、及び様々な地方組織等と連携して活動している。
== 技術センター ==
=== トゥールーズ宇宙センター ===
[[トゥールーズ]]宇宙センターはRangueil-Lespinet地域において、ほぼ50ヘクタールに亘る敷地を有している。[[航空郵便]]の歴史上名高いMontaudranに近く、航空宇宙分野の研究施設や大学が点在する巨大複合施設の中核をなしている。ここには航空宇宙分野の専門学校、研究所、企業([[EADS アストリウム]](EADS-Astrium)、[[スポット・イマージュ]](Spot-Image)、CLSアルゴス(CLS-Argos)、Intespace等)も集っている。[[トゥールーズ]]宇宙センターは、[[ロケット]]と打ち上げ以外のCNESが統括する研究やプロジェクトの中枢を担っており、[[DORIS (衛星測位システム)|DORIS]]などで衛星の位置把握や測位も行われている。事業内容:
#計画のマネージメント
#技術研究
#軌道上の衛星の[[位置]]・[[姿勢制御]]
#[[情報処理]]・解析
#サポート(運営管理、ロジスティック、[[通信]])
大部分がエンジニアと管理職である1500人の職員を擁している。
=== ギアナ宇宙センター ===
{{main|ギアナ宇宙センター}}
ギアナ宇宙センターは1964年に[[フランス領ギアナ]]のクールーに設置された。欧州の宇宙港と呼ばれ、ここからアリアンロケット([[ソユーズ2|ソユーズ]]と[[ヴェガロケット]]も)が宇宙に向けて送り出されている。信頼性と安全性に優れ、稼動力が高い宇宙基地として、CNESはESAおよびに[[アリアンスペース]]社にギアナ宇宙センターを提供し、フランスの名において施設と職員の安全を保障している。[[ギアナ宇宙センター]]は、[[赤道]]に近く、絶好の地理的条件を満たしている。地球の回転速を利用して東方向へ打ち上げができ、又北方向へ打ち上げた場合4000キロまで海上を飛行するのでリスクも最小限にとどまる。
=== エヴリー・ロケット局 ===
ロケット局は、1974年のBretigny-sur-Orgeセンターの閉差に伴って、新しい町[[エヴリー]]に移転した。アリアンロケットの開発を請負い、[[アリアンスペース]]に代わって、工業的製造段階をサポートする。[[ヴェガロケット]]の第一段を受け持ち、ギアナにおける[[ソユーズ]]の打ち上げ台も担当する。また、次世代の打ち上げロケットや推進システムを研究し、将来に備えている。
== GEIPAN ==
CNESはまた、未確認大気宇宙現象研究グループ、通称GEIPANという機関を設立している。[[アメリカ空軍]]によるプロジェクトブルーブック亡き後、[[UFO]](フランスではOVNIという)に関する研究及び調査を行っている現在世界で唯一の国の機関である。調査結果は[http://www.geipan.fr ホームページ]上で公開されている。
== 歴代最高責任者 ==
=== 理事長 ===
* Pierre Auger(ピェール・オージェ):1961年-1962年
* Jean Coulomb(ジャン・クーロン):1962年-1967年
* Jean-francois Denisse(ジャンフランスア・デニス):1967年-1973年
* Maurice Levy(モーリス・レーヴィ):1973年-1976年
* Hubert Curien(ユベール・キュリアン):1976年-1984年
* Jacques-Louis Lions(ジャック・ルイ・リオン):1984年-1992年
* Rene Pellat(ルネ・ペーラ):1992年-1995年
* Andre Lebeau(アンドレ・ルボー):1995年-1996年
* Alain Bensoussan(アラン・ベンスサン):1996年-2003年
* Yannick d'Escatha(ヤニック・デスカタ):2003年-
=== 長官 ===
* Robert Aubiniere(ロベル・オビニェール):1962年-1973年
* Michel Bignier(ミッシェル・ビニェ)1974年-1976年
* Yves Sillard(イーブ・シヤル)1976年-1982年
* Frederic d'Allest(フレデリック・ダレスト)1982年-1989年
* Jean-Marie Luton(ジャンマリ・リュトン)1989年-1990年
* Jean-Daniel Levi(ジャンダニェル・レヴィ)1990年-1996年
* Gerard Brachet(ジェラール・ブラッシェ)1997年-2002年
長官席が空席になり、その後、2005年に政令によって廃止された。
=== 長官代理 ===
* Michel Lefevre(ミッシェル・ルフェーブル):2003年-2005年
* Stephane Janichewski(ステファン・ジャニチェフスキ):2006年-
== 出版物 ==
CNESMAGはフランス宇宙研究センターの広報季刊紙で、仏英両各国語によって記載。CNESホームページよりアクセス出来る。
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|CNES}}
* [[宇宙機関の一覧]]
* [[フランスの宇宙開発]]
== 外部リンク ==
* [http://www.cnes.fr/web/455-cnes-en.php CNES] {{En icon}}
* [http://cnes-japon.typepad.fr/japonais/ CNES駐日事務所]
{{宇宙飛行}}{{宇宙機関}}
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[[Category:欧州宇宙機関]]
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7,205 | アリアンスペース | アリアンスペース (Arianespace) は、欧州各国がArianeGroup(英語版)で開発・実用化したアリアンロケットの打上げを実施するために共同で設立した企業である。
欧州12カ国の53社が出資して1980年3月26日に設立した。企業の国籍別の出資比率は、フランス57%、ドイツ19%、イタリア7%、ベルギー4%などとなっており、本社は出資比率が最大のフランス、クールクーロンヌ(英語版)におかれる。
アリアンスペースはロケット打ち上げ専門の会社であり、製造は別の会社ArianeGroupが行っている。ここが、ロケットの製造から打ち上げまでを一手に引き受けている三菱重工業などとは大きく違うところである。
アリアンロケットシリーズ、特にアリアン4の商業ベースの成功により、世界の人工衛星打ち上げにおいて約半分のシェアを持つようになった。その後、ロシア・中国・日本の商用打上げ市場への参入、アメリカの民間企業による有力なロケットの開発など競合が激しくなってきたため、より大型のアリアン5の開発と運用を開始し、国際的な商用打ち上げの受注競争を勝ち抜き続けている。
また、ロシア宇宙機関との合弁企業スターセム社を通じて、ソユーズロケットで中型衛星の打上げも行っており、すでに2000年にはカザフスタンのバイコヌール宇宙基地からESAの科学衛星クラスター2×4基の打上げに成功している。また、ギアナ宇宙センターにソユーズの打上げ施設を建設し2011年から打ち上げを行っている。さらに、主力のアリアンを補完する打上げシステムとして、小型・低軌道衛星用のヴェガの商用打上げを2012年から開始した。
2007年4月に、日本の三菱重工業およびアメリカのシーローンチと、ロケットのバックアップ使用についての協定を結んだ。これはどこかの会社が引き受けた人工衛星打ち上げが、何らかの理由で打ち上げ延期を余儀なくされた場合、大幅な遅れを避けるために他の会社が各々の持っているロケットで打ち上げるものであった。
2022年4月、アリアンスペースとAmazon.comは、開発中のアリアン6ロケットで「プロジェクト・カイパー」の低軌道衛星を18回打ち上げる契約したことを発表した。
アリアンスペースの株主は10ヶ国、24にわたる。
全部で99.99%
経営陣の構成:
支店
2006年7月1日の時点でフランスの本社、フランス領ギアナの打ち上げセンター、ワシントンD.C、シンガポール、東京で271人の従業員がいる。
2003年、7月アリアンスペースはボーイング・ローンチ・サービシーズと三菱重工とローンチ・サービス・アライアンスを締結した。ローンチ・サービス・アライアンスはアリアンスペース社のアリアンロケット、ボーイング社のシーローンチ、三菱重工のH-IIAロケットで構成される。顧客の合意があればこれらの3機種のロケットを相互に最大限に柔軟的に活用する事により軌道へ投入する事を目指す。これはエアラインの"コードシェアリング"に相当するものである。 | [
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] | アリアンスペース (Arianespace) は、欧州各国がArianeGroupで開発・実用化したアリアンロケットの打上げを実施するために共同で設立した企業である。 | {{基礎情報 会社
| 社名 = アリアンスペース
| 英文社名 = Arianespace
| ロゴ =
| 画像 = [[ファイル:Ariane 5 Mission 21.jpg|200px|アリアン5ロケット]]
| 画像説明 = [[アリアン5]]ロケット
| 種類 = 株式会社
| 略称 =
| 国籍 = {{FRA}}
| 本社所在地 = {{仮リンク|クールクーロンヌ|en|Courcouronnes}}
| 設立 = [[1980年]]
| 業種 = 航空宇宙産業
| 事業内容 = [[ロケット]]打上
| 代表者 = [https://www.arianespace.com/contact/stephane-israel-bio/ Stéphane Israël] CEO
| 従業員数 = 220人(2022年)
| 外部リンク = [https://www.arianespace.com/ www.arianespace.com]
}}
'''アリアンスペース''' ('''Arianespace''') は、欧州各国が{{Ill2|アリアングループ|en|ArianeGroup|label=ArianeGroup}}で開発・実用化した[[アリアン]]ロケットの打上げを実施するために共同で設立した企業である。
==概要==
欧州12カ国の53社が出資して[[1980年]]3月26日に設立した。企業の国籍別の出資比率は、フランス57%、ドイツ19%、イタリア7%、ベルギー4%などとなっており、本社は出資比率が最大のフランス、{{仮リンク|クールクーロンヌ|en|Courcouronnes}}におかれる。
アリアンスペースはロケット打ち上げ専門の会社であり、製造は別の会社ArianeGroupが行っている。ここが、ロケットの製造から打ち上げまでを一手に引き受けている[[三菱重工業]]などとは大きく違うところである。
アリアンロケットシリーズ、特に[[アリアン4]]の商業ベースの成功により、世界の[[人工衛星]]打ち上げにおいて約半分のシェアを持つようになった<ref>https://www.jaxa.jp/article/interview/vol29/index_j.html</ref>。その後、ロシア・中国・日本の商用打上げ市場への参入、アメリカの民間企業による有力なロケットの開発など競合が激しくなってきたため、より大型の[[アリアン5]]の開発と運用を開始し、国際的な商用打ち上げの受注競争を勝ち抜き続けている。
また、[[ロシア連邦宇宙局|ロシア宇宙機関]]との合弁企業[[スターセム]]社を通じて、[[ソユーズ (ロケット)|ソユーズロケット]]で中型衛星の打上げも行っており、すでに[[2000年]]には[[カザフスタン]]の[[バイコヌール宇宙基地]]からESAの科学衛星[[クラスター2]]×4基の打上げに成功している。また、[[ギアナ宇宙センター]]にソユーズの打上げ施設を建設し[[2011年]]から打ち上げを行っている。さらに、主力のアリアンを補完する打上げシステムとして、小型・[[低軌道]]衛星用の[[ヴェガロケット|ヴェガ]]の商用打上げを[[2012年]]から開始した。
[[2007年]]4月に、日本の三菱重工業およびアメリカの[[シーローンチ]]と、ロケットの[[バックアップ]]使用についての協定を結んだ。これはどこかの会社が引き受けた人工衛星打ち上げが、何らかの理由で打ち上げ延期を余儀なくされた場合、大幅な遅れを避けるために他の会社が各々の持っているロケットで打ち上げるものであった<ref>http://www.mhi.co.jp/news/story/200704244575.html</ref>。
2022年4月、アリアンスペースと[[Amazon.com]]は、開発中の[[アリアン6|アリアン6ロケット]]で「プロジェクト・カイパー」の低軌道衛星を18回打ち上げる契約したことを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=Amazon、衛星打ち上げ ブルーオリジンなど3社と契約 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN05C190V00C22A4000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-04-05 |accessdate=2022-04-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=Amazon launch contracts drive changes to launch vehicle production |url=https://spacenews.com/amazon-launch-contracts-drive-changes-to-launch-vehicle-production/ |website=SpaceNews |date=2022-04-05 |accessdate=2022-04-09 |language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |title=Arianespace signs unprecedented contract with Amazon for 18 Ariane 6 launches to deploy Project Kuiper constellation |url=https://www.arianespace.com/press-release/arianespace-signs-unprecedented-contract-with-amazon-for-18-ariane-6-launches-to-deploy-project-kuiper-constellation/ |website=Arianespace |accessdate=2022-04-09 |language=en-US}}</ref>。
== 組織 ==
アリアンスペースの株主は10ヶ国、24にわたる。<ref>{{citeweb|title=Arianespace shareholders represent scientific, technical, financial and political entities from 10 different European countries.|url=http://www.arianespace.com/site/about/shareholders_sub_index.html|publisher=arianespace.com|accessdate=2008-03-07}}</ref>
*[[フランス国立宇宙研究センター|CNES]] (34%)
*[[エアバス・グループ|EADS]] (30%)
{| class="wikitable"
|-
! 国
! 株主
! 資本
|-
| {{BEL}}
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|-
| {{DEN}}
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| ''取るに足りない''
|-
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|-
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<small>全部で99.99%</small>
経営陣の構成:
{| class="wikitable"
! 職
! 氏名
|-
| CEO & 議長
| Jean-Yves Le Gall
|-
| 品質部門の副社長
| Gérard Gradel
|-
| 計画部門の上級副社長
| Patrick Bonguet
|-
| 販売部門の上級副社長
| Philippe Berterottière
|-
| 総合秘書、金融部門上級副社長
| Françoise Bouzitat
|-
| 技術部門の上級副社長
| Édouard Perez
|}
'''支店'''
{| class="wikitable"
! 場所
! 支店長
|-
| [[エヴリー]], フランス
| Jean-Yves Le Gall
|-
| アメリカ合衆国
| Clayton Mowry
|-
| [[東京]], 日本
| Jean-Louis Claudon
|-
| シンガポール
| Richard Bowles
|}
2006年7月1日の時点でフランスの本社、フランス領ギアナの打ち上げセンター、ワシントンD.C、シンガポール、東京で271人の従業員がいる。
== ローンチ・サービス・アライアンス ==
2003年、7月アリアンスペースは[[ボーイング・ローンチ・サービシーズ]]と[[三菱重工]]と'''ローンチ・サービス・アライアンス'''を締結した。ローンチ・サービス・アライアンスはアリアンスペース社の[[アリアン|アリアンロケット]]、ボーイング社の[[シーローンチ]]、三菱重工の[[H-IIAロケット]]で構成される。顧客の合意があればこれらの3機種のロケットを相互に最大限に柔軟的に活用する事により軌道へ投入する事を目指す。これは[[航空会社|エアライン]]の"[[コードシェア便|コードシェアリング]]"に相当するものである<ref>[http://www.arianespace.com/site/launcher/launch_services_alliance.html Launch Services Alliance]</ref><ref>[http://www.spaceref.com/news/viewpr.html?pid=16435 Launch Services Alliance Holds First Press Conference]</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
==関連項目==
*[[欧州宇宙機関]] (ESA)
*[[フランス国立宇宙研究センター]] (CNES)
*[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA)
*[[宇宙開発]]
*[[ヴェガロケット]]
*[[ソユーズ]]
==外部リンク==
*[http://www.arianespace.com/ Arianespace] {{En icon}}
*[http://www.esa.int/ ESA] {{En icon}}
*[https://cnes.fr/ CNES] {{Ref-fr}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ありあんすへす}}
[[Category:欧州宇宙機関]]
[[Category:フランスの多国籍企業]]
[[Category:航空宇宙企業]]
[[Category:フランスの航空宇宙企業]]
[[Category:ロケット打ち上げ企業]] | 2003-04-24T09:53:08Z | 2023-10-07T03:12:27Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9 |
7,207 | JST | JST
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] | JST 日本標準時
科学技術振興機構
日本圧着端子製造株式会社
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JST (企業) 東京都江東区に本社を置く、橋梁、鉄塔などの設計、販売、および不動産事業を行う、。関連会社は日本鉄塔工業。
愛知県名古屋市中区に本社を置く旅行会社、株式会社ジェイエスティ。
ジェイ・ストーム(J Storm)
JST (サッカー) - 奈良県大和郡山市のサッカークラブ ほか。 | '''JST'''
*[[日本標準時]] (Japan Standard Time)
*[[科学技術振興機構]] (Japan Science and Technology Agency)
*[[日本圧着端子製造|日本圧着端子製造株式会社]] (Japan Solderless Terminal)
*[[ジェットスター航空]]の[[国際民間航空機関|ICAO]][[航空会社コード]]。
*[[JST (企業)]] [[東京都]][[江東区]]に本社を置く、[[橋梁]]、[[鉄塔]]などの設計、販売、および不動産事業を行う、[http://www.jsteam.jp/]。関連会社は日本鉄塔工業。
*[[愛知県]][[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]]に本社を置く[[旅行会社]]、[http://www.jstgroup.com 株式会社ジェイエスティ]。
*[[ジェイ・ストーム]]('''J St'''orm)
*[[JST (サッカー)]] - [[奈良県]][[大和郡山市]]のサッカークラブ
ほか。
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/JST |
7,208 | 日本標準時 | 日本標準時(にほんひょうじゅんじ、英: Japan Standard Time、略語:JST)は、総務省所管の国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)の原子時計で生成・供給される協定世界時(UTC)を9時間(東経135度分の時差)進めた時刻(すなわちUTC+9)をもって、日本において標準時としたものである。同機構が決定するUTCは「UTC(NICT)」と称され、、国際度量衡局が決定する協定世界時(UTC)との差が±10ナノ秒以内であることを目標として調整・管理されている。単に日本時間と呼ばれこともある。NICTが通報する標準時は、日本全国で日本放送協会(NHK)などの放送局やNTT(117)の時報などに用いられている.
一方、中央標準時(ちゅうおうひょうじゅんじ、英: Japan Central Standard Time、略語:JCST)は、文部科学省所管の大学共同利用機関法人自然科学研究機構(NINS)国立天文台が決定し、現実の信号として示す時刻で、水沢VLBI観測所の天文保時室でセシウム原子時計が運転されている。なお、国立天文台が編纂する「理科年表」では中央標準時について中央標準時=協定世界時+9 としている
日本標準時(JST)と協定世界時(UTC)との差を示す場合などには、「12:31:40 (UTC+0900)」(日本標準時で12時31分40秒の場合)などと表記される。
日本における「標準時」に関する法令は十分に整理されておらず、法令上「標準時」と「中央標準時」という名称は現れるが、「日本標準時」という名称は現れない。
日本国の法令では、標準時の定義について「東経135度の子午線の時」をもって日本における一般の標準時と定め、その標準時を中央標準時と称すること以外に具体的な定めはないとのこと。
ただし、標準電波の発射および標準時の通報に関しては、総務省国際戦略局技術政策課がその事務をつかさどる(この所掌事務は、旧電気通信省から旧電波監理委員会、旧郵政省を経て総務省に引き継がれている)。さらに、郵政大臣(総務大臣の前身)が法令に基づいて発した郵政省告示により、標準電波で通報される標準時は協定世界時を9時間進めた時刻とされる(この定めは、1971年(昭和46年)の郵政省告示(1972年(昭和47年)1月1日施行)からである)。なお、NICTは法令と告示に基づいて標準電波を発射し、および標準時を通報する業務を行うかもしれない。
また、中央標準時の決定および現示に関しては、国立天文台がその事務を目的の一部として設置されている(この設置目的は、1955年(昭和30年)に改正された旧東京大学東京天文台の目的から引き継がれている)。したがって中央標準時は、法令に基づいて国立天文台が中央標準時として決定・現示する時刻と言えるかもしれない。
NICTが通報する標準時と、国立天文台が決定・現示する中央標準時との関係については、どちらの機関も国際原子時の作成に寄与する原子時計を運転し、それらの時計で決定する協定世界時(UTC)+9時間をそれぞれ標準時、中央標準時としているが、いかに不確かさが小さい(正確度と精度に優れた)時計であっても、同一の時計ではないので完全に時刻が一致することはない。これについて、NICTを所管する総務省と国立天文台を所管する文部科学省は、共同告示により、NICTが通報する標準時については国立天文台の決定する中央標準時により、その偏差を算出し、これをNICTにおいて公表するとしている。
なお、過去の関係やその経緯については、#標準時の通報の歴史 を参照。
2022年現在、法令に基づき、JSTに1時間を加えたタイムゾーンを採用する夏時間(サマータイム)は実施されていない。ただし、過去には、1948年から1951年、5月(1949年のみ4月)第1土曜日から9月第2土曜日までの間、夏時刻法に基づきサマータイムが施行されていた。なお、2004年 - 2006年(2006年で終了)の7月 - 8月に北海道札幌市で試行されたいわゆる「北海道サマータイム」は、標準時を変えずに始業・終業時刻を1時間早める試みで、通常の意味での夏時間ではない。
以下の標準時は、日本標準時(JST)と同じく協定世界時(UTC)を9時間進めた時刻である(厳密には、基準とする原子時計が異なるため、わずかな不確かさ(誤差)はある)。
日本の標準時に関して初めて制定された法令は、本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年勅令第51号、1886年(明治19年)7月13日公布)である。この勅令では、グリニッジ天文台子午儀の中心を通る子午線(グリニッジ子午線)を本初子午線(経度0度)とし、東西それぞれ180度で、東を正、西を負として表すことを定めたうえ、東経135度(GMT+9:00)の時刻を日本の標準時(「本邦一般ノ標準時」)と規定した。この日本の標準時に関する部分は1888年(明治21年)1月1日から適用された。
その後、標準時ニ関スル件(明治28年勅令第167号、1895年(明治28年)12月28日公布、1896年(明治29年)1月1日施行)が制定され、第1条において東経135度の標準時の呼称を「中央標準時」と、第2条において東経120度(GMT+8:00)の時刻を「西部標準時」とそれぞれ規定した。後者は八重山列島・宮古列島と日本統治下の台湾・澎湖諸島に適用された。中央標準時と西部標準時との時差は1時間であった。
御 名 御 璽
明治二十八年十二月二十七日
內閣總理大臣 侯爵󠄂伊 藤󠄁 博󠄁 文󠄁 文󠄁 部 大 臣 侯爵󠄂西園寺公󠄁望󠄁
勅令第百六十七號
第一條 帝󠄁國從來ノ標準時ハ自今之ヲ中央標準時ト稱󠄁ス第二條 東經百二十度ノ子午線ノ時ヲ以テ臺灣及󠄁澎湖列島竝ニ八重山及󠄁宮古列島ノ標準時ト定メ之ヲ西部標準時ト稱󠄁ス第三條 本令ハ明治二十九年一月一日ヨリ施行ス
この「二つの日本時間」は41年あまり続いたが、明治二十八年勅令第百六十七号標準時ニ関スル件中改正ノ件(昭和12年勅令第529号、1937年(昭和12年)9月25日公布、同年10月1日施行)という改正勅令により、前の明治28年勅令第167号の第2条(西部標準時に関する条)の条文が削除され、再び日本の標準時はひとつとなった。なお、この改正では第1条(中央標準時に関する条)については改正されなかったため、「中央標準時」との呼称は維持された。西部標準時が年半ば(9月)で廃止された理由は、台湾・澎湖諸島ならびに八重山・宮古列島において、政治、経済、交通その他諸般の点に鑑み中央標準時に依る必要があることによるとされる。1954年(昭和29年)ごろ、中央標準時の中央を除くことや明治以来の時関連の法令改正案が検討されていたようだが、日の目を見ることはなかった。
この2つの勅令は現在も政令として有効であり(文部科学省所管)、「中央標準時」が日本の標準時の法令上の正式名称とされる。現行法上、上記勅令以外にも、電波法施行規則、無線局運用規則や国立大学法人法施行規則において用いられている。
ちなみに、この改正が行われた当時は本土の標準時とは別に、1920年ヴェルサイユ条約・パリ協定で日本の委任統治領となった、南洋諸島の標準時が1919年2月1日より施行されており、南洋群島東部標準時が日本の中央標準時+2時間(東経165度線)、南洋群島中部標準時で日本の中央標準時+1時間(東経150度線)、南洋群島西部標準時は日本の中央標準時と同じであった。1937年に南洋群島東部標準時(中央標準時+1時間)・南洋群島西部標準時(中央標準時と同じ)の2つに再編している。1945年の敗戦による統治権の放棄により廃止した。なお、当時日本の施政下にあった千島列島は東端が東経156度であるが、全域で中央標準時が用いられていた。
FreeBSDなど一部のUnix系オペレーティングシステム (OS) では、1999年初頭までインストール時にタイムゾーンとして「Japan」を選択すると、選択肢として「Most Locations」と「South Ryukyu Islands」の2つの選択肢が現れ、「South Ryukyu Islands」を選ぶとタイムゾーンとして西部標準時(UTC+8)が設定される問題が存在した。
これはこれらのOSがタイムゾーン設定の元データとして利用しているtzdataに誤って西部標準時に関するデータが含まれていたためである。これの元は「The International Atlas (3rd edition)」(Thomas G. Shanks、1991年)という文献において、「西部標準時が現在も石垣市を含む地域で使用されている」旨の誤った記載が行われていることが原因であった。
このことが雑誌「UNIX USER」(ソフトバンク)で取り上げられた結果、1999年にはtzdataから西部標準時が削除され、その後のバージョンでは「South Ryukyu Islands」という選択肢はなくなった。2006年4月1日にリリースされた、エイプリルフール版のFreeBSD 2.2.9-RELEASEでは、このバグがわざと残されている。
標準時の通報や、有線/無線報時に関する歴史は次の年表の経過をたどる。
NICTが運用する小金井局の18台のセシウム原子時計および4台の水素メーザー原子時計の時刻を1日1回平均・合成することによって協定世界時(UTC)を生成し、これを9時間進めたものが日本標準時(JST)となる。加えて週1、2回の頻度で、ストロンチウム光格子時計による標準時の周波数調整、後述する分散局(神戸副局、おおたかどや山送信所、はがね山送信所)の原子時計と人工衛星を仲介した較正を行っている。
なお、この協定世界時(UTC)は、国際度量衡局(BIPM)が決定する協定世界時(UTC)との差が±50ナノ秒以上にならないように決定される。このようにして決定された日本標準時(JST)は、標準電波(JJY)やNTPサーバ、電話回線を通じて供給されている(参考:国立天文台、産業技術総合研究所計量研究所)。2006年2月7日から、セシウム原子時計に加えて水素メーザー原子時計を使用することなどにより、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±50ナノ秒以内から±10ナノ秒以内に向上した。さらに、セシウム原子時計や水素メーザー原子時計を3系統に分けて相互比較・データ合成を行うことで信頼性の向上ならびに、日本標準時(JJY)の冗長化に寄与している。2021年(令和3年)8月から、週1、2回の頻度で、ストロンチウム光格子時計による標準時の周波数調整を開始した。標準時システムに光格子時計を加えることで、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±20ナノ秒以内から±5ナノ秒以内に向上された、とされる。
2018年(平成30年)6月10日から、日本標準時の冗長化を目的に神戸市西区の未来ICT研究所内に分散局として神戸副局を設置した。また、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計も分散局として、人工衛星を仲介した3つの分散局データを合成して日本標準時(JST)をバックアップ供給する体制に移行した。神戸副局にはセシウム原子時計(CS)5台と水素メーザー時計2台及び送信所との高精度衛星時刻比較システムなど日本標準時生成に必要な基本機能を備え、小金井本部と並行して、標準時に準じた常時合成原子時(神戸時系)を生成する。
また本部の供給サービスがダウンした場合に備え、小金井本部同様に日本標準時を供給できるようにするほか、NTPサーバー及び光テレホンJJYシステムのバックアップ、標準電波送信所の周波数調整機能を整備しているという。今後は小金井と神戸両局の相互比較・データ合成を行うことで更に精度向上に寄与するほか、神戸副局からも日本標準時が供給できる体制がとれるようになるという。
日本標準時 (JST) を国内外に広く供給するために、NICTは標準電波を発信している。この波により送信されている周波数の標準と標準時の信号は、国家標準であるセシウムビーム型原子周波数標準機や、水素メーザ型、実用セシウムビーム型原子時計群を用いたものよりも高い精度に保たれている。なお、標準電波の発信は電離層の影響を受けにくい長波を使用しているため、24時間の周波数比較平均値では 1×10 の精度を得られると発表されている。
1999年6月10日に「おおたかどや山標準電波送信所」(福島県田村市都路町 大鷹鳥谷山)が開局した。しかし、九州沖縄方面では受信しにくい現象が起こるなどで日本全国をカバーできなかったため、2001年10月1日には佐賀県佐賀市富士町の羽金山に「はがね山標準電波送信所」を開局し、これにより日本国内の広い範囲で標準電波が受信ができるようになった。
小金井局・神戸副局で作成した日本標準時の情報は、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計の遠隔監視、時間比較により日本標準時供給の精度維持に活用される。
いわゆる電波時計は、この標準電波を受信し、自動で時刻を合わせる時計である。
NICTはインターネット経由で時刻同期を可能とするため、NTPサーバによる時刻情報提供サービスを2006年から提供している。NTPサーバのアドレスはntp.nict.jpである。通常はNTPサーバの処理能力の限界を考慮し、原子時計などに直結されたNTPサーバを一般ユーザが直接利用すべきではないとされているが、このサーバはFPGAで構成され、毎秒100万リクエスト以上の処理能力を持ち、日本標準時に直結でありながらユビキタス社会を支える時刻同期インフラを目指し、一般ユーザが直接利用することを前提にしたセキュリティ的にも頑健なシステムである。
下記に示されているUTC+9の値を、JSTへ読み替えれば換算できる。
IANAのTime Zone Databaseには、日本の標準時が1つ含まれている。
2013年(平成25年)5月22日、猪瀬直樹東京都知事(当時)は、日本標準時を2時間早める(=UTC+11)提案を産業競争力会議にて出した。東京の金融市場の開始を早めることで東京市場の存在感を高めるのが狙いとされている。政府はこの提案を検討するとしている。もっともその後、この提案について具体的に話し合われた様子はない(2023年7月19日時点)。 | [
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"text": "この2つの勅令は現在も政令として有効であり(文部科学省所管)、「中央標準時」が日本の標準時の法令上の正式名称とされる。現行法上、上記勅令以外にも、電波法施行規則、無線局運用規則や国立大学法人法施行規則において用いられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、この改正が行われた当時は本土の標準時とは別に、1920年ヴェルサイユ条約・パリ協定で日本の委任統治領となった、南洋諸島の標準時が1919年2月1日より施行されており、南洋群島東部標準時が日本の中央標準時+2時間(東経165度線)、南洋群島中部標準時で日本の中央標準時+1時間(東経150度線)、南洋群島西部標準時は日本の中央標準時と同じであった。1937年に南洋群島東部標準時(中央標準時+1時間)・南洋群島西部標準時(中央標準時と同じ)の2つに再編している。1945年の敗戦による統治権の放棄により廃止した。なお、当時日本の施政下にあった千島列島は東端が東経156度であるが、全域で中央標準時が用いられていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "FreeBSDなど一部のUnix系オペレーティングシステム (OS) では、1999年初頭までインストール時にタイムゾーンとして「Japan」を選択すると、選択肢として「Most Locations」と「South Ryukyu Islands」の2つの選択肢が現れ、「South Ryukyu Islands」を選ぶとタイムゾーンとして西部標準時(UTC+8)が設定される問題が存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "これはこれらのOSがタイムゾーン設定の元データとして利用しているtzdataに誤って西部標準時に関するデータが含まれていたためである。これの元は「The International Atlas (3rd edition)」(Thomas G. Shanks、1991年)という文献において、「西部標準時が現在も石垣市を含む地域で使用されている」旨の誤った記載が行われていることが原因であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "このことが雑誌「UNIX USER」(ソフトバンク)で取り上げられた結果、1999年にはtzdataから西部標準時が削除され、その後のバージョンでは「South Ryukyu Islands」という選択肢はなくなった。2006年4月1日にリリースされた、エイプリルフール版のFreeBSD 2.2.9-RELEASEでは、このバグがわざと残されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "標準時の通報や、有線/無線報時に関する歴史は次の年表の経過をたどる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "NICTが運用する小金井局の18台のセシウム原子時計および4台の水素メーザー原子時計の時刻を1日1回平均・合成することによって協定世界時(UTC)を生成し、これを9時間進めたものが日本標準時(JST)となる。加えて週1、2回の頻度で、ストロンチウム光格子時計による標準時の周波数調整、後述する分散局(神戸副局、おおたかどや山送信所、はがね山送信所)の原子時計と人工衛星を仲介した較正を行っている。",
"title": "日本標準時の作成"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお、この協定世界時(UTC)は、国際度量衡局(BIPM)が決定する協定世界時(UTC)との差が±50ナノ秒以上にならないように決定される。このようにして決定された日本標準時(JST)は、標準電波(JJY)やNTPサーバ、電話回線を通じて供給されている(参考:国立天文台、産業技術総合研究所計量研究所)。2006年2月7日から、セシウム原子時計に加えて水素メーザー原子時計を使用することなどにより、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±50ナノ秒以内から±10ナノ秒以内に向上した。さらに、セシウム原子時計や水素メーザー原子時計を3系統に分けて相互比較・データ合成を行うことで信頼性の向上ならびに、日本標準時(JJY)の冗長化に寄与している。2021年(令和3年)8月から、週1、2回の頻度で、ストロンチウム光格子時計による標準時の周波数調整を開始した。標準時システムに光格子時計を加えることで、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±20ナノ秒以内から±5ナノ秒以内に向上された、とされる。",
"title": "日本標準時の作成"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2018年(平成30年)6月10日から、日本標準時の冗長化を目的に神戸市西区の未来ICT研究所内に分散局として神戸副局を設置した。また、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計も分散局として、人工衛星を仲介した3つの分散局データを合成して日本標準時(JST)をバックアップ供給する体制に移行した。神戸副局にはセシウム原子時計(CS)5台と水素メーザー時計2台及び送信所との高精度衛星時刻比較システムなど日本標準時生成に必要な基本機能を備え、小金井本部と並行して、標準時に準じた常時合成原子時(神戸時系)を生成する。",
"title": "日本標準時の作成"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また本部の供給サービスがダウンした場合に備え、小金井本部同様に日本標準時を供給できるようにするほか、NTPサーバー及び光テレホンJJYシステムのバックアップ、標準電波送信所の周波数調整機能を整備しているという。今後は小金井と神戸両局の相互比較・データ合成を行うことで更に精度向上に寄与するほか、神戸副局からも日本標準時が供給できる体制がとれるようになるという。",
"title": "日本標準時の作成"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "日本標準時 (JST) を国内外に広く供給するために、NICTは標準電波を発信している。この波により送信されている周波数の標準と標準時の信号は、国家標準であるセシウムビーム型原子周波数標準機や、水素メーザ型、実用セシウムビーム型原子時計群を用いたものよりも高い精度に保たれている。なお、標準電波の発信は電離層の影響を受けにくい長波を使用しているため、24時間の周波数比較平均値では 1×10 の精度を得られると発表されている。",
"title": "日本標準時の供給と標準電波"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1999年6月10日に「おおたかどや山標準電波送信所」(福島県田村市都路町 大鷹鳥谷山)が開局した。しかし、九州沖縄方面では受信しにくい現象が起こるなどで日本全国をカバーできなかったため、2001年10月1日には佐賀県佐賀市富士町の羽金山に「はがね山標準電波送信所」を開局し、これにより日本国内の広い範囲で標準電波が受信ができるようになった。",
"title": "日本標準時の供給と標準電波"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "小金井局・神戸副局で作成した日本標準時の情報は、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計の遠隔監視、時間比較により日本標準時供給の精度維持に活用される。",
"title": "日本標準時の供給と標準電波"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "いわゆる電波時計は、この標準電波を受信し、自動で時刻を合わせる時計である。",
"title": "日本標準時の供給と標準電波"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "NICTはインターネット経由で時刻同期を可能とするため、NTPサーバによる時刻情報提供サービスを2006年から提供している。NTPサーバのアドレスはntp.nict.jpである。通常はNTPサーバの処理能力の限界を考慮し、原子時計などに直結されたNTPサーバを一般ユーザが直接利用すべきではないとされているが、このサーバはFPGAで構成され、毎秒100万リクエスト以上の処理能力を持ち、日本標準時に直結でありながらユビキタス社会を支える時刻同期インフラを目指し、一般ユーザが直接利用することを前提にしたセキュリティ的にも頑健なシステムである。",
"title": "NTP"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "下記に示されているUTC+9の値を、JSTへ読み替えれば換算できる。",
"title": "UTCとJSTの換算"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "IANAのTime Zone Databaseには、日本の標準時が1つ含まれている。",
"title": "IANAのTime Zone Database"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2013年(平成25年)5月22日、猪瀬直樹東京都知事(当時)は、日本標準時を2時間早める(=UTC+11)提案を産業競争力会議にて出した。東京の金融市場の開始を早めることで東京市場の存在感を高めるのが狙いとされている。政府はこの提案を検討するとしている。もっともその後、この提案について具体的に話し合われた様子はない(2023年7月19日時点)。",
"title": "日本標準時を変更する動き"
}
] | 日本標準時は、総務省所管の国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)の原子時計で生成・供給される協定世界時(UTC)を9時間(東経135度分の時差)進めた時刻(すなわちUTC+9)をもって、日本において標準時としたものである。同機構が決定するUTCは「UTC(NICT)」と称され、、国際度量衡局が決定する協定世界時(UTC)との差が±10ナノ秒以内であることを目標として調整・管理されている。単に日本時間と呼ばれこともある。NICTが通報する標準時は、日本全国で日本放送協会(NHK)などの放送局やNTT(117)の時報などに用いられている. 一方、中央標準時は、文部科学省所管の大学共同利用機関法人自然科学研究機構(NINS)国立天文台が決定し、現実の信号として示す時刻で、水沢VLBI観測所の天文保時室でセシウム原子時計が運転されている。なお、国立天文台が編纂する「理科年表」では中央標準時について中央標準時=協定世界時+9h としている 日本標準時(JST)と協定世界時(UTC)との差を示す場合などには、「12:31:40 (UTC+0900)」(日本標準時で12時31分40秒の場合)などと表記される。 | {{Redirect|中央標準時|[[アメリカ合衆国]]の中央標準時|中部標準時}}
[[ファイル:Akashitenmonkagakukan-oyadokei.JPG|thumb|200px|明石天文科学館、親時計]]
'''日本標準時'''(にほんひょうじゅんじ、{{lang-en-short|'''J'''apan '''S'''tandard '''T'''ime}}、[[略語]]:'''JST''')は、[[総務省]]所管の[[情報通信研究機構|国立研究開発法人情報通信研究機構('''NICT''')]]の[[原子時計]]で生成・供給される[[協定世界時]](UTC)を9[[時間 (単位)|時間]]([[東経135度線|東経135度]]分の時差)進めた[[時刻]](すなわち'''[[UTC+9]]''')をもって、[[日本]]において[[標準時]]としたものである<ref>{{Cite journal|和書|author=今村國康 |date=2009-10 |year=2009 |title=巻頭インタビュー - 100万年に誤差1秒、超高精度の「時」を刻むICT社会の新たな価値感で、世界最高水準の「日本標準時」を発信 |journal=NICT NEWS |volume=2009年 |issue=10月号 No.385 |page=2 |publisher=[[情報通信研究機構]] |location=東京都[[小金井市]] |issn=2187-4042 |url=https://www.nict.go.jp/publication/NICT-News/0910/02.html |format=html |accessdate=2013-12-29}}§3</ref>{{Sfn|情報通信研究機構|2005a|p=2|loc=§2}}{{sfn|平成11年郵政省告示第382号|1999|loc=五}}。同機構が決定するUTCは「UTC(NICT)」と称され、{{Sfn|情報通信研究機構|2005a|p=2|loc=§3}}、[[国際度量衡局]]が決定する協定世界時(UTC)との差が±10[[ナノ秒]]以内であることを目標として調整・管理されている{{Sfn|情報通信研究機構|2005a|p=3|loc=§1}}。単に'''日本時間'''と呼ばれこともある。NICTが通報する標準時は、日本全国で[[日本放送協会]](NHK)などの[[放送局]]や[[日本電信電話|NTT]](117)の[[時報]]などに用いられている<ref>{{Cite journal|和書|author=齊藤春夫 |date=2004-11 |year=2004 |title=日本標準時とタイムビジネス |journal=NICT NEWS |volume=2004年 |issue=11月号 No.344 |page=3 |publisher=[[情報通信研究機構]] |location=東京都[[小金井市]] |issn=2187-4042 |url=https://www.nict.go.jp/publication/NICT-News/0411/p02.html |format=html |accessdate=2013-12-29}}§3</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jjy.nict.go.jp/QandA/FAQ/other_qa.html#q18 |title=標準時・周波数標準のQ&A その他のQ&A - Q 標準時についての質問 |accessdate=2013-12-29 |author=情報通信研究機構 |authorlink=情報通信研究機構 |date=2005 |year=2005b |format=html |work=標準時・周波数標準のQ&A |publisher=情報通信研究機構 |language=日本語}}A. ¶7</ref><ref>{{Cite web |title=JST Clock |url=https://www.nict.go.jp/JST/JST5.html |website=www.nict.go.jp |access-date=2023-06-28}}</ref>.
一方、'''中央標準時'''(ちゅうおうひょうじゅんじ、{{lang-en-short|'''J'''apan '''C'''entral '''S'''tandard '''T'''ime}}、略語:'''JCST'''<ref>{{Cite journal|和書|author=片山真人 |author2=松田浩 |author3=福島登志夫 |author4=渡部潤一 |authorlink4=渡部潤一 |date=2008-10 |year=2008 |title=暦象年表の改訂について |journal=国立天文台報 |volume=11 |issue=第3・4号 |page=58 |publisher=[[国立天文台]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0915-6321 |naid=40016412876 |id={{NCID|AN1017529X}} |url=https://www.nao.ac.jp/contents/about-naoj/reports/report-naoj/11-34-2.pdf |format=PDF |accessdate=2013-12-29}}§2.2</ref>{{Sfn|国立天文台|2013b}}<ref>{{Cite web |url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/faq/ephemeris.html.en#time |title=Glossary - Ephemeris - Time System |accessdate=2013-12-29 |author=NAOJ |authorlink=国立天文台 |date=2013-12-26 |year=2013 |format=html |work=Ephemeris Computation Office, NAOJ |publisher=NAOJ |quote=JCST, Japan Central Standard Time JCST is the official Time System in Japan. JCST = UTC + 9 hours. |language=[[英語]]}}</ref>)は、[[文部科学省]]所管の[[自然科学研究機構|大学共同利用機関法人自然科学研究機構('''NINS''')]][[国立天文台]]が決定し、[[現実]]の[[信号 (電気工学)|信号]]として示す時刻で{{Sfn|国立天文台|2013a|loc=¶1}}、[[水沢VLBI観測所]]の天文保時室でセシウム原子時計が運転されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.miz.nao.ac.jp/vlbi/time.html |title=天文保時室 |accessdate=2013-12-29 |author=国立天文台 |authorlink=国立天文台 |date=2012-07-04 |year=2012 |format=html |work=国立天文台・水沢VLBI観測所 |publisher=国立天文台 |quote=セシウム原子時計 (4台設置) |language=日本語}}</ref>。なお、国立天文台が編纂する「[[理科年表]]」では中央標準時について中央標準時=協定世界時+9{{sup|[[時間 (単位)|h]]}} としている{{Sfn|国立天文台|1999|p=暦1(3)}}
日本標準時(JST)と協定世界時(UTC)との差を示す場合などには、「12:31:40 (UTC+0900)」(日本標準時で12[[時間 (単位)|時]]31[[分]]40[[秒]]の場合)などと表記される。
== 標準時と中央標準時 ==
[[日本]]における「標準時」に関する法令は十分に整理されておらず、法令上「標準時」と「中央標準時」という名称は現れるが、「日本標準時」という名称は現れない<ref>{{Cite web|和書|url=https://jjy.nict.go.jp/QandA/FAQ/other_qa.html#q12 |title=標準時・周波数標準のQ&A その他のQ&A - Q 「日本標準時」について定めた法令ある? |accessdate=2013-12-29 |author=情報通信研究機構 |authorlink=情報通信研究機構 |date=2008-05 |year=2008 |format=html |work=標準時・周波数標準のQ&A |publisher=情報通信研究機構 |language=日本語}}</ref>。
日本国の法令では、標準時の定義について「[[東経135度線|東経135度]]の[[子午線]]の時」をもって日本における一般の'''標準時'''と定め{{sfn|明治19年勅令第51号|1886}}、その標準時を'''中央標準時'''と称する<ref>{{Citation|和書|year=1895 |date=1895-12-28 |title=[[s:標準時ニ關スル件|標準時ニ関スル件]](明治28年勅令第167号) |at=第1条 }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=128IO0000000167 e-Gov法令検索]。</ref>こと以外に具体的な定めはないとのこと。
ただし、[[標準電波]]の発射および標準時の通報に関しては、総務省[[国際戦略局]]技術政策課がその事務をつかさどる<ref>{{Citation|和書|year=1999 |date=1999-07-16 |title=[[総務省設置法]](平成11年法律第91号) |at=第4条第73号 }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=411AC0000000091 e-Gov法令検索]。</ref><ref>{{Citation|和書|year=2000 |date=2000-06-07 |title=総務省組織令(平成12年政令第246号)}}第10条第5号、第69条第2号。 [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=412CO0000000246 e-Gov法令検索]。</ref>(この所掌事務は、旧[[電気通信省]]{{sfn|昭和23年法律第245号|1948|loc=第5条第27号、第35条第3号}}から旧[[電波監理委員会]]{{sfn|昭和25年法律第133号(公布時)|1950|loc=第4条第21号、第25条第3号}}、旧[[郵政省]]{{sfn|昭和27年法律第279号|1952|loc=第4条第22の9号、第17条の2第2号}}を経て総務省に引き継がれている)。さらに、[[郵政大臣]]([[総務大臣]]の前身)が法令{{sfn|昭和25年法律第131号|1950|loc=第61条}}{{sfn|昭和25年電波監理委員会規則第17号|1950|loc=第140条}}に基づいて発した郵政省[[告示]]{{sfn|平成11年郵政省告示第382号|1999|loc=五}}により、標準電波で通報される標準時は[[協定世界時]]を9[[時間 (単位)|時間]]進めた[[時刻]]とされる(この定めは、[[1971年]](昭和46年)の郵政省告示([[1972年]](昭和47年)[[1月1日]]施行){{sfn|昭和46年郵政省告示第981号|1971}}からである)。なお、NICTは法令と告示に基づいて標準電波を発射し、および標準時を通報する業務を行うかもしれない{{sfn|平成11年法律第162号|1999|loc=第14条第3号}}。
また、中央標準時の決定および[[現示]]に関しては、<!--大学共同利用機関法人自然科学研究機構-->国立天文台がその事務を目的{{sfn|平成15年文部科学省令第57号|2003|loc=第1条、別表第1 大学共同利用機関法人自然科学研究機構 国立天文台の項}}の一部として設置{{sfn|平成15年法律第112号|2003|loc=第5条第2号、別表第2}}されている(この設置目的は、[[1955年]](昭和30年)に改正された旧[[東京大学]]東京天文台の目的{{sfn|昭和30年法律第44号|1955|loc=第4条第1項の表東京大学東京天文台の項}}から引き継がれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://law.e-gov.go.jp/haishi/S59SE230.html |title=国立学校設置法施行令(昭和59年政令第230号) |accessdate=2013-12-29 |date=1984-06-28 |year=1984 |format=html |work=法令データ提供システム - 廃止法令等一覧 |publisher=[[総務省]] |language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170924053948/http://law.e-gov.go.jp/haishi/S59SE230.html |archivedate=2017-09-24 |deadlinkdate= 2018年3月}}第6条の表</ref>)。したがって中央標準時は、法令に基づいて国立天文台が中央標準時として決定・現示する時刻と言えるかもしれない。
NICTが通報する標準時と、国立天文台が決定・現示する中央標準時との関係については、どちらの機関も[[国際原子時]]の作成に寄与する[[原子時計]]を運転し{{Sfn|国立天文台|2013a|loc=¶3}}{{Sfn|情報通信研究機構|2005a|p=2|loc=§1}}{{Sfn|情報通信研究機構|2005a|p=3|loc=§1}}、それらの[[時計]]で決定する協定世界時(UTC)+9[[時間 (単位)|時間]]をそれぞれ標準時{{Sfn|情報通信研究機構|2005a|p=2|loc=§2}}、中央標準時{{Sfn|国立天文台|1999|p=暦1(3)}}{{Sfn|国立天文台|2013b}}としているが、いかに[[不確かさ (測定)|不確かさ]]が小さい([[正確度と精度]]に優れた)時計であっても、同一の時計ではないので完全に時刻が一致することはない。これについて、NICTを所管する総務省と国立天文台を所管する文部科学省は、共同[[告示]]により、NICTが通報する標準時については国立天文台の決定する中央標準時により、その[[偏差]]を算出し、これをNICTにおいて公表するとしている{{sfn|昭和37年/文部省/郵政省/告示第1号|1962}}。
なお、過去の関係やその経緯については、''[[#標準時の通報の歴史]]'' を参照。
== 夏時間(サマータイム) ==
{{see also|各国における夏時間#日本|夏時刻法}}
[[2022年]]現在、法令に基づき、JSTに1[[時間 (単位)|時間]]を加えた[[時間帯 (標準時)|タイムゾーン]]を採用する[[夏時間]](サマータイム)は実施されていない。ただし、過去には、[[1948年]]から[[1951年]]、5月([[1949年]]のみ4月)第1土曜日から9月第2土曜日までの間、[[夏時刻法]]に基づきサマータイムが施行されていた。なお、[[2004年]] - [[2006年]](2006年で終了)の7月 - 8月に[[北海道]][[札幌市]]で試行されたいわゆる「北海道サマータイム」は、標準時を変えずに始業・終業時刻を1時間早める試みで、通常の意味での夏時間ではない。
== JSTと定義が同じ標準時 ==
以下の[[標準時]]は、日本標準時(JST)と同じく協定世界時(UTC)を9[[時間 (単位)|時間]]進めた時刻である(厳密には、基準とする[[原子時計]]が異なるため、わずかな[[不確かさ (測定)|不確かさ]]([[誤差]])はある)。
* [[ヤクーツク時間|ヤクーツク標準時]] - [[ロシア]]の[[サハ共和国]]西部、[[アムール州]]で使われる。
* [[インドネシア時間|インドネシア東部標準時]](WIT)- [[インドネシア]]東部([[パプア州|イリアンジャヤ]]、[[モルッカ諸島]]など)
* [[韓国標準時]](KST)- [[大韓民国]]全土。
* [[パラオ時間|パラオ標準時]](PWT)- [[パラオ]]全土。
* [[東ティモール時間|東ティモール標準時]](TLT)- [[東ティモール]]全土。
* [[平壌時間|平壌標準時]](PYT)- [[朝鮮民主主義人民共和国]]全土。2015年8月15日から2018年5月5日までは30分の時差が設けられた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/180505/wor1805050002-n1.html|title=北朝鮮標準時を韓国と統一 和解措置で「平壌時間」、3年弱で元通りに|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2018-05-05|accessdate=2018-05-05}}</ref>。
=== すでに廃止されたJSTと定義が同じ標準時 ===
* [[オーストラリア時間|オーストラリア西部夏時間]](AWDT)- [[2006年]]から[[2009年]]まで試験施行されていたが、本施行はされなかった<ref>{{cite web|url=http://wwp.greenwichmeantime.in/time-zone/australia/daylight-saving-time/index.htm |title=Daylight Savings Time - Australia |publisher=wwp.greenwichmeantime.in |accessdate=2014-01-04 }}</ref>。
* [[イルクーツク時間|イルクーツク標準時]](IRKT)- [[ロシア]]の[[イルクーツク]]周辺で使われた([[2014年]]より-1時間)。
* [[モンゴル時間|モンゴル夏時間]](MNST)- [[2007年]]に廃止されたが、[[2015年]]に復活した<ref>[https://www.mn.emb-japan.go.jp/jp/annai/201503-summertime.html サマータイム制度の導入について - Embassy of Japan in Mongolia]、2015年11月1日閲覧。</ref>。その後、2017年に再び廃止された。
== 歴史 ==
日本の標準時に関して初めて制定された法令は、[[s:本初子午線經度計算方及標準時ノ件|本初子午線経度計算方及標準時ノ件]](明治19年勅令第51号、[[1886年]](明治19年)[[7月13日]]公布)である。この[[勅令]]では、[[グリニッジ天文台]][[天文台#子午儀・子午環|子午儀]]の中心を通る[[子午線]]([[グリニッジ子午線]])を[[本初子午線]](経度0度)とし、東西それぞれ180度で、東を正、西を負として表すことを定めたうえ、[[東経135度線|東経135度]]([[UTC+9|GMT+9:00]])の[[時刻]]を日本の標準時(「本邦一般ノ標準時」)と規定した。この日本の標準時に関する部分は[[1888年]](明治21年)[[1月1日]]から適用された{{sfn|明治19年勅令第51号|1886}}。
[[ファイル:Imperial Ordinance 167 issued on December 27, Meiji 28 (1895).png|thumb|200px|標準時ニ関スル件]]
その後、[[s:標準時ニ關スル件 (公布時)|標準時ニ関スル件]](明治28年勅令第167号、[[1895年]](明治28年)[[12月28日]]公布、[[1896年]](明治29年)1月1日施行)が制定され、第1条において東経135度の標準時の呼称を「'''中央標準時'''」と、第2条において[[東経120度線|東経120度]]([[UTC+8|GMT+8:00]])の時刻を「'''西部標準時'''」とそれぞれ規定した。後者は[[八重山列島]]・[[宮古列島]]と[[日本統治時代の台湾|日本統治下の台湾]]・[[澎湖諸島]]に適用された。中央標準時と西部標準時との時差は1時間であった{{sfn|明治28年勅令第167号(公布時)|1895}}。
<div style="background: white; border: 1px solid black; padding: 1em;margin: 0 3em;">
{{Center|{{Larger|{{kyujitai|'''勅 令'''}}}}}}<hr>{{kyujitai|'''朕󠄂標準時ニ關スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公󠄁布セシム'''}}<p>{{Larger|{{kyujitai|'''御 名 御 璽'''}}}}</p><p>{{kyujitai| 明治二十八年十二月二十七日}}</p><p>{{kyujitai| 內閣總理大臣 侯爵󠄂伊 藤󠄁 博󠄁 文󠄁<br> 文󠄁 部 大 臣 侯爵󠄂西園寺公󠄁望󠄁}}</p><p>{{kyujitai|勅令第百六十七號}}</p><p>{{kyujitai|第一條 帝󠄁國從來ノ標準時ハ自今之ヲ中央標準時ト稱󠄁ス<br>第二條 東經百二十度ノ子午線ノ時ヲ以テ臺灣及󠄁澎湖列島竝ニ八重山及󠄁宮古列島ノ標準時ト定メ之ヲ西部標準時ト稱󠄁ス<br>第三條 本令ハ明治二十九年一月一日ヨリ施行ス}}</p>
</div>
この「二つの日本時間」は41年あまり続いたが、[[s:明治二十八年勅令第百六十七號標準時ニ關スル件中改正ノ件|明治二十八年勅令第百六十七号標準時ニ関スル件中改正ノ件]](昭和12年勅令第529号、[[1937年]](昭和12年)[[9月25日]]公布、同年10月1日施行)という改正勅令により、前の明治28年勅令第167号の第2条(西部標準時に関する条)の条文が削除され、再び日本の標準時はひとつとなった。なお、この改正では第1条(中央標準時に関する条)については改正されなかったため、「中央標準時」との呼称は維持された<ref>{{Citation|和書|date=1937-09-25 |year=1937 |title=[[s:明治二十八年勅令第百六十七號標準時ニ關スル件中改正ノ件|明治二十八年勅令第百六十七号標準時ニ関スル件中改正ノ件]](昭和12年勅令第529号) |id={{NDLJP|2959706}} }}</ref>。西部標準時が年半ば(9月)で廃止された理由は、台湾・澎湖諸島ならびに八重山・宮古列島において、[[政治]]、[[経済]]、[[交通]]その他諸般の点に鑑み中央標準時に依る必要があることによるとされる{{Sfn|新美幸男|1997|pp=475–476|loc=§3}}。[[1954年]](昭和29年)ごろ、中央標準時の中央を除くことや明治以来の時関連の法令改正案が検討されていたようだが、日の目を見ることはなかった{{Sfn|新美幸男|1997|p=476|loc=§3}}。
この2つの[[勅令]]は現在も[[政令]]として有効であり{{Sfn|森川容雄|2003|p=26|loc=§3.1}}<ref>{{Citation|和書|date=1947-04-18 |year=1947 |title=[[日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律]](昭和22年法律第72号) |id=[[s:日本國憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律]] }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000072 e-Gov法令検索]。</ref><ref>{{Citation|和書|date=1947-04-18 |year=1947 |title=[[s:日本國憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令|日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令]](昭和22年政令第14号) }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322CO0000000014 e-Gov法令検索]。</ref>(文部科学省所管)、「中央標準時」が日本の標準時の法令上の正式名称とされる{{Sfn|新美幸男|1997|p=475|loc=§3}}。現行法上、上記勅令以外にも、電波法施行規則<ref>{{Citation|和書|date=1950-11-30 |year=1950 |title=[[電波法施行規則]] 抄(昭和25年電波監理委員会規則第14号) |at=第40条第3項 }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325M50080000014 e-Gov法令検索]。</ref>、無線局運用規則{{sfn|昭和25年電波監理委員会規則第17号|1950|loc=第3条}}や国立大学法人法施行規則{{sfn|平成15年文部科学省令第57号|2003|loc=別表第1 大学共同利用機関法人自然科学研究機構 国立天文台の項}}において用いられている。
ちなみに、この改正が行われた当時は本土の標準時とは別に、[[1920年]][[ヴェルサイユ条約]]・[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|パリ協定]]で日本の[[委任統治領]]となった、[[南洋諸島]]の標準時が[[1919年]][[2月1日]]より施行されており、南洋群島東部標準時が日本の中央標準時+2時間([[東経165度線]])、南洋群島中部標準時で日本の中央標準時+1時間([[東経150度線]])、南洋群島西部標準時は日本の中央標準時と同じであった。[[1937年]]に南洋群島東部標準時(中央標準時+1時間)・南洋群島西部標準時(中央標準時と同じ)の2つに再編している。[[1945年]]の敗戦による[[統治権]]の放棄により廃止した{{Sfn|新美幸男|1997|p=476|loc=§3}}。なお、当時日本の施政下にあった[[千島列島]]は東端([[占守島]])が東経156度であるが、全域で中央標準時が用いられていた。
=== South Ryukyu Islands時間 ===
[[FreeBSD]]など一部の[[Unix系]][[オペレーティングシステム]] (OS) では、[[1999年]]初頭までインストール時にタイムゾーンとして「Japan」を選択すると、選択肢として「Most Locations」と「South Ryukyu Islands」の2つの選択肢が現れ、「South Ryukyu Islands」を選ぶとタイムゾーンとして西部標準時([[UTC+8]])が設定される問題が存在した。
これはこれらのOSがタイムゾーン設定の元データとして利用している[[tz database|tzdata]]に誤って西部標準時に関するデータが含まれていたためである。これの元は「The International Atlas (3rd edition)」(Thomas G. Shanks、[[1991年]])という文献において、「西部標準時が現在も[[石垣市]]を含む地域で使用されている」旨の誤った記載が行われていることが原因であった。
このことが雑誌「[[UNIX USER]]」([[ソフトバンク]])で取り上げられた結果、[[1999年]]にはtzdataから西部標準時が削除され、その後のバージョンでは「South Ryukyu Islands」という選択肢はなくなった<ref>[http://www.tomo.gr.jp/root/9925.html 1999年2月号,5月号 UNIX USER誌掲載「ルート訪問記」の過去記事]</ref>。[[2006年]][[4月1日]]にリリースされた、[[エイプリルフール]]版のFreeBSD 2.2.9-RELEASEでは、この[[バグ]]がわざと残されている。
=== 標準時の通報の歴史 ===
標準時の通報や、有線/[[無線]][[時報|報時]]に関する歴史は次の年表の経過をたどる。
==== 標準時の報時のはじまり ====
* [[1886年]]([[明治]]19年)
** 明治19年勅令第51号{{sfn|明治19年勅令第51号|1886}}の制定により標準時が確立した直後から、[[内務省 (日本)|内務省]]地理局観象台の[[観測]]をもとに、標準時を[[逓信省]]東京[[電信局]]に通報し、そこから全国に標準時が通知されていた{{Sfn|森川容雄|2003|p=26|loc=§3.2}}。
* [[1888年]](明治21年)
** [[1月1日]]
*** 明治19年勅令第51号の標準時が施行された{{sfn|明治19年勅令第51号|1886|loc=第3条}}。この日の0時0分の[[時刻]]は内務省地理局観象台が全国の電信局に通報しており、以後もしばらくの間、[[正午]]報時信号が地理局観象台から各電信局に通報されていた{{sfn|官報明治第1343号|1887}}{{Sfn|新美幸男|1997|p=474}}。
** 5月
*** 内務省、[[海軍省]]、[[文部省]]は[[稟議書|稟議]]のうえ、内務省と海軍省が行っていた[[天体観測|天象観測]]と、内務省の時刻管理や[[暦]]書の編纂事業等は文部省へ、設備・土地や職員とともに移管することにした{{Sfn|新美幸男|1997|p=474}}。
** [[6月4日]]
*** 東京大学観象台、海軍省観象台、内務省地理局観測課天象部の三者が合併し、明治21年[[文部省]][[告示]]第2号で、海軍省観象台の地に、[[国立天文台|東京天文台]]が置かれ、帝国大学(現・[[東京大学]])に属した<ref>{{Cite journal|和書 |date=1888-06-04 |year=1888 |editor=内閣官報局 |title=明治21年文部省告示第2号 |journal=[[官報]] |volume=明治 |issue=1477 |page=25 |publisher=日本マイクロ写真 |location=[[東京都]] |id={{NDLJP|2944714}} }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=中桐正夫 |date=2010-06-09 |year=2010 |title=東京天文台100周年記念誌作成時の資料-その1- |journal=アーカイブ室新聞 |issue=346 |page=1 |publisher=[[国立天文台]] |location=東京都[[三鷹市]] |url=https://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/arc_news346.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-02}}</ref>{{Sfn|新美幸男|1997|p=473}}。しかし、当時はまだ8[[インチ]][[天体望遠鏡#天体望遠鏡の架台|赤道儀]]は内務省地理局内([[東京府]][[赤坂区]]葵町)にあったため、[[麻布区]]飯倉の東京天文台から台員が出張して観測していた{{Sfn|河合章二郎|1919|pp=137-138|loc=§2}}。
** [[9月26日]]
*** 東京天文台では、この日から、[[陸軍省]]の依頼により正午を通知する[[午砲|正午号砲]]用の時刻[[較正|比較]]を始め、逓信省の依頼で電信局への正午時刻の通報を行うことになる{{Sfn|河合章二郎|1919|p=139|loc=§3}}{{Sfn|新美幸男|1997|p=474}}。
** [[10月23日]]
*** 東京天文台での[[恒星]]の観測はこの日以降から行われた{{Sfn|新美幸男|1997|p=474}}(恒星の観測は、観測地点の[[経度]][[測量]]や[[太陽時#平均太陽時|平均太陽時]]の測定に必要とされる)。
** [[12月5日]]
*** 明治21年[[勅令]]第81号で、天象観測および暦書調製が[[文部大臣]]の管理となり、時刻の管理は正式に内務省地理局([[国土地理院]]の前身)から東京天文台に移管される{{Sfn|新美幸男|1997|p=473}}<ref>{{Citation|和書|year=1888 |date=1888-12-06 |title=天象観測及暦書調製ノ件(明治21年勅令第81号) |id={{NDLJP|787973}}、{{NDLJP|2944873}} }}</ref>{{sfn|官報明治第1343号|1887}}。
* [[1895年]](明治28年)[[12月28日]]
** [[s:標準時ニ關スル件 (公布時)|標準時ニ関スル件]](明治28年勅令第167号)が公布(翌年[[1月1日]]に施行)され、従来の標準時([[東経135度線|東経135度]]の子午線の時)を中央標準時と称することになる{{sfn|明治28年勅令第167号(公布時)|1895|loc=第1条、第3条}}。
==== 無線報時のはじまり ====
* [[1911年]](明治44年)12月
** [[無線]][[電信]]法による標準時の[[艦船]]への通報を実験的に実施。東京天文台が陸上連絡[[電線]]により[[銚子無線電報局|銚子無線電信局]]([[識別信号]]:JJC、周波数:500[[キロヘルツ|kc]])に中央標準時を伝え、[[電波]]を発射する方法により、毎日午後9時が通報されるようになった{{Sfn|松代正三|1959|p=26}}{{Sfn|森川容雄|2003|p=26|loc=§3.2}}。
* [[1912年]]([[大正]]元年)9月
** JJCの無線報時が正式業務として開始される{{Sfn|松代正三|1959|p=26}}。
* [[1919年]](大正8年)
** [[国際報時局]](BIH、現 [[国際地球回転・基準系事業]])が設立される{{Sfn|新美幸男|1997|p=478|loc=§6}}。
* [[1921年]](大正10年)[[11月24日]]
** 東京天文台官制(大正10年・勅令第450号)が制定され、東京天文台は[[天文学]]に関する事項を[[研究|攻究]]し天象観測、暦書編製、[[時刻|時]]の[[測定]]、[[時報|報時]]及[[時計]]の検定に関する事務を掌ることが定められた<ref>{{Citation|和書|date=1921-11-24 |year=1921 |title=東京天文台官制(大正10年勅令第450号) |at=第2条 |id={{NDLJP|2954910}} }}</ref>。
* [[1922年]](大正11年)
** 第1回の国際的な経度測量を行うことが決まり、臨時的に毎日午後11時に学用報時が[[船橋市|船橋]]局から放送された。これが、学用形式のJJC報時の始まりとなる{{Sfn|松代正三|1959|p=26}}。
* [[1924年]](大正13年)4月
** 測地学委員会(現 [[文部科学省]] 科学技術・学術審議会 測地学分科会)が、東京天文台構内に[[三鷹市|三鷹]]国際報時所を設けて国際無線報時の受信と時刻の国際共同研究事業に参加する<ref>{{Citation|和書|date=1981-09-05 |year=1981 |chapter=第五章 学術・文化 第一節 概説 三 学術・文化の国際交流 |chapter-url=https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317724.htm |editor=文部省 |editor-link=文部省 |title=学制百年史 |place=[[東京都]] |publisher=帝国地方行政学会(現 [[ぎょうせい]]) |publication-date=1981-09-05 |url=https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317552.htm}}</ref>。国際報時は[[長波]]によって行われた{{Sfn|中桐正夫|2009b|p=1}}。当時は、±0.01[[秒]]までの[[正確度と精度|精度]]が得られれば上等だった<ref>{{Cite journal|和書|author=宮地政司 |authorlink=宮地政司 |date=1963-04 |year=1963 |title=時間の問題 |journal=天文月報 |volume=56 |issue=4 |pages=77 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}} |url=https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1963/pdf/19630407.pdf |format=PDF |accessdate=2013-12-29}}§2</ref>。
* [[1925年]](大正14年)
** 6月
*** 正式に学用形式によるJJC報時が放送されるようになった{{Sfn|松代正三|1959|p=26}}。定刻報時は学用式と大衆向けの日本式の2形式である{{Sfn|宮地政司|1950|p=62|loc=§5}}。
** 当年内
*** [[国際天文学連合]](IAU)と[[国際測地学・地球物理学連合]](IUGG)の主催で、国際報時局(BIH、現IERS)が中央局となって第1回万国経度観測が実施された。無線報時の利用によって、当時予想していなかった高精度(±0.001秒台)が可能なことが示される。このとき確立された国際的な観測網に基づき、国際協力事業として各地の時刻が総合されている(確定[[世界時]]){{Sfn|宮地政司|1974|pp=100–101|loc=§2}}。
* [[1933年]]([[昭和]]8年)
** ±0.001秒の[[正確度と精度|確度]]を目標に準備が整えられて、第2回万国経度観測が実施される。そのとき日本の成績は世界でもトップクラスであった。このとき使用された諸機械は、[[第一次世界大戦]]の賠償として[[ドイツ]]から輸入したバンベルヒ[[天文台#子午儀・子午環|子午儀]]、リーフラー[[振り子時計]]{{Sfn|国立科学博物館|2006}}、[[テレフンケン]]長波[[受信機]]などの一流品であった{{Sfn|宮地政司|1974|p=101|loc=§2}}。
* [[1948年]](昭和23年)
** 三鷹国際報時所が東京天文台に併合される{{Sfn|中桐正夫|2009b|p=3}}。
** [[1948年]](昭和23年)ころ、東京天文台の時計室にはリーフラー製の天文用振り子時計{{Sfn|国立科学博物館|2006}}が南向きと東向きに据え付けてあった。小さな[[地震]]でも狂うので、クロノグラフを描かせて[[クロノメーター]]と比較し、歩度の変化があれば調整が実施された。この時計室の真上に報時室があり、2台のルロア型の発信時計から報時信号が出された。なお、当時の報時は、午前11時と午後9時、および午後4時半の3回、JJCの[[識別信号|発信符号]]による[[無線]]報時のほか、正午に有線の報時を行っていた。報時は、最も新しい観測値からリーフラー時計の[[誤差]]をもとめ、その値を報時の時刻まで[[外挿]]し、発信時計に合わせて行われた。また、[[梅雨]]時などに観測が連続してできない場合は、外国報時を参考にした。当時は、戦争による物資の不足や装置の[[劣化]]の影響により、無線報時の精度が劣化しており、国際報時局(BIH、現IERS)の報告に JJC の修正値が0.1秒を超えなければ良い方であった{{Sfn|加藤亀三郎|1977|pp=202–203}}。
==== 標準電波による標準時の通報 ====
* [[1948年]](昭和23年)
** 4月
*** [[標準電波]]に[[礼文島]]における[[日食]]観測の為、[[分]][[秒]]信号を試験的にのせ非常に良い結果を得る{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
** [[8月1日]]
*** 昭和23年文部省/逓信省[[告示]]第1号により、標準([[周波数]]及び秒[[時報|報時]])電波の発射が開始され、逓信省電波局が発射する標準電波で三鷹の東京天文台からの制御により、[[モールス符号|短点]]方式(約0.1 [[秒|s]]長)による秒報時([[正確度と精度|確度]]0.03秒)が行われた。なお、発射した標準電波の秒信号の修正は東京天文台において計算の上、別途官報に発表するとされた<ref>{{Cite journal|和書 |date=1948-08-02 |year=1948 |editor=[[大蔵省]][[国立印刷局|印刷局]] |title=昭和23年文部省/逓信省告示第1号 |journal=[[官報]] |volume=昭和 |issue=6464 |page=4 |publisher=日本マイクロ写真 |location=[[東京都]] |id={{NDLJP|2962998}} }}</ref>{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。報時はJJCによる定刻報時の日本式と学用式に加えて、[[JJY]]での分秒報時の3形式となる{{Sfn|中桐正夫|2009a|pp=3–4}}{{Sfn|宮地政司|1950|pp=62–63|loc=§5,§6}}。
** [[12月15日]]
*** [[s:電気通信省設置法|電気通信省設置法]] 第5条で[[電気通信省]]が有する権限として「周波数標準値を定め、標準電波を発射し、及び標準時を[[放送]]すること。」が定められ、第35条で電気通信省電波庁技術部がその事務をつかさどるとされた{{sfn|昭和23年法律第245号|1948|loc=第5条第27号、第35条第3号}}。
* [[1949年]](昭和24年)
** [[5月31日]]
*** [[国立学校設置法]]が制定され、天文学に関する事項の[[研究|攻究]]並びに[[天体観測|天象観測]]、暦書編製、時の測定、報時及び時計の検定に関する事務が東京天文台の目的とされた<ref>{{Citation|和書|date=1949-05-31 |year=1949 |title=[[国立学校設置法]](公布時)(昭和24年法律第150号) |at=第4条 |id={{NDLJP|2963253}}、[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00519490531150.htm 衆議院-制定法律] }}</ref>。
** [[12月16日]]
*** 周波数の一次標準器、報時用[[電鍵]]装置(東京天文台より移設)、標準電波発射施設が一体となった電波庁電波部標準電波課[[標準周波数局|標準局]]([[小金井市]]緑町)の施設が完成する{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[1950年]](昭和25年)
** 4月
*** 東京天文台に今までの[[天文台#子午儀・子午環|子午儀]]に代わって、[[時刻]]と一緒に[[緯度]]も測れる[[写真]][[天頂]][[天体望遠鏡|筒]] (PZT) が完成する{{Sfn|加藤亀三郎|1977|p=203}}。子午儀による[[観測]][[正確度と精度|精度]]では、1組10個の[[恒星|星]]を使って0.01秒程度であり、標準時計の保時精度に劣っているため、写真天頂筒 (PZT) を使った精度の高い観測が研究されるといわれる{{Sfn|中桐正夫|2009a|p=3}}。
** [[6月1日]]
*** [[電波法]]と[[電波監理委員会設置法]]が施行され、電気通信省電波庁は[[電波監理委員会]]電波監理総局に改組される。電波監理委員会は周波数標準値を定め、標準電波を発射し、及び標準時を通報する権限を有し、電波監理委員会電波監理総局電波部がその事務をつかさどるとされる{{sfn|昭和25年法律第133号(公布時)|1950|loc=第4条第21号、第25条第3号}}。これ以後、標準電波で通報される標準時については、電波法や[[無線局運用規則]]に基づいて告示されることになる{{sfn|昭和25年法律第131号|1950|loc=第61条}}{{sfn|昭和25年電波監理委員会規則第17号|1950|loc=第140条}}。
==== 振り子時計から水晶時計へ ====
* [[1951年]](昭和26年)
** [[1月1日]]
*** 昭和26年文部省・電波監理委員会告示第1号 改定により、標準電波の秒報時形式を[[搬送波]]切断方式(1 [[キロヘルツ|kHz]]で[[変調]]中に、秒信号は0.02 [[秒|s]]、[[分]]信号は0.2 sの切断)に変更された。また、報時信号は東京天文台から伝送される[[信号 (電気工学)|信号]]に代え、小金井の[[クォーツ時計|水晶時計]]からの信号に変更された<ref>{{Cite journal|和書 |date=1951-01-05 |year=1951 |editor=[[大蔵省]][[国立印刷局|印刷局]] |title=昭和26年文部省/電波監理委員会告示第1号 |journal=[[官報]] |issue=昭和第7194号 |pages=5–6 |publisher=日本マイクロ写真 |location=[[東京都]] |id={{NDLJP|2963741}} }}</ref>{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
** [[6月7日]]
*** [[s:計量法 (昭和二十六年)|計量法]](施行日:[[1952年]](昭和27年)[[3月1日]])が制定され、[[時間]]の[[計量単位]]としての秒は、[[太陽時|平均太陽日]]の{{gaps|1/86|400}}とし、東京天文台が秒として決定する時間で現示するとされた{{Sfn|森川容雄|2003|pp=27–28|loc=§4.2}}<ref>{{Citation|和書|year=1951 |date=1951-06-07 |title=[[s:計量法 (昭和二十六年)|計量法]](公布時)(昭和26年法律第207号) |at=第3条第3号 |id={{NDLJP|2963871}}、[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/01019510607207.htm 衆議院-制定法律] }}</ref>。したがって、時刻の刻みとしての秒と時間の計量単位としての秒は同じ天象観測による時の計測で決定された{{Sfn|新美幸男|1997|pp=476–477|loc=§4}}。
*** これにより、標準時の通報に使用する時計は、東京天文台が測定及び報時する時刻と、秒として決定及び現示する時間に基づいて[[較正]]されることになる。
* [[1952年]](昭和27年)
** [[8月1日]]
*** 郵政省設置法の改正([[7月31日]])により、電波監理委員会が[[郵政省]]へ統合されて、郵政省[[電波研究所]] (RRL) が発足した。郵政省は周波数標準値を定め、標準電波を発射し、及び標準時を通報する権限を有し、電波研究所はそれを行うための機関とされた{{sfn|昭和27年法律第279号|1952|loc=第4条第22の9号、第17条の2第2号}}。担当部署の所属は第二部標準課となる{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
** 当年内
*** 東京天文台の標準時計がリーフラー振り子時計{{Sfn|国立科学博物館|2006}}に代わって水晶時計が新設される。リーフラー時計は、歩度の精度が1日 0.001 秒という驚異的な精度であったが、[[振り子時計]]は[[地震]]などの影響を受けるので、更に精度の高い水晶時計に移るといわれている{{Sfn|中桐正夫|2009a|p=3}}。なお、水晶時計の安定度は短期的には[[地球の自転]]よりも優れているが、振動数の温度変化やジャンプがあるので、時計比較の基底をなすのは長期安定性に優れた地球の自転であることには変わりはない{{Sfn|飯島重孝|1955|p=67|loc=§1}}。
* [[1953年]](昭和28年)
** 東京天文台で水晶時計が本格的に稼働を始める。従来のテープクロノグラフに代わる各種高精度時計比較装置が研究され、実用化される{{Sfn|飯島重孝|1955|p=67|loc=§1}}。
* [[1954年]](昭和29年)1月
** 東京天文台で写真天頂筒 (PZT) による時刻と[[緯度]]の観測が始まる{{Sfn|虎尾正久|1955|p=38}}。
* [[1955年]](昭和30年)
** 時の制度の改訂や報時業務が郵政省に移管されたことから、昭和30年法律第44号により国立学校設置法が改正され、従来の東京天文台の目的のうち「時の測定、報時及び時計の検定に関する事務」が「中央標準時の決定及び現示並びに時計の検定に関する事務」に改められた{{Sfn|新美幸男|1997|p=474}}{{sfn|昭和30年法律第44号|1955|loc=第4条第1項の表東京大学東京天文台の項}}。
==== 時刻、時間、周波数(時間の逆数)の乖離 ====
* 1955年(昭和30年)
** 第9回[[国際天文学連合]] (IAU) 総会の決議で、今までの[[世界時|UT]]が、[[観測]]値そのままの UT0、これに[[極運動]]による[[経度]]変化の補正 (Δλ) を加えた UT1、更に[[季節]]変化の補正 (ΔS) を加えた UT2 の、3種に区別されることになる{{Sfn|飯島重孝|1971|p=321|loc=§2}}{{Sfn|加藤亀三郎|1977|p=203}}。
* [[1956年]](昭和31年)
** [[1月1日]]
*** 東京天文台が第9回IAU総会で採択された、UT0、UT1、UT2の区別を開始する{{Sfn|加藤亀三郎|1977|p=203}}。UT2が代表的な世界時として正式に用いられるようになる{{Sfn|飯島重孝|1971|p=321|loc=§2}}。これにより、中央標準時の基礎はUT0からUT2へ内容的に移行する(すなわち、中央標準時=UT2+9時間となる)が、この際に法令の発布はとくになく東京天文台がその責任において認定している{{Sfn|飯島重孝|1977|p=136}}。
*** 郵政省告示により、周波数の一次標準器の[[較正]]を、東京天文台の決定するUT0からUT2へ変更した{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
** [[12月26日]]
*** 昭和31年文部省/郵政省告示第1号([[標準電波]]の周波数および通報する標準時の修正値の公表)により、標準電波の周波数及び通報する標準時の修正値は、東京大学東京天文台の決定する中央標準時に基き、周波数に関するものについては郵政省電波研究所において、標準時に関するものについては東京大学東京天文台において、それぞれ決定し、及び公表するとされた{{Sfn|中桐正夫|2011|pp=3–4}}。
** 当年内
*** [[国際度量衡委員会]]で、時間の[[計量単位]]としての秒に[[秒#地球の公転周期に基づく秒|暦表秒]]が採択される。[[地球の自転]]周期は変動するので世界時で定義される従来の秒の精度は10{{sup|−8}}の桁でしか保証されないが、暦表秒は12桁の数字で定義された{{Sfn|飯島重孝|1977|p=133}}。
* [[1957年]](昭和32年)
** JJC報時で学用形式の報時をやめて英国式に切り替える{{Sfn|松代正三|1959|p=26}}。
** 第3回の国際経度観測(1957年-1958年)の器械は、前回までの子午儀と振り子時計に代わり、写真天頂筒 (PZT) と水晶時計が主力となる{{Sfn|虎尾正久|1955|p=38}}。
* [[1958年]](昭和33年)
** [[s:計量法 (昭和三十三年)|計量法]]の改正により、時間の計量単位としての秒に暦表秒が採用され、1958年(昭和33年)[[10月1日]]に施行された{{Sfn|新美幸男|1997|p=477|loc=§4}}{{Sfn|森川容雄|2003|p=28|loc=§4.2}}。しかし、[[日常生活]]で使われる時刻の拠り所は依然としてUT2であったので、日常生活で使われる時刻の刻みとしての秒(平均[[太陽時]]の秒)と時間の計量単位としての秒(暦表秒)との複合体系が始まる{{Sfn|飯島重孝|1971|p=322}}。なお、日常生活で使用される[[時刻系]]とは別に、[[天体力学]]理論や[[天体暦]]などでは暦表秒に基づく[[暦表時]]が利用されており{{Sfn|国立天文台|1999|p=天82(168)}}、時間の計量単位としての秒(暦表秒)は東京天文台が現示するとされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02819580415061.htm |title=計量法の一部を改正する法律(昭和33年法律第61号) |accessdate=2013-12-29 |date=1958-04-15 |year=1958 |format=html |work=衆議院-制定法律 |publisher=[[衆議院]] |language=日本語}}第3条第3号</ref>。
* [[1960年]](昭和35年)[[3月31日]]
** JJC報時が廃止され、[[日本学術会議]]の無線報時研究連絡委員会も解散する{{Sfn|松代正三|1959|p=25}}。これにより、無線報時は標準電波による[[JJY]]報時に一本化される。
==== 原子的標準に基づく周波数と時間 ====
* [[1960年]](昭和35年)
** 第13回国際電波科学連合 (URSI) 総会および第11回国際天文学連合 (IAU) 総会([[1961年]])で、[[セシウム]]原子標準の[[振動数]] {{gaps|9|192|631|770}} [[ヘルツ (単位)|Hz]] が公認され、これに基づく新たな[[標準電波]][[時報|報時]]の国際[[同期]]方式(旧[[協定世界時]])を具体化した{{Sfn|飯島重孝|1971|pp=322–323}}。
* 1961年(昭和36年)[[9月1日]]
** 郵政省告示により、標準電波について、いままで[[世界時#UT2|UT2]]を基にしていた周波数値を、[[アンモニア]][[メーザー|メーザ]](3-2線ダブル[[ビーム (物理学)|ビーム]])標準器([[原子時計|原子周波数標準器]])を一次標準として決定するに変更し、[[正確度と精度|確度]]は周波数で5×10{{sup|−9}}、時刻で0.05[[秒]]以内となる。ただし、UT2になるべく近く保つための周波数オフセットや0.1秒のステップ調整を行うことになる(旧[[協定世界時|UTC]]方式。ただし、まだUTCは採用されていない)。この時のオフセット値は−150×10{{sup|−10}}。また、報時信号の国際同期(1 [[ミリ秒|ms]]以内)にも参加{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[1962年]](昭和37年)[[4月25日]]
** 昭和37年[[文部省]]/郵政省告示第1号により、「郵政省設置法の規定に基づいて発射する標準電波の周波数については、郵政省電波研究所の原子周波数標準器により、通報する標準時については東京天文台の決定する中央標準時により、それぞれ[[偏差]]を算出し、これを郵政省電波研究所において公表する」となる{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}{{Sfn|中桐正夫|2011|p=4}}{{sfn|昭和37年/文部省/郵政省/告示第1号|1962}}。
** なお、この当時はまだ協定世界時 (UTC) が採用されていないので、東京天文台が決定する中央標準時は[[世界時#UT2|世界時 (UT2)]] +9[[時間 (単位)|時間]]である。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[6月1日]]
*** 郵政省告示により、標準電波を[[ITU-R|CCIR]]勧告方式に全面改訂。標準電波により通報される標準時の確度は中央標準時に対し0.1 [[秒|s]]以内となる{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
** 9月
*** 第12回国際天文学連合 (IAU) 総会<!---開催は8/25 - 9/3--->で、世界時 (UT2) と±0.1秒以内で近似するように調整された旧協定世界時の採用を決議した{{Sfn|飯島重孝|1971|p=323}}。
* [[1967年]](昭和42年)
** 10月
*** パリで行われた第13回[[国際度量衡総会]]で、[[国際単位系]]における時間の計量単位としての秒について、セシウム[[原子時計]]に基づく定義が決定された(秒単位の長さは[[秒#地球の公転周期に基づく秒|暦表秒]]をそのまま引き継いでいる{{Sfn|飯島重孝|1977|p=133}})。ただし、日本では現行の協定世界時が開始される[[1972年]]まで法改正が行われない。
** 12月
*** 東京天文台に、[[ヒューレット・パッカード]]製の原子時計が納入される{{Sfn|加藤亀三郎|1977|p=203}}。
* [[1969年]](昭和44年)
** 電波研究所で、実用セシウム標準群が水晶標準器の代わりに主役として標準時の維持に貢献するようになる{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
==== うるう秒の導入 ====
* [[1970年]](昭和45年)
** 第14回[[国際天文学連合]] (IAU) 総会で、旧協定世界時の大幅な改善策が決議された{{Sfn|飯島重孝|1971|p=324|loc=§4}}。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[11月1日]]
*** 郵政省告示により、[[JJY]]で通報する標準時を1 [[ミリ秒|ms]]遅らせる[[時刻]]特別調整実施{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
** 当年内
*** 国際無線通信諮問委員会 ([[ITU-R|CCIR]]) の中間会議で、細部の具体策を含めて現行の協定世界時が決定された{{Sfn|飯島重孝|1971|p=324|loc=§4}}。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[1月1日]]
*** 郵政省告示が施行され、標準電波の周波数オフセットの廃止、0.107620[[秒]]遅らせる時刻特別調整と、時刻の[[協定世界時|UTC]] (RRL) ([[電波研究所]] (RRL) で生成する協定世界時)への変更を行い、新UTC方式に移行、周波数確度は1×10{{sup|−10}}となる。また、[[DUT1]]信号の重畳、[[世界時#UT1|UT1]]に近付けるための1秒ステップ調整([[閏秒|うるう秒]]調整)が取り入れられる{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}{{sfn|昭和46年郵政省告示第981号|1971}}。
*** なお、標準電波に重畳されたDUT1信号の値(UT1-UTC の予測値)を利用することで、標準電波の JST から、0.1秒の精度で UT1+9{{sup|[[時間 (単位)|h]]}}=JST+DUT1 が得られる{{Sfn|青木信仰|藤本真克|1981|p=133}}。
** [[5月9日]]
*** [[s:計量法 (昭和四十七年)|計量法]]が改正され、時間の計量単位としての秒にセシウム[[原子時計]]による定義が採用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02819580415061.htm |title=計量法の一部を改正する法律(昭和47年法律第27号) |accessdate=2013-12-29 |date=1972-05-09 |year=1972 |format=html |work=衆議院-制定法律 |publisher=[[衆議院]] |language=日本語}}第3条第3号</ref>。これにより協定世界時による時刻の刻みとしての秒と時間の計量単位としての秒が一致するようになった。しかし、時間の計量単位としての秒を現示する機関を東京天文台とする定めがなくなり、どの機関が現示するのかが明らかでないため、時間や周波数の計量単位の国家標準が機能しない状態になる{{Sfn|森川容雄|2003|p=28|loc=§4.2}}。
** 5月
*** 電波研究所、[[計量研究所]](現 [[産業技術総合研究所]])、東京天文台(翌年4月から)が[[テレビジョン|TV]][[同期信号|同期パルス]]仲介の原子時計相互[[較正|比較]]の定常運用にはいる{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
** [[7月1日]]
*** 第一回目のうるう秒調整実施{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[1981年]](昭和56年)
** 当時の[[理科年表]]では、中央標準時=UT1+9{{sup|h}} とされた{{Sfn|青木信仰|藤本真克|1981|p=133}}。
==== 国際標準と結ばれた時刻、時間、周波数 ====
* [[1983年]](昭和58年)4月
** 東京天文台で[[GPS衛星]]を利用した時刻比較方式の定常運用が開始されたことにより、東京天文台の原子時計は欧米の原子時計と一億分の一秒の[[正確度と精度|精度]]で時計[[較正|比較]]が可能となった。これによって、[[LORAN|ロランC]]の電波で東京天文台と時計比較している[[アジア]]諸国の原子時計も、1983年(昭和58年)後半から欧米並の精度となり[[国際原子時]]の決定に寄与できることになった。なお、これまでは、[[極東]]地域のロランC電波は欧米の機関では遠すぎて精度よく受信することができないため、欧米の原子時計とアジア諸国の原子時計とは精度のよい時計比較ができず(典型的な精度比較で、欧米内で 0.05 [[マイクロ秒]]であるのに対し、アジアと欧米の間では、0.2 マイクロ秒)、東京天文台の原子時計はパリの国際報時局(BIH、現[[国際地球回転・基準系事業|IERS]])が決めていた国際原子時を形成する[[平均]]の[[母集団]]に参加できていなかった{{Sfn|青木信仰|藤本眞克|1984|pp=36–37}}。
* [[1984年]](昭和59年)
**1月
*** 中央標準時は[[協定世界時]] (UTC) に9[[時間 (単位)|時間]]を加えた(進めた)もの(厳密に言えば、法律に従って東京天文台が現示している中央標準時は、東京天文台で作られる協定世界時(区別して UTC(TAO) と書かれる)に9時間を加えたもの)であるといわれる。この背景には、前年から始まったGPS衛星を利用した時刻比較方式により、東京天文台の原子時計が国際原子時の決定に寄与できるようになったことがある{{Sfn|青木信仰|藤本眞克|1984|pp=36–37}}。
** 2月
*** [[電波研究所]]でも、[[GPS衛星|汎地球測位システム (GPS) 衛星]]のL1バンド (1575.42 [[メガヘルツ|MHz]])、C/Aコードを利用した時刻比較受信機を開発、受信開始。これにより、今まで欧米から独立していた日本の原子時計が結合され、初めて国際原子時決定に寄与することとなる。これらのデータは、国際報時局(BIH、現IERS)へ送り始める。また、[[セシウム]][[ビーム (物理学)|ビーム]]一次[[周波数]]標準器Cs1 (RRL) の確度評価値を年1-2回不定期に送り国際原子時の較正寄与を開始{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[1月1日]]
*** 国際報時局 (BIH) が国際地球回転観測事業(IERS、現 国際地球回転・基準系事業)に改組され、国際原子時、協定世界時などの原子時計や周波数に関連する業務が、国際度量衡局に移管される{{Sfn|新美幸男|1997|p=478|loc=§6}}。
*** [[地球の自転|地球回転]]の観測は、原子時計の精度とかけ離れた写真天頂筒 (PZT) から、電波、レーザーを使った高精度の距離観測([[超長基線電波干渉法|VLBI]]、[[月レーザー測距実験|月レーザー測距]]・[[光波測距儀#レーザー衛星測距|人工衛星レーザー測距]]・[[LIDAR]]など)に移行することになる{{Sfn|松田浩|1996|p=211|loc=§1}}。
** [[4月8日]]
*** 郵政省組織令の改正により、郵政省電波研究所 (RRL) が郵政省[[通信総合研究所]] (CRL) と名称変更する{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}<ref>{{Citation|和書|date=1988-04-08 |year=1988 |title=郵政省組織令の一部を改正する政令(昭和63年政令104号)}}</ref>。
** [[7月1日]]
*** 国立学校設置法施行令の改正により、東京大学に附置される[[施設#研究施設|研究施設]]の東京天文台 (TAO) が{{sfn|昭和30年法律第44号|1955|loc=第4条第1項の表東京大学東京天文台の項}}、大学共同利用機関の[[国立天文台]] (NAOJ) に改組される<ref>{{Citation|和書|date=1988-04-08 |year=1988 |title=国立学校設置法施行令の一部を改正する政令(昭和63年政令第101号) |at=第1条第1項、第6条の表東京大学の項}}</ref>。
* [[1992年]]([[平成]]4年)[[5月20日]]
** 新たに[[計量法]]が全面改訂され、国の機関が時間の計量単位としての秒を現示する定めはなくなった{{sfn|平成4年法律第51号|1992|loc=第3条}}<ref>{{Citation|和書|year=1992 |date=1992-11-18 |title=[[s:計量単位令|計量単位令]](平成4年政令第367号) |at=第2条、別表第1の時間 秒の項 }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357 e-Gov法令検索]。</ref>。時間の計量単位の現示に関する指定がない状態が継続する{{Sfn|森川容雄|2003|pp=30–31|loc=§4.4.2}}。
* [[2003年]](平成15年)[[4月1日]]
** 国の機関による時間の計量単位としての秒の現示に代わって、時間(秒)の逆数で表される周波数について、[[経済産業大臣]]が特定標準器{{sfn|平成4年法律第51号|1992|loc=第134条}}として、国際標準(国際原子時・協定世界時)と比較され確度評価された周波数標準器(原子時計)を指定することになる。特定標準器には通信総合研究所 (CRL) と[[産業技術総合研究所]]計量標準総合センター (NMIJ) の周波数標準器が指定された<ref>{{Cite web|和書|url= https://jjy.nict.go.jp/QandA/FAQ/time_qa.html#q11 |title=標準時・周波数標準のQ&A 周波数と時刻に関するQ&A - Q 時間の国家標準 |accessdate=2014-01-05 |author=情報通信研究機構 |authorlink=情報通信研究機構 |date=2005 |year=2005 |format=html |work=標準時・周波数標準のQ&A |publisher=情報通信研究機構 |language=日本語}}</ref>。これにより、時間・周波数の計量単位の国家標準(特定標準器)と[[トレーサビリティ (計測器)|トレーサビリティ]]が確立できるようになる{{Sfn|森川容雄|2003|pp=30–31|loc=§4.4.2}}。
==== インターネットによる標準時の配信 ====
* [[1992年]](平成4年)
** [[国立天文台]]に設置されているセシウム[[原子時計]]を時刻源とする、[[協定世界時]] (UTC) に同期した時刻を保持するサーバを[[インターネット]]に公開する方針で準備が始まる<ref>{{Cite journal|和書|author=大野浩之 |author2=鈴木茂哉 |author3=福島登志夫 |author4=松田浩 |author5=久保浩一 |date=1993-09-27 |year=1993 |title=セシウム原子時計に基づくNTPサーバーの試作 |journal=全国大会講演論文集 |volume=第47回平成5年後期 |issue=1 |pages=195-196 |publisher=[[情報処理学会]] |location=[[東京都]] |naid=110002884402 |id={{NCID|AN00349328}} |accessdate=2014-01-24}}{{オープンアクセス}}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)春
** 国立天文台の天文保時室で「世界で初めてUTCに同期したセシウム原子時計直結の Strutum 1 サーバー」([[Network Time Protocol|NTP]]サーバー)が本格運用を始める{{Sfn|松田浩|1996|p=215|loc=§7}}。
* [[1995年]](平成7年)[[8月31日]]
** 通信総合研究所が、インターネットによる標準時の供給に関し、[[インターネットイニシアティブ|(株)インターネットイニシアティブ]]と共同研究開始{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[2001年]](平成13年)
** [[1月6日]]
*** [[中央省庁再編]]により[[総務省設置法]]、総務省組織令などが施行され、郵政省通信総合研究所から総務省通信総合研究所に組織変更{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/h145091.htm |title=総務省設置法(公布時)(平成11年法律第91号) |accessdate=2013-12-29 |date=1999-07-16 |year=1999 |format=html |work=衆議院-制定法律 |publisher=[[衆議院]] |language=日本語}}</ref>。
** [[4月1日]]
*** [[通信総合研究所|独立行政法人通信総合研究所]]設立{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/h146162.htm |title=独立行政法人通信総合研究所法(公布時)(平成11年法律第162号) |accessdate=2013-12-29 |date=1999-12-22 |year=1999 |format=html |work=衆議院-制定法律 |publisher=[[衆議院]] |language=日本語}}</ref>。
** [[10月24日]]
*** 通信総合研究所の日本標準時表示システムを総務省本省ロビーに設置{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[2004年]](平成16年)[[4月1日]]
** 独立行政法人情報通信研究機構(NICT)設立{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}{{sfn|平成11年法律第162号|1999}}。
** 大学共同利用機関法人自然科学研究機構設立。国立天文台がその大学共同利用機関として設置される{{sfn|平成15年法律第112号|2003|loc=第5条第2号、別表第2}}<ref>{{Citation|和書|date=2003-12-03 |year=2003 |title=国立大学法人法施行令(平成15年政令第478号) |at=第2条第2項 }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415CO0000000478 e-Gov法令検索]。</ref>{{sfn|平成15年文部科学省令第57号|2003|loc=第1条、別表第1 大学共同利用機関法人自然科学研究機構 国立天文台の項}}。
* [[2005年]](平成17年)[[2月8日]]
** NICTが日本標準時を利用したNTP本格サービス提供開始{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[2006年]](平成18年)[[6月12日]]
** NICTが世界最高性能の[[Network Time Protocol|インターネット用時刻同期]][[サーバ]]による日本標準時の配信開始{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
==== 光格子時計による高精度化と神戸副局の設置 ====
* [[2006年]](平成18年)
** [[2月7日]]
*** NICTが日本標準時システムを更新し、[[正確度と精度|精度]]が5倍向上した{{Sfn|情報通信研究機構|2005c}}。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月15日]]
*** 世界最高精度の時刻との誤差12億分の1秒以下(0.79ナノ秒)、現行のJJYより一桁高い精度を実現したストロンチウム光格子時計を開発<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nict.go.jp/press/2018/03/15-1.html|title=光格子時計を利用した高精度な時刻標準の生成に成功 ~近未来、時刻は電気信号から光へと進化する~|accessdate=2019-6-26|publisher=国立研究開発法人 情報通信研究機構|date=2019-3-15}}</ref>。
** [[6月10日]]
*** 日本標準時の供給体制の冗長化を目的に分散局として神戸副局を設置<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.nict.go.jp/info/topics/2018/06/180612-1.html|title=日本標準時における神戸副局の定常運用開始|accessdate=2018-8-28|publisher=情報通信研究機構}}</ref>。また、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の標準電波局用の原子時計も分散局として活用。人工衛星を仲介したデータ合成、相互参照により日本標準時を供給する体制に移行した<ref name=":0" />。
** 11月末
*** 世界で2例目となる[[原子時計#ストロンチウム光格子時計|ストロンチウム光格子時計]]を用いたUTC歩度校正の二次周波数標準の認定を受ける<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.nict.go.jp/press/2019/02/07-1.html|title=世界で初めて光時計が直近の協定世界時の一秒の長さを校正 ~国際度量衡局がNICT光格子時計による歩度評価を採用~|accessdate=2019-6-26|publisher=国立研究開発法人 情報通信研究機構|date=2019-2-7}}</ref>。
** 12月2日~12月12日
*** [[パリ天文台]]と共にストロンチウム光格子時計を用いたUTC歩度評価を実施。BIPMによって実行される校正値決定に採用される<ref name=":1" />。
*[[2021年]](令和3年)
**6月 - 週1回以上の頻度でストロンチウム光格子時計による標準時の刻み幅の妥当性評価を行う<ref name=":2">[https://www.nict.go.jp/press/2022/06/09-1.html 世界初、国家標準時の維持に光格子時計を利用~NICTが持つ時計のみで協定世界時との同期が可能に〜] - 情報通信研究機構(2022年6月9日、2023年5月26日閲覧)</ref>。
**8月 - 週1、2回の頻度でストロンチウム光格子時計による継続的な標準時の周波数調整を開始<ref name=":2" />。
== 日本標準時の作成 ==
[[ファイル:World Time Zones Map.png|thumb|upright=1.2|[[時間帯 (標準時)|標準時時間帯]](2012年11月時点、[[中央情報局|アメリカCIA]]制作)]]
NICTが運用する小金井局の18台の[[セシウム]][[原子時計]]および4台の[[水素]][[メーザー]]原子時計の時刻を1日1回平均・合成することによって[[協定世界時]](UTC)を生成し、これを9時間進めたものが日本標準時(JST)となる。加えて週1、2回の頻度で、ストロンチウム[[光格子時計]]による標準時の周波数調整、後述する分散局(神戸副局、おおたかどや山送信所、はがね山送信所)の原子時計と人工衛星を仲介した較正を行っている。
なお、この協定世界時(UTC)は、[[国際度量衡局]](BIPM)が決定する協定世界時(UTC)との差が±50ナノ秒以上にならないように決定される。このようにして決定された日本標準時(JST)は、標準電波([[JJY]])や[[Network Time Protocol|NTP]]サーバ、[[電話回線]]を通じて供給されている(参考:[[国立天文台]]、[[産業技術総合研究所]]計量研究所)。[[2006年]][[2月7日]]から、セシウム原子時計に加えて水素メーザー原子時計を使用することなどにより、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±50ナノ秒以内から±10ナノ秒以内に向上した。さらに、セシウム原子時計や水素メーザー原子時計を3系統に分けて相互比較・データ合成を行うことで信頼性の向上ならびに、日本標準時(JJY)の冗長化に寄与している。[[2021年]](令和3年)8月から、週1、2回の頻度で、ストロンチウム光格子時計による標準時の周波数調整を開始した<ref name=":2" />。標準時システムに光格子時計を加えることで、協定世界時(UTC)との時刻同期精度が±20ナノ秒以内から±5ナノ秒以内に向上された、とされる<ref name=":2" />。
=== 神戸副局 ===
[[2018年]](平成30年)6月10日から、日本標準時の冗長化を目的に[[神戸市]][[西区 (神戸市)|西区]]の未来ICT研究所内に分散局として神戸副局を設置した。また、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計も分散局として、人工衛星を仲介した3つの分散局データを合成して日本標準時(JST)をバックアップ供給する体制に移行した。神戸副局にはセシウム原子時計(CS)5台と水素メーザー時計2台及び送信所との高精度衛星時刻比較システムなど日本標準時生成に必要な基本機能を備え、小金井本部と並行して、標準時に準じた常時合成原子時(神戸時系)を生成する<ref name=":0" />。
また本部の供給サービスがダウンした場合に備え、小金井本部同様に日本標準時を供給できるようにするほか、NTPサーバー及び光テレホンJJYシステムのバックアップ、標準電波送信所の周波数調整機能を整備しているという。今後は小金井と神戸両局の相互比較・データ合成を行うことで更に精度向上に寄与するほか、神戸副局からも日本標準時が供給できる体制がとれるようになるという<ref name=":0" />。
== 日本標準時の供給と標準電波 ==
{{Main|標準電波}}
日本標準時 (JST) を国内外に広く供給するために、NICTは[[標準電波]]を発信している。この波により送信されている[[周波数]]の標準と標準時の[[信号 (電気工学)|信号]]は、国家標準である[[セシウム]][[ビーム (物理学)|ビーム]]型原子周波数標準機や、[[水素]][[メーザー|メーザ]]型、実用セシウムビーム型[[原子時計]]群を用いたものよりも高い[[正確度と精度|精度]]に保たれている。なお、標準電波の発信は[[電離層]]の影響を受けにくい[[長波]]を使用しているため、24時間の周波数[[較正|比較]][[平均]]値では 1×10{{sup|−11}} の精度を得られると発表されている。
[[1999年]][[6月10日]]に「[[おおたかどや山標準電波送信所]]」([[福島県]][[田村市]]都路町 [[大鷹鳥谷山]])が開局した。しかし、九州沖縄方面では受信しにくい現象が起こるなどで日本全国をカバーできなかったため、[[2001年]][[10月1日]]には[[佐賀県]][[佐賀市]]富士町の[[羽金山]]に「[[はがね山標準電波送信所]]」を開局し、これにより日本国内の広い範囲で標準電波が受信ができるようになった。
小金井局・神戸副局で作成した日本標準時の情報は、おおたかどや山送信所・はがね山送信所の原子時計の遠隔監視、時間比較により日本標準時供給の精度維持に活用される。
いわゆる[[電波時計]]は、この標準電波を受信し、自動で[[時刻]]を合わせる[[時計]]である。
== NTP ==
[[情報通信研究機構|NICT]]は[[インターネット]]経由で[[時刻同期]]を可能とするため、[[Network Time Protocol|NTP]][[サーバ]]による時刻情報提供サービスを2006年から提供している。NTPサーバの[[Fully Qualified Domain Name|アドレス]]はntp.nict.jpである<ref>{{Cite web|和書|url=https://jjy.nict.go.jp/tsp/PubNtp/index.html |title=日本標準時グループ 公開NTP |accessdate=2022-11-1 |author1=松原健祐 |author2=小竹昇 |author3=伊東宏之 |author4=大坪望 |coauthor=情報通信研究機構 電磁波研究所 電磁波標準研究センター 時空標準研究室 日本標準時グループ |publisher=情報通信研究機構 |date=2022-10-7 |format=html |language=日本語}}</ref>。通常はNTPサーバの処理能力の限界{{Refnest|group="注"|毎秒5000リクエスト程度が限界<ref name="NICT-News0610research02" />である。}}を考慮し、[[原子時計]]などに直結されたNTPサーバを一般ユーザが直接利用すべきではないとされているが、このサーバは[[FPGA]]で構成され、毎[[秒]]100万リクエスト以上の処理能力を持ち、日本標準時に直結{{Refnest|group="注"|サーバの時刻精度は10[[ナノ秒]]以内<ref name="NICT-News0610research02" />。}}でありながらユビキタス社会を支える時刻同期インフラを目指し、一般ユーザが直接利用することを前提にしたセキュリティ的にも頑健なシステムである<ref name="NICT-News0610research02">{{Cite journal|和書|author=町澤朗彦 |date=2006-10 |year=2006 |title=NICT公開NTPサービス{{~}}世界最高性能の処理能力{{~}} |journal=NICT NEWS |volume=2006年 |issue=10月号 No.367 |page=3 |publisher=[[情報通信研究機構]] |location=東京都[[小金井市]] |issn=2187-4042 |url=https://www.nict.go.jp/publication/NICT-News/0610/research/02.html |format=html |accessdate=2013-12-31}}囲み記事「暮らしと技術」</ref>。
== UTCとJSTの換算 ==
下記に示されている[[UTC+9]]の値を、JSTへ読み替えれば換算できる。
{{時差表|+|9}}
== IANAのTime Zone Database ==
[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]の[[tz database|Time Zone Database]]には、日本の標準時が1つ含まれている<ref>[https://nodatime.org/TimeZones Noda Time | Time zones]</ref><ref>[[:en:List of tz database time zones]]</ref>。
{| class="wikitable"
! [[ISO 3166-1|国コード]]
! [[ISO 6709|座標]]
! [[時間帯 (標準時)|時間帯]]ID
! 注釈
! [[協定世界時]]との差 !! [[夏時間]] !! 備考
|-
| [[日本|JP]]
| +353916+1394441
| Asia/Tokyo
|
| [[UTC+9|+09:00]]||+09:00||
|}
== 日本標準時を変更する動き ==
[[2013年]](平成25年)[[5月22日]]、[[猪瀬直樹]][[東京都知事]](当時)は、日本標準時を2時間早める(=UTC+11)提案を[[産業競争力会議]]にて出した。[[東京]]の[[金融市場]]の開始を早めることで[[東京金融市場|東京市場]]の存在感を高めるのが狙いとされている。[[政府]]はこの提案を検討するとしている<ref>{{Cite news|archiveurl=http://www.asahi.com/business/update/0522/TKY201305220005.html|title=日本の標準時「2時間早く」 都知事が提案、政府検討へ|date=2013-05-22|archivedate=2013-05-22|url=https://web.archive.org/web/20130522050847/http://www.asahi.com/business/update/0522/TKY201305220005.html| accessdate=2019-12-19|newspaper=朝日新聞}}</ref>。もっともその後、この提案について具体的に話し合われた様子はない(2023年7月19日時点)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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|author = 青木信仰
|author2 = 藤本真克
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|volume = 74
|issue = 5
|pages = 133-135
|publisher = [[日本天文学会]]
|location = 東京都[[三鷹市]]
|issn = 0374-2466
|naid = 40002565572
|id = {{NCID|AN00154555}}
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|format = PDF
|accessdate = 2013-12-29
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}}
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|authorlink2 = 藤本眞克
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|year = 1984
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|volume = 77
|issue = 2
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|location = 東京都[[三鷹市]]
|issn = 0374-2466
|naid = 40002565686
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|volume = 48
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|publisher = [[日本天文学会]]
|location = 東京都[[三鷹市]]
|issn = 0374-2466
|naid = 40018111534
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|accessdate = 2014-01-24
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|location = [[東京都]]
|issn = 0029-0416
|naid = 110002777594
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|volume = 70
|issue = 7
|pages = 202-203
|publisher = [[日本天文学会]]
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|year = 1919
|editor = [[日本天文学会]]
|title = 帝国の天文台に就て
|journal = 天文月報
|volume = 12
|issue = 9
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|accessdate = 2014-01-09
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| date = 1999-11-30
| editor = 国立天文台
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| title = 理科年表
| place = [[東京都]]
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| edition = 第73冊 平成12年
| isbn = 4-621-04688-8
| url = http://www.rikanenpyo.jp/
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|title = 写真天頂筒の話
|journal = 天文月報
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|issue = 03
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|location = 東京都[[三鷹市]]
|issn = 0374-2466
|naid = 40018111525
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|url = https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1955/pdf/195503.pdf
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|issue = 436
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|format = PDF
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|location = 東京都[[三鷹市]]
|issn = 0374-2466
|naid = 10002142171
|id = {{NCID|AN00154555}}
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* {{Cite journal|和書
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|authorlink = 宮地政司
|date = 1950
|year = 1950
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|id = {{JOI|JST.Journalarchive/jgeography1889/59.61}}
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|year = 1974
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|issn = 0914-9279
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|url = https://www.nict.go.jp/publication/shuppan/kihou-journal/kihou-vol49no1.2/02-04.pdf
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** {{Citation|和書
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|title = [[s:電気通信省設置法|電気通信省設置法]](昭和23年法律第245号)
|id = {{NDLJP|2963115}}、[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00319481215245.htm 衆議院-制定法律]
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|date = 1950-05-02
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|title = [[電波監理委員会設置法]](昭和25年法律第133号)
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|ref = {{sfnRef|昭和25年法律第133号(公布時)|1950}}
}}
** {{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/01319520731279.htm |title=郵政省設置法の一部を改正する法律(昭和27年法律第279号) |accessdate=2013-12-29 |date=1952-07-31 |year=1952 |format=html |work=衆議院-制定法律 |publisher=[[衆議院]] |language=日本語 |ref={{sfnRef|昭和27年法律第279号|1952}} }}
** {{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02219550701044.htm |title=国立学校設置法の一部を改正する法律(昭和30年法律第44号) |accessdate=2013-12-29 |date=1955-07-01 |year=1955 |format=html |work=衆議院-制定法律 |publisher=[[衆議院]] |language=日本語 |ref={{sfnRef|昭和30年法律第44号|1955}} }}
** {{Citation|和書
|date=1992-05-20
|year=1992
|title=[[計量法]](平成4年法律第51号)
|ref = {{sfnRef|平成4年法律第51号|1992}}
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|year = 1999
|title = [[s:独立行政法人情報通信研究機構法|独立行政法人情報通信研究機構法]](平成11年法律第162号)
|ref = {{sfnRef|平成11年法律第162号|1999}}
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|year = 2003
|title = [[国立大学法人法]](平成15年法律第112号)
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}} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0000000112 e-Gov法令検索]。
* '''勅令'''
** {{Citation|和書
|date = 1886-07-13
|year = 1886
|title = [[s:本初子午線經度計算方及標準時ノ件|本初子午線経度計算方及標準時ノ件]](明治19年勅令第51号)
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}} {{Egov law|119IO0000000051|本初子午線経度計算方及標準時ノ件}}。
** {{Citation|和書
|date = 1895-12-28
|year = 1895
|title = [[s:標準時ニ關スル件 (公布時)|標準時ニ関スル件(公布時)]](明治28年勅令第167号)
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}} {{Egov law|128IO0000000167|標準時ニ関スル件}}
* '''省令・規則'''
** {{Citation|和書
|date = 1950-11-30
|year = 1950
|title = [[無線局運用規則]](昭和25年電波監理委員会規則第17号)
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}} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=325M50080000017 e-Gov法令検索]。
** {{Citation|和書
|date = 2003-12-19
|year = 2003
|title = 国立大学法人法施行規則(平成15年文部科学省令第57号)
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}} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415M60000080057 e-Gov法令検索]。
* '''告示'''
** {{Cite web|和書|url=https://www.tele.soumu.go.jp/horei/law_honbun/72476000.html |title=総務省設置法第四条第七十三号の規定に基づいて発射する標準電波の周波数等(昭和37年)(/文部省/郵政省/告示第1号) |accessdate=2013-12-29 |date=1962-04-25 |year=1962 |format=html |work=総務省電波関係法令集(内容現在 平成25年07月01日) |publisher=[[総務省]] |language=日本語 |ref={{sfnRef|昭和37年/文部省/郵政省/告示第1号|1962}} }}
** {{Citation|和書
|date = 1971-12-27
|year = 1971
|title = 標準周波数局の運用(運用規則第百四十条)昭和46年郵政省告示第981号
|ref = {{sfnRef|昭和46年郵政省告示第981号|1971}}
}}
** {{Cite web|和書|url=https://www.tele.soumu.go.jp/horei/law_honbun/72999538.html |title=無線局運用規則第百四十条の規定に基づく標準周波数局の運用に関する事項(平成11年5月28日)(郵政省告示第382号) |accessdate=2013-12-29 |date=1999-05-28 |year=1999 |format=html |work=総務省電波関係法令集(内容現在 平成25年07月01日) |publisher=[[総務省]] |language=日本語 |ref={{sfnRef|平成11年郵政省告示第382号|1999}} }}
== 関連項目 ==
* [[日本標準時子午線]]
* [[本初子午線]]
* [[人丸前駅]]([[山陽電気鉄道]]) - 日本で唯一、駅構内が日本標準時子午線を横切る配置(形状)になっている。
* [[日本へそ公園駅]]
* [[JJY]]
* [[UTC+9]]
* [[韓国標準時]]
* [[小金井市]] - 日本標準時を生成・供給するための[[原子時計]]が設置されている[[情報通信研究機構|情報通信研究機構(NICT)]]の所在地
* [[奥州市]] - 中央標準時を決定し、[[現実]]の[[信号 (電気工学)|信号]]として示す(現示する)ための原子時計が設置されている[[国立天文台]][[水沢VLBI観測所]]の所在地
== 外部リンク ==
{{Wikisource|本初子午線經度計算方及標準時ノ件|明治19年勅令第51号}}
{{Wikisource|標準時ニ關スル件 (明治二十八年勅令第百六十七号)|明治28年勅令第167号}}
{{Wikisource|明治二十八年勅令第百六十七號標準時ニ關スル件中改正ノ件|昭和12年勅令第529号}}
* [https://www.nict.go.jp/ 情報通信研究機構]
** [https://jjy.nict.go.jp/mission/page2.html 日本標準時をつくる] - [https://jjy.nict.go.jp/ 日本標準時グループ]
** [https://www.nict.go.jp/JST/JST5.html JST Clock]
* [https://www.nins.jp/ 自然科学研究機構] - [https://www.nao.ac.jp/ 国立天文台]
** [https://www.miz.nao.ac.jp/content/facility/time-keeping-office NAOJ:天文保時室] - [https://www.miz.nao.ac.jp/ 国立天文台 水沢]
** [https://www.miz.nao.ac.jp/vlbi/time.html 天文保時室] - [https://www.miz.nao.ac.jp/vlbi/mizhome.html 水沢VLBI観測所]
* [https://www.archives.go.jp/ 国立公文書館]
** {{アジア歴史資料センター|A03020005500|御署名原本・明治十九年・勅令第五十一号・本初子午線経度計算方及標準時ヲ定ム}}
** {{アジア歴史資料センター|A03020211600|御署名原本・明治二十八年・勅令第百六十七号・標準時ニ関スル件}}
** {{アジア歴史資料センター|A03022132100|御署名原本・昭和十二年・勅令第五二九号・明治二十八年勅令第百六十七号(標準時ニ関スル件)中改正}}
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7,211 | 日本音楽著作権協会 | 一般社団法人日本音楽著作権協会(にほんおんがくちょさくけんきょうかい、英語: Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers)は、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む一般社団法人である。公式に英語の略称である「JASRAC」の表記をロゴとして使っており、「ジャスラック」と発音する。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。
JASRACを示す意匠は二種類あり、青い線の集合で書かれたものは「ロゴ」と呼ばれ同法人名や利用許可を与えた店舗の表示に使われている。両端が尖った楕円に独自の書体で書かれたものは「マーク」と呼ばれ利用許可を与えた著作物に表示されている。
音楽(楽曲、歌詞)の著作権を持つ作詞者・作曲者・音楽出版者から複製権・演奏権などの著作権の信託を受けて、音楽の利用者に対する利用許諾(ライセンス)、利用料の徴収と権利者への分配、著作権侵害の監視、著作権侵害者に対する法的責任の追及などを主な業務としている。
本部は東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有するビル内に設置され、14の支部が日本全国の主要都市に設置されている。JASRACは現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、1939年に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
音楽著作権の管理をJASRACに委託しようとする作曲者、作詞者、音楽出版者は、自らが保有する音楽著作権の支分権の全部または一部をJASRACに移転する(信託契約約款3条1項)。JASRACは、作曲者等から著作権の移転を受けて、自らが著作権を保有し、著作権の対象である著作物(楽曲、歌詞)の利用を希望する者に対して利用許諾を行う。著作物を利用した利用者からは使用料を対価として徴収し、5パーセント - 25パーセントの管理手数料 を控除した上で、委託者に分配する。このように、JASRACの著作権管理は「信託」によるものであり、作曲者、作詞者、音楽出版者が「委託者」、JASRACが「受託者」、音楽の利用者が「受益者」に相当する。
著作物の利用には、著作権の効力が及ぶ利用形態で、喫茶店・レストラン・ダンス教室(1971年より社交ダンス教室、2015年より全てのダンス教室に対象拡大)・歌謡教室(2016年より)・カラオケ(1987年より、1997年からは通信カラオケにも対象拡大)・フィットネスクラブ(2011年より)・カルチャーセンター(2012年より)・音楽教室(2018年より)・コンサート会場等における不特定または特定多数向けの音楽の演奏、CD・DVD・映画・オルゴールなどへの音楽の複製、テレビやラジオによる音楽の放送、インターネットによる音楽配信などがある。
音楽の無許諾利用である著作権侵害の監視も業務の一環で、無許諾による音楽利用を発見した場合、利用許諾契約の締結を求めるほかに過去利用分を遡及して使用料の請求を行う。損害賠償請求や使用差止請求などの民事訴訟手続や、告訴などの刑事手続に至る事例もある。著作権侵害に対する法的措置は、喫茶店やレストランにおける無許諾演奏が最も多い。2005年度事業報告書では演奏権侵害に対する法的措置の総件数は2995件で3129店だが、市場の縮小や適法利用率の向上から2009年度は1713件、2010年度は1043件、2011年度は970件と減少している。近年はインターネット上で違法に配信されている歌詞や音声ファイルを発見するシステムである「J-MUSE」を2000年10月に導入し、違法配信をするウェブサイトの管理者には個別に警告の電子メールを送付している。
著作権のうち、放送権(著作権法23条1項、公衆送信権の一種)の管理をJASRACに委託している者の作品を放送するには、JASRACの許諾が必要である。
2021年度にJASRACが放送事業者から徴収した使用料は279.8億円であった。JASRACが放送事業者から徴収した使用料は、8.5パーセントの管理手数料 (実施料率。届出料率は10パーセント)が控除された上で委託者に分配されている。
NHKや民放地上波はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各放送局の年間放送事業収入の1.5パーセントに楽曲の使用割合を反映したものを放送使用料として徴収している。
楽曲の使用割合の根拠として、NHK全局、民放地上波テレビ全局及び民放地上波ラジオ局の一部はJASRAC管理楽曲の全曲報告を行っている。一方、民放地上波ラジオ局の一部は一定の期間を割り当て、その期間の使用曲目をサンプルとして報告を行っている。
民放衛星波はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各チャンネルの放送内容の区分に応じて、各放送チャンネルの年間放送事業収入に使用料率を乗じた金額を放送使用料として徴収している。使用料率は主として音楽番組のチャンネルは2.25パーセント、総合編成のチャンネルは1.5パーセント、ニュース・スポーツ等のチャンネル0.75パーセントである。
コミュニティ放送の使用料については、JASRACと当該事業者との間で別途協議をしている。放送大学学園がJASRACと年間の包括的利用許諾契約を締結する場合の放送使用料は、著作物の利用目的、利用方法等を考慮しJASRACと放送大学学園間で協議して定める。
包括的利用許諾契約は、音楽作品を利用する放送事業者にとっては利便性が高い契約形態である一方で、放送権の管理分野で99パーセントという圧倒的なシェアをもつJASRACが放送局に対して包括的利用許諾契約を認めた場合、他の著作権管理団体との公正な競争が阻害される。詳細は「包括的利用許諾契約の運用問題」節を参照のこと。
インターネット配信サイトでは違法な投稿や配信が多発し、削除依頼による適時削除でも違法状態の継続がみられたが、2008年4月にニコニコ動画、10月にYouTube、2010年7月にUstream、など、各動画サイトと包括的利用許諾契約を締結してサイト収入の2.5パーセントを著作権料として徴収しており、今後も契約先の増加させる方針である。
Winnyなどファイル共有ソフトのネットワークでは、著作権侵害コンテンツを公開しているユーザへ削除を求めるなどコンピュータソフトウェア著作権協会と協力活動している。
JASRACは著作権者の地位を有しており著作権に基づく私的録音録画補償金を請求する権利を有する(著作権法30条2項)が、私的録音録画補償金請求権はJASRACではなく私的録音補償金管理協会(sarah)と私的録画補償金管理協会(SARVH)が行使する(著作権法104条の2)但しSARVHについては後述の通り機能不全に陥り最終的に解散した。
sarahは補償金をJASRACに36パーセント、実演家団体の日本芸能実演家団体協議会に32パーセント、レコード製作者団体の日本レコード協会に32パーセント、それぞれ分配する。2018年度のJASRAC配分は約845万円である。
私的録音対象には音楽著作物と言語著作物があり、JASRAC配分補償金は音楽著作物に係るものと言語著作物に係るものに区分され、2018年度は音楽区分約810万円、言語区分約35万円である。音楽区分補償金は10パーセントの管理手数料を控除後に権利者へ分配されるが、非委託者分は当該者の請求により分配しており、非委託者である音楽著作権(録音権)管理事業者のNexToneへ2018年度に約35万円が分配されている。言語区分補償金は日本脚本家連盟へ分配され、連盟規程により各権利者に分配される。
SARVHは補償金をJASRACに16パーセント、日本脚本家連盟、NHKと日本民間放送連盟など映像関連7団体から構成される映像製作者委員会、などに合計52パーセント、日本芸能実演家団体協議会に29パーセント、日本レコード協会に3パーセント、それぞれ分配する。2007年度のJASRAC配分は2億400万円である。JASRAC配分補償金は管理手数料を控除後に権利者へ分配されていたが、2012年に訴訟で敗訴して2015年にSARVHは解散し、制度破綻した。
日本は1899年にベルヌ条約に加盟して著作権法も施行されていたが、生演奏の他に録音媒体も再生ごとに使用料を支払う概念は皆無であった。1931年に旧制一高のドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立し、放送局やオーケストラなど楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。
プラーゲの要求する使用料は当時法外で手法が法的手段を含む強硬であることから、海外の楽曲の使用が事実上困難になった。日本放送協会(NHK)もプラーゲ機関との契約交渉が不調で1年以上海外の楽曲を放送できなくなった。プラーゲは日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができずに日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。一連は「プラーゲ旋風」と呼ばれ日本における著作権集中管理のきっかけとなった。
事態打開のため1939年に、著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るとする「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」(仲介業務法)が施行されてJASRAC前身の大日本音楽著作権協会も設立され、翌年1940年に業務が開始された。プラーゲは著作権管理業務から排除されて同法違反で罰金刑を受け、1941年に離日した。文化庁は大日本音楽著作権協会ほか4団体に仲介業務の許可を与えて他の参入を認めず、音楽著作権の仲介は大日本音楽著作権協会の独占業務となった。
著作権の一元管理は効率が高いシステムとして運用されてきたが、音楽ソフトのデジタル化やネットワーク化の進展などからJASRACの非効率性が指摘され、カラオケでも使用料や権利者への分配方法が決しないままビジネスが先行する弊害を招いた。旧来の録音、演奏、楽譜出版と、ゲーム、着信メロディ、ネット配信などの区分管理にJASRACの著作権信託が未対応な不備を改める求めなどもみられることから、2000年に著作権等管理事業法が成立して2001年に施行され、イーライセンス、ジャパン・ライツ・クリアランス(コピナビ)、ダイキサウンドなどの株式会社が音楽著作権管理事業に参入した。旧来の仲介業務法と異なり管理団体の設立が許可制から登録制に緩和されたが、JASRACの占有は大きい。
JASRACは私的録音補償金対象機器の拡大を行政へ働いており、2005年4月28日の文化庁文化審議会著作権分科会法制問題小委員会で新たにデジタルオーディオプレーヤーを私的録音録画補償金制度の対象とするように要請したが、大半の所有者はコンパクトディスクの購入や音楽配信サービスからダウンロードなど正規に入手した音楽データをプレーヤーに複製(いわゆるメディアシフト)しており、「権利者の損失は無い」「著作権料の二重取り」など否定的意見が多く、2005年9月以降まで結論が先送りされている。
JASRACは非営利目的の運営が法律により定められている一般社団法人だが、スナックやジャズ喫茶、ライブハウスなどでJASRAC管理曲を演奏する場合の使用料負担が重過ぎるとの批判がある。JASRACは包括的利用許諾契約締結を求めているが、包括的利用許諾契約は演奏回数ではなく店舗の客席数や床面積に応じて一律に演奏使用料が決定されるため、JASRAC管理曲の利用頻度が低い店舗は使用料の負担比率が高まり不評である。飲食店等には演奏曲目を記載した演奏利用明細書の提出を原則求めておらず、演奏楽曲権利者への確実な分配が危惧されるほかに、使用料の支払者に対し権利者への配分情報が開示されていないなどの批判もある。
先に使用者側と著作権管理事業者が交わした包括的利用許諾契約は、後から参入した著作権管理事業者との公正競争を阻害するとの指摘がある。
放送分野では、JASRAC管理曲を放送する場合に放送事業者は包括的利用許諾契約か個別契約のいずれかを選択できる。包括的利用許諾契約の場合、放送事業者は放送事業収入の1.5パーセントをJASRACに支払えば、JASRAC管理曲を無制限に放送が可能だった。そのため、JASRAC管理曲を大量に放送する事業者は包括的利用許諾契約を選択することが一般的になっていた。この状態のまま放送事業者が他著作権管理事業者の管理楽曲を使用すると負担が増えてしまうので、他著作権管理事業者の参入は困難になると公正取引委員会は判断した。包括契約問題で指摘されたのは、後発のイーライセンスが当初管理していた大塚愛の『恋愛写真』の放送局での取り扱いだった。
2008年4月23日に、公正取引委員会はJASRACへ立ち入り調査し、2009年2月27日に独占禁止法違反を認定して、排除措置を命令したが、2009年7月9日に東京高等裁判所は、JASRACによる執行免除の申し立てを認め、8月6日にJASRACは保証金1億円を一括で供託し、命令確定まで執行停止された。
排除命令に対してJASRACは審判を申立て、2012年6月12日に公正取引委員会は排除命令を取り消す審判を行った。これに対してイーライセンスが申し立てた審決取消し訴訟で、2013年11月1日に東京高等裁判所の飯村敏明裁判長はこの審決の認定は実質的証拠に基づかないものでありその判断にも誤りがあるとして審決を取り消した。11月13日にJASRACは上告し、「イーライセンス対公正取引委員会の裁判に訴訟の結果により権利を害される第三者」(行政事件訴訟法22条1項)として訴訟に参加した。
2015年4月28日に、放送利用割合が反映されない徴収方法は他の管理事業者の参入を困難にするとして最高裁判所は公正取引委員会の上告を棄却し、JASRACが新規参入を著しく妨げているというイーライセンスの訴えを高裁判決が認めた判決が確定判決となった。公正取引委員会は審決を取り消され、従前の排除措置命令が復活した。
2016年2月、イーライセンスとJRCが合併した新会社であるNexToneが、JASRACに対する損害賠償等請求訴訟を取り下げた。
2016年9月9日、JASRACが公正取引委員会への審判請求を取り下げたため、公正取引委員会の審判は終結し、2009年2月27日に出された『JASRACに対する排除措置命令』が確定し、2015年(平成27年)4月1日から遡及適用された。
訴訟や審判と並行して、2015年2月から著作権管理事業者側のJASRAC、イーライセンス及びJRCと、放送事業者側のNHKと日本民間放送連盟は「放送分野における音楽の利用割合の算出方法に関する検討会」(5者協議)を開催するようになった。2015年9月17日に2015年度分以降の放送使用料に適用する利用割合の算出方法について合意がなされた。これを踏まえJASRACとNexToneはそれぞれ、NHKと民放連との間で楽曲の利用割合を反映した包括的利用許諾契約を交わすことになった。
2015年9月の合意の際、イーライセンスは放送以外の包括徴収方式を採用している他の支分権や利用区分でも、楽曲の利用割合を反映したルールが使用されることを希望する旨を表明した。
JASRACは放送以外の分野でも楽曲の利用割合を反映したルールを導入している。2021年4月以降は演奏権のうち上演形式による演奏、演奏会における演奏及び演奏会以外の催物における演奏について、公演ごとの実績に基づく利用割合又はみなしの利用割合を反映させることになった。また、2022年10月以降はカラオケ使用料についてみなしの利用割合を反映させている。それぞれのみなしの利用割合の値は1年ごとに見直しされる。
2005年にプロ野球阪神タイガースの私設応援団であった中虎連合会が、作者不詳だった阪神タイガース応援歌『ヒッティングマーチ一番』及び『ヒッティングマーチ二番』の作詞と作曲者を「中虎連合会」としてJASRACに届出して使用料の分配を不正に受けていたことが発覚した。
JASRAC の著作権信託契約約款7条1項は、委託対象の著作権が委託者のものであり他人の著作権を侵害していないことを保証する責は、受託者のJASRACではなく委託者にあるとしている。この事件からJASRAC内部の不正チェック体制不備も指摘され、JASRACは作者不詳の楽曲と作品名が同一もしくは極めて似ている作品に対するチェックを強化することを発表した。
2005年9月17日特大号で週刊ダイヤモンドは、「企業レポート 日本音楽著作権協会(ジャスラック) 使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にする呆れた実態」と題する記事を掲載し、JASRACによる著作物使用料の徴収や配分と文部科学省官僚の天下りが続く組織運営のあり方に問題があると主張した。文部科学省から役員の天下りが50年以上続いている、JASRACの役員報酬を決める役員審議会が非公開である、法外に高い報酬を受け取っている、使用料の徴収方法、などの問題点を挙げ、「JASRACの職員が営業中の店に入り『ドロボー』と大声で叫び営業妨害とも言えるやくざまがいの徴収方法を取った」「年間の利益が20万円弱の店に550万円もの使用料を徴収した」事例を紹介している。
2005年11月11日にJASRACは、記事内容に裏付けがないほか恣意的に古い情報を用いるなど読者の悪印象を誘導しているとして、計約4300万円の損害賠償と名誉回復措置の謝罪広告掲載を東京地方裁判所に提訴し、2008年2月13日に東京地裁は、記事表現や体裁はかなり一方的かつ独断的で調査不足、誤解、悪意に基づく構成の疑念などからJASRACの主張を全面的に認めて計550万円の支払いを命じたが、謝罪広告の掲載は必要ないとした。
2018年3月9日にはアメリカのフェアユース制度や著作権法について詳細な米国弁護士の城所岩生により『JASRACと著作権、これでいいのか~強硬路線に100万人が異議~』を刊行しており、坂本龍一がJASRACに苦言していること・大政直人がJASRACへの批判的意見・後述の意見書でもある通りに東京大学名誉教授である中山信弘も「木の枝を切り込みすぎて幹を殺してはいけない。音楽教室に対して必要以上に著作権者の権利を主張すれば、音楽文化が発展しなくなるかもしれない」と言及している。現行法では将来性を潰すことや著作権法自体が緊急医療での危険性も指摘している。また、後述のライブハウスにある通りに正当に著作権者への分配されていない可能性も指摘ものとなっている。
2009年9月にファンキー末吉が運営するロックバーにJASRACから送付された使用料徴収法は、ライブハウスで演奏された楽曲の印税がアーティストへ正しく分配されるか否か不鮮明で、末吉は、「これではヤクザのみかじめと同じである。ちゃんと著作権者に分配しろよ!!」と自身のブログで苦言した。末吉が弁護士とともに交渉中、2013年11月にJASRACは「著作権侵害差止等請求事件」として提訴した。同年12月に末吉の支援者らが「ファンキー末吉に対するJASRACの訴訟はスラップではないか?」と『ファンキー末吉 支援者の会』を興し、江川ほーじんも「徴収する法は有るが、分配するシステムが存在していない。」と非難している。
2016年3月25日、東京地方裁判所ではライヴハウスとして定常的に利用していることから、いわゆるカラオケ法理の適用範囲であり、配分率などは作曲者としてのファンキー末吉とJASRACの問題でありライブハウス経営者としての問題ではないとし本裁判では審議されず、また自身の作曲や作詞した楽曲を演奏した場合においても、JASRACとの信託契約でこれら権利は信託されており、信託の仕組み上請求主体から現著作権者であっても使用料の請求が行われることとなることを認定された。但し請求の700万余りより大幅に減額された、著作権利用料280万余りのみ賠償を認められ、訴訟費用はそれぞれが負担することとされた・。
2016年10月19日、知的財産高等裁判所の判決では、地裁判決を踏襲し賠償金が算出方式の変更に伴い550万余りに変わった他、訴訟費用もファンキー末吉側が1審2審とも負担することを判決として出された・。
2017年(平成29年)に、河合楽器製作所・島村楽器・山野楽器・開進堂楽器・宮地商会・ヤマハ音楽振興会・全日本ピアノ指導者協会が、音楽教室での演奏にJASRACが著作権料を求める事に反対する団体『音楽教育を守る会』を設立し、音楽教室での練習などは「演奏権」に該当しない、JASRACの方針は著作権法の目的「文化の発展に寄与する」に沿わない、としている。
2017年7月に理事長の浅石道夫は「音楽教室から徴収する方針」の反対署名には、JASRACを嫌っているだけのものもあると述べている。
2018年(平成30年)3月5日、文化庁長官の諮問である文化審議会では、音楽教室の著作権使用料で受講料収入から2.5パーセントの徴収を認める答申を提出した。それを受け「音楽教育を守る会」は「使用料徴収の是非について踏み込んだ判断をしてもらえなかった点で、大変残念だ」とする声明を発表している。ただし、「JASRACの提出した使用料規程については裁定日から有効とする。」とはしているものの、演奏権においては音楽教室事業者の「請求権不存在確認事件(東京地方裁判所平成 29 年(ワ)第 20502 号他)」の司法判断確定までは督促しないことや演奏権を争わない事業者に対しては利用に適切とする使用料額を制定するとしている。
ただ、2017年11月14日付の中山信弘の意見書では音楽教育の練習までの徴収が、まずは「文化の発展」(著作権法第1条)に根本的な疑問点があると指摘している。また、演奏権(著作権法22条)の制定においてもカラオケの様な「公衆に直接見せ又は聞かせることを目的」として演奏ではないことや音楽学校における演奏は著作権法38条適用における使用であり、音楽教育で費やされる費用も「著作物の提供又は提示につき受ける対価」ではなく指導・練習の費用であることからJASRACの請求は権利濫用の解釈とおり、「請求権不存在確認事件」にも有識者意見として提出される。
なお、フェアユースの導入があればこのような裁判は起こらなかったとする批判も存在するが、フェアユースを導入しているアメリカでは音楽教室のレッスンは徴収の対象であるため徴収に反対する意見として用いるのは不適切である。
2020年(令和2年)2月28日、東京地方裁判所は音楽教室での演奏利用全般に演奏権が及び、音楽教室事業者の請求権不存在確認の請求を棄却する旨の判決を言い渡した。3月4日、音楽教室事業者は判決を不服として知的財産高等裁判所に控訴した。2022年(令和4年)10月24日、最高裁はJASRAC側の訴えを退け上告を棄却した。
2012年6月27日に違法ダウンロード刑事罰化の抗議として、アノニマスからサイバー攻撃の被害を被る。
(1957年から1965年は「専務理事」) | [
{
"paragraph_id": 0,
"tag": "p",
"text": "一般社団法人日本音楽著作権協会(にほんおんがくちょさくけんきょうかい、英語: Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers)は、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む一般社団法人である。公式に英語の略称である「JASRAC」の表記をロゴとして使っており、「ジャスラック」と発音する。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
"tag": "p",
"text": "JASRACを示す意匠は二種類あり、青い線の集合で書かれたものは「ロゴ」と呼ばれ同法人名や利用許可を与えた店舗の表示に使われている。両端が尖った楕円に独自の書体で書かれたものは「マーク」と呼ばれ利用許可を与えた著作物に表示されている。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "音楽(楽曲、歌詞)の著作権を持つ作詞者・作曲者・音楽出版者から複製権・演奏権などの著作権の信託を受けて、音楽の利用者に対する利用許諾(ライセンス)、利用料の徴収と権利者への分配、著作権侵害の監視、著作権侵害者に対する法的責任の追及などを主な業務としている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "本部は東京都渋谷区の古賀政男音楽文化振興財団が所有するビル内に設置され、14の支部が日本全国の主要都市に設置されている。JASRACは現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、1939年に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "音楽著作権の管理をJASRACに委託しようとする作曲者、作詞者、音楽出版者は、自らが保有する音楽著作権の支分権の全部または一部をJASRACに移転する(信託契約約款3条1項)。JASRACは、作曲者等から著作権の移転を受けて、自らが著作権を保有し、著作権の対象である著作物(楽曲、歌詞)の利用を希望する者に対して利用許諾を行う。著作物を利用した利用者からは使用料を対価として徴収し、5パーセント - 25パーセントの管理手数料 を控除した上で、委託者に分配する。このように、JASRACの著作権管理は「信託」によるものであり、作曲者、作詞者、音楽出版者が「委託者」、JASRACが「受託者」、音楽の利用者が「受益者」に相当する。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "著作物の利用には、著作権の効力が及ぶ利用形態で、喫茶店・レストラン・ダンス教室(1971年より社交ダンス教室、2015年より全てのダンス教室に対象拡大)・歌謡教室(2016年より)・カラオケ(1987年より、1997年からは通信カラオケにも対象拡大)・フィットネスクラブ(2011年より)・カルチャーセンター(2012年より)・音楽教室(2018年より)・コンサート会場等における不特定または特定多数向けの音楽の演奏、CD・DVD・映画・オルゴールなどへの音楽の複製、テレビやラジオによる音楽の放送、インターネットによる音楽配信などがある。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "音楽の無許諾利用である著作権侵害の監視も業務の一環で、無許諾による音楽利用を発見した場合、利用許諾契約の締結を求めるほかに過去利用分を遡及して使用料の請求を行う。損害賠償請求や使用差止請求などの民事訴訟手続や、告訴などの刑事手続に至る事例もある。著作権侵害に対する法的措置は、喫茶店やレストランにおける無許諾演奏が最も多い。2005年度事業報告書では演奏権侵害に対する法的措置の総件数は2995件で3129店だが、市場の縮小や適法利用率の向上から2009年度は1713件、2010年度は1043件、2011年度は970件と減少している。近年はインターネット上で違法に配信されている歌詞や音声ファイルを発見するシステムである「J-MUSE」を2000年10月に導入し、違法配信をするウェブサイトの管理者には個別に警告の電子メールを送付している。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "著作権のうち、放送権(著作権法23条1項、公衆送信権の一種)の管理をJASRACに委託している者の作品を放送するには、JASRACの許諾が必要である。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "2021年度にJASRACが放送事業者から徴収した使用料は279.8億円であった。JASRACが放送事業者から徴収した使用料は、8.5パーセントの管理手数料 (実施料率。届出料率は10パーセント)が控除された上で委託者に分配されている。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "NHKや民放地上波はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各放送局の年間放送事業収入の1.5パーセントに楽曲の使用割合を反映したものを放送使用料として徴収している。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "楽曲の使用割合の根拠として、NHK全局、民放地上波テレビ全局及び民放地上波ラジオ局の一部はJASRAC管理楽曲の全曲報告を行っている。一方、民放地上波ラジオ局の一部は一定の期間を割り当て、その期間の使用曲目をサンプルとして報告を行っている。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "民放衛星波はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各チャンネルの放送内容の区分に応じて、各放送チャンネルの年間放送事業収入に使用料率を乗じた金額を放送使用料として徴収している。使用料率は主として音楽番組のチャンネルは2.25パーセント、総合編成のチャンネルは1.5パーセント、ニュース・スポーツ等のチャンネル0.75パーセントである。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "コミュニティ放送の使用料については、JASRACと当該事業者との間で別途協議をしている。放送大学学園がJASRACと年間の包括的利用許諾契約を締結する場合の放送使用料は、著作物の利用目的、利用方法等を考慮しJASRACと放送大学学園間で協議して定める。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "包括的利用許諾契約は、音楽作品を利用する放送事業者にとっては利便性が高い契約形態である一方で、放送権の管理分野で99パーセントという圧倒的なシェアをもつJASRACが放送局に対して包括的利用許諾契約を認めた場合、他の著作権管理団体との公正な競争が阻害される。詳細は「包括的利用許諾契約の運用問題」節を参照のこと。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "インターネット配信サイトでは違法な投稿や配信が多発し、削除依頼による適時削除でも違法状態の継続がみられたが、2008年4月にニコニコ動画、10月にYouTube、2010年7月にUstream、など、各動画サイトと包括的利用許諾契約を締結してサイト収入の2.5パーセントを著作権料として徴収しており、今後も契約先の増加させる方針である。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "Winnyなどファイル共有ソフトのネットワークでは、著作権侵害コンテンツを公開しているユーザへ削除を求めるなどコンピュータソフトウェア著作権協会と協力活動している。",
"title": "音楽著作権の管理業務"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "JASRACは著作権者の地位を有しており著作権に基づく私的録音録画補償金を請求する権利を有する(著作権法30条2項)が、私的録音録画補償金請求権はJASRACではなく私的録音補償金管理協会(sarah)と私的録画補償金管理協会(SARVH)が行使する(著作権法104条の2)但しSARVHについては後述の通り機能不全に陥り最終的に解散した。",
"title": "私的録音録画補償金の分配業務"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "sarahは補償金をJASRACに36パーセント、実演家団体の日本芸能実演家団体協議会に32パーセント、レコード製作者団体の日本レコード協会に32パーセント、それぞれ分配する。2018年度のJASRAC配分は約845万円である。",
"title": "私的録音録画補償金の分配業務"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "私的録音対象には音楽著作物と言語著作物があり、JASRAC配分補償金は音楽著作物に係るものと言語著作物に係るものに区分され、2018年度は音楽区分約810万円、言語区分約35万円である。音楽区分補償金は10パーセントの管理手数料を控除後に権利者へ分配されるが、非委託者分は当該者の請求により分配しており、非委託者である音楽著作権(録音権)管理事業者のNexToneへ2018年度に約35万円が分配されている。言語区分補償金は日本脚本家連盟へ分配され、連盟規程により各権利者に分配される。",
"title": "私的録音録画補償金の分配業務"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "SARVHは補償金をJASRACに16パーセント、日本脚本家連盟、NHKと日本民間放送連盟など映像関連7団体から構成される映像製作者委員会、などに合計52パーセント、日本芸能実演家団体協議会に29パーセント、日本レコード協会に3パーセント、それぞれ分配する。2007年度のJASRAC配分は2億400万円である。JASRAC配分補償金は管理手数料を控除後に権利者へ分配されていたが、2012年に訴訟で敗訴して2015年にSARVHは解散し、制度破綻した。",
"title": "私的録音録画補償金の分配業務"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日本は1899年にベルヌ条約に加盟して著作権法も施行されていたが、生演奏の他に録音媒体も再生ごとに使用料を支払う概念は皆無であった。1931年に旧制一高のドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立し、放送局やオーケストラなど楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "プラーゲの要求する使用料は当時法外で手法が法的手段を含む強硬であることから、海外の楽曲の使用が事実上困難になった。日本放送協会(NHK)もプラーゲ機関との契約交渉が不調で1年以上海外の楽曲を放送できなくなった。プラーゲは日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができずに日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。一連は「プラーゲ旋風」と呼ばれ日本における著作権集中管理のきっかけとなった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "事態打開のため1939年に、著作権管理の仲介業務は内務省の許可を得た者に限るとする「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」(仲介業務法)が施行されてJASRAC前身の大日本音楽著作権協会も設立され、翌年1940年に業務が開始された。プラーゲは著作権管理業務から排除されて同法違反で罰金刑を受け、1941年に離日した。文化庁は大日本音楽著作権協会ほか4団体に仲介業務の許可を与えて他の参入を認めず、音楽著作権の仲介は大日本音楽著作権協会の独占業務となった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "著作権の一元管理は効率が高いシステムとして運用されてきたが、音楽ソフトのデジタル化やネットワーク化の進展などからJASRACの非効率性が指摘され、カラオケでも使用料や権利者への分配方法が決しないままビジネスが先行する弊害を招いた。旧来の録音、演奏、楽譜出版と、ゲーム、着信メロディ、ネット配信などの区分管理にJASRACの著作権信託が未対応な不備を改める求めなどもみられることから、2000年に著作権等管理事業法が成立して2001年に施行され、イーライセンス、ジャパン・ライツ・クリアランス(コピナビ)、ダイキサウンドなどの株式会社が音楽著作権管理事業に参入した。旧来の仲介業務法と異なり管理団体の設立が許可制から登録制に緩和されたが、JASRACの占有は大きい。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "JASRACは私的録音補償金対象機器の拡大を行政へ働いており、2005年4月28日の文化庁文化審議会著作権分科会法制問題小委員会で新たにデジタルオーディオプレーヤーを私的録音録画補償金制度の対象とするように要請したが、大半の所有者はコンパクトディスクの購入や音楽配信サービスからダウンロードなど正規に入手した音楽データをプレーヤーに複製(いわゆるメディアシフト)しており、「権利者の損失は無い」「著作権料の二重取り」など否定的意見が多く、2005年9月以降まで結論が先送りされている。",
"title": "著作権政策への影響"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "JASRACは非営利目的の運営が法律により定められている一般社団法人だが、スナックやジャズ喫茶、ライブハウスなどでJASRAC管理曲を演奏する場合の使用料負担が重過ぎるとの批判がある。JASRACは包括的利用許諾契約締結を求めているが、包括的利用許諾契約は演奏回数ではなく店舗の客席数や床面積に応じて一律に演奏使用料が決定されるため、JASRAC管理曲の利用頻度が低い店舗は使用料の負担比率が高まり不評である。飲食店等には演奏曲目を記載した演奏利用明細書の提出を原則求めておらず、演奏楽曲権利者への確実な分配が危惧されるほかに、使用料の支払者に対し権利者への配分情報が開示されていないなどの批判もある。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "先に使用者側と著作権管理事業者が交わした包括的利用許諾契約は、後から参入した著作権管理事業者との公正競争を阻害するとの指摘がある。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "放送分野では、JASRAC管理曲を放送する場合に放送事業者は包括的利用許諾契約か個別契約のいずれかを選択できる。包括的利用許諾契約の場合、放送事業者は放送事業収入の1.5パーセントをJASRACに支払えば、JASRAC管理曲を無制限に放送が可能だった。そのため、JASRAC管理曲を大量に放送する事業者は包括的利用許諾契約を選択することが一般的になっていた。この状態のまま放送事業者が他著作権管理事業者の管理楽曲を使用すると負担が増えてしまうので、他著作権管理事業者の参入は困難になると公正取引委員会は判断した。包括契約問題で指摘されたのは、後発のイーライセンスが当初管理していた大塚愛の『恋愛写真』の放送局での取り扱いだった。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2008年4月23日に、公正取引委員会はJASRACへ立ち入り調査し、2009年2月27日に独占禁止法違反を認定して、排除措置を命令したが、2009年7月9日に東京高等裁判所は、JASRACによる執行免除の申し立てを認め、8月6日にJASRACは保証金1億円を一括で供託し、命令確定まで執行停止された。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "排除命令に対してJASRACは審判を申立て、2012年6月12日に公正取引委員会は排除命令を取り消す審判を行った。これに対してイーライセンスが申し立てた審決取消し訴訟で、2013年11月1日に東京高等裁判所の飯村敏明裁判長はこの審決の認定は実質的証拠に基づかないものでありその判断にも誤りがあるとして審決を取り消した。11月13日にJASRACは上告し、「イーライセンス対公正取引委員会の裁判に訴訟の結果により権利を害される第三者」(行政事件訴訟法22条1項)として訴訟に参加した。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2015年4月28日に、放送利用割合が反映されない徴収方法は他の管理事業者の参入を困難にするとして最高裁判所は公正取引委員会の上告を棄却し、JASRACが新規参入を著しく妨げているというイーライセンスの訴えを高裁判決が認めた判決が確定判決となった。公正取引委員会は審決を取り消され、従前の排除措置命令が復活した。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2016年2月、イーライセンスとJRCが合併した新会社であるNexToneが、JASRACに対する損害賠償等請求訴訟を取り下げた。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2016年9月9日、JASRACが公正取引委員会への審判請求を取り下げたため、公正取引委員会の審判は終結し、2009年2月27日に出された『JASRACに対する排除措置命令』が確定し、2015年(平成27年)4月1日から遡及適用された。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "訴訟や審判と並行して、2015年2月から著作権管理事業者側のJASRAC、イーライセンス及びJRCと、放送事業者側のNHKと日本民間放送連盟は「放送分野における音楽の利用割合の算出方法に関する検討会」(5者協議)を開催するようになった。2015年9月17日に2015年度分以降の放送使用料に適用する利用割合の算出方法について合意がなされた。これを踏まえJASRACとNexToneはそれぞれ、NHKと民放連との間で楽曲の利用割合を反映した包括的利用許諾契約を交わすことになった。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2015年9月の合意の際、イーライセンスは放送以外の包括徴収方式を採用している他の支分権や利用区分でも、楽曲の利用割合を反映したルールが使用されることを希望する旨を表明した。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "JASRACは放送以外の分野でも楽曲の利用割合を反映したルールを導入している。2021年4月以降は演奏権のうち上演形式による演奏、演奏会における演奏及び演奏会以外の催物における演奏について、公演ごとの実績に基づく利用割合又はみなしの利用割合を反映させることになった。また、2022年10月以降はカラオケ使用料についてみなしの利用割合を反映させている。それぞれのみなしの利用割合の値は1年ごとに見直しされる。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2005年にプロ野球阪神タイガースの私設応援団であった中虎連合会が、作者不詳だった阪神タイガース応援歌『ヒッティングマーチ一番』及び『ヒッティングマーチ二番』の作詞と作曲者を「中虎連合会」としてJASRACに届出して使用料の分配を不正に受けていたことが発覚した。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "JASRAC の著作権信託契約約款7条1項は、委託対象の著作権が委託者のものであり他人の著作権を侵害していないことを保証する責は、受託者のJASRACではなく委託者にあるとしている。この事件からJASRAC内部の不正チェック体制不備も指摘され、JASRACは作者不詳の楽曲と作品名が同一もしくは極めて似ている作品に対するチェックを強化することを発表した。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2005年9月17日特大号で週刊ダイヤモンドは、「企業レポート 日本音楽著作権協会(ジャスラック) 使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にする呆れた実態」と題する記事を掲載し、JASRACによる著作物使用料の徴収や配分と文部科学省官僚の天下りが続く組織運営のあり方に問題があると主張した。文部科学省から役員の天下りが50年以上続いている、JASRACの役員報酬を決める役員審議会が非公開である、法外に高い報酬を受け取っている、使用料の徴収方法、などの問題点を挙げ、「JASRACの職員が営業中の店に入り『ドロボー』と大声で叫び営業妨害とも言えるやくざまがいの徴収方法を取った」「年間の利益が20万円弱の店に550万円もの使用料を徴収した」事例を紹介している。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2005年11月11日にJASRACは、記事内容に裏付けがないほか恣意的に古い情報を用いるなど読者の悪印象を誘導しているとして、計約4300万円の損害賠償と名誉回復措置の謝罪広告掲載を東京地方裁判所に提訴し、2008年2月13日に東京地裁は、記事表現や体裁はかなり一方的かつ独断的で調査不足、誤解、悪意に基づく構成の疑念などからJASRACの主張を全面的に認めて計550万円の支払いを命じたが、謝罪広告の掲載は必要ないとした。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2018年3月9日にはアメリカのフェアユース制度や著作権法について詳細な米国弁護士の城所岩生により『JASRACと著作権、これでいいのか~強硬路線に100万人が異議~』を刊行しており、坂本龍一がJASRACに苦言していること・大政直人がJASRACへの批判的意見・後述の意見書でもある通りに東京大学名誉教授である中山信弘も「木の枝を切り込みすぎて幹を殺してはいけない。音楽教室に対して必要以上に著作権者の権利を主張すれば、音楽文化が発展しなくなるかもしれない」と言及している。現行法では将来性を潰すことや著作権法自体が緊急医療での危険性も指摘している。また、後述のライブハウスにある通りに正当に著作権者への分配されていない可能性も指摘ものとなっている。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2009年9月にファンキー末吉が運営するロックバーにJASRACから送付された使用料徴収法は、ライブハウスで演奏された楽曲の印税がアーティストへ正しく分配されるか否か不鮮明で、末吉は、「これではヤクザのみかじめと同じである。ちゃんと著作権者に分配しろよ!!」と自身のブログで苦言した。末吉が弁護士とともに交渉中、2013年11月にJASRACは「著作権侵害差止等請求事件」として提訴した。同年12月に末吉の支援者らが「ファンキー末吉に対するJASRACの訴訟はスラップではないか?」と『ファンキー末吉 支援者の会』を興し、江川ほーじんも「徴収する法は有るが、分配するシステムが存在していない。」と非難している。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2016年3月25日、東京地方裁判所ではライヴハウスとして定常的に利用していることから、いわゆるカラオケ法理の適用範囲であり、配分率などは作曲者としてのファンキー末吉とJASRACの問題でありライブハウス経営者としての問題ではないとし本裁判では審議されず、また自身の作曲や作詞した楽曲を演奏した場合においても、JASRACとの信託契約でこれら権利は信託されており、信託の仕組み上請求主体から現著作権者であっても使用料の請求が行われることとなることを認定された。但し請求の700万余りより大幅に減額された、著作権利用料280万余りのみ賠償を認められ、訴訟費用はそれぞれが負担することとされた・。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2016年10月19日、知的財産高等裁判所の判決では、地裁判決を踏襲し賠償金が算出方式の変更に伴い550万余りに変わった他、訴訟費用もファンキー末吉側が1審2審とも負担することを判決として出された・。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2017年(平成29年)に、河合楽器製作所・島村楽器・山野楽器・開進堂楽器・宮地商会・ヤマハ音楽振興会・全日本ピアノ指導者協会が、音楽教室での演奏にJASRACが著作権料を求める事に反対する団体『音楽教育を守る会』を設立し、音楽教室での練習などは「演奏権」に該当しない、JASRACの方針は著作権法の目的「文化の発展に寄与する」に沿わない、としている。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2017年7月に理事長の浅石道夫は「音楽教室から徴収する方針」の反対署名には、JASRACを嫌っているだけのものもあると述べている。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2018年(平成30年)3月5日、文化庁長官の諮問である文化審議会では、音楽教室の著作権使用料で受講料収入から2.5パーセントの徴収を認める答申を提出した。それを受け「音楽教育を守る会」は「使用料徴収の是非について踏み込んだ判断をしてもらえなかった点で、大変残念だ」とする声明を発表している。ただし、「JASRACの提出した使用料規程については裁定日から有効とする。」とはしているものの、演奏権においては音楽教室事業者の「請求権不存在確認事件(東京地方裁判所平成 29 年(ワ)第 20502 号他)」の司法判断確定までは督促しないことや演奏権を争わない事業者に対しては利用に適切とする使用料額を制定するとしている。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ただ、2017年11月14日付の中山信弘の意見書では音楽教育の練習までの徴収が、まずは「文化の発展」(著作権法第1条)に根本的な疑問点があると指摘している。また、演奏権(著作権法22条)の制定においてもカラオケの様な「公衆に直接見せ又は聞かせることを目的」として演奏ではないことや音楽学校における演奏は著作権法38条適用における使用であり、音楽教育で費やされる費用も「著作物の提供又は提示につき受ける対価」ではなく指導・練習の費用であることからJASRACの請求は権利濫用の解釈とおり、「請求権不存在確認事件」にも有識者意見として提出される。",
"title": "問題点・批判・裁判"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお、フェアユースの導入があればこのような裁判は起こらなかったとする批判も存在するが、フェアユースを導入しているアメリカでは音楽教室のレッスンは徴収の対象であるため徴収に反対する意見として用いるのは不適切である。",
"title": "問題点・批判・裁判"
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"text": "2020年(令和2年)2月28日、東京地方裁判所は音楽教室での演奏利用全般に演奏権が及び、音楽教室事業者の請求権不存在確認の請求を棄却する旨の判決を言い渡した。3月4日、音楽教室事業者は判決を不服として知的財産高等裁判所に控訴した。2022年(令和4年)10月24日、最高裁はJASRAC側の訴えを退け上告を棄却した。",
"title": "問題点・批判・裁判"
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"text": "2012年6月27日に違法ダウンロード刑事罰化の抗議として、アノニマスからサイバー攻撃の被害を被る。",
"title": "アノニマスによるサイバー攻撃"
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"text": "(1957年から1965年は「専務理事」)",
"title": "役員"
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] | 一般社団法人日本音楽著作権協会は、日本の著作権等管理事業法を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む一般社団法人である。公式に英語の略称である「JASRAC」の表記をロゴとして使っており、「ジャスラック」と発音する。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。 JASRACを示す意匠は二種類あり、青い線の集合で書かれたものは「ロゴ」と呼ばれ同法人名や利用許可を与えた店舗の表示に使われている。両端が尖った楕円に独自の書体で書かれたものは「マーク」と呼ばれ利用許可を与えた著作物に表示されている。 | {{混同|redirect=ジャスラック'''」および「'''JASRAC|x1=株式市場の|ジャス'''ダ'''ック(JAS'''D'''A'''Q''')|link1=JASDAQ}}
{{画像提供依頼|両端が尖った楕円に独自の書体で書かれた書体のマーク|date=2023年4月}}
{{基礎情報 非営利団体
| 名称 = 一般社団法人日本音楽著作権協会<br />{{Lang|en|Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers}}
| ロゴ = JASRAC logo.svg
| ロゴサイズ = 250px
| 画像 = Jasrac head office shibuya.JPG
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 日本音楽著作権協会本部
| 創立者 =
| 団体種類 = [[一般社団法人]]
| 設立 = [[1939年]][[11月18日]]
| 所在地 = 〒151-8540<br />[[東京都]][[渋谷区]][[上原 (渋谷区)|上原]]3丁目6-12
| 緯度度 = 35|緯度分 = 40|緯度秒 = 4.5
| 経度度 = 139|経度分 = 40|経度秒 = 48.8
| 地図国コード = JP
| 起源 = 社団法人大日本音楽著作権協会
| 主要人物 = 伊澤一雅(理事長)<ref name="outline">{{Cite web|和書|url=https://www.jasrac.or.jp/profile/outline/ |title=JASRACの概要 JASRAC|publisher=日本音楽著作権協会|accessdate=2023-01-09}}</ref>
| 活動地域 = {{JPN}}
| 製品 =
| 主眼 = 音楽の著作物の著作権を保護し、あわせて音楽の著作物の利用の円滑を図り、もって音楽文化の普及発展に寄与すること
| 活動内容 =
* 音楽の著作物の著作権に関する管理事業
* 音楽著作物に関する外国著作権管理団体等との連絡及び著作権の相互保護
* 私的録音録画補償金に関する事業
* 著作権思想の普及事業、音楽著作権に関する調査研究
* 音楽文化の振興に資する事業
| 収入 = 1167.3億円(2021年度使用料収入)<br />122.6億円(2021年度管理手数料収入)
| 基本財産 = 6億23万円<br />(2022年3月末日現在)<ref name="outline" />
| ボランティア人数 =
| 従業員数 = 517人<br />(2022年4月1日現在)<ref name="outline" />
| 会員数 =
| 子団体 =
| 標語 =
| ウェブサイト = https://www.jasrac.or.jp/
| 解散 =
| 特記事項 =
}}
'''一般社団法人日本音楽著作権協会'''(にほんおんがくちょさくけんきょうかい、{{lang-en|''Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers''}})は、日本の[[著作権等管理事業法]]を設立根拠法に、音楽著作権の集中管理事業を日本国内において営む[[一般社団法人]]である。公式に英語の略称である「'''JASRAC'''」の表記をロゴとして使っており、「'''ジャスラック'''」と発音する<ref group="注釈">ジャスラックのカタカナ表記は公式に使われていないが、JASRACの子供向け紹介ページの『ジャスラの音楽著作権レポート』では括弧書きで「ジャスラック」と読み方が説明されている。[http://www.jasrac.or.jp/park/]</ref>。以下、この記事では「JASRAC」と表記する。
JASRACを示す意匠は二種類あり、青い線の集合で書かれたものは「ロゴ」と呼ばれ同法人名や利用許可を与えた店舗の表示に使われている。両端が尖った楕円に独自の書体で書かれたものは「マーク」と呼ばれ利用許可を与えた著作物に表示されている。
== 概要 ==
[[音楽]](楽曲、歌詞)の[[著作権]]を持つ[[作詞家|作詞者]]・[[作曲家|作曲者]]・[[音楽出版社|音楽出版者]]から複製権・演奏権などの著作権の[[信託]]を受けて、音楽の利用者に対する利用許諾(ライセンス)、利用料の徴収と権利者への分配、[[著作権侵害]]の監視、[[著作権法|著作権侵害]]者に対する法的責任の追及などを主な業務としている。
本部は[[東京都]][[渋谷区]]の[[古賀政男|古賀政男音楽文化振興財団]]が所有するビル内に設置され、14の支部が日本全国の主要都市に設置されている。JASRACは現存する日本国内の著作権管理事業者としては最も古く、[[1939年]]に設立された社団法人大日本音楽著作権協会をその前身とする。
== 音楽著作権の管理業務 ==
=== 概要 ===
音楽著作権の管理をJASRACに委託しようとする作曲者、作詞者、音楽出版者は、自らが保有する音楽著作権の支分権の全部または一部をJASRACに移転する(信託契約約款3条1項)。JASRACは、作曲者等から著作権の移転を受けて、自らが著作権を保有し、著作権の対象である著作物(楽曲、歌詞)の利用を希望する者に対して利用許諾を行う。著作物を利用した利用者からは使用料を対価として徴収し、5パーセント - 25パーセントの管理手数料<ref name="管理手数料規程別表">管理手数料規程別表</ref> を控除した上で、委託者に分配する。このように、JASRACの著作権管理は「[[信託]]」によるものであり、作曲者、作詞者、音楽出版者が「委託者」、JASRACが「受託者」、音楽の利用者が「受益者」に相当する。
著作物の利用には、著作権の効力が及ぶ利用形態で、喫茶店・レストラン・ダンス教室(1971年より社交ダンス教室、2015年より全てのダンス教室に対象拡大)・歌謡教室(2016年より)・カラオケ(1987年より、1997年からは通信カラオケにも対象拡大)・フィットネスクラブ(2011年より)・カルチャーセンター(2012年より)・音楽教室(2018年より)・コンサート会場等<ref>[http://toyokeizai.net/articles/amp/160181?display=b&_event=read-body ヤマハ対JASRAC、著作者はどちら側に立つか]東洋経済オンライン 2017年8月9日</ref>における不特定または特定多数向けの音楽の演奏、CD・DVD・映画・オルゴールなどへの音楽の複製、テレビやラジオによる音楽の放送、インターネットによる音楽配信などがある。
音楽の無許諾利用である[[著作権侵害]]の監視も業務の一環で、無許諾による音楽利用を発見した場合、利用許諾契約の締結を求めるほかに過去利用分を遡及して使用料の請求を行う。[[損害賠償]]請求や使用差止請求などの民事訴訟手続や、[[告訴]]などの刑事手続に至る事例もある。著作権侵害に対する法的措置は、喫茶店やレストランにおける無許諾演奏が最も多い。[[2005年]]度事業報告書では演奏権侵害に対する法的措置の総件数は2995件で3129店だが、市場の縮小や適法利用率の向上から2009年度は1713件、2010年度は1043件、2011年度は970件と減少している<ref>{{Cite press release|和書|title=平成22年度事業報告書 |url=http://www.jasrac.or.jp/profile/disclose/pdf/2010/2010_report01.pdf |publisher=日本音楽著作権協会|page=14 |format=PDF |date=2012-12-13}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=平成23年度事業報告書 |url=http://www.jasrac.or.jp/profile/disclose/pdf/2011/2011_report01.pdf |publisher=日本音楽著作権協会|page=10 |format=PDF |date=2012-12-13}}</ref>。近年はインターネット上で違法に配信されている[[歌詞]]や音声ファイルを発見するシステムである「J-MUSE」を[[2000年]]10月に導入し、違法配信をするウェブサイトの管理者には個別に警告の[[電子メール]]を送付している<ref>「[https://internet.watch.impress.co.jp/www/article/2003/0217/special.htm JASRACの違法音楽配信サイト対策〜J-MUSE、プロバイダー責任法、電子透かし]」 [[INTERNET Watch]]、2003年2月17日。</ref>。
=== 利用形態ごとの状況 ===
==== 放送 ====
著作権のうち、放送権(著作権法23条1項、公衆送信権の一種)の管理をJASRACに委託している者の作品を放送するには、JASRACの許諾が必要である。
2021年度にJASRACが放送事業者から徴収した使用料は279.8億円であった<ref>2021年度信託会計</ref>。JASRACが放送事業者から徴収した使用料は、8.5パーセントの管理手数料<ref name="管理手数料規程別表" /> (実施料率。届出料率は10パーセント)が控除された上で委託者に分配されている。
[[日本放送協会|NHK]]や[[民間放送|民放]][[地上波]]はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各放送局の年間放送事業収入の1.5パーセントに楽曲の使用割合を反映したものを放送使用料として徴収している<ref name="使用料規程2.2">使用料規程 (2019年7月4日届出) 、第2章第2節</ref>。
楽曲の使用割合の根拠として、NHK全局、民放地上波テレビ全局及び民放地上波ラジオ局の一部はJASRAC管理楽曲の全曲報告を行っている。一方、民放地上波ラジオ局の一部は一定の期間を割り当て、その期間の使用曲目をサンプルとして報告を行っている。
民放衛星波はJASRACと包括的利用許諾契約を締結しており、JASRACは各チャンネルの放送内容の区分に応じて、各放送チャンネルの年間放送事業収入に使用料率を乗じた金額を放送使用料として徴収している。使用料率は主として音楽番組のチャンネルは2.25パーセント、総合編成のチャンネルは1.5パーセント、ニュース・スポーツ等のチャンネル0.75パーセントである。
コミュニティ放送の使用料については、JASRACと当該事業者との間で別途協議をしている。放送大学学園がJASRACと年間の包括的利用許諾契約を締結する場合の放送使用料は、著作物の利用目的、利用方法等を考慮しJASRACと放送大学学園間で協議して定める。
包括的利用許諾契約は、音楽作品を利用する放送事業者にとっては利便性が高い契約形態である一方で、放送権の管理分野で99パーセントという圧倒的なシェアをもつJASRACが放送局に対して包括的利用許諾契約を認めた場合、他の著作権管理団体との公正な競争が阻害される。詳細は「[[#包括的利用許諾契約の運用問題|包括的利用許諾契約の運用問題]]」節を参照のこと。
==== インターネット ====
[[ネット配信|インターネット配信]][[ウェブサイト|サイト]]では違法な投稿や配信が多発し、削除依頼による適時削除でも違法状態の継続がみられたが、[[2008年]]4月に[[ニコニコ動画]]、10月に[[YouTube]]、[[2010年]]7月に[[Ustream]]、など、各動画サイトと包括的利用許諾契約を締結してサイト収入の2.5パーセントを著作権料として徴収しており、今後も契約先の増加させる方針<ref name="asahi20101112" />である。
[[Winny]]など[[ファイル共有ソフト]]のネットワークでは、著作権侵害コンテンツを公開しているユーザへ削除を求めるなど[[コンピュータソフトウェア著作権協会]]と協力活動している<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/06/11_3.html プレスリリース] - 2006年11月28日,JASRAC</ref>。
== 私的録音録画補償金の分配業務 ==
{{see also|私的録音録画補償金制度}}
JASRACは著作権者の地位を有しており著作権に基づく[[私的録音録画補償金制度|私的録音録画補償金]]を請求する権利を有する(著作権法30条2項)が、私的録音録画補償金請求権はJASRACではなく[[私的録音補償金管理協会]](sarah)と[[私的録画補償金管理協会]](SARVH)が行使する(著作権法104条の2)但しSARVHについては後述の通り機能不全に陥り最終的に解散した。
=== 私的録音補償金 ===
sarahは補償金をJASRACに36パーセント、実演家団体の[[日本芸能実演家団体協議会]]に32パーセント、レコード製作者団体の[[日本レコード協会]]に32パーセント、それぞれ分配する。2018年度のJASRAC配分は約845万円である。
私的録音対象には音楽著作物と言語著作物があり、JASRAC配分補償金は音楽著作物に係るものと言語著作物に係るものに区分され、2018年度は音楽区分約810万円、言語区分約35万円<ref group="注釈">音楽:言語=34.5:1.5</ref>である。音楽区分補償金は10パーセントの管理手数料を控除後に権利者へ分配されるが、非委託者分は当該者の請求により分配しており<ref name="compensation">{{PDFlink|[http://www.jasrac.or.jp/info/private/pdf/compensation.pdf 日本音楽著作権協会「『私的録音補償金』の分配手続きについて」(PDFファイル)]}}</ref>、非委託者である音楽著作権(録音権)管理事業者の[[NexTone]]へ2018年度に約35万円が分配されている。言語区分補償金は[[日本脚本家連盟]]へ分配され、連盟規程により各権利者に分配される。
=== 私的録画補償金 ===
SARVHは補償金をJASRACに16パーセント、日本脚本家連盟、NHKと[[日本民間放送連盟]]など映像関連7団体から構成される映像製作者委員会、などに合計52パーセント、日本芸能実演家団体協議会に29パーセント、日本レコード協会に3パーセント、それぞれ分配する。2007年度のJASRAC配分は2億400万円である。JASRAC配分補償金は管理手数料を控除後に権利者へ分配されていたが、[[2012年]]に[[私的録音録画補償金制度#デジタル放送専用レコーダーの私的録画補償金に対する訴訟|訴訟]]で敗訴して[[私的録画補償金管理協会#私的録画補償金管理協会に関連する裁判|2015年にSARVHは解散]]し、制度破綻した。
== 沿革 ==
=== プラーゲ旋風 ===
日本は[[1899年]]に[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]に加盟して[[著作権法]]も施行されていたが、生演奏の他に[[録音]]媒体も再生ごとに使用料を支払う概念は皆無であった。[[1931年]]に旧制一高の[[ドイツ]]人教師であった[[ウィルヘルム・プラーゲ]]が主にヨーロッパの著作権管理団体より日本での代理権を取得したと主張して東京に著作権管理団体「プラーゲ機関」を設立し、[[放送局]]や[[オーケストラ]]など楽曲を使用するすべての事業者に楽曲使用料の請求を始めた。
プラーゲの要求する使用料は当時法外で手法が法的手段を含む強硬であることから、海外の楽曲の使用が事実上困難になった。[[日本放送協会]](NHK)もプラーゲ機関との契約交渉が不調で1年以上海外の楽曲を放送できなくなった。プラーゲは日本の音楽作家に対しても著作権管理の代行を働きかけ始めた。プラーゲの目的は金銭ではなく著作権の適正運用だったとも言われているが、楽曲利用者との溝は埋めることができずに日本人作家の代理権取得は更なる反発を招いた。一連は「[[プラーゲ旋風]]」と呼ばれ日本における著作権集中管理のきっかけとなった。
=== 仲介業務法の成立 ===
事態打開のため[[1939年]]に、著作権管理の仲介業務は[[内務省 (日本)|内務省]]の許可を得た者に限るとする「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」(仲介業務法)が施行されてJASRAC前身の大日本音楽著作権協会も設立され、翌年[[1940年]]に業務が開始された<ref>著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律(内閣総理大臣[[平沼騏一郎]]、内務大臣[[木戸幸一]]署名)。{{NDLJP|2960166/2}}</ref>。プラーゲは著作権管理業務から排除されて同法違反で罰金刑を受け、[[1941年]]に離日した。文化庁は大日本音楽著作権協会ほか4団体に仲介業務の許可を与えて他の参入を認めず、音楽著作権の仲介は大日本音楽著作権協会の独占業務となった。
=== 仲介業務法の終焉とJASRACの今後 ===
[[File:JASRAC licensed logo V-1107138 on Data Carddass 20121211.jpg|thumb|[[データカードダス]]に表記されている許諾マーク]]
[[著作権]]の一元管理は効率が高いシステムとして運用されてきたが、音楽ソフトのデジタル化や[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]化の進展などからJASRACの非効率性が指摘され、[[カラオケ]]でも使用料や権利者への分配方法が決しないままビジネスが先行する弊害を招いた。旧来の[[録音]]、[[演奏]]、楽譜出版と、[[ゲーム]]、[[着信メロディ]]、[[ネット配信]]などの区分管理にJASRACの著作権信託が未対応な不備を改める求め<ref>[http://www.kab.com/liberte/rondan.html 朝日新聞1998年3月4日付論壇「音楽著作権の独占管理改めよ」(坂本龍一執筆)]</ref>などもみられることから、[[2000年]]に[[著作権等管理事業法]]が成立して[[2001年]]に施行され、[[イーライセンス]]、[[ジャパン・ライツ・クリアランス]](コピナビ)、[[ダイキサウンド]]などの株式会社が[[音楽]]著作権管理事業に参入した。旧来の仲介業務法と異なり管理団体の設立が許可制から登録制に緩和されたが、JASRACの占有は大きい。
== 著作権政策への影響 ==
=== 私的録音補償金の対象機器拡大議論 ===
JASRACは私的録音補償金対象機器の拡大を行政へ働いており、[[2005年]]4月28日の[[文化庁]][[文化審議会]]著作権分科会法制問題小委員会で新たに[[デジタルオーディオプレーヤー]]を[[私的録音録画補償金制度]]の対象とするように要請したが、大半の所有者は[[コンパクトディスク]]の購入や[[音楽配信]]サービスからダウンロードなど正規に入手した音楽データをプレーヤーに複製(いわゆるメディアシフト)しており、「権利者の損失は無い」「著作権料の二重取り」など否定的意見が多く、2005年9月以降まで結論が先送りされている<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/06/02_1.html 日本音楽著作権協会「文化審議会著作権分科会『私的録音録画補償金の見直しについて』の検討結果に対する当協会の意見」(2006年2月3日)]</ref>。
== 問題点・批判・裁判 ==
=== 包括的利用許諾契約の運用問題 ===
JASRACは非営利目的の運営が法律により定められている一般社団法人だが、スナックやジャズ喫茶、ライブハウスなどでJASRAC管理曲を演奏する場合の使用料負担が重過ぎるとの批判がある。JASRACは包括的利用許諾契約<ref>ブランケット契約</ref>締結を求めているが、包括的利用許諾契約は演奏回数ではなく店舗の客席数や床面積に応じて一律に演奏使用料が決定されるため、JASRAC管理曲の利用頻度が低い店舗は使用料の負担比率が高まり不評である。飲食店等には演奏曲目を記載した演奏利用明細書の提出を原則求めておらず、演奏楽曲権利者への確実な分配が危惧されるほかに、使用料の支払者に対し権利者への配分情報が開示されていないなどの批判もある。
先に使用者側と著作権管理事業者が交わした包括的利用許諾契約は、後から参入した著作権管理事業者との公正競争を阻害するとの指摘がある。
放送分野では、JASRAC管理曲を放送する場合に放送事業者は包括的利用許諾契約か個別契約のいずれかを選択できる。包括的利用許諾契約の場合、放送事業者は放送事業収入の1.5パーセントをJASRACに支払えば、JASRAC管理曲を無制限に放送が可能<ref name="使用料規程2.2" /><ref>{{Cite news|title=JASRACは「市場参入妨害」 音楽著作権管理で最高裁判決 公取委、独禁法違反の可否判断へ 【用語解説】包括徴収方式|newspaper=産経ニュース|publisher=産業経済新聞社・産経デジタル|date=2015-04-28|url=http://www.sankei.com/affairs/news/150428/afr1504280023-n2.html}}</ref>だった。そのため、JASRAC管理曲を大量に放送する事業者は包括的利用許諾契約を選択することが一般的になっていた。この状態のまま放送事業者が他著作権管理事業者の管理楽曲を使用すると負担が増えてしまうので、他著作権管理事業者の参入は困難になると[[公正取引委員会]]は判断した。包括契約問題で指摘されたのは、後発の[[イーライセンス]]が当初管理していた[[大塚愛]]の『[[恋愛写真]]』の放送局での取り扱いだった。
{{Wikinews|日本音楽著作権協会への立入り調査、独占禁止法違反の疑いで - 公正取引委員会}}
[[2008年]]4月23日に、公正取引委員会はJASRACへ立ち入り調査し<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0804/23/news051.html JASRACに公取委が立ち入り - ITmedia] 2008年4月23日15時24分閲覧</ref><ref>{{Cite news|title=音楽著作権管理、JASRAC独占の疑い・公取委が立ち入り|newspaper=NIKKEI NET|publisher=日本経済新聞社|date=2008-04-23|url=http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080423AT1G2301G23042008.html|accessdate=2008-04-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080423233631/http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080423AT1G2301G23042008.html|archivedate=2008年4月23日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>、[[2009年]]2月27日に[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律|独占禁止法]]違反を認定して、排除措置を命令した<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2009/02/27/22612.html JASRACの包括契約は独禁法違反、公正取引委員会が排除措置命令 - ITmedia] 2009年2月27日, 2009年2月27日閲覧</ref><ref>「音楽著作権――使い勝手考えた市場開放を」『朝日新聞』2009年2月28日付朝刊、第12版、第33面。</ref><ref>「著作権協会に排除命令――公取委 曲使用契約で他社阻害」『朝日新聞』2009年2月28日付朝刊、第13版、第39面。</ref>が、2009年7月9日に[[東京高等裁判所]]は、JASRACによる執行免除の申し立てを認め、8月6日にJASRACは保証金1億円を一括で供託し、命令確定まで執行停止された<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/307506.html JASRACへの排除措置命令、保証金1億円で東京高裁が執行免除決定 - ITmedia] 2009年9月22日閲覧</ref>。
排除命令に対してJASRACは審判を申立て、[[2012年]]6月12日に公正取引委員会は排除命令を取り消す審判を行った<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/12/06_2.html JASRACのプレスリリース]</ref>。これに対して[[イーライセンス]]が申し立てた審決取消し訴訟で、[[2013年]]11月1日に東京高等裁判所の飯村敏明裁判長<ref group="注釈">、公正取引委員会は行政委員会として準司法的機能を有し、審決に不服がある場合には東京高等裁判所に上訴することになっていたが2013年12月からは準司法的機能を失った。</ref>はこの審決の認定は実質的証拠に基づかないものでありその判断にも誤りがあるとして審決を取り消した<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/13/11_1.html JASRACのプレスリリース]</ref><ref>[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/808/083808_hanrei.pdf 裁判所HPの判決文]</ref>。11月13日にJASRACは上告し<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/13/11_2.html JASRACのプレスリリース]</ref>、「イーライセンス対公正取引委員会の裁判に訴訟の結果により権利を害される第三者」(行政事件訴訟法22条1項)として訴訟に参加した。
[[2015年]]4月28日に、放送利用割合が反映されない徴収方法は他の管理事業者の参入を困難にするとして[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は公正取引委員会の上告を棄却し、JASRACが新規参入を著しく妨げているというイーライセンスの訴えを高裁判決が認めた判決<ref>[https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/064/085064_hanrei.pdf 平成26年(行ヒ)第75号 審決取消等請求事件 平成27年4月28日 第三小法廷判決]</ref>が[[確定判決]]となった。公正取引委員会は審決を取り消され、従前の排除措置命令が復活した<ref>{{Cite news|title=JASRACは「市場参入妨害」 音楽著作権管理で最高裁判決 公取委、独禁法違反の可否判断へ|newspaper=産経ニュース|publisher=産業経済新聞社・産経デジタル|date=2015-04-28|url=http://www.sankei.com/affairs/news/150428/afr1504280023-n1.html}}</ref>。
[[2016年]]2月、イーライセンスと[[ジャパン・ライツ・クリアランス|JRC]]が合併した新会社である[[NexTone]]が、JASRACに対する損害賠償等請求訴訟を取り下げた。
2016年9月9日、JASRACが公正取引委員会への審判請求を取り下げたため、公正取引委員会の審判は終結し、2009年2月27日に出された『JASRACに対する排除措置命令』が確定し、2015年([[平成]]27年)4月1日から遡及適用された<ref>{{cite news | author = | url =https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H8X_U6A910C1CR8000/ |title = JASRAC、請求取り下げ 著作権契約巡る審判 |newspaper = [[日本経済新聞]] | publisher = [[日本経済新聞社]] |date= 2016-09-14 | accessdate = 2018-07-27 }}</ref>。
訴訟や審判と並行して、[[2015年]]2月から著作権管理事業者側のJASRAC、イーライセンス及びJRCと、放送事業者側の[[日本放送協会|NHK]]と[[日本民間放送連盟]]は「放送分野における音楽の利用割合の算出方法に関する検討会」(5者協議)を開催するようになった。2015年9月17日に2015年度分以降の放送使用料に適用する利用割合の算出方法について合意がなされた。これを踏まえJASRACとNexToneはそれぞれ、NHKと民放連との間で楽曲の利用割合を反映した包括的利用許諾契約を交わすことになった。
2015年9月の合意の際、イーライセンスは放送以外の包括徴収方式を採用している他の支分権や利用区分でも、楽曲の利用割合を反映したルールが使用されることを希望する旨を表明した。
JASRACは放送以外の分野でも楽曲の利用割合を反映したルールを導入している。[[2021年]]4月以降は演奏権のうち上演形式による演奏、演奏会における演奏及び演奏会以外の催物における演奏について、公演ごとの実績に基づく利用割合又はみなしの利用割合を反映させることになった。また、[[2022年]]10月以降はカラオケ使用料についてみなしの利用割合を反映させている。それぞれのみなしの利用割合の値は1年ごとに見直しされる。
=== 委託者による権利侵害のチェック体制 ===
2005年にプロ野球[[阪神タイガース]]の[[私設応援団]]であった[[中虎連合会]]が、作者不詳だった阪神タイガース応援歌『ヒッティングマーチ一番』及び『ヒッティングマーチ二番』の作詞と作曲者を「中虎連合会」としてJASRACに届出して使用料の分配を不正に受けていたことが発覚した<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/05/03_1.html 「応援歌『ヒッティング・マーチ一番(2002)』『ヒッティング・マーチ二番(2002)』について」](JASRACプレスリリース)、2005年3月2日</ref>。
JASRAC の著作権信託契約約款7条1項は、委託対象の著作権が委託者のものであり他人の著作権を侵害していないことを保証する責は、受託者のJASRACではなく委託者にあるとしている。この事件からJASRAC内部の不正チェック体制不備も指摘され、JASRACは作者不詳の楽曲と作品名が同一もしくは極めて似ている作品に対するチェックを強化することを発表した<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/05/05_1.html 「2005年定例記者会見」](JASRACプレスリリース)、2005年5月18日</ref>。
=== マスメディアの批判記事 ===
2005年9月17日特大号で[[週刊ダイヤモンド]]は、「企業レポート 日本音楽著作権協会(ジャスラック) 使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にする呆れた実態」と題する記事を掲載し<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070211233817/http://i.yimg.jp/i/evt/magazine/news/08.pdf 企業レポート 日本音楽著作権協会(ジャスラック) 使用料1000億円の巨大利権 音楽を食い物にする呆れた実態(週刊ダイヤモンド 2005.9)]}}(2007年2月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、JASRACによる著作物使用料の徴収や配分と[[文部科学省]][[官僚]]の[[天下り]]が続く組織運営のあり方に問題があると主張した。文部科学省から役員の天下りが50年以上続いている<ref group="注釈">2006年10月人事で事務局出身プロパーの加藤衛常務理事が理事長に昇任し、記事で批判された天下り人事の系譜が途絶えた。</ref>、JASRACの役員報酬を決める役員審議会が非公開である、法外に高い報酬を受け取っている、使用料の徴収方法、などの問題点を挙げ、「JASRACの職員が営業中の店に入り『ドロボー』と大声で叫び営業妨害とも言える[[やくざ]]まがいの徴収方法を取った」「年間の利益が20万円弱の店に550万円もの使用料を徴収した」事例を紹介している。<!-- とりあえず鈎括弧に入れましたが、記事の内容と照らしあわせて正確な内容になっているか確認ください。 -->
2005年11月11日にJASRACは、記事内容に裏付けがないほか恣意的に古い情報を用いるなど読者の悪印象を誘導しているとして、計約4300万円の[[損害賠償]]と[[名誉毀損|名誉]]回復措置の謝罪広告掲載を[[東京地方裁判所]]に提訴し<ref>JASRACのプレスリリース「[http://www.jasrac.or.jp/release/05/11_1.html 株式会社ダイヤモンド社に対する訴訟の提起について]」 (2005.11.11)</ref>、2008年2月13日に東京地裁は、記事表現や体裁はかなり一方的かつ独断的で調査不足、誤解、悪意に基づく構成の疑念などからJASRACの主張を全面的に認めて計550万円の支払いを命じたが、謝罪広告の掲載は必要ないとした<ref>{{Cite press release|和書|title=株式会社ダイヤモンド社に対する訴訟について 東京地裁が当協会の主張を全面的に認め名誉毀損に基づく損害賠償請求を認容 |publisher=JASRAC |date=2008年2月13日 |url=http://www.jasrac.or.jp/release/08/02_2.html |language=日本語 |accessdate=2018年3月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110427184230/http://www.jasrac.or.jp:80/release/08/02_2.html |archivedate=2011-04-27}}</ref>。
2018年3月9日にはアメリカの[[フェアユース]]制度や[[著作権法 (アメリカ合衆国)|著作権法]]について詳細な米国弁護士の城所岩生により『JASRACと著作権、これでいいのか~強硬路線に100万人が異議~』を刊行しており、[[坂本龍一]]がJASRACに苦言していること<ref>{{Cite web|和書|website=バズフィードジャパン |date=2017-11-14 |url=https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/sakamoto-ryuichi |title=坂本龍一、JASRACに苦言 「襟を正して透明性の確保を」 |publisher=[[BuzzFeed]] |accessdate=2018年10月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171114040039/https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/sakamoto-ryuichi?utm_term=.xnae1M2Reo |archivedate=2017-11-14 |deadlinkdate=}}</ref>・大政直人がJASRACへの批判的意見<ref>[https://www.facebook.com/musicgrowth/posts/%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%9B%B4%E4%BA%BA%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%8C%E3%80%81%E3%81%94%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%AEfa/1634355113317520/ 大政 直人の文化審議会におけるFacebookコメント]</ref>・後述の意見書でもある通りに東京大学名誉教授である[[中山信弘]]も「木の枝を切り込みすぎて幹を殺してはいけない。音楽教室に対して必要以上に著作権者の権利を主張すれば、音楽文化が発展しなくなるかもしれない」と言及している。現行法では将来性を潰すことや著作権法自体{{Refnest|group="注釈"|フェアユースについては「ラストメッセージin最終号事件」に認めない判例があり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/818/013818_hanrei.pdf|accessdate=2018-10-10|title=東京地方裁判所平成7年12月18日判決 平成6年(ワ)9532号|publisher=[[最高裁判所]]|format=PDF|page=7}}</ref>、2010年1月20日にはフェアユースについての報告書が文化庁の文化審議会著作権分科会法制問題小委員会に提出された際にも限定的なものとなった<ref>{{Cite news|title=「日本版フェアユース」の対象は 報告書まとまる|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1001/20/news087.html|publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2018年10月10日 |date=2010年1月20日}}</ref>。}}が緊急医療での危険性も指摘している。また、後述のライブハウスにある通りに正当に著作権者への分配されていない可能性も指摘ものとなっている<ref>{{Cite web|和書|work=ポエムピース |date=2018年3月14日 |url=http://www.dreamnews.jp/press/0000169991/ |title=諸外国よりも厳しい!?日本の著作権法と117万人が異議を唱えたJASRAC音楽教室問題の本質を徹底究明!「JASRACと著作権、これでいいのか~強硬路線に100万人が異議~」を刊行 |publisher=ドリームニュース(グローバルインデックス) |accessdate=2018年10月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181007104534/http://www.dreamnews.jp/press/0000169991/ |archivedate=2018年10月7日 |deadlinkdate=}}</ref>。
=== ライブハウスの音楽著作権利用料の支払い裁判 ===
2009年9月に[[ファンキー末吉]]が運営するロックバーにJASRACから送付された使用料徴収法は、ライブハウスで演奏された楽曲の印税がアーティストへ正しく分配されるか否か不鮮明で、末吉は、「これではヤクザのみかじめと同じである。ちゃんと著作権者に分配しろよ!!」と<ref>[http://www.funkyblog.jp/2009/09/jasrac.html 何だJASRACのこの仕事は?!!] ファンキー末吉とその仲間のひとりごと 2009年9月12日 2014年11月28日閲覧</ref><ref>[https://www.cyzo.com/2009/11/post_3188_entry.html 「ヤクザのみかじめと同じ」人気ドラマー・ファンキー末吉がJASRACに激怒!][[サイゾー]] 2009年11月15日 2014年11月28日閲覧</ref>自身のブログで苦言した。末吉が弁護士とともに交渉中、2013年11月にJASRACは「著作権侵害差止等請求事件」として提訴した<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/13/10_4.html ライブハウスの経営者に対し著作権侵害行為の差止めと損害賠償を請求] 日本音楽著作権協会 2013年10月31日 2014年11月28日閲覧</ref><ref>[http://frekul.com/blog/report/2013/11/26/funkyinterview/ JASRACに訴えられた男・ファンキー末吉氏独占インタビュー ~ JASRACという「ブラックボックス」] フリクル・レポート 2013年11月26日 2014年11月28日閲覧</ref>。同年12月に末吉の支援者らが「ファンキー末吉に対するJASRACの訴訟は[[スラップ]]ではないか?」と『ファンキー末吉 支援者の会』<ref>[http://www.simplepile.jp/ ファンキー末吉 支援者の会] トップページ参照</ref>を興し、[[江川ほーじん]]も「徴収する法は有るが、分配するシステムが存在していない。」と非難している<ref>[http://www.egawahojin.com/?p=1269 革命前夜] 江川ほーじん 公式ブログ 2014年11月1日より 2014年11月28日閲覧</ref>。
2016年3月25日、[[東京地方裁判所]]ではライヴハウスとして定常的に利用していることから、いわゆる[[カラオケ法理]]の適用範囲であり、配分率などは作曲者としてのファンキー末吉とJASRACの問題でありライブハウス経営者としての問題ではないとし本裁判では審議されず、また自身の作曲や作詞した楽曲を演奏した場合においても、JASRACとの信託契約でこれら権利は信託されており、信託の仕組み上請求主体から現著作権者であっても使用料の請求が行われることとなることを認定された。但し請求の700万余りより大幅に減額された、著作権利用料280万余りのみ賠償を認められ、訴訟費用はそれぞれが負担することとされた<ref>{{Cite web|和書|work=判決言渡 |date=2016年3月25日 |url=http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/898/085898_hanrei.pdf |title=平成25年(ワ)第28704号 著作権侵害差止等請求事件 |publisher=東京地方裁判所 |accessdate=2018年3月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160527154808/http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/898/085898_hanrei.pdf |archivedate=2016-05-27 |deadlinkdate=2018年3月}}</ref><!--[http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/931/086931_hanrei.pdf アーカイブ保存不能の最新URL]-->・<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20160525-00058033 JASRAC対ファンキー末吉氏の地裁判決文が公開されました]Y!ニュース 栗原潔 2016年5月25日</ref>。
2016年10月19日、[[知的財産高等裁判所]]の判決では、地裁判決を踏襲し賠償金が算出方式の変更に伴い550万余りに変わった他、訴訟費用もファンキー末吉側が1審2審とも負担することを判決として出された<ref>[http://www.ip.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/203/086203_hanrei.pdf 平成28年(ネ)第10041号 著作権侵害差止等請求控訴事件]知的財産高等裁判所</ref>・<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20161029-00063850 JASRAC、第二審でもファンキー末吉氏に勝訴]Y!ニュース 栗原潔 2016年10月29日</ref>。
=== 音楽教室から著作権料を徴収 ===
{{see also|音楽教室著作権裁判}}[[2017年]](平成29年)に、[[河合楽器製作所]]・[[島村楽器]]・[[山野楽器]]・開進堂楽器・宮地商会・[[ヤマハ音楽振興会]]・[[全日本ピアノ指導者協会]]が、音楽教室での演奏にJASRACが著作権料を求める事に反対する団体『音楽教育を守る会』を設立し<ref name=yomiuri20170203>[http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170203-OYT1T50103.html 著作権料徴収に反対…音楽教室運営団体が連絡会] 読売新聞{{リンク切れ|date=2018年3月}}</ref><ref name="oricon20170203">{{Cite web|和書|work= |date=2017年2月3日 |url=http://www.oricon.co.jp/article/107961/ |title=ヤマハ、河合など「音楽教育を守る会」結成 JASRACの徴収方針に反対 |publisher=[[オリコン]] |accessdate=2018年3月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170204084953/http://www.oricon.co.jp/article/107961/ |archivedate=2017年2月4日 |deadlinkdate=2018年3月}}</ref>、音楽教室での練習などは「演奏権」に該当しない、JASRACの方針は著作権法の目的「文化の発展に寄与する」に沿わない、としている<ref name="oricon20170203" />。
2017年7月に理事長の浅石道夫は「音楽教室から徴収する方針」の反対署名には、JASRACを嫌っているだけのものもあると述べている<ref name="ASK7M34M6K7MUCVL008">{{Cite news |date=2017年7月20日 |url=https://www.asahi.com/articles/ASK7M34M6K7MUCVL008.html |title=「カスラックという人は相手にせず」JASRAC理事長 |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]]デジタル |accessdate=2018年3月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180306024350/https://www.asahi.com/articles/ASK7M34M6K7MUCVL008.html |archivedate=2018年3月6日}}</ref>。
2018年(平成30年)3月5日、[[文化庁]]長官の諮問である[[文化審議会]]では、音楽教室の著作権使用料で受講料収入から2.5パーセントの徴収を認める答申を提出した<ref>{{Cite press release|和書|title=著作権等管理事業法に基づく裁定について |publisher=文化庁 |date=2018年3月7日 |url=http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2018/03/07/a1402106_01_1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2018年3月16日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180316034957/http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2018/03/07/a1402106_01_1.pdf |archivedate=2018年3月16日}}</ref>。それを受け「音楽教育を守る会」は「使用料徴収の是非について踏み込んだ判断をしてもらえなかった点で、大変残念だ」とする声明を発表している<ref>{{Cite web|和書|work=NEWS |date=2018年3月6日 |url=https://www.bengo4.com/internet/n_7526/ |title=音楽教室「大変残念」「不正義許さないように」JASRACの徴収容認答申を受け声明 |publisher=[[弁護士ドットコム]] |accessdate=2018年3月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180306124832/https://www.bengo4.com/internet/n_7526/ |archivedate=2018年3月6日 |deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|worK=NEWS |date=2018年3月6日 |url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1803/06/news085.html |title=JASRACの徴収「保留せず」答申に、音楽教室側は「大変残念」 行政指導求める |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2018年3月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180306094924/http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1803/06/news085.html |archivedate=2018年3月6日}}</ref><ref>{{Cite news |date=2018年3月5日 |url=https://www.asahi.com/articles/ASL354DYGL35UCVL013.html |title=音楽教室からの徴収、JASRACに認める答申 文化審 |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]]デジタル |accessdate=2018年3月7日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180305154511/https://www.asahi.com/articles/ASL354DYGL35UCVL013.html |archivedate=2018年3月5日}}</ref>。ただし、「JASRACの提出した使用料規程については裁定日から有効とする。」とはしているものの、演奏権においては音楽教室事業者の「請求権不存在確認事件(東京地方裁判所平成 29 年(ワ)第 20502 号他)」の司法判断確定までは督促しないことや演奏権を争わない事業者に対しては利用に適切とする使用料額を制定するとしている<ref>{{Cite web|和書|date=2018年3月9日 |url=https://music-growth.org/topics/180309.html |title=文化庁長官裁定(3月7日)について |publisher=音楽教育を守る会 |accessdate=2018年10月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181007104627/https://music-growth.org/topics/180309.html |archivedate=2018年10月7日 |deadlinkdate=}}</ref>。
ただ、2017年11月14日付の中山信弘の意見書では音楽教育の練習までの徴収が、まずは「文化の発展」(著作権法第1条)に根本的な疑問点があると指摘している。また、演奏権(著作権法22条)の制定においてもカラオケの様な「公衆に直接見せ又は聞かせることを目的」として演奏ではないことや音楽学校における演奏は著作権法38条適用における使用であり、音楽教育で費やされる費用も「著作物の提供又は提示につき受ける対価」ではなく指導・練習の費用であることからJASRACの請求は権利濫用の解釈とおり、「請求権不存在確認事件」にも有識者意見として提出される<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://music-growth.org/topics/180205.html |title=知的財産法の第一人者である中山信弘東京大学名誉教授から意見書をいただきました |publisher=音楽教育を守る会 |accessdate=2018年10月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181007104738/https://music-growth.org/topics/180205.html |archivedate=2018年10月7日 |deadlinkdate=}}</ref>。
なお、フェアユースの導入があればこのような裁判は起こらなかったとする批判も存在するが、フェアユースを導入しているアメリカでは音楽教室のレッスンは徴収の対象であるため徴収に反対する意見として用いるのは不適切である。
2020年(令和2年)2月28日、東京地方裁判所は音楽教室での演奏利用全般に演奏権が及び、音楽教室事業者の請求権不存在確認の請求を棄却する旨の判決を言い渡した<ref>{{Cite web|和書|date=2020年2月28日 |url=https://music-growth.org/topics/200228.html |title=東京地方裁判所で判決が言い渡されました |publisher=音楽教育を守る会 |accessdate=2020年3月14日}}</ref>。3月4日、音楽教室事業者は判決を不服として知的財産高等裁判所に控訴した<ref>{{Cite web|和書|date=2020年3月5日 |url=https://music-growth.org/common/pdf/200305.pdf |title=音楽教室訴訟 知財高裁に控訴しました |publisher=音楽教育を守る会 |accessdate=2020年3月14日}}</ref>。2022年(令和4年)10月24日、最高裁はJASRAC側の訴えを退け上告を棄却した<ref>{{Cite web|和書|url =https://nordot.app/957158046977572864|title = 生徒の演奏、著作権料不要 音楽教室、教師は徴収対象 | 共同通信|publisher = [[共同通信社]]|date = 2022-10-24|accessdate = 2023-01-09}}</ref>。
== アノニマスによるサイバー攻撃 ==
[[2012年]]6月27日に違法ダウンロード刑事罰化の抗議として、[[アノニマス (集団)|アノニマス]]からサイバー攻撃の被害を被る<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/543332.html JASRACのサイトがアクセス集中で一時停止、Anonymousの攻撃との関連性は調査中] - INTERNET Watch 2012年6月28日</ref>。
== 広報活動 ==
*[[エフエム東京|TOKYO FM]]・[[全国FM放送協議会|JFN38局フルネット]]で放送中の[[SCHOOL OF LOCK!]]の提供を行なっている(毎週火曜日→水曜日)。また不定期で番組とコラボし、著作権についてのキャンペーンなどを行っている。
*[[ニッポン放送]]制作全国ネットのラジオ番組、[[オールナイトニッポン]]でCMが放送されている。
*[[TBSラジオ]]「[[大沢悠里のゆうゆうワイド]]」内正午前の[[TBSニュース#ラジオ|TBSニュース]](月・水・金)のスポンサーとなっている(以前に同番組で「悠里と学ぼう著作権」というコーナーで著作権についての紹介をしていた)。
== 役員 ==
* 会長:[[弦哲也]](作曲家)
* 理事長:伊澤一雅
* 常務理事:中戸川直史 須子真奈美 増田裕⼀
* 常任理事:宇佐美和男 露木孝行 河邉基晴 嶋谷達也
* 理事:
**(作詞者)
*** [[石原信一]] [[たきのえいじ]] [[原文彦]] [[前田たかひろ]] [[巻上公一]] [[松井五郎]]
** (作曲者)
*** [[エンドウ.]] [[岡千秋]] [[小六禮次郎]] [[千住明]] [[水森英夫]] [[渡辺俊幸]]
** (音楽出版者)
*** 赤塚博人 稲葉豊 瀧澤千絵 平野達郎 [[堀義貴]] 見上チャールズ⼀裕
** (学識経験者)
*** 上原伸⼀ 鈴木貴歩 [[角田政芳]] [[戸ノ下達也]]
* 名誉会長:[[船村徹]](作曲家)(故人)
=== 歴代会長 ===
{{節スタブ}}
* [[水野錬太郎]](1940年 - 1946年<ref>JASRAC80年史. 日本音楽著作権協会, 2019. p216</ref>)
* [[国塩耕一郎]](1946年 - 1948年<ref>JASRAC80年史. p216</ref>)
* [[中山晋平]](1948年就任<ref>[http://www.city.nakano.nagano.jp/shinpei/profile/index.htm 中山晋平の紹介] 中山晋平記念艦</ref>)
* [[西條八十]](1953年 - 1965年<ref>[http://www.nihontosho.co.jp/2004/03/-iii-5.html 愛蔵版詩集 第III期 砂金] [[日本図書センター]]</ref>)
* [[堀内敬三]](1965年就任<ref>[https://kotobank.jp/word/堀内+敬三-1654588 20世紀日本人名事典の解説] [[コトバンク]]</ref>)
* [[サトウハチロー]](1971年就任<ref>[https://kotobank.jp/word/サトウ・ハチロー-69332 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説] [[コトバンク]]</ref>)
* [[古賀政男]](1974年就任<ref>[http://www.nihontosho.co.jp/1999/02/93.html 人間の記録93 古賀政男] [[日本図書センター]]</ref>)
* [[勝承夫]](1977年 - 1980年<ref>[https://kotobank.jp/word/勝+承夫-1642123 20世紀日本人名事典の解説] [[コトバンク]]</ref>)
* [[服部良一]](1980年就任<ref>[http://www.hatkat.com/hatter100/history/100history.html 服部良一 | 生誕100周年] -服部克久-Official Site</ref>)
* [[吉田正]](1989年10月就任<ref>[http://www.yoshidatadashi.jp/profile/ プロフィール] 吉田正 公式ウェブサイト</ref>)<ref name="t1997">[http://www.jasrac.or.jp/topics/1997/97_04.html TOPICS1997年4月] JASRAC</ref>
* [[黛敏郎]](1994年就任<ref name="scat"/>)
* [[遠藤実]](1995年 - 2001年<ref>[http://www.minoru-endo.com/profile.htm 遠藤 実プロフィール] 遠藤実記念館 実唱館</ref>)<ref name="scat">[http://j-scat.jp/history.html これまでの活動] 日本作詞作曲家協会・J-scat(ジェイ・スキャット)</ref><ref>[http://www.phileweb.com/news/audio/200110/02/1685.html 社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)の会長に星野哲郎氏] Phile-web 2001年10月2日</ref>
* [[星野哲郎]](2001年 - 2004年)<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/01/10_1.html 星野哲郎新会長を選任] JASRAC 2001年10月1日</ref>
* [[船村徹]](2004年 - 2010年)<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/04/10_1.html 新会長に船村徹氏を選任] JASRAC 2004年10月1日</ref>
* [[都倉俊一]](2010年8月 - 2016年3月)<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/10/08_1.html 都倉俊一正会員が新会長に就任] JASRAC Press Release 2010年8月12日付</ref>
* [[いではく]](2016年4月 - 2022年3月)<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/16/04_1.html いではく正会員が新会長に就任] JASRAC 2016年4月1日</ref>
* [[弦哲也]](2022年4月 - )
=== 歴代理事長 ===
{{節スタブ}}
* [[増沢健美]](1939年 - 1944年)(1948年 - 1957年)<ref>JASRAC80年史. p13, 18, 20, 33</ref>
* [[中山晋平]](1944年 - 1948年)<ref>JASRAC80年史. p18, 20</ref>
(1957年から1965年は「専務理事」)<ref>JASRAC80年史. p33, 217</ref>
* [[春日由三]](1965年 - 1971年)<ref>JASRAC80年史. p48, 57</ref>
* [[酒井三郎]](1971年 - 1979年)<ref>JASRAC80年史. p57, 67</ref>
* [[国塩耕一郎]](1979年 - 1981年)<ref>JASRAC80年史. p68, 69</ref>
* [[芥川也寸志]](1981年 - 1989年)<ref>JASRAC80年史. p69, 85</ref>
* [[石本美由紀]]<ref name="t1997"/> (1989年 - 1994年)<ref name="名前なし-1">JASRAC80年史. p220</ref>
* [[なかにし礼]]<ref name="scat"/> (1994年)<ref name="名前なし-1"/>
* [[加戸守行]](1995年 - 1998年)<ref>JASRAC80年史. p98</ref>
* [[小野清子]](1998年 - 2000年)<ref>JASRAC80年史. p105</ref>
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* [[菅原瑞夫]]<ref name="asahi20101112">「JASRACと動画サイト――融和進める新理事長」『朝日新聞』2010年11月12日付夕刊、第3版、第9面。</ref><ref>[https://japan.cnet.com/article/35083255/ 使用料徴収額は微減へ--JASRAC新会長の意気込みは「冷たい団体の評価を受けないよう」] CNET Japan 2016年5月26日</ref>(2010年 - 2016年)<ref>JASRAC80年史. p131</ref>
* 浅石道夫<ref>[http://www.jasrac.or.jp/release/16/06_2.html 新役員決定のお知らせ] 2016年6月30日</ref><ref>JASRAC80年史. p153</ref>(2016年 - 2022年)
* 伊澤一雅(2022年4月 - )
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[音楽議員連盟]]
* [[管理楽曲]]
* [[中間搾取]]
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* [[JASRAC賞]]
* [[著作権情報集中処理機構]]
== 外部リンク ==
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7,212 | 京都市 |
京都市(きょうとし 地元発音)は、京都府南部にある市。京都府の府庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。市域は11の行政区から成り、人口約144万人。
京都は、794年(延暦13年)の桓武天皇の平安遷都から1869年(明治2年)の明治天皇の東幸までの1075年間に渡って日本の首都であった。千年余りの間、平安時代の国風文化を始めとした日本文化の中心地であり続け、東京奠都後は戦災を逃れた往時の文化財や伝統文化が継承されてきた。この由縁から文化庁が設置され、日本を代表する古都として「千年の都」や「千年余りの都」とも評される。
市域は令制国で言えば山城国葛野郡・愛宕郡・紀伊郡の全域、山城国宇治郡・乙訓郡・久世郡・綴喜郡と丹波国桑田郡の一部に及んでいる。
京都府で最も人口が多い都市であり、府の人口の56.9%を占める(2023年11月1日)。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、東京23区を除けば全国で京都市のみである。都市圏としては、京都府・滋賀県などに広がる京都都市圏 および京滋の中核であるとともに、大阪市を中心とした京阪神大都市圏(近畿大都市圏)の一角を担う。都市雇用圏の基準では、京都都市圏の人口は280万人で京都府より多く、東京都市圏、大阪都市圏、名古屋都市圏に次ぐ日本第4位の規模である。
794年(延暦13年)に日本の首都になった平安京を基礎とする都市で、1869年(明治2年)に明治天皇が東京行幸(東京奠都)するまでの約1080年に渡って皇室および公家が集住したため「千年の都」との雅称で呼ばれる。現代でも京都市では双京構想を掲げている(首都に関する議論は「日本の首都」を参照)。平安時代、室町時代の室町幕府期には日本の政治が執り行われた中心地であり、鎌倉時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の幕末期などにおいても、日本の政治の中心の一つとして大きな役割を果たした。
平安時代から江戸時代前期までは日本最大の都市であり、その市街地は「京中」、鎌倉時代以降は「洛中」と呼ばれ、都市としては「京」「京の都」「京都」と呼ばれた。江戸時代には三都(江戸・大坂・京)、明治期には三市(東京市・大阪市・京都市)、大正期以降は六大都市(東京市・横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市)の各々の一角を占め、第二次世界大戦後には政令指定都市になった。このような中で都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内流通が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣した。その伝統は現在も伝統工芸として残っているのみならず、京セラや島津製作所、オムロン、ニデック(旧 日本電産)など先端技術を持つ企業をはじめ、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つである。日本初の水力発電所である蹴上発電所を備えた琵琶湖疏水や、日本初の電車営業を行なった京都電気鉄道(後の京都市電、現在は廃止)を開業させるなど、明治以降の近代化にも積極的であった。
第二次世界大戦の戦災被害を免れた神社仏閣、古い史跡、町並みが数多く存在し、宗教・貴族・武家・庶民などの様々な歴史的文化や祭りが残る。その特徴により文化庁が設置され、文化首都を標榜する。国内外の観光客が訪れる観光都市として国際観光文化都市に指定されている。旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧帝国大学の京都大学をはじめとする多数の大学が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の学生街・学園都市ともなっている。
京都府の南部に位置する内陸都市で、市内を賀茂川(途中で高野川と合流して鴨川と名前を変える)、桂川、宇治川などが流れる。政令指定都市および日本の百万都市では唯一、盆地に位置している。
四条河原町(四条通と河原町通の交差点付近)は京都で最大の繁華街であり、歓楽街の祇園やビジネス街の四条烏丸と隣接している。ターミナル駅の京都駅は市街地南部の七条通と八条通の間に位置しており、四条河原町や四条烏丸などの市内中心部からは離れている。
滋賀県の県庁所在地である大津市に隣接しており、都道府県庁間は京都府と滋賀県が全国で最も短い。東海道本線(琵琶湖線)の京都駅と大津駅は2駅10分の近さであり、京都市外から市内への通勤者は大津市が最も多い。
森林が市域の4分の3を覆い、市内には日本で最も高い木が生える。
京都盆地(山城盆地)に位置しているため、太平洋側気候、日本海側気候、瀬戸内海式気候、内陸性気候のそれぞれを併せ持ち、夏と冬、昼と夜とで温度差が大きい。「京の底冷え」と言われるように冬の寒さは厳しい印象があるが、主要都市や関西の中でも取り立てて低温ではなく、京都地方気象台(中京区西ノ京笠殿町)のある中心街はヒートアイランド現象が顕著になり、かつてのような底冷えにはならない。最寒月(1月)の平均気温は4.8°C、平年最低気温は1.5°Cであり、関西では大阪市、神戸市、和歌山市よりは低いものの、奈良市や大津市よりは高い。ただし市内でも郊外は中心部に比べて寒さは厳しく、特に同じ盆地内でも北の方ほど寒く、市内中心部では降雪がなくても左京区の岩倉や大原、北区の原谷などでは積雪や氷点下となっていることがある。北部の山間部(旧京北町など)は日本海側気候の影響もあり、冬季の1.0mm以上の降水日数が京都市街地の2倍以上となり、雪の日も市街地より多くて寒さが厳しい。市街地では積雪しても数cm程度のことが多い。2015年元日から1月3日にかけては大雪に見舞われ、61年ぶりとなる22cmの積雪を記録した。市中心部より南にある伏見区ではさらに雪が少ない。夏は暑さが大変厳しい。特に日中の気温が非常に上がり易く、39°C台の記録も多数ある。2018年7月19日には過去最高気温に並ぶ39.8°Cを記録した。熱帯夜日数は27.2日となっており、名古屋市(25.6日)より若干多いが大阪市(41.5日)や神戸市(46.8日)よりは少ない。
同じ京都市内といえども、北部の山間部と南部の市街地では分けて考える必要がある。市街地に限れば、年間を通して大阪市よりやや気温が低く雨量は多く、名古屋市とは気温は同程度で雨量はやや少ない、という程度の気候である。ただ、市街地(市中心部)も丹波高地の影響を受けて太平洋側気候と日本海側気候の境目で他の近畿地方の主要都市よりも不安定で、夏は大気の不安定さや湿った空気、冬は日本海からの雨雲や雪雲などで曇りがちで、特に夏場は瀬戸内海からの風と伊勢湾からの風、若狭湾からの風がぶつかる影響で頻繁に夕立になる事が多い。京都人はこれらの夕立を「丹波太郎」「山城治郎」と呼んでいる。京都の夏季(5、6、7、8、9月)における平均雷日数は15.9日で、奈良の17.2日や豊岡(兵庫県)の16.9日と比べると少ないものの、彦根(滋賀県)の14.6日より多い。
平安京は、平安中期の漢文学においてしばしば「洛陽」「長安城」「洛城」として現れる。いずれも「平安城」に代わる文学上の雅称と考えられる。のちに唐が西の長安を首都、東の洛陽を副都としたのを意識し、朱雀大路の西(右京)を長安、東(左京)を洛陽と称したとする認識が生まれた。その後、低湿地であった右京南部が寂れ、市街地が左京に偏っていっため、洛陽すなわち「洛」が京都の代名詞となっていった。
たとえば、近世に多く描かれた屏風絵に京都の中心部と郊外を表した「洛中洛外図」というものがある。現在でも京都市内の地域名として以下のようなものがある。行政や観光ガイドでもよく使われるが厳密な区分はない。
上記が大まかな地域名であるのに対して、行政区よりも細かい地域単位として、明治時代に導入された小学校区(学区)による地域名も、生活に密着した地域単位として使われる(詳細は京都の元学区を参照のこと)。
政令指定都市では唯一「住居表示に関する法律」に基づく住居表示を採用しておらず、市中心部の町では近世からの形と名称が継承されており、周縁部においては京都市への編入前の旧町村名や大字・小字が町名に用いられている(例:旧田中村字門前→左京区田中門前町)。
詳細は
を参照のこと。
また、明治中期の市制施行時から京都市内であった町名を住所(所在地)として示す場合、行政区名と町名の間に通り名と方向表示を入れたものが公的な表記として用いられる(例:「中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地」)。近世からの姿を引き継ぐ市内中心部の町には同名の組み合わせが少なくない数あり、古くから用いられるこの通り名と方向表示による住所の表記により識別される。このように町名だけで場所を特定することが困難な市内中心部では町名が地名としては用いられず、交差する通りの名称を組み合わせた名称の交差点名が、周辺一帯の地名としても用いられる(例:「四条河原町」)。(→「#市内の街路」「京都市内の通り」を参照のこと)
京都市は11の行政区より構成される(地理的位置順)。 区名の読みと、設置年は以下の通り(自治体コード順)。京都市設置当初は上京区・下京区の2区だったが、数度の分区や合併を経て1976年(昭和51年)に現在の11区が揃った。
京都市の人口は、国勢調査では1920年の第1回調査で神戸市に次ぐ全国4位になり、三都の一角、東京市・大阪市に次ぐ全国3位という状況は終焉を迎えた。神戸市とは同程度で推移するものの、名古屋市が台頭したため、戦前を通じて全国4位・5位という状況が続いた。1930年の第3回調査の後、1931年に大規模な市域拡張を実施して名古屋市を抜き返し、1932年に3番目の百万都市となったものの、1934年に4番目の百万都市となった名古屋市に1935年の第4回調査で再び抜き返されるという一幕もあった。
戦災被害が六大都市の中で最少だったことから、1945年11月の人口調査および1947年の第6回調査と1950年の第7回調査で全国3位になったが、それは一時的なものに過ぎず、1955年の第8回調査では名古屋市に次ぐ全国4位、1960年の第9回調査では横浜市に次ぐ全国5位になった。
他の大都市や一部の中小都市にみられるような、戦中・戦後における人口の急減・急増がなかったのが京都市の特徴であった。その後も1970年代から2010年代に至るまで、都市部にもかかわらず人口が147万人程度を推移し続け、人口の大きな増減がなかった。この間、1983年に札幌市、2011年に福岡市、2015年に川崎市に抜かれた。また、戦前は同程度で推移し、戦後は甚大な戦災被害による激減から回復してきた神戸市に1990年の第15回調査で抜かれ、2000年代以降は抜き返せない状況にある。結果、全国9位にまで落ちたが、昼間人口では川崎市・神戸市を上回っている。
2015年の第20回調査から2020年の第21回調査の人口増減を見ると、0.8%減の1,463,723人であり、増減率は府下26市町村中7位。区別では最高が2.0%増の南区、最低が6.3%減の東山区。将来推計人口によれば、今後は減少し2045年に130万人を割り込むと予測されている。2023年11月1日現在の人口は1,443,368人。コロナ禍の2020年と2021年は2年連続で1年間に最も人口が減少した市となった。
幕末に再び政治の中心地となった京都は人口が膨れ上がり、かつてない活況を見せたものの、禁門の変などで街の多くが焼けたのに加え、明治維新後に皇室・公家の大半が東京へ移り住んだため、一転急速な衰退を見せた。江戸時代は「三都」と呼ばれ、享保14年(1729年)には374,000人、明和3年(1766年)に318,000人の人口を誇る江戸・大坂に次ぐ都会であったが、明治維新後の1873年(明治6年)には238,000人までその人口が落ち込んだ程である。
そのため、京都府知事(市制施行当初は京都市長も兼任)などから産業の振興を呼びかける声が上がり、京都府に復興の顧問として迎え入れられた山本覚馬は京都を何とかして復興させようとある計画を立ち上げる。それは1867年にパリで行われた当時世界最大のイベント「パリ万国博覧会」をヒントにした博覧会を京都で開催するというものであった。そのため、政府に嘆願し、外国人の居留地からの移動制限を博覧会の期間のみ解除することを許され、京都に外国人を迎え入れられるようにした。そして西本願寺・知恩院・建仁寺を会場に「第一回京都博覧会」を開催し、京都の復興の足がかりを作った。前年の明治4年10月10日〜11月11日(1871年11月22日〜12月22日)には日本初の博覧会が民間により西本願寺で開かれている。
また田邉朔郎による琵琶湖疏水の建設と、疏水を用いた日本初の水力発電、さらにその電力を用いた日本初の電車運転(京都電気鉄道、後の京都市電)などの先進的な施策が実行された。人口は明治時代中期以降しばらく、毎年1万の増加を見せるようになった。
人口の増加と市街地の拡大に対応し、明治末期から道路拡築および市電敷設、第二疏水開削、上水道整備からなる「京都市三大事業」が行われた。それに続く形で市区改正道路(都市計画道路)事業と市電の敷設が進められ、昭和初期には伏見市(現在の伏見区中心部)など周辺の市町村を編入し、ほどなくして人口は100万人を超えた。
第二次世界大戦中、六大都市(東京都区部と五大都市)の中では、空襲の大きな被害を受けなかったこともあり、日本の都市としては珍しく戦前からの建造物が比較的多く残されている。これは歴史遺産保護のために大規模空爆を受けなかったという説がある一方、広島市や小倉市(現在の北九州市小倉北区・小倉南区)・新潟市などと共に原子爆弾の投下候補都市と位置付けられており、その兵器の効力を知るためにアメリカ軍が最後まで街を温存したという説が存在する(都市選定の経過については日本への原子爆弾投下を参照)。なお、京都市が全く空襲を受けなかったわけではなく、1945年(昭和20年)1月16日から6月26日にかけて、5回の空襲を受けている(京都空襲)。
戦災による人口減は六大都市のうち最少で、1947年(昭和22年)と1950年(昭和25年)の国勢調査では東京都区部、大阪市に次いで京都市が全国3位となった。
財政は、2008年(平成20年)7月23日に門川大作市長が同市の都市経営戦略会議で2011年度の実質赤字比率が推計で27%に達する見通しを発表し、財政再建団体への転落を示唆した。行財政改革により2010年度から黒字が続いたが、2020年、基金が2026年度に払底し2028年度に財政再生団体に指定される財政破綻の恐れがあることを公表した。しかし2022年、税収や国からの地方交付税が大幅に伸びたことから、一般財源の収支均衡を22年ぶりに達成。市長は財政破綻はしないと言明した。
京都市は日本有数の歴史的都市であるにもかかわらず、20世紀末から財政状態の不健全性が指摘されている。要因として、少ない税収(住民税)、市営交通の敬老パス費用や地下鉄建設費の増加、300種類以上の借入金などが挙げられる。なお2022年時点で市職員給与のラスパイレス指数は国家公務員を下回る。また京都市の人口構成の特徴として学生である20代前半の比率が高いことが挙げられるが、学生は非労働力人口であることも影響し、総人口に占める納税義務者割合は43.8%と政令市平均(48.4%)よりも低く、全政令市中で最下位レベルであることも財政悪化の原因の一つとなっている。
他の自治体との比較では、1人当たりの債務に着目して作成されたランキングで全国の自治体のうち2021年度末にワースト7位とする例などがある。
京都市の公式サイト「京都市情報館」の外郭色は紫である。
京都市では慣例により市議会を市会と呼称する。これは大阪、神戸、横浜、名古屋の各市でも同様である。
議員定数は67人である。
※ 2020年(令和2年)6月8日現在。
京都市は、第二次世界大戦後になると社会の変化や経済優先の政策、モダニズム建築の台頭により徐々に伝統の景観が破壊され、これに対して景観論争がたびたび起こっている。
1964年(昭和39年)に建造された京都タワーは、京都の「第1次景観論争」を引き起こした。また1970年代の経済成長期には、風致地区や美観地区など戦前から継続的になされている景観保護の施策があるにもかかわらず、1950年(昭和25年)に制定された建築基準法により伝統工法が違法となったほか、バブル期には多くの建て替えにより京町家による街並みが徐々に壊されていった。これは「第2次景観論争」といわれている。
山並みも京都の都市景観の重要な要素である。山間地での開発は概ね抑制されているが、1990年代には市内の高層建築によって山への眺望景観が阻害されることになった。
2004年の景観法制定により、これまでの景観条例に実効性・強制力を持たせることが可能となり、2007年には新しい景観政策が施行された。新しい景観政策では、建造物の高さ、デザイン、色などの規制がより強化された。中心市街地でも、建てられる建造物の高さは幹線道路沿いで最大31メートル、それ以外の職住共存地区では最大15メートルとなった。
市街地のほぼ全域に指定されている景観地区では、その地域ごとにデザインの規制がされ、厳しい地区では屋根の形状が「切妻、寄棟、入母屋」であること、屋根の葺き方が「日本瓦又は銅板」であること、屋根の勾配の比率が一定以上一定以下であることなどのかなり具体的な規制に服することになる。建築物を建築など(増改築を含む)する際には、こうした具体的な基準に適合しているかどうか、市長の認定を受けなければならない。
また、眺望景観保全地域として、東寺、清水寺などからの境内の眺めや、円通寺などからの庭園の眺め、鴨川からの大文字の眺めなど、38箇所からの眺望を指定し、その周辺をデザイン保全区域として、標高規制やデザインの規制がされる。
広告物についても、屋上広告物や点滅式照明は市内全域で禁止されているほか、都市景観を乱す恐れのある派手な広告看板は地域によって使える色や大きさが規制されている。日本全国に展開するチェーン店鋪の看板も、鮮やかなコーポレートカラーの使用を控え、他の地域とは異なる比較的地味な配色を採用する事例が多い。一例として、飲食チェーンではマクドナルドやすき家は他地域で紅系統を使用しているが、市内では赤褐色を使用している。小売店では、市内のローソンの一部では看板の青地の表示面積を少なくしているほか、ガソリンスタンドのENEOSは赤系統が採用された店舗用ロゴタイプを使用していない。金融機関では、メガバンクの三菱UFJ銀行やみずほ銀行では本来の地色を使用せず、白地にそれぞれのコーポレートカラーの文字色を配したものを使用している。しかし改修費用の問題もあり、一部に違反状態が残る。屋外広告物条例は2014年9月に経過措置期間が終了し完全施行された。
また、重要伝統的建造物群保存地区をはじめとして市内には木造建築物や細街路が多い。そのための防火対策が進められ、年間の火災発生は200件台で人口当たり件数が全国平均より少ない。火災未満の事象も京都市消防局では無損事故として取り扱い、防火活動に役立てられている。
日本国内の自治体との間で各種の交流を行い、協定を結んでいる。次に示すほか、複数の自治体の間で交流を謳った共同宣言に、龍馬の絆で結ぶ都市間交流宣言(2014年)と西郷菊次郎翁を縁とした交流宣言(2018年)がある。
姉妹都市やパートナーシティの提携を自治体間で結び、諸分野で交流が進められている。
関西広域連合、全国京都会議、イクレイ、世界歴史都市連盟などの自治体の連携組織に参加している。
市内には文化庁、京都迎賓館、近畿農政局などの行政機関がある。主な国家機関などは以下の通り。
2018年(平成30年)度の市内総生産(名目)は6兆6292億円で京都府のおよそ3分の2の規模に当たる。ドルで換算すると約600億ドルであり、ミャンマーのGDPに相当する。市民所得は4兆6694億円、一人当たり318万円である。最大の産業は製造業(工業)であり、市内総生産の経済活動別シェアは製造業、不動産業、卸売・小売業、保健衛生・社会事業、専門・科学技術・業務支援サービス業の順に大きい。
伝統的な京野菜や全国的に有名な宇治茶などの生産が行われる。
任天堂・ニデック・島津製作所・オムロンなどの精密機械や医療器具の生産が盛んである。南区と伏見区にまたがる高度集積地区らくなん進都などへの集積誘導がなされている。
かつて京焼・清水焼などの伝統的工芸品の生産が盛んであった。山科区に清水焼団地がある。 近年はキャンパスプラザ京都や京都リサーチパークと産官学連携で研究・開発を行い、碍子やセラミックス・セラミックファイバーの生産へ転換し、関西電力などの電力会社や京セラなどのファインセラミック企業と提携していく動きが盛んである。
以前より緩和されてはいるが、京都における老舗や伝統的な商店を守るため大規模店舗の出店が旧市街地においては厳しく制限されている。
京都市は、多くの大学が立地する学生の街でもあり、産官学連携が行われているベンチャー企業の街・スタートアップの街としても注目されている。
京都市の電力供給は関西電力(関電)の営業区域となっている。なお、京都市役所は一部PPSのエネットから買電した電力も使用している。市内には零細な発電設備しか存在せず、従来の琵琶湖疎水系の水力 (関西電力管理) に南部地域の中小新規の発電設備を含めても、市内発電による2021年度の供給電力量の割合は0.54%未満である。ほぼすべての消費電力は関西電力と関連企業などによって、京都府以外の近畿各府県と長野県(大町)、富山県(立山黒部)、岐阜県(飛騨)、福井県(若狭敦賀)などから発送電されている。
京都市内には関西電力の6箇所の水力発電所がある。これらは琵琶湖疏水にあり、かつて京都市直営により運営されていた蹴上 (4,500 kW)・夷川 (300 kW)・墨染 (2,200 kW) の各発電所と、京都電燈により設置され、後に京都市に移管された鞍馬川の洛北発電所 (450 kW)・清滝川の清滝発電所 (250 kW)・栂ノ尾発電所 (750 kW) が、日中戦争以降の電力国家管理政策「配電統制令」(昭和16年8月30日勅令第832号)により関西配電(のちの関電)に京都市内の送電設備と共に現物出資されたもので、これが京都市が現在も関西電力の株式419万株を保有する株主の理由でもある。このほか、京都電燈により設置されたものとして、旧京北町桂川上流部の黒田発電所 (980 kW) がある(発電所の名称とカッコ内の発電出力は2015年現在のもの)。
関電以外にも京都嵐山保勝会が2005年嵐山渡月橋上流部に出力 5.5KW の小型水力発電機を設置、夜間「渡月橋周辺」をLED照明で照らし、余剰電力は関西電力に売却している。2013年度には修学院音羽谷の砂防ダム・蹴上インクライン横の放水路・嵯峨越畑の農業用水の3箇所の小水力発電所の建設 が計画されていたが、2020年4月現在、未だに設置されては無い。その代わり石田水環境保全センターに定格出力9kW・発電実績81,480kwh(令和元年度)の小水力発電機が稼働している。
京都市では、国の一般家庭への太陽光発電パネル設置の補助金 1 kW 当たり3万〜3万5千円にプラスして 1 kW あたり2万円補助金を独自に出しているほか、市内の浄水場・下水処理場、青少年科学センター、魚アラリサイクルセンターなど公共施設・市内公立小中学校の増改築時 に太陽光発電パネルを設置している。これらは大規模災害時の非常用電源としても考えられている。さらに2013年度から新山科浄水場と鳥羽下水処理場に1MW、松ヶ崎浄水場に730kW、石田下水処理場に1MWの設備が順次整備された。
また、市民から出資を得て京都市の施設の屋上に太陽光発電パネルを設置して売電で得た収益を出資者に配当する「市民協働発電制度」を創設。2012年度から9か所で実施された。
京都市以外では、NEDO の技術開発機構フィールドテスト事業として1997年にJR東海の京都駅の新幹線ホームの屋根上に 最大出力100kw(平均出力8.5kw)の太陽光発電パネルを設置、1998年8月京セラの新本社の屋上と南壁面 214kw の太陽光発電パネルが設置、1999年京都府営乙訓浄水場の沈殿池の上に 30kw の太陽光発電パネルが設置された。
2012年7月、ソフトバンク関連会社および京セラ関連会社と市の協業により、伏見区内にある市の最終処分場跡地にメガソーラーが設置された。同年9月の設備拡張分と併せた公称出力4.2Mw(平均出力355kw)の出力は京都府内で当時最大だった。2015年には同じ伏見区で最大出力23Mw(平均出力1950kw)のメガソーラーが着工した。
また京阪電気鉄道は淀車庫の遊休地に土地の有効活用として2016年4月に物流倉庫「淀ロジスティクスヤード」を建設し、その屋上に太陽光発電パネルを設置して年間100万キロワット時(平均出力114kw)の電力量を発電している。
京都市内3箇所の クリーンセンター(ごみ焼却処理場)は廃棄物発電が行われ最大出力約35,000kwで発電されていて、入札により売電されている。また 伏見水環境保全センター ではガスコージェネレーション設備で発電した電気で汚水の浄化に利用している。
京都市地域は大阪ガスの供給エリア で天然ガス13Aを京都市内に供給しているが、山科区の清水焼団地は大阪ガスの供給エリアの中にありながら、独自のLPガスの供給網を設備運用している。これは陶器を焼くのにカロリーの高いLPガスの方が大阪ガスの供給する天然ガスより適しているためである。
上水道普及率(2019年度末現在)
琵琶湖疏水からの水を利用する日本初の急速濾過式浄水場「蹴上浄水場」が1912年(明治45年)に完成して2012年で100周年を迎えた。人口と供給面積増加に伴い、山科・九条山・伏見・松ヶ崎・新山科・山ノ内の各浄水場が設置されたが、現在は蹴上・松ヶ崎・新山科の3ヶ所の浄水場に集約された。また蹴上・松ヶ崎・新山科の3浄水場ではソーラーパネルによる太陽光発電が行われていて、2013年10月には新山科浄水場を1000kWまで増設され、2014年度は松ヶ崎浄水場に730kWに増設された。
ちなみに琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を得ていて、京都市は1947年に『疏水感謝金』の契約を滋賀県と結んだ。これは法的な根拠はない感謝金であり、滋賀県も「山の植林・間伐・林道整備など、水源地となる山の保護事業に使っている」としている。感謝金額の査定は10年ごとに物価変動を考慮して滋賀県と京都市が相談して決定する。2012年当時の契約は消費税が8%になる予定の2013年度末までの『疏水感謝金』は年間2億2千万円が滋賀県へ支払われていた。2015年度から10年間は年間2億3千万円となった。
一方、市民の節水意識の向上や生活スタイルの変化によって水道使用量は減少し、水道契約世帯の37%が基本料金の使用量10トン以下となっている。また京都市内は伏見をはじめとする「名水の井戸」が数多くあり、水道水を使わず井戸水を使用する宿泊施設 や商業施設・病院などが40事業者もあり、それらの業者にもバックアップ用の大口径水道管が接続されているため収益は無いのに維持費が掛かり9億円の減収となっている。
配水管約2500kmのうち500kmは法定耐用年数の40年を越えるが、年間の更新は27kmであり、更新がなければ20年後に配水管の7割以上が耐用年数を越えると推定される。2011年10月に洛西ニュータウンで大規模な断水事故も起きていて、早急な対策が必要とされる。
このほか左京区大原地区では地元の河川を利用した水道が設置され、2005年4月に右京区に編入された旧京北町では、独自の上水道が整備されていたが、京都市編入後は2011年11月より黒田・弓削の2つの浄水場が稼動を開始した。西京区京都大学桂キャンパス側に府の乙訓浄水場(保津川嵐山付近より取水)があり、向日市・長岡京市・大山崎町へ供給している。
下水道普及率(2019年度末現在)
京都市内の下水道網は、ほぼ全域をカバーしているが、初期に造られた下水道を中心に市内40パーセントで雨水と汚水を一緒に流す合流式で、大雨になると下水道から河川に雨水を放流する放流口が83箇所もあり、このときに汚水が未処理のまま河川に流れ出し悪臭や環境汚染が堀川や西高瀬川などで問題になり、1980年代より大雨時に水を溜めて下水処理場へ送る貯水幹線が堀川通や五条通の地下に整備された。
こうして集められた汚水は桂川東岸・宇治川北岸までが京都市上下水道局の鳥羽・伏見・石田に有る3つの水環境保全センター(下水処理場)と鳥羽水環境保全センター吉祥院支所で、桂川西岸は京都府の「洛西浄化センター」(京都市伏見区と大山崎町に跨る)・宇治川南岸は同「洛南浄化センター」(八幡市)で処理されて淀川水系へ放流され、旧京北町地区は京北浄化センターで処理されて桂川上流部へ放流される。なお京都市山科区の上流部の滋賀県大津市藤尾地区・醍醐小栗栖地区の下水道管が通過する宇治市の六地蔵地区の一部の汚水も、京都市上下水道局の石田水環境保全センターで下水処理されている。
淀川下流では、大阪府下全域と兵庫県の阪神地区で再度浄水として使用されているため、BOD は国の基準・水1Lあたり 20mgを下回る 3mg前後まで浄化され、旧京北町に有る京北浄化センター以外は、通常の下水処理に加えて窒素・リンを取り除く高度処理が行われ、さらに鳥羽水環境保全センター吉祥院支所・伏見水環境保全センターでは友禅染などの作業所から出る染料の色素を除去するためにオゾン処理を導入している。
省エネ対策として過去・昭和17年~25年ごろに下水処理で発生する消化ガスのメタンを利用して、市公用車や市バスを走らせたり、ゴミ処理場で廃棄物発電の電力や熱を利用するなどしていた。現在は最大の下水処理場「鳥羽水環境保全センター」では、処理施設の上部に 1000kW の太陽光発電パネルを設置して2013年度より太陽光発電を導入。石田水環境保全センターでは隣接するゴミ処理場からの廃棄物発電の電気による施設内の電力供給と余熱での汚泥の乾燥減量化していたが、ゴミ処理場の老朽化で2013年2月で休止されたため、2015年度に1000kW太陽光発電パネルが設置され、排水時には9KWの小水力発電が行われている。伏見水環境保全センターではガスコージェネレーション設備を導入して自家発電による施設内の電力供給と余熱による汚泥の乾燥減量化を行っている。
2013年4月現在、京都市のごみ収集は有料で一般ゴミは黄色の専用ゴミ袋を市内のコンビニ・スーパーマーケット・小売店で購入し、それにゴミを入れてごみ収集指定日に道路上の指定場所に出す。これらのゴミ袋は5リットル・10リットル・20リットル・30リットル・45リットルの6種類が用意されている。なお一般ゴミは市内3ヶ所の「クリーンセンター(ごみ焼却処理場)」で焼却されこの熱を利用して廃棄物発電が行われていて入札により売電されている。焼却灰は伏見区醍醐に有る最終処分場「エコランド音羽の杜」に埋め立てられる。
ビン・カン・ペットボトルとプラスティックトレイ・プラ包装材は資源ゴミは透明の専用ゴミ袋の使用が義務付けられていて、それぞれ週1回資源ゴミ専用指定場所に出すことになっている。ビン・カン・ペットボトルは伏見区横大路に有る「南部クリーンセンター」に隣接する知的障害者対象就労継続支援B型事業所『京都市横大路福祉工場』でアルミ缶・スチール缶・ペットボトルに分別されリサイクル業者に払い下げられる。プラスティックトレイ・プラ包装材は知的障害者対象生活介護事業所『京都市横大路学園』でプラスティックトレイ・プラ包装材に分別されリサイクル業者に払い下げられる。 また横大路地区には業務用廃棄物の「魚アラリサイクルセンター」が有り魚粉飼料に加工され、市民や業務用から集められた「使用済みテンプラ油」のバイオディーゼル燃料に加工する工場も有り、加工された燃料は一部のゴミ収集車に使用されている。古紙類の回収は民間の古紙回収業者が充実しているなどとして、京都市としてリサイクルを行っておらず、このため市民は独自に民間の古紙回収業者を頼るか、燃えるごみとして出す必要がある。ただし地域での自主的な集団回収に毎年最大10000円(古紙類のみを回収する場合。その他の品目も回収する場合は最大15000円)の助成金を交付している。
市外局番は、大部分の地域は「075」(京都MA)。ただし、右京区嵯峨樒原、嵯峨越畑では「0771」(亀岡MA)。京北室谷町では「0771」(園部MA)。伏見区醍醐一ノ切町、二ノ切町および三ノ切町では「077」(大津MA)。西京区大原野出灰町では「072」(茨木MA)。京北室谷町を除く旧京北町域は京都市への編入後、2011年12月1日をもって「0771」(亀岡MA)から「075」(京都MA)へと変更された。
京都市には40校を超える大学・短期大学のキャンパスがあり、多様な高等教育機関が集積する学生のまちとしても知られている。大学相互の結びつきを深め、また、経済界との連携を強めるため設立された日本最大の大学間連携組織、大学コンソーシアム京都があるのも特徴的である。2003年(平成15年)以降、毎年10月上旬に京都学生祭典が開催されている。
この他、アメリカの大学も積極的に京都で活動を行っている。1989年(平成元年)9月に設立された京都アメリカ大学コンソーシアム(Kyoto Consortium for Japanese Studies、略称:KCJS)は、アメリカの13大学 からなる組織であり、日本研究を志すアメリカの大学生が毎年約40~50名来日している。また、スタンフォード大学は、KCJSに参加すると共にスタンフォード日本センターを同志社大学今出川キャンパスに設置している。大学共同利用機関法人として国際日本文化研究センターと総合地球環境学研究所がある。また、2015年9月に京都市と公益財団法人大学コンソーシアム京都の協働により京都学生広報部が創設され、京都での学生生活の魅力をPRしている。
近畿圏各地からは出発地によってJR・私鉄各線を使い分けるが、京都駅周辺はJR・近鉄、四条河原町周辺は阪急・京阪のターミナルと、主に二箇所に分散している。また京都市内を発着地とする中長距離バス路線は、多くが京都駅をターミナルとしている。
東海道新幹線・山陽新幹線沿線からは、大阪市内や神戸市内と比べて近畿三空港との距離が離れている(最も近い伊丹空港から京都駅までリムジンバスで約50分)。その一方、東海道新幹線で名古屋以西を走る全ての列車(「のぞみ」を含む)が京都駅に停車することから、新幹線が航空機に対して圧倒的に優位に立っている。
京都府内に空港は存在しないが、かつてはIATA都市コード UKY が設定されていたほか、空港外のチェックイン施設(シティエアターミナル、CAT)が設置されていたこともある。
京都駅が事実上の中央駅として機能している。なお、京阪および阪急の路線は京都駅を通っていないが、両者とも市内のターミナル機能は複数の駅に分散しており(京阪は出町柳駅・三条駅・祇園四条駅、阪急は京都河原町駅・烏丸駅)、中心駅と呼べる存在の駅はない。
市域には、事実上の同一駅や近隣に接する駅の場合でも運営社局によって駅名が相違している事例がいくつかある。
ICカード乗車券はJR西日本ではICOCAおよび相互利用カード(ICOCAの項を参照。電子マネー機能はPiTaPaは利用不可)、嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線では PiTaPa・ICOCAおよび相互利用カードが利用可能(嵐電は専用の「らんでんカード」がある)。また、JR西日本各線および近鉄線ではJスルーカード(現在は自動券売機でのみ対応)、叡電・嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線ではスルッとKANSAIカードに対応している。
京都市を構成する11区の主要駅は以下の通り。様々な利用の起点・目的点として代表される駅である。
市内の移動は路線バスがメインとなる。観光シーズンになると積み残しが続出する状況のルートもあり、渋滞が悪化して所要時間が読めなくなることから、鉄道各社線との乗り継ぎ利用でそれらのリスクを最小限に抑える利用方法が推奨されている。
京都市交通局(市バス)・京阪グループ・阪急バス・西日本ジェイアールバスなどとの間では、従来より回数券の共通化を行っており、地下鉄割引券込みの物も販売されていた。現在では、ICカードなどで市バス・京都バス・地下鉄の乗継割引が行われる。市バス・京都バス(それぞれ一部路線除く)および地下鉄全線が乗り放題の「地下鉄・バス一日(二日)券」が発売されている(他にも市バス・京都バスの均一区間専用の「バス一日券」、市外発の市内各線フリーきっぷ込みの割引きっぷ類などもあり)。
運行地域は、市バスが旧市街地中心で、京阪京都交通は西京区、および西京区・亀岡方面から旧市街地への乗り入れ、京都バスが右京区嵯峨地区と左京区岩倉・鞍馬・大原地区および両方面から旧市街地への乗り入れ、京阪バスが山科区と伏見区醍醐および両方面から旧市街地への乗り入れと比叡山方面、阪急バスが西京区(洛西ニュータウン)、西日本JRバスが旧京北町および北区小野郷・中川地区、右京区梅ケ畑地区から旧市街地への乗り入れとなっているが、一部競合区間が存在する。
この他に、伏見区向島地区を運行する近鉄バス、西京区(桂坂ニュータウン・洛西ニュータウン)を運行するヤサカバス、京都女子大学と京都駅八条口・四条河原町を結ぶプリンセスラインバス、旧京北町を中心に運行する京北ふるさとバス、京都駅とらくなん進都内を巡回する京都らくなんエクスプレス、旧京北町と南丹市を結ぶ南丹市営バス、北大路駅と北区雲ケ畑地区を結ぶ雲ケ畑バスなどがある。
乗車方法は主に後乗り前降り後払いで、運賃は旧市街地周辺は均一制(主に230円)。均一区間外は整理券による区間制となっている。
均一運賃区間の境界バス停
京都駅と名古屋駅を結ぶ名神ハイウェイバスや、首都圏などと京都を含む京阪神地区を結ぶ多くの高速路線バス、ツアー形式の貸切バス(ツアーバス)が運行されている。京都市内を発着地とする高速バス路線の多くは京都駅をターミナルとしている。詳しくは京都駅の高速バス欄を参照。
また大阪市内を発着地として名神高速道路を経由するバス路線のうち、京都駅に発着しない路線では、伏見区の深草バスストップ(京都深草)を京都の玄関口と位置づけているものがある。詳しくは当該項目を参照。
駐輪スペースを確保できれば、自転車や原付含む自動二輪の方が柔軟な移動ができる。
近年、地球温暖化防止の観点から見直されたこともあってレンタサイクルが急増しており、宿泊客に対してこれらの便宜をはかる宿泊施設も増加している。また、ベロタクシーの日本発祥の地でもある。
(越境路線のみ記載)
旧市街地では、平安京造成時の都市計画の名残で、東西・南北に通じる街路をもってあたかも碁盤の目状に区切られており、街路はすべて固有の名称がある。 なお、街路名に付される「通り」の送り仮名「り」は付けないのが通例である。
市内の中心部など旧市街地では、街路(通り)の名称が場所を表すために用いられる。また、多くの交差点名が交差する通り名を合成したものとなっており場所を示す地名として通用している。
主に碁盤の目状に区切られた街路を持つ地域では、街路名の交差とその地点からの東西南北を指すことによって位置を示す方法が一般的に用いられる。
先ず当該地が面している街路名を示し、次にその街路と直近で交差する街路名を示したうえ、その交差点から見た当該地の位置を東西南北で示す。北に向かう場合は上ル/上る(あがる)、南へは下ル/下る(さがる)、東西に向かう場合はそれぞれ東入(ひがしいる)、西入(にしいる)と表記する。 交差点と交差点のちょうど中間地点では、どちらの交差点を基準とするかによって二通りの表記が可能である。また、原則では近い方の交差点を基準とするものの、大通りなどの大きな交差点がある場合はそれを優先することもある。
この表記は、公的な住所(所在地)にも含まれる。一例をあげると、京都市役所の所在地は「京都市中京区寺町通御池上ル(公的には「上る」) 上本能寺前町488番地」となり、寺町通に面し御池通から北に向かった地点を「寺町通御池上ル」で表し、その後ろに町名の「上本能寺前町」と番地を示す。なお、この表記方法は1889年(明治22年)の市制施行時から市域であった場所の大部分 において、住民基本台帳や不動産登記などにおける公的な表記として用いられるものである。
一方、公的な表記ではない場合、町名や番地は省略し、街路名と方向のみにより表記することが通例であるが、近年、街路名と方向による伝統的な表記では、インターネットの地図サイトやカーナビゲーションで検索できないという理由で、街路名を含まない町名と番地だけで住所を表記する事例も増えている。 しかし町域が狭く、膨大な数の町名がある京都では、町名と番地だけの表記では直感的な場所の把握が困難である。例えば、「四条河原町」交差点周辺は繁華街として知られているが、町名の「下京区真町」では理解しづらい。
また、同一区内に多数組の同一町名が存在し、町名のみで場所を特定できないことも多い。例えば中京区内に「亀屋町」は5箇所あり、さらには下京区にも2箇所、上京区にも4箇所ある。このような同一町名は中京区内だけでも32組もある。これらは一つの町の飛び地ではなく、関係のないまったく別の町である。ただし、同じ町名でもそれぞれ郵便番号が異なるため、7桁の郵便番号を記載すれば、街路名がなくとも郵便物は配達される。
交差点の名称は、交差する2つの街路名を合成したものが用いられることが多い。どちらの通りを先に呼称しても意味は通じるが、多くの場合どちらかの通りを先に呼ぶものが固有名詞化している。たとえば「四条河原町」と「河原町四条」は同一地点を指すが「四条河原町」と呼ばれ、交差点やバス停の名称も「四条河原町」である。ただし、どちらの通りを先に呼称するかについて定説は無く、道路上の交差点名の表記では「五条大宮」である一方、バス停の名称は「大宮五条」であるなど不一致がみられる例もある。
一方で、街路名を由来としない交差点名も少なくない。一例として、四条通と東大路通の交差点は「祇園」、西大路通と丸太町通の交差点は「円町」、今出川通と東大路通の交差点は「百万遍」と呼称しているが、これは都市計画による新たな街路が敷設された場合に、交差点名として伝統的な地名を採用したものが多い。
市内に観光地が散在し、2000年以降は年間4〜5千万人台の観光客が訪れる。2020年(令和2年)の通勤通学目的以外の宿泊客数は531万人、うち外国人宿泊者数は45万人だった。近年は英米の旅行情報誌などで旅行先としての認知が進む。国際会議の開催も日本国内では東京に次いで多く、国際会議観光都市に指定されている。
観光大使の任命などを内容とする京都観光サポーター制度が京都市により実施されている。
相互協力団体として「京都市内博物館施設連絡協議会」があり、市内の博物館・美術館などのうち約200館で組織している。また、比較的大規模で公立の4館が「京都ミュージアムズ・フォー」の名で連携事業を行っている。
74品目を京都市は伝統産業として指定し、そのうち経済産業大臣指定伝統的工芸品と17品目が重複、その他から京の手しごと工芸品を選んでいる。
古くは京都が日本の政治・文化の中心となっていて、第二次世界大戦の戦災から免れたことから、国宝の約20%、重要文化財の約14%が京都市内に存在する。
1994年(平成6年)に、近隣の宇治市内と滋賀県大津市内に所在するものを含め、17件の文化財が世界遺産に登録された。
例年行われるイベントには、皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会や全国高等学校駅伝競走大会、京都マラソンなどがあり、ロードレースの陸上競技の人気が比較的高い。日本初の駅伝の記念碑がある。
また、トップアスリートや優秀な指導者などのスポーツ関係者に対して、京都市スポーツ賞や京都スポーツの殿堂による表彰が行われている。殿堂入りの人数では野球やラグビー関係者が多い。
スポーツに関する神社もあり、白峯神宮や下鴨神社の雑太社などが挙げられる。 | [
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"text": "京都市(きょうとし 地元発音)は、京都府南部にある市。京都府の府庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。市域は11の行政区から成り、人口約144万人。",
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"text": "京都は、794年(延暦13年)の桓武天皇の平安遷都から1869年(明治2年)の明治天皇の東幸までの1075年間に渡って日本の首都であった。千年余りの間、平安時代の国風文化を始めとした日本文化の中心地であり続け、東京奠都後は戦災を逃れた往時の文化財や伝統文化が継承されてきた。この由縁から文化庁が設置され、日本を代表する古都として「千年の都」や「千年余りの都」とも評される。",
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"text": "市域は令制国で言えば山城国葛野郡・愛宕郡・紀伊郡の全域、山城国宇治郡・乙訓郡・久世郡・綴喜郡と丹波国桑田郡の一部に及んでいる。",
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"text": "京都府で最も人口が多い都市であり、府の人口の56.9%を占める(2023年11月1日)。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、東京23区を除けば全国で京都市のみである。都市圏としては、京都府・滋賀県などに広がる京都都市圏 および京滋の中核であるとともに、大阪市を中心とした京阪神大都市圏(近畿大都市圏)の一角を担う。都市雇用圏の基準では、京都都市圏の人口は280万人で京都府より多く、東京都市圏、大阪都市圏、名古屋都市圏に次ぐ日本第4位の規模である。",
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"text": "794年(延暦13年)に日本の首都になった平安京を基礎とする都市で、1869年(明治2年)に明治天皇が東京行幸(東京奠都)するまでの約1080年に渡って皇室および公家が集住したため「千年の都」との雅称で呼ばれる。現代でも京都市では双京構想を掲げている(首都に関する議論は「日本の首都」を参照)。平安時代、室町時代の室町幕府期には日本の政治が執り行われた中心地であり、鎌倉時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の幕末期などにおいても、日本の政治の中心の一つとして大きな役割を果たした。",
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"text": "平安時代から江戸時代前期までは日本最大の都市であり、その市街地は「京中」、鎌倉時代以降は「洛中」と呼ばれ、都市としては「京」「京の都」「京都」と呼ばれた。江戸時代には三都(江戸・大坂・京)、明治期には三市(東京市・大阪市・京都市)、大正期以降は六大都市(東京市・横浜市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市)の各々の一角を占め、第二次世界大戦後には政令指定都市になった。このような中で都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内流通が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣した。その伝統は現在も伝統工芸として残っているのみならず、京セラや島津製作所、オムロン、ニデック(旧 日本電産)など先端技術を持つ企業をはじめ、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つである。日本初の水力発電所である蹴上発電所を備えた琵琶湖疏水や、日本初の電車営業を行なった京都電気鉄道(後の京都市電、現在は廃止)を開業させるなど、明治以降の近代化にも積極的であった。",
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"text": "第二次世界大戦の戦災被害を免れた神社仏閣、古い史跡、町並みが数多く存在し、宗教・貴族・武家・庶民などの様々な歴史的文化や祭りが残る。その特徴により文化庁が設置され、文化首都を標榜する。国内外の観光客が訪れる観光都市として国際観光文化都市に指定されている。旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧帝国大学の京都大学をはじめとする多数の大学が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の学生街・学園都市ともなっている。",
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"text": "京都府の南部に位置する内陸都市で、市内を賀茂川(途中で高野川と合流して鴨川と名前を変える)、桂川、宇治川などが流れる。政令指定都市および日本の百万都市では唯一、盆地に位置している。",
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"text": "四条河原町(四条通と河原町通の交差点付近)は京都で最大の繁華街であり、歓楽街の祇園やビジネス街の四条烏丸と隣接している。ターミナル駅の京都駅は市街地南部の七条通と八条通の間に位置しており、四条河原町や四条烏丸などの市内中心部からは離れている。",
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"text": "滋賀県の県庁所在地である大津市に隣接しており、都道府県庁間は京都府と滋賀県が全国で最も短い。東海道本線(琵琶湖線)の京都駅と大津駅は2駅10分の近さであり、京都市外から市内への通勤者は大津市が最も多い。",
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"text": "森林が市域の4分の3を覆い、市内には日本で最も高い木が生える。",
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"text": "京都盆地(山城盆地)に位置しているため、太平洋側気候、日本海側気候、瀬戸内海式気候、内陸性気候のそれぞれを併せ持ち、夏と冬、昼と夜とで温度差が大きい。「京の底冷え」と言われるように冬の寒さは厳しい印象があるが、主要都市や関西の中でも取り立てて低温ではなく、京都地方気象台(中京区西ノ京笠殿町)のある中心街はヒートアイランド現象が顕著になり、かつてのような底冷えにはならない。最寒月(1月)の平均気温は4.8°C、平年最低気温は1.5°Cであり、関西では大阪市、神戸市、和歌山市よりは低いものの、奈良市や大津市よりは高い。ただし市内でも郊外は中心部に比べて寒さは厳しく、特に同じ盆地内でも北の方ほど寒く、市内中心部では降雪がなくても左京区の岩倉や大原、北区の原谷などでは積雪や氷点下となっていることがある。北部の山間部(旧京北町など)は日本海側気候の影響もあり、冬季の1.0mm以上の降水日数が京都市街地の2倍以上となり、雪の日も市街地より多くて寒さが厳しい。市街地では積雪しても数cm程度のことが多い。2015年元日から1月3日にかけては大雪に見舞われ、61年ぶりとなる22cmの積雪を記録した。市中心部より南にある伏見区ではさらに雪が少ない。夏は暑さが大変厳しい。特に日中の気温が非常に上がり易く、39°C台の記録も多数ある。2018年7月19日には過去最高気温に並ぶ39.8°Cを記録した。熱帯夜日数は27.2日となっており、名古屋市(25.6日)より若干多いが大阪市(41.5日)や神戸市(46.8日)よりは少ない。",
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"text": "同じ京都市内といえども、北部の山間部と南部の市街地では分けて考える必要がある。市街地に限れば、年間を通して大阪市よりやや気温が低く雨量は多く、名古屋市とは気温は同程度で雨量はやや少ない、という程度の気候である。ただ、市街地(市中心部)も丹波高地の影響を受けて太平洋側気候と日本海側気候の境目で他の近畿地方の主要都市よりも不安定で、夏は大気の不安定さや湿った空気、冬は日本海からの雨雲や雪雲などで曇りがちで、特に夏場は瀬戸内海からの風と伊勢湾からの風、若狭湾からの風がぶつかる影響で頻繁に夕立になる事が多い。京都人はこれらの夕立を「丹波太郎」「山城治郎」と呼んでいる。京都の夏季(5、6、7、8、9月)における平均雷日数は15.9日で、奈良の17.2日や豊岡(兵庫県)の16.9日と比べると少ないものの、彦根(滋賀県)の14.6日より多い。",
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"text": "平安京は、平安中期の漢文学においてしばしば「洛陽」「長安城」「洛城」として現れる。いずれも「平安城」に代わる文学上の雅称と考えられる。のちに唐が西の長安を首都、東の洛陽を副都としたのを意識し、朱雀大路の西(右京)を長安、東(左京)を洛陽と称したとする認識が生まれた。その後、低湿地であった右京南部が寂れ、市街地が左京に偏っていっため、洛陽すなわち「洛」が京都の代名詞となっていった。",
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"text": "たとえば、近世に多く描かれた屏風絵に京都の中心部と郊外を表した「洛中洛外図」というものがある。現在でも京都市内の地域名として以下のようなものがある。行政や観光ガイドでもよく使われるが厳密な区分はない。",
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"text": "上記が大まかな地域名であるのに対して、行政区よりも細かい地域単位として、明治時代に導入された小学校区(学区)による地域名も、生活に密着した地域単位として使われる(詳細は京都の元学区を参照のこと)。",
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"text": "政令指定都市では唯一「住居表示に関する法律」に基づく住居表示を採用しておらず、市中心部の町では近世からの形と名称が継承されており、周縁部においては京都市への編入前の旧町村名や大字・小字が町名に用いられている(例:旧田中村字門前→左京区田中門前町)。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "詳細は",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "を参照のこと。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "また、明治中期の市制施行時から京都市内であった町名を住所(所在地)として示す場合、行政区名と町名の間に通り名と方向表示を入れたものが公的な表記として用いられる(例:「中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地」)。近世からの姿を引き継ぐ市内中心部の町には同名の組み合わせが少なくない数あり、古くから用いられるこの通り名と方向表示による住所の表記により識別される。このように町名だけで場所を特定することが困難な市内中心部では町名が地名としては用いられず、交差する通りの名称を組み合わせた名称の交差点名が、周辺一帯の地名としても用いられる(例:「四条河原町」)。(→「#市内の街路」「京都市内の通り」を参照のこと)",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "京都市は11の行政区より構成される(地理的位置順)。 区名の読みと、設置年は以下の通り(自治体コード順)。京都市設置当初は上京区・下京区の2区だったが、数度の分区や合併を経て1976年(昭和51年)に現在の11区が揃った。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "京都市の人口は、国勢調査では1920年の第1回調査で神戸市に次ぐ全国4位になり、三都の一角、東京市・大阪市に次ぐ全国3位という状況は終焉を迎えた。神戸市とは同程度で推移するものの、名古屋市が台頭したため、戦前を通じて全国4位・5位という状況が続いた。1930年の第3回調査の後、1931年に大規模な市域拡張を実施して名古屋市を抜き返し、1932年に3番目の百万都市となったものの、1934年に4番目の百万都市となった名古屋市に1935年の第4回調査で再び抜き返されるという一幕もあった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "戦災被害が六大都市の中で最少だったことから、1945年11月の人口調査および1947年の第6回調査と1950年の第7回調査で全国3位になったが、それは一時的なものに過ぎず、1955年の第8回調査では名古屋市に次ぐ全国4位、1960年の第9回調査では横浜市に次ぐ全国5位になった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "他の大都市や一部の中小都市にみられるような、戦中・戦後における人口の急減・急増がなかったのが京都市の特徴であった。その後も1970年代から2010年代に至るまで、都市部にもかかわらず人口が147万人程度を推移し続け、人口の大きな増減がなかった。この間、1983年に札幌市、2011年に福岡市、2015年に川崎市に抜かれた。また、戦前は同程度で推移し、戦後は甚大な戦災被害による激減から回復してきた神戸市に1990年の第15回調査で抜かれ、2000年代以降は抜き返せない状況にある。結果、全国9位にまで落ちたが、昼間人口では川崎市・神戸市を上回っている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2015年の第20回調査から2020年の第21回調査の人口増減を見ると、0.8%減の1,463,723人であり、増減率は府下26市町村中7位。区別では最高が2.0%増の南区、最低が6.3%減の東山区。将来推計人口によれば、今後は減少し2045年に130万人を割り込むと予測されている。2023年11月1日現在の人口は1,443,368人。コロナ禍の2020年と2021年は2年連続で1年間に最も人口が減少した市となった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "幕末に再び政治の中心地となった京都は人口が膨れ上がり、かつてない活況を見せたものの、禁門の変などで街の多くが焼けたのに加え、明治維新後に皇室・公家の大半が東京へ移り住んだため、一転急速な衰退を見せた。江戸時代は「三都」と呼ばれ、享保14年(1729年)には374,000人、明和3年(1766年)に318,000人の人口を誇る江戸・大坂に次ぐ都会であったが、明治維新後の1873年(明治6年)には238,000人までその人口が落ち込んだ程である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "そのため、京都府知事(市制施行当初は京都市長も兼任)などから産業の振興を呼びかける声が上がり、京都府に復興の顧問として迎え入れられた山本覚馬は京都を何とかして復興させようとある計画を立ち上げる。それは1867年にパリで行われた当時世界最大のイベント「パリ万国博覧会」をヒントにした博覧会を京都で開催するというものであった。そのため、政府に嘆願し、外国人の居留地からの移動制限を博覧会の期間のみ解除することを許され、京都に外国人を迎え入れられるようにした。そして西本願寺・知恩院・建仁寺を会場に「第一回京都博覧会」を開催し、京都の復興の足がかりを作った。前年の明治4年10月10日〜11月11日(1871年11月22日〜12月22日)には日本初の博覧会が民間により西本願寺で開かれている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "また田邉朔郎による琵琶湖疏水の建設と、疏水を用いた日本初の水力発電、さらにその電力を用いた日本初の電車運転(京都電気鉄道、後の京都市電)などの先進的な施策が実行された。人口は明治時代中期以降しばらく、毎年1万の増加を見せるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "人口の増加と市街地の拡大に対応し、明治末期から道路拡築および市電敷設、第二疏水開削、上水道整備からなる「京都市三大事業」が行われた。それに続く形で市区改正道路(都市計画道路)事業と市電の敷設が進められ、昭和初期には伏見市(現在の伏見区中心部)など周辺の市町村を編入し、ほどなくして人口は100万人を超えた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦中、六大都市(東京都区部と五大都市)の中では、空襲の大きな被害を受けなかったこともあり、日本の都市としては珍しく戦前からの建造物が比較的多く残されている。これは歴史遺産保護のために大規模空爆を受けなかったという説がある一方、広島市や小倉市(現在の北九州市小倉北区・小倉南区)・新潟市などと共に原子爆弾の投下候補都市と位置付けられており、その兵器の効力を知るためにアメリカ軍が最後まで街を温存したという説が存在する(都市選定の経過については日本への原子爆弾投下を参照)。なお、京都市が全く空襲を受けなかったわけではなく、1945年(昭和20年)1月16日から6月26日にかけて、5回の空襲を受けている(京都空襲)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "戦災による人口減は六大都市のうち最少で、1947年(昭和22年)と1950年(昭和25年)の国勢調査では東京都区部、大阪市に次いで京都市が全国3位となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "財政は、2008年(平成20年)7月23日に門川大作市長が同市の都市経営戦略会議で2011年度の実質赤字比率が推計で27%に達する見通しを発表し、財政再建団体への転落を示唆した。行財政改革により2010年度から黒字が続いたが、2020年、基金が2026年度に払底し2028年度に財政再生団体に指定される財政破綻の恐れがあることを公表した。しかし2022年、税収や国からの地方交付税が大幅に伸びたことから、一般財源の収支均衡を22年ぶりに達成。市長は財政破綻はしないと言明した。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "京都市は日本有数の歴史的都市であるにもかかわらず、20世紀末から財政状態の不健全性が指摘されている。要因として、少ない税収(住民税)、市営交通の敬老パス費用や地下鉄建設費の増加、300種類以上の借入金などが挙げられる。なお2022年時点で市職員給与のラスパイレス指数は国家公務員を下回る。また京都市の人口構成の特徴として学生である20代前半の比率が高いことが挙げられるが、学生は非労働力人口であることも影響し、総人口に占める納税義務者割合は43.8%と政令市平均(48.4%)よりも低く、全政令市中で最下位レベルであることも財政悪化の原因の一つとなっている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "他の自治体との比較では、1人当たりの債務に着目して作成されたランキングで全国の自治体のうち2021年度末にワースト7位とする例などがある。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "京都市の公式サイト「京都市情報館」の外郭色は紫である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "京都市では慣例により市議会を市会と呼称する。これは大阪、神戸、横浜、名古屋の各市でも同様である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "議員定数は67人である。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "※ 2020年(令和2年)6月8日現在。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "京都市は、第二次世界大戦後になると社会の変化や経済優先の政策、モダニズム建築の台頭により徐々に伝統の景観が破壊され、これに対して景観論争がたびたび起こっている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)に建造された京都タワーは、京都の「第1次景観論争」を引き起こした。また1970年代の経済成長期には、風致地区や美観地区など戦前から継続的になされている景観保護の施策があるにもかかわらず、1950年(昭和25年)に制定された建築基準法により伝統工法が違法となったほか、バブル期には多くの建て替えにより京町家による街並みが徐々に壊されていった。これは「第2次景観論争」といわれている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "山並みも京都の都市景観の重要な要素である。山間地での開発は概ね抑制されているが、1990年代には市内の高層建築によって山への眺望景観が阻害されることになった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2004年の景観法制定により、これまでの景観条例に実効性・強制力を持たせることが可能となり、2007年には新しい景観政策が施行された。新しい景観政策では、建造物の高さ、デザイン、色などの規制がより強化された。中心市街地でも、建てられる建造物の高さは幹線道路沿いで最大31メートル、それ以外の職住共存地区では最大15メートルとなった。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "市街地のほぼ全域に指定されている景観地区では、その地域ごとにデザインの規制がされ、厳しい地区では屋根の形状が「切妻、寄棟、入母屋」であること、屋根の葺き方が「日本瓦又は銅板」であること、屋根の勾配の比率が一定以上一定以下であることなどのかなり具体的な規制に服することになる。建築物を建築など(増改築を含む)する際には、こうした具体的な基準に適合しているかどうか、市長の認定を受けなければならない。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "また、眺望景観保全地域として、東寺、清水寺などからの境内の眺めや、円通寺などからの庭園の眺め、鴨川からの大文字の眺めなど、38箇所からの眺望を指定し、その周辺をデザイン保全区域として、標高規制やデザインの規制がされる。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "広告物についても、屋上広告物や点滅式照明は市内全域で禁止されているほか、都市景観を乱す恐れのある派手な広告看板は地域によって使える色や大きさが規制されている。日本全国に展開するチェーン店鋪の看板も、鮮やかなコーポレートカラーの使用を控え、他の地域とは異なる比較的地味な配色を採用する事例が多い。一例として、飲食チェーンではマクドナルドやすき家は他地域で紅系統を使用しているが、市内では赤褐色を使用している。小売店では、市内のローソンの一部では看板の青地の表示面積を少なくしているほか、ガソリンスタンドのENEOSは赤系統が採用された店舗用ロゴタイプを使用していない。金融機関では、メガバンクの三菱UFJ銀行やみずほ銀行では本来の地色を使用せず、白地にそれぞれのコーポレートカラーの文字色を配したものを使用している。しかし改修費用の問題もあり、一部に違反状態が残る。屋外広告物条例は2014年9月に経過措置期間が終了し完全施行された。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、重要伝統的建造物群保存地区をはじめとして市内には木造建築物や細街路が多い。そのための防火対策が進められ、年間の火災発生は200件台で人口当たり件数が全国平均より少ない。火災未満の事象も京都市消防局では無損事故として取り扱い、防火活動に役立てられている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "日本国内の自治体との間で各種の交流を行い、協定を結んでいる。次に示すほか、複数の自治体の間で交流を謳った共同宣言に、龍馬の絆で結ぶ都市間交流宣言(2014年)と西郷菊次郎翁を縁とした交流宣言(2018年)がある。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "姉妹都市やパートナーシティの提携を自治体間で結び、諸分野で交流が進められている。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "関西広域連合、全国京都会議、イクレイ、世界歴史都市連盟などの自治体の連携組織に参加している。",
"title": "政治"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "市内には文化庁、京都迎賓館、近畿農政局などの行政機関がある。主な国家機関などは以下の通り。",
"title": "官公庁・施設"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2018年(平成30年)度の市内総生産(名目)は6兆6292億円で京都府のおよそ3分の2の規模に当たる。ドルで換算すると約600億ドルであり、ミャンマーのGDPに相当する。市民所得は4兆6694億円、一人当たり318万円である。最大の産業は製造業(工業)であり、市内総生産の経済活動別シェアは製造業、不動産業、卸売・小売業、保健衛生・社会事業、専門・科学技術・業務支援サービス業の順に大きい。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "伝統的な京野菜や全国的に有名な宇治茶などの生産が行われる。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "任天堂・ニデック・島津製作所・オムロンなどの精密機械や医療器具の生産が盛んである。南区と伏見区にまたがる高度集積地区らくなん進都などへの集積誘導がなされている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "かつて京焼・清水焼などの伝統的工芸品の生産が盛んであった。山科区に清水焼団地がある。 近年はキャンパスプラザ京都や京都リサーチパークと産官学連携で研究・開発を行い、碍子やセラミックス・セラミックファイバーの生産へ転換し、関西電力などの電力会社や京セラなどのファインセラミック企業と提携していく動きが盛んである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "以前より緩和されてはいるが、京都における老舗や伝統的な商店を守るため大規模店舗の出店が旧市街地においては厳しく制限されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "京都市は、多くの大学が立地する学生の街でもあり、産官学連携が行われているベンチャー企業の街・スタートアップの街としても注目されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "京都市の電力供給は関西電力(関電)の営業区域となっている。なお、京都市役所は一部PPSのエネットから買電した電力も使用している。市内には零細な発電設備しか存在せず、従来の琵琶湖疎水系の水力 (関西電力管理) に南部地域の中小新規の発電設備を含めても、市内発電による2021年度の供給電力量の割合は0.54%未満である。ほぼすべての消費電力は関西電力と関連企業などによって、京都府以外の近畿各府県と長野県(大町)、富山県(立山黒部)、岐阜県(飛騨)、福井県(若狭敦賀)などから発送電されている。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "京都市内には関西電力の6箇所の水力発電所がある。これらは琵琶湖疏水にあり、かつて京都市直営により運営されていた蹴上 (4,500 kW)・夷川 (300 kW)・墨染 (2,200 kW) の各発電所と、京都電燈により設置され、後に京都市に移管された鞍馬川の洛北発電所 (450 kW)・清滝川の清滝発電所 (250 kW)・栂ノ尾発電所 (750 kW) が、日中戦争以降の電力国家管理政策「配電統制令」(昭和16年8月30日勅令第832号)により関西配電(のちの関電)に京都市内の送電設備と共に現物出資されたもので、これが京都市が現在も関西電力の株式419万株を保有する株主の理由でもある。このほか、京都電燈により設置されたものとして、旧京北町桂川上流部の黒田発電所 (980 kW) がある(発電所の名称とカッコ内の発電出力は2015年現在のもの)。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "関電以外にも京都嵐山保勝会が2005年嵐山渡月橋上流部に出力 5.5KW の小型水力発電機を設置、夜間「渡月橋周辺」をLED照明で照らし、余剰電力は関西電力に売却している。2013年度には修学院音羽谷の砂防ダム・蹴上インクライン横の放水路・嵯峨越畑の農業用水の3箇所の小水力発電所の建設 が計画されていたが、2020年4月現在、未だに設置されては無い。その代わり石田水環境保全センターに定格出力9kW・発電実績81,480kwh(令和元年度)の小水力発電機が稼働している。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "京都市では、国の一般家庭への太陽光発電パネル設置の補助金 1 kW 当たり3万〜3万5千円にプラスして 1 kW あたり2万円補助金を独自に出しているほか、市内の浄水場・下水処理場、青少年科学センター、魚アラリサイクルセンターなど公共施設・市内公立小中学校の増改築時 に太陽光発電パネルを設置している。これらは大規模災害時の非常用電源としても考えられている。さらに2013年度から新山科浄水場と鳥羽下水処理場に1MW、松ヶ崎浄水場に730kW、石田下水処理場に1MWの設備が順次整備された。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "また、市民から出資を得て京都市の施設の屋上に太陽光発電パネルを設置して売電で得た収益を出資者に配当する「市民協働発電制度」を創設。2012年度から9か所で実施された。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "京都市以外では、NEDO の技術開発機構フィールドテスト事業として1997年にJR東海の京都駅の新幹線ホームの屋根上に 最大出力100kw(平均出力8.5kw)の太陽光発電パネルを設置、1998年8月京セラの新本社の屋上と南壁面 214kw の太陽光発電パネルが設置、1999年京都府営乙訓浄水場の沈殿池の上に 30kw の太陽光発電パネルが設置された。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2012年7月、ソフトバンク関連会社および京セラ関連会社と市の協業により、伏見区内にある市の最終処分場跡地にメガソーラーが設置された。同年9月の設備拡張分と併せた公称出力4.2Mw(平均出力355kw)の出力は京都府内で当時最大だった。2015年には同じ伏見区で最大出力23Mw(平均出力1950kw)のメガソーラーが着工した。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "また京阪電気鉄道は淀車庫の遊休地に土地の有効活用として2016年4月に物流倉庫「淀ロジスティクスヤード」を建設し、その屋上に太陽光発電パネルを設置して年間100万キロワット時(平均出力114kw)の電力量を発電している。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "京都市内3箇所の クリーンセンター(ごみ焼却処理場)は廃棄物発電が行われ最大出力約35,000kwで発電されていて、入札により売電されている。また 伏見水環境保全センター ではガスコージェネレーション設備で発電した電気で汚水の浄化に利用している。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "京都市地域は大阪ガスの供給エリア で天然ガス13Aを京都市内に供給しているが、山科区の清水焼団地は大阪ガスの供給エリアの中にありながら、独自のLPガスの供給網を設備運用している。これは陶器を焼くのにカロリーの高いLPガスの方が大阪ガスの供給する天然ガスより適しているためである。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "上水道普及率(2019年度末現在)",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "琵琶湖疏水からの水を利用する日本初の急速濾過式浄水場「蹴上浄水場」が1912年(明治45年)に完成して2012年で100周年を迎えた。人口と供給面積増加に伴い、山科・九条山・伏見・松ヶ崎・新山科・山ノ内の各浄水場が設置されたが、現在は蹴上・松ヶ崎・新山科の3ヶ所の浄水場に集約された。また蹴上・松ヶ崎・新山科の3浄水場ではソーラーパネルによる太陽光発電が行われていて、2013年10月には新山科浄水場を1000kWまで増設され、2014年度は松ヶ崎浄水場に730kWに増設された。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "ちなみに琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を得ていて、京都市は1947年に『疏水感謝金』の契約を滋賀県と結んだ。これは法的な根拠はない感謝金であり、滋賀県も「山の植林・間伐・林道整備など、水源地となる山の保護事業に使っている」としている。感謝金額の査定は10年ごとに物価変動を考慮して滋賀県と京都市が相談して決定する。2012年当時の契約は消費税が8%になる予定の2013年度末までの『疏水感謝金』は年間2億2千万円が滋賀県へ支払われていた。2015年度から10年間は年間2億3千万円となった。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "一方、市民の節水意識の向上や生活スタイルの変化によって水道使用量は減少し、水道契約世帯の37%が基本料金の使用量10トン以下となっている。また京都市内は伏見をはじめとする「名水の井戸」が数多くあり、水道水を使わず井戸水を使用する宿泊施設 や商業施設・病院などが40事業者もあり、それらの業者にもバックアップ用の大口径水道管が接続されているため収益は無いのに維持費が掛かり9億円の減収となっている。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "配水管約2500kmのうち500kmは法定耐用年数の40年を越えるが、年間の更新は27kmであり、更新がなければ20年後に配水管の7割以上が耐用年数を越えると推定される。2011年10月に洛西ニュータウンで大規模な断水事故も起きていて、早急な対策が必要とされる。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "このほか左京区大原地区では地元の河川を利用した水道が設置され、2005年4月に右京区に編入された旧京北町では、独自の上水道が整備されていたが、京都市編入後は2011年11月より黒田・弓削の2つの浄水場が稼動を開始した。西京区京都大学桂キャンパス側に府の乙訓浄水場(保津川嵐山付近より取水)があり、向日市・長岡京市・大山崎町へ供給している。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "下水道普及率(2019年度末現在)",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "京都市内の下水道網は、ほぼ全域をカバーしているが、初期に造られた下水道を中心に市内40パーセントで雨水と汚水を一緒に流す合流式で、大雨になると下水道から河川に雨水を放流する放流口が83箇所もあり、このときに汚水が未処理のまま河川に流れ出し悪臭や環境汚染が堀川や西高瀬川などで問題になり、1980年代より大雨時に水を溜めて下水処理場へ送る貯水幹線が堀川通や五条通の地下に整備された。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "こうして集められた汚水は桂川東岸・宇治川北岸までが京都市上下水道局の鳥羽・伏見・石田に有る3つの水環境保全センター(下水処理場)と鳥羽水環境保全センター吉祥院支所で、桂川西岸は京都府の「洛西浄化センター」(京都市伏見区と大山崎町に跨る)・宇治川南岸は同「洛南浄化センター」(八幡市)で処理されて淀川水系へ放流され、旧京北町地区は京北浄化センターで処理されて桂川上流部へ放流される。なお京都市山科区の上流部の滋賀県大津市藤尾地区・醍醐小栗栖地区の下水道管が通過する宇治市の六地蔵地区の一部の汚水も、京都市上下水道局の石田水環境保全センターで下水処理されている。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "淀川下流では、大阪府下全域と兵庫県の阪神地区で再度浄水として使用されているため、BOD は国の基準・水1Lあたり 20mgを下回る 3mg前後まで浄化され、旧京北町に有る京北浄化センター以外は、通常の下水処理に加えて窒素・リンを取り除く高度処理が行われ、さらに鳥羽水環境保全センター吉祥院支所・伏見水環境保全センターでは友禅染などの作業所から出る染料の色素を除去するためにオゾン処理を導入している。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "省エネ対策として過去・昭和17年~25年ごろに下水処理で発生する消化ガスのメタンを利用して、市公用車や市バスを走らせたり、ゴミ処理場で廃棄物発電の電力や熱を利用するなどしていた。現在は最大の下水処理場「鳥羽水環境保全センター」では、処理施設の上部に 1000kW の太陽光発電パネルを設置して2013年度より太陽光発電を導入。石田水環境保全センターでは隣接するゴミ処理場からの廃棄物発電の電気による施設内の電力供給と余熱での汚泥の乾燥減量化していたが、ゴミ処理場の老朽化で2013年2月で休止されたため、2015年度に1000kW太陽光発電パネルが設置され、排水時には9KWの小水力発電が行われている。伏見水環境保全センターではガスコージェネレーション設備を導入して自家発電による施設内の電力供給と余熱による汚泥の乾燥減量化を行っている。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2013年4月現在、京都市のごみ収集は有料で一般ゴミは黄色の専用ゴミ袋を市内のコンビニ・スーパーマーケット・小売店で購入し、それにゴミを入れてごみ収集指定日に道路上の指定場所に出す。これらのゴミ袋は5リットル・10リットル・20リットル・30リットル・45リットルの6種類が用意されている。なお一般ゴミは市内3ヶ所の「クリーンセンター(ごみ焼却処理場)」で焼却されこの熱を利用して廃棄物発電が行われていて入札により売電されている。焼却灰は伏見区醍醐に有る最終処分場「エコランド音羽の杜」に埋め立てられる。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "ビン・カン・ペットボトルとプラスティックトレイ・プラ包装材は資源ゴミは透明の専用ゴミ袋の使用が義務付けられていて、それぞれ週1回資源ゴミ専用指定場所に出すことになっている。ビン・カン・ペットボトルは伏見区横大路に有る「南部クリーンセンター」に隣接する知的障害者対象就労継続支援B型事業所『京都市横大路福祉工場』でアルミ缶・スチール缶・ペットボトルに分別されリサイクル業者に払い下げられる。プラスティックトレイ・プラ包装材は知的障害者対象生活介護事業所『京都市横大路学園』でプラスティックトレイ・プラ包装材に分別されリサイクル業者に払い下げられる。 また横大路地区には業務用廃棄物の「魚アラリサイクルセンター」が有り魚粉飼料に加工され、市民や業務用から集められた「使用済みテンプラ油」のバイオディーゼル燃料に加工する工場も有り、加工された燃料は一部のゴミ収集車に使用されている。古紙類の回収は民間の古紙回収業者が充実しているなどとして、京都市としてリサイクルを行っておらず、このため市民は独自に民間の古紙回収業者を頼るか、燃えるごみとして出す必要がある。ただし地域での自主的な集団回収に毎年最大10000円(古紙類のみを回収する場合。その他の品目も回収する場合は最大15000円)の助成金を交付している。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "市外局番は、大部分の地域は「075」(京都MA)。ただし、右京区嵯峨樒原、嵯峨越畑では「0771」(亀岡MA)。京北室谷町では「0771」(園部MA)。伏見区醍醐一ノ切町、二ノ切町および三ノ切町では「077」(大津MA)。西京区大原野出灰町では「072」(茨木MA)。京北室谷町を除く旧京北町域は京都市への編入後、2011年12月1日をもって「0771」(亀岡MA)から「075」(京都MA)へと変更された。",
"title": "情報・生活"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "京都市には40校を超える大学・短期大学のキャンパスがあり、多様な高等教育機関が集積する学生のまちとしても知られている。大学相互の結びつきを深め、また、経済界との連携を強めるため設立された日本最大の大学間連携組織、大学コンソーシアム京都があるのも特徴的である。2003年(平成15年)以降、毎年10月上旬に京都学生祭典が開催されている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "この他、アメリカの大学も積極的に京都で活動を行っている。1989年(平成元年)9月に設立された京都アメリカ大学コンソーシアム(Kyoto Consortium for Japanese Studies、略称:KCJS)は、アメリカの13大学 からなる組織であり、日本研究を志すアメリカの大学生が毎年約40~50名来日している。また、スタンフォード大学は、KCJSに参加すると共にスタンフォード日本センターを同志社大学今出川キャンパスに設置している。大学共同利用機関法人として国際日本文化研究センターと総合地球環境学研究所がある。また、2015年9月に京都市と公益財団法人大学コンソーシアム京都の協働により京都学生広報部が創設され、京都での学生生活の魅力をPRしている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "近畿圏各地からは出発地によってJR・私鉄各線を使い分けるが、京都駅周辺はJR・近鉄、四条河原町周辺は阪急・京阪のターミナルと、主に二箇所に分散している。また京都市内を発着地とする中長距離バス路線は、多くが京都駅をターミナルとしている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "東海道新幹線・山陽新幹線沿線からは、大阪市内や神戸市内と比べて近畿三空港との距離が離れている(最も近い伊丹空港から京都駅までリムジンバスで約50分)。その一方、東海道新幹線で名古屋以西を走る全ての列車(「のぞみ」を含む)が京都駅に停車することから、新幹線が航空機に対して圧倒的に優位に立っている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "京都府内に空港は存在しないが、かつてはIATA都市コード UKY が設定されていたほか、空港外のチェックイン施設(シティエアターミナル、CAT)が設置されていたこともある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "京都駅が事実上の中央駅として機能している。なお、京阪および阪急の路線は京都駅を通っていないが、両者とも市内のターミナル機能は複数の駅に分散しており(京阪は出町柳駅・三条駅・祇園四条駅、阪急は京都河原町駅・烏丸駅)、中心駅と呼べる存在の駅はない。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "市域には、事実上の同一駅や近隣に接する駅の場合でも運営社局によって駅名が相違している事例がいくつかある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ICカード乗車券はJR西日本ではICOCAおよび相互利用カード(ICOCAの項を参照。電子マネー機能はPiTaPaは利用不可)、嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線では PiTaPa・ICOCAおよび相互利用カードが利用可能(嵐電は専用の「らんでんカード」がある)。また、JR西日本各線および近鉄線ではJスルーカード(現在は自動券売機でのみ対応)、叡電・嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線ではスルッとKANSAIカードに対応している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "京都市を構成する11区の主要駅は以下の通り。様々な利用の起点・目的点として代表される駅である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "市内の移動は路線バスがメインとなる。観光シーズンになると積み残しが続出する状況のルートもあり、渋滞が悪化して所要時間が読めなくなることから、鉄道各社線との乗り継ぎ利用でそれらのリスクを最小限に抑える利用方法が推奨されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "京都市交通局(市バス)・京阪グループ・阪急バス・西日本ジェイアールバスなどとの間では、従来より回数券の共通化を行っており、地下鉄割引券込みの物も販売されていた。現在では、ICカードなどで市バス・京都バス・地下鉄の乗継割引が行われる。市バス・京都バス(それぞれ一部路線除く)および地下鉄全線が乗り放題の「地下鉄・バス一日(二日)券」が発売されている(他にも市バス・京都バスの均一区間専用の「バス一日券」、市外発の市内各線フリーきっぷ込みの割引きっぷ類などもあり)。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "運行地域は、市バスが旧市街地中心で、京阪京都交通は西京区、および西京区・亀岡方面から旧市街地への乗り入れ、京都バスが右京区嵯峨地区と左京区岩倉・鞍馬・大原地区および両方面から旧市街地への乗り入れ、京阪バスが山科区と伏見区醍醐および両方面から旧市街地への乗り入れと比叡山方面、阪急バスが西京区(洛西ニュータウン)、西日本JRバスが旧京北町および北区小野郷・中川地区、右京区梅ケ畑地区から旧市街地への乗り入れとなっているが、一部競合区間が存在する。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "この他に、伏見区向島地区を運行する近鉄バス、西京区(桂坂ニュータウン・洛西ニュータウン)を運行するヤサカバス、京都女子大学と京都駅八条口・四条河原町を結ぶプリンセスラインバス、旧京北町を中心に運行する京北ふるさとバス、京都駅とらくなん進都内を巡回する京都らくなんエクスプレス、旧京北町と南丹市を結ぶ南丹市営バス、北大路駅と北区雲ケ畑地区を結ぶ雲ケ畑バスなどがある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "乗車方法は主に後乗り前降り後払いで、運賃は旧市街地周辺は均一制(主に230円)。均一区間外は整理券による区間制となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "均一運賃区間の境界バス停",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "京都駅と名古屋駅を結ぶ名神ハイウェイバスや、首都圏などと京都を含む京阪神地区を結ぶ多くの高速路線バス、ツアー形式の貸切バス(ツアーバス)が運行されている。京都市内を発着地とする高速バス路線の多くは京都駅をターミナルとしている。詳しくは京都駅の高速バス欄を参照。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "また大阪市内を発着地として名神高速道路を経由するバス路線のうち、京都駅に発着しない路線では、伏見区の深草バスストップ(京都深草)を京都の玄関口と位置づけているものがある。詳しくは当該項目を参照。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "駐輪スペースを確保できれば、自転車や原付含む自動二輪の方が柔軟な移動ができる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "近年、地球温暖化防止の観点から見直されたこともあってレンタサイクルが急増しており、宿泊客に対してこれらの便宜をはかる宿泊施設も増加している。また、ベロタクシーの日本発祥の地でもある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "(越境路線のみ記載)",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "旧市街地では、平安京造成時の都市計画の名残で、東西・南北に通じる街路をもってあたかも碁盤の目状に区切られており、街路はすべて固有の名称がある。 なお、街路名に付される「通り」の送り仮名「り」は付けないのが通例である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "市内の中心部など旧市街地では、街路(通り)の名称が場所を表すために用いられる。また、多くの交差点名が交差する通り名を合成したものとなっており場所を示す地名として通用している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "主に碁盤の目状に区切られた街路を持つ地域では、街路名の交差とその地点からの東西南北を指すことによって位置を示す方法が一般的に用いられる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "先ず当該地が面している街路名を示し、次にその街路と直近で交差する街路名を示したうえ、その交差点から見た当該地の位置を東西南北で示す。北に向かう場合は上ル/上る(あがる)、南へは下ル/下る(さがる)、東西に向かう場合はそれぞれ東入(ひがしいる)、西入(にしいる)と表記する。 交差点と交差点のちょうど中間地点では、どちらの交差点を基準とするかによって二通りの表記が可能である。また、原則では近い方の交差点を基準とするものの、大通りなどの大きな交差点がある場合はそれを優先することもある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "この表記は、公的な住所(所在地)にも含まれる。一例をあげると、京都市役所の所在地は「京都市中京区寺町通御池上ル(公的には「上る」) 上本能寺前町488番地」となり、寺町通に面し御池通から北に向かった地点を「寺町通御池上ル」で表し、その後ろに町名の「上本能寺前町」と番地を示す。なお、この表記方法は1889年(明治22年)の市制施行時から市域であった場所の大部分 において、住民基本台帳や不動産登記などにおける公的な表記として用いられるものである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "一方、公的な表記ではない場合、町名や番地は省略し、街路名と方向のみにより表記することが通例であるが、近年、街路名と方向による伝統的な表記では、インターネットの地図サイトやカーナビゲーションで検索できないという理由で、街路名を含まない町名と番地だけで住所を表記する事例も増えている。 しかし町域が狭く、膨大な数の町名がある京都では、町名と番地だけの表記では直感的な場所の把握が困難である。例えば、「四条河原町」交差点周辺は繁華街として知られているが、町名の「下京区真町」では理解しづらい。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "また、同一区内に多数組の同一町名が存在し、町名のみで場所を特定できないことも多い。例えば中京区内に「亀屋町」は5箇所あり、さらには下京区にも2箇所、上京区にも4箇所ある。このような同一町名は中京区内だけでも32組もある。これらは一つの町の飛び地ではなく、関係のないまったく別の町である。ただし、同じ町名でもそれぞれ郵便番号が異なるため、7桁の郵便番号を記載すれば、街路名がなくとも郵便物は配達される。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "交差点の名称は、交差する2つの街路名を合成したものが用いられることが多い。どちらの通りを先に呼称しても意味は通じるが、多くの場合どちらかの通りを先に呼ぶものが固有名詞化している。たとえば「四条河原町」と「河原町四条」は同一地点を指すが「四条河原町」と呼ばれ、交差点やバス停の名称も「四条河原町」である。ただし、どちらの通りを先に呼称するかについて定説は無く、道路上の交差点名の表記では「五条大宮」である一方、バス停の名称は「大宮五条」であるなど不一致がみられる例もある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "一方で、街路名を由来としない交差点名も少なくない。一例として、四条通と東大路通の交差点は「祇園」、西大路通と丸太町通の交差点は「円町」、今出川通と東大路通の交差点は「百万遍」と呼称しているが、これは都市計画による新たな街路が敷設された場合に、交差点名として伝統的な地名を採用したものが多い。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "市内に観光地が散在し、2000年以降は年間4〜5千万人台の観光客が訪れる。2020年(令和2年)の通勤通学目的以外の宿泊客数は531万人、うち外国人宿泊者数は45万人だった。近年は英米の旅行情報誌などで旅行先としての認知が進む。国際会議の開催も日本国内では東京に次いで多く、国際会議観光都市に指定されている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "観光大使の任命などを内容とする京都観光サポーター制度が京都市により実施されている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "相互協力団体として「京都市内博物館施設連絡協議会」があり、市内の博物館・美術館などのうち約200館で組織している。また、比較的大規模で公立の4館が「京都ミュージアムズ・フォー」の名で連携事業を行っている。",
"title": "観光"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "74品目を京都市は伝統産業として指定し、そのうち経済産業大臣指定伝統的工芸品と17品目が重複、その他から京の手しごと工芸品を選んでいる。",
"title": "文化・名物"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "古くは京都が日本の政治・文化の中心となっていて、第二次世界大戦の戦災から免れたことから、国宝の約20%、重要文化財の約14%が京都市内に存在する。",
"title": "文化・名物"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "1994年(平成6年)に、近隣の宇治市内と滋賀県大津市内に所在するものを含め、17件の文化財が世界遺産に登録された。",
"title": "文化・名物"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "例年行われるイベントには、皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会や全国高等学校駅伝競走大会、京都マラソンなどがあり、ロードレースの陸上競技の人気が比較的高い。日本初の駅伝の記念碑がある。",
"title": "文化・名物"
},
{
"paragraph_id": 117,
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"text": "また、トップアスリートや優秀な指導者などのスポーツ関係者に対して、京都市スポーツ賞や京都スポーツの殿堂による表彰が行われている。殿堂入りの人数では野球やラグビー関係者が多い。",
"title": "文化・名物"
},
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"paragraph_id": 118,
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"text": "スポーツに関する神社もあり、白峯神宮や下鴨神社の雑太社などが挙げられる。",
"title": "文化・名物"
}
] | 京都市は、京都府南部にある市。京都府の府庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。市域は11の行政区から成り、人口約144万人。 京都は、794年(延暦13年)の桓武天皇の平安遷都から1869年(明治2年)の明治天皇の東幸までの1075年間に渡って日本の首都であった。千年余りの間、平安時代の国風文化を始めとした日本文化の中心地であり続け、東京奠都後は戦災を逃れた往時の文化財や伝統文化が継承されてきた。この由縁から文化庁が設置され、日本を代表する古都として「千年の都」や「千年余りの都」とも評される。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{日本の市
|自治体名 = 京都市
|画像 = {{multiple image
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|画像の説明 = <table style="width:300px; margin:2px auto; border-collapse:collapse">
<tr><td style="width:40%">[[教王護国寺]]<br>([[東寺]])<td style="width:60%" colspan="2" style="vertical-align:middle;">[[京都駅]]</tr>
<tr><td style="width:32%">[[鹿苑寺]][[金閣]]<td style="width:32%">[[京都御所]]<td style="width:36%">[[慈照寺]][[銀閣]]</tr>
<tr><td style="width:32%">[[清水寺]]<td style="width:32%">[[伏見稲荷大社]]<td style="width:36%">[[先斗町]]と[[舞妓]]</tr>
<tr><td style="width:50%" colspan="2">[[二条城]]<br>([[元離宮二条城]])<td style="width:50%" style="vertical-align:middle;">[[祇園祭]]</tr>
</table>
|市旗 = [[ファイル:Flag of Kyoto City.svg|100px|border|京都市旗]]
|市旗の説明 = 京都市旗
|市章 = [[ファイル:Emblem of Kyoto, Kyoto.svg|65px|京都市章]]
|市章の説明 = 京都市章
|都道府県 = 京都府
|コード = 26100-9
|隣接自治体 = [[宇治市]]、[[長岡京市]]、[[南丹市]]、[[亀岡市]]、[[向日市]]、[[八幡市]]、[[乙訓郡]][[大山崎町]]、[[久世郡]][[久御山町]]<br />[[滋賀県]]:[[大津市]]、[[高島市]]<br />[[大阪府]]:[[高槻市]]、[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]
|木 = {{Flatlist|
*[[シダレヤナギ]]
*[[カエデ|タカオカエデ]]
*[[カツラ (植物)|カツラ]]}}
|花 = {{Flatlist|
*[[ツバキ]]
*[[ツツジ]]
*[[サクラ|サトザクラ]]}}
|シンボル名 = 市の歌<br>自治記念日
|鳥など = [[京都市歌]]<br>[[10月15日]]
|郵便番号 = 604-8571
|所在地 = 京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm2nd_region:JP-26|display=inline,title}}<br />[[ファイル:Kyoto City Hall Main Building 20060117.jpg|220px|京都市役所]]
|外部リンク = {{Official website|name=京都市情報館}}
|位置画像 = {{基礎自治体位置図|26|100|image=Kyoto in Kyoto Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}[[ファイル:政令市区画図_26100.svg|320x320px|京都市行政区画図]]<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=220|frame-height=230|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=35.07|frame-longitude=135.76}}
|特記事項 = 市章:[[1960年]]([[昭和]]35年)[[1月1日]]制定<br />略章:[[1891年]]([[明治]]24年)[[10月2日]]制定
}}
'''京都市'''(きょうとし {{audio|Ja-Kyoto-shi.oga|{{small|地元発音}}|help=no}})は、[[京都府]][[京都府南部地域|南部]]にある[[市]]。京都府の[[都道府県庁所在地|府庁所在地]]及び人口が最多の市で、[[政令指定都市]]である。市域は11の[[行政区]]から成り、人口約144万人。
[[京都]]は、[[794年]]([[延暦]]13年)の[[桓武天皇]]の[[平安遷都]]から[[1869年]]([[明治]]2年)の[[明治天皇]]の[[東幸]]までの1075年間に渡って[[日本の首都]]であった。千年余りの間、[[平安時代]]の[[国風文化]]を始めとした[[日本の文化|日本文化]]の中心地であり続け、[[東京奠都|東京奠都後]]は[[戦災]]を逃れた往時の[[文化財]]や[[伝統文化]]が継承されてきた。この由縁から[[文化庁]]が設置され、日本を代表する古都として「千年の都」や「千年余りの都」とも評される。
== 概要 ==
[[ファイル:好天 (45251921522).jpg|thumb|200px|[[産寧坂]][[重要伝統的建造物群保存地区]]の景観。[[法観寺]]後部には小さく[[京都タワー]]が見える。]]
市域は[[令制国]]で言えば[[山城国]][[葛野郡]]・[[愛宕郡]]・[[紀伊郡]]の全域、山城国[[宇治郡]]・[[乙訓郡]]・[[久世郡]]・[[綴喜郡]]と[[丹波国]][[桑田郡]]の一部に及んでいる<ref group="*">山科区と伏見区東部が山城国宇治郡、西京区大枝・大原野と南区久世(くぜ)・伏見区の一部が乙訓郡、伏見区淀が久世郡、淀のうち美豆が綴喜郡である。左京区広河原・花脊と右京区京北が丹波国桑田郡。</ref>。
京都府で最も人口が多い都市であり、府の人口の{{ #expr: 100*{{自治体人口/京都府|京都市}} / {{自治体人口/京都府|京都府}} round 1}}%を占める({{自治体人口/京都府|date}})。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、[[東京都区部|東京23区]]を除けば全国で京都市のみである。[[都市圏]]としては、京都府・[[滋賀県]]などに広がる[[京都都市圏]]<ref>{{Cite web|和書|title=京都都市圏自治体ネットワーク|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000308453.html|accessdate=2023-04-09}}</ref> および[[京滋]]の中核であるとともに、[[大阪市]]を中心とした[[京阪神|京阪神大都市圏]](近畿大都市圏)の一角を担う。[[都市雇用圏]]の基準では、[[京都都市圏]]の人口は280万人で京都府より多く、[[東京都市圏]]、[[大阪都市圏]]、[[名古屋都市圏]]に次ぐ日本第4位の規模である<ref group="*">2015年(平成27年)国勢調査を基準とした都市雇用圏</ref>。
[[794年]]([[延暦]]13年)に日本の[[首都]]になった'''[[平安京]]'''を基礎とする都市で、[[1869年]]([[明治]]2年)に[[明治天皇]]が[[東京行幸]]([[東京奠都]])するまでの約1080年に渡って[[皇室]]および[[公家]]が集住したため「'''千年の都'''」との雅称で呼ばれる。現代でも[[京都市役所|京都市]]では[[双京構想]]を掲げている([[首都]]に関する議論は「[[日本の首都]]」を参照)。[[平安時代]]、[[室町時代]]の[[室町幕府]]期には日本の政治が執り行われた中心地であり、[[鎌倉時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]、[[江戸時代]]の[[幕末]]期などにおいても、日本の政治の中心の一つとして大きな役割を果たした。
平安時代から江戸時代前期までは日本最大の都市であり、その市街地は「京中」、[[鎌倉時代]]以降は「[[洛中]]」と呼ばれ、都市としては「京」「京の都」「[[京都]]」と呼ばれた。江戸時代には[[三都]]([[江戸]]・[[大阪|大坂]]・京)、[[明治]]期には[[市制特例|三市]]([[東京市]]・[[大阪市]]・京都市)、[[大正]]期以降は[[六大都市]](東京市・[[横浜市]]・[[名古屋市]]・京都市・大阪市・[[神戸市]])の各々の一角を占め、[[第二次世界大戦]]後には[[政令指定都市]]になった。このような中で都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内[[流通]]が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する[[工業都市]]となる一方、数々の技術者を各地の[[藩]]の要請に従って派遣した。その伝統は現在も[[伝統工芸]]として残っているのみならず、[[京セラ]]や[[島津製作所]]、[[オムロン]]、[[ニデック (電機メーカー)|ニデック]](旧 日本電産)など先端技術を持つ企業をはじめ、[[任天堂]]や[[ワコール]]など業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つである。日本初の[[水力発電|水力発電所]]である[[蹴上発電所]]を備えた[[琵琶湖疏水]]や、日本初の電車営業を行なった[[京都電気鉄道]](後の[[京都市電]]、現在は廃止)を開業させるなど、明治以降の近代化にも積極的であった。
第二次世界大戦の[[戦災]]被害を免れた[[寺社|神社仏閣]]、古い史跡、町並みが数多く存在し、[[宗教]]・[[貴族]]・[[武家]]・庶民などの様々な歴史的[[文化]]や祭りが残る。その特徴により[[文化庁]]が設置され<ref>{{Cite web|和書 |title=文化庁及び文化関係独立行政法人京都移転の提案 |url=https://www.chisou.go.jp/sousei/meeting/chihouiten_yushikisyakaigi/h28-01-27-bunka-kyoto.pdf |date=2016-01 |accessdate=2023-04-09}}[https://www.chisou.go.jp/sousei/meeting/chihouiten_yushikisyakaigi/h27-12-17-siryou4.pdf]、[https://www.chisou.go.jp/sousei/about/chihouiten/h27-08-31-teian/kyoto-chuou.pdf]。</ref>、文化首都を標榜する<ref>{{Cite news |和書 |title=【始動 文化庁 京都へ】<中>「文化首都」発信へ期待…茶道・華道・食が集積 連携カギ |newspaper=読売新聞オンライン |date=2023-03-17 |url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20230316-OYO1T50008/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20230321133629/https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20230316-OYO1T50008/ |archive-date=2023-03-21}}</ref>。国内外の観光客が訪れる[[観光都市]]として[[国際観光文化都市]]に指定されている。旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧[[帝国大学]]の[[京都大学]]をはじめとする多数の[[大学]]が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の[[学生街]]・[[学園都市]]ともなっている<ref group="*">市内に本部を置く大学は27にのぼり、また大学生・大学院生の人口に対する割合は約10%で、いずれも政令指定都市では最も高い(2015年国勢調査・学校基本調査)。</ref>。
{{Wide image|Panoramic-Daimonji-yama-6000x1081.jpg|800px|[[京都盆地]]の北部、[[如意ヶ嶽|大文字山]]より市街地を望む}}
== 地理 ==
[[ファイル:Gion festival 祇園祭 宵々山 (5939842461).jpg|thumb|200px|京都市中心部[[四条河原町]]]]
[[ファイル:四条京阪前(バス), Kyoto, Japan (Unsplash).jpg|thumb|200px|[[四条大橋]]]]
京都府の南部に位置する[[内陸都市]]で、市内を賀茂川(途中で[[高野川 (京都市)|高野川]]と合流して[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]と名前を変える)、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]、[[淀川|宇治川]]などが流れる。[[政令指定都市]]および日本の[[百万都市]]では唯一、[[盆地]]に位置している。
[[四条河原町]]([[四条通]]と[[河原町通]]の交差点付近)は京都で最大の[[繁華街]]であり、[[歓楽街]]の[[祇園]]や[[オフィス街|ビジネス街]]の[[四条烏丸]]と隣接している。[[ターミナル駅]]の[[京都駅]]は市街地南部の[[七条通]]と[[八条通]]の間に位置しており、四条河原町や四条烏丸などの市内中心部からは離れている。
滋賀県の県庁所在地である[[大津市]]に隣接しており、都道府県庁間は京都府と滋賀県が全国で最も短い<ref>{{Cite web|和書|title=都道府県庁間の距離|url=https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/kenchokan.html|publisher=国土地理院|accessdate=2019-02-22}}</ref>。[[東海道本線]]([[琵琶湖線]])の[[京都駅]]と[[大津駅]]は2駅10分の近さであり、京都市外から市内への通勤者は大津市が最も多い。
[[森林]]が市域の4分の3を覆い<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.iclei.org/ja/iclei-members/member-list/member-kyoto_city/|title=京都市|publisher=イクレイ日本|accessdate=2017-11-28}}</ref>、市内には日本で最も高い木が生える<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO23992330Y7A121C1AC8000/|title=京都の杉が高さ日本一 62.3メートルと確認|newspaper=日本経済新聞|date=2017-11-28}}</ref>。
=== 地形 ===
==== 山岳 ====
;主な山
*[[愛宕山 (京都市)|愛宕山]]
*[[嵐山]]
**[[沓掛山 (京都府)|沓掛山]]
*[[稲荷山]]
*[[大岩山 (京都府)|大岩山]]
*[[大枝山]]
*[[小倉山 (京都市)|小倉山]]
*[[小塩山]]
*[[北山 (京都市)|北山]]
**[[桟敷ヶ岳]]
*[[衣笠山 (京都府)|衣笠山]]
*[[鞍馬山]]
*[[高雄山]]
*[[双ヶ丘]]
*[[東山 (京都府)|東山]]
**[[華頂山]]
**[[清水山 (京都市)|清水山]]([[音羽山]])
**[[大文字山]]([[如意ヶ嶽]])
**[[比叡山]]
**[[吉田山 (京都市)|吉田山]]
*[[船岡山]]
*[[遍照寺山]]
*[[三国岳 (滋賀県・京都府)|三国岳]]
*[[皆子山]]
==== 河川 ====
;主な川
*[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]
*[[桂川 (淀川水系)|桂川]]
*[[高野川 (京都市)|高野川]]
*[[白川 (淀川水系)|白川]]
*[[堀川 (京都府)|堀川]]
*[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]
*[[西高瀬川]]
*[[淀川|宇治川]]
==== 湖沼 ====
;主な池
*[[大覚寺#大沢池と名古曽の滝|大沢池]]
*[[巨椋池]](干拓事業により消滅)
*[[宝ヶ池]]
*[[広沢池]]
*[[深泥池]]
<gallery>
File:Gozanokuribi Daimonji3.JPG|[[大文字山]]の[[五山送り火]]
File:Kamogawa_sakura.jpg|[[桜]]の季節の[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]
File:Takaragaike 20191110.jpg|[[宝ヶ池]]
</gallery>
=== 気候 ===
<div style="font-size:smaller">
{{climate chart|'''京都市'''
|1.5|9.1|53.3
|1.6|10.0|65.1
|4.3|14.1|106.2
|9.2|20.1|117.0
|14.5|25.1|151.4
|19.2|28.1|199.7
|23.6|32.0|223.6
|24.7|33.7|153.8
|20.7|29.2|178.5
|14.4|23.4|143.2
|8.4|17.3|73.9
|3.5|11.6|57.3
|float=right
|source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=61&block_no=47759&year=&month=&day=&view= 気象庁]
}}
</div>
[[京都盆地]](山城盆地)に位置しているため、[[太平洋側気候]]、[[日本海側気候]]、[[瀬戸内海式気候]]、[[内陸性気候]]のそれぞれを併せ持ち、[[夏]]と[[冬]]、昼と夜とで温度差が大きい。「京の底冷え」と言われるように冬の寒さは厳しい印象があるが、主要都市や関西の中でも取り立てて低温ではなく、京都地方気象台([[中京区]]西ノ京笠殿町)のある中心街は[[ヒートアイランド現象]]が顕著になり、かつてのような底冷えにはならない。最寒月(1月)の平均気温は4.8℃、平年最低気温は1.5℃であり、関西では大阪市、神戸市、和歌山市よりは低いものの、奈良市や大津市よりは高い。ただし市内でも郊外は中心部に比べて寒さは厳しく、特に同じ盆地内でも北の方ほど寒く、市内中心部では降雪がなくても[[左京区]]の[[岩倉 (京都市)|岩倉]]や大原、[[北区 (京都市)|北区]]の[[原谷 (京都市)|原谷]]などでは積雪や氷点下となっていることがある。北部の山間部(旧[[京北町]]など)は日本海側気候の影響もあり、冬季の1.0mm以上の降水日数が京都市街地の2倍以上となり、雪の日も市街地より多くて寒さが厳しい。市街地では積雪しても数[[センチメートル|cm]]程度のことが多い。[[2015年]]元日から1月3日にかけては大雪に見舞われ、61年ぶりとなる22cmの積雪を記録した。市中心部より南にある伏見区ではさらに雪が少ない。夏は暑さが大変厳しい。特に日中の気温が非常に上がり易く、39℃台の記録も多数ある。2018年7月19日には過去最高気温に並ぶ39.8℃を記録した。熱帯夜日数は27.2日となっており、[[名古屋市]](25.6日)より若干多いが[[大阪市]](41.5日)や[[神戸市]](46.8日)よりは少ない。
同じ京都市内といえども、北部の山間部と南部の市街地では分けて考える必要がある。市街地に限れば、年間を通して大阪市よりやや気温が低く雨量は多く、名古屋市とは気温は同程度で雨量はやや少ない、という程度の気候である。ただ、市街地(市中心部)も丹波高地の影響を受けて太平洋側気候と日本海側気候の境目で他の近畿地方の主要都市よりも不安定で、夏は大気の不安定さや湿った空気、冬は日本海からの雨雲や雪雲などで曇りがちで、特に夏場は瀬戸内海からの風と伊勢湾からの風、若狭湾からの風がぶつかる影響で頻繁に夕立になる事が多い。京都人はこれらの夕立を「丹波太郎」「山城治郎」と呼んでいる。京都の夏季(5、6、7、8、9月)における平均雷日数は15.9日で、[[奈良市|奈良]]の17.2日や[[豊岡市|豊岡]]([[兵庫県]])の16.9日と比べると少ないものの、[[彦根市|彦根]]([[滋賀県]])の14.6日より多い。
{{Kyoto weatherbox}}
=== 地域 ===
[[ファイル:Daidairi of Heiankyo.jpg|thumb|right|[[平安京]]復元模型写真([[平安京創生館]])]]
{| class="wikitable floatright" style="font-size:smaller;"
|+ 市の隣接地域の編入と面積の推移<ref name="jikeiretsu">{{Cite web|和書|title=京都市統計ポータル/推計人口 時系列データ|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Population/Suikei/#t1|accessdate=2023-07-01}}</ref>
! 年 !! 面積 !! 編入地域
|-
| 1889年 || style="text-align:right;" | 29.77km{{Sup|2}} ||
|-
| 1902年 || style="text-align:right;" | 31.28km{{Sup|2}} || [[葛野郡]]の一部
|-
| 1918年 || style="text-align:right;" | 60.43km{{Sup|2}} || 葛野郡・[[愛宕郡]]・[[紀伊郡]]の一部
|-
| 1931年 || style="text-align:right;" | 288.65km{{Sup|2}} || [[伏見市]]・紀伊郡と葛野郡・[[宇治郡]]の一部
|-
| 1948年 || style="text-align:right;" | 325.31km{{Sup|2}} || 葛野郡
|-
| 1949年 || style="text-align:right;" | 535.16km{{Sup|2}} || 愛宕郡
|-
| 1950年 || style="text-align:right;" | 549.79km{{Sup|2}} || [[乙訓郡]]の一部
|-
| 1957年 || style="text-align:right;" | 577.56km{{Sup|2}} || [[北桑田郡]]・[[久世郡]]の一部
|-
| 1959年 || style="text-align:right;" | 606.67km{{Sup|2}} || 乙訓郡の一部
|-
| 2005年 || style="text-align:right;" | 827.90km{{Sup|2}} || 北桑田郡京北町
|-
| 2014年 || style="text-align:right;" | 827.83km{{Sup|2}} || (地図電子化により面積改訂)
|}
;地域名
[[平安京]]は、平安中期の[[漢文学]]においてしばしば「洛陽」「長安城」「洛城」として現れる。いずれも「平安城」に代わる文学上の雅称と考えられる。のちに[[唐]]が西の[[長安]]を首都、東の[[洛陽市|洛陽]]を[[複都制|副都]]としたのを意識し、[[朱雀大路]]の西(右京)を長安、東(左京)を洛陽と称したとする認識が生まれた<ref group="*">「左京=洛陽、右京=長安」説の初出は今のところ、鎌倉末期に書かれた『[[拾芥抄]]』である。</ref>。その後、[[湿地|低湿地]]であった右京南部が寂れ、市街地が左京に偏っていっため、洛陽すなわち「'''洛'''」が京都の代名詞となっていった。
たとえば、近世に多く描かれた[[屏風#屏風絵|屏風絵]]に京都の中心部と郊外を表した「[[洛中洛外図]]」というものがある。現在でも京都市内の地域名として以下のようなものがある。行政や観光ガイドでもよく使われるが厳密な区分はない。
<!--なお、「'''洛'''」は現在でも「[[首都|都]]」を表す語として用いられるが、これは京都にのみ用いられる特称である。(←日本以外のことを言っているのでしょうか? ひとまずコメントアウトします。)-->
* [[洛中]](らくちゅう)- [[上京区|上京]]、[[中京区|中京]]、[[下京区|下京]]の各区の辺りの呼び方
* [[洛外]](らくがい)- 洛中の周縁の地域
** 洛東(らくとう)、東山(ひがしやま)- 左京区[[慈照寺|銀閣寺]]辺りから[[東山区]]まで(洛東の場合は[[山科区]]を包む。東山の場合は含まない)。
** 洛北(らくほく)、北山(きたやま)- 北区上賀茂から[[北大路通]]辺りまで
** 洛西(らくさい)、西山(にしやま)- [[右京区]]南部から[[西京区]]、乙訓辺り。[[嵐山]]など。
** 洛南(らくなん)- [[JR京都線]]・琵琶湖線(東海道本線)あるいは[[九条通]]以南から伏見辺りまで。宇治まで含むこともある。
上記が大まかな地域名であるのに対して、行政区よりも細かい地域単位として、[[明治|明治時代]]に導入された[[小学校]]区(学区)による地域名も、生活に密着した地域単位として使われる(詳細は[[京都の元学区]]を参照のこと)。
政令指定都市では唯一「[[住居表示に関する法律]]」<ref group="*">昭和37年5月10日法律第119号</ref>に基づく[[住居表示]]を採用しておらず<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000212674.html |title=町名証明書 |publisher=京都市情報館 |date=2020-03-31 |accessdate=2022-10-13}}</ref>、市中心部の町では近世からの形と名称が継承されており、周縁部においては京都市への編入前の旧町村名や[[大字]]・[[小字]]が町名に用いられている<ref>{{cite|和書|last=今尾|first=恵介|title=住所と地名の研究|year=2004|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-603535-9|page=92}}</ref>(例:旧田中村字門前→左京区田中門前町)。
詳細は
{{columns-list|16em|
* [[京都市北区の町名]]
* [[京都市上京区の町名]]
* [[京都市左京区の町名]]
* [[京都市中京区の町名]]
* [[京都市東山区の町名]]
* [[京都市下京区の町名]]
* [[京都市南区の町名]]
* [[京都市右京区の町名]]
* [[京都市伏見区の町名]]
* [[京都市山科区の町名]]
* [[京都市西京区の町名]]
}}<!--自治体コード順(建制順)-->
を参照のこと。
また、明治中期の市制施行時から京都市内であった町名を住所(所在地)として示す場合、行政区名と町名の間に通り名と方向表示を入れたものが公的な表記として用いられる<ref>{{Cite|和書|editor=京都市|title=京都市 地名・町名の沿革|year=1994|page=95}}</ref>(例:「中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地」)。近世からの姿を引き継ぐ市内中心部の町には同名の組み合わせが少なくない数あり、古くから用いられるこの通り名と方向表示による住所の表記により識別される。このように町名だけで場所を特定することが困難な市内中心部では町名が地名としては用いられず、交差する通りの名称を組み合わせた名称の交差点名が、周辺一帯の地名としても用いられる(例:「[[四条河原町]]」)。(→「[[#市内の街路]]」「[[京都市内の通り]]」を参照のこと)
==== 行政区 ====
[[ファイル:SVG map of Wards of Kyoto City Ja.svg|250px|right]]
京都市は11の行政区より構成される(地理的位置順)。
区名の読みと、設置年は以下の通り([[自治体コード]]順)。京都市設置当初は[[上京区]]・[[下京区]]の2区だったが<ref group="*">上京区と下京区は[[郡区町村編制法]]による[[基礎自治体]](区)として成立したため、1889年(明治22年)の市制施行以前から存在する。</ref>、数度の分区や[[市町村合併|合併]]を経て[[1976年]](昭和51年)に現在の11区が揃った。
{| class="wikitable sortable" style="margin: 1em;"
! [[全国地方公共団体コード|コード]]
! 区名
! 読み
! 人口<br />(人)
! 面積<br />(km<sup>2</sup>)
! 人口密度<br />(人/km<sup>2</sup>)
! 設立
|-
|26102-5
! style="white-space:nowrap;" | [[上京区]]
|かみぎょうく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市上京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市上京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市上京区}}/{{自治体面積/京都府|京都市上京区}}round2}} }}
|1879年[[郡区町村編制法|区制]]による
|-
|26106-8
![[下京区]]
|しもぎょうく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市下京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市下京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市下京区}}/{{自治体面積/京都府|京都市下京区}}round2}} }}
|1879年区制による
|-
|26103-3
![[左京区]]
|さきょうく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市左京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市左京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市左京区}}/{{自治体面積/京都府|京都市左京区}}round2}} }}
|1929年上京区から分区
|-
|26104-1
![[中京区]]
|なかぎょうく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市中京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市中京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市中京区}}/{{自治体面積/京都府|京都市中京区}}round2}} }}
|1929年上京区と下京区から分区
|-
|26105-0
![[東山区]]
|ひがしやまく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市東山区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市東山区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市東山区}}/{{自治体面積/京都府|京都市東山区}}round2}} }}
|1929年下京区から分区
|-
|26108-4
![[右京区]]
|うきょうく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市右京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市右京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市右京区}}/{{自治体面積/京都府|京都市右京区}}round2}} }}
|1931年[[葛野郡]]から
|-
|26109-2
![[伏見区]]
|ふしみく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市伏見区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市伏見区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市伏見区}}/{{自治体面積/京都府|京都市伏見区}}round2}} }}
|1931年[[伏見市]]と[[紀伊郡]]などから
|-
|26101-7
![[北区 (京都市)|北区]]
|きたく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市北区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市北区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市北区}}/{{自治体面積/京都府|京都市北区}}round2}} }}
|1955年上京区から分区
|-
|26107-6
![[南区 (京都市)|南区]]
|みなみく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市南区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市南区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市南区}}/{{自治体面積/京都府|京都市南区}}round2}} }}
|1955年下京区から分区
|-
|26110-6
![[山科区]]
|やましなく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市山科区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市山科区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市山科区}}/{{自治体面積/京都府|京都市山科区}}round2}} }}
|1976年東山区から分区
|-
|26111-4
![[西京区]]
|にしきょうく
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市西京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{自治体面積/京都府|京都市西京区}} }}
|style="text-align:right;"|{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/京都府|京都市西京区}}/{{自治体面積/京都府|京都市西京区}}round2}} }}
|1976年右京区から分区
|}
=== 人口 ===
{| class="wikitable floatright" style="text-align:right;"
|+ 人口の推移<ref name="jikeiretsu"/><ref group="*">1910年以前は戸籍簿及び[[寄留]]簿による各年12月末日時点の人口、1920年〜2020年は国勢調査による各年10月1日時点の人口、2021年以降は各年10月1日時点の[[推計人口]]</ref>
! 年 !! 人口(人)
|-
| 1889年 || 279,165
|-
| 1890年 || 288,867
|-
| 1900年 || 371,600
|-
| 1910年 || 470,033
|-
| 1920年 || 591,323
|-
| 1930年 || 765,142
|-
| 1940年 || 1,089,726
|-
| 1950年 || 1,101,854
|-
| 1960年 || 1,284,818
|-
| 1970年 || 1,419,165
|-
| 1980年 || 1,473,065
|-
| 1990年 || 1,461,103
|-
| 2000年 || 1,467,785
|-
| 2010年 || 1,474,015
|-
| 2020年 || 1,463,723
|-
| 2021年 || 1,453,956
|-
| 2022年 || 1,448,964
|-
| 2023年 || 1,443,486
|}
京都市の人口は、[[国勢調査]]では1920年の第1回調査で[[神戸市]]に次ぐ全国4位になり、[[三都]]の一角、東京市・大阪市に次ぐ全国3位という状況は終焉を迎えた。神戸市とは同程度で推移するものの、[[名古屋市]]が台頭したため、戦前を通じて全国4位・5位という状況が続いた。1930年の第3回調査の後、1931年に大規模な市域拡張を実施して名古屋市を抜き返し、1932年に3番目の百万都市となったものの、1934年に4番目の百万都市となった名古屋市に1935年の第4回調査で再び抜き返されるという一幕もあった。
戦災被害が六大都市の中で最少だったことから、1945年11月の人口調査および1947年の第6回調査と1950年の第7回調査で全国3位になったが、それは一時的なものに過ぎず、1955年の第8回調査では名古屋市に次ぐ全国4位、1960年の第9回調査では[[横浜市]]に次ぐ全国5位になった。
他の大都市や一部の中小都市にみられるような、戦中・戦後における人口の急減・急増がなかったのが京都市の特徴であった。その後も[[1970年代]]から[[2010年代]]に至るまで、都市部にもかかわらず人口が147万人程度を推移し続け、人口の大きな増減がなかった。この間、1983年に[[札幌市]]、2011年に[[福岡市]]、2015年に[[川崎市]]に抜かれた。また、戦前は同程度で推移し、戦後は甚大な戦災被害による激減から回復してきた神戸市に1990年の第15回調査で抜かれ、[[2000年代]]以降は抜き返せない状況にある。結果、全国9位にまで落ちたが、[[昼間人口]]では川崎市・神戸市を上回っている。
2015年の第20回調査から2020年の第21回調査の人口増減を見ると、0.8%減の1,463,723人であり、増減率は府下26市町村中7位。区別では最高が2.0%増の南区、最低が6.3%減の東山区。将来推計人口によれば、今後は減少し2045年に130万人を割り込むと予測されている<ref>{{Cite web|和書|title=結果表1|work=日本の地域別将来推計人口(平成30(2018)年推計)|url=https://www.ipss.go.jp/pp-shicyoson/j/shicyoson18/2gaiyo_hyo/gaiyo.asp|publisher=国立社会保障・人口問題研究所|accessdate=2018-12-21}}</ref>。{{自治体人口/京都府|date}}現在の人口は{{formatnum:{{自治体人口/京都府|京都市}}}}人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Population/Suikei/|title=京都市統計ポータル/推計人口|date= |work= |publisher=京都市 |accessdate=2022-09-20}}</ref>。[[コロナ禍]]の2020年と2021年は2年連続で1年間に最も人口が減少した市となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/61698 |title=「住む場所も働く場所もない」観光都市世界一・京都が2年連続人口減少数ワースト1の残念すぎる理由 |date=2022-09-20 |work= |publisher=PRESIDENT Online |accessdate=2022-09-20}}</ref>。
{{人口統計|code=26100|name=京都市|image=Population distribution of Kyoto, Kyoto, Japan.svg}}
;健康
*平均年齢:47.3歳([[2020年]](令和2年))<ref>[https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2020/kekka.html 令和2年国勢調査 都道府県・市区町村別の主な結果]</ref>
=== 隣接自治体 ===
;{{Flagicon|京都府}}[[京都府]]
:[[ファイル:Flag of Uji, Kyoto.svg|25px|border|宇治市旗]] [[宇治市]]
:[[ファイル:Flag of Nagaokakyo, Kyoto.svg|25px|長岡京市旗]] [[長岡京市]]
:[[ファイル:Flag of Nantan, Kyoto.svg|25px|border|南丹市旗]] [[南丹市]]
:[[ファイル:Flag of Kameoka, Kyoto.svg|25px|亀岡市旗]] [[亀岡市]]
:[[ファイル:Flag of Mukō, Kyoto.svg|25px|向日市旗]] [[向日市]]
:[[ファイル:Flag of Yawata, Kyoto.svg|25px|border|八幡市旗]] [[八幡市]]
:[[ファイル:Flag of Ōyamazaki, Kyoto.svg|25px|border|大山崎町旗]] [[乙訓郡]][[大山崎町]]
:[[ファイル:Flag of Kumiyama, Kyoto.svg|25px|border|久御山町旗]] [[久世郡]][[久御山町]]
;{{Flagicon|滋賀県}}[[滋賀県]]
:[[ファイル:Flag of Otsu, Shiga.svg|25px|大津市旗]] [[大津市]]
:[[ファイル:Flag of Takashima, Shiga.svg|25px|border|高島市旗]] [[高島市]]
;{{Flagicon|大阪府}}[[大阪府]]
:[[ファイル:Flag of Takatsuki, Osaka.svg|25px|border|高槻市旗]] [[高槻市]]
:[[ファイル:Flag of Shimamoto, Osaka.svg|25px|border|島本町旗]] [[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]
== 歴史 ==
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|240px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。かつて京都に存在し大仏として日本一の高さを誇っていたが、[[寛政]]10年([[1798年]])に落雷による火災で焼失した。]]
[[File:150124 At Yasakakamimachi Kyoto Japan01n.jpg|thumb|240px|八坂の塔]]
:''※ここでは[[明治維新]]以後の京都市について述べる。以前の京都市の歴史については、[[京都]]を参照。''
=== 近代都市への変革 ===
[[幕末]]に再び政治の中心地となった京都は人口が膨れ上がり、かつてない活況を見せたものの、[[禁門の変]]などで街の多くが焼けたのに加え、[[明治維新]]後に[[皇室]]・[[公家]]の大半が東京へ移り住んだため、一転急速な衰退を見せた。[[江戸時代]]は「[[三都]]」と呼ばれ、[[享保]]14年([[1729年]])には374,000人、[[明和]]3年([[1766年]])に318,000人の人口を誇る[[江戸]]・[[大坂]]に次ぐ都会であったが、明治維新後の[[1873年]](明治6年)には238,000人までその人口が落ち込んだ程である。
そのため、[[京都府知事]]([[市制]][[施行]]当初は[[京都市長]]も兼任)などから産業の振興を呼びかける声が上がり、京都府に復興の顧問として迎え入れられた[[山本覚馬]]は京都を何とかして復興させようとある計画を立ち上げる。それは[[1867年]]に[[パリ]]で行われた当時世界最大のイベント「[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]」をヒントにした[[博覧会]]を京都で開催するというものであった。そのため、政府に嘆願し、外国人の[[外国人居留地|居留地]]からの移動制限を博覧会の期間のみ解除することを許され、京都に外国人を迎え入れられるようにした。そして[[西本願寺]]・[[知恩院]]・[[建仁寺]]を会場に「第一回京都博覧会」を開催し、京都の復興の足がかりを作った。前年の[[明治4年]][[10月10日 (旧暦)|10月10日]]〜[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]([[1871年]][[11月22日]]〜[[12月22日]])には日本初の博覧会が民間により[[西本願寺]]で開かれている<ref>{{Cite journal |和書 |author=工藤泰子 |url=http://id.nii.ac.jp/1108/00000178/ |title=明治初期京都の博覧会と観光 |date=2008-12 |publisher=京都光華女子大学 |journal=京都光華女子大学研究紀要 |volume=46 |naid=110006977012 |pages=77-100 ||ref=harv}}{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/index.html |title=博覧会一覧(年表) |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
また[[田辺朔郎|田邉朔郎]]による[[琵琶湖疏水]]の建設と、[[疏水]]を用いた日本初の[[水力発電]]、さらにその電力を用いた日本初の[[電車]]運転([[京都電気鉄道]]、後の[[京都市電]])などの先進的な施策が実行された<ref>小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年 p81(参考)ISBN 9784569616186</ref>。人口は明治時代中期以降しばらく、毎年1万の増加を見せるようになった。
人口の増加と市街地の拡大に対応し、明治末期から道路拡築および[[京都市電|市電]]敷設、[[琵琶湖疏水|第二疏水]]開削、[[上水道]]整備からなる「[[京都市三大事業]]」が行われた。それに続く形で[[市区改正]]道路([[都市計画道路]])事業と市電の敷設が進められ、昭和初期には[[伏見市]](現在の[[伏見区]]中心部)など周辺の市町村を編入し、ほどなくして人口は100万人を超えた。
=== 第二次世界大戦下の京都 ===
[[第二次世界大戦]]中、六大都市([[東京都区部]]と[[五大都市]])の中では、[[空襲]]の大きな被害を受けなかったこともあり、日本の都市としては珍しく戦前からの建造物が比較的多く残されている。これは歴史遺産保護のために大規模空爆を受けなかったという説がある一方、[[広島市]]や[[小倉市]](現在の[[北九州市]][[小倉北区]]・[[小倉南区]])・[[新潟市]]などと共に[[原子爆弾]]の投下候補都市と位置付けられており、その兵器の効力を知るために[[アメリカ軍]]が最後まで街を温存したという説が存在する(都市選定の経過については[[日本への原子爆弾投下]]を参照)。なお、京都市が全く空襲を受けなかったわけではなく、[[1945年]]([[昭和]]20年)1月16日から6月26日にかけて、5回の空襲を受けている([[京都空襲]])。
戦災による人口減は六大都市のうち最少で、[[1947年]](昭和22年)と[[1950年]](昭和25年)の国勢調査では東京都区部、大阪市に次いで京都市が全国3位となった。
=== 年表 ===
==== 江戸時代以前 ====
<!--法的に遡って、慶応3年12月31日(1868年1月24日)以前-->
{{See|京都}}
==== 明治時代 ====
;明治改元後
<!--法的に遡った明治改元は慶応4年1月1日(1868年1月25日)なので、それ以降。明治時代に「慶応4年」が混ざっているのは、法と違って現実にはその時点で元号「明治」が存在しなかったから。-->
* [[慶応]]4年
** [[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[新暦]]換算<ref group="*">[[明治5年]][[12月2日 (旧暦)|12月2日]]までの[[西暦]]([[新暦]])表記は[[和暦]]([[旧暦]])を原資料とした換算である。</ref>:[[1868年]][[5月17日]])- 京都裁判所を'''[[京都府]]'''に改称。
** [[7月17日 (旧暦)|7月17日]](1868年[[9月3日]]) - 西の「京都」に対して東の[[江戸]]が「[[東京]]」と改称される。
** [[9月8日 (旧暦)|9月8日]](1868年[[10月23日]]) - [[皇太子]]祐宮の[[天皇]]即位([[明治天皇]]の即位)による[[改元]](明治改元)が成され、法令上は慶応4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]](1868年[[1月25日]])に遡って改元したこととされる。
* [[明治元年]]
** [[10月13日 (旧暦)|10月13日]](1868年[[11月26日]]) - 明治天皇が初めて東京に[[行幸]]し、[[江戸城]]西の丸に入った時をもって江戸城は[[行宮]]となり、その名は「[[東京城]]」へと改称される。これら一連の手続きをもって[[東京奠都]]が推し進められ、京都は事実上の“旧都”となってゆく。
** 11月某日(1868年12月14日〜[[1869年]]1月12日間の某日<ref group="*">[[旧暦]]の明治元年11月は、11月1日から11月30日(同月最終日)までであるから、[[新暦]]([[グレゴリオ暦]])では1868年12月14日から1869年1月12日までにあたる。旧暦11月の何日なのか特定できないので、新暦では年のレベルで特定ができない。</ref>) - 第1次町組改正の施行/[[葛野郡]]の聚楽廻(じゅらくまわり)・西ノ京村(にしのきょうむら)・大将軍村(たいしょうぐんむら)の各一部が[[上京]]に[[日本の市町村の廃置分合#編入|編入]]される。[[愛宕郡]][[粟田口|粟田口村]]の一部と、[[紀伊郡]]東福寺門前の一部が、[[下京]]に編入される。
** [[12月8日 (旧暦)|12月8日]]([[1869年]][[1月20日]]) - 天皇が、[[京都御所|京都の御所]]へひとまず[[還御|還幸]]すべく、東京城を出立する。御所には[[12月22日 (旧暦)|12月22日]](同年[[2月3日]])到着。
* [[明治2年]]
** 1月末([[1869年]][[3月12日]]かその数日前<ref group="*">旧暦の明治2年1月末を同月最終日である1月30日とした場合、新暦では1869年3月12日にあたる。</ref>)- 第2次町組改正の施行/上京33番組、下京32番組(旧暦の同年、1番組が分離して33番組となる)に再編成。
** [[3月28日 (旧暦)|3月28日]](1869年[[5月9日]]) - '''[[東京奠都]]の完遂'''(天皇の東京への完全移転)/天皇の東京への2度目の行幸あり、と思われたが、実際は、この時が京都から東京への事実上の“御所”の移転であった。天皇は、東京城に入ったこの日以降、[[崩御]]するまで、東京城を拠点として東京に居住し続けることとなり、東京城はその名も「皇城」と呼ぶこととなった(「宮城」と通称されたが、この名は[[第二次世界大戦]]後に廃止され、「[[皇居]]」が用いられるようになる)。一方、京都の御所は「天皇の正式な住居」という意味での「御所」ではなくなる。
** [[5月21日 (旧暦)|5月21日]](1869年[[6月30日]])- [[上京第二十七番組小学校]](1873年(明治6年)に「柳池校(りゅうちこう)」に改称。1947年(昭和22年)に「柳池小学校」に改称)と下京第十四番組小学校(1873年(明治6年)に「修徳校(しゅうとくこう)」に改称。のちの修徳小学校)の開校/[[番組小学校]](日本初の[[学区]]制[[小学校]])の最初の学校、すなわち、日本で最初の小学校として開校。
** [[9月23日 (旧暦)|9月23日]]か(1869年[[10月27日]])- [[西園寺公望]]が[[京都御所]]内の私邸に[[私塾立命館]]を設立/日付は西園寺が[[揮毫]]した「立命館」の[[扁額]]の銘に基づく。
** [[12月21日 (旧暦)|12月21日]]([[1870年]][[1月22日]])- 上京第二十八番組及び二十九番組小学校(2番組合同で設立した1校で、のちの[[京都市立京極小学校]])が、番組全65中最後の1校として開校し、京都府内の小学校数が64校となる。
* [[明治4年]]
** この年までに、[[刑部省]]・[[大蔵省]]・[[兵部省]]などの京都留守・出張所が次々に廃止され、[[日本の行政機関|中央行政機関]]が京都から消えていった。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[明治政府]]が[[廃藩置県]]を断行。
** [[10月10日 (旧暦)|10月10日]]〜[[11月11日 (旧暦)|11月11日]](1871年[[11月22日]]〜[[12月22日]]) - [[西本願寺]]の[[書院]]にて[[京都博覧会]]の初開催/これが日本初の[[博覧会]]であるが、翌年に開催したものが京都博覧会の第1回とされている。
* [[明治5年]]
** [[3月13日 (旧暦)|3月13日]]〜[[5月30日 (旧暦)|5月30日]]([[1872年]][[4月20日]]〜[[7月5日]]) - 第1回京都博覧会の開催/事実上の第2回であるが、成功裏に終わり、以後、[[1896年]](明治29年)まで毎年開催されることとなる。
** [[4月14日 (旧暦)|4月14日]](1872年[[5月20日]]) - 旧[[九条家|九条殿]][[河原町]]邸内にて、[[女学校]]「新英学校女紅場」([[京都府立鴨沂高等学校]]の前身)の開校/これが日本で最初の[[公立]]女学校であった。
** 5月某日 - 天皇が京都御所に戻る際、「[[還御|還幸]]」ではなく「[[行幸]]」という語が初めて用いられる/これは天皇の本拠が今や京都でなく東京であることを如実に表す言葉の選択であった。
** 某月某日 - 番組を区とする市区改正が行われる。
** 某月某日 - [[葛野郡]]東塩小路村の一部(現・来迎堂町)を下京に編入。
* [[1875年]](明治8年)- [[新島襄]]が、[[寺町]]にて、[[私立学校]]「[[同志社英学校]]」([[同志社大学]]の前身)を開校。
* [[1877年]](明治10年)
** [[2月6日]] - [[工部省]]管轄の官設[[鉄道]][[東海道本線]]の京都線([[日本国有鉄道|国鉄]]京都線、[[JR京都線]]の前身)が開通し、[[終着駅]]として京都停車場(現・[[京都駅]])が開業/[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]と[[大阪駅|大阪]]を結ぶ神戸線(国鉄神戸線、[[JR神戸線]]の前身)を延伸する形で開通した。開業式だけは前日に執行された。
* [[1879年]](明治12年)
** [[4月10日]] - [[郡区町村編制法]]が[[京都府]]で施行され<!--※「京都府で郡区町村編制法が施行され」とは少しニュアンスが違います。「全国の都道府県で順次施行されていった同法が、この日には、京都府で施行された」という意味合いであり、「余所と関係なく京都府が独自で施行した」のとは違うわけです。-->、明治元年に慣習的[[行政区画]]名称から慣習的地理名称に変じて以来法的に機能していなかった府内の[[郡]]が法的行政区画名称(行政郡)に変更されて整備される一方、上京と下京には新法上の[[区 (行政区画)|区]]が置かれ、[[上京区]]と[[下京区]]が発足する。従来の区は「組」と改められる。
** [[11月1日]] - [[葛野郡]]の中堂寺村(現・藪之内町)・八条村(現・薬園町・八条町・東寺町)・西九条村(現・東油小路町・西油小路町)・東塩小路村(現・東塩小路町)の各一部を下京区に編入<ref name="M12">明治12年11月1日京都府第418号布達『京都府府令達要約. 自明治元年至明治13年』、652-654頁({{NDLJP|788398/328}})</ref>。
* [[1883年]](明治16年)[[1月12日]] - [[愛宕郡]]の聖護院村[[町・字|字]]大石原および二条畑(いずれも現・石原町)を[[上京区]]に編入<ref name="M16">明治16年1月12日京都府甲第3号布達『京都府府令達要約. 明治16年 第4編上巻』、2頁({{NDLJP|788402/49}})</ref>。
* [[1888年]](明治21年)[[6月25日]] - [[愛宕郡]]の南禅寺村・鹿ケ谷村・浄土寺村・岡崎村・聖護院村・吉田村・粟田口村を上京区に、同郡の今熊野村・清閑寺村を下京区に編入<ref name="M21">明治21年6月25日京都府府令第72号「山城國南禪寺村外八ヶ村京都市街地ヘ編入ノ件」『京都府府令達要約. 明治21年 第9編上巻』、199-200頁({{NDLJP|788410/138}})</ref>(現在の[[左京区]]と[[東山区]]の各一部に相当する区域)。
* [[1889年]](明治22年)
** [[2月11日]] - 「[[即位の礼]]」と「[[大嘗祭]]」を(従来と変わらず)京都で行うことを規定する旧[[皇室典範 (1889年)|皇室典範]]が交付される。
** [[4月1日]] - [[上京区]]および[[下京区]]が[[日本の市町村の廃置分合#合体|合体(新設合併)]]したうえで[[市制]]を施行し、'''京都市を発足'''。両区は市下の行政区に変わる。[[市制特例]]により市長は置かず、市長職務は府知事が行う。市制施行時の面積は29.77平方キロメートルであった。
** 4月1日 - [[山崎恵純]]らが、[[大雲院 (京都市)|大雲院]][[境内]]にて、[[京都法学校]]([[立命館大学]][[法学部]]の前身の一つ)を開校。
[[ファイル:Киото, главная улица, 1891.jpg|thumb|220px|[[ロシア]]の[[週刊誌]]の[[1891年]]発刊号にて[[挿絵]]として描かれた京都市の町並み]]
* [[1890年]](明治23年)- [[琵琶湖疏水]]の第一期工事が完成(4月9日竣工式)。
* [[1891年]](明治24年)11月 - 琵琶湖疏水の水を用いて、日本初の水力発電所となる[[蹴上発電所]]が稼動開始。
* [[1892年]](明治25年)5月ごろ - 京都実業協会が平安遷都千百年紀念祭の開催を立案。
* [[1895年]](明治28年)
** [[2月1日]] - 日本初の電気鉄道として[[京都電気鉄道]](後に[[京都市電]]となる)の開業。
;日清戦争後
<!--1895年(明治28年)3月以後-->
* 1895年(明治28年)
** [[3月15日]] - 岡崎西天王町にて、[[平安神宮]]の創建/来る平安遷都千百年紀念祭の一関連事業として、紀念祭に先立って創祀される。
** [[3月25日]] - 京都市[[議事堂]]の竣工。
** [[4月1日]] - 岡崎の一角(その後の平安神宮境内の一角、今の[[岡崎公園 (京都市)|岡崎公園]]相当地域)にて、第4回[[内国勧業博覧会]]の開催(7月31日まで)/来る平安遷都千百年紀念祭の一関連事業として。
** [[10月22日]] - 平安遷都千百年紀念祭の開催。
** [[10月25日]] - 平安神宮が第1回[[時代行列]](後付の名称としては第1回[[時代祭]])を開催/平安遷都千百年紀念祭の一関連事業(余興)として執り行われた。
* [[1897年]](明治30年)
** [[5月1日]] - 茶屋町にて、帝国京都博物館(現・[[京都国立博物館]])の開館<ref>[https://www.nich.go.jp/wp/wp-content/uploads/2020/08/gaiyo2020.pdf 国立文化財機構概要 2020]、[[独立行政法人]][[国立文化財機構]]、15頁</ref>。
** [[6月18日]] - 京都帝国大学(現・[[京都大学]])の創設(明治30年6月22日勅令第209号)<ref>「京都帝國大學ニ關スル件」『[[官報]]』明治30年6月22日付(第4190号)、1897年6月22日、296頁({{NDLJP|2947477/5}})</ref>。
[[ファイル:Kyoto City Hall in the Meiji era.JPG|thumb|220px|明治時代の京都市役所]]<!--※「京都市役所」項の記述「本庁舎第1期 竣工:1927年」と矛盾しています。明らかに本項が正しく、向こうが間違いでしょうけれども。-->
* [[1898年]](明治31年)
** [[10月12日]] - 同年9月末で[[市制特例]]が廃止されたことに伴い、[[京都市長|市長]]を置く。
** [[10月15日]] - 上本能寺前町にて、[[京都市役所]]の開庁/のちにこの日は「京都市自治記念日」に制定される。
* [[1900年]](明治33年)[[5月19日]] - [[京都法政学校]]([[立命館大学]][[法学部]]の主体的前身)の開校。
* [[1902年]](明治35年)- [[葛野郡]]大内村の一部(大字東塩小路町、西九条)を下京区に編入。
;日露戦争後
<!--1905年(明治38年)9月5日以後-->
* [[1908年]](明治41年)
** 10月某日 - [[京都市三大事業]](道路拡張および[[京都市電]]、第二[[琵琶湖疏水]]建設、上水道整備)の起工式が、[[平安神宮]]にて執り行われ、第二琵琶湖疏水が逸早く起工する。
** [[10月30日]] - 紀伊郡[[深草|深草村]]に[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第16師団 (日本軍)|第16師団]]司令部が移転する。
* [[1910年]](明治43年)[[4月15日]] - [[京阪電気鉄道]]の開業。
* 1910年(明治43年)- [[仁丹]]が京都市内に[[街区表示板|町名表示板]]を設置し始める。
* [[1912年]](明治45年)
** [[4月1日]] - 日本初の[[急速濾過]]式[[浄水場]]である蹴上浄水場(同年3月竣工)、給水開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000296347.html |title=水道事業110年の概要 |publisher=京都市上下水道局 |date=2022-04-01 |accessdate=2022-10-13}}</ref>。
** [[6月11日]] - 京都市電の運転開始。
==== 大正時代 ====
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[11月10日]] - [[大正天皇]][[即位の礼#大正の即位の礼|即位の礼]]が京都御所で行われる。
* [[1918年]](大正7年)- 愛宕郡白川村、田中村、下鴨村、鞍馬口村、野口村および上賀茂村の一部、大宮村の一部ならびに葛野郡衣笠村を上京区に、葛野郡朱雀野村、大内村、七条村および西院村の一部ならびに[[紀伊郡]]柳原町および東九条村の一部、上鳥羽村の一部、深草村の一部を下京区に編入。京都市、京都電気鉄道を買収。
==== 昭和時代 ====
;昭和戦前
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** 4月 - 市役所本庁舎竣工。
** 6月 - 松ヶ崎浄水場竣工、給水開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000104055.html |title=松ケ崎浄水場のあらまし |publisher=京都市上下水道局 |date=2019-05-21 |accessdate=2022-10-13}}</ref>。
** [[12月11日]] - 日本初の[[中央卸売市場]]となる[[京都市中央卸売市場第一市場|京都市中央卸売市場]]が開業。
* [[1928年]](昭和3年)[[11月10日]] - [[昭和天皇]][[即位の礼#昭和の即位の礼|即位の礼]]が京都御所で行われる。
* [[1929年]](昭和4年)[[4月1日]] - [[上京区]]と[[下京区]]が分区して[[左京区]]、[[東山区]]、[[中京区]]成立。紀伊郡伏見町が市制施行して[[伏見市]]成立。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[3月31日]] - 京阪電気鉄道[[新京阪鉄道|新京阪線]](今の[[阪急電鉄]][[阪急京都本線|京都線]])の[[大宮駅 (京都府)|大宮]]乗り入れにより、[[近畿地方]]初の地下鉄道線開業。
** [[5月1日]] - 伏見市と紀伊郡深草町・下鳥羽村・横大路村・納所村・堀内村・向島村・竹田村、[[宇治郡]]醍醐村を合併して[[伏見区]]設置。[[葛野郡]]嵯峨町・花園村・西院村・太秦村・梅ヶ畑村・梅津村・京極村・松尾村・桂村・川岡村を合併して[[右京区]]設置。紀伊郡上鳥羽村・吉祥院村を下京区に編入。宇治郡山科町を東山区に編入。
* [[1932年]](昭和7年)- 人口が100万人を超える。同年[[4月1日]]、日本初の都市[[トロリーバス]]([[京都市営トロリーバス]])が開業。
* [[1934年]](昭和9年)9月 - [[室戸台風]]が関西に来襲。死者181名・負傷者1021名・家屋全半壊2653軒<ref>植村善博著『京都の治水と昭和の大水害』(文理閣)第5章「昭和9年室戸台風」より</ref>。
* [[1935年]](昭和10年)
** [[6月29日]] - [[京都大水害]]。高野川・鴨川・天神川・桂川などの主要河川で堤防決壊、三条大橋五条大橋など53橋の流失、死者12名・負傷者71名・家屋全半壊482戸・床上床下浸水43279戸<ref>植村善博著『京都の治水と昭和の大水害』(文理閣)第6章「昭和10年6月京都大水害」より</ref>。
** [[8月10日]] - 再度の豪雨による水害。鴨川の仮設橋が流失、天神川で氾濫、東山区山科(現・山科区)でため池が決壊・集落を直撃して死者5名・家屋13棟が全半壊<ref>植村善博著『京都の治水と昭和の大水害』(文理閣)第6章「昭和10年6月京都大水害」・169頁「9 昭和10年8月水害」より</ref>。
* [[1936年]](昭和11年)8月 - 山科浄水場が一部完成、給水開始(1975年(昭和50)6月廃止)。
;昭和戦時中
<!--1941年12月8日から1945年9月2日まで-->
* [[1942年]](昭和17年)
** [[2月1日]] - [[味噌]]と[[醤油]]の[[配給 (物資)|配給制度]]が始まる(当初、京都府は京都市のみ)<ref>六大府県で味噌、醤油の割当配当(昭和17年1月8日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p124 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。同時に[[衣料品]]にも点数切符制が導入された。
** [[4月1日]] - [[配電統制令]]により市営水力発電所・市内送電網を[[関西配電]]に現物出資。
* [[1944年]](昭和19年)7月20日 - 京都市内で建物疎開(第1次建物疎開)開始<ref name="建物疎開">{{Cite journal |和書 |author=川口朋子 |url=https://doi.org/10.14989/189490 |title=「非戦災都市」京都における建物疎開の戦後処理と法的規定 |journal=人文学報 |issue=104 |publisher=京都大学人文科学研究所 |date=2013-03-29 |pages=113-136 |hdl=2433/189490}}</ref>。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[1月16日]] - 米軍爆撃機[[B-29 (航空機)|B-29]]編隊が上空飛来のうえ[[空襲|市街爆撃]]、死者41人<ref>『戦争のなかの京都』(中西宏次著、岩波ジュニア新書、2009年、p141)による</ref>。
** [[3月18日]] - [[堀川通]]・[[御池通]]・[[五条通]]で建物疎開(第3次建物疎開)開始<ref name="建物疎開"/>。
** [[4月16日]] - 右京区太秦巽町に投弾あり。死者2人<ref>中西前掲書p143</ref>。
** [[6月26日]] - 上京区智恵光院通下長者町上ルほかに着弾。死者43人。家屋全壊71戸<ref>中西前掲書、p144</ref>。
{{See|京都空襲}}
;昭和戦後
* [[1945年]](昭和20年)
** 9月 - [[アメリカ陸軍]][[第6軍 (アメリカ軍)|第6軍]](司令官:[[ウォルター・クルーガー]]大将)が司令部を設置。
** [[10月23日]] - 伏見浄水場給水開始([[1977年]](昭和52年)10月廃止)。
* [[1946年]](昭和21年)
** 1月 - アメリカ陸軍[[第1軍団 (アメリカ陸軍)|第1軍団]]の司令部を設置。
** 11月 - [[第1回国民体育大会]](兼[[日本陸上競技選手権大会]])が開催される。
* [[1948年]](昭和23年)
** 不明 - 葛野郡中川村、小野郷村を[[上京区]]に編入。
** [[11月4日]] - この日以降、市内で[[ジフテリア]][[予防接種]]を受けた者が次々と発熱する[[医療事故]]が発生。死者68人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=71|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1949年]](昭和24年)- 愛宕郡雲ヶ畑村を上京区に、愛宕郡岩倉村・八瀬村・大原村・静市野村・鞍馬村・花脊村・久多村を[[左京区]]に編入。九条山浄水場、給水開始(平成8年廃止)。
* [[1950年]](昭和25年)- [[乙訓郡]]大枝村を[[右京区]]に、乙訓郡久我村・羽束師村を[[伏見区]]に編入。
* [[1951年]](昭和26年)
** 不明 - [[京都市歌]]が制定される。
** [[7月11日]] - 集中豪雨による水害。鴨川で出町橋、正面橋、塩小路橋など8橋が流出<ref>「今度は近畿に豪雨」『日本経済新聞』1951年(昭和26年)7月12日3面</ref>。嵐山では土砂崩れが発生、4人が圧死<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=82|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)- 下京区から分区して[[南区 (京都市)|南区]]成立。上京区から分区して[[北区 (京都市)|北区]]成立。
* [[1956年]](昭和31年)- 国から政令指定都市に指定。
* [[1957年]](昭和32年)- [[北桑田郡]][[京北町]]の一部(大字広河原)を左京区に<ref group="*">[[令制国]]における[[山城国]]以外の地域([[丹波国]])を初めて市域とした。</ref>、[[久世郡]]淀町を伏見区に編入。
* [[1959年]](昭和34年)[[11月1日]] - 乙訓郡[[久世村 (京都府)|久世村]]を南区に、同郡大原野村を右京区に編入。
* [[1961年]](昭和36年)
** [[5月30日]] - 市内で政治活動防止法(原文ママ)に反対する京都府学生自治連合のデモ隊と警官隊が衝突。双方に重軽傷者69人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=152|isbn=9784816922749}}</ref>。
** [[6月3日]] - 5月30日に引き続きデモが行われ、デモ参加者249人、警官33人が負傷。
** [[8月1日]] - [[京都市電北野線]]が廃止。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[7月29日]] - 山ノ内浄水場給水開始(1966年(昭和41年)11月25日完成、2013年(平成25年)3月廃止)。
** 10月1日 - [[東海道新幹線]]京都駅開業(この際、[[市民運動]]が起こった。''※ 詳細は、[[鉄道と政治#京都駅]]を参照。'')
* [[1966年]](昭和41年)- [[国立京都国際会館]]が開館。
* [[1968年]](昭和43年)[[8月6日]] - 新山科浄水場が一部完成、給水開始([[1970年]](昭和45年)11月竣工<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000126835.html |title=新山科浄水場のあらまし |publisher=京都市上下水道局 |date=2017-09-13 |accessdate=2022-10-13}})</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[10月1日]] - [[京都市営トロリーバス|トロリーバス]]廃止。
* [[1976年]](昭和51年)[[10月1日]] - 東山区を分区して[[山科区]]成立。右京区を分区して[[西京区]]成立。
* [[1978年]](昭和53年)[[10月1日]] - [[京都市電|市電]]全廃。
* [[1981年]](昭和56年)[[5月29日]] - [[京都市営地下鉄|市営地下鉄]]初の路線として、[[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]が部分開業。
==== 平成 ====
* [[1994年]]([[平成]]6年)-「[[古都京都の文化財]]」が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録される。
* [[1995年]](平成7年)[[1月17日]] - [[阪神淡路大震災]]が発生し、震度5の揺れを観測した<ref>[https://www.sei-inc.co.jp/bosai/1995/ 阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)概要]</ref>。市内の寺院では像が折れたり、ビルの窓ガラスが散乱するなどの被害を受けた。また市内の鉄道が運転を見合わせるなどした。
* [[1997年]](平成9年)- [[第3回気候変動枠組条約締約国会議]](地球温暖化防止京都会議、COP3)開催。「[[京都議定書]]」採択。
* [[2004年]](平成16年)[[12月20日]] - [[宇治市]]と境界変更。
* [[2005年]](平成17年)[[4月1日]] - [[北桑田郡]][[京北町]]を合併、右京区に編入。
* [[2013年]](平成25年)[[9月16日]] - [[平成25年台風第18号|台風18号]]による豪雨・洪水災害。桂川が氾濫し、嵐山、桂、羽束師、淀など複数地区に浸水被害。市は26万人余に避難指示。同日[[京都府]]に発令された大雨[[特別警報]]は国内初。
* [[2016年]](平成28年)
**[[3月25日]] - 左京区と右京区の一部が[[京都丹波高原国定公園]]に指定される/[[都道府県庁所在地]]にある[[国定公園]]は稀有である。
**6月 - 京都府[[暴力団排除条例]]が改正されたことを契機に、[[木屋町通|木屋町]]および[[祇園]]に暴力団排除特別強化地域が設定。[[暴力団]]員などによる[[みかじめ料]]の要求も、飲食業者などからの支払いも禁止。支払った側にも1年以下の懲役又は50万円以下の罰金が課される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kyoto.jp/fukei/anzen/sotai1/jorei/documents/chirashi.pdf |title=祇園・木屋町暴力団排除宣言 |publisher=京都府警察 |date=2016年 |accessdate=2022-08-17}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)[[1月4日]]〜[[2018年]](平成30年)[[1月3日]] - 大政奉還百五十周年記念プロジェクト([[大政奉還]]から150年の節目を迎えるにあたり、[[幕末]]維新に[[京都]]で活躍した先人達と縁を持つ都市に参画を呼び掛け、相互に交流・連携を図る記念事業)の開催<ref>[http://www.taiseihokan150.jp/project/ 記念プロジェクトについて] 大政奉還百五十周年記念プロジェクト公式サイト</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[6月18日]] - [[大阪府北部地震]]が発生し、市内各所で震度5強や5弱の揺れを観測した。
==== 令和 ====
* [[2023年]](令和5年)[[3月27日]] - [[文化庁]]が市内へ移転。[[日本の行政機関|中央省庁]]の京都移転は明治以来初<ref>{{Cite news|title=文化庁、京都の新庁舎で業務スタート…明治以来初めての中央省庁の地方移転|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230327-OYT1T50053/|newspaper=読売新聞|date=2023-03-27}}</ref>。
== 政治 ==
[[ファイル:Emblem of Kyoto, Kyoto (abbreviated).svg|130px|thumb|京都市略章]]
[[ファイル:Jidai Matsuri 2009 029.jpg|thumb|[[時代祭]]の行列に参加する[[門川大作]][[京都市長]](左)と[[山田啓二]][[京都府知事]](右)(写真は2009年の様子。肩書はいずれも当時)]]
=== 行政 ===
{{Main|京都市役所}}
==== 財政 ====
{{Main|京都市役所#財政}}
[[京都市役所#財政|財政]]は、[[2008年]](平成20年)7月23日に[[門川大作]]市長が同市の都市経営戦略会議で2011年度の実質赤字比率が推計で27%に達する見通しを発表し、[[財政再建団体]]への転落を示唆した<ref>[https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000133491.html 京都未来まちづくりプラン] - 京都市</ref>。行財政改革により2010年度から黒字が続いたが、2020年、基金が2026年度に払底し2028年度に[[財政再生団体]]に指定される財政破綻の恐れがあることを公表した<ref>{{Cite news|title=京都市、28年度にも財政破綻の恐れ…来年度の財源不足500億に|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20201201-OYT1T50242/|newspaper=読売新聞|date=2020-12-02}}</ref>。しかし2022年、税収や国からの地方交付税が大幅に伸びたことから、一般財源の収支均衡を22年ぶりに達成。市長は財政破綻はしないと言明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/968370 |title=「京都市は破綻しない」 門川大作市長が会見、市税が過去最高「財政難克服に道筋」 |publisher=京都新聞 |date=2023-02-06 |accessdate=2023-02-11}}</ref>。
京都市は日本有数の歴史的都市であるにもかかわらず、20世紀末から[[財政]]状態の不健全性が指摘されている<ref>[https://www.city.kyoto.lg.jp/gyozai/page/0000276230.html 本市の財政状況]</ref>。要因として、少ない税収(住民税)、市営交通の敬老パス費用や地下鉄建設費の増加<ref>{{Cite news|title=【大都市考 苦境の京都】<2> 窮状招いた先送り体質 手厚いサービス 膨らむ支出|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20220924-OYO1T50021/|newspaper=読売新聞|date=2022-09-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220924212423/https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20220924-OYO1T50021/|archivedate=2022-09-25}}</ref>、{{要出典|範囲=300種類以上の借入金|date=2023年4月}}などが挙げられる。なお2022年時点で市職員給与の[[ラスパイレス指数]]は国家公務員を下回る<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei12_02000129.html |title=令和4年地方公務員給与実態調査結果等の概要 |publisher=総務省 |date=2022-12-26 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。また京都市の人口構成の特徴として学生である20代前半の比率が高いことが挙げられるが、学生は非労働力人口であることも影響し、総人口に占める納税義務者割合は43.8%と政令市平均(48.4%)よりも低く、全政令市中で最下位レベルであることも財政悪化の原因の一つとなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kyoto.lg.jp/gyozai/cmsfiles/contents/0000315/315897/R04kessandatesyu.pdf |title=令和4年度決算参考データ集 |publisher=京都市 |accessdate=2023-11-11}}</ref>。
他の自治体との比較では、1人当たりの債務に着目して作成されたランキングで全国の自治体のうち2021年度末にワースト7位とする例などがある<ref>{{Cite news |url=https://president.jp/articles/-/65582 |title=3位は北九州市、2位は士別市、1位は…「2022年貧乏自治体ランキング」市区編ワースト200 |author=磯道真 |newspaper=プレジデントオンライン |date=2023-01-20}}</ref>。
==== 市長 ====
{{Main|京都市長}}
* 現職[[市町村長|市長]] - [[門川大作]](かどかわ だいさく)
==== シンボルカラー ====
京都市の公式サイト「[http://www.city.kyoto.jp/ 京都市情報館]」の外郭色は[[紫]]である。
=== 議会 ===
[[ファイル:Jidai Matsuri 2009 025.jpg|thumb|right|市内で行われる[[時代祭]]には、議長や副議長も歴史的な衣装をまとって参加する(写真は2009年の様子。右から繁隆夫市会議長と安孫子和子市会副議長。肩書はいずれも当時)]]
京都市では慣例により市議会を'''市会'''と呼称する。これは[[大阪市|大阪]]、[[神戸市|神戸]]、[[横浜市|横浜]]、[[名古屋市|名古屋]]の各市でも同様である。
==== 市会 ====
{{main|京都市会}}
議員定数は67人である。
* 議長(第85代):田中明秀(所属会派:自由民主党京都市会議員団、[[2021年]](令和3年)[[5月20日]]就任)
* 副議長(第91代):吉田孝雄(所属会派:公明党京都市会議員団、2021年(令和3年)5月20日就任)
;会派構成
{|border="1" frame="box" rules="all" cellspacing="0" cellpadding="3"
|-style="background:#eee"
!会派名!!議員数!!所属党派
|-
|自由民主党京都市会議員団||22||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
|-
|日本共産党京都市会議員団||18||[[日本共産党]]
|-
|公明党京都市会議員団||10||[[公明党]]
|-
|民主・市民フォーラム京都市会議員団||6||[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]・[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]
|-
|地域政党京都党市会議員団||5||[[地域政党]][[京都党]]
|-
|日本維新の会京都市会議員団||4||[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]
|-
|無所属||1||[[無所属]]
|-
|欠員||1||
|}
※ 2020年(令和2年)6月8日現在。
====府議会====
{{main|京都府議会}}
;京都市選出
* 定数:34名
* 任期:2019年(令和元年)5月18日〜2023年(令和5年)5月17日
{|class="wikitable" style="font-size:smaller"
!選挙区!!氏名!!会派名!!備考
|-
|rowspan="3"|[[北区 (京都市)|北区]] (3)||岸本裕一||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]京都府議会議員団||
|-
||浜田良之||[[日本共産党]]京都府議会議員団||
|-
||平井斉己||府民クラブ京都府議会議員団||所属党派は[[無所属]]
|-
| rowspan="2"|[[上京区]] (2)||迫祐仁||日本共産党京都府議会議員団||
|-
||宮下友紀子|| 自由民主党京都府議会議員団||
|-
|rowspan="3"|[[左京区]] (3)||石田宗久||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||北岡千はる||府民クラブ京都府議会議員団||所属党派は[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]
|-
||光永敦彦||日本共産党京都府議会議員団||
|-
|rowspan="3"|[[中京区]] (3)||青木義照||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||田中健志||府民クラブ京都府議会議員団||所属党派は[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]
|-
||原田完||日本共産党京都府議会議員団||
|-
||[[東山区]] (1)||[[荒巻隆三]]||自由民主党京都府議会議員団||
|-
|rowspan="3"|[[山科区]] (3)||菅谷寛志||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||梶原英樹||府民クラブ京都府議会議員団||所属党派は国民民主党
|-
||林正樹||[[公明党]]京都府議会議員団||
|-
|rowspan="2"|[[下京区]] (2)||小巻實司||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||西脇郁子||日本共産党京都府議会議員団||
|-
|rowspan="3"|[[南区 (京都市)|南区]] (3)||秋田公司||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||小鍛治義広||公明党京都府議会議員団||
|-
||山内佳子||日本共産党京都府議会議員団||
|-
|rowspan="5"|[[右京区]] (5)||二之湯真士||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||岡本和德||府民クラブ京都府議会議員団||所属党派は無所属
|-
||諸岡美津||公明党京都府議会議員団||
|-
||島田敬子||日本共産党京都府議会議員団||
|-
||北原慎治||自由民主党京都府議会議員団||
|-
|rowspan="3"|[[西京区]] (3)||近藤永太郎||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||成宮真理子||日本共産党京都府議会議員団||
|-
||畑本久仁枝||[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]京都府議会議員団||
|-
|rowspan="6"|[[伏見区]] (6)||山口勝||公明党京都府議会議員団||
|-
||渡辺邦子||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||前波健史||自由民主党京都府議会議員団||
|-
||馬場紘平||日本共産党京都府議会議員団||
|-
||上倉淑敬||日本維新の会京都府議会議員団||
|-
||西山頌秀||日本共産党京都府議会議員団||
|}
====国会====
;衆議院
* 任期:2021年(令和3年)10月31日〜2025年(令和7年)10月30日(「[[第49回衆議院議員総選挙]]」参照)
{|class="wikitable"
!選挙区!!議員名!!党派名!!当選回数!!備考
|-
|rowspan="3"|[[京都府第1区]]([[北区 (京都市)|北区]]、[[上京区]]、[[中京区]]、[[下京区]]、[[南区 (京都市)|南区]])||[[勝目康]]||[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]||align="center"|1||選挙区
|-
|[[穀田恵二]]||[[日本共産党]]||align="center"|10||比例復活
|-
|[[堀場幸子]]||[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]||align="center"|1||比例復活
|-
|[[京都府第2区]]([[左京区]]、[[東山区]]、[[山科区]])||[[前原誠司]]||[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]||align="center"|10||選挙区
|-
|[[京都府第3区]]([[伏見区]]など)||[[泉健太]]||[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]||align="center"|8||選挙区
|-
|rowspan="2"|[[京都府第4区]]([[右京区]]、[[西京区]]など)||[[北神圭朗]]||[[無所属]]||align="center"|4||選挙区
|-
|[[田中英之]]||自由民主党||align="center"|4||比例復活
|}
===条例===
====街並み・景観保全====
[[ファイル:JP-Kyoto-Gion-Area-Street-Night-View.jpg|thumb|200px|right|[[祇園甲部]]]]
[[ファイル:Entsuji Kyoto02s5.jpg|thumb|200px|left|[[円通寺 (京都市左京区)|円通寺]]からの眺め]]
[[ファイル:Sukiya Karasuma-Shichijo.jpg|thumb|200px|景観に配慮した看板の[[すき家]]]]
京都市は、第二次世界大戦後になると社会の変化や経済優先の政策、[[モダニズム建築]]の台頭により徐々に伝統の景観が破壊され、これに対して景観論争がたびたび起こっている。
[[1964年]](昭和39年)に建造された[[京都タワー]]は、京都の「第1次景観論争」を引き起こした。また1970年代の経済成長期には、[[風致地区]]や[[美観地区]]など戦前から継続的になされている景観保護の施策があるにもかかわらず、[[1950年]](昭和25年)に制定された[[建築基準法]]により伝統工法が違法となったほか、バブル期には多くの建て替えにより[[京町家]]による街並みが徐々に壊されていった。これは「第2次景観論争」といわれている。
山並みも京都の都市景観の重要な要素である。山間地での開発は概ね抑制されているが、[[1990年代]]には市内の高層建築によって山への眺望景観が阻害されることになった。
2004年の[[景観法]]制定により、これまでの景観条例に実効性・強制力を持たせることが可能となり、[[2007年]]には新しい景観政策が施行された。新しい景観政策では、建造物の高さ、デザイン、色などの規制がより強化された。中心市街地でも、建てられる建造物の高さは幹線道路沿いで最大31メートル、それ以外の職住共存地区では最大15メートルとなった。
市街地のほぼ全域に指定されている[[景観地区]]では、その地域ごとにデザインの規制がされ、厳しい地区では屋根の形状が「切妻、寄棟、入母屋」であること、屋根の葺き方が「日本瓦又は銅板」であること、屋根の勾配の比率が一定以上一定以下であることなどのかなり具体的な規制に服することになる。建築物を建築など(増改築を含む)する際には、こうした具体的な基準に適合しているかどうか、市長の認定を受けなければならない。
また、眺望景観保全地域として、[[東寺]]、[[清水寺]]などからの境内の眺めや、[[円通寺 (京都市左京区)|円通寺]]などからの庭園の眺め、[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]からの大文字の眺めなど、38箇所からの眺望を指定し、その周辺をデザイン保全区域として、標高規制やデザインの規制がされる。
広告物についても、屋上広告物や点滅式照明は市内全域で禁止されているほか、都市景観を乱す恐れのある派手な広告看板は地域によって使える色や大きさが規制されている。日本全国に展開するチェーン店鋪の看板も、鮮やかな[[コーポレートカラー]]の使用を控え、他の地域とは異なる比較的地味な配色を採用する事例が多い<ref>[http://eimaru.ld.infoseek.co.jp/mytown-talk/kanban.htm 49のソコヂカラ・「シンプルイズベスト」の項]{{リンク切れ|date=2020-10}}</ref>。一例として、飲食チェーンでは[[マクドナルド]]や[[すき家]]は他地域で紅系統を使用しているが、市内では赤褐色を使用している。小売店では、市内の[[ローソン]]の一部では看板の青地の表示面積を少なくしているほか、ガソリンスタンドの[[JX日鉱日石エネルギー|ENEOS]]は赤系統が採用された店舗用[[ロゴタイプ]]を使用していない。金融機関では、メガバンクの[[三菱UFJ銀行]]や[[みずほ銀行]]では本来の地色を使用せず、白地にそれぞれのコーポレートカラーの文字色を配したものを使用している。しかし改修費用の問題もあり、一部に違反状態が残る<ref>{{Cite news
|url= http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20140528000022
|title = 違反看板ゼロ正念場 京都市条例9月完全施行
|newspaper = 京都新聞
|date = 2014-05-28
}}</ref>。屋外広告物条例は2014年9月に経過措置期間が終了し完全施行された。
また、[[重要伝統的建造物群保存地区]]をはじめとして市内には木造建築物や細街路が多い。そのための防火対策が進められ、年間の火災発生は200件台で人口当たり件数が全国平均より少ない。火災未満の事象も[[京都市消防局]]では無損事故として取り扱い、防火活動に役立てられている。
=== 対外関係 ===
[[File:Kokoka京都市国際交流会館.jpg|thumb|200px|[[京都市国際交流会館]]]]
==== 姉妹都市・提携都市 ====
=====国内=====
日本国内の自治体との間で各種の交流を行い、協定を結んでいる。次に示すほか、複数の自治体の間で交流を謳った共同宣言に、[[坂本龍馬|龍馬]]の絆で結ぶ都市間交流宣言(2014年)と[[西郷菊次郎]]翁を縁とした交流宣言(2018年)がある<ref>{{Cite news |title=都市間交流宣言:龍馬の絆で結ぶ協定 全国8市区、観光・防災で交流へ |url=http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20141116ddlk26040311000c.html |date=2014-11-16 |newspaper=毎日新聞 |archiveurl=https://archive.fo/dWs14 |archivedate=2015-07-06}}</ref><ref name="西郷ゆかりの5自治体が交流連携 龍郷町で共同宣言"/>。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
! 自治体名 !! 県名 !! 地方名 !! 提携日 !! 提携名
|-
|[[会津若松市]]
|{{Flagicon|福島県}}[[福島県]]
|[[東北地方]]
|[[2012年]]([[平成]]24年)[[3月20日]]
|相互交流宣言<ref>[https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2011113000069/ 相互交流宣言(京都市)] - 会津若松市</ref>
|-
|[[大津市]]
|{{Flagicon|滋賀県}}[[滋賀県]]
|[[近畿地方]]
|[[2012年]](平成24年)[[5月28日]]
|みやこサミット宣言<ref name="miyakosummit">[https://www.city.otsu.lg.jp/shisei/mayor/diary/h24/1390357123901.html 越市長のスマイル日記(平成24年5月)-みやこサミット交流宣言]{{リンク切れ|date=2021年6月}}</ref>
|-
|[[奈良市]]
|{{Flagicon|奈良県}}[[奈良県]]
|[[近畿地方]]
|[[2012年]](平成24年)[[5月28日]]
|みやこサミット宣言<ref name="miyakosummit"/>
|-
|[[新潟市]]
|{{Flagicon|新潟県}}[[新潟県]]
|[[中部地方]]
|[[2013年]](平成25年)[[3月26日]]
|観光・文化交流宣言<ref>[https://www.city.niigata.lg.jp/smph/kanko/kanko/renkeiichiran2020.html 他都市等との観光交流] - 新潟市</ref>
|-
|[[向日市]]
|{{Flagicon|京都府}}[[京都府]]
|[[近畿地方]]
|[[2014年]](平成26年)[[10月15日]]
|相互交流宣言<ref>[https://www.city.muko.kyoto.jp/kurashi/shisei/gaiyo/3/1449541425809.html 姉妹・友好交流都市] - 向日市</ref>
|-
|[[宇治市]]
|{{Flagicon|京都府}}[[京都府]]
|[[近畿地方]]
|[[2015年]](平成27年)[[12月22日]]
|観光振興と安心安全に関する連携協定<ref>[https://www.city.uji.kyoto.jp/site/uji-kankou/3976.html 公衆無線LAN KYOTO Wi-Fiが使えるようになりました!!] - 宇治市</ref>
|}
=====海外=====
姉妹都市やパートナーシティの提携を自治体間で結び、諸分野で交流が進められている<ref>{{Cite web|url = https://www1.g-reiki.net/kyoto/reiki_honbun/k102RG00000039.html|title = 京都市例規集 姉妹都市盟約宣言|accessdate = 2015-07-06}}</ref><ref>[https://www.city.kyoto.lg.jp/menu5/category/67-2-0-0-0-0-0-0-0-0.html 友好都市・世界歴史都市連盟] - 京都市</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
! 自治体名 !! 国名 !! 地域名 !! 提携日 !! 提携名
|-
|[[パリ|パリ市]]
|{{Flagicon|FRA}}[[フランス共和国]]
|[[イル=ド=フランス地域圏|イル・ド・フランス地方]]
|[[1958年]](昭和33年)[[6月15日]]
|友情盟約宣言
|-
|[[ボストン|ボストン市]]
|{{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国]]
|[[マサチューセッツ州]]
|[[1959年]](昭和34年)[[6月24日]]
|姉妹都市盟約宣言
|-
|[[ケルン|ケルン市]]
|{{Flagicon|GER}}[[ドイツ連邦共和国]]
|[[ノルトライン=ヴェストファーレン州|ノルトライン・ヴェストファリア州]]
|[[1963年]](昭和38年)[[5月29日]]
|姉妹都市盟約宣言
|-
|[[フィレンツェ|フィレンツェ市]]
|{{Flagicon|ITA}}[[イタリア共和国]]
|[[トスカーナ州]]
|[[1965年]](昭和40年)[[9月22日]]
|姉妹都市盟約宣言
|-
|[[キーウ|キーウ市]]
|{{Flagicon|UKR}}[[ウクライナ|ウクライナ国]]
|[[キーウ州]] [[ウクライナの地方行政区画#ウクライナの地方行政区画|特別市]]
|[[1971年]](昭和46年)[[9月7日]]
|姉妹都市宣言
|-
|[[西安市]]
|{{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]]
|[[陝西省]]
|[[1974年]](昭和49年)[[5月10日]]
|友好都市
|-
|[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ市]]
|{{Flagicon|MEX}}[[メキシコ合衆国]]
|[[ハリスコ州]]
|[[1980年]](昭和55年)[[10月20日]]
|姉妹都市盟約
|-
|[[ザグレブ|ザグレブ市]]
|{{Flagicon|CRO}}[[クロアチア共和国]]
|[[ザグレブ郡]]
|[[1981年]](昭和56年)[[10月22日]]
|姉妹都市盟約
|-
|[[プラハ|プラハ市]]
|{{Flagicon|CZE}}[[チェコ共和国]]
|[[チェコの地域区分|プラハ州]]
|[[1996年]](平成8年)[[4月15日]]
|姉妹都市盟約
|-
|[[晋州市 (慶尚南道)|晋州市]]
|{{Flagicon|KOR}}[[大韓民国]]
|[[慶尚南道]]
|[[1999年]](平成11年)[[4月27日]]
|パートナーシティ(学術、教育)
|-
|[[コンヤ|コンヤ市]]
|{{Flagicon|TUR}}[[トルコ共和国]]
|[[コンヤ県]]
|[[2009年]](平成21年)[[12月12日]]
|パートナーシティ(文化、芸術)
|-
|[[青島市]]
|{{Flagicon|CHN}}[[中華人民共和国]]
|[[山東省]]
|[[2012年]](平成24年)[[8月26日]]
|パートナーシティ(経済、環境、文化、スポーツ、教育)
|-
|[[フエ|フエ市]]
|{{Flagicon|VNM}}[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]
|[[トゥアティエン=フエ省|トゥアティエン・フエ省]]
|[[2013年]](平成25年)[[2月20日]]
|パートナーシティ(学術、教育、福祉)
|-
|[[イスタンブール|イスタンブール市]]
|{{Flagicon|TUR}}[[トルコ共和国]]
|[[イスタンブール県]]
|[[2013年]](平成25年)[[6月14日]]
|パートナーシティ(学術研究、教育)
|-
|[[ワーラーナシー|ワーラーナシー市]]
|{{Flagicon|IND}}[[インド共和国]]
|[[ウッタル・プラデーシュ州]]
|[[2014年]](平成26年)[[8月30日]]
|パートナーシティ(文化、芸術、学術、文化財保護、都市現代化)<ref>{{Cite web|和書|title = 日・インド両首脳による京都訪問|url = https://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/actions/201408/30_31kyouto.html|date = 2014-08-31|publisher = 首相官邸|accessdate = 2019-09-07}}</ref>
|-
|[[ヴィエンチャン|ヴィエンチャン市]]
|{{Flagicon|LAO}}[[ラオス人民民主共和国]]
|[[ヴィエンチャン都]]
|[[2015年]](平成27年)[[11月3日]]
|パートナーシティ(学術研究)
|-
|[[宜蘭市]]
|{{Flagicon|TWN}}[[中華民国]]([[台湾]])
|[[宜蘭県]]
|[[2018年]](平成30年)[[8月19日]]
|西郷菊次郎翁を縁とした交流宣言<ref name="西郷ゆかりの5自治体が交流連携 龍郷町で共同宣言">{{Cite news|url=http://www.nankainn.com/local/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%EF%BC%95%E8%87%AA%E6%B2%BB%E4%BD%93%E3%81%8C%E4%BA%A4%E6%B5%81%E9%80%A3%E6%90%BA%E3%80%80%E9%BE%8D%E9%83%B7%E7%94%BA%E3%81%A7%E5%85%B1%E5%90%8C|title=西郷ゆかりの5自治体が交流連携 龍郷町で共同宣言|newspaper=南海日日新聞|date=2018-08-20}}</ref>
|-
|[[台南市]]
|{{Flagicon|TWN}}[[中華民国]]([[台湾]])
|[[直轄市 (中華民国)|直轄市]]
|[[2021年]](令和3年)[[6月30日]]
|台南市との交流推進協定締結式について<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000286500.html|title = 台南市との交流推進協定締結式について|accessdate = 2021-07-01}}</ref>
|}
==== 加盟組織 ====
[[関西広域連合]]、[[小京都|全国京都会議]]、[[イクレイ]]、[[世界歴史都市連盟]]などの自治体の連携組織に参加している。
{{See|京都市役所#自治体間連携}}
==官公庁・施設==
===国家機関===
市内には[[文化庁]]、[[京都迎賓館]]、[[近畿農政局]]などの行政機関がある。主な[[日本の国家機関|国家機関]]などは以下の通り<ref>[https://www.soumu.go.jp/kanku/kinki/02kanku05_03000025.html 総務省|近畿管区行政評価局|管内行政機関等連絡先一覧]</ref>。
{| class="wikitable" style="float:left;font-size:smaller;"
|+ 行政機関
! colspan="4" | 行政機関名
|-
| colspan="2" style="border-bottom:none;" | [[内閣府]]
| colspan="2" | 京都迎賓館
|-
| rowspan="5" style="border-top:none;" | || rowspan="3" | [[宮内庁]] || colspan="2" | [[宮内庁京都事務所|京都事務所]]
|-
| rowspan="2" | [[宮内庁書陵部|書陵部]] || 桃山陵墓監区事務所
|-
| 月輪陵墓監区事務所
|-
| rowspan="2" | [[警察庁]] || colspan="2" | [[皇宮警察本部]] 京都護衛署
|-
| colspan="2" | [[近畿管区警察局]] 京都府情報通信部
|-
| colspan="2" | [[総務省]]
| colspan="2" | 近畿[[管区行政評価局]] 京都行政監視行政相談センター
|-
| rowspan="5" colspan="2" style="border-bottom:none;" | [[法務省]]
| colspan="2" | [[大阪法務局#京都地方法務局|京都地方法務局]]
|-
| rowspan="3" | [[大阪矯正管区]] || [[京都刑務所]]
|-
| 京都[[拘置所]]
|-
| 京都[[少年鑑別所]]
|-
| colspan="2" | 京都[[保護観察所]]
|-
| rowspan="3" style="border-top:none;" |
| [[出入国在留管理庁]] || colspan="2" | [[大阪出入国在留管理局]] 京都出張所
|-
| [[検察庁]] || colspan="2" | [[京都地方検察庁]]
|-
| [[公安調査庁]] || colspan="2" | 近畿[[公安調査局]] 京都公安調査事務所
|-
| rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:none;" | [[財務省]]
| colspan="2" | [[近畿財務局]] 京都財務事務所
|-
| colspan="2" | [[大阪税関]] 京都税関支署
|-
| style="border-top:none;" |
| [[国税庁]] || colspan="2" | 大阪[[国税不服審判所]] 京都支所
|-
| [[文部科学省]]
| colspan="3" | [[文化庁]]
|-
| rowspan="2" colspan="2" | [[厚生労働省]]
| colspan="2" | [[近畿厚生局]] 京都事務所
|-
| colspan="2" | [[京都労働局]]
|-
| colspan="2" style="border-bottom:none;" | [[農林水産省]]
| colspan="2" | 近畿農政局
|-
| style="border-top:none;" |
| [[林野庁]] || colspan="2" | [[近畿中国森林管理局]] 京都大阪森林管理事務所
|-
| rowspan="4" colspan="2" style="border-bottom:none;" | [[国土交通省]]
| rowspan="3" | [[近畿地方整備局]] || 京都国道事務所
|-
| 京都営繕事務所
|-
| 淀川河川事務所出張所(2か所)
|-
| colspan="2" | [[近畿運輸局]] [[京都運輸支局]]
|-
| style="border-top:none;" |
| [[気象庁]] || colspan="2" | [[大阪管区気象台]] 京都[[地方気象台]]
|-
| colspan="2" | [[環境省]]
| colspan="2" | [[京都御苑]]管理事務所
|-
| rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:none;" | [[防衛省]]
| colspan="2" | [[近畿中部防衛局]] 京都防衛事務所
|-
| colspan="2" | [[自衛隊京都地方協力本部]]
|-
| style="border-top:none;" |
| [[陸上自衛隊]] || colspan="2" | [[桂駐屯地]]
|}
{| class="wikitable" style="float:left;font-size:smaller;"
|+ 司法機関
! colspan="2" | 司法機関名
|-
| rowspan="5" | [[日本の裁判所|裁判所]]
| [[京都地方裁判所]]
|-
| [[京都簡易裁判所]]
|-
| [[伏見簡易裁判所]]
|-
| [[右京簡易裁判所]]
|-
| [[京都家庭裁判所]]
|}
{| class="wikitable" style="float:left;font-size:smaller;"
|+ 独立行政法人など
! 所管省庁名 !! colspan="2" | 機関名
|-
| 外務省
| colspan="2" | [[国際交流基金]] 京都支部
|-
| rowspan="2" | 農林水産省
| rowspan="2" | [[森林研究・整備機構]]
| 森林総合研究所 関西支所
|-
| 森林整備センター 近畿北陸整備局
|}
{{Clear}}
===外国関連施設===
[[File:Kyoto International Conference Center Garden 20190330 04.jpg|thumb|200px|[[国立京都国際会館]]]]
====領事館====
;{{Visible anchor|総領事館}}<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/link/emblist/index.html 駐日外国公館リスト]</ref>
*{{Flagicon|FRA}}[[在京都フランス総領事館|在京都フランス共和国総領事館]]([[左京区]])
;{{Visible anchor|名誉総領事館}}
{{div col|colwidth = 30em}}
*{{Flagicon|ICE}}在京都[[アイスランド共和国]]名誉総領事館([[中京区]])
*{{Flagicon|NCA}}在京都[[ニカラグア共和国]]名誉総領事館([[右京区]])
{{div col end}}
;{{Visible anchor|名誉領事館}}
{{div col|colwidth = 30em}}
*{{Flagicon|GUA}}在京都[[グアテマラ共和国]]名誉領事館(右京区)
*{{Flagicon|PAR}}在京都[[パラグアイ共和国]]名誉領事館([[伏見区]])
*{{Flagicon|PER}}在京都[[ペルー共和国]]名誉領事館([[上京区]])
*{{Flagicon|BEL}}在京都[[ベルギー王国]]名誉領事館(中京区)
*{{Flagicon|POR}}在京都[[ポルトガル共和国]]名誉領事館([[北区 (京都市)|北区]])
*{{Flagicon|MLT}}在京都[[マルタ共和国]]名誉領事館(下京区)
*{{Flagicon|MEX}}在京都[[メキシコ合衆国]]名誉領事館(右京区)
*{{Flagicon|LAO}}在京都[[ラオス人民民主共和国]]名誉領事館(下京区)
*{{Flagicon|LUX}}在京都[[ルクセンブルク大公国]]名誉領事館(中京区)
{{div col end}}
==== 外国政府関連機関====
{{div col|colwidth = 30em}}
*{{Flagicon|FRA}}[[アンスティチュ・フランセ日本|アンスティチュ・フランセ関西京都]]
*{{Flagicon|FRA}}[[ヴィラ九条山]]
*{{Flagicon|FRA}}[[フランス極東学院]]京都支部
*{{Flagicon|GER}}[[ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川]]
*{{Flagicon|ITA}}[[イタリア東方学研究所]]
*{{Flagicon|KOR}}[[在日本大韓民国民団]]京都本部
*{{Flagicon|PRK}}[[在日本朝鮮人総聯合会]]京都府本部
*{{flagicon|ROC}}[[中華民国]]留日京都[[華僑]]総会
*{{Flagicon|TUR}}[[日本とトルコの関係#文化・経済交流|日本トルコ文化協会]]
{{div col end}}
===警察===
[[File:KyotoPrefPoliceHQ2020.jpg|thumb|200px|[[京都府警察|京都府警察本部庁舎]]]]
;本部
*[[京都府警察]]
;警察署
{| class="wikitable"
!※
!地域
!警察署名称
!colspan="2"|所在地
!colspan="2"|管轄区域
!前身
|-
|colspan="2" rowspan="12"|京都
|[[川端警察署]]
|style="width:1em;" rowspan="12"|京都市
|左京区[[岡崎 (京都市)|岡崎]]徳成町
|style="width:1em;" rowspan="12"|'''京都市'''
|[[左京区]]の南部
|
|-
|[[上京警察署]]
|上京区[[御前通]][[今小路通|今小路]]下ル馬喰町
|[[上京区]]
|西陣警察署<br />中立売警察署
|-
|[[東山警察署]]
|東山区清水
|[[東山区]]
|松原警察署
|-
|[[中京警察署]]
|中京区[[壬生 (京都市)|壬生]]坊城町
|[[中京区]]
|堀川警察署<br />五条警察署
|-
|[[下京警察署]]
|下京区[[烏丸通]][[高辻通|高辻]]上る大政所町
|[[下京区]]
|五条警察署<br />七条警察署
|-
|[[下鴨警察署]]
|左京区[[田中村 (京都府)|田中]]馬場町
|左京区の中北部
|
|-
|[[伏見警察署]]
|伏見区下[[鳥羽 (洛外)|鳥羽]]浄春ケ前町
|[[伏見区]](一部を除く)、[[八幡市]]の一部
|
|-
|[[山科警察署]]
|山科区大宅神納町
|[[山科区]]、伏見区の一部
|
|-
|[[右京警察署]]
|右京区[[太秦]]蜂岡町
|[[右京区]]
|太秦警察署
|-
|[[南警察署 (京都府)|南警察署]]
|南区西九条森本町
|[[南区 (京都市)|南区]]
|九条警察署
|-
|[[北警察署 (京都府)|北警察署]]
|北区紫竹東桃ノ本町
|[[北区 (京都市)|北区]]
|上鴨警察署
|-
|[[西京警察署]]
|西京区山田大吉見町
|[[西京区]]
|桂警察署
|}
===消防===
[[File:Kyoto Fire Station (1992-10 by sodai-gomi).jpg|thumb|200px|[[京都市消防局]]]]
;本部
*[[京都市消防局]]
;消防署
{|class="wikitable"
|-align="center"
!style="background-color: #ccc;"|消防署
!住所
!分署
!出張所
|-
|style="background-color: #ccc;"|北消防署
|[[北区 (京都市)|北区]]大宮西脇台町17番地の2
|なし
|'''大徳寺''':北区紫野大徳寺町88<br/>'''紫明''':北区小山南上総町1-1<br />'''中川''':北区中川北山町48-2
|-
|style="background-color: #ccc;"|上京消防署
|[[上京区]][[釜座通]][[下立売通|下立売]]下る東裏辻町398
|なし
|'''北野''':上京区[[今小路通]][[御前通|御前]]西入紙屋川町870
|-
|style="background-color: #ccc;"|左京消防署
|[[左京区]][[田中 (京都市)|田中]]西大久保町36
|なし
|'''岡崎''':左京区[[岡崎 (京都市)|岡崎]]円勝寺町23-1<br />'''鹿ケ谷''':左京区鹿ケ谷上宮ノ前町37<br />'''岩倉''':左京区[[岩倉 (京都市)|岩倉]]幡枝町1204<br />'''修学院''':左京区修学院大林町13-8<br />'''大原''':左京区[[大原 (京都市)|大原]]大長瀬町179-2<br />'''鞍馬''':左京区鞍馬[[貴船|貴船町]]5-2
'''花背''':左京区花脊八桝町1-1
|-
|style="background-color: #ccc;"|中京消防署
|[[中京区]][[堀川通|西堀川通]][[御池通|御池]]下ル西三坊町521
|なし
|'''寺町''':中京区[[押小路通]][[寺町通|寺町]]東入榎木町101<br />'''京都市立病院''':中京区[[壬生 (京都市)|壬生]]東高田町1-2<br />'''西大路''':中京区[[西ノ京 (京都市)|西ノ京]]東中合町45
|-
|style="background-color: #ccc;"|東山消防署
|[[東山区]]清水5-130-8
|なし
|'''泉涌寺''':東山区泉涌寺五葉ノ辻町13-2
|-
|style="background-color: #ccc;"|山科消防署
|[[山科区]]西野今屋敷町2-10
|なし
|'''西勧修寺''':伏見区深草神明講谷町2番地の1<ref>{{Cite web|和書|title=H31.1.27 西勧修寺消防出張所が運用を開始しました! |url=https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000247612.html |publisher=京都市消防局 |date=2019-02-28 |accessdate=2022-10-13}}</ref><ref group="*">庁舎は伏見区内だが、管轄区域は引き続き山科区勧修寺地域。名称は「勧修寺地域の西隣」に由来。</ref><br />'''大塚''':山科区大塚北溝町23-1
|-
|style="background-color: #ccc;"|下京消防署
|[[下京区]][[五条通]][[高倉通|高倉]]西入堺町27番地
|なし
|'''塩小路''':下京区上之町13番地<br />'''中堂寺''':下京区中堂寺北町71
|-
|style="background-color: #ccc;"|南消防署
|[[南区 (京都市)|南区]]西九条菅田町4-1
|なし
|'''京都駅西''':南区西九条戒光寺町2番地<br />'''吉祥院''':南区吉祥院御池町6<br />'''西八条''':南区吉祥院西ノ庄淵ノ西町42<br />'''久世''':南区[[久世 (京都市)|久世]]中久世町2-129-2
|-
|style="background-color: #ccc;"|右京消防署
|[[右京区]][[太秦]]蜂岡町36
|なし
|'''嵯峨''':右京区嵯峨天竜寺今堀町1<br />'''梅津''':右京区梅津高畝町46<br />'''御室''':右京区[[御室]]大内35-1<br />'''京北''':右京区[[京北町|京北]]下中町勝山田8
|-
|style="background-color: #ccc;"|西京消防署
|[[西京区]]樫原佃19
|なし
|'''桂''':西京区桂市ノ前町12<br />'''松尾''':西京区松尾木ノ曽町59-6<br />'''洛西''':西京区大枝東新林町2-4
|-
|style="background-color: #ccc;"|伏見消防署
|[[伏見区]]竹田七瀬川町9-1
|'''醍醐''':伏見区醍醐大構町28
|'''南浜''':伏見区南浜町273-2<br />'''淀''':伏見区[[淀]]池上町197<br />'''神川''':伏見区久我森の宮町14-27<br />'''向島''':伏見区[[向島 (伏見区)|向島]]四ツ谷池7-10<br />'''山ノ下''':伏見区桃山町山ノ下44-5
|}
===医療・福祉===
[[File:Kyoto Medical Center.jpg|thumb|200px|[[京都医療センター]]]]
{{See also|Category:京都市の医療機関}}
;主な病院
*[[上京診療所]]
*[[川越病院]]
*[[吉祥院病院]]
*[[京都桂病院]]
*[[京都からすま病院]]
*[[地域医療機能推進機構京都鞍馬口医療センター]]
*[[京都市立病院]]
*[[京都市立京北病院]]
*[[京都第一赤十字病院]](東山日赤)
*[[京都第二赤十字病院]](府庁前日赤)
*[[京都大学医学部附属病院]]
*[[京都新町病院]](京都逓信病院)
*[[京都府立医科大学附属病院]]
*[[京都民医連あすかい病院]]
*[[京都民医連中央病院]]
*[[国立病院機構宇多野病院]]
*[[国立病院機構京都医療センター]]
*[[武田総合病院]]
*[[武田病院]]
*[[三菱京都病院]]
*[[洛西ニュータウン病院]]
*[[洛和会音羽病院]]
*[[洛和会東寺南病院]]
*[[洛和会丸太町病院]]
===郵便局===
[[File:Kyoto-Central-Post-Office-01.jpg|thumb|200px|[[京都中央郵便局]]]]
;主な郵便局
*[[京都中央郵便局]]
*[[右京郵便局]]
*[[京都北郵便局]]
*[[京都西郵便局]]
*[[左京郵便局]]
*[[中京郵便局]]
*[[西陣郵便局]]
*[[東山郵便局 (京都府)|東山郵便局]]
*[[伏見郵便局]]
*[[伏見東郵便局]]
*[[山科郵便局]]
*[[洛西郵便局]]
===文化施設===
[[File:Kyoto Prefectural Library 20120901-001.jpg|thumb|200px|[[京都府立図書館]]]]
[[File:Museum kyoto.jpg|thumb|200px|[[京都国立博物館]]]]
;図書館
*[[京都府立図書館]]
*[[京都市図書館]]
;博物館・美術館・資料館
:「[[#観光スポット]]」を参照。
===交流施設===
;劇場・ホール
*[[歌舞練場]]
**[[祇園甲部歌舞練場]]
**[[先斗町歌舞練場]]
*[[アートコンプレックス1928]]
*[[京都劇場]]
*[[京都コンサートホール]]
*[[京都市勧業館]]([[みやこめっせ]])
*[[京都府総合見本市会館]](京都パルスプラザ)
*[[京都府立府民ホール アルティ]]
*[[KBSホール (日本)|KBSホール]]
*[[THEATRE E9 KYOTO]]
*[[南座]]
*[[よしもと祇園花月]]([[祇園会館]])
*[[ロームシアター京都]]([[京都会館]])
===運動施設===
{{See also|Category:京都市のスポーツ施設}}
== 経済 ==
{| class="wikitable" style="float:right; text-align:right"
|+ style="white-space:nowrap" | 1人当たり総生産(名目)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/files_kenmin.html|title=県民経済計算|publisher=内閣府|accessdate=2017-10-07}}</ref>
|-
! 年度 !! 万円
|-
| 1975 || 141.6
|-
| 1980 || 233.9
|-
| 1985 || 287.0
|-
| 1990 || 386.2
|-
| 1995 || 412.3
|-
| 2000 || 418.1
|-
| 2005 || 417.0
|-
| 2010 || 405.3
|-
| 2015 || 428.4
|}
[[File:Skyline of Kyoto at Night.jpg|thumb|200px|[[京都]][[都心部]]の[[スカイライン (風景)|スカイライン]]]]
[[File:京都経済センター外観.jpg|thumb|200px|[[京都商工会議所]]などが入居する京都経済センター]]
[[2018年]](平成30年)度の市内総生産(名目)は6兆6292億円で京都府のおよそ3分の2の規模に当たる。ドルで換算すると約600億ドルであり、[[ミャンマー]]のGDPに相当する。市民所得は4兆6694億円、一人当たり318万円である。最大の産業は製造業(工業)であり、市内総生産の経済活動別シェアは製造業、不動産業、卸売・小売業、保健衛生・社会事業、専門・科学技術・業務支援サービス業の順に大きい<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Economy/Accounts/index.html|title=京都市市民経済計算|publisher=京都市|accessdate=2018-09-04}}</ref><ref>[https://kyotoshugakuryoko.jp/study/industry/ きょうと修学旅行ナビ | 歴史・文化を学ぶ | 京都の産業]</ref>。
<gallery>
Shijo Kawaramachi-2.jpg|[[繁華街]]の[[四条河原町]]
Karasuma7599.JPG|[[オフィス街]]の[[烏丸御池]]
File:DownTown of Kyoto(Karasuma).jpg|[[金融街]]の[[四条烏丸]]
</gallery>
===第一次産業===
[[File:Nishiki Ichiba by Hidehiro Komatsu in Kyoto.jpg|thumb|200px|[[錦市場]]]]
====農業====
伝統的な[[京野菜]]や全国的に有名な[[宇治茶]]などの生産が行われる。
;中央市場
*[[京都市中央卸売市場第一市場]]([[下京区]])
*[[京都市中央卸売市場第二市場]]([[南区 (京都市)|南区]])
;主な市場
*[[錦市場]]
===第二次産業===
====工業====
[[任天堂]]・[[ニデック (電機メーカー)|ニデック]]・[[島津製作所]]・[[オムロン]]などの[[精密機械]]や[[医療器具]]の生産が盛んである。南区と伏見区にまたがる高度集積地区[[らくなん進都]]などへの集積誘導がなされている。
====窯業====
かつて[[京焼]]・[[清水焼]]などの[[伝統的工芸品]]の生産が盛んであった。[[山科区]]に[[清水焼団地]]がある。
近年は[[キャンパスプラザ京都]]や[[京都リサーチパーク]]と[[産官学連携]]で研究・開発を行い、[[碍子]]や[[セラミックス]]・[[セラミックファイバー]]の生産へ転換し、[[関西電力]]などの[[電力会社]]や[[京セラ]]などのファインセラミック企業と提携していく動きが盛んである。
===第三次産業===
====商業====
[[File:Times kyoto tadao ando.jpg|thumb|200px|[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]沿いのカフェ]]
以前より緩和されてはいるが、京都における老舗や伝統的な商店を守るため大規模店舗の出店が旧市街地においては厳しく制限されている。
;都心部の主な商業施設
:[[四条烏丸]]から[[四条河原町]]、[[三条通|三条]]にかけて商業施設が集積、老舗[[百貨店]]とされる[[大丸|大丸京都店]]や[[藤井大丸]]、[[髙島屋|高島屋京都店]]が出店。全国的に見られる中心市街地の[[空洞化]]はほとんど見られず、[[JR西日本伊勢丹|JR京都伊勢丹]]、[[イオンモールKYOTO]]、[[京都ヨドバシ]]の出店により現在は[[京都駅]]前との競争が活発となる。
<gallery>
DAIMARU KYŌTO MISE.jpg |[[大丸|大丸京都店]]
Kyoto-Kawaramachi Station building at Shijo-Kawaramachi 2021-10-08.jpg|京都河原町ガーデン
FUJII DAIMARU.JPG|[[藤井大丸]]
Takashimaya-Kyoto-01.jpg|[[髙島屋|高島屋京都店]]
Kawaramachi OPA on 17th July 2023.jpg|[[OPA|河原町OPA]]
Kotocross Hankyu Kawaramachi.jpg|コトクロス阪急河原町
Mina Kyoto.jpg|[[ミーナ (商業施設)|ミーナ京都]]
Night of KyotoBAL.jpg|[[BAL|京都BAL]]
Cocon-Karasuma-01.jpg|[[COCON KARASUMA]]
Kyōto ZERO GATE.jpg|[[パルコ#現在のZERO_GATE店舗|京都ZERO GATE]]
JR-Kyoto-Isetan-01.jpg|[[JR西日本伊勢丹|JR京都伊勢丹]]
ÆON MALL KYOTO Sakura building.jpg|[[イオンモールKYOTO]]
Kyoto Yodobashi Bldg 20101106-001.jpg|[[京都ヨドバシ]]
Kyoto Porta.jpg|[[京都駅前地下街ポルタ]]
Kyoto Avanti (Redevelopment building) Kyoto, JAPAN.jpg|[[京都アバンティ]]
</gallery>
;その他の主な商業施設
{{Div col|colwidth=20em}}
* [[イオンモール京都桂川]](南区)
* [[イオンモール京都五条]](右京区)
* [[イオン洛南店]](南区)
* [[イズミヤ]]白梅町店(北区)
* [[洛北阪急スクエア]](左京区)
* [[キタオオジタウン]](北区)
* [[京都ファミリー]](右京区)
* [[ダイエー桂南店]](南区)
* [[パセオ・ダイゴロー]](伏見区)
* [[BiVi二条]](中京区)
* [[伏見大手筋商店街]](伏見区)
* [[GOOD NATURE STATION]](下京区)
{{Div col end}}
<gallery>
Katsuragawa station and AEON MALL Kyoto-Katsuragawa.JPG|[[イオンモール京都桂川]]
AEON MALL Kyotogojyo.JPG|[[イオンモール京都五条]]
ÆON Rakunan Shopping Center.jpg|[[イオン洛南店]]
Izumiya Hakubaicho.JPG|[[イズミヤ]]白梅町店
Qanat Rakuhoku 20100224-001.jpg|[[洛北阪急スクエア]]
ÆON MALL Kita-ōji.jpg|[[キタオオジタウン]]
Kyotofamily.JPG|[[京都ファミリー]]
Katsuraminami.JPG|[[ダイエー桂南店]]
Paseo daigoro west building.jpg|[[パセオ・ダイゴロー]]
BiVi Nijō.jpg|[[BiVi二条]]
Fushimi-Momoyama station.jpg|[[伏見大手筋商店街]]
</gallery>
=== ベンチャー企業 ===
京都市は、多くの大学が立地する学生の街でもあり、産官学連携が行われているベンチャー企業の街・スタートアップの街としても注目されている<ref>"[https://www.jst.go.jp/tt/journal/journal_contents/before2015/pdf/2009/0901-all.pdf 産学官連携ジャーナル2009年1月号]". 科学技術振興機構.</ref><ref>{{Cite web|和書|title=京都がスタートアップの街として注目されるワケ|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/42663|website=Forbes JAPAN|accessdate=2021-12-29}}</ref>。
=== 本社を置く主要企業 ===
;上場企業
{{div col|colwidth = 20em|small = yes}}
* [[I-PEX]]
* [[アイフル]]<!--([[消費者金融]]大手)-->
* [[エスケーエレクトロニクス]]
* [[SGホールディングス]]
* [[王将フードサービス]]
* [[オムロン]]
* [[京進]]<!--([[学習塾]])-->
* [[京セラ]]
* [[京都銀行]]
* [[京都ホテル]]
* [[クラウディアホールディングス]]<!--(ウェディングドレストップメーカー、他[[ブライダル]]事業も手掛ける)-->
* [[京福電気鉄道]]
* [[サムコ]]
* [[サンコール]]
* [[三洋化成工業]]
* [[ジーエス・ユアサコーポレーション]]<!-- - 2004年4月1日、[[日本電池]](京都市)と[[ユアサ コーポレーション]]([[高槻市]])が経営統合。-->
* [[システム ディ]]
* [[島津製作所]]
* [[JEUGIA]]
* [[松風 (京都府)|松風]]
* [[SCREENホールディングス]]
* [[第一工業製薬]]
* [[宝ホールディングス|宝ホールディングス(宝酒造)]]
* [[たけびし]]
* [[中央倉庫]]
* [[トーセ]]<!--(ゲームソフト開発)-->
* [[TOWA]]
* [[ニチコン]]
* [[ニッセンホールディングス]]<!--(カタログ販売「Nissen」)-->
* [[NISSHA]]
* [[日本新薬]]
* [[ニデック (電機メーカー)|ニデック]]
* [[任天堂]]
* [[野崎印刷紙業]]
* [[はてな (企業)|はてな]]
* [[ファーマフーズ]]
* [[ファルコホールディングス]]
* [[フェイス (企業)|フェイス]]
* [[不二電機工業]]
* [[フューチャーベンチャーキャピタル]]
* [[堀場製作所]]
* [[ムーンバット]]
* [[ヤマシナ]]
* [[ユーシン精機]]
* [[ローム]]
* [[ワコール]]
{{Div col end}}
;非上場企業
{{div col|colwidth = 20em|small = yes}}
* [[アークレイ]]
* [[イシダ]]
* [[井筒八ッ橋本舗]]
* [[イノダコーヒ]]
* [[一保堂]]
* [[一澤信三郎帆布]](しんざぶ)
* [[一澤帆布]]
* [[上原成商事]]
* [[上羽絵惣]]
* [[ウライ (呉服卸)|ウライ]]
* [[エクソル]]
* [[エフエム京都]]
* [[エムケイ (タクシー会社)|エムケイ]]
* [[小川珈琲]]
* [[オプテックス・エフエー]]
* [[オープン工業]]
* [[オンリー (企業)|オンリー]]<!--(アパレル『ONLY』「The@SUPER SUITS STORE」「INHALE+EXHALE」などを展開)-->
* [[川島織物セルコン]]
* [[黄桜]]
* [[かもがわ出版]]
* [[京都新聞|京都新聞社]]
* [[京都信用金庫]]
* [[京都中央信用金庫]]<!--([[信用金庫]]最大手)-->
* [[京都パープルサンガ]]
* [[京都放送]]
* [[月桂冠 (企業)|月桂冠]]
* [[小丸屋]]
* [[晃洋書房]]
* [[佐川急便]]
* [[佐々木酒造]]
* [[サン・クロレラ]]
* [[シーシーエス]]
* [[GK京都]]
* [[昭和堂]]
* [[人文書院]]
* [[秀和 (がま口)]]
* [[タキイ種苗]]
* [[淡交社]]
* [[つえ屋]]
* [[デグナー]]
* [[TOAI]]<!--([[ジャンボカラオケ広場]]、[[湯快リゾート]])-->
* [[ナカニシヤ出版]]
* [[日新電機]]
* [[PHP研究所]]
* [[ビデオ近畿]]
* [[ファイテン]]
* [[福田金属箔粉工業]]
* [[フジックス]]
* [[Baseconnect]]
* [[法律文化社]]
* [[ボークス]]
* [[堀金箔粉]]
* [[松原興産]]<!--(パチンコ「京一」)-->
* [[マルハン]]<!--([[パチンコ]]チェーン最大手)-->
* [[ミネルヴァ書房]]
* [[村田機械]]
* [[モリタ製作所]]
* [[ヤサカグループ]](彌榮自動車他)
* [[吉忠]]
* [[吉本 (着物クリーニング)|吉本]]([[着物]]直し)
* [[よーじや]]
* [[リカーマウンテン]]
* [[リブート (企業)|Reboot]]
* [[ルシアン (企業)|ルシアン]]
* [[ローバー都市建築事務所]]
* [[わかさ生活]]
* [[和多田印刷]]
* [[ワタベウェディング]]
{{Div col end}}
==情報・生活==
===マスメディア===
[[ファイル:Kyoto Shimbun HQ 20090418-001.jpg|thumb|京都新聞社]]
[[ファイル:Kbs-kyoto.jpg|thumb|京都放送]]
[[ファイル:NHK Kyoto Broadcasting Hall 20190202-001.jpg|thumb|NHK京都放送局]]
====新聞社====
* [[京都新聞|京都新聞社]]
* [[京都民報]]
* [[朝日新聞社]]京都総局
* [[毎日新聞社]]京都支局
* [[読売新聞大阪本社]]京都総局 - 『京都 影の権力者たち』では編者名から「大阪本社」の文字を外している。
* [[産業経済新聞社]]京都総局
* [[日本経済新聞社]]京都支社 - [[日本経済新聞大阪本社|大阪本社]]の支局扱い
====通信社====
* [[共同通信社]]京都支局
* [[時事通信社]]京都総局
====放送局====
;テレビ放送
* [[日本放送協会]] (NHK) [[NHK京都放送局|京都放送局]]
* [[京都放送]](KBS京都)- その他民放地上波TVは大阪の主要5局が放映。
;ラジオ放送
* [[エフエム京都]] (α-Station)
* [[京都コミュニティ放送]](京都三条ラジオカフェ)- [[中京区]]に所在する[[コミュニティ放送]]。[[特定非営利活動法人]](NPO法人)。
* [[京都リビングエフエム]] (FM845) - [[伏見区]]に所在するコミュニティ放送。
====出版社====
{{div col|colwidth=20em}}
* [[京都大学学術出版会]]
* [[晃洋書房]]
* [[昭和堂]]
* [[人文書院]]
* [[PHP研究所]]
* [[ミネルヴァ書房]]
* [[ナカニシヤ出版]]
* [[淡交社]]
* [[思文閣出版]]
* [[世界思想社教学社]]
* [[臨川書店]]
* [[化学同人]]
* [[現代数学社]]
* [[吉岡書店]]
* [[金芳堂]]
* [[京都廣川書店]]
* [[法律文化社]]
* [[文理閣]]
* [[嵯峨野書院]]
* [[松籟社]]
* [[洛北出版]]
* [[法蔵館]]
* [[平楽寺書店]]
* [[本願寺出版社]]
* [[朋友書店]]
* [[松香堂書店]]
* [[かもがわ出版]]
* [[学芸出版社]]
* [[山口書店]]
{{div col end}}
{{-}}
===ライフライン===
====電力====
京都市の電力供給は[[関西電力]](関電)の営業区域となっている。なお、京都市役所は一部[[日本の電力会社#特定規模電気事業者(新電力)|PPS]]の[[エネット]]から買電した電力も使用している<ref>[http://www.ennet.co.jp/news/detail20090401.html#N000000051 京都市市庁舎(北庁舎・本庁舎)への電気供給を開始] - エネット(2009年4月1日付、2012年8月6日閲覧)</ref>。市内には零細な発電設備しか存在せず、従来の琵琶湖疎水系の水力 ([[関西電力]]管理) に南部地域の中小新規の発電設備を含めても、市内発電による2021年度の供給電力量の割合は0.54%未満である。ほぼすべての消費電力は[[関西電力]]と関連企業などによって、京都府以外の近畿各府県と長野県(大町)、富山県(立山黒部)、岐阜県(飛騨)、福井県(若狭敦賀)などから発送電されている。
;水力発電所
京都市内には関西電力の6箇所の[[水力発電|水力発電所]]がある。これらは[[琵琶湖疏水]]にあり、かつて京都市直営により運営されていた[[蹴上発電所|蹴上]] (4,500 kW)・[[夷川発電所|夷川]] (300 kW)・[[墨染発電所|墨染]] (2,200 kW) の各発電所と、[[京都電燈]]により設置され、後に京都市に移管された鞍馬川の洛北発電所 (450 kW)・[[清滝川 (京都府)|清滝川]]の清滝発電所 (250 kW)・栂ノ尾発電所 (750 kW) が、[[日中戦争]]以降の電力国家管理政策「[[配電統制令]]」(昭和16年8月30日勅令第832号)により[[関西配電]](のちの関電)に京都市内の送電設備と共に現物出資されたもので、これが京都市が現在も関西電力の株式419万株を保有する株主の理由でもある<ref>[http://cdn.ullet.com/edinet/pdf/S100L76Y.pdf 大量保有報告書]、京都市、2021年5月7日</ref>。このほか、京都電燈により設置されたものとして、旧京北町桂川上流部の黒田発電所 (980 kW) がある(発電所の名称とカッコ内の発電出力は2015年現在のもの<ref>[http://www.pref.kyoto.jp/tokei/yearly/tokeisyo/ts2015/tokeisyo201511.html 平成27年京都府統計書 第11章 電気・ガス・水道]、京都府政策企画部企画統計課情報分析担当</ref>)。
関電以外にも京都嵐山保勝会が2005年[[嵐山]][[渡月橋]]上流部に出力 5.5KW の小型水力発電機を設置、夜間「渡月橋周辺」をLED照明で照らし、余剰電力は関西電力に売却している。2013年度には修学院音羽谷の砂防ダム・[[蹴上インクライン]]横の放水路・嵯峨越畑の農業用水の3箇所の[[小水力発電|小水力発電所]]の建設<ref>京の小水力発電3候補 - 京都新聞(2012年3月12日付夕刊1面)</ref> が計画されていたが、2020年4月現在、未だに設置されては無い。その代わり石田水環境保全センターに定格出力9kW・発電実績81,480kwh(令和元年度)の小水力発電機が稼働している<ref name="環境報告書2020a">[https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/cmsfiles/contents/0000227/227080/2020.pdf 京都市水道事業・公共下水道事業『環境報告書2020』]、京都市上下水道局 技術監理室 監理課、2020年10月30日、8頁</ref>。
;太陽光発電
京都市では、国の一般家庭への太陽光発電パネル設置の補助金 1 kW 当たり3万〜3万5千円にプラスして 1 kW あたり2万円補助金を独自に出しているほか、市内の浄水場・下水処理場、青少年科学センター、魚アラリサイクルセンターなど公共施設・市内公立小中学校の増改築時<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/kyoiku/page/0000096633.html 京都市教育委員会教育環境整備室]</ref> に太陽光発電パネルを設置している。これらは大規模災害時の非常用電源としても考えられている。さらに2013年度から新山科浄水場と鳥羽下水処理場に1MW、松ヶ崎浄水場に730kW、石田下水処理場に1MWの設備が順次整備された<ref>京都新聞2013年6月15日朝刊23面記事より。広報誌『京都市民しんぶん』 2012年8月1日号</ref>。
また、市民から出資を得て京都市の施設の屋上に太陽光発電パネルを設置して売電で得た収益を出資者に配当する「市民協働発電制度」を創設。2012年度から9か所で実施された<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/kankyo/page/0000164195.html 京都市市民協働発電制度について]</ref>。
京都市以外では、[[新エネルギー・産業技術総合開発機構|NEDO]] の技術開発機構フィールドテスト事業として1997年にJR東海の京都駅の新幹線ホームの屋根上に 最大出力100kw(平均出力8.5kw)の太陽光発電パネルを設置、1998年8月[[京セラ]]の新本社の屋上と南壁面 214kw の太陽光発電パネルが設置、1999年京都府営乙訓浄水場の沈殿池の上に 30kw の太陽光発電パネルが設置された。
2012年7月、[[ソフトバンク]]関連会社および[[京セラ]]関連会社と市の協業により、伏見区内にある市の最終処分場跡地に[[太陽光発電|メガソーラー]]が設置された。同年9月の設備拡張分と併せた公称出力4.2Mw(平均出力355kw)の出力は京都府内で当時最大だった<ref>{{Cite web|和書
|url = http://www.softbank.jp/corp/news/sbnews/sbnow/2012/20120711_01/
|title = ソフトバンクのメガソーラー発電所が運転開始! 京都と群馬で運転開始セレモニーを開催
|date = 2012-07-11
|accessdate = 2015-07-26
|publisher = ソフトバンクグループ
}}</ref><ref>[http://www.asahi.com/business/update/0701/OSK201207010045.html 京都でメガソーラー始動 ソフトバンクと京セラ子会社] - 朝日新聞デジタル(2012年7月1日付、同年8月7日閲覧)<!--市が『共同で』参画していることに言及した出典。--></ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/120701/biz12070114120007-n1.htm 「原子力依存ゼロも再生エネルギーで可能」 メガソーラーでソフトバンクの孫社長] - msn産経ニュース(2012年7月1日付、同年8月7日閲覧)<!--「京都府内で最大」に言及した出典。--></ref>。2015年には同じ伏見区で最大出力23Mw(平均出力1950kw)のメガソーラーが着工した<ref>{{cite news
|url = https://www.decn.co.jp/onlineservice/News/detail/201506302407
|title = 京セラTCLソーラー/京都市伏見区でメガソーラー着工/施工は三井住友建設
|newspaper = 日刊建設工業新聞
|date = 2015-06-30
}}</ref>。
また[[京阪電気鉄道]]は[[淀車庫]]の遊休地に土地の有効活用として2016年4月に物流倉庫「淀ロジスティクスヤード」を建設し、その屋上に太陽光発電パネルを設置して年間100万キロワット時(平均出力114kw)の電力量を発電している<ref>京都新聞2016年3月25日朝刊11面掲載記事 /京阪グループ開業110周年記念誌「-最近10年のあゆみ 2010-2020-」93頁「淀ロジスティクスヤード」</ref>。
;その他の発電所
京都市内3箇所の [https://www.city.kyoto.lg.jp/kankyo/page/0000029194.html クリーンセンター](ごみ焼却処理場)は[[廃棄物発電]]が行われ最大出力約35,000kwで発電されていて、入札により売電されている。また [https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000182768.html 伏見水環境保全センター] ではガス[[コージェネレーション]]設備で発電した電気で汚水の浄化に利用している。
====ガス====
京都市地域は[[大阪ガス]]の供給エリア<ref>[http://www.osakagas.co.jp/company/about/business/pdf/servicearia2011.pdf 大阪瓦斯供給エリア図]</ref> で[[天然ガス]]13Aを京都市内に供給しているが、山科区の[[清水焼団地]]は大阪ガスの供給エリアの中にありながら、独自の[[液化石油ガス|LPガス]]の供給網を設備運用している。これは陶器を焼くのにカロリーの高いLPガスの方が大阪ガスの供給する天然ガスより適しているためである。
====上水道====
[[ファイル:Keage Purification Plant 20160505-001.jpg|thumb|200px|蹴上浄水場(東山区)]]
上水道普及率(2019年度末現在)<ref name="環境報告書2020b">[https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/cmsfiles/contents/0000227/227080/2020.pdf 京都市水道事業・公共下水道事業『環境報告書2020』]、京都市上下水道局 技術監理室 監理課、2020年10月30日、3-4頁</ref>
:人口普及率 99.8%(給水人口 1,458,799人/全市人口 1,461,218人)
[[琵琶湖疏水]]からの水を利用する日本初の[[急速濾過]]式浄水場「蹴上浄水場」が1912年(明治45年)に完成して2012年で100周年を迎えた。人口と供給面積増加に伴い、山科・九条山・伏見・松ヶ崎・新山科・山ノ内の各浄水場が設置されたが、現在は蹴上・松ヶ崎・新山科の3ヶ所の浄水場に集約された<ref>参考文献・京都市発行「市民しんぶん」平成23年11月1日号 16面『京の水道、100歳。』</ref>。また蹴上・松ヶ崎・新山科の3浄水場ではソーラーパネルによる太陽光発電が行われていて、2013年10月には新山科浄水場を1000kWまで増設され、2014年度は松ヶ崎浄水場に730kWに増設された。
ちなみに琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を得ていて、京都市は1947年に『疏水感謝金』の契約を滋賀県と結んだ。これは法的な根拠はない感謝金であり、滋賀県も「山の植林・間伐・林道整備など、水源地となる山の保護事業に使っている」としている。感謝金額の査定は10年ごとに物価変動を考慮して滋賀県と京都市が相談して決定する。2012年当時の契約は消費税が8%になる予定の[[2013年]]度末までの『疏水感謝金』は年間2億2千万円が滋賀県へ支払われていた<ref>京都新聞2012年8月20日朝刊「潤いをとどけて 京都市水道100年『7)市民の感謝』」</ref>。2015年度から10年間は年間2億3千万円となった<ref>京都新聞2015年3月31日朝刊京都市民版26面記事より</ref>。
一方、市民の節水意識の向上や生活スタイルの変化によって水道使用量は減少し、水道契約世帯の37%が基本料金の使用量10トン以下となっている。また京都市内は伏見をはじめとする「名水の井戸」が数多くあり、水道水を使わず井戸水を使用する宿泊施設<ref group="*">[[ブライトンホテルズ|京都ブライトンホテル]]やホテル日航プリンセス京都では自社ホテル敷地内の井戸で地下水を汲み上げて使用している、伏見の料理旅館「清和荘」では料理に使うだけでなく伏見の酒造メーカーとタイアップして名水を使ったオリジナルの日本酒の製造もしている。</ref> や商業施設<ref group="*">髙島屋京都店では、トイレの洗浄水は地下水を汲み上げ使用している。</ref>・病院などが40事業者もあり、それらの業者にもバックアップ用の大口径水道管が接続されているため収益は無いのに維持費が掛かり9億円の減収となっている<ref>『「潤いをとどけて 京都市水道100年」6)需要の変化』 京都新聞2012年8月18日朝刊22面に掲載の連載記事より</ref>。
配水管約2500kmのうち500kmは法定耐用年数の40年を越えるが、年間の更新は27kmであり、更新がなければ20年後に配水管の7割以上が耐用年数を越えると推定される。2011年10月に洛西ニュータウンで大規模な断水事故も起きていて、早急な対策が必要とされる<ref>京都新聞2012年8月16日朝刊「潤いをとどけて 京都市水道100年『4)追いつかない更新』」</ref>。
このほか左京区大原地区では地元の河川を利用した水道が設置され、2005年4月に右京区に編入された旧京北町では、独自の上水道が整備されていたが、京都市編入後は2011年11月より黒田・弓削の2つの浄水場が稼動を開始した<ref>京都市上下水道局広報誌『京の水だより』vol.4 2011年12月発行より</ref>。西京区京都大学桂キャンパス側に府の乙訓浄水場(保津川嵐山付近より取水)があり、向日市・長岡京市・大山崎町へ供給している。
====下水道====
下水道普及率(2019年度末現在)<ref name="環境報告書2020b"/>
:人口普及率 99.5%(処理区域人口 1,454,600人/全市人口 1,461,218人)
京都市内の下水道網は、ほぼ全域をカバーしているが、初期に造られた下水道を中心に市内40パーセントで雨水と汚水を一緒に流す合流式で、大雨になると下水道から河川に雨水を放流する放流口が83箇所もあり、このときに汚水が未処理のまま河川に流れ出し悪臭や環境汚染が堀川や西高瀬川などで問題になり、[[1980年代]]より大雨時に水を溜めて下水処理場へ送る貯水幹線が堀川通や五条通の地下に整備された<ref>京都新聞2012年8月21日朝刊20面市民版の連載記事「潤いをとどけて 京都市水道100年」『8)返したい美しい水』より。五条通の雨水幹線は[[五条大橋]]より。</ref>。
こうして集められた汚水は桂川東岸・宇治川北岸までが[[京都市上下水道局]]の鳥羽・伏見・石田に有る3つの水環境保全センター(下水処理場)と鳥羽水環境保全センター吉祥院支所で、桂川西岸は京都府の「[[京都府立洛西浄化センター公園|洛西浄化センター]]」(京都市伏見区と大山崎町に跨る)・宇治川南岸は同「洛南浄化センター」(八幡市)で処理されて淀川水系へ放流され、旧京北町地区は京北浄化センターで処理されて桂川上流部へ放流される。なお京都市山科区の上流部の滋賀県大津市藤尾地区・醍醐小栗栖地区の下水道管が通過する宇治市の六地蔵地区の一部の汚水も、京都市上下水道局の石田水環境保全センターで下水処理されている。
淀川下流では、大阪府下全域と兵庫県の阪神地区で再度浄水として使用されているため、[[生物化学的酸素要求量|BOD]] は国の基準・水1[[リットル|L]]あたり 20[[ミリグラム|mg]]を下回る 3mg前後まで浄化され、旧京北町に有る京北浄化センター以外は、通常の下水処理に加えて窒素・リンを取り除く高度処理が行われ、さらに鳥羽水環境保全センター吉祥院支所・伏見水環境保全センターでは[[友禅染]]などの作業所から出る染料の色素を除去するためにオゾン処理を導入している。
省エネ対策として過去・昭和17年~25年ごろに下水処理で発生する消化ガスのメタンを利用して、市公用車や市バスを走らせたり、ゴミ処理場で廃棄物発電の電力や熱を利用するなどしていた<ref>京都市印刷物 第026021号 『京の水だより』Vol.12「京都市下水道90周年」 京都市上下水道局総務部総務課2020年8月発行</ref>。現在は最大の下水処理場「鳥羽水環境保全センター」では、処理施設の上部に 1000kW の[[太陽光発電|太陽光発電パネル]]を設置して2013年度より太陽光発電を導入<ref>2012年7月1日[[京都新聞]]26面記事より</ref>。石田水環境保全センターでは隣接するゴミ処理場からの廃棄物発電の電気による施設内の電力供給と余熱での汚泥の乾燥減量化していたが、ゴミ処理場の老朽化で2013年2月で休止されたため、2015年度に1000kW太陽光発電パネルが設置され<ref>2013年6月15日[[京都新聞]]朝刊23面記事/より</ref>、排水時には9KWの小水力発電が行われている<ref name="環境報告書2020a"/>。伏見水環境保全センターではガス[[コージェネレーション]]設備を導入して自家発電による施設内の電力供給と余熱による汚泥の乾燥減量化を行っている。
====ゴミ処理====
2013年4月現在、京都市のごみ収集は有料で一般ゴミは黄色の専用ゴミ袋を市内のコンビニ・スーパーマーケット・小売店で購入し、それにゴミを入れてごみ収集指定日に道路上の指定場所に出す。これらのゴミ袋は5リットル・10リットル・20リットル・30リットル・45リットルの6種類が用意されている。なお一般ゴミは市内3ヶ所の「クリーンセンター(ごみ焼却処理場)」で焼却されこの熱を利用して[[廃棄物発電]]が行われていて入札により売電されている。焼却灰は伏見区醍醐に有る最終処分場「エコランド音羽の杜」に埋め立てられる。
ビン・カン・ペットボトルとプラスティックトレイ・プラ包装材は資源ゴミは透明の専用ゴミ袋の使用が義務付けられていて、それぞれ週1回資源ゴミ専用指定場所に出すことになっている。ビン・カン・ペットボトルは伏見区横大路に有る「[[京都市南部クリーンセンター|南部クリーンセンター]]」に隣接する知的障害者対象就労継続支援B型事業所『京都市横大路福祉工場』でアルミ缶・スチール缶・ペットボトルに分別されリサイクル業者に払い下げられる。プラスティックトレイ・プラ包装材は知的障害者対象生活介護事業所『京都市横大路学園』でプラスティックトレイ・プラ包装材に分別されリサイクル業者に払い下げられる。
また横大路地区には業務用廃棄物の「魚アラリサイクルセンター」が有り魚粉飼料に加工され、市民や業務用から集められた「使用済みテンプラ油」の[[バイオディーゼル|バイオディーゼル燃料]]に加工する工場も有り、加工された燃料は一部のゴミ収集車に使用されている。古紙類の回収は民間の古紙回収業者が充実しているなどとして、京都市としてリサイクルを行っておらず、このため市民は独自に民間の古紙回収業者を頼るか、燃えるごみとして出す必要がある<ref>{{Cite web|和書
|title = 京都市情報館 家庭ごみの出し方 古紙類
|url = http://www.city.kyoto.lg.jp/kankyo/page/0000001193.html
|date = 2012-06-04
|accessdate = 2012-06-07
}}</ref>。ただし地域での自主的な集団回収に毎年最大10000円(古紙類のみを回収する場合。その他の品目も回収する場合は最大15000円)の助成金を交付している<ref>{{Cite web|和書
|title = 京都市情報館 コミュニティ回収制度
|url = http://www.city.kyoto.lg.jp/kankyo/page/0000029098.html
|date = 2012-06-01
|accessdate = 2012-06-07
}}</ref>。
==== 電信 ====
[[市外局番]]は、大部分の地域は「075」(京都[[単位料金区域|MA]])。ただし、右京区嵯峨樒原、嵯峨越畑では「0771」(亀岡MA)。京北室谷町では「0771」(園部MA)<ref group="*">総務省の市外局番の番号区画コードは八木町を除く南丹市、船井郡と同じ417である。</ref>。伏見区醍醐一ノ切町、二ノ切町および三ノ切町では「077」(大津MA)。西京区大原野出灰町では「072」(茨木MA)。京北室谷町を除く旧京北町域は京都市への編入後、2011年12月1日をもって「0771」(亀岡MA)から「075」(京都MA)へと変更された。
== 教育 ==
{{maplink2|frame=yes|zoom=11|frame-coordinates={{coord|35|135.74}}|text=京都市内のキャンパスの分布|frame-width=280|frame-height=350
|type1=shape-inverse|id1=Q34600|stroke-width=3
|type2=point|marker-size2=small|id2=Q336264|title2=京都大学吉田キャンパス
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|type3=point|marker-size3=small|id3=Q1398915|title3=京都教育大学
|type4=point|marker-size4=small|id4=Q1069423|title4=京都工芸繊維大学松ヶ崎キャンパス
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|type5=point|marker-size5=small|id5=Q749884|title5=京都市立芸術大学
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|type17=point|marker-size17=small|id17=Q11375665|title17=京都経済短期大学
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|type19=point|marker-size19=small|id19=Q6452166|title19=京都光華女子大学・京都光華女子大学短期大学部
|type21=point|marker-size21=small|id21=Q2221774|title21=京都産業大学
|type22=point|marker-size22=small|id22=Q3551832|title22=京都女子大学東山キャンパス
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|type23=point|marker-size23=small|id23=Q858343|title23=京都精華大学
|type25=point|marker-size25=small|id25=Q6452146|title25=京都先端科学大学太秦キャンパス
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|type27=point|marker-size27=small|id27=Q6452180|title27=京都ノートルダム女子大学
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|type31=point|marker-size31=small|id31=Q6452182|title31=京都薬科大学
|type32=point|marker-size32=small|id32=Q6452203|title32=嵯峨美術大学・嵯峨美術短期大学
|type34=point|marker-size34=small|id34=Q7504609|title34=種智院大学
|type36=point|marker-size36=small|id36=Q921088|title36=同志社大学今出川校地
|type37=point|marker-size37=small|id37=Q5299278|title37=同志社女子大学今出川キャンパス
|type38=point|marker-size38=small|id38=Q5646966|title38=花園大学
|type39=point|marker-size39=small|id39=Q4986990|title39=佛教大学紫野キャンパス
|type59=point|marker-size59=small|id59=Q104521246|title59=佛教大学二条キャンパス
|type40=point|marker-size40=small|id40=Q5698562|title40=平安女学院大学京都キャンパス
|type43=point|marker-size43=small|id43=Q1152190|title43=立命館大学衣笠キャンパス
|type53=point|marker-size53=small|id53=Q104521392|title53=立命館大学朱雀キャンパス
|type44=point|marker-size44=small|id44=Q1071862|title44=龍谷大学深草キャンパス・龍谷大学短期大学部
|type54=point|marker-size54=small|id54=Q104521272|title54=龍谷大学大宮キャンパス
|type47=point|marker-size47=small|id47=Q6452128|title47=京都情報大学院大学
|type48=point|marker-size48=small|id48=Q104376117|title48=放送大学京都学習センター}}
[[ファイル:Kyoto University Clock Tower.jpg|thumb|200px|[[京都大学]]]]
[[ファイル:Doshisha01.JPG|thumb|200px|[[同志社大学]]]]
[[ファイル:Ritsumeikan University Kinugasa Campus.jpg|thumb|200px|[[立命館大学]]]]
京都市には40校を超える[[大学]]・[[短期大学]]のキャンパスがあり、多様な高等教育機関が集積する学生のまちとしても知られている<ref>{{Cite web|和書|title=大学のまち・学生のまち京都 |url=https://shugakuryoko.kyoto.travel/univ/ |accessdate=2021-02-20}}</ref>。大学相互の結びつきを深め、また、経済界との連携を強めるため設立された日本最大の大学間連携組織、[[大学コンソーシアム京都]]があるのも特徴的である。[[2003年]](平成15年)以降、毎年10月上旬に[[京都学生祭典]]が開催されている。
:''(※ [[小学校]]、[[中学校]]、[[高等学校]]、[[特別支援学校]]、[[専修学校]]、[[各種学校]]などは、各区のページを参照)''
=== 大学 ===
;国立
*[[京都大学]]
*[[京都教育大学]]
*[[京都工芸繊維大学]]
*[[総合研究大学院大学]] [[国際日本文化研究センター|桂坂キャンパス]]・[[総合地球環境学研究所|上賀茂キャンパス]]
;公立
*[[京都市立芸術大学]]
*[[京都府立大学]]
*[[京都府立医科大学]]
;私立
{{div col|colwidth = 25em}}
* [[大谷大学]] 本部キャンパス
* [[育英館大学]] 京都サテライト校
* [[京都外国語大学]]
* [[京都先端科学大学]] 京都太秦キャンパス
* [[京都華頂大学]]
* [[京都看護大学]]
* [[京都光華女子大学]]
* [[京都産業大学]]
* [[京都情報大学院大学]]
* [[京都女子大学]]
* [[京都精華大学]]
* [[京都造形芸術大学]]
* [[京都橘大学]]
* [[京都ノートルダム女子大学]]
* [[京都美術工芸大学]] 東山キャンパス
* [[京都薬科大学]]
* [[種智院大学]]
* [[嵯峨美術大学]]
* [[同志社大学]] 今出川校地
* [[同志社女子大学]] 今出川キャンパス
* [[花園大学]]
* [[佛教大学]] 紫野キャンパス・二条キャンパス
* [[平安女学院大学]] 京都キャンパス
* [[放送大学#学習センター|放送大学]] 京都学習センター
* [[立命館大学]] 衣笠キャンパス・朱雀キャンパス
* [[龍谷大学]] 深草キャンパス・大宮キャンパス
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=== 短期大学 ===
;私立
{{div col|colwidth = 25em}}
* [[池坊短期大学]]
* [[大谷大学短期大学部]]
* [[華頂短期大学]]
* [[京都外国語短期大学]]
* [[京都経済短期大学]]
* [[京都光華女子大学短期大学部]]
* [[京都嵯峨芸術大学短期大学部]]
* [[龍谷大学短期大学部]]
{{div col end}}
<!--=== 学校教育以外の教育施設 ===
;自動車教習所
* 京都府自動車学校
* デルタ自動車四条教習所
* 光悦自動車教習所
* 宝池自動車教習所
* 岩倉自動車教習所
* 山科自動車教習所
* 近畿安全自動車学校
* 太秦自動車教習所
* 洛東自動車教習所
* 二条自動車教習所
;京都労働局長登録教習機関
* 京都府建設技能教習センター
;その他
* デルタ・テクニカルセンター
* 伏見テクニカルセンター
特筆性が薄いと思われるためコメントアウト。-->
=== 学会 ===
{{div col|colwidth = 30em}}
* 日本[[内分泌]]学会 - 中京区に事務局を置いている。
* 日本[[生態]]学会 - 北区に事務局を置いている。
* 日本[[臨床]][[分子]]形態学会 - 左京区に事務局を置いている。
* 日本[[ビタミン]]学会 - 左京区に事務局を置いている。
* 日本[[血液]]学会 - 左京区に事務局を置いている。
* [[人文地理学会]] - 左京区に事務局を置いている。
* [[日本鼻科学会]] - 上京区に事務局を置いている。
* [[日本史研究会]] - 上京区に事務局を置いている。
* 日本植物生理学会 - 上京区に事務局を置いている。
* 日本[[細胞]]生物学会 - 上京区に事務局を置いている。
* [[園芸学会]] - 上京区に事務局を置いている。
* [[日本人類学会]] - 上京区に事務局を置いている。
* [[日本先天異常学会]] - 伏見区に事務局を置いている。
* 日本衛生学会- 左京区に事務局を置いている。
* 日本妊娠高血圧学会 - 左京区に事務局を置いている。
* [[史学研究会]] - 左京区に事務局を置いている。
* 日本[[放射線]]技術学会 - 下京区に事務局を置いている。
* 日本[[呼吸器]]外科学会 - 中京区に事務局を置いている。
* [[耳鼻咽喉科学|耳鼻咽喉科]][[臨床]]学会 - 左京区に事務局を置いている。
* システム制御情報学会 - 左京区に事務局を置いている。
* 日本材料学会 - 左京区に事務局を置いている。
* [[エントロピー]]学会 - 下京区に事務局を置いている。
{{div col end}}
=== その他 ===
この他、アメリカの大学も積極的に京都で活動を行っている。[[1989年]](平成元年)9月に設立された[[京都アメリカ大学コンソーシアム]](Kyoto Consortium for Japanese Studies、略称:KCJS)は、アメリカの13大学<ref group="*">[[ボストン大学]]、[[ブラウン大学]]、[[シカゴ大学]]、[[コロンビア大学]][[バーナード・カレッジ]]、[[コーネル大学]]、[[エモリー大学]]、[[ハーバード大学]]、[[ペンシルベニア大学]]、[[プリンストン大学]]、[[スタンフォード大学]]、[[セントルイス・ワシントン大学|ワシントン大学セントルイス]]、[[イェール大学]]、[[バージニア大学]]の13大学。</ref> からなる組織であり、日本研究を志すアメリカの大学生が毎年約40~50名来日している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/education-campus/student-3/class/kcjssjc/kcjs |title=KCJSについて |publisher=京都大学 |accessdate=2021-12-08}}</ref>。また、[[スタンフォード大学]]は、KCJSに参加すると共にスタンフォード日本センターを[[同志社大学]]今出川キャンパスに設置している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/education-campus/student-3/class/kcjssjc/scti |title=SJCについて |publisher=京都大学 |accessdate=2021-12-08}}</ref>。[[大学共同利用機関法人]]として[[国際日本文化研究センター]]と[[総合地球環境学研究所]]がある。また、2015年9月に京都市と公益財団法人[[大学コンソーシアム京都]]の協働により[[京都学生広報部]]が創設され、京都での学生生活の魅力をPRしている<ref>{{Cite news|date=2015-09-03|title=リアルな京都の魅力発信 京都で学ぶ大学生「広報部」結団式 - 産経ニュース|url=https://www.sankei.com/article/20150903-77NJKXX75RI65PMNKX5SPBFU24/|newspaper=[[産経新聞ニュース#産経ニュース (ウェブ)|産経ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2018-11-23}}</ref>。
==交通==
;市内中心部まで
<!---
全部を書くと長すぎるので、主要な部分だけ書きました--->
[[File:Kyoto station front 01.JPG|thumb|200px|[[京都駅]][[烏丸通|烏丸口]]]]
近畿圏各地からは出発地によって[[JR]]・[[私鉄]]各線を使い分けるが、[[京都駅]]周辺はJR・近鉄、[[四条河原町]]周辺は阪急・京阪のターミナルと、主に二箇所に分散している。また京都市内を発着地とする中長距離[[バス (交通機関)|バス]]路線は、多くが京都駅をターミナルとしている。
[[東海道新幹線]]・[[山陽新幹線]]沿線からは、[[大阪市]]内や[[神戸市]]内と比べて近畿三[[空港]]との距離が離れている(最も近い[[大阪国際空港|伊丹空港]]から京都駅までリムジンバスで約50分)。その一方、東海道新幹線で名古屋以西を走る全ての列車(「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」を含む)が京都駅に停車することから、[[新幹線]]が[[航空機]]に対して圧倒的に優位に立っている。
===空路===
====空港====
[[京都府]]内に空港は存在しないが、かつては[[国際航空運送協会|IATA]]都市コード '''UKY''' が設定されていたほか、空港外のチェックイン施設(シティエアターミナル、CAT)が設置されていたこともある<ref>[https://web.archive.org/web/20021201122410/http://www.westjr.co.jp/news/020802b.html 「はるかレールゴーサービス」等の中止について] - JR西日本(2002年8月2日付、2014年3月2日閲覧) ※[[インターネットアーカイブ]] ※かつてCATが設置されていた旨の出典。</ref>。
;最寄りの空港
*[[大阪国際空港]]([[伊丹空港]])
*神戸空港
*八尾空港
*[[関西国際空港]]
===鉄道===
[[File:Railway map around Kyoto City 2022.png|thumb|250px|京都市付近の鉄道路線]]
{{Vertical_images_list
|幅 = 200px
|画像1 = JR West 225-0 Series I1 Special Rapid.jpg
|説明1 = 西日本旅客鉄道<br />{{Color|#FFFFFF|■}}
|画像2 = Kyoto subway 20 series unit 31 20220506 Takeda.jpg
|説明2 = 京都市交通局<br />{{Color|#FFFFFF|■}}
|画像3 = Hankyu-Series6300-6354F-Kyoto-Line.jpg
|説明3 = 阪急電鉄<br />{{Color|#FFFFFF|■}}
|画像4 = Keihan8000_Premium_car_connection.jpg
|説明4 = 京阪電気鉄道<br />{{Color|#FFFFFF|■}}
|画像5 = Kintetsu 3220 KL21 Express.jpg
|説明5 = 近畿日本鉄道<br />{{Color|#FFFFFF|■}}
|画像6 = Mobo2001.JPG
|説明6 = 京福電気鉄道<br />{{Color|#FFFFFF|■}}
|画像7 = Eiden 900 Series 01.jpg
|説明7 = 叡山電鉄<br />{{Color|#FFFFFF|■}}
|画像8 = Sagano truck03.jpg
|説明8 = 嵯峨野観光鉄道
}}
'''[[京都駅]]'''が事実上の中央駅として機能している。なお、京阪および阪急の路線は京都駅を通っていないが、両者とも市内のターミナル機能は複数の駅に分散しており(京阪は出町柳駅・三条駅・祇園四条駅、阪急は京都河原町駅・烏丸駅)、中心駅と呼べる存在の駅はない。
市域には、事実上の同一駅や近隣に接する駅の場合でも運営社局によって駅名が相違している事例がいくつかある。
[[ICカード]]乗車券はJR西日本では[[ICOCA]]および相互利用カード(ICOCAの項を参照。[[電子マネー]]機能はPiTaPaは利用不可)、嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線では [[PiTaPa]]・ICOCAおよび相互利用カードが利用可能(嵐電は専用の「らんでんカード」がある)。また、JR西日本各線および近鉄線では[[Jスルーカード]](現在は[[自動券売機]]でのみ対応)、叡電・嵯峨野観光鉄道を除く私鉄・地下鉄各線では[[スルッとKANSAI]]カードに対応している。
{|class="wikitable" style="text-align:center"
!鉄道事業者名!!路線名!!駅一覧!!所在地
|-
|rowspan="1"|'''[[東海旅客鉄道]]'''<br />('''JR東海''')
|[[File:Shinkansen jrc.svg|17px]] [[東海道新幹線]]|| - '''[[京都駅]]''' - ||[[下京区]]
|-
|rowspan="4"|'''[[西日本旅客鉄道]]'''<br />('''JR西日本''')
|{{JR西路線記号|K|A}}[[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[琵琶湖線]])|| - [[桂川駅 (京都府)|桂川駅]] - [[西大路駅]] - '''京都駅''' - [[山科駅]] -||[[南区 (京都市)|南区]]、[[下京区]]、[[山科区]]
|-
|{{JR西路線記号|K|E}}[[山陰本線]]([[嵯峨野線]])||'''京都駅''' - [[梅小路京都西駅]] - [[丹波口駅]] - [[二条駅]] - [[円町駅]] - <br>[[花園駅 (京都府)|花園駅]] - [[太秦駅]] - [[嵯峨嵐山駅]] - [[保津峡駅]] -||[[下京区]]、[[中京区]]、[[右京区]]、[[西京区]]
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|{{JR西路線記号|K|B}}[[湖西線]]||山科駅 -||[[山科区]]
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|{{JR西路線記号|K|D}}[[奈良線]]||'''京都駅''' - [[東福寺駅]] - [[稲荷駅]] - [[JR藤森駅]] - [[桃山駅]] -||[[下京区]]、[[東山区]]、[[伏見区]]
|-
|rowspan="2"| '''[[阪急電鉄]]'''<br />('''阪急''')
|[[File:Number_prefix_Hankyu_Kyōto_line.svg|17px|HK]][[阪急京都本線|京都本線]]||- [[洛西口駅]] - [[桂駅]] - [[西京極駅]] - [[西院駅]] - [[大宮駅 (京都府)|大宮駅]] - [[烏丸駅]] - '''[[京都河原町駅]]'''||[[西京区]]、[[右京区]]、[[中京区]]、[[下京区]]
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|[[File:Number_prefix_Hankyu_Kyōto_line.svg|17px|HK]][[阪急嵐山線|嵐山線]]||桂駅 - [[上桂駅]] - [[松尾大社駅]] - [[嵐山駅 (阪急)|嵐山駅]]||[[西京区]]
|-
|rowspan="4"| '''[[京阪電気鉄道]]'''<br />('''京阪''')
|[[File:Number prefix Keihan lines.png|17px|KH]][[京阪本線]]||- [[淀駅]] - [[中書島駅]] - [[伏見桃山駅]] - [[丹波橋駅]] - [[墨染駅]] - [[藤森駅]] - [[龍谷大前深草駅]] -<br> [[伏見稲荷駅]] - [[鳥羽街道駅]] - 東福寺駅 - [[七条駅]] - [[清水五条駅]] - '''[[祇園四条駅]]''' - '''[[三条駅 (京都府)|三条駅]]'''||[[伏見区]]、[[東山区]]
|-
|[[File:Number prefix Keihan lines.png|17px|KH]][[京阪鴨東線|鴨東線]]||'''三条駅''' - [[神宮丸太町駅]] - [[出町柳駅]]||[[東山区]]、[[左京区]]
|-
|[[File:Number prefix Keihan lines.png|17px|KH]][[京阪宇治線|宇治線]]||中書島駅 - [[観月橋駅]] - [[桃山南口駅]] - [[六地蔵駅]] -||[[伏見区]]
|-
|[[File:Number prefix Otsu lines.png|17px|OT]][[京阪京津線|京津線]]||[[御陵駅]] - [[京阪山科駅]] - [[四宮駅]] -||[[山科区]]
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|rowspan="1"|'''[[近畿日本鉄道]]'''<br />('''近鉄''')
|{{近鉄駅番号|B}}[[近鉄京都線|京都線]]||'''京都駅''' - [[東寺駅]] - [[十条駅 (近鉄)|十条駅]] - [[上鳥羽口駅]] - <br>[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]] - [[伏見駅 (京都府)|伏見駅]] - [[近鉄丹波橋駅]] -[[桃山御陵前駅]] - [[向島駅]] -||[[下京区]]、[[南区 (京都市)|南区]]、[[伏見区]]
|-
|rowspan="2"|'''[[京都市交通局]]'''<br />('''[[京都市営地下鉄]]''')
|[[File:Subway KyotoKarasuma.svg|15px|京都市営地下鉄烏丸線]][[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]]||[[国際会館駅]] - [[松ヶ崎駅 (京都府)|松ヶ崎駅]] - [[北山駅 (京都府)|北山駅]] - [[北大路駅]] - [[鞍馬口駅]] - [[今出川駅]] - [[丸太町駅]] -<br> [[烏丸御池駅]] - [[四条駅]] - [[五条駅 (京都府)|五条駅]] - 京都駅 - [[九条駅 (京都府)|九条駅]] - [[十条駅 (京都市営地下鉄)|十条駅]] - [[くいな橋駅]] - [[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]||[[左京区]]、[[北区 (京都市)|北区]]、[[上京区]]、[[中京区]]、<br>[[下京区]]、[[南区 (京都市)|南区]]、[[伏見区]]
|-
|[[File:Subway KyotoTozai.svg|15px|京都市営地下鉄東西線]][[京都市営地下鉄東西線|東西線]]||[[太秦天神川駅]] - [[西大路御池駅]] -二条駅 - [[二条城前駅]] - 烏丸御池駅 - [[京都市役所前駅]] - [[三条京阪駅]] - <br>[[東山駅 (京都府)|東山駅]] - [[蹴上駅]] - [[御陵駅]] - 山科駅 - [[東野駅 (京都府)|東野駅]] - [[椥辻駅]] - [[小野駅 (京都府)|小野駅]] - [[醍醐駅 (京都府)|醍醐駅]] - [[石田駅 (京都府)|石田駅]] -||[[右京区]]、[[中京区]]、[[東山区]]、<br>[[山科区]]、[[伏見区]]
|-
|rowspan="2"| '''[[京福電気鉄道]]'''<br />('''嵐電''')
|[[File:Number prefix Randen Arashiyama mainline.png|17px|A]][[京福電気鉄道嵐山本線|嵐山本線]]||[[四条大宮駅]] - 西院駅 - [[西大路三条駅]] - [[山ノ内駅 (京都府)|山ノ内駅]]- [[嵐電天神川駅]] - [[蚕ノ社駅]] - [[太秦広隆寺駅]] -<br> [[帷子ノ辻駅]] - [[有栖川駅]] - [[車折神社駅]] - [[鹿王院駅]] - [[嵐電嵯峨駅]] - [[嵐山駅 (京福電気鉄道)|嵐山駅]]||[[中京区]]、[[右京区]]
|-
|[[File:Number prefix Randen Kitano line.png|17px|B]][[京福電気鉄道北野線|北野線]]||帷子ノ辻駅 - [[撮影所前駅]] - [[常盤駅 (京都府)|常盤駅]] - [[鳴滝駅]] - [[宇多野駅]] - <br>[[御室仁和寺駅]] - [[妙心寺駅]] - [[龍安寺駅]] - [[等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅]] - [[北野白梅町駅]]||[[右京区]]、[[北区 (京都市)|北区]]
|-
|rowspan="2"| '''[[叡山電鉄]]'''<br />('''叡電''')
|{{駅番号s|green|white|E}}[[叡山電鉄叡山本線|叡山本線]]||出町柳駅 - [[元田中駅]] - [[茶山・京都芸術大学駅]] - [[一乗寺駅]] - <br>[[修学院駅]] - [[宝ケ池駅]] - [[三宅八幡駅]] - [[八瀬比叡山口駅]]||[[左京区]]
|-
|{{駅番号s|red|white|E}}[[叡山電鉄鞍馬線|鞍馬線]]||宝ケ池駅 - [[八幡前駅 (京都府)|八幡前駅]] - [[岩倉駅 (京都府)|岩倉駅]] - [[木野駅]] - [[京都精華大前駅]] - <br>[[二軒茶屋駅]] - [[市原駅]] - [[二ノ瀬駅]] - [[貴船口駅]] - [[鞍馬駅]]||[[左京区]]
|-
|rowspan="1"|'''[[嵯峨野観光鉄道]]'''
|{{Color|red|■}}[[嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線|嵯峨野観光線]]||[[トロッコ嵯峨駅]] - [[トロッコ嵐山駅]] - [[トロッコ保津峡駅]] -||[[右京区]]、[[西京区]]
|}
==== 各区の主要駅 ====
京都市を構成する11区の主要駅は以下の通り。様々な利用の起点・目的点として代表される駅である。
{{div col|colwidth=30em}}
* 中京区:[[烏丸御池駅]]、[[二条駅]]、[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]]、[[京都市役所前駅]]
* 下京区:[[京都駅]]、[[烏丸駅]]・[[四条駅]]、[[京都河原町駅]]、[[四条大宮駅]]
* 上京区:[[鞍馬口駅]]、[[今出川駅]]
* 右京区:[[西院駅]]、[[太秦天神川駅]]・[[嵐電天神川駅]]、[[帷子ノ辻駅]]、[[嵯峨嵐山駅]]、[[嵐山駅 (京福電気鉄道)]]
* 左京区:[[出町柳駅]]、[[国際会館駅]]
* 東山区:[[三条駅 (京都府)|三条駅]]・[[三条京阪駅]]、[[祇園四条駅]]、[[七条駅]]、[[東福寺駅]]
* 西京区:[[桂駅]]、[[洛西口駅]]、[[嵐山駅 (阪急)]]
* 南区:[[西大路駅]]、[[桂川駅 (京都府)|桂川駅]]、[[十条駅 (近鉄)|十条駅]]
* 北区:[[北大路駅]]、[[北野白梅町駅]]
* 山科区:[[山科駅]]・[[京阪山科駅]]、[[御陵駅]]、[[椥辻駅]]
* 伏見区:[[中書島駅]]、[[丹波橋駅]]・[[近鉄丹波橋駅]]、[[伏見桃山駅]]・[[桃山御陵前駅]]、[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]、[[醍醐駅 (京都府)|醍醐駅]]
{{div col end}}
===バス===
[[ファイル:Kujo-Aburakoji Bus.jpeg|thumb|200px|市内を行き交う京都市バス]]
====路線バス====
市内の移動は路線バスがメインとなる。観光シーズンになると積み残しが続出する状況のルートもあり、[[渋滞]]が悪化して所要時間が読めなくなることから、鉄道各社線との乗り継ぎ利用でそれらのリスクを最小限に抑える利用方法が推奨されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.arukumachi-kyoto.jp/rosenmap |title=京都市内路線マップ&観光地アクセス表 |accessdate=2019-03-31}}</ref>。<!--この他コミュニティバスがあります-->
京都市交通局(市バス)・京阪グループ・阪急バス・西日本ジェイアールバスなどとの間では、従来より回数券の共通化を行っており、地下鉄割引券込みの物も販売されていた。現在では、ICカードなどで市バス・京都バス・地下鉄の乗継割引が行われる。市バス・京都バス(それぞれ一部路線除く)および地下鉄全線が乗り放題の「[[地下鉄・バス一日券|地下鉄・バス一日(二日)券]]」が発売されている(他にも市バス・京都バスの均一区間専用の「バス一日券」、市外発の市内各線フリーきっぷ込みの割引きっぷ類などもあり)。
運行地域は、市バスが旧市街地中心で、京阪京都交通は西京区、および西京区・[[亀岡市|亀岡]]方面から旧市街地への乗り入れ、京都バスが右京区[[嵯峨]]地区と左京区[[岩倉 (京都市)|岩倉]]・[[鞍馬]]・[[大原 (京都市)|大原]]地区および両方面から旧市街地への乗り入れ、京阪バスが山科区と伏見区醍醐および両方面から旧市街地への乗り入れと[[比叡山]]方面、阪急バスが西京区([[洛西ニュータウン]])、西日本JRバスが旧京北町および北区小野郷・中川地区、右京区梅ケ畑地区から旧市街地への乗り入れとなっているが、一部競合区間が存在する。
この他に、伏見区[[向島]]地区を運行する近鉄バス、西京区([[桂坂ニュータウン]]・[[洛西ニュータウン]])を運行するヤサカバス、[[京都女子大学]]と京都駅八条口・[[四条河原町]]を結ぶプリンセスラインバス、旧京北町を中心に運行する京北ふるさとバス、京都駅と[[らくなん進都]]内を巡回する京都らくなんエクスプレス、旧京北町と南丹市を結ぶ南丹市営バス、北大路駅と北区[[雲ケ畑]]地区を結ぶ雲ケ畑バスなどがある。
乗車方法は主に後乗り前降り後払いで、運賃は旧市街地周辺は均一制(主に230円)。均一区間外は整理券による区間制となっている。
{{Div col|colwidth=26em}}
* [[京都市営バス]]([[京都市交通局]])#●※
* [[京阪グループ]]系列
** [[京都バス]]#●※
** [[京阪バス]]#●
** [[京阪京都交通]]#●([[立命館大学 (BKC) 線|立命館大学(BKC)線]]を除く)
** [[京都京阪バス]]●
* [[西日本ジェイアールバス]]#●
* [[阪急バス]]#●
* [[ヤサカバス]]#
* [[近鉄バス]]●
* [[プリンセスライン|プリンセスラインバス]]
* 京北ふるさとバス([[きょうと京北ふるさと公社]])#
* [[奈良交通]]●(第二日曜日のみ運行)<ref group="*">向島線 [[向島駅]]-大川原間</ref>
* 高槻市営バス([[高槻市交通部]])●(1バス停のみ)<ref group="*">空谷橋停留所が西京区にある。</ref>
* [[京都らくなんエクスプレス]]
* [[南丹市営バス]]
* [[雲ケ畑バス]]
{{Div col end}}
:#は京都市域バス共通回数券が使用可能なバス
:●は[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]が使用可能なバス
:※はトラフィカ京カードが使用可能なバス
均一運賃区間の境界バス停
{{flatlist|
* 蹴上(京阪バス)
* 地蔵谷
* 花園橋
* 岩倉村松
* 岩倉実相院
* 市原
* 栂ノ尾
* 大覚寺
* 清滝
* 嵐山
* 苔寺すず虫寺
* 苔寺道
* 桂川小学校前
* 西京極
* 西京極運動公園前(京阪京都交通)
* 東側町
* 桂小橋
* 中久世
* 樋爪口
* 京阪淀駅
* 府道横大路
* 国道大手筋
* 城南宮東口(京阪バス)
* 三栖大黒町(京阪バス)
* 中書島
* 丹波橋(近鉄バス)
* 御香宮前
* 京都医療センター (京阪バス)
* 清閑寺山ノ内町(京阪バス)
* 将軍塚青龍殿 (京阪バス)}}
====都市間バス====
;高速バス
京都駅と[[名古屋駅]]を結ぶ[[名神ハイウェイバス]]や、[[首都圏 (日本)|首都圏]]などと京都を含む京阪神地区を結ぶ多くの高速路線バス、[[ツアー]]形式の[[貸切バス]]([[ツアーバス]])が運行されている。京都市内を発着地とする高速バス路線の多くは京都駅をターミナルとしている。詳しくは[[京都駅#バスターミナル|京都駅の高速バス欄]]を参照。
また[[大阪市|大阪市内]]を発着地として[[名神高速道路]]を経由するバス路線のうち、京都駅に発着しない路線では、伏見区の'''[[深草バスストップ]]'''('''京都深草''')を京都の玄関口と位置づけているものがある。詳しくは当該項目を参照。
===道路===
[[File:Jonangu-kita exit Hanshin ExpWay No8 Kyoto,JAPAN.jpg|thumb|200px|[[第二京阪道路]](旧[[京都高速道路]]・[[阪神高速京都線]])]]
[[File:Narrow streets of historical part of Kyoto decorated with all kinds of traditional japanese lanterns at a rainy city night.jpg|thumb|200px|[[先斗町通]]]]
[[File:御池通2911.JPG|thumb|200px|御池通]]
駐輪スペースを確保できれば、[[自転車]]や[[原付]]含む[[自動二輪]]の方が柔軟な移動ができる。
近年、地球温暖化防止の観点から見直されたこともあって[[レンタサイクル]]が急増しており、宿泊客に対してこれらの便宜をはかる宿泊施設も増加している。また、[[ベロタクシー]]の日本発祥の地でもある。
====高速道路====
*{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]]([[京都東インターチェンジ]] - [[京都南インターチェンジ]])
;その他の有料道路
*{{Ja Exp Route Sign|E89}} [[第二京阪道路]]([[国道1号]]バイパス)
*{{Ja Exp Route Sign|E9}} [[京都縦貫自動車道]]([[国道478号]])
*[[嵐山高雄パークウェイ]](民営)
*[[比叡山ドライブウェイ]](民営)※一部区間で当市に近接・越境している。
;かつて有料だった道路
*[[東山ドライブウェイ]] ※[[日本道路公団]]が運営していたが、のちに市に移管され無料化。
*[[稲荷山トンネル (京都府)|稲荷山トンネル]] ※(阪神高速8号京都線) [[阪神高速道路|阪神高速道路株式会社]]が運営していたが、延伸反対運動により市に移管され無料化。
====国道====
{{div col|colwidth=25em}}
*[[国道1号]]
**第二京阪道路(有料道路の側道)
*[[国道8号]](国道1号と重複)
*[[国道9号]]
*[[国道24号]]
*[[国道162号]]
*[[国道171号]]
*[[国道367号]]
*[[国道477号]]
*[[国道478号]](大部分は京都縦貫自動車道)
{{div col end}}
====府道====
;主要地方道
(越境路線のみ記載)
{{div col|colwidth=25em}}
* [[大阪府道・京都府道6号枚方亀岡線]]
* [[京都府道7号京都宇治線]]
* [[京都府道10号大山崎大枝線]]
* [[京都府道・大阪府道13号京都守口線]]
* [[京都府道15号宇治淀線]]
* [[京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線]]
* [[滋賀県道・京都府道35号大津淀線]]
* [[滋賀県道・京都府道36号大津宇治線]]
* [[京都府道38号京都広河原美山線]]
* [[京都府道50号京都日吉美山線]]
* [[京都府道・大阪府道67号西京高槻線]]
* [[京都府道78号佐々江下中線]]
* [[京都府道・大阪府道79号伏見柳谷高槻線]]
* [[京都府道81号八幡宇治線]]
{{div col end}}
====市内の街路====
;市内の街路名
旧市街地では、平安京造成時の都市計画の名残で、東西・南北に通じる街路をもってあたかも[[碁盤]]の目状に区切られており、街路はすべて固有の名称がある<ref group="*">ただし、街路が市街地の途中で途切れたり別の通りと合流する(多くの場合は別の名称になる)場合や、必ずしも直線ではない場合もある。また、ごく一部に東西・南北の方向ではない(斜め方向の)街路(例:[[後院通]])や、同じ街路であるにも関わらず一部区間だけ違う呼称を用いる(例:大和大路通の縄手通)事例もある。</ref>。
なお、街路名に付される「通り」の送り仮名「り」は付けないのが通例である。
:
市内の中心部など旧市街地では、街路(通り)の名称が場所を表すために用いられる。また、多くの交差点名が交差する通り名を合成したものとなっており場所を示す地名として通用している。
{{See also|京都市内の通り}}
;街路名を基準とした位置の表記
主に碁盤の目状に区切られた街路を持つ地域では、街路名の交差とその地点からの東西南北を指すことによって位置を示す方法が一般的に用いられる。
:
先ず当該地が面している街路名を示し、次にその街路と直近で交差する街路名を示したうえ、その交差点から見た当該地の位置を東西南北で示す。北に向かう場合は上ル/上る(あがる)、南へは下ル/下る(さがる)<ref group="*">現在、公的な書類ではひらがなの送り仮名しか認められていないが、伝統的にはカタカナで「上ル・下ル」と表記するのが通例であり、現在でも広く用いられている。なお、いずれの場合も「上ガル」「下ガル」「上がる」「下がる」とは表記しない。</ref>、東西に向かう場合はそれぞれ東入(ひがしいる)、西入(にしいる)と表記する。
交差点と交差点のちょうど中間地点では、どちらの交差点を基準とするかによって二通りの表記が可能である。また、原則では近い方の交差点を基準とするものの、大通りなどの大きな交差点がある場合はそれを優先することもある。
この表記は、公的な住所(所在地)にも含まれる。一例をあげると、京都市役所の所在地は「京都市中京区寺町通御池上ル(公的には「上る」) 上本能寺前町488番地」となり、寺町通に面し御池通から北に向かった地点を「寺町通御池上ル」で表し、その後ろに町名の「上本能寺前町」と番地を示す。なお、この表記方法は[[1889年]](明治22年)の市制施行時から市域であった場所の大部分<ref group="*">[[1889年]](明治22年)の市制施行時から市域であった場所でも、一部に「祇園町北側」や「本町○○丁目」など、通り名による表記を付さない町もある。</ref> において、住民基本台帳や不動産登記などにおける公的な表記として用いられるものである。
一方、公的な表記ではない場合、町名や番地は省略し、街路名と方向のみにより表記することが通例であるが、近年、街路名と方向による伝統的な表記では、インターネットの地図サイトや[[カーナビゲーション]]で検索できないという理由で、街路名を含まない町名と番地だけで住所を表記する事例も増えている<ref>{{Cite web|和書
|date = 2010-07-20
|url = http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100720-OYT1T00643.htm
|title = 京の通り名不要!?ネットで地図検索できず
|publisher = 読売新聞
|accessdate = 2010-07-23
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20100723144403/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100720-OYT1T00643.htm
|archivedate = 2010年7月23日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
しかし町域が狭く、膨大な数の町名がある京都では、町名と番地だけの表記では直感的な場所の把握が困難である。例えば、「四条河原町」交差点周辺は繁華街として知られているが、町名の「下京区真町」では理解しづらい。
また、同一区内に多数組の同一町名が存在し、町名のみで場所を特定できないことも多い。例えば中京区内に「亀屋町」は5箇所あり、さらには下京区にも2箇所、上京区にも4箇所ある。このような同一町名は中京区内だけでも32組もある。これらは一つの町の[[飛び地]]ではなく、関係のないまったく別の町である。ただし、同じ町名でもそれぞれ郵便番号が異なるため、7桁の郵便番号を記載すれば、街路名がなくとも郵便物は配達される。
;交差点名の表記
交差点の名称は、交差する2つの街路名を合成したものが用いられることが多い。どちらの通りを先に呼称しても意味は通じるが、多くの場合どちらかの通りを先に呼ぶものが固有名詞化している。たとえば「四条河原町」と「河原町四条」は同一地点を指すが「四条河原町」と呼ばれ、交差点やバス停の名称も「四条河原町」である。ただし、どちらの通りを先に呼称するかについて定説は無く、道路上の交差点名の表記では「五条大宮」である一方、バス停の名称は「大宮五条」であるなど不一致がみられる例もある。
一方で、街路名を由来としない交差点名も少なくない。一例として、四条通と東大路通の交差点は「[[祇園]]」、西大路通と丸太町通の交差点は「円町」、今出川通と東大路通の交差点は「[[百万遍交差点|百万遍]]」と呼称しているが、これは都市計画による新たな街路が敷設された場合に、交差点名として伝統的な地名を採用したものが多い。
===航路===
====港湾====
;[[地方港湾]]
*[[伏見港]] - かつて存在した、[[淀川|宇治川]]の[[河川港]]である。港湾機能は喪失しているが、法制上は引き続き地方港湾としての港格が残っている<ref>[http://www.pref.kyoto.jp/kanri/resources/1246946293377.pdf Ⅴ 事業の概要-1 交通・物流 > 2 港湾 (p.33)]{{リンク切れ|date=2017年5月}}(平成21年度 京都府建設交通部の概要) - 京都府</ref><ref>[http://www.pa.kkr.mlit.go.jp/maizuruport/harbors/ 管内の港について] - 舞鶴港湾事務所(国土交通省 近畿地方整備局)</ref>。
== 観光 ==
{{See also|Category:京都府の建築物|Category:京都府の観光地}}
市内に観光地が散在し、2000年以降は年間4〜5千万人台の観光客が訪れる。[[2020年]](令和2年)の通勤通学目的以外の宿泊客数は531万人、うち外国人宿泊者数は45万人だった。近年は英米の旅行情報誌などで旅行先としての認知が進む<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyokanko.or.jp/survey_list/|title=京都観光総合調査|publisher=京都市|accessdate=2020-06-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000220/220575/siryou1.pdf|title=京都観光の状況について|work=第5回「京都観光振興計画2020」マネジメント会議|publisher=京都市|accessdate=2017-06-25|format=PDF}}</ref>。国際会議の開催も日本国内では東京に次いで多く<ref>{{Cite web|和書|title=京都で開催の国際会議|url=https://meetkyoto.jp/ja/kyoto/result/|publisher=[[京都文化交流コンベンションビューロー]]|accessdate=2021-12-29}}</ref>、[[国際会議観光都市]]に指定されている。
=== 京都観光サポーター制度 ===
[[観光大使]]の任命などを内容とする[[京都観光サポーター制度]]が京都市により実施されている。
* [[京都観光サポーター制度#京都名誉観光大使|京都名誉観光大使]]:京都にゆかりのある著名人が任命されている。
* [[京都観光サポーター制度#個人|京都国際観光大使]]:海外でも活動している京都通などが大使となっている。
* [[京都観光サポーター制度#京都おもてなし大使|京都おもてなし大使]]:京都の魅力発信に貢献している大使が任命されている。
=== 代表的な観光名所 ===
==== 神社 ====
{{See also|Category:京都市の神社}}
{{div col|colwidth=30em}}
* [[梅宮大社]]
* [[八坂神社]]
* [[賀茂別雷神社]](上賀茂神社)
* [[賀茂御祖神社]](下鴨神社)
* [[天津神社 (京都市)|天津神社]]
* [[今宮神社 (京都市)|今宮神社]]
* [[大田神社 (京都市)|大田神社]]
* [[久我神社 (京都市北区)|久我神社]]
* [[建勲神社]]
* [[惟喬神社]]
* [[大将軍神社 (京都市北区)|大将軍神社]]
* [[道風神社]]
* [[敷地神社|敷地神社(わら天神)]]
* [[平野神社]]
* [[深泥池貴舩神社]]
* [[厳島神社 (京都市上京区)|厳島神社]]
* [[首途八幡宮]]
* [[上御霊神社]]
* [[護王神社]]
* [[白雲神社]]
* [[白峯神宮]]
* [[水火天満宮]]
* [[晴明神社]]
* [[大将軍八神社]]
* [[梨木神社]]
* [[福長神社]]
* [[宗像神社 (京都市)|宗像神社]]
* [[霊光殿天満宮]]
* [[北野天満宮]]
* [[御金神社]]
* [[下御霊神社]]
* [[武信稲荷神社]]
* [[梛神社]]
* [[錦天満宮]]
* [[菅原院天満宮]]
* [[若一神社]]
* [[愛宕神社]]
* [[貴船神社]]
* [[松尾大社]]
* [[大原野神社]]
* [[三ノ宮神社 (京都市西京区樫原)|三ノ宮神社]]
* [[電電宮]]
* [[櫟谷宗像神社]]
* [[月読神社 (京都市)|月読神社]]
* [[平安神宮]]
* [[粟田神社]]
* [[大石神社]]
* [[岩屋神社 (京都市)|岩屋神社]]
* [[折上神社]]
* [[中臣神社]]
* [[日向大神宮]]
* [[諸羽神社]]
* [[山科神社]]
* [[大石神社]]
* [[京都神田明神]]
* [[文子天満宮]]
* [[菅大臣神社]]
* [[北菅大臣神社]]
* [[五條天神社 (京都市)|五條天神社]]
* [[神明神社 (京都市下京区)|神明神社]]
* [[住吉神社 (京都市下京区醒ヶ井)|住吉神社]]
* [[繁昌神社]]
* [[火除天満宮]]
* [[車折神社]]
* [[伏見稲荷大社]]
* [[御香宮神社]]
* [[藤森神社]]
* [[城南宮]]
* [[羽束師坐高御産日神社]]
* [[與杼神社]]
* [[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]
{{div col end}}
====寺院====
{{See also|Category:京都市の寺}}
{{div col|colwidth=30em}}
* [[清水寺]]
* [[華厳寺 (京都市)|華厳寺]]
* [[建仁寺]]
* [[高山寺]]
* [[高台寺]]
* [[広隆寺]]
* [[西芳寺]]
* [[三十三間堂]]
* [[三千院]]
* [[詩仙堂]]
* [[相国寺]]
* [[青蓮院]]
* [[神護寺]]
* [[清凉寺]]
* [[泉涌寺]]
* [[大覚寺]]
* [[大徳寺]] - [[塔頭]]寺院に[[大仙院]]、[[高桐院]]などがある。
* [[醍醐寺]]
* [[知恩院]]
* [[智積院]]
* [[天龍寺]]
* [[東寺]](教王護国寺)
* [[東福寺]]
* [[南禅寺]] - 塔頭寺院に[[金地院]]などがある。
* [[西本願寺]](龍谷山本願寺)
* [[東本願寺]](真宗本廟)
* [[二尊院]]
* [[仁和寺]]
* [[鹿苑寺]](金閣寺)
* [[慈照寺]](銀閣寺)
* [[鞍馬寺]]
* [[法輪寺 (京都市西京区)|法輪寺]]
* [[曼殊院]]
* [[妙心寺]] - 塔頭寺院に[[桂春院]]、[[春光院]]、[[退蔵院]]などがある。
* [[法観寺]](八坂の塔)
* [[龍安寺]]
* [[善峯寺]]
* [[六波羅蜜寺]]
* 永観堂([[禅林寺 (京都市)|禅林寺]])
{{div col end}}
====観光スポット====
{{div col|colwidth=30em}}
* [[愛宕山 (京都市)|愛宕山]]
* [[嵐山]]
* [[大原 (京都市)|大原]]
* [[岡崎公園 (京都市)|岡崎公園]]
* [[祇園]]
* [[京都タワー]]
* [[東映太秦映画村]]
* [[京都ハリストス正教会]](生神女福音聖堂)
* [[嵯峨野]]
* [[産寧坂]]([[重要伝統的建造物群保存地区]])
* [[将軍塚]]
**[[青蓮院]]
* [[新京極通|新京極]]
* [[新風館]]
* [[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]
* [[哲学の道]]
* [[京都御苑]]
* [[京都御所]]
* [[大宮御所#京都大宮御所|京都大宮御所]]
* [[仙洞御所|京都仙洞御所]]
* [[拾翠亭]]・[[厳島神社 (京都市上京区) |厳島神社]]([[九条家]]の遺構)
* [[二条城]](正式名称:[[元離宮二条城]])
* [[修学院離宮]]
* [[桂離宮]]
* [[冷泉家|冷泉家住宅]]
* [[二条陣屋]]
* [[京都府庁旧本館]]
* [[京都清宗根付館 (旧神先家住宅)]]
* [[日本聖公会]] [[聖アグネス教会]]([[1898年]](明治31年)築、京都市指定有形文化財)
* [[比叡山]]
* [[平安女学院]]明治館([[1894年]](明治27年)築、国登録有形文化財)
* [[伏見城]]
* [[伏見の日本酒醸造関連遺産]]([[近代化産業遺産]])
** [[月桂冠大倉記念館]]
** [[松本酒造|松本酒造酒蔵]]
* [[伏見桃山陵]]
* [[先斗町]]
* [[円山公園 (京都府)|円山公園]]
* [[八木邸]]([[新選組]][[壬生 (京都市)|壬生]]屯所跡)
* [[法観寺|八坂の塔]]
* 柳小路
* [[淀城]]
{{div col end}}
<gallery mode="packed">
貴船神社 - panoramio - くろふね (1).jpg|[[貴船神社]]
Kenninji05s1920.jpg|[[建仁寺]]
Sanzen'in 01.JPG|[[三千院]]
File:Sannenzaka-kyoto.JPG|[[産寧坂]]
File:「ガラスの茶室 - 光庵」/京都将軍塚青龍殿/2011・2015.jpg|[[将軍塚]]・[[青蓮院]]
File:Shinkyogoku by Flowizm in Kyoto.jpg|[[新京極]]
Jingoji Kyoto Kyoto23n4592.jpg|[[神護寺]]
Chion-in Temple Kyoto Japan.jpg|[[知恩院]]
TofukujiTsutenkyo Koyou.jpg|[[東福寺]]
Nisonin-1.jpg|[[二尊院]]
File:伏見桃山城06.jpg|[[伏見城]]
Heian-jingu, Gehaiden-1.jpg|[[平安神宮]]
Kyoto arashiyama01.jpg|[[嵐山]]
File:20111023 Gion1.jpg|[[先斗町]]
File:Kyoto, Japan (32055172965).jpg|[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]沿いの[[先斗町]]
File:高瀬川2694.JPG|[[高瀬川 (京都府)|高瀬川]]
File:Kyoto, Japan (Unsplash UIN-pFfJ7c).jpg|[[八坂の塔]]
File:Yanagi Koji Kyoto 006.jpg|柳小路
</gallery>
;文化施設
{{See also|Category:京都市の博物館}}
{{div col|colwidth=20em}}
* [[大西清右衛門美術館]]
* [[何必館京都現代美術館]]
* [[河井寛次郎|河井寛次郎記念館]]
* [[川島織物文化館]]
* [[北村美術館]]
* [[漢字ミュージアム]]
* [[京都嵐山オルゴール美術館]]
* [[京都工芸館]]
* [[京都市国際交流会館]]
* [[京都市動物園]]
* [[京都市平安京創生館]]
* [[京都市美術館]]
* [[京都市考古資料館]]
* [[京都鉄道博物館]]
* [[京都芸術センター]]
* [[京都国際マンガミュージアム]]
* [[京都国立近代美術館]]
* [[京都国立博物館]]
* [[京都水族館]]
* [[京都大学総合博物館]]
* [[京都伝統産業ふれあい館]]
* [[京都府京都文化博物館]]
* [[京都府立植物園]]
* [[京都府立陶板名画の庭]]
* [[京都府立堂本印象美術館]]
* [[ギルドハウス京菓子資料館]]
* [[高麗美術館]]
* [[広隆寺霊宝殿]]
* [[金比羅絵馬館]]
* [[茶道資料館]]
* [[ジオラマ・京都・JAPAN]]
* [[思文閣美術館]]
* [[島津創業記念資料館]]
* [[嵯峨野観光鉄道|19世紀ホール]]
* [[承天閣美術館]]
* [[泉屋博古館]]
* [[大覚寺収蔵庫]]
* [[醍醐寺霊宝館宝聚院]]
* [[智積院]]
* [[東映太秦映画村]]
* [[東寺宝物館]]
* [[堂本美術館]]
* [[仁和寺霊宝館]]
* [[野村美術館]]
* [[並河靖之七宝記念館]]
* [[風俗博物館]]
* [[福田美術館]]
* [[藤井斉成会有鄰館]]
* [[ブリキのおもちゃと人形博物館]]
* [[細見美術館]]
* [[橋本関雪記念館]]
* [[樂吉左衛門|楽美術館]]
* [[立命館大学国際平和ミュージアム]]
{{div col end}}
相互協力団体として「京都市内博物館施設連絡協議会」があり、市内の博物館・美術館などのうち約200館で組織している。また、比較的大規模で公立の4館が「京都ミュージアムズ・フォー」の名で連携事業を行っている。
<gallery mode="packed">
漢字ミュージアム - 入口.jpg|[[漢字ミュージアム]]
芝生広場.JPG|[[京都国際マンガミュージアム]]
National Museum of Modern Art Kyoto 2010.jpg|[[京都国立近代美術館]]
京都国立博物館 - panoramio (2).jpg|[[京都国立博物館]]
Kyoto City zoo, East Entrace. 京都市動物園:東出入口.JPG|[[京都市動物園]]
Kyoto-City-KYOCERA-Museum-of-Art.jpg|[[京都市美術館]]
KYOTO AQUARIUM.JPG|[[京都水族館]]
KYOTO RAILWAY MUSEUM Entrance 20160321.JPG|[[京都鉄道博物館]]
Kyoto Botanical Garden - conservatory.JPG|[[京都府立植物園]]
Former Kyoto Branch Building, Bank of Japan 20061129.JPG|[[京都文化博物館]]
Diorama Kyoto 03.jpg|[[ジオラマ・京都・JAPAN]]
Shimadzu-Foundation-Memorial-Hall-01.jpg|[[島津創業記念資料館]]
130706 Toei Kyoto Studio Park Kyoto Japan01s3.jpg|[[東映太秦映画村]]
</gallery>
==文化・名物==
===祭事・催事===
;主な祭事
*[[祇園祭]]
*[[葵祭]]
*[[時代祭]]
*[[五山送り火]](大文字の送り火)
<gallery mode="packed">
Gion Matsuri 2017-5.jpg|[[祇園祭]]
Saio dai Roto-nogi 20160515.JPG|[[葵祭]]
20111023 Jidai 0031.jpg|[[時代祭]]
Gozanokuribi Daimonji2.jpg|[[五山送り火]]
</gallery>
===名産・特産===
====伝統産業====
74品目を京都市は[[伝統産業]]として指定し<ref>{{Cite web|和書
|url = https://densan.kyoto/industry/
|title = 京都市の伝統産業一覧 - 京都の伝統産業
|accessdate = 2021-12-29
}}</ref>、そのうち[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]と17品目が重複、その他から[[京の手しごと工芸品]]を選んでいる。
{{Div col|colwidth=20em}}
* 染織
** [[西陣織]]
** [[京鹿の子絞]]
** [[京友禅]]
** [[京小紋]]
** 京[[組み紐|くみひも]]
** 京[[刺繍|繍]]
** 京黒[[紋付]]染
** 京[[房]]ひも・[[組み紐#その他|撚ひも]]
* 諸工芸
** 京[[仏壇]]
** [[京仏具]]
** [[京漆器]]
** [[指物|京指物]]
** [[京焼]]・[[清水焼]]
** [[京扇子]]
** 京[[うちわ]]
** 京石工芸品
** [[京人形 (人形)|京人形]]
** [[表具|京表具]]
** 京[[陶器|陶]]人形
** 京都の[[金属工芸]]品
** 京[[象嵌]]
** 京[[刃物]]
** 京の[[神道|神祇装束調度品]]
** 京銘竹
** 京の色紙短冊[[和本]]帖
** [[北山杉|北山丸太]]
** 京[[版画]]
** 京袋物
** 京[[すだれ]]
** 京[[印章]]
** [[工芸菓子]]
** 京[[竹工芸]]
** [[数珠|珠数]]
** 京[[畳|たたみ]]
** [[京七宝]]
*小規模産品
** 菓子[[木型]]
** [[かつら (装身具)|かつら]]
** 京[[金網]]
** [[唐紙]]
** [[かるた]]
** [[きせる]]
** 京[[瓦]]
** 京[[真田紐]]
** 京[[足袋]]
** 京[[櫛#和櫛|つげぐし]]
** 京[[葛籠]]
** 京丸[[うちわ]]
** 京[[弓]]
** [[京和傘]]
** [[截金]]
** 嵯峨面
** [[尺八]]
** [[三味線]]
** [[調緒|調べ緒]]
** [[茶筒]]
** [[提灯]]
** 念珠玉
** [[能面]]
** 花[[かんざし]]
** [[帆布]]製カバン
** [[伏見人形]]
** [[邦楽器]][[絃]]
** [[矢]]
** [[結納]]飾・[[水引]]工芸
** [[和蠟燭]]
** [[京こま]]
** 額看板
* 食品
** [[清酒]]
** [[京菓子]]
** [[京漬物]]
** [[京料理]]
*その他
** [[造園]]
** [[薫香]]
** [[日本建築史|伝統建築]]
{{Div col end}}
=== 文化財 ===
古くは京都が日本の政治・文化の中心となっていて、第二次世界大戦の戦災から免れたことから、[[国宝]]の約20%、[[重要文化財]]の約14%が京都市内に存在する。
====世界遺産====
{{main|古都京都の文化財}}
[[1994年]](平成6年)に、近隣の[[宇治市]]内と滋賀県[[大津市]]内に所在するものを含め、17件の文化財が[[世界遺産]]に登録された。
;「古都京都の文化財」
<gallery mode="packed" heights="">
Kamigamo Shrine, Romon (Gate) -1 (December 2013) - panoramio.jpg|[[賀茂別雷神社]]<br />(上賀茂神社)
Shimogamo-Jingya National Treasure World heritage Kyoto 国宝・世界遺産 下鴨神社 京都25.JPG|[[賀茂御祖神社]]<br />(下鴨神社)
Toji 2015.JPG|[[東寺|教王護国寺]]<br />(東寺)
Kiyomizu-dera, Kyoto, November 2016 -06.jpg|[[清水寺]]
Daigo-ji National Treasure World heritage Kyoto 国宝・世界遺産 醍醐寺 京都037.JPG|[[醍醐寺]]
Ninnaji Kyoto06s3s4410.jpg|[[仁和寺]]
Kozanji Kyoto Kyoto11s5s4592.jpg|[[高山寺]]
Kyotogarden.jpg|[[西芳寺]]<br />(苔寺)
Tenryuji Kyoto41n4592.jpg|[[天龍寺]]
Kinkaku ji temple (9977758546).jpg|[[鹿苑寺]]<br />(金閣寺)
銀閣寺.jpg|[[慈照寺]]<br />(銀閣寺)
Dry-Garden-Ryoanji-3355.jpg|[[龍安寺]]
170216 Nishi Honganji Kyoto Japan03s4.jpg|[[西本願寺]]<br />(龍谷山本願寺)
Kyoto Nijo-jo Kara-mon-Tor 01.jpg |[[二条城]]<br />([[元離宮二条城]])
Enryakuji Konponchudo01s5s3200.jpg|[[延暦寺]]<br />(大津市)
Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|[[平等院]]<br />(宇治市)
Ujigami jinja08s3s4500.jpg|[[宇治上神社]]<br />(宇治市)
</gallery>
====その他の史跡====
<gallery mode="packed" heights="">
150124 Gion Kyoto Japan01s3.jpg|[[祇園]]<br />([[花見小路通]])
北野天満宮 - panoramio (3).jpg|[[北野天満宮]]
Imperial Palace, Kyoto (3104896055).jpg|[[京都御所]]
Walkway - Kurama-dera - Kyoto - DSC06701.JPG|[[鞍馬寺]]
Seimei Jinja Torii2.jpg|[[晴明神社]]
南禅寺水路閣 - panoramio.jpg|[[南禅寺]]<br />([[琵琶湖疏水|水路閣]])
170216 Higashi Honganji Kyoto Japan11n.jpg|[[東本願寺]]<br />(真宗本廟)
Fushimi Inari Taisha, Kyoto, Japan (Unsplash).jpg|[[伏見稲荷大社]]
JP-Kyoto-yasaka.JPG|[[八坂神社]]
</gallery>
===音楽===
{{See also|Category:京都市の音楽}}
*[[京都市少年合唱団]] - 当市が運営している。
*[[京都市交響楽団]] - 設立当初は当市が運営していたが、のちに財団法人に移管している。
===スポーツ===
例年行われるイベントには、[[皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会]]や[[全国高等学校駅伝競走大会]]、[[京都マラソン]]などがあり、ロードレースの陸上競技の人気が比較的高い<ref>{{Cite web|和書|title=京都府版 気になるランキング『あなたの住む都道府県で人気のあるスポーツは?』|url=https://suumo.jp/article/oyakudachi/oyaku/chintai/fr_data/fr-rank26_26/|publisher=リクルート住まいカンパニー|accessdate=2020-06-13}}</ref>。日本初の[[駅伝競走|駅伝]]の記念碑がある。
{{See also|Category:京都市のスポーツ}}
また、トップアスリートや優秀な指導者などのスポーツ関係者に対して、京都市スポーツ賞や[[京都スポーツの殿堂]]による表彰が行われている。殿堂入りの人数では野球やラグビー関係者が多い<ref>{{Cite web|和書|title=京都スポーツの殿堂|url=http://sportsweb-kyoto.com/pantheon/|publisher=スポーツウェブ京都|accessdate=2018-02-24}}</ref>。
{{Main|京都スポーツの殿堂}}
スポーツに関する神社もあり、[[白峯神宮]]や[[下鴨神社]]の雑太社などが挙げられる。
====スポーツチーム====
[[File:Sanga stadium by kyocera05.jpg|thumb|200px|[[サンガスタジアム by KYOCERA]](スタジアムは[[亀岡市]]に所在)]]
[[File:Nishikyogoku baseball stadium130727-02.JPG|thumb|200px|[[京都市西京極総合運動公園野球場|わかさスタジアム京都]]]]
[[File:Hannaryz-arena130312.JPG|thumb|200px|[[京都市体育館]]]]
{{See also|Category:京都市のスポーツチーム}}
{| class="sortable wikitable" style="text-align:center;font-size:85%;"
|-
! 名称
! 競技種目
! 所属リーグ
! 本拠地
! 運営会社・団体
! 設立
|-
! style="background-color:purple" | [[京都サンガF.C.|<span style="color:yellow">京都サンガF.C.</span>]]
| [[サッカー]]
| [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[J1リーグ]]
| [[サンガスタジアム by KYOCERA]]([[亀岡市]])
| [[京都サンガF.C.|京都パープルサンガ]]
| [[1922年]]
|-
! style="background-color:navy" | [[日本新薬硬式野球部|<span style="color:white">日本新薬硬式野球部</span>]]
| [[野球]]
| [[日本野球連盟|JABA]]([[社会人野球]])
| [[京都市横大路運動公園|京都市横大路運動公園野球場]]<br />[[京都市西京極総合運動公園野球場|わかさスタジアム京都]]
| [[日本新薬]]
| [[1955年]]
|-
! style="background-color:black" | [[三菱自動車京都レッドエボリューションズ|<span style="color:red">三菱自動車京都レッドエボリューションズ</span>]]
| [[ラグビーフットボール|ラグビー]]
| [[トップウェスト]]
| [[京都市宝が池公園運動施設球技場]]<br />など
| [[三菱自動車工業]]京都
| [[1957年]]
|-
! style="background-color:white" | [[SGホールディングスギャラクシースターズ|<span style="color:blue">SGホールディングスギャラクシースターズ</span>]]
| [[ソフトボール]]
| [[JDリーグ]]
| [[京都市西京極総合運動公園野球場|わかさスタジアム京都]]<br />など
| [[SGホールディングス]]
| [[1986年]]
|-
! style="background-color:orange" | [[AS.Laranja Kyoto|<span style="color:navy">AS.Laranja Kyoto</span>]]
| [[サッカー]]
| [[関西サッカーリーグ]]
| [[京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場|西京極スタジアム]]<br />[[京都市西京極総合運動公園補助競技場]]
| [[AS.Laranja Kyoto]]
| [[1987年]]
|-
! style="background-color:#cc0000;" | [[島津製作所ラグビー部|<span style="color:black">島津製作所Breakers</span>]]
| [[ラグビーフットボール|ラグビー]]
| [[トップウェスト]]
| [[京都市宝が池公園運動施設球技場]]<br />など
| [[島津製作所]]
| [[1988年]]
|-
! style="background-color:#00B16B" | [[おこしやす京都AC|<span style="color:purple">おこしやす京都AC</span>]]
| [[サッカー]]
| [[関西サッカーリーグ]]
| [[京都府立山城総合運動公園]]<br />など
| [[おこしやす京都AC]]
| [[2005年]]
|-
! style="background-color:red" | [[三菱自動車京都ダイヤフェニックス|<span style="color:white">三菱自動車京都ダイヤフェニックス</span>]]
| [[野球]]
| [[日本野球連盟|JABA]]([[社会人野球]])
| [[三菱自動車工業|三菱自動車グラウンド]]<br />など
| [[三菱自動車工業]]京都
| [[2008年]]
|-
! style="background-color:#67A7CC" | [[京都ハンナリーズ|<span style="color:white">京都ハンナリーズ</span>]]
| [[バスケットボール]]
| [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]
| [[京都市体育館]]<br />[[京都府立体育館|島津アリーナ京都]]など
| [[京都ハンナリーズ|スポーツコミュニケーションKYOTO]]
| [[2009年]]
|-
! style="background-color:#583F99" | [[京都カグヤライズ|<span style="color:white">京都カグヤライズ</span>]]
| [[卓球]]
| [[Tリーグ (卓球)|Tリーグ]]
| [[京都市体育館]]<br />[[京都府立体育館|島津アリーナ京都]]など
| [[京都カグヤライズ|株式会社京都卓球クラブ]]
| [[2022年]]
|}
{{-}}
==出身関連著名人==
===出身著名人===
{{See|京都市出身の人物一覧}}
==作品==
{{See also|Category:京都市を舞台とした作品}}
=== 文学・小説 ===
{{div col|colwidth=25em}}
* [[源氏物語]]([[紫式部]])
* [[枕草子]]([[清少納言]])
* [[蜻蛉日記]]([[藤原道綱母]])
* [[更級日記]]([[菅原孝標女]])
* [[今昔物語集]]
* [[明月記]]([[藤原定家]])
* [[平家物語]]
* [[太平記]]
* [[高瀬舟]]([[森鷗外]])
* [[羅生門 (小説)|羅生門]] ([[芥川龍之介]])
* [[藪の中]](芥川龍之介)
* [[檸檬 (小説)|檸檬]]([[梶井基次郎]])
* [[ある心の風景]](梶井基次郎)
* [[暗夜行路]]([[志賀直哉]])
* [[みだれ髪]]([[与謝野晶子]])
* [[魔弾の射手 (小説)|魔弾の射手]]([[高木彬光]])
* [[古都 (小説)|古都]]([[川端康成]])
* [[金閣寺 (小説)|金閣寺]]([[三島由紀夫]])
* [[五番町夕霧楼]]([[水上勉]])
* [[秀吉と利休]]([[野上彌生子]])
* [[燃えよ剣]]([[司馬遼太郎]])
* [[新選組血風録]](司馬遼太郎)
* [[壬生義士伝]]([[浅田次郎]])
* [[ノルウェイの森]]([[村上春樹]])
* [[キャサリンシリーズ]]他([[山村美紗]])
* [[人形館の殺人]]([[綾辻行人]])
* [[化粧 (渡辺淳一)|化粧]]([[渡辺淳一]])
* [[京都殺人案内]]([[和久峻三]])
* [[京都の芸者弁護士事件簿]](和久峻三)
* [[京都のテミス女裁判官]](和久峻三)
* [[時効 (小説)|時効]] (和久峻三)
* [[序の舞 (小説)|序の舞]]([[宮尾登美子]])
* [[オリヲン座からの招待状]]([[浅田次郎]])
* [[きょうのできごと (小説)|きょうのできごと]]([[柴崎友香]])
* [[戯言シリーズ]]([[西尾維新]])
* 太陽の塔([[森見登美彦]])
* [[四畳半神話大系]] ※アニメ版では京都府・下鴨神社・地元企業などが制作協力を行う。
* [[夜は短し歩けよ乙女]]([[森見登美彦]])
* [[恋地獄]]([[花房観音]])
* [[パーフェクト・ワールド What a perfect world!]]([[清涼院流水]])
* [[鴨川ホルモー]]([[万城目学]])
* [[ホルモー六景]](万城目学)
* [[愛しあう]]([[ジャン=フィリップ・トゥーサン]])※原題:Faire l'Amour
* 古都殺人まんだら([[ジェフ・バーグランド]])
* [[江神二郎の洞察]]([[有栖川有栖]])
* [[HELLO WORLD (アニメ映画)|HELLO WORLD]] (野崎まど)
* [[手のひらの京]] ([[綿矢りさ]])
* [[罪の声]]([[塩田武士]]){{div col end}}
=== 映画 ===
{{div col|colwidth=25em}}
* [[ある映画監督の生涯 溝口健二の記録]]
* [[男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋]]
* [[陰陽師 (映画)|陰陽師]]
* [[炎上 (映画)|炎上]](1958年)
* [[女の園]]
* [[ガメラ3 邪神覚醒]]
* [[祇園囃子 (1934年の映画)|祇園囃子]](1934年)
* [[祇園の姉妹]](1936年)
* [[祇園囃子 (1953年の映画)|祇園囃子]](1953年)
* [[金閣寺 (映画)|金閣寺]](1976年)
* [[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]
* [[五条霊戦記]]
* [[小早川家の秋]]
* [[ゴジラvsメカゴジラ]]
* [[御法度 (映画)|御法度]]
* [[姉妹坂]]
* [[新撰組]]
* [[スクールウォーズ]](2004年)
* [[天使の卵-エンジェルス・エッグ|天使の卵]](2006年)
* [[日本沈没]]
* [[壬生義士伝]]
* [[八十日間世界一周 (映画)|八十日間世界一周]](1956年)※ 日本を代表する景観として平安神宮などが登場する。
* [[パッチギ!]]
* [[初雪の恋 ヴァージン・スノー]]
* 彼岸花
* [[ヒポクラテスたち]]
* [[舞妓物語]]
* [[舞妓Haaaan!!!]]
* [[夜の河]]
* [[クローズド・ノート]]
* [[オリヲン座からの招待状]]
* [[鴨川ホルモー]]
* [[色即ぜねれいしょん]]
* [[マザーウォーター]]
* [[ロスト・イン・トランスレーション]](2003年)
* [[The Barbarian and the Geisha]](1958年)※ 江戸城や江戸の町並みのシーンを二条城、下鴨神社、八坂などで撮影。
* [[Marines, Let's Go]](1961年)
* [[My Geisha]](1961年)※ 京都のシーンは金閣寺など一部を除き箱根や広島など日本各地で撮影。
* [[SAYURI]](2005年)
* [[WASABI]](2001年)
*HELLO WORLD{{div col end}}
=== テレビドラマ ===
{{div col|colwidth=25em}}
* [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]] ([[日本放送協会|NHK]])
* [[源義経 (NHK大河ドラマ)|源義経]] (NHK)
* [[三姉妹]] (NHK)
* [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]] (NHK)
* [[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]] (NHK)
* [[おんな太閤記]] (NHK)
* [[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]] (NHK)
* [[信長 KING OF ZIPANGU]] (NHK)
* [[花の乱]] (NHK)
* [[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]] (NHK)
* [[新選組!]] (NHK)
* [[壬生の恋歌]] (NHK)
* [[都の風]] (NHK)
* [[京、ふたり]] (NHK)
* [[あすか (テレビドラマ)|あすか]] (NHK)
* [[オードリー (テレビドラマ)|オードリー]] (NHK)
* [[だんだん]] (NHK)
* [[京一輪]] ([[讀賣テレビ放送|ytv]])
* [[花友禅]] (ytv)
* [[赤い霊柩車シリーズ]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[京都祇園入り婿刑事事件簿]](フジテレビ)
* [[舞妓さんは名探偵!]]([[テレビ朝日]])
* [[京都迷宮案内]](テレビ朝日)
* [[京都地検の女]](テレビ朝日)
* [[科捜研の女]](テレビ朝日)
* [[おみやさん]](テレビ朝日)
* [[祇園囃子 (テレビドラマ)|祇園囃子]](テレビ朝日)
* [[京都マル秘指令 ザ新選組]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]])
* [[スリ三姉妹シリーズ]](朝日放送)
* [[京都マル秘仕事人]](朝日放送)
* [[西部警察 PART-III]]「京都・幻の女殺人事件-京都篇-」([[テレビ朝日]]系列)
* [[三誓盟]] ※ [[1997年]](平成9年)に制作された[[香港]]のドラマ。[[梅艶芳]](アニタ・ムイ)主演。
{{div col end}}
=== ゲーム ===
{{div col|colwidth=25em}}
* [[秋空に舞うコンフェティ]]{{要出典|date=2020年10月}}
* [[鬼武者#鬼武者3|鬼武者3]]
* [[鬼武者#新 鬼武者 DAWN OF DREAMS|新 鬼武者 DAWN OF DREAMS]]
* [[彼女は高天に祈らない-quantum girlfriend-]]{{要出典|date=2020年10月}}
* [[久遠の絆]]
* [[GENJI]]
* [[センチメンタルグラフティ]]
*[[千恋万花]]
:-作品の舞台である「穂織」のモデル。[[花見小路通]]や[[産寧坂]]などが登場。
* [[DS山村美紗サスペンス 舞妓小菊・記者キャサリン・葬儀屋石原明子 古都に舞う花三輪 京都殺人事件ファイル]]
* [[薄桜鬼 〜新選組奇譚〜]]
* [[幕末恋華 新選組]]
* [[遙かなる時空の中で]]
* [[風雲 新撰組]]
* [[風雲 幕末伝]]
* [[平安京エイリアン]]
* [[ポートピア連続殺人事件]]
* [[魔京伝]]
* [[龍が如く 維新!]]
* [[龍が如く 見参!]]
* [[Lost Passage]]
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=== 音楽 ===
==== 歌謡曲 ====
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* KYOTO ([[JUDY AND MARY]])
* [[女ひとり]]([[デューク・エイセス]])
* なのにあなたは京都へゆくの([[チェリッシュ (歌手グループ)|チェリッシュ]])
* [[京都の恋]]([[ザ・ベンチャーズ]] / [[渚ゆう子]])
* [[京都慕情]](ザ・ベンチャーズ / 渚ゆう子)
* 京都から博多まで([[藤圭子]])
* [[京のにわか雨]]([[小柳ルミ子]])
* 嵯峨野さやさや([[タンポポ (フォークデュオ)|タンポポ]])
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* 景子([[伊藤敏博]])
* かんにん([[三田寛子]])
* 脆い午後([[中森明菜]])
* 比叡おろし([[岸田智史]])
* 古都情念([[美川憲一]])
* [[京都物語]]([[原由子]])
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==== 唱歌 ====
* [[鉄道唱歌]] 第一集[[東海道]]編(作詞:[[大和田建樹]]、作曲:[[多梅稚]]・[[上眞行]])- [[1900年]](明治33年)5月発表のこの曲では、全66番のうち京都には1/8弱に当たる8番(山科を含めれば9番)を割り当てており、[[鎌倉]]の4番、[[近江八景]]の6番よりも長い。作詞者である建樹が相当の興味を抱いていたからとされ、名所は多く詠われている。
** 45. 大石良雄が山科の その隠家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山 ([[大石良雄]]と[[伏見稲荷大社|伏見稲荷]])
** 46. 東寺の塔を左にて とまれば七條ステーション 京都京都と呼びたつる 駅夫の声も勇ましや ([[京都駅]])
** 47. ここは桓武のみかどより 千有余年の都の地 今も雲井の空たかく あおぐ清涼紫宸殿 ([[京都御所]])
** 48. 東に立てる東山 西に聳ゆる嵐山 かれとこれとの麓ゆく 水は加茂川桂川 (山川の地理)
** 49. 祇園清水知恩院 吉田黒谷真如堂 ながれも清き水上に 君がよまもる加茂の宮 (京都東部の名所)
** 50. 夏は納涼(すずみ)の四條橋 冬は雪見の銀閣寺 桜は春の嵯峨御室 紅葉は秋の高雄山 (四季の名所)
** 51. 琵琶湖を引きて通したる 疏水の工事は南禅寺 岩切り抜きて舟をやる 知識の進歩もみられたり ([[琵琶湖疏水]])
** 52. 神社仏閣山水の ほかに京都の物産は 西陣織の綾錦 友禅染の花もみじ (京都の名産品)
** 53. 扇おしろい京都紅 また加茂川の鷺しらず 土産を提げていざ立たん あとに名残は残れども (西への出発)
=== 漫画 ===
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* [[あさきゆめみし]]([[大和和紀]])
* [[味いちもんめ]](原作[[あべ善太]]・作画[[倉田よしみ]])
* [[暗殺教室]]修学旅行編([[松井優征]])
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* [[風光る (渡辺多恵子の漫画)|風光る]]([[渡辺多恵子]])
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=== ライトノベル・アニメ ===
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* [[七人のナナ]]
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* [[たまこまーけっと]]
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* [[らき☆すた]]
* [[名探偵コナン から紅の恋歌]]
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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== 参考文献 ==
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7,213 | GMT (曖昧さ回避) | GMT | [
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] | GMT グリニッジ平均時 - イギリスのグリニッジ天文台を基準地点とする平均太陽時。
GMT (ソフトウェア) - Paul WesselとWalter H. F. Smithによって開発された、地図を描くためのソフトウェア。
巨大マゼラン望遠鏡(Giant Magellan Telescope)の略称。
GMT機能 - 主に腕時計において、第2時間帯を指示する色違いの時針を中心に配置してあるもの。ただし、単に複数の時間帯を表示できるだけでは、GMTとは呼ばない。
GMT Gamesは、アメリカ合衆国のボードゲーム会社。カードゲームのバトルラインが有名だが、ボード・ウォー・シミュレーションゲームをメインに出版活動を行っている。日本国内では、上記バトルライン日本版をクロノノーツゲームが製造・販売している。
ガラス長繊維マット強化熱可塑性プラスチック
GMT47 - 架空の女性アイドルグループ。あまちゃん#GMT47を参照。 | '''GMT'''
*[[グリニッジ平均時]] (Greenwich Mean Time) - イギリスの[[グリニッジ天文台]]を基準地点とする[[平均太陽時]]。
*[[GMT (ソフトウェア)]] (The Generic Mapping Tools) - Paul WesselとWalter H. F. Smithによって開発された、地図を描くための[[ソフトウェア]]。
*[[巨大マゼラン望遠鏡]](Giant Magellan Telescope)の略称。
* [[GMT機能]] - 主に[[腕時計]]において、第2[[時間帯]]を指示する色違いの時針を中心に配置してあるもの。ただし、単に複数の時間帯を表示できるだけでは、GMTとは呼ばない。
* [[GMT Games]]は、アメリカ合衆国のボードゲーム会社。[[カードゲーム]]の[[バトルライン (カードゲーム)|バトルライン]]が有名だが、ボード・[[ウォー・シミュレーションゲーム]]をメインに出版活動を行っている。日本国内では、上記バトルライン日本版を[[クロノノーツゲーム]]が製造・販売している。
* [[ガラス長繊維マット強化熱可塑性プラスチック]] (Glass-Mat reinforced Thermoplastics)
* GMT47 - 架空の[[女性アイドルグループ]]。[[あまちゃん#GMT47]]を参照。
== 関連項目 ==
* [[GMT対照法]] - [[メソアメリカ]][[長期暦]]と[[西暦]]の対照法のひとつ。
{{aimai}} | null | 2023-01-13T02:44:19Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/GMT_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
7,214 | グリニッジ標準時 | グリニッジ標準時(グリニッジひょうじゅんじ)、グリニッジ平均時(グリニッジへいきんじ、イギリス英語: Greenwich Mean Time, GMT)とは、グリニッジ天文台・グリニッジ子午線(経度0度)における平均太陽時(mean solar time)を指す。
かつてグリニッジ平均時は国際的な基準時刻として採用され、イギリスを含む世界各地域の標準時(standard time)もこれを基準とした。なお現在の国際的な基準時刻は概念を修正した協定世界時 (UTC) を用いている。
こうした事情からUTCとGMTが近似的に同一視される事もある。 用語“G.M.T.”および“Z”(通話表で使用する語は Zulu)は、航法や通信の分野で UTC と一般的に同義語として認められる。 また、GMT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では UTC の意味で使用される。一方、GMT は天測航法及び測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用される。ただし、GMT は適切な名称(UTC、UT1 または UT)で置き換えられる。
グリニッジ平均時は伝統的に経度0度と定められているイギリスのロンドンにあるグリニッジ天文台での平均太陽時(Mean solar time)である。
イギリス帝国が海運国家として発展すると、1714年に経度法が制定され海上における経度発見法が盛んに研究されるようになる。1761年、ハリソンが温度や揺れに強いクロノメーターを開発する。また、1765年にネヴィル・マスケリンがグリニッジ天文台台長に就任すると、直ちに航海用に一年間の航海暦の編纂に着手し、1766年に初めて翌年の航海暦を「海上に於ける経度発見法委員会」から刊行する。
すると、イギリス船の船員達は航海中にグリニッジ子午線からの現在の経度差を計算するために、自分達の時計をグリニッジ平均時(GMT)に合わせるようになった。ただし、船上で通常の生活用途に使われる時計には、従来通りに船上の太陽時が用いられた。この習慣と、他国の船で使われていたネヴィル・マスケリンの月距法(航海暦に掲載される天体の視位置と船上での月の観測位置から経度を求める方法)とが結び付いて、やがて GMT は海域における世界共通の経度によらない基準時刻として使われるようになった。
1884年にワシントンD.C.で開催された国際子午線会議でグリニッジ子午線が本初子午線として採択されると、陸域でもほとんどの国の時刻帯はこのGMTを基準とし、それから数時間だけ進んだ(または遅れた)時刻を標準時として採用した。 1911年には、パリで開催された国定暦本編製に関する国際的な天文学者会議で、事情の許す限り、全ての暦にグリニッジ時を標準とするものを用いることが決議される。 1912年10月、パリに於ける万国協同報時法会議で、無線電信による報時の統一が可決され、1913年7月1日からは皆グリニッジ時(常用時)による事になる(日本は不参加)。 1918年、当時は大洋を航行する艦船においては(経度測定用のクロノメーターとは別に)日常使用する時刻を毎日正午に船の位置する(と考えられる)子午線の地方時に合わせていたが、イギリスの通商部においてこの慣習を改めて海上においても、陸上において当時の多くの国が採用している標準時と同様な時刻系を採用することの可否について関係者の詳細な意見を集めた。 1926年10月、11月に、国際天文学連合 (IAU) と国際測地学・地球物理学連合 (IUGG) の主催で万国経度観測が実施され(日本も参加)、この際に無線電信より国際報時局(BIH、現IERS)の学用報時と同じ形式でグリニッジ平均時が発信され、その時差を測定することにより経度が比較された。 こうして、19世紀から1920年代までにグリニッジ平均時は航海以外の、暦や天文学、報時、測地学などの分野でも世界共通の経度によらない基準時刻としての実績をあげていった。
なお、グリニッジ天文台からの時報は1924年2月5日に初めて開始された。
天文学者はクラウディオス・プトレマイオスの創始以来、1日の始まりを正午とする「天文時」(astronomical time)を使っていた。これは夜間観測中に日付けが変わる不便を避けるためであった。
しかし、1917年にイギリスにおいて航海者から、航海暦に記載されている天文時を廃止して日常使用する常用時に統一すべきとの議論が盛んになった。航海者側の苦情の理由は、天文時と常用時を併用すると計算が不必要に複雑となることや、間違いやすいことであった。この様な苦情は、第一次世界大戦中で何事も簡明早急を要することから、当局者の注意を引いた。
その結果、イギリスのフランク・ダイソン及びハーバート・ターナーがこれに関して賛否の意見を各国天文学者に求めることになった。 そして1919年に、アメリカ合衆国、イギリス及びフランスの合意により、1925年1月1日から天文日を常用日と等しく正子(真夜中)から数えることに決定し、各国の天文暦もその方針に従って編成されることになった。
1921年にこの変更に関して、変更前と同様に G.M.T.(グリニッジ平均時)と呼ばれると混同する事があり不都合であるとして、トリニティ・カレッジ教授のヘンリー・プラマーなどは正子から数える時を G.C.T.(グリニッジ常用時、Greenwich Civil Time)または G.S.T.(グリニッジ標準時、Greenwich Standard Time)と記すべきであると主張した。これに対して、グリニッジ天文台長のダイソンは、既に一般社会では G.M.T. が正子から始まる時刻として定着しており、航空省が気象電報を発するときに用いる G.M.T. も正子に始まる時刻であるし、またイギリス陸軍が24時間制を採用して以来午前と午後の代わりに呼ぶ時刻はグリニッジ平均時であるとして一蹴した。パリ天文台のギヨーム・ビゴルダンは、「天文学者が誤解のおそれがあるときは G.M.T. (Civil) と書くことができるし、一般市民が正子から始まると信じているのに天文学者が、それは正午に始まると規定したのだと力んでもしかたがない。単に衒学的だと失笑されるだけだ。G.C.T. や G.S.T. などはよくない(G.S.T. は夏時間と間違う)」などと反論していた。
その後、1922年5月にローマで開かれた第1回国際天文学連合 (IAU) の決議によって、プトレマイオス以来、千数百年間にわたって慣用されてきた天文時を1925年1月から万国一斉に廃止し、12時間繰り上げて正子に始まる常用時を天文学でも用いるようになった。
ただし、ユリウス日については、1925年以降もその始まりを正午とし続けていることに注意が必要である。
1925年の国際天文学連合 (IAU) 第2回会議で、従来までの正午からの G.M.T.(グリニッジ平均時)と区別して、正子から始める時に別の名称をつける提案が議題となり賛否の意見が闘わされる。しかし、会議では呼称については未定で、ユリウス日 (JD) は正子から始めずに正午から始めることになった。 その後、1928年の国際天文学連合 (IAU) 第3回総会で、「用語 グリニッジ常用時(英: Greenwich Civil Time (G.C.T.))、および世界時は正子より計るグリニッジ時を明確に示す」ことが決議された。天文学者はどちらの意味でも G.M.T. の語を使用しないことが勧告され、特にグリニッジ正午より計った時を用いることを望む場合は、グリニッジ平均天文時(英: Greenwich Mean Astronomical Time (G.M.A.T.))とすることなる。 さらに1935年の国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時 (G.M.T.) に、「世界時」を国際的に使用することを採択し、将来はグリニッジ常用時 (G.C.T.) という用語を使用しないことが決議された。 そして、1948年の国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会(天文暦部)は、天文学者がグリニッジ正子より起算した平均太陽時を示す際に、名称「世界時」だけを使用することを勧告する。 こうして、天文学者が使用する用語はグリニッジ平均時から世界時に移行したが、一般市民は常用時としてグリニッジ平均時の語を引き続き使用する。
1970年に英国ブライトンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第14回総会において、第31委員会(時)の決議で採択された勧告6.2で、用語“G.M.T.”および“Z”は、航法や通信の分野で協定世界時 (UTC) と一般的に同義語として認められる。
1972年1月1日からは、一般市民が使用する常用時としてのグリニッジ平均時 (GMT) は協定世界時 (UTC) として定義されており、閏秒の挿入または減算による現行の調整方法が採用されている。
なお、1976年にグルノーブルで開催された国際天文学連合 (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)及び第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と世界時 (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では UTC の意味で使用されること、また、GMT と UT は天測航法及び測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認める一方で、GMT は適切な名称に置き換えられることが強調される。
標準時の考え方、すなわち地方全体で共通の基準時刻(基準地点の平均太陽時)を用いる仕組みは、イギリスで鉄道敷設の発展とともに、「鉄道時間」として生まれた。ロンドンの時刻であるグリニッジ平均時がこれに用いられた。
現在、イギリスの標準時は、UTCそのもの(UTC+0)を採用しているが、現在でも伝統を守ってグリニッジ平均時(Greenwich Mean Time)と呼ばれている。また西ヨーロッパ時間 (Western European Time、WET)とも呼ばれる。
Wikipediaの夏時間のページ冒頭の地図で濃い青色に塗られている国では、夏季には時間を1時間進めるサマータイムというものを行なっている。イギリスではこの時期の時間を英国夏時間(British Summer Time、BST)、アイルランドではIrish Summer Time(IST)と呼ぶ。薄い青色で塗られている国(アイスランド)では一年中 UTC/GMT/WET を用いる。 | [
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"text": "その結果、イギリスのフランク・ダイソン及びハーバート・ターナーがこれに関して賛否の意見を各国天文学者に求めることになった。 そして1919年に、アメリカ合衆国、イギリス及びフランスの合意により、1925年1月1日から天文日を常用日と等しく正子(真夜中)から数えることに決定し、各国の天文暦もその方針に従って編成されることになった。",
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"text": "1921年にこの変更に関して、変更前と同様に G.M.T.(グリニッジ平均時)と呼ばれると混同する事があり不都合であるとして、トリニティ・カレッジ教授のヘンリー・プラマーなどは正子から数える時を G.C.T.(グリニッジ常用時、Greenwich Civil Time)または G.S.T.(グリニッジ標準時、Greenwich Standard Time)と記すべきであると主張した。これに対して、グリニッジ天文台長のダイソンは、既に一般社会では G.M.T. が正子から始まる時刻として定着しており、航空省が気象電報を発するときに用いる G.M.T. も正子に始まる時刻であるし、またイギリス陸軍が24時間制を採用して以来午前と午後の代わりに呼ぶ時刻はグリニッジ平均時であるとして一蹴した。パリ天文台のギヨーム・ビゴルダンは、「天文学者が誤解のおそれがあるときは G.M.T. (Civil) と書くことができるし、一般市民が正子から始まると信じているのに天文学者が、それは正午に始まると規定したのだと力んでもしかたがない。単に衒学的だと失笑されるだけだ。G.C.T. や G.S.T. などはよくない(G.S.T. は夏時間と間違う)」などと反論していた。",
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"text": "その後、1922年5月にローマで開かれた第1回国際天文学連合 (IAU) の決議によって、プトレマイオス以来、千数百年間にわたって慣用されてきた天文時を1925年1月から万国一斉に廃止し、12時間繰り上げて正子に始まる常用時を天文学でも用いるようになった。",
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"text": "ただし、ユリウス日については、1925年以降もその始まりを正午とし続けていることに注意が必要である。",
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"text": "1925年の国際天文学連合 (IAU) 第2回会議で、従来までの正午からの G.M.T.(グリニッジ平均時)と区別して、正子から始める時に別の名称をつける提案が議題となり賛否の意見が闘わされる。しかし、会議では呼称については未定で、ユリウス日 (JD) は正子から始めずに正午から始めることになった。 その後、1928年の国際天文学連合 (IAU) 第3回総会で、「用語 グリニッジ常用時(英: Greenwich Civil Time (G.C.T.))、および世界時は正子より計るグリニッジ時を明確に示す」ことが決議された。天文学者はどちらの意味でも G.M.T. の語を使用しないことが勧告され、特にグリニッジ正午より計った時を用いることを望む場合は、グリニッジ平均天文時(英: Greenwich Mean Astronomical Time (G.M.A.T.))とすることなる。 さらに1935年の国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時 (G.M.T.) に、「世界時」を国際的に使用することを採択し、将来はグリニッジ常用時 (G.C.T.) という用語を使用しないことが決議された。 そして、1948年の国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会(天文暦部)は、天文学者がグリニッジ正子より起算した平均太陽時を示す際に、名称「世界時」だけを使用することを勧告する。 こうして、天文学者が使用する用語はグリニッジ平均時から世界時に移行したが、一般市民は常用時としてグリニッジ平均時の語を引き続き使用する。",
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"text": "1970年に英国ブライトンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第14回総会において、第31委員会(時)の決議で採択された勧告6.2で、用語“G.M.T.”および“Z”は、航法や通信の分野で協定世界時 (UTC) と一般的に同義語として認められる。",
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"text": "1972年1月1日からは、一般市民が使用する常用時としてのグリニッジ平均時 (GMT) は協定世界時 (UTC) として定義されており、閏秒の挿入または減算による現行の調整方法が採用されている。",
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"text": "なお、1976年にグルノーブルで開催された国際天文学連合 (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)及び第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と世界時 (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では UTC の意味で使用されること、また、GMT と UT は天測航法及び測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認める一方で、GMT は適切な名称に置き換えられることが強調される。",
"title": "歴史"
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"text": "標準時の考え方、すなわち地方全体で共通の基準時刻(基準地点の平均太陽時)を用いる仕組みは、イギリスで鉄道敷設の発展とともに、「鉄道時間」として生まれた。ロンドンの時刻であるグリニッジ平均時がこれに用いられた。",
"title": "イギリスの標準時"
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"text": "現在、イギリスの標準時は、UTCそのもの(UTC+0)を採用しているが、現在でも伝統を守ってグリニッジ平均時(Greenwich Mean Time)と呼ばれている。また西ヨーロッパ時間 (Western European Time、WET)とも呼ばれる。",
"title": "イギリスの標準時"
},
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"text": "Wikipediaの夏時間のページ冒頭の地図で濃い青色に塗られている国では、夏季には時間を1時間進めるサマータイムというものを行なっている。イギリスではこの時期の時間を英国夏時間(British Summer Time、BST)、アイルランドではIrish Summer Time(IST)と呼ぶ。薄い青色で塗られている国(アイスランド)では一年中 UTC/GMT/WET を用いる。",
"title": "イギリスの標準時"
}
] | グリニッジ標準時(グリニッジひょうじゅんじ)、グリニッジ平均時とは、グリニッジ天文台・グリニッジ子午線(経度0度)における平均太陽時を指す。 かつてグリニッジ平均時は国際的な基準時刻として採用され、イギリスを含む世界各地域の標準時もこれを基準とした。なお現在の国際的な基準時刻は概念を修正した協定世界時 (UTC) を用いている。 こうした事情からUTCとGMTが近似的に同一視される事もある。
用語“G.M.T.”および“Z”は、航法や通信の分野で UTC と一般的に同義語として認められる。
また、GMT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では UTC の意味で使用される。一方、GMT は天測航法及び測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用される。ただし、GMT は適切な名称で置き換えられる。 | {{Redirect|GMT}}
[[画像:Prime-meridian.jpg|thumb|200px|right|[[グリニッジ子午線]]の基準になっている、グリニッジ天文台旧本館の窓。窓の中央の線がグリニッジ子午線である。]]
<!--この旧本館は台長エアリーが子午環を設置してからの子午線です。--><!--初代天文台長[[ジョン・フラムスティード]]がここで観測を行い、観測結果を元にグリニッジ子午線が決定されたことから、この場所が基準になっている-->[[ファイル:Greenwich-Observatory-Clock-c.1870.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|グリニッジ天文台にあるグリニッジ平均時を表す時計]]
'''グリニッジ標準時'''(グリニッジひょうじゅんじ)、'''グリニッジ平均時'''(グリニッジへいきんじ、{{lang-en-gb|Greenwich Mean Time, '''GMT'''}})とは{{efn|日本ではグリニッジ標準時と不正確に訳されることが多い。{{独自研究範囲|date=2016年12月|最近は見かけないが}}、[[大正]]から[[昭和]]初期の頃まで'''緑威平均時'''、'''緑威平時'''などとも表記された<ref>{{Citation|和書|author=海軍省水路部 |author-link=水路部 (日本海軍) |year=1928 |date=1928-05 |title=航海年表 |place=[[東京]] |publisher=水路部 |id={{全国書誌番号|20977090}}、{{NDLJP|1900107}} }}</ref>{{Sfn|日本天文学会|1921|p=157}}。}}、[[グリニッジ天文台]]・[[グリニッジ子午線]]([[経度]]0度)における[[平均太陽時]]([[:en:mean solar time|mean solar time]])を指す。
かつてグリニッジ平均時は国際的な基準時刻として採用され、[[イギリス]]を含む世界各地域の[[標準時]](standard time)もこれを基準とした。なお現在の国際的な基準時刻は概念を修正した[[協定世界時]] (UTC) を用いている{{efn|基準となる[[本初子午線]]も[[IERS基準子午線]]へ変更されている。}}。
こうした事情からUTCとGMTが近似的に同一視される事もある。<!--が、本来はそれぞれ全く異なる時刻系であるため正確には誤りである。[[協定世界時]] (UTC) を意味して「GMT」と呼ぶ事例も多い。“Zulu time”とも呼ばれる。-->
用語“G.M.T.”および“[[Z]]”([[通話表]]で使用する語は [[ズールー|Zulu]])は、[[航法]]や[[通信]]の分野で UTC と一般的に[[wikt:同義語|同義語]]として認められる{{Sfn|弓滋|1970|p=284}}{{Sfn|IAU|1970|p=20}}。
また、GMT は[[時刻]]の最大[[正確度と精度|精度]]が[[整数]]秒である[[法令]]、通信、[[常用時|常用]]その他の目的では UTC の意味で使用される。一方、GMT は[[天測航法]]及び[[測量]]における暦の独立引数としては[[世界時]]の UT1 の意味で引き続き使用される。ただし、GMT は適切な名称(UTC、UT1 または UT)で置き換えられる{{Sfn|飯島重孝|1977|p=51}}{{Sfn|IAU|1976|p=27}}。
==平均太陽時==
{{main|平均太陽時}}
グリニッジ平均時は伝統的に[[経度]]0度と定められている[[イギリス]]の[[ロンドン]]にある[[グリニッジ天文台]]での[[平均太陽時]]({{lang|en|Mean solar time}})である{{Sfn|IAU|1948|p=4}}{{Sfn|IAU|1976|p=27}}。<!--[[地球]]は[[楕円軌道]]を描いて[[公転]]しているため、グリニッジ平均時での[[正午]]は[[太陽]]のグリニッジにおける[[子午線]]通過時刻とは異なる。この様に、季節により前後するグリニッジにおける子午線通過時刻と GMT の正午(最大約16分)を[[均時差]]と呼ぶ。一定でない太陽の運行を平均し GMT の正午に常にグリニッジの子午線を通過するような仮想的な太陽を考えてこれを[[平均太陽]]({{lang|en|Mean solar}})とし、平均太陽の運行に基づいて GMT は定義されている。--><!--"{{lang|en|Greenwich Mean Time}}" の ''[[平均|Mean]]'' は GMT が平均太陽時であることを示している。-->
== 歴史 ==
=== クロノメーターと航海暦 ===
[[イギリス帝国]]が[[海洋国家|海運国家]]として発展すると、[[1714年]]に[[経度法]]が制定され海上における[[経度]]発見法が盛んに研究されるようになる。[[1761年]]、[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ハリソン]]が温度や揺れに強い[[クロノメーター]]を開発する。また、[[1765年]]に[[ネヴィル・マスケリン]]が[[グリニッジ天文台]]台長に就任すると、直ちに航海用に一年間の航海[[暦]]の編纂に着手し、[[1766年]]に初めて翌年の航海暦を「海上に於ける経度発見法委員会」から刊行する<ref>{{Cite journal|和書|author=[[小倉伸吉]] |date=1922-9 |year=1922 |title=天文と航海(一) |journal=天文月報 |volume=15 |issue=9 |pages=135-140 |publisher=[[日本天文学会]] |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304026}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1922/pdf/192209.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[小倉伸吉]] |date=1922-10 |year=1922 |title=天文と航海(二) |journal=天文月報 |volume=15 |issue=10 |pages=154-161 |publisher=[[日本天文学会]] |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304027}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1922/pdf/192210.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
すると、イギリス船の[[船員]]達は[[航海]]中にグリニッジ子午線からの現在の経度差を計算するために、自分達の[[時計]]をグリニッジ平均時(GMT)に合わせるようになった。ただし、船上で通常の生活用途に使われる時計には、従来通りに船上の太陽時が用いられた。この習慣と、他国の船で使われていたネヴィル・マスケリンの[[月距法]](航海暦に掲載される[[天体]]の視位置と船上での[[月]]の観測位置から経度を求める方法)とが結び付いて、やがて GMT は海域における世界共通の経度によらない基準時刻として使われるようになった。
=== 普及 ===
[[1884年]]に[[ワシントンD.C.]]で開催された[[国際子午線会議]]でグリニッジ子午線が[[本初子午線]]として採択されると、陸域でもほとんどの国の[[時刻帯]]はこのGMTを基準とし、それから数時間だけ進んだ(または遅れた)時刻を[[標準時]]として採用した。<!--([[UTC+4:51|GMT+4:51]]・[[UTC-0:25]]・[[UTC+12:45]](現行)などの多くの例外がある)-->
[[1911年]]には、[[パリ]]で開催された国定[[暦]]本編製に関する国際的な[[天文学者]]会議で、事情の許す限り、全ての暦にグリニッジ時を標準とするものを用いることが決議される<ref>{{Cite journal|和書|date=1912-01 |year=1912 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 編暦に関する萬國会議 |journal=天文月報 |volume=4 |issue=10 |page=115 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3303890}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1911/pdf/191201.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
[[1912年]]10月、パリに於ける万国協同報時法会議で、[[無線]][[電信]]による[[時報|報時]]の統一が可決され、[[1913年]][[7月1日]]からは皆グリニッジ時(常用時)による事になる(日本は不参加)<ref>{{Cite journal|和書|date=1913-05 |year=1913 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 萬國協同放射電信式報時事業の開始 |journal=天文月報 |volume=6 |issue=2 |page=16 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3303908}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1913/pdf/191305.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
[[1918年]]、当時は大洋を航行する艦船においては([[経度]]測定用の[[クロノメーター]]とは別に)日常使用する時刻を毎日正午に船の位置する(と考えられる)子午線の地方時に合わせていたが、イギリスの通商部においてこの慣習を改めて海上においても、陸上において当時の多くの国が採用している標準時と同様な時刻系を採用することの可否について関係者の詳細な意見を集めた<ref>{{Cite journal|和書|date=1918-11 |year=1918 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 海上にて万国共通標準時採用の議 |journal=天文月報 |volume=11 |issue=8 |page=131 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3303979}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1918/pdf/191811.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
[[1926年]]10月、11月に、[[国際天文学連合]] (IAU) と[[国際測地学・地球物理学連合]] (IUGG) の主催で万国経度観測が実施され(日本も参加)、この際に無線電信より[[国際報時局]](BIH、現[[国際地球回転・基準系事業|IERS]])の学用報時と同じ形式でグリニッジ平均時が発信され、その時差を測定することにより経度が比較された<ref>{{Cite journal|和書|author=木下国助 |date=1926-10 |year=1926 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑録 国際的経度測定に就て |journal=天文月報 |volume=19 |issue=10 |pages=181-182 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304076}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1926/pdf/192610.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[宮地政司]] |date=1930-03 |year=1930 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑録 一九二六年万国経度観測の報告 |journal=天文月報 |volume=23 |issue=3 |pages=47-47 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304117}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1926/pdf/192610.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
こうして、[[19世紀]]から[[1920年代]]までにグリニッジ平均時は航海以外の、暦や[[天文学]]、報時、[[測地学]]などの分野でも世界共通の経度によらない基準時刻としての実績をあげていった。
なお、グリニッジ天文台からの[[時報]]は[[1924年]][[2月5日]]に初めて開始された。
=== 天文時の廃止 ===
[[天文学者]]は[[クラウディオス・プトレマイオス]]の創始以来、1日の始まりを正午とする「[[天文時]]」(astronomical time)を使っていた。これは夜間観測中に日付けが変わる不便を避けるためであった<ref>[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CDD7C1C72F1C6FCA4C8A4CFA1A92F1C6FCA4CEBBCFA4DEA4EA.html] 国立天文台 > 暦計算室 > 暦Wiki >1日の始まり</ref>。
しかし、[[1917年]]に[[イギリス]]において[[航海]]者から、航海[[暦]]に記載されている天文時を廃止して日常使用する[[常用時]]に統一すべきとの議論が盛んになった。航海者側の苦情の理由は、天文時と常用時を併用すると計算が不必要に複雑となることや、間違いやすいことであった。この様な苦情は、[[第一次世界大戦]]中で何事も簡明早急を要することから、当局者の注意を引いた。
その結果、イギリスの[[フランク・ダイソン]]及び[[ハーバート・ターナー]]がこれに関して賛否の意見を各国天文学者に求めることになった<ref>{{Cite journal|和書|date=1917-10 |year=1917 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 天文時廃止の議 |journal=天文月報 |volume=10 |issue=7 |page=82 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3303965}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1917/pdf/191710.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
そして[[1919年]]に、[[アメリカ合衆国]]、イギリス及び[[フランス]]の合意により、[[1925年]][[1月1日]]から天文日を常用日と等しく[[正子]](真夜中)から数えることに決定し、各国の[[天体暦|天文暦]]もその方針に従って編成されることになった<ref>{{Cite journal|和書|date=1919-09 |year=1919 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 天文時と常用時の統一 |journal=天文月報 |volume=12 |issue=9 |page=148 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3303990}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1919/pdf/191909.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-02}}</ref>。
[[1921年]]にこの変更に関して、変更前と同様に G.M.T.(グリニッジ平均時)と呼ばれると混同する事があり不都合であるとして、[[トリニティ・カレッジ (ダブリン大学)|トリニティ・カレッジ]][[教授]]の[[ヘンリー・プラマー (天文学者)|ヘンリー・プラマー]]などは正子から数える時を G.C.T.(グリニッジ常用時、{{lang|en|Greenwich Civil Time}})または G.S.T.(グリニッジ標準時、{{lang|en|Greenwich Standard Time}})と記すべきであると主張した。これに対して、グリニッジ天文台長のダイソンは、既に一般社会では G.M.T. が正子から始まる[[時刻]]として定着しており、[[運輸省 (イギリス)|航空省]]が[[気象通報式|気象電報]]を発するときに用いる G.M.T. も正子に始まる時刻であるし、また[[イギリス陸軍]]が24時間制を採用<ref>{{Cite journal|和書|date=1918-11 |year=1918 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 英国陸軍に於ける二十四時時計採用 |journal=天文月報 |volume=11 |issue=8 |page=131 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3303979}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1918/pdf/191811.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>して以来[[午前と午後]]の代わりに呼ぶ時刻はグリニッジ平均時であるとして一蹴した。[[パリ天文台]]の[[ギヨーム・ビゴルダン]]は、「天文学者が誤解のおそれがあるときは G.M.T. (Civil) と書くことができるし、一般市民が正子から始まると信じているのに天文学者が、それは正午に始まると規定したのだと力んでもしかたがない。単に[[wikt:衒学|衒学]]的だと失笑されるだけだ。G.C.T. や G.S.T. などはよくない(G.S.T. は[[夏時間]]と間違う)」などと反論していた{{Sfn|日本天文学会|1921|p=157}}。
その後、[[1922年]]5月にローマで開かれた第1回[[国際天文学連合]] (IAU) の決議によって、プトレマイオス以来、千数百年間にわたって慣用されてきた天文時を1925年1月から万国一斉に廃止し、12時間繰り上げて正子に始まる常用時を[[天文学]]でも用いるようになった<ref>{{Cite journal|和書|date=1924-12 |year=1924 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 天文時の廃止 |journal=天文月報 |volume=17 |issue=12 |page=187 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304053}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1924/pdf/192412.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12}}</ref>。
ただし、[[ユリウス日]]については、1925年以降もその始まりを正午とし続けていることに注意が必要である。
=== 世界時の成立 ===
{{main|世界時#歴史}}
[[1925年]]の[[国際天文学連合]] (IAU) 第2回会議で、従来までの[[正午]]からの G.M.T.(グリニッジ平均時)と区別して、[[正子]]から始める時に別の名称をつける提案が議題となり賛否の意見が闘わされる。しかし、会議では呼称については未定で、[[ユリウス通日|ユリウス日]] (JD) は正子から始めずに正午から始めることになった<ref>{{Cite journal|和書|date=1925-10 |year=1925 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 緑威平均時の争論 |journal=天文月報 |volume=18 |issue=10 |page=156 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304063}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1925/pdf/192510.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-09}}</ref>。
その後、[[1928年]]の国際天文学連合 (IAU) 第3回総会で、「用語 グリニッジ常用時({{lang-en-short|Greenwich Civil Time (G.C.T.)}})、および[[世界時]]は正子より計るグリニッジ時を明確に示す」ことが決議された。[[天文学者]]はどちらの意味でも G.M.T. の語を使用しないことが勧告され、特にグリニッジ正午より計った時を用いることを望む場合は、グリニッジ平均天文時({{lang-en-short|Greenwich Mean Astronomical Time (G.M.A.T.)}})とすることなる<ref>{{cite conference|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=1928 |year=1928 |title=Ⅲrd General Assembly, Leiden, The Netherlands, 1928 / Ⅲe Assemblée Générale, Leiden, Pays Bas, 1928 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url= http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1928_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-17 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=5}}</ref><ref>{{Citation|和書|editor=Société d'Astronomie d'Anvers |others=寺田勢造 訳 |date=1928-11 |year=1928 |contribution=雑録 万国天文学協会第三回総会(一) |journal=天文月報 |volume=21 |issue=11 |pages=212-214 |publisher=[[日本天文学会]] |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304101}}、ガゼットアストロノミーク誌({{ISSN|0374-3241}}) |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1928/pdf/192811.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-09}}</ref>。
さらに[[1935年]]の国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時 {{lang|en|(G.M.T.)}} に、「世界時」を国際的に使用することを採択し、将来はグリニッジ常用時 {{lang|en|(G.C.T.)}} という用語を使用しないことが決議された<ref>{{cite conference|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=1935 |year=1935 |title=Ⅴth General Assembly, Paris, France, 1935 / Ⅴe Assemblée Générale, Paris, France, 1935 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ | publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url= http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1935_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-17 |language=[[フランス語]] |page=3}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date=1935-11 |year=1935 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 万國天文学協会第五回総会記事 |journal=天文月報 |volume=28 |issue=11 |page=193 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304186}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1935/pdf/193511.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-09}}</ref>。
そして、[[1948年]]の国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会([[天体暦|天文暦]]部)は、天文学者がグリニッジ[[真夜中|正子]]より起算した平均[[太陽時]]を示す際に、名称「世界時」だけを使用することを勧告する<ref>{{Cite journal|和書|author=[[古畑正秋]] |date=1949-01 |year=1949 |title=展望 チューリッヒに於ける国際天文同盟総会 |journal=天文月報 |volume=42 |issue=1,2 |page=6 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹町]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304301}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1949/pdf/194901-02.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26}}</ref>{{Sfn|IAU|1948|p=4}}。
こうして、天文学者が使用する用語はグリニッジ平均時から世界時に移行したが、一般市民は常用時としてグリニッジ平均時の語を引き続き使用する。
=== 協定世界時との関係 ===
[[1970年]]に英国[[ブライトン]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第14回総会において、第31委員会(時)の決議で採択された勧告6.2で、用語“G.M.T.”および“[[Z]]”は、[[航法]]や[[通信]]の分野で[[協定世界時]] (UTC) と一般的に同義語として認められる{{Sfn|弓滋|1970|p=284}}{{Sfn|IAU|1970|p=20}}。
[[1972年]][[1月1日]]からは、一般市民が使用する常用時としてのグリニッジ平均時 (GMT) は協定世界時 (UTC) として定義されており、[[閏秒]]の挿入または減算による現行の調整方法が採用されている。
なお、[[1976年]]に[[グルノーブル]]で開催された国際天文学連合 (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)及び第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と[[世界時]] (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は[[時刻]]の最大[[正確度と精度|精度]]が[[整数]]秒である[[法令]]、通信、[[常用時|常用]]その他の目的では UTC の意味で使用されること、また、GMT と UT は[[天測航法]]及び[[測量]]における[[暦]]の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認める一方で、GMT は適切な名称に置き換えられることが強調される{{Sfn|飯島重孝|1977|p=51}}{{Sfn|IAU|1976|p=27}}。
==イギリスの標準時==
[[画像:Time zones of Europe.svg|280px|thumb|right|ヨーロッパの時刻帯:青 - GMT または[[西ヨーロッパ時間]]、赤 - [[中央ヨーロッパ時間]]、黄 - [[東ヨーロッパ時間]]、緑 - [[モスクワ時間]]]]
[[標準時]]の考え方、すなわち地方全体で共通の基準時刻(基準地点の[[平均太陽時]])を用いる仕組みは、イギリスで鉄道敷設の発展とともに、「[[鉄道時間]]」として生まれた。ロンドンの時刻であるグリニッジ平均時がこれに用いられた。
現在、イギリスの[[標準時]]は、UTCそのもの([[UTC+0]])を採用しているが、現在でも伝統を守ってグリニッジ平均時(Greenwich Mean Time)と呼ばれている{{efn|イギリスの[[標準時]]は、1968年2月18日1時(UTC)から1971年10月31日2時(UTC)までの全期間は、1時間早いUTC+1を用いていて、これを英国標準時([[:en:British Standard Time|British Standard Time]]、BST)と呼んでいた。}}。また[[西ヨーロッパ時間]] ([[:en:Western European Time|Western European Time]]、WET)とも呼ばれる。
Wikipediaの[[夏時間]]のページ冒頭の地図で濃い青色に塗られている国では、夏季には時間を1時間進める[[夏時間|サマータイム]]というものを行なっている。イギリスではこの時期の時間を[[英国夏時間]]([[:en:British Summer Time|British Summer Time]]、BST)、アイルランドでは[[:en:Irish Summer Time|Irish Summer Time]](IST)と呼ぶ。薄い青色で塗られている国([[アイスランド]])では一年中 UTC/GMT/WET を用いる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|4}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書
|author = 飯島重孝
|date = 1977-03-15
|year = 1977
|title = IAU第16回総会に出席して
|journal = 日本時計学会誌
|issue = 80
|pages = 51-58
|publisher = 日本時計学会
|location = [[東京都]]
|issn = 0029-0416
|naid = 110002777551
|id = {{NCID|AN00195723}}
|accessdate = 2014-01-26
|ref = harv
}}{{オープンアクセス}}
* {{Cite journal|和書
|date = 1921-10
|year = 1921
|editor = [[日本天文学会]]
|title = 雑報 緑威平均時
|journal = 天文月報
|volume = 14
|issue = 10
|page = 157
|publisher = 日本天文学会
|location = [[東京市]]
|issn = 0374-2466
|id = {{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304015}}
|url = https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1921/pdf/192110.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2014-01-09
|ref = harv
}}
* {{Cite journal|和書
|author = 弓滋
|date = 1970-10
|year = 1970
|title = 第19(地球回転)委員会,第31(時)委員会 (IAU第14回総会(特集)) -- (第14回IAU総会からの報告)
|journal = 天文月報
|volume = 63
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|pages = 282-284
|publisher = [[日本天文学会]]
|location = 東京都[[三鷹市]]
|issn = 0374-2466
|naid = 40018111122
|id = {{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304578}}
|url = https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1970/pdf/19701105.pdf
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|accessdate = 2014-01-26
|ref = harv
}}
* {{cite conference
| author = IAU
| authorlink = 国際天文学連合
| date = 1948
| year = 1948
| title = Ⅶth General Assembly, Zurich, Switzerland, 1948 / Ⅶe Assemblée Générale, Zurich, Suisse, 1948
| conference = IAU General Assembly
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| publisher = The International Astronomical Union
| location = [[パリ|Paris]]
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| language = [[英語]]/[[フランス語]]
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* {{cite conference
| author = IAU
| authorlink = 国際天文学連合
| date = 1970
| year = 1970
| title = ⅩⅣth General Assembly, Brighton, UK, 1970 / ⅩⅣe Assemblée Générale, Brighton, UK, 1970
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| language = [[英語]]/[[フランス語]]
}}
* {{cite conference
| author = IAU
| authorlink = 国際天文学連合
| date = 1976
| year = 1976
| title = ⅩⅥth General Assembly, Grenoble, France, 1976 / ⅩⅥe Assemblee Generale, Grenoble, France, 1976
| conference = IAU General Assembly
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}}
== 関連項目 ==
*[[海里]]
*[[恒星時]]
*[[太陽時]]
*[[時報]]
*[[標準電波]]
*[[標準時]]
*[[協定世界時]](UTC)
** [[UTC+0]]
*[[正子]]
== 外部リンク ==
* [https://greenwichmeantime.com/ Greenwich Mean Time]
* [https://www.timehubzone.com/time/zones/greenwich-mean-time Greenwich Mean Time] UTC+00:00
* [https://hpiers.obspm.fr/ International Earth Rotation and Reference Systems Service]
{{Time measurement and standards}}
{{DEFAULTSORT:くりにつしひようしゆんし}}
[[Category:標準時|+くりにつしひようしゆんし]]
[[Category:時刻系]]
[[Category:イギリスの時間]]
[[Category:グリニッジ区]] | 2003-04-24T12:16:49Z | 2023-12-23T13:43:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B8%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82 |
7,215 | 宇宙作家クラブ | 宇宙作家クラブ(うちゅうさっかくらぶ 英語: Space Authors Club)は、1999年創立の任意団体で、作家やフリーライターなど、宇宙開発に関心を持つ同人クリエイター集団。宇宙開発の取材が個人では難しいため作られた。
所属している作家らが取材したロケットの打ち上げなど、様々な宇宙開発に関するできごとを、ニュースとして宇宙作家クラブの Web サイトから発信している。
(その他2009年1月現在、133名が加盟。公式ホームページメンバーリストを参照のこと) | [
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] | 宇宙作家クラブは、1999年創立の任意団体で、作家やフリーライターなど、宇宙開発に関心を持つ同人クリエイター集団。宇宙開発の取材が個人では難しいため作られた。 所属している作家らが取材したロケットの打ち上げなど、様々な宇宙開発に関するできごとを、ニュースとして宇宙作家クラブの Web サイトから発信している。 | '''宇宙作家クラブ'''('''うちゅうさっかくらぶ''' {{lang-en|Space Authors Club}})は、[[1999年]]創立の[[任意団体]]で、[[作家]]や[[フリーライター]]など、[[宇宙開発]]に関心を持つ同人[[クリエイター]]集団。宇宙開発の取材が個人では難しいため作られた。
所属している作家らが取材した[[ロケット]]の打ち上げなど、様々な宇宙開発に関するできごとを、ニュースとして宇宙作家クラブの Web サイトから発信している。
== 主な会員 ==
* [[あさりよしとお]]
* [[庵野秀明]]
* [[上田早夕里]]
* [[宇推くりあ]]
* [[江藤巌]]
* [[大澤徹訓]]
* [[小川一水]]
* [[きむらひでふみ]]
* [[草上仁]]
* [[こいでたく]]
* [[小林泰三]]
* [[笹本祐一]]
* [[菅浩江]]
* [[武田康廣]]
* [[田中哲弥]]
* [[谷甲州]]
* [[天神英貴]]
* [[野尻抱介]]
* [[長谷川裕一]]
* [[林譲治 (作家)|林譲治]]
* [[平谷美樹]]
* [[藤崎慎吾]]
* [[藤谷文子]]
* [[松浦晋也]]
* [[森奈津子]]
* [[山北篤]]
(その他2009年1月現在、133名が加盟。[http://www.sacj.org/member.htm 公式ホームページメンバーリスト]を参照のこと)
== 元会員 ==
* [[小松左京]](顧問、2011年7月死去)
* [[田中啓文]](退会)
* [[野田昌宏]](2008年6月死去)
== 関連書籍 ==
{{ウィキポータルリンク|スペキュレイティブ・フィクション|[[画像:P sci-fi.png|34px|Project:スペキュレイティブ・フィクション]]}}
*『[[宇宙へのパスポート]] ロケット打ち上げ取材日記1999‐2001』 笹本祐一、他著 ISBN 4257036494
*『宇宙へのパスポート2 M-V&H-2Aロケット取材日記』 笹本祐一、他著 ISBN 4257036788
*『宇宙へのパスポート3 宇宙開発現場取材日記』 笹本祐一、松浦 晋也、他著 ISBN 4257037261
**{{マンガ図書館Z作品|45381|宇宙へのパスポート}}(外部リンク)
== 外部リンク ==
* [http://www.sacj.org/index.htm 宇宙作家クラブ]
{{DEFAULTSORT:うちゆうさつかくらふ}}
[[Category:SF関連の組織]]
[[Category:日本のSF]]
[[Category:民間宇宙団体]]
[[Category:芸術文化団体]]
[[Category:クリエイター集団]]
[[Category:1999年設立の組織]] | 2003-04-24T12:16:50Z | 2023-11-09T10:02:13Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en",
"Template:ウィキポータルリンク",
"Template:マンガ図書館Z作品"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E4%BD%9C%E5%AE%B6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96 |
7,216 | 本初子午線 | 本初子午線(ほんしょしごせん英: Prime meridian)とは、経度0度0分0秒と定義された基準の子午線(経線)を指す。1980年代以降、国際的な本初子午線としてIERS基準子午線が使用されている。「本初」とは「最初」「首位」という意味である。
赤道や地理極という明確な基準のある緯度と異なり、経度には明確な基準が自然には存在しないため、本初子午線は人為的に設定する必要がある。過去には、世界各地で様々な本初子午線が使用された。加えて、経度の測定には技術的な困難があった。
本初子午線は、180度経線とともに大円を形成する。この大円により、地球表面は2つの半球に分けられ、本初子午線の東の半球を東半球、西の半球を西半球という。
現在の国際的な本初子午線はIERS基準子午線(IERS Reference Meridian)である。
IERS基準子午線が策定される以前(1960〜1970年代まで)の国際的な本初子午線としては、グリニッジ天文台を基準としたグリニッジ子午線が長く使われた。これはIERS基準子午線から西に5.3101秒、距離にして102.478mの位置を通過している。これら2つの子午線は、全地球的には極めて近いことから、現在でも通俗的な説明としては「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の意味で用いられることがある。
なお、日本の測量法体系でも、経度の基準として国際地球基準座標系 (ITRF) における経度0度の子午線を採用していると考えてよいが、厳密には現代の座標系の定義はそうではない。現代では方向の基準は宇宙測地観測局の位置から逆に定義されている。
日本において「本初子午線」を定めた法令は以下のとおりである。この規定は現在も効力がある。
IERS基準子午線 (IRM:IERS Reference Meridian) は国際地球回転・基準系事業 (IERS) によって定義、保持されている測地系である国際地球基準座標系 (ITRF) のX軸方向である。アメリカ国防総省の運営するGPSの基準座標系WGS84の基準子午線もこれを用いている。
IERS基準子午線を基準にすると、グリニッジ天文台のグリニッジ子午線(エアリーの子午環)は1989年時点で西に角度で5.3101秒、距離にして102.478 m 離れた位置にある。このずれは、グリニッジ子午線がグリニッジにおける局所的な鉛直を用いた局所座標系であったために生じたものである。IRMは地心座標系であり、IRMを含む平面は地球の重力中心を通る。
GPSの前身となる最初の全地球航法衛星システムであるトランシット(アメリカ合衆国が1960年前後から開発)は、1960年に策定された全地球的測地系(地心座標系)であるWGSに基づき、その基準は北米測地系1927による基地局座標を用いた。アメリカ合衆国は1912年より公式にはグリニッジ子午線を本初子午線として採用していたが、トランシットを用いて1969年にグリニッジ子午線の位置を測定したところ、WGSは(また言い換えれば北米測地系をそのままで地心座標系とみなすことにすると)、グリニッジ子午線から、およそ102m東にずれた子午線を本初子午線としていることが明らかになった。これがIERS基準子午線となった。
IERS基準子午線の方向は地球の大陸プレートの動きの加重平均に追従する。
国際水路機関は1983年にすべての海図で国際地球基準座標系を採用している。
本初子午線は、北極点から北極海、ヨーロッパ、地中海、アフリカ、大西洋、南極海、南極大陸を通過して南極点までを結ぶ。
グリニッジ子午線の位置は、1851年に当時の台長ジョージ・ビドル・エアリーが子午環(通称「エアリー子午環」)を設置し、以降、観測を行った地点と定義されている。
それ以前は、第2代王室天文官・エドモンド・ハレーが1721年に最初に観測した位置を、子午線儀を使って継承していた。その地点は、フラムスティード・ハウスとウェスタンサマーハウスの間の天文台の北西端の角であった。その地点(現在はフラムスティード・ハウスの中に包含されている)はエアリーの子午環から西に43メートルの場所であり、時角にして約0.15秒の距離にある。
1884年10月、世界で共通に使用する「経度0度」を決めるためにワシントンD.C.で開かれた万国子午線会議において、25か国41名の代表者によって、エアリーの子午環の位置、すなわちグリニッジ子午線を国際本初子午線とすることが採択された。
グリニッジ子午線は、地表から天文観測によって位置が決定され、地表の重力方向の鉛直線によって指向された。この天文観測に基づくグリニッジ子午線およびグリニッジ平均時は、当初は月距法(英語版)によって、後に船でクロノメーターを運ぶことによって、その後には海底ケーブルによる電信によって、最後には無線信号によって、世界中に伝えられた。
経度の記法はアレクサンドリアのエラトステネス(紀元前276年ごろ - 紀元前195年ごろ)とロドスのヒッパルコス(紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)によって考案され、地理学者ストラボン(紀元前63年ごろ - 23年ごろ)によって数多くの都市に適用された。しかし、世界地図に一貫性のある経度を使用したのは、プトレマイオス(90年ごろ - 168年ごろ)の著書『ゲオグラフィア』(Geographia、地理学)が最初であった。
プトレマイオスは、"Fortunate Isles"と呼ばれたカナリア諸島(西経13 - 18度)などの大西洋の島々を基準とした。アフリカの最西端(西経17.5度)より西に本初子午線を設定することにより、プトレマイオスの地図には負の経度が現れない。プトレマイオスの本初子午線は、ウィンチェスター(およそ西経20度)より西に18度40分の子午線に相当する。このときよく用いられていた経度観測法は、異なる国での月食の観測時間を比較する方法であった(月食は世界中で同時に観測されるため)。
プトレマイオスの『ゲオグラフィア』は、その地図とともに1477年にボローニャで初めて印刷された。そして、初期の地球儀はプトレマイオスの地図を元に作成された。しかし、「自然の」本初子午線を画定するという試みは引き続きあった。クリストファー・コロンブスは1493年に、大西洋の中央のどこかで方位磁針が真北を指した(磁気偏角が0になった)と報告した。そして、この報告を元に、1494年のトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルの間で新世界の境界が定められた。トルデシリャス条約で定められた境界は、ベルデ岬から西に370リーグの子午線に設定された。これがディオゴ・リベイロ(英語版)の1529年の地図に表されている。
遅くとも1594年のクリストファー・サクストンのころまで、アゾレス諸島のサンミゲル島(西経25.5度)が本初子午線として使用されてきたが、この頃から、磁気偏角が0になる線は子午線に沿って直線状に伸びるものではないということがわかってきた。
1541年、メルカトルは41cmの地球儀を作成し、カナリア諸島のフエルテベントゥラ島(西経14度1分)を通る箇所に本初子午線を引いた。彼の後の地図では、磁気の仮説に従ってアゾレス諸島を本初子午線とした。
しかし、1570年にオルテリウスが最初の地図を刊行する頃には、ベルデ岬のような他の島が本初子午線として使用されるようになってきた。オルテリウスの地図では、経度は今日のような西経180度から東経180度ではなく、0度から360度であった。この経度は18世紀まで使用された。。
1634年、フランスの政治家リシュリューは、パリから西に19度55分の所にあるカナリア諸島最西端のフェロ島を本初子午線とした(フェロ子午線)。不幸にも、フランスの地図製作者ギョーム・ドリル(英語版)がパリとフェロ島との経度差をちょうど20度に丸めていたことから、フェロ子午線がフランスの本初子午線に採用されることとなった。
18世紀初頭、ジョン・ハリソンによるクロノメーターの開発と、正確な星図の発達により、海上における経度の測定が改善された。星図については特に、初代イギリス王室天文官のジョン・フラムスティードが1680年から1719年にかけて作成し、彼の後継者であるエドモンド・ハレーが広めた天球図譜が多くの航海者によって使われた。これにより航海者は、トーマス・ ゴッドフリー(英語版)とジョン・ハドリーが開発した八分儀を使用して、月距法(英語版)によってより正確な経度の測定が行えるようになった。1765年から1811年の間、ネヴィル・マスケリンは49版の『航海年鑑』を刊行した。それは、グリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線を基準とするものであった。マスケリンの航海年鑑は、月距法を実用的なものにしただけでなく、グリニッジ子午線を全世界の基準点とした。航海年鑑のフランス語訳では、マスケリンの計算結果をパリ子午線基準に換算していた。
その後、鉄道網の整備が始まると陸域でも地域共通の時刻が必要とされはじめた。イギリスではロンドンの時間であるグリニッジ平均時が鉄道の運行に用いる「鉄道時間」として採用が始まった。その後、イギリス全土で共通の時刻を用いるよう収斂していった。これはのちの標準時の考え方の元となった。
1850年、アメリカ合衆国は旧海軍天文台子午線を本初子午線に採用した(航海用にはグリニッジ子午線を採用)。アメリカは領土が東西に長く広い鉄道網を持っていたため、国内で統一した子午線を使うことが必要とされていた。
一方1875年、国際地理学会はカナリア諸島フェルロを基点とするフェロ子午線を基準子午線とすることを決議した。全世界的に採用するには特定国の首都などは避けたほうがいいという主張を受け入れたものだが、実際にはカナリア諸島を基点とするとパリを基準にするのとほぼ同じ意味になる(経度差がちょうど20度のため)という理由であった。しかし、この基準子午線はフランス以外の国には非常に不評だった。1881年に再度開かれた国際地理学会では、カナリア諸島は基点としては不適で重要な観測拠点となりうる天文台を基点とするべきだという主張が行われた。
1884年10月13日、アメリカ合衆国の提案で国際子午線会議がワシントンD.C.で開かれた。投票の結果、グリニッジ天文台を基点とする案が採用され、グリニッジ子午線は国際的な基準子午線となった。この会議には日本からは菊池大麓が参加した。フランスは中立国を基点とするよう主張したがフランスの提案地には重要な天文台がない場所が多かったため、この提案は顧みられず、フランスは決議に棄権した。他にブラジルも棄権し、ドミニカ共和国は反対したが、他国は賛成した。
日本は、1886年7月13日の勅令「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」で、グリニッジ子午線を本初子午線として採用した。それ以前の日本では、江戸時代に京都を通る本初子午線が用いられたことがある。明治初期には本初子午線についての対応が統一されておらず、海軍がグリニッジ子午線を本初子午線とする方針を示す一方、内務省は東京を通る本初子午線を定めていた(#日本における本初子午線参照)。
フランスは1911年3月9日に、アメリカ合衆国は1912年8月22日にグリニッジ子午線を本初子午線として公式に採用した。
日本では、江戸時代以前には暦の計算の基準を京都に置いていた。江戸幕府が二条城西側の三条台村に改暦所(京都改暦所、西三条改暦所などとも呼ばれる。現在の京都市中京区西ノ京西月光町)という役所を設けると、改暦所を通る子午線が基準として使用されるようになった。1821年に完成した伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』は、改暦所を通る子午線を「中度」(経度の基準)として示している。伊能忠敬は経度の測定も試みたが、不十分であった。
明治時代に入ると、日本における暦の計算や測量の基準となる子午線は東京に置かれるようになった。しかし、東京のどの地点を基準とするかについては変遷があった(経度にして数秒の差異が出る)。また、明治初期にはこれらの業務に内務省や海軍省など複数の機関が関わっており、本初子午線に対する考え方も統一されていなかった。1869年(明治2年)1月に日本最初の洋式灯台である観音埼灯台の位置を布告する際にはパリを経度の初度(パリ子午線)としているが、1871年(明治4年)5月に天保山灯台の位置を告示する際にはグリニッジ天文台の位置を経度の初度(グリニッジ子午線)としている。
海図作成を必要とした海軍は、1871年(明治4年)7月に水路局を設立。1872年(明治5年)4月24日の太政官布告130号で、海軍省ではグリニッジ子午線を本初子午線として採用し築地に設けた海軍省標竿を東経139度45分25.05秒と定め、これを日本の測量の基準とするという方針が布告された(測量の基準点の変遷については、日本経緯度原点参照)。
一方、国内行政のための地図製作も必要とされ、工部省測量司では1872年(明治5年)3月に測量師長マクヴィンらの指導のもと東京府下で三角点の設置と測量を開始する(日本の三角測量の歴史参照)。この時、皇居(江戸城)本丸の富士見櫓に最初の三角点が置かれた。工部省測量司は1874年に内務省に移管され、のちに組織再編により内務省地理局となって、測量と地図作成の業務に当たった。内務省地理局が作成した地図では、基本的には富士見櫓を通る子午線が0度(本初子午線)とされている。
編暦(暦の編纂)の分野では、1873年(明治6年)の太陽暦導入に際し「政府刊行ノ太陽暦ハ東京皇城ノ経緯度ヲ初度ト定ム」という記述が『水路部沿革史』に見られる。当時政府が発行した暦には「時差表」が付され、「東京」を初度とする国内主要都市の経度が記された。ただし、過渡的には旧江戸幕府の浅草司天台の位置も用いられたようである。1875年(明治8年)以降、編暦業務は内務省に移され、1877年(明治10年)には内務省地理局が管掌することになった。
こうして地図と編暦を扱うことになった内務省地理局は、1877年(明治10年)に赤坂区溜池葵町(内務省地理局測量課所在地。現在の港区虎ノ門二丁目)に観象台(天体観測施設)を設けた。1878年(明治11年)作成の『実測東京全図』などでは葵町を通る子午線が本初子午線とされ、明治11年暦以降の暦でも反映された。
内務省では江戸城旧本丸天守台に観象台を移転する計画を立て、1881年(明治14年)に認められた。1882年(明治15年)12月27日には内務省より「経度ノ義ハ東京赤坂区溜池葵町三番地ヨリ起算致候処、今般旧本丸内天守台ヲ以テ経線零度ト相改候」との告示が出された(内務省告示甲第16号)。
なお、天体観測・測量・編暦という隣接・重複する業務が複数の機関で行われていたことからは、さまざまな問題が生じた。とくに、内務省と海軍省とで(グリニッジ子午線を本初子午線とした際の)経度の値が異なる問題があったが、1885年(明治18年)9月には両者の間で調整が行われ、経度が統一された。
1884年の国際子午線会議を受け、1886年(明治19年)7月13日の勅令「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」で、グリニッジ子午線を本初子午線とすることが定められた。
地球と同様に、他の天体の本初子午線も人為的に決められたものである。クレーターのような目立つ目標物はよく本初子午線に設定される。また、磁場に基づいて決められることもある。 | [
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"text": "本初子午線(ほんしょしごせん英: Prime meridian)とは、経度0度0分0秒と定義された基準の子午線(経線)を指す。1980年代以降、国際的な本初子午線としてIERS基準子午線が使用されている。「本初」とは「最初」「首位」という意味である。",
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"text": "赤道や地理極という明確な基準のある緯度と異なり、経度には明確な基準が自然には存在しないため、本初子午線は人為的に設定する必要がある。過去には、世界各地で様々な本初子午線が使用された。加えて、経度の測定には技術的な困難があった。",
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"text": "本初子午線は、180度経線とともに大円を形成する。この大円により、地球表面は2つの半球に分けられ、本初子午線の東の半球を東半球、西の半球を西半球という。",
"title": "本初子午線の意義"
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"text": "現在の国際的な本初子午線はIERS基準子午線(IERS Reference Meridian)である。",
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"text": "IERS基準子午線が策定される以前(1960〜1970年代まで)の国際的な本初子午線としては、グリニッジ天文台を基準としたグリニッジ子午線が長く使われた。これはIERS基準子午線から西に5.3101秒、距離にして102.478mの位置を通過している。これら2つの子午線は、全地球的には極めて近いことから、現在でも通俗的な説明としては「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の意味で用いられることがある。",
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"text": "なお、日本の測量法体系でも、経度の基準として国際地球基準座標系 (ITRF) における経度0度の子午線を採用していると考えてよいが、厳密には現代の座標系の定義はそうではない。現代では方向の基準は宇宙測地観測局の位置から逆に定義されている。",
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"text": "日本において「本初子午線」を定めた法令は以下のとおりである。この規定は現在も効力がある。",
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"text": "IERS基準子午線 (IRM:IERS Reference Meridian) は国際地球回転・基準系事業 (IERS) によって定義、保持されている測地系である国際地球基準座標系 (ITRF) のX軸方向である。アメリカ国防総省の運営するGPSの基準座標系WGS84の基準子午線もこれを用いている。",
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"text": "IERS基準子午線を基準にすると、グリニッジ天文台のグリニッジ子午線(エアリーの子午環)は1989年時点で西に角度で5.3101秒、距離にして102.478 m 離れた位置にある。このずれは、グリニッジ子午線がグリニッジにおける局所的な鉛直を用いた局所座標系であったために生じたものである。IRMは地心座標系であり、IRMを含む平面は地球の重力中心を通る。",
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"text": "GPSの前身となる最初の全地球航法衛星システムであるトランシット(アメリカ合衆国が1960年前後から開発)は、1960年に策定された全地球的測地系(地心座標系)であるWGSに基づき、その基準は北米測地系1927による基地局座標を用いた。アメリカ合衆国は1912年より公式にはグリニッジ子午線を本初子午線として採用していたが、トランシットを用いて1969年にグリニッジ子午線の位置を測定したところ、WGSは(また言い換えれば北米測地系をそのままで地心座標系とみなすことにすると)、グリニッジ子午線から、およそ102m東にずれた子午線を本初子午線としていることが明らかになった。これがIERS基準子午線となった。",
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"text": "IERS基準子午線の方向は地球の大陸プレートの動きの加重平均に追従する。",
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"text": "国際水路機関は1983年にすべての海図で国際地球基準座標系を採用している。",
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"text": "本初子午線は、北極点から北極海、ヨーロッパ、地中海、アフリカ、大西洋、南極海、南極大陸を通過して南極点までを結ぶ。",
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"text": "グリニッジ子午線の位置は、1851年に当時の台長ジョージ・ビドル・エアリーが子午環(通称「エアリー子午環」)を設置し、以降、観測を行った地点と定義されている。",
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"text": "それ以前は、第2代王室天文官・エドモンド・ハレーが1721年に最初に観測した位置を、子午線儀を使って継承していた。その地点は、フラムスティード・ハウスとウェスタンサマーハウスの間の天文台の北西端の角であった。その地点(現在はフラムスティード・ハウスの中に包含されている)はエアリーの子午環から西に43メートルの場所であり、時角にして約0.15秒の距離にある。",
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"text": "1884年10月、世界で共通に使用する「経度0度」を決めるためにワシントンD.C.で開かれた万国子午線会議において、25か国41名の代表者によって、エアリーの子午環の位置、すなわちグリニッジ子午線を国際本初子午線とすることが採択された。",
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"text": "グリニッジ子午線は、地表から天文観測によって位置が決定され、地表の重力方向の鉛直線によって指向された。この天文観測に基づくグリニッジ子午線およびグリニッジ平均時は、当初は月距法(英語版)によって、後に船でクロノメーターを運ぶことによって、その後には海底ケーブルによる電信によって、最後には無線信号によって、世界中に伝えられた。",
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"text": "経度の記法はアレクサンドリアのエラトステネス(紀元前276年ごろ - 紀元前195年ごろ)とロドスのヒッパルコス(紀元前190年ごろ - 紀元前120年ごろ)によって考案され、地理学者ストラボン(紀元前63年ごろ - 23年ごろ)によって数多くの都市に適用された。しかし、世界地図に一貫性のある経度を使用したのは、プトレマイオス(90年ごろ - 168年ごろ)の著書『ゲオグラフィア』(Geographia、地理学)が最初であった。",
"title": "歴史"
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"text": "プトレマイオスは、\"Fortunate Isles\"と呼ばれたカナリア諸島(西経13 - 18度)などの大西洋の島々を基準とした。アフリカの最西端(西経17.5度)より西に本初子午線を設定することにより、プトレマイオスの地図には負の経度が現れない。プトレマイオスの本初子午線は、ウィンチェスター(およそ西経20度)より西に18度40分の子午線に相当する。このときよく用いられていた経度観測法は、異なる国での月食の観測時間を比較する方法であった(月食は世界中で同時に観測されるため)。",
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"text": "プトレマイオスの『ゲオグラフィア』は、その地図とともに1477年にボローニャで初めて印刷された。そして、初期の地球儀はプトレマイオスの地図を元に作成された。しかし、「自然の」本初子午線を画定するという試みは引き続きあった。クリストファー・コロンブスは1493年に、大西洋の中央のどこかで方位磁針が真北を指した(磁気偏角が0になった)と報告した。そして、この報告を元に、1494年のトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルの間で新世界の境界が定められた。トルデシリャス条約で定められた境界は、ベルデ岬から西に370リーグの子午線に設定された。これがディオゴ・リベイロ(英語版)の1529年の地図に表されている。",
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"text": "遅くとも1594年のクリストファー・サクストンのころまで、アゾレス諸島のサンミゲル島(西経25.5度)が本初子午線として使用されてきたが、この頃から、磁気偏角が0になる線は子午線に沿って直線状に伸びるものではないということがわかってきた。",
"title": "歴史"
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"text": "1541年、メルカトルは41cmの地球儀を作成し、カナリア諸島のフエルテベントゥラ島(西経14度1分)を通る箇所に本初子午線を引いた。彼の後の地図では、磁気の仮説に従ってアゾレス諸島を本初子午線とした。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、1570年にオルテリウスが最初の地図を刊行する頃には、ベルデ岬のような他の島が本初子午線として使用されるようになってきた。オルテリウスの地図では、経度は今日のような西経180度から東経180度ではなく、0度から360度であった。この経度は18世紀まで使用された。。",
"title": "歴史"
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"text": "1634年、フランスの政治家リシュリューは、パリから西に19度55分の所にあるカナリア諸島最西端のフェロ島を本初子午線とした(フェロ子午線)。不幸にも、フランスの地図製作者ギョーム・ドリル(英語版)がパリとフェロ島との経度差をちょうど20度に丸めていたことから、フェロ子午線がフランスの本初子午線に採用されることとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "18世紀初頭、ジョン・ハリソンによるクロノメーターの開発と、正確な星図の発達により、海上における経度の測定が改善された。星図については特に、初代イギリス王室天文官のジョン・フラムスティードが1680年から1719年にかけて作成し、彼の後継者であるエドモンド・ハレーが広めた天球図譜が多くの航海者によって使われた。これにより航海者は、トーマス・ ゴッドフリー(英語版)とジョン・ハドリーが開発した八分儀を使用して、月距法(英語版)によってより正確な経度の測定が行えるようになった。1765年から1811年の間、ネヴィル・マスケリンは49版の『航海年鑑』を刊行した。それは、グリニッジ天文台を通るグリニッジ子午線を基準とするものであった。マスケリンの航海年鑑は、月距法を実用的なものにしただけでなく、グリニッジ子午線を全世界の基準点とした。航海年鑑のフランス語訳では、マスケリンの計算結果をパリ子午線基準に換算していた。",
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"title": "他の天体の本初子午線"
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] | 本初子午線とは、経度0度0分0秒と定義された基準の子午線(経線)を指す。1980年代以降、国際的な本初子午線としてIERS基準子午線が使用されている。「本初」とは「最初」「首位」という意味である。 | {{Location map-line|lon=0|caption=本初子午線}}
'''本初子午線'''(ほんしょしごせん{{lang-en-short|Prime meridian}})とは、[[経度]]0[[度 (角度)|度]]0[[分 (角度)|分]]0[[秒 (角度)|秒]]と定義された基準の[[子午線]](経線)を指す。[[1980年代]]以降、国際的な本初子午線として[[IERS基準子午線]]が使用されている。「本初」とは「最初」「首位」という意味である。
== 本初子午線の意義 ==
[[赤道]]や[[地理極]]という明確な基準のある[[緯度]]と異なり、経度には明確な基準が自然には存在しないため、本初子午線は人為的に設定する必要がある。過去には、世界各地で様々な本初子午線が使用された<ref>{{Cite web |url=http://www.geog.port.ac.uk/webmap/hantsmap/hantsmap/meridian.htm |title=Prime Meridian |access-date=22 September 2012 |website=www.geog.port.ac.uk |work=Old Hampshire Mapped |publisher=Geography Department, Portsmouth University |archive-url=https://web.archive.org/web/20120830104946/http://www.geog.port.ac.uk/webmap/hantsmap/hantsmap/meridian.htm |archive-date=2012-08-30}}</ref>。加えて、経度の測定には技術的な困難があった。{{see|経度の歴史}}
本初子午線は、[[180度経線]]とともに[[大圏コース|大円]]を形成する。この大円により、地球表面は2つの[[地球の半球|半球]]に分けられ、本初子午線の東の半球を[[東半球]]、西の半球を[[西半球]]という。
== 国際本初子午線 ==
<!-- [[国際子午線会議]]より当節へリンクあり。セクション名を変更した場合は、あちらのリンクも併せて修正してください。 -->
現在の国際的な本初子午線は[[IERS基準子午線]]([[:en:IERS Reference Meridian|IERS Reference Meridian]])である。
[[IERS基準子午線]]が策定される以前(1960〜1970年代まで)の国際的な本初子午線としては、[[グリニッジ天文台]]を基準とした[[グリニッジ子午線]]が長く使われた。<!--[[イギリス]]・[[ロンドン]]郊外の[[グリニッジ天文台]]を通過する'''[[グリニッジ子午線]]'''(通称「[[ジョージ・ビドル・エアリー|エアリー]][[子午環]]」)-->これはIERS基準子午線から西に5.3101秒、距離にして102.478[[メートル|m]]の位置を通過している。これら2つの子午線は、全地球的には極めて近いことから、現在でも通俗的な説明としては「グリニッジ子午線」が「本初子午線」の意味で用いられることがある<ref>例えば、[https://www.gsi.go.jp/sokuchikijun/datum-main.html 日本での位置の基準となる測地系] 「地球上の位置を表す、経度」の項など、国土地理院。通俗的な説明として「ある点の地理経度は、その点を通る子午線が、英国グリニッジを通る子午線となす角度で表されます。グリニッジ子午線を基準にして東側に東経何度、西側に西経何度とそれぞれ180度まで数えます。」と記述している。</ref>。
なお、日本の[[測量法]]体系でも、経度の基準として[[国際地球基準座標系]] (ITRF) における経度0度の子午線を採用していると考えてよいが<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.gsi.go.jp/sokuchikijun/datum-main.html |title=日本の測地系|国土地理院 |accessdate=2019-06-17 |author=国土地理院 |authorlink=国土地理院 |date=2019-06-17 |year=2019 |format=html |publisher=国土地理院 |ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.gsi.go.jp/LAW/G2000-g2000faq-1.htm#qa1-7 |title=世界測地系移行に関する質問集(Q&A) |国土地理院 |accessdate=2019-06-17 |author=国土地理院 |date=2019-06-17 |year=2019 |format=html |work=1.世界測地系 (問1- 7)ITRF系とは何か |publisher=国土地理院 |ref=harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://www.gsi.go.jp/LAW/G2000-g2yogo.htm |title=用語集|国土地理院 |accessdate=2019-06-17 |author=国土地理院 |date=2019-06-17 |year=2019 |format=html |work=ITRF94座標系 |publisher=国土地理院 |ref=harv}}</ref>、厳密には現代の座標系の定義はそうではない。現代では方向の基準は宇宙測地観測局の位置から逆に定義されている<ref>世界測地系と座標変換、飛田幹男、p.9(コラム「間違いやすい」)「『すべての準拠楕円体の経度0度の経線は、グリニジ天文台を通るように設定されている』とか『どの座標系のX軸方向も、グリニジ天文台を通る子午線と赤道面の交わる方向にとられている』というふうに誤解している人も意外と多い。この話はおおざっぱには間違っていない。しかし、グリニジ天文台は高精度宇宙測地技術が実用化される前までの歴史的な意味はあるものの、現代の座標系の定義ではそうなっていない。(中略)現代では方向の基準は宇宙測地観測局の位置から逆に定義されており・・・」、2002年4月15日第1刷発行、(社)日本測量協会、ISBN 978-4889410143</ref>。
日本において「本初子午線」を定めた法令は以下のとおりである。この規定は現在も効力がある<ref>{{Egov law|322AC0000000072|昭和二十二年法律第七十二号(日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律)}}</ref><ref>{{Egov law|322CO0000000014|昭和二十二年政令第十四号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)}}</ref>。
{{Quotation|英国グリニツチ天文台子午儀ノ中心ヲ経過スル子午線ヲ以テ経度ノ本初子午線トス|明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及標準時ノ件)<ref>{{Egov law|119IO0000000051|明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及標準時ノ件)}}</ref>}}
[[File:Atlas Cosmographicae (Mercator) 033.jpg|thumb|right|[[ゲラルドゥス・メルカトル]]の''[[Atlas Cosmographicae]]''(1595年)では[[西経25度線]]付近が本初子午線となっている。この子午線は[[大西洋]]の[[アゾレス諸島]]・[[サンタマリア島]]のすぐ西を通過する。180度経線は、当時存在が信じられていた[[アニアン海峡]]を通っている。]]
=== IERS基準子午線 ===
{{Main|IERS基準子午線}}
IERS基準子午線 (IRM:IERS Reference Meridian) は[[国際地球回転・基準系事業]] (IERS) によって定義、保持されている[[測地系]]である国際地球基準座標系 (ITRF) のX軸方向である。[[アメリカ国防総省]]の運営する[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の基準座標系[[WGS84]]の基準子午線もこれを用いている。
IERS基準子午線を基準にすると、グリニッジ天文台のグリニッジ子午線([[ジョージ・ビドル・エアリー|エアリー]]の[[子午環]])は1989年時点で西に角度で5.3101秒、距離にして102.478 m 離れた位置にある<ref>[http://gpsinformation.net/main/greenwich.htm History of the Prime Meridian -Past and Present] (Submitted by Jeremy Paul) 、1 Nov. 1999、Airy TransitのETRF89による位置である。</ref><ref>[http://link.springer.com/article/10.1007%2Fs00190-015-0844-y Why the Greenwich meridian moved] → Download PDF(1,027 KB) → 2ページ目のFig.1の航空写真を参照</ref>。このずれは、グリニッジ子午線がグリニッジにおける局所的な[[鉛直]]を用いた[[局所座標系]]であったために生じたものである。IRMは地心座標系であり、IRMを含む平面は地球の重力中心を通る<ref>{{cite journal| url = http://link.springer.com/article/10.1007%2Fs00190-015-0844-y | title = Why the Greenwich meridian moved | first1 = Stephen | last1 = Malys | first2 = John H. | last2 = Seago | first3 = Nikolaos K. | last3 = Palvis | first4 = P. Kenneth | last4 = Seidelmann | first5 = George H. | last5 = Kaplan | journal = Journal of Geodesy | date = 1 August 2015 | doi = 10.1007/s00190-015-0844-6}}</ref>。
GPSの前身となる最初の[[全地球航法衛星システム]]である[[トランシット (人工衛星)|トランシット]]([[アメリカ合衆国]]が1960年前後から開発)は、1960年に策定された全地球的測地系(地心座標系)である[[測地系#世界測地系という呼称|WGS]]に基づき、その基準は北米測地系1927による基地局座標を用いた。[[アメリカ合衆国]]は1912年より公式には[[グリニッジ子午線]]を本初子午線として採用していたが、[[トランシット (人工衛星)|トランシット]]を用いて1969年にグリニッジ子午線の位置を測定したところ、[[測地系#世界測地系という呼称|WGS]]は(また言い換えれば北米測地系をそのままで地心座標系とみなすことにすると)、グリニッジ子午線から、およそ102m東にずれた子午線を本初子午線としていることが明らかになった。これがIERS基準子午線となった。
IERS基準子午線の方向は地球の[[大陸プレート]]の動きの加重平均に追従する。
[[国際水路機関]]は1983年にすべての海図で国際地球基準座標系を採用している。
==== IERS基準子午線が通過する地点 ====
本初子午線は、[[北極点]]から[[北極海]]、[[ヨーロッパ]]、[[地中海]]、[[アフリカ]]、[[大西洋]]、[[南極海]]、[[南極大陸]]を通過して[[南極点]]までを結ぶ。
{{本初子午線}}
=== グリニッジの本初子午線 ===
[[File:Prime meridian.jpg|180px|thumb|right|グリニッジ天文台の本初子午線の表示]]
{{Main|グリニッジ子午線}}
グリニッジ子午線の位置は、[[1851年]]に当時の台長[[ジョージ・ビドル・エアリー]]が[[子午環]](通称「エアリー子午環」)を設置し、以降、観測を行った地点と定義されている<ref name="Greenwich Observatory p.10">Greenwich Observatory ... the story of Britain's oldest scientific institution, the Royal Observatory at Greenwich and Herstmonceux, 1675-1975 p.10. Taylor & Francis, 1975</ref>。
<!--グリニッジ子午線の位置は、エアリーが1851年に最初に[[子午環]]を設置し、観測を行った地点と定義されている<ref name="Greenwich Observatory p.10"/>。-->
それ以前は、第2代[[王室天文官]]・[[エドモンド・ハレー]]が[[1721年]]に最初に観測した位置を、子午線儀を使って継承していた。その地点は、フラムスティード・ハウスとウェスタンサマーハウスの間の天文台の北西端の角であった。その地点(現在はフラムスティード・ハウスの中に包含されている)はエアリーの子午環から西に43メートルの場所であり、時角にして約0.15秒の距離にある<ref name="thegreenwichmeridian.org"/>。
1884年10月、世界で共通に使用する「経度0度」を決めるために[[ワシントンD.C.]]で開かれた[[国際子午線会議|万国子午線会議]]において、25か国41名の代表者によって、エアリーの子午環の位置、すなわち[[グリニッジ子午線]]を国際本初子午線とすることが採択された<!--(ただしフランスはこの決定を棄権した)--><ref name="Time">{{cite book|
title=TIME from Earth Rotation to Atomic Physics
|last1=McCarthy
|first1=Dennis D.
|authorlink1=Dennis McCarthy (scientist)
|last2=Seidelmann
|first2=P.Kenneth
|pages=244–5
|location=Weinheim
|publisher=Wiley-VCH
|year=2009}}</ref><ref name="RMG">{{cite web |url= http://www.rmg.co.uk/explore/astronomy-and-time/astronomy-facts/history/the-prime-meridian-at-greenwich|title= The Prime Meridian at Greenwich |author= ROG Learing Team|date= 23 August 2002|work= Royal Museums Greenwich|publisher= Royal Museums Greenwich|accessdate=14 June 2012}}</ref><ref name=imc>{{cite web|title=International Conference Held at Washington for the Purpose of Fixing a Prime Meridian and a Universal Day. October, 1884. Protocols of the proceedings.|url=http://www.gutenberg.org/files/17759/17759-h/17759-h.htm|publisher=Project Gutenberg|accessdate=30 November 2012|year=1884}}</ref>。
グリニッジ子午線は、地表から天文観測によって位置が決定され、地表の重力方向の[[鉛直線]]によって指向された。この天文観測に基づくグリニッジ子午線および[[グリニッジ平均時]]は、当初は{{仮リンク|月距法|en|lunar distance method|redirect=1}}によって、後に船で[[クロノメーター]]を運ぶことによって、その後には[[海底ケーブル]]による[[電信]]によって、最後には[[無線]]信号によって、世界中に伝えられた。
== 歴史 ==
[[File:PtolemyWorldMap.jpg|thumb|right|[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の世界地図(150年ごろ。15世紀の複製)]]
経度の記法は[[アレクサンドリア]]の[[エラトステネス]]([[紀元前276年]]ごろ - [[紀元前195年]]ごろ)と[[ロドス島|ロドス]]の[[ヒッパルコス]]([[紀元前190年]]ごろ - [[紀元前120年]]ごろ)によって考案され、[[地理学者]][[ストラボン]]([[紀元前63年]]ごろ - [[23年]]ごろ)によって数多くの都市に適用された。しかし、世界地図に一貫性のある経度を使用したのは、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]([[90年]]ごろ - [[168年]]ごろ)の著書『[[地理学 (プトレマイオス)|ゲオグラフィア]]』(Geographia、地理学)が最初であった。
プトレマイオスは、"[[:en:Fortunate Isles|Fortunate Isles]]"と呼ばれた[[カナリア諸島]](西経13 - 18度)などの[[大西洋]]の島々を基準とした。[[アフリカ]]の最西端(西経17.5度)より西に本初子午線を設定することにより、プトレマイオスの地図には負の経度が現れない。プトレマイオスの本初子午線は、[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]](およそ西経20度)より西に18度40分の子午線に相当する<ref>{{harvnb|Norgate|2006}}</ref>。このときよく用いられていた経度観測法は、異なる国での[[月食]]の観測時間を比較する方法であった(月食は世界中で同時に観測されるため)。
[[File:Propaganda_Map.jpg|thumb|right|ディオゴ・リベイロの1529年の地図(バチカン図書館所蔵)]]
プトレマイオスの『ゲオグラフィア』は、その地図とともに1477年に[[ボローニャ]]で初めて[[印刷]]された。そして、初期の[[地球儀]]はプトレマイオスの地図を元に作成された。しかし、「自然の」本初子午線を画定するという試みは引き続きあった。[[クリストファー・コロンブス]]は1493年に、大西洋の中央のどこかで[[方位磁針]]が真北を指した([[磁気偏角]]が0になった)と報告した。そして、この報告を元に、1494年の[[トルデシリャス条約]]で、[[スペイン]]と[[ポルトガル]]の間で[[新世界]]の境界が定められた。トルデシリャス条約で定められた境界は、[[ベルデ岬]]から西に370[[リーグ (単位)|リーグ]]の子午線に設定された。これが{{仮リンク|ディオゴ・リベイロ|en|Diogo Ribeiro}}の1529年の地図に表されている。
遅くとも1594年の[[クリストファー・サクストン]]のころまで、[[アゾレス諸島]]の[[サンミゲル島]](西経25.5度)が本初子午線として使用されてきたが、この頃から、磁気偏角が0になる線は子午線に沿って直線状に伸びるものではないということがわかってきた<ref>{{harvnb|Hooker|2006}}</ref>。
[[File:OrteliusWorldMap1570.jpg|thumb|right|1570年の[[アブラハム・オルテリウス]]の世界地図]]
1541年、[[ゲラルドゥス・メルカトル|メルカトル]]は41cmの地球儀を作成し、カナリア諸島の[[フエルテベントゥラ島]](西経14度1分)を通る箇所に本初子午線を引いた。彼の後の地図では、磁気の仮説に従ってアゾレス諸島を本初子午線とした。
しかし、1570年に[[アブラハム・オルテリウス|オルテリウス]]が最初の地図を刊行する頃には、[[ベルデ岬]]のような他の島が本初子午線として使用されるようになってきた。オルテリウスの地図では、経度は今日のような西経180度から東経180度ではなく、0度から360度であった。この経度は18世紀まで使用された。<ref>例えば、[[ヤーコプ・ロッヘフェーン]]は1722年に[[イースター島]]の経度を268度45分(フエルテベントゥラ島を0度として)と報告している{{citation|title=The voyage of Don Felipe Gonzalez to Easter Island in 1770-1|editor=Bolton Glanville Corney|year=1908|page=3|publisher=Hakluyt Society|url=https://archive.org/details/voyagecaptaindo00unkngoog/page/n88/mode/2up?view=theater|accessdate=13 Jan 2013}}</ref>。
1634年、フランスの政治家[[リシュリュー]]は、[[パリ]]から西に19度55分の所にあるカナリア諸島最西端の[[エル・イエロ島|フェロ島]]を本初子午線とした([[フェロ子午線]])。不幸にも、フランスの地図製作者{{仮リンク|ギョーム・ドリル|en|Guillaume Delisle}}がパリとフェロ島との経度差をちょうど20度に丸めていたことから、フェロ子午線がフランスの本初子午線に採用されることとなった<ref>Speech by Pierre Janssen, director of the Paris observatory, at the first session of the [http://www.gutenberg.org/files/17759/17759-h/17759-h.htm#Page_73 Meridian Conference.]</ref>。
18世紀初頭、[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]による[[クロノメーター]]の開発と、正確な[[星図]]の発達により、海上における経度の測定が改善された。星図については特に、初代イギリス[[王室天文官]]の[[ジョン・フラムスティード]]が1680年から1719年にかけて作成し、彼の後継者である[[エドモンド・ハレー]]が広めた[[天球図譜]]が多くの航海者によって使われた。これにより航海者は、{{仮リンク|トーマス・ ゴッドフリー|en|Thomas Godfrey (inventor)}}と[[ジョン・ハドリー]]が開発した[[八分儀]]を使用して、{{仮リンク|月距法|en|Lunar distance (navigation)|redirect=1}}によってより正確な経度の測定が行えるようになった<ref>{{harvnb|Sobel|Andrewes|1998|pp=110–115}}</ref>。1765年から1811年の間、[[ネヴィル・マスケリン]]は49版の『[[航海年鑑 (イギリス)|航海年鑑]]』を刊行した。それは、[[グリニッジ天文台]]を通る[[グリニッジ子午線]]を基準とするものであった。マスケリンの航海年鑑は、月距法を実用的なものにしただけでなく、グリニッジ子午線を全世界の基準点とした。航海年鑑のフランス語訳では、マスケリンの計算結果を[[パリ子午線]]基準に換算していた<ref>{{harvnb|Sobel|Andrewes|1998|pp=197–199}}</ref>。
その後、鉄道網の整備が始まると陸域でも地域共通の時刻が必要とされはじめた。イギリスではロンドンの時間である[[グリニッジ平均時]]が鉄道の運行に用いる「[[鉄道時間]]」として採用が始まった。その後、イギリス全土で共通の時刻を用いるよう収斂していった。これはのちの[[標準時]]の考え方の元となった。
[[1850年]]、[[アメリカ合衆国]]は[[ワシントン子午線#旧海軍天文台子午線|旧海軍天文台子午線]]を本初子午線に採用した(航海用にはグリニッジ子午線を採用)。アメリカは領土が東西に長く広い鉄道網を持っていたため、国内で統一した子午線を使うことが必要とされていた。
一方[[1875年]]、[[国際地理学会]]は[[カナリア諸島]]フェルロを基点とする[[フェロ子午線]]を基準子午線とすることを決議した。全世界的に採用するには特定国の首都などは避けたほうがいいという主張を受け入れたものだが、実際にはカナリア諸島を基点とすると[[パリ]]を基準にするのとほぼ同じ意味になる(経度差がちょうど20度のため)という理由であった。しかし、この基準子午線はフランス以外の国には非常に不評だった。[[1881年]]に再度開かれた国際地理学会では、カナリア諸島は基点としては不適で重要な観測拠点となりうる天文台を基点とするべきだという主張が行われた。
[[1884年]][[10月13日]]、[[アメリカ合衆国]]の提案で[[国際子午線会議]]が[[ワシントンD.C.]]で開かれた。投票の結果、グリニッジ天文台を基点とする案が採用され、グリニッジ子午線は国際的な基準子午線となった。この会議には日本からは[[菊池大麓]]が参加した。フランスは中立国を基点とするよう主張したがフランスの提案地には重要な天文台がない場所が多かったため、この提案は顧みられず、フランスは決議に棄権した。他にブラジルも棄権し、ドミニカ共和国は反対したが、他国は賛成した。
日本は、[[1886年]][[7月13日]]の勅令「[[s:本初子午線經度計算方及標準時ノ件|本初子午線經度計算方及標準時ノ件]]」で、グリニッジ子午線を本初子午線として採用した。それ以前の日本では、江戸時代に京都を通る本初子午線が用いられたことがある。明治初期には本初子午線についての対応が統一されておらず、海軍がグリニッジ子午線を本初子午線とする方針を示す一方、[[内務省 (日本)|内務省]]は東京を通る本初子午線を定めていた([[#日本における本初子午線]]参照)。
フランスは[[1911年]][[3月9日]]に、[[アメリカ合衆国]]は1912年8月22日にグリニッジ子午線を本初子午線として公式に採用した。
=== 日本における本初子午線 ===
日本では、江戸時代以前には暦の計算の基準を[[京都]]に置いていた<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen">{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBFEB9EF2FC6FCCBDCA4CECBDCBDE9BBD2B8E1C0FE.html|title= 日本の本初子午線|work=暦wiki|publisher=[[国立天文台]]|accessdate=2019-2-1}}</ref><ref name="kyotorekisaikan">{{Cite web|和書|url=http://www.archives.kyoto.jp/?introduction=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%AB%E5%AD%90%E5%8D%88%E7%B7%9A%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3|title= 京都に子午線があった時代|publisher=[[京都府立京都学・歴彩館]]|accessdate=2019-2-1}}</ref>{{efn|江戸時代初期には[[梅小路通|梅小路]]にあった[[陰陽寮|天文博士]]の[[土御門家]]の屋敷(梅小路[[天文台]]とも呼ばれる。現在の[[京都市]][[下京区]]梅小路西中町<ref name="matsuo_20-309">{{Cite web|和書|url=https://tenkyo.net/kaiho/pdf/20th-meeting/20th-309matsuo.pdf|title= 日本の天文史跡目録と教育への利用|author=松尾厚|publisher=日本天文教育普及研究会|format=PDF|accessdate=2019-2-1}}</ref>)で観測が行われており<ref name="kyotorekisaikan"/>、[[渋川春海]]も[[貞享暦]]策定に際してここで観測を行ったとされる<ref name="kyotorekisaikan"/>。}}。[[江戸幕府]]が[[二条城]]西側の三条台村に[[改暦所]](京都改暦所、西三条改暦所などとも呼ばれる。現在の[[京都市]][[中京区]]西ノ京西月光町<ref name="kyotorekisaikan"/><ref name="matsuo_20-309"/>)という役所を設けると、改暦所を通る子午線が基準として使用されるようになった<ref name="kyotorekisaikan"/>。1821年に完成した[[伊能忠敬]]の『[[大日本沿海輿地全図]]』は、改暦所を通る子午線を「中度」(経度の基準)として示している<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/><ref name="kyotorekisaikan"/>。伊能忠敬は経度の測定も試みたが、不十分であった{{efn|『大日本沿海輿地全図』には「経度線」が引かれているが、江戸・大坂・京都間の経度差計測に基づき、出来上がった地図上に線を引いたものとみられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://hiroba.jmc.or.jp/archives/54151693.html|title=“振り子時計”で経度を測定 (1)|work=地図の散歩道|publisher=(一財)日本地図センター|date=2012-09-21|accessdate=2020-10-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://hiroba.jmc.or.jp/archives/54152863.html|title=“振り子時計”で経度を測定 (2)|work=地図の散歩道|publisher=(一財)日本地図センター|date=2012-09-24|accessdate=2020-10-13}}</ref>。}}。
明治時代に入ると、日本における暦の計算や測量の基準となる子午線は東京に置かれるようになった。しかし、東京のどの地点を基準とするかについては変遷があった(経度にして数秒の差異が出る)。また、明治初期にはこれらの業務に内務省や海軍省など複数の機関が関わっており、本初子午線に対する考え方も統一されていなかった。[[1869年]](明治2年)1月に日本最初の洋式[[灯台]]である[[観音埼灯台]]の位置を布告<ref>[{{NDLDC|787949/42}} 航海家ヘ示ス布告] 法令全書第4冊 明治4年 近代デジタルライブラリー</ref>する際には[[パリ]]を経度の初度([[パリ子午線]])としているが、[[1871年]](明治4年)5月に天保山灯台の位置を告示<ref>[{{NDLDC|787951/370}} 航客ヘ布告] 法令全書第6冊 明治4年 近代デジタルライブラリー</ref>する際には[[グリニッジ天文台]]の位置を経度の初度([[グリニッジ子午線]])としている。
[[海図]]作成を必要とした[[大日本帝国海軍|海軍]]は、1871年(明治4年)7月に[[水路部 (日本海軍)|水路局]]を設立。1872年(明治5年)4月24日の太政官布告130号で、海軍省では[[グリニッジ子午線]]を本初子午線として採用し{{efn|「経度ハ英国「グレンウーチ」ヲ以テ暫ク初度トス」}}築地に設けた海軍省標竿を東経139度45分25.05秒と定め、これを日本の測量の基準とするという方針が布告された<ref name="koyomiwiki-kaigun">{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FB3A4B7B3BFE5CFA9C9F4A4C8C5ECB5FEC5B7CAB8C2E6.html|title= 海軍水路部と東京天文台|work=暦wiki|publisher=[[国立天文台]]|accessdate=2019-2-1}}</ref>(測量の基準点の変遷については、[[日本経緯度原点]]参照)。
[[File:Fujimi-yagura 1 by D Ramey Logan.jpg|thumb|150px|江戸城富士見櫓]]
一方、国内行政のための地図製作も必要とされ、[[工部省]]測量司では1872年(明治5年)3月に測量師長[[コーリン・アレクサンダー・マクヴィン|マクヴィン]]らの指導のもと東京府下で三角点の設置と測量を開始する<ref name="shimizu">{{Cite web|和書|url=https://doi.org/10.11212/jjca1963.6.3_1 |title= 内務省地理局『東京実測全図』について|author=清水靖夫|format=PDF|accessdate=2019-2-1}}</ref>{{rp|1}}([[日本の三角測量の歴史]]参照)。この時、[[皇居]]([[江戸城]])本丸の富士見櫓{{efn|1657年に本来の天守を焼失して以降、江戸城において天守の代用とされた建物。}}に最初の三角点が置かれた<ref name="shimizu"/>{{rp|1}}。工部省測量司は1874年に[[内務省 (日本)|内務省]]に移管され、のちに組織再編により内務省地理局となって、測量と地図作成の業務に当たった。内務省地理局が作成した地図では、基本的には富士見櫓を通る子午線が0度(本初子午線)とされている<ref name="shimizu"/>{{rp|2}}。
編暦(暦の編纂)の分野では、1873年(明治6年)の[[太陽暦]]導入に際し「政府刊行ノ太陽暦ハ東京皇城ノ経緯度ヲ初度ト定ム」という記述が『水路部沿革史』に見られる<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。当時政府が発行した暦には「時差表」が付され、「東京」を初度とする国内主要都市の経度が記された<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。ただし、過渡的には旧江戸幕府の浅草司天台の位置も用いられたようである<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。1875年(明治8年)以降、編暦業務は内務省に移され、1877年(明治10年)には内務省地理局が管掌することになった<ref name="koyomiwiki-henreki">{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FCCC0BCA3B0CAB9DFA4CECAD4CEF1.html|title= 明治以降の編暦|work=暦wiki|publisher=[[国立天文台]]|accessdate=2019-2-1}}</ref>。
こうして地図と編暦を扱うことになった内務省地理局は、1877年(明治10年)に赤坂区溜池葵町(内務省地理局測量課所在地。現在の[[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]二丁目)に観象台(天体観測施設)を設けた<ref name="koyomiwiki-henreki"/>。1878年(明治11年)作成の『実測東京全図』などでは葵町<ref name="kochizu-256">{{Cite web|和書|url=https://kochizu.gsi.go.jp/items/256|title= 実測東京全図 |work=古地図コレクション |publisher=[[国土地理院]]|accessdate=2019-2-1}}</ref>{{efn|出典<ref name="shimizu"/>{{rp|3}}では所在地が麻布とあるが誤り。}}を通る子午線が本初子午線とされ<ref name="shimizu"/>{{rp|3}}、明治11年暦以降の暦でも反映された<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。
[[File:Chiyoda Tokyo August Tokyo Imperial Palace 2014 55.JPG|thumb|150px|江戸城天守台]]
内務省では江戸城旧本丸天守台に観象台を移転する計画を立て、1881年(明治14年)に認められた<ref name="koyomiwiki-henreki"/>。1882年(明治15年)12月27日には内務省より「経度ノ義ハ東京赤坂区溜池葵町三番地ヨリ起算致候処、今般旧本丸内天守台ヲ以テ経線零度ト相改候」との告示が出された(内務省告示甲第16号)<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>{{efn|しかし、すでに麻布台に観象台を設けていた海軍が反対したため、大規模な観象台建設は実現しなかった。天守台には地理局測量課事務所が設けられ、のちに「観象台」と称された<ref name="koyomiwiki-henreki"/>。}}。
なお、天体観測・測量・編暦という隣接・重複する業務が複数の機関で行われていたことからは、さまざまな問題が生じた{{efn|内務省地理局の陸地測量・地図作製事業は1884年(明治17年)に[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]に統合された。}}。とくに、内務省と海軍省とで(グリニッジ子午線を本初子午線とした際の)経度の値が異なる問題があったが<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>、1885年(明治18年)9月には両者の間で調整が行われ、経度が統一された<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。
[[1884年]]の国際子午線会議を受け、[[1886年]](明治19年)[[7月13日]]の勅令「[[s:本初子午線經度計算方及標準時ノ件|本初子午線經度計算方及標準時ノ件]]」で、グリニッジ子午線を本初子午線とすることが定められた。
== 世界各地の本初子午線 ==
<!-- [[国際子午線会議]]より当節へリンクあり。セクション名を変更した場合は、あちらのリンクも併せて修正してください。 -->
{| class="wikitable"
! 地名
! GPSによる経度
! style="min-width:200px" | 子午線の名称
! 備考
|-
| [[ベーリング海峡]] || 西経168度30分
|
|
* ベーリング海峡は、1884年の国際子午線会議で、[[ピエール・ジャンサン]]により「自然な本初子午線の可能性」として提案された<ref>[http://www.gutenberg.org/files/17759/17759-h/17759-h.htm International Conference Held at Washington for the Purpose of Fixing a Prime Meridian and a Universal Day. October, 1884]. Project Gutenberg</ref>。
* 西経168度15分から168度45分の範囲がUrion Argadorにより提案されている<ref>http://www.reissmann.info/bibliotheke/projektoi/AUXhA%20--%2019372-07-06%20=%202006-03-25%20--%20Argadorian%20Calendar%20--%20en.pdf</ref>。反対側の東経11度30分は、{{仮リンク|ペテルス世界地図|en|Peters World Map}}で使用されている{{仮リンク|フィレンツェ子午線|en|Florence meridian}}(東経11度15分)に近い。
|-
| [[ワシントンD.C.]] || 西経77度03分56.07秒(1897), 西経77度04分02.24秒 (NAD 27), 西経77度04分01.16秒 (NAD 83)
| [[新海軍天文台子午線]]
|
|-
| [[ワシントンD.C.]] || 西経77度02分48.0秒, 西経77度03分02.3秒, 西経77度03分06.119秒, 西経77度03分06.276秒 (both presumably NAD 27). If NAD27, the latter would be 77度03分05.194秒 (NAD 83)
| [[旧海軍天文台子午線]]
|
|-
| [[ワシントンD.C.]] || 西経77度02分11.56258秒 (NAD 83), 西経77度02分11.55880秒 (NAD 83), 西経77度02分11.57375秒 (NAD 83)
| [[ホワイトハウス子午線]]
|
|-
| [[ワシントンD.C.]] || 西経77度00分32.6秒 (NAD 83)
| [[議事堂子午線]]
|
|-
| [[フィラデルフィア]] || 西経75度10分12秒
|
|
|-
| [[リオデジャネイロ]] || 西経43度10分19秒
|
| <ref>[http://www.maproom.org/00/49/index.php Atlas do Brazil], 1909, by Barao Homem de Mello e Francisco Homem de Mello, published in Rio de Janeiro by F. Briguiet & Cia.</ref>
|-
| [[フエルテベントゥラ島]]([[アゾレス諸島]]) || およそ 西経25度40分32秒
|
| 中世まで使用。国際子午線会議で[[ピエール・ジャンサン]]が「自然な本初子午線の可能性」として提案した<ref name="gutenberg.org">http://www.gutenberg.org/files/17759/17759-h/17759-h.htm</ref>。
|-
| [[エル・イエロ島]](フェロ島)([[カナリア諸島]]) || 西経18度03分, <br> {{nowrap|later redefined as}} <br> 西経17度39分46秒
| [[フェロ子午線]]
| 古代、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の『[[地理学 (プトレマイオス)|ゲオグラフィア]]』で使用。後に「グリニッジから西に17度39分46秒」から、「パリから西に20度」に再定義された。
|-
| [[リスボン]] || 西経9度07分54.862秒
|
|
|-
| [[マドリード]] || 西経3度41分16.58秒
|
|
|-
| [[グリニッジ]] || 西経0度00分05.3101秒
| [[グリニッジ子午線]]
| [[ジョージ・ビドル・エアリー|エアリー]]子午線<ref name="thegreenwichmeridian.org">http://www.thegreenwichmeridian.org/tgm/articles.php?article=8</ref>
|-
| グリニッジ || 西経0度00分05.33秒
| {{仮リンク|イギリス測量局ゼロ経線|en|United Kingdom Ordnance Survey Zero Meridian}}
| [[ジェームズ・ブラッドリー|ブラッドリー]]子午線<ref name="thegreenwichmeridian.org"/>
|-
| グリニッジ || 西経0度00分00.00秒
| [[IERS基準子午線]]
|
|-
| [[パリ]] || 東経2度20分14.025秒
| [[パリ子午線]]
|
|-
| [[ブリュッセル]] || 東経4度22分4.71秒
|
|
|-
| [[アントウェルペン]] || 東経4度24分
| [[アントウェルペン子午線]]
| メルカトルが使用
|-
| [[アムステルダム]] || 東経4度53分
|
| {{仮リンク|西教会|en|Westerkerk}}を通過する経線。1909年から1937年まで、オランダの公式の時間を定義するのに使用された。
|-
| [[ベルン]] || 東経7度26分22.5秒
|
|
|-
| [[ピサ]] || 東経10度24分
|
|
|-
| [[オスロ]](クリスチャニア) || 東経10度43分22.5秒
|
|
|-
| [[フィレンツェ]] || 東経11度15分
| {{仮リンク|フィレンツェ子午線|en|Florence Meridian}}
| {{仮リンク|ペテルス世界地図|en|Peters World Map}}で使用。[[対蹠地]](地球の反対側)は[[ベーリング海峡]]を通る。
|-
| [[ローマ]] || 東経12度27分08.4秒
| ''{{仮リンク|モンテマリオ|en|Monte Mario}}の子午線''
|
|-
| [[コペンハーゲン]] || 東経12度34分32.25秒
|
| {{仮リンク|ラウンドタワー (コペンハーゲン)|label=ラウンドタワー|en|Rundetårn}}の経度
|-
| [[ナポリ]] || 東経14度15分
|
| <ref name="gutenberg.org"/>
|-
| [[ストックホルム]] || 東経18度03分29.8秒
|
| [[ストックホルム天文台]]の経度
|-
| [[ワルシャワ]] || 東経21度00分42秒
| {{仮リンク|ワルシャワ子午線|en|Warsaw Meridian}}
|
|-
| [[オラデア]] || 東経21度55分16秒
|
|
|-
| [[アレクサンドリア]] || 東経29度53分
|
| <ref>[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の[[アルマゲスト]]の子午線</ref>
|-
| [[サンクトペテルブルク]] || 東経30度19分42.09秒
| {{仮リンク|プルコヴォ子午線|ru|Пулковский меридиан|en|Pulkovo meridian}}
| [[プルコヴォ天文台]]の経度
|-
| [[ギザの大ピラミッド]] || 東経31度08分03.69秒
|
| 1884年 <ref>Wilcomb E. Washburn, "[http://muweb.millersville.edu/~columbus/data/geo/WASHBR04.GEO The Canary Islands and the Question of the Prime Meridian: The Search for Precision in the Measurement of the Earth] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070529031631/http://muweb.millersville.edu/~columbus/data/geo/WASHBR04.GEO |date=2007年5月29日 }}"</ref>
|-
| [[エルサレム]] || 東経35度13分47.1秒
|
| [[聖墳墓教会]]のドームの経度
|-
| [[メッカ]] || 東経39度49分34秒
|
| {{仮リンク|メッカ時間|en|Mecca Time}}
|-
| [[ウッジャイン]] || 東経75度47分
|
| 4世紀からインドの天文や暦に使用<ref>{{harvnb|Burgess|c. 2013}}</ref>
|-
| [[京都市|京都]] || 東経135度74分
|
| [[1779年]]から[[1871年]]まで日本の地図や暦で使用。中京区西月光町の京都改暦所を通る経線。<br/>明治初年当時はグリニッジ基準で東経135度46分15秒と換算<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>
|-
| 東京 || 東経139度45分10秒(当時の換算)<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>
|
| 1878年から1882年まで内務省が使用。赤坂区溜池葵町の内務省地理局測量課を通る経線<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。
|-
| 東京 || 東経139度45分46秒(当時の換算)<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/><br/>東経139度45分17.0秒(1885年)<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>
|
| 1882年から1886年まで内務省が使用。江戸城天守台を通る経線<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。1885年に内務省と海軍とで経度を統一した際にグリニッジ換算値を変更。
|-
| 東京 ||
|
| 明治初期に内務省が地図で使用。江戸城富士見櫓を通る経線<ref name="koyomiwiki-honshoshigosen"/>。
|-
| || 180度
|
| グリニッジ子午線の反対側。[[1884年]][[10月13日]]の[[国際子午線会議]]で[[サンドフォード・フレミング]]が提案した<ref name="gutenberg.org"/>。
|}
== 他の天体の本初子午線 ==
地球と同様に、他の天体の本初子午線も人為的に決められたものである。[[クレーター]]のような目立つ目標物はよく本初子午線に設定される。また、[[磁場]]に基づいて決められることもある。
* [[月]]の本初子午線は、地球に向かっている面の中心に設定されている。{{仮リンク|ブルース (クレーター)|label=ブルース|en|Bruce (crater)}}クレーターの近くを通過する。
* [[太陽]]の[[日面座標系]]は2通りある。1つはキャリントン日面座標系で、[[1853年]][[11月9日]]に地球から見える太陽の中心を通る子午線を本初子午線とする。この日は[[リチャード・キャリントン]]が[[黒点]]の観測を始めた日である。もう1つは{{仮リンク|ストニーハースト日面座標系|en|Stonyhurst Observatory#Stonyhurst heliographic coordinates}}である。
* [[水星]]の場合、クレーターのひとつ[[フン・カル]]の経度を「西経20度」と定義し、これを基準に本初子午線が設定されている。
** また、水星の経度は全て西経のみ(西経0度~359度)で表示され、東経は用いられない。
* [[金星]]の本初子午線は、アリアドネ・クレーターの中央の丘によって定義されている<ref>{{cite web|url=http://astrogeology.usgs.gov/Projects/WGCCRE/constants/iau2000_table1.html|accessdate=22 October 2009|title=USGS Astrogeology: Rotation and pole position for the Sun and planets (IAU WGCCRE)}}</ref>。
* [[火星]]の本初子午線は、[[エアリー0]]クレーターによって定義されている。
* [[木星]]にはいくつかの座標系がある。それは、外側から見える木星の雲の表面が、緯度によって違う速度で周回しているためである<ref>{{cite web|url=http://documents.wolfram.com/applications/astronomer/AdditionalInformation/PlanetographicCoordinates.html|title=Planetographic Coordinates|accessdate=2009-06-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090301191456/http://documents.wolfram.com/applications/astronomer/AdditionalInformation/PlanetographicCoordinates.html|archivedate=2009年3月1日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。木星が、地球のような座標系を可能にする固体の表面を持っているかどうかは、わかっていない。天文学者は、南北部分の中緯度に当る領域での大気の動きに基づいたシステムII座標や、惑星磁気の回転に基づくシステムIII座標を使用している。
* [[土星]]の衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]は、地球の月と同様に常に同じ面を土星に向けているため、地球の月と同じく土星に向けている面の中央を経度0度としている。
* [[イトカワ_(小惑星)|イトカワ]]は、ブラックボルダーと呼ばれる黒い岩塊を経度0としている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Citation
| last = Burgess
| first = Ebenezer
| others =
| publication-date = c. 2013
| month =
| origyear = 1860
| title = Journal of the American Oriental Society
| contribution = Translation of the Surya-Siddhanta
| type = e book
| volume = 6
| publisher = Google
| page = 185
}}
* {{citation|first=Brian|last=Hooker|title=A multitude of prime meridians|year=2006 |url=http://findingnz.co.nz/ab/jab1.htm|accessdate=13 Jan 2013}}
* {{citation|first=Jean and Martin|last= Norgate|year=2006|title=Prime meridian|url=http://www.geog.port.ac.uk/webmap/hantsmap/hantsmap/meridian.htm|accessdate=13 Jan 2013}}
* {{citation|first1=Dava|last1=Sobel|first2=William J. H.|last2=Andrewes|title=The Illustrated Longitude|year=1998|publisher=Fourth Estate, London}}
== 関連項目 ==
* [[東経1度線]]
* [[西経1度線]]
* [[180度経線]]
** [[国際日付変更線]]
*[[東経135度線]]
**[[日本標準時]]
** [[日本標準時子午線]]
**[[UTC+9]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Prime meridian}}
* [https://books.google.co.jp/books?id=qOIDAAAAMBAJ&pg=PA927&redir_esc=y&hl=ja "Where the Earth's surface begins—and ends"], ''Popular Mechanics'', December 1930
* [http://www.ucolick.org/~sla/leapsecs/scans-meridian.html scanned TIFFs of the conference proceedings]
* [http://wwp.greenwichmeantime.com/info/prime-meridian.htm Prime meridians in use in the 1880s, by country]{{リンク切れ|date=2020年10月}}
* [http://www.flickr.com/photos/20683202@N00/324876051/ Canadian Prime Meridian]
* {{Kotobank}}
{{地理座標|state=collapsed}}
{{Time measurement and standards}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ほんしよしこせん}}
[[Category:座標]]
[[Category:標準時|+ほんしよしこせん]]
[[Category:経線|000]]
[[Category:ロンドン]]
[[Category:標準]]
[[Category:名前がついた子午線]] | 2003-04-24T12:19:47Z | 2023-12-23T13:46:22Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%88%9D%E5%AD%90%E5%8D%88%E7%B7%9A |
7,217 | UT | UT | [
{
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}
] | UT ユタ州。
日本のSPAメーカー「ユニクロ」が展開するTシャツのブランド名。
日本のアウトソーシング業界のUTグループの略称。
鉄道輸送用私有タンクコンテナの形式に冠される記号。
ソフトウェア開発工程における単体テストの略。
世界時の略。
Epic Gamesが開発、Atariが販売しているファーストパーソンシューターゲーム『Unreal Tournament』の略。
日立製作所の販売する超薄型TVのシリーズ名の略。Woooを参照。
超地球的存在(Ultra-Terrestrial)の略。
(U.T.)YMOの楽曲。シングル「CUE」のカップリング。Ultra Terrestrialの略。
野球やソフトボールなどのスポーツにおけるユーティリティープレイヤーの略。
Undertaleの略。
上野東京ライン(Ueno-Tokyo Line)の略。
μTorrent | '''UT'''
*[[ユタ州]]。
*[[日本]]の[[製造小売業|SPA]]メーカー「[[ユニクロ]]」が展開するTシャツのブランド名。
*[[日本]]の[[アウトソーシング]]業界の[[UTグループ]]の略称。
*鉄道輸送用私有[[海上コンテナ#タンク・コンテナ|タンクコンテナ]]の形式に冠される記号。
*[[ソフトウェア開発工程]]における[[単体テスト]](''Unit Test'')の略。
*[[世界時]](英:''Universal Time'')の略。
*[[:en:Epic Games|Epic Games]]が開発、[[アタリ (企業)|Atari]]が販売している[[ファーストパーソンシューター]]ゲーム『''[[Unreal Tournament]]''』の略。
*[[日立製作所]]の販売する超[[薄型テレビ|薄型TV]]のシリーズ名(''ultra thin'')の略。[[Wooo]]を参照。
*超地球的存在(''Ultra-Terrestrial'')の略。
*(U.T.)[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]]の楽曲。シングル「[[キュー (YMOの曲)|CUE]]」のカップリング。''Ultra Terrestrial''の略。
*[[野球]]や[[ソフトボール]]などの[[スポーツ]]における[[ユーティリティープレイヤー]](''Utility Player'')の略。
*[[Undertale]]の略。
*[[上野東京ライン]](''Ueno-Tokyo Line'')の略。
*[[μTorrent]]
;大学の略称
:*[[東京大学]](''The University of Tokyo'')の略。
:*[[富山大学]](''University of Toyama'')の略。
:*[[徳島大学]](''The University of Tokushima'')の略。
:*[[筑波大学]](''University of Tsukuba'')の略。
:*[[カナダ]]の[[トロント大学]](''University of Toronto'')の略。
:*[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[テキサス大学オースティン校]](''The University of Texas at Austin'')の略。
:*[[オランダ]]の[[トゥウェンテ大学]](''Universiteit Twente'')の略。
{{Aimai}}
{{DEFAULTSORT:UT}}
[[Category:日本のファッションブランド|ゆうてい]] | null | 2023-04-22T16:05:42Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/UT |
7,218 | 世界時 | 世界時(せかいじ、英語: Universal Time、フランス語: Temps Universel、ドイツ語: Welt Zeit、略語:UT)とは、本初子午線上の平均太陽時を用いることにより世界で一意となる形に定義した時刻系である。地球の自転に基づく時刻系の一種である。
現在はUT1を指す(天測航法および測量における暦の独立引数)、もしくは協定世界時 (UTC) を指す(法令、通信、常用など)。
世界時は、グリニッジ平均時 (Greenwich Mean Time, GMT)、すなわちイギリスのグリニッジを通る経度0度の子午線(本初子午線)上での平均太陽時を部分的に継承している。現在のような常用時(正子から計る)のグリニッジ平均時を世界で一意的に用いるよう導入・採用した時に、それを「世界時」と呼ぶことが始まった。
世界時 (UT) は地球の自転に基づく時刻であり、子午線を通過する天体を毎日観測することによって測定することができる。
天文学者は測定方法として太陽を観測するよりも(太陽時)、恒星の子午線通過を観測する方(恒星時)をよく用いる。恒星を使う方がより精度のよい観測を行えるためである。今日では、VLBIを用いて遠方のクエーサーを観測することで UT を決定している。実際には国際原子時 (TAI) との差を求めており、マイクロ秒の精度で決定が可能である。
地球の自転と UT は国際地球回転・基準系事業 (IERS) によって監視されている。時刻標準の制定には国際天文学連合 (IAU) も関わっているが、時刻標準を通報する方式に関しては国際電気通信連合 (ITU) が責任を有する(時刻標準の通報の実施は各国の国家標準機関)。
地球の自転は不規則であり、かつ1日の長さ (LOD:Length of Day) も長期的(数百年の年数)には月の潮汐加速などによって非常に僅かずつだが長くなっている。国際単位系における1秒の長さは1750年から1890年までの月の観測から決められた値に基づいているため、平均太陽日の現在の平均値は86400 (=60×60×24) SI秒とはミリ秒単位の差があるものとなってしまった。
地球の自転の観測によるLODは、短期的(10年~50年程度の年数)には、常に86400秒より長くなり続けているわけではない。1970年代にはLODは86400.003秒程度(86400秒よりも3ミリ秒ほど長い)であったが、2000年から2012年までは、86400.001秒(86400秒よりも1ミリ秒ほど長い)以下に短くなっている。1999年以降は、毎年6月~8月には、LODは86400秒より短くなる期間さえある。
LODが86400秒より数ミリ秒だけ長いことが、閏秒を挿入する理由である。すなわち、LODが86400秒より1ミリ秒だけ長いとすると、1000日間の累積で1秒に達する。したがって、1000/365 = 2.74年であるので、約3年ごとに閏秒を挿入する必要があるのである。
UT の刻みの不規則性のゆえに、天文学者は暦表時を導入した。暦表時は現在は地球時(TT:Terrestrial Time)に置き換えられている。地球時 (TT) = 国際原子時 (TAI) +32.184秒 である。
原子時の一形態である太陽系力学時 (TDB:Barycentric Dynamical Time) は、主に2つの理由から惑星やその他の太陽系天体の天体暦を作る際に使われる時刻である。第1の理由は、これらの暦は惑星運動の光学・レーダー観測と結び付いており、一般相対性理論の補正の下でニュートンの運動方程式が成り立つようにTDB時刻系が作られているためである。第2は、地球の自転に基づく時刻系は一様に進まないので太陽系天体の運動の予測には使い難いためである。
世界時にはいくつかの種類が存在する。 国際天文学連合 (IAU) は、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認めているが、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告している。
UT0は、天文台で恒星や銀河系外電波源の日周運動の観測、あるいは月や人工衛星の継続観測によって決められる世界時である。UT0 は地球の極運動の補正を含まない。極運動は地球上の任意の場所の地理学的位置が数メートルずれる原因となる。そのため、異なる天文台で同時刻に求めた UT0 は異なる値になる。したがって、UT0 は厳密な意味では"Universal"ではない。
UT1は、UT0 から観測地の経度に表れる極運動の効果を補正して計算される値である。UT1 は地球上のどこでも同じ時刻であり、静止座標系に対する地球の真の回転角を定義する。地球の自転の角速度は一様ではないため、UT1 は1日当たり±3ミリ秒程度の不確定性をもつ。 なお、国際天文学連合 (IAU) は、閏秒によって UT1 の0.9秒以内に UTC を維持する現在の方法がSI秒と安全な天測航法の必要性を満たすことの両方を提供することを踏まえて、航空・航海暦は、UT1 を引数として刊行することを勧告している。
UT2は UT1 を均した時刻である。すなわち UT1 には年周期・半年周期などの成分が含まれていることが分かっているので、以下の経験に基づく補正項を追加することによって大部分を取り除くことができる。ここでの t は太陽年で表した時間である。
1960年代は天文航法、測地天文、人工衛星を始め惑星、衛星の観測に必要とされたが、現行方式のUTCが始まった1972年以降はほとんど使われる場面がない。
UTC(協定世界時)は、市民向けの常用時が基準としている国際標準である。UTC は原子時計で測定され、必要に応じて閏秒と呼ばれる1秒を挿入または除去することによって UT1 との差 (DUT1) が0.9秒以内に保たれるように調整されている。現在までのところ、閏秒の値は常に正(挿入)である。1秒未満の精度が必要でなければ、UTC を UT1 の近似として使うことができる。UT1 と UTC の差は、国際地球回転・基準系事業 (IERS) のWebサイトで見ることができる。
1925年1月から、正午から始まる天文時を廃止して、正子に始まる常用時を天文学でも用いることになった際に、従来までの正午からの G.M.T.(グリニッジ平均時)と区別して正子から始める時に別の名称をつけるべきとの議論が盛んになる。
そして、1925年7月15日に英国ケンブリッジで開かれた国際天文学連合 (IAU) の第2回会議で正子から始めるグリニッジ時の名称が議題となり、賛否の意見が闘わされるなかでフランスのアンドワイエ教授 (fr:Marie-Henri Andoyer) から Universal Time という呼称を使ってはどうかと言う意見が出される。しかし、会議では呼称については未定であり、かつユリウス日 (JD) については正子から始めずに、これまで通り正午から始めることになった。 ただし、国際会議ではグリニッジ時の正式な名称については決定的な結果を得なかったが、ドイツの出版物では1925年の始めから Weltzeit(ドイツ語の世界時)と呼んでおり、コペンハーゲン回報、大英天文協会回報、ハーバード回報でも天文会議後正式に決定されるまで「万国時」Universal Time (U.T.) と呼ぶことを発表した。
その後、1928年7月にライデンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第3回総会において、7月12日に第4委員会(天文暦部 (Éphémérides))のアイケルベルガー委員長の発議で「グリニッジ常用時 (Greenwich Civil Time (GCT))、および世界時(Weltzeit (W.Z.) または Universal Time (U.T.))は正子から計るグリニッジ時を明確に示す。」ことが決議された。 さらに、1935年7月10日から7月17日までパリで開催された国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時 (G.M.T.) に、世界時(Universal Time (U.T.)、Temps Universel (T.U.)、または Weltzeit (W.Z.))を国際的に使用することが採択された。 そして、1948年にチューリッヒで開催された国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会(天文暦部)は、天文学者がグリニッジ正子から起算した平均太陽時を示す際に、名称「世界時」(Temps Universel; Universal Time; Weltzeit) だけを使用することを勧告する。 これらの決議により、天文学者が使用する世界共通の経度によらない基準時刻は、グリニッジ平均時から世界時へと移行した。
1930年代に、水晶時計の安定度の向上や無線報時信号の利用による国際時刻比較の精密化につれて、地球の自転の角速度の季節的変化や経度変化などが検出される。1950年頃には、世界時の各種短周期変動が問題とされ始め、既知の変動成分を補正することになる。1955年にダブリンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第9回総会で、第31委員会(国際報時局)はより精密な時の決定のため国際的に共通な補正を使用する目的で、極変化の外挿値と地球の自転の角速度の季節的変動の予測値を国際報時局(BIH、現IERS)で決定して各国共通にこの値を用いることを決定した。そして、観測から直接得られた生の世界時を UT0、これに経度変化の補正を加えたものを UT1、さらにこれに季節的変化の補正を加えたものを UT2 と名付けてそれぞれ区別することになり1956年から実施された。そのときから UT2 が代表的な世界時として正式に用いられる事に決まった。
1950年代にセシウム原子時計が実用化が進み、各国の標準電波もこれを基準として電波を発射するようになる、一方、人工衛星の国際観測も盛んとなり、これらの全世界データを整約するために、国際的に統一した方法で UT2 の時刻を利用できることが強く望まれるようになる。 1959年にアメリカとイギリスが、標準電波の周波数を原子周波数標準に合わせることや報時信号を同期することを打ち合わせ、その後各国を勧誘した。 1960年の国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や1961年にバークレーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第11回総会では、報時信号の国際同期に関する問題が討議され、具体化された(日本は1961年9月から実施)。
そして、1964年にハンブルクで開催された国際天文学連合 (IAU) 第12回総会の決議で、報時は UT2 に近似するように1年間一定の周波数オフセットと 0.1 秒のステップ調整をおこなうこととし、オフセットおよび秒信号の修正の量と時期は国際報時局(BIH、現IERS)が決定して、報時信号を国際的に同期する協定世界時 (UTC) 方式が勧告された。
なおこの方式は現行の方式とは異なるので、区別するために旧協定世界時と呼ばれる。
1962年に国際報時局(BIH、現IERS)の主導により天文台の採用経度の第1回国際的全面改定が行われた。国際報時局(BIH、現 IERS)を中核とする国際報時事業に参加する天文台は年とともに数を増してきたが、新しく参加する天文台は、無線報時信号を仲介として既設の天文台との時刻比較を行い、その天文台の採用経度を参考に新たな天文台の経度値を決める手順をとったため、全体として採用経度系が不統一となっていた。採用経度値を頻繁に変更すると、後からの資料の整理計算に甚だしく不利となるので、それまで極力避けられてきたが、観測精度の向上、時計や無線報時の時刻比較精度の向上につれて、いままで採用経度系の杜撰さが目立つようになったので、採用経度系を統一することになった。このときの経度の極原点は、国際報時事業に参加する天文台の採用経度系から平均的に規定され、その後に採用される慣用国際原点(CIO、1900年から1905年までの6年間に極運動で移動した北極の平均位置)とは無関係であった。この際、各国の天文台は採用経度値の変更に応じて UT1 についても変更を要請されており、東京天文台の場合は -8 ms であった。こうして各天文台ごとの UT1 も、それらを国際報時局(BIH、現 IERS)で整約・加重平均して算出する UT1 もミリ秒単位の不連続が発生した(UT1 に補正を加えた UT2 も同様)。 また、1964年にハンブルクで開催された第12回国際天文学連合 (IAU) で天文常数の変更が批准され、1968年から実施された。この天文常数の変更の中に光行差常数の変更があったため、天文台からみた恒星の見かけの方向の解釈が変更されることになり、採用経度の変更とは別に世界時に不連続が発生する。東京天文台での UT1 の不連続は +1.8 ms であった。 さらに、1967年8月にプラハで開催された第13回国際天文学連合 (IAU) の決議(第19委員会、地球回転)により、北極点として慣用国際原点 (CIO) が採用される。これに伴い、国際報時局(BIH、現IERS)での統一計算の結果に基づいて第2回国際的全面改定が行われ、1969年から各国の天文台にその採用経度値を変更するよう要請される。これに伴う東京天文台での UT1 の不連続は +2.8 ms であった。なお、このときリッチモンド(アメリカ海軍天文台 (USNO) のフロリダ支所)とワシントンは基本星表FK4の採用に伴い赤経の偏りに応じた採用経度の変更を行ったが、この処置は世界時には影響しない。
旧協定世界時は運用が煩雑で、また1秒の刻みも一様でないなどの短所を持つことから、1970年にブライトンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第14回総会で、旧協定世界時の大幅な改善策が決議された。 1971年の国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の中間会議で、細部の具体策を含めて現行の協定世界時 (UTC) が決定され、1972年に実施された。これにより UTC に閏秒が導入され、UTC は UT1 との差が一定の範囲内なるように国際報時局(BIH、現IERS)で調整・管理される。これ以後は、UT0、UT1、UT2、暦表時 (ET)、国際原子時 (TAI) が UTC を仲介して結ばれる。
1973年にシドニーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第15回総会で、協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の許容差が ±0.7 秒未満から、±0.950 秒(DUT1の最大値を0.9秒にとどめるため)に拡大すること、また、閏秒の実施時期を追加することが勧告された。その後、1974年3月に開催された国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の会議で UTC の運用規則(現 ITU-R勧告TF.460)が改訂され、UTC-UT1 の絶対値の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、また、時刻調整(閏秒)の実施予定日を従来の UTC の6月末および12月末を第一優先とし、さらに3月末および9月末を第二優先として加えることにし、1975年1月1日から、この改訂を実施することになった。
1976年にグルノーブルで開催された国際天文学連合 (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)および第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と世界時 (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では協定世界時 (UTC) の意味で使用されること、また、GMT と UT は天測航法および測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認め、一方、GMT については適切な名称に置き換えられることが強調される。以上の諸点を確認した上で、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告された。 また、世界時の略語が統一され、フランス語のT.U.などは廃止され、UT0(i)、UT1(i)、UT2(i) などと表記し “i” には天文台の略語(例えば、東京天文台は TAO、国立天文台に改組後は NAO)が入ることになる。また、協定世界時は UTC(i) で、“i” には UTC の時刻を現示する機関の略語がはいる。ただし、国際報時局(BIH、現IERS)は誤解の恐れがない場合は (BIH) を省略できる。
1982年にパトラで開催された国際天文学連合 (IAU) 第18回総会において、決議C5号(第4、第9、第31委員会)で、IAU(1976)天文定数系、IAU1980 章動理論および基本星表FK5における分点が1984年1月1日から導入されることを踏まえて、新たに世界時 (UT1) とグリニッジ平均恒星時 (GMST) の関係式が定義された。また、決議C9号(第19、第31委員会)で、世界時の処理や刊行物で長周期潮の役割を明確にする必要を考慮し、文字Rを35日未満の周期の補正がなされたことを示すために関連する量の表記に付与することができること(例えば、UT1R など)が勧告された。
1985年にデリーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第19回総会において、決議B1号(時の責任)と決議B2号(基準座標系)により、時刻の中央局である国際報時局 (BIH) と極運動の中央局である国際極運動観測事業 (IPMS) を廃止して、BIH と IPMS を統合した新しい組織として国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)を1988年1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた国際原子時 (TAI) を、国際度量衡委員会 (CIPM) と国際度量衡総会 (CGPM) の責任の元で国際度量衡局 (BIPM) に移管することを認め、新組織の国際地球回転観測事業(IERS)の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった。 地球回転の観測は、1988年から国際的に従来の光学による方位・位置観測(写真天頂筒 (PZT) など)から電波・レーザーを使用した高精度の距離観測(VLBIや月レーザー測距・人工衛星レーザー測距・LIDARなど)に移行することになる。
1988年にボルチモアで開催された国際天文学連合 (IAU) 第20回総会において、決議C1号(基準座標系作業部会 (WGRF))で基準座標系についての方針が勧告され、決議C2号(委員会合同プロジェクトの継続)で章動、天文定数、原点、基準座標系および時刻に関してプロジェクトを基準座標系作業部会で継続することや、国際測地学・地球物理学連合 (IUGG) 国際測地学協会 (IAG) とともに国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)と緊密に連携することが勧告される。 その後、1991年から2006年にかけて一般相対性理論に基づいた基準座標系の採用、歳差章動理論・国際天球基準座標系 (ICRF) および国際地球基準座標系 (ITRF) 定義の改訂が行われ、UT1 はVLBIの観測をもとにIAU 2006 章動理論や座標変換によって定義されるようになった。 | [
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"text": "世界時(せかいじ、英語: Universal Time、フランス語: Temps Universel、ドイツ語: Welt Zeit、略語:UT)とは、本初子午線上の平均太陽時を用いることにより世界で一意となる形に定義した時刻系である。地球の自転に基づく時刻系の一種である。",
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"text": "現在はUT1を指す(天測航法および測量における暦の独立引数)、もしくは協定世界時 (UTC) を指す(法令、通信、常用など)。",
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"text": "世界時は、グリニッジ平均時 (Greenwich Mean Time, GMT)、すなわちイギリスのグリニッジを通る経度0度の子午線(本初子午線)上での平均太陽時を部分的に継承している。現在のような常用時(正子から計る)のグリニッジ平均時を世界で一意的に用いるよう導入・採用した時に、それを「世界時」と呼ぶことが始まった。",
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"text": "世界時 (UT) は地球の自転に基づく時刻であり、子午線を通過する天体を毎日観測することによって測定することができる。",
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"text": "天文学者は測定方法として太陽を観測するよりも(太陽時)、恒星の子午線通過を観測する方(恒星時)をよく用いる。恒星を使う方がより精度のよい観測を行えるためである。今日では、VLBIを用いて遠方のクエーサーを観測することで UT を決定している。実際には国際原子時 (TAI) との差を求めており、マイクロ秒の精度で決定が可能である。",
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"text": "地球の自転と UT は国際地球回転・基準系事業 (IERS) によって監視されている。時刻標準の制定には国際天文学連合 (IAU) も関わっているが、時刻標準を通報する方式に関しては国際電気通信連合 (ITU) が責任を有する(時刻標準の通報の実施は各国の国家標準機関)。",
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"text": "地球の自転は不規則であり、かつ1日の長さ (LOD:Length of Day) も長期的(数百年の年数)には月の潮汐加速などによって非常に僅かずつだが長くなっている。国際単位系における1秒の長さは1750年から1890年までの月の観測から決められた値に基づいているため、平均太陽日の現在の平均値は86400 (=60×60×24) SI秒とはミリ秒単位の差があるものとなってしまった。",
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"text": "地球の自転の観測によるLODは、短期的(10年~50年程度の年数)には、常に86400秒より長くなり続けているわけではない。1970年代にはLODは86400.003秒程度(86400秒よりも3ミリ秒ほど長い)であったが、2000年から2012年までは、86400.001秒(86400秒よりも1ミリ秒ほど長い)以下に短くなっている。1999年以降は、毎年6月~8月には、LODは86400秒より短くなる期間さえある。",
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"text": "世界時にはいくつかの種類が存在する。 国際天文学連合 (IAU) は、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認めているが、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告している。",
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"text": "UT0は、天文台で恒星や銀河系外電波源の日周運動の観測、あるいは月や人工衛星の継続観測によって決められる世界時である。UT0 は地球の極運動の補正を含まない。極運動は地球上の任意の場所の地理学的位置が数メートルずれる原因となる。そのため、異なる天文台で同時刻に求めた UT0 は異なる値になる。したがって、UT0 は厳密な意味では\"Universal\"ではない。",
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"text": "1925年1月から、正午から始まる天文時を廃止して、正子に始まる常用時を天文学でも用いることになった際に、従来までの正午からの G.M.T.(グリニッジ平均時)と区別して正子から始める時に別の名称をつけるべきとの議論が盛んになる。",
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"text": "その後、1928年7月にライデンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第3回総会において、7月12日に第4委員会(天文暦部 (Éphémérides))のアイケルベルガー委員長の発議で「グリニッジ常用時 (Greenwich Civil Time (GCT))、および世界時(Weltzeit (W.Z.) または Universal Time (U.T.))は正子から計るグリニッジ時を明確に示す。」ことが決議された。 さらに、1935年7月10日から7月17日までパリで開催された国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時 (G.M.T.) に、世界時(Universal Time (U.T.)、Temps Universel (T.U.)、または Weltzeit (W.Z.))を国際的に使用することが採択された。 そして、1948年にチューリッヒで開催された国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会(天文暦部)は、天文学者がグリニッジ正子から起算した平均太陽時を示す際に、名称「世界時」(Temps Universel; Universal Time; Weltzeit) だけを使用することを勧告する。 これらの決議により、天文学者が使用する世界共通の経度によらない基準時刻は、グリニッジ平均時から世界時へと移行した。",
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"text": "なおこの方式は現行の方式とは異なるので、区別するために旧協定世界時と呼ばれる。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1962年に国際報時局(BIH、現IERS)の主導により天文台の採用経度の第1回国際的全面改定が行われた。国際報時局(BIH、現 IERS)を中核とする国際報時事業に参加する天文台は年とともに数を増してきたが、新しく参加する天文台は、無線報時信号を仲介として既設の天文台との時刻比較を行い、その天文台の採用経度を参考に新たな天文台の経度値を決める手順をとったため、全体として採用経度系が不統一となっていた。採用経度値を頻繁に変更すると、後からの資料の整理計算に甚だしく不利となるので、それまで極力避けられてきたが、観測精度の向上、時計や無線報時の時刻比較精度の向上につれて、いままで採用経度系の杜撰さが目立つようになったので、採用経度系を統一することになった。このときの経度の極原点は、国際報時事業に参加する天文台の採用経度系から平均的に規定され、その後に採用される慣用国際原点(CIO、1900年から1905年までの6年間に極運動で移動した北極の平均位置)とは無関係であった。この際、各国の天文台は採用経度値の変更に応じて UT1 についても変更を要請されており、東京天文台の場合は -8 ms であった。こうして各天文台ごとの UT1 も、それらを国際報時局(BIH、現 IERS)で整約・加重平均して算出する UT1 もミリ秒単位の不連続が発生した(UT1 に補正を加えた UT2 も同様)。 また、1964年にハンブルクで開催された第12回国際天文学連合 (IAU) で天文常数の変更が批准され、1968年から実施された。この天文常数の変更の中に光行差常数の変更があったため、天文台からみた恒星の見かけの方向の解釈が変更されることになり、採用経度の変更とは別に世界時に不連続が発生する。東京天文台での UT1 の不連続は +1.8 ms であった。 さらに、1967年8月にプラハで開催された第13回国際天文学連合 (IAU) の決議(第19委員会、地球回転)により、北極点として慣用国際原点 (CIO) が採用される。これに伴い、国際報時局(BIH、現IERS)での統一計算の結果に基づいて第2回国際的全面改定が行われ、1969年から各国の天文台にその採用経度値を変更するよう要請される。これに伴う東京天文台での UT1 の不連続は +2.8 ms であった。なお、このときリッチモンド(アメリカ海軍天文台 (USNO) のフロリダ支所)とワシントンは基本星表FK4の採用に伴い赤経の偏りに応じた採用経度の変更を行ったが、この処置は世界時には影響しない。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "旧協定世界時は運用が煩雑で、また1秒の刻みも一様でないなどの短所を持つことから、1970年にブライトンで開催された国際天文学連合 (IAU) 第14回総会で、旧協定世界時の大幅な改善策が決議された。 1971年の国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の中間会議で、細部の具体策を含めて現行の協定世界時 (UTC) が決定され、1972年に実施された。これにより UTC に閏秒が導入され、UTC は UT1 との差が一定の範囲内なるように国際報時局(BIH、現IERS)で調整・管理される。これ以後は、UT0、UT1、UT2、暦表時 (ET)、国際原子時 (TAI) が UTC を仲介して結ばれる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
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"text": "1973年にシドニーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第15回総会で、協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の許容差が ±0.7 秒未満から、±0.950 秒(DUT1の最大値を0.9秒にとどめるため)に拡大すること、また、閏秒の実施時期を追加することが勧告された。その後、1974年3月に開催された国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の会議で UTC の運用規則(現 ITU-R勧告TF.460)が改訂され、UTC-UT1 の絶対値の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、また、時刻調整(閏秒)の実施予定日を従来の UTC の6月末および12月末を第一優先とし、さらに3月末および9月末を第二優先として加えることにし、1975年1月1日から、この改訂を実施することになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "1976年にグルノーブルで開催された国際天文学連合 (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)および第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と世界時 (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は時刻の最大精度が整数秒である法令、通信、常用その他の目的では協定世界時 (UTC) の意味で使用されること、また、GMT と UT は天測航法および測量における暦の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認め、一方、GMT については適切な名称に置き換えられることが強調される。以上の諸点を確認した上で、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告された。 また、世界時の略語が統一され、フランス語のT.U.などは廃止され、UT0(i)、UT1(i)、UT2(i) などと表記し “i” には天文台の略語(例えば、東京天文台は TAO、国立天文台に改組後は NAO)が入ることになる。また、協定世界時は UTC(i) で、“i” には UTC の時刻を現示する機関の略語がはいる。ただし、国際報時局(BIH、現IERS)は誤解の恐れがない場合は (BIH) を省略できる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "1982年にパトラで開催された国際天文学連合 (IAU) 第18回総会において、決議C5号(第4、第9、第31委員会)で、IAU(1976)天文定数系、IAU1980 章動理論および基本星表FK5における分点が1984年1月1日から導入されることを踏まえて、新たに世界時 (UT1) とグリニッジ平均恒星時 (GMST) の関係式が定義された。また、決議C9号(第19、第31委員会)で、世界時の処理や刊行物で長周期潮の役割を明確にする必要を考慮し、文字Rを35日未満の周期の補正がなされたことを示すために関連する量の表記に付与することができること(例えば、UT1R など)が勧告された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "1985年にデリーで開催された国際天文学連合 (IAU) 第19回総会において、決議B1号(時の責任)と決議B2号(基準座標系)により、時刻の中央局である国際報時局 (BIH) と極運動の中央局である国際極運動観測事業 (IPMS) を廃止して、BIH と IPMS を統合した新しい組織として国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)を1988年1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた国際原子時 (TAI) を、国際度量衡委員会 (CIPM) と国際度量衡総会 (CGPM) の責任の元で国際度量衡局 (BIPM) に移管することを認め、新組織の国際地球回転観測事業(IERS)の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった。 地球回転の観測は、1988年から国際的に従来の光学による方位・位置観測(写真天頂筒 (PZT) など)から電波・レーザーを使用した高精度の距離観測(VLBIや月レーザー測距・人工衛星レーザー測距・LIDARなど)に移行することになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "1988年にボルチモアで開催された国際天文学連合 (IAU) 第20回総会において、決議C1号(基準座標系作業部会 (WGRF))で基準座標系についての方針が勧告され、決議C2号(委員会合同プロジェクトの継続)で章動、天文定数、原点、基準座標系および時刻に関してプロジェクトを基準座標系作業部会で継続することや、国際測地学・地球物理学連合 (IUGG) 国際測地学協会 (IAG) とともに国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)と緊密に連携することが勧告される。 その後、1991年から2006年にかけて一般相対性理論に基づいた基準座標系の採用、歳差章動理論・国際天球基準座標系 (ICRF) および国際地球基準座標系 (ITRF) 定義の改訂が行われ、UT1 はVLBIの観測をもとにIAU 2006 章動理論や座標変換によって定義されるようになった。",
"title": "歴史"
}
] | 世界時とは、本初子午線上の平均太陽時を用いることにより世界で一意となる形に定義した時刻系である。地球の自転に基づく時刻系の一種である。 現在はUT1を指す(天測航法および測量における暦の独立引数)、もしくは協定世界時 (UTC) を指す(法令、通信、常用など)。 世界時は、グリニッジ平均時、すなわちイギリスのグリニッジを通る経度0度の子午線(本初子午線)上での平均太陽時を部分的に継承している。現在のような常用時(正子から計る)のグリニッジ平均時を世界で一意的に用いるよう導入・採用した時に、それを「世界時」と呼ぶことが始まった。 | '''世界時'''(せかいじ、{{lang-en|Universal Time}}、{{lang-fr|Temps Universel}}、{{lang-de|Welt Zeit}}、略語:'''UT''')とは、[[本初子午線]]上の[[平均太陽時]]を用いることにより世界で一意となる形に定義した[[時刻系]]である。[[地球の自転]]に基づく[[時刻系]]の一種である。
現在は[[#UT1|UT1]]を指す([[天測航法]]および[[測量]]における[[暦]]の独立引数)、もしくは[[協定世界時]] (UTC) を指す([[法令]]、[[通信]]、[[常用時|常用]]など)。
世界時は、[[グリニッジ標準時|グリニッジ平均時]] ({{lang|en|Greenwich Mean Time, GMT}})、すなわち[[イギリス]]の[[グリニッジ]]を通る[[経度]]0度の[[子午線]]([[本初子午線]])上での平均[[太陽時]]を部分的に継承している。現在のような[[常用時]]([[真夜中|正子]]から計る)のグリニッジ平均時を世界で一意的に用いるよう導入・採用した時に、それを「世界時」と呼ぶことが始まった。
<!--世界時 (UT) の名称と概念については、[[1928年]]の[[国際天文学連合]] (IAU) 第3回総会で、世界時({{lang|de|Weltzeit}} および {{lang|en|Universal Time}})が[[真夜中|正子]]から計るグリニッジ時を明確に示す用語として決議され{{Sfn|IAU|1928|p=5}}{{Sfn|Société d'Astronomie d'Anvers|1928|p=213}}、さらに、[[1935年]]の国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、正子から数えるグリニッジ平均時に、世界時({{lang|en|Universal Time}}、{{lang|fr|Temps Universel}}、または {{lang|de|Weltzeit}})を国際的に使用することが採択された{{Sfn|日本天文学会|1935|p=193}}{{Sfn|IAU|1935|p=3}}。--><!--現代的な定義により世界共通の[[時刻系]]としたものである。GMTという略語が誤って[[協定世界時]] (UTC) の同義語として使われることがある。かつて使われたGMTは現在は実質的にUTCとUT1に分離されている。-->
<!--UT は[[時刻]]の最大[[正確度と精度|精度]]が[[整数]]秒である。[[法令]]、[[通信]]、[[常用時|常用]]その他の目的では UTC の意味で使用される。また、UT は[[天測航法]]および[[測量]]における[[暦]]の独立引数としては世界時の [[#UT1|UT1]] の意味で引き続き使用される{{Sfn|IAU|1976|p=27}}。--><!-- ほとんどの時刻源や[[天球座標系]]の基準として使われる世界時として「UT」と言った場合、通常は[[UT1]]が使われるが、時として[[UTC]]を意味する場合もある。 -->
== 地球の自転とLOD(一日の長さ) ==
{{main|地球の自転#LOD(Length of Day:一日の長さ)}}
世界時 (UT) は[[地球の自転]]に基づく[[時刻]]であり、子午線を通過する[[天体]]を毎日[[観測]]することによって<!--[[地球の自転]]に基づいた[[時刻]]を-->測定することができる。
[[天文学者]]は測定方法として[[太陽]]を観測するよりも([[太陽時]])、[[恒星]]の子午線通過を観測する方([[恒星時]])をよく用いる。恒星を使う方がより精度のよい観測を行えるためである。今日では、[[VLBI]]を用いて遠方の[[クエーサー]]を観測することで UT を決定している。実際には[[国際原子時]] (TAI) との差を求めており、<!--この方法だと-->マイクロ[[秒]]の精度で決定が可能である。
[[地球の自転]]と UT は[[国際地球回転・基準系事業]] (IERS) によって監視されている。時刻標準の制定には[[国際天文学連合]] (IAU) も関わっているが、時刻標準を通報する方式に関しては[[国際電気通信連合]] (ITU) が責任を有する(時刻標準の通報の実施は各国の国家標準機関)。
[[地球の自転]]は不規則であり、かつ1[[日]]の長さ {{lang|en|(LOD:Length of Day)}} も長期的(数百年の年数)には[[月]]の[[潮汐加速]]などによって非常に僅かずつだが長くなっている。[[国際単位系]]における1[[秒]]の長さは[[1750年]]から[[1890年]]までの月の観測から決められた値に基づいているため、[[平均太陽日]]の現在の平均値は{{gaps|86|400}} (=60×60×24) [[国際単位系|SI]]秒とは[[ミリ秒]]単位の差があるものとなってしまった。
[[地球の自転]]の観測によるLODは、短期的(10年~50年程度の年数)には、常に{{gaps|86|400}}秒より長くなり続けているわけではない。[[1970年代]]にはLODは{{gaps|86|400.003}}秒程度({{gaps|86|400}}秒よりも3ミリ秒ほど長い)であったが、[[2000年]]から[[2012年]]までは、{{gaps|86|400.001}}秒({{gaps|86|400}}秒よりも1ミリ秒ほど長い)以下に短くなっている{{Sfn|IERS|2013|loc=二段目左のUT1-UTCグラフが最近の確定値と予測値。横軸は年月日、縦軸はLODと86 400秒との差(単位はミリ秒)である(なお、「LOD-86 400秒」を単にLODと表示するグラフが多い)。}}<ref>{{Cite web |url=http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/Deviation_of_day_length_from_SI_day_.svg |title=Deviation of day length from SI day |accessdate=2014-01-09 |date=2013-10-04 |year=2013 |format=svg |publisher=[[ウィキメディア・コモンズ]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140123095637/http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/Deviation_of_day_length_from_SI_day_.svg |archivedate=2014-01-23 |url-status=dead}}緑の線が365日移動平均値 (Moving 365-day average of deviation) である。</ref><ref>[http://www.ucolick.org/~sla/leapsecs/amsci.pdf] {{Wayback|url=http://www.ucolick.org/~sla/leapsecs/amsci.pdf |date=20130708123533 }} LODの推移。ただし、2010年半ばまでのデータしかない。</ref><ref>[http://hpiers.obspm.fr/eop-pc/products/combined/realtime/realtimeplot.php?laps=60&eop=1&graphe=5&dimx=700&dimy=500&tver=0] {{Wayback|url=http://hpiers.obspm.fr/eop-pc/products/combined/realtime/realtimeplot.php?laps=60&eop=1&graphe=5&dimx=700&dimy=500&tver=0 |date=20130727002927 }} 最近2か月間の毎日の (LOD-{{gaps|86|400}}) の値(単位はミリ秒)</ref>。[[1999年]]以降は、毎年6月~8月には、LODは{{gaps|86|400}}秒より短くなる期間さえある。
LODが{{gaps|86|400}}秒より数ミリ秒だけ長いことが、[[閏秒]]を挿入する理由である。すなわち、LODが{{gaps|86|400}}秒より1ミリ秒だけ長いとすると、{{gaps|1|000}}日間の累積で1秒に達する。したがって、{{gaps|1|000/365}} = 2.74年であるので、約3年ごとに閏秒を挿入する必要があるのである。
{{Main|閏秒}}
UT の刻みの不規則性のゆえに、天文学者は[[暦表時]]を導入した。[[暦表時]]は現在は[[地球時]](TT:[[:en:Terrestrial Time|Terrestrial Time]])に置き換えられている。[[地球時]] (TT) = [[国際原子時]] (TAI) +32.184秒 である。
原子時の一形態である[[時刻系#惑星運動の計算に用いられる時刻系|太陽系力学時]] (TDB:[[:en:Barycentric Dynamical Time|Barycentric Dynamical Time]]) は、主に2つの理由から[[惑星]]やその他の[[太陽系]]天体の[[天体暦]]を作る際に使われる時刻である。第1の理由は、これらの暦は惑星運動の光学・[[レーダー]]観測と結び付いており、[[一般相対性理論]]の補正の下で[[ニュートンの運動方程式]]が成り立つようにTDB時刻系が作られているためである。第2は、[[地球の自転]]に基づく時刻系は一様に進まないので太陽系天体の運動の予測には使い難いためである。
==世界時の種類==
世界時にはいくつかの種類が存在する。
[[国際天文学連合]] (IAU) は、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認めているが、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告している{{Sfn|IAU|1976|p=27}}。
===UT0===
'''UT0'''は、[[天文台]]で恒星や[[銀河系外天文学|銀河系外]][[電波源]]の[[日周運動]]の観測、あるいは月や[[人工衛星]]の継続観測によって決められる世界時である。UT0 は[[地球]]の[[極運動]]{{Efn|極運動による地球の[[地理学]]的極と自転軸の極との間のずれが、観測地の経度の見かけの変動として表れる。}}の補正を含まない。極運動は地球上の任意の場所の地理学的位置が数メートルずれる原因となる。そのため、異なる天文台で同時刻に求めた UT0 は異なる値になる。したがって、UT0 は厳密な意味では"Universal"ではない。
===UT1===
'''UT1'''は、UT0 から観測地の[[経度]]に表れる極運動の効果を補正して計算される値である。UT1 は地球上のどこでも同じ時刻であり、静止座標系に対する地球の真の回転角を定義する。[[地球の自転]]の[[角速度]]は一様ではないため、UT1 は1日当たり±3ミリ秒程度の不確定性をもつ。
なお、国際天文学連合 (IAU) は、閏秒によって UT1 の0.9[[秒]]以内に UTC を維持する現在の方法が[[国際単位系|SI]]秒と安全な[[天測航法]]の必要性を満たすことの両方を提供することを踏まえて、[[航海年鑑|航空・航海暦]]は、UT1 を引数として刊行することを勧告している{{Sfn|IAU|1982|p=16}}。
* '''UT1R''' は、UT1 から短期間(35日未満)の長周期潮{{Efn|name="長周期潮の註釈"|長周期潮 {{lang|en|(zonal tide)}} は、半日周潮や日周潮よりも長い周期の[[潮汐]]を言う。}}の効果を取り除いたもので、UT1 よりも進度が滑らかな時刻である{{Sfn|IAU|1982|pp=21-23}}。
===UT2===
'''UT2'''は UT1 を均した時刻である。すなわち UT1 には年周期・半年周期などの成分が含まれていることが分かっているので<!--周期変動以外の不規則性も含まれている。その不規則性には季節変動の効果があり-->、以下の経験に基づく補正項を追加することによって大部分を取り除くことができる。ここでの ''t'' は[[太陽年]]で表した時間である。
:: <math>UT2 = UT1 + 0.0220\cdot\sin(2\pi t) - 0.0120\cdot\cos(2\pi t) - 0.0060\cdot\sin(4\pi t) + 0.0070\cdot\cos(4\pi t)\;\mbox{seconds}</math>
<!--[[1956年]]から実施され、-->[[1960年代]]は[[天測航法|天文航法]]、[[測地]]天文、[[人工衛星]]を始め[[惑星]]、[[衛星]]の観測に必要とされたが{{Efn|name="UT2の註釈"|UT2 は日本からの働きかけに基づき作られた<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=宮地政司 |authorlink=宮地政司 |date=May 1963 |year=1963 |title=時間の問題 |journal=天文月報 |volume=56 |issue=4 |pages=77 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1963/pdf/19630407.pdf |format=PDF |accessdate=2013-12-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101095110/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1963/pdf/19630407.pdf |archivedate=2014-01-01 |url-status=live}}§2</ref>。}}、現行方式のUTCが始まった[[1972年]]以降はほとんど使われる場面がない<!--ほぼ歴史的興味の対象である-->。
===UTC===
{{main|協定世界時}}
'''UTC'''([[協定世界時]])は、市民向けの[[常用時]]が基準としている国際標準である。UTC は[[原子時計]]で測定され、必要に応じて[[閏秒]]と呼ばれる1秒を挿入または除去することによって UT1 との差 ([[DUT1]]) が0.9秒以内に保たれるように調整されている。現在までのところ、閏秒の値は常に正(挿入)である。1秒未満の[[正確度と精度|精度]]が必要でなければ、UTC を UT1 の近似として使うことができる。UT1 と UTC の差は、[[国際地球回転・基準系事業]] (IERS) のWebサイト<ref>{{Cite web |url=http://www.iers.org/nn_10968/IERS/EN/DataProducts/EarthOrientationData/eop.html?__nnn=true |title=Earth orientation data |accessdate=2014-01-05 |author=IERS |authorlink=国際地球回転・基準系事業 |date=2013-05-21 |year=2013 |format=html |work=IERS Data / Products |publisher=ドイツ連邦地図測地庁 {{lang|en|(Federal Agency for Cartography and Geodesy)}} |language=[[英語]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131103004625/http://www.iers.org/nn_10968/IERS/EN/DataProducts/EarthOrientationData/eop.html?__nnn=true |archivedate=2013-11-03 |url-status=dead}}このページにリンクがあるPlotsのグラフ</ref>で見ることができる<ref>{{Cite web |url=http://datacenter.iers.org/web/guest/eop/-/somos/5Rgv/plot/214 |title=Plots: EOP 08 C04 (IAU2000) one file |accessdate=2014-01-05 |author=IERS |authorlink=国際地球回転・基準系事業 |date=2013-05-21 |year=2013 |format=html |work=Earth orientation data |publisher=ドイツ連邦地図測地庁 {{lang|en|(Federal Agency for Cartography and Geodesy)}} |language=[[英語]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140106032036/http://datacenter.iers.org/web/guest/eop/-/somos/5Rgv/plot/214 |archivedate=2014-01-06 |url-status=dead}}二段目左のUT1-UTCのグラフで、1972年以後で不連続になっている箇所が[[閏秒]]の挿入である。</ref>{{Sfn|IERS|2013|loc=二段目左のUT1-UTCグラフが最近の確定値と予測値。赤線が確定値、青線が予測値}}。
== 歴史 ==
=== 成り立ち ===
[[1925年]]1月から、[[正午]]から始まる[[天文時]]を廃止して、[[真夜中|正子]]に始まる[[常用時]]を[[天文学]]でも用いることになった際に<ref>{{Cite journal |1=和書 |date=September 1919 |year=1919 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 天文時と常用時の統一 |journal=天文月報 |volume=12 |issue=9 |page=148 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3303990}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1919/pdf/191909.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140203163531/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1919/pdf/191909.pdf |archivedate=2014-02-03 |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite journal |1=和書 |date=December 1924 |year=1924 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 天文時の廃止 |journal=天文月報 |volume=17 |issue=12 |page=187 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304053}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1924/pdf/192412.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140114010214/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1924/pdf/192412.pdf |archivedate=2014-01-14 |url-status=live}}</ref>、従来までの正午からの G.M.T.([[グリニッジ標準時|グリニッジ平均時]])と区別して正子から始める時に別の名称をつけるべきとの議論が盛んになる<ref>{{Cite journal |1=和書 |date=October 1921 |year=1921 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 緑威平均時 |journal=天文月報 |volume=14 |issue=10 |page=157 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304015}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1921/pdf/192110.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140109144522/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1921/pdf/192110.pdf |archivedate=2014-01-09 |url-status=live}}</ref>。
{{main|グリニッジ標準時#天文時の廃止}}
そして、1925年[[7月15日]]に英国[[ケンブリッジ]]で開かれた[[国際天文学連合]] (IAU) の第2回会議で正子から始めるグリニッジ時の名称が議題となり、賛否の意見が闘わされるなかで[[フランス]]のアンドワイエ教授 {{lang|fr|([[:fr:Marie-Henri Andoyer]])}} から ''Universal Time'' という呼称を使ってはどうかと言う意見が出される。しかし、会議では呼称については未定であり、かつ[[ユリウス通日|ユリウス日]] (JD) については[[正子]]から始めずに、これまで通り[[正午]]から始めることになった<ref>{{Cite journal |1=和書 |date=October 1925-10 |year=1925 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 緑威平均時の争論 |journal=天文月報 |volume=18 |issue=10 |page=156 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304063}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1925/pdf/192510.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140109144602/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1925/pdf/192510.pdf |archivedate=2014-01-09 |url-status=live}}</ref>。
ただし、国際会議ではグリニッジ時の正式な名称については決定的な結果を得なかったが、[[ドイツ]]の出版物では1925年の始めから {{lang|de|Weltzeit}}([[ドイツ語]]の世界時)と呼んでおり、コペンハーゲン回報、大英天文協会回報、ハーバード回報でも天文会議後正式に決定されるまで「'''万国時'''」{{lang|en|''Universal Time'' (U.T.)}} と呼ぶことを発表した<ref>{{Cite journal |1=和書 |date=November 1925 |year=1925 |editor=[[日本天文学会]] |title=雑報 万国時 |journal=天文月報 |volume=18 |issue=11 |pages=173-174 |publisher=日本天文学会 |location=[[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304064}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1925/pdf/192511.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140109144609/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1925/pdf/192511.pdf |archivedate=2014-01-09 |url-status=live}}</ref>。
その後、[[1928年]]7月に[[ライデン]]で開催された国際天文学連合 (IAU) 第3回総会において、[[7月12日]]に第4委員会(天文暦部 {{lang|fr|(Éphémérides)}})のアイケルベルガー委員長の発議で「グリニッジ常用時 ([[:en:Civil Time|Greenwich Civil Time (GCT)]])、および世界時({{lang|de|Weltzeit (W.Z.)}} または {{lang|en|Universal Time (U.T.)}})は正子から計るグリニッジ時を明確に示す。」ことが決議された{{Sfn|IAU|1928|p=5}}{{Sfn|Société d'Astronomie d'Anvers|1928|p=213}}。
さらに、[[1935年]][[7月10日]]から[[7月17日]]まで[[パリ]]で開催された国際天文学連合 (IAU) 第5回総会で、[[正子]]から数えるグリニッジ平均時 {{lang|en|(G.M.T.)}} に、世界時({{lang|en|Universal Time (U.T.)}}、{{lang|fr|Temps Universel (T.U.)}}、または {{lang|de|Weltzeit (W.Z.)}})を国際的に使用することが採択された{{Sfn|日本天文学会|1935|p=193}}{{Sfn|IAU|1935|p=3}}。
そして、[[1948年]]に[[チューリッヒ]]で開催された国際天文学連合 (IAU) 第7回総会では、第4委員会(天文暦部)は、天文学者がグリニッジ[[真夜中|正子]]から起算した平均[[太陽時]]を示す際に、名称「世界時」({{lang|fr|Temps Universel}}; {{lang|en|Universal Time}}; {{lang|de|Weltzeit}}) だけを使用することを勧告する<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=[[古畑正秋]] |date=January 1949 |year=1949 |title=展望 チューリッヒに於ける国際天文同盟総会 |journal=天文月報 |volume=42 |issue=1,2 |page=6 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹町]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304301}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1949/pdf/194901-02.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202155157/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1949/pdf/194901-02.pdf |archivedate=2014-02-02 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite conference |df=ja |author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |year=1948 |title=Ⅶth General Assembly, Zurich, Switzerland, 1948 / Ⅶe Assemblée Générale, Zurich, Suisse, 1948 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1948_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-17 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=4 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130430091621/http://iau.org/static/resolutions/IAU1948_French.pdf |archivedate=2013-04-30|url-status=live}}</ref>。
これらの決議により、天文学者が使用する世界共通の[[経度]]によらない基準時刻は、グリニッジ平均時から世界時へと移行した。
=== 変動成分の補正 ===
[[1930年代]]に、[[クォーツ時計|水晶時計]]の安定度の向上や[[無線]][[時報|報時]]信号の利用による国際時刻比較の精密化につれて、[[地球の自転]]の[[角速度]]の[[季節]]的変化や[[経度]]変化などが検出される。[[1950年]]頃には、世界時の各種短周期変動が問題とされ始め、既知の変動成分を補正することになる。[[1955年]]に[[ダブリン]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第9回総会で、第31委員会([[国際報時局]])はより精密な時の決定のため国際的に共通な補正を使用する目的で、[[極運動|極変化]]の[[外挿]]値と地球の自転の角速度の季節的変動の予測値を国際報時局(BIH、現[[国際地球回転・基準系事業|IERS]])で決定して各国共通にこの値を用いることを決定した。そして、観測から直接得られた生の世界時を UT0、これに経度変化の補正を加えたものを UT1、さらにこれに季節的変化の補正を加えたものを UT2 {{Efn|name="UT2の註釈"}}と名付けてそれぞれ区別することになり[[1956年]]から実施された。そのときから UT2 が代表的な世界時として正式に用いられる事に決まった<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=[[宮地政司]] |date=November 1955 |year=1955 |title=特集・IAU総会その他の諸会議から 第IX回国際天文学連合総会の報告 行政的各委員会および位置天文学関係諸分科会 |journal=天文月報 |volume=48 |issue=11 |page=169 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304383}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1955/pdf/195511.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201232634/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1955/pdf/195511.pdf |archivedate=2014-02-01 |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite journal |1=和書 |author=[[宮地政司]] |date=January 1956 |year=1956 |title=世界時の新しい内容 |journal=天文月報 |volume=49 |issue=2 |page=20 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |naid=40018111560 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304387}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1956/pdf/195602.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201232644/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1956/pdf/195602.pdf |archivedate=2014-02-01 |url-status=live}}§3</ref>{{Sfn|飯島重孝|1971|p=321|loc=§2}}。
=== 協定世界時の導入 ===
[[1950年代]]にセシウム[[原子時計]]が実用化が進み、各国の[[標準電波]]もこれを基準として電波を発射するようになる、一方、[[人工衛星]]の国際観測も盛んとなり、これらの全世界データを整約するために、国際的に統一した方法で UT2 の時刻を利用できることが強く望まれるようになる。
[[1959年]]にアメリカとイギリスが、標準電波の周波数を原子周波数標準に合わせることや[[時報|報時]]信号を同期することを打ち合わせ、その後各国を勧誘した。
[[1960年]]の国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や[[1961年]]に[[バークレー (カリフォルニア州)|バークレー]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第11回総会では、報時信号の国際[[同期]]に関する問題が討議され、具体化された(日本は1961年9月から実施)<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=[[宮地政司]] |date=December 1961 |year=1961 |title=IAU総会だより(6) 位置天文学関係の諸分科会 |journal=天文月報 |volume=55 |issue=1 |pages=21-22 |at=§5 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304463}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1962/pdf/196201.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202155221/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1962/pdf/196201.pdf |archivedate=2014-02-02 |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite journal |1=和書 |author=飯島重孝 |date=December 1963 |year=1963 |title=雑報-0.1秒の報時信号調整 |journal=天文月報 |volume=55 |issue=1 |pages=8-9 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304490}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19640105.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202155218/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19640105.pdf |archivedate=2014-02-02 |url-status=live}}</ref>。
そして、[[1964年]]に[[ハンブルク]]で開催された国際天文学連合 (IAU) 第12回総会の決議で、報時は UT2 に近似するように1年間一定の[[周波数]][[オフセット]]と 0.1 [[秒]]のステップ調整をおこなうこととし、オフセットおよび秒信号の修正の量と時期は国際報時局(BIH、現[[国際地球回転・基準系事業|IERS]])が決定して、報時信号を国際的に同期する[[協定世界時]] (UTC) 方式が勧告された<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=虎尾正久 |date=November 1964 |year=1964 |title=I.A.U.第12回総会-第8,19,31委員会の報告 |journal=天文月報 |volume=57 |issue=12 |page=256 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304501}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19641207.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202155214/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19641207.pdf |archivedate=2014-02-02 |url-status=live}}</ref>{{Sfn|飯島重孝|1971|pp=322–324|loc=§2,§3}}。
なおこの方式は現行の方式とは異なるので、区別するために旧[[協定世界時]]と呼ばれる。
=== 採用経度系の統一と慣用国際原点 (CIO) の採用 ===
[[1962年]]に国際報時局(BIH、現[[国際地球回転・基準系事業|IERS]])の主導により[[天文台]]の採用[[経度]]の第1回国際的全面改定が行われた。国際報時局(BIH、現 IERS)を中核とする国際[[時報|報時]]事業に参加する天文台は年とともに数を増してきたが、新しく参加する天文台は、無線報時信号を仲介として既設の天文台との時刻比較を行い、その天文台の採用[[経度]]を参考に新たな天文台の経度値を決める手順をとったため、全体として採用経度系が不統一となっていた。採用経度値を頻繁に変更すると、後からの資料の整理計算に甚だしく不利となるので、それまで極力避けられてきたが、観測[[正確度と精度|精度]]の向上、[[時計]]や無線報時の時刻比較精度の向上につれて、いままで採用経度系の杜撰さが目立つようになったので、採用経度系を統一することになった。このときの経度の極原点は、国際報時事業に参加する天文台の採用経度系から平均的に規定され、その後に採用される慣用国際原点(CIO、[[1900年]]から[[1905年]]までの6年間に[[極運動]]で移動した[[北極]]の平均位置)とは無関係であった。この際、各国の天文台は採用経度値の変更に応じて UT1 についても変更を要請されており、[[国立天文台|東京天文台]]の場合は -8 [[ミリ秒|ms]] であった。こうして各天文台ごとの UT1 も、それらを国際報時局(BIH、現 IERS)で整約・加重平均して算出する UT1 も[[ミリ秒]]単位の不連続が発生した(UT1 に補正を加えた UT2 も同様)。
また、[[1964年]]に[[ハンブルク]]で開催された第12回[[国際天文学連合]] (IAU) で天文[[定数|常数]]の変更が批准され<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=佐藤友三 |date=November 1964 |year=1964 |title=改定される天文常数 |journal=天文月報 |volume=57 |issue=12 |page=241 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304501}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19641202.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140222041644/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19641202.pdf |archivedate=2014-02-22 |url-status=live}}</ref><ref>{{Cite journal |1=和書 |author=[[藤田良雄]] |date=November 1964 |year=1964 |title=第12回国際天文学連合総会の報告 |journal=天文月報 |volume=57 |issue=12 |page=251 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304501}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19641205.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140203125309/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19641205.pdf |archivedate=2014-02-03 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite conference |df=ja |author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |year=1964 |title=Ⅻth General Assembly, Hamburg, Germany, 1964 / Ⅻe Assemblée Générale, Hambourg, Allemagne,1964 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1964_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-02-02 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=5 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130430064013/http://iau.org/static/resolutions/IAU1964_French.pdf |archivedate=2013-04-30|url-status=live}}</ref>、[[1968年]]から実施された。この天文常数の変更の中に[[光行差]]常数の変更があったため、天文台からみた[[恒星]]の見かけの方向の解釈が変更されることになり、採用経度の変更とは別に世界時に不連続が発生する。東京天文台での UT1 の不連続は +1.8 ms であった。
さらに、[[1967年]]8月に[[プラハ]]で開催された第13回国際天文学連合 (IAU) の決議(第19委員会、地球回転)により、北極点として慣用国際原点 (CIO) が採用される<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=弓滋 |date=December 1967 |year=1967 |title=第19(地球回転)委員会 (第13回IAU総会からの報告) |journal=天文月報 |volume=61 |issue=1 |page=15 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |naid=40018111018 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304542}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1968/pdf/19680107.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140203125313/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1968/pdf/19680107.pdf |archivedate=2014-02-03 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite conference |df=ja |author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |year=1967 |title=XIIIth General Assembly, Prague, Czechoslovakia, 1967 / XIIIe Assemblée Générale, Prague, Tchécoslovaquie, 1967 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1967_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-02-02 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140626175014/http://iau.org/static/resolutions/IAU1967_French.pdf |archivedate=2014-06-26|url-status=live}}</ref>。これに伴い、国際報時局(BIH、現IERS)での統一計算の結果に基づいて第2回国際的全面改定が行われ、[[1969年]]から各国の天文台にその採用経度値を変更するよう要請される。これに伴う東京天文台での UT1 の不連続は +2.8 ms であった。なお、このときリッチモンド([[アメリカ海軍天文台]] (USNO) のフロリダ支所)とワシントンは[[基本星表]]FK4の採用に伴い赤経の偏りに応じた採用経度の変更を行ったが、この処置は世界時には影響しない<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=飯島重孝 |date=May 1969 |year=1969 |title=採用経度値と極原点 |journal=天文月報 |volume=62 |issue=5 |pages=115-121 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |naid=40018111095 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304559}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1969/pdf/19690508.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202191541/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1969/pdf/19690508.pdf |archivedate=2014-02-02 |url-status=live}}</ref>。
=== 協定世界時の改善 ===
旧協定世界時は運用が煩雑で、また1秒の刻みも一様でないなどの短所を持つことから、[[1970年]]に[[ブライトン]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第14回総会で、旧協定世界時の大幅な改善策が決議された<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=弓滋 |date=October 1970 |year=1970 |title=第19(地球回転)委員会,第31(時)委員会 (IAU第14回総会(特集)) -- (第14回IAU総会からの報告) |journal=天文月報 |volume=63 |issue=11 |pages=282-284 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |naid=40018111122 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304578}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1970/pdf/19701105.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202155259/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1970/pdf/19701105.pdf |archivedate=2014-02-02 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite conference |df=ja |author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |year=1970 |title=XIVth General Assembly, Brighton, UK, 1970 / XIVe Assemblée Générale, Brighton, UK, 1970 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1970_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-18 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130430130026/http://iau.org/static/resolutions/IAU1970_French.pdf |archivedate=2013-04-30|url-status=live}}</ref>。
[[1971年]]の国際無線通信諮問委員会(CCIR、現[[ITU-R]])の中間会議で、細部の具体策を含めて現行の[[協定世界時]] (UTC) が決定され、[[1972年]]に実施された。これにより UTC に[[閏秒]]が導入され、UTC は UT1 との差が一定の範囲内なるように国際報時局(BIH、現[[国際地球回転・基準系事業|IERS]])で調整・管理される。これ以後は、UT0、UT1、UT2、[[暦表時]] (ET)、[[国際原子時]] (TAI) が UTC を仲介して結ばれる{{Sfn|飯島重孝|1971|pp=324–325|loc=§4,§5}}。
[[1973年]]に[[シドニー]]で開催された国際天文学連合 (IAU) 第15回総会で、協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の[[公差|許容差]]が ±0.7 秒未満から、±0.950 秒([[DUT1]]の最大値を0.9秒にとどめるため)に拡大すること、また、閏秒の実施時期を追加することが勧告された<ref>{{Cite journal|和書|author=飯島重孝 |date=1973-12-25 |year=1973 |title=IAU第15回総会に出席して |journal=日本時計学会誌 |issue=68 |pages=57-60 |publisher=日本時計学会 |location=[[東京都]] |issn=0029-0416 |naid=110002777404 |id={{NCID|AN00195723}} |accessdate=2014-01-26}}{{オープンアクセス}}</ref><ref>{{cite conference |df=ja |author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=August 1973 |year=1973 |title=XVth General Assembly, Sydney, Australia, 1973 / XVe Assemblee Generale, Sydney, Australie, 1973 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1973_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-17 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130430133630/http://iau.org/static/resolutions/IAU1973_French.pdf |archivedate=2013-04-30|url-status=live}}</ref>。その後、[[1974年]]3月に開催された国際無線通信諮問委員会(CCIR、現ITU-R)の会議で UTC の運用規則(現 ITU-R勧告TF.460<ref>{{citation |author=ITU-R |authorlink=ITU-R |date=February 2002 |year=2002 |title=RECOMMENDATION ITU-R TF.460-6 Standard-frequency and time-signal emissions |publisher=ITU-R |location=[[ジュネーヴ]] |url=http://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/tf/R-REC-TF.460-6-200202-I!!PDF-E.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-26 |language=[[英語]] |page=3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141011153205/http://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/tf/R-REC-TF.460-6-200202-I!!PDF-E.pdf |archivedate=2014-10-11}}</ref>)が改訂され、UTC-UT1 の[[絶対値]]の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、また、時刻調整(閏秒)の実施予定日を従来の UTC の6月末および12月末を第一優先とし、さらに3月末および9月末を第二優先として加えることにし、[[1975年]][[1月1日]]から、この改訂を実施することになった<ref>{{Cite journal|和書|author=古賀保喜 |date=1975-03-30 |year=1975 |title=第7回 CCDS 会議に出席して |journal=日本時計学会誌 |issue=73 |page=60 |publisher=日本時計学会 |location=[[東京都]] |issn=0029-0416 |naid=110002777471 |id={{NCID|AN00195723}} |accessdate=2014-02-01}}{{オープンアクセス}}</ref>。
=== 用語の整理 ===
[[1976年]]に[[グルノーブル]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第16回総会において、第4委員会(暦)および第31委員会(時)の共同決議第1号で、グリニッジ平均時 (GMT) と世界時 (UT) の使用に関する明確化の望ましさを考慮し、GMT と UT は[[時刻]]の最大[[正確度と精度|精度]]が[[整数]]秒である[[法令]]、[[通信]]、[[常用時|常用]]その他の目的では[[協定世界時]] (UTC) の意味で使用されること、また、GMT と UT は[[天測航法]]および[[測量]]における[[暦]]の独立引数としては世界時の UT1 の意味で引き続き使用されることを指摘した。これらを踏まえて、UT0、UT1、UT2 および UTC の区別が必要ない場合には、それらの代わりに UT が使用され得ることを認め、一方、GMT については適切な名称に置き換えられることが強調される。以上の諸点を確認した上で、曖昧さのない表記 UT0、UT1、UT2 および UTC は、それらを区別する必要がある全ての科学刊行物において使用されるよう勧告された。
また、世界時の略語が統一され、[[フランス語]]のT.U.などは廃止され、UT0(i)、UT1(i)、UT2(i) などと表記し “i” には[[天文台]]の略語(例えば、東京天文台は TAO、[[国立天文台]]に改組後は NAO)が入ることになる。また、協定世界時は UTC(i) で、“i” には UTC の時刻を[[現示]]する機関の略語がはいる。ただし、国際報時局(BIH、現[[国際地球回転・基準系事業|IERS]])は誤解の恐れがない場合は (BIH) を省略できる<ref>{{Cite journal|和書|author=飯島重孝 |date=1977-03-15 |year=1977 |title=IAU第16回総会に出席して |journal=日本時計学会誌 |issue=80 |pages=51-58 |publisher=日本時計学会 |location=[[東京都]] |issn=0029-0416 |naid=110002777551 |id={{NCID|AN00195723}} |accessdate=2014-01-26}}{{オープンアクセス}}</ref>{{Sfn|IAU|1976|p=27}}。
=== 新たな補正 ===
[[1982年]]に[[パトラ]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第18回総会において、決議C5号(第4、第9、第31委員会)で、IAU(1976)天文定数系、IAU1980 [[章動]]理論および[[基本星表]]FK5における[[分点]]が[[1984年]][[1月1日]]から導入されることを踏まえて、新たに世界時 (UT1) とグリニッジ平均[[恒星時]] (GMST) の関係式が定義された{{Sfn|IAU|1982|p=18}}。また、決議C9号(第19、第31委員会)で、世界時の処理や刊行物で長周期潮{{Efn|name="長周期潮の註釈"}}の役割を明確にする必要を考慮し、文字Rを35日未満の周期の補正がなされたことを示すために関連する量の表記に付与することができること(例えば、UT1R など)が勧告された{{Sfn|IAU|1982|p=21}}。
=== IERSの設立 ===
[[1985年]]に[[デリー]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第19回総会において、決議B1号(時の責任)と決議B2号([[基準系|基準座標系]])により、[[時刻]]の中央局である国際報時局 (BIH) と[[極運動]]の中央局である国際極運動観測事業 (IPMS) を廃止して、BIH と IPMS を統合した新しい組織として国際地球回転観測事業(IERS、現[[国際地球回転・基準系事業]])を[[1988年]]1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた[[国際原子時]] (TAI) を、[[国際度量衡委員会]] (CIPM) と[[国際度量衡総会]] (CGPM) の責任の元で[[国際度量衡局]] (BIPM) に移管することを認め、新組織の国際地球回転観測事業(IERS)の中央局が世界各地の観測値をもとに、[[DUT1|ΔUT1]] (UT1-UTC) や極運動を決め、[[閏秒]]の決定も行うことになった<ref>{{Cite journal |1=和書 |author=[[古在由秀]] |date=February 1986 |year=1986 |title=第XIX回 IAU総会 |journal=天文月報 |volume=79 |issue=3 |pages=71-72 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304776}} |url=http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1986/pdf/19860312.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140202194441/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1986/pdf/19860312.pdf |archivedate=2014-02-02 |url-status=live}}</ref><ref>{{cite conference |df=ja |author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=November 1985 |year=1985 |title=XIXth General Assembly, Delhi, India, 1985 / XIXe Assemblee Generale, Delhi, Inde,1985 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1985_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-02-01 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |pages=3-7 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130430172539/http://iau.org/static/resolutions/IAU1985_French.pdf |archivedate=2013-04-30|url-status=live}}</ref>。
地球回転の観測は、1988年から国際的に従来の光学による方位・位置観測(写真天頂筒 (PZT) など)から電波・[[レーザー]]を使用した高精度の距離観測([[超長基線電波干渉法|VLBI]]や[[月レーザー測距実験|月レーザー測距]]・[[光波測距儀#レーザー衛星測距|人工衛星レーザー測距]]・[[LIDAR]]など)に移行することになる<ref>{{Cite journal |1 = 和書 |author = 松田浩 |date = 1996-04-20 |year = 1996 |title = 天文保時室とNTPサーバー |journal = 天文月報 |volume = 89 |issue = 5 |page = 211 |pages = 210-215 |publisher = [[日本天文学会]] |location = 東京都[[三鷹市]] |issn = 03742466 |naid = 10002141465 |id = {{NCID|AN00154555}} |url = http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1996/pdf/19960501c.pdf |format = PDF |accessdate = 2014-01-24 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20140202145309/http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1996/pdf/19960501c.pdf |archivedate = 2014-02-02 |url-status=live}}</ref>。
=== 一般相対性理論に基づく基準座標系 ===
[[1988年]]に[[ボルチモア]]で開催された[[国際天文学連合]] (IAU) 第20回総会において、決議C1号([[基準系|基準座標系]]作業部会 (WGRF))で基準座標系についての方針が勧告され、決議C2号(委員会合同プロジェクトの継続)で章動、天文定数、原点、基準座標系および時刻に関してプロジェクトを基準座標系作業部会で継続することや、[[国際測地学・地球物理学連合]] (IUGG) [[国際測地学協会]] (IAG) とともに国際地球回転観測事業(IERS、現[[国際地球回転・基準系事業]])と緊密に連携することが勧告される<ref>{{cite conference |df=ja |author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=November 1988 |year=1988 |title=XXth General Assembly, Baltimore, USA, 1988 / XXe Assemblee Generale, Baltimore, USA, 1988 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url=http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1988_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-02-15 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |pages=3-7 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130430130259/http://iau.org/static/resolutions/IAU1988_French.pdf |archivedate=2013-04-30|url-status=live}}</ref>。
その後、[[1991年]]から[[2006年]]にかけて[[一般相対性理論]]に基づいた基準座標系の採用、[[歳差]][[章動]]理論・[[国際天文基準座標系|国際天球基準座標系]] (ICRF) および[[国際地球基準座標系]] (ITRF) 定義の改訂が行われ、UT1 は[[超長基線電波干渉法|VLBI]]の観測をもとにIAU 2006 章動理論や座標変換によって定義されるようになった<ref>{{Citation | 1 = 和書 | year = 2013 | date = 2013-12-20 | editor = 国立天文台 | editor-link = 国立天文台 | title = [[理科年表]] | place = [[東京都]] | publisher = [[丸善]] | edition = 第87冊 平成26年 | page = 天79(155) | isbn = 978-4-621-08738-1 | url = http://www.rikanenpyo.jp/ | access-date = 2014-02-15 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20131212042009/http://www.rikanenpyo.jp/ | archivedate = 2013-12-12}}</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
* {{Cite journal|和書
|author = 飯島重孝
|date = November 1971
|year = 1971
|title = うるう秒の誕生
|journal = 天文月報
|volume = 64
|issue = 12
|pages = 321–325
|publisher = [[日本天文学会]]
|location = 東京都[[三鷹市]]
|issn = 0374-2466
|naid = 40018111189
|id = {{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304592}}
|url = https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1971/pdf/19711204.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2013-12-29
|ref = harv
}}
* {{Cite journal|和書
|date = November 1935
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|editor = [[日本天文学会]]
|title = 雑報 万國天文学協会第五回総会記事
|journal = 天文月報
|volume = 28
|issue = 11
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|location = [[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]]
|issn = 0374-2466
|id = {{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304186}}
|url = https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1935/pdf/193511.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2014-01-09
|ref = harv
}}
* {{Citation
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| at = Discusses the history of time standardization
| place = New York
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| format = pdf
| accessdate = 2014-01-17
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| df = ja
| author = IAU
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| year = 1935
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| df = ja
| author = IAU
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|accessdate = 2014-01-17
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}}
* {{Cite web |url= http://datacenter.iers.org/web/guest/eop/-/somos/5Rgv/plot/10 |title=Plots: FINALS.DATA (IAU2000) |accessdate=2014-01-05 |author=IERS |authorlink=国際地球回転・基準系事業 |date=2013-05-21 |year=2013 |format=html |work=Earth orientation data |publisher=ドイツ連邦地図測地庁 {{lang|en|(Federal Agency for Cartography and Geodesy)}} |language=[[英語]] |ref=harv}}
* {{Citation
| last = O'Malley
| first = Michael
| year = 1996
| title = Keeping watch: A history of American time
| place = Washington
| publisher = Smithsonian
| isbn = 1560986727
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* {{Citation
| year = 1992
| title = Explanatory supplement to the Astronomical Almanac
| editor-last=Seidelman
| editor-first=P. Kenneth
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| series=
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| isbn = 0935702687
}}
* {{Citation|和書
|editor = Société d'Astronomie d'Anvers
|others = 寺田勢造 訳
|date = November 1928
|year = 1928
|contribution = 雑録 万国天文学協会第三回総会(一)
|journal = 天文月報
|volume = 21
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|pages = 212-214
|publisher = [[日本天文学会]]
|location = [[東京府]][[北多摩郡]][[三鷹市|三鷹村]]
|issn = 0374-2466
|id = {{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304101}}、ガゼットアストロノミーク誌({{ISSN|0374-3241}})
|url = https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1928/pdf/192811.pdf
|format = PDF
|accessdate = 2014-01-09
|ref = harv
}}
==関連項目==
* [[サンドフォード・フレミング]]
* [[地球の自転]]
* [[閏秒]]
* [[恒星時]]
* [[時刻系]]
* [[日本標準時]]
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}
{{デフォルトソート:せかいし}}
[[Category:時刻系]] | 2003-04-24T12:25:35Z | 2023-09-23T08:30:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%99%82 |
7,219 | UTC (曖昧さ回避) | UTC | [
{
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}
] | UTC 協定世界時(略称UTC)
ユナイテッド・テクノロジーズ - アメリカの企業
ソーステルベルフ航空基地のIATAコード。
認知の統一理論 | '''UTC'''
* [[協定世界時]](略称UTC)
* [[ユナイテッド・テクノロジーズ]] (United Technologies Corporation) - アメリカの企業
* [[ソーステルベルフ航空基地]]の[[国際航空運送協会|IATA]]コード。
* [[認知の統一理論]] (Unified Theories of Cognition)
{{aimai}} | null | 2014-06-19T06:14:53Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/UTC_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
7,220 | 協定世界時 | 協定世界時(きょうていせかいじ、英語: coordinated universal time, フランス語: temps universel coordonné)とは、国際原子時 (TAI) に由来する原子時系の時刻で、UT1世界時に同調するべく調整された基準時刻を指す。言語によって頭字語が異なるため、共通の略称として UTC が定められている。
協定世界時は国際度量衡局 (BIPM) が国際地球回転・基準系事業 (IERS) の支援を受けて維持する時刻系で、標準周波数と報時信号発射の基礎であり、国際単位系 (SI) 秒に基づく国際原子時と同歩度だが、整数秒だけ異なる。UT1 世界時と近似的に一致させるため、秒を挿入または除去する閏秒調整を行っている。UT1 と UTC の差は、国際地球回転・基準系事業のウェブサイトで確認できる。
世界各地の標準時は協定世界時を基準としている。日本標準時 (JST) は、協定世界時より9時間進めた時間である。
協定世界時の略称は UTC である。
協定世界時を頭字語表記すると、英語は coordinated universal time で “CUT”、フランス語は temps universel coordonné で “TUC”、イタリア語は tempo coordinato universale で “TCU” となり、言語毎の表記に差異が生ずるため、国際電気通信連合 (ITU) は共通の略称として “UTC” を定めた。既存の世界時 (UT) の種類は UT のあとに数字を付してUT0、UT1などと表記され、“UTC” はこれらとも整合する。略称から逆成した 英: universal time coordinated, 仏: universel temps coordonné など、非公式な表記も一部に散見する。
協定世界時は、歴史的な理由から特定の分野で同義語として扱われるいくつかの用語が存在する。
GMT と Z は、航法や通信の分野で UTC と同義語として認められる。子午線を1時間ごとの時刻差で英字一文字に対応させて東経を正数、西経を負数で表記すると、15=A、30=B、45=C、60=D、75=E、90=F、105=G、120=H、135=I、150=K、165=L、180=M、-15=N、-30=O、-45=P、-60=Q、-75=R、-90=S、-105=T、-120=U、-135=V、-150=W、-165=X、-180=Y、0=Z となる。本初子午線を中心とする時間帯は(Z) で表され、通信で通話表の文字 Z に使用する語は Zulu であることから「UTC」を「Z時」や “Zulu time” と表すことがある。
時刻の最大精度を整数秒で扱う場合はGMTと世界時 (UT) はUTC の意味で使用され、GMTはUTCまたはUTに置換して表す。
国際原子時は、1970年に国際度量衡委員会 (CIPM) が定義した時刻系である。「国際単位系における時間の単位である秒の定義に従い、いくつかの機関で運転されている原子時計の指示値に基づき国際報時局 (BIH) が定める基準となる時刻の座標」と定義されている。1988年からは、それまでの国際報時局に代わり国際度量衡局が1972年以降の協定世界時が国際原子時に完全同調する歩度で整数秒差を維持するように管理している。
国際原子時の起点は、世界時 UT2 の1958年1月1日0時0分0秒である。各国毎の現示は時間に関する国立研究所などが実施し、原子時計データを国際度量衡局へ送信して国際的な時刻目盛の算出に参加している。
UT1 世界時は各国天文台の地球自転観測データをもとに国際地球回転・基準系事業が定め、地球の自転周期はおよそ10年周期の長短とミリ秒単位の不規則さで変動しているが、協定世界時は1972年以降、国際原子時と整数秒差を維持しつつ UT1 世界時と近似的一致を保証するため、秒を挿入または除去する閏秒調整を導入し、偏差0.9秒以内に収めるべく、国際地球回転観測事業中央局が ΔUT1 (UT1-UTC) の予測値に基づき定めている。2018年1月現在、協定世界時は国際原子時から正確に37秒だけ遅れている。
1971年まで使われた旧協定世界時 (UTC) は、公認されたセシウム原子の振動数を F0 とし、周波数や秒間隔を F = F 0 × ( 1 + s ) {\displaystyle F=F_{0}\times (1+s)} そのオフセット値「50 × n × 10、n は整数」を s で定め、 歩度をできるだけ変更せずに UT2 世界時と近似的な一致を得るため F を1年間固定していた。UT2 世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時 (UT) に 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正量と時期は国際報時局 (BIH)が関係天文台と協議して定めていた。
標準電波で発射される報時信号は搬送波の位相に同期(CCIR勧告460)しており周波数は時間の逆数で表されるため周波数オフセットは時間を時刻に合わせる手段となることから、周波数を基準値から故意に遷移させて積算した時刻信号の歩度を UT2 世界時の歩度に近似させた。UT2 世界時は UT1 世界時の既知の季節変動を補正して平滑化したものだが地球自転の角速度は不規則に変動し、歩度を1年間一定にする旧協定世界時 (UTC) との差を月初に0.1秒単位でステップ調整した。
旧協定世界時 (UTC) は標準電波の報時信号を同期する国際協定に基づき1960年頃から試験的に運用され、1961年1月1日に制度を開始し、1964年1月1日から正式に採用されて1971年末まで使用された。
1950年代にセシウム原子時計が実用化され、標準電波の周波数は原子周波数標準器を基準とし、時刻は地球の自転に基づく UT2 世界時を基準とする報時信号が発射されていたが各国の報時機関がそれぞれ独立に発射して相互に無関係だった。人工衛星の国際観測が興隆し、世界のデータを整約するため国際的な統一方法で UT2 の時刻利用が強く望まれ、1959年にアメリカ合衆国とイギリスを中心に標準電波の周波数や報時信号の同期を合議して報時信号は ±1 ms、標準周波数は ±1×10 を目標に同期を図った。
1960年国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や1961年国際天文学連合 (IAU) 第11回総会で報時信号の国際同期に関する問題が討議され具体化され、セシウム原子振動標準の周波数 (9192631770 Hz) が公認される。
天測航法や測地、人工衛星観測などは地球の自転に基づく世界時を要するが、物理学などは時間単位だけが必要で世界時は不適当であることから、標準電波の周波数は原子時に基づき、時刻は世界時に基づくものになり、公認されたセシウム原子の振動数を F0 とすると、周波数や秒間隔は F = F 0 × ( 1 + s ) {\displaystyle F=F_{0}\times (1+s)} で決定し F は1年間固定する。 s はオフセット値で1960年は −150×10^ だった。本方式は標準時計の歩度が1年間固定され、地球自転の角速度は不規則に変動し、報時される時刻は世界時に差が生じるため世界時との差は月初に 50 ms 単位でステップ調整した。周波数オフセットは国際天文学連合が毎年決定することが採択された。
本報時方式は1960年頃からアメリカとイギリスが試験的に開始し、日本、フランス、スイス、カナダなど数ヶ国が国際無線通信諮問委員会 (CCIR) や国際天文学連合による正式な採択を待たず順次実施した。日本は郵政省電波研究所 (RRL) のJJYで1961年9月から実施している。
1963年国際無線通信諮問委員会第10回総会の議決後、1964年国際天文学連合第12回総会で、報時は世界時に近似するよう1年間一定の周波数オフセット(50 × n × 10、n は整数)とし、世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時UTに 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正の量と時期は国際報時局 (BIH)が関係天文台と協議の上で決定して報時信号を国際的に同期する、旧協定世界時 (UTC) 方式が、多くの国は勧告実施に設備と研究を要するため議論の末に勧告された。
原子周波数標準器を保有しない国々は協定世界時の保時が不可能で、西ドイツは独特の形式での報時を継続し、ソビエト連邦はステップ調整を 0.05 秒の幅で実施するなど、旧協定世界時 (UTC) の報時方式は国際的同一歩調ではなかったが、1967年国際天文学連合第13回総会で方式変更要求の意見が見られるも、利用者がようやく習熟しつつあり、ソビエト代表が 0.1 秒のステップ調整ならば同調可能と言明し、継続が決まる。
1967年 - 1968年の第13回国際度量衡総会 (CGPM) でセシウム原子周波数標準に基づくSI秒の定義が採択され、物理学や計測の関係者を中心に旧協定世界時の周波数オフセット廃止意見が増加する。
旧協定世界時は運用が煩雑で1秒の刻みも一様でないなどの不都合から、1970年国際天文学連合第14回総会で旧協定世界時の大幅な改善策が決議されて周波数オフセットの廃止、閏秒の導入、協定世界時と国際原子時との差 (TAI-UTC) を整数秒とすること、少なくとも 0.1 秒精度で UT1 世界時を求めることができる情報として DUT1(UTCとUT1の差) を標準電波の報時信号に含めることなどが勧告される。
1971年国際無線通信諮問委員会中間会議で、細部の具体策を含め現行の協定世界時が決定され、TAI-UTC を整数にする特別調整を含めて1972年1月1日0時0分0秒UTC(1972年1月1日0時0分10秒 (TAI))から実施された。閏秒調整日は1月1日または7月1日で、協定世界時は UT1 世界時と差が 0.7 秒を超えぬように国際報時局で調整・管理され、以後世界時 (UT0, UT1, UT2)、暦表時 (ET)、国際原子時が協定世界時を仲介して結ばれる。
旧協定世界時のステップ調整は UT2 基準だが閏秒調整は UT1 基準である。これは UT1 が地球の自転角度そのものを示し UT2 は平滑化したもので測地や天測航法には UT1 の方がより直接的に利用できるからである。
国際無線通信諮問委員会が決議した標準電波の時刻の基準は、旧協定世界時までは UT2 が基準だが現行協定世界時採択時に UTC 基準へ変更された。
1973年国際天文学連合第15回総会で協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の許容差を ±0.7 秒以内から ±0.950 秒へDUT1の最大値を0.9秒にとどめるために拡大する、閏秒の実施時期を追加することが勧告される。1974年3月国際無線通信諮問委員会会議で協定世界時の運用規則(CCIR勧告460、現 ITU-R勧告TF.460)が改訂され、UTC-UT1 の絶対値の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、時刻調整の閏秒実施予定日を従来の協定世界時6月末および12月末を第一優先、3月末と9月末を第二優先として加えること、が1975年1月1日から実施された。
1973年国際天文学連合第15回総会において、第4委員会(暦)と第31委員会(時)の共同決議第1号(1973年8月採択25)で、SI秒に基づく単一の世界的に協調された時計の時間が望まれること、協定世界時からSI秒に基づく国際原子時を得ることが一般的に可能であること、および、UTC標準電波が航法や測量で必要とされる精度の平均太陽時を直接的に提供することを考慮し、すべての国の標準時の通報のための基礎として、UTC を採用することが勧告された。
1975年第15回国際度量衡総会では、「協定世界時」と称される時系が、極めて広く使用され、多くの場合報時発信局によって放送され、放送が利用者に対して同時に標準周波数、国際原子時及び近似的な一つの世界時(又は平均太陽時としてもよい)を提供していることを考慮し、この協定世界時が、多くの国で法定常用時の基礎となっていることを確認し、この使用が十分に推奨に値するものであると評価することが決議された。
1985年国際天文学連合第19回総会において、それまで協定世界時 (UTC) を管理してきた国際報時局 (BIH) を廃止して、国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)を1988年1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた国際原子時 (TAI) を国際度量衡局 (BIPM) に移管すること認め、新組織の国際地球回転観測事業 (IERS) の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった。
1988年からは、国際報時局が行っていた、国際原子時や協定世界時などの原子時計や標準周波数に関する業務は国際度量衡局 (BIPM) が責任を持つことになり、国際度量衡局 (BIPM) が世界各国の関係機関が管理する原子時計のデータから、国際原子時や協定世界時を決定し維持管理するようになる。 | [
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"text": "協定世界時(きょうていせかいじ、英語: coordinated universal time, フランス語: temps universel coordonné)とは、国際原子時 (TAI) に由来する原子時系の時刻で、UT1世界時に同調するべく調整された基準時刻を指す。言語によって頭字語が異なるため、共通の略称として UTC が定められている。",
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"text": "協定世界時は国際度量衡局 (BIPM) が国際地球回転・基準系事業 (IERS) の支援を受けて維持する時刻系で、標準周波数と報時信号発射の基礎であり、国際単位系 (SI) 秒に基づく国際原子時と同歩度だが、整数秒だけ異なる。UT1 世界時と近似的に一致させるため、秒を挿入または除去する閏秒調整を行っている。UT1 と UTC の差は、国際地球回転・基準系事業のウェブサイトで確認できる。",
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"text": "世界各地の標準時は協定世界時を基準としている。日本標準時 (JST) は、協定世界時より9時間進めた時間である。",
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"text": "協定世界時の略称は UTC である。",
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"text": "協定世界時を頭字語表記すると、英語は coordinated universal time で “CUT”、フランス語は temps universel coordonné で “TUC”、イタリア語は tempo coordinato universale で “TCU” となり、言語毎の表記に差異が生ずるため、国際電気通信連合 (ITU) は共通の略称として “UTC” を定めた。既存の世界時 (UT) の種類は UT のあとに数字を付してUT0、UT1などと表記され、“UTC” はこれらとも整合する。略称から逆成した 英: universal time coordinated, 仏: universel temps coordonné など、非公式な表記も一部に散見する。",
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"text": "協定世界時は、歴史的な理由から特定の分野で同義語として扱われるいくつかの用語が存在する。",
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"text": "GMT と Z は、航法や通信の分野で UTC と同義語として認められる。子午線を1時間ごとの時刻差で英字一文字に対応させて東経を正数、西経を負数で表記すると、15=A、30=B、45=C、60=D、75=E、90=F、105=G、120=H、135=I、150=K、165=L、180=M、-15=N、-30=O、-45=P、-60=Q、-75=R、-90=S、-105=T、-120=U、-135=V、-150=W、-165=X、-180=Y、0=Z となる。本初子午線を中心とする時間帯は(Z) で表され、通信で通話表の文字 Z に使用する語は Zulu であることから「UTC」を「Z時」や “Zulu time” と表すことがある。",
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"text": "時刻の最大精度を整数秒で扱う場合はGMTと世界時 (UT) はUTC の意味で使用され、GMTはUTCまたはUTに置換して表す。",
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"text": "国際原子時は、1970年に国際度量衡委員会 (CIPM) が定義した時刻系である。「国際単位系における時間の単位である秒の定義に従い、いくつかの機関で運転されている原子時計の指示値に基づき国際報時局 (BIH) が定める基準となる時刻の座標」と定義されている。1988年からは、それまでの国際報時局に代わり国際度量衡局が1972年以降の協定世界時が国際原子時に完全同調する歩度で整数秒差を維持するように管理している。",
"title": "国際原子時との関係"
},
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"text": "国際原子時の起点は、世界時 UT2 の1958年1月1日0時0分0秒である。各国毎の現示は時間に関する国立研究所などが実施し、原子時計データを国際度量衡局へ送信して国際的な時刻目盛の算出に参加している。",
"title": "国際原子時との関係"
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"text": "UT1 世界時は各国天文台の地球自転観測データをもとに国際地球回転・基準系事業が定め、地球の自転周期はおよそ10年周期の長短とミリ秒単位の不規則さで変動しているが、協定世界時は1972年以降、国際原子時と整数秒差を維持しつつ UT1 世界時と近似的一致を保証するため、秒を挿入または除去する閏秒調整を導入し、偏差0.9秒以内に収めるべく、国際地球回転観測事業中央局が ΔUT1 (UT1-UTC) の予測値に基づき定めている。2018年1月現在、協定世界時は国際原子時から正確に37秒だけ遅れている。",
"title": "世界時および調整"
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"text": "1971年まで使われた旧協定世界時 (UTC) は、公認されたセシウム原子の振動数を F0 とし、周波数や秒間隔を F = F 0 × ( 1 + s ) {\\displaystyle F=F_{0}\\times (1+s)} そのオフセット値「50 × n × 10、n は整数」を s で定め、 歩度をできるだけ変更せずに UT2 世界時と近似的な一致を得るため F を1年間固定していた。UT2 世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時 (UT) に 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正量と時期は国際報時局 (BIH)が関係天文台と協議して定めていた。",
"title": "世界時および調整"
},
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"text": "標準電波で発射される報時信号は搬送波の位相に同期(CCIR勧告460)しており周波数は時間の逆数で表されるため周波数オフセットは時間を時刻に合わせる手段となることから、周波数を基準値から故意に遷移させて積算した時刻信号の歩度を UT2 世界時の歩度に近似させた。UT2 世界時は UT1 世界時の既知の季節変動を補正して平滑化したものだが地球自転の角速度は不規則に変動し、歩度を1年間一定にする旧協定世界時 (UTC) との差を月初に0.1秒単位でステップ調整した。",
"title": "世界時および調整"
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"text": "旧協定世界時 (UTC) は標準電波の報時信号を同期する国際協定に基づき1960年頃から試験的に運用され、1961年1月1日に制度を開始し、1964年1月1日から正式に採用されて1971年末まで使用された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1950年代にセシウム原子時計が実用化され、標準電波の周波数は原子周波数標準器を基準とし、時刻は地球の自転に基づく UT2 世界時を基準とする報時信号が発射されていたが各国の報時機関がそれぞれ独立に発射して相互に無関係だった。人工衛星の国際観測が興隆し、世界のデータを整約するため国際的な統一方法で UT2 の時刻利用が強く望まれ、1959年にアメリカ合衆国とイギリスを中心に標準電波の周波数や報時信号の同期を合議して報時信号は ±1 ms、標準周波数は ±1×10 を目標に同期を図った。",
"title": "歴史"
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"text": "1960年国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や1961年国際天文学連合 (IAU) 第11回総会で報時信号の国際同期に関する問題が討議され具体化され、セシウム原子振動標準の周波数 (9192631770 Hz) が公認される。",
"title": "歴史"
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"text": "天測航法や測地、人工衛星観測などは地球の自転に基づく世界時を要するが、物理学などは時間単位だけが必要で世界時は不適当であることから、標準電波の周波数は原子時に基づき、時刻は世界時に基づくものになり、公認されたセシウム原子の振動数を F0 とすると、周波数や秒間隔は F = F 0 × ( 1 + s ) {\\displaystyle F=F_{0}\\times (1+s)} で決定し F は1年間固定する。 s はオフセット値で1960年は −150×10^ だった。本方式は標準時計の歩度が1年間固定され、地球自転の角速度は不規則に変動し、報時される時刻は世界時に差が生じるため世界時との差は月初に 50 ms 単位でステップ調整した。周波数オフセットは国際天文学連合が毎年決定することが採択された。",
"title": "歴史"
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"text": "本報時方式は1960年頃からアメリカとイギリスが試験的に開始し、日本、フランス、スイス、カナダなど数ヶ国が国際無線通信諮問委員会 (CCIR) や国際天文学連合による正式な採択を待たず順次実施した。日本は郵政省電波研究所 (RRL) のJJYで1961年9月から実施している。",
"title": "歴史"
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"text": "1963年国際無線通信諮問委員会第10回総会の議決後、1964年国際天文学連合第12回総会で、報時は世界時に近似するよう1年間一定の周波数オフセット(50 × n × 10、n は整数)とし、世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時UTに 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正の量と時期は国際報時局 (BIH)が関係天文台と協議の上で決定して報時信号を国際的に同期する、旧協定世界時 (UTC) 方式が、多くの国は勧告実施に設備と研究を要するため議論の末に勧告された。",
"title": "歴史"
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"text": "原子周波数標準器を保有しない国々は協定世界時の保時が不可能で、西ドイツは独特の形式での報時を継続し、ソビエト連邦はステップ調整を 0.05 秒の幅で実施するなど、旧協定世界時 (UTC) の報時方式は国際的同一歩調ではなかったが、1967年国際天文学連合第13回総会で方式変更要求の意見が見られるも、利用者がようやく習熟しつつあり、ソビエト代表が 0.1 秒のステップ調整ならば同調可能と言明し、継続が決まる。",
"title": "歴史"
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"text": "1967年 - 1968年の第13回国際度量衡総会 (CGPM) でセシウム原子周波数標準に基づくSI秒の定義が採択され、物理学や計測の関係者を中心に旧協定世界時の周波数オフセット廃止意見が増加する。",
"title": "歴史"
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"text": "旧協定世界時は運用が煩雑で1秒の刻みも一様でないなどの不都合から、1970年国際天文学連合第14回総会で旧協定世界時の大幅な改善策が決議されて周波数オフセットの廃止、閏秒の導入、協定世界時と国際原子時との差 (TAI-UTC) を整数秒とすること、少なくとも 0.1 秒精度で UT1 世界時を求めることができる情報として DUT1(UTCとUT1の差) を標準電波の報時信号に含めることなどが勧告される。",
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"text": "1971年国際無線通信諮問委員会中間会議で、細部の具体策を含め現行の協定世界時が決定され、TAI-UTC を整数にする特別調整を含めて1972年1月1日0時0分0秒UTC(1972年1月1日0時0分10秒 (TAI))から実施された。閏秒調整日は1月1日または7月1日で、協定世界時は UT1 世界時と差が 0.7 秒を超えぬように国際報時局で調整・管理され、以後世界時 (UT0, UT1, UT2)、暦表時 (ET)、国際原子時が協定世界時を仲介して結ばれる。",
"title": "歴史"
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"text": "旧協定世界時のステップ調整は UT2 基準だが閏秒調整は UT1 基準である。これは UT1 が地球の自転角度そのものを示し UT2 は平滑化したもので測地や天測航法には UT1 の方がより直接的に利用できるからである。",
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"text": "国際無線通信諮問委員会が決議した標準電波の時刻の基準は、旧協定世界時までは UT2 が基準だが現行協定世界時採択時に UTC 基準へ変更された。",
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"text": "1973年国際天文学連合第15回総会で協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の許容差を ±0.7 秒以内から ±0.950 秒へDUT1の最大値を0.9秒にとどめるために拡大する、閏秒の実施時期を追加することが勧告される。1974年3月国際無線通信諮問委員会会議で協定世界時の運用規則(CCIR勧告460、現 ITU-R勧告TF.460)が改訂され、UTC-UT1 の絶対値の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、時刻調整の閏秒実施予定日を従来の協定世界時6月末および12月末を第一優先、3月末と9月末を第二優先として加えること、が1975年1月1日から実施された。",
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"text": "1973年国際天文学連合第15回総会において、第4委員会(暦)と第31委員会(時)の共同決議第1号(1973年8月採択25)で、SI秒に基づく単一の世界的に協調された時計の時間が望まれること、協定世界時からSI秒に基づく国際原子時を得ることが一般的に可能であること、および、UTC標準電波が航法や測量で必要とされる精度の平均太陽時を直接的に提供することを考慮し、すべての国の標準時の通報のための基礎として、UTC を採用することが勧告された。",
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"text": "1985年国際天文学連合第19回総会において、それまで協定世界時 (UTC) を管理してきた国際報時局 (BIH) を廃止して、国際地球回転観測事業(IERS、現国際地球回転・基準系事業)を1988年1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた国際原子時 (TAI) を国際度量衡局 (BIPM) に移管すること認め、新組織の国際地球回転観測事業 (IERS) の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった。",
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"text": "1988年からは、国際報時局が行っていた、国際原子時や協定世界時などの原子時計や標準周波数に関する業務は国際度量衡局 (BIPM) が責任を持つことになり、国際度量衡局 (BIPM) が世界各国の関係機関が管理する原子時計のデータから、国際原子時や協定世界時を決定し維持管理するようになる。",
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] | 協定世界時とは、国際原子時 (TAI) に由来する原子時系の時刻で、UT1世界時に同調するべく調整された基準時刻を指す。言語によって頭字語が異なるため、共通の略称として UTC が定められている。 | {{redirect|UTC}}
[[ファイル:World Time Zones Map.png|thumb|upright=2.0|[[時間帯 (標準時)|時間帯]]で色分けされた世界地図]]
'''協定世界時'''(きょうていせかいじ、{{lang-en|coordinated universal time}}{{Sfn|ITU-R|2013|p=5}}, {{lang-fr|temps universel coordonné}}{{Sfn|ITU-R|2013|p=5}}<ref group="注釈">本来は「調整された世界時(調整世界時)」の意だが、多数の国で法定常用時の基礎に採られており、[[日本語]]では意訳した「協定世界時」が定訳となっている。</ref>)とは、[[国際原子時]] (TAI) に由来する原子時系の時刻で、[[世界時#UT1|UT1世界時]]に同調するべく調整された基準時刻を指す{{Sfn|BIPM|2014}}<ref group="注釈">国際原子時に調整を加えて作られた世界時で、国際協定に基づき人為的に維持されている[[時刻系]]である。</ref>。言語によって[[頭字語]]が異なるため、共通の略称として '''UTC''' が定められている。
== 概要 ==
協定世界時は[[国際度量衡局]] (BIPM) が[[国際地球回転・基準系事業]] (IERS) の支援を受けて維持する時刻系で、[[標準電波|標準周波数]]と[[時報|報時]]信号発射の基礎であり、[[国際単位系]] (SI) [[秒]]に基づく国際原子時と同歩度<ref group="注釈">秒の間隔。</ref>だが、整数秒だけ異なる。UT1 世界時と[[近似]]的に一致させるため、秒を挿入または除去する[[閏秒]]調整を行っている{{Sfn|電波研究所|1983|p=310}}{{Sfn|ITU-R|2002|p=3}}。UT1 と UTC の差は、国際地球回転・基準系事業のウェブサイト<ref>{{Cite web |url= http://www.iers.org/nn_10968/IERS/EN/DataProducts/EarthOrientationData/eop.html?__nnn=true |title=Earth orientation data |accessdate=2014-01-05 |author=IERS |authorlink=国際地球回転・基準系事業 |date=2013-05-21 |year=2013 |format=html |work=IERS Data / Products |publisher=ドイツ連邦地図測地庁 {{lang|en|(Federal Agency for Cartography and Geodesy)}} |language=[[英語]] }}リンク先のPlots</ref>で確認できる<ref>{{Cite web |url= http://datacenter.iers.org/web/guest/eop/-/somos/5Rgv/plot/214 |title=Plots: EOP 08 C04 (IAU2000) one file |accessdate=2014-01-05 |author=IERS |authorlink=国際地球回転・基準系事業 |date=2013-05-21 |year=2013 |format=html |work=Earth orientation data |publisher=ドイツ連邦地図測地庁 {{lang|en|(Federal Agency for Cartography and Geodesy)}} |language=[[英語]] }}2段目左のUT1-UTCのグラフで、1972年以後で不連続の箇所が閏秒挿入である。</ref><ref>{{Cite web |url= http://datacenter.iers.org/web/guest/eop/-/somos/5Rgv/plot/10 |title=Plots: FINALS.DATA (IAU2000) |accessdate=2014-01-05 |author=IERS |authorlink=国際地球回転・基準系事業 |date=2013-05-21 |year=2013 |format=html |work=Earth orientation data |publisher=ドイツ連邦地図測地庁 {{lang|en|(Federal Agency for Cartography and Geodesy)}} |language=[[英語]]}}2段目左のUT1-UTCグラフで赤線が確定値、青線が予測値である。</ref>。
世界各地の[[標準時]]は協定世界時を基準としている。[[日本標準時]] (JST) は、協定世界時より9時間進めた時間である<ref>[https://jjy.nict.go.jp/mission/page2.html 日本標準時グループの業務紹介] 情報通信研究機構、「日本標準時は、当グループが生成する協定世界時UTC(NICT)を9時間(東経135度分の時差)進めた時刻です。」「JST(Japan Standard Time)日本標準時 上記UTC(NICT)を9時間進めた時刻です」</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tele.soumu.go.jp/horei/law_honbun/72999538.html|title=無線局運用規則第百四十条の規定に基づく標準周波数局の運用に関する事項|accessdate=2020-03-09}}</ref>。
== 名称 ==
=== 略称 ===
協定世界時の略称は '''UTC''' である{{Sfn|ITU-R|2013|p=5}}。
協定世界時を[[頭字語]]表記すると、英語は {{lang|en|coordinated universal time}}{{Sfn|ITU-R|2013|p=5}} で “CUT”、フランス語は {{lang|fr|temps universel coordonné}}{{Sfn|ITU-R|2013|p=5}} で “TUC”、イタリア語は {{lang|it|tempo coordinato universale}}{{Sfn|ITU-R|2013|p=5}} で “TCU” となり、言語毎の表記に差異が生ずるため、[[国際電気通信連合]] (ITU) は共通の略称として “UTC” を定めた<ref>{{Citation |url=http://www.nist.gov/pml/div688/utcnist.cfm#cut|title=Frequently asked questions (FAQ) |publisher=[[アメリカ国立標準技術研究所|National Institute of Standards and Technology]] |accessdate=2012-05-10 |date=2010-02-03 |language=英語}}</ref>。既存の世界時 (UT) の種類は UT のあとに数字を付して[[世界時#世界時の種類|UT0、UT1など]]と表記され、“UTC” はこれらとも整合する。略称から逆成した {{lang-en-short|universal time coordinated}}, {{lang-fr-short|universel temps coordonné}} など、非公式な表記<ref>{{Citation | language = 英語 | url = http://www.ybw.com/forums/archive/index.php/t-202760.html | title = French time: "heure légale" | accessdate = 2012-05-10 | author = BelleSerene | date = 2009-05-27}}</ref>も一部に散見する。
=== 同義語 ===
協定世界時は、歴史的な理由から特定の分野で同義語として扱われるいくつかの用語が存在する。
[[グリニッジ標準時|GMT]] と Z は、[[航法]]や[[通信]]の分野で UTC と同義語として認められる{{Sfn|弓滋|1970|p=284}}{{Sfn|IAU|1970|p=20}}。[[子午線]]を1時間ごとの[[時刻]]差で英字一文字に対応させて東経を正数、西経を負数で表記すると、15=A、30=B、45=C、60=D、75=E、90=F、105=G、120=H、135=I、150=K、165=L、180=M、-15=N、-30=O、-45=P、-60=Q、-75=R、-90=S、-105=T、-120=U、-135=V、-150=W、-165=X、-180=Y、0=Z となる<ref>{{Citation |url=https://www.seiko-watch.co.jp/support/instruction/pdf/G300.pdf#search=%27%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3+%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%27|title=Seiko}}p.18</ref>。[[本初子午線]]を中心とする[[時間帯 (標準時)|時間帯]]は(Z) で表され、通信で[[通話表]]の文字 Z に使用する語は [[NATOフォネティックコード#文字と発音|Zulu]] であることから{{Sfn|ITU-R|2013|p=18}}「UTC」を「Z時」や “{{lang|en|Zulu time}}” と表すことがある。
[[時刻]]の最大[[正確度と精度|精度]]を[[整数]]秒で扱う場合はGMTと世界時 (UT) はUTC の意味で使用され、GMTはUTCまたはUTに置換して表す<ref>{{Cite journal|和書|author=飯島重孝 |date=1977-03-15 |year=1977 |title=IAU第16回総会に出席して |journal=日本時計学会誌 |issue=80 |pages=51-58 |publisher=日本時計学会 |location=[[東京都]] |issn=0029-0416 |naid=110002777551 |id={{NCID|AN00195723}} |accessdate=2014-01-26}}{{オープンアクセス}}</ref><ref>{{cite conference|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=1976 |year=1976 |title=XVIth General Assembly, Grenoble, France, 1976 / XVIe Assemblee Generale, Grenoble, France, 1976 |conference=IAU General Assembly |conference-url=http://www.iau.org/administration/meetings/ | publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url= http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1976_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-17 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=27}}</ref>。
== 国際原子時との関係 ==
{{main|国際原子時}}
国際原子時は、[[1970年]]に[[国際度量衡委員会]] (CIPM) が定義した[[時刻系]]である。「[[国際単位系]]における時間の単位である[[秒]]の定義に従い、いくつかの機関で運転されている[[原子時計]]の指示値に基づき[[国際報時局]] (BIH) が定める基準となる[[時刻]]の座標」と定義されている{{Sfn|BIPM|2006|pp=68|loc=付録1}}。[[1988年]]からは、それまでの[[国際報時局]]に代わり[[国際度量衡局]]が[[1972年]]以降の協定世界時が国際原子時に完全同調する歩度で整数秒差を維持するように管理している{{Sfn|新美幸夫|1997|pp=478-479|loc=§6}}{{Sfn|BIPM|1987}}{{Sfn|弓滋|1970|p=284}}{{Sfn|IAU|1970|p=20}}。
国際原子時の起点は、[[世界時]] UT2 の[[1958年]][[1月1日]]0時0分0秒である<ref group="注釈">SI秒は「[[基底状態]]にある2つの[[セシウム|セシウム133]][[原子]]の[[超微細準位]]間[[遷移]]に対応する[[放射]][[周期]]の{{gaps|9|192|631|770}}倍に等しい[[時間]]」との[[定義]]が[[1967年]][[国際度量衡総会]]で議決された。</ref>{{Sfn|BIPM|2006|pp=23,65-66|loc=§2.1.1.3、付録1}}。各国毎の[[現示]]は時間に関する国立研究所などが実施し、原子時計データを国際度量衡局へ送信して国際的な時刻目盛の算出に参加している{{Sfn|BIPM|2014}}。
== 世界時および調整 ==
{{main|閏秒|地球の自転}}
UT1 世界時は各国[[天文台]]の地球自転観測データをもとに国際地球回転・基準系事業が定め{{Sfn|古在由秀|1986|pp=71-72}}{{Sfn|IAU|1985|pp=3-7}}、地球の自転周期はおよそ10年[[オーダー (物理学)|周期]]の長短と[[ミリ秒]]単位の不規則さで変動しているが、協定世界時は[[1972年]]以降、国際原子時と整数秒差を維持しつつ UT1 世界時と近似的一致を保証するため、秒を挿入または除去する閏秒調整を導入し{{Sfn|弓滋|1970|p=284}}{{Sfn|IAU|1970|p=20}}{{Sfn|ITU-R|2002|p=3}}、偏差0.9秒<ref group="注釈">[[1975年]]改訂。</ref>以内{{Sfn|IAU|1973|p=20}}{{Sfn|ITU-R|2002|p=3}}に収めるべく、国際地球回転観測事業中央局が [[DUT1|ΔUT1]] (UT1-UTC) の予測値に基づき定めている{{Sfn|古在由秀|1986|pp=71-72}}{{Sfn|IAU|1985|pp=3-7}}。[[2018年]]1月現在、協定世界時は国際原子時から正確に37秒だけ遅れている。
=== 旧協定世界時の調整 ===
{{main|#旧協定世界時}}
[[1971年]]まで使われた旧協定世界時 (UTC) は、公認された[[セシウム]]原子の振動数を {{math|''F''{{sub|0}}}} とし、[[周波数]]や秒間隔を <math>F=F_0\times(1+s)</math> その[[オフセット]]値「50 × ''n'' × 10{{sup|−10}}、''n'' は整数」を {{mvar|s}} で定め、 歩度をできるだけ変更せずに UT2 世界時と近似的な一致を得るため {{mvar|F}} を1年間固定{{Sfn|虎尾正久|1965|pp=4–5|loc=§8}}{{Sfn|IAU|1964|pp=16–17}}していた。UT2 世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時 (UT) に 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正量と時期は国際報時局 (BIH){{efn|現国際地球回転・基準系事業。}}が関係[[天文台]]と協議して定めていた{{Sfn|虎尾正久|1965|pp=4–6|loc=§8}}{{Sfn|IAU|1964|pp=16–17}}。
標準電波で発射される報時信号は[[搬送波]]の[[位相]]に[[同期]]{{Sfn|虎尾正久|1965|p=5}}{{Sfn|IAU|1964|pp=16–17}}(CCIR勧告460{{Sfn|電波研究所|1983|p=309}})しており周波数は[[時間]]の[[逆数]]で表されるため周波数オフセットは時間を時刻に合わせる手段となることから、周波数を基準値から故意に遷移させて積算した時刻信号の歩度を UT2 世界時の歩度に近似させた{{Sfn|安田嘉之|1983|p=6}}。UT2 世界時は UT1 世界時の既知の季節変動を補正して平滑化したものだが地球自転の[[角速度]]は不規則に変動し、歩度を1年間一定にする旧協定世界時 (UTC) との差を月初に0.1秒単位でステップ調整した{{Sfn|虎尾正久|1965|pp=4–6|loc=§8}}{{Sfn|IAU|1964|pp=16–17}}。
== 歴史 ==
=== 旧協定世界時 ===
旧協定世界時 (UTC) は標準電波の報時信号を[[同期]]する国際協定に基づき[[1960年]]頃から試験的に運用され、[[1961年]]1月1日に制度を開始し、[[1964年]]1月1日から正式に採用されて[[1971年]]末まで{{Sfn|飯島重孝|1971a|pp=54–55|loc=§2}}{{Sfn|虎尾正久|1965|p=5}}{{Sfn|新美幸夫|1997|p=478|loc=§5}}使用された。
[[1950年代]]に[[原子時計|セシウム原子時計]]が実用化され、標準電波の周波数は原子周波数標準器を基準とし、時刻は地球の自転に基づく UT2 世界時を基準とする報時信号が発射されていた{{Sfn|安田嘉之|1983|p=5|loc=第1表}}が各国の報時機関がそれぞれ独立に発射して相互に無関係<ref>{{Cite journal|和書|author=虎尾正久 |date=1969-08-05 |year=1969 |title=原子時と原子時計(<小特集>計測・制御) |journal=日本機械学會誌 |volume=72 |issue=607 |page=1093 |pages=1088–1095 |publisher=[[日本機械学会]] |location=[[東京都]] |issn=0021-4728 |naid=110002467594 |id={{NCID|AN00187394}} |accessdate=2014-02-02}}{{オープンアクセス}}</ref>だった。[[人工衛星]]の国際観測が興隆し、世界のデータを整約するため国際的な統一方法で UT2 の時刻利用が強く望まれ、[[1959年]]に[[アメリカ合衆国]]と[[イギリス]]を中心に標準電波の周波数や報時信号の同期を合議して報時信号は ±1 [[ミリ秒|ms]]、標準周波数は ±1×10{{sup|−10}} を目標に同期{{Sfn|飯島重孝|1971a|pp=54–55|loc=§2}}を図った。
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 旧協定世界時の周波数オフセットとステップ調整{{Sfn|飯島重孝|1971a|p=58|loc=表1}}{{Sfn|安田嘉之|1983|p=6|loc=第2表}}
! 年月日 !! オフセット値 (×10{{sup|−10}}) !! ステップ調整 ([[秒|s]])
|-
! 1960
| −150 || なし
|-
! 1961-01-01
| −150 || なし
|-
! 1961-08-01
| −150 || +0.050
|-
! 1962-01-01
| −130 || なし
|-
! 1963-01-01
| −130 || なし
|-
! 1963-11-01
| −130 || −0.100
|-
! 1964-01-01
| −150 || なし
|-
! 1964-04-01
| −150 || −0.100
|-
! 1964-09-01
| −150 || −0.100
|-
! 1965-01-01
| −150 || −0.100
|-
! 1965-03-01
| −150 || −0.100
|-
! 1965-07-01
| −150 || −0.100
|-
! 1965-09-01
| −150 || −0.100
|-
! 1966-01-01
| −300 || なし
|-
! 1967-01-01
| −300 || なし
|-
! 1968-01-01
| −300 || なし
|-
! 1968-02-01
| −300 || +0.100
|-
! 1969-01-01
| −300 || なし
|-
! 1970-01-01
| −300 || なし
|-
! 1971-01-01
| −300 || なし
|}
1960年国際電波科学連合 (URSI) 第13回総会や1961年[[国際天文学連合]] (IAU) 第11回総会で報時信号の国際同期に関する問題が討議され具体化され、セシウム原子振動標準の周波数 ({{gaps|9|192|631|770|u=[[ヘルツ (単位)|Hz]]}}) が公認{{Sfn|飯島重孝|1971a|pp=54–55|loc=§2,§3}}{{Sfn|IAU|1961|p=33}}される。
[[天測航法]]や[[測地学|測地]]、人工衛星観測などは地球の自転に基づく世界時を要するが、物理学などは時間単位だけが必要で世界時は不適当であることから、標準電波の周波数は原子時に基づき、時刻は世界時に基づくものになり、公認されたセシウム原子の振動数を {{math|''F''{{sub|0}}}} とすると、周波数や秒間隔は <math>F=F_0\times(1+s)</math> で決定し {{mvar|F}} は1年間固定する。 {{mvar|s}} は[[オフセット]]値で1960年は {{gaps|−150|e=-10}} だった。本方式は標準時計の歩度が1年間固定され、地球自転の角速度は不規則に変動し、報時される時刻は世界時に差が生じるため世界時との差は月初に {{gaps|50|u=[[ミリ秒|ms]]}} {{efn|{{lang|en|URSI}} の決定。}}単位でステップ調整した。周波数オフセットは国際天文学連合が毎年決定することが採択された<ref>{{Cite journal|和書|author=[[宮地政司]] |date=1961-12 |year=1961 |title=IAU総会だより(6) 位置天文学関係の諸分科会 |journal=天文月報 |volume=55 |issue=1 |pages=21-22 |at=§5 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304463}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1962/pdf/196201.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-19}}</ref>{{Sfn|IAU|1961|p=33}}。
本報時方式は1960年頃からアメリカとイギリスが試験的に開始し、[[日本]]、[[フランス]]、[[スイス]]、[[カナダ]]など数ヶ国が[[ITU-R|国際無線通信諮問委員会 (CCIR)]] や国際天文学連合による正式な採択を待たず順次実施{{Sfn|虎尾正久|1965|p=5}}した。日本は[[郵政省]][[情報通信研究機構|電波研究所 (RRL)]] の[[JJY]]で1961年9月から実施<ref>{{Cite journal|和書|author=飯島重孝 |date=1963-12 |year=1963 |title=雑報—0.1秒の報時信号調整 |journal=天文月報 |volume=55 |issue=1 |pages=8–9 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304490}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19640105.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26}}</ref>{{Sfn|虎尾正久|1964|p=256}}している。
[[1963年]]国際無線通信諮問委員会第10回総会の議決{{Sfn|安田嘉之|1983|p=5|loc=第1表}}後、[[1964年]]国際天文学連合第12回総会で、報時は世界時に近似するよう1年間一定の周波数オフセット(50 × n × 10{{sup|−10}}、n は整数)とし、世界時と 0.1 秒以上の差を生じたときは月の1日0時UTに 0.1 秒のステップ調整を実施し、オフセット及び秒信号の修正の量と時期は[[国際地球回転・基準系事業|国際報時局 (BIH)]]が関係天文台と協議の上で決定して報時信号を国際的に同期する、旧協定世界時 (UTC) 方式が、多くの国は勧告実施に設備と研究を要するため議論の末{{Sfn|虎尾正久|1964|p=256}}に勧告{{Sfn|虎尾正久|1965|pp=4–6|loc=§8}}{{Sfn|IAU|1964|pp=16–17}}された。
原子周波数標準器を保有しない国々は協定世界時の保時が不可能で、[[西ドイツ]]は独特の形式での報時を継続し、[[ソビエト連邦]]はステップ調整を 0.05 [[秒]]の幅で実施するなど、旧協定世界時 (UTC) の報時方式は国際的同一歩調ではなかったが、[[1967年]]国際天文学連合第13回総会で方式変更要求の意見が見られるも、利用者がようやく習熟しつつあり、ソビエト代表が 0.1 秒のステップ調整ならば同調可能と言明し、継続が決まる{{Sfn|虎尾正久|1967|p=43|loc=§4}}<ref>{{cite conference|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 | date=1967 |year=1967 |title=XIIIth General Assembly, Prague, Czechoslovakia, 1967 / XIIIe Assemblée Générale, Prague, Tchécoslovaquie, 1964 |conference=IAU General Assembly |conference-url= http://www.iau.org/administration/meetings/ |publisher=The International Astronomical Union | location = [[パリ|Paris]] |url= http://www.iau.org/static/resolutions/IAU1967_French.pdf | format=pdf |accessdate=2014-01-18 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=19}}</ref>。
=== 協定世界時の改善 ===
[[1967年]] - [[1968年]]の第13回[[国際度量衡総会]] (CGPM) でセシウム原子周波数標準に基づくSI秒の定義が採択され{{Sfn|BIPM|2006|pp=65-66|loc=付録1}}、[[物理学]]や[[計測]]の関係者を中心に旧協定世界時の周波数オフセット廃止意見が増加{{Sfn|安田嘉之|1983|p=6}}する。
旧協定世界時は運用が煩雑で1秒の刻みも一様でないなどの不都合から、[[1970年]]国際天文学連合第14回総会で旧協定世界時の大幅な改善策が決議されて周波数オフセットの廃止、閏秒の導入、協定世界時と国際原子時との差 (TAI-UTC) を整数秒とすること、少なくとも 0.1 秒精度で UT1 世界時を求めることができる情報として [[DUT1]](UTCとUT1の差) を標準電波の報時信号に含めることなどが勧告される{{Sfn|弓滋|1970|p=284}}{{Sfn|IAU|1970|p=20}}。
[[1971年]]国際無線通信諮問委員会中間会議で、細部の具体策を含め現行の協定世界時が決定され、TAI-UTC を整数にする特別調整を含めて[[1972年]]1月1日0時0分0秒UTC(1972年1月1日0時0分10秒 (TAI))から実施された。閏秒調整日は1月1日または7月1日で、協定世界時は UT1 世界時と差が 0.7 秒を超えぬように国際報時局で調整・管理され、以後世界時 (UT0, UT1, UT2)、[[暦表時]] (ET)、国際原子時が協定世界時を仲介して結ばれる{{Sfn|飯島重孝|1971b|pp=324–325|loc=§4,§5}}。
旧協定世界時のステップ調整は UT2 基準だが閏秒調整は UT1 基準である。これは UT1 が地球の自転角度そのものを示し UT2 は平滑化したもので[[測地学|測地]]や[[天測航法]]には UT1 の方がより直接的に利用できるからである{{Sfn|飯島重孝|1971b|p=325|loc=§4}}。
国際無線通信諮問委員会が決議した標準電波の時刻の基準は、旧協定世界時までは UT2 が基準だが現行協定世界時採択時に UTC 基準へ変更{{Sfn|安田嘉之|1983|p=5|loc=第1表}}された。
[[1973年]]国際天文学連合第15回総会で協定世界時の管理規則改訂が決議され、UT1-UTC の[[公差|許容差]]を ±0.7 秒以内から ±0.950 秒へDUT1の最大値を0.9秒にとどめるために拡大する、閏秒の実施時期を追加することが勧告<ref>{{Cite journal|和書|author=飯島重孝 |date=1973-12-25 |year=1973 |title=IAU第15回総会に出席して |journal=日本時計学会誌 |issue=68 |pages=57-60 |publisher=日本時計学会 |location=[[東京都]] |issn=0029-0416 |naid=110002777404 |id={{NCID|AN00195723}} |accessdate=2014-01-26}}{{オープンアクセス}}</ref>{{Sfn|IAU|1973|p=20}}される。[[1974年]]3月国際無線通信諮問委員会会議で協定世界時の運用規則(CCIR勧告460{{Sfn|電波研究所|1983|p=310}}、現 ITU-R勧告TF.460{{Sfn|ITU-R|2002|p=3}})が改訂され、UTC-UT1 の[[絶対値]]の許容限界を 0.9 秒以内に広げること、時刻調整の閏秒実施予定日を従来の協定世界時6月末および12月末を第一優先、3月末と9月末を第二優先として加えること、が[[1975年]]1月1日から実施<ref>{{Cite journal|和書|author=古賀保喜 |date=1975-03-30 |year=1975 |title=第7回 CCDS 会議に出席して |journal=日本時計学会誌 |issue=73 |page=60 |publisher=日本時計学会 |location=[[東京都]] |issn=0029-0416 |naid=110002777471 |id={{NCID|AN00195723}} |accessdate=2014-02-01}}{{オープンアクセス}}</ref>された。
=== 協定世界時に基づく標準時の推奨 ===
[[1973年]]国際天文学連合第15回総会において、第4委員会([[暦]])と第31委員会(時)の共同決議第1号(1973年8月採択25)で、SI秒に基づく単一の世界的に協調された時計の時間が望まれること、協定世界時からSI秒に基づく国際原子時を得ることが一般的に可能であること、および、UTC標準電波が[[航法]]や[[測量]]で必要とされる[[正確度と精度|精度]]の平均[[太陽時]]を直接的に提供することを考慮し、すべての国の[[標準時]]の通報のための基礎として、UTC を採用することが勧告された{{Sfn|IAU|1973|p=20}}。
[[1975年]]第15回[[国際度量衡総会]]では、「協定世界時」と称される時系が、極めて広く使用され、多くの場合報時発信局によって放送され、放送が利用者に対して同時に標準周波数、国際原子時及び[[近似]]的な一つの[[世界時]](又は平均太陽時としてもよい)を提供していることを考慮し、この協定世界時が、多くの国で法定[[常用時]]の基礎となっていることを確認し、この使用が十分に推奨に値するものであると評価することが決議された{{Sfn|BIPM|2006|p=70|loc=付録1}}<ref>{{Cite web |url=http://www.bipm.org/fr/CGPM/db/15/5/ |title=BIPM - Résolution 5 de la 15e CGPM |accessdate=2014-01-30 |author=BIPM |authorlink=国際度量衡局 |date=1975 |year=1975 |format=html |work=BIPM - Résolutions de la 15e CGPM |publisher=BIPM |language=[[フランス語]]}}</ref>。
=== IERSの設立と国際度量衡局への移管 ===
[[1985年]]国際天文学連合第19回総会において、それまで協定世界時 (UTC) を管理してきた国際報時局 (BIH) を廃止して、国際地球回転観測事業(IERS、現[[国際地球回転・基準系事業]])を[[1988年]]1月から発足させることになる。そして、国際報時局 (BIH) が管理していた[[国際原子時]] (TAI) を[[国際度量衡局]] (BIPM) に移管すること認め、新組織の国際地球回転観測事業 (IERS) の中央局が世界各地の観測値をもとに、ΔUT1 (UT1-UTC) や極運動を決め、閏秒の決定も行うことになった{{Sfn|古在由秀|1986|pp=71-72}}{{Sfn|IAU|1985|pp=3-7}}。
1988年からは、国際報時局が行っていた、国際原子時や協定世界時などの原子時計や標準周波数に関する業務は国際度量衡局 (BIPM) が責任を持つことになり、国際度量衡局 (BIPM) が世界各国の関係機関が管理する原子時計のデータから、国際原子時や協定世界時を決定し維持管理するようになる{{Sfn|新美幸夫|1997|pp=478-479|loc=§6}}{{Sfn|BIPM|1987}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author = 飯島重孝|date = 1971-09-25|year = 1971a|title = 1972年から実施される新しい協定世界時方式
|journal = 日本時計学会誌|issue = 59|pages = 51-63|publisher = 日本時計学会 |location = [[東京都]]|issn = 0029-0416
|naid = 110002777297|id = {{NCID|AN00195723}}|ref = harv}}{{オープンアクセス}}
* {{Cite journal|和書|author = 飯島重孝|date = 1971-11|year = 1971b|title = うるう秒の誕生|journal = 天文月報|volume = 64
|issue = 12|pages = 321–325|publisher = [[日本天文学会]]|location = 東京都[[三鷹市]]|issn = 0374-2466|naid = 40018111189|id = {{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304592}}|url = https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1971/pdf/19711204.pdf
|format = PDF|accessdate = 2013-12-29|ref = harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[古在由秀]] |date=1986-02 |year=1986 |title=第XIX回 IAU総会 |journal=天文月報 |volume=79 |issue=3 |pages=71-72 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304776}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1986/pdf/19860312.pdf |format=PDF |accessdate=2014-02-01 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|editor = 電波研究所|editor-link = 情報通信研究機構|others = 電波研究所 訳|date = 1983-02
|year = 1983|title = 付録 参考資料(周波数・時間標準特集号)|journal = 電波研究所季報|volume = 29|issue = 149|pages = 309-314
|publisher = 電気通信振興会 |location = [[東京都]]|issn = 0033-801X|id = {{NCID|AN00154260}}
|url = https://www.nict.go.jp/publication/kiho/29/149/Kiho_Vol29_SI_No149_pp309-314.pdf
|format = pdf|accessdate = 2014-03-09|ref = harv}}
* {{Cite journal|和書|author=虎尾正久 |date=1964-11 |year=1964 |title=I.A.U.第12回総会-第8,19,31委員会の報告 |journal=天文月報 |volume=57 |issue=12 |pages=255-256 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304501}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1964/pdf/19641207.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26 |ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author = 虎尾正久 |date = 1965-03-30 |year = 1965 |title = 時についての最近の情勢 : 国際天文連合総会に出席して |journal = 日本時計学会誌 |issue = 33 |pages = 1-7 |publisher = 日本時計学会 |location = [[東京都]] |issn = 0029-0416 |naid = 110002776687 |id = {{NCID|AN00195723}} |ref=harv}}{{オープンアクセス}}
* {{Cite journal|和書|author = 虎尾正久 |date = 1967-12-10 |year = 1967 |title = 秒の定義の問題 (I) |journal = 日本時計学会誌 |issue = 44 |pages = 40-44 |publisher = 日本時計学会 |location = [[東京都]] |issn = 0029-0416 |naid = 110002777024 |id = {{NCID|AN00195723}} |ref=harv}}{{オープンアクセス}}
* {{Citation|和書|author=新美幸夫 |date=1997-10 |year=1997 |title=日本の標準時 |journal=天文月報 |volume=90 |issue=10 |pages=472-479 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |naid=10002142171 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304920}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1997/pdf/19971001c.pdf |format=PDF |accessdate=2014-03-21 }}
* {{Cite journal|和書|author = 安田嘉之|date = 1983-02|year = 1983|title = 周波数・時間標準とは(周波数・時間標準特集号)
|journal = 電波研究所季報|volume = 29|issue = 149|pages = 3-12|publisher = 電気通信振興会 |location = [[東京都]]|issn = 0033-801X|naid = 40002561709|id = {{NCID|AN00154260}}
|url = https://www.nict.go.jp/publication/kiho/29/149/Kiho_Vol29_SI_No149_pp003-012.pdf
|format = pdf|accessdate = 2014-03-09|ref = harv}}
* {{Cite journal|和書|author=弓滋 |date=1970-10 |year=1970 |title=第19(地球回転)委員会,第31(時)委員会(IAU第14回総会(特集)) -- (第14回IAU総会からの報告) |journal=天文月報 |volume=63 |issue=11 |pages=282-284 |publisher=[[日本天文学会]] |location=東京都[[三鷹市]] |issn=0374-2466 |naid=40018111122 |id={{NCID|AN00154555}}、{{NDLJP|3304578}} |url= https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1970/pdf/19701105.pdf |format=PDF |accessdate=2014-01-26 |ref = harv}}
* {{Cite web |url=http://www.bipm.org/fr/CGPM/db/18/3/ |title=BIPM - Résolution 3 de la 18e CGPM |accessdate=2014-01-30 |author=BIPM |authorlink=国際度量衡局 |date=1987 |year=1987 |format=html |work=BIPM - Résolutions de la 18e CGPM |publisher=BIPM |language=[[フランス語]] |ref=harv}}
* {{Citation|和書|author=BIPM |author-link=国際度量衡局 |year=2006 |date=2006-06 |others=訳・監修 (独)[[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター |title=国際文書第8版 (2006) 国際単位系(SI) 日本語版 |edition=8 |place=[[茨城県]][[つくば市]] |publisher=(独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター |id=原書コード:ISBN 92-822-2213-6 |url= https://www.nmij.jp/library/units/si/R8/SI8J.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-30 |ref=harv}}
* {{Cite web |url=http://www.bipm.org/en/scientific/tai/ |title=BIPM - time |accessdate=2014-03-22 |author=BIPM |authorlink=国際度量衡局 |date=2014-02-07 |year=2014 |format=html |work=BIPM - scientific work |publisher=BIPM |language=[[英語]] |ref=harv}}
* {{cite conference|df=ja|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 | date=1961 |year=1961 |title=XIth General Assembly, Berkeley, USA, 1961 / XIe Assemblée Générale, Berkeley, USA, 1961 |conference=IAU General Assembly |conference-url= https://www.iau.org/science/meetings/general_assemblies/ |publisher=The International Astronomical Union | location = [[パリ|Paris]] |url= https://www.iau.org/static/resolutions/IAU1961_French.pdf | format=pdf |accessdate=2014-01-18 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=33}}
* {{cite conference|df=ja|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 | date=1964 |year=1964 |title=XIIth General Assembly, Hamburg, Germany, 1964 / XIIe Assemblée Générale, Hambourg, Allemagne, 1964 |conference=IAU General Assembly |conference-url= https://www.iau.org/science/meetings/general_assemblies/ |publisher=The International Astronomical Union | location = [[パリ|Paris]] |url= https://www.iau.org/static/resolutions/IAU1964_French.pdf | format=pdf |accessdate=2014-01-18 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |pages=16-17}}
* {{cite conference|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 | date=1970 |year=1970 |title=XIVth General Assembly, Brighton, UK, 1970 / XIVe Assemblée Générale, Brighton, UK, 1970 |conference=IAU General Assembly |conference-url= https://www.iau.org/science/meetings/general_assemblies/ |publisher=The International Astronomical Union | location = [[パリ|Paris]] |url= https://www.iau.org/static/resolutions/IAU1970_French.pdf | format=pdf |accessdate=2014-01-18 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=20}}
* {{cite conference|df=ja|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=August 1973 |year=1973 |title=XVth General Assembly, Sydney, Australia, 1973 / XVe Assemblee Generale, Sydney, Australie, 1973 |conference=IAU General Assembly |conference-url=https://www.iau.org/science/meetings/general_assemblies/ | publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url= https://www.iau.org/static/resolutions/IAU1973_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-17 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |page=20}}
* {{cite conference|df=ja|author=IAU |authorlink=国際天文学連合 |date=November 1985 |year=1985 |title=XIXth General Assembly, Delhi, India, 1985 / XIXe Assemblee Generale, Delhi, Inde,1985 |conference=IAU General Assembly |conference-url=https://www.iau.org/science/meetings/general_assemblies/ | publisher=The International Astronomical Union |location=[[パリ|Paris]] |url= https://www.iau.org/static/resolutions/IAU1985_French.pdf |format=pdf |accessdate=2014-02-01 |language=[[英語]]/[[フランス語]] |pages=3-7}}
* {{citation|author=ITU-R |authorlink=ITU-R |date=2002-02 |year=2002 |title=RECOMMENDATION ITU-R TF.460-6 Standard-frequency and time-signal emissions | publisher=ITU-R |location=[[ジュネーヴ]] |url= http://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/tf/R-REC-TF.460-6-200202-I!!PDF-E.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-26 |language=[[英語]] |ref=harv}}
* {{citation|author=ITU-R |authorlink=ITU-R |date=2013-12 |year=2013 |title=RECOMMENDATION ITU-R TF.686-3 Glossary and definitions of time and frequency terms | publisher=ITU-R |location=[[ジュネーヴ]] |url= http://www.itu.int/dms_pubrec/itu-r/rec/tf/R-REC-TF.686-3-201312-I!!PDF-E.pdf |format=pdf |accessdate=2014-01-26 |language=[[英語]] |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[時刻系]]
* [[世界時]]
* [[グリニッジ標準時]] (GMT)
* [[標準時]]
* [[等時帯]]
* [[閏秒]]
* [[地球の自転]]
* [[ISO 8601]] - 日付と時刻の表記に関する標準
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}
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{{デフォルトソート:きようていせかいし}}
[[Category:標準時|+きようていせかいし]]
[[Category:時刻系]]
[[Category:ITU-R勧告]]
[[fi:Aikajärjestelmä#UTC]] | 2003-04-24T12:37:40Z | 2023-12-23T13:43:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%94%E5%AE%9A%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%99%82 |
7,221 | NRP | [] | 日産リバイバルプラン
非リボソームペプチド
新党改革
米国の新生児蘇生法プログラム | * [[日産リバイバルプラン]] ({{Lang|en|Nissan Revival Plan}})
* [[非リボソームペプチド]] ({{Lang|en|Nonribosomal peptide}})
* [[新党改革]] ({{Lang|en|New Renaissance Party}})
* 米国の新生児蘇生法プログラム({{仮リンク|Neonatal Resuscitation Program|en|Neonatal Resuscitation Program}})
{{Aimai}} | null | 2022-04-02T06:09:22Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/NRP |
|
7,222 | 日産リバイバルプラン | 日産リバイバルプラン(にっさんリバイバルプラン、英語: Nissan Revival Plan; 略称: NRP)とは、1999年(平成11年)10月18日に日産自動車のカルロス・ゴーンCOO(当時)が発表した同社の再建計画。
日産社内の若手・中堅幹部を中心とした組織、クロスファンクショナルチーム(CFT)を発足し、再建の計画をまとめたものである。
3つ達成目標を掲げ、3のうち、1つでも未達成の場合は「経営陣全員が辞任する」と、カルロス・ゴーンが公約した。
具体的な内容として、
日本企業の商慣習の中で実現を危ぶむ声もあったが社長兼CEOとなったゴーンのもと、当初の予定より1年前倒しで、売上高などの業績を著しく向上させ、2003年までの4年間で2兆1,000億円もの巨額の借金を完済した。
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] | 日産リバイバルプランとは、1999年(平成11年)10月18日に日産自動車のカルロス・ゴーンCOO(当時)が発表した同社の再建計画。 日産社内の若手・中堅幹部を中心とした組織、クロスファンクショナルチーム(CFT)を発足し、再建の計画をまとめたものである。 | {{出典の明記|date=2018年1月11日 (木) 10:40 (UTC)}}
{{Infobox_計画・方針
|名称 = 日産リバイバルプラン
|ロゴ =
|画像 =
|画像説明 =
|発表者 = [[日産自動車]]([[カルロス・ゴーン]])
|発表国 = {{JPN}}
|発表年 = 1999年
|分野 = [[自動車]]、[[経営]]
|状況 = 終了
|愛称 = リバイバルプラン
|発表内容 = 次の内容の達成
# 2000年度連結当期利益の黒字化
# 2002年度連結売上高営業利益率4.5%以上
# 2002年度末までに自動車事業の連結有利子負債を7000億円以下に削減
|関連計画・方針 = [[日産・インテリジェントモビリティ]]
|ウェブサイト = [http://www.nissan.co.jp/NRP/SUPPORT/index-j.files/v3_document.htm NISSAN REVIVAL PLAN]<br />[http://nissan.co.jp 日産自動車公式サイト]
}}
'''日産リバイバルプラン'''(にっさんリバイバルプラン、{{lang-en|Nissan Revival Plan; 略称: '''NRP'''}})とは、[[1999年]]([[平成]]11年)[[10月18日]]に[[日産自動車]]の[[カルロス・ゴーン]][[最高執行責任者|COO]](当時)が発表した同社の再建計画。
日産社内の若手・中堅幹部を中心とした組織、クロスファンクショナルチーム(CFT)を発足し、再建の計画をまとめたものである。
== 内容 ==
3つ達成目標を掲げ、3のうち、1つでも未達成の場合は「経営陣全員が辞任する」と、カルロス・ゴーンが公約した。
# 2000年度連結当期利益の黒字化
# 2002年度連結売上高営業利益率4.5%以上
# 2002年度末までに自動車事業の連結有利子負債を7000億円以下に削減
具体的な内容として、
*[[日産自動車村山工場|村山工場]]、[[日産車体]][[オートワークス京都|京都]]工場の量産車製造ライン、[[愛知機械工業|愛知機械工業港工場]]の車両組立工場3箇所、部品工場2箇所を閉鎖し、国内の年間生産能力を240万台から165万台へと削減。
*全世界でのグループ人員を2万1,000人削減し、購買コストを20%圧縮するために、下請企業を約半分に減らした。
*子会社・関連会社1400社のうち、基幹部分として残す4社を除く全ての会社の保有株式を売却。これによって下請企業の合併再編が急速に進んだ。
==成果==
日本企業の商慣習の中で実現を危ぶむ声もあったが社長兼[[最高経営責任者|CEO]]となったゴーンのもと、当初の予定より1年前倒しで、[[売上高]]などの業績を著しく向上させ、[[2003年]]までの4年間で2兆1,000億円もの巨額の借金を完済した。
予定より早く達成されたため、[[日産180]]をスタートさせた。一方で長年維持してきた業界2位の自動車メーカーの地位を他社へ明け渡す結果になった。
== 外部リンク ==
* [https://archive.is/20140905041836/http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/anohi/CK2007061502124491.html 1999年10月18日 日産 ゴーン改革発表 再生へ『ケイレツ』破壊] - [[東京新聞]]
{{デフォルトソート:につさんりはいはるふらん}}
[[Category:日産自動車|りはいはるふらん]]
[[Category:カルロス・ゴーン]] | 2003-04-24T12:52:59Z | 2023-11-19T06:28:46Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Infobox 計画・方針",
"Template:Lang-en"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3 |
7,223 | 窒素酸化物 | 窒素酸化物(ちっそさんかぶつ、英: nitrogen oxides) は窒素の酸化物の総称。
一酸化窒素(NO)、二酸化窒素(NO2)、三酸化窒素(中国語版)(NO3)、亜酸化窒素(一酸化二窒素)(N2O)、三酸化二窒素(N2O3)、四酸化二窒素(N2O4)、五酸化二窒素(N2O5)など。化学式の NOx から「ノックス」ともいう。
自然界において窒素酸化物は、雷あるいは土壌中の微生物によって生成される。たとえば微生物が多い土壌に豊富な化学肥料を与えると土壌微生物が分解して窒素酸化物を放出する例が知られている。
物質が燃焼するときにも一酸化窒素や二酸化窒素などが発生する。この場合、高温・高圧で燃焼することで本来反応しにくい空気中の窒素と酸素が反応して窒素酸化物になる場合(サーマルNOx)と、燃料由来の窒素化合物から窒素酸化物となる場合(フューエルNOx)がある。たとえば、排気ガスや天然ガスボイラー(家庭用調理ガス器具を含む)などから排出される窒素酸化物は前者が主であり、石炭が燃焼した場合の窒素酸化物はそのほとんどが石炭中の窒素化合物に由来することが知られている。
四酸化二窒素は二酸化窒素と平衡状態にあり、環境中など低圧・低濃度では二酸化窒素側に偏っている。
(各窒素酸化物の生成法は当該記事に詳しい)
大気から陸上に沈着する窒素量は、1890年から1990年の100年間で5倍に増加し21世紀初頭時点では 125 Tg-N y(テラグラム窒素毎年)とされており、放出量の80 %が肥料が起源で20 %が燃焼が起源である。
二酸化窒素(NO2)自体は中性で肺から吸収されやすい赤褐色の気体または液体。細胞内では二酸化窒素は強い酸化作用を示して細胞を傷害するので、粘膜の刺激、気管支炎、肺水腫などの原因となる。
一酸化窒素(NO)については、1980年代頃から、その生体内での生理機能について研究が進み、血管拡張作用を持つことなどが明らかにされたほか、この一酸化窒素が神経伝達物質としても作用することが判明した。なお、1998年のノーベル生理学・医学賞は、この一酸化窒素の生理作用の発見に対して贈られている。現在でも、その多様な生理機能について研究が続いている。
NO、NO2を吸入するとメトヘモグロビンが生成する。メトヘモグロビンは、通常のヘモグロビンに配位されている二価(フェロ)の鉄イオンが三価(フェリ)になっているもので、酸素を運ぶことができない。
一酸化二窒素(N2O)は麻酔作用を持つため、吸入麻酔剤として医療現場で使用されている。
NOxの防除技術としては、バーナーや燃焼法の改善によって低NOx化を実現する低NOx燃焼法と,排ガス中からNOxを除去する排煙脱硝法がある。
窒素酸化物は硫黄酸化物とならび酸性雨(酸性降下物)粒子状物質の原因物質で、硫黄酸化物は脱硫装置により液体の化石燃料由来の発生抑制させる事が可能であるが、燃焼(高温との接触)で生成される窒素酸化物の生成抑制は困難である。生成された窒素酸化物は降雨や霧(湿性沈着)や粒子状物質の降下(乾性降下)などにより地上に沈着し森林生態系に蓄積されると共に、森林への蓄積量が飽和量を超えると流下する水の硝酸イオン濃度を上昇させる。 | [
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"text": "窒素酸化物(ちっそさんかぶつ、英: nitrogen oxides) は窒素の酸化物の総称。",
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"text": "一酸化窒素(NO)、二酸化窒素(NO2)、三酸化窒素(中国語版)(NO3)、亜酸化窒素(一酸化二窒素)(N2O)、三酸化二窒素(N2O3)、四酸化二窒素(N2O4)、五酸化二窒素(N2O5)など。化学式の NOx から「ノックス」ともいう。",
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"text": "自然界において窒素酸化物は、雷あるいは土壌中の微生物によって生成される。たとえば微生物が多い土壌に豊富な化学肥料を与えると土壌微生物が分解して窒素酸化物を放出する例が知られている。",
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"text": "物質が燃焼するときにも一酸化窒素や二酸化窒素などが発生する。この場合、高温・高圧で燃焼することで本来反応しにくい空気中の窒素と酸素が反応して窒素酸化物になる場合(サーマルNOx)と、燃料由来の窒素化合物から窒素酸化物となる場合(フューエルNOx)がある。たとえば、排気ガスや天然ガスボイラー(家庭用調理ガス器具を含む)などから排出される窒素酸化物は前者が主であり、石炭が燃焼した場合の窒素酸化物はそのほとんどが石炭中の窒素化合物に由来することが知られている。",
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"text": "四酸化二窒素は二酸化窒素と平衡状態にあり、環境中など低圧・低濃度では二酸化窒素側に偏っている。",
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"text": "大気から陸上に沈着する窒素量は、1890年から1990年の100年間で5倍に増加し21世紀初頭時点では 125 Tg-N y(テラグラム窒素毎年)とされており、放出量の80 %が肥料が起源で20 %が燃焼が起源である。",
"title": "生成"
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"text": "二酸化窒素(NO2)自体は中性で肺から吸収されやすい赤褐色の気体または液体。細胞内では二酸化窒素は強い酸化作用を示して細胞を傷害するので、粘膜の刺激、気管支炎、肺水腫などの原因となる。",
"title": "人体に対する作用"
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"text": "一酸化窒素(NO)については、1980年代頃から、その生体内での生理機能について研究が進み、血管拡張作用を持つことなどが明らかにされたほか、この一酸化窒素が神経伝達物質としても作用することが判明した。なお、1998年のノーベル生理学・医学賞は、この一酸化窒素の生理作用の発見に対して贈られている。現在でも、その多様な生理機能について研究が続いている。",
"title": "人体に対する作用"
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"text": "NO、NO2を吸入するとメトヘモグロビンが生成する。メトヘモグロビンは、通常のヘモグロビンに配位されている二価(フェロ)の鉄イオンが三価(フェリ)になっているもので、酸素を運ぶことができない。",
"title": "人体に対する作用"
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"text": "一酸化二窒素(N2O)は麻酔作用を持つため、吸入麻酔剤として医療現場で使用されている。",
"title": "人体に対する作用"
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"text": "NOxの防除技術としては、バーナーや燃焼法の改善によって低NOx化を実現する低NOx燃焼法と,排ガス中からNOxを除去する排煙脱硝法がある。",
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"text": "窒素酸化物は硫黄酸化物とならび酸性雨(酸性降下物)粒子状物質の原因物質で、硫黄酸化物は脱硫装置により液体の化石燃料由来の発生抑制させる事が可能であるが、燃焼(高温との接触)で生成される窒素酸化物の生成抑制は困難である。生成された窒素酸化物は降雨や霧(湿性沈着)や粒子状物質の降下(乾性降下)などにより地上に沈着し森林生態系に蓄積されると共に、森林への蓄積量が飽和量を超えると流下する水の硝酸イオン濃度を上昇させる。",
"title": "環境問題"
}
] | 窒素酸化物(ちっそさんかぶつ、英: nitrogen oxides) は窒素の酸化物の総称。 一酸化窒素(NO)、二酸化窒素(NO2)、三酸化窒素(NO3)、亜酸化窒素(一酸化二窒素)(N2O)、三酸化二窒素(N2O3)、四酸化二窒素(N2O4)、五酸化二窒素(N2O5)など。化学式の NOx から「ノックス」ともいう。 | '''窒素酸化物'''(ちっそさんかぶつ、{{Lang-en-short|nitrogen oxides}}) は[[窒素]]の[[酸化物]]の総称。
[[一酸化窒素]](NO)、[[二酸化窒素]](NO<sub>2</sub>)、{{仮リンク|三酸化窒素|zh|三氧化氮}}(NO<sub>3</sub>)、[[亜酸化窒素]](一酸化二窒素)(N<sub>2</sub>O)、[[三酸化二窒素]](N<sub>2</sub>O<sub>3</sub>)、[[四酸化二窒素]](N<sub>2</sub>O<sub>4</sub>)、[[五酸化二窒素]](N<sub>2</sub>O<sub>5</sub>)など。化学式の '''NO<sub>''x''</sub>''' から「'''ノックス'''」ともいう。
== 生成 ==
自然界において窒素酸化物は、[[雷]]あるいは[[土壌]]中の[[微生物]]によって生成される。たとえば微生物が多い土壌に豊富な[[化学肥料]]を与えると土壌微生物が[[分解]]して窒素酸化物を放出する例が知られている。
[[物質]]が[[燃焼]]するときにも一酸化窒素や二酸化窒素などが発生する。この場合、高温・高圧で燃焼することで本来反応しにくい[[空気]]中の窒素と酸素が反応して窒素酸化物になる場合(サーマルNO<sub>''x''</sub>)と、[[燃料]]由来の窒素化合物から窒素酸化物となる場合(フューエルNO<sub>''x''</sub>)がある。たとえば、排気ガスや[[天然ガス]][[ボイラー]](家庭用調理ガス器具を含む)などから排出される窒素酸化物は前者が主であり、[[石炭]]が燃焼した場合の窒素酸化物はそのほとんどが石炭中の窒素化合物に由来することが知られている。
四酸化二窒素は二酸化窒素と[[化学平衡|平衡]]状態にあり、環境中など低圧・低濃度では二酸化窒素側に偏っている。
(各窒素酸化物の生成法は当該記事に詳しい)
大気から陸上に沈着する窒素量は、1890年から1990年の100年間で5倍に増加し21世紀初頭時点では 125 Tg-N y<sup>-1</sup>(テラグラム窒素毎年)とされており、放出量の80 %が肥料が起源で20 %が燃焼が起源である<ref name="121_411">{{Cite journal|和書|author=田林雄 |author2=山室真澄 |year=2012 |title=大気降下窒素が渓流水に流出する過程 |journal=地学雑誌 |volume=121 |issue=3 |pages=411-420 |doi=10.5026/jgeography.121.411}}</ref>。
== 人体に対する作用 ==
二酸化窒素(NO<sub>2</sub>)自体は中性で[[肺]]から吸収されやすい赤褐色の気体または液体。[[細胞]]内では二酸化窒素は強い酸化作用を示して細胞を傷害するので、[[粘膜]]の刺激、[[気管支炎]]、[[肺水腫]]などの原因となる。
[[一酸化窒素]](NO)については、1980年代頃から、その生体内での生理機能について研究が進み、血管拡張作用を持つことなどが明らかにされたほか、この一酸化窒素が[[神経伝達物質]]としても作用することが判明した。なお、1998年の[[ノーベル生理学・医学賞]]は、この一酸化窒素の生理作用の発見に対して贈られている。現在でも、その多様な生理機能について研究が続いている。
NO、NO<sub>2</sub>を吸入すると[[メトヘモグロビン]]が生成する<ref>{{Citation|和書
| author = 石井邦彦
| year = 1989
| title = アカタラセミアマウスに一酸化窒素,二酸化窒素曝露時のメトヘモグロビン生成
| journal = 岡山医学会雑誌
| volume = 101
| issue = 5-6
| pages = 473-486
| doi = 10.4044/joma1947.101.5-6_473
| accessdate = 2018-11-4
}}</ref>。メトヘモグロビンは、通常の[[ヘモグロビン]]に配位されている二価(フェロ)の鉄イオンが三価(フェリ)になっているもので、[[酸素]]を運ぶことができない。
[[亜酸化窒素|一酸化二窒素]](N<sub>2</sub>O)は[[麻酔]]作用を持つため、吸入麻酔剤として医療現場で使用されている。
== 除去方法 ==
NO''<sub>x</sub>''の防除技術としては、[[バーナー]]や[[燃焼]]法の改善によって低NO<sub>''x''</sub>化を実現する低NO<sub>''x''</sub>燃焼法と,排ガス中からNOxを除去する排煙[[脱硝]]法がある<ref>{{Cite journal|和書|author=定方正毅 |year=1990 |title=酸性雨対策としてのSOx,NOx防除技術の最近の動向と将来展望 |journal=国立環境研究所ニュース |volume=8 |issue=4 |pages=8-9 |url=https://www.nies.go.jp/kanko/news/8/08-6.pdf}}</ref>。
; 低NO''<sub>x</sub>''燃焼法
: 空気中の[[窒素]]に起因するいわゆるサーマルNO''<sub>x</sub>''と、燃焼中に含まれる窒素化合物に起因するフューエルNO<sub>''x''</sub>がある。双方に有効な方法として、燃焼用空気を二段階に分けて吹き込む二段燃焼法が、ガス燃焼から石炭燃焼に至るまで最も広い範囲で用いられている。
; 排煙脱硝法
: 湿式法と乾式法があり、大型燃焼装置では現在乾式法の一つである選択触媒法が主流となっている。煙道部の手前で排ガス中に[[アンモニア|NH<sub>3</sub>]]を吹き込み、下流部に設置された触媒反応器で、NH<sub>3</sub>によるNOの選択的還元を行わせる。
== 対策 ==
; ディーゼルエンジンの取り組み
: [[尿素SCRシステム]]
; 鉄道での取り組み
: [[JR]]各社では、[[気動車|ディーゼルカー]]に搭載されている[[ディーゼルエンジン]]からの窒素酸化物削減に取り組んでおり、[[JR東日本キハE130系気動車]]、[[JR四国1500形気動車]]などが低排出車である。
== 環境問題 ==
窒素酸化物は[[硫黄酸化物]]とならび[[酸性雨]](酸性降下物)[[粒子状物質]]の原因物質で、硫黄酸化物は[[脱硫]]装置により液体の化石燃料由来の発生抑制させる事が可能であるが、燃焼(高温との接触)で生成される窒素酸化物の生成抑制は困難である。生成された窒素酸化物は降雨や霧(湿性沈着)や粒子状物質の降下(乾性降下)などにより地上に沈着し森林生態系に蓄積されると共に、森林への蓄積量が飽和量を超えると流下する水の硝酸イオン濃度を上昇させる<ref name="121_411"/>。
; [[大気汚染]]
: これらは、[[光化学スモッグ]]や酸性雨などを引き起こす[[大気汚染]]原因物質である。主な発生源は、内燃機関をもつ[[自動車]]の[[排気ガス]]であり、平成4年に制定(平成13年改正)された[[自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法]](自動車NO<sub>x</sub>・PM法)によって、規制されることになる。
: 特に毒性の高い[[二酸化窒素]](NO<sub>2</sub>)は、[[大気汚染防止法]]によって[[環境基準]]が定められている。
: '''NO<sub>2</sub>の環境基準''':1時間値の1日平均値が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内またはそれ以下であること。
; [[温室効果]]
: また、[[一酸化二窒素]](N<sub>2</sub>O、亜酸化窒素)は二酸化炭素の310倍の[[温室効果ガス|温室効果]]がある。
; [[オゾン層]]の破壊
: [[1970年代]]に[[スウェーデン]]のクルーツェン氏が、[[成層圏]]でNOxが[[触媒]]作用でオゾン消滅反応に作用していることを指摘し、オゾン層科学に進展がもたらされた<ref>{{Cite journal|和書|author=佐々木徹 |year=2007 |title=オゾン層(創立125周年記念解説) |journal=天気 |volume=54 |issue=5 |pages=391-394 |id={{CRID|1520572359393464192}} }}</ref>。
: 2008年にN<sub>2</sub>Oが最大のオゾン層破壊物質であったことが米研究チームにより発表された<ref>{{Cite journal|last=Ravishankara |first=A.R. |last2=Daniel |first2=John S. |last3=Portmann |first3= Robert W. |year=2009 |title=Nitrous Oxide (N2O): The Dominant Ozone-Depleting Substance Emitted in the 21st Century |journal=Science |volume=326 |issue=5949 |pages=123-125 |DOI=10.1126/science.1176985 |PMID=19713491}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
{{大気汚染}}
{{酸性雨}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちつそさんかふつ}}
[[Category:酸化物]]
[[Category:無機窒素化合物]]
[[category:大気汚染]]
[[category:酸性雨]] | 2003-04-24T12:58:03Z | 2023-09-25T00:19:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%92%E7%B4%A0%E9%85%B8%E5%8C%96%E7%89%A9 |
7,226 | 硫黄酸化物 | 硫黄酸化物(いおうさんかぶつ、英: sulfur oxide)は、硫黄の酸化物の総称。一酸化硫黄 (SO)、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)(SO2)、三酸化硫黄 (SO3) などが含まれる。化学式から SOx (ソックス)と略称される。
石油や石炭など硫黄分が含まれる化石燃料を燃焼させることにより発生する。大気汚染や酸性雨などの原因の一つとなる有毒物質。また、自然界においても火山ガスなどに含まれている。無色で刺激臭があり、水にとけやすい。
硫黄酸化物は水と反応することで、硫酸や亜硫酸を生じる。
1960年代から1970年代には、石油や石炭を燃やすときに排ガス処理装置をつけていなかったため、産業活動の活性化に伴い硫黄酸化物が大量に排出され、大気汚染の原因となった。特に三重県四日市市のコンビナートでは、四日市ぜんそくとしても知られる公害病が発生し、社会問題となった。現在では、大気汚染防止法によって環境基準が定められるとともに、光触媒を用いた酸化物浄化技術や排煙脱硫技術の進歩、脱硫した軽油の使用などによって、硫黄酸化物の大気中濃度は大幅に改善されている。
一方、中国で発生した硫黄酸化物が偏西風によって日本に運ばれ、大気汚染が酸性雨の原因となることが懸念されてきている。国立環境研究所の調査では、日本で観測される硫黄酸化物のうち 49% が中国起源のものとされ、続いて日本 21%、火山 13%、朝鮮 12% とされている。
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] | 硫黄酸化物(いおうさんかぶつ、英: sulfur oxide)は、硫黄の酸化物の総称。一酸化硫黄 (SO)、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)(SO2)、三酸化硫黄 (SO3) などが含まれる。化学式から SOx (ソックス)と略称される。 | {{出典の明記|date=2012年5月17日 (木) 10:15 (UTC)}}
'''硫黄酸化物'''(いおうさんかぶつ、{{Lang-en-short|sulfur oxide}})は、[[硫黄]]の[[酸化物]]の総称。[[一酸化硫黄]] (SO)、[[二酸化硫黄]](亜硫酸ガス)(SO<sub>2</sub>)、[[三酸化硫黄]] (SO<sub>3</sub>) などが含まれる。[[化学式]]から '''SO<sub>''x''</sub>''' (ソックス)と略称される。
== 概要 ==
[[石油]]や[[石炭]]など[[硫黄]]分が含まれる[[化石燃料]]を[[燃焼]]させることにより発生する。[[大気汚染]]や[[酸性雨]]などの原因の一つとなる有毒物質。また、自然界においても[[火山ガス]]などに含まれている。無色で刺激臭があり、水にとけやすい。
硫黄酸化物は[[水]]と反応することで、[[硫酸]]や[[亜硫酸]]を生じる。
[[1960年代]]から[[1970年代]]には、[[石油]]や[[石炭]]を燃やすときに[[排ガス処理装置]]をつけていなかったため、産業活動の活性化に伴い硫黄酸化物が大量に排出され、大気汚染の原因となった。特に[[三重県]][[四日市市]]の[[コンビナート]]では、[[四日市ぜんそく]]としても知られる[[公害病]]が発生し、社会問題となった。現在では、[[大気汚染防止法]]によって[[環境基準]]が定められるとともに、[[光触媒]]を用いた酸化物浄化技術や排煙[[脱硫]]技術の進歩、[[軽油#低硫黄化(脱硫)|脱硫した軽油]]の使用などによって、硫黄酸化物の大気中濃度は大幅に改善されている。
一方、[[中華人民共和国|中国]]で発生した硫黄酸化物が[[偏西風]]によって日本に運ばれ、大気汚染が酸性雨の原因となることが懸念されてきている。{{要出典範囲|date=2022年11月|[[国立環境研究所]]の調査では、[[日本]]で観測される硫黄酸化物のうち 49% が中国起源のものとされ、続いて日本 21%、火山 13%、[[朝鮮]] 12% とされている}}。
==例==
*[[一酸化硫黄]]
*[[二酸化硫黄]]
*[[三酸化硫黄]]
*[[一酸化二硫黄]]
*[[一酸化シクロオクタ硫黄]]
<!-- == 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}} -->
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Sulfur oxides}}
* [[酸化物]]
* [[硫黄]]
* [[窒素酸化物]]
* [[化学に関する記事の一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
{{硫黄の化合物}}
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{{デフォルトソート:いおうさんかふつ}}
[[Category:酸化物]]
[[Category:硫黄の化合物]]
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[[Category:酸性雨]] | null | 2022-11-04T02:12:02Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E9%85%B8%E5%8C%96%E7%89%A9 |
7,230 | 零行列 | 数学において、零行列(ゼロぎょうれつ、れいぎょうれつ、zero matrix, null matrix)とは、その成分(要素)が全て 0 の行列。O あるいは 0 と記述されることが多い。
また、下付き添字によって行列の型を明記することもある。
自明な線形変換である零作用素を表す行列であり、正方行列の場合には行列環の零元を与えている。
以下、l, m, n は任意の自然数とする。
これらのことから、n 次の正方行列全体のなす環を考えているとき、零行列はその零元になる。 | [
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"text": "これらのことから、n 次の正方行列全体のなす環を考えているとき、零行列はその零元になる。",
"title": "性質"
}
] | 数学において、零行列とは、その成分(要素)が全て 0 の行列。O あるいは 0 と記述されることが多い。 また、下付き添字によって行列の型を明記することもある。 自明な線形変換である零作用素を表す行列であり、正方行列の場合には行列環の零元を与えている。 | [[数学]]において、'''零行列'''(ゼロぎょうれつ、れいぎょうれつ、zero matrix, null matrix)とは、その成分([[行列要素|要素]])が全て 0 の[[行列 (数学)|行列]]。''O'' あるいは 0 と記述されることが多い。
:<math>0 = \begin{bmatrix}
0 & 0 & 0 & \cdots & 0 \\
0 & 0 & 0 & \cdots & 0 \\
\vdots & \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\
0 & 0 & 0 & \cdots & 0
\end{bmatrix}</math>
また、下付き添字によって行列の型を明記することもある。
:<math> O_2 = O_{2,2} = \begin{bmatrix} 0 & 0 \\ 0 & 0 \end{bmatrix},
O_{2,3} = \begin{bmatrix} 0 & 0 & 0 \\ 0 & 0 & 0 \end{bmatrix}
</math>
自明な[[線形変換]]である零作用素を表す行列であり、正方行列の場合には行列環の零元を与えている。
== 性質 ==
以下、''l'', ''m'', ''n'' は任意の自然数とする。
* ''m'' 行 ''n'' 列の零行列 ''O'' と ''m'' 行 ''n'' 列の任意の行列 ''A'' の和は ''A'' + ''O'' = ''O'' + ''A'' = ''A'' となり、差は ''A'' − ''O'' = ''A'', ''O'' − ''A'' = −''A'' となる。
* ''l'' 行 ''m'' 列の零行列 ''O'' と ''m'' 行 ''n'' 列の任意の行列 ''A'' の積 ''OA'' は、''l'' 行 ''n'' 列の零行列となる。
* ''l'' 行 ''m'' 列の任意の行列 ''B'' と ''m'' 行 ''n'' 列の零行列 ''O'' の積 ''BO'' は、''l'' 行 ''n'' 列の零行列となる。
これらのことから、''n'' 次の[[正方行列]]全体のなす[[環論|環]]を考えているとき、零行列はその[[加法単位元|零元]]になる。
== 関連項目 ==
* [[単位行列]]
* [[冪零行列]]
{{DEFAULTSORT:せろきようれつ}}
[[Category:行列]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:0]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2022-11-22T07:31:37Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E8%A1%8C%E5%88%97 |
7,232 | 四元数 | 数学における四元数(しげんすう、英: quaternion)とは、複素数を拡張した数体系であり、虚数単位 i, j, k を用いて
と表せる数のことである。ここで、a, b, c, d は実数であり、虚数単位 i, j, k は以下の関係を満たす。
このとき 1, i, j, k は実数体上線型独立である。
四元数は純粋数学のみならず応用数学、特に3Dグラフィクスやコンピュータビジョンにおいて三次元での回転の計算(英語版)でも用いられる。これはオイラー角や回転行列あるいはそれらに代わる道具などとともに、必要に応じて利用される。
四元数についての最初の記述は、1843年にアイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンによってなされ、3次元空間の力学に応用された。
四元数の特徴は、積について非可換であることである。ハミルトンは、四元数を三次元空間内の二つの有向直線の商として定義した。これは二つのベクトルの商と言っても同じである。四元数をスカラーと三次元のベクトルとの和として表すこともできる。
なお、虚数単位i,j,kについても非可換であることが知られている。
現代数学の観点からは、四元数全体からなる集合は、実数体上の4次元結合的ノルム多元体であり、またそれゆえに非可換整域となる。歴史的には四元数の体系は、最初に発見された非可換多元体である。四元数全体の成すこの代数は、ハミルトンに因んで H(あるいは黒板太文字で H)と書かれる。またこの代数を、クリフォード代数 Cl0,2(R) ≅ Cl3,0(R) として定義することもできる。
この代数 H は解析学において特別な位置を占めている。というのも、フロベニウスの定理に従えば H は実数全体 R を真の部分環として含む有限次元可除環の2種類しかないうちの一つ(もう一つは複素数全体 C)だからである。
従って、単位四元数は三次元球面 S 上の群構造を選んだものとして考えることができて、群 Spin(3) を与える。これは 2次特殊ユニタリ群 SU(2) に同型、あるいはまた SO(3)(英語版)の普遍被覆に同型である。
四元数の成す代数系は、1843年にウィリアム・ローワン・ハミルトンによって導入された。これにはオイラーの四平方恒等式(1748年)やオリンデ・ロドリゲス(英語版)の四つの径数を用いた一般の回転のパラメータ付け(英語版)(1840年)などを含む重要な先駆的研究があったが、何れもその四径数回転を代数として扱ったものではなかった。ガウスもまた1819年に四元数を発見していたのだが、そのことが公表されるのは1900年になってからのことである。
ハミルトンは複素数が座標平面における点として解釈できることを知っていて、三次元空間の点に対して同じことができる方法を探していた。空間の点はそれらの座標としての数の三つ組によって表すことができ、ハミルトンはそれらの三つ組に対して加法や減法をどのようにすべきかはずっと前から分かっていたのだが、乗法と除法をどう定めるかという問題については長く行き詰ったままであった。ハミルトンは、空間における二点の座標の商をどのように計算すべきかを形にすることができなかったのである。
四元数についての大きな転換点がついに訪れたのは、1843年10月16日の月曜日、ダブリンにおいてハミルトンが理事会の長を務めることになるアイルランド王立アカデミー(英語版)への道すがら、妻とともにロイヤル運河(英語版)の引き船道に沿って歩いているときであった。四元数の背景となる概念が頭の中で形になり、答えが明らかになったとき、ハミルトンは衝動を抑えられずに、四元数の基本公式
を、渡っていたブルーム橋(英語版)の石に刻みつけた。
次の日ハミルトンは、友人でフェロー数学者であったジョン・グレイヴスへ宛てて、彼の発見へと至る一連の道筋をしたためた書簡を記している。この書簡は後に London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science, vol. xxv (1844), pp.489-95.で公表されている。この中でハミルトンは、
と述べている。ハミルトンは、これらの乗法規則を備えた四つ組を quaternion と呼び、残りの人生の大半をその研究と教育にささげた。ハミルトンによる取り扱い(英語版)は、四元数の代数的性質を強調する現代的なアプローチよりも幾何学的なものである。ハミルトンは "quaternionists" の学校を設立し、数々の本で四元数の普及を図った。最後にして最長の本が Elements of Quaternions(『四元数原論』)で800 ページにも及ぶ(出版されたのは彼の死後少ししてからである)。
ハミルトンの死後も弟子のテイトが四元数の振興を続けた。同時に、ダブリンでは四元数が試験の必須題目になっていた。物理学と幾何学の主題においては、今日ではベクトルを用いて記述するような空間の運動エネルギーやマクスウェルの方程式などが、まったく四元数の言葉で記述されていた。四元数やほかの超複素数系を専ら研究するプロの研究機関である四元数学会(英語版)さえ存在した。
1880年代の半ばごろから、ギブス、ヘヴィサイド、ヘルムホルツらの創始したベクトル解析によって四元数は取って代わられるようになる。ベクトル解析は四元数と同じ現象を記述するために、四元数に関する文献から自由に用語法や考え方を拝借していたが、ベクトル解析の方が概念的に簡単で、記法もすっきりしていたので、遂には数学と物理学における四元数の役割は小さく追いやられることとなった。このような変遷の副作用で、現代的な読者にはハミルトンの仕事は難しく複雑なものと化してしまった。ハミルトンのオリジナルの定義は馴染みがなく、その書き振りは冗長で不明瞭である。
四元数は20世紀の後半になって、三次元の自由な回転を記述する能力を買われて、多用されることとなった。四元数による3次元の回転(姿勢)の表現は、3次正方行列による表現と比べて記憶容量が小さくて演算のスピードも速い。加えて、オイラー角と違ってジンバルロックが起きない。この特徴は、地上における上下方向のような絶対的な軸の無い、宇宙機のような三次元の自由度が完全にある場合の姿勢制御などでの利用に適しており、宇宙機以外にもCG、コンピュータビジョン、ロボット工学、制御理論、信号処理、物理学、生物情報学、分子動力学法、計算機シミュレーションおよび軌道力学など、他にも多くの応用がある。
また、四元数は二次形式との関係性により、数論からの後押しも受けている。
1989年以降、アイルランド国立大学メイヌース校の数学教室は、科学者(2002年には物理学者のマレー・ゲルマン、2005年にスティーヴン・ワインバーグなど)や数学者(2003年のアンドリュー・ワイルズなど)からなる、ダンシンク天文台からロイヤル運河の橋までを歩く巡礼の旅を開催している。ハミルトンが橋に刻みつけた公式はもはや見ることはできないが。
P.R.ジラールのエッセイ The quaternion group and modern physics(「四元数群と現代物理学」)は、四元数の物理学における役割について論じている。それは現代代数学において "数々の物理的な共変性の群:SO(3)、ローレンツ群、一般相対性群、クリフォード代数 SU(2) および共形群などが容易く四元数群に関連付けられることを示している"。ジラールは群の表現論を議論し、結晶学に関するいくつかの空間群を表現することから始めて、続いて剛体運動の運動学、その後トーマス歳差(英語版)を含む特殊相対論のローレンツ群の表現に「複四元数」(complex quaternion)(双四元数(英語版))を用いている。ジラールはマクスウェルの方程式を四元数変数のポテンシャル函数を用いて一本の微分方程式に表したルドヴィク・シルバースタイン(英語版)をはじめとする5人の著者を引いている。一般相対性を考慮してルンゲ=レンツベクトルを表し、またクリフォード代数の例としてクリフォード複四元数(分解型双四元数(英語版))に言及した。最後にジラールは、複四元数の逆数を使って時空の共形写像について述べている。50にも及ぶ参考文献には、アレクサンダー・マクファーレン(英語版)および四元数学会におけるジラール自身の広報も含まれている。また、1999年にジラールはアインシュタインの一般相対性の方程式が如何にして四元数に直結するクリフォード代数を用いて定式化されるかを示している。
四元数についてのより個人的な見解をジョアキム・ランベック(英語版)が1995年に書いている。エッセイ If Hamilton had prevailed: quaternions in physics(「もしハミルトンが勝利していたら:物理学における四元数」)には "My own interest as a graduate student was raised by the inspiring book by Silberstein"(院生としての私の興味はシルバースタインの本に刺激を受けて生じた)とある。ランベックは He concluded by stating "I firmly believe that quaternions can supply a shortcut for pure mathematicians who wish to familiarize themselves with certain aspects of theoretical physics."(「私は四元数が、理論物理学のある種の側面に習熟しようと望む純粋数学者へ、近道を与えるものと堅く信じる」)と述べることによって結論を下している。
2007年、アレキサンダー・エフレモフとその共同研究者は、四元数空間幾何がヤン・ミルズ場と近しい関係にあることを示し、ダフィン・ケマー・ペティアウ方程式(英語版)とクライン-ゴルドン方程式への関連性を指摘した。
集合としては、四元数全体 H は実数体上の4次元数ベクトル空間 R に等しい。H には3 種類の演算(加法、スカラー乗法、四元数の乗法)が入る。H の二元の和は、R の元としての和で定義され、同様に H の元の実数倍も R におけるスカラー倍として定義される。H の二元の積を定めるには、まず R の基底を決めなければならないが、その元を通例 1, i, j, k と記す。H の各元はこれら基底元の線型結合で表される。つまり
の形に一意に表される。基底元 1 は H の乗法単位元であるため、通常省略して
と表すのが普通である。この基底が与えられたところで、四元数の結合的乗法は、初めに基底元同士の積を定義して、一般の積はそれを分配律を用いて拡張することで定義される。
H の基底元 i, j, k に対して等式
は i, j, k の間の可能なすべての積を決定する。例えば − 1 = i j k {\displaystyle -1=ijk} の両辺に k を右から掛ければ
を得る。他の積も同じようにして得られて、結局
が可能なすべての積を列挙したものとなる。これは左側の因子を列に、右側の因子を行にそれぞれ充てて、表の形にまとめることができる(乗積表)。
二つの四元数 a1 + b1i + c1j + d1k と a2 + b2i + c2j + d2k に対し、それらのハミルトン積 (a1 + b1i + c1j + d1k)(a2 + b2i + c2j + d2k) は、基底間の積と分配律によって与えられる。具体的には、この積は分配律により基底元の積和の形に展開することができて、
となるので、ここで先の基底元の間の乗法規則を適用して
を得る。
H の基底 1, i, j, k を用いて H を四つ組の集合
として表すことができる。このとき基底元は
であり、加法、乗法の定義式は
で与えられる。
四元数 a + bi + cj + dk について、特に b = c = d = 0 であるものは実数体上のスカラーである。bi + cj + dk で、b, c, d の内少なくとも一つが、0 でないもの (bcd ≠ 0) を純虚 (pure imaginary) という。
四元数 a + bi + cj + dk に対して、a をその実部 (real part) またはスカラー部 (scalar part) といい、bi + cj + dk をその虚部 (imagenary part) または ベクトル部 (vector part) という。四元数のスカラー部は実数であり、ベクトル部は 0 または純虚である。任意の四元数は4次元ベクトル空間のベクトルではあるけれども、ここではベクトルあるいはベクトル元という言葉を、専ら純虚四元数を指すのに用いる。この規約の下、ベクトル元ということはベクトル空間 R の元ということと同じ意味になる。
ハミルトンは純虚四元数を right quaternion(「正しい四元数」)と呼び、実(四元)数を scalar quaternion(「スカラー四元数」)と呼んだ。
四元数をスカラー部とベクトル部に分解して
と表すと、加法、乗法の定義式は
となる。ここで "⋅" はベクトルのドット積、"×" はベクトルのクロス積である。特に、実部が 0 の四元数に対しては
が成り立つ。
四元数の共軛(きょうやく)は複素共役およびクリフォード代数の元の転置 (transposition) あるいは逆転 (reversal) の類似物である。四元数 q = a + bi + cj + dk に対して、q の共軛は
で定義される。これを q, q, q, ~q などで表す。共軛をとる操作は対合、つまり自身を自身の逆とする変換であり、一つの元の共軛を二度とればもとの元に戻る。2つの四元数の積の共軛は、それぞれの四元数の共軛を「順番を逆にして」掛けたものになる。つまり p, q を四元数とすれば
であって pq でない。
複素数における共軛とは異なり、四元数の共軛は乗法と加法を用いて完全に書き表すことができる:
共軛を用いると、四元数 p の実部、虚部はそれぞれ
となる。
四元数 q のノルム ‖ q ‖ は、自身とその共軛の積の平方根として定義される:
(ハミルトンはこれを四元数のテンソルと呼んだが、この用語は現代的な意味でのテンソルと衝突する)
これは、H を数ベクトル空間 R と見なした時のユークリッドノルムに等しく、ノルムの公理を満たす。すなわち、常に非負の実数で、任意の2つの四元数 p, q に対して
が成り立つ。特に、実数 α に対して
が成り立つ。
この乗法性は、積の共軛に関する式からの帰結である。あるいは、正方行列の行列式の乗法性と公式
(i は通常の虚数単位)から乗法性を示すこともできる。
このノルムを使って、四元数 p と q の間の距離 d(p, q) を、それらの差のノルム (d(p, q) = ‖ p − q ‖) として定義することができる。これにより H は距離空間となり、加法と乗法はこの距離位相に関して連続になる。
ノルムが 1 の四元数を単位四元数という。0 でない四元数 q に対して、そのノルムで割って得られる単位四元数
を、q のベルソル(英語版)という。
任意の四元数 q は、その極分解(英語版)
を持つ。
共軛とノルムにより、四元数の逆数(自身との積が 1 である数)が得られる:
これにより、2つの四元数 p, q に対して、二種類の除法が定義される。即ち、それらの商は pq または qp のどちらかである。複素数(一般には可換体)の範囲と異なり、p/q と書くと q で左から割っているのか右から割っているのかが特定されないため紛らわしい。
四元数全体のなす集合 H は実数体上の 4次元ベクトル空間を成す(実数全体は 1次元、複素数全体は 2次元、八元数全体は 8次元である)。四元数は加法と、結合的で分配的な乗法を持つが、その乗法は可換でない。従って四元数の全体 H は実数体上の非可換結合多元環である。H には複素数体 C の複製が含まれるが、H は C 上の結合多元環にはならない。
四元数は除法が可能であるから、H は多元体(乗法が可換でないことを除けば可換体と同様の構造)である。実数体上の有限次元結合的多元体は非常に少なく、フロベニウスの定理はそれが R, C, H のちょうど3種類であることを述べるものである。また、四元数のノルムにより四元数の全体はノルム多元環となるが、実数体上のノルム多元体もまた非常に限られ、フルヴィッツの定理(英語版)はそれが R, C, H, O の四種類(O は八元数全体)であることを述べる。四元数全体はまた、合成代数や単位的バナッハ環の一例でもある。
基底元の積は別の基底元に符号を付けたものになるから、集合 {±1, ±i, ±j, ±k} はその乗法に関して群を成す。この群は四元数群と呼ばれ、Q8 で表す。Q8 の実係数群環 RQ8 は環であり、また R 上の 8次元ベクトル空間でもあり、Q8 の各元を基底ベクトルに持つ。四元数体 H は RQ8 を 1 + (−1), i + (−i), j + (−j), k + (−k) で生成するイデアルで割った剰余環になっている。ここで、生成元となっている各差の第一項は基底元 1, i, j, k のそれぞれ一つであり、第二項は残りの基底元 −1, −i, −j, −k のそれぞれ一つであって、これらは 1, i, j, k の(群環の加法に関する)加法的逆元でないことに注意(剰余環、つまり H の中では加法逆元になる)。
四元数のベクトル部は R のベクトルゆえ、R の幾何は四元数の代数構造に反映される。ベクトルに対する多くの演算は四元数を用いて定義することができるし、それによって四元数的な手法を空間ベクトルから生じる様々なものに適用することができる。例えば、電磁気学や3DCGなどにこの方法論が使える。
本節では i, j, k を H の虚基底ベクトルと R の基底の両方の意味で用いる。i, j, k を一斉にそれぞれ −i, −j, −k に取り替えることはベクトルを加法的逆元(マイナス)へ写すので、ベクトルの加法的逆元をとることと四元数の共軛をとることとは同じ意味になることに注目しよう。これを以って、四元数の共軛を「空間反転」(spatial inverse) と呼ぶことがある。
2つの純虚四元数 p = b1i + c1j + d1k, q = b2i + c2j + d2k に対して、それらのドット積は
で与えられる。これは pq, qp, pq, qp のどのスカラー部にも等しい(これらのベクトル部は相異なることに注意)。それゆえドット積については
という等式も成り立つ。また、p と q のクロス積は基底 (i, j, k) の元の順序(から定まる向き)に依存して
と定義される(符号を決めるために向きが必要であることを想起せよ)。これは四元数としての積 pq のベクトル部に等しく、−qp のベクトル部とも同じく等しい。ゆえに、これについても
なる等式が成り立つ。一般に p, q が四元数(純虚でなくてよい)のとき、これをスカラー部とベクトル部との和
に分解すれば、等式
が成り立つ。これを見ると、四元数の乗法の非可換性が純虚四元数の乗法からくるものであることが分かり、また2つの四元数が可換となるための必要十分条件がそれらのベクトル部が共線となることなども分かる。
複素数の行列表現と全く同様に、四元数も行列で表現することができる。四元数を行列で表現し、四元数の加法と乗法を行列のそれに対応させる方法は、少なくとも二つあり、一つは 複素 2次正方行列を用いるもの、もう一つは実 4次正方行列を用いるものである。何れの場合も、表現は線型に関連する表現の族として与えられるもので、抽象代数学の観点からは、H からそれぞれ全行列環 M2(C) および M4(R) への単射環準同型である。
複素 2次正方行列を用いて、四元数 a + bi + cj + dk は
と表現される。この表現は以下の性質を持つ:
実 4次正方行列を用いれば、同じ四元数は
で表される。この表現では、四元数の共軛は対応する行列の転置に対応する。また、四元数のノルムの四乗は対応する行列の行列式に等しい。複素数は、行列を 2 × 2 のブロックに分けたときの区分対角行列に対応する。
四元数を、数論におけるラグランジュの四平方和定理(任意の非負整数が四つの整数の平方の和で表せること)の証明に用いることもできる。ラグランジュの四平方和定理は定理それ自体が美しいだけでなく、組合せデザイン(英語版)のような数論以外の数学の分野においても有意な応用を持つ。四元数に基づく証明では四元数全体ではなくその部分環でユークリッドの互除法が使えるフルヴィッツ整数環(英語版)が用いられる。
四元数は複素数の対として表現することができる。この側面からは、四元数は複素数全体にケーリー=ディクソン構成を適用して得られたものということになる。これは、複素数の実数の対としての構成を一般化したものである。
C を複素数体上の二次元ベクトル空間とし、基底 (1, j) をとる。C に属するベクトルは
と表される。ここで j = −1 および ij = −ji であるものと定めると、分配律により二つのベクトルの掛け算が定義できる。いま、積 ij を k とおくと、通常の四元数の乗法規則と同じになるので、従って上記の複素ベクトルは四元数
に対応するものである。C の元を順序対として、四元数を四つ組としてそれぞれ書けば、この対応は
となる。
−1 の平方根は、複素数の範囲では ±i であるが、H では −1 の平方根は無数に存在する。x = −1 の四元数解は三次元空間内の単位球面を成すのである。これを見るのに q = a + bi + cj + dk を四元数とし、その平方が −1 に等しいものと仮定する。a, b, c, d が満たすべき条件は
である。後の3つの方程式より a = 0 または b = c = d = 0 であるが、後者は残りの方程式から a = −1 となり、a は実数であるから不可能である。故に a = 0 ⋀ b + c + d = 1 となる。即ち、平方が −1 になる四元数は、ノルムが 1 の純虚四元数であることが分かる。定義により、このような四元数全体の成す集合は2次単位球面である。
故に、負の実四元数は無数の平方根を持つことも分かるが、それ以外の四元数の平方根はただ二つ(0 についてはただ一つ)である。
H における −1 の平方根のこのような同定はハミルトンが与えているが、他の文献では触れられないことがよくある。1971年にサム・パーリスは −1 の平方根の成す球面について、米国数学教師評議会(英語版)出版の「代数学における歴史的話題」(Historical Topics in Algebra p.39) において3ページを割いて触れている。より近くでは、イアン・ポーティアス(英語版)の本「クリフォード代数と古典群」(Clifford Algebras and the Classical Groups Cambridge, 1995, proposition 8.13, p.60) にこの球面についての記述があり、また Conway & Smith (2003) のp.40には「任意の虚数単位を i, それに直交する虚数単位の一つを j, それらの積を k」("any imaginary unit may be called iTemplate:, and perpendicular one j, and their product k") として、この球面についての別な言明がある。
−1 の平方根のどの二つをとっても、四元数の中で複素数の相異なる複製を作ることができる。 q = −1 とすれば、そのような複製は写像
によって決定される。抽象代数学の言葉でいえば、それぞれが C から H への単射環準同型(埋め込み)である。q と −q に対応する埋め込みの像は集合としては同じになる。
任意の実でない四元数は C に同型な H の部分空間上にあることを見よう。四元数 q をスカラー部とベクトル部の和として
とし、さらにベクトル部をノルムとベルソルの積に分解(極分解)して、
と書く(これは qs + ‖ q ‖Uq とは異なることに注意)。q のベクトル部のベルソル Uq→v は純虚な単位四元数ゆえ、その平方は −1 である。従ってこれから、写像
によって複素数の複製が得られるが、この写像の下で q は複素数 qs + ‖ q→v ‖i の像になる。
以上から、H は実数直線を共通の交わりとして持つ無数の複素数平面の合併であることが分かる。ただし、この合併は −1 の平方根の成す球面全体を(球面の対蹠点が同じ平面に対応することを踏まえた上で)わたって取ったものである。
各四元数が H のどの部分複素数平面に含まれるかという関係性は、可換部分環族の言葉を使っても同定し書き表すことができる。具体的に言えば、二つの四元数 p と q が可換 (pq = qp) となるのはそれらが H の同じ部分複素数平面上にあるときに限られるだから、四元数全体の成す環の可換部分環を全て求めたければ、そこに複素数平面の合併として H の prófile が生じる。この可換部分環を求める方法は、分解型四元数(英語版)全体や実二次正方行列全体の性質を知るのにも利用できる。
複素変数の函数同様に、四元変数の函数から有効な物理モデルが得られることが示唆される。例えば、マクスウェルによるもともとの電磁場の記述には四元変数函数が用いられていた。
四元数
に対して、指数函数は
と計算され、その逆函数として対数函数は
として与えられる。 これを用いて、四元数の極分解を
の形に書くことができる。ここで角 θ および単位ベクトル n ^ {\displaystyle {\hat {n}}} は
および
で定まるものである。任意の単位四元数は極形式として
と表される。
任意の実数を冪指数とする四元数の冪は
で与えられる。
「共軛(きょうやく)」あるいは「共軛変換(英語版)」という言葉は、上で述べた意味以外にも、適当な非零元 r によって元 a を rar へ写す変換(内部自己同型)の意味にも使われる。この変換の意味で与えられた元に共軛な元の全体は、実部が等しく、かつベクトル部のノルムも等しい(従って、共軛四元数はこの変換の意味でも共軛元である)。
故に、非零四元数全体の成す乗法群は、純虚四元数全体の成す R の複製の上に共軛変換によって作用する。このとき、実部が 〖cos〗θ である単位四元数による共軛変換は、虚部方向を回転の軸とする回転角 2θ の回転になる。四元数を用いる優位性としては、
などが挙げられる。
単位四元数(ベルソル)の全体は三次元球面 S を成し、また乗法に関して群を成し、3次特殊直交群(行列式が 1 の 3次直交行列全体)〖SO〗(3,R) の二重被覆群というリー群になる(これは上記の対応において各回転に対応する単位四元数がちょうど「2つ」あることによる)。
(S 自体には標準的な群構造はないが)ベルソルの成す部分群の像は点群であり、逆に点群の逆像はベルソル全体の成す部分群となる。有限点群の逆像は、それぞれの点群の名前に二項 (binary) を付けて呼ぶ。例えば二十面体群の逆像は二項二十面体群である。
ベルソル全体の成す群は、2次特殊ユニタリ群 〖SU〗(2) に同型である。
a, b, c, d が何れも整数となるかまたは何れも分母が2の既約分数である有理数となる四元数 a + bi + cj + dk 全体の成す集合を A とする。集合 A は環(実は整域)であり、また束であって、フルヴィッツ整数環と呼ばれる。この環は 24 個の単位四元数を持ち、それらは正24胞体(シュレーフリ記号で {3,4,3})の頂点になっている。
F を標数が 2 でない体とし、a, b を F の元とする。(1, i, j, ij) を基底とし、i = a, j = b, ij = −ji(従って (ij) = −ab)を満たす F 上の四次元単位的結合多元環が定義できる。これらは四元数環と呼ばれ、a, b の選び方に依り F 上の 2次正方行列に同型であるか、さもなくば F 上の多元体を成す。
幾何学的計算に対する四元数の有用性は、四元数体をクリフォード代数 Cl3,0(R) の偶部分 Cl3,0(R) と同一視することによって、他の次元にも一般化することができる。これは基本基底元 σ1, σ2, σ3 から構成される結合的多重ベクトル環で、基底元は
なる積の規則に従う。これらの基本基底元が三次元空間のベクトルを表すものとすれば、ベクトル r の単位ベクトル w に直交する平面に関する鏡映 (reflection) が
で表され、二つの鏡映の合成はそれぞれの鏡映に対する平面同士のなす角の二倍の回転角をもつ回転を与えることから、
は σ1 と σ2 とを含む平面における 180° 回転が対応する。これは四元数の対応する公式
とよく似ているが、実はこの二つは同一視できる。それには
と同一視して、かつこれがハミルトンの関係式
を保つことを確認すればよい。この描像において、四元数はベクトルではなく二重ベクトル (bivector) に対応する(これは一次元的な「向き」ではなくて、特定の二次元平面に付随する向きと大きさを持った量である)。また、複素数との関係もより明らかになる。つまり、二次元ではそれぞれ σ1 と σ2 の方向を持つ二つのベクトルに対して、ただ一つの基底二重ベクトル元 σ1σ2 が存在するから、虚数単位は一つだけしかないが、ベクトルの方向が三つある三次元では、三つの二重ベクトル基底 σ1σ2, σ2σ3, σ3σ1 が存在して、三つの虚数単位を持つ。
この理由付けはさらに拡張することができて、クリフォード代数 Cl4,0(R) においては、基本となるベクトルが相異なる四つの方向を持つから、従って平面を張る線型独立な組は六種類であり、二重ベクトル基底元は六つ存在する。このような空間において、回転子 (rotor) と呼ばれるそのような四元数の拡張を用いた回転は、斉次座標系を用いた応用において非常に有効である。しかし、三次元の場合に限っては、基底二重ベクトルの数と基底ベクトルの数が一致し、各二重ベクトルを擬ベクトルと同一視することができる。
ドルストらはこの広い設定において四元数の占める優位性を以下のように同定した:
クリフォード代数のさらに詳細な幾何学的描像は幾何代数(英語版)の項を参照せよ。
四元数体 H は「本質的に」唯一の(非自明な)中心的単純環である。これは実数体上の任意の中心的単純環は R または H の何れかにブラウアー同値(森田同値)であるという意味である。明確に述べれば、R のブラウアー群は、R および H をそれぞれの代表元とする二つの同値類からなる。ここで、ブラウアー群というのは中心的単純環全体の成す集合を、一方の中心的単純環が他方の中心的単純環の上の全行列環となるという同値関係で割って得られるものであった。アルティン・ウェダーバーンの定理(のウェダーバーンの部分)によって、任意の中心的単純環は何らかの斜体上の行列環となるから、従って四元数体が実数体上で唯一の非自明な多元体であることが分かる。
中心的単純環(体上の環であって、それ自身が体同様に非自明な両側イデアルを持たないという意味で単純環であり、かつその中心が基礎体に一致するもの)は、体の拡大の非可換版の類似物であり、一般の環の拡大よりも限定的である。四元数体が実数体上の(同値を除いて)唯一の非自明な中心的単純環であるという事実は、複素数体が実数体上の唯一の非自明な拡大体であることに比肩する。 | [
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "このとき 1, i, j, k は実数体上線型独立である。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "四元数は純粋数学のみならず応用数学、特に3Dグラフィクスやコンピュータビジョンにおいて三次元での回転の計算(英語版)でも用いられる。これはオイラー角や回転行列あるいはそれらに代わる道具などとともに、必要に応じて利用される。",
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},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "四元数についての最初の記述は、1843年にアイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンによってなされ、3次元空間の力学に応用された。",
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},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "四元数の特徴は、積について非可換であることである。ハミルトンは、四元数を三次元空間内の二つの有向直線の商として定義した。これは二つのベクトルの商と言っても同じである。四元数をスカラーと三次元のベクトルとの和として表すこともできる。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "なお、虚数単位i,j,kについても非可換であることが知られている。",
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},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "現代数学の観点からは、四元数全体からなる集合は、実数体上の4次元結合的ノルム多元体であり、またそれゆえに非可換整域となる。歴史的には四元数の体系は、最初に発見された非可換多元体である。四元数全体の成すこの代数は、ハミルトンに因んで H(あるいは黒板太文字で H)と書かれる。またこの代数を、クリフォード代数 Cl0,2(R) ≅ Cl3,0(R) として定義することもできる。",
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},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "この代数 H は解析学において特別な位置を占めている。というのも、フロベニウスの定理に従えば H は実数全体 R を真の部分環として含む有限次元可除環の2種類しかないうちの一つ(もう一つは複素数全体 C)だからである。",
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},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "従って、単位四元数は三次元球面 S 上の群構造を選んだものとして考えることができて、群 Spin(3) を与える。これは 2次特殊ユニタリ群 SU(2) に同型、あるいはまた SO(3)(英語版)の普遍被覆に同型である。",
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},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "四元数の成す代数系は、1843年にウィリアム・ローワン・ハミルトンによって導入された。これにはオイラーの四平方恒等式(1748年)やオリンデ・ロドリゲス(英語版)の四つの径数を用いた一般の回転のパラメータ付け(英語版)(1840年)などを含む重要な先駆的研究があったが、何れもその四径数回転を代数として扱ったものではなかった。ガウスもまた1819年に四元数を発見していたのだが、そのことが公表されるのは1900年になってからのことである。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ハミルトンは複素数が座標平面における点として解釈できることを知っていて、三次元空間の点に対して同じことができる方法を探していた。空間の点はそれらの座標としての数の三つ組によって表すことができ、ハミルトンはそれらの三つ組に対して加法や減法をどのようにすべきかはずっと前から分かっていたのだが、乗法と除法をどう定めるかという問題については長く行き詰ったままであった。ハミルトンは、空間における二点の座標の商をどのように計算すべきかを形にすることができなかったのである。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "四元数についての大きな転換点がついに訪れたのは、1843年10月16日の月曜日、ダブリンにおいてハミルトンが理事会の長を務めることになるアイルランド王立アカデミー(英語版)への道すがら、妻とともにロイヤル運河(英語版)の引き船道に沿って歩いているときであった。四元数の背景となる概念が頭の中で形になり、答えが明らかになったとき、ハミルトンは衝動を抑えられずに、四元数の基本公式",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "を、渡っていたブルーム橋(英語版)の石に刻みつけた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "次の日ハミルトンは、友人でフェロー数学者であったジョン・グレイヴスへ宛てて、彼の発見へと至る一連の道筋をしたためた書簡を記している。この書簡は後に London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science, vol. xxv (1844), pp.489-95.で公表されている。この中でハミルトンは、",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "と述べている。ハミルトンは、これらの乗法規則を備えた四つ組を quaternion と呼び、残りの人生の大半をその研究と教育にささげた。ハミルトンによる取り扱い(英語版)は、四元数の代数的性質を強調する現代的なアプローチよりも幾何学的なものである。ハミルトンは \"quaternionists\" の学校を設立し、数々の本で四元数の普及を図った。最後にして最長の本が Elements of Quaternions(『四元数原論』)で800 ページにも及ぶ(出版されたのは彼の死後少ししてからである)。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ハミルトンの死後も弟子のテイトが四元数の振興を続けた。同時に、ダブリンでは四元数が試験の必須題目になっていた。物理学と幾何学の主題においては、今日ではベクトルを用いて記述するような空間の運動エネルギーやマクスウェルの方程式などが、まったく四元数の言葉で記述されていた。四元数やほかの超複素数系を専ら研究するプロの研究機関である四元数学会(英語版)さえ存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1880年代の半ばごろから、ギブス、ヘヴィサイド、ヘルムホルツらの創始したベクトル解析によって四元数は取って代わられるようになる。ベクトル解析は四元数と同じ現象を記述するために、四元数に関する文献から自由に用語法や考え方を拝借していたが、ベクトル解析の方が概念的に簡単で、記法もすっきりしていたので、遂には数学と物理学における四元数の役割は小さく追いやられることとなった。このような変遷の副作用で、現代的な読者にはハミルトンの仕事は難しく複雑なものと化してしまった。ハミルトンのオリジナルの定義は馴染みがなく、その書き振りは冗長で不明瞭である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "四元数は20世紀の後半になって、三次元の自由な回転を記述する能力を買われて、多用されることとなった。四元数による3次元の回転(姿勢)の表現は、3次正方行列による表現と比べて記憶容量が小さくて演算のスピードも速い。加えて、オイラー角と違ってジンバルロックが起きない。この特徴は、地上における上下方向のような絶対的な軸の無い、宇宙機のような三次元の自由度が完全にある場合の姿勢制御などでの利用に適しており、宇宙機以外にもCG、コンピュータビジョン、ロボット工学、制御理論、信号処理、物理学、生物情報学、分子動力学法、計算機シミュレーションおよび軌道力学など、他にも多くの応用がある。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、四元数は二次形式との関係性により、数論からの後押しも受けている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1989年以降、アイルランド国立大学メイヌース校の数学教室は、科学者(2002年には物理学者のマレー・ゲルマン、2005年にスティーヴン・ワインバーグなど)や数学者(2003年のアンドリュー・ワイルズなど)からなる、ダンシンク天文台からロイヤル運河の橋までを歩く巡礼の旅を開催している。ハミルトンが橋に刻みつけた公式はもはや見ることはできないが。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "P.R.ジラールのエッセイ The quaternion group and modern physics(「四元数群と現代物理学」)は、四元数の物理学における役割について論じている。それは現代代数学において \"数々の物理的な共変性の群:SO(3)、ローレンツ群、一般相対性群、クリフォード代数 SU(2) および共形群などが容易く四元数群に関連付けられることを示している\"。ジラールは群の表現論を議論し、結晶学に関するいくつかの空間群を表現することから始めて、続いて剛体運動の運動学、その後トーマス歳差(英語版)を含む特殊相対論のローレンツ群の表現に「複四元数」(complex quaternion)(双四元数(英語版))を用いている。ジラールはマクスウェルの方程式を四元数変数のポテンシャル函数を用いて一本の微分方程式に表したルドヴィク・シルバースタイン(英語版)をはじめとする5人の著者を引いている。一般相対性を考慮してルンゲ=レンツベクトルを表し、またクリフォード代数の例としてクリフォード複四元数(分解型双四元数(英語版))に言及した。最後にジラールは、複四元数の逆数を使って時空の共形写像について述べている。50にも及ぶ参考文献には、アレクサンダー・マクファーレン(英語版)および四元数学会におけるジラール自身の広報も含まれている。また、1999年にジラールはアインシュタインの一般相対性の方程式が如何にして四元数に直結するクリフォード代数を用いて定式化されるかを示している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "四元数についてのより個人的な見解をジョアキム・ランベック(英語版)が1995年に書いている。エッセイ If Hamilton had prevailed: quaternions in physics(「もしハミルトンが勝利していたら:物理学における四元数」)には \"My own interest as a graduate student was raised by the inspiring book by Silberstein\"(院生としての私の興味はシルバースタインの本に刺激を受けて生じた)とある。ランベックは He concluded by stating \"I firmly believe that quaternions can supply a shortcut for pure mathematicians who wish to familiarize themselves with certain aspects of theoretical physics.\"(「私は四元数が、理論物理学のある種の側面に習熟しようと望む純粋数学者へ、近道を与えるものと堅く信じる」)と述べることによって結論を下している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2007年、アレキサンダー・エフレモフとその共同研究者は、四元数空間幾何がヤン・ミルズ場と近しい関係にあることを示し、ダフィン・ケマー・ペティアウ方程式(英語版)とクライン-ゴルドン方程式への関連性を指摘した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "集合としては、四元数全体 H は実数体上の4次元数ベクトル空間 R に等しい。H には3 種類の演算(加法、スカラー乗法、四元数の乗法)が入る。H の二元の和は、R の元としての和で定義され、同様に H の元の実数倍も R におけるスカラー倍として定義される。H の二元の積を定めるには、まず R の基底を決めなければならないが、その元を通例 1, i, j, k と記す。H の各元はこれら基底元の線型結合で表される。つまり",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "の形に一意に表される。基底元 1 は H の乗法単位元であるため、通常省略して",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "と表すのが普通である。この基底が与えられたところで、四元数の結合的乗法は、初めに基底元同士の積を定義して、一般の積はそれを分配律を用いて拡張することで定義される。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "H の基底元 i, j, k に対して等式",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "は i, j, k の間の可能なすべての積を決定する。例えば − 1 = i j k {\\displaystyle -1=ijk} の両辺に k を右から掛ければ",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "を得る。他の積も同じようにして得られて、結局",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "が可能なすべての積を列挙したものとなる。これは左側の因子を列に、右側の因子を行にそれぞれ充てて、表の形にまとめることができる(乗積表)。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "二つの四元数 a1 + b1i + c1j + d1k と a2 + b2i + c2j + d2k に対し、それらのハミルトン積 (a1 + b1i + c1j + d1k)(a2 + b2i + c2j + d2k) は、基底間の積と分配律によって与えられる。具体的には、この積は分配律により基底元の積和の形に展開することができて、",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "となるので、ここで先の基底元の間の乗法規則を適用して",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "を得る。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "H の基底 1, i, j, k を用いて H を四つ組の集合",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "として表すことができる。このとき基底元は",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "であり、加法、乗法の定義式は",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "四元数 a + bi + cj + dk について、特に b = c = d = 0 であるものは実数体上のスカラーである。bi + cj + dk で、b, c, d の内少なくとも一つが、0 でないもの (bcd ≠ 0) を純虚 (pure imaginary) という。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "四元数 a + bi + cj + dk に対して、a をその実部 (real part) またはスカラー部 (scalar part) といい、bi + cj + dk をその虚部 (imagenary part) または ベクトル部 (vector part) という。四元数のスカラー部は実数であり、ベクトル部は 0 または純虚である。任意の四元数は4次元ベクトル空間のベクトルではあるけれども、ここではベクトルあるいはベクトル元という言葉を、専ら純虚四元数を指すのに用いる。この規約の下、ベクトル元ということはベクトル空間 R の元ということと同じ意味になる。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ハミルトンは純虚四元数を right quaternion(「正しい四元数」)と呼び、実(四元)数を scalar quaternion(「スカラー四元数」)と呼んだ。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "四元数をスカラー部とベクトル部に分解して",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "と表すと、加法、乗法の定義式は",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "となる。ここで \"⋅\" はベクトルのドット積、\"×\" はベクトルのクロス積である。特に、実部が 0 の四元数に対しては",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "四元数の共軛(きょうやく)は複素共役およびクリフォード代数の元の転置 (transposition) あるいは逆転 (reversal) の類似物である。四元数 q = a + bi + cj + dk に対して、q の共軛は",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "で定義される。これを q, q, q, ~q などで表す。共軛をとる操作は対合、つまり自身を自身の逆とする変換であり、一つの元の共軛を二度とればもとの元に戻る。2つの四元数の積の共軛は、それぞれの四元数の共軛を「順番を逆にして」掛けたものになる。つまり p, q を四元数とすれば",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "であって pq でない。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "複素数における共軛とは異なり、四元数の共軛は乗法と加法を用いて完全に書き表すことができる:",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "共軛を用いると、四元数 p の実部、虚部はそれぞれ",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "四元数 q のノルム ‖ q ‖ は、自身とその共軛の積の平方根として定義される:",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "(ハミルトンはこれを四元数のテンソルと呼んだが、この用語は現代的な意味でのテンソルと衝突する)",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "これは、H を数ベクトル空間 R と見なした時のユークリッドノルムに等しく、ノルムの公理を満たす。すなわち、常に非負の実数で、任意の2つの四元数 p, q に対して",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。特に、実数 α に対して",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "この乗法性は、積の共軛に関する式からの帰結である。あるいは、正方行列の行列式の乗法性と公式",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "(i は通常の虚数単位)から乗法性を示すこともできる。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "このノルムを使って、四元数 p と q の間の距離 d(p, q) を、それらの差のノルム (d(p, q) = ‖ p − q ‖) として定義することができる。これにより H は距離空間となり、加法と乗法はこの距離位相に関して連続になる。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ノルムが 1 の四元数を単位四元数という。0 でない四元数 q に対して、そのノルムで割って得られる単位四元数",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "を、q のベルソル(英語版)という。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "任意の四元数 q は、その極分解(英語版)",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "を持つ。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "共軛とノルムにより、四元数の逆数(自身との積が 1 である数)が得られる:",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "これにより、2つの四元数 p, q に対して、二種類の除法が定義される。即ち、それらの商は pq または qp のどちらかである。複素数(一般には可換体)の範囲と異なり、p/q と書くと q で左から割っているのか右から割っているのかが特定されないため紛らわしい。",
"title": "共軛、ノルムおよび逆数"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "四元数全体のなす集合 H は実数体上の 4次元ベクトル空間を成す(実数全体は 1次元、複素数全体は 2次元、八元数全体は 8次元である)。四元数は加法と、結合的で分配的な乗法を持つが、その乗法は可換でない。従って四元数の全体 H は実数体上の非可換結合多元環である。H には複素数体 C の複製が含まれるが、H は C 上の結合多元環にはならない。",
"title": "代数的性質"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "四元数は除法が可能であるから、H は多元体(乗法が可換でないことを除けば可換体と同様の構造)である。実数体上の有限次元結合的多元体は非常に少なく、フロベニウスの定理はそれが R, C, H のちょうど3種類であることを述べるものである。また、四元数のノルムにより四元数の全体はノルム多元環となるが、実数体上のノルム多元体もまた非常に限られ、フルヴィッツの定理(英語版)はそれが R, C, H, O の四種類(O は八元数全体)であることを述べる。四元数全体はまた、合成代数や単位的バナッハ環の一例でもある。",
"title": "代数的性質"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "基底元の積は別の基底元に符号を付けたものになるから、集合 {±1, ±i, ±j, ±k} はその乗法に関して群を成す。この群は四元数群と呼ばれ、Q8 で表す。Q8 の実係数群環 RQ8 は環であり、また R 上の 8次元ベクトル空間でもあり、Q8 の各元を基底ベクトルに持つ。四元数体 H は RQ8 を 1 + (−1), i + (−i), j + (−j), k + (−k) で生成するイデアルで割った剰余環になっている。ここで、生成元となっている各差の第一項は基底元 1, i, j, k のそれぞれ一つであり、第二項は残りの基底元 −1, −i, −j, −k のそれぞれ一つであって、これらは 1, i, j, k の(群環の加法に関する)加法的逆元でないことに注意(剰余環、つまり H の中では加法逆元になる)。",
"title": "代数的性質"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "四元数のベクトル部は R のベクトルゆえ、R の幾何は四元数の代数構造に反映される。ベクトルに対する多くの演算は四元数を用いて定義することができるし、それによって四元数的な手法を空間ベクトルから生じる様々なものに適用することができる。例えば、電磁気学や3DCGなどにこの方法論が使える。",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "本節では i, j, k を H の虚基底ベクトルと R の基底の両方の意味で用いる。i, j, k を一斉にそれぞれ −i, −j, −k に取り替えることはベクトルを加法的逆元(マイナス)へ写すので、ベクトルの加法的逆元をとることと四元数の共軛をとることとは同じ意味になることに注目しよう。これを以って、四元数の共軛を「空間反転」(spatial inverse) と呼ぶことがある。",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "2つの純虚四元数 p = b1i + c1j + d1k, q = b2i + c2j + d2k に対して、それらのドット積は",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。これは pq, qp, pq, qp のどのスカラー部にも等しい(これらのベクトル部は相異なることに注意)。それゆえドット積については",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "という等式も成り立つ。また、p と q のクロス積は基底 (i, j, k) の元の順序(から定まる向き)に依存して",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "と定義される(符号を決めるために向きが必要であることを想起せよ)。これは四元数としての積 pq のベクトル部に等しく、−qp のベクトル部とも同じく等しい。ゆえに、これについても",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "なる等式が成り立つ。一般に p, q が四元数(純虚でなくてよい)のとき、これをスカラー部とベクトル部との和",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "に分解すれば、等式",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "が成り立つ。これを見ると、四元数の乗法の非可換性が純虚四元数の乗法からくるものであることが分かり、また2つの四元数が可換となるための必要十分条件がそれらのベクトル部が共線となることなども分かる。",
"title": "四元数と R3 の幾何"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "複素数の行列表現と全く同様に、四元数も行列で表現することができる。四元数を行列で表現し、四元数の加法と乗法を行列のそれに対応させる方法は、少なくとも二つあり、一つは 複素 2次正方行列を用いるもの、もう一つは実 4次正方行列を用いるものである。何れの場合も、表現は線型に関連する表現の族として与えられるもので、抽象代数学の観点からは、H からそれぞれ全行列環 M2(C) および M4(R) への単射環準同型である。",
"title": "行列表現"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "複素 2次正方行列を用いて、四元数 a + bi + cj + dk は",
"title": "行列表現"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "と表現される。この表現は以下の性質を持つ:",
"title": "行列表現"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "実 4次正方行列を用いれば、同じ四元数は",
"title": "行列表現"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "で表される。この表現では、四元数の共軛は対応する行列の転置に対応する。また、四元数のノルムの四乗は対応する行列の行列式に等しい。複素数は、行列を 2 × 2 のブロックに分けたときの区分対角行列に対応する。",
"title": "行列表現"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "四元数を、数論におけるラグランジュの四平方和定理(任意の非負整数が四つの整数の平方の和で表せること)の証明に用いることもできる。ラグランジュの四平方和定理は定理それ自体が美しいだけでなく、組合せデザイン(英語版)のような数論以外の数学の分野においても有意な応用を持つ。四元数に基づく証明では四元数全体ではなくその部分環でユークリッドの互除法が使えるフルヴィッツ整数環(英語版)が用いられる。",
"title": "四平方和定理"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "四元数は複素数の対として表現することができる。この側面からは、四元数は複素数全体にケーリー=ディクソン構成を適用して得られたものということになる。これは、複素数の実数の対としての構成を一般化したものである。",
"title": "複素数の対として"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "C を複素数体上の二次元ベクトル空間とし、基底 (1, j) をとる。C に属するベクトルは",
"title": "複素数の対として"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "と表される。ここで j = −1 および ij = −ji であるものと定めると、分配律により二つのベクトルの掛け算が定義できる。いま、積 ij を k とおくと、通常の四元数の乗法規則と同じになるので、従って上記の複素ベクトルは四元数",
"title": "複素数の対として"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "に対応するものである。C の元を順序対として、四元数を四つ組としてそれぞれ書けば、この対応は",
"title": "複素数の対として"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "となる。",
"title": "複素数の対として"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "−1 の平方根は、複素数の範囲では ±i であるが、H では −1 の平方根は無数に存在する。x = −1 の四元数解は三次元空間内の単位球面を成すのである。これを見るのに q = a + bi + cj + dk を四元数とし、その平方が −1 に等しいものと仮定する。a, b, c, d が満たすべき条件は",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "である。後の3つの方程式より a = 0 または b = c = d = 0 であるが、後者は残りの方程式から a = −1 となり、a は実数であるから不可能である。故に a = 0 ⋀ b + c + d = 1 となる。即ち、平方が −1 になる四元数は、ノルムが 1 の純虚四元数であることが分かる。定義により、このような四元数全体の成す集合は2次単位球面である。",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "故に、負の実四元数は無数の平方根を持つことも分かるが、それ以外の四元数の平方根はただ二つ(0 についてはただ一つ)である。",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "H における −1 の平方根のこのような同定はハミルトンが与えているが、他の文献では触れられないことがよくある。1971年にサム・パーリスは −1 の平方根の成す球面について、米国数学教師評議会(英語版)出版の「代数学における歴史的話題」(Historical Topics in Algebra p.39) において3ページを割いて触れている。より近くでは、イアン・ポーティアス(英語版)の本「クリフォード代数と古典群」(Clifford Algebras and the Classical Groups Cambridge, 1995, proposition 8.13, p.60) にこの球面についての記述があり、また Conway & Smith (2003) のp.40には「任意の虚数単位を i, それに直交する虚数単位の一つを j, それらの積を k」(\"any imaginary unit may be called iTemplate:, and perpendicular one j, and their product k\") として、この球面についての別な言明がある。",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "−1 の平方根のどの二つをとっても、四元数の中で複素数の相異なる複製を作ることができる。 q = −1 とすれば、そのような複製は写像",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "によって決定される。抽象代数学の言葉でいえば、それぞれが C から H への単射環準同型(埋め込み)である。q と −q に対応する埋め込みの像は集合としては同じになる。",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "任意の実でない四元数は C に同型な H の部分空間上にあることを見よう。四元数 q をスカラー部とベクトル部の和として",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "とし、さらにベクトル部をノルムとベルソルの積に分解(極分解)して、",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "と書く(これは qs + ‖ q ‖Uq とは異なることに注意)。q のベクトル部のベルソル Uq→v は純虚な単位四元数ゆえ、その平方は −1 である。従ってこれから、写像",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "によって複素数の複製が得られるが、この写像の下で q は複素数 qs + ‖ q→v ‖i の像になる。",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "以上から、H は実数直線を共通の交わりとして持つ無数の複素数平面の合併であることが分かる。ただし、この合併は −1 の平方根の成す球面全体を(球面の対蹠点が同じ平面に対応することを踏まえた上で)わたって取ったものである。",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "各四元数が H のどの部分複素数平面に含まれるかという関係性は、可換部分環族の言葉を使っても同定し書き表すことができる。具体的に言えば、二つの四元数 p と q が可換 (pq = qp) となるのはそれらが H の同じ部分複素数平面上にあるときに限られるだから、四元数全体の成す環の可換部分環を全て求めたければ、そこに複素数平面の合併として H の prófile が生じる。この可換部分環を求める方法は、分解型四元数(英語版)全体や実二次正方行列全体の性質を知るのにも利用できる。",
"title": "−1 の平方根"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "複素変数の函数同様に、四元変数の函数から有効な物理モデルが得られることが示唆される。例えば、マクスウェルによるもともとの電磁場の記述には四元変数函数が用いられていた。",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "四元数",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "に対して、指数函数は",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "と計算され、その逆函数として対数函数は",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "として与えられる。 これを用いて、四元数の極分解を",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "の形に書くことができる。ここで角 θ および単位ベクトル n ^ {\\displaystyle {\\hat {n}}} は",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "および",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "で定まるものである。任意の単位四元数は極形式として",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "と表される。",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "任意の実数を冪指数とする四元数の冪は",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。",
"title": "四元数を変数とする函数"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "「共軛(きょうやく)」あるいは「共軛変換(英語版)」という言葉は、上で述べた意味以外にも、適当な非零元 r によって元 a を rar へ写す変換(内部自己同型)の意味にも使われる。この変換の意味で与えられた元に共軛な元の全体は、実部が等しく、かつベクトル部のノルムも等しい(従って、共軛四元数はこの変換の意味でも共軛元である)。",
"title": "三次元および四次元の回転群"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "故に、非零四元数全体の成す乗法群は、純虚四元数全体の成す R の複製の上に共軛変換によって作用する。このとき、実部が 〖cos〗θ である単位四元数による共軛変換は、虚部方向を回転の軸とする回転角 2θ の回転になる。四元数を用いる優位性としては、",
"title": "三次元および四次元の回転群"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "などが挙げられる。",
"title": "三次元および四次元の回転群"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "単位四元数(ベルソル)の全体は三次元球面 S を成し、また乗法に関して群を成し、3次特殊直交群(行列式が 1 の 3次直交行列全体)〖SO〗(3,R) の二重被覆群というリー群になる(これは上記の対応において各回転に対応する単位四元数がちょうど「2つ」あることによる)。",
"title": "三次元および四次元の回転群"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "(S 自体には標準的な群構造はないが)ベルソルの成す部分群の像は点群であり、逆に点群の逆像はベルソル全体の成す部分群となる。有限点群の逆像は、それぞれの点群の名前に二項 (binary) を付けて呼ぶ。例えば二十面体群の逆像は二項二十面体群である。",
"title": "三次元および四次元の回転群"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "ベルソル全体の成す群は、2次特殊ユニタリ群 〖SU〗(2) に同型である。",
"title": "三次元および四次元の回転群"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "a, b, c, d が何れも整数となるかまたは何れも分母が2の既約分数である有理数となる四元数 a + bi + cj + dk 全体の成す集合を A とする。集合 A は環(実は整域)であり、また束であって、フルヴィッツ整数環と呼ばれる。この環は 24 個の単位四元数を持ち、それらは正24胞体(シュレーフリ記号で {3,4,3})の頂点になっている。",
"title": "三次元および四次元の回転群"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "F を標数が 2 でない体とし、a, b を F の元とする。(1, i, j, ij) を基底とし、i = a, j = b, ij = −ji(従って (ij) = −ab)を満たす F 上の四次元単位的結合多元環が定義できる。これらは四元数環と呼ばれ、a, b の選び方に依り F 上の 2次正方行列に同型であるか、さもなくば F 上の多元体を成す。",
"title": "一般化"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "幾何学的計算に対する四元数の有用性は、四元数体をクリフォード代数 Cl3,0(R) の偶部分 Cl3,0(R) と同一視することによって、他の次元にも一般化することができる。これは基本基底元 σ1, σ2, σ3 から構成される結合的多重ベクトル環で、基底元は",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "なる積の規則に従う。これらの基本基底元が三次元空間のベクトルを表すものとすれば、ベクトル r の単位ベクトル w に直交する平面に関する鏡映 (reflection) が",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "で表され、二つの鏡映の合成はそれぞれの鏡映に対する平面同士のなす角の二倍の回転角をもつ回転を与えることから、",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "は σ1 と σ2 とを含む平面における 180° 回転が対応する。これは四元数の対応する公式",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "とよく似ているが、実はこの二つは同一視できる。それには",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "と同一視して、かつこれがハミルトンの関係式",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "を保つことを確認すればよい。この描像において、四元数はベクトルではなく二重ベクトル (bivector) に対応する(これは一次元的な「向き」ではなくて、特定の二次元平面に付随する向きと大きさを持った量である)。また、複素数との関係もより明らかになる。つまり、二次元ではそれぞれ σ1 と σ2 の方向を持つ二つのベクトルに対して、ただ一つの基底二重ベクトル元 σ1σ2 が存在するから、虚数単位は一つだけしかないが、ベクトルの方向が三つある三次元では、三つの二重ベクトル基底 σ1σ2, σ2σ3, σ3σ1 が存在して、三つの虚数単位を持つ。",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "この理由付けはさらに拡張することができて、クリフォード代数 Cl4,0(R) においては、基本となるベクトルが相異なる四つの方向を持つから、従って平面を張る線型独立な組は六種類であり、二重ベクトル基底元は六つ存在する。このような空間において、回転子 (rotor) と呼ばれるそのような四元数の拡張を用いた回転は、斉次座標系を用いた応用において非常に有効である。しかし、三次元の場合に限っては、基底二重ベクトルの数と基底ベクトルの数が一致し、各二重ベクトルを擬ベクトルと同一視することができる。",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "ドルストらはこの広い設定において四元数の占める優位性を以下のように同定した:",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "クリフォード代数のさらに詳細な幾何学的描像は幾何代数(英語版)の項を参照せよ。",
"title": "クリフォード代数 Cℓ3,0(R) の偶部分としての四元数体"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "四元数体 H は「本質的に」唯一の(非自明な)中心的単純環である。これは実数体上の任意の中心的単純環は R または H の何れかにブラウアー同値(森田同値)であるという意味である。明確に述べれば、R のブラウアー群は、R および H をそれぞれの代表元とする二つの同値類からなる。ここで、ブラウアー群というのは中心的単純環全体の成す集合を、一方の中心的単純環が他方の中心的単純環の上の全行列環となるという同値関係で割って得られるものであった。アルティン・ウェダーバーンの定理(のウェダーバーンの部分)によって、任意の中心的単純環は何らかの斜体上の行列環となるから、従って四元数体が実数体上で唯一の非自明な多元体であることが分かる。",
"title": "ブラウアー群"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "中心的単純環(体上の環であって、それ自身が体同様に非自明な両側イデアルを持たないという意味で単純環であり、かつその中心が基礎体に一致するもの)は、体の拡大の非可換版の類似物であり、一般の環の拡大よりも限定的である。四元数体が実数体上の(同値を除いて)唯一の非自明な中心的単純環であるという事実は、複素数体が実数体上の唯一の非自明な拡大体であることに比肩する。",
"title": "ブラウアー群"
}
] | 数学における四元数とは、複素数を拡張した数体系であり、虚数単位 i, j, k を用いて と表せる数のことである。ここで、a, b, c, d は実数であり、虚数単位 i, j, k は以下の関係を満たす。 このとき 1, i, j, k は実数体上線型独立である。 四元数は純粋数学のみならず応用数学、特に3Dグラフィクスやコンピュータビジョンにおいて三次元での回転の計算でも用いられる。これはオイラー角や回転行列あるいはそれらに代わる道具などとともに、必要に応じて利用される。 四元数についての最初の記述は、1843年にアイルランドの数学者ウィリアム・ローワン・ハミルトンによってなされ、3次元空間の力学に応用された。 四元数の特徴は、積について非可換であることである。ハミルトンは、四元数を三次元空間内の二つの有向直線の商として定義した。これは二つのベクトルの商と言っても同じである。四元数をスカラーと三次元のベクトルとの和として表すこともできる。 なお、虚数単位i,j,kについても非可換であることが知られている。 現代数学の観点からは、四元数全体からなる集合は、実数体上の4次元結合的ノルム多元体であり、またそれゆえに非可換整域となる。歴史的には四元数の体系は、最初に発見された非可換多元体である。四元数全体の成すこの代数は、ハミルトンに因んで Hと書かれる。またこの代数を、クリフォード代数 Cℓ0,2(R) ≅ Cℓ03,0(R) として定義することもできる。 この代数 H は解析学において特別な位置を占めている。というのも、フロベニウスの定理に従えば H は実数全体 ℝ を真の部分環として含む有限次元可除環の2種類しかないうちの一つだからである。 従って、単位四元数は三次元球面 S3 上の群構造を選んだものとして考えることができて、群 Spin(3) を与える。これは 2次特殊ユニタリ群 SU(2) に同型、あるいはまた SO(3)の普遍被覆に同型である。 | {{More footnotes|date=2009-10}}
{|class="wikitable" style="text-align:center;margin:1ex 1em;float:right"
|+四元数の単位の乗積表
!{{math|×}}!!{{math|1}}!!{{mvar|i}}!!{{mvar|j}}!!{{mvar|k}}
|-
!{{math|1}}
|{{math|1}}||{{mvar|i}}||{{mvar|j}}||{{mvar|k}}
|-
!{{mvar|i}}
|{{mvar|i}}||{{math|−1}}||{{mvar|k}}||{{math|−''j''}}
|-
!{{mvar|j}}
|{{mvar|j}}||{{math|−''k''}}||{{math|−1}}||{{mvar|i}}
|-
!{{mvar|k}}
|{{mvar|k}}||{{mvar|j}}||{{math|−''i''}}||{{math|−1}}
|}
[[数学]]における'''四元数'''(しげんすう、{{lang-en-short|''quaternion''}})とは、[[複素数]]を拡張した[[数]]体系であり、[[虚数単位]] {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} を用いて
:{{math2|''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}}
と表せる数のことである。ここで、{{math2|''a'', ''b'', ''c'', ''d''}} は[[実数]]であり、虚数単位 {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} は以下の関係を満たす。
:<math>i^2=j^2=k^2=ijk=-1</math>
このとき {{math2|[[1]], ''i'', ''j'', ''k''}} は実数体上[[線型独立]]である。
四元数は純粋数学のみならず[[応用数学]]、特に[[3次元コンピュータグラフィックス|3Dグラフィクス]]や[[コンピュータビジョン]]において{{仮リンク|四元数と空間における回転|en|quaternions and spatial rotation|label=三次元での回転の計算}}でも用いられる。これは[[オイラー角]]や[[回転行列]]あるいはそれらに代わる道具などとともに、必要に応じて利用される。
四元数についての最初の記述は、[[1843年]]に[[アイルランド]]の数学者[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]によってなされ<ref>{{Cite conference |title=On Quaternions; or on a new System of Imaginaries in Algebra (letter to John T. Graves, dated October 17, 1843) |year=1843}}</ref><ref>{{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=DRLpAFZM7uwC&lpg=PA385&ots=Zx5CHBJ9Lk&dq=%22On%20Quaternions;%20or%20on%20a%20new%20System%20of%20Imaginaries%20in%20Algebra%22&pg=PA385#v=onepage&q=%22On%20Quaternions%3B%20or%20on%20a%20new%20System%20of%20Imaginaries%20in%20Algebra%22&f=true |title=The history of non-euclidean geometry: evolution of the concept of a geometric space |year=1988 |publisher=Springer |author=Boris Abramovich Rozenfelʹd |page=385}}</ref>、[[3次元]]空間の[[力学]]に応用された。
四元数の特徴は、積について[[非可換]]であることである。ハミルトンは、四元数を三次元空間内の二つの有向直線の商として定義した<ref>{{Cite book |url=https://books.google.com/?id=TCwPAAAAIAAJ&printsec=frontcover&dq=quaternion+quotient+lines+tridimensional+space+time#PPA60,M1 |title=Hamilton |page=60 |year=1853 |publisher=Hodges and Smith}}</ref>。これは二つのベクトルの商と言っても同じである<ref>{{Cite book |url=https://books.google.com/?id=YNE2AAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=quotient+two+vectors+called+quaternion#PPA32,M1 |title=Hardy 1881 pg. 32 |year=1881 |publisher=Ginn, Heath, & co.}}</ref>。四元数を[[スカラー (数学)|スカラー]]と三次元の[[空間ベクトル|ベクトル]]との和として表すこともできる。
なお、虚数単位i,j,kについても非可換であることが知られている。
現代数学の観点からは、四元数全体からなる集合は、実数[[可換体|体]]上の[[4次元]][[結合法則|結合的]][[ノルム多元体]]であり、またそれゆえに[[非可換整域]]となる。歴史的には四元数の体系は、最初に発見された[[非可換多元体]]である<ref>{{Cite journal |url=http://www.journaloftheoretics.com/articles/3-6/qm-pub.pdf |journal=Journal of Theoretics}}</ref>。四元数全体の成すこの代数は、ハミルトンに因んで '''H'''(あるいは[[黒板太文字]]で {{Unicode|ℍ}})と書かれる。またこの代数を、[[クリフォード代数]] {{math|''C''ℓ{{sub|0,2}}⁡('''R''') ≅ ''C''ℓ{{sup|0}}{{sub|3,0}}⁡('''R''')}} として定義することもできる。
この代数 {{mathbf|H}} は解析学において特別な位置を占めている。というのも、[[フロベニウスの定理 (代数学)|フロベニウスの定理]]に従えば {{mathbf|H}} は実数全体 ℝ を真の[[部分環]]として含む有限次元[[可除環]]の2種類しかないうちの一つ(もう一つは複素数全体 ℂ)だからである。
従って、単位四元数は[[三次元球面]] {{math|''S''{{sup|3}}}} 上の群構造を選んだものとして考えることができて、群 {{math|[[Spin(3)|Spin⁡(3)]]}} を与える。これは {{math|2}}次[[特殊ユニタリ群]] {{math|''SU''⁡(2)}} に同型、あるいはまた {{仮リンク|三次回転群|en|Rotation group SO(3)|label={{math|SO⁡(3)}}}}の[[普遍被覆]]に同型である。
[[画像:Quaternion2.png|300px|thumb|四元数数の単位の積を四次元空間の {{math|90°}} 回転として視覚的に表現したもの。{{math2|1=''ij'' = ''k'', ''ji'' = −''k'', ''ij'' = −''ji''}}]]
== 歴史 ==<!--
{{main|{{仮リンク|四元数の歴史|en|History of quaternions}}}}-->
[[画像:William Rowan Hamilton Plaque - geograph.org.uk - 347941.jpg|thumb|[[ダブリン]]の[[ブルーム橋]]にある四元数を記念する盾。碑文には{{quote|Here as he walked by<br>on the 16th of October 1843<br>William Rowan Hamilton<br>in a flash of genius discovered<br>the fundamental formula for<br>quaternion multiplication<br> {{math2|1=''i''{{sup|2}} = ''j''{{sup|2}} = ''k''{{sup|2}} = ''ijk'' = −1}}<br>& cut it on a stone of this bridge(1843年の10月16日、ここを通りかかったウィリアム・ローワン・ハミルトンは、天才の閃きを以って四元数の乗法の基本公式(略)を思いつき、この橋の石にそれを刻んだ)}}とある。]]
四元数の成す代数系は、[[1843年]]に[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]によって導入された<ref name="SeeHazewinkel">{{harvtxt|Hazewinkel|et. al.|2004| p=12}}</ref>。これには[[オイラーの四平方恒等式]](1748年)や{{仮リンク|オリンデ・ロドリゲス|en|Olinde Rodrigues}}の{{仮リンク|オイラー・ロドリゲスパラメータ|label=四つの径数を用いた一般の回転のパラメータ付け|en|Euler–Rodrigues formula}}(1840年)などを含む重要な先駆的研究があったが、何れもその四径数回転を代数として扱ったものではなかった<ref>{{Cite book |author1=[[ジョン・ホートン・コンウェイ]] |first2=Derek Alan |last2=Smith |title=On quaternions and octonions: their geometry, arithmetic, and symmetry |year=2003 |isbn=1-56881-134-9 |url=https://books.google.com/books?id=E_HCwwxMbfMC&pg=PA9 |page=9}}</ref><ref>{{Cite book |author=Robert E. Bradley, Charles Edward Sandifer |title=Leonhard Euler: life, work and legacy |year=2007 |isbn=0-444-52728-1 |url=https://books.google.com/books?id=75vJL_Y-PvsC&pg=PA193| page=193}}. 著者らは[[ヴィルヘルム・ブラシュケ]]が1959年に唱えた「四元数を初めて同定したのはオイラーで、それは1748年の5月4日のゴールドバッハへ向けた書簡においてである」("the quaternions were first identified by L. Euler in a letter to Goldbach written on May 4, 1748,") という主張に言及し「この書簡においてオイラーが四元数を『同定した』というのは如何にもナンセンスで… この主張は馬鹿げている」("it makes no sense whatsoever to say that Euler "identified" the quaternions in this letter... this claim is absurd.") と評している。</ref>。[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]もまた1819年に四元数を発見していたのだが、そのことが公表されるのは1900年になってからのことである<ref>{{Cite journal |author=Simon L. Altmann |journal=Mathematics Magazine |volume=62 |title=Hamilton, Rodrigues, and the Quaternion Scandal |issue=5 |date=1989-12 |page=306 |url=https://www.jstor.org/stable/2689481}}</ref>。
ハミルトンは[[複素数]]が[[直交座標系|座標平面]]における[[点 (幾何学)|点]]として解釈できることを知っていて、三次元空間の点に対して同じことができる方法を探していた。空間の点はそれらの座標としての数の三つ組によって表すことができ、ハミルトンはそれらの三つ組に対して加法や減法をどのようにすべきかはずっと前から分かっていたのだが、乗法と除法をどう定めるかという問題については長く行き詰ったままであった。ハミルトンは、空間における二点の座標の商をどのように計算すべきかを形にすることができなかったのである。
四元数についての大きな転換点がついに訪れたのは、1843年10月16日の月曜日、[[ダブリン]]においてハミルトンが理事会の長を務めることになる{{仮リンク|アイルランド王立アカデミー|en|Royal Irish Academy}}への道すがら、妻とともに{{仮リンク|ロイヤル運河|en|Royal Canal}}の引き船道に沿って歩いているときであった。四元数の背景となる概念が頭の中で形になり、答えが明らかになったとき、ハミルトンは衝動を抑えられずに、四元数の基本公式
:<math>i^2 = j^2 = k^2 = ijk = -1</math>
を、渡っていた{{仮リンク|ブルーム橋|en|Broom Bridge}}の石に刻みつけた。
次の日ハミルトンは、友人でフェロー数学者であったジョン・グレイヴスへ宛てて、彼の発見へと至る一連の道筋をしたためた書簡を記している。この書簡は後に ''London, Edinburgh, and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science'', vol. xxv (1844), pp.489-95.<ref>{{Harvtxt|Hamilton|1844|pp=489-495}}</ref>で公表されている。この中でハミルトンは、
{|class="wikitable"
!style="width:50%"|原文
!style="width:50%"|邦訳
|-
|''And here there dawned on me the notion that we must admit, in some sense, a fourth dimension of space for the purpose of calculating with triples ... An electric circuit seemed to close, and a spark flashed forth.''
|そしてここで、三つ組を計算するという目的のために、空間の四番目の次元を我々はある意味で認めねばならないのだという考えが、私に光をもたらしたのだ… [[電気回路]]が閉じて(つながり)、目の前に火花が散ったかのようだった。
|}
と述べている。ハミルトンは、これらの乗法規則を備えた四つ組を ''quaternion'' と呼び、残りの人生の大半をその研究と教育にささげた。{{仮リンク|古典的なハミルトンの四元数|en|Classical Hamiltonian quaternions|label=ハミルトンによる取り扱い}}は、四元数の代数的性質を強調する現代的なアプローチよりも[[幾何学]]的なものである。ハミルトンは "quaternionists" の学校を設立し、数々の本で四元数の普及を図った。最後にして最長の本が ''Elements of Quaternions''(『四元数原論』)で{{val|800|u=ページ}}にも及ぶ(出版されたのは彼の死後少ししてからである)。
ハミルトンの死後も弟子の[[ピーター・ガスリー・テイト|テイト]]が四元数の振興を続けた。同時に、ダブリンでは四元数が試験の必須題目になっていた。物理学と幾何学の主題においては、今日ではベクトルを用いて記述するような空間の[[運動エネルギー]]や[[マクスウェルの方程式]]などが、まったく四元数の言葉で記述されていた。四元数やほかの[[超複素数系]]を専ら研究するプロの研究機関である{{仮リンク|四元数学会|en|Quaternion Society}}さえ存在した。
1880年代の半ばごろから、[[ウィラード・ギブズ|ギブス]]、[[オリヴァー・ヘヴィサイド|ヘヴィサイド]]、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ|ヘルムホルツ]]らの創始した[[ベクトル解析]]によって四元数は取って代わられるようになる。ベクトル解析は四元数と同じ現象を記述するために、四元数に関する文献から自由に用語法や考え方を拝借していたが、ベクトル解析の方が概念的に簡単で、記法もすっきりしていたので、遂には[[数学]]と[[物理学]]における四元数の役割は小さく追いやられることとなった。このような変遷の副作用で、現代的な読者にはハミルトンの仕事は難しく複雑なものと化してしまった。ハミルトンのオリジナルの定義は馴染みがなく、その書き振りは冗長で不明瞭である。
四元数は20世紀の後半になって、三次元の自由な回転を記述する能力を買われて、多用されることとなった。四元数による3次元の回転(姿勢)の表現は、3次正方行列による表現と比べて記憶容量が小さくて演算のスピードも速い。加えて、[[オイラー角]]と違って[[ジンバル#ジンバルロック|ジンバルロック]]が起きない。この特徴は、地上における上下方向のような絶対的な軸の無い、[[宇宙機]]のような三次元の自由度が完全にある場合の[[姿勢制御]]などでの利用に適しており<ref>HAKMEM (1972) のアイテム107に "attitude of the spacecraft" が四元数でストアされている、という表現がある。</ref>、宇宙機以外にも[[コンピュータグラフィックス|CG]]<ref>{{Cite journal |doi=10.1145/325165.325242 |author=[[Ken Shoemake]] |year=1985 |url=https://www.cs.cmu.edu/~kiranb/animation/p245-shoemake.pdf |title=Animating Rotation with Quaternion Curves |journal=Computer Graphics |volume=19 |issue=3 |pages=245-254}} Presented at [[SIGGRAPH]] '85.<br />「[[トゥームレイダー]]」(1996) は、四元数を利用してスムーズな3次元回転を実現した最初の販売用コンピューターゲームである。例えば、Nick Bobick's, "[https://www.gamasutra.com/view/feature/3278/rotating_objects_using_quaternions.php Rotating Objects Using Quaternions]", {{仮リンク|ゲーム・ディベロッパー (雑誌)|en|Game Developer (magazine)}}(1998年7月)を参照。</ref>、[[コンピュータビジョン]]、[[ロボット工学]]、[[制御理論]]、[[信号処理]]、[[物理学]]、[[バイオインフォマティクス|生物情報学]]、[[分子動力学法]]、[[計算機シミュレーション]]および[[軌道力学]]など、他にも多くの応用がある。
また、四元数は[[二次形式]]との関係性により、[[数論]]からの後押しも受けている。
1989年以降、[[メイヌース大学|アイルランド国立大学メイヌース校]]の数学教室は、科学者(2002年には物理学者の[[マレー・ゲルマン]]、2005年に[[スティーヴン・ワインバーグ]]など)や数学者(2003年の[[アンドリュー・ワイルズ]]など)からなる、[[ダンシンク天文台]]からロイヤル運河の橋までを歩く巡礼の旅を開催している。ハミルトンが橋に刻みつけた公式はもはや見ることはできないが。
=== 物理学への歴史的影響 ===
P.R.ジラールのエッセイ ''The quaternion group and modern physics''<ref>Girard, P. R. ''The quaternion group and modern physics'' (1984) Eur. J. Phys. vol 5, p. 25–32. {{doi|10.1088/0143-0807/5/1/007}}</ref>(「四元数群と現代物理学」)は、四元数の物理学における役割について論じている。それは[[現代代数学]]において "数々の物理的な共変性の群:SO⁡(3)、[[ローレンツ群]]、一般相対性群、[[クリフォード代数]] SU⁡(2) および共形群などが容易く{{仮リンク|四元数群|en|Quaternion group}}に関連付けられることを示している"。ジラールは[[群の表現]]論を議論し、[[結晶学]]に関するいくつかの[[空間群]]を表現することから始めて、続いて[[剛体]]運動の[[運動 (物理学)|運動学]]、その後{{仮リンク|トーマス歳差|en|Thomas precession}}を含む特殊相対論のローレンツ群の表現に「複四元数」(complex quaternion)({{仮リンク|双四元数|en|biquaternion}})を用いている。ジラールは[[マクスウェルの方程式]]を四元数変数の[[ポテンシャル]]函数を用いて一本の[[微分方程式]]に表した{{仮リンク|ルドヴィク・シルバースタイン|en|Ludwik Silberstein}}をはじめとする5人の著者を引いている。一般相対性を考慮して[[ルンゲ=レンツベクトル]]を表し、またクリフォード代数の例としてクリフォード複四元数({{仮リンク|分解型双四元数|en|split-biquaternion}})に言及した。最後にジラールは、複四元数の逆数を使って[[時空]]の[[共形写像]]について述べている。{{val|50}}にも及ぶ参考文献には、{{仮リンク|アレクサンダー・マクファーレン|en|Alexander Macfarlane}}および[[四元数学会]]におけるジラール自身の広報も含まれている。また、1999年にジラールはアインシュタインの一般相対性の方程式が如何にして四元数に直結するクリフォード代数を用いて定式化されるかを示している<ref>[http://clifford-algebras.org/v9/v92/GIRAR92.pdf Einstein's equations and Clifford algebra] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20101217224618/http://clifford-algebras.org/v9/v92/GIRAR92.pdf |date=2010年12月17日}}, Advances in Applied Clifford Algebras 9 No. 2, 225-230 (1999)</ref>。
四元数についてのより個人的な見解を{{仮リンク|ジョアキム・ランベック|en|Joachim Lambek}}が1995年に書いている。エッセイ ''If Hamilton had prevailed: quaternions in physics''(「もしハミルトンが勝利していたら:物理学における四元数」)には "My own interest as a graduate student was raised by the inspiring book by Silberstein"(院生としての私の興味はシルバースタインの本に刺激を受けて生じた)とある。ランベックは He concluded by stating "I firmly believe that quaternions can supply a shortcut for pure mathematicians who wish to familiarize themselves with certain aspects of theoretical physics."<ref>Lambek, J. ''If Hamilton had prevailed: quaternions in physics'' (1995) Math. Intelligencer, vol. 17, #4, p. 7—15. {{doi|10.1007/BF03024783}}</ref>(「私は四元数が、理論物理学のある種の側面に習熟しようと望む純粋数学者へ、近道を与えるものと堅く信じる」)と述べることによって結論を下している。
2007年、[[アレキサンダー・エフレモフ]]とその共同研究者は、四元数空間幾何が[[ヤン・ミルズ場]]と近しい関係にあることを示し、{{仮リンク|ダフィン・ケマー・ペティアウ方程式|en|Duffin–Kemmer–Petiau algebra}}と[[クライン-ゴルドン方程式]]への関連性を指摘した<ref>A. Yefremov, F. Smarandache, V. Christianto: [http://fs.gallup.unm.edu//PP-03-2007.pdf#page=43 ''Yang-Mills field from quaternion space geometry, and its Klein-Gordon representation''], Progress in Physics, vol. 3, July 2007, pp.42-50. Also in Florentin Smarandache (ed.): Hadron Models and Related New Energy Issues, InfoLearnQuest, 2007, ISBN 978-1-59973-042-4, [https://books.google.com/books?hl=de&lr=&id=AJPKXd2rkBQC&oi=fnd&pg=PA208 pp.208-219]</ref>。
== 定義 ==
集合としては、四元数全体 {{mathbf|H}} は[[実数]]体上の4次元[[数ベクトル空間]] {{math|ℝ{{sup|4}}}} に等しい。{{mathbf|H}} には{{val|3|u=種類}}の演算(加法、スカラー乗法、四元数の乗法)が入る。{{mathbf|H}} の二元の和は、{{math|'''R'''{{sup|4}}}} の元としての和で定義され、同様に {{mathbf|H}} の元の実数倍も {{math|'''R'''{{sup|4}}}} におけるスカラー倍として定義される。{{mathbf|H}} の二元の積を定めるには、まず {{math|'''R'''{{sup|4}}}} の[[基底 (線型代数学)|基底]]を決めなければならないが、その元を通例 {{math2|1, ''i'', ''j'', ''k''}} と記す。{{mathbf|H}} の各元はこれら基底元の[[線型結合]]で表される。つまり
:{{math|''a''1 + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}}({{math2|''a'', ''b'', ''c'', ''d''}} は[[実数]])
の形に一意に表される。基底元 {{math|1}} は {{mathbf|H}} の乗法[[単位元]]であるため、通常省略して
: {{math|''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}}
と表すのが普通である。この基底が与えられたところで、四元数の[[結合法則|結合的]]乗法は、初めに基底元同士の積を定義して、一般の積はそれを分配律を用いて拡張することで定義される。
=== 基底間の乗法 ===
{|class="wikitable" style="text-align:center;margin:1ex 1em;float:left"
|+単位の乗積表
!{{math|×}}!!{{math|1}}!!{{mvar|i}}!!{{mvar|j}}!!{{mvar|k}}
|-
!1
|{{math|1}}||{{mvar|i}}||{{mvar|j}}|||{{mvar|k}}
|-
!{{mvar|i}}
|{{mvar|i}}||{{math|−1}}||{{mvar|k}}||{{math|−''j''}}
|-
!{{mvar|j}}
|{{mvar|j}}||{{math|−''k''}}||{{math|−1}}||{{mvar|i}}
|-
!{{mvar|k}}
|{{mvar|k}}||{{mvar|j}}||{{math|−''i''}}||{{math|−1}}
|}
{{mathbf|H}} の基底元 {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} に対して等式
:<math>i^2=j^2=k^2=ijk=-1</math>
は {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} の間の可能なすべての積を決定する。例えば <math>-1=ijk</math> の両辺に {{mvar|k}} を右から掛ければ
:<math>\begin{align}
-k &=ijkk=ij(k^2) =ij(-1), \\
k &=ij.
\end{align}</math>
を得る。他の積も同じようにして得られて、結局
:<math>\begin{alignat}{2}
ij &=k, &\qquad ji &=-k, \\
jk &=i, &kj &=-i, \\
ki &=j, &ik &=-j,
\end{alignat}</math>
が可能なすべての積を列挙したものとなる。これは左側の因子を列に、右側の因子を行にそれぞれ充てて、表の形にまとめることができる([[積表|乗積表]])。
=== ハミルトン積 ===
二つの四元数 {{math|''a''{{sub|1}} + ''b''{{sub|1}}''i'' + ''c''{{sub|1}}''j'' + ''d''{{sub|1}}''k''}} と {{math|''a''{{sub|2}} + ''b''{{sub|2}}''i'' + ''c''{{sub|2}}''j'' + ''d''{{sub|2}}''k''}} に対し、それらの'''ハミルトン積''' {{math|(''a''{{sub|1}} + ''b''{{sub|1}}''i'' + ''c''{{sub|1}}''j'' + ''d''{{sub|1}}''k'')(''a''{{sub|2}} + ''b''{{sub|2}}''i'' + ''c''{{sub|2}}''j'' + ''d''{{sub|2}}''k'')}} は、基底間の積と[[分配法則|分配律]]によって与えられる。具体的には、この積は分配律により基底元の積和の形に展開することができて、
:<math>\begin{align}
&a_1a_2 + a_1b_2\,i + a_1c_2\,j + a_1d_2\,k \\
&\quad + b_1a_2\,i + b_1b_2\,i^2 + b_1c_2\,ij + b_1d_2\,ik \\
&\quad + c_1a_2\,j + c_1b_2\,ji + c_1c_2\,j^2 + c_1d_2\,jk \\
&\quad + d_1a_2\,k + d_1b_2\,ki + d_1c_2\,kj + d_1d_2\,k^2
\end{align}</math>
となるので、ここで先の基底元の間の乗法規則を適用して
:<math>\begin{align}
&a_1a_2 - b_1b_2 - c_1c_2 - d_1d_2 \\
&\quad + (a_1b_2 + b_1a_2 + c_1d_2 - d_1c_2)\,i \\
&\quad + (a_1c_2 - b_1d_2 + c_1a_2 + d_1b_2)\,j \\
&\quad + (a_1d_2 + b_1c_2 - c_1b_2 + d_1a_2)\,k
\end{align}</math>
を得る<ref name="SeeHazewinkel" />。
=== 順序組として ===
{{mathbf|H}} の基底 {{math|1, ''i'', ''j'', ''k''}} を用いて {{mathbf|H}} を[[タプル|四つ組]]の集合
: <math>\mathbb{H} = \{(a, b, c, d) \mid a, b, c, d \in \mathbb{R}\}</math>
として表すことができる。このとき基底元は
: <math>\begin{align}
1 &=(1,0,0,0), \\
i &=(0,1,0,0), \\
j &=(0,0,1,0), \\
k &=(0,0,0,1)
\end{align}</math>
であり、加法、乗法の定義式は
: <math>\begin{align}
&(a_1,\, b_1,\, c_1,\, d_1) + (a_2,\, b_2,\, c_2,\, d_2) \\
&\quad = (a_1 + a_2,\, b_1 + b_2,\, c_1 + c_2,\, d_1 + d_2)
\end{align}</math>
: <math>\begin{align}
(a_1,\, b_1&,\, c_1,\, d_1)(a_2,\, b_2,\, c_2,\, d_2)\\
=( &a_1a_2 - b_1b_2 - c_1c_2 - d_1d_2, \\
&a_1b_2 + b_1a_2 + c_1d_2 - d_1c_2, \\
&a_1c_2 - b_1d_2 + c_1a_2 + d_1b_2, \\
&a_1d_2 + b_1c_2 - c_1b_2 + d_1a_2)
\end{align}</math>
で与えられる。
=== スカラー部とベクトル部 ===
四元数 {{math|''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} について、特に {{math2|1=''b'' = ''c'' = ''d'' = 0}} であるものは'''[[実数]]'''体上の'''[[スカラー (数学)|スカラー]]'''である。{{math2|''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} で、{{math2|''b'', ''c'', ''d''}} の内少なくとも一つが、{{math|0}} でないもの {{math2|(''bcd'' ≠ 0)}} を'''純虚''' (''pure imaginary'') という。
四元数 {{math|''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} に対して、{{mvar|a}} をその'''実部''' (''real part'') または'''スカラー部''' (''scalar part'') といい、{{math|''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} をその'''虚部''' (''imagenary part'') または '''ベクトル部''' (''vector part'') という。四元数のスカラー部は実数であり、ベクトル部は {{math|0}} または純虚である。任意の四元数は4次元ベクトル空間のベクトルではあるけれども、ここではベクトルあるいはベクトル元という言葉を、専ら純虚四元数を指すのに用いる。この規約の下、ベクトル元ということはベクトル空間 {{math|'''R'''{{sup|3}}}} の元ということと同じ意味になる。
ハミルトンは純虚四元数を '''right quaternion'''(「正しい四元数」)と呼び<ref>{{Cite book |url=https://books.google.com/?id=fIRAAAAAIAAJ&pg=PA117&dq=quaternion#PPA310,M1 |title=Hamilton Elements of Quaternions article 285 |page=310 |author=[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン]] |year=1866}}</ref><ref>{{Cite book |url=http://dlxs2.library.cornell.edu/cgi/t/text/pageviewer-idx?c=math;cc=math;q1=right%20quaternion;rgn=full%20text;idno=05140001;didno=05140001;view=image;seq=81 |title=Hardy Elements of quaternions |page=65 |publisher=library.cornell.edu}}</ref>、実(四元)数を '''scalar quaternion'''(「スカラー四元数」)と呼んだ。
四元数をスカラー部とベクトル部に分解して
: <math>q = (r,\vec{v} )\quad (q\in \mathbb{H} ,\,r\in \mathbb{R} ,\,\vec{v} \in \mathbb{R}^3)</math>
と表すと、加法、乗法の定義式は
: <math>(r_1 ,\vec{v}_1) + (r_2 ,\vec{v}_2) = (r_1 + r_2 ,\; \vec{v}_1 +\vec{v}_2)</math>
: <math>(r_1 ,\vec{v}_1) (r_2 ,\vec{v}_2) = (r_1 r_2 - \vec{v}_1 \cdot \vec{v}_2 ,\; r_1 \vec{v}_2 +r_2 \vec{v}_1 + \vec{v}_1 \times \vec{v}_2)
</math>
となる。ここで "'''{{math|⋅}}'''" はベクトルの[[ドット積]]、"'''{{math|×}}'''" はベクトルの[[クロス積]]である。特に、実部が {{math|0}} の四元数に対しては
: <math>(0,\vec{v}_1 ) (0,\vec{v}_2 ) = ( -\vec{v}_1\cdot\vec{v}_2 ,\;\vec{v}_1\times \vec{v}_2 )</math>
が成り立つ。
== 共軛、ノルムおよび逆数 ==
四元数の[[共役|共軛]](きょうやく)は[[複素共役]]および[[クリフォード代数]]の元の転置 (transposition) あるいは逆転 (reversal) の類似物である。四元数 {{math2|1=''q'' = ''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} に対して、{{mvar|q}} の共軛は
:{{math2|''a'' − ''bi'' − ''cj'' − ''dk''}}
で定義される。これを {{math|''q''{{sup|∗}}, {{overline|''q''}}<ref name="SeeHazewinkel" />, ''q{{sup|t}}'', {{tilde|''q''}}}} などで表す。共軛をとる操作は[[対合]]、つまり自身を自身の逆とする変換であり、一つの元の共軛を二度とればもとの元に戻る。2つの四元数の積の共軛は、それぞれの四元数の共軛を「順番を逆にして」掛けたものになる。つまり {{math2|''p'', ''q''}} を四元数とすれば
:{{math|1=(''pq''){{sup|∗}} = ''q''{{sup|∗}}''p''{{sup|∗}}}}
であって {{math|''p''{{sup|∗}}''q''{{sup|∗}}}} でない。
複素数における共軛とは異なり、四元数の共軛は乗法と加法を用いて完全に書き表すことができる:
:<math>q^* = - \frac{1}{2} (q+iqi+jqj+kqk)</math>
共軛を用いると、四元数 {{mvar|p}} の実部、虚部はそれぞれ
:{{math2|{{sfrac|''p'' + ''p''*|2}}, {{sfrac|''p'' − ''p''*|2}}}}
となる。
四元数 {{mvar|q}} の[[ノルム]] {{math|{{norm|''q''}}}} は、自身とその共軛の積の平方根として定義される:
:<math>\lVert q \rVert = \sqrt{qq^*} = \sqrt{q^*q} = \sqrt{a^2 + b^2 + c^2 + d^2}</math>
(ハミルトンはこれを四元数のテンソルと呼んだが、この用語は現代的な意味での[[テンソル]]と衝突する)
これは、{{mathbf|H}} を数ベクトル空間 {{math|'''R'''{{sup|4}}}} と見なした時のユークリッドノルムに等しく、ノルムの公理を満たす。すなわち、常に非負の実数で、任意の2つの四元数 {{math2|''p'', ''q''}} に対して
:<math>\lVert pq \rVert = \lVert p \rVert\lVert q \rVert</math>
が成り立つ。特に、実数 {{mvar|α}} に対して
:<math>\lVert\alpha q\rVert = |\alpha|\lVert q\rVert</math>
が成り立つ。
この乗法性は、積の共軛に関する式からの帰結である。あるいは、正方行列の[[行列式]]の乗法性と公式
:<math>a^2 + b^2 + c^2 + d^2 = \det \begin{pmatrix}
a+ib &id+c \\
id-c &a-ib
\end{pmatrix}</math>
({{mvar|i}} は通常の[[虚数単位]])から乗法性を示すこともできる。
このノルムを使って、四元数 {{mvar|p}} と {{mvar|q}} の間の'''距離''' {{math|''d''⁡(''p'', ''q'')}} を、それらの差のノルム ({{math|1=''d''⁡(''p'', ''q'') = {{norm|''p'' − ''q''}}}}) として定義することができる。これにより {{mathbf|H}} は[[距離空間]]となり、加法と乗法はこの距離位相に関して連続になる。
=== 単位四元数 ===
{{main|{{仮リンク|ベルソル|en|versor}}}}
ノルムが {{math|1}} の四元数を'''単位四元数'''という。{{math|0}} でない四元数 {{mvar|q}} に対して、そのノルムで割って得られる単位四元数
:<math>\operatorname{\mathbf{U}} q = \frac{q}{\lVert q\rVert}</math>
を、{{mvar|q}} の{{仮リンク|ベルソル|en|versor}}という。
任意の四元数 {{mvar|q}} は、その{{仮リンク|極分解|en|Polar decomposition}}
:{{math|1=''q'' = {{norm|''q''}} '''U'''⁡''q''}}
を持つ。
共軛とノルムにより、四元数の[[逆数]](自身との積が {{math|1}} である数)が得られる:
:<math>q^{-1} = \frac{q^*}{\lVert q\rVert^2}</math>
これにより、2つの四元数 {{math|''p'', ''q''}} に対して、二種類の除法が定義される。即ち、それらの商は {{math|''pq''{{sup|−1}}}} または {{math|''q''{{sup|−1}}''p''}} のどちらかである。複素数(一般には可換体)の範囲と異なり、{{math|{{sfrac|''p''|''q''}}}} と書くと {{mvar|q}} で左から割っているのか右から割っているのかが特定されないため紛らわしい。
== 代数的性質 ==
[[画像:Cayley graph Q8.svg|thumb|四元数群 {{math|''Q''{{sub|8}}}} の[[ケイリーグラフ]]:赤矢印は {{mvar|i}} の右からの積を表し、緑矢印は {{mvar|j}} の右からの積を表す。]]
四元数全体のなす集合 {{mathbf|H}} は[[実数]]体上の [[4次元]][[ベクトル空間]]を成す(実数全体は {{math|1}}次元、[[複素数]]全体は {{math|2}}次元、[[八元数]]全体は {{math|8}}次元である)。四元数は加法と、結合的で分配的な乗法を持つが、その乗法は可換でない。従って四元数の全体 {{mathbf|H}} は実数体上の非可換[[結合多元環]]である。{{mathbf|H}} には複素数体 ℂ の複製が含まれるが、{{mathbf|H}} は {{mathbf|C}} 上の結合多元環にはならない。
四元数は除法が可能であるから、{{mathbf|H}} は[[多元体]](乗法が可換でないことを除けば[[可換体]]と同様の構造)である。実数体上の有限次元結合的多元体は非常に少なく、[[フロベニウスの定理 (代数学)|フロベニウスの定理]]はそれが {{math2|'''R''', '''C''', '''H'''}} のちょうど3種類であることを述べるものである。また、四元数のノルムにより四元数の全体は[[合成代数|ノルム多元環]]となるが、実数体上のノルム多元体もまた非常に限られ、{{仮リンク|フルヴィッツの定理 (合成代数)|label=フルヴィッツの定理|en|Hurwitz's theorem (composition algebras)}}はそれが {{math2|'''R''', '''C''', '''H''', '''O'''}} の四種類({{mathbf|O}} は[[八元数]]全体)であることを述べる。四元数全体はまた、[[合成代数]]や単位的[[バナッハ環]]の一例でもある。
{|class="wikitable" style="margin:auto;text-align:center;float:right;clear:both"
|+{{math|''Q''{{sub|8}}}} の乗積表
!{{math|×}}!!{{math|1}}!!{{mvar|i}}!!{{mvar|j}}!!{{mvar|k}}!!{{math|−1}}!!{{math|−''i''}}!!{{math|−''j''}}!!{{math|−''k''}}
|-
!{{math|1}}
|{{math|1}}||{{mvar|i}}||{{mvar|j}}||{{mvar|k}}||{{math|−1}}||{{math|−''i''}}||{{math|−''j''}}||{{math|−''k''}}
|-
!{{mvar|i}}
|{{mvar|i}}||{{math|−1}}||{{mvar|k}}||{{math|−''j''}}||{{math|−''i''}}||{{math|1}}||{{math|−''k''}}||{{mvar|j}}
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!{{mvar|j}}
|{{mvar|j}}||{{math|−''k''}}||{{math|−1}}||{{mvar|i}}||{{math|−''j''}}||{{mvar|k}}||{{math|1}}||{{math|−''i''}}
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!{{mvar|k}}
|{{mvar|k}}||{{mvar|j}}||{{math|−''i''}}||{{math|−1}}||{{math|−''k''}}||{{math|−''j''}}||{{mvar|i}}||{{math|1}}
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!{{math|−1}}
|{{math|−1}}||{{math|−''i''}}||{{math|−''j''}}||{{math|−''k''}}||{{math|1}}||{{mvar|i}}||{{mvar|j}}||{{mvar|k}}
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!{{math|−''i''}}
|{{math|−''i''}}||{{math|1}}||{{math|−''k''}}||{{mvar|j}}||{{mvar|i}}||{{math|−1}}||{{mvar|k}}||{{mvar|−''j''}}
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!{{math|−''j''}}
|{{math|−''j''}}||{{mvar|k}}||{{math|1}}||{{math|−''i''}}||{{mvar|j}}||{{math|−''k''}}||{{math|−1}}||{{mvar|i}}
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!{{math|−''k''}}
|{{math|−''k''}}||{{math|−''j''}}||{{mvar|i}}||{{math|1}}||{{mvar|k}}||{{mvar|j}}||{{math|−''i''}}||{{math|−1}}
|}
基底元の積は別の基底元に符号を付けたものになるから、集合 {{math|{{mset|±1, ±''i'', ±''j'', ±''k''}}}} はその乗法に関して[[群 (数学)|群]]を成す。この群は[[一般四元数群#四元数群|四元数群]]と呼ばれ、{{math|''Q''{{sub|8}}}} で表す<ref>{{Cite web |url=https://www.wolframalpha.com/input/?i=quaternion+group |title=quaternion group |work=Wolframalpha.com |accessdate=2011-02-26}}</ref>。{{math|''Q''{{sub|8}}}} の実係数[[群環]] {{math|'''R'''''Q''{{sub|8}}}} は環であり、また {{mathbf|R}} 上の {{math|8}}次元ベクトル空間でもあり、{{math|''Q''{{sub|8}}}} の各元を基底ベクトルに持つ。四元数体 {{mathbf|H}} は {{math|'''R'''''Q''{{sub|8}}}} を {{math2|1 + (−1), ''i'' + (−''i''), ''j'' + (−''j''), ''k'' + (−''k'')}} で生成する[[イデアル (環論)|イデアル]]で割った[[剰余環]]になっている。ここで、生成元となっている各差の第一項は基底元 {{math2|1, ''i'', ''j'', ''k''}} のそれぞれ一つであり、第二項は残りの基底元 {{math2|−1, −''i'', −''j'', −''k''}} のそれぞれ一つであって、これらは {{math2|1, ''i'', ''j'', ''k''}} の(群環の加法に関する)加法的逆元でないことに注意(剰余環、つまり {{mathbf|H}} の中では加法逆元になる)。
{{clear}}
== 四元数と {{math|R{{sup|3}}}} の幾何 ==
四元数のベクトル部は {{math|'''R'''{{sup|3}}}} のベクトルゆえ、{{math|'''R'''{{sup|3}}}} の幾何は四元数の代数構造に反映される。ベクトルに対する多くの演算は四元数を用いて定義することができるし、それによって四元数的な手法を空間ベクトルから生じる様々なものに適用することができる。例えば、[[電磁気学]]や[[3Dコンピュータグラフィックス|3DCG]]などにこの方法論が使える。
本節では {{math2|''i'', ''j'', ''k''}} を {{mathbf|H}} の虚基底ベクトル<ref>{{Cite book
|url = https://books.google.com/?id=RC8PAAAAIAAJ&printsec=frontcover&dq=right+tensor+dyadic#PPA428,M1
|title = Vector Analysis
|publisher = Gibbs-Wilson
|year = 1901
|page = 428
}}</ref>と {{math|'''R'''{{sup|3}}}} の基底の両方の意味で用いる。{{math2|''i'', ''j'', ''k''}} を一斉にそれぞれ {{math2|−''i'', −''j'', −''k''}} に取り替えることはベクトルを[[パリティ (物理学)|加法的逆元(マイナス)へ写す]]ので、ベクトルの加法的逆元をとることと四元数の共軛をとることとは同じ意味になることに注目しよう。これを以って、四元数の共軛を「空間反転」(''spatial inverse'') と呼ぶことがある。
2つの純虚四元数 {{math2|1=''p'' = ''b''{{sub|1}}''i'' + ''c''{{sub|1}}''j'' + ''d''{{sub|1}}''k'', ''q'' = ''b''{{sub|2}}''i'' + ''c''{{sub|2}}''j'' + ''d''{{sub|2}}''k''}} に対して、それらの[[ドット積]]は
:<math>p \cdot q = b_1b_2 + c_1c_2 + d_1d_2</math>
で与えられる。これは {{math|''p''{{sup|∗}}''q'', ''qp''{{sup|∗}}, ''pq''{{sup|∗}}, ''q''{{sup|∗}}''p''}} のどのスカラー部にも等しい(これらのベクトル部は相異なることに注意)。それゆえドット積については
:<math>p \cdot q = \frac{1}{2}(p^*q + q^*p) = \frac{1}{2}(pq^* + qp^*)</math>
という等式も成り立つ。また、{{mvar|p}} と {{mvar|q}} の[[クロス積]]は基底 {{math2|(''i'', ''j'', ''k'')}} の元の順序(から定まる向き)に依存して
:<math>p \times q = (c_1d_2 - d_1c_2)i + (d_1b_2 - b_1d_2)j + (b_1c_2 - c_1b_2)k</math>
と定義される(符号を決めるために向きが必要であることを想起せよ)。これは四元数としての積 {{mvar|pq}} のベクトル部に等しく、{{math|−''q''{{sup|∗}}''p''{{sup|∗}}}} のベクトル部とも同じく等しい。ゆえに、これについても
:<math>p \times q = \frac{1}{2}(pq - q^*p^*)</math>
なる等式が成り立つ。一般に {{math2|''p'', ''q''}} が四元数(純虚でなくてよい)のとき、これをスカラー部とベクトル部との和
:<math>p = p_s + \vec{p}_v,</math>
:<math>q = q_s + \vec{q}_v</math>
に分解すれば、等式
:<math>pq = p_sq_s - \vec{p}_v\cdot\vec{q}_v + p_s\vec{q}_v + \vec{p}_vq_s + \vec{p}_v \times \vec{q}_v</math>
が成り立つ。これを見ると、四元数の乗法の非可換性が純虚四元数の乗法からくるものであることが分かり、また2つの四元数が可換となるための必要十分条件がそれらのベクトル部が共線となることなども分かる。<!--
四元数を用いた三次元ベクトルのより綿密なモデル化は{{仮リンク|四元数と空間的回転|en|quaternions and spatial rotation}}を参照。-->
== 行列表現 ==
複素数の行列表現と全く同様に、四元数も行列で表現することができる。四元数を行列で表現し、四元数の加法と乗法を行列のそれに対応させる方法は、少なくとも二つあり、一つは [[複素数|複素]] {{math|2}}次正方行列を用いるもの、もう一つは[[実数|実]] {{math|4}}次正方行列を用いるものである。何れの場合も、表現は線型に関連する表現の族として与えられるもので、[[抽象代数学]]の観点からは、{{mathbf|H}} からそれぞれ[[全行列環]] {{math|M{{sub|2}}⁡('''C''')}} および {{math|M{{sub|4}}⁡('''R''')}} への[[単射]][[環準同型]]である。
複素 {{math|2}}次正方行列を用いて、四元数 {{math2|''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} は
: <math>\begin{pmatrix}
a+bi &c+di \\
-c+di &a-bi
\end{pmatrix}</math>
と表現される。この表現は以下の性質を持つ:
* [[複素数]] ({{math2|1=''c'' = ''d'' = 0}}) は対角行列に対応する。
* 四元数のノルム(複素数のノルム同様に、自身とその共軛との積の平方根)は対応する行列の[[行列式]]の平方根に一致する<ref>[https://www.wolframalpha.com/input/?i=det+{{a%2Bb*i%2C+c%2Bd*i}%2C+{-c%2Bd*i%2C+a-b*i}} Wolframalpha.com]</ref>。
* 四元数の共軛は、対応する行列の[[随伴行列|エルミート共軛]]に対応する。
* 単位四元数に制限すれば、この表現は [[三次元球面|{{math|''S''{{sup|3}}}}]] と {{math|[[SU(2)|SU⁡(2)]]}} との間の[[群同型|同型]]を与える。後者の群は[[量子力学]]において[[スピン (物理学)|スピン]]を記述するのに重要である([[パウリ行列]]を参照)。
実 {{math|4}}次正方行列を用いれば、同じ四元数は
: <math>\begin{pmatrix}
a & b & c & d \\
-b & a &-d & c \\
-c & d & a &-b \\
-d &-c & b & a
\end{pmatrix}</math>
: <math>= a \begin{pmatrix}
1 &0 &0 &0 \\
0 &1 &0 &0 \\
0 &0 &1 &0 \\
0 &0 &0 &1
\end{pmatrix} + b \begin{pmatrix}
0 &1 &0 & 0 \\
-1 &0 &0 & 0 \\
0 &0 &0 &-1 \\
0 &0 &1 & 0
\end{pmatrix} + c
\begin{pmatrix}
0 & 0 &1 &0 \\
0 & 0 &0 &1 \\
-1 & 0 &0 &0 \\
0 &-1 &0 &0
\end{pmatrix} + d
\begin{pmatrix}
0 &0 & 0 &1 \\
0 &0 &-1 &0 \\
0 &1 & 0 &0 \\
-1 &0 & 0 &0
\end{pmatrix}</math>
で表される。この表現では、四元数の共軛は対応する行列の[[転置行列|転置]]に対応する。また、四元数のノルムの四乗は対応する行列の[[行列式]]に等しい。複素数は、行列を {{math|2 × 2}} のブロックに分けたときの区分対角行列に対応する。
== 四平方和定理 ==
{{main|ラグランジュの四平方定理}}
四元数を、[[数論]]におけるラグランジュの四平方和定理(任意の非負整数が四つの整数の平方の和で表せること)の証明に用いることもできる。ラグランジュの四平方和定理は定理それ自体が美しいだけでなく、{{仮リンク|組合せデザイン|en|Combinatorial design}}のような数論以外の数学の分野においても有意な応用を持つ。四元数に基づく証明では四元数全体ではなくその部分環で[[ユークリッドの互除法]]が使える{{仮リンク|フルヴィッツの四元数|label=フルヴィッツ整数環|en|Hurwitz quaternion}}が用いられる。
== 複素数の対として ==
{{main|ケーリー=ディクソンの構成法}}
四元数は複素数の対として表現することができる。この側面からは、四元数は複素数全体に[[ケーリー=ディクソンの構成法|ケーリー=ディクソン構成]]を適用して得られたものということになる。これは、複素数の実数の対としての構成を一般化したものである。
{{math|'''C'''{{sup|2}}}} を複素数体上の二次元ベクトル空間とし、基底 {{math2|(1, ''j'')}} をとる。{{math|'''C'''{{sup|2}}}} に属するベクトルは
:<math>(a + bi)1 + (c + di)j</math>
と表される。ここで {{math2|1=''j''{{sup|2}} = −1}} および {{math2|1=''ij'' = −''ji''}} であるものと定めると、分配律により二つのベクトルの掛け算が定義できる。いま、積 {{mvar|ij}} を {{mvar|k}} とおくと、通常の四元数の乗法規則と同じになるので、従って上記の複素ベクトルは四元数
:{{math2|''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}}
に対応するものである。{{math|'''C'''{{sup|2}}}} の元を順序対として、四元数を四つ組としてそれぞれ書けば、この対応は
:<math>(a+bi,\ c+di) \leftrightarrow (a,b,c,d)</math>
となる。
== {{math|−1}} の平方根 ==
{{math|−1}} の[[平方根]]は、複素数の範囲では {{math|±''i''}} であるが、{{mathbf|H}} では {{math|−1}} の平方根は無数に存在する。{{math|1=''x''{{sup|2}} = −1}} の四元数解は三次元空間内の[[単位球面]]を成すのである。これを見るのに {{math2|1=''q'' = ''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} を四元数とし、その平方が {{math|−1}} に等しいものと仮定する。{{math2|''a'', ''b'', ''c'', ''d''}} が満たすべき条件は
:<math>a^2 - b^2 - c^2 - d^2 = -1,</math>
:<math>2ab = 0,</math>
:<math>2ac = 0,</math>
:<math>2ad = 0</math>
である。後の3つの方程式より {{math2|1=''a'' = 0}} または {{math2|1=''b'' = ''c'' = ''d'' = 0}} であるが、後者は残りの方程式から {{math2|1=''a''{{sup|2}} = −1}} となり、{{mvar|a}} は実数であるから不可能である。故に {{math2|1=''a'' = 0}} ⋀ {{math2|1=''b''{{sup|2}} + ''c''{{sup|2}} + ''d''{{sup|2}} = 1}} となる。即ち、平方が {{math|−1}} になる四元数は、ノルムが {{math|1}} の純虚四元数であることが分かる。定義により、このような四元数全体の成す集合は2次単位球面である。
故に、負の実四元数は無数の平方根を持つことも分かるが、それ以外の四元数の平方根はただ二つ({{math|0}} についてはただ一つ)である。
{{mathbf|H}} における {{math|−1}} の平方根のこのような同定はハミルトンが与えている<ref>{{Cite book |author=[[ウィリアム・ローワン・ハミルトン|ハミルトン]] |year=1899 |title=Elements of Quaternions |edition=2nd |page=244 |isbn=1-108-00171-8}}</ref>が、他の文献では触れられないことがよくある。1971年にサム・パーリスは −1 の平方根の成す球面について、{{仮リンク|米国数学教師評議会|en|National Council of Teachers of Mathematics}}出版の「代数学における歴史的話題」(''Historical Topics in Algebra'' p.39) において3ページを割いて触れている。より近くでは、{{仮リンク|イアン・ポーティアス|en|Ian R. Porteous}}の本「クリフォード代数と古典群」(''Clifford Algebras and the Classical Groups'' Cambridge, 1995, proposition 8.13, p.60) にこの球面についての記述があり、また {{harvtxt|Conway|Smith|2003}} のp.40には「任意の虚数単位を ''i'', それに直交する虚数単位の一つを ''j'', それらの積を ''k''」("{{lang|en|any imaginary unit may be called}} i{{, and perpendicular one}} j{{lang|en|, and their product}} k") として、この球面についての別な言明がある。
=== 複素数平面の合併としての {{math|H}} ===
{{math|−1}} の平方根のどの二つをとっても、四元数の中で複素数の相異なる複製を作ることができる。 {{math|1=''q''{{sup|2}} = −1}} とすれば、そのような複製は写像
:<math>a + b\sqrt{-1} \mapsto a + bq</math>
によって決定される。[[抽象代数学]]の言葉でいえば、それぞれが {{mathbf|C}} から {{mathbf|H}} への[[単射]][[環準同型]](埋め込み)である。{{mvar|q}} と {{math|−''q''}} に対応する埋め込みの像は集合としては同じになる。
任意の実でない四元数は {{mathbf|C}} に同型な {{mathbf|H}} の部分空間上にあることを見よう。四元数 {{mvar|q}} をスカラー部とベクトル部の和として
:<math>q = q_s + \vec{q}_v</math>
とし、さらにベクトル部をノルムとベルソルの積に分解(極分解)して、
:<math>q = q_s + \lVert \vec{q}_v \rVert \cdot \mathbf{U} \vec{q}_v</math>
と書く(これは {{math|''q{{sub|s}}'' + {{norm|''q''}}'''U'''''q''}} とは異なることに注意)。{{mvar|q}} のベクトル部のベルソル {{math|'''U'''{{vec|''q''}}{{sub|''v''}}}} は純虚な単位四元数ゆえ、その平方は {{math|−1}} である。従ってこれから、写像
:<math>a + b\sqrt{-1} \mapsto a + b \mathbf{U} \vec{q}_v</math>
によって複素数の複製が得られるが、この写像の下で {{mvar|q}} は複素数 {{math|''q{{sub|s}}'' + {{norm|{{vec|''q''}}{{sub|''v''}}}}''i''}} の像になる。
以上から、{{mathbf|H}} は[[実数直線]]を共通の交わりとして持つ無数の複素数平面の[[合併 (集合論)|合併]]であることが分かる。ただし、この合併は {{math|−1}} の平方根の成す球面全体を(球面の対蹠点が同じ平面に対応することを踏まえた上で)わたって取ったものである。
=== 可換部分環 ===
各四元数が {{mathbf|H}} のどの部分複素数平面に含まれるかという関係性は、[[可換部分環]]族の言葉を使っても同定し書き表すことができる。具体的に言えば、二つの四元数 {{mvar|p}} と {{mvar|q}} が可換 ({{math2|1=''pq'' = ''qp''}}) となるのはそれらが {{mathbf|H}} の同じ部分複素数平面上にあるときに限られるだから、四元数全体の成す[[環 (数学)|環]]の可換部分環を全て求めたければ、そこに複素数平面の合併として {{mathbf|H}} の {{lang|en|prófile}} が生じる。この可換部分環を求める方法は、{{仮リンク|分解型四元数|en|Split-quaternion}}全体や[[実二次正方行列]]全体の性質を知るのにも利用できる。
== 四元数を変数とする函数 ==
{{main|四元変数}}
[[複素変数]]の函数同様に、四元変数の函数から有効な物理モデルが得られることが示唆される。例えば、マクスウェルによるもともとの電磁場の記述には四元変数函数が用いられていた。
=== 指数・対数・冪函数 ===
四元数
:<math>q=a+bi+cj+dk=a+\mathbf{v}</math>
に対して、指数函数は
:<math>\exp (q) = \textstyle\sum\limits_{n=0}^\infty \displaystyle\frac{q^n}{n!} =e^a \left( \cos \|\mathbf{v} \| + \frac{\mathbf{v}}{\| \mathbf{v} \|} \sin \|\mathbf{v} \| \right)</math>
と計算され、その逆函数として対数函数は
:<math>\ln (q) = \ln \|q\| + \frac{\mathbf{v}}{\|\mathbf{v}\|} \cos^{-1} \frac{a}{\|q\|}</math>
として与えられる<ref>[https://users.aalto.fi/~ssarkka/pub/quat.pdf Lce.hut.fi]</ref>。
これを用いて、四元数の極分解を
:<math>q=\| q\| e^{\hat{n}\theta}</math>
の形に書くことができる。ここで角 {{mvar|θ}} および単位ベクトル <math>\hat{n}</math> は
:<math>a=\| q\| \cos \theta</math>
および
:<math>\mathbf{v} =\hat{n} \| \mathbf{v} \| =\hat{n} \| q\| \sin \theta</math>
で定まるものである。任意の単位四元数は極形式として
: <math>e^{\hat{n}\theta}</math>
と表される。
任意の実数を冪指数とする四元数の[[冪]]は
:<math>q^\alpha =\|q\|^\alpha e^{\hat{n}\alpha\theta}</math>
で与えられる。
== 三次元および四次元の回転群 ==
{{main|回転 (数学)}}
「[[共役|共軛]](きょうやく)」あるいは「{{仮リンク|共軛変換|en|conjugation}}」という言葉は、上で述べた意味以外にも、適当な非零元 ''r'' によって元 ''a'' を ''rar''{{sup|-1}} へ写す変換([[内部自己同型]])の意味にも使われる。この変換の意味で[[共役類|与えられた元に共軛な元の全体]]は、実部が等しく、かつベクトル部のノルムも等しい(従って、共軛四元数はこの変換の意味でも共軛元である)。
故に、非零四元数全体の成す乗法群は、純虚四元数全体の成す '''R'''{{sup|3}} の複製の上に共軛変換によって作用する。このとき、実部が {{math|〖cos〗⁡''θ''}} である単位四元数による共軛変換は、虚部方向を回転の軸とする回転角 {{math|2''θ''}} の回転になる。四元数を用いる優位性としては、
# ([[オイラー角]]などの場合と比べて)非特異な表現である。
# [[行列 (数学)|行列]]を用いるよりも簡潔に記述できて演算のスピードも速くできる。
# 単位四元数の対で、[[4次元]]空間の回転を表せる。
などが挙げられる。
単位四元数([[ベルソル]])の全体は[[三次元球面]] {{math|''S''{{sup|3}}}} を成し、また乗法に関して[[群 (数学)|群]]を成し、3次[[特殊直交群]](行列式が {{math|1}} の {{math|3}}次[[直交行列]]全体){{math|〖''SO''〗⁡(3,'''R''')}} の[[被覆空間|二重被覆]]群という[[リー群]]になる(これは上記の対応において各回転に対応する単位四元数がちょうど「2つ」あることによる)。
{{main|点群}}
({{math|''S''{{sup|3}}}} 自体には標準的な群構造はないが)ベルソルの成す部分群の像は[[点群]]であり、逆に点群の逆像はベルソル全体の成す部分群となる。有限点群の逆像は、それぞれの点群の名前に'''二項''' (''binary'') を付けて呼ぶ。例えば[[二十面体群]]の逆像は[[二項二十面体群]]である。
ベルソル全体の成す群は、{{math|2}}次[[特殊ユニタリ群]] {{math2|〖''SU''〗⁡(2)}} に同型である。
{{math2|''a'', ''b'', ''c'', ''d''}} が何れも[[整数]]となるかまたは何れも分母が2の既約分数である[[有理数]]となる四元数 {{math2|''a'' + ''bi'' + ''cj'' + ''dk''}} 全体の成す集合を ''A'' とする。集合 ''A'' は[[環 (数学)|環]](実は[[整域]])であり、また[[束 (束論)|束]]であって、[[フルヴィッツ整数]]環と呼ばれる。この環は 24 個の単位四元数を持ち、それらは[[正二十四胞体|正24胞体]]([[シュレーフリ記号]]で {3,4,3})の頂点になっている。
== 一般化 ==
{{main|四元数環}}
{{mvar|F}} を[[標数]]が {{math|2}} でない[[可換体|体]]とし、{{math2|''a'', ''b''}} を {{mvar|F}} の元とする。{{math2|(1, ''i'', ''j'', ''ij'')}} を基底とし、{{math2|1=''i''{{sup|2}} = ''a'', ''j''{{sup|2}} = ''b'', ''ij'' = −''ji''}}(従って {{math2|1=(''ij''){{sup|2}} = −''ab''}})を満たす {{mvar|F}} 上の四次元単位的[[結合多元環]]が定義できる。これらは'''四元数環'''と呼ばれ、{{math2|''a'', ''b''}} の選び方に依り {{mvar|F}} 上の 2次[[正方行列]]に同型であるか、さもなくば {{mvar|F}} 上の[[多元体]]を成す。
== クリフォード代数 Cℓ{{sub|3,0}}⁡(R) の偶部分としての四元数体 ==
幾何学的計算に対する四元数の有用性は、四元数体を[[クリフォード代数]] Cℓ{{sub|3,0}}⁡('''R''') の偶部分 Cℓ{{sup|+}}{{sub|3,0}}⁡('''R''') と同一視することによって、他の次元にも一般化することができる。これは基本基底元 σ{{sub|1}}, σ{{sub|2}}, σ{{sub|3}} から構成される結合的多重ベクトル環で、基底元は
:<math>{\sigma_1}^2 = {\sigma_2}^2 = {\sigma_3}^2 = 1,</math>
:<math>\sigma_i \sigma_j = - \sigma_j \sigma_i \qquad (j \neq i)</math>
なる積の規則に従う。これらの基本基底元が三次元空間のベクトルを表すものとすれば、ベクトル ''r'' の単位ベクトル ''w'' に直交する平面に関する'''鏡映''' (''reflection'') が
:<math>r' = - wrw</math>
で表され、二つの鏡映の合成はそれぞれの鏡映に対する平面同士のなす角の二倍の回転角をもつ回転を与えることから、
:<math>r'' = \sigma_2 \sigma_1 \, r \, \sigma_1 \sigma_2</math>
は σ{{sub|1}} と σ{{sub|2}} とを含む平面における 180° 回転が対応する。これは四元数の対応する公式
:<math>r'' = -\mathbf{k}r\mathbf{k}</math>
とよく似ているが、実はこの二つは同一視できる。それには
:<math>\mathbf{k} = \sigma_2 \sigma_1, \mathbf{i} = \sigma_3 \sigma_2, \mathbf{j} = \sigma_1 \sigma_3</math>
と同一視して、かつこれがハミルトンの関係式
:<math>\mathbf{i}^2 = \mathbf{j}^2 = \mathbf{k}^2 = \mathbf{i} \mathbf{j} \mathbf{k} = -1</math>
を保つことを確認すればよい。この描像において、四元数はベクトルではなく[[二重ベクトル]] (bivector) に対応する(これは一次元的な「向き」ではなくて、特定の二次元平面に付随する向きと大きさを持った量である)。また、複素数との関係もより明らかになる。つまり、二次元ではそれぞれ σ{{sub|1}} と σ{{sub|2}} の方向を持つ二つのベクトルに対して、ただ一つの基底二重ベクトル元 σ{{sub|1}}σ{{sub|2}} が存在するから、虚数単位は一つだけしかないが、ベクトルの方向が三つある三次元では、三つの二重ベクトル基底 σ{{sub|1}}σ{{sub|2}}, σ{{sub|2}}σ{{sub|3}}, σ{{sub|3}}σ{{sub|1}} が存在して、三つの虚数単位を持つ。
この理由付けはさらに拡張することができて、クリフォード代数 Cℓ{{sub|4,0}}⁡('''R''') においては、基本となるベクトルが相異なる四つの方向を持つから、従って平面を張る線型独立な組は六種類であり、二重ベクトル基底元は六つ存在する。このような空間において、[[回転子 (数学)|回転子]] (''rotor'') と呼ばれるそのような四元数の拡張を用いた回転は、[[斉次座標系]]を用いた応用において非常に有効である。しかし、三次元の場合に限っては、基底二重ベクトルの数と基底ベクトルの数が一致し、各二重ベクトルを[[擬ベクトル]]と同一視することができる。
ドルストらはこの広い設定において四元数の占める優位性を以下のように同定した<ref>[http://www.geometricalgebra.net/quaternions.html Quaternions and Geometric Algebra]. Accessed 2008-09-12. See also: Leo Dorst, Daniel Fontijne, Stephen Mann, (2007), ''[http://www.geometricalgebra.net/index.html Geometric Algebra For Computer Science]'', [[Morgan Kaufmann]]. ISBN 0-12-369465-5</ref>:
* 回転子は幾何代数において自然であり何の不思議もないし、それが含む二重鏡映の情報を容易に理解できる。
* 幾何代数において、回転子とそれが作用する対象は同じ空間に属する。これにより表現を変える必要がなくなり、かつ新しいデータ構造や(四元数に関する線型代数学を要求する)方法を考える必要もなくなる。
* 回転子はベクトル元や他の四元数だけでなく、直線や平面、円、半直線など、この代数の任意の元に普遍的に適用可能である。
* ユークリッド幾何の[[共形幾何|共形]]モデルにおいて、回転子はこの代数の一つの元で回転、平行移動、拡大縮小を行ることができて、任意の元に普遍的に作用する。特にこれは、四元数の場合はその軸が原点を通るものに限られるのに対して、回転子は任意の軸の周りでの回転を表現できることを意味する。
* 回転子の示す変換は、特に直接的に解釈することができる。
クリフォード代数のさらに詳細な幾何学的描像は{{仮リンク|幾何代数|en|Geometric algebra}}の項を参照せよ。
== ブラウアー群 ==
{{see|ブラウアー群}}
四元数体 '''H''' は「本質的に」唯一の(非自明な)[[中心的単純環]]である。これは実数体上の任意の中心的単純環は '''R''' または '''H''' の何れかに[[ブラウアー同値]](森田同値)であるという意味である。明確に述べれば、'''R''' の[[ブラウアー群]]は、'''R''' および '''H''' をそれぞれの代表元とする二つの同値類からなる。ここで、ブラウアー群というのは中心的単純環全体の成す集合を、一方の中心的単純環が他方の中心的単純環の上の全行列環となるという同値関係で[[違いを除いて|割って]]得られるものであった。[[アルティン・ウェダーバーンの定理]](のウェダーバーンの部分)によって、任意の中心的単純環は何らかの斜体上の行列環となるから、従って四元数体が実数体上で唯一の非自明な多元体であることが分かる。
中心的単純環([[体上の多元環|体上の環]]であって、それ自身が体同様に非自明な両側イデアルを持たないという意味で[[単純環]]であり、かつその中心が基礎体に一致するもの)は、[[体の拡大]]の非可換版の類似物であり、一般の環の拡大よりも限定的である。四元数体が実数体上の(同値を除いて)唯一の非自明な中心的単純環であるという事実は、複素数体が実数体上の唯一の非自明な拡大体であることに比肩する。
== 注記 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Div col}}
*[[オイラー角]]
*[[外積代数]]
*[[回転 (数学)]]
*{{仮リンク|幾何代数|en|Geometric algebra}}
*{{仮リンク|球面線型補間|en|Slerp}}
*[[クリフォード代数]]
*[[結合多元環]]
*[[三次元球面]]
*{{仮リンク|四元行列|en|Quaternionic matrix}}
*[[四元数群]]
*{{仮リンク|四元数とオイラー角の換算|en|Conversion between quaternions and Euler angles}}
*{{仮リンク|四元数と空間における回転|en|quaternions and spatial rotation}}
*[[正八胞体]]
*{{仮リンク|双曲四元数|en|Hyperbolic quaternion}}
*{{仮リンク|双四元数|en|Biquaternion}}
*[[多元体]]
*[[多元数]]
*{{仮リンク|二重四元数|en|Dual quaternion}}
*[[八元数]]
*[[複素数]]
*[[フルヴィッツ四元整環]]
*{{仮リンク|フルヴィッツの四元数|en|Hurwitz quaternion}}
*{{仮リンク|分解型四元数|en|Split-quaternion}}
*[[ベクトル解析]]
*{{仮リンク|ベルソル|en|Versor (disambiguation)|}}
*{{仮リンク|4次元ユークリッド空間での回転|en|Rotations in 4-dimensional Euclidean space}}
{{Div col end}}
== 参考文献 ==
=== 出版物 ===
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**{{Cite book|和書|author=H.D.エビングハウス|translator=成木勇夫 |date=2012-09|title=数|edition=新装版|volume=〈下〉|publisher=[[丸善出版]]|isbn=978-4-621-06387-3|ref={{Harvid|エビングハウス|2012}}}}
*{{Cite book|和書|author=J.H.コンウェイ|authorlink=ジョン・ホートン・コンウェイ|coauthors=[[R.K.ガイ]]|translator=[[根上生也]]|date=2001-11|title=数の本|publisher=シュプリンガー・ジャパン|isbn=4-431-70770-0|ref={{Harvid|コンウェイ|ガイ|2001}}}}
**{{Cite book|和書|author=J.H.コンウェイ|coauthors=R.K.ガイ|translator=根上生也|date=2012-02|title=数の本|publisher=丸善出版|isbn=978-4-621-06207-4|ref={{Harvid|コンウェイ|ガイ|2012}}}}
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== 外部リンク ==
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*[http://hooktail.sub.jp/mathInPhys/quaternion/ 四元数] - 物理のかぎしっぽ
*{{高校数学の美しい物語|983|四元数と三次元空間における回転}}
*{{MathWorld|urlname=Quaternion|title=Quaternion}}
{{数の体系}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:しけんすう}}
[[Category:超複素数系]]
[[Category:ウィリアム・ローワン・ハミルトン]]
[[Category:数学に関する記事]] | null | 2023-07-11T21:09:35Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%85%83%E6%95%B0 |
7,233 | Y2K | Y2K(ワイツーケー) | [
{
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}
] | Y2K(ワイツーケー) 2000年
2000年問題 のこと。
Y2Kファッション (2000年に流行っていたファッションジャンル)
ヤマダ電機 (Y) ・ヨドバシカメラ (Y) ・コジマ (K) の大手家電量販店3社をY2K(=YYK)と称する。
MTT・タービン・スーパーバイク - アメリカ合衆国製のガスタービンエンジンを搭載したオートバイ、“Y2K Turbine SUPERBIKE”の愛称。
Y2K (バンド) - 韓国人1名、日本人2名で構成されるロックバンド。1999年2月に大韓民国でデビュー。
YIIK: ポストモダンRPG | '''Y2K'''(ワイツーケー)
* [[2000年]]('''Year 2000'''の略で、[[2000]]を“'''''2[[キロ|K]]''''' ”で表す)
* [[2000年問題]] (''Y2K problem'') のこと。
* [[Y2Kファッション]] - 2020年頃から流行している、2000年前後の流行を取り入れたファッションスタイル。
* [[ヤマダ電機]] (Y) ・[[ヨドバシカメラ]] (Y) ・[[コジマ]] (K) の大手[[家電量販店]]3社をY2K(=''YYK'')と称する。
* [[MTT・タービン・スーパーバイク]] - [[アメリカ合衆国]]製の[[ガスタービンエンジン]]を搭載した[[オートバイ]]、“'''Y2K Turbine SUPERBIKE'''”の愛称。
* [[Y2K (バンド)]] - [[大韓民国#国民|韓国人]]1名、[[日本人]]2名で構成されるロックバンド。[[1999年]]2月に[[大韓民国]]でデビュー。
* [[YIIK: ポストモダンRPG]]
{{aimai}} | 2003-04-24T15:54:28Z | 2023-12-18T02:22:58Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Y2K |
7,234 | 2000年問題 | 2000年問題(にせんねんもんだい、英語: Year 2000 problem)は、西暦(グレゴリオ暦)2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた年問題である。
Y2K問題(ワイツーケイもんだい、Y は年(year)、K はキロ(kilo=千))、ミレニアム・バグ(millennium bug)とも呼ばれた。
西暦2000年であることをコンピュータが正常に認識できなくなるという問題が主に取り上げられるが、グレゴリオ暦における置閏法を誤解して生じる問題もある。
当時、多数のコンピュータシステムの内部で日付を扱う際に西暦の下2桁だけを表示しており、上位2桁を省略していることが原因で問題が生じると言われた。この他に、置閏法に対する誤解から西暦2000年を「平年」として扱ったことが原因で、西暦2000年2月29日に誤動作する問題が生じる。
直接の原因はプログラム内で日付を扱う際、西暦の4桁のうち上位2桁を省略し下位2桁だけを処理対象にしたことである。("yy-mm-dd"や"dd-mm-yy"など)
古い電算システムを構築するのに用いられたCOBOLやFORTRANのような古いプログラミング言語では、データ型に「日付型」が用意されていない。従ってプログラム内では年を表現するために2桁の文字型を割り当てて、西暦表示4桁のうち下2桁だけを記録・処理した。この方式では2000年が内部で「00年」となるので、これを「1900年」と見なしてしまい、例えば「レコードを日付順に並べ替える処理をすると、順序が狂う」などの誤作動を起こす可能性があると指摘された。
4桁で表現される西暦年数を格納するには、4桁の文字列 ("yyyy")を確保するのが妥当であるが、当時コンピュータが2000年まで長きにわたって運用されるとは予想されていなかっただけでなく、初期のコンピュータシステムでは、磁気テープなどのリソース、特にメモリの容量が極めて少ない上、高価な貴重品であるため、できるだけメモリを節約するプログラミングが要求された。
年数を下2桁 ("yy")に縮めてリソースを節約をするのは、当時のプログラマの間では当然の技法であった。そのようなプログラムの多くは、1960年代から1980年代にかけて開発された。当事者は「2000年までには、何らかの改良が加えられるか、全く新しいシステムに更新されているだろう」という前提でいたので、2000年問題には充分な対策が施されていなかった。2000年問題が表面化した際は、プログラムを作成した技術者の死亡や退職などもあり、手作業でのプログラムの確認と修正が必要とされた。
これらのプログラムが作成された時点で既に、多くの国で様々な領域や分野でコンピュータが使用されていたので、思わぬ所での機能停止や誤作動の危険が起こり得ると指摘された。物流その他の社会運営上の不具合の発生などが予想され、国際経済が深刻な不況に陥る可能性を指摘する声もあった。一部には、カレンダーを持たない独立した組み込みシステムの誤作動の不安を煽るなど、あたかもフェイルセーフで設計された物がこの世にないかのように騒ぐなどの過剰反応も見られた。
1996年など平常の「閏年」とは異なり、2000年は「400年に1回」の特殊な閏年で閏日(2月29日)があるのに、その処理をしていないプログラムもあった。なお、土曜日から始まる閏年は、1972年以来28年ぶりであった。
現行のグレゴリオ暦では、閏年について次の規則がある。
従って、1900年は平年(100で割り切れても400で割り切れない)であったが、2000年は閏年であった。しかし、誤って1. と2. だけを適用し、2000年を閏年としないプログラムがあったので、この対応も併せて必要とされた。
前述のように年の下位2桁しか処理しないシステムでは、「400で割り切れる年」と「400で割り切れない年」を区別できず、1. 2. の規則のみに沿って年表示が00である年を平年として扱うようにプログラムすると、この問題が生じる。
偶々 2. 3. の規則を知らずに1. の規則のみに則るか、1. 2. 3. の規則を全て承知で西暦2099年までは4で割り切れる判定で充分と認識し、単純に4で割り切れるかどうかで閏年を判定するシステムでは、2000年を閏年として扱って問題は起きない。
当時、想定された問題には、次のようなものがあった。
従って、1990年代末期に使用していたコンピュータプログラムの訂正が世界規模で行われたが、この修正作業に費用と期間が取られてしまう企業も出てしまい、特に中小企業などにおいて大きな打撃となった。
結果としては直前にマスメディアで騒がれていたような生活に直結するほどの大きな混乱は一切起きずに終わった。
元々2000年問題の深刻さと対処については疑問の声も多くあり、例えば元日(1月1日)よりも閏日(2月29日)の方が大きな騒ぎとなったことを理由に、そもそも重大な危険が存在しなかったという意見がある。これに対しては反対意見があり、情報システムエンジニアの努力の結果であり、危機管理の成功例として混乱回避の努力を正しく評価すべきであるとの意見もある。
2000年問題は、発生時期が明確であったこと(そのため責任の所在が予め明確であったこと)や、企業間連鎖による影響を防ぐため相互監視が働いたこと(経営者は自社が加害者となることを防ぐ必要があり、同時に株主などからは自社が被害者とならないよう対策を求められたこと)などの要素が混乱回避への対策につながったと考えられている。
日本においては、1989年から消費税の導入や、「昭和」から「平成」への改元など、プログラムの全面的な見直しを要求される問題が発生しており、その際に2000年問題への対処も併せて行うことが多かった。
1998年7月15日に、財務局から各金融機関に対して「コンピュータ2000年問題対応に関する資料の提出について」という通達が出された。
これらの資料の3か月ごとの提出を命じ、1999年10月からは毎月の提出を命じた。内容は、あらゆる機器のリストアップ、問題判別の実施、対応マニュアルの作成・配布、一斉テストの実施、顧客・取引先に対しての周知徹底などであった。
金融機関は政府と一体となって取り組み、サービスが停止することのないよう万全の体制を取った。
1998年12月には小渕恵三が自らテレビCMに出演し、2000年問題への注意を促した。
1999年12月31日から2000年1月1日にまたがって運行するJR東日本・JR西日本などのJRや私鉄各社は、全ての列車を最寄りの駅に臨時停車して運転を見合わせ、航空便はシステムの不測の事態に備えて欠航したり、年が明けてからの出発に変更したりした。
2000年になった時点では、一部のシステムに不具合は出たものの、致命的な問題は生じなかった。なお、システムによっては時刻を協定世界時 (UTC)で取り扱うものがあり、そのようなシステムでは日本時間の「2000年1月1日午前9時」に不具合が生じることも懸念されたが、午前9時を迎えてもそれほど重大な問題には至らなかった。具体的な例としては、女川原子力発電所、福島第二原子力発電所および志賀原子力発電所で、警報装置が誤報を発したり一部のデータ管理が不能になったが、発電、送電や放射性物質管理に問題は発生しなかった。
例として、当時NTTドコモが販売していた携帯電話「ムーバN206」(NEC製)のショートメール機能において、「既読メールが容量オーバーで受信できなくなった場合、古いメールから自動削除する」機能が誤作動した。また、2000年を想定した設計がされていない古いビデオデッキの予約録画、ワープロ機の文書管理機能などに影響が出た。
2000年2月29日に、当日を閏日として処理せず「日付誤り」として取り扱ったり処理に障害が出る事例が発生した。
2000年問題への対応として、年の内部表現が十進2桁のまま、ある数値までは20XX年とすることで1900年以降のある年から100年間を表せるようにするdate windowがあるが、UNIXエポックの1970年1月1日±50年である1920 - 2019年をwindowとしたシステムが多く、2020年の到来により誤動作を起こしている。
KDDI/auのフィーチャーフォンのうちKCPを採用しているモデルにて、2020年になると同時に表示が"0/0(SUN)0:00"となり時計が機能しなくなる。発売当時から2019年までという仕様だったことが指摘されている。
この他、米国ニューヨーク市でのパーキングメーターシステム、ポーランドのキャッシュレジスター、ドイツのハンブルク地下鉄でトラブルが報告されている。 | [
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"text": "古い電算システムを構築するのに用いられたCOBOLやFORTRANのような古いプログラミング言語では、データ型に「日付型」が用意されていない。従ってプログラム内では年を表現するために2桁の文字型を割り当てて、西暦表示4桁のうち下2桁だけを記録・処理した。この方式では2000年が内部で「00年」となるので、これを「1900年」と見なしてしまい、例えば「レコードを日付順に並べ替える処理をすると、順序が狂う」などの誤作動を起こす可能性があると指摘された。",
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"text": "4桁で表現される西暦年数を格納するには、4桁の文字列 (\"yyyy\")を確保するのが妥当であるが、当時コンピュータが2000年まで長きにわたって運用されるとは予想されていなかっただけでなく、初期のコンピュータシステムでは、磁気テープなどのリソース、特にメモリの容量が極めて少ない上、高価な貴重品であるため、できるだけメモリを節約するプログラミングが要求された。",
"title": "原因"
},
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"text": "年数を下2桁 (\"yy\")に縮めてリソースを節約をするのは、当時のプログラマの間では当然の技法であった。そのようなプログラムの多くは、1960年代から1980年代にかけて開発された。当事者は「2000年までには、何らかの改良が加えられるか、全く新しいシステムに更新されているだろう」という前提でいたので、2000年問題には充分な対策が施されていなかった。2000年問題が表面化した際は、プログラムを作成した技術者の死亡や退職などもあり、手作業でのプログラムの確認と修正が必要とされた。",
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"text": "これらのプログラムが作成された時点で既に、多くの国で様々な領域や分野でコンピュータが使用されていたので、思わぬ所での機能停止や誤作動の危険が起こり得ると指摘された。物流その他の社会運営上の不具合の発生などが予想され、国際経済が深刻な不況に陥る可能性を指摘する声もあった。一部には、カレンダーを持たない独立した組み込みシステムの誤作動の不安を煽るなど、あたかもフェイルセーフで設計された物がこの世にないかのように騒ぐなどの過剰反応も見られた。",
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"text": "1996年など平常の「閏年」とは異なり、2000年は「400年に1回」の特殊な閏年で閏日(2月29日)があるのに、その処理をしていないプログラムもあった。なお、土曜日から始まる閏年は、1972年以来28年ぶりであった。",
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"text": "従って、1900年は平年(100で割り切れても400で割り切れない)であったが、2000年は閏年であった。しかし、誤って1. と2. だけを適用し、2000年を閏年としないプログラムがあったので、この対応も併せて必要とされた。",
"title": "原因"
},
{
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"text": "前述のように年の下位2桁しか処理しないシステムでは、「400で割り切れる年」と「400で割り切れない年」を区別できず、1. 2. の規則のみに沿って年表示が00である年を平年として扱うようにプログラムすると、この問題が生じる。",
"title": "原因"
},
{
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"text": "偶々 2. 3. の規則を知らずに1. の規則のみに則るか、1. 2. 3. の規則を全て承知で西暦2099年までは4で割り切れる判定で充分と認識し、単純に4で割り切れるかどうかで閏年を判定するシステムでは、2000年を閏年として扱って問題は起きない。",
"title": "原因"
},
{
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"text": "当時、想定された問題には、次のようなものがあった。",
"title": "事前対策"
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"text": "従って、1990年代末期に使用していたコンピュータプログラムの訂正が世界規模で行われたが、この修正作業に費用と期間が取られてしまう企業も出てしまい、特に中小企業などにおいて大きな打撃となった。",
"title": "事前対策"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "結果としては直前にマスメディアで騒がれていたような生活に直結するほどの大きな混乱は一切起きずに終わった。",
"title": "結果"
},
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"text": "元々2000年問題の深刻さと対処については疑問の声も多くあり、例えば元日(1月1日)よりも閏日(2月29日)の方が大きな騒ぎとなったことを理由に、そもそも重大な危険が存在しなかったという意見がある。これに対しては反対意見があり、情報システムエンジニアの努力の結果であり、危機管理の成功例として混乱回避の努力を正しく評価すべきであるとの意見もある。",
"title": "結果"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "2000年問題は、発生時期が明確であったこと(そのため責任の所在が予め明確であったこと)や、企業間連鎖による影響を防ぐため相互監視が働いたこと(経営者は自社が加害者となることを防ぐ必要があり、同時に株主などからは自社が被害者とならないよう対策を求められたこと)などの要素が混乱回避への対策につながったと考えられている。",
"title": "結果"
},
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"text": "日本においては、1989年から消費税の導入や、「昭和」から「平成」への改元など、プログラムの全面的な見直しを要求される問題が発生しており、その際に2000年問題への対処も併せて行うことが多かった。",
"title": "結果"
},
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"text": "1998年7月15日に、財務局から各金融機関に対して「コンピュータ2000年問題対応に関する資料の提出について」という通達が出された。",
"title": "結果"
},
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"text": "これらの資料の3か月ごとの提出を命じ、1999年10月からは毎月の提出を命じた。内容は、あらゆる機器のリストアップ、問題判別の実施、対応マニュアルの作成・配布、一斉テストの実施、顧客・取引先に対しての周知徹底などであった。",
"title": "結果"
},
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"text": "金融機関は政府と一体となって取り組み、サービスが停止することのないよう万全の体制を取った。",
"title": "結果"
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"text": "1998年12月には小渕恵三が自らテレビCMに出演し、2000年問題への注意を促した。",
"title": "結果"
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"text": "1999年12月31日から2000年1月1日にまたがって運行するJR東日本・JR西日本などのJRや私鉄各社は、全ての列車を最寄りの駅に臨時停車して運転を見合わせ、航空便はシステムの不測の事態に備えて欠航したり、年が明けてからの出発に変更したりした。",
"title": "結果"
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"text": "2000年になった時点では、一部のシステムに不具合は出たものの、致命的な問題は生じなかった。なお、システムによっては時刻を協定世界時 (UTC)で取り扱うものがあり、そのようなシステムでは日本時間の「2000年1月1日午前9時」に不具合が生じることも懸念されたが、午前9時を迎えてもそれほど重大な問題には至らなかった。具体的な例としては、女川原子力発電所、福島第二原子力発電所および志賀原子力発電所で、警報装置が誤報を発したり一部のデータ管理が不能になったが、発電、送電や放射性物質管理に問題は発生しなかった。",
"title": "結果"
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{
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"text": "例として、当時NTTドコモが販売していた携帯電話「ムーバN206」(NEC製)のショートメール機能において、「既読メールが容量オーバーで受信できなくなった場合、古いメールから自動削除する」機能が誤作動した。また、2000年を想定した設計がされていない古いビデオデッキの予約録画、ワープロ機の文書管理機能などに影響が出た。",
"title": "結果"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "2000年2月29日に、当日を閏日として処理せず「日付誤り」として取り扱ったり処理に障害が出る事例が発生した。",
"title": "結果"
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"text": "2000年問題への対応として、年の内部表現が十進2桁のまま、ある数値までは20XX年とすることで1900年以降のある年から100年間を表せるようにするdate windowがあるが、UNIXエポックの1970年1月1日±50年である1920 - 2019年をwindowとしたシステムが多く、2020年の到来により誤動作を起こしている。",
"title": "2020年問題"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "KDDI/auのフィーチャーフォンのうちKCPを採用しているモデルにて、2020年になると同時に表示が\"0/0(SUN)0:00\"となり時計が機能しなくなる。発売当時から2019年までという仕様だったことが指摘されている。",
"title": "2020年問題"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "この他、米国ニューヨーク市でのパーキングメーターシステム、ポーランドのキャッシュレジスター、ドイツのハンブルク地下鉄でトラブルが報告されている。",
"title": "2020年問題"
}
] | 2000年問題(にせんねんもんだい、英語: Year 2000 problem)は、西暦(グレゴリオ暦)2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があるとされた年問題である。 Y2K問題(ワイツーケイもんだい、Y は年(year)、K はキロ(kilo=千))、ミレニアム・バグ(millennium bug)とも呼ばれた。 西暦2000年であることをコンピュータが正常に認識できなくなるという問題が主に取り上げられるが、グレゴリオ暦における置閏法を誤解して生じる問題もある。 | '''2000年問題'''(にせんねんもんだい、{{Lang-en|Year 2000 problem}})は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])[[2000年]]になると[[コンピュータ]]が誤作動する可能性があるとされた[[年問題]]である。
'''Y2K問題'''(ワイツーケイもんだい、''Y'' は[[年]](''year'')、''K'' は[[キロ]](''kilo''=[[1000|千]]<!-- (10<sup>3</sup>)-->))、'''ミレニアム・バグ'''(millennium bug)とも呼ばれた。
西暦2000年であることをコンピュータが正常に認識できなくなるという問題が主に取り上げられるが、[[グレゴリオ暦]]における[[閏年|置閏法]]を誤解して生じる問題もある。
== 原因 ==
当時、多数のコンピュータシステムの内部で日付を扱う際に[[西暦]]の下2桁だけを表示しており、上位2桁を省略していることが原因で問題が生じると言われた。この他に、置閏法に対する誤解から西暦2000年を「平年」として扱ったことが原因で、西暦2000年2月29日に誤動作する問題が生じる。
===年表示を2桁に限っている場合===
直接の原因は[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]内で[[日付]]を扱う際、西暦の4桁のうち上位2桁を省略し下位2桁だけを処理対象にしたことである。("yy-mm-dd"や"dd-mm-yy"など)
古い電算システムを構築するのに用いられた[[COBOL]]や[[FORTRAN]]のような古いプログラミング言語では、[[データ型]]に「日付型」が用意されていない。従ってプログラム内では年を表現するために2桁の文字型を割り当てて、西暦表示4桁のうち下2桁だけを記録・処理した。この方式では[[2000年]]が内部で「00年」となるので、これを「[[1900年]]」と見なしてしまい、例えば「レコードを日付順に並べ替える処理をすると、順序が狂う」などの誤作動を起こす可能性があると指摘された。
4桁で表現される西暦年数を格納するには、4桁の文字列 ("yyyy")を確保するのが妥当であるが、当時コンピュータが2000年まで長きにわたって運用されるとは予想されていなかっただけでなく、初期のコンピュータシステムでは、磁気テープなどの[[計算資源|リソース]]、特に[[記憶装置|メモリ]]の容量が極めて少ない上、高価な貴重品であるため、できるだけメモリを節約するプログラミングが要求された。
年数を下2桁 ("yy")に縮めてリソースを節約をするのは、当時の[[プログラマ]]の間では当然の技法であった。そのようなプログラムの多くは、[[1960年代]]から[[1980年代]]にかけて開発された。当事者は「2000年までには、何らかの改良が加えられるか、全く新しいシステムに更新されているだろう」という前提でいたので、2000年問題には充分な対策が施されていなかった。2000年問題が表面化した際は、プログラムを作成した技術者の死亡や退職などもあり、手作業でのプログラムの確認と修正が必要とされた。
これらのプログラムが作成された時点で既に、多くの国で様々な領域や分野でコンピュータが使用されていたので、思わぬ所での機能停止や誤作動の危険が起こり得ると指摘された。[[物流]]その他の社会運営上の不具合の発生などが予想され、国際経済が深刻な[[不況]]に陥る可能性を指摘する声もあった。一部には、[[カレンダー]]を持たない独立した[[組み込みシステム]]の誤作動の不安を煽るなど、あたかも[[フェイルセーフ]]で設計された物がこの世にないかのように騒ぐなどの過剰反応も見られた。
===置閏法を誤解している場合===
[[1996年]]など平常の「[[閏年]]」とは異なり、[[2000年]]は「400年に1回」の特殊な閏年で[[閏日]]([[2月29日]])があるのに、その処理をしていないプログラムもあった。なお、[[土曜日から始まる閏年]]は、[[1972年]]以来28年ぶりであった。
現行の[[グレゴリオ暦]]では、閏年について次の規則がある。
# 西暦年数で4で割り切れる年は閏年とする。
# 1.のうち、100で割り切れる年は[[平年]]とする。
# 2.のうち、400で割り切れる年は閏年とする。
従って、[[1900年]]は平年(100で割り切れても400で割り切れない)であったが、2000年は閏年であった。しかし、誤って1. と2. だけを適用し、2000年を閏年としないプログラムがあったので、この対応も併せて必要とされた。
前述のように年の下位2桁しか処理しないシステムでは、「400で割り切れる年」と「400で割り切れない年」を区別できず、1. 2. の規則のみに沿って年表示が00である年を平年として扱うようにプログラムすると、この問題が生じる。
偶々 2. 3. の規則を知らずに1. の規則のみに則るか、1. 2. 3. の規則を全て承知で西暦[[2099年]]までは4で割り切れる判定で充分と認識し、単純に4で割り切れるかどうかで閏年を判定するシステムでは、2000年を閏年として扱って問題は起きない。
== 事前対策 ==
当時、想定された問題には、次のようなものがあった。
* [[発電]]・[[送電]]機能の停止や誤作動とそれに伴う[[停電]]
* [[医療機器|医療関連機器]]の機能停止
* [[上水道|水道水]]の供給停止
* [[鉄道]]・[[航空管制]]など交通機能の停止
* [[弾道ミサイル]]などの誤発射。2000年に突入するタイミングに合わせて、2000年問題にかこつけて故意にミサイルを発射する[[国家]]が出るのではという懸念もあった。
* [[銀行]]・[[株式市場]]など金融関連の機能停止
* [[通信]]機能の停止
従って、[[1990年代]]末期に使用していた[[コンピュータプログラム]]の訂正が世界規模で行われたが、この修正作業に費用と期間が取られてしまう企業も出てしまい、特に[[中小企業]]などにおいて大きな打撃となった。
== 結果 ==
[[File:Bug de l'an 2000.jpg|thumb|ナント中央学校(フランス)<br/>「2000年」1月3日が、「1900年」1月3日と誤って表示されている。]]
=== 総括 ===
結果としては直前にマスメディアで騒がれていたような生活に直結するほどの大きな混乱は一切起きずに終わった。
元々2000年問題の深刻さと対処については疑問の声も多くあり、例えば元日([[1月1日]])よりも閏日([[2月29日]])の方が大きな騒ぎとなったことを理由に、そもそも重大な危険が存在しなかったという意見がある。これに対しては反対意見があり、情報システムエンジニアの努力の結果であり、危機管理の成功例として混乱回避の努力を正しく評価すべきであるとの意見もある<ref name="tokyo">東京海上リスクコンサルティング『トップカンパニーが教える危機管理学入門』2004年、21頁</ref>。
2000年問題は、発生時期が明確であったこと(そのため責任の所在が予め明確であったこと)や、企業間連鎖による影響を防ぐため相互監視が働いたこと(経営者は自社が加害者となることを防ぐ必要があり、同時に株主などからは自社が被害者とならないよう対策を求められたこと)などの要素が混乱回避への対策につながったと考えられている<ref name="tokyo" />。
=== 日本 ===
[[File:19991231 Year 2000 Problem Response Office.jpg|thumb|[[内閣総理大臣官邸]]に設置された対策室での[[内閣総理大臣]]・[[小渕恵三]]]]
日本においては、[[1989年]]から[[消費税]]の導入や、「[[昭和]]」から「[[平成]]」への改元など、プログラムの全面的な見直しを要求される問題が発生しており、その際に2000年問題への対処も併せて行うことが多かった。
==== 危険日までの対策 ====
[[1998年]][[7月15日]]に、[[財務局]]から各金融機関に対して「コンピュータ2000年問題対応に関する資料の提出について」という通達が出された。
# 経営における2000年問題対応の位置付けに関する資料
# 総費用見積りに関する資料
# 対応体制に関する資料
# 対応スケジュールに関する資料
# 進捗状況に関する資料
# 危機管理計画に関する資料
# 対応状況の開示に関する資料
これらの資料の3か月ごとの提出を命じ、[[1999年]]10月からは毎月の提出を命じた。内容は、あらゆる機器のリストアップ、問題判別の実施、対応マニュアルの作成・配布、一斉テストの実施、顧客・取引先に対しての周知徹底などであった。
金融機関は政府と一体となって取り組み、サービスが停止することのないよう万全の体制を取った。
1998年12月には[[小渕恵三]]が自らテレビCMに出演し、2000年問題への注意を促した。
{|class="wikitable"
|+金融機関の重点対策日
!日付!!事象
|-
|1999年9月9日(木曜日)||9が5つ並ぶ日
|-
|1999年12月30日(木曜日)||金融機関の最終営業日
|-
|1999年12月31日(金曜日)||1999年末日(大晦日)
|-
|2000年1月1日(土曜日)||2000年初日(元日)、日付の桁数が初めて6桁(200011)になる日
|-
|2000年1月3日(月曜日)||海外市場取引開始日(シドニー市場)
|-
|2000年1月4日(火曜日)||金融機関の営業開始日
|-
|2000年1月8日(土曜日)||最初の[[現金自動預け払い機|ATM]]土曜稼働日
|-
|2000年1月10日(月曜日)||("yyyymd"表記で)日付の桁数が初めて7桁 (2000110)になる日([[成人の日]])
|-
|2000年1月15日(土曜日)||通常営業日(成人の日ではない)
|-
|2000年2月28日(月曜日)||翌日が閏日(月末ではない)
|-
|2000年2月29日(火曜日)||「400年に1回」ある、世紀末の閏日
|-
|2000年3月31日(金曜日)||1999年度の末日
|-
|2000年10月9日(月曜日)||[[体育の日]]
|-
|2000年10月10日(火曜日)|| ("yyyymd"表記で)日付の桁数が初めて8桁になる日(体育の日ではない)
|-
|2000年12月31日(日曜日)||2000年末日([[20世紀]]の最終日)
|}
==== 2000年1月1日 ====
[[1999年]][[12月31日]]から2000年[[1月1日]]にまたがって運行する鉄道各社は、全ての列車を最寄りの駅に臨時停車して運転を見合わせ、航空便はシステムの不測の事態に備えて欠航したり、年が明けてからの出発に変更したりした。
2000年になった時点では、一部のシステムに不具合は出たものの、致命的な問題は生じなかった。なお、システムによっては時刻を[[協定世界時]] (UTC)で取り扱うものがあり、そのようなシステムでは[[日本時間]]の「2000年1月1日午前9時」に不具合が生じることも懸念されたが、午前9時を迎えてもそれほど重大な問題には至らなかった。具体的な例としては、[[女川原子力発電所]]、[[福島第二原子力発電所]]および[[志賀原子力発電所]]で、警報装置が誤報を発したり一部のデータ管理が不能になったが、発電、送電や[[放射性物質]]管理に問題は発生しなかった<ref>[[電気事業連合会]] 2000年1月21日報道発表資料</ref>。
例として、当時[[NTTドコモ]]が販売していた[[携帯電話]]「ムーバN206」([[日本電気|NEC]]製)の[[ショートメール]]機能において、「既読メールが容量オーバーで受信できなくなった場合、古いメールから自動削除する」機能が誤作動した<ref>{{Cite news|和書|title=Y2K 市民生活問題なし 原発でデータ転送トラブル 仕事始めのあすも要警戒|newspaper=[[産経新聞]] |date=2000年1月3日|edition=東京朝刊|page=26面}}</ref>。また、2000年を想定した設計がされていない古い[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]の予約録画、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]機の文書管理機能などに影響が出た。
==== 2000年2月29日 ====
2000年[[2月29日]]に、当日を閏日として処理せず「日付誤り」として取り扱ったり処理に障害が出る事例が発生した<ref>{{Cite web|和書 |website=Y2Kに関する最近の動向 |date=2000年2月29日 |url=http://www.kantei.go.jp/jp/pc2000/2000/02-29haridasi.html |title=2月29日に関する政府の対応について |publisher=[[内閣安全保障室]] |accessdate=2018年5月7日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000823193821/http://www.kantei.go.jp/jp/pc2000/2000/02-29haridasi.html |archivedate=2000-08-23 |deadlinkdate=}}</ref>。
*[[郵便貯金]][[現金自動預け払い機|ATM]]のうち、約1,200台が停止。富士通製の[[集積回路|LSI]]に不具合があり、[[1996年]]から[[1999年]]にかけて製造された同社製および[[沖電気工業]]製の一部ATMが停止したことが、同日深夜に[[郵政省]]と[[富士通]]から発表された。
*[[札幌市交通局]]の[[札幌市営バス|路線バス]]から[[札幌市営地下鉄|地下鉄]]への乗継ぎができなくなった<ref>{{Cite news|和書|title=「うるう年」トラブル相次ぐ 郵貯ATM停止 札幌市バス日付表示誤る|newspaper=[[北海道新聞]]||date=2000年2月29日|edition=夕刊|page=1}}</ref>。バス車内で発行される「[[のりかえ券|乗継ぎ券]]」の日付が[[2月28日]]となってしまい、地下鉄の[[自動改札機]]を通過できなかった。
*[[気象庁]]の[[アメダス]]が誤作動を起こし、[[長崎県]][[平戸市]]では降雨がないにもかかわらず、1時間に973 [[ミリメートル|mm]]という尋常でない[[降水量|降雨量]]が記録された<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rankall.php 気象庁|歴代全国ランキング] - 2023年時点では、[[千葉県]][[香取市]]で1999年10月27日に観測された153mmが実際の1時間最多降水量である。</ref>。
== 2020年問題 ==
2000年問題への対応として、年の内部表現が十進2桁のまま、ある数値までは20XX年とすることで1900年以降のある年から100年間を表せるようにする[[:en:date windowing|date window]]があるが、UNIXエポックの1970年1月1日±50年である1920 - 2019年をwindowとしたシステムが多く、2020年の到来により誤動作を起こしている<ref>{{Cite web|和書|title=20年前の「2000年問題」の影響が時間を超えて各所で起こっているとの報告|url=https://gigazine.net/news/20200110-y2k-bug-taking-down-computers/|website=[[GIGAZINE]]|author=jeffjacobs1990|date=2020-01-10|accessdate=2020-01-11}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.newscientist.com/article/2229238-a-lazy-fix-20-years-ago-means-the-y2k-bug-is-taking-down-computers-now/|title=A lazy fix 20 years ago means the Y2K bug is taking down computers now|website=[[ニュー・サイエンティスト|New Scientist]]|author=Chris StokelWalker|date=2020-01-07|accessdate=2020-01-11}}</ref>。
[[KDDI]]/[[Au (携帯電話)|au]]の[[フィーチャーフォン]]のうちKCPを採用しているモデルにて、2020年になると同時に表示が"0/0(SUN)0:00"となり時計が機能しなくなる。発売当時から2019年までという仕様だったことが指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54065240W0A100C2000000/|title=ガラケーの時計が動かない 「2020年問題」の真相|website=[[日本経済新聞]]|date=2020-01-07|accessdate=2020-01-11}}</ref>。
この他、米国[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]での[[パーキングメーター]]システム、[[ポーランド]]の[[キャッシュレジスター]]、ドイツの[[ハンブルク地下鉄]]でトラブルが報告されている<ref>{{Cite web|和書|title=2020年によみがえった「2000年問題」、次にくるのは18年後?:546th Lap|url=https://www.keyman.or.jp/kn/articles/2001/17/news025.html|website=キーマンズネット|accessdate=2020-01-19|language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[コンピュータと社会]]
* [[ソフトウェア保守]]
* [[算術オーバーフロー]]
* [[カウンターストップ]]
* [[ミレニアム]]
* [[世紀末]]
* [[ITバブル]]
* [[IT革命]]
* [[恐怖の大王]]
* [[2038年問題]]
* [[2079年問題]]
* [[年問題]]
* [[大橋ツヨシ]] - マンガ、「極楽大将」にて実際に2000年問題が発生したらというネタのマンガで[[2.26事件]]も絡め平成の墨書を持った小渕を拳銃や刀を持った将校が取り囲むシーンがある。
== 外部リンク ==
* {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20220518000814/http://www.kantei.go.jp/jp/pc2000/index.html |title=日本首相官邸「コンピュータ西暦2000年問題」}}
* {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20000816185237/http://www.monbu.go.jp/special/2000nen/ |title=文部省「コンピュータ西暦2000年問題」}}
* {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20000118130233/http://www.tv-tokyo.co.jp/y2k/y2k.htm |title=テレビ東京「2000年問題」}}
* {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/19980110125812/http://itaka.com/ |title=私にも2000年問題}}
* {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/19990428062718/http://www.yahoo.co.jp/Computers_and_Internet/Year_2000_Problem |title=yahoo!検索サイト}}
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|2020年問題}}
{{年問題}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:2000ねんもんたい}}
[[Category:コンピュータ史]]
[[Category:情報社会]]
[[Category:日時の表現法に起因するバグ|2000]]
[[Category:2000年]]
[[Category:年問題]] | 2003-04-24T16:00:24Z | 2023-12-08T07:20:47Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/2000%E5%B9%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C |
7,236 | Who | WHO、Who、who | [
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] | WHO、Who、who | {{Wiktionary}}
'''WHO'''、'''Who'''、'''who'''
== 一般 ==
* [[英語]]の[[疑問詞|疑問]][[代名詞]]。
== 組織 ==
* [[世界保健機関]] - WHO(''World Health Organization'')。
* [[ザ・フー]] - [[イギリス]]の[[ロックバンド]]。
== 作品名 ==
=== 音楽 ===
* [[WHO (アルバム)]] - [[Ricken's]]のアルバム。
* [[WHO?]] - [[いきものがかり]]のアルバム。
* [[¿WHO?]] - [[木村カエラ]]のアルバム。
* Who... - [[浜崎あゆみ]]の楽曲。アルバム『[[LOVEppears]]』に収録。
* [[WHO (ザ・フーのアルバム)]] - [[ザ・フー]]のアルバム。
=== 漫画 ===
* [[WHO!?]] - [[板本こうこ]]の[[漫画]]、およびそれを原作とする[[テレビドラマ]]。
* [[Who!]] - [[佐々木淳子]]による日本の漫画短編集。
=== テレビシリーズ ===
* [[ドクター・フー|ドクター・フー (Doctor Who)]] - イギリスBBCで放映されているSFテレビドラマシリーズ。
== 情報処理 ==
* [[Who (UNIX)]] - コンピュータにログインしているユーザの一覧を表示するUnix系オペレーティングシステムのコマンド。
== その他 ==
* コカ・コーラボトラーズジャパンプロダクツ本郷工場でかつて製造されていた製品につけられる製造所固有記号。[[コカ・コーラボトラーズジャパン]]参照。
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7,237 | JPN | JPN, jpn | [
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] | JPN, jpn 日本の英名"Japan"の略。頭3文字を取った"JAP"が侮蔑語であるため。
日本のISO 3166-1国名コード。ジャパン・ジャップも参照。
日本語(Japanese)のISO 639-2言語コード。
日本の中央競馬および一部の地方競馬で使われる競走格付けの単位。競馬の競走格付けを参照。
Japan Press Networkの略。
JPN (アルバム) - Perfumeの4thアルバム。 | '''JPN''', '''jpn'''
* [[日本]]の英名"Japan"の略。頭3文字を取った"[[ジャップ|JAP]]"が[[侮蔑語]]であるため。
* 日本の[[ISO 3166-1]][[国名コード]]。[[ジャパン]]・[[ジャップ]]も参照。
* [[日本語]](Japanese)の[[ISO 639|ISO 639-2言語コード]]。
* 日本の[[中央競馬]]および一部の[[地方競馬]]で使われる競走格付けの単位。[[競馬の競走格付け]]を参照。
* [[47CLUB|Japan Press Network]]の略。
* [[JPN (アルバム)]] - [[Perfume]]の4th[[アルバム]]。
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7,239 | QD | QDとは、 | [
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] | QDとは、 クイックディスク - 記憶メディアの一種。
タミヤの組み立て済みラジコンカー、クイックドライブシリーズ。
トヨタ・クイックデリバリー - QD200と称される。
日産・QDエンジン
量子ドット(Quantum dot) - 3次元全ての方向から移動方向が制限された電子の状態。 | '''QD'''とは、
*[[クイックディスク]] - 記憶メディアの一種。
*[[タミヤ]]の組み立て済み[[ラジコン]]カー、'''クイックドライブ'''シリーズ。
*[[トヨタ・クイックデリバリー]] - QD200と称される。
*[[日産・QDエンジン]]
*[[量子ドット]](Quantum dot) - 3次元全ての方向から移動方向が制限された電子の状態。
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/QD |
7,242 | NSA | NSA | [
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] | NSA | '''NSA'''
== 組織・団体名 ==
* National Security Agency:[[アメリカ国家安全保障局]]
* National Standards Association:[[アメリカ全国規格協会]]
* Nato Standardization Agency:[[NATO規格局]]
* Nihon Shopping Center Amusement Park Operator's Association:[[日本SC遊園協会]]
* Nippon Software industry Association:[[日本ソフトウエア産業協会]]
* Nippon Surfing Association:[[日本サーフィン連盟]]
* National Spiritual Assembly: [[全国精神行政会]]([[バハイ教]])
* National Student Association: [http://nsa.main.jp/ 自由民主党全国学生交流会]
* Norwegian Shipowners' Association [[ノルウェー船主協会]]
== その他 ==
* Non Stand-Alone - [[第5世代移動通信システム]] (5G) のサービス形態のひとつ。対義語は SA (Stand-Alone)。
* NScripter Archive: [[NScripter]]の[[アーカイブ (コンピュータ)|アーカイブ]]形式
* Non State Actor(s):[[非国家主体]](NSAs)
* Negative Security Assurances:[[消極的安全保証]](NSAs)
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/NSA |
7,243 | RADIUS | RADIUS(ラディウス、ラディアス、Remote Authentication Dial In User Service)は、ネットワーク資源の利用の可否の判断(認証)と、利用の事実の記録(アカウンティング)を、ネットワーク上のサーバコンピュータに一元化することを目的とした、IP上のプロトコルである。名称に「ダイヤルイン」という言葉を含むことからわかるように、元来はダイヤルアップ・インターネット接続サービスを実現することを目的として開発された。しかし、常時接続方式のインターネット接続サービス、無線LAN、VLAN、コンテンツ提供サービスなどのサービス提供者側設備において、認証とアカウンティングを実現するプロトコルとして幅広く利用されている。
RADIUSプロトコルは、クライアントサーバモデルに基づいたプロトコルである。RADIUSプロトコルにおけるクライアントは、利用者(人またはコンピュータ)に対してネットワーク接続サービスなどのサービスを提供する機材であり、サーバに対して認証およびアカウンティングを要請する。サーバは、クライアントからの要請に応じて認証およびアカウンティングを行い、応答する。常にクライアントが要求し、サーバが応答する。利用者へのサービスの停止させることなど、サーバがクライアントに対して要求を開始することはできない。クライアントおよびサーバを、一般に「RADIUSクライアント」および「RADIUSサーバ」と呼ぶ。
インターネット接続サービスにおいては、ダイヤルアップ着信装置やブロードバンドアクセスサーバ(BAS、Broadband Access Server)などの着信装置(NAS、Network Access Server)がRADIUSクライアントである(「サーバ」という名称であっても、RADIUSプロトコルの観点ではクライアントである)。無線LANにおいては、無線LANアクセスポイントである。VLANにおいては、VLANスイッチである。コンテンツ提供サービスにおいては、ウェブサーバがRADIUSクライアントとして機能するだろう。
クライアントがサーバに「RADIUS要求パケット」を送信し、サーバがクライアントに「RADIUS応答パケット」を送信する。いずれの方向の通信も、IP上のUDPパケットによって行う。
いずれのパケットも、ヘッダ部分20オクテットと、「属性」部分とからなる。ヘッダ部分は、種別コード(Code)1オクテット、識別子(Identifier)1オクテット、パケット全体の長さ2オクテット、「認証符号(オーセンティケータ、Authenticator)」16オクテットからなる。識別子は、クライアントが決めて要求パケットに設定し、サーバが応答パケットにコピーする。クライアントが、受信した応答パケットと過去に送信した要求パケットとの対応付けを行うために使用する。クライアントの実装では1ずつ増加する数値とするのが一般的であるが、シリアル番号であるとは規定されていない。認証符号とは、送信者の詐称と改竄(かいざん)の無いことの証明を行うデータである。属性部分は、属性値ペア (Attribute Value Pair) を任意の回数繰り返したものである。属性値ペアは、属性番号1オクテット、長さ1オクテット、属性の値からなる。値としては、4オクテットの整数値、4オクテットのIPアドレス、1 - 253オクテットの文字列などを与えることができる。
属性番号ごとに、属性値ペアの値の意味がRFC文書において規定されている。属性番号に対する意味を新たに定義することによって使用目的を増やすことができることが、RADIUSプロトコルの柔軟性の源であり、最大の特徴である。機器のベンダが独自に属性番号の意味を定義して独自の目的に使用することは推奨されない。ベンダ独自の機能に対応するためには、属性番号26番 (Vendor Specific) の値として、ベンダ番号を含むデータを与えることが推奨される。属性番号26番の属性値ペアを、一般にVSA (Vendor Specific Attribute) と呼ぶ。ベンダ番号は、IANAが管理および付与している。
属性値ペアにさまざまな情報を含めることによって、認証とアカウンティングを行う。認証のために、ユーザ名、パスワードのための属性番号が用意されている。ダイヤルアップ・インターネット接続においてPPPを使用する場合のため、PPP用の認証プロトコルであるPAP、CHAP、EAPのそれぞれに適した属性番号が用意されている。アカウンティングのために、利用秒数、送受信データ量などの属性番号が用意されている。これからわかるように、属性番号によって、認証とアカウンティングのどちらで利用できるのか、どちらでも利用できるのかの違いがある。
RADIUSパケットの最大長は、RADIUS認証プロトコルにおいては4096オクテット、RADIUSアカウンティングプロトコルにおいては4095オクテットである。RADIUSアカウンティングプロトコルが4096オクテットでなく4095オクテットであることには特に意味がないようである(RFCの執筆者によれば、タイプミスがそのまま規格になってしまったとのことである)。
「RADIUSプロトコルは、AAAモデル(AAA プロトコル)に基づいたプロトコルである」という表現をすることがある。AAAモデルとは、サービスの提供から記録までの流れを、認証 (Authentication)、承認 (Authorization)、アカウンティング (Accounting) の3つの段階に分けて考えるモデルである。認証とは、利用者が誰であるかを識別することである。この点では、認証よりも「利用者の識別」と言ったほうが適切かもしれない。一番単純な認証は、ユーザ名とパスワードの組み合わせが正しいことを確認する方法だろう。承認とは、認証済みの利用者に対してサービスを提供するか否かを判断することである。たとえば、利用の時刻、発信者電話番号などによる利用場所、前払い利用料金の残額などによって判断するだろう。「認可」「許可」と訳されることもある。アカウンティングとは、利用の事実を記録することである。「課金」と訳されることもあるが、請求・決済業務を指す課金 (Billing) と混同する可能性があるので「アカウンティング」とカナ表記するのが好ましい。
RADIUSプロトコル自体は、AAAモデルという考え方が確立するよりも前に開発されたものである。そのため、RADIUSプロトコルにおいては、認証と承認を区別せず、あわせて「認証」として取り扱っている。実際、RADIUSクライアントは、利用が拒否された理由がパスワードの間違いなのか、権限の不足なのかを知ることができない。
UDPはTCPと異なり、送信者の詐称、データの改竄を検出することができない。このため、通信相手のIPアドレスだけで通信の内容を信頼することはできない。詐称と改竄を防ぐため、RADIUSクライアントとサーバの間で共有鍵 (Shared secret) と呼ぶ鍵文字列を共有し、パケットの内容と共有鍵から得たダイジェスト情報を認証符号および属性値ペアに配置している。共有鍵は、RADIUSクライアントとサーバの組み合わせごとに1個を用意すべきである。RADIUSサーバごとに1個だけ用意し、全てのRADIUSクライアントで同じ共有鍵を使うことは、セキュリティ上の大きなリスクとなる。また、セキュリティの観点から、共有鍵の内容が第三者に漏洩することは大きな問題である。
RADIUSサーバでありながら、実際の認証とアカウンティングの処理を他のRADIUSサーバに依頼するものを「RADIUSプロキシサーバ」と呼ぶ。つまり、RADIUSサーバでありながら、RADIUSクライアントでもある。要求を「転送する」ともいう。
ユーザ名文字列を判断して、要求の転送先を変えることもできる。たとえば、ユーザ名として電子メールアドレスのように「@」マークとドメイン名を含んだ文字列を使用し、ドメイン名の部分の文字列に従って異なるRADIUSサーバに転送することができる。このような技術は、ISP(インターネット接続サービスプロバイダ)間のローミングや、NTTのフレッツサービスのようなアクセス網提供サービスとISPとの分業など、広く利用されている。上記の例でのドメイン名の部分のように、転送先を判断する根拠とする部分を、一般に「レルム(Realm)」と呼ぶ。
CoAは「Change-of-Authorization」の略で、RADIUS許可の変更を意味する。AAAサーバがAAAクライアントにCoA要求パケットを送信し、すでに存在しているセッションの再認証を行う。これにより、ポリシーの変更が発生した場合、すでに認証されているセッションにも新しいポリシーを適用できる。
IEEE 802.1Xは、LANの利用の可否を制御する、イーサネット上のプロトコルである。IEEE 802.1Xにおいては、EAPプロトコルとRADIUSプロトコルを利用することによって、RADIUSサーバによって認証された利用者のみに対してLANを利用させることができる。もちろん、このためにはIEEE 802.1Xに対応した無線LANアクセスポイントまたはスイッチが必要である。なお、「802.1x」というように「X」を小文字で記述しても誤りではないが、大文字で記述するのが主流である。これは、小文字の「x」が数学で使う「 x {\displaystyle x} 」のように、「xの部分に入る文字を規定しない」という意味に誤解されることを防ぐためである。
IEEE 802.1XおよびRADIUSプロトコルのいずれも、実際の認証手順については規定していない。実際の認証は、EAP-TLS、PEAP、EAP-TTLSなどEAP上の認証手順によって行う。ベンダ独自の認証手順をEAP上に実現することも可能である。EAPによる認証のためのデータのやりとりを、利用者端末とアクセスポイントまたはスイッチの間のイーサネットではEAPoL(EAP over LAN)、アクセスポイントまたはスイッチとRADIUSサーバの間ではRADIUSプロトコルによって中継する。
EAP-TLSは、TLSに基づいてデジタル証明書による相互認証(サービス提供者の詐称をも防止する)を行うという点で重要であるが、デジタル証明書の運用と管理の負担が大きいという点で、一般の事業所等では敬遠される傾向がある。PEAPおよびEAP-TTLSは、TLSによる暗号化した通信路を形成したうえでパスワード情報のやりとりを行う認証手順である。EAP-TLS、PEAP・EAP-TTLSの対比は、ウェブブラウザのTLSでデジタル証明書による相互認証を行うのか、SSL上でパスワード認証を行うかの違いを考えるとわかりやすいだろう。
古くから、RADIUSプロトコルの開発者であるLivingston Enterprises社(後にLucent Technologies社に買収された)によるRADIUSサーバの実装と、この実装から派生した実装が多用されてきた。近年では、オープンソースソフトウェア、商用ソフトウェアともに、さまざまな実装が存在する。
以下のRFC文書をはじめ、多くのRFCによって規定されている。 | [
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"text": "RADIUS(ラディウス、ラディアス、Remote Authentication Dial In User Service)は、ネットワーク資源の利用の可否の判断(認証)と、利用の事実の記録(アカウンティング)を、ネットワーク上のサーバコンピュータに一元化することを目的とした、IP上のプロトコルである。名称に「ダイヤルイン」という言葉を含むことからわかるように、元来はダイヤルアップ・インターネット接続サービスを実現することを目的として開発された。しかし、常時接続方式のインターネット接続サービス、無線LAN、VLAN、コンテンツ提供サービスなどのサービス提供者側設備において、認証とアカウンティングを実現するプロトコルとして幅広く利用されている。",
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{
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"text": "RADIUSプロトコルは、クライアントサーバモデルに基づいたプロトコルである。RADIUSプロトコルにおけるクライアントは、利用者(人またはコンピュータ)に対してネットワーク接続サービスなどのサービスを提供する機材であり、サーバに対して認証およびアカウンティングを要請する。サーバは、クライアントからの要請に応じて認証およびアカウンティングを行い、応答する。常にクライアントが要求し、サーバが応答する。利用者へのサービスの停止させることなど、サーバがクライアントに対して要求を開始することはできない。クライアントおよびサーバを、一般に「RADIUSクライアント」および「RADIUSサーバ」と呼ぶ。",
"title": "クライアントサーバモデル"
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{
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"text": "インターネット接続サービスにおいては、ダイヤルアップ着信装置やブロードバンドアクセスサーバ(BAS、Broadband Access Server)などの着信装置(NAS、Network Access Server)がRADIUSクライアントである(「サーバ」という名称であっても、RADIUSプロトコルの観点ではクライアントである)。無線LANにおいては、無線LANアクセスポイントである。VLANにおいては、VLANスイッチである。コンテンツ提供サービスにおいては、ウェブサーバがRADIUSクライアントとして機能するだろう。",
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"text": "クライアントがサーバに「RADIUS要求パケット」を送信し、サーバがクライアントに「RADIUS応答パケット」を送信する。いずれの方向の通信も、IP上のUDPパケットによって行う。",
"title": "プロトコルの概要"
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{
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"text": "いずれのパケットも、ヘッダ部分20オクテットと、「属性」部分とからなる。ヘッダ部分は、種別コード(Code)1オクテット、識別子(Identifier)1オクテット、パケット全体の長さ2オクテット、「認証符号(オーセンティケータ、Authenticator)」16オクテットからなる。識別子は、クライアントが決めて要求パケットに設定し、サーバが応答パケットにコピーする。クライアントが、受信した応答パケットと過去に送信した要求パケットとの対応付けを行うために使用する。クライアントの実装では1ずつ増加する数値とするのが一般的であるが、シリアル番号であるとは規定されていない。認証符号とは、送信者の詐称と改竄(かいざん)の無いことの証明を行うデータである。属性部分は、属性値ペア (Attribute Value Pair) を任意の回数繰り返したものである。属性値ペアは、属性番号1オクテット、長さ1オクテット、属性の値からなる。値としては、4オクテットの整数値、4オクテットのIPアドレス、1 - 253オクテットの文字列などを与えることができる。",
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{
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"text": "属性番号ごとに、属性値ペアの値の意味がRFC文書において規定されている。属性番号に対する意味を新たに定義することによって使用目的を増やすことができることが、RADIUSプロトコルの柔軟性の源であり、最大の特徴である。機器のベンダが独自に属性番号の意味を定義して独自の目的に使用することは推奨されない。ベンダ独自の機能に対応するためには、属性番号26番 (Vendor Specific) の値として、ベンダ番号を含むデータを与えることが推奨される。属性番号26番の属性値ペアを、一般にVSA (Vendor Specific Attribute) と呼ぶ。ベンダ番号は、IANAが管理および付与している。",
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"text": "属性値ペアにさまざまな情報を含めることによって、認証とアカウンティングを行う。認証のために、ユーザ名、パスワードのための属性番号が用意されている。ダイヤルアップ・インターネット接続においてPPPを使用する場合のため、PPP用の認証プロトコルであるPAP、CHAP、EAPのそれぞれに適した属性番号が用意されている。アカウンティングのために、利用秒数、送受信データ量などの属性番号が用意されている。これからわかるように、属性番号によって、認証とアカウンティングのどちらで利用できるのか、どちらでも利用できるのかの違いがある。",
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"text": "RADIUSパケットの最大長は、RADIUS認証プロトコルにおいては4096オクテット、RADIUSアカウンティングプロトコルにおいては4095オクテットである。RADIUSアカウンティングプロトコルが4096オクテットでなく4095オクテットであることには特に意味がないようである(RFCの執筆者によれば、タイプミスがそのまま規格になってしまったとのことである)。",
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"text": "「RADIUSプロトコルは、AAAモデル(AAA プロトコル)に基づいたプロトコルである」という表現をすることがある。AAAモデルとは、サービスの提供から記録までの流れを、認証 (Authentication)、承認 (Authorization)、アカウンティング (Accounting) の3つの段階に分けて考えるモデルである。認証とは、利用者が誰であるかを識別することである。この点では、認証よりも「利用者の識別」と言ったほうが適切かもしれない。一番単純な認証は、ユーザ名とパスワードの組み合わせが正しいことを確認する方法だろう。承認とは、認証済みの利用者に対してサービスを提供するか否かを判断することである。たとえば、利用の時刻、発信者電話番号などによる利用場所、前払い利用料金の残額などによって判断するだろう。「認可」「許可」と訳されることもある。アカウンティングとは、利用の事実を記録することである。「課金」と訳されることもあるが、請求・決済業務を指す課金 (Billing) と混同する可能性があるので「アカウンティング」とカナ表記するのが好ましい。",
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"text": "RADIUSプロトコル自体は、AAAモデルという考え方が確立するよりも前に開発されたものである。そのため、RADIUSプロトコルにおいては、認証と承認を区別せず、あわせて「認証」として取り扱っている。実際、RADIUSクライアントは、利用が拒否された理由がパスワードの間違いなのか、権限の不足なのかを知ることができない。",
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"text": "RADIUSサーバでありながら、実際の認証とアカウンティングの処理を他のRADIUSサーバに依頼するものを「RADIUSプロキシサーバ」と呼ぶ。つまり、RADIUSサーバでありながら、RADIUSクライアントでもある。要求を「転送する」ともいう。",
"title": "プロキシ"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ユーザ名文字列を判断して、要求の転送先を変えることもできる。たとえば、ユーザ名として電子メールアドレスのように「@」マークとドメイン名を含んだ文字列を使用し、ドメイン名の部分の文字列に従って異なるRADIUSサーバに転送することができる。このような技術は、ISP(インターネット接続サービスプロバイダ)間のローミングや、NTTのフレッツサービスのようなアクセス網提供サービスとISPとの分業など、広く利用されている。上記の例でのドメイン名の部分のように、転送先を判断する根拠とする部分を、一般に「レルム(Realm)」と呼ぶ。",
"title": "プロキシ"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "CoAは「Change-of-Authorization」の略で、RADIUS許可の変更を意味する。AAAサーバがAAAクライアントにCoA要求パケットを送信し、すでに存在しているセッションの再認証を行う。これにより、ポリシーの変更が発生した場合、すでに認証されているセッションにも新しいポリシーを適用できる。",
"title": "CoA"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "IEEE 802.1Xは、LANの利用の可否を制御する、イーサネット上のプロトコルである。IEEE 802.1Xにおいては、EAPプロトコルとRADIUSプロトコルを利用することによって、RADIUSサーバによって認証された利用者のみに対してLANを利用させることができる。もちろん、このためにはIEEE 802.1Xに対応した無線LANアクセスポイントまたはスイッチが必要である。なお、「802.1x」というように「X」を小文字で記述しても誤りではないが、大文字で記述するのが主流である。これは、小文字の「x」が数学で使う「 x {\\displaystyle x} 」のように、「xの部分に入る文字を規定しない」という意味に誤解されることを防ぐためである。",
"title": "IEEE 802.1X"
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{
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"tag": "p",
"text": "IEEE 802.1XおよびRADIUSプロトコルのいずれも、実際の認証手順については規定していない。実際の認証は、EAP-TLS、PEAP、EAP-TTLSなどEAP上の認証手順によって行う。ベンダ独自の認証手順をEAP上に実現することも可能である。EAPによる認証のためのデータのやりとりを、利用者端末とアクセスポイントまたはスイッチの間のイーサネットではEAPoL(EAP over LAN)、アクセスポイントまたはスイッチとRADIUSサーバの間ではRADIUSプロトコルによって中継する。",
"title": "IEEE 802.1X"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "EAP-TLSは、TLSに基づいてデジタル証明書による相互認証(サービス提供者の詐称をも防止する)を行うという点で重要であるが、デジタル証明書の運用と管理の負担が大きいという点で、一般の事業所等では敬遠される傾向がある。PEAPおよびEAP-TTLSは、TLSによる暗号化した通信路を形成したうえでパスワード情報のやりとりを行う認証手順である。EAP-TLS、PEAP・EAP-TTLSの対比は、ウェブブラウザのTLSでデジタル証明書による相互認証を行うのか、SSL上でパスワード認証を行うかの違いを考えるとわかりやすいだろう。",
"title": "IEEE 802.1X"
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"text": "古くから、RADIUSプロトコルの開発者であるLivingston Enterprises社(後にLucent Technologies社に買収された)によるRADIUSサーバの実装と、この実装から派生した実装が多用されてきた。近年では、オープンソースソフトウェア、商用ソフトウェアともに、さまざまな実装が存在する。",
"title": "ソフトウェア"
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"tag": "p",
"text": "以下のRFC文書をはじめ、多くのRFCによって規定されている。",
"title": "規定"
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] | RADIUSは、ネットワーク資源の利用の可否の判断(認証)と、利用の事実の記録(アカウンティング)を、ネットワーク上のサーバコンピュータに一元化することを目的とした、IP上のプロトコルである。名称に「ダイヤルイン」という言葉を含むことからわかるように、元来はダイヤルアップ・インターネット接続サービスを実現することを目的として開発された。しかし、常時接続方式のインターネット接続サービス、無線LAN、VLAN、コンテンツ提供サービスなどのサービス提供者側設備において、認証とアカウンティングを実現するプロトコルとして幅広く利用されている。 | {{Otheruses||その他|ラディウス}}
{{出典の明記|date=2019年12月}}
'''RADIUS'''('''ラディウス'''、'''ラディアス'''、'''Remote Authentication Dial In User Service''')は、ネットワーク資源の利用の可否の判断([[認証]])と、利用の事実の記録(アカウンティング)を、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上の[[サーバ]][[コンピュータ]]に一元化することを目的とした、[[Internet Protocol|IP]]上の[[プロトコル]]である。名称に「ダイヤルイン」という言葉を含むことからわかるように、元来は[[ダイヤルアップ接続|ダイヤルアップ・インターネット接続サービス]]を実現することを目的として開発された。しかし、常時接続方式の[[インターネット]]接続サービス、[[無線LAN]]、[[Virtual Local Area Network|VLAN]]、[[コンテンツ]]提供サービスなどのサービス提供者側設備において、認証とアカウンティングを実現するプロトコルとして幅広く利用されている。
== クライアントサーバモデル ==
RADIUSプロトコルは、[[クライアントサーバモデル]]に基づいたプロトコルである。RADIUSプロトコルにおける[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]は、利用者(人またはコンピュータ)に対してネットワーク接続サービスなどのサービスを提供する機材であり、サーバに対して認証およびアカウンティングを要請する。サーバは、クライアントからの要請に応じて認証およびアカウンティングを行い、応答する。常にクライアントが要求し、サーバが応答する。利用者へのサービスの停止させることなど、サーバがクライアントに対して要求を開始することはできない。クライアントおよびサーバを、一般に「RADIUSクライアント」および「RADIUSサーバ」と呼ぶ。
== RADIUSクライアントの例 ==
インターネット接続サービスにおいては、ダイヤルアップ着信装置や[[ブロードバンドアクセスサーバ]](BAS、Broadband Access Server)などの着信装置([[ネットワークアクセスサーバ|NAS]]、Network Access Server)がRADIUSクライアントである(「サーバ」という名称であっても、RADIUSプロトコルの観点ではクライアントである)。無線LANにおいては、[[アクセスポイント (無線LAN)|無線LANアクセスポイント]]である。VLANにおいては、VLANスイッチである。コンテンツ提供サービスにおいては、[[Webサーバ|ウェブサーバ]]がRADIUSクライアントとして機能するだろう。
== プロトコルの概要 ==
クライアントがサーバに「RADIUS要求パケット」を送信し、サーバがクライアントに「RADIUS応答パケット」を送信する。いずれの方向の通信も、IP上の[[User Datagram Protocol|UDP]]パケットによって行う。
いずれのパケットも、ヘッダ部分20[[8ビット|オクテット]]と、「属性」部分とからなる。ヘッダ部分は、種別コード(Code)1オクテット、識別子(Identifier)1オクテット、パケット全体の長さ2オクテット、「認証符号(オーセンティケータ、Authenticator)」16オクテットからなる。識別子は、クライアントが決めて要求パケットに設定し、サーバが応答パケットにコピーする。クライアントが、受信した応答パケットと過去に送信した要求パケットとの対応付けを行うために使用する。クライアントの実装では1ずつ増加する数値とするのが一般的であるが、[[シリアル番号]]であるとは規定されていない。認証符号とは、送信者の詐称と改竄(かいざん)の無いことの証明を行うデータである。属性部分は、属性値ペア (Attribute Value Pair) を任意の回数繰り返したものである。属性値ペアは、属性番号1オクテット、長さ1オクテット、属性の値からなる。値としては、4オクテットの整数値、4オクテットの[[IPアドレス]]、1 - 253オクテットの文字列などを与えることができる。
属性番号ごとに、属性値ペアの値の意味が[[Request for Comments|RFC文書]]において規定されている。属性番号に対する意味を新たに定義することによって使用目的を増やすことができることが、RADIUSプロトコルの柔軟性の源であり、最大の特徴である。機器のベンダが独自に属性番号の意味を定義して独自の目的に使用することは推奨されない。ベンダ独自の機能に対応するためには、属性番号26番 (Vendor Specific) の値として、ベンダ番号を含むデータを与えることが推奨される。属性番号26番の属性値ペアを、一般にVSA (Vendor Specific Attribute) と呼ぶ。ベンダ番号は、[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]が管理および付与している。
属性値ペアにさまざまな情報を含めることによって、認証とアカウンティングを行う。認証のために、ユーザ名、パスワードのための属性番号が用意されている。ダイヤルアップ・インターネット接続において[[Point-to-Point Protocol|PPP]]を使用する場合のため、PPP用の認証プロトコルである[[PAP]]、[[CHAP]]、[[PPP Extensible Authentication Protocol|EAP]]のそれぞれに適した属性番号が用意されている。アカウンティングのために、利用秒数、送受信データ量などの属性番号が用意されている。これからわかるように、属性番号によって、認証とアカウンティングのどちらで利用できるのか、どちらでも利用できるのかの違いがある。
RADIUSパケットの最大長は、RADIUS認証プロトコルにおいては4096オクテット、RADIUSアカウンティングプロトコルにおいては4095オクテットである。RADIUSアカウンティングプロトコルが4096オクテットでなく4095オクテットであることには特に意味がないようである(RFCの執筆者によれば、タイプミスがそのまま規格になってしまったとのことである)。
== AAAモデル ==
「RADIUSプロトコルは、[[AAAモデル]]([[AAA プロトコル]])に基づいたプロトコルである」という表現をすることがある。AAAモデルとは、サービスの提供から記録までの流れを、[[認証]] (Authentication)、[[認可 (セキュリティ)|承認]] (Authorization)、アカウンティング (Accounting) の3つの段階に分けて考えるモデルである。'''認証'''とは、利用者が誰であるかを識別することである。この点では、認証よりも「'''利用者の識別'''」と言ったほうが適切かもしれない。一番単純な認証は、ユーザ名とパスワードの組み合わせが正しいことを確認する方法だろう。'''承認'''とは、認証済みの利用者に対してサービスを提供するか否かを判断することである。たとえば、利用の時刻、発信者電話番号などによる利用場所、前払い利用料金の残額などによって判断するだろう。「認可」「許可」と訳されることもある。'''アカウンティング'''とは、利用の事実を記録することである。{{独自研究範囲|「課金」と訳されることもあるが、請求・決済業務を指す課金 (Billing) と混同する可能性があるので「アカウンティング」とカナ表記するのが好ましい。|date=2016年1月}}
RADIUSプロトコル自体は、AAAモデルという考え方が確立するよりも前に開発されたものである。そのため、RADIUSプロトコルにおいては、認証と承認を区別せず、あわせて「認証」として取り扱っている。実際、RADIUSクライアントは、利用が拒否された理由がパスワードの間違いなのか、権限の不足なのかを知ることができない。
== 共有鍵 ==
UDPは[[Transmission Control Protocol|TCP]]と異なり、送信者の詐称、データの改竄を検出することができない。このため、通信相手のIPアドレスだけで通信の内容を信頼することはできない。詐称と改竄を防ぐため、RADIUSクライアントとサーバの間で[[共通鍵暗号|共有鍵]] (Shared secret) と呼ぶ鍵文字列を共有し、パケットの内容と共有鍵から得た[[ハッシュ関数|ダイジェスト情報]]を認証符号および属性値ペアに配置している。共有鍵は、RADIUSクライアントとサーバの組み合わせごとに1個を用意すべきである。RADIUSサーバごとに1個だけ用意し、全てのRADIUSクライアントで同じ共有鍵を使うことは、セキュリティ上の大きなリスクとなる。また、セキュリティの観点から、共有鍵の内容が第三者に漏洩することは大きな問題である。
== プロキシ ==
RADIUSサーバでありながら、実際の認証とアカウンティングの処理を他のRADIUSサーバに依頼するものを「RADIUS[[プロキシ]]サーバ」と呼ぶ。つまり、RADIUSサーバでありながら、RADIUSクライアントでもある。要求を「転送する」ともいう。
ユーザ名文字列を判断して、要求の転送先を変えることもできる。たとえば、ユーザ名として[[電子メール]]アドレスのように「[[アットマーク|@]]」マークと[[ドメイン名]]を含んだ文字列を使用し、ドメイン名の部分の文字列に従って異なるRADIUSサーバに転送することができる。このような技術は、[[インターネットサービスプロバイダ|ISP]](インターネット接続サービスプロバイダ)間の[[ローミング]]や、[[NTTグループ|NTT]]の[[フレッツ]]サービスのようなアクセス網提供サービスとISPとの分業など、広く利用されている。上記の例でのドメイン名の部分のように、転送先を判断する根拠とする部分を、一般に「レルム(Realm)」と呼ぶ。
== CoA ==
CoAは「Change-of-Authorization」の略で、RADIUS許可の変更を意味する。AAAサーバがAAAクライアントにCoA要求パケットを送信し、すでに存在しているセッションの再認証を行う。これにより、ポリシーの変更が発生した場合、すでに認証されているセッションにも新しいポリシーを適用できる。
== IEEE 802.1X ==
{{Main|IEEE 802.1X}}
[[IEEE 802.1X]]は、[[Local Area Network|LAN]]の利用の可否を制御する、[[イーサネット]]上のプロトコルである。IEEE 802.1Xにおいては、EAPプロトコルとRADIUSプロトコルを利用することによって、RADIUSサーバによって認証された利用者のみに対してLANを利用させることができる。もちろん、このためにはIEEE 802.1Xに対応した無線LANアクセスポイントまたはスイッチが必要である。なお、「802.1x」というように「X」を小文字で記述しても誤りではないが、大文字で記述するのが主流である。これは、小文字の「x」が数学で使う「<math>x</math>」のように、「xの部分に入る文字を規定しない」という意味に誤解されることを防ぐためである。
IEEE 802.1XおよびRADIUSプロトコルのいずれも、実際の認証手順については規定していない。実際の認証は、[[EAP-TLS]]、[[PEAP]]、[[EAP-TTLS]]などEAP上の認証手順によって行う。ベンダ独自の認証手順をEAP上に実現することも可能である。EAPによる認証のためのデータのやりとりを、利用者端末とアクセスポイントまたはスイッチの間のイーサネットではEAPoL(EAP over LAN)、アクセスポイントまたはスイッチとRADIUSサーバの間ではRADIUSプロトコルによって中継する。
EAP-TLSは、[[Transport Layer Security|TLS]]に基づいてデジタル証明書による相互認証(サービス提供者の詐称をも防止する)を行うという点で重要であるが、デジタル証明書の運用と管理の負担が大きいという点で、一般の事業所等では敬遠される傾向がある。PEAPおよびEAP-TTLSは、TLSによる[[暗号|暗号化]]した通信路を形成したうえでパスワード情報のやりとりを行う認証手順である。EAP-TLS、PEAP・EAP-TTLSの対比は、[[ウェブブラウザ]]のTLSでデジタル証明書による相互認証を行うのか、SSL上でパスワード認証を行うかの違いを考えるとわかりやすいだろう。
== ソフトウェア ==
古くから、RADIUSプロトコルの開発者であるLivingston Enterprises社(後にLucent Technologies社に買収された)によるRADIUSサーバの実装と、この実装から派生した実装が多用されてきた。近年では、[[オープンソース]]ソフトウェア、商用ソフトウェアともに、さまざまな実装が存在する。
== 利用事例 ==
*[[インターネット・サービス・プロバイダ]]
*アクセス網提供サービス(ネットワークインフラサービス)
*[[携帯電話]]によるネット接続サービス
*無線LAN、VLAN
*ウェブによる有料コンテンツ提供サービス
== 規定 ==
以下のRFC文書をはじめ、多くのRFCによって規定されている<ref>RadiusのRFCを読む。 https://qiita.com/kaizen_nagoya/items/2d17342b9abfac945a1c</ref>。
*{{IETF RFC|2865}} - Remote Authentication Dial In User Service (RADIUS) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2865
*{{IETF RFC|2866}} - RADIUS Accounting(RADIUS会計) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2866
*{{IETF RFC|2867}} - RADIUS Accounting Modifications for Tunnel Protocol Support(トンネル規約対応RADIUS会計拡張) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2867
*{{IETF RFC|2868}} - RADIUS Attributes for Tunnel Protocol Support(トンネル規約対応RADIUS属性) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2868
*{{IETF RFC|2869}} - RADIUS Extensions(RADIUS拡張) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc2869
*{{IETF RFC|3162}} - RADIUS and IPv6(IPv6とRADIUS) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3162
*{{IETF RFC|3575}} - IANA Considerations for RADIUS(Remote Authentication Dial In User Service) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3575
*{{IETF RFC|3579}} - RADIUS (Remote Authentication Dial In User Service) Support For Extensible Authentication Protocol (EAP)RADIUSプロトコルでのEAP ({{IETF RFC|2284}}) の使用 https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3579
*{{IETF RFC|3580}} - IEEE 802.1X Remote Authentication Dial In User Service (RADIUS) Usage Guidelines(IEEE 802.1XでのRADIUS利用ガイドライン) https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc3580
*{{IETF RFC|4072}} - Diameter Extensible Authentication Protocol (EAP) Application https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc4072
*{{IETF RFC|5080}} - Common Remote Authentication Dial In User Service (RADIUS) Implementation Issues and Suggested Fixes https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc5080
*{{IETF RFC|5997}} - Use of Status-Server Packets in the Remote Authentication Dial In User Service (RADIUS) Protocol https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc5997
*{{IETF RFC|6158}} - RADIUS Design Guidelines https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6158
*{{IETF RFC|6572}} RADIUS Support for Proxy Mobile IPv6 https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6572
*{{IETF RFC|6929}} - Remote Authentication Dial-In User Service (RADIUS) Protocol Extensions https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc6929
*{{IETF RFC|7268}} - RADIUS Attributes for IEEE 802 Networks https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc7268
*{{IETF RFC|8044}} - Data Types in RADIUS https://datatracker.ietf.org/doc/html/rfc8044
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[DIAMETER]]
== 外部リンク ==
* [http://standards.ieee.org/getieee802/download/802.1X-2001.pdf IEEE 802.1X]
:''Copyright (c) 2004 by Accense Technology, Inc.''<br />''Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU Free Documentation License Version 1.1 published by the Free Software Foundation.''<br />''この文書をGNU Free Documentation License Version 1.1に規定された条件のもとで、複製、配布、変更することを許諾します。''
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:RADIUS}}
[[Category:認証プロトコル]]
[[Category:コンピュータ・ネットワーク・セキュリティ|らていうす]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:RFC|2865]] | 2003-04-24T20:08:00Z | 2023-11-01T14:02:50Z | false | false | false | [
"Template:IETF RFC",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Normdaten",
"Template:Otheruses",
"Template:出典の明記",
"Template:独自研究範囲",
"Template:Main"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/RADIUS |
7,244 | アメリカ国家安全保障局 | アメリカ国家安全保障局(アメリカこっかあんぜんほしょうきょく、英語: National Security Agency:NSA)は、アメリカ国防総省の情報機関である。
1949年5月20日に「軍保安局」(Armed Forces Security Agency、AFSA)として設立された。
1952年11月4日に結成されたインテリジェンス・コミュニティー(情報機関共同体)の中核組織のひとつであり(この時に現在の名称に改称)、公式では海外情報通信の収集と分析が主任務だとしているが、組織の存在自体が長年秘匿された経緯などから、その実像には不明の部分も多い上、治外法権的な立場にある組織として運営されてきた状況さえ窺えるものの、情報の確実性を期す意味でも本項の記載は公表された任務(海外情報通信の収集と分析)を中心に記述する。
合衆国政府が自国民をスパイするのは違法行為だが、他国へ諜報活動するのは違法ではない。海外信号諜報情報の収集活動に関して、計画し指示し自ら活動を行い、膨大な量の暗号解読を行なっている。また、合衆国政府の情報通信システムを他国の情報機関の手から守ることも重要な任務であり、ここでも暗号解読技術が鍵となる。
中央情報局(CIA)がおもにヒューミント(HUMINT; human intelligence)と呼ばれるスパイなどの人間を使った諜報活動を担当するのに対し、NSAはシギント(SIGINT; signal intelligence)と呼ばれる電子機器を使った情報収集活動とその分析、集積、報告を担当する。シギント活動を中心に中央保安部(Central Security Service, CSS)の協力により、合衆国の各情報部と連携して活動を行っている。NSAのトップである長官については、規則によって「NSAは中将によって指揮される。」と規定されており、実際前身であるAFSA時代を除けば、初代長官であったラルフ・キャナイン将軍(陸軍少将)を除き、歴代のNSA長官には全て現役の中将が充てられている。ただし、2005年8月1日に長官に就任したキース・ブレイン・アレクサンダー陸軍大将については、就任時には陸軍中将であったものの、その後2010年5月21日に、NSA長官との兼任という形でサイバー軍 (USCYBERCOM)司令官に任命された際に大将に昇任しており、例外的とも言える状況になっているが、それらは全て他のポストへの異動にあわせて昇任したケースであり、NSA長官在職のまま大将へと昇任したケースは、アレクサンダー将軍が初めてである。
なお、CSSは、1972年の大統領令によって設立された、NSAと共にアメリカ国防総省のもとで国家情報活動の統合を行なう国家機関である。アメリカ陸軍情報保全コマンド、海軍保安部、空軍情報・監視・偵察局、アメリカ海兵隊、アメリカ沿岸警備隊とNSAが一体となって共同作戦を展開し、その長はNSA長官が兼務している。また、NSAは陸軍情報保全コマンド、海軍保安部、空軍情報部に対して監督権を持っており、事実上、アメリカの諜報活動組織の頂点に位置する。
イギリスの政府通信本部(GCHQ)、カナダの通信安全保障局(CSEC)、オーストラリアの参謀本部国防信号局(DSD)、ニュージーランドの政府通信保安局 (GCSB)と共にエシュロン(Echelon)を運用していると考えられている。NSAは占有する通信基地や航空機、艦艇、人工衛星は保有しないが、それらの情報収集現場に出向いてNSAの情報ネットワークに吸い上げてゆく活動を世界中で行なっている。
内部の「国立コンピューター保安センター」では、コンピュータセキュリティ問題に関する調査と研究や、1983年、1985年の過去2回発行されたオレンジブックと呼ばれる Trusted Computer System Evaluation Criteria というレポートの発行も行っていた。
その性質上諸外国に関する非常に高度な機密(一説では、大統領権限ですらアクセスできないレベルの情報も扱うと言われる)を扱うため、組織や活動内容、予算については明らかにされていない部分も多い。以前は組織の存在そのものすら国民に対しても公然ではなく「Never Say Anything(何も喋るな)」「No Such Agency(そんな部署はない)」の略だ、などというお決まりのジョークがあった。
NSAウェブサイトによると、予算、床面積、人員などを考慮すると、フォーチュン500の上位10%内にランクされる企業(すなわち全米50位にランクされる企業)の規模に相当するとしている。雇用者数は約3万人。年間予算は約108億ドル(約1兆800億円)、世界中に80ヶ所の拠点がある(在日米軍三沢基地にも関連施設がある)。ウェブページにNSA職員募集告知があり、条件は合衆国市民で高レベルのセキュリティークリアランスを取得できる者。
NSAの極めて重大な任務として、「核戦争に備えること」がある。具体的には、
その他、以下の任務がある。
NSAの歴史は1917年にハーバート・オズボーン・ヤードリーの設立した暗号解読組織「ブラック・チェンバー」(MI-8)にさかのぼる。この組織は1929年ヘンリー・スティムソン国務長官に「紳士の仕事ではない」との理由で廃止された。
その後ウィリアム・F・フリードマンが、1930年、陸軍に信号情報部(Signal Intelligence Service, SIS)を設立し、ローレンス・サフォードが海軍にOP-20Gを設立した。この二つの組織が、太平洋戦争開戦時に大日本帝国の外交秘密「パープル暗号」を解読し、山本五十六搭乗機撃墜やミッドウェー海戦の勝利などに貢献する。
1949年5月20日に、統合参謀本部指揮下のアメリカ国防総省の部局として、軍保安局(AFSA、the Armed Forces Security Agency)が設立された。AFSAは三軍の通信電子情報部隊つまり陸軍保安局(ASA、改称されてSAA)・海軍保安群(NSG)・空軍保安部(AFSS)の通信諜報および電子諜報活動を指揮監督することになっていた。しかし、AFSAは能力不足であり、調整機能が不足していた。そこで1951年12月より国家安全保障会議の指示により検討が行われ、1952年6月(?)の国家安全保障会議情報活動指示によって、同年11月4日に設立された後、1999年までその存在は秘密にされていた。
NSAについての主な公文書の流れは以下の通り。
世界がNSAの存在について1999年まで知らなかったわけではない(以下は公刊情報)。
しかし、冷戦終結で機密指定の解除が進んだ事と、NSAが米国政府による暗号化ソフトウェアの輸出規制などの問題に関わっている事から、一般の注目を集める機会が多くなって来ている。アメリカ同時多発テロ事件で拡大した。
暗号やセキュリティ技術に関して、NSAは世界最高の水準にあるが、その研究内容は秘密にされることが多い。しかし、NSAの技術のいくつかは広く一般に使われている。NSAが関わったクローズドソースつまりブラックボックスの一般向け暗号・セキュリティ技術については、バックドアの存在が疑われている。
NSAは暗号方式DESの策定に大きく関わっている。アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) の前身、アメリカ国立標準局(NBS)が公募した標準暗号アルゴリズムに対し、IBMがLuciferという暗号方式を提出するが、ここでNSAは、鍵の長さを128ビットから56ビットに短縮し、S-BOXの内容を変更し、DESとして公式暗号となった。説明なしに行われたこの改造に対して、疑念の声が上がることになった。
実際は当時公知でなかった暗号解読法である差分解読法に対する耐性を持たせた。LuciferのSボックスはきわめて弱くすぐ破れた。改良のために当時最高のIBMコンピューターを数十時間使用した。56ビットに短縮したのはNSAが解読できるようにするためである。
次期標準暗号方式として公開で選定されたAESでは、技術コンサルタントとして関わっている。
NSAが中心となって、1990年代に個人のPC用のPGP暗号ソフトウェアとネットスケープのSSL暗号ルーチンに対して、暗号鍵に128ビットを使用したフル規格製品を海外輸出することを許さず、米国内向け製品として128ビット製品と海外輸出向け製品として40ビット製品を作らせた。これは、NSAが解読すべき暗号で長い鍵を使われた場合、NSAが保有するコンピュータの処理量が、あまりに膨大となるために行なわれた制限である。1996年には西側各国に対する制限が解かれたが、米国が危険視する特定国には引き続き輸出制限が残された。
高度な暗号化技術に対しては、ワッセナーアレンジメントによって、輸出制限が掛かっている国家がある。
連邦政府が米国市民のすべての暗号鍵を管理するという、「キーエスクロー」と「クリッパーチップ」構想では、米国内で大きな議論を呼んだが、結局中止となった。クリッパー・チップで使われていた暗号化アルゴリズム「スキップジャック」(Skip jack) の開発元もNSAである。
また、ハッシュアルゴリズムSecure Hash AlgorithmのうちSHA-0、SHA-1、SHA-2もNSAが開発している(SHA-3はアメリカ国立標準技術研究所 (NIST)による公募)。Security-Enhanced Linux (SELinux) というLinuxに対するセキュリティモジュールもNSAが中心となって開発された。
Microsoftは、Windows Vistaのセキュリティ機能の開発・検査に関して、NSAの関与を認めている。
2015年以降は、量子コンピューターによる暗号解読に対処するため、NISTと共同で量子耐性暗号の開発に着手している。
NSAはMicrosoftが提供するAzureや、Palantirのデータマイニング技術を業務に使用していると一部メディアで報じられる。
ニクソン大統領の辞任後、CIAとNSAによって行なわれた電話盗聴に関する不適切な使用が調査された。これがきっかけで、1978年には安易な盗聴を禁止する法律が作られた。しかしその最中にも、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアやモハメド・アリがベトナム反戦運動に参加しているとして引き続き行なわれた(ミナレット作戦)。
2005年12月、ニューヨーク・タイムズ紙は、ホワイトハウスの圧力とブッシュ大統領の指示のもとで、国内から海外への電話による通話を裁判所の同意なしで幾人かを対象に盗聴したと報じた。また、ブッシュ政権による国連への盗聴行為(英語版)も問題となった。
2008年7月9日、外国情報活動監視法 (FISA)改正案が上院で可決、7月10日ブッシュ大統領の署名により成立した。同改正案は裁判所の令状無しで海外の電話・電子メールなどの盗聴を合法化するもので、さらに情報提供に協力する通信会社の免責事項を、法成立前に遡って有効にする条文も盛り込んだ。議会は野党・民主党が多数を握っているが、民主党からもオバマなどが賛成に回ったために成立した。
NSAは電話や電子メールやインターネットなどの通信網の盗聴(通信傍受)および収集した情報のパターン分析や暗号解読および政府の通信の暗号化などを主な任務とする。そのために現在、20億ドルの予算をかけてユタ州ブラフデールに、スーパーコンピューターを備えた、敷地10万平方メートルの巨大情報監視センター兼インターネットデータセンターを建設中とされる(電圧異常により開所が遅れ、2014年に稼動予定)。
2013年6月には、ベライゾン・ワイヤレスに対して、数百万人分の通話履歴(発信元、通話先、通話時間、発信者の位置)4月末から3か月分を、毎日まとめて提出するよう「外国情報活動監視裁判所」(FISC)からの機密令状により命じていた事がガーディアンによって暴露された。更には、グーグル、フェイスブック、マイクロソフト、Appleなどインターネット関連企業大手9社のサーバに直接アクセスし、電子メール、インスタントメッセージ、接続記録、動画閲覧記録などを含むユーザーデータを「PRISM」を使用し収集、分析していたことがガーディアンおよびワシントン・ポストによって報じられた。
ガーディアンとワシントン・ポストによれば、情報提供者は元CIAスタッフのエドワード・スノーデンで、スノーデンは「真の自由と民主主義の為に公表した」と述べた。スノーデンに協力したのは、ジャーナリストのグレン・グリーンウォルドだった。(関与が指摘された企業は、NSAによる自社サーバーへの直接のアクセスやユーザーデータの収集を否定した)スノーデンはまた、中国からアメリカに向けて行われていたのと同様に、アメリカから中国に向けてもサイバー攻撃が行われている事、NSAの活動は安全保障目的のみならず、国益のために外国首脳の携帯電話の盗聴や産業スパイ分野でも行われている事を明らかにした。
なお、オランダでの盗聴件数180万件に対しては、当初、オランダ政府はアメリカ国家安全保障局の行為と発表していたが、実際にはオランダの諜報機関が行ったものであることが判明しており、オランダ内ではスキャンダルとなっている。2015年2月19日、グレン・グリーンウォルドのザ・インターセプトは、無線通信事業者に暗号化技術を提供しているオランダのジェムアルトのシステムに英米両国の情報機関(アメリカCIAとイギリスGCHQと見られる)が不正侵入したと報じた。
連邦情報局(BND)がアメリカ同時多発テロ事件直後の2002年から米国家安全保障局に協力し、欧州の政治家や企業などを対象に情報収集を行ってきた疑惑が2015年5月までに浮上した。こういった米国家安全保障局がドイツで行った活動に対しては当然に捜査が及び、ウィキリークスが、現在も調査中のドイツ連邦議会の査察団から10ヶ月分(May 2014 through to February 2015)の会議録を入手し、5月12日に公開した。多くの会議は法手続き上こそ公開されているが、ふたを開けると一般人はこの問題をよく理解できない状態に甘んじている。メモは制限され、記録媒体は禁止、記者団には警察が割り込んで厳重な監視体制である。
ビルダーバーグ会議の発言内容傍受阻止に、NSAが関与している。 | [
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"text": "アメリカ国家安全保障局(アメリカこっかあんぜんほしょうきょく、英語: National Security Agency:NSA)は、アメリカ国防総省の情報機関である。",
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"text": "1949年5月20日に「軍保安局」(Armed Forces Security Agency、AFSA)として設立された。",
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"text": "1952年11月4日に結成されたインテリジェンス・コミュニティー(情報機関共同体)の中核組織のひとつであり(この時に現在の名称に改称)、公式では海外情報通信の収集と分析が主任務だとしているが、組織の存在自体が長年秘匿された経緯などから、その実像には不明の部分も多い上、治外法権的な立場にある組織として運営されてきた状況さえ窺えるものの、情報の確実性を期す意味でも本項の記載は公表された任務(海外情報通信の収集と分析)を中心に記述する。",
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"text": "合衆国政府が自国民をスパイするのは違法行為だが、他国へ諜報活動するのは違法ではない。海外信号諜報情報の収集活動に関して、計画し指示し自ら活動を行い、膨大な量の暗号解読を行なっている。また、合衆国政府の情報通信システムを他国の情報機関の手から守ることも重要な任務であり、ここでも暗号解読技術が鍵となる。",
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"text": "中央情報局(CIA)がおもにヒューミント(HUMINT; human intelligence)と呼ばれるスパイなどの人間を使った諜報活動を担当するのに対し、NSAはシギント(SIGINT; signal intelligence)と呼ばれる電子機器を使った情報収集活動とその分析、集積、報告を担当する。シギント活動を中心に中央保安部(Central Security Service, CSS)の協力により、合衆国の各情報部と連携して活動を行っている。NSAのトップである長官については、規則によって「NSAは中将によって指揮される。」と規定されており、実際前身であるAFSA時代を除けば、初代長官であったラルフ・キャナイン将軍(陸軍少将)を除き、歴代のNSA長官には全て現役の中将が充てられている。ただし、2005年8月1日に長官に就任したキース・ブレイン・アレクサンダー陸軍大将については、就任時には陸軍中将であったものの、その後2010年5月21日に、NSA長官との兼任という形でサイバー軍 (USCYBERCOM)司令官に任命された際に大将に昇任しており、例外的とも言える状況になっているが、それらは全て他のポストへの異動にあわせて昇任したケースであり、NSA長官在職のまま大将へと昇任したケースは、アレクサンダー将軍が初めてである。",
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"text": "なお、CSSは、1972年の大統領令によって設立された、NSAと共にアメリカ国防総省のもとで国家情報活動の統合を行なう国家機関である。アメリカ陸軍情報保全コマンド、海軍保安部、空軍情報・監視・偵察局、アメリカ海兵隊、アメリカ沿岸警備隊とNSAが一体となって共同作戦を展開し、その長はNSA長官が兼務している。また、NSAは陸軍情報保全コマンド、海軍保安部、空軍情報部に対して監督権を持っており、事実上、アメリカの諜報活動組織の頂点に位置する。",
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"text": "イギリスの政府通信本部(GCHQ)、カナダの通信安全保障局(CSEC)、オーストラリアの参謀本部国防信号局(DSD)、ニュージーランドの政府通信保安局 (GCSB)と共にエシュロン(Echelon)を運用していると考えられている。NSAは占有する通信基地や航空機、艦艇、人工衛星は保有しないが、それらの情報収集現場に出向いてNSAの情報ネットワークに吸い上げてゆく活動を世界中で行なっている。",
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"text": "内部の「国立コンピューター保安センター」では、コンピュータセキュリティ問題に関する調査と研究や、1983年、1985年の過去2回発行されたオレンジブックと呼ばれる Trusted Computer System Evaluation Criteria というレポートの発行も行っていた。",
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"text": "その性質上諸外国に関する非常に高度な機密(一説では、大統領権限ですらアクセスできないレベルの情報も扱うと言われる)を扱うため、組織や活動内容、予算については明らかにされていない部分も多い。以前は組織の存在そのものすら国民に対しても公然ではなく「Never Say Anything(何も喋るな)」「No Such Agency(そんな部署はない)」の略だ、などというお決まりのジョークがあった。",
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"text": "NSAウェブサイトによると、予算、床面積、人員などを考慮すると、フォーチュン500の上位10%内にランクされる企業(すなわち全米50位にランクされる企業)の規模に相当するとしている。雇用者数は約3万人。年間予算は約108億ドル(約1兆800億円)、世界中に80ヶ所の拠点がある(在日米軍三沢基地にも関連施設がある)。ウェブページにNSA職員募集告知があり、条件は合衆国市民で高レベルのセキュリティークリアランスを取得できる者。",
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"text": "NSAの極めて重大な任務として、「核戦争に備えること」がある。具体的には、",
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"text": "その他、以下の任務がある。",
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"text": "NSAの歴史は1917年にハーバート・オズボーン・ヤードリーの設立した暗号解読組織「ブラック・チェンバー」(MI-8)にさかのぼる。この組織は1929年ヘンリー・スティムソン国務長官に「紳士の仕事ではない」との理由で廃止された。",
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"text": "その後ウィリアム・F・フリードマンが、1930年、陸軍に信号情報部(Signal Intelligence Service, SIS)を設立し、ローレンス・サフォードが海軍にOP-20Gを設立した。この二つの組織が、太平洋戦争開戦時に大日本帝国の外交秘密「パープル暗号」を解読し、山本五十六搭乗機撃墜やミッドウェー海戦の勝利などに貢献する。",
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"text": "1949年5月20日に、統合参謀本部指揮下のアメリカ国防総省の部局として、軍保安局(AFSA、the Armed Forces Security Agency)が設立された。AFSAは三軍の通信電子情報部隊つまり陸軍保安局(ASA、改称されてSAA)・海軍保安群(NSG)・空軍保安部(AFSS)の通信諜報および電子諜報活動を指揮監督することになっていた。しかし、AFSAは能力不足であり、調整機能が不足していた。そこで1951年12月より国家安全保障会議の指示により検討が行われ、1952年6月(?)の国家安全保障会議情報活動指示によって、同年11月4日に設立された後、1999年までその存在は秘密にされていた。",
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"text": "NSAについての主な公文書の流れは以下の通り。",
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"text": "世界がNSAの存在について1999年まで知らなかったわけではない(以下は公刊情報)。",
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"text": "しかし、冷戦終結で機密指定の解除が進んだ事と、NSAが米国政府による暗号化ソフトウェアの輸出規制などの問題に関わっている事から、一般の注目を集める機会が多くなって来ている。アメリカ同時多発テロ事件で拡大した。",
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"text": "暗号やセキュリティ技術に関して、NSAは世界最高の水準にあるが、その研究内容は秘密にされることが多い。しかし、NSAの技術のいくつかは広く一般に使われている。NSAが関わったクローズドソースつまりブラックボックスの一般向け暗号・セキュリティ技術については、バックドアの存在が疑われている。",
"title": "セキュリティ技術"
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"text": "NSAは暗号方式DESの策定に大きく関わっている。アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) の前身、アメリカ国立標準局(NBS)が公募した標準暗号アルゴリズムに対し、IBMがLuciferという暗号方式を提出するが、ここでNSAは、鍵の長さを128ビットから56ビットに短縮し、S-BOXの内容を変更し、DESとして公式暗号となった。説明なしに行われたこの改造に対して、疑念の声が上がることになった。",
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"text": "実際は当時公知でなかった暗号解読法である差分解読法に対する耐性を持たせた。LuciferのSボックスはきわめて弱くすぐ破れた。改良のために当時最高のIBMコンピューターを数十時間使用した。56ビットに短縮したのはNSAが解読できるようにするためである。",
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"text": "次期標準暗号方式として公開で選定されたAESでは、技術コンサルタントとして関わっている。",
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"text": "NSAが中心となって、1990年代に個人のPC用のPGP暗号ソフトウェアとネットスケープのSSL暗号ルーチンに対して、暗号鍵に128ビットを使用したフル規格製品を海外輸出することを許さず、米国内向け製品として128ビット製品と海外輸出向け製品として40ビット製品を作らせた。これは、NSAが解読すべき暗号で長い鍵を使われた場合、NSAが保有するコンピュータの処理量が、あまりに膨大となるために行なわれた制限である。1996年には西側各国に対する制限が解かれたが、米国が危険視する特定国には引き続き輸出制限が残された。",
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"text": "高度な暗号化技術に対しては、ワッセナーアレンジメントによって、輸出制限が掛かっている国家がある。",
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"text": "連邦政府が米国市民のすべての暗号鍵を管理するという、「キーエスクロー」と「クリッパーチップ」構想では、米国内で大きな議論を呼んだが、結局中止となった。クリッパー・チップで使われていた暗号化アルゴリズム「スキップジャック」(Skip jack) の開発元もNSAである。",
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"text": "また、ハッシュアルゴリズムSecure Hash AlgorithmのうちSHA-0、SHA-1、SHA-2もNSAが開発している(SHA-3はアメリカ国立標準技術研究所 (NIST)による公募)。Security-Enhanced Linux (SELinux) というLinuxに対するセキュリティモジュールもNSAが中心となって開発された。",
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"text": "Microsoftは、Windows Vistaのセキュリティ機能の開発・検査に関して、NSAの関与を認めている。",
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"text": "2015年以降は、量子コンピューターによる暗号解読に対処するため、NISTと共同で量子耐性暗号の開発に着手している。",
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"text": "NSAはMicrosoftが提供するAzureや、Palantirのデータマイニング技術を業務に使用していると一部メディアで報じられる。",
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"text": "ニクソン大統領の辞任後、CIAとNSAによって行なわれた電話盗聴に関する不適切な使用が調査された。これがきっかけで、1978年には安易な盗聴を禁止する法律が作られた。しかしその最中にも、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアやモハメド・アリがベトナム反戦運動に参加しているとして引き続き行なわれた(ミナレット作戦)。",
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"text": "2005年12月、ニューヨーク・タイムズ紙は、ホワイトハウスの圧力とブッシュ大統領の指示のもとで、国内から海外への電話による通話を裁判所の同意なしで幾人かを対象に盗聴したと報じた。また、ブッシュ政権による国連への盗聴行為(英語版)も問題となった。",
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"text": "2008年7月9日、外国情報活動監視法 (FISA)改正案が上院で可決、7月10日ブッシュ大統領の署名により成立した。同改正案は裁判所の令状無しで海外の電話・電子メールなどの盗聴を合法化するもので、さらに情報提供に協力する通信会社の免責事項を、法成立前に遡って有効にする条文も盛り込んだ。議会は野党・民主党が多数を握っているが、民主党からもオバマなどが賛成に回ったために成立した。",
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"text": "NSAは電話や電子メールやインターネットなどの通信網の盗聴(通信傍受)および収集した情報のパターン分析や暗号解読および政府の通信の暗号化などを主な任務とする。そのために現在、20億ドルの予算をかけてユタ州ブラフデールに、スーパーコンピューターを備えた、敷地10万平方メートルの巨大情報監視センター兼インターネットデータセンターを建設中とされる(電圧異常により開所が遅れ、2014年に稼動予定)。",
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"text": "2013年6月には、ベライゾン・ワイヤレスに対して、数百万人分の通話履歴(発信元、通話先、通話時間、発信者の位置)4月末から3か月分を、毎日まとめて提出するよう「外国情報活動監視裁判所」(FISC)からの機密令状により命じていた事がガーディアンによって暴露された。更には、グーグル、フェイスブック、マイクロソフト、Appleなどインターネット関連企業大手9社のサーバに直接アクセスし、電子メール、インスタントメッセージ、接続記録、動画閲覧記録などを含むユーザーデータを「PRISM」を使用し収集、分析していたことがガーディアンおよびワシントン・ポストによって報じられた。",
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"text": "ガーディアンとワシントン・ポストによれば、情報提供者は元CIAスタッフのエドワード・スノーデンで、スノーデンは「真の自由と民主主義の為に公表した」と述べた。スノーデンに協力したのは、ジャーナリストのグレン・グリーンウォルドだった。(関与が指摘された企業は、NSAによる自社サーバーへの直接のアクセスやユーザーデータの収集を否定した)スノーデンはまた、中国からアメリカに向けて行われていたのと同様に、アメリカから中国に向けてもサイバー攻撃が行われている事、NSAの活動は安全保障目的のみならず、国益のために外国首脳の携帯電話の盗聴や産業スパイ分野でも行われている事を明らかにした。",
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"text": "連邦情報局(BND)がアメリカ同時多発テロ事件直後の2002年から米国家安全保障局に協力し、欧州の政治家や企業などを対象に情報収集を行ってきた疑惑が2015年5月までに浮上した。こういった米国家安全保障局がドイツで行った活動に対しては当然に捜査が及び、ウィキリークスが、現在も調査中のドイツ連邦議会の査察団から10ヶ月分(May 2014 through to February 2015)の会議録を入手し、5月12日に公開した。多くの会議は法手続き上こそ公開されているが、ふたを開けると一般人はこの問題をよく理解できない状態に甘んじている。メモは制限され、記録媒体は禁止、記者団には警察が割り込んで厳重な監視体制である。",
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"text": "ビルダーバーグ会議の発言内容傍受阻止に、NSAが関与している。",
"title": "盗聴"
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] | アメリカ国家安全保障局は、アメリカ国防総省の情報機関である。 | {{Infobox Government agency
|agency_name = アメリカ国家安全保障局
|nativename = NSA
|nativename_a =
|nativename_r =
| picture = National Security Agency headquarters, Fort Meade, Maryland.jpg
| picture_width =
| picture_caption = NSA本部(メリーランド州フォート・ミード)
| logo = Flag of the U.S. National Security Agency.svg
| logo_width = 175
| logo_caption = アメリカ国家安全保障局の旗
| seal = National Security Agency.svg
| seal_width = 175
| seal_caption = 国家安全保障局の紋章
|formed = [[1952年]][[11月4日]]
|preceding1 = 軍保安局<br/>([[w:Armed Forces Security Agency|Armed Forces Security Agency]]、AFSA)
|preceding2 =
|dissolved =
|superseding =
|jurisdiction = [[アメリカ合衆国連邦政府]]
|headquarters = {{USA}}[[メリーランド州]][[アナランデル郡 (メリーランド州)|アナランデル郡]][[w:Fort George G. Meade|フォート・ジョージ・G・ミード]]<br />{{Coord|39|6|32|N|76|46|17|W|display=inline}}
|employees = 30,000人以上 (2012年)<ref name=60yearsp3>{{cite web|title=60 Years of Defending Our Nation|publisher=National Security Agency|year=2012|format=PDF|url=http://www.nsa.gov/about/cryptologic_heritage/60th/book/NSA_60th_Anniversary.pdf|accessdate=2013-07-06|page=3}}"On November 4, 2012, the National Security Agency (NSA) celebrates its 60th anniversary of providing critical information to U.S. decision makers and Armed Forces personnel in defense of our Nation. NSA has evolved from a staff of approximately 7,600 military and civilian employees housed in 1952 in a vacated school in Arlington, VA, into a workforce of more than 30,000 demographically diverse men and women located at NSA headquarters in Ft. Meade, MD, in four national Cryptologic Centers, and at sites throughout the world."</ref>
|budget = 機密扱い (推定80~100億ドル)<ref name=nyt20130620>{{cite web |url=https://www.nytimes.com/2013/06/20/technology/silicon-valley-and-spy-agency-bound-by-strengthening-web.html |date=2013-06-19 |accessdate=2013-06-20 |first=James |last=Risen |coauthors=Nick Wingfield |work=The New York Times |title=Web’s Reach Binds N.S.A. and Silicon Valley Leaders}} "The sums the N.S.A. spends in Silicon Valley are classified, as is the agency’s total budget, which independent analysts say is $8 billion to $10 billion a year."</ref><ref>{{cite web|title=What the NSA costs taxpayers|url=http://money.cnn.com/2013/06/07/news/economy/nsa-surveillance-cost/index.html|first=Jeanne|last=Sahadi|work=CNN Money|date=2013-06-07|accessdate=2013-06-17}} "Aftergood estimates about 14% of the country's total intelligence budget -- or about $10 billion -- goes to the NSA."</ref><ref>{{cite web|url=http://articles.baltimoresun.com/2007-01-17/news/0701170100_1_alexander-budget-spy-agency|title=Budget falling short at NSA|work=The Baltimore Sun|date=2007-01-17|accessdate=2013-06-17|first=Siobhan|last=Gorman}} "The agency's director, Lt. Gen. Keith B. Alexander, is seeking an increase of nearly $1 billion in supplemental spending for 2007 and a similar boost next year as the White House finalizes its 2008 budget, current and former intelligence officials say. The money crunch comes despite a doubling of the NSA's budget since the terrorist attacks of Sept. 11, 2001, to approximately $8 billion per year."</ref>
|chief1_name = [[ポール・ナカソネ]]陸軍大将
|chief1_position = [[アメリカ国家安全保障局長官|長官]]
|chief2_name = ウェンディ・ノーブル
|chief2_position = 副長官
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|child2_agency =
|website = {{url|http://www.nsa.gov}}
|footnotes = 2013年6月現在
}}
[[ファイル:US-CentralSecurityService-Seal.svg|right|thumb|CSSの紋章。右上から時計回りに陸軍情報保全コマンド、合衆国海兵隊、海軍保安部、合衆国沿岸警備隊、空軍情報・監視・偵察局のそれぞれの紋章が並び、中央にNSAの紋章がある]]
'''アメリカ国家安全保障局'''(アメリカこっかあんぜんほしょうきょく、{{lang-en|National Security Agency:'''NSA'''}})は、[[アメリカ国防総省]]の[[情報機関]]である。
== 概要 ==
[[1949年]][[5月20日]]に「軍保安局」({{en|Armed Forces Security Agency、AFSA}})として設立された。
[[1952年]][[11月4日]]に結成された[[インテリジェンス・コミュニティー]](情報機関共同体)の中核組織のひとつであり(この時に現在の名称に改称)、公式では海外情報通信の収集と分析が主任務だとしているが、組織の存在自体が長年秘匿された経緯などから、その実像には不明の部分も多い上、治外法権的な立場にある組織として運営されてきた状況さえ窺えるものの、情報の確実性を期す意味でも本項の記載は公表された任務(海外情報通信の収集と分析)を中心に記述する。
合衆国政府が自国民を[[スパイ]]するのは違法行為<ref group="注">中央情報局が国民の反体制活動を見張る事が出来ないため、[[2001年]]に起きた[[アメリカ同時多発テロ事件]]を契機に、[[連邦捜査局国家保安部]]が[[2005年]]に設置された。</ref><ref group="注">NSAには「オペレーション・ミナレット」、CIAには「プロジェクト・カオス」という国内秘密情報工作があった。</ref>だが、他国へ諜報活動するのは違法ではない。海外信号諜報情報の収集活動に関して、計画し指示し自ら活動を行い、膨大な量の[[暗号]]解読を行なっている。また、合衆国政府の情報通信システムを他国の情報機関の手から守ることも重要な任務であり、ここでも暗号解読技術が鍵となる。
[[中央情報局]](CIA)がおもに[[ヒューミント]](HUMINT; human intelligence)と呼ばれる[[スパイ]]などの人間を使った諜報活動を担当するのに対し、NSAは[[シギント]](SIGINT; signal intelligence)と呼ばれる電子機器を使った情報収集活動とその分析、集積、報告を担当する。シギント活動を中心に中央保安部(Central Security Service, CSS)の協力により、合衆国の各情報部と連携して活動を行っている。NSAのトップである長官については、規則によって「NSAは中将によって指揮される。」と規定されており、実際前身であるAFSA時代を除けば、初代長官であった[[w:Ralph Canine|ラルフ・キャナイン]]将軍([[陸軍少将]])を除き、歴代のNSA長官には全て現役の中将が充てられている。ただし、[[2005年]][[8月1日]]に長官に就任した[[w:Keith B. Alexander|キース・ブレイン・アレクサンダー]]陸軍大将については、就任時には[[陸軍中将]]であったものの、その後[[2010年]][[5月21日]]に、NSA長官との兼任という形で[[アメリカサイバー軍|サイバー軍 (USCYBERCOM)]]司令官に任命された際に大将に昇任しており、例外的とも言える状況になっている<ref group="注">歴代のNSA長官にも大将へと昇任した人物はいる</ref><ref group="注">ルー・アレン・ジュニアが大将に昇進し、空軍参謀長になるまで、NSA長官後は中将のまま退役していた。</ref>が、それらは全て他のポストへの異動にあわせて昇任したケースであり、NSA長官在職のまま大将へと昇任したケースは、アレクサンダー将軍が初めてである。
なお、CSSは、1972年の[[大統領令 (アメリカ合衆国)|大統領令]]によって設立された、NSAと共にアメリカ国防総省のもとで国家情報活動の統合を行なう国家機関である。[[アメリカ陸軍情報保全コマンド]]、海軍保安部、[[空軍情報・監視・偵察局]]、[[アメリカ海兵隊]]、[[アメリカ沿岸警備隊]]とNSAが一体となって共同作戦を展開し、その長はNSA長官が兼務している。また、NSAは陸軍情報保全コマンド、海軍保安部、空軍情報部に対して監督権を持っており、事実上、アメリカの諜報活動組織の頂点に位置する。
[[イギリス]]の[[政府通信本部]](GCHQ)、[[カナダ]]の通信安全保障局(CSEC)、[[オーストラリア]]の参謀本部国防信号局(DSD)、[[ニュージーランド]]の[[政府通信保安局]] (GCSB)と共に[[エシュロン]](Echelon)を運用していると考えられている<ref group="注">これらの各国はいずれも[[UKUSA協定]]締結国</ref>。NSAは占有する通信基地や航空機、艦艇、人工衛星は保有しないが、それらの情報収集現場に出向いてNSAの情報ネットワークに吸い上げてゆく活動を世界中で行なっている。
内部の「国立コンピューター保安センター」では、[[コンピュータセキュリティ]]問題に関する調査と研究や、1983年、1985年の過去2回発行された[[オレンジブック (セキュリティ)|オレンジブック]]と呼ばれる {{en|Trusted Computer System Evaluation Criteria}} というレポートの発行も行っていた。
その性質上諸外国に関する非常に高度な機密(一説では、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]権限ですらアクセスできないレベルの情報も扱うと言われる)を扱うため、組織や活動内容、予算については明らかにされていない部分も多い。以前は組織の存在そのものすら国民に対しても公然ではなく<ref group="注">合衆国は、その成立過程が理由で、一般には連邦の組織には説明責任などが強く要請される。</ref>「{{en|Never Say Anything}}(何も喋るな)」「{{en|No Such Agency}}(そんな部署はない)」の略だ、などというお決まりの[[ジョーク]]があった<ref>[https://www.thetimes.co.uk/article/whos-reading-your-emails-g0dsqlfxsds Who’s reading your emails?] The Sunday Times, June 9 2013 </ref>。
NSA[[ウェブサイト]]<ref>{{Cite web |url=http://www.nsa.gov/about/about00018.cfm |title=Frequently Asked Questions - About NSA
|publisher=National Security Agency |accessdate=2013-12-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040307234226/http://www.nsa.gov/about/about00018.cfm#7
|archivedate=2004-03-07 |deadlinkdate= 2013年12月 |quote=Neither the number of employees nor the size of the Agency's budget can be publicly disclosed. However, if the NSA/CSS were considered a corporation in terms of dollars spent, floor space occupied, and personnel employed, it would rank in the top 10 percent of the Fortune 500 companies. |language=English}}</ref>によると、予算、床面積、人員などを考慮すると、[[フォーチュン500]]の上位10%内にランクされる企業(すなわち全米50位にランクされる企業)の規模に相当するとしている。雇用者数は約3万人<ref name=60yearsp3 />。年間予算は約108億ドル(約1兆800億円)<ref name=nyt20130620 />、世界中に80ヶ所の拠点がある([[在日米軍]][[三沢飛行場|三沢基地]]にも関連施設がある)。[[ウェブページ]]にNSA職員募集告知があり<ref>[http://www.nsa.gov/careers/index.shtml NSA Careers]</ref>、条件は合衆国市民で高レベルの[[アメリカ合衆国情報安全保障監督局|セキュリティークリアランス]]を取得できる者。<!--年俸45000ドル(約450万円)でコンピューター・ネットワーク・オペレーターを募っている。<ref>2013年11月7日の中日新聞朝刊29ページ</ref>-->
== 施設等 ==
[[ファイル:National Security Agency headquarters, Fort Meade, Maryland.jpg|thumb|300px|right|NSA本部]]
[[ファイル:EFF photograph of NSA's Utah Data Center.jpg|thumb|300px|right|[[インテリジェンス・コミュニティー]]包括的国家サイバーセキュリティ・イニシアティブの[[:en:Utah Data Center|ユタ・データセンター]](ユタ州キャンプ・ウィリアムズ内 {{Coord|40|25|53|N|111|55|59|W|display=inline}})]]
* 本部 - [[メリーランド州]]フォート・ジョージ・G・ミード陸軍基地内([[AFN]]を管理する「国防メディア拠点」もここにある)
* 職員数 - 約30,000人(はっきりした数字は定まらない。)
== 任務 ==
NSAの極めて重大な任務として、「[[核戦争]]に備えること」がある。具体的には、
::大統領などの指示が核戦争中でも確実に伝わるように通信系統を維持する。例えば「[[核のフットボール]]」という大統領に常に同行する士官が持ち歩く「核戦争開始用暗号、通信機器」を作成・維持する。
::潜在的敵国の動向を監視し、臨戦態勢、[[ミサイル]]発射などの重要事項を直ちに報告する。
::非常用通信回線「[[ホットライン]]」を維持し、偶発的な戦争拡大を防止する。
その他、以下の任務がある。
* 通信情報(音声会話、コンピュータデータ、[[無線電信|無線]])
** 受信・収集・監視(地上アンテナ、[[情報収集艦]]、[[電子戦機]]、[[通信衛星|人工衛星]]、[[インターネット]]、[[結合全ドメイン指揮統制|JADC2]]その他)
** 分類・集積・配信(巨大データベース:[[エシュロン]])
*** エシュロンの開発、運用、管理
** 通信情報収集の[[資産]]の維持管理等(アンテナ、情報ネットワークの保守運用)
** [[UKUSA協定|ファイブアイズ]]に加盟する同盟諸国との秘密情報共有(英国[[政府通信本部]]など)
* 外国暗号
** 解読・解析(通信量を計測する”トラフィック解析”、符号化と復号、特殊文字)
* 暗号技術
** 開発
** 規制と管理
** RSA暗号や[[楕円曲線暗号]],離散対数問題,[[素数]]など数学の研究
* [[盗聴]]、データ通信監視
** 政治家や企業幹部、経営者の通信内容傍受と分析
** 電話やインターネット、軍事無線の監視
** [[ファイル共有ソフト]]、[[Peer to Peer|P2P]]通信の監視
* 米国政府の[[セキュア通信|秘密通信]]業務
** 暗号化機器とシステムの開発と維持
** [[暗号]]認証提供
** 基準作成
** [[アメリカ国防情報局|国防情報局]]や[[アメリカ国防情報システム局|国防情報システム局]]が所有するJWICS、[[GCCS|C4Iシステム]]の構築と保守
* その他
** 外国の[[レーダーサイト]]配置図などの作成
** データ分析技術(構文解析や回帰分析、ナレッジグラフ、検索エンジン、画像処理、[[人工知能|AI]]等)
** [[国際銀行間通信協会|国際銀行間通信]](SWIFT)や[[PayPal|ネット決済]]履歴の監視
* サイバーセキュリティ
** インターネットにおける[[海底ケーブル]]の通信信号傍受
** インターネットにおけるサイバー攻撃、防御技術の開発([[アメリカサイバー軍|サイバー軍]]の支援)
** SNSを活用した[[情報操作|情報工作]]の検知
* 科学技術、資源の監視
** [[論文|学術論文]]データベース、特許情報、公文書データにアクセスし、敵対勢力や同盟国の技術動向を収集
** エネルギー供給パイプライン、電力網、原子力施設の監視
[[ファイル:STU-IIIphones.nsa.jpg|thumb|right|250px|米国家暗号博物館に展示されている STU-III 暗号化電話]]
== 歴史 ==
NSAの歴史は1917年に[[ハーバート・オズボーン・ヤードリー]]の設立した暗号解読組織「[[ブラック・チェンバー]]」(MI-8)にさかのぼる。この組織は1929年[[ヘンリー・スティムソン]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]<ref group="注">[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]を2度つとめているが、当時は国務長官だった。</ref>に「紳士の仕事ではない」との理由で廃止された。
その後ウィリアム・F・フリードマンが、1930年、陸軍に信号情報部(Signal Intelligence Service, SIS)<ref name="gunji201311">軍事用語のミニ知識 国家安全保障局、情報保全部,軍事研究,株式会社ジャパン・ミリタリー・レビュー,2013年11月号,P188-189</ref>を設立し、ローレンス・サフォードが海軍にOP-20Gを設立した。この二つの組織が、[[太平洋戦争]]開戦時に[[大日本帝国]]の外交秘密「[[パープル暗号]]」を解読し、[[山本五十六]]搭乗機撃墜や[[ミッドウェー海戦]]の勝利などに貢献する。{{See also|ベノナ}}
1949年5月20日に、[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部]]指揮下の[[アメリカ国防総省]]の部局として、軍保安局(AFSA、the Armed Forces Security Agency)が設立された<ref name="gunji201311"/>。AFSAは三軍の通信電子情報部隊つまり陸軍保安局(ASA、改称されてSAA)・海軍保安群(NSG)・空軍保安部(AFSS)の通信諜報および電子諜報活動を指揮監督することになっていた。しかし、AFSAは能力不足であり、調整機能が不足していた<ref group="注">そのため強力な権限を与えられたNSA長官(DIRNSA、ダーンザ)は通信傍受・解読機関のすべての業務について指示を出すことができ、不服のある場合は国防長官にのみ上訴できることになった。</ref>。そこで1951年12月より[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]の指示により検討が行われ、[[1952年]][[6月]](?)の国家安全保障会議情報活動指示によって、同年[[11月4日]]に設立された後、[[1999年]]までその存在は秘密にされていた。
NSAについての主な公文書の流れは以下の通り<ref group="注">NSCID9の一部を除いてすべて情報公開されている</ref><ref>[http://nsarchive.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB23/ The National Security Agency: Declassified]</ref>。
*1947年12月12日:国家安全保障会議情報活動指示6号(NSCID 6,"Foreign Wireless and Radio Monitoring,"December 12, 1947.)
*1950年3月13日:公法513(暗号の秘密を漏らしたものに、罰金または10年以下の懲役)が成立(Public Law 513,USC Title 18,Section 798)<ref group="注">NSAに関する言及はない</ref>。
*1950年3月19日:国家安全保障会議情報活動指示9号(NSCID 9, "Communications Intelligence," March 10, 1950.)
*1952年10月24日:[[ハリー・S・トルーマン]]大統領の覚書:公式に設立を指示(Memorandum from President Harry S. Truman to the Secretary of State, the Secretary of Defense, Subject: Communications Intelligence Activities, October 24, 1952.)
*1952年10月29日:国家安全保障会議情報活動指示9号(全面改訂)(National Security Council Intelligence Directive No. 9, Communications Intelligence, December 29, 1952.)
*1959年3月19日:国防省指示S-5100.20(Department of Defense Directive S-5100.20, "The National Security Agency," March 19, 1959)
*1971年2月17日:国防省指示S-5100.20(改訂)(Department of Defense Directive S-5100.20, "The National Security Agency and the Central Security Service," December 23, 1971.)
*1972年2月17日:国家安全保障会議情報活動指示6号(改訂)(NSCID 6, "Signals Intelligence," February 17, 1972)
*1993年7月27日:合衆国信号情報指示18(United States Signals Intelligence Directive [USSID] 18, "Legal Compliance and Minimization Procedures," July 27, 1993.)
世界がNSAの存在について1999年まで知らなかったわけではない(以下は公刊情報)。
*1954年10月、ジョセフ・ピーターソンはNSAの秘密書類を盗んで友人に提供した<ref group="注">[[オランダ人]]の暗号解読家に「[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]機密電報コードSP/Dなどの実物コピーなどを渡した。中ソなどとの関係は知られていない。</ref>ため[[逮捕]]され、記事が出ている。
*1957年、アメリカ政府の公式政府組織案内書<ref>Government Organization Manual</ref>に創設が明らかにされた<ref group="注">暗号解読、通信傍受などの業務内容については明らかになっていない。</ref>。
*1960年9月に、NSA正規分析官バーノン・ミッチェルとウィリアム・マーティンが[[ソビエト連邦|ソ連]]に[[亡命]]し、[[記者会見]]でNSAの活動の詳細<ref group="注">内部組織ALLO(All Others)で40カ国以上の暗号を解読していると述べた。</ref>を公表した。これについて上院の調査が入り、人事保全担当の高官が学歴詐称していることが明らかになった。
*1963年、NSA下級職員(アラブ系)ビクター・ハミルトンがソ連に亡命し、NSAが[[国際連合|国連]]や諸国の通信を傍受・解読を行っていることを記者会見で述べた。
*1967年、デビッド・カーンは著書<ref>”Codebreakers",David Kahn。日本語抄訳「暗号戦争」早川書房、昭和43年</ref>でNSAの全体像を明らかにした<ref group="注">国防省が事前[[検閲]]し、NSAの機密事項(例えば[[スイス]]における活動)を削除した。(「まえがき」より)</ref>。
*1968年1月、「[[プエブロ号事件]]」が起こり、NSAの存在が公表され、多くの資料が[[東側諸国|共産圏]]に渡った。
*1969年「超スパイ機関<ref>"The Super Spies"アンドリュー・タリー。関口英男訳、早川書房。p66-80「6.NSAの内幕」</ref>」。人員1万6千人、2000傍受基地<ref group="注">PROD8200人、COMSEC1700人、R&D2300人</ref>、3つの最高機密暗号解読通信の内容などを詳細に記述している。
*1972年、[[トルコ]]中北部のカラムセル([[シノップ]]の近く)にあるNSA大規模傍受基地の監督官が、NSA勤務時代の回想録を発表する<ref>"U.S. Electronic Espionage: A Memoir" Ramparts Magazine (1972 interview with Perry Fellwock)</ref>。
*1976年「陣容は16276人と発表された」と朝日新聞が記載<ref>「新情報戦」朝日新聞社編p46</ref>。
*1986年「パズル・パレス―超スパイ機関NSAの全貌<ref>ジェイムズ・バムフォード 著,滝沢一郎訳</ref>1986年9月早川書房。内部情報が詰まっている。
*1993年12月:NSA本部の隣に[[アメリカ国立暗号博物館|国立暗号博物館]]<ref>[https://www.nsa.gov/about/cryptologic_heritage/museum/ National Cryptologic Museum]</ref>が開設され、一般公開された。
しかし、[[冷戦]]終結で機密指定の解除が進んだ事と、NSAが[[アメリカ合衆国からの暗号の輸出規制|米国政府による暗号化ソフトウェアの輸出規制]]などの問題に関わっている事から、一般の注目を集める機会が多くなって来ている。[[アメリカ同時多発テロ事件]]で拡大した。
<!--なお、この組織は大統領権限でも容易にアクセスできない程、機密性の高い軍事兵器開発計画、及び実験機関連施設の[[防諜]]・運用管理業務も担当していたと指摘する向きもある。{{要出典}} 出典が示されないためコメントアウトしておきます。-->
== セキュリティ技術 ==
暗号やセキュリティ技術に関して、NSAは世界最高の水準にあるが、その研究内容は秘密にされることが多い。しかし、NSAの技術のいくつかは広く一般に使われている。NSAが関わった[[クローズドソース]]つまり[[ブラックボックス]]の一般向け暗号・セキュリティ技術については、[[バックドア]]の存在が疑われている。
NSAは暗号方式[[Data Encryption Standard|DES]]の策定に大きく関わっている。[[アメリカ国立標準技術研究所]] (NIST) の前身、アメリカ国立標準局(NBS)が公募した標準暗号[[アルゴリズム]]に対し、[[IBM]]が[[Lucifer (暗号)|Lucifer]]という暗号方式を提出するが、ここでNSAは、[[鍵 (暗号)|鍵]]の長さを128ビットから56ビットに短縮し、[[Sボックス|S-BOX]]の内容を変更し、DESとして公式暗号となった。説明なしに行われたこの改造に対して、疑念の声が上がることになった。
実際は当時公知でなかった暗号解読法である[[差分解読法]]に対する耐性を持たせた。LuciferのSボックスはきわめて弱くすぐ破れた。改良のために当時最高のIBMコンピューターを数十時間使用した。56ビットに短縮したのはNSAが解読できるようにするためである<ref group="注">NSAが解読できない暗号を自分たちで作って、ソ連などに使わせるのは本末転倒であると考えられた。</ref>。
次期標準暗号方式として公開で選定された[[Advanced Encryption Standard|AES]]では、[[技術コンサルタント]]として関わっている。
NSAが中心となって、1990年代に個人のPC用の[[Pretty Good Privacy|PGP]]暗号ソフトウェアと[[ネットスケープコミュニケーションズ|ネットスケープ]]の[[Secure Sockets Layer|SSL]]暗号ルーチンに対して、暗号鍵に128ビットを使用したフル規格製品を海外輸出することを許さず、米国内向け製品として128ビット製品と海外輸出向け製品として40ビット製品を作らせた。これは、NSAが解読すべき暗号で長い鍵を使われた場合、NSAが保有するコンピュータの処理量が、あまりに膨大となるために行なわれた制限である。1996年には西側各国に対する制限が解かれたが、米国が危険視する特定国には引き続き輸出制限が残された。
高度な暗号化技術に対しては、[[ワッセナーアレンジメント]]によって、輸出制限が掛かっている[[国家]]がある。
連邦政府が米国市民のすべての暗号鍵を管理するという、「[[キーエスクロー]]」と「[[クリッパーチップ]]」構想では、米国内で大きな議論を呼んだが、結局中止となった。クリッパー・チップで使われていた暗号化アルゴリズム「[[スキップジャック (暗号)|スキップジャック]]」(Skip jack) の開発元もNSAである。
また、[[ハッシュ関数|ハッシュ]]アルゴリズム[[Secure Hash Algorithm]]のうち[[SHA-0]]、[[SHA-1]]、[[SHA-2]]もNSAが開発している([[SHA-3]]は[[アメリカ国立標準技術研究所]] (NIST)による公募)。[[Security-Enhanced Linux]] (SELinux) という[[Linux]]に対するセキュリティモジュールもNSAが中心となって開発された。
[[マイクロソフト|Microsoft]]は、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]のセキュリティ機能の開発・検査に関して、NSAの関与を認めている。
2015年以降は、[[量子コンピュータ|量子コンピューター]]による暗号解読に対処するため、NISTと共同で量子耐性暗号の開発に着手している。
NSAは[[マイクロソフト|Microsoft]]が提供する[[Microsoft Azure|Azure]]や、Palantirのデータマイニング技術を業務に使用していると一部メディアで報じられる。
== 盗聴 ==
{{seealso|PRISM (監視プログラム)}}
[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]大統領の辞任後、CIAとNSAによって行なわれた電話[[盗聴]]に関する不適切な使用が調査された。これがきっかけで、1978年には安易な盗聴を禁止する法律が作られた。しかしその最中にも、[[マーチン・ルーサー・キング・ジュニア]]や[[モハメド・アリ]]が[[ベトナム反戦運動]]に参加しているとして引き続き行なわれた(ミナレット作戦)。
2005年12月、[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は、[[ホワイトハウス]]の圧力と[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領の指示のもとで、国内から海外への電話による通話を裁判所の同意なしで幾人かを対象に盗聴したと報じた。また、ブッシュ政権による{{仮リンク|国連への盗聴行為|en|Spying on the United Nations}}も問題となった。
[[2008年]][[7月9日]]、[[外国情報活動監視法]] (FISA)改正案が[[アメリカ合衆国上院|上院]]で可決、[[7月10日]]ブッシュ大統領の署名により成立した。同改正案は裁判所の令状無しで海外の電話・[[電子メール]]などの盗聴を合法化するもので、さらに情報提供に協力する通信会社の免責事項を、法成立前に遡って有効にする条文も盛り込んだ。[[アメリカ合衆国議会|議会]]は[[野党]]・[[民主党 (アメリカ)|民主党]]が多数を握っているが、民主党からも[[バラク・オバマ|オバマ]]などが賛成に回ったために成立した。
NSAは電話や電子メールや[[インターネット]]などの通信網の盗聴(通信傍受)および収集した情報のパターン分析や暗号解読および政府の通信の暗号化などを主な任務とする。そのために現在、20億ドルの予算をかけて[[ユタ州]][[ブラフデール]]に、[[スーパーコンピューター]]を備えた、敷地10万平方メートルの巨大情報監視センター兼[[インターネットデータセンター]]を建設中とされる(電圧異常により開所が遅れ、2014年に稼動予定)。
2013年6月には、[[ベライゾン・ワイヤレス]]に対して、数百万人分の通話履歴(発信元、通話先、通話時間、発信者の位置)4月末から3か月分を、毎日まとめて提出するよう「外国情報活動監視裁判所」(FISC)からの機密令状により命じていた事が[[ガーディアン]]によって暴露された。更には、[[Google|グーグル]]、[[フェイスブック]]、[[マイクロソフト]]、[[Apple]]などインターネット関連企業大手9社の[[サーバ]]に直接アクセスし、電子メール、インスタントメッセージ、接続記録、動画閲覧記録などを含むユーザーデータを「[[PRISM (監視プログラム)|PRISM]]」を使用し収集、分析していたことがガーディアンおよび[[ワシントン・ポスト]]によって報じられた。
ガーディアンとワシントン・ポストによれば、情報提供者は元CIAスタッフの[[エドワード・スノーデン]]で、スノーデンは「真の[[自由]]と[[民主主義]]の為に公表した」と述べた<ref>http://www.bbc.com/news/world-us-canada-23123964</ref>。スノーデンに協力したのは、ジャーナリストの[[グレン・グリーンウォルド]]だった。(関与が指摘された企業は、NSAによる自社サーバーへの直接のアクセスやユーザーデータの収集を否定した)スノーデンはまた、中国からアメリカに向けて行われていたのと同様に、アメリカから中国に向けても[[サイバー攻撃]]が行われている事、NSAの活動は安全保障目的のみならず、[[国益]]のために外国首脳の携帯電話の盗聴や[[産業スパイ]]分野でも行われている事を明らかにした。
なお、[[オランダ]]での盗聴件数180万件に対しては、当初、オランダ政府はアメリカ国家安全保障局の行為と発表していたが、実際にはオランダの諜報機関が行ったものであることが判明しており、オランダ内ではスキャンダルとなっている<ref>{{cite news |title=オランダ諜報機関、180万の通話盗聴 |newspaper=ポートフォリオ・ニュース|date=2014-02-06|url=http://www.portfolio.nl/bazaar/home/show/303| accessdate=2014-02-15}}</ref>。2015年2月19日、[[グレン・グリーンウォルド]]の[[ザ・インターセプト]]は、無線通信事業者に暗号化技術を提供しているオランダの[[ジェムアルト]]のシステムに英米両国の情報機関(アメリカCIAとイギリス[[政府通信本部|GCHQ]]と見られる)が不正侵入したと報じた<ref>[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] [http://jp.wsj.com/articles/SB11096553489394754382504580477023935329584 米英情報機関、携帯通話傍受目的で蘭企業のシステムに侵入か] 2015年2月22日14:57 JST</ref>。
[[連邦情報局]](BND)が[[アメリカ同時多発テロ事件]]直後の2002年から米国家安全保障局に協力し、[[ヨーロッパ|欧州]]の[[政治家]]や企業などを対象に情報収集を行ってきた疑惑が2015年5月までに浮上した<ref>[[毎日新聞]]電子版 [http://mainichi.jp/select/news/20150501k0000e030219000c.html ドイツ:情報機関が米NSAに協力疑惑 広がる波紋] 2015年05月01日 11時32分(最終更新 05月01日 13時06分)</ref>。こういった米国家安全保障局がドイツで行った活動に対しては当然に[[捜査]]が及び、[[ウィキリークス]]が、現在も調査中の[[ドイツ連邦議会]]の査察団から10ヶ月分(May 2014 through to February 2015)の会議録を入手し、5月12日に公開した。多くの会議は法手続き上こそ公開されているが、ふたを開けると一般人はこの問題をよく理解できない状態に甘んじている。メモは制限され、記録媒体は禁止、記者団には[[ドイツの警察|警察]]が割り込んで厳重な監視体制である。<ref>[https://wikileaks.org/bnd-nsa/press/ Bundestag Inquiry into BND and NSA] </ref>
[[ビルダーバーグ会議]]の発言内容傍受阻止に、NSAが関与している。
== 長官 ==
{{See|アメリカ国家安全保障局長官}}
== フィクション ==
* 小説
** [[トム・クランシー]](井坂清訳)『[[レッド・オクトーバーを追え!|レッド・オクトーバーを追え]]』[[文藝春秋]] 文春文庫(1985年)
** [[ダン・ブラウン]]『Digital Fortress』(1998年) - 『[[パズル・パレス]]』(越前敏弥、熊谷千寿訳)[[角川書店]](2006年)
** ネオ・ゼロ(著者:[[鳴海章]])
** [[スーパー・ゼロ]](著者:[[鳴海章]])
* 映画
** [[スノーデン]]
** [[スニーカーズ]] ''Sneakers''(1992年) - 監督:[[フィル・アルデン・ロビンソン]] 出演:[[ロバート・レッドフォード]]他
** [[トゥルーライズ]] ''True Lies(''1994''年) - 監督:[[ジェームズ・キャメロン]] 出演:[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]他''
** [[グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち]] ''Good Will Hunting''(1997年) - 監督:[[ガス・ヴァン・サント]] 出演:[[マット・デイモン]]、[[ロビン・ウィリアムズ]]他
** [[マーキュリー・ライジング]] ''Mercury Rising''(1998年) - 監督:[[ハロルド・ベッカー]] 出演:[[ブルース・ウィリス]]、[[アレック・ボールドウィン]]他
** [[エネミー・オブ・アメリカ]] ''Enemy of the State''(1998年) - 監督:[[トニー・スコット]] 出演:[[ウィル・スミス]]、[[ジーン・ハックマン]]他
** [[007 ダイ・アナザー・デイ]] ''Die Another Day''(2002年) - 監督:[[リー・タマホリ]] 出演:[[ピアース・ブロスナン]]、[[ハル・ベリー]]他
** [[トリプルX]] ''xXx''(2002年) - 監督:[[ロブ・コーエン]] 出演:[[ヴィン・ディーゼル]]、[[サミュエル・L・ジャクソン]]
* ドラマ
** [[24 -TWENTY FOUR-]](2001年-2014年)
** [[バーン・ノーティス 元スパイの逆襲]](2007年-2013年)
* ゲーム
** [[スプリンターセルシリーズ]] ''Tom Clancy's Splinter Cell'' - [[ユービーアイソフト]] 監修:トム・クランシー
* 漫画
** [[ゴルゴ13]]
== 関連事件 ==
* [[リバティー号事件]]
* [[プエブロ号事件]]
* [[アメリカ海軍EC-121機撃墜事件]]
* [[アイヴィー・ベル|アイヴィー・ベル作戦]]
* {{ill2|ICREACH|en|ICREACH}} - 911事件後に製造されたSNSやメールなどを監視検索するエンジン。元NSA職員の[[エドワード・スノーデン]]が漏洩した文書から存在が明らかになった。
== 関連項目 ==
* [[中央情報局]]
* [[連邦捜査局]]
* [[アメリカ国防情報局]]
* [[アメリカ合衆国国土安全保障省]]
* [[エシュロン]] - [[上瀬谷通信施設]] - [[楚辺通信所]] - [[象の檻]]
* [[:en:Tempora|テンポラ]]
* [[暗号]] - [[暗号解読]] - [[ベノナ]]
* [[盗聴]]
* [[:en:MAINWAY|MAINWAY]] - 電話情報からメタデータを収集プログラム<!--他に「ニュークレオン」NUCLEON-->
* [[PRISM (監視プログラム)|PRISM]] - インターネット情報収集プログラム<!--他に「マリーナ」MARINA-->
* [[サイバー戦争]] - [[アメリカサイバー軍]]
* [[海南島事件]]
* [[UKUSA協定|ファイブアイズ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* ジェイムズ・バムフォード(瀧澤一郎訳)『パズル・パレス-超スパイ機関NSAの全貌』早川書房、1986年。ISBN 4-15-203317-7
* ジェイムズ・バムフォード(瀧澤一郎訳)『すべては傍受されている-米国国家安全保障局の正体』角川書店、2003年。ISBN 4-04-791442-8
* エドワード・スノーデン『スノーデン 日本への警告』集英社新書
*小笠原みどり 『監視社会の恐怖』毎日新聞出版
* パトリック・ラーデン・キーフ([[冷泉彰彦]]訳)『チャター-全世界盗聴網が監視するテロと日常』NHK出版、2005年。ISBN 4-14-081076-9
* [[グレン・グリーンウォルド]]([[田口俊樹]]、濱野大道、武藤陽生訳)『暴露:スノーデンが私に託したファイル』新潮社、2014年。ISBN 4-10-506691-9
== 外部リンク ==
* [http://www.nsa.gov/ NSA]— 公式サイト{{en icon}}
<!--* http://itanimulli.org/ — [[イルミナティ]] (Illuminati) を逆にした綴りのURLは、NSAの公式サイトにリダイレクトされる。もっともこれは、ユタ州に住む一個人の、政府に対する嫌がらせだという。-->
{{アメリカ合衆国}}
{{アメリカ合衆国の行政組織}}
{{Normdaten}}
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{{DEFAULTSORT:あめりかこつかあんせんほしようきよく}}
[[Category:アメリカ国家安全保障局|*]]
[[Category:アメリカ合衆国国防総省の機関|こつかあんせんほしようきよく]]
[[Category:アメリカ合衆国の諜報・情報機関|こつかあんせんほしようきよく]]
[[Category:インテリジェンス分析機関]]
[[Category:シギント]]
[[Category:メリーランド州の組織]]
[[Category:1952年設立の政府機関]]
[[Category:アナランデル郡 (メリーランド州)]] | 2003-04-24T20:10:08Z | 2023-11-04T06:37:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E5%B1%80 |
7,246 | EC | EC
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] | EC 欧州諸共同体 - 現在の欧州連合 (EU) の前身にあたる
欧州共同体 - 欧州経済共同体 (EEC) の後身にあたる
欧州委員会
欧州理事会
電車 - 電気自動車の略称は、EV
電子商取引
エクアドル共和国の国名コード
電気伝導度
電子捕獲
ユーロシティ(EuroCity)(ヨーロッパ都市間特急列車)
エンドカードクレジットタイトル
展開分類法の略
エル・カンターレの略。
緊急避妊の略称。避妊を参照。
C種接地、特別第3種接地とも呼ぶ。接地#接地工事の種類を参照。
エターナルカオスNEOの略称(オンラインゲーム)Laghaimを参照。
EC番号 (曖昧さ回避) - EC Number
EC番号 (酵素番号)
EC番号 (欧州共同体番号) - 欧州共同体(EC)の委員会が定めた化学物質の同定番号 Ec 国鉄7100形蒸気機関車(旧北海道官設鉄道)の鉄道作業局時代の形式 | '''EC'''
* [[欧州諸共同体]](European Communities) - 現在の[[欧州連合]] ([[欧州連合|EU]]) の前身にあたる
* [[欧州共同体]](European Community) - [[欧州経済共同体]] ([[EEC]]) の後身にあたる
* [[欧州委員会]](European Commission)
* [[欧州理事会]](European Council)
* [[電車]](Electric Car) - [[電気自動車]]の略称は、EV(Electric Vehicle)
* [[電子商取引]](Electronic Commerce)
* [[エクアドル共和国]]の[[国名コード]]
* [[電気伝導度]](Electric Conductivity)
* [[電子捕獲]](Electron capture)
* [[ユーロシティ]](EuroCity)(ヨーロッパ都市間特急列車)
* [[エンドカード]](End Card)[[クレジットタイトル]]
* [[展開分類法]](Expansive Classification)の略
* [[エル・カンターレ]]([[El Cantare]])の略。
* [[緊急避妊]](Emergency Contraception)の略称。[[避妊]]を参照。
* C種[[接地]]、特別第3種接地とも呼ぶ。[[接地#接地工事の種類]]を参照。
* [[エターナルカオスNEO]](Eternal Chaos)の略称([[オンラインゲーム]])[[Laghaim]]を参照。
* [[EC番号 (曖昧さ回避)]] - EC Number
** [[EC番号 (酵素番号)]](Enzyme Commission numbers)
** [[EC番号 (欧州共同体番号)]] - 欧州共同体(EC)の委員会が定めた化学物質の同定番号
'''Ec'''
* [[国鉄7100形蒸気機関車]](旧北海道官設鉄道)の鉄道作業局時代の形式
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7,247 | ヒューミント | ヒューミント(英: HUMINT、human intelligence)とは、人間を媒介とした諜報のこと。合法活動や捕虜の尋問等も含み、スパイ活動のみを指すわけではない。外交官や駐在武官による活動をリーガル(Legal-合法)、身分を偽るなど違法な手段で不法に入国しての活動をイリーガル(Illegal-非合法)と呼ぶ。 | [
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] | ヒューミントとは、人間を媒介とした諜報のこと。合法活動や捕虜の尋問等も含み、スパイ活動のみを指すわけではない。外交官や駐在武官による活動をリーガル(Legal-合法)、身分を偽るなど違法な手段で不法に入国しての活動をイリーガル(Illegal-非合法)と呼ぶ。 | {{出典の明記|date=2015年6月7日 (日) 06:31 (UTC)}}
'''ヒューミント'''({{Lang-en-short|HUMINT}}、human intelligence)とは、[[人間]]を媒介とした[[諜報]]のこと。合法活動や[[捕虜]]の尋問等も含み、[[スパイ]]活動のみを指すわけではない。[[外交官]]や[[駐在武官]]による活動をリーガル(Legal-合法)、[[身分]]を偽るなど違法な手段で不法に入国しての活動をイリーガル(Illegal-非合法)と呼ぶ。
== ヒューミントの手段 ==
{{出典の明記|date=2015年12月14日 (月) 15:06 (UTC)|section=1}}
* 聴取(Debriefings):友軍、民間人への質問
* 選別(Screening):人的情報源、メディアからの情報の評価、選別
* 連絡(Liaison):友軍、民間組織との連絡
* HUMINT接触作戦(HUMINT Contact Operations):いわゆる[[スパイ]]活動
* 文書開拓(Document Exploitation:DOCEX):全メディアからの情報の抽出
* 尋問(Interrogation):捕虜等の尋問
* [[ハニートラップ|ハニートラップ(Honey trap)]] :男女の性的関係を利用した、いわゆる「色仕掛け」。なお「Honey-trap」という言葉はイギリスの小説家、[[ジョン・ル・カレ]]の造語である<ref>{{cite web|last1=Dickson|first1=Paul|title=How authors from Dickens to Dr Seuss invented the words we use every day|url=https://www.theguardian.com/books/2014/jun/17/authors-invented-words-used-every-day-cojones-meme-nerd|website=The Guardian|publisher=The Guardian|accessdate=September 27, 2018|date=17 June 2014}}</ref>。
== ヒューミントを行う機関 ==
* {{USA}}:[[中央情報局]]
* {{RUS}}:[[ロシア対外情報庁]]
* {{UK}}:[[秘密情報部]]
* {{FRA}}:[[フランス陸軍]][[情報旅団 (フランス陸軍)|情報旅団]]情報編集グループ
* {{ISR}}:[[イスラエル諜報特務庁]]
* {{JPN}}:[[公安警察]]([[警視庁公安部]]、各県[[警察本部]][[警備部]]等)、[[法務省]][[公安調査庁]]、[[内閣官房]][[内閣情報調査室]]、[[陸上幕僚監部#指揮通信システム・情報部別班|陸上幕僚監部指揮通信システム・情報部別班]](通称:別班、非公然組織)ほか
* {{PRK}}:[[朝鮮人民軍偵察総局]]
* {{CHN}}:[[中華人民共和国国家安全部]]
* {{DEU}}:[[連邦情報局]]第一課
* {{UKR}}:[[ウクライナ特殊作戦軍]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[諜報]]・[[諜報活動]]
* [[シギント]]
{{デフォルトソート:ひゆうみんと}}
[[Category:外交]]
[[Category:諜報]] | null | 2023-01-14T07:11:05Z | false | false | false | [
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7,249 | SIGINT | SIGINT | [
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] | SIGINT 諜報活動のシギント(SIGnal INTelligence)
UNIXにおけるシグナルの一種、またはそのシグナルを識別する識別子(SIGnal INTerrupt) →関連:SIGALRM | '''SIGINT'''
* 諜報活動の[[シギント]]('''SIGnal INTelligence''')
* [[UNIX]]における[[シグナル (Unix)|シグナル]]の一種、またはそのシグナルを識別する識別子('''SIGnal INTerrupt''') →関連:[[SIGALRM]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SIGINT |
7,250 | BBS | BBS
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] | BBS | {{pp-vandalism|small=yes}}
'''BBS'''
== 略称 ==
* [[電子掲示板]]({{lang-en-short|bulletin board system}})
* [[仏教放送]]({{lang-en-short|Buddhist Broadcasting System}}) - [[大韓民国|韓国]]の[[仏教]]系民間放送局。
* Bhutan Broadcasting Service - [[ブータン国営放送]]。
* [[Blum-Blum-Shub]] - [[擬似乱数]]生成器
* {{仮リンク|行動に基づく安全|en|behavior-based safety}} (behavior-based safety)
* [[BLEACH “B” STATION]] - 日本の[[ラジオ番組]]。
* [[BOOM BOOM SATELLITES]] - [[日本]]の[[音楽ユニット]]。
* [[キングダム ハーツ バース バイ スリープ]]('''B'''irth '''b'''y '''S'''leep) - コンピュータゲーム。
* [[インターネットスラング]]の一つ。Be Back Soon(すぐ戻ります)の略。
* [[ビジネスブレイン太田昭和]] - [[日本]]の情報・通信業の略称。
== 団体名 ==
* [[BBS (自動車部品メーカー)]] - [[ドイツ]]の[[自動車]]用[[アルミホイール]]メーカー。
* [[BBSジャパン]] - 上記企業の事業を引き継いだ日本企業。
* [[BBS運動]] - 青年による少年の自立支援・非行防止の運動。Big Brothers & Sistersの略。
{{aimai}} | 2003-04-24T20:22:04Z | 2023-10-01T05:13:05Z | true | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/BBS |
7,251 | シギント | シギント(SIGINT、英語: signals intelligence)とは、通信、電磁波、信号等の、主として傍受を利用した諜報・諜報活動のこと。
軍事分野における電子戦支援(ES)も技術的には同様のハードウェアを使用するが、その運用として作戦指揮官の意思決定に直ちに反映する目的で行われているという点で異なる。
「傍受」とは、送信側に、それを受信する正規の対象として想定されていないような者による電波等の受信のことである。有線である電信や電話の電線から非正規な手法で分岐(タップ)させるような「盗聴」と、無線通信の(パブリックな場所であれば)自由に受信できるものという違いにもとづく表現の使い分けがある。
通信ではなく放送(スクランブルなどの掛けられていないもの)などのような公然の公開情報の利用は、オシントとして別分野とされる。
通信情報 (COMINT, Communication intelligence)
電子情報 (ELINT, Electronic intelligence)
外国信号計測情報 (FISINT, Foreign instrumentation signals intelligence)
音響情報 (ACINT, Acoustic intelligence) | [
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] | シギントとは、通信、電磁波、信号等の、主として傍受を利用した諜報・諜報活動のこと。 軍事分野における電子戦支援(ES)も技術的には同様のハードウェアを使用するが、その運用として作戦指揮官の意思決定に直ちに反映する目的で行われているという点で異なる。 「傍受」とは、送信側に、それを受信する正規の対象として想定されていないような者による電波等の受信のことである。有線である電信や電話の電線から非正規な手法で分岐(タップ)させるような「盗聴」と、無線通信の(パブリックな場所であれば)自由に受信できるものという違いにもとづく表現の使い分けがある。 通信ではなく放送(スクランブルなどの掛けられていないもの)などのような公然の公開情報の利用は、オシントとして別分野とされる。 | {{Otheruses|諜報・諜報活動|同様の名称で呼ばれるキャラクター|メタルギアシリーズの登場人物|IPCにおけるSIGINT|シグナル (Unix)}}'''シギント'''('''SIGINT'''、{{Lang-en|signals intelligence}})とは、[[通信]]、[[電磁波]]、[[信号 (電気工学)|信号]]等の、主として'''[[傍受]]'''を利用した[[諜報]]・[[諜報活動]]のこと。<!-- <ref>「'''信号情報'''とも呼ばれる」という記述が以前はここにあったが、出典と思われる立花書房『インテリジェンスの基礎理論』にある当該の表現は「信号情報に基づくインテリジェンス(シギント:SIGINT)」であり、「信号情報に」が「SIG」、「基づくインテリジェンス」が「INT」に対応しているので、「SIGINT」を「'''信号情報'''とも呼ばれる」とするのは誤りであろう。</ref> -->
[[軍事]]分野における[[電子戦支援]](ES)も技術的には同様のハードウェアを使用するが、その運用として[[作戦]][[指揮官]]の[[意思決定]]に直ちに反映する目的で行われているという点で異なる<ref name="電子戦の技術">{{Cite book|和書|author=デビッド・アダミー|year=2013|title=電子戦の技術 基礎編|publisher=[[東京電機大学]]出版局|isbn=978-4501329402}}</ref>。
「傍受」とは、送信側に、それを受信する正規の対象として想定されていないような者による電波等の受信のことである。有線である[[電信]]や[[電話]]の[[電線]]から非正規な手法で分岐(タップ)させるような「[[盗聴]]」と、[[無線通信]]の(パブリックな場所であれば)自由に受信できるものという違いにもとづく表現の使い分けがある。
通信ではなく[[放送]]([[ブロック暗号|スクランブル]]などの掛けられていないもの)などのような公然の公開情報の利用は、[[オープン・ソース・インテリジェンス|オシント]]として別分野とされる。
== シギントの分類 ==
'''通信情報''' (COMINT, '''Com'''munication '''int'''elligence)
* 傍受、[[盗聴]]、[[暗号解読]]
* 無線通信の類は、[[暗号]]の解読だけでなく量や頻度といった解析(通信解析)も大きな手がかりになるが<ref>そうして得られる情報のほうが多いともされる。</ref>、そういったものは[[オープン・ソース・インテリジェンス|OSINT]]の手法となる。
'''電子情報''' (ELINT, '''El'''ectronic '''int'''elligence)
* 非通信用([[レーダー]]等)の電磁放射からの情報収集 (RADINT)
'''外国信号計測情報''' (FISINT, '''F'''oreign '''i'''nstrumentation '''s'''ignals '''int'''elligence)
* [[テレメトリー]]、[[ビーコン]]信号等からの情報収集
'''音響情報''' (ACINT, '''Ac'''oustic '''int'''elligence)
* [[SOSUS]]などからの水中音響情報などによる[[潜水艦]]、[[軍艦|艦船]]および水中武器の音響情報収集
== シギントを行う各国の機関 ==
* [[アメリカ国家安全保障局|国家安全保障局]]([[アメリカ合衆国]])
* [[政府通信本部]]([[イギリス]])
* [[政府通信保安局]]([[ニュージーランド]])
* [[警察庁]][[警備局]]、[[防衛省]][[情報本部]]、[[陸上自衛隊]][[システム通信団]]、[[外務省大臣官房]]情報通信課([[日本]])
* [[軍事偵察局]]([[フランス]])
* [[ロシア連邦保安庁|連邦保安庁]]、[[ロシア連邦軍参謀本部情報総局|連邦軍参謀本部情報総局]]([[ロシア]])
* [[スウェーデン国防電波局|国防電波局]]([[スウェーデン]])
* [[中国人民解放軍総参謀部第二部|中国人民解放軍総参謀部第三部]]([[中華人民共和国|中国]])
* [[連邦情報局|連邦情報局第二課]]([[ドイツ]])
== 参考文献 ==
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[ヒューミント]] (シギントに対して、人を介する諜報活動)
*[[エシュロン]]
*[[犯罪捜査のための通信傍受に関する法律]]
*[[レーダーサイト]]
*[[情報収集艦]]
**[[トロール船#軍用艦艇としてのトロール船|トロール船]]
**[[プエブロ (環境調査艦)|プエブロ]]
**[[リバティー (技術調査艦)|リバティー]]
*[[電子戦機]]
**[[RC-135 (航空機)|RC-135V/W]]
**[[P-3 (航空機)|EP-3E]]
**[[P-3 (航空機)|EP-3]](海上自衛隊所属)
**[[YS-11|YS-11EB]](航空自衛隊所属)
**[[C-2_(航空機・日本)#電波情報収集型|RC-2]](航空自衛隊所属)
{{Computer-stub}}
{{DEFAULTSORT:しきんと}}
[[Category:シギント|*]]
[[Category:諜報]] | 2003-04-24T20:23:21Z | 2023-12-15T05:48:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AE%E3%83%B3%E3%83%88 |
7,252 | ダウンロードオンリーメンバー | ダウンロードオンリーメンバー(和製英語:Download Only Member,DOM)とは、パソコン通信、ウェブサイト、ファイル交換ソフトなどの特定のネットワークにおいて、ファイル、メッセージなどのダウンロードばかりして、自分はファイル等を提供したり話題(お礼や感想等)に参加したりせず何らの貢献もしない人のこと。
略してDOM(どむ)といい、他のメンバーから嫌われたり、運営者により禁止されたりすることが多い。
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|出典の明記=2023年8月
|特筆性=2023年8月
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'''ダウンロードオンリーメンバー'''([[和製英語]]:'''Download Only Member,DOM''')とは、[[パソコン通信]]、[[ウェブサイト]]、[[ファイル交換ソフト]]などの特定のネットワークにおいて、[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]、メッセージなどの[[ダウンロード]]ばかりして、自分はファイル等を提供したり話題(お礼や感想等)に参加したりせず何らの貢献もしない人のこと。
略して'''DOM'''(どむ)といい、他のメンバーから嫌われたり、運営者により禁止されたりすることが多い。
元々は、[[Read Only Memory]]をもじった「Read Only Member」([[リードオンリーメンバー]])からさらに派生した[[パソコン通信]]の[[スラング]]である。
== 英語圏のリーチャーとの関係について ==
<!-- 海外版のリーチャーにリンクされているので充実したいところです。もともとの意味に相違がある気もするので、内容が増えてきたら分割を検討してください -->
<!-- 英語圏のLeecherとの関係については検証が不十分のため記述の際には関係性について留意して出典の明記に御協力ください。-->
{{節スタブ}}
==関連項目==
*[[リードオンリーメンバー]](ROM)
*[[リッスンオンリーメンバー]](LOM)
{{DEFAULTSORT:たうんろおとおんりいめんはあ}}
[[Category:コモンズの悲劇]]
[[Category:インターネットの文化]]
[[Category:和製英語]]
[[Category:コンピュータ・ジャーゴン]]
[[Category:日本のインターネットスラング]]
{{Internet-stub}} | 2003-04-24T20:27:58Z | 2023-08-04T20:35:14Z | false | false | false | [
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"Template:Internet-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC |
7,253 | FD | FD、Fd、fd | [
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] | FD、Fd、fd | {{TOCright}}
'''FD'''、'''Fd'''、'''fd'''
== 正式名称 ==
*'''FD''' - [[MS-DOS]]用ファイル管理ソフト ⇒ '''[[FD (ファイル管理ソフト)]]'''
== 略語・略称 ==
=== 一般名詞・術語 ===
==== コンピュータ用語 ====
* [[フロッピーディスク]] ({{lang-en-short|Floppy Disk}})
* [[関数従属性]] ({{lang-en-short|functional dependency}}) - [[関係データベース]]の[[関係モデル]]における[[関係 (データベース)|関係]]の中の[[属性 (データベース)|属性]]の2つの集合の間の制約。
* [[ファイル記述子]] ({{lang-en-short|File Descriptor}})
* [[ソフトウェア開発工程]]における基本設計 ({{lang-en-short|Foundation Design}} または {{lang|en|Fundamental Design}})
* [[ソフトウェア開発工程]]における機能設計 ({{lang-en-short|Function Design}})
==== 医学用語 ====
* [[機能性胃腸症]] ({{lang-en-short|Functional Dyspepsia}})
* [[虚偽性障害]] ({{lang-en-short|Factitious disorder}})
* [[窃触症|窃触障害]] ({{lang-en-short|Frotteuristic Disorder}})
==== その他 ====
* [[フロアディレクター]] ({{lang-en-short|Floor Director}})
* [[フライト・ディレクター]] ({{lang-en-short|Flight director}})。航空宇宙分野における略称。
* [[消防署]] ({{lang-en-short|Fire Department}})
* [[ダンパ (空調)|防火ダンパ]] ({{lang-en-short|Fire damper}})
* [[変速機 (自転車)|自転車の変速機]]のうちクランク側に取り付けるもの ({{lang-en-short|Front Derailleur}})
* [[ファカルティ・ディベロップメント]] ({{lang-en-short|Faculty Development}}) - 大学教員の教育能力、資質の向上のための組織的取り組みのこと。
* [[ファンディスク]] ([[和製英語]]: {{lang|en|Fan Disk}} または {{lang|en|Fun Disk}})
* [[平坦次元]]の表記<!--どこにいれていいかわからないのでとりあえず[#一般名詞・術語]に-->
* [[フェード]](英:Fade)
=== 固有名詞 ===
* [[フォーミュラ・ドリーム]] ({{en|Formula DREAM}}) - [[本田技研工業]]が主催していた自動車レースのカテゴリー。
* [[復旦大学]]({{ピン音|Fùdàn Dàxué}}) - [[中華人民共和国|中国]][[上海市|上海]]の国立大学。
* [[高知ファイティングドッグス]] ({{en|Fighting Dogs}}) - 野球チーム。高知FDと表記される。
* [[ファンタジスタドール]] ({{en|Fantasista Doll}}) - テレビアニメ
== コード・形式名 ==
=== コード ===
* [[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]]で、'''[[タイ・エアアジア]]'''を示す。
=== 形式名 ===
* 自動車の型番
** [[マツダ]]・[[マツダ・RX-7|RX-7]] 3代目の型番 FD3S型。
** [[ホンダ]]・[[ホンダ・シビック|シビック]] 8代目の型番 FD型。
** [[ヒュンダイ・i30]] 初代の開発コード及び型式名。
** [[日野・レンジャー]]の型式のひとつ。
** [[日野・セレガ]]の初代モデルにおけるハイデッカー(高床I=フルデッカー)の名称。
* カメラ
** fd - [[富士フイルム]]の[[デジタルカメラ]]のうち、「顔キレイナビ」搭載機種につけられる記号。(Face Detectionの略 例:FinePix S6000fd)
** [[キヤノン]]のMF[[一眼レフカメラ]]用[[レンズマウント]]。
* [[FD型蒸気機関車]] (ФД) [[ソビエト連邦|ソ連]]及び[[中華人民共和国|中国]]で使用された蒸気機関車。
* [[NHK福島放送局]]の[[NHKラジオ第2放送|ラジオ第2]]・[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]の[[コールサイン]](JO'''FD''' / -DTV)
== フィクションのことがら ==
*フラッシュドライブ - [[ルミナスアーク]]シリーズの必殺技の略称
== 関連項目 ==
* [[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]]
* {{Prefix}}
* {{Prefix|Fd|「Fd,fd」で始まるページの一覧}}
{{aimai}} | 2003-04-24T20:29:42Z | 2023-10-30T07:50:05Z | true | false | false | [
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"Template:TOCright",
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"Template:ピン音"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/FD |
7,256 | UI | UI | [
{
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}
] | UI 工学分野における、機械とそれを扱う者とで情報を伝達し合うための手段や機構 → ユーザインタフェース
コンピュータソフトウエア製造工程における基本設計 → ユーザインタフェース設計
労働組合のひとつ、全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟(UIゼンセン同盟)
かつて存在したUNIX関連業界団体、UNIX Internationalの略称
鹿児島讀賣テレビのコールサイン (JOUI-DTV)
株式会社UI銀行 - インターネット専業銀行
命題論理の全称化・普遍例化 - UI 規則
UI (利用者識別)
u&i - NHKEテレの番組。 | '''UI'''
* [[工学]]分野における、機械とそれを扱う者とで情報を伝達し合うための手段や機構 → [[ユーザインタフェース]] (User Interface)
** [[ソフトウェア開発工程|コンピュータソフトウエア製造工程]]における基本設計 → [[ユーザインタフェース設計]] (User Interface Design)
* [[労働組合]]のひとつ、[[全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟]](UIゼンセン同盟)
* かつて存在した[[UNIX]]関連業界団体、[[UNIX International]]の略称
* [[鹿児島讀賣テレビ]]の[[コールサイン]] (JOUI-DTV)
* 株式会社[[UI銀行]] - [[ネット銀行|インターネット専業銀行]]
* [[命題論理]]の[[全称化]]・[[普遍例化]] - UI ({{lang|en|Universal Instantiation}}) 規則
* [[UI (利用者識別)]]
* [[u&i]] - NHKEテレの番組。
{{aimai}}
[[Category:略語]]
[[Category:頭字語]] | null | 2023-03-09T04:24:05Z | true | false | false | [
"Template:Lang",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/UI |
7,259 | Earliest Deadline First | Earliest Deadline First (EDF) とは、リアルタイムオペレーティングシステムで使用される動的スケジューリング規則の一種である。プロセスは優先度付きキューに置かれる。スケジューリングイベントが発生すると(タスク終了、新規タスク生成など)、そのキューを探索して最も実行期限(デッドライン)が近いプロセスを選ぶ。そのプロセスが次に実行すべきものとしてスケジュールされる。
周期的に実行すべきプロセスのデッドラインはその周期に等しく、EDFによるCPU使用率の限界は100%である。すなわちEDFはCPU使用率の合計が100%を超えない限り全てのデッドラインを守ることを保証できる。従って、レートモノトニックスケジューリングのような固定優先度スケジューリングに比較して、EDFはより高負荷な環境でも全てのデッドラインを守ることができる。
しかし、システムが過負荷状態のとき、デッドラインを守れなくなるプロセスを予測できない(デッドラインと過負荷の発生時刻に依存する)。この欠点はリアルタイムシステム設計においては重大である。またこのアルゴリズムを実装するのも難しく、デッドラインを数バイトで表すにはやや技巧を必要とする(デッドラインは数ミリ秒かもしれないし数百分かもしれない)。このため、EDFは実際の産業用リアルタイムシステムではあまり使われない。
EDFスケジューリングに関しては多くの研究がなされている。EDFでプロセスの応答時間の最悪ケースを計算することができ、周期的プロセス以外にも適用可能である。ただし、マルチプロセッシングシステムではEDFはうまく機能しない。
3つの周期的プロセスをEDFでスケジュールすると想定する。以下の受け入れ試験によってデッドラインが全て満たされることを示す。
なお、実行時間も周期も同じ単位の時間(例えば10ミリ秒)であり、P1は8単位周期(80ミリ秒)に起動し、1単位(10ミリ秒)だけ動作することを示している。CPU使用率は以下のようになる:
1 8 + 2 5 + 4 10 = 0.925 {\displaystyle {\frac {1}{8}}+{\frac {2}{5}}+{\frac {4}{10}}=0.925}
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] | Earliest Deadline First (EDF) とは、リアルタイムオペレーティングシステムで使用される動的スケジューリング規則の一種である。プロセスは優先度付きキューに置かれる。スケジューリングイベントが発生すると(タスク終了、新規タスク生成など)、そのキューを探索して最も実行期限(デッドライン)が近いプロセスを選ぶ。そのプロセスが次に実行すべきものとしてスケジュールされる。 | {{出典の明記|date=2023年1月1日 (日) 11:00 (UTC)}}
'''Earliest Deadline First''' (EDF) とは、[[リアルタイムオペレーティングシステム]]で使用される動的[[スケジューリング]]規則の一種である。プロセスは[[優先度付きキュー]]に置かれる。スケジューリングイベントが発生すると(タスク終了、新規タスク生成など)、そのキューを探索して最も実行期限(デッドライン)が近いプロセスを選ぶ。そのプロセスが次に実行すべきものとしてスケジュールされる。
== 特徴 ==
周期的に実行すべきプロセスのデッドラインはその周期に等しく、EDFによるCPU使用率の限界は100%である。すなわちEDFは[[CPU]]使用率の合計が100%を超えない限り全てのデッドラインを守ることを保証できる。従って、[[レートモノトニックスケジューリング]]のような固定優先度スケジューリングに比較して、EDFはより高負荷な環境でも全てのデッドラインを守ることができる。
しかし、システムが過負荷状態のとき、デッドラインを守れなくなるプロセスを予測できない(デッドラインと過負荷の発生時刻に依存する)。この欠点はリアルタイムシステム設計においては重大である。またこのアルゴリズムを実装するのも難しく、デッドラインを数バイトで表すにはやや技巧を必要とする(デッドラインは数ミリ秒かもしれないし数百分かもしれない)。このため、EDFは実際の産業用リアルタイムシステムではあまり使われない。
EDFスケジューリングに関しては多くの研究がなされている。EDFでプロセスの応答時間の最悪ケースを計算することができ、周期的プロセス以外にも適用可能である。ただし、[[マルチプロセッシング]]システムではEDFはうまく機能しない。
== 例 ==
3つの周期的プロセスをEDFでスケジュールすると想定する。以下の受け入れ試験によってデッドラインが全て満たされることを示す。
{| class="wikitable"
|-
!プロセス!!実行時間!!周期
|-
|P1||1||8
|-
|P2||2||5
|-
|P3||4||10
|}
なお、実行時間も周期も同じ単位の時間(例えば10ミリ秒)であり、P1は8単位周期(80ミリ秒)に起動し、1単位(10ミリ秒)だけ動作することを示している。CPU使用率は以下のようになる:
<math>\frac{1}{8} + \frac{2}{5} + \frac{4}{10} = 0.925</math>
任意の個数のプロセスを動作させる際の論理的なCPU使用率の限界は100%であり、従ってこのシステムはスケジュール可能である。
[[Category:OSのプロセス管理]]
[[Category:並行計算]] | null | 2023-01-01T11:00:05Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Earliest_Deadline_First |
7,262 | アブドル・アルハズラット | アブドル・アルハズラット (Abdul Alhazred) は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの一連の小説に登場する奇書「ネクロノミコン」の著者とされる架空の人物。アブドゥル・アルハザードとも(どちらかというとこの表記の方が一般的である)。
8世紀アラビアの詩人・鬼神論者または妖術師である。狂えるアラブ人、アラビアの狂える詩人と呼ばれる。
ラヴクラフトが1927年に記した資料『ネクロノミコンの歴史』では、アルハズラットの生涯についての説明がある。基本設定として下記に要約を記す。
ウマイヤ朝の時代にイエメンのサナアで活躍した詩人とされ、ムスリムであったがイスラームやクルアーンの教えには関心を持っておらず、ヨグ=ソトースやクトゥルフ等の旧支配者を信奉していた。伝説の円柱都市アイレムを見た、アラビア南部の砂漠にある無名都市の廃墟の地下で人類より古い種族の秘密の年代記を発見した、など信じ難い言動が多く、狂人と伝わっている。
西暦730年頃にダマスクスで「アル・アジフ」(ネクロノミコンのアラビア語原題)を著す。その最期については諸説あるが、一般的には738年、路上で白昼、衆人環視の中、不可視の怪物に貪り食われたと伝えられているという。
最初に、1922年作品『無名都市』に、ネクロノミコンからの引用文と彼の名前が登場する(この時点ではネクロノミコンの名前は出ず、引用文とアルハズラッドの名前が先行して登場している)。次の同年作品『魔犬』で、ネクロノミコンとアルハズラッドが結び付けられた説明がなされる。設定は1927年の『ネクロノミコンの歴史』で固まった。
後に、ラヴクラフトの友人であったオーガスト・ダーレスが中心となって体系化されたクトゥルフ神話においては、ネクロノミコンとともに度々言及されている。彼を主人公・語り手とする作品もいくつかある。
フランクリン・シーライトは、子孫のアラン・ハッサードを創造した。彼はアーカム・デイリー・ニュースの記者として深きものどもや旧支配者絡みの事件に度々関わり、それらの出来事はワトスン役の友人フランクリンの手によって小説の形で公表されている。
ラヴクラフト本人の説明によれば、この「アブドル・アルハズラット」と言う名前はラヴクラフトが5歳の時、アラビアンナイトを読んでアラブ人になりたがった頃に使っていた名前であり、「誰か大人の人につけてもらった」名前であるとしている。
アブドル(アブドゥル)という名前はアラビア語またはイスラム教圏で一般的な男性名の一部。語の造りから「アッラーのしもべ」のようなニュアンスの人名にあたり、命名コンセプトとしては欧米語圏における「クリスチャン(キリスト教徒=神の子キリストを信奉する者)」に等しく、ごくありふれている。
英語圏ではアルハズラッド(Alhazred)という単語は、アラビア語語源のハザード(hazard 「偶然、危機、障害」;サイコロを意味するアラビア語アッザハル(az-zahr الزّهر)から)や警戒色の赤(red)を想起させるらしい。また語源的解釈として、アラビア語で「~の近くの場所、~の側、~の居場所」を表すハドラ(ḥaḍrah حضرة 、日本語の「御前さま」「御屋形さま」のように「わたしは~の近く/居場所にいる」と遠まわしに告げることで対象への敬意を表す)や、同じ語源のペルシア語およびトルコ語で宗教指導者に用いられる敬称ハズラット/ハズレット(hazrat حضرت / hazret)、あるいはアラビア語で「柵をめぐらす事、禁止する事」という意味のハズラ(ḥaẓraحظر )などと関連付けられることもある。
またラヴクラフト研究家のS・T・ヨシの指摘によると、「アブドゥル・アルハザード」は冠詞をくり返している(ul Al)ためアラビア語としては誤りであり、文法的にはアブド=エル・ハズレッドが正しいとのことである。
クトゥルフ神話の文献の著者ということで、類似のキャラクターは何人もいる。CAスミスは「エイボンの書」と著者の魔道士エイボンを設定した。REハワードは「無名祭祀書」と著者のフォン・ユンツト、およびニューヨークの狂詩人ジャスティン・ジョフリを設定した。 | [
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] | アブドル・アルハズラット は、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの一連の小説に登場する奇書「ネクロノミコン」の著者とされる架空の人物。アブドゥル・アルハザードとも(どちらかというとこの表記の方が一般的である)。 8世紀アラビアの詩人・鬼神論者または妖術師である。狂えるアラブ人、アラビアの狂える詩人と呼ばれる。 | '''アブドル・アルハズラット''' (''Abdul Alhazred'') は、[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]の一連の[[小説]]に登場する奇書「[[ネクロノミコン]]」の著者とされる架空の人物。'''アブドゥル・アルハザード'''とも(どちらかというとこの表記の方が一般的である)。
8世紀アラビアの詩人・鬼神論者または妖術師である。'''狂えるアラブ人'''、'''アラビアの狂える詩人'''と呼ばれる。
== 概要 ==
=== 設定上の来歴 ===
{{Wikisource|ネクロノミコンの歴史|3=日本語訳}}
ラヴクラフトが1927年に記した資料『[[s:ネクロノミコンの歴史|ネクロノミコンの歴史]]』では、アルハズラットの生涯についての説明がある<ref name="全集5_pp311">全集5『ネクロノミコンの歴史』311-322ページ。</ref>。基本設定として下記に要約を記す。
[[ウマイヤ朝]]の時代に[[イエメン]]の[[サナア]]で活躍した詩人とされ、[[ムスリム]]であったが[[イスラーム]]や[[クルアーン]]の教えには関心を持っておらず、[[ヨグ=ソトース]]や[[クトゥルフ]]等の[[旧支配者]]を信奉していた。伝説の[[円柱のイラム|円柱都市アイレム]]を見た、[[アラビア]]南部の[[砂漠]]にある[[無名都市]]の廃墟の地下で人類より古い種族の秘密の年代記を発見した、など信じ難い言動が多く、狂人と伝わっている。
西暦730年頃に[[ダマスカス|ダマスクス]]で「アル・アジフ」([[ネクロノミコン]]のアラビア語原題)を著す。その最期については諸説あるが<ref group="注">『ネクロノミコンの歴史』においても「死亡または失踪した」「多くの恐ろしくも矛盾する最期が語られている」と説明されている。</ref>、一般的には738年、路上で白昼、衆人環視の中、不可視の怪物に貪り食われたと伝えられているという。
=== 現実の作劇において ===
最初に、1922年作品『[[無名都市]]』に、ネクロノミコンからの引用文と彼の名前が登場する(この時点ではネクロノミコンの名前は出ず、引用文とアルハズラッドの名前が先行して登場している)。次の同年作品『[[魔犬]]』で、ネクロノミコンとアルハズラッドが結び付けられた説明がなされる。設定は1927年の『ネクロノミコンの歴史』で固まった。
後に、ラヴクラフトの友人であった[[オーガスト・ダーレス]]が中心となって体系化された[[クトゥルフ神話]]においては、[[ネクロノミコン]]とともに度々言及されている。彼を主人公・語り手とする作品もいくつかある。
[[フランクリン・シーライト]]は、子孫のアラン・ハッサードを創造した。彼はアーカム・デイリー・ニュースの記者として[[深きものども]]や[[旧支配者]]絡みの事件に度々関わり、それらの出来事はワトスン役の友人フランクリンの手によって小説の形で公表されている<ref>Franklyn Searight「Lair of the Dreamer」(Hippocampus Pr) ISBN 097938060X</ref>。
== 名前 ==
ラヴクラフト本人の説明によれば、この「アブドル・アルハズラット」と言う名前はラヴクラフトが5歳の時、[[アラビアンナイト]]を読んで[[アラブ人]]になりたがった頃に使っていた名前であり<ref name="全集5_p348">全集5「ネクロノミコンの歴史」作品解題([[大瀧啓裕]])348-349ページ。</ref>、「誰か大人の人につけてもらった」名前であるとしている<ref name="全集5_p348" /><ref group="注">同書簡にて、ラヴクラフト自身も命名者についての記憶は定かではないとしている。この命名者については、叔父にせがんで付けてもらったとも、またはフィリップス家の弁護士アルバート・ベイカー(Albert Baker)とも、あるいはラヴクラフト自身ともいわれている。</ref>。
アブドル(アブドゥル)という名前は[[アラビア語]]または[[イスラム教]]圏で一般的な男性名の一部。語の造りから「[[アッラー]]のしもべ」のようなニュアンスの人名にあたり、命名コンセプトとしては欧米語圏における「[[クリスチャン (人名)|クリスチャン]]([[キリスト教徒]]=神の子[[キリスト]]を信奉する者)」に等しく、ごくありふれている。
[[英語]]圏ではアルハズラッド(Alhazred)という単語は、アラビア語語源の[[ハザード]](hazard 「偶然、危機、障害」;[[サイコロ]]を意味するアラビア語アッザハル(az-zahr الزّهر)から)や[[警戒色]]の[[赤]](red)を想起させるらしい。また語源的解釈として、アラビア語で「~の近くの場所、~の側、~の居場所」を表すハドラ(ḥaḍrah حضرة 、日本語の「御前さま」「御屋形さま」のように「わたしは~の近く/居場所にいる」と遠まわしに告げることで対象への敬意を表す)や、同じ語源の[[ペルシア語]]および[[トルコ語]]で[[宗教指導者]]に用いられる[[敬称]]ハズラット/ハズレット(hazrat حضرت / hazret)、あるいはアラビア語で「柵をめぐらす事、禁止する事」という意味のハズラ(ḥaẓraحظر )などと関連付けられることもある。
またラヴクラフト研究家の[[S・T・ヨシ]]の指摘によると、「アブドゥル・アルハザード」は冠詞をくり返している(ul Al)ためアラビア語としては誤りであり、文法的にはアブド=エル・ハズレッドが正しいとのことである。
==登場作品==
*ハワード・フィリップス・ラヴクラフト:ネクロノミコンの歴史、[[無名都市]]、[[魔犬]]
*[[オーガスト・ダーレス]]:[[永劫の探究]]4部
**ラヴクラフト&ダーレス:[[アルハザードのランプ]]
*[[リン・カーター]]:[[カーター版ネクロノミコン]](8短編)
*デイヴィッド・T・セイント・オールバンズ:師の生涯
*ドナルド・タイスン:ネクロノミコン アルハザードの放浪、[[:en:Alhazred (novel)|アルハザード]]
==類似キャラクター==
[[クトゥルフ神話の文献]]の著者ということで、類似のキャラクターは何人もいる。[[クラーク・アシュトン・スミス|CAスミス]]は「[[エイボンの書]]」と著者の[[魔道士エイボン]]を設定した。[[ロバート・E・ハワード|REハワード]]は「[[無名祭祀書]]」と著者のフォン・ユンツト、およびニューヨークの狂詩人ジャスティン・ジョフリを設定した。
== 関連項目 ==
* [[:en:Abdul|Abdul]](英語)
* [[クトゥルフ神話]] / [[ネクロノミコン]]
* [[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]
== 脚注 ==
【凡例】
*全集:[[創元推理文庫]]『ラヴクラフト全集』、全7巻+別巻上下
*クト:[[青心社]]文庫『暗黒神話大系クトゥルー』、全13巻
*真ク:[[国書刊行会]]『真ク・リトル・リトル神話大系』、全10巻
*新ク:国書刊行会『新編真ク・リトル・リトル神話大系』、全7巻
*事典四:[[Gakken|学研]]『クトゥルー神話事典第四版』([[東雅夫]]編、2013年版)
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
{{クトゥルフ神話/作中事項}}
{{DEFAULTSORT:あるはすらつとあふとる}}
[[Category:クトゥルフ神話の人物]]
[[Category:小説の登場人物]]
[[Category:架空の著作家]] | null | 2023-05-21T14:41:39Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:クトゥルフ神話/作中事項",
"Template:Wikisource"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%BA%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88 |
7,264 | スペースインベーダー | 『スペースインベーダー』(Space Invaders)は、株式会社タイトーが1978年6月に発表し、同年8月から稼働を開始したアーケード用固定画面シューティングゲーム。本頁ではその続編であるスペースインベーダーパートIIについても取り扱う。
本作は日本のアーケード史上最大のヒット作であり、タイトーによる純正品が約10万台、許諾先メーカーからのものが約10万台、許諾なしのコピー品が約30万台出荷されたと推定されており、ブームとなった1年半足らずの間に計50万台が日本中に出回った。
後に多くの家庭用ゲーム機や携帯電話ゲームなどにも移植された。
「スペースインベーダー」はタイトーの登録商標である。一方、タイトーの純正のスペースインベーダーを初めとする同社の後継製品、および他社製のコピー品、模倣品、類似商品などを広くひとまとめに総称する場合は(正規ライセンス品でないものをタイトーの登録商標で呼んではいけないので)「インベーダーゲーム」と呼ばれ、2つの名称は使い分けられている。
2018年、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した6月16日を「スペースインベーダーの日」に制定、日本記念日協会に正式に認定された。
スペースは宇宙、インベーダーは侵略者を意味する英語で、侵略してくる宇宙人(インベーダー)を迎撃するシューティングゲームである(ゲームコンセプトについては「開発」の節で解説)。画面上方から迫り来るインベーダー(敵キャラクター)を、左右に移動できるビーム砲で撃ち、インベーダーを全滅させることを目的とする。時々、上空に敵母艦のUFOが出現し、これを撃ち落とすとボーナス点を獲得できる。
それまでのビデオゲームでは「シューティングゲーム」といっても、ただのターゲットを狙って弾を撃つだけのいわゆる「的当て(まとあて)」ゲームであり、「のんびり」していて向こうからは攻撃してこないし、自分が何もしなくてもせいぜい点数が入らないというだけで、3分間は遊ばせてくれる、というものだった。それに対して本作は敵と対戦するような形のゲームであり、そこが画期的だった。また、それまでのシューティングゲームは前述の通りあらかじめ決められた分数遊ばせてもらえる、というシステム(「時間内に何点獲得できるか」というルール)だったが、本作では上手な人が長く遊べる、というルールを採用した。また難易度の設定に関しても、それまでのアーケードゲームというのはゲーム会社上層部の年配の人々の判断によって年配の人でも遊べるような、かなり容易な難易度設定がされるものだったが、本作は若者層が楽しめるような比較的難しい難度設定が、開発者の西角友宏の判断によって採用された。
本作は登場した当時大ヒットし、数々の社会現象を生み、テレビゲームを象徴する存在ともなった。昭和時代や戦後の通俗文化史を解説する書籍などで、特筆すべきこととして語られることが多い。たとえばインベーダーゲームばかりを設置した「インベーダーハウス」と呼ばれるゲームセンターが全国各地で次々と開店し、若者らが本作をプレイしようと順番待ちの行列を作ったことや、喫茶店やスナックのオーナーらがこぞって店内のテーブルの多くを本作のテーブル型筐体に置き換え、客たちも本作をプレイすることに熱中したことなどである。他にもこの種のエピソードには事欠かない(本作が業界及び社会に与えた影響の詳細については、#ヒットと社会現象の節で解説)。
敵弾を回避しつつ敵を撃つ、というゲームシステムには他社も着目し、ナムコの『ギャラクシアン』などに受け継がれ、後に日本で数多く登場したシューティングゲームの始祖のひとつとされる。 当時はまだゲーム業界でも著作権という概念が今ほどには根付いておらず、第一印象が「よく似た」ゲームが複数のゲーム会社から同時多発的に登場することがしばしば起きた。とりわけ本作はあまりにも記録的な大ヒットをしたため、中身はほぼ同じでせいぜいタイトルを少し変えた程度のコピーゲームが氾濫した(詳細は#亜流「インベーダーゲーム」及びその関連の節を参照)。なお、本作のコピーゲームを制作した会社の中には、後に家庭用ゲーム機向けコンシューマーゲームのソフトハウスとなり、世界的に有名になった会社も少なくない。
2018年、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した6月16日を「スペースインベーダーの日」に制定、日本記念日協会に正式に認定された。
約30万台と言われる売上を記録したことでタイトー自体の生産が追いつかなかったため、国内では以下の5社が許諾を得て生産していた。なお、当時の業界では違法コピーに対し、契約金などの条件を付け、後付けで許諾をするというケースもあった。
画面の中央やや上方に、縦5段 横11列の、計55のインベーダーが現れる。 インベーダーは、軍団状で、隊列状態でまとまって横移動をしながら、端にたどり着く度に一段下がり、下がり終えると進行方向を逆方向変えて再び移動しはじめる。これを繰り返すことによって、段々と下に降りてくる。インベーダーが画面最下部のプレイヤーの位置まで降りてきたら、自陣が占領されたことになり、残機があってもゲームオーバーとなるために、それまでにインベーダーを全滅させなければならない。
自陣に関しては、ビーム砲(自機)が一門、画面の下段に表示される。ビーム砲は左右にしか動けず、弾を撃つ場合でも1発限定で、しかも自分が撃った飛翔中の弾がどこかに着弾するまでは、次の弾が撃てない。ビーム砲の上にはいくつかトーチカ(防御壁のようなもの)があり、ビーム砲を敵の攻撃から護る役割を最初は果たしているが、トーチカはインベーダーからの攻撃を受けた場合も、またビーム砲がトーチカ下方からビームを撃った場合も、少しづつ破損してゆき、さらには降りてきたインベーダーが触れることでも削られてしまう。プレーヤは、トーチカの下に、まるで傘に入るようにしてインベーダーからの攻撃を避けたり、そこから出てインベーダーを攻撃したりすることになる。なお、画面がスクロールすることはなく、インベーダーやビーム砲が画面からはみ出すことなどもない。
インベーダーを撃墜した際の得点は一番上の段が30点、その下の2段が20点、その下の2段が10点である。画面最上段にはUFOが通過するゾーンがある(UFOの得点参照)。逆に敵インベーダーからの攻撃でビーム砲が被弾した場合、ミスとなりビーム砲を1門失う。
インベーダーは撃墜されたことで数が減るにつれ、徐々に移動速度が速くなっていく。残り10体を切るとかなりの速度になり、しっかり狙って撃たないと弾が当たらず、発射直後に狙いがはずれたと気づいても、着弾するまでは次の弾が撃てず、あれよあれよという間に何段も下りてくる。ただし、インベーダーの移動速度は、右方向よりも左方向への移動の方がやや遅いため、これを利用して、左方向へ移動中に攻撃すると弾を命中させやすい。インベーダーが最下段まで降りてしまうと、占領されたということでビーム砲は破壊されてしまい、ゲーム終了となり「GAME OVER」の文字が表示される。
インベーダーが最下段に降りる前に画面内のインベーダーを全滅させると、ゲームは続行され、1面より(前の面より)も一段下にインベーダーの軍団が配置され、インベーダーは前の面よりも近い位置から攻撃してくる。つまり、面が進むにつれ難度が上がるようになっているが、9面目をクリアした時は、一旦は2面目の位置に戻りそこから再び面ごとに下がり、以降8面ごとの繰り返しになる。。
人気となった理由は、(前述したように)当時の一般的な、ただの「的当て」でしかなかった「のんびり」としたシューティングゲームとは違い、攻撃してくる敵と対戦するゲームであり、いわゆる「スリリング」なゲームであったことや、前述のように、年配者でなく若者が楽しめるよう適度に難しく設定されていたことや、上手な人ほど長く遊べるというゲームシステムが採用されていたこと(初挑戦者や数回目のプレーヤーは2分以下でゲームが終了してしまうのに比べて、攻略法を身に付けた上級者では100円で1時間以上遊べた)。
ここに詳述する攻略法のほとんどは、本作のプログラム開発者が見落としていた動作、一種のバグによるものと言われている。特に「名古屋撃ち」は高得点獲得のためにはほとんど不可欠の作戦となり、その呼称は現在でも伝承されている。開発者の西角は「名古屋撃ち」という攻略法があることを知った当時「ショックだった」と語っている。しかしそうしたバグのおかげで攻略法が生まれ、プレーヤーたちが一層熱中する要因となり、本作の大ヒットに繋がった。
語源を「名古屋(のプレーヤーの間)でこの攻略法が生まれたから」とする文献は非常に多い。
インベーダーのミサイル攻撃は、インベーダーがまるで糞尿を垂れ流しているかのように見えてしまうことを防ぐため、キャラクターの直下からではなく、1キャラクター離れたところから発射されており、当たり判定はそのさらに一段下から行われる。このため、インベーダーが最下段まで降りてきてビーム砲と隣接した状態では、ミサイルが当たり判定を擦り抜けてしまうことを利用して攻撃する方法である。
とはいえ、ただ敵が最下段まで降りてくるのを待っていたのでは、それまでに攻撃を受けてしまうので、攻撃を避けるための安全な範囲を作りだすために、端の列の最上段の敵を残し、その隣の2〜3列程度の敵をすっかり撃墜して敵不在の列(隙間。間隙)を2〜3列程度つくり、その隙間に自ビーム砲を入れる(下図参照)。インベーダー軍団は左右に動くので、それにあわせて隙間にいつづけるように自ビーム砲も左右に動かす。
下はインベーダーを最下段へ下ろすため敵軍団に隙間を作りそこに自ビーム砲を入れて待つ状態の図
このようにすれば敵の攻撃を受けることなく最下段に降りてくるのを待つことができ、そのようにして最下段に降りさせれば自ビーム砲は当たり判定から除外された安全なエリアに入り、一番下の段のインベーダーの下をまるで自由にくぐり抜けるように左右に移動でき、おまけに距離が近いのでこちらのビーム砲の発射から着弾までほとんど時間がかからないので(単発でしか打てないビーム砲にもかかわらず)まるで連射砲のようなリズムで連続的に最下段のインベーダーを撃ち殺すことができる。この戦法を名古屋撃ち(なごやうち)という。
下は、敵軍団が最下段に降りてからその下をくぐって自ビーム砲連射を開始する段階の図
右側にインベーダーを何列残すかについては、ある程度選択の余地があった。なお名古屋撃ちは、あくまで最下段までインベーダーをひきつけてから行う必要があり、間にまだ1〜2段の隙間が開いている段階でインベーダーの下を左右に移動しつつビームを発射しようとしても、自ビーム砲はまだ当たり判定が有効なエリアにおり、おまけに近いので避ける間も無くインベーダーのミサイル攻撃を受けてしまいがちである。名古屋撃ちは安定したUFO破壊ができ、より高得点が期待できるという特徴もあった。ただし敵軍団が最下段に降りてからこちらがミスをすると即占領、即ゲームオーバーとなってしまうため、名古屋撃ちには的確な射撃および的確な移動が不可欠である。
なお、バリエーションとして「中央突破」という、以下の図のような形を作る戦法もあった。名古屋撃ちのテクニックには俊敏性が要求されたため、逆パターン(4・5・6面)に於いては下図の作戦を用いる上級プレーヤーも少なくなかった。
なお一部の亜流作品ではこの攻略が不可能なものもあった。
一見ランダムのように見えるが、実は疑似乱数の中でもかなり単純な方式を用いている。乱数のシードは各面開始時にリセットしており、ビーム砲から弾を発射する毎に乱数列を一つずつ進めている。このため戦略的に高得点を狙うことが可能になっており、カラ撃ちや名古屋撃ちなどで特定回数の射撃をして発射数を調整してからUFOを撃破することによって、最高得点を得ることが可能となったからである。最高得点である300点を出すためには、最初は8発目、それ以降は15発目の弾を命中させればよい。それ以外の場合は150、100、50点のいずれかとなる。これらも何発目に何点と決まっている。
UFOは各面開始から25秒ごとに出現するが、インベーダーの数が残り7体以下になると出現しなくなる。
インベーダーは周期的なテンポで移動するが、全数が同時に移動しているのではなく、1匹1匹が順に移動しているので移動にわずかなズレが生じ、インベーダーの縦列すれすれにビームを打つとタイミング次第で、下段のインベーダーを残し、上段にいるインベーダーを倒すことができる。インベーダーが減ると移動スピードが速くなり、かなりずれが出るので、狙いやすくなる(縦一列にインベーダーが残った状態が一番狙いやすい)。それを繰り返し10点インベーダーを最後に残すと、キャラクターが右に移動する際に(もともと、10点インベーダーが最高速で移動することを想定した描き変えをしていなかったため)画面上にキャラの一部が残るといったバグがおきる。その様子から“レインボー”と呼ばれた。
発生させるには正確な操作と、ビームを発射するタイミングを見極める必要があるので、これができれば中級者以上と言える。レインボー状態になってから、インベーダーが右端に2回移動してしまうと、突然インベーダーが、一番下まで降りてしまい、占領されてゲームオーバーになってしまう。
もともとバグ技であるため得点には影響しないが、後述する続編『スペースインベーダーパートII』ではレインボーに成功すると「レインボーボーナス」として500点が入った。また左側の列を残し、最初の10点インベーダーを残してレインボーすると1000点入るという法則がある(しかし2匹目の10点インベーダーでレインボーすると500点となってしまう)。
以下、画面内の位置の順、上から下の順に解説する。
開発者は太東貿易(現・タイトー)の子会社、パシフィック工業の社員だった西角友宏。西角は同社の『スピードレース』(1974年)や『ウエスタンガン』(1975年)の制作を手掛けており、『ウエスタンガン』のライセンス許諾版であるセガの『ガンファイト』に、CPU付きの基板が使用されていたことに着目し、将来的にゲームはプログラムによって制作される様になると予測。独学で本作のプログラムを手掛けることとなった。結果として本作は「日本において初めてCPUを使用したゲーム」となった。
「敵の集団」という発想は『ブロックくずし』を元にした、と西角本人が説明している。開発当時、アタリ社の『ブレイクアウト』を日本に持ってきた『ブロックくずし』が、ゲームセンターや喫茶店などで人気を博していた。そこでタイトーではブロックくずしに続くゲームの開発を指示し、その内の一機種が『ズンズンブロック』と、この『スペースインベーダー』であった。西角は、自身がシューティングゲーム好きであったことが発案の背景で、さらに「『ブレイクアウト』を超えるゲームを作れるか」と上司に尋ねられて奮起した、と回想している。
西角はブロックくずしを分析した結果、その目的は「ブロック全てを消した時の満足感」にあると考え、この満足感を大切にして開発することにした。ただし、同じ内容では超えられないため、互いに攻撃しあい、相手からも撃ってくることを思いついた。ブロックを消すだけで満足感があるのだから、攻撃してくる相手を消せたらさらに大きな満足感を得るはず、と考えた。
開発初期段階では「戦車」や「飛行機」等をキャラクターに設定予定だったが、当時の技術ではそのスムーズな動きが難しいという理由で断念。次に考えたのは「人間」だったが、社内から「ゲームとはいえ人を撃つことは良くない」という声で再び断念。そこで、当時1作目が公開され大人気となった映画『スター・ウォーズ』をヒントにした「宇宙人」にすることを提案し、インベーダーのキャラクターになった。
インベーダーのキャラクターデザインは、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』の挿絵をヒントに西角がイメージ画を描き起こし、これを元に西角自身がドット絵を作成した。イメージ画のモチーフは、タコ(10点)、カニ(20点)、イカ(30点)となっている。後にそれぞれ正式名称としてそのままOCTOPUS、CRAB、SQUIDと名付けられている(なお、なかでもCRABは『スペースインベーダー』のみならず、タイトーを代表するマスコットキャラクターに位置付けられ、またさまざまな媒体でも引用され、ひとつの独立した知られたキャラクターともなっている)。
西角はデザインのためにブラウン管をペン状のデバイス(ライトペン)で直接描画し、それをデータとして利用できるシステムを発明した。これが世界で最初の実用コンピューター用ペンデバイスであったとされることがある(なお、ライトペンはWhirlwindで開発されSAGEで使われたのが最初と今日では一般にされている)。西角曰く「自分の作業をしやすくするための道具として作っただけ」という理由で、特許などは取得しなかった。
西角はアタリ製『ポン』の見本機に触れて、コンピューターゲームの仕組みを学んだ。後に『スペースインベーダー』となる構想中のゲームの制御には、通常の集積回路(IC)では限界があると考えた西角はマイクロプロセッサを利用しようとしたが、当時は軍用が主で、民生用は日本国内にほとんどなかった。このためインテルの講習会に出席したり、英書を読んだり、ミッドウェイ製ゲーム機に搭載されていたCPUを解析したりしてプログラムを調べた。パーソナルコンピュータがない時代であったため、入力装置を自作した。
西角はサウンド作業については苦手だったため、サウンドのみは『ブルーシャーク』を担当していた、亀井道行(かめい みちゆき)が担当した。インベーダーが動く音はなかなか適した音が決まらず、最後は心臓の鼓動音と、当時話題となった動物パニック映画『ジョーズ』のテーマソングの「ジャンジャンジャンジャン...」という響きを参考にした(宝島社『「ゲーセン」最強読本』西角のインタビューより)。本来は二拍子だったものが、現在知られるような四拍子にされたとされる。移動音については変更後も社内評価は変わらず酷評されていたが、結果的には四拍子だからこそのヒットとさえ評価されている。なおコピーゲームには、二拍子の物もある。
販売可能な品質に仕上がったのは、実際の販売日よりずっと早かったと言われる。しかし初期バージョンの社内評価は芳しくなく、途中で面クリアできなくなるといったバグも残っていたため、(販売予定日前の)2ヶ月ほどかけて修正を行い、その際のバランス調整によって、ゲーム性が大きく向上した。
開発段階ではもともと、当時大人気のピンク・レディーがリリースしたシングル「モンスター」(1978年)の影響を受け、『ギャラクシーモンスター』または『スペースモンスター』というタイトルで呼ばれていたが、手直しの際に海外発売を視野に入れることを理由とした上層部命令により、発売二ヶ月前に田島一成により、他にも多数存在したタイトル候補から、『スペースインベーダー』に変更された。西角はこのタイトル変更によって、「ゲームへの愛着がなくなった」、とコメントした。
敵が攻撃してくるという内容は、営業部門を中心とする熟年社員には難しく「敵が攻撃しないように改造しろ」という命令も出た。一方で開発部門を中心とする若い社員には好評であり、西角は改造を拒否した(『新・電子立国』4、『未来創造堂』で西角が証言)。コンピューター側が敵として攻撃してくるゲームは当時まだ珍しく、業者向けの内覧会でも、操作に慣れないうちに全滅してしまうと芳しくない評価であった。
当時の社内評価では、同時に発売される『ブルーシャーク』の方が、従来と同じシステムのゲームとして人気が高く、『スペースインベーダー』は「難しくて一般受けしない」という評価であった。社内的には『ブルーシャーク』を積極的に営業展開し、『スペースインベーダー』の方は当初はタイトー直営のゲームセンターにしか置かれず、「置いておけば、投資した分が回収できるか」といった程度にしか期待されていなかった。ところがいざ蓋を開けてみると、本作のゲームバランスが高校生・大学生や若いサラリーマンを中心に大いに受けた。各地から本作の発注が殺到、タイトーは急遽、営業方針を切り替えた。
以下、当時のタイトー社員の体験談なども含む。
タイトーからアーケードゲームとして発売された、正式な『スペースインベーダー』のシリーズは以下の作品である。タイトル横の記述はリリース年。その横に☆印が付いている作品は、後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に移植版が収録されている(別版にのみ収録されている作品については付記形式で言及)。
下に記載したソフトのうち、Wiiショッピングチャンネルで販売されていた配信ソフト全般(Wii版バーチャルコンソール・Wiiウェア)については、2019年1月31日をもってサービス(配信・販売)が終了している。後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に何らかの形で収録されている作品については、付記形式で言及。
アーケード版はゲーメストムック『ザ・ベストゲーム』(1991年)において、『ゲーメスト』読者による全アーケードゲームを対象とした人気投票で第40位を獲得した。巻末の「ビデオゲームフルリスト」の紹介文では、「いまだにこの作品を、知名度、売り上げともに抜くものがいないと言われるくらい有名。55匹の敵を左右移動の砲台で撃つというシューティングを確立した」と評されている。
ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』(1998年)では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、ライターのがっちんは本作を「タイトーから発売された、ゲーム界に残る歴史的な名作」と位置付け、後のゲームはほぼ全て本作を基本として発展したと主張し、55匹の侵略者を左右移動可能な自機で撃ち落とすというシステムが単純であると指摘しながらも、本作がシューティングゲームを確立したと評価した。また、当時では斬新であった本作のゲームシステムが(当時として)「画期的であり」(プレイヤーたちに)「驚きと興奮を与えた」と指摘したほか、すべての筐体が本作で埋め尽くされた「インベーダーハウス」が存在したことを指摘、「もはや伝説となったインベーダーに匹敵する作品の出現は2度とないだろうとまで言われている」と総括した。ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編』では、本作の元となったアタリの『ブレイクアウト』(1976年)が動作しないブロックを破壊するのに対し、本作では敵が左右に移動しながら攻撃してくる事が大ヒットの要因であると結論づけている。
移植版の評価は、ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」において、メガドライブ版は合計23点(満40点)、スーパーファミコン版は6・4・6・5の合計21点(満40点)、PCエンジンSUPER CD-ROM2版は6・5・4・5の合計20点(満40点)とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は合計19点(満40点)、バーチャルボーイ版が4・4・4・3の合計15点(満40点)、セガサターン版は合計16点(満40点)、PlayStation版は合計17点(満40点)といずれも低評価となった。
徳間書店のゲーム誌における読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は右記の通り、スーパーファミコン版が『ファミリーコンピュータMagazine』において合計18.7点(満30点)、PCエンジンSUPER CD-ROM2版が『PC Engine FAN』において合計19.4点(満30点)、PlayStation版が『PlayStation Magazine』において合計18.2点(満30点)とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において合計14.8点(満30点)、メガドライブ版が『メガドライブFAN』において合計15.6点(満30点)、バーチャルボーイ版が『ファミリーコンピュータMagazine』において合計17.5点(満30点)となっている、セガサターン版が『SATURN FAN』において合計15.6点(満30点)といずれも低評価となった。
本項ではタイトースペースインベーダーを含む、それと類似したゲームの総称として当時頻繁に使われた『インベーダーゲーム』一般について取り扱う。
亜流を製造したメーカーは50〜80社と言われ、当時日本で亜流を出さなかったのは、『ギャラクシアン』を開発中のナムコだけだった。マコト電子工業の『スーパー・インベーダー』、ウコー・コーポレーションの『ファイティングミサイル』(スペースミサイル)、ワールドベンディングの『インベーダーウォーズ』、日本物産の『ムーンベース』、アイ・エヌ・ジ・エンタープライゼスのコピーゲームに対する損害賠償請求訴訟は、ゲーム業界初期の知的財産トラブル事例とされる。プログラムを勝手にコピーすることは犯罪であるという判例がきっかけとなり、著作権法の一部が改正された。
内容はタイトーとほぼ同じではあるが、ハードウェアやソフトウェアの全てをそのままコピーしたデッドコピーと表現するしかないような物から、ゲーム内容が似せてあるだけで中身は独自に開発した物まであった。キャラデザインやUFOの動きなどをアレンジしたもの、文字表示をカタカナにしたもの、2in1筐体で遊べる等の差別化を行った製品が出るようになり、逆に独自技術で亜流を作ったメーカーの中には、ハード的制約で完全再現できないものまで存在していた。こうしたゲーム会社の殆どは、『ブロックくずし』を作る為に創業し、『インベーダー』の亜流で会社を大きくし、ブーム後は『インベーダー』のノウハウを活かして独自のゲームを作り始めた。そう考えると、日本ゲーム業界での『ブロックくずし』は生みの親、『インベーダー』は育ての親と言える。
しかし亜流のメーカーがリメイクを制作することはまずなく、現在では亜流を遊ぶことは一部のエミュレーター筐体での稼働を除けば、ほとんど不可能といってもいい。
全種は紹介しきれないので、ここでは後にメジャーとなったメーカー、またはフィーチャーが独特で多くのプレイヤーの記憶に残ったものを抜粋して紹介する。
ブーム後にナムコから『ギャラクシアン』が出たが、『ギャラクシアン』の基板は一つのキャラに複数の色が付けられる画期的なもので、中小メーカーはこぞって『ギャラクシアン』基板の流用ゲームを出した。タイトーも『ギャラクシアン』に匹敵する基板を既に開発していたが、『インベーダー』基板が大量に残り、廃棄するのも無理があったので、西角らはまず『インベーダー』基板のROMだけ差し替え、別のゲームを作ることとなった。このため1979 - 1981年にタイトーから出たゲームの色や音は、工場で新造されたものは独自の仕様だったが、インベーダー基板を流用したものは、色と音(当時はまだシンセサイザーがなく、抵抗器を一つ一つ付け、『インベーダー』の場合8種類の音が用意されていた)の両方または片方が、『インベーダー』と同じままだった。基板流用ゲームは、主に以下のタイトルなどが挙げられる(メーカーにリンクがあるものは後述)。
タイトー以外ではセガ・エンタープライゼス(現・株式会社セガ)の『ヘッドオン』基板もROM交換で対応しており、1981年頃までは大手のセガやタイトーより中小メーカーの方が、華やかな色のゲームを作れるという、一見矛盾した展開が見られた。 | [
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"text": "『スペースインベーダー』(Space Invaders)は、株式会社タイトーが1978年6月に発表し、同年8月から稼働を開始したアーケード用固定画面シューティングゲーム。本頁ではその続編であるスペースインベーダーパートIIについても取り扱う。",
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"text": "本作は日本のアーケード史上最大のヒット作であり、タイトーによる純正品が約10万台、許諾先メーカーからのものが約10万台、許諾なしのコピー品が約30万台出荷されたと推定されており、ブームとなった1年半足らずの間に計50万台が日本中に出回った。",
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"text": "後に多くの家庭用ゲーム機や携帯電話ゲームなどにも移植された。",
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"text": "「スペースインベーダー」はタイトーの登録商標である。一方、タイトーの純正のスペースインベーダーを初めとする同社の後継製品、および他社製のコピー品、模倣品、類似商品などを広くひとまとめに総称する場合は(正規ライセンス品でないものをタイトーの登録商標で呼んではいけないので)「インベーダーゲーム」と呼ばれ、2つの名称は使い分けられている。",
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"text": "2018年、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した6月16日を「スペースインベーダーの日」に制定、日本記念日協会に正式に認定された。",
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"text": "スペースは宇宙、インベーダーは侵略者を意味する英語で、侵略してくる宇宙人(インベーダー)を迎撃するシューティングゲームである(ゲームコンセプトについては「開発」の節で解説)。画面上方から迫り来るインベーダー(敵キャラクター)を、左右に移動できるビーム砲で撃ち、インベーダーを全滅させることを目的とする。時々、上空に敵母艦のUFOが出現し、これを撃ち落とすとボーナス点を獲得できる。",
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"text": "それまでのビデオゲームでは「シューティングゲーム」といっても、ただのターゲットを狙って弾を撃つだけのいわゆる「的当て(まとあて)」ゲームであり、「のんびり」していて向こうからは攻撃してこないし、自分が何もしなくてもせいぜい点数が入らないというだけで、3分間は遊ばせてくれる、というものだった。それに対して本作は敵と対戦するような形のゲームであり、そこが画期的だった。また、それまでのシューティングゲームは前述の通りあらかじめ決められた分数遊ばせてもらえる、というシステム(「時間内に何点獲得できるか」というルール)だったが、本作では上手な人が長く遊べる、というルールを採用した。また難易度の設定に関しても、それまでのアーケードゲームというのはゲーム会社上層部の年配の人々の判断によって年配の人でも遊べるような、かなり容易な難易度設定がされるものだったが、本作は若者層が楽しめるような比較的難しい難度設定が、開発者の西角友宏の判断によって採用された。",
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"text": "本作は登場した当時大ヒットし、数々の社会現象を生み、テレビゲームを象徴する存在ともなった。昭和時代や戦後の通俗文化史を解説する書籍などで、特筆すべきこととして語られることが多い。たとえばインベーダーゲームばかりを設置した「インベーダーハウス」と呼ばれるゲームセンターが全国各地で次々と開店し、若者らが本作をプレイしようと順番待ちの行列を作ったことや、喫茶店やスナックのオーナーらがこぞって店内のテーブルの多くを本作のテーブル型筐体に置き換え、客たちも本作をプレイすることに熱中したことなどである。他にもこの種のエピソードには事欠かない(本作が業界及び社会に与えた影響の詳細については、#ヒットと社会現象の節で解説)。",
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"text": "敵弾を回避しつつ敵を撃つ、というゲームシステムには他社も着目し、ナムコの『ギャラクシアン』などに受け継がれ、後に日本で数多く登場したシューティングゲームの始祖のひとつとされる。 当時はまだゲーム業界でも著作権という概念が今ほどには根付いておらず、第一印象が「よく似た」ゲームが複数のゲーム会社から同時多発的に登場することがしばしば起きた。とりわけ本作はあまりにも記録的な大ヒットをしたため、中身はほぼ同じでせいぜいタイトルを少し変えた程度のコピーゲームが氾濫した(詳細は#亜流「インベーダーゲーム」及びその関連の節を参照)。なお、本作のコピーゲームを制作した会社の中には、後に家庭用ゲーム機向けコンシューマーゲームのソフトハウスとなり、世界的に有名になった会社も少なくない。",
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"text": "2018年、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した6月16日を「スペースインベーダーの日」に制定、日本記念日協会に正式に認定された。",
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"text": "約30万台と言われる売上を記録したことでタイトー自体の生産が追いつかなかったため、国内では以下の5社が許諾を得て生産していた。なお、当時の業界では違法コピーに対し、契約金などの条件を付け、後付けで許諾をするというケースもあった。",
"title": "オリジナル品・ライセンス品および各バージョン詳細"
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"text": "画面の中央やや上方に、縦5段 横11列の、計55のインベーダーが現れる。 インベーダーは、軍団状で、隊列状態でまとまって横移動をしながら、端にたどり着く度に一段下がり、下がり終えると進行方向を逆方向変えて再び移動しはじめる。これを繰り返すことによって、段々と下に降りてくる。インベーダーが画面最下部のプレイヤーの位置まで降りてきたら、自陣が占領されたことになり、残機があってもゲームオーバーとなるために、それまでにインベーダーを全滅させなければならない。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
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"text": "自陣に関しては、ビーム砲(自機)が一門、画面の下段に表示される。ビーム砲は左右にしか動けず、弾を撃つ場合でも1発限定で、しかも自分が撃った飛翔中の弾がどこかに着弾するまでは、次の弾が撃てない。ビーム砲の上にはいくつかトーチカ(防御壁のようなもの)があり、ビーム砲を敵の攻撃から護る役割を最初は果たしているが、トーチカはインベーダーからの攻撃を受けた場合も、またビーム砲がトーチカ下方からビームを撃った場合も、少しづつ破損してゆき、さらには降りてきたインベーダーが触れることでも削られてしまう。プレーヤは、トーチカの下に、まるで傘に入るようにしてインベーダーからの攻撃を避けたり、そこから出てインベーダーを攻撃したりすることになる。なお、画面がスクロールすることはなく、インベーダーやビーム砲が画面からはみ出すことなどもない。",
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"text": "人気となった理由は、(前述したように)当時の一般的な、ただの「的当て」でしかなかった「のんびり」としたシューティングゲームとは違い、攻撃してくる敵と対戦するゲームであり、いわゆる「スリリング」なゲームであったことや、前述のように、年配者でなく若者が楽しめるよう適度に難しく設定されていたことや、上手な人ほど長く遊べるというゲームシステムが採用されていたこと(初挑戦者や数回目のプレーヤーは2分以下でゲームが終了してしまうのに比べて、攻略法を身に付けた上級者では100円で1時間以上遊べた)。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "ここに詳述する攻略法のほとんどは、本作のプログラム開発者が見落としていた動作、一種のバグによるものと言われている。特に「名古屋撃ち」は高得点獲得のためにはほとんど不可欠の作戦となり、その呼称は現在でも伝承されている。開発者の西角は「名古屋撃ち」という攻略法があることを知った当時「ショックだった」と語っている。しかしそうしたバグのおかげで攻略法が生まれ、プレーヤーたちが一層熱中する要因となり、本作の大ヒットに繋がった。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "語源を「名古屋(のプレーヤーの間)でこの攻略法が生まれたから」とする文献は非常に多い。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "インベーダーのミサイル攻撃は、インベーダーがまるで糞尿を垂れ流しているかのように見えてしまうことを防ぐため、キャラクターの直下からではなく、1キャラクター離れたところから発射されており、当たり判定はそのさらに一段下から行われる。このため、インベーダーが最下段まで降りてきてビーム砲と隣接した状態では、ミサイルが当たり判定を擦り抜けてしまうことを利用して攻撃する方法である。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "とはいえ、ただ敵が最下段まで降りてくるのを待っていたのでは、それまでに攻撃を受けてしまうので、攻撃を避けるための安全な範囲を作りだすために、端の列の最上段の敵を残し、その隣の2〜3列程度の敵をすっかり撃墜して敵不在の列(隙間。間隙)を2〜3列程度つくり、その隙間に自ビーム砲を入れる(下図参照)。インベーダー軍団は左右に動くので、それにあわせて隙間にいつづけるように自ビーム砲も左右に動かす。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "下はインベーダーを最下段へ下ろすため敵軍団に隙間を作りそこに自ビーム砲を入れて待つ状態の図",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "このようにすれば敵の攻撃を受けることなく最下段に降りてくるのを待つことができ、そのようにして最下段に降りさせれば自ビーム砲は当たり判定から除外された安全なエリアに入り、一番下の段のインベーダーの下をまるで自由にくぐり抜けるように左右に移動でき、おまけに距離が近いのでこちらのビーム砲の発射から着弾までほとんど時間がかからないので(単発でしか打てないビーム砲にもかかわらず)まるで連射砲のようなリズムで連続的に最下段のインベーダーを撃ち殺すことができる。この戦法を名古屋撃ち(なごやうち)という。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "下は、敵軍団が最下段に降りてからその下をくぐって自ビーム砲連射を開始する段階の図",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "右側にインベーダーを何列残すかについては、ある程度選択の余地があった。なお名古屋撃ちは、あくまで最下段までインベーダーをひきつけてから行う必要があり、間にまだ1〜2段の隙間が開いている段階でインベーダーの下を左右に移動しつつビームを発射しようとしても、自ビーム砲はまだ当たり判定が有効なエリアにおり、おまけに近いので避ける間も無くインベーダーのミサイル攻撃を受けてしまいがちである。名古屋撃ちは安定したUFO破壊ができ、より高得点が期待できるという特徴もあった。ただし敵軍団が最下段に降りてからこちらがミスをすると即占領、即ゲームオーバーとなってしまうため、名古屋撃ちには的確な射撃および的確な移動が不可欠である。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "なお、バリエーションとして「中央突破」という、以下の図のような形を作る戦法もあった。名古屋撃ちのテクニックには俊敏性が要求されたため、逆パターン(4・5・6面)に於いては下図の作戦を用いる上級プレーヤーも少なくなかった。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお一部の亜流作品ではこの攻略が不可能なものもあった。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "一見ランダムのように見えるが、実は疑似乱数の中でもかなり単純な方式を用いている。乱数のシードは各面開始時にリセットしており、ビーム砲から弾を発射する毎に乱数列を一つずつ進めている。このため戦略的に高得点を狙うことが可能になっており、カラ撃ちや名古屋撃ちなどで特定回数の射撃をして発射数を調整してからUFOを撃破することによって、最高得点を得ることが可能となったからである。最高得点である300点を出すためには、最初は8発目、それ以降は15発目の弾を命中させればよい。それ以外の場合は150、100、50点のいずれかとなる。これらも何発目に何点と決まっている。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "UFOは各面開始から25秒ごとに出現するが、インベーダーの数が残り7体以下になると出現しなくなる。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "インベーダーは周期的なテンポで移動するが、全数が同時に移動しているのではなく、1匹1匹が順に移動しているので移動にわずかなズレが生じ、インベーダーの縦列すれすれにビームを打つとタイミング次第で、下段のインベーダーを残し、上段にいるインベーダーを倒すことができる。インベーダーが減ると移動スピードが速くなり、かなりずれが出るので、狙いやすくなる(縦一列にインベーダーが残った状態が一番狙いやすい)。それを繰り返し10点インベーダーを最後に残すと、キャラクターが右に移動する際に(もともと、10点インベーダーが最高速で移動することを想定した描き変えをしていなかったため)画面上にキャラの一部が残るといったバグがおきる。その様子から“レインボー”と呼ばれた。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "発生させるには正確な操作と、ビームを発射するタイミングを見極める必要があるので、これができれば中級者以上と言える。レインボー状態になってから、インベーダーが右端に2回移動してしまうと、突然インベーダーが、一番下まで降りてしまい、占領されてゲームオーバーになってしまう。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "もともとバグ技であるため得点には影響しないが、後述する続編『スペースインベーダーパートII』ではレインボーに成功すると「レインボーボーナス」として500点が入った。また左側の列を残し、最初の10点インベーダーを残してレインボーすると1000点入るという法則がある(しかし2匹目の10点インベーダーでレインボーすると500点となってしまう)。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "以下、画面内の位置の順、上から下の順に解説する。",
"title": "ゲーム画面とゲーム内容"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "開発者は太東貿易(現・タイトー)の子会社、パシフィック工業の社員だった西角友宏。西角は同社の『スピードレース』(1974年)や『ウエスタンガン』(1975年)の制作を手掛けており、『ウエスタンガン』のライセンス許諾版であるセガの『ガンファイト』に、CPU付きの基板が使用されていたことに着目し、将来的にゲームはプログラムによって制作される様になると予測。独学で本作のプログラムを手掛けることとなった。結果として本作は「日本において初めてCPUを使用したゲーム」となった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「敵の集団」という発想は『ブロックくずし』を元にした、と西角本人が説明している。開発当時、アタリ社の『ブレイクアウト』を日本に持ってきた『ブロックくずし』が、ゲームセンターや喫茶店などで人気を博していた。そこでタイトーではブロックくずしに続くゲームの開発を指示し、その内の一機種が『ズンズンブロック』と、この『スペースインベーダー』であった。西角は、自身がシューティングゲーム好きであったことが発案の背景で、さらに「『ブレイクアウト』を超えるゲームを作れるか」と上司に尋ねられて奮起した、と回想している。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "西角はブロックくずしを分析した結果、その目的は「ブロック全てを消した時の満足感」にあると考え、この満足感を大切にして開発することにした。ただし、同じ内容では超えられないため、互いに攻撃しあい、相手からも撃ってくることを思いついた。ブロックを消すだけで満足感があるのだから、攻撃してくる相手を消せたらさらに大きな満足感を得るはず、と考えた。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "開発初期段階では「戦車」や「飛行機」等をキャラクターに設定予定だったが、当時の技術ではそのスムーズな動きが難しいという理由で断念。次に考えたのは「人間」だったが、社内から「ゲームとはいえ人を撃つことは良くない」という声で再び断念。そこで、当時1作目が公開され大人気となった映画『スター・ウォーズ』をヒントにした「宇宙人」にすることを提案し、インベーダーのキャラクターになった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "インベーダーのキャラクターデザインは、H・G・ウェルズの小説『宇宙戦争』の挿絵をヒントに西角がイメージ画を描き起こし、これを元に西角自身がドット絵を作成した。イメージ画のモチーフは、タコ(10点)、カニ(20点)、イカ(30点)となっている。後にそれぞれ正式名称としてそのままOCTOPUS、CRAB、SQUIDと名付けられている(なお、なかでもCRABは『スペースインベーダー』のみならず、タイトーを代表するマスコットキャラクターに位置付けられ、またさまざまな媒体でも引用され、ひとつの独立した知られたキャラクターともなっている)。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "西角はデザインのためにブラウン管をペン状のデバイス(ライトペン)で直接描画し、それをデータとして利用できるシステムを発明した。これが世界で最初の実用コンピューター用ペンデバイスであったとされることがある(なお、ライトペンはWhirlwindで開発されSAGEで使われたのが最初と今日では一般にされている)。西角曰く「自分の作業をしやすくするための道具として作っただけ」という理由で、特許などは取得しなかった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "西角はアタリ製『ポン』の見本機に触れて、コンピューターゲームの仕組みを学んだ。後に『スペースインベーダー』となる構想中のゲームの制御には、通常の集積回路(IC)では限界があると考えた西角はマイクロプロセッサを利用しようとしたが、当時は軍用が主で、民生用は日本国内にほとんどなかった。このためインテルの講習会に出席したり、英書を読んだり、ミッドウェイ製ゲーム機に搭載されていたCPUを解析したりしてプログラムを調べた。パーソナルコンピュータがない時代であったため、入力装置を自作した。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "西角はサウンド作業については苦手だったため、サウンドのみは『ブルーシャーク』を担当していた、亀井道行(かめい みちゆき)が担当した。インベーダーが動く音はなかなか適した音が決まらず、最後は心臓の鼓動音と、当時話題となった動物パニック映画『ジョーズ』のテーマソングの「ジャンジャンジャンジャン...」という響きを参考にした(宝島社『「ゲーセン」最強読本』西角のインタビューより)。本来は二拍子だったものが、現在知られるような四拍子にされたとされる。移動音については変更後も社内評価は変わらず酷評されていたが、結果的には四拍子だからこそのヒットとさえ評価されている。なおコピーゲームには、二拍子の物もある。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "販売可能な品質に仕上がったのは、実際の販売日よりずっと早かったと言われる。しかし初期バージョンの社内評価は芳しくなく、途中で面クリアできなくなるといったバグも残っていたため、(販売予定日前の)2ヶ月ほどかけて修正を行い、その際のバランス調整によって、ゲーム性が大きく向上した。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "開発段階ではもともと、当時大人気のピンク・レディーがリリースしたシングル「モンスター」(1978年)の影響を受け、『ギャラクシーモンスター』または『スペースモンスター』というタイトルで呼ばれていたが、手直しの際に海外発売を視野に入れることを理由とした上層部命令により、発売二ヶ月前に田島一成により、他にも多数存在したタイトル候補から、『スペースインベーダー』に変更された。西角はこのタイトル変更によって、「ゲームへの愛着がなくなった」、とコメントした。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "敵が攻撃してくるという内容は、営業部門を中心とする熟年社員には難しく「敵が攻撃しないように改造しろ」という命令も出た。一方で開発部門を中心とする若い社員には好評であり、西角は改造を拒否した(『新・電子立国』4、『未来創造堂』で西角が証言)。コンピューター側が敵として攻撃してくるゲームは当時まだ珍しく、業者向けの内覧会でも、操作に慣れないうちに全滅してしまうと芳しくない評価であった。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "当時の社内評価では、同時に発売される『ブルーシャーク』の方が、従来と同じシステムのゲームとして人気が高く、『スペースインベーダー』は「難しくて一般受けしない」という評価であった。社内的には『ブルーシャーク』を積極的に営業展開し、『スペースインベーダー』の方は当初はタイトー直営のゲームセンターにしか置かれず、「置いておけば、投資した分が回収できるか」といった程度にしか期待されていなかった。ところがいざ蓋を開けてみると、本作のゲームバランスが高校生・大学生や若いサラリーマンを中心に大いに受けた。各地から本作の発注が殺到、タイトーは急遽、営業方針を切り替えた。",
"title": "開発"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "以下、当時のタイトー社員の体験談なども含む。",
"title": "ヒットと社会現象"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "タイトーからアーケードゲームとして発売された、正式な『スペースインベーダー』のシリーズは以下の作品である。タイトル横の記述はリリース年。その横に☆印が付いている作品は、後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に移植版が収録されている(別版にのみ収録されている作品については付記形式で言及)。",
"title": "シリーズ一覧"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "下に記載したソフトのうち、Wiiショッピングチャンネルで販売されていた配信ソフト全般(Wii版バーチャルコンソール・Wiiウェア)については、2019年1月31日をもってサービス(配信・販売)が終了している。後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に何らかの形で収録されている作品については、付記形式で言及。",
"title": "移植作品"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アーケード版はゲーメストムック『ザ・ベストゲーム』(1991年)において、『ゲーメスト』読者による全アーケードゲームを対象とした人気投票で第40位を獲得した。巻末の「ビデオゲームフルリスト」の紹介文では、「いまだにこの作品を、知名度、売り上げともに抜くものがいないと言われるくらい有名。55匹の敵を左右移動の砲台で撃つというシューティングを確立した」と評されている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』(1998年)では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、ライターのがっちんは本作を「タイトーから発売された、ゲーム界に残る歴史的な名作」と位置付け、後のゲームはほぼ全て本作を基本として発展したと主張し、55匹の侵略者を左右移動可能な自機で撃ち落とすというシステムが単純であると指摘しながらも、本作がシューティングゲームを確立したと評価した。また、当時では斬新であった本作のゲームシステムが(当時として)「画期的であり」(プレイヤーたちに)「驚きと興奮を与えた」と指摘したほか、すべての筐体が本作で埋め尽くされた「インベーダーハウス」が存在したことを指摘、「もはや伝説となったインベーダーに匹敵する作品の出現は2度とないだろうとまで言われている」と総括した。ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編』では、本作の元となったアタリの『ブレイクアウト』(1976年)が動作しないブロックを破壊するのに対し、本作では敵が左右に移動しながら攻撃してくる事が大ヒットの要因であると結論づけている。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "移植版の評価は、ゲーム誌『ファミコン通信』の「クロスレビュー」において、メガドライブ版は合計23点(満40点)、スーパーファミコン版は6・4・6・5の合計21点(満40点)、PCエンジンSUPER CD-ROM2版は6・5・4・5の合計20点(満40点)とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は合計19点(満40点)、バーチャルボーイ版が4・4・4・3の合計15点(満40点)、セガサターン版は合計16点(満40点)、PlayStation版は合計17点(満40点)といずれも低評価となった。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "徳間書店のゲーム誌における読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は右記の通り、スーパーファミコン版が『ファミリーコンピュータMagazine』において合計18.7点(満30点)、PCエンジンSUPER CD-ROM2版が『PC Engine FAN』において合計19.4点(満30点)、PlayStation版が『PlayStation Magazine』において合計18.2点(満30点)とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において合計14.8点(満30点)、メガドライブ版が『メガドライブFAN』において合計15.6点(満30点)、バーチャルボーイ版が『ファミリーコンピュータMagazine』において合計17.5点(満30点)となっている、セガサターン版が『SATURN FAN』において合計15.6点(満30点)といずれも低評価となった。",
"title": "評価"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "本項ではタイトースペースインベーダーを含む、それと類似したゲームの総称として当時頻繁に使われた『インベーダーゲーム』一般について取り扱う。",
"title": "亜流「インベーダーゲーム」及びその関連"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "亜流を製造したメーカーは50〜80社と言われ、当時日本で亜流を出さなかったのは、『ギャラクシアン』を開発中のナムコだけだった。マコト電子工業の『スーパー・インベーダー』、ウコー・コーポレーションの『ファイティングミサイル』(スペースミサイル)、ワールドベンディングの『インベーダーウォーズ』、日本物産の『ムーンベース』、アイ・エヌ・ジ・エンタープライゼスのコピーゲームに対する損害賠償請求訴訟は、ゲーム業界初期の知的財産トラブル事例とされる。プログラムを勝手にコピーすることは犯罪であるという判例がきっかけとなり、著作権法の一部が改正された。",
"title": "亜流「インベーダーゲーム」及びその関連"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "内容はタイトーとほぼ同じではあるが、ハードウェアやソフトウェアの全てをそのままコピーしたデッドコピーと表現するしかないような物から、ゲーム内容が似せてあるだけで中身は独自に開発した物まであった。キャラデザインやUFOの動きなどをアレンジしたもの、文字表示をカタカナにしたもの、2in1筐体で遊べる等の差別化を行った製品が出るようになり、逆に独自技術で亜流を作ったメーカーの中には、ハード的制約で完全再現できないものまで存在していた。こうしたゲーム会社の殆どは、『ブロックくずし』を作る為に創業し、『インベーダー』の亜流で会社を大きくし、ブーム後は『インベーダー』のノウハウを活かして独自のゲームを作り始めた。そう考えると、日本ゲーム業界での『ブロックくずし』は生みの親、『インベーダー』は育ての親と言える。",
"title": "亜流「インベーダーゲーム」及びその関連"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "しかし亜流のメーカーがリメイクを制作することはまずなく、現在では亜流を遊ぶことは一部のエミュレーター筐体での稼働を除けば、ほとんど不可能といってもいい。",
"title": "亜流「インベーダーゲーム」及びその関連"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "全種は紹介しきれないので、ここでは後にメジャーとなったメーカー、またはフィーチャーが独特で多くのプレイヤーの記憶に残ったものを抜粋して紹介する。",
"title": "亜流「インベーダーゲーム」及びその関連"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ブーム後にナムコから『ギャラクシアン』が出たが、『ギャラクシアン』の基板は一つのキャラに複数の色が付けられる画期的なもので、中小メーカーはこぞって『ギャラクシアン』基板の流用ゲームを出した。タイトーも『ギャラクシアン』に匹敵する基板を既に開発していたが、『インベーダー』基板が大量に残り、廃棄するのも無理があったので、西角らはまず『インベーダー』基板のROMだけ差し替え、別のゲームを作ることとなった。このため1979 - 1981年にタイトーから出たゲームの色や音は、工場で新造されたものは独自の仕様だったが、インベーダー基板を流用したものは、色と音(当時はまだシンセサイザーがなく、抵抗器を一つ一つ付け、『インベーダー』の場合8種類の音が用意されていた)の両方または片方が、『インベーダー』と同じままだった。基板流用ゲームは、主に以下のタイトルなどが挙げられる(メーカーにリンクがあるものは後述)。",
"title": "亜流「インベーダーゲーム」及びその関連"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "タイトー以外ではセガ・エンタープライゼス(現・株式会社セガ)の『ヘッドオン』基板もROM交換で対応しており、1981年頃までは大手のセガやタイトーより中小メーカーの方が、華やかな色のゲームを作れるという、一見矛盾した展開が見られた。",
"title": "亜流「インベーダーゲーム」及びその関連"
}
] | 『スペースインベーダー』は、株式会社タイトーが1978年6月に発表し、同年8月から稼働を開始したアーケード用固定画面シューティングゲーム。本頁ではその続編であるスペースインベーダーパートIIについても取り扱う。 本作は日本のアーケード史上最大のヒット作であり、タイトーによる純正品が約10万台、許諾先メーカーからのものが約10万台、許諾なしのコピー品が約30万台出荷されたと推定されており、ブームとなった1年半足らずの間に計50万台が日本中に出回った。 後に多くの家庭用ゲーム機や携帯電話ゲームなどにも移植された。 「スペースインベーダー」はタイトーの登録商標である。一方、タイトーの純正のスペースインベーダーを初めとする同社の後継製品、および他社製のコピー品、模倣品、類似商品などを広くひとまとめに総称する場合は(正規ライセンス品でないものをタイトーの登録商標で呼んではいけないので)「インベーダーゲーム」と呼ばれ、2つの名称は使い分けられている。 2018年、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した6月16日を「スペースインベーダーの日」に制定、日本記念日協会に正式に認定された。 | {{Otheruses||関係ない映画|スペースインベーダー (映画)}}
{{コンピュータゲーム
| Title = スペースインベーダー
| image =
| Genre = [[シューティングゲーム|固定画面シューティング]]
| Plat = [[アーケードゲーム|アーケード]]<br />{{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[Atari 2600]]<br />[[SG-1000]]<br />[[MSX]]<br />[[ファミリーコンピュータ]]<br />[[PCエンジン]]<br />[[ゲームボーイ]]<br />[[メガドライブ]]<br />[[PC-9800シリーズ|PC-9801]]<br />[[スーパーファミコン]]<br />PCエンジン[[スーパーCD-ROM²]]<br />[[バーチャルボーイ]]<br />[[セガサターン]]<br />[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]<br />[[ワンダースワン]]<br />[[iモード]]<br />[[EZアプリ]]<br />[[Nintendo Switch]] (NS)}}
| Dev = [[タイトー]]
| Pub = タイトー<ref group="注釈">国内[[ライセンス]]生産あり。</ref>
| distributor =
| producer =
| director =
| designer = [[西角友宏]]
| writer =
| programmer = [[西角友宏]]
| composer = 亀井道行
| artist =
| license =
| series = スペースインベーダーシリーズ
| Ver =
| Play = 1 - 2人(交互プレイ)
| Media = [[アーケードゲーム基板|業務用基板]](8[[キロバイト]])
| Date = {{vgrelease new|JP|Aug 1978|NA|1978-12-31}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''A26'''<br />{{vgrelease new|NA|1980年}}'''SG'''<br />{{vgrelease new|JP|1985年}}'''MSX'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-4-1}}'''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-4-17}}'''PCE'''<br />{{vgrelease new|JP|1990-3-2}}'''GB'''<br />{{vgrelease new|JP|1990-3-30}}'''MD'''<br />{{vgrelease new|JP|1990-9-7|NA|1991年}}'''PC98'''<br />{{vgrelease new|JP|1992年}}'''SFC'''<br />{{vgrelease new|JP|1994-3-25|NA|November 1997}}'''PCECD'''<br />{{vgrelease new|JP|1995-7-28}}'''VB'''<br />{{vgrelease new|JP|1995-12-1}}'''SS'''<br />{{vgrelease new|JP|1996-12-13}}'''PS'''<br />{{vgrelease new|JP|1997-7-31}}'''WS'''<br />{{vgrelease new|JP|1999-5-13}}'''iモード'''<br />{{vgrelease new|JP|2001-01-18}}'''EZアプリ'''<br />{{vgrelease new|JP|2003-05-08}}'''アーケード(NESiCAxLive)'''<br />{{vgrelease new|JP|2011-03-10}}'''NS'''<br />{{vgrelease new|JP|2020-3-26}}}}
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|author=こうべみせ |date=2019-04-30 |url=https://igcc.jp/%e8%a5%bf%e8%a7%92%e5%8f%8b%e5%ae%8f2/2/ |title=近代ビデオゲームの原点『スペースインベーダー』を生んだゲーム業界の父!西角友宏氏インタビュー 中編 |website=ゲーム文化保存研究所 |publisher=IGCG |page=2 |accessdate=2021-08-07}}</ref>。
| Sale = 約20 - 30万台
| ArcOnly = 1
| etc =
}}
[[File:Space Invaders - Midway's.JPG|thumb|250px|スペースインベーダー。アップライトタイプ。<ref>タイプとしては「M(ミッドウェイ)」。[[日本]]国内での供給が追いつかなくなったため、[[ミッドウェイゲームズ|ミッドウェイ]]社が製作していた海外版を[[逆輸入]]した、正規のライセンス品。</ref><ref>[https://igcc.jp/invader-house2018/ 昭和の風景インベーダーハウスが平成最後の年に復活! -IGCC ゲーム文化保存研究所(2018年9月7日)]</ref>]]
[[Image:Space Invaders.JPG|thumb|right|250px|テーブル筐体のインベーダーゲーム。亜流品。<ref group="注釈">[[京都市]]内の[[銭湯]]にて撮影。筐体も中身もタイトー製でなくコピー品。メンテナンスは良い状態とは言えないが、お金を入れて遊ぶことができる(撮影時)。赤いボタンを押すとビームが発射され、左のレバーで自機を左右に動かす。亜流品の中でも画面が特にオリジナル品に似ているもの。</ref>]]
『'''スペースインベーダー'''』(Space Invaders)は、株式会社[[タイトー]]が[[1978年]]6月に発表し<ref name="gamemachine19780701">{{Cite web|和書|author= |date=1978-07-01 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19780701p.pdf |title=ゲームマシン 昭和53年7月1日 第99号 p.1 |publisher=[[アミューズメント通信社]] |accessdate=2021-10-28}}</ref>、同年8月から<ref name="gamemachine19780815">{{Cite web|和書|author= |date=1978-08-15 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19780815p.pdf |title=ゲームマシン 昭和53年8月15日 第102号 p.17 |publisher=[[アミューズメント通信社]] |accessdate=2021-10-28}}</ref>稼働を開始した[[アーケードゲーム|アーケード]]用[[シューティングゲーム|固定画面シューティングゲーム]]。本頁ではその続編である'''スペースインベーダーパートII'''についても取り扱う。
本作は日本のアーケード史上最大のヒット作であり{{Sfn|ARCADE GAMERS 白書 Vol.1|2010|p=10}}、タイトーによる純正品が約10万台、許諾先メーカーからのものが約10万台、許諾なしのコピー品が約30万台出荷されたと推定されており、ブームとなった1年半足らずの間に計50万台が日本中に出回った{{Sfn|ARCADE GAMERS 白書 Vol.1|2010|p=10}}。
後に多くの[[コンシューマーゲーム|家庭用ゲーム機]]や[[携帯電話ゲーム]]などにも移植された。
「スペースインベーダー」はタイトーの[[登録商標]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/570/G057050/20210617027/ |title=「スペースインベーダー フォーエバー」が本日配信。エクストリーム,ギガマックス 4 SE,アルカノイドvsインベーダーの3作を収録 |publisher=4gamer.net |date=2021-06-17 |accessdate=2021-07-10}}</ref>。一方、タイトーの純正のスペースインベーダーを初めとする同社の後継製品、および他社製のコピー品、模倣品、類似商品などを広くひとまとめに総称する場合は(正規ライセンス品でないものをタイトーの登録商標で呼んではいけないので)「[[インベーダーゲーム]]」と呼ばれ、2つの名称は使い分けられている。
[[2018年]]、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した[[6月16日]]を「'''スペースインベーダーの日'''」に制定、[[記念日#一般社団法人日本記念日協会|日本記念日協会]]に正式に認定された<ref>{{Cite web|和書|author=長岡頼(クラフル)|date=2018-06-15|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1127791.html|title=6月16日は「スペースインベーダー」の日!40回目の誕生日を祝う各種イベントを実施|website=[[Impress Watch|GAME Watch]]|publisher=[[インプレス]]|accessdate=2018-07-04}}</ref>。
== 概要 ==
スペースは[[宇宙]]、[[インベーダー]]は[[侵略]]者を意味する英語で、侵略してくる[[宇宙人]](インベーダー)を迎撃する[[シューティングゲーム]]である(ゲームコンセプトについては「[[#開発|開発]]」の節で解説)。画面上方から迫り来るインベーダー(敵キャラクター)を、左右に移動できるビーム砲で撃ち、インベーダーを全滅させることを目的とする。時々、上空に敵母艦の[[未確認飛行物体|UFO]]が出現し、これを撃ち落とすとボーナス点を獲得できる。
=== 画期性、新規性 ===
それまでのビデオゲームでは「シューティングゲーム」といっても、ただのターゲットを狙って弾を撃つだけのいわゆる「的当て(まとあて)」ゲームであり<ref name="igcc_2_1">{{Cite web|和書
|author=こうべみせ |date=2019-04-30 |url=https://igcc.jp/%e8%a5%bf%e8%a7%92%e5%8f%8b%e5%ae%8f2/ |title=近代ビデオゲームの原点『スペースインベーダー』を生んだゲーム業界の父!西角友宏氏インタビュー 中編 |website=ゲーム文化保存研究所 |publisher=IGCG |page=1 |accessdate=2021-08-07}}</ref>、「のんびり」していて向こうからは攻撃してこないし、自分が何もしなくてもせいぜい点数が入らないというだけで、3分間は遊ばせてくれる、というものだった<ref name="igcc_2_1" />。それに対して本作は敵と対戦するような形のゲームであり、そこが画期的だった<ref name="igcc_2_1" />。また、それまでのシューティングゲームは前述の通りあらかじめ決められた分数遊ばせてもらえる、というシステム(「時間内に何点獲得できるか」というルール)だったが、本作では上手な人が長く遊べる、というルールを採用した<ref name="igcc_2_1" />。また難易度の設定に関しても、それまでのアーケードゲームというのはゲーム会社上層部の年配の人々の判断によって年配の人でも遊べるような、かなり容易な難易度設定がされるものだったが、本作は若者層が楽しめるような比較的難しい難度設定が、開発者の[[西角友宏]]の判断によって採用された<ref name="igcc_2_1" />。
=== 大ヒットと社会現象化 ===
本作は登場した当時大ヒットし、数々の社会現象を生み、テレビゲームを象徴する存在ともなった。[[昭和]]時代や[[戦後]]の通俗文化史を解説する書籍などで、特筆すべきこととして語られることが多い。たとえばインベーダーゲームばかりを設置した「インベーダーハウス」と呼ばれるゲームセンターが全国各地で次々と開店し、若者らが本作をプレイしようと順番待ちの行列を作ったことや、[[喫茶店]]やスナックのオーナーらがこぞって店内のテーブルの多くを本作のテーブル型筐体に置き換え、客たちも本作をプレイすることに熱中したことなどである。他にもこの種のエピソードには事欠かない(本作が業界及び社会に与えた影響の詳細については、[[#ヒットと社会現象]]の節で解説)。
=== 後続のシューティングゲーム群の始祖 ===
敵弾を回避しつつ敵を撃つ、というゲームシステムには他社も着目し、[[バンダイナムコエンターテインメント|ナムコ]]の『[[ギャラクシアン]]』などに受け継がれ、後に日本で数多く登場したシューティングゲームの始祖のひとつとされる。
当時はまだゲーム業界でも[[著作権]]という概念が今ほどには根付いておらず、第一印象が「よく似た」ゲームが複数のゲーム会社から同時多発的に登場することがしばしば起きた。とりわけ本作はあまりにも記録的な大ヒットをしたため、中身はほぼ同じでせいぜいタイトルを少し変えた程度の[[コピーゲーム]]が氾濫した(詳細は[[スペースインベーダー#亜流「インベーダーゲーム」及びその関連|#亜流「インベーダーゲーム」及びその関連]]の節を参照)。なお、本作のコピーゲームを制作した会社の中には、後に家庭用ゲーム機向け[[コンシューマーゲーム]]のソフトハウスとなり、世界的に有名になった会社も少なくない。
[[2018年]]、発売から40周年を迎えた年に、タイトーは本作を発表会で初御披露目した[[6月16日]]を「'''スペースインベーダーの日'''」に制定、[[記念日#一般社団法人日本記念日協会|日本記念日協会]]に正式に認定された<ref>{{Cite web|和書
|author=長岡頼(クラフル) |date=2018-06-15 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1127791.html |title=6月16日は「スペースインベーダー」の日!40回目の誕生日を祝う各種イベントを実施 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018-07-04}}</ref>。
== オリジナル品・ライセンス品および各バージョン詳細 ==
=== オリジナル ===
* '''スペースインベーダー''' (アップライトタイプ)
**[[1978年]]8月中旬発売<ref name="gamemachine19780815">{{Cite web|和書|author= |date=1978-08-15 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19780815p.pdf |title=ゲームマシン 昭和53年8月15日 第102号 p.17 |publisher=[[アミューズメント通信社]] |accessdate=2021-10-28}}</ref>。定価59万円。
**実際のゲーム画面と月面のイラストをハーフミラー([[マジックミラー]])で合成させたもの。L型に配置された2枚基板構成。
**コントロールパネルが左右移動+発射の3ボタン仕様。後述のT.T.スペースインベーダー発売後、2方向[[ジョイスティック]]+発射ボタン仕様に改められた。このため、両者でイラストの寸法に若干違いがある。
**アップライトタイプはほとんどが白黒だったが、直接カラー画面をはめ込んだ筐体も少数作られ、コントロールパネルが朱色になっている特徴がある。現在もタイトーで保管されているこの個体は、1P2P選択ボタンが、本来白なのを赤で修理した点が特徴。
** コピーゲーム対策として、1P・2P・発射・左移動・右移動の5つのボタンを全て押すと、メッセージが表示される。その方法は開発者自身も忘れていたものの、2018年にフランスの[[ハッカー]]により再発見された。
* '''T.T.スペースインベーダー'''(テーブルタイプ・モノクロ版)
** [[1978年]]9月中旬発売<ref name="gamemachine19780915">{{Cite web|和書|author= |date=1978-09-15 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19780915p.pdf |title=ゲームマシン 昭和53年9月15日 第104号 p.10 |publisher=[[アミューズメント通信社]] |accessdate=2021-10-28}}</ref>。定価46万円。
**アップライトタイプのものをテーブル筐体に収め、2方向[[ジョイスティック]]+発射ボタン仕様に改めたもの。3枚の基板を折りたたんだ構成。
**スコア表示が4桁表示の初期版と、スコアが9990点を超えて再び1500点に到達すると再度砲台が増えてしまうことに対策をほどこし5桁表示となった後期版が存在する。
**後述のカラー版発売後も併売された。
*'''T.T.スペースインベーダー・カラー''' (テーブルタイプ・カラー版)
**1978年12月発売<ref name="gamemachine19781201">{{Cite web|和書|author= |date=1978-12-01 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19781201p.pdf |title=ゲームマシン 昭和53年12月1日 第104号 p.11 |publisher=[[アミューズメント通信社]] |accessdate=2021-10-28}}</ref>。定価58万円。
**上記T.T.スペースインベーダーをカラーTVモニター仕様に改めたもの。画面もカラー表示となった。3枚の基板を折りたたんだ構成。
*'''スペースインベーダーM''' (アップライトタイプ)
**1978年12月発売<ref name="gamemachine19781201">{{Cite web|和書|author= |date=1978-12-01 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19781201p.pdf |title=ゲームマシン 昭和53年12月1日 第104号 p.11 |publisher=[[アミューズメント通信社]] |accessdate=2021-10-28}}</ref>。定価64万円。
**米国[[ミッドウェイゲームズ|ミッドウェイ]]社製造のスペースインベーダー筐体の逆輸入版。キャビネットのデザインが国内版と異なる。日本国内の需要急増に合わせて輸入販売された。L型に配置された2枚基板構成。
**白っぽい色のアップライト筐体が特徴。アメリカでも5万台をこえるヒット作となった。
**なおコンピュータゲーム黎明期に活躍した技術者のデイブ・ナッチングによると、ミッドウェイ社の[[Intel 8080]]搭載基板をタイトーがコピーしたため、和解条件としてミッドウェイが『スペースインベーダー』等のゲームのライセンスを受けたのだという<ref>{{Cite web|url=http://www.ballyalley.com/ballyalley/articles/astrocade_arcade_games.txt|title=Arcade Games Based Around Astrocade Chipset Version 1.01|author=Adam Trionfo|publisher=ballyalley|date=2006-03-21|accessdate=2014-05-27}}</ref>。
=== 正規ライセンス版 ===
約30万台と言われる売上を記録したことでタイトー自体の生産が追いつかなかったため、国内では以下の5社が許諾を得て生産していた。なお、当時の業界では違法コピーに対し、契約金などの条件を付け、後付けで許諾をするというケースもあった。
* '''スペースインベーダー'''([[SNK (1978年設立の企業)|新日本企画]])
** インストレーションカードの社名表示のみ異なり、筐体も2Pボタンが緑色と異なる以外は全て同じであることが特徴。
* '''スペースインベーダー'''([[サミー|サミー工業]])
** 当時はライセンス生産のみを行い、コピーゲームを含む自社開発をすることはなかった。
* '''スペースインベーダー'''(LOGITEC<!--、同名のコンピュータ周辺機器メーカー[[ロジテック]]とは無関係-->)
** タイトーと同じだが筐体のデザインが異なり、点数表示が6桁のものもある。
* '''スペクター'''(ジャトレ)
** 難易度の切り替えが可能で、Bはタイトーと同じ、Aは敵のミサイルが増える。また基板は3枚でなく2枚に収められている。
* '''IPMインベーダー'''([[アピエス|IPM]])
** カラー版。オリジナルとハードウェア構成が異なり、キャラそれぞれに固有の色がある、動きもなめらか等の特徴を持つ。
**続編としてUFOが敵を補充したり、面クリアするとコーヒーブレークタイムがある『カプセルインベーダー』を出している。
== ゲーム画面とゲーム内容 ==
画面の中央やや上方に、縦5段 横11列の、計55のインベーダーが現れる。
インベーダーは、[[軍団]]状で、隊列状態でまとまって横移動をしながら、端にたどり着く度に一段下がり、下がり終えると進行方向を逆方向変えて再び移動しはじめる。これを繰り返すことによって、段々と下に降りてくる。インベーダーが画面最下部のプレイヤーの位置まで降りてきたら、自陣が占領されたことになり、残機があってもゲームオーバーとなるために、それまでにインベーダーを全滅させなければならない{{Sfn|懐かしゲームボーイパーフェクトガイド|2017|p=56}}。
自陣に関しては、ビーム砲(自機)が一門、画面の下段に表示される。ビーム砲は左右にしか動けず、弾を撃つ場合でも1発限定で、しかも自分が撃った飛翔中の弾がどこかに着弾するまでは、次の弾が撃てない。ビーム砲の上にはいくつか[[トーチカ]](防御壁のようなもの)があり、ビーム砲を敵の攻撃から護る役割を最初は果たしているが、トーチカはインベーダーからの攻撃を受けた場合も、またビーム砲がトーチカ下方からビームを撃った場合も、少しづつ破損してゆき、さらには降りてきたインベーダーが触れることでも削られてしまう。プレーヤは、トーチカの下に、まるで傘に入るようにしてインベーダーからの攻撃を避けたり、そこから出てインベーダーを攻撃したりすることになる。なお、画面がスクロールすることはなく、インベーダーやビーム砲が画面からはみ出すことなどもない。
インベーダーを撃墜した際の得点は一番上の段が30点、その下の2段が20点、その下の2段が10点である。画面最上段にはUFOが通過するゾーンがある([[#UFOの得点|UFOの得点]]参照)。逆に敵インベーダーからの攻撃でビーム砲が被弾した場合、ミスとなりビーム砲を1門失う。
インベーダーは撃墜されたことで数が減るにつれ、徐々に移動速度が速くなっていく{{Sfn|懐かしゲームボーイパーフェクトガイド|2017|p=56}}。残り10体を切るとかなりの速度になり、しっかり狙って撃たないと弾が当たらず、発射直後に狙いがはずれたと気づいても、着弾するまでは次の弾が撃てず、あれよあれよという間に何段も下りてくる。ただし、インベーダーの移動速度は、右方向よりも左方向への移動の方がやや遅いため、これを利用して、左方向へ移動中に攻撃すると弾を命中させやすい。インベーダーが最下段まで降りてしまうと、占領されたということでビーム砲は破壊されてしまい、ゲーム終了となり「[[ゲーム・オーバー|GAME OVER]]」の文字が表示される。
インベーダーが最下段に降りる前に画面内のインベーダーを全滅させると、ゲームは続行され、<!--トーチカは新たに無傷なものが再設置され、-->1面より(前の面より)も一段下にインベーダーの軍団が配置され、インベーダーは前の面よりも近い位置から攻撃してくる。つまり、面が進むにつれ難度が上がるようになっているが、9面目をクリアした時は、一旦は2面目の位置に戻りそこから再び面ごとに下がり、以降8面ごとの繰り返しになる。<ref group="注釈">当初の設計ではこれがどんどん下がっていき、ついには絶対にクリアできない状況になるように設計されていたが、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の[[バグ]]により8面をクリアすると9面目に行かず、1面に戻ってしまっていた。これにより、そこまでをミスせずにクリアできる腕があれば、理論上永久にゲームを続けることができ、実際に長時間プレイをする人もいた。</ref>。
=== 人気の理由、攻略方法・裏ワザ・バグなど ===
人気となった理由は、(前述したように)当時の一般的な、ただの「的当て」でしかなかった「のんびり」としたシューティングゲームとは違い、攻撃してくる敵と対戦するゲームであり、いわゆる「スリリング」なゲームであったことや、前述のように、年配者でなく若者が楽しめるよう適度に難しく設定されていたことや、上手な人ほど長く遊べるというゲームシステムが採用されていたこと(初挑戦者や数回目のプレーヤーは2分以下でゲームが終了してしまうのに比べて、攻略法を身に付けた上級者では100円で1時間以上遊べた)。<!--投稿者の独自研究。 <ref group="注釈">加えて敵がビーム砲を認識して攻撃してくる[[アルゴリズム]]もヒットの要因のひとつだ{{要出典|date=2020年7月}}、とも。[[テレビゲーム]]黎明期であった、{{要出典範囲|本作の登場当時、敵キャラクターがビーム砲を攻撃してプレイを妨害する形態のゲームも存在したが|date=2020年7月}}、{{要出典範囲|その「ビーム砲に対する攻撃」はあくまで擬似的な「障害物要素」であって、アルゴリズム的にビーム砲に対し能動的に攻撃を行うプログラムを持つものではなかった|date=2020年7月}}。{{要出典範囲|『スペースインベーダー』は、インベーダーがある程度ビーム砲の位置を認識し攻撃を仕掛けてくるため、単にそれまでの障害物を乗り越えるだけの要素のゲームとは違い、「コンピュータと対戦している」という攻防の要素が加味された|date=2020年7月}}。それもヒットの要因と言われている。</ref>-->
ここに詳述する攻略法のほとんどは、本作のプログラム開発者が見落としていた動作、一種の[[バグ]]によるものと言われている。特に「名古屋撃ち」は高得点獲得のためにはほとんど不可欠の作戦となり、その呼称は現在でも伝承されている。開発者の西角は「名古屋撃ち」という攻略法があることを知った当時「ショックだった」と語っている<ref>2007年12月1日放送『[[日めくりタイムトラベル]]昭和53年編』のインタビューより。</ref>。しかしそうしたバグのおかげで攻略法が生まれ、プレーヤーたちが一層熱中する要因となり、本作の大ヒットに繋がった。
==== 名古屋撃ち ====
語源を「[[名古屋市|名古屋]](のプレーヤーの間)でこの攻略法が生まれたから」とする文献は非常に多い。
インベーダーのミサイル攻撃は、インベーダーがまるで糞尿を垂れ流しているかのように見えてしまうことを防ぐため、キャラクターの直下からではなく、1キャラクター離れたところから発射されており、[[当たり判定]]はそのさらに一段下から行われる。このため、インベーダーが最下段まで降りてきてビーム砲と隣接した状態では、ミサイルが当たり判定を擦り抜けてしまうことを利用して攻撃する方法である。
とはいえ、ただ敵が最下段まで降りてくるのを待っていたのでは、それまでに攻撃を受けてしまうので、攻撃を避けるための安全な範囲を作りだすために、端の列の最上段の敵を残し、その隣の2〜3列程度の敵をすっかり撃墜して敵不在の列(隙間。間隙)を2〜3列程度つくり、その隙間に自ビーム砲を入れる(下図参照)。インベーダー軍団は左右に動くので、それにあわせて隙間にいつづけるように自ビーム砲も左右に動かす。
下はインベーダーを最下段へ下ろすため敵軍団に隙間を作りそこに自ビーム砲を入れて待つ状態の図
O OOOOOO
OOOOOO
OOOOOO
OOOOOO
OOOOOO
凸
<!--重複。撃墜しつくした2〜3列の隙間の部分が常に存在するため、この範囲内でビーム砲を移動させれば-->このようにすれば敵の攻撃を受けることなく最下段に降りてくるのを待つことができ、そのようにして最下段に降りさせれば自ビーム砲は[[当たり判定]]から除外された安全なエリアに入り、一番下の段のインベーダーの下をまるで自由にくぐり抜けるように左右に移動でき、おまけに距離が近いのでこちらのビーム砲の発射から着弾までほとんど時間がかからないので(単発でしか打てないビーム砲にもかかわらず)まるで連射砲のようなリズムで連続的に最下段のインベーダーを撃ち殺すことができる。この戦法を'''名古屋撃ち'''(なごやうち)という。
下は、敵軍団が最下段に降りてからその下をくぐって自ビーム砲連射を開始する段階の図
O OOOOOO
OOOOOO
OOOOOO
OOOOOO
OOOOOO
凸
右側にインベーダーを何列残すかについては、ある程度選択の余地があった<ref group="注釈"> 当時のプレイヤーが採った作戦によれば、右側に残す列は3〜4列が一般的だったようであるが、上図のように列を多めに残せば進行時間を稼げるメリットもあったため、プレイヤーにより採りうる作戦にバラエティーを生じさせる一因となった。なお、3列の場合「[[キャンディーズ]]」、4列の場合「[[フォーリーブス]]」などと、残す列の量によって呼ばれ方が違うこともあった。</ref>。なお名古屋撃ちは、あくまで最下段までインベーダーをひきつけてから行う必要があり、間にまだ1〜2段の隙間が開いている段階でインベーダーの下を左右に移動しつつビームを発射しようとしても、自ビーム砲はまだ当たり判定が有効なエリアにおり、おまけに近いので避ける間も無くインベーダーのミサイル攻撃を受けてしまいがちである。名古屋撃ちは安定したUFO破壊ができ、より高得点が期待できるという特徴もあった。ただし敵軍団が最下段に降りてからこちらがミスをすると即占領、即ゲームオーバーとなってしまうため、名古屋撃ちには的確な射撃および的確な移動が不可欠である。
なお、バリエーションとして「中央突破」という、以下の図のような形を作る戦法もあった。名古屋撃ちのテクニックには俊敏性が要求されたため、逆パターン(4・5・6面)に於いては下図の作戦を用いる上級プレーヤーも少なくなかった。
OOOO OOOO
OOOO OOOO
OOOO OOOO
OOOO OOOO
OOOO OOOO
凸
なお一部の亜流作品ではこの攻略が不可能なものもあった。
==== UFOの得点 ====
一見ランダムのように見えるが、実は[[疑似乱数]]の中でもかなり単純な方式を用いている。乱数のシードは各面開始時にリセットしており、ビーム砲から弾を発射する毎に乱数列を一つずつ進めている。このため[[戦略]]的に高得点を狙うことが可能になっており、カラ撃ちや名古屋撃ちなどで特定回数の射撃をして発射数を調整してからUFOを撃破することによって、最高得点を得ることが可能となったからである。最高得点である300点を出すためには、最初は8発目、それ以降は15発目の弾を命中させればよい<ref group="注釈">一般的には23発目(=8+15)の次に15発目とされている</ref>。それ以外の場合は150、100、50点のいずれかとなる。これらも何発目に何点と決まっている。
UFOは各面開始から25秒ごとに出現するが、インベーダーの数が残り7体以下になると出現しなくなる。
==== レインボー ====
インベーダーは周期的なテンポで移動するが、全数が同時に移動しているのではなく、1匹1匹が順に移動しているので移動にわずかなズレが生じ、インベーダーの縦列すれすれにビームを打つとタイミング次第で、下段のインベーダーを残し、上段にいるインベーダーを倒すことができる。インベーダーが減ると移動スピードが速くなり、かなりずれが出るので、狙いやすくなる(縦一列にインベーダーが残った状態が一番狙いやすい)。それを繰り返し10点インベーダーを最後に残すと、キャラクターが右に移動する際に(もともと、10点インベーダーが最高速で移動することを想定した描き変えをしていなかったため)画面上にキャラの一部が残るといったバグがおきる。その様子から“レインボー”と呼ばれた。
発生させるには正確な操作と、ビームを発射するタイミングを見極める必要があるので、これができれば中級者以上と言える。レインボー状態になってから、インベーダーが右端に2回移動してしまうと、突然インベーダーが、一番下まで降りてしまい、占領されてゲームオーバーになってしまう。
もともとバグ技であるため得点には影響しないが、後述する続編『スペースインベーダーパートII』ではレインボーに成功すると「レインボーボーナス」として500点が入った。また左側の列を残し、最初の10点インベーダーを残してレインボーすると1000点入るという法則がある(しかし2匹目の10点インベーダーでレインボーすると500点となってしまう)。
==== その他 ====
* UFOが画面上から消える瞬間、または、UFOを倒した後の得点表示時が消える瞬間にビームを当てると、次に出てくるUFOがビームを当てなくても爆発してしまう。
* 上記の多数の攻略法を解説する「これであなたも10000点プレイヤー」といった惹句のついたガイドブック『インベーダー攻略法』が1979年6月11日に[[ヘラルドグループ|ヘラルド出版]]から刊行された。サイズは[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]攻略本と同じ寸法だった。
* 普通インベーダーの移動は右から始まるが、左から移動する時がある。
*「PLA⅄」(Yが逆さま)、「INSERT CCOIN」と表示され、インベーダーが慌てて誤字を差し替えに飛んで来たり冗字を砲撃で消したりするデモ画面がある。
* 『スペースインベーダーパートII』にて、インベーダー全数55匹(5段11列)を1発もミス無く55発で仕留めるとビーム砲が1門増える。名古屋撃ちを利用すると成功し易い。
=== キャラクター ===
以下、画面内の位置の順、上から下の順に解説する。
<TABLE BORDER=0><TR>
<TD><gallery>ファイル:Space invaders character 3.jpeg</gallery></TD><TD>
; UFO
: 時々出現するUFO。倒すと得点がもらえる。
{{See also|#UFOの得点}}</TD>
</TR><TR>
<TD><gallery>ファイル:Space invaders character 5.jpeg</gallery></TD><TD>
; SQUID
: [[イカ]](Squid)型のインベーダー。</TD>
</TR><TR>
<TD><gallery>ファイル:Space invaders character 4.jpeg</gallery></TD><TD>
; CRAB
: [[カニ]](Crab)型のインベーダー。2008年より『[[バブルボブル]]』のバブルンに代わって、タイトーの公式キャラクターとなっている。</TD>
</TR><TR>
<TD><gallery>ファイル:Space invaders character 6.jpeg</gallery></TD><TD>
; OCTOPUS
: [[タコ]](Octopus)型のインベーダー。タイトーステーション溝の口店内にある「MEGARAGE」では看板キャラクターとして採用されている。</TD>
</TR><TR>
<TD><gallery>ファイル:Space invaders character 2.jpeg</gallery></TD><TD>
; TORCHKA
: CANNONをインベーダーの攻撃から守る陣地([[トーチカ]])。ただし、攻撃が当たるほど削られ消滅していく。</TD>
</TR><TR>
<TD><gallery>ファイル:Space invaders.character.jpeg</gallery></TD><TD>
; CANNON
: インベーダーを攻撃するビーム砲。</TD>
</TR></TABLE>
== 開発 ==
開発者は太東貿易(現・タイトー)の子会社、パシフィック工業の社員だった[[西角友宏]]<ref name="日経20181023"/>。西角は同社の『[[スピードレース]]』([[1974年]])や『[[ウエスタンガン]]』([[1975年]])の制作を手掛けており、『ウエスタンガン』のライセンス許諾版である[[セガ]]の『ガンファイト』に、CPU付きの基板が使用されていたことに着目し、将来的にゲームはプログラムによって制作される様になると予測。独学で本作の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を手掛けることとなった{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=018}}。結果として本作は「日本において初めて[[CPU]]を使用したゲーム」となった{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=018}}。
=== ゲームコンセプト、着想 ===
「敵の集団」という発想は『[[ブロックくずし]]』を元にした、と西角本人が説明している<ref>{{Cite web|和書|date=2008-03-21 |url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080318/1008218/?P=4 |title=スペースインベーダー・今明かす開発秘話――開発者・西角友宏氏、タイトー・和田洋一社長対談 |publisher=日経トレンディネット |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180628143616/http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/special/20080318/1008218/?P=4 |archivedate=2018-06-28 |accessdate=2018-06-28}}</ref>。開発当時、[[アタリ (企業)|アタリ]]社の『ブレイクアウト』を日本に持ってきた『ブロックくずし』が、ゲームセンターや喫茶店などで人気を博していた。そこでタイトーではブロックくずしに続くゲームの開発を指示し、その内の一機種が『[[ズンズンブロック]]』と、この『スペースインベーダー』であった。西角は、自身が[[シューティングゲーム]]好きであったことが発案の背景で、さらに「『ブレイクアウト』を超えるゲームを作れるか」と上司に尋ねられて奮起した、と回想している<ref name="日経20181023"/>。
西角はブロックくずしを分析した結果、その目的は「ブロック全てを消した時の満足感」にあると考え、この満足感を大切にして開発することにした{{Sfn|相田洋|大墻敦|1997|pp=130 - 132}}。ただし、同じ内容では超えられないため、互いに攻撃しあい、相手からも撃ってくることを思いついた{{Sfn|相田洋|大墻敦|1997|pp=130 - 132}}。ブロックを消すだけで満足感があるのだから、攻撃してくる相手を消せたらさらに大きな満足感を得るはず、と考えた。
=== キャラクターのデザイン ===
開発初期段階では「[[戦車]]」や「[[飛行機]]」等をキャラクターに設定予定だったが、当時の技術ではそのスムーズな動きが難しいという理由で断念。次に考えたのは「人間」だったが、社内から「ゲームとはいえ人を撃つことは良くない」という声で再び断念。そこで、当時1作目が公開され大人気となった映画『[[スター・ウォーズ]]』をヒントにした「[[宇宙人]]」にすることを提案し、インベーダーのキャラクターになった。
インベーダーの[[キャラクター]][[デザイン]]は、[[H・G・ウェルズ]]の小説『[[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|宇宙戦争]]』の挿絵をヒントに西角がイメージ画を描き起こし、これを元に西角自身が[[ドット絵]]を作成した。イメージ画のモチーフは、[[タコ]](10点)、[[カニ]](20点)、[[イカ]](30点)となっている。後にそれぞれ正式名称としてそのままOCTOPUS、CRAB、SQUIDと名付けられている(なお、なかでもCRABは『スペースインベーダー』のみならず、タイトーを代表するマスコットキャラクターに位置付けられ、またさまざまな媒体でも引用され、ひとつの独立した知られたキャラクターともなっている)。
西角はデザインのために[[ブラウン管]]をペン状の[[デバイス]]([[ライトペン]])で直接描画し、それをデータとして利用できるシステムを発明した。これが世界で最初の実用コンピューター用ペンデバイスであったとされることがある{{誰|date=2011年4月}}{{いつ|date=2011年4月}}(なお、ライトペンは[[Whirlwind]]で開発され[[半自動式防空管制組織|SAGE]]で使われた<ref group="注釈">SAGEの広報映像 [http://www.youtube.com/watch?v=iCCL4INQcFo IBM Sage Computer Ad, 1960 - YouTube] の1分6秒から1分11秒のあたりに銃の形をしたライトペンを使用しているのが見られる。</ref>のが最初<ref>{{Cite web|url=http://design.osu.edu/carlson/history/lesson2.html|title=A Critical History of Computer Graphics and Animation|accessdate=2016-01-02|publisher=[[オハイオ州立大学]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160102225311/http://design.osu.edu/carlson/history/lesson2.html|archivedate=2016-01-02}}</ref>と今日では一般にされている)。西角曰く「自分の作業をしやすくするための道具として作っただけ」という理由で、[[特許]]などは取得しなかった<ref>2004年3月3日放送『[[1億人の大質問!?笑ってコラえて!]]』のインタビューより。</ref>。
=== 基板設計とソフトウェア開発 ===
西角は[[アタリ (企業)|アタリ]]製『[[ポン (ゲーム)|ポン]]』の見本機に触れて、コンピューターゲームの仕組みを学んだ。後に『スペースインベーダー』となる構想中のゲームの制御には、通常の[[集積回路]](IC)では限界があると考えた西角は[[マイクロプロセッサ]]を利用しようとしたが、当時は軍用が主で、民生用は日本国内にほとんどなかった。このため[[インテル]]の講習会に出席したり、英書を読んだり、[[ミッドウェイゲームズ|ミッドウェイ]]製ゲーム機に搭載されていた[[CPU]]を解析したりして[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を調べた。[[パーソナルコンピュータ]]がない時代であったため、入力装置を自作した<ref name="日経20181023"/>。
=== サウンド開発 ===
西角はサウンド作業については苦手だったため、サウンドのみは『ブルーシャーク』を担当していた、亀井道行(かめい みちゆき)が担当した。インベーダーが動く音はなかなか適した音が決まらず、最後は[[心臓]]の鼓動音と、当時話題となった動物[[パニック映画]]『[[ジョーズ]]』のテーマソングの「ジャンジャンジャンジャン…」という響きを参考にした([[宝島社]]『「ゲーセン」最強読本』西角のインタビューより)。本来は二拍子だったものが、現在知られるような四拍子にされたとされる。移動音については変更後も社内評価は変わらず酷評されていたが、結果的には四拍子だからこそのヒットとさえ評価されている。なおコピーゲームには、二拍子の物もある。
=== バグ修正、製品名の修正、ゲームバランス調整 ===
販売可能な品質に仕上がったのは、実際の販売日よりずっと早かったと言われる。しかし初期バージョンの社内評価は芳しくなく、途中で面クリアできなくなるといった[[バグ]]も残っていたため、(販売予定日前の)2ヶ月ほどかけて修正を行い、その際のバランス調整によって、ゲーム性が大きく向上した{{Sfn|ARCADE GAMERS 白書 Vol.1|2010|p=10}}。
開発段階ではもともと、当時大人気の[[ピンク・レディー]]がリリースしたシングル「[[モンスター (ピンク・レディーの曲)|モンスター]]」(1978年)の影響を受け{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=228|ps= - 「今こそ語れ!!激動のビデオゲーム外伝 ビデオゲームヒストリー」より}}、『ギャラクシーモンスター』または『スペースモンスター』というタイトルで呼ばれていたが、手直しの際に海外発売を視野に入れることを理由とした上層部命令により、発売二ヶ月前に田島一成により、他にも多数存在したタイトル候補から、『スペースインベーダー』に変更された。西角はこのタイトル変更によって、「ゲームへの愛着がなくなった」、とコメント<ref>タモリ倶楽部『生誕25周年記念 インベーダーに侵略された人々!!』(2003年9月放送)</ref>した。
敵が攻撃してくるという内容は、営業部門を中心とする[[熟年]]社員には難しく{{Sfn|相田洋|大墻敦|1997|pp=141 - 142}}「敵が攻撃しないように改造しろ」という命令も出た。一方で開発部門を中心とする若い社員には好評であり{{Sfn|相田洋|大墻敦|1997|pp=141 - 142}}、西角は改造を拒否した(『[[新・電子立国]]』4、『[[未来創造堂]]』で西角が証言){{Sfn|小林雅一|2004|pp=91 - 92}}。コンピューター側が敵として攻撃してくるゲームは当時まだ珍しく、業者向けの内覧会でも、操作に慣れないうちに全滅してしまうと芳しくない評価であった<ref name="日経20181023"/>。
当時の社内評価では、同時に発売される『ブルーシャーク』の方が、従来と同じシステムのゲームとして人気が高く、『スペースインベーダー』は「難しくて一般受けしない」という評価であった。社内的には『ブルーシャーク』を積極的に営業展開し<ref>{{Cite web|和書|date=2018-06-20 |url=https://www.sankei.com/west/news/180620/wst1806200084-n1.html |title=「スペースインベーダー」登場40年 岸和田出身の開発者「会社の反応冷たかった」 |publisher=The Sankei Shimbun & SANKEI DIGITAL |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180628144331/https://www.sankei.com/west/news/180620/wst1806200084-n1.html |archivedate=2018-06-28 |accessdate=2018-06-28}}</ref>、『スペースインベーダー』の方は当初はタイトー直営のゲームセンターにしか置かれず、「置いておけば、投資した分が回収できるか」といった程度にしか期待されていなかった。ところがいざ蓋を開けてみると、本作のゲームバランスが高校生・大学生や若いサラリーマンを中心に大いに受けた。各地から本作の発注が殺到、タイトーは急遽、営業方針を切り替えた。
== ヒットと社会現象 ==
* インカム{{Efn|筐体がもたらす[[収入]]。プレーヤーたちが払ってくれるプレイ料}}は1日で2~3万円に及び、筐体価格が46万円であり元金がすぐに回収できるため、タイトーに注文が殺到した{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=019}}。この結果、本作はゲームコーナーだけでなく飲食店などにも設置された{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=019}}。注文の殺到により生産が追い付かなくなったことから、日本で初めて[[ライセンス]]許諾を他メーカーに与えた<ref>{{Cite news|和書 |newspaper=ゲームマシン |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19781201p.pdf |title=インベーダーで製造許諾 サミー工業など三社とタイトーが合意に |agency=アミューズメント通信社 |page=3 |date=1978-12-01 |accessdate=2022-09-16}}</ref>。
* 大ヒットしたことで「インベーダーハウス」と呼ばれる、本作の筺体を並べた施設<ref>{{Cite web|和書|author=馬波レイ |date=2018-08-20 |url=https://www.famitsu.com/news/201808/20162576.html |title=社会現象ともなったあの施設が1日限定復活。実機プレイや開発者トークで盛り上がった“インベーダーハウス 2018”をリポート |website=ファミ通.com |publisher=KADOKAWA Game Linkage |accessdate=2022-09-16}}</ref>が日本全国各地に乱立した<ref group="注釈">{{要出典範囲|date=2018年8月|これらの施設は、やがて自然発生的に[[ゲームセンター]]という名称へ言い変えられ、インベーダー以外のテレビゲームやタイトー以外のメーカーによるゲーム全般を遊ぶ施設として、日本に根付いていくこととなった}}。</ref>。
** [[喫茶店]]の経営者の間では、インベーダーゲームを設置すると客が増え、副収入にもなると評判になり、店内のテーブルをいくつもテーブル筐体に置き換えることが大流行した。喫茶店の中にはテーブルのほとんど全てを本作のテーブル筺体に置き換える「インベーダー喫茶」も出現した。
** ブームの時期から亜種のブームの時期にかけて、[[駄菓子屋]]や、中・高生などが下校時に立ち寄るような、パン・ミルクなどを販売している店のオーナーたちの間でも、ブームに便乗して副収入を得ようと思う人が続出、またコピーゲームを作るメーカーからも駄菓子屋などにさかんに売り込みが行われ、駄菓子屋や学生向け食べ物屋の店先に本作およびコピー品が設置された。コピーゲームでは[[50円硬貨|50円]]から[[10円硬貨|10円]]と格安な設定が多かった。
** さまざまな業種の[[待合室]]など、設置できる場所が少しでもあれば、一見したところ不釣り合いとも思える場所ですら本作が設置される、ということがいたるところで起きた。
<!--* インベーダーブーム真っ盛りのころ、当時の礼宮文仁親王(現:[[秋篠宮文仁親王]])がインベーダーゲームを体験したくとも、皇族という立場上、インベーダーハウス(ゲームセンター)にの出入りは不可能であった。級友に「新聞にも載っている、今流行のインベーダーゲームとは何か? どのようなものか? 教えてほしい」とお尋ねになったところ、喫茶店を経営している家の息子が「インベーダーなら家にありますよ、遊びに来ますか?」と誘ってくれ、友人宅に行く、という名目で喫茶店でインベーダーを楽しんだ。その後、礼宮さまは「あの機械は幾らするのか?」とお尋ねになり、級友は「40万円-50万円ぐらいですよ。皇室なら買えるでしょ?」と答えたところ、礼宮さまは「我が家は国家予算でやっているからなあ」とお答えになった(国民の税金で娯楽商品を買うことはできない、との意味)。-->
* 大ヒットした頃には国民が一丸となってインベーダーゲームにお金を使うようになったことで、その軍資金となる100円玉が枯渇してしまい、日本銀行は急遽月の3倍にあたる66億円もの100円玉を市中に流した{{Sfn|小林雅一|2004|p=93}}。
以下、当時のタイトー社員の体験談なども含む。
* 販売当初の価格は最盛期には数百万円に跳ね上がっても売れていったという。
* タイトー本社は当時、[[東京]]の[[平河町]]([[砂防会館]]の真前)にあり、[[永田町]]と近隣であった。そのため、『スペースインベーダー』の納入を切望する業者から依頼された国会議員が、「5000万円で売れ!」などとお忍びで談判に来た、というエピソードもあった{{Sfn|相田洋|大墻敦|1997|p=143}}。
* 当時タイトー新入社員のボーナスが100万円だったという都市伝説があるが、当時はゲーム開発者への報奨金は確立されておらず、開発者の西角は社長賞として約10万円を表彰台で貰っただけだったという{{Sfn|小林雅一|2004|pp=94 - 95}}。
* 集金袋を回収するのに[[ライトバン]]では間に合わず、4トン[[貨物自動車|トラック]]で回収を行っていた。しかしその4トントラックですら板バネ[[サスペンション]]が100円玉の重みに耐えきれずに曲がる事故が頻発していた。
** これに派生する[[都市伝説]]として、トラックから機械や硬貨を上げ下げすることから[[重迫病]]を患う者が続出したため、タイトーが[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]に相談してトラックの後部に装着する[[パワーゲート|電動リフト]]を日本で最初に発明した(ないしはタイトーは「今後の世の中への貢献」を理由にこれについての[[特許]]などを取得していない)といったものがある{{要出典|date=2015年5月}}が、[[パワーゲート]]はスペースインベーダー店頭公開される14年前の[[1964年]]に[[極東開発工業]]が開発したものであるため、明らかに誤りである。
* 人々が熱中した結果、[[パチンコ]]業界は全国的に客の入りが悪くなった。パチンコ台メーカーは苦肉の策で、インベーダーゲームをモチーフにした台を販売したが人気は得られず、客入りは衰えたままで、冬の時代を迎え、パチンコ屋とゲームセンターを兼業、またはゲームセンターへの転業も多く見られた。この状況は打倒インベーダーを目指して開発された、[[1980年]]の[[フィーバー (パチンコ)|フィーバー]]の登場まで続くこととなった
* 画面への照明の「うつりこみ」を防止するために店内が暗くされる傾向があったため、薄暗い店内は不健全であり、非行の温床になるとの考えから、多くの学校でゲームセンターへの入場禁止の通達を出す措置が講じられた<ref>{{Cite web |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19790615p.pdf |title=Game Machine |accessdate=2019-06-10 |date=1979-06-15 |format=PDF |website=[https://onitama.tv/gamemachine/archive.html ゲームマシン アーカイブ - Game Machine Archive] |work=『ゲームマシン』第121号 |publisher=アミューズメント通信社 |pages=2, 3 |quote=全国管区別インベーダーゲームの規制状況を見る 「父兄同伴が標準に」 不明確な因果関係、業界側も資料不足 警察庁は全国的に実態調査を実施中}}</ref><ref group="注釈">生徒手帳の禁止記述には「ゲームセンター」とは書かれておらず「インベーダー」と記述されている所が現在でもある。</ref><ref group="注釈">教師や[[PTA]]の巡回による[[補導]]が多発したこともあって、[[1984年]]の[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風適法]]改正時には、[[ゲームセンター]]が新たに規制の対象となった。</ref>。
* 当時[[アメリカ合衆国]]の[[カリフォルニア大学バークレー校]]の学生だった[[孫正義]]は、日本でのブームが過ぎた頃、日本で余剰となったゲーム機をアメリカに持ち込んで現地のレストラン等に[[リース]]するビジネスを始めた。孫が持ち込んだゲーム機は合計350台、半年間で1億円を超える儲けを得た{{Sfn|大下英治|2000|pp=140 - 143}}。
=== ブームの終焉およびブーム後 ===
* インベーダーブームが徐々に社会問題化するに至り、当時のアミューズメント業界による業界団体「[[全日本遊園協会]](JAA)」は、[[1979年]][[6月2日]]に「自粛宣言」を発表する<ref>{{Cite web |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19790615p.pdf |title=Game Machine |accessdate=2019-06-10 |date=1979-06-15 |format=PDF |website=[https://onitama.tv/gamemachine/archive.html ゲームマシン アーカイブ - Game Machine Archive] |work=『ゲームマシン』第121号 |publisher=アミューズメント通信社 |pages=1 |quote=インベーダーゲーム自粛宣言 業界サイドからJAAが青少年非行防止で「規制」}}</ref>。これは、あくまで未成年者には深夜に遊ばせないなど、常識的な範疇における自主規制に他ならないものであった。しかしながら、これが世間へ業者による自粛という印象を与える結果となり、ブームを急速に終わらせる原因ともなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ampress.co.jp/backnumber/bn1999.06.15.htm |title=『ゲームマシン』1999年6月15日号 # 20年前の主なニュース |publisher=Amusement Press Inc |date=1999-06-15 |accessdate=2018-12-03}}</ref>。当時はマスコミなども加熱するブームに対して警鐘を鳴らす論調となり、ゲームに対するイメージの低下やゲームセンターが不良少年のたまり場となったことが報道されるようになった{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=019}}。これらの影響もありブームは急速に縮小し、各メーカーは大量の在庫を抱える事となった{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=019}}。
* 1979年6月11日、[[警察庁]]はゲーム代欲しさに恐喝や[[強盗]]などを働く少年[[非行]]が増加していること、違法と知りながら景品を出す業者などが目に余るとして、ゲーム機がある場所での[[補導]]強化、悪質業者の摘発などを都道府県警に通達した<ref>非行防止に本腰 悪質業者は検挙『朝日新聞』1979年(昭和54年)6月12日朝刊 13面 23面</ref>。
* インベーダーゲームと同等のクォリティのゲームを家庭でプレイしたいという欲求が、今で言うところの「第一次パソコンブーム」の火付け役になった。
* これに派生し、テレビゲームのようなゲーム要素を遊びたいというニーズにより、[[LSIゲーム]]や[[ゲーム&ウオッチ]]に代表される携帯ゲームなどの玩具製品のヒットにもつながった。
=== 記念企画 ===
* [[2003年]]7月 - [[スケッチ・ショウ]]や[[ケン・イシイ]]など著名テクノDJが参加、25周年記念スペシャルCD『スペースインベーダー大作戦』が発売。プロモーションビデオの一部には、一匹のインベーダーの人生とその家族、そして戦争に巻き込まれて死んでいくという反戦的なメッセージ性の強い作品も含まれている。
* 2003年8月9日10日 - 東京、渋谷で25周年記念イベントが開催された。会場となった渋谷109前のイベント広場では、[[PlayStation 2]]用ソフト「スペースインベーダー アニーバーサリー」の体験コーナーが設置されたほか、ラジオの公開放送やゲーム大会なども実施。ゲーム大会の様子は渋谷駅前の[[デジタルサイネージ|大型ビジョン]]で中継されたり、[[渋谷センター街]]に「スペースインベーダー」のフラッグが飾られるなど、道行く人の注目を集めていた。<ref>{{Cite book|和書 |title=ファミ通 No.768 |date=2003年9月5日 |year=2003 |publisher=エンターブレイン |page=17}}</ref>
* [[2008年]]4月 - [[Yahoo! JAPAN]]にページ上で発売30周年特別企画を展開した。1日はエイプリルフールのネタとして登場し、トップページを宇宙人たちが襲撃したのち、ブラウザ上で『スペースインベーダー』体験版(1ステージのみ、残機1)で遊ぶことができる。
* [[2008年]] - 同じく30周年記念にアニメーションPVを制作。小さな人間の少女(声:不明)が『スペースインベーダー』のインベーダーとの心の交流を描く。BGMは[[菅原弘明]]が担当。
* [[2017年]]3月、[[サントリー食品インターナショナル]]([[サントリーフーズ]])が販売する機能系緑茶飲料『[[伊右衛門|伊右衛門 特茶]]』のTVCM(「分解インベーダー」篇)において、同ゲームの実際の効果音が使用された<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.suntory.co.jp/softdrink/iyemon/tokucha/introduction/ |title=「伊右衛門 特茶」広告紹介 |website=サントリー公式サイト |publisher=[[サントリー]] |accessdate=2017-04-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150501174802/http://www.suntory.co.jp/softdrink/iyemon/tokucha/introduction/ |archivedate=2015-05-01}}</ref>。
* [[2018年]][[1月12日]] - [[1月31日]]、40周年記念として、[[六本木ヒルズ]]展望台東京シティビューにて『'''PLAY! スペースインベーダー展'''』を開催。会場には[[プロジェクションマッピング]]による大画面で10人まで同時プレイできる『スペースインベーダーギガマックス』や、体感型インベーダーゲーム『バハムートディスコ feat. スペースインベーダー』『ノボリンベーダー』『アルキンベーダー』を設置<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2017-12-06 |url=https://www.famitsu.com/news/201712/06147454.html |title=“PLAY! スペースインベーダー展”が六本木ヒルズで開催決定、展望台のガラス面で巨大インベーダーと対決 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Gueed |date=2017-12-06 |url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20171206016/ |title=「スペースインベーダー」の世界を体感できる誕生40周年記念イベントが,六本木ヒルズ展望台で2018年1月12日より期間限定で開催へ |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=船津稔 |date=2018-01-11 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1100718.html |title=東京の夜景をバックに「スペースインベーダー」をプレイ!「PLAY!スペースインベーダー展」が1月12日に開幕! |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>。
* [[8月9日]] - 上記40周年一環として、[[大阪市]]に期間限定店舗「[[スペースインベーダールーム]]」が開設された<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2018-08-03 |url=https://www.famitsu.com/news/201808/03161871.html |title=誕生40周年! 『スペースインベーダー』史上初のポップアップストア“SPACE INVADERS ROOM”が、8月9日から期間限定でヨドバシ梅田にオープン! |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=YamaChan |date=2018-08-03 |url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20180803069/ |title=スペースインベーダーをテーマにしたポップアップストアが,大阪のヨドバシ梅田に登場。2018年8月9日~2019年1月27日までの期間限定オープン |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>。
== シリーズ一覧 ==
タイトーからアーケードゲームとして発売された、正式な『スペースインベーダー』のシリーズは以下の作品である。タイトル横の記述はリリース年。その横に☆印が付いている作品は、後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に移植版が収録されている(別版にのみ収録されている作品については付記形式で言及)。
; スペースインベーダー (1978年)☆
: もっとも最初の作品(『インヴィンシブルコレクション』には「オリジナルバージョン」および「カラーバージョン」と副記された2バージョンが収録)。
; スペースインベーダーパートII ([[1979年]])☆
: 分裂インベーダーやUFOがインベーダーを補充するなど多数の変化を加えた。またレインボーに成功すると“レインボーボーナス”として500点が入った。今でこそ当たり前になった高得点者のネームエントリーは、『II』が最初。今日のようなランキング形式ではなく、その日の1位のプレイヤーの名前と得点だけが登録され、初期状態のスコア表示「TAITO」の文字に変わってプレイヤーが登録した名前が表示された。ネームはアルファベット大文字で10文字まで登録できた。電源投入時のハイスコアは5000点。インベーダー1匹10〜30点、最大のボーナス点でも500点(点滅UFOとレインボーボーナス)なので、5000点を出すのはある程度の熟練が要求され、ネームエントリーが出来るのは当時のプレイヤーの憧れだった。中にはネームエントリー目的で、プレイする前に電源を落とし高得点をリセットしていた者もいたほどである。しかしながら、『インベーダー』ブームは既に退潮になっており、ドットイート系や『[[ギャラクシアン]]』といった後続ゲームへと変化していた。
:日本でコンピュータプログラムに著作権が認められるきっかけとなった作品である<ref name=":0">{{Cite news|title=TVゲームのコピー裁判 著作権で初の判決|date=1983-01-01|newspaper=ゲームマシン|agency=アミューズメント通信社|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19830101p.pdf|publication-date=1983-01-01|editor=赤木真澄|issue=204|page=8|pages=}}</ref>。
: [[アーケードゲーム#テーブル筐体|テーブル筐体]]の定価は70万円<ref>{{Cite web|和書|url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19800301p.pdf|title=『ゲームマシン』no.137 p.22|format=PDF|publisher=[[アミューズメント通信社]]|accessdate=2019-06-07}}</ref>。
; [[リターン オブ ザ インベーダー]] ([[1985年]])
: 外部開発(音楽のみタイトー開発)でタイトー販売された作品。自機のパワーアップやボーナスステージを採用している。独特な色使いのインベーダー群に加え、移動方法も従来の横移動のほかに回転しながら侵略する面もある。
; [[マジェスティックトゥエルブ]] ([[1990年]])☆(副題・スペースインベーダーパートIV)
: ステージの分岐やボスキャラが採用されている。ボーナスステージの「キャトルミューテーション」(UFOが[[家畜]]の[[牛]]などを殺したり連れ去ったりするとされる事件をモチーフ)が印象的。
: 『インヴィンシブルコレクション』には海外版『Super Space Invaders '91』と共に収録。
; スペースインベーダーDX ([[1994年]])
: 前年に[[スーパーファミコン]]で、スペースインベーダーの誕生15周年を記念して発売された復刻版のヒットを受けて登場。アーケード版では、タイトーのゲームのキャラクターに置き換えたパロディモードを追加。なお本作は縦画面ではなく横画面仕様で開発発売された。
:# [[ニュージーランドストーリー]]
:# [[フェアリーランドストーリー]]
:# [[バブルボブル]]
:# [[レインボーアイランド]]
:# [[ミズバク大冒険]]
:# [[アルカノイド]]
:# [[奇々怪界]]
:# [[ダライアス]]
:# [[ドンドコドン]]
: 9面をクリアすると2面に戻り、そこから繰り返す。
: 『インヴィンシブルコレクション』へは特装版にのみ収録された。
; [[あっかんべぇだぁ〜]] ([[1995年]])
: パロディにアレンジした作品。様々なタイトーキャラが登場している。
; スペースインベーダーアニバーサリー ([[2003年]])
: [[PlayStation 2]]用ソフトからアーケード版へのコンバート。PlayStation 2版では横画面に対し、アーケード版は縦画面に修正されている。
; スペースインベーダー [[QIX]] ([[2003年]])
: 25周年記念として登場した[[2in1筐体]]。筐体の左右に両ゲームオリジナルのデザインが施されている。国内ではほとんど出回っておらず、主に海外向けに作られた。スペースインベーダーカラーをベースに再現。販売はナムコアメリカ。
; スペースインベーダーCX ([[2009年]])
: CS番組の『[[ゲームセンターCX]]』とタイアップしたもの。有野課長こと[[よゐこ]]の[[有野晋哉]]が音声(効果音)を担当している。期間限定で稼動していた。
; SPACE INVADERS FRENZY ([[2018年]])
: [[File:SPACE INVADERS FRENZY.jpg|thumb|SPACE INVADERS FRENZYの筐体(タイトー公式ライセンス製品)]]
: 米RAW THRILLS社との共同開発による、[[ガンシューティングゲーム]]風にアレンジした作品。モニターは108インチの大型薄型LEDモニターを採用。北米で先行して稼動を開始し、国内では2017年12月の一部のタイトーステーション店舗での先行稼働を経て、2018年2月に全国稼動開始<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2018-02-09 |url=https://mantan-web.jp/article/20180209dog00m200023000c.html |title=JAEPO2018:インベーダーゲームがアーケードに復活 2人用シューティングゲーム |website=[[MANTANWEB]] |publisher=MANTAN |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=箭本進一 |date=2018-02-10 |url=https://www.4gamer.net/games/408/G040819/20180210049/ |title=[JAEPO2018]頭をカラッポにして,インベーダーを撃ちまくれ!「SPACE INVADERS FRENZY」プレイレポート |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>。
== 移植作品 ==
=== インベーダーブーム時代 ===
* [[1980年]]に [[アタリ (企業)|アタリ]]の『[[Atari 2600]]』へ移植され、同機種の[[キラーソフト]]となった。
* 一面あたりのインベーダーの数は縦に6段、横に6列の計36、インベーダーのデザインは1列ごとに異なっている。また、ハードの性能上、前述の名古屋撃ちやレインボーはできない。{{see also|アタリショック}}
*ファミコン以前はもっとも売れたとされるゲーム機、[[エポック社]]の[[カセットビジョン]]からは、『 [[テレビベーダー]]/バトルベーダー』が発売された。設定上は48体のインベーダーが存在し、一番下にいる敵を倒すと後ろに隠れている敵が出現(プログラム上は一歩上に後退するだけ)、すなわち6発分の耐久力のついた8体のインベーダーを全て倒していくと言う内容になっている<ref>[https://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/videogames/cv/soft/bvader/index.html Classic Videogame Station ODYSSEY: カセットビジョン『バトルベーダー』紹介ページ]より。</ref>。
* [[電子ゲーム]]版も、[[学研ホールディングス|学研]]やバンダイなどから発売された。
=== 後世の移植 ===
* 家庭用ゲーム機ソフトとしてあらゆるハードに移植。1990年以降は[[フィーチャーフォン]]や[[スマートフォン]]など、パーソナルデジタルデバイス用アプリケーションにも移植されている(後述)。
* アーケード版は縦画面であったが、家庭用では横画面向けに画面構成が再構成されている(『DX』を除く続編でも同様、またイーグレットツー ミニ版を除く)。
* [[2010年]]にタイトーのコンシューマーゲーム事業が親会社である[[スクウェア・エニックス]]に集約されたことを受け、以降[[2019年]]までにリリースされたソフトについては、スクウェア・エニックスが販売とサポートを担当した([[2020年]]にリリースした『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』以降にリリースされた作品は、前年にタイトーがコンシューマーゲーム事業に再参入したことを受け、再びタイトーが販売を受け持つ)。
* 各機種版の詳細は、後述する一覧表や、それに付随した解説文などを参照。
{|
| style="vertical-align: top;" width="250"|
* [[ファミリーコンピュータ]]
* [[SG-1000]]
* [[ゲームボーイ]]
* [[PCエンジン]] [[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]
* [[メガドライブ]]
* [[スーパーファミコン]]
| style="vertical-align: top;" width="250"|
* [[バーチャルボーイ]]
* [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]
* [[セガサターン]]
* [[ワンダースワン]]
* [[ゲームボーイアドバンス]]
* [[MSX]]
* [[PlayStation 2]]
| style="vertical-align: top;" width="250"|
* [[Xbox 360]]
* [[PlayStation Portable]]
* [[ニンテンドーDS]]
* [[Atari 2600]]
* [[Wii]]([[バーチャルコンソール|バーチャルコンソール アーケード]]版・[[Wiiウェア]])
* [[Nintendo Switch]]
* [[PlayStation 4]]
|}
; デジタルデバイス版
* アプリケーションゲームについては全てタイトーがリリース。
** [[フィーチャーフォン]](携帯電話)用アプリケーションゲーム([[携帯電話ゲーム]])
** [[スマートフォン]]([[iPhone]] / [[iPod touch]])用アプリケーションゲーム
; アナログボードゲーム版
: 米メーカー「612 Entertainment」から、『SPACE INVADERS - THE BOARD GAME』のタイトルで2020年に発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20190515020/ |title=「スペースインベーダー」がボードゲームに。「SPACE INVADERS - THE BOARD GAME」のクラウドファンディングキャンペーンがスタート |publisher=4gamer.net |date=2019-05-15 |accessdate=2019-06-21}}</ref>(厳密には「スペースインベーダーのテイストを活かした」ボードゲーム)。タイトーは「開発協力」名義。
: タイトー自身も2020年発売の『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』特装版に、上記版とは異なるボードゲーム『スペースインベーダー インヴィンシブルボードゲーム』を同梱した。
=== 作品タイトルリスト ===
{{節スタブ}}
{|class="wikitable" style="white-space:wrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 型式
! 備考
! 出典
|-
| style="text-align:right" | 1
! Space Invaders
| {{vgrelease new|NA|1980年}}
| [[Atari 2600]]
| [[アタリ (企業)|アタリ]]
| アタリ
| [[ロムカセット]]
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 2
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|1985年}}
| [[SG-1000]]
| [[セガ]]
| セガ
| 128[[キロビット]]ロムカセット
| G-1045
|
|
|-
| style="text-align:right" | 3
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|1985-04-01}}
| [[MSX]]
| タイトー
| ニデコム
| ロムカセット
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 4
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|1985-04-17}}
| [[ファミリーコンピュータ]]
| タイトー
| タイトー
| ロムカセット
| 01 TF-4500
|
|
|-
| style="text-align:right" | 5
! [[スペースインベーダーズ 復活の日]]
| {{vgrelease new|JP|1990-03-02}}
| [[PCエンジン]]
| タイトー
| タイトー
| 2[[メガビット]][[HuCARD]]{{Sfn|PC Engine FAN|1993|p=80}}
| TP02008
|
|
|-
| style="text-align:right" | 6
! スペースインベーダーズ
| {{vgrelease new|JP|1990-03-30}}
| [[ゲームボーイ]]
| タイトー
| タイトー
| 256キロビットロムカセット
| DMG-SPA
| 対戦型
|
|-
| style="text-align:right" | 7
! {{vgrelease new|JP|スペースインベーダー90|NA|Space Invaders'91}}
| {{vgrelease new|JP|1990-09-07|NA|1991年}}
| [[メガドライブ]]
| タイトー
| タイトー
| 2メガビットロムカセット{{Sfn|メガドライブFAN|1993|p=59}}
| {{vgrelease new|JP|T-11053|NA|11036}}
|
|
|-
| style="text-align:right" | 8
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|1992年}}
| [[PC-9800シリーズ|PC-9801]]
| タイトー
| ウィズ
| 5インチ[[フロッピーディスク]]
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" | 9
! スペースインベーダー<br />The Original Game
| {{vgrelease new|JP|1994-03-25|NA|November 1997}}
| [[スーパーファミコン]]
| タイトー
| タイトー
| 2メガビットロムカセット
| {{vgrelease new|JP|SHVC-IC|NA|SNS-IC-USA-1}}
|
|
|-
| style="text-align:right" | 10
! スペースインベーダー<br />The Original Game
| {{vgrelease new|JP|1995-07-28}}
| PCエンジン[[CD-ROM2|スーパーCD-ROM²]]
| NECアベニュー
| NECアベニュー
| [[CD-ROM]]
| NAPR-1050
|
|
|-
| style="text-align:right" | 11
! スペースインベーダー<br />バーチャルコレクション
| {{vgrelease new|JP|1995-12-01}}
| [[バーチャルボーイ]]
| タイトー
| タイトー
| ロムカセット
| VUE-P-VSPJ
|
|
|-
| style="text-align:right" | 12
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|1996-12-13}}
| [[セガサターン]]
| タイトー
| タイトー
| CD-ROM
| T-1107G
|
|
|-
| style="text-align:right" | 13
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|1997-07-31}}
| [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]
| タイトー
| タイトー
| CD-ROM
| SLPS-00940
|
|
|-
| style="text-align:right" | 14
! スペースインベーダー2000
| {{vgrelease new|JP|1998-12-03}}
| PlayStation
| タイトー
| タイトー
| CD-ROM
| SLPM-86153
| 廉価版
|
|-
| style="text-align:right" | 15
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|1999-05-13}}
| [[ワンダースワン]]
| [[サン電子|サンソフト]]
| サンソフト
| ロムカセット
| SWJ-SUN002
|
|
|-
| style="text-align:right" | 16
! スペースインベーダーX
| {{vgrelease new|NA|2000|JP|2000-02-17}}
| PlayStation
| タイトー
| [[アクティビジョン]]<br />タイトー
| CD-ROM
| {{vgrelease new|JP|SLPM-86419}}
|
|
|-
| style="text-align:right" | 17
! スペースインベーダーX
| {{vgrelease new|NA|2000年|JP|2000-09-29}}
| [[ゲームボーイカラー]]
| タイトー
| [[アクティビジョン]]<br />タイトー
| ロムカセット
| {{vgrelease new|JP|DMG-BSIJ}}
|
|
|-
| style="text-align:right" | 18
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|2001-01-18}}
| [[Javaアプリケーション|Java]]搭載[[iモード]]
| タイトー
| タイトー
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(げ~むタイトー)
| -
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=船津稔 |date=2001-01-18 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20010118/taito.htm |title=タイトー、Java搭載iモード「スペースインベーダー」をリリース |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2001-01-18 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/bursts/0101/18/taito.html |title=タイトー,Java対応iモード向けに「インベーダー」と「アルカノイド」を配信 |website=[[ITmedia|ITmediaニュース]] |publisher=アイティメディア
|accessdate=2021-01-13}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 19
! SIMPLE1500シリーズ Vol.73<br />THE インベーダー 〜スペースインベーダー1500〜
| {{vgrelease new|JP|2001-09-27}}
| PlayStation
| [[ディースリー・パブリッシャー|D3パブリッシャー]]
| D3パブリッシャー
| CD-ROM
| SLPM-86900
|
|
|-
| style="text-align:right" | 20
! スペースインベーダーEX
| {{vgrelease new|JP|2002-08-02}}
| [[ゲームボーイアドバンス]]
| タイトー
| タイトー
| ロムカセット
| AGB-AIDJ-JPN
|
|
|-
| style="text-align:right" | 21
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|2003-05-08}}
| [[BREW]]対応機種<br />([[EZアプリ]])
| タイトー
| タイトー
| ダウンロード
| -
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=志賀康紀 |date=2003-05-13 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20030513/taito.htm |title=タイトー、BREW対応端末に「スペースインベーダー」、J-スカイにて「てんしのよぞら」を配信開始 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 22
! スペースインベーダーアニバーサリー
| {{vgrelease new|JP|2003-07-31}}
| [[PlayStation 2]]
| タイトー
| タイトー
| CD-ROM
| TCPS-10069
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=勝田哲也 |date=2003-07-11 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20030711/inv.htm |title=1,480円の低価格でインベーダー・タイトーの歴史を! PS2「スペースインベーダー アニバーサリー」 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2003-07-24 |url=https://dengekionline.com/data/news/2003/7/24/f9bdca15e6e763008f716eaffe4f6893.html |title=生誕25周年を祝う、「スペースインベーダー大作戦」プロジェクトがいよいよ始動! |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2003-07-25 |url=https://www.famitsu.com/game/news/2003/07/25/103,1059066190,14210,0,0.html |title=『スペースインベーダー』25周年! 記念イベントが開催 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 23
! スペースインベーダー<br />筐体型コントローラ同梱セット
| {{vgrelease new|JP|2003-09-25}}
| PlayStation 2
| タイトー
| タイトー
| CD-ROM
| TCPS-10074
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=船津稔 |date=2003-09-16 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20030916/taito.htm |title=タイトー、スペースインベーダー筐体型コントローラ同梱セット登場!! |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 24
! スペースインベーダーDS
| {{vgrelease new|JP|2005-03-24}}
| [[ニンテンドーDS]]
| ドリームス
| タイトー
| DSカード
| NTR-AIRJ-JPN
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=土本学 |date=2005-02-02 |url=https://www.inside-games.jp/article/2005/02/02/15617.html |title=『スペースインベーダーDS』が3月24日発売決定 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 25
! スペースインベーダー ポケット
| {{vgrelease new|JP|2005-05-12}}
| [[PlayStation Portable]]
| ドリームス
| タイトー
| [[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]
| ULJM-05015
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=志賀康紀 |date=2005-02-16 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20050216/sip.htm |title=タイトー、往年の名作がいつでもどこでも遊べる。PSP「スペースインベーダー ポケット」 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 26
! [[タイトーメモリーズ|タイトーメモリーズ 上巻]]
| {{vgrelease new|JP|2005-07-28}}
| PlayStation 2
| タイトー
| タイトー
| [[DVD-ROM]]
| SLPM-66057
| 『スペースインベーダー・カラー』収録
|
|-
| style="text-align:right" | 27
! タイトーメモリーズ 下巻
| {{vgrelease new|JP|2005-08-25}}
| PlayStation 2
| タイトー
| タイトー
| DVD-ROM
| SLPM-66092
| 『スペースインベーダー(モノクロ)』収録
|
|-
| style="text-align:right" | 28
! スペースインベーダー<br />ギャラクシービート
| {{vgrelease new|JP|2005-09-22}}
| PlayStation Portable
| タイトー
| [[パック・イン・ビデオ|マーベラスインタラクティブ]]
| UMD
| ULJM-05045
|
|
|-
| style="text-align:right" | 29
! [[スペースインベーダーエクストリーム]]
| {{vgrelease new|JP|2008-02-21}}
| ニンテンドーDS<br />PlayStation Portable
| タイトー
| タイトー
| DSカード
| '''DS:'''NTR-YXXJ-JPN<br />'''PSP:'''ULJM-05315
|
|
|-
| style="text-align:right" | 30
! SPACE INVADERS GET EVEN<br />〜逆襲のスペースインベーダー〜
| {{vgrelease new|JP|2008-08-26}}
| [[Wii]]<br />([[Wiiウェア]])
| [[キャトルコール]]
| タイトー
| ダウンロード<br />専売
| RVL-WIVJ
| 2019年1月31日 配信・販売終了
| <ref>{{Cite web|和書|author=土本学 |date=2008-06-17 |url=https://www.inside-games.jp/article/2008/06/17/29682.html |title=インベーダーの逆襲!Wiiウェア『SPACE INVADERS GET EVEN 〜逆襲のスペースインベーダー〜』 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=滝沢修 |date=2008-08-11 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20080811/sige.htm |title=タイトー、Wiiウェア「SPACE INVADERS GET EVEN」8月配信決定。タイトー歴代キャラクタがおまけUFOとして登場 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 31
! [[スペースインベーダーエクストリーム#スペースインベーダーエクストリーム2|スペースインベーダー<br />エクストリーム2]]
| {{vgrelease new|JP|2009-03-26}}
| ニンテンドーDS
| タイトー
| タイトー
| DSカード
| NTR-CV8J-JPN
|
|
|-
| style="text-align:right" | 32
! スペースインベーダー<br />インフィニティジーン
| {{vgrelease new|INT|2009-07-28}}
| [[iPhone]]<br />[[iPod touch]]
| タイトー
| タイトー
| ダウンロード
| -
|
| <ref>{{Cite web|和書|author=田中聡 |date=2009-08-05 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0908/05/news012.html |title=プレイするとゲームシステムが進化――「スペースインベーダー インフィニティジーン」 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" | 33
! [[スペースインベーダーエクストリーム#スペースインベーダーエクストリーム Z|スペースインベーダーエクストリームZ]]
| {{vgrelease new|JP|2009-11-04}}
| [[ニンテンドーDSi]]
| タイトー
| タイトー
| ダウンロード
| -
| 2010年7月9日に無料アップデート実施<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2010-07-12 |url=https://www.famitsu.com/k_tai/news/1237506_1350.html |title=『スペースインベーダー インフィニティジーン』が横シューになったワケ【緊急インタビュー】 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|
|-
|34
![https://www.taito.co.jp/nxl/title/0000002228 SPACE INVADERS for NESiCAxLive]
|{{vgrelease new|JP|2011-03-10}}
|アーケード([[NESiCAxLive]])
|タイトー
|タイトー
|ネットワーク型サービス
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" |35
! [[スペースインベーダーエクストリーム#スペースインベーダーエクストリーム for Steam|スペースインベーダーエクストリーム<br />for Steam]]
| {{vgrelease new|INT|2018-02-13}}
| [[Microsoft Windows|Windows]]<br />※ [[Steam]] クライアントソフトのインストール必須
| タイトー
| タイトー
| ダウンロード<br />([[Steam]])
| -
|
|
|-
| style="text-align:right" |36
! スペースインベーダー<br />インヴィンシブルコレクション
| {{vgrelease new|JP|2020-03-26}}
| [[Nintendo Switch]]
| [[ゴッチテクノロジー]]<ref group="注釈" name="GOTTI_TECHNOLOGY">アーケード版から直接移植したタイトルのみ担当。その他のタイトルについては移植担当企業は未発表。</ref>
| タイトー
| ゲームカード<ref group="注釈">収録1タイトル<!--『アルカノイドvsインベーダー』-->・別注版<!--Amazonプライムデー版-->についてはダウンロード。</ref><br />ダウンロード
| -
| パッケージ版は特典品を同梱した「特装版」も別途発売
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2020-03-26 |url=https://www.famitsu.com/news/202003/26195398.html |title=『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』が本日発売! 全9タイトルと豪華特典を多数収録した特装版も!! |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=長岡頼(クラフル) |date=2020-03-26 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1242171.html |title=Switch「スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション」本日発売 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" |37
! スペースインベーダー<br />フォーエバー
| {{vgrelease new|JP|2021-06-17}}
| [[Nintendo Switch]]<br />[[PlayStation 4]]
| 移植担当企業は未発表
| タイトー
| ダウンロード<br />専売
| -
| Switch版については、実質的に『インヴィンシブルコレクション』の少数セレクション版
| <ref>{{Cite web|和書|author= |date=2021-05-14 |url=https://www.famitsu.com/news/202105/14220670.html |title=『スペースインベーダー』シリーズの代表作品を収録した2タイトルが今夏発売決定。 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-08-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=Ten-Four |date=2021-06-14 |url=https://www.inside-games.jp/article/2021/06/14/132896.html |title=今週発売の新作ゲーム『スペースインベーダー フォーエバー』『東方文花帖 ~ Shoot the Bullet.』他 |website=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]] |publisher=[[イード (企業)|イード]] |accessdate=2021-01-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=簗島 |date=2021-06-17 |url=https://www.4gamer.net/games/570/G057050/20210617027/ |title=「スペースインベーダー フォーエバー」が本日配信。エクストリーム,ギガマックス 4 SE,アルカノイドvsインベーダーの3作を収録 |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" |38
! スペースインベーダー<br />インヴィンシブルコレクション<br />スペシャルエディション
| {{vgrelease new|JP|2021-7-26}}
| [[Nintendo Switch]]
| [[ゴッチテクノロジー]]<ref group="注釈" name="GOTTI_TECHNOLOGY" />
| タイトー
| ゲームカード<br />ダウンロード
| -
| 特装版をベースに同梱特典品を省き<br />特装版限定2作品を正式収録した版
| <ref>{{Cite web|和書|author=簗島 |date=2021-07-29 |url=https://www.4gamer.net/games/464/G046469/20210729037/ |title=「スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション スペシャルエディション」が本日発売。9タイトル11バージョンがプレイ可能に |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>
|-
| style="text-align:right" |39
! スペースインベーダー
| {{vgrelease new|JP|2022-03-2}}
| [[イーグレットツー ミニ]]
| 移植担当企業は未発表
| タイトー
| [[プリインストール]]
| -
|本体に収録されている40作品の一つ
|
|-
|}
=== 各機種版の解説 ===
下に記載したソフトのうち、[[Wiiショッピングチャンネル]]で販売されていた配信ソフト全般([[Wii]]版[[バーチャルコンソール]]・[[Wiiウェア]])については、2019年1月31日をもってサービス(配信・販売)が終了している。後述する『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』に何らかの形で収録されている作品については、付記形式で言及。
; Atari 2600版
; SG-1000版
; MSX版
; ファミリーコンピュータ版
; PCエンジン版『[[スペースインベーダーズ 復活の日]]』
: 移植版の「本家」とリメイク版の「分家」から選択可能。「分家」では攻撃アイテムの登場やステージごとにインベーダーや自機の切り替わり、シールドが0の状態で被弾するとゲームオーバーで、いわゆる「残機数」はコンティニュー回数と同様の扱いのシールド制の導入によって、ある程度『[[マジェスティックトゥエルブ]]』に近いシステムになっている。
: 2008年12月2日よりWiiのバーチャルコンソール向けに600Wiiポイントで配信された。
; ゲームボーイ版 『スペースインベーダーズ』
: アーケード版を踏襲した内容であり、オリジナル要素はなくただゲームボーイで再現できるなりのスペックとなっている{{Sfn|ゲームボーイクソゲー番付|2017|p=84}}。
; メガドライブ版『スペースインベーダー90』
: 『インヴィンシブルコレクション』へは、2019年7月に[[Amazon.co.jp]]のセール「プライムデー」で時間限定で予約を受け付けた「Amazon プライムデー限定商品」を予約したユーザーのみ、発売日以降ダウンロード配信権が付加された版が購入できた。
; PC-9801版
; スーパーファミコン・PCエンジンスーパーCD-ROM²版『スペースインベーダー The Original Game』
: 白黒、カラー、カラーセロファンの画面を再現したものや2人対戦モードを搭載{{Sfn|懐かしゲームボーイパーフェクトガイド|2017|p=56}}。PCE版はオリジナルの対戦モードとそこに流れる挿入歌、面ごとに背景が変わるおまけモードが収録されている。
: [[Wii]]の[[バーチャルコンソール]]向けにSFC版が2008年9月16日、PCE SCD版が2009年3月3日より配信された。
: [[Wii U]]版バーチャルコンソール向けにSFC版が2016年10月12日より配信されている。現在バーチャルコンソールで新規にプレイできるのは、このWii U版が唯一。
; バーチャルボーイ版『スペースインベーダー バーチャルコレクション』
: バーチャルボーイの仕様により、赤一色の画面になっている。
; PlayStation版『スペースインベーダー2000』
: タイトー45周年記念ソフト(同名の携帯電話アプリの[[パチスロ]]がある)。前年に発売されたPS版『スペースインベーダー』の廉価版に相当し、「タイムアタックモード」が追加されている。
: なお、このソフトにはタイトーの他のゲーム『[[電車でGO!2高速編|電車でGO!2]]』と『[[Gダライアス]]』の体験版、『[[サイドバイサイドスペシャル]]』『Gダライアス』『[[電車でGO!]]』の特典ムービーが追加収録されている。また、ゲームディスクの音楽トラックにタイトーの歴代シューティングゲームの1面BGMが多数収録されている。
; ワンダースワン版
: 開発、発売はサンソフト。
; PlayStation・ゲームボーイカラー版『スペースインベーダーX』
; [[電子ゲーム]]版(バンダイ)
: バンダイより発売。キーチェーンタイプの携帯ゲームであり、背景にセロファンタイプを意識したり『インベーダー』のタイプが列によって違う等、液晶ゲームでありながらオリジナルを再現している。
; 電子ゲーム版(ヒロ)
: バンダイ版と同じくキーチェーンタイプの携帯ゲーム。バンダイ版と異なり、インベーダーは全て同じキャラになっている。
; PCタイピングソフト『SPACE INVA打!! 〜タイプしないとタマが出ない〜』
: タイトルどおり、タイピングソフトとなっている。
; 携帯アプリ版([[iアプリ]]・[[パナソニック]])
: [[パナソニック]]のPシリーズ専用サイトでPシリーズユーザー向けに無料で配信されていた。基本的にオリジナルのカラー版を再現している。
; PlayStation版『THE インベーダー 〜スペースインベーダー1500〜』
: [[SIMPLEシリーズ]]として発売された廉価版。
; ゲームボーイアドバンス版『スペースインベーダーEX』
; PlayStation 2・ニンテンドーゲームキューブ版『[[スペースレイダース]]』
: 人間をプレイヤーキャラクターにしたシリアスな雰囲気を持った作品。ゲームシステムは『スペースインベーダー』そのものになっている。
; PlayStation 2版『スペースインベーダー アニバーサリー』
: 生誕25周年記念ソフト。筐体型コントローラ同梱セットも発売された。
; ニンテンドーDS版『スペースインベーダーDS』
: 上画面をゲーム画面、下画面を操縦桿やアイテム画面に設定。New AGE ver モードを搭載。[[ニンテンドーDS]]初のシューティングゲーム。
; PlayStation Portable版『スペースインベーダーポケット』
; PlayStation Portable版『スペースインベーダー ギャラクシービート』
: 発売はマーベラスインタラクティブ(現・株式会社[[マーベラス (企業)|マーベラス]])。タイトーは開発に、ほぼ関与していない。
; ニンテンドーDS・PlayStation Portable・Xbox 360([[Xbox Live#Xbox Live Arcade(Xbox 360のみ)|XBLA]])版『[[スペースインベーダーエクストリーム]]』
: 生誕30周年記念ソフト。[[EXIT (ゲーム)|EXIT]]のスタッフが中心となって開発。背景がグラフィカルになり、BGMとSEがリンクし合う音楽ゲームの要素を含んでいる。また、[[アルカノイドDS]]と同様に「[[パドルコントローラ]]DS」にも対応している。PSP版はDS版とは趣向が少し異なる。2008年2月21日に発売。また、2009年5月9日よりXbox 360のXbox live arcadeにてダウンロード専用ソフトとして配信された。Xbox LiveによるVS対戦や協力プレイ、スコアアタック対戦が可能なほか、ビジュアルもHD画質になっている。
: 2018年2月13日にはSteamにてWindows向けに配信した。こちらは「スペースインベーダー40周年記念タイトル」としてのリリース。『インヴィンシブルコレクション』・『フォーエバー』へは、この版をベースとしたものが収録されている。
; Wii版([[Wiiウェア]])『スペースインベーダーゲットイーヴン 〜逆襲のスペースインベーダー〜』
: 2008年8月26日から配信開始。開発は[[キャトルコール]]。
:「ゲットイーヴン(get even)」とは「借りを返す」という意味。スペースインベーダー側になって地球上の兵器を倒していくという従来とは違った視点での[[アクションゲーム]]となっている。
; 携帯アプリ版『スペースインベーダーインフィニティジーン』(iPod touch、iPhone、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]、[[PlayStation 3|PS3]](PSN)、Xbox 360(XBLA))
: 従来の『スペースインベーダー』の抽象的なレトログラフィックと、近代シューティングゲームのシステムを組み合わせた作品。ステージが進行していくことによって、機体の変化や自由移動、地形の出現、巨大戦艦などが現れるなど、ゲームシステムが進化していく。『[[レイフォース]]』などのレイシリーズのロックオンレーザーや、『[[メタルブラック]]』のアイテムも登場する。音楽は[[ZUNTATA]]が担当。[[ニコニコ動画]]のタイトーチャンネルでもプレイ動画が配信された。
: 後に、iPhone/iPod touch版、並びにAndroid版([[auスマートパス]]会員向け専用版を含む)がそれぞれ配信された。こちらはさらに各種演出や機能が上がっている。また、Playstation networkおよびXbox Live arcard用ソフトとしても配信されている。
: PS3版ではPS3本体に保存してある音楽をステージBGMに設定してプレイ出来るモードあり。
: 本作グラフィック面の流れを汲んだ作品に『[[グルーヴコースター]]』がある。
; ニンテンドーDS版『[[スペースインベーダーエクストリーム"スペースインベーダーエクストリーム2|スペースインベーダーエクストリーム2]]』
: 『スペースインベーダーエクストリーム』の続編。2009年3月26日発売。ステージのノリを強化し、新たにビンゴによるボーナスなどをいれ、音楽性も含めて以前よりクールでポップな方向へ進んだ。パドルコントローラーDS対応。変わった趣向の一つとして、UFO-COという少女キャラを一部のステージに配している点がある(デザインは[[みなづきふたご]]が担当)。
; ニンテンドーDSi版『[[スペースインベーダーエクストリーム#スペースインベーダーエクストリーム Z|スペースインベーダーエクストリームZ]]』
: 『スペースインベーダーエクストリーム2』の一部仕様を変更したニンテンドーDSiウェア用ソフト。ステージ分岐が無くなり、エクステンドを廃している。
<!-- ; ニンテンドーDSi LL([[プチコン]]/SAMPLE7)
: 完成されたゲームでなくサンプルプログラムである。キャラクタグラフィック(デザインは『スペースファイター』に似ている)で構成された二列の敵が襲ってくる『インベーダー』もどきで、敵は弾を撃ってこない、画面下部まで行ってもゲームオーバーでなく、上部から再登場するなどの特徴を持つ。プチコン公式サイトでも、実行時の動画とプログラムリストがすべて公開されている。 -->
; Nintendo Switch版『スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション』
: 生誕40周年記念ソフト。本来の40周年は2018年だったが諸般の事情によりリリースは2020年となった。初代『スペースインベーダー』(AC版)を始めとした歴代作品から厳選された数作品(通常版6タイトル8バージョン<ref group="注釈" name="IC_Nomal Edition">2021年の「スペシャルエディション」リリース時に通常版がアップデートされており、現在は通常版も特装版と同じ数のゲームタイトルがプレイ可能となっている。</ref>、特装版9タイトル11バージョン収録、ほか別注版<!--(Amazonプライムデー版)-->に1タイトル)が一まとめされ、パッケージソフト化・販売された(ダウンロード版も同時リリース)。
: 収録作品中には[[#ブーム後]]に記載したイベント用ゲーム『スペースインベーダー ギガマックス』をベースに、家庭用ゲーム用として最大4人のマルチプレイを可能にするなどしたアレンジ版『スペースインベーダー ギガマックス 4 SE』やデジタルデバイス版『アルカノイド vs インベーダー』が初移植収録(『アルカノイド vs インベーダー』はスペシャル特典タイトルで、ダウンロード必須)。更に特装版には西角友宏が開発に関わったが本作とは直接関係は無いアーケードゲーム2作『[[スペースサイクロン]]』・『[[ルナレスキュー]]』も収録されている<ref group="注釈" name="IC_Nomal Edition" />。
: 2021年には特装パッケージ版に同梱された特典品を省き、『スペースサイクロン』・『ルナレスキュー』を正式収録ラインナップに加えた<ref group="注釈">この他『アルカノイド vs インベーダー』はパッケージ版にもダウンロード版にも最初から収録されており、別途にダウンロードする必要が無くなった。</ref>「スペシャルエディション」もリリースされた。
; Nintendo Switch版 / PlayStation 4版『スペースインベーダー フォーエバー』
: PS4へは初移植となる『スペースインベーダーエクストリーム』・『~ギガマックス4 SE』・『アルカノイド vs インベーダー』3タイトルを収録。
; [[イーグレットツー ミニ]]版
: タイトーが何らかの形で関わったアーケードゲームを多数収録した「復刻系ゲーム機」の1タイトルとして収録。収録作のなかでもっとも古い作品。内蔵の液晶画面を回転する機構があり、アーケード版と同じの「物理的な縦画面」でのプレイが可能。カラー版を収録。
== 評価 ==
{{コンピュータゲームレビュー
|title =
|Allgame = {{Rating|5|5}} (AC)<ref>{{cite web|last=Weiss|first=Brett Alan|title=Space Invaders|url=http://www.allgame.com/game.php?id=4717&tab=review|publisher=AllGame|accessdate=3 November 2014}}</ref><br />{{Rating|5|5}} (A26)<ref>{{cite web|last=Weiss|first=Brett Alan|title=Space Invaders|url=http://www.allgame.com/game.php?id=8572&tab=review|publisher=AllGame|accessdate=3 November 2014}}</ref><br />{{Rating|4|5}} (A52)<ref>{{cite web|last=Weiss|first=Brett Alan|title=Space Invaders|url=http://www.allgame.com/game.php?id=15766&tab=review|publisher=AllGame|accessdate=3 November 2014}}</ref><br />{{Rating|4|5}} (SFC)<ref>{{cite web|last=Weiss|first=Brett Alan|title=Space Invaders|url=http://www.allgame.com/game.php?id=7469&tab=review|publisher=AllGame|accessdate=3 November 2014}}</ref>
|EGM = 14/40点 (GB)<ref name="mobygames_GB">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/8806/space-invaders/ |title=Space Invaders for Game Boy (1990) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-27}}</ref>
|EuroG = 9/10点 (AC)<ref name="mobygames_AC">{{Cite web |author= |date= |url=https://www.mobygames.com/game/8806/space-invaders/ |title=Space Invaders for Arcade (1978) |website=[[:en:Moby Games|Moby Games]] |publisher=Blue Flame Labs |language=[[英語]] |accessdate=2018-01-27}}</ref>
|Fam = 19/40点 (GB)<ref name="famitsu"/><br />23/40点 (MD)<ref name="famitsu2"/><br />21/40点 (SFC)<ref name="famitsu3"/><br />20/40点 (PCECD)<ref name="famitsu4"/><br />15/40点 (VB)<ref name="famitsu5"/><br />16/40点 (SS)<ref name="famitsu6"/><br />17/40点 (PS)<ref name="famitsu7"/>
|rev1 = [[ファミリーコンピュータMagazine]]
|rev1Score = 14.8/30点 (GB){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=489}}<br />18.7/30点 (SFC){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=297}}<br />17.5/30点 (VB){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=489}}
|rev2 = [[:en:The Games Machine|The Games Machine]]
|rev2Score = 43% (GB)<ref name="mobygames_GB"/>
|rev3 = [[ドリームキャストFAN|メガドライブFAN]]
|rev3Score = 15.6/30点 (MD){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=853}}
|rev4 = [[PC Engine FAN]]
|rev4Score = 19.4/30点 (PCECD){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=603}}
|rev5 = SATURN FAN
|rev5Score = 15.6/30点 (SS){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=734}}
|rev6= PlayStation Magazine
|rev6Score = 18.2/30点 (PS){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=981}}
|award1Pub = [[ゲーメスト]]
|award1 = ザ・ベストゲーム 第40位{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=63|ps= - 「最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30」より}}<br />(1991年)
|award2Pub = [[:en:List of video games considered the best|1st Arcade Awards]]
|award2 = [[ゲーム・オブ・ザ・イヤー]]<ref name="award">{{cite journal|title=The Arcade Awards|journal=Electronic Games|date=Winter 1981|volume=1|issue=1|pages=38–9|url=http://www.digitpress.com/library/magazines/electronic_games/electronic_games_winter81.pdf|accessdate=February 1, 2012}}</ref>
|award3Pub = [[ギネス世界記録]]
|award3 = [[:en:List of video games considered the best|Top Arcade Game]]<ref name="GWR08-3">{{cite book| editor= Craig Glenday| title= Guinness World Records Gamer's Edition 2008| series= [[ギネス世界記録]]| date= March 11, 2008| publisher= Guinness| isbn= 978-1-904994-21-3| page= 237| chapter= Top 100 Arcade Games: Top 5}}</ref>
|award4Pub = [[タイムズ]]
|award4 = Most Influential Video Game Ever<ref name="the-times">[https://web.archive.org/web/20110902230443/http://technology.timesonline.co.uk/tol/news/tech_and_web/gadgets_and_gaming/article2455080.ece The ten most influential video games ever], ''[[The Times]]'', September 20, 2007</ref>
}}
{|class="wikitable floatright" style="font-size:70%; text-align:center; width:25%"
|+ 「ゲーム通信簿」評価
|-
! 項目
| キャラクタ || 音楽 || お買得度 || 操作性 || 熱中度 || オリジナリティ
! 総合
|-
! GB版
| 2.4 || 2.3 || 2.5 || 2.7 || 2.6 || 2.4
! 14.8
|-
! MD版
| 2.7 || 2.6 || 2.3 || 2.8 || 2.7 || 2.6
! 15.6
|-
! SFC版
| 2.9 || 2.8 || 3.7 || 3.4 || 3.2 || 2.8
! 18.7
|-
! PCE版
| 3.3 || 3.3 || 3.3 || 3.4 || 3.6 || 2.6
! 19.4
|-
! VB版
| 3.2 || 3.1 || 2.6 || 3.1 || 2.9 || 2.6
! 17.5
|-
! SS版
| 2.1 || 2.7 || 2.4 || 3.1 || 2.9 || 2.4
! 15.6
|-
! PS版
| 2.9 || 3.1 || 3.2 || 3.3 || 3.1 || 2.6
! 18.2
|}
アーケード版はゲーメストムック『ザ・ベストゲーム』([[1991年]])において、『[[ゲーメスト]]』読者による全アーケードゲームを対象とした人気投票で第40位を獲得した{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=63|ps= - 「最も愛されたゲームたち!! 読者が選んだベスト30」より}}。巻末の「ビデオゲームフルリスト」の紹介文では、「いまだにこの作品を、知名度、売り上げともに抜くものがいないと言われるくらい有名。55匹の敵を左右移動の砲台で撃つというシューティングを確立した」と評されている{{Sfn|ザ・ベストゲーム|1991|p=194|ps= - 「ビデオゲーム フルリスト」より}}。
ゲーメストムック『ザ・ベストゲーム2』([[1998年]])では『名作・秀作・天才的タイトル』と認定された「ザ・ベストゲーム」に選定され、ライターのがっちんは本作を「タイトーから発売された、ゲーム界に残る歴史的な名作」と位置付け、後のゲームはほぼ全て本作を基本として発展したと主張し、55匹の侵略者を左右移動可能な自機で撃ち落とすというシステムが単純であると指摘しながらも、本作がシューティングゲームを確立したと評価した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=71|ps= - 「ザ・ベストゲーム」より}}。また、当時では斬新であった本作のゲームシステムが(当時として)「画期的であり」(プレイヤーたちに)「驚きと興奮を与えた」と指摘したほか、すべての筐体が本作で埋め尽くされた「インベーダーハウス」が存在したことを指摘、「もはや伝説となったインベーダーに匹敵する作品の出現は2度とないだろうとまで言われている」と総括した{{Sfn|ザ・ベストゲーム2|1998|p=71|ps= - 「ザ・ベストゲーム」より}}。ゲーム本『甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編』では、本作の元となった[[アタリ (企業)|アタリ]]の『[[ブロックくずし|ブレイクアウト]]』([[1976年]])が動作しないブロックを破壊するのに対し、本作では敵が左右に移動しながら攻撃してくる事が大ヒットの要因であると結論づけている{{Sfn|アーケードゲーム大全|2019|p=018}}。
移植版の評価は、ゲーム誌『[[ファミ通|ファミコン通信]]』の「[[クロスレビュー]]」において、メガドライブ版は合計23点(満40点)<ref name="famitsu2">{{Cite web|和書|date = |url = http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=2191 |title = スペースインベーダー'90 まとめ <nowiki>[メガドライブ]</nowiki> |website = [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher = [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate = 2015-05-06}}</ref>、スーパーファミコン版は6・4・6・5の合計21点(満40点)<ref name="famitsu3">{{Cite web|和書|date = |url = https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=2190 |title = スペースインベーダー 〜ザ・オリジナルゲーム〜 まとめ <nowiki>[スーパーファミコン]</nowiki> |website = [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher = [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate = 2016-01-11}}</ref>、PCエンジンSUPER CD-ROM²版は6・5・4・5の合計20点(満40点)<ref name="famitsu4">{{Cite web|和書|date = |url = http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=21964 |title = スペースインベーダー ジ・オリジナルゲーム まとめ <nowiki>[PCエンジン]</nowiki> |website = [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher = [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate = 2015-05-06}}</ref>とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は合計19点(満40点)<ref name="famitsu">{{Cite web|和書|date = |url = http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=13808 |title = スペースインベーダーズ まとめ <nowiki>[ゲームボーイ]</nowiki> |website = [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher = [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate = 2015-05-06
}}</ref>、バーチャルボーイ版が4・4・4・3の合計15点(満40点)<ref name="famitsu5">{{Cite web|和書|date = |url = http://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=21801 |title = スペースインベーダー ヴァーチャルコレクション まとめ <nowiki>[etc]</nowiki> |website = [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher = [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate = 2016-01-11
}}</ref>、セガサターン版は合計16点(満40点)<ref name="famitsu6">{{Cite web|和書|date = |url = https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=14970 |title = スペースインベーダー まとめ <nowiki>[セガサターン]</nowiki> |website = [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher = [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate = 2021-08-07}}</ref>、PlayStation版は合計17点(満40点)<ref name="famitsu7">{{Cite web|和書|date = |url = https://www.famitsu.com/cominy/?m=pc&a=page_h_title&title_id=2189 |title = スペースインベーダー まとめ <nowiki>[PS]</nowiki> |website = [[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher = [[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |accessdate = 2016-01-11}}</ref>といずれも低評価となった。
[[徳間書店]]のゲーム誌における読者投票による「ゲーム通信簿」での評価は右記の通り、スーパーファミコン版が『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』において合計18.7点(満30点){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=297}}、PCエンジンSUPER CD-ROM²版が『[[PC Engine FAN]]』において合計19.4点(満30点){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=603}}、PlayStation版が『[[PlayStation Magazine]]』において合計18.2点(満30点){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=981}}とそれぞれ標準的な評価となったが、ゲームボーイ版は『ファミリーコンピュータMagazine』において合計14.8点(満30点){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=489}}、メガドライブ版が『[[ドリームキャストFAN|メガドライブFAN]]』において合計15.6点(満30点){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=853}}、バーチャルボーイ版が『ファミリーコンピュータMagazine』において合計17.5点(満30点)となっている{{Sfn|超絶 大技林|1998|p=489}}、セガサターン版が『SATURN FAN』において合計15.6点(満30点){{Sfn|超絶 大技林|1998|p=734}}といずれも低評価となった。
{{Clear}}
== 亜流「インベーダーゲーム」及びその関連 ==
本項では[[タイトー]]スペースインベーダーを含む、それと類似したゲームの総称として当時頻繁に使われた『'''インベーダーゲーム'''』一般について取り扱う。
=== スペースインベーダー亜流のもの ===
亜流を製造したメーカーは50〜80社と言われ、当時日本で亜流を出さなかったのは、『[[ギャラクシアン]]』を開発中の[[バンダイナムコエンターテインメント|ナムコ]]だけだった。[[マコト電子工業]]の『スーパー・インベーダー』<ref>[http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/doc/juris/ydcj-s58-3-30.htm スペース・インベーダー(スーパー・インベーダー)事件第一審判決] - Space Invader Game Case Yokohama District Court Judgement</ref>、[[ウコー・コーポレーション]]の『ファイティングミサイル』(スペースミサイル)<ref>[http://www.ampress.co.jp/backnumber/bn2002.11.15.htm 『ゲームマシン』2002年11月15日号 20年前の主なニュース] - アミューズメント通信社</ref>、[[ワールドベンディング]]の『インベーダーウォーズ』<ref>[http://www.ampress.co.jp/backnumber/bn1999.04.15.htm 『ゲームマシン』1999年4月15日号 20年前の主なニュース] - アミューズメント通信社</ref>、[[日本物産]]の『ムーンベース』<ref>[http://www.ampress.co.jp/backnumber/bn2001.03.01.htm 『ゲームマシン』2001年3月1日号 20年前の主なニュース] - アミューズメント通信社</ref>、[[アイ・エヌ・ジ・エンタープライゼス]]のコピーゲーム<ref>[http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/doc/juris/tdcj-s57-12-6.htm スペース・インベーダー・パートⅡ事件判決] - Space Invader Game Case Yokohama District Court Judgement</ref>に対する損害賠償請求訴訟は、ゲーム業界初期の[[知的財産]]トラブル事例とされる。プログラムを勝手にコピーすることは犯罪であるという判例がきっかけとなり、著作権法の一部が改正された{{Sfn|相田洋|大墻敦|1997|p=154}}。
内容はタイトーとほぼ同じではあるが、[[ハードウェア]]や[[ソフトウェア]]の全てをそのままコピーした[[デッドコピー]]と表現するしかないような物から、ゲーム内容が似せてあるだけで中身は独自に開発した物まであった。キャラデザインやUFOの動きなどをアレンジしたもの、文字表示を[[片仮名|カタカナ]]にしたもの、[[2in1筐体]]で遊べる等の差別化を行った製品が出るようになり、逆に独自技術で亜流を作ったメーカーの中には、ハード的制約で完全再現できないものまで存在していた。こうしたゲーム会社の殆どは、『ブロックくずし』を作る為に創業し、『インベーダー』の亜流で会社を大きくし、ブーム後は『インベーダー』のノウハウを活かして独自のゲームを作り始めた。そう考えると、日本ゲーム業界での『ブロックくずし』は生みの親、『インベーダー』は育ての親と言える。
しかし亜流のメーカーがリメイクを制作することはまずなく、現在では亜流を遊ぶことは一部の[[2in1筐体#%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96|エミュレーター筐体]]での稼働を除けば、ほとんど不可能といってもいい。
全種は紹介しきれないので、ここでは後にメジャーとなったメーカー、またはフィーチャーが独特で多くのプレイヤーの記憶に残ったものを抜粋して紹介する。
; スペースフィーバー([[任天堂|任天堂レジャーシステム]]){{Sfn|山崎功|2014|p=100}}。
: 敵の配置に3つのモードがある、敵が12列おり他社製品よりも小さい、画面上部に残機やクレジットの表示、画面下部にスコア表示など画面構成が大きく異なる、UFO撃墜時など各フィーチャー時に簡単なBGMがあるなど(ゲームオーバー時には[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]『[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]』のワンフレーズが流れる)など、他の亜流と比べ特徴が多い。モノクロ版とカラー版があり、カラー版ではUFOが虹色表示される。ミニアップライト筐体が玩具店にリース設置されることが多かった。開発は後に[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]を作る[[上村雅之]]、プログラムは『[[ドンキーコング]]』の[[池上通信機]]、キャラと筐体のデザインは[[宮本茂]]と、そうそうたるスタッフが揃っていた。続編として敵もUFOも分裂する「SFハイスプリッター」を出している。後に『[[ポケットカメラ]]』の[[ミニゲーム]]として『スペースフィーバーII』が登場したが、そちらは『[[ギャラクシアン]]』『[[ギャラガ]]』に近い。
; コスミックモンスター([[ユニバーサルエンターテインメント|ユニバーサル]])
: 初代と『II』を出しているが、流通数は圧倒的に『II』が多いので、単に『コスミックモンスター』と言えば『II』を指す。『II』の特徴は敵の配置が下から10、10、20、20、20点となっている事で、UFO(100〜1000点)を撃ちのがすと30点の敵が補充される。
; スペースアタック([[セガ・インタラクティブ|セガ]])
[[ファイル:Space_attack.jpg|サムネイル|スペースアタック(撮影:[[GENDA SEGA Entertainment|セガ秋葉原3号館]])]]
: 各キャラに固有の色がある(背景が青く、黒色の敵が存在する)、UFOが最後に襲撃してくる、点数が10点でなく100点単位である等の特徴を持つ。しかし名古屋撃ちが出来なかったり、最終的には初期位置が「名古屋撃ち」状態まで下がり配色の関係上モノクロモニターでの稼働に向かなかったという、導入障壁のために出回りが悪かったため、メーカーの知名度に反して人気は低かった。続編として敵をさらに複雑化した『インビンコ』を出した他、別述の『スペースフィーバー』『スペースアタック』も製造・発売していた。
; スペースキング([[レジャック]])
: タイトーのキャラ、コンパネ、文字(カタカナにした)だけを変えたもの。
; スペースストレンジャー([[バンプレスト|豊栄産業]])
: 通称減点インベーダー。トーチカを撃つと50点減点される(但し0点未満にはならない)ことが大きな特徴。しかしこの減点は不評だったため、後期バージョンでは減点しなくなっている。またUFOが方向転換をして撃墜しにくくなっている。名古屋撃ちは通用しない。
; スペースファイター([[データイースト]])
: 敵が14列もいる、UFOが画面上部を常に往復していて5発で破壊され(得点は、1発当てるごとに10→20→30→40→破壊され50点、あるいは5発目で破壊され200点)、タイトー版とは最も違いがある。また複数のゲームが遊べる等、筐体のバージョンも多かった。『mkII』と題されたバージョン(画面上のタイトル表記は『スペースファイター』のみ)以降は、敵を全滅させるとUFOが攻撃しながら下りてきて、最下段まで達するとゲームオーバーになる<ref group="注釈">{{Cite web|url=http://www.ballyalley.com/ballyalley/articles/astrocade_arcade_games.txt|title=Arcade Games Based Around Astrocade Chipset Version 1.01|author=Adam Trionfo|publisher=ballyalley|date=2006-03-21|accessdate=2014-05-27}}</ref>。
; ムーンベース([[日本物産]])
: 基本はタイトー版の改造だが、最大の特徴は殆ど画面に出っ放しのUFOで、2プレイヤー側のレバーで移動したりミサイルを発射できる。バージョンも幾つかあり、白黒画面の『ムーンベース』、カラー画面の『ムーンベースSPECTOR』、『スペースインベーダーパートII』のコピーである『ムーンベースZETA』、[[シムス (企業)|サンリツ電機]]から発売された『メロディーパート3』と同内容の『スーパームーンベース』などが発売された。また、『ムーンベース』のアーケードフライヤーと[[筐体]]には[[ジョージ・ルーカス]]作品の『[[スター・ウォーズ・シリーズ|スター・ウォーズ]]』に登場する[[ダース・ベイダー]]のイラストが無断使用されているほか<ref>[http://www.flyerfever.com/post/99693164523/moon-base ムーンベース・アーケードフライヤー]</ref>、[[インストラクションカード]]には『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』に登場する[[白色彗星帝国]]のイラストが無断使用されている。1980年に発行された企業案内パンフレットには日本物産のオリジナル作品として京都の製造工場とともに『ムーンベース』が写真付きで紹介されているほか、『スペースインベーダー』のキャラクターを無断使用した日本物産直営のゲームセンターも確認できる<ref>1980年発行の企業案内パンフレット『[http://flyers.arcade-museum.com/?page=thumbs&db=videodb&id=3508 Frontier Spirit of Amusement Nichibutsu]』より。</ref>。
; メロディーパート3([[シムス (企業)|サンリツ電機]])
: この名前は[[インストラクションカード]]の表記で、デモ画面の表示には『[[スペースウォー|SPACE WAR]]』『MUSIC INVADER』の2種類がある。各フィーチャー時に簡単なBGMがあり、例えば点滅UFO撃墜時には[[ピンクレディー]]の『UFO』、自機を失うと[[細川たかし]]の『[[心のこり]]』(歌詞の内容にかけている)などが流れる。1面クリア時に1000点以上のスコアだと、ハイスコアでなくてもネームエントリーが出来る。
; ゴールデンインベーダー([[KeyHolder|シグマ]])
: タイトーとルール上の差異は殆どない。自社の直営店のゲームセンター専用だったので、他のゲームセンターには置いていなかった。
; ギャラクシーフォース([[サン電子]])
: [[ギャラクシーフォース|同名のセガのゲーム]]や[[トランスフォーマー ギャラクシーフォース|トランスフォーマーのアニメ]]とは無関係。
; スペースコンバット([[ジャレコ|ジャパンレジャー]])
: 同社の初ゲーム作品。
; シャトルインベーダー(大森電機)
; ビームインベーダー(テクノン工業)
{{Main|ドラキュラハンター#テクノン工業}}
=== スペースインベーダー基板を流用したもの ===
ブーム後にナムコから『ギャラクシアン』が出たが、『ギャラクシアン』の基板は一つのキャラに複数の色が付けられる画期的なもので、中小メーカーはこぞって『ギャラクシアン』基板の流用ゲームを出した。タイトーも『ギャラクシアン』に匹敵する基板を既に開発していたが、『インベーダー』基板が大量に残り、廃棄するのも無理があったので、西角らはまず『インベーダー』基板の[[Read Only Memory|ROM]]だけ差し替え、別のゲームを作ることとなった。このため1979 - 1981年にタイトーから出たゲームの色や音は、工場で新造されたものは独自の仕様だったが、インベーダー基板を流用したものは、色と音(当時はまだ[[シンセサイザー]]がなく、[[抵抗器]]を一つ一つ付け、『インベーダー』の場合8種類の音が用意されていた)の両方または片方が、『インベーダー』と同じままだった。基板流用ゲームは、主に以下のタイトルなどが挙げられる(メーカーにリンクがあるものは後述)。
; タイトー
* [[スペースチェイサー]]
* [[スペースモンスター]]
* [[バルーンボンバー]]
* [[ルナレスキュー]]
* [[ルパン三世 (タイトー)|ルパン三世]]
; ウイング
* [[アドベンチャー (ウイング)|アドベンチャー]]
* [[与作とドン平]]
; SNK
* [[アトムスマッシャー]]
* [[オズマウォーズ]]
; [[レジャック]]
* [[カミカゼ (レジャック)|カミカゼ / Astro Invader]]
* [[スペースウォー (レジャック)|スペースウォー]]
; その他のメーカー
* [[ギャラクシアン|スペーシアン]](タートル)
* [[ギャラクシーウォーズ]](ユニバーサル)
* [[ブラックビートルズ]](電気音響)
* [[ローリングクラッシュ]](日本物産)
タイトー以外ではセガ・エンタープライゼス(現・株式会社[[セガ]])の『[[ヘッドオン]]』基板もROM交換で対応しており、1981年頃までは大手のセガやタイトーより中小メーカーの方が、華やかな色のゲームを作れるという、一見矛盾した展開が見られた。
=== スペースインベーダーの影響を受けたゲーム ===
; [[バルーンボンバー]](タイトー)
: 西角の作品。横に動く敵が徐々に下がって来る点が『スペースインベーダー』と全く同じだが、[[列車砲]]の下の土台が敵の[[風船爆弾]]によって破壊されると、移動範囲が狭くなってしまう。
; 第三惑星([[サン電子]])
: 障害物を避けながら、地球に攻めてくる敵を倒す内容は『スペースインベーダー』と同じだが、敵の位置関係が上下左右に広がっている。また日本のアーケードテレビゲームで初めて、三回破壊でなく、部分ダメージ三回被弾でゲームオーバーとなった。基板はインベーダーのコピー『ギャラクシーウォーズ』と同じ。
; [[シェリフ (ゲーム)|シェリフ]]([[任天堂]]レジャーシステム)
: 『第三惑星』同様、ゲームの位置関係が上下左右に広がったもの。基板は『スペースフィーバー』と同じ。
; [[ギャラクシーウォーズ]]([[ユニバーサルエンターテインメント]])
: ミサイルを操作してUFOを撃ち落とす。『スペースインベーダー』からの流用が重視された構造で、『スペースインベーダー』からは[[Read only memory|ROM]]の交換だけで対応可能で、3種類の効果音も全て流用。別述の『コスミックモンスター』がタイトーと裁判になった為、和解に伴う見返りとしてタイトーにもライセンスされた。『[[ヘッドオン]]』と共にポスト・インベーダーを狙った作品として知られたが、結局その存在はギャラクシアンに隠れてしまった。またオリジナル基板はセキュリティが高かったが、タイトーにライセンスされたことでセキュリティの存在しないタイトー基板が出回ることとなり、タイトー版を元としたコピーが多数作られることとなった。
; 与作とゴン平(ジャトレ)
: [[北島三郎]]の歌『[[与作]]』のゲーム化と言えば、[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]製、[[オーエム]]製、[[カセットビジョン]]の「木を切るゲーム」が有名だが、こちらは与作が木を切るまでに(切り終えると『与作』が2小節鳴ってゲームオーバー)、木にとまっているカラスを全て撃ち落すのが目的。カラスは『インベーダー』の様に編隊を組んでいるが、動かずに点滅している。消えている時は弾が通っても死なず、また動かないので同じ横座標ばかりに糞(弾)を落とすため、『インベーダー』と比べて難易度は高い。一般にはデモ画面に表示される「与作」二文字が通称となっている。内容が全く同じ『与作とドン平』(ウイング)が存在するが、両作とも製作はヨリイエレクトロニクス(斉藤好考社長)で、販売が2社からされたというだけで、どちらかが海賊版というわけではない。定価は『与作とゴン平』(ジャトレ)が、35万8千円、『与作とドン平』(ウイング)が51万5千円となっている。
: キャラデザイン等を変えたコピーゲーム、『権平』(豊栄産業)が存在する。
: 『与作とドン平』は、ELEC GAMEシリーズとして[[ポピー (玩具メーカー)|シンセイ(新正工業)]]より電子ゲームに移植されている。
; コスミックゲリラ(ユニバーサル)
: 『インベーダー』同様トーチカやUFO、姿も動き(『インベーダー』は4拍子だったが、こちらの敵は8拍子)もカニに似た敵が登場するが、敵の目的は画面下部への侵略でなく、中央のブロックを運んで砲台を持ち去る。砲台が端まで持ち去られると、被弾しなくても一回ミスとなる。
; [[カミカゼ (レジャック)|カミカゼ]]([[コナミ]])
: 「画面下部への侵攻を目指す多数の小型の[[雑魚キャラクター]]」「UFOという母船」「画面下部で左右にしか移動できない砲台」などは『インベーダー』と同じだが、画面上部から登場する雑魚キャラやUFOが地表に到達すると衝撃波を出し、これに触れても砲台がやられる、というゲーム内容になっている。基板はインベーダーのコピー『スペースキング』と同じ。
; [[ギャラクシアン]]([[バンダイナムコエンターテインメント|ナムコ]])
: 陣形はインベーダーと変わりないが、敵が下に侵略するのではなく、弧を描きながら飛来することで、ゲーム進行がスリリングになった作品。
; [[センティピード (ゲーム)|センティピード]]、ミリピード([[アタリ (企業)|アタリ]]→センチピードはサンリツ電気がライセンス販売)
: 自然と昆虫をモチーフにしたゲーム。それぞれネーミングは敵キャラクターの[[ムカデ]]と[[ヤスデ]]で、画面を左右往復しつつ降下してくる。最下部まで来ても侵略にはならず、多少上昇しつつ最下部で暴れまわる。『センティピード』の続編が『ミリピード』。
; [[幻魔大戦 (映画)|幻魔大戦]]([[データイースト]])
: [[レーザーディスク]]を使用したゲーム。背景としては異例のアニメーション映像ゲームだが、バリヤーを張ることが可能でテレポートが出来る。
; [[インター・ステラ (ゲーム)|インター・ステラ]]([[船井電機]])
: 上記の『幻魔大戦』と同様、[[レーザーディスク]]を使用したゲーム。[[コンピュータグラフィックス]]を使用したゲームだが、斜面撃ちが出来る。
; バトランティス(コナミ)
: 『インベーターブーム』直後ではなく、『[[アルカノイド]]』から始まったオールドゲームリメイクブーム時の作品(1987年7月)。中世ファンタジー風の舞台で、城壁上から地上の敵を撃つ。アイテムや大型のボスキャラも登場する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em|refs=
<ref name="日経20181023">{{Cite web|和書|author= |date=2018-10-23 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXKZO36761700S8A021C1BC8000/ |title=インベーダー 心撃つ熱意◇発売から40年 単純な面白さ追求した開発の日々◇ |website=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |accessdate=2019-09-08}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書 |title = ザ・ベストゲーム |journal = 月刊[[ゲーメスト]]7月号増刊 |volume = 6 |number = 7 |date = 1991-07-01 |publisher = [[新声社]] |asin = B00BHEECW0 |pages = 63 - 228 |ref = {{SfnRef|ザ・ベストゲーム|1991}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 7月号特別付録 メガドライブ&ゲームギア オールカタログ'93 |journal = [[ドリームキャストFAN|メガドライブFAN]] |volume = 5 |number = 7 |date = 1993-07-15 |publisher = [[徳間書店]] |page = 59 |ref = {{SfnRef|メガドライブFAN|1993}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 10月号特別付録 PCエンジンオールカタログ'93 |journal = [[PC Engine FAN]] |volume = 6 |number = 10 |date = 1993-10-01 |publisher = [[徳間書店]] |page = 80 |ref = {{SfnRef|PC Engine FAN|1993}}}}
* {{Cite book|和書 |author=相田洋 |author2=大墻敦 |title = 新・電子立国〈4〉ビデオゲーム・巨富の攻防 |date = 1997-01-20 |publisher = [[NHK出版|日本放送出版協会]] |pages = 130 - 142 |isbn = 9784140802748 |ref = harv}}
* {{Cite book |和書 |author1=青柳宇井郎 |author2=南原順 |author3=[[森木靖泰]] |date=1997-10-25 |title=面白懐かし人気ゲーム99の秘密 スペースインベーダーから最新作まで |edition= |publisher=[[二見書房]] |series=二見WAi WAi文庫 |oclc=674798472 |ref={{SfnRef|青柳ほか|1997}} }}ISBN 4-576-97131-X、ISBN 978-4-576-97131-5。
* {{Cite journal|和書 |title = GAMEST MOOK Vol.112 ザ・ベストゲーム2 アーケードビデオゲーム26年の歴史 |journal = [[ゲーメスト]] |volume = 5 |number = 4 |date = 1998-01-17 |publisher = [[新声社]] |isbn = 9784881994290 |page = 71 |ref = {{SfnRef|ザ・ベストゲーム2|1998}}}}
* {{Cite journal|和書 |title = 超絶 大技林 '98年春版 |journal = [[PlayStation Magazine]] |number = 増刊4月15日号 |date = 1998-04-15 |publisher = [[徳間書店]]/インターメディア・カンパニー |asin = B00J16900U |pages = 297 - 981 |ref = {{SfnRef|超絶 大技林|1998}}}}
* {{Cite book|和書 |author=大下英治 |authorlink=大下英治 |title = 孫正義 掟破りの決断([[講談社+α新書]]) |date = 2000-09-01 |publisher = [[講談社]] |pages = 140 - 143 |isbn = 9784062720359 |ref = harv}}
* {{Cite book|和書 |author=小林雅一 |title = 音楽・ゲーム・アニメ コンテンツ消滅 |date = 2004-11-19 |publisher = [[光文社]] |pages = 91 - 95 |isbn = 9784334933463 |ref = harv}}
* {{Cite book|和書 |author= |title = ARCADE GAMERS 白書 Vol.1 |date = 2010-10-22 |publisher = メディア・パル |page = 10 |isbn = 9784896101089 |ref = {{SfnRef|ARCADE GAMERS 白書 Vol.1|2010}}}}
* {{Cite book|和書 |author=山崎功 |title = 任天堂コンプリートガイド玩具編 |date = 2014-12-05 |publisher = [[主婦の友社]] |page = 100 |isbn = 9784072947579 |ref = harv}}
* {{Cite book|和書 |title = M.B.MOOK 懐かしゲームボーイパーフェクトガイド |date = 2017-02-25 |publisher = マガジンボックス |page = 56 |isbn = 9784866400259 |ref = {{SfnRef|懐かしゲームボーイパーフェクトガイド|2017}}}}
* {{Cite book|和書 |title = ゲームボーイクソゲー番付 |date = 2017-09-25 |publisher = マイウェイ出版 |page = 84 |isbn = 9784865117790 |ref = {{SfnRef|ゲームボーイクソゲー番付|2017}}}}
* {{Cite book|和書 |title = 甦る 20世紀アーケードゲーム大全 Vol.1 アイデア満載! ユニークゲーム編 |date = 2019-09-30 |publisher = メディアパル |pages = 18 - 19 |isbn = 9784802110372 |ref = {{SfnRef|アーケードゲーム大全|2019}}}}
== 関連項目 ==
=== インベーダーが登場する作品 ===
* [[ゲームセンターあらし]]
: 本ゲームが登場するだけでなく、インベーダーが主人公愛用の帽子のマークになるなど、この作品の象徴的な役割を担う。
* [[ゼンダマン]]
: 第32話「[[武蔵坊弁慶|弁慶]]サンだよ!ゼンダマン」で、ゼンダライオンのシステムメカがインベーダー軍団。アクダマンはアクダマメカ「ドンドンブリッジメカ」に搭載した砲塔でインベーダーを次々と撃破するが、UFOメカに気を取られた隙に最後のインベーダーにメカは撃破される。
* [[ルパン三世 (TV第2シリーズ)]]
: 第93話は「万里の長城インベーダー作戦」。
* [[少女探偵スーパーW]]
: 第14話はインベーダーゲームを流用した話。
=== インベーダーの一部要素の登場など ===
* [[バブルボブル]]シリーズ
: ゲーム中のキャラを模したステージや敵が登場する。
* [[ラブアタック!]]
: 本ゲームが流行した当時、「撃チン! 恋のインベーダー」というゲームが第1部のゲームとして使われた。内容の詳細は[[ラブアタック!#第1部の主なゲーム]]を参照。
* [[Mr.Boo!インベーダー作戦]]
: [[マイケル・ホイ]]主演の香港映画『賣身契』の邦題。
* [[ぽっぷんぽっぷ]]
: 1998年に発売されたタイトーの打ち上げ式[[パズルゲーム]]。消去対象となる風船の挙動が『スペースインベーダー』に準じたものになっている。
* [[グルーヴコースター]]
: 2011年に発売されたタイトーの[[音楽ゲーム]]。同じレトロ調ベクターグラフィックスの表現を用いた『スペースインベーダー インフィニティジーン』のスタッフが手掛けた続編とも言える作品。ロゴマークにインベーダーがあしらわれており、正式に『スペースインベーダー』シリーズの一つとなっている。
=== 楽曲 ===
* Computer Game -Theme from the invader-(作曲・編曲:[[イエロー・マジック・オーケストラ|YMO]]、1978年11月)
: 本作と同時期に活動を開始。ファーストアルバム『[[イエロー・マジック・オーケストラ_(アルバム)|イエロー・マジック・オーケストラ_]]』に収録。当初は実機より直接録音を試みたが、最終的に[[シンセサイザー]]でプレイ中のサウンドを再現し、トラックを作成した。
* ディスコ・スペース・インベーダー(作詞・作曲:[[遠藤敬三]]、編曲・演奏:[[ファニー・スタッフ]]、[[ユニバーサルミュージック (日本)|エルボンレコード]] 、1979年1月25日<ref name="wyomi_790603">『[[読売ウイークリー|週刊読売]]』1979年6月3日号、34頁。</ref>)
:タイトー協力のもと、実機のゲーム音声を使用した<ref>{{Cite web|和書|author=hally |date=2020-04-15 |url=https://www.4gamer.net/games/464/G046469/20200324041/ |title=タイトーサウンドかく発祥せり。「スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション」発売を記念し亀井道行氏&今村善雄氏にインタビュー |website=[[4Gamer.net]] |publisher=[[デジタルハーツホールディングス|Aetas]] |accessdate=2021-08-07}}</ref>。1979年5月時点で12万枚を売り上げた<ref name="wyomi_790603" />。
* インベーダーWALK(A面)/あいつはインベーダ(B面)(歌:[[マキ上田]]、1979年)
: マキ上田は女子プロレスラーのタッグチーム「[[ビューティ・ペア]]」の一人。
* [[インベーダーインベーダー]](歌:[[きゃりーぱみゅぱみゅ]]、unBORDE(ワーナーミュージック・ジャパン)、2013年5月15日)
:6作目のシングル曲。
* スペース・インヴェイダー(Space Invader)(歌:[[エース・フレーリー]]、2014年)
: 元[[キッス]]のギタリストのソロ作品。アルバムのアートワークは[[ケン・ケリー]]が手がけたもので「上方を向いた宇宙船」が描かれている。ファン・アートもいくつか製作された。
[[ファイル:Invader Dance 2018-12-31.gif|thumb|DA PUMP「U.S.A.」のインベーダーダンス]]
* [[U.S.A. (曲)|U.S.A.]](歌:[[DA PUMP]]、2018年)
: シングル曲。間奏部分でフォーメーションを組みながら素早くカニ歩きするパートは「インベーダーダンス」と呼ばれた。上記の『グルーヴコースター』にもswitch版『ワイワイパーティー!!!!』に収録されている。
== 外部リンク ==
* [https://spaceinvaders.jp SPACE INVADERS|スペースインベーダー公式サイト]
;各作品のサイト
* [https://spaceinvaders.jp/SIIC/index.html スペースインベーダー インヴィンシブルコレクション特設ページ]
* [https://www.nintendo.co.jp/ds/software/airj/index.html スペースインベーダーDS]
* [http://dlgames.square-enix.com/jp/vc/2009/spaceinvaders/ バーチャルコンソール SPACE INVADERS]
* {{Wiiバーチャルコンソール|si|SPACE INVADERS The Original Game(スーパーファミコン版)}}
* [https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000014547 SPACE INVADERS The Original Game(スーパーファミコン版)] - Wii Uバーチャルコンソール
* [https://www.sourcenext.com/products/cyberfront/invadersX/ スペースインベーダーX] - (ソースネクスト)
* [https://www.d3p.co.jp/s_20/s20_052.html スペースレイダース] - (D3パブリッシャー)
* {{Wayback|url=https://www.jp.playstation.com/software/title/uljm05045.html |title=スペースインベーダーギャラクシービート |date=20060702025902}} - PlayStation ソフト情報ページ
<!--マーベラスのサイト「 http://www.mmv.co.jp/special/game/psp/INVADER_GALAXYBEAT/ 」はサイトリニューアルにより消失したので、PSサイトを追記しました。-->
* [https://www.taito.co.jp/egret2mini/title#GAME01 タイトー公式webサイト > イーグレットツー ミニ 商品情報]
**「収録タイトル」> 本作へのダイレクトリンク。(「紹介動画」は全タイトルまとめたもので、本作の紹介は数秒程度)
; 関連情報のサイト
* {{NHK放送史|D0009030166_00000|インベーダーゲーム大流行}}
** アーケード版が稼働を開始した1979年当時の映像を断片的に紹介(映像 約50秒)。
* {{Kotobank}}
** 一般語句を検索できるサイトの「スペースインベーダー」解説。(大元の記述出典は[[小学館]]デジタル[[大辞泉]]プラスからのもの)
* [https://www.taito.co.jp/Error/404 タイトー公式webサイト「ページが見つかりません」]
** サイトに存在しないページのurlを指定すると、このページ(いわゆる「[[HTTP_404|404]]」ページ)にリダイレクトされるが、ここでタイニー(簡易)インベーダーを遊ぶことができる。(操作はキーボード。自機1ミスで即ゲームオーバーとなるがリトライは可能)
<!--私的サイト「http://www18.atpages.jp/ttfan/invaders.html インベーダーハウスへようこそ!」は、現在内容が全消失し、アンケートサイトになっています。あまり積極的に掲載閲覧するようなものでもないので、リンクはコメントアウトしました。-->
以下は非公式なデータベースサイト(すべて英語表記)。
* [http://www.arcade-history.com/?n=space-invaders&page=detail&id=2537 Space Invaders]([http://www.arcade-history.com/ Arcade-History])
* {{Imdb title|id=0294933|title=Space Invaders}}
* [[StrategyWiki:Space Invaders]]
* {{MobyGames|id=/8806/space-invaders/|name=Space Invaders}}
{{スペースインベーダー}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すへえすいんへえたあ}}
[[Category:スペースインベーダー|*]]
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7,265 | 動物学 | 動物学(どうぶつがく、英語:zoology)は、動物を対象とする学問。自然史学の一部門に由来し、現在では生物学の一分野とされる。古典的には物質を鉱物・植物・動物にわけることが一般的だったため、博物学も鉱物学、植物学、動物学にわけられていた。
動物学の始まりは古代ギリシアにあると見ることも出来るとされる。発生学、生理学、生態学、動物行動学、形態学などの視点から研究が行われてきた。
近年では生物の分類が様変わりし、研究分野が細分化されたため、動物学の内容が多様化し、この語が用いられる頻度は低くなった。対象とする分類群によって哺乳類学、昆虫学、魚類学などと分けられることもある。動物の古生物を対象とする場合は古動物学と呼ぶ。
動物学は、時代を遡ると古代ギリシャのアリストテレスによる研究にまで遡ることが出来る。現代まで残されている著作としては Historia animalium『動物誌』、De generatione animalium『動物発生論』、De partibus animalium『動物部分論』などがある。
近代動物学に影響を与えた存在としてチャールズ・ダーウィンの存在が挙げられ、19世紀以降、発展的に研究が進んだ。
動物の研究では、まず体内の構造の研究が優先して進んだ。これは、
などが理由に挙げられる。最後の点に関しては、逆に医学的研究による発見が生物学に反映される場合もあった。このような研究は17世紀以降に大きく進歩した。(そのような初期の発見の代表的なもののひとつがウイリアム・ハーベーによる血液循環の発見である。)
このようにして集められた知識は、次第に様々な動物の内部構造を比較し、関連づけられるようになって比較解剖学を生んだ。代表的な研究者にジョルジュ・キュヴィエやマルチェロ・マルピーギなどである。このような知見の集積は、古生物学において化石という往々にして断片的な生物片からその生物の正体を求める上でも大いに役立った。このような比較解剖学と古生物学の知見は、進化論の形成にも大きな役割を担ったものである。最初の主要な進化論者であるジャン=バティスト・ラマルクも、彼と対立したキュヴィエもこの分野の研究者であった。
19世紀には、生物学の様々な分野が大きく変化した。顕微鏡を使用した研究方法は、技術的革新と共に一定の結果を蓄積するようになり、動物の構造を器官から組織や細胞のレベルで調べることが当たり前になり始めた。それに基づき、生物は細胞から構成されるという細胞説も確立した。この世紀の後半には細胞内の構造が追究されるようになった。ゴルジ体や中心体などの発見はこの時期である。組織や細胞に関する様々な特徴は、電子顕微鏡レベルを除いてはこの世紀の末には、一旦はほぼ完成したと言っていいだろう。
また、化学分野の発展に基づいて、生物体内における化学についても追究が行われるようになった。尿素の人工合成や血糖量調節に関する研究が行われた。より基本的な細胞内の化学的過程である酵素作用や呼吸などの研究は、むしろ微生物を対象にこの世紀の後半から始まる。これは、いわば目に見える生物に関する記述から生物一般の基本的性質の科学へと生物学が変化し始めたとも取れる。
発生学の分野でも変動が大きい。細胞説の成立を受けて、発生をそこから見直す流れが生まれ、カール・エルンスト・フォン・ベーアによってヒトの卵が確認され、様々な動物の卵からの発生が観察された。これらの知識を元に、様々な動物の発生を比較し、そこから知見を得ようという流れが比較発生学と呼ばれる。これは比較形態学の流れをくむものでもある。それを進化論的にまとめようとしたのがエルンスト・ヘッケルの反復説であった。しかし、それに飽きたらず、発生の機構そのものを解明しようとする動きが生じ、いわゆる実験発生学の流れが生まれる。
進化論はすでに発表され、多くの学者に論じられながらも力を得ることはできなかったが、チャールズ・ダーウィンによる自然選択説は、それまでの諸説やそれに対する反対を打ち砕くだけの説得力を持ち、生物学のみならず、多くの分野に影響を与えることとなった。少なくとも生物学の中では、様々な現象を進化の概念抜きでは論じられなくなった。グレゴール・ヨハン・メンデルによる遺伝法則の発見もこの世紀の大発見ではあるが、それが注目を浴びたのは19世紀最後の年であり、遺伝学そのものの発展は20世紀に持ち越される。これは、染色体など、生殖に関する細胞学レベルの研究が未だ十分になされていなかった点も大きい。
20世紀は生物学が大発展した時代である。その大きい部分は生化学と分子生物学の分野であるが、その多くが微生物を用いて展開された。
発生学は、19世紀末に生まれた実験発生学の流れにそって発展し、ハンス・シュペーマンによる誘導の発見が一つの山となった。しかし、その後に進歩は停滞し、遺伝子研究の進歩を待つこととなった。
19世紀末から始まった病原微生物の研究は、ルイ・パスツール・ロベルト・コッホらによって発展し、ワクチンや予防接種などといった伝染病への対応策を持つに至ったが、これは動物学の側から見れば動物の生体防御のしくみが明らかになる過程であった。ここから体液性免疫の存在が明らかになり、やや遅れてイリヤ・メチニコフは白血球の食作用による生体防御の存在を明らかにした。 | [
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] | 動物学は、動物を対象とする学問。自然史学の一部門に由来し、現在では生物学の一分野とされる。古典的には物質を鉱物・植物・動物にわけることが一般的だったため、博物学も鉱物学、植物学、動物学にわけられていた。 動物学の始まりは古代ギリシアにあると見ることも出来るとされる。発生学、生理学、生態学、動物行動学、形態学などの視点から研究が行われてきた。 近年では生物の分類が様変わりし、研究分野が細分化されたため、動物学の内容が多様化し、この語が用いられる頻度は低くなった。対象とする分類群によって哺乳類学、昆虫学、魚類学などと分けられることもある。動物の古生物を対象とする場合は古動物学と呼ぶ。 | {{出典の明記|date=2011年10月}}
{{動物学}}
'''動物学'''(どうぶつがく、[[英語]]:zoology)は、[[動物]]を対象とする[[学問]]。[[自然史学]]の一部門に由来し、現在では[[生物学]]の一分野とされる。古典的には物質を[[鉱物]]・[[植物]]・動物にわけることが一般的だったため、[[博物学]]も[[鉱物学]]、[[植物学]]、動物学にわけられていた。
動物学の始まりは[[古代ギリシア]]にあると見ることも出来るとされる。[[発生生物学|発生学]]、[[生理学]]、[[生態学]]、[[動物行動学]]、[[形態学 (生物学)|形態学]]などの視点から研究が行われてきた。
近年では[[生物の分類]]が様変わりし、研究分野が細分化されたため、動物学の内容が多様化し、この語が用いられる頻度は低くなった。対象とする分類群によって[[哺乳類学]]、[[昆虫学]]、[[魚類学]]などと分けられることもある。動物の[[古生物]]を対象とする場合は古動物学と呼ぶ。
== 古代~19世紀まで ==
動物学は、時代を遡ると古代ギリシャの[[アリストテレス]]による研究にまで遡ることが出来る。現代まで残されている著作としては
Historia animalium『[[動物誌 (アリストテレス)|動物誌]]』、De generatione animalium『[[動物発生論]]』、De partibus animalium『[[動物部分論]]』などがある。
近代動物学に影響を与えた存在として[[チャールズ・ダーウィン]]の存在が挙げられ、19世紀以降、発展的に研究が進んだ。
動物の研究では、まず体内の[[構造]]の研究が優先して進んだ。これは、
*運動や感覚という動物らしさを感じさせる性質のしくみを探求するためには解剖が必要であったこと
*植物とは異なり、内部の構造が肉眼的に区別できる[[器官]]の形を取っていること
*食料とするために動物を解体することが古くからおこなわれていたこと
*我々自身が肉体的には動物であり、その知見が[[医学]]に生かせるから
などが理由に挙げられる。最後の点に関しては、逆に医学的研究による発見が生物学に反映される場合もあった。このような研究は17世紀以降に大きく進歩した。(そのような初期の発見の代表的なもののひとつが[[ウイリアム・ハーベー]]による血液循環の発見である。)
このようにして集められた知識は、次第に様々な動物の内部構造を比較し、関連づけられるようになって[[比較解剖学]]を生んだ。代表的な研究者に[[ジョルジュ・キュヴィエ]]や[[マルチェロ・マルピーギ]]などである。このような知見の集積は、[[古生物学]]において[[化石]]という往々にして断片的な生物片からその生物の正体を求める上でも大いに役立った。このような比較解剖学と古生物学の知見は、[[進化論]]の形成にも大きな役割を担ったものである。最初の主要な進化論者である[[ジャン=バティスト・ラマルク]]も、彼と対立したキュヴィエもこの分野の研究者であった。
== 19世紀 ==
19世紀には、生物学の様々な分野が大きく変化した。[[顕微鏡]]を使用した研究方法は、技術的革新と共に一定の結果を蓄積するようになり、動物の構造を器官から[[組織 (生物学)|組織]]や細胞のレベルで調べることが当たり前になり始めた。それに基づき、生物は細胞から構成されるという[[細胞説]]も確立した。この世紀の後半には細胞内の構造が追究されるようになった。[[ゴルジ体]]や[[中心体]]などの発見はこの時期である。組織や細胞に関する様々な特徴は、[[電子顕微鏡]]レベルを除いてはこの世紀の末には、一旦はほぼ完成したと言っていいだろう。
また、[[化学]]分野の発展に基づいて、生物体内における化学についても追究が行われるようになった。[[尿素]]の人工合成や[[血糖量]]調節に関する研究が行われた。より基本的な細胞内の化学的過程である[[酵素]]作用や呼吸などの研究は、むしろ[[微生物]]を対象にこの世紀の後半から始まる。これは、いわば目に見える生物に関する記述から生物一般の基本的性質の科学へと生物学が変化し始めたとも取れる。
[[発生生物学|発生学]]の分野でも変動が大きい。細胞説の成立を受けて、発生をそこから見直す流れが生まれ、[[カール・エルンスト・フォン・ベーア]]によってヒトの[[卵]]が確認され、様々な動物の卵からの[[発生]]が観察された。これらの知識を元に、様々な動物の発生を比較し、そこから知見を得ようという流れが[[比較発生学]]と呼ばれる。これは[[比較形態学]]の流れをくむものでもある。それを進化論的にまとめようとしたのが[[エルンスト・ヘッケル]]の[[反復説]]であった。しかし、それに飽きたらず、発生の機構そのものを解明しようとする動きが生じ、いわゆる[[実験発生学]]の流れが生まれる。
進化論はすでに発表され、多くの学者に論じられながらも力を得ることはできなかったが、[[チャールズ・ダーウィン]]による[[自然選択説]]は、それまでの諸説やそれに対する反対を打ち砕くだけの説得力を持ち、生物学のみならず、多くの分野に影響を与えることとなった。少なくとも生物学の中では、様々な現象を進化の概念抜きでは論じられなくなった。[[グレゴール・ヨハン・メンデル]]による遺伝法則の発見もこの世紀の大発見ではあるが、それが注目を浴びたのは19世紀最後の年であり、[[遺伝学]]そのものの発展は20世紀に持ち越される。これは、染色体など、生殖に関する[[細胞生物学|細胞学]]レベルの研究が未だ十分になされていなかった点も大きい。
== 20世紀 ==
20世紀は生物学が大発展した時代である。その大きい部分は[[生化学]]と[[分子生物学]]の分野であるが、その多くが微生物を用いて展開された。
発生学は、19世紀末に生まれた実験発生学の流れにそって発展し、[[ハンス・シュペーマン]]による誘導の発見が一つの山となった。しかし、その後に進歩は停滞し、遺伝子研究の進歩を待つこととなった。
19世紀末から始まった病原微生物の研究は、[[ルイ・パスツール]]・[[ロベルト・コッホ]]らによって発展し、[[ワクチン]]や[[予防接種]]などといった[[伝染病]]への対応策を持つに至ったが、これは動物学の側から見れば動物の[[生体防御]]のしくみが明らかになる過程であった。ここから体液性免疫の存在が明らかになり、やや遅れて[[イリヤ・メチニコフ]]は[[白血球]]の食作用による生体防御の存在を明らかにした。
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|生き物と自然|break=yes}}
* [[Wikipedia:多数の言語版にあるが日本語版にない記事/生物]]
== 外部リンク ==
*[http://www.zoology.or.jp/ 日本動物学会]
*[http://www.wildlife-photo.org/index-jp.htm 鳥および動物の写真撮影、火格子移動]
{{生物学}}
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[[Category:動物学|*]]
[[Category:博物学]]
[[Category:生物学の分野]] | 2003-04-25T02:02:00Z | 2023-12-18T12:12:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%AD%A6 |
7,266 | 鼻行類 | 鼻行類(びこうるい)は、動物学論文のパロディ作品である書籍の題名、およびその書籍で紹介される架空の動物の名である。
原著の正式な題名は「Bau und Leben der Rhinogradentia」(鼻行類の構造と生活)。著者はハラルト・シュテュンプケ(Harald Stümpke)としているが、これは架空の人物であり、実際にはドイツの動物学者、ゲロルフ・シュタイナー(Gerolf Steiner、1908年5月22日 - 2009年8月14日)である。作中では、この書籍は「シュテュンプケの遺稿である鼻行類についての調査報告書を、友人であるシュタイナーがまとめたもの」としており、シュテュンプケは鼻行類の現地調査に向かった後に行方不明になったとされている。
『鼻行類』はハラルト・シュテュンプケ名義で書かれた、架空の生き物「鼻行類」を解説した書籍である。1961年発行。フィクションではあるが、生物学の学術書によくある、特定の分類群に関する総説の形式を巧みに表現してあり、個々の動物の記述は客観的かつ冷静である。
特に、一つの群島における哺乳類の一分類群の適応放散をシミュレートする、という試みにおいても興味深いものである。鼻で歩くというのがいかにも奇妙であるが、考えてみればゾウの鼻でもずいぶんと奇妙であるし、生物界にはびっくりするような適応の例はいくらでもある。しかしそれが鼻であることが一種のおかしみを醸し出している。さらにダンボハナアルキなどは、耳を羽ばたかせて飛ぶというディズニーアニメのダンボを生物学的に具現化してみせたものである。それ以外にも、寄生性の哺乳類など、実在しないものを無理やり創り出したものもある。なお、顔を花に擬態させて虫を捕るというハナモドキなどは、ほぼ同様の案が『アフターマン』でも使われており、言わば、アイディアの収斂が見られる。イカモドキは繊毛粘液摂食を陸上のしかも哺乳類にさせる思考実験ともとれる。
その学術論文のパロディとしての完成度はかなり高い。鼻行類についての記述のみならず、ハイアイアイ群島の現地人の文化や鼻行類研究の歴史なども、それらしく描かれている。また、巻末の参考文献一覧なども一見の価値がある。その系統樹を完全なものとしては描かず、多くの疑問や異説を含むかたちで提出するあたりにも、学術論文的なリアリティがある。また、地鼻類の項では単にこの架空の分類群のみならず、扁形動物門三岐腸類の系統にまで話を広げるあたりは、いかにも意欲的な研究者の書きそうな話でもある。線画による細密画も生物学論文的なもので、ときに違ったタッチのものが混じるのは、総論的な学術論文ではよくある、他の研究者の論文からの引用によって異なったタッチの図が入り交じるという事実を巧みに模したものである。
古い詩(これは実在する)の引用から始まり、核実験による島の消滅という終焉を末尾に置くというドラマチックな構成は、単なるパロディ論文というよりは、論文という体裁をとった一つのおとぎ話としても成立している。サイエンスフィクションならぬ、バイオロジーフィクション作品と呼べるであろう。
なお、本文中では始めに少し説明がある以外には言及がないが、この島はきわめて古い時代に孤立して以降、独自の進化の道をたどっており、そのために高等な昆虫が欠けている。したがって、図中に描かれている昆虫はいずれもゴキブリやカゲロウなど古い型のものかそれに由来するものであり、よく見るとそれらしく描かれている。
『鼻行類』は後に著された『平行植物』および『アフターマン』と併せて「生物系三大奇書」と呼ばれることがある。このうち、『平行植物』が民俗学的書籍の、『アフターマン』が一般向け科学解説書(あるいは、子供向け科学図鑑)のパロディーの体裁をとるのに対して、『鼻行類』は徹底して科学分野の専門書のパロディーである。
そのため、関わりを持つ人物には生物学の専門家が多い。上記のように本当の作者も動物学者であるし、日本語訳は一級の動物行動学者である日高敏隆が行っている。フランス語版にはフランス動物学会の重鎮であったピエール=ポール・グラーセが序文を書き、総合学説で説明できるのか・コビトハナアルキは鼻行類なのか、について否定的な疑問を呈すると、ジョージ・ゲイロード・シンプソンが『サイエンス』誌の書評にてグラーセの見解に対し、総合学説で説明可能でありコビトハナアルキは鼻行類であると反論した。
本書の評価本(『シュテンプケ氏の鼻行類 - 分析と試論』ゲーステ著・今泉訳)が出版されている。このほか、片倉・馬渡の『動物の多様性』(2007年、培風館)では標本に関する議論の中でこの書を取り上げ、それが虚構であることには一切触れずに、「標本が存在しないため、これを確認することが不可能であること」を惜しみ、フランスの博物館にて一時展示されていたハナススリハナアルキの剥製(当然作り物である)について「その時に解剖を依頼すればよかった」と悔やんでいる(もちろんこれも手の込んだ冗談である)。
ドイツのシュテフェン・ヴォアスは『ジェットハナアルキ Aurivolans propulsator PILOTOVA (哺乳綱,鼻行目)における飛行の原理について』という論文を書き、その中でジェットハナアルキというあたらしい鼻行類について解説している。この論文の和訳は日本語版『鼻行類』の思索社版と博品社版には補遺として掲載されていた。
荒俣宏は『世界大博物図鑑』において、「フランスでは鼻行類という分類は認められていない。これは、大統領シャルル・ド・ゴール(在任期間:1958- 1969年)が、巨大な鼻を持つ自分への当てこすりであるとして、パリ植物園への鼻行類の標本搬入を拒否したためである」と記述している。これも分類のくだりは冗談であると思われるが、パリ植物園への標本搬入拒否についての真偽は定かでない。
鼻行類(びこうるい、架空の学名:Rhinogradentia、別名:ハナアルキ[鼻歩き])は、同名の書籍に掲載された、想像上の生物である小獣の一群。鼻行目 (Rhinogradentia) に分類される哺乳類の一分類群(タクソン)であり、1957年までは南太平洋のハイアイアイ群島に生息していたという設定である。
南太平洋に存在するハイアイアイ群島に生息していた動物。鼻を歩行や捕食等に使用する。滑りやすいハイアイアイ群島で、滑って転ぶのを防ぐために鼻で体を支えたのが、この特異な進化の発端ではないかとされる。また、ゴキブリなどの昆虫を捕食するために、地面に顔をこすりつけていたことにより、このような進化を遂げたという説もある。なお、鼻が歩行器として発達したのと対照的に、多くの群で四肢の退化が見られ、一部では後肢あるいは四肢すべてを完全に失った例もある。
ナゾベームのように頭を下にして鼻で歩く姿が有名であるが、多様な進化を遂げた鼻行類の鼻は、歩行に用いるだけでなく捕食などにも使用されている。例えば、ハナススリハナアルキ (Emunctator sorbens) は粘着力のある鼻汁をたらすことで魚を釣り上げることで知られている。
全14科189種からなるこの生物群は、1942年にスウェーデン人探検家エイナール・ペテルスン=シェムトクヴィスト (Einar Pettersson-Skämtkvist) によって発見された。ドイツ人博物学者ハラルト・シュテュンプケ(Harald Stümpke、cf. ドイツ人動物学者ゲロルフ・シュタイナー[Gerolf Steiner])の著書『鼻行類』に詳しい。
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"text": "そのため、関わりを持つ人物には生物学の専門家が多い。上記のように本当の作者も動物学者であるし、日本語訳は一級の動物行動学者である日高敏隆が行っている。フランス語版にはフランス動物学会の重鎮であったピエール=ポール・グラーセが序文を書き、総合学説で説明できるのか・コビトハナアルキは鼻行類なのか、について否定的な疑問を呈すると、ジョージ・ゲイロード・シンプソンが『サイエンス』誌の書評にてグラーセの見解に対し、総合学説で説明可能でありコビトハナアルキは鼻行類であると反論した。",
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"text": "ドイツのシュテフェン・ヴォアスは『ジェットハナアルキ Aurivolans propulsator PILOTOVA (哺乳綱,鼻行目)における飛行の原理について』という論文を書き、その中でジェットハナアルキというあたらしい鼻行類について解説している。この論文の和訳は日本語版『鼻行類』の思索社版と博品社版には補遺として掲載されていた。",
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"text": "荒俣宏は『世界大博物図鑑』において、「フランスでは鼻行類という分類は認められていない。これは、大統領シャルル・ド・ゴール(在任期間:1958- 1969年)が、巨大な鼻を持つ自分への当てこすりであるとして、パリ植物園への鼻行類の標本搬入を拒否したためである」と記述している。これも分類のくだりは冗談であると思われるが、パリ植物園への標本搬入拒否についての真偽は定かでない。",
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"text": "鼻行類(びこうるい、架空の学名:Rhinogradentia、別名:ハナアルキ[鼻歩き])は、同名の書籍に掲載された、想像上の生物である小獣の一群。鼻行目 (Rhinogradentia) に分類される哺乳類の一分類群(タクソン)であり、1957年までは南太平洋のハイアイアイ群島に生息していたという設定である。",
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"text": "南太平洋に存在するハイアイアイ群島に生息していた動物。鼻を歩行や捕食等に使用する。滑りやすいハイアイアイ群島で、滑って転ぶのを防ぐために鼻で体を支えたのが、この特異な進化の発端ではないかとされる。また、ゴキブリなどの昆虫を捕食するために、地面に顔をこすりつけていたことにより、このような進化を遂げたという説もある。なお、鼻が歩行器として発達したのと対照的に、多くの群で四肢の退化が見られ、一部では後肢あるいは四肢すべてを完全に失った例もある。",
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"text": "ナゾベームのように頭を下にして鼻で歩く姿が有名であるが、多様な進化を遂げた鼻行類の鼻は、歩行に用いるだけでなく捕食などにも使用されている。例えば、ハナススリハナアルキ (Emunctator sorbens) は粘着力のある鼻汁をたらすことで魚を釣り上げることで知られている。",
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"text": "全14科189種からなるこの生物群は、1942年にスウェーデン人探検家エイナール・ペテルスン=シェムトクヴィスト (Einar Pettersson-Skämtkvist) によって発見された。ドイツ人博物学者ハラルト・シュテュンプケ(Harald Stümpke、cf. ドイツ人動物学者ゲロルフ・シュタイナー[Gerolf Steiner])の著書『鼻行類』に詳しい。",
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"text": "1957年の核実験によって引き起こされた地殻変動によりハイアイアイ群島は海没・消滅し、この時、鼻行類も絶滅したとされる。",
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] | 鼻行類(びこうるい)は、動物学論文のパロディ作品である書籍の題名、およびその書籍で紹介される架空の動物の名である。 原著の正式な題名は「Bau und Leben der Rhinogradentia」(鼻行類の構造と生活)。著者はハラルト・シュテュンプケとしているが、これは架空の人物であり、実際にはドイツの動物学者、ゲロルフ・シュタイナーである。作中では、この書籍は「シュテュンプケの遺稿である鼻行類についての調査報告書を、友人であるシュタイナーがまとめたもの」としており、シュテュンプケは鼻行類の現地調査に向かった後に行方不明になったとされている。 | '''鼻行類'''(びこうるい)は、[[動物学]][[論文]]の[[パロディ]]作品である[[書籍]]の[[題名]]、およびその書籍で紹介される[[架空の生物|架空の動物]]の[[名前|名]]である。
[[原著]]の正式な題名は「''Bau und Leben der Rhinogradentia''」(鼻行類の構造と生活)。著者は'''ハラルト・シュテュンプケ'''(Harald Stümpke)としているが、これは架空の人物であり、実際には[[ドイツ]]の動物学者、'''ゲロルフ・シュタイナー'''({{sname||Gerolf Steiner}}、[[1908年]][[5月22日]] - [[2009年]][[8月14日]])である。作中では、この書籍は「シュテュンプケの遺稿である鼻行類についての調査報告書を、友人であるシュタイナーがまとめたもの」としており、シュテュンプケは鼻行類の現地調査に向かった後に行方不明になったとされている。
== 概要 ==
{{独自研究|section=1|date=2009年12月}}
『'''鼻行類'''』はハラルト・シュテュンプケ名義で書かれた、[[架空]]の生き物「鼻行類」を解説した書籍である。[[1961年]]発行。[[フィクション]]ではあるが、[[生物学]]の[[学術書]]によくある、特定の[[タクソン|分類群]]に関する総説の形式を巧みに表現してあり、個々の動物の記述は[[主体と客体|客観]]的かつ冷静である。
特に、一つの[[群島]]における[[哺乳類]]の一分類群の[[適応放散]]をシミュレートする、という試みにおいても興味深いものである。[[鼻]]で歩くというのがいかにも奇妙であるが、考えてみれば[[ゾウ]]の鼻でもずいぶんと奇妙であるし、生物界にはびっくりするような[[適応 (生物学)|適応]]の例はいくらでもある。しかしそれが鼻であることが一種のおかしみを醸し出している。さらにダンボハナアルキなどは、耳を羽ばたかせて飛ぶという[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]][[アニメーション|アニメ]]の[[ダンボ]]を生物学的に具現化してみせたものである。それ以外にも、[[寄生]]性の哺乳類など、実在しないものを無理やり創り出したものもある。なお、[[顔]]を[[花]]に[[擬態]]させて[[虫]]を捕るというハナモドキなどは、ほぼ同様の案が『[[アフターマン]]』でも使われており、言わば、アイディアの[[収斂]]が見られる。イカモドキは[[繊毛粘液摂食]]を陸上のしかも哺乳類にさせる[[思考実験]]ともとれる。
その学術論文のパロディとしての完成度はかなり高い。鼻行類についての記述のみならず、ハイアイアイ群島の現地人の[[文化]]や鼻行類研究の[[歴史]]なども、それらしく描かれている。また、巻末の[[参考文献]]一覧なども一見の価値がある。その[[系統樹]]を完全なものとしては描かず、多くの疑問や異説を含むかたちで提出するあたりにも、学術論文的なリアリティがある。また、地鼻類の項では単にこの架空の分類群のみならず、[[扁形動物|扁形動物門]][[ウズムシ目|三岐腸類]]の系統にまで話を広げるあたりは、いかにも意欲的な[[研究者]]の書きそうな話でもある。線画による[[ミニアチュール|細密画]]も[[生物学]]論文的なもので、ときに違ったタッチのものが混じるのは、総論的な学術論文ではよくある、他の研究者の論文からの[[引用]]によって異なったタッチの図が入り交じるという事実を巧みに模したものである。
古い[[詩]](これは実在する)の[[引用]]から始まり、[[核実験]]による島の消滅という終焉を末尾に置くというドラマチックな構成は、単なるパロディ論文というよりは、[[論文]]という体裁をとった一つの[[おとぎ話]]としても成立している。[[サイエンスフィクション]]ならぬ、バイオロジーフィクション作品と呼べるであろう。
なお、本文中では始めに少し説明がある以外には言及がないが、この[[島]]はきわめて古い時代に孤立して以降、独自の[[進化]]の道をたどっており、そのために高等な[[昆虫]]が欠けている。したがって、図中に描かれている昆虫はいずれも[[ゴキブリ]]や[[カゲロウ]]など古い型のものかそれに由来するものであり、よく見るとそれらしく描かれている。
== 影響 ==
『鼻行類』は後に著された『[[平行植物]]』および『[[アフターマン]]』と併せて「[[生物学|生物]]系[[三大奇書]]」と呼ばれることがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kousakusha.co.jp/NEWS/weekly20170822.html |date=2017-08-22 |accessdate=2021-05-19 |publisher=[[工作舎]] |title=『平行植物』新装版 第3刷出来}}</ref><ref name=常数2017>{{Cite journal|和書|title=P. B. シェリーによる科学的想像力―世界の再発見 |author=常数晃大 |year=2017 |volume=47 |pages=47-62 |url=https://doi.org/10.20802/eibeibunka.47.0_47 |doi=10.20802/eibeibunka.47.0_47 |journal=英米文化}}{{フリーアクセス}}</ref>。このうち、『平行植物』が[[民俗学]]的[[書籍]]の、『アフターマン』が一般向け[[科学]]解説書(あるいは、[[子供]]向け科学[[図鑑]])の[[パロディー]]の体裁をとるのに対して、『鼻行類』は徹底して'''科学分野の専門書のパロディー'''である。
そのため、関わりを持つ人物には生物学の[[専門家]]が多い。上記のように本当の作者も動物学者であるし、[[日本語訳]]は一級の動物行動学者である[[日高敏隆]]が行っている。[[フランス語]]版にはフランス動物学会の重鎮であった[[ピエール=ポール・グラーセ]]が序文を書き、総合学説で説明できるのか・コビトハナアルキは鼻行類なのか、について否定的な疑問を呈すると、[[ジョージ・ゲイロード・シンプソン]]が『サイエンス』誌の書評にてグラーセの見解に対し、総合学説で説明可能でありコビトハナアルキは鼻行類であると反論した。
本書の評価本(『シュテンプケ氏の鼻行類 - 分析と試論』ゲーステ著・今泉訳)が出版されている。このほか、片倉・馬渡の『動物の多様性』([[2007年]]、[[培風館]])では[[標本 (分類学)|標本]]に関する議論の中でこの書を取り上げ、それが虚構であることには一切触れずに、「標本が存在しないため、これを確認することが不可能であること」を惜しみ、フランスの[[博物館]]にて一時展示されていたハナススリハナアルキの[[剥製]](当然作り物である)について「その時に[[解剖]]を依頼すればよかった」と悔やんでいる(もちろんこれも手の込んだ冗談である)。
ドイツのシュテフェン・ヴォアスは『ジェットハナアルキ ''Aurivolans propulsator'' P<small>ILOTOVA</small> (哺乳綱,鼻行目)における飛行の原理について』という論文を書き、その中で[[ジェットハナアルキ]]というあたらしい鼻行類について解説している。この論文の和訳は日本語版『鼻行類』の思索社版と博品社版には補遺として掲載されていた。
[[荒俣宏]]は『世界大博物図鑑』において、「[[フランス]]では鼻行類という分類は認められていない。これは、[[大統領]][[シャルル・ド・ゴール]](在任期間:[[1958年|1958]]- [[1969年]])が、巨大な鼻を持つ自分への当てこすりであるとして、[[パリ植物園]]への鼻行類の[[標本 (分類学)|標本]]搬入を拒否したためである」と記述している。これも分類のくだりは冗談であると思われるが、パリ植物園への標本搬入拒否についての真偽は定かでない。
== 架空の生物としての鼻行類 ==
{{注意|本項の記述の全ては上述の書籍『鼻行類』([[偽書#フィクションにおける来歴の虚偽|cf.]])に基づいている。あたかも事実であるかのような文体に徹しているが、その形式自体が本書が持つ趣旨の忠実な再現となっている。小説、漫画、映画などの創作作品を扱ったウィキペディアの記事における、作中の人物紹介と同様に、架空のものである事を了承されたい。}}
<!--「Wikipedia:フィクションを明確に区別」というルールが存在します。定義部の フィクションであることを示す記述を除去しないでください。-->
'''鼻行類'''(びこうるい、[[架空]]の[[学名]]:'''Rhinogradentia'''、別名:'''ハナアルキ'''['''鼻歩き'''])は、同名の書籍に掲載された、[[架空の生物|想像上の生物]]である小獣の一群。'''鼻行目''' (Rhinogradentia) に分類される[[哺乳類]]の一[[タクソン|分類群(タクソン)]]であり、[[1957年]]までは[[南太平洋]]の[[ハイアイアイ群島]]に生息していたという設定である。
=== 概要 ===
{{生物分類表
|色 = 動物界
|名称 = 鼻行目(架空)
|fossil_range = {{Fossil range|late Cretaceous|0.0001}}
|画像 =
|画像キャプション =
|status = <span style="background-color: slateblue; color: yellow; border: 1px; ">絶滅 (EX)</span>
|地質時代 = [[中生代]][[白亜紀|白堊紀]]後期もしくは[[新生代]][[第三紀]]<!--当時の名称--> - [[第四紀]][[完新世]]([[1957年]])
|界 = {{small|(分類は発見当時のもの)}}<br />[[動物|動物界]] [[w:Animal|Animalia]]
|門 = [[脊索動物|脊索動物門]] [[w:Chordate|Chordata]]
|亜門 = [[脊椎動物|脊椎動物亜門]] [[w:Vertebrate|Vertebrata]]
|綱 = [[哺乳類|哺乳綱]] [[w:Mammal|Mammalia]]
|目 = {{small|(架空)}}'''鼻行目''' {{sname||Rhinogradentia}}
|学名 = {{small|(架空)}}<br />'''Rhinogradentia'''<br />{{small|[[w:Harald Stümpke|Stümpke]], [[1961年|1961]]}}
|和名 = '''鼻行目'''
|英名 = Snouters、Rhinogrades、Nasobames
|下位分類名 = 下位分類群([[科 (分類学)|科]])
|下位分類 =
* ムカシハナアルキ科 Archirrhidae
* ナメクジハナアルキ科 Nasolimacidae
* ツツハナアルキ科 Rhinocolumnidae
* クダハナアルキ科 Rhinosiphonidae
* ラッパハナアルキ科 Rhinostentoridae
* モグラハナアルキ科 Rhinotalpidae
* タダハナアルキ科 Holorrhinidae
* リョウトビハナアルキ科 Perihopsidae
* トビハナアルキ科 Hopsorrhinidae
* ランモドキ科 Orchidiopsidae
* ナゾベーム科 Nasobemidae
* オニハナアルキ科 Tyrannonasidae
* オナジハナアルキ科 Isorrhinidae
* ゾウハナアルキ科 Anisorrhinidae
* ハナムカデ科 Rhinochilopidae
}}
[[ファイル:Hopsorrhinus aureus.jpeg|right|thumb|250px|トビハナアルキ(''Hopsorrhinus aureus'' )の再現(ヴィースバーデン自然史博物館)]]
[[ファイル:Musée zoologique de Strasbourg-Rhinograde (Rhinogradentia, cropped).jpg|right|thumb|240px|鼻汁を垂らして水生動物を捕獲するハナススリハナアルキの偽剥製(ストラスブール動物学博物館)]]
[[南太平洋]]に存在する[[ハイアイアイ群島]]に生息していた[[動物]]。[[鼻]]を[[歩行]]や[[捕食]]等に使用する。滑りやすいハイアイアイ群島で、滑って転ぶのを防ぐために鼻で体を支えたのが、この特異な進化の発端ではないかとされる。また、[[ゴキブリ]]などの[[昆虫]]を捕食するために、地面に顔をこすりつけていたことにより、このような進化を遂げたという説もある。なお、鼻が歩行器として発達したのと対照的に、多くの群で[[脚|四肢]]の[[退化]]が見られ、一部では後肢あるいは四肢すべてを完全に失った例もある。
ナゾベームのように[[頭]]を下にして鼻で歩く姿が有名であるが、多様な[[進化]]を遂げた鼻行類の鼻は、歩行に用いるだけでなく捕食などにも使用されている。例えば、ハナススリハナアルキ (''Emunctator sorbens'') は粘着力のある[[鼻汁]]をたらすことで[[魚類|魚]]を釣り上げることで知られている。
全14科189種からなるこの[[生物]]群は、[[1942年]]に[[スウェーデン|スウェーデン人]][[探検家]]エイナール・ペテルスン=シェムトクヴィスト (Einar Pettersson-Skämtkvist) によって発見された。[[ドイツ|ドイツ人]][[博物学|博物学者]][[ハラルト・シュテュンプケ]]({{sname||Harald Stümpke}}、cf. ドイツ人[[動物学|動物学者]][[ゲロルフ・シュタイナー]][Gerolf Steiner])の著書『鼻行類』に詳しい。
[[1957年]]の[[核実験]]によって引き起こされた[[地殻変動]]によりハイアイアイ群島は海没・消滅し、この時、鼻行類も[[絶滅]]したとされる。
=== おもな鼻行類 ===
==== 単鼻類 ====
; 原鼻類
:もっとも原始的な鼻行類と考えられるムカシハナアルキ類の[[化石]]は、[[中生代]][[白亜紀]]後期もしくは[[新生代]][[第三紀]]のものとされる[[地層]]から産出されている。その姿はほぼ[[モグラ目|食虫類]]と同じで、鼻が特に発達しているが、摂食時のみ鼻で体を固定し、移動には四肢を用いる。
:* ムカシハナアルキ[[属 (分類学)|属]] genus ''Archirrhinos'' - 原始的な形態を留めるムカシハナアルキ科 (familia Archirrhidae) に属する。ヘッケルムカシハナアルキ (''A. haeckelii'' ) は、原鼻類で唯一の現生種(1[[種 (分類学)|種]])として知られている(鼻行類発見当時)。
:
; 鼻歩類
:鼻腔内[[粘膜]]で[[地表]]に張り付き、あるいはそれで移動する。ハナススリハナアルキは例外的に原始形態をとどめるが、[[近縁]]なものと考えられている。
:* ナメクジハナアルキ属 genus ''Rhinolimacius'' - [[粘液]]を分泌する鼻で[[カタツムリ]]のように移動する。
:* ハナススリハナアルキ属 genus ''Emunctator'' - ツツハナアルキ科 (Rhinocolumnidae) 。鼻汁を垂らして[[水生]]動物を捕獲する。
:* ミツオハナアルキ属 genus ''Dulcicauda'' - 鼻で固着生活を送り、[[尾]]から分泌される甘い蜜液で昆虫をおびき寄せて捕食する。キンカイショクミツオハナアルキ(''D. griseaurella'')など。
:
; 管鼻類
:鼻が長く伸び、先端が開いている。水中生活で鼻を水面に伸ばして[[呼吸]]する。
:* ラッパハナアルキ属 genus ''Rhinostentor'' - [[漏斗]]状の鼻で水面からぶら下がって生活する。ミジンコラッパ ハナアルキ (''R. submersus'') など。
:
; 地鼻類
:鼻は棒状で、内部に空洞を持つ。
:* モグラハナアルキ属 - 強靭な鼻でトンネルを掘り、地中生活を送る。
:* ハラワタハナアルキ属 - [[肺]]が消失し、[[腸]]がまっすぐな管となるなど、著しい[[退化]]を見せる。鼻の付け根から分裂して増殖すると考えられている。
:* コビトハナアルキ - さらに退化し、[[脊索]]・[[肛門]]・[[血管#血管系|血管系]]が完全に消失している。[[体長]]2mm。この動物の発見により、[[プラナリア]]など[[ウズムシ目|三岐腸類]]は鼻行類を祖先とするという説が生まれた。
:
; 跳鼻類
:鼻ははっきりした柄を持ち、足のようになる(鼻脚)。内部の[[軟骨]]が強く発達し、途中に[[関節]]がある。その先端は広がり、地表にこれをつける。
:* トビハナアルキ属 genus ''Hopsorrhinus'' - 骨格と筋肉の発達した鼻脚で[[wikt:跳躍|跳躍]]して移動する。トビハナアルキ (''H. aureus'' ) など。
:* ダンボハナアルキ属 genus ''Otopteryx'' - トビハナアルキ科 (familia Hopsorrhinidae) に属す。巨大な[[耳]]を使って[[飛翔]]する。
==== 多鼻類 ====
; 四鼻類
:鼻は4つ、それを足のように使って歩行する。
:* ナゾベーム属 genus ''Nasobema'' - ナゾベーム科(familia Nasobemidae) に属する代表的なハナアルキ。4本の鼻で移動する。比較的知られている種にモルゲンシュテルンオオナゾベーム (''N. lyicum'') がある。
:* オニハナアルキ属 - ナゾベーム属を捕食する。
:
; 六鼻類
:鼻は6つ。多くはあまり移動せず、鼻を伸ばして昆虫などを捕食する。
:* イカモドキ属 - 穴の中から6本の鼻を伸ばして昆虫を捕食する。
:* ハナモドキ属 - 長大な尾で直立し、[[花]]に[[擬態]]した鼻で昆虫を捕食する。
:* マンモスハナアルキ ''Mamontops ursulus'' - 最大1.3mに達する大型種。4本の鼻で歩き、2本の鼻で[[植物]]を引き抜いて食べる。
:
; 長吻類
:鼻は多数、頭部先端の突出部に左右に対をなす。
:* ナキハナムカデ - 19対の鼻を持ち、そのうち18対の鼻で[[音楽]]を演奏する。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==参考文献==
*『鼻行類』 [[日高敏隆]]、[[羽田節子]]訳
**思索社、[[1987年]][[4月]]、ISBN 4-7835-0145-9。
**[[博品社]]、[[1995年]][[9月]]、ISBN 4-938706-19-9。
**[[平凡社]]、[[1999年]][[5月]]。ISBN 4-582-76289-1。
* カール・D・S・ゲーステ著 『シュテュンプケ氏の鼻行類 分析と試論』 [[今泉みね子]]訳
**思索社、[[1989年]][[10月]]、ISBN 4-7835-0167-X。
**博品社、[[1996年]][[1月]]、ISBN 4-938706-23-7。
== 関連項目 ==
* [[ゲロルフ・シュタイナー]] ({{sname||Gerolf Steiner}})
* [[偽書#フィクションにおける来歴の虚偽]]
* 生物系[[三大奇書]] - '''鼻行類''' - [[平行植物]] - [[アフターマン]]
* [[秘密の動物誌]]
* [[ジェットハナアルキ]]
== 外部リンク ==
* [https://www.ne.jp/asahi/nasobem/research-center/ 鼻行類研究所]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:ひこうるい}}
[[Category:生物を題材とした作品]]
[[Category:架空の哺乳類]]
[[Category:思弁進化]]
[[Category:ドイツの書籍]]
[[Category:1961年の書籍]]
[[Category:生物に関する書籍]]
[[Category:偽書]]
[[Category:鼻]] | 2003-04-25T02:04:11Z | 2023-12-13T14:37:36Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
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"Template:生物分類表"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%BB%E8%A1%8C%E9%A1%9E |
7,270 | 欧州宇宙機関 | 欧州宇宙機関(おうしゅううちゅうきかん、仏: Agence spatiale européenne, ASE、英: European Space Agency, ESA)は、1975年5月30日にヨーロッパ各国が共同で設立した、宇宙開発・研究機関である。設立参加国は当初10か国、現在は22か国が参加し、2000人を超えるスタッフがいる。
本部はフランスに置かれ、その活動でもフランス国立宇宙センター (CNES) が重要な役割を果たし、ドイツ・イタリアがそれに次ぐ地位を占める。主な射場としてフランス領ギアナのギアナ宇宙センターを用いている。
人工衛星打上げロケットのアリアンシリーズを開発し、アリアンスペース社(商用打上げを実施)を通じて世界の民間衛星打ち上げ実績を述ばしている。2010年には契約残数ベースで過去に宇宙開発などで存在感を放ったソビエト連邦の後継国のロシア、スペースシャトル、デルタ、アトラスといった有力な打ち上げ手段を持つアメリカに匹敵するシェアを占めるにおよび、2014年には受注数ベースで60%のシェアを占めるにいたった。
ESA は欧州連合 (EU) と密接な協力関係を有しているが、欧州連合の専門機関ではない。加盟各国の主権を制限する超国家機関ではなく、加盟国の裁量が大きい政府間機構として形成された。リスボン条約によって修正された欧州連合の機能に関する条約の第189条第3項では、「欧州連合は欧州宇宙機関とのあいだにあらゆる適切な関係を築く」と規定されている。
西欧諸国では、当初は個々の国、特にイギリスやフランスで独自に宇宙開発を行っていたが、それでは米ソの熾烈な競争から生まれる成果に対抗できないため、欧州共同の開発計画が組織された。まず1964年に欧州ロケット開発機構 (European Launcher Development Organization; ELDO) を設立し、打上ロケット(ヨーロッパ1およびヨーロッパ2)の開発を進めるが、難航した。また、欧州宇宙研究機構 (European Space Research Organization; ESRO) では、打上はアメリカに依頼することで、探査機や人工衛星の研究開発を行っていた。しかし、より効果的な宇宙開発計画の実現を目指して、1975年、欧州各国は ESA を設立するとともに、新しい打上ロケットとしてアリアンの開発を推進し、1979年にアリアン1ロケット初の打上に成功、以後アリアンスペースを設立して打上ビジネスに参入し、アリアン2、アリアン3、アリアン4、アリアン5を開発した。
また、人工衛星による地球観測や、惑星など太陽系内の天体観測のための探査機の研究開発にも力を入れ、アメリカ航空宇宙局 (NASA) との共同研究も行っている。
ESA は有人宇宙船を有しておらず、有人宇宙飛行を行なっていない。1970年代よりスペースシャトルのような再利用打上機を検討し、1987年からはエルメスを計画した。1995年就役を目指し、エルメス打上げにも利用できるアリアン5も開発した。しかし、冷戦の終結や開発費用の問題により、エルメスはキャンセルされた。2000年代には CSTS による輸送も検討されたが、これも中止されている。国際宇宙ステーションへの有人宇宙飛行にはスペースシャトルやソユーズを利用して参加している。
主力のアリアンを補完する中・小型衛星用の打上げシステムとして、低軌道用のヴェガの開発も行い2012年から運用を開始した。
正式な加盟国以外にスロベニア、ラトビア、リトアニアが準加盟国として参加している。スロベニア、ラトビア、リトアニア、スロバキア、ブルガリア、キプロスは協力国(ECS: European Cooperating State)となっており、そのうちスロベニア、ラトビア、ブルガリアは参加予定の協力国 (PECS: Plan for European Cooporating State) として加わっている。トルコ、ウクライナ、イスラエル、マルタ、クロアチアは協力協定に調印している。またカナダは1979年から特別協力国の地位を持つ。カナダ宇宙庁は ESA の意思決定に参画している。
ESA の予算は2005年度は29億7700万ユーロ、2006年は29億400万ユーロであった。ESA の予算の大部分はロケットの開発である(22%の予算がロケットにつぎ込まれており、有人飛行が次に多い)。2005年は負担額の大きい3か国が全体の3分の2を負担しており、その内訳はフランス (29.3%)、ドイツ (22.7%)、イタリア (14.2%) である。
予算は加盟国のGDP比に基づいて義務的に支出する予算と、加盟国が自らの意思で各プログラムへの参加・不参加を決め、拠出額を決める選択的予算の2本立てとなっている。加盟国が拠出した額に応じて、その加盟国に拠点を置く企業に契約を配分するという、「地理的均衡配分」(Fair return)の原則が貫かれている。義務的予算はESAの事務経費や設備維持、科学探査計画に充当され、選択的予算はロケットや衛星の開発に充当される。選択的予算の拠出額の大きい国が計画の主導権を握り、自国の負担した予算が自国の宇宙産業を発展する仕組みになっている。これまではこの方法が機能していたものの、打ち上げ費用の安価なロシアやインドの攻勢やスペースXの参入のように近年の競争の激化により、従来の方法では意思決定に時間を要し、各国の利害調整が必要なため、見直しの意見も出ている。 | [
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] | 欧州宇宙機関は、1975年5月30日にヨーロッパ各国が共同で設立した、宇宙開発・研究機関である。設立参加国は当初10か国、現在は22か国が参加し、2000人を超えるスタッフがいる。 本部はフランスに置かれ、その活動でもフランス国立宇宙センター (CNES) が重要な役割を果たし、ドイツ・イタリアがそれに次ぐ地位を占める。主な射場としてフランス領ギアナのギアナ宇宙センターを用いている。 人工衛星打上げロケットのアリアンシリーズを開発し、アリアンスペース社(商用打上げを実施)を通じて世界の民間衛星打ち上げ実績を述ばしている。2010年には契約残数ベースで過去に宇宙開発などで存在感を放ったソビエト連邦の後継国のロシア、スペースシャトル、デルタ、アトラスといった有力な打ち上げ手段を持つアメリカに匹敵するシェアを占めるにおよび、2014年には受注数ベースで60%のシェアを占めるにいたった。 ESA は欧州連合 (EU) と密接な協力関係を有しているが、欧州連合の専門機関ではない。加盟各国の主権を制限する超国家機関ではなく、加盟国の裁量が大きい政府間機構として形成された。リスボン条約によって修正された欧州連合の機能に関する条約の第189条第3項では、「欧州連合は欧州宇宙機関とのあいだにあらゆる適切な関係を築く」と規定されている。 | {{Redirect|ESA}}
{{Infobox 研究所
|名称 = Agence spatiale européenne<br />European Space Agency
|画像 = ESA logo.svg
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|画像説明 = ロゴ
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|略称 = ASE<br />ESA
|標語 =
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|後継 =
|設立 = [[1975年]]
|廃止 =
|種類 =
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|目的 =
|本部 = [[フランス]]・[[パリ]]
|位置 =
|座標 =
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|メンバー = 19か国
|言語 = [[英語]]<br />[[フランス語]]<br />[[ドイツ語]]
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|予算 = 40.2億[[ユーロ]](2012年)
|ウェブサイト = [https://www.esa.int/ https://www.esa.int/]
|過去名 =
|補足 =
}}
'''欧州宇宙機関'''(おうしゅううちゅうきかん、{{Lang-fr-short|Agence spatiale européenne}}<ref>[http://esamultimedia.esa.int/multimedia/publications/SP-1317-EN/pageflip.html]</ref>, '''ASE'''、{{Lang-en-short|European Space Agency}}, '''ESA''')は、[[1975年]][[5月30日]]に[[ヨーロッパ]]各国が共同で設立した、[[宇宙機関|宇宙開発・研究機関]]である。設立参加国は当初10か国、現在は22か国が参加し、2000人を超えるスタッフがいる。
本部は[[フランス]]に置かれ、その活動でも[[フランス国立宇宙センター]] (CNES) が重要な役割を果たし、[[ドイツ航空宇宙センター|ドイツ]]・[[イタリア]]がそれに次ぐ地位を占める。主な[[射場]]として[[フランス領ギアナ]]の[[ギアナ宇宙センター]]を用いている。
[[人工衛星]]打上げ[[ロケット]]の[[アリアン]]シリーズを開発し、[[アリアンスペース]]社(商用打上げを実施)を通じて世界の民間衛星打ち上げ実績を述ばしている。2010年には契約残数ベースで過去に宇宙開発などで存在感を放った[[ソビエト連邦]]の後継国の[[ロシア|ロシア、]][[スペースシャトル]]、[[デルタロケット|デルタ]]、[[アトラス (ミサイル)|アトラス]]といった有力な打ち上げ手段を持つ[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に匹敵するシェアを占めるにおよび<ref>{{Cite web|和書|url = https://www8.cao.go.jp/space/seminar/dai1/cao-7.pdf|title = 政策上の課題と方向性(宇宙輸送(ロケット)分野)|accessdate = 2015-10-06|publisher = [[内閣府]]|format = PDF}}</ref>、2014年には受注数ベースで60%のシェアを占めるにいたった<ref>{{Cite press release|url = http://www.arianespace.com/news-press-release/2014/9-8-2014-Euroconsult2014.asp|publisher = [[アリアンスペース|Arianespace]]|accessdate = 2015-10-06|date = 2014-09-08|title = World Satellite Business Week 2014: A rich harvest of contracts for Arianespace}}</ref><ref>{{Cite news|date = 2014-09-08|newspaper = [[フォーブス (雑誌)|Forbes]]|title = Europe's Arianespace Claims 60% Of The Commercial Launch Market|url = http://www.forbes.com/sites/alexknapp/2014/09/08/europes-arianespace-claims-60-of-the-commercial-launch-market/|author = Alex Knapp|accessdate = 2015-10-06}}</ref>。
ESA は[[欧州連合]] (EU) と密接な協力関係を有しているが、[[欧州連合の専門機関]]ではない。加盟各国の主権を制限する超国家機関ではなく、加盟国の裁量が大きい政府間機構として形成された。[[リスボン条約]]によって修正された[[ローマ条約|欧州連合の機能に関する条約]]の第189条第3項では、「欧州連合は欧州宇宙機関とのあいだにあらゆる適切な関係を築く」と規定されている。
== 歴史 ==
西欧諸国では、当初は個々の国、特にイギリスやフランスで独自に宇宙開発を行っていたが、それでは米ソの[[宇宙開発競争|熾烈な競争]]から生まれる成果に対抗できないため、欧州共同の開発計画が組織された。まず[[1964年]]に[[欧州ロケット開発機構]] (European Launcher Development Organization; ELDO) を設立し、打上ロケット([[ヨーロッパ (ロケット)|ヨーロッパ1]]および[[ヨーロッパ (ロケット)|ヨーロッパ2]])の開発を進めるが、難航した。また、[[欧州宇宙研究機構]] (European Space Research Organization; ESRO) では、打上はアメリカに依頼することで、探査機や人工衛星の[[研究開発]]を行っていた。しかし、より効果的な宇宙開発計画の実現を目指して、[[1975年]]、欧州各国は ESA を設立するとともに、新しい打上ロケットとしてアリアンの開発を推進し、[[1979年]]に[[アリアン1]]ロケット初の打上に成功、以後アリアンスペースを設立して打上ビジネスに参入し、[[アリアン2]]、[[アリアン3]]、[[アリアン4]]、[[アリアン5]]を開発した。
また、人工衛星による地球観測や、惑星など太陽系内の天体観測のための探査機の研究開発にも力を入れ、[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) との共同研究も行っている。
ESA は有人宇宙船を有しておらず、[[有人宇宙飛行]]を行なっていない。1970年代より[[スペースシャトル]]のような再利用打上機を検討し、1987年からは[[エルメス (宇宙船)|エルメス]]を計画した。1995年就役を目指し、エルメス打上げにも利用できる[[アリアン5]]も開発した。しかし、冷戦の終結や開発費用の問題により、エルメスはキャンセルされた。2000年代には CSTS による輸送も検討されたが、これも中止されている。[[国際宇宙ステーション]]への有人宇宙飛行にはスペースシャトルや[[ソユーズ]]を利用して参加している。
主力のアリアンを補完する中・小型衛星用の打上げシステムとして、[[低軌道]]用の[[ヴェガロケット|ヴェガ]]の開発も行い2012年から運用を開始した。
== 加盟国 ==
[[File:Location ESA member countries.svg|thumb|240px|{{legend|#5B9ED7|ESA加盟国}}
{{legend|#0000ff|ESA準加盟国}}
{{legend|#5FB4A1|協力国 (ECS)}}{{legend|#3D9345|協力協定に調印した国}}]]
{| class="wikitable sortable"
|+ 加盟国・他
! 国 !! 地位 !! 年月日
|-
| {{AUT}} || 加盟国 || 1986/12/30
|-
| {{BEL}} || 加盟国 || 1978/10/03
|-
| {{CZE}} || 加盟国 || 2008/11/12
|-
| {{DNK}} || 加盟国 || 1977/09/15
|-
| {{EST}} || 加盟国 || 2015/02/04
|-
| {{FIN}} || 加盟国 || 1995/01/01
|-
| {{FRA}} || 加盟国 || 1980/10/30
|-
| {{DEU}} || 加盟国 || 1977/07/26
|-
| {{GRC}} || 加盟国 || 2005/03/09
|-
| {{HUN}} || 加盟国 || 2015/02/24
|-
| {{IRL}} || 加盟国 || 1980/12/10
|-
| {{ITA}} || 加盟国 || 1978/02/20
|-
| {{LUX}} || 加盟国 || 2005/06/30
|-
| {{NLD}} || 加盟国 || 1979/02/06
|-
| {{NOR}} || 加盟国 || 1986/12/30
|-
| {{POL}} || 加盟国 || 2012/11/19
|-
| {{PRT}} || 加盟国 || 2000/11/14
|-
| {{ROM}} || 加盟国 || 2011/12/22
|-
| {{ESP}} || 加盟国 || 1979/02/07
|-
| {{SWE}} || 加盟国 || 1976/04/06
|-
| {{CHE}} || 加盟国 || 1976/11/19
|-
| {{GBR}} || 加盟国 || 1978/03/28
|-
| {{CAN}} || 特別協力国 || 1979/01/01
|-
| {{LVA}} || 準加盟国 || 2020/06/30
|-
| {{LTU}} || 準加盟国 || 2021/05/03
|-
| {{SLO}} || 準加盟国 || 2016/07/05
|}
正式な加盟国以外に[[スロベニア]]、[[ラトビア]]、[[リトアニア]]が準加盟国として参加している<ref>{{Cite web|title=Lithuania becomes ESA Associate Member state|url=http://www.esa.int/About_Us/Corporate_news/Lithuania_becomes_ESA_Associate_Member_state|website=www.esa.int|accessdate=2021-06-05|language=en}}</ref>。スロベニア、ラトビア、リトアニア、[[スロバキア]]、[[ブルガリア]]、[[キプロス]]は協力国(ECS: European Cooperating State)となっており、そのうちスロベニア、ラトビア、ブルガリアは参加予定の協力国 (PECS: Plan for European Cooporating State) として加わっている<ref>{{cite news | title = New Member States | url = http://www.esa.int/About_Us/Welcome_to_ESA/New_Member_States
| publisher = ESA | accessdate = 2015-2-1}}</ref>。[[トルコ]]、[[ウクライナ]]、[[イスラエル]]、[[マルタ]]、[[クロアチア]]は協力協定に調印している。また[[カナダ]]は[[1979年]]から特別協力国の地位を持つ。[[カナダ宇宙庁]]は ESA の意思決定に参画している。
== 予算 ==
[[File:Esahqdp.jpg|right|thumb|[[パリ]]にある本部]]
[[File:Views in the Main Control Room (12052189474).jpg|right|thumb|[[ダルムシュタット]]の管制室]]
ESA の予算は2005年度は29億7700万ユーロ、2006年は29億400万ユーロであった<ref>[http://www.esa.int/esaCP/SEMFEPYV1SD_index_0.html ESA Portal - ESA and the EU<!-- Bot generated title -->]</ref>。ESA の予算の大部分はロケットの開発である(22%の予算がロケットにつぎ込まれており、有人飛行が次に多い)。2005年は負担額の大きい3か国が全体の3分の2を負担しており、その内訳はフランス (29.3%)、ドイツ (22.7%)、イタリア (14.2%) である<ref>Figures regarding the ESA budget and the three biggest contributors to it. [http://eu.spaceref.com/news/viewsr.html?pid=15342]</ref>。
予算は加盟国のGDP比に基づいて義務的に支出する予算と、加盟国が自らの意思で各プログラムへの参加・不参加を決め、拠出額を決める選択的予算の2本立てとなっている<ref name="feature">[http://eumag.jp/feature/b1013/ 欧州の宇宙への挑戦]</ref>。加盟国が拠出した額に応じて、その加盟国に拠点を置く企業に契約を配分するという、「地理的均衡配分」(Fair return)の原則が貫かれている{{efn|[[欧州ロケット開発機構]]の時には自国の企業が拠出額の倍の受注を得た例もあった。}}<ref name="feature" />。義務的予算はESAの事務経費や設備維持、科学探査計画に充当され、選択的予算は[[ロケット]]や[[衛星]]の開発に充当される<ref name="feature" />。選択的予算の拠出額の大きい国が計画の主導権を握り、自国の負担した予算が自国の宇宙産業を発展する仕組みになっている。これまではこの方法が機能していたものの、打ち上げ費用の安価なロシアやインドの攻勢や[[スペースX]]の参入のように近年の競争の激化により、従来の方法では意思決定に時間を要し、各国の利害調整が必要なため、見直しの意見も出ている。
{| class="wikitable sortable" cellpadding="2" cellspacing="2"
!参加国
!必須<br/>Contr.
!選択<br/>Contr.
!計<br/>(単位:百万€.)
!計 (%)
|-
| {{FRA}} || 15.63% || 31.55% || 778.8 || 27.97%
|-
| {{DEU}} || 23.41% || 21.45% || 614.8 || 22.08%
|-
| {{ITA}} || 12.88% || 14.59% || 397.9 || 14.29%
|-
| {{GBR}} || 16.93% || 5.91% || 239.3 || 8.59%
|-
| {{BEL}} || 2.83% || 7.37% || 167.4 || 6.34%
|-
| {{ESP}} || 6.87% || 5.76% || 169.0 || 6.07%
|-
| {{CHE}} || 3.40% || 3.49% || 97.3 || 3.49%
|-
| {{NLD}} || 4.43% || 2.87% || 90.9 || 3.26%
|-
| {{SWE}} || 2.61% || 2.11% || 62.5 || 2.25%
|-
| {{AUT}} || 2.26% || 0.87% || 33.7 || 1.21%
|-
| {{NOR}} || 1.70% || 1.02% || 33.2 || 1.19%
|-
| {{DNK}} || 1.82% || 0.78% || 28.8 || 1.03%
|-
| {{FIN}} || 1.37% || 0.54% || 20.7 || 0.74%
|-
| {{IRL}} || 0.95% || 0.30% || 12.8 || 0.46%
|-
| {{PRT}} || 1.40% || 0.21% || 12.7 || 0.45%
|-
| {{GRC}} || 1.50% || 0.12% ||12.5 || 0.43%
|-
| {{LUX}} || 0.21% || 0.13% || 4.2 || 0.15%
|}
* <small>ESA の予算のうち 5% は[[カナダ]]などの第三者・機関から拠出される。</small>
== 宇宙計画 ==
=== 実施済 ===
* [[スペースラブ]] - スペースシャトル搭載の宇宙実験室。[[1983年]]-[[1998年]]実施。[[日本]]の[[向井千秋]]も搭乗。
* [[ジオット (探査機)|ジオット]] - [[ハレー彗星]]探査機。[[1985年]]-[[1986年]]。
* [[ハッブル宇宙望遠鏡]] - [[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) との共同開発。[[1990年]]-。[[ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡]]が後継機として計画中。
* [[ユリシーズ (探査機)|ユリシーズ]] - [[太陽]]極軌道観測機。NASAとの共同開発で1990年打上げ。
* [[SOHO (探査機)|SOHO]] - 太陽・太陽圏観測衛星。NASA との共同開発。[[1995年]]-
* [[ホイヘンス・プローブ|ホイヘンス]] - NASA の[[土星]]探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]から[[土星]]の衛星[[タイタン_(衛星)|タイタン]]に降下。[[1997年]]打上げ。[[2004年]]降下、探査成功。
* [[ARTEMIS|アルテミス]] - 通信技術試験衛星。[[2001年]]打上げ
* [[インテグラル (宇宙望遠鏡)|インテグラル]] - ガンマ線観測衛星。[[2002年]]打上げ。
* [[マーズ・エクスプレス]] [[火星]]探査機。[[2003年]]初に打ち上げ、年末に火星に到着した。
* [[ロゼッタ (探査機)|ロゼッタ]] - [[彗星]]探査機。[[2004年]]打上げ。
* [[ビーナス・エクスプレス]] - 金星探査機。[[2005年]]打ち上げ。
* [[国際宇宙ステーション]] - 実験棟[[コロンバス (ISS)|コロンバス]]の提供。
* 国際宇宙ステーションへの[[無人宇宙補給機]] - [[欧州補給機]]の打上げ。
* [[COROT]] - 太陽系外惑星探査衛星。2006年12月27日打ち上げ、トランジット法による太陽系外惑星探査専門衛星。
* [[プランク衛星]] - [[アメリカ航空宇宙局]]が打ち上げ観測に成功した[[WMAP]]衛星の後継観測衛星。アリアン5型の大きさを活用して、太陽-地球系のL2点に静止した大型衛星で観測的宇宙論観測を行う。
* [[ハーシェル宇宙望遠鏡]] - 波長60から670µmの赤外線を観測、口径3.5m。2009年5月14日にプランク衛星と相乗りで打ち上げ。
* [[国際宇宙ステーション]] - 実験棟[[コロンバス_(ISS)|コロンバス]]、観測用の窓モジュール[[キューポラ (ISS)]]の提供。[[欧州補給機]](ATV)による補給のサポート。
* [[SWARM (人工衛星)|SWARM]] - 地球観測衛星。地球磁気圏データ収集を同型衛星3基の連携でおこなう。2013年打ち上げ。
*[[ベピコロンボ]] - 水星探査機。日本の宇宙航空研究開発機構との共同開発。ESA 側では、水星面の撮像を行う探査機の開発及び打ち上げロケットの確保・管制などを実施。日本時間 10月20日(土) 10時45分28秒打ち上げ成功。7年後の2025年末に水星に到着する予定である。
=== 計画中 ===
* [[ガリレオ (測位システム)|ガリレオ]] - 欧州版[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]。構築中、2019年までに完成予定。
* [[オーロラ計画]] - 有人・無人太陽系探査計画。当初、[[2030年]]までの火星有人飛行が目的とされた。
* [[宇宙重力波望遠鏡|LISA]] - 重力波宇宙望遠鏡。2015年にテスト衛星[[LISA パスファインダー]]を打ち上げ、将来、本衛星を打ち上げて観測を行う計画。2009年現在、NASA と共同開発中。
* [[EJSM]] - 木星探査計画。NASAと共同。
=== 計画中止 ===
* [[エルメス (宇宙船)|エルメス]] - 再利用可能な有人宇宙往還機。欧州版[[スペースシャトル]]だったが、計画中止。
* [[EUSO計画]] - 実験棟コロンバスに設置予定だった高エネルギー線観測用望遠鏡。ESA中心で日米と共同開発していたがESAは脱退、現在は日本中心の体制に改められ継続中。
* [[ダーウィン (探査機)|ダーウィン]] - 3機の宇宙望遠鏡を編隊飛行させて太陽系外惑星の観測を行う計画。2015年以降の打ち上げを予定していたが、開発を行わないことが決定された。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|European Space Agency}}
* [[欧州気象衛星開発機構]]
* [[欧州宇宙技術研究センター]]
* [[欧州宇宙標準協会]]
* [[欧州連合衛星センター]]
== 外部リンク ==
* [http://www.esa.int/ 欧州宇宙機関公式ウェブサイト] {{En icon}}
{{欧州宇宙機関}}
{{宇宙飛行}}{{宇宙機関}}
{{Normdaten}}
{{Space-stub}}
{{デフォルトソート:おうしゆううちゆうきかん}}
[[Category:欧州宇宙機関|*]]
[[Category:1975年設立の組織]] | 2003-04-25T03:06:33Z | 2023-11-26T05:14:49Z | false | false | false | [
"Template:EST",
"Template:LVA",
"Template:SLO",
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"Template:宇宙飛行",
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"Template:Infobox 研究所",
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"Template:Redirect",
"Template:GRC",
"Template:Space-stub",
"Template:宇宙機関",
"Template:IRL",
"Template:欧州宇宙機関",
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"Template:AUT",
"Template:ITA"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%A9%9F%E9%96%A2 |
7,271 | 漫才 | 漫才(まんざい)とは、こっけいな掛け合いや、言い合いで客を笑わせる寄席演芸の一種。
平安時代に成立した伝統芸能「萬歳」が、江戸時代から昭和時代にかけて、大阪・京都を中心とする上方(畿内)の寄席において、独自に発展したもの。現在は寄席だけでなくテレビやラジオなど多くの媒体で人気を博し、バラエティ番組のいわゆる「ネタ番組」において、コントと並んでポピュラーな演芸の一種である。
上方の漫才を特に上方漫才(かみがたまんざい)という。
漫才を行う者は一般的に「漫才師」と呼ばれるが、所得税法施行令では「漫才家」の表記が使われている。
漫才は基本的に、演者が「演者自身」として発話し、その会話の流れによって観客を笑わせる演芸である。二人一組で演じられることが多いが、3人組や4人組の例もある。人数の上限について、漫才作家の相羽秋夫は「五、六人ぐらいが妥当ではないでしょうか」としている。
シンプルな会話体を基本とすることから、演者の個性に合わせ、音曲、踊り、物真似など、ネタ中に「何をやっても許される」自由な演芸形式となっている。日常生活、流行文化、政治経済など幅広い題材を扱うことが可能で、時流に合わせてネタを細かく、また大きく変化させることができる。
漫才は明確な定義を定めることができない。よって、「こうでなければ漫才として成立しない」という制約は無い。漫才史研究者の神保喜利彦は、「漫才はなんでもあり」だったからこそ、ここまでの地位に上り詰めることができたと述べている。
漫才は基本的に「ボケ」と「ツッコミ」という2つの役割で成り立っている。それぞれ古典萬歳の「才蔵」と「太夫」に由来する。
「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。ボケは、もともととぼけ役と呼称されていた。芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のように転じた。
「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。明治・大正の一時期には「シン」と呼称した。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く(ドツキ)、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。秋田實の論文によれば、玉子屋円辰が『曽我物語』を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。
ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに「ノる」、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸(ノリツッコミ)などである。このため、ボケとツッコミは「役柄」というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。
トリオ漫才(役割が固定された場合)においては、ボケ2人・ツッコミ1人の比率が主流である。ネタの役割分担によって、フリ(後述)にあたる小さいボケを「小ボケ」、オチに至る大きいボケをする者を「大ボケ」、と区別することもある。
上記の役割と兼ねて、「筋フリ」または「フリ」という、ネタの構成を進行・展開・転換する役割を、メンバーのいずれかが担わなければならない。『大辞泉』の「ツッコミ」の項は「漫才で、ぼけに対して、主に話の筋を進める役」としており、ツッコミがフリを担う、と定義しているが、ボケがフリを担当するコンビも少なくない。
ボケ・ツッコミが固定したコンビを仮定した場合、ツッコミが進行するコンビ、ボケが進行するコンビ、ボケ・ツッコミ双方が進行するコンビの3種が考えうる。
前田勇は自著において、漫才を、以下の4類10種に分類した。漫才師の芸およびネタは、これら10種の要素を、どれかひとつ特化させているか、または組み合わせている。
現代の漫才を大きく二つに分けた場合、「しゃべくり漫才」と「コント漫才」に分かれる。
しゃべくり漫才とは、日常の雑談や時事を題材に掛け合いのみで笑わせる漫才を指す。創始者は、横山エンタツ・花菱アチャコ。1980年代の漫才ブーム以降、上述の音曲漫才や歌謡漫才は急速に廃れ、しゃべくり漫才が漫才の王道・正統派とされるようになった。しゃべくり漫才の定義について、ナイツの塙宣之は「キッチリ定義することは難しいが、あえて言うならば、しゃべくり漫才とは日常会話だと思います」と語っている。
コント漫才とは、「お前コンビニの店員やって、俺は客やるから」とコントに入っていくパターンの漫才を指す。衣装や小道具、効果音を使わずに、立位置もそのままで設定した役になりきるという点でコントとは異なる。設定を振ってコントに切り替えることを、符牒でコントインと呼ぶ。センターマイクから離れることも多いため、しゃべくり漫才と比べて邪道とされることもある。
近年では「俺コンビニ店員するから、お前はそこで見てて」というように、ボケが独自の世界観に没入し、ツッコミはその邪魔にならないように外から指摘するコント漫才も増えている。
平安時代以来祭礼における派遣(予祝芸能)や家々を回る門付の芸能であった萬歳は、18世紀前半の上方で小屋掛けの芸として演じられるようになり、18世紀末(天明期)には生國魂神社や八坂神社に常設の小屋が開設されるに至った。この小屋芸としての萬歳は宮中における奉納などのための形式(御殿萬歳・宮中萬歳)とは異なり、2人組による滑稽な会話による笑芸で、大阪俄の前座における軽口(かるくち。掛け合い、掛け合い噺とも)と重なりがあった。
この萬歳小屋は、その軽口や、落語の台頭のために廃れたが、幕末期になり、萬歳は新たな寄席芸として息を吹き返す。これは尾張萬歳や三河萬歳の影響を直接的に受けた「三曲萬歳(さんぎょくまんざい)」と呼ばれる形式で、胡弓・鼓・三味線という3種の楽器を持った多数の萬歳師が、小咄の掛け合い、言葉遊び、数え歌などの合間に、音曲でにぎやかにはやし立てるものである。ひとつの流れを持った会話劇というよりは、現代における大喜利に似たものであった。この三曲萬歳はほとんど必ず「アイナラエ」という合いの手を入れる『奥田節』の演奏・歌唱で締めくくられるため、この時期の形式自体を「アイナラエ」と呼称する場合がある。また、御殿萬歳などが片膝立てで行われたのに対し、三曲萬歳は立った状態で演じられたので「立ち萬歳」とも呼ばれた。この形式で人気を取った人物に初代および2代目の嵐伊六がいる。
なお明治初期に成立した、浪曲師と曲師の2人1組による演芸形式である浪曲も、萬歳や軽口と相互に影響し合った。このように「2人組以上を基本とした滑稽な音曲としゃべくり」による演芸形式が上方で定着していく。
明治末期、河内音頭・江州音頭などの音頭取り芸人であった玉子屋円辰が、これまでの興行萬歳よりも音楽性の強い、歌舞音曲の合間に滑稽なしゃべくりを挟む、という形式で人気をとり、萬歳との差別化を強調するため看板などに「万才(まんざい)」の表記を用いた。円辰の人気を受け、音頭取りや俄の芸人が多く万才に転じたほか、「女道楽」などの音曲師がこれまでの芸を変えずに「万才」を標榜したことで、万才の持つスタイルに多様性が生まれた。この時期の形式を昭和中期まで伝えたコンビに砂川捨丸・中村春代がいる。なお、この時期を含め、長らく上方の寄席演芸は落語が中心であり、万才師の多くは端席と呼ばれる廉価な寄席にしか出演機会がなく、またそのような寄席でも、音頭、浪曲、義太夫などの主要プログラムに対し、添え物的な立場に置かれていた。
東京では、上方出身の日本チャップリン・梅廼家ウグイスが1917年(大正6年)に初めて万才を演じた同年に、東京出身の玉子屋円太郎・玉奴(のちの荒川清丸・玉奴)がデビューしている。なお、香盤表やプログラムでは「万才」ではなく「掛け合い」と表記されていたという。
1930年(昭和5年)、吉本興行部(吉本興業の前身)所属のコンビ「横山エンタツ・花菱アチャコ」が、従来和装であった萬歳師・万才師と異なり、背広を身に着け、長らく萬歳・万才の音曲の「つなぎ」扱いであったしゃべくりだけで高座をつとめる、画期的な「しゃべくり漫才」スタイルを創始し、絶大な人気を博した。しゃべくり漫才はこれまでの萬歳・万才よりも多く笑いを企図したことが特徴で、エンタツ・アチャコ以降、彼らに追随する多くのコンビが結成されたほか、ラジオ放送のコンテンツとして全国的な認知を得て、多くのスター漫才師が生まれた。発表の場の増加と広がりに合わせ、秋田實など、専業の漫才作家が活動を開始するようになった。やがて漫才は主に「しゃべくり漫才」を指す語となり、これまでの漫才は少数派となり、「音曲漫才」というレトロニムと化した。
同時期の東京では、柳家金語楼がエンタツ・アチャコに触発されて、弟子の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。両者はのちにリーガル千太・万吉を名乗り、1935年(昭和10年)には他の約80組のコンビとともに「帝都漫才組合」を設立した。その後、並木一路・内海突破、夢路いとし・喜味こいしの台頭があった。
第二次世界大戦終結後、漫才師の何人かが戦死・病死・消息不明に見舞われたり、劇場やプロダクションの運営が停止したりする(例として、吉本は映画館運営会社へ一時転身した)など、演芸のための人的・物的リソースが不足する中、松鶴家団之助による自主マネージメント会社「団之助芸能社」の立ち上げや、秋田實による若手の研究会「MZ研進会」発足など、漫才の復興に向けた動きがなされた。やがて演芸プロダクションや劇場運営会社が次々と再興し、多くの芸人がいずれかに所属するようになる。
民間放送の開始やテレビ放送の隆盛にともない、上方・東京双方で多くの漫才師がテレビ番組を通じて芸を披露し、人気スターとなった。また、1966年(昭和41年)の「上方漫才大賞」を皮切りに、放送局主催による漫才コンクールの創設が相次いだ。1980年(昭和55年)に相次いで開始された、東西の若手漫才師を紹介する全国ネットのテレビ番組『激突!漫才新幹線』(関西テレビ製作・フジテレビ系列)および『THE MANZAI』(フジテレビ系列)が当時の若者を中心に話題を呼び、「漫才ブーム」と呼ばれる社会現象となった。それぞれの番組に出演した漫才師たちは人気タレントとなり、司会者、歌手、俳優などとしても第一線で活動した。
2001年(平成13年)、島田紳助(元・島田紳助・松本竜介)の発案により、漫才コンテスト『M-1グランプリ』が創設され、初代チャンピオンには中川家が選出された。賞金1000万円、決勝が全国ネットのゴールデンタイムで放送されるなど、前例のない大規模なコンテストであり、2021年大会で優勝した錦鯉は翌年1000万円以上の月収を得るまでになる等、影響力も大きい。寄席でやる漫才は時間が10分から15分程度であるが、M-1グランプリ決勝戦のネタ時間は4分程度と定められている。この「4分」というのは、漫才をする時間として特殊であり、ナイツの塙宣之は、M-1の漫才と寄席の漫才は、100m走と10000m走くらいの差があるとして、「M-1グランプリは漫才日本一を決めると謳いつつ、でも実際は漫才という競技の中の100m走の日本一を決める大会なのです」と語っている。
2020年(令和2年)、西川きよし(元横山やすし・西川きよし)が漫才師初の文化功労者に選出された。
前述のとおり、現代の呼称である「漫才」に至るまでは、「萬歳」「万才」の表記が基本的に昭和初期まで用いられた。1933年(昭和8年)1月、吉本興業に新設された宣伝部が発行した『吉本演藝通信』の中で、萬歳・万才の宣伝媒体や劇場の看板等における表記を「漫才」と改称することが宣言され、これまでの萬歳・万才との違いを強調した。なお、1932年(昭和7年)3月時点ですでに、吉本興行部が「吉本興業合名会社」に改組された際の社内資料に、「漫才」の表記が営業品目として使われている。
この表記変更に至る経緯や、考案者については諸説がある。
当初、「漫才」の表記には花月亭九里丸など芸人の間で批判があった。
「漫才ブーム」の当事者であった「ツービート」のビートたけしは、しゃべくり漫才の直接的なルーツはアメリカ合衆国の話芸・ダブルアクト(英語版)にあるとしている。
アメリカのほか、ドイツ、韓国、中国などの国々にも似たような2人組の話芸があって、日本の漫才のようにボケ、ツッコミが見られる。 | [
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"text": "「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。明治・大正の一時期には「シン」と呼称した。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く(ドツキ)、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。秋田實の論文によれば、玉子屋円辰が『曽我物語』を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。",
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"text": "ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに「ノる」、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸(ノリツッコミ)などである。このため、ボケとツッコミは「役柄」というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。",
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] | 漫才(まんざい)とは、こっけいな掛け合いや、言い合いで客を笑わせる寄席演芸の一種。 平安時代に成立した伝統芸能「萬歳」が、江戸時代から昭和時代にかけて、大阪・京都を中心とする上方(畿内)の寄席において、独自に発展したもの。現在は寄席だけでなくテレビやラジオなど多くの媒体で人気を博し、バラエティ番組のいわゆる「ネタ番組」において、コントと並んでポピュラーな演芸の一種である。 上方の漫才を特に上方漫才(かみがたまんざい)という。 漫才を行う者は一般的に「漫才師」と呼ばれるが、所得税法施行令では「漫才家」の表記が使われている。 | {{otheruses|現代の話芸|伝統芸能|萬歳}}
[[File:Regal Senta Mankichi 1948 (02) PDVD 014.JPG|thumb|250px|[[リーガル千太・万吉]]]]
'''漫才'''(まんざい)とは、こっけいな掛け合いや、言い合いで客を笑わせる[[演芸|寄席演芸]]の一種。
[[平安時代]]に成立した[[日本の伝統芸能|伝統芸能]]「[[萬歳]]」が、[[江戸時代]]から[[昭和]]時代にかけて、[[大阪]]・[[京都]]を中心とする[[上方]]([[畿内]])の[[寄席]]において、独自に発展したもの。現在は寄席だけでなくテレビやラジオなど多くの媒体で人気を博し<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=漫才とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%BC%AB%E6%89%8D-137921|website=コトバンク|accessdate=2020-12-21|language=ja|first=|last=|publisher=}}</ref>、[[バラエティ番組]]のいわゆる「ネタ番組」において、[[コント]]と並んでポピュラーな演芸の一種である。
上方の漫才を特に'''上方漫才'''(かみがたまんざい)という。
漫才を行う者は一般的に「漫才師」と呼ばれるが、所得税法施行令第320条第5項<ref group="注">これは、所得税法第204条第1項第5号に規定する報酬について源泉徴収を必要とする芸能人を定める規定である。「映画若しくは演劇の俳優、映画監督若しくは舞台監督(プロジューサーを含む。)、演出家、放送演技者、音楽指揮者、楽士、舞踊家、講談師、落語家、浪曲師、漫談家、漫才家、腹話術師、歌手、奇術師、曲芸師又は物まね師」というようになっている。</ref>では「漫才家」の表記が使われている<ref>[https://houseikyoku.sangiin.go.jp/column/column064.htm 法令集の散策] - [[参議院法制局]]</ref>。
== 基本形式と構成 ==
漫才は基本的に、演者が「演者自身」として発話し、その会話の流れによって観客を笑わせる演芸である。[[二人組|二人一組]]で演じられることが多いが、3人組や4人組の例もある。人数の上限について、漫才作家の[[相羽秋夫]]は「五、六人ぐらいが妥当ではないでしょうか<ref name="aiba10">[[相羽秋夫]]『上方漫才入門』([[弘文出版]]、1995年)p.10「漫才とはどんな芸でしょう」</ref>」としている。
シンプルな会話体を基本とすることから、演者の個性に合わせ、音曲、踊り、[[物真似]]など、ネタ中に「何をやっても許される<ref name="aiba10"/>」自由な演芸形式となっている。日常生活、流行文化、政治経済など幅広い題材を扱うことが可能で、時流に合わせてネタを細かく、また大きく変化させることができる。
漫才は明確な定義を定めることができない。よって、「こうでなければ漫才として成立しない」という制約は無い。漫才史研究者の神保喜利彦は、「漫才はなんでもあり」だったからこそ、ここまでの地位に上り詰めることができたと述べている<ref>{{Cite web|和書|title=M-1を観て「これは漫才じゃない」という人たちが知らない漫才100年の歴史 「本格派の漫才」とは一体なにか|url=https://president.jp/articles/-/41969?page=5|publisher=週刊文春 電子版|date=2020-12-30|accessdate=2022-05-11}}</ref>。
=== ボケとツッコミ ===
漫才は基本的に「'''ボケ'''」と「'''ツッコミ'''」という2つの役割で成り立っている。それぞれ古典萬歳の「才蔵」と「太夫」に由来する<ref name="aiba12">『上方漫才入門』p.12「ボケとツッコミの二役で成り立っています」</ref>。
「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。{{要出典範囲|date=2020年12月|ボケは、もともと'''とぼけ役'''と呼称されていた。芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のように転じた。}}
「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。明治・大正の一時期には「シン」と呼称した<ref>[[前田勇 (国語学者)|前田勇]]『上方まんざい八百年史』([[杉本書店]]、1975年)p.162</ref>。ツッコミは、口頭で指摘するほかに、ボケの体のどこかを、平手・手の甲・小道具などで叩く(ドツキ)、または足で蹴ることでそれに代える場合がある。[[秋田實]]の論文{{要出典|date=2020年12月}}によれば、[[玉子屋円辰]]が『[[曽我物語]]』を歌った際の、代役の太鼓たたきとのやり取りがツッコミの始まりという。
ボケ・ツッコミの役割分担は必ずしも固定的ではなく、流れによってボケとツッコミが自然に入れ替わる展開を用いるコンビもある<ref name="aiba12"/>。例えば、ボケ役の冗談に対し、ツッコミ役がツッコまずに「ノる」、つまりボケに一時的に同調し、ある程度ノッた後にツッコミを入れてオチを付ける芸('''ノリツッコミ''')などである。このため、ボケとツッコミは「役柄」というよりは、やり取りのさまを概念化したものと考えるのが妥当である。
トリオ漫才(役割が固定された場合)においては、ボケ2人・ツッコミ1人の比率が主流である。ネタの役割分担によって、フリ(後述)にあたる小さいボケを「小ボケ」、オチに至る大きいボケをする者を「大ボケ」、と区別することもある。
=== フリ ===
上記の役割と兼ねて、「筋フリ<ref>『上方漫才入門』p.13「筋ふりとはどんな役でしょう」</ref>」または「'''フリ'''」という、ネタの構成を進行・展開・転換する役割を、メンバーのいずれかが担わなければならない。『[[大辞泉]]』の「ツッコミ」の項は「漫才で、ぼけに対して、主に話の筋を進める役」としており、ツッコミがフリを担う、と定義しているが、ボケがフリを担当するコンビも少なくない。
ボケ・ツッコミが固定したコンビを仮定した場合、ツッコミが進行するコンビ、ボケが進行するコンビ、ボケ・ツッコミ双方が進行するコンビの3種が考えうる。
== 漫才のスタイル ==
<!--具体的なコンビ名を追加する場合は典拠を示してください-->
[[前田勇 (国語学者)|前田勇]]は自著において、漫才を、以下の4類10種に分類した<ref>『上方まんざい八百年史』pp.198-203「漫才の種類とその本質」</ref>。漫才師の芸およびネタは、これら10種の要素を、どれかひとつ特化させているか、または組み合わせている。
* 音曲漫才
** 俗曲漫才
**: 俗曲([[民謡]]、[[俗謡]])の類を主とするもの。[[三人奴]]などが該当する<ref>『上方漫才入門』p.38「俗曲漫才」</ref>。
** 語りもの漫才
**: [[浄瑠璃]]、[[浪曲]]、[[琵琶]]語りの類を主とするもの。[[昭和]]中期における[[浪曲漫才]]の諸グループ([[玉川カルテット]]、[[宮川左近ショー]]など)が該当する<ref>『上方漫才入門』p.39「語りもの漫才」</ref>。
** 歌謡漫才
**: [[流行歌]]・[[歌謡曲]]の類を主とするもの。[[かしまし娘]]、[[暁伸・ミスハワイ]]、[[タイヘイトリオ]]、[[フラワーショウ]]などや、[[ボーイズ (演芸)|音楽ショウ]]と総称された諸グループ([[あきれたぼういず]]、[[小島宏之とダイナブラザーズ]]、[[あひる艦隊]]、[[横山ホットブラザーズ]]など)が該当する<ref>『上方漫才入門』p.40「歌謡漫才」</ref>。
** 曲弾き漫才
**: 楽器の曲芸的演奏を主とするもの。[[市川福治・かな江]]、[[桜津多子・桜山梅夫]]、[[都上英二・東喜美江]]などが該当する<ref>『上方漫才入門』p.41「曲弾き漫才」</ref>。
* 踊り漫才
*: 本格的舞踊を滑稽にくずして見せるもの。[[砂川捨丸・中村春代]]の捨丸による「舞い込み」や、[[松葉家奴・松葉家喜久奴|松葉家奴・喜久奴]]の奴による「魚釣り」などが該当する<ref>『上方漫才入門』p.42「踊り漫才」</ref>。
* しぐさ漫才
** 寸劇漫才
**: 舞台劇、劇映画などの断片を模写するもの。砂川捨丸・中村春代による『[[金色夜叉]]』、[[チャンバラトリオ]]による一連のパロディなどが該当する<ref>『上方漫才入門』p.43「寸劇漫才」</ref>。
** 身振り漫才
**: 身振り、表情を主とするもの。[[吉田茂・東みつ子]]の茂による「かぼちゃ」などが該当する<ref>『上方漫才入門』p.44「身振り漫才」</ref>。
** 仮装漫才
**: 仮装を見せるもの。コントのように役柄を演じるためではなく、仮装それ自体で笑いを誘うことを旨とする。松葉家奴・喜久奴の奴が和服の裏地に「火の用心」などの言葉を染め抜いておき、タイミングよく観客に示すギャグなどが該当<ref>『上方漫才入門』p.45「仮装漫才」</ref>。
* しゃべくり漫才
** 掛け合い漫才
**: 掛け合いでしゃべるもの<ref>『上方漫才入門』p.46「掛け合い漫才」</ref>。[[並木一路]]・[[内海突破]]、[[夢路いとし・喜味こいし]]が該当。
** ぼやき漫才
**: 1人がしゃべり続け、相方は相槌を打つだけのもの。本質的には[[漫談]]である。[[都家文雄]]によって創始され、弟子の[[人生幸朗・生恵幸子]]や[[東文章・こま代]]に受け継がれた。このほか、[[西川のりお・上方よしお]]などが該当する<ref>『上方漫才入門』p.47「ぼやき漫才」</ref>。
=== しゃべくり漫才・コント漫才 ===
現代の漫才を大きく二つに分けた場合、「しゃべくり漫才」と「コント漫才」に分かれる。
しゃべくり漫才とは、日常の雑談や時事を題材に掛け合いのみで笑わせる漫才を指す。創始者は、[[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]]。1980年代の漫才ブーム以降、上述の音曲漫才や歌謡漫才は急速に廃れ、しゃべくり漫才が漫才の王道・正統派とされるようになった。しゃべくり漫才の定義について、[[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]の[[塙宣之]]は「キッチリ定義することは難しいが、あえて言うならば、しゃべくり漫才とは日常会話だと思います」と語っている<ref>塙宣之『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』 p,22</ref>。
コント漫才とは、「お前コンビニの店員やって、俺は客やるから」と[[コント]]に入っていくパターンの漫才を指す。衣装や小道具、効果音を使わずに、立位置もそのままで設定した役になりきるという点でコントとは異なる。設定を振ってコントに切り替えることを、[[符牒]]でコントインと呼ぶ。センターマイクから離れることも多いため、しゃべくり漫才と比べて邪道とされることもある<ref group="注">漫才コンテスト番組「M-1グランプリ2020」で優勝した[[マヂカルラブリー]]のネタに対して、SNSなどで「あれは漫才なのか」と論争となり、松本人志など他のお笑い芸人もこれに言及した(詳細は[[M-1グランプリ2020#マヂカルラブリーのネタに対する議論]]を参照)。</ref>。
近年では「俺コンビニ店員するから、お前はそこで見てて」というように、ボケが独自の世界観に没入し、ツッコミはその邪魔にならないように外から指摘するコント漫才も増えている。
== 歴史 ==
=== 萬歳から万才へ ===
[[File:Manzai by unknown artist - wittig collection.jpg|thumb|正月の祝賀会で萬歳を披露する2人組を描いた[[19世紀]]の[[日本画]](作者不明)。]]
{{see also|萬歳#歴史}}
[[平安時代]]以来祭礼における派遣([[予祝芸能]])や家々を回る[[門付]]の芸能であった萬歳は、18世紀前半の上方で小屋掛けの芸として演じられるようになり<ref name="maeda111">『上方まんざい八百年史』pp.111-117「常打ち万歳、興行さる」</ref>、18世紀末([[天明]]期)には[[生國魂神社]]や[[八坂神社]]に常設の小屋が開設されるに至った。この小屋芸としての萬歳は宮中における奉納などのための形式(御殿萬歳・宮中萬歳)とは異なり、2人組による滑稽な会話による笑芸で、[[俄|大阪俄]]の前座における[[軽口]](かるくち。掛け合い、掛け合い噺とも)と重なりがあった<ref>[[小島貞二]]『漫才世相史 改訂新版』 [[毎日新聞社]]、1978年 pp.50-53「ここらで編笠まわそうか」</ref>。
この萬歳小屋は、その軽口や、[[落語]]の台頭のために廃れた<ref name="maeda111"/>が、幕末期になり、萬歳は新たな寄席芸として息を吹き返す。これは[[尾張萬歳]]や[[三河萬歳]]の影響を直接的に受けた「三曲萬歳(さんぎょくまんざい)」と呼ばれる形式で、[[胡弓]]・[[鼓]]・[[三味線]]という3種の楽器を持った多数の萬歳師が、[[小咄]]の掛け合い、[[言葉遊び]]、[[数え歌]]などの合間に、音曲でにぎやかにはやし立てるものである。ひとつの流れを持った会話劇というよりは、現代における[[大喜利]]に似たものであった<ref name="aiba20">『上方漫才入門』pp.20-21「御殿漫才と三曲萬歳」</ref>。この三曲萬歳はほとんど必ず「アイナラエ」という合いの手を入れる『[[奥田節]]』の演奏・歌唱で締めくくられる<ref name="aiba20"/>ため、この時期の形式自体を「アイナラエ」と呼称する場合がある。また、御殿萬歳などが[[座法|片膝立て]]で行われたのに対し、三曲萬歳は立った状態で演じられたので「立ち萬歳」とも呼ばれた。この形式で人気を取った人物に初代および2代目の[[嵐伊六]]がいる<ref>[https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/manzai/index2.html 漫才の歴史:演芸へと移行する万歳] [[日本芸術文化振興会|文化デジタルライブラリー]]</ref>。
なお明治初期に成立した、浪曲師と[[曲師]]の2人1組による演芸形式である[[浪曲]]も、萬歳や軽口と相互に影響し合った。このように「2人組以上を基本とした滑稽な音曲としゃべくり」による演芸形式が上方で定着していく。
[[明治]]末期、[[河内音頭]]・[[江州音頭]]などの音頭取り芸人であった[[玉子屋円辰]]が、これまでの興行萬歳よりも音楽性の強い、歌舞音曲の合間に滑稽なしゃべくりを挟む、という形式で人気をとり、萬歳との差別化を強調するため看板などに「万才(まんざい)」の表記を用いた<ref>『上方漫才入門』pp.22-23「万才の時代」</ref>。円辰の人気を受け、音頭取りや俄の芸人が多く万才に転じたほか、「[[女道楽]]」などの音曲師がこれまでの芸を変えずに「万才」を標榜した<ref>『上方まんざい八百年史』p.167</ref>ことで、万才の持つスタイルに多様性が生まれた。この時期の形式を[[昭和]]中期まで伝えたコンビに[[砂川捨丸・中村春代]]がいる。なお、この時期を含め、長らく上方の寄席演芸は落語が中心であり、万才師の多くは端席と呼ばれる廉価な寄席にしか出演機会がなく、またそのような寄席でも、音頭、浪曲、義太夫などの主要プログラムに対し、添え物的な立場に置かれていた。
東京では、上方出身の[[日本チャップリン・梅廼家ウグイス]]が1917年([[大正]]6年)に初めて万才を演じた同年に、東京出身の玉子屋円太郎・玉奴(のちの[[荒川清丸・玉奴]])がデビューしている。なお、香盤表やプログラムでは「万才」ではなく「掛け合い」と表記されていたという<ref>『漫才世相史 改訂新版』pp.130-133「震災以前の万才」</ref>。
=== 「しゃべくり漫才」の誕生 ===
[[File:Entatsu Achako Scan10036.JPG|thumb|250px|左が[[花菱アチャコ]]、右が[[横山エンタツ]]<br />本来の立ち位置とは逆である。]]
1930年([[昭和]]5年)、吉本興行部([[吉本興業]]の前身)所属のコンビ「[[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]]」が、従来和装であった萬歳師・万才師と異なり、[[背広]]を身に着け、長らく萬歳・万才の音曲の「つなぎ」扱いであったしゃべくりだけで高座をつとめる、画期的な「しゃべくり漫才」スタイルを創始し、絶大な人気を博した<ref name="aiba24">『上方漫才入門』pp.24-25「漫才の時代」</ref>。しゃべくり漫才はこれまでの萬歳・万才よりも多く笑いを企図したことが特徴で、エンタツ・アチャコ以降、彼らに追随する多くのコンビが結成されたほか、[[ラジオ放送]]のコンテンツとして全国的な認知を得て、多くのスター漫才師が生まれた。発表の場の増加と広がりに合わせ、[[秋田實]]など、専業の漫才作家が活動を開始するようになった。やがて漫才は主に「しゃべくり漫才」を指す語となり、これまでの漫才は少数派となり、「音曲漫才」という[[レトロニム]]と化した。
同時期の東京では、[[柳家金語楼]]がエンタツ・アチャコに触発されて、弟子の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。両者はのちに[[リーガル千太・万吉]]を名乗り、1935年(昭和10年)には他の約80組のコンビとともに「[[漫才協会#歴史|帝都漫才組合]]」を設立した。その後、[[並木一路]]・[[内海突破]]、[[夢路いとし・喜味こいし]]の台頭があった。
[[第二次世界大戦]]終結後、漫才師の何人かが戦死・病死・消息不明に見舞われたり、劇場やプロダクションの運営が停止したりする(例として、吉本は映画館運営会社へ一時転身した)など、演芸のための人的・物的リソースが不足する中、[[千歳家歳男・松鶴家団之助|松鶴家団之助]]による自主マネージメント会社「団之助芸能社」の立ち上げや、秋田實による若手の研究会「MZ研進会」発足など、漫才の復興に向けた動きがなされた。やがて演芸プロダクションや劇場運営会社が次々と再興し、多くの芸人がいずれかに所属するようになる。
=== 漫才ブーム ===
[[民間放送]]の開始や[[テレビジョン放送|テレビ放送]]の隆盛にともない、上方・東京双方で多くの漫才師が[[テレビ番組]]を通じて芸を披露し、人気スターとなった<ref>[https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc20/rekishi/manzai/index4.html 漫才の歴史:テレビとともに時流へ] 文化デジタルライブラリー</ref>。また、1966年(昭和41年)の「[[上方漫才大賞]]」を皮切りに、放送局主催による漫才コンクールの創設が相次いだ。1980年(昭和55年)に相次いで開始された、東西の若手漫才師を紹介する全国ネットのテレビ番組『[[激突!漫才新幹線]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]製作・[[フジテレビ系列]])および『[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]』(フジテレビ系列)が当時の若者を中心に話題を呼び、「[[漫才ブーム]]」と呼ばれる社会現象となった。それぞれの番組に出演した漫才師たちは人気タレントとなり、司会者、歌手、俳優などとしても第一線で活動した。
=== M-1グランプリ ===
2001年([[平成]]13年)、[[島田紳助]](元・[[島田紳助・松本竜介]])の発案により、漫才コンテスト『[[M-1グランプリ]]』が創設され、初代チャンピオンには[[中川家]]が選出された。賞金1000万円、決勝が全国ネットのゴールデンタイムで放送されるなど、前例のない大規模なコンテストであり、2021年大会で優勝した[[錦鯉 (お笑いコンビ)|錦鯉]]は翌年1000万円以上の月収を得るまでになる<ref>{{Cite web|和書|title=M1王者・錦鯉が月収告白 長谷川「1200万」渡辺「1000万」マヂカル野田は年収8000万 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2022/10/08/0015707477.shtml |website=デイリースポーツonline |date=2022-10-08 |access-date=2023-03-01 |language=ja |last=}}</ref>等、影響力も大きい。寄席でやる漫才は時間が10分から15分程度であるが、M-1グランプリ決勝戦のネタ時間は4分程度と定められている。この「4分」というのは、漫才をする時間として特殊であり<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/842220 ノンスタ石田が語る漫才と競技化(1)「M-1の影響でネタ作りが変わった」]</ref>、[[ナイツ (お笑いコンビ)|ナイツ]]の[[塙宣之]]は、M-1の漫才と寄席の漫才は、[[100メートル競走|100m走]]と[[10000メートル競走|10000m走]]くらいの差があるとして<ref>『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』p.55</ref>、「M-1グランプリは漫才日本一を決めると謳いつつ、でも実際は漫才という競技の中の100m走の日本一を決める大会なのです」と語っている<ref>『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』p.113</ref>。
2020年([[令和]]2年)、[[西川きよし]](元[[横山やすし・西川きよし]])が漫才師初の[[文化功労者]]に選出された<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/2020/attach/1422025_00001.htm 令和2年度 文化功労者] [[文部科学省]]</ref>。
=== 呼称・表記の変化について ===
前述のとおり、現代の呼称である「漫才」に至るまでは、「萬歳」「万才」の表記が基本的に昭和初期まで用いられた。1933年(昭和8年)1月、吉本興業に新設された宣伝部が発行した『吉本演藝通信』の中で、萬歳・万才の宣伝媒体や劇場の看板等における表記を「'''漫才'''」と改称することが宣言され、これまでの萬歳・万才との違いを強調した。なお、1932年(昭和7年)3月時点ですでに、吉本興行部が「吉本興業[[合名会社]]」に改組された際の社内資料に、「漫才」の表記が営業品目として使われている<ref name="sawada">[[澤田隆治]]『上方芸能・笑いの放送史』([[日本放送出版協会]]、[[1994年]](平成6年))pp.30-33</ref>。
この表記変更に至る経緯や、考案者については諸説がある。
* 吉本興業は、エンタツ・アチャコによる「新しい万才」の呼び方を一般公募した(エンタツ・アチャコ自身は結成当初「二人漫談」と称していた<ref name="kojima112">『漫才世相史 改訂新版』pp.112-114「『漫才』に統一」</ref>)。「滑稽コント」「ユーモア万歳」「モダン万歳」「ニコニコ問答」などの案が集まったが、文芸部長(のちの社長)で、宣伝部門統括者の[[橋本鐵彦]]がどれにも納得できず、自ら、漢字表記だけを変えた「漫才」という呼称を考案したという<ref name="hayasaka90">『わらわし隊の記録』([[早坂隆]]著、[[中公文庫]]、[[2010年]](平成22年))pp.90 - 91</ref>。なお、橋本の吉本入社は吉本興業への改組後であり、上記の資料と矛盾が生じる。
** 「漫」の字については、[[漫画]]にちなんだ説<ref name="aiba24"/>と、[[漫談]]にちなんだ説<ref name="kojima112"/>とがある。
* 「漫才」の名付け親は橋本ではなく、当時同社の総支配人だった[[林正之助]]であるとする説もある。正之助は橋本が吉本を去ったのち、「わしが考案した」「わしが橋本に提案した」と発言している<ref name="sawada"/>。
** なお、林の没後、[[澤田隆治]]が橋本に「漫才」の名付け親が林であるかどうか尋ねたところ、橋本は「あの方がそういわれるのだったら、そうでしょう」と回答したことから、澤田は「歴史は権力者のものなのだということを知らされた思いがした」「林正之助さんぐらい思いっきり長生きすると、まわりに反論する人が誰もいないから、なんでも自分がやったことになる」と述べ、疑義を示している<ref>澤田隆治『決定版上方芸能列伝』([[筑摩書房]]、2007年)p.235</ref>。長らく[[吉本新喜劇]]や文芸部でエンタツ・アチャコと接してきた[[竹本浩三]]も正之助説を否定している<ref name="sawada"/>。
* [[小島貞二]]は橋本説をとりつつ、「漫才」の表記が広まり、定着したきっかけを、[[1934年]](昭和9年)[[4月25日]]から3日間、東京・[[新橋演舞場]]で開催された「特選漫才大会」の宣伝物や紹介記事としている。当時東京吉本の責任者だった[[林弘高]]が小島に語ったところによると、弘高が演芸愛好家である作家の[[長谷川伸]]の相談をあおぎ、同興行の開催をきっかけに表記の本格的な統一を決めたとしている<ref name="kojima112"/>。
当初、「漫才」の表記には[[花月亭九里丸]]など芸人の間で批判があった<ref name="hayasaka90"/>。
== 類似の芸 ==
{{出典の明記|date=2020年12月|section=1}}
「漫才ブーム」の当事者であった「[[ツービート]]」の[[ビートたけし]]は、しゃべくり漫才の直接的なルーツは[[アメリカ合衆国]]の話芸・{{仮リンク|ダブルアクト|en|Double act}}にあるとしている。
アメリカのほか、[[ドイツ]]、[[大韓民国|韓国]]、[[中華人民共和国|中国]]などの国々にも似たような2人組の話芸があって、日本の漫才のようにボケ、ツッコミが見られる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[漫才師一覧]]
** [[上方演芸の殿堂入り]]
** [[漫才協会]]
*** [[東京漫才の殿堂]]
* [[日本お笑い史]]
** [[漫才ブーム]]
** 漫才に関するコンテスト・放送番組
*** [[上方漫才大賞]]
*** [[上方お笑い大賞]]
*** [[漫才新人大賞]]
*** [[NHK上方漫才コンテスト]]
*** [[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)]]
*** [[M-1グランプリ]]
*** [[M-1甲子園]]
*** [[MBS新世代漫才アワード]]
* 海外の複数人による話芸
** [[相声]] - 中国の話芸。対口相声は二人での漫才に形態が類似している。
** {{仮リンク|ダブルアクト|en|Double act}}
* [[二人組]]
* [[ハリセン#先史]]
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:まんさい}}
[[Category:漫才|*]]
[[Category:演芸]]
[[Category:日本の文化]] | 2003-04-25T03:07:55Z | 2023-12-11T06:31:43Z | false | false | false | [
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7,272 | 男性 | 男性(だんせい、 希: Άνδρας、英: man)は、女性と対比されるヒト(人間)の性別。男の人。
一般的に「男性」という語は成人の男性に対して使うことが適当とされる。敬称は「殿方」や「紳士」または「Mr.」や「Sir」となる。未成年の男子に対しては「少年」と言う呼称になり、小児の場合は「男の子」や「男児」と言う呼称になる。
生物学的な性としての男性は、一般的な動物の雄に相当する。
解剖学的な見解では「出生時に男性型の生殖器(陰茎等の男性器)を有する」と判断された場合は、男性とみなす。ただし、「胎児の段階を経て、徐々に発達した物である」との関係から、形成や状態に色々な個人差が生じる。
現代医学では、外性器だけでなく内性器にも注目しており、「陰嚢は、小さな配偶子である精子を生産して、種々のホルモンを分泌する精巣や前立腺とも繋がっており、相応の機能を有する」などの条件が加わって判断される。
また思春期(第二次性徴期)をむかえると、視床下部の機能関係から性ホルモン分泌が増大する。それにより、次の身体的な発達が生じる。ただし、「男女の特有性における平均的な観点」が基に成っており、『女性に近い体質を有する』などの個人差がある。思春期は男性器の発達から始まるが、男性器の発達が開始した時点では思春期に入った事に気づかず、身長の伸びのピークを迎えるが陰毛が発生した時点で思春期に入った事に気づく事が多い。
このような生物学的性差は、染色体の型に由来する。解剖学的な意味での男性は、多くの場合性染色体としてXとYを1つずつ持つ。Y染色体上には未分化の生殖腺を精巣に変化させるコードを持った遺伝子があり、精巣から分泌された男性ホルモン(テストステロン)の分泌によりウォルフ管の発達を促進しまた、外性器の男性化も促進させる。一方で精巣のセルトリ細胞から分泌される抗ミュラー管ホルモンにより積極的にミュラー管のアポトーシスを起こし、男性の内性器は一通り分化し終える。
様々な遺伝的または外要因により、厳密には当てはまらない例も存在する(半陰陽参照のこと)。しかしながら、おおむね上記に当てはまれば通常その人は男性と見なされる。そのボーダーライン上の判定は非常に難しく多分に個別的であるが、染色体型はその判定に大きな役割を果たす。y染色体は純血遺伝子で、父親から息子だけに伝承されていく。
性染色体がXXY型など(クラインフェルター症候群)で発現が男性である例はあるが、その多くは本人も周囲も男性として受けとめられている。
まれに、トランスセクシュアル男性の場合、出生時及び生物学的性別が女子であり心と体が一致しない(性同一性障害)の場合がある。男性ホルモン剤の投与や性別適合手術などを施術し男性に似た外見を持たせ、法的な女性または性別無表記から男性に戸籍の性別へ変更した事例もある。日本では2003年に性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が成立し2004年に施行されて、性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者は家庭裁判所の審判により法令上の性別を変更することが可能となった。
男性特有の疾患として前立腺疾患がある。また、痛風、十二指腸潰瘍、尿路結石、急性膵炎、大腸ポリープが女性に比べて多く、心臓病、脳溢血(およびそれによる脳血管性認知症)など循環器系の病気が多いのが特徴である。
先進国・発展途上国を問わず、データの入手できるほとんどの国家において男性は平均寿命が女性に比べ短い。これは男性において免疫力を上げ血圧を下げるエストロゲンの分泌が少ないこと、男性ホルモンが代謝を上げる作用を持ち、細胞の損傷が多くなること、体質の差により男性は女性と比べて内臓に脂肪のつく健康リスクの高い太り方をする傾向があることが生得的な原因として考えられている。このほか、世界のどの主要国家においても自殺者が男性の方が多いことや、喫煙率が高いこと、過労死が男性に多いこと、生命の危険を伴う仕事に従事する割合が女性に比べて多いことなどの環境や社会的な理由も考えられる。
閉経に伴い排卵しなくなるため自然生殖能力を失う女性と比べて、男性の自然生殖能力は大幅に長い。80歳を超えての生殖も一応可能ではある。ただし、ヒトの男性の精子も加齢により劣化し、活性化男性ホルモン(実際体に働く男性ホルモン)の値も20代をピークに40代を過ぎたあたりから緩やかに低下し、老年期までに男性ホルモン値もやや低下する。そのため、加齢のために男性としての活力が低下した中高年男性の精子は若い男性の精子に比較してDNAの損傷が激しく、女性を妊娠させる能力等が低下することが近年の研究で明らかになっている。欧州での報告によると、被験者2,100人を対象とした研究で、45歳を超える男性の精子DNAの損傷は、それ以下の年齢グループに比較して有意に高く、30歳未満の男性との比較では2倍であった。
生物学的な性差のほか、社会的・文化的に作られる性差(ジェンダー)によっても男性と女性は区分される。「男らしさ」という概念はジェンダーの中に含まれる。男性と女性の果たす役割はどの文化においても異なるものとされてきたが、その性差の中身は各文化によって千差万別であり、また必ずしも対極をなすものでもなかった。一方で、ほとんど全ての社会において、男性は社会の主導的な立場に立ってきた。社会はたいていの場合家族の集合によるが、父母のどちらを重視するかによって、父系制、母系制、そして双系制の3つに分かれる。父系制の場合家族は父系集団に属することになり、父方の姓や地位、財産を継承する。この場合家庭内では父の権力が強くなる。これに対し母系制は母方の出自をたどり、相続も母方によるものであって、一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではなく、母方の伯父など母方男性が権力を握り、社会の指導者は男性が就任することがほとんどであった。母方女性が社会権力を握る母権制社会は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、空想上の概念であると理解されている。双系制社会でも男性が指導権を握っていることに変わりはなかった。
産業革命によって社会が変化したのに伴い、西欧社会において近代的な家族制度が成立したが、この制度の下では家庭は生産の側面を持たず、男性が外で仕事を行い女性が家庭で家事を行うという男女の分業を特徴とするものであり、男性の指導権は残存していた。フランス革命において1792年に普通選挙が導入された際も選挙権は男性に限られており、その後他国において議会が開設され選挙が導入された際も、選挙権・被選挙権ともに男性に限られ、女性が参政権を獲得するのは1893年のニュージーランドまで待たねばならなかった。その後、フェミニズム運動などによって男女の差は徐々に撤廃される方向にあるが、完全な男女平等には至っていない。一例として、列国議会同盟の調査による各国下院の2019年度男女議員比率において、男性議員の割合が50%を割っている国家は192カ国中ルワンダ・キューバ・ボリビアの3カ国しか存在しない。また、上記のような男性に求められる役割を見直す動きも生まれつつある。
一方で、過労等による男性の自殺率は女性のおよそ2.5倍であることや、アメリカでは殺人事件の被害者の74.6%が男性であるのに対し、加害者が女性であった場合に男性よりも量刑が甘くなる傾向がある、米国のDV被害者の4人に1人は男性である一方、全米で公的に運営される男性用DV被害シェルターの割合は女性の1/2000に留まる、また日本の男性の家事育児時間は労働時間の差より短くならざるを得ない傾向があり、親権が認められない傾向が高いなど、男性差別の存在が指摘されており、旧来の男尊女卑等の男性優遇という観点は、性役割による刷り込みに過ぎないとする見解もある。一方で、女性と比べ男性に対してはジェンダー価値観を押し付ける傾向が高いなど、男性差別に対する取り組みや社会認識の変容は、フェミニズム運動が進展した女性と比較し進展が遅く、女性と比べ高い人権侵害にさらされる危険性が指摘されている。
1999年にトリニダード・トバゴで11月19日が国際男性デーとされ、いくつかの国家で記念日とされている。
2023年6月にLGBT理解増進法が施行され、全ての男性に対して社会環境が従前の男らしさを押し付けず、性表現等や性的指向などの多様性ある自分らしく生きれるよう社会的理解を守る法律が成立した。 | [
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"text": "一般的に「男性」という語は成人の男性に対して使うことが適当とされる。敬称は「殿方」や「紳士」または「Mr.」や「Sir」となる。未成年の男子に対しては「少年」と言う呼称になり、小児の場合は「男の子」や「男児」と言う呼称になる。",
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"text": "生物学的な性としての男性は、一般的な動物の雄に相当する。",
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"text": "現代医学では、外性器だけでなく内性器にも注目しており、「陰嚢は、小さな配偶子である精子を生産して、種々のホルモンを分泌する精巣や前立腺とも繋がっており、相応の機能を有する」などの条件が加わって判断される。",
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"text": "また思春期(第二次性徴期)をむかえると、視床下部の機能関係から性ホルモン分泌が増大する。それにより、次の身体的な発達が生じる。ただし、「男女の特有性における平均的な観点」が基に成っており、『女性に近い体質を有する』などの個人差がある。思春期は男性器の発達から始まるが、男性器の発達が開始した時点では思春期に入った事に気づかず、身長の伸びのピークを迎えるが陰毛が発生した時点で思春期に入った事に気づく事が多い。",
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"text": "このような生物学的性差は、染色体の型に由来する。解剖学的な意味での男性は、多くの場合性染色体としてXとYを1つずつ持つ。Y染色体上には未分化の生殖腺を精巣に変化させるコードを持った遺伝子があり、精巣から分泌された男性ホルモン(テストステロン)の分泌によりウォルフ管の発達を促進しまた、外性器の男性化も促進させる。一方で精巣のセルトリ細胞から分泌される抗ミュラー管ホルモンにより積極的にミュラー管のアポトーシスを起こし、男性の内性器は一通り分化し終える。",
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"text": "様々な遺伝的または外要因により、厳密には当てはまらない例も存在する(半陰陽参照のこと)。しかしながら、おおむね上記に当てはまれば通常その人は男性と見なされる。そのボーダーライン上の判定は非常に難しく多分に個別的であるが、染色体型はその判定に大きな役割を果たす。y染色体は純血遺伝子で、父親から息子だけに伝承されていく。",
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"text": "まれに、トランスセクシュアル男性の場合、出生時及び生物学的性別が女子であり心と体が一致しない(性同一性障害)の場合がある。男性ホルモン剤の投与や性別適合手術などを施術し男性に似た外見を持たせ、法的な女性または性別無表記から男性に戸籍の性別へ変更した事例もある。日本では2003年に性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律が成立し2004年に施行されて、性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者は家庭裁判所の審判により法令上の性別を変更することが可能となった。",
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"text": "男性特有の疾患として前立腺疾患がある。また、痛風、十二指腸潰瘍、尿路結石、急性膵炎、大腸ポリープが女性に比べて多く、心臓病、脳溢血(およびそれによる脳血管性認知症)など循環器系の病気が多いのが特徴である。",
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"text": "先進国・発展途上国を問わず、データの入手できるほとんどの国家において男性は平均寿命が女性に比べ短い。これは男性において免疫力を上げ血圧を下げるエストロゲンの分泌が少ないこと、男性ホルモンが代謝を上げる作用を持ち、細胞の損傷が多くなること、体質の差により男性は女性と比べて内臓に脂肪のつく健康リスクの高い太り方をする傾向があることが生得的な原因として考えられている。このほか、世界のどの主要国家においても自殺者が男性の方が多いことや、喫煙率が高いこと、過労死が男性に多いこと、生命の危険を伴う仕事に従事する割合が女性に比べて多いことなどの環境や社会的な理由も考えられる。",
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"text": "閉経に伴い排卵しなくなるため自然生殖能力を失う女性と比べて、男性の自然生殖能力は大幅に長い。80歳を超えての生殖も一応可能ではある。ただし、ヒトの男性の精子も加齢により劣化し、活性化男性ホルモン(実際体に働く男性ホルモン)の値も20代をピークに40代を過ぎたあたりから緩やかに低下し、老年期までに男性ホルモン値もやや低下する。そのため、加齢のために男性としての活力が低下した中高年男性の精子は若い男性の精子に比較してDNAの損傷が激しく、女性を妊娠させる能力等が低下することが近年の研究で明らかになっている。欧州での報告によると、被験者2,100人を対象とした研究で、45歳を超える男性の精子DNAの損傷は、それ以下の年齢グループに比較して有意に高く、30歳未満の男性との比較では2倍であった。",
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"text": "生物学的な性差のほか、社会的・文化的に作られる性差(ジェンダー)によっても男性と女性は区分される。「男らしさ」という概念はジェンダーの中に含まれる。男性と女性の果たす役割はどの文化においても異なるものとされてきたが、その性差の中身は各文化によって千差万別であり、また必ずしも対極をなすものでもなかった。一方で、ほとんど全ての社会において、男性は社会の主導的な立場に立ってきた。社会はたいていの場合家族の集合によるが、父母のどちらを重視するかによって、父系制、母系制、そして双系制の3つに分かれる。父系制の場合家族は父系集団に属することになり、父方の姓や地位、財産を継承する。この場合家庭内では父の権力が強くなる。これに対し母系制は母方の出自をたどり、相続も母方によるものであって、一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではなく、母方の伯父など母方男性が権力を握り、社会の指導者は男性が就任することがほとんどであった。母方女性が社会権力を握る母権制社会は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、空想上の概念であると理解されている。双系制社会でも男性が指導権を握っていることに変わりはなかった。",
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"text": "産業革命によって社会が変化したのに伴い、西欧社会において近代的な家族制度が成立したが、この制度の下では家庭は生産の側面を持たず、男性が外で仕事を行い女性が家庭で家事を行うという男女の分業を特徴とするものであり、男性の指導権は残存していた。フランス革命において1792年に普通選挙が導入された際も選挙権は男性に限られており、その後他国において議会が開設され選挙が導入された際も、選挙権・被選挙権ともに男性に限られ、女性が参政権を獲得するのは1893年のニュージーランドまで待たねばならなかった。その後、フェミニズム運動などによって男女の差は徐々に撤廃される方向にあるが、完全な男女平等には至っていない。一例として、列国議会同盟の調査による各国下院の2019年度男女議員比率において、男性議員の割合が50%を割っている国家は192カ国中ルワンダ・キューバ・ボリビアの3カ国しか存在しない。また、上記のような男性に求められる役割を見直す動きも生まれつつある。",
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"text": "一方で、過労等による男性の自殺率は女性のおよそ2.5倍であることや、アメリカでは殺人事件の被害者の74.6%が男性であるのに対し、加害者が女性であった場合に男性よりも量刑が甘くなる傾向がある、米国のDV被害者の4人に1人は男性である一方、全米で公的に運営される男性用DV被害シェルターの割合は女性の1/2000に留まる、また日本の男性の家事育児時間は労働時間の差より短くならざるを得ない傾向があり、親権が認められない傾向が高いなど、男性差別の存在が指摘されており、旧来の男尊女卑等の男性優遇という観点は、性役割による刷り込みに過ぎないとする見解もある。一方で、女性と比べ男性に対してはジェンダー価値観を押し付ける傾向が高いなど、男性差別に対する取り組みや社会認識の変容は、フェミニズム運動が進展した女性と比較し進展が遅く、女性と比べ高い人権侵害にさらされる危険性が指摘されている。",
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] | 男性は、女性と対比されるヒト(人間)の性別。男の人。 一般的に「男性」という語は成人の男性に対して使うことが適当とされる。敬称は「殿方」や「紳士」または「Mr.」や「Sir」となる。未成年の男子に対しては「少年」と言う呼称になり、小児の場合は「男の子」や「男児」と言う呼称になる。 | {{redirect|男|[[久宝留理子]]の楽曲|「男」}}
{{Infobox
|title= 男、男性
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|caption=各国の男性
}}
'''男性'''(だんせい、 {{lang-el-short|Άνδρας}}、{{lang-en-short|man}})は、[[女性]]と対比される[[ヒト]]([[人間]])の[[性別]]。男の人。
一般的に「男性」という語は[[成人]]の男性に対して使うことが適当とされる<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%94%B7%E6%80%A7/#jn-140212 |title=男性(だんせい) とは? 意味・読み方・使い方 |access-date=2023-10-10 |publisher=goo辞書}}</ref>。[[敬称]]は「殿方」や「紳士」または「[[ミスター|Mr.]]」や「[[サー|Sir]]」となる。[[未成年者|未成年]]の男子に対しては「[[少年]]」と言う呼称になり、[[小児]]の場合は「[[男の子]]」や「[[男児]]」と言う呼称になる。
==生物学的な男性の定義==
{{出典の明記| date = 2012年7月| section = 1}}
[[File:Beard Trimming.png|thumb|180px|男性ホルモンの影響で、勝手に[[髭]]([[ひげ]])が伸びてくる。その髭を剃るか伸ばすかは個人の選択やその人が住む地域の文化による。一見して髭が無いように見えている男性がいても、それは毎朝髭を剃っているから。髭は勝手に伸び続けるのでそのまま午後や夕方になると口のまわりが髭で黒っぽくなる。]]
[[File:Adam's apple 05.jpg|thumb|right|180px|[[声変わり]]をした象徴である実際に見た[[成人]]している二十代男性の[[喉頭隆起]]。上は甲状軟骨、下は環状軟骨である。[[喉頭隆起#俗称|アダムの林檎]]・喉仏など別名がある。]]
[[File:Leg hair.jpg |thumb|right|180px|男性の[[第二次性徴]]や[[アンドロゲン|男性ホルモン]]の高い値の影響により濃密で濃い'''成人男性特有'''の[[体毛]]が生える。女性や小児にはない男性の[[剛毛]]なすね毛。]]
生物学的な[[性 (生物学)|性]]としての男性は、一般的な[[動物]]の[[雄]]に相当する。
[[解剖学]]的な見解では「出生時に男性型の[[生殖器]]([[陰茎]]等の[[男性器]])を有する」と判断された場合は、男性とみなす。ただし、「胎児の段階を経て、徐々に発達した物である」との関係から、形成や状態に色々な個人差が生じる。
現代[[医学]]では、外性器だけでなく内性器にも注目しており、「[[陰嚢]]は、小さな配偶子である[[精子]]を生産して、種々の[[ホルモン]]を[[分泌]]する[[精巣]]や[[前立腺]]とも繋がっており、相応の機能を有する」などの条件が加わって判断される。
また[[思春期]](第二次性徴期)をむかえると、[[視床下部]]の機能関係から[[性ホルモン]]分泌が増大する。それにより、次の身体的な発達が生じる。ただし、「男女の特有性における平均的な観点」が基に成っており、『女性に近い体質を有する』などの個人差がある。思春期は男性器の発達<ref>[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f7831/p28526.html お母さんの基礎知識(思春期、男の子編)(もっと詳しく…)- 神奈川県ホームページ]</ref>から始まるが、男性器の発達が開始した時点では思春期に入った事に気づかず、[[身長]]の伸びのピークを迎えるが[[陰毛]]が発生した時点で思春期に入った事に気づく事が多い<ref>[https://www.takeda.co.jp/patients/pp/pp01.html 「思春期早発症」とは](武田薬品工業)</ref><ref>[https://www.takeda.co.jp/patients/pp/pp02.html 思春期早発症の症状](武田薬品工業)</ref>。
* [[陰茎]]の発達で[[精巣]]や[[前立腺]]などが成熟すると、精母細胞の分裂から[[精子]]が生産され、前立腺で生産された[[前立腺液]]、[[精嚢]]で作られる「精嚢液」と精子が合わさり[[精液]]となって[[精通]]や[[射精]]に至る。
* [[喉頭隆起]](こうとうりゅうき:のどぼとけ)の発達関係から[[変声]]に成り、声が1[[オクターヴ]]ほど低くなる。
* 筋骨が明確となる体形と成りやすく、体力的にも平均的な男女で比較すると優位となる傾向がある。
* 身体が全体的に毛深くなる傾向にあり、[[髭]]なども濃くなる。
このような生物学的性差は、[[染色体]]の型に由来する。解剖学的な意味での男性は、多くの場合[[性染色体]]としてXとYを1つずつ持つ。Y染色体上には未分化の生殖腺を精巣に変化させる[[SRY|コードを持った遺伝子]]があり、精巣から分泌された男性ホルモン([[テストステロン]])の分泌により[[ウォルフ管]]の発達を促進しまた、外性器の男性化も促進させる。一方で精巣の[[セルトリ細胞]]から分泌される抗ミュラー管ホルモンにより積極的に[[中腎傍管|ミュラー管]]の[[アポトーシス]]を起こし、男性の内性器は一通り分化し終える<ref>{{Cite book|和書|year=1992|edition=改訂新版|title=ホーム・メディカ 家庭医学大辞典 - 改訂新版|publisher=小学館|page=581|isbn=4-09-304502-X}}</ref>。
様々な[[遺伝]]的または外要因により、厳密には当てはまらない例も存在する([[半陰陽]]参照のこと)。しかしながら、おおむね上記に当てはまれば通常その人は男性と見なされる。そのボーダーライン上の判定は非常に難しく多分に個別的であるが、染色体型はその判定に大きな役割を果たす。y染色体は純血遺伝子で、父親から息子だけに伝承されていく。
性染色体がXXY型など([[クラインフェルター症候群]])で発現が男性である例はあるが、その多くは本人も周囲も男性として受けとめられている。
まれに、[[トランスセクシュアル]]男性の場合、出生時及び生物学的性別が女子であり[[心]]と[[体]]が一致しない([[性同一性障害]])の場合がある。[[男性ホルモン]]剤の投与や[[性別適合手術]]などを施術し男性に似た外見を持たせ、法的な女性または性別無表記から男性に戸籍の性別へ変更した事例もある。日本では2003年に[[性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律]]が成立し2004年に施行されて、性同一性障害者のうち特定の要件を満たす者は家庭裁判所の審判により法令上の性別を変更することが可能となった<ref>https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=415AC0100000111 「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」e-Gov法令検索 2021年1月17日閲覧</ref>。
===男性と疾患===
男性特有の疾患として[[前立腺]]疾患がある。また、[[痛風]]、[[十二指腸]]潰瘍、尿路結石、[[急性膵炎]]、大腸ポリープが[[女性]]に比べて多く、[[心臓病]]、[[脳出血|脳溢血]](およびそれによる[[脳血管性認知症]])など[[循環器]]系の病気が多いのが特徴である。
先進国・発展途上国を問わず、データの入手できるほとんどの国家において男性は[[平均寿命]]が女性に比べ短い<ref>https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life10/03.html 「平均寿命の国際比較」日本国厚生労働省 2021年1月15日閲覧</ref>。これは男性において免疫力を上げ血圧を下げる[[エストロゲン]]の分泌が少ないこと<ref>https://kenko.sawai.co.jp/healthy/201603.html 「女性の方が寿命が長い3つの理由」沢井製薬 2016年3月 2021年1月17日閲覧</ref>、[[男性ホルモン]]が代謝を上げる作用を持ち、細胞の損傷が多くなること、体質の差により男性は女性と比べて内臓に脂肪のつく健康リスクの高い太り方をする傾向があることが生得的な原因として考えられている。このほか、世界のどの主要国家においても[[自殺]]者が男性の方が多いことや<ref>https://www.mhlw.go.jp/content/h29h-2-3.pdf 「諸外国における自殺の現状」日本国厚生労働省 p78 2021年1月17日閲覧</ref>、[[喫煙]]率が高いこと、[[過労死]]が男性に多いこと、生命の危険を伴う仕事に従事する割合が女性に比べて多いことなどの環境や社会的な理由も考えられる。
===男性更年期障害と生殖能力===
[[閉経]]に伴い排卵しなくなるため自然生殖能力を失う女性と比べて、男性の自然生殖能力は大幅に長い。80歳を超えての生殖も一応可能ではある。ただし、ヒトの男性の精子も加齢により劣化し、活性化[[男性ホルモン]](実際体に働く男性ホルモン)の値も20代をピークに40代を過ぎたあたりから緩やかに低下し、[[老年期]]までに男性ホルモン値もやや低下する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-endo.jp/modules/patient/index.php?content_id=71#:~:text=%E5%8A%A0%E9%BD%A2%E7%94%B7%E6%80%A7%E3%81%A7%E7%94%B7%E6%80%A7,%E9%95%B7%E5%AF%BF%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82 |title=男性更年期障害(加齢性腺機能低下症、LOH症候群)とは |access-date=2022-06-19 |publisher=一般社団法人 日本内分泌学会}}</ref>。そのため、加齢のために男性としての活力が低下した中高年男性の精子は若い男性の精子に比較して[[デオキシリボ核酸|DNA]]の損傷が激しく、女性を妊娠させる能力等が低下することが近年の研究で明らかになっている。欧州での報告によると、被験者2,100人を対象とした研究で、45歳を超える男性の精子DNAの損傷は、それ以下の年齢グループに比較して有意に高く、30歳未満の男性との比較では2倍であった<ref>[http://www.eshre.eu/binarydata.aspx?type=doc&sessionId=hrrcsg45xu0ahm55xsz2yeig/PRECON_SYLL_2005.pdf European Society of Human Reproduction and Embryology]</ref>。
== 文化と社会 ==
生物学的な[[性差]]のほか、社会的・文化的に作られる性差([[ジェンダー]])によっても男性と女性は区分される<ref name="名前なし-1">https://japan.unwomen.org/ja/news-and-events/news/2018/9/definition-gender 「ジェンダーとは?」UN Women 日本事務所 2018年9月21日 2020年1月17日閲覧</ref>。「[[男らしさ]]」という概念はジェンダーの中に含まれる<ref name="名前なし-1"/>。男性と女性の果たす役割はどの文化においても異なるものとされてきたが、その性差の中身は各文化によって千差万別であり、また必ずしも対極をなすものでもなかった<ref>「文化人類学キーワード」p62-63 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。一方で、ほとんど全ての社会において、男性は社会の主導的な立場に立ってきた。社会はたいていの場合家族の集合によるが、父母のどちらを重視するかによって、[[父系制]]、[[母系制]]、そして[[双系制]]の3つに分かれる。父系制の場合家族は父系集団に属することになり、父方の姓や地位、財産を継承する。この場合家庭内では父の権力が強くなる。これに対し母系制は母方の出自をたどり、相続も母方によるものであって<ref>「文化人類学キーワード」p140-141 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>、一般に家庭内における父の権力は弱く、母が実権を握っていることが多いが、母系制社会においても女性が社会の実権を握っているわけではなく、母方の伯父など母方男性が権力を握り、社会の指導者は男性が就任することがほとんどであった。母方女性が社会権力を握る母権制社会は、かつてそのようなものが存在したと想像されたものの実在が確認されず、空想上の概念であると理解されている<ref>「文化人類学キーワード」p142-143 山下晋司・船曳建夫編 有斐閣 1997年9月30日初版第1刷</ref>。双系制社会でも男性が指導権を握っていることに変わりはなかった。
産業革命によって社会が変化したのに伴い、西欧社会において近代的な家族制度が成立したが、この制度の下では家庭は生産の側面を持たず、男性が外で仕事を行い女性が家庭で家事を行うという男女の分業を特徴とするものであり、男性の指導権は残存していた<ref>「ライフコースとジェンダーで読む 家族 第3版」p63-64 岩上真珠 有斐閣 2013年12月15日第3版第1刷</ref>。[[フランス革命]]において[[1792年]]に[[普通選挙]]が導入された際も選挙権は男性に限られており、その後他国において[[議会]]が開設され[[選挙]]が導入された際も、[[選挙権]]・[[被選挙権]]ともに男性に限られ、女性が参政権を獲得するのは[[1893年]]の[[ニュージーランド]]まで待たねばならなかった<ref>「オセアニアを知る事典」平凡社 p206 1990年8月21日初版第1刷</ref>。その後、[[フェミニズム]]運動などによって男女の差は徐々に撤廃される方向にあるが、完全な[[男女平等]]には至っていない。一例として、[[列国議会同盟]]の調査による各国[[下院]]の2019年度男女議員比率において、男性議員の割合が50%を割っている国家は192カ国中[[ルワンダ]]・[[キューバ]]・[[ボリビア]]の3カ国しか存在しない<ref>http://archive.ipu.org/wmn-e/classif.htm 「Women in parliament」列国議会同盟 2019年2月 2021年1月17日閲覧</ref>。また、上記のような男性に求められる役割を見直す動きも生まれつつある<ref name="名前なし-2">https://forbesjapan.com/articles/detail/30764 「11月19日は「国際男性デー」。生きづらさを感じる男性の声に耳を傾けよう」ForbesJapan 2019/11/18 2021年1月17日閲覧</ref><ref name="名前なし-3">https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66405170Z11C20A1CE0000/ 「「大黒柱は男?」見つめ直す日に 国際男性デー」日本経済新聞 2020年11月19日 2021年1月17日閲覧</ref><ref>https://www.chugoku-np.co.jp/living/article/article.php?comment_id=700709&comment_sub_id=0&category_id=1124 「男らしさが苦しくて 19日「国際男性デー」 「大黒柱」「仕事第一」…刷り込み重荷」中國新聞デジタル 2020/11/18 2021年1月17日閲覧</ref>。
一方で、過労等による男性の自殺率は女性のおよそ2.5倍であることや、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では殺人事件の被害者の74.6%が男性であるのに対し、加害者が女性であった場合に男性よりも量刑が甘くなる傾向がある、米国のDV被害者の4人に1人は男性である一方、全米で公的に運営される男性用DV被害シェルターの割合は女性の1/2000に留まる、また日本の男性の家事育児時間は労働時間の差より短くならざるを得ない傾向があり、親権が認められない傾向が高いなど<ref>{{Cite web|和書|title=女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/070500084/|website=日経ビジネス電子版|accessdate=2021-05-28|language=ja|last=日経ビジネス電子版}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=男性差別は存在するのか 女性運動家が撮った現実|WOMAN SMART|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO28761800Z20C18A3000000?page=2|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-05-28|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>、[[男性差別]]の存在が指摘されており、旧来の[[男尊女卑]]等の男性優遇という観点は、性役割による刷り込みに過ぎないとする見解もある<ref>{{Cite web|和書|title=女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/070500084/|website=日経ビジネス電子版|accessdate=2021-05-28|language=ja|last=日経ビジネス電子版}}</ref>。一方で、女性と比べ男性に対してはジェンダー価値観を押し付ける傾向が高いなど<ref>{{Cite web|和書|title=男性差別は存在するのか 女性運動家が撮った現実|WOMAN SMART|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO28761800Z20C18A3000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2021-05-28|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=男の育休は社会科見学? 成功者たちの無意識差別という病根|url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00121/|website=日経ビジネス電子版|accessdate=2021-05-28|language=ja|last=日経ビジネス電子版}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=『男性の育休』をどう思いますか?〜他国比較から考える取得率が伸び悩む背景とは|url=https://sourire-heart.com/9854/|website=スリール株式会社|自分らしいワーク&ライフの実現へ。 {{!}} 自分らしい、ワーク&ライフの実現へ。スリール株式会社|date=2019-11-27|accessdate=2021-05-28|language=ja}}</ref>、男性差別に対する取り組みや社会認識の変容は、フェミニズム運動が進展した女性と比較し進展が遅く、女性と比べ高い[[人権侵害]]にさらされる危険性が指摘されている<ref>{{Cite book|和書|title=日本の男性の人権|date=2009年06月|year=2009|publisher=ブイツーソリューション|pages=第4章}}</ref>。
1999年に[[トリニダード・トバゴ]]で[[11月19日]]が[[国際男性デー]]とされ<ref name="名前なし-2"/>、いくつかの国家で記念日とされている<ref name="名前なし-3"/>。
[[2023年]][[6月]]に[[性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律|LGBT理解増進法]]が施行され、全ての男性に対して[[社会環境]]が従前の[[男らしさ]]を押し付けず、[[ジェンダー表現|性表現]]等や[[性的指向]]などの多様性ある自分らしく生きれるよう[[社会的認知|社会的理解]]を守る法律が成立した。
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|Henri Poincaré-2.jpg|[[数学者]]には[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]や[[アルベルト・アインシュタイン]]などが存在し男性が顕著に多い。(画像は[[アンリ・ポアンカレ]])
|Compositor André Lamounier van Lammeren.jpg|{{要出典範囲|[[音楽家]]は、大半の割合で[[作曲]]の奥深い世界を創作し制作・演奏するのも男性に多い特徴がある。|date=2022年6月}}
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|Father with Daughter Ringing Bell - Atop Mount Moiwayama - Sapporo - Hokkaido - Japan - 01 (47977663231).jpg|[[父親]]が[[娘]]を抱き上げている[[写真]]。
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| ファイル: Coyyoungthing (183829923).jpg |[[2005年]]において、[[LGBT|LGBTQ]]の[[性表現]]や[[性的指向]]の理解に基づく多様性を啓発する[[性的少数者]]の[[写真]]。
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== 出典 ==
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==関連項目==
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* [[LGBT|LGBTの多様性]]
* [[男らしさ]]
* [[女性]]
* [[性別]]
* [[性差]]
* [[ジェンダー]]
* [[人間の性]]
* [[人]]
* [[人間]]
* [[性科学]]
* [[男性差別]]
* [[フェミニズム]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:男性|*]]
[[Category:雄]] | 2003-04-25T03:11:39Z | 2023-12-27T10:20:18Z | false | false | false | [
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7,275 | 我妻栄 | 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年(明治30年)4月1日 - 1973年(昭和48年)10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一など。
山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
小学校、県立米沢中学ともに常に首席、一高は入学・卒業とも一番だった(在学中は必ずしも首席ではなく、例えば1年次は大熊興吉が首席であった。)。東京帝国大学法学部独法科に入学し、在学中に高等文官試験に合格。指導教官の鳩山秀夫に望まれ大学に残り、30歳のとき同大教授、1945年に法学部長となり、のちに名誉教授となる。末弘厳太郎、穂積重遠、牧野英一ら名だたる学者からも指導を受けた。
戦後は、日本国憲法制定のため最後の貴族院議員に勅選され、農地改革立法に参与して中央農地委員となる。ほかに、日本学術会議の副会長、日本学士院会員にも就任。さらに、法務省特別顧問として民事関係の立法に尽力し、恩師の鳩山、末弘、穂積が果たし得なかった民法の総合的研究の完成にあたり、「我妻民法」といわれる独自の民法体系を作り上げた。1964年の文化勲章受章を機にその年金を母校愛から米沢興譲館高校に寄託し、財団法人自頼奨学財団を設立。後輩の育英にあてた。
60年安保当時、『朝日新聞』に「岸信介君に与える」と題した手記を寄稿。岸首相の国会運営を批判し、即時退陣を訴えたほか(下記参照)、1971年には宮本康昭裁判官の再任拒否問題に関し「裁判官の思想統制という疑念は避けがたい」という文化人グループに加わり、最高裁に反省を求めるなど、反骨の人としても広く知られた。
1973年10月21日、急性胆嚢炎のため、熱海市の国立熱海病院で死去。76歳没。有斐閣法律学全集の『法学概論』の執筆途中の出来事であった(同書は、我妻の遺した草稿に沿って原稿を補訂できる箇所は補訂したうえ、未完のまま出版されている)。
妻の緑は、鈴木米次郎(作曲家、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)創立者)の四女。長男の我妻洋は心理学者で、東京工業大学教授等を歴任。二男の我妻堯は産婦人科医で、東京大学医学部助教授を経て国立病院医療センター(現:国立国際医療研究センター)国際医療協力部初代部長等を歴任した。 民事訴訟法学者で東京都立大学教授の我妻学は実孫。
我妻は、師である鳩山の研究に依拠したドイツ法由来の解釈論を発展させて、矛盾なき統一的解釈と理論体系の構築を目指すとともに、資本主義の高度化によって個人主義に基礎を置く民法の原則は取引安全、生存権の保障といった団体主義に基づく新たな理想によって修正を余儀なくされているので、条文の単なる論理的解釈では社会生活の変遷に順応することはできないとした上で、「生きた法」である判例研究の結果に依拠した法解釈を展開した。このような我妻理論・体系は、鳩山、末弘、穂積の学説を総合したものといえ、理論的に精緻であるだけでなく、結論が常識的で受け入れやすいとの特徴があったことから学界や実務に大きな影響を与え続け長らく通説とされた。
我妻の生涯の研究テーマは「資本主義の発達に伴う私法の変遷」であり、その全体の構想は、所有権論、債権論、企業論の3つからなっている。
後掲「近代法における債権の優越的地位」は1925年から1932年に発表された論文を収録したもので、債権論と所有権論がテーマとなっているが、その内容は以下のとおりである。前近代的社会においては、物資を直接支配できる所有権こそ財産権の主役であったが、産業資本主義社会になると、物資は契約によって集積され資本として利用されるようになり、その発達に従い所有権は物資の個性を捨てて自由なものとなり、契約・債権によってその運命が決定される従属的地位しか有しないものとして財産権の主役の座を追われる。これが我妻の説く「債権の優越的地位」であるが、その地位が確立されることにより今度は債権自体が人的要素を捨てて金銭債権として合理化され金融業の発達を促す金融資本主義に至る。我妻は、このような資本主義発展の歴史をドイツにおける私法上の諸制度を引き合いに出して説明し、このような資本主義の発達が今後の日本にも妥当すると予測した。
我妻は、金融資本主義の更なる発達によって合理化が進むと、企業は、人的要素を捨てて自然人に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私的な性格さえ捨てて企業と国家との種々の結合、国際資本と民族資本との絶え間なき摩擦等の問題を産むと予測し、企業論において、会社制度の発展に関する研究によって経済的民主主義の法律的特色を明らかにするはずであったが、その一部を含む後掲『経済再建と統制立法』を上梓したのみで全体像は未完のままとなっている。上掲のとおり我妻の予測は現代社会にそのまま当てはまるものも多く、「近代法における債権の優越的地位」は日本の民法史上不朽の名論文とされている。
岸信介とは一高、東京帝大時代における同級生で、首席を争った。一高入試では岸の成績はあまり芳しくなかったが、入学直後の試験で一挙に頭角を現し、我妻とも親しくなり、以後、2人は優等生として過ごした。帝大時代、岸と我妻は冬休みになると一緒に伊豆・土肥温泉の旅館「明治館」に籠もって勉強した。ある年、到着早々に我妻が重い風邪をひき、高熱を出した折には、岸が必死になって看病を続けた。明治館の人たちの記憶に、この2人の東大生は長く記憶に残った。
東京裁判が終わり、まだ、岸が巣鴨拘置所に幽閉されていたとき嘉治隆一や三輪寿壮の肝いりで、数名の友人が釈放嘆願書をGHQに提出するが、この際当時東大法学部長であった我妻も、一高以来の友人の一人として署名した。岸は釈放されると、直ちに政界に返り咲き、アッというまに首相の地位に就く。そして、第二次岸内閣は新日米安全保障条約のため、衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決を行う。安保闘争が激しさを増す中、1960年6月5日付『朝日新聞』政治面に我妻は、「岸信介君に与える」と題し
との手記を寄稿。岸に即時退陣を訴え、条約批准書交換日である、6月23日、岸内閣は総辞職した。
奨学金貸与や学生寮の運営などの育英事業を展開している公益社団法人米沢有為会における、百周年記念事業の一環として整備構想が練られ、1990年に有為会米沢支部を中心とした募金活動と米沢市からの補助金によって我妻の生誕の家を購入。その後補修と整備を進め、1992年6月に開館した。遺族から寄贈された著作、講演会の手書き原稿などほか、民事訴訟の要旨をまとめた約7000枚の判例カードなどが展示される。入館料は無料。 | [
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"text": "奨学金貸与や学生寮の運営などの育英事業を展開している公益社団法人米沢有為会における、百周年記念事業の一環として整備構想が練られ、1990年に有為会米沢支部を中心とした募金活動と米沢市からの補助金によって我妻の生誕の家を購入。その後補修と整備を進め、1992年6月に開館した。遺族から寄贈された著作、講演会の手書き原稿などほか、民事訴訟の要旨をまとめた約7000枚の判例カードなどが展示される。入館料は無料。",
"title": "我妻榮記念館"
}
] | 我妻 榮は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一など。 | {{画像提供依頼|顔写真|date=2022年10月|cat=人物}}
{{Infobox 学者
|名前= 我妻 榮
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|死没地={{JPN}}・[[静岡県]][[熱海市]]
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|出身校= [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]
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'''我妻 榮'''(わがつま さかえ、[[1897年]]([[明治]]30年)[[4月1日]] - [[1973年]]([[昭和]]48年)[[10月21日]]<ref name=貴参>『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』179頁。</ref>)は、[[日本]]の[[法学者]]。専門は[[民法]]。学位は[[博士(法学)|法学博士]](東京大学)、[[東京大学]][[名誉教授]]、米沢市[[名誉市民]]<ref>{{Cite web|和書|title=名誉市民|website=米沢市役所|url=https://www.city.yonezawa.yamagata.jp/4518.html|accessdate=2022-07-29}}</ref>。[[文化勲章]]、贈[[従二位]](没時叙位)・贈[[勲一等旭日大綬章]](没時叙勲)。[[憲法]]改正に伴う[[家族法]]大改正の立案担当者の一人。[[鳩山秀夫]]に師事。弟子に[[有泉亨]]、[[川島武宜]]、[[四宮和夫]]、[[幾代通]]、[[加藤一郎 (法学者)|加藤一郎]]、[[鈴木禄彌|鈴木録彌]]、[[星野英一]]など。
== 人物 ==
[[山形県]][[米沢市]]出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ{{sfn|『新・人国記 第2』|p=53}}。
小学校、[[山形県立米沢興譲館高等学校|県立米沢中学]]ともに常に[[首席]]、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]は入学・卒業とも一番だった(在学中は必ずしも首席ではなく、例えば1年次は[[大熊興吉]]が首席であった。){{sfn|『新・人国記 第2』|p=52}}<ref>{{Cite journal|和書|author=七戸克彦 |date=2021-07 |url=https://doi.org/10.15017/4485653 |title=我妻栄の青春(1) |journal=法政研究 |ISSN=0387-2882 |publisher=九州大学法政学会 |volume=88 |issue=1 |pages=148-85 |doi=10.15017/4485653 |id={{CRID|1390009225641266688}} |hdl=2324/4485653}}</ref>。[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法学部]]独法科に入学し、在学中に[[高等文官試験]]に合格。指導教官の[[鳩山秀夫]]に望まれ大学に残り、30歳のとき同大教授、[[1945年]]に法学部長となり、のちに名誉教授となる<ref name="yamagata" />。[[末弘厳太郎]]、[[穂積重遠]]、[[牧野英一]]ら名だたる学者からも指導を受けた。
戦後は、[[日本国憲法]]制定のため最後の[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選され、[[農地改革]]立法に参与して中央農地委員となる。ほかに、[[日本学術会議]]の副会長、[[日本学士院]]会員にも就任。さらに、[[法務省]]特別顧問として[[民事]]関係の立法に尽力し、恩師の鳩山、末弘、穂積が果たし得なかった[[民法]]の総合的研究の完成にあたり<ref name="yamagata">{{harvnb|『山形県大百科事典』|p=1062-1063}}</ref>、「我妻民法」といわれる独自の民法体系を作り上げた{{sfn|『新・人国記 第2』|p=52}}。[[1964年]]の文化勲章受章を機にその年金を母校愛から[[米沢興譲館高校]]に寄託し、財団法人自頼奨学財団を設立。後輩の育英にあてた<ref name="yamagata" />。
60年安保当時、『[[朝日新聞]]』に「[[岸信介]]君に与える」と題した手記を寄稿。岸首相の国会運営を批判し、即時退陣を訴えたほか(下記参照)、[[1971年]]には[[宮本康昭]]裁判官の再任拒否問題に関し「[[裁判官]]の思想統制という疑念は避けがたい」という文化人グループに加わり、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]に反省を求めるなど、反骨の人としても広く知られた<ref name="asahi19731022">『朝日新聞』夕刊 1973年10月22日</ref>。
[[1973年]][[10月21日]]、急性[[胆嚢炎]]のため、[[熱海市]]の国立熱海病院で死去。76歳没<ref name="asahi19731022" />。有斐閣[[法律学全集]]の『法学概論』の執筆途中の出来事であった(同書は、我妻の遺した草稿に沿って原稿を補訂できる箇所は補訂したうえ、未完のまま出版されている)。
妻の緑は、[[鈴木米次郎]](作曲家、東洋音楽学校(現:[[東京音楽大学]])創立者)の四女。長男の[[我妻洋]]は[[心理学者]]で、[[東京工業大学]]教授等を歴任。二男の[[我妻堯]]は産婦人科医で、[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]]助教授を経て国立病院医療センター(現:[[国立国際医療研究センター]])国際医療協力部初代部長等を歴任した<ref>「ひと 我妻堯さん 国際医療協力部の初代部長」『朝日新聞』1986年10月1日</ref>。
[[民事訴訟法]]学者で[[東京都立大学 (2020-)|東京都立大学]]教授の[[我妻学]]は実孫<ref>{{cite news |title=我妻栄 米沢出身の民法学者「思い、現代にも」 孫の学氏が市内で講演 /山形|author= |agency=|publisher=毎日新聞 |date=2017-11-14|url=https://mainichi.jp/articles/20171114/ddl/k06/040/063000c|accessdate=2019-06-12}}</ref>。
== 学説 ==
我妻は、師である鳩山の研究に依拠した[[ドイツ法]]由来の解釈論を発展させて、矛盾なき統一的解釈と理論体系の構築を目指すとともに<ref>上掲『民法講義II』の序。</ref>、[[資本主義]]の高度化によって[[個人主義]]に基礎を置く民法の原則は取引安全、[[生存権]]の保障といった団体主義に基づく新たな理想によって修正を余儀なくされているので、条文の単なる論理的解釈では社会生活の変遷に順応することはできないとした上で、「[[生ける法|生きた法]]」である[[判例]]研究の結果に依拠した[[法解釈]]を展開した<ref>上掲『民法講義Ⅰ』の序</ref>。このような我妻理論・体系は、鳩山、末弘、穂積の学説を総合したものといえ、理論的に精緻であるだけでなく、結論が常識的で受け入れやすいとの特徴があったことから学界や実務に大きな影響を与え続け長らく通説とされた<ref>星野英一『民法の焦点PART1総論』(有斐閣リブレ、1987年)
</ref>。
我妻の生涯の研究テーマは「資本主義の発達に伴う[[私法]]の変遷」であり、その全体の構想は、[[所有権]]論、[[債権]]論、[[企業]]論の3つからなっている。
後掲「近代法における債権の優越的地位」は1925年から1932年に発表された論文を収録したもので、債権論と所有権論がテーマとなっているが、その内容は以下のとおりである。前近代的社会においては、物資を直接支配できる所有権こそ[[財産権]]の主役であったが、'''産業資本主義'''社会になると、物資は[[契約]]によって集積され[[資本]]として利用されるようになり、その発達に従い所有権は物資の個性を捨てて自由なものとなり、契約・債権によってその運命が決定される従属的地位しか有しないものとして財産権の主役の座を追われる。これが我妻の説く「債権の優越的地位」であるが、その地位が確立されることにより今度は債権自体が人的要素を捨てて金銭債権として合理化され金融業の発達を促す'''金融資本主義'''に至る。我妻は、このような資本主義発展の歴史を[[ドイツ]]における私法上の諸制度を引き合いに出して説明し、このような資本主義の発達が今後の日本にも妥当すると予測した。
我妻は、金融資本主義の更なる発達によって合理化が進むと、企業は、人的要素を捨てて[[自然人]]に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私的な性格さえ捨てて企業と[[国家]]との種々の結合、国際資本と民族資本との絶え間なき摩擦等の問題を産むと予測し、企業論において、[[会社]]制度の発展に関する研究によって経済的[[民主主義]]の法律的特色を明らかにするはずであったが、その一部を含む後掲『経済再建と統制立法』を上梓したのみで全体像は未完のままとなっている。上掲のとおり我妻の予測は現代社会にそのまま当てはまるものも多く、「近代法における債権の優越的地位」は日本の民法史上不朽の名論文とされている<ref>星野英一『我妻栄』(法学教室176号68頁)</ref>。
== 岸信介と ==
[[岸信介]]とは一高、東京帝大時代における同級生で、首席を争った。一高入試では岸の成績はあまり芳しくなかったが、入学直後の試験で一挙に頭角を現し、我妻とも親しくなり、以後、2人は優等生として過ごした。帝大時代、岸と我妻は冬休みになると一緒に[[伊豆半島|伊豆]]・[[土肥温泉]]の旅館「明治館」に籠もって勉強した。ある年、到着早々に我妻が重い風邪をひき、高熱を出した折には、岸が必死になって看病を続けた。明治館の人たちの記憶に、この2人の東大生は長く記憶に残った{{sfn|『新・人国記 第2』|p=51}}。
[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]が終わり、まだ、岸が[[巣鴨拘置所]]に幽閉されていたとき[[嘉治隆一]]や[[三輪寿壮]]の肝いりで、数名の友人が釈放嘆願書を[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に提出するが、この際当時[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東大法学]]部長であった我妻も、一高以来の友人の一人として[[署名]]した<ref>「岸信介君に与える 我妻栄」『朝日新聞』1960年6月5日</ref>。岸は釈放されると、直ちに政界に返り咲き、アッというまに首相の地位に就く。そして、[[第2次岸内閣 (改造)|第二次岸内閣]]は新[[日米安全保障条約]]のため、[[衆議院]]の会期延長と条約批准案の単独採決を行う。[[安保闘争]]が激しさを増す中、[[1960年]]6月5日付『朝日新聞』政治面に我妻は、「岸信介君に与える」と題し
{{Quotation| 今日、君の残された道はだた一つ。それは直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです。…静かな山川の中で、ただ一人無心にウキをながめていたら、巣鴨のときとはまた別な心境の変化を君に与えるだろうと存じます。}}
との手記を寄稿{{sfn|『新・人国記 第2』|p=51-52}}。岸に即時退陣を訴え、条約批准書交換日である、6月23日、岸内閣は[[内閣総辞職|総辞職]]した。
== エピソード ==
* [[一粒社]]から出版された『民法』は、小型でパワフルで、小回りが利くところが車の[[ダットサン]]に似ているとして「'''ダットサン民法'''」と通称される<ref>上掲『民法1』(勁草書房)のはしがきと帯</ref><ref group="注釈">ダットサンは我妻夫妻の愛車でもあった。成富信夫『我妻君の人となり』(ジュリスト563号135頁)</ref>。[[ロシア語]]の抄訳が出版されたこともある<ref>
清水誠『ロシア語になった「ダットサン民法」』(ジュリスト828号199頁)</ref>。この本は、一粒社の廃業により一時期絶版となっていたが、[[復刊ドットコム]]に多数の復刊希望が集まり、2004年に[[勁草書房]]より改訂を加え復刊された経緯から明らかなように民法の全領域を簡潔明瞭に解説した教科書として未だに根強い人気がある。同様の経緯で、『民法案内』等の書籍も復刊された。
** 2009年12月に、[[学校法人大原学園|大原学園]]が作成した、法曹志望者向けの教材テキストに、『民法』の文章が剽窃されていたことが判明し、我妻の遺族らが、同学園を相手に[[損害賠償]]請求[[訴訟]]を起こす事態に発展した<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100107-OYT1T00712.htm 我妻「民法」無断引用、大原学園のテキスト] 読売新聞 2010年1月7日</ref>。
* 牧野の指導を受けたため、戦後に至っても、今でも新派刑法理論が正しいと思っていると発言したことがある<ref>我妻『民法研究X』12-17頁。[[罪刑法定主義]]の意義を認めつつ、ご都合主義的な「万引は許すと決めた主観主義」に陥る危険性があることの困難を認識しつつも、全ての犯罪者につき、個々人において、その善悪を判断するべく精進すべきだというのが主観主義刑法学の主旨であるという。</ref>。
* [[三菱樹脂事件]]では、[[宮沢俊義]]、[[兼子一]]と共に[[三菱樹脂]]側の意見書を執筆した。
== 我妻榮記念館 ==
奨学金貸与や学生寮の運営などの育英事業を展開している[[公益社団法人]]米沢有為会における<ref>{{cite news |title=郷土の若者支え130年「米沢有為会」が26日まで顕彰展|author= |agency=|publisher=河北新報|date=2019-6-09|url=https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201906/20190610_53053.html|accessdate=2019-06-12}}</ref>、百周年記念事業の一環として整備構想が練られ、[[1990年]]に有為会米沢支部を中心とした募金活動と米沢市からの[[補助金]]によって我妻の生誕の家を購入。その後補修と整備を進め、[[1992年]]6月に開館した<ref>『米沢市史 第5巻 (現代編) 』p.919</ref>。遺族から寄贈された著作、講演会の手書き原稿などほか、[[民事訴訟]]の要旨をまとめた約7000枚の[[判例]]カードなどが展示される<ref>{{cite news |title=我妻栄 改憲派に反論、友人・岸首相に忠告 法学者の「毅然」今こそ 山形に記念館、関係者ら共感|author= |agency=|publisher=毎日新聞 |date=2017-6-27|url=https://mainichi.jp/articles/20170627/dde/041/040/039000c|accessdate=2019-06-10}}</ref>。入館料は無料。
== 年譜 ==
* 1897年 - 山形県米沢市に米沢中学校の英語教師・我妻又次郎の長男として生まれる。
* 1914年 - 山形県立米沢中学校卒業(現:山形県立米沢興譲館高等学校)卒業。
* 1917年 - 第一高等学校卒業。
* 1919年 - 高等試験行政科試験合格。
* 1920年 - 東京帝国大学法学部法律学科卒業。
* 1922年 - 東京帝国大学法学部助教授。
* 1927年 - 東京帝国大学教授。
* 1945年 - 東京帝国大学法学部長、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)校長。
* 1946年 - 貴族院議員(6月19日<ref>『官報』第5831号、昭和21年6月24日。</ref>。[[無所属倶楽部]]所属、1947年5月2日退任{{R|貴参}})。
* 1949年 - 日本学士院会員、第1期及び第2期日本学術会議副会長。
* 1957年 - 東京大学名誉教授(定年退官。)
* 1961年 - 法学博士(東京大学)論文の題は「親族法」。
* 1964年 - 文化勲章受章。
* 1966年 - [[日本放送協会|日本放送協会経営委員会]]委員<ref>{{PDFlink|[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=105115254X00519651229&page=1&spkNum=0¤t=-1 第51回国会参議院会議録第五号]}} 官報号外 1965年12月29日付</ref>。
* 1973年 - 死去、贈従二位(没時叙位)、贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。
== 主要著作 ==
* 『物権法(民法講義II)』([[岩波書店]]、初版1932年、新訂1983年)ISBN 9784000019804
* 『民法総則(民法講義I)』(岩波書店、初版1933年、新訂1965年)ISBN 4-00-002170-2
* 『担保物権法(民法講義III)』(岩波書店、初版1936年、新訂1968年)ISBN 9784000012508
* 『債権総論(民法講義IV)』(岩波書店、初版1940年、新訂1964年)ISBN 9784000008402
* 『事務管理、不当利得、不法行為』([[日本評論社]]、1940年)
* 『経済再建と統制立法』([[有斐閣]]、1948年)
* 『近代法における債権の優越的地位』(有斐閣、1953年)ISBN 4-641-03251-3
* 『債権各論上巻(民法講義V 1)』(岩波書店、1954年)ISBN 9784000008419
* 『法律における理窟と人情』(日本評論社、1955年)
* 『債権各論中巻1(民法講義V 2)』(岩波書店、1957年)ISBN 9784000008426
* 『親族法』(有斐閣法律学全集、1961年)
* 『債権各論中巻2(民法講義V 3)』(岩波書店、1962年)ISBN 9784000008433
* 『民法研究1 - 12』(有斐閣、初版1970年 - 1979年) ISBN 4-641-90020-5 {{NDLJP|3003217}}
* 『民法大意(上・中・下巻)』(岩波書店、1971年)
* 『債権各論下巻1(民法講義V 4)』(岩波書店、1972年)ISBN 9784000008440
* 『民法と五十年 その1 - 3』(有斐閣、1967年~1976年)
* 『法学概論』(有斐閣[[法律学全集]]、1974年)
* 『民法案内1 - 10』(一粒社、復刊は勁草書房)ISBN 4-326-49827-7
* 『民法1 - 3』(一粒社、復刊は勁草書房)[[有泉亨]]、[[川井健]]と共著 - ISBN 4-7527-0286-X
* 『民法』(勁草書房、初版1949年、第9版2013年、良永和隆と共著、遠藤浩補訂)
== 門下生 ==
{|
|style="vertical-align:top;"|
* [[有泉亨]]
* [[幾代通]]
* [[遠藤浩]]
*[[西原道雄]]
|style="vertical-align:top;"|
* [[加藤一郎 (法学者)|加藤一郎]]
* [[川井健]]
* [[鈴木禄彌]]
*[[川島武宜]]
|style="vertical-align:top;"|
* [[四宮和夫]]
* [[星野英一]]
* [[水本浩]]
* 宮崎孝治郎
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=朝日新聞社 |title=新人国記 |publisher=EBSCO |year=1963 |series=第2 |id={{全国書誌番号|49002449}} |doi=10.11501/2941001 |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2941001/1/1 |ref={{harvid|『新・人国記 第2』}}}}
* {{Cite book|和書|author=山形放送株式会社 |title=山形県大百科事典 |publisher=山形放送 |year=1983 |NCID=BN01093374 |id={{全国書誌番号|84020314}} |doi=10.11501/12286270 |ref={{harvid|『山形県大百科事典』}}}}
* {{Cite book|和書|author=衆議院, 参議院 |title=議会制度百年史 |publisher=大蔵省印刷局(印刷) |year=1990 |NCID=BA62611051 |id={{全国書誌番号|91003615}} |doi=10.11501/9673684 |ref={{harvid|『議会制度百年史』}}}}
* 米沢市史編さん委員会編『米沢市史 第5巻 (現代編) 』 米沢市、1996年。
== 外部リンク ==
* [http://www.wagatumasakae.com/ 我妻榮記念館]
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{{デフォルトソート:わかつま さかえ}}
[[Category:20世紀日本の法学者]]
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7,276 | ゼルダの伝説 神々のトライフォース | 『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』(ゼルダのでんせつ かみがみのトライフォース、英題: The Legend of Zelda: A Link to the Past)は、1991年11月21日に任天堂から発売されたスーパーファミコン用ゲームソフト。ジャンルはアクションアドベンチャーゲーム。
『リンクの冒険』から約5年ぶりとなるゼルダの伝説シリーズの新作。スーパーファミコン本体の発売からちょうど1年後の1991年11月21日に発売された。
今作では広大な2つの世界を行き来しながら冒険を進める。ダンジョン内には高低差があり、複数の階層によって構成されている。作中では「マスターソード」「ビン」など、後のシリーズで定番となるアイテムが登場する。
CMではスチャダラパーの楽曲『ゲームボーイズ』のリズムに本作向けの歌詞を乗せてスチャダラパー自身が歌い、この曲に合わせて主人公ら登場人物に扮した人々がダンスを披露した。本作の主人公は少年だが、主人公役を演じたのは少年ではなくオーディションで選ばれた女子高校生である。このオーディションの最終選考には、TOKIO結成前の長瀬智也も残っていた。ヒロインのゼルダ姫役には新島弥生が選ばれた。
2003年3月14日には新作ゲーム『ゼルダの伝説 4つの剣』と本作の移植版を同時収録したゲームボーイアドバンス用ソフト『ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣』(以下、GBA版と表記)が発売。また、Wii、Wii U、Newニンテンドー3DS用のバーチャルコンソールとして配信されているほか、2017年10月5日発売のスーパーファミコンの復刻版『ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』や、2019年9月6日配信開始の『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』(Nintendo Switchのオンラインサービス特典ソフト)に本作が収録されている。
1作目『ゼルダの伝説』より大幅なシステム変更が行われた2作目の『リンクの冒険』とは異なり、基本的なシステムは1作目を踏襲している。
画面構成も1作目と同様の見下ろし型、画面切り替えスクロール方式に戻ったが、1作目が完全な1画面単位のスクロールだったのに対して、本作では切り替え型と通常型のスクロールを併用している。
通常の剣による斬りつけ攻撃のほかに、攻撃用のボタンを押し続けて力を溜め通常の2倍の威力で広範囲を攻撃する「回転斬り」を行うことができる。
画面上には魔法力の残量を表す「魔法メーター」が表示されている。一部のアイテムを用いる際に魔法力を消費する。消費量はアイテムにより異なる。
アクション部分では、これまでの物を押す動作以外にも、引っ張る、担ぐ、投げるといった動作が可能となった。これらは多目的ボタン1つでその場に応じて実行できる。
古来より、ハイラル王国の聖地には触れた者の願いを叶えるという黄金の秘宝「トライフォース」が眠っていた。その聖地で、ある時より悪しき力が湧き出てきたため、ハイラル王は7人の賢者たちに聖地の封印を命じた。途中、賢者を護衛していた「ナイトの一族」が多数犠牲になったものの、賢者たちにより聖地の入り口は封印された。この出来事は、後に「封印戦争」と呼ばれ語り継がれることになる。
その封印戦争が遥か昔の物語になりつつあった頃、王国に謎の司祭アグニムが現れた。アグニムはハイラル王の命を奪い、魔力で王国の兵士たちを操って、かつての七賢者の末裔にあたる娘たちを次々とさらい生贄にしていった。そして魔の手は末裔の1人でもある王国のゼルダ姫にまで及ぼうとしていた。
自宅で就寝中だった少年リンクは、助けを求めるゼルダ姫の悲痛な言葉を夢の中で聞き、夜中に目を覚ました。その横では武具を身につけた叔父が家を出ようとしていた。叔父は家に留まるようリンクに伝えると、1人ハイラル城へと向かった。しかし、時間が経過しても叔父は戻らない。リンクは家を出て叔父の後を追った。
光の世界と闇の世界の地形は類似しており、一部のダンジョンの位置は共通している。
サブ画面であらかじめアイテムを選択し、Y(A)ボタンを押すことにより使用できる。 | [
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"text": "『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』(ゼルダのでんせつ かみがみのトライフォース、英題: The Legend of Zelda: A Link to the Past)は、1991年11月21日に任天堂から発売されたスーパーファミコン用ゲームソフト。ジャンルはアクションアドベンチャーゲーム。",
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"text": "2003年3月14日には新作ゲーム『ゼルダの伝説 4つの剣』と本作の移植版を同時収録したゲームボーイアドバンス用ソフト『ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣』(以下、GBA版と表記)が発売。また、Wii、Wii U、Newニンテンドー3DS用のバーチャルコンソールとして配信されているほか、2017年10月5日発売のスーパーファミコンの復刻版『ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン』や、2019年9月6日配信開始の『スーパーファミコン Nintendo Switch Online』(Nintendo Switchのオンラインサービス特典ソフト)に本作が収録されている。",
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"title": "ストーリー"
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"text": "光の世界と闇の世界の地形は類似しており、一部のダンジョンの位置は共通している。",
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"text": "サブ画面であらかじめアイテムを選択し、Y(A)ボタンを押すことにより使用できる。",
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] | 『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』は、1991年11月21日に任天堂から発売されたスーパーファミコン用ゲームソフト。ジャンルはアクションアドベンチャーゲーム。 | {{Pathnav|ゼルダの伝説シリーズ|frame=1}}
{{出典の明記|date=2020年2月}}
{{コンピュータゲーム
| Title = ゼルダの伝説 神々のトライフォース<br /><small>''The Legend of Zelda: A Link to the Past''</small>
| image =
| Genre = [[アクションアドベンチャーゲーム]]
| Plat = [[スーパーファミコン]][SFC]<br />[[Wii]]、[[Wii U]]、[[Newニンテンドー3DS]][[バーチャルコンソール]][VC]
| Dev = [[任天堂]]<br />[[SRD (ゲーム会社)|SRD]]
| Pub = 任天堂
| producer = [[山内溥]](エグゼクティブプロデューサー)<br />[[宮本茂]]
| director = [[手塚卓志]]
| designer =
| programmer = [[中郷俊彦]]<br />[[副島康成]]<br />[[森田和明 (ゲームクリエイター)|森田和明]]
| writer = [[田邊賢輔]]
| composer = [[近藤浩治]]
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| series = [[ゼルダの伝説シリーズ]]
| Play = 1人
| Media = SFC:8Mbit[[ロムカセット]]
| Date = '''SFC'''<br />{{Flagicon|JPN}} [[1991年]][[11月21日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[1992年]][[4月13日]]<br />{{Flagicon|EU}} 1992年[[9月24日]]<br />'''Wii'''(VC)<br />{{Flagicon|JPN}} [[2006年]][[12月2日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[2007年]][[1月22日]]<br />{{Flagicon|EU}} 2007年[[3月23日]]<br />{{Flagicon|KOR}} [[2008年]][[6月10日]]<br />'''Wii U'''(VC)<br />{{Flagicon|EU}} 2013年[[12月12日]]<br />{{Flagicon|USA}} [[2014年]][[1月30日]]<br />{{Flagicon|JPN}} 2014年[[2月12日]]<br />'''Newニンテンドー3DS'''(VC)<br />{{Flagicon|JPN}} [[2016年]][[3月4日]]<br />{{Flagicon|EU}} 2016年[[3月10日]]<br />{{Flagicon|USA}} 2016年[[4月14日]]
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| ContentsIcon =
| Device =
| Sale ={{Flagicon|JPN}} 116万本<ref>{{Cite web|url=https://magmix.jp/post/192100|title=意外!「国内100万本」未達成の任天堂人気ゲーム 「もっと売れてもいいはず」 |website=マグミクス |publisher=株式会社メディア・ヴァーグ |date=2023-10-30 |accessdate=2023-11-14 }}</ref><br/> [[ファイル:Map_projection-Eckert_IV.png|22px|世界]] 461万本<ref>{{Cite web|url=https://mantan-web.jp/article/20130419dog00m200035000c.html|title=ゼルダの伝説:「神々のトライフォース2」 3DSで14年初頭発売 |website=MANTANWEB(まんたんウェブ)|date=2013-04-19 |accessdate=2023-11-14 }}</ref>
| etc =
}}
『'''ゼルダの伝説 神々のトライフォース'''』(ゼルダのでんせつ かみがみのトライフォース、英題: The Legend of Zelda: A Link to the Past)は、[[1991年]][[11月21日]]に[[任天堂]]から発売された[[スーパーファミコン]]用[[ゲームソフト]]。[[ジャンル]]は[[アクションアドベンチャーゲーム]]<ref>パッケージ表記による</ref>。
== 概要 ==
『[[リンクの冒険]]』から約5年ぶりとなる[[ゼルダの伝説シリーズ]]の新作。[[スーパーファミコン]]本体の発売からちょうど1年後の[[1991年]][[11月21日]]に発売された。
今作では広大な2つの世界を行き来しながら冒険を進める。[[ダンジョン#ゲームにおけるダンジョン|ダンジョン]]内には高低差があり、複数の階層によって構成されている。作中では「[[マスターソード]]」「[[瓶|ビン]]」など、後のシリーズで定番となるアイテムが登場する。
CMでは[[スチャダラパー]]の楽曲『ゲームボーイズ』のリズムに本作向けの歌詞を乗せてスチャダラパー自身が歌い、この曲に合わせて主人公ら登場人物に扮した人々がダンスを披露した。本作の主人公は少年だが、主人公役を演じたのは少年ではなくオーディションで選ばれた女子高校生である<ref name="hobo020329">{{Cite web|和書|url=https://www.1101.com/nintendo/nin25/nin25_3.htm|title=樹の上の秘密基地。 - ファイアーエムブレム〜~封印の剣〜そのCMを誰が作ったか?倉恒良彰インタビュー その3|publisher=ほぼ日刊イトイ新聞|date=2002-3-29|accessdate=2017-8-13}}</ref>。このオーディションの最終選考には、[[TOKIO]]結成前の[[長瀬智也]]も残っていた<ref name="hobo020329" />。ヒロインのゼルダ姫役には[[新島弥生]]が選ばれた。
[[2003年]][[3月14日]]には新作ゲーム『ゼルダの伝説 4つの剣』と本作の移植版を同時収録した[[ゲームボーイアドバンス]]用ソフト『'''[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース&4つの剣]]'''』(以下、'''GBA版'''と表記)が発売。また、[[Wii]]、[[Wii U]]、[[Newニンテンドー3DS]]用の[[バーチャルコンソール]]として配信されているほか、[[2017年]][[10月5日]]発売のスーパーファミコンの復刻版『[[スーパーファミコン#ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン|ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン]]』や、[[2019年]][[9月6日]]配信開始の『[[スーパーファミコン Nintendo Switch Online]]』([[Nintendo Switch]]のオンラインサービス特典ソフト)<ref>{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1205419.html|title=Nintendo Switch Onlineからスーパーファミコンタイトルを配信開始、第1弾は20タイトル|website=GAME Watch|date=2019-09-05|accessdate=2019-09-06}}</ref>に本作が収録されている。
== システム ==
1作目『[[ゼルダの伝説]]』より大幅なシステム変更が行われた2作目の『[[リンクの冒険]]』とは異なり、基本的なシステムは1作目を踏襲している。
画面構成も1作目と同様の見下ろし型、[[画面切り替えスクロール]]方式に戻ったが、1作目が完全な1画面単位のスクロールだったのに対して、本作では切り替え型と通常型のスクロールを併用している。
通常の剣による斬りつけ攻撃のほかに、攻撃用の[[押しボタン|ボタン]]を押し続けて力を溜め通常の2倍の威力で広範囲を攻撃する「回転斬り」を行うことができる。
画面上には魔法力の残量を表す「魔法メーター」が表示されている。一部のアイテムを用いる際に魔法力を消費する。消費量はアイテムにより異なる。
アクション部分では、これまでの物を押す動作以外にも、引っ張る、担ぐ、投げるといった動作が可能となった。これらは多目的ボタン1つでその場に応じて実行できる。
== ストーリー ==
古来より、ハイラル王国の聖地には触れた者の願いを叶えるという黄金の秘宝「[[トライフォース]]」が眠っていた。その聖地で、ある時より悪しき力が湧き出てきたため、ハイラル王は7人の賢者たちに聖地の封印を命じた。途中、賢者を護衛していた「ナイトの一族」が多数犠牲になったものの、賢者たちにより聖地の入り口は封印された。この出来事は、後に「封印戦争」と呼ばれ語り継がれることになる。
その封印戦争が遥か昔の物語になりつつあった頃、王国に謎の司祭アグニムが現れた。アグニムはハイラル王の命を奪い、魔力で王国の兵士たちを操って、かつての七賢者の末裔にあたる娘たちを次々とさらい生贄にしていった。そして魔の手は末裔の1人でもある王国のゼルダ姫にまで及ぼうとしていた。
自宅で就寝中だった少年リンクは、助けを求めるゼルダ姫の悲痛な言葉を夢の中で聞き、夜中に目を覚ました。その横では武具を身につけた叔父が家を出ようとしていた。叔父は家に留まるようリンクに伝えると、1人ハイラル城へと向かった。しかし、時間が経過しても叔父は戻らない。リンクは家を出て叔父の後を追った。
== 主な登場人物 ==
; [[リンク (ゲームキャラクター)|リンク]]
: 本作の主人公。本来デフォルトネームは存在しないが、当時のCMの影響などから'''リンク'''と呼ばれることが多いため<ref>SFC版公式ガイドブックでは「リンク」とされている。</ref>、本記事では「リンク」の呼称を用いる。
: 両親はおらず、ハイラル城の南の一軒家に叔父と2人で暮らしている。かつて封印戦争で犠牲となったナイトの一族の末裔で、一族の秘伝の技「回転斬り」を使いこなす。利き手は左手。
; おじさん
: リンクと一緒に住んでいるリンクの叔父。名前は不明。親代わりとしてリンクを育ててきた。ゼルダ姫のテレパシーによって窮地を知り、助けるために城に向かうが城の地下道で力尽き、駆けつけたリンクに剣と盾を託して絶命する。
: 媒体によって名前が異なり、漫画では「デミー」や「ザンジ」という名前が設定されている。
; [[ゼルダ (ゲームキャラクター)|ゼルダ姫]]
: ハイラル王国の王女。七賢者の子孫の娘の1人でもある。アグニムによってハイラル城の地下牢に幽閉され、テレパシーを使ってリンクに助けを求める。救出後は教会に匿われていたが、リンクの留守中に再びさらわれ、闇の世界に送り込まれたと同時にクリスタルに封印されてしまう。その後はリンクと再会し、他の賢者の子孫の娘達と共に「ガノンの塔」の結界を解く。
; アグニム
: 突如ハイラル王国にやってきた謎の司祭。魔術を用いてハイラル王を葬り去り、兵士たちを洗脳して七賢者の子孫の娘達を次々と捕らえさせ生贄に捧げた。その正体はガノンの分身。
: 媒体によって設定は異なるが、いずれもガノンの分身ではなく一人の人間として描かれている。
; サハスラーラ
: カカリコ村に住む長老で、七賢者の1人の子孫。ハイラル城東の神殿の調査も行っている。王国の伝説に関して豊富な知識を持っており、様々な場面でリンクにアドバイスを送る。
; [[ガノンドロフ|ガノン]]
: ハイラル王国の支配を目論む大魔王。かつては人間の盗賊・ガノンドロフの名で呼ばれていた。盗賊同士の殺し合いの末に聖地に進入してトライフォースを手にするも豚の怪物へと変貌してしまう。さらにその力で聖地を「闇の世界」に変えてしまった。そのまま光の世界への侵攻を目論んだが当時の七賢者によって闇の世界にトライフォースごと封印される。この出来事は「封印戦争」と呼ばれ、ガノンが送り込んだ悪しきものたちとの戦いでハイラル王国は甚大な被害を受けた。
: 自身は闇の世界から出られなかったため、ハイラル王国のある「光の世界」に分身のアグニムを送り込み、七賢者の子孫たちを生贄に捧げることで2つの世界をつなげて光の世界での復活を狙う。
: ガノンドロフは本作では名前が語られるのみだが、田口順子のコミカライズ版では人間時の姿が描かれている。後に、本作の前の時代に当たる[[1998年]]発売の『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ]]』にもガノンドロフの姿が描かれたがコミカライズ版とは異なる。
== 地理・建物 ==
光の世界と闇の世界の地形は類似しており、一部のダンジョンの位置は共通している。
=== 光の世界 ===
; リンクの家
: リンクが叔父と暮らす家。ハイラル城の南にある。物語の序盤では[[セーブ (コンピュータ)|セーブ]]後のゲーム再開時に必ずこの地点から始まる。真夜中にゼルダ姫からのメッセージを受け取る場面からスタートする。
; ハイラル城
: ハイラル王国の中央に位置する城。司祭アグニムの手に落ちている。城内ではアグニムに操られた兵士達が巡回し、地下牢ではゼルダ姫が囚われている。
; 教会
: ハイラル城の北にある教会。ハイラル城と隠し通路で繋がっている。一度訪れると、光の世界でセーブしてからゲームを再開する際にこの地点から始められる。
; カカリコ村
: ハイラル城の西にある村。村に入るとBGMが切り替わる。ゼルダ姫をさらった犯人としてリンクがお尋ね者となっており、リンクを見つけると兵士を呼ぶ村人もいる。物語の中盤以降は大半の住人が村内から姿を消し、兵士が徘徊するようになり、村に入ってもBGMが切り替わらずフィールドと同じBGMとなる。
; 東の神殿
: 勇気の紋章が眠る神殿。屋外にいるサハスラーラからは試練を課される。
; 草原のほこら
: 石像が点在する草原の中央に存在するほこら。内部のレバーを引くと周囲の水が干上がる。
; あやしの砂漠
: 砂漠の神殿がある砂漠。設置されている地雷に触れるとダメージを受ける。
; 砂漠の神殿
: 力の紋章が眠る神殿。砂地が広がっている。
; ヘブラ山
: ヘラの塔がある山。洞窟が点在する。山に入って最初に現れる洞窟に入ると、光の世界でセーブしてからゲームを再開する際にその洞窟から始められる。
; ヘラの塔
: 知恵の紋章が眠る塔。最上階が目的地となる。
; ハイリア湖
: 南東にある湖。中央に位置する島には「幸せの泉」がある。
; 魔法屋
: 魔法のクスリを専門に扱う店。魔法使いの老婆「魔法オババ」とその弟子がいる。
; ゾーラの滝
: 北東端にある滝。水中から攻撃してくる敵「ゾーラ」が登場するほか、最深部にいる「キングゾーラ」は水かきを販売している。
; 願いの滝
: 大きな滝の裏側に洞窟があり、女神が出現する。
; 迷いの森
: ハイラル城の北西に位置する、霧に包まれた森。奥には退魔の剣「マスターソード」が安置されているが、所々にその偽物も置かれている。
=== 闇の世界 ===
; ピラミッド
: 世界の中央にある建造物。闇の世界でセーブ後にゲームを再開すると、必ずここの頂上からスタートする。
; 闇の神殿
: 光の世界では東の神殿がある場所。猿のサルキッキの協力が無ければ内部に入れない。通常の攻撃ではダメージを与えにくい魔物が多く登場する。
; 水のほこら
: 光の世界では草原のほこらがある場所。周囲には石像が点在している。内部の至る所で水が流れており、敵が水中から攻撃してくる。
; ドクロの森
: 光の世界では迷いの森がある場所。複雑な形の森とダンジョンで構成される。出入口が数箇所あるが、最深部まで辿り着けるのは1箇所のみ。内部では「フォールマスター」(手の形をした魔物)が降りてきて、捕まると入り口に強制的に戻されてしまう。
; はぐれ者の村
: 光の世界ではカカリコ村がある場所。「ピック」(キツネの姿をした泥棒)が金品を狙っている。
: 村の中央の像がダンジョンの入り口になっている。奥深くの牢屋には1人の女の子が囚われている。
; 氷の塔
: 光の世界では幸せの泉がある場所。塔ではあるが地下に向かって進んでいく。床面が氷で覆われており滑りやすい。
; 悪魔の沼
: 光の世界ではあやしの砂漠がある場所。激しい嵐が吹き荒れる沼地。周囲を崖に囲まれているため、徒歩での侵入は不可能。内部は広く入り組んでいる。
; デスマウンテン
: 光の世界ではヘブラ山がある場所。ヘブラ山と同様にいくつかの洞窟が点在するが、ヘブラ山とは異なり外から登ることは出来ない。
; カメ岩
: デスマウンテンの東方にある亀の形のダンジョン。入り口が封印されている。内部には魔法力を使用して解く仕掛けが多く存在する。
; ガノンの塔
: 光の世界ではヘラの塔がある場所。闇の世界の7つのダンジョンを全てクリアしないと中に入れない。これまでのボスキャラクターが再登場する。
; 4つの剣の神殿
: GBA版にのみ存在するダンジョン。ピラミッドに入り口があり、『神々のトライフォース』と『4つの剣』の両方をクリアすると中に入れるようになる。
== アイテム ==
=== 装備・コレクトアイテム ===
; 装備品
: 入手するとその場で身に着ける。剣や盾を入手した場合はそれまで装備していたものと入れ替わる。
:;剣 / 盾
::スタート直後に入手するレベル1の剣と盾。盾は敵の撃ってくる矢や岩を弾いて無効化することができる。本作では最初に入手する剣ではビームを発射することができなくなった。
:;盾Lv2
::レベル2の盾。レベル1の盾より少し大きい。矢や岩のほか火の玉も弾くことができる。
:;カガミの盾
::レベル3の盾。レベル2の盾よりさらに大きい。矢、岩、火の玉のほか、特定のレーザーを弾く効果もある。
:;マスターソード
::迷いの森の奥に封印されている退魔の剣。[[ライフ (コンピュータゲーム)|ライフ]]が最大の状態で剣を振るとビームを発射できる。
::入手当初は剣身が青色でレベル2だが、サブイベントで強化でき、それに応じて剣身の色が赤(レベル3)→黄(レベル4)と変化する。
:;パワーグラブ(レベル2) / パワフルグラブ(レベル3)
::素手では持ち上げることのできないフィールド上の岩を持ち上げられるようになる。パワーグラブでは白色の岩を持ち上げられるようになり、パワフルグラブでは白色のほか黒色の岩も持ち上げられるようになる。
:;ゾーラの水かき
::水深の深い水面を泳げるようになる。GBA版では短時間水中に潜ることも可能。
:;ペガサスの靴
::サハスラーラから譲り受ける靴。履くとダッシュができるようになる。ダッシュ中は前方に剣を構えた状態になり敵に体当たりするとその敵を攻撃できるほか、障害物に体当たりして衝撃を与えることもできる。
:;ムーンパール
::ヘラの塔にある特別な真珠。闇の世界にいても姿が変わらず普通に行動できるようになる。
:;緑の服 / 青い服 / 赤い服
::緑の服は初期状態で身に着けている。青い服は受けるダメージを2分の1に、赤い服は4分の1にする。
:<!--リスト分断防止行-->
; コレクトアイテム
: 各ダンジョンに隠され、ダンジョンボスを倒すことで入手できる。
:;勇気の紋章 / 力の紋章 / 知恵の紋章
:: トライフォースを作った3人の神を象徴する紋章。光の世界にある3か所のダンジョンのそれぞれのボスを倒すことで1つずつ手に入る。マスターソードの封印を解くために揃える必要がある。
:;クリスタル
:: ゼルダ姫ら賢者の子孫の7人の娘が1人ずつ封印されている水晶。闇の世界にある7か所のダンジョンのそれぞれのボスを倒すことで1つずつ手に入る。7つ揃えていないとガノンの塔に入れない。
=== Y(A)ボタンにセットして使用するアイテム ===
サブ画面であらかじめアイテムを選択し、Y(A)ボタンを押すことにより使用できる。
; 弓矢 / 銀の弓矢
: 矢を放つことができる。矢は標的や壁・障害物などに当たらない限り画面端まで飛んでいく。本作では矢を撃ったときにルピーを消費するのではなく矢を1本ずつ消費するシステムとなったため、矢を補充する必要があり、矢が1本もない場合は補充するまで使えない。銀の弓矢は通常の弓矢よりも攻撃力が高く、特定の敵を倒すのに絶対必要。ある場所では持てる矢の数の上限を上昇させることができる。
; ブーメラン / 魔法のブーメラン
: 前方に投げると手元に戻る。敵に当てると動きをしばらく止めることができるほか、離れた場所に落ちているアイテムに当てることでそのアイテムを回収したり、ダンジョン内のクリスタルスイッチに当てることでそのクリスタルスイッチを操作したりできる。魔法のブーメランは通常のブーメランよりも射程やスピードに優れ、敵にダメージを与えることもできる。
; フックショット
: 伸縮可能な鎖で繋がれたフックを前方に投げる。フィールド上やダンジョン内にある杭などにフックを打ち込むと、その場まで一気に移動することが可能で、足場のない場所でもこの方法で移動できることがある。ブーメランと同様に、敵に当てて動きを止めたり、アイテムに当てて回収したり、クリスタルスイッチに当てて操作したりすることもできる。
; 爆弾
: 取り出すと一定時間後に爆発する。ひびの入った壁などを破壊できるほか、攻撃にも使用できる。持ち運んだり、敵のいる場所に投げ込んだりすることもできる。爆風で敵にダメージを与えることができるが、リンク自身も爆風を受けるとダメージを受ける。持てる数が決まっており使うごとに1個ずつ消費する。ある場所では持てる爆弾の数の上限を上昇させることができる。
; キノコ
: 迷いの森に生えているキノコ。魔法屋に持って行くと後述の「魔法の粉」と交換できる。
; 魔法の粉
: キノコを基に作られる粉。使うと魔法力を消費し、敵に向けて使うとその敵を特定のものに変化させる。また、敵以外に、特定のものに対して使うと、別のものに変化することがある。
; ファイアロッド
: 魔法力を消費し、火の玉を前方に飛ばす。大半の敵は火の玉を受けると燃えて消滅する。[[燭台]]めがけて火の玉を飛ばすと燭台に火を灯すことができる。
; アイスロッド
: 魔法力を消費し、冷気を前方に飛ばす。一部の敵はこれで凍らせることができる。
; 魔法のメダル
: 大量の魔法力を使用し、画面内にいる敵すべてを攻撃するアイテム。爆炎の渦を巻き起こす「ボンバー」、冷気で攻撃する「エーテル」、剣を地面に突き刺し地震で攻撃する「シェイク」の3種類がある。
; マジックハンマー
: 杭などの障害物などに振り下ろして地中にめり込ませ、その場を通過できるようにする。敵に対して使用すると、攻撃範囲は狭いもののレベル3の剣と同等の威力がある。
: アイテム入手時には「M、Cハンマー」と略記される。
; シャベル
: 地面を掘る道具。掘ると地中からアイテムが出る場合がある。オカリナを入手するのに必要で、入手するとアイテム欄のシャベルがオカリナに置き換わり消滅する。
; オカリナ
: 美しい音色を奏でる楽器。光の世界で使うと、指定した場所へ一瞬で移動することができる。移動できる場所のうち1か所は、徒歩でたどり着くことができない場所である。
; カンテラ
: 照明器具。スタートしてすぐに手に入る。持っているだけで暗闇を照らすほか、燭台の前で使用すると魔法力を消費し燭台に火を灯す。GBA版では攻撃アイテムとしても使用できる。
; 虫取りアミ
: 飛んでいるハチや妖精を捕まえることができる。捕まえたとき、空きビンがあれば捕まえたものを空きビンに入れておくことができる。
; ムドラの書
: 石碑に記された古代文字(象形文字のような読めない文字)を解読するのに必要となる書物。
; ビン
: 虫取りアミでつかまえた蜂や妖精、店などで入手した薬を入れることができるビン。SFC版では4つ、GBA版では3つ入手できる。
; マジックマント
: 姿を消す事ができるマント。使用時は常に魔法力を消費し続け、敵の攻撃・トラップを無効化できる。
; ソマリアの杖
: リンクの正面に赤いブロックを発生させる。ブロックは押したり投げたりすることが可能で、重石としても使用できる。敵がブロックに触れるとその敵はダメージを受け、何度か敵が触れるとブロックは消滅する。ブロックが出ているときに使用すると、そのブロックが上下左右の4方向へ火球として飛んでいき、攻撃手段になる。
: GBA版では名称が「ソマ'''リ'''アの杖」ではなく「ソマ'''ソ'''アの杖」と表記されている。
; バイラの杖
: リンクの周りに回転する光のバリアを張り敵の攻撃を無効化できる杖。使用中は魔法力を消費し続ける。
; マジカルミラー
: 闇の世界から光の世界に戻ることができる鏡。光の世界の同じ位置に戻るが、その際に壁などの障害物と重なると強制的に闇の世界へ戻される。ダンジョン内部で使用すると、ダンジョンの入り口まで戻ることができる。
=== その他のアイテム ===
;ハート
:ライフをハート1つ分回復できる。
;魔力の壺(大・小)
:魔法力を回復する。大は全回復・小は最大値の8分の1回復。
;いのちのクスリ / 魔法のクスリ / いのちと魔法のクスリ
:それぞれ赤色、緑色、青色をした薬。赤はライフを、緑は魔法力を、青はライフと魔法力の両方を全回復する。空きビンを所持している時のみ魔法屋から購入できる。
;妖精
:出現すると飛び回り、リンクが触れるとハート7個分のライフを回復するが、虫取りアミと空きビンがあれば、虫取りアミで捕まえて空きビンに入れ、アイテムとして所持できる。空きビンに入れた妖精をアイテムとして使うとその場で飛び回り、リンクが触れることでハート7個分のライフを回復する。また、アイテムとして所持しているときにリンクのライフが0になると、ビンの中から出てきてハート7個分のライフを回復させ、その場で復活する。
;ハチ
:出現するとリンクめがけて攻撃してくるが、虫取りアミと空きビンがあれば、虫取りアミで捕まえて空きビンに入れ、アイテムとして所持できる。アイテムとして使うと、一定時間、近くの敵に攻撃する。
;黄金のハチ
:ある場所で出現する強力なハチ。普通のハチと同様、虫取りアミで捕まえて空きビンに入れ、アイテムとして所持できる。アイテムとして使うと、普通のハチよりも大きなダメージを敵に与える。高値で買い取る者もいる。
;新型バクダン
:大型の爆弾。普通のバクダンでは破壊できない壁を破壊できる。フィールド上でリンクの後ろについて移動する。Aボタンを押す、崖から飛び降りるなどすると切り離され、3カウント後に爆発する。
;カギ
:施錠された扉を開けられる鍵。一部のダンジョン内にある。入手したダンジョン内でのみ有効で、扉を1つ開けるごとに1個消費する。
;大きなカギ
:重要アイテムが入っている大宝箱や、普通のカギでは開けられない扉を開けられる鍵。角の生えたドクロの形をしている。各ダンジョンに1個ずつあり、入手したダンジョン内で使用できる。
;マップ
:Xボタン(GBA版はLボタン)を押したとき、ダンジョンの全体図が表示されるようになる。各ダンジョンに1個ずつあり、入手したダンジョン内で使用できる。
;コンパス
:ダンジョンマップにダンジョンボスの所在地が表示される。各ダンジョンに1個ずつあり、入手したダンジョン内で使用できる。
;ハートのかけら
:フィールド上の至る所に隠されている。4つ集めるごとにハートの器が1つ完成し、ライフの最大値が1つ増える。
;ハートの器
:ダンジョンボスを倒した後に出現する。入手するとライフの最大値が1つ増え全回復する。
== ボスキャラクター ==
; デグアモス
: 東の神殿のボス。騎士を模した石像型の敵「アモス」の上級種。6体で登場する。リンクの周囲を回りながら一斉に襲いかかってきたり、横一列に広がったりする。残り1体になると攻撃パターンが変化する。
: ガノンの塔でも中ボスとして登場する。
; ラネモーラ
: 砂漠の神殿のボス。巨大な芋虫。3匹で登場する。地中から石礫を飛ばして現れ空中を飛行する。
: ガノンの塔でも中ボスとして登場する。
; デグテール
: ヘラの塔のボス。芋虫型の敵「テール」の巨大種。弱点以外の部位に攻撃すると大きく弾き飛ばされる。
: ガノンの塔でも中ボスとして登場する。
; ジークロック
: 闇の神殿のボス。仮面を着けた獣。口から吐く炎と伸縮する尻尾で攻撃する。
: GBA版の4つの剣の神殿では強化版が登場する。
: なお、以降のシリーズ作品にも同名のボスキャラクターが登場するが、いずれも獣ではなく鳥の姿をしている。
; ワート
: 水のほこらのボス。全身に岩を纏った一つ目の巨大クラゲ。空中を漂いながら周囲の岩を回転させ、岩がなくなると大ジャンプ後に急降下する攻撃を行う。
: GBA版の4つの剣の神殿では強化版が登場する。
; ガモース
: ドクロの森のボス。巨大な蛾の魔物。飛び回りながら前方3方向へリング状のビームを放つ。部屋の床は[[ベルトコンベア]]のように流れ、部屋を囲むトゲが不規則に動く。
: GBA版の4つの剣の神殿では強化版が登場する。
; ブラインド
: はぐれ者の村のボス。光の世界で盗賊だった男が魔物と化した。最初は4人目の賢者の子孫の娘に化けていたが、苦手な光で正体を現す。空中を浮遊しながらレーザーを撃ってくる。ある程度ダメージを与えると首が取れ、新しい首が生える。取れた首は周囲を飛び回り火の玉を放つ。
: GBA版の4つの剣の神殿では強化版が登場する。
; シュアイズ
: 氷の塔のボス。雲のような身体をした一つ目の魔物。登場当初は周囲を氷で固めて身を守っており、天井から氷塊を落とす。氷がなくなると3体に分裂して攻撃してくる。
; ゲルドーガ
: 悪魔の沼のボス。粘液に浸っている巨大な目玉。周りを囲む大量の小さな目玉を飛ばしながら電撃を放つ。小さな目玉が全て倒されると体当たりで攻撃してくる。粘液に触れてもダメージを受ける。
; デグロック
: カメ岩のボス。3つ首の亀の怪物。背中部分に伸びる赤い頭は炎を、青い頭は氷を吐いて攻撃し、時折、本体の首を伸ばす。赤と青の首がなくなると本体がヘビのように変形し体当たり攻撃を仕掛けてくる。
; アグニム
: ハイラル城及びガノンの塔のボス。部屋の中を移動しながら3種類の魔法で攻撃してくる。強力なバリアで身を守っており、通常の攻撃ではダメージを与えられない。ガノンの塔では2体の分身と共に襲い掛かってくる。
; ガノン
: ピラミッド内部で待ち構えるラストボス。前半戦では瞬間移動をしながら火の玉や槍を投げつけて攻撃する。後半戦では足場を破壊した後姿を消して無敵になる。
; ニセリンク
: GBA版のみのダンジョン「4つの剣の神殿」の4人のボス。4人ともリンクと似た姿をしている。それぞれ異なる攻撃を仕掛ける。
== 他機種版 ==
{|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
|-
! No.
! タイトル
! 発売日
! 対応機種
! 開発元
! 発売元
! メディア
! 備考
|-
| style="text-align:right" | 1
! ゼルダの伝説 神々のトライフォース
| {{vgrelease new|JP|2000-08-01}}
| スーパーファミコン
| 任天堂
| 任天堂
| [[フラッシュメモリ|フラッシュロムカセット]]<br />([[ニンテンドウパワー]])
|
|-
| style="text-align:right" | 2
! ゼルダの伝説 神々のトライフォース
| {{Flagicon|JPN}} 2006年12月2日<br />{{Flagicon|USA}} 2007年1月22日<br />{{Flagicon|EU}} 2007年3月23日<br />{{Flagicon|KOR}} 2008年6月10日
| [[Wii]]
| 任天堂
| 任天堂
| [[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />([[バーチャルコンソール]])
|
|-
| style="text-align:right" | 3
! ゼルダの伝説 神々のトライフォース
| {{vgrelease new|EU|2013-12-12|NA|2014-01-30|JP|2014-02-12}}
| [[Wii U]]
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
|
|-
| style="text-align:right" | 4
! ゼルダの伝説 神々のトライフォース
| {{vgrelease new|JP|2016-03-04|EU|2016-03-10|NA|2016-04-14}}
| [[Newニンテンドー3DS]]
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード<br />(バーチャルコンソール)
|
|-
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! [[スーパーファミコン#ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン|ニンテンドークラシックミニ<br/>スーパーファミコン]]
| {{vgrelease new|NA|2017-09-29|EU|2017-09-29|JP|2017-10-05}}
| -
| 任天堂
| 任天堂
| 内蔵ソフト
|
|-
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! [[スーパーファミコン Nintendo Switch Online|スーパーファミコン<br/>Nintendo Switch Online]]
| {{vgrelease new|NA|2019-09-06|JP|2019-09-06}}
| [[Nintendo Switch]]
| 任天堂
| 任天堂
| ダウンロード
|
|}
== スタッフ ==
*エグゼクティブプロデューサー:[[山内溥]]
*プロデューサー:[[宮本茂]]
*ディレクター:[[手塚卓志]]
*スクリプトライター:[[田邊賢輔]]
*アシスタントディレクター:[[山村康久]]、[[山田洋一]]
*スクリーン・グラフィック・デザイナー:富田聡一郎、[[今村孝矢]]
*バックグラウンドデザイナー:[[有本正直]]、渡辺剛
*プログラムディレクター:[[中郷俊彦]]
*メインプログラマー:[[副島康成]]
*オブジェクトプログラマー:[[森田和明 (ゲームクリエイター)|森田和明]]
*プログラマー:西山達夫、山本雄一、野本佳裕、能登英司、高畑悟、岩脇敏夫、笠松栄弘、西田泰也
*サウンド・コンポーザー:[[近藤浩治]]
*コーディネーター:加藤圭三、清水隆雄
*メインアートワーク:[[小田部羊一]]
*アートワーク:藤井英樹、 小泉歓晃、酒井康裕、黒梅知明
*スペシャルサンクス:岡嶋伸夫、竹谷康範、幸田清、葛原貴光、角井博信、山城重喜
== 他作品との関連 ==
* [[1993年]]発売の次回作『[[ゼルダの伝説 夢をみる島]]』は本作の後日談となっている<ref name="encyc">{{Cite book|和書|year=|title=ゼルダの伝説 ハイラル百科|publisher=[[徳間書店]]|page=15|isbn=978-4198643782}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/zelda/link/index.html|title=LINK|ゼルダの伝説ポータル|publisher=任天堂|accessdate=2017-8-13}}</ref>。なお、[[2011年]]刊行の設定資料集『ハイラル・ヒストリア』([[小学館]]、ISBN 978-4092271593)では[[2001年]]発売の『[[ゼルダの伝説 ふしぎの木の実]]』も同じ時代とされていたが、後に別の時代の物語に変更された<ref name="encyc" />。
* [[2013年]]発売の『[[ゼルダの伝説 神々のトライフォース2]]』は本作のはるか未来の時代が舞台で、地形も本作とよく似ており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/bzlj/prologue/index.html|title=ゼルダの伝説 神々のトライフォース2:あの冒険のはるか未来の物語|publisher=任天堂|accessdate=2017-8-13}}</ref>、一部のボスキャラクターも共通している。
* [[2018年]]発売の『[[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL]]』に登場するゼルダは本作品と『神々のトライフォース2』のデザインを合わせたものになっている。
== 漫画 ==
; ゼルダの伝説 神々のトライフォース(作:[[富沢義彦]]、画:[[伊藤伸平]])
: [[双葉文庫]]刊行。1992年7月発行。単行本全1巻。
: スーパーファミコン冒険ゲームブック。マルチエンディング形式。
:
; ゼルダの伝説(作画:[[石ノ森章太郎]])
: 北米で発売されていた[[ゲーム雑誌]]『{{仮リンク|NINTENDO POWER|en|Nintendo Power}}』に掲載。[[1993年]]3月に[[小学館]]が邦訳出版。単行本全1巻。
:
; ゼルダの伝説 神々のトライフォース(作画:[[田口順子]])
: [[宝島社]]刊行。1993年11月発行。単行本全1巻。
: ストーリーはある程度原作に準じているが、一部のキャラクターの外見や背景はまったく異なる。アグニムは本来善良な司祭だったが、不治の病に苦しむ妻を救うためガノンの復活に加担する、という設定で物語が展開される。外見も褐色肌に美形の青年と容姿も大きく異なる。ゼルダ姫の容姿が赤髪にワンピースとなっており、性格はかなりのお転婆。リンクとは友人同士である。リンクは正義感は強いが捻くれた性格をしており、世界を救う責任感を抱くことで精神的に成長していく。ガノンは外見も言動も下劣そのものだが、人間時代の彼は屈強な大男であった。なお、名前が「ガノンド'''ル'''フ」と誤記されている。
:
; ゼルダの伝説 神々のトライフォース(作画:[[かぢばあたる]])
: 『[[月刊Gファンタジー]]』([[エニックス]])にて[[1994年]]10月号から[[1996年]]3月号まで連載。単行本全3巻。
: 全体的に戦闘シーンが多く、男同士の友情や絆をテーマとしている。リンクの1人旅ではなく、幼馴染の少年拳闘士ラスカ、王室騎士団長アルジュナ、ガノンの元参謀カニカと3人のオリジナルキャラクターが同行する。またリンクの先祖であり、かつてガノンと戦った「先代勇者」が登場した。これ以外にも多数のオリジナルキャラクターが登場しており、ストーリーも原作の展開を意識しているものの大部分がオリジナルである。
: なお、かぢばはこの連載の前に『[[ゼルダの伝説 夢をみる島]]』のコミカライズを手掛けており、本作のエンディングが「夢島編」に繋がるものとして描写されている。
:
; [[ゼルダの伝説 リルトの誓い]](原作:[[棟居仁]]、作画:[[古澤純也]])
: 『[[少年王]]』([[光文社]])にて1994年12月号から[[1997年]]4月号まで連載。単行本全4巻。
: 『神々のトライフォース』の数百年後の世界を描いたオリジナル作品。リルトという名の少年が主人公で、リンクとゼルダは天上界に住む存在となっている。原作の世界設定を下地にした内容であり、作画から展開まで少年漫画らしい熱血もの。
: 掲載誌の廃刊に伴い打ち切りとなったが、ストーリーは駆け足ながらも完結している。
:
; ゼルダの伝説 神々のトライフォース(作画:[[姫川明]])
: 『2004年度学年誌増刊 Nintendo ゲームコミックスペシャル』([[小学館]])掲載。[[2005年]]7月発行。単行本全1巻
: アグニムがリンクの父親と親友だったという独自設定があり、またゼルダ姫に対して歪んだ愛情を抱いている。本編には現れないガノンドロフが1コマだけ姿を見せるほか、オリジナルキャラクターとして、盗賊の少女・ガンティが登場する。中盤の闇の世界編からはモノローグで一気にストーリーが進行する。
== 関連本 ==
* {{Cite book |和書
|author = 加納将光(発行人、酒井征勇(編集人)
|year = 1992/2/18
|title = 全ゼルダの伝説大百科
|publisher = 勁文社
|isbn =
|asin = B00OW62QYG
|ref =
}}
== CD ==
; ゼルダの伝説 SOUND & DRAMA([[1994年]][[6月22日]]、[[ソニー・ミュージックレコーズ]])
: 2枚組。1枚目にはアレンジ版の曲とオリジナルストーリーのCDドラマ、2枚目には本作とファミコンソフト「ゼルダの伝説1」(一部、ディスクシステム版の音源と異なる)のゲーム音源が収録されている。
; 任天堂 サウンドヒストリーシリーズ「ゼルダ ザ ミュージック」([[2004年]][[12月22日]]、[[サイトロン・デジタルコンテンツ]])
: ゼルダの伝説シリーズの各作品の楽曲を集めたCD。本作の曲の一部が収録されている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.nintendo.co.jp/n02/shvc/zl/ ゼルダの伝説 神々のトライフォース]
* [https://www.nintendo.co.jp/clvs/soft/zelda.html ゼルダの伝説 神々のトライフォース] - ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン
* [https://www.nintendo.co.jp/software/feature/nintendo-classics/s-2024_j/ ゼルダの伝説 神々のトライフォース] - [[Nintendo Switch]]
* [https://www.nintendo.co.jp/wii/vc/vc_zel_sfc/ ゼルダの伝説 神々のトライフォース] - [[Wii]]用[[バーチャルコンソール]]
* [https://www.nintendo.co.jp/titles/20010000001003 ゼルダの伝説 神々のトライフォース] - [[Wii U]]用バーチャルコンソール
* [https://www.nintendo.co.jp/titles/50010000039699 ゼルダの伝説 神々のトライフォース] - [[Newニンテンドー3DS]]用バーチャルコンソール
{{zelda}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せるたのてんせつかみかみのとらいふおおす}}
[[Category:ゼルダの伝説のコンピュータゲーム|かみかみのとらいふおおす]]
[[Category:スーパーファミコン用ソフト]]
[[Category:ニンテンドウパワー書き換えソフト]]
[[Category:ミリオンセラーのゲームソフト]]
[[Category:1991年のコンピュータゲーム]]
[[Category:ファミ通クロスレビュープラチナ殿堂入りソフト]]
[[Category:Wii用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:Wii U用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:Newニンテンドー3DS用バーチャルコンソール対応ソフト]]
[[Category:スーパーファミコン Nintendo Switch Online収録ソフト]]
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[[Category:漫画作品 せ|るたのてんせつ かみかみのとらいふおおす]]
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[[Category:冒険ゲームブック]] | 2003-04-25T06:19:51Z | 2023-11-15T07:51:50Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%83%80%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC_%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B9 |
7,277 | VHF | VHF | [
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] | VHF 超短波
ウイルス性出血熱 | '''VHF'''
* [[超短波]] (Very High Frequency)
* [[ウイルス性出血熱]] (viral hemorrhagic fever)
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7,278 | UHF | UHF | [
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非制限ハートリー=フォック法 | '''UHF'''
* [[極超短波]] ({{lang-en-short|Ultra High Frequency}})
* [[非制限ハートリー=フォック法]] ({{lang-en-short|Unrestricted Hartree–Fock method}})
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/UHF |
7,279 | 国立台湾大学 | 国立台湾大学(こくりつたいわんだいがく、英語: National Taiwan University、公用語表記: 國立臺灣大學)は、台湾台北市大安区羅斯福路四段1号に本部を置く中華民国の国立大学。1928年創立、1928年大学設置。大学の略称は台湾大学、台大、NTU。
大日本帝国による占領下の時代に創設された旧帝国大学の一つ。国立台湾大学システムおよび台湾EUセンター7大学連盟の一校。
国立台湾大学は、日本統治時代の1928年に台北帝国大学(旧字体: 臺北帝國大學)として設立され、第二次世界大戦終結後の1945年に現在の名前に変更された。前身として台湾総督府医学校などがある。国共内戦後中華民国随一の最高学府との位置づけがなされ国立中央大学は、国立台湾大学に置き換えられた。2002年、指定国立研究大学7校(現在6校)の一つに指定される。さらに、日本台湾交流協会は台大を台湾の7名門大学の1校に紹介している。
現在は11学院(学部及び研究科)・54学系(学科)・96研究所(専攻)・33研究中心(研究所)と夜間部を擁し、3万人を越える学生が通うマンモス校である。
著名な卒業生にはノーベル化学賞受賞者である李遠哲、チューリング賞受賞者である姚期智、ウルフ賞受賞者である楊祥發(農業部門)、翁啓恵(化学部門)らをはじめ、百名を超える国立科学アカデミー(中央研究院)の院士、李登輝・陳水扁・馬英九・蔡英文ら4人の中華民国総統、連戦・呂秀蓮・呉敦義・陳建仁・頼清徳ら5人の中華民国副総統そのほか、台湾はもとより、世界各国の政・財・官・学の各界で活躍する人材を多数輩出している。
第二次世界大戦後、傅斯年元北京大学長が台湾大学の新学長に就任し、台大の自由主義校風を打ち立てた。台湾の白色テロ時代に、台大のキャンパスは全国唯一の学生運動が許可されたところであり、台大教員・学生と出身者が発動した社会運動は台湾民主化の重要な推進力となった。
国立台湾大学の起源は、日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に、台湾台北州台北市富田町で 7番目の帝国大学として設立される。大学設立の準備段階では当初「台湾大学」との名称が用いられ、その後、「台湾帝国大学」が用いられたが、「台湾帝国大学」では台湾帝国の大学との誤解が生じるとの理由から1927年に「台北帝国大学」に名称が決まった。
日本内地の帝国大学が文部省の管轄であったのに対し、台北帝国大学は台湾総督府の管轄であった。当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。
国立台湾大学は、旧帝国大学としての連続性を有しつつ現在に至るため、台北帝国大学を前身として位置づけている。一方、ソウル大学校は京城(帝国)大学(京城帝国大学)の廃校後に新設された経緯があるため、同大学校は京城帝国大学を前身とは位置付けていない。
1945年(昭和20年)8月15日の終戦により、同年11月15日に中華民国が接収して「国立台北大学」と改称した。
1945年12月15日に「国立台湾大学」と改称、現在に至る。
12の学院(学部・大学院研究科)と3の専業学院(専門教育を行う学院、専門職大学院)を置く。
Category:国立台湾大学の教員も参照。
Category:国立台湾大学出身の人物も参照。 | [
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] | 国立台湾大学は、台湾台北市大安区羅斯福路四段1号に本部を置く中華民国の国立大学。1928年創立、1928年大学設置。大学の略称は台湾大学、台大、NTU。 大日本帝国による占領下の時代に創設された旧帝国大学の一つ。国立台湾大学システムおよび台湾EUセンター7大学連盟の一校。 | {{混同|国立台北大学|x1=前身が国立中興大学である}}
{{大学
| 大学名=国立台湾大学
| 画像=National Taiwan University Library 20060802.jpg
| 画像説明=台湾大学総図書館
| 創立年=1928年
| 大学設置年=1928年
| 学校種別=国立
| 設置者= [[中華民国]][[教育部 (中華民国)|教育部]]
| 本部所在地=[[台湾]][[台北市]][[大安区 (台北市)|大安区]]羅斯福路四段1号
|緯度度 =25 |緯度分 =1 |緯度秒 =4.7
|経度度 =121 |経度分 =32 |経度秒 =14.2
|地図国コード = TW
| キャンパス=本キャンパス([[台北市]][[大安区 (台北市) |大安区]])<br />水源(台北市[[中正区 (台北市)|中正区]])<br />城中(台北市中正区)<br />雲林([[雲林県]][[虎尾鎮]])<br />山地実験農場([[南投県]][[仁愛郷]])<br />演習林(南投県[[竹山鎮]])
| 学部=文学部<br />理学部<br />社会科学部<br />医学部<br />工学部<br />生物資源・農学部<br />管理学部<br />公衆衛生学部<br />電機情報学部<br />法律学部<br />生命科学部
| 研究科 =
| ウェブサイト=https://www.ntu.edu.tw/
| ふりがな=こくりつたいわんだいがく
| 国=中華民国
| 英称=National Taiwan University
| 公用語表記={{Lang|zh-tw|國立臺灣大學}}
| 大学の略称= '''台湾大学'''、'''台大'''、'''NTU'''
}}
[[日本統治時代の台湾|大日本帝国による占領下の時代]]に創設された[[帝国大学#旧帝国大学|旧帝国大学]]の一つ。[[:zh:國立臺灣大學系統|国立台湾大学システム]]および[[台湾EUセンター7大学連盟]]の一校。
== 概観 ==
=== 大学全体 ===
[[ファイル:National Taiwan University Royal-Palm-blvd.JPG|thumb|right|250px|メインストリートである椰林大道(Royal Palm Blvd.)]]
[[ファイル:National Taiwan University Symbolic bell.JPG|thumb|right|200px|シンボルの傅鐘]]
国立台湾大学は、[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の[[1928年]]に'''[[台北帝国大学]]'''({{旧字体|'''臺北帝國大學'''}})として設立され、[[第二次世界大戦]]終結後の[[1945年]]に現在の名前に変更された。前身として[[台湾総督府医学校]]などがある。国共内戦後[[中華民国]]随一の最高学府との位置づけがなされ[[国立中央大学]]は、国立台湾大学に置き換えられた。2002年、指定国立研究大学7校(現在6校)の一つに指定される<ref>黃慕萱,書目計量與學術評鑑—國內七所研究型大學論文發表概況分析。引文分析與學術評鑑研討會論文集(臺北,2004),135-152。</ref>。さらに、[[日本台湾交流協会]]は台大を台湾の7名門大学の1校に紹介している<ref>《交流》, No.879, p.6. 国公立大学5校、私立大学2校を選定した。国立台湾大学、[[国立成功大学]]、[[国立清華大学]]、[[国立交通大学]]、[[国立政治大学]]、[[輔仁大学]]、[[東呉大学]]。</ref>。
現在は11学院(学部及び研究科)・54学系(学科)・96研究所(専攻)・33研究中心(研究所)と夜間部を擁し、3万人を越える学生が通うマンモス校である。
著名な卒業生には[[ノーベル化学賞]]受賞者である[[李遠哲]]、[[チューリング賞]]受賞者である[[アンドリュー・チーチー・ヤオ|姚期智]]、[[ウルフ賞]]受賞者である[[:zh:楊祥發|楊祥發]]([[ウルフ賞農業部門|農業部門]])、[[翁啓恵]]([[ウルフ賞化学部門|化学部門]])らをはじめ、百名を超える国立科学アカデミー([[中央研究院]])の院士、[[李登輝]]・[[陳水扁]]・[[馬英九]]・[[蔡英文]]ら4人の[[中華民国総統]]、[[連戦]]・[[呂秀蓮]]・[[呉敦義]]・[[陳建仁|陳建仁・]][[頼清徳]]ら5人の[[中華民国副総統]]そのほか、台湾はもとより、世界各国の政・財・官・学の各界で活躍する人材を多数輩出している。
=== 建学の精神 ===
第二次世界大戦後、[[傅斯年]]元[[北京大学]]学長が台湾大学の新学長に就任し、台大の[[自由主義]]校風を打ち立てた。[[白色テロ (台湾) |台湾の白色テロ時代]]に、台大のキャンパスは全国唯一の学生運動が許可されたところであり、台大教員・学生と出身者が発動した社会運動は台湾民主化の重要な推進力となった。
==沿革 ==
=== 台北帝国大学 ===
{{main|台北帝国大学}}
[[ファイル:NTU Hospital West Site 20050618.jpg|thumb|right|250px|[[国立台湾大学医学部附属病院]]]]
[[File:台湾国立台湾大学正門.jpg|thumb|大学正門]]
国立台湾大学の起源は、[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の1928年(昭和3年)3月16日に、[[台湾]][[台北州]]台北市[[富田町 (台北市)|富田町]]で 7番目の[[帝国大学]]として設立される。大学設立の準備段階では当初「台湾大学」との名称が用いられ、その後、「台湾帝国大学」が用いられたが、「台湾帝国大学」では台湾帝国の大学との誤解が生じるとの理由から[[1927年]]に「台北帝国大学」に名称が決まった<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.24546/80060006 |author=李恒全 |date=2007-11 |title=台北帝国大学設立計画案に関する一考察 : 幣原坦の設立構想を中心に |journal=神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要 |publisher=神戸大学大学院人間発達環境学研究科 |volume=1 |issue=1 |pages=45-64 |doi=10.24546/80060006 |hdl=20.500.14094/80060006 |naid=120000945038 |ISSN=18822851}}</ref>。
[[日本]][[内地]]の帝国大学が[[文部省]]の管轄であったのに対し、台北帝国大学は[[台湾総督府]]の管轄であった。当初は文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には[[予科]](豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。
国立台湾大学は、旧帝国大学としての連続性を有しつつ現在に至るため、台北帝国大学を前身として位置づけている。一方、[[ソウル大学校]]は京城(帝国)大学([[京城帝国大学]])の廃校後に新設された経緯があるため、同大学校は京城帝国大学を前身とは位置付けていない。
=== 国立台北大学 ===
[[1945年]](昭和20年)8月15日の終戦により、同年11月15日に[[中華民国]]が接収して「国立台北大学」と改称した。
=== 国立台湾大学 ===
[[1945年]]12月15日に「国立台湾大学」と改称、現在に至る。
{|class="wikitable" cellspacing="0"
!年||月日||事跡
|-
|[[1947年]]||-||台北高等商業学校が'''台湾大学法学院'''へ編入
|-
|[[1959年]]||-||商学系を設置
|-
|[[1967年]]||-||夜間部を設置
|-
|[[1987年]]||-||商学系4系を統合し、管理学院を設置
|-
|[[1993年]]||-||公衆衛生学院を設置
|-
|[[1997年]]||-||電資学院を設置
|-
|[[1999年]]||-||法律学院を設置
|-
|[[2003年]]||-||生命科学院を設置
|-
|[[2015年]]||-||創新設計学院を設置
|-
|[[2021年]]||-||国際学院、重点科技研究学院を設置
|}
==キャンパス==
*台北キャンパス
**校本部(10617台北市大安区羅斯福路四段1号)
**水源キャンパス(10087台北市中正区思源街18号)
**城中キャンパス(10055台北市中正区徐州路21号)
*竹北キャンパス(30264新竹県竹北市荘敬一路88号)
*雲林キャンパス(63247雲林県虎尾鎮学府路95号)
*山地実験農場(54641南投県仁愛郷仁和路215号)
*演習林(55750南投県竹山鎮前山路一段12号)
== 組織 ==
{{Main|国立台湾大学の系所一覧}}
12の学院(学部・大学院研究科)と3の専業学院(専門教育を行う学院、専門職大学院)を置く。
* [[国立台湾大学文学院|文学院]] - 文学部。
* [[国立台湾大学理学院|理学院]] - 理学部。
* [[国立台湾大学社会科学院|社会科学院]] - 社会科学部。
* [[国立台湾大学医学院|医学院]] - 医学部。
* [[国立台湾大学牙医専業学院|牙医専業学院]] - 歯学部。
* [[国立台湾大学薬学専業学院|薬学専業学院]] - 薬学部。
* [[国立台湾大学工学院|工学院]] - 工学部。
* [[国立台湾大学生物資源曁農学院|生物資源曁農学院]] - 農学部。
* [[国立台湾大学獣医專業学院|獣医專業学院]] - 獣医学部。
* [[国立台湾大学管理学院|管理学院]] - 商学部・経営学部、ビジネススクール。
* [[国立台湾大学公共衛生学院|公共衛生学院]] - 公衆衛生学部。
* [[国立台湾大学電機資訊学院|電機資訊学院]] - 機電系、情報系。
* [[国立台湾大学法律学院|法律学院]] - 法学部、法科大学院。
* [[国立台湾大学生命科学院|生命科学院]] - 生命科学部。
* [[国立台湾大学進修推広学院|進修推広学院]] - 職業教育、継続教育の修士課程を置く。
* [[国立台湾大学共同教育中心|共同教育中心]] - 共同教育センター。統計学、スポーツ科学、ゲノム科学、生物多様性研究などの修士課程を置く。
== 学生 ==
{{節スタブ}}
== 教員 ==
[[:Category:国立台湾大学の教員]]も参照。
=== 歴代学長 ===
{|class="wikitable" cellspacing="0"
!区分||代||氏名||任期
|-
|帝大||初代||[[幣原坦]]||1928年3月 - 1937年9月
|-
|帝大||第2代||[[三田定則]]||1937年9月 - 1941年4月
|-
|帝大||第3代||[[安藤正次]]||1941年4月 - 1945年3月
|-
|帝大||第4代||[[安藤一雄]]||1945年3月 - 1945年8月
|-
|台大||初代||{{仮リンク|羅宗洛|zh|羅宗洛}}||1945年8月 - 1946年7月
|-
|台大||第2代||{{仮リンク|陸志鴻|zh|陸志鴻}}||1946年8月 - 1948年5月
|-
|台大||第3代||{{仮リンク|荘長恭|zh|莊長恭}}||1948年6月 - 1948年12月
|-
|台大||代理||[[杜聡明]]||1948年12月 - 1949年1月
|-
|台大||第4代||[[傅斯年]]||1949年1月 - 1950年12月
|-
|台大||代理||{{仮リンク|沈剛伯|zh|沈剛伯}}||1950年12月 - 1951年1月
|-
|台大||第5代||[[銭思亮]]||1951年1月 - 1970年5月
|-
|台大||第6代||{{仮リンク|閻振興|zh|閻振興}}||1970年6月 - 1981年7月
|-
|台大||第7代||{{仮リンク|虞兆中|zh|虞兆中}}||1981年8月 - 1984年7月
|-
|台大||第8代||{{仮リンク|孫震 (経済学者)|label=孫震|zh|孫震 (臺灣學政界人物)}}||1984年8月 - 1993年2月
|-
|台大||代理||{{仮リンク|郭光雄 (動物学者)|label=郭光雄|zh|郭光雄 (動物學家)}}||1993年3月 - 1993年7月
|-
|台大||第9代||{{仮リンク|陳維昭|zh|陳維昭}}||1993年8月 - 2005年6月
|-
|台大||第10代||{{仮リンク|李嗣涔|zh|李嗣涔}}||2005年6月 - 2013年6月
|-
|台大||第11代||{{仮リンク|楊泮池|zh|楊泮池}}||2013年6月 - 2017年6月
|-
|台大||代理||{{仮リンク|張慶瑞|zh|張慶瑞}}||2017年6月 - 2017年9月
|-
|台大||代理||{{仮リンク|郭大維|zh|郭大維}}||2017年10月 - 2019年1月
|-
|台大||第12代||{{仮リンク|管中閔|zh|管中閔}}||2019年1月 - 2023年1月
|-
|台大
|第13代
|陳文章
|2023年1月 - 現職
|}
== スポーツ・サークル・伝統 ==
{{節スタブ}}
=== サークル ===
*台大電子布告欄系統研究社 - 台湾最大の[[電子掲示板]]「[[PTT (台湾)|PTT(批踢踢)]]」を運営管理しているサークル。当校の情報工学系の学生と卒業生を中心として構成されている。PTTの拠点は敷地内にあるが、学校法人とは独立した立場を取っていることで、外部人材の登用や外部ユーザーの参加促進など、運営の自由度を高めている。
== 主な出身者 ==
[[:Category:国立台湾大学出身の人物]]も参照。
=== 政治 ===
* [[蔡英文]] - 中華民国[[中華民国総統|総統]](第14代、第15代)、元[[民主進歩党]]主席
* [[馬英九]] - 元中華民国総統(第12代、第13代)、元[[中国国民党|国民党]]主席
* [[陳水扁]] - 元中華民国総統(第10代、第11代)、元[[民主進歩党]]主席
* [[李登輝]] - 元中華民国総統(第7代継任、第8代、第9代)、元[[中国国民党|国民党]]主席
* [[頼清徳]] - 元[[台南市長]]、中華民国[[中華民国副総統|副総統]] (第15代)、[[民主進歩党]]主席
* [[陳建仁]] - 中華民国[[中華民国の首相|行政院長]]、元中華民国[[中華民国副総統|副総統]] (第14代)
* [[呉敦義]] - 元中華民国[[中華民国副総統|副総統]](第13代)、元[[行政院]]院長
* [[呂秀蓮]] - 元中華民国[[中華民国副総統|副総統]](第10代、第11代)、元[[桃園県]]長
* [[連戦]] - 元中華民国[[中華民国副総統|副総統]](第9代)、元[[中国国民党|国民党]]主席
* [[謝長廷]] - 中華民国[[台北駐日経済文化代表処|駐日代表]]、元[[行政院]]院長、元[[高雄市]]長
* [[柯文哲]] - 元[[台北市長]]
* [[朱立倫]] - 元[[新北市長]]、元[[中国国民党|国民党]]主席
* [[林佳龍]] - 元[[台中市長]]
* 涂醒哲 - 元[[嘉義市長]]
* [[鄭文燦]] - [[桃園市長]]
* [[黄国昌]] - 元[[時代力量]]主席
* [[蘇貞昌]] - 元行政院長、元[[民主進歩党]]主席、元[[台北県]]長
* [[陳唐山]] - 元中華民国[[中華民国外交部|外交部]]長
* [[杜正勝]] - 元中華民国[[中華民国教育部|教育部]]長、元[[国立故宮博物院]]長
* [[羅福全]] - 元中華民国駐日代表
* [[許世楷]] - 元中華民国駐日代表
* [[陳文茜]] - 評論家、元立法委員、元[[民主進歩党]]文化宣伝部主任
* [[高嘉瑜]](PTT管理人、台北市議、民主進歩党立法委員)
* [[鄭麗君]] - 民主進歩党立法委員、文化部部長
* [[黄偉哲]] - 農学・公衆衛生学者、民主進歩党立法委員、第3代[[台南市長]]
=== 学術 ===
* [[李遠哲]] - 元[[中央研究院]]院長、[[ノーベル化学賞]]受賞者(1986年)
* [[翁啓恵]] - 元[[中央研究院]]院長、[[ウルフ賞化学部門]]
* 姚期智([[アンドリュー・チーチー・ヤオ]]) - [[チューリング賞]]受賞者(2000年)
* [[劉進慶]] - 台湾経済研究者
* [[洪致文]] - 気象学者・地理学者・鉄道研究家、作家。
* [[毛河光]] - [[物理学者]]
* [[李茂生]] - [[法学者]]
* [[羅一鈞]] - 医師、疫学者
* [[馮明珠]] - 歴史学者、[[国立故宮博物院]]元院長
=== 経済界 ===
* [[羅祥安]](トニー・ロー) - 元[[ジャイアント・マニュファクチャリング]]CEO
=== 文学 ===
* [[李敖]] - 作家、評論家、元立法委員
* [[白先勇]] - 作家
* [[AKRU]] - 漫画家
* [[CHuN]] - 漫画家
=== 音楽 ===
* [[周華健]](エミール・チョウ) - 歌手 ※中退
* [[温尚翊]] - [[メイデイ (台湾のバンド)|メイデイ]]のギタリスト、リーダー
=== 芸能 ===
* 蘇有朋([[アレック・スー]]) - 俳優、アイドル ※中退
=== IT ===
* [[杜奕瑾]] - [[ソフトウェア]][[エンジニア]]。在学中にPTTを創設、卒業後は[[米国]][[マイクロソフト]]を経て[[人工知能]]研究機関「台湾人工智慧実験室(Taiwan AI Labs)」を創設<ref>[http://jp.taiwantoday.tw/news.php?unit=150&post=114609 「Taiwan AI Labs」設立、官民連携で「台湾AI元年」へ]2017年4月28日,[[Taiwan Today]]</ref>。
* [[洪任諭]] - ソフトウェア開発者
* [[許峰雄]] - 計算機科学者。IBMのチェス・コンピュータ「[[ディープ・ブルー (コンピュータ)|ディープ・ブルー]]」の主要開発者。
=== その他 ===
* [[古庭維]] - [[鉄道写真家|鉄道]]・[[山岳写真家]]、[[登山家]]
== 交流のある学校 ==
{| border="0" cellpadding="5" width="100%"
|----- valign="top"
| width="50%" | || width="50%" |
|-----
| valign="top" |
; 日本
* [[上智大学]]
* [[青山学院大学]]
* [[大阪大学]]
* [[岡山大学]]
* [[お茶の水女子大学]]
* [[金沢工業大学]]
* [[関西大学]]
* [[関西学院大学]]
* [[九州大学]]
* [[京都大学]]
* [[慶應義塾大学]]
* [[国際教養大学]]
* [[神戸大学]]
* [[創価大学]]
* [[東京大学]]
* [[東京外国語大学]]
* [[東京学芸大学]]
* [[東京工業大学]]
* [[東北大学]]
* [[名古屋大学]]
* [[日本大学]]
* [[一橋大学]]
* [[北海道大学]]
* [[明治大学]]
* [[琉球大学]]
* [[早稲田大学]]
* [[藤田医科大学]]
*[[筑波大学]]
| valign="top" |
; 日本国外
* [[香港中文大学]]([[香港]])
* [[香港大学]]([[香港]])
* [[シンガポール国立大学]]([[シンガポール]])
* [[ソウル大学校]]([[大韓民国|韓国]])
* [[ハーバード大学]]([[アメリカ合衆国|米国]])
* [[コロンビア大学]]([[アメリカ合衆国|米国]])
* [[スタンフォード大学]]([[アメリカ合衆国|米国]])
* [[南カリフォルニア大学]]([[アメリカ合衆国|米国]])
* [[カリフォルニア大学バークレー校]]([[アメリカ合衆国|米国]])
* [[オックスフォード大学]]([[イングランド]])
* [[チューリッヒ工科大学]]([[スイス]])
* [[コペンハーゲン大学]]([[デンマーク]])
* [[ミュンヘン工科大学]]([[ドイツ]])
* [[オーストラリア国立大学]]([[オーストラリア]])
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|大学|[[File:P Education.png|39px|ウィキプロジェクト 大学]]}}
* [[国立台湾大学医学部附属病院]]
* [[台湾の大学一覧]]
* [[台北帝国大学]]
* [[帝国大学]]
* [[中国地理学会 (台北)]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:National Taiwan University}}
* [https://www.ntu.edu.tw/ 国立台湾大学公式サイト(中国語)]
* [https://www.ntu.edu.tw/english 国立台湾大学公式サイト(英語)]
{{Univ-stub}}
{{台北市の大学}}
{{台湾EUセンター7大学連盟}}
{{東アジア研究型大学協会}}
{{環太平洋大学協会}}
{{AACSB認証大学}}
{{台湾の研究型大学システム}}
{{authority control}}
{{DEFAULTSORT:たいわん}}
[[Category:国立台湾大学|*]]
[[Category:台湾の国立大学]]
[[Category:台湾の医科大学]]
[[Category:学校記事]]
[[Category:大安区 (台北市)]]
[[Category:中正区 (台北市)]]
[[Category:台湾の古跡|北]] | 2003-04-25T07:25:19Z | 2023-12-20T14:43:12Z | false | false | false | [
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"Template:台北市の大学",
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"Template:台湾の研究型大学システム"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6 |
7,281 | 子供 | 子供()とは、次のことを言う。
考え方によっては、胎児も出生前発育(英語版)をしている生命として子供に含める場合もある。
また、親子や権威を持つ人物(英語版)との相対的関係を表したり、氏族・民族または宗教内での関係を示す場合にも使われる。何らかの概念との関係を示すためにも使われ、「自然児」や「1960年代の子供」のように特定の時や場所または環境等の状況を受けている人の集団を指して用いられることもある。
思慮や行動などが幼く足りない者のことも指して使われる用語でもあり、幼稚さや要領・主体性の無さを表す言葉として「子供っぽい」「子供らしい」「子供の使い」等の慣用句もある。
なお、子供という単語は人間以外の動物にも使われたり、生物に限らない、大きいものと小さいものが組みになっている状態を指して「子持ち」という表現にも使われる。
「子供」という言葉は、自分がもうけた子も指している。広辞苑第五版では「子供」の解説の第一にその意味を挙げている。大辞泉も「むすこ」(男性の子供)や「むすめ」(女性の子供)を挙げている。
また、書簡において、「子供」は謙譲語として用いられる。相手方を示すためには、「御子様(おこさま)」などの尊敬語が使われる。
国際連合の児童の権利に関する条約(1989年の第44回国際連合総会で採択、1990年発効)第1条では、児童(=子供)を以下のように定義している(日本国外務省公式邦訳)
同条約は、加盟196カ国のうちアメリカ合衆国を除く195カ国で批准されている(日本:1994年批准)。英語の用法では、胎児も子供の範疇に含める場合がある。
しかし、本来「子供」とその発達段階は明確に区分できない漸進的なものであり、その概念は歴史的に構築され、また社会や文化の相違が反映される。法律で大人と子供を定義する際には、個人の成熟度合いを考慮していては法的安定性が欠如するため一律の線引きを置く必要に迫られる。そのため、各法律の目的に沿って様々な用語を使いながら「子供」に対する個別の定義を行っている。
日本では、民法第4条に「年齢十八歳をもって、成年とする。」と規定されており、満18歳未満(満17歳以下)が子供に該当する。かつて、1876年(明治9年)4月1日から2022年(令和4年)3月31日までは満20歳以上が成年と定めており、満20歳未満(満19歳以下)が子供に該当した。
ただし、選挙権などを除き、被選挙権(公職選挙法第10条に基づき満25歳以上:衆議院議員・都道府県議会議員・市区町村長・市区町村議会議員、満30歳以上:参議院議員・都道府県知事)、飲酒(二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律第1条に基づき満20歳以上)・喫煙(二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律第1条に基づき満20歳以上)などの一部の権利付与は、成年とは別途に下限年齢が規定されている。
また、人口統計学においては15歳未満の者を「子供」としており、総務省の人口統計でも15歳未満の人口を「年少人口」と定義している。
国立国会図書館の調査によると、世界186か国中、成人となる年齢を18歳としている国は162にのぼる。これには、主要国首脳会議(G7)対象国全てが該当する。ただし、18歳成人は欧米諸国では1960-70年代に起こった若年層の活発な社会行動を反映して引き下げられたもので、イギリスでは1968年に定められた。一方、アジアやアフリカの開発途上国では事情が異なり、早い年齢で負わせられる徴兵の義務に対応して選挙等の権利を与えるために成人年齢が設定されたとの意見もある。
労働という観点から、国際労働機関 (ILO) は、ILO138号条約にて就業最低年齢をその労働内容に応じて3種類設定している。最低の年齢は、義務教育が修了する年齢とし、基本的には15歳と置くが、発展途上国では14歳とすることもできる。その一方で軽易な労働はもっと若い13歳(発展途上国では12歳)を最低年齢とする。逆に、危険な労働への就業年齢は18歳または適切な職業訓練を条件に16歳とする。なお、家庭内の農業や手伝い、アルバイトなどは対象外とする。
何かしらの儀礼を以って子供と大人を区分けする習慣があり、これらはイニシエーション(英:initiation、通過儀礼)の一つに上げられる。多くは試練や苦行、また身なりの変更などであった。
日本では元服もこれらの一つに相当したが、現在社会では廃れてしまっている。成人式も儀礼としては形骸化していると言えよう。
河合隼雄は「イニシエーションの欠如が問題になっている」と述べ、ピーターパン・シンドロームや心理社会的モラトリアム発生の一因とも考えられている。
古代ギリシア時代のアレクサンドリアのフィロンが著した『世界の創造』の中には、エレジーの形式で書かれたソロンの子供観を載せた部分がある。これは、人の一生を7年刻みの段階で表した。男子の場合、身体が成熟する時期は第4の7年(22-28歳)、精神が成熟する時期は第6の7年(31-42歳)であり、これに満たない年齢は成年とはみなしていない。フィロンは、同じ7年刻みによるヒポクラテスの見解も採録しており、7歳以下は小児 (παιδιον)、14歳までは子供 (παις)、21歳までは少年 (μειρακιον)、28歳までを若者 (νεανισκος) と呼んだ。ただし、当時の子供を指す用語は、παις と τεκνον の2つが主流であったと考えられる。παις は子供以外にも「奴隷」や「同性愛者たち」など他の概念も指す広い用語で、その意味はインド・ヨーロッパ語系の「小さい」「重要ではない」が語源である。τεκνον は「生む」の τικτω から派生した単語である。例外はあるが、παις は子供と父親の、τεκνον は子供と母親の関係を元に作られた言葉と考えられる。そして概念的には、男子の場合は「デモス」(人民)登録以前、女子の場合は結婚前を「子供」と考えることが一般的だった。
プラトンやアリストテレスは、この7年段階での成熟を基礎に子供が大人になる時期を考察した。プラトンの『法律』や『政治学』では、結婚可能となる年齢を男性では30-35歳、女性は16-20歳に法律で定めるべきと論じられている。その根拠には、それぞれの性においてこの年齢時から生殖能力が充実するためであり、また男子の場合は父親が生殖限界となる70歳を迎え、相続に適するタイミングになる点を挙げた。アリストテレスは『動物誌』にて、人間の成長を7年刻みの説で人間の成長段階を表し、大人とはアテネの五百人評議会 (βουλη) に名を連ねて公職に就く資格を持つ者を指し、それ以前の段階では「想定上の」または「見習い」市民に過ぎないと述べた。そして『ニコマコス倫理学』の中で、子供と動物は自発的行動を取る事は可能だが節度に欠き、選択を行使することはできず、欲望や激情に左右される。そのため理性を持つ者に監視されなければならないと言った。
フランスの歴史学者フィリップ・アリエスが著書『〈子供〉の誕生』で述べたところによると、ヨーロッパでは中世に至るまで、「子供」という概念は存在しなかったという。年少時の死亡率が高い社会だったので、生まれ出ただけでは家族の一員とみなされなかった。やがてある程度の成長を遂げると、今度は徒弟や奉公など労働に勤しむようになり、「小さな大人」として扱われる。そのため、服装や娯楽等において成長した大人と区別される事は無く、性道徳に関しても何らかの配慮がされることも無かった。ただし、13世紀イギリスでは、宗教および法律の観点から、大人とは異なる子供の概念があったという主張もある。
ジャン=ジャック・ルソーは1762年の著書『エミール』で展開した消極教育論において、子供を「小さな大人」と扱う事の非を説いた。彼は、誕生してから12歳になるまでの期間は、子供時代という能力と器官が内部的に発展する段階であると述べ、多く施される発展した能力や器官を利用する方法を教える教育(人間の教育)は逆効果であり、能力と器官を伸ばし完成させる教育(自然の教育)を行わなければならないと主張した。
成年ではない者としての子供という概念は、中世において男子に限り発生したが、女子については形成されなかった。幼児と成年の間としての子供観は、近世になってから確立された。16-17世紀頃から現れる家族意識の中で、家庭内などにおいて幼児は、その愛らしさから可愛がられる対象という視線が醸成された。また社会的にも、聖職者やモラリストらによる理性的な習俗を実現させようとするグループから、子供に対する配慮が生まれた。これらが18世紀頃には結びついて、社会は子供を「小さな大人」という見方から、庇護し、愛情を傾け、学校による教育を施してやらなければならない存在という風に認識が形成された。
この変貌は絵画の変遷を追うことで確認できる。16世紀、子供たちのイメージにはっきりした幼い見かけが現れ始める。17世紀後半からは、遊戯を愉しむ姿が描かれるようになる。玩具や児童文学が発展を見せたのも、この頃である。
アリエスは同書にて、子供に教育を施す主体の変化にも触れている。中世まで、子供は家庭から出されるか、家庭内でも労働を課せられ、見習い修行の中で一人前に成長した。それは、家族が共同体の一部という性格を強く持っていたためであり、実の親子関係を醸成するような環境ではなかった。これが近世になると、仕事・社交・私生活の分離が進み、ひとつの家屋の中で家族のみが生活をするようになる。ここでは共同体よりも家族という単位が重視され、その中で子供が占める位置が高まりを見せた。また、裕福な階層の子弟のために学校が作られるとともに、「教師」と「生徒」という区分がそのまま「大人」と「子供」の分離となった。学校は社会生活に必要な教育を施す通過点となり、学校を出れば「大人」、それまでは「子供」という区切りをつけるものになった。
日本では、子供は親の所有物という感覚が強かった。子供は家を継ぐことが当たり前であり、親に絶対服従しなければならなかった。農村など貧しい家では、貧困に見舞われると身売りや奉公に出されたり、捨て子や間引きが行われたりした。 しかし、身売りや奉公、捨て子や間引きのような抑圧は、西欧の奴隷貿易のような1000万人規模までに発展しなかったため、子どもの権利を芽生えさせるまでには至らなかった。
子供に向けられる社会的態度は、世界中の文化圏によって違いがあり、また時代によっても異なる。1988年にヨーロッパ諸国を対象に行われた調査では、イタリアは子供中心の傾向が強くオランダでは弱い。オーストリア、イギリス、アイルランド、西ドイツなど他の国々は中間的な位置を占めた。
子どもたちは、年配の人たちよりも世界の未来について楽観的である傾向がある。
一般に「遊び」とは気晴らしであったり非生産的と捉えがちだが、これはあくまで大人の遊びに対するものであり、子供にとって遊びとは生活の中心にあり、特に幼児期には、生活の全てが遊びと言える。そして子供は遊びを通じて様々なことを学ぶ。1959年の児童権利宣言第7条には「児童は遊びおよびレクリエーションのための充分な機会を与えられる権利を有する。」と、子供にとって遊びが大切な要素である事を謳っている。
ヨハン・ホイジンガは、遊びを「自発的な行為・活動であり、規則を受け入れ従う中で、緊張や歓びを感じつつ行う行為」と定めた。子供は遊びの中で、規則を破って遊びそのものが破綻させないよう、自主・自立的に学習を重ねる。大人を模倣するようなごっこ遊びは社会生活への興味を喚起し、態度や性格を形成するとともに、演劇的性質を芸術的創造へ発展させる事もできるとも論じられる。
すべての子供は成長・発達に伴い社交性を身につける。幼児やとても小さな子供はひとり遊びでも満足する。このような子供が他者との関わり合いを持つ最初の相手は養育者であり、多くの場合それは母親である。
もしそこに他の子供がいたら、ぶつかり合ったり排除しようとすることもあり得る。しかしやがて一緒に遊ぶようになり、共有や交流の中に楽しさを見出す。そして遊び相手も3人、4人と増え、仲間という集団を形成するようになる。子供に兄や姉がいる場合、彼らが初期の仲間関係をつくる相手となる。この兄弟姉妹関係は社会生活を通じて直面する競争や協同を経験する重要な役割を担う人間関係である。幼稚園に入園する頃には、子供たちは仲間の輪に加わり、集団での経験を楽しめるようになる。ここで子供は就学前教育を受け、さまざまな遊びを通して理解力や思考・創造力または問題解決力だけでなく、表現力や社会性・協調性も身につける。
多くの国で、一定の年齢に達した子供には義務教育が施される。
ここでは国家や社会の一員として必要最低限の言語・文化・規範を教わり、また個性・能力や人格形成の醸成を促す。
日本の教育では、学校教育法によって義務教育期間を満6歳から15歳(概ね、初等教育の小学校6年間と前期中等教育の中学校3年間の9年間)としており、モザンビークやモンゴルのような例外もあるが、その他多くの国でも6歳前後から9-10年間の教育制度を設定している。
注意欠陥・多動性障害 (ADHD) や学習障害のある子供たちには、社会技能を身につけるための訓練を行うために、特別な支援が求められる場合がある。ADHDの子供は良好な友人関係を築きにくい可能性がある。注意欠陥の子供は、周囲に存在する社交のきっかけをつかみにくく、経験を通した社会技能習得に難点を抱えている可能性がある。
人間が、結婚や投票など社会的な約束事に対して責任を負うことができるようになると受け取られる年齢は時代とともに変化し、現在では法律が制定する問題となっている。古代ローマでは子供は罪を犯しても責任がないとみなされ、後にキリスト教会もこの位置づけを取り入れた。19世紀に入ると、犯罪に対する責任を持たない年齢は7歳未満とみなされ、7歳以上の人間は自分の行動に責任を負わされるようになった。つまり、7歳以上の人間が告発されれば、大人と同じ刑務所に送られ、鞭打ちや烙印、そして絞首刑などの刑罰が大人と何ら変わりなく執行された。現代では、カナダやアメリカ合衆国など多くの国で刑事責任を負う年齢は12歳以上とされるが、罪に問われた際には成人とは別の少年収容施設に収容することとしている例が多い。
ある調査によると、世界中の少なくとも25の国で義務教育を受ける子供の年齢を定めていない。そして、雇用や結婚の最低年齢もまちまちである。少なくとも125の国では、7 - 15歳の子供でも犯罪行為に対して裁判や収監を受けさせるようになっている。いくつかの国では、14 - 15歳まで就学するよう法律で定められているが、もっと若い時期から就労は認められている。子供の教育を受ける権利を脅かすものは、早婚や児童労働または監禁などである。スタンドフォード大学によると、人の前頭葉は25歳頃まで十分に発達しないため、長期的な責任ある決断を下すことが困難であるという。
1600年代のイギリスでは、2/3の子供は4歳未満で死去していたため、平均寿命は35歳前後にとどまっていた。これが劇的に改善され子供の生存率が伸びたのは産業革命期である。
人口健康専門家委員会 (population health experts) によると、1990年代に比べ乳幼児死亡率は急速に低下している。20年前と比較すると、アメリカでは5歳未満の子供の死亡者数が4.2%まで下がった。セルビアやマレーシアも死亡者数を7.0%まで減少させた。
児童労働が社会問題化され始めたのは、イギリスに始まる18-19世紀の産業革命期であった。未熟練労働者として低賃金で雇われ、粗末な住環境に置かれながら工場での長時間労働を強いられた子供たちの様子は、フリードリヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』で触れられ、チャールズ・ディケンズの小説などでも描かれる。カール・マルクスも『資本論』の中で、4歳の工場労働者の存在に触れた。
イギリスでは1833年に工場法が制定され、子供の労働に制限が加えられたが、就労年齢9歳以上、労働は一日12時間以下という緩さだった。また、身体の小ささから危険で健康被害も懸念される煙突掃除のような過酷な労働にも使役された。
転機は、1870年に施行された小学教育令であり、13歳以下の子供を対象に義務教育が制定された事に始まる。これはすぐに成果を上げた訳ではなかったが、生産性向上と相まって20世紀前半には子供を搾取されがちな工場労働から近代的な教育を施す学校へ移す役割を果たした。
日本で子供が工場労働を担うようになったのは、明治時代の富国強兵や殖産興業の元、製糸・織物業などを中心とした工業化が広がり始まった時期からとされる。その中で子供も一般的に雇用されたが、労働環境は大人よりも劣悪で、また不況時には解雇されるなど便利使いされていた。農工務省が纏めた1903年(明治36年)の「職工事情」第一巻には、単純作業の長時間労働が時に徹夜にまで至り、ろくな休憩も無く粉塵まみれになって働き続ける様子が報告された。横山源之助は大阪の工場を見て廻った記録を残したが、それによると15歳以下の少女が紡績分野で多く使われ、中には7・8歳の子供もいたという。既に1872年(明治5年)の学制はあったが、彼女らは満足な教育を受けていなかった。1916年(大正5年)に工場法が施行されたが、依然として長い就労制限時間や小規模事業所が適用除外になるなど充分なものではなかった。
20世紀に入ると、世界恐慌に端を発した不況と社会不安が子供にも襲い掛かり、親子心中、児童虐待や子殺し、児童労働環境の悪化や少年犯罪の増加が問題化した。また、乳児死亡率の高さや国際的な児童の公的保護の機運が高まった事もあり、1926年から全国児童保護事業会議が開催されて児童保護に向けた法整備が話し合われ、児童虐待防止法や各扶助法・託児所関連の法律、また不就学対応など児童保護法の成立に繋がった。
国際労働機関 (ILO) が発表した2000年の統計によると、世界で児童労働をしている子供は2億4600万人。うち15歳未満は1億8600万人であった。ILOが第182号条約で定める、人身取引・債務奴隷・強制された少年兵・強制労働・買春・児童ポルノ・麻薬関連等の不正活動・路上で働くストリート・チルドレンなど無条件に最悪の労働に従事する子供は840万人にのぼる。この他にも、家事使用人に従事する子供の中には統計に現れにくい虐待や強制労働または児童性的虐待があるものと考えられている。
キャロル・コープは、「子供は35秒で騙される」と述べた。子供は一般に、思慮や判断力が成熟しておらず、感受性の強さから外的な刺激に対する抵抗力が身についていない。
この特性が、少年兵を生む要因になっている。集めやすい上、子供は教育や訓練に従順で、特定の思想を植えつけやすい。そのため少年兵は一般兵よりも命令に忠実で、残忍にもなる。地雷排除のために子供を歩かせた例もあった。また、武器の軽量化や敵に警戒心を抱かせにくい点を利用し、自爆テロのような「使い捨て」に利用される例も多い。子どもの権利条約やさまざまな国際条約では子供の徴兵を禁じているが、貧困や共同体崩壊等の理由もあり、地域紛争や内戦が多発する状態では実効性に乏しいのが現状である。
日本における教育・法律・行政文書の世界では1994年の「Convention on the Rights of the Child」の訳語論争を経て、2000年代ごろには「子供」という表記を差別的な印象であるなどといった理由で敬遠し、代わりに「子ども」表記を用いることが多くなった。
小中学校の国語においては「子」は小学校1年生で、「供」は小学校6年生でそれぞれ読みを学ぶ漢字であり、小学校の5年生までは交ぜ書きの「子ども」表記であるが、教科書においては小学校6年生以降でも出版社によって「子供」「子ども」両方の表記が混在していた。
例として、中学3年生の全社の検定教科書に収録されている魯迅の『故郷』では、学校図書、教育出版、光村図書が「子供」としているのに対して、東京書籍と三省堂は「子ども」と表記している。教員採用試験の参考書でも、かつての文部科学省の表記を根拠に「子ども」表記を推奨しているものがあった。なお当て字ないしは誤表記として「小供」や「子共」も見られた。
しかし、文部科学省が2013年(平成25年)5月に、省内で多用されてきた「子ども」の表記の経緯について調査。表記についての内規が存在しないことを確認した上で、文部科学大臣下村博文(第2次安倍内閣)は省内での表記を統一するよう指示した。協議の結果、「子供」表記は差別表現ではないとの判断が示され、6月下旬から公用文に用いられる表記を「子供」に統一した。
「子供」表記への統一は、当初あくまで公文書に限るとされていたが、2010年代以降はこれに倣って公文書以外でも「子供」表記が以前に比べて増加傾向にある。前述の国語の検定教科書においても、これまで積極的に「子ども」表記を採用していた東京書籍なども、小学校6年生以降の教科書において「子ども」と表記していた部分を「子供」に改めている。新聞社など民間のメディアは表記の統一を行なっていないが、毎日新聞の新聞記事における使用実態は2000年ごろ以降「子ども」表記が多数となったものの、2010年ごろ以降は再び「子供」表記が増え「子ども」と同数程度になった。ただし、同社による一般へのアンケートによれば、「子ども」表記を好む読者が63.3%、「子供」表記は25.4%に留まり、「子ども」が優勢である。
2020年(令和2年)の神戸新聞の記事によれば、国語辞典編纂者の飯間浩明の意見として、「供」の字にまつわる差別的なイメージは「史実に基づいておらず、まったくの俗解」と断言した上で、一方「日本語は漢字と仮名の交ぜ書きが普通であり、『子ども』が美しくないとは、必ずしも言えません」と、「子ども」表記のより柔らかなイメージについても肯定したことを紹介。また、全国の地方紙にアンケートを実施したところ、多くの記者は「『子ども』の方が字面の印象が柔らかい(ので使用する)」と回答。どちらの表記を選ぶかは書き手の自由であり、「ことさら競う」ことなく「好きな表記をすればよいと思います」とした。
児童文学作家の矢玉四郎は「子供は当て字であり、差別的な意味は全くない」、出版社が勝手に「子ども」に書き換えることが横行していると批判し、『子ども教の信者は目をさましましょう』という運動を展開している。
2023年4月に施行したこども基本法や新設されたこども家庭庁では、全てひらがなの「こども」で表記している。国務大臣の記者会見等の文章においても、同様に「こども」で表記されている。 | [
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"text": "子供()とは、次のことを言う。",
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"text": "また、親子や権威を持つ人物(英語版)との相対的関係を表したり、氏族・民族または宗教内での関係を示す場合にも使われる。何らかの概念との関係を示すためにも使われ、「自然児」や「1960年代の子供」のように特定の時や場所または環境等の状況を受けている人の集団を指して用いられることもある。",
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"text": "思慮や行動などが幼く足りない者のことも指して使われる用語でもあり、幼稚さや要領・主体性の無さを表す言葉として「子供っぽい」「子供らしい」「子供の使い」等の慣用句もある。",
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"text": "なお、子供という単語は人間以外の動物にも使われたり、生物に限らない、大きいものと小さいものが組みになっている状態を指して「子持ち」という表現にも使われる。",
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"text": "「子供」という言葉は、自分がもうけた子も指している。広辞苑第五版では「子供」の解説の第一にその意味を挙げている。大辞泉も「むすこ」(男性の子供)や「むすめ」(女性の子供)を挙げている。",
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"text": "また、書簡において、「子供」は謙譲語として用いられる。相手方を示すためには、「御子様(おこさま)」などの尊敬語が使われる。",
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"text": "国際連合の児童の権利に関する条約(1989年の第44回国際連合総会で採択、1990年発効)第1条では、児童(=子供)を以下のように定義している(日本国外務省公式邦訳)",
"title": "法的・社会的な基準"
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"text": "同条約は、加盟196カ国のうちアメリカ合衆国を除く195カ国で批准されている(日本:1994年批准)。英語の用法では、胎児も子供の範疇に含める場合がある。",
"title": "法的・社会的な基準"
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"text": "しかし、本来「子供」とその発達段階は明確に区分できない漸進的なものであり、その概念は歴史的に構築され、また社会や文化の相違が反映される。法律で大人と子供を定義する際には、個人の成熟度合いを考慮していては法的安定性が欠如するため一律の線引きを置く必要に迫られる。そのため、各法律の目的に沿って様々な用語を使いながら「子供」に対する個別の定義を行っている。",
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"text": "日本では、民法第4条に「年齢十八歳をもって、成年とする。」と規定されており、満18歳未満(満17歳以下)が子供に該当する。かつて、1876年(明治9年)4月1日から2022年(令和4年)3月31日までは満20歳以上が成年と定めており、満20歳未満(満19歳以下)が子供に該当した。",
"title": "法的・社会的な基準"
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"text": "ただし、選挙権などを除き、被選挙権(公職選挙法第10条に基づき満25歳以上:衆議院議員・都道府県議会議員・市区町村長・市区町村議会議員、満30歳以上:参議院議員・都道府県知事)、飲酒(二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律第1条に基づき満20歳以上)・喫煙(二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律第1条に基づき満20歳以上)などの一部の権利付与は、成年とは別途に下限年齢が規定されている。",
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"text": "また、人口統計学においては15歳未満の者を「子供」としており、総務省の人口統計でも15歳未満の人口を「年少人口」と定義している。",
"title": "法的・社会的な基準"
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"text": "国立国会図書館の調査によると、世界186か国中、成人となる年齢を18歳としている国は162にのぼる。これには、主要国首脳会議(G7)対象国全てが該当する。ただし、18歳成人は欧米諸国では1960-70年代に起こった若年層の活発な社会行動を反映して引き下げられたもので、イギリスでは1968年に定められた。一方、アジアやアフリカの開発途上国では事情が異なり、早い年齢で負わせられる徴兵の義務に対応して選挙等の権利を与えるために成人年齢が設定されたとの意見もある。",
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"text": "労働という観点から、国際労働機関 (ILO) は、ILO138号条約にて就業最低年齢をその労働内容に応じて3種類設定している。最低の年齢は、義務教育が修了する年齢とし、基本的には15歳と置くが、発展途上国では14歳とすることもできる。その一方で軽易な労働はもっと若い13歳(発展途上国では12歳)を最低年齢とする。逆に、危険な労働への就業年齢は18歳または適切な職業訓練を条件に16歳とする。なお、家庭内の農業や手伝い、アルバイトなどは対象外とする。",
"title": "法的・社会的な基準"
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"text": "何かしらの儀礼を以って子供と大人を区分けする習慣があり、これらはイニシエーション(英:initiation、通過儀礼)の一つに上げられる。多くは試練や苦行、また身なりの変更などであった。",
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"text": "河合隼雄は「イニシエーションの欠如が問題になっている」と述べ、ピーターパン・シンドロームや心理社会的モラトリアム発生の一因とも考えられている。",
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"text": "子供に向けられる社会的態度は、世界中の文化圏によって違いがあり、また時代によっても異なる。1988年にヨーロッパ諸国を対象に行われた調査では、イタリアは子供中心の傾向が強くオランダでは弱い。オーストリア、イギリス、アイルランド、西ドイツなど他の国々は中間的な位置を占めた。",
"title": "歴史的概念"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "子どもたちは、年配の人たちよりも世界の未来について楽観的である傾向がある。",
"title": "子供の社会化"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "一般に「遊び」とは気晴らしであったり非生産的と捉えがちだが、これはあくまで大人の遊びに対するものであり、子供にとって遊びとは生活の中心にあり、特に幼児期には、生活の全てが遊びと言える。そして子供は遊びを通じて様々なことを学ぶ。1959年の児童権利宣言第7条には「児童は遊びおよびレクリエーションのための充分な機会を与えられる権利を有する。」と、子供にとって遊びが大切な要素である事を謳っている。",
"title": "子供の社会化"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ヨハン・ホイジンガは、遊びを「自発的な行為・活動であり、規則を受け入れ従う中で、緊張や歓びを感じつつ行う行為」と定めた。子供は遊びの中で、規則を破って遊びそのものが破綻させないよう、自主・自立的に学習を重ねる。大人を模倣するようなごっこ遊びは社会生活への興味を喚起し、態度や性格を形成するとともに、演劇的性質を芸術的創造へ発展させる事もできるとも論じられる。",
"title": "子供の社会化"
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"text": "すべての子供は成長・発達に伴い社交性を身につける。幼児やとても小さな子供はひとり遊びでも満足する。このような子供が他者との関わり合いを持つ最初の相手は養育者であり、多くの場合それは母親である。",
"title": "子供の社会化"
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{
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"text": "もしそこに他の子供がいたら、ぶつかり合ったり排除しようとすることもあり得る。しかしやがて一緒に遊ぶようになり、共有や交流の中に楽しさを見出す。そして遊び相手も3人、4人と増え、仲間という集団を形成するようになる。子供に兄や姉がいる場合、彼らが初期の仲間関係をつくる相手となる。この兄弟姉妹関係は社会生活を通じて直面する競争や協同を経験する重要な役割を担う人間関係である。幼稚園に入園する頃には、子供たちは仲間の輪に加わり、集団での経験を楽しめるようになる。ここで子供は就学前教育を受け、さまざまな遊びを通して理解力や思考・創造力または問題解決力だけでなく、表現力や社会性・協調性も身につける。",
"title": "子供の社会化"
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"text": "多くの国で、一定の年齢に達した子供には義務教育が施される。",
"title": "子供の社会化"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "ここでは国家や社会の一員として必要最低限の言語・文化・規範を教わり、また個性・能力や人格形成の醸成を促す。",
"title": "子供の社会化"
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"text": "日本の教育では、学校教育法によって義務教育期間を満6歳から15歳(概ね、初等教育の小学校6年間と前期中等教育の中学校3年間の9年間)としており、モザンビークやモンゴルのような例外もあるが、その他多くの国でも6歳前後から9-10年間の教育制度を設定している。",
"title": "子供の社会化"
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{
"paragraph_id": 35,
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"text": "注意欠陥・多動性障害 (ADHD) や学習障害のある子供たちには、社会技能を身につけるための訓練を行うために、特別な支援が求められる場合がある。ADHDの子供は良好な友人関係を築きにくい可能性がある。注意欠陥の子供は、周囲に存在する社交のきっかけをつかみにくく、経験を通した社会技能習得に難点を抱えている可能性がある。",
"title": "子供の社会化"
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"text": "人間が、結婚や投票など社会的な約束事に対して責任を負うことができるようになると受け取られる年齢は時代とともに変化し、現在では法律が制定する問題となっている。古代ローマでは子供は罪を犯しても責任がないとみなされ、後にキリスト教会もこの位置づけを取り入れた。19世紀に入ると、犯罪に対する責任を持たない年齢は7歳未満とみなされ、7歳以上の人間は自分の行動に責任を負わされるようになった。つまり、7歳以上の人間が告発されれば、大人と同じ刑務所に送られ、鞭打ちや烙印、そして絞首刑などの刑罰が大人と何ら変わりなく執行された。現代では、カナダやアメリカ合衆国など多くの国で刑事責任を負う年齢は12歳以上とされるが、罪に問われた際には成人とは別の少年収容施設に収容することとしている例が多い。",
"title": "子供の社会化"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ある調査によると、世界中の少なくとも25の国で義務教育を受ける子供の年齢を定めていない。そして、雇用や結婚の最低年齢もまちまちである。少なくとも125の国では、7 - 15歳の子供でも犯罪行為に対して裁判や収監を受けさせるようになっている。いくつかの国では、14 - 15歳まで就学するよう法律で定められているが、もっと若い時期から就労は認められている。子供の教育を受ける権利を脅かすものは、早婚や児童労働または監禁などである。スタンドフォード大学によると、人の前頭葉は25歳頃まで十分に発達しないため、長期的な責任ある決断を下すことが困難であるという。",
"title": "子供の社会化"
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{
"paragraph_id": 38,
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"text": "1600年代のイギリスでは、2/3の子供は4歳未満で死去していたため、平均寿命は35歳前後にとどまっていた。これが劇的に改善され子供の生存率が伸びたのは産業革命期である。",
"title": "子供の死亡率"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "人口健康専門家委員会 (population health experts) によると、1990年代に比べ乳幼児死亡率は急速に低下している。20年前と比較すると、アメリカでは5歳未満の子供の死亡者数が4.2%まで下がった。セルビアやマレーシアも死亡者数を7.0%まで減少させた。",
"title": "子供の死亡率"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "児童労働が社会問題化され始めたのは、イギリスに始まる18-19世紀の産業革命期であった。未熟練労働者として低賃金で雇われ、粗末な住環境に置かれながら工場での長時間労働を強いられた子供たちの様子は、フリードリヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』で触れられ、チャールズ・ディケンズの小説などでも描かれる。カール・マルクスも『資本論』の中で、4歳の工場労働者の存在に触れた。",
"title": "子供と労働"
},
{
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"tag": "p",
"text": "イギリスでは1833年に工場法が制定され、子供の労働に制限が加えられたが、就労年齢9歳以上、労働は一日12時間以下という緩さだった。また、身体の小ささから危険で健康被害も懸念される煙突掃除のような過酷な労働にも使役された。",
"title": "子供と労働"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "転機は、1870年に施行された小学教育令であり、13歳以下の子供を対象に義務教育が制定された事に始まる。これはすぐに成果を上げた訳ではなかったが、生産性向上と相まって20世紀前半には子供を搾取されがちな工場労働から近代的な教育を施す学校へ移す役割を果たした。",
"title": "子供と労働"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "日本で子供が工場労働を担うようになったのは、明治時代の富国強兵や殖産興業の元、製糸・織物業などを中心とした工業化が広がり始まった時期からとされる。その中で子供も一般的に雇用されたが、労働環境は大人よりも劣悪で、また不況時には解雇されるなど便利使いされていた。農工務省が纏めた1903年(明治36年)の「職工事情」第一巻には、単純作業の長時間労働が時に徹夜にまで至り、ろくな休憩も無く粉塵まみれになって働き続ける様子が報告された。横山源之助は大阪の工場を見て廻った記録を残したが、それによると15歳以下の少女が紡績分野で多く使われ、中には7・8歳の子供もいたという。既に1872年(明治5年)の学制はあったが、彼女らは満足な教育を受けていなかった。1916年(大正5年)に工場法が施行されたが、依然として長い就労制限時間や小規模事業所が適用除外になるなど充分なものではなかった。",
"title": "子供と労働"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "20世紀に入ると、世界恐慌に端を発した不況と社会不安が子供にも襲い掛かり、親子心中、児童虐待や子殺し、児童労働環境の悪化や少年犯罪の増加が問題化した。また、乳児死亡率の高さや国際的な児童の公的保護の機運が高まった事もあり、1926年から全国児童保護事業会議が開催されて児童保護に向けた法整備が話し合われ、児童虐待防止法や各扶助法・託児所関連の法律、また不就学対応など児童保護法の成立に繋がった。",
"title": "子供と労働"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "国際労働機関 (ILO) が発表した2000年の統計によると、世界で児童労働をしている子供は2億4600万人。うち15歳未満は1億8600万人であった。ILOが第182号条約で定める、人身取引・債務奴隷・強制された少年兵・強制労働・買春・児童ポルノ・麻薬関連等の不正活動・路上で働くストリート・チルドレンなど無条件に最悪の労働に従事する子供は840万人にのぼる。この他にも、家事使用人に従事する子供の中には統計に現れにくい虐待や強制労働または児童性的虐待があるものと考えられている。",
"title": "子供と労働"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "キャロル・コープは、「子供は35秒で騙される」と述べた。子供は一般に、思慮や判断力が成熟しておらず、感受性の強さから外的な刺激に対する抵抗力が身についていない。",
"title": "弱者としての子供"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "この特性が、少年兵を生む要因になっている。集めやすい上、子供は教育や訓練に従順で、特定の思想を植えつけやすい。そのため少年兵は一般兵よりも命令に忠実で、残忍にもなる。地雷排除のために子供を歩かせた例もあった。また、武器の軽量化や敵に警戒心を抱かせにくい点を利用し、自爆テロのような「使い捨て」に利用される例も多い。子どもの権利条約やさまざまな国際条約では子供の徴兵を禁じているが、貧困や共同体崩壊等の理由もあり、地域紛争や内戦が多発する状態では実効性に乏しいのが現状である。",
"title": "弱者としての子供"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "日本における教育・法律・行政文書の世界では1994年の「Convention on the Rights of the Child」の訳語論争を経て、2000年代ごろには「子供」という表記を差別的な印象であるなどといった理由で敬遠し、代わりに「子ども」表記を用いることが多くなった。",
"title": "日本語における表記について"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "小中学校の国語においては「子」は小学校1年生で、「供」は小学校6年生でそれぞれ読みを学ぶ漢字であり、小学校の5年生までは交ぜ書きの「子ども」表記であるが、教科書においては小学校6年生以降でも出版社によって「子供」「子ども」両方の表記が混在していた。",
"title": "日本語における表記について"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "例として、中学3年生の全社の検定教科書に収録されている魯迅の『故郷』では、学校図書、教育出版、光村図書が「子供」としているのに対して、東京書籍と三省堂は「子ども」と表記している。教員採用試験の参考書でも、かつての文部科学省の表記を根拠に「子ども」表記を推奨しているものがあった。なお当て字ないしは誤表記として「小供」や「子共」も見られた。",
"title": "日本語における表記について"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "しかし、文部科学省が2013年(平成25年)5月に、省内で多用されてきた「子ども」の表記の経緯について調査。表記についての内規が存在しないことを確認した上で、文部科学大臣下村博文(第2次安倍内閣)は省内での表記を統一するよう指示した。協議の結果、「子供」表記は差別表現ではないとの判断が示され、6月下旬から公用文に用いられる表記を「子供」に統一した。",
"title": "日本語における表記について"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "「子供」表記への統一は、当初あくまで公文書に限るとされていたが、2010年代以降はこれに倣って公文書以外でも「子供」表記が以前に比べて増加傾向にある。前述の国語の検定教科書においても、これまで積極的に「子ども」表記を採用していた東京書籍なども、小学校6年生以降の教科書において「子ども」と表記していた部分を「子供」に改めている。新聞社など民間のメディアは表記の統一を行なっていないが、毎日新聞の新聞記事における使用実態は2000年ごろ以降「子ども」表記が多数となったものの、2010年ごろ以降は再び「子供」表記が増え「子ども」と同数程度になった。ただし、同社による一般へのアンケートによれば、「子ども」表記を好む読者が63.3%、「子供」表記は25.4%に留まり、「子ども」が優勢である。",
"title": "日本語における表記について"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)の神戸新聞の記事によれば、国語辞典編纂者の飯間浩明の意見として、「供」の字にまつわる差別的なイメージは「史実に基づいておらず、まったくの俗解」と断言した上で、一方「日本語は漢字と仮名の交ぜ書きが普通であり、『子ども』が美しくないとは、必ずしも言えません」と、「子ども」表記のより柔らかなイメージについても肯定したことを紹介。また、全国の地方紙にアンケートを実施したところ、多くの記者は「『子ども』の方が字面の印象が柔らかい(ので使用する)」と回答。どちらの表記を選ぶかは書き手の自由であり、「ことさら競う」ことなく「好きな表記をすればよいと思います」とした。",
"title": "日本語における表記について"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "児童文学作家の矢玉四郎は「子供は当て字であり、差別的な意味は全くない」、出版社が勝手に「子ども」に書き換えることが横行していると批判し、『子ども教の信者は目をさましましょう』という運動を展開している。",
"title": "日本語における表記について"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2023年4月に施行したこども基本法や新設されたこども家庭庁では、全てひらがなの「こども」で表記している。国務大臣の記者会見等の文章においても、同様に「こども」で表記されている。",
"title": "日本語における表記について"
}
] | 子供とは、次のことを言う。 自分がもうけた子。親がもうけた子。親と一対になる子。親に対する子。
何を基準として定義するかは場合によって大きく異なるが、一般的には17歳までの者のことを指す。 考え方によっては、胎児も出生前発育をしている生命として子供に含める場合もある。 また、親子や権威を持つ人物との相対的関係を表したり、氏族・民族または宗教内での関係を示す場合にも使われる。何らかの概念との関係を示すためにも使われ、「自然児」や「1960年代の子供」のように特定の時や場所または環境等の状況を受けている人の集団を指して用いられることもある。 思慮や行動などが幼く足りない者のことも指して使われる用語でもあり、幼稚さや要領・主体性の無さを表す言葉として「子供っぽい」「子供らしい」「子供の使い」等の慣用句もある。 なお、子供という単語は人間以外の動物にも使われたり、生物に限らない、大きいものと小さいものが組みになっている状態を指して「子持ち」という表現にも使われる。 | [[File:Arnegger Portrait Geschwister Fromknecht VLM.jpg|thumb|250px|right|絵画に描かれた子供<br>(1915年、[[アルウィン・アーネガー]]画)<br>([[:en:vorarlberg museum|フォアアールベルク州立博物館]]・[[オーストリア]])]]
[[File: Himeji Yukata Matsuri 2009p1 036.jpg|thumb|250px|right|[[親]]に手をひいてもらいつつ、[[祭|お祭り]]を楽しむ子供たち。([[日本]]・2009年)]]
[[File:Child studying in Dar es Salaam.jpg|thumb|250px|本を読む子供([[タンザニア]]・2009年)]]
{{読み仮名|'''子供'''|こども}}とは、次のことを言う。
* 自分がもうけた子<ref name="k_v5">広辞苑 第五版 p.988 「子供」</ref>。[[親]]がもうけた子<ref name="dj">デジタル大辞泉「子供」[http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/80747/m0u/%E5%AD%90%E4%BE%9B/]</ref>。親と一対になる子。親に対する子。
* 何を基準として定義するかは場合によって大きく異なるが、一般的には17歳までの者のことを指す。
考え方によっては、[[胎児]]も{{仮リンク|出生前発育|en|unborn child}}をしている[[生命]]として子供に含める場合もある<ref name="fetus">『Shorter Oxford English Dictionary』、2007年、6版、p.397、第一定義によると、"A fetus; an infant;..."(胎児; 幼児)。『The Compact Edition of the Oxford English Dictionary: Complete Text Reproduced Micrographically’, Vol. I』、[[オックスフォード大学出版局]]、1971年、p.396、‘The unborn or newly born human being; foetus, infant’.(未出生または出生間近の人間; 胎児, 幼児)</ref>。
また、[[親子]]や{{仮リンク|権威を持つ人物|en|authority figure}}との[[相対的]]関係を表したり、[[氏族]]・[[民族]]または[[宗教]]内での関係を示す場合にも使われる。何らかの概念との関係を示すためにも使われ、「自然児」や「1960年代の子供」のように特定の[[時]]や[[空間|場所]]または[[環境]]等の状況を受けている人の集団を指して用いられることもある<ref>{{cite web|title=【child】in American Heritage Dictionary|url=http://www.yourdictionary.com/child|publisher=Your Dictionary|accessdate=2012-03-10}}</ref>。
[[思慮]]や[[行動]]などが幼く足りない者のことも指して使われる[[用語]]でもあり<ref name="dj" />、[[幼稚]]さや要領・[[主体|主体性]]の無さを表す言葉として「子供っぽい」「子供らしい」「子供の使い」等の[[慣用句]]もある<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=715|chapter=【子供っぽい】【子供らしい】【子供の使い】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>。
なお、子供という単語は人間以外の[[動物]]にも使われたり<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=715|chapter=【子供】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>、[[生物]]に限らない、大きいものと小さいものが組みになっている状態を指して「子持ち」という表現にも使われる<ref>{{Cite book|和書|year=1989|title=日本語大辞典|edition=第一刷|publisher=講談社|page=726|chapter=【子持ち】|isbn=4-06-121057-2}}</ref>。
== 自分の子、親と対になる意味の子 ==
{{See also|親子}}
「子供」という言葉は、自分がもうけた子も指している<ref name="k_v5" />。[[広辞苑]]第五版では「子供」の解説の第一にその意味を挙げている<ref name="k_v5" />。[[大辞泉]]も「[[息子|むすこ]]」([[男性]]の子供)や「[[娘|むすめ]]」([[女性]]の子供)を挙げている<ref name="dj" />。
また、[[書簡]]において、「子供」は[[謙譲語]]として用いられる<ref name="syokan">[{{NDLDC|866060/1}} 書翰文研究] P.103 中川静 1905年</ref>。相手方を示すためには、「'''御子様'''(おこさま)」などの[[尊敬語]]が使われる<ref name="syokan"/>。
== 法的・社会的な基準 ==
[[File:2005pop14-.PNG|thumb|right|300px|2005年における国別の15歳以下の人口]]
[[国際連合]]の[[児童の権利に関する条約]]([[1989年]]の第44回[[国際連合総会]]で採択、[[1990年]]発効)第1条では、[[児童]](=子供)を以下のように定義している(日本国外務省公式邦訳<ref name="mofa">{{cite web|title=「児童の権利に関する条約」全文|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html|publisher=[[外務省]]|accessdate=2023-12-06}}</ref>)
{{quotation|この条約の適用上、児童とは、18歳未満のすべての者をいう。ただし、当該児童で、その者に適用される法律によりより早く成年に達したものを除く。}}
同条約は、加盟196カ国のうち[[アメリカ合衆国]]を除く195カ国で批准されている(日本:[[1994年]]批准)。[[英語]]の用法では、[[胎児]]も子供の範疇に含める場合がある<ref name=fetus />。
しかし、本来「子供」とその発達段階は明確に区分できない漸進的なものであり、その概念は歴史的に構築され、また社会や文化の相違が反映される。[[法律]]で大人と子供を定義する際には、個人の成熟度合いを考慮していては法的安定性が欠如するため一律の線引きを置く必要に迫られる<ref>『現代法学入門』、伊東正己、加藤一郎、有斐閣、3版補訂版、1999年、p.22</ref>。そのため、各法律の目的に沿って様々な用語を使いながら「子供」に対する個別の定義を行っている<ref name="Tsunoda">{{cite journal|和書|author=角田巖, 綾牧子 |date=2005-01 |url=http://id.nii.ac.jp/1351/00000189/ |title=子どもの存在における二重性 |journal=人間科学研究 |ISSN=0388-2152 |publisher=文教大学 |volume=27 |pages=123-134 |CRID=1050001338025137408 |accessdate=2023-08-29}}</ref>。
=== 日本における定義・区分 ===
[[ファイル:Japanese_people_of_all_ages.jpg|thumb|right|200px|[[日本]]の子供と[[家族]]([[2003年]])]]
{{See also|成年}}
[[日本]]では、[[民法 (日本)|民法]]第4条に「年齢十八歳をもって、成年とする。」と規定されており<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=129AC0000000089|title=明治二十九年法律第八十九号 民法|accessdate=2023-12-06|work=e-Gov法令検索|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>、'''満18歳未満(満17歳以下)'''が子供に該当する。かつて、[[1876年]](明治9年)[[4月1日]]から<ref>明治9年4月1日太政官布告第41号「[[:s:自今滿二十年ヲ以テ丁年ト定ム|自今滿二十年ヲ以テ丁年ト定ム]]」施行以後。</ref>[[2022年]](令和4年)[[3月31日]]までは満20歳以上が成年と定めており、満20歳未満(満19歳以下)が子供に該当した<ref>{{Cite web|title=18歳から“大人”に!成年年齢引下げで変わること、変わらないこと。 {{!}} 暮らしに役立つ情報 |url=https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201808/2.html |website=[[政府広報|政府広報オンライン]] |date=2022-12-23|accessdate=2023-12-06 |language=ja}}</ref>。
ただし、[[選挙権]]<ref>[[18歳選挙権]]の導入は、成人年齢引き下げ以前の[[2016年]]([[平成]]28年)[[6月19日]]の改正[[公職選挙法]]施行以後。</ref>などを除き、[[被選挙権]]([[公職選挙法]]第10条に基づき満25歳以上:衆議院議員・都道府県議会議員・市区町村長・市区町村議会議員、満30歳以上:参議院議員・都道府県知事)、飲酒([[二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律]]第1条に基づき満20歳以上)・喫煙([[二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律]]第1条に基づき満20歳以上)などの一部の権利付与は、成年とは別途に下限年齢が規定されている<ref name=Tsunoda /><ref name="Tanaka">{{Cite web|和書|title=18歳成人を考える|url=http://www2.rikkyo.ac.jp/web/htanaka/07/Seijin02.html|author=田中治彦|publisher=[[立教大学]]|accessdate=2012-03-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120517060410/http://www2.rikkyo.ac.jp/web/htanaka/07/Seijin02.html|archivedate=2012-05-16|deadlinkdate=2022-07-10}}</ref>。
{{main|未成年者#日本における未成年者}}
* [[未成年者]] - 満18歳未満(満17歳以下)の男女。民法改正前の[[2022年]](令和4年)[[3月31日]]までは満20歳未満(満19歳以下)の男女であった<ref name=Tsunoda /><ref name="matsuoka">{{Cite web|和書|title=能力(2)-行為能力の制限と補充 <新OCWサイトへのコンテンツの移行について>|url=http://ocw.kyoto-u.ac.jp/faculty-of-law-ja/department-civil-lawi/pdf/04nouryoku2.pdf|format=PDF|author=松岡久和|publisher=[[京都大学]]法学部|accessdate=2012-03-10}}{{404|date=2023-08}}</ref>。
* [[少年]]・[[少女]] - [[少年法]]第2条第1項の定義では20歳未満の男女<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=323AC0000000168|title=少年法|accessdate=2016-04-11|work=e-Gov法令検索|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>。[[児童福祉法]]第4条第1項の定義では小学校就学の始期から、満18歳に達するまでの男女<ref name="jidoufukushi">{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000164|title=児童福祉法|accessdate=2016-04-11|work=e-Gov法令検索|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>。
* [[児童]] - 児童福祉法第4条第1項の定義では満18歳に達するまでの者<ref name=jidoufukushi />。[[母子及び父子並びに寡婦福祉法]]第6条第3項の定義では満20歳に達するまでの者<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=339AC0000000129|title=母子及び父子並びに寡婦福祉法|accessdate=2016-04-11|work=e-Gov法令検索|publisher=総務省行政管理局}}</ref>。[[児童手当法]]第3条第1項や[[児童扶養手当法]]第3条第1項の定義では基本的に満18歳に達してから最初の3月31日を過ぎるまでの者<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=346AC0000000073|title=児童手当法|accessdate=2016-04-11|work=e-Gov法令検索|publisher=総務省行政管理局}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=336AC0000000238|title=児童扶養手当法|accessdate=2016-04-11|work=e-Gov法令検索|publisher=総務省行政管理局}}</ref>。[[児童の権利に関する条約]]第1条、[[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律]]第2条第1項の定義では18歳未満の者<ref name=Tsunoda />。[[労働基準法]]第56条の定義では満15歳に達してから最初の3月31日を過ぎるまでの者<ref name=Tsunoda />。[[学校教育法]]第17条・第18条の定義では「学齢児童」とし満6歳になった翌日が属する学年の始まりから満12歳となった日が属する学年の終わりまでの期間にある子供<ref name="GakkoKyo">{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=322AC0000000026|title=学校教育法|accessdate=2016-04-11|work=e-Gov法令検索|publisher=[[総務省]][[行政管理局]]}}</ref>。[[道路交通法]]第14条第3項の定義では6歳以上13歳未満の者<ref name=Tsunoda />。
* [[小児科学|小児]] - 薬機法に基づく厚生労働省通知では7歳以上15歳未満の児<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.pmda.go.jp/files/000218448.pdf|title=医療用医薬品の添付文書等の記載要領の留意事項について|accessdate=2021-08-15|publisher=PMDA}}</ref>。
*[[幼児]] - 児童福祉法第4条第1項及び[[母子保健法]]第6条第3項の定義では満1歳以上就学前の者<ref name="Tsunoda" /><ref name="jidoufukushi" />。道路交通法第14条第3項の定義では6歳未満の者<ref name="Tsunoda" />。薬機法に基づく厚生労働省通知では1歳以上7歳未満の児<ref name=":0" />。
* [[乳児]] - 児童福祉法第4条第1項及び母子保健法第6条第2項の定義では生後1年未満の者<ref name="Tsunoda" /><ref name="jidoufukushi" />。薬機法に基づく厚生労働省通知では生後4週以上1歳未満の児<ref name=":0" />。
* 青少年 - 中学校卒業後20代前半くらいまでの男女([[青少年保護育成条例]]の定義では18歳未満の男女)
* [[青年]] - 中学校卒業後20代後半くらいまでの男性([[国際協力機構|JICA]]の[[青年海外協力隊]]募集年齢では20歳から39歳まで)
* 婚姻適齢 - 民法第731条の定義では男性は18歳、女性は16歳から。ただし未成年者は父母の同意が必要(第753条)<ref name=Tsunoda />。なお'''[[2022年]][[4月1日]]'''以降は、男女とも18歳以降で、父母の同意は不要となる。
* [[刑事未成年]] - [[刑法 (日本)|刑法]]第41条の定義では14歳以上<ref name=Tsunoda />。
* 年少者 - 労働基準法第57条、[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]]第18条の定義では18歳未満の者<ref name=Tsunoda />。
* 子ども - [[国立国会図書館法]]第22条、独立行政法人国立青少年教育振興機構法第10条の定義ではおおむね18歳以下の者<ref name=Tsunoda />。
* [[新生児]] - 母子保健法第6条第5項の定義では、生後28日を経過しない者<ref name=Tsunoda />。薬機法に基づく厚生労働省通知では生後4週未満の児<ref name=":0" />。
* [[勤労青少年]] - [[青少年の雇用の促進等に関する法律]]に基づく青少年雇用対策基本方針(平成28年厚生労働省告示第4号)ではおおむね35歳未満の者(おおむね45歳未満の者を対象とすることを妨げない)<ref name=Tsunoda /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jil.go.jp/kokunai/mm/hourei/kokuji/20160114d.html|title=青少年雇用対策基本方針を定める件(厚生労働四) 平成28年1月14日|publisher=独立行政法人労働政策研究・研修機構|accessdate=2016-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000097679.html|title=青少年の雇用の促進等に関する法律(若者雇用促進法)などが平成27年10月から順次施行されます!|publisher=厚生労働省|accessdate=2016-04-11}}</ref>。
また、[[人口統計学]]においては15歳未満の者を「子供」としており、[[総務省]]の人口統計でも15歳未満の人口を「年少人口」と定義している。
=== 世界の定義・区分 ===
[[国立国会図書館]]の調査によると、世界186か国中、成人となる年齢を18歳としている国は162にのぼる。これには、[[主要国首脳会議]](G7)対象国全てが該当する<ref name=Tanaka />。ただし、18歳成人は[[欧米|欧米諸国]]では1960-70年代に起こった若年層の活発な社会行動を反映して引き下げられたもので、[[イギリス]]では1968年に定められた<ref name=Tanaka />。一方、[[アジア]]や[[アフリカ]]の[[開発途上国]]では事情が異なり、早い年齢で負わせられる[[徴兵制度|徴兵]]の義務に対応して選挙等の権利を与えるために成人年齢が設定されたとの意見もある<ref name=Tanaka />。
労働という観点から、[[国際労働機関]] (ILO) は、ILO138号条約にて就業最低年齢をその労働内容に応じて3種類設定している。最低の年齢は、義務教育が修了する年齢とし、基本的には15歳と置くが、[[開発途上国|発展途上国]]では14歳とすることもできる。その一方で軽易な労働はもっと若い13歳(発展途上国では12歳)を最低年齢とする。逆に、危険な労働への就業年齢は18歳または適切な職業訓練を条件に16歳とする。なお、家庭内の[[農業]]や手伝い、[[アルバイト]]などは対象外とする<ref name="ILO1">{{Cite web|和書|title=定義 「児童労働」とは?|url=http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/introduction/index.htm|publisher=[[国際労働機関|ILO]]駐日事務所|accessdate=2012-03-25}}</ref>。
=== イニシエーション ===
何かしらの儀礼を以って子供と大人を区分けする習慣があり、これらはイニシエーション(英:initiation、[[通過儀礼]])の一つに上げられる。多くは試練や苦行、また身なりの変更などであった<ref name="Shinomiya">{{Cite web|和書|title=大人になることの拒否|url=http://www.ipc.hokusei.ac.jp/~z00105/_kamoku/kiso/99/sinomiya.html|author=四宮ふみ子|publisher=[[北星学園大学]]|accessdate=2012-03-31}}</ref>。
日本では[[元服]]もこれらの一つに相当した<ref>{{Cite web|和書|title=大人になることの拒否|url=http://www.kawai-juku.ac.jp/bunkyo/report_vo2.html|author=丹羽建夫|publisher=河合文化教育研究所|accessdate=2012-03-31}}</ref>が、現在社会では廃れてしまっている。[[成人式]]も儀礼としては形骸化していると言えよう。
[[河合隼雄]]は「イニシエーションの欠如が問題になっている」と述べ<ref>{{Cite book|和書|title=母性社会日本の病理|author=河合隼雄|publisher=[[講談社]]|year=1997|isbn=978-4062562195}}</ref>、[[ピーターパン症候群|ピーターパン・シンドローム]]や[[心理社会的モラトリアム]]発生の一因とも考えられている<ref name="Shinomiya" />。
== 歴史的概念 ==
=== 古代ギリシア ===
[[古代ギリシア]]時代の[[アレクサンドリアのフィロン]]が著した『世界の創造』の中には、[[エレジー]]の形式で書かれた[[ソロン]]の子供観を載せた部分がある。これは、人の一生を7年刻みの段階で表した。[[男性|男子]]の場合、身体が成熟する時期は第4の7年(22-28歳)、精神が成熟する時期は第6の7年(31-42歳)であり、これに満たない年齢は成年とはみなしていない。フィロンは、同じ7年刻みによる[[ヒポクラテス]]の見解も採録しており、7歳以下は小児 ({{lang|grc|παιδιον}})、14歳までは子供 ({{lang|grc|παις}})、21歳までは少年 ({{lang|grc|μειρακιον}})、28歳までを若者 ({{lang|grc|νεανισκος}}) と呼んだ<ref name="Kakiki">{{cite journal|和書|author=柿本昭人 |date=2011-03 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012374 |title=大人/子供 : 古代ギリシアからの眺め |journal=同志社政策研究 |ISSN=1881-8625 |publisher=同志社大学政策学会 |volume=5 |pages=20-38 |doi=10.14988/pa.2017.0000012374 |CRID=1390290699890274432 |accessdate=2023-08-29}}</ref>。ただし、当時の子供を指す用語は、{{lang|grc|παις}} と {{lang|grc|τεκνον}} の2つが主流であったと考えられる。{{lang|grc|παις}} は子供以外にも「奴隷」や「同性愛者たち」など他の概念も指す広い用語で、その意味は[[インド・ヨーロッパ語族|インド・ヨーロッパ語]]系の「小さい」「重要ではない」が語源である。{{lang|grc|τεκνον}} は「生む」の {{lang|grc|τικτω}} から派生した単語である。例外はあるが、{{lang|grc|παις}} は子供と父親の、{{lang|grc|τεκνον}} は子供と母親の関係を元に作られた言葉と考えられる<ref name=Kakiki /><ref> Mark Golden, Children and Childhood in Classical Athens, Johns Hopkins Univ. Pr., 1993 (1990), p. 12-13.</ref>。そして概念的には、男子の場合は「デモス」([[人民]])登録以前、女子の場合は結婚前を「子供」と考えることが一般的だった<ref name=Kakiki />。
[[プラトン]]や[[アリストテレス]]は、この7年段階での成熟を基礎に子供が大人になる時期を考察した。プラトンの『法律』や『政治学』では、結婚可能となる年齢を男性では30-35歳、女性は16-20歳に法律で定めるべきと論じられている。その根拠には、それぞれの性においてこの年齢時から生殖能力が充実するためであり、また男子の場合は父親が生殖限界となる70歳を迎え、[[相続]]に適するタイミングになる点を挙げた<ref name=Kakiki />。アリストテレスは『[[動物誌 (アリストテレス)|動物誌]]』にて、人間の成長を7年刻みの説で人間の成長段階を表し、大人とは[[アテネ]]の[[五百人評議会]] ({{lang|grc|βουλη}}) に名を連ねて公職に就く資格を持つ者を指し、それ以前の段階では「想定上の」または「見習い」市民に過ぎないと述べた。そして『[[ニコマコス倫理学]]』の中で、子供と動物は自発的行動を取る事は可能だが節度に欠き、選択を行使することはできず、[[欲望]]や激情に左右される。そのため理性を持つ者に[[監視]]されなければならないと言った<ref name=Kakiki />。
[[File:Jean-Jacques Rousseau (painted portrait).jpg|200px|thumb|「子供の発見者」とも評される<ref name=Ichi64 />[[ジャン=ジャック・ルソー]]。]]
=== 子供という概念の形成 ===
[[フランス]]の[[歴史学|歴史学者]][[フィリップ・アリエス]]が著書『[[〈子供〉の誕生]]』で述べたところによると、[[ヨーロッパ]]では[[中世]]に至るまで、「子供」という概念は存在しなかったという。[[幼児死亡率|年少時の死亡率]]が高い社会だったので、生まれ出ただけでは家族の一員とみなされなかった。やがてある程度の成長を遂げると、今度は[[徒弟]]や[[奉公]]など[[労働]]に勤しむようになり、「小さな大人」として扱われる。そのため、[[服装]]や[[娯楽]]等において成長した大人と区別される事は無く、[[子供の性|性]][[道徳]]に関しても何らかの[[配慮]]がされることも無かった<ref name="Watanabe">{{Cite web|和書|title=バダンテール『母性という神話』コメント アリエス『<子供>の誕生‐アンシャンレジーム期の子供と家族』|url=http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/02f3/bosei-watanabe.htm|author=渡辺朋昭|publisher=[[慶応義塾大学]]湘南藤沢キャンパス 小熊英二研究会|accessdate=2012-03-03}}</ref>。ただし、13世紀[[イギリス]]では、[[宗教]]および[[法律]]の観点から、大人とは異なる子供の概念があったという主張もある<ref name=Tsunoda />。
[[ジャン=ジャック・ルソー]]は1762年の著書『エミール』で展開した消極教育論において、子供を「小さな大人」と扱う事の非を説いた。彼は、誕生してから12歳になるまでの期間は、子供時代という<ref name="Fushi">{{Cite web|和書|title=ルソーの教育論 <アクセスしようとしているサイトを見つけられません>|url=http://cert.shinshu-u.ac.jp/gp/el/e04b1/class04/rousseau.htm|author=伏木久始|publisher=[[信州大学]]教育学部|accessdate=2012-03-03}}{{404|date=2023-08}}</ref>[[能力]]と[[器官]]が内部的に発展する段階であると述べ<ref name="Kimura">{{cite journal|和書|author=木村吉彦|title=ルソーの「消極教育」論について : 教育方法としての「自由」の適用原理|url=https://hdl.handle.net/10513/1111|journal=上越教育大学研究紀要|volume=12|issue=1|pages=285-298|accessdate=2020-04-22|naid=110007651739|publisher=[[上越教育大学]]}}。</ref>、多く施される発展した能力や器官を利用する方法を教える教育(人間の教育)は逆効果であり<ref name=Fushi />、能力と器官を伸ばし完成させる教育(自然の教育)<ref name=Fushi />を行わなければならないと主張した<ref name=Kimura />。
成年ではない者としての子供という概念は、中世において男子に限り発生したが、[[女子]]については形成されなかった<ref name=Tsunoda />。幼児と成年の間としての子供観は、[[近世]]になってから確立された<ref name=Tsunoda />。16-17世紀頃から現れる[[家族]]意識の中で、家庭内などにおいて幼児は、その愛らしさから可愛がられる対象という視線が醸成された。また社会的にも、[[聖職者]]や[[モラリスト]]らによる[[理性的]]な[[習俗]]を実現させようとするグループから、子供に対する配慮が生まれた。これらが18世紀頃には結びついて、社会は子供を「小さな大人」という見方から、[[保護|庇護]]し、[[愛情]]を傾け、[[学校]]による<ref name=Tsunoda />[[教育]]を施してやらなければならない存在という風に認識が形成された<ref name=Watanabe />。
この変貌は[[絵画]]の変遷を追うことで確認できる。16世紀、子供たちのイメージにはっきりした幼い見かけが現れ始める。17世紀後半からは、遊戯を愉しむ姿が描かれるようになる。[[玩具]]や[[児童文学]]が発展を見せたのも、この頃である<ref>{{cite web|title=To what extent were there important changes in the way that children were brought up in this period?|url=http://www.elizabethi.org/uk/essays/childhood.htm|author=Heather Thomas|publisher=elizabethi.org|language=英語|accessdate=2012-03-03}}</ref>。
=== 家族の意味と教育の変化 ===
アリエスは同書にて、子供に教育を施す主体の変化にも触れている。中世まで、子供は家庭から出されるか、家庭内でも労働を課せられ、見習い修行の中で一人前に成長した。それは、[[家族]]が[[共同体]]の一部という性格を強く持っていたためであり、実の[[親子関係]]を醸成するような環境ではなかった<ref name=Watanabe />。これが近世になると、仕事・社交・私生活の分離が進み、ひとつの[[家屋]]の中で家族のみが生活をするようになる。ここでは共同体よりも家族という単位が重視され、その中で子供が占める位置が高まりを見せた。また、裕福な階層の子弟のために[[学校]]が作られるとともに、「教師」と「生徒」という区分がそのまま「大人」と「子供」の分離となった。学校は社会生活に必要な教育を施す通過点となり、学校を出れば「大人」、それまでは「子供」という区切りをつけるものになった<ref name=Watanabe />。
=== 日本 ===
日本では、子供は親の所有物という感覚が強かった。子供は家を継ぐことが当たり前であり、親に絶対服従しなければならなかった。農村など貧しい家では、貧困に見舞われると[[身売り]]や奉公に出されたり、[[捨て子]]や[[子殺し|間引き]]が行われたりした<ref name="Sugi63">[[子供#杉本ら2004|杉本ら (2004)、pp.63-64、第5章 児童問題と社会福祉、第1節 児童福祉の理念と意義、(1)児童観の変遷]]</ref>。
しかし、[[身売り]]や奉公、[[捨て子]]や[[子殺し|間引き]]のような抑圧は、西欧の奴隷貿易のような1000万人規模までに発展しなかったため、子どもの権利を芽生えさせるまでには至らなかった。
=== 子供に対する社会的態度 ===
子供に向けられる社会的態度は、世界中の文化圏によって違いがあり、また時代によっても異なる。1988年に[[ヨーロッパ]]諸国を対象に行われた調査では、[[イタリア]]は子供中心の傾向が強く[[オランダ]]では弱い。[[オーストリア]]、[[イギリス]]、[[アイルランド]]、[[西ドイツ]]など他の国々は中間的な位置を占めた<ref>{{Cite journal |author=Jones, Rachel K; Brayfield, April |year=1997 |title=Life's greatest joy?: European attitudes toward the centrality of children |url=https://doi.org/10.1093/sf/75.4.1239 |journal=Social Forces |volume=75 |issue=4 |pages=1239-1269 |publisher=The University of North Carolina Press |doi=10.1093/sf/75.4.1239 |language=en}}</ref>。
== 子供の社会化 ==
[[ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 041b.jpg|thumb|200px|[[ピーテル・ブリューゲル]]『[[子供の遊戯]]』、1560年]]
[[ファイル:Children in Namibia(1 cropped).jpg|thumb|200px|[[ナミビア]]の子供たち(2003年)]]子どもたちは、年配の人たちよりも世界の未来について楽観的である傾向がある<ref>{{Cite web |title=Young people more optimistic about the world than older generations – Unicef |url=https://www.theguardian.com/global-development/2021/nov/18/young-people-more-optimistic-about-world-than-older-generations-unicef-survey |website=the Guardian |date=2021-11-18 |access-date=2022-12-24 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.unicef.org/globalinsight/media/2266/file |title=The Changing Childhood Project - A multigenerational, international survey on 21st century childhood |access-date=2022-12-24}}</ref>。
=== 遊び ===
一般に「遊び」とは気晴らしであったり<ref name="Ichi65">[[子供#一番ヶ瀬ら1984|一番ヶ瀬ら(1984)、pp.65-66、遊び軽視の観念]]</ref>非生産的と捉えがち<ref name="Ichi64">[[子供#一番ヶ瀬ら1984|一番ヶ瀬ら(1984)、pp.64-65、学習と遊び]]</ref>だが、これはあくまで大人の遊びに対するものであり、子供にとって遊びとは生活の中心にあり<ref name=Ichi65 />、特に幼児期には、生活の全てが遊びと言える<ref name="Ichi70">[[子供#一番ヶ瀬ら1984|一番ヶ瀬ら(1984)、p.70、子どもの生活の中心-遊び]]</ref>。そして子供は遊びを通じて様々なことを学ぶ<ref name="Ichi67">[[子供#一番ヶ瀬ら1984|一番ヶ瀬ら(1984)、pp.67-68、遊びを通しての成長]]</ref>。1959年の[[児童権利宣言]]第7条には「児童は遊びおよびレクリエーションのための充分な機会を与えられる権利を有する<ref>{{Cite web|和書|title=児童権利宣言|url=http://www.avis.ne.jp/~luckyboy/sub11.htm|publisher=国際連合第14回総会採択|accessdate=2012-03-31}}</ref>。」と、子供にとって遊びが大切な要素である事を謳っている<ref name=Ichi64 />。
[[ヨハン・ホイジンガ]]は、遊びを「自発的な行為・活動であり、[[規則]]を受け入れ従う中で、緊張や歓びを感じつつ行う行為」と定めた<ref>ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』</ref>。子供は遊びの中で、規則を破って遊びそのものが破綻させないよう、自主・自立的に学習を重ねる<ref name=Ichi67 />。大人を模倣するようなごっこ遊びは社会生活への興味を喚起し、態度や性格を形成するとともに、[[演劇]]的性質を[[芸術]]的創造へ発展させる事もできるとも論じられる<ref>[[子供#一番ヶ瀬ら1984|一番ヶ瀬ら(1984)、p.77、遊びの発展]]</ref>。
=== 仲間の形成 ===
すべての子供は[[成長]]・[[発達]]に伴い社交性を身につける。幼児やとても小さな子供はひとり遊びでも満足する<ref name="Social">{{cite web|title=Helping Your Child with Socialization|url=http://www.childdevelopmentinfo.com/parenting/socialization.shtml|publisher=Child Development Institute|language=英語|accessdate=2012-03-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140328233949/http://childdevelopmentinfo.com/parenting/socialization.shtml|archivedate=2014年3月28日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。このような子供が他者との関わり合いを持つ最初の相手は養育者であり、多くの場合それは[[母親]]である<ref name="Takahashi">{{cite journal|和書|author=高橋江梨子 |date=2009-12 |url=https://hdl.handle.net/10911/3501 |title=児童の対人認知と社会的スキルに関する研究 : きょうだいのある子とひとりっ子の比較を中心に |journal=創価大学大学院紀要 |ISSN=0388-3035 |publisher=創価大学大学院 |volume=31 |pages=215-240 |hdl=10911/3501 |CRID=1050845763308096384 |accessdate=2023-08-29}}</ref>。
もしそこに他の子供がいたら、ぶつかり合ったり[[排除]]しようとすることもあり得る。しかしやがて一緒に遊ぶようになり、共有や交流の中に楽しさを見出す。そして遊び相手も3人、4人と増え、[[仲間 (曖昧さ回避)|仲間]]という集団を形成するようになる<ref name="Social" />。子供に[[兄]]や[[姉]]がいる場合、彼らが初期の仲間関係をつくる相手となる。この[[兄弟姉妹]]関係は社会生活を通じて直面する競争や協同を経験する重要な役割を担う人間関係である<ref>{{Cite book|和書|author=長田雅喜 |title=家族関係の社会心理学 |publisher=福村出版 |year=1987 |ISBN=4571250037 |chapter=吉田俊和 「きょうだいの存在意義」 |page=107}}</ref><ref name=Takahashi />。[[幼稚園]]に入園する頃には、子供たちは仲間の輪に加わり、[[集団]]での経験を楽しめるようになる<ref name="Social" />。ここで子供は[[就学前教育]]を受け、さまざまな遊びを通して[[理解|理解力]]や[[思考]]・[[創造力]]または[[問題解決|問題解決力]]だけでなく、[[表現|表現力]]や[[社会性]]・[[協調性]]も身につける<ref>{{Cite web|和書|title=カリキュラム|url=http://www.tokyo-fukushi.ac.jp/gakubu/tankidaigaku.html|publisher=[[東京福祉大学]]短期大学・こども学科|accessdate=2012-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=取得できる資格|url=http://www.teikyo-jc.ac.jp/cor_course/license/license.shtml|publisher=[[帝京短期大学]]|accessdate=2012-03-10}}</ref>。
[[ファイル:Afghan school boys in Nad Ali village of Helmand.jpg|thumb|200px|学校で学ぶ子供たち([[アフガニスタン]]・2010年)]]
=== 教育 ===
多くの国で、一定の年齢に達した子供には[[義務教育]]が施される。
ここでは[[国家]]や[[社会]]の一員として必要最低限の[[言語]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[規範]]を教わり、また個性・能力や人格形成の醸成を促す<ref>{{Cite web|和書|title=教育義務費に係る経費負担の在り方について(中間報告)|chapter=第1章 教育義務制度の在り方について|url=https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/gijiroku/04053101/002/002.htm|publisher=[[文部科学省]]|accessdate=2012-03-10}}</ref>。
[[日本の教育]]では、[[学校教育法]]によって義務教育期間を満6歳から15歳(概ね、[[初等教育]]の[[小学校]]6年間と前期[[中等教育]]の[[中学校]]3年間の9年間)としており<ref name=GakkoKyo />、[[モザンビーク]]や[[モンゴル]]のような例外もあるが、その他多くの国でも6歳前後から9-10年間の教育制度を設定している<ref>{{Cite web|和書|title=各国の義務教育制度の概要|url=http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/siryo/04083001/002.pdf|format=PDF|publisher=[[文部科学省]]|accessdate=2012-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=世界の学校を見てみよう|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kuni/index.html|publisher=[[外務省]]|accessdate=2012-03-10}}</ref>。
[[注意欠陥・多動性障害]] (ADHD) や[[学習障害]]のある子供たちには、社会技能を身につけるための訓練を行うために、特別な支援が求められる場合がある。ADHDの子供は良好な友人関係を築きにくい可能性がある。注意欠陥の子供は、周囲に存在する社交のきっかけをつかみにくく、経験を通した社会技能習得に難点を抱えている可能性がある<ref name="Social"/>。
[[ファイル:Kanbetsusyo5363.JPG|thumb|200px|[[少年鑑別所]]([[京都]])]]
=== 責任を持つ年齢 ===
{{See|性的同意年齢|結婚適齢期}}
人間が、[[結婚]]や[[投票]]など社会的な約束事に対して責任を負うことができるようになると受け取られる年齢は時代とともに変化し、現在では[[法律]]が制定する問題となっている。[[古代ローマ]]では子供は罪を犯しても責任がないとみなされ、後に[[キリスト教]]会もこの位置づけを取り入れた。[[19世紀]]に入ると、犯罪に対する責任を持たない年齢は7歳未満とみなされ、7歳以上の人間は自分の行動に責任を負わされるようになった。つまり、7歳以上の人間が告発されれば、大人と同じ刑務所に送られ、鞭打ちや烙印、そして絞首刑などの刑罰が大人と何ら変わりなく執行された<ref>{{cite web|title=Changing Social Attitudes Toward Children|url=http://law.jrank.org/pages/12069/Juvenile-Justice-Changing-social-attitudes-toward-children.html|author=Juvenile Justice|language=英語|accessdate=2012-03-03}}</ref>。現代では、[[カナダ]]や[[アメリカ合衆国]]など多くの国で刑事責任を負う年齢は12歳以上とされるが、罪に問われた際には成人とは別の少年収容施設に収容することとしている例が多い。
ある調査によると、世界中の少なくとも25の国で義務教育を受ける子供の年齢を定めていない。そして、雇用や結婚の最低年齢もまちまちである。少なくとも125の国では、7 - 15歳の子供でも犯罪行為に対して裁判や収監を受けさせるようになっている。いくつかの国では、14 - 15歳まで就学するよう法律で定められているが、もっと若い時期から就労は認められている。子供の[[教育を受ける権利]]を脅かすものは、[[児童婚|早婚]]や[[児童労働]]または[[監禁]]などである<ref name="Melchiorre">{{cite web|title=At What Age?...are school-children employed, married and taken to court?|url=http://www.right-to-education.org/node/53|author=Melchiorre, A.|publisher=Right to Education Project|language=英語|accessdate=2012-03-03}}</ref>。スタンドフォード大学によると、人の前頭葉は25歳頃まで十分に発達しないため、長期的な責任ある決断を下すことが困難であるという<ref>{{Cite web |title=default - Stanford Medicine Children's Health |url=https://www.stanfordchildrens.org/en/topic/default?id=understanding-the-teen-brain-1-3051 |website=www.stanfordchildrens.org |access-date=2022-12-03}}</ref>。
== 子供の死亡率 ==
1600年代のイギリスでは、2/3の子供は4歳未満で死去していたため、平均寿命は35歳前後にとどまっていた<ref>W. J. Rorabaugh, Donald T. Critchlow, Paula C. Baker (2004). "''[https://books.google.com/books?id=VL_6X5zWOokC&pg=PA47&dq&hl=en#v=onepage&q=&f=false America's promise: a concise history of the United States]''". Rowman & Littlefield. p.47. ISBN 0742511898</ref>。これが劇的に改善され子供の生存率が伸びたのは[[産業革命]]期である<ref>{{cite web|title=Modernization - Population Change|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/387301/modernization/12022/Population-change|publisher=Encyclopædia Britannica|language=英語|accessdate=2012-03-03}}</ref>。
人口健康専門家委員会 (population health experts) によると、1990年代に比べ[[乳幼児死亡率]]は急速に低下している。20年前と比較すると、アメリカでは5歳未満の子供の死亡者数が4.2[[パーセント|%]]まで下がった。[[セルビア]]や[[マレーシア]]も死亡者数を7.0%まで減少させた<ref>{{cite web|title=Child mortality rates dropping|url=http://articles.latimes.com/2010/may/24/nation/la-na-child-mortality-20100524|publisher=Los Angeles Times|language=英語|accessdate=2012-03-03}}</ref>。
== 子供と労働 ==
{{See|児童労働}}
[[File:Ramoneur.jpg|thumb|200px|煙突掃除の少年。[[ウィリアム・ブレイク]]や[[チャールズ・ディケンズ]]らが描いた煙突掃除の少年は、[[娼婦]]と並ぶ当時のイギリスにおける弱者の典型例だった<ref>{{cite journal|和書|author=松岡光治 |date=2002-03 |url=https://doi.org/10.18999/lancrs.1.103 |title=ディケンズと芸術 - 社会の抑圧とそのイメージ -(イメージと文化) |journal=言語文化研究叢書 |ISSN=1347-1600 |publisher=名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科 |volume=1 |pages=103-122 |doi=10.18999/lancrs.1.103 |hdl=2237/8074 |CRID=1390853649586312320 |accessdate=2023-08-29}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=鬼塚雅子 |date=1992-03 |url=https://saijo.repo.nii.ac.jp/records/463 |title=「煙突掃除夫たちの詩」―ブレイクからデ・ラ・メアまで |journal=埼玉女子短期大学研究紀要 |ISSN=0915-7484 |publisher=埼玉女子短期大学 |issue=3 |pages=83-113 |CRID=1050001338821579136|accessdate=2023-08-29}}</ref>。]]
[[File:Mining diggerboys.jpg|thumb|200px|[[ダイヤモンド]][[鉱山]]で働く子供たち([[シエラレオネ]])]]
=== イギリス ===
児童労働が社会問題化され始めたのは、[[イギリス]]に始まる18-19世紀の[[産業革命]]期であった。未熟練労働者として低賃金で雇われ<ref name=Tsunoda />、粗末な住環境に置かれながら工場での長時間労働を強いられた子供たちの様子は、[[フリードリヒ・エンゲルス]]の『[[イギリスにおける労働者階級の状態]]』で触れられ、[[チャールズ・ディケンズ]]の小説などでも描かれる<ref>{{cite journal|和書|author=松永巌 |date=1997-03 |url=https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3909 |title=「オリヴァー・トゥイスト」に見るロンドンの下層社会(研究報告) |journal=東西南北 |publisher=和光大学総合文化研究所 |volume=1997 |pages=148-151 |CRID=1050282813290549760}}</ref>。[[カール・マルクス]]も『[[資本論]]』の中で、4歳の工場労働者の存在に触れた<ref name="Ishihara">{{cite journal|和書|author=石原静子 |date=1998-03 |url=http://id.nii.ac.jp/1073/00003686/ |title=アジアに羽ばたけトットちゃん : 現代子ども労働の一考察 |journal=東西南北 |publisher=和光大学総合文化研究所 |volume=1998 |pages=102-114 |id={{CRID|1050564288267246848}} |accessdate=2023-05-19}}</ref>。
イギリスでは[[1833年]]に工場法が制定され、子供の労働に制限が加えられたが、就労年齢9歳以上、労働は一日12時間以下という緩さだった。また、身体の小ささから危険で健康被害も懸念される[[煙突]][[掃除]]のような過酷な労働にも使役された<ref name=Ishihara />。
転機は、[[1870年]]に施行された小学教育令であり、13歳以下の子供を対象に義務教育が制定された事に始まる。これはすぐに成果を上げた訳ではなかったが、[[生産性]]向上と相まって20世紀前半には子供を搾取されがちな工場労働から近代的な教育を施す学校へ移す役割を果たした<ref name=Ishihara />。
=== 日本 ===
日本で子供が工場労働を担うようになったのは、[[明治]]時代の[[富国強兵]]や[[殖産興業]]の元、製糸・織物業などを中心とした[[工業化]]が広がり始まった時期からとされる<ref name=Sugi63 />。その中で子供も一般的に雇用されたが、労働環境は大人よりも劣悪で、また不況時には解雇されるなど便利使いされていた。農工務省が纏めた1903年(明治36年)の「職工事情」第一巻には、単純作業の長時間労働が時に徹夜にまで至り、ろくな休憩も無く粉塵まみれになって働き続ける様子が報告された<ref name="Nozawa">{{cite journal|和書|author=野澤正子|year=1986|title=戦前の日本における児童の公的保護論の形成過程|url=https://doi.org/10.24729/00003589|journal=社會問題研究|volume=35|issue=2|pages=1-17|publisher=大阪府立大学社会福祉学部|accessdate=2020-05-01|issn=0912-4640}}</ref>。[[横山源之助]]は大阪の工場を見て廻った記録を残したが、それによると15歳以下の少女が紡績分野で多く使われ、中には7・8歳の子供もいたという。既に1872年(明治5年)の学制はあったが、彼女らは満足な教育を受けていなかった<ref name=Ishihara />。1916年([[大正]]5年)に工場法が施行<ref group="注">公布は1911年(明治44年)。([https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m44_1911_02.html 国立公文書館「公文書にみる日本のあゆみ、明治44年(1911)3月」])</ref>されたが、依然として長い就労制限時間や小規模事業所が適用除外になるなど充分なものではなかった<ref name=Ishihara />。
20世紀に入ると、[[世界恐慌]]に端を発した不況と社会不安が子供にも襲い掛かり、親子[[心中]]、[[児童虐待]]や[[子殺し]]、児童労働環境の悪化や[[少年犯罪]]の増加が問題化した<ref name=Sugi63 /><ref name=Nozawa />。また、乳児死亡率の高さや国際的な児童の公的保護の機運が高まった事もあり、1926年から全国児童保護事業会議が開催されて児童保護に向けた法整備が話し合われ、[[児童虐待の防止等に関する法律|児童虐待防止法]]や各扶助法・[[託児所]]関連の法律、また[[不就学]]対応など児童保護法の成立に繋がった<ref name=Nozawa />。
=== 現状 ===
国際労働機関 (ILO) が発表した[[2000年]]の統計によると、世界で児童労働をしている子供は2億4600万人。うち15歳未満は1億8600万人であった。ILOが第182号条約で定める、[[人身取引]]・[[債務奴隷]]・強制された[[少年兵]]・[[強制労働]]・[[買春]]・[[児童ポルノ]]・[[麻薬]]関連等の不正活動・路上で働く[[ストリート・チルドレン]]<ref name="ILO9">{{Cite web|和書|title=2.児童労働の実態 路上で働く子どもたち:ストリートチルドレン|url=http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/facts/sectorial/st_child/01.htm|publisher=[[国際労働機関|ILO]]駐日事務所|accessdate=2012-03-25}}</ref>など無条件に最悪の労働<ref name=ILO1 />に従事する子供は840万人にのぼる<ref name="ILO2">{{Cite web|和書|title=統計|url=http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/facts/numbers/index.htm|publisher=[[国際労働機関|ILO]]駐日事務所|accessdate=2012-03-25}}</ref>。この他にも、[[家事使用人]]に従事する子供の中には統計に現れにくい虐待や強制労働または[[児童性的虐待]]があるものと考えられている<ref name="ILO8">{{Cite web|和書|title=2.児童労働の実態 家事使用人として働かされる子どもたち|url=http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/facts/sectorial/domestic/01.htm|publisher=[[国際労働機関|ILO]]駐日事務所|accessdate=2012-03-25}}</ref>。
== 弱者としての子供 ==
[[File:Army.mil-2007-03-27-114351.jpg|thumb|left|200px|負傷した子供([[イラク]]・2007年)]]
キャロル・コープは、「子供は35秒で騙される」と述べた<ref>{{Cite book|和書|title=変質者の罠から子どもを守る法|author=キャロル・S ・コープ|publisher=[[人間と歴史社]]|year=1997|isbn=978-4890071029}}</ref><ref name="Usui">{{Cite web|和書|title=東京小6女児4人監禁事件の犯罪心理|author=碓井真史|url=http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news2/2003/schoolgirls_imprisonment.html|publisher=[[新潟青陵大学]]大学院臨床心理学研究科|accessdate=2012-03-10}}</ref>。子供は一般に、思慮や判断力が成熟しておらず、感受性の強さから外的な刺激に対する抵抗力が身についていない<ref name=Tsunoda />。
この特性が、[[少年兵]]を生む要因になっている。集めやすい上、子供は教育や訓練に従順で、特定の思想を植えつけやすい。そのため少年兵は一般兵よりも命令に忠実で、残忍にもなる。[[地雷]]排除のために子供を歩かせた例もあった。また、[[武器]]の軽量化や敵に警戒心を抱かせにくい点を利用し、自爆テロのような「使い捨て」に利用される例も多い<ref name="Ono">{{cite journal|和書|author=小野圭司 |date=2009-12 |title=子ども兵士問題の解決に向けて:合理性排除に向けた検討と今後の課題 |journal=防衛研究所紀要 |ISSN=13441116 |publisher=防衛省防衛研究所 |volume=12 |issue=1 |pages=51-75 |CRID=1522543655207437824 |url=https://id.ndl.go.jp/bib/10595241 |id={{NDLJP|1282583}} |accessdate=2023-08-29}}</ref>。子どもの権利条約やさまざまな国際条約では子供の徴兵を禁じているが、[[貧困]]や共同体崩壊等の理由もあり、地域紛争や内戦が多発する状態では実効性に乏しいのが現状である<ref name=Ono />。
{{-}}
== 日本語における表記について ==
[[File:Hyozu-jinja_兵主神社例祭(西脇市黒田庄町岡)2011.10.9_DSCF1166.jpg|thumb|right|200px|子供と[[浴衣]]、[[兵主神社 (西脇市)|兵主神社]]例祭(2011年)]]
[[日本]]における教育・法律・行政文書の世界では[[1994年]]の「[[児童の権利に関する条約|Convention on the Rights of the Child]]」の訳語論争を経て、[[2000年代]]ごろには「'''子供'''」という表記を差別的な印象であるなどといった理由で敬遠し、代わりに「'''子ども'''」表記を用いることが多くなった<ref name="Seino">{{Cite journal|和書|author=清野隆|year=2008|title=国語科教育の基礎学の構築(Ⅰ) 漢字の基礎-「子ども」・「子供」の表記を基にして-|url=https://doi.org/10.32150/00005725|journal=北海道教育大学紀要(教育科学編)|volume=59|issue=1|publisher=北海道教育大学|issn=13442554}}</ref>。
小中学校の国語においては「子」は小学校1年生で、「供」は小学校6年生でそれぞれ読みを学ぶ漢字であり、小学校の5年生までは[[教育漢字#交ぜ書き|交ぜ書き]]の「子ども」表記である<ref name="Seino" />が、[[教科書]]においては小学校6年生以降でも出版社によって「子供」「子ども」両方の表記が混在していた。
例として、中学3年生の全社の検定教科書に収録されている[[魯迅]]の『故郷』では、[[学校図書]]、[[教育出版]]、[[光村図書]]が「子供」としているのに対して、[[東京書籍]]と[[三省堂]]は「子ども」と表記している<ref name="Seino" />。教員採用試験の参考書でも、かつての文部科学省の表記を根拠に「子ども」表記を推奨しているものがあった<ref name="Seino" />。なお[[当て字]]ないしは[[誤表記]]として「小供」<ref name="Seino" />や「子共」も見られた。
しかし、文部科学省が[[2013年]](平成25年)[[5月]]に、省内で多用されてきた「子ども」の表記の経緯について調査。表記についての内規が存在しないことを確認した上で、[[文部科学大臣]][[下村博文]]([[第2次安倍内閣]])は省内での表記を統一するよう指示した。協議の結果、「子供」表記は差別表現ではないとの判断が示され<ref>{{Cite news|title=「子ども」は「子供」で統一します 文科省「差別表現でない」と公文書で使用|agency=J-CASTニュース|date=2013-09-01|url=https://www.j-cast.com/2013/09/01182664.html?p=all}}</ref>、[[6月]]下旬から公用文に用いられる表記を'''「子供」に統一'''した<ref group="注">交ぜ書き廃止を求める団体が「子ども」表記の廃止を文科相に請願したことや、[[国会 (日本)|国会]]([[衆議院]]文部科学委員会)で交ぜ書き表記の是正についてたびたび取り上げられたことが一因とされる。(日本教育新聞、2013年7月15日)</ref><ref>『「子ども」表記を「子供」に 下村文科相 公用文の統一指示』 (日本教育新聞、2013年7月15日)</ref>。
「子供」表記への統一は、当初あくまで[[公文書]]に限るとされていたが、[[2010年代]]以降はこれに倣って公文書以外でも「子供」表記が以前に比べて増加傾向にある。前述の国語の検定教科書においても、これまで積極的に「子ども」表記を採用していた東京書籍なども、小学校6年生以降の教科書において「子ども」と表記していた部分を「子供」に改めている<ref>{{Cite|和書|title=新編 新しい国語 3|date=2018|edition=平成二十七年三月六日 検定済|publisher=東京書籍株式会社|ref=harv}}</ref>。新聞社など民間のメディアは表記の統一を行なっていないが、[[毎日新聞]]の新聞記事における使用実態は[[2000年]]ごろ以降「子ども」表記が多数となったものの、[[2010年]]ごろ以降は再び「子供」表記が増え「子ども」と同数程度になった<ref name="mainichi01">{{Cite news|title=「こども」どう書く|agency=毎日新聞 校閲センター|date=2018-11-19|url=https://mainichi-kotoba.jp/enq-037}}</ref>。ただし、同社による一般へのアンケートによれば、「子ども」表記を好む読者が63.3%、「子供」表記は25.4%に留まり、「子ども」が優勢である<ref name=mainichi01/>。
[[2020年]](令和2年)の[[神戸新聞]]の記事によれば、[[国語辞典]]編纂者の[[飯間浩明]]の意見として、「供」の字にまつわる差別的なイメージは「史実に基づいておらず、まったくの俗解」と断言した上で、一方「日本語は漢字と仮名の交ぜ書きが普通であり、『子ども』が美しくないとは、必ずしも言えません」と、「子ども」表記のより柔らかなイメージについても肯定したことを紹介<ref name="kobe01">{{Cite news|title=「子供」or「子ども」どっちで書く?新聞は「子ども」派が多数 専門家の見解は|agency=まいどなニュース|date=2020-08-01|url=https://maidonanews.jp/article/13585181}}</ref>。また、全国の地方紙にアンケートを実施したところ、多くの記者は「『子ども』の方が字面の印象が柔らかい(ので使用する)」と回答。どちらの表記を選ぶかは書き手の自由であり、「ことさら競う」ことなく「好きな表記をすればよいと思います」とした。
児童文学作家の[[矢玉四郎]]は「子供は当て字であり、差別的な意味は全くない」、出版社が勝手に「子ども」に書き換えることが横行していると批判し、『子ども教の信者は目をさましましょう』という運動を展開している<ref name="siro">{{Cite web|和書|url=http://butagoya.o.oo7.jp/gaki.htm#kodomo|title=子ども教の信者は目をさましましょう|accessdate=2020-12-01}}</ref>。
2023年4月に施行した[[こども基本法]]や新設された[[こども家庭庁]]では、全てひらがなの「こども」で表記している。国務大臣の記者会見等の文章においても、同様に「こども」で表記されている<ref>{{Cite web2 |date=2023-08-04 |title=法務大臣臨時記者会見の概要 令和5年8月4日(金) |url=https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00435.html |accessdate=2023-8-11 |website=[[法務省]]}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=子どもの生活圏|author=一番ヶ瀬康子、泉順、小川信子、窪田暁子、宍戸健夫|publisher=[[日本放送出版協会]] |year=1984|edition=第10版|isbn=4-14-001086-X|ref=一番ヶ瀬ら1984}}
* {{Cite book|和書|title=新・社会福祉学講義|author=杉本敏夫、小尾義則、宮川数君|publisher=ふくろう出版 |year=2004|isbn=4-86186-174-8|ref=杉本ら2004}}
* {{Cite book|和書|title=図解・子ども事典|author1=林邦雄|authorlink1=林邦雄|author2=谷田貝公昭|publisher=一藝社 |year=2005|isbn=4-901253-60-3 |url=http://www.ichigeisha.co.jp/database/profile.cgi?_v=1254733832&tpl=shoseki}}
* {{Cite book|和書|title=子どもの発見|author=マリーア・モンテッソーリ|publisher=[[国土社]] |year=2001|isbn=4-337-65871-8 |url=http://www.kokudosha.co.jp/search/info.php?isbn=9784337658714}}
* {{Cite book|和書|title=チルドレンワールド|author=林邦雄|publisher=一藝社|year=2006|isbn=4-901253-00-X |url=http://www.ichigeisha.co.jp/database/profile.cgi?_v=1271912789&tpl=shoseki}}
== 関連項目 ==
* [[子どもの権利]]、[[子どもの最善の利益]]
* [[子供会]]
* [[こどもの日]]、[[子供の日]]
* [[未就学児]]、[[不登校]]
== 外部リンク==
{{sisterlinks|wikt=こども|commons=Category:Children}}
* [https://web.archive.org/web/20110729011047/http://www.wikiprogress.org/index.php/Child_well-being Wikichild.org]
* [http://www.unicef.org/ United Nations Children's Fund (UNICEF)]
* [http://www.oecd.org/social/family/database Family database, OECD]
** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/zenbun.html 児童の権利に関する条約、日本語訳全文]
* [http://www.npa.go.jp/safetylife/anzen_link.html 子どもを犯罪から守るためのお役立ちリンク集] [[警察庁]]
* {{Kotobank}}
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[[Category:子供|*]]
[[Category:年齢]]
[[Category:育児]]
[[Category:産育]] | 2003-04-25T07:38:44Z | 2023-12-14T03:03:45Z | false | false | false | [
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7,284 | エヴァンゲリオン (架空の兵器) | 汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン(はんようひとがたけっせんへいき じんぞうにんげんエヴァンゲリオン)は、日本のアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』および『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とその派生作品に登場する架空の兵器(人造人間)である。略称は、エヴァンゲリオン、EVA。
使徒と呼ばれる生命体の殲滅を目的として製造された汎用人型決戦兵器である。ロボットではなく人造人間と呼称され、アダムもしくはリリスと呼ばれる「生命の起源」を人類がコピーして作った巨大な生命体を、本来の力を抑え込むための拘束具を兼ねた装甲板で人型になるように覆ったものである。A.T.フィールドを展開する使徒に対して、人類が保有する唯一の対抗手段とされる。
語源は「福音」を意味するギリシア語のエウアンゲリオン(εὐαγγέλιον, euangelion)に由来する。またその頭3文字を取った略称Evaは、聖書の創世記に登場する最初の女性である「エバ(イヴ)」にもかけられている。
機体番号表記については日本国内で建造されたEVA零-弐号機(弐号機は、設計・部品建造を日本で行い、ドイツでは組み立てのみを行った)は漢数字(大字)で、日本国外で建造されたEVA3号機-13号機はアラビア数字で表記するという設定が存在しており、脚本や漫画版、スーパーロボット大戦シリーズなどでは一貫して、これに則した表記がなされている。一方、漫画『新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd』やゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』、『スーパーロボット大戦F完結編』、バンダイから発売された「プラモデル」、「超合金魂」や、海洋堂から発売された「リボルテック」では「3号機」を「参号機」と表記している。
人間が愛情を抱くときに使うとされるA10神経を介した神経接続によるコントロールシステムを採用している。稼働状況は機体とパイロットの「シンクロ率」により左右される。機体が受けたダメージはパイロットにフィードバックされ、痛みを感じたり負傷したりする。しかも、最悪の場合死に至る事がある。神経接続やシンクロ率は発令所から操作でき、例えば第18話ではシンクロ率のカットが指示されている。また、第19話ではパイロットの意志で発令所からのコントロールを受け付けないように一部の機能をロックしていた。
パイロットは細長いカプセル状のコクピット容器エントリープラグ内部のプラグインテリアに搭乗する。プラグはEVAの首の付け根から脊髄に挿入され、先端にはEVAの中枢神経に接続するための神経接続用探査針があり、この探査針を介してEVAとパイロットの神経系の同調がなされる。プラグは緊急脱出装置を兼ねており、緊急時には挿入口から射出されロケットモーターで離脱、パラシュートにより着地する。プラグ内はL.C.L.と呼ばれる液体で満たされており、それが外部を映すスクリーン、神経接続の媒介物質、衝撃緩和液として機能する。また、パイロットはL.C.L.を肺に取り込むことで体に直接酸素を供給される(液体呼吸の項を参照)。なお凍結中の零号機には、巨大な十字架の付いた停止信号(凍結)プラグが挿入されていた。
パイロットの座るシートの両脇には機体制御や射撃管制に用いる2本のコントロールレバーが設けられている。このグリップを引き起こして展開することで機体を高機動モードに切り替えることができる。シート後方には巨大なディスクドライブが搭載され、操縦に関するシステムや、自爆プログラムやダミーシステムも書き込まれている。シート前方の下部にはエントリープラグの内壁に接するような形状の安定フィンがあり、インテリアはシンクロ率に応じてプラグ内を前後するようになっている。プラグの容量的には複数人が入ることも可能だが、パイロット本人以外の存在はシンクロに影響する(第3話、第8話)。
操縦の際、パイロットは脳と機体を神経接続するインターフェイス・ヘッドセットを頭部に装着し、シンクロ補助や生命維持などのシステムが内蔵されたプラグスーツを着用する。プラグスーツを着用せずにEVAに搭乗・出撃するシーンでもインターフェース・ヘッドセットは装着している(第1話、第19話。第13話では実験のため両方とも非着用)。
搭乗者は、原則として「母親のいない(母親の魂がEVAのコアに同化している)14歳の子供」に限定して選出される。EVAにはそれぞれ固有パルスのパターン(パーソナルパターン)があり、パイロットもそれに似たパターンの保持者でなければならない。違うパターンの保持者が搭乗した場合、09システム(オーナインシステム)と比喩されるように、起動確率は0.000000001%であるため、起動する可能性は“ゼロではない”が、ほぼないと言ってよい。
EVAのコア内には通常、パイロットとEVAをリンクさせるための介在としてパイロットの母親の魂が入っている。開発過程において、魂までコピーできなかったEVAを操縦するにあたり、パイロットが魂の役割となった。しかしながら通常パイロットだけでは、EVA=神の肉体と魂たる人間とでは格差がありすぎるために上手く動かせず、きちんとした性能を発揮できない。そして開発の初期段階にEVAと接触実験を行った碇ユイと惣流・キョウコ・ツェッペリンはいずれも事故を起こし、前者は肉体ごと初号機と同一化して消失、後者は魂の大部分を弐号機内に奪われ、魂が不完全になったキョウコは発狂・自殺してしまう。しかしながら、これらのEVAのコア内に残された魂を介在とし、彼女らの子をパイロットにすることで、EVAとパイロットとの「格差」はなくなり、初めて安定した接続が可能となった。EVAのパイロットが原則として1体につき1人しかいないのはこの事情による。なお渚カヲルは例外で、アダムから作られてかつ魂がない、または引きこもっている機体ならば自由に操ることができる。
零号機と初号機はパーソナルパターンが酷似しており、第14話ではパイロットを交換しての起動実験が行われた。レイと初号機のペアに問題はなかったものの、シンジと零号機のペアは実験中に暴走事故を起こし失敗した。この実験の成果からレイのパーソナルを人工的に再現しエヴァにパイロットがいると思い込ませるダミーシステムが開発され、第18話で戦闘を拒否したシンジに代わって初号機を操縦し第13使徒バルディエルを殲滅した。ただし第19話では初号機にレイが搭乗して出撃しようとするものの初号機にシンクロを拒絶され失敗、ダミーシステムを搭載したダミープラグによる起動も同様に失敗している。劇場版で登場した量産機は、渚カヲルのパーソナルデータを用いたダミープラグを使用していた。弐号機に関しては、第10話でレイがアスカに代わって弐号機で出撃する旨の発言をしているが、第14話に「弐号機の互換性が効かない」というセリフがあり実際には稼働させられないらしい。漫画版では第1話でレイが初号機に乗ってサキエルと交戦している。
背部に接続されたアンビリカルケーブルからの電力供給で稼働する。予備電源を内蔵しており、ケーブルからの電力供給を失ってもフルで1〜3分程度、ゲインを利用すれば5分の活動が可能。また肩に外付けの大型バッテリーを装着することにより、ケーブルなしでの稼働時間を延長することができる。なお初号機は第19話で第14使徒ゼルエルを捕食しS機関を獲得したが、第23話ではケーブルを装着して出撃している。
使徒と同様、A.T.フィールドを展開することができる。A.T.フィールドは機体周囲を取り巻くバリアの一種であり、機体への物理的干渉のほか強力なものになると第10使徒サハクィエルや第17使徒タブリスのように電磁波すら通さなくなる。至近距離ではA.T.フィールド同士を中和させることによって防御壁を無効化できる。EVAが使徒に対して唯一有効な対抗策とされるのはこのため。 以上のように物理面に影響を及ぼすA.T.フィールドは防御以外にも攻撃手段として用いられている描写もみられる。劇場版では弐号機が戦略自衛隊の航空機に対しての攻撃手段としてカッターのように用いている。ゲームソフト『新世紀エヴァンゲリオン2』のF型装備では武装や推進部をA.T.フィールド自体を動力として活用している。 人型の汎用機体なので、刀剣や銃火器など人間の使う武器と同様の武装を装備できる。 全身が装甲に覆われているが、この装甲の真の目的は防具ではなく拘束具としてEVAの暴走を阻止することである。 対使徒戦のみならず通常の人間同士の戦闘でも圧倒的な戦力であることに加え、その製造・運用には莫大な利権が生じることから、世界各国が製造権・保有権を巡って争っており、劇中で3号機・4号機は米国が製造権を主張して半ば強引に製造していたことが示されている。新劇場版ではEVAの保有数や技術転用を規制する国際条約「バチカン条約」が登場した。
最初に製作されたプロトタイプで、当初は肩部ウェポンラックなどの装備もされていない。起動実験中に暴走事故を起こしたため凍結されていたが、第5話で凍結解除。第6話でヤシマ作戦に投入され、初号機を荷粒子砲から庇って大破した。その後の修復に伴って弐号機と同じ形状の装甲板と肩部ウェポンラックを取り付け機体色も青に変更する改装を施され、第11話の第9使徒マトリエル戦から再び実戦投入される。この実戦用形態は商品化される際などは零号機(改)と呼ばれ、第1話よりオープニングフィルムに登場している。肩部ウェポンラックにブースターが搭載されている(ただしこれは高所からのショック吸収用で、飛翔能力は無い)。第23話の第16使徒アルミサエル戦において使徒の物理的浸食を受け、使徒もろとも自爆し第3新東京市と共に完全に破壊された。
制作元については、第22話において赤木ナオコが「アダムより人の造りしもの」として脊椎と頭部、腕部だけのプロトタイプの零号機を紹介したこと、劇場版25話においてキール・ローレンツが「唯一、リリスの分身たるEVA初号機」と発言していることからアダムより作られたとする説と、アダムと呼ばれていたものが実はリリスであったことからリリスより作られたとする説がある。
コアについては、現在までに公表された設定資料中には明言したものはない。ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』では、コアに魂が入っておらず、レイがシンクロに長期間を要したのはそれが理由であると解説されている。ただしその改良版であるPSP版ではこの理由について「レイに母親が存在しないこと」「コアのシステムが未完成であること」とされており、零号機のコアの魂の有無には言及されていない。
EVAシリーズの中でリリスより製作された唯一の機体。EVAシリーズのテストタイプ。搭乗者の生命に危機が迫ると、たとえバッテリー切れの状態であっても突如コアが反応して搭乗者の意思に関係無く暴走し、その際自らの力で顎部ジョイントを破壊し口を開け、咆哮を挙げる。第19話にて第14使徒ゼルエル戦の最中、覚醒した初号機が使徒を捕食してS機関を取り込んでからは、無限の活動時間を得る。
初起動は第3使徒サキエル戦であるが、起動前にエントリープラグ未挿入の状態であるにもかかわらず、腕を動かして落下物からシンジを守る。初シンクロ時にプラグスーツの補助なしに41.3%と高シンクロ率を示すも、左手首を折られ、右眼を光の槍に貫かれて中破、その後暴走し(1度目の暴走)、左手首の自己再生、使徒のA.T.フィールドを侵蝕・中和などの圧倒的戦闘力を見せつけて使徒を殲滅した。第4使徒シャムシエル戦では初のEVA専用火器を使用するも効果はなく、ミサトの制止を振り切って活動限界時間一杯までのプログレッシブ・ナイフでの接近戦闘にて辛くも殲滅、第5使徒ラミエル戦は一度は敗北するもののヤシマ作戦にて零号機と共に殲滅、旧東京市都心の第28放置區域でミサトの援護により、暴走したJ.A.(ジェットアローン)を制止、第7使徒イスラフェル戦は弐号機が作戦に加わり、両機体の動きを同調させるユニゾン特訓の末、使徒を殲滅。第9使徒マトリエル、第10使徒サハクィエルは、戦列に復帰した零号機と3機で殲滅、第12使徒レリエル戦では、敵の本体である影に取り込まれてディラックの海を彷徨うが、シンジの生命維持に危険が迫ったことで碇ユイの魂が目覚め、2度目の暴走を起こして上空に浮かぶレリエルの影を引き裂いて殲滅し帰還した。
第13使徒バルディエル戦では、トウジの乗るエヴァとの戦闘を拒んだシンジに業を煮やしたゲンドウが彼のエントリープラグにダミーシステムを起動し、バルディエルを3号機ごと無惨に解体・殲滅、そのことにショックを受けたシンジが怒りのあまり初号機の機体内に篭城してゲンドウに謝罪を要求するも、ゲンドウの命令でL.C.L.の圧縮濃度を限界まで上昇させられて強制排除された。この事件以降、シンジが搭乗を拒否したため、第14使徒ゼルエル戦では代わりにレイが搭乗するも、ユイの魂がシンジ以外を拒絶、以前はシンクロ可能であったレイやダミープラグすらも受け付けなくなったが、第14使徒ゼルエル戦での戦闘で弐号機、零号機の無惨な結果を目撃し、加持に諭されたシンジは再び初号機に搭乗、左腕を失いつつも敵を追い込むもついに電源が切れて停止したが、シンジの声に反応するかのように再起動し3度目の暴走、再起動した際シンクロ率が400%を超え、ゼルエルの腕を引きちぎり、その腕を自らの左腕へ変換した後、ゼルエルのA.T.フィールドを破壊、ゼルエルを捕食しS機関を獲得、この戦いで初号機は覚醒を果たし、他のEVAとは一線を画す存在へと変化した。その後、再度の暴走を警戒したゼーレの命令により使用を凍結されたが、第16使徒アルミサエル戦で物理的融合されそうな零号機を救出するため、ゲンドウが独断で凍結解除を発令したことで戦闘へと復帰、第17使徒タブリス戦では、タブリス(渚カヲル)が外部から操る弐号機と交戦、弐号機の撃退後、タブリス(渚カヲル)を殲滅する。
劇場版第25話では戦略自衛隊がシンジと初号機との接触を絶つためにケージに注入した硬化ベークライトに拘束され搭乗できなくなっていたが、弐号機が量産機に捕食されている際に無人のまま起動し、ベークライトを破壊してシンジを搭乗させ、ジオフロント内に出現、劇場版第26話では、弐号機の無残な姿を見たシンジに触発され暴走(4度目の暴走)、背に四枚の十字翼型A.T.フィールドを展開し、A.T.フィールドを背負ったままシンジのデストルドーにより地球の衛星軌道上にあったロンギヌスの槍を召喚、その状態をゼーレに利用されてサードインパクトを引き起こし、そのまま人類補完計画を発現させてしまったが、シンジがその世界を望まなかったため、初号機は同化したリリスから分離して地球を包み込むほどの巨大な12枚の赤い翼を展開、リリスと黒き月を崩壊させ、自らが持つロンギヌスの槍と量産機が持って共鳴させていたロンギヌスの槍のコピーをすべて破壊し、人類補完計画を破局させた後、搭乗していたシンジを地球に残し、石化して宇宙へと旅立った。
ゼルエル戦において暴走し四つん這いになって瀕死のゼルエルに這い寄っていくシーンがあるが、これは監督が「餓鬼をイメージして描いて欲しい」とアドバイスしたためである。
アニメ版ではレイが搭乗したのは機体相互互換試験および対ゼルエル戦で出撃しようとした時のみだが(後者は初号機にシンクロを拒絶されている)、貞本義行による漫画版では第1話でレイが搭乗して出撃、シンジとミサトを救うシーンがある。
暴走時などに発する声は、林原めぐみの声を加工したものを使用している。
アダムより製作された、エヴァンゲリオンの量産化を前提として開発された、いわば先行量産機。アスカの言葉を借りるなら「本物のエヴァンゲリオン」と呼べる機体である。
フルパワー時には頭部拘束具が一部展開、素体の4つ目を露わにする。
NERVドイツ第3支部で組み立てられ、第8話においてNERV日本本部に移送中、第6使徒ガギエルの攻撃を受けたためアスカの判断で起動、初戦を勝利で飾った。その後、他の2体と共に使徒殲滅に当たっていたが、第13使徒バルディエル戦では一瞬の躊躇をつかれ敗北、第14使徒ゼルエル戦においては一切の攻撃が通じず両腕と頭部を切断されて大破、この連敗とその両者を倒したのが双方とも初号機であったことによりアスカのプライドに綻びが生じ、シンクロ率が下がり始め、修理はされたものの、第15使徒アラエル戦においてアスカが精神的ダメージを受けたためさらにシンクロ率が低下、第16使徒アルミサエル戦では起動すらできない状態となり、その後廃人と化したアスカの代わりにやってきたフィフスチルドレンにして第17使徒タブリス=渚カヲルの力により無人で起動、彼に従いセントラルドグマへ侵入するが、追ってきた初号機と戦闘になり、初号機によって首筋と頭にプログ・ナイフを突き刺されて活動を停止させられた。
劇場版第25話ではアスカを保護するべくエントリープラグに載せてジオフロント内の地底湖底に配置される。そこに戦略自衛隊の爆雷攻撃が行われたことがアスカに死の恐怖からくる生への執着を蘇らせる。それに弐号機内のアスカの母の魂が呼応し、母の存在を感じたアスカは復活、周囲の戦略自衛隊を壊滅させたがアンビリカルケーブルは切断されてしまう。そのあと弐号機殲滅に投入されたS機関搭載の量産型EVAシリーズ9機に対して内部電源の3分30秒でほぼ全てを撃破する活躍をみせたが、1機が放ったロンギヌスの槍(コピー版)がA.T.フィールドを貫通、頭部に直撃し同時に制限時間の活動限界を迎えてしまう。身動きの取れない弐号機は再起動したEVAシリーズに鳥葬のごとく内臓を食い尽くされ、アスカの「(量産機を)殺してやる...!」という強烈な意思が暴走(覚醒)を引き起こしかけるも、最後は8本の槍によって串刺しにされ完全に沈黙する。
テレビシリーズでは山下いくとがデザインを担当し、劇場版では本田雄が再デザインしたため微妙に外観が異なっている。分冊百科「エヴァンゲリオン・クロニクル」ではこの違いを第17使徒タブリス戦で負った損傷の修復に伴うものとしている。
漫画版では渚カヲルがアルミサエル戦で乗機とする(アスカの精神崩壊がアラエル戦直後にされたため)。レイの零号機と同様にアルミサエルの浸食を受けるが、カヲルの力により同化は免れる。この戦いでデュアルソーに物理融合したアルミサエルによって左足を切断されている。
デザインの着想はシューティングゲームのPCエンジン版『超兄貴』に登場する「エル&トポ」から得られている。デザイナーは「常にEVAにはダイバーのようなイメージをもっている」とのこと。
アダムより製作された。米国NERV第1支部製。頭部以外は弐号機と同じで、頭部は角が無い以外は初号機と似ている(プラモデルの説明書にあるラフスケッチには、初号機の後頭部にある部分と似た物体が描かれている)。
米国支部から日本本部へ移送中に第13使徒バルディエルに寄生され(積乱雲に潜んでいたとされる)、松代で起動実験中に使徒として覚醒、第3新東京市に向けて活動を開始する。零号機、弐号機を活動不能に陥れるが、ダミープラグによって暴走した初号機との戦闘の末、原形を留めないほどに破壊される。最後にトウジが閉じ込められたエントリープラグは、初号機によって握り潰される。搭乗していたトウジの結末は、テレビシリーズでは左脚切断の重傷、漫画では死亡と展開が異なるが、これはテレビシリーズプロデューサーの大月俊倫が番組製作前に出した、「どんな内容でも構わないが、子供が死ぬようなアニメだけは見たくない」という要望を受けてのものである。
ただ、大月は3号機の登場シーンを、オンエアから2年経った1997年になっても見ておらず、存在も知らなかったため、新宿で打ち上げに参加した際、バンダイからリリースされたプラモデルシリーズの中に見知らぬ「黒いエヴァンゲリオン(=3号機)」があるのに気付いて、「誰が許可したんだ、こんなもの」「なんで、こんなのあるんだ」「メーカーが勝手にこんなん作りおって」などと憤慨したという。
ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』では、条件を満たすことでトウジが3号機のパイロットとして戦列に加わる。その後も条件によっては使徒に寄生されずに最後まで運用される。また、いくつかのシナリオでは、スタート時点から3号機パイロットとなっている。N64版では、ゲームモードによっては選択・使用が可能。スーパーロボット大戦シリーズに登場する場合は、イベントによってはバルディエルを浄化して正式運用される場合もある。ただし、初登場した『スーパーロボット大戦F完結編』では、バルディエルとしての3号機ではないが、敵として登場する。『スーパーロボット大戦α』での武装は後述のプラモデル化された際に付属した武器の数と種類が同一である。
なお、プラモデル(LMHGシリーズ)では、使徒侵食前の3号機と、使徒侵食後の3号機(第13使徒バルディエル)版があり、腕パーツと一部パーツ以外は共通となっている。
第17話で存在が言及されるのみ。アダムより製作されたが、米国NERV第2支部での試験中、S機関の暴走により、周りの関連研究施設と共に消滅する。
テレビシリーズでは言及のみで外観描写は無かったが、プラモデル化の際に設定された。形状は3号機と同一であり、カラーリングはシルバー。ゲームなどに登場する4号機に関しては後述。
アダムより製作された、通常「EVAシリーズ」と呼称される9体の量産型機。カヲルがベースとなったダミープラグにより稼動する。S機関を搭載しており、活動時間に限界は無い。収納展開が自在な翼を背面に内蔵しており、自力飛行が可能。携帯武器は諸刃の剣(脚本では槍となっている)であるが、これはロンギヌスの槍のレプリカを変形させたもので必要に応じて本来の姿に戻る。前述の理由により内部電源が不要になったことに加えロンギヌスの槍を得物として持つためプログレッシブ・ナイフなどの存在価値が薄いゆえにウェポンラックを装備していないのも特徴である。
眼の無いウナギのような頭部が特徴。また、エントリープラグ挿入口や全体的なデザインが他のEVAと異なっている。これは零〜4号機を山下いくとがデザインしたのに対し、量産機のデザインは本田雄が手掛けたことによる。再起動や捕食、再生など、EVA初号機の暴走状態と非常に酷似した行動パターンを持つ。
劇場版第25話では、ジオフロント内の戦略自衛隊を壊滅させた弐号機に対抗するために輸送機から投下され弐号機と交戦。弐号機の圧倒的な戦闘力の前に次々と一旦は撃破されていったが、弐号機の活動限界間際に9号機が放ったロンギヌスの槍によって弐号機の頭部を串刺しにする。動けない弐号機に対し全機再起動、再生した量産機は弐号機を鳥葬のごとく捕食した後、全機で上空からロンギヌスの槍を突き刺し葬る。第26話では、レイと同化したリリスからのアンチA.T.フィールドにより、リリス(=レイ)と同化、頭部にいびつに歪んだレイの顔が表出する。その後、初号機を依代にし、サードインパクトを誘発させ各機自らのコアにロンギヌスの槍を突き刺しS機関を共鳴、およびアンチA.T.フィールドを展開。地球上の人間、全てのA.T.フィールドを無力化し、人類全てをL.C.L.へと還元させるが、初号機によって量産機のロンギヌスの槍は全て破壊される。その後量産機は全て活動を停止、石化し地上へと降下する。
見た目での区別はつかないが、脚本や絵コンテでは9体の量産機はそれぞれ全て機体番号で区別されている。製作地は、5、6号機がドイツ、8号機が中国である。
弐号機によって破壊された順番は9号機(頭部を潰され背骨を折られる)、11号機(プログ・ナイフを頭部に突き刺される)、7号機(プログ・ナイフで右手を切断され首をへし折られる)、6号機(諸刃の剣で袈裟懸けに斬られる)、12号機(諸刃の剣で腹部から上下に切断される)、8号機(諸刃の剣で左足を切断される)、10号機(ニードルガンで頭部を刺される)、5号機(喉元を握りつぶされ13号機と同時にみぞおちを貫通される)、13号機(5号機越しにコアを鷲掴みにされる)である。
漫画版ではSTAGE:81より登場。劇場版第25話同様、復活したアスカの駆る弐号機と死闘を繰り広げる。しかし戦闘力は劇場版を上回っており、劇場版では全機とも一度撃破されているが、漫画版では弐号機を劣勢に追い込んだだけでなく弐号機の機能停止までに三機生き残っている。また再生能力も遥かに強力になっており、初号機と弐号機に与えられたダメージを短時間で完全に回復させている。
量産型のプラモデルは2種類存在しており、通常版は頭部パーツが2種類の形状の交換式で武器は諸刃の剣、「最終戦仕様」版は頭部の口が開閉可能なギミックがあり武器がロンギヌスの槍(コピー)である、という違いがある。
4部作のタイトルは「ヱヴァンゲリヲン」であるが、作中における機体の正式名称は「エヴァンゲリオン」である。また本作では、局地仕様である封印監視特化型限定兵器の仮設5号機や、ヒト型ですらないMark.04シリーズが存在し、EVANGELIONというカテゴリ自体には「汎用ヒト型決戦兵器」という意味合いは含まれておらず、一部の機体の仕様名称となっている。
『新世紀エヴァンゲリオン』における「コア」は本作では「コアユニット」と呼称されており、設定がテレビシリーズとは異なっている。このコアユニットは機体から分離可能であり、封印時には取り外される。また『新世紀エヴァンゲリオン』ではEVAにコアが存在する事実は第14使徒戦まで一部の人間を除いて知らされていなかったが、本作ではシンジの初号機初起動時にはコアユニットの言及がある。
『破』以降では、パイロットの意志でEVAに備わったリミッターを解除し、パイロットへの負担と引き換えにさらなる力を引き出すコマンドである裏コードが登場した。頭上に光輪が出現し飛行や光線を発射する能力を獲得する覚醒という状態も登場した。
当初は内部電源での活動時間は5分(フル・ゲイン利用の区別は言及なし)でアンビリカルケーブルからの電源供給が途絶えるとモニターに活動限界までの残り時間が表示されていたが、『Q』ではケーブルを接続せずに活動していても残り時間の表示はない。WILLE所属のEVAは内部電源が10%まで減ると警告表示と共にパワーセーブモードに切り替わり旧世紀版や『破』までのように時間切れと共に動けなくなるというわけではなくなっているほか、「スペア」と呼ばれる器具で右手首から内部電源の充電をする描写がある。NERV所属のEVAはアンビリカルケーブルを含めた電力供給に関する描写がなく、『シン』ではWILLE所属のEVAも活動限界に関する描写はない。
『Q』にて、EVAのパイロットとなった少年少女たちはエヴァの呪縛を受けるという新設定が登場した。これにより、頭髪以外の身体の変化が新陳代謝を含めてなくなる・リリンの近寄れないL結界密度の高い場所でも活動できるようになるなどの影響がある。
基本的なデザインは『新世紀エヴァンゲリオン』と同様だが、改装・就役後もカラーリングが変更されないまま、2号機と同じ肩部ウェポンラックと胸部アーマーが装備された。第10の使徒戦でN弾頭装備のミサイルを抱えて特攻するも撃破出来ず、全身を焼かれ立ち尽くしているところを第10の使徒に膝から上を捕食され、レイごと取り込まれてしまう。ただし不要な頭部は、吐き捨てられた。
細部のデザインやカラーが変更された以外は『新世紀エヴァンゲリオン』と同じ。シンジの身に危険が迫ると暴走する点も同じだが、レリエルに相当する使徒が登場しない関係で、作中の暴走回数は2回となっている。新武装としてガトリング砲を用いるが、第5の使徒に有効な打撃は与えられなかった。また第6の使徒戦のモニターから、固有波形パターンは「Blue**A'」であることがわかる。第10の使徒戦では、「世界がどうなっても綾波だけは助ける」というシンジの意志の下、擬似シン化第1覚醒形態へと変化。シンジにコントロールされた状態で秘めた能力を開放した。その際は拘束具の蛍光グリーンの部分が赤に変色し、頭上に天使の輪のような光輪(エンジェル・ハイロウ)が出現。A.T.フィールドで形成した左腕を変化させての攻撃や、両目から光線を放つなど使徒のような攻撃を見せ、使徒のコアから零号機のコアをレイごと摘出した。プラグ深度は180以上にも達しており、リツコをして「人の域を超えた」と言わしめた。まもなく、レイの姿を取った巨大なヒト型(サルベージされた零号機のコアを基点に、形象崩壊した使徒の体液が集まったもの)と融合し、セカンドインパクト時に出現した4体の光の巨人と酷似した三眼の光の巨人「擬似シン化第2形態」へ到達してサードインパクトを発生させかけたが、月面から降下してきたMark.06が投げたカシウスの槍によって初期段階で阻止され、ニア・サードインパクトに留められた。その後、シンジとレイをエントリープラグ内に取り込んだまま活動を停止、凍結される。
その後は封印の棺に入れられ、大気圏外にコア化状態で封印されていたが、反NERV組織WILLE(ヴィレ)が奪取作戦を展開、封印から14年が経過しても完全に覚醒状態が治まったわけではなく、作戦中危機に陥ったアスカのシンジへの叫びに呼応するかのようにMark.04Bに向けて光線を発射・撃破し、改2号機を支援した。接収後は取り込まれ身体を失ったシンジの身体をサルベージした後、WILLEの空中戦艦AAAヴンダーの主機として組み込まれた。この時点でのシンジとの深層シンクロテスト結果は0.00%であり、シンジが搭乗しても起動することはないとリツコが述べているものの、作戦中の再起動を危惧したWILLE上層部の判断により、シンジの首にDSSチョーカー(EVAの覚醒を感知すると、パイロットを殺して覚醒状態を解除させる首輪)が付けられた上に、検体としての扱いを受けることになった。
南極での戦闘でヴンダーが大破した後、ゲンドウと第13号機によって初号機は回収される。この時初号機は赤色にコア化しており四肢は切断されている。シンジが搭乗を希望するにあたって、『Q』で0%とされたシンクロ率は、実は0に限りなく近い値無限大であったとされた。シンジの操縦でゲンドウの第13号機と対峙するも打ち勝てず、両者の精神対話の後「エヴァの要らない世界にする」というシンジの意思を受け継いだ碇ユイによってゲンドウとユイは自らガイウスの槍(WILLEの槍)を身体に貫き、消滅した。
初号機・零号機同様カラーリングが若干変更されると共に、額部に短い角飾りが追加されている。NERVユーロ支部で建造された後日本本部へ移送、その最中の第7の使徒登場に伴い輸送機から即交戦に入り見事勝利、以来零号機・初号機と組んで使徒殲滅にあたるが、3号機の到着によって「各国はEVAを3体までしか所有出来ない」というバチカン条約に抵触、ユーロ支部の命令で一度凍結された。新武器として超電磁洋弓銃、サンダースピアを使用したほか、左右両方のウェポンラック内部にナイフホルダー、および連装ニードルガンのペンシルロックを固定装備として格納してあり、劇中で最も多種多様な武装を使用した。第10の使徒襲来においては、マリが凍結を無断解除してアスカの代わりに搭乗。裏コード「ザ・ビースト」により「獣化第2形態(第1種)」へと変形し、第10の使徒のA.T.フィールドを全て破壊するなど奮戦するも、第10の使徒の圧倒的戦闘力には及ばず左腕と右顔面を失い中破、避難していたシンジをシェルターからジオフロントに連れ出した後、活動を停止した。
『Q』では第10の使徒戦で失った右顔面・左腕を機械パーツで補修した、サイボーグじみた(あるいはサイバネティックス化した)外貌の「改2号機」として登場。8号機と共にWILLE所有となり、戦況に応じて装甲・武装を換装する仕様が取られるなど、NERV所有のEVAと比較し汎用兵器としての側面が強くなっている。バッテリーが切れると戦闘不可になるが、完全に動けなくなるわけではないため自分で予備のバッテリーパックを用いて電力補給が可能。劇中冒頭では、左腕義手として巻き取り式ロープガン、本体の2.4倍以上の超巨大な背部ブースターを装備し、宇宙空間での活動に特化した「改2号機β」として登場、宇宙空間でMark.04からの攻撃を躱し、8号機の支援も受けた末に初号機の奪還に成功、水中でのヴンダー主機点火作業以降は、本物の腕より一回り太い形状(前腕部以降をガトリングガンへと換装可能)の左腕義手および、β仕様以前より堅牢な装甲を装備した「改2号機γ」として運用された。ヴンダーの動力炉に強制点火したり、新装備である双刃の薙刀を振るってMark.09や第13号機との戦闘を行なうなど奮闘、「アダムスの器」としてヴンダー奪還を図ったMark.09を止めるべく、「コード777(トリプルセブン)」のモードチェンジにより、前作『破』での獣化第2形態(第1種)からさらに尻尾やネコ科の獣のような牙が発生した「獣化第4形態(第2種)」へと変形し奮戦、アヤナミレイ(仮称)の脱出後体内にガトリングガンを撃ち込むも、Mark.09の全身がコアであるためすぐに再生されてしまい、最終的にMark.09もろとも自爆、機体の一部のみが8号機とともに回収された。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では「新2号機α」として登場。本体は頭部、上半身、コア部分のみ再生・修復しており、序盤でユーロNERV本部から回収したJ.A.-02の本体と半ば強引に組み合わせることで重機化し、動力炉も機体の背部から突き出す形でJ.A.リアクターをそのまま流用しており稼働時間を延伸、巨大な重火器とバックパックを装備している。劇中ではヤマト作戦開始直前に改8号機γと共にぎりぎり形になり旧南極のNERV本部にてMark.07の大群と戦闘する。脚部と背面にあるミサイルや改8号機γから次々に投げ渡される武装を駆使しながら迎撃、群となりドリル状に押し寄せるMark.07の大群を改8号機γとのA.T.フィールドの連携技で壊滅させる。強制停止信号プラグを起動前の第13号機に打ち込もうとするも新2号機α自身のA.T.フィールドに妨害され、それを打ち破るため「裏コード999(スリーナイン)」を発動。この時アスカは左目の眼帯を外し、眼の中に埋め込まれていた小型の使徒封印用呪詛柱を引き抜いて封印されていた第9使徒の力を開放、さらに機体にエンジェルブラッド(使徒の血)を注入することで覚醒を果たし、使徒と融合することで新2号機αを強化した。上半身の生体パーツは左腕をA.T.フィールドで再構成しながら機械部分から抜け出し、大爆発のあと本体を輝かせながら膨張、使徒とエヴァが融合を果たし人の形を捨てた異形の姿となる。この際に第9使徒の特徴的な長い腕が背面から生え、新2号機のA.T.フィールドを中和した直後、起動した第13号機により全腕を吹き飛ばされて内部から破裂、急激にしぼみ込んだところでエントリープラグを抜き取られ第13号機に取り込まれながら首から下がL.C.L.となり崩壊する。頭部のみヴンダーの甲板に打ち上げられた。『破』の獣化第2形態時の声は、坂本真綾の声を加工したものを使用している。
『シン』Blu-ray映像特典の『EVANGELION:3.0(-46h)』では「2号機α 臨時暫定仕様」として登場。エヴァインフィニティーに襲われていた幼少期のミドリを救出した。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場。フェイスマスクが赤色になっているなど、旧世紀版とは細部カラーリングが異なる。旧世紀版ではシンジの親友である鈴原トウジが搭乗したが、新劇場版ではアスカが搭乗する。初号機のダミーシステム(旧世紀版ではダミープラグ)により機体はバラバラに引きちぎられるが、手で握りつぶす描写だったエントリープラグの破壊は、噛み潰される描写へと変わっている。新劇場版における各部の変更点については『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を参照。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。複数のタイプが存在し、いずれも従来のヒト型のEVAとは形状がまったく異なる。
『Q』に登場するものは、コアブロックと呼ばれる弱点を複数備えた円盤状の本体に、EVAの下半身や脚部・肩部ウェポンラックに酷似するディテールを備えたデザインとなっている。また、固有波形パターンは使徒と同じ青とされるが、モニター上ではニアリーイコールとなっている。
『シン』に登場するものは、複数のEVAを組み合わせた外見をしており、使われるEVAの数に応じて4の数が増えていく。『Q』のものよりは元がEVAであることがうかがえるが、EVAの頭部は欠損しており、使徒共通の仮面がその代わりに付けられているなど、異形ぶりを増した外観となっている。
なお、『破』で存在が示唆された4号機との関連性は不明。こちらは稼働時間の限界を延長する(新劇場版ではS機関という表現はされていない)試験機であったが、事故によって北米第二支部と共に蒸発したとされる。試験内容の詳細はリツコですらほとんど知らされておらず、事故との見解にも加持が疑義を示している。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場するEVA。名称が示す通り、汎用性に優れた他のEVAと大きく異なり、NERV・ベタニアベースに封印されている第3の使徒の封印監視を目的に、同施設内での運用に特化した特殊な形態・機能を持つ。急造品の機体であるためか、プラグスーツは旧式で、シンクロ開始時に苦痛を伴う。加えて、インテリアと腕部がケーブルでつながれていてパイロットの身体の動きが制限される、インダクションレバーのトリガーの数が多いなど、機体制御や操縦システムに粗が目立つ。
頭部と胴部は従来のEVAとほぼ同様の形状をしているが、下半身は4本足の多脚型で先端には車輪のようなものがあり、狭い空間でスムーズに旋回などを行うことが可能。脚部にはブースターノズルを装備している。また、胴体の下部にはカバーで覆われたドリルが二つ装備されており、緊急時の急減速の際にはカバーを排除し地面に突き立ててブレーキ代わりに使用する。腕はヒジから先が二本爪のマニピュレーターを備えた義手として機械化されており、さらに右腕はこの義手を差し込む形で保持される長大なランス(対使徒専用殲滅兵器「簡易式ロンギヌスの槍(似非復元型)」)を装備している。ただし、これらの仕様はマリに言わせると「鈍重」「パワー不足」とのこと。
機体の特性上アンビリカルケーブルは無く、代わりに肩部ウェポンラックの先端にあるトロリーポールによって電力を得ており、そこから背面へ伸びるケーブルによって本体に電力を供給している。背面にはSSTOに似たシルエットを持つ脱出ユニットを背負っている。エントリープラグが挿入口から射出され、ユニットと連結、その後にユニットに装備されているブースターが点火され機体から分離し飛行するというシークエンスで脱出が行われる。
『破』冒頭で、復活した第3の使徒と交戦。地下の「辺獄エリア」から「アケロンエリア」への脱走を許すも、マニピュレーターで使徒のコアを握り潰す。その際、稼動状態がフルパワーに達したためか、暴走時の初号機と同様に顎部の拘束具を引きちぎりながら口を開く描写がある。直後にマリは自爆プログラムを起動し自らはエントリープラグごと脱出、機体を道連れに自爆し、使徒を殲滅した。劇中ではこの一件自体が5号機と第3の使徒を葬り去るためにゲンドウらの指示で加持リョウジが工作したものであることが示されている。
システムボイスはMAIが担当している。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のラストシーンにおいて登場する月面の黒い巨人をベースに建造された。建造中の巨人の頭部の仮面は旧世紀版の第2使徒リリスのものと酷似している。ゲンドウ曰く「建造方式が他とは違う」エヴァンゲリオンである。『破』の序盤では月面のタブハベースにて建造中であり、建造現場上空をゲンドウと冬月が視察に訪れたが、ゼーレが上陸を拒否している。ゼーレが「真のエヴァンゲリオン」と呼称し、当初NERVに報告することなく建造が進められていた。終盤で完成、カヲルが搭乗してNERV本部上空に飛来。サードインパクトを起こしつつあった初号機を手にしたカシウスの槍で停止させた(ニアサードインパクト)。『序』『破』の予告では「エヴァ6号機」と、劇中では「マークシックス」(Mark.06)と呼称されている。バイザー内部には初号機と似たような形状の双眼がある。また、覚醒した初号機と同様に頭上に光輪を持ち飛行能力を有する。本機以前のエヴァンゲリオンよりひと回り大きく見える描写があるが、実際に設定上のサイズ差が存在するかは不明。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』から『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』までの劇中経過年数14年のうちに自律型へ改造され、セントラルドグマ最深部でサードインパクトの起点となったが、加持リョウジの犠牲によって自らのコアとリリスの胸を槍で貫き停止した。その後、サードインパクト停止時に頭部と破断したリリスの胴体とともにセントラルドグマ最深部に放置されていた。第13号機により槍を引き抜かれた際に、体内の第12の使徒が活動を再開するが、アヤナミレイ(仮称)の乗るMark.09によって首を落とされ、Mark.06は活動を停止する(体外に出た第12の使徒は第13号機に吸収された上で、コアは噛み砕かれた)。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のCパート、ヤマト作戦において登場するEVA。WILLEからは「エヴァ7シリーズ」と呼称された。人間の頭蓋骨のような頭部を模し、セカンドインパクトの爆心地にWILLEが降下する際、無数に現れた。武器は持たず、噛み付いて攻撃することから一つの単調な指令の下にプログラムされていると思われる。単縦陣の44Aのように自ら群体を形成して、一本のドリルに構築して攻撃する行動が見受けられたが、アスカとマリのダブルA.T.フィールドによって一掃される。
山下いくとによると、当初はコアのみでA.T.フィールドを発生させる機能しかないエヴァとして7号機のデザイン案をしたが、後にそのデザイン案は44Bや4444Cとして採用されたとのこと。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』本編後の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』予告にて初登場。予告においては、「胎動するエヴァ8号機とそのパイロット」とあり、錨型のバイザーを装備する頭部、初号機・Mark.06同様の角らしき物、耳およびイヤリングのような意匠、初号機と同様の睫毛のような模様、頭上の光輪など『Q』本編と異なる外観で登場していた。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では、初号機の起こしたニア・サードインパクトから14年後、反NERV組織であるWILLEが運用している。「ヴィレカスタム」の表記から、元々NERVが建造していたがWILLE結成時に強奪されたと思われるが、詳しいことは明らかにされていない。『Q』序盤は14年前に運用されていた2号機と同じようなボディの「8号機α」として登場。後に改修を受け、「8号機β」となった。こちらはボディが太くなったほか、手首から腕にかけて篭手のような防具が追加されている。劇中ではロングバレルの超長距離ライフルやハンドガンといった銃器を用いたほか、予備のバッテリーパックなどを運搬して改2号機をバックアップした。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の冒頭では「8号機β 臨時戦闘形態」として登場。本来の8号機の胸から腹にかけての部分には大量の包帯が巻かれており、両腕は胸から背を一周するリング状の装甲とジャッキ状の細いパーツで接続された多数のウェポンラックやプロペラントタンク付きスラスターを装備し、足先まで届くほど長いものとなっている。上空に位置するAAAヴンダーから極細のワイヤーでマリオネットのように吊り下げられており、操縦はステアリング状の非実体コントローラーで行う。マリによる操縦のもと、空中で回転しながら両腕の機関砲を乱射する姿や、リツコたちによる旧NERVユーロ施設の復元作業を援護してEVA軍団を撃破する姿が描かれている。その後WILLEがフランスにある旧ネルフユーロ施設を復旧させたことによって回収できたパーツで失った両腕を改修され「改8号機γ」となった。ヤマト作戦決行時には超大型武装コンテナであるドラゴンキャリアと接続、Mark.07の大群との戦闘では自由落下しながら新2号機αに武装を次々と投げ渡し迎え撃つ。最大の改修点は「オーバーラッピング」に対応させたことで、これは他の機体の組織を捕食することにより捕食対象を糧とし、その機能を継承、そして自らの欠損部位を補填できるというもの。劇中では両腕を失った状態のまま、まずヴンダーに取り付き侵食していた「エヴァオップファータイプ」であるMark.09-Aの右腕を食いちぎり吸収することで自身の右腕を修復、そのまま首元から捕食していったことでアダムスの器の力を取り入れ、頭上に光輪をまとわせながら空中浮遊、マイナス宇宙への航行能力を獲得するに至った。シンジを初号機に送り届けた後、残りの3機に取り囲まれながらも圧倒する。まずMark.10の頭を丸ごと食いちぎりながら上半身を食い尽くし、左腕を修復すると同時にA.T.フィールドで巨大な虎のようなオーラを形成しMark.11の上半身を瞬時に捕食。光輪の数も捕食数にあわせて増加し、捕食シーンは描かれなかったものの、残るMark.12は劣勢となり、かなりたじろいだポーズを見せていた。最終的にオップファータイプ全4機の能力を吸収することで「8プラス9プラス10プラス11プラス12号機」となり、事実上、歴代エヴァ最強クラスの能力を得た。その能力向上は凄まじく、マイナス宇宙への航行、光線を蹴り返し、使徒と同じ強力な光線発射能力でヴンダー2番から4番艦までを次々に破壊していった。槍を届けようとするミサトの特攻とAAAヴンダーの最後を見届けた後、最終的に槍の力でエヴァが消滅していく中、海岸に座り込むシンジの前に現れた「最後のエヴァンゲリオン」となり消滅していった。唯一ヴィレの槍で貫かれる描写はなく消えていった。『シン』での咆哮などは、坂本真綾の声を加工したものを使用している。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。装甲の仕様・カラーリングは零号機に酷似している(シンジも初見時には零号機と誤認した)が、頭部のカメラアイが顔面部の大半を占めるほど極端に大きく、全体が眼球のように可動式になっているのが特徴。汎用兵器としての用途も若干残されているが、電力供給を必要としないどころか、A.T.フィールドは無く、機体全体がコアとなっていることから、全身を一度に殲滅でもされない限り頭を吹き飛ばされようが稼働に支障をきたさない上、長距離飛行用の巨大なブースターパックを有機的な変形によって背面に展開できるなど、疑似シン化形態の初号機や第13号機に近い人外の領域のエヴァンゲリオン。第13号機の覚醒後は、頭上に光輪が出現し飛行能力を発揮、さらに光線を放つようになる。WILLEからはヴンダー本来の主たる「アダムスの器」と認識されている特殊な機体である。近接戦闘時は大型の鎌を武器とする。
発艦後のヴンダーを急襲、検体として監禁されていたシンジを鹵獲し、8号機の銃撃により頭部を丸ごと吹き飛ばされてもものともせずNERV本部に連れ帰った。第13号機のセントラルドグマ降下時には、支援および復活するであろうMark.06への対処のため同行し、妨害に現れたWILLEの所有するEVA(エヴァ改2号機、エヴァ8号機)を交えて奮闘、その後第13号機が2本の槍を抜いた為Mark.06内部の第12の使徒が復活、その時にMark.06の首を切り落とした事により第12の使徒がMark.06の首から出現し、第13号機の覚醒のトリガーとなる。その後第13号機の覚醒に伴いアヤナミレイ(仮称)のコントロールを離れ、ゼーレのシステムを基に自律稼働を開始、第13号機の鎮圧に現れたヴンダーに光線を放ち、その艦橋に同調した形状の12の眼をもつ頭部を再生する、着艦後機体色をヴンダーの艦橋色に変色させる、装甲が剥がれた腹部にあるデコイのコア上に仮面のような物体を持っているなど、ヴンダーの「本来の主」としての機能を遂行する異形の形態「第1のアダムスの器(移行中間形態)ゼーレ仕様」に変貌、触手状に変異させた脚部でヴンダーの主機に干渉、浸食してシステム奪還を図ったが、獣化形態となった改2号機に噛みつかれ、アヤナミレイ(仮称)の脱出後、改2号機の自爆によって殲滅された。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。アダムスの器たる完全な同型機で、Mark.09の再生産機である「EVANGELION Mark.09-A」、NHG2~4番艦の主である「EVANGELION Mark.10」「EVANGELION Mark.11」「EVANGELION Mark.12」で構成されている。Mark.44のような使徒共通の仮面が付いているが、仮面だけを欠損した頭部の代替にしていたMark.44とは異なり、頭部に仮面が取り付けられた形となっている。仮面の形状も若干異なり、仮面に「IX」「X」「XI」「XII」の字のスリットが刻まれ、「X」の字のスリット中央部分に単眼のカメラアイがある。また、各機体は上半身部分のカラーリングがそれぞれ異なっている。また、オップファー(Opfer)とは、ドイツ語で「犠牲」の意。
超極限空間内で8号機と会敵し、全機捕食された。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。NERV本部で建造されていた。カラーリングなどは初号機に酷似しているが、改2号機γ仕様および8号機β仕様に準じる太い胴体、2段重ねになった四眼などに違いがある。リリスの結界を突破するための機体でもあり、2人乗りの「ダブルエントリーシステム」となっているのは、セントラルドグマ最深部にあるロンギヌスの槍とカシウスの槍の2つを入手するために2つの魂=2人のパイロットが必要とされるためであるとされていたが、実はDSSチョーカー作動により片方のパイロットが死亡しても、生存しているもう片方のパイロットにより覚醒を継続させるという「ゼーレの保険」としての意味合いもあった。エントリープラグは肩甲骨の部分にある挿入口から挿入され、右肩のエントリープラグで下段両眼、左肩のエントリープラグで上段両眼が開く。また、2本の槍を扱うため胸部にも1対の腕が隠されており、胸部展開時に4本腕の異形の姿となる。EVA本体はA.T.フィールドを発することは無く、機体の周囲に小型ユニット4基(モニターには「RS Hopper」と表示されている)を浮遊させ、この端末からA.T.フィールドを展開することで攻守に力を発揮する。その正体は「アダムスの生き残り」とされる。
カシウスとロンギヌスの対の槍、そしてこの機体を使えば「世界の修復」も可能だとされ、それを望むシンジとカヲルはセントラルドグマ最深部に到達し、改2号機を退けて2本の槍を手に取ろうとする。槍に違和感を覚えたカヲルが制止するもシンジは聞かず、さらにカヲルのエントリープラグのみが管制システムを切断され(この時眼が赤色へと変化する)、シンジは一人で機体を操作して強引に2本のロンギヌスの槍を引き抜いてしまう。それによりMark.06内に潜伏していた第12の使徒が復活し、侵食を受けたカヲルが第13の使徒へと堕とされる。そして最終的には第12の使徒を吸収し、初号機の擬似シン化形態をも超えた「疑似シン化第3+形態(推定)」となり、フォース・インパクトを起こしてしまう。これを止めるため、カヲルは機体に2本のロンギヌスの槍を刺し、シンジから引き取っていたDSSチョーカーの作動により死亡。それでもガフの扉は閉じず、マリが強制的にシンジのエントリープラグを射出させたことで、フォースインパクトは初期段階で抑えられ、機体は地表に向けて落下していった。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では、NERV側に回収されアディショナルインパクトのトリガーとして利用された。再起動する際、使徒化したアスカを新2号機からエントリープラグごと引き抜き吸収することで再び、「疑似シン化第3+形態(推定)」となる。その際、シキナミタイプのオリジナルが第13号機に搭乗、あるいはコアへのダイレクトエントリーをしていることが判明する。その後、ゲンドウを体内に入れマイナス宇宙へと向かい、シンジの記憶の中で覚醒した初号機と戦う。最終的には、ユイとゲンドウによりガイウスの槍に貫かれて消滅した。
『シン』で登場した、コアにEVAの腕と上下に肩部ウェポンラックが付いた物体。腕だけでカエルのように跳ね、プログレッシブ・ナイフのような武器で攻撃する。また、相手に組み付いて自爆することも可能。 起動前の第13号機に接近した2号機を攻撃、それを阻止したマリの8号機と交戦し、何体かは破壊されるも残った機体は8号機の腕に組み付いて自爆、8号機の両腕を吹き飛ばした。 劇中で全く説明のない兵器であり、『シン』のラストのEVAが次々と槍に貫かれるシーンにも登場しなかったことから、EVAとして扱われてない可能性もある。メイキング映像に映ったコンテには「腕ユニット」との記述がある。
エヴァンゲリオン・インフィニティ、エヴァンゲリオン・イマジナリーを参照。
以下は作中未登場、または映像化されていない。
『新世紀エヴァンゲリオン2』に渚カヲルが搭乗する隠し機体として登場。カヲルと4号機は実は互いに交信しており(カヲルは「彼」と呼ぶ)、NERV本部上空に現れた異空間からカヲルの呼び掛けにより姿を現す。
『新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画』および『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では相田ケンスケが搭乗。それより前の『鋼鉄のガールフレンド2』および同名の漫画でもケンスケが担当していたが、実際には搭乗せず、ゲーム版では本編同様消滅していた。
『シークレット オブ エヴァンゲリオン』では主人公であるNERV諜報部員・剣崎キョウヤの手により、S機関暴走という理由を捏造してNERV北米第2支部を丸ごと葬り、その影で密かに機体をNERV本部に搬入したという経緯で登場する。
パチンコ・パチスロでは左腕に防御兵装が追加されている。『CR新世紀エヴァンゲリオン 〜最後のシ者〜』~『モバスロ ヱヴァンゲリヲン 〜真実の翼〜』では、新劇場版の他のエヴァ同様に細部のカラーリングが異なるデザインで登場。右腕に装備した半透明のシールドで第6の使徒の加粒子砲を防ぎ、左腕に装備したロンギヌスの槍を投擲している。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)で2016年に開催された『エヴァンゲリオン・ザ・リアル4-D: 2.0』に登場。基本的なデザインはそれまでの4号機と変わらないが、山下いくとの新デザインによる両腕に装備した3本指のシールドマシン状の武器(ラピッドボーラー)を振るうほか、両腕から翼を生やして飛行する。
『ユニゾンリーグ』でのコラボや、『P新世紀エヴァンゲリオン 〜シト、新生〜』でもこちらの仕様で登場する。
ブロッコリー製作のPS2用ゲーム『名探偵エヴァンゲリオン』『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』に登場。
『名探偵エヴァンゲリオン』では乙型、『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では乙号機と呼称するが、同一の機体である。他のエヴァンゲリオンにはない翼が装備されており、自律飛行が可能。ゲーム『名探偵エヴァンゲリオン』ではゼーレ査察官渚カヲルの専用機。初登場はボウリングのピン型の死徒襲来のときで、死徒と疑われたボウリング場を破壊しようとした。また、虫歯型死徒襲来の際は3号機を死徒と疑い連行しようとした。最後のボスであり死徒として覚醒したカヲルを取り込み、ターミナルドグマで初号機と対決した。第1形態と第2形態がある。
ブロッコリー製作のPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』のエンドレスモードに、41番目の敵として登場。
ゼーレが極秘裏に開発したエヴァンゲリオンで、エヴァンゲリオン乙号機の兄弟機。背部にEVAとしては初となる円形状のビーム兵器を装備している。さらに、この武装は分離することでオールレンジ攻撃が可能。このビットは複数のサイズが存在し、すべてを合体させることで、強力なビーム砲としても使用できる。この武装は、背中に固定された状態でも使用できる。解説書では、雨龍・凱龍などと記されているが、正式名称は不明。第1形態と第2形態がある。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』本編後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』予告に登場したEVA。『シン』本編には登場しない。
8号機と2号機を融合させたニコイチ機体であり、マゴロックス(『エヴァンゲリオンANIMA』に登場する武器)を装備している。近接格闘とマゴロックスを用いて前述のMark.06に酷似したエヴァンゲリオンの大群と戦っていた。
短編映像シリーズ「日本アニメ(ーター)見本市」にて発表された短編「evangelion:Another Impact (confidential) 」に登場。
映像全編が3DCGで描かれており、デザインは竹内敦志。「どこかの時代、どこかの場所」で密かに開発されていたという設定で、それ以外の詳細は一切不明。初号機のような鋭角的なデザインの頭部で、鮫のような歯がむき出しの口、側頭部から生えた集音装置、平たい頭頂部が特徴。目は装着されたカバーで塞がれている。起動試験中に突然制御不能となり緊急停止を試みる最中、何者かによってカタパルトが開放され、無人の都市に向けて射出された。足止めにやってきた軍の戦闘機をたやすく一蹴し、綾波レイと似た「ここにいるよ」の声に導かれるかのように市街を駆け抜け、最後に空に向かって咆哮するところで映像は終了する。
(以下は映像作品には登場せず)
零号機・初号機の由来は、映画の試写における零号試写(色処理などを行っていないフィルムによる最終チェックのための試写)、初号試写(納品用の完成版フィルムの最初の試写)である。
デザインは零 - 4号機をマンガ家の山下いくと、量産機をアニメーター(劇場版メカ作監)の本田雄が手掛けている。2003年に新世紀エヴァンゲリオン企画10周年を記念して発売されたPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』用にF型装備仕様の初号機やジェット・アローン改、およびEVAの新兵装などが山下いくとの手によって追加デザインされた。なおゲーム本編には登場しないが模型雑誌の企画用にF型装備仕様の零号機と弐号機のデザイン画が描き起こされており、バンダイから商品化もされている。新劇場版では、山下により初号機と零号機の細部デザインと色彩が変更(テレビ版初期デザイン案に回帰し、そこから調整)され、また新規装備のデザインが作られた。次いで主に3DCGとの整合性を図るため、本田により新たに初号機のデザイン画が起こされている。
EVAの身長については、アニメ制作時には明確な数値が設定されておらず、「ウルトラマンと同じ身長」(40メートル)とされていた。スーパーロボット大戦シリーズへの出演にあたって明かされた設定も「40-200メートル」というものである。厳密に大きさを定めないことにより、そのシーンにおいて最も演出的に適切な作画を行うことを可能にしている。したがって、画面上に登場するさまざまなものを尺度にEVAの身長を求めても、そのシーンごとにまったく違う数値が算出される。ウルトラマンにおいても初登場時の設定は40メートルと定められているが、撮影現場ではそれを厳密に再現していない。新劇場版においては全長80メートルとしたと庵野は雑誌の対談で語っている。 | [
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"text": "汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン(はんようひとがたけっせんへいき じんぞうにんげんエヴァンゲリオン)は、日本のアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』および『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とその派生作品に登場する架空の兵器(人造人間)である。略称は、エヴァンゲリオン、EVA。",
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"text": "使徒と呼ばれる生命体の殲滅を目的として製造された汎用人型決戦兵器である。ロボットではなく人造人間と呼称され、アダムもしくはリリスと呼ばれる「生命の起源」を人類がコピーして作った巨大な生命体を、本来の力を抑え込むための拘束具を兼ねた装甲板で人型になるように覆ったものである。A.T.フィールドを展開する使徒に対して、人類が保有する唯一の対抗手段とされる。",
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"text": "語源は「福音」を意味するギリシア語のエウアンゲリオン(εὐαγγέλιον, euangelion)に由来する。またその頭3文字を取った略称Evaは、聖書の創世記に登場する最初の女性である「エバ(イヴ)」にもかけられている。",
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"text": "機体番号表記については日本国内で建造されたEVA零-弐号機(弐号機は、設計・部品建造を日本で行い、ドイツでは組み立てのみを行った)は漢数字(大字)で、日本国外で建造されたEVA3号機-13号機はアラビア数字で表記するという設定が存在しており、脚本や漫画版、スーパーロボット大戦シリーズなどでは一貫して、これに則した表記がなされている。一方、漫画『新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd』やゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』、『スーパーロボット大戦F完結編』、バンダイから発売された「プラモデル」、「超合金魂」や、海洋堂から発売された「リボルテック」では「3号機」を「参号機」と表記している。",
"title": "機体解説"
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"text": "人間が愛情を抱くときに使うとされるA10神経を介した神経接続によるコントロールシステムを採用している。稼働状況は機体とパイロットの「シンクロ率」により左右される。機体が受けたダメージはパイロットにフィードバックされ、痛みを感じたり負傷したりする。しかも、最悪の場合死に至る事がある。神経接続やシンクロ率は発令所から操作でき、例えば第18話ではシンクロ率のカットが指示されている。また、第19話ではパイロットの意志で発令所からのコントロールを受け付けないように一部の機能をロックしていた。",
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"text": "パイロットは細長いカプセル状のコクピット容器エントリープラグ内部のプラグインテリアに搭乗する。プラグはEVAの首の付け根から脊髄に挿入され、先端にはEVAの中枢神経に接続するための神経接続用探査針があり、この探査針を介してEVAとパイロットの神経系の同調がなされる。プラグは緊急脱出装置を兼ねており、緊急時には挿入口から射出されロケットモーターで離脱、パラシュートにより着地する。プラグ内はL.C.L.と呼ばれる液体で満たされており、それが外部を映すスクリーン、神経接続の媒介物質、衝撃緩和液として機能する。また、パイロットはL.C.L.を肺に取り込むことで体に直接酸素を供給される(液体呼吸の項を参照)。なお凍結中の零号機には、巨大な十字架の付いた停止信号(凍結)プラグが挿入されていた。",
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"text": "パイロットの座るシートの両脇には機体制御や射撃管制に用いる2本のコントロールレバーが設けられている。このグリップを引き起こして展開することで機体を高機動モードに切り替えることができる。シート後方には巨大なディスクドライブが搭載され、操縦に関するシステムや、自爆プログラムやダミーシステムも書き込まれている。シート前方の下部にはエントリープラグの内壁に接するような形状の安定フィンがあり、インテリアはシンクロ率に応じてプラグ内を前後するようになっている。プラグの容量的には複数人が入ることも可能だが、パイロット本人以外の存在はシンクロに影響する(第3話、第8話)。",
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"text": "操縦の際、パイロットは脳と機体を神経接続するインターフェイス・ヘッドセットを頭部に装着し、シンクロ補助や生命維持などのシステムが内蔵されたプラグスーツを着用する。プラグスーツを着用せずにEVAに搭乗・出撃するシーンでもインターフェース・ヘッドセットは装着している(第1話、第19話。第13話では実験のため両方とも非着用)。",
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"paragraph_id": 8,
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"text": "搭乗者は、原則として「母親のいない(母親の魂がEVAのコアに同化している)14歳の子供」に限定して選出される。EVAにはそれぞれ固有パルスのパターン(パーソナルパターン)があり、パイロットもそれに似たパターンの保持者でなければならない。違うパターンの保持者が搭乗した場合、09システム(オーナインシステム)と比喩されるように、起動確率は0.000000001%であるため、起動する可能性は“ゼロではない”が、ほぼないと言ってよい。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "EVAのコア内には通常、パイロットとEVAをリンクさせるための介在としてパイロットの母親の魂が入っている。開発過程において、魂までコピーできなかったEVAを操縦するにあたり、パイロットが魂の役割となった。しかしながら通常パイロットだけでは、EVA=神の肉体と魂たる人間とでは格差がありすぎるために上手く動かせず、きちんとした性能を発揮できない。そして開発の初期段階にEVAと接触実験を行った碇ユイと惣流・キョウコ・ツェッペリンはいずれも事故を起こし、前者は肉体ごと初号機と同一化して消失、後者は魂の大部分を弐号機内に奪われ、魂が不完全になったキョウコは発狂・自殺してしまう。しかしながら、これらのEVAのコア内に残された魂を介在とし、彼女らの子をパイロットにすることで、EVAとパイロットとの「格差」はなくなり、初めて安定した接続が可能となった。EVAのパイロットが原則として1体につき1人しかいないのはこの事情による。なお渚カヲルは例外で、アダムから作られてかつ魂がない、または引きこもっている機体ならば自由に操ることができる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "零号機と初号機はパーソナルパターンが酷似しており、第14話ではパイロットを交換しての起動実験が行われた。レイと初号機のペアに問題はなかったものの、シンジと零号機のペアは実験中に暴走事故を起こし失敗した。この実験の成果からレイのパーソナルを人工的に再現しエヴァにパイロットがいると思い込ませるダミーシステムが開発され、第18話で戦闘を拒否したシンジに代わって初号機を操縦し第13使徒バルディエルを殲滅した。ただし第19話では初号機にレイが搭乗して出撃しようとするものの初号機にシンクロを拒絶され失敗、ダミーシステムを搭載したダミープラグによる起動も同様に失敗している。劇場版で登場した量産機は、渚カヲルのパーソナルデータを用いたダミープラグを使用していた。弐号機に関しては、第10話でレイがアスカに代わって弐号機で出撃する旨の発言をしているが、第14話に「弐号機の互換性が効かない」というセリフがあり実際には稼働させられないらしい。漫画版では第1話でレイが初号機に乗ってサキエルと交戦している。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "背部に接続されたアンビリカルケーブルからの電力供給で稼働する。予備電源を内蔵しており、ケーブルからの電力供給を失ってもフルで1〜3分程度、ゲインを利用すれば5分の活動が可能。また肩に外付けの大型バッテリーを装着することにより、ケーブルなしでの稼働時間を延長することができる。なお初号機は第19話で第14使徒ゼルエルを捕食しS機関を獲得したが、第23話ではケーブルを装着して出撃している。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 12,
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"text": "使徒と同様、A.T.フィールドを展開することができる。A.T.フィールドは機体周囲を取り巻くバリアの一種であり、機体への物理的干渉のほか強力なものになると第10使徒サハクィエルや第17使徒タブリスのように電磁波すら通さなくなる。至近距離ではA.T.フィールド同士を中和させることによって防御壁を無効化できる。EVAが使徒に対して唯一有効な対抗策とされるのはこのため。 以上のように物理面に影響を及ぼすA.T.フィールドは防御以外にも攻撃手段として用いられている描写もみられる。劇場版では弐号機が戦略自衛隊の航空機に対しての攻撃手段としてカッターのように用いている。ゲームソフト『新世紀エヴァンゲリオン2』のF型装備では武装や推進部をA.T.フィールド自体を動力として活用している。 人型の汎用機体なので、刀剣や銃火器など人間の使う武器と同様の武装を装備できる。 全身が装甲に覆われているが、この装甲の真の目的は防具ではなく拘束具としてEVAの暴走を阻止することである。 対使徒戦のみならず通常の人間同士の戦闘でも圧倒的な戦力であることに加え、その製造・運用には莫大な利権が生じることから、世界各国が製造権・保有権を巡って争っており、劇中で3号機・4号機は米国が製造権を主張して半ば強引に製造していたことが示されている。新劇場版ではEVAの保有数や技術転用を規制する国際条約「バチカン条約」が登場した。",
"title": "特徴"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "最初に製作されたプロトタイプで、当初は肩部ウェポンラックなどの装備もされていない。起動実験中に暴走事故を起こしたため凍結されていたが、第5話で凍結解除。第6話でヤシマ作戦に投入され、初号機を荷粒子砲から庇って大破した。その後の修復に伴って弐号機と同じ形状の装甲板と肩部ウェポンラックを取り付け機体色も青に変更する改装を施され、第11話の第9使徒マトリエル戦から再び実戦投入される。この実戦用形態は商品化される際などは零号機(改)と呼ばれ、第1話よりオープニングフィルムに登場している。肩部ウェポンラックにブースターが搭載されている(ただしこれは高所からのショック吸収用で、飛翔能力は無い)。第23話の第16使徒アルミサエル戦において使徒の物理的浸食を受け、使徒もろとも自爆し第3新東京市と共に完全に破壊された。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "制作元については、第22話において赤木ナオコが「アダムより人の造りしもの」として脊椎と頭部、腕部だけのプロトタイプの零号機を紹介したこと、劇場版25話においてキール・ローレンツが「唯一、リリスの分身たるEVA初号機」と発言していることからアダムより作られたとする説と、アダムと呼ばれていたものが実はリリスであったことからリリスより作られたとする説がある。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "コアについては、現在までに公表された設定資料中には明言したものはない。ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』では、コアに魂が入っておらず、レイがシンクロに長期間を要したのはそれが理由であると解説されている。ただしその改良版であるPSP版ではこの理由について「レイに母親が存在しないこと」「コアのシステムが未完成であること」とされており、零号機のコアの魂の有無には言及されていない。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "EVAシリーズの中でリリスより製作された唯一の機体。EVAシリーズのテストタイプ。搭乗者の生命に危機が迫ると、たとえバッテリー切れの状態であっても突如コアが反応して搭乗者の意思に関係無く暴走し、その際自らの力で顎部ジョイントを破壊し口を開け、咆哮を挙げる。第19話にて第14使徒ゼルエル戦の最中、覚醒した初号機が使徒を捕食してS機関を取り込んでからは、無限の活動時間を得る。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "初起動は第3使徒サキエル戦であるが、起動前にエントリープラグ未挿入の状態であるにもかかわらず、腕を動かして落下物からシンジを守る。初シンクロ時にプラグスーツの補助なしに41.3%と高シンクロ率を示すも、左手首を折られ、右眼を光の槍に貫かれて中破、その後暴走し(1度目の暴走)、左手首の自己再生、使徒のA.T.フィールドを侵蝕・中和などの圧倒的戦闘力を見せつけて使徒を殲滅した。第4使徒シャムシエル戦では初のEVA専用火器を使用するも効果はなく、ミサトの制止を振り切って活動限界時間一杯までのプログレッシブ・ナイフでの接近戦闘にて辛くも殲滅、第5使徒ラミエル戦は一度は敗北するもののヤシマ作戦にて零号機と共に殲滅、旧東京市都心の第28放置區域でミサトの援護により、暴走したJ.A.(ジェットアローン)を制止、第7使徒イスラフェル戦は弐号機が作戦に加わり、両機体の動きを同調させるユニゾン特訓の末、使徒を殲滅。第9使徒マトリエル、第10使徒サハクィエルは、戦列に復帰した零号機と3機で殲滅、第12使徒レリエル戦では、敵の本体である影に取り込まれてディラックの海を彷徨うが、シンジの生命維持に危険が迫ったことで碇ユイの魂が目覚め、2度目の暴走を起こして上空に浮かぶレリエルの影を引き裂いて殲滅し帰還した。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 18,
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"text": "第13使徒バルディエル戦では、トウジの乗るエヴァとの戦闘を拒んだシンジに業を煮やしたゲンドウが彼のエントリープラグにダミーシステムを起動し、バルディエルを3号機ごと無惨に解体・殲滅、そのことにショックを受けたシンジが怒りのあまり初号機の機体内に篭城してゲンドウに謝罪を要求するも、ゲンドウの命令でL.C.L.の圧縮濃度を限界まで上昇させられて強制排除された。この事件以降、シンジが搭乗を拒否したため、第14使徒ゼルエル戦では代わりにレイが搭乗するも、ユイの魂がシンジ以外を拒絶、以前はシンクロ可能であったレイやダミープラグすらも受け付けなくなったが、第14使徒ゼルエル戦での戦闘で弐号機、零号機の無惨な結果を目撃し、加持に諭されたシンジは再び初号機に搭乗、左腕を失いつつも敵を追い込むもついに電源が切れて停止したが、シンジの声に反応するかのように再起動し3度目の暴走、再起動した際シンクロ率が400%を超え、ゼルエルの腕を引きちぎり、その腕を自らの左腕へ変換した後、ゼルエルのA.T.フィールドを破壊、ゼルエルを捕食しS機関を獲得、この戦いで初号機は覚醒を果たし、他のEVAとは一線を画す存在へと変化した。その後、再度の暴走を警戒したゼーレの命令により使用を凍結されたが、第16使徒アルミサエル戦で物理的融合されそうな零号機を救出するため、ゲンドウが独断で凍結解除を発令したことで戦闘へと復帰、第17使徒タブリス戦では、タブリス(渚カヲル)が外部から操る弐号機と交戦、弐号機の撃退後、タブリス(渚カヲル)を殲滅する。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "劇場版第25話では戦略自衛隊がシンジと初号機との接触を絶つためにケージに注入した硬化ベークライトに拘束され搭乗できなくなっていたが、弐号機が量産機に捕食されている際に無人のまま起動し、ベークライトを破壊してシンジを搭乗させ、ジオフロント内に出現、劇場版第26話では、弐号機の無残な姿を見たシンジに触発され暴走(4度目の暴走)、背に四枚の十字翼型A.T.フィールドを展開し、A.T.フィールドを背負ったままシンジのデストルドーにより地球の衛星軌道上にあったロンギヌスの槍を召喚、その状態をゼーレに利用されてサードインパクトを引き起こし、そのまま人類補完計画を発現させてしまったが、シンジがその世界を望まなかったため、初号機は同化したリリスから分離して地球を包み込むほどの巨大な12枚の赤い翼を展開、リリスと黒き月を崩壊させ、自らが持つロンギヌスの槍と量産機が持って共鳴させていたロンギヌスの槍のコピーをすべて破壊し、人類補完計画を破局させた後、搭乗していたシンジを地球に残し、石化して宇宙へと旅立った。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "ゼルエル戦において暴走し四つん這いになって瀕死のゼルエルに這い寄っていくシーンがあるが、これは監督が「餓鬼をイメージして描いて欲しい」とアドバイスしたためである。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "アニメ版ではレイが搭乗したのは機体相互互換試験および対ゼルエル戦で出撃しようとした時のみだが(後者は初号機にシンクロを拒絶されている)、貞本義行による漫画版では第1話でレイが搭乗して出撃、シンジとミサトを救うシーンがある。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "暴走時などに発する声は、林原めぐみの声を加工したものを使用している。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "アダムより製作された、エヴァンゲリオンの量産化を前提として開発された、いわば先行量産機。アスカの言葉を借りるなら「本物のエヴァンゲリオン」と呼べる機体である。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "フルパワー時には頭部拘束具が一部展開、素体の4つ目を露わにする。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "NERVドイツ第3支部で組み立てられ、第8話においてNERV日本本部に移送中、第6使徒ガギエルの攻撃を受けたためアスカの判断で起動、初戦を勝利で飾った。その後、他の2体と共に使徒殲滅に当たっていたが、第13使徒バルディエル戦では一瞬の躊躇をつかれ敗北、第14使徒ゼルエル戦においては一切の攻撃が通じず両腕と頭部を切断されて大破、この連敗とその両者を倒したのが双方とも初号機であったことによりアスカのプライドに綻びが生じ、シンクロ率が下がり始め、修理はされたものの、第15使徒アラエル戦においてアスカが精神的ダメージを受けたためさらにシンクロ率が低下、第16使徒アルミサエル戦では起動すらできない状態となり、その後廃人と化したアスカの代わりにやってきたフィフスチルドレンにして第17使徒タブリス=渚カヲルの力により無人で起動、彼に従いセントラルドグマへ侵入するが、追ってきた初号機と戦闘になり、初号機によって首筋と頭にプログ・ナイフを突き刺されて活動を停止させられた。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "劇場版第25話ではアスカを保護するべくエントリープラグに載せてジオフロント内の地底湖底に配置される。そこに戦略自衛隊の爆雷攻撃が行われたことがアスカに死の恐怖からくる生への執着を蘇らせる。それに弐号機内のアスカの母の魂が呼応し、母の存在を感じたアスカは復活、周囲の戦略自衛隊を壊滅させたがアンビリカルケーブルは切断されてしまう。そのあと弐号機殲滅に投入されたS機関搭載の量産型EVAシリーズ9機に対して内部電源の3分30秒でほぼ全てを撃破する活躍をみせたが、1機が放ったロンギヌスの槍(コピー版)がA.T.フィールドを貫通、頭部に直撃し同時に制限時間の活動限界を迎えてしまう。身動きの取れない弐号機は再起動したEVAシリーズに鳥葬のごとく内臓を食い尽くされ、アスカの「(量産機を)殺してやる...!」という強烈な意思が暴走(覚醒)を引き起こしかけるも、最後は8本の槍によって串刺しにされ完全に沈黙する。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "テレビシリーズでは山下いくとがデザインを担当し、劇場版では本田雄が再デザインしたため微妙に外観が異なっている。分冊百科「エヴァンゲリオン・クロニクル」ではこの違いを第17使徒タブリス戦で負った損傷の修復に伴うものとしている。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "漫画版では渚カヲルがアルミサエル戦で乗機とする(アスカの精神崩壊がアラエル戦直後にされたため)。レイの零号機と同様にアルミサエルの浸食を受けるが、カヲルの力により同化は免れる。この戦いでデュアルソーに物理融合したアルミサエルによって左足を切断されている。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "デザインの着想はシューティングゲームのPCエンジン版『超兄貴』に登場する「エル&トポ」から得られている。デザイナーは「常にEVAにはダイバーのようなイメージをもっている」とのこと。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "アダムより製作された。米国NERV第1支部製。頭部以外は弐号機と同じで、頭部は角が無い以外は初号機と似ている(プラモデルの説明書にあるラフスケッチには、初号機の後頭部にある部分と似た物体が描かれている)。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "米国支部から日本本部へ移送中に第13使徒バルディエルに寄生され(積乱雲に潜んでいたとされる)、松代で起動実験中に使徒として覚醒、第3新東京市に向けて活動を開始する。零号機、弐号機を活動不能に陥れるが、ダミープラグによって暴走した初号機との戦闘の末、原形を留めないほどに破壊される。最後にトウジが閉じ込められたエントリープラグは、初号機によって握り潰される。搭乗していたトウジの結末は、テレビシリーズでは左脚切断の重傷、漫画では死亡と展開が異なるが、これはテレビシリーズプロデューサーの大月俊倫が番組製作前に出した、「どんな内容でも構わないが、子供が死ぬようなアニメだけは見たくない」という要望を受けてのものである。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ただ、大月は3号機の登場シーンを、オンエアから2年経った1997年になっても見ておらず、存在も知らなかったため、新宿で打ち上げに参加した際、バンダイからリリースされたプラモデルシリーズの中に見知らぬ「黒いエヴァンゲリオン(=3号機)」があるのに気付いて、「誰が許可したんだ、こんなもの」「なんで、こんなのあるんだ」「メーカーが勝手にこんなん作りおって」などと憤慨したという。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』では、条件を満たすことでトウジが3号機のパイロットとして戦列に加わる。その後も条件によっては使徒に寄生されずに最後まで運用される。また、いくつかのシナリオでは、スタート時点から3号機パイロットとなっている。N64版では、ゲームモードによっては選択・使用が可能。スーパーロボット大戦シリーズに登場する場合は、イベントによってはバルディエルを浄化して正式運用される場合もある。ただし、初登場した『スーパーロボット大戦F完結編』では、バルディエルとしての3号機ではないが、敵として登場する。『スーパーロボット大戦α』での武装は後述のプラモデル化された際に付属した武器の数と種類が同一である。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、プラモデル(LMHGシリーズ)では、使徒侵食前の3号機と、使徒侵食後の3号機(第13使徒バルディエル)版があり、腕パーツと一部パーツ以外は共通となっている。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "第17話で存在が言及されるのみ。アダムより製作されたが、米国NERV第2支部での試験中、S機関の暴走により、周りの関連研究施設と共に消滅する。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "テレビシリーズでは言及のみで外観描写は無かったが、プラモデル化の際に設定された。形状は3号機と同一であり、カラーリングはシルバー。ゲームなどに登場する4号機に関しては後述。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "アダムより製作された、通常「EVAシリーズ」と呼称される9体の量産型機。カヲルがベースとなったダミープラグにより稼動する。S機関を搭載しており、活動時間に限界は無い。収納展開が自在な翼を背面に内蔵しており、自力飛行が可能。携帯武器は諸刃の剣(脚本では槍となっている)であるが、これはロンギヌスの槍のレプリカを変形させたもので必要に応じて本来の姿に戻る。前述の理由により内部電源が不要になったことに加えロンギヌスの槍を得物として持つためプログレッシブ・ナイフなどの存在価値が薄いゆえにウェポンラックを装備していないのも特徴である。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "眼の無いウナギのような頭部が特徴。また、エントリープラグ挿入口や全体的なデザインが他のEVAと異なっている。これは零〜4号機を山下いくとがデザインしたのに対し、量産機のデザインは本田雄が手掛けたことによる。再起動や捕食、再生など、EVA初号機の暴走状態と非常に酷似した行動パターンを持つ。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
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{
"paragraph_id": 39,
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"text": "劇場版第25話では、ジオフロント内の戦略自衛隊を壊滅させた弐号機に対抗するために輸送機から投下され弐号機と交戦。弐号機の圧倒的な戦闘力の前に次々と一旦は撃破されていったが、弐号機の活動限界間際に9号機が放ったロンギヌスの槍によって弐号機の頭部を串刺しにする。動けない弐号機に対し全機再起動、再生した量産機は弐号機を鳥葬のごとく捕食した後、全機で上空からロンギヌスの槍を突き刺し葬る。第26話では、レイと同化したリリスからのアンチA.T.フィールドにより、リリス(=レイ)と同化、頭部にいびつに歪んだレイの顔が表出する。その後、初号機を依代にし、サードインパクトを誘発させ各機自らのコアにロンギヌスの槍を突き刺しS機関を共鳴、およびアンチA.T.フィールドを展開。地球上の人間、全てのA.T.フィールドを無力化し、人類全てをL.C.L.へと還元させるが、初号機によって量産機のロンギヌスの槍は全て破壊される。その後量産機は全て活動を停止、石化し地上へと降下する。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "見た目での区別はつかないが、脚本や絵コンテでは9体の量産機はそれぞれ全て機体番号で区別されている。製作地は、5、6号機がドイツ、8号機が中国である。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "弐号機によって破壊された順番は9号機(頭部を潰され背骨を折られる)、11号機(プログ・ナイフを頭部に突き刺される)、7号機(プログ・ナイフで右手を切断され首をへし折られる)、6号機(諸刃の剣で袈裟懸けに斬られる)、12号機(諸刃の剣で腹部から上下に切断される)、8号機(諸刃の剣で左足を切断される)、10号機(ニードルガンで頭部を刺される)、5号機(喉元を握りつぶされ13号機と同時にみぞおちを貫通される)、13号機(5号機越しにコアを鷲掴みにされる)である。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "漫画版ではSTAGE:81より登場。劇場版第25話同様、復活したアスカの駆る弐号機と死闘を繰り広げる。しかし戦闘力は劇場版を上回っており、劇場版では全機とも一度撃破されているが、漫画版では弐号機を劣勢に追い込んだだけでなく弐号機の機能停止までに三機生き残っている。また再生能力も遥かに強力になっており、初号機と弐号機に与えられたダメージを短時間で完全に回復させている。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "量産型のプラモデルは2種類存在しており、通常版は頭部パーツが2種類の形状の交換式で武器は諸刃の剣、「最終戦仕様」版は頭部の口が開閉可能なギミックがあり武器がロンギヌスの槍(コピー)である、という違いがある。",
"title": "EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』)"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "4部作のタイトルは「ヱヴァンゲリヲン」であるが、作中における機体の正式名称は「エヴァンゲリオン」である。また本作では、局地仕様である封印監視特化型限定兵器の仮設5号機や、ヒト型ですらないMark.04シリーズが存在し、EVANGELIONというカテゴリ自体には「汎用ヒト型決戦兵器」という意味合いは含まれておらず、一部の機体の仕様名称となっている。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "『新世紀エヴァンゲリオン』における「コア」は本作では「コアユニット」と呼称されており、設定がテレビシリーズとは異なっている。このコアユニットは機体から分離可能であり、封印時には取り外される。また『新世紀エヴァンゲリオン』ではEVAにコアが存在する事実は第14使徒戦まで一部の人間を除いて知らされていなかったが、本作ではシンジの初号機初起動時にはコアユニットの言及がある。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "『破』以降では、パイロットの意志でEVAに備わったリミッターを解除し、パイロットへの負担と引き換えにさらなる力を引き出すコマンドである裏コードが登場した。頭上に光輪が出現し飛行や光線を発射する能力を獲得する覚醒という状態も登場した。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "当初は内部電源での活動時間は5分(フル・ゲイン利用の区別は言及なし)でアンビリカルケーブルからの電源供給が途絶えるとモニターに活動限界までの残り時間が表示されていたが、『Q』ではケーブルを接続せずに活動していても残り時間の表示はない。WILLE所属のEVAは内部電源が10%まで減ると警告表示と共にパワーセーブモードに切り替わり旧世紀版や『破』までのように時間切れと共に動けなくなるというわけではなくなっているほか、「スペア」と呼ばれる器具で右手首から内部電源の充電をする描写がある。NERV所属のEVAはアンビリカルケーブルを含めた電力供給に関する描写がなく、『シン』ではWILLE所属のEVAも活動限界に関する描写はない。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "『Q』にて、EVAのパイロットとなった少年少女たちはエヴァの呪縛を受けるという新設定が登場した。これにより、頭髪以外の身体の変化が新陳代謝を含めてなくなる・リリンの近寄れないL結界密度の高い場所でも活動できるようになるなどの影響がある。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "基本的なデザインは『新世紀エヴァンゲリオン』と同様だが、改装・就役後もカラーリングが変更されないまま、2号機と同じ肩部ウェポンラックと胸部アーマーが装備された。第10の使徒戦でN弾頭装備のミサイルを抱えて特攻するも撃破出来ず、全身を焼かれ立ち尽くしているところを第10の使徒に膝から上を捕食され、レイごと取り込まれてしまう。ただし不要な頭部は、吐き捨てられた。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "細部のデザインやカラーが変更された以外は『新世紀エヴァンゲリオン』と同じ。シンジの身に危険が迫ると暴走する点も同じだが、レリエルに相当する使徒が登場しない関係で、作中の暴走回数は2回となっている。新武装としてガトリング砲を用いるが、第5の使徒に有効な打撃は与えられなかった。また第6の使徒戦のモニターから、固有波形パターンは「Blue**A'」であることがわかる。第10の使徒戦では、「世界がどうなっても綾波だけは助ける」というシンジの意志の下、擬似シン化第1覚醒形態へと変化。シンジにコントロールされた状態で秘めた能力を開放した。その際は拘束具の蛍光グリーンの部分が赤に変色し、頭上に天使の輪のような光輪(エンジェル・ハイロウ)が出現。A.T.フィールドで形成した左腕を変化させての攻撃や、両目から光線を放つなど使徒のような攻撃を見せ、使徒のコアから零号機のコアをレイごと摘出した。プラグ深度は180以上にも達しており、リツコをして「人の域を超えた」と言わしめた。まもなく、レイの姿を取った巨大なヒト型(サルベージされた零号機のコアを基点に、形象崩壊した使徒の体液が集まったもの)と融合し、セカンドインパクト時に出現した4体の光の巨人と酷似した三眼の光の巨人「擬似シン化第2形態」へ到達してサードインパクトを発生させかけたが、月面から降下してきたMark.06が投げたカシウスの槍によって初期段階で阻止され、ニア・サードインパクトに留められた。その後、シンジとレイをエントリープラグ内に取り込んだまま活動を停止、凍結される。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "その後は封印の棺に入れられ、大気圏外にコア化状態で封印されていたが、反NERV組織WILLE(ヴィレ)が奪取作戦を展開、封印から14年が経過しても完全に覚醒状態が治まったわけではなく、作戦中危機に陥ったアスカのシンジへの叫びに呼応するかのようにMark.04Bに向けて光線を発射・撃破し、改2号機を支援した。接収後は取り込まれ身体を失ったシンジの身体をサルベージした後、WILLEの空中戦艦AAAヴンダーの主機として組み込まれた。この時点でのシンジとの深層シンクロテスト結果は0.00%であり、シンジが搭乗しても起動することはないとリツコが述べているものの、作戦中の再起動を危惧したWILLE上層部の判断により、シンジの首にDSSチョーカー(EVAの覚醒を感知すると、パイロットを殺して覚醒状態を解除させる首輪)が付けられた上に、検体としての扱いを受けることになった。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 52,
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"text": "南極での戦闘でヴンダーが大破した後、ゲンドウと第13号機によって初号機は回収される。この時初号機は赤色にコア化しており四肢は切断されている。シンジが搭乗を希望するにあたって、『Q』で0%とされたシンクロ率は、実は0に限りなく近い値無限大であったとされた。シンジの操縦でゲンドウの第13号機と対峙するも打ち勝てず、両者の精神対話の後「エヴァの要らない世界にする」というシンジの意思を受け継いだ碇ユイによってゲンドウとユイは自らガイウスの槍(WILLEの槍)を身体に貫き、消滅した。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "初号機・零号機同様カラーリングが若干変更されると共に、額部に短い角飾りが追加されている。NERVユーロ支部で建造された後日本本部へ移送、その最中の第7の使徒登場に伴い輸送機から即交戦に入り見事勝利、以来零号機・初号機と組んで使徒殲滅にあたるが、3号機の到着によって「各国はEVAを3体までしか所有出来ない」というバチカン条約に抵触、ユーロ支部の命令で一度凍結された。新武器として超電磁洋弓銃、サンダースピアを使用したほか、左右両方のウェポンラック内部にナイフホルダー、および連装ニードルガンのペンシルロックを固定装備として格納してあり、劇中で最も多種多様な武装を使用した。第10の使徒襲来においては、マリが凍結を無断解除してアスカの代わりに搭乗。裏コード「ザ・ビースト」により「獣化第2形態(第1種)」へと変形し、第10の使徒のA.T.フィールドを全て破壊するなど奮戦するも、第10の使徒の圧倒的戦闘力には及ばず左腕と右顔面を失い中破、避難していたシンジをシェルターからジオフロントに連れ出した後、活動を停止した。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "『Q』では第10の使徒戦で失った右顔面・左腕を機械パーツで補修した、サイボーグじみた(あるいはサイバネティックス化した)外貌の「改2号機」として登場。8号機と共にWILLE所有となり、戦況に応じて装甲・武装を換装する仕様が取られるなど、NERV所有のEVAと比較し汎用兵器としての側面が強くなっている。バッテリーが切れると戦闘不可になるが、完全に動けなくなるわけではないため自分で予備のバッテリーパックを用いて電力補給が可能。劇中冒頭では、左腕義手として巻き取り式ロープガン、本体の2.4倍以上の超巨大な背部ブースターを装備し、宇宙空間での活動に特化した「改2号機β」として登場、宇宙空間でMark.04からの攻撃を躱し、8号機の支援も受けた末に初号機の奪還に成功、水中でのヴンダー主機点火作業以降は、本物の腕より一回り太い形状(前腕部以降をガトリングガンへと換装可能)の左腕義手および、β仕様以前より堅牢な装甲を装備した「改2号機γ」として運用された。ヴンダーの動力炉に強制点火したり、新装備である双刃の薙刀を振るってMark.09や第13号機との戦闘を行なうなど奮闘、「アダムスの器」としてヴンダー奪還を図ったMark.09を止めるべく、「コード777(トリプルセブン)」のモードチェンジにより、前作『破』での獣化第2形態(第1種)からさらに尻尾やネコ科の獣のような牙が発生した「獣化第4形態(第2種)」へと変形し奮戦、アヤナミレイ(仮称)の脱出後体内にガトリングガンを撃ち込むも、Mark.09の全身がコアであるためすぐに再生されてしまい、最終的にMark.09もろとも自爆、機体の一部のみが8号機とともに回収された。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 55,
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"text": "『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では「新2号機α」として登場。本体は頭部、上半身、コア部分のみ再生・修復しており、序盤でユーロNERV本部から回収したJ.A.-02の本体と半ば強引に組み合わせることで重機化し、動力炉も機体の背部から突き出す形でJ.A.リアクターをそのまま流用しており稼働時間を延伸、巨大な重火器とバックパックを装備している。劇中ではヤマト作戦開始直前に改8号機γと共にぎりぎり形になり旧南極のNERV本部にてMark.07の大群と戦闘する。脚部と背面にあるミサイルや改8号機γから次々に投げ渡される武装を駆使しながら迎撃、群となりドリル状に押し寄せるMark.07の大群を改8号機γとのA.T.フィールドの連携技で壊滅させる。強制停止信号プラグを起動前の第13号機に打ち込もうとするも新2号機α自身のA.T.フィールドに妨害され、それを打ち破るため「裏コード999(スリーナイン)」を発動。この時アスカは左目の眼帯を外し、眼の中に埋め込まれていた小型の使徒封印用呪詛柱を引き抜いて封印されていた第9使徒の力を開放、さらに機体にエンジェルブラッド(使徒の血)を注入することで覚醒を果たし、使徒と融合することで新2号機αを強化した。上半身の生体パーツは左腕をA.T.フィールドで再構成しながら機械部分から抜け出し、大爆発のあと本体を輝かせながら膨張、使徒とエヴァが融合を果たし人の形を捨てた異形の姿となる。この際に第9使徒の特徴的な長い腕が背面から生え、新2号機のA.T.フィールドを中和した直後、起動した第13号機により全腕を吹き飛ばされて内部から破裂、急激にしぼみ込んだところでエントリープラグを抜き取られ第13号機に取り込まれながら首から下がL.C.L.となり崩壊する。頭部のみヴンダーの甲板に打ち上げられた。『破』の獣化第2形態時の声は、坂本真綾の声を加工したものを使用している。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 56,
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"text": "『シン』Blu-ray映像特典の『EVANGELION:3.0(-46h)』では「2号機α 臨時暫定仕様」として登場。エヴァインフィニティーに襲われていた幼少期のミドリを救出した。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 57,
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"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場。フェイスマスクが赤色になっているなど、旧世紀版とは細部カラーリングが異なる。旧世紀版ではシンジの親友である鈴原トウジが搭乗したが、新劇場版ではアスカが搭乗する。初号機のダミーシステム(旧世紀版ではダミープラグ)により機体はバラバラに引きちぎられるが、手で握りつぶす描写だったエントリープラグの破壊は、噛み潰される描写へと変わっている。新劇場版における各部の変更点については『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を参照。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。複数のタイプが存在し、いずれも従来のヒト型のEVAとは形状がまったく異なる。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"text": "『Q』に登場するものは、コアブロックと呼ばれる弱点を複数備えた円盤状の本体に、EVAの下半身や脚部・肩部ウェポンラックに酷似するディテールを備えたデザインとなっている。また、固有波形パターンは使徒と同じ青とされるが、モニター上ではニアリーイコールとなっている。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 60,
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"text": "『シン』に登場するものは、複数のEVAを組み合わせた外見をしており、使われるEVAの数に応じて4の数が増えていく。『Q』のものよりは元がEVAであることがうかがえるが、EVAの頭部は欠損しており、使徒共通の仮面がその代わりに付けられているなど、異形ぶりを増した外観となっている。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 61,
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"text": "なお、『破』で存在が示唆された4号機との関連性は不明。こちらは稼働時間の限界を延長する(新劇場版ではS機関という表現はされていない)試験機であったが、事故によって北米第二支部と共に蒸発したとされる。試験内容の詳細はリツコですらほとんど知らされておらず、事故との見解にも加持が疑義を示している。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場するEVA。名称が示す通り、汎用性に優れた他のEVAと大きく異なり、NERV・ベタニアベースに封印されている第3の使徒の封印監視を目的に、同施設内での運用に特化した特殊な形態・機能を持つ。急造品の機体であるためか、プラグスーツは旧式で、シンクロ開始時に苦痛を伴う。加えて、インテリアと腕部がケーブルでつながれていてパイロットの身体の動きが制限される、インダクションレバーのトリガーの数が多いなど、機体制御や操縦システムに粗が目立つ。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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{
"paragraph_id": 63,
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"text": "頭部と胴部は従来のEVAとほぼ同様の形状をしているが、下半身は4本足の多脚型で先端には車輪のようなものがあり、狭い空間でスムーズに旋回などを行うことが可能。脚部にはブースターノズルを装備している。また、胴体の下部にはカバーで覆われたドリルが二つ装備されており、緊急時の急減速の際にはカバーを排除し地面に突き立ててブレーキ代わりに使用する。腕はヒジから先が二本爪のマニピュレーターを備えた義手として機械化されており、さらに右腕はこの義手を差し込む形で保持される長大なランス(対使徒専用殲滅兵器「簡易式ロンギヌスの槍(似非復元型)」)を装備している。ただし、これらの仕様はマリに言わせると「鈍重」「パワー不足」とのこと。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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{
"paragraph_id": 64,
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"text": "機体の特性上アンビリカルケーブルは無く、代わりに肩部ウェポンラックの先端にあるトロリーポールによって電力を得ており、そこから背面へ伸びるケーブルによって本体に電力を供給している。背面にはSSTOに似たシルエットを持つ脱出ユニットを背負っている。エントリープラグが挿入口から射出され、ユニットと連結、その後にユニットに装備されているブースターが点火され機体から分離し飛行するというシークエンスで脱出が行われる。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 65,
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"text": "『破』冒頭で、復活した第3の使徒と交戦。地下の「辺獄エリア」から「アケロンエリア」への脱走を許すも、マニピュレーターで使徒のコアを握り潰す。その際、稼動状態がフルパワーに達したためか、暴走時の初号機と同様に顎部の拘束具を引きちぎりながら口を開く描写がある。直後にマリは自爆プログラムを起動し自らはエントリープラグごと脱出、機体を道連れに自爆し、使徒を殲滅した。劇中ではこの一件自体が5号機と第3の使徒を葬り去るためにゲンドウらの指示で加持リョウジが工作したものであることが示されている。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 66,
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"text": "システムボイスはMAIが担当している。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 67,
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"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のラストシーンにおいて登場する月面の黒い巨人をベースに建造された。建造中の巨人の頭部の仮面は旧世紀版の第2使徒リリスのものと酷似している。ゲンドウ曰く「建造方式が他とは違う」エヴァンゲリオンである。『破』の序盤では月面のタブハベースにて建造中であり、建造現場上空をゲンドウと冬月が視察に訪れたが、ゼーレが上陸を拒否している。ゼーレが「真のエヴァンゲリオン」と呼称し、当初NERVに報告することなく建造が進められていた。終盤で完成、カヲルが搭乗してNERV本部上空に飛来。サードインパクトを起こしつつあった初号機を手にしたカシウスの槍で停止させた(ニアサードインパクト)。『序』『破』の予告では「エヴァ6号機」と、劇中では「マークシックス」(Mark.06)と呼称されている。バイザー内部には初号機と似たような形状の双眼がある。また、覚醒した初号機と同様に頭上に光輪を持ち飛行能力を有する。本機以前のエヴァンゲリオンよりひと回り大きく見える描写があるが、実際に設定上のサイズ差が存在するかは不明。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』から『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』までの劇中経過年数14年のうちに自律型へ改造され、セントラルドグマ最深部でサードインパクトの起点となったが、加持リョウジの犠牲によって自らのコアとリリスの胸を槍で貫き停止した。その後、サードインパクト停止時に頭部と破断したリリスの胴体とともにセントラルドグマ最深部に放置されていた。第13号機により槍を引き抜かれた際に、体内の第12の使徒が活動を再開するが、アヤナミレイ(仮称)の乗るMark.09によって首を落とされ、Mark.06は活動を停止する(体外に出た第12の使徒は第13号機に吸収された上で、コアは噛み砕かれた)。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
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"paragraph_id": 69,
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"text": "『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のCパート、ヤマト作戦において登場するEVA。WILLEからは「エヴァ7シリーズ」と呼称された。人間の頭蓋骨のような頭部を模し、セカンドインパクトの爆心地にWILLEが降下する際、無数に現れた。武器は持たず、噛み付いて攻撃することから一つの単調な指令の下にプログラムされていると思われる。単縦陣の44Aのように自ら群体を形成して、一本のドリルに構築して攻撃する行動が見受けられたが、アスカとマリのダブルA.T.フィールドによって一掃される。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
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"paragraph_id": 70,
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"text": "山下いくとによると、当初はコアのみでA.T.フィールドを発生させる機能しかないエヴァとして7号機のデザイン案をしたが、後にそのデザイン案は44Bや4444Cとして採用されたとのこと。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
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"paragraph_id": 71,
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"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』本編後の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』予告にて初登場。予告においては、「胎動するエヴァ8号機とそのパイロット」とあり、錨型のバイザーを装備する頭部、初号機・Mark.06同様の角らしき物、耳およびイヤリングのような意匠、初号機と同様の睫毛のような模様、頭上の光輪など『Q』本編と異なる外観で登場していた。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では、初号機の起こしたニア・サードインパクトから14年後、反NERV組織であるWILLEが運用している。「ヴィレカスタム」の表記から、元々NERVが建造していたがWILLE結成時に強奪されたと思われるが、詳しいことは明らかにされていない。『Q』序盤は14年前に運用されていた2号機と同じようなボディの「8号機α」として登場。後に改修を受け、「8号機β」となった。こちらはボディが太くなったほか、手首から腕にかけて篭手のような防具が追加されている。劇中ではロングバレルの超長距離ライフルやハンドガンといった銃器を用いたほか、予備のバッテリーパックなどを運搬して改2号機をバックアップした。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 73,
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"text": "『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の冒頭では「8号機β 臨時戦闘形態」として登場。本来の8号機の胸から腹にかけての部分には大量の包帯が巻かれており、両腕は胸から背を一周するリング状の装甲とジャッキ状の細いパーツで接続された多数のウェポンラックやプロペラントタンク付きスラスターを装備し、足先まで届くほど長いものとなっている。上空に位置するAAAヴンダーから極細のワイヤーでマリオネットのように吊り下げられており、操縦はステアリング状の非実体コントローラーで行う。マリによる操縦のもと、空中で回転しながら両腕の機関砲を乱射する姿や、リツコたちによる旧NERVユーロ施設の復元作業を援護してEVA軍団を撃破する姿が描かれている。その後WILLEがフランスにある旧ネルフユーロ施設を復旧させたことによって回収できたパーツで失った両腕を改修され「改8号機γ」となった。ヤマト作戦決行時には超大型武装コンテナであるドラゴンキャリアと接続、Mark.07の大群との戦闘では自由落下しながら新2号機αに武装を次々と投げ渡し迎え撃つ。最大の改修点は「オーバーラッピング」に対応させたことで、これは他の機体の組織を捕食することにより捕食対象を糧とし、その機能を継承、そして自らの欠損部位を補填できるというもの。劇中では両腕を失った状態のまま、まずヴンダーに取り付き侵食していた「エヴァオップファータイプ」であるMark.09-Aの右腕を食いちぎり吸収することで自身の右腕を修復、そのまま首元から捕食していったことでアダムスの器の力を取り入れ、頭上に光輪をまとわせながら空中浮遊、マイナス宇宙への航行能力を獲得するに至った。シンジを初号機に送り届けた後、残りの3機に取り囲まれながらも圧倒する。まずMark.10の頭を丸ごと食いちぎりながら上半身を食い尽くし、左腕を修復すると同時にA.T.フィールドで巨大な虎のようなオーラを形成しMark.11の上半身を瞬時に捕食。光輪の数も捕食数にあわせて増加し、捕食シーンは描かれなかったものの、残るMark.12は劣勢となり、かなりたじろいだポーズを見せていた。最終的にオップファータイプ全4機の能力を吸収することで「8プラス9プラス10プラス11プラス12号機」となり、事実上、歴代エヴァ最強クラスの能力を得た。その能力向上は凄まじく、マイナス宇宙への航行、光線を蹴り返し、使徒と同じ強力な光線発射能力でヴンダー2番から4番艦までを次々に破壊していった。槍を届けようとするミサトの特攻とAAAヴンダーの最後を見届けた後、最終的に槍の力でエヴァが消滅していく中、海岸に座り込むシンジの前に現れた「最後のエヴァンゲリオン」となり消滅していった。唯一ヴィレの槍で貫かれる描写はなく消えていった。『シン』での咆哮などは、坂本真綾の声を加工したものを使用している。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。装甲の仕様・カラーリングは零号機に酷似している(シンジも初見時には零号機と誤認した)が、頭部のカメラアイが顔面部の大半を占めるほど極端に大きく、全体が眼球のように可動式になっているのが特徴。汎用兵器としての用途も若干残されているが、電力供給を必要としないどころか、A.T.フィールドは無く、機体全体がコアとなっていることから、全身を一度に殲滅でもされない限り頭を吹き飛ばされようが稼働に支障をきたさない上、長距離飛行用の巨大なブースターパックを有機的な変形によって背面に展開できるなど、疑似シン化形態の初号機や第13号機に近い人外の領域のエヴァンゲリオン。第13号機の覚醒後は、頭上に光輪が出現し飛行能力を発揮、さらに光線を放つようになる。WILLEからはヴンダー本来の主たる「アダムスの器」と認識されている特殊な機体である。近接戦闘時は大型の鎌を武器とする。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "発艦後のヴンダーを急襲、検体として監禁されていたシンジを鹵獲し、8号機の銃撃により頭部を丸ごと吹き飛ばされてもものともせずNERV本部に連れ帰った。第13号機のセントラルドグマ降下時には、支援および復活するであろうMark.06への対処のため同行し、妨害に現れたWILLEの所有するEVA(エヴァ改2号機、エヴァ8号機)を交えて奮闘、その後第13号機が2本の槍を抜いた為Mark.06内部の第12の使徒が復活、その時にMark.06の首を切り落とした事により第12の使徒がMark.06の首から出現し、第13号機の覚醒のトリガーとなる。その後第13号機の覚醒に伴いアヤナミレイ(仮称)のコントロールを離れ、ゼーレのシステムを基に自律稼働を開始、第13号機の鎮圧に現れたヴンダーに光線を放ち、その艦橋に同調した形状の12の眼をもつ頭部を再生する、着艦後機体色をヴンダーの艦橋色に変色させる、装甲が剥がれた腹部にあるデコイのコア上に仮面のような物体を持っているなど、ヴンダーの「本来の主」としての機能を遂行する異形の形態「第1のアダムスの器(移行中間形態)ゼーレ仕様」に変貌、触手状に変異させた脚部でヴンダーの主機に干渉、浸食してシステム奪還を図ったが、獣化形態となった改2号機に噛みつかれ、アヤナミレイ(仮称)の脱出後、改2号機の自爆によって殲滅された。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。アダムスの器たる完全な同型機で、Mark.09の再生産機である「EVANGELION Mark.09-A」、NHG2~4番艦の主である「EVANGELION Mark.10」「EVANGELION Mark.11」「EVANGELION Mark.12」で構成されている。Mark.44のような使徒共通の仮面が付いているが、仮面だけを欠損した頭部の代替にしていたMark.44とは異なり、頭部に仮面が取り付けられた形となっている。仮面の形状も若干異なり、仮面に「IX」「X」「XI」「XII」の字のスリットが刻まれ、「X」の字のスリット中央部分に単眼のカメラアイがある。また、各機体は上半身部分のカラーリングがそれぞれ異なっている。また、オップファー(Opfer)とは、ドイツ語で「犠牲」の意。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "超極限空間内で8号機と会敵し、全機捕食された。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
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"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。NERV本部で建造されていた。カラーリングなどは初号機に酷似しているが、改2号機γ仕様および8号機β仕様に準じる太い胴体、2段重ねになった四眼などに違いがある。リリスの結界を突破するための機体でもあり、2人乗りの「ダブルエントリーシステム」となっているのは、セントラルドグマ最深部にあるロンギヌスの槍とカシウスの槍の2つを入手するために2つの魂=2人のパイロットが必要とされるためであるとされていたが、実はDSSチョーカー作動により片方のパイロットが死亡しても、生存しているもう片方のパイロットにより覚醒を継続させるという「ゼーレの保険」としての意味合いもあった。エントリープラグは肩甲骨の部分にある挿入口から挿入され、右肩のエントリープラグで下段両眼、左肩のエントリープラグで上段両眼が開く。また、2本の槍を扱うため胸部にも1対の腕が隠されており、胸部展開時に4本腕の異形の姿となる。EVA本体はA.T.フィールドを発することは無く、機体の周囲に小型ユニット4基(モニターには「RS Hopper」と表示されている)を浮遊させ、この端末からA.T.フィールドを展開することで攻守に力を発揮する。その正体は「アダムスの生き残り」とされる。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "カシウスとロンギヌスの対の槍、そしてこの機体を使えば「世界の修復」も可能だとされ、それを望むシンジとカヲルはセントラルドグマ最深部に到達し、改2号機を退けて2本の槍を手に取ろうとする。槍に違和感を覚えたカヲルが制止するもシンジは聞かず、さらにカヲルのエントリープラグのみが管制システムを切断され(この時眼が赤色へと変化する)、シンジは一人で機体を操作して強引に2本のロンギヌスの槍を引き抜いてしまう。それによりMark.06内に潜伏していた第12の使徒が復活し、侵食を受けたカヲルが第13の使徒へと堕とされる。そして最終的には第12の使徒を吸収し、初号機の擬似シン化形態をも超えた「疑似シン化第3+形態(推定)」となり、フォース・インパクトを起こしてしまう。これを止めるため、カヲルは機体に2本のロンギヌスの槍を刺し、シンジから引き取っていたDSSチョーカーの作動により死亡。それでもガフの扉は閉じず、マリが強制的にシンジのエントリープラグを射出させたことで、フォースインパクトは初期段階で抑えられ、機体は地表に向けて落下していった。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では、NERV側に回収されアディショナルインパクトのトリガーとして利用された。再起動する際、使徒化したアスカを新2号機からエントリープラグごと引き抜き吸収することで再び、「疑似シン化第3+形態(推定)」となる。その際、シキナミタイプのオリジナルが第13号機に搭乗、あるいはコアへのダイレクトエントリーをしていることが判明する。その後、ゲンドウを体内に入れマイナス宇宙へと向かい、シンジの記憶の中で覚醒した初号機と戦う。最終的には、ユイとゲンドウによりガイウスの槍に貫かれて消滅した。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "『シン』で登場した、コアにEVAの腕と上下に肩部ウェポンラックが付いた物体。腕だけでカエルのように跳ね、プログレッシブ・ナイフのような武器で攻撃する。また、相手に組み付いて自爆することも可能。 起動前の第13号機に接近した2号機を攻撃、それを阻止したマリの8号機と交戦し、何体かは破壊されるも残った機体は8号機の腕に組み付いて自爆、8号機の両腕を吹き飛ばした。 劇中で全く説明のない兵器であり、『シン』のラストのEVAが次々と槍に貫かれるシーンにも登場しなかったことから、EVAとして扱われてない可能性もある。メイキング映像に映ったコンテには「腕ユニット」との記述がある。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "エヴァンゲリオン・インフィニティ、エヴァンゲリオン・イマジナリーを参照。",
"title": "EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』)"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "以下は作中未登場、または映像化されていない。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "『新世紀エヴァンゲリオン2』に渚カヲルが搭乗する隠し機体として登場。カヲルと4号機は実は互いに交信しており(カヲルは「彼」と呼ぶ)、NERV本部上空に現れた異空間からカヲルの呼び掛けにより姿を現す。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "『新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画』および『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では相田ケンスケが搭乗。それより前の『鋼鉄のガールフレンド2』および同名の漫画でもケンスケが担当していたが、実際には搭乗せず、ゲーム版では本編同様消滅していた。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "『シークレット オブ エヴァンゲリオン』では主人公であるNERV諜報部員・剣崎キョウヤの手により、S機関暴走という理由を捏造してNERV北米第2支部を丸ごと葬り、その影で密かに機体をNERV本部に搬入したという経緯で登場する。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "パチンコ・パチスロでは左腕に防御兵装が追加されている。『CR新世紀エヴァンゲリオン 〜最後のシ者〜』~『モバスロ ヱヴァンゲリヲン 〜真実の翼〜』では、新劇場版の他のエヴァ同様に細部のカラーリングが異なるデザインで登場。右腕に装備した半透明のシールドで第6の使徒の加粒子砲を防ぎ、左腕に装備したロンギヌスの槍を投擲している。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)で2016年に開催された『エヴァンゲリオン・ザ・リアル4-D: 2.0』に登場。基本的なデザインはそれまでの4号機と変わらないが、山下いくとの新デザインによる両腕に装備した3本指のシールドマシン状の武器(ラピッドボーラー)を振るうほか、両腕から翼を生やして飛行する。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "『ユニゾンリーグ』でのコラボや、『P新世紀エヴァンゲリオン 〜シト、新生〜』でもこちらの仕様で登場する。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ブロッコリー製作のPS2用ゲーム『名探偵エヴァンゲリオン』『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』に登場。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "『名探偵エヴァンゲリオン』では乙型、『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では乙号機と呼称するが、同一の機体である。他のエヴァンゲリオンにはない翼が装備されており、自律飛行が可能。ゲーム『名探偵エヴァンゲリオン』ではゼーレ査察官渚カヲルの専用機。初登場はボウリングのピン型の死徒襲来のときで、死徒と疑われたボウリング場を破壊しようとした。また、虫歯型死徒襲来の際は3号機を死徒と疑い連行しようとした。最後のボスであり死徒として覚醒したカヲルを取り込み、ターミナルドグマで初号機と対決した。第1形態と第2形態がある。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "ブロッコリー製作のPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』のエンドレスモードに、41番目の敵として登場。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ゼーレが極秘裏に開発したエヴァンゲリオンで、エヴァンゲリオン乙号機の兄弟機。背部にEVAとしては初となる円形状のビーム兵器を装備している。さらに、この武装は分離することでオールレンジ攻撃が可能。このビットは複数のサイズが存在し、すべてを合体させることで、強力なビーム砲としても使用できる。この武装は、背中に固定された状態でも使用できる。解説書では、雨龍・凱龍などと記されているが、正式名称は不明。第1形態と第2形態がある。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』本編後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』予告に登場したEVA。『シン』本編には登場しない。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "8号機と2号機を融合させたニコイチ機体であり、マゴロックス(『エヴァンゲリオンANIMA』に登場する武器)を装備している。近接格闘とマゴロックスを用いて前述のMark.06に酷似したエヴァンゲリオンの大群と戦っていた。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "短編映像シリーズ「日本アニメ(ーター)見本市」にて発表された短編「evangelion:Another Impact (confidential) 」に登場。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "映像全編が3DCGで描かれており、デザインは竹内敦志。「どこかの時代、どこかの場所」で密かに開発されていたという設定で、それ以外の詳細は一切不明。初号機のような鋭角的なデザインの頭部で、鮫のような歯がむき出しの口、側頭部から生えた集音装置、平たい頭頂部が特徴。目は装着されたカバーで塞がれている。起動試験中に突然制御不能となり緊急停止を試みる最中、何者かによってカタパルトが開放され、無人の都市に向けて射出された。足止めにやってきた軍の戦闘機をたやすく一蹴し、綾波レイと似た「ここにいるよ」の声に導かれるかのように市街を駆け抜け、最後に空に向かって咆哮するところで映像は終了する。",
"title": "その他EVAシリーズ"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "(以下は映像作品には登場せず)",
"title": "武装"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "零号機・初号機の由来は、映画の試写における零号試写(色処理などを行っていないフィルムによる最終チェックのための試写)、初号試写(納品用の完成版フィルムの最初の試写)である。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "デザインは零 - 4号機をマンガ家の山下いくと、量産機をアニメーター(劇場版メカ作監)の本田雄が手掛けている。2003年に新世紀エヴァンゲリオン企画10周年を記念して発売されたPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』用にF型装備仕様の初号機やジェット・アローン改、およびEVAの新兵装などが山下いくとの手によって追加デザインされた。なおゲーム本編には登場しないが模型雑誌の企画用にF型装備仕様の零号機と弐号機のデザイン画が描き起こされており、バンダイから商品化もされている。新劇場版では、山下により初号機と零号機の細部デザインと色彩が変更(テレビ版初期デザイン案に回帰し、そこから調整)され、また新規装備のデザインが作られた。次いで主に3DCGとの整合性を図るため、本田により新たに初号機のデザイン画が起こされている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "EVAの身長については、アニメ制作時には明確な数値が設定されておらず、「ウルトラマンと同じ身長」(40メートル)とされていた。スーパーロボット大戦シリーズへの出演にあたって明かされた設定も「40-200メートル」というものである。厳密に大きさを定めないことにより、そのシーンにおいて最も演出的に適切な作画を行うことを可能にしている。したがって、画面上に登場するさまざまなものを尺度にEVAの身長を求めても、そのシーンごとにまったく違う数値が算出される。ウルトラマンにおいても初登場時の設定は40メートルと定められているが、撮影現場ではそれを厳密に再現していない。新劇場版においては全長80メートルとしたと庵野は雑誌の対談で語っている。",
"title": "その他"
}
] | 汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオンは、日本のアニメーション作品『新世紀エヴァンゲリオン』および『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』とその派生作品に登場する架空の兵器(人造人間)である。略称は、エヴァンゲリオン、EVA。 | '''汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン'''(はんようひとがたけっせんへいき じんぞうにんげんエヴァンゲリオン)は、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|日本のアニメーション作品]]『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』および『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版]]』とその[[派生作品]]に登場する[[架空]]の[[兵器]]([[人造人間]])である。[[略語|略称]]は、'''エヴァンゲリオン'''、'''EVA'''<ref group="注">作品自体の略称は「エヴァ」もしくは「EVA」であるが、本項で取り扱う'''兵器としての'''「汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」の略称表記は公式の資料や関連書籍上ではアルファベットの「EVA」でほぼ統一されており、本記事でもそれに準ずることとする。</ref>。
== 機体解説 ==
[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)|使徒]]と呼ばれる生命体の殲滅を目的として製造された汎用人型決戦[[兵器]]である。ロボットではなく[[人造人間]]と呼称され、アダムもしくはリリスと呼ばれる「生命の起源」を人類がコピーして作った巨大な生命体を、本来の力を抑え込むための拘束具を兼ねた装甲板で人型になるように覆ったものである。[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#A.T.フィールド|A.T.フィールド]]を展開する使徒に対して、人類が保有する唯一の対抗手段とされる。
語源は「[[福音書|福音]]」を意味する[[ギリシア語]]の'''エウアンゲリオン'''({{lang|el|εὐαγγέλιον}}, euangelion)に由来する<ref>[https://www.evangelion.co.jp/1_0/chara.html ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 公式サイト キャラクター相関図]より。</ref>。またその頭3文字を取った略称Evaは、[[聖書]]の[[創世記]]に登場する最初の女性である「[[アダムとエバ|エバ]](イヴ)」にもかけられている。
機体番号表記については日本国内で建造されたEVA零-弐号機(弐号機は、[[ノックダウン生産|設計・部品建造を日本で行い、ドイツでは組み立てのみを行った]])は漢数字([[大字 (数字)|大字]])で、日本国外で建造されたEVA3号機-13号機はアラビア数字で表記するという設定が存在しており、脚本や漫画版、[[スーパーロボット大戦シリーズ]]などでは一貫して、これに則した表記がなされている。一方、漫画『[[新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd]]』やゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン2]]』、『[[スーパーロボット大戦F|スーパーロボット大戦F完結編]]』、バンダイから発売された「[[プラモデル]]」、「[[超合金 (玩具)|超合金魂]]」や、[[海洋堂]]から発売された「[[リボルテック]]」では「3号機」を「参号機」と表記している。
== 特徴 ==
=== 操縦系 ===
人間が愛情を抱くときに使うとされる[[ドーパミン作動性ニューロン|A10神経]]を介した神経接続によるコントロールシステムを採用している{{Efn2|このシステムは、貞本義行が当時鑑賞していたテレビ番組『[[驚異の小宇宙 人体II 脳と心]]』から着想を得ている<ref>月刊少年エース2002年12月号付録「お貞本」より。</ref>。}}。稼働状況は機体とパイロットの「シンクロ率」により左右される。機体が受けたダメージはパイロットにフィードバックされ、痛みを感じたり負傷したりする。しかも、最悪の場合死に至る事がある。神経接続やシンクロ率は発令所から操作でき、例えば第18話ではシンクロ率のカットが指示されている。また、第19話ではパイロットの意志で発令所からのコントロールを受け付けないように一部の機能をロックしていた。
パイロットは細長いカプセル状のコクピット容器'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#エントリープラグ|エントリープラグ]]'''内部の'''プラグインテリア'''に搭乗する。プラグはEVAの首の付け根から脊髄に挿入され、先端にはEVAの中枢神経に接続するための神経接続用探査針があり、この探査針を介してEVAとパイロットの神経系の同調がなされる。プラグは緊急脱出装置を兼ねており、緊急時には挿入口から射出されロケットモーターで離脱、パラシュートにより着地する。プラグ内はL.C.L.と呼ばれる液体で満たされており、それが外部を映すスクリーン、神経接続の媒介物質、衝撃緩和液として機能する。また、パイロットはL.C.L.を肺に取り込むことで体に直接酸素を供給される([[液体呼吸]]の項を参照)。なお凍結中の零号機には、巨大な[[十字架]]の付いた停止信号(凍結)プラグが挿入されていた。
パイロットの座るシートの両脇には機体制御や射撃管制に用いる2本のコントロールレバーが設けられている。このグリップを引き起こして展開することで機体を高機動モードに切り替えることができる。シート後方には巨大なディスクドライブが搭載され、操縦に関するシステムや、自爆プログラムやダミーシステムも書き込まれている。シート前方の下部にはエントリープラグの内壁に接するような形状の安定フィンがあり、インテリアはシンクロ率に応じてプラグ内を前後するようになっている。プラグの容量的には複数人が入ることも可能だが、パイロット本人以外の存在はシンクロに影響する(第3話、第8話)。
操縦の際、パイロットは脳と機体を神経接続する'''インターフェイス・ヘッドセット'''を頭部に装着し、シンクロ補助や生命維持などのシステムが内蔵された'''プラグスーツ'''を着用する。プラグスーツを着用せずにEVAに搭乗・出撃するシーンでもインターフェース・ヘッドセットは装着している(第1話、第19話。第13話では実験のため両方とも非着用)。
=== パイロット ===
搭乗者は、原則として「母親のいない(母親の魂がEVAのコアに同化している)14歳の子供」に限定して選出される。EVAにはそれぞれ固有パルスのパターン(パーソナルパターン)があり、パイロットもそれに似たパターンの保持者でなければならない。違うパターンの保持者が搭乗した場合、09システム(オーナインシステム)と比喩されるように、起動確率は'''0.000000001'''%であるため、起動する可能性は“ゼロではない”が、ほぼないと言ってよい。
EVAのコア内には通常、パイロットとEVAをリンクさせるための介在としてパイロットの母親の魂が入っている。開発過程において、魂までコピーできなかったEVAを操縦するにあたり、パイロットが魂の役割となった。しかしながら通常パイロットだけでは、EVA=神の肉体と魂たる人間とでは格差がありすぎるために上手く動かせず、きちんとした性能を発揮できない。そして開発の初期段階にEVAと接触実験を行った碇ユイと惣流・キョウコ・ツェッペリンはいずれも事故を起こし、前者は肉体ごと初号機と同一化して消失、後者は魂の大部分を弐号機内に奪われ、魂が不完全になったキョウコは発狂・自殺してしまう。しかしながら、これらのEVAのコア内に残された魂を介在とし、彼女らの子をパイロットにすることで、EVAとパイロットとの「格差」はなくなり、初めて安定した接続が可能となった。EVAのパイロットが原則として1体につき1人しかいないのはこの事情による。なお渚カヲルは例外で、アダムから作られてかつ魂がない、または引きこもっている機体ならば自由に操ることができる。
零号機と初号機はパーソナルパターンが酷似しており、第14話ではパイロットを交換しての起動実験が行われた。レイと初号機のペアに問題はなかったものの、シンジと零号機のペアは実験中に暴走事故を起こし失敗した。この実験の成果からレイのパーソナルを人工的に再現しエヴァにパイロットがいると思い込ませる'''ダミーシステム'''が開発され、第18話で戦闘を拒否したシンジに代わって初号機を操縦し第13使徒バルディエルを殲滅した。ただし第19話では初号機にレイが搭乗して出撃しようとするものの初号機にシンクロを拒絶され失敗、ダミーシステムを搭載したダミープラグによる起動も同様に失敗している。劇場版で登場した量産機は、渚カヲルのパーソナルデータを用いたダミープラグを使用していた。弐号機に関しては、第10話でレイがアスカに代わって弐号機で出撃する旨の発言をしているが、第14話に「弐号機の互換性が効かない」というセリフがあり実際には稼働させられないらしい。漫画版では第1話でレイが初号機に乗ってサキエルと交戦している。
=== 動力 ===
背部に接続された'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#アンビリカルケーブル|アンビリカルケーブル]]'''からの電力供給で稼働する。予備電源を内蔵しており、ケーブルからの電力供給を失ってもフルで1〜3分程度、ゲイン{{efn2|エヴァンゲリオン・クロニクル新装版 2号22頁によれば、増幅器を使用した信号電力の増加を指す。}}を利用すれば5分の活動が可能。また肩に外付けの大型バッテリーを装着することにより、ケーブルなしでの稼働時間を延長することができる。なお初号機は第19話で第14使徒ゼルエルを捕食しS<sup>2</sup>機関を獲得したが、第23話ではケーブルを装着して出撃している。
=== 性能 ===
使徒と同様、'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#A.T.フィールド|A.T.フィールド]]'''を展開することができる。A.T.フィールドは機体周囲を取り巻く[[シールド (サイエンス・フィクション)|バリア]]の一種であり、機体への物理的干渉のほか強力なものになると第10使徒サハクィエルや第17使徒タブリスのように[[電磁波]]すら通さなくなる。至近距離ではA.T.フィールド同士を中和させることによって防御壁を無効化できる。EVAが使徒に対して唯一有効な対抗策とされるのはこのため。
以上のように物理面に影響を及ぼすA.T.フィールドは防御以外にも攻撃手段として用いられている描写もみられる。劇場版では弐号機が戦略自衛隊の航空機に対しての攻撃手段としてカッターのように用いている。ゲームソフト『新世紀エヴァンゲリオン2』のF型装備では武装や推進部をA.T.フィールド自体を動力として活用している。
人型の汎用機体なので、刀剣や銃火器など人間の使う武器と同様の武装を装備できる。
全身が装甲に覆われているが、この装甲の真の目的は防具ではなく拘束具としてEVAの暴走を阻止することである。
対使徒戦のみならず通常の人間同士の戦闘でも圧倒的な戦力であることに加え、その製造・運用には莫大な利権が生じることから、世界各国が製造権・保有権を巡って争っており、劇中で3号機・4号機は米国が製造権を主張して半ば強引に製造していたことが示されている。新劇場版ではEVAの保有数や技術転用を規制する国際条約「バチカン条約」が登場した。
== EVAシリーズ(『新世紀エヴァンゲリオン』) ==
=== <span id="零号機"></span>零号機(EVA-00 PROTO TYPE) ===
* 搭乗者:
** [[綾波レイ]]{{Sfn|CHRONICLE 02|2010}}
** [[碇シンジ]](機体相互互換試験のみ){{Sfn|CHRONICLE 15|2010}}
* 機体色:山吹色{{Sfn|CHRONICLE 02|2010}}→青(改){{Sfn|CHRONICLE 15|2010}}
* 眼:単眼
* コア(魂):作中では言及無し
* 初登場話数:第5話
最初に製作された[[プロトタイプ]]で、当初は肩部ウェポンラックなどの装備もされていない。起動実験中に暴走事故を起こしたため凍結されていたが、第5話で凍結解除。第6話でヤシマ作戦に投入され、初号機を荷粒子砲から庇って大破した。その後の修復に伴って弐号機と同じ形状の装甲板と肩部ウェポンラックを取り付け機体色も青に変更する改装を施され、第11話の第9使徒マトリエル戦から再び実戦投入される。この実戦用形態は商品化される際などは'''零号機(改)'''{{Sfn|CHRONICLE 15|2010}}と呼ばれ、第1話よりオープニングフィルムに登場している。肩部ウェポンラックにブースターが搭載されている(ただしこれは高所からのショック吸収用で、飛翔能力は無い)。第23話の第16使徒アルミサエル戦において使徒の物理的浸食を受け、使徒もろとも自爆し[[第3新東京市]]と共に完全に破壊された。
制作元については、第22話において赤木ナオコが「'''アダムより人の造りしもの'''」として脊椎と頭部、腕部だけのプロトタイプの零号機を紹介したこと、劇場版25話においてキール・ローレンツが「'''唯一、リリスの分身たるEVA初号機'''」と発言している{{Efn2|ただし、この時点で零号機は自爆し破壊されているため、「現存しているEVAの中で唯一」という意味である可能性もある。}}ことからアダムより作られたとする説と、アダムと呼ばれていたものが実はリリスであったことからリリスより作られたとする説がある。
コアについては、現在までに公表された設定資料中には明言したものはない。ゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン2]]』では、コアに魂が入っておらず、レイがシンクロに長期間を要したのはそれが理由であると解説されている。ただしその改良版であるPSP版ではこの理由について「レイに母親が存在しないこと」「コアのシステムが未完成であること」とされており、零号機のコアの魂の有無には言及されていない。
* 頭部と脊椎のみの失敗作がNERV本部の地下(ターミナルドグマ)に大量廃棄されている{{Sfn|CHRONICLE 02|2010}}。
* 改装前の山吹色の由来は、海軍飛行実験部所属機や[[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線]]の[[ドクターイエロー]]など、試作段階や試験用の機体、[[事業用車両]]などにこの色が多く使われることによる。
=== <span id="初号機"></span>初号機(EVA-01 TEST TYPE) ===
* 搭乗者:
** [[碇シンジ]]{{Sfn|CHRONICLE 01|2010}}
** 綾波レイ(機体相互互換試験、第14使徒ゼルエル戦{{Efn2|ただし後述の通り起動せず出撃はしていない。}}のみ)
* 機体色:紫{{Sfn|CHRONICLE 01|2010}}
* 眼:双眼
* コア(魂):碇ユイ{{Sfn|CHRONICLE 01|2010}}
* 初登場話数:第1話
EVAシリーズの中でリリスより製作された唯一の機体{{Sfn|CHRONICLE 29|2010}}{{Efn2|ただし前述の通り零号機もリリスより制作されていた場合、その限りではない。}}。EVAシリーズのテストタイプ{{Sfn|CHRONICLE 01|2010}}。搭乗者の生命に危機が迫ると、たとえバッテリー切れの状態であっても突如コアが反応して搭乗者の意思に関係無く'''暴走'''し、その際自らの力で顎部ジョイントを破壊し口を開け、咆哮を挙げる。第19話にて第14使徒ゼルエル戦の最中、覚醒した初号機が使徒を捕食して'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#S2機関|S<sup>2</sup>機関]]を取り込んで'''からは、無限の活動時間を得る{{Sfn|CHRONICLE 06|2010}}。
初起動は第3使徒サキエル戦であるが、起動前にエントリープラグ未挿入の状態であるにもかかわらず、腕を動かして落下物からシンジを守る。初シンクロ時にプラグスーツの補助なしに'''41.3%'''と高シンクロ率を示すも、左手首を折られ、右眼を光の槍に貫かれて中破、その後暴走し(1度目の暴走)、左手首の自己再生、使徒のA.T.フィールドを侵蝕・中和などの圧倒的戦闘力を見せつけて使徒を殲滅した。第4使徒シャムシエル戦では初のEVA専用火器を使用するも効果はなく、ミサトの制止を振り切って活動限界時間一杯までのプログレッシブ・ナイフでの接近戦闘にて辛くも殲滅、第5使徒ラミエル戦は一度は敗北するもののヤシマ作戦にて零号機と共に殲滅、旧東京市都心の第28放置區域でミサトの援護により、暴走したJ.A.(ジェットアローン)を制止、第7使徒イスラフェル戦は弐号機が作戦に加わり、両機体の動きを同調させるユニゾン特訓の末、使徒を殲滅。第9使徒マトリエル、第10使徒サハクィエルは、戦列に復帰した零号機と3機で殲滅、第12使徒レリエル戦では、敵の本体である影に取り込まれてディラックの海を彷徨うが、シンジの生命維持に危険が迫ったことで碇ユイの魂が目覚め、2度目の暴走を起こして上空に浮かぶレリエルの影を引き裂いて殲滅し帰還した。
第13使徒バルディエル戦では、トウジの乗るエヴァとの戦闘を拒んだシンジに業を煮やしたゲンドウが彼のエントリープラグにダミーシステムを起動し、バルディエルを3号機ごと無惨に解体・殲滅、そのことにショックを受けたシンジが怒りのあまり初号機の機体内に篭城してゲンドウに謝罪を要求するも、ゲンドウの命令でL.C.L.の圧縮濃度を限界まで上昇させられて強制排除された。この事件以降、シンジが搭乗を拒否したため、第14使徒ゼルエル戦では代わりにレイが搭乗するも、ユイの魂がシンジ以外を拒絶、以前はシンクロ可能であったレイやダミープラグすらも受け付けなくなったが、第14使徒ゼルエル戦での戦闘で弐号機、零号機の無惨な結果を目撃し、加持に諭されたシンジは再び初号機に搭乗、左腕を失いつつも敵を追い込むもついに電源が切れて停止したが、シンジの声に反応するかのように再起動し3度目の暴走、再起動した際シンクロ率が'''400%'''を超え、ゼルエルの腕を引きちぎり、その腕を自らの左腕へ変換した後、ゼルエルのA.T.フィールドを破壊、ゼルエルを捕食しS<sup>2</sup>機関を獲得、この戦いで初号機は覚醒を果たし、他のEVAとは一線を画す存在へと変化した。その後、再度の暴走を警戒したゼーレの命令により使用を凍結されたが、第16使徒アルミサエル戦で物理的融合されそうな零号機を救出するため、ゲンドウが独断で凍結解除を発令したことで戦闘へと復帰、第17使徒タブリス戦では、タブリス(渚カヲル)が外部から操る弐号機と交戦、弐号機の撃退後、タブリス(渚カヲル)を殲滅する。
劇場版第25話では戦略自衛隊がシンジと初号機との接触を絶つためにケージに注入した硬化ベークライトに拘束され搭乗できなくなっていたが、弐号機が量産機に捕食されている際に無人のまま起動し、ベークライトを破壊してシンジを搭乗させ、ジオフロント内に出現、劇場版第26話では、弐号機の無残な姿を見たシンジに触発され暴走(4度目の暴走)、背に四枚の十字翼型A.T.フィールドを展開し、A.T.フィールドを背負ったままシンジのデストルドーにより地球の衛星軌道上にあったロンギヌスの槍を召喚、その状態をゼーレに利用されてサードインパクトを引き起こし、そのまま人類補完計画を発現させてしまったが、シンジがその世界を望まなかったため、初号機は同化したリリスから分離して地球を包み込むほどの巨大な12枚の赤い翼を展開、リリスと黒き月を崩壊させ、自らが持つロンギヌスの槍と量産機が持って共鳴させていたロンギヌスの槍のコピーをすべて破壊し、人類補完計画を破局させた後、搭乗していたシンジを地球に残し、石化して宇宙へと旅立った。
ゼルエル戦において暴走し四つん這いになって瀕死のゼルエルに這い寄っていくシーンがあるが、これは監督が「[[餓鬼]]をイメージして描いて欲しい」とアドバイスしたためである。
アニメ版ではレイが搭乗したのは機体相互互換試験および対ゼルエル戦で出撃しようとした時のみだが(後者は初号機にシンクロを拒絶されている)、[[貞本義行]]による漫画版では第1話でレイが搭乗して出撃、シンジとミサトを救うシーンがある。
暴走時などに発する声は、[[林原めぐみ]]の声を加工したものを使用している。
=== <span id="弐号機"></span>弐号機(EVA-02 PRODUCTION MODEL) ===
* 搭乗者:
** [[惣流・アスカ・ラングレー]]{{Sfn|CHRONICLE 03|2010}}
** [[渚カヲル]](第弐拾四話のみ)
* 機体色:赤{{Sfn|CHRONICLE 03|2010}}
* 眼:四眼
* コア(魂):惣流・キョウコ・ツェッペリン{{Sfn|CHRONICLE 03|2010}}
* 初登場話数:第8話
アダムより製作された、エヴァンゲリオンの量産化を前提として開発された{{Sfn|CHRONICLE 03|2010}}、いわば先行量産機。アスカの言葉を借りるなら「'''本物のエヴァンゲリオン'''」と呼べる機体である。
フルパワー時には頭部拘束具が一部展開、素体の4つ目を露わにする。
NERVドイツ第3支部で組み立てられ、第8話においてNERV日本本部に移送中、第6使徒ガギエルの攻撃を受けたためアスカの判断で起動、初戦を勝利で飾った。その後、他の2体と共に使徒殲滅に当たっていたが、第13使徒バルディエル戦では一瞬の躊躇をつかれ敗北、第14使徒ゼルエル戦においては一切の攻撃が通じず両腕と頭部を切断されて大破、この連敗とその両者を倒したのが双方とも初号機であったことによりアスカのプライドに綻びが生じ{{Efn2|最も、両者共にシンジの操縦によるもので倒したわけではなく、前者はダミープラグ、後者は暴走によるものである。}}、シンクロ率が下がり始め、修理はされたものの、第15使徒アラエル戦においてアスカが精神的ダメージを受けたためさらにシンクロ率が低下、第16使徒アルミサエル戦では起動すらできない状態となり、その後廃人と化したアスカの代わりにやってきたフィフスチルドレンにして第17使徒タブリス=渚カヲルの力により無人で起動、彼に従いセントラルドグマへ侵入するが、追ってきた初号機と戦闘になり、初号機によって首筋と頭にプログ・ナイフを突き刺されて活動を停止させられた。
劇場版第25話ではアスカを保護するべくエントリープラグに載せてジオフロント内の地底湖底に配置される。そこに[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#戦略自衛隊|戦略自衛隊]]の爆雷攻撃が行われたことがアスカに死の恐怖からくる生への執着を蘇らせる。それに弐号機内のアスカの母の魂が呼応し、母の存在を感じたアスカは復活、周囲の戦略自衛隊を壊滅させたが[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#アンビリカルケーブル|アンビリカルケーブル]]は切断されてしまう。そのあと弐号機殲滅に投入されたS<sup>2</sup>機関搭載の量産型EVAシリーズ9機に対して内部電源の3分30秒でほぼ全てを撃破する活躍をみせたが、1機が放った[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ロンギヌスの槍|ロンギヌスの槍]](コピー版)がA.T.フィールドを貫通、頭部に直撃し同時に制限時間の活動限界を迎えてしまう。身動きの取れない弐号機は再起動したEVAシリーズに[[鳥葬]]のごとく内臓を食い尽くされ、アスカの「(量産機を)殺してやる…!」という強烈な意思が暴走(覚醒)を引き起こしかけるも、最後は8本の槍によって串刺しにされ完全に沈黙する。
テレビシリーズでは[[山下いくと]]がデザインを担当し、劇場版では[[本田雄]]が再デザインしたため微妙に外観が異なっている。分冊百科「エヴァンゲリオン・クロニクル」ではこの違いを第17使徒タブリス戦で負った損傷の修復に伴うものとしている。
漫画版では渚カヲルがアルミサエル戦で乗機とする(アスカの精神崩壊がアラエル戦直後にされたため)。レイの零号機と同様にアルミサエルの浸食を受けるが、カヲルの力により同化は免れる。この戦いでデュアルソーに物理融合したアルミサエルによって左足を切断されている。
デザインの着想は[[シューティングゲーム]]のPCエンジン版『[[超兄貴]]』に登場する「エル&トポ」から得られている<ref>新世紀エヴァンゲリオンコンセプトデザインワークス それをなすもの 44ページ。</ref>。デザイナーは「常にEVAにはダイバーのようなイメージをもっている」とのこと。
=== 3号機(EVA-03 PRODUCTION MODEL) ===
* 搭乗者:[[新世紀エヴァンゲリオンの登場人物#鈴原トウジ|鈴原トウジ]]{{Sfn|CHRONICLE 17|2010}}
* 機体色:黒{{Sfn|CHRONICLE 17|2010}}
* 眼:双眼
* コア(魂):不明{{Efn2|ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』の開発を担当したアルファシステム社の公式掲示板において、開発担当者は「3号機のコアにはトウジの母親の魂がある」と明言しており、また作品内でもそのように扱われている。}}
* 初登場話数:第18話
アダムより製作された。米国<!--テレビシリーズの第壱七話において、米国との記述あり。-->NERV第1支部製{{Sfn|CHRONICLE 17|2010}}。頭部以外は弐号機と同じで、頭部は角が無い以外は初号機と似ている(プラモデルの説明書にあるラフスケッチには、初号機の後頭部にある部分と似た物体が描かれている)。
米国支部から日本本部へ移送中に第13使徒バルディエルに寄生され(積乱雲に潜んでいたとされる)、松代で起動実験中に使徒として覚醒、第3新東京市に向けて活動を開始する。零号機、弐号機を活動不能に陥れるが、ダミープラグによって暴走した初号機との戦闘の末、原形を留めないほどに破壊される。最後にトウジが閉じ込められたエントリープラグは、初号機によって握り潰される。搭乗していたトウジの結末は、テレビシリーズでは左脚切断の重傷、漫画では死亡と展開が異なるが、これはテレビシリーズプロデューサーの[[大月俊倫]]が番組製作前に出した、「どんな内容でも構わないが、子供が死ぬようなアニメだけは見たくない」という要望を受けてのものである。
ただ、大月は3号機の登場シーンを、オンエアから2年経った[[1997年]]になっても見ておらず、存在も知らなかったため、[[新宿]]で打ち上げに参加した際、[[バンダイ]]からリリースされた[[プラモデル]]シリーズの中に見知らぬ「黒いエヴァンゲリオン(=3号機)」があるのに気付いて、「誰が許可したんだ、こんなもの」「なんで、こんなのあるんだ」「メーカーが勝手にこんなん作りおって」などと憤慨したという<ref>太田出版『庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン』、1997年、P.161</ref>。
ゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン2]]』では、条件を満たすことでトウジが3号機のパイロットとして戦列に加わる。その後も条件によっては使徒に寄生されずに最後まで運用される。また、いくつかのシナリオでは、スタート時点から3号機パイロットとなっている。N64版では、ゲームモードによっては選択・使用が可能。[[スーパーロボット大戦シリーズ]]に登場する場合は、イベントによってはバルディエルを浄化して正式運用される場合もある。ただし、初登場した『[[スーパーロボット大戦F|スーパーロボット大戦F完結編]]』では、バルディエルとしての3号機ではないが、敵として登場する。『[[スーパーロボット大戦α]]』での武装は後述のプラモデル化された際に付属した武器の数と種類が同一である。
なお、プラモデル(LMHGシリーズ)では、使徒侵食前の3号機と、使徒侵食後の3号機(第13使徒バルディエル)版があり、腕パーツと一部パーツ以外は共通となっている。
=== <span id="4号機"></span>4号機(EVA-04 PRODUCTION MODEL) ===
第17話で存在が言及されるのみ。アダムより製作されたが、米国NERV第2支部での試験中、S<sup>2</sup>機関の暴走により、周りの関連研究施設と共に消滅する。
テレビシリーズでは言及のみで外観描写は無かったが、プラモデル化の際に設定された。形状は3号機と同一であり、カラーリングはシルバー。ゲームなどに登場する4号機に関しては後述。
=== <span id="量産機"></span>量産機(5号機 - 13号機)(EVA-05 - 13 MASS PRODUCTION MODEL) ===
* 搭乗者:ダミープラグ{{Sfn|CHRONICLE 30|2010}}(KAWORU.01{{Efn2|渚カヲルのパーソナルデータを用いていると思われる{{Sfn|CHRONICLE 09|2010}}。}})
* 機体色:白{{Sfn|CHRONICLE 09|2010}}
* 眼:無し{{Efn2|眼の無いデザインの頭部であるため。}}
* コア(魂):不明
* 初登場話数:劇場版第25話
アダムより製作された、通常「EVAシリーズ」と呼称される9体の量産型機。カヲルがベースとなったダミープラグにより稼動する。S<sup>2</sup>機関を搭載しており、活動時間に限界は無い{{Sfn|CHRONICLE 09|2010}}。収納展開が自在な翼を背面に内蔵しており、自力飛行が可能{{Sfn|CHRONICLE 09|2010}}。携帯武器は諸刃の剣(脚本では槍となっている)であるが、これはロンギヌスの槍のレプリカを変形させたもので必要に応じて本来の姿に戻る。前述の理由により内部電源が不要になったことに加えロンギヌスの槍を得物として持つためプログレッシブ・ナイフなどの存在価値が薄いゆえにウェポンラックを装備していないのも特徴である。
眼の無い[[ウナギ]]のような頭部が特徴{{Efn2|「[[爬虫類|ハ虫類]]」とも形容される{{Sfn|CHRONICLE 09|2010}}。}}。また、エントリープラグ挿入口や全体的なデザインが他のEVAと異なっている。これは零〜4号機を[[山下いくと]]がデザインしたのに対し、量産機のデザインは[[本田雄]]が手掛けたことによる。再起動や捕食、再生など、EVA初号機の暴走状態と非常に酷似した行動パターンを持つ。
劇場版第25話では、ジオフロント内の戦略自衛隊を壊滅させた弐号機に対抗するために輸送機から投下され弐号機と交戦。弐号機の圧倒的な戦闘力の前に次々と一旦は撃破されていったが、弐号機の活動限界間際に9号機が放ったロンギヌスの槍によって弐号機の頭部を串刺しにする。動けない弐号機に対し全機再起動、再生した量産機は弐号機を鳥葬のごとく捕食した後、全機で上空からロンギヌスの槍を突き刺し葬る。第26話では、レイと同化したリリスからのアンチA.T.フィールドにより、リリス(=レイ)と同化、頭部にいびつに歪んだレイの顔が表出する。その後、初号機を依代にし、サードインパクトを誘発させ各機自らのコアにロンギヌスの槍を突き刺しS<sup>2</sup>機関を共鳴、およびアンチA.T.フィールドを展開。地球上の人間、全てのA.T.フィールドを無力化し、人類全てをL.C.L.へと還元させるが、初号機によって量産機のロンギヌスの槍は全て破壊される。その後量産機は全て活動を停止、石化し地上へと降下する{{Sfn|CHRONICLE 09|2010}}。
見た目での区別はつかないが、脚本や絵コンテでは9体の量産機はそれぞれ全て機体番号で区別されている。製作地は、5、6号機がドイツ、8号機が中国である。
弐号機によって破壊された順番は'''9号機'''(頭部を潰され背骨を折られる)、'''11号機'''(プログ・ナイフを頭部に突き刺される)、'''7号機'''(プログ・ナイフで右手を切断され首をへし折られる)、'''6号機'''(諸刃の剣で袈裟懸けに斬られる)、'''12号機'''(諸刃の剣で腹部から上下に切断される)、'''8号機'''(諸刃の剣で左足を切断される)、'''10号機'''(ニードルガンで頭部を刺される)、'''5号機'''(喉元を握りつぶされ13号機と同時にみぞおちを貫通される)、'''13号機'''(5号機越しにコアを鷲掴みにされる)である<ref>『THE ESSENTIAL EVANGELION CHRONICLE SIDE B』94ページ。</ref>。
漫画版ではSTAGE:81より登場。劇場版第25話同様、復活したアスカの駆る弐号機と死闘を繰り広げる。しかし戦闘力は劇場版を上回っており、劇場版では全機とも一度撃破されているが、漫画版では弐号機を劣勢に追い込んだだけでなく弐号機の機能停止までに三機生き残っている。また再生能力も遥かに強力になっており、初号機と弐号機に与えられたダメージを短時間で完全に回復させている<ref group="注">不完全な再生であった劇場版と異なり、切断された四肢や破壊された頭部も再生している。</ref>。
量産型のプラモデルは2種類存在しており、通常版は頭部パーツが2種類の形状の交換式で武器は諸刃の剣、「最終戦仕様」版は頭部の口が開閉可能なギミックがあり武器がロンギヌスの槍(コピー)である、という違いがある。
== EVAシリーズ(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』) ==
4部作のタイトルは「'''ヱ'''ヴァンゲリ'''ヲ'''ン」であるが、作中における機体の正式名称は「'''エ'''ヴァンゲリ'''オ'''ン」である。また本作では、局地仕様である封印監視特化型限定兵器の仮設5号機や、ヒト型ですらないMark.04シリーズが存在し、EVANGELIONというカテゴリ自体には「汎用'''ヒト'''型決戦兵器」という意味合いは含まれておらず、一部の機体の仕様名称となっている。
『新世紀エヴァンゲリオン』における「コア」は本作では「コアユニット」と呼称されており、設定が[[#パイロット|テレビシリーズ]]とは異なっている。このコアユニットは機体から分離可能であり、封印時には取り外される。また『新世紀エヴァンゲリオン』ではEVAにコアが存在する事実は第14使徒戦まで一部の人間を除いて知らされていなかったが、本作ではシンジの初号機初起動時にはコアユニットの言及がある。
『破』以降では、パイロットの意志でEVAに備わったリミッターを解除し、パイロットへの負担と引き換えにさらなる力を引き出すコマンドである'''裏コード'''が登場した。頭上に光輪が出現し飛行や光線を発射する能力を獲得する'''覚醒'''という状態も登場した。
当初は内部電源での活動時間は5分(フル・ゲイン利用の区別は言及なし)でアンビリカルケーブルからの電源供給が途絶えるとモニターに活動限界までの残り時間が表示されていたが、『Q』ではケーブルを接続せずに活動していても残り時間の表示はない。WILLE所属のEVAは内部電源が10%まで減ると警告表示と共にパワーセーブモードに切り替わり旧世紀版や『破』までのように時間切れと共に動けなくなるというわけではなくなっているほか、「スペア」と呼ばれる器具で右手首から内部電源の充電をする描写がある。NERV所属のEVAはアンビリカルケーブルを含めた電力供給に関する描写がなく、『シン』ではWILLE所属のEVAも活動限界に関する描写はない。
『Q』にて、EVAのパイロットとなった少年少女たちは'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#エヴァの呪縛|エヴァの呪縛]]'''を受けるという新設定が登場した。これにより、頭髪以外の身体の変化が新陳代謝を含めてなくなる・リリンの近寄れない[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#L結界密度|L結界密度]]の高い場所でも活動できるようになるなどの影響がある。
=== 零号機 ===
* 正式名称:汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 試作零号機(EVANGELION PROTO TYPE-00)
** (改装後):汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 試作零号機(改)(EVANGELION PROTO TYPE-00')
* 所属:特務機関NERV日本本部
* 搭乗者:綾波レイ
* 機体色:山吹色
* 眼:単眼
基本的なデザインは『新世紀エヴァンゲリオン』と同様だが、改装・就役後もカラーリングが変更されないまま、2号機と同じ肩部ウェポンラックと胸部アーマーが装備された{{Sfn|CHRONICLE 34|2010}}。第10の使徒戦でN<sup>2</sup>弾頭装備のミサイルを抱えて特攻するも撃破出来ず、全身を焼かれ立ち尽くしているところを第10の使徒に膝から上を捕食され、レイごと取り込まれてしまう。ただし不要な[[頭部]]は、吐き捨てられた。
=== 初号機 ===
* 正式名称:汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 試験初号機(EVANGELION TEST TYPE-01)
* 所属:特務機関NERV日本本部
* 搭乗者:碇シンジ
* 機体色:バイオレット
* 眼:双眼、三眼(擬似シン化第2形態)
細部のデザインやカラーが変更された以外は『新世紀エヴァンゲリオン』と同じ。シンジの身に危険が迫ると暴走する点も同じだが、レリエルに相当する使徒が登場しない関係で、作中の暴走回数は2回となっている。新武装として[[ガトリング砲]]を用いるが、第5の使徒に有効な打撃は与えられなかった。また第6の使徒戦のモニターから、固有波形パターンは「'''Blue**A''''」であることがわかる。第10の使徒戦では、「世界がどうなっても綾波だけは助ける」というシンジの意志の下、'''擬似シン化第1覚醒形態'''{{Sfn|CHRONICLE 36|2010}}へと変化。シンジにコントロールされた状態で秘めた能力を開放した。その際は拘束具の蛍光グリーンの部分が赤に変色し、頭上に天使の輪のような光輪(エンジェル・ハイロウ)が出現。A.T.フィールドで形成した左腕を変化させての攻撃や、両目から光線を放つなど使徒のような攻撃を見せ、使徒のコアから零号機のコアをレイごと摘出した。プラグ深度は180以上にも達しており、リツコをして「人の域を超えた」と言わしめた。まもなく、レイの姿を取った巨大なヒト型(サルベージされた零号機のコアを基点に、形象崩壊した使徒の体液が集まったもの)と融合し、'''[[セカンドインパクト]]時に出現した4体の光の巨人'''と酷似した三眼の光の巨人「'''擬似シン化第2形態'''」へ到達して'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#サードインパクト|サードインパクト]]'''を発生させかけたが、月面から降下してきたMark.06が投げた[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#カシウスの槍|カシウスの槍]]によって初期段階で阻止され、'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ニアサードインパクト|ニア・サードインパクト]]'''に留められた。その後、シンジとレイをエントリープラグ内に取り込んだまま活動を停止、凍結される。
その後は封印の棺に入れられ、[[大気圏外]]にコア化状態で封印されていたが、反NERV組織'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ヴィレ|WILLE(ヴィレ)]]'''が奪取作戦を展開、封印から14年が経過しても完全に覚醒状態が治まったわけではなく、作戦中危機に陥ったアスカのシンジへの叫びに呼応するかのようにMark.04Bに向けて光線を発射・撃破し、改2号機を支援した。接収後は取り込まれ[[身体]]を失ったシンジの身体をサルベージした後、WILLEの空中戦艦[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ヴンダー|AAAヴンダー]]の主機として組み込まれた。この時点でのシンジとの深層シンクロテスト結果は0.00%であり、シンジが搭乗しても起動することはないとリツコが述べているものの、作戦中の再起動を危惧したWILLE上層部の判断により、シンジの首に[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#DSSチョーカー|DSSチョーカー]](EVAの覚醒を感知すると、パイロットを殺して覚醒状態を解除させる首輪)が付けられた上に、検体としての扱いを受けることになった。
南極での戦闘でヴンダーが大破した後、ゲンドウと第13号機によって初号機は回収される。この時初号機は赤色にコア化しており四肢は切断されている。シンジが搭乗を希望するにあたって、『Q』で0%とされたシンクロ率は、実は0に限りなく近い値[[無限|無限大]]であったとされた。シンジの操縦でゲンドウの第13号機と対峙するも打ち勝てず、両者の精神対話の後「エヴァの要らない世界にする」というシンジの意思を受け継いだ碇ユイによってゲンドウとユイは自らガイウスの槍(WILLEの槍)を身体に貫き、消滅した。
=== 2号機 ===
* 正式名称:汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 正規実用型2号機(先行量産機)(EVANGELION PRODUCTION MODEL-02)
** (改装前):汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 正規実用型 2号機α 臨時暫定仕様(EVANGELION PRODUCTION MODEL-02α)
** (改装後1):汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 正規実用型 改2号機β / γ(EVANGELION PRODUCTION MODEL-02'β / γ)
** (改装後2):汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン JA-02 機体流用ニコイチ型 新2号機α<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.eva-info.jp/12608|title=いよいよ本日発売!海洋堂製アクションフィギュア最新作「エヴァンゲリオン JA-02機体流用ニコイチ型新2号機α」が発進!! |publisher=株式会社カラー |accessdate=2021-02-01 |date=2021-01-30 |website=エヴァ・インフォメーション }}。</ref>{{Refnest|group="注"|当初発表した際は「新2号機α JA-02機体流用ニコイチ型」となっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2020/09/10/56197.html |title=「シン・エヴァンゲリオン劇場版」新2号機α、アクションフィギュア化! ダイナミックな可動で遊べ |publisher=株式会社イード |accessdate=2020-09-16 |date=2020-09-10 |website=アニメ!アニメ! }}。</ref>。}} (EVANGELION PRODUCTION MODEL-NEW 02α(JA-02 Boby Assembly Cannibalized))
* 所属:特務機関NERVユーロ支部→特務機関NERV日本本部(『破』)→WILLE(『Q』『シン』)
* 搭乗者:
** [[惣流・アスカ・ラングレー|式波・アスカ・ラングレー]]
** [[真希波・マリ・イラストリアス]](『破』第10の使徒戦のみ)
* 機体色:レッド
* 眼:四眼(第10の使徒戦において右上眼を喪失)
初号機・零号機同様カラーリングが若干変更されると共に、額部に短い角飾りが追加されている。NERVユーロ支部で建造された後日本本部へ移送、その最中の第7の使徒登場に伴い輸送機から即交戦に入り見事勝利、以来零号機・初号機と組んで使徒殲滅にあたるが、3号機の到着によって「各国はEVAを3体までしか所有出来ない」というバチカン条約に抵触、ユーロ支部の命令で一度凍結された。新武器として超電磁洋弓銃、サンダースピアを使用したほか、左右両方のウェポンラック内部にナイフホルダー、および連装ニードルガンのペンシルロックを固定装備として格納してあり、劇中で最も多種多様な武装を使用した。[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#第10の使徒|第10の使徒]]襲来においては、マリが凍結を無断解除してアスカの代わりに搭乗。裏コード「'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ザ・ビースト|ザ・ビースト]]'''」により「'''獣化第2形態(第1種)'''」へと変形し、第10の使徒のA.T.フィールドを全て破壊するなど奮戦するも、第10の使徒の圧倒的戦闘力には及ばず左腕と右顔面を失い中破、避難していたシンジをシェルターからジオフロントに連れ出した後、活動を停止した。
『Q』では第10の使徒戦で失った右顔面・左腕を機械パーツで補修した、[[サイボーグ]]じみた(あるいは[[サイバネティックス]]化した)外貌の「'''改2号機'''」として登場。8号機と共にWILLE所有となり、戦況に応じて装甲・武装を換装する仕様が取られるなど、NERV所有のEVAと比較し汎用兵器としての側面が強くなっている。バッテリーが切れると戦闘不可になるが、完全に動けなくなるわけではないため自分で予備のバッテリーパックを用いて電力補給が可能。劇中冒頭では、左腕義手として巻き取り式ロープガン、本体の2.4倍以上の超巨大な背部ブースター<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/553345.html 海洋堂、映画に先がけてエヴァ2号機の“新型装備”をリボルテック化 - GAME Watch]より。</ref>を装備し、宇宙空間での活動に特化した「'''改2号機β'''」として登場、宇宙空間でMark.04からの攻撃を躱し、8号機の支援も受けた末に初号機の奪還に成功、水中でのヴンダー主機点火作業以降は、本物の腕より一回り太い形状(前腕部以降をガトリングガンへと換装可能)の左腕義手および、β仕様以前より堅牢な装甲を装備した「'''改2号機γ'''」として運用された。ヴンダーの動力炉に強制点火したり、新装備である双刃の薙刀を振るってMark.09や第13号機との戦闘を行なうなど奮闘、「アダムスの器」としてヴンダー奪還を図ったMark.09を止めるべく、「'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#コード777|コード777(トリプルセブン)]]'''」{{Efn2|2021年1月に公開されたIMAX版(3.333)においては「'''裏コード777(スリーセブン)'''」に呼称が変更されている。}}のモードチェンジにより、前作『破』での獣化第2形態(第1種)からさらに尻尾や[[ネコ科]]の獣のような牙が発生した「'''獣化第4形態(第2種)'''」へと変形し奮戦、アヤナミレイ(仮称)の脱出後体内にガトリングガンを撃ち込むも、Mark.09の全身がコアであるためすぐに再生されてしまい、最終的にMark.09もろとも自爆、機体の一部のみが8号機とともに回収された。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では「'''新2号機α'''」として登場。本体は頭部、上半身、コア部分のみ再生・修復しており、序盤でユーロNERV本部から回収したJ.A.-02の本体と半ば強引に組み合わせることで重機化し、動力炉も機体の背部から突き出す形でJ.A.リアクターをそのまま流用しており稼働時間を延伸、巨大な重火器とバックパックを装備している<ref>{{Twitter status2|eva_information|1304275452190629888|4=@eva_informationの2020年9月11日のツイート|5=2020年9月16日}}</ref>。劇中ではヤマト作戦開始直前に改8号機γと共にぎりぎり形になり旧南極のNERV本部にてMark.07の大群と戦闘する。脚部と背面にあるミサイルや改8号機γから次々に投げ渡される武装を駆使しながら迎撃、群となりドリル状に押し寄せるMark.07の大群を改8号機γとのA.T.フィールドの連携技で壊滅させる。強制停止信号プラグを起動前の第13号機に打ち込もうとするも新2号機α自身のA.T.フィールドに妨害され、それを打ち破るため「'''裏コード999(スリーナイン)'''」を発動。この時アスカは左目の眼帯を外し、眼の中に埋め込まれていた小型の使徒封印用呪詛柱を引き抜いて封印されていた第9使徒の力を開放、さらに機体にエンジェルブラッド(使徒の血)を注入することで覚醒を果たし、使徒と融合することで新2号機αを強化した。上半身の生体パーツは左腕をA.T.フィールドで再構成しながら機械部分から抜け出し、大爆発のあと本体を輝かせながら膨張、使徒とエヴァが融合を果たし人の形を捨てた異形の姿となる。この際に第9使徒の特徴的な長い腕が背面から生え、新2号機のA.T.フィールドを中和した直後、起動した第13号機により全腕を吹き飛ばされて内部から破裂、急激にしぼみ込んだところでエントリープラグを抜き取られ第13号機に取り込まれながら首から下がL.C.L.となり崩壊する。頭部のみヴンダーの甲板に打ち上げられた。『破』の獣化第2形態時の声は、[[坂本真綾]]の声を加工したものを使用している<ref name="シン坂本真綾1">『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』映画パンフレット 坂本真綾インタビューページより。</ref>。
『シン』Blu-ray映像特典の『EVANGELION:3.0(-46h)』では「2号機α 臨時暫定仕様」として登場。エヴァインフィニティーに襲われていた幼少期のミドリを救出した。
=== <span id="3号機2"></span>3号機 ===
* 正式名称:汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 正規実用型3号機(EVANGELION PRODUCTION MODEL-03)
* 所属:特務機関NERV北米第3支部→特務機関NERV日本本部
* 搭乗者:式波・アスカ・ラングレー(テストパイロット)
* 機体色:ブラック
* 眼:双眼
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場。フェイスマスクが赤色になっているなど、旧世紀版とは細部カラーリングが異なる。旧世紀版ではシンジの親友である鈴原トウジが搭乗したが、新劇場版ではアスカが搭乗する。初号機のダミーシステム(旧世紀版では[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ダミープラグ|ダミープラグ]])により機体はバラバラに引きちぎられるが、手で握りつぶす描写だったエントリープラグの破壊は、噛み潰される描写へと変わっている。新劇場版における各部の変更点については『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』を参照。
=== Mark.04 ===
* 所属:NERV
* 機体色
** 黒+紫(Mark.04)
** 水色(Mark.44A)
** グリーン(Mark.44B、4444C)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。複数のタイプが存在し、いずれも従来のヒト型のEVAとは形状がまったく異なる。
『Q』に登場するものは、コアブロックと呼ばれる弱点を複数備えた円盤状の本体に、EVAの下半身や脚部・肩部ウェポンラックに酷似するディテールを備えたデザインとなっている。また、固有波形パターンは使徒と同じ青とされるが、モニター上ではニアリーイコールとなっている。
; EVANGELION Mark.04 (Code 04A)
: US作戦時に改2号機を襲撃したEVA(数体<!--8以上-->)。モニター内では「Mk.04A」と表示されるが、WILLEからは「コード4A」と呼称された。散弾発射機構とアンチA.T.フィールドの効果を持つ二叉の槍(EVAの脚部のようなもの)を2つ備えており、A.T.フィールドを後方に多層構造のごとく展開することによって、自在に飛行する。いずれも8号機の援護射撃により、破壊された。コアブロックは黒い円盤状で、コアは2つ。
; EVANGELION Mark.04 (Code 04B)
: US作戦時に改2号機を襲撃したEVA。初号機が封印されていた十字架状の棺に潜伏していた。折りたたみ式の長いフィールド反射膜<ref group="注">『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 冒頭6分38秒(TV版)』の字幕では、「インドハシャマス」と誤表記された。</ref>と呼ばれる腕を4本持ち、リング状に展開して集光することによってA.T.フィールドで中和できない謎の光を放つ。改2号機の左腕を破壊して追い込むが、シンジに対するアスカの呼びかけに応える形でごく短時間覚醒した初号機が発した光線により、殲滅される。コアブロックは黒い円盤状で、コアが1つ。破壊時には形象崩壊し、虹の輪が現れた。
; EVANGELION Mark.04 (Code 04C)
: ヴンダーを襲撃した敵(計4体)。'''ネーメズィスシリーズ'''とも呼ばれる。モニター内では「Code 04C」と表示される。海面下に「擬装コクーン」と呼称される領域を展開して潜伏し、接触した物体が消滅する「光の柱」を複数出現させ、艦隊を檻状に包囲する。巡洋艦を撃沈しながら柱の間隔を狭めていく飽和攻撃をヴンダーにしかけるが、主機の起動に成功した時のヴンダーの衝撃波により光の柱を吹き飛ばされる。その後、帯状の腕で攻撃しヴンダーの翼を貫通しつつからめとるが、ヴンダーはその状態のまま強引に上昇し擬装コクーン内に潜伏していたコアブロックを引きずり出された。最後はエネルギー貫通弾の連射を浴びて破壊された。コアブロックは黒い円盤状で、コアが16個、帯状の腕を16本もつ。破壊時には形象崩壊し、虹の輪が現れた。
『シン』に登場するものは、複数のEVAを組み合わせた外見をしており、使われるEVAの数に応じて4の数が増えていく。『Q』のものよりは元がEVAであることがうかがえるが、EVAの頭部は欠損しており、使徒共通の仮面がその代わりに付けられているなど、異形ぶりを増した外観となっている。
; EVANGELION Mark.44A(フォーツーエー)
: '''航空特化タイプ'''。封印柱の復元オペ中にWILLEを襲撃するために大量に出現したEVA。大の字状に手足を広げた2体のEVAの腹部が合わさった状態で接合している。両腕両足先端ではEVAの肩部が[[シュナイダープロペラ]]のように回転しており、[[クワッドローター]]のような形状を呈する。頭部には2つの使徒の仮面があり、その間からはロンギヌスの槍のコピーが出ている。航空特化タイプの呼び名の通り、自律で飛行する。同じA.T.フィールド対策を有していた04Aが散弾を装備していたのとは違い、突撃しか攻撃手段がない。
; EVANGELION Mark.44B(フォーツービー)
: '''電力供給特化型'''。封印柱の復元オペ中にWILLEを襲撃したEVA。頭部と両腕を欠損したEVA2体が電力供給ユニットを挟む形状となっている。10体の44Bで、1体の4444Cに電力を供給した。
; EVANGELION Mark.4444C(フォーフォーシー)
: '''陽電子砲装備 陸戦用'''。封印柱の復元オペ中にWILLEを襲撃したEVA。ドリルと蛸足を組み合わせたような脚が4本と、その上に通常型の上半身のEVA4体が神輿を担ぐような形で陽電子砲を装備している。EVAの軍事転用を禁じたバチカン条約に違反する代物。前述の44Bとの連携により、かつてヤシマ作戦で陽電子砲が運用された時よりも比較にならない早さで連続発射が可能となっている。
なお、『破』で存在が示唆された4号機<ref group="注">正式名称は「汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 次世代試験 4号機(EVANGELION NEXT GEN TESTBED-04)」。</ref>との関連性は不明。こちらは稼働時間の限界を延長する(新劇場版ではS<sup>2</sup>機関という表現はされていない)試験機であったが、事故によって北米第二支部と共に蒸発したとされる。試験内容の詳細はリツコですらほとんど知らされておらず、事故との見解にも加持が疑義を示している。
=== 仮設5号機 ===
* 正式名称:封印監視特化型限定兵器 人造人間エヴァンゲリオン 局地仕様 仮設5号機(EVANGELION PROVISIONAL UNIT-05)
* 所属:特務機関NERV・ベタニアベース
* 搭乗者:真希波・マリ・イラストリアス
* 機体色:グリーン
* 眼:ゴーグル型
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場するEVA。名称が示す通り、汎用性に優れた他のEVAと大きく異なり、NERV・ベタニアベースに封印されている第3の使徒の封印監視を目的に、同施設内での運用に特化した特殊な形態・機能を持つ{{Sfn|CHRONICLE 33|2010}}。急造品の機体であるためか、プラグスーツは旧式で、シンクロ開始時に苦痛を伴う。加えて、インテリアと腕部がケーブルでつながれていてパイロットの身体の動きが制限される、インダクションレバーのトリガーの数が多いなど、機体制御や操縦システムに粗が目立つ。
頭部と胴部は従来のEVAとほぼ同様の形状をしているが、下半身は4本足の多脚型で先端には車輪のようなものがあり、狭い空間でスムーズに旋回などを行うことが可能。脚部にはブースターノズルを装備している。また、胴体の下部にはカバーで覆われたドリルが二つ装備されており、緊急時の急減速の際にはカバーを排除し地面に突き立ててブレーキ代わりに使用する{{Sfn|CHRONICLE 33|2010}}。腕はヒジから先が二本爪の[[マニピュレーター]]を備えた義手として機械化されており、さらに右腕はこの義手を差し込む形で保持される長大な[[ランス (槍)|ランス]](対使徒専用殲滅兵器「簡易式ロンギヌスの槍(似非復元型)」)を装備している。ただし、これらの仕様はマリに言わせると「鈍重」「パワー不足」とのこと。
機体の特性上アンビリカルケーブルは無く、代わりに肩部ウェポンラックの先端にある[[トロリーポール]]によって電力を得ており、そこから背面へ伸びるケーブルによって本体に電力を供給している。背面にはSSTOに似たシルエットを持つ脱出ユニットを背負っている。エントリープラグが挿入口から射出され、ユニットと連結、その後にユニットに装備されているブースターが点火され機体から分離し飛行するというシークエンスで脱出が行われる。
『破』冒頭で、復活した第3の使徒と交戦。地下の「辺獄エリア」から「アケロンエリア」への脱走を許すも、マニピュレーターで使徒のコアを握り潰す。その際、稼動状態がフルパワーに達したためか、暴走時の初号機と同様に顎部の拘束具を引きちぎりながら口を開く描写がある。直後にマリは自爆プログラムを起動し自らはエントリープラグごと脱出、機体を道連れに自爆し、使徒を殲滅した。劇中ではこの一件自体が5号機と第3の使徒を葬り去るためにゲンドウらの指示で加持リョウジが工作したものであることが示されている。
システムボイスは[[MAI (ナレーター)|MAI]]が担当している。
=== Mark.06 ===
* 正式名称:EVANGELION Mark.06
* 所属:ゼーレ
* 搭乗者:渚カヲル(『破』のみ)
* 機体色:ネイビー
* 眼:双眼(バイザー型)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のラストシーンにおいて登場する月面の黒い巨人をベースに建造された。建造中の巨人の頭部の仮面は旧世紀版の第2使徒リリスのものと酷似している。ゲンドウ曰く「建造方式が他とは違う」エヴァンゲリオンである。『破』の序盤では月面のタブハベースにて建造中であり、建造現場上空をゲンドウと冬月が視察に訪れたが、ゼーレが上陸を拒否している。ゼーレが「真のエヴァンゲリオン」と呼称し、当初NERVに報告することなく建造が進められていた。終盤で完成、カヲルが搭乗してNERV本部上空に飛来。サードインパクトを起こしつつあった初号機を手にしたカシウスの槍で停止させた(ニアサードインパクト)。『序』『破』の予告では「エヴァ6号機」と、劇中では「マークシックス」(Mark.06)と呼称されている。バイザー内部には初号機と似たような形状の双眼がある。また、覚醒した初号機と同様に頭上に光輪を持ち飛行能力を有する。本機以前のエヴァンゲリオンよりひと回り大きく見える描写があるが、実際に設定上のサイズ差が存在するかは不明。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』から『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』までの劇中経過年数14年のうちに自律型へ改造され、セントラルドグマ最深部でサードインパクトの起点となったが、加持リョウジの犠牲によって自らのコアとリリスの胸を槍で貫き停止した。その後、サードインパクト停止時に頭部と破断したリリスの胴体とともにセントラルドグマ最深部に放置されていた{{Efn2|『Q』本編では経緯不明だが、『破』上映時の次回予告では「ドグマへと投下されるエヴァ6号機」という台詞とともにMark.06がドグマ内部を降下するシーンがあった。}}。第13号機により槍を引き抜かれた際に、体内の第12の使徒が活動を再開するが、アヤナミレイ(仮称)の乗るMark.09によって首を落とされ、Mark.06は活動を停止する(体外に出た第12の使徒は第13号機に吸収された上で、コアは噛み砕かれた)。
=== Mark.07 ===
* 正式名称:EVANGELION Mark.07
* 所属:NERV
* 搭乗者:ダミーシステムのレイ
* 機体色:白
* 眼:髑髏
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のCパート、[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ヤマト作戦|ヤマト作戦]]において登場するEVA。WILLEからは「エヴァ7シリーズ」と呼称された。人間の頭蓋骨のような頭部を模し、[[セカンドインパクト]]の爆心地にWILLEが降下する際、無数に現れた。武器は持たず、噛み付いて攻撃することから一つの単調な指令の下にプログラムされていると思われる。単縦陣の44Aのように自ら群体を形成して、一本のドリルに構築して攻撃する行動が見受けられたが、アスカとマリのダブル[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#A.T.フィールド|A.T.フィールド]]によって一掃される。
山下いくとによると、当初はコアのみでA.T.フィールドを発生させる機能しかないエヴァとして7号機のデザイン案をしたが、後にそのデザイン案は44Bや4444Cとして採用されたとのこと。
=== 8号機 ===
* 正式名称:汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 正規実用型(ヴィレカスタム) 8号機α / β(EVANGELION PRODUCTION MODEL CUSTOM TYPE-08α / β)
** (改装後1):汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 正規実用型(ヴィレカスタム)8号機β 臨時戦闘形態(EVANGELION PRODUCTION MODEL CUSTOM Type-08 β-ICC)
** (改装後2):汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン 超極限空間対応用特殊装備追加可能型 改8号機γ 両腕暫定的補強仕様<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.evastore.jp/products/detail/14684|title=プラモデル 汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン改8号機γ |website=EVANGELION STORE|publisher=カラー|date=2020-12-07|accessdate=2020-12-07}}</ref>(EVANGELION PRODUCTION MODEL-08γ)
** (アダムスの器捕食後)エヴァ8号機プラス・フォー・イン・ワン
* 所属:WILLE
* 搭乗者:真希波・マリ・イラストリアス
* 機体色:ピンク
* 眼:複眼(8個)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』本編後の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』予告にて初登場。予告においては、「胎動するエヴァ8号機とそのパイロット」とあり、錨型のバイザーを装備する頭部、初号機・Mark.06同様の角らしき物、耳およびイヤリングのような意匠、初号機と同様の睫毛のような模様、頭上の光輪など『Q』本編と異なる外観で登場していた。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では、初号機の起こしたニア・サードインパクトから14年後、反NERV組織であるWILLEが運用している。「ヴィレカスタム」の表記から、元々NERVが建造していたがWILLE結成時に強奪されたと思われるが、詳しいことは明らかにされていない。『Q』序盤は14年前に運用されていた2号機と同じようなボディの「'''8号機α'''」として登場。後に改修を受け、「'''8号機β'''」となった。こちらはボディが太くなったほか、手首から腕にかけて篭手のような防具が追加されている。劇中ではロングバレルの超長距離ライフルやハンドガンといった銃器を用いたほか、予備のバッテリーパックなどを運搬して改2号機をバックアップした。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』の冒頭では「'''8号機β 臨時戦闘形態'''」として登場。本来の8号機の胸から腹にかけての部分には大量の包帯が巻かれており、両腕は胸から背を一周するリング状の装甲とジャッキ状の細いパーツで接続された多数のウェポンラックやプロペラントタンク付きスラスターを装備し、足先まで届くほど長いものとなっている<ref>{{Twitter status2|khara_inc2|1020252096753356801|4=@khara_inc2の2018年7月20日のツイート|5=2018年7月28日}}</ref>。上空に位置するAAAヴンダーから極細のワイヤーで[[マリオネット]]のように吊り下げられており、操縦はステアリング状の非実体コントローラーで行う。マリによる操縦のもと、空中で回転しながら両腕の機関砲を乱射する姿や、リツコたちによる旧NERVユーロ施設の復元作業を援護してEVA軍団を撃破する姿が描かれている。その後WILLEがフランスにある旧ネルフユーロ施設を復旧させたことによって回収できたパーツで失った両腕を改修され「'''改8号機γ'''」となった。ヤマト作戦決行時には超大型武装コンテナであるドラゴンキャリアと接続、Mark.07の大群との戦闘では自由落下しながら新2号機αに武装を次々と投げ渡し迎え撃つ。最大の改修点は「オーバーラッピング」に対応させたことで、これは他の機体の組織を捕食することにより捕食対象を糧とし、その機能を継承、そして自らの欠損部位を補填できるというもの{{Efn2|これは[[ウルトラマンタロウ]]が「ウルトラマンタロウ」のある話でウルトラマン・セブン・ジャック・エースを自身に一体化させ、自身の能力を強化するという同名の技が元ネタ。}}。劇中では両腕を失った状態のまま、まずヴンダーに取り付き侵食していた「エヴァオップファータイプ」であるMark.09-Aの右腕を食いちぎり吸収することで自身の右腕を修復、そのまま首元から捕食していったことでアダムスの器の力を取り入れ、頭上に光輪をまとわせながら空中浮遊、マイナス宇宙への航行能力を獲得するに至った。シンジを初号機に送り届けた後、残りの3機に取り囲まれながらも圧倒する。まずMark.10の頭を丸ごと食いちぎりながら上半身を食い尽くし、左腕を修復すると同時にA.T.フィールドで巨大な虎のようなオーラを形成しMark.11の上半身を瞬時に捕食。光輪の数も捕食数にあわせて増加し、捕食シーンは描かれなかったものの、残るMark.12は劣勢となり、かなりたじろいだポーズを見せていた。最終的にオップファータイプ全4機の能力を吸収することで「8プラス9プラス10プラス11プラス12号機」となり、事実上、歴代エヴァ最強クラスの能力を得た。その能力向上は凄まじく、マイナス宇宙への航行、光線を蹴り返し、使徒と同じ強力な光線発射能力でヴンダー2番から4番艦までを次々に破壊していった。槍を届けようとするミサトの特攻とAAAヴンダーの最後を見届けた後、最終的に槍の力でエヴァが消滅していく中、海岸に座り込むシンジの前に現れた「最後のエヴァンゲリオン」となり消滅していった。唯一ヴィレの槍で貫かれる描写はなく消えていった。『シン』での咆哮などは、坂本真綾の声を加工したものを使用している{{R|シン坂本真綾1}}。
=== Mark.09 ===
* 正式名称:EVANGELION Mark.09
* 所属:NERV
* 搭乗者:アヤナミレイ(仮称)
* 機体色:山吹色→黒(第1のアダムスの器(移行中間形態)ゼーレ仕様)
* 眼:単眼→複眼(12個、第1のアダムスの器(移行中間形態)ゼーレ仕様)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。装甲の仕様・カラーリングは零号機に酷似している(シンジも初見時には零号機と誤認した)が、頭部のカメラアイが顔面部の大半を占めるほど極端に大きく、全体が眼球のように可動式になっているのが特徴。汎用兵器としての用途も若干残されているが、電力供給を必要としないどころか、A.T.フィールドは無く、機体全体がコアとなっていることから、全身を一度に殲滅でもされない限り頭を吹き飛ばされようが稼働に支障をきたさない上、長距離飛行用の巨大なブースターパックを有機的な変形によって背面に展開できるなど、疑似シン化形態の初号機や第13号機に近い人外の領域のエヴァンゲリオン。第13号機の覚醒後は、頭上に光輪が出現し飛行能力を発揮、さらに光線を放つようになる。WILLEからはヴンダー本来の主たる「'''アダムスの器'''」と認識されている特殊な機体である。近接戦闘時は大型の鎌を武器とする。
発艦後のヴンダーを急襲、検体として監禁されていたシンジを鹵獲し、8号機の銃撃により頭部を丸ごと吹き飛ばされてもものともせずNERV本部に連れ帰った。第13号機のセントラルドグマ降下時には、支援および復活するであろうMark.06への対処のため同行し、妨害に現れたWILLEの所有するEVA(エヴァ改2号機、エヴァ8号機)を交えて奮闘、その後第13号機が2本の槍を抜いた為Mark.06内部の第12の使徒が復活、その時にMark.06の首を切り落とした事により第12の使徒がMark.06の首から出現し、第13号機の覚醒のトリガーとなる。その後第13号機の覚醒に伴いアヤナミレイ(仮称)のコントロールを離れ、ゼーレのシステムを基に自律稼働を開始、第13号機の鎮圧に現れたヴンダーに光線を放ち、その艦橋に同調した形状の12の眼をもつ頭部を再生する、着艦後機体色をヴンダーの艦橋色に変色させる、装甲が剥がれた腹部にあるデコイのコア上に仮面のような物体を持っているなど、ヴンダーの「本来の主」としての機能を遂行する異形の形態「'''第1のアダムスの器(移行中間形態)ゼーレ仕様'''」に変貌、触手状に変異させた脚部でヴンダーの主機に干渉、浸食してシステム奪還を図ったが、獣化形態となった改2号機に噛みつかれ、アヤナミレイ(仮称)の脱出後、改2号機の自爆によって殲滅された。
=== エヴァオップファータイプ ===
* 所属:NERV
* 機体色
** 山吹色+黒(Mark.09-A)
** 赤+黒(Mark.10)
** 青+黒(Mark.11)
** 白+黒(Mark.12)
* 眼:複眼(12個)
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に登場するEVA。アダムスの器たる完全な同型機で、Mark.09の再生産機である「'''EVANGELION Mark.09-A'''」、NHG2~4番艦の主である「'''EVANGELION Mark.10'''」「'''EVANGELION Mark.11'''」「'''EVANGELION Mark.12'''」で構成されている。Mark.44のような使徒共通の仮面が付いているが、仮面だけを欠損した頭部の代替にしていたMark.44とは異なり、頭部に仮面が取り付けられた形となっている。仮面の形状も若干異なり、仮面に「IX」「X」「XI」「XII」の字のスリットが刻まれ、「X」の字のスリット中央部分に単眼のカメラアイがある。また、各機体は上半身部分のカラーリングがそれぞれ異なっている。また、オップファー(Opfer)とは、ドイツ語で「犠牲」の意。
超極限空間内で8号機と会敵し、全機捕食された。
=== 第13号機 ===
* 正式名称:エヴァンゲリオン第13号機(EVANGELION 13)
* 所属:NERV
* 搭乗者
** 碇シンジ・渚カヲル(ダブルエントリーシステム)(『Q』のみ)
** 碇ゲンドウ(『シン』のみ)
* 機体色:バイオレット
* 眼:四眼
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』に登場するNERV所属のEVA。NERV本部で建造されていた。カラーリングなどは初号機に酷似しているが、改2号機γ仕様および8号機β仕様に準じる太い胴体、2段重ねになった四眼などに違いがある。[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#第2の使徒・リリス|リリス]]の結界を突破するための機体でもあり、2人乗りの「'''ダブルエントリーシステム'''」となっているのは、[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#セントラルドグマ|セントラルドグマ]]最深部にある[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ロンギヌスの槍|ロンギヌスの槍]]と[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#カシウスの槍|カシウスの槍]]の2つを入手するために2つの魂=2人のパイロットが必要とされるためであるとされていたが、実は[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#DSSチョーカー|DSSチョーカー]]作動により片方のパイロットが死亡しても、生存しているもう片方のパイロットにより覚醒を継続させるという「ゼーレの保険」としての意味合いもあった。[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#エントリープラグ|エントリープラグ]]は肩甲骨の部分にある挿入口から挿入され、右肩のエントリープラグで下段両眼、左肩のエントリープラグで上段両眼が開く。また、2本の槍を扱うため胸部にも1対の腕が隠されており、胸部展開時に4本腕の異形の姿となる。EVA本体はA.T.フィールドを発することは無く、機体の周囲に小型ユニット4基(モニターには「RS Hopper」と表示されている)を浮遊させ、この端末からA.T.フィールドを展開することで攻守に力を発揮する。その正体は「'''アダムスの生き残り'''」とされる。
カシウスとロンギヌスの対の槍、そしてこの機体を使えば「世界の修復」も可能だとされ、それを望むシンジとカヲルはセントラルドグマ最深部に到達し、改2号機を退けて2本の槍を手に取ろうとする。槍に違和感を覚えたカヲルが制止するもシンジは聞かず、さらにカヲルのエントリープラグのみが管制システムを切断され(この時眼が赤色へと変化する)、シンジは一人で機体を操作して強引に2本のロンギヌスの槍を引き抜いてしまう。それによりMark.06内に潜伏していた[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#第12の使徒|第12の使徒]]が復活し、侵食を受けたカヲルが[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#第13の使徒|第13の使徒]]へと堕とされる。そして最終的には第12の使徒を吸収し、初号機の擬似シン化形態をも超えた「'''疑似シン化第3+形態(推定)'''」となり、'''[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#フォースインパクト|フォース・インパクト]]'''を起こしてしまう。これを止めるため、カヲルは機体に2本のロンギヌスの槍を刺し、シンジから引き取っていたDSSチョーカーの作動により死亡。それでも[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ガフの扉|ガフの扉]]は閉じず、マリが強制的にシンジのエントリープラグを射出させたことで、[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#フォースインパクト|フォースインパクト]]は初期段階で抑えられ、機体は地表に向けて落下していった。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では、NERV側に回収され[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ファイナルインパクト|アディショナルインパクト]]のトリガーとして利用された。再起動する際、使徒化したアスカを新2号機からエントリープラグごと引き抜き吸収することで再び、「疑似シン化第3+形態(推定)」となる。その際、シキナミタイプのオリジナルが第13号機に搭乗、あるいはコアへのダイレクトエントリーをしていることが判明する。その後、ゲンドウを体内に入れマイナス宇宙へと向かい、シンジの記憶の中で覚醒した初号機と戦う。最終的には、ユイとゲンドウにより[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ガイウスの槍|ガイウスの槍]]に貫かれて消滅した。
=== 腕ユニット ===
『シン』で登場した、コアにEVAの腕と上下に肩部ウェポンラックが付いた物体。腕だけでカエルのように跳ね、プログレッシブ・ナイフのような武器で攻撃する。また、相手に組み付いて自爆することも可能。
起動前の第13号機に接近した2号機を攻撃、それを阻止したマリの8号機と交戦し、何体かは破壊されるも残った機体は8号機の腕に組み付いて自爆、8号機の両腕を吹き飛ばした。
劇中で全く説明のない兵器であり、『シン』のラストのEVAが次々と槍に貫かれるシーンにも登場しなかったことから、EVAとして扱われてない可能性もある。メイキング映像に映ったコンテには「腕ユニット」との記述がある。
=== 兵器ではないエヴァンゲリオン ===
[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#エヴァンゲリオン・インフィニティ|エヴァンゲリオン・インフィニティ]]、[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#エヴァンゲリオン・イマジナリー|エヴァンゲリオン・イマジナリー]]を参照。
== その他EVAシリーズ ==
以下は作中未登場、または映像化されていない。
=== 4号機(ゲーム) ===
* 搭乗者
** 渚カヲル([[新世紀エヴァンゲリオン2#沿革|新世紀エヴァンゲリオン2 造られしセカイ -another cases-]]、パチンコ・パチスロ)
** 相田ケンスケ([[新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画|碇シンジ育成計画]]、[[新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ|バトルオーケストラ]])
** ダミープラグ([[シークレット オブ エヴァンゲリオン]])
* 機体色:シルバー
* 眼:双眼
* コア(魂):不明(『新世紀エヴァンゲリオン2』では魂が無い設定)
『新世紀エヴァンゲリオン2』に渚カヲルが搭乗する隠し機体として登場。カヲルと4号機は実は互いに交信しており(カヲルは「彼」と呼ぶ)、NERV本部上空に現れた異空間からカヲルの呼び掛けにより姿を現す。
『新世紀エヴァンゲリオン 碇シンジ育成計画』および『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では相田ケンスケが搭乗。それより前の『[[新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド2nd|鋼鉄のガールフレンド2]]』および同名の漫画でもケンスケが担当していたが、実際には搭乗せず、ゲーム版では本編同様消滅していた。
『シークレット オブ エヴァンゲリオン』では主人公であるNERV諜報部員・剣崎キョウヤの手により、S<sup>2</sup>機関暴走という理由を捏造してNERV北米第2支部を丸ごと葬り、その影で密かに機体をNERV本部に搬入したという経緯で登場する。
パチンコ・パチスロでは左腕に防御兵装が追加されている。『[[CR新世紀エヴァンゲリオン 〜最後のシ者〜]]』~『[[モバスロ ヱヴァンゲリヲン 〜真実の翼〜]]』では、新劇場版の他のエヴァ同様に細部のカラーリングが異なるデザインで登場。右腕に装備した半透明のシールドで第6の使徒の加粒子砲を防ぎ、左腕に装備したロンギヌスの槍を投擲している。
=== 4号機(ラピットボーラー装備Ver.) ===
* 搭乗者
** 真希波・マリ・イラストリアス(に扮した観客)(エヴァンゲリオン・ザ・リアル4-D: 2.0)
** 渚カヲル(P新世紀エヴァンゲリオン 〜シト、新生〜)
* 機体色:シルバー
* 眼:双眼
[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]](USJ)で2016年に開催された『エヴァンゲリオン・ザ・リアル4-D: 2.0』<ref>[https://www.usj.co.jp/universal-cool-japan2016/evangelion/ エヴァンゲリオン・ザ・リアル4-D: 2.0] - ユニバーサル・クールジャパン</ref>に登場。基本的なデザインはそれまでの4号機と変わらないが、山下いくとの新デザインによる両腕に装備した3本指の[[シールドマシン]]状の武器(ラピッドボーラー)を振るうほか、両腕から翼を生やして飛行する。
『ユニゾンリーグ』でのコラボや、『P新世紀エヴァンゲリオン 〜シト、新生〜』でもこちらの仕様で登場する。
=== エヴァンゲリオン乙型(乙号機) ===
* 搭乗者:渚カヲル
* 機体色:ライトオーカー
[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]製作のPS2用ゲーム『[[名探偵エヴァンゲリオン]]』『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』に登場。
『名探偵エヴァンゲリオン』では乙型、『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』では乙号機と呼称するが、同一の機体である。他のエヴァンゲリオンにはない翼が装備されており、自律飛行が可能。ゲーム『名探偵エヴァンゲリオン』ではゼーレ査察官渚カヲルの専用機。初登場は[[ボウリング]]のピン型の死徒<!--誤字ではない。『名探偵エヴァンゲリオン』作中では、敵は「使徒」ではなく、「死徒」と呼ばれる。-->襲来のときで、死徒と疑われたボウリング場を破壊しようとした。また、虫歯型死徒襲来の際は3号機を死徒と疑い連行しようとした。最後のボスであり死徒として覚醒したカヲルを取り込み、ターミナルドグマで初号機と対決した。第1形態と第2形態がある。
=== エヴァンゲリオン甲号機 ===
* 機体色:ダークグリーン
ブロッコリー製作のPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ』のエンドレスモードに、41番目の敵として登場。
ゼーレが極秘裏に開発したエヴァンゲリオンで、エヴァンゲリオン乙号機の兄弟機。背部にEVAとしては初となる円形状のビーム兵器を装備している。さらに、この武装は分離することでオールレンジ攻撃が可能。このビットは複数のサイズが存在し、すべてを合体させることで、強力なビーム砲としても使用できる。この武装は、背中に固定された状態でも使用できる。解説書では、雨龍・凱龍などと記されているが、正式名称は不明。第1形態と第2形態がある。
=== 8+2号機 ===
* 機体色:右半身がピンク、左半身は赤
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』本編後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』予告に登場したEVA。『シン』本編には登場しない。
8号機と2号機を融合させた[[ニコイチ]]機体であり、マゴロックス(『[[エヴァンゲリオンANIMA]]』に登場する武器)を装備している<ref>{{Cite news|url=https://animeanime.jp/article/2013/09/23/15667.html|title=謎の機体:エヴァンゲリオン8+2号機、早くもフィギュア登場 「ヱヴァ新劇場版:Q」次回予告登場|newspaper=アニメ!アニメ!|publisher=イード|date=2013-09-23|accessdate=2019-08-03}}</ref>。近接格闘とマゴロックスを用いて前述のMark.06に酷似したエヴァンゲリオンの大群と戦っていた。
=== <span id="エヴァンゲリオン無号機"></span>エヴァンゲリオン無号機(Another EVA) ===
* 機体色:バイオレット
短編映像シリーズ「日本アニメ(ーター)見本市」にて発表された短編「evangelion:Another Impact (confidential) 」に登場。
映像全編が3DCGで描かれており、デザインは[[竹内敦志]]。「どこかの時代、どこかの場所」で密かに開発されていたという設定で、それ以外の詳細は一切不明。初号機のような鋭角的なデザインの頭部で、鮫のような歯がむき出しの口、側頭部から生えた集音装置、平たい頭頂部が特徴。目は装着されたカバーで塞がれている。起動試験中に突然制御不能となり緊急停止を試みる最中、何者かによってカタパルトが開放され、無人の都市に向けて射出された。足止めにやってきた軍の戦闘機をたやすく一蹴し、綾波レイと似た「ここにいるよ」の声に導かれるかのように市街を駆け抜け、最後に空に向かって咆哮するところで映像は終了する。
=== その他 ===
; 馬型最終決戦兵器 ヱヴァインパクト<ref>{{Cite news|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1210/09/news081.html|title=馬型最終決戦兵器「ヱヴァインパクト」披露 「JRA×ヱヴァンゲリヲン新劇場版 JRA補完計画」:まさかの暴走も?|newspaper=ねとらぼ|publisher=アイティメディア|date=2012-10-09|accessdate=2023-07-13}}</ref>
: 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』とJRAのコラボレーションCMに登場した人造サラブレッド。
: [[日本中央競馬会|JRA]]とNERVがJRA補完計画として極秘共同開発し、近代競馬史に残る名馬のDNAとNERVのテクノロジーの融合によって誕生。[[東京競馬場]]地下で最終起動実験が行われており、飛来したロンギヌスの槍がトリガーとなって活動を始めている。搭乗者は[[武豊]]。
; コンボイ・モードエヴァ<ref>{{Cite news|url=https://hobby.dengeki.com/news/20090/|title=奇跡のコラボ「MP-10 CONVOY MODE“EVA”」|newspaper=電撃ホビーウェブ|publisher=KADOKAWA|date=2014-06-12|accessdate=2023-07-13}}</ref>
: 『[[トランスフォーマー]]』とのコラボ企画『TRANSFORMERS MODE EVA』より。コンボイ司令官がエヴァンゲリオンをスキャンし、巨大化した姿。
; 3式機龍乙型<ref>{{Cite news|url=https://dengekionline.com/elem/000/001/333/1333994/|title=『スパロボクロスオメガ』にゴジラ来襲。エヴァ初号機カラーの3式機龍乙型も参戦|newspaper=電撃オンライン|publisher=KADOKAWA Game Linkage|date=2016-08-02|accessdate=2023-07-13}}</ref>
: 『[[シン・ゴジラ]]』とのコラボ企画『[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]対エヴァンゲリオン』より。[[3式機龍]]の初号機、弐号機カラー。
: 『[[スーパーロボット大戦X-Ω]]』ではNERVが保管していた3式機龍の2号機「3式機龍乙型」として登場。
; ゴジラ feat.EVA-01<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/1606/10/news136.html|title=エヴァ×ゴジラ!? 初号機カラーのゴジラがかっこいい:東京おもちゃショー2016|newspaper=ITmedia NEWS|publisher=アイティメディア|date=2016-06-10|accessdate=2023-07-13}}</ref>
: 『シン・ゴジラ』とのコラボ企画『ゴジラ対エヴァンゲリオン』より。ゴジラの初号機カラー。
; エヴァンゲリオン初号機“G”覚醒形態<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.eva-info.jp/18340|title=伝説の『ゴジラ対エヴァンゲリオン 東宝30cmシリーズ エヴァンゲリオン初号機“G”覚醒形態』が装いを新たに再登場!|website=エヴァ・インフォメーション|publisher=グラウンドワークス|date=2022-12-08|accessdate=2023-07-13}}</ref>
: 『シン・ゴジラ』とのコラボ企画『ゴジラ対エヴァンゲリオン』より。初号機に[[ゴジラ (架空の怪獣)#ゴジラ細胞|G細胞]]が投入され、覚醒・暴走した姿。
; シンカリオン 500 TYPE EVA
: テレビアニメ『[[新幹線変形ロボ シンカリオン]]』第31話および劇場版シンカリオンに登場。運転士は碇シンジ。
; シンカリオンZ 500 TYPE EVA
: 『新幹線変形ロボ シンカリオンZ』第21話に登場。
: {{see|新幹線変形ロボ シンカリオン#シンカリオン 500 TYPE EVA}}
== 武装 ==
=== 白兵戦用 ===
; プログレッシブ・ナイフ
: EVA各機に標準装備されている近接戦闘専用武装。プログ・ナイフと略称されることが多い。コードネームは「PK-01」。
: 高振動粒子で形成された刃により、接触する物質を分子レベルで分離させることで切断する。通常は肩のウェポンラック内に格納されており、シャムシエル戦において初めて実戦使用された。アンビリカルケーブル分離後の時限戦闘において使徒のコア部を貫き、その近接戦闘における有効性を示した。以降劇中では最も使用頻度の高いEVAの装備品となる。
: 弐号機にはカッターナイフ状の新型「PK-02」(破損しても後ろの刃を押し出すことで再度使用が可能となる)が採用された。替え刃が前提となっている分初号機に搭載されている「PK-01」より強度が劣り、量産機との戦闘では二回ほどで使用不能になっている。
: D型装備に装着していた際には、四隅に固体ブースターノズルを付けたカバーに納めていた。
: 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』ではEVA各機のナイフのデザインおよび肩部ウェポンラック内の格納デバイスが一新。初号機は中折れ式のナイフとなり、コードネームも「PKN-01C」に変更されている。2号機は両刃のナイフに変更され、両肩に装備されるようになった。
; ソニックグレイヴ
: プログ・ナイフと同様に超振動によって相手を分子レベルで切り裂く[[薙刀]]。第九話で弐号機が使用し、イスラフェルを両断したが再生され、倒すには至らなかった。第拾九話では使用はされなかったが、ゼルエル戦時弐号機の足元の地面に突き刺さっていた。
: [[スーパーロボット大戦MX]]でこの時の射撃を再現した技「連続砲火」では最後にこれを投げつける。
; スマッシュホーク
: プログ・ナイフと同様に超振動で敵を分子レベルで切り裂く[[斧]]。第拾六話で弐号機が使用。レリエルのディラックの海から逃れるためビルに刺して足場にし、脱出に成功した。
; ニードルガン
: プロダクションモデル(弐号機以降)から装備されることになったもの。プログレッシブ・ナイフとは逆の肩のウェポンラックに収納されている。劇場版第25話で弐号機が使用。7連装で発射後に[[薬莢]]が排出される(劇中では2回連射された)。
: [[バンダイ]]の[[プラモデル]]「パーフェクトグレード エヴァンゲリオン初号機」では、前述の弐号機以降に装備という設定と異なるが右肩部に再現されている。
: 『[[スーパーロボット大戦α]]』では、ニードル発射機構として零号機〜3号機の標準装備となっている。
; ビームグレイブ
: ビームの刃を展開する槍状の武器。第九話で初号機と弐号機が使用。前腕装甲板に収納しており伸ばして使う。左右の腕で合わせて2本装備でき、先端からビームの刃を発生させるだけでなく、2本の柄の間にビームスクリーンを展開し相手を両断することもできる。
; サンダースピア
: 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』で登場。中折れ式の突撃用銃剣で、2号機に搭乗したマリが第10の使徒に近接戦闘を挑む際に使用。
''(以下は映像作品には登場せず)''
; マゴロク・エクスターミネート・ソード(マゴロックス)
: 大型の[[日本刀]]状の刀。マゴロク・E・ソードと略される。初出はアニメ雑誌『[[月刊ニュータイプ|ニュータイプ]]』1996年1月号表紙の山下いくと画のイラストより。フィギュアなどの立体造形物やゲームでは頻繁に登場し(「[[スーパーロボット大戦シリーズ]]」では初号機の必殺武器扱いである。『スーパーロボット大戦α』では居合い斬りのモーション、『[[第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ]]』では上段から振り下ろす)、山下が制作総指揮をつとめる『[[エヴァンゲリオン ANIMA]]』でも初号機F型装備の武装として登場した。『ニュータイプ』表紙にて発表された当初、鞘先端と柄先端は厳密には設定されていなかったが、後述のカウンターソード共々、詳細に設定画が描き起こされている。なお2タイプがあり、ステージ1は試作品で刀身にA.T.フィールドが発生できず廃棄され、実戦投入されたものは『エヴァンゲリオン ANIMA』に登場したステージ2仕様からである。
: {{独自研究範囲|date=2012年11月|名前の元ネタは「関孫六」で知られる[[孫六兼元]]から。マゴロックスの柄部分上部にある黒い扇状の部分にある「SEKI」のマーキングからもこれがうかがえる}}。
; カウンターソード
: PlayStation用ゲーム『スーパーロボット大戦α』に登場。いわゆる[[脇差]]のような形をしているが一種の[[ガンブレード]]でもあり、刀身の根元上部に銃口がついており、柄にあたる部位に内蔵されたトリガーを引くことで発射可能。刃の峰の後ろに付いている白い円柱状の部分がマガジンとなっている。
: 元々はバンダイのプラモデルLMHGシリーズ『エヴァンゲリオン初号機 輸送台仕様』に前述のマゴロックスを付属させる際、バンダイ担当者から「'''設定画があるならぜひ欲しい'''」との要望により設定画が描き下ろされた。山下は当初鞘(ソードパレット)に収めて肩部ウェポンラック後部に装着するように考えていたが、1本では見栄えが悪いとのことで同時に設定が起こされ、マゴロックス共々付属された。
; アクティブソード
: セガから販売されていたセガサターン用ゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン 2nd Impression]]』内において使用できる初号機の接近戦用装備。見た目はマゴロックスそのもの。
; プログレッシブ・ダガー
: 従来のプログ・ナイフを大型化し殺傷力を高めている。PlayStation 2用ゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン2]]』『第3次スーパーロボット大戦α』、PSP用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2 造られしセカイ -another cases-』に登場し、F型装備に搭載される。
; 大型破砕兵器デュアルソー
: チェーンソーが2つ繋がったような形状をした近接戦装備。PlayStation 2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』での新規武器として登場したのが初出。ゲームから漫画版に逆輸入され、カヲルの搭乗する弐号機がアルミサエル戦で使用。しかし、アルミサエルに物理融合され逆に弐号機が左足を切断される。
: 新劇場版には未登場だが『[[スーパーロボット大戦DD]]』では零号機の武装として登場。
; トンファー
: 『[[新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ]]』で3号機が使用する武器。通常のコンボ技の他、必殺技時には突進しての一撃を繰り出す。
=== 銃火器 ===
; ハンドガン
: プラモデルでは、「専用拳銃」となっている。また、『[[スーパーロボット大戦F]]』では「パレットガン」という名称だった。第拾六話で初号機が使用。『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q]]』では8号機がMark.09に対して使用。直撃すればエヴァの頭部を破壊するほどの威力を持つ。[[デザートイーグル]]に似た形状をしているのが特徴。
; パレットライフル
: 主に初号機が頻繁に使用した[[アサルトライフル]]のような銃。[[レールガン]]の原理で[[劣化ウラン弾]]を高速射撃する。'''パレットガン'''という別名もある。
: 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』では、「'''エヴァンゲリオン専用大口径209mm小銃 AU Assault Rifle Type MM-99'''」と名付けられている。
; [[狙撃銃|スナイパーライフル]]
: 零号機が第拾六話と第弐拾参話で使用した。セミオートマチック。レリエルには(上空のものは影だったため)通用せず、アルミサエルにも通用しなかった。
: 新劇場版には未登場だが『[[スーパーロボット大戦DD]]』では零号機の武装として登場。
; ポジトロンライフル
: [[陽電子]](ポジトロン)が物質中の電子に衝突・消滅する力を利用した武器。第六話ではまだ試作段階だったために使用されず、後述のポジトロンスナイパーライフルが徴用された。実戦での初登場は第九話。第弐拾弐話にて弐号機がアラエル攻撃のために改良型(ポジトロンライフル20X)を装備した。使用の際は、右肩のウェポンラックを外す必要がある。
; ハンドバズーカ
: 第拾九話で弐号機が使用した小型で取り回しの良いバズーカ砲。弐号機がゼルエルへ使用したが、通用しなかった。
; [[バズーカ]]
: 第拾八話で弐号機が携行した大型のバズーカ砲。3号機(バルディエル)には使用されず、威力は不明。
; サブマシンガン
: 本編で武装ビルにクレーン搬入されているシーンがある。きお誠児によってデザインされた。『[[新世紀エヴァンゲリオン バトルオーケストラ]]』などのゲーム作品で3号機の武装として採用されていることがある。
; EM-226エヴァンゲリオン専用携帯型回転式多砲身440mm機関砲([[ガトリング砲]])
: 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』において、第5の使徒との戦いで初号機が使用。砲身は6門、弾倉はドラムマガジン。
; 超電磁洋弓銃([[クロスボウ]])
: 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』で登場した武器。2号機が装備し、第7の使徒殲滅に使用された。矢の射出時に銃口からA.T.フィールドが拡散するような描写がされている。実在のクロスボウとは比較にならない連射速度を持つ。
; ペンシルロック
: 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で登場した武器。肩のウェポンラックに装備されるニードルガンで、両肩合わせて20本が装備されている。マリが2号機へ搭乗した際に第10の使徒へ使用したが、至近距離で撃ち込んだにもかかわらず、全てA.T.フィールドに弾かれている。
; スナイプ・ガン
: アニメ本編には登場せず、『MAGIUS新世紀エヴァンゲリオンRPG』に登場した武器。パレットライフルの銃身を延長し、スナイパースコープを装着した狙撃仕様。
; AA弾
: 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で登場。アンチA.T.フィールドを展開する銃弾。8号機が第13号機に対し使用したが、第13号機はA.T.フィールドを持っていなかったため効果が無かった。
=== 特殊兵装 ===
; [[聖槍|ロンギヌスの槍]]
: 死海(南極大陸跡地)で発見された巨大な赤い槍。長さはEVAの身長を優に超えるほどで、通常は二又の刃先をしているが、状況によりその形状は変化する。A.T.フィールドを無効化する力(アンチA.T.フィールド)を持つ。[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ターミナルドグマ|ターミナルドグマ]]の[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#リリス|リリス]]に突き刺されていたが、第弐拾弐話において零号機が衛星軌道上の第15使徒に対し投擲して使用した。使徒殲滅後は月軌道に達し、加えて人類が宇宙から持ち帰りうる質量を超えていたために回収は不可能とされた。劇場版第26話にて暴走したEVA初号機によって呼び寄せられ、人類補完計画の要の一つとして用いられた。この槍のオリジナルは第1使徒[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#アダム|アダム]]、第2使徒リリスが持つ2本だが、第25話・第26話では量産機がレプリカを各1本装備した。新劇場版ではオリジナルは4本になっており、またコピー(対使徒専用殲滅兵器「簡易式ロンギヌスの槍(似非復元型)」)が仮設5号機の右腕に装着されている。
: 『エヴァンゲリオン ANIMA』でゼーレの記憶に支配された加持によれば「何かを射るために投擲した場合、使用者の意思の強さに応じて物理法則の外で振舞う(物理法則を凌駕して光速を超えることも可能)」とされている。
; [[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#カシウスの槍|カシウスの槍]]
: 『新劇場版:破』のラストシーンで、覚醒した初号機に対しMark.06が投げつけた槍。[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#サードインパクト|サードインパクト]]を起こしかけた初号機を完全に沈黙させた。穂先が幅広であるにもかかわらず、コア中心部のみを射抜くかのように突き刺さった。ロンギヌスの槍とは対となる槍であり、『新劇場版:Q』において、シンジの望む「世界の修復」のキーアイテムとなりうることがカヲルの発言により示唆されている。
: 『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』では、初号機がロンギヌスの槍から変化させる形で使用。
; EVA専用改造陽電子砲NERV仕様(ポジトロン・スナイパー・ライフル)
: 第六話にてラミエル殲滅のためにNERVがつくばの戦自研から借用した。第弐拾弐話で零号機が使用したものは、これをもとにNERVが独自に建造したものである。照準および発射はEVAによって行われる。ラミエルのA.T.フィールドを貫くために必要とされた1億8千万kW(キロワット)という莫大なエネルギーでの射撃が可能だが、銃身や加速器が耐えられるかは実際に射撃するまで不明であった。一度発射すると砲身の冷却や再充填、ヒューズの交換などで次弾発射までかなりの時間がかかる。
: スーパーロボット大戦シリーズでは、[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#ヤシマ作戦|ヤシマ作戦]]後も初号機や零号機の兵装として登場する。
: 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』では'''大出力型第2次試作自走460mm陽電子砲'''と改称された。デザインはオレンジを基調としたカラーリングの本体に3つの自走用のキャタピラがついている。
; 耐熱光波防御盾
: EVA専用の耐熱光波防御兵器。第六話にてヤシマ作戦で零号機が使用。[[単段式宇宙輸送機]](SSTO)の船底を流用したもので正式装備ではない。SSTOの船底として超電磁コーティングが施されており、第5使徒[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#ラミエル|ラミエル]]の加粒子砲の直撃にも17秒までなら耐える。
: 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』では'''エヴァンゲリオン専用単独防御兵装 ENCHANTED SHIELD OF VIRTUE'''と改称され、正式な専用装備となっている。デザインも変更され、V字型の装甲板を複雑に組み合わせた鋭角的なものになっており黄色と白に塗装されている。中央のパーツは取り外して小型の盾として使用可能である。また下部には固定用のアンカーが取り付けられている。
; 専用バッテリーユニット
: アンビリカルケーブル非接続時の稼働時間を30分延長できる外付け式の電池。肩のウェポンラック後部に装着され、容量切れの際は速やかに取り外される。NERV本部全体が停電していたために電力供給がままならない状況下で、マトリエル殲滅のために出撃したEVA3機がこれを用いた。
; [[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#N2兵器|N<sup>2</sup>爆弾]]
: 第拾九話で、零号機がゼルエルに対して自爆攻撃を行ったときに使った爆弾。次世代の[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#兵器|戦略兵器]]である。爆弾タイプ以外に地雷や爆雷などのバリエーションが存在し、劇中で国連軍や[[新世紀エヴァンゲリオンの用語一覧#戦略自衛隊|戦略自衛隊]]が使徒に対して何度か使用している。[[使徒 (新世紀エヴァンゲリオン)#ゼルエル|ゼルエル]]はこれをコアを遮断する形で防御したため、ダメージは与えられなかった。
; 諸刃の剣
: 量産機が持つ大型の両刃剣で、柄の両端に長い刃と短い刃がついている。ロンギヌスの槍を基に造られたレプリカで、投擲の際にロンギヌスの槍の形に変化して弐号機を貫いていた。オリジナル同様にA.T.フィールドの無効化が可能である。
; インパクト・ボルト
: F型装備の両肩に装備されている。A.T.フィールドにより発生させ、エネルギーチャンバー内で増幅した高出力の指向性電撃を放出する。アニメ本編ではロボットアニメ的な必殺技が無かったエヴァンゲリオン初号機のために設定された兵装であり、『新世紀エヴァンゲリオン2』(PS2版、PSP版)、『第3次スーパーロボット大戦α』に初号機F型装備の最強の攻撃手段として登場する。
; 全領域兵器マステマ
: プログ・ナイフと同様に超振動により物体を分子レベルで切り裂くブレードがついたフレームに、ガトリング砲、2発のN<sup>2</sup>ミサイルを装着した兵器。「全領域兵器」の名のとおり、近接、射撃、広域破壊に対応できる万能武器である。名称の由来は、[[ユダヤ教]]の『[[出エジプト記]]』に登場する[[悪魔]]・[[マスティマ|マステマ]]で、ゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン2]]』での新規兵装が初出である。
; 使徒キャッチャー
: 第拾話にてD型装備の弐号機が使用したフレーム状の兵器。浅間山火口内で繭状で発見された使徒サンダルフォンを捕獲するために用いられた。捕獲時はフレーム内に使徒を収め、電磁膜によって捕獲する。緊急時には爆砕ボルトによって速やかな切り離しが可能である。
; 垂直式使徒キャッチャー
: ゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド]]』に登場。水中にいる使徒を捕獲するための装備だが、外見はEVAの大きさに合わせたリール式の釣竿である。
; RSホッパー
: 第13号機が使用した細長いラグビーボール状の浮遊小型ユニット。自らはA.T.フィールドを持たない第13号機の代わりにA.T.フィールドを展開し、攻守に力を発揮する。
=== 特殊装備 ===
; 陸専用A型装備(陸戦装備)
: 企画書に登場する、本編のB型装備と思われる装備。企画段階では、第拾参話にて大破。改造され、敵・使徒から回収された陽電子機関(本編のS<sup>2</sup>機関)を搭載する予定だった。色は白。
; B型装備(通常装備)
: 第壱話から登場。基本装備であり、登場回数が1番多い。
: なお、「B」とはベーシックの意で、肩部ウェポンラックを装備しただけで特にオプションを装備していない。
; C型装備(飛行用装備)
: 『[[新世紀エヴァンゲリオンRPG|新世紀エヴァンゲリオンRPG NERV白書]]』の「死海文章・伝承」のページに登場。
: EVAの飛行を目的に開発された。比較的自由に飛びまわれるものの停止が不可能で、使徒の攻撃を回避しやすくはなるものの、逆に命中率が低くなってしまうという欠点がある。テストの結果、コストの割にはまったく役立たず、完成済ユニットとともに破棄された。
; D型装備(耐熱耐圧耐核装甲)
: 第拾話に弐号機に装着される形で登場。肩部ウェポンラックを取り外して装備する。人間が使う深海作業用の潜水服に似ており、搭乗の際にはプラグスーツも専用の物を着用する。基本的なデザインは普通のものと同一だが、右手首のスイッチを押すことで膨張し、断熱・耐圧機能を持つ。
; F装備(空挺降下戦用)
: 第七話に登場。EVA空輸専用の全翼機に搭載され、空中投下を行うこと目的とした装備。両肩のウェポンラック後端にレールが設置され、これを介して地面に対してうつ伏せの姿勢で全翼機に搭載される。投下時は全翼機側のロックボルトが開放され、機に対して後方にEVAは投下される。
: 量産機の運搬方法は既存のEVAとは違い、下半身、頭部、両腕を機に埋め込まれる形で固定され、地面に対し背中を向けて吊り下げられる形で運搬されている。投下時は頭部を下にして落下する形で降下する。
; F型装備(フィールド偏向制御運用実験機AFCエクスペリメント)
: PlayStation 2用ゲーム『[[新世紀エヴァンゲリオン2]]』『[[第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ]]』、フィギュア企画『[[エヴァンゲリオン ANIMA]]』に登場。第14使徒ゼルエル戦でS<sup>2</sup>機関を搭載したことにより、無限の動力とより強力なA.T.フィールドを得たEVA初号機に対し、
:* '''それまでの使徒戦の戦訓から従来の汎用兵器としての特性を捨て、「火力の向上」「重装甲化」を施す'''
:* '''それに伴う重量増を補うための「A.T.フィールドを利用した機動力の上昇」'''
: などのコンセプトに基づいて、前述のインパクトボルトなどの追加武装を施したとする設定である。この改装により、初号機は他の装備への換装、および従来使用した兵器の使用ができなくなった。後の『[[エヴァンゲリオン ANIMA]]』ではコンセプトが若干改められ、マゴロクソードを装備できるように手のデザインが変化している。
: 来るべきゼーレとの決裂を予期した上で、量産機との対決をも見越した改装であり、空挺降下戦用のものと名称が重複しているのは、ゼーレの目を欺くためである。そのためか、機体各部には従来の「'''NERV'''」ではなく「'''NERV JAPAN'''」とマーキングされている。
: 『第3次スーパーロボット大戦α』で自軍に届くのは人類補完計画阻止後で、想定されていた量産機との戦闘もなかった。一方『エヴァンゲリオン ANIMA』ではロンギヌスの槍の犠牲になった弐号機を救出するべく、量産機との戦いへ出撃している。
: ホビー雑誌の企画として零号機や弐号機のF型装備もデザイン・キット化され、食玩化もされている。このうち零号機F型装備は『エヴァンゲリオン ANIMA』でも登場している。零号機は右腕と右脚を廃して大型の陽電子砲と射撃安定用のパイルバンカーが装備された義足が接続され、自走が不可能なかわりに砲撃戦に特化した仕様になっており、弐号機は長剣の二刀流による近接戦を想定した仕様になっている。
; G型装備(狙撃用)
: 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序]]』におけるヤシマ作戦で使用される。
: 右肩のホルスター部がレーダーアンテナと狙撃用スコープが組み合わされたものに変更されている。使用時にはアンテナとスコープが展開され前述の460mm陽電子砲と接続される。
; 空中挺進専用S型装備
: 『[[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]]』に登場。『序』終盤の次回予告でも登場しており、これを装備した2号機が空中から降下してくるカットがある。
: 当装備は空中から降下・およびその姿勢制御用の[[空挺作戦|エアボーン]]装備であるため、飛行能力は持たない。下腕部のフィンが翼状になっている他、肩部ウェポンラックを挟み込む形で減速用ジェットエンジンノズルと安定翼が装着されている。
; S型装備(宇宙空間戦闘用)
: [[スーパーロボット大戦シリーズ]]に登場。エヴァンゲリオンが宇宙で戦闘するための理由付けとして名前が出ている。B型装備と外見上の違いは無い。
; V型装備(飛行用装備)
: C型装備と同様に『新世紀エヴァンゲリオンRPG NERV白書』の「死海文章・伝承」のページに登場。
: C型装備とは逆に姿勢の変更を含めた細かい静止運動が可能なものの、その場にホバリングするのが精一杯という欠点がある。テストの結果、C型装備同様コストの割にはまったく役立たず、完成済ユニットとともに破棄された。
== その他 ==
=== 命名 ===
零号機・初号機の由来は、映画の[[試写]]における零号試写(色処理などを行っていないフィルムによる最終チェックのための試写)、初号試写(納品用の完成版フィルムの最初の試写)である。
=== デザイン ===
デザインは零 - 4号機をマンガ家の[[山下いくと]]、量産機をアニメーター(劇場版メカ作監)の[[本田雄]]が手掛けている。2003年に新世紀エヴァンゲリオン企画10周年を記念して発売されたPS2用ゲーム『新世紀エヴァンゲリオン2』用にF型装備仕様の初号機やジェット・アローン改、およびEVAの新兵装などが山下いくとの手によって追加デザインされた。なおゲーム本編には登場しないが模型雑誌の企画用にF型装備仕様の零号機と弐号機のデザイン画が描き起こされており、バンダイから商品化もされている。新劇場版では、山下により初号機と零号機の細部デザインと色彩が変更(テレビ版初期デザイン案に回帰し、そこから調整)され、また新規装備のデザインが作られた。次いで主に[[3次元コンピュータグラフィックス|3DCG]]との整合性を図るため、本田により新たに初号機のデザイン画が起こされている。
=== EVAの身長設定 ===
{{出典の明記|section=1|date=2019-07-17}}
EVAの身長については、アニメ制作時には明確な数値が設定されておらず、「[[ウルトラマン]]と同じ身長」(40メートル)とされていた。[[スーパーロボット大戦シリーズ]]への出演にあたって明かされた設定も「40-200メートル」というものである<ref>『[[スーパーロボット大戦α]]』内で閲覧できる「ロボット大図鑑」の項目「EVA初号機」「EVA零号機」の解説文より。</ref>。厳密に大きさを定めないことにより、そのシーンにおいて最も演出的に適切な作画を行うことを可能にしている。したがって、画面上に登場するさまざまなものを尺度にEVAの身長を求めても、そのシーンごとにまったく違う数値が算出される。ウルトラマンにおいても初登場時の設定は40メートルと定められているが、撮影現場ではそれを厳密に再現していない。新劇場版においては全長80メートルとしたと庵野は雑誌{{Full|date=2023年7月}}の対談で語っている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* [[EVANGELION CHRONICLE|週刊 EVANNGELION CHRONICLE(新訂版)]] 2009年 [[デアゴスティーニ・ジャパン|DEAGOSTINI]]
* 新世紀エヴァンゲリオンRPG NERV白書
* {{Cite journal|和書|journal=エヴァンゲリオン・クロニクル 新訂版|issue=01号|publisher=[[デアゴスティーニ・ジャパン]]|id={{ASIN|B00478NW3S}}|pages=1-4|ref={{SfnRef|CHRONICLE 01|2010}} }}
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[[Category:新世紀エヴァンゲリオンの世界観]]
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[[Category:動物兵器]] | 2003-04-25T09:18:40Z | 2023-10-11T11:32:49Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3_(%E6%9E%B6%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%85%B5%E5%99%A8) |
7,286 | インジール | インジール(إنجيل injīl)は、アラビア語で福音、福音書、新約聖書を意味する語である。
イスラム教においては、預言者イーサー(イエス)に下された神(アッラーフ)の啓示の事であり、真性な神とキリスト教徒の共同体(ミッラ)との間に結ばれた契約のひとつであると見なされる。このことから、ムスリム(イスラム教徒)はキリスト教徒のことを指して「インジールの民」と呼ぶこともある。
ムスリムはしばしば誤解されるようにクルアーンのみを啓典としているわけではない。インジールも啓典のひとつとしている。しかし、啓典ではあっても原典は現存しておらず、キリスト教各派によって異同があることから、神の言葉をそのまま写し取ったものではないと考えており、神の言葉を啓示されたそのままに伝えるクルアーンに比べて劣ったものと見なす傾向がある。
また、クルアーンはアラビア語によるアラブ人の共同体の啓典であるが、同時に最後の預言者であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフを通じて全世界の民に下された啓典であり、全世界の民が可能な限りクルアーンを啓典と認めてムスリムの共同体(ウンマ)に加わることがムスリムの大理想とされる。
キリスト教徒のアラブ人にとって、インジールとは神(アッラーフ)から神の子イエス・キリストに対する啓示・福音あるいは福音書を意味する。 | [
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] | インジールは、アラビア語で福音、福音書、新約聖書を意味する語である。 | {{Islam}}
'''インジール'''({{lang|ar|إنجيل}} injīl)は、[[アラビア語]]で[[福音]]、[[福音書]]、[[新約聖書]]を意味する語である。
==イスラム教==
[[イスラム教]]においては、[[預言者]][[イスラームにおけるイーサー|イーサー]](イエス)に下された神([[アッラーフ]])の[[啓示]]の事であり、真性な神と[[キリスト教]]徒の共同体([[ミッラ]])との間に結ばれた契約のひとつであると見なされる。このことから、[[ムスリム]](イスラム教徒)はキリスト教徒のことを指して「インジールの民」と呼ぶこともある。
ムスリムはしばしば誤解されるように[[クルアーン]]のみを[[啓典]]としているわけではない。インジールも啓典のひとつとしている。しかし、啓典ではあっても原典は現存しておらず、キリスト教各派によって異同があることから、神の言葉をそのまま写し取ったものではないと考えており、神の言葉を啓示されたそのままに伝えるクルアーンに比べて劣ったものと見なす傾向がある。
また、クルアーンは[[アラビア語]]による[[アラブ人]]の共同体の啓典であるが、同時に最後の預言者である[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ]]を通じて全世界の民に下された啓典であり、全世界の民が可能な限りクルアーンを啓典と認めてムスリムの共同体([[ウンマ (イスラム)|ウンマ]])に加わることがムスリムの大理想とされる。
==キリスト教==
[[キリスト教徒]]のアラブ人にとって、インジールとは神([[アッラーフ]])から神の子[[イエス・キリスト]]に対する[[啓示]]・福音あるいは福音書を意味する。
==関連項目==
*ムーサーの[[タウラート]]([[モーセ五書]])
*ザブール(ダーウード([[ダビデ]])の[[詩篇]])
{{DEFAULTSORT:いんしいる}}
[[category:イスラーム用語]]
[[category:キリスト教文書]]
[[category:新約聖書]] | null | 2022-02-17T03:50:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%AB |
7,287 | 割り込み (コンピュータ) | 割り込み(わりこみ、英: interrupt)とは、コンピュータがその周辺機器などから受け取る要求の一種である。現在の多くのCPUは、割り込みを処理するための機能を備えている。
割り込みの主な目的は、「周辺機器からの情報を、他の作業をしながらも取り落とすことなく受け取ること」であり、以下のような具体的な効果がある。
CPUの割り込みは、大きく分けてハードウェア割り込み(外部割り込み)とソフトウェア割り込み(内部割り込み)に分類できる。一言で「割り込み」と言った場合、前者を指すことが多いため、後者のことをSWI (SoftWare Interrupt) と呼び区別する場合がある。
割り込みには以下のような種類が存在する。
ハードウェア割り込みはCPUの外部から要求されるものであり、CPUの割り込み要求端子をアサート(アクティブ化)された場合に発生する。
例えば、キーボードが押下されるなど周辺機からのデータ入力が発生した際に、割り込み要求端子の電圧をHIからLOWにしてアサートすることで、実行中のCPU命令実行が中断され、入力処理ルーチンの実行処理が割り込まれる。
CPUの割り込み要求端子には、割り込み処理を禁止できないマスク不可能な割り込み (Non-Maskable Interrupt, NMI) と、割り込み処理の許可/禁止を制御できるマスク可能な割り込み(狭義のIRQ)の2種類の端子を備えている場合が多い。割り込みのマスクの設定は主にフラグレジスタに格納されており、割り込みの許可/禁止 (Enable/Disable) を操作するCPUの命令が用意されている。また、これらの端子が同時にアサートされた場合、優先順位がありNMIが優先される。一般に、周辺機からの入力にはOSで制御される必要があるため、IRQ端子に接続して使用されることが多い。一方、デバッグやハードウェアエラーなどの特殊な用途にはNMIが使用されることが多い。
IRQ端子のアサート方法は、信号の変化点を検出するエッジトリガと、信号のレベルで検出するレベルトリガがある。エッジトリガでは、立上がり又は立下りといった片方向の変化だけを検出する「片エッジ検出」と、両方ともを検出する「両エッジ検出」がある。PCIバスではレベルトリガ方式の割り込み信号線が取り入れられている。
CPU が割り込みを認識するためには、割り込みをサンプリングするタイミングで、割り込み信号がアサートされている必要がある。割り込みソースが多い場合、アサートされている信号のサンプリングを完了するまでのサイクル数が増加することになるため、割り込み許可状態とするサイクル数がどの位必要になるか、事前に(割り込み許可状態とサンプリング開始のタイミングやサンプリング完了に要するサイクル数など)割り込み回路設計情報を確認しておく必要がある。
CPU が割り込みを認識し、割り込み終了後に実行再開すべき PC やフラグレジスタを退避した後、割り込み処理ルーティンにてソフトウェアが割り込みを許可しない限りそれ以上の割り込みがネストしないように CPU が割り込みを自動的に禁止するタイプの CPU と、割り込みが認識されたレベルよりも優先度が高い割り込みに限りネストしても受け付けるタイプの CPU がある。後者の例としてPDP-11がある。初期のUNIXがPDP-11向けに開発されたことから、割り込みレベルを設定するspl(英語版)命令がカーネル内で広く使用されており、他のアーキテクチャでもエミュレーションにより同機能を実装している。
ソフトウェア割り込みは、CPU内部においてCPU命令によって要求されるものや、命令実行に関わるモジュール(例えば、キャッシュ)の状態変化やエラーによって要求されるものがある。前者は、ソフトウェア割り込み命令によって発生するものであり、狭義のSWIとも言われる場合がある。また後者は、例外 (Exception) やトラップ (Trap) と呼ばれ区別されることがある。
CPU命令(INT、TRAP、RST など)によって発生するソフトウェア割り込みは、実行可能な処理範囲がモードによって制限されるようなCPUにおいて、システムコールを実現するために用いられる。例えば、通常のアプリケーションが動作するユーザモードでは実行できない命令であっても、SWIの後では特権モードに移行するため実行可能になる。
例外は、ゼロ除算、算術オーバーフロー、ページフォルトなどによって生じる。特に、ページフォルトはOSがメモリ空間を管理するのに重要な役割を果たす。
CPUがソフトウェア割り込みのための命令を直接サポートしていない場合、空いているハードウェア割り込み要求端子をアサートする手段を別途用意することによりソフトウェア割り込みをエミュレートすることがある。アーキテクチャによっては、この方法を正式なソフトウェア割り込みの実装としている。
CPUの割り込み要求端子は1本もしくは複数用意され、CPUの種類や実装によって異なる。
複数の周辺機からの割り込み要求が発生可能な場合、1つの割り込みハンドラ(後述)で処理を行うと、どの周辺機がどのような割り込み要求を発生させたのか判別する処理を、プログラム側で行う必要がある。これに対しPC/AT互換機などでは、ハードウェアとして複数のIRQ端子を用意して、割り込み要因毎に異なるハンドラに処理を移すことができるようにした構成をとれるようにしたものがある。この機能を持った回路のことを割り込みコントローラ (Interrupt Controller) と呼び、CPUのIRQ端子を外部で拡張して制御するものである。マイクロコントローラでは同一チップ内にCPUと複数の周辺機が内蔵され、割り込みコントローラも内蔵されるものが多い。
次に代表的な割り込みコントローラの例について述べる。
CPUに割り込みが生じると、現在実行している処理(命令)を停止して別の処理を実行する。割り込み後に実行される処理は、割り込みハンドラもしくは割り込みサービスルーチン (Interrupt Service Routine, ISR) と呼ばれる。また、割込処理が終了しても、元の処理(割り込みが生じた時点に実行していた処理)に戻ってこられるように、元の処理の場所(アドレス)に関する情報(および元の処理の作業状態、コンテキストと呼ばれる)を(多くの場合スタックに)保存しておく。
割込処理を実行するために、どこの場所(アドレス)に飛べば良いかを示す情報は、割り込みベクタと呼ばれるテーブルに書かれている。割り込みベクタには、飛び先の命令のアドレスを書くこともあれば、ジャンプ命令を書くこともある。
割り込み処理ではイベントドリブンな処理を行うことができるため、割り込み処理に割り当てられたタスクについては効率的な処理が行える。しかしその一方、割り込み発生時には、CPUのレジスタの退避/復帰やプロセッサの特権レベル移行の処理など、少なからず処理にオーバーヘッドが生ずることとなる。このため、割り込みの発生頻度が高いシステムの場合、その処理によってシステム資源が占有されてしまい、本来の処理の応答性や処理速度に影響を与える場合がある。
状況によっては割り込みを使わず、ポーリングでフラグを定期的に確認するなどして、本来の処理との折り合いをつける方が、全体的なパフォーマンスが向上する場合がある。なお、一部のデバイスドライバでは、通常は割り込み動作を行い高負荷時にはポーリングで動作する仕組みを持ったものもある。
また、RISCプロセッサでは、割り込みが発生すると実行中のパイプラインが乱れ処理性能が低下するため、旧来の8ビットCISCプロセッサなどに比べると、割り込みによる相対的なパフォーマンス低下の影響が大きくなる。また投機的実行のペナルティなど複雑化したプロセッサ機能も、割り込みの際のオーバーヘッドを増大させる要因となる。
コンピュータのこの意味での「割込み」という語は、インタラプト(Interrupt)の訳ではなく、独立に作ったものである。和田英一によれば、1959年(昭和34年)の夏、パラメトロン計算機において、出力装置が直前の処理を終えたことを計算機に知らせる方法を議論していてアイディアを得た、という。 | [
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"text": "コンピュータのこの意味での「割込み」という語は、インタラプト(Interrupt)の訳ではなく、独立に作ったものである。和田英一によれば、1959年(昭和34年)の夏、パラメトロン計算機において、出力装置が直前の処理を終えたことを計算機に知らせる方法を議論していてアイディアを得た、という。",
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] | 割り込みとは、コンピュータがその周辺機器などから受け取る要求の一種である。現在の多くのCPUは、割り込みを処理するための機能を備えている。 | {{出典の明記|date=2021-08-20 11:28(UTC)}}
{{OS}}
'''割り込み'''(わりこみ、{{lang-en-short|interrupt}})とは、[[コンピュータ]]がその[[周辺機器]]などから受け取る要求の一種である。現在の多くの[[CPU]]は、割り込みを処理するための機能を備えている。
== 目的 ==
割り込みの主な目的は、「周辺機器からの情報を、他の作業をしながらも取り落とすことなく受け取ること」であり、以下のような具体的な効果がある。
; CPU資源の有効利用
: 周辺機器の速度は[[CPU]]の処理速度より格段に遅いため、周辺機器が処理を行っている間、CPUが他の処理を行ったほうが効率がよい。その場合、周辺機器の処理の終了をCPU側から定期的にチェックする([[ポーリング (情報)|ポーリング]]と呼ぶ)のは、他の処理の効率を落とすため望ましくない。このため、周辺機器の側から割り込みによって処理の終了を通知する方法がとられる。しかしながら、近年のCPUの高速化に伴い、GHz クラスのCPUを利用した場合は、1msec単位程度の周期的なポーリングを行う方式も研究されている。{{要出典|date=2015年8月}}。
; 応答性の向上
: [[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]などのユーザインターフェースは、入力の遅延や入力漏れが致命的な欠陥になる。この場合は割り込みを使ってユーザからの入力を確実に処理する必要がある。コンピュータが[[フリーズ]]した場合でも、マウスカーソルの移動だけが反応することがあるが、これは割り込み処理だけが機能していることになる。
; [[例外処理]]の効率化
: 周辺機器に障害が生じた場合、割り込みを用いることでプログラム側に障害を速やかに伝えることが可能になる。またプログラム上でも例外処理を本来の処理と分離して記述することを容易にする。
; 正確なタイミングの取得
: 画像表示、音楽の演奏や時計など、正確なタイミングで処理を行う必要がある機器を制御する場合、その機器が搭載している正確なタイマーによりタイマー割り込みを行い、CPU側に処理のタイミングを指示する。
== CPUの割り込み ==
=== 割り込みの分類 ===
CPUの割り込みは、大きく分けて'''ハードウェア割り込み'''(外部割り込み)と'''ソフトウェア割り込み'''(内部割り込み)に分類できる<ref>{{Cite book|和書
| author= bit 編集部
|title= bit 単語帳
| year=1990
| date=1990-8-15
|page=274
|publisher=[[共立出版]]|isbn =4-320-02526-1 }}</ref>。一言で「割り込み」と言った場合、前者を指すことが多いため、後者のことをSWI (SoftWare Interrupt) と呼び区別する場合がある。
割り込みには以下のような種類が存在する。<!--- 表にする必要がありそう --->
* ハードウェア割り込み - 割り込み要求端子の変化によりCPU外部から発生する
** ノンマスカブル割り込み(NMI)
** マスカブル割り込み(狭義の[[IRQ]])
* ソフトウェア割り込み(SWI) - CPU内部の要因で発生する
** 狭義のソフトウェア割り込み(狭義のSWI) ー CPUの割り込み命令によって発生する
** 例外、トラップ - 割り込み命令以外の要因で発生する
==== ハードウェア割り込み ====
ハードウェア割り込みはCPUの外部から要求されるものであり、CPUの割り込み要求端子をアサート(アクティブ化)された場合に発生する。
例えば、キーボードが押下されるなど周辺機からのデータ入力が発生した際に、割り込み要求端子の電圧をHIからLOWにしてアサートすることで、実行中のCPU命令実行が中断され、入力処理ルーチンの実行処理が''割り込まれる。''
CPUの割り込み要求端子には、割り込み処理を禁止できない'''マスク不可能な割り込み''' (Non-Maskable Interrupt, '''NMI''') と、割り込み処理の許可/禁止を制御できる'''マスク可能な割り込み'''(狭義のIRQ)の2種類の端子を備えている場合が多い。割り込みのマスクの設定は主にフラグレジスタに格納されており、割り込みの許可/禁止 (Enable/Disable) を操作するCPUの命令が用意されている。また、これらの端子が同時にアサートされた場合、優先順位がありNMIが優先される。一般に、周辺機からの入力にはOSで制御される必要があるため、IRQ端子に接続して使用されることが多い。一方、デバッグやハードウェアエラーなどの特殊な用途にはNMIが使用されることが多い。ところが、SPARCでは、割り込みの中で最も優先度が高いNMIであっても、その名称からの予想に反し、割り込みマスクを使用することで割り込み発生を禁止することができる<ref>{{cite web |url=https://docs.rtems.org/releases/rtems-4.11.2/cpu-supplement/sparc.html#interrupt-levels |title=Interrupt Levels |accessdate=2023-11-18}}</ref>。
IRQ端子のアサート方法は、信号の変化点を検出するエッジトリガと、信号のレベルで検出するレベルトリガがある。エッジトリガでは、立上がり又は立下りといった片方向の変化だけを検出する「片エッジ検出」と、両方ともを検出する「両エッジ検出」がある。[[Peripheral Component Interconnect|PCIバス]]ではレベルトリガ方式の割り込み信号線が取り入れられている。
CPU が割り込みを認識するためには、割り込みをサンプリングするタイミングで、割り込み信号がアサートされている必要がある。割り込みソースが多い場合、アサートされている信号のサンプリングを完了するまでのサイクル数が増加することになるため、割り込み許可状態とするサイクル数がどの位必要になるか、事前に(割り込み許可状態とサンプリング開始のタイミングやサンプリング完了に要するサイクル数など)割り込み回路設計情報を確認しておく必要がある。
CPU が割り込みを認識し、割り込み終了後に実行再開すべき PC やフラグレジスタを退避した後、割り込み処理ルーティンにてソフトウェアが割り込みを許可しない限りそれ以上の割り込みが[[ネスト]]しないように CPU が割り込みを自動的に禁止するタイプの CPU と、割り込みが認識されたレベルよりも優先度が高い割り込みに限りネストしても受け付けるタイプの CPU がある。後者の例として[[PDP-11]]がある。初期のUNIXがPDP-11向けに開発されたことから、割り込みレベルを設定する{{仮リンク|spl (Unix)|en|spl (Unix)|label=spl}}命令がカーネル内で広く使用されており、他のアーキテクチャでもエミュレーションにより同機能を実装している。
==== ソフトウェア割り込み ====
ソフトウェア割り込みは、CPU内部においてCPU命令によって要求されるものや、命令実行に関わるモジュール(例えば、[[キャッシュ (コンピュータシステム)|キャッシュ]])の状態変化やエラーによって要求されるものがある。前者は、ソフトウェア割り込み命令によって発生するものであり、狭義のSWIとも言われる場合がある。また後者は、'''[[例外処理|例外]]''' (Exception) やトラップ (Trap) と呼ばれ区別されることがある。
CPU命令(INT、TRAP、RST など)によって発生するソフトウェア割り込みは、実行可能な処理範囲がモードによって制限されるようなCPUにおいて、[[システムコール]]を実現するために用いられる。例えば、通常のアプリケーションが動作するユーザモードでは実行できない命令であっても、SWIの後では特権モードに移行するため実行可能になる。
例外は、[[ゼロ除算]]、[[算術オーバーフロー]]、[[ページフォールト|ページフォルト]]などによって生じる。特に、ページフォルトは[[オペレーティングシステム|OS]]がメモリ空間を管理するのに重要な役割を果たす。
CPUがソフトウェア割り込みのための命令を直接サポートしていない場合、空いているハードウェア割り込み要求端子をアサートする手段を別途用意することによりソフトウェア割り込みをエミュレートすることがある。アーキテクチャによっては、この方法を正式なソフトウェア割り込みの実装としている。
=== 割り込みコントローラ ===
CPUの割り込み要求端子は1本もしくは複数用意され、CPUの種類や実装によって異なる。
複数の周辺機からの割り込み要求が発生可能な場合、1つの割り込みハンドラ(後述)で処理を行うと、どの周辺機がどのような割り込み要求を発生させたのか判別する処理を、プログラム側で行う必要がある。これに対し[[PC/AT互換機]]などでは、ハードウェアとして複数のIRQ端子を用意して、割り込み要因毎に異なるハンドラに処理を移すことができるようにした構成をとれるようにしたものがある。この機能を持った回路のことを'''割り込みコントローラ''' (Interrupt Controller) と呼び、CPUのIRQ端子を外部で拡張して制御するものである。[[マイクロコントローラ]]では同一チップ内にCPUと複数の周辺機が内蔵され、割り込みコントローラも内蔵されるものが多い。
次に代表的な割り込みコントローラの例について述べる。
;[[Intel 8259]] (Programable Interrupt Controller, PIC)
:[[Intel 8086]]ファミリの割り込みコントローラ。IRQ 0-7の8本の割り込み端子を持ち、CPUに割り込み番号を伝える。各割り込み毎にマスクと優先順位を設定できる。PC/AT互換機ではこの機能を2つ搭載している。
;[[Z80]]ファミリ
: 集中的に管理する割り込みコントローラは存在せず、各周辺機(Z80 SIO, Z80 PIO, Z80 CTCなど)が、CPUに割り込みベクトル(後述)を出力する機能を持っていた。割り込み信号線のデイジーチェインの構成で優先順位をつける。
;[[ARMアーキテクチャ|ARMプロセッサ]]
: IRQと、より優先度の高い「高速割り込み」(FIQ) がある。FIQではIRQに比べ、一部のレジスタをスタックに入れず専用レジスタに退避するため、動作が速い。
== 割込処理 ==
CPUに割り込みが生じると、現在実行している処理(命令)を停止して別の処理を実行する。割り込み後に実行される処理は、'''[[割り込みハンドラ]]'''もしくは'''割り込みサービスルーチン''' (Interrupt Service Routine, ISR) と呼ばれる。また、割込処理が終了しても、元の処理(割り込みが生じた時点に実行していた処理)に戻ってこられるように、元の処理の場所(アドレス)に関する情報(および元の処理の作業状態、'''コンテキスト'''と呼ばれる)を(多くの場合[[スタック]]に)保存しておく。
割込処理を実行するために、どこの場所(アドレス)に飛べば良いかを示す情報は、'''割り込みベクタ'''と呼ばれるテーブルに書かれている。割り込みベクタには、飛び先の命令のアドレスを書くこともあれば、[[命令 (コンピュータ)|ジャンプ命令]]を書くこともある。
== 割込処理のオーバーヘッド ==
割り込み処理ではイベントドリブンな処理を行うことができるため、割り込み処理に割り当てられた[[タスク]]については効率的な処理が行える。しかしその一方、割り込み発生時には、CPUのレジスタの退避/復帰やプロセッサの特権レベル移行の処理など、少なからず処理にオーバーヘッドが生ずることとなる。このため、割り込みの発生頻度が高いシステムの場合、その処理によってシステム資源が占有されてしまい、本来の処理の応答性や処理速度に影響を与える場合がある。
状況によっては割り込みを使わず、[[ポーリング_(情報)|ポーリング]]でフラグを定期的に確認するなどして、本来の処理との折り合いをつける方が、全体的なパフォーマンスが向上する場合がある。なお、一部の[[デバイスドライバ]]では、通常は割り込み動作を行い高負荷時にはポーリングで動作する仕組みを持ったものもある<ref>[http://wiki.bit-hive.com/linuxkernelmemo/pg/%C1%F7%BC%F5%BF%AE Linux kernel 2.6 network interface driver]</ref>。
また、[[RISC]]プロセッサでは、割り込みが発生すると実行中の[[命令パイプライン|パイプライン]]が乱れ処理性能が低下するため、旧来の8ビット[[CISC]]プロセッサなどに比べると、割り込みによる相対的なパフォーマンス低下の影響が大きくなる。また[[投機的実行]]のペナルティなど複雑化したプロセッサ機能も、割り込みの際のオーバーヘッドを増大させる要因となる。
== 「割込み」という日本語 ==
コンピュータのこの意味での「割込み」という語は、インタラプト(Interrupt)の訳ではなく、独立に作ったものである<ref>[[高橋秀俊]]『コンピューターへの道』(文藝春秋、書籍コード 0023-335240-7384 )p. 162</ref><ref>著者おなじく『電子計算機の誕生』([[中公新書]] 273 )p. 164</ref>。[[和田英一]]によれば、1959年(昭和34年)の夏、[[パラメトロン]]計算機において、出力装置が直前の処理を終えたことを計算機に知らせる方法を議論していてアイディアを得た<ref>[http://twitter.com/eiitiwada/status/248749250312282113 Eiichi, Wada. (@eiitiwada). "@iorivur 割り込みっていう日本語は... 1959年の夏, パラメトロン計算機の出力装置が直前の文字の処理を終えたことを走行中の計算機に知らせる方法はないかとの議論で割り込みのアイディアを得ました. そして最初の並列処理のプログラムを書きました. 難かしかったなぁ." 2012年9月20日, 20:43 (JST). Tweet.]</ref>、という。
== 出典・脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|割り込み}}
* [[CPU]]
* [[リアルタイム]]
* [[トラップ (コンピュータ)|トラップ]]
* [[排他制御]]
{{オペレーティングシステム}}
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[[Category:割り込み (コンピュータ)|*]] | 2003-04-25T10:27:56Z | 2023-11-18T02:17:34Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8A%E8%BE%BC%E3%81%BF_(%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF) |
7,288 | テンプレート | テンプレート(英: template)とは、文書などのコンピュータデータを作成する上で雛形となるデータ、あるいは雛形そのもの。
最も抽象的なテンプレートは、レイアウトのみのデータで、テキストを流し込むことでレイアウトつき文書となる。 具象的なテンプレートは、それ自体文書であり、数箇所の修正または空白への書き込みで目的の文書となる。 このほか、さまざまな段階がある。
テンプレートから文書を作る工程は、手動の場合も自動の場合もある。
語源は四角形や円などがくりぬいてある定規板で、そこから一定の状態にするという型という意味が生まれた。
ワードプロセッサのテンプレートは、あらかじめ定型的な文章が用意されている。それに名前など必要な部分を埋めこんだり書き換えたりすることによって、体裁の整った文書を簡単に作成することができる。 特に、日本では簡単な文書や、複雑な表組みを備えた帳票など、様々な種類の文書テンプレートが利用されている。 また、ワープロソフトのテンプレート以外でも、マイクロソフトのMicrosoft Excel (エクセル)、パワーポイントを代表とした様々なビジネスソフトを利用して、伝票・帳票・宛名ラベル・はがきなどに印刷するため、それぞれのビジネスソフトのテンプレートファイルも利用されている。 それらのテンプレートファイルは、以前はアプリといっしょに「テンプレート集」として販売されていたが、最近はネット上で広く公開サービスを行っているサイトも多い。
電子掲示板には、容易に長文を書き込むためのさまざまなテンプレート(テンプレ)が出回っている。多くの場合、テンプレ自体も過去になされた書き込みであり、それを部分的に書き換えて使われる。テンプレを基にした書き込みもテンプレと呼ばれることがある。
1つの範疇は、スレッドフロート電子のシリーズ化したスレッドの最初に、スレッド作成者いわゆる >>1 により記述される定型文である。スレッドの性質にもよるが、前スレからの変更がない場合は、前スレのURLなど1 - 2箇所の修正で使えるようになっている。目的やルール、参加するにあたって最低限必要な知識などが含まれており、ひととおり読んでおくことが求められる。長文になる場合やdat落ちなどによる消失を防ぐために参加者のウェブサイト等に転記され、URLのみが記述されることもある。
そのほか、いわゆる「コピペ」の雛形となるテンプレなどがある。
テンプレートエンジンは、テンプレートから文書を作る工程を自動化したソフトである。テンプレートに対し、テンプレートに埋め込むデータをデータモデルという。
同じレイアウトのウェブページを大量に生成するときなどに使われる。
テンプレート構文は、プログラミング言語や高レベルな拡張テキストで、繰り返し使われる部分を簡潔に表すための構文である。
テンプレートは空白のかわりにメタ変数を残して定義され、呼び出すときにはメタ変数に入れる識別子や文字列を指定する。
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] | テンプレートとは、文書などのコンピュータデータを作成する上で雛形となるデータ、あるいは雛形そのもの。 最も抽象的なテンプレートは、レイアウトのみのデータで、テキストを流し込むことでレイアウトつき文書となる。
具象的なテンプレートは、それ自体文書であり、数箇所の修正または空白への書き込みで目的の文書となる。
このほか、さまざまな段階がある。 テンプレートから文書を作る工程は、手動の場合も自動の場合もある。 語源は四角形や円などがくりぬいてある定規板で、そこから一定の状態にするという型という意味が生まれた。 | {{WikipediaPage|ウィキペディアのテンプレートについては、[[Wikipedia:テンプレート]]を、表示方法や作成方法などについては、[[Help:テンプレート]]をご覧ください。}}
{{Otheruses|文書などのテンプレート|その他}}
{{出典の明記|date=2022年4月}}
'''テンプレート'''({{lang-en-short|''template''}})とは、[[文書]]などの[[コンピュータ]][[データ]]を作成する上で雛形となるデータ、あるいは雛形そのもの<ref>[https://www.724685.com/word/wd121219.htm 「ひな形(ひな型?)」「テンプレート」とは定型書式のこと]のように両者を同一視している表現もある。</ref>。
最も抽象的なテンプレートは、[[レイアウト]]のみのデータで、テキストを流し込むことでレイアウトつき文書となる。
具象的なテンプレートは、それ自体文書であり、数箇所の修正または空白への書き込みで目的の文書となる。
このほか、さまざまな段階がある。
テンプレートから文書を作る工程は、手動の場合も自動の場合もある。
語源は四角形や円などがくりぬいてある定規板で、そこから一定の状態にするという[[型]]という意味が生まれた。<ref name=weblio辞書>{{Cite web|和書|url=https://www.weblio.jp/content/template#:~:text=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%88template%EF%BC%89%E3%81%AE%E8%AA%9E%E6%BA%90%E3%81%AF,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%98%E3%81%9F%E3%80%82|title=テンプレート|website=weblio辞書 小学館|accessdate=2022-12-27}}</ref>
<ref>{{cite book|和書|title=旺文社 国語辞典|edition=11|date=2013年10月13日|publisher=旺文社|page=1034}}</ref>
== ワープロのテンプレート ==
[[ワードプロセッサ]]のテンプレートは、あらかじめ定型的な文章が用意されている。それに名前など必要な部分を埋めこんだり書き換えたりすることによって、体裁の整った文書を簡単に作成することができる。
特に、日本では簡単な文書や、複雑な表組みを備えた帳票など、様々な種類の文書テンプレートが利用されている。
また、ワープロソフトのテンプレート以外でも、[[マイクロソフト]]の[[Microsoft Excel]] (エクセル)、[[パワーポイント]]を代表とした様々な[[ビジネスソフト]]を利用して、伝票・帳票・宛名ラベル・はがきなどに印刷するため、それぞれの[[ビジネスソフト]]のテンプレートファイルも利用されている。
それらのテンプレートファイルは、以前はアプリといっしょに「テンプレート集」として販売されていたが、最近はネット上で広く公開サービスを行っているサイトも多い。
== 電子掲示板のテンプレート ==
[[健康食品・サプリメント板|電子掲示板]]には、容易に長文を書き込むためのさまざまなテンプレート(テンプレ)が出回っている。多くの場合、テンプレ自体も過去になされた書き込みであり、それを部分的に書き換えて使われる。テンプレを基にした書き込みもテンプレと呼ばれることがある。
1つの範疇は、[[スレッドフロート型掲示板|スレッドフロート]]電子のシリーズ化したスレッドの最初に、スレッド作成者いわゆる >>1 により記述される定型文である。スレッドの性質にもよるが、前スレからの変更がない場合は、前スレの[[Uniform Resource Locator|URL]]など1 - 2箇所の修正で使えるようになっている。目的やルール、参加するにあたって最低限必要な知識などが含まれており、ひととおり読んでおくことが求められる。長文になる場合や[[2ちゃんねる#スレッド|dat落ち]]などによる消失を防ぐために参加者のウェブサイト等に転記され、URLのみが記述されることもある。
そのほか、いわゆる「[[コピー・アンド・ペースト|コピペ]]」の雛形となるテンプレなどがある。
== テンプレートエンジン ==
{{main|テンプレートエンジン}}
[[テンプレートエンジン]]は、テンプレートから文書を作る工程を自動化した[[ソフトウェア|ソフト]]である。テンプレートに対し、テンプレートに埋め込むデータを[[データモデル]]という。
同じレイアウトの[[ウェブページ]]を大量に生成するときなどに使われる。
== テンプレート構文 ==
{{Seealso|テンプレート (プログラミング)}}
テンプレート構文は、[[プログラミング言語]]や高レベルな拡張テキストで、繰り返し使われる部分を簡潔に表すための構文である。
テンプレートは空白のかわりにメタ変数を残して定義され、呼び出すときにはメタ変数に入れる[[識別子]]や文字列を指定する。
[[C++]]などの[[プログラミング言語]]で抽象データ構造を定義するために使われるほか、[[Wiki]]などでも<nowiki>{{ABCDE}}</nowiki>のような形で使われる。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[鎔笵]]
* [[公式]]
* [[パターン]]
* [[Webテンプレート]]
* [[お約束]]
*[[ボイラープレート]]
{{DEFAULTSORT:てんふれえと}}
[[Category:文書作成]]
[[Category:コンピュータのデータ]] | 2003-04-25T12:40:43Z | 2023-10-20T02:39:36Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88 |
7,289 | 東京競馬場 | 東京競馬場(とうきょうけいばじょう、英: Tokyo Racecourse)は、東京都府中市にある中央競馬の競馬場。所在地から府中競馬場(ふちゅうけいばじょう)とも通称される。競馬ファンの間では単に府中でも通用する。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。
敷地内施設として、JRA競馬博物館・乗馬センターの他、馬車(ホースリンク)・水遊び広場やミニ新幹線など遊園地のような遊具やイベントが行われている。
東京競馬場の前身は目黒競馬場である。1907年(明治40年)に約65,000坪 (≒21.5ヘクタール (ha))の敷地面積の目黒競馬場が開設されたが、その後目黒競馬場周辺の都市化が進み、借地が大部分だった目黒競馬場は借地料の増加に加え、馬券発売による競馬人気で手狭になったにもかかわらず、施設拡張の余地がなかったため、移転を余儀なくされた。
小金井や羽田、世田谷なども移転先候補地となったが、府中町(当時)が競馬場誘致活動に力を入れ、地形もよかったので府中に決定し、1933年(昭和8年)11月8日、東京競馬場は開場した。10日後の11月18日に東京競馬場での初めての開催を行い、目黒競馬場は完全閉場となった(目黒記念は目黒競馬場にちなんでいる)。移転した競馬場の総面積は駐車場や道路、厩舎地区を含めて約24万坪と目黒競馬場時代の3倍以上になった。本馬場は一周2100メートル、幅は30メートルで芝を植え、本馬場内側には練習馬場(調教用コース)を設け練習馬場には川砂を敷いた。
元々の用地は現在よりフラットであった。現在の競馬場の第3コーナー手前とホームストレッチにある勾配は人為的に作ったものである。これは競走馬にスピードよりも強靭さを求めた陸軍の意向を取り入れたもので、多摩川向かいの川崎の山土を運びコースに盛ってアップダウンを設けた。コースには山土を盛って芝を植えた。この山土を取るために南武線沿いにある山も買った。
目黒にあった各厩舎も競馬場移転に伴い府中に移転した。1936年(昭和11年)東京競馬場所属の厩舎は30厩舎。その多くは東京競馬場内の厩舎地区に入ったが、尾形藤吉厩舎、北郷五郎厩舎は競馬場外の府中町清水が丘に自前の土地建物を用意した。
開場時の東京競馬場のレースは、春・秋の2回開催で各季8日間の開催であった。手狭だった目黒競馬場が、1場所8日間の開催で最高で観客8万人あまりだったが、移転して広大になった東京競馬場第1回開催では8日間で10万人を超えた。記念すべき東京競馬場の初開催は1933年(昭和8年)11月18〜20・25〜26日、12月1〜3日である。
東京優駿(日本ダービー)は1934年(昭和9年)の第3回から東京競馬場で行われ、開設時の重賞競走としては帝室御賞典(現在の天皇賞)や農林省賞典、目黒記念などが行われていた。
1937年(昭和12年)、全国的な競馬施行団体である日本競馬会が設立された。これに伴って東京競馬場のみの競馬運営体の東京競馬倶楽部は解散して日本競馬会に合流し、東京競馬場は日本競馬会東京競馬場となる。
1940年(昭和15年)の開催が決まっていた東京オリンピックでは、馬事公苑や中山競馬場とともに馬術競技で使用されることとなっていたが、日中戦争の影響で東京オリンピックの開催そのものが中止となった。
1943年(昭和18年)12月、政府は競馬を中止し、1944年(昭和19年)以降は東京・京都でのみ能力検定試験を行うことにした。したがって、この年の日本ダービーや横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)は馬券は売らず観客は入らないなかで、関係者のみが見つめる前で行われている。中山競馬場で行われていた重賞レース(中山記念や中山四歳牝馬特別など)も東京で行われた。
1944年(昭和19年)5月、横浜競馬場の閉鎖にともない、横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)が東京競馬場で行われる。横浜農林省賞典四歳呼馬は1947・48(昭和22・23)年も東京で行われ、1949年(昭和24年)から中山に移って皐月賞になる。
1945年(昭和20年)、東京競馬場は陸軍燃料廠に貸与され、東京競馬場は閉鎖された。東京競馬場所属馬は一部は京都競馬場や阪神競馬場に送られ、その他は地方で種牡馬になったり運搬車曳馬などに転用された。調教師や馬丁(厩務員)などの人員は一部は京都競馬場や宇都宮競馬場に移転を命じられたり、一部は転業が命じられて曳馬機動隊(運搬車曳馬の隊)や馬匹修練場などに配置替えされた。東京競馬場施設は軍に貸与されたが、戦時中の食糧難の為に競馬場は全面が畑になり、馬場はサツマイモ畑になっていた。
1946年(昭和21年)、軍から返還され、同年10月17日から競馬は再開された。
1947年(昭和22年)、それまで阪神で行われていた優駿牝馬競走(オークス) が東京で開催された。
1948年(昭和23年)、日本競馬会は前年に制定された私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)によって解散。日本競馬会傘下の9か所の競馬場は国営競馬として再開する。東京競馬場は農林省管轄下になり、国営競馬東京競馬場となる
1954年(昭和29年)、新競馬法によって日本中央競馬会発足、東京競馬場は日本中央競馬会東京競馬場となる。
1957年(昭和32年)11月19日、1号館新館「万歳館」竣工。
1961年(昭和36年)2月26日、ダートコースの使用が開始。
1968年(昭和43年)6月4日、スタンド改築工事竣工。府中競馬正門前駅からの屋根付歩道橋を設置。
1974年(昭和49年)、東京競馬場の厩舎数や在籍馬数は徐々に増え、この年には馬房を貸し付けられている東京競馬場所属の調教師の人数は38人。馬房数は定期貸し付け馬房と出張馬房の合計で1,098馬房、預託契約頭数はサラ系が1,005頭、アラブ系が31頭の合計1,036頭。東京競馬場の総馬房数1,098に対し40馬房貸し付けられている調教師が3人いるのに対し、10馬房しか貸付されていない調教師もいるなど厩舎ごとの規模の差は現在より大きかった。この年までに栗東トレーニングセンターはすでに開業していたが、美浦トレーニングセンターは造成中である。
1978年(昭和53年)3月から4月にかけて、東京競馬場内にあった厩舎は新設された美浦トレーニングセンターに移動した。調教師や厩務員なども移転した。それまで東京競馬場には1111の馬房があったが、東京競馬場所属馬はすべて美浦に移動。1982年には東京競馬場の馬房の数は397に減り、それらは出張馬房や国際馬房として使われた。
1981年(昭和56年)、ジャパンカップ創設。2002年を例外として東京競馬場で開催される。
昭和の終りから平成の初めにかけて、武豊やオグリキャップなどの人気による空前の競馬ブームが起こり、1990年(平成2年)5月27日の第57回東京優駿(日本ダービー)当日には史上最高の入場者19万6517人を集めた。
2000年(平成12年)に東京競馬場スタンド改築等施設整備計画を発表し、3期に分けての改築を行うことになった。2002年(平成14年)6月の第4回東京競馬終了後、馬場改修工事と2期スタンド工事に本格的に着手、その年の秋競馬は中山競馬場や新潟競馬場で代替開催された。1期スタンドはその年の10月に完成し、翌11月からパークウインズとして利用開始。その後馬場改修工事も終わり、2003年(平成15年)4月26日にリニューアルオープンした。以前のコースとの主な変更点は次のとおりである。
2005年(平成17年)4月に完成したスタンド改修工事・第2期分では、パドックとレーストラックをつなぐ地下馬道が1階座席からガラス越しに見ることができるようになった(ホースプレビュー)。
2007年(平成19年)4月にスタンド改修工事・第3期分が終了。新スタンドが全面完成となった。新スタンドの名称は公募により決定し、富士山を眺望できるスタンドであることから「フジビュースタンド」と命名された。また、このフジビュースタンド完成を記念し、2007年の2回・3回の東京競馬では東京競馬場グランドオープンと銘打って、引退騎手によるエキシビションレース「ジョッキーマスターズ」をはじめ様々なイベントが行われた。
2008年(平成20年)2月3日・2月10日と2週連続で日曜日の開催が降雪の影響で中止され、それぞれ2月4日・2月11日に代替開催された。中央競馬における同一競馬場での2週連続開催中止は、こちらも降雪のため中止された1987年12月の中山2日目・4日目以来21年ぶりのことであった。
2014年(平成26年)2月8日・9日・15日・16日には、雪の影響により4日連続で開催中止。それぞれ2月10日・17日・18日・24日に代替開催された。中央競馬における4日連続の開催中止は史上初となった。
2019年(令和元年)5月4日には、降雹の影響で10レース以降のレースを中止。ダービートライアルのプリンシパルステークスがこの中に含まれており、翌週5月12日の開催に移行されることになった。
2020年(令和2年)の第2・3回開催全日は新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大防止のため「無観客競馬」として開催された。この中には第87回日本ダービーも含まれており、太平洋戦争の影響により「能力検定競走」の名の下で馬券の発売もなく施行された1944年以来76年ぶりに無観客での日本ダービー開催となった。
2021年(令和3年)の第1回開催全日、第2回開催2~6日は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため「無観客競馬」として開催された。
東京優駿は、第1・2回を目黒で開催以後、原則として東京競馬場のみで行われており、上記の大規模な改修・改築、馬場の拡張などを伴う大規模な工事が行われた場合でも、開催時期を調整したり、また東京優駿が行われる節の工事を極力控えるように日程調整を行っている。
芝コースは主要4場(東京・中山・京都・阪神)の中で最も大きく、JRAの全10競馬場でも新潟競馬場に次ぐ大きさである。起伏も変化に富んでおり、第1コーナーから向正面半ばまで高低差 1.9 mの長い下り坂が続き、直後の第3コーナー手前には高低差1.5mの上り坂。これを上りきると短い平坦部分を挟んだ下り勾配が続き、第4コーナーから上り勾配に転じる。ゴールまでの直線には残り 480 m地点 - 260 m地点にかけて高低差 2 mの長い上り坂があり、「だんだら坂」とも呼ばれ東京競馬場の名物となっている。ゴールまでの直線距離も新潟競馬場(外回り)に次ぐ長さで、非常にタフなコースとされている。
カーブも半径がゆったりしているうえ、幅員も広いためコースは4通りに使い分けることができ、馬場の傷みの進行も最小限に抑えることができるようになっている。
かつて芝には1,000 m・1,100 m・1,200 m、ダートには1,000 m・1,100 mの距離が右回りで設定されていた。このうち芝1,200 mの競走については1984年 (昭和59年)まで施行され、現在の200 mのハロン棒部分に右回り用のゴール板が設置されていた。また1955年 (昭和30年)前後の一時期、向正面から4コーナーにかけての障害コースの内側に芝コースを設置し、芝内回り1,600 m・1,800 m・2,000 mの競走が設定されていた。
2021年までは1月から3月について(2015年以降は重賞競走を除く)、下記の通り出走頭数の制限を行っていた。
ダートコースは1周距離・ゴールまでの直線距離ともに日本の競馬場で最大。起伏構成は芝コースとほぼ同様であるが、最後の直線部分の坂は高低差が2.4 mあり、芝コースよりも大きくなっている。
2010年の第4回開催より、ダート1600mのスタート位置及び2コーナーのシュート部分の線形が若干変更された。これによるレコードタイムの抹消措置は行われない。
現在の障害コースはスタート後に順回りで周回するコース形態のみで、周回コースには8個の障害を設置。向正面(バックストレッチ)には3つの連続障害が設けられている。また、正面の4つの障害のうち、グリーンウォール以降の3つの障害がユニット状になっており、重賞の東京ジャンプステークス(東京JS)は3つ目の竹柵が大竹柵(高さ 150 cm, 幅 155 cm)、4つ目のいけ垣が大いけ垣(高さ150 cm, 幅150 cm)に変更され、さらに東京ハイジャンプでは2つ目のグリーンウォールが大いけ垣(高さ 150 cm, 幅 150 cm)に変更される。その変更作業には1日かかる事から、当該週は他に東京で平場の障害競走を組むことができないため、東京JSが宝塚記念開催前日に移行した2013年以降、宝塚記念当日にあたる日曜日は障害競走が東西で行われない。過去には秋華賞当日が障害競走が東西で行われないというケースもあったが、2014年以降障害競走が札幌・函館以外の第3場開催時は第3場で行われることになったことと、2015年以降、東京ハイジャンプが原則、秋華賞当日の日曜日の施行になったため、発生しない。
1998年までは第3コーナーから第1コーナーにかけて襷コースが配置されており、年2回の東京障害特別の時のみ使用していた。襷コースには通常より難易度の高い大土塁障害(10号障害: 高さ 155 cm, 幅 260 cm; 通称「けやき」)、大竹柵障害(11号障害: 高さ 150 cm, 幅 150 cm)、土塁障害(12号障害: 高さ 150 cm, 幅 250 cm)の3連続障害があり名物であった。襷コース使用の場合は正面の障害は逆回りとなっていた。
戦前の竣工時には、襷コースがX字状にクロスした形で存在し、さらに3コーナーから4コーナーにかけては、馬場の内側にもう一つS字状にカーブしたコースが存在していた。
東京優駿(日本ダービー)・天皇賞 (秋)・ジャパンカップ(JC)の施行日は、障害コースのうち正面スタンド前にあたる部分が観客席として開放されることがある。
3,300 m戦(直線芝・ダート共に)は2012年以降施行されていない。
2009年5月23日の東京競馬第4競走(サラ系障害3歳以上オープン、発走11時40分)において、発馬機を「直線ダート 3,300 mのスタート地点」に設置すべきところを「直線芝 3,300 mのスタート地点」に誤って設置、結局当初発表の距離より 15 m短い直線ダート 3,285 mで行われた。レース終了後に係員が気づき、決勝審判員に報告。裁決委員がパトロールフィルム等で確認し同日の13時10分に誤りを認めたが、既にレースは確定し払戻金も発表された後であったため、レースは成立したものとされた。1着馬のタイムは当初 3,300 mのコースレコードと発表されたが取り消され、実施行距離(直線ダート3,285 m)の基準タイムとして残された。
正門・東門・西門の3カ所ある。開門時刻は通常 9:00 であるが、GI開催時など混雑が予想される場合は開門時刻が早まることがある(ダービー・JC当日は概ね 7:20 - 8:00)。
正門は2層構造になっており、2階は京王電鉄競馬場線・府中競馬正門前駅と高架橋でメインスタンド3階と直結している。正門の北側に立川段丘(府中崖線)が東西方向に横切る。 平日払戻所が併設されている。
JRA競馬博物館や4コーナー付近の芝生ゾーンに近い。京王電鉄京王線・東府中駅南口から徒歩10分。
1コーナー・ゴール・内馬場に近い。開門時は1階は入場券・回数入場券を事前に確保済みの者のみ利用可能である。JR南武線及び武蔵野線・府中本町駅の臨時改札口から専用歩道橋で徒歩5分。正門同様2層構造になっており、上層部が専用歩道橋と直結している。
西武鉄道多摩川線・是政駅から徒歩10分。コースのメインスタンドより向正面に位置する。以前は入退場が可能であったが、新型コロナウイルス感染拡大以降は入場制限もあって閉鎖が続いており、2023年9月21日にJRAより恒久的に閉鎖することが発表されている。
2002年(平成14年)11月から段階的に供用され、2007年(平成19年)4月に完成した。愛称は「フジビュースタンド」で、地上9階・地下1階。天気が良ければ富士山が見えることや、富士山が日本一を連想させること、富士山が世界的にも有名なことからこの名が付いた。スタンド内の現在位置を把握するのに便利な「柱番号」は1コーナー寄りの「2」から始まり、4コーナー寄りに「34」までの番号が付されている。各階の主な施設は以下のとおり。
コースの全体を見渡すことができるのは6階より上の席となる。 スタンドは全館禁煙で、喫煙は指定された喫煙ルームでのみとなる。
フジビュースタンドの指定席は A・B・C の3種類あり、4コーナー寄りからB指定席・A指定席・C指定席と配置されている。料金の違いは観戦場所によるもののみであり、座席の仕様に違いはない。全席が屋外にあり、2人掛けで各ペア席にチャンネル切り替え可能なモニターが1台、PC利用のためのコンセントが2口ある。全席で公衆無線LAN(Wi2 300)が無料で利用可能である。料金に入場料は含まれない。指定席エリアには投票所(自動・有人)、オッズボックス、酒や軽食を販売する売店、喫煙コーナーなどがあるが、原則として下位の指定席利用者は上位の指定席エリアに立ち入ることができない(A指定席利用者はB指定席エリアおよびC指定席エリアの施設を利用できるが、B指定席およびC指定席利用者はA指定席エリアの施設を利用できない)。なおメモリアルスタンド(後述)S指定席利用者は、フジビュースタンドのすべての指定席エリアの施設を利用出来る。
2020年10月の4回開催より車椅子専用席を含めて全ての指定席がインターネット予約のみでの発売になった。 インターネット予約は従来、専用クレジットカード「JRAカード」でしか予約できなかったが、2014年11月にJRAカード以外のクレジットカードも利用できるようになった経緯もあり、2015年第1回開催分よりインターネット予約分の指定席が若干増やされ、当日発売分の指定席が若干減らされた。
当日発売分の指定席はフジビュースタンド3階の当日指定席発売所で販売していた、5階席は正門から、6階席は西門からの入場者が利用しやすいように入場列があった。東京優駿(日本ダービー)時は通常より高い特別料金が設定されるほか、東京優駿や天皇賞(秋)など大きなGIレースが開催される日は当日発売を行わず、インターネット予約についてはJRAカード限定の事前予約抽選で、またそれ以外については事前はがき抽選で当選者に引換券を送付する形で販売していた。
コースのゴール手前300m付近にあるスタンドで、東京競馬場開設60周年を記念して1993年9月に完成したスタンドである。完成当時は「メモリアル60」と呼ばれていた。フジビュースタンド同様に全館禁煙(喫煙は専用の部屋を利用)。「柱番号」は「42」から「54」。これはフジビュースタンドができる前の旧スタンドの柱番号からの通し番号であり、フジビュースタンド完成後もメモリアルスタンドの柱番号は変更されずそのまま残された。
地上7階・地下1階で、座席のある場所はすべてガラス張り。3階・4階の4コーナー寄りの部分が一般席(1階・2階相当部分は屋外の芝スタンド)で、3階・4階のゴール寄りの部分の748席は65歳以上の入場者が利用できるシニア席(料金は無料)、5階・6階部分はi-Seat69席及びS指定席(738席、クレジットカードによるインターネット予約のみ)となっている。メモリアルスタンド竣工からフジビュースタンド完成までの期間は3階・4階部分はE指定席であった。全席禁煙である。なお、本場開催時以外(パークウィンズ時)にはi-Seat、S指定席がネット予約発売で開放される。メモリアルスタンド5階・6階のレストラン・売店も通常どおり営業している。7階には貴賓室がある。
西門及びフジビュースタンドからの地下道を利用して行けるコース内のエリアである。フアフアターフィーやミニ新幹線など子供向けの遊具があるエリアである。
1984年に日本初のターフビジョンが設置され、10月6日の開催から運用開始。ターフビジョン設置後最初の大レースがミスターシービー、カツラギエース、サンオーイが叩き合いを演じた毎日王冠であった。最後方を追走するミスターシービーが大欅の手前でスパートをかけるシーンが映し出されると場内は大きく沸いた。
2006年8月に三菱電機長崎製作所製の世界最大規模の超大型ビジョン(ターフビジョン)が設置され、10月7日から正式運用された。ゴール前のそれがこれまでの電球管形式からLED方式に変更され、高さ11.2 m, 幅66.4 m, 面積743.68 m(テレビサイズでいうと 2,651型)と旧来の3倍に相当するものが採用された。これによって画面全体を使用した高画質映像の放映、画面を 1:2 に分割して別角度からの映像を放映、画面を3分割して本場の競走・パドックの映像と他場の競走・パドックの映像を同時に放映、といった様々な使い方で情報提供ができるようになった。「世界最大の大型映像スクリーン」としてギネス世界記録に認定された。「マルチ画面ターフビジョン」と称している。
「下見所」とも言う。出走馬を下見する場所であり、トータリゼータオッズボードを兼ねたパドックビジョン(フルカラーLED電光掲示板)が設置されている。パドック周辺とパドックビジョンの前側通路と下は禁煙エリアとなっている。
無敗の2冠馬トキノミノルの馬像と、中央競馬初代理事長安田伊左衛門の胸像があり、待ち合わせスポットの定番となっている。安田像は安田記念の開催日には献花が捧げられる。
以前は30頭分表示できる風格のある大型手書き出走板があり、名物であった。レースごとに白墨でレース名、距離、馬名、騎手名、斤量、馬体重が書かれたプレートを付け替えていた。馬名表示欄の横幅は狭かったため、8文字以上の馬名の場合は2行に分けて書かれていた。フルゲートの削減に伴い、電光型の出走掲示板(現在のパドックビジョン)に建て替えられた。カタカナは全角で表記される。
東京競馬場はレストランや売店などが充実していて、飲食店はラーメン・焼きそば・カレーライスなどのファストフードから有名ホテルがプロデュースするレストラン・カフェまで約75店舗が軒を構える。フジビュースタンド2階西側・1階東側およびメモリアルスタンド地下にはフードコートがある。フジビュースタンド5階及び6階の指定席エリアの外には9店舗のレストランがあり、ゆっくりと腰を据えて食事ができる。また、コンビニエンスストアやスポーツ新聞・競馬新聞を販売する売店もある。なお、店舗の中には本場開催時しか営業していない店舗もある(パークウィンズ時はフジビュースタンド5階及び6階の店舗はすべて休業となる)。
1986年から2001年末まで場内サテライトスタジオに「ミニFM放送局」を送信周波数 78.0 MHz(後に 87.0 MHz・ターフサウンドステーション TSS)で開局・放送業務を開始したが、現在は下記の場内実況放送の他、各放送局の音声を再送信している。
東京競馬場では1981年から、同競馬場での年間最終開催日にジャパンカップを開催しているが、2019年のジャパンカップに外国調教馬の出走がなかったという事情、さらに外国馬は輸入後、競馬学校(白井市)か、三木ホースランドパーク(三木市)で原則として1週間程度検疫を受ける必要があったという事情が重なって、外国馬の参戦を増やすことが課題とされてきた。
しかし、世界的な競馬では、検疫を受けつつレース開催競馬場で調教ができることが一般的であるということで、外国調教馬誘致の改善策として国際厩舎を新設する計画が同年12月に明らかとなり、、2021年12月から着工。2022年6月に竣工した。国際厩舎は内馬場に最大6棟・12頭が入厩できるようになっている。運用としては同年10月1日付で農林水産省より輸出入検査場所としての指定を受け、正式に検疫厩舎となった。国際厩舎のクラブハウスには24時間馬房を画面で確認できる警備室や打ち合わせのための食堂などを設置。防疫のため、基本的に国際厩舎とクラブハウス間を行き来する際にはシャワールームを通過する構造になっている。さらに施設の周りには一周292mの楕円形追い馬場ダートコースが設置されている。
最寄駅は京王電鉄の競馬場線・府中競馬正門前駅で、専用歩道が用意されている。東京競馬開催時は競馬場線の増発と京王線と接続する東府中駅に特急が臨時停車するほか、府中競馬正門前駅から新線新宿駅行臨時急行と京王線新宿駅行臨時特急が運行される。京王線では府中駅や東府中駅よりアクセスする人も多い。また、少し離れた東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線・武蔵野線の府中本町駅からも専用歩道(フジビューウォーク)が用意されている。東京競馬開催時は南武線の川崎方面行、武蔵野線の東所沢・南越谷行の電車が増発される。かなり離れているものの西武多摩川線の是政駅からもアクセス可能ではあるが、至近となる南門は閉鎖されたため、是政駅および南多摩駅からは大回りの上で東門または西門からのアクセスとなる。京王線東府中駅から徒歩で向う場合、南口改札を出て南の方角へ歩いて行くと東門へアクセス可能である。
1973年4月1日までは、競馬場西側に中央本線の支線、通称「下河原線」の東京競馬場前駅があった。かつてはこの駅が国鉄で最も長い駅名であった。
中央高速バス(事前予約が望ましい)中央道府中バス停からもアクセスが可能。主に山梨県郡内・上野原方面の利用客が多い。高速バス停からは南門が至近で、中央自動車道北側沿いに八王子方面へ歩いて1kmほどで南門に着く。
障害GI2競走を含めた全26のGI級競走中、この東京競馬場で開催される平地のGI競走は3分の1に当たる8競走に及ぶ。2007年まではジャパンカップダートも当競馬場で開催されていた(2002年は中山、2008年から2013年まで阪神、2014年よりチャンピオンズカップに名称変更し中京に移設)。
2019年までジャパンカップの開催日は、混雑緩和および日没の関係上1日に施行する競走を11に制限していたが、2020年からは通常と同じく全12競走の施行となる。2005年までは日本ダービーの開催日も同じく11競走(2001年までは10)だったが、2006年からは、ダービーデイを盛り上げるということで、ダービー開催日に最終競走として目黒記念を施行している(但し2011年は東日本大震災の影響で通常の競走数で行われたが目黒記念は前日に実施)。目黒記念については薄暮競走相当の時間帯(17時発走)で施行するため、競走数は通常同様12となる。このほか、2005年の秋の天皇賞では「エンペラーズカップ100年記念」として戦後初の天覧競馬が行われたことから、この日についても全11競走に制限して開催された(2004年の中央競馬50周年記念のときにも天覧競馬が企画され同様の処置がとられる予定だったが、直前に起こった新潟県中越地震の被災者に配慮して中止となったため通常と同じ12競走で開催された)。
毎年5月5日には競馬場に近接する大國魂神社で祭事の「くらやみ祭り」が行われるが、2006年までは、5月5日が競馬開催の土・日曜日と重複した場合、その前後に競馬開催日を振り替えていた(これは電話投票が全国で本格的にシステム統合されて以後、関東で第3場開催および関西で開催が行われる場合も同様に振り替えていた)。2002年のNHKマイルカップは土曜日である5月4日に施行されたが、平地のGI級競走が土曜日に施行されるのは非常に稀なケースである。
2006年の春季からは、NHKマイルカップからヴィクトリアマイル、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)そして安田記念まで5週連続でGI級競走が開催される。これに伴い独自の試みとして、「GIレースクイーン」と題し、各GI競走ごとに1名ずつ担当のグラビアアイドルを起用するようになった。
通常期は2006年以後(2011年を除く)のダービーデー当日以外、原則として薄暮開催を行わないが、2010年と2012年に安田記念当日は、最終競走の「ユニコーンステークス」を16:35発走に設定した。2013年はユニコーンステークスが別日開催となったため一旦消滅するも、2014年から夏季競馬振興の一環として、6月14日以後の第3回東京競馬後半6日間(6月29日=宝塚記念開催日除く)については最終競走を16:30に設定する。
なお、2004年以後、平年の第5回中山競馬開催相当分が代替されない限り、ジャパンカップが東京競馬場の年内最終競走(上述)となっている。
出典:JRA公式サイト 中央競馬レコードタイム 東京競馬場
「騸」は騸馬 (去勢された牡馬)
第3コーナーに関しては、寺山修司の著書などで「魔のコーナー」とされている。この場所に生育している木を俗に「大欅」(おおけやき)と呼ばれるが、実際に植えられているのは欅ではなく榎(エノキ)である。
この大欅の下には、この隣接地域の「是政」の由来となった井田摂津守是政の墓所があり、過去に行政代執行の対象となった際に井田氏の子孫が日本刀をふるって抗議したため、観戦の妨げとなるにもかかわらず史跡として保存されている。特に芝コースがCコースおよびDコース使用の場合、テレビ中継では必ず大欅が残り 800 m (4ハロン)地点のハロン棒を隠すように映り込むため、「日本一テレビ放映される墓所」と言われている。またこの木の一本を切った人夫が墓のたたりによって急死したと恐れられ、残った1本を切ることを引き受ける人がいなくなったという噂話もある。
一般にここは最後の直線へ向けて速度を上げる場所であると同時に、カーブを曲がるために一方の側に負担が大きくなる場所であり、第118回天皇賞においてサイレンススズカが予後不良に至った例もあった。
「府中の千八、展開要らず」との格言は競馬評論家としても活動していた大橋巨泉が作った。この格言は、東京競馬場の1800mコースの競走は、コース設計上、どの馬も不利を受けることが少ないうえ、ほとんどの距離適性をもつ馬が走れる距離でもあるため、実力どおりに収まりやすい(いわゆるフロックが少ない)ということ。特に毎日王冠は数多くの実力馬が勝ってきていることでも知られている。逆に、2000mコースで施行される天皇賞(秋)は、コース設計上、どうしても内枠の馬が有利だといわれている。
エプソム競馬場・盛岡競馬場と姉妹提携を結んでおり、東京競馬場では交換競走としてエプソムカップ(GIII)、オーロカップが施行される。
盛岡競馬場との姉妹提携に関連して、2003年10月より 場内に岩手県競馬(盛岡競馬・水沢競馬)専用場外発売所が開設されており、東京競馬開催日および場外発売日には当日の岩手県競馬の全競走および翌日(月曜を含む)のメイン競走の勝馬投票券を購入することができる。2005年度岩手競馬全日程終了までは馬場内B投票所に開設されていたが、2006年4月8日(2006年度岩手県競馬開催初日)からメインスタンド1階・101投票所に移転した。
毎年4月から6月(平年度の第2・3回開催)は、日清製粉グループが特別協賛し、ファミリー層に向けたステージイベントや、スペインの洋菓子「チュロス」を販売する特設ブースを設置している(重賞競走のテレビ放送用のインタビューが行われる検量室のインタビューパネルにも日清製粉のロゴマークが貼り付けられている)。
2005年10月22日、同競馬場の第12競走(最終競走)において、当時の日本の公営競技の投票券史上最高配当記録となった1846万9120円(三連勝単式)が飛び出した。これは2008年6月5日に競輪で7969万8600円の配当が飛び出す(平塚競輪場のチャリロト)まで日本の公営競技史上最高配当記録であった。その後も、日本の競馬および単一の競走を対象とした配当としては最高配当記録であったが、2009年2月4日に船橋競馬場で三連単の配当金1911万円が記録され、そちらに譲る形になった。
東京競馬場でのGI級競走(ジャパンカップ・安田記念など外国馬が出走する場合を除く)では、出走馬のゼッケンの片方に馬名が、もう一方に当該競走名と回次(例:第1回ヴィクトリアマイル)が記載されている(地方競馬の重賞競走においても同様の形式がとられている場合がある)。なお、他の競馬場(中山・中京・京都・阪神)で行われるGI級競走では、GII級以下の競走同様、両サイドに馬名が記載されている(外国馬が出走する場合は、このうち片方が英文馬名となる。このゼッケンは1983年からジャパンカップに限り採用し、1987年秋以降、他の競走にも順次拡大した)。
2022年7月6日には、東京SUGOI花火と称してザ・ローリング・ストーンズの結成60周年を記念して、同所を会場とした「THE ROLLING STONES 60th ANNIVERSARY THE GREATEST FIREWORKS~感激!偉大なる花火~」が執り行われた。翌23年も松任谷由実50周年の花火ショーが実施され、いずれも当日は京王競馬場線で編成両数の増強を実施した他、西門のJR線臨時改札口も花火の実施時間帯に合わせて開放された。
1978年に美浦トレーニングセンターが開設されるまでは競馬場で調教が行われていた。 | [
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"text": "東京競馬場(とうきょうけいばじょう、英: Tokyo Racecourse)は、東京都府中市にある中央競馬の競馬場。所在地から府中競馬場(ふちゅうけいばじょう)とも通称される。競馬ファンの間では単に府中でも通用する。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。",
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"text": "敷地内施設として、JRA競馬博物館・乗馬センターの他、馬車(ホースリンク)・水遊び広場やミニ新幹線など遊園地のような遊具やイベントが行われている。",
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"text": "東京競馬場の前身は目黒競馬場である。1907年(明治40年)に約65,000坪 (≒21.5ヘクタール (ha))の敷地面積の目黒競馬場が開設されたが、その後目黒競馬場周辺の都市化が進み、借地が大部分だった目黒競馬場は借地料の増加に加え、馬券発売による競馬人気で手狭になったにもかかわらず、施設拡張の余地がなかったため、移転を余儀なくされた。",
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"text": "小金井や羽田、世田谷なども移転先候補地となったが、府中町(当時)が競馬場誘致活動に力を入れ、地形もよかったので府中に決定し、1933年(昭和8年)11月8日、東京競馬場は開場した。10日後の11月18日に東京競馬場での初めての開催を行い、目黒競馬場は完全閉場となった(目黒記念は目黒競馬場にちなんでいる)。移転した競馬場の総面積は駐車場や道路、厩舎地区を含めて約24万坪と目黒競馬場時代の3倍以上になった。本馬場は一周2100メートル、幅は30メートルで芝を植え、本馬場内側には練習馬場(調教用コース)を設け練習馬場には川砂を敷いた。",
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"text": "元々の用地は現在よりフラットであった。現在の競馬場の第3コーナー手前とホームストレッチにある勾配は人為的に作ったものである。これは競走馬にスピードよりも強靭さを求めた陸軍の意向を取り入れたもので、多摩川向かいの川崎の山土を運びコースに盛ってアップダウンを設けた。コースには山土を盛って芝を植えた。この山土を取るために南武線沿いにある山も買った。",
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"tag": "p",
"text": "目黒にあった各厩舎も競馬場移転に伴い府中に移転した。1936年(昭和11年)東京競馬場所属の厩舎は30厩舎。その多くは東京競馬場内の厩舎地区に入ったが、尾形藤吉厩舎、北郷五郎厩舎は競馬場外の府中町清水が丘に自前の土地建物を用意した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "開場時の東京競馬場のレースは、春・秋の2回開催で各季8日間の開催であった。手狭だった目黒競馬場が、1場所8日間の開催で最高で観客8万人あまりだったが、移転して広大になった東京競馬場第1回開催では8日間で10万人を超えた。記念すべき東京競馬場の初開催は1933年(昭和8年)11月18〜20・25〜26日、12月1〜3日である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "東京優駿(日本ダービー)は1934年(昭和9年)の第3回から東京競馬場で行われ、開設時の重賞競走としては帝室御賞典(現在の天皇賞)や農林省賞典、目黒記念などが行われていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1937年(昭和12年)、全国的な競馬施行団体である日本競馬会が設立された。これに伴って東京競馬場のみの競馬運営体の東京競馬倶楽部は解散して日本競馬会に合流し、東京競馬場は日本競馬会東京競馬場となる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1940年(昭和15年)の開催が決まっていた東京オリンピックでは、馬事公苑や中山競馬場とともに馬術競技で使用されることとなっていたが、日中戦争の影響で東京オリンピックの開催そのものが中止となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1943年(昭和18年)12月、政府は競馬を中止し、1944年(昭和19年)以降は東京・京都でのみ能力検定試験を行うことにした。したがって、この年の日本ダービーや横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)は馬券は売らず観客は入らないなかで、関係者のみが見つめる前で行われている。中山競馬場で行われていた重賞レース(中山記念や中山四歳牝馬特別など)も東京で行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1944年(昭和19年)5月、横浜競馬場の閉鎖にともない、横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)が東京競馬場で行われる。横浜農林省賞典四歳呼馬は1947・48(昭和22・23)年も東京で行われ、1949年(昭和24年)から中山に移って皐月賞になる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1945年(昭和20年)、東京競馬場は陸軍燃料廠に貸与され、東京競馬場は閉鎖された。東京競馬場所属馬は一部は京都競馬場や阪神競馬場に送られ、その他は地方で種牡馬になったり運搬車曳馬などに転用された。調教師や馬丁(厩務員)などの人員は一部は京都競馬場や宇都宮競馬場に移転を命じられたり、一部は転業が命じられて曳馬機動隊(運搬車曳馬の隊)や馬匹修練場などに配置替えされた。東京競馬場施設は軍に貸与されたが、戦時中の食糧難の為に競馬場は全面が畑になり、馬場はサツマイモ畑になっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1946年(昭和21年)、軍から返還され、同年10月17日から競馬は再開された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1947年(昭和22年)、それまで阪神で行われていた優駿牝馬競走(オークス) が東京で開催された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1948年(昭和23年)、日本競馬会は前年に制定された私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)によって解散。日本競馬会傘下の9か所の競馬場は国営競馬として再開する。東京競馬場は農林省管轄下になり、国営競馬東京競馬場となる",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1954年(昭和29年)、新競馬法によって日本中央競馬会発足、東京競馬場は日本中央競馬会東京競馬場となる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "1957年(昭和32年)11月19日、1号館新館「万歳館」竣工。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1961年(昭和36年)2月26日、ダートコースの使用が開始。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1968年(昭和43年)6月4日、スタンド改築工事竣工。府中競馬正門前駅からの屋根付歩道橋を設置。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1974年(昭和49年)、東京競馬場の厩舎数や在籍馬数は徐々に増え、この年には馬房を貸し付けられている東京競馬場所属の調教師の人数は38人。馬房数は定期貸し付け馬房と出張馬房の合計で1,098馬房、預託契約頭数はサラ系が1,005頭、アラブ系が31頭の合計1,036頭。東京競馬場の総馬房数1,098に対し40馬房貸し付けられている調教師が3人いるのに対し、10馬房しか貸付されていない調教師もいるなど厩舎ごとの規模の差は現在より大きかった。この年までに栗東トレーニングセンターはすでに開業していたが、美浦トレーニングセンターは造成中である。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1978年(昭和53年)3月から4月にかけて、東京競馬場内にあった厩舎は新設された美浦トレーニングセンターに移動した。調教師や厩務員なども移転した。それまで東京競馬場には1111の馬房があったが、東京競馬場所属馬はすべて美浦に移動。1982年には東京競馬場の馬房の数は397に減り、それらは出張馬房や国際馬房として使われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1981年(昭和56年)、ジャパンカップ創設。2002年を例外として東京競馬場で開催される。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "昭和の終りから平成の初めにかけて、武豊やオグリキャップなどの人気による空前の競馬ブームが起こり、1990年(平成2年)5月27日の第57回東京優駿(日本ダービー)当日には史上最高の入場者19万6517人を集めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)に東京競馬場スタンド改築等施設整備計画を発表し、3期に分けての改築を行うことになった。2002年(平成14年)6月の第4回東京競馬終了後、馬場改修工事と2期スタンド工事に本格的に着手、その年の秋競馬は中山競馬場や新潟競馬場で代替開催された。1期スタンドはその年の10月に完成し、翌11月からパークウインズとして利用開始。その後馬場改修工事も終わり、2003年(平成15年)4月26日にリニューアルオープンした。以前のコースとの主な変更点は次のとおりである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2005年(平成17年)4月に完成したスタンド改修工事・第2期分では、パドックとレーストラックをつなぐ地下馬道が1階座席からガラス越しに見ることができるようになった(ホースプレビュー)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)4月にスタンド改修工事・第3期分が終了。新スタンドが全面完成となった。新スタンドの名称は公募により決定し、富士山を眺望できるスタンドであることから「フジビュースタンド」と命名された。また、このフジビュースタンド完成を記念し、2007年の2回・3回の東京競馬では東京競馬場グランドオープンと銘打って、引退騎手によるエキシビションレース「ジョッキーマスターズ」をはじめ様々なイベントが行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)2月3日・2月10日と2週連続で日曜日の開催が降雪の影響で中止され、それぞれ2月4日・2月11日に代替開催された。中央競馬における同一競馬場での2週連続開催中止は、こちらも降雪のため中止された1987年12月の中山2日目・4日目以来21年ぶりのことであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2014年(平成26年)2月8日・9日・15日・16日には、雪の影響により4日連続で開催中止。それぞれ2月10日・17日・18日・24日に代替開催された。中央競馬における4日連続の開催中止は史上初となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2019年(令和元年)5月4日には、降雹の影響で10レース以降のレースを中止。ダービートライアルのプリンシパルステークスがこの中に含まれており、翌週5月12日の開催に移行されることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)の第2・3回開催全日は新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大防止のため「無観客競馬」として開催された。この中には第87回日本ダービーも含まれており、太平洋戦争の影響により「能力検定競走」の名の下で馬券の発売もなく施行された1944年以来76年ぶりに無観客での日本ダービー開催となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2021年(令和3年)の第1回開催全日、第2回開催2~6日は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため「無観客競馬」として開催された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "東京優駿は、第1・2回を目黒で開催以後、原則として東京競馬場のみで行われており、上記の大規模な改修・改築、馬場の拡張などを伴う大規模な工事が行われた場合でも、開催時期を調整したり、また東京優駿が行われる節の工事を極力控えるように日程調整を行っている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "芝コースは主要4場(東京・中山・京都・阪神)の中で最も大きく、JRAの全10競馬場でも新潟競馬場に次ぐ大きさである。起伏も変化に富んでおり、第1コーナーから向正面半ばまで高低差 1.9 mの長い下り坂が続き、直後の第3コーナー手前には高低差1.5mの上り坂。これを上りきると短い平坦部分を挟んだ下り勾配が続き、第4コーナーから上り勾配に転じる。ゴールまでの直線には残り 480 m地点 - 260 m地点にかけて高低差 2 mの長い上り坂があり、「だんだら坂」とも呼ばれ東京競馬場の名物となっている。ゴールまでの直線距離も新潟競馬場(外回り)に次ぐ長さで、非常にタフなコースとされている。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "カーブも半径がゆったりしているうえ、幅員も広いためコースは4通りに使い分けることができ、馬場の傷みの進行も最小限に抑えることができるようになっている。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "かつて芝には1,000 m・1,100 m・1,200 m、ダートには1,000 m・1,100 mの距離が右回りで設定されていた。このうち芝1,200 mの競走については1984年 (昭和59年)まで施行され、現在の200 mのハロン棒部分に右回り用のゴール板が設置されていた。また1955年 (昭和30年)前後の一時期、向正面から4コーナーにかけての障害コースの内側に芝コースを設置し、芝内回り1,600 m・1,800 m・2,000 mの競走が設定されていた。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2021年までは1月から3月について(2015年以降は重賞競走を除く)、下記の通り出走頭数の制限を行っていた。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ダートコースは1周距離・ゴールまでの直線距離ともに日本の競馬場で最大。起伏構成は芝コースとほぼ同様であるが、最後の直線部分の坂は高低差が2.4 mあり、芝コースよりも大きくなっている。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2010年の第4回開催より、ダート1600mのスタート位置及び2コーナーのシュート部分の線形が若干変更された。これによるレコードタイムの抹消措置は行われない。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "現在の障害コースはスタート後に順回りで周回するコース形態のみで、周回コースには8個の障害を設置。向正面(バックストレッチ)には3つの連続障害が設けられている。また、正面の4つの障害のうち、グリーンウォール以降の3つの障害がユニット状になっており、重賞の東京ジャンプステークス(東京JS)は3つ目の竹柵が大竹柵(高さ 150 cm, 幅 155 cm)、4つ目のいけ垣が大いけ垣(高さ150 cm, 幅150 cm)に変更され、さらに東京ハイジャンプでは2つ目のグリーンウォールが大いけ垣(高さ 150 cm, 幅 150 cm)に変更される。その変更作業には1日かかる事から、当該週は他に東京で平場の障害競走を組むことができないため、東京JSが宝塚記念開催前日に移行した2013年以降、宝塚記念当日にあたる日曜日は障害競走が東西で行われない。過去には秋華賞当日が障害競走が東西で行われないというケースもあったが、2014年以降障害競走が札幌・函館以外の第3場開催時は第3場で行われることになったことと、2015年以降、東京ハイジャンプが原則、秋華賞当日の日曜日の施行になったため、発生しない。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1998年までは第3コーナーから第1コーナーにかけて襷コースが配置されており、年2回の東京障害特別の時のみ使用していた。襷コースには通常より難易度の高い大土塁障害(10号障害: 高さ 155 cm, 幅 260 cm; 通称「けやき」)、大竹柵障害(11号障害: 高さ 150 cm, 幅 150 cm)、土塁障害(12号障害: 高さ 150 cm, 幅 250 cm)の3連続障害があり名物であった。襷コース使用の場合は正面の障害は逆回りとなっていた。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "戦前の竣工時には、襷コースがX字状にクロスした形で存在し、さらに3コーナーから4コーナーにかけては、馬場の内側にもう一つS字状にカーブしたコースが存在していた。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "東京優駿(日本ダービー)・天皇賞 (秋)・ジャパンカップ(JC)の施行日は、障害コースのうち正面スタンド前にあたる部分が観客席として開放されることがある。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "3,300 m戦(直線芝・ダート共に)は2012年以降施行されていない。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2009年5月23日の東京競馬第4競走(サラ系障害3歳以上オープン、発走11時40分)において、発馬機を「直線ダート 3,300 mのスタート地点」に設置すべきところを「直線芝 3,300 mのスタート地点」に誤って設置、結局当初発表の距離より 15 m短い直線ダート 3,285 mで行われた。レース終了後に係員が気づき、決勝審判員に報告。裁決委員がパトロールフィルム等で確認し同日の13時10分に誤りを認めたが、既にレースは確定し払戻金も発表された後であったため、レースは成立したものとされた。1着馬のタイムは当初 3,300 mのコースレコードと発表されたが取り消され、実施行距離(直線ダート3,285 m)の基準タイムとして残された。",
"title": "コース概要"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "正門・東門・西門の3カ所ある。開門時刻は通常 9:00 であるが、GI開催時など混雑が予想される場合は開門時刻が早まることがある(ダービー・JC当日は概ね 7:20 - 8:00)。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "正門は2層構造になっており、2階は京王電鉄競馬場線・府中競馬正門前駅と高架橋でメインスタンド3階と直結している。正門の北側に立川段丘(府中崖線)が東西方向に横切る。 平日払戻所が併設されている。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "JRA競馬博物館や4コーナー付近の芝生ゾーンに近い。京王電鉄京王線・東府中駅南口から徒歩10分。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1コーナー・ゴール・内馬場に近い。開門時は1階は入場券・回数入場券を事前に確保済みの者のみ利用可能である。JR南武線及び武蔵野線・府中本町駅の臨時改札口から専用歩道橋で徒歩5分。正門同様2層構造になっており、上層部が専用歩道橋と直結している。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "西武鉄道多摩川線・是政駅から徒歩10分。コースのメインスタンドより向正面に位置する。以前は入退場が可能であったが、新型コロナウイルス感染拡大以降は入場制限もあって閉鎖が続いており、2023年9月21日にJRAより恒久的に閉鎖することが発表されている。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)11月から段階的に供用され、2007年(平成19年)4月に完成した。愛称は「フジビュースタンド」で、地上9階・地下1階。天気が良ければ富士山が見えることや、富士山が日本一を連想させること、富士山が世界的にも有名なことからこの名が付いた。スタンド内の現在位置を把握するのに便利な「柱番号」は1コーナー寄りの「2」から始まり、4コーナー寄りに「34」までの番号が付されている。各階の主な施設は以下のとおり。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "コースの全体を見渡すことができるのは6階より上の席となる。 スタンドは全館禁煙で、喫煙は指定された喫煙ルームでのみとなる。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "フジビュースタンドの指定席は A・B・C の3種類あり、4コーナー寄りからB指定席・A指定席・C指定席と配置されている。料金の違いは観戦場所によるもののみであり、座席の仕様に違いはない。全席が屋外にあり、2人掛けで各ペア席にチャンネル切り替え可能なモニターが1台、PC利用のためのコンセントが2口ある。全席で公衆無線LAN(Wi2 300)が無料で利用可能である。料金に入場料は含まれない。指定席エリアには投票所(自動・有人)、オッズボックス、酒や軽食を販売する売店、喫煙コーナーなどがあるが、原則として下位の指定席利用者は上位の指定席エリアに立ち入ることができない(A指定席利用者はB指定席エリアおよびC指定席エリアの施設を利用できるが、B指定席およびC指定席利用者はA指定席エリアの施設を利用できない)。なおメモリアルスタンド(後述)S指定席利用者は、フジビュースタンドのすべての指定席エリアの施設を利用出来る。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2020年10月の4回開催より車椅子専用席を含めて全ての指定席がインターネット予約のみでの発売になった。 インターネット予約は従来、専用クレジットカード「JRAカード」でしか予約できなかったが、2014年11月にJRAカード以外のクレジットカードも利用できるようになった経緯もあり、2015年第1回開催分よりインターネット予約分の指定席が若干増やされ、当日発売分の指定席が若干減らされた。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "当日発売分の指定席はフジビュースタンド3階の当日指定席発売所で販売していた、5階席は正門から、6階席は西門からの入場者が利用しやすいように入場列があった。東京優駿(日本ダービー)時は通常より高い特別料金が設定されるほか、東京優駿や天皇賞(秋)など大きなGIレースが開催される日は当日発売を行わず、インターネット予約についてはJRAカード限定の事前予約抽選で、またそれ以外については事前はがき抽選で当選者に引換券を送付する形で販売していた。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "コースのゴール手前300m付近にあるスタンドで、東京競馬場開設60周年を記念して1993年9月に完成したスタンドである。完成当時は「メモリアル60」と呼ばれていた。フジビュースタンド同様に全館禁煙(喫煙は専用の部屋を利用)。「柱番号」は「42」から「54」。これはフジビュースタンドができる前の旧スタンドの柱番号からの通し番号であり、フジビュースタンド完成後もメモリアルスタンドの柱番号は変更されずそのまま残された。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "地上7階・地下1階で、座席のある場所はすべてガラス張り。3階・4階の4コーナー寄りの部分が一般席(1階・2階相当部分は屋外の芝スタンド)で、3階・4階のゴール寄りの部分の748席は65歳以上の入場者が利用できるシニア席(料金は無料)、5階・6階部分はi-Seat69席及びS指定席(738席、クレジットカードによるインターネット予約のみ)となっている。メモリアルスタンド竣工からフジビュースタンド完成までの期間は3階・4階部分はE指定席であった。全席禁煙である。なお、本場開催時以外(パークウィンズ時)にはi-Seat、S指定席がネット予約発売で開放される。メモリアルスタンド5階・6階のレストラン・売店も通常どおり営業している。7階には貴賓室がある。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "西門及びフジビュースタンドからの地下道を利用して行けるコース内のエリアである。フアフアターフィーやミニ新幹線など子供向けの遊具があるエリアである。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1984年に日本初のターフビジョンが設置され、10月6日の開催から運用開始。ターフビジョン設置後最初の大レースがミスターシービー、カツラギエース、サンオーイが叩き合いを演じた毎日王冠であった。最後方を追走するミスターシービーが大欅の手前でスパートをかけるシーンが映し出されると場内は大きく沸いた。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2006年8月に三菱電機長崎製作所製の世界最大規模の超大型ビジョン(ターフビジョン)が設置され、10月7日から正式運用された。ゴール前のそれがこれまでの電球管形式からLED方式に変更され、高さ11.2 m, 幅66.4 m, 面積743.68 m(テレビサイズでいうと 2,651型)と旧来の3倍に相当するものが採用された。これによって画面全体を使用した高画質映像の放映、画面を 1:2 に分割して別角度からの映像を放映、画面を3分割して本場の競走・パドックの映像と他場の競走・パドックの映像を同時に放映、といった様々な使い方で情報提供ができるようになった。「世界最大の大型映像スクリーン」としてギネス世界記録に認定された。「マルチ画面ターフビジョン」と称している。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "「下見所」とも言う。出走馬を下見する場所であり、トータリゼータオッズボードを兼ねたパドックビジョン(フルカラーLED電光掲示板)が設置されている。パドック周辺とパドックビジョンの前側通路と下は禁煙エリアとなっている。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "無敗の2冠馬トキノミノルの馬像と、中央競馬初代理事長安田伊左衛門の胸像があり、待ち合わせスポットの定番となっている。安田像は安田記念の開催日には献花が捧げられる。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "以前は30頭分表示できる風格のある大型手書き出走板があり、名物であった。レースごとに白墨でレース名、距離、馬名、騎手名、斤量、馬体重が書かれたプレートを付け替えていた。馬名表示欄の横幅は狭かったため、8文字以上の馬名の場合は2行に分けて書かれていた。フルゲートの削減に伴い、電光型の出走掲示板(現在のパドックビジョン)に建て替えられた。カタカナは全角で表記される。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "東京競馬場はレストランや売店などが充実していて、飲食店はラーメン・焼きそば・カレーライスなどのファストフードから有名ホテルがプロデュースするレストラン・カフェまで約75店舗が軒を構える。フジビュースタンド2階西側・1階東側およびメモリアルスタンド地下にはフードコートがある。フジビュースタンド5階及び6階の指定席エリアの外には9店舗のレストランがあり、ゆっくりと腰を据えて食事ができる。また、コンビニエンスストアやスポーツ新聞・競馬新聞を販売する売店もある。なお、店舗の中には本場開催時しか営業していない店舗もある(パークウィンズ時はフジビュースタンド5階及び6階の店舗はすべて休業となる)。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1986年から2001年末まで場内サテライトスタジオに「ミニFM放送局」を送信周波数 78.0 MHz(後に 87.0 MHz・ターフサウンドステーション TSS)で開局・放送業務を開始したが、現在は下記の場内実況放送の他、各放送局の音声を再送信している。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "東京競馬場では1981年から、同競馬場での年間最終開催日にジャパンカップを開催しているが、2019年のジャパンカップに外国調教馬の出走がなかったという事情、さらに外国馬は輸入後、競馬学校(白井市)か、三木ホースランドパーク(三木市)で原則として1週間程度検疫を受ける必要があったという事情が重なって、外国馬の参戦を増やすことが課題とされてきた。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "しかし、世界的な競馬では、検疫を受けつつレース開催競馬場で調教ができることが一般的であるということで、外国調教馬誘致の改善策として国際厩舎を新設する計画が同年12月に明らかとなり、、2021年12月から着工。2022年6月に竣工した。国際厩舎は内馬場に最大6棟・12頭が入厩できるようになっている。運用としては同年10月1日付で農林水産省より輸出入検査場所としての指定を受け、正式に検疫厩舎となった。国際厩舎のクラブハウスには24時間馬房を画面で確認できる警備室や打ち合わせのための食堂などを設置。防疫のため、基本的に国際厩舎とクラブハウス間を行き来する際にはシャワールームを通過する構造になっている。さらに施設の周りには一周292mの楕円形追い馬場ダートコースが設置されている。",
"title": "主な設備"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "最寄駅は京王電鉄の競馬場線・府中競馬正門前駅で、専用歩道が用意されている。東京競馬開催時は競馬場線の増発と京王線と接続する東府中駅に特急が臨時停車するほか、府中競馬正門前駅から新線新宿駅行臨時急行と京王線新宿駅行臨時特急が運行される。京王線では府中駅や東府中駅よりアクセスする人も多い。また、少し離れた東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線・武蔵野線の府中本町駅からも専用歩道(フジビューウォーク)が用意されている。東京競馬開催時は南武線の川崎方面行、武蔵野線の東所沢・南越谷行の電車が増発される。かなり離れているものの西武多摩川線の是政駅からもアクセス可能ではあるが、至近となる南門は閉鎖されたため、是政駅および南多摩駅からは大回りの上で東門または西門からのアクセスとなる。京王線東府中駅から徒歩で向う場合、南口改札を出て南の方角へ歩いて行くと東門へアクセス可能である。",
"title": "アクセス"
},
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1973年4月1日までは、競馬場西側に中央本線の支線、通称「下河原線」の東京競馬場前駅があった。かつてはこの駅が国鉄で最も長い駅名であった。",
"title": "アクセス"
},
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "中央高速バス(事前予約が望ましい)中央道府中バス停からもアクセスが可能。主に山梨県郡内・上野原方面の利用客が多い。高速バス停からは南門が至近で、中央自動車道北側沿いに八王子方面へ歩いて1kmほどで南門に着く。",
"title": "アクセス"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "障害GI2競走を含めた全26のGI級競走中、この東京競馬場で開催される平地のGI競走は3分の1に当たる8競走に及ぶ。2007年まではジャパンカップダートも当競馬場で開催されていた(2002年は中山、2008年から2013年まで阪神、2014年よりチャンピオンズカップに名称変更し中京に移設)。",
"title": "重賞競走"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2019年までジャパンカップの開催日は、混雑緩和および日没の関係上1日に施行する競走を11に制限していたが、2020年からは通常と同じく全12競走の施行となる。2005年までは日本ダービーの開催日も同じく11競走(2001年までは10)だったが、2006年からは、ダービーデイを盛り上げるということで、ダービー開催日に最終競走として目黒記念を施行している(但し2011年は東日本大震災の影響で通常の競走数で行われたが目黒記念は前日に実施)。目黒記念については薄暮競走相当の時間帯(17時発走)で施行するため、競走数は通常同様12となる。このほか、2005年の秋の天皇賞では「エンペラーズカップ100年記念」として戦後初の天覧競馬が行われたことから、この日についても全11競走に制限して開催された(2004年の中央競馬50周年記念のときにも天覧競馬が企画され同様の処置がとられる予定だったが、直前に起こった新潟県中越地震の被災者に配慮して中止となったため通常と同じ12競走で開催された)。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "毎年5月5日には競馬場に近接する大國魂神社で祭事の「くらやみ祭り」が行われるが、2006年までは、5月5日が競馬開催の土・日曜日と重複した場合、その前後に競馬開催日を振り替えていた(これは電話投票が全国で本格的にシステム統合されて以後、関東で第3場開催および関西で開催が行われる場合も同様に振り替えていた)。2002年のNHKマイルカップは土曜日である5月4日に施行されたが、平地のGI級競走が土曜日に施行されるのは非常に稀なケースである。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2006年の春季からは、NHKマイルカップからヴィクトリアマイル、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)そして安田記念まで5週連続でGI級競走が開催される。これに伴い独自の試みとして、「GIレースクイーン」と題し、各GI競走ごとに1名ずつ担当のグラビアアイドルを起用するようになった。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "通常期は2006年以後(2011年を除く)のダービーデー当日以外、原則として薄暮開催を行わないが、2010年と2012年に安田記念当日は、最終競走の「ユニコーンステークス」を16:35発走に設定した。2013年はユニコーンステークスが別日開催となったため一旦消滅するも、2014年から夏季競馬振興の一環として、6月14日以後の第3回東京競馬後半6日間(6月29日=宝塚記念開催日除く)については最終競走を16:30に設定する。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "なお、2004年以後、平年の第5回中山競馬開催相当分が代替されない限り、ジャパンカップが東京競馬場の年内最終競走(上述)となっている。",
"title": "重賞競走"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "出典:JRA公式サイト 中央競馬レコードタイム 東京競馬場",
"title": "レコードタイム"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "「騸」は騸馬 (去勢された牡馬)",
"title": "レコードタイム"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "第3コーナーに関しては、寺山修司の著書などで「魔のコーナー」とされている。この場所に生育している木を俗に「大欅」(おおけやき)と呼ばれるが、実際に植えられているのは欅ではなく榎(エノキ)である。",
"title": "府中の大欅"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "この大欅の下には、この隣接地域の「是政」の由来となった井田摂津守是政の墓所があり、過去に行政代執行の対象となった際に井田氏の子孫が日本刀をふるって抗議したため、観戦の妨げとなるにもかかわらず史跡として保存されている。特に芝コースがCコースおよびDコース使用の場合、テレビ中継では必ず大欅が残り 800 m (4ハロン)地点のハロン棒を隠すように映り込むため、「日本一テレビ放映される墓所」と言われている。またこの木の一本を切った人夫が墓のたたりによって急死したと恐れられ、残った1本を切ることを引き受ける人がいなくなったという噂話もある。",
"title": "府中の大欅"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "一般にここは最後の直線へ向けて速度を上げる場所であると同時に、カーブを曲がるために一方の側に負担が大きくなる場所であり、第118回天皇賞においてサイレンススズカが予後不良に至った例もあった。",
"title": "府中の大欅"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "「府中の千八、展開要らず」との格言は競馬評論家としても活動していた大橋巨泉が作った。この格言は、東京競馬場の1800mコースの競走は、コース設計上、どの馬も不利を受けることが少ないうえ、ほとんどの距離適性をもつ馬が走れる距離でもあるため、実力どおりに収まりやすい(いわゆるフロックが少ない)ということ。特に毎日王冠は数多くの実力馬が勝ってきていることでも知られている。逆に、2000mコースで施行される天皇賞(秋)は、コース設計上、どうしても内枠の馬が有利だといわれている。",
"title": "府中千八展開要らず"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "エプソム競馬場・盛岡競馬場と姉妹提携を結んでおり、東京競馬場では交換競走としてエプソムカップ(GIII)、オーロカップが施行される。",
"title": "姉妹提携"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "盛岡競馬場との姉妹提携に関連して、2003年10月より 場内に岩手県競馬(盛岡競馬・水沢競馬)専用場外発売所が開設されており、東京競馬開催日および場外発売日には当日の岩手県競馬の全競走および翌日(月曜を含む)のメイン競走の勝馬投票券を購入することができる。2005年度岩手競馬全日程終了までは馬場内B投票所に開設されていたが、2006年4月8日(2006年度岩手県競馬開催初日)からメインスタンド1階・101投票所に移転した。",
"title": "姉妹提携"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "毎年4月から6月(平年度の第2・3回開催)は、日清製粉グループが特別協賛し、ファミリー層に向けたステージイベントや、スペインの洋菓子「チュロス」を販売する特設ブースを設置している(重賞競走のテレビ放送用のインタビューが行われる検量室のインタビューパネルにも日清製粉のロゴマークが貼り付けられている)。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "2005年10月22日、同競馬場の第12競走(最終競走)において、当時の日本の公営競技の投票券史上最高配当記録となった1846万9120円(三連勝単式)が飛び出した。これは2008年6月5日に競輪で7969万8600円の配当が飛び出す(平塚競輪場のチャリロト)まで日本の公営競技史上最高配当記録であった。その後も、日本の競馬および単一の競走を対象とした配当としては最高配当記録であったが、2009年2月4日に船橋競馬場で三連単の配当金1911万円が記録され、そちらに譲る形になった。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "東京競馬場でのGI級競走(ジャパンカップ・安田記念など外国馬が出走する場合を除く)では、出走馬のゼッケンの片方に馬名が、もう一方に当該競走名と回次(例:第1回ヴィクトリアマイル)が記載されている(地方競馬の重賞競走においても同様の形式がとられている場合がある)。なお、他の競馬場(中山・中京・京都・阪神)で行われるGI級競走では、GII級以下の競走同様、両サイドに馬名が記載されている(外国馬が出走する場合は、このうち片方が英文馬名となる。このゼッケンは1983年からジャパンカップに限り採用し、1987年秋以降、他の競走にも順次拡大した)。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2022年7月6日には、東京SUGOI花火と称してザ・ローリング・ストーンズの結成60周年を記念して、同所を会場とした「THE ROLLING STONES 60th ANNIVERSARY THE GREATEST FIREWORKS~感激!偉大なる花火~」が執り行われた。翌23年も松任谷由実50周年の花火ショーが実施され、いずれも当日は京王競馬場線で編成両数の増強を実施した他、西門のJR線臨時改札口も花火の実施時間帯に合わせて開放された。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "1978年に美浦トレーニングセンターが開設されるまでは競馬場で調教が行われていた。",
"title": "主な元所属調教師"
}
] | 東京競馬場は、東京都府中市にある中央競馬の競馬場。所在地から府中競馬場(ふちゅうけいばじょう)とも通称される。競馬ファンの間では単に府中でも通用する。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。 敷地内施設として、JRA競馬博物館・乗馬センターの他、馬車(ホースリンク)・水遊び広場やミニ新幹線など遊園地のような遊具やイベントが行われている。 | {{出典の明記|date=2013年1月}}
{{混同|大井競馬場|x1=東京都品川区に所在する}}{{競馬場
|競馬場名 = 東京競馬場
|通称・愛称 = 府中競馬場
|画像 = [[File:東京競馬場 - panoramio (4).jpg|250px]]<br />スタンド(2013年5月)<br />[[ファイル:Tokyo-Racecourse aerial 2019.jpg|250px|航空写真(2019年)]]<br />航空写真(2019年)<br />{{国土航空写真}}{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=250}}
|所在地 = 東京都府中市日吉町1番地1
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 39 | 緯度秒 = 44 | N(北緯)及びS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 29 | 経度秒 = 8 | E(東経)及びW(西経) = E
| 地図国コード = JP
|起工 =
|開場 = [[1933年]][[11月8日]]
|閉場 =
|取り壊し =
|所有者 = [[日本中央競馬会]]
|管理・運用者 = 日本中央競馬会
|収容能力 = メモリアルスタンド、フジビュースタンド
|周回 = 左回り
|馬場 = 芝・ダート
}}
'''東京競馬場'''(とうきょうけいばじょう、英: Tokyo Racecourse)は、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]にある[[中央競馬]]の[[競馬場]]。所在地から'''府中競馬場'''(ふちゅうけいばじょう)とも[[通称]]される。競馬ファンの間では単に'''府中'''でも通用する。施行者ならびに管理者は[[日本中央競馬会]]である。
敷地内施設として、[[JRA競馬博物館]]・乗馬センターの他、馬車(ホースリンク)・水遊び広場やミニ新幹線など遊園地のような遊具やイベントが行われている。
== 歴史 ==
[[ファイル:Tokyo race club.jpg|thumb|right|250px|東京競馬倶楽部時代の東京競馬場]]
[[ファイル:Tokyo Racecourse1940.jpg|thumb|right|250px|1940年の東京競馬場]]
東京競馬場の前身は[[目黒競馬場]]である。[[1907年]]([[明治]]40年)に約65,000坪 (≒21.5[[ヘクタール]] (ha))の敷地面積の[[目黒競馬場]]が開設されたが、その後目黒競馬場周辺の都市化が進み、借地が大部分だった目黒競馬場は借地料の増加に加え、馬券発売による競馬人気で手狭になったにもかかわらず、施設拡張の余地がなかったため、移転を余儀なくされた。
小金井や羽田、世田谷なども移転先候補地となったが、府中町(当時)が競馬場誘致活動に力を入れ、地形もよかったので府中に決定し、[[1933年]]([[昭和]]8年)[[11月8日]]、東京競馬場は開場した<ref name="fuchu1974 587-611">[[#府中市1974|府中市1974]]、587-611頁。</ref>{{#tag:ref|目黒競馬場移転候補地としては府中のほか羽田の埋立地(後に地方競馬の羽田競馬場が出来た。現在の飛行場の一部)、小金井(現在の小金井カントリークラブのあたり)、世田谷区用賀(現在の[[馬事公苑]]付近)、[[等々力 (世田谷区)|世田谷等々力]]、[[浅間山 (東京都)|多摩浅間山]]付近など十数か所が調べられた<ref name="fuchu1974 587">[[#府中市1974|府中市1974]]、587頁。</ref>。目黒競馬場では競馬会から町に年に税金代わりに27,700円が寄付されていたという。国へもほぼ同額が寄付されていた。当時の府中町の年間予算は6万円、税収は3万円余りだったので、競馬場から自治体への寄付金は魅力だった<ref name="fuchu1974 589">[[#府中市1974|府中市1974]]、589頁</ref>。また、競馬場予定地付近の農地は用排水に不便していたともいう<ref name="fuchu1974 604">[[#府中市1974|府中市1974]]、604頁。</ref>。このため府中町では競馬場の誘致を決めた。競馬場誘致は町議会では満場一致だったという<ref name="fuchu1974 589"/>。東京競馬倶楽部代理の三菱信託と町長以下の委員会によって用地買収は進む<ref name="fuchu1974 589-590">[[#府中市1974|府中市1974]]、589-590頁。</ref>[[井田是政]]など一族の墓を守る井田家の抵抗など反対運動もあったが、やがて競馬場は完成する<ref name="fuchu1974 594-608">[[#府中市1974|府中市1974]]、594-608頁。</ref>。しかし、府中町が期待した競馬場からの収入は、競馬法改正で国に召し上げられてしまっている。府中町ではたいへんにガッカリしたという<ref name="fuchu1974 611">[[#府中市1974|府中市1974]]、611頁。</ref>。|group="注"}}。10日後の[[11月18日]]に東京競馬場での初めての開催を行い、目黒競馬場は完全閉場となった([[目黒記念]]は目黒競馬場にちなんでいる)。移転した競馬場の総面積は駐車場や道路、厩舎地区を含めて約24万坪と目黒競馬場時代の3倍以上になった<ref name="fuchu1974 587-611"/>。本馬場は一周2100メートル、幅は30メートルで芝を植え、本馬場内側には練習馬場(調教用コース)を設け練習馬場には川砂を敷いた<ref name="jra1968 127">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、127頁。</ref>。
元々の用地は現在よりフラットであった。現在の競馬場の第3コーナー手前とホームストレッチにある勾配は人為的に作ったものである。これは競走馬にスピードよりも強靭さを求めた陸軍の意向を取り入れたもので、多摩川向かいの川崎の山土を運びコースに盛ってアップダウンを設けた<ref name="fuchu1974 588">[[#府中市1974|府中市1974]]、588頁。</ref>。コースには山土を盛って芝を植えた。この山土を取るために南武線沿いにある山も買った<ref name="fuchu1974 587-611"/>。
目黒にあった各厩舎も競馬場移転に伴い府中に移転した。1936年(昭和11年)東京競馬場所属の厩舎は30厩舎<ref name="kishushozokubetu14" />。その多くは東京競馬場内の厩舎地区に入ったが、[[尾形藤吉]]厩舎、北郷五郎厩舎は競馬場外の府中町清水が丘に自前の土地建物を用意した<ref name="kishushozokubetu14"/><ref name="ogata1967p149">尾形藤吉『競馬ひとすじ』徳間書店、1967年、p.149</ref>。
開場時の東京競馬場のレースは、春・秋の2回開催で各季8日間の開催であった。手狭だった目黒競馬場が、1場所8日間の開催で最高で観客8万人あまりだったが、移転して広大になった東京競馬場第1回開催では8日間で10万人を超えた。記念すべき東京競馬場の初開催は1933年(昭和8年)11月18〜20・25〜26日、12月1〜3日である<ref name="jra1968 132">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、132頁。</ref>。
[[東京優駿]](日本ダービー)は1934年(昭和9年)の第3回から東京競馬場で行われ、開設時の重賞競走としては[[帝室御賞典]](現在の天皇賞)や農林省賞典、目黒記念などが行われていた<ref name="jra1968 144">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、144頁。</ref>。
[[1937年]](昭和12年)、全国的な競馬施行団体である[[日本競馬会]]が設立された。これに伴って東京競馬場のみの競馬運営体の東京競馬倶楽部は解散して日本競馬会に合流し、東京競馬場は日本競馬会東京競馬場となる<ref name="jra1968 134">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、134頁。</ref>。
[[1940年]](昭和15年)の開催が決まっていた[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]では、[[馬事公苑]]や[[中山競馬場]]とともに[[馬術]]競技で使用されることとなっていたが、[[日中戦争]]の影響で東京オリンピックの開催そのものが中止となった。
[[1943年]](昭和18年)12月、政府は競馬を中止し、[[1944年]](昭和19年)以降は東京・[[京都競馬場|京都]]でのみ[[能力検定競走|能力検定試験]]を行うことにした。したがって、この年の日本ダービーや横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の[[皐月賞]])は馬券は売らず観客は入らないなかで、関係者のみが見つめる前で行われている。中山競馬場で行われていた重賞レース([[中山記念]]や[[桜花賞|中山四歳牝馬特別]]など)も東京で行われた<ref name="jra1968 141">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、141頁。</ref>。
[[1944年]](昭和19年)5月、[[横浜競馬場]]の閉鎖にともない、横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の[[皐月賞]])が東京競馬場で行われる。横浜農林省賞典四歳呼馬は1947・48(昭和22・23)年も東京で行われ、1949年(昭和24年)から中山に移って皐月賞になる<ref name="jra1968 243">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、243頁。</ref>。
[[1945年]](昭和20年)、東京競馬場は陸軍燃料廠に貸与され、東京競馬場は閉鎖された。東京競馬場所属馬は一部は京都競馬場や[[阪神競馬場]]に送られ、その他は地方で[[種牡馬]]になったり運搬車曳馬などに転用された。[[調教師]]や馬丁([[厩務員]])などの人員は一部は京都競馬場や[[宇都宮競馬場]]に移転を命じられたり、一部は転業が命じられて曳馬機動隊(運搬車曳馬の隊)や馬匹修練場などに配置替えされた<ref name="jra1972 762-770">[[#日本中央競馬会1972|日本中央競馬会1972]]、762-770頁。</ref>。東京競馬場施設は軍に貸与されたが、戦時中の食糧難の為に競馬場は全面が畑になり、馬場は[[サツマイモ]]畑になっていた<ref name="jra1968 142">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、142頁。</ref><ref name="jra1972 821">[[#日本中央競馬会1972|日本中央競馬会1972]]、821頁。</ref>。
[[1946年]](昭和21年)、軍から返還され、同年10月17日から競馬は再開された<ref name="jra1968 142" />。
[[1947年]](昭和22年)、それまで阪神で行われていた[[優駿牝馬|優駿牝馬競走]](オークス) が東京で開催された<ref name="jra1968 142" />。
[[1948年]](昭和23年)、日本競馬会は前年に制定された[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]](独占禁止法)によって解散。日本競馬会傘下の9か所{{#tag:ref|この時点では[[中京競馬場]]は開場していない。横浜競馬場はアメリカ軍に接収されている。宮崎競馬場は正式には廃止されていないが、休止している。したがって、札幌・函館・新潟・福島・中山・東京・京都・阪神・小倉となる。|group="注"}}の競馬場は[[国営競馬]]として再開する。東京競馬場は農林省管轄下になり、国営競馬東京競馬場となる<ref name="jra1968 143">[[#日本中央競馬会1968|日本中央競馬会1968]]、143頁。</ref>
[[1954年]](昭和29年)、新競馬法によって日本中央競馬会発足、東京競馬場は日本中央競馬会東京競馬場となる<ref name="jra1968 143" />。
[[1957年]](昭和32年)[[11月19日]]、1号館新館「万歳館」竣工。
[[1961年]](昭和36年)[[2月26日]]、ダートコースの使用が開始。
[[1968年]](昭和43年)[[6月4日]]、スタンド改築工事竣工。[[府中競馬正門前駅]]からの屋根付歩道橋を設置。
[[1974年]](昭和49年)、東京競馬場の厩舎数や在籍馬数は徐々に増え、この年には馬房を貸し付けられている東京競馬場所属の調教師の人数は38人{{#tag:ref|JRA全体で162人。またこれとは別に馬房貸付されていない調教師がJRA全体で23人いる。|group="注"}}。馬房数は定期貸し付け馬房と出張馬房の合計で1,098馬房、預託契約頭数はサラ系が1,005頭、アラブ系が31頭の合計1,036頭。東京競馬場の総馬房数1,098に対し40馬房貸し付けられている調教師が3人いるのに対し、10馬房しか貸付されていない調教師もいるなど厩舎ごとの規模の差は現在より大きかった。この年までに[[栗東トレーニングセンター]]はすでに開業していたが、[[美浦トレーニングセンター]]は造成中である<ref>日本中央競馬会編集『日本中央競馬会二十年史』日本中央競馬会発行、1978年、p.136-152</ref>。
[[1978年]](昭和53年)3月から4月にかけて、東京競馬場内にあった厩舎は新設された美浦トレーニングセンターに移動した。調教師や厩務員なども移転した<ref>[http://jra.jp/miho/intro/index.html#1 JRA美浦トレーニングセンター沿革]</ref>。それまで東京競馬場には1111の馬房があったが、東京競馬場所属馬はすべて美浦に移動。1982年には東京競馬場の馬房の数は397に減り、それらは出張馬房や国際馬房として使われた<ref>日本中央競馬会『日本中央競馬会30年史』1985年発行、p164,170</ref>。
[[1981年]](昭和56年)、[[ジャパンカップ]]創設。2002年を例外として東京競馬場で開催される<ref name="JRA2014JC" />。
昭和の終りから平成の初めにかけて、[[武豊]]や[[オグリキャップ]]などの人気による空前の競馬ブームが起こり、[[1990年]](平成2年)[[5月27日]]の[[第57回東京優駿]](日本ダービー)当日には史上最高の入場者19万6517人を集めた。
[[2000年]]([[平成]]12年)に東京競馬場スタンド改築等施設整備計画を発表し、3期に分けての改築を行うことになった。[[2002年]](平成14年)[[6月]]の第4回東京競馬終了後、馬場改修工事と2期スタンド工事に本格的に着手、その年の秋競馬は[[中山競馬場]]や[[新潟競馬場]]で代替開催された。1期スタンドはその年の[[10月]]に完成し、翌[[11月]]からパークウインズとして利用開始。その後馬場改修工事も終わり、[[2003年]](平成15年)[[4月26日]]にリニューアルオープンした。以前のコースとの主な変更点は次のとおりである。
# ゴール板が移動し、ホームストレッチ(最後の直線)の長さが[[芝]]コースでは従来の 500.4 [[メートル|m]] から 525.9 mに延長された。ダートも 500.1 mに延長されている。
# 内枠の馬に対して危険・外枠の馬の不利が指摘されていた芝 2,000 [[メートル|m]]コースのスタート直後のカーブが緩やかになった。ただし依然として、[[第104回天皇賞]](1991年)において[[メジロマックイーン]]が[[降着制度|降着]]となったような事例に対する影響については様々な意見がある([[第104回天皇賞]]を参照)。
# 各コーナーが以前よりも緩やかなカーブに変更された。
# 芝 3,400 mおよび[[ダート]] 1,300 m / 2,400 mのコースを新設し、芝 2,200 m / 3,200 mおよびダート 1,700 m / 2,300 mのコースを廃止した。
# 移動柵の名称を、A1, A2, B, C→A, B, C, D, Eに変更した(ただし、Eコースは現在のところ使用されていない)。
# 障害コースのうち襷コースを廃止して、内馬場に[[投票券 (公営競技)|勝馬投票券]]発売所を増設した([[1998年]]秋から)。
[[ファイル:Horse Preview09013101.jpg|thumb|240px|right|ホースプレビューから見える地下馬道と検量室(2009年1月31日撮影)]]
[[2005年]](平成17年)[[4月]]に完成したスタンド改修工事・第2期分では、パドックとレーストラックをつなぐ地下馬道が1階座席からガラス越しに見ることができるようになった(ホースプレビュー)。
[[2007年]](平成19年)4月にスタンド改修工事・第3期分が終了。新スタンドが全面完成となった。新スタンドの名称は公募により決定し、[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]を眺望できるスタンドであることから「フジビュースタンド」と命名された。また、このフジビュースタンド完成を記念し、2007年の2回・3回の東京競馬では東京競馬場グランドオープンと銘打って、引退騎手によるエキシビションレース「[[ジョッキーマスターズ]]」をはじめ様々なイベントが行われた。
[[2008年]](平成20年)[[2月3日]]・[[2月10日]]と2週連続で日曜日の開催が降雪の影響で中止され、それぞれ[[2月4日]]・[[2月11日]]に代替開催された。中央競馬における同一競馬場での2週連続開催中止は、こちらも降雪のため中止された[[1987年]][[12月]]の中山2日目・4日目以来21年ぶりのことであった。
[[2014年]](平成26年)[[2月8日]]・[[2月9日|9日]]・[[2月15日|15日]]・[[2月16日|16日]]には、[[平成26年豪雪|雪]]の影響により4日連続で開催中止。それぞれ[[2月10日]]・[[2月17日|17日]]・[[2月18日|18日]]・[[2月24日|24日]]に代替開催された。中央競馬における4日連続の開催中止は史上初となった。
[[2019年]]([[令和]]元年)[[5月4日]]には、降雹の影響で10レース以降のレースを中止。ダービートライアルの[[プリンシパルステークス]]がこの中に含まれており、翌週[[5月12日]]の開催に移行されることになった。
[[2020年]](令和2年)の第2・3回開催全日は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス(COVID-19)]]の感染拡大防止のため「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として開催された<ref name="jranews042303" /><ref name="jranews052801" />。この中には[[第87回東京優駿|第87回日本ダービー]]も含まれており、[[太平洋戦争]]の影響により「能力検定競走」の名の下で馬券の発売もなく施行された1944年以来76年ぶりに無観客での日本ダービー開催となった。
[[2021年]](令和3年)の第1回開催全日、第2回開催2~6日は新型コロナウイルスの感染拡大防止のため「無観客競馬」として開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202101/010903.html|title=1月16日(土曜)からの首都圏の競馬場とウインズ等の営業|accessdate=2021-01-26|date=2021-01-09|publisher=日本中央競馬会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202102/020403.html|title=2月13日(土曜)からの競馬場・ウインズ等の営業(無観客競馬・発売取りやめ)|accessdate=2021-02-05|date=2021-02-04|publisher=日本中央競馬会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202104/042308.html|title=4月25日(日曜)からの無観客競馬の実施とウインズ等の営業取りやめ|accessdate=2021-04-23|date=2021-04-23|publisher=日本中央競馬会}}</ref>。
東京優駿は、第1・2回を目黒で開催以後、原則として東京競馬場のみで行われており、上記の大規模な改修・改築、馬場の拡張などを伴う大規模な工事が行われた場合でも、開催時期を調整したり、また東京優駿が行われる節の工事を極力控えるように日程調整を行っている。
== コース概要 ==
[[ファイル:Map of Tokyo Racecourse in 2021.svg|サムネイル|東京競馬場のコース見取り図]]
{{External media
|width=250px
|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=-MAdoARvq68&list=WL&index=15 【360度VR動画】東京競馬場 芝2400m]JRA
}}
=== 芝コース ===
芝コースは主要4場(東京・中山・京都・阪神)の中で最も大きく、JRAの全10競馬場でも[[新潟競馬場]]に次ぐ大きさである<ref name="course_tokyo" />。起伏も変化に富んでおり、第1コーナーから向正面半ばまで高低差 1.9 mの長い下り坂が続き、直後の第3コーナー手前には高低差1.5mの上り坂。これを上りきると短い平坦部分を挟んだ下り勾配が続き、第4コーナーから上り勾配に転じる<ref name="course_tokyo" />。ゴールまでの直線には残り 480 m地点 - 260 m地点にかけて高低差 2 mの長い上り坂があり、「'''だんだら坂'''」とも呼ばれ東京競馬場の名物となっている<ref name="course_tokyo" />。ゴールまでの直線距離も新潟競馬場(外回り)に次ぐ長さで、非常にタフなコースとされている<ref name="course_tokyo" />。
カーブも半径がゆったりしているうえ、幅員も広いためコースは4通りに使い分けることができ、馬場の傷みの進行も最小限に抑えることができるようになっている<ref name="course_tokyo" />。
* 1周距離: Aコース 2,083.1 m, Bコース 2,101.9 m, Cコース 2,120.8 m, Dコース 2,139.6 m<ref name="course_tokyo" />
* 直線: 525.9 m(全コース共通)<ref name="course_tokyo" />
* 出走可能頭数(フルゲート)<ref name="2022bangumi_ippan"/>
** Aコース: 一律18頭
** Bコース: 一律18頭
** Cコース: 2,000 mは16頭、その他18頭
** Dコース: 2,000 mは14頭, 2,400 m・2,500 m・2,600 mは18頭, その他16頭
* 距離設定: 1,400 m / 1,600 m / 1,800 m / 2,000 m / 2,300 m / 2,400m / 2,500 m / 2,600 m / 3,400 m<ref name="course_tokyo" />
かつて芝には1,000 m・1,100 m・1,200 m、ダートには1,000 m・1,100 mの距離が右回りで設定されていた。このうち芝1,200 mの競走については[[1984年]] (昭和59年)まで施行され、現在の200 mのハロン棒部分に右回り用のゴール板が設置されていた。また1955年 (昭和30年)前後の一時期、向正面から4コーナーにかけての障害コースの内側に芝コースを設置し、芝内回り1,600 m・1,800 m・2,000 mの競走が設定されていた<ref>前夜通信社『昭和二十八年度前期 国営競馬成績書 1月 - 7月』 - 株式会社前夜通信社、1953年、p.110。</ref>。
2021年までは1月から3月について(2015年以降は重賞競走を除く<ref name="2014bangumi_ippan" /><ref name="2015bangumi_ippan" />)、下記の通り出走頭数の制限を行っていた<ref name="2022bangumi" /><ref name="2022bangumi_ippan"/><ref name="2021bangumi_ippan" />。
* Aコース: 一律16頭
* Bコース: 一律16頭
* Cコース: 一律16頭
* Dコース: 2,000 mは14頭, その他16頭
=== ダートコース ===
ダートコースは1周距離・ゴールまでの直線距離ともに日本の競馬場で最大。起伏構成は芝コースとほぼ同様であるが、最後の直線部分の坂は高低差が2.4 mあり、芝コースよりも大きくなっている<ref name="course_tokyo" />。
* 1周距離: 1,899 m<ref name="course_tokyo" />
* 直線: 500.1 m<ref name="course_tokyo" />
* 出走可能頭数(フルゲート): 1,200mは12頭, その他16頭<ref name="2022bangumi_ippan" />
* 距離設定: 1,200m<ref>2002年6月の4回開催を最後に、この距離での競走はない。</ref>, 1,300 m / 1,400 m / 1,600 m / 2,100 m / 2,400 m<ref name="course_tokyo" />
[[2010年]]の第4回開催より、ダート1600mのスタート位置及び2コーナーのシュート部分の線形が若干変更された。これによるレコードタイムの抹消措置は行われない<ref name="201009dirt1600" />。
=== 障害コース ===
現在の障害コースはスタート後に順回りで周回するコース形態のみで、周回コースには8個の障害を設置。向正面(バックストレッチ)には3つの連続障害が設けられている<ref name="course_tokyo" />。また、正面の4つの障害のうち、グリーンウォール以降の3つの障害がユニット状になっており、重賞の[[東京ジャンプステークス]](東京JS)は3つ目の竹柵が大竹柵(高さ 150 [[糎|cm]], 幅 155 cm)、4つ目のいけ垣が大いけ垣(高さ150 cm, 幅150 cm)に変更され、さらに[[東京ハイジャンプ]]では2つ目のグリーンウォールが大いけ垣(高さ 150 cm, 幅 150 cm)に変更される。{{要出典範囲|その変更作業には1日かかる事から、当該週は他に東京で平場の障害競走を組むことができないため|date=2016年3月}}、東京JSが[[宝塚記念]]開催前日に移行した2013年以降、宝塚記念当日にあたる日曜日は障害競走が東西で行われない<ref name="2013tokyo3" /><ref name="2013hanshin3" /><ref name="2021tokyo3" /><ref name="2021hanshin3" />。過去には[[秋華賞]]当日が障害競走が東西で行われないというケースもあった<ref name="2013tokyo4" /><ref name="2013kyoto4" />が、2014年以降障害競走が札幌・函館以外の第3場開催時は第3場で行われることになったことと、2015年以降、東京ハイジャンプが原則、秋華賞当日の日曜日の施行になったため、発生しない。
[[1998年]]までは第3コーナーから第1コーナーにかけて襷コースが配置されており、年2回の[[東京障害特別]]の時のみ使用していた<ref group="注">1988年の中山大障害(春)も東京競馬場で東京大障害として施行されたため使用されている。</ref>。襷コースには通常より難易度の高い大土塁障害(10号障害: 高さ 155 cm, 幅 260 cm; 通称「けやき」)、大竹柵障害(11号障害: 高さ 150 cm, 幅 150 cm)、土塁障害(12号障害: 高さ 150 cm, 幅 250 cm)の3連続障害があり名物であった。襷コース使用の場合は正面の障害は逆回りとなっていた。
戦前の竣工時には、襷コースがX字状にクロスした形で存在し、さらに3コーナーから4コーナーにかけては、馬場の内側にもう一つS字状にカーブしたコースが存在していた。
[[東京優駿]](日本ダービー)・[[天皇賞 (秋)]]・[[ジャパンカップ]](JC)の施行日は、障害コースのうち正面スタンド前にあたる部分が観客席として開放されることがある。
* 1周距離: 1,674.7 m<ref name="course_tokyo" />
* 出走可能頭数 (フルゲート): 一律14頭<ref name="2022bangumi_ippan" />
* 距離設定
** 直線ダートコース: 3,000 m / 3,100 m / 3,285 m (後述) / 3,300 m<ref name="course_tokyo" />
** 直線芝コース: 3,110 m / 3,300m<ref name="course_tokyo" />
3,300 m戦(直線芝・ダート共に)は2012年以降施行されていない。
2009年5月23日の東京競馬第4競走(サラ系障害3歳以上オープン、発走11時40分)において、発馬機を「直線<u>ダート</u> 3,300 mのスタート地点」に設置すべきところを「直線<u>芝</u> 3,300 mのスタート地点」に誤って設置、結局当初発表の距離より 15 m短い直線ダート 3,285 mで行われた。レース終了後に係員が気づき、決勝審判員に報告。裁決委員がパトロールフィルム等で確認し同日の13時10分に誤りを認めたが、既にレースは確定し払戻金も発表された後であったため、レースは成立したものとされた。1着馬のタイムは当初 3,300 mのコースレコードと発表されたが取り消され、実施行距離(直線ダート3,285 m)の基準タイムとして残された<ref>{{Cite web|和書|title=JRA大失態 障害発走地点15メートル前だった |website=スポニチアネックス |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2009-05-24 |url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2009/05/24/kiji/K20090524Z00001880.html |access-date=2014-11-20}}</ref>。
== 主な設備 ==
=== 入場門 ===
正門・東門・西門の3カ所ある。開門時刻は通常 9:00 であるが、GI開催時など混雑が予想される場合は開門時刻が早まることがある(ダービー・JC当日は概ね 7:20 - 8:00)。
==== 正門 ====
正門は2層構造になっており、2階は[[京王電鉄]][[京王競馬場線|競馬場線]]・[[府中競馬正門前駅]]と高架橋でメインスタンド3階と直結している。正門の北側に立川段丘([[府中崖線]])が東西方向に横切る。
平日払戻所が併設されている。
==== 東門 ====
JRA競馬博物館や4コーナー付近の芝生ゾーンに近い。京王電鉄[[京王線]]・[[東府中駅]]南口から徒歩10分。
{{Double image aside|center|Tokyo Racecourse 220605a.jpg|200|Tokyo Racecourse east gate.JPG|200|正門|東門}}
==== 西門 ====
1コーナー・ゴール・内馬場に近い。開門時は1階は入場券・回数入場券を事前に確保済みの者のみ利用可能である。JR[[南武線]]及び[[武蔵野線]]・[[府中本町駅]]の臨時改札口から専用歩道橋で徒歩5分。正門同様2層構造になっており、上層部が専用歩道橋と直結している。
==== 南門 ====
[[西武鉄道]][[西武多摩川線|多摩川線]]・[[是政駅]]から徒歩10分。コースのメインスタンドより向正面に位置する。以前は入退場が可能であったが、新型コロナウイルス感染拡大以降は入場制限もあって閉鎖が続いており、2023年9月21日にJRAより恒久的に閉鎖することが発表されている<ref>[https://www.jra.go.jp/facilities/race/tokyo/news/20230921.html 東京競馬場南門閉鎖のお知らせ] - 日本中央競馬会 2023年9月21日</ref>。
{{Double image aside|center|Tokyo Racecourse West gate.jpg|200|Tokyo Racecourse South gate.jpg|200|西門|南門}}
=== メインスタンド ===
[[ファイル:Tokyo Racecourse Fuji view stand 20090224.jpg|thumb|240px|right|内馬場から見るフジビュースタンド(2009年2月22日撮影)]]
2002年(平成14年)11月から段階的に供用され、2007年(平成19年)4月に完成した。愛称は「フジビュースタンド」で、地上9階・地下1階。天気が良ければ[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]が見えることや、富士山が日本一を連想させること、富士山が世界的にも有名なことからこの名が付いた。スタンド内の現在位置を把握するのに便利な「柱番号」は1コーナー寄りの「2」から始まり、4コーナー寄りに「34」までの番号が付されている。各階の主な施設は以下のとおり。
*1階…投票所および一般席スタンド、ホースプレビュー、検量室などの業務エリア。
:西門寄りの101番投票所は[[岩手県競馬組合]]([[盛岡競馬場|盛岡]]・[[水沢競馬場|水沢]])の[[場外勝馬投票券発売所|場外発売所]]。
*2階…メインコンコース階。投票所及びイベントスペース、一般席スタンド。西門通路(フジビューウォーク)からはこの階に接続する。
*3階…レストラン、軽食売店およびイベントスペース、一般席スタンド。正門連絡歩道橋からはこの階に接続する。<ref group="注">[[府中競馬正門前駅]]と東京競馬場の間に[[立川崖線]](府中崖線)が貫いているため。</ref>
:この階には自動発売機・有人窓口の投票所はないが、UMACA投票機、入出金機のみ設置されている。 JRAの競馬場では初めて[[コンビニエンスストア]]「[[サークルKサンクス|サークルK]]東京競馬場イースト店」「サークルK東京競馬場ウエスト店」が入居したが、2013年以降「サークルK東京競馬場ウエスト店」のみの営業となっている<ref group="注">このコンビニでは競馬場という立地ゆえ、ソフトドリンクなどの缶製品は取り扱われていない。なお、[[楽天Edy]]は利用可能。</ref>。2017年10月14日から[[セブンイレブン]]が開店。
*4階…投票所および一般席スタンド。
*5階・6階…屋外指定席およびレストラン。
:本場開催日のみオープン。レストランは指定席券がなくても利用可。
*7階…馬主席および来賓席(ラウンジエリア席)、馬主協会役員室。
*8階…特別来賓室(貴賓室)<ref group="注">ダービールームと称する部屋がある。</ref>、<!--テレビ・ラジオ放送用スタジオ室、-->および業務エリア。
:7階・8階へは通常一般客は出入りできない(特別なイベントなどで出入りできる場合はある)。
*9階…業務エリア。決勝線(ゴール板)に平行して写真判定室が突き出している。
コースの全体を見渡すことができるのは6階より上の席となる。
スタンドは全館禁煙で、喫煙は指定された喫煙ルームでのみとなる。
==== 指定席 ====
フジビュースタンドの指定席は A・B・C の3種類あり、4コーナー寄りからB指定席・A指定席・C指定席と配置されている。料金の違いは観戦場所によるもののみであり、[[座席]]の仕様に違いはない。全席が屋外にあり、2人掛けで各ペア席に[[チャンネル]]切り替え可能な[[ビデオモニター|モニター]]が1台、PC利用のための[[コンセント]]が2口ある。全席で[[公衆無線LAN]]([[Wi2 300]])が無料で利用可能である。料金に入場料は含まれない。指定席エリアには投票所(自動・有人)、オッズボックス、酒や軽食を販売する売店、喫煙コーナーなどがあるが、原則として下位の指定席利用者は上位の指定席エリアに立ち入ることができない(A指定席利用者はB指定席エリアおよびC指定席エリアの施設を利用できるが、B指定席およびC指定席利用者はA指定席エリアの施設を利用できない)。なおメモリアルスタンド(後述)S指定席利用者は、フジビュースタンドのすべての指定席エリアの施設を利用出来る。
* A指定席(5階1,078席・6階908席)
*:5階・6階のゴール付近に設定されている。
* B指定席(5階584席・6階576席)
*:5階・6階のゴール手前 200 m付近に設定されている。5階に車椅子専用席が6席ある。
* C指定席(5階406席・6階348席)
*:5階・6階のゴール過ぎに設定されている。5階に車椅子専用席が6席ある。
2020年10月の4回開催より車椅子専用席を含めて全ての指定席がインターネット予約のみでの発売になった。 インターネット予約は従来、専用クレジットカード「JRAカード」でしか予約できなかったが、2014年11月にJRAカード以外のクレジットカードも利用できるようになった経緯もあり、2015年第1回開催分よりインターネット予約分の指定席が若干増やされ、当日発売分の指定席が若干減らされた。
当日発売分の指定席はフジビュースタンド3階の当日指定席発売所で販売していた、5階席は正門から、6階席は西門からの入場者が利用しやすいように入場列があった。[[東京優駿]](日本ダービー)時は通常より高い特別料金が設定されるほか、東京優駿や[[天皇賞(秋)]]など大きなGIレースが開催される日は当日発売を行わず、インターネット予約についてはJRAカード限定の事前予約抽選で、またそれ以外については事前はがき抽選で当選者に引換券を送付する形で販売していた。
なお[[新型コロナウィルス]]発生により、2020年秋の入場再開後は一般入場券も含め全部前売りのみ(当日券発売なし、競馬場共通回数券も使用不可。一部の緊急事態宣言発令時は無観客競馬で入場禁止)だったが、その後緩和され当日券・回数券の入場も可能となった。2023年現在では、日本ダービー、天皇賞・秋、ジャパンカップの当日のみが一般入場券を含めすべて前売り、それ以外はGⅠ級も含め原則として一般入場券については当日券・回数券も利用が再開された<ref>[https://www.jra.go.jp/facilities/race/tokyo/news/nyujou.html 東京競馬開催日のご入場方法](入場券当日現金発売参照)</ref>。
=== メモリアルスタンド ===
コースのゴール手前300m付近にあるスタンドで、東京競馬場開設60周年を記念して1993年9月に完成したスタンドである。完成当時は「メモリアル60」と呼ばれていた。フジビュースタンド同様に全館禁煙(喫煙は専用の部屋を利用)。「柱番号」は「42」から「54」。これはフジビュースタンドができる前の旧スタンドの柱番号からの通し番号であり、フジビュースタンド完成後もメモリアルスタンドの柱番号は変更されずそのまま残された。
地上7階・地下1階で、座席のある場所はすべて[[ガラス]]張り。3階・4階の4コーナー寄りの部分が一般席(1階・2階相当部分は屋外の芝スタンド)で、3階・4階のゴール寄りの部分の748席は65歳以上の入場者が利用できるシニア席(料金は無料)、5階・6階部分はi-Seat69席及びS指定席(738席、クレジットカードによるインターネット予約のみ)となっている。メモリアルスタンド竣工からフジビュースタンド完成までの期間は3階・4階部分はE指定席であった。<!--S指定席には一部喫煙可の座席があったが、現在は-->全席禁煙である。なお、本場開催時以外(パークウィンズ時)にはi-Seat、S指定席がネット予約発売で開放される。メモリアルスタンド5階・6階のレストラン・売店も通常どおり営業している。7階には貴賓室がある。
=== 馬場内 ===
西門及びフジビュースタンドからの地下道を利用して行けるコース内のエリアである。フアフアターフィーやミニ新幹線など子供向けの遊具があるエリアである。
=== ターフビジョン ===
[[ファイル:Tokyo racecourse turfvision.jpg|thumb|240px|right|ゴール前に設置されているターフビジョン(2007年5月撮影)]]
[[1984年]]に日本初のターフビジョンが設置され、10月6日の開催から運用開始。ターフビジョン設置後最初の大レースが[[ミスターシービー]]、[[カツラギエース]]、[[サンオーイ]]が叩き合いを演じた[[毎日王冠]]であった。最後方を追走するミスターシービーが大欅の手前でスパートをかけるシーンが映し出されると場内は大きく沸いた。
[[2006年]]8月に[[三菱電機]]長崎製作所製の世界最大規模の超大型ビジョン(ターフビジョン)が設置され、10月7日から正式運用された。ゴール前のそれがこれまでの電球管形式から[[発光ダイオード|LED]]方式に変更され、高さ11.2 m, 幅66.4 m, 面積743.68 [[平方メートル|m<sup>2</sup>]](テレビサイズでいうと 2,651[[インチ|型]])と旧来の3倍に相当するものが採用された。これによって画面全体を使用した高画質映像の放映、画面を 1:2 に分割して別角度からの映像を放映、画面を3分割して本場の競走・パドックの映像と他場の競走・パドックの映像を同時に放映、といった様々な使い方で情報提供ができるようになった。「世界最大の大型映像スクリーン」として[[ギネス世界記録]]に認定された<ref>[http://www.mitsubishielectric.co.jp/news/2006/0912.html 2006年9月 世界最大映像スクリーン(三菱電機製)日本中央競馬会東京競馬場]</ref>。「マルチ画面ターフビジョン」と称している<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/tokyo/rcmap/index.html|title=場内マップ|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>。
=== パドック ===
{{Vertical_images_list
|寄せ=
|幅=170px
| 1=Tokyo Racecourse 220529j.jpg
| 2=正門脇にあるパドック(2022年5月撮影)
| 3=Tokyo-Racecourse-06.jpg
| 4=安田伊左衛門像
}}
{{External media
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|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=X5XAVJNYb8o 【360度VR動画】東京競馬場 パドック]JRA
}}
「下見所」とも言う。出走馬を下見する場所であり、[[トータリゼータ]]オッズボードを兼ねた[[パドック]]ビジョン(フルカラー[[発光ダイオード|LED]][[電光掲示板]])が設置されている。パドック周辺とパドックビジョンの前側通路と下は禁煙エリアとなっている。
無敗の2冠馬[[トキノミノル]]の馬像と、中央競馬初代理事長[[安田伊左衛門]]の胸像があり、待ち合わせスポットの定番となっている。安田像は安田記念の開催日には献花が捧げられる。
以前は30頭分表示できる風格のある大型手書き出走板があり、名物であった。レースごとに白墨でレース名、距離、馬名、騎手名、斤量、馬体重が書かれたプレートを付け替えていた。馬名表示欄の横幅は狭かったため、8文字以上の馬名の場合は2行に分けて書かれていた。フルゲートの削減に伴い、電光型の出走掲示板(現在のパドックビジョン)に建て替えられた。[[カタカナ]]は全角で表記される。
=== レストラン・軽食・売店 ===
東京競馬場はレストランや売店などが充実していて、飲食店はラーメン・焼きそば・カレーライスなどのファストフードから有名ホテルがプロデュースするレストラン・カフェまで約75店舗が軒を構える。フジビュースタンド2階西側・1階東側およびメモリアルスタンド地下には[[フードコート]]がある。フジビュースタンド5階及び6階の指定席エリアの外には9店舗のレストランがあり、ゆっくりと腰を据えて食事ができる。また、コンビニエンスストアや[[スポーツ新聞]]・[[競馬新聞]]を販売する売店もある。なお、店舗の中には本場開催時しか営業していない店舗もある(パークウィンズ時はフジビュースタンド5階及び6階の店舗はすべて休業となる)。
=== 場内ミニFM ===
[[1986年]]から2001年末まで場内サテライトスタジオに「[[ミニFM|ミニFM放送局]]」を送信[[周波数]] 78.0 [[MHz]](後に 87.0 MHz・ターフサウンドステーション TSS)で開局・放送業務を開始したが、現在は下記の場内[[実況]]放送の他、各放送局の音声を[[再送信]]している。
*87.0 MHz…[[グリーンチャンネル]]「[[中央競馬中継|中央競馬全レース中継]]」(2011年7月より、以前はグリーンチャンネルEASTを再送信していた)
*88.5 MHz…[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]
*89.5 MHz…場内音声(実況アナウンスはラジオNIKKEIと共有)
<!--なお、グリーンチャンネルWEST (89.0 MHz) の再送信は2009年12月下旬、後に[[ニッポン放送]] (88.0 MHz)、[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]第1放送 (87.5 MHz)も終了。-->
===国際厩舎===
東京競馬場では[[1981年]]から、同競馬場での年間最終開催日に[[ジャパンカップ]]を開催しているが、[[第39回ジャパンカップ|2019年のジャパンカップ]]に外国調教馬の出走がなかったという事情、さらに外国馬は輸入後、[[競馬学校]]([[白井市]])か、[[三木ホースランドパーク]]([[三木市]])で原則として1週間程度検疫を受ける必要があったという事情が重なって、外国馬の参戦を増やすことが課題とされてきた。
しかし、世界的な競馬では、検疫を受けつつレース開催競馬場で調教ができることが一般的であるということで<ref name=中日スポーツ>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/378977 |title=東京競馬場の内馬場に「国際厩舎」、外国馬の参戦促す環境を整備へ |publisher=中日スポーツ |date=2021-12-07 |accessdate=2022-06-19}}</ref>、外国調教馬誘致の改善策として国際厩舎を新設する計画が同年12月に明らかとなり、<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-10|url=https://race.sanspo.com/keiba/news/20191210/etc19121005010003-n1.html|title=東京競馬場、JC外国馬誘致のため国際厩舎新設へ|publisher=サンケイスポーツ|accessdate=2019-12-10}}</ref>、[[2021年]][[12月]]から着工<ref name=中日スポーツ/>。[[2022年]][[6月]]に竣工した。国際厩舎は内馬場に最大6棟・12頭が入厩できるようになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/race/article/general/20220619-CS3ZIYGNHZOO7IMD4SKU67AJDI/|title=JRAが東京競馬場の国際厩舎をお披露目 内馬場に新設|website=サンスポZBAT!|publisher=サンケイスポーツ|date=2022-06-19|accessdate=2022-06-19}}</ref>。運用としては同年10月1日付で農林水産省より輸出入検査場所としての指定を受け、正式に検疫厩舎となった。国際厩舎のクラブハウスには24時間馬房を画面で確認できる警備室や打ち合わせのための食堂などを設置。防疫のため、基本的に国際厩舎とクラブハウス間を行き来する際にはシャワールームを通過する構造になっている。さらに施設の周りには一周292mの楕円形追い馬場ダートコースが設置されている<ref>[https://tospo-keiba.jp/breaking_news/20946 凱旋門賞馬アルピニスタ“ジャパンカップ参戦”の追い風に!? 東京競馬場馬場内に新国際検疫厩舎が誕生] - 東スポ競馬 2023年10月3日</ref>。
== アクセス ==
[[File:Tokyo.race.keibajyo.mae.eki.ent.fuchu.jpg|thumb|京王競馬場線府中競馬場前駅側2F入り口。金の像。]]
最寄駅は[[京王電鉄]]の[[京王競馬場線|競馬場線]]・[[府中競馬正門前駅]]で、専用歩道が用意されている。東京競馬開催時は競馬場線の増発と[[京王線]]と接続する[[東府中駅]]に特急が臨時停車するほか、府中競馬正門前駅から[[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|新線新宿駅]]行臨時急行と[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|京王線新宿駅]]行臨時特急が運行される。京王線では[[府中駅 (東京都)|府中駅]]や[[東府中駅]]よりアクセスする人も多い。また、少し離れた[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[南武線]]・[[武蔵野線]]の[[府中本町駅]]からも専用歩道(フジビューウォーク<ref>{{Cite web|和書|url=http://jra.jp/facilities/race/tokyo/news/20131003.html |title=東京競馬場 西門歩道橋の新名称を「フジビューウォーク」に決定!|publisher=JRA 日本中央競馬会{
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140702070649/http://jra.jp/facilities/race/tokyo/news/20131003.html|archivedate=2014年7月2日|date=2013年10月3日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>)が用意されている。東京競馬開催時は南武線の川崎方面行、武蔵野線の[[東所沢駅|東所沢]]・[[南越谷駅|南越谷]]行の電車が増発される。かなり離れているものの[[西武多摩川線]]の[[是政駅]]からもアクセス可能ではあるが、至近となる南門は閉鎖されたため、是政駅および[[南多摩駅]]からは大回りの上で東門または西門からのアクセスとなる。京王線東府中駅から徒歩で向う場合、南口改札を出て南の方角へ歩いて行くと東門へアクセス可能である。
*京王線府中競馬正門前駅から徒歩約3分
*京王線府中駅から徒歩約15分
*[[京王線]][[東府中駅]]から徒歩約11分
*JR府中本町駅から徒歩約6分
*JR南多摩駅から徒歩約22分
*西武多摩川線是政駅から徒歩約11分
1973年4月1日までは、競馬場西側に[[中央本線]]の[[支線]]、通称「[[下河原線]]」の[[東京競馬場前駅]]があった。かつてはこの駅が[[日本国有鉄道|国鉄]]で最も長い[[鉄道駅|駅名]]であった。
[[中央高速バス]](事前予約が望ましい)[[府中バスストップ|中央道府中バス停]]からもアクセスが可能。主に山梨県郡内・上野原方面の利用客が多い。高速バス停からは南門が至近で、[[中央自動車道]]北側沿いに八王子方面へ歩いて1kmほどで南門に着く。
* 東京競馬場の敷地の南側に中央自動車道が建設され、この区間が開通したのは[[1967年]](昭和42年)12月である。[[松任谷由実|荒井由実]]が[[1976年]]に発表した「中央フリーウェイ」(アルバム『[[14番目の月]]』収録)の歌詞にある「右に見える競馬場」とは東京競馬場を歌ったものであるといわれており、テレビなどでも中央自動車道がよく映る。なお、「左はビール工場」とあるのは競馬場から高速道路を挟んで存在する[[サントリー]]武蔵野ビール工場を指すといわれている。この曲は東京競馬場で施行されている特別競走「フリーウェイステークス」の本馬場入場曲に使用されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://keiba.radionikkei.jp/keiba/entry-168040.html |title=小塚歩アナ「入場曲に“遊び”を!」|website=ラジオNIKKEI競馬実況web|date=2009年5月26日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>。
== 重賞競走 ==
障害GI2競走を含めた全26のGI級競走中、この東京競馬場で開催される平地のGI競走は3分の1に当たる8競走に及ぶ。2007年まではジャパンカップダートも当競馬場で開催されていた(2002年は中山、2008年から2013年まで阪神、2014年より[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|チャンピオンズカップ]]に名称変更し中京に移設)。
;GI
{{col|
* [[フェブラリーステークス]]
* [[NHKマイルカップ]]
* [[ヴィクトリアマイル]]
* [[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]
|
* [[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]
* [[安田記念]]
* [[天皇賞(秋)]]
* [[ジャパンカップ]]
}}
;GII
{{col|
* [[フローラステークス]](オークストライアル)
* [[青葉賞]](ダービートライアル)
* [[京王杯スプリングカップ]]
* [[目黒記念]]
* [[毎日王冠]]
|
* [[府中牝馬ステークス]]
* [[富士ステークス]]
* [[京王杯2歳ステークス]]
* [[アルゼンチン共和国杯]]
* [[東京スポーツ杯2歳ステークス]]
}}
;GIII
{{col|
* [[根岸ステークス]]
* [[東京新聞杯]]
* [[クイーンカップ]]
* [[共同通信杯]]
* [[ダイヤモンドステークス]]
|
* [[エプソムカップ]]
* [[ユニコーンステークス]]
* [[サウジアラビアロイヤルカップ]](2014年にいちょうステークスとして新設){{refnest|group="注"|2015年は競走名を「サウジアラビアロイヤルカップ(重賞)」に変更し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/201410/102002.html |title=2015年度開催日割と重賞競走について |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2015-10-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151011004133/http://www.jra.go.jp/news/201410/102002.html |archivedate=2015年10月11日 |deadlinkdate=2017年10月}}</ref>、2016年からGIIIに格付けされる<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2016/pdf/bangumi.pdf |title=平成28年度競馬番組等について|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210113114642/https://jra.jp/keiba/program/2016/pdf/bangumi.pdf|archivedate=2021年1月13日|publisher=日本中央競馬会 |date=2015年11月18日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>。}}
* [[アルテミスステークス]](2012年新設)
* [[武蔵野ステークス]]
}}
;J・GII
* [[東京ハイジャンプ]]
;J・GIII
* [[東京ジャンプステークス]]
=== 備考 ===
2019年までジャパンカップの開催日は、混雑緩和および日没の関係上1日に施行する競走を11に制限していたが、2020年からは通常と同じく全12競走の施行となる。[[2005年]]までは日本ダービーの開催日も同じく11競走([[2001年]]までは10)だったが、[[2006年]]からは、ダービーデイを盛り上げるということで、ダービー開催日に最終競走として目黒記念を施行している(但し[[2011年]]は[[東日本大震災]]の影響で通常の競走数で行われたが目黒記念は前日に実施)。目黒記念については[[薄暮競走]]相当の時間帯(17時発走)で施行するため、競走数は通常同様12となる。このほか、2005年の秋の天皇賞では「エンペラーズカップ100年記念」として[[天皇賞#天覧競馬|戦後初の天覧競馬]]が行われたことから、この日についても全11競走に制限して開催された([[2004年]]の中央競馬50周年記念のときにも天覧競馬が企画され同様の処置がとられる予定だったが、直前に起こった[[新潟県中越地震]]の被災者に配慮して中止となったため通常と同じ12競走で開催された)。
毎年[[5月5日]]には競馬場に近接する[[大國魂神社]]で祭事の「[[くらやみ祭り]]」が行われるが、2006年までは、5月5日が競馬開催の土・日曜日と重複した場合、その前後に競馬開催日を振り替えていた(これは[[電話投票]]が全国で本格的にシステム統合されて以後、関東で第3場開催および関西で開催が行われる場合も同様に振り替えていた<ref group="注">少なくとも電話投票のシステムが統合される前の[[1990年代]]前半までは、関東だけ土曜日の開催を休止し、関西は土曜・日曜の通常パターンで行った事例もあった。</ref>)。[[2002年]]の[[NHKマイルカップ]]は[[土曜日]]である[[5月4日]]に施行されたが、平地のGI級競走が土曜日に施行されるのは非常に稀なケースである。
2006年の春季からは、NHKマイルカップからヴィクトリアマイル、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)そして安田記念まで5週連続でGI級競走が開催される。これに伴い独自の試みとして、「GI[[レースクイーン]]」と題し、各GI競走ごとに1名ずつ担当の[[グラビアアイドル]]を起用するようになった。
通常期は2006年以後(2011年を除く)のダービーデー当日以外、原則として薄暮開催を行わないが、[[2010年]]と[[2012年]]に安田記念当日は、最終競走の「ユニコーンステークス」を16:35発走に設定した。[[2013年]]はユニコーンステークスが別日開催となったため一旦消滅するも、[[2014年]]から夏季競馬振興の一環として<ref name="2014summer" />、[[6月14日]]以後の第3回東京競馬後半6日間([[6月29日]]=[[宝塚記念]]開催日除く)については最終競走を16:30に設定する。
なお、2004年<ref>[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/jc/result/jc2004.html 競走成績 2004年5回東京8日(11月28日) 11R 第24回 ジャパンカップ(GI)]</ref>以後、平年の第5回[[中山競馬場|中山競馬]]開催<ref group="注">[[中山大障害]]・[[有馬記念]]・[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]が行われる節</ref>相当分が代替されない限り、ジャパンカップが東京競馬場の年内最終競走(上述)となっている。
== レコードタイム ==
出典:[http://www.jra.go.jp/datafile/record/tokyo.html JRA公式サイト 中央競馬レコードタイム 東京競馬場]
*†は基準タイム。
*2023年11月4日現在
=== 芝コース(2歳) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離 [m]!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量 [kg]!!騎手!!記録年月日
|-
||1,400||1:20.6||[[コラソンビート]]||牝||55||[[横山武史]]||[[京王杯2歳ステークス|2023年11月4日]]
|-
||1,600||1:32.7||[[サリオス]]||牡||55||[[石橋脩]]||[[サウジアラビアロイヤルカップ|2019年10月5日]]
|-
||1,800||1:44.5||[[コントレイル (競走馬)|コントレイル]]||牡||55||[[ライアン・ムーア|R.ムーア]]||[[東京スポーツ杯2歳ステークス|2019年11月16日]]
|-
||2,000||1:58.5||ウィズグレイス||牝||54||C.ルメール||2021年11月28日
|}
=== 芝コース(3歳以上) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離 [m]!!タイム!!競走馬!!性齢!!斤量 [kg]!!騎手!!記録年月日
|-
||1,400||1:19.4||[[タワーオブロンドン]]||牡4||56||[[ダミアン・レーン|D.レーン]]||[[京王杯スプリングカップ|2019年5月11日]]
|-
||1,600||1:30.5||[[ノームコア (競走馬)|ノームコア]]||牝4||55||D.レーン||[[ヴィクトリアマイル|2019年5月12日]]
|-
||1,800||1:44.1||サリオス||牡5||56||[[松山弘平]]||[[毎日王冠|2022年10月9日]]
|-
||2,000||1:55.2||[[イクイノックス]]||牡4||58||C.ルメール||[[第168回天皇賞|2023年10月29日]]
|-
||2,300||2:18.4||アルビージャ||牡3||56||C.ルメール||2021年4月24日
|-
||2,400||2:20.6||[[アーモンドアイ]]||牝3||53||C.ルメール||[[第38回ジャパンカップ|2018年11月25日]]
|-
||2,500||2:28.2||[[ルックトゥワイス]]||牡6||55||D.レーン||[[目黒記念|2019年5月26日]]
|-
||2,600|| || || || || ||
|-
||3,400||3:29.1||[[ミクソロジー]]||牡4||56||[[西村淳也]]||[[ダイヤモンドステークス|2023年2月18日]]
|}
=== ダートコース(2歳) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離 [m]!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量 [kg]!!騎手!!記録年月日
|-
||1,200|| || || || || ||
|-
||1,300||1:17.4||[[ミスターメロディ]]||牡||55||戸崎圭太||2017年11月4日
|-
||1,400||1:23.1||ユーワハリケーン||牡||55||[[中舘英二]]||2005年10月8日
|-
||1,600||1:36.2||[[ルヴァンスレーヴ]]||牡||55||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||2017年10月14日
|}
=== ダートコース(3歳以上) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離 [m]!!タイム!!競走馬!!性齢!!斤量 [kg]!!騎手!!記録年月日
|-
||1,200|| || || || || ||
|-
||1,300||1:16.1||サトノファンタシー||牡3||56||戸崎圭太||2016年11月12日
|-
||1,400||1:21.5||[[ノンコノユメ]]||騸6||58||内田博幸||[[根岸ステークス|2018年1月28日]]
|-
||1,600||1:33.5||デシエルト||牡3||54||戸崎圭太||2022年10月10日
|-
||2,100||2:06.7||[[ヴァーミリアン]]||牡5||57||武豊||[[第8回ジャパンカップダート|2007年11月24日]]
|-
||2,400||2:28.6||グルーヴィンハイ||牡4||56||田中勝春||2007年2月18日
|}
=== 障害 ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離 [m]!!タイム!!競走馬!!性齢!!斤量 [kg]!!騎手!!記録年月日
|-
||芝 3,110||3:23.6||ロードトゥフェイム||牡5||59||[[五十嵐雄祐]]||2023年11月4日
|-
||芝 3,300||3:35.1||[[メルシーエイタイム]]||牡5||60||[[西谷誠]]||[[東京ハイジャンプ|2007年6月9日]]
|-
||ダ 3,000||3:17.5||シルクリスペクト||牡5||60||[[田中剛]]||2005年5月14日
|-
||ダ 3,100||3:22.0||アドマイヤツバサ||牡6||60||[[高田潤]]||2013年5月18日
|-
||ダ 3,285<ref group="注">本来はダート 3,300 mで施行予定だったが、ゲートの誤設置により 15 m短い距離となった(前述)。</ref>||3:36.2†||[[エイシンボストン]]||牡7||60||[[林満明]]||2009年5月23日
|-
||ダ 3,300||3:36.2||ギルティストライク||騸6||60||[[山本康志]]||2010年5月22日
|}
「騸」は[[騸馬]] (去勢された牡馬)
=== 改修前を含めたレコードタイム(2歳) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離 [m]!!タイム!!競走馬!!性別!!斤量 [kg]!!騎手!!記録年月日
|-
||ダ 1200||1:11.7||クイックミスワキ||牡||54||[[岡部幸雄]]||1996年11月9日
|}
=== 改修前を含めたレコードタイム(3歳以上) ===
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!距離 [m]!!タイム!!競走馬!!性齢!!斤量 [kg]!!騎手!!記録年月日
|-
||芝 2,300||2:18.3||セイウンエリア||牡4||56||岡部幸雄||1999年5月9日
|-
||ダ 1,200||1:09.2||[[セレクトグリーン]]||牡4||56||田中勝春||[[根岸ステークス|1999年11月14日]]
|-
||ダ 1,600||1:33.3||[[クロフネ]]||牡3||57||武豊||[[武蔵野ステークス|2001年10月27日]]
|-
||ダ 2,100||2:05.9||クロフネ||牡3||55||武豊||[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|2001年11月24日]]
|}
*現在存在する同距離において、改修前のほうがタイムの速いものを掲載。
== 府中の大欅 ==
[[ファイル:Tokyo-Racecourse-07.jpg|thumb|240px|大欅({{Coord|35|39|46.8|N|139|29|21.5|E|region:JP|name=府中の大欅}})]]
第3コーナーに関しては、[[寺山修司]]の著書などで「魔のコーナー」とされている。この場所に生育している木を俗に「'''大欅'''」(おおけやき)と呼ばれるが、実際に植えられているのは[[ケヤキ|欅]]ではなく[[エノキ|榎]](エノキ)である。
この大欅の下には、この隣接地域の「是政」の由来となった[[井田是政|井田摂津守是政]]の墓所があり、過去に行政代執行の対象となった際に井田氏の子孫が日本刀をふるって抗議したため、観戦の妨げとなるにもかかわらず史跡として保存されている。特に芝コースがCコースおよびDコース使用の場合、テレビ中継では必ず大欅が残り 800 m (4ハロン)地点の[[ハロン棒]]を隠すように映り込むため、「日本一テレビ放映される墓所」と言われている。またこの木の一本を切った人夫が墓のたたりによって急死したと恐れられ、残った1本を切ることを引き受ける人がいなくなったという噂話もある。
一般にここは最後の直線へ向けて速度を上げる場所であると同時に、カーブを曲がるために一方の側に負担が大きくなる場所であり、[[第118回天皇賞]]において[[サイレンススズカ]]が[[予後不良 (競馬)|予後不良]]に至った例もあった。
== 府中千八展開要らず ==
「府中の千八、展開要らず」との格言は[[競馬評論家]]としても活動していた[[大橋巨泉]]が作った<ref>「ボクの作った格言」(『巨泉の重賞競走予想全書』p.1539)</ref>。この格言は、東京競馬場の1800mコースの競走は、コース設計上、どの馬も不利を受けることが少ないうえ、ほとんどの距離適性をもつ馬が走れる距離でもあるため、実力どおりに収まりやすい(いわゆるフロックが少ない)ということ。特に[[毎日王冠]]は数多くの実力馬が勝ってきていることでも知られている。逆に、2000mコースで施行される[[天皇賞(秋)]]は、コース設計上、どうしても内枠の馬が有利だといわれている。
== 姉妹提携 ==
[[エプソム競馬場]]・[[盛岡競馬場]]と姉妹提携を結んでおり、東京競馬場では[[交換競走]]としてエプソムカップ(GIII)、オーロカップが施行される。
盛岡競馬場との姉妹提携に関連して、2003年10月より<ref>[http://www.keiba.go.jp/topics/2003/1007-topics.html 岩手競馬専用場外発売所を東京競馬場に開設] 地方競馬情報サイト 2003年10月7日</ref> 場内に[[岩手県競馬組合|岩手県競馬]](盛岡競馬・[[水沢競馬場|水沢競馬]])専用場外発売所が開設されており、東京競馬開催日および場外発売日には当日の岩手県競馬の全競走および翌日(月曜を含む)のメイン競走の勝馬投票券を購入することができる。2005年度岩手競馬全日程終了までは馬場内B投票所に開設されていたが、2006年4月8日(2006年度岩手県競馬開催初日)からメインスタンド1階・101投票所に移転した。
* 2004年10月9日に台風接近のため中止となった東京競馬の代替開催が2日後の10月11日に行われたことにより、同日に盛岡競馬場で開催された統一GI競走・[[マイルチャンピオンシップ南部杯]]を含む全競走が同場外発売所で発売され、南部杯はターフビジョン・場内テレビでの実況放映も行われた。
* [[2004年]]から、[[敬老の日]](9月第3月曜日)を最終日とする3連休([[土曜日|土]]・[[日曜日|日]]・[[月曜日|月]])における変則開催で、敬老の日当日にも中央競馬が開催されるようになったことに伴い、当日の岩手県競馬の全競走も同場外発売所で発売が行われる。なお、同日が[[ダービーグランプリ]]開催日と重複した場合は、同競走の実況放映がターフビジョン・場内テレビで行われていた。
* [[2011年]][[10月10日]]には、マイルチャンピオンシップ南部杯がダート1600mコースにて開催された<ref>[http://www.iwatekeiba.or.jp/hp/news/1106/110629i01.html 「マイルチャンピオンシップ南部杯 (JpnI)」の日本中央競馬会主催による東京競馬場での施行について 岩手競馬News&Topics]</ref>。
== その他 ==
毎年4月から6月(平年度の第2・3回開催<ref group="注">2011年度までは第2回が4 - 5月、第3回は5 - 6月のそれぞれ4週間だったが、2012年度から第2回がダービー当日を最終日とする6週間、第3回は6月最初の2週間となり、2013年から第3回は6月の4週間に変更された</ref>)は、[[日清製粉グループ本社|日清製粉グループ]]が特別協賛し、ファミリー層に向けたステージイベントや、[[スペイン]]の洋菓子「[[チュロス]]」を販売する特設ブースを設置している(重賞競走のテレビ放送用のインタビューが行われる検量室のインタビューパネルにも日清製粉のロゴマークが貼り付けられている)。
2005年10月22日、同競馬場の第12競走(最終競走)において、当時の日本の[[公営競技]]の[[投票券 (公営競技)|投票券]]史上最高[[配当]]記録となった1846万9120円(三連勝単式)が飛び出した<ref>[https://keiba.yahoo.co.jp/scores/2005/05/04/05/12/result.html 2005年4回東京5日目12R サラ系3歳上1000万下] Yahoo!スポーツ 競馬</ref>。これは[[2008年]][[6月5日]]に[[競輪]]で7969万8600円の配当が飛び出す([[平塚競輪場]]の[[チャリロト]])まで日本の公営競技史上最高配当記録であった。その後も、日本の競馬および単一の競走を対象とした配当としては最高配当記録であったが、2009年2月4日に[[船橋競馬場]]で三連単の配当金1911万円が記録され、そちらに譲る形になった。
東京競馬場でのGI級競走(ジャパンカップ・安田記念など外国馬が出走する場合を除く)では、出走馬のゼッケンの片方に馬名が、もう一方に当該競走名と回次(例:'''第1回ヴィクトリアマイル''')が記載されている([[地方競馬]]の重賞競走においても同様の形式がとられている場合がある)。なお、他の競馬場([[中山競馬場|中山]]・[[中京競馬場|中京]]・[[京都競馬場|京都]]・[[阪神競馬場|阪神]])で行われるGI級競走では、GII級以下の競走同様、両サイドに馬名が記載されている(外国馬が出走する場合は、このうち片方が英文馬名となる。このゼッケンは1983年からジャパンカップに限り採用し、1987年秋以降、他の競走にも順次拡大した)。
2022年7月6日には、東京SUGOI花火と称して[[ザ・ローリング・ストーンズ]]の結成60周年を記念して、同所を会場とした「THE ROLLING STONES 60th ANNIVERSARY THE GREATEST FIREWORKS~感激!偉大なる花火~」が執り行われた<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202207060001197.html ザ・ローリング・ストーンズ60周年記念の花火大会 東京競馬場がライブ会場のような雰囲気に] 2022年7月6日21時46分</ref>。翌23年も[[松任谷由実]]50周年の花火ショーが実施され、いずれも当日は京王競馬場線で編成両数の増強を実施した他、西門のJR線臨時改札口も花火の実施時間帯に合わせて開放された。
== 主な元所属調教師 ==
1978年に[[美浦トレーニングセンター]]が開設されるまでは競馬場で調教が行われていた。
* [[相川勝敏]]
* [[石栗龍雄]]
* [[奥平真治]]
* [[久保田敏夫]]
* [[佐藤林次郎]]
* [[鈴木勝太郎]]
* [[諏訪富三]]
* [[高木嘉夫]]
* [[田中和夫 (調教師)|田中和夫]]
* [[橋本輝雄]]
* [[古山良司]]
* [[森安弘昭]]
* [[山崎彰義]]
== 関連項目 ==
*[[東京競馬倶楽部]]
*[[東京都の観光地]]
*[[Run for money 逃走中]] - 2013年1月6日・13日の放送でロケ地となった。番組内では「エリア21」と呼ばれている。
*[[中央フリーウェイ]] - [[松任谷由実]]作詞作曲の邦楽。歌詞の中で[[中央自動車道]]を走行して見える景色とし東京競馬場が[[サントリー]]の武蔵野ビール工場と共に出てくる。また、2回開催で行われるフリーウェイステークスの出走馬紹介ではこの曲が流れる。
== 脚注・出典 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="course_tokyo">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/tokyo/course/ |title=東京競馬場(コース紹介)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="kishushozokubetu14">競馬ファン誌編集部『全国騎手所属厩舎別 : 附・全国競走馬厩舎別 昭和11年版』黎明社、1936年、p.14</ref>
<ref name="201009dirt1600">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/201009/092404.html |title=東京競馬場ダートコース1,600mのスタート位置を変更|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101028125307/https://www.jra.go.jp/news/201009/092404.html|archivedate=2010年10月28日|publisher=日本中央競馬会|date=2010年9月24日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="JRA2014JC">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2014/1130_1/playback.html |title=今週の注目レース(第34回ジャパンカップ)|publisher=日本中央競馬会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129075201/http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2014/1130_1/playback.html|archivedate=2014年11月29日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="jranews042303">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202004/042303.html |title=4月25日(土曜)から5月31日(日曜)までの中央競馬の開催等について|publisher=日本中央競馬会|date=2020年4月23日|accessdate=2021年5月4日}}</ref>
<ref name="jranews052801">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/news/202005/052801.html |title=6月の中央競馬の開催等について|publisher=日本中央競馬会|date=2020年5月28日|accessdate=2020年6月17日}}</ref>
<ref name="2013tokyo3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2013/pdf/25to3.pdf |title=平成25年第3回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2013hanshin3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2013/pdf/25han3.pdf |title=平成25年第3回阪神競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2013tokyo4">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2013/pdf/25to4.pdf |title=平成25年第4回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2013kyoto4">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2013/pdf/25kyo4.pdf |title=平成25年第4回京都競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2021tokyo3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi/tokyo3.pdf |title=令和3年第3回東京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2021hanshin3">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi/hanshin3.pdf |title=令和3年第3回阪神競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2022bangumi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/bangumi.pdf |title=令和4年度競馬番組等について|publisher=日本中央競馬会|date=2021年11月18日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2014bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi_ippan.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140211161638/http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h26-bangumi_ippan.pdf|archivedate=2014年2月11日|title=一般事項(III: 出走可能頭数 - 東京競馬場)|year=2014|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2015bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h27-bangumi_ippan.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150105132352/http://www.jra.go.jp/keiba/program/pdf/h27-bangumi_ippan.pdf|archivedate=2015年1月5日|title=一般事項(III: 出走可能頭数 - 東京競馬場)|year=2015|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2021bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi_ippan.pdf|title=競馬番組一般事項|year=2021|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2022bangumi_ippan">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/bangumi_ippan.pdf|title=競馬番組一般事項|year=2022|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
<ref name="2014summer">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26gai02.pdf |title=2014年夏季競馬番組概要について|page=6|date=2014年4月13日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140605052244/http://jra.jp/keiba/program/pdf/h26gai02.pdf|archivedate=2014年6月5日|accessdate=2021年11月27日}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書
|author = 府中市史編さん委員会 編
|date = 1974
|title =
|journal = 府中市史
|issue = 下巻 (近代,民俗編)
|publisher = 府中市
|pages =
|ref = 府中市1974
}}
*{{Cite journal|和書
|author = 日本中央競馬会 編集
|date = 1968
|title =
|journal = 日本競馬史
|issue = 第3巻
|publisher = 日本中央競馬会
|pages =
|ref = 日本中央競馬会1968
}}
*{{Cite journal|和書
|author = 日本中央競馬会 編集
|date = 1972
|title =
|journal = 日本競馬史
|issue = 第6巻
|publisher = 日本中央競馬会
|pages =
|ref = 日本中央競馬会1972
}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tokyo Racecourse}}
* {{Official website}}
{{日本の競馬場}}
{{デフォルトソート:とうきようけいはしよう}}
[[Category:日本の競馬場 (中央競馬)]]
[[Category:東京都のスポーツ施設]]
[[Category:東京都府中市のスポーツ]]
[[Category:東京都府中市の建築物]]
[[Category:1933年開設のスポーツ施設]]
[[Category:2007年竣工の日本の建築物]] | 2003-04-25T12:43:00Z | 2023-12-19T17:30:18Z | false | false | false | [
"Template:競馬場",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E5%A0%B4 |
7,290 | 菊花賞 | 菊花賞 (きくかしょう、きっかしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が京都競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
競走名の「菊花」は菊の花の意味。正賞は内閣総理大臣賞、朝日新聞社賞、日本馬主協会連合会会長賞。
イギリスの「セントレジャー」を範にとり、1938年に「京都農林省賞典四歳呼馬」の名称で創設された4歳 (現3歳)馬による重賞競走で、1948年より現名称となった。前後して創設された横濱農林省賞典四歳呼馬 (現:皐月賞)や東京優駿 (日本ダービー)とともに、日本のクラシック三冠競走を確立した。旧八大競走にも含まれている。
クラシック三冠競走の最終戦として行われ、皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、東京優駿 (日本ダービー)は「最も運のある馬が勝つ」と呼ばれるのに対し、本競走はスピードとスタミナを兼ね備え、2度の坂越えと3000mの長丁場を克服することが求められることから「最も強い馬が勝つ」と称されている。最もスタミナのある優秀な繁殖馬を選定する観点から出走資格は「3歳牡馬・牝馬」とされ、せん馬 (去勢馬)は出走できない。
施行場は阪神競馬場で行われた1979年・2021 - 2022年を除き、すべて京都競馬場で行われている。距離の3000mも第1回から変更されていない。
地方競馬所属馬は1995年より、外国産馬は2001年よりそれぞれ出走可能になったほか、2010年からは外国馬も出走可能な国際競走となった。
以下の内容は、2021年現在のもの。
出走資格:サラ系3歳牡馬・牝馬 (出走可能頭数:最大18頭)
負担重量:馬齢 (牡57kg、牝55kg)
出馬投票を行った馬のうち優先出走権 (後述)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の総計が多い順に出走できる (残る1枠が複数の同収得金額馬だった場合は抽選で出走馬が決まる)。
出馬投票を行った外国調教馬は、優先出走できる。
JRA所属馬は、下表のトライアル競走で3着以内に入った馬に優先出走権が与えられる。
地方競馬所属馬は上記のトライアル競走で3着以内に入った馬のほか、桜花賞・皐月賞・優駿牝馬 (オークス)・東京優駿 (日本ダービー)で1着となった馬に優先出走が認められている。また、桜花賞・皐月賞・優駿牝馬 (オークス)・東京優駿 (日本ダービー)で2着となった地方競馬所属馬、およびNHKマイルカップで2着以内に入着した地方競馬所属馬にも出走資格が与えられる。
2020年の1着賞金は1億2000万円で、以下2着4800万円、3着3000万円、4着1800万円、5着1200万円。
コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記にそろえている。
競走名は第5回まで「京都農林省賞典四歳呼馬」、第6回は「京都農商省賞典四歳呼馬」、第7回・第8回は「農林省賞典四歳馬」、第9回以降は「菊花賞」。 | [
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] | 菊花賞 (きくかしょう、きっかしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が京都競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「菊花」は菊の花の意味。正賞は内閣総理大臣賞、朝日新聞社賞、日本馬主協会連合会会長賞。 | {{Otheruses||地方競馬|菊花賞 (曖昧さ回避)}}
{{混同|菊花章|x1=勲章の}}
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = 菊花賞<br>{{Lang|en|Kikuka-shō(Japanese St. Leger)}}
|画像 = [[ファイル:Ask_Victor_More_Kikuka_Sho_2022(IMG1).jpg|300px]]
|画像説明 = 第83回菊花賞<br />(優勝馬:[[アスクビクターモア]]、鞍上:[[田辺裕信]])
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|競馬場 = [[京都競馬場]]
|創設 = 1938年12月11日
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|出典 = <ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin4" />
}}
[[ファイル:Ask_Victor_More_Kikuka_Sho_2022(IMG2).jpg|200px|thumb|菊花賞の[[優勝レイ]](第83回アスクビクターモア)]]
[[File:ドウレッツア 菊花賞勝っちゃったよぉん.jpg|200px|thumb|菊花賞の[[馬着]](第84回ドゥレッツァ)]]
[[ファイル:第76回菊花賞の優勝旗.JPG|200px|thumb|菊花賞の[[優勝旗]](第76回)]]
'''菊花賞''' (きくかしょう、きっかしょう{{refnest|group="注"|アルファベット表記はJRAのレーシングプログラム<ref name="JRARacingProgram2020"/>、Horse Racing in Japanでは"Kikuka Sho"と表記しており<ref name="HRJ" />、The Japan Timesが"Kikka-sho"としている<ref name="JT" />。}})は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[京都競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。
競走名の「菊花」は[[キク|菊]]の花の意味<ref name="特別レース名解説" />。正賞は[[内閣総理大臣賞]]、[[朝日新聞社]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin4" />。
== 概要 ==
[[イギリス]]の「[[セントレジャーステークス|セントレジャー]]」を範にとり、1938年に「'''京都農林省賞典四歳呼馬'''」の名称で創設された4歳 (現3歳)馬による重賞競走<ref name="JRA注目" />で、1948年より現名称となった<ref name="JRA注目" />。前後して創設された横濱農林省賞典四歳呼馬 (現:[[皐月賞]])や[[東京優駿]] (日本ダービー)とともに、日本のクラシック三冠競走を確立した<ref name="gallop" />。旧[[八大競走]]にも含まれている。
[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]競走の最終戦として行われ、皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、東京優駿 (日本ダービー)は「最も運のある馬が勝つ」と呼ばれるのに対し、本競走はスピードとスタミナを兼ね備え、2度の坂越えと3000mの長丁場を克服することが求められることから「'''最も強い馬が勝つ'''」と称されている<ref group="注">ただしこの評はもともとイギリスのセントレジャーに対して言われていたものである</ref><ref name="JRA注目" />。最もスタミナのある優秀な繁殖馬を選定する観点から出走資格は「3歳牡馬・牝馬」とされ、[[騸馬|せん馬]] (去勢馬)は出走できない<ref name="JRA注目" />。
施行場は[[阪神競馬場]]で行われた1979年・2021 - 2022年を除き、すべて京都競馬場で行われている<ref name="JRA注目" />。距離の3000mも第1回から変更されていない<ref name="JRA注目" />。
[[地方競馬]]所属馬は1995年より、[[外国産馬]]は2001年よりそれぞれ出走可能になったほか、2010年からは[[外国馬]]も出走可能な[[国際競走]]となった<ref name="JRA注目" />。
=== 競走条件 ===
以下の内容は、2021年現在<ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin4" />のもの。
出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]3歳牡馬・牝馬 (出走可能頭数:最大18頭)
* JRA所属馬 (外国産馬含む、未勝利馬・未出走馬は除く)
* 地方競馬所属馬 (後述)
* 外国調教馬 (優先出走)
負担重量:馬齢 (牡57kg、牝55kg)
* 第1回・第2回は牡馬55kg、牝馬53kg。第3回 - 第6回は牡馬57kg、牝馬55.5kg<ref name="中央競馬全重賞成績集" />。
出馬投票を行った馬のうち優先出走権 (後述)のある馬から優先して割り当て、その他の馬は収得賞金の総計が多い順に出走できる (残る1枠が複数の同収得金額馬だった場合は抽選で出走馬が決まる)。
=== 優先出走権 ===
出馬投票を行った外国調教馬は、優先出走できる<ref name="R03一般事項" />。
JRA所属馬は、下表のトライアル競走で3着以内に入った馬に優先出走権が与えられる<ref name="R03一般事項" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!競走名!!格!!競馬場!!距離
|-
|[[セントライト記念]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝2200m
|-
|[[神戸新聞杯]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝2400m
|}
地方競馬所属馬は上記のトライアル競走で3着以内に入った馬のほか、[[桜花賞]]・皐月賞・[[優駿牝馬]] (オークス)・東京優駿 (日本ダービー)で1着となった馬に優先出走が認められている<ref name="R03一般事項" /><ref name="2021ステップ競走" />。また、桜花賞・皐月賞・優駿牝馬 (オークス)・東京優駿 (日本ダービー)で2着となった地方競馬所属馬、および[[NHKマイルカップ]]で2着以内に入着した地方競馬所属馬にも出走資格が与えられる<ref name="JRA注目" /><ref name="R03一般事項" />。
=== 賞金 ===
2020年の1着賞金は1億2000万円で、以下2着4800万円、3着3000万円、4着1800万円、5着1200万円<ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin4" />。
== 歴史 ==
=== 年表 ===
* 1938年 - 4歳牡馬・牝馬による競走「'''京都農林省賞典四歳呼馬'''」として創設<ref name="JRA注目" />。京都競馬場・芝3000mで施行。
* 1943年 - 名称を「'''京都農商省賞典四歳呼馬'''」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1944年 - [[能力検定競走]]「長距離特殊競走」として施行したが、全馬がコースを間違えたためレース不成立<ref name="JRA注目" /><ref>[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集]]、223頁。</ref>。
* 1945年 - 施行せず<ref name="JRA注目" />。
* 1946年 - 名称を「'''農林省賞典四歳馬'''」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1948年 - 名称を「'''菊花賞'''」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 1984年 - [[グレード制]]導入に伴いGI<ref group="注">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付け。
* 1995年 - [[指定交流競走]]となり、地方競馬所属馬が出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞成績集" />。
* 2001年
** [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件を「3歳牡馬・牝馬」に変更。
** 混合競走に指定され、[[外国産馬]]が2頭まで出走可能となる。
* 2004年 - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称をつけて施行<ref name="result2004" />。
* 2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更<ref name="result2007" />。
* 2010年
** [[国際競走]]に指定され、外国調教馬・外国産馬が合わせて最大9頭まで出走可能となる<ref name="result2010" />。
** 格付表記をGI (国際格付)に変更<ref name="JRA注目" />。
* 2013年 - 外国馬の出走枠を外国産馬と分離し、外国調教馬が最大9頭まで出走可能になる<ref name="h25-jusyo_kansai" />。
* 2014年 - 「JRA60周年記念」の副称をつけて施行<ref name="result2014" />。
* 2021年 - 京都競馬場の整備工事に伴い、[[阪神競馬場]]で施行<ref name="R03henko" />(2022年も同様<ref name="R04henko" />)。阪神競馬場芝内回り3000mの出走可能頭数は18頭に変更した<ref name="R02一般事項" /><ref name="R03一般事項" />。
== 歴代優勝馬 ==
コース種別の記載がない距離は、芝コースを表す。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記にそろえている。
競走名は第5回まで「京都農林省賞典四歳呼馬」、第6回は「京都農商省賞典四歳呼馬」、第7回・第8回は「農林省賞典四歳馬」、第9回以降は「菊花賞」<ref name="JRA注目" />。
{| class="wikitable" style="white-space:nowrap"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||1938年12月11日||京都||3000m||[[テツモン]]||牡3||3:16 0/5||[[伊藤正四郎]]||[[尾形藤吉]]||松山陸郎
|-
|style="text-align:center"|第2回||1939年10月29日||京都||3000m||[[マルタケ (競走馬)|マルタケ]]||牡3||3:22 0/5||[[清水茂次]]||清水茂次||榎壽逸
|-
|style="text-align:center"|第3回||1940年11月3日||京都||3000m||[[テツザクラ]]||牡3||3:17 3/5||[[伊藤勝吉]]||伊藤勝吉||三宅孝之介
|-
|style="text-align:center"|第4回||1941年10月26日||京都||3000m||[[セントライト]]||牡3||3:22 3/5||[[小西喜蔵]]||[[田中和一郎]]||[[加藤雄策]]
|-
|style="text-align:center"|第5回||1942年11月8日||京都||3000m||[[ハヤタケ]]||牡3||3:16 3/5||[[佐藤勇 (競馬)|佐藤勇]]||[[岩井健吉]]||伊藤祐之
|-
|style="text-align:center"|第6回||1943年11月14日||京都||3000m||[[クリフジ]]||牝3||3:19 3/5||[[前田長吉]]||尾形藤吉||[[栗林友二]]
|-
|style="text-align:center"|第7回||1946年12月1日||京都||3000m||[[アヅマライ]]||牡3||3:26 4/5||[[武田文吾]]||[[高橋直三]]||熊谷新太郎
|-
|style="text-align:center"|第8回||1947年10月19日||京都||3000m||[[ブラウニー (競走馬)|ブラウニー]]||牝3||3:16 0/5||[[土門健司]]||[[武輔彦]]||仙石襄
|-
|style="text-align:center"|第9回||1948年11月23日||京都||3000m||[[ニユーフオード]]||牡3||3:13 3/5||武田文吾||[[小川佐助]]||吉木三郎
|-
|style="text-align:center"|第10回||1949年11月3日||京都||3000m||[[トサミドリ]]||牡3||3:14 3/5||[[浅野武志]]||[[望月与一郎]]||斎藤健二郎
|-
|style="text-align:center"|第11回||1950年10月29日||京都||3000m||[[ハイレコード]]||牡3||3:09 1/5||[[浅見国一]]||武田文吾||山田常太郎
|-
|style="text-align:center"|第12回||1951年11月3日||京都||3000m||[[トラツクオー]]||牡3||3:11 1/5||[[小林稔 (競馬)|小林稔]]||[[久保田金造]]||岩本政一
|-
|style="text-align:center"|第13回||1952年11月23日||京都||3000m||[[セントオー]]||牡3||3:10 1/5||[[梅内慶蔵]]||[[新堂捨蔵]]||三木福一
|-
|style="text-align:center"|第14回||1953年11月23日||京都||3000m||[[ハクリヨウ]]||牡3||3:09 1/5||[[保田隆芳]]||尾形藤吉||[[西博]]
|-
|style="text-align:center"|第15回||1954年11月23日||京都||3000m||[[ダイナナホウシユウ]]||牡3||3:09 1/5||[[上田三千夫]]||[[上田武司 (競馬)|上田武司]]||[[上田清次郎]]
|-
|style="text-align:center"|第16回||1955年11月23日||京都||3000m||[[メイヂヒカリ]]||牡3||3:09 1/5||[[蛯名武五郎]]||[[藤本冨良]]||新田新作
|-
|style="text-align:center"|第17回||1956年11月18日||京都||3000m||[[キタノオー]]||牡3||3:09 3/5||[[伊藤竹男|勝尾竹男]]||久保田金造||田中留治
|-
|style="text-align:center"|第18回||1957年11月17日||京都||3000m||[[ラプソデー]]||牡3||3:16 0/5||[[矢倉義勇]]||小西喜蔵||椎野浅五郎
|-
|style="text-align:center"|第19回||1958年11月16日||京都||3000m||[[コマヒカリ]]||牡3||3:10 0/5||浅見国一||[[橋本輝雄]]||鈴木一平
|-
|style="text-align:center"|第20回||1959年11月15日||京都||3000m||[[ハククラマ]]||牡3||3:07.7||保田隆芳||尾形藤吉||西博
|-
|style="text-align:center"|第21回||1960年11月13日||京都||3000m||[[キタノオーザ]]||牡3||3:15.1||[[伊藤竹男]]||久保田金造||田中清司
|-
|style="text-align:center"|第22回||1961年11月19日||京都||3000m||[[アズマテンラン]]||牡3||3:15.4||[[野平好男]]||[[二本柳俊夫]]||堀平四郎
|-
|style="text-align:center"|第23回||1962年11月25日||京都||3000m||[[ヒロキミ]]||牡3||3:10.7||[[高松三太]]||二本柳俊夫||[[相馬恵胤]]
|-
|style="text-align:center"|第24回||1963年11月17日||京都||3000m||[[グレートヨルカ]]||牡3||3:09.5||保田隆芳||尾形藤吉||小野晃
|-
|style="text-align:center"|第25回||1964年11月15日||京都||3000m||[[シンザン]]||牡3||3:13.8||[[栗田勝]]||武田文吾||[[橋元家|橋元幸吉]]
|-
|style="text-align:center"|第26回||1965年11月14日||京都||3000m||[[ダイコーター]]||牡3||3:13.4||栗田勝||上田武司||上田清次郎
|-
|style="text-align:center"|第27回||1966年11月13日||京都||3000m||[[ナスノコトブキ]]||牡3||3:08.5||[[森安弘昭|森安弘明]]||[[稲葉秀男]]||[[河野一郎|那須野牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第28回||1967年11月12日||京都||3000m||[[ニットエイト|ニツトエイト]]||牡3||3:14.5||伊藤竹男||[[矢倉玉男]]||太田和芳郎
|-
|style="text-align:center"|第29回||1968年11月17日||京都||3000m||[[アサカオー]]||牡3||3:09.0||[[加賀武見]]||[[中村広]]||浅香源二
|-
|style="text-align:center"|第30回||1969年11月16日||京都||3000m||[[アカネテンリュウ]]||牡3||3:15.3||[[丸目敏栄]]||橋本輝雄||関野栄一
|-
|style="text-align:center"|第31回||1970年11月15日||京都||3000m||[[ダテテンリュウ]]||牡3||3:10.4||[[宇田明彦]]||[[星川泉士]]||浅野千恵子
|-
|style="text-align:center"|第32回||1971年11月14日||京都||3000m||[[ニホンピロムーテー]]||牡3||3:13.6||[[福永洋一]]||[[服部正利]]||小林保
|-
|style="text-align:center"|第33回||1972年11月12日||京都||3000m||[[イシノヒカル]]||牡3||3:11.6||[[増沢末夫]]||浅野武志||[[石嶋清仁]]
|-
|style="text-align:center"|第34回||1973年11月11日||京都||3000m||[[タケホープ]]||牡3||3:14.2||[[武邦彦]]||[[稲葉幸夫]]||近藤たけ
|-
|style="text-align:center"|第35回||1974年11月10日||京都||3000m||[[キタノカチドキ]]||牡3||3:11.9||武邦彦||服部正利||初田豊
|-
|style="text-align:center"|第36回||1975年11月9日||京都||3000m||[[コクサイプリンス]]||牡3||3:11.1||[[中島啓之]]||[[稗田敏男]]||芦部煕仁
|-
|style="text-align:center"|'''[[第37回菊花賞|第37回]]'''||1976年11月14日||京都||3000m||[[グリーングラス]]||牡3||3:09.9||[[安田富男]]||[[中野隆良]]||半沢吉四郎
|-
|style="text-align:center"|第38回||1977年11月13日||京都||3000m||[[プレストウコウ]]||牡3||3:07.6||[[郷原洋行]]||[[加藤朝治郎]]||[[渡辺喜八郎]]
|-
|style="text-align:center"|第39回||1978年11月12日||京都||3000m||[[インターグシケン]]||牡3||3:06.2||武邦彦||[[日迫良一]]||[[松岡正雄]]
|-
|style="text-align:center"|第40回||1979年11月11日||阪神||3000m||[[ハシハーミット]]||牡3||3:07.5||[[河内洋]]||[[内藤繁春]]||(株)[[シンザンクラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第41回||1980年11月9日||京都||3000m||[[ノースガスト]]||牡3||3:06.1||[[田島良保]]||[[二分久男]]||鈴木忠男
|-
|style="text-align:center"|第42回||1981年11月8日||京都||3000m||[[ミナガワマンナ]]||牡3||3:07.1||[[菅原泰夫]]||[[仲住芳雄]]||寺内倉蔵
|-
|style="text-align:center"|第43回||1982年11月14日||京都||3000m||[[ホリスキー]]||牡3||3:05.4||菅原泰夫||[[本郷重彦]]||堀川三之助
|-
|style="text-align:center"|第44回||1983年11月13日||京都||3000m||[[ミスターシービー]]||牡3||3:08.1||[[吉永正人]]||[[松山康久]]||[[千明牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第45回||1984年11月11日||京都||3000m||[[シンボリルドルフ]]||牡3||3:06.8||[[岡部幸雄]]||[[野平祐二]]||[[シンボリ牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第46回||1985年11月10日||京都||3000m||[[ミホシンザン]]||牡3||3:08.1||[[柴田政人]]||[[田中朋次郎]]||堤勘時
|-
|style="text-align:center"|第47回||1986年11月9日||京都||3000m||[[メジロデュレン]]||牡3||3:09.2||[[村本善之]]||[[池江泰郎]]||(株)[[メジロ商事]]
|-
|style="text-align:center"|第48回||1987年11月8日||京都||3000m||[[サクラスターオー]]||牡3||3:08.0||[[東信二]]||[[平井雄二]]||(株)[[さくらコマース]]
|-
|style="text-align:center"|第49回||1988年11月6日||京都||3000m||[[スーパークリーク]]||牡3||3:07.3||[[武豊]]||[[伊藤修司]]||木倉誠
|-
|style="text-align:center"|第50回||1989年11月5日||京都||3000m||[[バンブービギン]]||牡3||3:07.7||[[南井克巳]]||[[布施正]]||竹田辰一
|-
|style="text-align:center"|第51回||1990年11月4日||京都||3000m||[[メジロマックイーン]]||牡3||3:06.2||[[内田浩一]]||池江泰郎||(株)メジロ商事
|-
|style="text-align:center"|第52回||1991年11月3日||京都||3000m||[[レオダーバン]]||牡3||3:09.5||岡部幸雄||[[奥平真治]]||[[田中竜雨]]
|-
|style="text-align:center"|第53回||1992年11月8日||京都||3000m||[[ライスシャワー]]||牡3||3:05.0||[[的場均]]||[[飯塚好次]]||栗林英雄
|-
|style="text-align:center"|第54回||1993年11月7日||京都||3000m||[[ビワハヤヒデ]]||牡3||3:04.7||岡部幸雄||[[浜田光正]]||(有)[[ビワ (馬主)|ビワ]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第55回菊花賞|第55回]]'''||1994年11月6日||京都||3000m||[[ナリタブライアン]]||牡3||3:04.6||南井克巳||[[大久保正陽]]||[[山路秀則]]
|-
|style="text-align:center"|第56回||1995年11月5日||京都||3000m||[[マヤノトップガン]]||牡3||3:04.4||[[田原成貴]]||[[坂口正大]]||[[田所祐]]
|-
|style="text-align:center"|第57回||1996年11月3日||京都||3000m||[[ダンスインザダーク]]||牡3||3:05.1||武豊||[[橋口弘次郎]]||(有)[[社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center"|第58回||1997年11月2日||京都||3000m||[[マチカネフクキタル]]||牡3||3:07.7||南井克巳||二分久男||[[細川益男]]
|-
|style="text-align:center"|第59回||1998年11月8日||京都||3000m||[[セイウンスカイ]]||牡3||3:03.2||[[横山典弘]]||[[保田一隆]]||[[西山正行]]
|-
|style="text-align:center"|第60回||1999年11月7日||京都||3000m||[[ナリタトップロード]]||牡3||3:07.6||[[渡辺薫彦]]||[[沖芳夫]]||山路秀則
|-
|style="text-align:center"|第61回||2000年10月22日||京都||3000m||[[エアシャカール]]||牡3||3:04.7||武豊||[[森秀行]]||(株)[[ラッキーフィールド]]
|-
|style="text-align:center"|第62回||2001年10月21日||京都||3000m||[[マンハッタンカフェ]]||牡3||3:07.2||[[蛯名正義]]||[[小島太]]||[[西川清]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第63回菊花賞|第63回]]'''||2002年10月20日||京都||3000m||[[ヒシミラクル]]||牡3||3:05.9||[[角田晃一]]||[[佐山優]]||[[阿部雅一郎]]
|-
|style="text-align:center"|第64回||2003年10月26日||京都||3000m||[[ザッツザプレンティ]]||牡3||3:04.8||[[安藤勝己]]||橋口弘次郎||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|第65回||2004年10月24日||京都||3000m||[[デルタブルース]]||牡3||3:05.7||[[岩田康誠]]||[[角居勝彦]]||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第66回菊花賞|第66回]]'''||2005年10月23日||京都||3000m||[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]||牡3||3:04.6||武豊||池江泰郎||(株)[[金子真人ホールディングス]]
|-
|style="text-align:center"|第67回||2006年10月22日||京都||3000m||[[ソングオブウインド]]||牡3||3:02.7||[[武幸四郎]]||[[浅見秀一]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|'''[[第68回菊花賞|第68回]]'''||2007年10月21日||京都||3000m||[[アサクサキングス]]||牡3||3:05.1||[[四位洋文]]||[[大久保龍志]]||[[田原慶子]]
|-
|style="text-align:center"|第69回||2008年10月26日||京都||3000m||[[オウケンブルースリ]]||牡3||3:05.7||[[内田博幸]]||[[音無秀孝]]||[[福井明]]
|-
|style="text-align:center"|第70回||2009年10月25日||京都||3000m||[[スリーロールス]]||牡3||3:03.5||[[浜中俊]]||[[武宏平]]||(株)[[永井商事]]
|-
|style="text-align:center"|第71回||2010年10月24日||京都||3000m||[[ビッグウィーク]]||牡3||3:06.1||[[川田将雅]]||[[長浜博之]]||[[谷水雄三]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第72回菊花賞|第72回]]'''||2011年10月23日||京都||3000m||[[オルフェーヴル]]||牡3||3:02.8||[[池添謙一]]||[[池江泰寿]]||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第73回||2012年10月21日||京都||3000m||[[ゴールドシップ]]||牡3||3:02.9||内田博幸||[[須貝尚介]]||[[小林英一 (実業家)|小林英一]]
|-
|style="text-align:center"|第74回||2013年10月20日||京都||3000m||[[エピファネイア]]||牡3||3:05.2||[[福永祐一]]||[[角居勝彦]]||(有)[[キャロットファーム]]
|-
|style="text-align:center"|第75回||2014年10月26日||京都||3000m||[[トーホウジャッカル]]||牡3||3:01.0||[[酒井学 (競馬)|酒井学]]||[[谷潔]]||(株)東豊物産
|-
|style="text-align:center"|第76回||2015年10月25日||京都||3000m||[[キタサンブラック]]||牡3||3:03.9||[[北村宏司]]||[[清水久詞]]||(有)[[大野商事]]
|-
|style="text-align:center"|第77回||2016年10月23日||京都||3000m||[[サトノダイヤモンド]]||牡3||3:03.3||[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]]||[[池江泰寿]]||[[里見治]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第78回菊花賞|第78回]]'''||2017年10月22日||京都||3000m||[[キセキ (競走馬)|キセキ]]||牡3||3:18.9||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||角居勝彦||[[石川達絵]]
|-
|style="text-align:center"|第79回||2018年10月21日||京都||3000m||[[フィエールマン]]||牡3||3:06.1||C.ルメール||手塚貴久||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第80回||2019年10月20日||京都||3000m||[[ワールドプレミア (競走馬)|ワールドプレミア]]||牡3||3:06.0||武豊||[[友道康夫]]||[[大塚亮一]]
|-
|style="text-align:center"|'''[[第81回菊花賞|第81回]]'''||2020年10月25日||京都||3000m||[[コントレイル (競走馬)|コントレイル]]||牡3||3:05.5||福永祐一||[[矢作芳人]]||[[前田晋二]]
|-
|style="text-align:center"|第82回||2021年10月24日||阪神||3000m||[[タイトルホルダー]]||牡3||3:04.6||[[横山武史]]||[[栗田徹]]||[[山田弘 (馬主)|山田弘]]
|-
|style="text-align:center"|第83回||2022年10月23日||阪神||3000m||[[アスクビクターモア]]||牡3||3:02.4||[[田辺裕信]]||[[田村康仁]]||[[廣崎利洋HD]](株)
|-
|style="text-align:center"|第84回||2023年10月22日||京都||3000m||[[ドゥレッツァ]]||牡3||3:03.1||C.ルメール||[[尾関知人]]||(有)キャロットファーム
|}
== 菊花賞の記録 ==
* レースレコード - 3:01.0 (第75回優勝馬トーホウジャッカル)<ref name="racerecord" /> なお、このタイムは芝3000mのJRAレコード及び京都競馬場芝外回り3000m3歳以上のコースレコードでもある。
** 優勝タイム最遅記録 - 3:26 4/5(第7回優勝馬アヅマライ)<ref>グレード制導入後は3:18.9(第78回優勝馬キセキ)</ref>
* 最多優勝騎手 - 5勝
**武豊(第49回・第57回・第61回・第66回・第80回) なお、[[昭和]]・[[平成]]・[[令和]]の3元号の時代で優勝した史上初の騎手でもある。
* 同一騎手の最多連覇記録 - 2連覇
**栗田勝(第24回・第25回)、武邦彦(第34回・第35回)、菅原泰夫(第42回・第43回)
* 最多優勝調教師 - 5勝
**尾形藤吉(第1回・第6回・第14回・第20回・第24回)
* 同一調教師の最多連覇記録 - 2連覇
**二本柳俊夫(第22回・第23回)
* 最多優勝馬主 - 3勝
**(有)社台レースホース(第57回・第64回・第67回)、(有)サンデーレーシング(第65回・第72回・第79回)
* 最多勝利種牡馬 - 5勝
** [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](第77回・第79回・第80回・第81回・第83回)
* 最年少勝利騎手 - 武豊(第49回・19歳7ヶ月23日)<ref>https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2019/10/20/kiji/20191020s00004145277000c.html?amp=1</ref>
* 最年長勝利騎手 - 武豊(第80回・50歳7ヶ月6日)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="中央競馬全重賞成績集">『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』</ref>
<ref name="JRARacingProgram2020">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/rpdf/pdf/20201025-color01.pdf#page=2 |title=10月25日 レーシングプログラムカラーページ|publisher=日本中央競馬会|year=2020|page=2|archiveurl=https://archive.is/g64Yj|archivedate=2020年10月25日|accessdate=2020年10月25日}}</ref>
<ref name="JT">[http://www.japantimes.co.jp/tag/kikka-sho/ Toho Jackal shatters Kikka-sho record by 1.7 seconds (OCT 26,2014)] - The Japan Times、2015年10月20日閲覧</ref>
<ref name="HRJ">[http://japanracing.jp/_news2015/151020-02.html 2015.10.20 2015 Kikuka Sho (Japanese St.Leger) (G1)-Nominated Horse Ratings] - Horse Racing in Japan、2015年10月20日閲覧</ref>
<ref name="2021-jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/jusyo_kansai.pdf#page=29 |title=重賞競走一覧 (レース別・関西)|publisher=日本中央競馬会 |page=29|accessdate=2021年10月18日}}</ref>
<ref name="h25-jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h25-jusyo_kansai.pdf#page=27 |title=重賞競走一覧 (レース別・関西)|publisher=日本中央競馬会|year=2013|page=27|accessdate=2016年10月17日}}</ref>
<ref name="bangumi_2021hanshin4">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi/hanshin4.pdf |title=令和3年第4回京都競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年10月18日}}</ref>
<ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2021/0409.pdf#page=4 |title=2021年度第4回阪神競馬特別レース名解説 (第6日)|publisher=日本中央競馬会 |page=4 |accessdate=2021年10月18日}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2020/1025_1/race.html |title=歴史・コース:菊花賞 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2020年10月11日}}</ref>
<ref name="gallop">{{Cite book|和書|title=Gallop 2005年11月臨時増刊・菊花賞全史|publisher=サンケイスポーツ|page=20|year=2005|ref=菊花賞全史}}</ref>
<ref name="2021ステップ競走">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/kakuchi.pdf |title=「地」が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和3年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2020年6月18日}}</ref>
<ref name="R02一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2020/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=競馬番組一般事項|year=2020|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年10月18日}}</ref>
<ref name="R03一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=競馬番組一般事項|year=2021|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年10月18日}}</ref>
<ref name="racerecord">[http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=92019 トーホウジャッカルがスーパーレコードV! デビューからわずか149日での制覇!/菊花賞] - netkeiba.com、2014年10月26日閲覧</ref>
<ref name="result2004">[[#JRA年度別全成績2004|2004年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="result2007">[[#JRA年度別全成績2007|2007年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="result2010">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/5kyo.pdf#page=81 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|year=2010|pages=3237-3238|accessdate=2016年10月17日}} (索引番号:29071)</ref>
<ref name="result2014">[[#JRA年度別全成績2014|2014年の成績表]]参照。</ref>
<ref name="R03henko">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/henkou.pdf |title=令和3年度の重賞競走の主な変更点について|accessdate=2021年10月18日|date=2020年10月19日|publisher=日本中央競馬会}}</ref>
<ref name="R04henko">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/henkou.pdf |title=令和4年度の重賞競走の主な変更点について|accessdate=2021年10月18日|date=2020年10月18日|publisher=日本中央競馬会}}</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* 『[[#中央競馬全重賞成績集|中央競馬全重賞成績集【GI編】]]』 1938年 - 1995年
* {{Cite journal|和書|journal=[[優駿]]|volume=1989年11月号 |page=110 |publisher=日本中央競馬会}} (1938年〜1988年)
* {{Cite book|和書|title=日本の競馬 総合ハンドブック2013 |page=55 |publisher=一般社団法人中央競馬振興会|year=2013}} (1938年〜2012年、馬主名義除く)
* [[#菊花賞全史|菊花賞全史]]
* JRA年度別全成績
** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-2kyoto7.pdf#page=6 |title=第2回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2023年10月29日}} (索引番号:28083)
** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-4hanshin7.pdf#page=6 |title=第4回 阪神競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2022年10月25日}} (索引番号:28083)
** (2021年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-4hanshin6.pdf#page=6 |title=第4回 阪神競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2021年10月25日}} (索引番号:28071)
** (2020年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-4kyoto6.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年10月26日}} (索引番号:28071)
** (2019年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年6月18日}} (索引番号:28083)
** (2018年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2020年6月18日}} (索引番号:28083)
** (2017年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2017年10月23日}} (索引番号:28083)
** (2016年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:28083)
** (2015年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2015/2015-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:28083)
** (2014年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2014/2014-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月24日|ref=JRA年度別全成績2014}} (索引番号:28083)
** (2013年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2013/2013-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:28083)
** (2012年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2012/2012-4kyoto7.pdf#page=6 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:28083)
** (2011年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2011/2011-5kyoto6.pdf#page=6 |title=第5回 京都競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:30071)
** (2010年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-5kyoto6.pdf#page=11 |title=第5回 京都競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:29071)
** (2009年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-4kyoto6.pdf#page=11 |title=第4回 京都競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:29071)
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** (2007年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2007-4kyoto7.pdf#page=11 |title=第4回 京都競馬 第7日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月24日|ref=JRA年度別全成績2007}} (索引番号:29083)
** (2006年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/2006-5kyoto6.pdf#page=11 |title=第5回 京都競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:29071)
** (2005年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/4kyo.pdf#page=78 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3246-3247 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:29071)
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** (2003年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/4-kyo.pdf#page=78 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3234-3236 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:29071)
** (2002年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/4-kyo.pdf#page=79 |title=第4回 京都競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会 |pages=3081-3082 |accessdate=2016年10月24日}} (索引番号:28071)
* netkeiba.comより(最新閲覧日 2022年10月25日)
** {{Netkeiba-raceresult|1990|08040210}}、{{Netkeiba-raceresult|1991|08070210}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|08050210}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|08060210}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|08010210}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|08080210}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|08050210}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|08050210}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|08060211}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|08050211}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|08050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|08050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|08050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|08040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|08040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|09040611}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|09040711}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|08020711}}
* JBISサーチより (最終閲覧日:2018年10月22日)
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会|year=1996|page=215-307|chapter=菊花賞|ref=中央競馬全重賞成績集}}
== 関連項目 ==
* [[中央競馬クラシック三冠]]
* [[中央競馬クラシック競走優勝馬一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kikuka Sho|菊花賞}}
{{Wikinews|菊花賞の第76回を制したのは北島三郎の持ち馬キタサンブラック、「まつり」も熱唱される|date=2015年10月29日}}
* [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/1022_1/ データ分析:菊花賞 今週の注目レース] - 日本中央競馬会
{{中央競馬の重賞競走}}
{{八大競走}}
{{アメリカ競馬三冠}}
{{デフォルトソート:きくかしよう}}
[[Category:菊花賞|*]]
[[Category:京都競馬場の競走]]
[[Category:1938年開始のスポーツイベント]] | 2003-04-25T12:59:12Z | 2023-12-01T16:03:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E8%B3%9E |
7,291 | 朝日杯フューチュリティステークス | 朝日杯フューチュリティステークス(あさひはいフューチュリティステークス)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
競走名の「フューチュリティ(Futurity)」は、英語で「未来」「将来」を意味する。
正賞は朝日新聞社賞、日本馬主協会連合会会長賞。
欧米では1786年のニューマーケット競馬場(イギリス)を皮切りに2歳馬の競走が行われていた が、日本では1946年秋の東京競馬場で初めて3歳(現2歳)馬による競走が行われた。その後も各地の競馬場で3歳(現2歳)馬の競走が行われるようになり、1949年には関東地区の3歳(現2歳)馬チャンピオン決定戦として「朝日杯3歳ステークス(あさひはいさんさいステークス)」が中山競馬場で創設された。以来、2013年まで長らく中山競馬場で行われてきたが、2014年より施行場を阪神競馬場に変更した。競走名は2001年より馬齢表記を国際基準へ改めたことに伴い、現名称に変更された。
創設当初の施行距離は芝1100mで、1959年より芝1200mへの変更を経て、1962年以降は芝1600mで定着している。
競走条件は1991年に牡馬・牝馬のチャンピオン決定戦を明確にすることを目的として「牡馬・セン馬限定」となったが、2004年より「牡馬・牝馬限定」に変更され、以降はセン馬(去勢した牡馬)が出走できなくなった。外国産馬は1971年から、地方競馬所属馬は1995年から出走可能になったほか、2010年からは国際競走となって外国馬も出走可能になった。
翌年の3歳クラシックレースにも直結する重要なレースとして位置づけられているほか、過去の優勝馬からは古馬になっても大レースを優勝する馬が出るなど、さまざまなカテゴリーで活躍馬を送り出している。
以下の内容は、2021年現在 のもの。
出走資格:サラ系2歳牡馬・牝馬(出走可能頭数:最大18頭)
負担重量:馬齢(牡馬55kg、牝馬54kg)
出馬投票を行った馬のうち、優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金が多い順に割り当てる。
地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで2着以内に入着すると、本競走の優先出走権が与えられる。
上記のほか、中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬も出走申込ができ、この場合は他の中央競馬の登録馬と同じ方法で選出される。
2022年からは中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬は優先出走権が得られる。
2021年の1着賞金は7000万円で、以下2着2800万円、3着1800万円、4着1100万円、5着700万円。
本競走創設の発起人となったのは、馬主会の重鎮であった2代目中村勝五郎の息子・中村正行(3代目中村勝五郎)である。中村は当時騒擾事件が頻発していた競馬のイメージ改善を図るため、競馬ファンであった朝日新聞編集局長の信夫韓一郎に社賞の提供を持ちかけた。当初は最高格競走である東京優駿(日本ダービー)への提供を企図していたが、当時の国営競馬(農林省競馬部)が一社のみに許可を出すことを良しとしなかったため、代わりに3歳馬のチャンピオン決定戦という性格を持つ特別競走を新設することになった。朝日新聞記者で当時父親が同社企画部長を務めていた遠山彰によれば、当時は社内でも競馬を社会悪と見なす意見が多く、この件が諮られた部長会では激論が交わされたといい、遠山は「父は当然賛成に回ったが、反対派を説き伏せ、決断を下したのは、役員でもあった信夫だったろう」と推測している。「新聞社の名がつく競走ならば競馬の社会的信用も高められる」との考えから、競走名は「朝日盃三歳ステークス」とされた。
戦前から競馬を敵視しつづけた朝日新聞社が競馬を大衆娯楽・スポーツと認めたことは他の大手マスメディアを刺激し、1955年までに読売カップ(読売新聞社)、毎日王冠(毎日新聞社)、東京新聞杯(東京新聞社)、NHK杯(日本放送協会)、日本経済賞(日本経済新聞社)、産経賞オールカマー(産経新聞社)といった競走が次々と新設された。
なお、第二次世界大戦終結より間もない物資不足の時代であったことから優勝カップは中村が戦前に獲得していた「アラブ大ハンデ」の優勝カップを彫金師の信田洋が仕立て直す形で製作された。このカップは各年度優勝馬主の持ち回りという形で提供されている。また、副賞には中村家の食客であった東山魁夷の12号大の絵がたびたび提供された。
距離はすべて芝コース。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
競走名は第1回から第52回が「朝日杯3歳ステークス」、第53回以降は「朝日杯フューチュリティステークス」。 | [
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"text": "2022年からは中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬は優先出走権が得られる。",
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"text": "本競走創設の発起人となったのは、馬主会の重鎮であった2代目中村勝五郎の息子・中村正行(3代目中村勝五郎)である。中村は当時騒擾事件が頻発していた競馬のイメージ改善を図るため、競馬ファンであった朝日新聞編集局長の信夫韓一郎に社賞の提供を持ちかけた。当初は最高格競走である東京優駿(日本ダービー)への提供を企図していたが、当時の国営競馬(農林省競馬部)が一社のみに許可を出すことを良しとしなかったため、代わりに3歳馬のチャンピオン決定戦という性格を持つ特別競走を新設することになった。朝日新聞記者で当時父親が同社企画部長を務めていた遠山彰によれば、当時は社内でも競馬を社会悪と見なす意見が多く、この件が諮られた部長会では激論が交わされたといい、遠山は「父は当然賛成に回ったが、反対派を説き伏せ、決断を下したのは、役員でもあった信夫だったろう」と推測している。「新聞社の名がつく競走ならば競馬の社会的信用も高められる」との考えから、競走名は「朝日盃三歳ステークス」とされた。",
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"text": "戦前から競馬を敵視しつづけた朝日新聞社が競馬を大衆娯楽・スポーツと認めたことは他の大手マスメディアを刺激し、1955年までに読売カップ(読売新聞社)、毎日王冠(毎日新聞社)、東京新聞杯(東京新聞社)、NHK杯(日本放送協会)、日本経済賞(日本経済新聞社)、産経賞オールカマー(産経新聞社)といった競走が次々と新設された。",
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] | 朝日杯フューチュリティステークス(あさひはいフューチュリティステークス)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 競走名の「フューチュリティ(Futurity)」は、英語で「未来」「将来」を意味する。 正賞は朝日新聞社賞、日本馬主協会連合会会長賞。 | {{Otheruses|日本(中央競馬)の2歳GI|外国のフューチュリティステークス|フューチュリティステークス}}
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = 朝日杯フューチュリティステークス<br>{{Lang|en|Asahi Hai Futurity Stakes}}
|画像 = [[File:Grenadier Guards Asahi Hai Futurity Stakes 2020.jpg|260px]]
|画像説明 = 第72回朝日杯フューチュリティステークス<br/>(優勝馬:[[グレナディアガーズ (競走馬)|グレナディアガーズ]]/鞍上:[[川田将雅]])
|開催国 = {{JPN}}
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|競馬場 = [[阪神競馬場]]
|創設 = 1949年12月3日
|年次 = 2021
|距離 = 1600m
|格付け = GI
|1着賞金 = 7000万円
|賞金総額 =
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド|サラ]]系2歳牡・牝(国際)(指定)}}
|負担重量 = 馬齢(牡馬55kg、牝馬54kg)
|出典 = <ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin6" />
}}
'''朝日杯フューチュリティステークス'''(あさひはいフューチュリティステークス)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[阪神競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。
競走名の「フューチュリティ({{Lang|en|Futurity}})」は、英語で「未来」「将来」を意味する<ref name="特別レース名解説" />。
正賞は[[朝日新聞社]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin6" />。
== 概要 ==
欧米では1786年の[[ニューマーケット競馬場]](イギリス)を皮切りに2歳馬の競走が行われていた<ref name="JRA注目" /> が、日本では1946年秋の[[東京競馬場]]で初めて3歳(現2歳)馬による競走が行われた<ref name="JRA注目" />。その後も各地の競馬場で3歳(現2歳)馬の競走が行われるようになり、1949年には関東地区の3歳(現2歳)馬チャンピオン決定戦として「'''朝日杯3歳ステークス'''(あさひはいさんさいステークス)」が[[中山競馬場]]で創設された<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide">[http://race.netkeiba.com/?pid=special&id=0130 レースガイド(朝日杯FS)] - netkeiba.com、2014年12月11日閲覧</ref>。以来、2013年まで長らく中山競馬場で行われてきたが、2014年より施行場を阪神競馬場に変更した<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。競走名は2001年より馬齢表記を国際基準へ改めたことに伴い、現名称に変更された<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。
創設当初の施行距離は芝1100mで、1959年より芝1200mへの変更を経て、1962年以降は芝1600mで定着している<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。
競走条件は1991年に牡馬・牝馬のチャンピオン決定戦を明確にすることを目的として「牡馬・セン馬限定」となったが、2004年より「牡馬・牝馬限定」に変更され、以降はセン馬(去勢した牡馬)が出走できなくなった<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。[[外国産馬]]は1971年から、[[地方競馬]]所属馬は1995年から出走可能になったほか、2010年からは[[国際競走]]となって[[外国馬]]も出走可能になった<ref name="JRA注目" />。
翌年の3歳クラシックレースにも直結する重要なレースとして位置づけられているほか、過去の優勝馬からは古馬になっても大レースを優勝する馬が出るなど、さまざまなカテゴリーで活躍馬を送り出している<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。
=== 競走条件 ===
以下の内容は、2021年現在<ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin6" /> のもの。
出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]2歳[[牡馬]]・[[牝馬]](出走可能頭数:最大18頭)
* JRA所属馬
* 地方競馬所属馬(後述)
* 外国調教馬(優先出走)
[[負担重量]]:馬齢(牡馬55[[キログラム|kg]]、牝馬54kg)
出馬投票を行った馬のうち、優先出走権を得ている馬から優先して割り当て、その他の馬は通算収得賞金が多い順に割り当てる。
==== 地方競馬所属馬の出走権 ====
地方競馬所属馬は、同年に行われる下表の競走のいずれかで2着以内に入着すると、本競走の優先出走権が与えられる<ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="kakuchi" /><ref name="kouryu_g1" /><ref name="競馬番組一般事項" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!競走名!!格!!競馬場!!距離
|-
|[[京王杯2歳ステークス]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場]]||芝1400m
|-
|[[デイリー杯2歳ステークス]]||GII||{{Flagicon|JPN}}[[京都競馬場]]||芝1600m
|}
上記のほか、中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬も出走申込ができ、この場合は他の中央競馬の登録馬と同じ方法で選出される<ref name="kouryu_g1" />。
2022年からは中央競馬で施行する芝の2歳重賞で1着となった地方競馬所属馬は優先出走権が得られる<ref name="kakuchi2022" />。
=== 賞金 ===
2021年の1着賞金は7000万円で、以下2着2800万円、3着1800万円、4着1100万円、5着700万円<ref name="2021-jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2021hanshin6" />。
== 歴史 ==
{{Double image aside|right|Nakamura masayuki.jpg|150|Asahi-hai.jpg|240|中村正行(1939年)|「使い回し」で製作された優勝カップ}}
本競走創設の発起人となったのは、馬主会の重鎮であった[[中村勝五郎 (2代目)|2代目中村勝五郎]]の息子・中村正行([[中村勝五郎 (3代目)|3代目中村勝五郎]])である。中村は当時騒擾事件が頻発していた競馬のイメージ改善を図るため、競馬ファンであった朝日新聞編集局長の[[信夫韓一郎]]に社賞の提供を持ちかけた<ref name="asahihai">[[#中村1984|中村(1984)]] 61-63頁</ref>。当初は最高格競走である[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]への提供を企図していたが、当時の[[国営競馬]](農林省競馬部)が一社のみに許可を出すことを良しとしなかったため、代わりに3歳馬のチャンピオン決定戦という性格を持つ特別競走を新設することになった<ref name="asahihai" />。朝日新聞記者で当時父親が同社企画部長を務めていた遠山彰によれば、当時は社内でも競馬を社会悪と見なす意見が多く、この件が諮られた部長会では激論が交わされたといい、遠山は「父は当然賛成に回ったが、反対派を説き伏せ、決断を下したのは、役員でもあった信夫だったろう」と推測している<ref>[[#遠山1993|遠山(1993)]] 46頁</ref>。「新聞社の名がつく競走ならば競馬の社会的信用も高められる」との考えから、競走名は「朝日盃三歳ステークス」とされた<ref name="asahihai" />。
戦前から競馬を敵視しつづけた朝日新聞社が競馬を大衆娯楽・スポーツと認めたことは他の大手マスメディアを刺激し<ref name="asahihai" />、1955年までに[[読売カップ]]([[読売新聞社]])、[[毎日王冠]]([[毎日新聞社]])、[[東京新聞杯]]([[東京新聞社]])、[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]([[日本放送協会]])、[[日経賞|日本経済賞]]([[日本経済新聞社]])、[[オールカマー|産経賞オールカマー]]([[産経新聞社]])といった競走が次々と新設された<ref name="asahihai" /><ref name="asahihai2">『[[#日本の騎手|日本の騎手]]』 153頁</ref>。
なお、[[第二次世界大戦]]終結より間もない物資不足の時代であったことから優勝カップは中村が戦前に獲得していた「アラブ大ハンデ」の優勝カップを彫金師の信田洋が仕立て直す形で製作された<ref name="asahihai" />。このカップは各年度優勝馬主の持ち回りという形で提供されている<ref name="asahihai" />。また、副賞には中村家の食客であった[[東山魁夷]]の[[キャンバス#主な寸法|12号]]大の絵がたびたび提供された<ref name="asahihai2" />。
=== 年表 ===
* 1949年 - 3歳馬限定の競走「'''朝日盃3歳ステークス'''」の名称で創設、中山競馬場の芝1100mで施行<ref name="JRA注目" />。
* 1953年 - [[騎手]]の[[谷岡敏行]]が落馬により死亡する事故が発生。
* 1959年 - 施行距離を芝1200mに変更<ref name="JRA注目" />。
* 1962年 - 施行距離を芝1600mに変更。以後、この施行距離で定着<ref name="JRA注目" />。
* 1970年 - 競走名を「'''朝日杯3歳ステークス'''」に変更。
* 1971年 - 混合競走に指定され、外国産馬が出走可能になる<ref name="JRA注目" />。
* 1984年 - [[グレード制]]施行によりGI<ref group="注">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref> に格付け<ref name="JRA注目" />。
* 1991年 - 競走条件を「3歳牡馬・騸馬」に変更。
* 1995年 - 特別[[指定交流競走]]に指定され、地方競馬所属馬が出走可能になる<ref name="JRA注目" />。
* 2001年
** [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したのに伴い、競走条件を「2歳牡馬・騸馬」に変更<ref name="JRA注目" />。
** 名称を「'''朝日杯フューチュリティステークス'''」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 2004年 - 競走条件を「2歳牡馬・牝馬」に変更<ref name="JRA注目" />。
* 2007年 - 日本のパートI国昇格に伴い、格付表記をJpnIに変更<ref name="JRA注目" />。
* 2010年
** [[国際競走]]に指定され、外国調教馬が出走可能になる<ref name="JRA注目" />。
** 格付表記をGI(国際格付)に変更<ref name="JRA注目" />。
* 2014年 - 施行場を阪神競馬場に変更<ref name="JRA注目" />。
* 2024年 ー 阪神競馬場リフレッシュ工事に伴う開催日割の変更のため[[京都競馬場]]で施行予定<ref>[https://www.jra.go.jp/news/202310/101602.html 2024年度開催日割および重賞競走]日本中央競馬会、2023年10月16日配信・閲覧</ref>。
== 歴代優勝馬 ==
距離はすべて芝コース。
優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。
競走名は第1回から第52回が「朝日杯3歳ステークス」、第53回以降は「朝日杯フューチュリティステークス」<ref name="JRA注目" />。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第1回||1949年12月3日||中山||1100m||[[アヅマホマレ]]||牡2||1:07 3/5||[[八木沢勝美]]||[[尾形藤吉]]||岩崎新太郞
|-
|style="text-align:center"|第2回||1950年12月10日||中山||1100m||[[トキノミノル]]||牡2||1:06 3/5||[[岩下密政]]||[[田中和一郎]]||[[永田雅一]]
|-
|style="text-align:center"|第3回||1951年12月9日||中山||1100m||[[タカハタ]]||牝2||1:06 1/5||八木沢勝美||尾形藤吉||川内安忠
|-
|style="text-align:center"|第4回||1952年12月21日||中山||1100m||[[サンゲツ (競走馬)|サンゲツ]]||牝2||1:07 0/5||[[古山良司]]||[[望月与一郎]]||新倉文郎
|-
|style="text-align:center"|第5回||1953年12月13日||中山||1100m||[[タカオー]]||牡2||1:07 4/5||[[高橋英夫 (競馬)|高橋英夫]]||[[上村大治郎]]||高須銀次郎
|-
|style="text-align:center"|第6回||1954年12月12日||中山||1100m||[[メイヂヒカリ]]||牡2||1:07 3/5||[[蛯名武五郎]]||[[藤本冨良]]||新田新作
|-
|style="text-align:center"|第7回||1955年12月11日||中山||1100m||[[キタノオー]]||牡2||1:05 4/5||[[伊藤竹男|勝尾竹男]]||[[久保田金造]]||田中留治
|-
|style="text-align:center"|第8回||1956年12月23日||中山||1100m||[[キタノヒカリ]]||牝2||1:06 2/5||勝尾竹男||久保田金造||田中留治
|-
|style="text-align:center"|第9回||1957年12月15日||中山||1100m||[[カツラシユウホウ]]||牡2||1:09 0/5||蛯名武五郎||藤本冨良||牧市太郎
|-
|style="text-align:center"|第10回||1958年12月14日||中山||1100m||[[ウネビヒカリ]]||牡2||1:07 0/5||[[野平祐二]]||[[野平省三]]||山之内軍二
|-
|style="text-align:center"|第11回||1959年12月13日||中山||1200m||[[マツカゼオー]]||牡2||1:12.3||蛯名武五郎||藤本冨良||長山善武
|-
|style="text-align:center"|第12回||1960年12月11日||中山||1200m||[[ハクシヨウ (1958年生)|ハクシヨウ]]||牡2||1:11.2||[[保田隆芳]]||尾形藤吉||西博
|-
|style="text-align:center"|第13回||1961年12月17日||中山||1200m||[[ハリーオン系#カネツセーキ|カネツセーキ]]||牡2||1:10.9||[[伊藤竹男]]||久保田金造||カネツ株式会社
|-
|style="text-align:center"|第14回||1962年12月16日||中山||1600m||[[グレートヨルカ]]||牡2||1:38.7||保田隆芳||尾形藤吉||小野晃
|-
|style="text-align:center"|第15回||1963年12月15日||中山||1600m||[[ウメノチカラ]]||牡2||1:38.9||[[古賀一隆]]||[[古賀嘉蔵]]||梅野昇
|-
|style="text-align:center"|第16回||1964年12月20日||中山||1600m||[[リユウゲキ]]||牡2||1:38.8||[[油木宣夫]]||[[矢倉玉男]]||福井章哉
|-
|style="text-align:center"|第17回||1965年12月19日||中山||1600m||[[メジロボサツ]]||牝2||1:39.5||[[矢野一博]]||[[大久保末吉]]||[[メジロ牧場|北野俊雄]]
|-
|style="text-align:center"|第18回||1966年12月18日||中山||1600m||[[モンタサン]]||牡2||1:37.4||油木宣夫||[[矢野幸夫]]||古知政市
|-
|style="text-align:center"|第19回||1967年12月17日||中山||1600m||[[タケシバオー]]||牡2||1:38.4||[[中野渡清一]]||[[三井末太郎]]||[[小畑正雄]]
|-
|style="text-align:center"|第20回||1968年12月15日||中山||1600m||[[ミノル (日本の競走馬)|ミノル]]||牡2||1:40.8||保田隆芳||尾形藤吉||永田卓也
|-
|style="text-align:center"|第21回||1969年12月14日||中山||1600m||[[アローエクスプレス]]||牡2||1:36.2||[[加賀武見]]||[[高松三太]]||[[伊達秀和]]
|-
|style="text-align:center"|第22回||1970年12月13日||中山||1600m||[[オンワードガイ]]||牡2||1:39.8||[[蓑田早人]]||[[森末之助]]||(株)[[樫山純三|オンワード]]
|-
|style="text-align:center"|第23回||1971年12月12日||中山||1600m||[[トクザクラ]]||牝2||1:36.2||[[田村正光]]||[[梶与四松]]||(有)徳間牧場
|-
|style="text-align:center"|第24回||1972年12月10日||中山||1600m||[[レッドイーグル]]||牡2||1:38.3||[[岡部幸雄]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]||千屋レッド牧場(株)
|-
|style="text-align:center"|第25回||1973年12月9日||中山||1600m||[[ミホランザン]]||牡2||1:35.5||[[柴田政人]]||高松三太||堤勘時
|-
|style="text-align:center"|第26回||1974年12月8日||中山||1600m||[[マツフジエース]]||牝2||1:37.1||[[増田久]]||[[山岡寿恵次]]||(有)マツケン農場
|-
|style="text-align:center"|第27回||1975年12月7日||中山||1600m||[[ボールドシンボリ]]||牡2||1:38.6||柴田政人||高松三太||[[和田共弘]]
|-
|style="text-align:center"|第28回||1976年12月12日||中山||1600m||[[マルゼンスキー]]||牡2||1:34.4||[[中野渡清一]]||[[本郷重彦]]||[[橋本善吉 (馬主)|橋本善吉]]
|-
|style="text-align:center"|第29回||1977年12月11日||中山||1600m||[[ギャラントダンサー]]||牡2||1:35.7||[[吉永正人]]||[[松山康久]]||[[吉田照哉]]
|-
|style="text-align:center"|第30回||1978年12月10日||中山||1600m||[[ビンゴガルー]]||牡2||1:36.0||[[嶋田功]]||[[久保田彦之]]||水野剛
|-
|style="text-align:center"|第31回||1979年12月9日||中山||1600m||[[リンドタイヨー]]||牡2||1:36.7||[[横山富雄]]||[[見上恒芳]]||(株)デルマークラブ
|-
|style="text-align:center"|第32回||1980年12月7日||中山||1600m||[[テンモン]]||牝2||1:35.5||嶋田功||[[稲葉幸夫]]||原八衛
|-
|style="text-align:center"|第33回||1981年12月6日||中山||1600m||[[ホクトフラッグ]]||牡2||1:35.3||柴田政人||[[中野隆良]]||森滋
|-
|style="text-align:center"|第34回||1982年12月12日||中山||1600m||[[ニシノスキー]]||牡2||1:35.8||[[安田富男]]||[[元石孝昭]]||西島清
|-
|style="text-align:center"|第35回||1983年12月11日||中山||1600m||[[ハーディービジョン]]||牡2||1:36.3||[[的場均]]||[[柄崎義信]]||鈴木健司
|-
|style="text-align:center"|第36回||1984年12月16日||中山||1600m||[[スクラムダイナ]]||牡2||1:35.0||柴田政人||[[矢野進]]||(有)[[社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center"|第37回||1985年12月15日||中山||1600m||[[ダイシンフブキ]]||牡2||1:35.4||[[菅原泰夫]]||[[柴田寛]]||高橋金次
|-
|style="text-align:center"|第38回||1986年12月14日||中山||1600m||[[メリーナイス]]||牡2||1:35.6||[[根本康広]]||[[橋本輝雄]]||浦房子
|-
|style="text-align:center"|第39回||1987年12月20日||中山||1600m||[[サクラチヨノオー]]||牡2||1:35.6||[[小島太]]||[[境勝太郎]]||(株)[[さくらコマース]]
|-
|style="text-align:center"|第40回||1988年12月18日||中山||1600m||[[サクラホクトオー]]||牡2||1:35.5||小島太||境勝太郎||(株)さくらコマース
|-
|style="text-align:center"|第41回||1989年12月17日||中山||1600m||[[アイネスフウジン]]||牡2||1:34.4||[[中野栄治]]||[[加藤修甫]]||[[小林正明 (実業家)|小林正明]]
|-
|style="text-align:center"|第42回||1990年12月9日||中山||1600m||[[リンドシェーバー]]||牡2||1:34.0||的場均||元石孝昭||(株)デルマークラブ
|-
|style="text-align:center"|第43回||1991年12月8日||中山||1600m||[[ミホノブルボン]]||牡2||1:34.5||[[小島貞博]]||[[戸山為夫]]||(有)ミホノインターナショナル
|-
|style="text-align:center"|第44回||1992年12月13日||中山||1600m||[[エルウェーウィン]]||牡2||1:35.5||[[南井克巳]]||[[坪憲章]]||雑古隆夫
|-
|style="text-align:center"|第45回||1993年12月12日||中山||1600m||[[ナリタブライアン]]||牡2||1:34.4||南井克巳||[[大久保正陽]]||[[山路秀則]]
|-
|style="text-align:center"|第46回||1994年12月11日||中山||1600m||[[フジキセキ]]||牡2||1:34.7||[[角田晃一]]||[[渡辺栄]]||[[齊藤四方司]]
|-
|style="text-align:center"|第47回||1995年12月10日||中山||1600m||[[バブルガムフェロー]]||牡2||1:34.2||岡部幸雄||[[藤沢和雄]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|第48回||1996年12月8日||中山||1600m||[[マイネルマックス]]||牡2||1:36.3||[[佐藤哲三 (競馬)|佐藤哲三]]||[[中村均]]||[[サラブレッドクラブ・ラフィアン|(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン]]
|-
|style="text-align:center"|第49回||1997年12月7日||中山||1600m||[[グラスワンダー]]||牡2||1:33.6||的場均||[[尾形充弘]]||[[半沢 (馬主)|半沢]](有)
|-
|style="text-align:center"|第50回||1998年12月13日||中山||1600m||[[アドマイヤコジーン]]||牡2||1:35.3||[[マイケル・ロバーツ (競馬)|M.ロバーツ]]||[[橋田満]]||[[近藤利一]]
|-
|style="text-align:center"|第51回||1999年12月12日||中山||1600m||[[エイシンプレストン]]||牡2||1:34.7||[[福永祐一]]||[[北橋修二]]||[[平井豊光]]
|-
|style="text-align:center"|第52回||2000年12月10日||中山||1600m||[[メジロベイリー]]||牡2||1:34.5||[[横山典弘]]||[[武邦彦]]||[[メジロ牧場|(有)メジロ牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第53回||2001年12月9日||中山||1600m||[[アドマイヤドン]]||牡2||1:33.8||[[藤田伸二]]||[[松田博資]]||近藤利一
|-
|style="text-align:center"|第54回||2002年12月8日||中山||1600m||[[エイシンチャンプ]]||牡2||1:33.5||福永祐一||[[瀬戸口勉]]||平井豊光
|-
|style="text-align:center"|第55回||2003年12月14日||中山||1600m||[[コスモサンビーム]]||牡2||1:33.7||[[ダリオ・バルジュー|D.バルジュー]]||[[佐々木晶三]]||岡田美佐子
|-
|style="text-align:center"|第56回||2004年12月12日||中山||1600m||[[マイネルレコルト]]||牡2||1:33.4||[[後藤浩輝]]||[[堀井雅広]]||(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン
|-
|style="text-align:center"|第57回||2005年12月11日||中山||1600m||[[フサイチリシャール]]||牡2||1:33.7||福永祐一||[[松田国英]]||[[関口房朗]]
|-
|style="text-align:center"|第58回||2006年12月10日||中山||1600m||[[ドリームジャーニー]]||牡2||1:34.4||[[蛯名正義]]||[[池江泰寿]]||(有)[[サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|[[第59回朝日杯フューチュリティステークス|第59回]]||2007年12月9日||中山||1600m||[[ゴスホークケン]]||牡2||1:33.5||[[勝浦正樹]]||[[斎藤誠 (競馬)|斎藤誠]]||[[藤田与志男]]
|-
|style="text-align:center"|第60回||2008年12月21日||中山||1600m||[[セイウンワンダー]]||牡2||1:35.1||[[岩田康誠]]||[[領家政蔵]]||大谷高雄
|-
|style="text-align:center"|第61回||2009年12月20日||中山||1600m||[[ローズキングダム]]||牡2||1:34.0||[[小牧太]]||[[橋口弘次郎]]||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第62回||2010年12月19日||中山||1600m||[[グランプリボス]]||牡2||1:33.9||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[矢作芳人]]||(株)[[グランプリ (企業)|グランプリ]]
|-
|style="text-align:center"|第63回||2011年12月18日||中山||1600m||[[アルフレード (競走馬)|アルフレード]]||牡2||1:33.4||[[クレイグ・ウィリアムズ|C.ウィリアムズ]]||[[手塚貴久]]||(有)[[キャロットファーム]]
|-
|style="text-align:center"|第64回||2012年12月16日||中山||1600m||[[ロゴタイプ (競走馬)|ロゴタイプ]]||牡2||1:33.4||M.デムーロ||[[田中剛]]||吉田照哉
|-
|style="text-align:center"|第65回||2013年12月15日||中山||1600m||[[アジアエクスプレス]]||牡2||1:34.7||[[ライアン・ムーア|R.ムーア]]||[[手塚貴久]]||[[馬場幸夫]]
|-
|style="text-align:center"|第66回||2014年12月21日||阪神||1600m||[[ダノンプラチナ]]||牡2||1:35.9||蛯名正義||[[国枝栄]]||(株)[[ダノックス]]
|-
|style="text-align:center"|第67回||2015年12月20日||阪神||1600m||[[リオンディーズ]]||牡2||1:34.4||M.デムーロ||[[角居勝彦]]||(有)キャロットファーム
|-
|style="text-align:center"|第68回||2016年12月18日||阪神||1600m||[[サトノアレス]]||牡2||1:35.4||[[四位洋文]]||藤沢和雄||[[里見治]]
|-
|style="text-align:center"|第69回||2017年12月17日||阪神||1600m||[[ダノンプレミアム]]||牡2||1:33.3||[[川田将雅]]||[[中内田充正]]||(株)ダノックス
|-
|style="text-align:center"|第70回||2018年12月16日||阪神||1600m||[[アドマイヤマーズ]]||牡2||1:33.9||M.デムーロ||[[友道康夫]]||近藤利一
|-
|style="text-align:center"|第71回||2019年12月15日||阪神||1600m||[[サリオス]]||牡2||1:33.0||R.ムーア||[[堀宣行]]||(有)[[シルクレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第72回||2020年12月20日||阪神||1600m||[[グレナディアガーズ (競走馬)|グレナディアガーズ]]||牡2||1:32.3||川田将雅||中内田充正||(有)サンデーレーシング
|-
|style="text-align:center"|第73回||2021年12月19日||阪神||1600m||[[ドウデュース]]||牡2||1:33.5||[[武豊]]||友道康夫||(株)[[キーファーズ]]
|-
|style="text-align:center"|第74回||2022年12月18日||阪神||1600m||[[ドルチェモア]]||牡2||1:33.9||[[坂井瑠星]]||[[須貝尚介]]||(株)スリーエイチレーシング
|-
|style="text-align:center"|第75回||2023年12月17日||阪神||1600m||[[ジャンタルマンタル (競走馬)|ジャンタルマンタル]]||牡2||1:33.8||川田将雅||[[高野友和]]||(有)社台レースホース
|}
== 朝日杯フューチュリティステークスの記録 ==
* レースレコード - 1:32.3(第72回優勝馬グレナディアガーズ)<ref>[https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/afs/result/afs2019.html 2019年 朝日杯フューチュリティステークス(2019年重賞レース一覧)] - 日本中央競馬会、2019年12月24日閲覧</ref>
** 優勝タイム最遅記録 - 1:40.8(第20回優勝馬ミノル)<ref>阪神移転後は1:35.9(第66回優勝馬ダノンプラチナ)</ref>
* 最多優勝騎手 - 4勝
** 柴田政人(第25回・第27回・第33回・第36回)、ミルコ・デムーロ(第62回・第64回・第67回・第70回)<ref>連覇としては小島太(第39回・第40回)・南井克巳(第44回・第45回)が記録</ref>
* 最多優勝調教師 - 5勝
** 尾形藤吉(第1回・第3回・第12回・第14回・第20回)<ref>現行の1600m競走に移行して以降は高松三太の3勝</ref><ref>連覇としては久保田金造(第7回・第8回)・境勝太郎(第39回・第40回)が記録</ref>
* 最多優勝馬主 - 3勝
**(有)サンデーレーシング(第58回・第61回・第72回)
* 最多勝利種牡馬 - 3勝
** [[サンデーサイレンス]](第46回・第47回・第52回)、 [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](第66回・第68回・第69回)
== フォトギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Asahihai_3sai_Stakes_19991212.jpg|第51回優勝馬エイシンプレストン
File:Alfredo(horse)20111218(1).jpg|第63回優勝馬アルフレード
File:Danon Platina Asahi Hai Futurity Stakes 2014 (IMG1).jpg|第66回優勝馬ダノンプラチナ
File:Leontes Asahi Hai Futurity Stakes 2015(IMG1).jpg|第67回優勝馬リオンディーズ
File:Satono-Ares IMG 2693-1 20161218.jpg|第68回優勝馬サトノアレス
ファイル:Danon_Premium_Asahi_Hai_Futurity_Stakes_2017(IMG1).jpg|第69回優勝馬ダノンプレミアム
ファイル:Admire Mars(JPN) IMG 3427-5 20181216.jpg|第70回優勝馬アドマイヤマーズ
File:Salios Asahi Hai Futurity Stakes 2019(IMG1).jpg|第71回優勝馬サリオス
</gallery>
== 世界の主な2歳馬競走 ==
;イギリス
*[[ミドルパークステークス]]
*[[デューハーストステークス]]
*[[フューチュリティトロフィー]]
;フランス
*[[モルニ賞]]
*[[ジャン・リュック・ラガルデール賞]]
*[[クリテリウム・アンテルナシオナル (競馬のレース)|クリテリウム・アンテルナシオナル]]
*[[クリテリウムドサンクルー]]
;アイルランド
*[[フェニックスステークス]]
*[[ヴィンセントオブライエンステークス|ナショナルステークス]]
;アメリカ
*[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイル]]
*[[ブリーダーズカップ・ジュヴェナイルターフ]]
;オーストラリア
*[[ゴールデンスリッパーステークス]]
*[[サイアーズプロデュースステークス]]
*[[シャンペンステークス (オーストラリア)|シャンペンステークス]]
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=中央競馬ピーアール・センター|editor-link=中央競馬ピーアール・センター|title=日本の騎手|publisher=日本中央競馬会|year=1981|ref=日本の騎手}}
* {{Cite book|和書|author=中村勝五郎|title=親子3代馬主80年|publisher=中央競馬ピーアール・センター|year=1984|isbn=978-4924426122|ref=中村1984}}
* {{Cite book|和書|author=遠山彰|title=日本ダービー物語|publisher=丸善ライブラリー|year=1993|isbn=978-4621050972|ref=遠山1993}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|refs=
<ref name="2021-jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/jusyo_kansai.pdf#page=40 |title=重賞競走一覧(レース別・関西)|page=40|publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2021年12月20日}}</ref>
<ref name="bangumi_2021hanshin6">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi/hanshin6.pdf |title=令和3年第6回阪神競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月20日}}</ref>
<ref name="kakuchi">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/kakuchi.pdf |title=□地が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和3年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月20日}}</ref>
<ref name="kouryu_g1">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi/kouryu_g1.pdf |title=GI競走およびそのステップ競走に出走する 地方競馬所属馬の決定方法|year=2021|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月21日}}</ref>
<ref name="競馬番組一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/bangumi_ippan.pdf#page=22 |title=競馬番組一般事項(V 出馬投票、V-2-(4)-ハ-(一))|page=22|year=2021|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月20日}}</ref>
<ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/tokubetsu/2021/0609.pdf#page=4 |title=2021年度第6回阪神競馬特別レース名解説|page=4|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月20日}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/1220_1/playback.htm|title=今週の注目レース(第67回朝日杯フューチュリティステークス:プレイバック)|publisher=日本中央競馬会l|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160317113836/http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2015/1220_1/playback.html |archivedate=2016年3月17日|accessdate=2021年12月20日}}</ref>
<ref name="kakuchi2022">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/kakuchi.pdf|title=<nowiki>[地]</nowiki>が出走できるGI競走等とそのステップ競走について【令和4年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月26日}}</ref>
}}
==== 各回競走結果の出典 ====
* {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞成績集【GI編】|publisher=日本中央競馬会|year=1996|pages=1015-1074|chapter=朝日杯3歳ステークス|ref=中央競馬全重賞成績集}} 1949年 - 1995年
*中山競馬場70年史編集委員会(編)『中山競馬場70年史』(日本中央競馬会中山競馬場、1998年):1949年 - 1997年
*『日本の競馬 総合ハンドブック2013』 62頁 発行:一般社団法人中央競馬振興会(1984年 - 2012年、馬主名義除く)
* JRA年度別全成績
** (2023年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-5hanshin6.pdf#page=6 |title=第5回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年12月18日}}(索引番号: 34071)
** (2022年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-6hanshin6.pdf#page=6 |title=第6回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2022年12月27日}}(索引番号: 34071)
** (2021年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-6hanshin6.pdf#page=6 |title=第6回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月20日}}(索引番号: 34071)
** (2020年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-6hanshin6.pdf#page=6 |title=第6回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2019年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-5hanshin6.pdf#page=6 |title=第5回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2018年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-5hanshin6.pdf#page=6 |title=第5回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2017年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-5hanshin6.pdf#page=6 |title=第5回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2016年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-5hanshin6.pdf#page=6 |title=第5回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2015年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2015/2015-5hanshin6.pdf#page=6 |title=第5回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2014年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2014/2014-5hanshin6.pdf#page=6 |title=第5回 阪神競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2013年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2013/2013-5nakayama6.pdf#page=6 |title=第5回 中山競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33071)
** (2012年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2012/2012-5nakayama6.pdf#page=6 |title=第5回 中山競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33071)
** (2011年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2011/2011-5nakayama6.pdf#page=6 |title=第5回 中山競馬 第6日|page=6|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 34071)
** (2010年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-5nakayama6.pdf#page=11 |title=第5回 中山競馬 第6日|page=11|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33071)
** (2009年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-5nakayama6.pdf#page=11 |title=第5回 中山競馬 第6日|page=11|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33071)
** (2008年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2008/2008-5nakayama6.pdf#page=11 |title=第5回 中山競馬 第6日|page=11|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33071)
** (2007年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2007-5nakayama4.pdf#page=11 |title=第5回 中山競馬 第4日|page=11|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33047)
** (2006年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/2006-5nakayama4.pdf#page=11 |title=第5回 中山競馬 第4日|page=11|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33047)
** (2005年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/5naka.pdf#page=56-57 |title=第5回中山競馬成績集計表|pages=3662-3663|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33047)
** (2004年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/5-naka.pdf#page=58-59|title=第5回中山競馬成績集計表|pages=3686-3687|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33047)
** (2003年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/6-naka.pdf#page=57-58 |title=第6回中山競馬成績集計表|pages=3639-3640|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33047)
** (2002年){{Cite web|和書|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/5-naka.pdf#page=57-58 |title=第5回中山競馬成績集計表|pages=3599-3600|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年12月13日}}(索引番号: 33047)
* netkeiba.comより(最終閲覧日:2023年12月18日)
** 朝日杯3歳ステークス
*** {{Netkeiba-raceresult|1976|06050409}}、{{Netkeiba-raceresult|1983|06050411}}(馬主記載なし)、{{Netkeiba-raceresult|1984|06050611}}(馬主記載なし)、{{Netkeiba-raceresult|1985|06050611}}(馬主記載なし)、{{Netkeiba-raceresult|1986|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|1987|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|1988|06020611}}、{{Netkeiba-raceresult|1989|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|1990|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1991|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|06060411}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1998|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|06060411}}
** 朝日杯フューチュリティステークス
*** {{Netkeiba-raceresult|2001|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|06060411}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|06050411}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|06050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|09050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|09050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|09050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|09050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|09050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|09050611}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|09060611}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|09060611}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|09060611}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|09050611}}
* JBISサーチより(最終閲覧日:2017年12月17日)
** 朝日杯フューチュリティステークス
*** {{JBIS-raceresult|2014|1221|109|11}}、{{JBIS-raceresult|2015|1220|109|11}}、{{JBIS-raceresult|2016|1218|109|11}}
== 外部リンク ==
* [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/1217_1/index.html 今週の注目レース(第75回朝日杯フューチュリティステークス)] - 日本中央競馬会
* [https://jra.jp/datafile/seiseki/g1/afs/index.html 過去GI成績 朝日杯フューチュリティステークス] - 日本中央競馬会
* [http://race.netkeiba.com/?pid=special&id=0130 朝日杯FS特集 | レース特集] - [[netkeiba.com]]
{{中央競馬の重賞競走}}
{{朝日新聞社}}
{{デフォルトソート:あさひはいふゆうちゆりていすてえくす}}
[[Category:中央競馬の競走]]
[[Category:阪神競馬場の競走]]
[[Category:中山競馬場の競走]]
[[Category:朝日新聞社のスポーツ活動]] | 2003-04-25T13:10:22Z | 2023-12-23T12:25:55Z | false | false | false | [
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7,292 | 徳永有美 | 徳永 有美(とくなが ゆみ、1975年8月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元テレビ朝日アナウンサー。
石川県金沢市出身。
神奈川県立荏田高等学校入学後、高校2年生時に石川県立金沢女子高等学校へ転校。大妻女子大学社会情報学部卒業。
1998年4月テレビ朝日入社。
学生時代に陸上部に所属していたので、スポーツの関連番組及びコーナーなどを担当。『早起き!チェック』『やじうまワイド』『内村プロデュース』などを担当。
2001年中頃から翌年にかけて番組の企画を兼ねて2002年ソルトレークシティオリンピックのスケルトン日本代表を目指して練習し、ほかに番組の企画で津軽海峡横断遠泳リレーや、アーティスティックスイミングなど、スポーツ体験ロケを数々こなす。
2005年4月8日付けで内村光良との不倫騒動でテレビ朝日を退職。
退職後は主婦業に専念していたが、2007年4月から、毎週火曜日に朝日新聞夕刊のスポーツ選手を題材にしたコラム記事『戦士のほっとタイム』にて、本名の「内村有美」名義でインタビュアーを務める。2009年3月、第一子を授かったことを機に武内絵美へバトンタッチした。
2017年1月、協業社であるAbemaTV内のニュース専門チャンネルAbemaNewsにて、フリーアナウンサーとして11年振りに『けやきヒル's NEWS』のニュースキャスターでレギュラー出演。
2018年10月1日に、テレ朝会長の早河洋の鶴の一声で13年振りに『報道ステーション』にメインキャスターとして復帰。
2020年4月12日、『報道ステーション』で共演する富川悠太が新型コロナウイルスに感染したことが確認されたため自宅待機となり、13日から出演を見合わせ、27日にリモート出演で復帰。
関根勤の笑い顔の真似が得意である。
テレビ朝日の同期のアナウンサーは小松靖、上山千穂、小木逸平、野村真季。
2001年7月に同じテレビ朝日の当時ディレクターであった同期社員と結婚。
2003年9月に最初の夫と離婚。
2005年4月23日に内村光良と再婚。
現在は子供が二人(女子1人、男子1人)。
報道・情報ワイドショー番組(フリー転身後も含めて)
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] | 徳永 有美は、日本のフリーアナウンサー。元テレビ朝日アナウンサー。 | {{基礎情報 アナウンサー
| 名前 = 徳永 有美
| ふりがな = とくなが ゆみ
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| 画像サイズ = <!-- ある場合のみ、220px以内 -->
| 画像コメント =
| 出身地 = {{JPN}} [[石川県]][[金沢市]]
| 国籍 =
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1975|8|14}}
| 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|生年|月|日|没年|月|日}} -->
| 最終学歴 = [[大妻女子大学]]社会情報学部
| 所属事務所 =フリー
| 職歴 = [[テレビ朝日]](1998年 - 2005年)
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| 過去の担当番組 = [[内村プロデュース]]<br />[[スーパーモーニング]]<br />[[けやきヒルズ]]
| その他 =
| 備考 =
|血液型=A型|配偶者=[[内村光良]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202105310000630.html|title=徳永有美アナ、11歳長女の成長ぶりに感慨「豊かにがんばってほしいな」|publisher=日刊スポーツ|date=2021-05-31|accessdate=2021-05-31}}</ref>(2005年 - )(離婚歴あり)|愛称=徳ちゃん|本名=内村 有美(旧姓:徳永)}}
'''徳永 有美'''<ref>現在、アナウンサーとして使う名前は「徳永有美」とされている([https://www.tv-asahi.co.jp/hst/cast/ 報道ステーション公式ページ])。2007年4月から2009年3月まで毎週火曜日に[[朝日新聞]]夕刊のスポーツ選手を題材にしたコラム記事『戦士のほっとタイム』では「内村有美」が用いられたが、その後「徳永有美」に戻す形でテレビの仕事を再開。</ref>(とくなが ゆみ、[[1975年]][[8月14日]] - )は、日本の[[フリーアナウンサー]]。元[[テレビ朝日]][[日本のアナウンサー|アナウンサー]]。
== 来歴 ==
[[石川県]][[金沢市]]出身。
[[神奈川県立荏田高等学校]]入学後、高校2年生時に[[石川県立金沢伏見高等学校|石川県立金沢女子高等学校]]へ転校。[[大妻女子大学]]社会情報学部卒業。
;職務経歴
1998年4月テレビ朝日入社。
学生時代に陸上部に所属していたので、スポーツの関連番組及びコーナーなどを担当。『[[早起き!チェック]]』『[[やじうまワイド]]』『[[内村プロデュース]]』などを担当。
2001年中頃から翌年にかけて番組の企画を兼ねて[[2002年ソルトレークシティオリンピック]]の[[スケルトン (スポーツ)|スケルトン]]日本代表を目指して練習し、ほかに番組の企画で[[津軽海峡]]横断遠泳リレーや、[[アーティスティックスイミング]]など、スポーツ体験ロケを数々こなす。
2005年4月8日付けで[[内村光良]]との不倫騒動でテレビ朝日を退職<ref name="norikae" />。
退職後は主婦業に専念していたが、2007年4月から、毎週火曜日に[[朝日新聞]]夕刊のスポーツ選手を題材にしたコラム記事『戦士のほっとタイム』にて、本名の「内村有美」名義でインタビュアーを務める。2009年3月、第一子を授かったことを機に[[武内絵美]]へバトンタッチした。
2017年1月、協業社である[[AbemaTV]]内の[[ニュース専門放送局|ニュース専門チャンネル]]AbemaNewsにて、[[フリーアナウンサー]]として11年振りに『けやきヒル's NEWS』のニュースキャスターでレギュラー出演<ref>{{Cite news |title=元テレ朝・徳永有美アナ 11年ぶりニュース番組復帰「全力で」 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/19/kiji/20161219s00041000159000c.html|newspaper=Sponichi ANNEX |date=2016-12-19 |publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2016-12-19 }}</ref>。
2018年10月1日に、テレ朝会長の[[早河洋]]の鶴の一声で13年振りに『報道ステーション』にメインキャスターとして復帰<ref name="norikae">[https://npn.co.jp/article/detail/28624042 『報ステ』徳永アナに苦情が殺到? 「不倫のニュースは報じるのか」の声まで] リアルライブ(2018年12月4日)2022年11月11日閲覧。 </ref><ref>{{Cite news|title=報ステ 徳永有美アナが13年ぶり復帰 内村光良夫人「一日入魂」|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2018/08/08/0011524320.shtml|date=2018-08-08|accessdate=2018-08-08|work=デイリースポーツ online}}</ref><ref>[http://www.zaiten.co.jp/blog/2019/09/post-5.html Zaiten 2019年9月4日の記事]</ref>。
2020年4月12日、『報道ステーション』で共演する[[富川悠太]]が[[COVID-19|新型コロナウイルス]]に感染したことが確認されたため自宅待機となり、13日から出演を見合わせ<ref name="COVID-19">{{Cite web|和書|title=テレ朝「報道ステーション」の富川悠太アナが新型コロナウイルス陽性|url= https://hochi.news/articles/20200411-OHT1T50238.html|work= スポーツ報知|date=2020-04-12|accessdate=2020-04-12}}</ref>、27日にリモート出演で復帰<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20200427-JZNVUBYOUFOBNHMU2YHXWLJGIU/ |title= 徳永有美「複数の感染者、重く受け止めている」リモート出演で報ステ復帰 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 産経デジタル |date= 2020-04-27 |accessdate= 2020-04-27 }}</ref>。
== 人物、パーソナルデータ ==
; 特技
[[関根勤]]の笑い顔の真似が得意である。
; 同僚など
テレビ朝日の同期のアナウンサーは[[小松靖]]<ref>{{Cite web|和書|author=Synapse|coauthors=[[ビデオリサーチ]]|date=2018-6-19|url=https://synapse-magazine.jp/television/180619tokunaga1/|title=【徳永 有美のメディア先読み】ネットテレビが変える報道番組のあり方 ~『AbemaPrime』キャスター 小松 靖さん ~|accessdate=2018-10-9}}</ref>、[[上山千穂]]、[[小木逸平]]、[[野村真季]]。
; 家族
2001年7月に同じテレビ朝日の当時ディレクターであった同期社員と結婚<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/flash/20140510640.shtml|title=内村妻・徳永有美元アナ、壮絶不倫の末離婚…番組降板で涙「今日限りで…」|publisher=デイリースポーツ online|date=2003-11-18|accessdate=2022-02-09}}</ref>。
2003年9月に最初の夫と離婚。
2005年4月23日に[[内村光良]]と再婚。
現在は子供が二人(女子1人、男子1人)。
== 出演番組 ==
===テレビ===
'''報道・情報ワイドショー番組(フリー転身後も含めて)'''
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!colspan=2|期間!!番組名!!役職
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|[[早起き!チェック]]||月・火曜日MC
|-
|rowspan=4|[[やじうまワイド]]||土曜版天気コーナー担当
|-
!1999年4月!!1999年9月
|月・火曜日スポーツコーナー担当
|-
!1999年10月!!2001年3月
|月・火曜日総合司会
|-
!2001年4月!!2002年6月
|月~水曜日総合司会
|-
!2002年10月!!2003年4月
|[[スーパーモーニング]]||総合司会
|-
!2004年4月!!2005年3月
|[[報道ステーション]]||木・金曜日スポーツ担当
|-
!2018年10月!!2020年5月
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!2020年6月!!2021年9月
|月~水曜日メインキャスター
|-
!2021年10月!!現在
|金曜日メインキャスター
|}
'''その他'''
* [[内村プロデュース]](2000年11月 - 2003年4月) - アシスタント
* [[SPORTS X]] ([[ビーエス朝日|BS朝日]])※司会 - 2017年4月7日 - 2018年9月28日
=== ラジオ ===
* ベストセラーを読んでみた。※[[全国ラジオネットワーク|NRN]]系列局裏送り(タイズブリック制作) - 2015年4月 - 2018年9月
=== インターネット動画配信 ===
* [[けやきヒルズ|けやきヒル's NEWS]]([[Abemaヒルズ]])※キャスター(水・木・土曜日担当) - 2016年12月28日 - 2018年8月29日、(水・木曜日担当) - 2021年10月6日-
* [[AbemaPrime]](AbemaNews) - 2018年3月22日、8月9日、9月7日
== 関連項目 ==
* [[五十嵐浩司]](大妻女子大学教授、元報道ステーション・コメンテーター、元朝日新聞編集委員)
* [[篠塚浩]](テレビ朝日社長、元報道局長)
== 脚注 ==
<references group="注"/>
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.tokunagayumi.com/ 徳永有美 公式サイト]
* {{Instagram|yumi_tokunaga.official | 徳永有美/Yumi Tokunaga}}
* [http://www.asahi.com/sports/column/ 戦士のほっとタイム(asahi.com)]
{{やじうまワイド 司会者}}
{{スーパーモーニング司会}}
{{報道ステーション}}
{{内村光良}}
{{デフォルトソート:とくなか ゆみ}}
[[Category:内村光良|+とくなか ゆみ]]
[[Category:テレビ朝日のアナウンサー]]
[[Category:スポーツアナウンサー]]
[[Category:女性スポーツライター]]
[[Category:フリーアナウンサー]]
[[Category:日本のニュースキャスター]]
[[Category:石川県出身の人物]]
[[Category:大妻女子大学出身の人物]]
[[Category:1975年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-04-25T13:16:02Z | 2023-11-22T00:41:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%B0%B8%E6%9C%89%E7%BE%8E |
7,294 | 原子番号 | 原子番号(げんしばんごう、英語: atomic number)とは、核種を区別する量の一つで、原子核の中にある陽子の個数である。電荷を帯びていない中性原子においては、原子中の電子の数に等しい。通常は記号 Z で表されるが、これは「数」や「番号」を表すドイツ語: Zahl の頭文字から来ている。現在、元素の正式名称が決定している最大の原子番号はオガネソンの118である。
原子番号は元素の種類と対応しており、元素記号から原子番号が一意に決まるため、通常書くことはないが、明示する場合は元素記号の左に下付き添え字で書く。例えば、炭素の場合は
で表す。
元来、原子番号は周期表においてある元素の位置を示す番号のことであった。メンデレーエフによって元素がグループ化されたとき、元素を厳密に原子量の順で並べると、一部に元素の性質とのミスマッチが生じた。ヨウ素(原子番号53、原子量126.9)とテルル(原子番号52、原子量127.6)は順番を入れ替えることによって、周期表上の位置が示唆する化学的性質とより一層適合していた。
この不規則性は1913年にモーズリーによって説明された。彼は元素のX線回折スペクトルとその元素の周期表上の正しい位置との厳密な関係を発見した。のちに、原子番号が原子核の電荷と対応していることが分かった。
原子番号は原子中の陽子と中性子の数の合計である質量数と密接に関連している。
負の数の原子番号もある(H:反水素は-1、He:反ヘリウムは-2)。また、電子や中性子の原子番号はゼロである。 | [
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] | 原子番号とは、核種を区別する量の一つで、原子核の中にある陽子の個数である。電荷を帯びていない中性原子においては、原子中の電子の数に等しい。通常は記号 Z で表されるが、これは「数」や「番号」を表すドイツ語: Zahl の頭文字から来ている。現在、元素の正式名称が決定している最大の原子番号はオガネソンの118である。 原子番号は元素の種類と対応しており、元素記号から原子番号が一意に決まるため、通常書くことはないが、明示する場合は元素記号の左に下付き添え字で書く。例えば、炭素の場合は で表す。 | {{Expand English|Atomic number|date=2023-11}}
{{出典の明記| date = 2021年6月}}
'''原子番号'''(げんしばんごう、{{Lang-en|atomic number}})とは、[[核種]]を区別する量の一つで<ref name="Povh">[[#Povh|B.ポッフ ''et al.'']], pp.13-14</ref>、[[原子核]]の中にある[[陽子]]の個数である<ref name="Povh"/>。[[電荷]]を帯びていない中性[[原子]]においては、原子中の[[電子]]の数に等しい。通常は記号 {{mvar|Z}} で表されるが<ref name="Povh"/>、これは「数」や「番号」を表す{{Lang-de|[[:wikt:Zahl|Zahl]]}} の頭文字から来ている。現在、元素の正式名称が決定している最大の原子番号は[[オガネソン]]の118である。
原子番号は元素の種類と対応しており、元素記号から原子番号が一意に決まるため、通常書くことはないが、明示する場合は元素記号の左に下付き添え字で書く。例えば、[[炭素]]の場合は
:{{sub|6}}C
で表す。
== 概要 ==
元来、原子番号は[[周期表]]においてある[[元素]]の位置を示す番号のことであった。[[ドミトリ・メンデレーエフ|メンデレーエフ]]によって元素がグループ化されたとき、元素を厳密に[[原子量]]の順で並べると、一部に元素の性質とのミスマッチが生じた。[[ヨウ素]](原子番号53、[[原子量]]126.9)と[[テルル]](原子番号52、原子量127.6)は順番を入れ替えることによって、周期表上の位置が示唆する化学的性質とより一層適合していた。
この不規則性は[[1913年]]に[[ヘンリー・モーズリー (物理学者)|モーズリー]]によって説明された。彼は元素の[[X線回折]]スペクトルとその元素の周期表上の正しい位置との厳密な関係を発見した。のちに、原子番号が原子核の[[電荷]]と対応していることが分かった。
原子番号は原子中の陽子と[[中性子]]の数の合計である[[質量数]]と密接に関連している。
[[正の数と負の数|負の数]]の原子番号もある(<span style="text-decoration:overline;">H</span>:[[反水素]]は{{Wd|property|Q216121|P1086}}、<span style="text-decoration:overline;">He</span>:[[反ヘリウム]]は{{Wd|property|Q1991752|P1086}})。また、[[電子]]や[[中性子]]の原子番号はゼロである。
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author= B.ポッフ、K.リーツ、C.ショルツ、F.サッチャ
|translator= 柴田利明
|title= 素粒子・原子核物理入門
|edition= 改訂新版
|publisher= [[丸善出版]]
|year= 2012
|isbn= 978-4-621-06134-3
|ref= Povh
}}
* {{Cite jis|Z|8000-10|2022|name= 量及び単位-第10部:原子物理学及び核物理学}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
{{wikidata property}}
* [[物質]]
* [[質量数]]
* [[元素の一覧|原子番号順に並べた原子の一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けんしはんこう}}
[[Category:原子]]
[[Category:化学]]
[[Category:原子核物理学]] | 2003-04-25T13:49:39Z | 2023-11-07T14:57:57Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%95%AA%E5%8F%B7 |
7,295 | 元素 | 元素(げんそ、羅: elementum、英: element)は、古代から中世においては、万物(物質)の根源をなす不可欠な究極的要素を指しており、現代では、「原子」が《物質を構成する具体的要素》を指すのに対し「元素」は《性質を包括する抽象的概念》を示す用語となった。化学の分野では、化学物質を構成する基礎的な成分(要素)を指す概念を指し、これは特に「化学元素」と呼ばれる。
化学物質を構成する基礎的な要素と「万物の根源をなす究極的要素」としての元素とは異なるが、自然科学における元素に言及している文献では、混同や説明不足も見られる。
古代から中世において、万物の根源は仮説を積み上げる手段で考えられ、その源にある不可分なものを「元素」と捉えていた。ヨーロッパで成立した近代科学の成立以降、物質の基礎単位は原子、とする理論が構築されてからは、原子は「物質を構成する具体的要素」、元素は「性質を包括する抽象的概念」というように変わった。
《原子》は構造的な概念であるのに対して、《元素》は特性の違いを示す概念である。具体的には、各元素の差異は原子番号すなわち原子核に存在する陽子の数(核種)で区分される。したがって中性子の総数により質量数が異なる同位体も同じ元素として扱われる。これに対し原子は中性子の個数を厳密に捉える。したがって、元素とは原子の集合名詞ということもできる。電子の増減によって生じる状態であるイオンは、原子が電荷を帯びた状態として考えられる。英語 "element" は「根本にあるもの」を意味する。他の用例では電気回路の「素子」も同じ単語が用いられる。
いろいろなモノが一体何からできているのかという疑問と考察は洋の東西を問わず古代からあり、物質観・自然観・世界観と関連づけながらそれぞれの文明圏で体系がなされた。それらが「火」「水」「土」など自然現象から抽出された少数の「元素」であり、宗教と関連づけられることもあった。物質の根源が(現在に似た方向で)体系づけられたことはアイルランドの自然哲学者ロバート・ボイル(1627年–1691年)に始まるといわれる(彼の考え方が後の科学者に共通認識として広がることになった)。彼は実験・測定・分析を重視し、それらの結果から「これ以上細かく分けられない物質」を元素と定義した。以後、様々な考察とそれを裏付ける実験が行われ、元素を「粒子」として捉える今日の元素観および原子論が確立された。
元素の性質は最外殻電子(価電子)に大きく影響されるため、同様な性質を持つ元素は元素の族(元素群)として、周期表においても族(周期表の列)や系列として纏められている。現在、元素は118種類の存在が確認され、いずれも国際純正・応用化学連合(IUPAC)により正式名称が与えられている。なお、元素は173番目まで存在可能との説も唱えられている。
古代中国における物質の根源に関わる思想は、周代の紀元前11 - 4世紀頃には体系づけられた。『周易』は、自然現象は「天・流水・火・雷・風・水・山・地」の8つの基本に帰し、これと陰陽思想の根源である対位思想「陰」と「陽」が組み合わさったものと見なした。物質の根源要素には「木」・「火」・「土」・「金」・「水」の5つを基本物質である「元素」と考える五行思想を置き、これに陰陽が関わり宇宙のすべてが成り立つと考える陰陽五行思想を構築した。
この思想を基礎に、未来を予想する方法が発達し易法となった。また道教にも取り入れられ、成立した陰陽道は日本にも伝わった。
古代インドにおける根源論には、古ウパニシャッドに登場するウッダーラカ・アールニの思想「有(う、sat)の哲学」に汲み取れる。彼の思想には、すべてのものは微小なアートマン(我)だと言及する部分がある。
具体的な根源物質観は、『パーリ語経典』経蔵・長部の『沙門果経』に見ることができる。ここで述べられている考えは、紀元前5世紀前後の釈迦と同時代人と伝わる思想家集団である「六師外道」たちによって形成された古代インド原子論である。アジタ・ケーサカンバリンは「存在を構成する物質元素は、地・水・火・風の四大である」という論を主張した。また、パクダ・カッチャーヤナは「生命は絶対的な地・水・火・風・楽・苦・命の7つの要素から構成されている」と説いた。彼らの思想は、カッチャーヤナの「ものを切る剣は、この要素の隙間を通る」という言葉に表される通り、元素をanu(微小なもの)、paramanu(極限まで微小なもの)と説明しており、これらが漢語において「極微」と訳される事から「極微論」と言うことができる。
インドの極微論は六派哲学や宗教に引き継がれていった。ニヤーヤ学派・ヴァイシェーシカ学派が4つの元素に対応する4つの極微(原子)を想定したのに対し、六師外道の一人マハーヴィーラが創始したジャイナ教では初期の頃、極微に種類を設けなかったと考えられる。しかしジャイナ教もやがて「蝕・味・香・色」という性質と、「冷湿・冷乾・熱湿・熱乾」という現れ方があると考えるようになり、複数の極微を想定するようになった。
仏教においても万物の構成要素として「地・水・火・風」を「四大」または「四大種」という考え方がある。ただしこれらにはそれぞれに「形・象徴・色・機能」といった付帯的な特徴を持ち、様々な現象(rupa、「色」)の根本という抽象的解釈で語られる。この概念は拡大して「空(くう)」を加えた五大(マウアラカキヤ)、さらに「識」を加えた六大へと発展し、観念的・哲学的な思想へと意義を変化させた。これらは中国の五行思想ともども近代的な物質要素の科学には繋がらなかった。
西アジアやヨーロッパでも古代エジプトやメソポタミアなど高度な古代文明が発達したが、これらからは物質の根源に関わる記録が発見されておらず、唯一古代ギリシアにおける思想が伝わっており、この考え方は長くヨーロッパで受け入れられた。紀元前6~4世紀の哲学者たちは、万物のあらゆる生成と変化の根源にある原理を「アルケー」などと呼び、これらが一体何なのかを論じた。
タレスは、氷や水蒸気などの相を持ち、硬い岩も風化させる「水」がアルケーだと論じた。これは正しくは、水のような流体性を持つものが根本物質であるという事を指している。タレスの孫弟子に当るアナクシメネスはこの考えをさらに深め、アルケーは「空気」だと説き、これが濃くなれば風や雲、やがて水や岩などに変化すると述べた。ただしアナクシメネスの主張は、タレスと同じく流体性が根本にあると見なし、生物の呼吸などを含めアルケーを的確に表すものとして空気を示している。同時代には、根源を火として「万物は流転する」と述べ、火が変化して空気や水または土などを生成すると述べるヘラクレイトスも現れた。ただし彼が言う火も基本物質ではなく闘争原理を指す。これらは、一つの原理で自然界の多様性を説明する方法論であった。
これに対し、パルメニデスやゼノンらエレア派は「ある」ものの不変・不動性を説く立場から、単一の原理とその変化で多様な世界を説明することは誤りという主張を行った。このエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明した哲学者がエンペドクレスであった。彼は、アルケーがひとつではなく4つのリゾーマタから成立すると述べ、その四大元素に「火、空気、水、土」を置き、新生も消滅もしないこれらが離散・集合して多数の元素や自然界のできごとが成立していると提唱した。
ピタゴラス学派は「万物は数である」と述べ、四大元素論と当時発見されていた正多面体を対応させ、「火・土・水・空気」に「正4・6・8・20面体」を置き、後に見つかった正12面体は宇宙を現すと主張した。
プラトンは四大元素論に階層的な概念を導入し、土が正六面体でもっとも重く、他のリゾーマタは三角形からなる正多面体で、火が最も軽いリゾーマタであり、これらはそれぞれの重さに応じて運動し互いに入り混じると考えた。これは、物体は物体でしかないという彼の主張から導き出された。プラトンの作かどうか疑問視されている著書では、4つのリゾーマタに加え、天の上層を構成するとして「アイテール」が導入されている。彼に続く一派は、物質の多様性を説明するためにイデア論を機軸に置き、三角形がイデアを示すかたちであり、これは分割ができないものという「極微論」に似た主張を行った。
紀元前350年ごろ、アリストテレスは無限を考察する際に、これを否定する論述のひとつにおいて有限個数の四大元素論を用い、4つのリゾーマタは相互に反対の性質を持ち、もし無限が存在するならば世界はどれか一つの性質で満たされてしまうと述べた。また、『天体論』において天上にのみ存在し円運動をするアイテールを、直線的に動く4つのリゾーマタの上位として立てた。アイテルを語源とするアイテールは、のちの自然学における第五元素とされ、宇宙を満たす媒質エーテルの構想へとつながっていく。
プラトンやアリストテレスよりもやや時代的に先行するレウキッポスとデモクリトスは、エンペドクレスと同様、パルメニデスらエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明しようとした。彼らは、自然を構成するそれ以上分割できない最小単位として「原子(アトム)」が存在すると考え、生成消滅しない無数の原子の結合分離の仕方(原子のさまざまな形状・並び方・向き)により多様な事物やその生成変化が生じるなどと論じた。だが、彼らの「原子論」は当時あまり評価されることは無く、ヨーロッパにおいては主に四元素説が中世のスコラ哲学へ継承されてゆくことになる。
古代ギリシア哲学の元素論は中世ヨーロッパに直接伝わらず、エジプトやアラブ世界を経由して錬金術に組み込まれた。ここでは経験的技術の蓄積や実験手段の洗練化が行われたが、卑金属から貴金属をつくるという目的と、成果が秘匿されたために情報が孤立する傾向にあり、元素の探求にはあまり寄与しなかった。その中で、ジャービル・イブン=ハイヤーン(721年? - 815年?)やパラケルスス(1493年? - 1541年)が唱えた根源物質としての三元素が伝わっているが、これは硫黄・水銀・塩を指した。この三元素のうち硫黄と水銀は単体だが、塩は化合物の塩化ナトリウムであり、今日的な元素概念からすれば意味は無い。ただし、この三物質はそれぞれ共有結合・金属結合・イオン結合という化学結合の主な3種類に対応している。しかし、ジャービルがこれを意識していたかどうかはわからない。
物質の根源は何かという問いを改めて提議した人物がアイルランド生まれのロバート・ボイル(1627年 - 1691年)である。彼は著作『懐疑的化学者』にて思索だけに頼った古代ギリシア哲学の元素論を批判し、実験を重視して元素を探求すべきという主張を行った。また彼は、元素に「これ以上単純な物質に分けられないもの」という粒子説の定義を与え、さらに元素は古代的考えの4-5個では収まらないという先見的な予測を示した。
ボイルの主張後、実験によって様々な「不可分なもの」の探求が行われた。アントワーヌ・ラヴォアジエは1789年の著作『化学原論』にて、当時見つかっていた33種類の元素を纏めた表を採録した。ただしその中には熱素や光があった。また化合物であるマグネシアやアルミナなども含まれていたが、これは当時の実験技術の限界によるもので、ボイル以来の考え方そのものは正しかった、と斎藤は解説した。
ラヴォアジエの「質量保存の法則」やジョゼフ・プルーストが1799年に発表した「定比例の法則」を元に、ジョン・ドルトンは1801-1808年に執筆した一連の論文で「原子説」を唱えた。これは、物質の根元は原子(atom)であり、これは元素の種類に対応するだけの数がある、同じ原子は質量や大きさが同一で異なる原子はそれらが一致しないと述べ、原子量の概念を提示した。さらに物質は同じ原子の集まりである単体と異なる原子の集まりである化合物があるとし、窒素と酸素からなる5つの化合物を示してこれを証明した。この理論は、内包した矛盾点をジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックの「気体反応の法則」やアメデオ・アヴォガドロの「アボガドロの法則」などが修正し、広く受け入れられるようになった。
古代から知られていた単体の種類は貴金属や炭素など11に過ぎなかったが、17世紀以降には実験を通じて様々な単体が得られ、その数に応じて発見された元素の個数は増えた。17世紀にはリンなど3種、18世紀には水素や酸素からウランを含む13種、19世紀には56種の元素が見つかった。20世紀には自然界に存在する元素の残り5種類に加え、人工放射性元素が15種類合成された。
このような元素の増加に伴い、特性に応じた分類や系統立てが行われた。ラヴォアジエは化合物の性質から金属元素・土類元素・非金属元素の3種類の区分を提案した。さらに測定精度が高まった原子量を重視した並びから規則性(周期律)を見出そうとする試みも提案された。そして、1869年にドミトリ・メンデレーエフが提案した周期表は改良を重ねて原子価を重視した特長で並べられ、当時未発見の元素を予言するなど洗練された系統表として広く認められるようになった。
19世紀には各元素の発見が相次ぎ、それぞれの特徴が把握され蓄積されたが、このような性質がどのような原理で生じるかは分かっていなかった。そして、各元素は不変だと考えられていた。しかし19世紀末から20世紀初頭にかけ、放射性元素と放射能が発見され、アルファ崩壊が確認された。これによって、一部の元素は原子量を低くする方向へ分裂する事が判明した。
アルファ崩壊発見などで業績を残したアーネスト・ラザフォードは原子核を発見し、1911年にラザフォードの原子模型を提唱した。これにニールス・ボーアは量子仮説を加えてボーアの原子模型を発表した。これによって基本的な原子の構造や周期律が生じる理由などが説明され、元素は原子という構造を持つ物質として知られるようになり、その研究は化学から物理学の素粒子物理学分野へと発展していった。
1911年、ラザフォードは窒素にアルファ線を放射して水素イオンとその時は検出されなかったが酸素を作り出し、低原子量の元素を転換させることに成功した。1920年代からは様々な元素を人工的に変える実験が行われ、粒子加速器も発明された。これらから、低原子量の元素変換には高いエネルギーが必要になることが判明してきた。1932年には以前から存在が予測されていた中性子が発見され、これを用いた実験を通じて半減期が短く基本的に地球上には存在しない人工放射性元素や超ウラン元素が作られるようになった。さらにこの実験を通じて1938年には核分裂が発見され、人類は原子力エネルギーを手にすることになった。
元素を表すには元素記号が使われ、これは原子や分子を表すためにも用いられる。例えば、水は元素は酸素Oと水素Hから作られH2Oと表記される。これら元素の表示方法はラヴォアジエが命名法を提議した。元素記号はドルトンから始まり、多くの原子量決定にも貢献したイェンス・ベルセリウス(1779年 - 1844年)によって当時のラテン語名の頭文字から大文字を取り随時2文字以降から小文字を取って組み合わせる現行の記法が提案された。現在はIUPACによってIUPAC名(英名)と元素記号が管理されている。
新元素の名称及び元素記号に対しては2002年にIUPACからの勧告で、発見者が名前を提案する権利を持ち、伝統を守るべく神話(天体)や、鉱物など、地理的な場所、元素の性質、科学者への献名の何れかによって命名され、過去に別の元素に対して用いられた名称(廃棄名)・元素記号は再利用すべきでないとされる。金属元素は-iumで終了すべきであるが、17周期の元素は-ineで18周期の元素は-onでそれぞれ終了すべきである。一方、正式名が未定な新元素に対しては暫定名と暫定記号の命名規則がIUPACによって1978年より定められている(元素の系統名を参照)。エキゾチック原子に対する系統的な命名法は存在しないが、ミューオニウム (muonium、元素記号Mu)はIUPACで命名されており、化合物も合成され命名されている。他に元素記号を有するエキゾチック原子にはポジトロニウム (positronium、元素記号Ps)がある。
元素名の日本語表記については『学術用語集 化学編』に定められている。原則としてIUPAC名を「化合物名日本語表記の原則」の「化合物名の字訳標準表」の規則に従いアルファベットの綴り字を機械的にカタカナと置き換えて日本語化する(訳字)。それ故、必ずしも発音に忠実なカタカナ表記にはならない。また、学術用語集の初版制定時にすでに日本語化しているものと、すでに英語以外の言語を基に訳字された用語はそのまま固定するように定めたので、英語以外の言語を語源とする日本語表記も存在する。次に示す。なお、日本語表記されている元素の中にはフッ素(弗素)などのように漢字表記はあるものの、使用している漢字が当用漢字(現在の常用漢字)に含まれていなかったために学術用語上ではカタカナ表記にしているものもある。
20世紀前半、「宇宙には始まりがなく、宇宙の大きさは無限だ」とほとんどの科学者によって信じられていた時に、ジョルジュ・ルメートルが、「宇宙は原始的原子(primeval atom)の“爆発”で始まった」とするモデルを提唱した。ジョージ・ガモフがその理論を発展させるが(ビッグバン理論)、この理論が提唱された当初、この理論はほとんど誰からも信じられなかった。1950年代でも支持者は少なく、フレッド・ホイルからも激しい反論がされ議論が起きたが、どちらの理論が正しいか判定しようにも、天文観測の世界で最先端施設であり理論を塗り替える役割を果たしていたウィルソン山天文台ですら、判定に必要な観測データは1920〜1930年代に集められた精度の低いものしか持っておらず、本当のところ一体どちらの理論に分があるのか、観測データに基づいて判定できるような状態ではなかった。将来観測を行うことで得られるであろう、より精度の高いデータにこの議論の行方がかかっているような状況だった。
ところで、同理論でジョージ・ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを一種の熱核爆弾の火の玉だと捉え、創造の材料が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した(これらの材料のことをガモフは「アイレム(英語版)」と呼び、それらは陽子、中性子、電子、ガンマ線の高密度ガスなどだ、とした)。従来どおりの定常宇宙論を支持するフレッド・ホイルのほうは、ライバル理論であるビッグバン・モデルと競うためには、自分の理論のほうも炭素・酸素・金・鉄・窒素・ウラン・鉛などの元素が存在するに至った起源を説明しなければならない、ということを意識するようになり、ビッグバンが無くても元素が創生されたと説明することができることを示そうと、「星(天体)ではありとあらゆる核種変換が起こっている」とする考え方を提唱した。ホイルはこの考え方を支持する証拠を得るために1953年にカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所(Kellogg Radiation Lab)に赴いて、所長のウィリー・ファウラーの協力で、泡箱を用いて3個のヘリウム原子核の衝突による実験を成功させたのであった。
だが、1965年に宇宙マイクロ波背景放射が発見され、その解釈や説明のための議論が科学者らの間で進められるようになると、徐々にビッグバン理論のほうを支持する科学者の割合が増えてゆくことになり、定常宇宙論のほうは徐々に支持を失ってゆくことになった(その後も様々な観測データが出されるたびに、ビッグバン理論のほうはますます支持者を増やし、ほとんどの科学者から支持されるようになった)。
(現在、ほとんどの科学者から支持されていると言ってもいい)ビッグバン理論では、宇宙開闢では非常に高いエネルギーの解放が起こり、ビッグバンと呼ばれる大爆発とともに急速な膨張を起こしながら温度を下げ、エネルギーが転移してすべての物質が生まれた、というのである。
近年の物理学者の説明によると、ビッグバン発生直後は高エネルギーのみで宇宙は満たされていたが、1秒経過後には温度が1000億度程度まで下がり、陽子と中性子が生成され、この時点では電子やニュートリノと反応を起こして陽子と中性子は双方向に変化しつつ平衡状態にあったとされる。しかしこの環境下では、陽子と電子が反応するにはエネルギーを要するのに対し、中性子は電子と反電子ニュートリノを放出して容易に陽子へと変化した。そのため、膨張による温度低下とともに相対的に陽子の数が多くなってゆく。
100秒程が経ち温度が100億度前後まで下がると、陽子と中性子が結びつき始め、重水素の原子核が生成され始め、さらに質量数4のヘリウムHeへ原子核反応を起こす。ヘリウム原子核を構成すると中性子は安定し崩壊は起こらなくなる。この合成が進行した頃、陽子と中性子の個数比は7対1であったため陽子が大量に残り、これが水素となった。宇宙がさらに冷えて電子を取り込み元素となった際、この陽子と中性子の差から、水素とヘリウムの個数比はほぼ12対1となった。これらビッグバンにおける元素生成は約10分間で終了したと言われる。
ただし、ビッグバンで生成された元素には、微量のリチウムも存在したと考えられる。高エネルギー下で元素が生成される際、若干ながら三重水素Hやヘリウム3 Heが生じ、これがHeと核融合することがあり、これが質量数7のリチウムの同位体となった可能性が指摘された。宇宙誕生直後に生まれた非常に古い第一世代の星を観測すると、恒星内での核融合や外部からの元素取り込みが無いため重元素はほとんど観測されないが、有意なリチウムの含有が確認された例があり、これはビッグバンで生成された元素だと考えられている。ただし、理論と観測ではその量に差があり、ビッグバン理論には修正が求められる可能性がある。
ほとんどが水素かヘリウムであったビッグバンで生成された元素は、そのままでは宇宙の中に散ってしまっていたが、やがて密度が高い領域で集まり、高温高圧となった部分が第一世代の恒星となり核融合反応が始まった。最初の恒星は、ビッグバンから2億年後に生まれたと考えられている。恒星の中では陽子-陽子連鎖反応によって水素(陽子)がヘリウムへ核融合を起こし、これによって生じるエネルギーで輝く星を主系列星という。なお、恒星内で炭素・窒素・酸素を媒介に陽子がヘリウムへ変化するCNOサイクルもエネルギー発生のメカニズムであるが、この反応では炭素などの元素は基本的に増加しない。
恒星は水素を消費しながらエネルギーを生じるが、それが進むと中心核にはヘリウムが溜まり、水素の核融合反応は核の周辺部で行われるようになる。そしてある程度のヘリウムが蓄積され温度が1億度に達すると中心核でヘリウム3個の核融合であるトリプルアルファ反応が起こり、炭素が生成される(ヘリウム燃焼過程)。比較的軽い星では膨張し赤色巨星となり、やがて星間ガスとして元素を放出しながら白色矮星となる。
質量が太陽の3倍程度までの恒星では、核融合反応で生成される元素は炭素止まりだが、より大きな星では核に溜まった炭素や酸素を使う反応(炭素燃焼過程や酸素燃焼過程)へ進み、ネオンやケイ素等を経て最終的に鉄までが生成される。安定した鉄の原子核は電気反発力が強く核融合を起こさないため、恒星の中心部ではエネルギー発生が止まる。この段階で恒星は鉄を中心に外側に段々と軽い元素が多層を成し、たまねぎのような構造となる。これが超新星爆発を経て放出される。
恒星内の核融合反応では、鉄より重い元素はほとんど生成されず、ごくわずか生じてもすぐに分解してしまう。これらは、原子核が電気反発力を生じない中性子を獲得するという全く別の方法で生じるが、そのような反応が可能となる場所は限られる。ひとつは、既に鉄などの重い元素を含む第二世代の恒星内であり、もうひとつは超新星爆発の瞬間である。
太陽よりやや重い程度の恒星(中質量星)では、中心部の核融合で生成される元素は炭素までに止まる。このような星の晩年には、メカニズムははっきり分かっていないが剥き出しの中性子が生じ、第二世代星が元々含んでいた重元素がこれを捕獲する。すると、同じ陽子の数ながら中性子数が多い同位体となる。これが不安定な同位体となると、中性子がベータ崩壊を起こして陽子に変化し、原子番号がひとつ多い元素へ変化する。この反応が繰り返され、鉄よりも重い元素が生成される。中質量星の内部では比較的中性子の数が少なく、捕獲とベータ崩壊が順次繰り返される。これは「遅い過程・s過程」(s-プロセス、sはslowの略)と呼ばれる。この過程において、中性子捕獲は数万年から数十万年に1個であり、ビスマスまでの重元素を生成すると考えられる。
「遅い過程」に対し、中性子数が多くベータ崩壊の機会を与えない環境が、超新星爆発である。太陽の10倍以上の質量を持つ恒星では、その末期になると中心部に中性子のかたまりが形成され、やがて重力崩壊による大規模な爆発を起こして終焉を迎える。このII型に分類される超新星爆発の際も中性子が発生し、恒星内の元素に中性子捕獲を起こす。しかもこれは数秒間という短い時間に大量の中性子を供給し、不安定な同位体にベータ崩壊を起こす暇を与えず、質量数をどんどん増やす合成を行う。そのため、高質量数となった同位体は宇宙空間へ放出された後に、崩壊すると原子番号が高い元素へ変換される。これは「早い過程・r過程」(r-プロセス、rはrapidの略)と呼ばれる。この過程では、観測からウランより重いカリホルニウムの生成が確認されている。しかしこのメカニズムも不明な点が多い。
過程の詳細は判明していないが、他にも元素合成を起こす宇宙の現象がある。質量が太陽程度の恒星が中性子星と連星になっている場合、その質量が太陽の約1.4倍になるとIa型超新星爆発を起こし、重い元素が生成される可能性が指摘されている。
また、中性子星同士が衝突した際にも元素合成が生じるとの指摘もある。恒星を舞台に元素合成する理論だけでは説明できなかった地球上に存在する金や白金などの量について、イギリスのレスター大学とスイスのバーゼル大学の協同チームはスーパーコンピュータを用いて試算し、中性子星同士が衝突することで生成・放出される説を発表した。
元素の分布には偏りがあり、その存在比は範囲によって大きく異なる。この比率構成は元素構成比と呼ばれる。
宇宙の元素構成比は、宇宙論により推定され、隕石分析や星の光のフラウンホーファー線解析および宇宙線調査など天文学的観測により裏付けられる。ただし宇宙の大きさが確定していない現在では、各元素の絶対量を決定できず、存在比のみが推計されている。これは1956年にスース・ユーリー図表として発表され、1968年にデータの更新を受けている。これによると、ビッグバンで生成された水素に次いでヘリウムの存在比が多く、それに比べてリチウム、ベリリウム、ホウ素の比率は極端に低い。炭素以下はほぼ原子番号の増加とともに比率が下がってゆく傾向を持つが、特徴的な部分は原子番号偶数の元素が隣り合う奇数の元素よりも存在比が多いところにある。
また中性子捕獲による元素合成では、原子核に存在する数によって安定する中性子の魔法数が影響を及ぼす。これは中性子数が50, 82, 126等になると、さらに中性子を捕獲して原子量を高める反応が鈍くなるもので、結果的にこれらの中性子数を持つストロンチウム(陽子:中性子=38:50)、バリウム(56:82)、鉛(82:126)元素が比較的多くなる。
地球全体の元素構成は、コアやマントルを直接調査できないため、隕石(コアとしての隕鉄、マントルとしてのアコンドライト)の分析や地震波から各層の弾性率・密度等の解析を組み合わせて推計される。これによると存在比で酸素が最も多く、宇宙に多い水素やヘリウムの比率は低い。金属類も多く、ケイ素、マグネシウム、鉄などが上位を占める。なお、硫黄は硫化鉄状で広範囲に分散しているため、存在比がはっきり分かっていない。
地殻を構成する主たる元素は、古典的な研究成果として質量比で示されるクラーク数が広く知られている。酸化物として地殻に、水として水圏に、そしてガスとして大気圏に存在する酸素が全球の存在比と同じく最も多い。違いはマグネシウムやニッケルが少なく、水素やナトリウムおよびアルミニウムが多い点がある。
人間の体を構成する元素は、水をつくる水素と酸素が圧倒的に多い。その存在比は海水との相関性が指摘されている。ただし、唯一の例外はリンであり、また人体は微量ながら酵素の活性に必要な微量元素が使われている。
鉱物学において、単一の元素あるいは合金からなる鉱物のことを元素鉱物(げんそこうぶつ、英: native element mineral)という。元素鉱物は金属(銅、白金、鉄、金、銀)、半金属(砒素)、非金属(硫黄、炭素)の3グループに分けられる。単体のものは元素名と区別するため、「自然」(native)を付けて「自然金」(native gold)、「自然蒼鉛」(native bismuth)などと呼ばれる。 | [
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"text": "いろいろなモノが一体何からできているのかという疑問と考察は洋の東西を問わず古代からあり、物質観・自然観・世界観と関連づけながらそれぞれの文明圏で体系がなされた。それらが「火」「水」「土」など自然現象から抽出された少数の「元素」であり、宗教と関連づけられることもあった。物質の根源が(現在に似た方向で)体系づけられたことはアイルランドの自然哲学者ロバート・ボイル(1627年–1691年)に始まるといわれる(彼の考え方が後の科学者に共通認識として広がることになった)。彼は実験・測定・分析を重視し、それらの結果から「これ以上細かく分けられない物質」を元素と定義した。以後、様々な考察とそれを裏付ける実験が行われ、元素を「粒子」として捉える今日の元素観および原子論が確立された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "元素の性質は最外殻電子(価電子)に大きく影響されるため、同様な性質を持つ元素は元素の族(元素群)として、周期表においても族(周期表の列)や系列として纏められている。現在、元素は118種類の存在が確認され、いずれも国際純正・応用化学連合(IUPAC)により正式名称が与えられている。なお、元素は173番目まで存在可能との説も唱えられている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "古代中国における物質の根源に関わる思想は、周代の紀元前11 - 4世紀頃には体系づけられた。『周易』は、自然現象は「天・流水・火・雷・風・水・山・地」の8つの基本に帰し、これと陰陽思想の根源である対位思想「陰」と「陽」が組み合わさったものと見なした。物質の根源要素には「木」・「火」・「土」・「金」・「水」の5つを基本物質である「元素」と考える五行思想を置き、これに陰陽が関わり宇宙のすべてが成り立つと考える陰陽五行思想を構築した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この思想を基礎に、未来を予想する方法が発達し易法となった。また道教にも取り入れられ、成立した陰陽道は日本にも伝わった。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "古代インドにおける根源論には、古ウパニシャッドに登場するウッダーラカ・アールニの思想「有(う、sat)の哲学」に汲み取れる。彼の思想には、すべてのものは微小なアートマン(我)だと言及する部分がある。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "具体的な根源物質観は、『パーリ語経典』経蔵・長部の『沙門果経』に見ることができる。ここで述べられている考えは、紀元前5世紀前後の釈迦と同時代人と伝わる思想家集団である「六師外道」たちによって形成された古代インド原子論である。アジタ・ケーサカンバリンは「存在を構成する物質元素は、地・水・火・風の四大である」という論を主張した。また、パクダ・カッチャーヤナは「生命は絶対的な地・水・火・風・楽・苦・命の7つの要素から構成されている」と説いた。彼らの思想は、カッチャーヤナの「ものを切る剣は、この要素の隙間を通る」という言葉に表される通り、元素をanu(微小なもの)、paramanu(極限まで微小なもの)と説明しており、これらが漢語において「極微」と訳される事から「極微論」と言うことができる。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "インドの極微論は六派哲学や宗教に引き継がれていった。ニヤーヤ学派・ヴァイシェーシカ学派が4つの元素に対応する4つの極微(原子)を想定したのに対し、六師外道の一人マハーヴィーラが創始したジャイナ教では初期の頃、極微に種類を設けなかったと考えられる。しかしジャイナ教もやがて「蝕・味・香・色」という性質と、「冷湿・冷乾・熱湿・熱乾」という現れ方があると考えるようになり、複数の極微を想定するようになった。",
"title": "歴史"
},
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"tag": "p",
"text": "仏教においても万物の構成要素として「地・水・火・風」を「四大」または「四大種」という考え方がある。ただしこれらにはそれぞれに「形・象徴・色・機能」といった付帯的な特徴を持ち、様々な現象(rupa、「色」)の根本という抽象的解釈で語られる。この概念は拡大して「空(くう)」を加えた五大(マウアラカキヤ)、さらに「識」を加えた六大へと発展し、観念的・哲学的な思想へと意義を変化させた。これらは中国の五行思想ともども近代的な物質要素の科学には繋がらなかった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "西アジアやヨーロッパでも古代エジプトやメソポタミアなど高度な古代文明が発達したが、これらからは物質の根源に関わる記録が発見されておらず、唯一古代ギリシアにおける思想が伝わっており、この考え方は長くヨーロッパで受け入れられた。紀元前6~4世紀の哲学者たちは、万物のあらゆる生成と変化の根源にある原理を「アルケー」などと呼び、これらが一体何なのかを論じた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "タレスは、氷や水蒸気などの相を持ち、硬い岩も風化させる「水」がアルケーだと論じた。これは正しくは、水のような流体性を持つものが根本物質であるという事を指している。タレスの孫弟子に当るアナクシメネスはこの考えをさらに深め、アルケーは「空気」だと説き、これが濃くなれば風や雲、やがて水や岩などに変化すると述べた。ただしアナクシメネスの主張は、タレスと同じく流体性が根本にあると見なし、生物の呼吸などを含めアルケーを的確に表すものとして空気を示している。同時代には、根源を火として「万物は流転する」と述べ、火が変化して空気や水または土などを生成すると述べるヘラクレイトスも現れた。ただし彼が言う火も基本物質ではなく闘争原理を指す。これらは、一つの原理で自然界の多様性を説明する方法論であった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "これに対し、パルメニデスやゼノンらエレア派は「ある」ものの不変・不動性を説く立場から、単一の原理とその変化で多様な世界を説明することは誤りという主張を行った。このエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明した哲学者がエンペドクレスであった。彼は、アルケーがひとつではなく4つのリゾーマタから成立すると述べ、その四大元素に「火、空気、水、土」を置き、新生も消滅もしないこれらが離散・集合して多数の元素や自然界のできごとが成立していると提唱した。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ピタゴラス学派は「万物は数である」と述べ、四大元素論と当時発見されていた正多面体を対応させ、「火・土・水・空気」に「正4・6・8・20面体」を置き、後に見つかった正12面体は宇宙を現すと主張した。",
"title": "歴史"
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"text": "プラトンは四大元素論に階層的な概念を導入し、土が正六面体でもっとも重く、他のリゾーマタは三角形からなる正多面体で、火が最も軽いリゾーマタであり、これらはそれぞれの重さに応じて運動し互いに入り混じると考えた。これは、物体は物体でしかないという彼の主張から導き出された。プラトンの作かどうか疑問視されている著書では、4つのリゾーマタに加え、天の上層を構成するとして「アイテール」が導入されている。彼に続く一派は、物質の多様性を説明するためにイデア論を機軸に置き、三角形がイデアを示すかたちであり、これは分割ができないものという「極微論」に似た主張を行った。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "紀元前350年ごろ、アリストテレスは無限を考察する際に、これを否定する論述のひとつにおいて有限個数の四大元素論を用い、4つのリゾーマタは相互に反対の性質を持ち、もし無限が存在するならば世界はどれか一つの性質で満たされてしまうと述べた。また、『天体論』において天上にのみ存在し円運動をするアイテールを、直線的に動く4つのリゾーマタの上位として立てた。アイテルを語源とするアイテールは、のちの自然学における第五元素とされ、宇宙を満たす媒質エーテルの構想へとつながっていく。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "プラトンやアリストテレスよりもやや時代的に先行するレウキッポスとデモクリトスは、エンペドクレスと同様、パルメニデスらエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明しようとした。彼らは、自然を構成するそれ以上分割できない最小単位として「原子(アトム)」が存在すると考え、生成消滅しない無数の原子の結合分離の仕方(原子のさまざまな形状・並び方・向き)により多様な事物やその生成変化が生じるなどと論じた。だが、彼らの「原子論」は当時あまり評価されることは無く、ヨーロッパにおいては主に四元素説が中世のスコラ哲学へ継承されてゆくことになる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "古代ギリシア哲学の元素論は中世ヨーロッパに直接伝わらず、エジプトやアラブ世界を経由して錬金術に組み込まれた。ここでは経験的技術の蓄積や実験手段の洗練化が行われたが、卑金属から貴金属をつくるという目的と、成果が秘匿されたために情報が孤立する傾向にあり、元素の探求にはあまり寄与しなかった。その中で、ジャービル・イブン=ハイヤーン(721年? - 815年?)やパラケルスス(1493年? - 1541年)が唱えた根源物質としての三元素が伝わっているが、これは硫黄・水銀・塩を指した。この三元素のうち硫黄と水銀は単体だが、塩は化合物の塩化ナトリウムであり、今日的な元素概念からすれば意味は無い。ただし、この三物質はそれぞれ共有結合・金属結合・イオン結合という化学結合の主な3種類に対応している。しかし、ジャービルがこれを意識していたかどうかはわからない。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "物質の根源は何かという問いを改めて提議した人物がアイルランド生まれのロバート・ボイル(1627年 - 1691年)である。彼は著作『懐疑的化学者』にて思索だけに頼った古代ギリシア哲学の元素論を批判し、実験を重視して元素を探求すべきという主張を行った。また彼は、元素に「これ以上単純な物質に分けられないもの」という粒子説の定義を与え、さらに元素は古代的考えの4-5個では収まらないという先見的な予測を示した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "ボイルの主張後、実験によって様々な「不可分なもの」の探求が行われた。アントワーヌ・ラヴォアジエは1789年の著作『化学原論』にて、当時見つかっていた33種類の元素を纏めた表を採録した。ただしその中には熱素や光があった。また化合物であるマグネシアやアルミナなども含まれていたが、これは当時の実験技術の限界によるもので、ボイル以来の考え方そのものは正しかった、と斎藤は解説した。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ラヴォアジエの「質量保存の法則」やジョゼフ・プルーストが1799年に発表した「定比例の法則」を元に、ジョン・ドルトンは1801-1808年に執筆した一連の論文で「原子説」を唱えた。これは、物質の根元は原子(atom)であり、これは元素の種類に対応するだけの数がある、同じ原子は質量や大きさが同一で異なる原子はそれらが一致しないと述べ、原子量の概念を提示した。さらに物質は同じ原子の集まりである単体と異なる原子の集まりである化合物があるとし、窒素と酸素からなる5つの化合物を示してこれを証明した。この理論は、内包した矛盾点をジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックの「気体反応の法則」やアメデオ・アヴォガドロの「アボガドロの法則」などが修正し、広く受け入れられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "古代から知られていた単体の種類は貴金属や炭素など11に過ぎなかったが、17世紀以降には実験を通じて様々な単体が得られ、その数に応じて発見された元素の個数は増えた。17世紀にはリンなど3種、18世紀には水素や酸素からウランを含む13種、19世紀には56種の元素が見つかった。20世紀には自然界に存在する元素の残り5種類に加え、人工放射性元素が15種類合成された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "このような元素の増加に伴い、特性に応じた分類や系統立てが行われた。ラヴォアジエは化合物の性質から金属元素・土類元素・非金属元素の3種類の区分を提案した。さらに測定精度が高まった原子量を重視した並びから規則性(周期律)を見出そうとする試みも提案された。そして、1869年にドミトリ・メンデレーエフが提案した周期表は改良を重ねて原子価を重視した特長で並べられ、当時未発見の元素を予言するなど洗練された系統表として広く認められるようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "19世紀には各元素の発見が相次ぎ、それぞれの特徴が把握され蓄積されたが、このような性質がどのような原理で生じるかは分かっていなかった。そして、各元素は不変だと考えられていた。しかし19世紀末から20世紀初頭にかけ、放射性元素と放射能が発見され、アルファ崩壊が確認された。これによって、一部の元素は原子量を低くする方向へ分裂する事が判明した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "アルファ崩壊発見などで業績を残したアーネスト・ラザフォードは原子核を発見し、1911年にラザフォードの原子模型を提唱した。これにニールス・ボーアは量子仮説を加えてボーアの原子模型を発表した。これによって基本的な原子の構造や周期律が生じる理由などが説明され、元素は原子という構造を持つ物質として知られるようになり、その研究は化学から物理学の素粒子物理学分野へと発展していった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1911年、ラザフォードは窒素にアルファ線を放射して水素イオンとその時は検出されなかったが酸素を作り出し、低原子量の元素を転換させることに成功した。1920年代からは様々な元素を人工的に変える実験が行われ、粒子加速器も発明された。これらから、低原子量の元素変換には高いエネルギーが必要になることが判明してきた。1932年には以前から存在が予測されていた中性子が発見され、これを用いた実験を通じて半減期が短く基本的に地球上には存在しない人工放射性元素や超ウラン元素が作られるようになった。さらにこの実験を通じて1938年には核分裂が発見され、人類は原子力エネルギーを手にすることになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "元素を表すには元素記号が使われ、これは原子や分子を表すためにも用いられる。例えば、水は元素は酸素Oと水素Hから作られH2Oと表記される。これら元素の表示方法はラヴォアジエが命名法を提議した。元素記号はドルトンから始まり、多くの原子量決定にも貢献したイェンス・ベルセリウス(1779年 - 1844年)によって当時のラテン語名の頭文字から大文字を取り随時2文字以降から小文字を取って組み合わせる現行の記法が提案された。現在はIUPACによってIUPAC名(英名)と元素記号が管理されている。",
"title": "表記法"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "新元素の名称及び元素記号に対しては2002年にIUPACからの勧告で、発見者が名前を提案する権利を持ち、伝統を守るべく神話(天体)や、鉱物など、地理的な場所、元素の性質、科学者への献名の何れかによって命名され、過去に別の元素に対して用いられた名称(廃棄名)・元素記号は再利用すべきでないとされる。金属元素は-iumで終了すべきであるが、17周期の元素は-ineで18周期の元素は-onでそれぞれ終了すべきである。一方、正式名が未定な新元素に対しては暫定名と暫定記号の命名規則がIUPACによって1978年より定められている(元素の系統名を参照)。エキゾチック原子に対する系統的な命名法は存在しないが、ミューオニウム (muonium、元素記号Mu)はIUPACで命名されており、化合物も合成され命名されている。他に元素記号を有するエキゾチック原子にはポジトロニウム (positronium、元素記号Ps)がある。",
"title": "表記法"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "元素名の日本語表記については『学術用語集 化学編』に定められている。原則としてIUPAC名を「化合物名日本語表記の原則」の「化合物名の字訳標準表」の規則に従いアルファベットの綴り字を機械的にカタカナと置き換えて日本語化する(訳字)。それ故、必ずしも発音に忠実なカタカナ表記にはならない。また、学術用語集の初版制定時にすでに日本語化しているものと、すでに英語以外の言語を基に訳字された用語はそのまま固定するように定めたので、英語以外の言語を語源とする日本語表記も存在する。次に示す。なお、日本語表記されている元素の中にはフッ素(弗素)などのように漢字表記はあるものの、使用している漢字が当用漢字(現在の常用漢字)に含まれていなかったために学術用語上ではカタカナ表記にしているものもある。",
"title": "表記法"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "20世紀前半、「宇宙には始まりがなく、宇宙の大きさは無限だ」とほとんどの科学者によって信じられていた時に、ジョルジュ・ルメートルが、「宇宙は原始的原子(primeval atom)の“爆発”で始まった」とするモデルを提唱した。ジョージ・ガモフがその理論を発展させるが(ビッグバン理論)、この理論が提唱された当初、この理論はほとんど誰からも信じられなかった。1950年代でも支持者は少なく、フレッド・ホイルからも激しい反論がされ議論が起きたが、どちらの理論が正しいか判定しようにも、天文観測の世界で最先端施設であり理論を塗り替える役割を果たしていたウィルソン山天文台ですら、判定に必要な観測データは1920〜1930年代に集められた精度の低いものしか持っておらず、本当のところ一体どちらの理論に分があるのか、観測データに基づいて判定できるような状態ではなかった。将来観測を行うことで得られるであろう、より精度の高いデータにこの議論の行方がかかっているような状況だった。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ところで、同理論でジョージ・ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを一種の熱核爆弾の火の玉だと捉え、創造の材料が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した(これらの材料のことをガモフは「アイレム(英語版)」と呼び、それらは陽子、中性子、電子、ガンマ線の高密度ガスなどだ、とした)。従来どおりの定常宇宙論を支持するフレッド・ホイルのほうは、ライバル理論であるビッグバン・モデルと競うためには、自分の理論のほうも炭素・酸素・金・鉄・窒素・ウラン・鉛などの元素が存在するに至った起源を説明しなければならない、ということを意識するようになり、ビッグバンが無くても元素が創生されたと説明することができることを示そうと、「星(天体)ではありとあらゆる核種変換が起こっている」とする考え方を提唱した。ホイルはこの考え方を支持する証拠を得るために1953年にカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所(Kellogg Radiation Lab)に赴いて、所長のウィリー・ファウラーの協力で、泡箱を用いて3個のヘリウム原子核の衝突による実験を成功させたのであった。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "だが、1965年に宇宙マイクロ波背景放射が発見され、その解釈や説明のための議論が科学者らの間で進められるようになると、徐々にビッグバン理論のほうを支持する科学者の割合が増えてゆくことになり、定常宇宙論のほうは徐々に支持を失ってゆくことになった(その後も様々な観測データが出されるたびに、ビッグバン理論のほうはますます支持者を増やし、ほとんどの科学者から支持されるようになった)。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "(現在、ほとんどの科学者から支持されていると言ってもいい)ビッグバン理論では、宇宙開闢では非常に高いエネルギーの解放が起こり、ビッグバンと呼ばれる大爆発とともに急速な膨張を起こしながら温度を下げ、エネルギーが転移してすべての物質が生まれた、というのである。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "近年の物理学者の説明によると、ビッグバン発生直後は高エネルギーのみで宇宙は満たされていたが、1秒経過後には温度が1000億度程度まで下がり、陽子と中性子が生成され、この時点では電子やニュートリノと反応を起こして陽子と中性子は双方向に変化しつつ平衡状態にあったとされる。しかしこの環境下では、陽子と電子が反応するにはエネルギーを要するのに対し、中性子は電子と反電子ニュートリノを放出して容易に陽子へと変化した。そのため、膨張による温度低下とともに相対的に陽子の数が多くなってゆく。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "100秒程が経ち温度が100億度前後まで下がると、陽子と中性子が結びつき始め、重水素の原子核が生成され始め、さらに質量数4のヘリウムHeへ原子核反応を起こす。ヘリウム原子核を構成すると中性子は安定し崩壊は起こらなくなる。この合成が進行した頃、陽子と中性子の個数比は7対1であったため陽子が大量に残り、これが水素となった。宇宙がさらに冷えて電子を取り込み元素となった際、この陽子と中性子の差から、水素とヘリウムの個数比はほぼ12対1となった。これらビッグバンにおける元素生成は約10分間で終了したと言われる。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ただし、ビッグバンで生成された元素には、微量のリチウムも存在したと考えられる。高エネルギー下で元素が生成される際、若干ながら三重水素Hやヘリウム3 Heが生じ、これがHeと核融合することがあり、これが質量数7のリチウムの同位体となった可能性が指摘された。宇宙誕生直後に生まれた非常に古い第一世代の星を観測すると、恒星内での核融合や外部からの元素取り込みが無いため重元素はほとんど観測されないが、有意なリチウムの含有が確認された例があり、これはビッグバンで生成された元素だと考えられている。ただし、理論と観測ではその量に差があり、ビッグバン理論には修正が求められる可能性がある。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ほとんどが水素かヘリウムであったビッグバンで生成された元素は、そのままでは宇宙の中に散ってしまっていたが、やがて密度が高い領域で集まり、高温高圧となった部分が第一世代の恒星となり核融合反応が始まった。最初の恒星は、ビッグバンから2億年後に生まれたと考えられている。恒星の中では陽子-陽子連鎖反応によって水素(陽子)がヘリウムへ核融合を起こし、これによって生じるエネルギーで輝く星を主系列星という。なお、恒星内で炭素・窒素・酸素を媒介に陽子がヘリウムへ変化するCNOサイクルもエネルギー発生のメカニズムであるが、この反応では炭素などの元素は基本的に増加しない。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "恒星は水素を消費しながらエネルギーを生じるが、それが進むと中心核にはヘリウムが溜まり、水素の核融合反応は核の周辺部で行われるようになる。そしてある程度のヘリウムが蓄積され温度が1億度に達すると中心核でヘリウム3個の核融合であるトリプルアルファ反応が起こり、炭素が生成される(ヘリウム燃焼過程)。比較的軽い星では膨張し赤色巨星となり、やがて星間ガスとして元素を放出しながら白色矮星となる。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "質量が太陽の3倍程度までの恒星では、核融合反応で生成される元素は炭素止まりだが、より大きな星では核に溜まった炭素や酸素を使う反応(炭素燃焼過程や酸素燃焼過程)へ進み、ネオンやケイ素等を経て最終的に鉄までが生成される。安定した鉄の原子核は電気反発力が強く核融合を起こさないため、恒星の中心部ではエネルギー発生が止まる。この段階で恒星は鉄を中心に外側に段々と軽い元素が多層を成し、たまねぎのような構造となる。これが超新星爆発を経て放出される。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "恒星内の核融合反応では、鉄より重い元素はほとんど生成されず、ごくわずか生じてもすぐに分解してしまう。これらは、原子核が電気反発力を生じない中性子を獲得するという全く別の方法で生じるが、そのような反応が可能となる場所は限られる。ひとつは、既に鉄などの重い元素を含む第二世代の恒星内であり、もうひとつは超新星爆発の瞬間である。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "太陽よりやや重い程度の恒星(中質量星)では、中心部の核融合で生成される元素は炭素までに止まる。このような星の晩年には、メカニズムははっきり分かっていないが剥き出しの中性子が生じ、第二世代星が元々含んでいた重元素がこれを捕獲する。すると、同じ陽子の数ながら中性子数が多い同位体となる。これが不安定な同位体となると、中性子がベータ崩壊を起こして陽子に変化し、原子番号がひとつ多い元素へ変化する。この反応が繰り返され、鉄よりも重い元素が生成される。中質量星の内部では比較的中性子の数が少なく、捕獲とベータ崩壊が順次繰り返される。これは「遅い過程・s過程」(s-プロセス、sはslowの略)と呼ばれる。この過程において、中性子捕獲は数万年から数十万年に1個であり、ビスマスまでの重元素を生成すると考えられる。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "「遅い過程」に対し、中性子数が多くベータ崩壊の機会を与えない環境が、超新星爆発である。太陽の10倍以上の質量を持つ恒星では、その末期になると中心部に中性子のかたまりが形成され、やがて重力崩壊による大規模な爆発を起こして終焉を迎える。このII型に分類される超新星爆発の際も中性子が発生し、恒星内の元素に中性子捕獲を起こす。しかもこれは数秒間という短い時間に大量の中性子を供給し、不安定な同位体にベータ崩壊を起こす暇を与えず、質量数をどんどん増やす合成を行う。そのため、高質量数となった同位体は宇宙空間へ放出された後に、崩壊すると原子番号が高い元素へ変換される。これは「早い過程・r過程」(r-プロセス、rはrapidの略)と呼ばれる。この過程では、観測からウランより重いカリホルニウムの生成が確認されている。しかしこのメカニズムも不明な点が多い。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "過程の詳細は判明していないが、他にも元素合成を起こす宇宙の現象がある。質量が太陽程度の恒星が中性子星と連星になっている場合、その質量が太陽の約1.4倍になるとIa型超新星爆発を起こし、重い元素が生成される可能性が指摘されている。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "また、中性子星同士が衝突した際にも元素合成が生じるとの指摘もある。恒星を舞台に元素合成する理論だけでは説明できなかった地球上に存在する金や白金などの量について、イギリスのレスター大学とスイスのバーゼル大学の協同チームはスーパーコンピュータを用いて試算し、中性子星同士が衝突することで生成・放出される説を発表した。",
"title": "元素の誕生"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "元素の分布には偏りがあり、その存在比は範囲によって大きく異なる。この比率構成は元素構成比と呼ばれる。",
"title": "元素の分布・存在比"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "宇宙の元素構成比は、宇宙論により推定され、隕石分析や星の光のフラウンホーファー線解析および宇宙線調査など天文学的観測により裏付けられる。ただし宇宙の大きさが確定していない現在では、各元素の絶対量を決定できず、存在比のみが推計されている。これは1956年にスース・ユーリー図表として発表され、1968年にデータの更新を受けている。これによると、ビッグバンで生成された水素に次いでヘリウムの存在比が多く、それに比べてリチウム、ベリリウム、ホウ素の比率は極端に低い。炭素以下はほぼ原子番号の増加とともに比率が下がってゆく傾向を持つが、特徴的な部分は原子番号偶数の元素が隣り合う奇数の元素よりも存在比が多いところにある。",
"title": "元素の分布・存在比"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また中性子捕獲による元素合成では、原子核に存在する数によって安定する中性子の魔法数が影響を及ぼす。これは中性子数が50, 82, 126等になると、さらに中性子を捕獲して原子量を高める反応が鈍くなるもので、結果的にこれらの中性子数を持つストロンチウム(陽子:中性子=38:50)、バリウム(56:82)、鉛(82:126)元素が比較的多くなる。",
"title": "元素の分布・存在比"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "地球全体の元素構成は、コアやマントルを直接調査できないため、隕石(コアとしての隕鉄、マントルとしてのアコンドライト)の分析や地震波から各層の弾性率・密度等の解析を組み合わせて推計される。これによると存在比で酸素が最も多く、宇宙に多い水素やヘリウムの比率は低い。金属類も多く、ケイ素、マグネシウム、鉄などが上位を占める。なお、硫黄は硫化鉄状で広範囲に分散しているため、存在比がはっきり分かっていない。",
"title": "元素の分布・存在比"
},
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"paragraph_id": 50,
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"text": "地殻を構成する主たる元素は、古典的な研究成果として質量比で示されるクラーク数が広く知られている。酸化物として地殻に、水として水圏に、そしてガスとして大気圏に存在する酸素が全球の存在比と同じく最も多い。違いはマグネシウムやニッケルが少なく、水素やナトリウムおよびアルミニウムが多い点がある。",
"title": "元素の分布・存在比"
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"text": "人間の体を構成する元素は、水をつくる水素と酸素が圧倒的に多い。その存在比は海水との相関性が指摘されている。ただし、唯一の例外はリンであり、また人体は微量ながら酵素の活性に必要な微量元素が使われている。",
"title": "元素の分布・存在比"
},
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"text": "鉱物学において、単一の元素あるいは合金からなる鉱物のことを元素鉱物(げんそこうぶつ、英: native element mineral)という。元素鉱物は金属(銅、白金、鉄、金、銀)、半金属(砒素)、非金属(硫黄、炭素)の3グループに分けられる。単体のものは元素名と区別するため、「自然」(native)を付けて「自然金」(native gold)、「自然蒼鉛」(native bismuth)などと呼ばれる。",
"title": "元素鉱物"
}
] | 元素は、古代から中世においては、万物(物質)の根源をなす不可欠な究極的要素を指しており、現代では、「原子」が《物質を構成する具体的要素》を指すのに対し「元素」は《性質を包括する抽象的概念》を示す用語となった。化学の分野では、化学物質を構成する基礎的な成分(要素)を指す概念を指し、これは特に「化学元素」と呼ばれる。 化学物質を構成する基礎的な要素と「万物の根源をなす究極的要素」としての元素とは異なるが、自然科学における元素に言及している文献では、混同や説明不足も見られる。 | [[ファイル:Atom(ver.2018.06).jpg|代替文=|サムネイル|400x400ピクセル|現代の化学での元素の説明。19世紀後半にその原型が提唱された[[周期表]]は、元素の種類と基本的な特徴や関係をその周期的な配列の中で説明する表である。]]
'''元素'''(げんそ、{{lang-la-short|elementum}}、{{lang-en-short|element}})は、[[古代]]から[[中世]]においては、万物([[物質]])の根源をなす不可欠な究極的要素<ref name="kojien5">広辞苑 第五版 岩波書店</ref>{{Sfn|斉藤|1982|pp=22-24|loc=1.3原子と元素}}を指しており、現代では、「[[原子]]」が《物質を構成する[[具体的]]要素》を指すのに対し「元素」は《[[性質]]を包括する[[抽象的]][[概念]]》を示す用語となった{{Sfn|斉藤|1982|pp=22-24|loc=1.3原子と元素}}{{Sfn|ニュートン別|2010|pp=12-13|loc=原子と元素はどうちがうのか?}}。[[化学]]の分野では、[[化学物質]]を構成する基礎的な[[成分]](要素)を指す概念を指し、これは特に「化学元素」と呼ばれる<ref name="kojien5" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/37767/m0u/|title=【化学元素】|author=デジタル大辞泉|publisher=goo辞書|language=日本語|accessdate=2011-10-01}}</ref>。
[[化学物質]]を構成する基礎的な要素と「万物の根源をなす究極的要素」<ref name="kojien5" />としての元素とは異なるが、[[自然科学]]における元素に言及している文献では、混同や説明不足も見られる{{efn|例えば、「図解入門 よくわかる最新元素の基本と仕組み」。「[[四元素]]論」を[[アリストテレス]]に帰着させ、アリストテレスを批判している。}}。
{{See also|元素周期表}}
== 概要 ==
[[古代]]から[[中世]]において、[[アルケー|万物の根源]]は仮説を積み上げる手段で考えられ、その源にある不可分なものを「元素」と捉えていた{{Sfn|斉藤|1982|pp=22-24|loc=1.3原子と元素}}。[[ヨーロッパ]]で成立した[[近代科学]]の成立以降、[[物質]]の基礎単位は[[原子]]、とする[[理論]]が構築されてからは、原子は「物質を構成する具体的要素」、元素は「性質を包括する抽象的概念」というように変わった{{Sfn|斉藤|1982|pp=22-24|loc=1.3原子と元素}}{{Sfn|ニュートン別|2010|pp=12-13|loc=原子と元素はどうちがうのか?}}。
《[[原子]]》は構造的な概念であるのに対して、《元素》は特性の違いを示す概念である{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。具体的には、各元素の差異は[[原子番号]]すなわち[[原子核]]に存在する[[陽子]]の数([[核種]])で区分される。したがって[[中性子]]の総数により[[質量数]]が異なる[[同位体]]も同じ元素として扱われる{{Sfn|ニュートン別|2010|pp=12-13|loc=原子と元素はどうちがうのか?}}。これに対し原子は中性子の個数を厳密に捉える。したがって、元素とは原子の集合名詞ということもできる{{Sfn|斉藤|1982|pp=22-24|loc=1.3原子と元素}}。[[電子]]の増減によって生じる状態である[[イオン]]は、原子が[[電荷]]を帯びた状態として考えられる{{Sfn|ニュートン別|2010|pp=14-15|loc=原子は電子を出入りさせイオンとなる}}。英語 "element" は「根本にあるもの」を意味する。他の用例では[[電気回路]]の「[[素子]]」も同じ単語が用いられる{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。
いろいろなモノが一体何からできているのかという疑問と考察は洋の東西を問わず古代からあり、[[物質観]]・[[自然観]]・[[世界観]]と関連づけながらそれぞれの[[文明]]圏で体系がなされた。それらが「火」「水」「土」など自然現象から抽出された少数の「元素」であり、[[宗教]]と関連づけられることもあった{{Sfn|斉藤|1982|pp=2-9|loc=1.1昔の物質観}}。物質の根源が(現在に似た方向で)体系づけられたことは[[アイルランド]]の[[自然哲学者]][[ロバート・ボイル]](1627年–1691年)に始まるといわれる(彼の考え方が後の科学者{{efn|「[[科学者]]」という用語が造語され、概念が用いられるようになったのはあくまで1833年のことである。}}に共通認識として広がることになった)。彼は[[実験]]・[[測定]]・[[分析]]を重視し、それらの結果から「これ以上細かく分けられない物質」を元素と定義した{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。以後、様々な考察とそれを裏付ける実験が行われ、元素を「[[粒子]]」として捉える今日の元素観および[[原子論]]が確立された{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。
元素の性質は[[最外殻電子]](価電子)に大きく影響されるため、同様な性質を持つ元素は[[元素の族]](元素群)として、[[周期表]]においても族(周期表の列)や系列として纏められている{{Sfn|ニュートン別|2010|pp=34-35|loc=メンデレーエフの正しさは、原子構造で証明された}}。現在、元素は118種類の存在が確認され、いずれも[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)により正式名称が与えられている。なお、元素は173番目まで存在可能との説も唱えられている{{Sfn|ニュートン別|2010|pp=70-74loc=周期表の元素が112個にふえた}}。
==歴史==
[[File:Discovery of chemical elements.svg|thumb|right|150px|発見された時代で色が分けられた周期表。なお、赤は古代から知られていた元素、黄色系統は1869年までに発見された元素、緑は1923年までに発見された元素、青は1945年までに発見された元素、灰色は20世紀末までに発見された元素である。]]
=== 古代の万物の根元観 ===
[[File:Wuxing.svg|thumb|left|150px|[[五行思想]]における5つの元素]]
==== 古代中国 ====
[[古代中国]]における物質の根源に関わる思想は、[[周]]代の紀元前11 - 4世紀頃には体系づけられた。『周易』は、自然現象は「天・流水・火・雷・風・水・山・地」の8つの基本に帰し、これと[[陰陽思想]]の根源である対位思想「[[陰]]」と「[[陽]]」が組み合わさったものと見なした。物質の根源要素には「木」・「火」・「土」・「金」・「水」の5つを基本物質である「元素」と考える[[五行思想]]を置き、これに陰陽が関わり[[宇宙]]のすべてが成り立つと考える[[陰陽五行思想]]を構築した{{Sfn|斉藤|1982|pp=2-9|loc=1.1昔の物質観}}。
この思想を基礎に、[[未来]]を予想する方法が発達し[[易|易法]]となった。また[[道教]]にも取り入れられ、成立した[[陰陽道]]は[[日本]]にも伝わった{{Sfn|斉藤|1982|pp=2-9|loc=1.1昔の物質観}}。
==== 古代インド ====
[[古代インド]]における根源論には、古[[ウパニシャッド]]に登場する[[ウッダーラカ・アールニ]]の思想「[[有]](う、sat)の哲学」に汲み取れる。彼の思想には、すべてのものは微小な[[アートマン]](我)だと言及する部分がある{{Sfn|山口|1996}}。
具体的な根源物質観は、『[[パーリ語経典]]』経蔵・長部の『[[沙門果経]]』に見ることができる。ここで述べられている考えは、紀元前5世紀前後の[[釈迦]]と同時代人と伝わる[[思想家]]集団である「[[六師外道]]」たちによって形成された古代インド原子論である{{Sfn|山口|1996}}。[[アジタ・ケーサカンバリン]]は「存在を構成する物質元素は、地・水・火・風の[[四大]]である」という論を主張した<ref>{{Cite web|和書|url=http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/ajita.htm |title=3.アジタ・ケーサカンバリンの唯物論|author=野沢正信|publisher=沼津高専教養科|language=日本語|accessdate=2011-01-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-4.html |title=パーリ仏典を読む 沙門果経(6) 第二章 六師外道の話 (三)アジタ・ケーサカンバラの教え|author= A・スマナサーラ、編集:杜多千秋|publisher=日本テーラワーダ仏教協会|language=日本語|accessdate=2011-01-08}}</ref>。また、[[パクダ・カッチャーヤナ]]は「[[生命]]は絶対的な地・水・火・風・楽・苦・命の7つの要素から構成されている」と説いた<ref>{{Cite web|和書|url=http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/pakuda.htm |title=4.バクダ・カッチャーヤナの七要素説|author=野沢正信|publisher=沼津高専教養科|language=日本語|accessdate=2011-01-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-5.html |title=パーリ仏典を読む 沙門果経(6) 第二章 六師外道の話 (四)パクダ・カッチャーヤナの教え|author= A・スマナサーラ、編集:杜多千秋|publisher=日本テーラワーダ仏教協会|language=日本語|accessdate=2011-01-08}}</ref>。彼らの思想は、カッチャーヤナの「ものを切る剣は、この要素の隙間を通る」という言葉に表される通り、元素をanu(微小なもの)、paramanu(極限まで微小なもの)と説明しており、これらが漢語において「極微」と訳される事から「極微論」と言うことができる{{Sfn|山口|1996}}。
インドの極微論は[[六派哲学]]や[[宗教]]に引き継がれていった。[[ニヤーヤ学派]]・[[ヴァイシェーシカ学派]]が4つの元素に対応する4つの極微(原子)を想定したのに対し、六師外道の一人[[マハーヴィーラ]]が創始した[[ジャイナ教]]では初期の頃、極微に種類を設けなかったと考えられる。しかしジャイナ教もやがて「蝕・味・香・色」という性質と、「冷湿・冷乾・熱湿・熱乾」という現れ方があると考えるようになり、複数の極微を想定するようになった{{Sfn|山口|1996}}。
仏教においても万物の構成要素として「地・水・火・風」を「[[四大]]」{{sfn|岩波仏教辞典|p=361}}または「[[四大種]]」{{sfn|櫻部|1981|p=66}}という考え方がある。ただしこれらにはそれぞれに「[[形]]・[[象徴]]・[[色]]・[[機能]]」といった付帯的な特徴を持ち、様々な現象(rupa、「[[色 (仏教)|色]]」)の根本という抽象的解釈で語られる。この概念は拡大して「[[空 (仏教)|空]](くう)」を加えた[[五大]](マウアラカキヤ)、さらに「[[識]]」を加えた[[六大]]へと発展し、観念的・哲学的な思想へと意義を変化させた。これらは中国の[[五行思想]]ともども近代的な物質要素の科学には繋がらなかった{{Sfn|斉藤|1982|pp=2-9|loc=1.1昔の物質観}}。
==== 古代ギリシア ====
西アジアやヨーロッパでも[[古代エジプト]]や[[メソポタミア]]など高度な古代文明が発達したが、これらからは物質の根源に関わる記録が発見されておらず、唯一[[古代ギリシア]]における思想が伝わっており、この考え方は長くヨーロッパで受け入れられた{{Sfn|斉藤|1982|pp=2-9|loc=1.1昔の物質観}}。紀元前6~4世紀の哲学者たちは、万物のあらゆる生成と変化の根源にある原理を「[[アルケー]]」などと呼び、これらが一体何なのかを論じた<ref>{{Cite web|和書|url=http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/lec04hist.html |title=西洋古代・中世哲学史(2004年度)|author=土橋茂樹|publisher=[[中央大学]]文学部哲学専攻 |language=日本語|accessdate=2011-01-08}}</ref>。
[[File:Thales.jpg|thumb|left|100px|[[タレス]]は、「水」に根元「要素」というよりも根元「性質」を重視した主張をした。]]
[[タレス]]は、[[氷]]や[[水蒸気]]などの[[相]]を持ち、硬い岩も[[風化]]させる「[[水]]」がアルケーだと論じた<ref>[[アリストテレス]]『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』第1巻第3章</ref>。これは正しくは、水のような流体性を持つものが根本物質であるという事を指している{{Sfn|石村|1998|pp=167-170|loc=第6項 本当に実在するものは、ものか、性質か 「もの」と「性質」の無限遡及}}。タレスの孫弟子に当る{{Sfn|石村|1998|pp=177-178|loc=第6項 本当に実在するものは、ものか、性質か 「気」の迷い-「万物は気である」(アナクシメネス)}}[[アナクシメネス]]はこの考えをさらに深め、アルケーは「[[空気]]」だと説き、これが濃くなれば風や雲、やがて水や岩などに変化すると述べた。ただしアナクシメネスの主張は、タレスと同じく流体性が根本にあると見なし、[[生物]]の[[呼吸]]などを含めアルケーを的確に表すものとして空気を示している{{Sfn|石村|1998|pp=177-178|loc=第6項 本当に実在するものは、ものか、性質か 「気」の迷い-「万物は気である」(アナクシメネス)}}。同時代には、根源を[[火]]として「万物は流転する」と述べ、火が変化して空気や水または土などを生成すると述べる{{Sfn|山口|1996}}[[ヘラクレイトス]]も現れた{{Sfn|斉藤|1982|pp=2-9|loc=1.1昔の物質観}}。ただし彼が言う火も基本物質ではなく闘争原理を指す{{Sfn|石村|1998|pp=183-186|loc=第6項 本当に実在するものは、ものか、性質か 4人の偉大な「形而上学」者}}。これらは、一つの原理で自然界の多様性を説明する方法論であった{{Sfn|山口|1996}}。[[File:Four elements representation zh.svg|thumb|right|200px|[[古代ギリシア]]、イスラム世界([[イスラム科学]])、中世〜18、19世紀頃までの[[ヨーロッパ]]で支持された[[四大元素]]説における元素の関係図。]][[File:Empedokles.jpeg|thumb|right|100px|[[エンペドクレス]]は、不変かつ複数の根元物質が混ざり合うことで自然の多様性を説明した。]]
これに対し、[[パルメニデス]]や[[ゼノン (エレア派)|ゼノン]]ら[[エレア派]]は「ある」ものの不変・不動性を説く立場から、単一の原理とその変化で多様な世界を説明することは誤りという主張を行った{{Sfn|山口|1996}}。このエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明した哲学者が[[エンペドクレス]]であった。彼は、アルケーがひとつではなく4つのリゾーマタから成立すると述べ、その四大元素に「火、空気、水、土」を置き、新生も消滅もしないこれらが離散・集合して多数の元素や自然界のできごとが成立していると提唱した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tamabi.ac.jp/idd/shiro/mecha/fluid/entropy/entropy.html |title=八雲|author=高橋士郎|publisher=[[多摩美術大学]]|language=日本語|accessdate=2011-01-08}}</ref>。
[[ピタゴラス]]学派は「万物は数である」と述べ、四大元素論と当時発見されていた[[正多面体]]を対応させ、「火・土・水・空気」に「[[正4面体|正4]]・[[正6面体|6]]・[[正8面体|8]]・[[正20面体|20面体]]」を置き、後に見つかった[[正12面体]]は[[宇宙]]を現すと主張した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.math.h.kyoto-u.ac.jp/~takasaki/soliton-lab/chron/has-hist/chap2.html |title=古代〜ギリシャ・ローマの数学|author=長谷川浩司|publisher=[[京都大学]]大学院人間・環境学研究科数理科学講座|language=日本語|accessdate=2011-01-22}}</ref>。
[[プラトン]]は四大元素論に[[階層]]的な概念を導入し、土が[[正六面体]]でもっとも重く、他のリゾーマタは[[三角形]]からなる[[正多面体]]で、火が最も軽いリゾーマタであり、これらはそれぞれの重さに応じて運動し互いに入り混じると考えた。これは、物体は物体でしかないという彼の主張から導き出された{{Sfn|千葉|2001}}。プラトンの作かどうか疑問視されている著書では、4つのリゾーマタに加え、天の上層を構成するとして「アイテール」が導入されている。彼に続く一派は、物質の多様性を説明するために[[イデア論]]を機軸に置き、三角形が[[イデア]]を示すかたちであり、これは分割ができないものという「極微論」に似た主張を行った{{Sfn|千葉|2001}}。
[[File:Aristotle Altemps Inv8575.jpg|thumb|left|70px|アリストテレス]]
[[紀元前4世紀|紀元前350年]]ごろ、[[アリストテレス]]は[[無限]]を考察する際に、これを否定する論述のひとつにおいて有限個数の四大元素論を用い、4つの[[リゾーマタ]]は相互に反対の性質を持ち、もし無限が存在するならば世界はどれか一つの性質で満たされてしまうと述べた{{Sfn|千葉|2001}}。また、『天体論』において天上にのみ存在し円運動をするアイテールを、直線的に動く4つのリゾーマタの上位として立てた{{Sfn|千葉|2001}}。[[アイテル]]を語源とするアイテールは、のちの[[自然学]]における[[第五元素]]とされ、[[宇宙]]を満たす媒質[[エーテル (神学)|エーテル]]の構想へとつながっていく。
[[File:Democritus2.jpg|thumb|right|70px|デモクリトス]]
プラトンやアリストテレスよりもやや時代的に先行する[[レウキッポス]]と[[デモクリトス]]は、エンペドクレスと同様、パルメニデスらエレア派の論理に矛盾せずに自然の多様性を説明しようとした。彼らは、自然を構成するそれ以上分割できない最小単位として「[[原子]](アトム)」が存在すると考え、生成消滅しない無数の原子の結合分離の仕方(原子のさまざまな形状・並び方・向き)により多様な事物やその生成変化が生じるなどと論じた。だが、彼らの「[[原子論]]」は当時あまり評価されることは無く、ヨーロッパにおいては主に[[四元素]]説が中世の[[スコラ哲学]]へ継承されてゆくことになる<ref>『世界大百科事典』、CD-ROM版、平凡社</ref>。
{{-}}
=== 中世の元素観 ===
==== [[錬金術]] ====
古代ギリシア哲学の元素論は中世ヨーロッパに直接伝わらず、[[エジプト]]や[[アラブ]]世界を経由して[[錬金術]]に組み込まれた。ここでは経験的技術の蓄積や実験手段の洗練化が行われたが、[[卑金属]]から[[貴金属]]をつくるという目的と、成果が秘匿されたために情報が孤立する傾向にあり、元素の探求にはあまり寄与しなかった。その中で、[[ジャービル・イブン=ハイヤーン|ジャービル・イブン=ハイヤーン]](721年? - 815年?)や[[パラケルスス]](1493年? - 1541年)<ref name="Kashida">{{Cite web|和書|url= http://www.ed.kanazawa-u.ac.jp/~kashida/PDF/chemIb/chap1/chemt101.pdf |format=PDF|title=Chapter1 物質の構造|author=樫田豪利|publisher=[[金沢大学教育学部附属高等学校]] |language=日本語|accessdate=2011-03-11}}</ref>が唱えた根源物質としての三元素が伝わっているが、これは[[硫黄]]・[[水銀]]・[[塩]]を指した{{Sfn|斉藤|1982|pp=2-9|loc=1.1昔の物質観}}{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。この三元素のうち硫黄と水銀は単体だが、塩は化合物の[[塩化ナトリウム]]であり、今日的な元素概念からすれば意味は無い。ただし、この三物質はそれぞれ[[共有結合]]・[[金属結合]]・[[イオン結合]]という[[化学結合]]の主な3種類に対応している。しかし、ジャービルがこれを意識していたかどうかはわからない{{Sfn|斉藤|1982|p=10|loc=錬金術の3元素}}。
=== 近世〜現代の元素観 ===
[[File:PSM V42 D450 Robert Boyle.jpg|thumb|left|120px|現代的元素観確立の端緒を開いた[[ロバート・ボイル]]。]]
==== 原子説 ====
物質の根源は何かという問いを改めて提議した人物が[[アイルランド]]生まれの[[ロバート・ボイル]](1627年 - 1691年)である。彼は著作『懐疑的化学者』にて思索だけに頼った古代ギリシア哲学の元素論を批判し、[[実験]]を重視して元素を探求すべきという主張を行った。また彼は、元素に「これ以上単純な物質に分けられないもの」という粒子説<ref name="Kashida" />の定義を与え{{efn|ただしボイルの定義は、元素と単体の区分が不明瞭であった{{Sfn|斉藤|1982|p=13|loc=単体と元素}}。}}、さらに元素は古代的考えの4-5個では収まらないという先見的な予測を示した{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。
{{Main|化学元素発見の年表}}
ボイルの主張後、実験によって様々な「不可分なもの」の探求が行われた。[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]は1789年の著作『化学原論』にて、当時見つかっていた33種類の元素を纏めた表を採録した。ただしその中には[[熱素]]や[[光]]があった。また化合物である[[マグネシア]]や[[アルミナ]]なども含まれていたが、これは当時の実験技術の限界によるもので、ボイル以来の考え方そのものは正しかった、と斎藤は解説した{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。
[[File:Dalton atomic symbols.jpg|thumb|right|150px|ドルトンの原子記号(左)と原子量(右の数字){{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}]]
ラヴォアジエの「[[質量保存の法則]]」や<ref name="Kashida" />[[ジョゼフ・プルースト]]が1799年に発表した「[[定比例の法則]]」を元に、[[ジョン・ドルトン]]は1801-1808年に執筆した一連の論文で「原子説」を唱えた。これは、物質の根元は[[原子]](atom)であり、これは元素の種類に対応するだけの数がある、同じ原子は質量や大きさが同一で異なる原子はそれらが一致しないと述べ、[[原子量]]の概念を提示した。さらに物質は同じ原子の集まりである[[単体]]と異なる原子の集まりである[[化合物]]があるとし、窒素と酸素からなる5つの化合物を示してこれを証明した{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。この理論は、内包した矛盾点を[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック|ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]]の「[[気体反応の法則]]」や[[アメデオ・アヴォガドロ]]の「[[アボガドロの法則]]」などが修正し、広く受け入れられるようになった{{Sfn|斉藤|1982|pp=9-22|loc=1.2近代科学と元素}}。
{{-}}
==== 元素の発見と整理 ====
古代から知られていた単体の種類は貴金属や炭素など11に過ぎなかったが、17世紀以降には実験を通じて様々な単体が得られ、その数に応じて発見された元素の個数は増えた。17世紀には[[リン]]など3種、18世紀には水素や酸素からウランを含む13種、19世紀には56種の元素が見つかった。20世紀には自然界に存在する元素の残り5種類に加え、[[人工放射性元素]]が15種類合成された{{Sfn|斉藤|1982|pp=32-41|loc=2.1. 近代科学と元素}}。
{{Main|周期律|周期表}}
このような元素の増加に伴い、特性に応じた分類や系統立てが行われた。ラヴォアジエは化合物の性質から[[金属元素]]・土類元素{{efn|酸化物しか作らない元素のこと{{Sfn|斉藤|1982|p=34}}。}}・非金属元素の3種類の区分を提案した。さらに測定精度が高まった原子量を重視した並びから規則性([[周期律]])を見出そうとする試みも提案された。そして、1869年に[[ドミトリ・メンデレーエフ]]が提案した[[周期表]]は改良を重ねて[[原子価]]を重視した特長で並べられ、当時未発見の元素を予言するなど洗練された系統表として広く認められるようになった{{Sfn|斉藤|1982|pp=32-41|loc=2.1. 近代科学と元素}}。
==== 元素の正体 ====
[[File:Ernest Rutherford 1908.jpg|thumb|left|120px|元素の解明に様々な貢献を果たし、「原子物理学の父」と呼ばれる[[アーネスト・ラザフォード]]。]]
{{Main|核分裂反応|自発核分裂}}
19世紀には各元素の発見が相次ぎ、それぞれの特徴が把握され蓄積されたが、このような性質がどのような原理で生じるかは分かっていなかった。そして、各元素は不変だと考えられていた。しかし19世紀末から20世紀初頭にかけ、[[放射性元素]]と[[放射能]]が発見され、[[アルファ崩壊]]が確認された。これによって、一部の元素は原子量を低くする方向へ分裂する事が判明した{{Sfn|斉藤|1982|pp=53-62|loc=2.3. つくられた元素}}。
[[File:Helium atom QM.svg|thumb|right|150px|最新の原子論で描く[[ヘリウム]]。この構造について詳細は[[原子]]を参照。]]
{{Main|原子}}
アルファ崩壊発見などで業績を残した[[アーネスト・ラザフォード]]は[[原子核]]を発見し、1911年に[[ラザフォードの原子模型]]を提唱した。これに[[ニールス・ボーア]]は量子仮説を加えて[[ボーアの原子模型]]を発表した。これによって基本的な原子の構造や周期律が生じる理由などが説明され、元素は原子という構造を持つ物質として知られるようになり<ref>{{Cite web|和書|url= http://www2.nagano-nct.ac.jp/~jig/TQresults/40605/rekishi1.html |title=原子力の歴史 黎明期1895年-1952年|author=|publisher=[[長野工業高等専門学校]] |language=日本語|accessdate=2011-03-11}}</ref>、その研究は[[化学]]から[[物理学]]の[[素粒子物理学]]分野へと発展していった。
{{Main|原子核融合}}
1911年、ラザフォードは窒素に[[アルファ線]]を放射して水素イオンとその時は検出されなかったが酸素を作り出し、低原子量の元素を転換させることに成功した。1920年代からは様々な元素を人工的に変える実験が行われ、[[粒子加速器]]も発明された。これらから、低原子量の元素変換には高い[[エネルギー]]が必要になることが判明してきた。1932年には以前から存在が予測されていた[[中性子]]が発見され、これを用いた実験を通じて[[半減期]]が短く基本的に地球上には存在しない[[人工放射性元素]]や[[超ウラン元素]]が作られるようになった。さらにこの実験を通じて1938年には[[核分裂反応|核分裂]]が発見され、人類は[[原子力]]エネルギーを手にすることになった{{Sfn|斉藤|1982|pp=53-62|loc=2.3. つくられた元素}}。
==== 主な元素の発見 ====
* [[1766年]] - [[水素]]([[ヘンリー・キャヴェンディッシュ|キャヴェンディッシュ]])
* [[1772年]] - [[酸素]]([[カール・ヴィルヘルム・シェーレ|シェーレ]])
* [[1774年]] - [[塩素]]、[[バリウム]]、[[マンガン]](シェーレ)
* [[1778年]] - [[モリブデン]](シェーレ)
* [[1781年]] - [[タングステン]](シェーレ)
* [[1782年]] - [[テルル]](E.J.ミュラー)
* [[1817年]] - [[セレン]](イェンス・ベルセリウス)
* [[1824年]] - [[ジルコニウム]](ベルセリウス)
* [[1828年]] - [[タンタル]](ベルセリウス)
* [[1860年]] - [[セシウム]]([[ロベルト・ブンゼン|ブンゼン]])
* [[1861年]] - [[ルビジウム]](ブンゼン)
* [[1894年]] - [[アルゴン]]([[ジョン・ウィリアム・ストラット (第3代レイリー男爵)|レイリー卿]]と[[ウィリアム・ラムゼー|ラムゼー]])
* [[1898年]] - [[ネオン]]、[[クリプトン]]、[[キセノン]](ラムゼーと{{仮リンク|label=トラバース|モーリス・トラバース|en|Morris Travers}})
* [[1898年]] - [[ラジウム]]、[[ポロニウム]]([[マリ・キュリー]]と[[ピエール・キュリー]])
== 元素の種類 ==
{{See|元素の一覧|周期表}}
{{周期表/周期別 凡例}}
== 表記法 ==
元素を表すには[[元素記号]]が使われ、これは原子や[[分子]]を表すためにも用いられる。例えば、[[水]]は元素は酸素Oと水素Hから作られH₂Oと表記される。これら元素の表示方法は[[アントワーヌ・ラヴォアジエ|ラヴォアジエ]]が命名法を提議した。元素記号は[[ジョン・ドルトン|ドルトン]]から始まり、多くの原子量決定にも貢献した[[イェンス・ベルセリウス]](1779年 - 1844年)によって当時のラテン語名の頭文字から大文字を取り随時2文字以降から小文字を取って組み合わせる現行の記法が提案された<ref>{{Cite web|和書|url= http://kuchem.kyoto-u.ac.jp/ossc/old_ossc/kisobukka/kisobukka_1-1.doc |title=有機物理化学の基礎 第1章 囲み5|author=齋藤軍治|publisher=[[京都大学]]大学院理学研究科化学専攻|language=日本語|accessdate=2011-03-11}}</ref>。現在は[[国際純正・応用化学連合|IUPAC]]によってIUPAC名(英名)と元素記号が管理されている。
=== 新元素の名称及び元素記号と暫定名と暫定記号 ===
新元素の名称及び元素記号に対しては[[2002年]]にIUPACからの勧告で<ref>{{cite journal|last=Koppenol|first=W. H.|date=2002|title=Naming of new elements (IUPAC Recommendations 2002)|url=http://media.iupac.org/publications/pac/2002/pdf/7405x0787.pdf|journal=Pure and Applied Chemistry|volume=74|issue=5|page=787|doi=10.1351/pac200274050787}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Willem H. Koppenol, John Corish, Javier García-Martínez, Juris Meija and Jan Reedijk|year=2016|title=How to name new chemical elements (IUPAC Recommendations 2016)|journal=Pure Appl. Chem.|volume=88(4)|page=401–405}}</ref>、発見者が名前を提案する権利を持ち、伝統を守るべく神話(天体)や、鉱物など、地理的な場所、元素の性質、科学者への献名の何れかによって命名され、過去に別の元素に対して用いられた名称(廃棄名)・元素記号は再利用すべきでないとされる。金属元素は-iumで終了すべきであるが、17周期の元素は-ineで18周期の元素は-onでそれぞれ終了すべきである。一方、正式名が未定な新元素に対しては暫定名と暫定記号の命名規則がIUPACによって[[1978年]]より定められている([[元素の系統名]]を参照)<ref>J. Chatt, 1979, ''[http://www.iupac.org/publications/pac/1979/pdf/5102x0381.pdf Recommendations for the Naming of Elements of Atomic Numbers Greater than 100]'', Pure & Appl. Chem., Vol. 51, pp.381-384.</ref><ref name="iupac">{{Cite journal|author=W.H. Koppenol ([[国際純正・応用化学連合|IUPAC]])|year=2001|title=Names for muonium and hydrogen atoms and their ions|url=http://www.iupac.org/publications/pac/2001/pdf/7302x0377.pdf|journal=[[:en:Pure and Applied Chemistry|Pure and Applied Chemistry]]|volume=73|issue=2|pages=377–380|accessdate=2011-07-30|DOI=10.1351/pac200173020377}}</ref>。[[異種原子|エキゾチック原子]]に対する系統的な命名法は存在しないが、[[ミューオニウム]] (muonium、元素記号Mu)はIUPACで命名されており、化合物も合成され命名されている<ref name="iupac2">{{Cite journal|author=W.H. Koppenol ([[国際純正・応用化学連合|IUPAC]])|year=2001|title=Names for muonium and hydrogen atoms and their ions|url=http://www.iupac.org/publications/pac/2001/pdf/7302x0377.pdf|journal=[[:en:Pure and Applied Chemistry|Pure and Applied Chemistry]]|volume=73|issue=2|pages=377–380|accessdate=2011-07-30|DOI=10.1351/pac200173020377}}</ref>'''。'''他に元素記号を有するエキゾチック原子には[[ポジトロニウム]] (positronium、元素記号Ps)がある。
{{Main2|中国語の表記|元素の中国語名称}}
=== 日本語表記 ===
[[File:Brake_shoe_materials.jpg|thumb|200px|様々な元素と不正確な日本語表記]]
元素名の日本語表記については『[[学術用語集]] 化学編』に定められている。原則としてIUPAC名を「化合物名日本語表記の原則」の「化合物名の字訳標準表」の規則に従いアルファベットの綴り字を機械的にカタカナと置き換えて日本語化する(訳字)。それ故、必ずしも発音に忠実なカタカナ表記にはならない。また、学術用語集の初版制定時にすでに日本語化しているものと、すでに英語以外の言語を基に訳字された用語はそのまま固定するように定めたので、英語以外の言語を語源とする日本語表記も存在する。次に示す。なお、日本語表記されている元素の中にはフッ素(弗素)などのように漢字表記はあるものの、使用している漢字が[[当用漢字]](現在の[[常用漢字]])に含まれていなかったために学術用語上ではカタカナ表記にしているものもある。
=== 表記例 ===
{|class="wikitable"
!日本語表記!!元素記号!![[英語]](IUPAC名)!![[ドイツ語]]!![[ラテン語]]!![[中国語]]
|-
|[[水素]]||H||Hydrogen||Wasserstoff||Hydrogenium||氫
|-
|[[ヘリウム]]||He||Helium||Helium||Helium||氦
|-
|[[リチウム]]||Li||Lithium||Lithium||Lithium||鋰
|-
|[[ベリリウム]]||Be||Beryllium||Beryllium||Beryllium||鈹
|-
|[[ホウ素]]||B||Boron||Bor||Borium||硼
|-
|[[炭素]]||C||Carbon||Kohlenstoff||Carbonium||碳
|-
|[[窒素]]||N||Nitrogen||Stickstoff||Nitrogenium||氮
|-
|[[酸素]]||O||Oxygen||Sauerstoff||Oxygenium||氧
|-
|[[フッ素]]||F||Fluorine||Fluor||Fluorum||氟
|-
|[[ナトリウム]]||Na||Sodium||Natrium||Natrium||鈉
|-
|[[アルミニウム]]||Al||Aluminium||Aluminium||Aluminium||鋁
|-
|[[ケイ素]]||Si||Silicon||Silicium||Silicium||硅
|-
|[[リン]]||P||Phosphorus||Phosphor||Phosphorus||磷
|-
|[[硫黄]]||S||Sulfur||Schwefel||Sulphur||硫
|-
|[[塩素]]||Cl||Chlorine||Chlor||Chlorum||氯
|-
|[[カリウム]]||K||Potassium||Kalium||Kalium||鉀
|-
|[[チタン]]||Ti||Titanium||Titan||Titanium||鈦
|-
|[[クロム]]||Cr||Chromium||Chrom||Chromium||鉻
|-
|[[マンガン]]||Mn||Manganese||Mangan||Manganum||錳
|-
|[[鉄]]||Fe||Iron||Eisen||Ferrum||鐵
|-
|[[銅]]||Cu||Copper||Kupfer||Cuprum||銅
|-
|[[亜鉛]]||Zn||Zinc||Zink||Zincum||鋅
|-
|[[ヒ素]]||As||Arsenic||Arsen||Arsenicum||砷
|-
|[[セレン]]||Se||Selenium||Selen||Selenium||硒
|-
|[[臭素]]||Br||Bromine||Brom||Bromum||溴
|-
|[[ニオブ]]||Nb||Niobium||Niob||Niobium||鈮
|-
|[[モリブデン]]||Mo||Molybdenum||Molybdän||Molybdenum||鉬
|-
|[[銀]]||Ag||Silver||Silber||Argentum||銀
|-
|[[スズ]]||Sn||Tin||Zinn||Stannum||錫
|-
|[[アンチモン]]||Sb||Antimony||Antimon||Stibium||銻
|-
|[[テルル]]||Te||Tellurium||Tellur||Tellurium||碲
|-
|[[ヨウ素]]||I||Iodine||Iod||Iodum||碘
|-
|[[ランタン]]||La||Lanthanum||Lanthan||Lanthanum||鑭
|-
|[[プラセオジム]]||Pr||Praseodymium||Praseodym||Praseodymium||鐠
|-
|[[ネオジム]]||Nd||Neodymium||Neodym||Neodymium||釹
|-
|[[タンタル]]||Ta||Tantalum||Tantal||Tantalum||鉭
|-
|[[白金]]||Pt||Platinum||Platin||Platinum||鉑
|-
|[[金]]||Au||Gold||Gold||Aurum||金
|-
|[[水銀]]||Hg||Mercury||Quecksilber||Hydrargentum||汞
|-
|[[鉛]]||Pb||Lead||Blei||Plumbum||鉛
|-
|[[ウラン]]||U||Uranium||Uran||Uranium||鈾
|}
=== 参考画像 ===
<!-- 参考資料といった形で加筆してみました。-->
<gallery>
File:DiagonalRelation.png | 元素の対角線関係を描いた図。
</gallery>
== 元素の誕生 ==
=== ガモフの理論とホイルの理論 ===
20世紀前半、「宇宙には始まりがなく、宇宙の大きさは無限だ」とほとんどの科学者によって信じられていた時に、[[ジョルジュ・ルメートル]]が、「[[宇宙]]は原始的原子(primeval atom)の“爆発”で始まった」とするモデルを提唱した。[[ジョージ・ガモフ]]がその理論を発展させるが([[ビッグバン|ビッグバン理論]])<ref name="Overbye">Dennis Overbye, ''Lonely Hearts of the Cosmos:The Story of the Scientific Quest for the Secret of the Universe''翻訳:デニス・オーヴァバイ 『宇宙はこうしてはじまりこう終わりを告げる』 白揚社、2000年、ISBN 4826900961。</ref>、この理論が提唱された当初、この理論はほとんど誰からも信じられなかった<ref name="Overbye" />。1950年代でも支持者は少なく、[[フレッド・ホイル]]からも激しい反論がされ議論が起きたが、どちらの理論が正しいか判定しようにも、天文観測の世界で最先端施設であり理論を塗り替える役割を果たしていたウィルソン山天文台ですら、判定に必要な観測データは1920〜1930年代に集められた精度の低いものしか持っておらず<ref name="Overbye" />、本当のところ一体どちらの理論に分があるのか、観測データに基づいて判定できるような状態ではなかった。将来観測を行うことで得られるであろう、より精度の高いデータにこの議論の行方がかかっているような状況だった<ref name="Overbye" />。
ところで、同理論でジョージ・ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを一種の熱核爆弾の火の玉だと捉え、創造の材料が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した<ref name="Overbye" />(これらの材料のことをガモフは「{{仮リンク|label=アイレム|アイレム (宇宙論)|en|Ylem}}」と呼び、それらは[[陽子]]、[[中性子]]、[[電子]]、[[ガンマ線]]の高密度ガスなどだ、とした<ref name="Overbye" />)。従来どおりの定常宇宙論を支持するフレッド・ホイルのほうは、ライバル理論であるビッグバン・モデルと競うためには、自分の理論のほうも炭素・酸素・金・鉄・窒素・ウラン・鉛などの元素が存在するに至った起源を説明しなければならない、ということを意識するようになり、ビッグバンが無くても元素が創生されたと説明することができることを示そうと、「星(天体)ではありとあらゆる[[核種]]変換が起こっている」とする考え方を提唱した<ref name="Overbye" />。ホイルはこの考え方を支持する証拠を得るために1953年にカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所(Kellogg Radiation Lab<ref>[http://www.krl.caltech.edu/ KRL Home Page]</ref>)に赴いて、所長のウィリー・ファウラーの協力で、泡箱を用いて3個のヘリウム原子核の衝突による実験を成功させたのであった<ref name="Overbye" />。
だが、1965年に[[宇宙マイクロ波背景放射]]が発見され、その解釈や説明のための議論が科学者らの間で進められるようになると、徐々にビッグバン理論のほうを支持する科学者の割合が増えてゆくことになり、定常宇宙論のほうは徐々に支持を失ってゆくことになった(その後も様々な観測データが出されるたびに、ビッグバン理論のほうはますます支持者を増やし、ほとんどの科学者から支持されるようになった)。
=== ビッグバンにおける元素生成 ===
{{Main|ビッグバン原子核合成}}
{{Seealso|元素合成}}
[[File:Big bang manifold.png|thumb|right|160px|ビッグバン理論では、すべての根元物質はビッグバン開始から約10分間で創造された、とされる。]]
(現在、ほとんどの科学者から支持されていると言ってもいい)ビッグバン理論では、宇宙開闢では非常に高いエネルギーの解放が起こり、ビッグバンと呼ばれる大爆発とともに急速な膨張を起こしながら温度を下げ、エネルギーが転移してすべての[[物質]]が生まれた、というのである{{Sfn|青木|2004|pp=35-47|loc=第2章 ビッグバンと元素合成}}。
近年の物理学者の説明によると、ビッグバン発生直後は高エネルギーのみで宇宙は満たされていたが、1秒経過後には温度が1000億度程度まで下がり、陽子と中性子が生成され、この時点では電子やニュートリノと反応を起こして陽子と中性子は双方向に変化しつつ平衡状態にあったとされる。しかしこの環境下では、陽子と電子が反応するにはエネルギーを要するのに対し、中性子は電子と反電子ニュートリノを放出して容易に陽子へと変化した<ref>[http://www.ne.rikkyo.ac.jp/~ieki/np/may15.html 立教大学/原子核・放射線物理学研究室] 2011年4月15日閲覧</ref>。そのため、膨張による温度低下とともに相対的に陽子の数が多くなってゆく{{Sfn|青木|2004|pp=35-47|loc=第2章 ビッグバンと元素合成}}。
100秒程が経ち温度が100億度前後まで下がると、陽子と中性子が結びつき始め、重水素の原子核が生成され始め、さらに質量数4のヘリウム<sup>4</sup>Heへ原子核反応を起こす。ヘリウム原子核を構成すると中性子は安定し崩壊は起こらなくなる。この合成が進行した頃、陽子と中性子の個数比は7対1であったため陽子が大量に残り、これが水素となった。宇宙がさらに冷えて電子を取り込み元素となった際、この陽子と中性子の差から、水素とヘリウムの個数比はほぼ12対1となった。これらビッグバンにおける元素生成は約10分間で終了したと言われる{{Sfn|青木|2004|pp=35-47|loc=第2章 ビッグバンと元素合成}}。
ただし、ビッグバンで生成された元素には、微量のリチウムも存在したと考えられる。高エネルギー下で元素が生成される際、若干ながら[[三重水素]]<sup>3</sup>Hや[[ヘリウム3]] <sup>3</sup>Heが生じ、これが<sup>4</sup>Heと核融合することがあり、これが質量数7の[[リチウムの同位体]]となった可能性が指摘された。宇宙誕生直後に生まれた非常に古い第一世代の星を観測すると、恒星内での核融合や外部からの元素取り込みが無いため重元素はほとんど観測されないが、有意なリチウムの含有が確認された例があり、これはビッグバンで生成された元素だと考えられている。ただし、理論と観測ではその量に差があり、ビッグバン理論には修正が求められる可能性がある{{Sfn|青木|2004|pp=35-47|loc=第2章 ビッグバンと元素合成}}。
=== 恒星内での核融合 ===
[[File:Fusion in the Sun.svg|thumb|right|200px|[[陽子-陽子連鎖反応]]模式図。合計4つの陽子(赤玉-Proton)が3段階の衝突を繰り返し、陽子2と中性子(黒玉-Neutron)2によるヘリウム原子核となる。その過程で2個の電子(白玉-Positron)と各2度の[[ニュートリノ]](ν-Neutrino)と[[ガンマ線]](γ-Gamma Ray)を発する。]]
{{Main|恒星内元素合成}}
ほとんどが水素かヘリウムであったビッグバンで生成された元素は、そのままでは宇宙の中に散ってしまっていたが、やがて密度が高い領域で集まり、高温高圧となった部分が第一世代の恒星となり核融合反応が始まった。最初の恒星は、ビッグバンから2億年後に生まれたと考えられている{{Sfn|青木|2004|pp=53-79|loc=第3章 星の中での元素合成}}。恒星の中では[[陽子-陽子連鎖反応]]によって水素(陽子)がヘリウムへ核融合を起こし、これによって生じるエネルギーで輝く星を[[主系列星]]という<ref name="SaitoYamagata">{{Cite web|和書|url= http://ksgeo.kj.yamagata-u.ac.jp/~kazsan/class/chronology/synthesis.html |title=星の一生と元素合成|author=齋藤和男|date=2009年|publisher=[[山形大学]]理学部地球環境学科 |language=日本語|accessdate=2011-03-12}}</ref>。なお、恒星内で炭素・窒素・酸素を媒介に陽子がヘリウムへ変化する[[CNOサイクル]]もエネルギー発生のメカニズムであるが、この反応では炭素などの元素は基本的に増加しない{{Sfn|青木|2004|pp=53-79|loc=第3章 星の中での元素合成}}。
恒星は水素を消費しながらエネルギーを生じるが、それが進むと中心核にはヘリウムが溜まり、水素の核融合反応は核の周辺部で行われるようになる。そしてある程度のヘリウムが蓄積され温度が1億度に達すると中心核でヘリウム3個の核融合<ref name="SaitoYamagata" />である[[トリプルアルファ反応]]が起こり、炭素が生成される([[ヘリウム燃焼過程]]<ref name="SaitoYamagata" />)。比較的軽い星では膨張し[[赤色巨星]]となり、やがて星間ガスとして元素を放出しながら[[白色矮星]]となる{{Sfn|青木|2004|pp=53-79|loc=第3章 星の中での元素合成}}。
質量が太陽の3倍程度までの恒星では、核融合反応で生成される元素は炭素止まりだが、より大きな星では核に溜まった炭素や酸素を使う反応([[炭素燃焼過程]]や[[酸素燃焼過程]])へ進み<ref name="SaitoYamagata" />、ネオンやケイ素等を経て最終的に鉄までが生成される。安定した鉄の原子核は電気反発力が強く{{Sfn|青木|2004|pp=82-105|loc=第4章 鉄より重い元素の合成}}核融合を起こさないため、恒星の中心部ではエネルギー発生が止まる。この段階で恒星は鉄を中心に外側に段々と軽い元素が多層を成し、[[たまねぎ]]のような構造となる。これが超新星爆発を経て放出される{{Sfn|青木|2004|pp=53-79|loc=第3章 星の中での元素合成}}。
{{-}}
=== 中性子捕獲による元素合成 ===
[[File:S and r process.png|thumb|right|250px|[[キセノン]]を起点にした[[中性子捕獲]]([[s過程]]及び[[r過程]])の例。]]
{{Main|中性子捕獲|超新星元素合成}}
恒星内の核融合反応では、鉄より重い元素はほとんど生成されず、ごくわずか生じてもすぐに分解してしまう。これらは、原子核が電気反発力を生じない中性子を獲得するという全く別の方法で生じるが、そのような反応が可能となる場所は限られる。ひとつは、既に鉄などの重い元素を含む第二世代の恒星内であり、もうひとつは[[超新星爆発]]の瞬間である{{Sfn|青木|2004|pp=82-105|loc=第4章 鉄より重い元素の合成}}。
太陽よりやや重い程度の恒星(中質量星)では、中心部の核融合で生成される元素は炭素までに止まる。このような星の晩年には、メカニズムははっきり分かっていないが剥き出しの中性子が生じ、第二世代星が元々含んでいた重元素がこれを捕獲する。すると、同じ陽子の数ながら中性子数が多い同位体となる。これが不安定な同位体となると、中性子が[[ベータ崩壊]]を起こして陽子に変化し、原子番号がひとつ多い元素へ変化する。この反応が繰り返され、鉄よりも重い元素が生成される。中質量星の内部では比較的中性子の数が少なく、捕獲とベータ崩壊が順次繰り返される。これは「遅い過程・[[s過程]]」(s-プロセス、sはslowの略)と呼ばれる{{Sfn|青木|2004|pp=82-105|loc=第4章 鉄より重い元素の合成}}。この過程において、中性子捕獲は数万年から数十万年に1個であり、ビスマスまでの重元素を生成すると考えられる<ref name="SaitoYamagata" />。
「遅い過程」に対し、中性子数が多くベータ崩壊の機会を与えない環境が、超新星爆発である。太陽の10倍以上の質量を持つ恒星では、その末期になると中心部に中性子のかたまりが形成され、やがて重力崩壊による大規模な爆発を起こして終焉を迎える。このII型に分類される超新星爆発の際も中性子が発生し、恒星内の元素に中性子捕獲を起こす。しかもこれは数秒間という短い時間に大量の中性子を供給し、不安定な同位体にベータ崩壊を起こす暇を与えず、質量数をどんどん増やす合成を行う。そのため、高質量数となった同位体は宇宙空間へ放出された後に、崩壊すると原子番号が高い元素へ変換される。これは「早い過程・[[r過程]]」(r-プロセス、rはrapidの略)と呼ばれる{{Sfn|青木|2004|pp=82-105|loc=第4章 鉄より重い元素の合成}}。この過程では、観測からウランより重いカリホルニウムの生成が確認されている<ref name="SaitoYamagata" />。しかしこのメカニズムも不明な点が多い{{Sfn|青木|2004|pp=82-105|loc=第4章 鉄より重い元素の合成}}。
=== その他の元素合成 ===
過程の詳細は判明していないが、他にも元素合成を起こす宇宙の現象がある。質量が太陽程度の恒星が中性子星と[[連星]]になっている場合、その質量が太陽の約1.4倍になるとIa型超新星爆発を起こし、重い元素が生成される可能性が指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.s.u-tokyo.ac.jp/story/rigakuru/world/02/01.html |title=錬金に必要な重力 恒星の成長過程で作られる重い元素|author=茂山俊和 |publisher=[[東京大学]]大学院理学系研究科・理学部|language=日本語|accessdate=2011-03-14}}</ref>。
また、中性子星同士が衝突した際にも元素合成が生じるとの指摘もある。恒星を舞台に元素合成する理論だけでは説明できなかった地球上に存在する金や白金などの量について、イギリスの[[レスター大学]]とスイスの[[バーゼル大学]]の協同チームは[[スーパーコンピュータ]]を用いて試算し、中性子星同士が衝突することで生成・放出される説を発表した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.astroarts.co.jp/news/2001/04/09gold_formation/index-j.shtml |title=星の錬金術 金などの重元素の生成に関する新説|author= |date=2001年|publisher=AstroArts |language=日本語|accessdate=2011-03-14}}</ref>。
== 元素の分布・存在比 ==
元素の分布には偏りがあり、その存在比は範囲によって大きく異なる。この比率構成は[[元素構成比]]と呼ばれる。
[[File:ElementsAbundance.svg|thumb|center|500px|スース・ユーリー図表]]
=== 宇宙での存在比 ===
[[宇宙]]の元素構成比は、[[宇宙論]]により推定され、[[隕石]]分析や星の光の[[フラウンホーファー線]]解析および[[宇宙線]]調査など天文学的観測により裏付けられる。ただし宇宙の大きさが確定していない現在では、各元素の絶対量を決定できず、存在比のみが推計されている。これは1956年にスース・ユーリー図表として発表され、1968年にデータの更新を受けている。これによると、ビッグバンで生成された水素に次いでヘリウムの存在比が多く、それに比べてリチウム、ベリリウム、ホウ素の比率は極端に低い。炭素以下はほぼ原子番号の増加とともに比率が下がってゆく傾向を持つが、特徴的な部分は原子番号偶数の元素が隣り合う奇数の元素よりも存在比が多いところにある{{Sfn|斉藤|1982|pp=92-97|loc=4.1. 宇宙にある元素}}。
また中性子捕獲による元素合成では、原子核に存在する数によって安定する中性子の[[魔法数]]が影響を及ぼす。これは中性子数が50, 82, 126等になると、さらに中性子を捕獲して原子量を高める反応が鈍くなるもので、結果的にこれらの中性子数を持つストロンチウム(陽子:中性子=38:50)、バリウム(56:82)、鉛(82:126)元素が比較的多くなる{{Sfn|青木|2004|pp=82-105|loc=第4章 鉄より重い元素の合成}}。
=== 地球での分布・存在比 ===
[[地球]]全体の元素構成は、コアやマントルを直接調査できないため、隕石(コアとしての[[隕鉄]]、マントルとしての[[アコンドライト]])の分析や[[地震波]]から各層の[[弾性率]]・[[密度]]等の解析を組み合わせて推計される。これによると存在比で酸素が最も多く、宇宙に多い水素やヘリウムの比率は低い。金属類も多く、ケイ素、マグネシウム、鉄などが上位を占める{{Sfn|斉藤|1982|pp=101-116||loc=4.3. 地球にある元素}}。なお、硫黄は硫化鉄状で広範囲に分散しているため、存在比がはっきり分かっていない{{Sfn|斉藤|1982|pp=101-116||loc=4.3. 地球にある元素}}。
{{Main|地殻中の元素の存在度}}
[[地殻]]を構成する主たる元素は、古典的な研究成果として質量比で示される[[クラーク数]]が広く知られている。酸化物として地殻に、水として[[水圏]]に、そしてガスとして[[大気|大気圏]]に存在する酸素が全球の存在比と同じく最も多い。違いはマグネシウムやニッケルが少なく、水素やナトリウムおよびアルミニウムが多い点がある{{Sfn|斉藤|1982|pp=101-116||loc=4.3. 地球にある元素}}。
=== 人体での存在比 ===
[[人体|人間の体]]を構成する元素は、水をつくる水素と酸素が圧倒的に多い。その存在比は[[海水]]との相関性が指摘されている{{Sfn|斉藤|1982|pp=116-123|loc=4.4. 生命と元素}}。ただし、唯一の例外は[[リン]]であり、また人体は微量ながら[[酵素]]の活性に必要な[[微量元素]]が使われている{{Sfn|斉藤|1982|pp=116-123|loc=4.4. 生命と元素}}。
== 元素鉱物 ==
{{Commonscat|Native element minerals|元素鉱物}}
{{Main|元素鉱物}}
{{See also|鉱物の一覧#元素鉱物}}
[[鉱物学]]において、単一の元素あるいは[[合金]]からなる[[鉱物]]のことを'''元素鉱物'''(げんそこうぶつ、{{Lang-en-short|[[:en:Native element minerals|native element mineral]]}})という<ref>{{Cite web|和書|url= http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/mineral/koubutu/index.htm |title=収蔵資料の紹介|publisher=[[東北大学]]総合学術博物館|language=日本語|accessdate=2011-03-11}}</ref>。元素鉱物は金属(銅、白金、鉄、金、銀)、半金属(砒素)、非金属(硫黄、炭素)の3グループに分けられる。単体のものは元素名と区別するため、「自然」(native)を付けて「[[自然金]]」(native gold)、「[[自然蒼鉛]]」(native bismuth)などと呼ばれる<ref>{{Cite web|和書|url= http://webdb2.museum.tohoku.ac.jp/data_base/mineral/koubutu/mineraldb/index01.html |title=元素鉱|publisher=[[東北大学]]総合学術博物館|language=日本語|accessdate=2011-03-11}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author = 斉藤一夫|title = 元素の話|edition = 初版第12刷|origyear = 1982|year = 1996|publisher = [[培風館]]|isbn = 4-563-02014-1|ref = {{SfnRef|斉藤|1982}} }}
* {{Cite book|和書|author = 編集長:水谷仁|title = [[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]別冊周期表第2版|year = 2010|publisher = [[ニュートンプレス]]|isbn = 978-4-315-51876-4|ref = {{SfnRef|ニュートン別|2010}} }}
* {{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.24729/00004599 |title=インドとギリシアの古代「原子論」 : 比較思想の基本的問題 |author=山口義久|date=1996 |volume=14 |pages=99-117 |journal=人文学論集 |publisher=大阪府立大学人文学会 |language=日本語 |issn=0289-6192 |accessdate=2020-03-26 |ref = {{SfnRef|山口|1996}} }}
* {{Cite journal|和書|url= https://hdl.handle.net/2115/33998 |title=アリストテレス哲学における方法論 : ロギケー(形式言論構築術)の展開 |author=[[千葉惠]]|date=2001 |volume=104 |pages=1-93 |journal=北海道大学文学研究科紀要 |publisher=北海道大学文学研究科 |language=日本語|accessdate=2020-03-26|ref = {{SfnRef|千葉|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author = 石村多門|title = <無限>の快楽|edition = 第1版第1刷|year = 1998|publisher = [[窓社]]|isbn = 4-89625-003-6|ref = {{SfnRef|石村|1998}} }}
* {{Cite book|和書|author = 青木和光|title = 物質の宇宙史|edition = 初版|year = 2004|publisher = [[新日本出版社]]|isbn = 4-406-03068-9|ref = {{SfnRef|青木|2004}} }}
*{{Cite book |和書 |author=中村元他|authorlink=中村元 |year=1989 |title=岩波仏教辞典 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典|1989}} }}
*{{Cite book |和書 |author=櫻部建|authorlink=櫻部建 |year=1981 |title=倶舎論 |publisher=大蔵出版 |isbn=978-4-8043-5441-5 |ref={{SfnRef|櫻部|1981}} }}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Chemical element|Chemical elements}}
{{Wiktionary}}
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
* [[未発見元素の一覧]]
* [[元素の名称に使われた場所の一覧]]
* [[元素の名称に使われた人物の一覧]]
* {{仮リンク|元素の名称の語源の一覧|en|List of chemical element name etymologies}}
== 外部リンク ==
* 中村泰久, 遠藤絢香, 小瀧拓也, 杉田一馬, 「[https://hdl.handle.net/10270/3306 「元素」及びその起源と分布をどう学んでいるか : 学校「理科」教科書での扱いなど]」『福島大学総合教育研究センター紀要』 6巻 p.33-40, {{issn|18813348}}, 福島大学総合教育研究センター
* {{Kotobank}}
{{元素周期表}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:元素| ]]
[[Category:化学]]
[[Category:地球化学]]
[[Category:科学史]]
[[Category:アリストテレス]]
[[Category:和製漢語]]
[[Category:哲学の和製漢語]] | 2003-04-25T14:13:49Z | 2023-11-19T06:37:14Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%B4%A0 |
7,298 | 化学反応 | 化学反応(かがくはんのう、英語: chemical reaction)は、化学変化の事、もしくは化学変化が起こる過程の事をいう。化学変化とは1つ以上の化学物質が別の1つ以上の化学物質へと変化する事で、反応前化学物質を構成する原子同士が結合されたり、逆に結合が切断されたり、あるいは化学物質の分子から電子が放出されたり、逆に電子を取り込んだりする。広義には溶媒が溶質に溶ける変化や原子のある同位体が別の同位体に変わる変化、液体が固体に変わる変化等も化学変化という。
化学変化の前後では、化学物質の分子を構成する原子の結合が変わって別の分子に変化する事はあるが、原子そのものが別の原子番号の原子に変わる事はない(ただし原子間の電子の授受や同位体の変化はある)。この点で原子そのものが別の原子に変化する原子核反応とは大きく異なる。
化学反応では反応前の化学物質を反応物(reactant)、反応後の化学物質を生成物(product)といい、その過程は化学反応式で表記される。例えば反応物である HCl {\displaystyle {\ce {HCl}}} (塩酸)と NaOH {\displaystyle {\ce {NaOH}}} (水酸化ナトリウム)が化学反応して生成物である H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} (水分子)と NaCl {\displaystyle {\ce {NaCl}}} (食塩)ができあがる状況を示した化学反応式は
と表記される。
反応物から生成物をつくる化学反応の際には、逆に生成物から反応物をつくる化学反応も同時に起こっている(このような逆向きの化学反応がある事を強調したい場合は、化学反応式の矢印は「 ⟶ {\displaystyle {\ce {->}}} 」ではなく「 ↽ − − ⇀ {\displaystyle {\ce {<=>}}} 」と表記する。)。
したがって反応物から生成物をつくる化学反応の反応速度がその逆向きの化学反応の反応速度の大小により、反応物と生成物の比が増減し、最終的には反応物と生成物が混在した状態で釣り合う事になる。この状態を化学平衡という。(なお、化学反応の結果最終的に生成物が一切無くなってしまう現象は、生成物が0の状態で化学平衡したという事である)。
化学変化している系(反応系)は、一般には外部と相互作用しながら化学変化していく(例えば反応熱を外部に放熱する)。こうした状況下、次の事実が知られている:
これは熱力学の第二法則からの当然の帰結である。
さらに、
よって反応系が外部から孤立している場合には、化学変化の平衡定数Kcと現在の時刻における反応指数Qcと比較する事で、反応がどちらの方向に進むかを知ることができる。
反応系の2つの状態A、Bに対し、Aのときの系のエントロピーとBのときの系のエントロピーの差をΔSsysとすると、
また系のエントロピーが時刻変化しない場合は、その系は平衡状態にある。
なお、一般的な傾向として、系の内部エネルギーや系のエンタルピーは減少させるが、常に成り立つわけではない。例えば氷が水に溶解する際には、系は外部から自発的に吸熱するので、系の内部エネルギーやエンタルピーは増大する。
内部エネルギーやエンタルピーに減少傾向があるのは、これらの値がエントロピーと比較的簡単な関係式を満たす事に起因している。詳細は熱力学ポテンシャルの項目を参照されたい。
以上で述べたように系の変化傾向はエントロピーによって記述できるものの、エントロピーは直接測定可能な物理量ではないので、化学ではギブズの自由エネルギーを使って系の変化傾向を記述する事が多いので。本節ではこの記述方法について述べる。なお本節では、ギブズの自由エネルギーやエンタルピーといった熱力学ポテンシャルの基本的知識を仮定する。
まず、反応系に対して以下の2つの仮定を課す:
1つ目の仮定は、化学変化で反応系に発生した熱が系の外部に全て放出できるのであれば満たされる。2つ目の仮定は外部が十分広く、反応系から放出された熱の影響をほとんど受けないのであれば満たされる。以下、反応系の温度=外部の温度をTと書く。
一般に与えられた系のギブズの自由エネルギーGとエンタルピーHはその系のエントロピーS、温度Tにより、
という関係式を満たすので、前述の仮定のもと、
が成立する。
また反応系の外部の合計の内部エネルギーUtotal、圧力Ptotal、体積Vtotalは
という関係式を満たすが、エネルギー保存則から第一項は0であり、第二項も全体に対する圧力変化dPtotalは存在しないとみなしてよいから、結局
となる。ここで
という仮定を課すと、
が成立するので、
なので、
が成立する。
したがって以上の仮定のもと、全体のエントロピー増大は、反応系のギブズ自由エネルギー減少を招く。よって以下の結論が得られる:
また反応系のギブズ自由エネルギーが時刻変化しない場合は、その系は平衡状態にある。
化学反応は電子の移動にともなって結合の切断と生成が行われる。化学結合と電子の移動方法に着目して化学反応を分類すると、イオン反応 (ionic reaction)、ラジカル反応 (free-radical reaction)、ペリ環状反応 (pericyclic reaction) に大別される。ある化学種がもうひとつの化学種と結合をつくる反応について考えると、イオン反応は、一方の化学種から電子対が供与されて新しい結合性軌道が生成する化学反応で、電子求引性や電子供与性など原子間の電荷の偏りにより反応の方向が支配される。ラジカル反応は、双方の化学種から1電子ずつ電子が供与されて新しい結合性軌道が生成する化学反応である。ペリ環状反応は、化学種のπ軌道からσ軌道へ、環状の遷移状態を経て転化することで2ヶ所以上に新たな結合が生成する化学反応である。切断は結合の逆反応にあたる。
反応機構や、反応物と生成物の構成の違いで化学反応を考える場合、置換反応、付加反応、脱離反応、転位反応などに分類される。
加水分解、脱水反応、付加重合、縮合重合(縮重合)、酸化反応、還元反応、中和反応は化学反応の用途を意識した分類で、上記 4 反応機構の一つあるいは複数から構成される。
ほかにも光反応や重合反応など、反応の特性に応じた分類も存在する。
化学反応を説明付ける理論は、化学反応事例が集積から導出される経験則とそれを物理学的に説明づける物理化学理論が構築されることにより進展して行く。それ故、物理学の展開と歩調を合わせて化学反応論も段階を経て発展して行った。
18世紀から19世紀に元素がアントワーヌ・ラヴォアジエやジョン・ドルトンらに発見されるのと同時に、化学反応する反応物と生成物との重量比に関して法則性が見出されている。これら化学反応に関与する成分の量的関係に関する理論は、化学量論として体系付けられている。化学量論は一般には経験則である定比例の法則、倍数比例の法則として知られている。
19世紀後半に定量分析法が確立し20世紀にかけて発展することで化学物質の変化量が測定できるようになると、化学平衡や反応の進行する速度について、反応速度式として定式化され物質量やモル濃度そして温度が化学反応の成分量やその変化量に強く影響を及ぼすことが明らかとなった。熱力学により分子(あるいは)原子に共通な振る舞いが物理学的に説明付けられる様になり、化学平衡や反応速度について物理化学的な理論が確立されるに至った。化学反応における成分量の決定因子とその変化の早さは、化学ポテンシャルで代表される広義の熱力学と反応速度論により体系付けられる。化学ポテンシャルは熱力学第二法則を物理化学的に解釈した指標であり、反応(あるいは平衡)の進行方向を決定付ける。反応速度論により、反応速度が物質量や温度により受ける影響を分子などの微視的な振る舞いとして説明づけられるようになった。
反応速度論、特に遷移状態理論により化学反応を熱力学や統計力学のような集団についての理論ではなく、反応物の分子同士の作用として理論付けることが可能になった。今日では反応の種類ごとに分子構造と化学反応を関連付ける反応機構モデルを構築することで化学反応が研究される。
反応機構モデルを構築する基礎原理として、電子が帰属する価電子または共有結合の移動として化学結合を扱い、半経験的原理として有機電子論が体系付けられた。有機電子論やHSAB則において経験的に仮定された電子対の振る舞いは量子化学の分子軌道法で定式化することが可能である。また、ペリ環状反応等いくつかの立体特異的な反応機構は古典的な電子の振る舞いでは説明づけることはできず、分子軌道の結合規則に関する原理を扱うフロンティア軌道理論により反応機構が説明付けられる。
以上のようにして構築された反応機構は化学反応動力学・分子動力学の手法によりモデルの妥当性や反応の振る舞いについて検証されるが、コンピュータの演算性能の急速な拡大と計算化学的手法の発展により、今日では簡単な系であればコンピュータ・シミュレーションで化学反応を予測することも可能である。
実際に反応を行う、あるいは反応系を開発する場合、その反応を取り巻くさまざまな因子・条件の影響により、速度や成否が左右されることは少なからずある。この節では、化学反応について影響を考慮すべき因子・条件を、定性的、経験的な観点から概説する。反応機構は反応により多様であるため、以下の議論にあてはまらない例ももちろんある。詳細が分かっている反応については、反応速度式なども考慮に入れより定量的な考察を行うべきである。
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"title": "比喩"
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] | 化学反応は、化学変化の事、もしくは化学変化が起こる過程の事をいう。化学変化とは1つ以上の化学物質が別の1つ以上の化学物質へと変化する事で、反応前化学物質を構成する原子同士が結合されたり、逆に結合が切断されたり、あるいは化学物質の分子から電子が放出されたり、逆に電子を取り込んだりする。広義には溶媒が溶質に溶ける変化や原子のある同位体が別の同位体に変わる変化、液体が固体に変わる変化MF2等も化学変化という。 化学変化の前後では、化学物質の分子を構成する原子の結合が変わって別の分子に変化する事はあるが、原子そのものが別の原子番号の原子に変わる事はない(ただし原子間の電子の授受や同位体の変化はある)。この点で原子そのものが別の原子に変化する原子核反応とは大きく異なる。 化学反応では反応前の化学物質を反応物(reactant)、反応後の化学物質を生成物(product)といい、その過程は化学反応式で表記される。例えば反応物である HCl (塩酸)と NaOH (水酸化ナトリウム)が化学反応して生成物である H 2 O (水分子)と NaCl (食塩)ができあがる状況を示した化学反応式は と表記される。 | '''化学反応'''(かがくはんのう、{{lang-en|chemical reaction}})は、化学変化の事、もしくは化学変化が起こる過程の事をいう<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%8C%96%E5%AD%A6%E5%8F%8D%E5%BF%9C-43347|title=コトバンク『化学変化』(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)|accessdate=2017年8月10日}}</ref>。'''化学変化'''とは1つ以上の[[化学物質]]が別の1つ以上の化学物質へと変化する事で<ref name=":0" /><ref>{{GoldBookRef|title=chemical reaction|file=C01033}}</ref>、反応前化学物質を構成する[[原子]]同士が結合されたり、逆に結合が切断されたり、あるいは化学物質の分子から[[電子]]が放出されたり、逆に電子を取り込んだりする。広義には[[溶媒]]が[[溶液|溶質]]に[[溶解|溶ける]]変化<ref name=":0" />や原子のある[[同位体]]が別の同位体に変わる変化<ref name=":0" />、[[液体]]が[[固体]]に変わる変化[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=386}}等も化学変化という。
化学変化の前後では、化学物質の[[分子]]を構成する原子の結合が変わって別の分子に変化する事はあるが、原子そのものが別の[[原子番号]]の原子に変わる事はない(ただし原子間の電子の授受や同位体の変化はある)。この点で原子そのものが別の原子に変化する[[原子核反応]]とは大きく異なる。
化学反応では反応前の化学物質を'''[[反応物]]'''(reactant)、反応後の化学物質を'''[[生成物]]'''(product)といい、その過程は'''[[化学反応式]]'''で表記される。例えば反応物である<chem>HCl</chem>([[塩酸]])と<chem>NaOH</chem>([[水酸化ナトリウム]])が化学反応して生成物である<chem>H2O</chem>([[水|水分子]])と<chem>NaCl</chem>([[塩|食塩]])ができあがる状況を示した化学反応式は{{Equation box 1|border|indent=::|equation=<chem>HCl + NaOH -> H2O + NaCl</chem>|cellpadding=6|border colour=#0073CF|background colour=#F5FFFA}}
と表記される。
== 化学平衡 ==
反応物から生成物をつくる化学反応の際には、逆に生成物から反応物をつくる化学反応も同時に起こっている(このような'''逆向きの化学反応がある事を強調したい場合'''は、化学反応式の矢印は「<chem>-></chem>」ではなく「<chem><=></chem>」と表記する。)。
したがって反応物から生成物をつくる化学反応の反応速度がその逆向きの化学反応の反応速度の大小により、反応物と生成物の比が増減し、最終的には反応物と生成物が混在した状態で釣り合う事になる。この状態を'''[[化学平衡]]'''という。(なお、化学反応の結果最終的に生成物が一切無くなってしまう現象は、生成物が0の状態で化学平衡したという事である)。
== 化学反応の変化傾向 ==
=== 外部との相互作用を考慮した変化傾向 ===
化学変化している系('''反応系''')は、一般には外部と[[相互作用]]しながら化学変化していく(例えば[[反応熱]]を外部に放熱する)。こうした状況下、次の事実が知られている:
: 化学変化は'''常に'''、系の[[エントロピー]]{{Math|''S''{{sub|sys}}}}と外界のエントロピー{{Math|''S''{{sub|surr}}}}を足し合わせた全エントロピー{{Math|''S''{{sub|total}}}}が増大する方向に自発的に進む[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=393}}
これは[[熱力学第二法則|熱力学の第二法則]]からの当然の帰結である[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=393}}。
さらに、
: 自発的な反応は'''常に'''、反応混合物を平衡状態の方向へと変化させる[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=385}}。
よって反応系が外部から孤立している場合には、化学変化の[[平衡定数]]{{Mvar|K{{sub|c}}}}と現在の時刻における[[平衡定数|反応指数]]{{Mvar|Q{{sub|c}}}}と比較する事で、反応がどちらの方向に進むかを知ることができる[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=385}}。
=== 反応系の変化傾向 ===
反応系の2つの状態{{Mvar|A}}、{{Mvar|B}}に対し、{{Mvar|A}}のときの系のエントロピーと{{Mvar|B}}のときの系のエントロピーの差を{{Math|Δ''S''{{sub|sys}}}}とすると、
* {{Math|Δ''S''{{sub|sys}}>0}}のとき、系は状態{{Mvar|B}}から{{Mvar|A}}に自発的に変化する[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=393}}
* {{Math|Δ''S''{{sub|sys}}<0}}のとき、系は状態{{Mvar|A}}から{{Mvar|B}}に自発的に変化する[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=393}}
また系のエントロピーが時刻変化しない場合は、その系は平衡状態にある[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=393}}。
なお、一般的な傾向として、系の内部エネルギーや系の[[エンタルピー]]は減少させるが[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=393}}、常に成り立つわけではない。例えば[[氷]]が水に[[溶解]]する際には、系は外部から自発的に吸熱するので[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=386}}、系の内部エネルギーやエンタルピーは増大する[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=386}}。
内部エネルギーやエンタルピーに減少傾向があるのは、これらの値がエントロピーと比較的簡単な関係式を満たす事に起因している。詳細は[[熱力学ポテンシャル]]の項目を参照されたい。
=== 自由エネルギーによる表現 ===
以上で述べたように系の変化傾向はエントロピーによって記述できるものの、エントロピーは直接測定可能な物理量ではないので、化学では[[自由エネルギー|ギブズの自由エネルギー]]を使って系の変化傾向を記述する事が多いので[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=386}}。本節ではこの記述方法について述べる。なお本節では、ギブズの自由エネルギーやエンタルピーといった[[熱力学ポテンシャル]]の基本的知識を仮定する。
まず、反応系に対して以下の2つの仮定を課す:
: 反応系の温度は常に一定である
: 反応系の温度と外部の温度は常に等しい
1つ目の仮定は、化学変化で反応系に発生した熱が系の外部に全て放出できるのであれば満たされる。2つ目の仮定は外部が十分広く、反応系から放出された熱の影響をほとんど受けないのであれば満たされる。以下、反応系の温度=外部の温度を{{Mvar|T}}と書く。
一般に与えられた系のギブズの自由エネルギー{{Mvar|G}}とエンタルピー{{Mvar|H}}はその系のエントロピー{{Mvar|S}}、[[温度]]{{Mvar|T}}により、
: <math>G = H -ST</math>
という関係式を満たすので、前述の仮定のもと、
: <math>\mathrm{d}G_{\mathrm{sys}} = \mathrm{d}H_{\mathrm{sys}} -T\mathrm{d}S_{\mathrm{sys}}</math>
が成立する[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=395}}。
また反応系の外部の合計の内部エネルギー{{Math|''U''{{sub|total}}}}、圧力{{Math|''P''{{sub|total}}}}、体積{{Math|''V''{{sub|total}}}}は
: <math>\mathrm{d}H_{\mathrm{total}}=\mathrm{d}U_{\mathrm{total}}+V_{\mathrm{total}}\mathrm{d}P_{\mathrm{total}}</math>
という関係式を満たすが、エネルギー保存則から第一項は0であり、第二項も全体に対する圧力変化{{Math|d''P''{{sub|total}}}}は存在しないとみなしてよいから、結局
: <math>\mathrm{d}H_{\mathrm{total}}=0</math>
となる。ここで
: 反応系の外部では[[化学ポテンシャル]]や圧力変化、その他の[[示量性と示強性|示強変数]](例えば[[分極率|分極]]や[[磁化]]による電磁場)が無視できる
という仮定を課すと、
: <math>\mathrm{d}H_{\mathrm{surr}}=T\mathrm{d}S_{\mathrm{surr}}</math>
が成立するので、
: <math>\mathrm{d}H_{\mathrm{sys}}
=
\mathrm{d}H_{\mathrm{total}}
-
\mathrm{d}H_{\mathrm{surr}}
=
0-T\mathrm{d}S_{\mathrm{surr}}
</math>
なので、
: <math>\mathrm{d}G_{\mathrm{sys}}
=\mathrm{d}H_{\mathrm{sys}} -T\mathrm{d}S_{\mathrm{sys}}</math><math>=
-T\mathrm{d}S_{\mathrm{surr}}
-T\mathrm{d}S_{\mathrm{sys}}
=
-T\mathrm{d}S_{\mathrm{total}}
</math>
が成立する。
したがって以上の仮定のもと、全体のエントロピー増大は、反応系のギブズ自由エネルギー減少を招く。よって以下の結論が得られる:
* {{Math|Δ''G''{{sub|sys}}<0}}のとき、系は状態{{Mvar|B}}から{{Mvar|A}}に自発的に変化する[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=395}}
* {{Math|Δ''G''{{sub|sys}}>0}}のとき、系は状態{{Mvar|A}}から{{Mvar|B}}に自発的に変化する[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=395}}
また反応系のギブズ自由エネルギーが時刻変化しない場合は、その系は平衡状態にある[[#MF2|<sup>MF2</sup>]]{{Rp|page=395}}。
== その他 ==
{{出典の明記|date=2011年7月}}
=== 化学反応の種類 ===
化学反応は[[電子]]の移動にともなって結合の切断と生成が行われる。化学結合と電子の移動方法に着目して化学反応を分類すると、[[イオン反応]] (ionic reaction)、[[ラジカル反応]] (free-radical reaction)、[[ペリ環状反応]] (pericyclic reaction) に大別される。ある[[化学種]]がもうひとつの化学種と結合をつくる反応について考えると、イオン反応は、一方の化学種から電子対が供与されて新しい結合性軌道が生成する化学反応で、電子求引性や電子供与性など原子間の電荷の偏りにより反応の方向が支配される。ラジカル反応は、双方の化学種から1電子ずつ電子が供与されて新しい結合性軌道が生成する化学反応である。ペリ環状反応は、化学種の[[π結合|π軌道]]から[[シグマ軌道|σ軌道]]へ、環状の遷移状態を経て転化することで2ヶ所以上に新たな結合が生成する化学反応である。切断は結合の逆反応にあたる。
反応機構や、反応物と生成物の構成の違いで化学反応を考える場合、[[置換反応]]、[[付加反応]]、[[脱離反応]]、[[転位反応]]などに分類される。
[[加水分解]]、[[脱水反応]]、[[付加重合]]、[[縮合重合]](縮重合)、[[酸化|酸化反応]]、[[還元|還元反応]]、[[中和]]反応は化学反応の用途を意識した分類で、上記 4 反応機構の一つあるいは複数から構成される。
ほかにも[[光反応]]や[[重合反応]]など、反応の特性に応じた分類も存在する。
=== 化学反応論 ===
化学反応を説明付ける理論は、化学反応事例が集積から導出される経験則とそれを[[物理学]]的に説明づける[[物理化学]]理論が構築されることにより進展して行く。それ故、[[物理学]]の展開と歩調を合わせて化学反応論も段階を経て発展して行った。
[[18世紀]]から[[19世紀]]に[[元素]]が[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]や[[ジョン・ドルトン]]らに発見されるのと同時に、化学反応する反応物と生成物との重量比に関して法則性が見出されている。これら化学反応に関与する成分の量的関係に関する理論は、[[化学量論]]として体系付けられている。化学量論は一般には経験則である[[定比例の法則]]、[[倍数比例の法則]]として知られている。
[[19世紀]]後半に[[定量分析]]法が確立し[[20世紀]]にかけて発展することで化学物質の変化量が測定できるようになると、[[化学平衡]]や反応の進行する速度について、[[反応速度|反応速度式]]として定式化され[[物質量]]や[[モル濃度]]そして[[温度]]が化学反応の成分量やその変化量に強く影響を及ぼすことが明らかとなった。[[熱力学]]により分子(あるいは)原子に共通な振る舞いが物理学的に説明付けられる様になり、化学平衡や[[反応速度]]について物理化学的な理論が確立されるに至った。化学反応における成分量の決定因子とその変化の早さは、[[化学ポテンシャル]]で代表される広義の熱力学と[[反応速度論]]により体系付けられる。化学ポテンシャルは[[熱力学第二法則]]を物理化学的に解釈した指標であり、反応(あるいは平衡)の進行方向を決定付ける。[[反応速度論]]により、反応速度が[[物質量]]や[[温度]]により受ける影響を分子などの微視的な振る舞いとして説明づけられるようになった。
反応速度論、特に[[遷移状態理論]]により化学反応を熱力学や[[統計力学]]のような集団についての理論ではなく、反応物の分子同士の作用として理論付けることが可能になった。今日では反応の種類ごとに分子構造と化学反応を関連付ける[[反応機構]]モデルを構築することで化学反応が研究される。
反応機構モデルを構築する基礎原理として、電子が帰属する価電子または共有結合の移動として[[化学結合]]を扱い、半経験的原理として[[有機電子論]]が体系付けられた。有機電子論や[[HSAB則]]において経験的に仮定された[[電子対]]の振る舞いは[[量子化学]]の[[分子軌道法]]で定式化することが可能である。また、[[ペリ環状反応]]等いくつかの[[立体特異的]]な反応機構は古典的な電子の振る舞いでは説明づけることはできず、[[分子軌道]]の結合規則に関する原理を扱う[[フロンティア軌道理論]]により反応機構が説明付けられる。
以上のようにして構築された反応機構は[[化学反応動力学]]・[[分子動力学]]の手法によりモデルの妥当性や反応の振る舞いについて検証されるが、[[コンピュータ]]の演算性能の急速な拡大と[[計算化学]]的手法の発展により、今日では簡単な系であればコンピュータ・[[シミュレーション]]で化学反応を予測することも可能である。
=== 化学反応に影響する因子 ===
実際に反応を行う、あるいは反応系を開発する場合、その反応を取り巻くさまざまな因子・条件の影響により、速度や成否が左右されることは少なからずある。この節では、化学反応について影響を考慮すべき因子・条件を、定性的、経験的な観点から概説する。反応機構は反応により多様であるため、以下の議論にあてはまらない例ももちろんある。詳細が分かっている反応については、[[反応速度式]]なども考慮に入れより定量的な考察を行うべきである。
; [[温度]] : 多くの反応は、より高い温度で行えば、系により多くのエネルギーが与えられるために速度が増加する。一般に、反応温度が 10 ℃ 上がれば反応速度は約2倍になる、というのが目安とされる。ただし、副反応を誘発する、中間体が分解する、反応の暴走を招く、など、温度を上げた結果として反応が失敗することもある。
; [[濃度]] : 多次反応の場合、反応混合物の濃度が高くなると、反応物同士の衝突の頻度が増すことによって反応が起こる確率が高くなり、速度が増加する。連鎖反応の場合は顕著となる。大員環合成などの場合では、分子内反応を分子間反応に対して優先させるために、しばしば高希釈下条件で行われる。また、0次、1次反応では濃度の効果は系の温度変化へ影響するだけにとどまる。濃度を調整する場合についても、副反応や暴走など、温度の調整の際と同様の問題を考慮する必要がある。
; [[圧力]] : 通常、気体が関与する反応は、圧力を上げると速くなる。気体の場合では圧力の上昇は事実上濃度の増加に等しいため、濃度と同様の議論も成り立つ。始原系と生成系でモル数が異なる場合は、平衡状態に達したときの各化合物の割合に圧力が影響する。
; [[光]] : 光はエネルギーの一形態である。また、反応の経路に影響を及ぼすこともある。反応によっては、副反応を防ぐために遮光しなければならないものもある。光を積極的に利用する[[光反応]]では、用いる光の波長や強さを考慮しなければならない。
<!--; [[反応の次数]] : 次数は反応速度の主要因である。反応の次数は実験によって求められ、基本的な反応では整数になる。(フォローが難しいため、コメントアウトします)-->
; [[触媒]] : 反応に触媒を加えると、より活性化エネルギーの低い反応経路をとることができるようになり、正反応・逆反応の速さがともに増加する。触媒反応は当量反応とは異なり、触媒サイクルを円滑に回転させるため、触媒の活性化と安定化について考える必要がある。
<!--; 反応物の性質 : ある反応が単なる結合の生成だけでなく開裂や再結合を含む複雑なものである場合、通常は時間がかかるものになる。(フォローが難しいため、コメントアウトします)-->
; [[表面積]] : [[触媒#種類|不均一系触媒]]などを用いた表面反応においては、表面積が大きくなると反応速度も増加する。体積に対する表面積の割合が増せば反応の起こる位置が増え、反応はより速く起こる。固-液、気-液などの複相系、水層-油層などの複層系でも同様に、異なる相/層が接触する地点、あるいはその近傍で反応は起こるため、表面積や撹拌が重要になる。
== 比喩 ==
デジタル大辞泉に拠れば、「複数のものが組み合わされて予想しなかった効果が生じること」を、化学反応に例えることもある<ref name=":0" />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 引用文献 ==
{{ページ番号|date=2022年7月|section=1}}
<!--{{参照方法|date=2017年8月|section=1}} 本文各所で参照されている。テンプレ張った人、よく確認すべし。-->
* [MF1] {{Cite book|和書|ref=MF1|author=J. McMurry、R. C. Fay|title=マクマリー 一般化学(上)|date=2010/11/24|year=|publisher=[[東京化学同人]]|ISBN=9784807907427|translator=荻野博、 山本学、大野公一}}
* [MF2] {{Cite book|和書|ref=MF2|author=J. McMurry、R. C. Fay|title=マクマリー 一般化学(下)|date=2011/02/23|year=|publisher=[[東京化学同人]]|ISBN=9784807907434|translator=荻野博、 山本学、大野公一}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}}
* [[化学]]
* [[物理]] - [[物性物理]]
* [[化学反応の一覧]]
* [[状態変化]]
* [[触媒]]
* [[化学平衡]]
* [[人名反応]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:化学反応|*]]
[[Category:物理化学の現象]]
[[Category:化学]]
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'''CF'''、'''Cf'''、'''cf'''
== 学術的な記号・単位 ==
* '''Cf''' - '''[[カリホルニウム]]'''の元素記号。
== 略語・略称 ==
* '''cf''', '''cf.''' - [[ラテン語]]で「比較せよ」「参照せよ」を意味する命令形 {{lang|la|confer}} の略。
=== 一般名詞 ===
* [[コンパクトフラッシュ]](compact flash memory) - 記憶媒体。
* [[コマーシャルメッセージ|コマーシャルフィルム]](commercial film) - [[テレビ]]などによる動画広告。
* [[キャッシュ・フロー]](cash flow)
** [[キャッシュ・フロー計算書]] - '''C/F'''と略表記する。
* [[協調フィルタリング]](Collaborative Filtering)
* [[クラウドファンディング]](crowdfunding)
* [[中堅手]](center fielder) - 野球のポジション。センター。
* [[センターフォワード]](centre forward, center forward) - スポーツのポジションの1つ。
* [[心不全]](cardiac failure)
* 下部[[内視鏡#上部消化管内視鏡|消化管内視鏡]](colon fiberscopy)
* [[Core Foundation]] - [[macOS]]用語。
=== 固有名詞 ===
* [[カナダ軍]](Canadian Force)
* [[クリスタル・ファイン液晶]](Crystal Fine) - [[セイコーエプソン]]が開発した[[液晶]]。[[MD-TFD]]の改良型。
* [[CrossFireX|CrossFire]] - [[ATI Technologies]]が開発した[[マルチプロセッシング|マルチGPU]]技術。
* [[Cloudflare]]
*企業名
** [[南日本放送]](コールサイン:JOCF(-DTV)) - [[ラテ兼営]]の[[特定地上基幹放送事業者]]。
** [[セントラルファイナンス]](Central Finance) - かつて存在した日本の信販会社。[[セディナ]]を経て、現・[[SMBCファイナンスサービス]]。
*製品名
** [[カローラフィールダー]](COROLLA FIELDER) - [[トヨタ自動車]]が製造・販売している[[自動車]]。
** [[コードフリーク]](code Freak) - [[サイバーガジェット]]が製造・販売している改造ツール。
* 作品名
** [[新世紀GPXサイバーフォーミュラ]](Cyber Formula) - アニメ。および劇中で登場するレーシングカー「サイバーフォーミュラ」。
** [[キャプテン・フューチャー]](Captain Future) - エドモンド・ハミルトンによるスペース・オペラ。
** [[クロスファイア (オンラインゲーム)|クロスファイア]](Cross Fire) - シューティングゲーム。
* フィクションの事柄
** [[キャプテン・ファルコン]](Captain Falcon) - ゲーム『[[F-ZEROシリーズ|F-ZERO]]』シリーズの主人公。
** クロスフュージョン(Cross Fusion) - アニメ『[[ロックマンエグゼAXESS]]』『[[ロックマンエグゼStream]]』『[[ロックマンエグゼBEAST]]』の劇中に登場する[[変身 (ヒーロー)|変身]]シークエンス。
== コード・形式名 ==
* '''CF''' - [[国際標準化機構]]の[[国名コード]]([[ISO 3166-1]] alpha-2)で、'''[[中央アフリカ共和国]]'''を示す。
** '''[[.cf]]''' - 中央アフリカ共和国の[[国別コードトップレベルドメイン]]
* [[鉄道]]の[[駅ナンバリング]]で、[[東海旅客鉄道|JR]][[中央線 (名古屋地区)|中央線]]([[名古屋駅]] - [[塩尻駅]])の路線記号。
== 関連項目 ==
* [[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]]
* {{Prefix|CF}}
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7,301 | 国際化ドメイン名 | 国際化ドメイン名(こくさいかドメインめい)、IDN (Internationalized Domain Name)、多言語ドメインは、インターネットで使われるドメイン名にアルファベットや数字以外に漢字、アラビア文字、キリル文字、ギリシア文字なども使えるようにする仕組み。日本語であれば日本語ドメイン名とも呼ばれる。
1998年頃から検討がされていたが、2003年になり、関連する全ての規格が標準化されたため、ようやく利用できるようになった。 当初試験運用では変換方法(プロトコル)として RACE が主に用いられていたが、Punycode が標準化され、各種ドメインはPunycodeへの対応に切り替えている。
一部のブラウザでは偽キリル文字などでURLを偽装するフィッシング詐欺対策として、下記のような場合は国際化表記をせず、Punycode(「xn--」で始まる英数字とハイフン)で表記するようになっている。 | [
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"text": "一部のブラウザでは偽キリル文字などでURLを偽装するフィッシング詐欺対策として、下記のような場合は国際化表記をせず、Punycode(「xn--」で始まる英数字とハイフン)で表記するようになっている。",
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] | 国際化ドメイン名(こくさいかドメインめい)、IDN、多言語ドメインは、インターネットで使われるドメイン名にアルファベットや数字以外に漢字、アラビア文字、キリル文字、ギリシア文字なども使えるようにする仕組み。日本語であれば日本語ドメイン名とも呼ばれる。 1998年頃から検討がされていたが、2003年になり、関連する全ての規格が標準化されたため、ようやく利用できるようになった。
当初試験運用では変換方法(プロトコル)として RACE が主に用いられていたが、Punycode が標準化され、各種ドメインはPunycodeへの対応に切り替えている。 | '''国際化ドメイン名'''(こくさいかドメインめい)、'''IDN''' (Internationalized Domain Name)、[[多言語]][[ドメイン名|ドメイン]]は、[[インターネット]]で使われる[[ドメイン名]]に[[ラテン文字|アルファベット]]や[[アラビア数字|数字]]以外に[[漢字]]、アラビア文字、キリル文字、ギリシア文字なども使えるようにする仕組み。日本語であれば[[日本語ドメイン名]]とも呼ばれる。
[[1998年]]頃から検討がされていたが、[[2003年]]になり、関連する全ての規格が標準化されたため、ようやく利用できるようになった。
当初試験運用では変換方法(プロトコル)として RACE が主に用いられていたが、[[Punycode]] が標準化され、各種[[ドメイン名|ドメイン]]は[[Punycode]]への対応に切り替えている。
== 関係あるドキュメント ==
*{{IETF RFC|5890}} IDNA アーキテクチャ
*{{IETF RFC|5891}} [[Nameprep]]は、類似した文字を同一文字として扱う[[正規化]]方式。[[Unicode]]の正規化[[Stringprep]]との関係を示している
*{{IETF RFC|3492}} [[Punycode]]は、Unicodeの文字を[[Domain Name System|DNS]]で使える文字を使って[[エンコード]]する[[符号化方式]]。{{IETF RFC|5891}}は{{IETF RFC|3492}}を更新したが、規定されたアルゴリズムに変更はない<ref>4.4.節に「This document does not update or alter the Punycode algorithm specified in {{IETF RFC|3492}} in any way.」と見える。</ref>
*{{IETF RFC|2825}} IDNを含むDNSの拡張に向けて、IAB (Internet Architecture Board) の出した要件
*{{IETF RFC|2826}} IDNの実現に向けて、IAB (Internet Architecture Board) の出した要件
== 対応しているブラウザ等 ==
{{更新|section=1|date=2017年4月}}
*[[Internet Explorer]] (Windows)<ref>[[Internet Explorer]]はバージョン7から対応した。それ以前のバージョンは i-Nav をインストールして参照が可能。または、[[JWord]]プラグインでも .jp ドメインに限り対応している。</ref>
**[[IEコンポーネントブラウザ]](一部)<ref>国際化ドメイン対応のIEコンポーネントブラウザに関してはIE側でなくアプリケーション側で処理を行い、<nowiki>http://xn--eckwd4c7cu47r2wf.jp/</nowiki> (<nowiki>http://ドメイン名例.jp/</nowiki>) のように日本語部分を自動的に半角文字列に変換してアクセスするため、IE6以前のブラウザエンジンでも国際化ドメインが利用可能である。</ref>
*[[jigブラウザ]](携帯電話用)
*[[Netscapeシリーズ]]
**[[Mozilla Application Suite|Mozilla]]
**[[SeaMonkey]]
**[[Mozilla Firefox]]
*[[Opera]]<ref>[[WILLCOM]]の[[PHS]]端末「[[WX310K]]」に搭載されているものでは日本語で[[Uniform Resource Identifier|URI]]を直接入力することは出来ない。</ref>
*[[Safari]]
*[[Google Chrome]]
一部のブラウザでは[[偽キリル文字]]などでURLを偽装する[[フィッシング (詐欺)|フィッシング詐欺]]対策として、下記のような場合は国際化表記をせず、[[Punycode]](「xn--」で始まる英数字とハイフン)で表記するようになっている。
; IE
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[Internationalized Resource Identifier]] (IRI)
== 外部リンク ==
* [https://www.nic.ad.jp/ja/dom/idn.html 国際化ドメイン名 - JPNIC]
* [http://www.icann.org/en/topics/idn/ ICANN: Internationalized Domain Names] {{en icon}}
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7,303 | サクラ |
サクラ(桜、櫻、英:Cherry blossom、Japanese cherry、Sakura)は、バラ科サクラ亜科サクラ属 (スモモ属とすることもある。「野生種の分類」の項を参照)の落葉広葉樹の総称。またはその花である。一般的に春に桜色と表現される白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせる。
サクラはシベリア、日本、中国、米国・カナダ など、主に北半球の温帯に広範囲に自生している。歴史的に日本文化に馴染みの深い植物であり、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきた(#日本における栽培品種と品種改良、#日本人とサクラ)。このうち観賞用として最も多く植えられているのがソメイヨシノである。鑑賞用としてカンザンなど日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いており(日本花の会、キューガーデン、全米桜祭りなど参照)、英語では桜の花のことを「Cherry blossom」と呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきている。
サクラの果実はサクランボまたはチェリーと呼ばれ、世界中で広く食用とされる。日本では、塩や梅酢に漬けた花も食用とされる。
サクラ全般の花言葉は「精神の美」「優美な女性」、西洋では「優れた教育」も追加される。桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う雅な様を日本人の精神に現した。
国の天然記念物に指定されているサクラは、沖縄県から東北地方まで25都道府県に39件あり、このうち狩宿の下馬ザクラと大島のサクラ株は特別天然記念物に指定されている。
「サクラ」の語源については以下の説がある。
現在の生物学では、独立した種(species)と見なされるためには、その種の中の個体に遺伝的多様性があり、個体が互いに交配して子孫を残すことができている一定規模の集団でなければならない。このため野生で自生している特定の種類のサクラがあったとしても、それが即ち独立した野生種とみなされるわけではない。また種間雑種であったり、種の下位分類の変種(variety)や品種(form)であったり、全く異なる分類体系となる野生種から選抜・開発された栽培品種(cultivar)は、独立した種の数に含めない。
サクラ類をサクラ属(Cerasus、ケラスス)に分類するか、スモモ属(Prunus、プルヌス)に分類するか国や時代で相違があり、現在では両方の分類が使われている。ロシア、中国、1992年以降の日本ではヤマザクラやセイヨウミザクラなどサクラのみ約100種をサクラ属(Cerasus)として分類するのが主流である(狭義のサクラ属)。一方で西欧や北米では各種サクラとスモモ、モモ、ウメ、ウワミズザクラなど約400種を一括してスモモ属(Prunus)として分類するのが主流である(広義のサクラ属)。これは比較的サクラ類の多いロシアや中国ではサクラ類を独立した属として分類していたのに対し、伝統的にサクラ類の少ない西欧と北米ではサクラ類をスモモやモモやウメなどと一括して分類していたためである。日本の科学は西欧や北米の基準に合わせる事が多かったため従来はサクラ類をスモモ属(Prunus)としていたが、1992年の東京大学の大場秀章の論文発表以降は、実態に合ったサクラ属(Cerasus)表記が主流である。
スモモ属(Prunus)は約400の野生の種(species)からなるが、主に果実の特徴から5から7の亜属に分類される。サクラ亜属 subg. Cerasus はその一つである。サクラ亜属は節に分かれ、それらは非公式な8群に分かれる
このうちサクラ亜属には100の野生の種(species)がある。
サクラ属であり、やはり名前に「サクラ」と付くイヌザクラ、ウワミズザクラなどはウワミズザクラ亜属 subg. Padus(もしくはウワミズザクラ属 Padus)であり、サクラ亜属ではない。
かつてはニワザクラ、ユスラウメなどを含むユスラウメ節 sect. Microcerasus もサクラ亜属とされたが、Krüssmann (1978) によりニワウメ亜属 subg. Lithocerasus に分離された。分子系統からは、ニワウメ亜属はサクラ亜属とは別系統であり、しかもスモモ亜属/モモ亜属 Prunus/Amygdalus alliance 内に分散した多系統という結果が出ている。ただし、サクラ亜属をサクラ節 sect. Cerasus(通常のサクラ亜属)とニワウメ節 sect. Lithocerasus(ニワウメ亜属とウワミズザクラ亜属?)に分ける資料もある。
日本に自生するサクラのうち、現在の生物学上で独立した野生種(species)と認められるのは次の11種、もしくはカンヒザクラを除いた10種である。このうちクマノザクラは2018年に発見された種で、オオシマザクラ以来約100年ぶりに発見されたサクラの基本野生種である。日本人は歴史的にこれらの野生種とその種間雑種からサトザクラ群に代表される少なくとも200品種以上(分類によっては600品種以上、または800品種)の栽培品種などを生み出して花見に利用してきたのである。Cerasus での学名のほかに Prunus に分類にした場合に Cerasus と別の学名がある場合はその一部の主なものを P. の略表記で記載した。
サクラはそれぞれの野生種の中で交雑を行っているが、種の枠を飛び越えて種間でも交雑することがあり、そこから有用な個体が生まれて栽培品種として見出されて花見に利用されてきた。ここでは日本で見られる代表的な種間雑種の学名と、その種間雑種を日本語で便宜的に一言で表す場合の代表和名を記す。この代表和名はその種間雑種の中で最も認知されているサクラの名前がつけられていることが多い。なお遺伝子研究が未熟であったころからサクラには学名がつけられてきているが、現在の基準からみると、その学名は必ずしも遺伝的に正確であったわけではないため、ひとつの種類のサクラに複数の学名がつけられていることがあり、混同に注意する必要がある。またその存在は確認されているが正式に発表されていない学名と和名も記載する。なお2種間による主な交雑ではなくオオシマザクラを母体として複雑な種間雑種により作出された栽培品種は狭義のサトザクラに分類され、雑種を表す × で表記されず、栽培品種群の Cerasus Sato-zakura Group(Cerasus serrulata、Cerasus lannesiana)で表される。なおここでは Prunus ではなく Cerasus で表記し、さらに略語の C. で表記した。
サクラは突然変異が多い植物であり、樹形、花期、花と花弁の付き方・数・形・大きさ・色、実の増減、耐候性、病害虫への強靭性などで新しい特性が発現しやすい。このため野生のサクラの中から鑑賞や食用に有用な突然変異した個体や種間雑種で望ましい特性を持った個体を選抜して育成し、これを接ぎ木や挿し木で増殖することで様々な栽培品種が広まっていった。日本では主に、花付きが多く、一輪の中の花弁が多く(八重咲き)、花の色も見栄えがするなどの鑑賞目的で品種改良が進んだのに対し、西欧では実をより有用な食品にするため、実を大きく、収穫量が多くなるような品種改良が行われてきた。
日本に自生する野生種のサクラは上記の10種、もしくは11種(species)であり、世界の野生種の全100種(species)から見るとそう多くはない。しかし日本のサクラに関して特筆できるのは、この10もしくは11種の下位分類の変種(variety)以下の分類で約100種の自生種が存在するほか種間雑種も自生し、古来からこれらの野生種から選抜・開発してきた栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上存在し、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われており、世界でも圧倒的に多種多様な栽培品種を選抜・開発してきた事である。
日本人はこれら野生の種が他の種と交雑したりしながら誕生した突然変異個体と優良個体を選抜・育成・接ぎ木などで増殖してそれを繰り返すことで、多種の栽培品種を生み出してきた。エドヒガンやヤマザクラ、オオシマザクラなどは比較的に変性を起こしやすい種であり、特にオオシマザクラは成長が速く、花を大量に付け、大輪で、芳香であり、その特徴を好まれて結果として栽培品種の基盤の親となって多くのサトザクラ群を生み出してきた。2014年に発表された森林総合研究所の215の栽培品種のDNA解析結果により、日本のサクラの栽培品種は、エドヒガンから誕生したシダレザクラのように一つの野生種から誕生した存在は稀で、多くがオオシマザクラに多様な野生種が交雑して誕生した種間雑種であることが判明した。なおソメイヨシノはオオシマザクラを親とするがサトザクラ群には含めない。ここでは栽培品種のごく一部の代表的な品種をあげる。
日本では、ほぼ全土で何らかの種類が生育可能である。様々な自然環境に合わせて多様な種類が生まれており、日本においてもいくつかの固有種が見られる。たとえばソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは伊豆大島など、南部暖帯に自生する固有種とされる。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっている。
全てではないが、多くの種に共通して見られる特徴を挙げる。雌雄同株であり、中高木から低木程度の大きさである。若い樹皮は光沢がありカバノキにも似た水平方向の皮目が出来、この部分は細胞に隙間が生じて呼吸孔になっている。古くなると皮目が消えて表面から徐々に細かく風化していく。葉の形は楕円形であり、枝に互生し、葉の縁はギザギザ(鋸歯)になっている。葉に薄い細毛が生えるものも少なくない。葉は秋になると紅葉する。葉の中にクマリンがある。根は浅く水平に広がり、ここから新たな茎(ひこばえ)がしばしば生え、不定根も良く発生する。
サクラは木を傷つけるとそこから腐りやすい性質を持つ。昔は剪定した部分の消毒も難しかったため、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺もある。このため、花見の宴会でサクラの木を折る観光客の被害によってサクラが弱ってしまうこともある。しかし適切な剪定は可能である。本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。
長寿な種のエドヒガンとヤマザクラと、エドヒガンの遺伝子を受け継いだ広義のシダレザクラに属する栽培品種に古木として知られる名桜が多い。日本三大桜がいずれも樹齢千年を超える老古木となっているほか、五大桜も古木が多く、内神代桜は樹齢が1800年を超えているとされる。それ以外にも有名で長寿の一本桜が多く存在する。
サクラの花弁の色は一般的に白色から濃い紅色までのグラデーションの範囲にあり、例外的に黄色のウコンや緑色のギョイコウなどがある。この紅色系の発色はアントシアニンという色素によるものであり、紅葉や若葉の赤系の色もアントシアニンの作用である。アントシアニンの合成には低温と紫外線が必要なため、温暖な地域や年、屋内での育成は白色が強い花弁となりやすい。そのため、クローンであり同じ特質のソメイヨシノでも、温度環境の地域差により西日本より東北の個体の方が紅色が濃いと言われたり、温暖化による年差により昔と比べて白くなっていると言われがちである。また開花から散るまでの色の変化もアントシアニンの密度の変化によるものであり、つぼみの紅色は開化と共にアントシアニンの密度が薄くなって花弁が白くなっていき、散り際には花弁で新たに合成されたアントシアニンが花弁や雄蕊やめしべの基部に集まって赤くなっていく。
花を観賞する栽培品種として好まれたため様々な姿の花が見られ、花びらの数は五枚から百数十枚まで幅広い。サクラに限らないが用語を挙げる。花弁が五枚までのものを一重、五枚から十枚のものを半八重、十枚以上の花弁を持つものを八重といいサクラの場合はヤエザクラと称している。また、花弁が非常に多く、一枚一枚が細長い場合、菊咲きと称する。さらに萼、花弁、雄蕊の中にさらに萼、花弁、雄蕊のある二重構造のものも見られ、これは段咲きと呼ばれる。花弁の枚数の増え方には雄蕊が花弁に変化するものと、花弁や雄蕊そのものが倍数加する変化が見られる。なお、テレビ番組トリビアの泉(第36回、2004年04月28日放送)では、サクラの木一本(樹齢32年のソメイヨシノ)に付いている花びらの枚数を一枚ずつ集計したところ、およそ59万3345枚であることが判明した。
西欧と北米の分類法ではサクラと同じスモモ属となるモモやウメは花柄が短く枝から直接生えているかのように咲くが、サクラとスモモはこれらと違って長い花柄を持っており枝から離れて垂れ下がるようにして咲く。さらにスモモの特徴として前年に葉が有った葉痕の基部に2つか3つの冬芽がつくが、サクラは1つの冬芽が付き、これが花の集合体となる花序となり、この点でサクラと近縁の植物の見分けが可能である。さらにサクラの中の種を見分けるには、個体差があって見分けにくい花弁よりも、種ごとの差異が大きく見分けやすい萼や花序の形態に注目する必要がある。
開花期は種や地域によるばらつきが大きい。日本においては1月、沖縄県のカンヒザクラを皮切りに咲き始め、東京ではまずカンザクラなどのカンヒザクラを由来とする早咲きの栽培品種が咲き、ソメイヨシノが咲いた後の4月中旬以降にヤエザクラが咲く。北海道のオオヤマザクラは5月に花を咲かせ、標高2000m以上ではタカネザクラが7月に花を咲かす。
日本の代表的な品種のソメイヨシノでは、開花から満開まで1週間で、満開から散るまで1週間、花の見頃は悪天で早まらなければ満開前後の1週間程度である。ソメイヨシノはクローンであるため同じ環境にさらされる同地では個体ごとの差異がほぼなく、ほぼ一斉に咲き一斉に散る。なおソメイヨシノが爆発的に植えられる前の江戸時代までの日本では、遺伝的に個体差のあるヤマザクラや多様な栽培品種が花見の主流であったため、個体ごと、種ごとに少しづつ次々と咲いていくサクラを長い期間をかけて鑑賞していくという花見のスタイルであった。
サクラには花と葉が同時に展開する種が多くあるが、日本の野生種の中ではエドヒガンが例外的に葉が展開する前に花が咲く特質を持っており、エドヒガンから誕生した栽培品種のソメイヨシノやシダレザクラもこの特質を受け継いでいる。エドヒガンは他の多くの野生サクラや昆虫の活動期より少し前に花を咲かせるが、他に開花している種が少ないため効率的に虫をおびき寄せることができ、これが生存戦略となっている。なお、花が散る頃に葉が混ざって生えた状態から初夏過ぎまでを葉桜と呼ぶ。
サクラは花芽を作ると葉で休眠ホルモンを作って休眠する。その後に休眠解除(休眠打破)して再び開花するには、一般的に5°C程度の低温刺激が望ましく、低温時間の積算とその後の気温の上昇が必要である。この工程は一般的には冬から春にかけて行われることが多いが、秋に何らかの影響で葉がなくなった場合などに休眠ホルモンが足りず、寒い日を2 - 3日経てその後小春日和になるとこの条件を満たしてしまい狂い咲きが起きる。このように異常な個体の狂い咲きとは別に、毎年春に加えて秋から冬にかけて花を咲かせるジュウガツザクラやフユザクラなどの二季咲きの品種もある。
サクラが以前に比べ若干早く咲く現象も見られている。これには休眠解除の一要素である気温の上昇が、地球温暖化の影響により春の早いうちに到来していることや、都市部でのヒートアイランド現象も影響している。また、九州では桜前線(ソメイヨシノ基準)が、普通とは逆に南下する例も現れた。これは温暖化によりソメイヨシノにとっては冬が暖かくなりすぎた九州南部では、休眠解除の一要素である低温刺激とその積算時間の条件を満たすまでに日数がかかり開花が遅れているからである。これらは季節学的な自然環境の変化を端的に表す指標にもなっている。
サクラの花からは蜜が出ているため、サクラの花が咲く時期にはスズメ、メジロ、ヒヨドリなどの鳥類が見られる。メジロやヒヨドリは嘴を花に入れて蜜を吸うことが多いが、スズメは嘴が太くて短いため花の横から穴をあけて蜜を吸うことが多い。
日本においてはサクラは、関心の対象として特別な地位を占める花である。
日本では固有種を含んだ分類学上の10もしくは11種(species)の基本の野生種を基に、これらの変種(variety)以下の分類を合わせて100種以上の自生種があり、さらにこれらから育成された栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上あり、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われている。なおこのうち100品種余りは北海道松前町由来のマツマエハヤザキなどを掛け合わせるなどしてベニユタカなどの多品種を生み出した浅利政俊が作出したものである。
日本では果実(サクランボ)を食用とするほか、花や葉の塩漬けも食品などに利用されるが、特に平安時代の国風文化の影響以降に、桜は観賞用途(花見)で花の代名詞のような特別な位置を占めるようになった。当初は鑑賞の対象とされる代表的な品種は野生に自生するヤマザクラであった。これに加えて、花弁の数や色、花の付け方などの観点から見栄えが良かったり突然変異の珍しい特徴を持つ野生の個体を何世代にもわたって選抜育種し、優れた個体を接ぎ木などの方法で増殖させることで様々な栽培品種が開発されて、花見に利用された。既に平安時代には八重桜が接ぎ木によって増殖されていたらしいことや「しだり櫻」や「糸櫻」などが存在したことが当時の文献に記録されている。また鎌倉時代以降に鎌倉周辺に自生するオオシマザクラが栽培されるようになり、これが京都に持ち込まれたと考えられており、室町時代にオオシマザクラを由来とするフゲンゾウやミクルマガエシ等が生まれた。江戸時代にはオオシマザクラの優れた特質からカンザンなどの多種のサトザクラ群やソメイヨシノ(染井吉野)などが生まれ、河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が積極的に植えられた。江戸時代末期には現代の日本で見られるのと大差のない300を超える多くの品種が存在するようになった。
明治時代に入り、大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化のため庭園が取り潰されると同時に、そこに植えられていた数多くの栽培品種の桜が伐採され、植えられるのはソメイヨシノばかりになっていった。これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの栽培品種の枝を採取し自宅の庭で育てた。これに目を付けた江北地区戸長(後に江北村村長)の清水謙吾が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作り「五色桜」として評判となり、これを嚆矢として多くの栽培品種が小石川植物園などに保存されることになり、その命脈を保った。また京都では第14代佐野藤右衛門が全国にあった貴重な栽培品種や名木を収集して増殖して保存に務めた。
また第二次世界大戦で荒川堤も壊滅的な被害を受けるが、第二次大戦中は埼玉県川口市安行の植木業者の小清水亀之助らが品種の保護に尽力し、戦後の1950年頃には国立遺伝学研究所が、1960年代には多摩森林科学園が小清水らから苗を譲り受け、現在では前者に250系統350個体、後者に500系統1300個体のサクラが植えられて、江戸時代以前からのサトザクラの命脈を保っている。またイギリスの園芸家コリングウッド・イングラムが保存していたタイハクのように、一度日本で消滅した品種が日本に里帰りすることで、江戸時代以前のサクラの命脈を補完している。戦後の高度経済成長期にはソメイヨシノの植樹が日本全国で爆発的な勢いで進められ、サクラの中で最も多く植えられた栽培品種となっている。
また野生種であるエドヒガンは、成長が遅いが耐久性が高く、桜の中で寿命が最も長く長い期間をかけて巨樹に成長しやすい。このため日本には、エドヒガンとそれから生み出された栽培品種のシダレザクラに長寿の巨樹がたくさんあり、それらの桜の木はしばしば神聖なものと見なされ、一本桜として神社仏閣や地域を象徴するランドマークになって、現在に至るまで歴史的に有名な花見の対象となってきた。たとえばエドヒガンの神代桜は約2,000年、淡墨桜は約1,500年、醍醐桜は約1,000年の歴史を誇り、ベニシダレの三春滝桜は約1,000年の歴史を誇る。
今日でもサクラの栽培品種の作出は続けられており、珍しい方法としては、2007年に理化学研究所が世界で初めてサクラの在来品種に重イオンビームを照射して新品種ニシナザオウ(仁科蔵王)を作出することに成功している。
今日、とりわけ多くの栽培品種のサクラが見られる名所としては、松前公園(250品種)、日本国花苑(200品種)、日本花の会結城農場(350種)、造幣局の桜の通り抜け(134品種)などがあげられる。(品種数は野生種と、野生種の雑種と下位分類を含んだ数)
桜は春の象徴、花の代名詞として和歌、俳句をはじめ文学全般において非常によく使われており、現代でも多くの音楽、文化作品が生み出されている。
古来から桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれる木がある(あった)。これは桜の場合も多いが、「桜」と名がついていても桜以外の木の場合もある。
奈良時代の『万葉集』には桜を含む様々な植物が登場するが、中国文化の影響が強かった当時は和歌などで単に「花」といえば唐から伝来したばかりの梅を指していた。万葉集においては梅の歌118首に対し桜の歌は44首に過ぎなかった。2019年5月1日からの元号である『令和』も万葉集にある梅花の宴が典拠となっている。
サクラの地位が特別なものとなったのは平安時代であり、国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり「花」と言えば桜を指すようになった。平安時代に編纂された『古今和歌集』の仮名序にある古墳時代の王仁の歌とされる「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の「花」は梅であるが、平安時代の歌人である紀友則の歌「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」の「花」は桜である。斎藤正二は、中世の知識階級に手本とされて親しまれた白居易が『白氏文集』の中でサクラに関する詩を27首詠じていることから、日本におけるサクラの格の向上に与えた漢詩の影響について指摘している。嵯峨天皇は桜を愛し、花見を開いたとされている。左近の桜は、元は梅であったとされるが、桜が好きであった仁明天皇が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたとされている。歌人の中でも特に平安時代末期の西行法師が、「花」すなわち桜を愛したことは有名である。彼は吉野の桜を多く歌にしており、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名である。西行はこの歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日に入寂したとされる。室町時代には、この西行を題材にした能の西行桜が成立した。
安土桃山時代の豊臣秀吉は醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは醍醐の花見として有名である。
江戸時代の代表的俳人・松尾芭蕉は、1688年(貞享5年)春、かつて奉公した頃のことなどを思って「さまざまの事おもひ出す桜哉」と句を詠んだ。俳句では単に「花」といえばサクラのことを指し春の季語であり、秋の月、冬の雪とともに「三大季語(雪月花)」である。「花盛り」「花吹雪」「花散る」「花筏」「花万朶」「花明かり」「花篝」の「花」は桜である。楽においては江戸時代の箏曲や、地歌をはじめとする三味線音楽に多く取り上げられている。一般に「日本古謡」とされる『さくらさくら』は、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものである。江戸時代に成立した戯曲の『義経千本桜』では、本来その話の中には桜が登場しないにもかかわらず題名に桜を用いた。
明治時代以降では瀧廉太郎の歌曲『花』などが有名である。長唄『元禄花見踊』も明治以降の作であるがよく知られている。
サクラの開花時期は人口の多くを占める関東以西の平地では3月下旬から4月半ば頃が多く、日本の年度が4月始まりであることや、学校に多くの場合サクラが植えられていることから、現代では人生の転機を彩る花にもなっている。
令和でもサクラはポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲーム、アニメなど様々な作品のモチーフや題材になっている。特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は桜ソングとして知られている。
桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う「雅」な様を現した。一部では散り行く儚さや潔さも、愛玩の対象となっている。古くから桜は、諸行無常といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象である。
江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などを基調とする日本人の精神の具体的な例えとみなした。また明治時代には新渡戸稲造が「武士道」をサクラと同じ「日本固有の花」と例えた。
日本では国花が法定されておらず、天皇や皇室の象徴する花は菊であるが、特に明治時代以降はサクラが多くの公的機関でシンボルとして用いられており、「事実上の国花」のような扱いを受けている。旧日本軍(陸軍・海軍)が桜の意匠を徽章などに積極的に使用したほか、明治時代の「歩兵の本領」や昭和時代「同期の桜」などの軍歌・戦時歌謡の歌詞に「桜」という表現が使用され、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には「桜花」や「桜弾機」など特攻兵器の名称にも使われた。
また、明治時代以降はサクラは日本の象徴として国際親善にも利用されるようになった。全米桜祭りで知られるアメリカ合衆国のポトマック河畔の桜も日米友好のために東京市長の尾崎行雄が寄贈したものである。なお、この返礼として日本にはハナミズキが贈られている。その他の国との間でも友好のために贈ることがある。
千円紙幣の裏面には桜が描かれている。また1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインである。
平安時代以降ではサクラの花のように雅な印象から桜紋は位の高い家の家紋、主に清和源氏の家々で使用されてきた。現在も家祖からの男系血統が存続し熊本城主や内閣総理大臣まで輩出した武家の細川家の家紋(替え紋)、男爵藤村家や男爵若王子家の家紋に代表され、神紋や寺紋にも用いられる。
桜の人気は平安時代に始まる。説話集『沙石集』(弘安6年(1283年))によると、一条天皇の中宮、藤原彰子(紫式部らの主君)が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。
桜は春を象徴する花として日本人にはなじみが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。
各種調査によると日本人の大多数の人たちが桜を好んでいる。九州から関東での平地では、桜が咲く時期は年度の変わり目に近く、桜の人気は様々な生活の変化の時期であることとも関係する。
桜の花の美しさに魅了されて、その枝を手折る者を「花盗人」(はなぬすびと)といい、罪深さと優雅さが同居する行為であることから、実話から虚構まで様々な物語が生まれた。
桜の中でも特に、宮中の正殿である紫宸殿の側にある左近桜(さこんのさくら)の枝を折ることは大罪とされていた。『古今著聞集』巻19が伝える伝説によれば、承元4年(1210年)1月ごろの早朝、歌人の藤原定家が、侍に左近桜の枝を切らせて持ち帰るのを、官人たちが目撃した。振る舞いが風流だったので、官人たちは優雅なことだなあと思ったが、その噂は土御門天皇の耳にまで届いた。土御門は、建春門院伯耆に代詠させて、「なき名ぞと のちにとがむな 八重桜 うつさむ宿は かくれしもせじ」(「後から無実だと主張するなよ。左近桜を移した家を隠すことはできないだろう」)という歌を贈った。定家は返歌して、「くるとあくと 君につかふる 九重や やへさくはなの かげをしぞ 思ふ」(「明けても暮れても一日中、我が君にお仕えしている左近桜。その桜の花の姿を想うことで、私も陛下に忠勤を尽くさせていただきます」)と侘びた、という。
定家の伝説は真偽不明だが、左近桜を折ったことが比較的確実な人物には、14世紀前半、後醍醐天皇の中宮だった西園寺禧子がいる(『新千載和歌集』春下・116 および117)。ある時、後醍醐が左近桜を鑑賞していると、禧子の部下がやってきて左近桜の枝を折った。驚いた後醍醐は、妻を自分の前に召し出して、「九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ」(宮中に咲く左近桜を、秋の宮人(皇后に仕える人)が、どうして折ったのだろうか)と尋ねた。禧子は返歌して、「たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき」(手折らせたのは、秋の宮(皇后)の私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったから)と、後醍醐の気を引くための行為だったことを明らかにし、夫への愛を歌った。
日本では桜の開花予想(「桜」と表すが、殆どの予想はソメイヨシノを取り上げている)、いわゆる「桜前線」や、開花や満開の宣言が春に話題となる。開花予想は気象庁が1951年(昭和26年)に関東地方を対象に行ったのを初めとし、2009年(平成21年)まで行われた。2007年(平成19年)から独自の開花予想を行う民間の気象会社が出現し、数社が予想を出すようになったため、2010年(平成22年)から気象庁は開花予想の業務を取り止めて民間に任せ、観測のみを行っている。なお、桜の開花予想は気象業務法の定める予報業務ではなく、許可は要しない。
気象庁では、桜の開花や満開を生物季節現象の1つとして、各地で特定の株を標本木として定めて職員の目視による観測を行っている。標本木は南西諸島はカンヒザクラ、北海道の札幌以東と根室以西はオオヤマザクラ、根室市はチシマザクラ(2011年以降根室市に業務移管)で、それ以外の全国はソメイヨシノである。標本木の蕾が5輪から6輪ほころびると、「開花」したと発表される。これをマスコミでは「開花宣言」と呼ぶことがある。標本木全体の80%以上のつぼみが開くと、「満開」と発表される。
2009年まで気象庁が行っていた予想方法は、各地点の冬期の気温経過や春期の気温予想等を考慮した各種計算を経て、標本木に対して開花予想日を決定していた。民間気象会社の予想方法も概ねこれに近いが、独自の手法を採り入れて行っているものもある。
サクラの標本木は、福岡などでは管区気象台の庁舎内にある桜(ソメイヨシノ)を標本木として観測しているが、東京では靖国神社、岐阜県では清水川堤、大阪では大阪城公園内で標本木を設定している。神戸では1999年の庁舎移転まで気象台敷地内の桜(ソメイヨシノ)を標本木にしていたが、移転により潮風の影響を受けるようになったため、2002年1月から神戸市立王子動物園の園内の木から標本木と副標本木を設定している。
樹木全体から見た開花具合によって咲き始め、三分咲き、五分咲き、七分咲き、満開、散り始めなどと刻一刻と報道される。このように木々の様子を逐一報道することは、世界から見ても珍しい例である。
日本では桜は花見や観桜など、景観等の人気が高く多くの場所に植えられている。植栽の場合街路樹、公園、庭木、河川敷等に使われることが多い。近年では、サクラは街路樹に用いられている樹種としてイチョウについで2番目に多く、49万本が植えられている。道や線路・河川などに沿って植えられることが多く、このようなものを桜並木という。道などの両側に桜が並んでトンネルのような形状になっているものを桜のトンネル(桜トンネル)と呼ぶことがある。このように、辺り一面が花景色になることも多い。また、学校の校庭には桜が植えられていることが多い。小学校などの校庭には、児童や生徒の入学時に桜の花が咲いているようにするため、ソメイヨシノに比べて開花期間が長い八重桜を混植することが多い。また、古くから桜の花を育てている神社や寺も少なくない。しかし、害虫や病気など手入れが大変で、大きく育つためか、その人気の割には庭木にされることは少ない。
日本では、至る所で花見に使われる木として重要である。花見の習慣とともに、桜の名所も日本全国各地にある。また、神社や寺など桜を持っている団体や地域が「桜祭り」を開いている例も多い。夜の桜を楽しむために、桜のライトアップも各所で行われる。
果実を食用とする品種の3系統は、概ね甘果桜桃(セイヨウミザクラ、Prunus avium)、酸果桜桃(スミノミザクラ、Prunus cerasus)と中国桜桃(カラミザクラ、Prunus pseudocerasus)に分けることができる。
六月から七月にかけて実をつけるオウトウ(サクラの一種)の果実を日本では一般的にサクランボと呼び、栽培されている多くがヨーロッパの甘果桜桃(セイヨウミザクラ)系である。品種としては、佐藤錦の他に、紅秀峰、豊錦、ナポレオン、アメリカンチェリー等が有名である。佐藤錦は、明治より山形県東根市の佐藤栄助によって品種改良され、岡田東作が名づけて世に広めたものである。酸味が強い酸果桜桃(スミノミザクラ)は料理に利用される。中国桜桃(カラミザクラ)は日本であまり栽培されていない。
桜漬けは、一般的に八重桜の花を梅酢と塩で漬けたものである。天保年間に初版が刊行された『漬物塩嘉言』にも「桜漬」の記載がある。花(花弁)自体も塩漬けにすると独特のよい香りを放ち、和菓子・あんパンなどの香り付けに使われる他に、祝い事の席で桜湯として振舞われる。桜湯は、花の塩漬け2から3輪に湯を注いだものである。茶碗の中で花びらが開く過程から、祝い事に使われる。婚礼や見合いなどの席では「お茶を濁す」ことを嫌い、お茶を用いずに桜湯を用いることが多い。結納には両家の縁を結ぶという縁起を表し椀あたり2輪が用いられる。
桜の葉は桜餅などに用いられる。桜餅は代表的な和菓子の一つであり、桜の葉の塩漬けで包まれた桜色の餅である。春にはこれらの風味を利用した食品なども見られる。
桜の葉の抗菌物質としてクマリンが知られている。桜の葉は、塩漬けにすることでクマリン酸配糖体に酵素が作用して加水分解などを経て芳香成分(クマリン)に変化しよい香りを放つ。桜葉漬けには多くの場合オオシマザクラが用いられており、伊豆半島南部において生産が盛んであり、シロップ漬けにされることもある。
桜の樹液をトラガカントゴムの代わりに利用する例も存在する。
木自体は材木として使われる。材としては硬く、湿気には比較的強い。熱伝導率が高いため、触ると冷たく感じる。木目には乏しいが、節の周囲にはメイプルや栃に似た杢目が出ることもある。無垢テーブル板や比較的高級なフローリング材として使用される。彫刻にも用いられる。建築業界や家具業界において安価である樺を樺桜あるいは単に桜と称して一種として流通させることがある。これによる混同を避けるために本来の桜を地桜と呼ぶこともある。材としては樺と桜は全く別物である。
桜の樹皮は水平方向にはがれ、その表面は灰色を帯びて艶があって美しいため、小物入れや茶筒などの細工物(樺細工)や版木に利用される。
オオシマザクラは別名をタキギザクラともいい、この名前からも分かるように以前は燃料用として植樹されており、房総半島や伊豆大島にもこの用途で広がったとされる。
焚いた時の香りが良いため燻製のスモークチップとしてよく用いられる。
樹皮は桜皮(おうひ)という生薬になり、鎮咳、去痰作用がある。また樹皮を薄いピンク色の染色に使用することができる。
見応えのあるサクラの名所を作るためには、その空間のサクラが同時に開花する集中開花型の空間を作る必要があり、単一の品種のみを植栽した場合は統一感や地域性(その地が発祥の品種などの場合)を演出でき、花期が同じ異なる品種を植栽した場合は華やかさを演出できる。ただしこれらの植栽方法は集客に優れるため、駐車場やトイレの設置が必要となることが多い。花期が異なるサクラの品種を植栽した分散開花型の空間作りの場合は、集客が分散して長い期間にわたってサクラを楽しめるので地域の憩いの場に向いている。この場合、花期が違う品種を隣接して植栽した場合には見応えに欠けることになるが、花期が同じ品種ごとにゾーンを設定してまとめて植栽することで見応えを改善できる。
落葉期の11月中旬から12月上旬、もしくは2月下旬から3月中旬を選び、厳冬期は避けること。
サクラの健全な成育には十分な陽当たりが必要なので、隣接地に新築の建造物が出来たりしない将来にわたって日陰にならない場所が望ましい。
隣接するサクラとの植樹間隔が狭いと陽当たりや根の発育に悪影響を及ぼし、過密であると病害虫発生の原因になるので、10mの間隔を開けて植えるのが望ましい。
サクラの健全な成育には、水はけが良く適度に湿り気があり肥沃な土壌が必要である。植えるのを避けるべき水はけが悪い土壌の目安は、雨の翌日にも水が引かない土壌、深さ30センチの穴を掘って水を穴の上までに入れて1時間経過後もまだ水が溜まっているような土壌である。また避けるべき固い土壌は、両手で直径1センチの園芸用ポールを垂直に力いっぱい突き刺して50センチ以上刺さらない土壌である。また避けるべき栄養分が不足している土壌は、生えている草が黄色味を帯びていたり草の丈が低い土壌である。例えば、関西でよくみられるような花崗岩が風化してできた真砂土の土壌は、乾燥しやすく、踏みしめられて固くなり水はけが悪くなりやすく、栄養に乏しいため、これらの悪条件に該当する。このような土地では、サクラの植栽には十分な土壌改良を必要とする(土の作り方と植え方で解説)。
街路樹や公園でよくみられるように、サクラの周りをコンクリートやアスファルトで舗装したり、大勢の人が根本の土を踏み固めるような土壌環境は避けるべきである。サクラは樹冠よりさらに根を浅く広く広げるため、土が舗装されたり踏み固められると、根に酸素と水と有機物の供給ができなくなってしまい健康を損ない樹勢を削いでしまうのである。特にある程度成長してから根周りが舗装された場合は伸びた根が腐って死んでいき、生育した上部に必要な分だけの十分な酸素と水と養分が供給できなくなり大きく健康を害するため避ける必要がある。土壌が舗装や人間により踏み固められていると根頭がんしゅ病やネコブセンチュウ病を誘発し、これらの病気は土壌を汚染する。早いうちであれば土壌改良によって病気を止めることができるが、これらでサクラが枯れた場合、何度サクラを植えても枯れる場合がある。このため、これらの病気に罹った土壌は加熱殺菌すること、石灰などで消毒すること、土そのものを入れ替えること、サクラの枯れた後には数年の間樹木を植えないことなどで対策をとることができる。
土の作り方と植え方は、まずは植える3時間から前夜程度前からサクラの苗木の根を水につけておく。そして植え穴を掘る。標準な植え穴は直径と深さが50センチ程度であるが、土壌改良を必要とする場合は、植え穴は直径2メートル、深さ70センチ以上を必要とする。次に植え穴用に掘り出した土を6対4の割合で分け、4の土と4と同量の堆肥と1平方メートル当たり100グラムから200グラムの肥料(NPK10-10-10)を混ぜ合わせて植え穴に埋め戻す。次にその上から6の土の一部を使って5センチほど埋め戻す。倒れず苗木の幹を誘導できるよう、穴の中心に園芸用支柱や竹を十分な深さまで刺し、傍らに苗木を立てて残り6の土でさらに埋め戻す。80センチから1メートルの高さで支柱と苗木を結束する。この際、苗木が実生台木の場合は接ぎ目を土中から出して植え、挿し台木の場合は土中に入れて植える。また幹と支柱が擦れて傷つかないように、必ず保護材で枝を巻いたうえで麻縄などの1年から2年で分解する紐で、きつ過ぎて食い込んだり緩すぎて擦れたりしないように注意しながら8の字に結束する。なお支柱は通常1.8メートルから2.4メートル程度の長さが必要であるが、枝や幹の成長が下向きになりやすい品種では将来の樹形を整えるために竹などのより長い支柱が必要となる。例えばカワヅザクラなどの枝や幹が横や斜め下に伸びやすいサクラには、基準の幹を3メートルから3メートル50センチ程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが、枝垂性のサクラの場合には基準の幹を4m程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが望ましい。最後に周囲を土の壁で囲って水鉢を作って水を入れる。また幹は8月下旬以降に急激に太るので、定期的に巡回して支柱と結んだ紐が苗木に食い込まないように注意して調整する。基本的に水やりは必要ないが、夏場の乾燥している時には1週間毎の夕方に水鉢が満杯になるまで水を与えると良い。
サクラは「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」といわれるように傷口が傷みやすい。実際、台風や人間により太い枝が折られた後に未処置だと傷口から腐って一気に枯れてしまうこともある。このため、しばしば剪定には不向きとされるが、健全な育成のためには枝を間引く適切な剪定はむしろ必要である。大木になってから枝を切ると健康を害しやすいため、植えてから5年目程度までに剪定をして将来の樹形を整えておく必要があり、基本的には剪定ばさみで切れる太さまでの枝のみにする。また、剪定をする時期は落葉後の11月から3月上旬にかけてとする。剪定する対象の枝は、まずは台木から生えていることが多い地際のひこばえや台芽であり、これらを剪定しないと栄養がこれらの集中してしまう。また他の枝に絡みやすいふところ枝とからみ枝も剪定して枝同士が絡んで擦れて傷が付き腐朽することを防ぐ必要がある。また胴吹き枝や1.5メートルから2メートル程度の高さまでにある枝も通行の障害になるため剪定することが望ましい。6年目以降は樹形を乱す逆さ枝も剪定することが望ましい。また枯れ枝も剪定の対象となる。やむを得ず500円玉以上の太さの枝を切る場合は、必ず、切る枝の下側に3分の1程度から切り込みを入れてから上から切り落とし、えりを残して切断面がその枝の幹と平行になるように再度切った後に、切断面に保護材を塗る。
サクラとウメの剪定に関する最大の違いは枝への花の付き方である。枝には1年で数十cm延びる長枝と1cm未満しか伸びない短枝に分かれる。サクラでは長枝には葉芽ばかりがついて短枝に花芽が付く一方で、ウメでは長枝にも花芽を付ける。枝を剪定する際は基本的に短枝が剪定されるので、剪定から数年間は短枝がまだ伸びていないため、サクラは花付きが大きく減少し、ウメは花付きがあまり衰えないという事になる。この剪定後数年間の見栄えの違いにより「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」と言われることになったとも言われている。
雑草を放置すると、日陰になったり水と養分を奪われたり病害虫の発生源となり健全な成育が阻害されるため、健全な育成のためには新芽の頃から落葉前までに除草する必要があり、特に苗木の頃は早目に対処する必要がある。刈った草を根元に巻くことで土壌の乾燥を防ぎ、次の雑草の繁殖を抑制することができる。
健全な育成のために、寒肥として落葉期間中の施肥が必要である。まずはサクラの幹を中心に半径1メートルの円状を内径として設定した後、面積1平方メートル等分になるように同心円状に外径を設定する。そして内径と外径の間の1平方メートルごとに深さ・直径20センチの穴を1つずつ掘り、その中にNPK10-10-10の肥料200から300グラム入れて埋め戻す。
植えてから6年以上経ったサクラの木に対しては、毎年夏季に健康診断を行うことが望ましい。植栽間隔が狭すぎたり、陽当たりや土壌に問題があったり、病害虫に侵されていると樹勢が衰えやすいため、その場合は専門家の診断を仰ぐのが望ましい。樹勢が衰えている証拠にあげられるのは、木の上部の枝枯れが目立つ、根際の主幹部から胴吹きが目立つ、見上げると空が見えるほど葉が少ない、開花時の花が少ないか枝先にだけまとまって咲く、降雨があるのに葉が丸まっている、9月上旬頃に周りのサクラは葉があるのに一足早く落葉してしまうなどである。
本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。病害虫はサクラの密集地では互いに伝染し、集団発生する可能性がある。
サクラが多く罹る病気としては根頭がんしゅ病、根瘤線虫病、てんぐ巣病、膏薬病、うどんこ病などがある。
根頭がんしゅ病、根瘤線虫病は根や根の付け根辺りで瘤が発生する病気である。根元の土が踏み固められていると促進される。病気に罹るとすぐ枯れるわけではないが徐々に樹勢が削がれ、サクラが弱っていく。これらの病気は病変部位を切り取り、切り取った部分を殺菌し、表面を保護する塗布剤などで保護すること、土壌改良を行うことが有効である。対策を行えば少なくとも病気の進行は抑えられる。
てんぐ巣病は枝に発生し、枝が竹箒状になる病気である。この病変も徐々にサクラが弱り、全ての枝に広がると手遅れになりかねない。発見したら、休眠期を待ち、消毒した鋏や鋸で病変部位を切り落とすことが望ましい。切り落とした後は癒合剤などで回復を促し、剪定した枝は焼却、鋏や鋸も切った後すぐに消毒することが必要である。消毒の行われていないはさみを使うとそれを元に移る可能性もあるので気をつけるべきである。菌が原因であるので風通しを良くすることも対策になる。
膏薬病やうどんこ病については水気が多い場所や湿気の多い場所、あるいは病害虫が引き起こす。胴の部分に菌が入ったりキノコができることによって病気になる。病害虫は菌が入るための傷口を作ったり、傷口を広げるのに加担することが多い。風通しを良くすることや水気がたまらないようにすること、病害虫を駆除することによって病気を抑えることができる。
サクラによく付く害虫として、2012年(平成24年)以降に顕著な話題となっているのが外来種のクビアカツヤカミキリである。サクラに寄生する同カミキリの大量繁殖と食害の大きさから、各地でサクラ、特にソメイヨシノの大量伐倒に至っており、その被害の深刻さから、2018年1月に同カミキリが環境省より特定外来生物に指定された。これを受けて埼玉県環境科学国際センターではサクラへ寄生するクビアカツヤカミキリ対策を広く公開している。
他の害虫としてはカイガラムシ、アブラムシ、ハダニ、それにケムシ・イモムシの類ではハマキムシ、コスカシバ、オビカレハ、アメリカシロヒトリ、サクラケンモン、モンクロシャチホコ (w:Phalera flavescens) などが挙げられる。
ノネズミ、ノウサギ、ウソの食害も受けやすく、乾燥防止目的でサクラの根元に多くの敷き藁を施用したりクローバーなどの植栽をするとネズミの冬場の住みかと餌場になりやすい。また植えてから3年程度までにノウサギに食べられたり齧られると致命的な被害を受けることもある。これらには忌避剤を用いることで予防ができる。
サクラは街路樹として植えられることも多いことなどから車などの排気ガスによって傷められることも多い。山高神代桜ではサクラを守るために近くを通っていた道路に迂回路が作られた。酸性雨も木を弱める要因になる。
サクラは北半球に広範に分布しているが、ヨーロッパや北米には、観賞に適した大きな花をたくさん付ける野生のサクラの種はあまりなく、それらの多くは今日の人々が想像している典型的なサクラとは異なっている。また中国本土には日本より多い30種以上の野生種のサクラが分布しているが、それらの種は小さな花をつけるものが多く、観賞用にふさわしい大きな花を咲かせるサクラの分布域は人々の生活圏から離れた狭い地域に限定されていた。一方日本では、観賞に適した大きな花を大量に咲かせ大木になりやすいオオシマザクラとヤマザクラが人々の生活圏に近い全国のかなり広い地域に分布していた。そのため日本では歴史的にサクラを観賞する文化や栽培品種の生産が発展したと考えられている。
欧米各国は江戸時代末期から日本のサクラを収集し、イチハラトラノオ、フゲンゾウ、ウコンなどがこの時期に欧州に持ち出され、サクラ観賞の文化が始まった。また明治時代の都市の近代化によるサクラの伐採により日本では一部のサトザクラが失われていたが、タイハクやホクサイなどは欧州に持ち出されて後に日本に里帰りすることで再び日本で観賞できるようになった。
満州国時代の中国東北部では、現在の遼寧省大連市旅順口区にある龍王塘桜花園の桜花園が既に有名であった。また、同じく旅順口区の203高地の麓の桜花園(50万平方メートル余り)は2006年に開園して、日本から最近贈られた桜が18種類、3,700株余り植えられている。
日中戦争中、日本軍により傷病兵用病棟として接収された武漢大学に28本のサクラが植えられた。終戦後、これらのサクラは歴史的観点から伐採されかけたが保存されることになった。1972年、日中共同声明による日中国交正常化に伴い、サクラが日本から武漢大学および近くの東湖桜花園に寄贈され、その後も次々と寄贈され、現在は武漢大学周辺には約1000本のサクラがある。これらのサクラの80%は日本軍が植えたサクラの直系の子孫である。新型コロナウイルスの蔓延で花見ができなくなった2020年には、武漢大学のサクラの様子がウェブで公開され、延べ7億5000万回視聴された。
サクラは頻繁に中国と日本の友好関係に利用されている。日中国交正常化の翌年の1973年、日本は中国に友好のシンボルとしてサクラを送り、それらは北京の玉淵潭公園に植樹された。その後もサクラの木は増殖されて植えられ、同公園はサクラの名所となった。
1997年、みちのく銀行と樹木医の斎藤嘉次雄が日中友好のために武漢市に桜公園を開くことを計画し、同年からサクラで有名な弘前公園がある弘前市が武漢市にサクラの植樹や栽培の指導をするようになり、2016年には武漢市と弘前市が友好協定を締結した。2001年に東湖桜花園が開園し、2018年には250万人が花見に訪れる名所となった。ソメイヨシノやシダレザクラなど60種類のサクラが1万本植えられている。
無錫市の無錫国際花見ウィークは、1980年代に坂本敬四郎氏と長谷川清巳が「中日桜友誼林」に1,500本のサクラを植えたことから始まった。2019年現在、「中日桜友誼林」は毎年50万人の花見客が訪れる名所となっており、100種類のサクラが植栽されている。
1990年代後半から21世紀に入り、訪日旅行客の増加やSNSの普及により中国でのサクラの人気が急速に高まり、中国各地に開設された多くの広大な桜公園に多くの花見客が訪れている。例えば貴州省の平壩万宙桜花園は1,600ヘクタールの広大な土地に70万本のサクラが咲き、世界最大の桜公園といわれている。2019年の統計によると、中国国内だけでのサクラ関連の観光客数は3億4,000万人に達し、消費額は600億元を超えている。
このような中国でのサクラの人気の急激な高まりとナショナリズムにより、中国では「サクラの起源は中国」という間違った言説が蔓延するようになっている。2013年には中国共産党直属の中国網で、武漢大学園林環境衛生サービスセンターの主任や中国科学院武漢植物園の専門家などが「サクラの起源は中国で日本には宋王朝の時代に伝わった」と主張していることが紹介され、2015年には同中国網で唐王朝の時代に日本に伝わったとする記事が発表された。また2016年には武漢市の金融系企業が渋谷109に「武漢、世界の桜の故郷 ぜひ武漢大学に桜を見に来てください」という広告を出し、一部の中国人たちから快哉を浴びた。2019年には中国櫻花産業協会がサクラの起源は中国であり、中国の国花にすることがふさわしいとの声明を決議した。またこの協会の会長が会長を務めるサクラの栽培に関する企業の副責任者は、2016年時点で「日本に抵抗するとともに愛国的な真の方法」として「チャイナレッド」の真紅の花色の栽培品種を開発して日本のサクラの品種を駆逐することを企図している。一方、このような主張に反対する意見もあり、例えば武漢大学の歴史家は「現在栽培されているサクラの多くの品種は事実上日本固有のもので(中略)武漢大学のサクラも少量の中国原産種を除けばほとんどが日本から来たものだ。」との主張を新華社に投稿して批判している。なお中国側がサクラの起源を主張する際には、1975年に日本で発行された『櫻大鑑』を引用して権威付けすることが多いが、ここにはサクラの野生種の起源がヒマラヤである可能性と、野生種が中国大陸と日本列島が地続きの時代に東進して、後に日本で盛んに分化して独自化した可能性が書かれているだけである。もちろん人類が文明を築いていた唐王朝や宗王朝時代の話でも栽培品種の話でもなく、明らかに誤読である。また上海辰山植物園の職員も、多くのサクラは日本固有種のオオシマザクラなどを核にして作出されていると主張し、中国側の主張を「故意あるいは意図せずに野生種と栽培品種を混同して論じ、野生種の起源を用いて人々をミスリードしている。」と批判している。
台湾には、北部の陽明山・中正紀念堂公園など、中部の阿里山・日月潭九族文化村など、南部の烏山頭ダム風景区など、桜の名勝は多い。東アジアの梅開花前線と桜開花前線(寒桜など)は、それぞれ11月と1月に台湾で始まり、その後日本列島を北上する。
鎮海の桜に見られるように、韓国には日本統治中にソメイヨシノが導入されサクラ観賞の文化が始まった。韓国ではソメイヨシノの正体は済州島原産の雑種である王桜であるという韓国起源説が蔓延しているが遺伝子研究により事実無根として否定されている。2022年に行われた調査によると、ソウルのサクラの名所である韓国国会と汝矣島周辺に植えられたサクラのうち9割以上が日本原産のソメイヨシノであり、韓国原産の王桜は1本も植えられていなかったことが判明した。また桜祭りが行われる桜の名所として有名な鎮海の女座川沿いの99.7%、慶和駅周辺の桜の木の91.1%が1960年代に日本から持ち込まれた日本産のソメイヨシノであり、残りも日本産のシダレザクラなどであり、王桜ではないことが判明している。
北朝鮮でも、平壌の街路には桜が植えられていて、通行人の目を楽しませる。
ワシントンDCの全米桜祭りが有名であり、日本が日米友好の証として寄贈したサクラに起源がある。ハワイ州ハワイ島のワイメアでは、毎年2月に「ワイメア桜祭り」が行われる。
日系移民が多いブラジルでは、サンパウロのカルモ公園に、日本のの桜が4,000植えられていて、桜祭りがある。
コリングウッド・イングラムは19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本のサクラを収集して研究し、オカメやクルサルなどのさまざまな栽培品種を生みだすなどして、欧州でのサクラの観賞文化の始まりに貢献した。イングラムは、日本から輸入して自邸で栽培していた20世紀初頭までに日本で姿を消していたタイハクを日本に里帰りさせ、日本で失われていた品種を復活させることに貢献した。1993年に日本花の会は王立ウィンザー大公園に松前系の58品種のサクラを寄贈し、それらは王立キューガーデンなどに分与され活着している。
1866年にシーボルトが栽培品種のホクサイを日本から持ち出し、その後日本では失われていたが、後に里返りしたことで日本でも見られるようになっている。 1977年から3年に渡って日本花の会がハンブルグ市の日本人会の依頼を受けて5,000本のサクラの苗木を同市に寄贈し、それらのサクラはアルスター湖畔や公園に植えられた。またテレビ朝日と日本花の会がドイツ統一を果たした記念にベルリン市に1991年から6,000本のサクラの苗木を寄贈し同市のベルリンの壁跡や隣接するポツダム市にも植えられた。またボンにはカンザンの桜並木があり有名な花見の名所になっている。
日本花の会が1981年にベルサイユ市にサクラの苗木を5,000本寄贈し、それらは市内の病院や公園などに植えられた。
ロシアでは、モスクワの中心部にあるロシア科学アカデミー植物園の日本庭園に日本から贈られた北海道産のエゾヤマザクラとチシマザクラが40本ほどあり、通常5月に開花する。
日本さくらの会は、1992年(平成4年)に3月27日を「さくらの日」と制定している。
桜関連:
樹木ではない「さくら」を含む語:
桜井、桜田、桜川、桜町、桜坂など、「桜」の語を含む地名は多く見られる。これらの地名は桜の名所や土地に関する由来があるもののほか、瑞祥地名としても見られる。
人名にも桜の付くものは少なくない。桜が入った苗字の時もそうであるが、近年は女性の名前として『さくら』の語が使われることが多い。 | [
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"text": "サクラ(桜、櫻、英:Cherry blossom、Japanese cherry、Sakura)は、バラ科サクラ亜科サクラ属 (スモモ属とすることもある。「野生種の分類」の項を参照)の落葉広葉樹の総称。またはその花である。一般的に春に桜色と表現される白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "サクラはシベリア、日本、中国、米国・カナダ など、主に北半球の温帯に広範囲に自生している。歴史的に日本文化に馴染みの深い植物であり、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきた(#日本における栽培品種と品種改良、#日本人とサクラ)。このうち観賞用として最も多く植えられているのがソメイヨシノである。鑑賞用としてカンザンなど日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いており(日本花の会、キューガーデン、全米桜祭りなど参照)、英語では桜の花のことを「Cherry blossom」と呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "サクラの果実はサクランボまたはチェリーと呼ばれ、世界中で広く食用とされる。日本では、塩や梅酢に漬けた花も食用とされる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "サクラ全般の花言葉は「精神の美」「優美な女性」、西洋では「優れた教育」も追加される。桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う雅な様を日本人の精神に現した。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "国の天然記念物に指定されているサクラは、沖縄県から東北地方まで25都道府県に39件あり、このうち狩宿の下馬ザクラと大島のサクラ株は特別天然記念物に指定されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "「サクラ」の語源については以下の説がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "現在の生物学では、独立した種(species)と見なされるためには、その種の中の個体に遺伝的多様性があり、個体が互いに交配して子孫を残すことができている一定規模の集団でなければならない。このため野生で自生している特定の種類のサクラがあったとしても、それが即ち独立した野生種とみなされるわけではない。また種間雑種であったり、種の下位分類の変種(variety)や品種(form)であったり、全く異なる分類体系となる野生種から選抜・開発された栽培品種(cultivar)は、独立した種の数に含めない。",
"title": "野生種の分類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "サクラ類をサクラ属(Cerasus、ケラスス)に分類するか、スモモ属(Prunus、プルヌス)に分類するか国や時代で相違があり、現在では両方の分類が使われている。ロシア、中国、1992年以降の日本ではヤマザクラやセイヨウミザクラなどサクラのみ約100種をサクラ属(Cerasus)として分類するのが主流である(狭義のサクラ属)。一方で西欧や北米では各種サクラとスモモ、モモ、ウメ、ウワミズザクラなど約400種を一括してスモモ属(Prunus)として分類するのが主流である(広義のサクラ属)。これは比較的サクラ類の多いロシアや中国ではサクラ類を独立した属として分類していたのに対し、伝統的にサクラ類の少ない西欧と北米ではサクラ類をスモモやモモやウメなどと一括して分類していたためである。日本の科学は西欧や北米の基準に合わせる事が多かったため従来はサクラ類をスモモ属(Prunus)としていたが、1992年の東京大学の大場秀章の論文発表以降は、実態に合ったサクラ属(Cerasus)表記が主流である。",
"title": "野生種の分類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "スモモ属(Prunus)は約400の野生の種(species)からなるが、主に果実の特徴から5から7の亜属に分類される。サクラ亜属 subg. Cerasus はその一つである。サクラ亜属は節に分かれ、それらは非公式な8群に分かれる",
"title": "野生種の分類"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "このうちサクラ亜属には100の野生の種(species)がある。",
"title": "野生種の分類"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "サクラ属であり、やはり名前に「サクラ」と付くイヌザクラ、ウワミズザクラなどはウワミズザクラ亜属 subg. Padus(もしくはウワミズザクラ属 Padus)であり、サクラ亜属ではない。",
"title": "野生種の分類"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "かつてはニワザクラ、ユスラウメなどを含むユスラウメ節 sect. Microcerasus もサクラ亜属とされたが、Krüssmann (1978) によりニワウメ亜属 subg. Lithocerasus に分離された。分子系統からは、ニワウメ亜属はサクラ亜属とは別系統であり、しかもスモモ亜属/モモ亜属 Prunus/Amygdalus alliance 内に分散した多系統という結果が出ている。ただし、サクラ亜属をサクラ節 sect. Cerasus(通常のサクラ亜属)とニワウメ節 sect. Lithocerasus(ニワウメ亜属とウワミズザクラ亜属?)に分ける資料もある。",
"title": "野生種の分類"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "日本に自生するサクラのうち、現在の生物学上で独立した野生種(species)と認められるのは次の11種、もしくはカンヒザクラを除いた10種である。このうちクマノザクラは2018年に発見された種で、オオシマザクラ以来約100年ぶりに発見されたサクラの基本野生種である。日本人は歴史的にこれらの野生種とその種間雑種からサトザクラ群に代表される少なくとも200品種以上(分類によっては600品種以上、または800品種)の栽培品種などを生み出して花見に利用してきたのである。Cerasus での学名のほかに Prunus に分類にした場合に Cerasus と別の学名がある場合はその一部の主なものを P. の略表記で記載した。",
"title": "野生種の分類"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "サクラはそれぞれの野生種の中で交雑を行っているが、種の枠を飛び越えて種間でも交雑することがあり、そこから有用な個体が生まれて栽培品種として見出されて花見に利用されてきた。ここでは日本で見られる代表的な種間雑種の学名と、その種間雑種を日本語で便宜的に一言で表す場合の代表和名を記す。この代表和名はその種間雑種の中で最も認知されているサクラの名前がつけられていることが多い。なお遺伝子研究が未熟であったころからサクラには学名がつけられてきているが、現在の基準からみると、その学名は必ずしも遺伝的に正確であったわけではないため、ひとつの種類のサクラに複数の学名がつけられていることがあり、混同に注意する必要がある。またその存在は確認されているが正式に発表されていない学名と和名も記載する。なお2種間による主な交雑ではなくオオシマザクラを母体として複雑な種間雑種により作出された栽培品種は狭義のサトザクラに分類され、雑種を表す × で表記されず、栽培品種群の Cerasus Sato-zakura Group(Cerasus serrulata、Cerasus lannesiana)で表される。なおここでは Prunus ではなく Cerasus で表記し、さらに略語の C. で表記した。",
"title": "種間雑種"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "サクラは突然変異が多い植物であり、樹形、花期、花と花弁の付き方・数・形・大きさ・色、実の増減、耐候性、病害虫への強靭性などで新しい特性が発現しやすい。このため野生のサクラの中から鑑賞や食用に有用な突然変異した個体や種間雑種で望ましい特性を持った個体を選抜して育成し、これを接ぎ木や挿し木で増殖することで様々な栽培品種が広まっていった。日本では主に、花付きが多く、一輪の中の花弁が多く(八重咲き)、花の色も見栄えがするなどの鑑賞目的で品種改良が進んだのに対し、西欧では実をより有用な食品にするため、実を大きく、収穫量が多くなるような品種改良が行われてきた。",
"title": "栽培品種と品種改良"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "日本に自生する野生種のサクラは上記の10種、もしくは11種(species)であり、世界の野生種の全100種(species)から見るとそう多くはない。しかし日本のサクラに関して特筆できるのは、この10もしくは11種の下位分類の変種(variety)以下の分類で約100種の自生種が存在するほか種間雑種も自生し、古来からこれらの野生種から選抜・開発してきた栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上存在し、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われており、世界でも圧倒的に多種多様な栽培品種を選抜・開発してきた事である。",
"title": "栽培品種と品種改良"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "日本人はこれら野生の種が他の種と交雑したりしながら誕生した突然変異個体と優良個体を選抜・育成・接ぎ木などで増殖してそれを繰り返すことで、多種の栽培品種を生み出してきた。エドヒガンやヤマザクラ、オオシマザクラなどは比較的に変性を起こしやすい種であり、特にオオシマザクラは成長が速く、花を大量に付け、大輪で、芳香であり、その特徴を好まれて結果として栽培品種の基盤の親となって多くのサトザクラ群を生み出してきた。2014年に発表された森林総合研究所の215の栽培品種のDNA解析結果により、日本のサクラの栽培品種は、エドヒガンから誕生したシダレザクラのように一つの野生種から誕生した存在は稀で、多くがオオシマザクラに多様な野生種が交雑して誕生した種間雑種であることが判明した。なおソメイヨシノはオオシマザクラを親とするがサトザクラ群には含めない。ここでは栽培品種のごく一部の代表的な品種をあげる。",
"title": "栽培品種と品種改良"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "日本では、ほぼ全土で何らかの種類が生育可能である。様々な自然環境に合わせて多様な種類が生まれており、日本においてもいくつかの固有種が見られる。たとえばソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは伊豆大島など、南部暖帯に自生する固有種とされる。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっている。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "全てではないが、多くの種に共通して見られる特徴を挙げる。雌雄同株であり、中高木から低木程度の大きさである。若い樹皮は光沢がありカバノキにも似た水平方向の皮目が出来、この部分は細胞に隙間が生じて呼吸孔になっている。古くなると皮目が消えて表面から徐々に細かく風化していく。葉の形は楕円形であり、枝に互生し、葉の縁はギザギザ(鋸歯)になっている。葉に薄い細毛が生えるものも少なくない。葉は秋になると紅葉する。葉の中にクマリンがある。根は浅く水平に広がり、ここから新たな茎(ひこばえ)がしばしば生え、不定根も良く発生する。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "サクラは木を傷つけるとそこから腐りやすい性質を持つ。昔は剪定した部分の消毒も難しかったため、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺もある。このため、花見の宴会でサクラの木を折る観光客の被害によってサクラが弱ってしまうこともある。しかし適切な剪定は可能である。本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。",
"title": "生態"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "長寿な種のエドヒガンとヤマザクラと、エドヒガンの遺伝子を受け継いだ広義のシダレザクラに属する栽培品種に古木として知られる名桜が多い。日本三大桜がいずれも樹齢千年を超える老古木となっているほか、五大桜も古木が多く、内神代桜は樹齢が1800年を超えているとされる。それ以外にも有名で長寿の一本桜が多く存在する。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "サクラの花弁の色は一般的に白色から濃い紅色までのグラデーションの範囲にあり、例外的に黄色のウコンや緑色のギョイコウなどがある。この紅色系の発色はアントシアニンという色素によるものであり、紅葉や若葉の赤系の色もアントシアニンの作用である。アントシアニンの合成には低温と紫外線が必要なため、温暖な地域や年、屋内での育成は白色が強い花弁となりやすい。そのため、クローンであり同じ特質のソメイヨシノでも、温度環境の地域差により西日本より東北の個体の方が紅色が濃いと言われたり、温暖化による年差により昔と比べて白くなっていると言われがちである。また開花から散るまでの色の変化もアントシアニンの密度の変化によるものであり、つぼみの紅色は開化と共にアントシアニンの密度が薄くなって花弁が白くなっていき、散り際には花弁で新たに合成されたアントシアニンが花弁や雄蕊やめしべの基部に集まって赤くなっていく。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "花を観賞する栽培品種として好まれたため様々な姿の花が見られ、花びらの数は五枚から百数十枚まで幅広い。サクラに限らないが用語を挙げる。花弁が五枚までのものを一重、五枚から十枚のものを半八重、十枚以上の花弁を持つものを八重といいサクラの場合はヤエザクラと称している。また、花弁が非常に多く、一枚一枚が細長い場合、菊咲きと称する。さらに萼、花弁、雄蕊の中にさらに萼、花弁、雄蕊のある二重構造のものも見られ、これは段咲きと呼ばれる。花弁の枚数の増え方には雄蕊が花弁に変化するものと、花弁や雄蕊そのものが倍数加する変化が見られる。なお、テレビ番組トリビアの泉(第36回、2004年04月28日放送)では、サクラの木一本(樹齢32年のソメイヨシノ)に付いている花びらの枚数を一枚ずつ集計したところ、およそ59万3345枚であることが判明した。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "西欧と北米の分類法ではサクラと同じスモモ属となるモモやウメは花柄が短く枝から直接生えているかのように咲くが、サクラとスモモはこれらと違って長い花柄を持っており枝から離れて垂れ下がるようにして咲く。さらにスモモの特徴として前年に葉が有った葉痕の基部に2つか3つの冬芽がつくが、サクラは1つの冬芽が付き、これが花の集合体となる花序となり、この点でサクラと近縁の植物の見分けが可能である。さらにサクラの中の種を見分けるには、個体差があって見分けにくい花弁よりも、種ごとの差異が大きく見分けやすい萼や花序の形態に注目する必要がある。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "開花期は種や地域によるばらつきが大きい。日本においては1月、沖縄県のカンヒザクラを皮切りに咲き始め、東京ではまずカンザクラなどのカンヒザクラを由来とする早咲きの栽培品種が咲き、ソメイヨシノが咲いた後の4月中旬以降にヤエザクラが咲く。北海道のオオヤマザクラは5月に花を咲かせ、標高2000m以上ではタカネザクラが7月に花を咲かす。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "日本の代表的な品種のソメイヨシノでは、開花から満開まで1週間で、満開から散るまで1週間、花の見頃は悪天で早まらなければ満開前後の1週間程度である。ソメイヨシノはクローンであるため同じ環境にさらされる同地では個体ごとの差異がほぼなく、ほぼ一斉に咲き一斉に散る。なおソメイヨシノが爆発的に植えられる前の江戸時代までの日本では、遺伝的に個体差のあるヤマザクラや多様な栽培品種が花見の主流であったため、個体ごと、種ごとに少しづつ次々と咲いていくサクラを長い期間をかけて鑑賞していくという花見のスタイルであった。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "サクラには花と葉が同時に展開する種が多くあるが、日本の野生種の中ではエドヒガンが例外的に葉が展開する前に花が咲く特質を持っており、エドヒガンから誕生した栽培品種のソメイヨシノやシダレザクラもこの特質を受け継いでいる。エドヒガンは他の多くの野生サクラや昆虫の活動期より少し前に花を咲かせるが、他に開花している種が少ないため効率的に虫をおびき寄せることができ、これが生存戦略となっている。なお、花が散る頃に葉が混ざって生えた状態から初夏過ぎまでを葉桜と呼ぶ。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "サクラは花芽を作ると葉で休眠ホルモンを作って休眠する。その後に休眠解除(休眠打破)して再び開花するには、一般的に5°C程度の低温刺激が望ましく、低温時間の積算とその後の気温の上昇が必要である。この工程は一般的には冬から春にかけて行われることが多いが、秋に何らかの影響で葉がなくなった場合などに休眠ホルモンが足りず、寒い日を2 - 3日経てその後小春日和になるとこの条件を満たしてしまい狂い咲きが起きる。このように異常な個体の狂い咲きとは別に、毎年春に加えて秋から冬にかけて花を咲かせるジュウガツザクラやフユザクラなどの二季咲きの品種もある。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "サクラが以前に比べ若干早く咲く現象も見られている。これには休眠解除の一要素である気温の上昇が、地球温暖化の影響により春の早いうちに到来していることや、都市部でのヒートアイランド現象も影響している。また、九州では桜前線(ソメイヨシノ基準)が、普通とは逆に南下する例も現れた。これは温暖化によりソメイヨシノにとっては冬が暖かくなりすぎた九州南部では、休眠解除の一要素である低温刺激とその積算時間の条件を満たすまでに日数がかかり開花が遅れているからである。これらは季節学的な自然環境の変化を端的に表す指標にもなっている。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "サクラの花からは蜜が出ているため、サクラの花が咲く時期にはスズメ、メジロ、ヒヨドリなどの鳥類が見られる。メジロやヒヨドリは嘴を花に入れて蜜を吸うことが多いが、スズメは嘴が太くて短いため花の横から穴をあけて蜜を吸うことが多い。",
"title": "生態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本においてはサクラは、関心の対象として特別な地位を占める花である。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日本では固有種を含んだ分類学上の10もしくは11種(species)の基本の野生種を基に、これらの変種(variety)以下の分類を合わせて100種以上の自生種があり、さらにこれらから育成された栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上あり、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われている。なおこのうち100品種余りは北海道松前町由来のマツマエハヤザキなどを掛け合わせるなどしてベニユタカなどの多品種を生み出した浅利政俊が作出したものである。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "日本では果実(サクランボ)を食用とするほか、花や葉の塩漬けも食品などに利用されるが、特に平安時代の国風文化の影響以降に、桜は観賞用途(花見)で花の代名詞のような特別な位置を占めるようになった。当初は鑑賞の対象とされる代表的な品種は野生に自生するヤマザクラであった。これに加えて、花弁の数や色、花の付け方などの観点から見栄えが良かったり突然変異の珍しい特徴を持つ野生の個体を何世代にもわたって選抜育種し、優れた個体を接ぎ木などの方法で増殖させることで様々な栽培品種が開発されて、花見に利用された。既に平安時代には八重桜が接ぎ木によって増殖されていたらしいことや「しだり櫻」や「糸櫻」などが存在したことが当時の文献に記録されている。また鎌倉時代以降に鎌倉周辺に自生するオオシマザクラが栽培されるようになり、これが京都に持ち込まれたと考えられており、室町時代にオオシマザクラを由来とするフゲンゾウやミクルマガエシ等が生まれた。江戸時代にはオオシマザクラの優れた特質からカンザンなどの多種のサトザクラ群やソメイヨシノ(染井吉野)などが生まれ、河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が積極的に植えられた。江戸時代末期には現代の日本で見られるのと大差のない300を超える多くの品種が存在するようになった。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "明治時代に入り、大名屋敷の荒廃や文明開化・西洋化のため庭園が取り潰されると同時に、そこに植えられていた数多くの栽培品種の桜が伐採され、植えられるのはソメイヨシノばかりになっていった。これを憂いた駒込の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの栽培品種の枝を採取し自宅の庭で育てた。これに目を付けた江北地区戸長(後に江北村村長)の清水謙吾が村おこしとして荒川堤に多くの品種による桜並木を作り「五色桜」として評判となり、これを嚆矢として多くの栽培品種が小石川植物園などに保存されることになり、その命脈を保った。また京都では第14代佐野藤右衛門が全国にあった貴重な栽培品種や名木を収集して増殖して保存に務めた。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また第二次世界大戦で荒川堤も壊滅的な被害を受けるが、第二次大戦中は埼玉県川口市安行の植木業者の小清水亀之助らが品種の保護に尽力し、戦後の1950年頃には国立遺伝学研究所が、1960年代には多摩森林科学園が小清水らから苗を譲り受け、現在では前者に250系統350個体、後者に500系統1300個体のサクラが植えられて、江戸時代以前からのサトザクラの命脈を保っている。またイギリスの園芸家コリングウッド・イングラムが保存していたタイハクのように、一度日本で消滅した品種が日本に里帰りすることで、江戸時代以前のサクラの命脈を補完している。戦後の高度経済成長期にはソメイヨシノの植樹が日本全国で爆発的な勢いで進められ、サクラの中で最も多く植えられた栽培品種となっている。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また野生種であるエドヒガンは、成長が遅いが耐久性が高く、桜の中で寿命が最も長く長い期間をかけて巨樹に成長しやすい。このため日本には、エドヒガンとそれから生み出された栽培品種のシダレザクラに長寿の巨樹がたくさんあり、それらの桜の木はしばしば神聖なものと見なされ、一本桜として神社仏閣や地域を象徴するランドマークになって、現在に至るまで歴史的に有名な花見の対象となってきた。たとえばエドヒガンの神代桜は約2,000年、淡墨桜は約1,500年、醍醐桜は約1,000年の歴史を誇り、ベニシダレの三春滝桜は約1,000年の歴史を誇る。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "今日でもサクラの栽培品種の作出は続けられており、珍しい方法としては、2007年に理化学研究所が世界で初めてサクラの在来品種に重イオンビームを照射して新品種ニシナザオウ(仁科蔵王)を作出することに成功している。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "今日、とりわけ多くの栽培品種のサクラが見られる名所としては、松前公園(250品種)、日本国花苑(200品種)、日本花の会結城農場(350種)、造幣局の桜の通り抜け(134品種)などがあげられる。(品種数は野生種と、野生種の雑種と下位分類を含んだ数)",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "桜は春の象徴、花の代名詞として和歌、俳句をはじめ文学全般において非常によく使われており、現代でも多くの音楽、文化作品が生み出されている。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "古来から桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれる木がある(あった)。これは桜の場合も多いが、「桜」と名がついていても桜以外の木の場合もある。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "奈良時代の『万葉集』には桜を含む様々な植物が登場するが、中国文化の影響が強かった当時は和歌などで単に「花」といえば唐から伝来したばかりの梅を指していた。万葉集においては梅の歌118首に対し桜の歌は44首に過ぎなかった。2019年5月1日からの元号である『令和』も万葉集にある梅花の宴が典拠となっている。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "サクラの地位が特別なものとなったのは平安時代であり、国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり「花」と言えば桜を指すようになった。平安時代に編纂された『古今和歌集』の仮名序にある古墳時代の王仁の歌とされる「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の「花」は梅であるが、平安時代の歌人である紀友則の歌「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」の「花」は桜である。斎藤正二は、中世の知識階級に手本とされて親しまれた白居易が『白氏文集』の中でサクラに関する詩を27首詠じていることから、日本におけるサクラの格の向上に与えた漢詩の影響について指摘している。嵯峨天皇は桜を愛し、花見を開いたとされている。左近の桜は、元は梅であったとされるが、桜が好きであった仁明天皇が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたとされている。歌人の中でも特に平安時代末期の西行法師が、「花」すなわち桜を愛したことは有名である。彼は吉野の桜を多く歌にしており、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名である。西行はこの歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日に入寂したとされる。室町時代には、この西行を題材にした能の西行桜が成立した。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "安土桃山時代の豊臣秀吉は醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは醍醐の花見として有名である。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の代表的俳人・松尾芭蕉は、1688年(貞享5年)春、かつて奉公した頃のことなどを思って「さまざまの事おもひ出す桜哉」と句を詠んだ。俳句では単に「花」といえばサクラのことを指し春の季語であり、秋の月、冬の雪とともに「三大季語(雪月花)」である。「花盛り」「花吹雪」「花散る」「花筏」「花万朶」「花明かり」「花篝」の「花」は桜である。楽においては江戸時代の箏曲や、地歌をはじめとする三味線音楽に多く取り上げられている。一般に「日本古謡」とされる『さくらさくら』は、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものである。江戸時代に成立した戯曲の『義経千本桜』では、本来その話の中には桜が登場しないにもかかわらず題名に桜を用いた。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "明治時代以降では瀧廉太郎の歌曲『花』などが有名である。長唄『元禄花見踊』も明治以降の作であるがよく知られている。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "サクラの開花時期は人口の多くを占める関東以西の平地では3月下旬から4月半ば頃が多く、日本の年度が4月始まりであることや、学校に多くの場合サクラが植えられていることから、現代では人生の転機を彩る花にもなっている。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "令和でもサクラはポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲーム、アニメなど様々な作品のモチーフや題材になっている。特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は桜ソングとして知られている。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う「雅」な様を現した。一部では散り行く儚さや潔さも、愛玩の対象となっている。古くから桜は、諸行無常といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象である。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などを基調とする日本人の精神の具体的な例えとみなした。また明治時代には新渡戸稲造が「武士道」をサクラと同じ「日本固有の花」と例えた。",
"title": "日本人とサクラ"
},
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"text": "日本では国花が法定されておらず、天皇や皇室の象徴する花は菊であるが、特に明治時代以降はサクラが多くの公的機関でシンボルとして用いられており、「事実上の国花」のような扱いを受けている。旧日本軍(陸軍・海軍)が桜の意匠を徽章などに積極的に使用したほか、明治時代の「歩兵の本領」や昭和時代「同期の桜」などの軍歌・戦時歌謡の歌詞に「桜」という表現が使用され、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には「桜花」や「桜弾機」など特攻兵器の名称にも使われた。",
"title": "日本人とサクラ"
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"text": "また、明治時代以降はサクラは日本の象徴として国際親善にも利用されるようになった。全米桜祭りで知られるアメリカ合衆国のポトマック河畔の桜も日米友好のために東京市長の尾崎行雄が寄贈したものである。なお、この返礼として日本にはハナミズキが贈られている。その他の国との間でも友好のために贈ることがある。",
"title": "日本人とサクラ"
},
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"paragraph_id": 52,
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"text": "千円紙幣の裏面には桜が描かれている。また1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインである。",
"title": "日本人とサクラ"
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"text": "平安時代以降ではサクラの花のように雅な印象から桜紋は位の高い家の家紋、主に清和源氏の家々で使用されてきた。現在も家祖からの男系血統が存続し熊本城主や内閣総理大臣まで輩出した武家の細川家の家紋(替え紋)、男爵藤村家や男爵若王子家の家紋に代表され、神紋や寺紋にも用いられる。",
"title": "日本人とサクラ"
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"paragraph_id": 54,
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"text": "桜の人気は平安時代に始まる。説話集『沙石集』(弘安6年(1283年))によると、一条天皇の中宮、藤原彰子(紫式部らの主君)が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。",
"title": "日本人とサクラ"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "桜は春を象徴する花として日本人にはなじみが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "各種調査によると日本人の大多数の人たちが桜を好んでいる。九州から関東での平地では、桜が咲く時期は年度の変わり目に近く、桜の人気は様々な生活の変化の時期であることとも関係する。",
"title": "日本人とサクラ"
},
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"text": "桜の花の美しさに魅了されて、その枝を手折る者を「花盗人」(はなぬすびと)といい、罪深さと優雅さが同居する行為であることから、実話から虚構まで様々な物語が生まれた。",
"title": "日本人とサクラ"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "桜の中でも特に、宮中の正殿である紫宸殿の側にある左近桜(さこんのさくら)の枝を折ることは大罪とされていた。『古今著聞集』巻19が伝える伝説によれば、承元4年(1210年)1月ごろの早朝、歌人の藤原定家が、侍に左近桜の枝を切らせて持ち帰るのを、官人たちが目撃した。振る舞いが風流だったので、官人たちは優雅なことだなあと思ったが、その噂は土御門天皇の耳にまで届いた。土御門は、建春門院伯耆に代詠させて、「なき名ぞと のちにとがむな 八重桜 うつさむ宿は かくれしもせじ」(「後から無実だと主張するなよ。左近桜を移した家を隠すことはできないだろう」)という歌を贈った。定家は返歌して、「くるとあくと 君につかふる 九重や やへさくはなの かげをしぞ 思ふ」(「明けても暮れても一日中、我が君にお仕えしている左近桜。その桜の花の姿を想うことで、私も陛下に忠勤を尽くさせていただきます」)と侘びた、という。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "定家の伝説は真偽不明だが、左近桜を折ったことが比較的確実な人物には、14世紀前半、後醍醐天皇の中宮だった西園寺禧子がいる(『新千載和歌集』春下・116 および117)。ある時、後醍醐が左近桜を鑑賞していると、禧子の部下がやってきて左近桜の枝を折った。驚いた後醍醐は、妻を自分の前に召し出して、「九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ」(宮中に咲く左近桜を、秋の宮人(皇后に仕える人)が、どうして折ったのだろうか)と尋ねた。禧子は返歌して、「たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき」(手折らせたのは、秋の宮(皇后)の私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったから)と、後醍醐の気を引くための行為だったことを明らかにし、夫への愛を歌った。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "日本では桜の開花予想(「桜」と表すが、殆どの予想はソメイヨシノを取り上げている)、いわゆる「桜前線」や、開花や満開の宣言が春に話題となる。開花予想は気象庁が1951年(昭和26年)に関東地方を対象に行ったのを初めとし、2009年(平成21年)まで行われた。2007年(平成19年)から独自の開花予想を行う民間の気象会社が出現し、数社が予想を出すようになったため、2010年(平成22年)から気象庁は開花予想の業務を取り止めて民間に任せ、観測のみを行っている。なお、桜の開花予想は気象業務法の定める予報業務ではなく、許可は要しない。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "気象庁では、桜の開花や満開を生物季節現象の1つとして、各地で特定の株を標本木として定めて職員の目視による観測を行っている。標本木は南西諸島はカンヒザクラ、北海道の札幌以東と根室以西はオオヤマザクラ、根室市はチシマザクラ(2011年以降根室市に業務移管)で、それ以外の全国はソメイヨシノである。標本木の蕾が5輪から6輪ほころびると、「開花」したと発表される。これをマスコミでは「開花宣言」と呼ぶことがある。標本木全体の80%以上のつぼみが開くと、「満開」と発表される。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2009年まで気象庁が行っていた予想方法は、各地点の冬期の気温経過や春期の気温予想等を考慮した各種計算を経て、標本木に対して開花予想日を決定していた。民間気象会社の予想方法も概ねこれに近いが、独自の手法を採り入れて行っているものもある。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "サクラの標本木は、福岡などでは管区気象台の庁舎内にある桜(ソメイヨシノ)を標本木として観測しているが、東京では靖国神社、岐阜県では清水川堤、大阪では大阪城公園内で標本木を設定している。神戸では1999年の庁舎移転まで気象台敷地内の桜(ソメイヨシノ)を標本木にしていたが、移転により潮風の影響を受けるようになったため、2002年1月から神戸市立王子動物園の園内の木から標本木と副標本木を設定している。",
"title": "日本人とサクラ"
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"paragraph_id": 64,
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"text": "樹木全体から見た開花具合によって咲き始め、三分咲き、五分咲き、七分咲き、満開、散り始めなどと刻一刻と報道される。このように木々の様子を逐一報道することは、世界から見ても珍しい例である。",
"title": "日本人とサクラ"
},
{
"paragraph_id": 65,
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"text": "日本では桜は花見や観桜など、景観等の人気が高く多くの場所に植えられている。植栽の場合街路樹、公園、庭木、河川敷等に使われることが多い。近年では、サクラは街路樹に用いられている樹種としてイチョウについで2番目に多く、49万本が植えられている。道や線路・河川などに沿って植えられることが多く、このようなものを桜並木という。道などの両側に桜が並んでトンネルのような形状になっているものを桜のトンネル(桜トンネル)と呼ぶことがある。このように、辺り一面が花景色になることも多い。また、学校の校庭には桜が植えられていることが多い。小学校などの校庭には、児童や生徒の入学時に桜の花が咲いているようにするため、ソメイヨシノに比べて開花期間が長い八重桜を混植することが多い。また、古くから桜の花を育てている神社や寺も少なくない。しかし、害虫や病気など手入れが大変で、大きく育つためか、その人気の割には庭木にされることは少ない。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 66,
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"text": "日本では、至る所で花見に使われる木として重要である。花見の習慣とともに、桜の名所も日本全国各地にある。また、神社や寺など桜を持っている団体や地域が「桜祭り」を開いている例も多い。夜の桜を楽しむために、桜のライトアップも各所で行われる。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 67,
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"text": "果実を食用とする品種の3系統は、概ね甘果桜桃(セイヨウミザクラ、Prunus avium)、酸果桜桃(スミノミザクラ、Prunus cerasus)と中国桜桃(カラミザクラ、Prunus pseudocerasus)に分けることができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 68,
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"text": "六月から七月にかけて実をつけるオウトウ(サクラの一種)の果実を日本では一般的にサクランボと呼び、栽培されている多くがヨーロッパの甘果桜桃(セイヨウミザクラ)系である。品種としては、佐藤錦の他に、紅秀峰、豊錦、ナポレオン、アメリカンチェリー等が有名である。佐藤錦は、明治より山形県東根市の佐藤栄助によって品種改良され、岡田東作が名づけて世に広めたものである。酸味が強い酸果桜桃(スミノミザクラ)は料理に利用される。中国桜桃(カラミザクラ)は日本であまり栽培されていない。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 69,
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"text": "桜漬けは、一般的に八重桜の花を梅酢と塩で漬けたものである。天保年間に初版が刊行された『漬物塩嘉言』にも「桜漬」の記載がある。花(花弁)自体も塩漬けにすると独特のよい香りを放ち、和菓子・あんパンなどの香り付けに使われる他に、祝い事の席で桜湯として振舞われる。桜湯は、花の塩漬け2から3輪に湯を注いだものである。茶碗の中で花びらが開く過程から、祝い事に使われる。婚礼や見合いなどの席では「お茶を濁す」ことを嫌い、お茶を用いずに桜湯を用いることが多い。結納には両家の縁を結ぶという縁起を表し椀あたり2輪が用いられる。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "桜の葉は桜餅などに用いられる。桜餅は代表的な和菓子の一つであり、桜の葉の塩漬けで包まれた桜色の餅である。春にはこれらの風味を利用した食品なども見られる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "桜の葉の抗菌物質としてクマリンが知られている。桜の葉は、塩漬けにすることでクマリン酸配糖体に酵素が作用して加水分解などを経て芳香成分(クマリン)に変化しよい香りを放つ。桜葉漬けには多くの場合オオシマザクラが用いられており、伊豆半島南部において生産が盛んであり、シロップ漬けにされることもある。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "桜の樹液をトラガカントゴムの代わりに利用する例も存在する。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "木自体は材木として使われる。材としては硬く、湿気には比較的強い。熱伝導率が高いため、触ると冷たく感じる。木目には乏しいが、節の周囲にはメイプルや栃に似た杢目が出ることもある。無垢テーブル板や比較的高級なフローリング材として使用される。彫刻にも用いられる。建築業界や家具業界において安価である樺を樺桜あるいは単に桜と称して一種として流通させることがある。これによる混同を避けるために本来の桜を地桜と呼ぶこともある。材としては樺と桜は全く別物である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "桜の樹皮は水平方向にはがれ、その表面は灰色を帯びて艶があって美しいため、小物入れや茶筒などの細工物(樺細工)や版木に利用される。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "オオシマザクラは別名をタキギザクラともいい、この名前からも分かるように以前は燃料用として植樹されており、房総半島や伊豆大島にもこの用途で広がったとされる。",
"title": "用途"
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{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "焚いた時の香りが良いため燻製のスモークチップとしてよく用いられる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 77,
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"text": "樹皮は桜皮(おうひ)という生薬になり、鎮咳、去痰作用がある。また樹皮を薄いピンク色の染色に使用することができる。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "見応えのあるサクラの名所を作るためには、その空間のサクラが同時に開花する集中開花型の空間を作る必要があり、単一の品種のみを植栽した場合は統一感や地域性(その地が発祥の品種などの場合)を演出でき、花期が同じ異なる品種を植栽した場合は華やかさを演出できる。ただしこれらの植栽方法は集客に優れるため、駐車場やトイレの設置が必要となることが多い。花期が異なるサクラの品種を植栽した分散開花型の空間作りの場合は、集客が分散して長い期間にわたってサクラを楽しめるので地域の憩いの場に向いている。この場合、花期が違う品種を隣接して植栽した場合には見応えに欠けることになるが、花期が同じ品種ごとにゾーンを設定してまとめて植栽することで見応えを改善できる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "落葉期の11月中旬から12月上旬、もしくは2月下旬から3月中旬を選び、厳冬期は避けること。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "サクラの健全な成育には十分な陽当たりが必要なので、隣接地に新築の建造物が出来たりしない将来にわたって日陰にならない場所が望ましい。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "隣接するサクラとの植樹間隔が狭いと陽当たりや根の発育に悪影響を及ぼし、過密であると病害虫発生の原因になるので、10mの間隔を開けて植えるのが望ましい。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "サクラの健全な成育には、水はけが良く適度に湿り気があり肥沃な土壌が必要である。植えるのを避けるべき水はけが悪い土壌の目安は、雨の翌日にも水が引かない土壌、深さ30センチの穴を掘って水を穴の上までに入れて1時間経過後もまだ水が溜まっているような土壌である。また避けるべき固い土壌は、両手で直径1センチの園芸用ポールを垂直に力いっぱい突き刺して50センチ以上刺さらない土壌である。また避けるべき栄養分が不足している土壌は、生えている草が黄色味を帯びていたり草の丈が低い土壌である。例えば、関西でよくみられるような花崗岩が風化してできた真砂土の土壌は、乾燥しやすく、踏みしめられて固くなり水はけが悪くなりやすく、栄養に乏しいため、これらの悪条件に該当する。このような土地では、サクラの植栽には十分な土壌改良を必要とする(土の作り方と植え方で解説)。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "街路樹や公園でよくみられるように、サクラの周りをコンクリートやアスファルトで舗装したり、大勢の人が根本の土を踏み固めるような土壌環境は避けるべきである。サクラは樹冠よりさらに根を浅く広く広げるため、土が舗装されたり踏み固められると、根に酸素と水と有機物の供給ができなくなってしまい健康を損ない樹勢を削いでしまうのである。特にある程度成長してから根周りが舗装された場合は伸びた根が腐って死んでいき、生育した上部に必要な分だけの十分な酸素と水と養分が供給できなくなり大きく健康を害するため避ける必要がある。土壌が舗装や人間により踏み固められていると根頭がんしゅ病やネコブセンチュウ病を誘発し、これらの病気は土壌を汚染する。早いうちであれば土壌改良によって病気を止めることができるが、これらでサクラが枯れた場合、何度サクラを植えても枯れる場合がある。このため、これらの病気に罹った土壌は加熱殺菌すること、石灰などで消毒すること、土そのものを入れ替えること、サクラの枯れた後には数年の間樹木を植えないことなどで対策をとることができる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "土の作り方と植え方は、まずは植える3時間から前夜程度前からサクラの苗木の根を水につけておく。そして植え穴を掘る。標準な植え穴は直径と深さが50センチ程度であるが、土壌改良を必要とする場合は、植え穴は直径2メートル、深さ70センチ以上を必要とする。次に植え穴用に掘り出した土を6対4の割合で分け、4の土と4と同量の堆肥と1平方メートル当たり100グラムから200グラムの肥料(NPK10-10-10)を混ぜ合わせて植え穴に埋め戻す。次にその上から6の土の一部を使って5センチほど埋め戻す。倒れず苗木の幹を誘導できるよう、穴の中心に園芸用支柱や竹を十分な深さまで刺し、傍らに苗木を立てて残り6の土でさらに埋め戻す。80センチから1メートルの高さで支柱と苗木を結束する。この際、苗木が実生台木の場合は接ぎ目を土中から出して植え、挿し台木の場合は土中に入れて植える。また幹と支柱が擦れて傷つかないように、必ず保護材で枝を巻いたうえで麻縄などの1年から2年で分解する紐で、きつ過ぎて食い込んだり緩すぎて擦れたりしないように注意しながら8の字に結束する。なお支柱は通常1.8メートルから2.4メートル程度の長さが必要であるが、枝や幹の成長が下向きになりやすい品種では将来の樹形を整えるために竹などのより長い支柱が必要となる。例えばカワヅザクラなどの枝や幹が横や斜め下に伸びやすいサクラには、基準の幹を3メートルから3メートル50センチ程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが、枝垂性のサクラの場合には基準の幹を4m程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが望ましい。最後に周囲を土の壁で囲って水鉢を作って水を入れる。また幹は8月下旬以降に急激に太るので、定期的に巡回して支柱と結んだ紐が苗木に食い込まないように注意して調整する。基本的に水やりは必要ないが、夏場の乾燥している時には1週間毎の夕方に水鉢が満杯になるまで水を与えると良い。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "サクラは「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」といわれるように傷口が傷みやすい。実際、台風や人間により太い枝が折られた後に未処置だと傷口から腐って一気に枯れてしまうこともある。このため、しばしば剪定には不向きとされるが、健全な育成のためには枝を間引く適切な剪定はむしろ必要である。大木になってから枝を切ると健康を害しやすいため、植えてから5年目程度までに剪定をして将来の樹形を整えておく必要があり、基本的には剪定ばさみで切れる太さまでの枝のみにする。また、剪定をする時期は落葉後の11月から3月上旬にかけてとする。剪定する対象の枝は、まずは台木から生えていることが多い地際のひこばえや台芽であり、これらを剪定しないと栄養がこれらの集中してしまう。また他の枝に絡みやすいふところ枝とからみ枝も剪定して枝同士が絡んで擦れて傷が付き腐朽することを防ぐ必要がある。また胴吹き枝や1.5メートルから2メートル程度の高さまでにある枝も通行の障害になるため剪定することが望ましい。6年目以降は樹形を乱す逆さ枝も剪定することが望ましい。また枯れ枝も剪定の対象となる。やむを得ず500円玉以上の太さの枝を切る場合は、必ず、切る枝の下側に3分の1程度から切り込みを入れてから上から切り落とし、えりを残して切断面がその枝の幹と平行になるように再度切った後に、切断面に保護材を塗る。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "サクラとウメの剪定に関する最大の違いは枝への花の付き方である。枝には1年で数十cm延びる長枝と1cm未満しか伸びない短枝に分かれる。サクラでは長枝には葉芽ばかりがついて短枝に花芽が付く一方で、ウメでは長枝にも花芽を付ける。枝を剪定する際は基本的に短枝が剪定されるので、剪定から数年間は短枝がまだ伸びていないため、サクラは花付きが大きく減少し、ウメは花付きがあまり衰えないという事になる。この剪定後数年間の見栄えの違いにより「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」と言われることになったとも言われている。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "雑草を放置すると、日陰になったり水と養分を奪われたり病害虫の発生源となり健全な成育が阻害されるため、健全な育成のためには新芽の頃から落葉前までに除草する必要があり、特に苗木の頃は早目に対処する必要がある。刈った草を根元に巻くことで土壌の乾燥を防ぎ、次の雑草の繁殖を抑制することができる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "健全な育成のために、寒肥として落葉期間中の施肥が必要である。まずはサクラの幹を中心に半径1メートルの円状を内径として設定した後、面積1平方メートル等分になるように同心円状に外径を設定する。そして内径と外径の間の1平方メートルごとに深さ・直径20センチの穴を1つずつ掘り、その中にNPK10-10-10の肥料200から300グラム入れて埋め戻す。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "植えてから6年以上経ったサクラの木に対しては、毎年夏季に健康診断を行うことが望ましい。植栽間隔が狭すぎたり、陽当たりや土壌に問題があったり、病害虫に侵されていると樹勢が衰えやすいため、その場合は専門家の診断を仰ぐのが望ましい。樹勢が衰えている証拠にあげられるのは、木の上部の枝枯れが目立つ、根際の主幹部から胴吹きが目立つ、見上げると空が見えるほど葉が少ない、開花時の花が少ないか枝先にだけまとまって咲く、降雨があるのに葉が丸まっている、9月上旬頃に周りのサクラは葉があるのに一足早く落葉してしまうなどである。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。病害虫はサクラの密集地では互いに伝染し、集団発生する可能性がある。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "サクラが多く罹る病気としては根頭がんしゅ病、根瘤線虫病、てんぐ巣病、膏薬病、うどんこ病などがある。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "根頭がんしゅ病、根瘤線虫病は根や根の付け根辺りで瘤が発生する病気である。根元の土が踏み固められていると促進される。病気に罹るとすぐ枯れるわけではないが徐々に樹勢が削がれ、サクラが弱っていく。これらの病気は病変部位を切り取り、切り取った部分を殺菌し、表面を保護する塗布剤などで保護すること、土壌改良を行うことが有効である。対策を行えば少なくとも病気の進行は抑えられる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "てんぐ巣病は枝に発生し、枝が竹箒状になる病気である。この病変も徐々にサクラが弱り、全ての枝に広がると手遅れになりかねない。発見したら、休眠期を待ち、消毒した鋏や鋸で病変部位を切り落とすことが望ましい。切り落とした後は癒合剤などで回復を促し、剪定した枝は焼却、鋏や鋸も切った後すぐに消毒することが必要である。消毒の行われていないはさみを使うとそれを元に移る可能性もあるので気をつけるべきである。菌が原因であるので風通しを良くすることも対策になる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "膏薬病やうどんこ病については水気が多い場所や湿気の多い場所、あるいは病害虫が引き起こす。胴の部分に菌が入ったりキノコができることによって病気になる。病害虫は菌が入るための傷口を作ったり、傷口を広げるのに加担することが多い。風通しを良くすることや水気がたまらないようにすること、病害虫を駆除することによって病気を抑えることができる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "サクラによく付く害虫として、2012年(平成24年)以降に顕著な話題となっているのが外来種のクビアカツヤカミキリである。サクラに寄生する同カミキリの大量繁殖と食害の大きさから、各地でサクラ、特にソメイヨシノの大量伐倒に至っており、その被害の深刻さから、2018年1月に同カミキリが環境省より特定外来生物に指定された。これを受けて埼玉県環境科学国際センターではサクラへ寄生するクビアカツヤカミキリ対策を広く公開している。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "他の害虫としてはカイガラムシ、アブラムシ、ハダニ、それにケムシ・イモムシの類ではハマキムシ、コスカシバ、オビカレハ、アメリカシロヒトリ、サクラケンモン、モンクロシャチホコ (w:Phalera flavescens) などが挙げられる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "ノネズミ、ノウサギ、ウソの食害も受けやすく、乾燥防止目的でサクラの根元に多くの敷き藁を施用したりクローバーなどの植栽をするとネズミの冬場の住みかと餌場になりやすい。また植えてから3年程度までにノウサギに食べられたり齧られると致命的な被害を受けることもある。これらには忌避剤を用いることで予防ができる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "サクラは街路樹として植えられることも多いことなどから車などの排気ガスによって傷められることも多い。山高神代桜ではサクラを守るために近くを通っていた道路に迂回路が作られた。酸性雨も木を弱める要因になる。",
"title": "植栽と管理育成"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "サクラは北半球に広範に分布しているが、ヨーロッパや北米には、観賞に適した大きな花をたくさん付ける野生のサクラの種はあまりなく、それらの多くは今日の人々が想像している典型的なサクラとは異なっている。また中国本土には日本より多い30種以上の野生種のサクラが分布しているが、それらの種は小さな花をつけるものが多く、観賞用にふさわしい大きな花を咲かせるサクラの分布域は人々の生活圏から離れた狭い地域に限定されていた。一方日本では、観賞に適した大きな花を大量に咲かせ大木になりやすいオオシマザクラとヤマザクラが人々の生活圏に近い全国のかなり広い地域に分布していた。そのため日本では歴史的にサクラを観賞する文化や栽培品種の生産が発展したと考えられている。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"text": "欧米各国は江戸時代末期から日本のサクラを収集し、イチハラトラノオ、フゲンゾウ、ウコンなどがこの時期に欧州に持ち出され、サクラ観賞の文化が始まった。また明治時代の都市の近代化によるサクラの伐採により日本では一部のサトザクラが失われていたが、タイハクやホクサイなどは欧州に持ち出されて後に日本に里帰りすることで再び日本で観賞できるようになった。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"text": "満州国時代の中国東北部では、現在の遼寧省大連市旅順口区にある龍王塘桜花園の桜花園が既に有名であった。また、同じく旅順口区の203高地の麓の桜花園(50万平方メートル余り)は2006年に開園して、日本から最近贈られた桜が18種類、3,700株余り植えられている。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"paragraph_id": 102,
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"text": "日中戦争中、日本軍により傷病兵用病棟として接収された武漢大学に28本のサクラが植えられた。終戦後、これらのサクラは歴史的観点から伐採されかけたが保存されることになった。1972年、日中共同声明による日中国交正常化に伴い、サクラが日本から武漢大学および近くの東湖桜花園に寄贈され、その後も次々と寄贈され、現在は武漢大学周辺には約1000本のサクラがある。これらのサクラの80%は日本軍が植えたサクラの直系の子孫である。新型コロナウイルスの蔓延で花見ができなくなった2020年には、武漢大学のサクラの様子がウェブで公開され、延べ7億5000万回視聴された。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"text": "サクラは頻繁に中国と日本の友好関係に利用されている。日中国交正常化の翌年の1973年、日本は中国に友好のシンボルとしてサクラを送り、それらは北京の玉淵潭公園に植樹された。その後もサクラの木は増殖されて植えられ、同公園はサクラの名所となった。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"text": "1997年、みちのく銀行と樹木医の斎藤嘉次雄が日中友好のために武漢市に桜公園を開くことを計画し、同年からサクラで有名な弘前公園がある弘前市が武漢市にサクラの植樹や栽培の指導をするようになり、2016年には武漢市と弘前市が友好協定を締結した。2001年に東湖桜花園が開園し、2018年には250万人が花見に訪れる名所となった。ソメイヨシノやシダレザクラなど60種類のサクラが1万本植えられている。",
"title": "日本国外でのサクラ"
},
{
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"text": "無錫市の無錫国際花見ウィークは、1980年代に坂本敬四郎氏と長谷川清巳が「中日桜友誼林」に1,500本のサクラを植えたことから始まった。2019年現在、「中日桜友誼林」は毎年50万人の花見客が訪れる名所となっており、100種類のサクラが植栽されている。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"text": "1990年代後半から21世紀に入り、訪日旅行客の増加やSNSの普及により中国でのサクラの人気が急速に高まり、中国各地に開設された多くの広大な桜公園に多くの花見客が訪れている。例えば貴州省の平壩万宙桜花園は1,600ヘクタールの広大な土地に70万本のサクラが咲き、世界最大の桜公園といわれている。2019年の統計によると、中国国内だけでのサクラ関連の観光客数は3億4,000万人に達し、消費額は600億元を超えている。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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{
"paragraph_id": 107,
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"text": "このような中国でのサクラの人気の急激な高まりとナショナリズムにより、中国では「サクラの起源は中国」という間違った言説が蔓延するようになっている。2013年には中国共産党直属の中国網で、武漢大学園林環境衛生サービスセンターの主任や中国科学院武漢植物園の専門家などが「サクラの起源は中国で日本には宋王朝の時代に伝わった」と主張していることが紹介され、2015年には同中国網で唐王朝の時代に日本に伝わったとする記事が発表された。また2016年には武漢市の金融系企業が渋谷109に「武漢、世界の桜の故郷 ぜひ武漢大学に桜を見に来てください」という広告を出し、一部の中国人たちから快哉を浴びた。2019年には中国櫻花産業協会がサクラの起源は中国であり、中国の国花にすることがふさわしいとの声明を決議した。またこの協会の会長が会長を務めるサクラの栽培に関する企業の副責任者は、2016年時点で「日本に抵抗するとともに愛国的な真の方法」として「チャイナレッド」の真紅の花色の栽培品種を開発して日本のサクラの品種を駆逐することを企図している。一方、このような主張に反対する意見もあり、例えば武漢大学の歴史家は「現在栽培されているサクラの多くの品種は事実上日本固有のもので(中略)武漢大学のサクラも少量の中国原産種を除けばほとんどが日本から来たものだ。」との主張を新華社に投稿して批判している。なお中国側がサクラの起源を主張する際には、1975年に日本で発行された『櫻大鑑』を引用して権威付けすることが多いが、ここにはサクラの野生種の起源がヒマラヤである可能性と、野生種が中国大陸と日本列島が地続きの時代に東進して、後に日本で盛んに分化して独自化した可能性が書かれているだけである。もちろん人類が文明を築いていた唐王朝や宗王朝時代の話でも栽培品種の話でもなく、明らかに誤読である。また上海辰山植物園の職員も、多くのサクラは日本固有種のオオシマザクラなどを核にして作出されていると主張し、中国側の主張を「故意あるいは意図せずに野生種と栽培品種を混同して論じ、野生種の起源を用いて人々をミスリードしている。」と批判している。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"text": "台湾には、北部の陽明山・中正紀念堂公園など、中部の阿里山・日月潭九族文化村など、南部の烏山頭ダム風景区など、桜の名勝は多い。東アジアの梅開花前線と桜開花前線(寒桜など)は、それぞれ11月と1月に台湾で始まり、その後日本列島を北上する。",
"title": "日本国外でのサクラ"
},
{
"paragraph_id": 109,
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"text": "鎮海の桜に見られるように、韓国には日本統治中にソメイヨシノが導入されサクラ観賞の文化が始まった。韓国ではソメイヨシノの正体は済州島原産の雑種である王桜であるという韓国起源説が蔓延しているが遺伝子研究により事実無根として否定されている。2022年に行われた調査によると、ソウルのサクラの名所である韓国国会と汝矣島周辺に植えられたサクラのうち9割以上が日本原産のソメイヨシノであり、韓国原産の王桜は1本も植えられていなかったことが判明した。また桜祭りが行われる桜の名所として有名な鎮海の女座川沿いの99.7%、慶和駅周辺の桜の木の91.1%が1960年代に日本から持ち込まれた日本産のソメイヨシノであり、残りも日本産のシダレザクラなどであり、王桜ではないことが判明している。",
"title": "日本国外でのサクラ"
},
{
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"text": "北朝鮮でも、平壌の街路には桜が植えられていて、通行人の目を楽しませる。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"text": "ワシントンDCの全米桜祭りが有名であり、日本が日米友好の証として寄贈したサクラに起源がある。ハワイ州ハワイ島のワイメアでは、毎年2月に「ワイメア桜祭り」が行われる。",
"title": "日本国外でのサクラ"
},
{
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"text": "日系移民が多いブラジルでは、サンパウロのカルモ公園に、日本のの桜が4,000植えられていて、桜祭りがある。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"paragraph_id": 113,
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"text": "コリングウッド・イングラムは19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本のサクラを収集して研究し、オカメやクルサルなどのさまざまな栽培品種を生みだすなどして、欧州でのサクラの観賞文化の始まりに貢献した。イングラムは、日本から輸入して自邸で栽培していた20世紀初頭までに日本で姿を消していたタイハクを日本に里帰りさせ、日本で失われていた品種を復活させることに貢献した。1993年に日本花の会は王立ウィンザー大公園に松前系の58品種のサクラを寄贈し、それらは王立キューガーデンなどに分与され活着している。",
"title": "日本国外でのサクラ"
},
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"text": "1866年にシーボルトが栽培品種のホクサイを日本から持ち出し、その後日本では失われていたが、後に里返りしたことで日本でも見られるようになっている。 1977年から3年に渡って日本花の会がハンブルグ市の日本人会の依頼を受けて5,000本のサクラの苗木を同市に寄贈し、それらのサクラはアルスター湖畔や公園に植えられた。またテレビ朝日と日本花の会がドイツ統一を果たした記念にベルリン市に1991年から6,000本のサクラの苗木を寄贈し同市のベルリンの壁跡や隣接するポツダム市にも植えられた。またボンにはカンザンの桜並木があり有名な花見の名所になっている。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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{
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"text": "日本花の会が1981年にベルサイユ市にサクラの苗木を5,000本寄贈し、それらは市内の病院や公園などに植えられた。",
"title": "日本国外でのサクラ"
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"paragraph_id": 116,
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"text": "ロシアでは、モスクワの中心部にあるロシア科学アカデミー植物園の日本庭園に日本から贈られた北海道産のエゾヤマザクラとチシマザクラが40本ほどあり、通常5月に開花する。",
"title": "日本国外でのサクラ"
},
{
"paragraph_id": 117,
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"text": "日本さくらの会は、1992年(平成4年)に3月27日を「さくらの日」と制定している。",
"title": "「さくらの日」"
},
{
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"text": "桜関連:",
"title": "関連語"
},
{
"paragraph_id": 119,
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"text": "樹木ではない「さくら」を含む語:",
"title": "関連語"
},
{
"paragraph_id": 120,
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"text": "桜井、桜田、桜川、桜町、桜坂など、「桜」の語を含む地名は多く見られる。これらの地名は桜の名所や土地に関する由来があるもののほか、瑞祥地名としても見られる。",
"title": "関連語"
},
{
"paragraph_id": 121,
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"text": "人名にも桜の付くものは少なくない。桜が入った苗字の時もそうであるが、近年は女性の名前として『さくら』の語が使われることが多い。",
"title": "関連語"
}
] | サクラは、バラ科サクラ亜科サクラ属 (スモモ属とすることもある。「野生種の分類」の項を参照)の落葉広葉樹の総称。またはその花である。一般的に春に桜色と表現される白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせる。 | {{Redirect5|||さくら|桜|櫻}}
{{生物分類表
| 色 = lightgreen
| 名称 = サクラ
| 画像 = [[ファイル:2020-04-07 Prunus × yedoensis Tambasasayama,Hyogo(丹波篠山市篠山川のソメイヨシノ)DSCF2986☆彡.jpg|300px|[[篠山川]]堤防の桜(ソメイヨシノ)]]<!-- 日本のサクラに限る必要は全くないが、海外産では種/品種がある程度確かなものが望ましいとされる。[[ファイル:Cherry Blossom.jpg|thumb]] -->
| 画像キャプション = [[ソメイヨシノ]]の花
| 界 = [[植物界]] {{sname||Plantae}}
| 門 = [[被子植物門]] {{sname||Magnoliophyta}}
| 綱 = [[双子葉植物綱]] {{sname||Magnoliopsida}}
| 亜綱 = [[バラ亜綱]] {{sname||Rosidae}}
| 目 = [[バラ目]] {{sname||Rosales}}
| 科 = [[バラ科]] {{sname||Rosaceae}}
| 亜科 = [[サクラ亜科]] {{sname||Amygdaloideae}}
| 属 = [[サクラ属]] {{snamei||Cerasus}} もしくは<br />スモモ属 {{snamei||Prunus}}
| 亜属 = 上位分類をスモモ属とした場合は<br />'''サクラ亜属''' {{sname|subg. ''Cerasus''}}
| 下位分類名 = 節
| 下位分類 =
*サクラ節 {{sname|sect. ''Cargentiella''}}
*ミザクラ節 {{sname|sect. ''Cerasus''}}
*ミヤマザクラ節 {{sname|sect. ''Phyllomahaleb''}}
*ロボペタルム節 {{sname|sect. ''Lobopetalum''}}
| 和名 = '''サクラ'''('''桜''')
| 英名 = {{lang|en|[[w:Cherry blossom|Cherry blossom]]}}
}}
'''サクラ'''('''桜'''、'''櫻'''、[[英語|英]]:{{lang|en|Cherry blossom}}、{{lang|en|Japanese cherry}}、{{lang|en|Sakura}})は、[[バラ科]][[サクラ亜科]][[サクラ属]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A1%9C-448703 コトバンク‐桜] 小学館の『[[大辞泉]]』の解説に「バラ科サクラ属の落葉高木の総称」と記され、また、三省堂の『[[大辞林]]』第三版の解説に「バラ科サクラ属の落葉高木または低木」と記されている。</ref> (スモモ属とすることもある。[[#サクラ属(狭義のサクラ属)とスモモ属(広義のサクラ属)|「野生種の分類」の項を参照]])の[[落葉性|落葉]][[広葉樹]]の総称。またはその花である。一般的に[[春]]に[[桜色]]と表現される[[白色]]や淡紅色から濃紅色の[[花]]を咲かせる。
== 概要 ==
サクラは[[シベリア]]、[[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[アメリカ合衆国|米国]]・[[カナダ]]<ref>『[[赤毛のアン]]』の冒頭にも桜の大木が出てきて、アンは「雪の女王」と名づける。[[松本侑子]]『誰も知らない「赤毛のアン」』([[集英社]])によれば、これは[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]の童話『[[雪の女王]]』が源泉であり、[[花言葉]]が樹は「良き教育」、花は「精神美」で、女主人マリラそのものとしている。</ref> など、主に[[北半球]]の[[温帯]]に広範囲に自生している<ref>{{Cite web |url=http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-faq/ |title=FAQ |publisher=財団法人[[日本花の会]] |accessdate=2016-04-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sakuranokai.or.jp/chishiki/index.html |title=桜の種類 |publisher = 財団法人[[日本さくらの会]]|accessdate=2011-02-01}}</ref>。歴史的に日本文化に馴染みの深い植物であり、その変異しやすい特質から特に日本で[[花見]]目的に多くの[[栽培品種]]が作出されてきた([[#日本における栽培品種と品種改良]]、[[#日本人とサクラ]])。このうち観賞用として最も多く植えられているのが[[ソメイヨシノ]]である。鑑賞用として[[カンザン]]など日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いており([[日本花の会]]、[[キューガーデン]]、[[全米桜祭り]]など参照)、英語では桜の花のことを「{{lang|en|[[w:Cherry blossom|Cherry blossom]]}}」と呼ぶのが一般的であるが、日本文化の影響から「{{lang|en|Sakura}}」と呼ばれることも多くなってきている。
サクラの果実は[[サクランボ]]またはチェリーと呼ばれ、世界中で広く食用とされる。日本では、塩や[[梅酢]]に漬けた花も食用とされる<ref>【仰天ゴハン】桜の花漬け([[神奈川県]][[秦野市]])摘み取った春 食卓に咲く『[[読売新聞]]』よみほっと(朝刊別刷り)2019年5月12日、1面。</ref>。
サクラ全般の[[花言葉]]は「精神の美」「優美な女性」、[[西洋]]では「優れた教育」も追加される<ref>{{Cite web|和書|url=http://hananokotoba.com/sakura/| title=サクラの花言葉 |website=花言葉-由来|publisher=イーガオジャパン合同会社 |accessdate= 2019-03-19}}</ref>。桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う[[雅]]な様を日本人の精神に現した。
国の[[天然記念物]]に指定されているサクラは、沖縄県から東北地方まで25都道府県に39件あり、このうち[[狩宿の下馬ザクラ]]と[[大島のサクラ株]]は[[特別天然記念物]]に指定されている。
=== 語源 ===
「サクラ」の語源については以下の説がある。
* 春に里にやってくる[[イネ|稲]](サ)の[[神]]が[[憑依]]する座(クラ)である。これは天つ神のニニギと木花咲耶姫の婚姻譚による。
* 「咲く」に複数を意味する「ら」を加えたものとされ、元来は花の密生する植物全体を指した。
* 富士の頂から、花の種をまいて花を咲かせたとされる、「[[コノハナノサクヤビメ]](木花之開耶姫)」の「さくや」をとった。
== 野生種の分類 ==
=== 野生種のサクラとは ===
現在の[[生物学]]では、独立した[[種 (分類学)|種]]({{lang|la|species}})と見なされるためには、その種の中の個体に遺伝的多様性があり、個体が互いに交配して子孫を残すことができている一定規模の集団でなければならない。このため野生で自生している特定の種類のサクラがあったとしても、それが即ち独立した野生種とみなされるわけではない<ref>勝木俊雄『桜』p60、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。また種間雑種であったり、種の下位分類の[[変種]]({{lang|en|variety}})や[[品種 (分類学)|品種]]({{lang|en|form}})であったり、全く異なる分類体系となる野生種から選抜・開発された[[栽培品種]]({{lang|en|cultivar}})は、独立した種の数に含めない<ref>勝木俊雄『桜』p24 - p32、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。
=== サクラ属(狭義のサクラ属)とスモモ属(広義のサクラ属) ===
サクラ類を'''[[サクラ属]]'''({{snamei|Cerasus}}、ケラスス)に分類するか、'''スモモ属'''({{snamei||Prunus}}、プルヌス)に分類するか国や時代で相違があり、現在では両方の分類が使われている。[[ロシア]]、[[中国]]、1992年以降の[[日本]]では[[ヤマザクラ]]や[[セイヨウミザクラ]]などサクラのみ約100種をサクラ属({{sname|''Cerasus''}})として分類するのが主流である(狭義のサクラ属)<ref name ="katsuki16"/>。一方で[[西欧]]や[[北米]]では各種サクラと[[スモモ]]、[[モモ]]、[[ウメ]]、[[ウワミズザクラ]]など約400種を一括してスモモ属({{Snamei||Prunus}})として分類するのが主流である(広義のサクラ属)。これは比較的サクラ類の多いロシアや中国ではサクラ類を独立した属として分類していたのに対し、伝統的にサクラ類の少ない西欧と北米ではサクラ類をスモモやモモやウメなどと一括して分類していたためである。日本の科学は西欧や北米の基準に合わせる事が多かったため従来はサクラ類をスモモ属({{sname|''Prunus''}})としていたが、1992年の[[東京大学]]の[[大場秀章]]の論文発表以降は、実態に合ったサクラ属({{sname|''Cerasus''}})表記が主流である<ref name="katsuki16">勝木俊雄『桜』p16 - p18、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。
=== 西欧と北米式のスモモ属({{snamei|Prunus}})による分類法 ===
スモモ属({{snamei||Prunus}})は約400の野生の種({{lang|la|species}})からなるが、主に[[果実]]の特徴から5から7の[[亜属]]に分類される。[[サクラ亜属]] {{sname||Cerasus|subg. ''Cerasus''}} はその一つである。サクラ亜属は節に分かれ、それらは非公式な8群に分かれる{{要出典|date=2012年4月}}
このうちサクラ亜属には100の野生の種({{lang|la|species}})がある。
<!-- <ref>和名と群は [http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/index2.html このはなさくや図鑑] より</ref>
これは個人のウェブサイトであって、きちんと出典を示している訳でもない。-->
*サクラ節 {{sname|sect. ''Cargentiella''}} ({{sname|sect. ''Pseudocerasus''}})
**ヤマザクラ群 - ヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザクラ など
**エドヒガン群 - エドヒガン など
**マメザクラ群 - マメザクラ など
**チョウジザクラ群 - チョウジザクラ など
**カンヒザクラ群 - カンヒザクラ など
**サトザクラグループ(雑種からなる群)
*ミザクラ節 {{sname|sect. ''Cerasus''}}
**ミザクラ群 - [[セイヨウミザクラ]] など
*ミヤマザクラ節 {{sname|sect. ''Phyllomahaleb''}}
**ミヤマザクラ群 - ミヤマザクラ など
*ロボペタルム節 {{sname|sect. ''Lobopetalum''}}
**カラミザクラ群 - [[カラミザクラ]] など
サクラ属であり、やはり名前に「サクラ」と付く[[イヌザクラ]]、[[ウワミズザクラ]]などはウワミズザクラ亜属 {{sname||Prunus subg. Padus|subg. ''Padus''}}(もしくは[[ウワミズザクラ属]] {{snamei||Padus}})であり、サクラ亜属ではない。
かつては[[ニワザクラ]]、[[ユスラウメ]]などを含むユスラウメ節 {{sname|sect. ''Microcerasus''}} もサクラ亜属とされたが、{{lang|de|Krüssmann}} (1978) によりニワウメ亜属 {{sname||Lithocerasus|subg. ''Lithocerasus''}} に分離された。分子系統からは、ニワウメ亜属はサクラ亜属とは別系統であり、しかも[[スモモ亜属]]/[[モモ亜属]] {{en|''Prunus/Amygdalus'' alliance}} 内に分散した[[多系統]]という結果が出ている<ref>{{Cite journal |first=J. |last=Wen |last2=''et al.'' |journal=Journal of Systematics and Evolution |volume=46 |issue=3 |page=322-332 |year=2008 |doi=10.3724/SP.J.1002.2008.08050|title=Phylogenetic inferences in ''Prunus'' (Rosaceae) using chloroplast ''ndh''F and nuclear ribosomal ITS sequences |format=PDF |url=http://people.iab.uaf.edu/stefanie_bond/Publications_files/Wen_et%20al_JSystEvol2008.pdf|accessdate=2022-03-21}}</ref>。ただし、サクラ亜属をサクラ節 {{sname|sect. ''Cerasus''}}(通常のサクラ亜属)とニワウメ節 {{sname||Lithocerasus|sect. ''Lithocerasus''}}(ニワウメ亜属とウワミズザクラ亜属?)に分ける資料もある<ref>{{Cite web |url=http://www.ars-grin.gov/cgi-bin/npgs/html/genus.pl?20151 |title= Infrageneric information from NPGS/GRIN: Prunus |publisher=アメリカ合衆国農務省 |work = GRIN|accessdate=2011-02-01}}</ref>。
=== 日本に自生する野生種 ===
日本に自生するサクラのうち、現在の生物学上で[[#野生種のサクラとは|独立した野生種(species)]]と認められるのは次の11種、もしくは[[カンヒザクラ]]を除いた10種である。このうち[[クマノザクラ]]は2018年に発見された種で、オオシマザクラ以来約100年ぶりに発見されたサクラの基本野生種である<ref name = "katsuki2015p13"/><ref name = sankei180313/>。日本人は歴史的にこれらの野生種とその種間雑種から[[サトザクラ]]群に代表される少なくとも200品種以上(分類によっては600品種以上<ref name = "hibiyakadan">[https://web.archive.org/web/20200926115307/https://sakura.hibiyakadan.com/page.jsp?id=14549347 紹介 桜の品種] 株式会社 日比谷花壇.</ref><ref name = "ryokkakyokai">[https://web.archive.org/web/20190212031148/http://www.kita-ryokka.or.jp/index.php?%E8%8A%B1%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%80%802016%E5%B9%B404%E6%9C%88 2016年4月 サクラ] 一般社団法人 北九州緑化協会</ref><ref name="sakuyakonohana_Jp_sakura"/>、または800品種<ref name="tokyo220329">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/168395|archive-url=https://web.archive.org/web/20220328231414/https://www.tokyo-np.co.jp/article/168395|title=白の輝き 新種のしだれ桜 茨城の「博士」が上野で発見|publisher=[[東京新聞]]|date=2022-3-29|archive-date=2022-3-28|access-date=2023-1-12}}</ref>)の[[栽培品種]]などを生み出して[[花見]]に利用してきたのである<ref name = "sakuranokai"/>。{{snamei|Cerasus}} での[[学名]]のほかに {{snamei|Prunus}} に分類にした場合に {{snamei|Cerasus}} と別の学名がある場合はその一部の主なものを {{snamei|P.}} の略表記で記載した<ref name ="ojfc">{{cite web|title=Origins of Japanese flowering cherry (Prunus subgenus Cerasus) cultivars revealed using nuclear SSR markers|url=https://www.researchgate.net/publication/260047309|work=Shuri Kato, Asako Matsumoto, Kensuke Yoshimura, Toshio Katsuki etc.|access-date=February 27, 2021}}</ref><ref>[https://npgsweb.ars-grin.gov/gringlobal/taxon/taxonomysearch 空欄に「Prunus ~~」と入力するとシノニムが表示される。] Advanced Query of GRIN-Global Species Data</ref>。
* [[オオシマザクラ]] ({{snamei|Cerasus speciosa}}, {{snamei|P. lannesiana var. speciosa}}) - 日本[[固有種]]
* [[ヤマザクラ]] ({{snamei|Cerasus jamasakura}}) - 日本固有種
* [[オオヤマザクラ]] ({{snamei|Cerasus sargentii}})
* [[カスミザクラ]] ({{snamei|Cerasus laveilleana}}, {{snamei|P. verecunda}})
* [[エドヒガン]] ({{snamei|Cerasus spachiana}}, {{snamei|Cerasus itosakura}}, {{snamei|P. pendula f.ascendens}}, {{snamei|P. subhirtella var. ascendens}})
* [[マメザクラ]] ({{snamei|Cerasus incisa}}) - 日本固有種
* [[タカネザクラ]] ({{snamei|Cerasus nipponica}})
* [[チョウジザクラ]] ({{snamei|Cerasus apetala}}) - 日本固有種
* [[ミヤマザクラ]] ({{snamei|Cerasus maximowiczii}})
* [[クマノザクラ]] ({{snamei|Cerasus kumanoensis}}) - 日本固有種
* [[カンヒザクラ]] ({{snamei|Cerasus campanulata}}) - 人為的に持ち込まれて野生化した疑義あり
== 種間雑種 ==
サクラはそれぞれの野生[[種 (分類学)|種]]の中で交雑を行っているが、種の枠を飛び越えて種間でも交雑することがあり、そこから有用な個体が生まれて[[栽培品種]]として見出されて花見に利用されてきた。ここでは日本で見られる代表的な種間雑種の学名と、その種間雑種を日本語で便宜的に一言で表す場合の代表和名を記す。この代表和名はその種間雑種の中で最も認知されているサクラの名前がつけられていることが多い。なお遺伝子研究が未熟であったころからサクラには学名がつけられてきているが、現在の基準からみると、その学名は必ずしも遺伝的に正確であったわけではないため、ひとつの種類のサクラに複数の学名がつけられていることがあり、混同に注意する必要がある。またその存在は確認されているが正式に発表されていない学名と和名も記載する。なお2種間による主な交雑ではなくオオシマザクラを母体として複雑な種間雑種により作出された栽培品種は狭義の[[サトザクラ]]に分類され、雑種を表す × で表記されず、栽培品種群の {{sname|''Cerasus'' Sato-zakura Group}}({{snamei|Cerasus serrulata}}、{{snamei|Cerasus lannesiana}})で表される。なおここでは {{snamei|Prunus}} ではなく {{snamei|Cerasus}} で表記し、さらに略語の {{snamei|C.}} で表記した{{sfn|勝木|2017|p=96-97}}。
* ''Cerasus'' Sato-zakura Group = [[サトザクラ]]([[オオシマザクラ]]を中心とした複雑な種間雑種により生まれた栽培品種)
* ''C.'' × ''yedoensis'' = [[エドヒガン]] × オオシマザクラ、代表和名:[[ソメイヨシノ]]
* ''C.'' × ''sacra'' = エドヒガン × ヤマザクラ、代表和名:[[モチヅキザクラ]]
* ''C.'' × ''kashioensis'' = エドヒガン × カスミザクラ、代表和名:カシオザクラ
* ''C.'' × ''nudiflora'' = エドヒガン × [[オオヤマザクラ]]、代表和名:[[王桜|サイシュウザクラ(王桜)]]([[韓国]][[済州島]]のサクラだが日本に標本があるため掲載。)
* ''C.'' × ''occultans'' = [[ヤマザクラ]] × オオシマザクラ、代表和名:カズサザクラ(存在するが、種間雑種として正式に発表されていない学名および和名)
* ヤマザクラ × カスミザクラ(種間雑種として存在するが、正式に発表されていない)
* ヤマザクラ × オオヤマザクラ(種間雑種として存在するが、正式に発表されていない)
* ''C.'' × ''subhirtella'' = [[マメザクラ]] × エドヒガン、代表和名:[[コヒガン]]
* ''C.'' × ''fruseana'' = マメザクラ × ヤマザクラ、代表和名:ミノブザクラ
* ''C.'' × ''yuyamae'' = マメザクラ × カスミザクラ、代表和名:フジカスミザクラ
* ''C.'' × ''parvifolia'' = マメザクラ × オオシマザクラ、代表和名:[[コバザクラ|コバザクラ(フユザクラ)]]
* ''C.'' × ''miyasakana'' = マメザクラ × タカネザクラ = ヤツガタケザクラ(存在するが、種間雑種として正式に発表されていない学名および和名)
* ''C.'' × ''chichibuensis'' = [[チョウジザクラ]] × エドヒガン、代表和名:チチブザクラ
* ''C.'' × ''yanashimana'' = チョウジザクラ × ヤマザクラ = 代表和名:ナルサワザクラ(存在するが、種間雑種として正式に発表されていない学名および和名)
* ''C.'' × ''tschonoskii'' = チョウジザクラ × カスミザクラ、代表和名:ニッコウザクラ
* ''C.'' × ''mitsuminensis'' = チョウジザクラ × マメザクラ、代表和名:チョウジマメザクラ
* ''C.'' × ''oneyamensis'' = チョウジザクラ × オオヤマザクラ、代表和名:オネヤマザクラ
* ''C.'' × ''compta'' = [[カスミザクラ]] × オオヤマザクラ、代表和名:アカツキザクラ
* ''C.'' × ''shikamae'' = カスミザクラ × ミヤマザクラ、代表和名:ミヤマカスミザクラ
* カスミザクラ × オオシマザクラ(種間雑種として存在するが、正式に発表されていない)
* カスミザクラ × タカネザクラ(種間雑種として存在するが、正式に発表されていない)
* ''C.'' × ''kanzakura'' = [[カンヒザクラ]] × ヤマザクラ、代表和名:カンザクラ
* ''C.'' × ''kanzakura'' = カンヒザクラ × オオシマザクラ、代表和名:カンザクラ([[カワヅザクラ]]など存在するが、種間雑種として正式に発表されていない学名および和名)
* カンヒザクラ × マメザクラ(種間雑種として存在するが、正式に発表されていない)
* ''C.'' × ''kubotana'' = [[タカネザクラ]] × オオヤマザクラ、代表和名:タカネオオヤマザクラ
* ''C.'' × ''katonis'' = [[ミヤマザクラ]] × オオヤマザクラ、代表和名:シンエイザクラ
== 栽培品種と品種改良 ==
[[ファイル:IMG 2329 - Washington DC - Tidal Basin - Cherry Blossoms.JPG|thumb|220px|[[ワシントンD.C.]]の[[タイダルベイスン]]のサクラ。日本から寄贈された栽培品種のサクラを起源とする[[全米桜祭り]]が毎年開催されている。]]
{{See also|#花見と栽培品種開発の歴史|サクラの一覧}}
サクラは[[突然変異]]が多い植物であり、樹形、花期、花と花弁の付き方・数・形・大きさ・色、実の増減、耐候性、病害虫への強靭性などで新しい特性が発現しやすい。このため野生のサクラの中から鑑賞や食用に有用な突然変異した個体や種間雑種で望ましい特性を持った個体を選抜して育成し、これを[[接ぎ木]]や[[挿し木]]で増殖することで様々な栽培品種が広まっていった。日本では主に、花付きが多く、一輪の中の花弁が多く(八重咲き)、花の色も見栄えがするなどの鑑賞目的で品種改良が進んだのに対し、西欧では実をより有用な食品にするため、実を大きく、収穫量が多くなるような品種改良が行われてきた。
=== 日本における栽培品種と品種改良 ===
[[ファイル:Ōshima-zakura2.jpg|thumb|220px|多くの栽培品種を生み出した日本[[固有種]]の[[オオシマザクラ]]]]
日本に自生する野生種のサクラは[[#西欧と北米式のスモモ属(Prunus)による分類法|上記の10種、もしくは11種({{lang|la|species}})]]であり、世界の野生種の全100種({{lang|la|species}})から見るとそう多くはない。しかし日本のサクラに関して特筆できるのは、この10もしくは11種の下位分類の変種({{lang|en|variety}})以下の分類で約100種の自生種が存在するほか種間雑種も自生し、古来からこれらの野生種から選抜・開発してきた栽培品種(cultivar)が少なくとも200種以上存在し<ref name = "sakuranokai"/>、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われており、世界でも圧倒的に多種多様な栽培品種を選抜・開発してきた事である<ref name="tokyo220329"/><ref name = "hibiyakadan"/><ref name = "ryokkakyokai"/><ref name="sakuyakonohana_Jp_sakura"/>。
日本人はこれら野生の種が他の種と交雑したりしながら誕生した突然変異個体と優良個体を選抜・育成・[[接ぎ木]]などで増殖してそれを繰り返すことで、多種の栽培品種を生み出してきた。[[エドヒガン]]や[[ヤマザクラ]]、[[オオシマザクラ]]などは比較的に変性を起こしやすい種であり、特にオオシマザクラは成長が速く、花を大量に付け、大輪で、芳香であり、その特徴を好まれて結果として栽培品種の基盤の親となって多くの[[サトザクラ]]群を生み出してきた<ref name="sakuyakonohana_Jp_sakura"/><ref name = "katsuki2015"/><ref name = "katsuki2015P106"/><ref name = "katsuki2015P166"/>。2014年に発表された[[森林総合研究所]]の215の栽培品種の[[DNA]]解析結果により、日本のサクラの栽培品種は、エドヒガンから誕生した[[シダレザクラ]]のように一つの野生種から誕生した存在は稀で、多くがオオシマザクラに多様な野生種が[[交雑]]して誕生した種間雑種であることが判明した<ref name = "shinrin140616">[https://www.ffpri.affrc.go.jp/research/saizensen/2014/20140616-01.html DNAからわかったサクラ品種の真実 ―そのほとんどは雑種が起源―] 森林総合研究所 2014年6月16日</ref>。なお[[ソメイヨシノ]]はオオシマザクラを親とするがサトザクラ群には含めない。ここでは栽培品種のごく一部の代表的な品種をあげる。
*[[オオシマザクラ]]系(狭義の[[サトザクラ]]群)
** [[カンザン]]
** [[イチヨウ]]
** [[フゲンゾウ]]
** [[ウコン (サクラ)|ウコン]]
** [[ギョイコウ]]
** [[ミクルマガエシ]]
** [[ケンロクエンクマガイ]](チョウシュウヒザクラ)
** [[ベニユタカ]]
{{Gallery
|align=center
|width=200
|height=155
|ファイル:Tokigawa Kanzan Satozakura 1.JPG|代表的な[[ヤエザクラ]]で欧米で最も植栽されている[[カンザン]]
|File:ウコン近接.jpg|[[ウコン (サクラ)|ウコン]]([[日本花の会]]結城農場)
|File:Prunus lannesiana Gioiko 04.jpg|[[ギョイコウ]]
|File:Kenrokuen-kumagai1.jpg|[[ケンロクエンクマガイ]](チョウシュウヒザクラ)
|File:Beniyutaka2.jpg|[[ベニユタカ]](日本花の会結城農場)
}}
*[[エドヒガン]]系
** [[ソメイヨシノ]]
** [[シダレザクラ]]
** [[ヤエベニシダレ]]
** [[ジンダイアケボノ]]
** [[コヒガン]]
** [[マイヒメ]]
** [[オモイガワ]]
{{Gallery
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|ファイル:Yoshino Sakura Tidal Basin DC.jpg|日本の代表的な栽培品種の[[ソメイヨシノ]]
|File:The front of Jiunji-Temple Prunus pendula.JPG|[[シダレザクラ]]([[甲州市]]の[[慈雲寺 (甲州市)|慈雲寺]])
|File:Weeping cherry tree in Daianji elementary school 02.jpg|[[ヤエベニシダレ]]
|File:国立劇場 Jindai-Akebono.jpg|[[ジンダイアケボノ]]([[国立劇場]]前庭)
|File:Omoigawa, Hakuoh University.jpg|[[オモイガワ]]([[小山市]]の[[白鷗大学]]大行寺キャンパス裏手)
}}
*[[カンヒザクラ]]が関わる品種
** [[カワヅザクラ]]
** [[ヨウコウ]]
** [[ヨコハマヒザクラ]]
** [[ツバキカンザクラ]]
{{Gallery
|align=center
|width=200
|height=155
|File:Kawazu-zakura3.jpg|早咲きで有名な[[カワヅザクラ]]([[深谷市]]の榛の森公園)
|File:ヨウコウ_Cerasus_'Yōkō'_2.jpg|[[ヨウコウ]]
|File:Yokohamahizakura.jpg|[[ヨコハマヒザクラ]]
}}
== 生態 ==
[[ファイル:Prunus Sprout Sakura20080405.JPG|thumb|220px|サクラの蕾]]
日本では、ほぼ全土で何らかの種類が生育可能である。様々な自然環境に合わせて多様な種類が生まれており、日本においてもいくつかの[[固有種]]が見られる。たとえばソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは[[伊豆大島]]など、南部暖帯に自生する固有種とされる。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、[[鮮新世]]の地層とされる[[三朝層群]]からムカシヤマザクラの葉の[[化石]]が見つかっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.torikyo.ed.jp/tottorisizenn/K011.htm |title=サクラの化石 |publisher = 鳥取県教育センター|accessdate=2011-02-01}}</ref>。
全てではないが、多くの種に共通して見られる特徴を挙げる。雌雄同株であり、中高木から低木程度の大きさである。若い樹皮は光沢があり[[カバノキ]]にも似た水平方向の皮目が出来、この部分は細胞に隙間が生じて呼吸孔になっている。古くなると皮目が消えて表面から徐々に細かく[[風化]]していく。葉の形は楕円形であり、枝に[[互生]]し、葉の縁はギザギザ([[鋸歯]])になっている。葉に薄い細毛が生えるものも少なくない。葉は秋になると[[紅葉]]する。葉の中に[[クマリン]]がある。根は浅く水平に広がり、ここから新たな茎([[蘖|ひこばえ]])がしばしば生え、[[不定根]]も良く発生する。
サクラは木を傷つけるとそこから腐りやすい性質を持つ。昔は[[剪定]]した部分の消毒も難しかったため、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺もある。このため、[[花見]]の宴会でサクラの木を折る観光客の被害によってサクラが弱ってしまうこともある。しかし適切な剪定は可能である。本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。
長寿な種の[[エドヒガン]]と[[ヤマザクラ]]と、エドヒガンの遺伝子を受け継いだ広義の[[シダレザクラ]]に属する栽培品種に古木として知られる名桜が多い。[[日本三大桜]]がいずれも樹齢千年を超える老古木となっているほか、[[日本五大桜|五大桜]]も古木が多く、内[[神代桜]]は樹齢が1800年を超えているとされる。それ以外にも有名で長寿の[[一本桜]]が多く存在する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sakuratabi.tv/data/sakura4.htm |title= さくら長寿番付 |work = 桜雑学辞典|accessdate=2011-02-01}}</ref>。
=== 花 ===
; 花弁の色
[[File:Kenrokuen-kumagai2.jpg|thumb|220px|ピンク色の[[ケンロクエンクマガイ]](チョウシュウヒザクラ)は白色の[[オオシマザクラ]]に由来する。]]
サクラの花弁の色は一般的に白色から濃い紅色までの[[グラデーション]]の範囲にあり、例外的に黄色の[[ウコン (サクラ)|ウコン]]や緑色の[[ギョイコウ]]などがある。この紅色系の発色は[[アントシアニン]]という色素によるものであり、紅葉や若葉の赤系の色もアントシアニンの作用である。アントシアニンの合成には低温と[[紫外線]]が必要なため、温暖な地域や年、屋内での育成は白色が強い花弁となりやすい。そのため、クローンであり同じ特質の[[ソメイヨシノ]]でも、温度環境の地域差により西日本より東北の個体の方が紅色が濃いと言われたり、温暖化による年差により昔と比べて白くなっていると言われがちである。また開花から散るまでの色の変化もアントシアニンの密度の変化によるものであり、つぼみの紅色は開化と共にアントシアニンの密度が薄くなって花弁が白くなっていき、散り際には花弁で新たに合成されたアントシアニンが花弁や雄蕊やめしべの基部に集まって赤くなっていく<ref name="katsuki2018p78">勝木俊雄『桜の科学』p78 - p81、SBクリエイティブ、2018年、ISBN 978-4797389319</ref>。
; 花弁の数
[[ファイル:Tokigawa Ichiyou Satozakura 1.JPG|thumb|220px|[[ヤエザクラ]]の[[イチヨウ]]]]
花を観賞する栽培品種として好まれたため様々な姿の花が見られ、花びらの数は五枚から百数十枚まで幅広い。サクラに限らないが用語を挙げる。花弁が五枚までのものを一重、五枚から十枚のものを半八重、十枚以上の花弁を持つものを[[八重咲き|八重]]といいサクラの場合は[[ヤエザクラ]]と称している。また、花弁が非常に多く、一枚一枚が細長い場合、菊咲きと称する。さらに[[萼]]、[[花弁]]、[[雄蕊]]の中にさらに萼、花弁、雄蕊のある二重構造のものも見られ、これは段咲きと呼ばれる。花弁の枚数の増え方には雄蕊が花弁に変化するものと、花弁や雄蕊そのものが倍数加する変化が見られる<ref name="harutugerusakura">{{Cite book|和書 |editor=竹内均 |date=2004-05-07 |title=[[ニュートン (雑誌)|Newton]] |publisher=株式会社ニュートンプレス |pages=74-83}}</ref>。なお、テレビ番組[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]](第36回、2004年04月28日放送)では、サクラの木一本(樹齢32年の[[ソメイヨシノ]])に付いている花びらの枚数を一枚ずつ集計したところ、およそ59万3345枚であることが判明した。
; 花の付き方と見分け方
西欧と北米の分類法ではサクラと同じスモモ属となる[[モモ]]や[[ウメ]]は[[花柄]]が短く枝から直接生えているかのように咲くが、サクラと[[スモモ]]はこれらと違って長い花柄を持っており枝から離れて垂れ下がるようにして咲く。さらにスモモの特徴として前年に葉が有った葉痕の基部に2つか3つの冬芽がつくが、サクラは1つの冬芽が付き、これが花の集合体となる花序となり、この点でサクラと近縁の植物の見分けが可能である。さらにサクラの中の種を見分けるには、個体差があって見分けにくい花弁よりも、種ごとの差異が大きく見分けやすい萼や花序の形態に注目する必要がある<ref name="katsuki2015p18">勝木俊雄『桜』p18 - p21、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。
; 開花期
開花期は種や地域によるばらつきが大きい。日本においては1月、[[沖縄県]]の[[カンヒザクラ]]を皮切りに咲き始め、東京ではまずカンザクラなどのカンヒザクラを由来とする早咲きの栽培品種が咲き、ソメイヨシノが咲いた後の4月中旬以降に[[八重桜|ヤエザクラ]]が咲く。北海道の[[オオヤマザクラ]]は5月に花を咲かせ、標高2000m以上では[[タカネザクラ]]が7月に花を咲かす。
[[ファイル:2020-04-07 Prunus × yedoensis Tambasasayama,Hyogo(丹波篠山市篠山川のソメイヨシノ)DSCF2999.jpg|thumb|220px|right|クローンの[[ソメイヨシノ]]は同環境下になりやすい同地では個体ごとの開花期の差が少なく、ほぼ一斉に咲き一斉に散る。]]
日本の代表的な品種のソメイヨシノでは、開花から満開まで1週間で、満開から散るまで1週間、花の見頃は悪天で早まらなければ満開前後の1週間程度である。ソメイヨシノは[[クローン]]であるため同じ環境にさらされる同地では個体ごとの差異がほぼなく、ほぼ一斉に咲き一斉に散る。なおソメイヨシノが爆発的に植えられる前の江戸時代までの日本では、遺伝的に個体差のある[[ヤマザクラ]]や多様な栽培品種が花見の主流であったため、個体ごと、種ごとに少しづつ次々と咲いていくサクラを長い期間をかけて鑑賞していくという花見のスタイルであった<ref name="katsuki2018p74">勝木俊雄『桜の科学』p74 - p77、SBクリエイティブ、2018年、ISBN 978-4797389319</ref>。
サクラには花と葉が同時に展開する種が多くあるが、日本の野生種の中ではエドヒガンが例外的に葉が展開する前に花が咲く特質を持っており、エドヒガンから誕生した栽培品種のソメイヨシノや[[シダレザクラ]]もこの特質を受け継いでいる。エドヒガンは他の多くの野生サクラや昆虫の活動期より少し前に花を咲かせるが、他に開花している種が少ないため効率的に虫をおびき寄せることができ、これが生存戦略となっている<ref name="katsuki2018p82">勝木俊雄『桜の科学』p82 - p84、SBクリエイティブ、2018年、ISBN 978-4797389319</ref>。なお、花が散る頃に葉が混ざって生えた状態から初夏過ぎまでを[[葉桜]]と呼ぶ。
サクラは花芽を作ると葉で休眠ホルモンを作って[[休眠]]する。その後に休眠解除(休眠打破)して再び開花するには、一般的に5℃程度の低温刺激が望ましく、低温時間の積算とその後の気温の上昇が必要である。この工程は一般的には冬から春にかけて行われることが多いが、秋に何らかの影響で葉がなくなった場合などに休眠ホルモンが足りず、寒い日を2 - 3日経てその後小春日和になるとこの条件を満たしてしまい[[狂い咲き]]が起きる。このように異常な個体の狂い咲きとは別に、毎年春に加えて秋から冬にかけて花を咲かせる[[ジュウガツザクラ]]や[[フユザクラ]]などの二季咲きの品種もある<ref name="katsuki2015p96">勝木俊雄『桜』p96 - p98、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。
サクラが以前に比べ若干早く咲く現象も見られている。これには休眠解除の一要素である気温の上昇が、[[地球温暖化]]の影響により春の早いうちに到来していることや、都市部での[[ヒートアイランド現象]]も影響している。また、九州では桜前線(ソメイヨシノ基準)が、普通とは逆に南下する例も現れた。これは温暖化によりソメイヨシノにとっては冬が暖かくなりすぎた九州南部では、休眠解除の一要素である低温刺激とその積算時間の条件を満たすまでに日数がかかり開花が遅れているからである<ref>{{Cite web|和書|url=http://eco.nikkeibp.co.jp/article/column/20090311/101092/?P=3 |title=第7回 桜前線に異変あり! P3 |publisher=[[日経BP]] |date=2009-03-12 |accessdate=2011-02-01}}</ref>。これらは[[季節学]]的な自然環境の変化を端的に表す指標にもなっている。
=== 花の蜜 ===
[[ファイル:Passer rutilans (male eating Prunus × yedoensis).JPG|thumb|220px|right|ソメイヨシノの花を食べるオスの[[ニュウナイスズメ]]]]
サクラの花からは[[蜜]]が出ているため、サクラの花が咲く時期には[[スズメ]]、[[メジロ]]、[[ヒヨドリ]]などの鳥類が見られる<ref name="kansatsu">{{Cite book |和書 |author1=今泉忠明|author2=岡島秀治|year=2018 |title=自然観察|page=8|publisher=学研プラス}}</ref>。メジロやヒヨドリは[[嘴]]を花に入れて蜜を吸うことが多いが、スズメは嘴が太くて短いため花の横から穴をあけて蜜を吸うことが多い<ref name="kansatsu" />。
{{-}}
== 日本人とサクラ ==
=== 花見と栽培品種開発の歴史 ===
日本においてはサクラは、関心の対象として特別な地位を占める花である。[[ファイル:Castle Himeji sakura01 adjusted.jpg|thumb|200px|[[姫路城]]とサクラ]]
日本では[[固有種]]を含んだ[[分類学]]上の10もしくは11[[種 (分類学)|種]]({{lang|la|species}})の基本の野生種を基に<ref name="katsuki2015p13">勝木俊雄『桜』p13 - p14、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref><ref name = sankei180313>[https://web.archive.org/web/20190403134016/https://www.sankei.com/west/news/180313/wst1803130028-n1.html 紀伊半島南部で100年ぶり野生種のサクラ新種「クマノザクラ」 鮮やかなピンク 森林総研] [[産経新聞|産経ニュース]] 2018年3月13日</ref><ref group="注釈">[[ヤマザクラ]]、[[オオヤマザクラ]]、[[カスミザクラ]]、[[オオシマザクラ]]、[[エドヒガン]]、[[チョウジザクラ]]、[[マメザクラ]]、[[タカネザクラ]]、[[ミヤマザクラ]]、[[クマノザクラ]]の10種。疑義のある[[カンヒザクラ]]を含めると11種。</ref>、これらの[[変種|変種({{lang|en|variety}})]]以下の分類を合わせて100種以上の自生種があり、さらにこれらから育成された[[栽培品種|栽培品種(cultivar)]]が少なくとも200種以上あり<ref name = "sakuranokai">[https://web.archive.org/web/20190919010035/http://www.sakuranokai.or.jp:80/chishiki/ さくらの基礎知識] 公益財団法人 日本さくらの会</ref>、名前が付けられている品種は800種類存在すると言われている<ref name="tokyo220329"/><ref name = "hibiyakadan"/><ref name = "ryokkakyokai"/><ref name="sakuyakonohana_Jp_sakura">{{Cite web|和書|url=http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/index2.html |title=日本の桜について |work = このはなさくや図鑑 |accessdate=2010-10-20}}</ref>。なおこのうち100品種余りは[[北海道]][[松前町 (北海道)|松前町]]由来の[[マツマエハヤザキ]]などを掛け合わせるなどして[[ベニユタカ]]などの多品種を生み出した浅利政俊が作出したものである<ref>[https://web.archive.org/web/20211104010452/https://www.ehako.com/news/newsbk2/4914_index_msg.shtml 浅利政俊さんが「桜守」に] Hakodate.com 2005年4月26日</ref><ref>[https://www.pr-table.com/matsumae/stories/600 “日本一のお花見”が楽しめる場所は北海道にある 桜と共に歴史を重ねる、松前町のあゆみ] 松前町 2017年5月29日</ref>。
日本では[[果実]](サクランボ)を食用とするほか、花や[[葉]]の[[塩漬け]]も食品などに利用されるが、特に[[平安時代]]の[[国風文化]]の影響以降に、桜は観賞用途([[花見]])で花の代名詞のような特別な位置を占めるようになった。当初は鑑賞の対象とされる代表的な品種は野生に自生する[[ヤマザクラ]]であった。これに加えて、花弁の数や色、花の付け方などの観点から見栄えが良かったり突然変異の珍しい特徴を持つ野生の個体を何世代にもわたって選抜育種し、優れた個体を[[接ぎ木]]などの方法で増殖させることで様々な栽培品種が開発されて、花見に利用された。既に平安時代には[[ヤエザクラ|八重桜]]が接ぎ木によって増殖されていたらしいことや「しだり櫻」や「糸櫻」などが存在したことが当時の文献に記録されている。また[[鎌倉時代]]以降に鎌倉周辺に自生する[[オオシマザクラ]]が栽培されるようになり、これが[[京都]]に持ち込まれたと考えられており、[[室町時代]]にオオシマザクラを由来とする[[フゲンゾウ]]や[[ミクルマガエシ]]等が生まれた。[[江戸時代]]にはオオシマザクラの優れた特質から[[カンザン]]などの多種の[[サトザクラ]]群や[[ソメイヨシノ]](染井吉野)などが生まれ、河川の整備に伴って、護岸と美観の維持のために柳や桜が積極的に植えられた。江戸時代末期には現代の日本で見られるのと大差のない300を超える多くの品種が存在するようになった<ref name="katsuki2015">勝木俊雄『桜』p86 - p95、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref><ref name="katsuki2015P106">勝木俊雄『桜』p106、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref><ref name="katsuki2015P166">勝木俊雄『桜』p166 - p168、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref><ref name="harutugerusakura"/><ref name="sakuratonihonjin"/>。
[[明治|明治時代]]に入り、[[大名屋敷]]の荒廃や[[文明開化]]・[[西洋化]]のため庭園が取り潰されると同時に、そこに植えられていた数多くの栽培品種の桜が伐採され、植えられるのはソメイヨシノばかりになっていった。これを憂いた[[駒込 (豊島区)|駒込]]の植木・庭園職人の高木孫右衛門は多くの栽培品種の枝を採取し自宅の庭で育てた。これに目を付けた江北地区[[戸長]](後に[[江北村]]村長)の清水謙吾が[[村おこし]]として[[荒川堤]]に多くの品種による桜並木を作り「五色桜」として評判となり、これを嚆矢として多くの栽培品種が[[小石川植物園]]などに保存されることになり、その命脈を保った。また[[京都]]では第14代[[佐野藤右衛門]]が全国にあった貴重な栽培品種や名木を収集して増殖して保存に務めた<ref name="katsuki20152">勝木俊雄『桜』p115 - p119、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。
また[[第二次世界大戦]]で荒川堤も壊滅的な被害を受けるが、第二次大戦中は[[埼玉県]][[川口市]]安行の植木業者の小清水亀之助らが品種の保護に尽力し、戦後の1950年頃には[[国立遺伝学研究所]]が、1960年代には[[多摩森林科学園]]が小清水らから苗を譲り受け、現在では前者に250系統350個体、後者に500系統1300個体のサクラが植えられて、江戸時代以前からのサトザクラの命脈を保っている。またイギリスの園芸家[[コリングウッド・イングラム]]が保存していた[[タイハク]]のように、一度日本で消滅した品種が日本に里帰りすることで、江戸時代以前のサクラの命脈を補完している。戦後の[[高度経済成長]]期にはソメイヨシノの植樹が日本全国で爆発的な勢いで進められ、サクラの中で最も多く植えられた栽培品種となっている<ref name = "katsuki20152"/><ref name="katsuki20153">勝木俊雄『桜』p119 - p123、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。
また野生種である[[エドヒガン]]は、成長が遅いが耐久性が高く、桜の中で寿命が最も長く長い期間をかけて巨樹に成長しやすい。このため日本には、エドヒガンとそれから生み出された栽培品種のシダレザクラに長寿の巨樹がたくさんあり、それらの桜の木はしばしば神聖なものと見なされ、[[一本桜]]として[[神社]][[仏閣]]や地域を象徴するランドマークになって、現在に至るまで歴史的に有名な花見の対象となってきた。たとえばエドヒガンの[[神代桜]]は約2,000年、[[淡墨桜]]は約1,500年、[[醍醐桜]]は約1,000年の歴史を誇り、ベニシダレの[[三春滝桜]]は約1,000年の歴史を誇る<ref name="katsuki2015p178">勝木俊雄『桜』p178 - p182、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。
今日でもサクラの栽培品種の作出は続けられており、珍しい方法としては、2007年に[[理化学研究所]]が世界で初めてサクラの在来品種に[[重イオン]]ビームを照射して新品種[[ギョイコウ#派生種|ニシナザオウ(仁科蔵王)]]を作出することに成功している<ref>[https://web.archive.org/web/20120307052417/http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/press/2007/071031/detail.html 重イオンビームで世界初のサクラの新品種の作成に成功] [[理化学研究所]] archeivwdate=2012-3-7 Internet Archive</ref>。
今日、とりわけ多くの栽培品種のサクラが見られる名所としては、[[松前城|松前公園]](250品種)、[[日本国花苑]](200品種)、[[日本花の会]]結城農場(350種)、[[造幣局]]の[[桜の通り抜け (大阪造幣局)|桜の通り抜け]](134品種)などがあげられる。(品種数は野生種と、野生種の雑種と下位分類を含んだ数)
=== 文化・文献におけるサクラの歴史===
{{See also|桜に関連する作品一覧}}
[[ファイル:Cherry-Blossom-Utagawa-Hiroshige-36-Views-of-Mount Fuji-Series-7.jpg|thumb|left|200px|[[富士山]]とサクラ。[[歌川広重]]]]
[[ファイル:Omurosakura.jpg|thumb|200px|京都府[[京都市]]・[[仁和寺]]]]
桜は春の象徴、花の代名詞として[[和歌]]、[[俳句]]をはじめ文学全般において非常によく使われており、現代でも多くの音楽、文化作品が生み出されている。
古来から桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった<ref group="注釈">五穀豊穣の神が稲作の始まる春になると田に降りてくる。サケとサクラとサ神様</ref>。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれる木がある(あった)。これは桜の場合も多いが、「桜」と名がついていても桜以外の木の場合もある。<!--全体像も細部も把握できる良い出典を求む。-->
[[奈良時代]]の『[[万葉集]]』には桜を含む様々な植物が登場するが、中国文化の影響が強かった当時は和歌などで単に「花」といえば唐から伝来したばかりの[[梅]]を指していた。万葉集においては梅の歌118首に対し桜の歌は44首に過ぎなかった。[[2019年]]5月1日からの[[元号]]である『[[令和]]』も万葉集にある[[梅花の宴]]が典拠となっている。
サクラの地位が特別なものとなったのは[[平安時代]]であり、[[国風文化]]が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり「花」と言えば桜を指すようになった。平安時代に編纂された『[[古今和歌集]]』の仮名序にある[[古墳時代]]の[[王仁]]の歌とされる「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の「花」は梅であるが、平安時代の歌人である[[紀友則]]の歌「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」の「花」は桜である。[[斎藤正二]]は、中世の知識階級に手本とされて親しまれた[[白居易]]が『[[白氏文集]]』の中でサクラに関する詩を27首詠じていることから、日本におけるサクラの格の向上に与えた[[漢詩]]の影響について指摘している<ref>斎藤正二『日本的自然観の研究III:変化の過程』 <斎藤正二著作選集>3 八坂書房 2002年 ISBN 4-89694-783-5 pp.219-255.</ref>。[[嵯峨天皇]]は桜を愛し、花見を開いたとされている<ref name="sakuratonihonjin"/>。[[左近の桜]]は、元は梅であったとされるが、桜が好きであった[[仁明天皇]]が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたとされている<ref name="日本一の桜">{{Cite book|和書 |author=丸谷馨|authorlink=丸谷馨|date=2010 |title=日本一の桜 |publisher=講談社現代新書 |isbn=978-4-06-288041-1}}</ref>。歌人の中でも特に平安時代末期の[[西行]]法師が、「花」すなわち桜を愛したことは有名である。彼は[[吉野]]の桜を多く歌にしており、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名である。西行はこの歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日に入寂したとされる。[[室町時代]]には、この西行を題材にした能の[[西行桜]]が成立した。
[[安土桃山時代]]の[[豊臣秀吉]]は[[醍醐寺]]に700本の桜を植えさせ、[[慶長]]3年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]](1598年4月20日)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは[[醍醐の花見]]として有名である。
[[ファイル:Mount Fuji seen throught cherry blossom.jpg|thumb|200px|葛飾北斎によるサクラと富士の絵]]
[[江戸時代]]の代表的俳人・[[松尾芭蕉]]は、1688年(貞享5年)春、かつて奉公した頃のことなどを思って「さまざまの事おもひ出す桜哉」と句を詠んだ。俳句では単に「花」といえばサクラのことを指し春の季語であり、秋の月、冬の雪とともに「三大[[季語]]([[雪月花]])」である。「花盛り」「花吹雪」「花散る」「花筏」「花万朶」「花明かり」「花篝」の「花」は桜である。楽においては江戸時代の[[箏曲]]や、[[地歌]]をはじめとする[[三味線]]音楽に多く取り上げられている。一般に「日本古謡」とされる『[[さくらさくら]]』は、実は[[幕末]]頃に[[箏]]の手ほどきとして作られたものである。江戸時代に成立した[[戯曲]]の『[[義経千本桜]]』では、本来その話の中には桜が登場しないにもかかわらず題名に桜を用いた。
[[明治時代]]以降では[[瀧廉太郎]]の[[歌曲]]『[[花 (瀧廉太郎)|花]]』などが有名である。[[長唄]]『[[元禄花見踊]]』も明治以降の作であるがよく知られている。
サクラの開花時期は人口の多くを占める関東以西の平地では3月下旬から4月半ば頃が多く、日本の年度が4月始まりであることや、学校に多くの場合サクラが植えられていることから、現代では人生の転機を彩る花にもなっている。
[[令和]]でもサクラは[[ポピュラー音楽]]、[[映画]]、[[ドラマ]]、[[ゲーム]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]など様々な作品のモチーフや題材になっている。特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は[[桜に関連する作品一覧#ポピュラーソング|桜ソング]]として知られている。
=== 日本と日本人の精神性を象徴する花 ===
桜では開花のみならず、散って桜吹雪が舞う「[[雅]]」な様を現した。一部では散り行く儚さや潔さも、愛玩の対象となっている。古くから桜は、[[諸行無常]]といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象である<ref>「散る桜、残る桜も散る桜」、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」(平家物語)</ref>。
江戸時代の[[国学者]]、[[本居宣長]]は「[[敷島]]の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「[[もののあはれ]]」などを基調とする日本人の精神の具体的な例えとみなした。<!-- これが宣長の個人的な好みを越えて、広く知られるようになったのでなければ、特筆性なし。一方で、後に「武士道」関連で我田引水に引用されたのは事実であるので、その点での記述の充実が求められる。宣長の歌は、直接には武士道とは関係ないので、一旦ここで切る。-->また明治時代には[[新渡戸稲造]]が「[[武士道]]」をサクラと同じ「日本固有の花」と例えた。
日本では[[国花]]が法定されておらず、[[天皇]]や[[皇室]]の象徴する花は[[キク|菊]]であるが、特に明治時代以降はサクラが多くの公的機関でシンボルとして用いられており<ref>{{Cite web|和書
|url=https://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000016329
|title=日本の国花はサクラということらしいが、正式な指定を受けたのか。また、いつ、何によってか。|date=2005-02-11 |publisher=[[レファレンス協同データベース]]
|accessdate=2012-04-07}}
</ref>、「事実上の国花」のような扱いを受けている<ref name="sakuratonihonjin">{{Cite book|和書 |author=C・W・ニコル|authorlink=C・W・ニコル|year=2010 |title=歴史は眠らない サクラと日本人 |publisher=日本放送協会出版会 |isbn=978-4-14-189541-1}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/about/7.html |title=日タイ修好120周年 ロゴマーク・キャッチフレーズ発表!! |publisher = 外務省 |accessdate=2010-10-20}}</ref>。旧日本軍([[大日本帝国陸軍|陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]])が桜の意匠を[[徽章]]などに積極的に使用したほか、明治時代の「[[歩兵の本領]]」や[[昭和|昭和時代]]「[[同期の桜]]」などの[[軍歌|軍歌・戦時歌謡]]の歌詞に「桜」という表現が使用され、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])末期には「[[桜花 (航空機)|桜花]]」や「[[四式重爆撃機#派生型|桜弾機]]」など[[特別攻撃隊|特攻]]兵器の名称にも使われた。
また、明治時代以降はサクラは日本の象徴として国際親善にも利用されるようになった。[[全米桜祭り]]で知られるアメリカ合衆国の[[ポトマック川|ポトマック]]河畔の桜も日米友好のために[[東京市|東京市長]]の[[尾崎行雄]]が寄贈したものである。なお、この返礼として日本には[[ハナミズキ]]が贈られている<ref>{{Cite web|和書|url=http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/sakura.htm |title=ワシントン桜物語 アメリカと日本の友情を深める花 |accessdate=2013-04-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/*/http://sankei.jp.msn.com/world/china/100206/chn1002061746003-n1.htm |archivedate=2010-11-26 |deadlinkdate=2012-04-20}}</ref>。その他の国との間でも友好のために贈ることがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/world/china/100206/chn1002061746003-n1.htm |title=上海に桜2千本植樹 さくらの会と静岡県 |publisher=産経新聞 |date=2010-02-06 |accessdate=2010-10-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/*/http://sankei.jp.msn.com/world/china/100206/chn1002061746003-n1.htm |archivedate=2010-11-26 |deadlinkdate=2012-04-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/000200/nagomi/web/nagomi12/turkey/index.html |title=トルコ交友120周年 「桜」から新たに始まるトルコとの友情物語。|work= 和歌山県総合情報誌「和」 |publisher=和歌山県知事室広報課 |date=2010-07-23 |accessdate=2010-10-20}}</ref>。
[[千円紙幣]]の裏面には桜が描かれている。また1967年(昭和42年)以降、[[百円硬貨]]の表は桜のデザインである。
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Prince Kitashirakawa Nagahisa 01.jpg|[[五芒星|五芒星(五光星)]]の周囲に「桜葉」を配した陸軍の[[近衛師団]]将兵専用の帽章
Tsunejiro Ishii.JPG|[[錨]]などに「桜」と「桜葉」を配した海軍の[[士官]]専用の帽章
Flag of Chief of Staff, Joint Staff (JSDF).svg|多数の「桜」が配置された[[統合幕僚長]]旗([[自衛隊の旗]])
100JPY.JPG|[[百円硬貨]]の表面に刻印された桜
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=== 家紋 ===
平安時代以降ではサクラの花のように[[雅]]な印象から桜紋は位の高い家の[[家紋]]、主に[[清和源氏]]の家々で使用されてきた。現在も家祖からの男系血統が存続し[[熊本藩|熊本城主]]や[[内閣総理大臣]]まで輩出した[[武家]]の[[細川氏|細川家]]の[[家紋]](替え紋)、[[藤村紫朗|男爵藤村家]]や[[若王子遠文|男爵若王子家]]の家紋に代表され、神紋や寺紋にも用いられる。
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Maru ni Sakura inverted.png|丸に桜紋
Yamazakura inverted.jpg|山桜紋
Maru ni Yamato-zakura.png|黒餅に地抜き大和桜
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=== 人気 ===
[[ファイル:Chidorigafuchi sakura.JPG|right|200px|thumb|[[千鳥ヶ淵]]の桜]]
桜の人気は[[平安時代]]に始まる。[[説話集]]『[[沙石集]]』([[弘安]]6年([[1283年]]))によると、[[一条天皇]]の[[中宮]]、[[藤原彰子]]([[紫式部]]らの主君)が[[奈良]]の[[興福寺]]の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。
桜は[[春]]を象徴する花として日本人にはなじみが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。<!-- メディアに限らないが、うまく表現できなかった。改善求む。-->入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。
各種調査によると日本人の大多数の人たちが桜を好んでいる<ref>{{Cite news |title=日本人の好きなもの調査 |author=NHK放送文化研究所 |newspaper= |date=2007-12-01 |url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/yoron/social/pdf/071201_01.pdf |accessdate=2014-08-16}}</ref><ref>{{Cite news |title=日本人のお花見意識を一斉調査 |author=ウェザーニュース |newspaper= |date=2013-03-19 |url=http://weathernews.com/ja/nc/press/2013/130329.html |accessdate=2014-08-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20100408/106659/ |title=「日本一の桜好きは宮崎県民」花見調査 |work= 日経ウーマンオンライン |publisher=日経新聞社 |date=2010-04-08 |accessdate=2010-10-20}}</ref>。九州から関東での平地では、桜が咲く時期は[[年度]]の変わり目に近く、桜の人気は様々な生活の変化の時期であることとも関係する。
=== 花盗人 ===
[[File:Sakon no Sakura and the Shishinden.jpg|thumb|left|[[京都]][[紫宸殿]]と[[左近桜]](さこんのさくら)。この枝を手折ることは、特に罪深いとされる。[[14世紀]]前半、[[後醍醐天皇]][[中宮]](皇后)の[[西園寺禧子]]は、どうしても夫に逢いたくなったため、この禁忌を犯して自分をわざと捕らえさせて、愛を伝えた。]]
桜の花の美しさに魅了されて、その枝を手折る者を「花盗人」(はなぬすびと)といい、罪深さと優雅さが同居する行為であることから、実話から虚構まで様々な物語が生まれた。
桜の中でも特に、宮中の[[正殿]]である[[紫宸殿]]の側にある[[左近桜]](さこんのさくら)の枝を折ることは大罪とされていた<ref name="kokon-chomonju-19">{{harvnb|橘|1926|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018126/302 pp. 588-589]}}</ref>。『[[古今著聞集]]』巻19が伝える伝説によれば、[[承元]]4年([[1210年]])1月ごろの早朝、歌人の[[藤原定家]]が、侍に左近桜の枝を切らせて持ち帰るのを、官人たちが目撃した<ref name="kokon-chomonju-19" />。振る舞いが風流だったので、官人たちは優雅なことだなあと思ったが、その噂は[[土御門天皇]]の耳にまで届いた<ref name="kokon-chomonju-19" />。土御門は、[[建春門院伯耆]]に代詠させて、「なき名ぞと のちにとがむな 八重桜 うつさむ宿は かくれしもせじ」(「後から無実だと主張するなよ。左近桜を移した家を隠すことはできないだろう」)という歌を贈った<ref name="kokon-chomonju-19" />。定家は返歌して、「くるとあくと 君につかふる 九重や やへさくはなの かげをしぞ 思ふ」(「明けても暮れても一日中、我が君にお仕えしている左近桜。その桜の花の姿を想うことで、私も陛下に忠勤を尽くさせていただきます」)と侘びた、という<ref name="kokon-chomonju-19" />。
定家の伝説は真偽不明だが、左近桜を折ったことが比較的確実な人物には、14世紀前半、[[後醍醐天皇]]の中宮だった[[西園寺禧子]]がいる(『[[新千載和歌集]]』春下・116<ref name="shinsenzai-116" >{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000026441}}</ref> および117<ref name="shinsenzai-117">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000026442}}</ref>)。ある時、後醍醐が左近桜を鑑賞していると、禧子の部下がやってきて左近桜の枝を折った<ref name="shinsenzai-116" />。驚いた後醍醐は、妻を自分の前に召し出して、「九重の 雲ゐの春の 桜花 秋の宮人 いかでおるらむ」(宮中に咲く左近桜を、秋の宮人(皇后に仕える人)が、どうして折ったのだろうか)と尋ねた<ref name="shinsenzai-116" />。禧子は返歌して、「たをらすは 秋の宮人 いかでかは 雲ゐの春の 花をみるべき」(手折らせたのは、秋の宮(皇后)の私が、宮中の春の桜のように愛しいあなたに、どうしても逢いたかったから)と、後醍醐の気を引くための行為だったことを明らかにし、夫への愛を歌った<ref name="shinsenzai-117" />。
=== 開花予想 ===
[[ファイル:Sakura Zensen.jpg|thumb|left|200px|2007年に気象庁が発表した同年における[[桜前線]]予想図]]
{{Main|桜前線}}
日本では桜の開花予想(「桜」と表すが、殆どの予想は[[ソメイヨシノ]]を取り上げている)、いわゆる「[[桜前線]]」や、開花や満開の宣言が春に話題となる。開花予想は[[気象庁]]が1951年(昭和26年)に関東地方を対象に行ったのを初めとし、[[2009年]](平成21年)まで行われた。2007年(平成19年)から独自の開花予想を行う民間の気象会社が出現し<ref>「[http://www.jwa.or.jp/corporate/organization-information/history/ 沿革]」日本気象協会、2015年3月25日閲覧</ref>、数社が予想を出すようになったため、[[2010年]](平成22年)から気象庁は開花予想の業務を取り止めて民間に任せ、観測のみを行っている<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/press/0912/25a/091225sakura.html 気象庁におけるさくらの開花予想の発表終了について]」気象庁、2009年12月25日付</ref>。なお、桜の開花予想は[[気象業務法]]の定める[[気象業務|予報業務]]ではなく、許可は要しない<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/minkan/q_a_m.html 気象等の予報業務許可についてよくある質問と回答]」気象庁、2015年3月25日閲覧</ref>。
気象庁では、桜の開花や満開を[[生物季節]]現象の1つとして、各地で特定の株を標本木として定めて職員の目視による観測を行っている<ref name="jmaobs">「[https://www.data.jma.go.jp/sakura/data/ 生物季節観測の情報]」気象庁、2015年3月25日閲覧</ref>。標本木は[[南西諸島]]は[[カンヒザクラ]]、[[北海道]]の札幌以東と根室以西は[[オオヤマザクラ]]、[[根室市]]は[[チシマザクラ]](2011年以降根室市に業務移管)で、それ以外の全国はソメイヨシノである<ref name="jmaobs"/>。標本木の[[蕾]]が5輪から6輪ほころびると、「開花」したと発表される<ref name="jmaobs"/>。これをマスコミでは「開花宣言」と呼ぶことがある。標本木全体の80%以上のつぼみが開くと、「満開」と発表される<ref name="jmaobs"/>。
2009年まで気象庁が行っていた予想方法は、各地点の冬期の[[気温]]経過や春期の気温予想等を考慮した各種計算を経て、標本木に対して開花予想日を決定していた。民間気象会社の予想方法も概ねこれに近いが、独自の手法を採り入れて行っているものもある。
サクラの標本木は、福岡などでは管区気象台の庁舎内にある桜(ソメイヨシノ)を標本木として観測しているが、東京では[[靖国神社]]、岐阜県では清水川堤、大阪では[[大阪城公園]]内で標本木を設定している<ref>{{Cite web|和書|title=桜の開花宣言「標本木」の基準は何? 気象庁に聞いた|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/225810|website=日刊ゲンダイDIGITAL|date=|accessdate=2023-02-01|language=ja}}</ref>。神戸では1999年の庁舎移転まで気象台敷地内の桜(ソメイヨシノ)を標本木にしていたが、移転により潮風の影響を受けるようになったため、2002年1月から[[神戸市立王子動物園]]の園内の木から標本木と副標本木を設定している<ref>{{Cite web|和書|title=神戸のサクラ開花、早まるかも 大阪・京都より遅めだった「標本」老木から21年ぶり若返り|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202302/0016013590.shtml|website=神戸新聞|date=|accessdate=2023-02-01|language=ja}}</ref>。
樹木全体から見た開花具合によって咲き始め、三分咲き、五分咲き、七分咲き、満開、散り始めなどと刻一刻と報道される。このように木々の様子を逐一報道することは、世界から見ても珍しい例である。
== 用途 ==
=== 花・景観・イベント ===
日本では桜は花見や観桜など、景観等の人気が高く多くの場所に植えられている。植栽の場合[[街路樹]]、公園、庭木、河川敷等に使われることが多い。近年では、サクラは街路樹に用いられている樹種として[[イチョウ]]についで2番目に多く、49万本が植えられている<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/kankyo/archive/news/2010/20100607org00m040026000c.html |title=まちの緑・街路樹の今昔/1 どんな木が多い? |work=毎日.jp |publisher= [[毎日新聞]] |accessdate=2011-02-01
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100614113259/http://mainichi.jp/select/wadai/wakaru/kankyo/archive/news/2010/20100607org00m040026000c.html
|archivedate=2010-06-14 |deadlink=2012-04-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fklab.fukui.fukui.jp/yk/download/h16/h16-10.pdf |title=街路樹の本数と樹種の推移 |author=久保光|work=福井県雪対策・建設技術研究所年報地域技術第18号2005. |publisher=[[福井県]]雪対策・建設技術研究所 |date=2005-07 |accessdate=2011-02-01}}</ref>。道や線路・河川などに沿って植えられることが多く、このようなものを'''桜並木'''という。道などの両側に桜が並んでトンネルのような形状になっているものを'''桜のトンネル'''(桜トンネル)と呼ぶことがある<ref>{{Cite news |title=桜のトンネル、列車迎える…青森・五所川原 |newspaper=[[読売新聞]] |date=2014-05-01 |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20140430-OYT1T50167.html |accessdate=2014-05-02}}</ref><ref>「[[桜トンネル (豊川市)]]」など</ref>。このように、辺り一面が花景色になることも多い。また、学校の校庭には桜が植えられていることが多い。小学校などの校庭には、児童や生徒の入学時に桜の花が咲いているようにするため、ソメイヨシノに比べて開花期間が長い八重桜を混植することが多い{{要出典|date=2012年4月}}<!-- ソメイヨシノの記事には、ヤマザクラと混植、とある。-->。また、古くから桜の花を育てている[[神社]]や[[寺]]も少なくない。しかし、害虫や病気など手入れが大変で、大きく育つためか、その人気の割には庭木にされることは少ない。
日本では、至る所で[[花見]]に使われる木として重要である。花見の習慣とともに、桜の名所も日本全国各地にある。また、神社や寺など桜を持っている団体や地域が「[[桜祭り]]」を開いている例も多い。夜の桜を楽しむために、桜の[[ライトアップ]]も各所で行われる。
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Kunitachi-1a.jpg|東京都国立市の大学通りの桜並木(2018年3月25日撮影)
Yoshitsune with benkei.jpg|花見を行う[[源義経|義経]] (奥) および[[武蔵坊弁慶|弁慶]] (手前)
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=== 食用 ===
果実を食用とする品種の3系統は、概ね甘果桜桃([[セイヨウミザクラ]]、{{snamei|Prunus avium}})、酸果桜桃(スミノミザクラ、{{snamei|Prunus cerasus}})と中国桜桃([[カラミザクラ]]、{{snamei|Prunus pseudocerasus}})に分けることができる。
六月から七月にかけて実をつけるオウトウ(サクラの一種)の果実を日本では一般的に[[サクランボ]]と呼び、栽培されている多くがヨーロッパの甘果桜桃(セイヨウミザクラ)系である。品種としては、[[佐藤錦]]の他に、[[紅秀峰]]、[[豊錦]]、ナポレオン、[[アメリカンチェリー]]等が有名である。佐藤錦は、明治より山形県東根市の佐藤栄助によって品種改良され、岡田東作が名づけて世に広めたものである。酸味が強い酸果桜桃(スミノミザクラ)は料理に利用される。中国桜桃(カラミザクラ)は日本であまり栽培されていない。
[[桜漬け]]は、一般的に八重桜の花を梅酢と塩で漬けたものである。[[天保]]年間に初版が刊行された『漬物塩嘉言』にも「桜漬」の記載がある<ref>{{Cite web|和書|author=宮尾 茂雄|url=https://www.syokuryou-shinbun.com/relays/download/980/10023/28//?file=/files/libs/5419/202103021031014089.pdf|title=漬物塩嘉言と小田原屋主人|accessdate=2023年1月12日|publisher=東京家政大学・食品加工学研究室}}</ref>。花(花弁)自体も[[塩漬け]]にすると独特のよい香りを放ち、[[和菓子]]・[[あんパン]]などの香り付けに使われる他に、祝い事の席で[[桜湯]]として振舞われる。桜湯は、花の塩漬け2から3輪に湯を注いだものである。茶碗の中で花びらが開く過程から、祝い事に使われる。婚礼や見合いなどの席では「お茶を濁す」ことを嫌い、お茶を用いずに桜湯を用いることが多い。結納には両家の縁を結ぶという縁起を表し椀あたり2輪が用いられる。
桜の葉は[[桜餅]]などに用いられる<ref name="asama">{{Cite web|和書|title=アサマNEWSパートナーNo.199 (38)餅菓子の文化と微生物|url=https://www.asama-chemical.co.jp/PN/P199.PDF|publisher=アサマ化成|accessdate=2022-11-30}}</ref>。桜餅は代表的な和菓子の一つであり、桜の葉の塩漬けで包まれた桜色の餅である。春にはこれらの風味を利用した食品なども見られる。
桜の葉の抗菌物質として[[クマリン]]が知られている<ref name="asama" />。桜の葉は、塩漬けにすることでクマリン酸配糖体に酵素が作用して加水分解などを経て芳香成分(クマリン)に変化しよい香りを放つ。[[桜葉漬け]]には多くの場合オオシマザクラが用いられており<!-- 昔はどうだったのか -->、伊豆半島南部において生産が盛んであり、[[シロップ]]漬けにされることもある。
桜の樹液を[[アラビアガム#類似品|トラガカントゴム]]の代わりに利用する例も存在する。
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Cherry Stella444.jpg|[[サクランボ]]
Sakura-1.jpg|桜花の塩漬(2011年3月29日撮影)
Sakura-2.jpg|桜花の塩漬を湯で戻す(2011年3月29日撮影)
Sakura-mochi 003.jpg|関東風桜餅
Sakura-mochi 001.jpg|関西風桜餅
</gallery>
=== 木材 ===
木自体は材木として使われる。材としては硬く、湿気には比較的強い。[[熱伝導率]]が高いため、触ると冷たく感じる。木目には乏しいが、節の周囲には[[メイプル]]や[[栃]]に似た[[杢目]]が出ることもある。無垢テーブル板や比較的高級なフローリング材として使用される。彫刻にも用いられる。建築業界や家具業界において安価である[[樺]]を樺桜あるいは単に桜と称して一種として流通させることがある。これによる混同を避けるために本来の桜を地桜と呼ぶこともある。材としては樺と桜は全く別物である。
=== その他 ===
桜の[[樹皮]]は水平方向にはがれ、その表面は灰色を帯びて艶があって美しいため、小物入れや茶筒などの細工物([[樺細工]])や[[版木]]に利用される。
[[オオシマザクラ]]は別名をタキギザクラともいい、この名前からも分かるように以前は[[燃料]]用として植樹されており、[[房総半島]]や[[伊豆大島]]にもこの用途で広がったとされる。
焚いた時の香りが良いため[[燻製]]の[[スモークチップ]]としてよく用いられる。
樹皮は'''桜皮'''(おうひ)という[[生薬]]になり、鎮[[咳]]、去[[痰]]作用がある。また樹皮を薄いピンク色の[[染色]]に使用することができる。
== 植栽と管理育成 ==
===植栽方法===
; 開花期を基準とした品種の選定
見応えのあるサクラの名所を作るためには、その空間のサクラが同時に開花する集中開花型の空間を作る必要があり、単一の品種のみを植栽した場合は統一感や地域性(その地が発祥の品種などの場合)を演出でき、花期が同じ異なる品種を植栽した場合は華やかさを演出できる。ただしこれらの植栽方法は集客に優れるため、駐車場やトイレの設置が必要となることが多い。花期が異なるサクラの品種を植栽した分散開花型の空間作りの場合は、集客が分散して長い期間にわたってサクラを楽しめるので地域の憩いの場に向いている。この場合、花期が違う品種を隣接して植栽した場合には見応えに欠けることになるが、花期が同じ品種ごとにゾーンを設定してまとめて植栽することで見応えを改善できる<ref>[https://web.archive.org/web/20210425120655/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list23/ 桜を魅せる基本型] 日本花の会</ref>。
; 時期
落葉期の11月中旬から12月上旬、もしくは2月下旬から3月中旬を選び、厳冬期は避けること<ref name ="jissai">[https://web.archive.org/web/20210425085416/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list3/ 実際に植えてみよう] 日本花の会</ref>。
; 陽当たり
サクラの健全な成育には十分な陽当たりが必要なので、隣接地に新築の建造物が出来たりしない将来にわたって日陰にならない場所が望ましい<ref name = "tekishita">[https://web.archive.org/web/20210425085831/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list/ 成育に適した場所] 日本花の会</ref>。
; 植栽間隔
隣接するサクラとの植樹間隔が狭いと陽当たりや根の発育に悪影響を及ぼし、過密であると病害虫発生の原因になるので、10mの間隔を開けて植えるのが望ましい<ref>[https://web.archive.org/web/20210425093333/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list2/ 植える間隔] 日本花の会</ref>。
; 土壌
サクラの健全な成育には、水はけが良く適度に湿り気があり肥沃な土壌が必要である<ref name = "tekishita"/>。植えるのを避けるべき水はけが悪い土壌の目安は、雨の翌日にも水が引かない土壌、深さ30センチの穴を掘って水を穴の上までに入れて1時間経過後もまだ水が溜まっているような土壌である。また避けるべき固い土壌は、両手で直径1センチの園芸用ポールを垂直に力いっぱい突き刺して50センチ以上刺さらない土壌である。また避けるべき栄養分が不足している土壌は、生えている草が黄色味を帯びていたり草の丈が低い土壌である。例えば、関西でよくみられるような[[花崗岩]]が風化してできた[[真砂土]]の土壌は、乾燥しやすく、踏みしめられて固くなり水はけが悪くなりやすく、栄養に乏しいため、これらの悪条件に該当する。このような土地では、サクラの植栽には十分な土壌改良を必要とする(土の作り方と植え方で解説)<ref name = "tsuchi">[https://web.archive.org/web/20210425083813/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list1/ 土づくり] 日本花の会</ref>。
街路樹や公園でよくみられるように、サクラの周りを[[コンクリート]]や[[アスファルト]]で舗装したり、大勢の人が根本の土を踏み固めるような土壌環境は避けるべきである。サクラは樹冠よりさらに根を浅く広く広げるため、土が舗装されたり踏み固められると、根に酸素と水と有機物の供給ができなくなってしまい健康を損ない樹勢を削いでしまうのである。特にある程度成長してから根周りが舗装された場合は伸びた根が腐って死んでいき、生育した上部に必要な分だけの十分な酸素と水と養分が供給できなくなり大きく健康を害するため避ける必要がある<ref name="katsuki2015p198">勝木俊雄『桜』p198 - p202、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。土壌が舗装や人間により踏み固められていると[[根頭がんしゅ]]病や[[ネコブセンチュウ]]病を誘発し、これらの病気は土壌を汚染する。早いうちであれば土壌改良によって病気を止めることができるが、これらでサクラが枯れた場合、何度サクラを植えても枯れる場合がある。このため、これらの病気に罹った土壌は加熱殺菌すること、[[石灰]]などで消毒すること、土そのものを入れ替えること、サクラの枯れた後には数年の間樹木を植えないことなどで対策をとることができる。
; 土の作り方と植え方
土の作り方と植え方は、まずは植える3時間から前夜程度前からサクラの苗木の根を水につけておく。そして植え穴を掘る。標準な植え穴は直径と深さが50センチ程度であるが、土壌改良を必要とする場合は、植え穴は直径2メートル、深さ70センチ以上を必要とする。次に植え穴用に掘り出した土を6対4の割合で分け、4の土と4と同量の[[堆肥]]と1平方メートル当たり100グラムから200グラムの[[肥料]]([[窒素|N]][[リン酸|P]][[カリウム|K]]10-10-10)を混ぜ合わせて植え穴に埋め戻す。次にその上から6の土の一部を使って5センチほど埋め戻す。倒れず苗木の幹を誘導できるよう、穴の中心に園芸用支柱や竹を十分な深さまで刺し、傍らに苗木を立てて残り6の土でさらに埋め戻す。80センチから1メートルの高さで支柱と苗木を結束する。この際、苗木が実生台木の場合は接ぎ目を土中から出して植え、挿し台木の場合は土中に入れて植える。また幹と支柱が擦れて傷つかないように、必ず保護材で枝を巻いたうえで麻縄などの1年から2年で分解する紐で、きつ過ぎて食い込んだり緩すぎて擦れたりしないように注意しながら8の字に結束する。なお支柱は通常1.8メートルから2.4メートル程度の長さが必要であるが、枝や幹の成長が下向きになりやすい品種では将来の樹形を整えるために竹などのより長い支柱が必要となる。例えば[[カワヅザクラ]]などの枝や幹が横や斜め下に伸びやすいサクラには、基準の幹を3メートルから3メートル50センチ程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが、枝垂性のサクラの場合には基準の幹を4m程度の高さまで支柱に沿わせて上方に誘導できる長さが望ましい。最後に周囲を土の壁で囲って水鉢を作って水を入れる。また幹は8月下旬以降に急激に太るので、定期的に巡回して支柱と結んだ紐が苗木に食い込まないように注意して調整する。基本的に水やりは必要ないが、夏場の乾燥している時には1週間毎の夕方に水鉢が満杯になるまで水を与えると良い<ref name ="jissai"/><ref name = "tsuchi"/><ref name = "daiboku">[https://web.archive.org/web/20210425083813/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list4/ 台木にあった植え方] 日本花の会</ref><ref name = "ueana">[https://web.archive.org/web/20210425083813/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list5/ 植え穴のつくり方] 日本花の会</ref><ref name = "shichu">[https://web.archive.org/web/20210425083813/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list6/ 支柱] 日本花の会</ref>。
=== 剪定・除草・施肥 ===
サクラは「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」といわれるように傷口が傷みやすい。実際、[[台風]]や人間により太い枝が折られた後に未処置だと傷口から腐って一気に枯れてしまうこともある。このため、しばしば[[剪定]]には不向きとされるが、健全な育成のためには枝を間引く適切な剪定はむしろ必要である。大木になってから枝を切ると健康を害しやすいため、植えてから5年目程度までに剪定をして将来の樹形を整えておく必要があり、基本的には剪定ばさみで切れる太さまでの枝のみにする。また、剪定をする時期は落葉後の11月から3月上旬にかけてとする。剪定する対象の枝は、まずは台木から生えていることが多い地際のひこばえや台芽であり、これらを剪定しないと栄養がこれらの集中してしまう。また他の枝に絡みやすいふところ枝とからみ枝も剪定して枝同士が絡んで擦れて傷が付き腐朽することを防ぐ必要がある。また胴吹き枝や1.5メートルから2メートル程度の高さまでにある枝も通行の障害になるため剪定することが望ましい。6年目以降は樹形を乱す逆さ枝も剪定することが望ましい。また枯れ枝も剪定の対象となる。やむを得ず500円玉以上の太さの枝を切る場合は、必ず、切る枝の下側に3分の1程度から切り込みを入れてから上から切り落とし、えりを残して切断面がその枝の幹と平行になるように再度切った後に、切断面に保護材を塗る<ref>[https://web.archive.org/web/20210425103748/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list7/ 整枝・剪定] 日本花の会</ref>。
サクラとウメの剪定に関する最大の違いは枝への花の付き方である。枝には1年で数十cm延びる長枝と1cm未満しか伸びない短枝に分かれる。サクラでは長枝には葉芽ばかりがついて短枝に花芽が付く一方で、ウメでは長枝にも花芽を付ける。枝を剪定する際は基本的に短枝が剪定されるので、剪定から数年間は短枝がまだ伸びていないため、サクラは花付きが大きく減少し、ウメは花付きがあまり衰えないという事になる。この剪定後数年間の見栄えの違いにより「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」と言われることになったとも言われている<ref name="日本一の桜"/><ref name="katsuki2015p74">勝木俊雄『桜』p74、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref><ref name="katsuki2018p12">勝木俊雄『桜の科学』p12 - p15、SBクリエイティブ、2018年、ISBN 978-4797389319</ref>。
雑草を放置すると、日陰になったり水と養分を奪われたり病害虫の発生源となり健全な成育が阻害されるため、健全な育成のためには新芽の頃から落葉前までに除草する必要があり、特に苗木の頃は早目に対処する必要がある。刈った草を根元に巻くことで土壌の乾燥を防ぎ、次の雑草の繁殖を抑制することができる<ref>[https://web.archive.org/web/20210425103857/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list8/ 除草] 日本花の会</ref>。
健全な育成のために、寒肥として落葉期間中の施肥が必要である。まずはサクラの幹を中心に半径1メートルの円状を内径として設定した後、面積1平方メートル等分になるように同心円状に外径を設定する。そして内径と外径の間の1平方メートルごとに深さ・直径20センチの穴を1つずつ掘り、その中にNPK10-10-10の肥料200から300グラム入れて埋め戻す<ref>[https://web.archive.org/web/20210425104037/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list9/ 施肥] 日本花の会</ref>。
=== 定期健康診断 ===
植えてから6年以上経ったサクラの木に対しては、毎年夏季に健康診断を行うことが望ましい。植栽間隔が狭すぎたり、陽当たりや土壌に問題があったり、病害虫に侵されていると樹勢が衰えやすいため、その場合は専門家の診断を仰ぐのが望ましい。樹勢が衰えている証拠にあげられるのは、木の上部の枝枯れが目立つ、根際の主幹部から胴吹きが目立つ、見上げると空が見えるほど葉が少ない、開花時の花が少ないか枝先にだけまとまって咲く、降雨があるのに葉が丸まっている、9月上旬頃に周りのサクラは葉があるのに一足早く落葉してしまうなどである<ref>[https://web.archive.org/web/20210425114153/http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list22/ 健康診断] 日本花の会</ref>。
=== 病害虫と獣害 ===
本来、特に自生種は病害にも害虫にもそれほど弱くはないが、人為的に集中して植えられている場合や人工的に作られた品種はこれらに弱くなる場合もある。病害虫はサクラの密集地では互いに伝染し、集団発生する可能性がある。
サクラが多く罹る病気としては根頭がんしゅ病、[[根瘤線虫]]病、[[てんぐ巣病]]、[[膏薬病]]、[[うどんこ病]]などがある。
根頭がんしゅ病、根瘤線虫病は根や根の付け根辺りで瘤が発生する病気である。根元の土が踏み固められていると促進される。病気に罹るとすぐ枯れるわけではないが徐々に樹勢が削がれ、サクラが弱っていく。これらの病気は病変部位を切り取り、切り取った部分を殺菌し、表面を保護する塗布剤などで保護すること、土壌改良を行うことが有効である。対策を行えば少なくとも病気の進行は抑えられる。
[[てんぐ巣病]]は枝に発生し、枝が竹箒状になる病気である。この病変も徐々にサクラが弱り、全ての枝に広がると手遅れになりかねない。発見したら、休眠期を待ち、消毒した鋏や鋸で病変部位を切り落とすことが望ましい。切り落とした後は癒合剤などで回復を促し、剪定した枝は焼却、鋏や鋸も切った後すぐに消毒することが必要である。消毒の行われていないはさみを使うとそれを元に移る可能性もあるので気をつけるべきである。菌が原因であるので風通しを良くすることも対策になる。
膏薬病や[[うどんこ病]]については水気が多い場所や湿気の多い場所、あるいは病害虫が引き起こす。胴の部分に菌が入ったりキノコができることによって病気になる。病害虫は菌が入るための傷口を作ったり、傷口を広げるのに加担することが多い。風通しを良くすることや水気がたまらないようにすること、病害虫を駆除することによって病気を抑えることができる。
サクラによく付く害虫として、2012年(平成24年)以降に顕著な話題となっているのが外来種の[[クビアカツヤカミキリ]]である。サクラに寄生する同カミキリの大量繁殖と食害の大きさから、各地でサクラ、特にソメイヨシノの大量伐倒に至っており、その被害の深刻さから、2018年1月に同カミキリが[[環境省]]より[[特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律#特定外来生物|特定外来生物]]に指定された<ref>[https://www.env.go.jp/nature/intro/2outline/list/tsuika.html シリアカヒヨドリ等16種類の追加指定について] 環境省</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.env.go.jp/nature/intro/4document/data/sentei/insect10/02_kontyu_10_siryo2.pdf 環境省 特定外来生物等専門家会合(第11回)議事次第 特定外来生物等の選定作業が必要と考えられる外来生物に係る情報及び評価(案)p13]}}</ref><ref name=kubiaka>[http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-topic/sakuramihonen-topic-170616/ クビアカツヤカミキリ] 日本花の会</ref>。これを受けて[[埼玉県環境科学国際センター]]ではサクラへ寄生するクビアカツヤカミキリ対策を広く公開している<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/cess/center/kubiaka.html サクラの外来害虫“クビアカツヤカミキリ”情報] 埼玉県環境科学国際センター</ref>。
他の害虫としては[[カイガラムシ]]、[[アブラムシ]]、[[ハダニ]]、それに[[ケムシ]]・イモムシの類では[[ハマキムシ]]、[[コスカシバ]]、[[オビカレハ]]、[[アメリカシロヒトリ]]、[[サクラケンモン]]、[[モンクロシャチホコ]] ([[w:Phalera flavescens]]) などが挙げられる。
ノネズミ、ノウサギ、[[ウソ]]の食害も受けやすく、乾燥防止目的でサクラの根元に多くの敷き藁を施用したり[[シャジクソウ属|クローバー]]などの植栽をするとネズミの冬場の住みかと餌場になりやすい。また植えてから3年程度までにノウサギに食べられたり齧られると致命的な被害を受けることもある。これらには忌避剤を用いることで予防ができる<ref>[http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list20/ 獣害(ノネズミ、ノウサギ)] 日本花の会</ref><ref>[http://www.hananokai.or.jp/sakura/sakuramihonen-info/sakuramihonen-info-list21/ 鷽(ウソ)の被害と予防] 日本花の会</ref>。
=== 排気ガスと酸性雨 ===
サクラは街路樹として植えられることも多いことなどから車などの[[排気ガス]]によって傷められることも多い。[[山高神代ザクラ|山高神代桜]]ではサクラを守るために近くを通っていた道路に迂回路が作られた<ref>{{Cite web|和書|url=http://park8.wakwak.com/~matsunaga/ |title=フォローアップ |work=山梨県・実相寺ホームページ |publisher=[[山日新聞]] |date=2006-04-26 |accessdate=2011-02-01}}</ref>。[[酸性雨]]も木を弱める要因になる。
== 日本国外でのサクラ ==
{{See|花見#ギャラリー}}
サクラは北半球に広範に分布しているが、ヨーロッパや北米には、観賞に適した大きな花をたくさん付ける野生のサクラの種はあまりなく、それらの多くは今日の人々が想像している典型的なサクラとは異なっている<ref name = "sakuranokai"/><ref name="katsuki2015p119">勝木俊雄『桜』p119-123、岩波新書、2015年、ISBN 978-4004315346</ref>。また中国本土には日本より多い30種以上の野生種のサクラが分布しているが、それらの種は小さな花をつけるものが多く、観賞用にふさわしい大きな花を咲かせるサクラの分布域は人々の生活圏から離れた狭い地域に限定されていた。一方日本では、観賞に適した大きな花を大量に咲かせ大木になりやすい[[オオシマザクラ]]と[[ヤマザクラ]]が人々の生活圏に近い全国のかなり広い地域に分布していた。そのため日本では歴史的にサクラを観賞する文化や栽培品種の生産が発展したと考えられている<ref name="katsuki2018p160">勝木俊雄『桜の科学』p160 - p161、SBクリエイティブ、2018年、ISBN 978-4797389319</ref>。
欧米各国は江戸時代末期から日本のサクラを収集し、イチハラトラノオ、[[フゲンゾウ]]、[[ウコン (サクラ)|ウコン]]などがこの時期に欧州に持ち出され、サクラ観賞の文化が始まった。また明治時代の都市の近代化によるサクラの伐採により日本では一部の[[サトザクラ]]が失われていたが、[[タイハク]]やホクサイなどは欧州に持ち出されて後に日本に里帰りすることで再び日本で観賞できるようになった<ref name="katsuki2015p119"/>。
=== アジア ===
;中国
{{See|zh:賞櫻#中國大陸}}
[[満州国]]時代の[[中国東北部]]では、現在の[[遼寧省]][[大連市]][[旅順口区]]にある'''[[龍王塘桜花園]]'''の桜花園が既に有名であった。また、同じく旅順口区の[[203高地]]の麓の桜花園(50万平方メートル余り)は2006年に開園して、日本から最近贈られた桜が18種類、3,700株余り植えられている<ref>[https://4travel.jp/os_shisetsu_tips/13085866 203高地の麓は、今は二〇三桜花園というお花見スポット(4travel.jp)]</ref>。
[[日中戦争]]中、日本軍により傷病兵用病棟として接収された[[武漢大学]]に28本のサクラが植えられた。終戦後、これらのサクラは歴史的観点から伐採されかけたが保存されることになった。1972年、[[日中共同声明]]による[[日中国交正常化]]に伴い、サクラが日本から武漢大学および近くの'''[[東湖桜花園]]'''に寄贈され、その後も次々と寄贈され、現在は武漢大学周辺には約1000本のサクラがある。これらのサクラの80%は日本軍が植えたサクラの直系の子孫である。[[新型コロナウイルス]]の蔓延で花見ができなくなった2020年には、武漢大学のサクラの様子がウェブで公開され、延べ7億5000万回視聴された<ref name = "nec2021">[https://web.archive.org/web/20210424051504/https://wisdom.nec.com/ja/series/tanaka/2021032401/index.html 中国の人たちはなぜ花見をするようになったのか 日本を通じて桜を再発見した中国の人々] NEC 2021年3月24日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20210522165010/https://diamond.jp/articles/-/266359?page=2 中国で「日本風のお花見」と桜の名所が増えている理由 2/5] ダイヤモンドオンライン 2021年3月24日</ref>。
サクラは頻繁に中国と日本の友好関係に利用されている。日中国交正常化の翌年の1973年、日本は中国に友好のシンボルとしてサクラを送り、それらは[[北京]]の玉淵潭公園に植樹された。その後もサクラの木は増殖されて植えられ、同公園はサクラの名所となった<ref>[https://web.archive.org/web/20210522173349/https://www.nishinippon.co.jp/item/n/322318/ 今天中国~中国のいま(24)大陸でも「桜花入魂」] 西日本新聞 2017年4月17日</ref>。
1997年、[[みちのく銀行]]と樹木医の斎藤嘉次雄が日中友好のために武漢市に桜公園を開くことを計画し、同年からサクラで有名な[[弘前公園]]がある[[弘前市]]が武漢市にサクラの植樹や栽培の指導をするようになり、2016年には武漢市と弘前市が友好協定を締結した。2001年に[[東湖桜花園]]が開園し、2018年には250万人が花見に訪れる名所となった。ソメイヨシノやシダレザクラなど60種類のサクラが1万本植えられている<ref>[https://web.archive.org/web/20210522163138/https://from-aomori.com/2019/05/01/chinas-east-lake-cherry-blossom-garden-sweat-and-tears-of-the-unsung-hero-from-aomori/ ''China’s East Lake Cherry Blossom Gaeden sweat and tears of the unsung hero from Aomori.''] From Aomori in Japan-Local News & Article Site. 2019年5月1日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20210522163847/http://www.mutusinpou.co.jp/news/2018/04/50965.html 中国・武漢市訪問団が弘前公園の桜管理学ぶ] 陸奥新報 2018年4月27日</ref>。
[[無錫市]]の無錫国際花見ウィークは、1980年代に坂本敬四郎氏と長谷川清巳が「中日桜友誼林」に1,500本のサクラを植えたことから始まった。2019年現在、「中日桜友誼林」は毎年50万人の花見客が訪れる名所となっており、100種類のサクラが植栽されている<ref name = "hananokaikokoro">[https://web.archive.org/web/20210522163558/https://www.hananokai.or.jp/wp/wp-content/uploads/2020/07/sakuranomeisyo.pdf こころをつなぐ桜の名所 p.19] 日本花の会</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20190330073907/https://www.afpbb.com/articles/-/3217483 無錫国際花見ウィーク、桜が取り持つ中日友好] AFP 2019年3月27日</ref>。
1990年代後半から21世紀に入り、訪日旅行客の増加や[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]の普及により中国でのサクラの人気が急速に高まり、中国各地に開設された多くの広大な桜公園に多くの花見客が訪れている。例えば[[貴州省]]の平壩万宙桜花園は1,600ヘクタールの広大な土地に70万本のサクラが咲き、世界最大の桜公園といわれている。2019年の統計によると、中国国内だけでのサクラ関連の観光客数は3億4,000万人に達し、消費額は600億元を超えている<ref name = "nec2021"/>。
このような中国でのサクラの人気の急激な高まりと[[ナショナリズム]]により、中国では「サクラの起源は中国」という間違った言説が蔓延するようになっている<ref name = "nec2021"/>。2013年には[[中国共産党]]直属の[[中国網]]で、武漢大学園林環境衛生サービスセンターの主任や[[中国科学院]]武漢植物園の専門家などが「サクラの起源は中国で日本には[[宋 (王朝)|宋王朝]]の時代に伝わった」と主張していることが紹介され<ref>[https://web.archive.org/web/20160103041428/http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-03/27/content_28371002.htm 中国専門家:桜の起源は中国 宋代に日本に伝わる] 中国網 2013年3月27日</ref>、2015年には同中国網で[[唐|唐王朝]]の時代に日本に伝わったとする記事が発表された<ref>[https://web.archive.org/web/20160103200137/http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2015-03/31/content_35202745.htm 桜の起源、中国にあり 日本へは唐代に伝来] 中国網 2015年3月31日</ref>。また2016年には武漢市の金融系企業が[[渋谷109]]に「武漢、世界の桜の故郷 ぜひ武漢大学に桜を見に来てください」という広告を出し、一部の中国人たちから快哉を浴びた<ref name = "nec2021"/>。2019年には中国櫻花産業協会がサクラの起源は中国であり、中国の[[国花]]にすることがふさわしいとの声明を決議した<ref>[https://web.archive.org/web/20200923134905/https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00123/00005/?P=2 世界が「桜は中国の花」と思う日は来るか 日本と中国の「量か質か」問題(後編)2/3] 日経ビジネス 2019年9月20日</ref>。またこの協会の会長が会長を務めるサクラの栽培に関する企業の副責任者は、2016年時点で「日本に抵抗するとともに愛国的な真の方法」として「チャイナレッド」の真紅の花色の栽培品種を開発して日本のサクラの品種を駆逐することを企図している<ref>[https://web.archive.org/web/20160712193338/https://jp.wsj.com/articles/SB12495755728542884874804581634443698887776 サクラの故郷は日本か中国か、企業の広告が物議] ウォールストリートジャーナル 2016年4月1日</ref>。一方、このような主張に反対する意見もあり、例えば武漢大学の歴史家は「現在栽培されているサクラの多くの品種は事実上日本固有のもので(中略)武漢大学のサクラも少量の中国原産種を除けばほとんどが日本から来たものだ。」との主張を[[新華社]]に投稿して批判している。なお中国側がサクラの起源を主張する際には、1975年に日本で発行された『櫻大鑑』を引用して権威付けすることが多いが、ここにはサクラの野生種の起源が[[ヒマラヤ]]である可能性と、野生種が中国大陸と日本列島が地続きの時代に東進して、後に日本で盛んに分化して独自化した可能性が書かれているだけである。もちろん人類が文明を築いていた唐王朝や宗王朝時代の話でも栽培品種の話でもなく、明らかに誤読である<ref name = "nec2021"/>。また上海辰山植物園の職員も、多くのサクラは日本固有種のオオシマザクラなどを核にして作出されていると主張し、中国側の主張を「故意あるいは意図せずに野生種と栽培品種を混同して論じ、野生種の起源を用いて人々をミスリードしている。」と批判している<ref>[https://web.archive.org/web/20210403005237/https://www.recordchina.co.jp/b697917-s0-c30-d0052.html 日中韓の「桜の起源」論争に終止符?=中国専門家「奪うな、桜は日本のものだ」] 2019年3月26日</ref>。
;台湾
{{See|zh:賞櫻#台灣}}
台湾には、北部の[[陽明山]]・[[中正紀念堂]]公園など、中部の[[阿里山]]・[[日月潭]]九族文化村など、南部の[[烏山頭ダム#烏山頭水庫風景区|烏山頭ダム風景区]]など、桜の名勝は多い。東アジアの[[梅前線#台湾で開始|梅開花前線]]と[[桜前線|桜開花前線]](寒桜など)は、それぞれ11月と1月に台湾で始まり、その後[[日本列島]]を北上する。<ref>[https://clublog.club-t.com/_ct/17396325 【台湾】桜の名所が実はたくさんあります!(クラブログ)]</ref><ref>[https://www.taiwanlongstay.com/article/taiwansakura.html 台湾の桜 時期と種類(台湾再び)]</ref>
;韓国
{{seealso|王桜}}
[[鎮海区 (昌原市)|鎮海]]の桜に見られるように、韓国には[[日本統治時代の朝鮮|日本統治中]]にソメイヨシノが導入されサクラ観賞の文化が始まった<ref>竹国友康『ある日韓歴史の旅 鎮海の桜』(朝日新聞社(朝日選書)、1999年) ISBN 4-02-259722-4</ref>。韓国ではソメイヨシノの正体は済州島原産の雑種である[[王桜]]であるという[[韓国起源説]]が蔓延しているが遺伝子研究により事実無根として否定されている。2022年に行われた調査によると、ソウルのサクラの名所である[[国会 (大韓民国)|韓国国会]]と[[汝矣島]]周辺に植えられたサクラのうち9割以上が日本原産のソメイヨシノであり、韓国原産の王桜は1本も植えられていなかったことが判明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.v.daum.net/v/20220406115612680|archive-url=https://web.archive.org/web/20220407041556/https://news.v.daum.net/v/20220406115612680|title=국회·여의도 벚나무 90% 일본산 '소메이요시노 벚나무' (国会・汝矣島の桜の90%は日本産「ソメイヨシノ桜」)|language=ko|publisher=News 1 Korea, Daum News.|date=2022-4-6|archive-date=2022-4-7|accessdate=2022-4-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.naver.com/main/read.naver?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=081&aid=0003263664|archive-url=https://web.archive.org/web/20220407101500/https://news.naver.com/main/read.naver?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=081&aid=0003263664|title=국회·여의도 벚나무는 일본산… 토종 왕벚나무가 하나도 없다 (国会・汝矣島の桜は日本産… 土着の王桜が一つもない)|language=ko|publisher=ソウル新聞, Naver News.|date=2022-4-6|archive-date=2022-4-7|accessdate=2022-4-10}}</ref>。また桜祭りが行われる桜の名所として有名な鎮海の女座川沿いの99.7%、[[慶和駅 (慶尚南道)|慶和駅]]周辺の桜の木の91.1%が1960年代に日本から持ち込まれた日本産のソメイヨシノであり、残りも日本産の[[シダレザクラ]]などであり、王桜ではないことが判明している<ref name="naeil230324">{{cite web|url=http://www.naeil.com/news_view/?id_art=455340|archive-url=https://web.archive.org/web/20230326173707/http://www.naeil.com/news_view/?id_art=455340|title=「진해 군항제 벚나무는 일본 벚나무 일색」|publisher=[[:ko:내일신문|내일신문]]|date=2023-03-24|archive-date=2023-03-26|access-date=2023-03-29}}</ref>。
;北朝鮮
北朝鮮でも、[[平壌直轄市|平壌]]の街路には桜が植えられていて、通行人の目を楽しませる。<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=UWKTM3aYE9c 【速報】平壌でも桜が開花(共同ニュース) - YouTube 2023年4月7日 ]</ref>
=== アメリカ大陸 ===
;アメリカ合衆国
[[ワシントンDC]]の[[全米桜祭り]]が有名であり、日本が日米友好の証として寄贈したサクラに起源がある<ref name="katsuki2015p119"/>。[[ハワイ州]][[ハワイ島]]の[[ワイメア (ハワイ州)|ワイメア]]では、毎年2月に「ワイメア桜祭り」が行われる<ref>[https://hawaiito.com/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E5%B3%B6%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%A1%9C%E7%A5%AD%E3%82%8A2020%E5%B9%B42%E6%9C%881%E6%97%A5%E3%80%82/ ハワイ島ワイメアの桜祭り2020年2月1日。(ディープハワイ通信)]</ref>。
;ブラジル
日系移民が多いブラジルでは、[[サンパウロ]]のカルモ公園に、日本のの桜が4,000植えられていて、桜祭りがある<ref>[https://www.city.urasoe.lg.jp/article?articleId=609e89883d59ae2434c00afb サンパウロの桜まつり(2015年)]</ref>。
=== ヨーロッパ ===
;イギリス
[[コリングウッド・イングラム]]は19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本のサクラを収集して研究し、[[オカメザクラ|オカメ]]やクルサルなどのさまざまな栽培品種を生みだすなどして、欧州でのサクラの観賞文化の始まりに貢献した。イングラムは、日本から輸入して自邸で栽培していた20世紀初頭までに日本で姿を消していた[[タイハク]]を日本に里帰りさせ、日本で失われていた品種を復活させることに貢献した。1993年に[[日本花の会]]は王立ウィンザー大公園に松前系の58品種のサクラを寄贈し、それらは王立[[キューガーデン]]などに分与され活着している<ref name="katsuki2015p119"/><ref name = "hananokaikokoro"/>。
;ドイツ
1866年に[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]が栽培品種のホクサイを日本から持ち出し、その後日本では失われていたが、後に里返りしたことで日本でも見られるようになっている<ref name="katsuki2015p119"/>。
1977年から3年に渡って日本花の会が[[ハンブルグ]]市の日本人会の依頼を受けて5,000本のサクラの苗木を同市に寄贈し、それらのサクラはアルスター湖畔や公園に植えられた。また[[テレビ朝日]]と日本花の会が[[ドイツ統一]]を果たした記念に[[ベルリン市]]に1991年から6,000本のサクラの苗木を寄贈し同市の[[ベルリンの壁]]跡や隣接する[[ポツダム]]市にも植えられた<ref name = "hananokaikokoro"/>。また[[ボン]]にはカンザンの桜並木があり有名な花見の名所になっている。
;フランス
日本花の会が1981年に[[ヴェルサイユ|ベルサイユ]]市にサクラの苗木を5,000本寄贈し、それらは市内の病院や公園などに植えられた<ref name = "hananokaikokoro"/>。
;ロシア
ロシアでは、モスクワの中心部にある[[ロシア科学アカデミー]]植物園の日本庭園に日本から贈られた北海道産の[[エゾヤマザクラ]]と[[チシマザクラ]]が40本ほどあり、通常5月に開花する<ref>[https://news.ntv.co.jp/category/international/36540f65b62b4a3f896568bbaf1ebd93 モスクワの日本庭園、日本から寄贈の桜が見ごろ迎える(日テレNews、2023)]</ref>。
== 「さくらの日」 ==
[[日本さくらの会]]は、1992年(平成4年)に[[3月27日]]を「さくらの日」と制定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sakuranokai.or.jp/about/jigyo/ |title=事業活動 |publisher=公益財団法人日本さくらの会 |accessdate=2020-03-27}}</ref>。
== ギャラリー ==
=== 日本国内 ===
{{main|日本さくら名所100選}}
<!--JIS X 0401(全国地方公共団体コード)による都道府県コードの順-->
<gallery mode="packed" widths="135" heights="100" caption="[[日本五大桜]]">
Miharu Miharu-Takizakura Front 1.jpg|[[福島県]][[三春町]]・[[三春滝桜]]
Kitamoto Ishidokabazakura Front 1.JPG|[[埼玉県]][[北本市]]・[[石戸蒲ザクラ]]
Hokuto Yamanashi Yamatakajindaizakura 1.jpg|[[山梨県]][[北杜市]]・[[神代桜]]
Usuzumi zakura.jpg|[[岐阜県]][[本巣市]]・[[淡墨桜]]
Fujinomiya Kariyado-no-Gebazakura Front 1.JPG|[[静岡県]][[富士宮市]]・[[狩宿の下馬ザクラ]]
</gallery>
=== 日本国外 ===
<gallery mode="packed">
Washington C D.C. Tidal Basin cherry trees.jpg|[[アメリカ合衆国]][[ワシントンD.C.]]・[[タイダルベイスン]]
Longwangtang Cherry Blossom Park.JPG|[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[大連市]][[旅順口区]]・[[龍王塘桜花園]]
Jinhae Gunhang Festival 20080405.JPG|[[大韓民国]][[慶尚南道]][[昌原市]][[鎮海区 (昌原市)|鎮海区]]
Alishan Forest Park 01.jpg|[[台湾]][[嘉義県]]・[[阿里山]]
CuritibaPracaDoJapaoCerejeira.JPG|[[クリチバ]]市内の日本庭園、[[ブラジル]]
</gallery>
=== 種類別 ===
<gallery mode="packed">
Prunus in Yoyogi Park Tokyo 20170403.jpg|[[ソメイヨシノ]]
Prunus speciosa, -Shinjuku Gyoen, -ca. April 2009 a.jpg|[[オオシマザクラ]]
Prunus sargentii (Moscow) 08.JPG|[[オオヤマザクラ]]
Kawazu-zakura2.jpg|[[カワヅザクラ]]
Yogi Park Naha Okinawa Japan03bs.jpg|[[カンヒザクラ]]
Prunus cerasus LC0133.jpg|[[スミミザクラ]]
Õitsev murel.jpg|[[セイヨウミザクラ]]
Prunus incisa 09.jpg|[[マメザクラ]]
カンザン全体.jpg|[[カンザン]]
</gallery>
== 関連語 ==
{{See also|サクラ (曖昧さ回避)}}
[[ファイル:Good work mark in Japanese schools.svg|thumb|200px|小学校などで使用される評価印の印面。外枠はサクラの花弁を模している。]]
桜関連:
* 桜の散るさまを例えて[[花吹雪]]という。桜吹雪とも。
* うばざくら(姥桜、乳母桜)は、開花時に葉がないことから歯がないを[[暗喩]]した桜の通称。または桜には見頃があることから、年配でありながら艶めかしい女性を指す[[古語]]。春の[[季語]]。
* 「花は桜木(さくらぎ)」:もとは[[一休宗純]]の詠んだ歌の単語の一部。→[[一休宗純]]
* [[電報]]などの文面で、桜の花は「合格」の意味である。「サクラサク」は合格を、「サクラチル」は不合格の意味に使われた。{{See also|合格電報}}
<!-- 煩雑にならないよう、曖昧さ回避に書けば十分なものは、ここには追加しないで下さい。-->
樹木ではない「さくら」を含む語:
* [[秋桜]]は[[コスモス]]のことを指す。桜に似た花の形からこう呼ばれる。
* [[馬肉]]のことを桜肉という。
* 淡い紅色を「桜色(さくらいろ)」という。
** [[サクラエビ]]、[[サクラマス]]など、体色の赤いものに「サクラ」の語を当てる。
* [[通話表#和文通話表|和文通話表]]では、「[[さ]]」を送る際に「'''桜のサ'''」という。
* 店での[[サクラ (おとり)|サクラ]]は客寄せのための店が仕込んだ偽の客のことを指す。[[心理学]]実験でも使われることがある。
<!-- 煩雑にならないよう、曖昧さ回避に書けば十分なものは、ここには追加しないで下さい。-->
=== スポーツ ===
* 「[[セレッソ大阪]]-CEREZO OSAKA-」は[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に加盟するプロ[[サッカー]][[クラブチーム|クラブ]]。セレッソとはスペイン語でサクラ([[大阪市]]の市木)の意。
* [[ラグビー日本代表]]は、エンブレムにサクラを用いていることから、海外では「{{lang|en|Cherry Blossoms}}」「{{lang|en|Brave Blossoms}}」と呼ばれる。
* [[桜花賞]]
=== 地名・人名 ===
[[桜井 (曖昧さ回避)|桜井]]、[[桜田 (曖昧さ回避)|桜田]]、[[桜川 (曖昧さ回避)|桜川]]、[[桜町 (曖昧さ回避)|桜町]]、[[桜坂 (大田区)|桜坂]]など、「桜」の語を含む地名は多く見られる。これらの地名は桜の名所や土地に関する由来があるもののほか、[[瑞祥地名]]としても見られる。
人名にも桜の付くものは少なくない。桜が入った[[名字|苗字]]の時もそうであるが、近年{{いつ|date=2012年6月}}は女性の名前として『さくら』の語が使われることが多い。
=== 音楽 ===
* 『[[さくらさくら]]』- [[日本古謡]]
* 『[[さくら (森山直太朗の曲)|さくら(独唱)]]』- [[森山直太朗]]
* 『[[チェリーブラッサム]]』 - [[松田聖子]]
* 『[[桜坂 (福山雅治の曲)|桜坂]]』- [[福山雅治]]
* 『[[SAKURAドロップス/Letters|SAKURAドロップス]]』- [[宇多田ヒカル]]
* 『[[桜 (河口恭吾の曲)|桜]]』- [[河口恭吾]]
* 『[[さくらんぼ (曲)|さくらんぼ]]』- [[大塚愛]]
* 『[[さくら (ケツメイシの曲)|さくら]]』- [[ケツメイシ]]
* 『[[桜 (コブクロの曲)|桜]]』 - [[コブクロ]]
* 『[[桜の花びらたち]]』 - [[AKB48]]
* 『[[SAKURA (いきものがかりの曲)|SAKURA]]』- [[いきものがかり]]
* 『[[サクラビト]]』 - [[Every Little Thing]]
* 『[[千本桜 (曲)|千本桜]]』- [[WhiteFlame|黒うさP]]
* 『[[桜月]]』- [[櫻坂46]]
=== その他 ===
* [[花札]]では[[旧暦3月|3月]]の絵柄として、「桜に[[幕]]」、「桜に[[短冊|赤短]]」、[[かす|カス]]2枚が描かれる。
* [[日産・サクラ|日産・SAKURA]](日産にはこの他、これを英語にした[[日産・チェリー]]もある)。
* [[さくら丸]](船)。
* [[さくら (新幹線)|さくら]]([[西日本旅客鉄道]]および[[九州旅客鉄道]]が[[山陽新幹線]]・[[九州新幹線]]の[[新大阪駅]] - [[鹿児島中央駅]]間で運行している[[特別急行列車|特急列車]]の[[列車愛称|愛称]]である)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Citation | 和書
| last=橘
| first=成季
| author-link=橘成季
| editor-last=塚本
| editor-first=哲三
| editor-link=塚本哲三
| title=古今著聞集
| publisher=有朋堂書店
| series=有朋堂文庫
| year=1926
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018126
| doi=10.11501/1018126
| id={{NDLJP|1018126}}
}} {{OA}}
* [[山田孝雄]]『櫻史』桜書房、1941年。のち[[講談社学術文庫]]、1990年。
* {{Cite journal|和書|author=勝木俊雄 |title=サクラの分類と形態による同定 |journal=樹木医学研究 |issn=1344-0268 |publisher=樹木医学会 |year=2017 |volume=21 |issue=2 |pages=93-104 |naid=130007814398 |doi=10.18938/treeforesthealth.21.2_93 |url=https://doi.org/10.18938/treeforesthealth.21.2_93 |ref={{harvid|勝木|2017}}}}
== 関連項目 ==
* {{前方一致ページ一覧|桜}}、{{前方一致ページ一覧|さくら}}、{{前方一致ページ一覧|サクラ}}
* {{intitle|桜}}、{{intitle|サクラ}}、{{intitle|さくら}}
* [[サクラの一覧]]
* [[日本さくら名所100選]]
* [[一本桜]]
* [[日本五大桜]]
* [[笹部新太郎]]
* [[桜花]]
* [[玉縄桜]]
* [[日本花の会|公益財団法人日本花の会]] - 日本全国の桜の名所づくりや天然記念物指定の銘木の樹勢回復を行っている公益財団法人
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|桜|Sakura}}
{{Wikiquote|桜}}
{{Wiktionary|さくら|サクラ|桜|櫻}}
<!--企業宣伝色が強い外部リンク、個人のブログなど関連性の低い外部リンクは削除されます。-->
* [https://www.sakuranokai.or.jp/ 公益財団法人日本さくらの会]
* [http://www.hananokai.or.jp/ 公益財団法人日本花の会]
* {{Wayback |url=http://www.pref.ishikawa.jp/ringyo/sakura/index.htm |title=石川県林業試験場(さくら 品種図鑑)|date=20100212232703 }}
* [http://yamatate.sakura.ne.jp/index.htm 桜の博物館]
* [https://www.nig.ac.jp/koukai/koukai2019/sakura/ 遺伝研の桜]([[国立遺伝学研究所]]、2019年)
* [http://db1.ffpri-tmk.affrc.go.jp/sakura/ 多摩森林科学園サクラデータベース](国立研究開発法人[[森林研究・整備機構]])
* {{PDFlink|[https://www.ffpri.affrc.go.jp/pubs/chukiseika/documents/3rd-chuukiseika5rev.pdf 桜の新しい系統保全 ―形質・遺伝子・病害研究に基づく取組―]|19 [[メビバイト|MiB]]}}(独立行政法人 [[森林総合研究所]] [[多摩森林科学園]]、2013年2月15日、{{ISBN2|978-4-905304-19-7}})
* {{Cite journal|和書|author=勝木俊雄, 岩本宏二郎, 石井幸夫 |title=多摩森林科学園サクラ保存林における30年間のサクラの開花期観測 |journal=森林総合研究所研究報告 |issn=09164405 |publisher=森林総合研究所 |year=2011 |month=mar |volume=10 |issue=1 |pages=7-48 |naid=40018911857 |url=https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010813972}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:さくら}}
[[Category:桜|*]]
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[[fi:Kirsikat]] | 2003-04-26T03:53:24Z | 2023-11-27T08:18:10Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9 |
7,304 | 府中市 | 府中市(ふちゅうし)は、日本にある市の名称。「府中」という名称は国府所在地を意味する。
東京都と広島県に同名の市がある。東京都府中市は武蔵国府が置かれていた地で1954年4月1日に市制施行、広島県府中市は備後国府が置かれていた地で前日の同年3月31日に市制施行した。当時、同名の市は避ける行政指導が行われていたが、今尾恵介は「年度を跨いだためスキをつかれた形なのだろうか。」と分析している。なお広島県には府中を名乗る自治体として府中市のほかに安芸郡府中町(旧安芸国)があるが、こちらは安芸国府が置かれていた地に由来している。 | [
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] | 府中市(ふちゅうし)は、日本にある市の名称。「府中」という名称は国府所在地を意味する。 | '''府中市'''(ふちゅうし)は、[[日本]]にある[[市]]の名称。「[[府中]]」という名称は[[国府]]所在地を意味する。
== 自治体 ==
* [[府中市 (東京都)]] - [[武蔵国]]の[[武蔵国府跡|国府]]が置かれていた。東京都の中央に位置する人口約26万人の都市。
* [[府中市 (広島県)]] - [[備後国]]の[[備後国府|国府]]が置かれていたという説がある。広島県の東部に位置する人口約4万人の都市。
[[東京都]]と[[広島県]]に同名の市がある<ref name="imao">{{Cite web|和書|author=今尾恵介|title=地名散歩 第54回 明治に入って改称した都市名|url=https://www.chosashi.or.jp/media/201609kaiho.pdf |website=土地家屋調査士 2016年9月号(日本土地家屋調査士会連合会) |access-date=2023-07-24 |language=ja}}</ref>。東京都府中市は[[武蔵国|武蔵国府]]が置かれていた地で[[1954年]][[4月1日]]に市制施行、広島県府中市は[[備後国府]]が置かれていた地で前日の同年[[3月31日]]に市制施行した<ref name="imao" />。当時、同名の市は避ける行政指導が行われていたが、[[今尾恵介]]は「年度を跨いだためスキをつかれた形なのだろうか。」と分析している<ref name="imao" />。なお広島県には府中を名乗る自治体として府中市のほかに[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]](旧[[安芸国]])があるが、こちらは[[安芸国|安芸国府]]が置かれていた地に由来している<ref name="imao" />。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[伊達市 (曖昧さ回避)|伊達市]]:府中市と同様に同一名の市が二つ存在する事例。
* [[若松市 (曖昧さ回避)|若松市]]:同時に同一名の市が存在した事例。
**現在は該当した二つの市はどちらも消滅。
* [[同一名称の市区町村一覧]]
*[[府中 (曖昧さ回避)]]
*[[府中町 (曖昧さ回避)]]
*[[府中村 (曖昧さ回避)]]
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7,305 | オードリー・ヘプバーン | オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人女優。ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。
ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル(英語版)のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。
イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌでトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。
70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。
ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた。
父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である。ジョゼフの母親はオーストリア系で、父親はイギリス、オーストリア系だった。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた。
ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ(英語版)で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。エラの母親もオランダ貴族の出身だった。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている。
ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた。その後二人はイギリスでの生活を経てベルギーのイクセルへ移り住み、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケベークへと移住している。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた。
結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔 がいるのを発見し、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった。1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある。
ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った。1939年6月、正式に離婚が成立している。ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした。その後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた。その後もスイスの自宅で会っている。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズ(英語版)には娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた。
ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、デン・ハーグにいる父親のもとで過ごすことも多かった。1937年に幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。ヘプバーンはイーラム (Elham) という村の小さな私立女学校に入学し、またバレエにも通い始めた。第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ近郊へと身を寄せた。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている。
1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている。連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった。当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血、喘息、黄疸、水腫にかかっていた。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。
1945年の第二次世界大戦終結後に兄2人が帰ってきて独立すると、10月に母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた。ただしヘプバーンの170cmという身長と、体格や筋肉を作る成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われている。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した。
ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのロンドン・ヒッポドローム劇場で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアターで上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーションの配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた。1950年に映画に出演するようになり、『素晴らしき遺産』、『若気のいたり』、『ラベンダー・ヒル・モブ』、『若妻物語』といった作品が1951年に公開された。1951年2月にはソロルド・ディキンスン(英語版)の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した。ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる。
1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言ったという有名なエピソードがある。
『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社はヘプバーンを王女役に決定した。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認めるという条件でパラマウント映画社と契約した。
『ジジ』は3回の試演の後、1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター(英語版)で初演を迎えたが、批評は絶賛の嵐だった。劇場入り口には「『ジジ』 出演オードリー・ヘプバーン」と掲出されていたが、公演1週間後には「オードリー・ヘプバーン主演の『ジジ』」に改められた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード(英語版)を受賞している。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された。
1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーやジーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった。
製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった。しかしペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった。
『ニューヨーク・タイムズ』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った。『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、アカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。
『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語である。『ニューヨーク・タイムズ』紙では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている」と評された。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。
『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨーク・タイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した。
そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 演劇主演女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった。(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、二人の結婚は14年間続いた。
ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。
ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『戦争と平和』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。
1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。
この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている。どちらも1957年に公開された。
1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『マイヤーリング』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している。
また、ヘプバーンは、1957年にアンネ・フランクの『アンネの日記』を題材とした映画作品への出演依頼を受けた。監督のジョージ・スティーヴンスの頼みでアンネの父、オットー・フランクが出演を説得するためにオードリーに会いに来たが、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」さらに「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」として断っている。最終的に映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。
1958年に入るとピーター・フィンチと共演した『尼僧物語』に出演する(公開は1959年)。この映画では心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした。『バラエティ』誌は「彼女としては最高の演技を見せてくれた」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「映画界でも最も優れた演技である」と評した。公開されるとワーナー・ブラザーズ映画史上最大のヒットとなった。ヘプバーンはこのルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。他にゴールデングローブ賞にもノミネートされている。
ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて同じく1958年に『緑の館』に出演した(公開は1959年)。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるベネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす妖精のような少女リーマを演じた。監督は当時ヘプバーンの夫であったメル・ファーラーだった。
1959年にはヘプバーンが出演した唯一の西部劇『許されざる者』(公開は1960年)でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターやリリアン・ギッシュが演じる家族に育てられたカイオワ族の娘で、取り戻しに来たカイオワ族と育ての家族の間で苦悩するという役である。
ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年10月に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した(公開は1961年)。この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した。これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている。
映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトルブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表するリトルブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われている。
ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語だった。アメリカ映画協会が規則を改正し、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画である。当時の保守的な社会的背景のためか、映画評論家はあら探しをするばかりであったが、『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した。アカデミー賞にも5部門でノミネートされている。
ヘプバーンは1962年に2本の映画を撮影した。1つ目は『パリで一緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、9年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの作品は2年後の1964年に公開された。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された話のなかで、一服の清涼剤だった」と言われている。
後年のヘプバーンの伝記では、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなどで撮影現場の雰囲気や状況が悪化し、撮影日数が遅れたと書かれている。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている。ヘプバーン自身も息子ショーンに「パリで一緒に」の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている。
ヘプバーンは続いて『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。かつてヘプバーンが主演した『麗しのサブリナ』と『昼下りの情事』の相手役にも目されていたグラントは撮影当時58歳で、年齢差がある当時33歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している。グラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語った。1963年に公開された時にヘプバーンはこの役で、三回目の英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。
1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌で絶賛した。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザ・ドゥーリトルを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、製作のジャック・L・ワーナーがアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った。ジャック・L・ワーナーは1700万ドルというワーナー映画史上最大の制作費を回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った。しかしジャック・L・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラーに役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた。
ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3ヶ月前の1963年5月から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた。ヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。
映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるということが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨーク・タイムズ』紙で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・L・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている。
ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている。キャサリン・ヘプバーンはすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている。ジュリー・アンドリュースや共演者レックス・ハリソンもヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようという運動まで起こっているが、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『メリー・ポピンズ』でのジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した。
このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた。
ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『おしゃれ泥棒』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。
1967年には2本の映画が公開された。1966年に撮影された『いつも2人で』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出すという映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている。そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったと言っている。そして多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている。
1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』であり、ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした。撮影中は午後四時になるとティー・ブレイクがあり、キャストやスタッフは和気藹々と撮影出来た。ただしヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった。監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている。
ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。
1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている。
1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった。共演はベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した。
ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した1980年に撮影されたコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、撮影終了数週間後に離婚寸前だった夫に1980年8月に殺害され、その上、配給を予定していた20世紀フォックスが出来上がりに不満を示し、ピーター・ボグダノヴィッチ監督が自ら買い戻した。最終的には81年に公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。
テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』に最後の主演で出演した。出演を決めたのは、共演のロバート・ワグナーがヘプバーンが欠かさず見ていた『探偵ハート&ハート』の出演者であり、グシュタードの別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである。
ヘプバーンはスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『オールウェイズ』の天使の役でのカメオ出演の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった。
それ以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品はわずかしかないが、非常に高く評価されており、ヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞しているものもある。
ヘプバーンは指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスに請われて1990年3月19日からアメリカの5つの都市と、91年にはロンドンでユニセフのための慈善コンサートを行った。それはヘプバーンが『アンネの日記』からの抜粋を朗読し、トーマスのオリジナルの管弦楽曲『アンネ・フランクの日記より』と合わせて全体を構成するという試みだった。ヘプバーンはそれまでアンネ・フランクを演じる話を全て断っていたが、「今度は、私はアンネ・フランクを演じるのではなく、読むだけなのです。今でも彼女を演じようとは思いません。それはあの戦争の恐怖の中へ自分を押し戻すことだからです」と語っている。ロンドンの舞台に立つのは40年ぶりのことであり、これが最後となった。トーマスは1995年の4月と5月に再度コンサートをやって、きちんと録音することを望んだが、それは叶わなかった。「彼女は意に反してアンネ・フランクになりきっていた。ヴィデオ・テープが残っていないのが残念でならない」とトーマスは語っている。
PBSのテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』は、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した翌日の1993年1月21日からだった。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞(Outstanding Individual Achievement – Informational Programming)を受賞した。
1992年5月には2つの録音を行なっている。1つはラロ・シフリンが指揮をするサン=サーンスの『動物の謝肉祭』で、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語(英語版)』では、グラミー賞の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。
ヘプバーンは1949年に舞台『ソース・タルタル』で共演したフランス人の歌手、マルセル・ル・ボンに心惹かれ、初めて真剣な交際をした。マルセル・ル・ボンは『ソース・ピカント』の後にヘプバーンや舞台の仲間と新しいショーで巡業を計画したが頓挫、責任を感じてアメリカに逃げてしまった。ヘプバーンはこの新しいショーの為に、『素晴らしき遺産』では主要人物の役が割り振られていたが断っている。ショーの頓挫後、慌てて再度監督に会いに行ったが、既に配役が決まっており、ヘプバーンは残っていたシガレット・ガールの役を演じることになった。
1950年に『ラベンダー・ヒル・モブ』撮影直後にヘプバーンは男爵ジェイムズ・ハンソン(英語版)と知り合いすぐに恋に落ち、1951年12月には婚約した。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は1952年『ローマの休日』撮影後に破談となった。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある。
ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている。
1953年撮影の『麗しのサブリナ』で、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったと言われている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており子供ができないことを告げられ、これによりヘプバーンが別れを切り出したと言われている 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートがヘプバーンに辛く当たっていたと言われているが、息子ショーンがヘプバーンに訊いてみたところ、関係は良かったと答えている。ただ、一人の女優としては認めてないと感じていたし、ボガートがそう言っているという噂も耳にしていたとも言っている。ショーンがそんなのフェアじゃないと言うと「あの方がそう思う理由があったのよ」と息子を諌めている。
母エラが1953年7月に開いたパーティーで、ヘプバーンはグレゴリー・ペックに紹介されてアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリー』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月1日から稽古が始まっている。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのビュルゲンシュトックで結婚した。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。
結婚後ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用していると噂されるようになった。「一種の主人と奴隷の関係」と記事にされた時にはヘプバーンは激怒している。
ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、投げ出されたヘプバーンは背中を4箇所骨折し、結局撮影終了後に流産してしまった。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた。
それまでも何度かメル・ファーラーとの不仲の噂があったが、『マイ・フェア・レディ』撮影中からまた離婚説が囁かれるようになった。
その後も1965年12月にヘプバーンは妊娠したが1966年1月には流産、1967年7月にまたもや流産となってしまった。
そして1967年7月22日、スペインの別荘に行くために空港に降り立ったオードリーをメルが迎えに行ったが、それまでとは違い一切写真を撮らせず、7月31日にはオードリーはスイスへ帰って行った。そしてヘプバーンとメルは1967年8月31日に別居を世界中に発表。二人の代理人は8月はじめには別居に同意していたと述べている。最終的に二人は1968年12月に離婚し、二人の結婚は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。
ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村にある「ラ・ペジブル」という家を購入。息子ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。その後、1968年6月ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、「ラ・ペジブル」で数か月間、読書や庭いじりや絵を描いたりしながら過ごしていた。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった。そしてヘプバーンのほうも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演したベン・ギャザラと不倫の関係になっていた。ヘプバーンとドッティは1980年夏に離婚を決意、別居した。1982年に正式に離婚し、二人の結婚は13年で終わった。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った。ドッティは2007年10月に消化管内視鏡検査の合併症で死去している。
ドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期に、友人を介してオランダ人俳優ロバート・ウォルダースと知り合い、1980年から死去するまで恋愛関係にあった。ドッティとの離婚が成立するとヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めた。ウォルダースは妻マール・オベロンと死別していたが、ヘプバーンと正式に結婚することはなかった。ヘプバーンは1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。
また、1984年8月26日にはスイスの自宅「ラ・ペジブル」で母エラが亡くなっている。ヘプバーンを厳しく育て、ヘプバーンの父ジョゼフと同じように愛情を表すのが苦手だった。『パリの恋人』で知り合って以来、脚本家のレナード・ガーシュは母エラと友達であったが、「エラは素晴らしいユーモアのセンスを持っていたし、オードリーもそうだった。残念なことに母と娘が一緒にユーモアを楽しむことがなかった」しかし「エラは娘を心から愛していた」と語っている。またロバート・ウォルダーズも「母親は感情を外に出すことができずに苦しんでいたのだと思う」「娘本人に対してはそれができなかった」と述べている。
1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務める『愛の世界』というユニセフの特別番組に当時住んでいたイタリアを代表して出演した。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった。
1987年10月、オランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟にマカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、ユニセフのポルトガル支部へのスピーチを依頼された。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自ら申し出た。
次にジュゼッペ・シノーポリ指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かった。
マカオと東京での成功後、各国のユニセフからの依頼が続々と舞い込み、1988年3月9日にユニセフ親善大使の依頼を引き受けることとなった。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている。
第二次世界大戦後にユニセフの前身の UNRRAに助けられ、その後女優として大きな成功を収められた経験から、残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会い、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロートは「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに語学がありました。(英語の他にも)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダ語は当然です。ユニセフの活動をスポットで緊急に流さないといけないとき、すぐその場でオードリーがどの主要言語でもアナウンスを流してくれました」と語っている。
ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、ユニセフ親善大使の任命の発表から2週間と経たない1988年3月のエチオピアへの訪問が最初だった。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレの孤児院を慰問した。
ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10月には南米諸国を訪れた。ベネズエラとエクアドルをめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラでそれぞれの大統領と面会している。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「ライフライン作戦」計画の一環としてスーダンを訪れた。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだった。さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いた。国連の報道写真家、ジョン・アイザック(英語版)は「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている。1990年10月にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した。
死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」。
1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与することとなった。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った。
1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査のため10月にロサンゼルスへと渡った。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センターに入院し、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫であることが明らかとなった。5年ほどかけて成長した癌が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。そして11月1日、手術が行われた。
病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない。」と語ったが、タブロイド紙の「ナショナル・エンクワイアラー」が手術室の誰かを買収して「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」だとセンセーショナルに報じた。ロバート・ウォルダース、息子のショーンとルカはヘプバーンは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「あの時だけは真実を語っていたのは彼らの方で、われわれは嘘をついていた。われわれが嘘をついたのは自分を力づけるためだった。」とのちに語っている。
術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが何度も見舞いに来ていた。1週間後には退院し、「第二のホーム」と呼ぶヘプバーンの親友のコニー・ウォルドの家に移った。傷口が塞がってから抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸による化学療法が始まった。副作用もなく、1週間以内に再度化学療法を受けることになって家族は希望をつないでいた。しかし数日後腸閉塞になり、12月1日に再入院した。病院に戻る為にヘプバーンとショーンが準備をしていた時、本当は怯えていた心の内側を1度だけヘプバーンは見せて、「ああ、ショーン、たまらなく恐いの」と涙をいっぱいにたたえた目でショーンにしがみついて囁いた。同日再手術が行われたが、腫瘍が急激に広がりすでに手の施しようがなく、開腹したもののすぐに閉じたため1時間もせずに終了した。
ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスをスイスの自宅で過ごさせるために飛行機で送り返すことを決めた。しかしヘプバーンはかなり衰弱しており通常の国際便での旅には耐えられない状態だった。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年の友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでショーンにジバンシィに電話を掛けさせたが、胸がいっぱいで言葉にならず、「ああ、ユベール...本当に感激だわ」と呟くのがやっとだった。電話を切ると、「あの方は、私が彼の人生のすべてだとおっしゃってくださったのよ!」と言って顔を輝かせた。
出発前日の12月19日に医師たちは、離陸時の気圧の変化に耐えられず腸の血管が破れ腹膜炎を起こす可能性があり、そうなると敗血症で1時間ともたないだろうと告げたが、ヘプバーンはビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻やジェームズ・スチュワートという親しい友人に会って最後の別れを告げた。ヘプバーンは痛みがものすごくひどいことを隠して、みんなの気持ちをひきたてようとしていた。帰りに夫人からそれを聞いたペックはグレープフルーツ大の塊が喉につかえた感じだったと語っている。
翌12月20日にロサンゼルスを出発。ジェット機には医師と看護師が付き添った。パイロットは非常にゆっくり高度を上げ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知ったという。
クリスマス、食べることの出来なかったヘプバーンはみんなのディナーの後で苦労して2階から降りてきて、友人や家族にクリスマスプレゼントを渡した。ヘプバーンは買い物に出かけられないため、これまで持っていたスカーフ、セーター、ロウソクなどから一人一人に選んだものであったが、皆が感動した。そのあとヘプバーンはサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」の一部を息子のショーンとルカのために読んでいる。ロバート・ウォルダーズはヘプバーンが超人的な勇気を奮い起こして、ウォルダーズと子供達がヘプバーンを失うことに耐えられるよう助けようとしていると感じたという。ウォルダーズは、その夜ヘプバーンが暗闇のベッドの中で「今年のクリスマスが今までで一番幸せだったわ」という声が、今も耳に残っている、と語っている。
スイスの自宅では、ヘプバーンは家族や友人に付き添ってもらって毎日庭に出て20分散歩するのが精神的な支えであったが、塀越しに隠し撮りしたり、ヘリコプターで上空からどこまでも追いかけてくるパパラッチのために諦めないといけないことがあった。ジバンシィがパリから来た時にも一緒に庭を散歩したが、10歩ごとに立ち止まって休まなくてはならなかった。ヘプバーンは最後の贈り物としてキルトのコートを買い、ジバンシィが帰り際にヘプバーンはそのうちのネイビー・ブルーのコートを贈った。軽く口づけし、「これを着たらわたしのことを思い出してね」と小声で言いながらジバンシィに渡した。1月17日にヘプバーンは最後の散歩をしている。ヘプバーンは死の2、3日前まで「わたしのために笑って」とウォルダーズに言っていた。
病が進行するにつれて次第に長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間はいっときに数分以上起きていられなかったという。そして1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナの自宅で、がんのために息を引き取った。
ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切った。ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子(英語版)が弔辞を述べ、高官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クアレス・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーアらが参列した。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた。葬儀の後、ショーンが挨拶に立った。最後のクリスマスにヘプバーンが読んだサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」を読んだ後、最後に庭を散歩した時のことを語っている。「庭師のジョバンニがやって来てこう言いました。『奥様、よくおなりになったら枝を刈り込んだり花を植えたりするのを手伝ってくださいまし。』母はにっこり笑って答えました。『ジョバンニ、お手伝いするわ......でもこれまでとは違うやり方でね』」そしてヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された。
ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。
ヘプバーンは生前、自伝を書くように多くの出版社から求められたが、「人間はほかの多くの人との関わりの中で生きているのだから、必然的に他人についても語らなくてはいけません。そんなことをする権利は私にはないし、するつもりもありません」としてそのたびに断っている。ヘプバーンの死後、奔流のように他人が書いた伝記本が発売されたが、書籍によって内容が凄まじく異なっている。中にはヘプバーンに直接インタビューをした「公認の伝記」と偽って出されたものまであるが、ウォルダーズは「オードリーが話をしたことは絶対に無い」「詳細な記録もつけているし、泊まったホテルの電話の記録まで取り寄せた。その時期にはヘプバーンには死期が迫っていた」と語り、息子二人とウォルダーズに訴訟を起こされたものまである。
ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。
ヘプバーンは世界で唯一日本にだけ、新しく撮り下ろしたテレビCMに出演した。1971年(日本エクスラン工業のエクスラン・ヴァリーエ)・82年(株式会社ワールドの銀座リザ)と2度も出演している。海外では放送されておらず、日本でのみ放送された。
既存のフィルムを使うものとしては、2000年〜2001年に『ローマの休日』のモノクロフィルムを着色してデジタル化された映像がキリンの午後の紅茶のCMに採用されていたほか、2005年〜2007年には三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用していた。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。この吹替を担当した声優がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池田昌子だった。その他多くの企業がオードリー・ヘプバーンを使用している。
アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DCの曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカのGAPのCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、イギリス製チョコレートのギャラクシーの広告に使用された。
ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサーに選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手QVCによる「20世紀最高の美女」を決めるアンケート調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水エビアンを発売するダノンによる「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンローやジェーン・マンスフィールドといった豊満な女優たちとは異なり、ヘプバーンは大きな瞳をもつ細身で優雅な女優だった。映画監督ビリー・ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」と言った。
しかしヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大きすぎると悩んでいたそれ以外にも歯並びが悪く、鼻孔が広いのを気にしていた。「映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに」とヘプバーンは言っていた。だから目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊敬を忘れなかった。
ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている。ヘプバーンが現代ファッションに及ぼした影響は飛び抜けており、デザイナーのマイケル・コースは「今のファッションを、女性たちは当然のように思って着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったら、そういった服を今着てはいないだろう」と述べている>。
ヘプバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。衣装はイーディス・ヘッドの担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出した。
パラマウントの関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンだと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘプバーンに答えている。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えた。ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだし、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8cm)を着こなしてみせた。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。
後年、ジバンシィはヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われて感激したと話している。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装を担当した。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズだった。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している。
ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「カメラの前に立ったときのオードリー・ヘプバーンの天性の素晴らしさには永遠に圧倒され続けるだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている。
イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモとは1954年から親交があり、ヘプバーンの足の木型は現在でもフィレンツェのサルヴァトーレ・フェラガモ博物館が所蔵している。1999年にはそのフェラガモ博物館で「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル(Audrey Hepburn, a woman, the style)」と銘打った展示会が開かれ、2000年〜2001年には日本各地を巡回した。この展示会はヘプバーンの映画や私生活での衣装や靴、写真などが大量に展示される大規模な展示会だった。フェラガモは虐待児童をケアするオードリー・ヘプバーン・チルドレンズ・ハウスを作る資金を集めると発表し、この展示会の収益もこれに充てられた。(2004年〜2009年には息子ショーンによって、「timeless audrey」展という大規模な展示会も世界で開かれた。こちらも世界に先駆けて2004年〜2005年に日本全国を巡回している。)
またヘプバーンがドッティと結婚していてローマに住んでいた70年代、ジバンシィでは高価すぎるので、友人に頼んでイタリアの当時新進気鋭のデザイナー、ヴァレンティノ・ガラヴァーニを紹介してもらい、友人となっている。日本のCM「エクスラン・ヴァリーエ」に出演した時や、『ロビンとマリアン』のポスターやパンフレットで着ていた衣装はヴァレンティノのものである。後年、ヴァレンティノのデビュー25周年の展示会で使うために、ヘプバーンのために作られた衣装を貸したところ、「こんなに大切に扱ってくれたのは貴方だけだ。新品のようだね」とヴァレンティノに言われて、ヘプバーンはずっと誇りに思っていたという。
ヘプバーンは晩年にはラルフ・ローレンの服も多用しており、『庭園紀行』の企画が持ち込まれたとき、衣装で相談したのもローレンだった。「夜はジバンシィを着るのが好きだけど、昼間はあなたのスポーティーな衣装の方がいいわ」とローレンに言っている。1991年、リンカーン・センター映画協会の「オードリー・ヘプバーンをたたえる夕べ」で、ラルフ・ローレンはファションに及ぼしたヘプバーンの並外れた影響力について話している。「オードリー・ヘプバーンの名はあらゆる雑誌編集者やファションに従事するものによって、おそらく絶えず口にされているはずです。“すごくオードリーだ!”という形で」「こういう表現をオードリーが聞いたことがあるかどうかわかりませんが、ジバンシィは聞いたことがあるはずです」と述べて喝采を浴びた。
2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった。『ティファニーで朝食を』のオープニングシーンの為にジバンシィが3着の同じドレスを用意したが、ジバンシィのデザインはサイドに深いスリットが入っていたためヘプバーンの映画には不適として、パラマウントでイーディス・ヘッドによってスリットの無い複製が作られることとなった。実際にヘプバーンが着用したドレスは撮影後に廃棄され、現存していない。
2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された。
『the audrey hepburn treasures』には巻末にヘプバーンが受賞、あるいはノミネートされた賞や名誉が117掲載されている。詳細は『オードリー・ヘプバーンの受賞リスト(英語版)』を参照。 | [
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"text": "オードリー・ヘプバーン(英: Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人女優。ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。",
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"text": "ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル(英語版)のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。",
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"text": "イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌでトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。",
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"text": "70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。",
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"text": "ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた。",
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"text": "父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である。ジョゼフの母親はオーストリア系で、父親はイギリス、オーストリア系だった。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた。",
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"text": "ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ(英語版)で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。エラの母親もオランダ貴族の出身だった。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている。",
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"text": "ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた。その後二人はイギリスでの生活を経てベルギーのイクセルへ移り住み、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケベークへと移住している。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた。",
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"text": "結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔 がいるのを発見し、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった。1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある。",
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"text": "ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った。1939年6月、正式に離婚が成立している。ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした。その後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた。その後もスイスの自宅で会っている。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズ(英語版)には娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた。",
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"text": "ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、デン・ハーグにいる父親のもとで過ごすことも多かった。1937年に幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。ヘプバーンはイーラム (Elham) という村の小さな私立女学校に入学し、またバレエにも通い始めた。第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ近郊へと身を寄せた。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている。",
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"text": "1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている。連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった。当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血、喘息、黄疸、水腫にかかっていた。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。",
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"text": "1945年の第二次世界大戦終結後に兄2人が帰ってきて独立すると、10月に母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた。ただしヘプバーンの170cmという身長と、体格や筋肉を作る成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われている。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した。",
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"text": "ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのロンドン・ヒッポドローム劇場で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアターで上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーションの配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた。1950年に映画に出演するようになり、『素晴らしき遺産』、『若気のいたり』、『ラベンダー・ヒル・モブ』、『若妻物語』といった作品が1951年に公開された。1951年2月にはソロルド・ディキンスン(英語版)の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した。ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる。",
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"text": "1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言ったという有名なエピソードがある。",
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"text": "『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社はヘプバーンを王女役に決定した。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認めるという条件でパラマウント映画社と契約した。",
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"text": "『ジジ』は3回の試演の後、1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター(英語版)で初演を迎えたが、批評は絶賛の嵐だった。劇場入り口には「『ジジ』 出演オードリー・ヘプバーン」と掲出されていたが、公演1週間後には「オードリー・ヘプバーン主演の『ジジ』」に改められた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード(英語版)を受賞している。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された。",
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"text": "1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーやジーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった。",
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"text": "製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった。しかしペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "『ニューヨーク・タイムズ』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った。『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、アカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。",
"title": "女優業"
},
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"paragraph_id": 20,
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"text": "『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語である。『ニューヨーク・タイムズ』紙では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている」と評された。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨーク・タイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した。",
"title": "女優業"
},
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"paragraph_id": 22,
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"text": "そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 演劇主演女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった。(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、二人の結婚は14年間続いた。",
"title": "女優業"
},
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。",
"title": "女優業"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『戦争と平和』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。",
"title": "女優業"
},
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"text": "この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている。どちらも1957年に公開された。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 27,
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"text": "1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『マイヤーリング』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している。",
"title": "女優業"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "また、ヘプバーンは、1957年にアンネ・フランクの『アンネの日記』を題材とした映画作品への出演依頼を受けた。監督のジョージ・スティーヴンスの頼みでアンネの父、オットー・フランクが出演を説得するためにオードリーに会いに来たが、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」さらに「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」として断っている。最終的に映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1958年に入るとピーター・フィンチと共演した『尼僧物語』に出演する(公開は1959年)。この映画では心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした。『バラエティ』誌は「彼女としては最高の演技を見せてくれた」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「映画界でも最も優れた演技である」と評した。公開されるとワーナー・ブラザーズ映画史上最大のヒットとなった。ヘプバーンはこのルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。他にゴールデングローブ賞にもノミネートされている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて同じく1958年に『緑の館』に出演した(公開は1959年)。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるベネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす妖精のような少女リーマを演じた。監督は当時ヘプバーンの夫であったメル・ファーラーだった。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "1959年にはヘプバーンが出演した唯一の西部劇『許されざる者』(公開は1960年)でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターやリリアン・ギッシュが演じる家族に育てられたカイオワ族の娘で、取り戻しに来たカイオワ族と育ての家族の間で苦悩するという役である。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年10月に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した(公開は1961年)。この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した。これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった。ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトルブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表するリトルブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語だった。アメリカ映画協会が規則を改正し、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画である。当時の保守的な社会的背景のためか、映画評論家はあら探しをするばかりであったが、『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した。アカデミー賞にも5部門でノミネートされている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1962年に2本の映画を撮影した。1つ目は『パリで一緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、9年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの作品は2年後の1964年に公開された。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された話のなかで、一服の清涼剤だった」と言われている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "後年のヘプバーンの伝記では、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなどで撮影現場の雰囲気や状況が悪化し、撮影日数が遅れたと書かれている。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている。ヘプバーン自身も息子ショーンに「パリで一緒に」の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは続いて『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。かつてヘプバーンが主演した『麗しのサブリナ』と『昼下りの情事』の相手役にも目されていたグラントは撮影当時58歳で、年齢差がある当時33歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している。グラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語った。1963年に公開された時にヘプバーンはこの役で、三回目の英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌で絶賛した。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザ・ドゥーリトルを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、製作のジャック・L・ワーナーがアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った。ジャック・L・ワーナーは1700万ドルというワーナー映画史上最大の制作費を回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った。しかしジャック・L・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラーに役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3ヶ月前の1963年5月から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた。ヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。",
"title": "女優業"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるということが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨーク・タイムズ』紙で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・L・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている。",
"title": "女優業"
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{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている。キャサリン・ヘプバーンはすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている。ジュリー・アンドリュースや共演者レックス・ハリソンもヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようという運動まで起こっているが、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『メリー・ポピンズ』でのジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した。",
"title": "女優業"
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"paragraph_id": 42,
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"text": "このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『おしゃれ泥棒』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1967年には2本の映画が公開された。1966年に撮影された『いつも2人で』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出すという映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている。そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったと言っている。そして多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』であり、ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした。撮影中は午後四時になるとティー・ブレイクがあり、キャストやスタッフは和気藹々と撮影出来た。ただしヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった。監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった。共演はベン・ギャザラ、ジェームズ・メイソン、ロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した1980年に撮影されたコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、撮影終了数週間後に離婚寸前だった夫に1980年8月に殺害され、その上、配給を予定していた20世紀フォックスが出来上がりに不満を示し、ピーター・ボグダノヴィッチ監督が自ら買い戻した。最終的には81年に公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。",
"title": "女優業"
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"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』に最後の主演で出演した。出演を決めたのは、共演のロバート・ワグナーがヘプバーンが欠かさず見ていた『探偵ハート&ハート』の出演者であり、グシュタードの別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである。",
"title": "女優業"
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{
"paragraph_id": 51,
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"text": "ヘプバーンはスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『オールウェイズ』の天使の役でのカメオ出演の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった。",
"title": "女優業"
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{
"paragraph_id": 52,
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"text": "それ以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品はわずかしかないが、非常に高く評価されており、ヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞しているものもある。",
"title": "女優業"
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"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスに請われて1990年3月19日からアメリカの5つの都市と、91年にはロンドンでユニセフのための慈善コンサートを行った。それはヘプバーンが『アンネの日記』からの抜粋を朗読し、トーマスのオリジナルの管弦楽曲『アンネ・フランクの日記より』と合わせて全体を構成するという試みだった。ヘプバーンはそれまでアンネ・フランクを演じる話を全て断っていたが、「今度は、私はアンネ・フランクを演じるのではなく、読むだけなのです。今でも彼女を演じようとは思いません。それはあの戦争の恐怖の中へ自分を押し戻すことだからです」と語っている。ロンドンの舞台に立つのは40年ぶりのことであり、これが最後となった。トーマスは1995年の4月と5月に再度コンサートをやって、きちんと録音することを望んだが、それは叶わなかった。「彼女は意に反してアンネ・フランクになりきっていた。ヴィデオ・テープが残っていないのが残念でならない」とトーマスは語っている。",
"title": "女優業"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "PBSのテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』は、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した翌日の1993年1月21日からだった。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞(Outstanding Individual Achievement – Informational Programming)を受賞した。",
"title": "女優業"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1992年5月には2つの録音を行なっている。1つはラロ・シフリンが指揮をするサン=サーンスの『動物の謝肉祭』で、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語(英語版)』では、グラミー賞の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。",
"title": "女優業"
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{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1949年に舞台『ソース・タルタル』で共演したフランス人の歌手、マルセル・ル・ボンに心惹かれ、初めて真剣な交際をした。マルセル・ル・ボンは『ソース・ピカント』の後にヘプバーンや舞台の仲間と新しいショーで巡業を計画したが頓挫、責任を感じてアメリカに逃げてしまった。ヘプバーンはこの新しいショーの為に、『素晴らしき遺産』では主要人物の役が割り振られていたが断っている。ショーの頓挫後、慌てて再度監督に会いに行ったが、既に配役が決まっており、ヘプバーンは残っていたシガレット・ガールの役を演じることになった。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1950年に『ラベンダー・ヒル・モブ』撮影直後にヘプバーンは男爵ジェイムズ・ハンソン(英語版)と知り合いすぐに恋に落ち、1951年12月には婚約した。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は1952年『ローマの休日』撮影後に破談となった。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1953年撮影の『麗しのサブリナ』で、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったと言われている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており子供ができないことを告げられ、これによりヘプバーンが別れを切り出したと言われている 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートがヘプバーンに辛く当たっていたと言われているが、息子ショーンがヘプバーンに訊いてみたところ、関係は良かったと答えている。ただ、一人の女優としては認めてないと感じていたし、ボガートがそう言っているという噂も耳にしていたとも言っている。ショーンがそんなのフェアじゃないと言うと「あの方がそう思う理由があったのよ」と息子を諌めている。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "母エラが1953年7月に開いたパーティーで、ヘプバーンはグレゴリー・ペックに紹介されてアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリー』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月1日から稽古が始まっている。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのビュルゲンシュトックで結婚した。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "結婚後ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用していると噂されるようになった。「一種の主人と奴隷の関係」と記事にされた時にはヘプバーンは激怒している。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、投げ出されたヘプバーンは背中を4箇所骨折し、結局撮影終了後に流産してしまった。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "それまでも何度かメル・ファーラーとの不仲の噂があったが、『マイ・フェア・レディ』撮影中からまた離婚説が囁かれるようになった。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "その後も1965年12月にヘプバーンは妊娠したが1966年1月には流産、1967年7月にまたもや流産となってしまった。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "そして1967年7月22日、スペインの別荘に行くために空港に降り立ったオードリーをメルが迎えに行ったが、それまでとは違い一切写真を撮らせず、7月31日にはオードリーはスイスへ帰って行った。そしてヘプバーンとメルは1967年8月31日に別居を世界中に発表。二人の代理人は8月はじめには別居に同意していたと述べている。最終的に二人は1968年12月に離婚し、二人の結婚は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村にある「ラ・ペジブル」という家を購入。息子ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。その後、1968年6月ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、「ラ・ペジブル」で数か月間、読書や庭いじりや絵を描いたりしながら過ごしていた。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった。そしてヘプバーンのほうも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演したベン・ギャザラと不倫の関係になっていた。ヘプバーンとドッティは1980年夏に離婚を決意、別居した。1982年に正式に離婚し、二人の結婚は13年で終わった。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った。ドッティは2007年10月に消化管内視鏡検査の合併症で死去している。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期に、友人を介してオランダ人俳優ロバート・ウォルダースと知り合い、1980年から死去するまで恋愛関係にあった。ドッティとの離婚が成立するとヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めた。ウォルダースは妻マール・オベロンと死別していたが、ヘプバーンと正式に結婚することはなかった。ヘプバーンは1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、1984年8月26日にはスイスの自宅「ラ・ペジブル」で母エラが亡くなっている。ヘプバーンを厳しく育て、ヘプバーンの父ジョゼフと同じように愛情を表すのが苦手だった。『パリの恋人』で知り合って以来、脚本家のレナード・ガーシュは母エラと友達であったが、「エラは素晴らしいユーモアのセンスを持っていたし、オードリーもそうだった。残念なことに母と娘が一緒にユーモアを楽しむことがなかった」しかし「エラは娘を心から愛していた」と語っている。またロバート・ウォルダーズも「母親は感情を外に出すことができずに苦しんでいたのだと思う」「娘本人に対してはそれができなかった」と述べている。",
"title": "私生活"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務める『愛の世界』というユニセフの特別番組に当時住んでいたイタリアを代表して出演した。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1987年10月、オランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟にマカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、ユニセフのポルトガル支部へのスピーチを依頼された。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自ら申し出た。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "次にジュゼッペ・シノーポリ指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かった。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "マカオと東京での成功後、各国のユニセフからの依頼が続々と舞い込み、1988年3月9日にユニセフ親善大使の依頼を引き受けることとなった。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後にユニセフの前身の UNRRAに助けられ、その後女優として大きな成功を収められた経験から、残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会い、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロートは「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに語学がありました。(英語の他にも)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダ語は当然です。ユニセフの活動をスポットで緊急に流さないといけないとき、すぐその場でオードリーがどの主要言語でもアナウンスを流してくれました」と語っている。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、ユニセフ親善大使の任命の発表から2週間と経たない1988年3月のエチオピアへの訪問が最初だった。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレの孤児院を慰問した。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10月には南米諸国を訪れた。ベネズエラとエクアドルをめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラでそれぞれの大統領と面会している。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「ライフライン作戦」計画の一環としてスーダンを訪れた。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだった。さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いた。国連の報道写真家、ジョン・アイザック(英語版)は「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている。1990年10月にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与することとなった。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った。",
"title": "ユニセフ親善大使"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査のため10月にロサンゼルスへと渡った。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センターに入院し、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫であることが明らかとなった。5年ほどかけて成長した癌が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。そして11月1日、手術が行われた。",
"title": "死去"
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{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない。」と語ったが、タブロイド紙の「ナショナル・エンクワイアラー」が手術室の誰かを買収して「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」だとセンセーショナルに報じた。ロバート・ウォルダース、息子のショーンとルカはヘプバーンは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「あの時だけは真実を語っていたのは彼らの方で、われわれは嘘をついていた。われわれが嘘をついたのは自分を力づけるためだった。」とのちに語っている。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが何度も見舞いに来ていた。1週間後には退院し、「第二のホーム」と呼ぶヘプバーンの親友のコニー・ウォルドの家に移った。傷口が塞がってから抗がん剤フルオロウラシルとフォリン酸による化学療法が始まった。副作用もなく、1週間以内に再度化学療法を受けることになって家族は希望をつないでいた。しかし数日後腸閉塞になり、12月1日に再入院した。病院に戻る為にヘプバーンとショーンが準備をしていた時、本当は怯えていた心の内側を1度だけヘプバーンは見せて、「ああ、ショーン、たまらなく恐いの」と涙をいっぱいにたたえた目でショーンにしがみついて囁いた。同日再手術が行われたが、腫瘍が急激に広がりすでに手の施しようがなく、開腹したもののすぐに閉じたため1時間もせずに終了した。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスをスイスの自宅で過ごさせるために飛行機で送り返すことを決めた。しかしヘプバーンはかなり衰弱しており通常の国際便での旅には耐えられない状態だった。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年の友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥のポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した。それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでショーンにジバンシィに電話を掛けさせたが、胸がいっぱいで言葉にならず、「ああ、ユベール...本当に感激だわ」と呟くのがやっとだった。電話を切ると、「あの方は、私が彼の人生のすべてだとおっしゃってくださったのよ!」と言って顔を輝かせた。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "出発前日の12月19日に医師たちは、離陸時の気圧の変化に耐えられず腸の血管が破れ腹膜炎を起こす可能性があり、そうなると敗血症で1時間ともたないだろうと告げたが、ヘプバーンはビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻やジェームズ・スチュワートという親しい友人に会って最後の別れを告げた。ヘプバーンは痛みがものすごくひどいことを隠して、みんなの気持ちをひきたてようとしていた。帰りに夫人からそれを聞いたペックはグレープフルーツ大の塊が喉につかえた感じだったと語っている。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "翌12月20日にロサンゼルスを出発。ジェット機には医師と看護師が付き添った。パイロットは非常にゆっくり高度を上げ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知ったという。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "クリスマス、食べることの出来なかったヘプバーンはみんなのディナーの後で苦労して2階から降りてきて、友人や家族にクリスマスプレゼントを渡した。ヘプバーンは買い物に出かけられないため、これまで持っていたスカーフ、セーター、ロウソクなどから一人一人に選んだものであったが、皆が感動した。そのあとヘプバーンはサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」の一部を息子のショーンとルカのために読んでいる。ロバート・ウォルダーズはヘプバーンが超人的な勇気を奮い起こして、ウォルダーズと子供達がヘプバーンを失うことに耐えられるよう助けようとしていると感じたという。ウォルダーズは、その夜ヘプバーンが暗闇のベッドの中で「今年のクリスマスが今までで一番幸せだったわ」という声が、今も耳に残っている、と語っている。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "スイスの自宅では、ヘプバーンは家族や友人に付き添ってもらって毎日庭に出て20分散歩するのが精神的な支えであったが、塀越しに隠し撮りしたり、ヘリコプターで上空からどこまでも追いかけてくるパパラッチのために諦めないといけないことがあった。ジバンシィがパリから来た時にも一緒に庭を散歩したが、10歩ごとに立ち止まって休まなくてはならなかった。ヘプバーンは最後の贈り物としてキルトのコートを買い、ジバンシィが帰り際にヘプバーンはそのうちのネイビー・ブルーのコートを贈った。軽く口づけし、「これを着たらわたしのことを思い出してね」と小声で言いながらジバンシィに渡した。1月17日にヘプバーンは最後の散歩をしている。ヘプバーンは死の2、3日前まで「わたしのために笑って」とウォルダーズに言っていた。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "病が進行するにつれて次第に長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間はいっときに数分以上起きていられなかったという。そして1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナの自宅で、がんのために息を引き取った。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切った。ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子(英語版)が弔辞を述べ、高官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クアレス・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロン、ロジャー・ムーアらが参列した。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた。葬儀の後、ショーンが挨拶に立った。最後のクリスマスにヘプバーンが読んだサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」を読んだ後、最後に庭を散歩した時のことを語っている。「庭師のジョバンニがやって来てこう言いました。『奥様、よくおなりになったら枝を刈り込んだり花を植えたりするのを手伝ってくださいまし。』母はにっこり笑って答えました。『ジョバンニ、お手伝いするわ......でもこれまでとは違うやり方でね』」そしてヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された。",
"title": "死去"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。",
"title": "後世への影響や評価"
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{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは生前、自伝を書くように多くの出版社から求められたが、「人間はほかの多くの人との関わりの中で生きているのだから、必然的に他人についても語らなくてはいけません。そんなことをする権利は私にはないし、するつもりもありません」としてそのたびに断っている。ヘプバーンの死後、奔流のように他人が書いた伝記本が発売されたが、書籍によって内容が凄まじく異なっている。中にはヘプバーンに直接インタビューをした「公認の伝記」と偽って出されたものまであるが、ウォルダーズは「オードリーが話をしたことは絶対に無い」「詳細な記録もつけているし、泊まったホテルの電話の記録まで取り寄せた。その時期にはヘプバーンには死期が迫っていた」と語り、息子二人とウォルダーズに訴訟を起こされたものまである。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは世界で唯一日本にだけ、新しく撮り下ろしたテレビCMに出演した。1971年(日本エクスラン工業のエクスラン・ヴァリーエ)・82年(株式会社ワールドの銀座リザ)と2度も出演している。海外では放送されておらず、日本でのみ放送された。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "既存のフィルムを使うものとしては、2000年〜2001年に『ローマの休日』のモノクロフィルムを着色してデジタル化された映像がキリンの午後の紅茶のCMに採用されていたほか、2005年〜2007年には三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用していた。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。この吹替を担当した声優がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池田昌子だった。その他多くの企業がオードリー・ヘプバーンを使用している。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DCの曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカのGAPのCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、イギリス製チョコレートのギャラクシーの広告に使用された。",
"title": "後世への影響や評価"
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{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサーに選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手QVCによる「20世紀最高の美女」を決めるアンケート調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水エビアンを発売するダノンによる「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンローやジェーン・マンスフィールドといった豊満な女優たちとは異なり、ヘプバーンは大きな瞳をもつ細身で優雅な女優だった。映画監督ビリー・ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」と言った。",
"title": "後世への影響や評価"
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{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "しかしヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大きすぎると悩んでいたそれ以外にも歯並びが悪く、鼻孔が広いのを気にしていた。「映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに」とヘプバーンは言っていた。だから目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊敬を忘れなかった。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている。ヘプバーンが現代ファッションに及ぼした影響は飛び抜けており、デザイナーのマイケル・コースは「今のファッションを、女性たちは当然のように思って着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったら、そういった服を今着てはいないだろう」と述べている>。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "ヘプバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。衣装はイーディス・ヘッドの担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出した。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "パラマウントの関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンだと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘプバーンに答えている。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えた。ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだし、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8cm)を着こなしてみせた。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "後年、ジバンシィはヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われて感激したと話している。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装を担当した。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズだった。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「カメラの前に立ったときのオードリー・ヘプバーンの天性の素晴らしさには永遠に圧倒され続けるだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている。",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモとは1954年から親交があり、ヘプバーンの足の木型は現在でもフィレンツェのサルヴァトーレ・フェラガモ博物館が所蔵している。1999年にはそのフェラガモ博物館で「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル(Audrey Hepburn, a woman, the style)」と銘打った展示会が開かれ、2000年〜2001年には日本各地を巡回した。この展示会はヘプバーンの映画や私生活での衣装や靴、写真などが大量に展示される大規模な展示会だった。フェラガモは虐待児童をケアするオードリー・ヘプバーン・チルドレンズ・ハウスを作る資金を集めると発表し、この展示会の収益もこれに充てられた。(2004年〜2009年には息子ショーンによって、「timeless audrey」展という大規模な展示会も世界で開かれた。こちらも世界に先駆けて2004年〜2005年に日本全国を巡回している。)",
"title": "後世への影響や評価"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "またヘプバーンがドッティと結婚していてローマに住んでいた70年代、ジバンシィでは高価すぎるので、友人に頼んでイタリアの当時新進気鋭のデザイナー、ヴァレンティノ・ガラヴァーニを紹介してもらい、友人となっている。日本のCM「エクスラン・ヴァリーエ」に出演した時や、『ロビンとマリアン』のポスターやパンフレットで着ていた衣装はヴァレンティノのものである。後年、ヴァレンティノのデビュー25周年の展示会で使うために、ヘプバーンのために作られた衣装を貸したところ、「こんなに大切に扱ってくれたのは貴方だけだ。新品のようだね」とヴァレンティノに言われて、ヘプバーンはずっと誇りに思っていたという。",
"title": "後世への影響や評価"
},
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"paragraph_id": 103,
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"text": "ヘプバーンは晩年にはラルフ・ローレンの服も多用しており、『庭園紀行』の企画が持ち込まれたとき、衣装で相談したのもローレンだった。「夜はジバンシィを着るのが好きだけど、昼間はあなたのスポーティーな衣装の方がいいわ」とローレンに言っている。1991年、リンカーン・センター映画協会の「オードリー・ヘプバーンをたたえる夕べ」で、ラルフ・ローレンはファションに及ぼしたヘプバーンの並外れた影響力について話している。「オードリー・ヘプバーンの名はあらゆる雑誌編集者やファションに従事するものによって、おそらく絶えず口にされているはずです。“すごくオードリーだ!”という形で」「こういう表現をオードリーが聞いたことがあるかどうかわかりませんが、ジバンシィは聞いたことがあるはずです」と述べて喝采を浴びた。",
"title": "後世への影響や評価"
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"text": "2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった。『ティファニーで朝食を』のオープニングシーンの為にジバンシィが3着の同じドレスを用意したが、ジバンシィのデザインはサイドに深いスリットが入っていたためヘプバーンの映画には不適として、パラマウントでイーディス・ヘッドによってスリットの無い複製が作られることとなった。実際にヘプバーンが着用したドレスは撮影後に廃棄され、現存していない。",
"title": "後世への影響や評価"
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"text": "2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された。",
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"text": "『the audrey hepburn treasures』には巻末にヘプバーンが受賞、あるいはノミネートされた賞や名誉が117掲載されている。詳細は『オードリー・ヘプバーンの受賞リスト(英語版)』を参照。",
"title": "受賞"
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] | オードリー・ヘプバーンは、イギリス人女優。ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。 ヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケルのもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。 イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌでトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。 70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。 | {{Otheruses|[[英国人]]の女優|彼女を基にした2022年5月6日に劇場公開された同名のドキュメンタリー映画|オードリー・ヘプバーン (映画)}}
{{ActorActress
| 芸名 = Audrey Hepburn
| ふりがな = オードリー・ヘプバーン
| 画像ファイル = Audrey Hepburn 1956.jpg
| 画像サイズ = 225px
| 画像コメント = 1956年のヘプバーン
| 本名 = オードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン({{lang-en-short|Audrey Kathleen Hepburn-Ruston}}){{Sfn|竹書房|2004|p=「はじめに」ix}}
| 出生地 = {{BEL}} [[ブリュッセル]]・[[イクセル]]
| 死没地 = {{CHE}} [[ヴォー州]]
| 国籍 = {{UK}}
| 民族 =
| 身長 = 170cm<ref>ヘプバーンの長男ショーン・ヘプバーン・フェラー(ファーラー)著(2004年5月18日初版発行)『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』.「はじめに」x頁6行目.竹書房.</ref>
| 生年 = 1929
| 生月 = 5
| 生日 = 4
| 没年 = 1993
| 没月 = 1
| 没日 = 20
| 職業 = [[俳優|女優]]
| ジャンル = [[映画]]、[[演劇|舞台]]、[[テレビドラマ]]
| 活動期間 = 1948年 - 1989年(女優)
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[メル・ファーラー]](1954年 - 1968年)<br />アンドレア・ドッティ(1969年 - 1982年)
| 著名な家族 = 息子:ショーン・ヘプバーン・ファーラー(1960年生)<br />息子:ルカ・ドッティ(1970年生)<br />孫:エマ・ファーラー(1994年生)
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[ローマの休日]]』(1953年)<br />『[[麗しのサブリナ]]』(1954年)<br />『[[パリの恋人]]』(1957年)<br />『[[昼下りの情事]]』(1957年)<br />『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』(1961年)<br />『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年)<br />『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年)<br />『[[おしゃれ泥棒]]』(1966年)<br />『[[いつも2人で]]』(1967年)<br />『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』(1967年)
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]<br />'''[[第26回アカデミー賞|1953年]]『[[ローマの休日]]』<br />'''[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]'''<br />[[第65回アカデミー賞|1992年]]
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />[[第19回ニューヨーク映画批評家協会賞|1953年]]『[[ローマの休日]]』<br />[[第25回ニューヨーク映画批評家協会賞|1959年]]『[[尼僧物語]]』
| AFI賞 = '''[[映画スターベスト100]]'''<br />1998年(女優部門第3位)<br />'''[[アメリカ映画主題歌ベスト100]]'''(第4位)<br />[[2004年]]『[[ムーン・リバー]]』
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国女優賞]]'''<br />1954年『[[ローマの休日]]』<br />1960年『[[尼僧物語]]』<br />1965年『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』<br />'''特別賞'''<br />1992年<ref name="BAFTA">{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1992/film/special-award-3|title=Film Special Award in 1992|publisher=[[英国映画テレビ芸術アカデミー]]|language=英語|accessdate=2021-11-16}}</ref><ref name="BAFTA Heritage">{{cite web|url=https://www.bafta.org/heritage/features/100-bafta-moments-9-days-to-go|title=100 BAFTA Moments - Audrey Hepburn Receives the Special Award|publisher=[[英国映画テレビ芸術アカデミー]]|language=英語|accessdate=2021-11-16}}</ref>{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=185}}
| エミー賞 = '''情報番組個人業績賞'''<br />[[第45回プライムタイム・エミー賞|1993年]]『[[オードリー・ヘプバーンの庭園紀行]]』
| グラミー賞 = '''児童向け朗読アルバム賞'''<br />[[第36回グラミー賞|1994年]]『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]'''<br />[[第11回ゴールデングローブ賞|1953年]]『[[ローマの休日]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第47回ゴールデングローブ賞|1989年]]
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| ジェミニ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞生涯功労賞|生涯功労賞]]'''<br />[[1992年]]
| セザール賞 =
| トニー賞 = '''[[トニー賞 演劇主演女優賞|演劇主演女優賞]]'''<br />1954年『[[オンディーヌ (戯曲)|オンディーヌ]]』<br />'''特別賞'''<br />1968年
| 日本アカデミー賞 =
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 = '''[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]]'''<br />'''外国女優賞'''<br />1960年『尼僧物語』<br />1962年『ティファニーで朝食を』<br />1965年『マイ・フェア・レディ』<hr />'''[[サン・セバスティアン国際映画祭]]'''<br />'''女優賞'''<br />1959年『尼僧物語』<hr />'''ゴールデン・ローレル賞'''<br />'''女性コメディ演技賞'''<br />1958年『昼下りの情事』
| 備考 =
}}
[[ファイル:Audrey Hepburn signature.svg|thumb|260px|ヘプバーンのサイン]]
'''オードリー・ヘプバーン'''({{lang-en-short|'''Audrey Hepburn'''}}、[[1929年]][[5月4日]] - [[1993年]][[1月20日]])は、[[イギリス人|英国人]][[俳優|女優]]。'''ヘップバーン'''とも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]](AFI)の「[[映画スターベスト100|最も偉大な女優50選]]」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。
<!-- 全体のリード文なので、「概要」節などで区切らないでください -->
ヘプバーンは[[ブリュッセル]]の[[イクセル]]で生まれ、幼少期を[[ベルギー]]、[[イングランド]]で過ごした。[[オランダ]]にも在住した経験があり、第二次世界大戦中には[[ドイツ軍]]が占領していた[[オランダ]]の[[アーネム]]に住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあった[[オランダ]]で、「オードリー」という名があまりに英国風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて({{lang|nl|Ella}}を{{lang|nl|Edda}}とした)持たせた偽名である{{Sfn|竹書房|2004|pp=「まえがき」xiv-xv}}。5歳ごろから[[バレエ]]を初め、[[アムステルダム]]では{{仮リンク|ソニア・ガスケル|en|Sonia Gaskell}}のもとでバレエを習い、1948年には[[マリー・ランバート]]にバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。
英国で数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『[[ジジ]]』で主役を演じ、1953年には『[[ローマの休日]]』で[[アカデミー主演女優賞]]を獲得した。その後も『[[麗しのサブリナ]]』(1954年)、『[[尼僧物語]]』(1959年)、『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』(1961年)、『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年)、『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年)、『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、[[ゴールデングローブ賞]]、[[英国アカデミー賞]]を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である[[オンディーヌ (戯曲)|オンディーヌ]]で[[トニー賞 演劇主演女優賞]]を受賞している。さらにヘプバーンは死後に[[グラミー賞]]と[[エミー賞]]も受賞しており、[[アカデミー賞・エミー賞・グラミー賞・トニー賞を全て受賞した人物の一覧|アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物]]の一人となっている。
70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を[[国際連合児童基金]](ユニセフ)での仕事に捧げた。[[ユニセフ親善大使]]として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりには[[アメリカ合衆国]]における文民への最高勲章である[[大統領自由勲章]]を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で[[虫垂癌]]のために63歳で死去した<ref>{{cite book|last=Ferrer|first=Sean
|title=Audrey Hepburn, an Elegant Spirit|publisher=Atria|location=New York|year=2005|isbn=978-0-671-02479-6|page=148}}</ref><ref name=barryparis>{{cite book|last=Paris|first=Barry|title=Audrey Hepburn|publisher=Berkley Trade|location=City|year=2001|isbn=978-0-425-18212-3}}</ref><ref>{{cite book|last=|first=|title=『AUDREY HEPBURN A Life in Pictures』の中のAxelle Emdennoの文|publisher=Pavilion|location=London|year=2007|isbn=978-1-86205-775-3|page=19|date=|author=|editor=Yann-Brice Dherbier}}</ref>。
== 前半生 ==
ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都[[ブリュッセル]]の[[イクセル]]に生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた{{Sfn|竹書房|2004|pp=「まえがき」xiv-xv}}。
父親は[[オーストリア・ハンガリー帝国]][[ボヘミア]]のウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=34}}{{Sfn|ハイアム|1986|p=7}}{{efn|ヘプバーンの出生証明書には、父ジョゼフはロンドン生まれだと記されている。しかしながらこの記録は1952年になって生母エラによって「(オーストリア領)ボヘミアのウジツェ出身」と改められた。ウジツェは現在ではチェコに属している<ref>[https://web.archive.org/web/20210514202242/http://www.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html https://sites.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html]。</ref>。}}。ジョゼフの母親はオーストリア系で{{efn|母アンナは[[スロヴァキア]]出身だった<ref> [https://web.archive.org/web/20210514202242/http://www.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html https://sites.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html]</ref>。}}、父親は英国、オーストリア系だった<ref name="Walker, page 62">Walker, page 6</ref>。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、[[オランダ領東インド]]で知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある{{Sfn|ウォーカー|2003|p=25}}。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない{{Sfn|竹書房|2004|pp=9-10}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=35}}。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた{{Sfn|竹書房|2004|p=10}}。
ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)は[[爵位|バロネス]]の称号を持つオランダ貴族だった{{Sfn|カーニー|1994|p=15}}{{Sfn|ハイアム|1986|p=8}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=21}}。エラの父親は男爵{{仮リンク|アールノート・ファン・ヘームストラ|en|Aarnoud van Heemstra}}で、1910年から1920年にかけて[[アーネム]]市長を、1921年から1928年にかけて[[スリナム]]総督を務めた政治家である{{Sfn|ウォーカー|2003|p=21}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=21-22}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=29-37}}。エラの母親もオランダ貴族の出身だった{{Sfn|ウッドワード|1993|p=22}}。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=31-34}}。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている{{Sfn|ハイアム|1986|p=9}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=31-34}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=26}}。
ジョゼフとエラは、1926年9月に[[バタヴィア]](現・[[ジャカルタ]])で結婚式を挙げた{{Sfn|カーニー|1994|p=15}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=31-34}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=26}}。その後二人は英国での生活を経てベルギーのイクセルへ移り住み、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=35-36}}。さらに一家は1932年1月にリンケベークへと移住している<ref>
{{cite web
|author=vrijdag 6 mei 2011, 07u26
|url=https://www.bruzz.be/culture/news/de-vijf-hoeken-van-de-wereld-amerika-elsene-2011-05-06
|title=De vijf hoeken van de wereld: Amerika in Elsene
|publisher=brusselnieuws.be
|accessdate=14 March 2012
}}</ref>{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=36-37}}。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じて英国国籍を持っていた{{Sfn|ウォーカー|2003|p=27}}。
結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王[[メアリ]]の3番目の夫である第4代ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン (第4代ボスウェル伯爵)|ジェームズ・ヘプバーン]]の末裔<sup>[[オードリー・ヘプバーン#cite note-Enchantment-9|[9]]]</sup> がいるのを発見し{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=13-14}}<ref>日本では未訳の、Warren G.Harris の伝記に書かれている、とバリー・パリスの伝記の日本版上巻p36(単行本版)に書いている。</ref>、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=13-14}}<ref>2004年に発行された息子ショーンの『母、オードリーのこと』ではジョセフが発見したことになっていたが、2006年の『the audrey hepburn treasures』はショーンも関わっているので、後年のエラが発見した方を採用。</ref>。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xiv}}。1948年、[[デン・ハーグ|ハーグ]]の英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xv}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=44及びその隣にレプリカが封入}}、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている{{Sfn|竹書房|2004|pp=「まえがき」xviii-xix}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=165}}<ref group="注釈">それ以前のパスポートではオードリー・ドッティ、さらにそれ以前はA・ファーラーとサインされている。</ref>。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=23-24}}、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=23-24}}。
=== 幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代 ===
ヘプバーンの両親は1930年代に[[イギリスファシスト連合|英国ファシスト連合]]に参加し{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=39-41}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=30-34}}、父ジョゼフは過激な[[ナチズム]]の信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=30-34}}。1939年6月、正式に離婚が成立している<ref>{{cite web|url=http://www.thepeerage.com/p47215.htm#i472145|title=Ella barones van Heemstra|publisher=The Peerage|accessdate=31 January 2020}}</ref>。ジョゼフは英国に渡り、戦争が始まると逮捕され[[マン島]]で過ごした{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=59-60,99}}。その後1960年代になってから、当時の夫[[メル・ファーラー]]の尽力でヘプバーンは[[赤十字社]]の活動を通じて父ジョゼフと[[ダブリン]]で再会することができた{{Sfn|竹書房|2004|pp=7-9}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=336-337}}<ref group="注釈">ヘプバーンの次男ルカ・ドッティ、及びアレグザンダー・ウォーカーの伝記では1959年、となっている。</ref>。その後もスイスの自宅で会っている{{Sfn|竹書房|2004|pp=7-9}}。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている{{Sfn|竹書房|2004|pp=7-9}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=336-337}}<ref>Klein, Edward. (5 March 1989). [https://web.archive.org/web/20080308082422/http://audreyhepburnlibrary.com/80s/images/parade5-5-89pg2.jpg "You Can't Love Without the Fear of Losing"]. ''[[:en:Parade (magazine)|Parade]]''.</ref>。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行した{{仮リンク|ロバート・ウォルダーズ|en|Robert Wolders}}には娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた{{Sfn|竹書房|2004|pp=9-10}}。
ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った{{Sfn|ウォーカー|2003|p=37}}。このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、[[デン・ハーグ]]にいる父親のもとで過ごすことも多かった{{Sfn|ウォーカー|2003|p=37}}。1937年に幼いヘプバーンは英国の[[ケント (イングランド)|ケント]]へと移住した{{Sfn|ウォーカー|2003|p=38}}。ヘプバーンは<!--[[エラム]]-->イーラム ([[:en:Elham, Kent|Elham]]) という村の小さな私立女学校に入学し、またバレエにも通い始めた{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=38-41}}<ref>
{{cite web
|url=http://www.elham.co.uk/Famous_People.htm
|title=Famous and Notable People 'In and Around' the Elham Valley
|publisher=www.elham.co.uk
|accessdate=4 September 2009
}}</ref>。[[第二次世界大戦]]が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=43-45}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=41-42}}。オランダは[[第一次世界大戦]]では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=43-45}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=42-43}}。ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=46,48}}。1940年にドイツが[[オランダにおける戦い (1940年)|オランダに侵攻]]し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「英国風の響きを持つ」名前は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった{{Sfn|竹書房|2004|pp=まえがきxiv-xv}}。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツの[[レジスタンス運動]]に関係したとして処刑された{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=62-63}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=31-32}}。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=63,84}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=41}}<ref>
{{cite news
|title=Audrey Hepburn: an iconic problem
|url=https://www.theguardian.com/film/2011/jan/20/audrey-hepburn-breakfast-at-tiffanys
|first=Alex
|last=Cox
|date=20 January 2011
|work=The Guardian
|location=UK
}}</ref>。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、[[ヘルダーラント州|ヘルダーラント]]のフェルプ近郊へと身を寄せた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=63-64}}。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=44-45}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=50}}<ref group="注釈">長男ショーンの書いた『母、オードリーのこと』では赤いコートを着た女の子になっている。</ref>。
1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=67-68}}。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=67-68}}。連合国軍が[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディーに上陸]]しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による[[マーケット・ガーデン作戦]]の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=79-81}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=47}}<ref name="nytimesobit">
{{cite news
|last=James
|first=Caryn
|year=1993
|url=https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html
|title=Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63
|work=New York Times
|accessdate=26 November 2006
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070118162914/http://www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html
|archivedate= 18 January 2007
}}</ref>。当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている{{Sfn|竹書房|2004|pp=20-24}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|p=25}}。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には[[貧血]]、[[気管支喘息|喘息]]、[[黄疸]]、[[水腫]]にかかっていた{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=83}}。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の[[連合国救済復興機関]](UNRRA)から届いた食料と医薬品だった{{Sfn|ウォーカー|2003|p=56}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=82-83}}。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=82-83}}。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる<ref name="nytimesobit" />。
== 女優業 ==
=== キャリア初期 ===
1945年の第二次世界大戦終結後に兄2人が帰ってきて独立すると、10月に母エラとオードリーは[[アムステルダム]]へと移住した{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=86}}。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった<ref>
{{cite web
|url=http://audreyhepburn.com/|title=Welcome to Audrey Hepburn.com
|publisher=Audreyhepburn.com
|accessdate=10 March 2010
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100323170817/http://www.audreyhepburn.com/
|archivedate= 23 March 2010 <!--DASHBot-->
|deadurl= no
}}</ref>。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『[[オランダの七つの教訓]]』で、ヘプバーンの役どころは[[オランダ航空]]のスチュワーデスだった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=95-96}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=33-34}}{{Sfn|バーミリー|1997|pp=21,68}}。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、英国のバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家[[マリー・ランバート]]が主宰する[[ランバート・ダンス・カンパニー|ランバート・バレエ団]]で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた{{Sfn|竹書房|2004|pp=34,36}}。ただしヘプバーンの170cmという身長と{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=46,48}}、体格や筋肉を作る成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから{{Sfn|竹書房|2004|p=37}}、ヘプバーンが[[プリマドンナ|プリマ・バレリーナ]]になることは難しいと言われている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=104-105}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=39-40}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=56}}。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した{{Sfn|竹書房|2004|p=37}}<ref>
{{cite episode
|series=Larry King Live
|title=Audrey Hepburn's Son Remembers Her Life
|transcripturl=https://transcripts.cnn.com/show/lkl/date/2003-12-24/segment/00
|airdate=2003-12-24
|network=CNN
}}</ref>。
ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのロンドン・ヒッポドローム劇場で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドの[[ケンブリッジ・シアター]]で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=112-113}}<ref>
{{cite book
|last=Walker
|first=Alexander
|title=Audrey, Her Real Story
|publisher=Orion
|location=London
|year=1994
|page=55
|isbn=1-85797-352-6
}}</ref>。『ソース・ピカンテ』の出演時に、英国の映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーションの配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優として英国の映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた<ref name=barryparis/>。1950年に映画に出演するようになり、『[[素晴らしき遺産]]』、『[[若気のいたり]]』、『[[ラベンダー・ヒル・モブ]]』、『[[若妻物語]]』といった作品が1951年に公開された。1951年2月には{{仮リンク|ソロルド・ディキンスン|en|Thorold Dickinson}}の監督作品『[[初恋 (1952年の映画)|初恋]]』に、主人公の妹役で出演した{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=124-126}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=43-47}}。ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=126-127}}。
1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『[[モンテカルロへ行こう]]』への出演依頼を受け、フランスの[[コート・ダジュール|リヴィエラ]]での撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家[[シドニー=ガブリエル・コレット]]が訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言ったという有名なエピソードがある{{Sfn|ハイアム|1986|p=54}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=136-137}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=114-115}}{{Sfn|カーニー|1994|p=40}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=85-87}}。
『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=139-140}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=118-122}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=91-94}}。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=140-141}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=60-61}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=118-122}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=91-94}}。そこで見せた笑顔と反応を見た監督[[ウィリアム・ワイラー]]とパラマウント本社はヘプバーンを王女役に決定した{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=140-141}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=60-61}}{{Sfn|カーニー|1994|p=48}}<ref group="注釈">このテストのフィルムは現存するか不明だが、1954年9月号の『スクリーン』や1993年10月5日初版発行スクリーン特別編集『ハリウッドの妖精 オードリー・ヘプバーン写真集』などで写真を見ることができる。</ref>。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認めるという条件で[[パラマウント映画|パラマウント映画社]]と契約した{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=143}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=91-94}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=122-123}}<ref group="注釈">この契約についてバリー・パリスの伝記では2年、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では7本、イアン・ウッドワードの伝記では短期間に2本、となっている。</ref>。
『ジジ』は3回の試演の後、1951年11月24日に[[ブロードウェイ]]の{{仮リンク|フルトン・シアター|en|Fulton Theatre}}で初演を迎えたが、批評は絶賛の嵐だった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=153-157}}。劇場入り口には「『ジジ』 出演オードリー・ヘプバーン」と掲出されていたが、公演1週間後には「オードリー・ヘプバーン主演の『ジジ』」に改められた{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=129-130}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=101}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=158}}。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に[[千秋楽]]を迎えた<ref name="gigi">{{ibdb title|id=1977|title=Gigi}}</ref>。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られる{{仮リンク|シアター・ワールド・アワード|en|Theatre World Award}}を受賞している<ref name="gigi" />。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=171,174}}。
=== 『ローマの休日』 ===
[[ファイル:Audrey Hepburn screentest in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|200px|『[[ローマの休日]]』の衣装のテスト時のヘプバーン(1952年)。この写真は映画の宣伝素材としても使用された。]]
1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『[[ローマの休日]]』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、[[グレゴリー・ペック]]が演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役に[[エリザベス・テイラー]]や[[ジーン・シモンズ (女優)|ジーン・シモンズ]]を望んでいたが、どちらも出演できなかった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=139}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=117-118}}{{Sfn|カーニー|1994|p=48}}{{Sfn|バーミリー|1997|pp=29,80-81}}。
製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=140-141}}。しかしペックは撮影が始まってすぐ<ref group="注釈">イアン・ウッドワードの伝記では撮影が始まって2・3日、となっている。p140</ref>に自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=167-168}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=140-141}}。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張<ref group="注釈">この話はグレゴリー・ペック自身が語っている映像が残っている。ただし『想い出のオードリー・ヘップバーン』ではエージェントに、『ローマの休日』デジタル・ニューマスター2枚組の特典DVDの「『ローマの休日』の思い出」ではスタジオに要求したことになっている。</ref>、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=140-141}}。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった<ref>{{Cite book|和書|title=『オードリー・ヘップバーン 華麗なるパラマウント映画時代』|date=2006年12月26日初版|year=|publisher=東京書籍|author=トニー・ヌールマンド|pages=17-27}}</ref>。
『[[ニューヨーク・タイムズ]]』では「この英国の女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている{{Sfn|バーミリー|1997|p=86}}。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った<ref>{{Cite book|title=『マイ ファニーフェイス/オードリー・ヘプバーン』p17|date=2009年12月15日初版発行|year=|publisher=近代映画社}}</ref><ref>
{{cite news|title=Audrey Hepburn: Behind the sparkle of rhinestones, a diamond's glow|url=https://time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html|publisher=TIME|date=1953-9-7|accessdate=2009-5-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090512220104/http://www.time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html|archivedate=2009-5-12|deadurl=no}}</ref>。『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、[[アカデミー主演女優賞]]のほかに、[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国アカデミー最優秀主演英国女優賞]]、[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|ゴールデングローブ主演女優賞]]をヘプバーンにもたらした。
=== 『麗しのサブリナ』 ===
[[File:Holden-Hepburn-Sabrina.jpg|thumb|[[ウィリアム・ホールデン]]と共演した『[[麗しのサブリナ]]』(1954年公開)。]]
『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いて[[ビリー・ワイルダー]]監督の『[[麗しのサブリナ]]』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、[[ハンフリー・ボガート]]と[[ウィリアム・ホールデン]]が演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語である。『ニューヨーク・タイムズ』紙では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている{{Sfn|バーミリー|1997|p=92}}」と評された。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。
『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』で[[メル・ファーラー]]と共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨーク・タイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した{{Sfn|バーミリー|1997|p=33}}。
そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年の[[トニー賞 演劇主演女優賞]]を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンは[[シャーリー・ブース]]に次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=323}}。(その後、1974年に[[エレン・バースティン]]も受賞して3人になった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=323}}。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ<ref name=":0">『スクリーン』近代映画社、1954年12月号。再録『スクリーン復刻特別編集 オードリー・ヘプバーン「ローマの休日」〜「戦争と平和」』p36−37.2014年10月5日.</ref><ref name=":17">{{Cite book|和書|title=オードリー・ヘップバーン物語|date=1954年11月20日発行|year=|publisher=東京タイムズ|editor=泉 三樹夫|pages=123,126}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号|date=1963年5月15日発行|year=|publisher=近代映画社|pages=66-67}}</ref>{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=202}}<ref name=":0" group="注釈">結婚した日には24日説と25日説がある。24日説の本が長男ショーン、バリー・パリス、ジェリー・バーミリー、『the audrey hepburn treasures』<nowiki>''。''</nowiki>25日説の本がチャールズ・ハイアム、イアン・ウッドワード、アレグザンダー・ウォーカー、ロビン・カーニー、ショーンも関わった『timeless audrey』、『オードリー・ヘプバーン:私のスタイル』など。1954年『スクリーン』12月号(10月発売)にそのことの詳細が書かれており、24日にルツェルン湖畔のブオクスで町長に執り行ってもらったもので、出席者はヘプバーンとファーラー以外には2名だけ。25日に正式にビュルゲンシュトックで親族が呼ばれて結婚式が挙げられている。</ref>、二人の結婚は14年間続いた。
ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し<ref>
{{cite web
|url=http://www.goldenglobes.org/browse/member/28367
|title=Hepburn's Golden Globe nominations and awards
|publisher=Goldenglobes.org
|date=2010-1-14
|accessdate=2010-3-10
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100408051329/http://www.goldenglobes.org/browse/member/28367
|archivedate=2010-4-8
|deadurl= no}}</ref>、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。
===『パリの恋人』と『昼下りの情事』===
[[ファイル:Audrey Hepburn War&Peace.jpg|thumb|right|『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』のヘプバーン。1956年公開。]]
ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。[[ヘンリー・フォンダ]]、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪[[レフ・トルストイ]]の作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。
1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『[[パリの恋人]]』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、[[フレッド・アステア]]演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。
この年には『[[昼下りの情事]]』にも出演しており、[[ゲイリー・クーパー]]や[[モーリス・シュヴァリエ]]と共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=184}}。どちらも1957年に公開された。
1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『[[マイヤーリング]]』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=217-218}}。
また、ヘプバーンは、1957年に[[アンネ・フランク]]の『[[アンネの日記]]』を題材とした[[アンネの日記 (1959年の映画)|映画作品]]への出演依頼を受けた{{Sfn|竹書房|2004|p=103}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=285-286}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|p=97}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=217}}。監督の[[ジョージ・スティーヴンス]]の頼みでアンネの父、[[オットー・フランク]]が出演を説得するためにオードリーに会いに来たが{{Sfn|竹書房|2004|p=103}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|p=97}}、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」{{Sfn|竹書房|2004|p=103}}さらに「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」として断っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=285-286}}。最終的に映画のアンネ役は[[ミリー・パーキンス]]が演じた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=285-286}}。
===『尼僧物語』===
[[File:Hepburn-Perkins-1959.JPG|thumb|『[[緑の館 (映画)|緑の館]]』のヘプバーンと[[アンソニー・パーキンス]]。1959年公開。]]
1958年に入ると[[ピーター・フィンチ]]と共演した『[[尼僧物語]]』に出演する(公開は1959年)。この映画では心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした<ref>{{Cite book|title=『フレッド・ジンネマン自伝』p246|date=1993年10月23日初版|year=|publisher=キネマ旬報社|author=フレッド・ジンネマン}}</ref>。『バラエティ』誌は「彼女としては最高の演技を見せてくれた」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「映画界でも最も優れた演技である」と評した{{Sfn|バーミリー|1997|p=137}}。公開されるとワーナー・ブラザーズ映画史上最大のヒットとなった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=98}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=228-229}}。ヘプバーンはこのルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。他にゴールデングローブ賞にもノミネートされている。
ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて同じく1958年に『[[緑の館 (映画)|緑の館]]』に出演した(公開は1959年)。この作品でヘプバーンは、[[アンソニー・パーキンス]]演じるベネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす妖精のような少女リーマを演じた。監督は当時ヘプバーンの夫であった[[メル・ファーラー]]だった。
1959年にはヘプバーンが出演した唯一の[[西部劇]]『[[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]』(公開は1960年)でレイチェル役を演じた。レイチェルは[[バート・ランカスター]]や[[リリアン・ギッシュ]]が演じる家族に育てられたカイオワ族の娘で、取り戻しに来たカイオワ族と育ての家族の間で苦悩するという役である。
=== 『ティファニーで朝食を』===
[[ファイル:Audrey Hepburn in Breakfast at Tiffany's.jpg|thumb|『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』のオープニング・シーン。ヘプバーンが着用している黒のドレスは[[ジバンシィ|ユベール・ド・ジバンシィ]]がデザインしたものである。]]
ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年10月に、ヘプバーンは[[ブレイク・エドワーズ]]の監督作品『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』に出演した(公開は1961年)。この映画はアメリカ人小説家[[トルーマン・カポーティ]]の同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した<ref>E.A. Hanks. [https://www.vanityfair.com/culture/2010/06/holly-golightly-is-a-call-girl-and-other-revelations-about-breakfast-at-tiffanys], ''Vanity Fair'', 2010-6-22</ref>{{Sfn|ワッソン|2011|pp=247-249}}。これは、カポーティがホリー役には[[マリリン・モンロー]]が適役だと考えていたためだった<ref name=DMBAT>
{{cite news
|url=https://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1326830/Breakfast-At-Tiffany-s-Clashing-egos-nearly-killed-best-loved-films.html
|location=London
|work=Daily Mail
|first=Corinna
|last=Honan
|title=Tantrums at Tiffany's: How a viper's nest of clashing egos nearly killed off one of the best-loved films ever made
|date=14 November 2010}}</ref>。ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=349}}{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=72}}。
映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く<ref name=BBCSA>
{{cite news
|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3667517.stm
|work=BBC News
|title=Audrey Hepburn: Style icon
| date=2004-5-4
}}</ref>、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている{{Sfn|ワッソン|2011|pp=10-14}}。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、[[オードリー・ヘプバーンの黒いジバンシィドレス|ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトルブラックドレス]](シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表する[[リトルブラックドレス]]であるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われている<ref name="Glam">
{{cite web
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|title=The Most Famous Dresses Ever
|publisher=Glamour.com
|date=2007-4
|accessdate=2011-5-16
}}</ref><ref name="HM">
{{cite web
|url=https://www.hellomagazine.com/celebrities/2006/12/06/audrey-hepburn-dress/
|title=Audrey Hepburn dress
|work=Hello Magazine
|date=2006-12-6
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}}</ref><ref name="Independent">
{{
cite news
|url=https://www.independent.co.uk/life-style/fashion/news/audrey-hepburn-s-little-black-dress-tops-fashion-list-1984507.html
|title=Audrey Hepburn's little black dress tops fashion list
|work=The Independent
|location=UK
|date=2010-5-17 May 2010
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}}</ref><ref name="Steele2010">
{{cite book
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|title=The Berg Companion to Fashion
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|accessdate=2011-5-16 May 2011
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|publisher=Berg Publishers
|isbn=978-1-84788-592-0
|page=483
}}</ref>。
[[ファイル:Childrens Hour trailer.jpg|thumb|『[[噂の二人]]』(1961年)の予告編の[[シャーリー・マクレーン]]とヘプバーン。]]
ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『[[噂の二人]]』で、[[シャーリー・マクレーン]]、[[ジェームズ・ガーナー]]と共演した。『噂の二人』は[[レズビアン]]をテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語だった。アメリカ映画協会が規則を改正し、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画である{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=356-357}}<ref name=BBCSA/>。当時の保守的な社会的背景のためか、映画評論家はあら探しをするばかりであったが{{Sfn|バーミリー|1997|p=156}}、『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=112}}。アカデミー賞にも5部門でノミネートされている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=359}}。
=== 『シャレード』 ===
[[ファイル:Audrey Hepburn and Cary Grant 1.jpg|thumb|[[ケーリー・グラント]]と共演した『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年公開)。]]
ヘプバーンは1962年に2本の映画を撮影した。1つ目は『[[パリで一緒に]]』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、9年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの作品は2年後の1964年に公開された。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された話のなかで、一服の清涼剤だった」と言われている<ref name="vari">
{{cite news|title=Paris When It Sizzles|url=https://variety.com/review/VE1117793876.html|work=Variety|date=1964-1-1|accessdate=2009-5-28 May}}</ref>。
後年のヘプバーンの伝記では、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなどで撮影現場の雰囲気や状況が悪化し、撮影日数が遅れたと書かれている{{Sfn|ハイアム|1986|pp=206-208,210}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=365-366}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=247-248}}{{Sfn|カーニー|1994|pp=127-128}}。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている<ref>{{Cite book|和書|title=『オードリー・ヘプバーン』|date=1993年12月30日初版発行|year=|publisher=朝日新聞社|author=ボブ・ウィロビー|page=79}}</ref>。ヘプバーン自身も息子ショーンに「パリで一緒に」の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている{{Sfn|竹書房|2004|p=165}}。
ヘプバーンは続いて『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』で[[ケーリー・グラント]]と共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。かつてヘプバーンが主演した『麗しのサブリナ』と『昼下りの情事』の相手役にも目されていたグラントは撮影当時58歳で、年齢差がある当時33歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=373}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=265-266}}<ref>
{{Cite book
|last=Eastman
|first=John
|title=Retakes: Behind the Scenes of 500 Classic Movies
|publisher=Ballantine Books
|year=1989
|pages=57–58
|isbn=0-345-35399-4
}}</ref>。グラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語った{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=117}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=266}}。1963年に公開された時にヘプバーンはこの役で、三回目の英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。
=== 『マイ・フェア・レディ』 ===
[[ファイル:Harry Stradling-Audrey Hepburn in My Fair Lady.jpg|thumb|200px|『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年公開)の撮影現場。左は撮影監督の[[ハリー・ストラドリング]]。]]
1964年のミュージカル映画『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌で絶賛した<ref name="soundstage">Ringgold, Gene. My Fair Lady – the finest of them all!, ''Soundstage'', December 1964</ref>。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『[[マイ・フェア・レディ]]』の映画化である。舞台で[[イライザ・ドゥーリトル]]を演じていたのは[[ジュリー・アンドリュース]]だったが、製作の[[ジャック・L・ワーナー]]がアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=26}}。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=26}}。ジャック・L・ワーナーは1700万ドルというワーナー映画史上最大の制作費を回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=24-25,27}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=271-272}}。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=117,120}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=26}}。しかしジャック・L・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラー<ref group="注釈">エリザベス・テイラーは乗り気で、バリー・パリスの伝記では、「『マイ・フェア・レディ』の役を取ってきて」と当時の夫エディー・フィッシャーやエージェントに言っていたとなっている。イアン・ウッドワードの伝記ではヘプバーンに決定後も「『マイ・フェア・レディ』を私にやらせて」と何度もエディー・フィッシャーに言っていた、となっている。</ref>に役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=26-27}}{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=117,120}}。
ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3ヶ月前の1963年5月{{Sfn|ハイアム|1986|p=219}}から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=32-33,36-40}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=274}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=219,222-225}}。ヘプバーンが歌う場面は[[マーニ・ニクソン]]によってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=36}}。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=36}}。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている<ref>{{Cite book|title=『映画の友』p250|date=1964年2月号(1963年12月発売)|year=|publisher=株式会社映画の友}}</ref>。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=40}}。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=40}}{{Sfn|ハイアム|1986|p=225}}。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=52}}。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。
映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるということが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した<ref name="telegraphob">
{{cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/5894883/Audrey-Hepburn.html|location=London|work=The Daily Telegraph|title=Audrey Hepburn|date=1993-1-22}}</ref>。ボズリー・クロウザーは『ニューヨーク・タイムズ』紙で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・L・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した<ref name="bcmyfairlady">
{{cite news|url=https://www.nytimes.com/1964/10/22/archives/screen-lots-of-chocolates-for-miss-eliza-doolittlemy-fair-lady-bows.html|work=The New York Times|first=Bosley|last=Crowther|title=Screen: Lots of Chocolates for Miss Eliza Doolittle:'My Fair Lady' Bows at the Criterion|date=1964-10-22}}</ref>。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている<ref name="soundstage" />。
ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=56}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=267-268}}。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=267-268}}。[[キャサリン・ヘプバーン]]はすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=56}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=268}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=281}}。[[ジュリー・アンドリュース]]や共演者[[レックス・ハリソン]]もヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=56}}。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようという運動まで起こっているが{{Sfn|ウッドワード|1993|p=281}}、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『[[メリー・ポピンズ]]』でのジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている{{Sfn|バーミリー|1997|p=49}}。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=59-60}}{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}。
このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}。
=== 『いつも2人で』と『暗くなるまで待って』 ===
ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『[[おしゃれ泥棒]]』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルは[[ピーター・オトゥール]]演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。
1967年には2本の映画が公開された。1966年に撮影された『[[いつも2人で]]』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出すという映画である。監督の[[スタンリー・ドーネン]]は、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』、ドーネン監督自身の言葉。</ref>。そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演した[[アルバート・フィニー]]のおかげだったと言っている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=120}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=96}}{{Sfn|ワッソン|2011|p=262}}。そして多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている{{Sfn|ハイアム|1986|p=238}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=98}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=124}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=119}}。
1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』であり、ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し{{Sfn|ハイアム|1986|p=244}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=102}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=303}}、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした{{Sfn|ドッティ|2016|p=161}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=303}}{{Sfn|カーニー|1994|p=162}}。撮影中は午後四時になるとティー・ブレイクがあり、キャストやスタッフは和気藹々と撮影出来た{{Sfn|ハイアム|1986|p=251}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=104-106}}。ただしヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=106}}。監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=106}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=304}}。
ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。
=== 最後の映画作品 ===
1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、[[ショーン・コネリー]]と共演した歴史映画『[[ロビンとマリアン]]』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く{{Sfn|ハイアム|1986|p=273}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=159}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=320}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=135}}、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている{{Sfn|カーニー|1994|p=174}}。
1979年にはサスペンス映画『[[華麗なる相続人]]』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=166}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=341}}。共演は[[ベン・ギャザラ]]、[[ジェームズ・メイソン]]、[[ロミー・シュナイダー]]らだった。『華麗なる相続人』の原作は[[シドニー・シェルダン]]の小説『[[血族]]』で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=169-170}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=340-341}}。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した{{Sfn|バーミリー|1997|pp=206-207}}。
ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]が監督した1980年に撮影されたコメディ映画『[[ニューヨークの恋人たち]]』である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していた[[ドロシー・ストラットン]]が、撮影終了数週間後に離婚寸前だった夫に1980年8月に殺害され{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=191}}、その上、配給を予定していた[[20世紀フォックス]]が出来上がりに不満を示し、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]監督が自ら買い戻した{{Sfn|バーミリー|1997|p=209}}。最終的には81年に公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。
テレビ映画では1987年に『[[おしゃれ泥棒2]]』に最後の主演で出演した。出演を決めたのは、共演の[[ロバート・ワグナー]]がヘプバーンが欠かさず見ていた『[[探偵ハート&ハート|探偵ハート&ハート]]』の出演者であり、[[グシュタード]]の別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである{{Sfn|ドッティ|2016|p=217}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=225-226}}。
ヘプバーンは[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督の『[[E.T.]]』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『[[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]』の天使の役での[[カメオ出演]]の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた{{Sfn|ドッティ|2016|p=12}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=172}}。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=172,182}}。
=== 1990年以降 ===
それ以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品はわずかしかないが、非常に高く評価されており、ヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞しているものもある。
ヘプバーンは指揮者の[[マイケル・ティルソン・トーマス]]に請われて1990年3月19日からアメリカの5つの都市と、91年にはロンドンでユニセフのための慈善コンサートを行った{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=250-256}}{{Sfn|ドッティ|2016|p=21}}。それはヘプバーンが『[[アンネの日記]]』からの抜粋を朗読し、トーマスのオリジナルの管弦楽曲『アンネ・フランクの日記より』と合わせて全体を構成するという試みだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=252-253}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=367-368}}{{Sfn|バーミリー|1997|p=64}}。ヘプバーンはそれまで[[アンネ・フランク]]を演じる話を全て断っていたが、「今度は、私はアンネ・フランクを演じるのではなく、読むだけなのです。今でも彼女を演じようとは思いません。それはあの戦争の恐怖の中へ自分を押し戻すことだからです」と語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=251}}。ロンドンの舞台に立つのは40年ぶりのことであり、これが最後となった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=256}}。トーマスは1995年の4月と5月に再度コンサートをやって、きちんと録音することを望んだが、それは叶わなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=258}}。「彼女は意に反してアンネ・フランクになりきっていた。ヴィデオ・テープが残っていないのが残念でならない」とトーマスは語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=253}}。
[[Public Broadcasting Service|PBS]]のテレビドキュメントシリーズ『[[オードリー・ヘプバーンの庭園紀行]]』は、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した翌日の1993年1月21日からだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=262-271,274,351}}。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞({{lang|en|Outstanding Individual Achievement – Informational Programming}})を受賞した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=185}}。
1992年5月には2つの録音を行なっている。1つは[[ラロ・シフリン]]が指揮をする[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の『[[動物の謝肉祭]]』で{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=329-330}}、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=177}}<ref group="注釈">バリー・パリスは、「マ・メール・ロワ組曲」を使った『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』と、『動物の謝肉祭』を同じCDだと思って書いているが、実際は別物であり、アマゾンなどではそれぞれのCDが発売されている。</ref>。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『{{仮リンク|オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語|en|Audrey Hepburn's Enchanted Tales}}』では、[[グラミー賞]]の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=178,185}}。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。
== 私生活 ==
[[ファイル:Audrey Hepburn and Mel Ferrer 1955.jpg|thumb|『戦争と平和』撮影中のヘプバーンとメル・ファーラー。1955年。]]
ヘプバーンは1949年に舞台『ソース・タルタル』で共演したフランス人の歌手、マルセル・ル・ボンに心惹かれ、初めて真剣な交際をした{{Sfn|ドッティ|2016|p=247}}{{Sfn|芳賀書店|1971|pp=102-103}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=111}}。マルセル・ル・ボンは『ソース・ピカント』の後にヘプバーンや舞台の仲間と新しいショーで巡業を計画したが頓挫、責任を感じてアメリカに逃げてしまった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115}}。ヘプバーンはこの新しいショーの為に、『素晴らしき遺産』では主要人物の役が割り振られていたが断っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115}}。ショーの頓挫後、慌てて再度監督に会いに行ったが、既に配役が決まっており、ヘプバーンは残っていたシガレット・ガールの役を演じることになった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115}}。
1950年に『[[ラベンダー・ヒル・モブ]]』撮影直後にヘプバーンは男爵{{仮リンク|ジェイムズ・ハンソン|en|James Hanson, Baron Hanson}}と知り合いすぐに恋に落ち{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=119}}、1951年12月には婚約した{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=160}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=132}}。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は1952年『ローマの休日』撮影後に破談となった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=171-174}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=111-112}}{{Sfn|オードリイ・ヘップバーン全集|1966|p=57}}。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった<ref name=":20">{{Cite book|和書|title=映画ストーリー臨時増刊 オードリー・ヘップバーン|date=1954年10月15日発行|year=|publisher=雄鶏社|page=(この本にはノンブルが無いためページ表記不可)}}</ref>。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=172}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=143}}。
ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=176}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=113-114}}。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている<ref name=":20" />。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=76}}。
1953年撮影の『麗しのサブリナ』で、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったと言われている{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=131-133}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=160-162}}。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており子供ができないことを告げられ、これによりヘプバーンが別れを切り出したと言われている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=198-199}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=162}} 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートがヘプバーンに辛く当たっていたと言われているが{{Sfn|ハイアム|1986|pp=87-90}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=156-157}}、息子ショーンがヘプバーンに訊いてみたところ、関係は良かったと答えている{{Sfn|竹書房|2004|p=69}}。ただ、一人の女優としては認めてないと感じていたし、ボガートがそう言っているという噂も耳にしていたとも言っている{{Sfn|竹書房|2004|p=69}}。ショーンがそんなのフェアじゃないと言うと「あの方がそう思う理由があったのよ」と息子を諌めている{{Sfn|竹書房|2004|p=69}}。
[[ファイル:Audrey Hepburn and Andrea Dotti by Erling Mandelmann - 2.jpg|thumb|ヘプバーンとアンドレア・ドッティ]]
母エラが1953年7月に開いたパーティーで、ヘプバーンはグレゴリー・ペックに紹介されてアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=178}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=119-121}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=72-73}}。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリー』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている{{Sfn|ウッドワード|1993|p=146}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=192}}。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=208-210}}。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月1日から稽古が始まっている{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=82及びその隣に封入された製作スケジュールのレプリカ}}。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスの[[ビュルゲンシュトック]]で結婚した<ref name=":0" /><ref name=":17" />{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=202}}<ref name=":0" group="注釈" />。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。
結婚後ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用していると噂されるようになった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=239,251-252}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=189-192}}。「一種の主人と奴隷の関係」と記事にされた時にはヘプバーンは激怒している{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=252}}。
ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している{{Sfn|ハイアム|1986|pp=122-123,189}}。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、投げ出されたヘプバーンは背中を4箇所骨折し、結局撮影終了後に流産してしまった{{Sfn|ドッティ|2016|p=90}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=188-189}}。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる{{Sfn|ドッティ|2016|p=90}}。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xx}}<ref group="注釈">ほとんどのヘプバーンの伝記ではショーンの誕生日を1月17日にしており、2003年発行の『母、オードリーのこと』でショーン本人が明確に否定している。ところが2009年に原著が出ているマーティン・ギトリンの伝記(日本版は2019年株式会社クレヴィス発行)でも未だに1月17日になっている。正確に7月17日にしているのは『the audrey hepburn treasures』と『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』など、ごく一部である。</ref>。
それまでも何度かメル・ファーラーとの不仲の噂があったが、『マイ・フェア・レディ』撮影中からまた離婚説が囁かれるようになった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=63-65}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=279}}<ref>{{Cite book|和書|title=別冊スクリーン オードリー・ヘプバーン特集号|date=1965年1月1日発行|year=|publisher=近代映画社|pages=86-88}}</ref>{{Sfn|オードリイ・ヘップバーン全集|1966|pp=72-73}}。
その後も1965年12月にヘプバーンは妊娠したが1966年1月には流産{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=123}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=91}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=278}}、1967年7月にまたもや流産となってしまった{{Sfn|ウォーカー|2003|p=297}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=109}}。
そして1967年7月22日、スペインの別荘に行くために空港に降り立ったオードリーをメルが迎えに行ったが、それまでとは違い一切写真を撮らせず、7月31日にはオードリーはスイスへ帰って行った<ref name=":3">{{Cite book|title=『映画の友』1967年11月号(9月発売)p118-120「つくられた偶像(オードリイ)はこわされた」|date=|year=|publisher=株式会社映画の友}}</ref><ref>出典元になった『映画の友』では、この期間に別居についての最終的な話し合いを持ったのだろうと書かれている。</ref>。そしてヘプバーンとメルは1967年8月31日に別居を世界中に発表<ref group="注釈">日本の当時の雑誌『映画の友』では8月31日だが、後年のバリー・パリスの伝記『オードリー・ヘプバーン』p111では9月1日となっている。</ref>。二人の代理人は8月はじめには別居に同意していたと述べている<ref name=":3" />。最終的に二人は1968年12月に離婚し<ref group="注釈">イアン・ウッドワードの伝記では11月21日、ロビン・カーニーの『ライフ・オブ・オードリー・ヘプバーン』では11月、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では11月20日、息子ショーンも関わっている『the audrey hepburn tresures』では12月となっている。ここでは息子の本が一番信憑性が高いと判断している。</ref>、二人の結婚は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。
[[ファイル:President Ronald Reagan talking with Audrey Hepburn and Robert Wolders.jpg|thumb|左から、当時のアメリカ合衆国大統領[[ロナルド・レーガン]]、ヘプバーン、オランダ人俳優ロバート・ウォルダース。1981年。]]
ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村にある「ラ・ペジブル」という家を購入{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=75-77}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=123}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=232-234}}。息子ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。その後、1968年6月ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=119-122}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=130}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=128}}。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には[[帝王切開]]で男子ルカ・ドッティが生まれている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=124,129}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=304,308}}。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、「ラ・ペジブル」で数か月間、読書や庭いじりや絵を描いたりしながら過ごしていた{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=134}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=128-129}}。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=137}}。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=125,127-129,133-134,164,174-177}}。そしてヘプバーンのほうも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演した[[ベン・ギャザラ]]と不倫の関係になっていた{{Sfn|ハイアム|1986|pp=276-278}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=173}}<ref>
{{cite news|url=https://www.nytimes.com/2012/02/04/movies/ben-gazzara-actor-of-stage-and-screen-dies-at-81.html?hpw|work=The New York Times|first=Neil|last=Genzlinger|title=Ben Gazzara, Actor of Stage and Screen, Dies at 81|date=2012-2-3|accessdate=2012-2-3}}</ref>。ヘプバーンとドッティは1980年夏に離婚を決意、別居した{{Sfn|ドッティ|2016|pp=112-113}}。1982年に正式に離婚し、二人の結婚は13年で終わった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=214}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=338}}。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った{{Sfn|竹書房|2004|p=13}}。ドッティは2007年10月に消化管内視鏡検査の合併症で死去している。
ドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期に、友人を介してオランダ人俳優ロバート・ウォルダースと知り合い、1980年から死去するまで恋愛関係にあった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=145,148-153,182}}<ref>
{{cite news|url=https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html|work=The New York Times|title=Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63}}</ref>{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=195-198,205-206,213-214-215,240-242,}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=334,336-339,376}}。ドッティとの離婚が成立するとヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めた。ウォルダースは妻[[マール・オベロン]]と死別していたが、ヘプバーンと正式に結婚することはなかった。ヘプバーンは1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。
また、1984年8月26日にはスイスの自宅「ラ・ペジブル」で母エラが亡くなっている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=213}}。ヘプバーンを厳しく育て、ヘプバーンの父ジョゼフと同じように愛情を表すのが苦手だった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=208-212}}。『パリの恋人』で知り合って以来、脚本家のレナード・ガーシュは母エラと友達であったが、「エラは素晴らしいユーモアのセンスを持っていたし、オードリーもそうだった。残念なことに母と娘が一緒にユーモアを楽しむことがなかった」しかし「エラは娘を心から愛していた」と語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=208-212}}。またロバート・ウォルダーズも「母親は感情を外に出すことができずに苦しんでいたのだと思う」「娘本人に対してはそれができなかった」と述べている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=208-212}}。
== ユニセフ親善大使 ==
1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務める『愛の世界』というユニセフの特別番組に当時住んでいたイタリアを代表して出演した{{Sfn|ドッティ|2016|p=250}}。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった{{Sfn|ドッティ|2016|p=250}}。
1987年10月、オランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟にマカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、ユニセフのポルトガル支部へのスピーチを依頼された{{Sfn|竹書房|2004|p=142}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=162}}。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=162}}。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=286-287}}。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自ら申し出た{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=287}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=352}}。
次に[[ジュゼッペ・シノーポリ]]指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かった<ref>来日時の記事『スクリーン』1988年3月号(1988年1月発売)、再録2009年2月『SCREEN+プラス』vol.18号.p26−27.近代映画社.</ref>{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=287}}<ref>『the audrey hepburn treasures』とアレグザンダー・ウォーカー、イアン・ウッドワードの伝記では東京へは1988年3月に行ったとなっているが、間違い。当時の『スクリーン』1988年3月号で来日は1987年12月18日となっている。コンサートは12月20日。</ref>。
マカオと東京での成功後、各国のユニセフからの依頼が続々と舞い込み{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=288}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=162}}、1988年3月9日に[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の依頼を引き受けることとなった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=168及び隣に封入されているユニセフの辞令のレプリカ}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=353}}{{Sfn|リッチ|2001|p=190}}<ref group="注釈">バリー・パリスの伝記などで1989年になっているものがあるが、''『the audrey hepburn treasures』では1988年3月8日付のユニセフの辞令が添付されており、1988年4月22日発行の国連のパスポートには既に「ユニセフ親善大使」と書いてある''(''『the audrey hepburn treasures』『母、オードリーのこと』'')''。''</ref>。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている{{Sfn|ドッティ|2016|p=239}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=164}}。
第二次世界大戦後にユニセフの前身の [[UNRRA]]に助けられ、その後女優として大きな成功を収められた経験から、残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会い、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロート{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=287}}は「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに語学がありました。(英語の他にも)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダ語は当然です。ユニセフの活動をスポットで緊急に流さないといけないとき、すぐその場でオードリーがどの主要言語でもアナウンスを流してくれました」と語っている{{Sfn|ウォーカー|2003|p=362}}<ref>1963年5月15日発行.近代映画社刊.『スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号』p63でも、「オードリーは英語、フランス語、オランダ語をしゃべり、ドイツ語、イタリー語もわかる」と書かれている。</ref><ref>1998年5月4日発行.集英社.バリー・パリス『オードリー・ヘプバーン』上巻p194では、1953年ごろの宣伝係の質問に対してヘプバーンは「七ヶ国語をよどみなく話します」と答えていることになっている。言語の種類は不明。</ref><ref>{{cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=X2xdJiExvUk |title=Audrey Hepburn Speaking 5 languages|work=Youtube |accessdate=2017-12-14}}</ref>。
ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の任命の発表から2週間と経たない1988年3月の[[エチオピア]]への訪問が最初だった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=289-296}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=354}}。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者[[メンギスツ・ハイレ・マリアム]]と、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレの孤児院を慰問した{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=355}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=289-296}}。
ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのために[[トルコ]]を訪れ、10月には南米諸国を訪れた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=297-299}}。[[ベネズエラ]]と[[エクアドル]]をめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、[[ホンジュラス]]、[[エルサルバドル]]、[[グアテマラ]]でそれぞれの大統領と面会している{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=299-304}}。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「ライフライン作戦」計画の一環として[[スーダン]]を訪れた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=304-308}}。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画は[[南スーダン|スーダン南部]]へ食料を運びこもうとするものだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=304-308}}。さらに10月にヘプバーンとウォルダースは[[バングラデシュ]]へ赴いた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=308-314}}。国連の報道写真家、{{仮リンク|ジョン・アイザック|en|John Isaac (Photographer)}}は「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるで[[ハーメルンの笛吹き男|ハーメルンの笛吹き]]みたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=309}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=172}}。1990年10月にヘプバーンは[[ベトナム]]を訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=314-316}}。
死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンは[[ソマリア]]を訪問した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=319-326}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=368-371}}。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか[[人道援助|人道支援]]の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=326}}。
1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である[[大統領自由勲章]]をヘプバーンに授与することとなった{{Sfn|ドッティ|2016|p=234}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=341}}。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた{{Sfn|ドッティ|2016|p=234}}。さらに[[映画芸術科学アカデミー]]が、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後に[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]を贈り、息子が代理として賞を受け取った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=356}}。
== 死去 ==
[[ファイル:Grave of Audrey Hepburn, Tolochenaz, Switzerland - 20080711.jpg|thumb|175px|スイスの[[トロシュナ]] にあるヘプバーンの墓。]]
=== 癌の発見と手術 ===
1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査のため10月にロサンゼルスへと渡った{{Sfn|竹書房|2004|p=147}}。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センターに入院し{{Sfn|ドッティ|2016|p=251}}、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫であることが明らかとなった。5年ほどかけて成長した癌が[[転移 (医学)|転移]]しており、[[小腸]]をも薄く覆い尽くしていた{{Sfn|竹書房|2004|p=149}}。そして11月1日、手術が行われた{{Sfn|竹書房|2004|p=149}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=372-373}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=379}}<ref group="注釈">バリー・パリスの伝記や『the audrey hepburn treasures』では11月2日に手術されたことになっているが、ここでは息子の伝記に合わせた。</ref>。
病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない。」と語ったが、[[タブロイド]]紙の「ナショナル・エンクワイアラー」が手術室の誰かを買収して「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」だとセンセーショナルに報じた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=359}}。ロバート・ウォルダース、息子のショーンとルカはヘプバーンは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「あの時だけは真実を語っていたのは彼らの方で、われわれは嘘をついていた。われわれが嘘をついたのは自分を力づけるためだった。」とのちに語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=341}}。
術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが何度も見舞いに来ていた{{Sfn|ウォーカー|2003|p=373}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=380}}。1週間後には退院し、「第二のホーム」と呼ぶヘプバーンの親友のコニー・ウォルドの家に移った{{Sfn|竹書房|2004|p=150}}。傷口が塞がってから[[抗がん剤]][[フルオロウラシル]]と[[フォリン酸]]による[[化学療法]]が始まった<ref name="cr">
{{cite web
|url=http://www.crmagazine.org/archive/Fall2009/Pages/AudreyHepburnAppendixCancer.aspx|title=Selim Jocelyn, ""The Fairest of All", ''CR Magazine'', Fall 2009
|publisher=Crmagazine.org
|accessdate=10 March 2010
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100419051634/http://www.crmagazine.org/archive/Fall2009/Pages/AudreyHepburnAppendixCancer.aspx
|archivedate= 19 April 2010
|deadurl= no}}</ref>。副作用もなく、1週間以内に再度化学療法を受けることになって家族は希望をつないでいた{{Sfn|竹書房|2004|p=151}}。しかし数日後腸閉塞になり、12月1日に再入院した{{Sfn|ウォーカー|2003|p=373}}。病院に戻る為にヘプバーンとショーンが準備をしていた時、本当は怯えていた心の内側を1度だけヘプバーンは見せて、「ああ、ショーン、たまらなく恐いの」と涙をいっぱいにたたえた目でショーンにしがみついて囁いた{{Sfn|竹書房|2004|p=151}}。同日再手術が行われたが、腫瘍が急激に広がりすでに手の施しようがなく、開腹したもののすぐに閉じたため1時間もせずに終了した{{Sfn|竹書房|2004|pp=152-153}}。
ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスをスイスの自宅で過ごさせるために飛行機で送り返すことを決めた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=342}}。しかしヘプバーンはかなり衰弱しており通常の国際便での旅には耐えられない状態だった{{Sfn|ウォーカー|2003|p=375}}。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年の友人だった[[ユベール・ド・ジバンシィ]]が、[[メロン財閥]]の[[ポール・メロン]]の妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有する[[ビジネスジェット|プライベートジェット機]]をヘプバーンのために手配した{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=168,170}}<ref name=":21">Harris, Warren G., (1994). – ''Audrey Hepburn: A Biography''. – New York, New York: Simon & Schuster. – p.289. – {{ISBN2|0-671-75800-4}}</ref>{{Sfn|ウォーカー|2003|p=375}}。それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでショーンにジバンシィに電話を掛けさせたが、胸がいっぱいで言葉にならず、「ああ、ユベール…本当に感激だわ」と呟くのがやっとだった{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}。電話を切ると、「あの方は、私が彼の人生のすべてだとおっしゃってくださったのよ!」と言って顔を輝かせた{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}。
出発前日の12月19日に医師たちは、離陸時の気圧の変化に耐えられず腸の血管が破れ[[腹膜炎]]を起こす可能性があり、そうなると敗血症で1時間ともたないだろうと告げたが{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}、ヘプバーンはビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻や[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・スチュワート]]という親しい友人に会って最後の別れを告げた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=342-343}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=170}}{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。ヘプバーンは痛みがものすごくひどいことを隠して、みんなの気持ちをひきたてようとしていた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=170}}。帰りに夫人からそれを聞いたペックはグレープフルーツ大の塊が喉につかえた感じだったと語っている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=170}}。
翌12月20日にロサンゼルスを出発{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=342}}。ジェット機には医師と看護師が付き添った{{Sfn|ウォーカー|2003|p=375}}。パイロットは非常にゆっくり高度を上げ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知ったという{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。
=== スイスにて ===
クリスマス、食べることの出来なかったヘプバーンはみんなのディナーの後で苦労して2階から降りてきて、友人や家族にクリスマスプレゼントを渡した{{Sfn|竹書房|2004|p=211}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=345}}。ヘプバーンは買い物に出かけられないため、これまで持っていたスカーフ、セーター、ロウソクなどから一人一人に選んだものであったが、皆が感動した{{Sfn|竹書房|2004|p=211}}。そのあとヘプバーンはサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」の一部を息子のショーンとルカのために読んでいる{{Sfn|竹書房|2004|p=211}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=344}}。ロバート・ウォルダーズはヘプバーンが超人的な勇気を奮い起こして、ウォルダーズと子供達がヘプバーンを失うことに耐えられるよう助けようとしていると感じたという{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=344}}。ウォルダーズは、その夜ヘプバーンが暗闇のベッドの中で「今年のクリスマスが今までで一番幸せだったわ」という声が、今も耳に残っている、と語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=346}}。
スイスの自宅では、ヘプバーンは家族や友人に付き添ってもらって毎日庭に出て20分散歩するのが精神的な支えであったが、塀越しに隠し撮りしたり、ヘリコプターで上空からどこまでも追いかけてくる[[パパラッチ]]のために諦めないといけないことがあった{{Sfn|竹書房|2004|pp=211-212}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=343}}。ジバンシィがパリから来た時にも一緒に庭を散歩したが、10歩ごとに立ち止まって休まなくてはならなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=346}}。ヘプバーンは最後の贈り物としてキルトのコートを買い、ジバンシィが帰り際にヘプバーンはそのうちのネイビー・ブルーのコートを贈った{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=346-347}}。軽く口づけし、「これを着たらわたしのことを思い出してね」と小声で言いながらジバンシィに渡した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=346-347}}。1月17日にヘプバーンは最後の散歩をしている{{Sfn|竹書房|2004|p=215}}。ヘプバーンは死の2、3日前まで「わたしのために笑って」とウォルダーズに言っていた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=348}}。
病が進行するにつれて次第に長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間はいっときに数分以上起きていられなかったという{{Sfn|竹書房|2004|p=212}}。そして1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナの自宅で、がんのために息を引き取った{{Sfn|竹書房|2004|pp=212-215}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=349}}。
ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた{{Sfn|竹書房|2004|pp=216-219}}{{Sfn|カーニー|1994|pp=183-186}}。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=353}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=382}}。ユニセフからは{{仮リンク|サドルッディン・アガ・カーン皇太子|en|Prince Sadruddin Aga Khan}}が弔辞を述べ、高官たちがこの葬儀に加わっている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=353}}。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クアレス・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、[[アラン・ドロン]]、[[ロジャー・ムーア]]らが参列した{{Sfn|カーニー|1994|pp=184-186}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=353}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=382-383}}<ref>
{{cite news
|url=https://www.nytimes.com/1993/01/25/arts/hepburn-s-role-as-ambassador-is-paid-tribute.html
|work=The New York Times
|first=David
|last=Binder
|title=Hepburn's Role As Ambassador Is Paid Tribute
|date=1993-1-25
}}</ref>。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた{{Sfn|ウォーカー|2003|p=382}}<ref>
{{cite news
|url=https://people.com/people/archive/article/0,,20063483,00.html
|work=People
|title= A Gentle Goodbye -Surrounded by the Men She Loved, the Star Was Laid to Rest on a Swiss Hilltop
|date=1993-1-1
}}</ref>。葬儀の後、ショーンが挨拶に立った。最後のクリスマスにヘプバーンが読んだサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」を読んだ後、最後に庭を散歩した時のことを語っている{{Sfn|竹書房|2004|p=218-219}}。「庭師のジョバンニがやって来てこう言いました。『奥様、よくおなりになったら枝を刈り込んだり花を植えたりするのを手伝ってくださいまし。』母はにっこり笑って答えました。『ジョバンニ、お手伝いするわ……でもこれまでとは違うやり方でね』{{Sfn|竹書房|2004|p=219}}」そしてヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=354}}<ref>News Service, N.Y. Times. (25 January 1993). "Hepburn buried in Switzerland". ''Record-Journal''. p. 10.</ref>。
== エピソード ==
* 日本では1971年テレビCM(エクスラン・ヴァリーエ)<ref>1971年『スクリーン』9月〜12月号</ref>のコーディネートがきっかけで[[加藤タキ]]との交友が知られている<ref>2004年テレビ東京「トホホ人物伝」など。</ref>。
* ヘプバーンは3回来日している。1回目は1983年、友人ジバンシィのサロン開設30周年記念のショーのため。2回目は1987年、ユニセフ主催の両国国技館でのチャリティーコンサートでの前説のため。最後は1990年にテレビ番組『庭園紀行』の「日本の庭園」編撮影のため。
* ヘプバーンの名言として広くインターネットで拡散されている、
“魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい。
愛らしい瞳を持つためには、人の良いところを探しなさい
スリムな体型のためには、お腹を空かした人に食べ物を分けてあげなさい”
“大人になればきっと自分にも二つの手があることに気づくだろう。
一つは自分を支えるため、もう一つは誰かを助けるため。”(翻訳は色々有り)
:というのはオードリー・ヘプバーンの言葉ではない。これは{{仮リンク|サム・レヴェンソン|en|Sam Levenson}}の“Time Tested Beauty Tips(時の試練によって磨かれる美)”という詩をヘプバーンが気に入って、最後のクリスマスに息子たちに読み聞かせた{{Sfn|竹書房|2004|p=211,218-219}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=344}}、というのが誤っていつの間にかヘプバーンの言葉として広がってしまったものである{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=148}}。
== 後世への影響や評価 ==
ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。[[アメリカン・フィルム・インスティチュート|米国映画協会]]が選定した「[[映画スターベスト100|最も偉大な女優50選]]」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年の[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]、グラミー賞、エミー賞などがある。
ヘプバーンは生前、自伝を書くように多くの出版社から求められたが、「人間はほかの多くの人との関わりの中で生きているのだから、必然的に他人についても語らなくてはいけません。そんなことをする権利は私にはないし、するつもりもありません」としてそのたびに断っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=364-365}}{{Sfn|ドッティ|2016|p=14}}。ヘプバーンの死後、奔流のように他人が書いた伝記本が発売されたが{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=365}}、書籍によって内容が凄まじく異なっている<ref>{{Cite book|和書|title=『文藝別冊 オードリー・ヘプバーン 妖精、そして女性として』|date=2019年5月30日初版発行|year=|publisher=河出書房新社|author=瀬川裕司|pages=38-39}}</ref>。中にはヘプバーンに直接インタビューをした「公認の伝記」と偽って出されたものまであるが、ウォルダーズは「オードリーが話をしたことは絶対に無い」「詳細な記録もつけているし、泊まったホテルの電話の記録まで取り寄せた。その時期にはヘプバーンには死期が迫っていた」と語り、息子二人とウォルダーズに訴訟を起こされたものまである<ref group="注釈">バリー・パリスの伝記下巻のp365にダイアナ・メイチック著の本に対して書かれている。メイチックの本に基づいてテレビでシリーズ化も計画されていたが、訴訟問題になったため中止されている。未だに発売当時の「公認の伝記」というコピーに惑わされて、メイチックの本に基づく本やサイトが国内外で出回っている。</ref>。
=== 広告媒体 ===
ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。
ヘプバーンは世界で唯一日本にだけ、新しく撮り下ろしたテレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演した。1971年([[日本エクスラン工業]]のエクスラン・ヴァリーエ{{Sfn|芳賀書店|1971|pp=117-120}}<ref>{{Cite book|和書|title=オードリー・ヘプバーン物語 白鳥よ永遠に気高く|date=1972年10月10日初版ハードカバー版のみに掲載|year=|publisher=集英社|author=草鹿宏|pages=37,176-177,207}}</ref>{{Sfn|バーミリー|1997|pp=56-57}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=137}})・82年([[ワールド (企業)|株式会社ワールド]]の銀座リザ{{Sfn|ハイアム|1986|p=284}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.world.co.jp/company/about/history.html|title=『企業情報:沿革』|accessdate=2019年8月20日|publisher=株式会社ワールド}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.world.co.jp/company/history/ |title=企業情報:沿革 1980年代 |access-date=2023-06-10 |publisher=株式会社ワールド}}</ref>)と2度も出演している。海外では放送されておらず、日本でのみ放送された{{Sfn|バーミリー|1997|pp=56-57}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=137}}。
既存のフィルムを使うものとしては、2000年〜2001年に『ローマの休日』の[[映画の着色化|モノクロフィルムを着色]]してデジタル化された映像が[[麒麟麦酒|キリン]]の[[午後の紅茶]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に採用されていたほか<ref name=":23">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/50683/cm/|title=CM出演情報 オードリー・ヘップバーン|accessdate=2019年8月20日|publisher=オリコン株式会社}}</ref>、2005年〜2007年には[[三井住友銀行]]が、[[インターネット]]を利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用していた<ref name=":23" />。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の[[台詞]]を吹き込む形式を取っている。この[[吹き替え|吹替]]を担当した[[声優]]がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した[[池田昌子]]だった。その他多くの企業がオードリー・ヘプバーンを使用している。
アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、[[AC/DC]]の曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカの[[ギャップ (企業)|GAP]]のCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている<ref>
{{cite web
|url=https://www.wboc.com/global/story.asp?S=5371942
|title=New Gap marketing campaign featuring original film footage of Audrey Hepburn helps Gap "Keeps it Simple" this Fall – WBOC-TV 16
|publisher=Web.archive.org
|date=2007-9-28
|accessdate=2010-9-6
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070928010941/http://www.wboc.com/Global/story.asp?S=5371942
|archivedate = 2007-9-28
}}</ref>。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、英国製チョコレートのギャラクシーの広告に使用された<ref>
{{cite news
|url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/tv/features/audrey-hepburn-advertise-galaxy-chocolate-bars-over-her-dead-body-8508603.html
|title=Audrey Hepburn advertise Galaxy chocolate bars? Over her dead body!
|work=The Independent
|date=2013-2-24
|accessdate=2013-2-28
|author=Usborne, Simon
}}</ref>。
=== ファッション・アイコンとして ===
[[ファイル:Audrey Hepburn Tiffany's 3.jpg|thumb|『ティファニーで朝食を』(1961年公開)のヘプバーン。]]ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサーに選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手[[QVC]]による「20世紀最高の美女」を決める[[アンケート]]調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水[[エビアン (ミネラルウォーター)|エビアン]]を発売する[[ダノン]]による「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった<ref>
{{cite book
|title=Ultimate Style – The Best of the Best Dressed List
|pages=74–77 & 89
|isbn= 2 84323 513 8
|year=2004
}}</ref><ref name = "SMH">
{{cite news
|url = https://www.smh.com.au/entertainment/audrey-hepburn-most-beautiful-woman-of-all-time-20040601-gdj1dd.html
|title = Audrey Hepburn 'most beautiful woman of all time'
|date = 2004-1-1
|work=The Sydney Morning Herald
}}</ref><ref name = "BBC">
{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/3763887.stm
|title = Audrey Hepburn tops beauty poll
|publisher=BBC NEWS
|date = 2004-5-31
}}</ref>。当時のハリウッドでもてはやされていた、[[マリリン・モンロー]]や[[ジェーン・マンスフィールド]]といった豊満な女優たちとは異なり、ヘプバーンは大きな瞳をもつ細身で優雅な女優だった{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=26-27,69-71}}。映画監督ビリー・ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」と言った<ref name=":20" />{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=196}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=204}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=158}}。
しかしヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=103,225}}<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』でも息子ショーンが肯定している。</ref>。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大きすぎると悩んでいた{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xiii}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=85-86,94}}それ以外にも歯並びが悪く{{Sfn|ハイアム|1986|pp=209-210}}{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=120}}、鼻孔が広いのを気にしていた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=94}}{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=120}}。「映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに」とヘプバーンは言っていた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=94}}。だから目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊敬を忘れなかった{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xiii}}。
ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=24}}。ヘプバーンが現代ファッションに及ぼした影響は飛び抜けており、デザイナーの[[マイケル・コース]]は「今のファッションを、女性たちは当然のように思って着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったら、そういった服を今着てはいないだろう」と述べている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=24-25}}>。
=== ユベール・ド・ジバンシィ ===
ヘプバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーの[[ユベール・ド・ジバンシィ]]がデザインした洋服だった{{Sfn|カーニー|1994|pp=12,53}}{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『[[麗しのサブリナ]]』からである。衣装は[[イーディス・ヘッド]]の担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出した{{Sfn|ハイアム|1986|pp=83-86}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=205}}{{Sfn|カーニー|1994|p=53}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=30}}。
パラマウントの関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優[[キャサリン・ヘプバーン]]だと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=206}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘプバーンに答えている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=206}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだし、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8cm)を着こなしてみせた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}<ref group="注釈">この最初の出会いについては、ジバンシィ本人が何度も語っている。日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』や、2013年11月23日にNHK BSプレミアムで放送された『松下奈緒 永遠のオードリー』など。ここでの記述も一部ジバンシィ本人の言い方に直している。</ref>。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。
後年、ジバンシィはヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われて感激したと話している{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=114}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=272}}<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』、ジバンシィ自身の言葉。</ref>。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装を担当した{{Sfn|バーミリー|1997|pp=87,100,108,146,160,166,182,205,215}}。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=226}}。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神[[ムーサ|ミューズ]]だった{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=40-43}}。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している<ref>{{Cite book|和書|title=シュプール特別編集『永遠のオードリー・ヘップバーン』|date=1993年5月5日発行|year=|publisher=集英社|page=58}}</ref>{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=200,284-285}}。
=== リチャード・アヴェドン ===
ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンの[[リチャード・アヴェドン]]にとってもヘプバーンはミューズだった<ref>{{Cite book|和書|title=『永遠のファッション・アイコン オードリーに学ぶおしゃれ練習帳』|date=2008年|year=|publisher=近代映画社|author=清藤秀人|pages=117,124-125}}</ref>。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「カメラの前に立ったときのオードリー・ヘプバーンの天性の素晴らしさには永遠に圧倒され続けるだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている{{Sfn|カーニー|1994|p=8}}。
=== サルヴァトーレ・フェラガモ ===
イタリアの靴デザイナーである[[サルヴァトーレ・フェラガモ]]とは1954年から親交があり{{Sfn|竹書房|2004|pp=168-169}}{{Sfn|リッチ|2001|pp=13-18,64}}、ヘプバーンの足の木型は現在でもフィレンツェのサルヴァトーレ・フェラガモ博物館が所蔵している{{Sfn|リッチ|2001|p=64}}。1999年にはそのフェラガモ博物館で「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル({{lang|en|Audrey Hepburn, a woman, the style}})」と銘打った展示会が開かれ<ref name=":2">{{Cite web|url=https://www.ferragamo.com/museo/en/usa/exhibitions/archive/#|title=PREVIOUS EXHIBITIONS|accessdate=2019年6月29日|publisher=サルバトーレ・フェラガモ博物館}}</ref>、2000年〜2001年には日本各地を巡回した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.s2corp.com/records/exh/audrey.html|title=「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル」展|accessdate=2019年6月29日|publisher=S2 Corporation}}</ref><ref name=":2" />。この展示会はヘプバーンの映画や私生活での衣装や靴、写真などが大量に展示される大規模な展示会だった。フェラガモは虐待児童をケアするオードリー・ヘプバーン・チルドレンズ・ハウスを作る資金を集めると発表し、この展示会の収益もこれに充てられた{{Sfn|竹書房|2004|pp=168-169}}。(2004年〜2009年には息子ショーンによって、「timeless audrey」展という大規模な展示会も世界で開かれた。こちらも世界に先駆けて2004年〜2005年に日本全国を巡回している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunkamura.co.jp/old/museum/lineup/04_audrey/index.html|title=Bunkamuraザ・ミュージアム「オードリー・ヘプバーン展 timeless audrey」|accessdate=2019年6月29日|publisher=Bunkamura}}</ref>。)
=== ヴァレンティノ・ガラヴァーニ ===
またヘプバーンがドッティと結婚していてローマに住んでいた70年代、ジバンシィでは高価すぎるので、友人に頼んでイタリアの当時新進気鋭のデザイナー、[[ヴァレンティノ・ガラヴァーニ]]を紹介してもらい、友人となっている{{Sfn|ドッティ|2016|pp=161-162}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=131-133}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=137-138}}。日本のCM「エクスラン・ヴァリーエ」に出演した時や{{Sfn|芳賀書店|1971|pp=118}}、『ロビンとマリアン』のポスターやパンフレットで着ていた衣装{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=28.150.152}}はヴァレンティノのものである{{Sfn|リッチ|2001|pp=214,216}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|pp=142-143}}。後年、ヴァレンティノのデビュー25周年の展示会で使うために、ヘプバーンのために作られた衣装を貸したところ、「こんなに大切に扱ってくれたのは貴方だけだ。新品のようだね」とヴァレンティノに言われて、ヘプバーンはずっと誇りに思っていたという{{Sfn|ドッティ|2016|pp=161-162}}。
=== ラルフ・ローレン ===
ヘプバーンは晩年には[[ラルフ・ローレン]]の服も多用しており、『庭園紀行』の企画が持ち込まれたとき、衣装で相談したのもローレンだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=273}}。「夜はジバンシィを着るのが好きだけど、昼間はあなたのスポーティーな衣装の方がいいわ」とローレンに言っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=273}}。1991年、リンカーン・センター映画協会の「オードリー・ヘプバーンをたたえる夕べ」で、ラルフ・ローレンはファションに及ぼしたヘプバーンの並外れた影響力について話している{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=90}}。「オードリー・ヘプバーンの名はあらゆる雑誌編集者やファションに従事するものによって、おそらく絶えず口にされているはずです。“すごくオードリーだ!”という形で」「こういう表現をオードリーが聞いたことがあるかどうかわかりませんが、ジバンシィは聞いたことがあるはずです」と述べて喝采を浴びた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=90}}。
=== 衣装 ===
2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスが[[クリスティーズ]]のオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが<ref>
{{cite news
|last=Dahl
|first=Melissa
|title=Stylebook: Hepburn gown fetches record price|
publisher=Pittsburgh Post-Gazette
|date=2006-12-11
|url=https://old.post-gazette.com/pg/06345/745167-314.stm
|accessdate=1 January 2010
}}</ref>、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している<ref>
{{cite news
|url=https://www.reuters.com/article/2011/06/19/us-monroe-idUSTRE75I2NM20110619
|title=Marilyn Monroe "subway" dress sells for $4.6 million
|publisher=Reuters
|date=19 June 2011
|accessdate=29 June 2011
}}</ref>。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた<ref name="BBC2">
{{cite news
|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6209658.stm
|title=Auction Frenzy over Hepburn dress
|publisher=BBC NEWS
|date=2006-12-5
}}</ref>。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは<ref>[https://www.christies.com/lot/lot-4832498/?sid=&intObjectID=4832498&AllObjectIDs=&SRObjectID=&AllSaleIDs=&SRSaleID=&RefineQueryURL= Christie's online catalog]. Retrieved 7 December 2006.</ref>、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった<ref name="BBC2" /><ref name=":15">"[https://archive.is/20120324062830/http://www.richnewbold.co.uk/blog/15/where-is-the-real-breakfast-at-tiffanys-dress Where is the real Breakfast at Tiffany's dress?]". ''Richard Newbold''. Archived from the original on 24 March 2012.</ref>。『ティファニーで朝食を』のオープニングシーンの為にジバンシィが3着の同じドレスを用意したが、ジバンシィのデザインはサイドに深いスリットが入っていたためヘプバーンの映画には不適として、パラマウントでイーディス・ヘッドによってスリットの無い複製が作られることとなった<ref name=":15" /><ref>{{Cite book|title=『週刊オードリー・ヘプバーン』第3号p16|date=2010年2月9日|year=|publisher=イーグルモス・インターナショナル}}</ref>。実際にヘプバーンが着用したドレスは撮影後に廃棄され、現存していない<ref name=":15" />。
2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された<ref name="Daily Mail">
{{cite news
|url=https://www.dailymail.co.uk/femail/article-1234361/Audrey-Hepburns-Givenchy-couture-collection-sold-auction-270-000.html
|title=Audrey Hepburn's Givenchy couture collection sold at auction for £270,000
|work=Daily Mail
|location=UK
|date=2009-12-9
|first=Claire
|last=Ellicott
}}</ref>。
== 出演作品 ==
{| class="wikitable" width="100%"
|+ 映画作品
|-
! width="5%"| 公開年
! width="25%"| 邦題<br />原題
! width="25%"| 配役
! width="45%"| 備考
|-
| 1948年
|[[オランダの七つの教訓]]<br />''Nederlands in Zeven Lessen''
|オランダ航空のスチュワーデス
|オランダ語版79分{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=97}}、英語版39分{{Sfn|バーミリー|1997|p=68}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=97}}<br />日本未公開、全世界でビデオ・DVD未発売
|-
| rowspan="4"| 1951年
| [[若気のいたり]]<br />''One Wild Oat''
| ホテルの受付嬢
| 端役<br />日本未公開、日本ではビデオ・DVD未発売
|-
| [[素晴らしき遺産]]<br />''Laughter in Paradise''
| 煙草売りのフリーダ
| 端役。ヘプバーンが英国で撮った最初の作品{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115-117}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=91-95}}<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』でヘプバーン自身が(英国での)最初の作品だと語っている。</ref>。公開は『若気のいたり』の後になった<br />日本未公開
|-
| [[ラベンダー・ヒル・モブ]]<br />''The Lavender Hill Mob''
| チキータ
| 端役<br />日本未公開(1975年8月5日に[[東京国立近代美術館]]の[[フィルムセンター]]で1日だけ特別上映、2019年6月15日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で[[109シネマズ]]二子玉川にて1回のみ特別上映)
|-
| [[若妻物語]]<br />''Young Wives' Tale''
| イヴ・レスター
| クレジットの7番目に登場<br />日本未公開(2019年6月14日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)
|-
| rowspan="2"| 1952年
| [[初恋 (1952年の映画)|初恋]]<br />''Secret People''
| ノラ・ブレンターノ
| メインタイトルの3番目、エンド・クレジットの4番目に登場
|-
| [[モンテカルロへ行こう]]<br />(フランス語版)<br />''Nous irons à Monte Carlo''<br />[[モンテカルロ・ベイビー]]<br />(英語版)<br />''Monte Carlo Baby''
| メリッサ・ウォルター(フランス語版)<br />リンダ・ファレル(英語版)
| 英語版とフランス語版の二種類が製作された。<br />配役と上映時間(フランス語版102分<ref>アミューズソフトエンタテインメント株式会社.『モンテカルロへ行こう』DVD.2007年5月25日発売.品番ASBY-3785.</ref>、英語版79分{{Sfn|バーミリー|1997|p=78}})はそれぞれで違う。<br />ヘプバーンの衣装は[[クリスチャン・ディオール]]{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=131}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=85}}<br />日本未公開、英語版は全世界でビデオ・DVD未発売
|-
| 1953年
| [[ローマの休日]]<br />''Roman Holiday''
| アン王女(アーニャ・スミス)
| [[アカデミー賞]] [[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]受賞<br />[[英国アカデミー賞]] [[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国女優賞]]受賞<br />[[ゴールデングローブ賞]] [[ゴールデングローブ賞 映画部門 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞(ドラマ部門)]]受賞<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]受賞
|-
| 1954年
| [[麗しのサブリナ]]<br />''Sabrina''
| サブリナ・フェアチャイルド
| アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
|-
| 1956年
| [[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]<br />''War and Peace''
| ナターシャ・ロストワ
| 英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
|-
| rowspan="2"| 1957年
|[[パリの恋人]]<br />''Funny Face''
| ジョー・ストックトン
| 最初のミュージカル映画作品
|-
| [[昼下りの情事]]<br />''Love in the Afternoon''
| アリアーヌ・シャバス
| ゴールデン・ローレル賞(Laurel Awards)女性コメディ演技賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
|-
| rowspan="2"| 1959年
|[[緑の館 (映画)|緑の館]]<br />''Green Mansions''
| リマ
|「尼僧物語」よりも撮影は後だった
|-
| [[尼僧物語]]<br />''The Nun's Story''
| シスター・ルーク(ガブリエル・ヴァン・デル・マル)
| 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞<br />[[サン・セバスティアン国際映画祭|サン・セバスティアン映画祭]]女優賞受賞<br />[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]]外国女優賞受賞<br />アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞2位
|-
| 1960年
| [[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]<br />''The Unforgiven''
| レイチェル・ザカリー
| 唯一の西部劇映画
|-
| rowspan="2"| 1961年
| [[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]<br />''Breakfast at Tiffany's''
| ホリー・ゴライトリー
| ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞<br />アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
|-
| [[噂の二人]]<br />''The Children's Hour''
| カレン・ライト
|ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞4位
|-
| 1963年
| [[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]<br />''Charade''
| レジーナ・ランパート
| 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
|-
| rowspan="2"| 1964年
| [[パリで一緒に]]<br />''Paris When It Sizzles''
| ガブリエル・シンプソン/<br />ギャビーの二役
|「シャレード」よりも撮影は先だった
|-
| [[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]<br />''My Fair Lady''
| [[イライザ・ドゥーリトル]]
| ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
|-
| 1966年
| [[おしゃれ泥棒]]<br />''How to Steal a Million''
| ニコル・ボネ
|
|-
| rowspan="2"| 1967年
| [[いつも2人で]]<br />''Two for the Road''
| ジョアンナ・ウォレス
| ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
|-
| [[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]<br />''Wait Until Dark''
| スージー・ヘンドリクス
| アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞3位
|-
| 1976年
| [[ロビンとマリアン]]<br />''Robin and Marian''
| レディ・マリアン
|
|-
| 1979年
| [[華麗なる相続人]]<br />''Bloodline''
| エリザベス・ロフ
| 唯一のR指定作品
|-
| 1981年
| [[ニューヨークの恋人たち]]<br />''They All Laughed''
| アンジェラ・ニオティーズ
| 日本未公開。日本ではビデオのみ発売
|-
| 1989年
| [[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]<br />''Always''
| 天使ハップ
|
|}
{| class="wikitable sortable" width="100%"
|+ テレビ番組
|-
! width="5%"| 放送年
! width="25%"| 番組名
! width="25%"| 配役
! class="unsortable" width="45%"| Notes
|-
| 1951年
| サンデー・ナイト・シアター<br />[[:en:Sunday Night Theatre|Sunday Night Theatre]]
| セリア
| エピソード "The Silent Village"
|-
| 1952年
| [[エド・サリヴァン・ショー|トースト・オブ・ザ・タウン]]<br />''Toast of the Town''
|
| 2月10日放送。『九日間の女王(レディ・ジェーン)』の[[ジェーン・グレイ]]を演じる。
|-
| 1952年
|CBSテレビジョン・ワークショップ<br />[[:en:CBS Television Workshop|CBS Television Workshop]]
| 本人
| 4月13日放送。<br />エピソード "Rainy Day at Paradise Junction"
|-
| 1952年
| [[エド・サリヴァン・ショー|トースト・オブ・ザ・タウン]]<br />''Toast of the Town''
|
| 5月25日放送。後に『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』で共演する[[レックス・ハリソン|レックス・ハリスン]]と初共演。『1000日のアン』の[[アン・ブーリン]]を演じる。
|-
| 1957年
| [[マイヤーリング]]<br />''Mayerling''
| マリー・フォン・ヴェッツェラ
| アメリカの[[NBC]]が制作したテレビ映画<br />日本では2014年1月4日から劇場公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/53979|title=マイヤーリング|publisher=[[allcinema]]|accessdate=2014-01-04}}</ref>
|-
| 1970年
| 愛の世界<br />''A World of Love''
| 本人
| 12月22日放送。[[ジュリー・アンドリュース]]が司会を務める[[国際連合児童基金|ユニセフ]]のドキュメンタリー。ヘプバーンがユニセフに関わった最初のもの{{Sfn|ドッティ|2016|p=250}}
|-
| 1987年
| [[おしゃれ泥棒2]]<br />''Love Among Thieves''
| 男爵夫人キャロライン・デュラック
| テレビ映画
|-
| 1993年
| [[オードリー・ヘプバーンの庭園紀行]]<br />''Gardens of the World with Audrey Hepburn''
| 進行
| [[エミー賞]] 情報番組個人業績賞
|-
| 1993年
| ''{{lang|en|Audrey Hepburn: In Her Own Words}}''
| 本人
| [[国際連合児童基金|ユニセフ]]のドキュメンタリー(DVDのみの発売)
|}
{| class="wikitable" width="100%"
|+ 舞台作品
|-
! width="5%"| 上演年
! width="25%"| 作品名
! width="25%"| 配役
! width="15%"| 劇場名
! width="30%"| Notes
|-
| 1948年 - 1949年
| ハイ・ボタン・シューズ<br />[[:en:High Button Shoes|High Button Shoes]]''
| コーラスガール
| ロンドン・ヒッポドローム劇場<br />[[:en:Hippodrome, London|London Hippodrome]]
| 1948年12月22日初演、全291回公演
|-
| 1949年
| ソース・タルタル<br />''Sauce Tartare''
| コーラスガール
| [[ケンブリッジ・シアター]]
| 1949年5月18日初演
|-
| 1950年
| [[ソース・ピカンテ]]<br />''Sauce Piquante''
| 主役級
| ケンブリッジ・シアター
| 1950年4月27日初演
|-
| 1951年 - 1952年
| [[ジジ (舞台)|ジジ]]<br />''[[:en:Gigi (1951 play)|Gigi]]''
| ジジ
| フルトン・シアター<br />[[:en:Fulton Theatre|Fulton Theatre]]
| 1951年11月24日初演、1952年5月31日終演<br />シアター・ワールド賞受賞
|-
| 1952年 - 1953年
| ジジ<br />''{{lang|en|Gigi}}''
| ジジ
| アメリカ各地
| アメリカ巡業公演<br />1952年10月13日にピッツバーグで開幕、1953年5月16日にサンフランシスコで閉幕<br />その他、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演
|-
| 1954年
| [[オンディーヌ (戯曲)|オンディーヌ]]<br />''Ondine''
| オンディーヌ
| リチャード・ロジャース・シアター<br />[[:en:Richard Rodgers Theatre|Richard Rodgers Theatre]]
| 1954年2月18日初演、1954年6月26日終演<br />[[トニー賞]] [[トニー賞 演劇主演女優賞|最優秀演劇女優賞]]受賞
|-
| 1990年
| アンネ・フランクの日記より<br />''From the Diary of Anne Frank''
| 朗読
| アメリカ各地
| 1990年3月19日〜25日<br />[[マイケル・ティルソン・トーマス]]作曲・指揮、[[ニューワールド交響楽団]]演奏。<br />フィラデルフィア、マイアミ、シカゴ、ヒューストン、ニューヨークで上演。
|-
|1991年
| アンネ・フランクの日記より<br />''From the Diary of Anne Frank''
| 朗読
| ロンドン
| 1991年5月<br />マイケル・ティルソン・トーマス作曲・指揮、[[ロンドン交響楽団]]演奏([[レナード・バーンスタイン]]の助言によりフィナーレがアメリカ版から手直しされた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=256}})
|}
{| class="wikitable sortable" width="100%"
|+ 日本のみの新規撮り下ろしテレビ・コマーシャル
|-
! width="5%"| 放送年
! width="25%"| 商品名
! class="unsortable" width="45%" | 備考
|-
| 1971-1972年
| エクスラン・ヴァリーエ
| 撮影は1971年5月<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=「[[SCREEN (雑誌)|スクリーン]]」1971年9月号 |date=7月21日発売 |publisher=[[近代映画社]] |pages=128-131 |chapter=オードリー・ヘプバーン コマーシャルフィルム ロケ撮影記}}</ref>。当時ヘプバーンが住んでいたローマ近郊で撮影された<ref name=":4" />。[[日本エクスラン工業]]がかつて販売していたウィッグのCM<ref name=":4" />。<br />[[ACC (社団法人)|ACC]] CMフェスティバル(第12回テレビフィルムCM部門秀作賞)受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=150746 |title=ヴァリーエ「かわるがわるかえるかわった」 |access-date=2023-08-06 |publisher=公益財団法人 放送番組センター 放送ライブラリー}}</ref>。
|-
| 1982年
| 銀座リザ
| [[ワールド (企業)|ワールド]]の旗艦店「銀座リザ」立ち上げの際に製作<ref>{{Cite web |url=https://corp.world.co.jp/company/history/ |title=沿革 |access-date=2023-08-06 |publisher=株式会社ワールド}}</ref>。
|}
== 受賞 ==
『the audrey hepburn treasures』には巻末にヘプバーンが受賞、あるいはノミネートされた賞や名誉が117掲載されている。詳細は『{{仮リンク|オードリー・ヘプバーンの受賞リスト|en|List of awards and honours received by Audrey Hepburn|}}』を参照。
== 関連項目 ==
* [[オードリー・ヘプバーン (映画)]] - 彼女を基にしたドキュメンタリー映画。2022年5月6日劇場公開。
* [[オードリー・ヘプバーンの黒いジバンシィドレス]] - [[リトル・ブラック・ドレス]]の一種。[[ユベール・ド・ジバンシィ]]によってデザインされたもので、このドレスは該当するカテゴリーにおいて最も有名な[[被服]]である。
* [[池田昌子]] - オードリーの専属([[フィックス]])声優として<ref>{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000743.000008010.html|title=豪華レジェンド声優陣集結の日本語吹替版も独占初公開!STAR CHANNEL MOVIES『オードリー・ヘプバーン』早くもBS10 スターチャンネルにて9月17日(土)、独占プレミア放送決定!|publisher=[[PR TIMES]]|date=2022-08-06|accessdate=2023-11-05}}</ref><ref name="foxjapan">{{Cite interview|和書|subject=池田昌子|interviewer=村上健一|url=https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview01/|title=インタビュー ~吹替の現場から~ vol.1 池田昌子|work=[[吹替の帝王]]|publisher=[[20世紀スタジオ ホーム エンターテイメント|20世紀フォックス]]|accessdate=2023-01-03|deadlink=2023-01-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191206180157/https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview01/|archivedate=2019-12-06}}</ref>、ほとんどの作品で日本語吹き替えを担当している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaekingdom.com/post-1612/ |title=池田昌子さんインタビュー |publisher= 吹替キングダム|date=2015-11-20 |accessdate=2023-09-18}}</ref>。初めて担当した作品は、1968年にテレビ放送された『許されざる者』<ref>{{Cite|和書|author=[[テレビ朝日]]|title=映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年|date=1986|page=70|publisher=全国朝日放送|isbn=4881310798}}</ref>。
* 『{{仮リンク|オードリー・ヘプバーン物語|en|The Audrey Hepburn Story}} 』- 2000年にヘプバーンの半生(『ティファニーで朝食を』まで)がテレビ映画化された。このテレビ映画でヘプバーン役を演じたのは[[ジェニファー・ラブ・ヒューイット]]で、少女時代のヘプバーンは[[エミー・ロッサム]]が演じた<ref>{{cite news|last=Tynan|first=William|url=https://time.com/time/magazine/article/0,9171,996489,00.html|title=The Audrey Hepburn Story|work=TIME|date=200-3-27|accessdate=2010-3-10}}</ref>。
* [[オードリー (テレビドラマ)]] - [[2000年]] - [[2001年]]にかけて放送された[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]。タイトルは主人公が「オードリー」とあだ名をつけられたことに由来する。
* [[オードリー (お笑いコンビ)]] - コンビ名は彼女の名前に由来する。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=ショーン・ヘプバーン・フェラー(ファーラー)|date=2004年5月18日|year=|title=AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと|translator=実川元子|publisher=竹書房|isbn=978-4812416686|ref={{SfnRef|竹書房|2004}} }}
* {{Citation|和書|author=ルカ・ドッティ|date=2016年6月1日(改訂版2019年)|year=|title=オードリー at Home|translator=網野千代美|publisher=株式会社フォーイン スクリーンプレイ事業部|isbn=978-4-89407-552-8|ref={{SfnRef|ドッティ|2016}} }}
* {{Citation|和書|author=チャールズ・ハイアム|date=1986年3月15日|year=|title=オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生|translator=柴田京子|publisher=[[近代映画社]]|isbn=978-4764813212|ref={{SfnRef|ハイアム|1986}} }}
* {{Citation|和書|author=バリー・パリス|date=1998年5月4日|year=|title=オードリー・ヘップバーン 上巻(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)|translator=永井淳|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4087732894|ref={{SfnRef|パリス 上巻|1998}} }}
* {{Citation|和書|author=バリー・パリス|date=1998年5月4日|year=|title=オードリー・ヘップバーン 下巻(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)|translator=永井淳|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4087732955|ref={{SfnRef|パリス 下巻|1998}} }}
* {{Citation|和書|author=アレグザンダー・ウォーカー|date=2003年1月20日|year=|title=オードリー リアル・ストーリー|translator=斎藤静代|publisher=株式会社アルファベータ|isbn=978-4871984676|ref={{SfnRef|ウォーカー|2003}} }}
* {{Citation|和書|author=イアン・ウッドワード|date=1993年12月25日|year=|title=オードリーの愛と真実|translator=坂口玲子|publisher=[[日本文芸社]]|isbn=978-4537023886|ref={{SfnRef|ウッドワード|1993}} }}
* {{Citation|和書|author=ロビン・カーニー|date=1994年1月20日|year=|title=ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン|translator=中俣真知子|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873760759|ref={{SfnRef|カーニー|1994}} }}
* {{Citation|和書|author=パメラ・クラーク・キオ|date=2000年12月18日|year=|title=オードリー・スタイル 〜エレガントにシックにシンプルに|translator=坂口玲子|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062105323|ref={{SfnRef|クラーク・キオ|2000}} }}
* {{Citation|和書|author=ステファニア・リッチ|date=2001年6月1日|year=|title=オードリー・ヘプバーン:私のスタイル|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022586742|ref={{SfnRef|リッチ|2001}} }}
* {{Citation|和書|date=2004年5月22日|title=timeless audrey|translator=坂口玲子|publisher=シーボルト・ブックス|ref={{SfnRef|シーボルト・ブックス|2004}} }}
* {{Citation|和書|author=エレン・アーウィン&ジェシカ・Z・ダイヤモンド|date=2006年9月25日|year=|title=the audrey hepburn treasures|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062134934|ref={{SfnRef|アーウィン&ダイヤモンド|2006}} }}
* {{Citation|和書|author=ジェリー・バーミリー|date=1997年6月13日|year=|title=スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン|translator=河村美紀|publisher=[[シンコー・ミュージック]]|isbn=978-4401615766|ref={{SfnRef|バーミリー|1997}} }}
* {{Citation|和書|author=サム・ワッソン|date=2011年10月31日|year=|title=オードリー・ヘプバーンとティファニーで朝食を オードリーが創った、自由に生きる女性像|translator=清水晶子|publisher=マーブルトロン発行、[[中央公論新社]]発売|isbn=978-4-12-390314-1|ref={{SfnRef|ワッソン|2011}} }}
* {{Citation|和書|author=エレン・フォンタナ&ショーン・ヘプバーン・ファーラー|date=2011年11月25日|year=|title=AUDREY100 オードリー物語 100枚の写真に秘められた伝説|translator=松井貴子|publisher=二見書房|isbn=978-4576111452|ref={{SfnRef|フォンタナ&ファーラー|2011}} }}
* {{Citation|和書|date=1971年12月20日|year=|title=シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン きらめく真珠のように夢みる白鳥のように|publisher=[[芳賀書店]]|editor=南俊子|ref={{SfnRef|芳賀書店|1971}} }}
* {{Citation|和書|date=1977年1月25日|year=|title=カタログ オードリー・ヘプバーン|translator=|publisher=[[雄鶏社]]|ref={{SfnRef|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977}} }}
* {{Citation|和書|date=1966年11月10日|year=|title=[[映画の友]] 11月号臨時増刊 オードリイ・ヘップバーン全集|translator=|publisher=映画の友社|ref={{SfnRef|オードリイ・ヘップバーン全集|1966}} }}
* シュプール特別編集『永遠のオードリー・ヘップバーン』集英社、1993年5月5日。
* {{Citation|和書|date=2008年7月15日|year=|title=永遠のファッション・アイコン オードリーに学ぶおしゃれ練習帳|author=清藤秀人|publisher=[[近代映画社]]|isbn=978-4-7648-2189-7|ref={{SfnRef|清藤|2008}} }}
* {{cite book|last=Harris|first=Warren G.|title=Audrey Hepburn: A Biography|year=1994|publisher=Simon & Schuster|isbn=9780671758004}}
* {{Cite book|last=Hepburn-Ferrer|first=Sean|year=2003|title=Audrey Hepburn, An Elegant Spirit: A Son Remembers|publisher=Atria|isbn=0-671-02478-7}}
* {{Cite book|author=Paris, Barry|year=1997|title=Audrey Hepburn|publisher=Weidenfeld & Nicolson|isbn=978-0-297-81728-4}}
* {{Cite book|author=Walker, Alexander|year=1994|title=Audrey: Her Real Story|publisher=Weidenfeld & Nicholson|isbn=978-1-85797-352-5}}
== 外部リンク ==
{{commons&cat|Audrey Hepburn}}
{{wikiquotelang|en|Audrey Hepburn}}
* {{NYTtopic|people/h/audrey_hepburn}}
* {{Worldcat id|lccn-n84-66746}}
* {{IMDb name|0000030|Audrey Hepburn}}
* {{IBDB name|44925|Audrey Hepburn}}
* {{tcmdb name|85047|Audrey Hepburn}}
* {{Amg name|31869|Audrey Hepburn}}
* {{allcinema name|id=42469|name=オードリー・ヘプバーン}}
{{Navboxes
|title = オードリー・ヘプバーンの受賞歴
|list =
{{アカデミー賞主演女優賞}}
{{ジーン・ハーショルト友愛賞}}
{{英国アカデミー賞主演女優賞}}
{{ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)}}
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞}}
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[[Category:オランダの貴族]] | 2003-04-26T04:16:28Z | 2023-12-15T22:31:52Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%97%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3 |
7,307 | 工作機械 | 工作機械(こうさくきかい、英: machine tool)は、金属、木材、石材、樹脂等に切断、穿孔、研削、研磨、圧延、鍛造、折り曲げ等の加工を施すための機械である。一般に加工対象物または工具の運動(回転または直線移動)によって、加工対象物を削り取り目的の形状に加工する。工作機械を構成する要素は3つあり、加工対象物または工具に運動を与える動力、動力を特定の運動に変える案内機構、加工対象物を削り取る加工工具からなる。 おもな工作機械として、旋盤、ボール盤、中ぐり盤、フライス盤、歯切り盤、機械研削盤などがある。
近年では、数値制御を行うNC加工(コンピュータ数値制御)で、機械加工を自動化した工作機械が主流である。これらの機能を搭載した工作機械は「マシニングセンタ」「ターニングセンタ」などと呼ばれている。
工作機械を製造する工業を「工作機械工業」という。 | [
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] | 工作機械は、金属、木材、石材、樹脂等に切断、穿孔、研削、研磨、圧延、鍛造、折り曲げ等の加工を施すための機械である。一般に加工対象物または工具の運動(回転または直線移動)によって、加工対象物を削り取り目的の形状に加工する。工作機械を構成する要素は3つあり、加工対象物または工具に運動を与える動力、動力を特定の運動に変える案内機構、加工対象物を削り取る加工工具からなる。
おもな工作機械として、旋盤、ボール盤、中ぐり盤、フライス盤、歯切り盤、機械研削盤などがある。 近年では、数値制御を行うNC加工(コンピュータ数値制御)で、機械加工を自動化した工作機械が主流である。これらの機能を搭載した工作機械は「マシニングセンタ」「ターニングセンタ」などと呼ばれている。 工作機械を製造する工業を「工作機械工業」という。 | [[File:Conventional-lathe.jpg|thumb|250px|[[旋盤]]]]
'''工作機械'''(こうさくきかい、{{Lang-en-short|machine tool}})は、[[金属]]、[[木材]]、[[石材]]、樹脂等に[[カット|切断]]、穿孔、研削、[[研磨]]、[[圧延]]、[[鍛造]]、折り曲げ等の加工を施すための機械である<ref name="jpo-card-K7">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/K7.pdf 意匠分類定義カード(K7)] 特許庁</ref>。一般に加工対象物または工具の運動(回転または直線移動)によって、加工対象物を削り取り目的の形状に加工する。工作機械を構成する要素は3つあり、加工対象物または工具に運動を与える動力、動力を特定の運動に変える案内機構、加工対象物を削り取る加工工具からなる。
おもな工作機械として、[[旋盤]]、[[ボール盤]]、[[中ぐり盤]]、[[フライス盤]]、[[歯切り盤]]、[[グラインダー#機械研削盤|機械研削盤]]などがある。
近年では、[[数値制御]]を行う[[NC加工]]([[CNC|コンピュータ数値制御]])で、機械加工を自動化した工作機械が主流である。これらの機能を搭載した工作機械は「[[マシニングセンタ]]」「ターニングセンタ」などと呼ばれている。
工作機械を製造する[[工業]]を「工作機械工業」という<ref>{{Kotobank|工作機械工業}}</ref>。
==工作機械の種類==
*[[旋盤]]<ref group="注">{{lang-en-short|lathe}}</ref> -[[バイト (工具)|バイト]]<ref group="注">{{lang-en-short|tool bit}}</ref>
**[[タレット旋盤]]<ref group="注">{{lang-en-short|turret lathe}}</ref>
*[[フライス盤]]<ref group="注">{{lang-en-short|milling machine}}</ref> -[[フライス (工具)|フライス]]<ref group="注">{{lang-en-short|milling cutter}}</ref>、[[エンドミル]]
*[[形削り盤]]<ref group="注">{{lang-en-short|shaping machine}}</ref> - バイト
*[[平削り盤]]<ref group="注">{{lang-en-short|planer}}</ref> -バイト
*[[ボール盤]]<ref group="注">{{lang-en-short|drilling machine}}</ref> -[[ドリル (工具)|ドリル]]、[[リーマ]]<ref group="注">{{lang-en-short|reamer}}</ref>、[[タップ (工具)|タップ]]
*[[中ぐり盤]] (中刳盤、[[ボーリング]]・マシン<ref group="注">{{lang-en-short|boring machine}}</ref> - バイト
*[[放電加工]]機<ref group="注">{{lang-en-short|electrical discharge machine}}</ref>
**ワイヤーカット放電加工機
**形彫放電加工機
== 注釈 ==
{{Notelist2}}
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2015年12月14日 (月) 15:34 (UTC)}}
{{Refbegin}}
* {{Cite book|和書|editor=[[日本規格協会]]編 |title=JISハンドブック〈13〉工作機械 |publisher=日本規格協会 |date=2001-01 |isbn=978-4542170131 }}
* {{Cite book|和書|last=福田 |first=力也 |title=工作機械入門 |series=機械工学入門シリーズ |publisher=[[理工学社]] |date=1990-09 |isbn=978-4844522546 }}
* {{Cite book|和書|last=清水 |first=伸二 |title=初歩から学ぶ工作機械―共通な基本構造と仕組みがわかる |edition=新版 |date=2011-04 |publisher=[[大河出版]] |isbn=978-4886617217 }}
* {{Cite book|和書|last=伊東 |first=誼 |last2=森脇 |first2=俊道 |title=工作機械工学 |series=機械系大学講義シリーズ |edition=改訂版 |date=2004-04 |publisher=[[コロナ社 (出版社)|コロナ社]] |isbn=978-4339040685 }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
* [[機械加工]] (machining)
* [[切削工具]]
* [[切削油]]
* [[割り出し盤]]
* [[産業用ロボット]]
* [[主軸]]
** [[主軸台]]
** [[カッタスピンドル]]
* [[電解加工]]
{{道具の種類}}
{{典拠管理}}
{{DEFAULTSORT:こうさくきかい}}
[[Category:工作機械|*こうさくきかい]]
[[Category:製造]]
[[Category:技術史]]
[[Category:ロボット工学]]
[[Category:機械工学]] | 2003-04-26T05:59:08Z | 2023-09-13T17:46:12Z | false | false | false | [
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"Template:道具の種類",
"Template:典拠管理"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E6%A9%9F%E6%A2%B0 |
7,308 | 界面 | 界面(かいめん、英: interface)とは、ある均一な液体や固体の相が他の均一な相と接している境界のことである。この「他の均一な相」が気体もしくは真空であるとき、界面を特に表面(surface)とよぶ(例外もある)。ただし、お互いが完全に混ざり合うことはしない(混ざり合うと界面でなくなる。ただし、界面付近数原子層程度で互いの原子からなる化合物を形成する場合はある)。界面は気相と液相、液相と液相、液相と固相、固相と固相の二相間で形成される。界面を構成する分子・原子は、界面を挟んでいる相から連続的に続いているにもかかわらず、相内部とは性質が異なり、膜のようなはたらきをする。たとえば界面では光線が反射や屈折、散乱、吸収を起こし、界面間には界面張力がはたらく。
エレクトロニクス産業の要請によって固体材料の薄膜やナノテクノロジーを研究する科学分野が重要性を帯びており、特に固体同士の界面は固相界面と呼ばれて界面研究の重要分野となっている。単に界面といえば固相界面を指す場合が多い。
学問上は界面化学および表面物理学で取り扱われる。
理想気体のように分子相互作用(分子間力や静電気力など)がなく凝縮しない場合には、複数の成分を混ぜ合わせても、乱雑さ(エントロピー)が増大する方向に自発的に変化する、つまり混合して均一となる。しかし、分子間相互作用があり、凝縮相となる実在分子において、異種分子間の相互作用より、同一種分子間の相互作用のほうがはるかに強いとき、混合するよりもそれぞれが相分離して、同一種同士の相互作用で安定化するほうが有利となる。このとき、相分離した二つの相の境界が「界面」である。例えば、水分子同士には分子間力よりかなり強い水素結合が働く。油の分子同士では互いに弱い分子間力しか働かない。ゆえに、水は水分子同士で固まっていたほうが安定であり、水と油は混ざり合わないのである(ただしそれでも超音波細動などで水素結合を切って分子レベルで均一にすることはできる)。
界面近傍の分子は、周囲を取り囲む同一種分子の総数が内部より少なくなるために、同一種分子の相互作用で安定化されている内部の分子より自由エネルギー的に不利な状態になる。つまり、内部と比べて過剰の自由エネルギーをもつことになり、これを界面自由エネルギー(interfacial free energy)という。この界面自由エネルギーを低下させるために、界面はできる限り小さくなろうとする。これが界面張力(interface tension)であり、単位面積当たりの界面自由エネルギーとなる。気体との界面の場合は表面張力という。
表面が曲率を持つ場合、その表面の持つエネルギーの効果はヤング・ラプラスの式や、蒸気圧に関するケルビン方程式によって表される。
界面自由エネルギーは分子間相互作用による安定化が界面近傍で低下することによる。このため、相分離する二つの成分のそれぞれの化学構造に類似した構造を一つの分子中に併せもつものが界面に並ぶことにより、この高エネルギー状態を緩和することができる。このような物質を界面活性剤という。水と油のように互いに混合せず相分離する系ではそれぞれ水および油に親和性のある親水基と親油基を一つの分子中に併せもつ、つまり両親媒性構造をもつものが界面活性剤となる。
単一の元素で構成される物質の、ほぼ無限につながるバルク内部での各原子間に働く力や距離は、全く同一であるが、劈開(へきかい)などによってきれいにそろった分子の層が表面に現れた時、それまで前方向に等しく働いていた力の均衡が変わって、第2層目にある分子が少し内側へとずれて、最も外側の層にある分子との距離がひらく。これは表面緩和と呼ばれ、本来さらに外側にあった分子が無くなることで2層目の分子が受ける外向きに働く力が弱くなったために起こる現象である。説明のためにきれいにそろった表面としたが、そろっていなくとも同様の現象は起こる。
また、金属原子で構成される表面付近では、金属原子同士を結び付けている電子の自由電子が表面から内部に引き込まれているために、正確には表面近くでの自由電子の存在確率が低くなっているために、金属原子も引きずられて少し内部に変位している。このため金属表面付近の原子層の間隔はバルク内部に比べて小さくなっている。表面緩和や金属原子表面での原子層間隔の縮小は清浄な表面での現象であり、これらの表面に他の原子・分子が付着すれば結果は異なってくる。
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"text": "界面自由エネルギーは分子間相互作用による安定化が界面近傍で低下することによる。このため、相分離する二つの成分のそれぞれの化学構造に類似した構造を一つの分子中に併せもつものが界面に並ぶことにより、この高エネルギー状態を緩和することができる。このような物質を界面活性剤という。水と油のように互いに混合せず相分離する系ではそれぞれ水および油に親和性のある親水基と親油基を一つの分子中に併せもつ、つまり両親媒性構造をもつものが界面活性剤となる。",
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"text": "固相・気相・液相の3相が接する場所では、濡れと呼ばれる現象が生じる。",
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] | 界面とは、ある均一な液体や固体の相が他の均一な相と接している境界のことである。この「他の均一な相」が気体もしくは真空であるとき、界面を特に表面(surface)とよぶ(例外もある)。ただし、お互いが完全に混ざり合うことはしない(混ざり合うと界面でなくなる。ただし、界面付近数原子層程度で互いの原子からなる化合物を形成する場合はある)。界面は気相と液相、液相と液相、液相と固相、固相と固相の二相間で形成される。界面を構成する分子・原子は、界面を挟んでいる相から連続的に続いているにもかかわらず、相内部とは性質が異なり、膜のようなはたらきをする。たとえば界面では光線が反射や屈折、散乱、吸収を起こし、界面間には界面張力がはたらく。 エレクトロニクス産業の要請によって固体材料の薄膜やナノテクノロジーを研究する科学分野が重要性を帯びており、特に固体同士の界面は固相界面と呼ばれて界面研究の重要分野となっている。単に界面といえば固相界面を指す場合が多い。 学問上は界面化学および表面物理学で取り扱われる。 | {{出典の明記|date=2023年3月}}
'''界面'''(かいめん、{{lang-en-short|interface}})とは、ある均一な[[液体]]や[[固体]]の[[相]]が他の均一な相と接している境界のことである。この「他の均一な相」が[[気体]]もしくは[[真空]]であるとき、界面を特に'''[[表面]]'''(surface)とよぶ(例外もある)。ただし、お互いが完全に混ざり合うことはしない(混ざり合うと界面でなくなる。ただし、界面付近数原子層程度で互いの原子からなる[[化合物]]を形成する場合はある)。界面は気相と液相、液相と液相、液相と固相、固相と固相の二相間で形成される。界面を構成する分子・原子は、界面を挟んでいる相から連続的に続いているにもかかわらず、相内部とは性質が異なり、[[膜]]のようなはたらきをする<ref>{{cite|和書 |author=田中一義|author2=田中庸裕 |title=物理化学 |publisher=丸善 |year=2010 |page=444 |isbn=978-4-621-08302-4}}</ref>。たとえば界面では[[光線]]が[[反射 (物理学)|反射]]や[[屈折]]、[[散乱]]、吸収を起こし、界面間には界面張力がはたらく。
エレクトロニクス産業の要請によって固体材料の[[薄膜]]や[[ナノテクノロジー]]を研究する科学分野が重要性を帯びており、特に固体同士の界面は'''固相界面'''と呼ばれて界面研究の重要分野となっている。単に界面といえば固相界面を指す場合が多い<ref name ="したしむ表面物理">{{cite|和書|author=志村史夫 |title=したしむ表面物理 |publisher=朝倉書店 |date=2007年6月 |ISBN=978-4-254-22769-7}}</ref>。
学問上は[[界面化学]]および[[表面物理学]]で取り扱われる。
== 界面の性質 ==
[[理想気体]]のように[[分子相互作用]]([[分子間力]]や[[静電気力]]など)がなく[[凝縮]]しない場合には、複数の成分を混ぜ合わせても、乱雑さ([[エントロピー]])が増大する方向に自発的に変化する、つまり混合して均一となる。しかし、分子間相互作用があり、凝縮相となる[[実在分子]]において、異種分子間の相互作用より、同一種分子間の相互作用のほうがはるかに強いとき、混合するよりもそれぞれが[[相分離]]して、同一種同士の相互作用で安定化するほうが有利となる。このとき、相分離した二つの相の境界が「界面」である。例えば、[[水]]分子同士には分子間力よりかなり強い[[水素結合]]が働く。[[油]]の分子同士では互いに弱い分子間力しか働かない。ゆえに、水は水分子同士で固まっていたほうが安定であり、水と油は混ざり合わないのである(ただしそれでも[[超音波]]細動などで水素結合を切って分子レベルで均一にすることはできる)。
界面近傍の分子は、周囲を取り囲む同一種分子の総数が内部より少なくなるために、同一種分子の相互作用で安定化されている内部の分子より[[自由エネルギー]]的に不利な状態になる。つまり、内部と比べて過剰の自由エネルギーをもつことになり、これを'''界面自由エネルギー'''({{en|interfacial free energy}})という。この界面自由エネルギーを低下させるために、界面はできる限り小さくなろうとする。これが'''界面張力'''({{en|interface tension}})であり、単位面積当たりの界面自由エネルギーとなる。気体との界面の場合は'''[[表面張力]]'''という。
表面が[[曲率]]を持つ場合、その表面の持つエネルギーの効果は[[ヤング・ラプラスの式]]や、[[蒸気圧]]に関する[[ケルビン方程式]]によって表される。
== 界面活性剤 ==
{{Main|界面活性剤}}
界面自由エネルギーは分子間相互作用による安定化が界面近傍で低下することによる。このため、相分離する二つの成分のそれぞれの化学構造に類似した構造を一つの分子中に併せもつものが界面に並ぶことにより、この高エネルギー状態を緩和することができる。このような物質を[[界面活性剤]]という。水と油のように互いに混合せず相分離する系ではそれぞれ水および油に[[親和性]]のある[[親水基]]と[[親油基]]を一つの分子中に併せもつ、つまり[[両親媒性]]構造をもつものが界面活性剤となる。
== 表面緩和 ==
単一の元素で構成される物質の、ほぼ無限につながる[[バルク (界面化学)|バルク]]内部での各原子間に働く力や距離は、全く同一であるが、劈開(へきかい)などによってきれいにそろった分子の層が表面に現れた時、それまで前方向に等しく働いていた力の均衡が変わって、第2層目にある分子が少し内側へとずれて、最も外側の層にある分子との距離がひらく。これは'''表面緩和'''と呼ばれ、本来さらに外側にあった分子が無くなることで2層目の分子が受ける外向きに働く力が弱くなったために起こる現象である。説明のためにきれいにそろった表面としたが、そろっていなくとも同様の現象は起こる。
また、金属原子で構成される表面付近では、金属原子同士を結び付けている電子の自由電子が表面から内部に引き込まれているために、正確には表面近くでの自由電子の存在確率が低くなっているために、金属原子も引きずられて少し内部に変位している。このため金属表面付近の原子層の間隔はバルク内部に比べて小さくなっている。表面緩和や金属原子表面での原子層間隔の縮小は清浄な表面での現象であり、これらの表面に他の原子・分子が付着すれば結果は異なってくる<ref name ="したしむ表面物理"/>。
== 濡れ ==
{{main|濡れ}}
固相・気相・液相の3相が接する場所では、'''濡れ'''と呼ばれる現象が生じる。
=== 毛細管現象 ===
{{main|毛細管現象}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite|和書 |author=荒木孝二|author2=明石満|author3=高原淳|author4=工藤一秋 |title=有機機能材料 |publisher=[[東京化学同人]] |year=2006 |ISBN=4807906100}}
== 関連項目 ==
* [[物性物理学]]
* [[界面準位]]
* [[薄膜]]
* [[吸着]]
* [[表面再構成]] - [[ダングリングボンド]]
* [[生命の起源#表面代謝説]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:かいめん}}
[[Category:界面化学|*]]
[[Category:表面科学]]
[[Category:物質の相]]
[[Category:表面物理学]]
[[Category:固体物理学]] | null | 2023-06-27T13:11:32Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%8C%E9%9D%A2 |
7,309 | 電子状態 | 電子状態(でんしじょうたい)または電子構造(でんしこうぞう)とは、物質(原子、分子なども含む)における電子の状態のこと。
「電子状態」「電子構造」に相当する英語としては、"electronic structure"、"electronic state(s)"、"electronic property" などがある。
電子状態間の遷移を電子遷移(でんしせんい)という。
電子の状態を表す形式が様々考えられている。
具体的な電子の状態として、電荷密度(電荷分布)、バンド構造(あるいは電子の準位)、磁気構造(あるいは電子のスピンの状態)、フェルミ面、状態密度、原子間の結合の状態(電荷分布と関係)などが挙げられる。これら以外にも電子状態を示す様式は、数多く存在する。
「電子状態」と「電子構造」は通常は同義と考えてよいが、場合によってその意味合いが微妙に異なることがある。
電子状態の間の遷移を電子遷移という。
分子が電磁波を吸収すると内部エネルギーが増大する。このエネルギーの増加は光量子のエネルギー Δ E {\displaystyle \Delta E} に等しく、次の関係で示される。
ここで h はプランク定数、 ν {\displaystyle \nu } は電磁波の振動数、 λ {\displaystyle \lambda } は電磁波の波長、c は光速度である。
分子は電磁波を吸収したことによって電子状態に変化が生じる。具体的には電子エネルギー、振動エネルギー、回転エネルギーに変化を起こす。最もエネルギーの低い電子状態は基底状態と呼ばれ、それより高い電子状態は励起状態と呼ばれる。基底状態、励起状態にはいくつかの振動準位があり、各振動準位にもいくつかの回転準位がある。多くの分子で遠赤外、マイクロ波のようなエネルギーが低い電磁波を吸収したとすると回転状態のみに変化が生じ、中・近赤外程度であれば振動、回転状態に変化が生じる、可視光線および紫外線の場合には電子、振動、回転状態に変化が生じることになる。
遷移確率はフェルミの黄金律で表される。始状態は光子数nkv で電子系が状態i である状態 | i , n k v ⟩ {\displaystyle |i,n_{kv}\rangle } 、そして終状態は光子数nkv - 1 で電子系が状態f である状態 | f , n k v − 1 ⟩ {\displaystyle |f,n_{kv}-1\rangle } である。
光吸収は、電子と光の相互作用によって起こる。
これをフェルミの黄金律に代入することで次を得る。
ここで光の波長は電子系の大きさよりもずっと大きいとして、 e ± i k r ≃ 1 {\displaystyle e^{\pm ikr}\simeq 1} と近似する(双極子近似)。すると双極子モーメント P = − e r {\displaystyle {\boldsymbol {P}}=-e{\boldsymbol {r}}} を用いて次のように書き換えられる。
よって光吸収における遷移確率は、遷移双極子モーメント ⟨ f | P | i ⟩ {\displaystyle \langle f|{\boldsymbol {P}}|i\rangle } の二乗に比例する。すなわち遷移がおこるためには入射光の偏りがベクトル P {\displaystyle {\boldsymbol {P}}} の方向に成分を持つことが必要である。 ⟨ f | P | i ⟩ {\displaystyle \langle f|{\boldsymbol {P}}|i\rangle } が有限の値を持つ場合は許容遷移と呼ばれ、0の場合は禁制遷移と呼ばれ、遷移についての選択律が存在する。
分子の電子状態が光学遷移を起こすためには以下のような選択律が存在する。選択律に従って起こる遷移は許容遷移とよばれ、ルールに従っていない遷移は禁制遷移とよばれる。しかし、禁制遷移であっても分子内、分子間の摂動により遷移がおこることがある。 | [
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] | 電子状態(でんしじょうたい)または電子構造(でんしこうぞう)とは、物質(原子、分子なども含む)における電子の状態のこと。 「電子状態」「電子構造」に相当する英語としては、"electronic structure"、"electronic state(s)"、"electronic property" などがある。 電子状態間の遷移を電子遷移(でんしせんい)という。 | '''電子状態'''(でんしじょうたい)または'''電子構造'''(でんしこうぞう)とは、[[物質]]([[原子]]、[[分子]]なども含む)における[[電子]]の状態のこと。
「電子状態」「電子構造」に相当する英語としては、"electronic structure"、"electronic state(s)"、"electronic property" などがある。
電子状態間の[[遷移]]を'''[[電子遷移]]'''(でんしせんい)という。
== 概説 ==
電子の状態を表す形式が様々考えられている。
具体的な電子の状態として、[[電荷密度]](電荷分布)、[[バンド構造]](あるいは電子の準位)、[[磁気構造]](あるいは電子の[[スピン角運動量|スピン]]の状態)、[[フェルミ面]]、[[状態密度]]、原子間の結合の状態(電荷分布と関係)などが挙げられる。これら以外にも電子状態を示す様式は、数多く存在する。
「電子状態」と「電子構造」は通常は同義と考えてよいが、場合によってその意味合いが微妙に異なることがある。
== 電子遷移 ==
電子状態の間の[[遷移]]を'''電子遷移'''という。
=== 光吸収による遷移(光学遷移) ===
{{main|光と電子の相互作用}}
[[分子]]が[[電磁波]]を吸収すると[[内部エネルギー]]が増大する。この[[エネルギー]]の増加は[[光量子]]のエネルギー <math>\Delta E</math> に等しく、次の関係で示される。
:<math>\Delta E= h\nu =hc/\lambda </math>
ここで ''h'' は[[プランク定数]]、<math>\nu</math> は電磁波の[[振動数]]、<math>\lambda</math>は電磁波の[[波長]]、''c'' は[[光速度]]である。
分子は電磁波を吸収したことによって電子状態に変化が生じる。具体的には電子エネルギー、振動エネルギー、回転エネルギーに変化を起こす。最もエネルギーの低い電子状態は[[基底状態]]と呼ばれ、それより高い電子状態は[[励起状態]]と呼ばれる。基底状態、励起状態にはいくつかの[[振動準位]]があり、各振動準位にもいくつかの回転準位がある。多くの分子で遠赤外、[[マイクロ波]]のようなエネルギーが低い電磁波を吸収したとすると[[回転状態]]のみに変化が生じ、中・近[[赤外線|赤外]]程度であれば振動、回転状態に変化が生じる、[[可視光線]]および[[紫外線]]の場合には電子、振動、回転状態に変化が生じることになる。
=== 光吸収の理論 ===
[[遷移確率]]は[[フェルミの黄金律]]で表される。始状態は光子数''n<sub>kv</sub>'' で電子系が状態''i'' である状態<math>|i, n_{kv} \rangle</math>、そして終状態は光子数''n<sub>kv</sub> - 1'' で電子系が状態''f'' である状態<math>|f, n_{kv}-1 \rangle</math>である。
:<math>W_{\mathrm{abs}}=\frac{2\pi}{\hbar}|\langle f, n_{kv}-1 |\hat{H}'|i, n_{kv} \rangle |^2\delta(E_f-E_i)</math>
光吸収は、[[電子と光の相互作用]]によって起こる。
:<math>\hat{H}' =-\frac{e}{2m_e} \sum_{\boldsymbol{k},\nu=1,2} \sqrt{\frac{2\pi\hbar }{\omega(\boldsymbol{k})V}} ( \hat{a}_{\boldsymbol{k}\nu} + \hat{a}^\dagger_{-\boldsymbol{k}\nu} ) \{ \boldsymbol{p}\cdot \boldsymbol{\varepsilon}_\nu(\boldsymbol{k}) e^{i\boldsymbol{k\cdot r}} + e^{i\boldsymbol{k\cdot r}} \boldsymbol{\varepsilon}_\nu(\boldsymbol{k}) \cdot \boldsymbol{p}\}</math>
これをフェルミの黄金律に代入することで次を得る。
:<math>W_{\mathrm{abs}}=\frac{e^2}{m^2c^2}\frac{\omega(\boldsymbol{k}) n_{kv}}{2\pi \hbar c}|\langle f |e^{-i\boldsymbol{k\cdot r}} \boldsymbol{\varepsilon}_\nu(\boldsymbol{k}) \cdot \boldsymbol{p} |i \rangle |^2 </math>
ここで光の波長は電子系の大きさよりもずっと大きいとして、<math>e^{\pm ikr} \simeq 1</math>と近似する('''[[双極子近似]]''')。すると[[双極子モーメント]]<math>\boldsymbol{P}=-e\boldsymbol{r}</math>を用いて次のように書き換えられる。
:<math>W_{\mathrm{abs}}=\frac{\omega(\boldsymbol{k})^3 n_{kv}}{2\pi \hbar c^3}|\boldsymbol{\varepsilon}_\nu(\boldsymbol{k}) \cdot \langle f|\boldsymbol{P} |i \rangle |^2 </math>
よって光吸収における遷移確率は、[[遷移双極子モーメント]]<math>\langle f|\boldsymbol{P} |i \rangle </math>の二乗に比例する。すなわち遷移がおこるためには入射光の偏りがベクトル<math>\boldsymbol{P}</math>の方向に成分を持つことが必要である。<math>\langle f|\boldsymbol{P} |i \rangle </math>が有限の値を持つ場合は[[許容遷移]]と呼ばれ、0の場合は[[禁制遷移]]と呼ばれ、遷移についての[[選択律]]が存在する。
== 電子状態遷移の選択律 ==
{{main|選択律}}
分子の電子状態が光学遷移を起こすためには以下のような選択律が存在する。選択律に従って起こる遷移は'''[[許容遷移]]'''とよばれ、ルールに従っていない遷移は'''[[禁制遷移]]'''とよばれる。しかし、禁制遷移であっても分子内、分子間の[[摂動]]により遷移がおこることがある。
* 軌道に関する選択律('''[[ラポルテの選択律]]''')
** 一つの光子を吸収する遷移においてはパリティ(偶奇性)の変化を伴う( ''g'' - ''u'' は許容、''g'' - ''g'' および ''u'' - ''u'' は禁制)
* スピンに関する選択律
** [[スピン多重度]]''S''は変化しない('''スピン選択律''')
* 状態の対称性に由来する選択律
== 電子遷移の種類 ==
=== 1つの原子・イオン内での遷移 ===
*電子軌道間の遷移<ref>{{Cite book| last = Shionoya | first = Shigeo | title = Phosphor handbook | publisher = CRC Press | year = 1999 | isbn=978-0-8493-7560-6 }}</ref>
**'''s-p遷移'''
*** 1s-2p遷移 — [[F中心]]などで見られる。
*** ns<sup>2</sup>-ns<sup>1</sup>np<sup>1</sup>遷移 — Tl<sup>+</sup>形イオン(Ga<sup>+</sup>, In<sup>+</sup>, Tl<sup>+</sup>, Ge<sup>2+</sup>, Sn<sup>2+</sup>, Pb<sup>2+</sup>, Sb<sup>3+</sup>, Bi<sup>3+</sup>, Cu<sup>-</sup>, Ag<sup>-</sup>, Au<sup>-</sup>など)で見られる。
** '''d-s遷移'''
*** 3d<sup>10</sup>-3d<sup>9</sup>4s遷移 - Ag<sup>+</sup>, Cu<sup>+</sup>, Au<sup>+</sup>で見られる。
** '''d-d遷移''' - 遷移金属イオンで見られる。
** '''f-f遷移''' - 希土類およびアクチニドイオンで見られる。
** '''f-d遷移''' - Ce<sup>3+</sup>, Sm<sup>2+</sup>, Eu<sup>2+</sup>, Tm<sup>2+</sup>, Yb<sup>2+</sup>, Pr<sup>3+</sup>(吸収のみ), Tb<sup>3+</sup>(吸収のみ)で見られる。
=== 原子間での遷移 ===
* [[電荷移動遷移]](CT遷移) — 原子間の電子の移動を伴う遷移。主に錯体化学で取り扱われる。
=== 1つの分子内での遷移 ===
{{Main|分子電子遷移}}
* π*軌道への遷移 — π*軌道の励起状態が存在する分子は、[[近赤外]]、[[可視光線|可視光]]から[[紫外線|近紫外光]]領域にかけて遷移を持つ事から、古くから[[紫外・可視・近赤外分光法]] (UV-Vis-NIR) により観測がなされてきた。
** '''π-π*遷移''' — 二重結合のπ電子に由来する遷移。[[アルケン]]などで見られ、孤立したC=C結合は190ナノメートル付近に吸収を示すが、[[共役系|共役]]が伸張すれば、より波長の長い(エネルギーの低い)光でも遷移を起こす。
** '''n-π*遷移''' — カルボニル基などの孤立電子対に由来する遷移。[[ケトン]]などで見られ、300ナノメートル付近に吸収を示す。禁制遷移であるため一般に吸光度は小さい。
* σ*軌道への遷移 — π*軌道への遷移と同様だが、σ*軌道は一般にエネルギー準位が高いため遷移により高いエネルギーを必要とし、吸収するのは主に紫外光である。
** σ-σ*遷移 — C−C結合やC−H結合に見られる。吸収するのは約150ナノメートルの光である。
** n-σ*遷移 — [[エーテル (化学)|エーテル]]、[[アミン]]、[[チオエーテル]]などで見られる、孤立電子対のσ*軌道への遷移。190ナノメートル程度の光を吸収して遷移を起こす。
=== バンド間での遷移 ===
* [[バンド間遷移]] — 固体において[[バンド理論]]により記述される遷移。
== 参考文献 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[電子配置]]
* [[電子状態計算]]
* [[バンド計算]]
* [[分子軌道法]]
* [[紫外可視近赤外分光光度計]]
* [[分子電子遷移]]
{{デフォルトソート:てんししようたい}}
[[Category:電子]]
[[Category:原子]]
[[Category:分子]]
[[Category:電子状態|*]] | null | 2022-03-28T06:34:31Z | false | false | false | [
"Template:Main",
"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E7%8A%B6%E6%85%8B |
7,310 | 絶対零度 | 絶対零度(ぜったいれいど、Absolute zero)は、絶対温度の下限で、理想気体のエントロピーとエンタルピーが最低値になった状態、つまり 0 Kを表す。セルシウス度(摂氏)で −273.15 °C、ファーレンハイト度(華氏)で −459.67 °Fである。
絶対零度は最低温度とされるが、エンタルピーは0にはならない。統計力学では0 K未満の負温度が存在する。
温度は、物質の熱振動をもとにして規定されているので、下限が存在する。それは、熱振動(原子の振動)が小さくなり、エネルギーが最低になった状態である。この時に決まる下限温度が絶対零度である。古典力学では、エネルギーが最低の状態とは、原子の振動が完全に止まった状態である。
ただし量子力学では、不確定性原理のため、原子の振動が止まることはなく、エネルギーが最低の状態でも零点振動をしている。
熱力学第三法則によれば、ある温度(0 Kよりも大きい温度)をもった物質を、有限回の操作で絶対零度に移行させることはできない。
絶対零度に近い極低温では、より温度の高い状態では見られない現象がいくつか知られる。それらを扱う分野を低温物理学という。
理想気体においては、状態方程式により0Kで圧力または体積が0となる。
ギヨーム・アモントンは温度計の研究の際に気体の温度と圧力の関係を調べて、空気の温度を下げていくと、ある温度で圧力がゼロになるはずだとの判断を得た。彼はその温度を −240 °C と推定した。彼は、圧力がマイナスの値をとれないことから、温度に何らかの下限があるのだと考えた。後にジャック・シャルルとジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックがこれをさらに進めてシャルルの法則を発見し、このときに絶対零度は −273 °C であることが示された。
1935年、木下正雄と大石二郎が気体温度計を用い、絶対零度が−273.15°Cから−273.16°Cの間であるとの結果を得た。また、1938年にはより高精度な等温線法を開発し、同様の結果を得た。
1954年、第4回国際度量衡委員会において、等温線法の利点が理解され、二人の導き出した−273.15°Cが絶対零度として定められた。
(第4回委員会では、水の三重点が273.16Kと定められた。水の三重点は摂氏0.01°Cであり、0.01−273.16=−273.15により、自動的に絶対零度は−273.15°Cと定められる) | [
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] | 絶対零度は、絶対温度の下限で、理想気体のエントロピーとエンタルピーが最低値になった状態、つまり 0 Kを表す。セルシウス度(摂氏)で −273.15 °C、ファーレンハイト度(華氏)で −459.67 °Fである。 絶対零度は最低温度とされるが、エンタルピーは0にはならない。統計力学では0 K未満の負温度が存在する。 | {{Redirect|アブソリュート・ゼロ|[[Brian the Sun]]の楽曲|Absolute Zero|[[ゴジラシリーズ]]の架空の兵器|3式機龍}}
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[[File:CelsiusKelvin.svg|thumb|150px|[[0]] [[ケルビン|K]](−273.15 °C)を絶対零度と定義している。]]
'''絶対零度'''(ぜったいれいど、{{lang|en|Absolute zero}})は、[[熱力学温度|絶対温度]]の下限で、[[理想気体]]の[[エントロピー]]と[[エンタルピー]]が最低値になった状態、つまり 0 Kを表す。[[セルシウス度]](摂氏)で −273.15 °C、[[華氏|ファーレンハイト度]](華氏)で −459.67 {{°F}}である。
絶対零度は最低温度とされるが、エンタルピーは0にはならない。[[統計力学]]では0 K未満の[[負温度]]が存在する。
== 概要 ==
[[温度]]は、[[物質]]の[[熱振動]]をもとにして規定されているので、下限が存在する。それは、熱振動(原子の振動)が小さくなり、エネルギーが最低になった状態である。この時に決まる下限温度が'''絶対零度'''である。[[古典力学]]では、エネルギーが最低の状態とは、原子の振動が完全に止まった状態である。
ただし[[量子力学]]では、[[不確定性原理]]のため、原子の振動が止まることはなく、エネルギーが最低の状態でも[[零点振動]]をしている。
[[熱力学第三法則]]によれば、ある温度(0 Kよりも大きい温度)をもった物質を、有限回の操作で絶対零度に移行させることはできない。
絶対零度に近い極低温では、より温度の高い状態では見られない現象がいくつか知られる。それらを扱う分野を[[低温物理学]]という。
[[理想気体]]においては、状態方程式により0Kで圧力または体積が0となる。
== 歴史 ==
[[ギヨーム・アモントン]]は温度計の研究の際に気体の温度と圧力の関係を調べて、空気の温度を下げていくと、ある温度で圧力がゼロになるはずだとの判断を得た。彼はその温度を −240 °C と推定した。彼は、圧力がマイナスの値をとれないことから、温度に何らかの下限があるのだと考えた。後に[[ジャック・シャルル]]と[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]]がこれをさらに進めて[[シャルルの法則]]を発見し、このときに絶対零度は −273 °C であることが示された<ref>メンデルスゾーン/大島([[1971年|1971]])、p.17-18.</ref>。
1935年、木下正雄と大石二郎が気体温度計を用い、絶対零度が−273.15℃から−273.16℃の間であるとの結果を得た。また、1938年にはより高精度な等温線法を開発し、同様の結果を得た。
1954年、第4回国際度量衡委員会において、等温線法の利点が理解され、二人の導き出した−273.15℃が絶対零度として定められた。<ref>{{Cite web|和書|title=<絶対零度=-273.15度>への挑戦 |url=https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/stories/absolute-zero |website=東京工業大学 |access-date=2023-04-24 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=広瀬茂久 |date=2014-07 |url=https://doi.org/10.11311/jscta.41.3_99 |title=絶対零度の決定に挑んだ日本の科学者 |journal=熱測定 |ISSN=0386-2615 |publisher=日本熱測定学会 |volume=41 |issue=3 |pages=99-103 |doi=10.11311/jscta.41.3_99 |id={{CRID|1390575661578995968}} |access-date=2023-05-10}}</ref>
(第4回委員会では、水の[[三重点]]が273.16Kと定められた。水の三重点は[[セルシウス度|摂氏]]0.01℃であり、0.01−273.16=−273.15により、自動的に絶対零度は−273.15℃と定められる)
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* K.メンデルスゾーン/大島恵一訳、『絶対零度への挑戦』、(1971年)、講談社(ブルーバックス)
== 関連項目 ==
* [[負温度]] - 0 K未満の絶対温度。[[−0|マイナスゼロ]]とも。
* [[熱力学温度]](絶対温度)
* [[統計力学]]
* [[低温物理学]]
* [[物性物理学]]
* [[超伝導]]
* [[超流動]]
*[[絶対温度]]
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[[Category:熱力学]]
[[Category:低温物理学]]
[[Category:温度]]
[[Category:寒冷]] | 2003-04-26T08:11:11Z | 2023-12-07T01:00:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E9%9B%B6%E5%BA%A6 |
7,312 | SARSコロナウイルス |
SARSコロナウイルス(サーズコロナウイルス、英: Severe acute respiratory syndrome coronavirus, SARS-CoV)は、一本鎖プラス鎖RNAウイルスで、SARS関連コロナウイルス (SARSr-CoV) に属するコロナウイルスである。中華人民共和国から発見され2003年に流行した重症急性呼吸器症候群 (Severe acute respiratory syndrome = SARS) の病原体として同定された。通称 SARSウイルス。飛沫感染により広がるとみられている。
当初、中国政府の対応の遅れにより中華人民共和国外でも多数の感染者と死者が確認された。その後もアジアやカナダ、アメリカ合衆国を中心に感染拡大、2003年3月12日に世界保健機関(WHO)からグローバルアラートが出され、同年7月5日に終息宣言が出されるまで、32の地域と国にわたり8,000人以上の感染者を出した。研究結果によると60歳以上の致死率は50%を超えていたと発表されている。
また、日本での感染者は確認されなかった。感染は終息しているものの、SARSコロナウイルスに効果があるワクチンは2023年現在でも開発されていない。
感染後、数日間は無症状のままだが、徐々に発熱や咳、筋肉痛のような痛み、痺れが現れるとされている。病状とともに進行するリンパ球減少、血小板減少、APTTの延長、LDH上昇、血清電解質の異常などが複数の研究により報告されている。
患者の早期発見と隔離、接触者の隔離や検疫以外に有効な予防措置がない。呼吸器感染症の一般的な予防策としては、マスク着用や手洗いとうがい、消毒をこまめにする方法がある。
中華人民共和国広東省を起点とし、2003年3月頃から大流行の兆しを見せ始めた。重症急性呼吸器症候群の原因が『新種のウイルスである』可能性は、2002年11月頃から指摘されていた。 | [
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] | SARSコロナウイルスは、一本鎖プラス鎖RNAウイルスで、SARS関連コロナウイルス (SARSr-CoV) に属するコロナウイルスである。中華人民共和国から発見され2003年に流行した重症急性呼吸器症候群 の病原体として同定された。通称 SARSウイルス。飛沫感染により広がるとみられている。 | {{出典の明記|date=2013年6月<!--2013年5月31日 (金) 16:19 (UTC)-->}}
{{redirect|SARS-CoV|2019年12月に報告された[[新型コロナウイルス]](''SARS-CoV-2'')|SARSコロナウイルス2}}
{{生物分類表
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| 名称 = SARSコロナウイルス
| 画像 = [[ファイル:SARS virion.gif|220px]]
| 画像キャプション = SARSコロナウイルスの電子顕微鏡写真
|レルム = [[リボウィリア]] ''{{Sname||Riboviria}}''
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| 株 = '''SARSコロナウイルス [[:en:Severe acute respiratory syndrome coronavirus|Severe acute respiratory syndrome coronavirus]]'''
|画像2=[[ファイル:SARS map.svg|220px]]|画像キャプション2=SARS感染による死者が出た国・地域(黒)<br />SARS感染者が出た国・地域(赤)<br />SARS感染者が確認されなかった国・地域(灰)}}
'''SARSコロナウイルス'''(サーズコロナウイルス、{{Lang-en-short|Severe acute respiratory syndrome coronavirus, '''SARS-CoV'''}})は、[[一本鎖プラス鎖RNAウイルス]]で、[[SARS関連コロナウイルス]] (SARSr-CoV) に属する[[コロナウイルス]]である。[[中華人民共和国]]から発見され[[2003年]]に流行した[[重症急性呼吸器症候群]] (Severe acute respiratory syndrome = '''SARS''') の[[病原体]]として同定された。通称 '''SARSウイルス'''。[[感染経路#飛沫感染|飛沫感染]]により広がるとみられている。
== 感染状況 ==
当初、[[中華人民共和国政府|中国政府]]の対応の遅れ<ref>{{Cite web|和書|title=天然痘に勝利、SARS封じ込め パンデミック闘いの歴史|ナショジオ|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO58038420U0A410C2000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-10-20|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>により[[中華人民共和国]]外でも多数の感染者と死者が確認された。その後も[[アジア]]や[[カナダ]]、[[アメリカ合衆国]]を中心に感染拡大、2003年3月12日に[[世界保健機関]](WHO)から'''グローバルアラート'''が出され、同年7月5日に終息宣言<ref name=":1" />が出されるまで、32の地域と国にわたり8,000人以上の感染者を出した。研究結果によると60歳以上の致死率は50%を超えていたと発表されている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=重症急性呼吸器症候群(SARS)|url=https://www.forth.go.jp/keneki/kanku/disease/dis03_07ser.html|website=www.forth.go.jp|accessdate=2020-10-20}}</ref>。
また、[[日本]]での感染者は確認されなかった。感染は終息しているものの、SARSコロナウイルスに効果がある[[ワクチン]]は2023年現在でも開発されていない<ref name=":0" />。
== 症状 ==
感染後、数日間は無症状のままだが、徐々に発熱や咳、筋肉痛のような痛み、痺れが現れるとされている。病状とともに進行する[[リンパ球]]減少、[[血小板]]減少、APTTの延長、LDH上昇、血清電解質の異常などが複数の研究により報告されている<ref name="niid">{{Cite web|和書|title=SARS(重症急性呼吸器症候群)とは|url=https://www.niid.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/414-sars-intro.html|website=www.niid.go.jp|accessdate=2020-10-20}}</ref>。
患者の早期発見と[[隔離]]、接触者の隔離や[[検疫]]以外に有効な予防措置がない。[[呼吸器感染症]]の一般的な予防策としては、[[マスク]]着用や[[手洗い]]と[[うがい]]、[[消毒]]をこまめにする方法がある<ref name=":0" /><ref name="niid" />。
== 状況推移 ==
[[中華人民共和国]][[広東省]]を起点とし、[[2003年]]3月頃から大流行の兆しを見せ始めた。[[重症急性呼吸器症候群]]の原因が『新種の[[ウイルス]]である』可能性は、[[2002年]]11月頃から指摘されていた。
; 2003年
* 3月下旬、[[中華民国]]([[台湾]])のテレビ報道で「謎の新病発生」と報道される。
* [[3月27日]]、[[香港大学]]の研究チームがSARSの原因が新種のコロナウイルスと特定したと発表([[コッホの原則|コッホの四原則]]に適合)。
* [[4月1日]]、[[世界保健機関]] (WHO) はコロナウイルスが主な原因との見解を公表。
* [[4月10日]]、SARS患者から検出されたコロナウイルスの遺伝子配列が、既知の種のものとは大きく異なっているとのベルンハルト・ノッホ研究所([[ドイツ]])等による解析結果が発表された。
* [[アメリカ疾病予防管理センター]] (CDC) は、世界各地のSARS患者からほぼ同じ遺伝子配列のコロナウイルスを検出し、これが原因である可能性が高いことを発表した。
* [[オランダ]]のエラスムス大学の研究チームが、SARS患者から分離された新コロナウイルスを[[サル]]に投与する方法で、SARSの原因であることを検証した。
* 4月16日、WHOはSARSの原因が新種のコロナウイルスと確認されたと発表、これをSARSコロナウイルスと命名した。
* 7月5日、WHOはSARS封じ込め成功を発表<ref name="WHO030705">{{cite web|url=http://www.who.int/mediacentre/news/releases/2003/pr56/en/|title=SARS outbreak contained worldwide|date=2003-07-05|accessdate=2017-09-24|publisher=[[WHO]]}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=7月 5日 WHOがSARS封じ込め宣言を発表(2003年)(ブルーバックス編集部)|url=https://gendai.media/articles/-/73722|website=ブルーバックス {{!}} 講談社|date=2020-07-05|accessdate=2020-10-20}}</ref>。
; 2004年以降
* 1月から5月にかけ散発的な発生があったが、その後の発生は確認されていない。なお、[[2019年]]11月頃から中国[[湖北省]][[武漢市]]を起点として[[パンデミック]]を引き起こしている、[[SARSコロナウイルス2]]('''SARS-CoV-2''')<ref name="ICTV20200211">{{PDFlink|[https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.02.07.937862v1.full.pdf Severe acute respiratory syndrome-related coronavirus: The species and its viruses – a statement of the Coronavirus Study Group]}} - ICTV</ref>は、SARSコロナウイルスの直接の子孫ではないものの姉妹関係にあり<ref name="CVSG">{{cite web|url=https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.02.07.937862v1.full.pdf|title=Severe acute respiratory syndrome-related coronavirus: The species and its viruses|author=Coronavirus Study Group|website=[[bioRxiv]]|date=11 February 2020|accessdate=12 February 2020}}</ref>、同じ[[コロナウイルス]]種である<ref name="CVSG" /><ref name="ICTV20200211">{{PDFlink|[https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.02.07.937862v1.full.pdf Severe acute respiratory syndrome-related coronavirus: The species and its viruses – a statement of the Coronavirus Study Group]}} - ICTV</ref>。このウイルスとSARSコロナウイルスで、ウイルスゲノム相同性は80%程度である<ref name="WuStructure">{{cite journal|vauthors=Wu C, Liu Y, Yang Y, Zhang P, Zhong W, Wang Y, Wang Q, Xu Y, Li M, Li X, Zheng M, Chen L, Li H|display-authors=3|title=Analysis of therapeutic targets for SARS-CoV-2 and discovery of potential drugs by computational methods |journal=Acta Pharmaceutica Sinica B| date=February 2020| name-list-format=vanc| doi=10.1016/j.apsb.2020.02.008}}</ref>。
== 脚注 ==
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== 関連資料 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。
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* 田中文広 「{{PDFlink|[http://jsv.umin.jp/journal/v53-2pdf/virus53-2_201-209.pdf トピックス SARSコロナウイルス]}}」、『ウイルス』 日本ウイルス学会、2003年12月、第53巻第2号、pp.201-209。
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[[Category:コロナウイルス科]]
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[[Category:二種病原体]] | 2003-04-26T09:19:23Z | 2023-12-04T21:36:48Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/SARS%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9 |
7,314 | サバ亜目 | サバ亜目(学名:Scombroidei)は、サバ目に所属する魚類の分類群の一つ。現生種としてサバ科・タチウオ科・クロタチカマス科など、6科46属147種が記載される。マグロ・カジキに代表される、遊泳性の大型肉食魚を多く含むグループである。
サバ亜目の魚類はすべて海水魚で、沿岸から外洋にかけての表層、あるいは深海にまで分布する。カマス科・サバ科の一部は汽水域に進出することもあるが、淡水域に入ることはごくまれである。ほとんどの種類が世界各地で食用魚として利用され、サバ・マグロなど多量に漁獲される水産重要種も数多く含まれる。
本亜目には非常に速く遊泳することができる魚種が多く、クロマグロ・メカジキ・バショウカジキの遊泳速度は短時間ながら最高で時速60-100kmに達する。マグロ類など一部の仲間は内温性を獲得しており、代謝熱によって比較的高い体温を維持することができる。
サバ亜目魚類の生態は科によって異なり、表層遊泳性のカマス科・サバ科・メカジキ科・マカジキ科、深海中層を遊泳するクロタチカマス科、深海底生性のタチウオ科に大きく分けられる。
サバ科の仲間は季節的な回遊を行うものが多い。また、クロタチカマス科やタチウオ科の一部では昼は深海に潜み、夜間に海面近くに浮上する日周鉛直移動がみられる。食性は一般に肉食性で、動物プランクトン・魚類・甲殻類・頭足類などを捕食する。
サバ亜目の仲間はサバ科のように遊泳に適した紡錘形の体型をもつものと、タチウオ科のように細長く側扁したリボン状のものに分けられる。成魚の全長は、数十cm程度のサバ類から4mを超すタイセイヨウクロマグロまで種類によってさまざま。スズキ目の中でも比較的大型の魚が多く、全長1mを超えるものも珍しくない。
成魚の顎は上下とも前方に尖り、種類による長短の違いはあるが吻が形成される。前上顎骨は固定され、上顎を前方に突き出すことはできない。これは大型の獲物を捕食するために、二次的に獲得された形質であると考えられている。歯は強固に直立し、クロタチカマス科・タチウオ科・サワラ類などでは 牙のように鋭く発達する。一般に目も大きい。鱗は退化傾向にあり、小さな円鱗か櫛鱗、もしくは骨質変形鱗である。
現生のサバ亜目は6科46属147種で構成される。化石種のみの絶滅群として、Blochiidae 科(始新世)および Palaeorhynchidae 科の2科が知られ、前者はメカジキ科に近いグループであると推測されている。
本亜目の構成には議論が多く、カマス科を独立のカマス亜目 Sphyraenoidei として除外する見解もある。また、カジキ類2科(メカジキ科・マカジキ科)については、単一の「メカジキ科」にまとめる場合もあるほか、近年ではカジキ亜目 Xiphioidei としてサバ亜目から分離させる意見も多くなっている。
ムカシクロタチ科とアマシイラ科はかつて本亜目に所属していたが、両者が実際にサバ亜目の一員であるかについては見解が分かれている。ムカシクロタチ科はムカシクロタチ Scombrolabrax heterolepis 1種のみで構成される単型で、クロタチカマス科に類似した形態をもつ一方でスズキ亜目に近い部分もある。Nelson(2006)の体系では独立のムカシクロタチ亜目 Scombrolabracoidei として分類されている一方で、サバ亜目の内部に位置付ける体系も存在する。また、カジキ類と近縁であると考えられていたアマシイラ科(アマシイラ Luvarus imperialis のみを含む)は、近年の詳細な形態学的解析によりニザダイ亜目との関係が強く示唆されている。
亜目内での分化については、沿岸性の原スズキ型魚類からまずカマス科・クロタチカマス科が分化し、クロタチカマス科からさらにタチウオ科とサバ科に分岐したと考えられている。
カマス科 Sphyraenidae はカマス属 Sphyraena 1属のみからなり、アカカマス・ヤマトカマス・オニカマスなど21種を含む。沿岸性が強く、浅海で群れを成して泳ぐ。
体は前後に細長い槍型で、吻が長く尖る。大きい口には鋭い歯が並ぶ。背鰭は2つで互いによく離れ、尾鰭の前に小離鰭はもたない。
クロタチカマス科 Gempylidae にはクロシビカマス・バラムツ・アブラソコムツなど16属24種が記載される。深海中層性だが、夜には浅海へ上がるものもいる。
背鰭は棘条部が前後に長く、腹鰭は退化的である。背鰭は棘条部と軟条部に分かれ、尾鰭の前に小離鰭をもつ。側線が体側の上下に分かれるものもいる。
タチウオ科 Trichiuridae はタチウオ・タチモドキ・ヒレナガユメタチなど3亜科10属39種で構成される。深海底での生活に適応し遊泳力は比較的低いが、夜には浅海へ浮上するものもいる。
体はリボン状で、背鰭は棘条部と軟条部が連続し、小離鰭を欠く。腹鰭と尾鰭は退化傾向が強く、種類によっては消失する。
サバ科 Scombridae にはマサバ・サワラ・カツオ・マグロなど多数の水産重要種が所属し、2亜科15属51種が記載される。沿岸から外洋にかけての表層から中層を遊泳して生活する。クロマグロの遊泳速度は非常に高く、メカジキやバショウカジキと並んで魚類の中でもトップクラスである。
背鰭は2つに分かれ、尾鰭の前に小離鰭をもつ。明瞭な鱗をもつウロコマグロ亜科(ウロコマグロ1種のみ)と、微小な鱗しかもたないサバ亜科に細分される。
メカジキ科 Xiphiidae はメカジキ Xiphias gladius のみ、1属1種。世界中の熱帯・亜熱帯の外洋に生息する。本科魚類はマカジキ科を含めた2科と合わせ「カジキ」と総称され、さまざまな形態学的特徴を共有する。両グループが姉妹群の関係にあることは広く認められているが、1つの「メカジキ科」にまとめるか2科に分割するかは見解が分かれている。
上顎が槍状あるいは剣状に著しく伸長し、吻は上下に平たい。成魚は顎の歯・腹鰭・鱗を欠く。
マカジキ科 Istiophoridae は3属11種からなる。暖海の表・中層性で遊泳力が高く、全長1mを超える大型魚が揃う。詳細はカジキを参照のこと。
吻は丸く筒状に伸び、成魚は顎の歯・腹鰭・鱗をもつ。3属の分類は、背鰭前半部の高さと体高との関係に基づいている。 | [
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"text": "サバ亜目(学名:Scombroidei)は、サバ目に所属する魚類の分類群の一つ。現生種としてサバ科・タチウオ科・クロタチカマス科など、6科46属147種が記載される。マグロ・カジキに代表される、遊泳性の大型肉食魚を多く含むグループである。",
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"text": "サバ亜目の魚類はすべて海水魚で、沿岸から外洋にかけての表層、あるいは深海にまで分布する。カマス科・サバ科の一部は汽水域に進出することもあるが、淡水域に入ることはごくまれである。ほとんどの種類が世界各地で食用魚として利用され、サバ・マグロなど多量に漁獲される水産重要種も数多く含まれる。",
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"text": "本亜目には非常に速く遊泳することができる魚種が多く、クロマグロ・メカジキ・バショウカジキの遊泳速度は短時間ながら最高で時速60-100kmに達する。マグロ類など一部の仲間は内温性を獲得しており、代謝熱によって比較的高い体温を維持することができる。",
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"text": "サバ亜目魚類の生態は科によって異なり、表層遊泳性のカマス科・サバ科・メカジキ科・マカジキ科、深海中層を遊泳するクロタチカマス科、深海底生性のタチウオ科に大きく分けられる。",
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"text": "サバ亜目の仲間はサバ科のように遊泳に適した紡錘形の体型をもつものと、タチウオ科のように細長く側扁したリボン状のものに分けられる。成魚の全長は、数十cm程度のサバ類から4mを超すタイセイヨウクロマグロまで種類によってさまざま。スズキ目の中でも比較的大型の魚が多く、全長1mを超えるものも珍しくない。",
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"text": "成魚の顎は上下とも前方に尖り、種類による長短の違いはあるが吻が形成される。前上顎骨は固定され、上顎を前方に突き出すことはできない。これは大型の獲物を捕食するために、二次的に獲得された形質であると考えられている。歯は強固に直立し、クロタチカマス科・タチウオ科・サワラ類などでは 牙のように鋭く発達する。一般に目も大きい。鱗は退化傾向にあり、小さな円鱗か櫛鱗、もしくは骨質変形鱗である。",
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"text": "本亜目の構成には議論が多く、カマス科を独立のカマス亜目 Sphyraenoidei として除外する見解もある。また、カジキ類2科(メカジキ科・マカジキ科)については、単一の「メカジキ科」にまとめる場合もあるほか、近年ではカジキ亜目 Xiphioidei としてサバ亜目から分離させる意見も多くなっている。",
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"text": "ムカシクロタチ科とアマシイラ科はかつて本亜目に所属していたが、両者が実際にサバ亜目の一員であるかについては見解が分かれている。ムカシクロタチ科はムカシクロタチ Scombrolabrax heterolepis 1種のみで構成される単型で、クロタチカマス科に類似した形態をもつ一方でスズキ亜目に近い部分もある。Nelson(2006)の体系では独立のムカシクロタチ亜目 Scombrolabracoidei として分類されている一方で、サバ亜目の内部に位置付ける体系も存在する。また、カジキ類と近縁であると考えられていたアマシイラ科(アマシイラ Luvarus imperialis のみを含む)は、近年の詳細な形態学的解析によりニザダイ亜目との関係が強く示唆されている。",
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"text": "亜目内での分化については、沿岸性の原スズキ型魚類からまずカマス科・クロタチカマス科が分化し、クロタチカマス科からさらにタチウオ科とサバ科に分岐したと考えられている。",
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"text": "サバ科 Scombridae にはマサバ・サワラ・カツオ・マグロなど多数の水産重要種が所属し、2亜科15属51種が記載される。沿岸から外洋にかけての表層から中層を遊泳して生活する。クロマグロの遊泳速度は非常に高く、メカジキやバショウカジキと並んで魚類の中でもトップクラスである。",
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"text": "背鰭は2つに分かれ、尾鰭の前に小離鰭をもつ。明瞭な鱗をもつウロコマグロ亜科(ウロコマグロ1種のみ)と、微小な鱗しかもたないサバ亜科に細分される。",
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"text": "メカジキ科 Xiphiidae はメカジキ Xiphias gladius のみ、1属1種。世界中の熱帯・亜熱帯の外洋に生息する。本科魚類はマカジキ科を含めた2科と合わせ「カジキ」と総称され、さまざまな形態学的特徴を共有する。両グループが姉妹群の関係にあることは広く認められているが、1つの「メカジキ科」にまとめるか2科に分割するかは見解が分かれている。",
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"text": "上顎が槍状あるいは剣状に著しく伸長し、吻は上下に平たい。成魚は顎の歯・腹鰭・鱗を欠く。",
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"text": "吻は丸く筒状に伸び、成魚は顎の歯・腹鰭・鱗をもつ。3属の分類は、背鰭前半部の高さと体高との関係に基づいている。",
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] | サバ亜目は、サバ目に所属する魚類の分類群の一つ。現生種としてサバ科・タチウオ科・クロタチカマス科など、6科46属147種が記載される。マグロ・カジキに代表される、遊泳性の大型肉食魚を多く含むグループである。 | {{生物分類表
|名称 =サバ亜目
|省略=条鰭綱
|画像=[[ファイル: Atlantic blue marlin.jpg |250px]]
|画像キャプション =ニシクロカジキ ''Makaira nigricans''
|亜綱 = [[新鰭亜綱]] {{sname||Neopterygii}}
|上目 = [[棘鰭上目]] {{sname||Acanthopterygii}}
|目 = [[サバ目]] {{sname||Scombriformes}}
|亜目 = '''サバ亜目''' {{sname||Scombroidei}}
|下位分類名 = 下位分類
|下位分類 = {{Center|本文参照}}
|タイプ種 = タイセイヨウサバ<br>({{snamei||Scomber scombrus}})
}}
'''サバ亜目'''([[学名]]:{{sname||Scombroidei}})は、[[サバ目]]に所属する[[魚類]]の分類群の一つ。現生種として[[サバ科]]・[[タチウオ科]]・[[クロタチカマス科]]など、6科46属147種が記載される<ref name=Nelson2006>『Fishes of the World Fourth Edition』 pp.430-434</ref>。[[マグロ]]・[[カジキ]]に代表される、遊泳性の大型肉食魚を多く含むグループである。
== 分布・生態 ==
サバ亜目の魚類はすべて[[海水魚]]で、沿岸から外洋にかけての表層、あるいは[[深海]]にまで分布する<ref name=Nelson2006/>。[[カマス|カマス科]]・[[サバ科]]の一部は[[汽水域]]に進出することもあるが、[[淡水]]域に入ることはごくまれである<ref name=Nelson2006/>。ほとんどの種類が世界各地で食用魚として利用され、[[サバ]]・[[マグロ]]など多量に漁獲される水産重要種も数多く含まれる<ref name=Nelson2006/>。
本亜目には非常に速く遊泳することができる魚種が多く、[[クロマグロ]]・[[メカジキ]]・[[バショウカジキ]]の遊泳速度は短時間ながら最高で時速60-100kmに達する<ref name=Nelson2006/>。マグロ類など一部の仲間は[[内温性]]を獲得しており、[[代謝|代謝熱]]によって比較的高い体温を維持することができる<ref name=Nelson2006/>。
サバ亜目魚類の生態は[[科 (分類学)|科]]によって異なり、表層遊泳性のカマス科・サバ科・[[メカジキ科]]・[[マカジキ科]]、[[深海]]中層を遊泳する[[クロタチカマス科]]、深海[[底魚|底生性]]の[[タチウオ科]]に大きく分けられる<ref name=Nelson2006/>。
サバ科の仲間は季節的な[[回遊]]を行うものが多い。また、クロタチカマス科やタチウオ科の一部では昼は深海に潜み、夜間に海面近くに浮上する[[日周鉛直移動]]がみられる<ref name=Nelson2006/>。[[食性]]は一般に[[肉食動物|肉食性]]で、[[動物プランクトン]]・魚類・[[甲殻類]]・[[頭足類]]などを捕食する。
== 形態 ==
サバ亜目の仲間はサバ科のように遊泳に適した[[紡錘形]]の体型をもつものと、タチウオ科のように細長く側扁したリボン状のものに分けられる<ref name=Nelson2006/>。成魚の全長は、数十cm程度のサバ類から4mを超す[[タイセイヨウクロマグロ]]まで種類によってさまざま<ref name=FishBase>{{cite web |title= Perciformes|publisher = FishBase| url= http://www.fishbase.org/Summary/OrdersSummary.cfm?order=Perciformes |accessdate=2010年12月12日 }}</ref>。[[スズキ目]]の中でも比較的大型の魚が多く、全長1mを超えるものも珍しくない。
成魚の[[顎]]は上下とも前方に尖り、種類による長短の違いはあるが[[吻]]が形成される。前上顎骨は固定され、上顎を前方に突き出すことはできない<ref name=Nelson2006/>。これは大型の獲物を捕食するために、二次的に獲得された[[形質]]であると考えられている<ref name=Nelson2006/>。[[歯]]は強固に直立し、[[クロタチカマス科]]・[[タチウオ科]]・[[サワラ]]類などでは [[牙]]のように鋭く発達する<ref name=Nelson2006/>。一般に[[目]]も大きい。[[鱗]]は[[退化]]傾向にあり、小さな円鱗か櫛鱗、もしくは骨質変形鱗である。
== 分類 ==
現生のサバ亜目は6科46属147種で構成される<ref name=Nelson2006/>。[[化石]]種のみの[[絶滅]]群として、Blochiidae 科([[始新世]])および Palaeorhynchidae 科の2科が知られ、前者は[[メカジキ科]]に近いグループであると推測されている<ref name=Nelson2006/>。
本亜目の構成には議論が多く、[[カマス科]]を独立のカマス亜目 Sphyraenoidei として除外する見解もある<ref name=Nelson1984>『Fishes of the World Second Edition』 pp.324-325</ref><ref name=Iwai>『魚学入門』 pp.45-46</ref>。また、[[カジキ]]類2科([[メカジキ科]]・[[マカジキ科]])については、単一の「メカジキ科」にまとめる場合もあるほか<ref name=Nelson1994>『Fishes of the World Third Edition』 pp.424-429</ref>、近年ではカジキ亜目 Xiphioidei としてサバ亜目から分離させる意見も多くなっている<ref name=Iwai/><ref name=Helfman2>『The Diversity of Fishes Second Edition』 p.319</ref>。
[[ムカシクロタチ科]]と[[アマシイラ科]]はかつて本亜目に所属していたが<ref name=Nelson1984_2>『Fishes of the World Second Edition』 pp.361-365</ref>、両者が実際にサバ亜目の一員であるかについては見解が分かれている。ムカシクロタチ科は[[ムカシクロタチ]] ''Scombrolabrax heterolepis'' 1種のみで構成される[[単型 (分類学)|単型]]で、クロタチカマス科に類似した形態をもつ一方で[[スズキ亜目]]に近い部分もある<ref name=Nelson2006/>。Nelson(2006)の体系では独立のムカシクロタチ亜目 Scombrolabracoidei として分類されている一方で、サバ亜目の内部に位置付ける体系も存在する<ref name=Helfman2/>。また、カジキ類と近縁であると考えられていたアマシイラ科([[アマシイラ]] ''Luvarus imperialis'' のみを含む)は、近年の詳細な形態学的解析により[[ニザダイ亜目]]との関係が強く示唆されている<ref name=Nelson1994_2>『Fishes of the World Third Edition』 p.421</ref><ref name=Helfman>『The Diversity of Fishes Second Edition』 p.12</ref>。
亜目内での分化については、沿岸性の原スズキ型魚類からまずカマス科・クロタチカマス科が分化し、クロタチカマス科からさらにタチウオ科とサバ科に分岐したと考えられている。
=== カマス科 ===
[[ファイル: Barracuda laban.jpg|thumb|right|[[オニカマス]] ''Sphyraena barracuda'' (カマス科)。世界中の熱帯域に分布する本種は「バラクーダ」とも呼ばれ、沿岸の表層で巨大な群れを形成することもある]]
'''[[カマス|カマス科]]''' {{sname||Sphyraenidae}} はカマス属 ''Sphyraena'' 1属のみからなり、[[アカカマス]]・[[ヤマトカマス]]・[[オニカマス]]など21種を含む。沿岸性が強く、浅海で[[群れ]]を成して泳ぐ。
体は前後に細長い槍型で、吻が長く尖る。大きい口には鋭い歯が並ぶ<ref name=Nelson2006/>。[[背鰭]]は2つで互いによく離れ、尾鰭の前に小離鰭はもたない。
* カマス属 ''Sphyraena''
=== クロタチカマス科 ===
[[ファイル:Longnose escolar.jpg|thumb|right|ハシナガクロタチ ''Nesiarchus nasutus''(クロタチカマス科)。本科魚類は長い背鰭と小離鰭をもつことが特徴である<ref name=Kaisuigyo>『日本の海水魚』 p.655</ref>]]
[[ファイル: Oilfish.jpg|thumb|right|[[バラムツ]] ''Ruvettus pretiosus'' (クロタチカマス科)。体に多量のワックス分を含むため、日本では食用としての販売は禁止されている]]
'''[[クロタチカマス科]]''' {{sname||Gempylidae}} には[[クロシビカマス]]・[[バラムツ]]・[[アブラソコムツ]]など16属24種が記載される。深海中層性だが、夜には浅海へ上がるものもいる。
背鰭は棘条部が前後に長く、腹鰭は退化的である<ref name=Nelson2006/>。背鰭は棘条部と軟条部に分かれ、尾鰭の前に小離鰭をもつ<ref name=Nelson2006/>。[[側線]]が体側の上下に分かれるものもいる。
* アオスミヤキ属 ''Epinnula''
* アブラソコムツ属 ''Lepidocybium''
* カゴカマス属 ''Rexea''
* クロシビカマス属 ''Promethichthys''
* クロタチカマス属 ''Gempylus''
* トウヨウカマス属 ''Neoepinnula''
* ナガタチカマス属 ''Thyrsitoides''
* ハシナガクロタチ属 ''Nesiarchus''
* バラムツ属 ''Ruvettus''
* フウライカマス属 ''Nealotus''
* ホソクロタチ属 ''Diplospinus''
* 他5属
=== タチウオ科 ===
[[ファイル: Trichiurus lepturus by OpenCage.jpg|thumb|right|[[タチウオ]] ''Trichiurus lepturus'' (タチウオ科)。漁業上きわめて重要な種類で、日本を含む世界各地で多量に水揚げされる]]
'''[[タチウオ科]]''' {{sname||Trichiuridae}} は[[タチウオ]]・タチモドキ・ヒレナガユメタチなど3亜科10属39種で構成される。深海底での生活に適応し遊泳力は比較的低いが、夜には浅海へ浮上するものもいる<ref name=Nelson2006/>。
体はリボン状で、背鰭は棘条部と軟条部が連続し、小離鰭を欠く<ref name=Nelson2006/>。腹鰭と尾鰭は退化傾向が強く、種類によっては消失する<ref name=Nelson2006/>。
* クロタチモドキ亜科 Aphanopodinae
** クロタチモドキ属 ''Aphanopus''
** タチモドキ属 ''Benthodesmus''
* オビレタチ亜科 Lepidopodinae
** オシロイダチ属 ''Eupleurogrammus''
** オビレタチ属 ''Lepidopus''
** カンムリダチ属 ''Tentoriceps''
** ナガユメタチモドキ属 ''Assurger''
** ユメタチモドキ属 ''Evoxymetopon''
* タチウオ亜科 Trichiurinae
** タチウオ属 ''Trichiurus''
** トゲタチウオ属 ''Lepturacanthus''
** ''Demissolinea'' 属
=== サバ科 ===
[[ファイル: Lanzardo 2.jpg|thumb|right|サバ属の1種 ''Scomber colias'' (サバ科)。本科には重要な食用魚が多数所属する。本種は西部大西洋に分布し、日本産のマサバとよく似た形態を有する<ref name=FishBase/>]]
[[ファイル: Bluefin-big.jpg |thumb|right|[[クロマグロ]] ''Thunnus thynnus'' (サバ科)。食用魚として最高の価値をもつ種類の一つ<ref name=Kaisuigyo2>『日本の海水魚』 pp.660-661</ref>。太平洋および大西洋産のものはそれぞれが亜種として扱われる]]
'''[[サバ科]]''' {{sname||Scombridae}} には[[マサバ]]・[[サワラ]]・[[カツオ]]・[[マグロ]]など多数の水産重要種が所属し、2亜科15属51種が記載される。沿岸から外洋にかけての表層から中層を遊泳して生活する。クロマグロの遊泳速度は非常に高く、メカジキやバショウカジキと並んで魚類の中でもトップクラスである<ref name=Nelson2006/>。
背鰭は2つに分かれ、尾鰭の前に小離鰭をもつ<ref name=Nelson2006/>。明瞭な鱗をもつウロコマグロ亜科([[ガストロ|ウロコマグロ]]1種のみ)と、微小な鱗しかもたないサバ亜科に細分される<ref name=Nelson2006/>。
* ウロコマグロ亜科 Gasterochismatinae
** ウロコマグロ属 ''Gasterochisma''
* サバ亜科 Scombrinae
** サバ族 Scombrini
*** グルクマ属 ''Rastrelliger''
*** サバ属 ''Scomber''
** サワラ族 Scomberomorini
*** カマスサワラ属 ''Acanthocybium''
*** サワラ属 ''Scomberomorus''
*** ニジョウサバ属 ''Grammatorcynus''
** ハガツオ族 Sardini
*** イソマグロ属 ''Gymnosarda''
*** ハガツオ属 ''Sarda''
*** 他2属(''Cybiosarda''、''Orcynopsis'')
** マグロ族 Thunnini
*** カツオ属 ''Katsuwonus''
*** スマ属 ''Euthynnus''
*** ソウダガツオ属 ''Auxis''
*** ホソガツオ属 ''Allothunnus''
*** マグロ属 ''Thunnus''
=== メカジキ科 ===
[[ファイル: Xiphias gladius1.jpg|thumb|right|[[メカジキ]] ''Xiphias gladius'' (メカジキ科)。大型で遊泳力の強いカジキ類は、スポーツフィッシングの対象としても需要が多い]]
'''[[メカジキ科]]''' {{sname||Xiphiidae}} は[[メカジキ]] ''Xiphias gladius'' のみ、1属1種。世界中の[[熱帯]]・[[亜熱帯]]の外洋に生息する<ref name=Nelson2006/>。本科魚類はマカジキ科を含めた2科と合わせ「[[カジキ]]」と総称され、さまざまな[[形態学 (生物学)|形態学]]的特徴を共有する<ref name=Nelson2006/>。両グループが[[姉妹群]]の関係にあることは広く認められているが、1つの「メカジキ科」にまとめるか2科に分割するかは見解が分かれている<ref name=Nelson2006/><ref name=Ueno>『新版 魚の分類の図鑑』 p.98</ref>。
上顎が槍状あるいは剣状に著しく伸長し、吻は上下に平たい<ref name=Nelson2006/>。成魚は顎の歯・腹鰭・鱗を欠く<ref name=Nelson2006/>。
* メカジキ属 ''Xiphias''
=== マカジキ科 ===
'''[[マカジキ科]]''' {{sname||Istiophoridae}} は3属11種からなる。暖海の表・中層性で遊泳力が高く、全長1mを超える大型魚が揃う。詳細は[[カジキ]]を参照のこと。
吻は丸く筒状に伸び、成魚は顎の歯・腹鰭・鱗をもつ<ref name=Nelson2006/>。3属の分類は、背鰭前半部の高さと体高との関係に基づいている<ref name=Nelson2006/>。
* [[クロカジキ属]] ''{{sname||Makaira}}''
* [[バショウカジキ属]] ''{{sname||Istiophorus}}''
* [[マカジキ属]] ''{{sname||Tetrapturus}}''
== 出典・脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
{{Commons|Category:Scombroidei}}
{{Wikispecies|Scombroidei}}
* Joseph S. Nelson 『Fishes of the World Fourth Edition』 Wiley & Sons, Inc. 2006年 ISBN 0-471-25031-7
* Joseph S. Nelson 『Fishes of the World Third Edition』 Wiley & Sons, Inc. 1994年 ISBN 0-471-54713-1
* Joseph S. Nelson 『Fishes of the World Second Edition』 Wiley & Sons, Inc. 1984年 ISBN 0-471-86475-7
* Gene S. Helfman, Bruce B. Collette, Douglas E. Facey, Brian W. Bowen 『The Diversity of Fishes Second Edition』 Wiley-Blackwell 2009年 ISBN 978-1-4051-2494-2
* 岩井保 『魚学入門』 [[恒星社厚生閣]] 2005年 ISBN 978-4-7699-1012-1
* 上野輝彌・坂本一男 『新版 魚の分類の図鑑』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 2005年 ISBN 978-4-486-01700-4
* 岡村収・尼岡邦夫監修 『日本の海水魚』 [[山と渓谷|山と溪谷社]] 1997年 ISBN 4-635-09027-2
== 外部リンク ==
* [http://www.fishbase.org/Summary/OrdersSummary.cfm?order=Perciformes FishBase‐スズキ目] (英語)
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7,315 | 森正 | 森 正(もり ただし、1921年12月14日 - 1987年5月4日)は、日本の指揮者・フルート奏者。日本指揮者協会設立メンバー。
初めはフルート奏者として盛んに活動、尾高尚忠にフルート協奏曲の作曲を委嘱し初演するなど、吉田雅夫と並ぶ名手として知られた。その後、指揮者に転向し、東京交響楽団、藤原歌劇団の指揮、京都市交響楽団常任指揮者、九州交響楽団常任指揮者、東京都交響楽団音楽監督兼常任指揮者、名古屋フィルハーモニー交響楽団音楽総監督・理事を経て、NHK交響楽団の正指揮者となる。二十世紀音楽研究所にも参画している。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団永久名誉指揮者。
藤原歌劇団や二期会とともに数多くのオペラ上演を行い、1957年伊庭歌劇賞。大河ドラマのテーマ曲指揮や、NHK教育テレビ『フルート教室』講師での出演、『オーケストラがやって来た』ゲスト出演など、放送関係の仕事にも多く携わり、1980年NHK放送文化賞。1984年紫綬褒章。
録音については、日本人作曲家による現代音楽を数多く初演するなどしてその録音を遺している。そのため作曲者メインのアルバムか、ソリストメインのアルバムに収録されていることがほとんどである。 大河ドラマのテーマ曲指揮やNHKのオムニバス盤も数多く存在するが、それらを除いて森個人がメインとなってるアルバムは、2020年現在、
の僅か2枚のみ。
また、フルート奏者として以下のSP録音がある。
その他、 東北放送開局10周年記念盤「東北の調べ」 東京交響楽団 東芝音工 ORS2 伊藤京子「魅惑のオペラ・アリア集」 東芝コンサート・オーケストラ EMIミュージック・ジャパン 江樺 オペラ・アリア集(1978年1月18-19日録音、ヴェルディ/プッチーニ/ポンキエッリ/ボーイト)名古屋フィルハーモニー交響楽団 ナクソス 8.225853(ダウンロードのみ) 宮原卓也「声の変遷」オペラアリア集 東京フィルハーモニー交響楽団 ライヴノーツ WWCC-7578 海野義雄「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集」東京都交響楽団 CBS SONY:SOCZ 30~32 東京音楽大学の自主制作LPが複数種あるなど、オムニバスや未発売の音源を含めると世に出ていないものも合わせて更に膨大な録音を遺している。
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] | 森 正は、日本の指揮者・フルート奏者。日本指揮者協会設立メンバー。 | {{Otheruses|音楽家|その他|森正 (曖昧さ回避)}}
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'''森 正'''(もり ただし、[[1921年]][[12月14日]] - [[1987年]][[5月4日]])は、[[日本]]の[[指揮者]]・[[フルート]]奏者。[[日本指揮者協会]]設立メンバー。
== 概要 ==
初めはフルート奏者として盛んに活動、[[尾高尚忠]]に[[フルート協奏曲 (尾高尚忠)|フルート協奏曲]]の作曲を委嘱し初演するなど、[[吉田雅夫]]と並ぶ名手として知られた。その後、指揮者に転向し、[[東京交響楽団]]、[[藤原歌劇団]]の指揮、[[京都市交響楽団]]常任指揮者、[[九州交響楽団]]常任指揮者、[[東京都交響楽団]]音楽監督兼常任指揮者<ref>[https://www.tmso.or.jp/j/archives/50th/column/special/column01/ 東京都交響楽団創立50周年語り継ぐ都響 森正・初代音楽監督の時代]</ref>、[[名古屋フィルハーモニー交響楽団]]音楽総監督・理事を経て、[[NHK交響楽団]]の正指揮者となる<ref>[https://www.nhk.or.jp/program/nkyolegend/archives/nl_conductor_ma.pdf N響ザ・レジェンドアーカイブス 指揮者(ま行)]</ref>。[[二十世紀音楽研究所]]にも参画している<ref>柴田南雄「『第1回現代楽祭』白書」 (『音楽芸術』15巻11号、1957年11月、pp46-54)</ref>。[[東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団]]永久名誉指揮者。
[[藤原歌劇団]]や[[二期会]]とともに数多くのオペラ上演を行い、[[1957年]][[伊庭歌劇賞]]。[[大河ドラマ]]のテーマ曲指揮や、[[NHK教育テレビ]]『[[フルート教室]]』講師での出演、『[[オーケストラがやって来た]]』ゲスト出演など、放送関係の仕事にも多く携わり、[[1980年]][[NHK放送文化賞]]。[[1984年]][[紫綬褒章]]。
== 経歴 ==
*[[大阪市]]出身。陸軍音楽隊出身の父の影響で、幼い頃からピアノを習い、童謡歌手として活動したこともあるとの事<ref>[[フィルハーモニー]]1966年11月号 p36</ref>で、後年「[[オーケストラがやって来た]]」第113回(1974年11月24日放送)にて「[[歓喜の歌]]」より1節、指揮をしながらその歌声を披露している。
*[[堺市立錦綾小学校|堺市立錦綾尋常小学校]]卒業。
*[[大阪市立天王寺商業高等学校|天王寺商業学校]]で音楽部に所属し最初はホルンを担当したが、3年の頃肋膜炎に罹ったことでフルートに転向。
*[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]](現・[[東京芸術大学]])器楽科に入学しフルートを[[貫名美名彦]](専門はピアノ、[[1889年]]~[[1955年]])に師事したが、貫名が森にそれ以上フルートの技術を指導することは無いとの判断により、翌年から代わりとして学校が用意した[[ヘルムート・フェルマー]]による指揮の授業を履修することになった。フェルマーには指揮のほか、ハーモニーや作曲、オーケストレーション等も学び、同校卒業後も継続して師事した。
*[[1941年]]、本科2年在籍時、定期演奏会でモーツァルトのフルート協奏曲第2番でソリストを担当し、翌[[1942年]]、同校卒業。フルート奏者として正式にデビュー。
*[[1943年]]、[[東京放送管弦楽団]]に入団。
*[[東京大空襲]]で自宅を焼失し茅ヶ崎へ移ったのち戦後は[[尾高尚忠]]の自宅のある鎌倉へ転居。尾高、[[橘常定]]とトリオを組み演奏旅行を行うなど盛んに活動する。特に尾高とは家が近所だったために親しく、[[1948年]]には[[フルート協奏曲 (尾高尚忠)|フルート協奏曲]]の作曲を委嘱し同年初演。この版の初演は森正の独奏、尾高の指揮によるものであったが、初演オーケストラについては説が分かれる。[[鎌倉交響楽団]]説(名曲解説全集)と[[日本交響楽団]]説(CD解説)があり、森の記憶では日本交響楽団で、NHKのラジオだったという証言<ref>[[フィルハーモニー]]1973年5月号 p31</ref>もある。
*この頃には既にフェルマーの影響等から、プロのオーケストラを指揮してみたいという思いを抱いており、[[斎藤秀雄]]の紹介で、陸軍音楽隊が解体されて結成された宮内省のブラスバンドをNHKのラジオで指揮することとなったが、リハーサルも行った前日になってNHKより「フルート奏者としては敬意を払うが、指揮者森正など聞いたことがない」という理由で突然降板させられるという悔しい経験をした(のち和解)。
*[[1948年]]頃、[[名古屋市公会堂]]における進駐軍のためのコンサートで、[[東京フィルハーモニー交響楽団]]との共演によるモーツァルトのフルート協奏曲第2番のソリストを担当するため現地へ出向いたところ、指揮者が遅刻。この時楽団員に東京音楽学校時代の先輩がおり、たまたま森がフェルマーの授業を取っていたことを覚えていたため急遽指名され、[[オットー・ニコライ]]作曲の「[[ウィンザーの陽気な女房たち]]」序曲を指揮して思いがけず指揮者デビュー。リハーサル無しのぶっつけ本番、その上スコアも指揮棒も指揮者が持っていたため手元に無く、仕方なしに第1バイオリンのパート譜を借り、小指くらいの鉛筆を指揮棒代わりにしての演奏となったが、これがうまくいき<ref>[[フィルハーモニー]]1973年5月号 p32</ref>、これ以降同フィルの推薦が付いたことで転向を決意。
*その後、齋藤秀雄に指揮法を改めて師事する傍ら、東京放送管弦楽団の同僚で、[[シベリア抑留]]より帰還した[[黒柳守綱]]らと[[東宝交響楽団|東響]]室内楽団にも参加。
*[[1950年]]2月27日、[[日本指揮者協会]]を設立。設立者は[[山田耕筰]]、[[近衛秀麿]]、齋藤秀雄、[[上田仁]]、尾高尚忠、[[金子登]]、[[山田一雄]]、[[渡辺暁雄]]、[[高田信一]]、森正。
*[[1952年]]、東京交響楽団の常任指揮者に就任し([[1955年]]まで)、11月21日[[日比谷公会堂]]において[[藤原歌劇団]]帰朝記念公演「[[蝶々夫人]]」を指揮し、指揮者として正式に活動を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20170407/org/00m/200/001000d|title=「新芸」とその時代(12)東京進出前夜――カラヤン初来日|publisher=毎日新聞|date=2017-04-08|accessdate=2021-02-12}}</ref>との記事もあるが、同年3月28日の第6回都民シンフォニーコンサートにおいて同楽団を率いて既に日比谷公会堂のステージに立っている。
*[[1954年]]3月14日、[[ジュール・マスネ]]のオペラ、「[[マノン (オペラ)|マノン]]」を日比谷公会堂にて藤原歌劇団とともに日本初演。
*[[1956年]]7月25日、[[ベンジャミン・ブリテン]]作曲のオペラ「[[ピーター・グライムズ]]」を東京[[産経ホール]]にて[[二期会]]メンバーとともに日本初演。
*[[1957年]]、[[伊庭歌劇賞]]受賞。
*[[1961年]]8月27日、[[アルノルト・シェーンベルク]]の[[室内交響曲第1番 (シェーンベルク)|室内交響曲第1番]]を、大阪[[御堂会館]]にて、[[現代音楽祭室内管弦楽団]]とともに日本初演。
*[[1962年]]~[[1966年]]、京都市交響楽団常任指揮者。
*[[1967年]]~[[1972年]]、東京都交響楽団常任指揮者。
*[[1970年]]4月7-9日、ベートーヴェン生誕200周年記念で来日した[[ヴィルヘルム・ケンプ]]とともにピアノ協奏曲の全曲演奏会を行った。
*[[1972年]]、NHK、『[[フルート教室]]』講師でレギュラー出演。
*[[1979年]]、NHK交響楽団正指揮者に就任。11月9日、[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]のオペラ「[[エルナーニ]]」を、日比谷公会堂での「[[ローゼの会]]」第14回公演において上演。[[新日本フィルハーモニー交響楽団]]、エルヴィーラ役にはイタリアより[[ジョヴァンナ・ヴィーギ]]を招いたが、主催であったローゼの会はこれがエルナーニの本格的な日本初演の可能性があったとは思わず、録音など詳細な資料を残していなかったため([[1925年]]に[[帝国劇場]]で[[カーピ伊太利大歌劇團]]による上演記録あり)本格的な意味での日本初演は21世紀に入っての[[2002年]]10月26日、[[びわ湖ホール]]にて「びわ湖ホール・プロデュースオペラ」として[[若杉弘]]指揮、[[京都市交響楽団]]で上演されたもの、ともされている。
*[[1980年]]、第31回[[NHK放送文化賞]]受賞。
*[[1984年]]、[[紫綬褒章]]受章。
*[[1986年]]1月8-9日、[[東京文化会館]]にて都民芸術フェスティバルに参加。山田耕筰生誕100年記念として「黒船」を総指揮([[東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団]]、二期会合唱団)。
*[[1987年]]3月1日、[[武蔵野市民文化会館]]にて[[武蔵野市民交響楽団]]第2回特別演奏会に出演。[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]の組曲「ペレアスとメリザンド」、小ミサ、レクイエムを指揮するなど、還暦を過ぎてもなお精力的に活動を続けていたが、同年4月28日夜、[[脳内出血]]のため[[帝国ホテル]]にて倒れ、治療の甲斐なく翌5月4日午前3時、[[駿河台日本大学病院]]にて死去。65歳没(享年67)。
*また[[桐朋学園大学]]教授として死の直前まで後進の指導にあたった他、[[東京芸術大学]]講師、[[東京音楽大学]]客員教授を歴任した。
== 録音 ==
録音については、日本人作曲家による現代音楽を数多く初演するなどしてその録音を遺している。そのため作曲者メインのアルバムか、ソリストメインのアルバムに収録されていることがほとんどである。
大河ドラマのテーマ曲指揮やNHKのオムニバス盤も数多く存在するが、それらを除いて森個人がメインとなってるアルバムは、2020年現在、
*[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]:交響曲 第5番 他 (1967年6月30日東京都交響楽団ライブ)2005年07月20日発売 都響創立40周年記念シリーズ①
*[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]: 交響曲第2番 Op.27 (1980年6月21日名古屋フィルハーモニー交響楽団第71回定期演奏会ライブ) 2007年12月04日発売 名フィル40周年記念企画 ライヴシリーズ①
の僅か2枚のみ。
また、フルート奏者として以下のSP録音がある。
*[[弘田龍太郎]]:[[靴が鳴る]]変奏曲 コロムビア管弦楽団 (1942年12月発売、日本コロムビア CK-4→AK-533 210008 「文部省学習指導要領準拠・標準小学校の音楽」第二集)
== 映像(すべてDVD) ==
*[[1959年]]2月4日上演「オテッロ([[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]])」※合唱指揮…[[マリオ・デル・モナコ]](テノール)他イタリア歌劇団[[アルベルト・エレーデ]]指揮、NHK交響楽団、藤原歌劇団他 キングレコード KIBM-1011
*[[1961年]]10月23日上演 「歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」全曲(マスカーニ)」※合唱指揮…[[ジュリエッタ・シミオナート]](メゾ・ソプラノ)他、イタリア歌劇団、ジュゼッペ・モレルリ指揮、NHK交響楽団、藤原歌劇団他 キングレコード KIBM-1016
*1961年10月25日上演 「歌劇「道化師」全曲(レオンカヴァルロ)」※合唱指揮…[[マリオ・デル・モナコ]](テノール)他イタリア歌劇団、ジュゼッペ・モレルリ指揮NHK交響楽団、藤原歌劇団他 キングレコード KIBM-1015
*[[1973年]]11月21日上演『[[フランコ・コレッリ]]、[[レナータ・テバルディ]]、ジョイント・コンサート』Live in Tokyo -1973 [[東京フィルハーモニー交響楽団]] Dynamic DYNDVD33542
== 主な録音 ==
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!録音年
!作曲者<br>曲目
!独奏者<br>オーケストラ
!レーベル<br>収録アルバム
|-
|[[1958年]]
|[[入野義朗]]<br>シンフォニエッタ
|[[NHK交響楽団]]
|[[ナクソス (レコードレーベル)|ナクソスジャパン]]<br>NYNN-0015(ダウンロードのみ)
|-
|1958年
|[[武満徹]]<br>弦楽のためのレクイエム
|NHK交響楽団
|ナクソスジャパン<br>NYNN-0015(ダウンロードのみ)
|-
|[[1959年]]
|[[伊福部昭]]<br>ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲風狂詩曲
|[[小林武史 (ヴァイオリニスト)|小林武史]]<br>[[ABC交響楽団]]
|フォンテック<br>FOCD-9638/9
|-
|1959年?
|[[石井歓]]<br>シンフォニア・アイヌ
|[[奥村淑子]]<br>[[東京交響楽団]]
|[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]<br>JSC-1011
|-
|1959年?
|[[グラズノフ]]<br>ヴァイオリン協奏曲
|[[潮田益子]]<br>ABC交響楽団
|フォンテック<br>FOCD-9697
|-
|[[1960年]]?
|[[三善晃]]<br>音楽詩劇「オンディーヌ」
|[[岸田今日子]]、他<br>[[ラジオ管弦楽団]]
|EMIミュージック・ジャパン<br>TOCE-9435
|-
|[[1961年]]
|[[芥川也寸志]]<br>弦楽のための三楽章「トリプティーク」
|東京交響楽団
|東芝EMI<br>JSC-3006
|-
|1961年10月21日<br>
|[[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ|レオンカヴァルロ]]<br>歌劇・道化師※合唱指揮
|[[イタリア歌劇団]]<br>NHK交響楽団<br>藤原歌劇団他
|[[キングレコード]]<br>KICC-55
|-
|[[1961年]]?
|[[宍戸睦郎]]<br>ピアノと打楽器群と管弦楽のためのピアノ協奏曲
|[[田中希代子]]<br>ビューネン・グルッペ(現・[[東京ロイヤルフィルハーモニック]])
|[[ニッポン放送]]10周年記念レコード<br>PLP2(LP1061)※非売品
|-
|[[1967年]]
|[[團伊玖磨]]<br>混声合唱曲「岬の墓」
|[[東京混声合唱団]]<br>伴奏:[[田中瑤子]]
|[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター音楽産業]]<br>VDR-5080<br>「日本の合唱名曲選⑩」
|-
|1967年6月30日
|[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]<br>交響曲第5番
|[[東京都交響楽団]]
|フォンテック<br>FOCD-9237
|-
|1967年6月30日
|[[ジョアキーノ・ロッシーニ|ロッシーニ]]<br>歌劇「盗むかささぎ」序曲
|東京都交響楽団
|フォンテック<br>FOCD-9237
|-
|1967年11月29日<br>「現代日本の作品の夕べ」より
|[[諸井誠]]<br>ピアノ協奏曲第1番
|[[小林仁 (ピアニスト)|小林仁]]<br>NHK交響楽団
|ナクソス・ジャパン<br>NYNG-004
|-
|1967年11月29日<br>「現代日本の作品の夕べ」より
|武満徹<br>弧(アーク)第2部-テクスチュアズ
|NHK交響楽団
|ナクソス・ジャパン<br>NYNG-003
|-
|1967年11月29日<br>「現代日本の作品の夕べ」より
|[[黛敏郎]]<br>オーケストラのための「呪」 (しゅ) ※初演
|NHK交響楽団
|ナクソス・ジャパン<br>NYNG-007
|-
|1967年11月29日<br>「現代日本の作品の夕べ」より
|[[矢代秋雄]]<br>ピアノ協奏曲※ステージ初演
|[[中村紘子]]<br>NHK交響楽団
|ナクソス・ジャパン<br>NYNG-002
|-
|[[1968年]]3月
|チャイコフスキー<br>ヴァイオリン協奏曲第2番
|潮田益子<br>[[日本フィルハーモニー交響楽団]]
|[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]]<br>COCQ-84494
|-
|1968年3月
|[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]<br>ヴァイオリン協奏曲
|潮田益子<br>日本フィルハーモニー交響楽団
|コロムビアミュージックエンタテインメント<br>COCQ-84494
|-
|1968年4月15日
|[[ピエトロ・マスカーニ|マスカーニ]]<br>歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
|東京都交響楽団
|フォンテック<br>FOCD-9237
|-
|1968年4月15日
|[[エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ|ヴォルフ=フェラーリ]]<br>歌劇「聖母の宝石」間奏曲 第1番
|東京都交響楽団
|フォンテック<br>FOCD-9237
|-
|1968年5月8日
|[[尾高尚忠]]<br>フルート協奏曲
|[[ジャン=ピエール・ランパル]]<br>[[読売日本交響楽団]]
|日本コロムビア<br>COCO-73301
|-
|1968年8月26日
|[[松村禎三]]<br>管弦楽のための前奏曲
|NHK交響楽団
|キングレコード<br>KICC-3024
|-
|[[1969年]]
|[[冨田勲]]<br>「甲斐の軍勢~越後の雪」<br>(大河ドラマ“[[天と地と]]”オープニングテーマ~)
|NHK交響楽団
|[[RCA]]<br>BVCF-1525
|-
|1969年
|[[パブロ・デ・サラサーテ|サラサーテ]]<br>ツィゴイネルワイゼン他
|[[海野義雄]]<br>[[CBS交響楽団]]
|仏[[CBS]]<br>S61176
|-
|1969年2月7日<br>「民音現代作曲音楽祭」より
|[[石井眞木]]<br>打楽器群とオーケストラのための「響層」
|東京都交響楽団
|ナクソス・ジャパン<br>NYNG-012
|-
|[[1970年]]4月7-9日
|[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]<br>ピアノ協奏曲全曲
|[[ヴィルヘルム・ケンプ]]<br>NHK交響楽団
|キングインターナショナル<br>KKC-2017~2019
|-
|[[1971年]]8月11-12日
|[[柴田南雄]]<br>北園克衛による「三つの詩」
|[[瀬山詠子]]<br>[[プロコルデ室内管弦楽団]]
|キングインターナショナル<br>NKCD-6573<br>「諸井三郎とその門下の音楽」収録
|-
|[[1972年]]3月3日
|[[別宮貞雄]]<br>ヴィオラ協奏曲
|[[今井信子]]<br>NHK交響楽団
|キングレコード<br>「現代日本の音楽8」収録
|-
|1972年3月<br>N響第574回、および第575回定期公演より
|[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]<br>ブランデンブルク協奏曲第3番
|NHK交響楽団
|ナクソスジャパン<br>NYNN-0022(ダウンロードのみ)
|-
|1972年3月<br>N響第574回、および第575回定期公演より
|[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]<br>交響曲第3番「スコットランド」
|NHK交響楽団
|ナクソスジャパン<br>NYNN-0022(ダウンロードのみ)
|-
|1972年5月1-2日
|[[清水脩]]<br>合唱組曲「山に祈る」
|東京都交響楽団
|[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]<br>SOLL-7
|-
|[[1973年]]?
|[[間宮芳生]]<br>ピアノ協奏曲第2番
|[[野島稔]]<br>NHK交響楽団
|[[ANGEL]]<br>EAA-85012
|-
|[[1979年]]3月
|[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]<br>ヴァイオリン協奏曲第3番K216
|[[中島幸子]]<br>東京都交響楽団
|フォンテック<br>FO1983-6<br>「中島幸子/思い出のコンサート」収録
|-
|[[1980年]]6月21日
|[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]<br>交響曲第2番
|[[名古屋フィルハーモニー交響楽団]]
|[[Studio Frohla]]<br>B-2711
|-
|[[1981年]]5月28日<br>安川加壽子特別演奏会―第4回東京音楽芸術祭―より
|モーツァルト<br>ピアノ協奏曲第23番
|[[安川加壽子]]<br>NHK交響楽団
|キングインターナショナル<br>KKC-2121
|-
|1981年5月28日<br>安川加壽子特別演奏会―第4回東京音楽芸術祭―より
|[[野田暉行]]<br>ピアノ協奏曲※初演
|安川加壽子<br>NHK交響楽団
|ビクターエンタテインメント<br>VICC-60111
|-
|1981年5月28日<br>安川加壽子特別演奏会―第4回東京音楽芸術祭―より
|[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]<br>左手のためのピアノ協奏曲
|安川加壽子<br>NHK交響楽団
|ビクターエンタテインメント<br>VICC-60156
|-
|[[1983年]]2月12日
|[[新実徳英]]<br>アンラサージュⅠ「混声合唱とオーケストラのために」
|[[東京混声合唱団]]<br>[[東京フィルハーモニー交響楽団]]
|フォンテック<br>FOCD-2513
|-
|1983年6月27日<br>「ドップラー メモリアルコンサート ライブ」より
|[[フランツ・ドップラー]]作品集
|[[東京フルートアンサンブルアカデミー]]
|[[DENON]]<br>OF-7100
|-
|1983年7月10日
|[[広瀬量平]]<br>チェロ協奏曲「悲」
|[[堀了介]]<br>東京フィルハーモニー交響楽団
|ビクターエンタテインメント<br>VDC-5511<br>「現代日本の音楽名盤選⑪」収録
|-
|
|[[芥川也寸志]]<br>交響三章「トゥリニタ・シンフォニカ」
|東京交響楽団
|EMIミュージック・ジャパン<br>QIAG-50106
|-
|
|石井歓<br>バレエ組曲「まりも」
|東京交響楽団
|東芝EMI<br>CZ30-9009
|-
|
|[[ジャック・イベール]]<br>フルート協奏曲より第3楽章
|[[金昌国]]<br>東京都交響楽団
|フォンテック<br>FOCD-9170<br>金昌国「マイルストーン」収録
|-
|
|入野義朗<br>チェンバロ、打楽器と19の弦楽器のための音楽
|[[NFCコンサートマスターズ]]
|[[ポニーキャニオン]]<br>PCCL-00585<br>「新日鉄コンサート ARCHIVE」収録
|-
|
|[[大木正夫]]<br>「古典彫像に寄する6つの前奏曲と終曲」から5曲
|東京交響楽団
|コロムビアミュージックエンタテインメント<br>COCQ-85274<br>「戦後作曲家発掘集成~TBS VINTAGE J CLASSICS 」収録
|-
|
|尾高尚忠<br>フルート小協奏曲Op.30
|金昌国<br>NHK交響楽団
|フォンテック<br>FOCD-9170<br>金昌国「マイルストーン」収録
|-
|
|[[黛敏郎]]<br>饗宴
|東京交響楽団
|EMIミュージック・ジャパン<br>TOCE-9431
|-
|
|黛敏郎<br>万葉集による交声曲 「杜」
|NHK交響楽団<br>東京混声合唱団
|東芝音工<br>LRS110
|-
|
|三善晃<br>ヴァイオリン協奏曲
|海野義雄<br>NHK交響楽団
|キングレコード<br>「現代日本の音楽7」収録
|-
|
|[[山田耕筰]]<br>交響長唄楽「鶴亀」※合唱指揮
|総指揮:山田耕筰<br>東京交響楽団
|東芝EMI<br>E8061
|-
|
|山田耕筰<br>歌劇「黒船」※合唱指揮
|総指揮:山田耕筰<br>東京交響楽団
|EMIミュージック・ジャパン<br>TOCE-9432/33
|-
|
|山田耕筰<br>交響曲「明治頌歌」
|東京交響楽団
|コロムビアミュージックエンタテインメント<br>COCQ-85274<br>「戦後作曲家発掘集成~TBS VINTAGE J CLASSICS 」収録
|-
|
|山田耕筰<br>おやさま・やまさきかや
|[[伊藤京子 (ソプラノ歌手)|伊藤京子]]・[[栗本尊子]]・[[立川清登]]<br>NHK交響楽団
|ビクターエンタテインメント<br>30VP-3001
|-
|
|ロッシーニ<br>「セビリャの理髪師」~私は町の何でも屋
|立川清登<br>東京都交響楽団
|ポニーキャニオン<br>PCCL-00585<br>「新日鉄コンサート ARCHIVE」収録
|-
|}
その他、
[[東北放送]]開局10周年記念盤「東北の調べ」 東京交響楽団 東芝音工 ORS2 <br>
伊藤京子「魅惑のオペラ・アリア集」 [[東芝コンサート・オーケストラ]] EMIミュージック・ジャパン<br>
[[江樺]] オペラ・アリア集([[1978年]]1月18-19日録音、ヴェルディ/プッチーニ/ポンキエッリ/ボーイト)名古屋フィルハーモニー交響楽団 ナクソス 8.225853(ダウンロードのみ)<br>
[[宮原卓也]]「声の変遷」オペラアリア集 東京フィルハーモニー交響楽団 ライヴノーツ WWCC-7578<br>
海野義雄「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集」東京都交響楽団 CBS SONY:SOCZ 30~32 <br>
[[東京音楽大学]]の自主制作LPが複数種あるなど、オムニバスや未発売の音源を含めると世に出ていないものも合わせて更に膨大な録音を遺している。
== 脚注 ==
<references/>
{{京都市交響楽団常任指揮者}}
{{Normdaten}}
{{Classic-stub}}
{{Music-bio-stub}}
{{DEFAULTSORT:もり たたし}}
[[Category:日本の指揮者]]
[[Category:日本のフルート奏者]]
[[Category:NHK交響楽団の指揮者]]
[[Category:東京交響楽団]]
[[Category:桐朋学園大学の教員 (音楽)]]
[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:1921年生]]
[[Category:1987年没]] | 2003-04-26T11:13:15Z | 2023-11-25T19:19:17Z | false | false | false | [
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"Template:京都市交響楽団常任指揮者"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%AD%A3 |
7,316 | 新型肺炎 | 新型肺炎(しんがたはいえん) | [
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}
] | 新型肺炎(しんがたはいえん) 重症急性呼吸器症候群 (SARS) - SARSコロナウイルスによって引き起こされる疾患。かつて新型肺炎、非定型肺炎などとも呼ばれた。
新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)
同感染症の世界的流行 - 新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-) | '''新型肺炎'''(しんがたはいえん)
* [[重症急性呼吸器症候群]] (SARS) - [[SARSコロナウイルス]]によって引き起こされる疾患。かつて'''新型肺炎'''、'''[[非定型肺炎]]'''などとも呼ばれた。
* [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]] (COVID-19)
** 同感染症の[[パンデミック|世界的流行]] - [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)]]
== 関連項目 ==
* [[肺炎]]
* [[新型コロナウイルス]]
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7,317 | ロンドン | ロンドン(London [ˈlʌndən] ( 音声ファイル)(ランドン))は、イギリスおよびこれを構成するイングランドの首都。イングランドの9つの地域(リージョン)のひとつ。
イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に相当する地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイル(2.6km)あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンでは市街地の大部分がコナベーションにより形成されている。
グレーター・ロンドンでは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われ、域内はシティ・オブ・ロンドンと32のロンドン特別区から成る。
ロンドンは最高水準の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力があり「世界一革新的な都市」と呼ばれることもある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2014年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界でもっとも航空旅客数が多い。欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年のオリンピック開催にともない、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。
ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7パーセントを占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる827万8,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1,200万人から1,400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界でもっとも外国人旅行者が訪れる都市である。
イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。
「ロンドン」の語源ははっきりとしていない。古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。121年にロンディニウムの記録があり、ローマ・ブリトン文化が起源である。最初期の説は今日では軽視されているジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史である。名称の説の一つにルッドから仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領しKaerludと名付けたとしている。
1898年以降は「Londinosと呼ばれる男の所有する土地」を意味するケルト語に語源を求めるのが一般的であったが、この説は否定されている。1998年、言語学者のリチャード・コーツ(英語版)は古ケルト語の(p)lowonidaを語源とする説を提示した。(p)lowonidaとは、「渡るには幅が広すぎる川」を意味し、ロンドンを東西に貫通するテムズ川を指すものとして提案されている。ケルト語の形でLowonidonjonとなり、これが集落名になったとした。しかしながら、この説は大きな修正を必要とした。可能性としてウェールズ語の名称が英語から借用されたものに戻り、基礎から元の名称を再構築して使用することが困難であるという可能性も排除できない。
1889年まで"London"の名称は公式にはシティ・オブ・ロンドンにのみ適用されていたが、カウンティ・オブ・ロンドン(英語版)を表すものとなり、現在ではグレーター・ロンドンを表すものとなっている。
漢字表記は「倫敦」が用いられるが、明治期前後には「龍動」と記載した例もある。現代中国語をピンイン式でアルファベット表記すると、倫敦は「lundun」で、龍動は「longdong」となる。龍動と表記したのは、清国から伝わった外来表記であった可能性がある。
ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認される。最初の大きな開拓地はローマ帝国によって43年に創建された。この開拓は17年間続いたが、61年ころブーディカが率いるイケニ族により強襲され焼き討ちされた。また一説には紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。
その次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。
最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている。この橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。樹木学では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。
5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィック(英語版)で知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンやロンドンで、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。フリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた。ヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年にアルフレッド大王がデーン人の指導者であるガスラム(英語版)とウェドモーアの和議を締結するまで続いた。アングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターのオールドウィッチにその名を残している。10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこのころ、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。
11世紀、エドワード懺悔王はウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる。1066年、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は同年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位した。ウィリアム1世はホワイト・タワー(のちのロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した。1097年、ウィリアム2世はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した。12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12 -13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は1100年に1万8,000人、1300年までには10万人ほどにまで成長していた。
14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。1381年、ワット・タイラーの乱が発生した。
テューダー朝の時代、宗教改革にともなうプロテスタントへの移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ。ネーデルラント周辺地域へは未加工のウール生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、大陸ヨーロッパの富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。イタリアや地中海への商業ルートは、通常アントウェルペンまたはアルプス山脈経由であった。海上輸送ではイタリアやドゥブロヴニクの貿易商と同様、ジブラルタル海峡を経由した。1565年のオランダとイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした。1566年、王立取引所が設立された。重商主義は進展し、イギリス東インド会社をはじめとする勅許会社が設立され、貿易は新世界へと拡大した。ロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。1530年の人口は推計で5万人、1605年には22万5,000人に上昇した。
16世紀、ウィリアム・シェイクスピアや同時代に生きたロンドンの劇作家は、イギリス・ルネサンス演劇をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。1605年、ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生した。17世紀初頭や1665 - 1666年にはペストが流行し、10万人または人口の5分の1が死亡した。1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生し、市内の家屋の約85パーセントが焼失した。建築家ロバート・フック指揮のもと、ロンドン再建に10年の歳月を要した。1708年、クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成した。ハノーヴァー朝の時代には、メイフェアをはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。
1762年、ジョージ3世はバッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。18世紀、ロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズ(英語版)が設立された。総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された。ロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた。コーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのにともない、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていた。
1777年のサミュエル・ジョンソンによる言葉を記す。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」
1831年から1925年ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった。著しく高い人口密度によりコレラが大流行し、1848年に1万4,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。1855年に、首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会(英語版)になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。第二次世界大戦時、ザ・ブリッツをはじめとするドイツ空軍による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。
1951年、フェスティバル・オブ・ブリテン(英語版)がサウス・バンクにて開催された。1952年に発生したロンドンスモッグの対応策として、1956年に大気浄化法 (1956)(英語版)が制定され、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている。1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。
主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。キングス・ロード、チェルシー、カーナービーストリート(英語版)といった地域ではスウィングロンドン(英語版)といったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割はパンク・ロックの時代に復活し、1965年、ロンドンの都市的地域の拡大にともない、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。1981年のブリクストン暴動(英語版)では、人種差別問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。ピーク時の1939年の推計人口が861万5,245人だったのに対し、1980年代では約680万人に減少していた。ドックランズのカナリー・ワーフ再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港(英語版)やティンバリー港(英語版)に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。
1980年代、高潮による北海からの海水の流入をせき止め、洪水を防止するテムズバリア(英語版)が完成した。1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。ミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドーム、ロンドン・アイ、ミレニアム・ブリッジが建設された。2005年、ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された。2012年、第30回オリンピックが開催された。1908年や1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された。
2020年、フランスのエマニュエル・マクロン大統領より、レジオンドヌール勲章を授与される。
グレーター・ロンドンは、シティ・オブ・ウェストミンスターを含む32の特別区とシティ・オブ・ロンドンにより構成されている。グレーター・ロンドンは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により構成されている。ロンドン市長は行政上の力を有し、ロンドン議会は市長が提案する年度毎の予算の可否や裁定に関して精細に調査する。グレーター・ロンドンの本庁はサザークのシティーホールにあり、現在の市長はサディク・カーンである。市長の法定戦略計画はロンドンプラン(英語版)として公開され、最新のものは2011年に改訂されている。
グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年にボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に大聖堂(大寺院)がある町(Town)を都市(City)と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院がそれぞれ存在する。一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。
特別区は一番身近な行政サービスである地区計画や学校、社会福祉援助、地域道路の整備、ゴミ収集に関して責任がある。ゴミ収集のような行政サービスはロンドン清掃事務当局(英語版)等の機関を通じていくつかの特別区ごとにそれぞれ共同で行っている。2009 - 2010年のロンドン議会とグレーター・ロンドンを合わせた歳入歳出規模は220億ポンドで、そのうち147億ポンドは特別区、74億ポンドはグレーター・ロンドンであった。
グレーター・ロンドンの治安はロンドン市長公安室(英語版)下のロンドン警視庁により担われている。シティ・オブ・ロンドンは自らの警察機構であるロンドン市警察を有している。イギリス鉄道警察はロンドンのナショナル・レールやロンドン地下鉄に関してその責任を有している。
ロンドン消防庁はイギリスの消防に関する法律により、ロンドン消防・緊急事態計画局(英語版)のもと、グレーター・ロンドンを管轄する、世界で5番目に大きな消防組織である。救急はロンドン救急サービス(英語版)(LAS)により担われ、無料の救急車サービスでは世界で最大規模である。ロンドン航空救急(英語版)はLASと連携して慈善で運営されている。イギリス沿岸警備隊と王立救命艇協会はテムズ川で運用されている。
ロンドンはイギリス政府の首都としてウェストミンスター宮殿周辺に官庁が多く集まっている。特にホワイトホール沿い界隈に集中しており、首相官邸のダウニング街10番地も含まれる。イギリス議会は「議会の母(Mother of Parliaments)」と呼ばれ、この愛称は最初にイングランド自体にジョン・ブライトが用いた。議院内閣制のモデルである。
グレーター・ロンドンは一番上の行政機構で、特別区がそれぞれロンドンをカバーしている。小さい範囲のシティ・オブ・ロンドンはかつてすべての範囲の街区が含まれていたが、都市地域の成長によりシティ・オブ・ロンドン自治体(英語版)により郊外との合体が試みられた。それぞれ異なった目的により「ロンドン」が定義され、かつて法的に議論された。グレーター・ロンドンの40パーセントはロンドン郵便カウンティ(英語版)によりカバーされ、郵便の住所では 'LONDON'の範囲を構成している。
ロンドンの市外局番は(020)でグレーター・ロンドンと同じように広範囲をカバーし、外側の地区のいくつかは外れるがグレーター・ロンドンの外の地区のいくつかは含まれている。M25モーターウェイの内側が通常、ロンドンとみなされ、グレーター・ロンドンの範囲は変化している (en) 。市街地の拡張は現在、メトロポリタン・グリーンベルト(英語版)により防がれているが境界を越えて市街地は広がっており、グレーター・ロンドン都市的地域と定義が分かれる。超えた範囲は広大なロンドンコミューターベルト(英語版)になっている。
グレーター・ロンドンはいくつかの目的によってインナー・ロンドンとアウター・ロンドンに分かれている。シティはテムズ川によりノース・ロンドンとサウス・ロンドンに分けられ、形式的にセントラル・ロンドンはその内側にある。ロンドンの中心はもともとチャリングクロスのエレノア・クロス(英語版)でウィンチェスターとトラファルガー広場の結合する部分の近くに位置し、北緯51度30分26秒 西経00度07分39秒 / 北緯51.50722度 西経0.12750度 / 51.50722; -0.12750である。
シティ・オブ・ロンドンとシティ・オブ・ウェストミンスターはシティステータスを有し、シティ・オブ・ロンドンはグレーター・ロンドンとは別個の典礼カウンティとして残っている。現在のグレーター・ロンドンには、かつてのミドルセックス州、ケント、サリー、エセックス、ハートフォードシャーが編入されている。
ロンドンの、イングランドやのちのイギリスの首都としての地位は法律や書物には認められない。しかしその地位は、憲法会議を通してイギリスの憲法で実質的な首都として制定されている。12世紀と13世紀にかけて、イングランドの首都は、ウェストミンスター宮殿の開発の進展によりウィンチェスターからロンドンへ王宮が恒久的に移されてから、国家の政治の中心たる首都となった。
グレーター・ロンドンは1,583平方キロメートル (611 sq mi) の面積があり、人口は2001年現在7,172,036人で人口密度は4542人/km。より広い範囲はロンドン大都市圏またはロンドン大都市圏密集体と呼ばれ面積は 8,382平方キロメートル (3,236 sq mi) で人口は12,653,500人に達し人口密度は1510人/kmである。現代のロンドンはテムズ川河畔に位置する。テムズ川の特徴として、航行可能で、ロンドン市域を南西部から東部にかけ横切っている。テムズ低地(英語版)は氾濫原で周辺部はなだらかな丘陵地である。その中にはパーラメント・ヒル(英語版)やアディントン・ヒル(英語版)、プリムロズ・ヒルが含まれる。テムズ川はかつてはより川幅が広く、水深も浅くて沼地が広がり、満潮時には河岸は通常の5倍にも達していた。南西部のヒースロー空港近辺のテムズ川本流付近の貯水池群と砂利採取場跡はオカヨシガモとハシビロガモの生息地で、2000年にラムサール条約登録地となった。
ヴィクトリア朝以来、テムズ川は広い堤防が築かれ多くのロンドンの支流は現在地下を流れている。テムズ川は潮の流れの影響を受ける川で洪水による被害を受けやすい。この脅威は時間と共にゆっくりと継続的に高い潮汐レベルで増す。これは緩やかに傾いたイギリスの後氷期地殻均衡復元(英語版)による。1974年に脅威を防ぐため10年計画でウーリッジでテムズ川を横切るテムズバリア(英語版)の建設が始まった。バリアは2070年まで機能するように設計され、さらなる拡張や再設計の話し合いがすでに行われている。
典型的な西岸海洋性気候で、イギリス南部の多くの地域と同様である。日本と比べると暖候期である春から夏の気温が低いため、相対的に秋から冬にかけての季節が長く感じられるが、年間を通してみると温和な気候である。冬は比較的寒いが、1月の気温を平均すると約6°Cで日本の東京や大阪とほぼ同じで緯度の割に寒くない。しかし、日々の変動が大きく、最低気温が8~9°Cとなる日もあれば最高気温が1~2°Cとなることも珍しくない。また冬の日照時間は短く曇りの日が続く。霜が郊外で11月から3月にかけ平均2週間発生する。降雪は通常、4-5回12月から2月にかけ発生し、大雪となっても10cm程度である。3月や4月に雪が降ることは希であるが、2-3年毎に見られる。冬の気温は−4 °C (24.8 °F) 以下や14 °C (57.2 °F) 以上を超えることは滅多に起こらない。比較的近い北極や北欧方面からの寒波の影響を受けることがあり2010年の冬には郊外のノーソルトで−14 °C (6.8 °F)の最低気温を記録し、20年に一度の大雪も見られロンドンの交通機関は大きく混乱した。 夏は日本の夏より気温が低く、盛夏でも夜には15°Cを下回りコートが必要になることがある。時折暑くなることもあるが、30°C以上となることは少ない。ヒートアイランドによりロンドンの中心部では気温が郊外に比べ5 °C (9 °F) も高い。ロンドンの夏の平均気温は 24 °C (75.2 °F) で、年に7日は 30 °C (86.0 °F) を超え2日は32 °C (89.6 °F) を超える。気温が26°C(80 °F)を超えることは6月半ばから8月後半にかけて見られる。大陸からの熱波の影響を受けることがあり、2003年の欧州の猛暑では14日間連続で気温が 30 °C (86.0 °F) を超え、2日連続で 38 °C (100.4 °F) を超えた。数百人が猛暑に関連し死亡している。雨は夏の期間、2日から10日の範囲で見られる。春や秋は季節が混在するため、5-6月や9-10月にも防寒対策が必要となることもある。2011年10月1日に気温が 30 °C (86.0 °F) に達し、2011年4月には28 °C (82.4 °F) に達した。しかしながら、近年ではこの最高気温を記録した月に雪が降ることもある。ロンドンの気温の幅は-11.0°Cから37.9°Cである。
雨が多い都市という評判がロンドンにあるが、実際にはロンドンの降水量はローマの 834 mm (32.8 in) やボルドーの923 mm (36.3 in) より少ない。降水量自体は少なくとも、降水日数が多いため雨が多いと感じるのである。
また、「霧の都」と呼ばれるように年間の霧発生日数が多い。
ロンドンは広大な市街地が広がっていることから、よくブルームズベリーやメイフェア、ホワイトチャペルのように地区名が使われている。これらはいずれも、非公式な名称で都市の広がりによって吸収された村を映したものや教区、グレーター・ロンドン以前の旧区を表したものである。これらの名称は今でも残って使われており、それぞれの地域を表したり自らの地区を特徴付けているが現在は公式には使われていない。1965年以来、ロンドンは32の自治区に分けられ、これに古くからのシティ・オブ・ロンドンが加わる。シティ・オブ・ロンドンはロンドンの金融の中心で、カナリー・ワーフは近年では再開発が進み新たな金融や商業の中枢になっている。東側はドックランズである。ウェスト・エンドはロンドンのエンターテイメントやショッピングの中心地区で観光客を惹き付けている。ウェスト・ロンドン(英語版)は高級住宅地を含む地区で不動産価格は1000万ポンドにもなる。ケンジントン・アンド・チェルシーの不動産の平均価格は89万4,000ポンドでセントラル・ロンドンのほとんどは同様である。
イーストエンド・オブ・ロンドンは元のロンドン港(英語版)に近く、高い移民人口で知られロンドンでも最も貧しい地区の一つである。北東部(英語版)はロンドンでは初期に工業開発が行われた地域で現在ではブラウンフィールド(汚染地区)の一部として再開発が行われているテムズゲートウェイ(英語版)にはロンドンリバーサイド(英語版)やローワーリーバレー(英語版)も含まれ、これは2012年のオリンピックとパラリンピックのためのオリンピックパークを含んでいる。
ロンドンの建築物は様々な年代のものがあり多様である。多くの大きな建物やナショナル・ギャラリーのような公共の建物はポートランド石という白い大理石で造られている。市街地の一部とくに西部や中心部では化粧しっくい(スタッコ)や水しっくいで特徴付けられた建物を見ることが出来る。セントラル・ロンドンでは1666年に起こったロンドン大火以前の建物が若干見られ、古代ローマの跡も僅かに残されている。ロンドン塔やシティに点在したわずかなチューダー様式の建物が残っている。さらにチューダー期(英語版)のイングランドで残っている一番古いチューダー宮殿、ハンプトン・コート宮殿はトマス・ウルジー枢機卿により1515年に建てられた。
クリストファー・レンの17世紀後半の教会や金融機関の建物、18世紀や19世紀の王立取引所やイングランド銀行、20世紀初期のオールド・ベイリー(英語版)、1960年代のバービカンエステート(英語版)は建築遺産の一部を形成している。1939年に建設されたバタシー発電所はテムズ川の南西側に位置し今では使われていないが、地元のランドマークになり再開発も計画されている。鉄道のターミナル駅ではヴィクトリア建築(ネオ・ゴシック様式)の代表例としてセント・パンクラス駅とパディントン駅が上げられる。ロンドンは地域により建物の密集状態が異なり、セントラル・ロンドンは高い就業人口集積がありインナー・ロンドンは高い住宅密度である。アウター・ロンドンは低い密度になっている。 シティにあるロンドン大火記念塔はロンドン大火を記念し現場の近くに建てられている。マーブル・アーチとウェリントンアーチ(英語版)はシティ・オブ・ウエストミンスターのパーク・レーン(英語版)の北側と南側にそれぞれある。また、アルバート記念碑とサウス・ケンジントン(英語版)のロイヤル・アルバート・ホールは王室とのつながりがある。ネルソン記念柱はホレーショ・ネルソン提督の業績を記念し、トラファルガー広場に据えられロンドン中心の焦点なる場所の一つである。古い建物は主に煉瓦で建てられ、ほとんどは黄色っぽいロンドンストック煉瓦(英語版)か明るいオレンジや赤系統のもので、彫刻やプラスターの繰形が施される。
密集地帯のほとんどでは中層や高層のビルが建てられる。ロンドンの高層ビルには30セント・メリー・アクス、タワー42、ブロードゲートタワー(英語版)、ワン・カナダ・スクウェアがあるがこれらはシティ・オブ・ロンドンやカナリーワーフの二つの金融街などで見ることが出来る。高層ビルの建築はセント・ポール大聖堂や他の歴史的な建築物など歴史的な建物の景観を保護するため、特定の場所に制限されている。それでもやはり、多くの超高層ビルがロンドン中心部では見ることができ、イギリスでは一番高い高層ビルであるザ・シャード (310m) も含まれる。他にロンドンを特徴付ける建物には大英図書館や2002年に完成したサザークのシティ・ホールで楕円形の建物は目に付く。以前のミレニアム・ドームは現在は改名され複合娯楽施設The O2として使われている。
中心部で一番大きな公園はロンドンの王立公園(英語版)のうちの一つであるハイドパークで、近隣にはセントラル・ロンドンの西側にケンジントン・ガーデンズが、北側にリージェンツ・パークがある。リージェント・パークには、世界で一番古い科学的な動物園であるロンドン動物園があり、近くには観光名所である蝋人形館のマダム・タッソー館がある。ロンドン中心近くには小さな王立公園であるグリーンパーク(英語版)とセント・ジェームズ・パークがある。ハイド・パークは特にロンドンのスポーツのスポットとして有名で、しばしば野外コンサートが行われる。中心部の外へ出ると多くの大きな公園があり、その中には南東部の王立公園のグリニッジパークや、南西部のブッシーパーク(英語版)やリッチモンドパーク、東側のヴィクトリア・パーク(英語版)がある。プリムローズヒルは市街地の北側にあり、リージェントパークからのロンドン中心部のスカイラインの眺めはポピュラーである。いくつかの非公式な、自然なオープンスペースに準じた空間があり、ノース・ロンドンのハムステッド・ヒース(320ヘクタール)も含まれる。ハムステッド・ヒースにあるケンウッド・ハウスは元は邸宅で、夏の期間はクラシック音楽のコンサートが行われるポピュラーな場所で、週末には数多くの人が音楽や景色、花火を楽しんでいる。
ロンドンの人口は、19世紀から20世紀初期にかけて産業革命を契機として急速に増加し、19世紀後半から20世紀初期にかけては世界一人口の多い都市であり、1925年までニューヨークの人口を上回っていた。人口のピークは第二次世界大戦が勃発する直前の1939年であり、861万5,245人に達していた。2011年時点のグレーター・ロンドンの公式の人口は817万4,100人であった。
しかし、ロンドンの市街地はグレーター・ロンドンの境界を越えて広がっており、2011年時点の都市的地域の人口は827万8,251人、都市圏の人口は1370万9,000人に達している。ユーロスタットによれば、ロンドンは欧州域内の都市圏で最も人口が多い。1991-2001年にかけての流入人口は、72万6,000人であった。グレーター・ロンドンの範囲は1,579平方キロメートルであり、人口密度は5,206人/km2である。これは、他のイギリスの地域の人口密度(NUTS内で)の10倍以上である。
世界の諸都市のうち人口は25番目に多く、都市圏では18番目に多い。世界で4番目に米ドルベースで億万長者が多い地域である。ロンドンは東京やモスクワと並んで物価が高い都市という調査結果もある。
国家統計局によれば、2011年ベースの統計でロンドンの人口 817万4,100人のうち、59.7%が白人で、白人の英国人は44.9%、白人のアイルランド人は2.2%、他の白人の人々は12.6%であった。南アジア系の人々は18.4%で、インド系はロンドンの人口のうち6.6%、続いてパキスタン系が2.7%、バングラデシュ系が2.7%であった。4.9%は他のアジア系に分類されている。ロンドンの人口のうち10.1%は黒人であり、5.3%は黒人英国人、7.0%はアフリカ系、4.3%はカリビアン系、2.1%は他のグループに分けられている。5%は混血、1.5%は中国系、1.3%がアラブ系、3.4%はその他の民族グループに属している。2011年の人口国勢調査によれば、2001年から2011年の間に、62万人の白人英国人がロンドンから去り、人口の45%に減少し少数派となった。
ロンドンの一部では、アジア系や黒人の子どもたちが白人の英国人の子どもの数を上回る地域もあり、4-6校の公立学校では数で上回っている。だが、依然として白人の子どもの数は62%で過半数を占め、2009年の統計局による調査では0-15歳の層における白人人口は149万8,700人であった。そのうち、55.7%は英国系、5.6%は他のEU加盟国出身である。2005年1月の調査では、ロンドンでは300以上の言語話者がおり、50以上の非先住のコミュニティには10,000人以上の人々が暮らし、宗教や民族の多様性が見られる。統計局の調査では、ロンドンにおけるイギリス国外の出生者数は2010年現在で265万人と人口の33%を占め、1997年の1,63万人より増加している。
2001年の国勢調査では、グレーター・ロンドンの人口の27.1%はイギリス国外の出生者であった。統計によると20の共通する国の出身者がロンドンに居住している。ドイツ出身者は、親がドイツに駐在したイギリス軍に就いていたものである。公式の統計では、2009年7月から2010年6月にロンドンに居住する国外出身者は、主にインド、ポーランド、アイルランド、バングラデシュ、ナイジェリア出身者であった。
ロンドン市民の信仰する宗教は、主にキリスト教で58.2%を占めている。これに続き、無宗教が15.8%、イスラム教が8.5%、ヒンドゥー教が4.1%、ユダヤ教が2.1%、シク教が1.5%、仏教が0.8%、その他が0.2%であった。8.7%は2001年の国勢調査で無回答であった。ロンドンでは伝統的にキリスト教が信仰されており、シティ・オブ・ロンドンには多くの教会が所在する。シティのセント・ポール大聖堂やサザーク大聖堂、聖公会は有名であり、カンタベリー大主教はイギリス国教会の大主教である。大主教のランベスパレスがランベス・ロンドン特別区にある。
王室の重要行事は、セント・ポール大聖堂とウェストミンスター寺院に分けて行われる。ウェストミンスター大聖堂はイングランドおよびウェールズでは最大のカトリック教会の大聖堂である。 イギリス国教会の統計では、教会への参加者は次第に減少している。
ロンドンには、相当数のイスラム教やヒンドゥー教、シク教、ユダヤ教のコミュニティがある。多くのイスラム教徒はタワーハムレッツ・ロンドン特別区やニューアム・ロンドン特別区に居住している。 ロンドン居住のイスラム教徒にとってリージェンツ・パークのロンドン・セントラルモスク(英語版)は最も重要な存在である。オイルマネーによって増加した中東の富裕層は、メイフェアやナイツブリッジを拠点としている。ロンドンは西ヨーロッパ最大のモスクが所在する都市であり、Baitul Futuhのモスクはアフマディーヤムスリムコミュニティのものである。
ヒンドゥー教徒のコミュニティはロンドンの北西部ハーロウ・ロンドン特別区やブレント・ロンドン特別区に存在し、ヨーロッパ最大のヒンドゥー寺院であるネアスデン寺院がある。シク教徒はロンドン東部や西部におり、インド国外では世界最大のシク教の寺院がある。
イギリスのユダヤ教徒の大半がロンドンに居住し、ユダヤ教徒のコミュニティはスタンフォード・ヒル(英語版)やスタンモア(英語版)、ゴルダーズ・グリーン(英語版)、エッジウェア、ヘンドン(英語版)、ノース・ロンドン(英語版)に存在する。スタンモア・カンノンパークシナゴーグ(英語版)は単一ではヨーロッパ最大のシナゴーグである。
イギリス経済の中心であり、世界有数の経済都市でもある。2014年のロンドン都市圏の総生産は7944億ドルであり、東京都市圏、ニューヨーク都市圏、ロサンゼルス都市圏、ソウル都市圏に次ぐ世界5位の経済規模を有する。日本の民間研究所が2017年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界1位の都市と評価された。
世界最大級の金融市場の重要拠点として機能しており、2022年の調査によると、ニューヨークに次ぐ世界2位の金融センターである。世界レベルの大企業本社も集積しており、2011年のフォーチュン・グローバル500において、世界で5番目に大企業の本社が集積している都市との評価を受けている。
資本主義経済の中心がイギリスからアメリカ合衆国に移ったことに伴うイギリス経済の相対的低下にもかかわらず、ロンドンは依然としてイギリス連邦や欧州連合を始め、世界経済の中心としての地位を保持する。特に貿易および金融面での影響力は強い。シティでは1694年設立のイングランド銀行を頂点として、相互に密接な連携を保って展開するロンバード・ストリート一帯の市中銀行など各種金融業が発達している。この市場がロンドン金融市場で世界三大金融市場の一角を成し、ロンドン証券取引所は世界屈指の証券取引所の1つに挙げられる。シティのほか、ホルボーン、フィンズベリーにも金融関連会社が多数存在する。
ロンドンはイギリスの国内総生産 (GDP) の約20%(4460億米ドル、2005年現在)を生み出し、ロンドン・コミューター・ベルト(英語版)域内は欧州最大でイギリスの国内総生産の30%(6690億米ドル、2005年現在)を生み出している。ロンドンは群を抜いた金融センターで、ニューヨークと競う国際的に重要な都市である。
ロンドンにはシティ、ウエストミンスター、カナリー・ワーフ、カムデン & イズリントン、ランベンス & サザークの5つの主要なビジネス地区がある。その重要性はオフィス面積で知ることができる。グレーター・ロンドンのオフィススペースは2700万平方メートルで、シティの800万平方メートルも含む。ロンドンは世界的にも高い賃料のオフィススペースとなっている。
メイフェアや セント・ジェームズ(英語版)の賃料は現在、一番高く1平方フィートあたり年間93ポンドである。ロンドンの最大の産業として金融は残り、イギリスの国際収支統計に大きく貢献している。シティには銀行、仲介業、保険、法律事務所、会計事務所などがある。ロンドンの第2の金融街はシティの東側に開発されたカナリー・ワーフで、HSBCホールディングスやバークレイズの2つ世界的な大銀行の本社やシティグループの欧州・中東・アフリカ本部、世界的な通信社ロイターがある。ロンドンは2009年現在国際通貨取引の36.7%が扱われ、1日平均1兆8500億米ドルが取引される。米ドルはニューヨーク以上に取引され、ユーロは他のヨーロッパの都市とともに取引されている。
約32万5,000人がロンドンでは2007年半ばまで金融サービス部門で雇用されていた。ロンドンは世界のどの都市よりも多い480の海外の銀行がある。現在、85%以上(320万人)の就業人口は第三次産業に雇用されている。その世界的な役割から2000年代後半以降の世界金融危機の影響を大きく受けている。シティでは1年以内で約7万人の雇用が失われることが予想されている。シティにはイングランド銀行やロンドン証券取引所、ロイズ保険市場がある。
FTSE100種総合株価指数にリストされる企業の半数以上、欧州の上位500の企業のうちの100社以上がセントラル・ロンドンに本社を置いている。70%を超えるFTSE100の企業がロンドン大都市圏に拠点を置いており、フォーチュン500の企業の75%はロンドンに事務所を置いている。
メディア産業はロンドンでは2番目に競争力がある産業である。BBCは重要な雇用主で、それ以外にもシティ周辺には放送局の本社が集まっている。多くのイギリスの新聞社の新聞がロンドンで編集されている。
ロンドンは主要な小売り部門の中心で、非飲食部門では世界のいずれの都市よりも高い売り上げがあり、合わせて642億ポンドの収益を上げた。ロンドン港はイギリスでは2番目に荷物取扱量が多い港で年間4500万トンを扱っている。
シティ中心部は、イングランド銀行やマンションハウスと呼ばれる市長公邸、商品・金融取引所のロイヤル・エクスチェンジが面する八叉路である。そこから南東には銀行や商社が立ち並ぶロンバード・ストリートが伸びる。コーンヒル(穀物丘)やポールトリ(家禽)、ミルク、ブレッド、チープサイド(安売り街)などの古くからの街路名や町名が現在も残っている。シティは女王の承認を得ていない唯一の自治体であり、独自の警察を有する。シティ西部のフリート・ストリートには新聞・通信社が集積し、通りの南側にあるテンプルはイギリスの法律家の最大の拠点である。元来テンプル騎士団のイングランド本部であったが、イギリスで最初の法学院が設置され、次世代の公判弁護士を育成する場所となった。付近には他に最高裁判所や公文書館もある。
ウェスト・エンドはシティの西側の地域であり、シティ・オブ・ウェストミンスターを中心とする。ウェストミンスターは国内最高級の住宅群を擁し、一見寂れた地区であっても資産価値は非常に高い。ウェストミンスター寺院やウェストミンスター大聖堂、国会議事堂、バッキンガム宮殿、政府庁舎、国内最大級の商業地区、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)、ロンドンの大半の高級ホテル、美術館、博物館がある。
イースト・エンドは、シティの東端ロンドン塔から東方のリー川までの地域である。アイル・オブ・ドッグズ、ポプラー、マイル・エンドなど古くからの地名が今も残るが、公式には全てタワーハムレッツ区に含まれる。ドック地帯を有し、港としてのロンドンの機能を担う。歴史的には港湾労働者を中心とするスラム街でもあったため、トインビー・ホールのようなスラム改良運動のセルツメントも認められる。かつてはロンドンの最貧地区として知られ、現在はドックランズ、カナリー・ワーフの大規模な再開発地区として注目されている。
また、ロンドン自体が巨大な消費市場であるため、商業活動も活発である。ロンドンでは地域ごとに各業種が集中している。例えば、シティの金融業、スミスフィールドの食肉市場、スピタルフィールズおよびコヴェント・ガーデンから移設したナイン・エムルズの両青物市場、ウェスト・エンドのリージェント・ストリート、ボンド・ストリート(英語版)、オックスフォード・ストリートの高級ショッピング街、ハーリーストリートの一流医院、紳士服のオーダーメイドはサヴィル・ロウ(日本語の「背広」の語源の一つとも言われる)、ウェストミンスターの行政機関、ブルームズベリーの教育機関といった具合である。
19世紀から20世紀にかけてロンドンは主要な製造業の中心地で、1960年には150万人を超える工場労働者がいた。製造業は1960年代から劇的に傾き始めた。造船や家電、航空機製造、自動車製造など全ての産業が失われている。この傾向は続いており、ポンダーズの Aesica(以前のメルク・アンド・カンパニー)の製薬は2011年に終了し、ダゲナムのサノフィ・アベンティス(元のMay & Baker)の製薬も2013年に終了予定である。
今日残っている最後の産業プラントは フォード・ダゲハム(英語版)で、車体パネルの主要な生産地で世界最大のディーゼルエンジンの工場である。食品や飲料の製造もブリムスダウン工業団地(英語版)にあるパン製造のWarburtons、チズウィックにあるビール醸造のフラーズビール醸造所、ヘイズ(英語版)にあるコーヒーやチョコレート製造のネスレ、シルバータウン(英語版)にある砂糖、シロップ製造のTate & Lyleがある。ロンドンの製造業の就業人口は全就業人口の2.8%を占めるのみである。
ロンドンの農業はグレーター・ロンドン地域の8.6%を占めるのみで商業的農業に利用され、かなり小規模な事業形態でありほとんどはグレーター・ロンドンの外縁部に近い所で行われている。市街地近くには僅かな都市農園とおよそ3万ヶ所のコミュニティ・ガーデンがある。グレーター・ロンドン地域には135.66平方キロメートル (135,660,000 m) の農地が占めている。ロンドン地域のほぼ全ての農地は成長する文化のための礎である。
現在、グレーター・ロンドンを構成する多くのエリアは以前は農村か郊外の農地であったが、今でもイーリング・コモン(英語版)やリンカーンズ・イン・フィールズ、シェパーズ・ブッシュ、ワームウッド・スクラブ(英語版)など昔の地名を保っている。
1938年、グレーター・ロンドンはイギリスでグリーンベルト (en) の政策が用いられる最初の地域となり、スプロール現象を防止するためメトロポリタン・グリーンベルト(英語版)が導入された。2005年にADASにより行われた農業統計調査によれば 423の借地がロンドンのメトロポリタン・グリーンベルトの一部分を占めており、イギリスの総数の0.25%を占めている。管理されている土地の総計は1万3,608ヘクタールで、半分は貸借されている。
10%未満の土地では有機農法の作物栽培に利用され、農業の経済への寄与は多様化した活動を除くと800万ポンド未満である。一方で、ロンドンの農産業は多角化に関わる活動にずっと依存していることが示されており、農業収入の3分の1はそれらに起因し国の平均を超えている。報告書では農業はロンドンの経済にとって重要ではないが、不可欠な役割があると述べている。
報告書では農業は主にロンドン北東部に集中しているが、数値は耕作適地だけが含まれている(周辺のイースト・オブ・イングランドやサウス・イースト・イングランドは穀物栽培が一般的である)。また、畜産業は近年ではインフラの不足(食肉処理場や市場への乏しいアクセス)や都市外縁部への近さなどから減少していると述べられている。
園芸農業は主にテムズ川南部のロンドン東部の限られた場所で行われている。ADASの調査だけでなく、2004年の Farmer's Voiceで実施された調査では農業従事者の多数はより広く厳格に押し付けられたグリーンベルトの規制は多角化の大きな障害と考え (47%)、続いて高いのは資金の不足で (35%)、両方の調査で明らかになったのは欧州連合の共通農業政策は多角化を進めるにあたって、ほとんど障害はないと認識されていることである。ロンドンのグリーンベルトでの農業収益は増加を示しており、1999年には僅か4%のロンドンの農場だけが利益が増加したか維持しただけだが、2008年には27%に増えている。1999年の調査では48%が事業の存続を恐れていたが、2008年には23%であった。グレーター・ロンドン地域での都市農業を後押しする取り組みも推進されている。
ロンドンには、ロンドン塔、キューガーデン、ウェストミンスター宮殿(聖マーガレット教会を含む)、グリニッジ(グリニッジ天文台跡をグリニッジ子午線が通る)の4つの世界文化遺産が存在する。他の有名なランドマークとしては、バッキンガム宮殿、ロンドン・アイ、ピカデリーサーカス、セント・ポール大聖堂、タワーブリッジ、トラファルガー広場、ウェンブリー・スタジアムがある。多数の博物館、美術館、図書館といった文化施設や、スポーツイベント、文化機関も存在する。大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・モダン、大英図書館、ウィンブルドン選手権、40軒の劇場が軒を連ねるウェスト・エンド・シアターは代表的なものである。
ロンドンは著名な観光地の一つであり、主要な産業の一つであり2003年に観光関連の産業に雇用されるフルタイムの労働者は350,000人であった。ロンドンを訪れる観光客が1年間に使う費用は全体で150億ポンドで、海外からの観光客は年間1400万人にも上りヨーロッパでは最も人が訪れる都市である。ロンドンでの観光客の延べ宿泊日数は年間2700万泊である。2015年にロンドンで最も観光客が訪れた場所は以下の通り。
交通の分野はロンドン市長が掲げる主要な4つの管理政策のうちの一つであるが、ロンドンに乗り入れる長距離鉄道に関しては財政的に関知していない。2007年以降、市長はロンドン地下鉄および路線バスに加えて、ロンドン・オーバーグラウンドを構成する複数のローカル路線の管理権限を有する。公共交通機関はロンドン交通局 (TfL) が運営しており、世界屈指の高密度な交通網を形成する。自転車はロンドン周辺でも次第に普及し始めている。ロンドン・サイクリング・キャンペーンは、自転車の利用環境整備のためロビー活動を行っている。
1933年、ロンドン地下鉄や路面電車、路線バスといった交通機関の運営組織が統合され、ロンドン旅客輸送局とロンドン交通(英語版)が設立された。ロンドン交通局 (Tfl) は制定法により設立された機関であり、グレーター・ロンドン内の大部分の公共交通機関に対して管理権限を有し、委員会や理事はロンドン市長により任命されている。
セントラル・ロンドンでは高密度な公共交通網が機能しているが、郊外では車が一般的である。ロンドンの高速道路には、放射線や環状線が存在する。ロンドン中心部の環状線としては、ロンドン環状線(英語版)がある。近郊の高速道路としては、北環状線のA406道路(英語版)および南環状線のA205道路(英語版)があり、郊外の環状線としてはM25モーターウェイがある。環状線は交通量の著しい数多くの放射線と接続し、またインナー・ロンドンを貫通する高速道路も存在する。M25は世界最長の環状道路であり、195.5 km (121.5 mi) の長さを有する。A1やM1モーターウェイは、エジンバラ、リーズ、ニューカッスル・アポン・タインと各々接続している。
1960年代、ロンドン全域を網羅する高速道路の建設計画としてロンドン・リングウェイズ(英語版)が存在したが、大部分は1970年代に中断された。2003年、コンジェスチョン・チャージがロンドン中心部の交通量を減らすため導入された。ロンドン中心部において交通量が著しく多いと指定を受けた区画に流入する場合、僅かな例外を除き、自家用車の場合で1日当たり10ポンドの課金が請求される。コンジェスチョン・チャージの指定区画に居住する運転ドライバーは、指定区画用のシーズンパスを購入し、月ごとに更新している。シーズンパスの購入代金は、区画内を運行する路線バスの運賃より安価に設定されている。ロンドンの交通渋滞は有名であり、特にM25の混雑度は顕著である。ラッシュ時の車の平均速度は 10.6 mph (17.1 km/h) である。当局による当初の予測では、コンジェスチョン・チャージの導入により、1日当たりのピーク時におけるバスや地下鉄といった公共交通機関の利用者数は2万人増加し、交通量は10-15%減少し、道路網の交通の流れを10-15%高め、渋滞は20-30%減少するとしていた。コンジェスチョン・チャージ導入後、歳月を経て、当局自身による発表によれば、平日にロンドン中心部に流入する車の台数は19万5,000台から12万5,000台に減少し、率にして35%減少したとしている。
世界的にも有名なブラックキャブ (black cab) と呼ばれるロンドンタクシーが市民の足として親しまれている。運転手となるには難関の試験を突破しなければならない。市内道路の半分以上は一方通行であり、時に遠回りせざるを得ない。そのため一見高めに映るロンドンタクシーの運賃は、一方通行と進行方向が同じ場合は日本のタクシー料金と大差なく、一方通行と進行方向が異なる場合は運賃が比較的高くなる。また、営業免許を持たない合法の個人タクシーはミニキャブ (mini cab) と呼ばれ、市民の間ではブラックキャブより運賃が割安という理由でより一般的である。
ロンドンバスは世界最大規模の路線バス網を形成し、毎日24時間、8,000台のバス車両を用いて700路線の運行を行い、平日1日当たり600万人が利用している。2003年の路線網全体のトリップ数は15億回であり、地下鉄の乗車回数を上回る身近な交通手段として利用されている。収益としては毎年8億5000万ポンド計上している。ロンドンは車椅子で移動可能な範囲が世界最大とされ、2007年からは音声や映像案内といった視覚障害者に対応した設備導入により、利便性がより向上している。ロンドン市内を縦横に運行する赤い2階建てバス(ダブルデッカー)が世界的に有名であり、安価な市民の足として親しまれている。
旧型の赤い2階建てバスであるルートマスターは2005年12月をもって一般路線から廃止された。この理由として、車掌が同乗する旧型よりもワンマンバスの方が効率が良いのに加え、開け放した乗降口は危険であり、身体障害者にとっても不便だったことが挙げられる。旧型車両はロンドン中心部の観光名所を巡る15番(トラファルガー・スクエア/タワー・ヒル)で一般車両に混じり、夏季土休日の日中に運行されている。現在、後部プラットフォームの使用とアクセシビリティ確保のために3つのドアと2つの乗降階段を備えたニュールートマスターがロンドン中心部で運行されている。
トラムリンクは、サウス・ロンドン(英語版)のクロイドンを基点に路線を展開している。3路線・39駅を有し、2008年における年間利用者数は2650万人であった。2008年6月、ロンドン交通局はトラムリンクの管理運営権を完全に所有し、2015年までに5400万ポンドの設備投資を行う予定である。2009年にはトラムの全車両を刷新している。
ロンドンにはイギリス各地や大陸ヨーロッパを結ぶ長距離路線のターミナル駅が方面別に複数存在し、南東部の通勤路線と共に鉄道網の一大拠点となっている。
国が関与する公的企業のネットワーク・レール社は利用者数の多い18の主要駅については直接管理運営しており、この内ロンドンにある駅は次の通りである。北部地方への列車が発着するユーストン駅やセント・パンクラス駅、キングス・クロス駅、東部へのリバプール・ストリート駅やキャノン・ストリート駅、フェンチャーチ・ストリート駅、ロンドン・ブリッジ駅、チャリング・クロス駅、南部へのロンドン・ブリッジ駅やウォータールー駅、ロンドン・ヴィクトリア駅、西部へのパディントン駅である。なお、セント・パンクラス駅はヨーロッパ大陸へ通じる特急列車ユーロスターの発着駅で、パディントン駅はヒースロー空港へ通じるヒースロー・エクスプレスおよびヒースロー・コネクトの発着駅でもある。
ロンドンにある特定のナショナル・レールの駅はロンドン・ステーション・グループと総称される。グループ外の駅で発券された切符において便宜的に同一箇所として扱われ、券面に「ロンドン・ターミナル」と表記される18駅が対象である。全ての駅がトラベラルカード・ゾーン1に位置し、この内大部分の駅がロンドン市内を取り囲むように置かれ、各駅間は地下鉄で結ばれる。現在、ロンドン・ステーション・グループとして扱われている駅は次の通りである。
かつての国鉄は解体され、官民協力体制 (Public Private Partnership) の下で委託経営が行われている。線路や駅の保有・維持管理はネットワーク・レール社が行い(民営化から2001年まではレールトラック社、この会社は破綻しネットワーク・レールに引き継がれた)、各路線の列車運行は複数の民間会社が運営する上下分離方式が採用されている。これらの民間会社はナショナル・レールの共通ブランドを用い、国鉄時代から使われている標章を使用しており、民営化以後も乗車券の販売などにおいて一体化された事業が提供されている。
1999年にはパディントン駅付近で列車衝突事故が発生し、さらにその直後にも再び重大事故が度重なるなど、イギリス、特にロンドンの鉄道は大きな政治課題になっている。事故が続発した大きな要因としては株主への利益還元を重視し過ぎたレールトラック社が列車運行に責任を持たず、整備を疎かにしたためとされている。
2007年、ユーロスターはロンドンの発着駅を開業以来ウォータールー駅としていたがセント・パンクラス駅に変更した。発着駅変更以前は途中区間で在来線を走行するため、イギリス国内で速度を上げられないという課題があった。そこで専用の高速新線 (CTRL) を建設したことで最高時速約300キロメートルでの運行が可能になり、遅延が常態化していたユーロスターの定時性も向上した。2009年6月からは395形電車を使用したロンドン-ケント州間を運行するイギリス国内の高速鉄道サービスが開始された。
ロンドン地下鉄は現在ではチューブ "the Tube"と呼ばれ、この名称が表す区間は地下深い路線に限られ浅い深さに造られた古い路線とは異なっている。営業距離は上海地下鉄に次いで世界で2番目に長い。1863年に遡る地下鉄システムで270の駅があり、設立当初はいくつかの私営の企業に分かれておりその中には最初の地下電化路線を運営したシティ・サウスロンドン鉄道も含まれる。2013年1月10日には運行開始から150周年を迎えた。
毎日300万人を超える旅客数があり、路線全体で年間10億人の旅客数がある。2012年の夏のオリンピックに向け70億ポンドを信頼性の向上や混雑の緩和に投資する。ロンドンの公共交通機関は良い状態にあるとされている。世界で最初に開通した地下鉄であるロンドン地下鉄は、世界有数規模である12の路線網を有する。ただし、遅延の常態化が課題として存在する。乗り場への出入りには大型エレベータを設置していることが多いが、一部施設はエスカレーターが木製であるなど老朽化が見られ様々な刷新の計画がある。1987年11月にキングス・クロス駅で発生した火災では31人の犠牲者を出した。2005年7月にはロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄乗客に被害が出た。地下鉄に類似した輸送機関としては、新交通システムであるドックランズ・ライト・レイルウェイ、ロンドン都心の地下を南北に貫通する英国鉄道のテムズリンクが存在する。2007年10月にはロンドンを東西に貫通するクロスレールの建設が決定され、2017年の開通が計画されている。なお、普通運賃で乗ると初乗り料金が4ポンドと非常に高いため、トラベルカードと呼ばれる一日乗車券などの各種割引制度や割引運賃が適用されるオイスターカードを利用する人が多いが、オイスターカードを利用した乗車についても徐々に値上げされている。2012年のオリンピック開催中、地下鉄の1日の旅客数は過去最高の440万人を記録した。通常1日当たりの旅客数は380万人程度である。
ロンドンは世界最大の都市空域における国際航空輸送の中枢である。8つの空港が単語に London の名称が使われているが、
の6つの空港が最も交通量が多く一つの都市圏では最大の国際線の旅客数を誇っている。ロンドン・ヒースロー空港はイギリスのフラッグキャリア、ブリティッシュエアウェイズ (BA) の一大拠点空港である。2008年3月に第5ターミナルがヒースロー空港に開業した。計画にあった第3滑走路や第6ターミナルは2010年5月12日に政権により取り消されている。2011年9月に個人用高速輸送システム(新交通システム)が開業し、近くの駐車場と結んでいる。
同程度の交通量の近距離便や格安航空会社 (LCC) をロンドン南部のウェスト・サセックスにあるロンドン・ガトウィック空港が扱っている。
ロンドン・スタンステッド空港はロンドン北東部のエセックスにありライアンエアーがハブ空港としている。ロンドン北部のベッドフォードシャーにはロンドン・ルートン空港がありLCCの近距離便のほとんどが拠点とする。ロンドン・シティ空港はロンドンの主要な空港の中では一番規模が小さく、ビジネストラベラーを対象としフルサービスの短距離定期便とかなりの交通量のビジネスジェットを扱っている。
ロンドン・サウスエンド空港はロンドン東部のエセックスにあり、小規模な地域空港でLCCの近距離便を扱っている。最近では大規模な改良工事計画が行われ新しいターミナルや滑走路の延長、新たな鉄道駅の整備などが行われロンドン都心部との連絡が高速化される。イージージェットが現在拠点としている。
日本との間には、日本航空や全日本空輸が東京国際空港から、ブリティッシュ・エアウェイズが東京国際空港や関西国際空港からそれぞれヒースロー空港へ就航している。
ロンドンでは最初のそして唯一のロープウェイは2012年6月に開業したエミレーツ・エア・ライン (Emirates Air Line) またはテムズケーブルカーの名称で知られるものである。ロープウェイはテムズ川を横断し、グリニッジ・ペニンシュラ(英語版)とシティの東側のロイヤル・ドックス(英語版)を結び、ロンドンのオイスターカードのシステムに含まれカードの利用が可能である。
ロンドンでサイクリングを楽しむことは21世紀に変わってから復活している。サイクリストは公共交通機関や車などを利用するより安価でより速く楽しむことが出来、2010年7月にバークレイズ・サイクルハイアーと呼ばれるレンタサイクルの制度が導入されて成功し、一般に受け入れられた。2017年6月現在は、スポンサーがサンタンデールに代わり、「サンタンデール・サイクルズ (en) 」という名称で同様のサービスが実施されている。
かつては世界最大の港であったロンドン港(英語版)は、現在ではイギリスで2位を占めるのみであり、毎年4500万トンの貨物を取り扱う。実際には、ロンドンの貨物の大部分はグレーター・ロンドン域外のティルバリー港(英語版)が担っている。ロンドンではまた、テムズ川を利用した水上バスの運航も頻繁にされておりテムズ・クリッパーズ(英語版)として知られている。20分毎にエンバンクメント・ピア(英語版)とノーズグリニッジ・ピア(英語版)を結んでいる。ウーリッジ・フェリー(英語版)は毎年250万人の旅客を運航し、ノース・サーキュラーロード(英語版)とサウス・サーキュラーロード(英語版)を頻繁に結んでいる。他の運航事業者も通勤客向けや観光客向けの両方でロンドンで運航を行っている。
ロンドンは高等教育や研究機関の中心で43の大学が集中するヨーロッパ最大の高等教育の一大中心地である。2008-2009年には高等教育を受ける学生数は41万2,000人でこの数はイギリス全体の17%を占め、内訳は学士レベル28万7,000人、大学院レベル11万8,000人である。2008-2009年にロンドンで学んだ留学生は9万7,150人に上りこれはイギリス全体の25%を占める。
多くの世界をリードする教育機関がロンドンを拠点にしている。2011年のQS World University Rankings (en) では世界でインペリアル・カレッジ・ロンドンは6位、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンは7位、キングス・カレッジ・ロンドンは27位に付けている。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスは教育と調査で世界をリードする社会科学機関と見なされている。ロンドン・ビジネス・スクールは世界で一流のビジネススクールの一つとして考えられ、2010年にMBAの教育課程でフィナンシャル・タイムズから世界最高の評価を得ている。
ロンドン大学で学ぶ学生は12万5,000人おり、これは通信過程以外の大学ではヨーロッパ最大である。ロンドン大学は単独の大学として存在するものではなく、カレッジ制でそれぞれ別の大学となっており4つの大きな大学であるキングス・カレッジ・ロンドン、クイーン・メアリー・カレッジ、ロイヤル・ホロウェイ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンと多くのより専門的な機関であるバークベック・カレッジ、コートールド・ギャラリー、ゴールドスミス・カレッジ、ギルドホール音楽演劇学校、インスティチュート・オブ・エデュケーション、ロンドン・ビジネス・スクール、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院、王立音楽アカデミー、セントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ、王立獣医学校、東洋アフリカ研究学院が含まれる。ロンドン大学を構成するカレッジにはそれぞれ独自の入学試験制度があり、そのいくつかは独自の学位を授与している。
ロンドン大学以外にも多くの大学がロンドンにはあり、 ブルネル大学(英語版)、シティ大学ロンドン、インペリアル・カレッジ・ロンドン ,キングストン大学、ロンドン・メトロポリタン大学(学生数3万4,000人でロンドン最大の単科大学)、ロンドンサウスバンク大学(英語版)、ミドルセックス大学、ロンドン芸術大学、イースト・ロンドン大学、ウェスト・ロンドン大学、ウエストミンスター大学がある。これに加えてセビリア大学やRegent's College、リッチモンド大学など海外の大学がロンドンにある。
ロンドンには5つの有名な医学部がある。クイーン・メリーカレッジに付属するバーツ医科歯科ロンドン校(英語版)、欧州最大の医学部であるキングスカレッジ医科ロンドン校(英語版)、インペリアルカレッジ医学部(英語版)、UCLメディカルスクール(英語版)で、他にも多くの医療や病院に関連した教育機関がある。また、生物医学研究に関連したイギリスに5つある研究機関のうち3つがロンドンにある。多くのビジネススクールもまたロンドンにはある。
ロンドンの大半の小学校から中等教育の学校は国立か自治区により管理運営されているが、多くのインデペンデント・スクール(私立学校)や非営利法人のパブリック・スクールがあり、その中にはシティ・オブ・ロンドン・スクール(英語版)、ハーロー校、セントポール校、ユニバーシティ・カレッジ・スクール(英語版)、ウェストミンスター校など歴史ある学校やエリート校が含まれる。
英国の教育では将来進む道を早い段階で決めるため、世界唯一のアート&デザイン専科寄宿制(ボーディングスクール)インターナショナルスクールロンドン国際芸術高校(ISCA)など特定分野に特科した学校も多く存在する。
ロンドンのアクセントはずっと以前からコックニーと呼ばれるもので、サウス・イースト・イングランドの方言と多くの点で似通っている。21世紀のロンドナーのアクセントは多くが異なったものとなり、30代以下を含めより共通になっている。一方、コックニーと容認発音、すべての民族アクセントの配列、特にカリビアン系が融合し多文化的なロンドン英語(英語版)を形作っている。
シティ・オブ・ウエストミンスターのウエスト・エンド地区にあるレスター・スクウェア周辺は劇場や初演が行われる映画館が集中しピカデリーサーカスや巨大な電照広告がある。ロンドンの劇場が集中する地区であり、多くの映画館やバーやナイトクラブ、レストラン、ソーホーの中華街、東側にはロイヤル・オペラ・ハウスがある他、様々な専門店がある。ロイヤル・バレエ団、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団、イングリッシュ・ナショナル・オペラはロンドンを拠点とし、ロイヤル・オペラ・ハウスやコロシアム劇場(英語版)、ロイヤル・アルバート・ホールで公演を行い同様に地方公演も行っている。
イズリントン は1マイル (1.6 km) のアッパーストリートでエンジェル(英語版)から北方向に延びている。イギリスのいずれの通りよりもより多くのバーやレストランが林立する。ヨーロッパで最も賑やかなショッピングエリアであるオックスフォード・ストリートは 1マイル (1.6 km) の長さでイギリスでは最長のショッピングストリートである。オックスフォードストリートには数多くの店舗やデパートがあり、世界的に有名なセルフリッジズの旗艦店がある。ナイツブリッジには同様に有名なハロッズがある。
ロンドンはヴィヴィアン・ウエストウッドやジョン・ガリアーノ、ステラ・マッカートニー、マノロ・ブラニクなど多くのデザイナーが拠点を置いている。ファッションスクールの国際的な中心としてパリやミラノ、ニューヨークなどと並び評判が高い。
ロンドンは多くの民族的な多様性から料理の幅がかなり広い。バングラデシュレストランはブリックレーン(英語版)に集まっており、中華料理店はソーホーのチャイナタウンに集まっている。これ以外にもインド料理などが知られている。
ロンドンでは多くのイベントも年間を通し行われ、ニューイヤーズデイパレード(英語版)が行われ、花火大会がロンドン・アイで行われる。この祭典は世界で2番目に大規模なストリートパーティーである。ノッティングヒルカーニバル(英語版)が毎年8月のバンクホリデーに開催される。11月に開催されるロード・メイヤーズ・ショー(英語版)では、パレードも含まれ、数世紀にわたる伝統的な行事で、毎年選ばれる新しいロンドン市長が参加し、シティ周辺の通りでは行列が見られる。6月には女王の誕生日を祝うために、イギリスと英連邦の軍によりトゥルーピングザカラー(英語版)が行われる。
ロンドンは多くの文学の舞台になってきた。ロンドンの文学の中心は古くから丘がちなハムプテッドやブルームズベリー(20世紀初期から)である。街に密接に関連した作家には詳細な日記を付けていたサミュエル・ピープスでロンドン大火など目撃したことを詳述している。チャールズ・ディケンズは霧や雪、ロンドンの通りの掃除人やスリなどの汚れを表現しヴィクトリア朝初期のロンドンの人々の視覚に影響を与えた。ヴァージニア・ウルフは20世紀のモダニズム文学で最も重要な人物の一人と見なされている。
ジェフリー・チョーサーは14世紀後半の『カンタベリー物語』で、ロンドンのサザークからカンタベリー大聖堂までの巡礼の道程を描いている。ウィリアム・シェイクスピアは人生や創作の大部分をロンドンで過ごしている。詩人のベン・ジョンソンもロンドンを拠点にし、『錬金術師』 (en) はロンドンで作られた。1722年にダニエル・デフォーの『ペスト』は1665年のロンドンの大疫病を小説化したものである。 後にロンドンを表現した重要なものは19世紀から20世紀初期にかけてのチャールズ・ディケンズの小説やアーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズである。
ロンドンを舞台にした映画には『オリヴァ・ツイスト』(1948年)、『ピーター・パン』(1953年)、『マダムと泥棒』(1955年)、『101匹わんちゃん』(1961年)、『メリー・ポピンズ』(1964年)、『欲望』(1966年)、『ロング・グッド・フライデー(英語版)』(1980年)、『秘密と嘘』(1996年)、『ノッティングヒルの恋人』(1999年)、『マッチポイント』(2005年)、『Vフォー・ヴェンデッタ』(2005年)、『スウィーニー・トッド』(2008年)、『ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密』(2014年)がある。連続テレビドラマには『イーストエンダーズ』などがあり、最初にBBCで放送されたのは1985年のことである。ロンドンは特に映画撮影において重要な役割を果たし、有名なスタジオであるイーリング・スタジオがあり、ソーホーはSFXやポストプロダクションのコミュニティセンターである。ワーキング・タイトル・フィルムズはロンドンに拠点を置いている。
ロンドンには数多くの博物館や美術館を含め様々な施設があり、その多くが入場料が無料でメジャーな観光地となっており調査でも役割を果たしている。最初に設立されたのは1753年にブルームズベリーにある大英博物館である。元からある収蔵品には古代の遺物や自然史の見本で国立図書館もあった。現在、博物館は700万点を収蔵している。1824年にナショナルギャラリーが設立されイギリスの西洋絵画のコレクションが収蔵されトラファルガー広場に位置している。19世紀後半、サウスケンジントン(英語版)に文化施設が集まったアルバートポリス(英語版)が開発され、文化や科学の地区となった。ロンドンにはヴィクトリア&アルバート博物館、ロンドン自然史博物館、サイエンス・ミュージアムの3つの主要な国立博物館がある。国立美術館のテート・ブリテンは元はナショナルギャラリーの別館として1897年に設立された。2000年にバンクサイド発電所の跡地にテート・モダンが開館している。
ロンドンはクラシック音楽やポピュラー音楽の中心であり、世界的な大手であるEMIなどのレコード会社や無数のバンド、ミュージシャン、音楽産業のプロが居る。ロンドンには多くのオーケストラやコンサートホールがあり、バービカン・センター(ロンドン交響楽団の拠点)、カドガンホール(英語版)(ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)、ロイヤル・アルバート・ホール(BBCプロムス)は良く知られている。ロンドンにはロイヤル・オペラ・ハウスとコロシアム劇場(英語版)の二つのオペラハウスがある。ロイヤル・アルバート・ホールではイギリスで最大のパイプオルガンを見つけることができる。他に重要な楽器は大聖堂や大きな教会で見つけることができる。王立音楽アカデミーや王立音楽大学、ギルドホール音楽演劇学校、トリニティ音楽カレッジなどの音楽学校も立地する。
ロンドンにはロックやポップ音楽のコンサート会場が多くあり大規模ものではアールズ・コート・エキシビション・センター、ウェンブリー・アリーナ、O2アリーナがあり、中規模な会場も同様に多くありブリクストン・アカデミー、ハマースミス・アポロ、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアなどがある。いくつかの音楽祭も開催され、その中にはワイヤレス・フェスティバルはロンドンで行われている。ロンドンには最初のオリジナルのハードロックカフェや、ビートルズがレコーディングし多くのヒット曲を出したアビー・ロード・スタジオがある。1960年代から1980年代にかけてのミュージシャンやグループには、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、クイーン、エルヴィス・コステロ、キャット・スティーヴンス、イアン・デューリー、キンクス、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、エレクトリック・ライト・オーケストラ、マッドネス、ザ・ジャム、スモール・フェイセス、レッド・ツェッペリン、アイアン・メイデン、フリートウッド・マック、ポリス、ザ・キュアー、スクイーズ、シャーデーなどがおり、これらが世界的な流れとなって、ロンドンの通りや振動するリズムからサウンドを得ている。
ロンドンはパンク・ロック発展の地となり、セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ヴィヴィアン・ウエストウッドらがロンドンを拠点としていた。1980年代以降のロンドン出身のミュージシャンには、バナナラマやワム!、エスケイプ・クラブ、ブッシュ、イースト17、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、スパイス・ガールズ、ジャミロクワイ、ザ・リバティーンズ、ベイビーシャンブルズ、ブロック・パーティ、エイミー・ワインハウス、アデル、コールドプレイ、ジョージ・マイケルが含まれている。
ロンドンはまたアーバン・ミュージックの中心である。とりわけUKガラージ、ドラムンベース、ダブステップ、グライムといったジャンルについては、地元のドラムンベースに加えて、海外のヒップホップやレゲエといったジャンルから、この街で進化したものである。BBC 1Xtra(英語版)はブラック・ミュージックの放送局で、イギリスでのアバーン・ミュージックの発展をサポートしている。
ロンドンでは、夏季オリンピックが1908年大会、1948年大会、2012年大会の3度開催されている。2005年7月に、2012年の夏季オリンピックやパラリンピックの開催都市に選出され、「一つの都市では史上初」となる3度目の夏季オリンピック開催都市となった。
また、1934年のコモンウェルスゲームズの開催都市でもあった。さらに2017年には世界陸上が開催されている。
ロンドンで圧倒的にポピュラーなスポーツはサッカーであり、40チーム以上のフットボールリーグのクラブチームがあり、アーセナルFC、チェルシーFC、トッテナム・ホットスパーFC、ウェストハム・ユナイテッドFC、クリスタル・パレスFC、フラムFCなど6つのプレミアリーグのクラブが含まれる。さらに著名なダービーマッチも複数存在しており、ビッグロンドン・ダービーを筆頭に、ノース・ロンドン・ダービーやウェスト・ロンドン・ダービー等が挙げられる。
1924年から元のウェンブリー・スタジアムはサッカーイングランド代表の本拠地であり、FAカップの決勝や他競技ではラグビーリーグのチャレンジカップなどが行われてきた。 21世紀に入って建てられた新しいウェンブリー・スタジアムは、前にあったスタジアム同様の目的で収容人員は9万人である。
クリケットはロンドンで非常に人気が高いスポーツである。テスト・クリケットで使用されるスタジアムはシティ・オブ・ウェストミンスターのローズ・クリケット・グラウンドとランベス区のジ・オーバルがある。ローズ・クリケット・グラウンドはミドルセックス・カウンティ・クリケット・クラブ(英語版)の本拠地であり、その歴史的重要性から「クリケットの聖地」と言われる。このスタジアムではクリケット・ワールドカップの決勝戦が史上最多の5度開催されている他、名門パブリックスクール同士のイートン・カレッジとハロウスクールの伝統の試合も200年以上行われている。ジ・オーバルはサリー・カウンティ・クリケット・クラブ(英語版)の本拠地であり、1880年に初めて国際試合のテスト・クリケットが行われた。このスタジアムはサッカーにとっても重要な場所であり、イングランド初の国際試合のスコットランド戦やFAカップ決勝戦も行われていた。2003年に従来のクリケットとは異なり2、3時間程度で試合が終了するトゥエンティ20(T20)形式が導入された。この試合形式のT20ワールドカップが2009年にイングランドで開催され、決勝戦はローズ・クリケット・グラウンドで行われた。
ロンドンには4つのラグビーユニオンのトップリーグであるプレミアシップのクラブチームロンドン・アイリッシュ、サラセンズ、ロンドン・ワスプス、ハーレクインズがあるが実際に現在ロンドンでプレーしているのはハーレクインズのみで、残りの3チームはグレーター・ロンドンの域外でプレーしている。サラセンズはM25の域内で今もプレーしている。他に2部RFUチャンピオンシップのクラブチームであるロンドン・スコティッシュFCがありホームマッチを行っている。他のロンドンのラグビーユニオンの伝統的なクラブチームにはリッチモンドFC、ロズリンパークFC、ウエストコンブパークRFC(英語版)、ブラックヒースFC、ロンドン・ウェルシュRFCがある。ロンドンには現在、3つのプロのラグビーリーグのクラブチームがある。ロンドン・ブロンコズは2020年シーズンはRFLチャンピオンシップでプレーし、ロンドン北部のハーリンゲイ・ロンドン特別区を拠点とするロンドン・スコーラーズ(英語版)は現在リーグ1(英語版)でプレーする。トゥイッケナム・スタジアムはロンドン南西部にあり、ラグビー専用競技場で収容人員は8万4,000人を擁し現在新しいサウススタンドが完成している。
ロンドンでもっとも世界的に知られたスポーツイベントにはロンドン南西部のマートンのウィンブルドンにあるオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブで毎年行われるウィンブルドン選手権である。他の大きなイベントには春にロンドンマラソンがあり、3万5,000人のランナーがシティ周辺の26.2マイル(42.2km)のコースを走る。陸上競技では夏にIAAFダイヤモンドリーグ・ロンドングランプリが開催される。またザ・ボート・レースがテムズ川のパットニー(英語版)とモルトレーク(英語版)の間で行われる。
6大陸、46の場所にロンドンに因んだ名称の場所がある。ロンドンの特別区は独自に世界の地域と姉妹都市の関係を結んでいる。グレーター・ロンドン・オーソリティーが結んでいる姉妹都市は以下の通り。
以下の都市はロンドンと友好都市の関係を結んでいる。 | [
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"text": "イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に相当する地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイル(2.6km)あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンでは市街地の大部分がコナベーションにより形成されている。",
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"text": "グレーター・ロンドンでは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われ、域内はシティ・オブ・ロンドンと32のロンドン特別区から成る。",
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"text": "ロンドンは最高水準の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力があり「世界一革新的な都市」と呼ばれることもある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2014年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界でもっとも航空旅客数が多い。欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年のオリンピック開催にともない、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。",
"title": "概説"
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"text": "ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7パーセントを占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる827万8,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1,200万人から1,400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界でもっとも外国人旅行者が訪れる都市である。",
"title": "概説"
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"text": "イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。",
"title": "概説"
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"text": "「ロンドン」の語源ははっきりとしていない。古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。121年にロンディニウムの記録があり、ローマ・ブリトン文化が起源である。最初期の説は今日では軽視されているジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史である。名称の説の一つにルッドから仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領しKaerludと名付けたとしている。",
"title": "地名"
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"text": "1898年以降は「Londinosと呼ばれる男の所有する土地」を意味するケルト語に語源を求めるのが一般的であったが、この説は否定されている。1998年、言語学者のリチャード・コーツ(英語版)は古ケルト語の(p)lowonidaを語源とする説を提示した。(p)lowonidaとは、「渡るには幅が広すぎる川」を意味し、ロンドンを東西に貫通するテムズ川を指すものとして提案されている。ケルト語の形でLowonidonjonとなり、これが集落名になったとした。しかしながら、この説は大きな修正を必要とした。可能性としてウェールズ語の名称が英語から借用されたものに戻り、基礎から元の名称を再構築して使用することが困難であるという可能性も排除できない。",
"title": "地名"
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"text": "1889年まで\"London\"の名称は公式にはシティ・オブ・ロンドンにのみ適用されていたが、カウンティ・オブ・ロンドン(英語版)を表すものとなり、現在ではグレーター・ロンドンを表すものとなっている。",
"title": "地名"
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"text": "漢字表記は「倫敦」が用いられるが、明治期前後には「龍動」と記載した例もある。現代中国語をピンイン式でアルファベット表記すると、倫敦は「lundun」で、龍動は「longdong」となる。龍動と表記したのは、清国から伝わった外来表記であった可能性がある。",
"title": "地名"
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"text": "ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認される。最初の大きな開拓地はローマ帝国によって43年に創建された。この開拓は17年間続いたが、61年ころブーディカが率いるイケニ族により強襲され焼き討ちされた。また一説には紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。",
"title": "歴史"
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"text": "その次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。",
"title": "歴史"
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"text": "最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている。この橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。樹木学では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。",
"title": "歴史"
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"text": "5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィック(英語版)で知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンやロンドンで、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。フリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた。ヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年にアルフレッド大王がデーン人の指導者であるガスラム(英語版)とウェドモーアの和議を締結するまで続いた。アングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターのオールドウィッチにその名を残している。10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこのころ、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。",
"title": "歴史"
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"text": "11世紀、エドワード懺悔王はウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる。1066年、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は同年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位した。ウィリアム1世はホワイト・タワー(のちのロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した。1097年、ウィリアム2世はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した。12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12 -13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は1100年に1万8,000人、1300年までには10万人ほどにまで成長していた。",
"title": "歴史"
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"text": "14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。1381年、ワット・タイラーの乱が発生した。",
"title": "歴史"
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"text": "テューダー朝の時代、宗教改革にともなうプロテスタントへの移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ。ネーデルラント周辺地域へは未加工のウール生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、大陸ヨーロッパの富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。イタリアや地中海への商業ルートは、通常アントウェルペンまたはアルプス山脈経由であった。海上輸送ではイタリアやドゥブロヴニクの貿易商と同様、ジブラルタル海峡を経由した。1565年のオランダとイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした。1566年、王立取引所が設立された。重商主義は進展し、イギリス東インド会社をはじめとする勅許会社が設立され、貿易は新世界へと拡大した。ロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。1530年の人口は推計で5万人、1605年には22万5,000人に上昇した。",
"title": "歴史"
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"text": "16世紀、ウィリアム・シェイクスピアや同時代に生きたロンドンの劇作家は、イギリス・ルネサンス演劇をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。1605年、ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生した。17世紀初頭や1665 - 1666年にはペストが流行し、10万人または人口の5分の1が死亡した。1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生し、市内の家屋の約85パーセントが焼失した。建築家ロバート・フック指揮のもと、ロンドン再建に10年の歳月を要した。1708年、クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成した。ハノーヴァー朝の時代には、メイフェアをはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。",
"title": "歴史"
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"text": "1762年、ジョージ3世はバッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。18世紀、ロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズ(英語版)が設立された。総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された。ロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた。コーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのにともない、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていた。",
"title": "歴史"
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"text": "1777年のサミュエル・ジョンソンによる言葉を記す。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1831年から1925年ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった。著しく高い人口密度によりコレラが大流行し、1848年に1万4,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。1855年に、首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会(英語版)になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。第二次世界大戦時、ザ・ブリッツをはじめとするドイツ空軍による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "1951年、フェスティバル・オブ・ブリテン(英語版)がサウス・バンクにて開催された。1952年に発生したロンドンスモッグの対応策として、1956年に大気浄化法 (1956)(英語版)が制定され、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている。1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。キングス・ロード、チェルシー、カーナービーストリート(英語版)といった地域ではスウィングロンドン(英語版)といったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割はパンク・ロックの時代に復活し、1965年、ロンドンの都市的地域の拡大にともない、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。1981年のブリクストン暴動(英語版)では、人種差別問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。ピーク時の1939年の推計人口が861万5,245人だったのに対し、1980年代では約680万人に減少していた。ドックランズのカナリー・ワーフ再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港(英語版)やティンバリー港(英語版)に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "1980年代、高潮による北海からの海水の流入をせき止め、洪水を防止するテムズバリア(英語版)が完成した。1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。ミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドーム、ロンドン・アイ、ミレニアム・ブリッジが建設された。2005年、ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された。2012年、第30回オリンピックが開催された。1908年や1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された。",
"title": "歴史"
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"text": "2020年、フランスのエマニュエル・マクロン大統領より、レジオンドヌール勲章を授与される。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "グレーター・ロンドンは、シティ・オブ・ウェストミンスターを含む32の特別区とシティ・オブ・ロンドンにより構成されている。グレーター・ロンドンは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により構成されている。ロンドン市長は行政上の力を有し、ロンドン議会は市長が提案する年度毎の予算の可否や裁定に関して精細に調査する。グレーター・ロンドンの本庁はサザークのシティーホールにあり、現在の市長はサディク・カーンである。市長の法定戦略計画はロンドンプラン(英語版)として公開され、最新のものは2011年に改訂されている。",
"title": "行政"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年にボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に大聖堂(大寺院)がある町(Town)を都市(City)と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院がそれぞれ存在する。一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。",
"title": "行政"
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"tag": "p",
"text": "特別区は一番身近な行政サービスである地区計画や学校、社会福祉援助、地域道路の整備、ゴミ収集に関して責任がある。ゴミ収集のような行政サービスはロンドン清掃事務当局(英語版)等の機関を通じていくつかの特別区ごとにそれぞれ共同で行っている。2009 - 2010年のロンドン議会とグレーター・ロンドンを合わせた歳入歳出規模は220億ポンドで、そのうち147億ポンドは特別区、74億ポンドはグレーター・ロンドンであった。",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "グレーター・ロンドンの治安はロンドン市長公安室(英語版)下のロンドン警視庁により担われている。シティ・オブ・ロンドンは自らの警察機構であるロンドン市警察を有している。イギリス鉄道警察はロンドンのナショナル・レールやロンドン地下鉄に関してその責任を有している。",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ロンドン消防庁はイギリスの消防に関する法律により、ロンドン消防・緊急事態計画局(英語版)のもと、グレーター・ロンドンを管轄する、世界で5番目に大きな消防組織である。救急はロンドン救急サービス(英語版)(LAS)により担われ、無料の救急車サービスでは世界で最大規模である。ロンドン航空救急(英語版)はLASと連携して慈善で運営されている。イギリス沿岸警備隊と王立救命艇協会はテムズ川で運用されている。",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ロンドンはイギリス政府の首都としてウェストミンスター宮殿周辺に官庁が多く集まっている。特にホワイトホール沿い界隈に集中しており、首相官邸のダウニング街10番地も含まれる。イギリス議会は「議会の母(Mother of Parliaments)」と呼ばれ、この愛称は最初にイングランド自体にジョン・ブライトが用いた。議院内閣制のモデルである。",
"title": "行政"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "グレーター・ロンドンは一番上の行政機構で、特別区がそれぞれロンドンをカバーしている。小さい範囲のシティ・オブ・ロンドンはかつてすべての範囲の街区が含まれていたが、都市地域の成長によりシティ・オブ・ロンドン自治体(英語版)により郊外との合体が試みられた。それぞれ異なった目的により「ロンドン」が定義され、かつて法的に議論された。グレーター・ロンドンの40パーセントはロンドン郵便カウンティ(英語版)によりカバーされ、郵便の住所では 'LONDON'の範囲を構成している。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "ロンドンの市外局番は(020)でグレーター・ロンドンと同じように広範囲をカバーし、外側の地区のいくつかは外れるがグレーター・ロンドンの外の地区のいくつかは含まれている。M25モーターウェイの内側が通常、ロンドンとみなされ、グレーター・ロンドンの範囲は変化している (en) 。市街地の拡張は現在、メトロポリタン・グリーンベルト(英語版)により防がれているが境界を越えて市街地は広がっており、グレーター・ロンドン都市的地域と定義が分かれる。超えた範囲は広大なロンドンコミューターベルト(英語版)になっている。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "グレーター・ロンドンはいくつかの目的によってインナー・ロンドンとアウター・ロンドンに分かれている。シティはテムズ川によりノース・ロンドンとサウス・ロンドンに分けられ、形式的にセントラル・ロンドンはその内側にある。ロンドンの中心はもともとチャリングクロスのエレノア・クロス(英語版)でウィンチェスターとトラファルガー広場の結合する部分の近くに位置し、北緯51度30分26秒 西経00度07分39秒 / 北緯51.50722度 西経0.12750度 / 51.50722; -0.12750である。",
"title": "地理"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "シティ・オブ・ロンドンとシティ・オブ・ウェストミンスターはシティステータスを有し、シティ・オブ・ロンドンはグレーター・ロンドンとは別個の典礼カウンティとして残っている。現在のグレーター・ロンドンには、かつてのミドルセックス州、ケント、サリー、エセックス、ハートフォードシャーが編入されている。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの、イングランドやのちのイギリスの首都としての地位は法律や書物には認められない。しかしその地位は、憲法会議を通してイギリスの憲法で実質的な首都として制定されている。12世紀と13世紀にかけて、イングランドの首都は、ウェストミンスター宮殿の開発の進展によりウィンチェスターからロンドンへ王宮が恒久的に移されてから、国家の政治の中心たる首都となった。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "グレーター・ロンドンは1,583平方キロメートル (611 sq mi) の面積があり、人口は2001年現在7,172,036人で人口密度は4542人/km。より広い範囲はロンドン大都市圏またはロンドン大都市圏密集体と呼ばれ面積は 8,382平方キロメートル (3,236 sq mi) で人口は12,653,500人に達し人口密度は1510人/kmである。現代のロンドンはテムズ川河畔に位置する。テムズ川の特徴として、航行可能で、ロンドン市域を南西部から東部にかけ横切っている。テムズ低地(英語版)は氾濫原で周辺部はなだらかな丘陵地である。その中にはパーラメント・ヒル(英語版)やアディントン・ヒル(英語版)、プリムロズ・ヒルが含まれる。テムズ川はかつてはより川幅が広く、水深も浅くて沼地が広がり、満潮時には河岸は通常の5倍にも達していた。南西部のヒースロー空港近辺のテムズ川本流付近の貯水池群と砂利採取場跡はオカヨシガモとハシビロガモの生息地で、2000年にラムサール条約登録地となった。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ヴィクトリア朝以来、テムズ川は広い堤防が築かれ多くのロンドンの支流は現在地下を流れている。テムズ川は潮の流れの影響を受ける川で洪水による被害を受けやすい。この脅威は時間と共にゆっくりと継続的に高い潮汐レベルで増す。これは緩やかに傾いたイギリスの後氷期地殻均衡復元(英語版)による。1974年に脅威を防ぐため10年計画でウーリッジでテムズ川を横切るテムズバリア(英語版)の建設が始まった。バリアは2070年まで機能するように設計され、さらなる拡張や再設計の話し合いがすでに行われている。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "典型的な西岸海洋性気候で、イギリス南部の多くの地域と同様である。日本と比べると暖候期である春から夏の気温が低いため、相対的に秋から冬にかけての季節が長く感じられるが、年間を通してみると温和な気候である。冬は比較的寒いが、1月の気温を平均すると約6°Cで日本の東京や大阪とほぼ同じで緯度の割に寒くない。しかし、日々の変動が大きく、最低気温が8~9°Cとなる日もあれば最高気温が1~2°Cとなることも珍しくない。また冬の日照時間は短く曇りの日が続く。霜が郊外で11月から3月にかけ平均2週間発生する。降雪は通常、4-5回12月から2月にかけ発生し、大雪となっても10cm程度である。3月や4月に雪が降ることは希であるが、2-3年毎に見られる。冬の気温は−4 °C (24.8 °F) 以下や14 °C (57.2 °F) 以上を超えることは滅多に起こらない。比較的近い北極や北欧方面からの寒波の影響を受けることがあり2010年の冬には郊外のノーソルトで−14 °C (6.8 °F)の最低気温を記録し、20年に一度の大雪も見られロンドンの交通機関は大きく混乱した。 夏は日本の夏より気温が低く、盛夏でも夜には15°Cを下回りコートが必要になることがある。時折暑くなることもあるが、30°C以上となることは少ない。ヒートアイランドによりロンドンの中心部では気温が郊外に比べ5 °C (9 °F) も高い。ロンドンの夏の平均気温は 24 °C (75.2 °F) で、年に7日は 30 °C (86.0 °F) を超え2日は32 °C (89.6 °F) を超える。気温が26°C(80 °F)を超えることは6月半ばから8月後半にかけて見られる。大陸からの熱波の影響を受けることがあり、2003年の欧州の猛暑では14日間連続で気温が 30 °C (86.0 °F) を超え、2日連続で 38 °C (100.4 °F) を超えた。数百人が猛暑に関連し死亡している。雨は夏の期間、2日から10日の範囲で見られる。春や秋は季節が混在するため、5-6月や9-10月にも防寒対策が必要となることもある。2011年10月1日に気温が 30 °C (86.0 °F) に達し、2011年4月には28 °C (82.4 °F) に達した。しかしながら、近年ではこの最高気温を記録した月に雪が降ることもある。ロンドンの気温の幅は-11.0°Cから37.9°Cである。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "雨が多い都市という評判がロンドンにあるが、実際にはロンドンの降水量はローマの 834 mm (32.8 in) やボルドーの923 mm (36.3 in) より少ない。降水量自体は少なくとも、降水日数が多いため雨が多いと感じるのである。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、「霧の都」と呼ばれるように年間の霧発生日数が多い。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは広大な市街地が広がっていることから、よくブルームズベリーやメイフェア、ホワイトチャペルのように地区名が使われている。これらはいずれも、非公式な名称で都市の広がりによって吸収された村を映したものや教区、グレーター・ロンドン以前の旧区を表したものである。これらの名称は今でも残って使われており、それぞれの地域を表したり自らの地区を特徴付けているが現在は公式には使われていない。1965年以来、ロンドンは32の自治区に分けられ、これに古くからのシティ・オブ・ロンドンが加わる。シティ・オブ・ロンドンはロンドンの金融の中心で、カナリー・ワーフは近年では再開発が進み新たな金融や商業の中枢になっている。東側はドックランズである。ウェスト・エンドはロンドンのエンターテイメントやショッピングの中心地区で観光客を惹き付けている。ウェスト・ロンドン(英語版)は高級住宅地を含む地区で不動産価格は1000万ポンドにもなる。ケンジントン・アンド・チェルシーの不動産の平均価格は89万4,000ポンドでセントラル・ロンドンのほとんどは同様である。",
"title": "地理"
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{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "イーストエンド・オブ・ロンドンは元のロンドン港(英語版)に近く、高い移民人口で知られロンドンでも最も貧しい地区の一つである。北東部(英語版)はロンドンでは初期に工業開発が行われた地域で現在ではブラウンフィールド(汚染地区)の一部として再開発が行われているテムズゲートウェイ(英語版)にはロンドンリバーサイド(英語版)やローワーリーバレー(英語版)も含まれ、これは2012年のオリンピックとパラリンピックのためのオリンピックパークを含んでいる。",
"title": "地理"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの建築物は様々な年代のものがあり多様である。多くの大きな建物やナショナル・ギャラリーのような公共の建物はポートランド石という白い大理石で造られている。市街地の一部とくに西部や中心部では化粧しっくい(スタッコ)や水しっくいで特徴付けられた建物を見ることが出来る。セントラル・ロンドンでは1666年に起こったロンドン大火以前の建物が若干見られ、古代ローマの跡も僅かに残されている。ロンドン塔やシティに点在したわずかなチューダー様式の建物が残っている。さらにチューダー期(英語版)のイングランドで残っている一番古いチューダー宮殿、ハンプトン・コート宮殿はトマス・ウルジー枢機卿により1515年に建てられた。",
"title": "街並み"
},
{
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"text": "クリストファー・レンの17世紀後半の教会や金融機関の建物、18世紀や19世紀の王立取引所やイングランド銀行、20世紀初期のオールド・ベイリー(英語版)、1960年代のバービカンエステート(英語版)は建築遺産の一部を形成している。1939年に建設されたバタシー発電所はテムズ川の南西側に位置し今では使われていないが、地元のランドマークになり再開発も計画されている。鉄道のターミナル駅ではヴィクトリア建築(ネオ・ゴシック様式)の代表例としてセント・パンクラス駅とパディントン駅が上げられる。ロンドンは地域により建物の密集状態が異なり、セントラル・ロンドンは高い就業人口集積がありインナー・ロンドンは高い住宅密度である。アウター・ロンドンは低い密度になっている。 シティにあるロンドン大火記念塔はロンドン大火を記念し現場の近くに建てられている。マーブル・アーチとウェリントンアーチ(英語版)はシティ・オブ・ウエストミンスターのパーク・レーン(英語版)の北側と南側にそれぞれある。また、アルバート記念碑とサウス・ケンジントン(英語版)のロイヤル・アルバート・ホールは王室とのつながりがある。ネルソン記念柱はホレーショ・ネルソン提督の業績を記念し、トラファルガー広場に据えられロンドン中心の焦点なる場所の一つである。古い建物は主に煉瓦で建てられ、ほとんどは黄色っぽいロンドンストック煉瓦(英語版)か明るいオレンジや赤系統のもので、彫刻やプラスターの繰形が施される。",
"title": "街並み"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "密集地帯のほとんどでは中層や高層のビルが建てられる。ロンドンの高層ビルには30セント・メリー・アクス、タワー42、ブロードゲートタワー(英語版)、ワン・カナダ・スクウェアがあるがこれらはシティ・オブ・ロンドンやカナリーワーフの二つの金融街などで見ることが出来る。高層ビルの建築はセント・ポール大聖堂や他の歴史的な建築物など歴史的な建物の景観を保護するため、特定の場所に制限されている。それでもやはり、多くの超高層ビルがロンドン中心部では見ることができ、イギリスでは一番高い高層ビルであるザ・シャード (310m) も含まれる。他にロンドンを特徴付ける建物には大英図書館や2002年に完成したサザークのシティ・ホールで楕円形の建物は目に付く。以前のミレニアム・ドームは現在は改名され複合娯楽施設The O2として使われている。",
"title": "街並み"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "中心部で一番大きな公園はロンドンの王立公園(英語版)のうちの一つであるハイドパークで、近隣にはセントラル・ロンドンの西側にケンジントン・ガーデンズが、北側にリージェンツ・パークがある。リージェント・パークには、世界で一番古い科学的な動物園であるロンドン動物園があり、近くには観光名所である蝋人形館のマダム・タッソー館がある。ロンドン中心近くには小さな王立公園であるグリーンパーク(英語版)とセント・ジェームズ・パークがある。ハイド・パークは特にロンドンのスポーツのスポットとして有名で、しばしば野外コンサートが行われる。中心部の外へ出ると多くの大きな公園があり、その中には南東部の王立公園のグリニッジパークや、南西部のブッシーパーク(英語版)やリッチモンドパーク、東側のヴィクトリア・パーク(英語版)がある。プリムローズヒルは市街地の北側にあり、リージェントパークからのロンドン中心部のスカイラインの眺めはポピュラーである。いくつかの非公式な、自然なオープンスペースに準じた空間があり、ノース・ロンドンのハムステッド・ヒース(320ヘクタール)も含まれる。ハムステッド・ヒースにあるケンウッド・ハウスは元は邸宅で、夏の期間はクラシック音楽のコンサートが行われるポピュラーな場所で、週末には数多くの人が音楽や景色、花火を楽しんでいる。",
"title": "街並み"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの人口は、19世紀から20世紀初期にかけて産業革命を契機として急速に増加し、19世紀後半から20世紀初期にかけては世界一人口の多い都市であり、1925年までニューヨークの人口を上回っていた。人口のピークは第二次世界大戦が勃発する直前の1939年であり、861万5,245人に達していた。2011年時点のグレーター・ロンドンの公式の人口は817万4,100人であった。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "しかし、ロンドンの市街地はグレーター・ロンドンの境界を越えて広がっており、2011年時点の都市的地域の人口は827万8,251人、都市圏の人口は1370万9,000人に達している。ユーロスタットによれば、ロンドンは欧州域内の都市圏で最も人口が多い。1991-2001年にかけての流入人口は、72万6,000人であった。グレーター・ロンドンの範囲は1,579平方キロメートルであり、人口密度は5,206人/km2である。これは、他のイギリスの地域の人口密度(NUTS内で)の10倍以上である。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "世界の諸都市のうち人口は25番目に多く、都市圏では18番目に多い。世界で4番目に米ドルベースで億万長者が多い地域である。ロンドンは東京やモスクワと並んで物価が高い都市という調査結果もある。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "国家統計局によれば、2011年ベースの統計でロンドンの人口 817万4,100人のうち、59.7%が白人で、白人の英国人は44.9%、白人のアイルランド人は2.2%、他の白人の人々は12.6%であった。南アジア系の人々は18.4%で、インド系はロンドンの人口のうち6.6%、続いてパキスタン系が2.7%、バングラデシュ系が2.7%であった。4.9%は他のアジア系に分類されている。ロンドンの人口のうち10.1%は黒人であり、5.3%は黒人英国人、7.0%はアフリカ系、4.3%はカリビアン系、2.1%は他のグループに分けられている。5%は混血、1.5%は中国系、1.3%がアラブ系、3.4%はその他の民族グループに属している。2011年の人口国勢調査によれば、2001年から2011年の間に、62万人の白人英国人がロンドンから去り、人口の45%に減少し少数派となった。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの一部では、アジア系や黒人の子どもたちが白人の英国人の子どもの数を上回る地域もあり、4-6校の公立学校では数で上回っている。だが、依然として白人の子どもの数は62%で過半数を占め、2009年の統計局による調査では0-15歳の層における白人人口は149万8,700人であった。そのうち、55.7%は英国系、5.6%は他のEU加盟国出身である。2005年1月の調査では、ロンドンでは300以上の言語話者がおり、50以上の非先住のコミュニティには10,000人以上の人々が暮らし、宗教や民族の多様性が見られる。統計局の調査では、ロンドンにおけるイギリス国外の出生者数は2010年現在で265万人と人口の33%を占め、1997年の1,63万人より増加している。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2001年の国勢調査では、グレーター・ロンドンの人口の27.1%はイギリス国外の出生者であった。統計によると20の共通する国の出身者がロンドンに居住している。ドイツ出身者は、親がドイツに駐在したイギリス軍に就いていたものである。公式の統計では、2009年7月から2010年6月にロンドンに居住する国外出身者は、主にインド、ポーランド、アイルランド、バングラデシュ、ナイジェリア出身者であった。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "ロンドン市民の信仰する宗教は、主にキリスト教で58.2%を占めている。これに続き、無宗教が15.8%、イスラム教が8.5%、ヒンドゥー教が4.1%、ユダヤ教が2.1%、シク教が1.5%、仏教が0.8%、その他が0.2%であった。8.7%は2001年の国勢調査で無回答であった。ロンドンでは伝統的にキリスト教が信仰されており、シティ・オブ・ロンドンには多くの教会が所在する。シティのセント・ポール大聖堂やサザーク大聖堂、聖公会は有名であり、カンタベリー大主教はイギリス国教会の大主教である。大主教のランベスパレスがランベス・ロンドン特別区にある。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "王室の重要行事は、セント・ポール大聖堂とウェストミンスター寺院に分けて行われる。ウェストミンスター大聖堂はイングランドおよびウェールズでは最大のカトリック教会の大聖堂である。 イギリス国教会の統計では、教会への参加者は次第に減少している。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ロンドンには、相当数のイスラム教やヒンドゥー教、シク教、ユダヤ教のコミュニティがある。多くのイスラム教徒はタワーハムレッツ・ロンドン特別区やニューアム・ロンドン特別区に居住している。 ロンドン居住のイスラム教徒にとってリージェンツ・パークのロンドン・セントラルモスク(英語版)は最も重要な存在である。オイルマネーによって増加した中東の富裕層は、メイフェアやナイツブリッジを拠点としている。ロンドンは西ヨーロッパ最大のモスクが所在する都市であり、Baitul Futuhのモスクはアフマディーヤムスリムコミュニティのものである。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ヒンドゥー教徒のコミュニティはロンドンの北西部ハーロウ・ロンドン特別区やブレント・ロンドン特別区に存在し、ヨーロッパ最大のヒンドゥー寺院であるネアスデン寺院がある。シク教徒はロンドン東部や西部におり、インド国外では世界最大のシク教の寺院がある。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "イギリスのユダヤ教徒の大半がロンドンに居住し、ユダヤ教徒のコミュニティはスタンフォード・ヒル(英語版)やスタンモア(英語版)、ゴルダーズ・グリーン(英語版)、エッジウェア、ヘンドン(英語版)、ノース・ロンドン(英語版)に存在する。スタンモア・カンノンパークシナゴーグ(英語版)は単一ではヨーロッパ最大のシナゴーグである。",
"title": "人口統計"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "イギリス経済の中心であり、世界有数の経済都市でもある。2014年のロンドン都市圏の総生産は7944億ドルであり、東京都市圏、ニューヨーク都市圏、ロサンゼルス都市圏、ソウル都市圏に次ぐ世界5位の経済規模を有する。日本の民間研究所が2017年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界1位の都市と評価された。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "世界最大級の金融市場の重要拠点として機能しており、2022年の調査によると、ニューヨークに次ぐ世界2位の金融センターである。世界レベルの大企業本社も集積しており、2011年のフォーチュン・グローバル500において、世界で5番目に大企業の本社が集積している都市との評価を受けている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "資本主義経済の中心がイギリスからアメリカ合衆国に移ったことに伴うイギリス経済の相対的低下にもかかわらず、ロンドンは依然としてイギリス連邦や欧州連合を始め、世界経済の中心としての地位を保持する。特に貿易および金融面での影響力は強い。シティでは1694年設立のイングランド銀行を頂点として、相互に密接な連携を保って展開するロンバード・ストリート一帯の市中銀行など各種金融業が発達している。この市場がロンドン金融市場で世界三大金融市場の一角を成し、ロンドン証券取引所は世界屈指の証券取引所の1つに挙げられる。シティのほか、ホルボーン、フィンズベリーにも金融関連会社が多数存在する。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "ロンドンはイギリスの国内総生産 (GDP) の約20%(4460億米ドル、2005年現在)を生み出し、ロンドン・コミューター・ベルト(英語版)域内は欧州最大でイギリスの国内総生産の30%(6690億米ドル、2005年現在)を生み出している。ロンドンは群を抜いた金融センターで、ニューヨークと競う国際的に重要な都市である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "ロンドンにはシティ、ウエストミンスター、カナリー・ワーフ、カムデン & イズリントン、ランベンス & サザークの5つの主要なビジネス地区がある。その重要性はオフィス面積で知ることができる。グレーター・ロンドンのオフィススペースは2700万平方メートルで、シティの800万平方メートルも含む。ロンドンは世界的にも高い賃料のオフィススペースとなっている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "メイフェアや セント・ジェームズ(英語版)の賃料は現在、一番高く1平方フィートあたり年間93ポンドである。ロンドンの最大の産業として金融は残り、イギリスの国際収支統計に大きく貢献している。シティには銀行、仲介業、保険、法律事務所、会計事務所などがある。ロンドンの第2の金融街はシティの東側に開発されたカナリー・ワーフで、HSBCホールディングスやバークレイズの2つ世界的な大銀行の本社やシティグループの欧州・中東・アフリカ本部、世界的な通信社ロイターがある。ロンドンは2009年現在国際通貨取引の36.7%が扱われ、1日平均1兆8500億米ドルが取引される。米ドルはニューヨーク以上に取引され、ユーロは他のヨーロッパの都市とともに取引されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "約32万5,000人がロンドンでは2007年半ばまで金融サービス部門で雇用されていた。ロンドンは世界のどの都市よりも多い480の海外の銀行がある。現在、85%以上(320万人)の就業人口は第三次産業に雇用されている。その世界的な役割から2000年代後半以降の世界金融危機の影響を大きく受けている。シティでは1年以内で約7万人の雇用が失われることが予想されている。シティにはイングランド銀行やロンドン証券取引所、ロイズ保険市場がある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "FTSE100種総合株価指数にリストされる企業の半数以上、欧州の上位500の企業のうちの100社以上がセントラル・ロンドンに本社を置いている。70%を超えるFTSE100の企業がロンドン大都市圏に拠点を置いており、フォーチュン500の企業の75%はロンドンに事務所を置いている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "メディア産業はロンドンでは2番目に競争力がある産業である。BBCは重要な雇用主で、それ以外にもシティ周辺には放送局の本社が集まっている。多くのイギリスの新聞社の新聞がロンドンで編集されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは主要な小売り部門の中心で、非飲食部門では世界のいずれの都市よりも高い売り上げがあり、合わせて642億ポンドの収益を上げた。ロンドン港はイギリスでは2番目に荷物取扱量が多い港で年間4500万トンを扱っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "シティ中心部は、イングランド銀行やマンションハウスと呼ばれる市長公邸、商品・金融取引所のロイヤル・エクスチェンジが面する八叉路である。そこから南東には銀行や商社が立ち並ぶロンバード・ストリートが伸びる。コーンヒル(穀物丘)やポールトリ(家禽)、ミルク、ブレッド、チープサイド(安売り街)などの古くからの街路名や町名が現在も残っている。シティは女王の承認を得ていない唯一の自治体であり、独自の警察を有する。シティ西部のフリート・ストリートには新聞・通信社が集積し、通りの南側にあるテンプルはイギリスの法律家の最大の拠点である。元来テンプル騎士団のイングランド本部であったが、イギリスで最初の法学院が設置され、次世代の公判弁護士を育成する場所となった。付近には他に最高裁判所や公文書館もある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "ウェスト・エンドはシティの西側の地域であり、シティ・オブ・ウェストミンスターを中心とする。ウェストミンスターは国内最高級の住宅群を擁し、一見寂れた地区であっても資産価値は非常に高い。ウェストミンスター寺院やウェストミンスター大聖堂、国会議事堂、バッキンガム宮殿、政府庁舎、国内最大級の商業地区、スコットランドヤード(ロンドン警視庁)、ロンドンの大半の高級ホテル、美術館、博物館がある。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "イースト・エンドは、シティの東端ロンドン塔から東方のリー川までの地域である。アイル・オブ・ドッグズ、ポプラー、マイル・エンドなど古くからの地名が今も残るが、公式には全てタワーハムレッツ区に含まれる。ドック地帯を有し、港としてのロンドンの機能を担う。歴史的には港湾労働者を中心とするスラム街でもあったため、トインビー・ホールのようなスラム改良運動のセルツメントも認められる。かつてはロンドンの最貧地区として知られ、現在はドックランズ、カナリー・ワーフの大規模な再開発地区として注目されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "また、ロンドン自体が巨大な消費市場であるため、商業活動も活発である。ロンドンでは地域ごとに各業種が集中している。例えば、シティの金融業、スミスフィールドの食肉市場、スピタルフィールズおよびコヴェント・ガーデンから移設したナイン・エムルズの両青物市場、ウェスト・エンドのリージェント・ストリート、ボンド・ストリート(英語版)、オックスフォード・ストリートの高級ショッピング街、ハーリーストリートの一流医院、紳士服のオーダーメイドはサヴィル・ロウ(日本語の「背広」の語源の一つとも言われる)、ウェストミンスターの行政機関、ブルームズベリーの教育機関といった具合である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "19世紀から20世紀にかけてロンドンは主要な製造業の中心地で、1960年には150万人を超える工場労働者がいた。製造業は1960年代から劇的に傾き始めた。造船や家電、航空機製造、自動車製造など全ての産業が失われている。この傾向は続いており、ポンダーズの Aesica(以前のメルク・アンド・カンパニー)の製薬は2011年に終了し、ダゲナムのサノフィ・アベンティス(元のMay & Baker)の製薬も2013年に終了予定である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "今日残っている最後の産業プラントは フォード・ダゲハム(英語版)で、車体パネルの主要な生産地で世界最大のディーゼルエンジンの工場である。食品や飲料の製造もブリムスダウン工業団地(英語版)にあるパン製造のWarburtons、チズウィックにあるビール醸造のフラーズビール醸造所、ヘイズ(英語版)にあるコーヒーやチョコレート製造のネスレ、シルバータウン(英語版)にある砂糖、シロップ製造のTate & Lyleがある。ロンドンの製造業の就業人口は全就業人口の2.8%を占めるのみである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの農業はグレーター・ロンドン地域の8.6%を占めるのみで商業的農業に利用され、かなり小規模な事業形態でありほとんどはグレーター・ロンドンの外縁部に近い所で行われている。市街地近くには僅かな都市農園とおよそ3万ヶ所のコミュニティ・ガーデンがある。グレーター・ロンドン地域には135.66平方キロメートル (135,660,000 m) の農地が占めている。ロンドン地域のほぼ全ての農地は成長する文化のための礎である。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "現在、グレーター・ロンドンを構成する多くのエリアは以前は農村か郊外の農地であったが、今でもイーリング・コモン(英語版)やリンカーンズ・イン・フィールズ、シェパーズ・ブッシュ、ワームウッド・スクラブ(英語版)など昔の地名を保っている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1938年、グレーター・ロンドンはイギリスでグリーンベルト (en) の政策が用いられる最初の地域となり、スプロール現象を防止するためメトロポリタン・グリーンベルト(英語版)が導入された。2005年にADASにより行われた農業統計調査によれば 423の借地がロンドンのメトロポリタン・グリーンベルトの一部分を占めており、イギリスの総数の0.25%を占めている。管理されている土地の総計は1万3,608ヘクタールで、半分は貸借されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "10%未満の土地では有機農法の作物栽培に利用され、農業の経済への寄与は多様化した活動を除くと800万ポンド未満である。一方で、ロンドンの農産業は多角化に関わる活動にずっと依存していることが示されており、農業収入の3分の1はそれらに起因し国の平均を超えている。報告書では農業はロンドンの経済にとって重要ではないが、不可欠な役割があると述べている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "報告書では農業は主にロンドン北東部に集中しているが、数値は耕作適地だけが含まれている(周辺のイースト・オブ・イングランドやサウス・イースト・イングランドは穀物栽培が一般的である)。また、畜産業は近年ではインフラの不足(食肉処理場や市場への乏しいアクセス)や都市外縁部への近さなどから減少していると述べられている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "園芸農業は主にテムズ川南部のロンドン東部の限られた場所で行われている。ADASの調査だけでなく、2004年の Farmer's Voiceで実施された調査では農業従事者の多数はより広く厳格に押し付けられたグリーンベルトの規制は多角化の大きな障害と考え (47%)、続いて高いのは資金の不足で (35%)、両方の調査で明らかになったのは欧州連合の共通農業政策は多角化を進めるにあたって、ほとんど障害はないと認識されていることである。ロンドンのグリーンベルトでの農業収益は増加を示しており、1999年には僅か4%のロンドンの農場だけが利益が増加したか維持しただけだが、2008年には27%に増えている。1999年の調査では48%が事業の存続を恐れていたが、2008年には23%であった。グレーター・ロンドン地域での都市農業を後押しする取り組みも推進されている。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "ロンドンには、ロンドン塔、キューガーデン、ウェストミンスター宮殿(聖マーガレット教会を含む)、グリニッジ(グリニッジ天文台跡をグリニッジ子午線が通る)の4つの世界文化遺産が存在する。他の有名なランドマークとしては、バッキンガム宮殿、ロンドン・アイ、ピカデリーサーカス、セント・ポール大聖堂、タワーブリッジ、トラファルガー広場、ウェンブリー・スタジアムがある。多数の博物館、美術館、図書館といった文化施設や、スポーツイベント、文化機関も存在する。大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・モダン、大英図書館、ウィンブルドン選手権、40軒の劇場が軒を連ねるウェスト・エンド・シアターは代表的なものである。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは著名な観光地の一つであり、主要な産業の一つであり2003年に観光関連の産業に雇用されるフルタイムの労働者は350,000人であった。ロンドンを訪れる観光客が1年間に使う費用は全体で150億ポンドで、海外からの観光客は年間1400万人にも上りヨーロッパでは最も人が訪れる都市である。ロンドンでの観光客の延べ宿泊日数は年間2700万泊である。2015年にロンドンで最も観光客が訪れた場所は以下の通り。",
"title": "経済"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "交通の分野はロンドン市長が掲げる主要な4つの管理政策のうちの一つであるが、ロンドンに乗り入れる長距離鉄道に関しては財政的に関知していない。2007年以降、市長はロンドン地下鉄および路線バスに加えて、ロンドン・オーバーグラウンドを構成する複数のローカル路線の管理権限を有する。公共交通機関はロンドン交通局 (TfL) が運営しており、世界屈指の高密度な交通網を形成する。自転車はロンドン周辺でも次第に普及し始めている。ロンドン・サイクリング・キャンペーンは、自転車の利用環境整備のためロビー活動を行っている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1933年、ロンドン地下鉄や路面電車、路線バスといった交通機関の運営組織が統合され、ロンドン旅客輸送局とロンドン交通(英語版)が設立された。ロンドン交通局 (Tfl) は制定法により設立された機関であり、グレーター・ロンドン内の大部分の公共交通機関に対して管理権限を有し、委員会や理事はロンドン市長により任命されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "セントラル・ロンドンでは高密度な公共交通網が機能しているが、郊外では車が一般的である。ロンドンの高速道路には、放射線や環状線が存在する。ロンドン中心部の環状線としては、ロンドン環状線(英語版)がある。近郊の高速道路としては、北環状線のA406道路(英語版)および南環状線のA205道路(英語版)があり、郊外の環状線としてはM25モーターウェイがある。環状線は交通量の著しい数多くの放射線と接続し、またインナー・ロンドンを貫通する高速道路も存在する。M25は世界最長の環状道路であり、195.5 km (121.5 mi) の長さを有する。A1やM1モーターウェイは、エジンバラ、リーズ、ニューカッスル・アポン・タインと各々接続している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1960年代、ロンドン全域を網羅する高速道路の建設計画としてロンドン・リングウェイズ(英語版)が存在したが、大部分は1970年代に中断された。2003年、コンジェスチョン・チャージがロンドン中心部の交通量を減らすため導入された。ロンドン中心部において交通量が著しく多いと指定を受けた区画に流入する場合、僅かな例外を除き、自家用車の場合で1日当たり10ポンドの課金が請求される。コンジェスチョン・チャージの指定区画に居住する運転ドライバーは、指定区画用のシーズンパスを購入し、月ごとに更新している。シーズンパスの購入代金は、区画内を運行する路線バスの運賃より安価に設定されている。ロンドンの交通渋滞は有名であり、特にM25の混雑度は顕著である。ラッシュ時の車の平均速度は 10.6 mph (17.1 km/h) である。当局による当初の予測では、コンジェスチョン・チャージの導入により、1日当たりのピーク時におけるバスや地下鉄といった公共交通機関の利用者数は2万人増加し、交通量は10-15%減少し、道路網の交通の流れを10-15%高め、渋滞は20-30%減少するとしていた。コンジェスチョン・チャージ導入後、歳月を経て、当局自身による発表によれば、平日にロンドン中心部に流入する車の台数は19万5,000台から12万5,000台に減少し、率にして35%減少したとしている。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "世界的にも有名なブラックキャブ (black cab) と呼ばれるロンドンタクシーが市民の足として親しまれている。運転手となるには難関の試験を突破しなければならない。市内道路の半分以上は一方通行であり、時に遠回りせざるを得ない。そのため一見高めに映るロンドンタクシーの運賃は、一方通行と進行方向が同じ場合は日本のタクシー料金と大差なく、一方通行と進行方向が異なる場合は運賃が比較的高くなる。また、営業免許を持たない合法の個人タクシーはミニキャブ (mini cab) と呼ばれ、市民の間ではブラックキャブより運賃が割安という理由でより一般的である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ロンドンバスは世界最大規模の路線バス網を形成し、毎日24時間、8,000台のバス車両を用いて700路線の運行を行い、平日1日当たり600万人が利用している。2003年の路線網全体のトリップ数は15億回であり、地下鉄の乗車回数を上回る身近な交通手段として利用されている。収益としては毎年8億5000万ポンド計上している。ロンドンは車椅子で移動可能な範囲が世界最大とされ、2007年からは音声や映像案内といった視覚障害者に対応した設備導入により、利便性がより向上している。ロンドン市内を縦横に運行する赤い2階建てバス(ダブルデッカー)が世界的に有名であり、安価な市民の足として親しまれている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "旧型の赤い2階建てバスであるルートマスターは2005年12月をもって一般路線から廃止された。この理由として、車掌が同乗する旧型よりもワンマンバスの方が効率が良いのに加え、開け放した乗降口は危険であり、身体障害者にとっても不便だったことが挙げられる。旧型車両はロンドン中心部の観光名所を巡る15番(トラファルガー・スクエア/タワー・ヒル)で一般車両に混じり、夏季土休日の日中に運行されている。現在、後部プラットフォームの使用とアクセシビリティ確保のために3つのドアと2つの乗降階段を備えたニュールートマスターがロンドン中心部で運行されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "トラムリンクは、サウス・ロンドン(英語版)のクロイドンを基点に路線を展開している。3路線・39駅を有し、2008年における年間利用者数は2650万人であった。2008年6月、ロンドン交通局はトラムリンクの管理運営権を完全に所有し、2015年までに5400万ポンドの設備投資を行う予定である。2009年にはトラムの全車両を刷新している。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ロンドンにはイギリス各地や大陸ヨーロッパを結ぶ長距離路線のターミナル駅が方面別に複数存在し、南東部の通勤路線と共に鉄道網の一大拠点となっている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "国が関与する公的企業のネットワーク・レール社は利用者数の多い18の主要駅については直接管理運営しており、この内ロンドンにある駅は次の通りである。北部地方への列車が発着するユーストン駅やセント・パンクラス駅、キングス・クロス駅、東部へのリバプール・ストリート駅やキャノン・ストリート駅、フェンチャーチ・ストリート駅、ロンドン・ブリッジ駅、チャリング・クロス駅、南部へのロンドン・ブリッジ駅やウォータールー駅、ロンドン・ヴィクトリア駅、西部へのパディントン駅である。なお、セント・パンクラス駅はヨーロッパ大陸へ通じる特急列車ユーロスターの発着駅で、パディントン駅はヒースロー空港へ通じるヒースロー・エクスプレスおよびヒースロー・コネクトの発着駅でもある。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "ロンドンにある特定のナショナル・レールの駅はロンドン・ステーション・グループと総称される。グループ外の駅で発券された切符において便宜的に同一箇所として扱われ、券面に「ロンドン・ターミナル」と表記される18駅が対象である。全ての駅がトラベラルカード・ゾーン1に位置し、この内大部分の駅がロンドン市内を取り囲むように置かれ、各駅間は地下鉄で結ばれる。現在、ロンドン・ステーション・グループとして扱われている駅は次の通りである。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "かつての国鉄は解体され、官民協力体制 (Public Private Partnership) の下で委託経営が行われている。線路や駅の保有・維持管理はネットワーク・レール社が行い(民営化から2001年まではレールトラック社、この会社は破綻しネットワーク・レールに引き継がれた)、各路線の列車運行は複数の民間会社が運営する上下分離方式が採用されている。これらの民間会社はナショナル・レールの共通ブランドを用い、国鉄時代から使われている標章を使用しており、民営化以後も乗車券の販売などにおいて一体化された事業が提供されている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "1999年にはパディントン駅付近で列車衝突事故が発生し、さらにその直後にも再び重大事故が度重なるなど、イギリス、特にロンドンの鉄道は大きな政治課題になっている。事故が続発した大きな要因としては株主への利益還元を重視し過ぎたレールトラック社が列車運行に責任を持たず、整備を疎かにしたためとされている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2007年、ユーロスターはロンドンの発着駅を開業以来ウォータールー駅としていたがセント・パンクラス駅に変更した。発着駅変更以前は途中区間で在来線を走行するため、イギリス国内で速度を上げられないという課題があった。そこで専用の高速新線 (CTRL) を建設したことで最高時速約300キロメートルでの運行が可能になり、遅延が常態化していたユーロスターの定時性も向上した。2009年6月からは395形電車を使用したロンドン-ケント州間を運行するイギリス国内の高速鉄道サービスが開始された。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "ロンドン地下鉄は現在ではチューブ \"the Tube\"と呼ばれ、この名称が表す区間は地下深い路線に限られ浅い深さに造られた古い路線とは異なっている。営業距離は上海地下鉄に次いで世界で2番目に長い。1863年に遡る地下鉄システムで270の駅があり、設立当初はいくつかの私営の企業に分かれておりその中には最初の地下電化路線を運営したシティ・サウスロンドン鉄道も含まれる。2013年1月10日には運行開始から150周年を迎えた。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "毎日300万人を超える旅客数があり、路線全体で年間10億人の旅客数がある。2012年の夏のオリンピックに向け70億ポンドを信頼性の向上や混雑の緩和に投資する。ロンドンの公共交通機関は良い状態にあるとされている。世界で最初に開通した地下鉄であるロンドン地下鉄は、世界有数規模である12の路線網を有する。ただし、遅延の常態化が課題として存在する。乗り場への出入りには大型エレベータを設置していることが多いが、一部施設はエスカレーターが木製であるなど老朽化が見られ様々な刷新の計画がある。1987年11月にキングス・クロス駅で発生した火災では31人の犠牲者を出した。2005年7月にはロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄乗客に被害が出た。地下鉄に類似した輸送機関としては、新交通システムであるドックランズ・ライト・レイルウェイ、ロンドン都心の地下を南北に貫通する英国鉄道のテムズリンクが存在する。2007年10月にはロンドンを東西に貫通するクロスレールの建設が決定され、2017年の開通が計画されている。なお、普通運賃で乗ると初乗り料金が4ポンドと非常に高いため、トラベルカードと呼ばれる一日乗車券などの各種割引制度や割引運賃が適用されるオイスターカードを利用する人が多いが、オイスターカードを利用した乗車についても徐々に値上げされている。2012年のオリンピック開催中、地下鉄の1日の旅客数は過去最高の440万人を記録した。通常1日当たりの旅客数は380万人程度である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは世界最大の都市空域における国際航空輸送の中枢である。8つの空港が単語に London の名称が使われているが、",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "の6つの空港が最も交通量が多く一つの都市圏では最大の国際線の旅客数を誇っている。ロンドン・ヒースロー空港はイギリスのフラッグキャリア、ブリティッシュエアウェイズ (BA) の一大拠点空港である。2008年3月に第5ターミナルがヒースロー空港に開業した。計画にあった第3滑走路や第6ターミナルは2010年5月12日に政権により取り消されている。2011年9月に個人用高速輸送システム(新交通システム)が開業し、近くの駐車場と結んでいる。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "同程度の交通量の近距離便や格安航空会社 (LCC) をロンドン南部のウェスト・サセックスにあるロンドン・ガトウィック空港が扱っている。",
"title": "交通"
},
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"paragraph_id": 102,
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"text": "ロンドン・スタンステッド空港はロンドン北東部のエセックスにありライアンエアーがハブ空港としている。ロンドン北部のベッドフォードシャーにはロンドン・ルートン空港がありLCCの近距離便のほとんどが拠点とする。ロンドン・シティ空港はロンドンの主要な空港の中では一番規模が小さく、ビジネストラベラーを対象としフルサービスの短距離定期便とかなりの交通量のビジネスジェットを扱っている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "ロンドン・サウスエンド空港はロンドン東部のエセックスにあり、小規模な地域空港でLCCの近距離便を扱っている。最近では大規模な改良工事計画が行われ新しいターミナルや滑走路の延長、新たな鉄道駅の整備などが行われロンドン都心部との連絡が高速化される。イージージェットが現在拠点としている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 104,
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"text": "日本との間には、日本航空や全日本空輸が東京国際空港から、ブリティッシュ・エアウェイズが東京国際空港や関西国際空港からそれぞれヒースロー空港へ就航している。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 105,
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"text": "ロンドンでは最初のそして唯一のロープウェイは2012年6月に開業したエミレーツ・エア・ライン (Emirates Air Line) またはテムズケーブルカーの名称で知られるものである。ロープウェイはテムズ川を横断し、グリニッジ・ペニンシュラ(英語版)とシティの東側のロイヤル・ドックス(英語版)を結び、ロンドンのオイスターカードのシステムに含まれカードの利用が可能である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 106,
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"text": "ロンドンでサイクリングを楽しむことは21世紀に変わってから復活している。サイクリストは公共交通機関や車などを利用するより安価でより速く楽しむことが出来、2010年7月にバークレイズ・サイクルハイアーと呼ばれるレンタサイクルの制度が導入されて成功し、一般に受け入れられた。2017年6月現在は、スポンサーがサンタンデールに代わり、「サンタンデール・サイクルズ (en) 」という名称で同様のサービスが実施されている。",
"title": "交通"
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{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "かつては世界最大の港であったロンドン港(英語版)は、現在ではイギリスで2位を占めるのみであり、毎年4500万トンの貨物を取り扱う。実際には、ロンドンの貨物の大部分はグレーター・ロンドン域外のティルバリー港(英語版)が担っている。ロンドンではまた、テムズ川を利用した水上バスの運航も頻繁にされておりテムズ・クリッパーズ(英語版)として知られている。20分毎にエンバンクメント・ピア(英語版)とノーズグリニッジ・ピア(英語版)を結んでいる。ウーリッジ・フェリー(英語版)は毎年250万人の旅客を運航し、ノース・サーキュラーロード(英語版)とサウス・サーキュラーロード(英語版)を頻繁に結んでいる。他の運航事業者も通勤客向けや観光客向けの両方でロンドンで運航を行っている。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは高等教育や研究機関の中心で43の大学が集中するヨーロッパ最大の高等教育の一大中心地である。2008-2009年には高等教育を受ける学生数は41万2,000人でこの数はイギリス全体の17%を占め、内訳は学士レベル28万7,000人、大学院レベル11万8,000人である。2008-2009年にロンドンで学んだ留学生は9万7,150人に上りこれはイギリス全体の25%を占める。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "多くの世界をリードする教育機関がロンドンを拠点にしている。2011年のQS World University Rankings (en) では世界でインペリアル・カレッジ・ロンドンは6位、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンは7位、キングス・カレッジ・ロンドンは27位に付けている。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスは教育と調査で世界をリードする社会科学機関と見なされている。ロンドン・ビジネス・スクールは世界で一流のビジネススクールの一つとして考えられ、2010年にMBAの教育課程でフィナンシャル・タイムズから世界最高の評価を得ている。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "ロンドン大学で学ぶ学生は12万5,000人おり、これは通信過程以外の大学ではヨーロッパ最大である。ロンドン大学は単独の大学として存在するものではなく、カレッジ制でそれぞれ別の大学となっており4つの大きな大学であるキングス・カレッジ・ロンドン、クイーン・メアリー・カレッジ、ロイヤル・ホロウェイ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンと多くのより専門的な機関であるバークベック・カレッジ、コートールド・ギャラリー、ゴールドスミス・カレッジ、ギルドホール音楽演劇学校、インスティチュート・オブ・エデュケーション、ロンドン・ビジネス・スクール、ロンドン大学衛生熱帯医学大学院、王立音楽アカデミー、セントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ、王立獣医学校、東洋アフリカ研究学院が含まれる。ロンドン大学を構成するカレッジにはそれぞれ独自の入学試験制度があり、そのいくつかは独自の学位を授与している。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "ロンドン大学以外にも多くの大学がロンドンにはあり、 ブルネル大学(英語版)、シティ大学ロンドン、インペリアル・カレッジ・ロンドン ,キングストン大学、ロンドン・メトロポリタン大学(学生数3万4,000人でロンドン最大の単科大学)、ロンドンサウスバンク大学(英語版)、ミドルセックス大学、ロンドン芸術大学、イースト・ロンドン大学、ウェスト・ロンドン大学、ウエストミンスター大学がある。これに加えてセビリア大学やRegent's College、リッチモンド大学など海外の大学がロンドンにある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "ロンドンには5つの有名な医学部がある。クイーン・メリーカレッジに付属するバーツ医科歯科ロンドン校(英語版)、欧州最大の医学部であるキングスカレッジ医科ロンドン校(英語版)、インペリアルカレッジ医学部(英語版)、UCLメディカルスクール(英語版)で、他にも多くの医療や病院に関連した教育機関がある。また、生物医学研究に関連したイギリスに5つある研究機関のうち3つがロンドンにある。多くのビジネススクールもまたロンドンにはある。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの大半の小学校から中等教育の学校は国立か自治区により管理運営されているが、多くのインデペンデント・スクール(私立学校)や非営利法人のパブリック・スクールがあり、その中にはシティ・オブ・ロンドン・スクール(英語版)、ハーロー校、セントポール校、ユニバーシティ・カレッジ・スクール(英語版)、ウェストミンスター校など歴史ある学校やエリート校が含まれる。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "英国の教育では将来進む道を早い段階で決めるため、世界唯一のアート&デザイン専科寄宿制(ボーディングスクール)インターナショナルスクールロンドン国際芸術高校(ISCA)など特定分野に特科した学校も多く存在する。",
"title": "教育"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "ロンドンのアクセントはずっと以前からコックニーと呼ばれるもので、サウス・イースト・イングランドの方言と多くの点で似通っている。21世紀のロンドナーのアクセントは多くが異なったものとなり、30代以下を含めより共通になっている。一方、コックニーと容認発音、すべての民族アクセントの配列、特にカリビアン系が融合し多文化的なロンドン英語(英語版)を形作っている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "シティ・オブ・ウエストミンスターのウエスト・エンド地区にあるレスター・スクウェア周辺は劇場や初演が行われる映画館が集中しピカデリーサーカスや巨大な電照広告がある。ロンドンの劇場が集中する地区であり、多くの映画館やバーやナイトクラブ、レストラン、ソーホーの中華街、東側にはロイヤル・オペラ・ハウスがある他、様々な専門店がある。ロイヤル・バレエ団、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団、イングリッシュ・ナショナル・オペラはロンドンを拠点とし、ロイヤル・オペラ・ハウスやコロシアム劇場(英語版)、ロイヤル・アルバート・ホールで公演を行い同様に地方公演も行っている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "イズリントン は1マイル (1.6 km) のアッパーストリートでエンジェル(英語版)から北方向に延びている。イギリスのいずれの通りよりもより多くのバーやレストランが林立する。ヨーロッパで最も賑やかなショッピングエリアであるオックスフォード・ストリートは 1マイル (1.6 km) の長さでイギリスでは最長のショッピングストリートである。オックスフォードストリートには数多くの店舗やデパートがあり、世界的に有名なセルフリッジズの旗艦店がある。ナイツブリッジには同様に有名なハロッズがある。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "ロンドンはヴィヴィアン・ウエストウッドやジョン・ガリアーノ、ステラ・マッカートニー、マノロ・ブラニクなど多くのデザイナーが拠点を置いている。ファッションスクールの国際的な中心としてパリやミラノ、ニューヨークなどと並び評判が高い。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは多くの民族的な多様性から料理の幅がかなり広い。バングラデシュレストランはブリックレーン(英語版)に集まっており、中華料理店はソーホーのチャイナタウンに集まっている。これ以外にもインド料理などが知られている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "ロンドンでは多くのイベントも年間を通し行われ、ニューイヤーズデイパレード(英語版)が行われ、花火大会がロンドン・アイで行われる。この祭典は世界で2番目に大規模なストリートパーティーである。ノッティングヒルカーニバル(英語版)が毎年8月のバンクホリデーに開催される。11月に開催されるロード・メイヤーズ・ショー(英語版)では、パレードも含まれ、数世紀にわたる伝統的な行事で、毎年選ばれる新しいロンドン市長が参加し、シティ周辺の通りでは行列が見られる。6月には女王の誕生日を祝うために、イギリスと英連邦の軍によりトゥルーピングザカラー(英語版)が行われる。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "ロンドンは多くの文学の舞台になってきた。ロンドンの文学の中心は古くから丘がちなハムプテッドやブルームズベリー(20世紀初期から)である。街に密接に関連した作家には詳細な日記を付けていたサミュエル・ピープスでロンドン大火など目撃したことを詳述している。チャールズ・ディケンズは霧や雪、ロンドンの通りの掃除人やスリなどの汚れを表現しヴィクトリア朝初期のロンドンの人々の視覚に影響を与えた。ヴァージニア・ウルフは20世紀のモダニズム文学で最も重要な人物の一人と見なされている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "ジェフリー・チョーサーは14世紀後半の『カンタベリー物語』で、ロンドンのサザークからカンタベリー大聖堂までの巡礼の道程を描いている。ウィリアム・シェイクスピアは人生や創作の大部分をロンドンで過ごしている。詩人のベン・ジョンソンもロンドンを拠点にし、『錬金術師』 (en) はロンドンで作られた。1722年にダニエル・デフォーの『ペスト』は1665年のロンドンの大疫病を小説化したものである。 後にロンドンを表現した重要なものは19世紀から20世紀初期にかけてのチャールズ・ディケンズの小説やアーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズである。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "ロンドンを舞台にした映画には『オリヴァ・ツイスト』(1948年)、『ピーター・パン』(1953年)、『マダムと泥棒』(1955年)、『101匹わんちゃん』(1961年)、『メリー・ポピンズ』(1964年)、『欲望』(1966年)、『ロング・グッド・フライデー(英語版)』(1980年)、『秘密と嘘』(1996年)、『ノッティングヒルの恋人』(1999年)、『マッチポイント』(2005年)、『Vフォー・ヴェンデッタ』(2005年)、『スウィーニー・トッド』(2008年)、『ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密』(2014年)がある。連続テレビドラマには『イーストエンダーズ』などがあり、最初にBBCで放送されたのは1985年のことである。ロンドンは特に映画撮影において重要な役割を果たし、有名なスタジオであるイーリング・スタジオがあり、ソーホーはSFXやポストプロダクションのコミュニティセンターである。ワーキング・タイトル・フィルムズはロンドンに拠点を置いている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "ロンドンには数多くの博物館や美術館を含め様々な施設があり、その多くが入場料が無料でメジャーな観光地となっており調査でも役割を果たしている。最初に設立されたのは1753年にブルームズベリーにある大英博物館である。元からある収蔵品には古代の遺物や自然史の見本で国立図書館もあった。現在、博物館は700万点を収蔵している。1824年にナショナルギャラリーが設立されイギリスの西洋絵画のコレクションが収蔵されトラファルガー広場に位置している。19世紀後半、サウスケンジントン(英語版)に文化施設が集まったアルバートポリス(英語版)が開発され、文化や科学の地区となった。ロンドンにはヴィクトリア&アルバート博物館、ロンドン自然史博物館、サイエンス・ミュージアムの3つの主要な国立博物館がある。国立美術館のテート・ブリテンは元はナショナルギャラリーの別館として1897年に設立された。2000年にバンクサイド発電所の跡地にテート・モダンが開館している。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "ロンドンはクラシック音楽やポピュラー音楽の中心であり、世界的な大手であるEMIなどのレコード会社や無数のバンド、ミュージシャン、音楽産業のプロが居る。ロンドンには多くのオーケストラやコンサートホールがあり、バービカン・センター(ロンドン交響楽団の拠点)、カドガンホール(英語版)(ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団)、ロイヤル・アルバート・ホール(BBCプロムス)は良く知られている。ロンドンにはロイヤル・オペラ・ハウスとコロシアム劇場(英語版)の二つのオペラハウスがある。ロイヤル・アルバート・ホールではイギリスで最大のパイプオルガンを見つけることができる。他に重要な楽器は大聖堂や大きな教会で見つけることができる。王立音楽アカデミーや王立音楽大学、ギルドホール音楽演劇学校、トリニティ音楽カレッジなどの音楽学校も立地する。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "ロンドンにはロックやポップ音楽のコンサート会場が多くあり大規模ものではアールズ・コート・エキシビション・センター、ウェンブリー・アリーナ、O2アリーナがあり、中規模な会場も同様に多くありブリクストン・アカデミー、ハマースミス・アポロ、シェパーズ・ブッシュ・エンパイアなどがある。いくつかの音楽祭も開催され、その中にはワイヤレス・フェスティバルはロンドンで行われている。ロンドンには最初のオリジナルのハードロックカフェや、ビートルズがレコーディングし多くのヒット曲を出したアビー・ロード・スタジオがある。1960年代から1980年代にかけてのミュージシャンやグループには、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、クイーン、エルヴィス・コステロ、キャット・スティーヴンス、イアン・デューリー、キンクス、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、エレクトリック・ライト・オーケストラ、マッドネス、ザ・ジャム、スモール・フェイセス、レッド・ツェッペリン、アイアン・メイデン、フリートウッド・マック、ポリス、ザ・キュアー、スクイーズ、シャーデーなどがおり、これらが世界的な流れとなって、ロンドンの通りや振動するリズムからサウンドを得ている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "ロンドンはパンク・ロック発展の地となり、セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ヴィヴィアン・ウエストウッドらがロンドンを拠点としていた。1980年代以降のロンドン出身のミュージシャンには、バナナラマやワム!、エスケイプ・クラブ、ブッシュ、イースト17、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、スパイス・ガールズ、ジャミロクワイ、ザ・リバティーンズ、ベイビーシャンブルズ、ブロック・パーティ、エイミー・ワインハウス、アデル、コールドプレイ、ジョージ・マイケルが含まれている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "ロンドンはまたアーバン・ミュージックの中心である。とりわけUKガラージ、ドラムンベース、ダブステップ、グライムといったジャンルについては、地元のドラムンベースに加えて、海外のヒップホップやレゲエといったジャンルから、この街で進化したものである。BBC 1Xtra(英語版)はブラック・ミュージックの放送局で、イギリスでのアバーン・ミュージックの発展をサポートしている。",
"title": "文化"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "ロンドンでは、夏季オリンピックが1908年大会、1948年大会、2012年大会の3度開催されている。2005年7月に、2012年の夏季オリンピックやパラリンピックの開催都市に選出され、「一つの都市では史上初」となる3度目の夏季オリンピック開催都市となった。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "また、1934年のコモンウェルスゲームズの開催都市でもあった。さらに2017年には世界陸上が開催されている。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "ロンドンで圧倒的にポピュラーなスポーツはサッカーであり、40チーム以上のフットボールリーグのクラブチームがあり、アーセナルFC、チェルシーFC、トッテナム・ホットスパーFC、ウェストハム・ユナイテッドFC、クリスタル・パレスFC、フラムFCなど6つのプレミアリーグのクラブが含まれる。さらに著名なダービーマッチも複数存在しており、ビッグロンドン・ダービーを筆頭に、ノース・ロンドン・ダービーやウェスト・ロンドン・ダービー等が挙げられる。",
"title": "スポーツ"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "1924年から元のウェンブリー・スタジアムはサッカーイングランド代表の本拠地であり、FAカップの決勝や他競技ではラグビーリーグのチャレンジカップなどが行われてきた。 21世紀に入って建てられた新しいウェンブリー・スタジアムは、前にあったスタジアム同様の目的で収容人員は9万人である。",
"title": "スポーツ"
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"paragraph_id": 133,
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"text": "クリケットはロンドンで非常に人気が高いスポーツである。テスト・クリケットで使用されるスタジアムはシティ・オブ・ウェストミンスターのローズ・クリケット・グラウンドとランベス区のジ・オーバルがある。ローズ・クリケット・グラウンドはミドルセックス・カウンティ・クリケット・クラブ(英語版)の本拠地であり、その歴史的重要性から「クリケットの聖地」と言われる。このスタジアムではクリケット・ワールドカップの決勝戦が史上最多の5度開催されている他、名門パブリックスクール同士のイートン・カレッジとハロウスクールの伝統の試合も200年以上行われている。ジ・オーバルはサリー・カウンティ・クリケット・クラブ(英語版)の本拠地であり、1880年に初めて国際試合のテスト・クリケットが行われた。このスタジアムはサッカーにとっても重要な場所であり、イングランド初の国際試合のスコットランド戦やFAカップ決勝戦も行われていた。2003年に従来のクリケットとは異なり2、3時間程度で試合が終了するトゥエンティ20(T20)形式が導入された。この試合形式のT20ワールドカップが2009年にイングランドで開催され、決勝戦はローズ・クリケット・グラウンドで行われた。",
"title": "スポーツ"
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"text": "ロンドンには4つのラグビーユニオンのトップリーグであるプレミアシップのクラブチームロンドン・アイリッシュ、サラセンズ、ロンドン・ワスプス、ハーレクインズがあるが実際に現在ロンドンでプレーしているのはハーレクインズのみで、残りの3チームはグレーター・ロンドンの域外でプレーしている。サラセンズはM25の域内で今もプレーしている。他に2部RFUチャンピオンシップのクラブチームであるロンドン・スコティッシュFCがありホームマッチを行っている。他のロンドンのラグビーユニオンの伝統的なクラブチームにはリッチモンドFC、ロズリンパークFC、ウエストコンブパークRFC(英語版)、ブラックヒースFC、ロンドン・ウェルシュRFCがある。ロンドンには現在、3つのプロのラグビーリーグのクラブチームがある。ロンドン・ブロンコズは2020年シーズンはRFLチャンピオンシップでプレーし、ロンドン北部のハーリンゲイ・ロンドン特別区を拠点とするロンドン・スコーラーズ(英語版)は現在リーグ1(英語版)でプレーする。トゥイッケナム・スタジアムはロンドン南西部にあり、ラグビー専用競技場で収容人員は8万4,000人を擁し現在新しいサウススタンドが完成している。",
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"text": "ロンドンでもっとも世界的に知られたスポーツイベントにはロンドン南西部のマートンのウィンブルドンにあるオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブで毎年行われるウィンブルドン選手権である。他の大きなイベントには春にロンドンマラソンがあり、3万5,000人のランナーがシティ周辺の26.2マイル(42.2km)のコースを走る。陸上競技では夏にIAAFダイヤモンドリーグ・ロンドングランプリが開催される。またザ・ボート・レースがテムズ川のパットニー(英語版)とモルトレーク(英語版)の間で行われる。",
"title": "スポーツ"
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"text": "6大陸、46の場所にロンドンに因んだ名称の場所がある。ロンドンの特別区は独自に世界の地域と姉妹都市の関係を結んでいる。グレーター・ロンドン・オーソリティーが結んでいる姉妹都市は以下の通り。",
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"text": "以下の都市はロンドンと友好都市の関係を結んでいる。",
"title": "対外関係"
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] | ロンドン(London )は、イギリスおよびこれを構成するイングランドの首都。イングランドの9つの地域(リージョン)のひとつ。 イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に相当する地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイル(2.6km2)あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンでは市街地の大部分がコナベーションにより形成されている。 グレーター・ロンドンでは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われ、域内はシティ・オブ・ロンドンと32のロンドン特別区から成る。 | {{Otheruses}}
{{Infobox Settlement
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}}
|image_caption = [[シティ・オブ・ロンドン]]の景観<br />[[タワーブリッジ]]/[[ロンドン・アイ]]<br />[[ウェストミンスター宮殿]]<br />[[カナリー・ワーフ]]
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||population_as_of = 2020年
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|population_total = 9,425,622 <ref name="London Population 2021">{{cite web
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|title = UK Population Estimates
|publisher = World Population Review
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|title = London, United Kingdom Forecast : Weather Underground (weather and elevation at Heathrow Airport)
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|blank1_name = 民族構成<br><small>([[:en:United Kingdom Census 2001|2005年推計]])<ref>{{cite web
|url = http://neighbourhood.statistics.gov.uk/dissemination/LeadTableView.do?a=3&b=276743&c=London&d=13&e=13&g=325264&i=1001x1003x1004&m=0&r=1&s=1201351285750&enc=1&dsFamilyId=1812
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}}
'''ロンドン'''({{lang|en|'''London'''}} {{IPAc-en|audio=En-uk-London.ogg|ˈ|l|ʌ|n|d|ə|n}}('''ランドン'''))は、[[イギリス]]およびこれを構成する[[イングランド]]の[[首都]]。イングランドの9つの[[リージョン (イングランド)|地域(リージョン)]]のひとつ。
[[イギリス]]や[[ヨーロッパ]]域内で最大の[[都市圏]]を形成している。ロンドンは[[テムズ川]]河畔に位置し、2000年前の[[ローマ帝国]]による[[ロンディニウム]]創建が都市の起源である<ref name="london_001">{{cite web
|url = http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Permanent/RomanLondon.htm
|title = Roman
|publisher = The [[:en:Museum of London|Museum of London]]
|accessdate = 7 June 2008
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|archivedate = 2008年6月22日
}}</ref>。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在の[[シティ・オブ・ロンドン]](シティ)に相当する地域にあった。シティの[[:en:London Wall|市街壁]]内の面積は約1[[平方マイル]](2.6km<sup>2</sup>)あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも[[19世紀]]以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている<ref name="mills_140">{{Harvnb|Mills|2001|p=140}}</ref>。ロンドンでは市街地の大部分が[[コナベーション]]により形成されている<ref name="region">{{cite web
|url = http://www.gos.gov.uk/gol/factgol/London/?a=42496
|title = Government Offices for the English Regions, Fact Files: London
|publisher = Office for National Statistics
|accessdate = 4 May 2008
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|archivedate = 2008年1月24日
|deadlinkdate = 2017年9月
}} </ref>。
[[グレーター・ロンドン]]では選挙で選出された[[ロンドン市長]]と[[ロンドン議会]]により統治が行われ<ref name="elcock">{{Cite book
|last = Elcock
|first = Howard
|title = Local Government: Policy and Management in Local Authorities
|publisher = Routledge
|year = 1994
|isbn = 978-0-415-10167-7
|page = 368
|ref = harv
}}</ref><ref name="politics_uk">{{Cite book
|last = Jones
|first = Bill
|coauthors = Kavanagh, Dennis; Moran, Michael; Norton, Philip
|title = Politics UK
|publisher = Pearson Education
|year = 2007
|isbn = 978-1-4058-2411-8
|page = 868
|ref = harv
}}</ref>、域内は[[シティ・オブ・ロンドン]]と32の[[ロンドン特別区]]から成る。
== 概説 ==
[[File:St Paul Cathedral - View from Tate Modern Extension.jpg|thumb|200px|left|[[テート・モダン]]から見た[[都心]]の[[シティ・オブ・ロンドン]]にある[[セント・ポール大聖堂]]]]
ロンドンは最高水準の[[世界都市]]として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力があり<ref>{{cite web
|url = http://www.mori-m-foundation.or.jp/english/research/project/6/pdf/GPCI2009_English.pdf
|title = Global Power City Index 2009
|accessdate = 14 December 2010
|publisher = Institute for Urban Strategies – The Mori Memorial Foundation
}}</ref>「世界一革新的な都市」と呼ばれることもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3071251|title=世界一「革新的な都市」はロンドン、東京は10位|publisher=AFPBB News|date=2015-12-24|accessdate=2020-11-24}}</ref>。また、[[ニューヨーク]]と並び世界をリードする[[金融センター]]でもあり<ref name="Mastercard">{{cite web
|url = http://www.mastercard.com/us/company/en/insights/pdfs/2008/MCWW_WCoC-Report_2008.pdf
|title = Worldwide Centres of Commerce Index 2008
|publisher = Mastercard
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|archivedate = 2008-06-24
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080624211344/http://www.mastercard.com/us/company/en/insights/pdfs/2008/MCWW_WCoC-Report_2008.pdf
|accessdate = 2019-01-04
}}</ref><ref name="Global Financial Centres 10">{{cite web
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|title = Global Financial Centres 10
|publisher = [[:en:Z/Yen|Z/Yen]]
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|archiveurl = https://web.archive.org/web/20171025022031/http://zyen.com/PDF/GFCI%2010.pdf
|accessdate = 2019-01-04
}}</ref><ref name="forbes.com">{{Cite news
|url = http://www.forbes.com/2008/07/15/economic-growth-gdp-biz-cx_jz_0715powercities.html
|title = "World's Most Economically Powerful Cities".
|work = Forbes
|date = 15 July 2008
|accessdate = 3 October 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0LhcwS?url=http://www.forbes.com/2008/07/15/economic-growth-gdp-biz-cx_jz_0715powercities.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、2014年時点の[[域内総生産順リスト|域内総生産]]は世界第5位で、[[欧州]]域内では最大である<ref>{{Cite web|title=Global Metro Monitor|url=https://www.brookings.edu/research/global-metro-monitor/|website=Brookings|date=-001-11-30T00:00:00+00:00|accessdate=2020-02-21|language=en-US|first=Alan Berube, Jesus Leal Trujillo, Tao Ran, and Joseph|last=Parilla}}</ref>。世界的な文化の中心でもある<ref>{{cite news
|url = http://www.independent.co.uk/travel/news-and-advice/london-capital-of-the-world-766661.html
|location = London
|work = The Independent
|first = Simon
|last = Calder
|date = 22 December 2007
}}</ref><ref>{{cite web
|url = http://www.thisislondon.co.uk/news/article-23389580-london-is-the-world-capital-of-the-21st-century-says-new-york.do
|title = London is the world capital of the 21st century... says New York | News
|work = Evening Standard
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|accessdate = 10 February 2012
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091125151618/http://www.thisislondon.co.uk/news/article-23389580-london-is-the-world-capital-of-the-21st-century-says-new-york.do
|archivedate = 2009年11月25日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref>{{cite web
|url = http://www2.lse.ac.uk/newsAndMedia/news/archives/2008/culturecapital.aspx
|title = London is world capital of culture says LSE expert – 2008 – News archive – News – News and media – Home
|publisher = .lse.ac.uk
|accessdate = 10 February 2012
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|archivedate = 2011年11月18日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref>{{cite web |url = http://www.london.gov.uk/get-involved/consultations/current-consultations/cultural-strategy |title = Cultural Strategy | Greater London Authority |publisher = London.gov.uk |date = 6 September 2010 |accessdate = 10 February 2012 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120209210256/http://www.london.gov.uk/get-involved/consultations/current-consultations/cultural-strategy |archivedate = 2012年2月9日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。ロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり<ref>{{cite news
|url = http://www.independent.co.uk/travel/news-and-advice/london-tops-ranking-of-destination-cities-2291794.html
|title = London tops ranking of destination cities|accessdate=12 June 2012
|publisher = The Independent
|date = 1 June 2011
}}</ref>、単一の都市圏としては世界でもっとも[[:en:World's busiest city airport systems by passenger traffic|航空旅客数]]が多い<ref name="capa1">{{cite web
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|title = Beijing to overtake london as world's largest aviation hub. Massive new airport planned
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}}</ref>。欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある<ref name="london2">{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/media/press_releases_mayoral/number-international-students-london-continues-grow
|title = Number of international students in London continues to grow
|accessdate = 27 August 2010
|publisher = Greater London Authority
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|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[2012年]]の[[2012年ロンドンオリンピック|オリンピック]]開催にともない、[[1908年ロンドンオリンピック|1908年]]、[[1948年ロンドンオリンピック|1948年]]に次ぐ3度目の[[近代オリンピック|オリンピック]]開催となり、同一都市としては史上最多となる<ref name="IOC">{{cite web
|url = http://www.olympic.org/media?calendartab = 1&articleid=52922
|title = IOC elects London as the Host City of the Games of the XXX Olympiad in 2012
|date = 6 July 2005
|publisher = [[国際オリンピック委員会]]
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}}</ref>。
ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている<ref name="london_006">{{cite web
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|title = July 2010 Population estimates for UK, England and Wales, Scotland and Northern Ireland
|publisher = Office for National Statistics
|accessdate = 3 July 2011
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}}{{リンク切れ|date=February 2012}}</ref><ref name="largest_city_eu">{{cite web
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|title = The Principal Agglomerations of the World
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|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0g3KOn?url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/i-m/london4.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[2012年]]に[[マスターカード]]が公表した統計によると、ロンドンは世界でもっとも外国人旅行者が訪れる都市である<ref>[http://newsroom.mastercard.com/wp-content/uploads/2012/06/MasterCard_Global_Destination_Cities_Index_2012.pdf MasterCard Global Destination Cities Index 2012]</ref>。
イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない<ref name="london_061"/>。
== 地名 ==
「ロンドン」の語源ははっきりとしていない<ref name="mills_139">{{Harvnb|Mills|2001|p=139}}</ref>。古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。121年に[[ロンディニウム]]の記録があり、[[ローマ・ブリトン文化]]が起源である<ref name="mills_139" />。最初期の説は今日では軽視されている[[ジェフリー・オブ・モンマス]]の[[ブリタニア列王史]]である<ref name="mills_139" />。名称の説の一つに[[ルッド]]から仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領し{{lang|en|''Kaerlud''}}と名付けたとしている<ref name="london_009">{{cite news
|url = http://www.nytimes.com/2001/12/02/books/chapters/02-1st-ackro.html?ex=1225339200&en=b9c2c11ad6e1f435&ei=5070&pagewanted=3
|title = 'London'
|last = Ackroyd
|first = Peter
|work = New York Times
|accessdate = 28 October 2008
|date = 2 December 2001
|isbn = 978-0-7011-7279-4
}}</ref>。
1898年以降は「{{lang|cel|''Londinos''}}と呼ばれる男の所有する土地」を意味するケルト語に語源を求めるのが一般的であったが、この説は否定されている<ref name="mills_139" />。1998年、言語学者の{{仮リンク|リチャード・コーツ|en|Richard Coates}}は古ケルト語の{{lang|cel|(p)lowonida}}を語源とする説を提示した。{{lang|cel|''(p)lowonida''}}とは、「渡るには幅が広すぎる川」を意味し、ロンドンを東西に貫通するテムズ川を指すものとして提案されている。ケルト語の形で{{lang|cel|Lowonidonjon}}となり、これが集落名になったとした<ref name="coates">{{Cite journal
|last = Coates
|first = Richard
|year = 1998
|title = A new explanation of the name of London
|journal = Transactions of the Philological Society
|volume = 96
|issue = 2
|pages = 203–229
|url = http://www.blackwell-synergy.com/doi/pdf/10.1111/1467-968X.00027
|doi = 10.1111/1467-968X.00027
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0UqnAy?url=http://www.blackwell-synergy.com/doi/pdf/10.1111/1467-968X.00027
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。しかしながら、この説は大きな修正を必要とした。可能性として[[ウェールズ語]]の名称が英語から借用されたものに戻り、基礎から元の名称を再構築して使用することが困難であるという可能性も排除できない。
1889年まで{{lang|en|"London"}}の名称は公式には[[シティ・オブ・ロンドン]]にのみ適用されていたが、{{仮リンク|カウンティ・オブ・ロンドン|en|County of London}}を表すものとなり、現在では[[グレーター・ロンドン]]を表すものとなっている<ref name="mills_140" />。
漢字表記は「'''倫敦'''」が用いられるが、明治期前後には「龍動」と記載した例もある<ref>[http://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1008_2.html#story ロンドン(その四)――キングス・コレッジ・スクールとロイヤル・アーセナル 加藤三明(慶應義塾幼稚舎長)] 福澤諭吉 西航紀などに例がある。</ref>。現代中国語をピンイン式でアルファベット表記すると、倫敦は「{{pinyin|lundun}}」で、龍動は「{{pinyin|longdong}}」となる。龍動と表記したのは、清国から伝わった外来表記であった可能性がある。
== 歴史 ==
{{see also|ロンドンの歴史}}
=== 先史時代・古代 ===
[[ファイル:Londinium 400AD.png|thumb|200px|ロンディニウムの範囲]]
ロンドン周辺にはケルト系の[[ブリトン]]の集落跡が点在した形跡が確認される。最初の大きな開拓地は[[ローマ帝国]]によって[[43年]]に創建された<ref name="roman">{{Cite book
|title = Roman London
|last = Perring
|first = Dominic
|year = 1991
|publisher = Routledge
|location = London
|isbn = 978-0-203-23133-3
|page = 1ref = harv
}}</ref>。この開拓は17年間続いたが、[[61年]]ころ[[ブーディカ]]が率いる[[イケニ族]]により強襲され焼き討ちされた<ref name="london_010">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/british/timeline/romanbritain_timeline_noflash.shtml
|title = British History Timeline —Roman Britain
|publisher = British Broadcasting Corporation
|accessdate = 7 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0V1GXn?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/timeline/romanbritain_timeline_noflash.shtml
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。また一説には紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという<ref name="troy">{{Cite book
|title = 縄文日本文明一万五千年史序論
|year = 2003
|publisher = 成甲書房
|location = 東京
|isbn = 4-88086-149-9
|page = 301
|ref = harv
}}</ref>。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。
その次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であった[[コルチェスター]]から取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。
最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。1999年に[[青銅器時代]]の橋が[[ヴォクスホール・ブリッジ]]の北側の砂浜で発見されている<ref>{{cite journal
|last = Denison
|first = Simon
|title = First 'London Bridge' in River Thames at Vauxhall
|journal = British Archaeology
|year = 1999
|month = July
|issue = 46
|url = http://www.britarch.ac.uk/ba/ba46/ba46news.html
|accessdate = 15 April 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0WdLQ0?url=http://www.britarch.ac.uk/ba/ba46/ba46news.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。この橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。[[樹木学]]では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された<ref>{{cite web
|last = Milne
|first = Gustav
|title = London's Oldest Foreshore Structure!
|url = http://www.thamesdiscovery.org/frog-blog/london-s-oldest-find-discovered-at-vauxhall
|work = Frog Blog
|publisher = Thames Discovery Programme
|accessdate = 15 April 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0WtZpl?url=http://www.thamesdiscovery.org/frog-blog/london-s-oldest-find-discovered-at-vauxhall
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。
=== 中世 ===
[[File:Map of London, 1300.svg|thumb|left|1300年頃、[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]の範囲は市街壁内に収まっていた。]]
[[File:Westminster Abbey by Canaletto, 1749.jpg|thumb|right|世界遺産の[[ウエストミンスター寺院]]の絵画 (Canaletto, 1749 A.D.)]]
5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀から[[アングロ・サクソン人]]が{{仮リンク|ルンデンヴィック|en|Anglo-Saxon London}}で知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、これは現在の[[コヴェント・ガーデン]]や[[ストランド (ロンドン)|ロンドン]]で、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。ただし、宗教的な中心地は[[カンタベリー]]であり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。[[フリート川]]の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、[[ヴァイキング]]からの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた<ref name="london_012">{{cite web
|url = http://www.museumoflondon.org.uk/English/Collections/Onlineresources/RWWC/themes/1295/1288
|title = Viking and Danish London
|publisher = The [[:en:Museum of London|Museum of London]]
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080519062500/http://www.museumoflondon.org.uk/English/Collections/Onlineresources/RWWC/themes/1295/1288
|archivedate = 2008年5月19日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[ヴァイキング]]の襲撃は増加の一途をたどり、[[886年]]に[[アルフレッド大王]]が[[デーン人]]の指導者である{{仮リンク|ガスラム|en|Guthrum}}と[[ウェドモーアの和議]]を締結するまで続いた<ref name="london_013">{{cite web
|url = http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Permanent/medieval/Themes/1033/1035/default.htm
|title = Medieval London —Vikings
|publisher = The [[:en:Museum of London|Museum of London]]
|accessdate = 7 June 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080602225909/http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Permanent/medieval/Themes/1033/1035/default.htm
|archivedate = 2008年6月2日
}}</ref>。アングロ・サクソン人のルンデンヴィック''Lundenwic''は「旧市街」を意味するエアルドヴィック''Ealdwic''と改称され、現在の[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]の[[オールドウィッチ]]にその名を残している<ref name="George Hamilton Cunningham 1927 xiii">{{Cite journal
|url = https://books.google.co.jp/books?id=2fIgAAAAMAAJ&redir_esc=y&hl=ja
|page = xiii
|title = London
|author = George Hamilton Cunningham
|year = 1927
|publisher = J. M. Dent & Sons
|ref = harv
}}</ref>。[[10世紀]]、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこのころ、[[ウェセックス]]の伝統的な中心地である[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]との競合にも直面した。
[[11世紀]]、[[エドワード懺悔王]]は[[ウェストミンスター寺院]]を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる<ref name="london_014">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/edward_confessor.shtml
|title = Edward the Confessor (c.1003–1066)
|publisher = British Broadcasting Corporation
|accessdate = 27 September 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0XKDXS?url=http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/edward_confessor.shtml
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[1066年]]、[[ヘイスティングズの戦い]]で勝利し、イングランドを征服した[[ノルマンディ公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ギヨーム2世]]は同年の[[クリスマス]]の日に、[[ウェストミンスター寺院]]で[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として即位した<ref name="london_015">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/british/normans/1066_06.shtml
|title = History – 1066 – King William
|publisher = BBC
|accessdate = 5 May 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0Yen4R?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/normans/1066_06.shtml
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ウィリアム1世はホワイト・タワー(のちの[[ロンドン塔]])をシティの南東に建設し、市民を威圧した<ref name="london_016">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/british/architecture_02.shtml
|title = A History of British Architecture — White Tower
|last = Tinniswood
|first = Adrian
|authorlink = w:Adrian Tinniswood
|publisher = BBC
|accessdate = 5 May 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0ZWxtH?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/architecture_02.shtml
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[1097年]]、[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、[[ウェストミンスター宮殿]]の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した<ref name="london_017">{{cite web
|url = http://www.parliament.uk/about/history/building.cfm
|title = UK Parliament — Parliament: The building
|date = 9 November 2007
|publisher = UK Parliament
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080311032051/http://www.parliament.uk/about/history/building.cfm
|archivedate = 2008年3月11日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_018">{{cite web
|url = http://www.parliament.uk/parliament/guide/palace.htm
|title = Palace of Westminster
|publisher = UK Parliament
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080404171249/http://www.parliament.uk/parliament/guide/palace.htm
|archivedate = 2008年4月4日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[12世紀]]、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12 -[[13世紀]]に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、[[14世紀]]半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は[[1100年]]に1万8,000人、[[1300年]]までには10万人ほどにまで成長していた<ref name="london_019">{{Cite book
|last = Schofield
|first = John
|last2 = Vince
|first2 = Alan
|author2-link= w:Alan Vince
|title = Medieval Towns: The Archaeology of British Towns in Their European Setting
|publisher = Continuum International Publishing Group
|year = 2003
|isbn = 978-0-8264-6002-8
|url = https://books.google.co.jp/books?id=Qu7QLC7g7VgC&pg=PA26&lpg=PA26&dq=london+population+1100+-+1300&redir_esc=y&hl=ja
|page = 26
|ref = harv
}}</ref>。
14世紀半ばには[[ペスト]]が発生し、人口は3分の1程度減少した。[[1381年]]、[[ワット・タイラーの乱]]が発生した<ref name="london_020">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/richard_ii_king.shtml
|title = Richard II (1367–1400)
|publisher = BBC
|accessdate = 12 October 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0aYnXz?url=http://www.bbc.co.uk/history/historic_figures/richard_ii_king.shtml
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 近世 ===
[[ファイル:Great Fire London.jpg|thumb|ロンドン大火]]
[[テューダー朝]]の時代、[[宗教改革]]にともなう[[プロテスタント]]への移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ<ref name="pevsner">Nikolaus Pevsner, ''London I: The Cities of London and Westminster'' rev. edition,1962, Introduction p 48.</ref>。[[ネーデルラント]]周辺地域へは未加工の[[ウール]]生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、[[大陸ヨーロッパ]]の富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。[[イタリア]]や[[地中海]]への商業ルートは、通常[[アントウェルペン]]または[[アルプス山脈]]経由であった。海上輸送ではイタリアや[[ドゥブロヴニク]]の貿易商と同様、[[ジブラルタル海峡]]を経由した。[[1565年]]の[[オランダ]]とイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした<ref>The Queen's Merchants and the Revolt of the Netherlands: The End of the Antwerp Mart, Volume 2, pages 1 and 62-63, George Daniel Ramsay, Manchester University Press ND, 1986. ISBN 978-0-7190-1849-7</ref>。[[1566年]]、[[王立取引所]]が設立された。[[重商主義]]は進展し、[[イギリス東インド会社]]をはじめとする[[勅許会社]]が設立され、貿易は[[新世界]]へと拡大した。ロンドン港は[[北海]]において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。[[1530年]]の人口は推計で5万人、[[1605年]]には22万5,000人に上昇した。
[[16世紀]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]や同時代に生きたロンドンの劇作家は、[[イギリス・ルネサンス演劇]]をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる[[1603年]]まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。[[1605年]]、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の暗殺計画を企てた[[火薬陰謀事件]]が発生した<ref name="london_023">{{Cite book
|title = James I
|last = Durston
|first = Christopher
|year = 1993
|publisher = Routledge
|location = London
|isbn = 978-0-415-07779-8
|page = 59
|ref = harv
}}</ref>。[[17世紀]]初頭や[[1665年|1665]] - [[1666年]]にはペストが流行し<ref name="london_024">{{cite web
|url = http://urbanrim.org.uk/plague%20list.htm
|title = A List of National Epidemics of Plague in England 1348–1665
|publisher = Urbanrim.org.uk
|date = 4 December 2009
|accessdate = 3 May 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5gVUqcycW?url=http://urbanrim.org.uk/plague%20list.htm
|archivedate = 2009年5月4日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、10万人または人口の5分の1が死亡した<ref name="london_025">{{cite web
|url = http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/plague/story.html
|title = Story of the plague
|publisher = Channel 4.
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0bPVKk?url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/plague/story.html
|archivedate = 2011年5月19日
|accessdate = 24 October 2011
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[1666年]]、シティのプディング・レーンにて[[ロンドン大火]]が発生し、市内の家屋の約85パーセントが焼失した<ref name="Samuel Pepys' Diary">{{Cite book
|last = Pepys
|first = Samuel
|authorlink = w:Samuel Pepys
|title = The Diary of Samuel Pepys
|volume = 45: August/September 1666
|date = 2 September 1666
|origyear = 1893
|editor1 = [[Mynors Bright]] (decipherer)
|editor2 = [[Henry B. Wheatley]]
|url = http://www.gutenberg.org/cache/epub/4167/pg4167.html
|ref = harv
|isbn = 978-0-520-22167-3
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0bzHYi?url=http://www.gutenberg.org/cache/epub/4167/pg4167.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。建築家[[ロバート・フック]]指揮のもと<ref name="london_026">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/after_fire_02.shtml
|title = London After the Great Fire: Civil War and Revolution
|last = Schofield J
|month = January
|year = 2001
|publisher = BBC
|accessdate = 28 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0ckJxq?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/after_fire_02.shtml
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_027">{{cite web
|url = http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Special/LondonsBurning/Themes/1405/
|title = Museum of London — Rebuilding after the fire
|publisher = Museum of London
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080201204641/http://www.museumoflondon.org.uk/English/EventsExhibitions/Special/LondonsBurning/Themes/1405/
|archivedate = 2008年2月1日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_028">{{cite book
|url = https://books.google.co.jp/books?id=jX8ZAAAAIAAJ&q=rebuilding+of+london&dq=rebuilding+of+london&redir_esc=y&hl=ja|title=The Rebuilding of London After the Great Fire
|publisher = Thomas Fiddian
|year = 1940
|accessdate = 27 April 2008
}}</ref>、ロンドン再建に10年の歳月を要した。[[1708年]]、[[クリストファー・レン]]の最高傑作である[[セント・ポール大聖堂]]が完成した。[[ハノーヴァー朝]]の時代には、[[メイフェア]]をはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流の[[ドックランズ]]に向かって拡張された。
[[1762年]]、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]は[[バッキンガム宮殿|バッキンガム・ハウス]]を手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。[[18世紀]]、ロンドンの犯罪率は高く、[[1750年]]にはロンドン最初の専業の警察として{{仮リンク|バウストリートランナーズ|en|Bow Street Runners}}<ref>"[http://www.pbs.org/kqed/demonbarber/madding/thieftaker.html Thief Taker, Constable, Police]". Public Broadcasting Service (PBS).</ref>が設立された。総計で200件以上の犯罪に[[死刑]]判決が下され<ref>{{cite news
|last = Jackson
|first = Peter
|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/8181192.stm
|title = Rough justice – Victorian style
|publisher=BBC News
|date=3 August 2009
|accessdate = 13 December 2011
}}</ref>、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが[[絞首刑]]に処された<ref>{{cite news
|author = Monday, 21 Mar. 1960
|url = http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,894775,00.html
|title = National Affairs: Capital punishment: a fading practice
|work=Time
|date=21 March 1960
|accessdate = 13 December 2011
}}</ref>。ロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた<ref>{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/british/victorians/foundling_01.shtml
|title = BBC – History – The Foundling Hospital
|publisher = BBC
|date = 17 February 2011
|accessdate = 13 December 2011
}}</ref>。[[コーヒー・ハウス]]が意見を交わす社交場として流行したのにともない、[[リテラシー]]の向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、[[フリート・ストリート]]は報道機関の中心地となっていた。
[[1777年]]の[[サミュエル・ジョンソン]]による言葉を記す。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」<ref name="london_022">{{cite web
|url = http://www.samueljohnson.com/tiredlon.html
|title = When a man is tired of London, he is tired of life: Samuel Johnson
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0fwREG?url=http://www.samueljohnson.com/tiredlon.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|accessdate = 2019-01-04
|language = en
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
=== 近現代 ===
[[ファイル:LondonBombedWWII_full.jpg|thumb|left|第二次世界大戦時、ドイツによる空襲を受けたロンドン]]
[[1831年|1831]]年から[[1925年]]ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった<ref name="autogenerated1">{{cite web
|url = http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/i-m/london4.html
|title = London: The greatest city
|publisher = Channel4.com
|accessdate = 12 October 2008
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0g3KOn?url=http://www.channel4.com/history/microsites/H/history/i-m/london4.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。著しく高い[[人口密度]]により[[コレラ]]が大流行し<ref>{{cite web
|url = http://www.sciencemuseum.org.uk/broughttolife/themes/publichealth/cholera.aspx
|title = Hidden extras: cholera comes to Victorian London
|publisher = Sciencemuseum.org.uk
|accessdate = 13 December 2011
}}</ref>、[[1848年]]に1万4,000人が死亡、[[1866年]]には6,000人が死亡した。特に、[[1854年]]8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。[[1855年]]に、[[首都建設委員会]]が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークである[[ロンドン地下鉄]]が開通している。首都建設委員会は[[1889年]]に{{仮リンク|ロンドン郡議会|en|London County Council}}になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。[[第二次世界大戦]]時、[[ザ・ブリッツ]]をはじめとする[[ドイツ空軍]]による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の[[1948年]]、[[1948年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]が初代[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]にて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。
[[1951年]]、{{仮リンク|フェスティバル・オブ・ブリテン|en|Festival of Britain}}が[[サウス・バンク (ロンドン)|サウス・バンク]]にて開催された。[[1952年]]に発生した[[ロンドンスモッグ]]の対応策として、[[1956年]]に{{仮リンク|大気浄化法 (1956)|lebel=大気浄化法|en|Clean Air Act 1956}}が制定され、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている<ref>[http://www.telegraph.co.uk/health/healthnews/9427191/London-2012-pollution-alert-as-hot-sunny-weather-brings-asthma-risk.html London 2012: pollution alert as hot sunny weather brings asthma risk]5:02PM BST 25 Jul 2012 telegraph.co.uk</ref>。[[1940年代]]以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くは[[イギリス連邦]]加盟国の出身者である。内訳としては[[ジャマイカ]]、[[インド]]、[[バングラデシュ]]および[[パキスタン]]出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。
主として[[1960年代]]半ば以降、ロンドンは世界的な[[ユースカルチャー]]の中心地となっていった。[[キングス・ロード]]、[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]、{{仮リンク|カーナービーストリート|en|Carnaby Street}}といった地域では{{仮リンク|スウィングロンドン|en|Swinging London}}といったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割は[[パンク・ロック]]の時代に復活し、[[1965年]]、ロンドンの[[都市的地域]]の拡大にともない、管轄範囲を拡大した[[グレーター・ロンドン・カウンシル]]が設立された。[[北アイルランド問題]]に関連し、ロンドンでは[[IRA暫定派]]による爆破事件が発生した。[[1981年]]の{{仮リンク|ブリクストン暴動|en|1981 Brixton riot}}では、[[人種差別]]問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、[[グレーター・ロンドン]]の人口は次第に減少していった。ピーク時の[[1939年]]の推計人口が861万5,245人だったのに対し、[[1980年代]]では約680万人に減少していた。[[ドックランズ]]の[[カナリー・ワーフ]]再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置する{{仮リンク|フェリクストウ港|en|Port of Felixstowe}}や{{仮リンク|ティンバリー港|en|Port of Tilbury}}に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な[[金融センター]]としての役割は増加の一途をたどった。
[[1980年代]]、高潮による[[北海]]からの海水の流入をせき止め、洪水を防止する{{仮リンク|テムズバリア|en|Thames Barrier}}が完成した。[[1986年]]、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。[[2000年]]、グレーター・ロンドンを管轄する[[グレーター・ロンドン・オーソリティー]]が設立された。ミレニアム記念事業の一環として、[[ミレニアム・ドーム]]、[[ロンドン・アイ]]、[[ミレニアム・ブリッジ (ロンドン)|ミレニアム・ブリッジ]]が建設された。[[2005年]]、[[ロンドン同時爆破事件]]が発生し地下鉄車両とバスが爆破された<ref name="london_031">{{Cite journal
|url = http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/uk/05/london_blasts/what_happened/html/default.stm
|title = 7 July Bombings: Overview
|publisher = BBC News
|location = London
|accessdate = 28 April 2008
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5MchR94le?url=http://news.bbc.co.uk/1/shared/spl/hi/uk/05/london_blasts/what_happened/html/default.stm
|archivedate = 2007年2月13日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[2012年]]、[[2012年ロンドンオリンピック|第30回オリンピック]]が開催された。[[ロンドンオリンピック (1908年)|1908年]]や[[ロンドンオリンピック (1948年)|1948年]]に次ぐ3度目の[[近代オリンピック|オリンピック]]開催であり、同一都市としては史上最多となる。
アメリカの[[シンクタンク]]が[[2017年]]に発表した総合的な[[世界都市]]ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された<ref>[http://www.joneslanglasalle.co.jp/japan/ja-jp/Documents/New%20Release/20171023-JLL-DecodingCityPerformance.pdf JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表] JLL 2017年10月25日閲覧。</ref>。
[[2020年]]、[[フランス]]の[[エマニュエル・マクロン]]大統領より、[[レジオンドヌール勲章]]を授与される<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3289183 ロンドン市に仏最高勲章=「ドゴール演説」80周年]AFPBB News 2020年6月19日</ref>。
== 行政 ==
[[ファイル:City.hall.london.arp.jpg|thumb|left|[[シティ・ホール (ロンドン)|シティ・ホール]]]]
[[グレーター・ロンドン]]は、[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]を含む32の特別区と[[シティ・オブ・ロンドン]]により構成されている<ref name="london_032">{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/gla/
|title = About the Greater London Authority
|publisher = London Government
|accessdate = 27 September 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0hYGdz?url=http://www.london.gov.uk/gla/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。グレーター・ロンドンは選挙で選出された[[ロンドン市長]]と[[ロンドン議会]]により構成されている。ロンドン市長は行政上の力を有し、ロンドン議会は市長が提案する年度毎の予算の可否や裁定に関して精細に調査する。グレーター・ロンドンの本庁は[[サザーク]]の[[シティ・ホール (ロンドン)|シティーホール]]にあり、現在の市長は[[サディク・カーン]]である。市長の法定戦略計画は{{仮リンク|ロンドンプラン (イギリス)|label=ロンドンプラン|en|London Plan}}として公開され、最新のものは2011年に改訂されている<ref name="london_plan">{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/priorities/planning/londonplan
|title = The London Plan
|publisher = Greater London Authority
|accessdate = 25 May 2012
|archiveurl = https://webcitation.org/67vG4jMg5?url=http://www.london.gov.uk/priorities/planning/londonplan
|archivedate = 2012年5月25日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。[[1965年]]、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体として[[グレーター・ロンドン・カウンシル]]が発足したが、[[1986年]]に[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところが[[トニー・ブレア|ブレア]]政権下の住民投票により、[[2000年]]にグレーター・ロンドンを管轄する[[グレーター・ロンドン・オーソリティー]]が設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長[[ケン・リヴィングストン]]はロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、[[2008年]]に[[ボリス・ジョンソン]]との選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれる[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に[[大聖堂]](大寺院)がある町({{lang|en|Town}})を都市({{lang|en|City}})と呼称し、シティ・オブ・ロンドンには[[セント・ポール大聖堂]]、シティ・オブ・ウェストミンスターには[[ウェストミンスター寺院]]がそれぞれ存在する。一方、[[サザーク・ロンドン特別区|サザーク]]は大聖堂を有するが、[[16世紀]]からシティではなく特別区を名乗る。
特別区は一番身近な行政サービスである地区計画や学校、[[社会福祉援助技術|社会福祉援助]]、地域道路の整備、ゴミ収集に関して責任がある。ゴミ収集のような行政サービスは{{仮リンク|ロンドン清掃事務当局|en|Waste disposal authorities in London}}等の機関を通じていくつかの特別区ごとにそれぞれ共同で行っている。2009 - 2010年のロンドン議会とグレーター・ロンドンを合わせた歳入歳出規模は220億ポンドで、そのうち147億ポンドは特別区、74億ポンドはグレーター・ロンドンであった<ref>http://www.communities.gov.uk/documents/statistics/pdf/1911067.pdf</ref>。
グレーター・ロンドンの治安は{{仮リンク|ロンドン市長公安室|en|Mayor's Office for Policing and Crime}}下の[[ロンドン警視庁]]により担われている。シティ・オブ・ロンドンは自らの警察機構である[[ロンドン市警察]]を有している<ref name="Policing">{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/gla/policing.jsp
|title = Policing
|publisher = Greater London Authority
|accessdate = 25 August 2009
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080121173357/http://www.london.gov.uk/gla/policing.jsp
|archivedate = 2008年1月21日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[イギリス鉄道警察]]はロンドンの[[ナショナル・レール]]や[[ロンドン地下鉄]]に関してその責任を有している<ref name="BTP">{{cite web
|url = http://www.btp.police.uk/about_us/areas.aspx
|title = Areas
|publisher = British Transport Police
|accessdate = 25 August 2009
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0hdc31?url=http://www.btp.police.uk/about_us/areas.aspx
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[ロンドン消防庁]]はイギリスの消防に関する法律により、{{仮リンク|ロンドン消防・緊急事態計画局|en|London Fire and Emergency Planning Authority}}のもと、グレーター・ロンドンを管轄する、世界で5番目に大きな消防組織である<ref name="LFB">{{cite web
|url = http://www.london-fire.gov.uk/WhoWeAre.asp
|title = Who we are
|publisher = London Fire Brigade
|accessdate = 25 August 2009
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0hzveR?url=http://www.london-fire.gov.uk/WhoWeAre.asp
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。救急は{{仮リンク|ロンドン救急サービス|en|London Ambulance Service}}(LAS)により担われ、無料の救急車サービスでは世界で最大規模である<ref name="LAS">{{cite web
|url = http://www.londonambulance.nhs.uk/about_us.aspx
|title = About us
|publisher = London Ambulance Service NHS Trust
|accessdate = 25 August 2009
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0iCW89?url=http://www.londonambulance.nhs.uk/about_us.aspx
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。{{仮リンク|ロンドン航空救急|en|London Air Ambulance}}はLASと連携して慈善で運営されている。[[イギリス沿岸警備隊]]と[[王立救命艇協会]]はテムズ川で運用されている<ref name="Coastguard">{{cite web
|url = http://www.mcga.gov.uk/c4mca/mcga07-home/aboutus/mcga-online/mcga-sailing-cg66/dops_-_all-cg66-stationlist.htm
|title = Station list
|year = 2007
|publisher = Maritime and Coastguard Agency
|accessdate = 25 August 2009
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0jzXE7?url=http://www.mcga.gov.uk/c4mca/mcga07-home/aboutus/mcga-online/mcga-sailing-cg66/dops_-_all-cg66-stationlist.htm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="Lifeboat">{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/1739401.stm
|title = Thames lifeboat service launched
|date = 2 January 2002
|publisher = BBC News
|accessdate = 25 August 2009
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0kXnz9?url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/1739401.stm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 政府機関 ===
ロンドンは[[イギリス政府]]の首都として[[ウェストミンスター宮殿]]周辺に[[官庁]]が多く集まっている。特に[[ホワイトホール (ロンドン)|ホワイトホール]]沿い界隈に集中しており、首相官邸の[[ダウニング街10番地]]も含まれる<ref name="london_036">{{cite web
|url = http://www.number10.gov.uk/output/Page1.asp
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080510193022/http://www.number10.gov.uk/output/Page1.asp
|archivedate = 2008年5月10日
|title = 10 Downing Street — Official Website
|publisher = 10 Downing Street
|accessdate = 26 April 2008
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。イギリス議会は'''「議会の母({{lang|en|Mother of Parliaments}})」'''と呼ばれ、この愛称は最初にイングランド自体に[[ジョン・ブライト]]が用いた<ref name="london_037">{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/talking_politics/96021.stm
|publisher = BBC
|accessdate = 6 June 2008
|date = 3 June 1998
|title = UK Politics: Talking Politics — The 'Mother of Parliaments'
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0l5vww?url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/talking_politics/96021.stm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[議院内閣制]]のモデルである。<!--法令により多くの他の議会が作られている。→意味が判らない。-->
== 地理 ==
=== 範囲 ===
[[ファイル:London boundaries-da.svg|thumb|left|250px|ロンドンの範囲。濃い緑がグレーター・ロンドン、薄い緑がセントラル・ロンドン、赤い地点がシティ・オブ・ロンドン。M25がグレーター・ロンドンを囲む。]]
[[グレーター・ロンドン]]は一番上の行政機構で、特別区がそれぞれロンドンをカバーしている。小さい範囲の[[シティ・オブ・ロンドン]]はかつてすべての範囲の街区が含まれていたが、都市地域の成長により{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン自治体|en|City of London Corporation}}により郊外との合体が試みられた。それぞれ異なった目的により「ロンドン」が定義され、かつて法的に議論された<ref name="chancery">{{Cite journal
|last=Beavan|first=Charles
|coauthors=Bickersteth, Harry
|title = Reports of Cases in Chancery, Argued and Determined in the Rolls Court
|publisher = Saunders and Benning
|year = 1865
|url = https://books.google.co.jp/books?id=YFYDAAAAQAAJ&redir_esc=y&hl=ja
|ref = harv
}}</ref>。グレーター・ロンドンの40パーセントは{{仮リンク|ロンドン郵便カウンティ|en|London postal district}}によりカバーされ、郵便の住所では {{lang|en|'LONDON'}}の範囲を構成している<ref name="london_042">{{Cite book
|last=Stationery Office
|title=The Inner London Letter Post|publisher=H.M.S.O|year=1980|isbn=978-0-10-251580-0|page=128|ref=harv}}</ref><ref name="map_post">{{Cite book
|title = London Postcode and Administrative Boundaries
|publisher = Geographers' A-Z Map Company
|author = Geographers' A-Z Map Company
|year = 2008
|edition = 6
|isbn = 978-1-84348-592-6
|ref = harv
}}</ref>。
[[File:London, United Kingdom.JPG|thumb|ロンドンの衛星写真]]
[[File:Open street map central london.svg|thumb|セントラル・ロンドンの地図]]
ロンドンの市外局番は(020)でグレーター・ロンドンと同じように広範囲をカバーし、外側の地区のいくつかは外れるがグレーター・ロンドンの外の地区のいくつかは含まれている。M25モーターウェイの内側が通常、ロンドンとみなされ<ref name="london_043">{{Cite journal
|last = Mail
|first = Royal
|title = Address Management Guide
|publisher = Royal Mail
|year = 2004
|ref = harv
}}</ref>、グレーター・ロンドンの範囲は変化している{{enlink|List of Greater London boundary changes|a=on}}<ref name="london_044">{{cite web
|url = http://www.opsi.gov.uk/SI/si1993/Uksi_19930441_en_1.htm
|title = The Essex, Greater London and Hertfordshire (County and London Borough Boundaries) Order
|year = 1993
|publisher = Office of Public Sector Information
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0lyLLA?url=http://www.opsi.gov.uk/SI/si1993/Uksi_19930441_en_1.htm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。市街地の拡張は現在、{{仮リンク|メトロポリタン・グリーンベルト|en|Metropolitan Green Belt}}により防がれているが<ref name="london_040">{{Cite book
|last = Dilys
|first = M Hill
|title = Urban Policy and Politics in Britain
|publisher = St. Martin's Press
|year = 2000
|isbn = 978-0-312-22745-6
|page = 268
|ref = harv
}}</ref>境界を越えて市街地は広がっており、[[グレーター・ロンドン都市的地域]]と定義が分かれる。超えた範囲は広大な{{仮リンク|ロンドンコミューターベルト|en|London commuter belt}}になっている。
グレーター・ロンドンはいくつかの目的によって[[インナー・ロンドン]]と[[アウター・ロンドン]]に分かれている<ref name="london_045">{{cite book
|url = http://www.opsi.gov.uk/RevisedStatutes/Acts/ukpga/1963/cukpga_19630033_en_1
|title = London Government Act 1963
|publisher = Office of Public Sector Information
|accessdate = 6 May 2008
|isbn = 978-0-16-053895-7
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0mVCtM?url=http://www.opsi.gov.uk/RevisedStatutes/Acts/ukpga/1963/cukpga_19630033_en_1
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。シティはテムズ川によりノース・ロンドンとサウス・ロンドンに分けられ、形式的にセントラル・ロンドンはその内側にある。ロンドンの中心はもともと[[チャリングクロス]]の{{仮リンク|エレノア・クロス|en|Eleanor Cross}}で[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]と[[トラファルガー広場]]の結合する部分の近くに位置し、{{Coord|51|30|26|N|00|07|39|W|type:city(7,000,000)_region:GB}}である<ref name="london_039">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/london/content/articles/2005/08/15/charingcross_feature.shtml
|title = London — Features — Where is the Centre of London?
|publisher = BBC
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5msV6aAO0?url=http://www.bbc.co.uk/london/content/articles/2005/08/15/charingcross_feature.shtml
|archivedate = 2010年1月18日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 都市の地位 ===
[[シティ・オブ・ロンドン]]と[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]は[[シティ・ステータス (イギリス)|シティステータス]]を有し、シティ・オブ・ロンドンは[[グレーター・ロンドン]]とは別個の[[イングランドの典礼カウンティ|典礼カウンティ]]として残っている<ref name="london_049">{{cite web
|url = http://www.opsi.gov.uk/acts/acts1997/ukpga_19970023_en_1
|title = Lieutenancies Act 1997
|publisher = OPSI
|accessdate = 7 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0mpHnm?url=http://www.opsi.gov.uk/acts/acts1997/ukpga_19970023_en_1
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。現在のグレーター・ロンドンには、かつての[[ミドルセックス州]]、[[ケント (イングランド)|ケント]]、[[サリー (イングランド)|サリー]]、[[エセックス]]、[[ハートフォードシャー]]が編入されている。
ロンドンの、イングランドやのちのイギリスの首都としての地位は法律や書物には認められない{{#tag:ref|According to the ''Collins English Dictionary'' definition of 'the seat of government',<ref name="london_061">(1994) ''Collins English Dictionary'', Collins Education plc.</ref> London is not the capital of England, as England does not have its own government. According to the ''Oxford English Reference Dictionary'' definition of 'the most important town'<ref name="london_062">''Oxford English Reference Dictionary'', Oxford English.</ref> and many other authorities.<ref name="london_063">"HC 501 0304.PDF" (PDF). Parliament Publications</ref>|group="注釈"}}。しかしその地位は、憲法会議を通して[[イギリスの憲法]]で実質的な首都として制定されている。12世紀と13世紀にかけて、イングランドの首都は、[[ウェストミンスター宮殿]]の開発の進展により[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]からロンドンへ王宮が恒久的に移されてから、国家の政治の中心たる首都となった<ref name="london_060">{{Cite journal
|last = Schofield
|first = John
|month = June
|year = 1999
|title = British Archaeology Issue 45, June 1999
|publisher = British Archaeology
|issue = 45
|issn = 1357-4442
|url = http://www.britarch.ac.uk/BA/ba45/ba45regs.html
|accessdate = 6 May 2008
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0mw1Sn?url=http://www.britarch.ac.uk/ba/ba45/ba45regs.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 地勢 ===
[[File:Primrose Hill Panorama, London - April 2011.jpg|thumb|プリムロズヒル]]
グレーター・ロンドンは{{convert|1583|km2|sqmi}} の面積があり、人口は2001年現在7,172,036人で人口密度は4542人/[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。より広い範囲は[[ロンドン都市圏]]またはロンドン大都市圏密集体と呼ばれ面積は {{convert|8382|km2|sqmi}} で人口は12,653,500人に達し人口密度は1510人/km<sup>2</sup>である<ref>http://www.metropolis.org/sites/default/files/metropolitan_regions/440_027_london_eng.pdf#search='London%20Metropolitan%20Agglomeration' </ref>。現代のロンドンは[[テムズ川]]河畔に位置する。テムズ川の特徴として、航行可能で、ロンドン市域を南西部から東部にかけ横切っている。{{仮リンク|テムズ低地|en|Thames Valley}}は[[氾濫原]]で周辺部はなだらかな丘陵地である。その中には{{仮リンク|パーラメント・ヒル|en|Parliament Hill, London}}や{{仮リンク|アディントン・ヒル|en|Addington Hills}}、[[プリムローズ・ヒル|プリムロズ・ヒル]]が含まれる。テムズ川はかつてはより川幅が広く、水深も浅くて沼地が広がり、満潮時には河岸は通常の5倍にも達していた<ref name="london_065">{{cite book
|url = https://books.google.co.jp/books?id=M9qvtYYhRtAC&pg=PR11&dq=thames+%22iron+age%22+london+wide+geography+shallow+marsh&redir_esc=y&hl=ja
|title = ''London: A History''
|first=Francis|last= Sheppard
|page= 10
|publisher = Google Books
|year = 2000
|isbn = 978-0-19-285369-1
|accessdate = 6 June 2008
}}</ref>。南西部の[[ヒースロー空港]]近辺のテムズ川本流付近の[[貯水池]]群と[[砂利]]採取場跡は[[オカヨシガモ]]と[[ハシビロガモ]]の生息地で、2000年に[[ラムサール条約]]登録地となった<ref>{{Cite web |title=South West London Waterbodies {{!}} Ramsar Sites Information Service |url=https://rsis.ramsar.org/ris/1038 |website=rsis.ramsar.org |access-date=2023-04-07 |date=2000-10-09}}</ref>。
[[ヴィクトリア朝]]以来、テムズ川は広い堤防が築かれ多くのロンドンの支流は現在地下を流れている。テムズ川は潮の流れの影響を受ける川で洪水による被害を受けやすい<ref name="london_066">{{cite web
|url = http://www.environment-agency.gov.uk/yourenv/eff/1190084/natural_forces/flooding/?version=1&lang=_e
|title = Flooding
|publisher = UK [[:en:Environment Agency|Environment Agency]]
|accessdate = 19 June 2006
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060215080725/http://www.environment-agency.gov.uk/yourenv/eff/1190084/natural_forces/flooding/?version=1&lang=_e
|archivedate = 2006年2月15日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。この脅威は時間と共にゆっくりと継続的に高い潮汐レベルで増す。これは緩やかに傾いたイギリスの{{仮リンク|後氷期地殻均衡復元|en|Post-glacial rebound}}による<ref name="london_067">{{cite web
|url = http://www.environment-agency.gov.uk/yourenv/eff/1190084/natural_forces/sealevels/?version=1&lang=_e
|title = "Sea Levels" – UK Environment Agency
|publisher = [[:en:Environment Agency|Environment Agency]]
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080523225152/http://www.environment-agency.gov.uk/yourenv/eff/1190084/natural_forces/sealevels/?version=1&lang=_e
|archivedate = 2008年5月23日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。1974年に脅威を防ぐため10年計画で[[ウーリッジ]]でテムズ川を横切る{{仮リンク|テムズバリア|en|Thames Barrier}}の建設が始まった。バリアは2070年まで機能するように設計され、さらなる拡張や再設計の話し合いがすでに行われている<ref>{{cite news
|first = David
|last = Adam
|url = http://www.guardian.co.uk/environment/2009/mar/31/thames-flood-barrier-london
|title = Thames Barrier gets extra time as London's main flood defence
|work = The Guardian
|location = UK
|date = 31 March 2009
|accessdate = 7 November 2009
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0n91QT?url=http://www.guardian.co.uk/environment/2009/mar/31/thames-flood-barrier-london
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 気候 ===
典型的な[[西岸海洋性気候]]で、イギリス南部の多くの地域と同様である。日本と比べると暖候期である春から夏の気温が低いため、相対的に秋から冬にかけての季節が長く感じられるが、年間を通してみると温和な気候である。冬は比較的寒いが、1月の気温を平均すると約6℃で日本の東京や大阪とほぼ同じで緯度の割に寒くない。しかし、日々の変動が大きく、最低気温が8~9℃となる日もあれば最高気温が1~2℃となることも珍しくない。また冬の日照時間は短く曇りの日が続く。霜が郊外で11月から3月にかけ平均2週間発生する。降雪は通常、4-5回12月から2月にかけ発生し、大雪となっても10cm程度である。3月や4月に雪が降ることは希であるが、2-3年毎に見られる。冬の気温は{{convert|-4|°C|°F|1}} 以下や{{convert|14|°C|°F|1}} 以上を超えることは滅多に起こらない。比較的近い北極や北欧方面からの寒波の影響を受けることがあり2010年の冬には郊外のノーソルトで{{convert|-14|°C|°F|1}}の最低気温を記録し、20年に一度の大雪も見られロンドンの交通機関は大きく混乱した。
夏は日本の夏より気温が低く、盛夏でも夜には15℃を下回りコートが必要になることがある。時折暑くなることもあるが、30℃以上となることは少ない。[[ヒートアイランド]]によりロンドンの中心部では気温が郊外に比べ5 °C (9 °F) も高い。ロンドンの夏の平均気温は {{convert|24|°C|°F|1}} で、年に7日は {{convert|30|°C|°F|1}} を超え2日は{{convert|32|°C|°F|1}} を超える。気温が26℃(80 °F)を超えることは6月半ばから8月後半にかけて見られる。大陸からの熱波の影響を受けることがあり、[[ヨーロッパ熱波 (2003年)|2003年の欧州の猛暑]]では14日間連続で気温が {{convert|30|°C|°F|1}} を超え、2日連続で {{convert|38|°C|°F|1}} を超えた。数百人が猛暑に関連し死亡している。雨は夏の期間、2日から10日の範囲で見られる。春や秋は季節が混在するため、5-6月や9-10月にも防寒対策が必要となることもある。2011年10月1日に気温が {{convert|30|°C|°F|1}} に達し、2011年4月には{{convert|28|°C|°F|1}} に達した。しかしながら、近年ではこの最高気温を記録した月に雪が降ることもある。ロンドンの気温の幅は-11.0℃から37.9℃である。
雨が多い都市という評判がロンドンにあるが、実際にはロンドンの降水量は[[ローマ]]の {{convert|834|mm|in|abbr=on}} や[[ボルドー]]の{{convert|923|mm|in|abbr=on}} より少ない<ref>{{cite web
|url = http://www.theweathernetwork.com
|title = The Weather Network
|accessdate = 20 October 2011
}}</ref>。降水量自体は少なくとも、降水日数が多いため雨が多いと感じるのである。
また、{{要出典範囲|「霧の都」と呼ばれるように|date=2022年9月}}年間の霧発生日数が多い。<!-- 「霧の都」は歴史節でもあったように実際の霧を指すものでなく、スモッグに覆われたロンドンを揶揄する目的で云われる言葉なのでは? -->
{{Weather box|location = ロンドン(1991~2020)
|metric first = yes
|single line = yes
|Jan record high C = 15.4
|Feb record high C = 20.1
|Mar record high C = 22.8
|Apr record high C = 28.5
|May record high C = 31.7
|Jun record high C = 34.0
|Jul record high C = 37.9
|Aug record high C = 37.9
|Sep record high C = 32.8
|Oct record high C = 28.8
|Nov record high C = 18.5
|Dec record high C = 16.4
|year avg record high C = 15.9
|Jan high C = 8.4
|Feb high C = 9.1
|Mar high C = 12.1
|Apr high C = 15.5
|May high C = 18.8
|Jun high C = 22.1
|Jul high C = 24.4
|Aug high C = 24.0
|Sep high C = 20.6
|Oct high C = 16.1
|Nov high C = 11.5
|Dec high C = 8.7
|Jan mean C = 5.7
|Feb mean C = 5.9
|Mar mean C = 8.0
|Apr mean C = 10.5
|May mean C = 13.7
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|Jul mean C = 19.0
|Aug mean C = 18.7
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|Oct mean C = 12.4
|Nov mean C = 8.5
|Dec mean C = 6.1
|year mean C = 11.8
|Jan low C = 3.2
|Feb low C = 3.2
|Mar low C = 4.7
|Apr low C = 6.5
|May low C = 9.4
|Jun low C = 12.4
|Jul low C = 14.5
|Aug low C = 14.5
|Sep low C = 12.0
|Oct low C = 9.3
|Nov low C = 5.8
|Dec low C = 3.6
|year avg record low C = 8.3
|Jan record low C = -10.0
|Feb record low C = -9.0
|Mar record low C = -5.1
|Apr record low C = -2.0
|May record low C = -1.0
|Jun record low C = 4.0
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|Oct record low C = -3.3
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|Dec record low C = -11.0
|Jan precipitation mm = 57.8
|Feb precipitation mm = 43.4
|Mar precipitation mm = 38.3
|Apr precipitation mm = 42.0
|May precipitation mm = 45.5
|Jun precipitation mm = 43.4
|Jul precipitation mm = 45.3
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|Dec precipitation mm = 54.7
|date=2022年7月|year low C=8.3|year high C=15.9}}
=== 地区(2市31区) ===
{|class="toccolours" style="margin:0 auto;background:none"
|style="padding-right:1em"|<ol>
<li>[[シティ・オブ・ロンドン]] †</li>
<li>[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]</li>
<li>[[ケンジントン&チェルシー王立区|ケンジントン・アンド・チェルシー]]王立区</li>
<li>[[ハマースミス・アンド・フラム・ロンドン特別区|ハマースミス・アンド・フラム]]</li>
<li>[[ワンズワース・ロンドン特別区|ワンズワース]]</li>
<li>[[ランベス・ロンドン特別区|ランベス]]</li>
<li>[[サザーク・ロンドン特別区|サザーク]]</li>
<li>[[タワーハムレッツ・ロンドン特別区|タワーハムレッツ]]</li>
<li>[[ハックニー・ロンドン特別区|ハックニー]]</li>
<li>[[イズリントン・ロンドン特別区|イズリントン]]</li>
<li>[[カムデン・ロンドン特別区|カムデン]]</li>
<li>[[ブレント・ロンドン特別区|ブレント]]</li>
<li>[[イーリング・ロンドン特別区|イーリング]]</li>
<li>[[ハウンズロー・ロンドン特別区|ハウンズロー]]</li>
<li>[[リッチモンド・アポン・テムズ・ロンドン特別区|リッチモンド・アポン・テムズ]]</li>
<li>[[キングストン・アポン・テムズ王立特別区|キングストン・アポン・テムズ]]王立区</li>
<li>[[マートン・ロンドン特別区|マートン]]</li>
</ol>
|style="background:#FFF;padding:0 1em" class="toccolours"|[[File:London_boroughs.svg|400px]]
|<ol start="18">
<li>[[サットン・ロンドン特別区|サットン]]</li>
<li>[[クロイドン・ロンドン特別区|クロイドン]]</li>
<li>[[ブロムリー・ロンドン特別区|ブロムリー]]</li>
<li>[[ルイシャム・ロンドン特別区|ルイシャム]]</li>
<li>[[グリニッジ・ロンドン特別区|グリニッジ]]王立区</li>
<li>[[ベクスリー・ロンドン特別区|ベクスリー]]</li>
<li>[[ヘイヴァリング・ロンドン特別区|ヘイヴァリング]]</li>
<li>[[バーキング・アンド・ダゲナム・ロンドン特別区|バーキング・アンド・ダゲナム]]</li>
<li>[[レッドブリッジ・ロンドン特別区|レッドブリッジ]]</li>
<li>[[ニューアム・ロンドン特別区|ニューアム]]</li>
<li>[[ウォルサム・フォレスト・ロンドン特別区|ウォルサム・フォレスト]]</li>
<li>[[ハーリンゲイ・ロンドン特別区|ハーリンゲイ]]</li>
<li>[[インフィールド・ロンドン特別区|インフィールド]]</li>
<li>[[バーネット・ロンドン特別区|バーネット]]</li>
<li>[[ハーロウ・ロンドン特別区|ハーロウ]]</li>
<li>[[ヒリンドン・ロンドン特別区|ヒリンドン]]</li>
</ol>
|}
ロンドンは広大な市街地が広がっていることから、よく[[ブルームズベリー]]や[[メイフェア]]、[[ホワイトチャペル]]のように[[地区]]名が使われている。これらはいずれも、非公式な名称で都市の広がりによって吸収された村を映したものや[[教区]]、グレーター・ロンドン以前の旧区を表したものである。これらの名称は今でも残って使われており、それぞれの地域を表したり自らの地区を特徴付けているが現在は公式には使われていない。1965年以来、ロンドンは32の[[ロンドンの特別区|自治区]]に分けられ、これに古くからの[[シティ・オブ・ロンドン]]が加わる<ref name="london_071">{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/london-life/city-government/boroughs.jsp
|title = London boroughs — London Life, GLA
|publisher = London Government
|accessdate = 3 November 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20071213025156/http://www.london.gov.uk/london-life/city-government/boroughs.jsp
|archivedate = 2007年12月13日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_072">{{Cite book
|last = Dogan
|first = Mattei
|coauthors = John D. Kasarda
|title = The Metropolis Era
|publisher = Sage Publications
|year = 1988
|page = 99
|isbn = 978-0-8039-2603-5
|url = https://books.google.co.jp/books?id=_GFPAAAAMAAJ&q=1965,+32+boroughs+of+london&dq=1965,+32+boroughs+of+london&redir_esc=y&hl=ja
|ref = harv
}}</ref>。シティ・オブ・ロンドンはロンドンの金融の中心で<ref name="london_073">{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/london-life/business-and-jobs/financial-centre.jsp
|title = London as a financial centre
|publisher = Mayor of London
|accessdate = 6 May 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080106051217/http://www.london.gov.uk/london-life/business-and-jobs/financial-centre.jsp
|archivedate = 2008年1月6日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、[[カナリー・ワーフ]]は近年では再開発が進み新たな金融や商業の中枢になっている。東側は[[ドックランズ]]である。[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウェスト・エンド]]はロンドンのエンターテイメントやショッピングの中心地区で観光客を惹き付けている<ref name="london_075">{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/1608619.stm
|title = West End still drawing crowds
|publisher = BBC News
|accessdate = 6 June 2008
|date = 22 October 2001
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0o6fkv?url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/1608619.stm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。{{仮リンク|ウエスト・ロンドン|en|West London (sub-region)|label=ウェスト・ロンドン}}は高級住宅地を含む地区で不動産価格は1000万ポンドにもなる<ref name="london_076">{{cite news
|url = http://www.guardian.co.uk/money/2006/apr/17/tax.g2
|title = Super Rich
|date = 17 April 2006
|publisher = The Guardian Money
|accessdate = 7 June 2008
|location = London
|first = James
|last = Meek
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0ofbib?url=http://www.guardian.co.uk/money/2006/apr/17/tax.g2
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[ケンジントン&チェルシー王立区|ケンジントン・アンド・チェルシー]]の不動産の平均価格は89万4,000ポンドでセントラル・ロンドンのほとんどは同様である<ref name="London's Properties">{{cite web
|url = http://rbkc.gov.uk/Planning/localdevelopmentframework/ldf_hs_appendix_a2.pdf
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080527193654/http://rbkc.gov.uk/Planning/localdevelopmentframework/ldf_hs_appendix_a2.pdf
|archivedate = 2008年5月27日
|format = PDF
|title = Price of Properties.
|publisher = Royal Borough of Kensington and Chelsea
|accessdate = 6 June 2008
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[イーストエンド・オブ・ロンドン]]は元の{{仮リンク|ロンドン港|en|Port of London}}に近く、高い移民人口で知られロンドンでも最も貧しい地区の一つである<ref name="East End">{{cite web
|url = http://msnbc.msn.com/id/8487518/site/newsweek/
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060829024354/http://msnbc.msn.com/id/8487518/site/newsweek/
|archivedate = 2006年8月29日
|title = Tomorrow's East End
|publisher = News Week
|accessdate = 16 August 2007
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。{{仮リンク|ロンドン北東部|label=北東部|en|North East (London sub region)}}はロンドンでは初期に工業開発が行われた地域で現在では[[ブラウンフィールド]](汚染地区)の一部として再開発が行われている{{仮リンク|テムズゲートウェイ|en|Thames Gateway}}には{{仮リンク|ロンドンリバーサイド|en|London Riverside}}や{{仮リンク|ローワーリーバレー|en|Lower Lea Valley}}も含まれ、これは2012年のオリンピックとパラリンピックのための[[オリンピック・パーク (ロンドン)|オリンピックパーク]]を含んでいる<ref name="East End" />。
== 街並み ==
{{wide image|London 360° Panorama from the London Eye.jpg|2500px|[[ロンドン・アイ]]からのロンドンのパノラマ}}
{{wide image|City Point view panorama.jpg|1200px|シティ・オブ・ロンドンとカナリー・ワーフのそれぞれの高層ビル群とザ・シャードなどロンドン中心部のパノラマ。2012年6月}}
=== 建物 ===
[[ファイル:30 St Mary Axe from Leadenhall Street.jpg|thumb|left|upright|30セント・メリー・アクス]]
ロンドンの建築物は様々な年代のものがあり多様である。多くの大きな建物や[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]のような公共の建物は[[ポートランド石]]という白い[[大理石]]で造られている。市街地の一部とくに西部や中心部では[[化粧しっくい]](スタッコ)や水しっくいで特徴付けられた建物を見ることが出来る。セントラル・ロンドンでは1666年に起こった[[ロンドン大火]]以前の建物が若干見られ、古代ローマの跡も僅かに残されている。[[ロンドン塔]]やシティに点在したわずかな[[チューダー様式]]の建物が残っている。さらに{{仮リンク|チューダー期|en|Tudor period}}のイングランドで残っている一番古いチューダー宮殿、[[ハンプトン・コート宮殿]]は[[トマス・ウルジー]][[枢機卿]]により1515年に建てられた<ref>{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/history/british/tudors/hampton_court_01.shtml
|title = History – British History in depth: Hampton Court: The Lost Palace
|publisher = BBC
|date = 17 February 2011
|accessdate = 23 March 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0pDL3i?url=http://www.bbc.co.uk/history/british/tudors/hampton_court_01.shtml
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[クリストファー・レン]]の17世紀後半の教会や金融機関の建物、18世紀や19世紀の[[王立取引所]]や[[イングランド銀行]]、20世紀初期の{{仮リンク|オールド・ベイリー (裁判所)|en|Old Bailey|label=オールド・ベイリー}}、1960年代の{{仮リンク|バービカンエステート|en|Barbican Estate}}は建築遺産の一部を形成している。1939年に建設された[[バタシー発電所]]はテムズ川の南西側に位置し今では使われていないが、地元のランドマークになり再開発も計画されている。鉄道のターミナル駅では[[ヴィクトリア建築]](ネオ・ゴシック様式)の代表例として[[セント・パンクラス駅]]と[[パディントン駅]]が上げられる<ref name="london_078">{{Cite journal
|url = http://www.greatbuildings.com/buildings/Paddington_Station.html
|title = Paddington Station.
|publisher = Great Buildings
|accessdate = 2008-06-06
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0pwi86?url=http://www.greatbuildings.com/buildings/Paddington_Station.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドンは地域により建物の密集状態が異なり、セントラル・ロンドンは高い就業人口集積がありインナー・ロンドンは高い住宅密度である。アウター・ロンドンは低い密度になっている。
シティにある[[ロンドン大火記念塔]]はロンドン大火を記念し現場の近くに建てられている。[[マーブル・アーチ]]と{{仮リンク|ウェリントンアーチ|en|Wellington Arch}}はシティ・オブ・ウエストミンスターの{{仮リンク|パーク・レーン|en|Park Lane (road)}}の北側と南側にそれぞれある。また、[[アルバート記念碑]]と{{仮リンク|サウス・ケンジントン|en|South Kensington}}の[[ロイヤル・アルバート・ホール]]は王室とのつながりがある。[[ネルソン記念柱]]は[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]提督の業績を記念し、[[トラファルガー広場]]に据えられロンドン中心の焦点なる場所の一つである。古い建物は主に煉瓦で建てられ、ほとんどは黄色っぽい{{仮リンク|ロンドンストック煉瓦|en|London stock brick}}か明るいオレンジや赤系統のもので、彫刻やプラスターの[[繰形]]が施される<ref name="london_077">{{cite news
|url = http://www.telegraph.co.uk/property/main.jhtml?view=DETAILS&grid=A1&xml=/property/2008/03/27/lpgreen127.xml
|title = Eco homes: Wooden it be lovely... ?
|publisher = Telegraph Media Group Limited
|accessdate = 12 October 2008
|location = London
|first = Sarah
|last = Lonsdale
|date = 27 March 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0rvzUL?url=http://www.telegraph.co.uk/property/main.jhtml?view=DETAILS
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[ファイル:Buckingham Palace, London - April 2009.jpg|right|thumb|[[バッキンガム宮殿]]|alt=]]
密集地帯のほとんどでは中層や高層のビルが建てられる。ロンドンの高層ビルには[[30セント・メリー・アクス]]、[[タワー42]]、{{仮リンク|ブロードゲートタワー|en|Broadgate Tower}}、[[ワン・カナダ・スクウェア]]があるがこれらは[[シティ・オブ・ロンドン]]や[[カナリーワーフ]]の二つの金融街などで見ることが出来る。高層ビルの建築は[[セント・ポール大聖堂]]や他の歴史的な建築物など歴史的な建物の景観を保護するため、特定の場所に制限されている。それでもやはり、多くの超高層ビルがロンドン中心部では見ることができ、イギリスでは一番高い高層ビルである[[ザ・シャード]] (310m) も含まれる。他にロンドンを特徴付ける建物には[[大英図書館]]や2002年に完成したサザークの[[シティ・ホール (ロンドン)|シティ・ホール]]で楕円形の建物は目に付く<ref name="london_079">{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2129199.stm
|title = Inside London's new 'glass egg'
|date = 16 July 2002
|publisher = British Broadcasting Corporation
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0sZ57q?url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/2129199.stm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。以前の[[ミレニアム・ドーム]]は現在は改名され複合娯楽施設[[The O2]]として使われている。
=== 公園・庭園 ===
[[File:Aerial view of Hyde Park.jpg|thumb|left|ハイドパーク俯瞰]]
中心部で一番大きな公園は{{仮リンク|ロンドンの王立公園|en|The Royal Parks}}のうちの一つである[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイドパーク]]で、近隣にはセントラル・ロンドンの西側に[[ケンジントン・ガーデンズ]]が、北側に[[リージェンツ・パーク]]がある<ref name="london_080">{{cite web
|url = http://www.royalparks.org.uk/parks/kensington_gardens/
|title = Kensington Gardens
|year = 2008
|publisher = The Royal Parks
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0tndiN?url=http://www.royalparks.org.uk/parks/kensington_gardens/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。リージェント・パークには、世界で一番古い科学的な動物園である[[ロンドン動物園]]があり、近くには観光名所である[[蝋人形]]館の[[マダム・タッソー館]]がある<ref name="london_081">{{cite web
|url = http://www.madametussauds.com/London/About.aspx
|title = Madame Tussauds — Official website
|publisher = Madame Tussauds
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0uQJ4x?url=http://www.madametussauds.com/London/About.aspx
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_082">{{cite web
|url = http://www.tourist-information-uk.com/madame-tussauds.htm
|title = Madame Tussauds — Tourist Information
|publisher = Tourist Information UK
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0v6PMD?url=http://www.tourist-information-uk.com/madame-tussauds.htm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドン中心近くには小さな王立公園である{{仮リンク|グリーンパーク (ロンドン)|label=グリーンパーク|en|Green Park}}と[[セント・ジェームズ・パーク (ロンドン)|セント・ジェームズ・パーク]]がある<ref name="london_083">{{cite web
|url = http://www.royalparks.org.uk/parks/green_park/
|title = Green Park
|year = 2008
|publisher = The Royal Parks
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5nE6fuYvF?url=http://www.royalparks.org.uk/parks/green_park/
|archivedate = 2010年2月1日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ハイド・パークは特にロンドンのスポーツのスポットとして有名で、しばしば野外コンサートが行われる。中心部の外へ出ると多くの大きな公園があり、その中には南東部の王立公園の[[グリニッジパーク]]<ref name="london_170">{{cite web
|url = http://www.royalparks.org.uk/parks/greenwich_park/
|title = Greenwich Park
|year = 2008
|publisher = The Royal Parks
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0w5wlZ?url=http://www.royalparks.org.uk/parks/greenwich_park/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>や、南西部の{{仮リンク|ブッシーパーク|en|Bushy Park}}や[[リッチモンド公園|リッチモンドパーク]]<ref name="london_084">{{cite web
|url = http://www.royalparks.org.uk/parks/bushy_park/
|title = Bushy Park
|year = 2008
|publisher = The Royal Parks
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0wb1mJ?url=http://www.royalparks.org.uk/parks/bushy_park/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_085">{{cite web
|url = http://www.royalparks.org.uk/parks/richmond_park/
|title = Richmond Park
|year = 2008
|publisher = The Royal Parks
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0x5bB5?url=http://www.royalparks.org.uk/parks/richmond_park/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、東側の{{仮リンク|ヴィクトリア・パーク (ロンドン)|label=ヴィクトリア・パーク|en|Victoria Park, London}}がある。[[プリムローズ・ヒル|プリムローズヒル]]は市街地の北側にあり、リージェントパークからのロンドン中心部の[[スカイライン (風景)|スカイライン]]の眺めはポピュラーである。いくつかの非公式な、自然なオープンスペースに準じた空間があり、ノース・ロンドンの[[ハムステッド・ヒース]](320ヘクタール)も含まれる<ref>{{cite web
|url = http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/LGNL_Services/Environment_and_planning/Parks_and_open_spaces/Hampstead_Heath/
|title = City of London Corporation Hampstead Heath
|publisher = City of London Corporation
|accessdate = 19 February 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0xBire?url=http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/LGNL_Services/Environment_and_planning/Parks_and_open_spaces/Hampstead_Heath/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ハムステッド・ヒースにある[[ケンウッド・ハウス]]は元は邸宅で、夏の期間はクラシック音楽のコンサートが行われるポピュラーな場所で、週末には数多くの人が音楽や景色、花火を楽しんでいる<ref name="london_086">{{cite web
|url = http://www.english-heritage.org.uk/server/show/nav.00100200800k00800f
|title = Kenwood House
|publisher = English Heritage
|accessdate = 26 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0xs5EE?url=http://www.english-heritage.org.uk/server/show/nav.00100200800k00800f
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
== 人口統計 ==
ロンドンの人口は、[[19世紀]]から[[20世紀]]初期にかけて[[産業革命]]を契機として急速に増加し、19世紀後半から20世紀初期にかけては世界一人口の多い都市であり、[[1925年]]まで[[ニューヨーク]]の人口を上回っていた。人口のピークは[[第二次世界大戦]]が勃発する直前の[[1939年]]であり、861万5,245人に達していた。[[2011年]]時点の[[グレーター・ロンドン]]の公式の人口は817万4,100人であった<ref>http://www.ons.gov.uk/ons/rel/mro/news-release/census-result-shows-increase-in-population-of-london-as-it-tops-8-million/censuslondonnr0712.html United Kingdom Census 2011 estimates</ref>。
しかし、ロンドンの市街地は[[グレーター・ロンドン]]の境界を越えて広がっており、2011年時点の[[都市的地域]]の人口は827万8,251人、[[都市圏]]の人口は1370万9,000人に達している。[[ユーロスタット]]によれば、ロンドンは欧州域内の都市圏で最も人口が多い。1991-2001年にかけての流入人口は、72万6,000人であった<ref name="Immigration">{{cite news
|url = http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article379434.ece
|title = Immigration rise increases segregation in British cities
|last = Leppard
|first = David
|date = 10 April 2005
|work = The Times
|accessdate = 8 August 2009
|location = London
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0yPigt?url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article379434.ece
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。グレーター・ロンドンの範囲は1,579平方キロメートルであり、人口密度は5,206人/km2である。これは、他のイギリスの地域の人口密度([[地域統計分類単位|NUTS]]内で)の10倍以上である<ref>[http://www.ons.gov.uk/ons/rel/regional-trends/region-and-country-profiles/key-statistics-and-profiles---august-2012/key-statistics---london--august-2012.html Regional Profiles - Key Statistics - London, August 2012] Office for National Stastics</ref>。
世界の諸都市のうち人口は25番目に多く、都市圏では18番目に多い。世界で4番目に米ドルベースで億万長者が多い地域である。<ref name="london_088">{{cite news
|url = http://www.forbes.com/2007/03/07/billionaires-worlds-richest_07billionaires_cz_lk_af_0308billie_land.html
|title = Forbes Magazine list of billionaires.
|work = Forbes
|accessdate = 6 June 2008
|date = 8 March 2007
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0yVjoW?url=http://www.forbes.com/2007/03/07/billionaires-worlds-richest_07billionaires_cz_lk_af_0308billie_land.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>ロンドンは東京やモスクワと並んで物価が高い都市という調査結果もある<ref name="london_089">{{cite news
|url = http://money.cnn.com/2004/06/11/pf/costofliving/
|title = CNN Money World's Most Expensive Cities 2004.
|publisher = CNN
|accessdate = 16 August 2007
|date = 11 June 2004
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0ygZWg?url=http://money.cnn.com/2004/06/11/pf/costofliving/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 民族 ===
{{bar box
|title = 2011年 ロンドンの民族人口割合<ref name="名前なし-1">[[:en:Ethnic_groups_in_London#cite_note-2]]</ref>
|titlebar = #ddd
|left1 = 民族グループ
|right1 = 人口割合
|float = left
|bars =
{{bar percent|[[白人]]|Orange|59.7}}
{{bar percent|[[白人の英国人]]|Blue|44.9}}
{{bar percent|白人のアイルランド人|Green|2.2}}
{{bar percent|[[その他の白人]]|Red|12.6}}
{{bar percent|[[黒人英国人]]|violet|5.3}}
{{bar percent|[[アフリカ系]]|Blue|7}}
{{bar percent|[[カリビアン系]]|yellow|4.9}}
{{bar percent|[[その他の黒人]]|Green|2.1}}
{{bar percent|[[南アジア系]]|purple|18.4}}
{{bar percent|[[インド系]]|Blue|6.61}}
{{bar percent|[[パキスタン系]]|black|2.7}}
{{bar percent|[[バングラデシュ系]]|Green|2.7}}
{{bar percent|その他のアジア系|violet|4.9}}
{{bar percent|混血|grey|5}}
{{bar percent|[[中国系]]|purple|1.5}}
{{bar percent|[[アラブ系]]|red|1.3}}
{{bar percent|その他の民族グループ|black|3.4}}
}}
[[国家統計局 (イギリス)|国家統計局]]によれば、2011年ベースの統計でロンドンの人口 817万4,100人のうち、59.7%が白人で、白人の英国人は44.9%、白人のアイルランド人は2.2%、他の白人の人々は12.6%であった。南アジア系の人々は18.4%で、インド系はロンドンの人口のうち6.6%、続いてパキスタン系が2.7%、バングラデシュ系が2.7%であった。4.9%は他のアジア系に分類されている。ロンドンの人口のうち10.1%は黒人であり、5.3%は黒人英国人、7.0%はアフリカ系、4.3%はカリビアン系、2.1%は他のグループに分けられている。5%は混血、1.5%は中国系、1.3%がアラブ系、3.4%はその他の民族グループに属している<ref name="名前なし-1"/>。2011年の人口国勢調査によれば、2001年から2011年の間に、62万人の白人英国人がロンドンから去り、人口の45%に減少し少数派となった<ref>http://www.bbc.com/news/uk-21511904</ref><ref>http://www.dailymail.co.uk/news/article-2281941/600-000-decade-white-flight-London-White-Britons-minority-capital.html</ref>。
ロンドンの一部では、アジア系や黒人の子どもたちが白人の英国人の子どもの数を上回る地域もあり、4-6校の公立学校では数で上回っている。<ref name="london_094">{{cite news
|url = http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1564365/One-fifth-of-children-from-ethnic-minorities.html
|title = One fifth of children from ethnic minorities
|author = Graeme Paton
|date = 1 October 2007
|work = The Daily Telegraph
|accessdate = 7 June 2008
|location = London
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5hYR0tUao?url=http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1564365/One-fifth-of-children-from-ethnic-minorities.html
|archivedate = 2009年6月15日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>だが、依然として白人の子どもの数は62%で過半数を占め、2009年の統計局による調査では0-15歳の層における白人人口は149万8,700人であった。そのうち、55.7%は英国系、5.6%は他のEU加盟国出身である<ref>{{cite web
|author = Neighbourhood Statistics
|url = http://www.neighbourhood.statistics.gov.uk/dissemination/LeadTableView.do?a=3&b=276743&c=London&d=13&e=13&g=325267&i=1001x1003x1004&o=322&m=0&r=1&s=1317478100328&enc=1&dsFamilyId=1809 |title = Check Browser Settings
|publisher = Neighbourhood.statistics.gov.uk
|accessdate = 17 October 2011
}}</ref>。2005年1月の調査では、ロンドンでは300以上の言語話者がおり、50以上の非先住のコミュニティには10,000人以上の人々が暮らし、宗教や民族の多様性が見られる<ref name="london_090">{{cite news
|url = http://www.guardian.co.uk/uk/2005/jan/21/britishidentity1
|title = London: Every race, colour, nation and religion on earth
|work = The Guardian
|location = UK
|accessdate = 6 May 2008
|first = Leo
|last = Benedictus
|date = 21 January 2005
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0zlxGl?url=http://www.guardian.co.uk/uk/2005/jan/21/britishidentity1
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。統計局の調査では、ロンドンにおけるイギリス国外の出生者数は2010年現在で265万人と人口の33%を占め、1997年の1,63万人より増加している。
2001年の国勢調査では、グレーター・ロンドンの人口の27.1%はイギリス国外の出生者であった<ref name="london_092">{{cite web
|url = http://www.statistics.gov.uk/census2001/profiles/H-A.asp
|title = Census 2001: London
|publisher = [[国家統計局 (イギリス)|Office for National Statistics]]
|accessdate = 3 June 2006
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo11Wpqv?url=http://www.statistics.gov.uk/census2001/profiles/H-A.asp
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。統計によると20の共通する国の出身者がロンドンに居住している。ドイツ出身者は、親がドイツに駐在した[[イギリス軍]]に就いていたものである<ref name="london_095">{{cite book
|url = http://www.ippr.org.uk/publicationsandreports/publication.asp?id=308
|title = Beyond Black and White: Mapping new immigrant communities
|last = Kyambi
|first = Sarah
|date = 7 September 2005
|accessdate = 20 January 2007
|isbn = 978-1-86030-284-8
|publisher = Institute for Public Policy Research
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo11tc6i?url=http://www.ippr.org.uk/publicationsandreports/publication.asp?id=308
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。公式の統計では、2009年7月から2010年6月にロンドンに居住する国外出身者は、主にインド、ポーランド、アイルランド、バングラデシュ、ナイジェリア出身者であった<ref name="Estimates">{{cite web |url=http://www.statistics.gov.uk/downloads/theme_population/population-by-country-of-birth-and-nationality-jul09-jun10.zip |title=Table 1.4: Estimated population resident in the United Kingdom, by foreign country of birth, July 2009 to June 2010 |publisher=Office for National Statistics |accessdate=7 March 2011 |archiveurl=https://webcitation.org/5yo12D272?url=http://www.statistics.gov.uk/downloads/theme_population/population-by-country-of-birth-and-nationality-jul09-jun10.zip |archivedate=2011年5月19日 |deadurl=no |deadlinkdate=2017年9月}} Figure given is the central estimate. See the source for 95 per cent [[Confidence interval|confidence intervals]].</ref>。
=== 宗教 ===
{{bar box
|title=ロンドンの宗教人口割合
|titlebar=#ddd
|left1=宗教
|right1=割合
|float=left
|bars=
{{bar percent|[[キリスト教]]|purple|58.2}}
{{bar percent|[[無宗教]]|violet|15.8}}
{{bar percent|記載無し|black|8.7}}
{{bar percent|[[イスラム教]]|Green|8.5}}
{{bar percent|[[ヒンドゥー教]]|Orange|4.1}}
{{bar percent|[[ユダヤ教]]|Blue|2.1}}
{{bar percent|[[シク教]]|yellow|1.5}}
{{bar percent|[[仏教]]|Gold|0.8}}
{{bar percent|その他|grey|0.2}}
}}
ロンドン市民の信仰する宗教は、主にキリスト教で58.2%を占めている<ref name="Religion">{{cite web
|url = http://www.statistics.gov.uk/census2001/profiles/H-A.asp#ethnic
|title = Census 2001 profiles: London
|work = statistics.gov.uk
|publisher = Office for National Statistics
|accessdate = 19 August 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo12TyW7?url=http://www.statistics.gov.uk/census2001/profiles/H-A.asp#ethnic
|archivedate = 2011年5月19日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。これに続き、無宗教が15.8%、イスラム教が8.5%、ヒンドゥー教が4.1%、ユダヤ教が2.1%、シク教が1.5%、仏教が0.8%、その他が0.2%であった。8.7%は2001年の国勢調査で無回答であった<ref name="Religion" />。ロンドンでは伝統的にキリスト教が信仰されており、[[シティ・オブ・ロンドン]]には多くの教会が所在する。シティの[[セント・ポール大聖堂]]や[[サザーク大聖堂]]、[[聖公会]]は有名であり<ref name="london_096">{{cite web
|url = http://www.stpauls.co.uk/page.aspx?theLang=001lngdef&pointerid=97320F44yHMK9hndcXZBD5sVH4m52Yc0
|title = About Saint Paul's Cathedral
|publisher = Dean and Chapter St Paul's
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080407082352/http://www.stpauls.co.uk/page.aspx?theLang=001lngdef&pointerid=97320F44yHMK9hndcXZBD5sVH4m52Yc0
|archivedate = 2008年4月7日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、[[カンタベリー大主教]]は[[イギリス国教会]]の[[大主教]]である。大主教のランベスパレスが[[ランベス・ロンドン特別区]]にある<ref name="london_097">{{cite web
|url = http://www.lambethpalacelibrary.org/
|title = Lambeth Palace Library
|publisher = Lambeth Palace Library
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo12b6iD?url=http://www.lambethpalacelibrary.org/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
王室の重要行事は、セント・ポール大聖堂とウェストミンスター寺院に分けて行われる<ref name="london_098">{{cite web
|url = http://www.westminster-abbey.org/
|title = Westminster Abbey
|publisher = Dean and Chapter of Westminster
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo12pvY3?url=http://www.westminster-abbey.org/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[ウェストミンスター大聖堂]]は[[イングランドおよびウェールズ]]では最大のカトリック教会の大聖堂である<ref name="london_099">{{cite web
|url = http://www.westminstercathedral.org.uk/home.html
|title = West Minster Cathedral
|publisher = Westminster Cathedral
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080327041736/http://www.westminstercathedral.org.uk/home.html
|archivedate = 2008年3月27日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
イギリス国教会の統計では、教会への参加者は次第に減少している<ref name="london_100">{{Cite journal
|url = http://www.cofe.anglican.org/info/statistics/2007provisionalattendance.pdf
|title = Church of England Statistics
|publisher = Church of England
|accessdate = 6 June 2008
|ref = harv
}}</ref>。
ロンドンには、相当数のイスラム教やヒンドゥー教、シク教、ユダヤ教のコミュニティがある。多くのイスラム教徒は[[タワーハムレッツ・ロンドン特別区]]や[[ニューアム・ロンドン特別区]]に居住している。 ロンドン居住のイスラム教徒にとって[[リージェンツ・パーク]]の{{仮リンク|ロンドン・セントラルモスク|en|London Central Mosque}}は最も重要な存在である<ref name="london_101">{{cite web
|url = http://www.iccuk.org/index.php?article=1&PHPSESSID=rbt2vceqs1bpn9567k0kiv9hu5
|title = London Central Mosque Trust Ltd
|publisher = London Central Mosque Trust Ltd. & The Islamic Cultural Centre
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo148PBq?url=http://www.iccuk.org/index.php?article=1
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。オイルマネーによって増加した中東の富裕層は、[[メイフェア]]や[[ナイツブリッジ]]を拠点としている<ref name="london_102">{{cite web
|url = http://www.thisislondon.co.uk/standard/article-23488244-the-300-billion-arabs-are-coming.do
|title = The $300 billion Arabs are coming
|work = Evening Standard
|location = UK
|accessdate = 3 May 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo15MyJm?url=http://www.thisislondon.co.uk/standard/article-23488244-the-300-billion-arabs-are-coming.do
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_171">{{cite news
|url = http://century.guardian.co.uk/1970-1979/Story/0,,106930,00.html
|title = The Mecca of the West | 1970–1979 | Guardian Century
|publisher = Google
|accessdate = 30 January 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo17UECr?url=http://century.guardian.co.uk/1970-1979/Story/0,,106930,00.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|location = London
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドンは西ヨーロッパ最大のモスクが所在する都市であり、''Baitul Futuh''のモスクはアフマディーヤムスリムコミュニティのものである。
ヒンドゥー教徒のコミュニティはロンドンの北西部[[ハーロウ・ロンドン特別区]]や[[ブレント・ロンドン特別区]]に存在し、ヨーロッパ最大のヒンドゥー寺院であるネアスデン寺院がある<ref name="london_103">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/london/content/articles/2005/05/19/hindu_london_feature.shtml
|title = Hindu London
|date = 6 June 2005
|publisher = British Broadcasting Corporation
|accessdate = 3 June 2006
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060218161357/http://www.bbc.co.uk/london/content/articles/2005/05/19/hindu_london_feature.shtml
|archivedate = 2006年2月18日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。シク教徒はロンドン東部や西部におり、インド国外では世界最大のシク教の寺院がある<ref name="london_104">{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/2898761.stm
|title = £17 m Sikh temple opens
|date = 30 March 2003
|publisher = British Broadcasting Corporation
|accessdate = 7 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo18FMYP?url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/2898761.stm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
イギリスのユダヤ教徒の大半がロンドンに居住し、ユダヤ教徒のコミュニティは{{仮リンク|スタンフォード・ヒル|en|Stamford Hill}}や{{仮リンク|スタンモア|en|Stanmore}}、{{仮リンク|ゴルダーズ・グリーン|en|Golders Green}}、[[エッジウェア]]、{{仮リンク|ヘンドン|en|Hendon}}、{{仮リンク|ノース・ロンドン|en|North London}}に存在する。{{仮リンク|スタンモア・カンノンパークシナゴーグ|en|Stanmore and Canons Park Synagogue}}は単一ではヨーロッパ最大のシナゴーグである<ref name="london_106">{{cite web
|url = http://www.jewishagency.org/JewishAgency/English/Israel/Partnerships/Regions/Kavimut/Britain+Communities/Stanmore+11.htm
|title = Jewish Agency
|publisher = Jewish Agency
|accessdate = 12 October 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo18Qcmw?url=http://www.jewishagency.org/JewishAgency/English/Israel/Partnerships/Regions/Kavimut/Britain+Communities/Stanmore+11.htm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
== 経済 ==
[[File:Canary Wharf July 2019.jpg|thumb|再開発後、[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]とともに[[金融センター]]として機能する[[カナリー・ワーフ]]]]
=== 金融・サービス業 ===
イギリス経済の中心であり、世界有数の経済都市でもある。[[2014年]]のロンドン都市圏の総生産は7944億ドルであり、[[東京都市圏]]、[[ニューヨーク都市圏]]、[[ロサンゼルス]]都市圏、[[ソウル特別市|ソウル]]都市圏に次ぐ世界5位の経済規模を有する<ref>[https://www.thechicagocouncil.org/issue/global-cities Cities Rank Among the Top 100 Economic Powers in the World] Chicago Council on Global Affairs 2016年10月28日閲覧。</ref>。[[日本]]の民間[[研究所]]が[[2017年]]に発表した「[[世界都市|世界の都市総合力ランキング]]」では、世界1位の都市と評価された<ref>[http://www.mori-m-foundation.or.jp/ius/gpci/ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2017] 森記念財団都市戦略研究所 2017年10月26日閲覧。</ref>。
世界最大級の[[金融市場]]の重要拠点として機能しており、[[2022年]]の調査によると、[[ニューヨーク]]に次ぐ世界2位の[[金融センター]]である<ref>[https://www.longfinance.net/programmes/financial-centre-futures/global-financial-centres-index/ The Global Financial Centres Index]Z/Yen. 2022年9月24日閲覧。</ref>。世界レベルの大企業本社も集積しており、[[2011年]]の[[フォーチュン・グローバル500]]において、世界で5番目に大企業の本社が集積している都市との評価を受けている<ref>[http://money.cnn.com/magazines/fortune/global500/2009/cities/ Fortune Global 500]</ref>。
資本主義経済の中心がイギリスから[[アメリカ合衆国]]に移ったことに伴うイギリス経済の相対的低下にもかかわらず、ロンドンは依然として[[イギリス連邦]]や[[欧州連合]]を始め、世界経済の中心としての地位を保持する。特に貿易および金融面での影響力は強い。[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]では[[1694年]]設立の[[イングランド銀行]]を頂点として、相互に密接な連携を保って展開する[[ロンバード・ストリート (ロンドン)|ロンバード・ストリート]]一帯の市中銀行など各種金融業が発達している。この市場が[[ロンドン金融市場]]で世界三大金融市場の一角を成し、[[ロンドン証券取引所]]は世界屈指の[[証券取引所]]の1つに挙げられる。シティのほか、[[ホルボーン]]、[[:en:Finsbury|フィンズベリー]]にも金融関連会社が多数存在する。
ロンドンは[[イギリスの経済|イギリスの国内総生産]] (GDP) の約20%(4460億米ドル、2005年現在)を生み出し<ref name="London's place in economy">{{cite web
|url = http://www.cityoflondon.gov.uk/NR/rdonlyres/2CAE66FB-2DD5-41A5-B916-8FFC37276059/0/BC_RS_lpuk_0511_FR.pdf
|title = London's place in the UK economy, 2005–06
|format = PDF
|publisher = City of London
|accessdate = 11 March 2008
}}</ref>、{{仮リンク|ロンドン・コミューター・ベルト|en|London commuter belt}}域内は欧州最大でイギリスの国内総生産の30%(6690億米ドル、2005年現在)を生み出している<ref name="london_109">{{cite web
|url = http://www.iaurif.org/en/doc/studies/cahiers/cahier_135/pdf/073-85.pdf
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080624195153/http://www.iaurif.org/en/doc/studies/cahiers/cahier_135/pdf/073-85.pdf
|archivedate = 2008年6月24日
|format = PDF
|title = The Economic Positioning of Metropolitan Areas in North Western Europe
|month = December
|year = 2002
|publisher = The Institute for Urban Planning and Development of the Paris Île-de-France Region
|accessdate = 27 August 2008
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドンは群を抜いた金融センターで、ニューヨークと競う国際的に重要な都市である<ref name="economist1">{{Cite news
|title = After the fall
|publisher = [[エコノミスト|The Economist]]
|date = 29 November 2007
|url = http://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=E1_TDNDRPTT
|accessdate = 2009=05-15
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1CAPd8?url=http://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=E1_TDNDRPTT
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="economist2">{{Cite news
|url = http://www.economist.com/specialreports/displaystory.cfm?story_id=9753240
|title = Financial Centres — Magnets for money
|date = 13 September 2007
|work = The Economist
|accessdate = 15 May 2009
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1CVVgP?url=http://www.economist.com/specialreports/displaystory.cfm?story_id=9753240
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
{|class="wikitable"
|+
!ビジネス地区||オフィス面積 (m<sup>2</sup>)||業務集積
|-
| '''シティ'''||7,740,000||金融、仲介、保険、法律
|-
| '''ウエストミンスター'''||5,780,000||企業の本社、不動産、プライベート・バンキング、ヘッジファンド、政府機関
|-
|'''カムデン & イズリントン'''|||2,294,000|||クリエイティブ産業、金融、デザイン、アート、ファッション、建築
|-
|'''カナリー・ワーフ'''||2,120,000||銀行・メディア・法律関連
|-
|'''ランベンス & サザーク'''||1,780,000||会計、コンサルティング、地方自治体
|}
ロンドンにはシティ、ウエストミンスター、カナリー・ワーフ、カムデン & イズリントン、ランベンス & サザークの5つの主要なビジネス地区がある。その重要性はオフィス面積で知ることができる。グレーター・ロンドンのオフィススペースは2700万平方メートルで、シティの800万平方メートルも含む。ロンドンは世界的にも高い賃料のオフィススペースとなっている<ref>{{cite news
|url = http://www.telegraph.co.uk/finance/newsbysector/constructionandproperty/2784634/Highgate-trumps-Chelsea-as-priciest-postcode.html
|location = London
|work = The Daily Telegraph
|first = Felix
|last = Lowe
|title = Highgate trumps Chelsea as priciest postcode
|date = 19 February 2008
}}</ref><ref>{{cite news
|url = http://www.forbes.com/2007/12/11/postcodes-uk-expensive-forbeslife-cx_po_1212realestate.html
|work = Forbes
|title = U.K.'s Most Expensive Postcodes
|date = 12 December 2007
|archiveurl = https://archive.is/20120918104419/http://www.forbes.com/2007/12/11/postcodes-uk-expensive-forbeslife-cx_po_1212realestate.html
|archivedate = 2012年9月18日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[メイフェア]]や {{仮リンク|セント・ジェームズ (ロンドン)|label=セント・ジェームズ|en|St. James's}}の賃料は現在、一番高く1平方フィートあたり年間93ポンドである<ref>"[http://www.findalondonoffice.co.uk/resources/rental-guide/ Office Costs In London: Office Rental Guide]", FindaLondonOffice, 15 Nov 2006. URL accessed on 30 Dec 2006.</ref>。ロンドンの最大の産業として金融は残り、イギリスの[[国際収支統計]]に大きく貢献している<ref>"[https://www.uktradeinvest.gov.uk/ukti/financial_services Financial Services] {{webarchive|url=http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20060715144205/https%3A//www.uktradeinvest.gov.uk/ukti/appmanager/ukti/sectors?_nfls%3Dfalse%26_nfpb%3Dtrue%26_pageLabel%3DSectorType1%26navigationPageId%3D/financial_services |date=2006年7月15日 }}", UK Trade & Investment, 11 May 2006. URL accessed on 3 June 2006.</ref>。シティには銀行、仲介業、保険、法律事務所、会計事務所などがある。ロンドンの第2の金融街はシティの東側に開発された[[カナリー・ワーフ]]で、[[HSBCホールディングス]]や[[バークレイズ]]の2つ世界的な大銀行の本社や[[シティグループ]]の欧州・中東・アフリカ本部、世界的な通信社[[ロイター]]がある。ロンドンは2009年現在[[国際通貨]]取引の36.7%が扱われ、1日平均1兆8500億米ドルが取引される。米ドルはニューヨーク以上に取引され、ユーロは他のヨーロッパの都市とともに取引されている<ref name="citylondon">{{cite web
|url = http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/LGNL_Services/Business/Business_support_and_advice/Economic_information_and_analysis/Research+and+statistics+FAQ.htm
|title = Research and statistics FAQ
|publisher = The City of London
|accessdate = 2012-02-23
|archiveurl = http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20110926180238/http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/LGNL_Services/Business/Business_support_and_advice/Economic_information_and_analysis/Research+and+statistics+FAQ.htm|archivedate=2011-09-26
}}</ref><ref>{{PDFlink|"[http://www.bis.org/publ/rpfx05t.pdf Triennial Central Bank Survey]"|259 [[Kibibyte|KiB]]<!-- application/pdf, 265373 bytes-->}}</ref><ref>"[https://archive.is/20120604105628/http://www.cityoflondon.gov.uk/Corporation/media_centre/keyfacts.htm Key facts]", Corporation of London. URL accessed on 19 June 2006.</ref>。
約32万5,000人がロンドンでは2007年半ばまで金融サービス部門で雇用されていた。ロンドンは世界のどの都市よりも多い480の海外の銀行がある。現在、85%以上(320万人)の就業人口は第三次産業に雇用されている。その世界的な役割から2000年代後半以降の[[世界金融危機 (2007年-)|世界金融危機]]の影響を大きく受けている。シティでは1年以内で約7万人の雇用が失われることが予想されている<ref name="london_116">{{cite web
|url = http://www.chinapost.com.tw/business/europe/2008/11/27/185064/City-of.htm
|title = City of London mayor predicts 70,000 job cuts
|accessdate = 4 January 2009
|work = The China Post
|location = Taiwan (ROC)
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1CdhOL?url=http://www.chinapost.com.tw/business/europe/2008/11/27/185064/City-of.htm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。シティには[[イングランド銀行]]や[[ロンドン証券取引所]]、[[ロイズ]]保険市場がある。
[[FTSE100種総合株価指数]]にリストされる企業の半数以上、欧州の上位500の企業のうちの100社以上がセントラル・ロンドンに本社を置いている。70%を超えるFTSE100の企業がロンドン大都市圏に拠点を置いており、[[フォーチュン500]]の企業の75%はロンドンに事務所を置いている<ref name="london_113">{{cite web
|url = http://www.londonstockexchange.com/en-gb/
|title = London Stock Exchange
|year = 2008
|publisher = London Stock Exchange plc.
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1FWjWx?url=http://www.londonstockexchange.com/en-gb/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = yes
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
メディア産業はロンドンでは2番目に競争力がある産業である<ref name="london_114">{{cite web
|url = http://www.cityoflondon.gov.uk/NR/rdonlyres/2CAE66FB-2DD5-41A5-B916-8FFC37276059/0/BC_RS_lpuk_0511_FR.pdf
|format = PDF
|title = London's Place in the UK Economy, 2005–6
|month = November
|year = 2005
|work = Oxford Economic Forecasting on behalf of the Corporation of London
|page= 19
|accessdate = 19 June 2006
}}</ref>。[[BBC]]は重要な雇用主で、それ以外にもシティ周辺には放送局の本社が集まっている。多くのイギリスの新聞社の新聞がロンドンで編集されている。
ロンドンは主要な小売り部門の中心で、非飲食部門では世界のいずれの都市よりも高い売り上げがあり、合わせて642億ポンドの収益を上げた<ref>{{cite news
|url = http://uk.reuters.com/article/2011/02/17/uk-retail-major-cities-idUKLNE71G00420110217
|title = London tops world cities spending league
|accessdate = 29 April 2011
|agency = Reuters
|date = 17 February 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1FVjQo?url=http://uk.reuters.com/article/2011/02/17/uk-retail-major-cities-idUKLNE71G00420110217
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|first = Mark
|last = Potter
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドン港はイギリスでは2番目に荷物取扱量が多い港で年間4500万トンを扱っている<ref name="handling" />。
[[ファイル:London.bankofengland.arp.jpg|thumb|left|[[イングランド銀行]]本店]]
シティ中心部は、[[イングランド銀行]]や[[マンションハウス (ロンドン)|マンションハウス]]と呼ばれる市長公邸、商品・金融取引所のロイヤル・エクスチェンジが面する八叉路である。そこから南東には銀行や商社が立ち並ぶ[[ロンバード・ストリート (ロンドン)|ロンバード・ストリート]]が伸びる。コーンヒル(穀物丘)やポールトリ(家禽)、ミルク、ブレッド、チープサイド(安売り街)などの古くからの街路名や町名が現在も残っている。シティは女王の承認を得ていない唯一の自治体であり、独自の警察を有する。シティ西部の[[フリート・ストリート]]には新聞・通信社が集積し、通りの南側にあるテンプルはイギリスの法律家の最大の拠点である。元来[[テンプル騎士団]]のイングランド本部であったが、イギリスで最初の法学院が設置され、次世代の公判弁護士を育成する場所となった。付近には他に[[イギリス最高裁判所|最高裁判所]]や公文書館もある。
ウェスト・エンドはシティの西側の地域であり、[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]を中心とする。ウェストミンスターは国内最高級の住宅群を擁し、一見寂れた地区であっても資産価値は非常に高い。[[ウェストミンスター寺院]]や[[ウェストミンスター大聖堂]]、[[ウェストミンスター宮殿|国会議事堂]]、[[バッキンガム宮殿]]、政府庁舎、国内最大級の商業地区、[[スコットランドヤード]](ロンドン警視庁)、ロンドンの大半の高級ホテル、美術館、博物館がある。
イースト・エンドは、シティの東端ロンドン塔から東方の[[リー川]]までの地域である。アイル・オブ・ドッグズ、ポプラー、マイル・エンドなど古くからの地名が今も残るが、公式には全て[[タワーハムレッツ・ロンドン特別区|タワーハムレッツ区]]に含まれる。ドック地帯を有し、港としてのロンドンの機能を担う。歴史的には港湾労働者を中心とするスラム街でもあったため、[[アーノルド・トインビー|トインビー・ホール]]のようなスラム改良運動の[[隣保館|セルツメント]]も認められる。かつてはロンドンの最貧地区として知られ、現在は[[ドックランズ]]、[[カナリー・ワーフ]]の大規模な再開発地区として注目されている。
また、ロンドン自体が巨大な消費市場であるため、商業活動も活発である。ロンドンでは地域ごとに各業種が集中している。例えば、[[シティ・オブ・ロンドン|シティ]]の金融業、[[スミスフィールド]]の食肉市場、スピタルフィールズおよび[[コヴェント・ガーデン]]から移設したナイン・エムルズの両青物市場、[[ウェスト・エンド]]の[[リージェント・ストリート]]、{{仮リンク|ボンド・ストリート|en|Bond Street}}、[[オックスフォード・ストリート]]の高級ショッピング街、ハーリーストリートの一流医院、紳士服の[[オーダーメイド]]は[[サヴィル・ロウ]](日本語の「[[背広]]」の語源の一つとも言われる<ref>[http://www.asahi.com/fashion/topics/TKY200803310252.html 「背広」の語源 サビルローの歩み紹介 英国大使館] 2008年4月1日asahi.com</ref>)、[[シティ・オブ・ウェストミンスター|ウェストミンスター]]の行政機関、[[ブルームズベリー]]の教育機関といった具合である。
=== 工業 ===
19世紀から20世紀にかけてロンドンは主要な製造業の中心地で、1960年には150万人を超える工場労働者がいた。製造業は1960年代から劇的に傾き始めた<ref>{{cite web
|url = http://www.museumoflondon.org.uk/Collections-Research/Research/Your-Research/X20L/Themes/1376/1127/
|title = Deindustrialisation 1960 to 1980
|work = Exploring 20th century London
|publisher = Museum of London
|accessdate = 22 February 2011
}}</ref>。造船や家電、航空機製造、自動車製造など全ての産業が失われている。この傾向は続いており、ポンダーズの'' Aesica''(以前の[[メルク・アンド・カンパニー]])の製薬は2011年に終了し<ref>{{cite web
|title = Pharmaceutical plant under_threat of closure
|url = http://www.enfieldindependent.co.uk/news/8368073.Pharmaceutical_plant_under_threat_of_closure/
|work = Enfield Independent
|date = 2010-09-02
|accessdate = 7 April 2011
}}</ref><ref>{{cite web
|title = Complete Plant Closure of Aesica Pharmaceuticals Enfield, UK Facility
|url = http://www.prweb.com/releases/2011/03/prweb5183204.htm
|publisher = PRWeb
|date = 22 March 2011
|accessdate = 7 April 2011
}}</ref>、ダゲナムの[[サノフィ・アベンティス]](元の''May & Baker'')の製薬も2013年に終了予定である<ref>{{cite web
|title = Sanofi pulls out of Dagenham
|url = http://www.inpharm.com/news/sanofi-pulls-out-dagenham
|publisher = InPharm
|accessdate = 7 April 2011
}}</ref>。
今日残っている最後の産業プラントは {{仮リンク|フォード・ダゲハム|en|Ford Dagenham}}で、車体パネルの主要な生産地で世界最大のディーゼルエンジンの工場である<ref>{{cite web
|url = http://www.ford.co.uk/AboutFord/News/CompanyNews/2009/Dagenham80
|title = Ford Dagenham at 80
|accessdate = 1 March 2011
|publisher = Ford Motor Company
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20100824105738/http://www.ford.co.uk/AboutFord/News/CompanyNews/2009/Dagenham80
|archivedate = 2010年8月24日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。食品や飲料の製造も{{仮リンク|ブリムスダウン工業団地|en|Brimsdown Industrial Estate}}にあるパン製造の''Warburtons''、[[チズウィック]]にあるビール醸造の[[フラーズ醸造所|フラーズビール醸造所]]、{{仮リンク|ヘイズ (ヒリントン)|label=ヘイズ|en|Hayes, Hillingdon}}にあるコーヒーやチョコレート製造の[[ネスレ]]、{{仮リンク|シルバータウン|en|Silvertown}}にある砂糖、シロップ製造の''Tate & Lyle''がある。ロンドンの製造業の就業人口は全就業人口の2.8%を占めるのみである。
=== 農業 ===
ロンドンの農業は[[グレーター・ロンドン]]地域の8.6%を占めるのみで商業的農業に利用され、かなり小規模な事業形態でありほとんどはグレーター・ロンドンの外縁部に近い所で行われている。市街地近くには僅かな都市農園とおよそ3万ヶ所の[[クラインガルテン|コミュニティ・ガーデン]]がある<ref>{{Cite web
|url = http://www.trabajopopular.org.ar/material/London.pdf
|title = Urban Agriculture in London
|first = Tara
|last = Garnett
|accessdate = 2019-01-04
|language = en
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20101008190432/http://www.trabajopopular.org.ar/material/London.pdf
|archivedate = 2010年10月8日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。グレーター・ロンドン地域には{{convert|135.66|km2|m2}} の農地が占めている。ロンドン地域のほぼ全ての農地は成長する文化のための礎である<ref>{{Cite document
|url = http://www.euro.who.int/document/e72421.pdf
|title = Urban Agriculture in London
|author = James Petts
|date = January 2001
|publisher = WHO
|postscript = .
}}</ref>。
[[Image:Wormwood Scrubs.JPG|thumb|''Wormwood Scrubs''の共有地の一部]]
現在、グレーター・ロンドンを構成する多くのエリアは以前は農村か郊外の農地であったが、今でも{{仮リンク|イーリング・コモン|en|Ealing Common}}や[[リンカーンズ・イン・フィールズ]]、[[シェパーズ・ブッシュ]]、{{仮リンク|ワームウッド・スクラブ|en|Wormwood Scrubs}}など昔の地名を保っている。
1938年、グレーター・ロンドンはイギリスで[[グリーンベルト]]{{enlink|Green belt (United Kingdom)|a=on}}の政策が用いられる最初の地域となり、[[スプロール現象]]を防止するため{{仮リンク|メトロポリタン・グリーンベルト|en|Ealing Common}}が導入された<ref>{{Cite web
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/6947435.stm
|title = Q&A: England's green belt
|publisher = BBC News
|date = 2007-08-17
|accessdate = 2008-09-15
}}</ref>。2005年にADASにより行われた農業統計調査によれば 423の借地がロンドンのメトロポリタン・グリーンベルトの一部分を占めており、イギリスの総数の0.25%を占めている。管理されている土地の総計は1万3,608ヘクタールで、半分は貸借されている。
10%未満の土地では有機農法の作物栽培に利用され、農業の経済への寄与は多様化した活動を除くと800万ポンド未満である。一方で、ロンドンの農産業は多角化に関わる活動にずっと依存していることが示されており、農業収入の3分の1はそれらに起因し国の平均を超えている。報告書では農業はロンドンの経済にとって重要ではないが、不可欠な役割があると述べている<ref name="Sustain">{{Cite web
|url = http://www.sustainweb.org/pdf/lfl_Mark_Holmes.pdf
|title = Farming in London’s Green Belt
|publisher = Sustain Web, ADAS
|first = Mark
|last = Holmes
|date = 2008-09-15
|accessdate = 2019-01-04
|pages = 10, 14
}}</ref>。
報告書では農業は主にロンドン北東部に集中しているが、数値は耕作適地だけが含まれている(周辺の[[イースト・オブ・イングランド]]や[[サウス・イースト・イングランド]]は穀物栽培が一般的である)<ref>{{Cite web
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/6919829.stm
|title = Snapshot of farming in the UK
|publisher = BBC News
|date = 2007-10-01
|accessdate = 2008-09-15
}}</ref>。また、[[畜産|畜産業]]は近年ではインフラの不足(食肉処理場や市場への乏しいアクセス)や都市外縁部への近さなどから減少していると述べられている。
[[園芸]]農業は主に[[テムズ川]]南部のロンドン東部の限られた場所で行われている<ref name="Sustain" />。ADASの調査だけでなく、2004年の ''Farmer's Voice''で実施された調査では農業従事者の多数はより広く厳格に押し付けられたグリーンベルトの規制は多角化の大きな障害と考え (47%)、続いて高いのは資金の不足で (35%)、両方の調査で明らかになったのは[[欧州連合]]の[[共通農業政策]]は多角化を進めるにあたって、ほとんど障害はないと認識されていることである。ロンドンのグリーンベルトでの農業収益は増加を示しており、1999年には僅か4%のロンドンの農場だけが利益が増加したか維持しただけだが、2008年には27%に増えている。1999年の調査では48%が事業の存続を恐れていたが、2008年には23%であった<ref name="Sustain" />。グレーター・ロンドン地域での都市農業を後押しする取り組みも推進されている<ref>http://www.plentymag.com/features/2008/07/the_growing_food_for_london_co.php</ref>。
=== 観光 ===
ロンドンには、[[ロンドン塔]]、[[キューガーデン]]、[[ウェストミンスター宮殿]]([[聖マーガレット教会 (ウェストミンスター)|聖マーガレット教会]]を含む)、[[グリニッジ]]([[グリニッジ天文台]]跡を[[グリニッジ子午線]]が通る)の4つの[[文化遺産 (世界遺産)|世界文化遺産]]が存在する<ref name="london_005">{{cite web
|url = http://whc.unesco.org/en/statesparties/gb
|title = Lists: United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
|publisher = [[UNESCO]]
|accessdate = 26 November 2008
}}</ref>。他の有名なランドマークとしては、[[バッキンガム宮殿]]、[[ロンドン・アイ]]、[[ピカデリーサーカス]]、[[セント・ポール大聖堂]]、[[タワーブリッジ]]、[[トラファルガー広場]]、[[ウェンブリー・スタジアム]]がある。多数の博物館、美術館、図書館といった文化施設や、スポーツイベント、文化機関も存在する。[[大英博物館]]、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]、[[テート・モダン]]、[[大英図書館]]、[[ウィンブルドン選手権]]、40軒の劇場が軒を連ねる[[ウェスト・エンド・シアター]]は代表的なものである<ref>{{Cite news
|url = http://www.whatsonstage.com/index.php?pg=207&story=E8821201275286&title=West+End+Must+Innovate+to+Renovate%2C+Says+Report
|title = West End Must Innovate to Renovate, Says Report
|accessdate = 15 November 2010
|publisher = What's On Stage
|date = 25 January 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0S4x3M?url=http://www.whatsonstage.com/index.php?pg=207
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[File:Natural History Museum 001.jpg|thumb|right|upright|ロンドン自然史博物館]]
ロンドンは著名な観光地の一つであり、主要な産業の一つであり2003年に観光関連の産業に雇用されるフルタイムの労働者は350,000人であった<ref name="london_117">{{cite web
|url = http://www.personneltoday.com/articles/2005/02/15/27958/london-is-the-hr-centre-of-opportunity-in-the-uk.html
|title = London is the HR centre of opportunity in the UK
|date = 15 February 2005
|publisher = PersonnelToday.com
|accessdate = 3 June 2006
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1GNS8r?url=http://www.personneltoday.com/articles/2005/02/15/27958/london-is-the-hr-centre-of-opportunity-in-the-uk.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドンを訪れる観光客が1年間に使う費用は全体で150億ポンドで<ref name="london_118">"{{cite web
|url = http://www.visitlondon.com/uploads/8551importanceoflondon_2004jun.pdf
|format = PDF
|title = The Importance of Tourism in London
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070628053808/http://www.visitlondon.com/uploads/8551importanceoflondon_2004jun.pdf
|archivedate = 2007年6月28日
|ref = harv
|accessdate = 2019-01-04
|website = Visit London
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、海外からの観光客は年間1400万人にも上りヨーロッパでは最も人が訪れる都市である<ref name="EuromonitorCityRanking">{{cite web|url=http://blog.euromonitor.com/2012/01/euromonitor-internationals-top-city-destinations-ranking1-.html|title=Euromonitor International’s Top 100 City Destinations Ranking |publisher=Euromonitor International|date=10 January 2012|accessdate=25 February 2012
}}</ref>。ロンドンでの観光客の延べ宿泊日数は年間2700万泊である<ref name="London 101">{{PDFlink|{{cite web
|url = http://corporate.visitlondon.com/ems/downloads/8112london101.pdf
|format = PDF
|title = London 101: One Hundred and One Amazing Facts About London
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070628053808/http://corporate.visitlondon.com/ems/downloads/8112london101.pdf
|archivedate = 2007年6月28日
|page = 4
|ref = harv
|accessdate = 2019-01-04
|deadlinkdate = 2017年9月
}}|1.15 [[Mebibyte|MiB]]<!-- application/pdf, 1207545 bytes -->}}", Visit London. Retrieved on 3 June 2006.</ref>。2015年にロンドンで最も観光客が訪れた場所は以下の通り<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-35730578|title=British Museum tops UK visitor attractions list|accessdate=22 June 2017|date=|publisher=|archiveurl=|archivedate=|deadurl=}}</ref>。
#[[大英博物館]]
#[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]
#[[ロンドン自然史博物館]]
#[[サウスバンク・センター]]
#[[テート・モダン]]
#[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]
#[[サイエンス・ミュージアム]]
#[[サマセット・ハウス]]
#[[ロンドン塔]]
#[[ナショナル・ポートレート・ギャラリー]]
== 交通 ==
<!-- :''主要記事:[[:en:Transport in London|Transport in London]]'' -->
交通の分野はロンドン市長が掲げる主要な4つの管理政策のうちの一つであるが<ref name="london_121">{{cite web
|url = http://www.tfl.gov.uk/
|title = Transport for London
|publisher = Transport for London
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5msa508h4?url=http://www.tfl.gov.uk/
|archivedate = 2010年1月18日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、ロンドンに乗り入れる長距離鉄道に関しては財政的に関知していない。2007年以降、市長は[[ロンドン地下鉄]]および路線バスに加えて、[[ロンドン・オーバーグラウンド]]を構成する複数のローカル路線の管理権限を有する。公共交通機関は[[ロンドン交通局]] (TfL) が運営しており、世界屈指の高密度な交通網を形成する。自転車はロンドン周辺でも次第に普及し始めている。ロンドン・サイクリング・キャンペーンは、自転車の利用環境整備のため[[ロビー]]活動を行っている<ref name="london_122">{{cite web
|url = http://www.lcc.org.uk/
|title = London Cycling Campaign
|date = 20 November 2006
|publisher = Rosanna Downes
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1Hlskj?url=http://www.lcc.org.uk/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[1933年]]、[[ロンドン地下鉄]]や路面電車、路線バスといった交通機関の運営組織が統合され、[[ロンドン旅客運輸公社|ロンドン旅客輸送局]]と{{仮リンク|ロンドン交通|en|London Transport (brand)}}が設立された。[[ロンドン交通局]] (Tfl) は制定法により設立された機関であり、グレーター・ロンドン内の大部分の公共交通機関に対して管理権限を有し、委員会や理事は[[ロンドン市長]]により任命されている<ref name="stat_tfl">{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/help/faq.jsp#transport
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20071019055413/http://www.london.gov.uk/help/faq.jsp#transport
|archivedate = 2007年10月19日
|title = How do I find out about transport in London?
|publisher = Greater London Authority
|accessdate = 5 June 2008
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 道路 ===
[[ファイル:A TX4 Taxi at Heathrow Airport Terminal 5.jpg|thumb|left|[[ロンドンタクシー]]]]
[[セントラル・ロンドン]]では高密度な公共交通網が機能しているが、郊外では車が一般的である。ロンドンの高速道路には、[[放射線・環状線|放射線]]や[[放射線・環状線|環状線]]が存在する。ロンドン中心部の環状線としては、{{仮リンク|ロンドン環状線|en|London Inner Ring Road}}がある。近郊の高速道路としては、北環状線の{{仮リンク|A406道路|en|A406 road}}および南環状線の{{仮リンク|A205道路|en|A205 road}}があり、郊外の環状線としては[[M25モーターウェイ]]がある。環状線は交通量の著しい数多くの放射線と接続し、また[[インナー・ロンドン]]を貫通する高速道路も存在する。M25は世界最長の環状道路であり、{{convert|195.5|km|mi|abbr=on}} の長さを有する<ref name="london_143">{{cite web
|url = http://www.bbc.co.uk/threecounties/travel/m25/m25_facts.shtml
|title = Beds, Herts and Bucks Travel — All you need to know about the M25
|publisher = BBC
|date = 17 August 1988
|accessdate = 20 February 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK0nLrV?url=http://www.bbc.co.uk/threecounties/travel/m25/m25_facts.shtml
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[A1 (イギリスの道路)|A1]]や[[M1モーターウェイ]]は、[[エジンバラ]]、[[リーズ]]、[[ニューカッスル・アポン・タイン]]と各々接続している。
1960年代、ロンドン全域を網羅する高速道路の建設計画として{{仮リンク|ロンドン・リングウェイズ|en|London Ringways}}が存在したが、大部分は1970年代に中断された。[[2003年]]、[[コンジェスチョン・チャージ]]がロンドン中心部の交通量を減らすため導入された。ロンドン中心部において交通量が著しく多いと指定を受けた区画に流入する場合、僅かな例外を除き、自家用車の場合で1日当たり10ポンドの課金が請求される<ref name="london_144">{{Cite journal
|unused_data = Where and when
|url = http://www.tfl.gov.uk/tfl/roadusers/congestioncharge/whereandwhen/
|title = Charging Zone
|publisher = Transport for London
|accessdate = 7 June 2008
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK0vSxb?url=http://www.tfl.gov.uk/tfl/roadusers/congestioncharge/whereandwhen/
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_145">{{cite web
|url = http://www.tfl.gov.uk/roadusers/congestioncharging/6741.aspx
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080608124006/http://www.tfl.gov.uk/roadusers/congestioncharging/6741.aspx
|archivedate = 2008年6月8日
|title = Who pays what
|publisher = Transport for London
|accessdate = 7 June 2008
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。コンジェスチョン・チャージの指定区画に居住する運転ドライバーは、指定区画用のシーズンパスを購入し、月ごとに更新している。シーズンパスの購入代金は、区画内を運行する路線バスの運賃より安価に設定されている<ref name="london_146">{{cite web
|url = http://www.tfl.gov.uk/roadusers/congestioncharging/6735.aspx
|title = Residents
|publisher = Transport for London
|accessdate = 7 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK17mHL?url=http://www.tfl.gov.uk/roadusers/congestioncharging/6735.aspx
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドンの交通渋滞は有名であり、特にM25の混雑度は顕著である。ラッシュ時の車の平均速度は {{convert|10.6|mi/h|km/h|abbr=on}} である<ref name="london_147">{{cite news
|accessdate = 1 September 2009
|url = http://www.guardian.co.uk/politics/2009/mar/16/boris-johnson-congestion-charge
|title = Boris Johnson mulls 'intelligent' congestion charge system for London
|work = The Guardian
|location = UK
|first = Hélène
|last = Mulholland
|date = 16 March 2009
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK1Mq9U?url=http://www.guardian.co.uk/politics/2009/mar/16/boris-johnson-congestion-charge
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。当局による当初の予測では、コンジェスチョン・チャージの導入により、1日当たりのピーク時におけるバスや地下鉄といった公共交通機関の利用者数は2万人増加し、交通量は10-15%減少し、道路網の交通の流れを10-15%高め、渋滞は20-30%減少するとしていた<ref>Santos, Georgina, Kenneth Button, and Roger G. Noll. "London Congestion Charging/Comments." Brookings-Wharton Papers on Urban Affairs.15287084 (2008): 177,177–234.</ref>。コンジェスチョン・チャージ導入後、歳月を経て、当局自身による発表によれば、平日にロンドン中心部に流入する車の台数は19万5,000台から12万5,000台に減少し、率にして35%減少したとしている<ref>Table 3 in Santos, Georgina, Kenneth Button, and Roger G. Noll. "London Congestion Charging/Comments." Brookings-Wharton Papers on Urban Affairs.15287084 (2008): 177,177–234.</ref>。
世界的にも有名なブラックキャブ (''black cab'') と呼ばれる[[ロンドンタクシー]]が市民の足として親しまれている。運転手となるには難関の試験を突破しなければならない<ref>[https://www.mlit.go.jp/singikai/koutusin/rikujou/jidosha/taxi/02/images/05.pdf 労働・運転者の問題 - 国土交通省]</ref>。市内道路の半分以上は一方通行であり、時に遠回りせざるを得ない。そのため一見高めに映るロンドンタクシーの運賃は、一方通行と進行方向が同じ場合は日本のタクシー料金と大差なく、一方通行と進行方向が異なる場合は運賃が比較的高くなる。また、営業免許を持たない合法の個人タクシーはミニキャブ (''mini cab'') と呼ばれ、市民の間ではブラックキャブより運賃が割安という理由でより一般的である<ref>http://www.minicabsinlondon.com/</ref>。
=== バス・トラム ===
[[ファイル:WrightBus LT2.JPG|thumb|[[ライトバス・ニュールートマスター|ニュールートマスター]]]]
{{See also|ロンドンバス}}
ロンドンバスは世界最大規模の路線バス網を形成し、毎日24時間、8,000台のバス車両を用いて700路線の運行を行い、平日1日当たり600万人が利用している。2003年の路線網全体のトリップ数<ref>人がある目的をもってある地点からある地点まで移動することを総称して「'''トリップ'''」と呼ぶ。[http://www.city.sakai.lg.jp/city/info/_tetuki/sakaipt09.html]</ref>は15億回であり、地下鉄の乗車回数を上回る身近な交通手段として利用されている<ref name="london_130">{{Cite book
|author = [[ロンドン交通局|Transport for London]]
|title = London Buses
|url = http://www.tfl.gov.uk/corporate/modesoftransport/1548.aspx
|publisher = [[ロンドン交通局|Transport for London]]
|accessdate = 6 June 2008
|isbn = 978-0-946265-02-2
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1LaG15?url=http://www.tfl.gov.uk/corporate/modesoftransport/1548.aspx
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。収益としては毎年8億5000万ポンド計上している。ロンドンは車椅子で移動可能な範囲が世界最大とされ<ref name="london_131">{{cite web
|url = http://www.tfl.gov.uk/static/corporate/media/newscentre/archive/3609.html
|title = London's bus improvements get Parliamentary seal of approval
|date = 23 May 2006
|publisher = Transport For London
|accessdate = 5 February 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1M9NgV?url=http://www.tfl.gov.uk/static/corporate/media/newscentre/archive/3609.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、2007年からは音声や映像案内といった視覚障害者に対応した設備導入により、利便性がより向上している。ロンドン市内を縦横に運行する赤い2階建て[[バス (交通機関)|バス]]([[ダブルデッカー]])が世界的に有名であり、安価な市民の足として親しまれている<ref name="london_132">{{cite web
|url = http://www.londonblackcabs.co.uk/
|title = London Black Cabs
|publisher = London Black Cabs
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1MLOHV?url=http://www.londonblackcabs.co.uk/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_133">{{cite web
|url = http://www.tfl.gov.uk/modalpages/2625.aspx
|title = Tube — Transport for London
|publisher = [[ロンドン交通局|Transport for London]]
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoJwfagc?url=http://www.tfl.gov.uk/modalpages/2625.aspx
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
旧型の赤い2階建てバスである[[ルートマスター]]は2005年12月をもって一般路線から廃止された。この理由として、[[車掌]]が同乗する旧型よりも[[ワンマンバス]]の方が効率が良いのに加え、開け放した乗降口は危険であり、[[身体障害者]]にとっても不便だったことが挙げられる。旧型車両はロンドン中心部の観光名所を巡る15番(トラファルガー・スクエア/タワー・ヒル)で一般車両に混じり、夏季土休日の日中に運行されている。現在、後部プラットフォームの使用とアクセシビリティ確保のために3つのドアと2つの乗降階段を備えた[[ライトバス・ニュールートマスター|ニュールートマスター]]がロンドン中心部で運行されている。
[[トラムリンク]]は、{{仮リンク|サウス・ロンドン|en|South London}}の[[クロイドン]]を基点に路線を展開している。3路線・39駅を有し、2008年における年間利用者数は2650万人であった。2008年6月、ロンドン交通局はトラムリンクの管理運営権を完全に所有し、2015年までに5400万ポンドの設備投資を行う予定である。2009年にはトラムの全車両を刷新している<ref name="london_134">{{cite web
|url = http://www.tfl.gov.uk/assets/downloads/tramlink-factsheet.pdf
|archiveurl = https://webcitation.org/5o8t78IGj?url=http://www.tfl.gov.uk/assets/downloads/tramlink-factsheet.pdf
|archivedate = 2010年3月11日
|date = Summer 2009
|publisher = Transport for London
|title = Tramlink Factsheet
|accessdate = 19 February 2010
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 鉄道 ===
[[ファイル:Eurostar at St Pancras Jan 2008.jpg|thumb|[[セント・パンクラス駅]]]]
{{See also|ロンドンの鉄道駅}}
ロンドンにはイギリス各地や[[大陸ヨーロッパ]]を結ぶ長距離路線の[[ターミナル駅]]が方面別に複数存在し、南東部の通勤路線と共に鉄道網の一大拠点となっている。
国が関与する公的企業の[[ネットワーク・レール]]社は利用者数の多い18の主要駅については直接管理運営しており、この内ロンドンにある駅は次の通りである。北部地方への列車が発着する[[ユーストン駅]]や[[セント・パンクラス駅]]、[[キングス・クロス駅]]、東部への[[リバプール・ストリート駅]]や[[キャノン・ストリート駅]]、[[フェンチャーチ・ストリート駅]]、[[ロンドン・ブリッジ駅]]、[[チャリング・クロス駅]]、南部へのロンドン・ブリッジ駅や[[ウォータールー駅]]、[[ロンドン・ヴィクトリア駅]]、西部への[[パディントン駅]]である。なお、セント・パンクラス駅はヨーロッパ大陸へ通じる特急列車[[ユーロスター]]の発着駅で、パディントン駅は[[ヒースロー空港]]へ通じる[[ヒースロー・エクスプレス]]および[[ヒースロー・コネクト]]の発着駅でもある。
ロンドンにある特定の[[ナショナル・レール]]の駅はロンドン・ステーション・グループと総称される。グループ外の駅で発券された切符において便宜的に同一箇所として扱われ、券面に「ロンドン・ターミナル」と表記される18駅が対象である<ref name="NFM98-A">{{Cite book
|title = NFM 98
|series = National Fares Manuals
|publisher = [[Association of Train Operating Companies]] (ATOC Ltd)
|location = London
|month = January
|year = 2008
|at = Section A
}}</ref>。全ての駅がトラベラルカード・ゾーン1に位置し、この内大部分の駅がロンドン市内を取り囲むように置かれ、各駅間は地下鉄で結ばれる。現在、ロンドン・ステーション・グループとして扱われている駅は次の通りである。
{{Div col|cols=3}}
*[[ブラックフライアーズ駅]]
*[[キャノン・ストリート駅]]
*[[チャリング・クロス駅]]
*[[:en:City Thameslink railway station|シティ・テムズリンク駅]]
*[[ユーストン駅]]
*[[フェンチャーチ・ストリート駅]]
*[[キングス・クロス駅]]
*[[リバプール・ストリート駅]]
*[[ロンドン・ブリッジ駅]]
*[[メリルボーン駅]]
*[[ムーアゲート駅]]
*[[オールド・ストリート駅]]
*[[パディントン駅]]
*[[セント・パンクラス駅]]
*[[:en:Vauxhall station|ヴォクソール駅]]
*[[ロンドン・ヴィクトリア駅]]
*[[ウォータールー駅]]
*[[ウォータールー・イースト駅]]
{{Div col end}}
かつての国鉄は解体され、官民協力体制 (Public Private Partnership) の下で委託経営が行われている。線路や駅の保有・維持管理はネットワーク・レール社が行い(民営化から2001年までは[[レールトラック]]社、この会社は破綻しネットワーク・レールに引き継がれた)、各路線の列車運行は複数の民間会社が運営する[[上下分離方式]]が採用されている。これらの民間会社はナショナル・レールの共通ブランドを用い、国鉄時代から使われている標章を使用しており、民営化以後も乗車券の販売などにおいて一体化された事業が提供されている。
1999年には[[パディントン駅]]付近で[[:en:Ladbroke Grove rail crash<!-- [[:ja:ラドブローク・グローブ事故]] とリンク -->|列車衝突事故]]が発生し、さらにその直後にも再び[[:en:Hatfield rail crash<!-- [[:ja:ハットフィールド脱線事故]] とリンク -->|重大事故]]が度重なるなど、イギリス、特にロンドンの鉄道は大きな政治課題になっている。事故が続発した大きな要因としては株主への利益還元を重視し過ぎたレールトラック社が列車運行に責任を持たず、整備を疎かにしたためとされている。
2007年、ユーロスターはロンドンの発着駅を開業以来ウォータールー駅としていたがセント・パンクラス駅に変更した。発着駅変更以前は途中区間で在来線を走行するため、イギリス国内で速度を上げられないという課題があった。そこで専用の高速新線 ([[CTRL]]) を建設したことで最高時速約300キロメートルでの運行が可能になり、遅延が常態化していたユーロスターの定時性も向上した<ref name="london_128">{{cite web
|url = http://www.eurostar.com/dynamic/index.jsp;ERSPRDSession=LJqZB7nyKlW9lVLvZzK534LvMjL519fPDS4R0QGn51CprylVmjH8!685848002
|title = Eurostar
|publisher = Eurostar
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoJz4xiY?url=http://www.eurostar.com/dynamic/index.jsp%3BERSPRDSession%3DLJqZB7nyKlW9lVLvZzK534LvMjL519fPDS4R0QGn51CprylVmjH8%21685848002
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。2009年6月からは[[イギリス鉄道395形電車|395形電車]]を使用したロンドン-[[ケント州]]間を運行するイギリス国内の高速鉄道サービスが開始された<ref name="Southeastern Highspeed">{{cite web
|url = http://www.southeasternrailway.co.uk/highspeed/
|title = Highspeed
|publisher = Southeastern
|accessdate = 5 February 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoJzQVXK?url=http://www.southeasternrailway.co.uk/highspeed/
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 地下鉄 ===
{{See also|ロンドン地下鉄}}
[[ファイル:Lancaster Gate tube.jpg|thumb|left|[[ロンドン地下鉄]]]]
[[ロンドン地下鉄]]は現在ではチューブ {{lang|en|"the Tube"}}と呼ばれ、この名称が表す区間は地下深い路線に限られ浅い深さに造られた古い路線とは異なっている<ref name="Metro">{{Cite book
|url = http://www.tfl.gov.uk/corporate/modesoftransport/londonunderground/1604.aspx
|title = London Underground: History
|author = Transport for London
|accessdate = 6 June 2008
|isbn = 978-0-904711-30-1
|ref = harv
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070502045940/http://www.tfl.gov.uk/corporate/modesoftransport/londonunderground/1604.aspx
|archivedate = 2007年5月2日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。営業距離は上海地下鉄に次いで世界で2番目に長い<ref name="railwaygazette.com" />。1863年に遡る地下鉄システムで270の駅があり<ref name="facts">{{Cite journal
|title = Key facts
|publisher = Transport for London
|url = http://www.tfl.gov.uk/corporate/modesoftransport/londonunderground/1608.aspx
|accessdate = 15 October 2009
|ref = harv
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20111215025236/http://www.tfl.gov.uk/corporate/modesoftransport/londonunderground/1608.aspx
|archivedate = 2011年12月15日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、設立当初はいくつかの私営の企業に分かれておりその中には最初の地下電化路線を運営した[[シティ・アンド・サウス・ロンドン鉄道|シティ・サウスロンドン鉄道]]も含まれる<ref name="UrbanRail">{{cite book
|url = http://de.geocities.com/u_london/london.htm
|title = London Underground
|last = Schwandl
|first = Robert
|year = 2001
|publisher = UrbanRail.net
|accessdate = 24 September 2006
|isbn = 978-3-936573-01-5
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20061006013919/http://de.geocities.com/u_london/london.htm
|archivedate = 2006年10月6日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。2013年1月10日には運行開始から150周年を迎えた<ref name="Metro150">{{cite news
|url = http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-london-20641351
|title = Oyster card celebrates 150th Tube anniversary
|work = BBC News London
|date = 10 December 2012
|accessdate = 10 January 2013
}}</ref><ref name="railwaygazette.com">{{cite web
|url = http://www.railwaygazette.com/news/single-view/view/10/shanghai-now-the-worlds-longest-metro.html
|title = Shanghai now the world's longest metro
|date = 4 May 2010
|publisher = [[Railway Gazette International]]
|accessdate = 4 May 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo0Tj3yO?url=http://www.railwaygazette.com/news/single-view/view/10/shanghai-now-the-worlds-longest-metro.html
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
毎日300万人を超える旅客数があり、路線全体で年間10億人の旅客数がある<ref name="london_124">{{cite web
|url = http://www.tfl.gov.uk/static/corporate/media/newscentre/archive/7103.html
|title = Tube breaks record for passenger numbers
|publisher = Transport for London – Tfl.gov.uk
|date = 27 December 2007
|accessdate = 5 February 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoJy1HWj?url=http://www.tfl.gov.uk/static/corporate/media/newscentre/archive/7103.html
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。2012年の夏のオリンピックに向け70億ポンドを信頼性の向上や混雑の緩和に投資する<ref name="Olympic Infrastructure">{{cite web
|url = http://www.alarm-uk.org/pdf/Janet%20Goodland.pdf
|format = PDF
|title = London 2012 Olympic Transport Infrastructure.
|publisher = Alarm UK
|accessdate = 6 June 2008
}}</ref>。ロンドンの公共交通機関は良い状態にあるとされている<ref name="london_126">{{Cite journal
|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/england/london/5294790.stm
|publisher = BBC News
|location = London
|accessdate = <!---2008-06-07--->
|title = London voted best for transport
|date = 29 August 2006
|ref = harv
}}</ref>。世界で最初に開通した地下鉄である[[ロンドン地下鉄]]は、世界有数規模である12の路線網を有する。ただし、遅延の常態化が課題として存在する。乗り場への出入りには大型エレベータを設置していることが多いが、一部施設は[[エスカレーター]]が木製であるなど老朽化が見られ様々な刷新の計画がある<ref>[http://www.railway-technology.com/projects/london/ London Underground Major Regeneration Scheme, United Kingdom]</ref>。1987年11月に[[キングス・クロス火災|キングス・クロス駅で発生した火災]]では31人の犠牲者を出した<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/3419647.stm Solved after 16 years - the mystery of victim 115] Thursday, 22 January, 2004, 11:37 GMT BBC</ref>。2005年7月には[[ロンドン同時爆破事件]]が発生し地下鉄乗客に被害が出た。地下鉄に類似した輸送機関としては、[[新交通システム]]である[[ドックランズ・ライト・レイルウェイ]]、ロンドン都心の地下を南北に貫通する英国鉄道の[[テムズリンク]]が存在する。2007年10月にはロンドンを東西に貫通する[[クロスレール]]の建設が決定され、2017年の開通が計画されている。なお、普通運賃で乗ると初乗り料金が4ポンドと非常に高いため、トラベルカードと呼ばれる一日乗車券などの各種割引制度や割引運賃が適用される[[オイスターカード]]を利用する人が多いが、オイスターカードを利用した乗車についても徐々に値上げされている<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-london-16379656 London transport: Bus, Underground and Overground prices rise] 2 January 2012 Last updated at 11:12 GMT BBC</ref><ref>[http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-london-15927046 London Tube and bus fares to rise by 6% in 2012] 28 November 2011 Last updated at 17:23 GMT BBC</ref>。2012年のオリンピック開催中、地下鉄の1日の旅客数は過去最高の440万人を記録した。通常1日当たりの旅客数は380万人程度である<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-london-19137030 London 2012: Tube use record broken three times in succession] 6 August 2012 Last updated at 05:38 GMT</ref>。
=== 空港 ===
{{See also|ロンドンの空港}}
[[ファイル:Heathrow T5.jpg|thumb|[[ロンドン・ヒースロー空港|ヒースロー空港]]T5]]
ロンドンは世界最大の都市空域における国際航空輸送の中枢である。8つの空港が単語に ''London'' の名称が使われているが、
*[[ロンドン・ヒースロー空港]]
*[[ロンドン・ガトウィック空港]]
*[[ロンドン・ルートン空港]]
*[[ロンドン・スタンステッド空港]]
*[[ロンドン・シティ空港]]
*[[:en:London Biggin Hill Airport|ロンドン・ビギン・ヒル空港]]
の6つの空港が最も交通量が多く一つの都市圏では最大の国際線の旅客数を誇っている。ロンドン・ヒースロー空港はイギリスのフラッグキャリア、[[ブリティッシュエアウェイズ]] (BA) の一大拠点空港である<ref name="london_135">{{cite web
|url = http://www.heathrowairport.com/|title=BAA Heathrow: Official Website
|publisher = BAA
|accessdate = 27 April 2008
}}</ref>。2008年3月に第5ターミナルがヒースロー空港に開業した<ref name="london_137">{{cite web
|url = http://www.heathrow-airport-uk.info/heathrow-airport-terminal-5.htm
|title = Heathrow Airport Terminal 5
|publisher = TMC Ltd
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1I83JE?url=http://www.heathrow-airport-uk.info/heathrow-airport-terminal-5.htm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。計画にあった第3滑走路や第6ターミナルは2010年5月12日に政権により取り消されている<ref>{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/london/8678282.stm
|title = Heathrow runway plans scrapped by new government
|publisher = BBC News
|date = 12 May 2010
|accessdate = 30 January 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1J2Xuu?url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/london/8678282.stm
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。2011年9月に[[個人用高速輸送システム]]([[新交通システム]])が開業し、近くの駐車場と結んでいる<ref>{{cite web
|url = http://www.pocket-lint.com/news/42120/heathrow-pod-ultra-personal-rapid-transport-system
|title = Taking a ride on Heathrow’s ULTra Personal Rapid Transit System
|publisher = Pocket Lint
|date = 19 September 2011
|accessdate = 27 December 2011
}}</ref>。
同程度の交通量の近距離便や[[格安航空会社]] (LCC) をロンドン南部の[[ウェスト・サセックス]]にある[[ロンドン・ガトウィック空港]]が扱っている<ref name="london_139">{{cite web
|url = http://www.gatwickairport.com/
|title = BAA Gatwick: Gatwick Airport
|publisher = BAA
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1JBGRX?url=http://www.gatwickairport.com/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[ロンドン・スタンステッド空港]]はロンドン北東部の[[エセックス]]にあり[[ライアンエアー]]がハブ空港としている。ロンドン北部の[[ベッドフォードシャー]]には[[ロンドン・ルートン空港]]がありLCCの近距離便のほとんどが拠点とする<ref name="london_140">{{cite book
|url = http://www.stanstedairport.com/
|title = BAA Stansted : Stansted Airport
|year = 2008
|publisher = BAA
|accessdate = 27 April 2008
|isbn = 978-0-86039-476-1
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1JkALo?url=http://www.stanstedairport.com/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_141">{{cite book
|url = http://www.london-luton.co.uk/en/
|title = London Luton Airport
|publisher = London Luton Airport
|accessdate = 27 April 2008
|isbn = 978-0-11-510256-1
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1KGPZQ?url=http://www.london-luton.co.uk/en/
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[ロンドン・シティ空港]]はロンドンの主要な空港の中では一番規模が小さく、ビジネストラベラーを対象としフルサービスの短距離定期便とかなりの交通量の[[ビジネスジェット]]を扱っている<ref name="london_142">{{cite web
|url = http://www.londoncityairport.com/Default.aspx
|title = London City Airport — Corporate Information
|publisher = London City Airport Ltd.
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yo1Kyrhl?url=http://www.londoncityairport.com/Default.aspx
|archivedate = 2011年5月19日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[ロンドン・サウスエンド空港]]はロンドン東部のエセックスにあり、小規模な地域空港でLCCの近距離便を扱っている。最近では大規模な改良工事計画が行われ新しいターミナルや滑走路の延長、新たな鉄道駅の整備などが行われロンドン都心部との連絡が高速化される。イージージェットが現在拠点としている。
[[日本]]との間には、[[日本航空]]や[[全日本空輸]]が[[東京国際空港]]から、[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]が東京国際空港や[[関西国際空港]]からそれぞれヒースロー空港へ就航している。
=== ロープウェイ===
[[File:Emirates_Air_Line_towers_24_May_2012.jpg|thumb|テムズケーブルカー]]
ロンドンでは最初のそして唯一の[[索道|ロープウェイ]]は2012年6月に開業した[[エミレーツ・エア・ライン]] ({{lang|en|''Emirates Air Line''}}) またはテムズケーブルカーの名称で知られるものである。ロープウェイは[[テムズ川]]を横断し、{{仮リンク|グリニッジ・ペニンシュラ|en|Greenwich Peninsula}}とシティの東側の{{仮リンク|ロイヤル・ドックス|en|Greenwich Peninsula}}を結び、ロンドンの[[オイスターカード]]のシステムに含まれカードの利用が可能である。
=== 自転車 ===
[[File:Cycle hire point, Southwark Street, London - DSC08158.JPG|thumb|サザーク・ストリートのバークレイズ・サイクルハイアーの駐輪ステーション。2017年6月現在は、サンタンデールの協賛による「サンタンデール・サイクルハイアー」となっている。]]
ロンドンでサイクリングを楽しむことは21世紀に変わってから復活している。サイクリストは公共交通機関や車などを利用するより安価でより速く楽しむことが出来、2010年7月にバークレイズ・サイクルハイアーと呼ばれる[[レンタサイクル]]の制度が導入されて成功し、一般に受け入れられた。2017年6月現在は、スポンサーがサンタンデールに代わり、「サンタンデール・サイクルズ{{enlink|Santander Cycles|a=on}}」という名称で同様のサービスが実施されている。
=== 港湾・水上交通 ===
[[File:Hurricane_Clipper_at_Greenland_Pier.jpg|thumb|テムズ・クリッパーズ]]
かつては世界最大の港であった{{仮リンク|ロンドン港|en|Port of London}}は、現在ではイギリスで2位を占めるのみであり、毎年4500万トンの貨物を取り扱う<ref name="handling">{{cite web
|url = http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/+/http://www.dft.gov.uk/pgr/statistics/datatablespublications/maritime/ports/provportstats2009
|title = ARCHIVED CONTENT] Provisional Port Statistics 2009
|publisher = Department for Transport – Webarchive.nationalarchives.gov.uk
|accessdate = 26 April 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoJx5cho?url=http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/+/http%3A//www.dft.gov.uk/pgr/statistics/datatablespublications/maritime/ports/provportstats2009
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。実際には、ロンドンの貨物の大部分はグレーター・ロンドン域外の{{仮リンク|ティルバリー港|en|Port of Tilbury}}が担っている。ロンドンではまた、テムズ川を利用した水上バスの運航も頻繁にされており{{仮リンク|テムズ・クリッパーズ|en|Thames Clippers}}として知られている。20分毎に{{仮リンク|エンバンクメント・ピア|en|Embankment Pier}}と{{仮リンク|ノーズグリニッジ・ピア|en|North Greenwich Pier}}を結んでいる。{{仮リンク|ウーリッジ・フェリー|en|Woolwich Ferry}}は毎年250万人の旅客を運航し<ref>[http://www.tfl.gov.uk/corporate/media/newscentre/archive/27762.aspx Transport for London: Woolwich Ferry, 50 years on] Retrieved 8 September 2013</ref>、{{仮リンク|ノース・サーキュラーロード|en|North Circular Road}}と{{仮リンク|サウス・サーキュラーロード|en|South Circular Road, London}}を頻繁に結んでいる。他の運航事業者も通勤客向けや観光客向けの両方でロンドンで運航を行っている。
== 教育 ==
=== 高等教育 ===
[[File:University College London -quadrant-11Sept2006 (1).jpg|thumb|ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]
ロンドンは高等教育や研究機関の中心で43の大学が集中するヨーロッパ最大の高等教育の一大中心地である<ref name="london2" />。2008-2009年には高等教育を受ける学生数は41万2,000人でこの数はイギリス全体の17%を占め、内訳は学士レベル28万7,000人、大学院レベル11万8,000人である<ref name="londonhigher">{{cite web
|url = http://www.londonhigher.ac.uk/396.html?&no_cache=1&tx_ttnews%5Btt_news%5D=95&tx_ttnews%5BbackPid%5D=393&cHash=66a6e680d7
|title = Numbers of students in London
|accessdate = 26 August 2010
|publisher = London Higher
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK24fXt?url=http://www.londonhigher.ac.uk/396.html
|archivedate = 2011年5月20日
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|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。2008-2009年にロンドンで学んだ留学生は9万7,150人に上りこれはイギリス全体の25%を占める<ref name="londonhigher" />。
多くの世界をリードする教育機関がロンドンを拠点にしている。2011年の{{lang|en|''QS World University Rankings''}}{{enlink|QS World University Rankings|a=on}}では世界で[[インペリアル・カレッジ・ロンドン]]は6位、[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]は7位、[[キングス・カレッジ・ロンドン]]は27位に付けている<ref>{{cite web |url=http://www.topuniversities.com/university-rankings/world-university-rankings|title=QS World University Rankings Results 2011|accessdate=23 September 2010|publisher=QS Quacquarelli Symonds Limited}}</ref>。[[ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス]]は教育と調査で世界をリードする社会科学機関と見なされている<ref name="london_156">{{cite news
|url = http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/education/sunday_times_university_guide/article2496158.ece
|title = The Sunday Times Good University Guide 2007 – Profile for London School of Economics
|work = The Times
|location = London
|accessdate = 6 June 2008
|date = 23 September 2007
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK36cad?url=http://www.timesonline.co.uk/tol/life_and_style/education/sunday_times_university_guide/article2496158.ece
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|first = Deirdre
|last = Hipwell
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[ロンドン・ビジネス・スクール]]は世界で一流のビジネススクールの一つとして考えられ、2010年にMBAの教育課程で[[フィナンシャル・タイムズ]]から世界最高の評価を得ている<ref name="ft">{{cite web
|url = http://rankings.ft.com/businessschoolrankings/global-mba-rankings
|title = FT Global MBA Rankings
|work = Financial Times
|accessdate = 25 January 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK3NXwE?url=http://rankings.ft.com/businessschoolrankings/global-mba-rankings
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[ロンドン大学]]で学ぶ学生は12万5,000人おり、これは通信過程以外の大学ではヨーロッパ最大である<ref name="london_148">{{cite web
|url = http://www.london.ac.uk/aboutus
|title = About the University
|date = 20 February 2006
|publisher = University of London
|accessdate = 3 June 2006
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK3v6ck?url=http://www.london.ac.uk/aboutus
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドン大学は単独の大学として存在するものではなく、カレッジ制でそれぞれ別の大学となっており4つの大きな大学である[[キングス・カレッジ・ロンドン]]、[[クイーン・メアリー・カレッジ]]、[[ロイヤル・ホロウェイ]]、[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]と多くのより専門的な機関である[[バークベック・カレッジ]]、[[コートールド・ギャラリー]]、[[ゴールドスミス・カレッジ]]、[[ギルドホール音楽演劇学校]]、[[インスティチュート・オブ・エデュケーション]]、[[ロンドン・ビジネス・スクール]]、[[ロンドン大学衛生熱帯医学大学院]]、[[王立音楽アカデミー]]、[[セントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ]]、[[王立獣医学校]]、[[東洋アフリカ研究学院]]が含まれる<ref>{{cite web
|url = http://www.london.ac.uk/colleges_institutes.html
|title = Colleges and Institutes
|accessdate = 23 September 2010
|publisher = University of London
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK4QvPy?url=http://www.london.ac.uk/colleges_institutes.html
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドン大学を構成するカレッジにはそれぞれ独自の入学試験制度があり、そのいくつかは独自の学位を授与している。
ロンドン大学以外にも多くの大学がロンドンにはあり、 {{仮リンク|ブルネル大学|en|Brunel University}}、[[シティ大学ロンドン]]、[[インペリアル・カレッジ・ロンドン]] ,キングストン大学、[[ロンドン・メトロポリタン大学]](学生数3万4,000人でロンドン最大の単科大学)<ref name="london_157">[http://www.londonmet.ac.uk/library/o90402_3.pdf About London Met] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090124143209/http://www.londonmet.ac.uk/library/o90402_3.pdf |date=2009年1月24日 }} London Metropolitan University, August 2008</ref>、{{仮リンク|ロンドンサウスバンク大学|en|London South Bank University}}、[[ミドルセックス大学]]、[[ロンドン芸術大学]]<ref>{{Cite news
|url = http://www.guardian.co.uk/education/2008/may/01/universityguide.highereducation42
|title = University of the Arts London
|accessdate = 27 August 2010
|work = The Guardian
|location = UK
|date = 1 May 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK4mSBu?url=http://www.guardian.co.uk/education/2008/may/01/universityguide.highereducation42
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、[[イースト・ロンドン大学]]、[[テムズバレー大学|ウェスト・ロンドン大学]]、[[ウエストミンスター大学]]がある。これに加えて[[セビリア大学]]や{{lang|en|''Regent's College''}}、リッチモンド大学など海外の大学がロンドンにある。[[File:Royal College of Music - April 2007.jpg|thumb|王立音楽大学]]
ロンドンには5つの有名な医学部がある。クイーン・メリーカレッジに付属する{{仮リンク|バーツ医科歯科ロンドン校|en|London South Bank University}}、欧州最大の医学部である{{仮リンク|キングスカレッジ医科ロンドン校|en|King's College London School of Medicine}}、{{仮リンク|インペリアルカレッジ医学部|en|Imperial College School of Medicine}}、{{仮リンク|UCLメディカルスクール|en|UCL Medical School}}で、他にも多くの医療や病院に関連した教育機関がある。また、生物医学研究に関連したイギリスに5つある研究機関のうち3つがロンドンにある<ref>{{Cite news
|work = The Guardian
|location = UK
|title = NHS hospitals to forge £2bn research link-up with university
|accessdate = 6 September 2010
|url = http://www.guardian.co.uk/society/2008/aug/07/health.highereducation
|date = 7 August 2008
|first = John
|last = Carvel
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK5JH6x?url=http://www.guardian.co.uk/society/2008/aug/07/health.highereducation
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。多くのビジネススクールもまたロンドンにはある。
=== 公立学校・その他 ===
ロンドンの大半の小学校から中等教育の学校は国立か[[ロンドンの特別区|自治区]]により管理運営されているが、多くの[[インデペンデント・スクール]](私立学校)や非営利法人の[[パブリック・スクール]]があり、その中には{{仮リンク|シティ・オブ・ロンドン・スクール|en|City of London School}}、[[ハーロー校]]、[[セント・ポールズ・スクール (ロンドン)|セントポール校]]、{{仮リンク|ユニバーシティ・カレッジ・スクール|en|University College School}}、[[ウェストミンスター・スクール|ウェストミンスター校]]など歴史ある学校や[[エリート]]校が含まれる。
英国の教育では将来進む道を早い段階で決めるため、世界唯一のアート&デザイン専科寄宿制([[ボーディングスクール]])インターナショナルスクール[[ロンドン国際芸術高校]](ISCA)など特定分野に特科した学校も多く存在する。
== 文化 ==
=== アクセント ===
ロンドンのアクセントはずっと以前から[[コックニー]]と呼ばれるもので、[[サウス・イースト・イングランド]]の方言と多くの点で似通っている。21世紀のロンドナーのアクセントは多くが異なったものとなり、30代以下を含めより共通になっている。一方、コックニーと[[容認発音]]、すべての民族アクセントの配列、特にカリビアン系が融合し{{仮リンク|多文化的なロンドン英語|en|Multicultural London English}}を形作っている<ref name="MCLE">{{cite news
|url = http://www.independent.co.uk/news/uk/this-britain/jafaican-and-tikkiny-drown-out-the-east-ends-cockney-twang-473688.html
|title = Jafaican and Tikkiny drown out the East End's Cockney twang
|last = Brown
|first = Jonathan
|date = 11 April 2006
|work = The Independent
|accessdate = 22 August 2008
|location = London
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK682mq?url=http://www.independent.co.uk/news/uk/this-britain/jafaican-and-tikkiny-drown-out-the-east-ends-cockney-twang-473688.html
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== レジャー・エンターテイメント ===
[[File:Open Happiness Piccadilly Circus Blue-Pink Hour 120917-1126-jikatu.jpg|thumb|right|[[ピカデリーサーカス]]]]
[[シティ・オブ・ウエストミンスター]]の[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウエスト・エンド]]地区にある[[レスター・スクウェア]]周辺は劇場や初演が行われる映画館が集中しピカデリーサーカスや巨大な電照広告がある<ref name="london_160">{{cite web
|url = http://www.piccadillylights.co.uk/
|title = Piccadilly Lights
|publisher = Land Securities
|accessdate = 3 November 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK7QmKt?url=http://www.piccadillylights.co.uk/
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ロンドンの劇場が集中する地区であり、多くの映画館やバーやナイトクラブ、レストラン、[[ソーホー (ロンドン)|ソーホー]]の中華街、東側には[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]がある他、様々な専門店がある。[[ロイヤル・バレエ団]]、[[イングリッシュ・ナショナル・バレエ団]]、[[イングリッシュ・ナショナル・オペラ]]はロンドンを拠点とし、ロイヤル・オペラ・ハウスや{{仮リンク|コロシアム劇場|en|Coliseum Theatre}}、[[ロイヤル・アルバート・ホール]]で公演を行い同様に地方公演も行っている<ref name="London's Concerts">{{cite web
|url = http://www.yourlondon.gov.uk/visiting/topic.jsp?topicid=6482&search_title=Theatres+and+concert+halls
|title = Theatres and concert halls.
|publisher = Your London
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080124185332/http://www.yourlondon.gov.uk/visiting/topic.jsp?topicid=6482&search_title=Theatres+and+concert+halls
|archivedate = 2008年1月24日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[File:Harrods, London - June 2009.jpg|thumb|upright|left|ナイツブリッジのハロッズ]]
[[イズリントン]] は{{convert|1|mi|km}} のアッパーストリートで{{仮リンク|エンジェル (イズリントン)|label=エンジェル|en|Angel, Islington}}から北方向に延びている。イギリスのいずれの通りよりもより多くのバーやレストランが林立する<ref name="london_161">{{Cite journal
|title = 2001: Public houses
|publisher = British Broadcasting Corporation
|url = http://www.bbc.co.uk/history/trail/local_history/city/street_03.shtml?publichouses
|accessdate = 4 June 2008
|ref = harv
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK7ebGH?url=http://www.bbc.co.uk/history/trail/local_history/city/street_03.shtml?publichouses
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。ヨーロッパで最も賑やかなショッピングエリアである[[オックスフォード・ストリート]]は {{convert|1|mi|km}} の長さでイギリスでは最長のショッピングストリートである。オックスフォードストリートには数多くの店舗やデパートがあり、世界的に有名な[[セルフリッジズ]]の旗艦店がある<ref name="london_162">{{Cite journal
|url = http://www.london.gov.uk/londoner/06sep/p7a.jsp
|publisher = ''[[:en:The Londoner|The Londoner]]''
|title = Oxford Street gets its own dedicated local police team
|date = September 2006
|accessdate = 19 June 2007
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070930204913/http://www.london.gov.uk/londoner/06sep/p7a.jsp
|archivedate = 2007年9月30日
|ref = harv
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。[[ナイツブリッジ]]には同様に有名な[[ハロッズ]]がある。
ロンドンは[[ヴィヴィアン・ウエストウッド]]や[[ジョン・ガリアーノ]]、[[ステラ・マッカートニー]]、[[マノロ・ブラニク]]など多くのデザイナーが拠点を置いている。ファッションスクールの国際的な中心としてパリやミラノ、ニューヨークなどと並び評判が高い。
ロンドンは多くの民族的な多様性から料理の幅がかなり広い。バングラデシュレストランは{{仮リンク|ブリックレーン|en|Brick Lane}}に集まっており、中華料理店はソーホーのチャイナタウンに集まっている。これ以外にもインド料理などが知られている<ref name="london_163">{{cite web
|url = http://www.chinatownlondon.org/
|title = Chinatown — Official website
|publisher = Chinatown London
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK84XXn?url=http://www.chinatownlondon.org/
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
ロンドンでは多くのイベントも年間を通し行われ、{{仮リンク|ニューイヤーズデイパレード|en|New Year's Day Parade}}が行われ、花火大会が[[ロンドン・アイ]]で行われる。この祭典は世界で2番目に大規模なストリートパーティーである。{{仮リンク|ノッティングヒルカーニバル|en|Notting Hill Carnival}}が毎年8月の[[バンクホリデー]]に開催される。11月に開催される{{仮リンク|ロード・メイヤーズ・ショー|en|Lord Mayor's Show}}では、パレードも含まれ、数世紀にわたる伝統的な行事で、毎年選ばれる新しい[[ロンドン市長 (シティ・オブ・ロンドン)|ロンドン市長]]が参加し、シティ周辺の通りでは行列が見られる。6月には女王の誕生日を祝うために、イギリスと英連邦の軍により{{仮リンク|トゥルーピングザカラー|en|Trooping the Colour}}が行われる<ref name="london_164">{{cite web
|url = http://www.royal.gov.uk/output/Page4820.asp
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080620233221/http://www.royal.gov.uk/output/Page4820.asp
|archivedate = 2008年6月20日
|title = One Queen, Two Birthdays
|publisher = Royal Government
|accessdate = 27 September 2008
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 文学・映画・テレビ ===
ロンドンは多くの文学の舞台になってきた。ロンドンの文学の中心は古くから丘がちな[[ハムステッド|ハムプテッド]]や[[ブルームズベリー]](20世紀初期から)である。街に密接に関連した作家には詳細な日記を付けていた[[サミュエル・ピープス]]で[[ロンドン大火]]など目撃したことを詳述している。[[チャールズ・ディケンズ]]は霧や雪、ロンドンの通りの掃除人やスリなどの汚れを表現し[[ヴィクトリア朝]]初期のロンドンの人々の視覚に影響を与えた。[[ヴァージニア・ウルフ]]は20世紀の[[モダニズム文学]]で最も重要な人物の一人と見なされている<ref name="London in Literature">{{cite web
|url = http://www.brynmawr.edu/library/speccoll/guides/london/londoninliterature.shtml
|title = London in Literature,
|publisher = Bryn Mawr College
|accessdate = 6 June 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK8S7iR?url=http://www.brynmawr.edu/library/speccoll/guides/london/londoninliterature.shtml
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[ジェフリー・チョーサー]]は14世紀後半の『[[カンタベリー物語]]』で、ロンドンのサザークからカンタベリー大聖堂までの巡礼の道程を描いている。[[ウィリアム・シェイクスピア]]は人生や創作の大部分をロンドンで過ごしている。詩人の[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]もロンドンを拠点にし、『錬金術師』{{enlink|The Alchemist (play)|a=on}}はロンドンで作られた<ref name="London in Literature" />。1722年に[[ダニエル・デフォー]]の『[[ペスト (デフォー)|ペスト]]』は1665年の[[ロンドンの大疫病]]を小説化したものである。<ref name="London in Literature" /> 後にロンドンを表現した重要なものは19世紀から20世紀初期にかけての[[チャールズ・ディケンズ]]の小説や[[アーサー・コナン・ドイル]]の『[[シャーロック・ホームズ]]』シリーズである<ref name="London in Literature" />。
ロンドンを舞台にした映画には『[[オリヴァ・ツイスト (映画)|オリヴァ・ツイスト]]』(1948年)、『[[ピーター・パン (1953年の映画)|ピーター・パン]]』(1953年)、『[[マダムと泥棒]]』(1955年)、『[[101匹わんちゃん]]』(1961年)、『[[メリー・ポピンズ]]』(1964年)、『[[欲望 (1967年の映画)|欲望]]』(1966年)、『{{仮リンク|ロング・グッド・フライデー|en|The Long Good Friday}}』(1980年)、『[[秘密と嘘]]』(1996年)、『[[ノッティングヒルの恋人]]』(1999年)、『[[マッチポイント (映画)|マッチポイント]]』(2005年)、『[[Vフォー・ヴェンデッタ (映画)|Vフォー・ヴェンデッタ]]』(2005年)、『[[スウィーニー・トッド]]』(2008年)、『[[ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密]]』(2014年)がある。連続テレビドラマには『[[イーストエンダーズ]]』などがあり、最初にBBCで放送されたのは1985年のことである。ロンドンは特に映画撮影において重要な役割を果たし、有名なスタジオである[[イーリング・スタジオ]]があり、ソーホーは[[SFX]]や[[ポストプロダクション]]のコミュニティセンターである。[[ワーキング・タイトル・フィルムズ]]はロンドンに拠点を置いている<ref name="london_165">{{cite web
|url = http://www.workingtitlefilms.com/
|title = Working Title Films
|publisher = Universal Studios
|accessdate = 27 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK8c0bN?url=http://www.workingtitlefilms.com/
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== 博物館・美術館 ===
[[File:British Museum from NE 2.JPG|thumb|right|大英博物館]]
ロンドンには数多くの博物館や美術館を含め様々な施設があり、その多くが入場料が無料でメジャーな観光地となっており調査でも役割を果たしている。最初に設立されたのは1753年に[[ブルームズベリー]]にある[[大英博物館]]である。元からある収蔵品には古代の遺物や自然史の見本で国立図書館もあった。現在、博物館は700万点を収蔵している。1824年に[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナルギャラリー]]が設立されイギリスの西洋絵画のコレクションが収蔵され[[トラファルガー広場]]に位置している。19世紀後半、{{仮リンク|サウスケンジントン|en|South Kensington}}に文化施設が集まった{{仮リンク|アルバートポリス|en|Albertopolis}}が開発され、文化や科学の地区となった。ロンドンには[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]、[[ロンドン自然史博物館]]、[[サイエンス・ミュージアム]]の3つの主要な国立博物館がある。国立美術館の[[テート・ブリテン]]は元はナショナルギャラリーの別館として1897年に設立された。2000年に[[バンクサイド発電所]]の跡地に[[テート・モダン]]が開館している。
=== 音楽 ===
[[File:Royal Albert Hall, London.jpg|thumb|left|ロイヤル・アルバート・ホール]]
ロンドンは[[クラシック音楽]]や[[ポピュラー音楽]]の中心であり、世界的な大手である[[EMI]]などのレコード会社や無数のバンド、ミュージシャン、音楽産業のプロが居る。ロンドンには多くのオーケストラやコンサートホールがあり、[[バービカン・センター]]([[ロンドン交響楽団]]の拠点)、{{仮リンク|カドガンホール|en|Cadogan Hall}}([[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]])、[[ロイヤル・アルバート・ホール]]([[BBCプロムス]])は良く知られている<ref name="London's Concerts" />。ロンドンには[[ロイヤル・オペラ・ハウス]]と{{仮リンク|コロシアム劇場|en|Coliseum Theatre}}の二つのオペラハウスがある<ref name="London's Concerts" />。ロイヤル・アルバート・ホールではイギリスで最大のパイプオルガンを見つけることができる。他に重要な楽器は大聖堂や大きな教会で見つけることができる。[[王立音楽アカデミー]]や[[王立音楽大学]]、[[ギルドホール音楽演劇学校]]、[[トリニティ・ラバン|トリニティ音楽カレッジ]]などの音楽学校も立地する。
[[File:The O2 Arena, entrance.jpg|thumb|right|O2アリーナ]]
ロンドンにはロックやポップ音楽のコンサート会場が多くあり大規模ものでは[[アールズ・コート・エキシビション・センター]]、[[ウェンブリー・アリーナ]]、[[O2アリーナ (ロンドン)|O2アリーナ]]があり、中規模な会場も同様に多くあり[[ブリクストン・アカデミー]]、[[ハマースミス・アポロ]]、[[シェパーズ・ブッシュ・エンパイア]]などがある。<ref name="London's Concerts" />いくつかの音楽祭も開催され、その中には[[ワイヤレス・フェスティバル]]はロンドンで行われている。ロンドンには最初のオリジナルの[[ハードロックカフェ]]や、[[ビートルズ]]がレコーディングし多くのヒット曲を出した[[アビー・ロード・スタジオ]]がある。1960年代から1980年代にかけてのミュージシャンやグループには、[[エルトン・ジョン]]、[[デヴィッド・ボウイ]]、[[クイーン (バンド)|クイーン]]、[[エルヴィス・コステロ]]、[[キャット・スティーヴンス]]、[[イアン・デューリー]]、[[キンクス]]、[[ローリング・ストーンズ]]、[[ザ・フー]]、[[エレクトリック・ライト・オーケストラ]]、[[マッドネス]]、[[ザ・ジャム]]、[[スモール・フェイセス]]、[[レッド・ツェッペリン]]、[[アイアン・メイデン]]、[[フリートウッド・マック]]、[[ポリス (バンド)|ポリス]]、[[ザ・キュアー]]、[[スクイーズ (バンド)|スクイーズ]]、[[シャーデー]]などがおり、これらが世界的な流れとなって、ロンドンの通りや振動するリズムからサウンドを得ている<ref name="Top40">{{cite book
|url = http://www.bbc.co.uk/london/content/articles/2006/04/06/garycrowley_londontop40_feature.shtml
|title = London's top 40 artists
|date = 6 April 2006
|publisher = British Broadcasting Corporation London
|accessdate = 9 September 2008
|isbn = 978-0-89820-135-2
}}</ref>。
ロンドンは[[パンク・ロック]]発展の地となり<ref name="london_172">{{cite web
|url = http://www.allmusic.com/style/punk-ma0000002806
|publisher = allmusic
|title = Punk
|accessdate = 2012-07-26
}}</ref>、[[セックス・ピストルズ]]や[[ザ・クラッシュ]]<ref name="Top40"/>、[[ヴィヴィアン・ウエストウッド]]らがロンドンを拠点としていた。1980年代以降のロンドン出身のミュージシャンには、[[バナナラマ]]や[[ワム!]]、[[エスケイプ・クラブ]]、[[ブッシュ (バンド)|ブッシュ]]、[[イースト17]]、[[スージー・アンド・ザ・バンシーズ]]、[[スパイス・ガールズ]]、[[ジャミロクワイ]]、[[ザ・リバティーンズ]]、[[ベイビーシャンブルズ]]、[[ブロック・パーティ]]、[[エイミー・ワインハウス]]、[[アデル (歌手)|アデル]]、[[コールドプレイ]]、[[ジョージ・マイケル]]が含まれている<ref name="Scene">{{cite web
|url = http://www.londonbc.co.uk/history-of-music-in-london.html
|title = History of music in London
|publisher = The London Music Scene
|accessdate = 2 August 2009
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK9hhlR?url=http://www.londonbc.co.uk/history-of-music-in-london.html
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
ロンドンはまたアーバン・ミュージックの中心である。とりわけ[[UKガラージ]]、[[ドラムンベース]]、[[ダブステップ]]、[[グライム]]といったジャンルについては、地元のドラムンベースに加えて、海外の[[ヒップホップ]]や[[レゲエ]]といったジャンルから、この街で進化したものである。{{仮リンク|BBC 1Xtra|en|BBC 1Xtra}}はブラック・ミュージックの放送局で、イギリスでのアバーン・ミュージックの発展をサポートしている。
== スポーツ ==
=== 国際大会 ===
[[File:Centre Court roof.jpg|thumb|right|[[2010年ウィンブルドン選手権]]の[[センターコート]]]]
ロンドンでは、[[夏季オリンピック]]が[[1908年ロンドンオリンピック|1908年大会]]、[[1948年ロンドンオリンピック|1948年大会]]、[[2012年ロンドンオリンピック|2012年大会]]の3度開催されている<ref name="london_173">{{cite web
|url = http://www.olympic.org/london-1908-summer-olympics
|title = London 1908
|publisher = International Olympic Committee
|accessdate = 5 February 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoK9wPnn?url=http://www.olympic.org/london-1908-summer-olympics
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref><ref name="london_174">{{cite web
|url = http://www.olympic.org/london-1948-summer-olympics
|title = London 1948
|publisher = International Olympic Committee
|accessdate = 5 February 2011
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKBZHIo?url=http://www.olympic.org/london-1948-summer-olympics
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。2005年7月に、2012年の夏季オリンピックや[[パラリンピック]]の開催都市に選出され、「一つの都市では史上初」となる3度目の夏季オリンピック開催都市となった<ref name="IOC" />。
また、1934年の[[1934年コモンウェルスゲームズ|コモンウェルスゲームズ]]の開催都市でもあった<ref name="london_175">{{cite web
|url = http://www.thecgf.com/countries/intro.asp?loc=ENG
|title = England — Introduction
|publisher = Commonwealth Games Federation
|accessdate = 3 November 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKDfTeZ?url=http://www.thecgf.com/countries/intro.asp?loc=ENG
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。さらに2017年には[[2017年世界陸上競技選手権大会|世界陸上]]が開催されている<ref>{{cite web
|url = http://www.gamesbids.com/eng/other_news/1216135963.html
|title = London Defeats Doha to host 2017 International Athletics Championships
|publisher = Gamesbids.com
|accessdate = 13 December 2011
}}</ref>。
=== サッカー ===
{{Main|ビッグロンドン・ダービー|ロンドン・ダービー}}
[[ファイル:Wembley Stadium, illuminated.jpg|thumb|right|サッカーの聖地である[[ウェンブリー・スタジアム]]]]
ロンドンで圧倒的にポピュラーな[[スポーツ]]は[[サッカー]]であり、40チーム以上の[[イングリッシュ・フットボールリーグ|フットボールリーグ]]のクラブチームがあり、[[アーセナルFC]]、[[チェルシーFC]]、[[トッテナム・ホットスパーFC]]、[[ウェストハム・ユナイテッドFC]]、[[クリスタル・パレスFC]]、[[フラムFC]]など6つの[[プレミアリーグ]]のクラブが含まれる。さらに著名な[[ダービーマッチ]]も複数存在しており、[[ビッグロンドン・ダービー]]を筆頭に、[[ノース・ロンドン・ダービー]]や[[ウェスト・ロンドン・ダービー]]等が挙げられる。
[[1924年]]から元の[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]は[[サッカーイングランド代表]]の[[本拠地]]であり、[[FAカップ]]の決勝や他競技では[[ラグビーリーグ]]の[[チャレンジカップ (ラグビーリーグ)|チャレンジカップ]]などが行われてきた<ref name="london_178">{{cite web
|url = http://www.wembleystadium.com/GloriousPast/greatmoments/1steverwembleyFACupFinal.htm
|title = Wembley Stadium History — Official Website
|publisher = Wembley National Stadium Limited.
|accessdate = 29 April 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080403102710/http://www.wembleystadium.com/GloriousPast/greatmoments/1steverwembleyFACupFinal.htm
|archivedate = 2008年4月3日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
[[21世紀]]に入って建てられた新しい[[ウェンブリー・スタジアム]]は、前にあった[[スタジアム]]同様の目的で収容人員は9万人である<ref name="Wembley Stadium Facts and Figures">{{Cite journal
|url = http://www.wembleystadium.com/pressbox/presspack/factsandFigures.htm
|title = Wembley Stadium — Presspack — Facts and Figures
|publisher = Wembley National Stadium Limited
|accessdate = 6 June 2008
|ref = harv
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080516051636/http://www.wembleystadium.com/pressbox/presspack/factsandFigures.htm
|archivedate = 2008年5月16日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
=== クリケット ===
[[File:Lords-Cricket-Ground-Pavilion-06-08-2017.jpg|thumb|right|クリケットの聖地である[[ローズ・クリケット・グラウンド]]]]
[[クリケット]]はロンドンで非常に人気が高いスポーツである。[[テスト・クリケット]]で使用されるスタジアムは[[シティ・オブ・ウェストミンスター]]の[[ローズ・クリケット・グラウンド]]と[[ランベス区]]の[[ジ・オーバル]]がある。ローズ・クリケット・グラウンドは{{仮リンク|ミドルセックス・カウンティ・クリケット・クラブ|en|Middlesex County Cricket Club|}}の本拠地であり、その歴史的重要性から「クリケットの聖地」と言われる<ref>[https://www.joc.or.jp/games/olympic/london/map/16.html?mode=pc 16. ローズ・クリケット・グラウンドLord's Cricket Ground] 日本オリンピック委員会 2023年9月26日閲覧。</ref>。このスタジアムでは[[クリケット・ワールドカップ]]の決勝戦が史上最多の5度開催されている他、名門[[パブリックスクール]]同士の[[イートン・カレッジ]]と[[ハロウスクール]]の伝統の試合も200年以上行われている<ref>[https://www.lords.org/lords/our-history/father-time-wall/1805-the-first-eton-v-harrow-match-takes-place-at THE FIRST ETON V HARROW MATCH AT LORD'S] Lord's 2023年9月26日閲覧。</ref>。ジ・オーバルは{{仮リンク|サリー・カウンティ・クリケット・クラブ|en|Surrey County Cricket Club|}}の本拠地であり、1880年に初めて国際試合のテスト・クリケットが行われた<ref>[http://test-cricket-tours.co.uk/page_1626918.html Test Cricket Tours - Australia to England 1880] Test Cricket Tours 2023年9月26日閲覧。</ref>。このスタジアムはサッカーにとっても重要な場所であり、イングランド初の国際試合のスコットランド戦やFAカップ決勝戦も行われていた。[[2003年]]に従来のクリケットとは異なり2、3時間程度で試合が終了する[[トゥエンティ20]](T20)形式が導入された。この試合形式の[[ICC T20ワールドカップ|T20ワールドカップ]]が2009年にイングランドで開催され、決勝戦はローズ・クリケット・グラウンドで行われた<ref>[https://www.espncricinfo.com/series/icc-world-twenty20-2009-335113/pakistan-vs-sri-lanka-final-356017/full-scorecard Final, Lord's, June 21, 2009, ICC World Twenty20] ESPN cricinfo 2023年9月26日閲覧。</ref>。
=== その他の競技 ===
ロンドンには4つの[[ラグビーユニオン]]のトップリーグである[[プレミアシップ・ラグビー|プレミアシップ]]のクラブチーム[[ロンドン・アイリッシュ]]、[[サラセンズ]]、[[ロンドン・ワスプス]]、[[ハーレクインズ]]があるが実際に現在ロンドンでプレーしているのは[[ハーレクインズ]]のみで、残りの3チームはグレーター・ロンドンの域外でプレーしている。[[サラセンズ]]はM25の域内で今もプレーしている<ref name="london_177">{{cite web
|url = http://www.premiershiprugby.com/clubs/index.php
|title = Premiership Rugby: Clubs
|publisher = Premier Rugby
|accessdate = 5 August 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKEiEV8?url=http://www.premiershiprugby.com/clubs/index.php
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。他に2部[[RFUチャンピオンシップ]]のクラブチームである[[ロンドン・スコティッシュFC]]がありホームマッチを行っている。他のロンドンのラグビーユニオンの伝統的なクラブチームには[[リッチモンドFC]]、[[ロズリンパークFC]]、{{仮リンク|ウエストコンブパークRFC|en|Westcombe Park R.F.C.|}}、[[ブラックヒースFC]]、[[ロンドン・ウェルシュRFC]]がある。ロンドンには現在、3つのプロの[[ラグビーリーグ]]のクラブチームがある。[[ロンドン・ブロンコズ]]は2020年シーズンは[[RFLチャンピオンシップ]]でプレーし、ロンドン北部の[[ハーリンゲイ・ロンドン特別区]]を拠点とする{{仮リンク|ロンドン・スコーラーズ|en|London Skolars}}は現在{{仮リンク|リーグ1 (ラグビーリーグ)|en|League 1 (rugby league)|label=リーグ1}}でプレーする。[[トゥイッケナム・スタジアム]]はロンドン南西部にあり、ラグビー専用競技場で収容人員は8万4,000人を擁し現在新しいサウススタンドが完成している<ref name="musiccap">{{Cite journal
|publisher = The Twickenham Rugby Stadium
|title = RFU apply for two additional concerts at Twickenham Stadium in 2007
|url = http://www.rfu.com/microsites/twickenham/index.cfm?StoryID=14822
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080625050620/http://www.rfu.com/microsites/twickenham/index.cfm?StoryID=14822
|archivedate = 2008年6月25日
|accessdate = 6 June 2008
|ref = harv
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
ロンドンでもっとも世界的に知られたスポーツイベントにはロンドン南西部の[[マートン・ロンドン特別区|マートン]]の[[ウィンブルドン (ロンドン)|ウィンブルドン]]にある[[オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ]]で毎年行われる[[ウィンブルドン選手権]]である<ref name="london_181">{{cite web
|url = http://www.wimbledon.org/en_GB/index.html
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080423182334/http://www.wimbledon.org/en_GB/index.html
|archivedate = 2008年4月23日
|title = Wimbledon — official website
|publisher = The All England Tennis and Croquet Club (AELTC)
|accessdate = 29 April 2008
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。他の大きなイベントには春に[[ロンドンマラソン]]があり、3万5,000人のランナーがシティ周辺の26.2マイル(42.2km)のコースを走る<ref name="london_182">{{cite web
|url = http://www.london-marathon.co.uk/site/
|title = Flora London Marathon 2008
|publisher = London Marathon ltd
|accessdate = 29 April 2008
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080426224024/http://www.london-marathon.co.uk/site/
|archivedate = 2008年4月26日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。陸上競技では夏に[[IAAFダイヤモンドリーグ]]・[[ロンドングランプリ]]が開催される。また[[ザ・ボート・レース]]が[[テムズ川]]の{{仮リンク|パットニー|en|Putney|}}と{{仮リンク|モルトレーク|en|Mortlake|}}の間で行われる<ref name="london_183">{{cite web
|url = http://www.theboatrace.org/
|title = The Oxford and Cambridge Boat Race — Official Website
|publisher = The Oxford and Cambridge Boat Race
|accessdate = 29 April 2008
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKHGidM?url=http://www.theboatrace.org/
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>。
==対外関係==
===姉妹都市・提携都市===
6大陸、46の場所にロンドンに因んだ名称の場所がある<ref name="london_184">Jack Malvern. [http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article5409039.ece Richmond, in Surrey, is the most widely copied British place name worldwide], Timesonline 29 December 2008. The original byline for the article in ''[[タイムズ|The Times]]'' of the same day was "The 55 corners of foreign fields that will be for ever ... Richmond" (page 9). Cites ''The Times Universal Atlas of the World''. https://webcitation.org/5yoKJBWF8?url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article5409039.ece</ref>。ロンドンの特別区は独自に世界の地域と姉妹都市の関係を結んでいる。[[グレーター・ロンドン・オーソリティー]]が結んでいる姉妹都市は以下の通り。
{{Div col|cols=3|small=yes}}
*{{flagicon|Colombia}} [[ボゴタ]], [[コロンビア]]
*{{flagicon|Bolivia}} [[ラパス]], [[ボリビア]]
*{{flagicon|Peru}} [[アレキパ]], [[ペルー]]
*{{flagicon|Germany}} [[ベルリン]], [[ドイツ]]<ref name="twinning">{{cite web
|url = http://www.inlondonguide.co.uk/london-sight-guide/interesting-facts-about-london.html London is twinned with New York, Moscow and Berlin.
|title = Interesting Facts About London
|publisher = insideguide to London
|accessdate = 27 July 2011
}}See Fact 2 by Big Ben photo.</ref>
*{{flagicon|India}} [[デリー]],[[インド]]<ref name="Mayor of London">{{cite web
|url = http://legacy.london.gov.uk/view_press_release.jsp?releaseid=1329
|title = Friendship agreement to be signed between London and Delhi
|date = 25 July 2002
|publisher = Mayor of London
|accessdate = 23 February 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKJLcvL?url=http://legacy.london.gov.uk/view_press_release.jsp?releaseid=1329
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
*{{flagicon|South Africa}} [[ヨハネスブルク]], [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]<ref>{{cite web
|url = http://www.joburg.org.za/content/view/833/131/#ixzz0PU5ypfol
|title = Twinning agreements
|work = Making Joburg an entry point into Africa
|publisher = City of Johannesburg
|accessdate = 28 August 2009
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091111023503/http://www.joburg.org.za/content/view/833/131#ixzz0PU5ypfol
|archivedate = 2009年11月11日
|deadlinkdate = 2017年9月
}} </ref>
*{{flagicon|Malaysia}} [[クアラルンプール]], [[マレーシア]]
*{{flagicon|Kuwait}} [[クウェート市|クウェートシティ]], [[クウェート]]
*{{flagicon|Russia}} [[モスクワ]], [[ロシア]]<ref name="twinning"/>
*{{flagicon|United States}} [[ニューヨーク]],[[アメリカ合衆国|アメリカ]]<ref>{{cite web
|url = http://www.london.gov.uk/mayor/international/city_partnerships/docs/new_york_partnership_agreement.pdf
|archiveurl = https://webcitation.org/5mxnSYQPt?url=http://www.london.gov.uk/mayor/international/city_partnerships/docs/new_york_partnership_agreement.pdf
|archivedate = 2010年1月22日
|title = The New York City-London sister city partnership
|last = Barfield
|first = M
|date = March 2001
|format = PDF
|publisher = Greater London Authority
|accessdate = 26 October 2009
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
*{{flagicon|Norway}} [[オスロ]], [[ノルウェー]]
*{{flagicon|Bangladesh}} [[シレット (バングラデシュ)|シレット]], [[バングラデシュ]]
*{{flagicon|China}} [[上海市|上海]], [[中華人民共和国|中国]]<ref>{{cite web
|url = http://www.shfao.gov.cn/wsb/english/Sister_Cities/u1a14240.html
|title = Shanghai Foreign Affairs
|publisher = Shfao.gov.cn
|date = 27 July 2009
|accessdate = 23 May 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKKcj5N?url=http://www.shfao.gov.cn/wsb/english/Sister_Cities/u1a14240.html
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
*{{flagicon|South Korea}} [[ソウル特別市|ソウル]], [[大韓民国|韓国]]
*{{flagicon|Iran}} [[テヘラン]], [[イラン]]
{{Div col end}}
以下の都市はロンドンと友好都市の関係を結んでいる。
{{Div col|cols=3|small=yes}}
*{{flagicon|Algeria}} [[アルジェ]], [[アルジェリア]]
*{{flagicon|Azerbaijan}} [[バクー]], [[アゼルバイジャン]]
*{{flagicon|China}} [[北京市|北京]], [[中華人民共和国|中国]]<ref>{{cite web
|url = http://www.gov.cn/misc/2006-04/10/content_250542.htm
|title = Beijing, London establish sister city ties
|publisher = Gov.cn
|date = 10 April 2006
|accessdate = 23 May 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKM2Hdx?url=http://www.gov.cn/misc/2006-04/10/content_250542.htm
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
*{{flagicon|Romania}} [[ブカレスト]], [[ルーマニア]]
*{{flagicon|Argentina}} [[ブエノスアイレス]], [[アルゼンチン]]
*{{flagicon|India}} [[デリー]], [[インド]]<ref name="Mayor of London"/>
*{{flagicon|Bangladesh}} [[ダッカ]], [[バングラデシュ]]<ref>{{cite web
|url = http://legacy.london.gov.uk/view_press_release.jsp?releaseid=1971
|title = Mayors of London and Dhaka, Bangladesh sign friendship agreement
|date = 10 September 2003
|publisher = Mayor of London
|accessdate = 23 February 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKOA8RF?url=http://legacy.london.gov.uk/view_press_release.jsp?releaseid=1971
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
*{{flagicon|Turkey}} [[イスタンブール]], [[トルコ]]
*{{flagicon|United States}} [[ロサンゼルス]], [[アメリカ]]<ref>{{cite web
|url = http://sistercitiesofla.com/page1/page57/page57.html
|title = London, UK
|publisher = Sister cities of Los Angeles, Inc.
|accessdate = 13 September 2010
|archiveurl = https://webcitation.org/5yoKORhmX?url=http://sistercitiesofla.com/page1/page57/page57.html
|archivedate = 2011年5月20日
|deadurl = no
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>
*{{flagicon|India}} [[ムンバイ]], [[インド]]
*{{flagicon|France}} [[パリ]], [[フランス]]<ref>{{cite web
|url=http://www.paris.fr/portail/politiques/Portal.lut?page_id=6587&document_type_id=5&document_id=16468&portlet_id=14974
|title = Les pactes d'amitié et de coopération
|publisher = Paris.fr
|accessdate = 23 May 2010
}}</ref>
*{{flagicon|Montenegro}} [[ポドゴリツァ]], [[モンテネグロ]]
*{{flagicon|Italy}} [[ローマ]], [[イタリア]]
*{{flagicon|Bulgaria}} [[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]], [[ブルガリア]]
*{{flagicon|Japan}} [[東京都]], [[日本]]
*{{flagicon|Croatia}} [[ザグレブ]], [[クロアチア]]
{{Div col end}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 文献 ==
*{{Cite book
|last=Ackroyd
|first=Peter
|title=London: The Biography
|publisher=Vintage
|location=London
|year=2001
|isbn=978-0-09-942258-7
|page=880
|ref=harv
}}
*{{Cite book
|last = Mills
|first = David
|title = Dictionary of London Place Names
|publisher = Oxford Paperbacks
|year = 2001
|isbn = 978-0-19-280106-7
|oclc = 45406491
|ref = harv
}}
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|London|London}}
;行政
* [https://www.london.gov.uk/ ロンドン公式サイト] {{en icon}}
;日本政府
* [https://www.uk.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在英国日本国大使館] {{ja icon}}
;観光
* [https://www.visitlondon.com/ ロンドン観光局]
* [https://www.visitbritain.com/jp/ja/ 英国政府観光庁 - ロンドン] {{ja icon}}
;その他
* {{Kotobank|ロンドン(イギリス)}}
{{London}}
{{夏季オリンピック開催都市}}
{{夏季パラリンピック開催都市}}
{{世界陸上競技選手権大会開催都市}}
{{コモンウェルスゲームズ開催都市}}
{{ヨーロッパの首都}}
{{メガシティ}}
{{Normdaten}}
{{Good article}}
{{デフォルトソート:ろんとん}}
[[Category:ロンドン|*]]
[[Category:イングランドの都市]]
[[Category:イングランドのローマ都市]]
[[Category:ヨーロッパの首都]] | 2003-04-26T12:18:33Z | 2023-12-29T21:11:59Z | false | false | false | [
"Template:Webarchive",
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"Template:Harvnb",
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"Template:Div col",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3 |
7,318 | インド料理 | インド料理(インドりょうり)は、インドに起源を持つ料理。特徴としては、様々なスパイスやハーブを多用することであるが、インドは広大であり、地域や民族、宗教、階層などにより、その食文化はきわめて多様である。
インド各地の食文化の多様な例として、コルカタなどのベンガル地方およびムンバイ以南の沿岸各地における魚介料理、パンジャーブ地方やデリー周辺地域におけるタンドリーチキンをはじめとする肉料理が挙げられる。また、南インドはインド国内でも特にヒンドゥー教徒の数が多く、グジャラート州ではジャイナ教がさかんであることから野菜料理にもそれぞれ特徴的なものがある。
インド料理は、民族や宗教によって料理も変化し、その食文化はきわめて多様であるが、基本的にはスパイスを多く用い、乳製品や油脂も多用される。伝統食には、北インド料理、南インド料理、ベンガル料理、ゴア料理がある。
北インドの料理はイランやアフガニスタンなど中東の食文化の影響を強く受けている。小麦産地であることを反映してナーン (ヒンディー語: नान) 、チャパーティー (ヒンディー語: चपाती) 、ローティー (ヒンディー語: रोटी) といったパンを主食とすることが多い。牛乳やダヒー(ヒンディー語: दही:ヨーグルト)、パニール(ヒンディー語: पनीर:フレッシュチーズ)、ギー(ヒンディー語: घी:澄ましバター)などの乳製品を用い、スパイスとしてクミン、コリアンダー、シナモン、カルダモンおよびこれらを配合したガラムマサラなどを多用する。米は香り高いバースマティー種が好まれる。ムルグ・タンドゥーリーなど、タンドゥールを用いた調理法も北インド料理の特徴の1つである。菜食主義者は南部インドよりは少なく、北部は南部よりも平均気温が5°前後低いためもあって、体温維持のために脂肪分の多い食事が好まれる。
インド国外のインド料理レストランは、パンジャーブ料理とムガル帝国の宮廷料理(ムグライ料理(en))を提供する北インド料理店がほとんどである。
南インドの料理は米飯が主食となっており、乳製品よりもココナッツミルク (ヒンディー語: नारियल का रस) を多用する。またスパイスも北インドのクミン (ヒンディー語: ज़ीला) の代わりにクロガラシ(ヒンディー語: सरसों)の種やカレーリーフ(オオバゲッキツの葉)を好んで用いる。油はギーよりもマスタードオイルやごま油が多く使われる。菜食主義者が多いため野菜や豆の料理が発達しているが、一方で魚を使った料理も多い。北インドで長粒種(インディカ種)が使われるのに対し、南インドの米は丸く、外見は短粒種(ジャポニカ種)に似ている。しかし粘り気は少なく、粘り気を抑えた炊飯法が好まれる。北インドほど油脂を使わないため、料理は比較的あっさりしている。
正餐(ミールス)は、バナナの葉を皿がわりにし、飯、サンバール、ラッサム、ヨーグルト、アチャール、チャトゥニー等を盛りつけ、手で混ぜて食べる。
東インドのベンガル地方およびバングラデシュで食べられている料理であり、米が主食とされる。フェンネルシード、ニオイクロタネソウ(英語版)の種、フェヌグリーク、クロガラシの種、クミンを合わせたパンチ・ポロンという配合香辛料を風味づけによく用いる。その他、白いケシの実(ポスト、posto)をしばしば煮込み料理やチャトゥニーなどに用いるのが特徴である。淡水魚はカーストを問わず非常に人気があり、ジョル (jhol)というスープにしたり、ダール(去皮して二つに割った小粒の豆類)と一緒に煮込んだりする。他の名物に、苦味のある野菜の煮物「シュクト」 (shukto) または「シュクタ」 (shukta) とチェナー(छेना, chhena)を用いた菓子類(チャムチャム /ベンガル語: চম চম、 ラショゴッラ /ベンガル語: রসগোল্লা、シャンデーシュ /ベンガル語: সন্দেশ 他)などがある。カレーに魚を入れるベンガルフィッシュカレーもベンガル料理特有のものである。
ゴアのカトリック教徒の料理は、旧宗主国ポルトガルの料理の影響を強く受けている。米を主食とし、魚介も好まれる。魚とココナッツをスパイスで煮込んだゴアフィッシュカレーが知られる。
インドでは珍しく豚肉の消費が盛んで、リングィーサなども食べられる。ゴア料理では、肉を酢とニンニクで煮込んだヴィンダルー(vindaloo)がよく知られ、鶏肉や羊肉の煮込み料理シャクティ(xacuti)、豚や羊のもつを煮込んだサラパテル(sarapatel)、鼓型をしたパン、ポイー(poee)、ケーキとプディングの中間のようなデザート、ベビンカ(bebinka)などがある。
戒律を理由として、ヒンドゥー教徒の上位カーストの者やジャイナ教の菜食主義のための料理が古くから発達している。その他にも、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シク教など菜食をする宗教が多い。イード・アル=アドハーなど肉の消費が宗教儀礼の中で重要な位置を占めるイスラム教では肉食が肯定される。また、屠畜業に携わるダリット(不可触民)の社会では、肉を食事に取り入れてきた長い伝統がある。このように、インドの菜食と非菜食の伝統は宗教やカーストとの関係が深く、街のレストランでは菜食主義者と非菜食主義者の席は明確に分けられており、両者が同席することはない。
インドの菜食料理では、脂やゼラチンなどを含む一切の動物の肉や動物を原料とする食材を使用せず、卵も使用しない。しかし動物を傷つけずに得られる乳製品はよく使用され、インドの菜食主義者のほとんどは乳菜食主義者(ラクトヴェジタリアン)である。さらに各種の豆類、穀類、ナッツなども使用する為、栄養学的に肉食は必要ともされていない。ヒンドゥー教やシーク教の寺院で参拝者に無料でふるまわれる聖餐は菜食料理である。
ジャイナの中でも最も敬虔な信者は、植物であっても葉、茎、豆だけを食べ、ニンジン (ヒンディー語: ग़ाजल) や大根 (ヒンディー語: मूली) 、ニンニク (ヒンディー語: लहसुन) 、タマネギ (ヒンディー語: प्याज़) 、芋などの根の部分を食べない。これは「土中の虫などの生き物を殺さないため」ということが理由の一つである。さらに「その部分が“体”にあたる」という考え、つまり枝葉ではなく本体部分を殺すことにつながるとの考えから、できる限り植物さえも殺生することを避けることによる。同様に、ハチを殺す危険の大きい蜂蜜なども摂らない。タマネギやニンニクなど五葷の摂取を避ける習慣はバラモンにも見られる。一方、西ベンガル州やアッサム州など東インドの菜食主義者は魚も食べるペスクタリアンであることが多い。
非菜食の料理にも多くの種類があり、中央アジアからムスリムの征服者によって伝えられたものが多い。戒律上、全てのヒンドゥーは牛を聖なるものとして食べず、全てのムスリムは豚を汚れているものとして食べないので、一般にそれら由来の物は使われず、鶏肉、羊肉、山羊肉、魚介類などが非菜食料理の主な食材となる。最もよく食べられる肉は比較的値段の安い山羊肉で、インドではマトンと英訳される慣例があるが羊の肉ではない。鶏肉は比較的値段が高い。インド国民の所得が増加するに従い、食肉の消費量は増加している。
インドにおける「カレー」(「カリー」)という言葉は、外来語である。インドの人たちにとって、香辛料を使った煮込み料理は数多くあり、それぞれをそれぞれの料理名で呼ぶものである。香辛料を多用するインドの料理を全て「カレー」と呼ぶのは、日本料理で言えば醤油を使ったおかずを全て同じ名前で呼ぶような乱暴な呼び方である。カレーの語源には諸説あるが、タミル語で「食事」を意味する「kaRi」という説が有力である。
そういう状況をよく知っている人間は、逆に「インドに『カレー』はない」と述べる場合もある。ただし旧支配国のイギリスが、一部のインド料理をカレーという名前でイギリス料理に取り入れたことにより、世界中に普及したのも事実である。インド人自身も、インド以外の国の人々向けにわかりやすく説明する上で、この「カレー」という言葉を使うようになっており、内外のインド料理店で「具材+カレー」とメニューに表記している例は多い。例えばラース・ビハーリー・ボースは、当時の日本のカレーを元来のインドのカレーとは違うとして、本格的な「インドカレー」を伝えた人物であるが、「カレーという呼称は間違っている」とはしなかった。
カレー粉もイギリス人による発明品である(詳細は該当項目参照)。南インドにはほかにカリー・ポディという配合香辛料があり、「カレー粉」と英訳されることがあるが、味も原料も異なる。
一般的なインド人の感覚として、右手は「浄」、左手は「不浄」のものとされる。そこで食事中に直接料理に触れるのはきれいに洗った右手のみであり、調理された食材の触感を楽しむため、また、本当に清潔であるものかどうかが不明であるため、スプーン・フォーク・ナイフなどの使用は基本的に嫌う。左手はトイレで用を足した際の処理をするためにも使われるため、せいぜい皿や水のグラスの外側に触れる程度に限られる。伝統的な作法ではスプーンなどを使わず、右手で直接パン類をちぎって汁物に浸すか、御飯を汁と混ぜて口に運ぶことになる。その際、親指・人差し指、中指までの指先の第二関節までを使うのがより上品とされる。ただし西洋の習慣に慣れた都会の人はスプーンやナイフを使うのにも抵抗がない傾向にある。また、ゆで卵の殻をむくときなど、どうしても両手を使わざるを得ない場合は両手を使う場合もある。
浄・不浄の感覚は、他にも徹底されており、揚げたり炒めたりする料理が多いのもインド料理の特徴である。これは、油で調理することで食品が浄化されるという観念に基づく。また食器に磁器・陶器よりも金属製のものが好んで使われるのも、土からできた前者よりも後者のほうが、より清浄であるとの考えからである。他者が手をつけた食べ物は穢れると考えられる。
さらにヒンドゥー教では、伝統的に「浄」と「不浄」の概念がカーストの概念に結びついている。下位カーストに属する人が触れた水や水分の多い食物は穢れると考えられ、かつては高位のカーストと下位のカーストに属する人同士が同じ席で食事をとることはおろか、水を受け渡すことすら忌避された。職業料理人には伝統的にバラモン出身者が多く、行楽や旅行に手作りの弁当を持参する習慣が根強く、家族が家で作った弁当を職場に配達するダッバーワーラーという業種が成立するのもこうした理由からである。近年でこそダリットの女性たちによるケータリング事業が成功した例もあるが、カースト差別が違法となった今日でも食にまつわる差別は報告されている。
インドの中華料理はコルカタに住む中国人によって紹介されたのが始まりといわれる。インドでの中華料理の人気は高く、特に大都市でよく普及している。クミンやコリアンダー、ターメリックなどでインド人好みの味付けがされており、豚肉や牛肉はほとんど使われず、逆にパニールなどインド料理の食材が用いられる例がある。インドの中華料理店では炒飯や炒麺、春巻き、チャプスイ、酢鶏、モモなどが食べられる。ドーサに炒麺など中華料理をはさむ例も見られる。
インド系移民と在外インド人の活動の結果として、インド料理は世界各地に定着している。特にイギリスや旧イギリス領のマレーシア、シンガポール、フィジー、ペルシア湾岸、ケニア、南アフリカ、トリニダード・トバゴ、ガイアナなどでは、インド料理が地元の食文化に溶け込んでいる。一例を挙げると、チキンティッカマサラはイギリス生まれのインド料理で、イギリスの国民食の1つと呼ばれている。ゴア料理はポルトガルとその植民地に伝播し、マカオ料理などに影響を与えた。また、カレー粉の普及により世界各地にカレー料理が生まれている。インドを発祥とするムルタバは、貿易を通して東南アジアに伝わり、現在では同地域やアラビア半島で食べられている。
日本では、中村屋のボースやイギリス海軍の影響になどにより、学校給食でカレーが取り入れられるなど、ラーメンと並びカレーライスが国民食となっている。全国各地では、その土地ならではの味付けや食材、コンセプトを用いた「ご当地カレー」も登場しており、日本独自の食文化となりつつある。
同じ南アジアであるネパール料理やスリランカ料理やモルディブ料理、かつてイギリス領インド帝国だったパキスタン料理、バングラデシュ料理でもスパイスを大量に使ったカレー状の料理が見られる。
日本では、大都会に伝統的な比較的高級なインド料理店がある一方、2010年代以降、各地に大衆向けのインド料理店が急増している。こうした店のなかには出稼ぎまたは定住したネパール人が経営・料理・サービスに従事していることが少なくない。 | [
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] | インド料理(インドりょうり)は、インドに起源を持つ料理。特徴としては、様々なスパイスやハーブを多用することであるが、インドは広大であり、地域や民族、宗教、階層などにより、その食文化はきわめて多様である。 | [[ファイル:Chennai Veg Thali.JPG|thumb|240px|さまざまなインド料理]]
'''インド料理'''(インドりょうり)は、[[インド]]に起源を持つ料理。特徴としては、様々な[[香辛料|スパイス]]や[[ハーブ]]を多用することであるが、インドは広大であり、[[インド#地域|地域]]や[[インド#人種・民族|民族]]、[[インド#宗教|宗教]]、[[カースト|階層]]などにより、その食文化はきわめて多様である<ref name=yamada>[[#山田|山田(2022)pp.2-3]]</ref>。
== 多様な食文化 ==
インド各地の食文化の多様な例として、[[コルカタ]]などの[[ベンガル地方]]および[[ムンバイ]]以南の沿岸各地における[[魚料理の一覧|魚介料理]]、[[パンジャーブ州 (インド)|パンジャーブ地方]]や[[デリー]]周辺地域における[[タンドリーチキン]]をはじめとする[[食肉|肉料理]]が挙げられる<ref name=yamada />。また、[[南インド]]はインド国内でも特に[[ヒンドゥー教徒]]の数が多く、[[グジャラート州]]では[[ジャイナ教]]がさかんであることから[[野菜|野菜料理]]にもそれぞれ特徴的なものがある<ref name=yamada /><ref name=sharedine>[https://sharedine.me/media/know-how/indian-cuisine シェアダイン編集部「インド料理とは。特徴や代表的な料理も合わせて解説」]</ref>。
インド料理は、民族や宗教によって料理も変化し、その食文化はきわめて多様であるが、基本的にはスパイスを多く用い、乳製品や油脂も多用される<ref name=sharedine />。伝統食には、北インド料理、南インド料理、ベンガル料理、ゴア料理がある<ref name=sharedine />。
== 地域による分類 ==
=== 北インド料理 ===
[[ファイル:Thali meal-Before.jpg|thumb|240px|right|北インドの[[ターリー]]]]
[[北インド]]の料理は[[イラン]]や[[アフガニスタン]]など[[中東]]の食文化の影響を強く受けている。小麦産地であることを反映して[[ナン|ナーン]] ({{lang-hi|नान}}) 、[[チャパティー|チャパーティー]] ({{lang-hi|चपाती}}) 、[[ロティ|ローティー]] ({{lang-hi|रोटी}}) といったパンを主食とすることが多い<ref name=sharedine />。[[牛乳]]や[[ダヒ|ダヒー]]({{lang-hi|दही}}:ヨーグルト)、[[パニール]]({{lang-hi|पनीर}}:フレッシュチーズ)、[[ギー]]({{lang-hi|घी}}:澄ましバター)などの乳製品を用い、スパイスとして[[クミン]]、[[コリアンダー]]、[[シナモン]]、[[カルダモン]]およびこれらを配合した[[ガラムマサラ]]などを多用する。[[米]]は香り高い[[バスマティ|バースマティー]]種が好まれる。[[タンドリーチキン|ムルグ・タンドゥーリー]]など、[[タンドール|タンドゥール]]を用いた調理法も北インド料理の特徴の1つである<ref name=sharedine />。菜食主義者は南部インドよりは少なく、北部は南部よりも平均気温が5°前後低いためもあって、体温維持のために脂肪分の多い食事が好まれる<ref name=sharedine />。
インド国外のインド料理レストランは、[[パンジャーブ料理]]と[[ムガル帝国]]の宮廷料理([[ムグライ料理]]([[:en:Mughlai cuisine|en]]))を提供する北インド料理店がほとんどである。
=== 南インド料理 ===
[[ファイル:Indianfoodleaf.jpg|thumb|240px|right|南インドのミールス]]
[[南インド]]の料理は米飯が主食となっており、乳製品よりも[[ココナッツミルク]] ({{lang-hi|नारियल का रस}}) を多用する<ref name=sharedine />。またスパイスも北インドの[[クミン]] ({{lang-hi|ज़ीला}}) の代わりに[[クロガラシ]]({{lang-hi|सरसों}})の種やカレーリーフ([[オオバゲッキツ]]の葉)を好んで用いる。油は[[ギー]]よりも[[マスタードオイル]]や[[ごま油]]が多く使われる。[[菜食主義|菜食主義者]]が多いため野菜や豆の料理が発達しているが、一方で魚を使った料理も多い<ref name=sharedine />。北インドで長粒種([[インディカ種]])が使われるのに対し、南インドの米は丸く、外見は短粒種([[ジャポニカ種]])に似ている。しかし粘り気は少なく、粘り気を抑えた炊飯法が好まれる<ref name=sharedine />。北インドほど油脂を使わないため、料理は比較的あっさりしている<ref name=sharedine />。
正餐(ミールス)は、[[バナナ]]の葉を皿がわりにし、飯、[[サンバール]]、[[ラッサム]]、[[ヨーグルト]]、[[アチャール]]、[[チャツネ|チャトゥニー]]等を盛りつけ、手で混ぜて食べる<ref name=sharedine />。
=== ベンガル料理 ===
{{main|バングラデシュ料理}}
[[ファイル:Macher Jhol.JPG|thumb|200px|right|魚のジョル]]
東[[インド]]の[[ベンガル地方]]および[[バングラデシュ]]で食べられている料理であり、米が主食とされる<ref name=sharedine />。[[フェンネル|フェンネルシード]]、{{仮リンク|ニオイクロタネソウ|en|Nigella sativa}}の種<ref group=注>欧米ではブラッククミンシードと呼ばれる。</ref>、[[フェヌグリーク]]、クロガラシの種、[[クミン]]を合わせた[[:en:Panch phoron|パンチ・ポロン]]という配合香辛料を風味づけによく用いる。その他、白い[[ケシ]]の実(ポスト、posto)をしばしば[[煮込み]]料理や[[チャツネ|チャトゥニー]]などに用いるのが特徴である。[[淡水魚]]は[[カースト]]を問わず非常に人気があり、[[ジョル (インド料理)|ジョル]] (jhol)という[[スープ]]にしたり、[[ダール]](去皮して二つに割った小粒の[[豆]]類)と一緒に煮込んだりする。他の名物に、苦味のある野菜の煮物「[[シュクト]]」 (shukto) または「シュクタ」 (shukta) と[[チェナー]](छेना, chhena)を用いた菓子類(チャムチャム /{{lang-bn|চম চম}}、 [[:en:Rasgulla|ラショゴッラ]] /{{lang-bn|রসগোল্লা}}、シャンデーシュ /{{lang-bn|সন্দেশ}} 他)などがある。カレーに魚を入れるベンガルフィッシュカレーもベンガル料理特有のものである<ref name=sharedine />。
=== ゴア料理 ===
{{see also|[[:en:Goan cuisine]]}}
[[ファイル:Vindalho.jpg|thumb|200px|right|[[ヴィンダルー]]]]
[[インドのカトリック|ゴアのカトリック教徒]]の料理は、旧宗主国[[ポルトガル料理|ポルトガルの料理]]の影響を強く受けている。米を主食とし、魚介も好まれる<ref name=sharedine />。魚とココナッツをスパイスで煮込んだゴアフィッシュカレーが知られる<ref name=sharedine />。
インドでは珍しく[[豚肉]]の消費が盛んで、[[リングィーサ]]なども食べられる。ゴア料理では、肉を[[酢]]と[[ニンニク]]で煮込んだ[[ヴィンダルー]](vindaloo)がよく知られ<ref name=sharedine />、[[鶏肉]]や[[羊肉]]の煮込み料理[[シャクティ (料理)|シャクティ]](xacuti)、豚や羊の[[もつ]]を煮込んだ[[サラパテル]]([[:en:Sarapate|sarapatel]])、[[鼓]]型をした[[パン]]、ポイー(poee)、[[ケーキ]]と[[プディング]]の中間のようなデザート、[[ベビンカ]](bebinka)などがある。
== 菜食料理と非菜食料理 ==
戒律を理由として、[[ヒンドゥー教徒]]の上位[[カースト]]の者や[[ジャイナ教]]の[[菜食主義]]のための料理が古くから発達している。その他にも、[[ヒンドゥー教]]、[[仏教]]、[[ジャイナ教]]、[[シク教]]など菜食をする宗教が多い。[[イード・アル=アドハー]]など[[食肉|肉]]の消費が宗教儀礼の中で重要な位置を占める[[イスラム教]]では[[肉食]]が肯定される。また、[[屠殺|屠畜]]業に携わるダリット([[不可触民]])の社会では、肉を食事に取り入れてきた長い伝統がある。このように、インドの菜食と非菜食の伝統は宗教やカーストとの関係が深く、街の[[レストラン]]では菜食主義者と非菜食主義者の席は明確に分けられており、両者が同席することはない。
インドの菜食料理では、脂や[[ゼラチン]]などを含む一切の動物の肉や動物を原料とする食材を使用せず、[[卵]]も使用しない。しかし動物を傷つけずに得られる[[乳製品]]はよく使用され、インドの菜食主義者のほとんどは乳菜食主義者(ラクトヴェジタリアン)である。さらに各種の豆類、穀類、[[種実類|ナッツ]]なども使用する為、栄養学的に肉食は必要ともされていない。[[ヒンドゥー教]]や[[シク教|シーク教]]の寺院で参拝者に無料でふるまわれる聖餐は菜食料理である。
ジャイナの中でも最も敬虔な信者は、植物であっても葉、茎、豆だけを食べ、[[ニンジン]] ({{lang-hi|ग़ाजल}}) や[[ダイコン|大根]] ({{lang-hi|मूली}}) 、[[ニンニク]] ({{lang-hi|लहसुन}}) 、[[タマネギ]] ({{lang-hi|प्याज़}}) 、[[芋]]などの根の部分を食べない。これは「土中の虫などの生き物を殺さないため」ということが理由の一つである。さらに「その部分が“体”にあたる」という考え、つまり枝葉ではなく本体部分を殺すことにつながるとの考えから、できる限り植物さえも殺生することを避けることによる。同様に、[[ハチ]]を殺す危険の大きい[[蜂蜜]]なども摂らない。タマネギやニンニクなど[[五葷]]の摂取を避ける習慣は[[バラモン]]にも見られる。一方、[[西ベンガル州]]や[[アッサム州]]など東インドの菜食主義者は魚も食べるペスクタリアンであることが多い。
非菜食の料理にも多くの種類があり、[[中央アジア]]から[[ムスリム]]の征服者によって伝えられたものが多い。戒律上、全てのヒンドゥーは[[ウシ|牛]]を聖なるものとして食べず、全てのムスリムは[[ブタ|豚]]を汚れているものとして食べないので、一般にそれら由来の物は使われず、[[鶏肉]]、[[羊肉]]、[[山羊肉]]、[[魚介類]]などが非菜食料理の主な食材となる。最もよく食べられる肉は比較的値段の安い[[ヤギ|山羊]]肉で、インドでは[[マトン]]と英訳される慣例があるが[[ヒツジ|羊]]の肉ではない。鶏肉は比較的値段が高い。インド国民の所得が増加するに従い、食肉の消費量は増加している<ref>{{Cite web|url=http://www.nydailynews.com/life-style/eats/india-changing-appetites-include-meat-article-1.1255861|title=India's Changing Appetites for Meat Challenges Traditional Values|publisher=[[デイリーニューズ (ニューヨーク)|New York Daily News]]|accessdate=2013-04-26|date=2013-02-05}}</ref>。
==「カレー」とインド料理 ==
インドにおける「カレー」(「カリー」)という言葉は、外来語である。インドの人たちにとって、[[香辛料]]を使った煮込み料理は数多くあり、それぞれをそれぞれの料理名で呼ぶものである。[[香辛料]]を多用するインドの料理を全て「カレー」と呼ぶのは、[[日本料理]]で言えば醤油を使ったおかずを全て同じ名前で呼ぶような乱暴な呼び方である。カレーの[[語源]]には諸説あるが、[[タミル語]]で「食事」を意味する「kaRi」という説が有力である{{要出典|date=2023年12月}}。
そういう状況をよく知っている人間{{誰|date=2023年12月}}は、逆に「インドに『カレー』はない」と述べる場合もある。ただし旧支配国の[[イギリス]]が、一部のインド料理をカレーという名前で[[イギリス料理]]に取り入れたことにより、世界中に普及したのも事実である。インド人自身も、インド以外の国の人々向けにわかりやすく説明する上で、この「カレー」という言葉を使うようになっており、内外のインド料理店で「具材+カレー」とメニューに表記している例は多い。例えば[[ラース・ビハーリー・ボース]]は、当時の日本のカレーを元来のインドのカレーとは違うとして、本格的な「インドカレー」を伝えた人物であるが、「カレーという呼称は間違っている」とはしなかった。
[[カレー粉]]もイギリス人による発明品である(詳細は該当項目参照)。南インドにはほかに[[カリー・ポディ]]という配合香辛料があり、「カレー粉」と英訳されることがあるが、味も原料も異なる。
== 「浄」と「不浄」 ==
一般的なインド人の感覚として、右手は「浄」、左手は「不浄」のものとされる。そこで食事中に直接料理に触れるのはきれいに洗った右手のみであり、調理された食材の触感を楽しむため、また、本当に清潔であるものかどうかが不明であるため、スプーン・フォーク・ナイフなどの使用は基本的に嫌う。左手はトイレで用を足した際の処理をするためにも使われるため、せいぜい皿や水のグラスの外側に触れる程度に限られる。伝統的な作法ではスプーンなどを使わず、右手で直接パン類をちぎって汁物に浸すか、御飯を汁と混ぜて口に運ぶことになる。その際、親指・人差し指、中指までの指先の第二関節までを使うのがより上品とされる。ただし西洋の習慣に慣れた都会の人はスプーンやナイフを使うのにも抵抗がない傾向にある。また、ゆで卵の殻をむくときなど、どうしても両手を使わざるを得ない場合は両手を使う場合もある{{要検証|date=2011年2月}}。
浄・不浄の感覚は、他にも徹底されており、揚げたり炒めたりする料理が多いのもインド料理の特徴である。これは、油で調理することで食品が浄化されるという観念に基づく。また食器に磁器・陶器よりも金属製のものが好んで使われるのも、土からできた前者よりも後者のほうが、より清浄であるとの考えからである。他者が手をつけた食べ物は穢れると考えられる。
さらにヒンドゥー教では、伝統的に「浄」と「不浄」の概念がカーストの概念に結びついている。下位カーストに属する人が触れた水や水分の多い食物は穢れると考えられ、かつては高位のカーストと下位のカーストに属する人同士が同じ席で食事をとることはおろか、水を受け渡すことすら忌避された。職業料理人には伝統的に[[バラモン]]出身者が多く、行楽や旅行に手作りの弁当を持参する習慣が根強く、家族が家で作った弁当を職場に配達する[[ダッバーワーラー]]という業種が成立するのもこうした理由からである。近年でこそダリットの女性たちによる[[ケータリング]]事業が成功した例もあるが、カースト差別が違法となった今日でも食にまつわる差別は報告されている<ref>{{Cite web|url=http://www.jstor.org/discover/10.2307/4417187?uid=3739864&uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&uid=3739256&sid=21102103082881|title=Caste Discrimination and Food Security Programme|publisher=Economic & Political Weekly|accessdate=2013-04-26|date=2005-09-24}}</ref>。
== 食材と料理 ==
{{see also|{{仮リンク|インド料理の一覧|en|List of Indian dishes}}}}
=== インド料理の食材 ===
[[ファイル:Indianspicesherbs.jpg|thumb|200px|right|様々な香辛料]]
[[ファイル:Homemade Paneer cottage cheese cut into cubes.JPG|サムネイル|200x200ピクセル|一般的に使用されるチーズ・[[パニール]]]]
[[ファイル:Curd in a traditional Manipuri earthen pot.JPG|サムネイル|200x200ピクセル|インドのヨーグルト・[[ダヒ|ダヒー]]]]
* カレーリーフ ({{lang-hi|कढ़ी पत्ता}} カリー・パッター) - オオバゲッキツの葉。南インドを中心に、スパイスと一緒に炒めて料理の風味づけに用いる。
* [[ワサビノキ]] ({{lang-ta|முருங்கை}} ムルンケイ) - 学名''Moringa oleifera''。果実を果菜としてサーンバールやラッサムの具とする。
* [[タマリンド]] ({{lang-hi|इमली}} イムリー) - 果肉を熱湯に溶かして甘酸っぱいチャトゥニーを作る。サーンバールやラッサムの酸味づけにも用いる。
* [[クラスタマメ]]<!--名称・綴り確認できず({{lang-hi|गवार्}})--> - 別名グアー豆。若い莢をサブジなど野菜料理に用いる。
* [[ケツルアズキ]]({{lang-hi|उड़द दाल}} ウラッド)- 皮を取り除いて二つに割ったものを煮てダールにする他、米と共に[[ドーサ]]の生地の主原料でもある。
* [[トウジンビエ]]({{lang-hi|बाजरा}} バージュラー) - 種子を製粉してローティーなどのパンを作る。[[ハリヤーナー州]]、[[グジャラート州]]、[[ラージャスターン州]]、[[マディヤ・プラデーシュ州]]でよく食べられている。
* [[ザクロ]]({{lang-hi|अनार}} アナール) - 粒を乾燥させたものをアナール・ダーナー({{lang-hi|अनार दाना}})と呼び、煮込み料理や[[チャツネ]]、ガラムマサラに加える。
*[[唐辛子]] - 15世紀[[新世界]]発見以後欧州にユーラシア大陸に伝わりイギリス東インド会社植民地時代にイギリス経由で伝来した比較的新しい香辛料。それ以前のインド料理には用いられていない。
** [[カイエンペッパー]] - 辛味を加えるための材量として用いられる
** [[ブート・ジョロキア]] - 東インド産の世界一辛いとされていた[[唐辛子]]。
* [[ティンブール]] - [[サンショウ]]属でありサンショウ同様辛味と香りを漬けるため見用いられる。[[ネパール]]-北インド周辺地域では[[唐辛子]]が伝来する前は辛料として主に用いられていた。
* [[ショウガ|ジンジャー]]/[[ガランガル]] - 辛味と香味を加えるために用いる。
* [[ヒハツ]] - [[デカン高原]]地域では[[唐辛子]]が伝来する前は辛料として主に用いられていた。
* [[フェヌグリーク]]({{lang-hi|मेथी}} メーティー) - 種子を香辛料、葉を葉菜として利用する。
* [[アダン]]({{lang-hi|केवड़ा}} キューラ)- 花から香料(エッセンス)を作り、菓子の香り付けに用いる。
* [[ベーサン]] ({{lang-en-short|[[w:Gram flour|Besan]]}}、{{lang-hi|बेसन}}) - [[ヒヨコマメ]]を挽いた粉。[[パコラ]]の衣やデザートなどに用いる。
* [[マサラ]]({{lang-hi|मसाला}}) - 配合香辛料の総称。ショウガ、ニンニクなど香味野菜が加わることもある。
* [[ガラムマサラ]]({{lang-hi|गरम मसाला}}) - [[シナモン]]、[[クローブ]]、[[ナツメグ]]を主とし、これに[[クミン]]、[[カルダモン]]、[[コショウ]]などを加えた配合香辛料。主に北インドで用いられる。
* [[チェナー]] ({{lang-hi|छेना}}) - 乳蛋白を酸([[レモン]]汁、[[ライム]]の汁、[[乳清]]など)で凝固させた、[[発酵]]させない[[フレッシュチーズ]]。主に菓子の材料とされる。
* [[パニール]] - チェーナーを[[豆腐]]状に押し固めたもの。パニールを使った多くの菜食料理がある。
* [[ダヒ|ダヒー]] ({{lang-hi|दही}}) - インドで作られる[[ヨーグルト]]の一種。現地では「カード」({{lang-en|curd}})と表現されることが多い。おかずとしてそのまま食べる他、[[ラーイター]]や[[ラッシー|ラッスィー]]、煮込み料理などに用いる。
* [[ギー]] (ghee, {{lang-hi|घी}}) - バターを弱火で加熱して糖分を[[キャラメル化]]させ、乳脂肪分のみを濾した[[澄ましバター]]の一種。水分と[[タンパク質]]が取り除かれるため、気温の高い地方でも腐敗しにくく、キャラメル化による独特の香ばしさが好まれる。調理用油として用いる他、パンにつけて食べたり、溶かして飯にかけて食べることも多い。
* [[マライ]](Malai) - インドの[[クロテッドクリーム]]。煮込み料理やデザートに利用される。
* [[テナガミズテング]] - 鮮魚は衣揚げなどにし、干物は煮込み料理やピクルスにする。
=== パン ===
* [[チャパティ|チャパーティー]] ({{lang-hi|चपाती}}) - 「アーター({{lang-hi|आटा}})」と呼ばれる[[コムギ|小麦]]の[[全粒粉]]で作る無発酵の薄焼きパン。茶色く、平たい。北インドでは最もポピュラーな主食である。
* [[プーリー (食品)|プーリー]] ({{lang-hi|पूरी}}) - チャパーティーを油で揚げたもの。揚げたては風船のように大きく膨らんでいる。
* [[バトゥーラー]] ({{lang-hi|भटूरा}}) - 油で揚げる点は上述のプーリーと同じだが、精白した[[小麦粉]]から作られ、生地にダヒやバターを練り込み、一定時間寝かせる点が異なる。特に北インドでは、[[チャナマサラ]](パンジャーブ風のヒヨコマメの煮込み)を付け合わせて食べる「[[チョーレー・バトゥーレー]] ({{lang-hi|छोले भटूरे}})」が[[朝食]]用の露天スナックとして人気が高い。
* [[ナン|ナーン]] ({{lang-hi|नान}} / {{lang-ur|نان}}) - 醗酵させた小麦粉の生地を木の葉状に焼いたパン。タンドゥールと呼ばれる窯で焼くのが正式のタンドゥーリー・ナンだが、オーブンで焼くこともある。
* [[ロティ|ローティー]] ({{lang-hi|रोटी}}) - 広義にはインドのパン類の総称。ただし同じ名称で、地域により様々な種類のパンを指す。中でも多くの場合、ナンと同じ生地を円盤状に焼いたものを言う。
* [[パラーター]] ({{lang-hi|पराठा}}) - チャパーティーの生地をのばし、油を塗り、折り畳むことを繰り返して油を層状に練り込み、薄くのばして焼いたもの。焼く前につぶしたジャガイモやカリフラワーを挟んだり練り込むこともある。パラタ、パロータともいう。
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ナン・インド料理.jpg|'''チャパーティー'''(右上は'''[[インディカ米]]''')
Puri.jpg|'''プーリー'''
Bhatoora.jpg|'''バトゥーラー'''
Naan-and-Curry-1.jpg|'''ナーン'''とカレー
Roti shiva.jpg|'''ローティー'''
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=== 米料理 ===
* チャーワル ({{lang-hi|चावल}}) - 白米に塩と油を加えて炊いた[[飯]]。もともと粘り気が少ない品種を茹でこぼすので、非常にあっさりしている。
* [[サフランライス]] ({{lang-hi|केसरिया चावल}}) - [[サフラン]]と共に炊き込み鮮やかな黄色に染めた飯。現地では祝い事の際食される。
* [[ピラフ|プラーオ]] ({{lang-hi|पुलाव}}) - 味付けをした炊き込みご飯。[[ピラフ]]と同語源。白米と同様、汁や炒め物と混ぜて食べる。
* [[ビリヤニ|ビリヤーニー]] ({{lang-hi|बिर्यानी}} / {{lang-ur|بریانی}}) - 具の多い炊き込み御飯。汁と混ぜずにこれ単体で食べてもよい。日本の[[赤飯]]のように祝いごとの際に食べる料理で、ナッツ、[[ドライフルーツ]]、着色料、[[バラ]]の花弁、ヴァルク (varq, {{lang-ur|ورق}}) と呼ばれる可食の[[金箔]]や[[銀]]箔などで美しく飾りつける。北インドでは[[バスマティ|バースマティー]]種の米が好んで用いられる。
* [[ストリング・ホッパー|イディアーッパ]]({{lang-ta|இடியாப்பம்}}) - 南インドの[[ライスヌードル]]。
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Basic saffron rice.JPG|'''サフランライス'''
Bengali Peas Pulao with Mutton Masala - Traditional Bengali Style.jpg|マトンの'''プラーオ'''
India food.jpg|ハイデラバーディー・ビリヤーニー(左)
Idiyappam.jpg|'''ストリング・ホッパー'''
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=== 野菜料理 ===
* [[アチャール]] ({{lang-hi|[[:hi:अचार|अचार]]}}) - 青い[[マンゴー]]、[[パラミツ|ジャックフルーツ]]、[[唐辛子]]、[[レモン]]などを香辛料と油などで漬け込んだ[[ピクルス]]。
* [[チャツネ|チャトゥニー]] ({{lang-hi|चटनी}}) - 果物やハーブ類から作るソース状の調味料。
* [[サンバール]] ({{lang-hi|संबार}} / {{lang-ta|சாம்பார்}}) - [[キマメ]] ({{lang-hi|[[:hi:अरहर दाल|मसूल]]}}) と各種の野菜を香辛料と一緒に煮込んだもの。南インドでよく食べられる。日本なら味噌汁のようなものにあたる。
* [[ラッサム]] ({{lang-hi|रस्सम}} / {{lang-ta|ரசம்}}) - 南インドの[[トマト]]やタマリンドベースの辛さと酸味の効いたスープ。
* [[サーグ]] ({{lang-hi|साग}}) - [[ホウレンソウ]]など青菜を煮込んだ料理。通常[[ジャガイモ]]やパニール、肉などが入る。
* [[サブジ]] ({{lang-hi|सब्ज़ी}} / {{lang-ur|سبزی}}) - 香辛料で香りをつけた油で野菜を蒸し炒めにした料理。
* [[ダール]] ({{lang-hi|दाल}}) - 皮をむいて挽き割った小粒の豆類、およびその煮込み。
* [[チョルバ|ショルバ]] ({{lang-hi|शोरबा}} / {{lang-ur|شوربہ}}) - [[スープ]]。肉が入ることもある。
* [[ベグニ]]({{Lang-bn|বেগুনী}}) - [[ナス]]に[[ベサン]](グラムフラワー)の[[生地 (食品)|衣]]を付け、[[油脂|油]]で[[揚げ物|揚げたもの]]<ref>{{cite book |year=1991|title=Uses of Tropical Grain Legumes: Proceedings of a Consultants Meeting, 27-30 Mar 1989, ICRISAT Center, India |url=https://books.google.com/books?id=GNKzAAAAIAAJ |publisher=ICRISAT |pages=108, 335 |isbn=978-92-9066-180-1}}</ref>。
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Lemon pickle in a plate1.jpg|レモンの'''アチャール'''
Pumpkin sambar.JPG|'''サンバール'''
Rasam Hot.JPG|'''ラッサム'''
Punjabi Sarsoon Ka Saag.JPG|'''サーグ'''
Dal_Makhani.jpg|'''ダール'''
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=== 肉料理 ===
[[ファイル:Tandoorimumbai.jpg|thumb|200px|right|[[タンドリーチキン|タンドゥーリ・ムルグ]]、[[ムンバイ]]]]
[[ファイル:Paubhajiindia.jpg|thumb|200px|right|[[キーマカレー|キーマ]]]]
* [[タンドリーチキン|タンドゥーリ・ムルグ]] (tandūri murgh, {{lang-hi|तंदूरी चिकन}} / {{lang-ur|تندوری مرغ}}) - 骨付きの鶏肉をスパイス、[[ヨーグルト]]、[[塩]]などで[[マリネ]]し、タンドゥールで焼いた香ばしい鶏料理。レストランでは、付け合わせに、[[ミント]]風味のヨーグルトと玉葱のスライスが出されることが多い。
* [[チキンティッカ|ムルグ・ティッカ]] (मुर्ग़ टिक्का) - 骨なしの鶏肉をマリネし、串に刺してタンドゥールで焼いた料理。これをトマトと[[クリーム (食品)|クリーム]]をベースにしたソースで煮込んだものがチキンティッカマサラである。
* [[ケバブ|シーク・カバーブ]] ({{lang-hi|सीख़ कबाब}} / {{lang-ur|سیخ کباب}}) - 羊肉や山羊肉の串焼き。
* [[キョフテ|コフタ]] ({{lang-hi|कोफ़्ता}} / {{lang-ur|کوفتہ}})- 香辛料の効いた[[ミートボール]]。野菜やナッツ、チェーナーなどから作る菜食コフタもある。
* [[コルマ]] ({{lang-hi|क़ोरमा}} / {{lang-ur|قورمہ}})- 肉をクリームとナッツのソースで煮込んだ料理。肉の代わりに野菜を使った菜食コルマもある。[[カシミール]]地方では様々な煮込み料理のこと。
* [[キーマカレー|キーマ]] ({{lang-hi|क़ीमा}} / {{lang-ur|قیمہ}}) - [[挽肉]]を炒めて煮込んだ料理。
* [[ハリーム]] ({{lang-ur|حلیم}}) - アラブ料理起源の、肉、麦、豆などから作られる煮込み料理。[[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]のハリームが有名。
* [[Chicken 65]] - 南インド発祥の、香辛料のきいた鶏の[[から揚げ]]。
=== 飲物 ===
{{see also|{{仮リンク|インドの飲み物一覧|en|List of Indian drinks}}}}
* [[ラッシー|ラッスィー]] ({{lang-hi|लस्सी}}) - [[ダヒ]](ヨーグルト)がベースの飲物。
* [[チャイ|チャーイ]] ({{lang-hi|चाय}}) - 紅茶。狭義にはインド式に茶葉を煮出して作る甘い[[ミルクティー]]。しかし高級な店やホテルではイギリス式に供されることも多い。[[マサラ|マサーラー]]・チャーイは基本のチャーイに香辛料を加えたもの。
* [[インディアンコーヒー]] - 南方で好まれるインド風の[[カフェオレ]]。チャーイと同様に香辛料を加えて飲むこともある。
:: [[ワイン]]については「[[インドワイン]]」、インド国内における[[ビール]]全般については「{{仮リンク|インドのビール|en|Beer in India}}」を参照。
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Salt lassi.jpg|'''ラッシー'''
Masala Chai.JPG|'''チャイ'''
Indiancoffee.jpg|'''インディアンコーヒー'''
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=== スナック(北インド) ===
* [[サモサ|サモーサー]] ({{lang-hi|समोसा}}) - 野菜の炒め煮を小麦粉の皮で三角形に包み、揚げたもの。
* [[パコラ]] ({{lang-hi|पकोड़ा}}) - ベーサンを水で溶いて香辛料と塩で味をつけた衣を具にからめて揚げた[[天ぷら]]風の料理。具材に使われるのは野菜が主で、[[かきあげ]]状のこともある。
* [[パーニープーリー]] ({{lang-hi|पानीपूरी}}、Panipuri) - 一口大のプーリーに穴を開け、中に味をつけたヒヨコマメやジャガイモ、スープを入れて食べるおやつ。
* [[キール (料理)|キール]] ({{lang-hi|खीर}}、Panipuri) - インド亜大陸発祥のライスプディング。
* [[アルチャット]] ({{lang-hi|आलू चाट}}、Alu chat)- ジャガイモを油で揚げ、香辛料とチャツネを加えて調理したもの。
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Samoussas.jpg|'''サモーサー'''
Pakoramumbai.jpg|'''パコラ'''
Making_Panipuri_at_home_04.JPG|'''パーニープーリー'''
Kheer.jpg|'''キール'''
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=== スナック(南インド) ===
* [[ドーサ]] ({{lang-hi|डोसा}} / {{lang-ta|தோசை}}) - [[ケツルアズキ]]と米を水に浸けて挽いたものを半日程度醗酵させ、鉄板で[[クレープ]]状に薄く焼いたもの。穏やかな酸味がある。野菜のスパイス炒めを中に巻いたものはマサラ・ドーサと呼ばれる。
* [[イドゥリー]] ({{lang-hi|इडली}} / {{lang-ta|இட்லி}}) - ドーサと同じ生地で作った凸レンズ型の蒸しパン。
* [[パーパド]] ({{lang-hi|पापड़}}) - [[ヒラマメ|レンズ豆]]、ベーサン、ケツルアズキや[[米粉]]で作った薄い[[クラッカー (食品)|クラッカー]]状の食品。北インドでもよく食べられている。
* [[ホッパー (料理)|アーッパ]]({{lang-ta|அப்பம்}})- 米粉とココナッツミルクから作るクレープ状の料理。
* [[モーダカ]]({{lang-mr|मोदक}})- 西インド・南インドで作られる伝統的な菓子。
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Dosa and Sambhar.jpg|南インドの代表的な軽食・[[ドーサ]]。奥は[[サンバール]]。
Idli Sambar.JPG|'''イドゥリ'''とサンバール
Stack of papadums.jpg|'''パーパド'''
Hoppers at house of dosas.jpg|'''アーッパ'''と'''エッグホッパー'''
MMutta-_Savouries1.JPG|'''モーダカ'''
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=== インドの中華料理 ===
{{See also|インド中華}}
インドの[[中華料理]]は[[コルカタ]]に住む[[中国人]]によって紹介されたのが始まりといわれる。インドでの中華料理の人気は高く、特に大都市でよく普及している。クミンやコリアンダー、[[ターメリック]]などでインド人好みの味付けがされており、豚肉や牛肉はほとんど使われず、逆にパニールなどインド料理の食材が用いられる例がある。インドの中華料理店では[[炒飯]]や[[炒麺]]、[[春巻き]]、[[チャプスイ]]、[[酢豚#酢鶏|酢鶏]]、[[モモ (料理)|モモ]]などが食べられる。ドーサに炒麺など中華料理をはさむ例も見られる。
=== 菓子 ===
[[ファイル:Indian sweet shop.jpg|thumb|200px|right|[[ワーラーナシー]]の[[グラブ・ジャムン]]を売る菓子店]]
* [[ソアン・パプディ]] ({{lang-hi|सोहन पापड़ी}}、[[:en:Sohan papdi|Sohan papdi]]) - [[砂糖]]、[[ヒヨコマメ]]の粉、[[ギー]]、[[乳|ミルク]]、[[カルダモン]]から作る四角い形をした綿菓子のような砂糖菓子。上に[[ピスタチオ]]やアーモンドを飾り付ける
* [[グラブ・ジャムン]] ({{lang-hi|गुलाब जामुन}}、Gulab jamun) - [[北インド]]で一般的なシロップ漬けの[[揚げ菓子]]。砂糖と[[コア_(乳製品)|コア]]を練り合わせた団子を揚げ、カルダモンと[[サフラン]]で香りづけした甘い[[シロップ]]に浸け込んだもの
* [[ハルヴァ|ハルワー]] ({{lang-hi|हलवा}}、Halva) - 主に北インドや東インドで見られる[[プディング]]状の菓子。素材は[[セモリナ]]やニンジンが一般的
* [[キール (料理)|キール]] ({{lang-hi|खीर}}、Kheer) - 北インドの[[ライスプディング]]
* [[ベビンカ]] (Bebinca) - 小麦粉、砂糖、ギーと[[ココナッツミルク]]から作るゴアのプディング
* [[モーダカ]] - 西インドと南インドで好まれる[[ダンプリング]]。おろした[[ココナッツ]]とジャガリー({{lang-en|jaggery}}/{{lang-hi|गुड़}} グル、[[黒砂糖]]の一種)を混ぜ合わせて米粉の生地で包み、蒸すか揚げたもの。別名モーダク({{lang-mr|मोदक}})、コラッカッタイ({{lang-ta|கொழுக்கட்டை}})、クドゥム({{lang-te|కుడుము}})など。
* [[ジャレビ]] ({{lang-hi|जलेबी}}/{{lang-ur|جلیبی}}) - 小麦粉と水で作った生地を揚げ油に絞り出して揚げ、シロップに浸けた菓子。
== 世界の料理への影響 ==
[[インド系移民と在外インド人]]の活動の結果として、インド料理は世界各地に定着している。特に[[イギリス]]や旧イギリス領の[[マレーシア]]、[[シンガポール]]、[[フィジー]]、[[ペルシア湾]]岸、[[ケニア]]、[[南アフリカ]]、[[トリニダード・トバゴ]]、[[ガイアナ]]などでは、インド料理が地元の食文化に溶け込んでいる。一例を挙げると、[[チキンティッカマサラ]]はイギリス生まれのインド料理で、イギリスの[[国民食]]の1つと呼ばれている。ゴア料理はポルトガルとその植民地に伝播し、[[マカオ料理]]などに影響を与えた。また、カレー粉の普及により世界各地にカレー料理が生まれている。インドを発祥とする[[ムルタバ]]は、[[貿易]]を通して[[東南アジア]]に伝わり、現在では同地域や[[アラビア半島]]で食べられている。
日本では、[[ラース・ビハーリー・ボース|中村屋のボース]]やイギリス海軍の影響になどにより、学校給食でカレーが取り入れられるなど、ラーメンと並びカレーライスが国民食となっている。全国各地では、その土地ならではの味付けや食材、コンセプトを用いた「ご当地カレー」も登場しており、日本独自の食文化となりつつある。
同じ[[南アジア]]である[[ネパール料理]]や[[スリランカ料理]]や[[モルディブ料理]]、かつて[[イギリス領インド帝国]]だった[[パキスタン料理]]、[[バングラデシュ料理]]でもスパイスを大量に使った[[カレー]]状の料理が見られる。
===日本のインド料理店===
日本では、大都会に伝統的な比較的高級なインド料理店がある一方、2010年代以降、各地に大衆向けのインド料理店が急増している<ref name=nhk />。こうした店のなかには[[ネパール#外国への出稼ぎ|出稼ぎまたは定住したネパール人]]が経営・料理・サービスに従事していることが少なくない<ref name=nhk>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/izon/20181005india.html |title=なぜ急増「街中のインド料理店」見えてきたものは|author=飯田暁子|work=NHK|date=2018年10月5日|accessdate=2023年6月23日}}</ref>。
== インド料理研究家 ==
{{Commons&cat|Cuisine of India|Cuisine of India}}
* レヌ・アロラ
* [[香取薫]]
* クマール・ニティ
* ハリ・オム
* ミラ・メータ
* 渡辺玲
* マドゥル・ジャーフリー
* [[辛島昇]]
* ナイル善己
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=山田智之|year=2022|month=4|title=インドの食と自然環境|publisher=[[帝国書院]]|journal=ChiReKo|volume=2022年度1学期号|page=2-3|ref=山田}}
== 外部リンク ==
* [https://sharedine.me/media/know-how/indian-cuisine シェアダイン編集部「インド料理とは。特徴や代表的な料理も合わせて解説」]
{{料理}}
{{アジア料理}}
{{Normdaten}}
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[[Category:地域別の料理]]
[[Category:インドの食文化|*]] | 2003-04-26T12:28:23Z | 2023-12-09T14:05:44Z | false | false | false | [
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7,319 | ラッシー | ラッシー(またはラッスィー、英語: Lassi、ウルドゥー語: لسّی、ヒンディー語: लस्सी) は、インドなど南アジアの地域で親しまれている飲み物で、ダヒー(ヨーグルト)をベースに作られる。濃さはどろっとしたヨーグルト状のものから、水分の多いさらっとしたものまである。特に名前の違いはなく、作る人や地方、好みによる。
塩気のある飲み物でラッシーに似ているがより水分が多く脂肪分が少ない。スパイシーなバターミルク。塩とクミンシードが通常加えられる。グジャラート州やラージャスターン州でよく飲まれる。 | [
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[[画像:Fatfreelassi.jpg|thumb|220px|ラッシー]]
[[画像:Lassi shop.jpg| right|thumb|220px|ラッシーの店]]
'''ラッシー'''(または'''ラッスィー'''、{{Lang-en|Lassi}}、{{Lang-ur|لسّی}}、{{Lang-hi|लस्सी}}) は、[[インド]]など[[南アジア]]の地域で親しまれている[[飲料|飲み物]]で、[[ダヒ|ダヒー]]([[ヨーグルト]])をベースに作られる。濃さはどろっとしたヨーグルト状のものから、[[水分]]の多いさらっとしたものまである。特に名前の違いはなく、作る人や地方、好みによる。
== 種類 ==
;プレーン・ラッシー
:そのままの味。
;ミーティー・ラッシー मीठी लस्सी
:[[砂糖]]で甘みがついている。
;ナムキーン・ラッシー नमकीन लस्सी
:薄い[[塩味]]がついている。[[西アジア]]や[[バルカン半島]]のヨーグルト飲料([[アイラン]]など)とほぼ同じ。
;果物入りのラッシー
:各種の[[果物]]と混ぜ合わせて[[ミキサー (調理器具)|ミキサー]]で濃厚な[[ジュース]]または[[スムージー]]状にしたもの。
:;ケーラー・ラッシー केला लस्सी
::[[バナナ]]入り。
:;アーム・ラッシー आम लस्सी
::[[マンゴー]]入り。
:;パピーター・ラッシー पपीता लस्सी
::[[パパイヤ]]入り。
:;チークー・ラッシー चीकू लस्सी
::[[サポジラ]]入り。
:;ニンブー・ラッシー निंबू लस्सी
::[[レモン]]入り。
:;アールー・ラッシー आड़ू लस्सी
::[[モモ]]入り。
;その他
:;ケーサル・ラッシー केसर लस्सी
::[[サフラン]]入り。高価。
:;ズィーラー・ラッシー ज़ीरा लस्सी
::[[クミン]]入り。
:;プディーナー・ラッシー पुदीना लस्सी
::[[ミント]]入り。
:;バーング・ラッシー भांग लस्सी
::[[バングー|バーング]]([[アサ]]の葉と蕾をすりつぶしたもの)入り。
===チャース(Chaas,chaach)===
塩気のある飲み物でラッシーに似ているがより水分が多く[[脂肪]]分が少ない。スパイシーな[[バターミルク]]。[[塩]]とクミンシードが通常加えられる。[[グジャラート州]]や[[ラージャスターン州]]でよく飲まれる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[飲むヨーグルト]]
* [[インド料理]]
* [[パキスタン料理]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Lassi}}
* CuisineCuisine.com: [http://www.cuisinecuisine.com/Lassi.htm Lassi](英語。ラッシー、スイートラッシー、ソルティラッシー、[[マンゴー]]ラッシー、[[パイナップル]]ラッシーのレシピ)
* Fauzia's Pakistani Recipe: [http://www.angelfire.com/country/fauziaspakistan/fruitlassi.html Fruit Lassi](英語。フルーツラッシー)、[http://www.angelfire.com/country/fauziaspakistan/limecoconutmintlassi.html Lime, Coconut, Mint Lassi](英語。[[ライム]]と[[ココナッツミルク]]と[[ミント]]のラッシー)
* flickr.com: Photos tagged with [http://www.flickr.com/photos/tags/lassi/interesting/ lassi](写真)
* UKAsian.co.uk: [http://www.ukasian.co.uk/Lassi_Recipe.asp Lassi Recipe](英語。ラッシーのレシピ)
{{Portal bar|アジア|食}}
{{DEFAULTSORT:らつしい}}
[[Category:ソフトドリンク]]
[[Category:ヨーグルト飲料]]
[[Category:発酵乳製品]]
[[Category:インドの食文化]] | 2003-04-26T12:44:52Z | 2023-09-30T12:18:02Z | false | false | false | [
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7,321 | 石田純一 | 石田 純一(いしだ じゅんいち、本名:石田 太郎(いしだ たろう)、1954年〈昭和29年〉1月14日 - )は、日本のタレント、俳優、YouTuber。
東京都目黒区出身。血液型はA型。メロン所属(リクコーポレーション提携)。かつてはスカイコーポレーションに所属していた。
1954年1月14日、NHKアナウンサー・石田武の長男として東京都目黒区で出生。祖父は中外商業新報(現・日本経済新聞)記者で、政治部長や参事などを務めた石田武太郎。母親は女学校時代に原爆投下後の広島市に後片付けに入った入市被爆者。4歳までアメリカ・ワシントンで育つ。東京都立青山高等学校を経て、早稲田大学商学部中退。
最初の妻の府中市の緑の党社会運動部長星川まり(1955年 - 、作家・翻訳家の星川淳の実妹)とは、1970年代に知り合って結婚。1974年、純一が20歳の頃に長男・壱成が誕生。役者をやりたい純一に対して父・武は「子どものために安定した仕事を見つけろ」と怒りを爆発させた。
大学在学中、演出家となることを考えた石田は演劇を学ぶためにアメリカに渡った。東洋哲学に傾倒しており、ヒッピー的な志向であったまりとは、このアメリカ滞在中に離婚。帰国後の1978年には大学を中退、「演劇集団 円」の演劇研究所研究生となった。
「演劇集団 円」や、アクト青山ドラマティック・スクールでの下積み生活を経て、1979年にNHKドラマ『あめりか物語』(日系三世のタイ人の店員役)で正式にデビューする。当初は「石田 純」の芸名を使用していた(のちに現在の名前に改名)。1980年、父・武が、仕事中突然脳卒中で倒れ、左半身に麻痺が残り、NHKを退職した。父・武との溝を埋められないでいた純一は役者として芽が出ず、合わせる顔がなかった。
1984年の昼ドラ『夢追い旅行』で準主役で出演しその名を知られると、1985年から1989年にかけて放送されたクイズ番組『TVプレイバック』にレギュラー解答者に抜擢され、そのルックスと萩本欽一やザ・ドリフターズのメンバーにも臆することのない軽快な話術が受け、知名度が上がることとなった。また、1987年にはテレビ朝日の音楽番組『オリジナルコンサート』の司会を務めた。
そして、1988年にテレビドラマ『抱きしめたい!』(フジテレビ系列)に二宮修治役として出演したことから、数多くの「トレンディドラマ」に出演し、バブル期を代表する俳優として活躍した。当初、二宮修治役は陣内孝則が演じる予定であったが、陣内が同時期に放送されたテレビドラマ『結婚してシマッタ!』(TBS系列)に主演として起用されたためにダブルブッキングが発生。陣内が「役が大きい方」を選んで『抱きしめたい!』への出演を辞退し、さらに次候補として挙げられていた加藤雅也もスケジュールが合わなかったことから、同役が石田に回って来たという経緯がある。ただ、それまで俳優として芽が出なかったこと、それに所属事務所の社長を継いでほしいとの話もあったことから、石田自身は同作品への出演が俳優としてのキャリアの最後のつもりであったが、同作品の放映開始後から石田の人気が急上昇したことにより俳優を続けていくことになった。
1988年に女優の松原千明と再婚。1990年7月に長女・すみれが誕生。
しかし1991年10月、それまで石田が公表していなかった、星川との間に儲けた長男・壱成の存在が明らかになり、「隠し子」として『週刊女性』にスクープされる。また、石田もその事実を認めた声明を出したため大きく報じられた。壱成は翌1992年に、「石田純一の息子・いしだ壱成」として芸能界デビューし、以降親子での共演なども見られることとなった。
また、石田はファッションモデル・長谷川理恵との8年余りに及ぶ交際でも知られた。1996年10月、『フォーカス』のスクープを発端に長谷川との不倫についてマスコミから追及された石田は「文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある。作品が素晴らしければ褒め讃えられて、その人の行為は唾棄すべきものとは僕は思えない」と反論。平尾昌晃チャリティゴルフで芸能レポーターの取材に答える石田の姿は、「不倫は文化」というフレーズと共に繰り返し報じられた。結婚中の不倫と前述の発言による「不倫バッシング」によって、40代は一転して不遇の人生に転落することとなる。
不倫騒動にもかかわらず、1997年4月に『スーパーJチャンネル』のメインキャスターに就任し、月曜日から木曜日までレギュラー出演していた。しかし、8月にまたも『フォーカス』に長谷川との密会現場を撮られたことから、翌1998年4月に降板。降板日には生放送で落涙している。
完全に干されてしまった石田は1999年に2度目の離婚。全盛期に3億円あった年収はゼロになり、8000万円の借金ができるなど経済的にも困窮し、それまで住んでいた高級マンションは引き払おうにも引越し代がないという始末であった。この頃の状況について石田は後に、「時間を持て余すことが何よりも辛かった」と語っている。
「不倫は文化騒動」以降は、バラエティ番組や情報番組への出演に主軸をおいた活動が続いているが、完全に俳優業をやめた訳ではなく、2000年代以降も本業の俳優としての活動は継続している。
2009年にプロゴルファーの東尾理子と交際していることを公表。同年9月に出演したテレビのトーク番組において、翌春に理子と結婚することを発表した(実際には同年12月12日に結婚)。理子の実父で、元プロ野球選手の修は石田とほぼ同年代であり、この結婚によって石田より4歳(学年では3学年)だけ年上の義父となった。
結婚から3年後の2012年11月5日には、二人の間に男児・理汰郎が誕生した。翌2013年には理子夫人および理汰郎と共に同年度COTTON USAアワードを受賞している。2015年8月31日には理子夫人が第2子妊娠を報告し、2016年3月24日に女児が誕生。2017年11月7日、理子夫人が第3子妊娠を報告。自身のコラムでは「手間がかかることもあって、僕は3人目に必ずしも積極的ではなかった」と語っている。
2016年7月7日、舛添要一前東京都知事の辞職に伴う東京都知事選挙に「野党統一候補なら、出馬したい」と表明。しかし、民進党の松原仁都連会長は「実務経験がある方が必要。都政は極めて大きな舞台なので、一定の経験がないと大きな船を操れない」と擁立を拒否した。一方で、石田は出馬表明したことによる出演番組やCMなどの差し替えによる損害賠償が数千万円単位で発生していることを明かした。7月11日、石田は会見を開き「正式に断念します。いろいろとお騒がせしました」と陳謝した。その後、所属事務所はCMなどのスポンサー契約やテレビのレギュラー番組がある限り、応援演説など、政治問題に携わることは難しいことを明かした。
2020年4月15日、新型コロナウイルスに感染したことを公表した。所属事務所は当初、沖縄へ仕事で行き、宿泊先のホテルで体調を崩したと発表したが、一転、ゴルフ場でプレー中に体調を崩したと発表。沖縄県では玉城デニー知事が4月8日に「県外からの来県自粛と、沖縄県民の外出自粛要請」を出したばかりであり、石田が滞在したホテルは休館に追い込まれるなどしたため、強い批判を浴びた。その後、アビガンの投与を受けて治療を続け、5月12日に退院したことを翌日のブログで報告した。しかし、退院後に妻・理子の制止を振りきって、マスクをつけずに外食をしたことが報じられ、更なる批判を浴びた。
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"text": "2020年4月15日、新型コロナウイルスに感染したことを公表した。所属事務所は当初、沖縄へ仕事で行き、宿泊先のホテルで体調を崩したと発表したが、一転、ゴルフ場でプレー中に体調を崩したと発表。沖縄県では玉城デニー知事が4月8日に「県外からの来県自粛と、沖縄県民の外出自粛要請」を出したばかりであり、石田が滞在したホテルは休館に追い込まれるなどしたため、強い批判を浴びた。その後、アビガンの投与を受けて治療を続け、5月12日に退院したことを翌日のブログで報告した。しかし、退院後に妻・理子の制止を振りきって、マスクをつけずに外食をしたことが報じられ、更なる批判を浴びた。",
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] | 石田 純一は、日本のタレント、俳優、YouTuber。 東京都目黒区出身。血液型はA型。メロン所属(リクコーポレーション提携)。かつてはスカイコーポレーションに所属していた。 | {{告知|問題提起|息子の元妻・現妻について}}
{{存命人物の出典明記|date=2021年3月}}
{{ActorActress
| 芸名 = 石田 純一
| ふりがな = いしだ じゅんいち
| 画像ファイル = SONY VAIO 石田純一.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント = 2010年5月10日
| 本名 = 石田 太郎(いしだ たろう)
| 別名義 = 石田 純(デビュー時の芸名)
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[目黒区]]
| 国籍 =
| 民族 =
| 身長 = 177 [[センチメートル|cm]]
| 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]
| 生年 = 1954
| 生月 = 1
| 生日 = 14
| 職業 =[[タレント]]<br />[[俳優]]、[[司会|司会者]]<br />[[YouTuber]]
| ジャンル = [[バラエティ番組]]<br />[[映画]]、[[テレビドラマ]]
| 活動期間 = [[1979年]] - <!-- 没年または引退した年 -->
| 活動内容 = 1979年:ドラマ『あめりか物語』で正式デビュー
| 配偶者 = 星川まり(1970年代 - 1976年)<br />[[松原千明]](1988年 - 1999年)<br />[[東尾理子]]([[2009年]] - )
| 著名な家族 = [[石田武]](父)<br />[[石田桃子]](姉)<br />[[いしだ壱成]](星川との間の長男)<br />[[すみれ (モデル)|すみれ]](松原との間の長女)<br />[[星川淳]](かつての義兄)<br />[[東尾修]](義父)
| 事務所 = メロン
| 提携事務所 = リクコーポレーション
| 公式サイト = [https://www.ishidajunichi.com/ 石田純一オフィシャルサイト]
| 主な作品 ='''映画'''<br />『[[帝都物語]]』 <br />『[[愛と平成の色男]]』<hr />'''ドラマ'''<br />『[[夢追い旅行]]』<br />『[[抱きしめたい!]]』<br />『[[君の瞳に恋してる!]]』<br />『[[想い出にかわるまで]]』<br />『[[結婚の理想と現実]]』<br />『[[さよならをもう一度 (テレビドラマ)|さよならをもう一度]]』<br />『[[ジェラシー (テレビドラマ)|ジェラシー]]』<br />『[[長男の嫁]]』<br />『[[きのうの敵は今日も敵]]』<br />『[[仮面の女]]』<br />『[[不信のとき〜ウーマン・ウォーズ〜]]』
| アカデミー賞 =
| アリエル賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| エミー賞 =
| グラミー賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| ジェミニ賞 =
| ジニー賞 =
| セザール賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 =
| 備考 =
}}
'''石田 純一'''(いしだ じゅんいち、本名:石田 太郎(いしだ たろう)、[[1954年]]〈[[昭和]]29年〉[[1月14日]] - )は、[[日本]]の[[タレント]]、[[俳優]]、[[YouTuber]]。
[[東京都]][[目黒区]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。メロン所属(リクコーポレーション提携)。かつては[[スカイコーポレーション]]に所属していた。
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
1954年1月14日、NHKアナウンサー・[[石田武]]の長男として東京都目黒区で出生。祖父は[[中外商業新報]](現・[[日本経済新聞]])記者で、政治部長や参事などを務めた[[石田武太郎]]<ref name="shinshi36">[{{NDLDC|1145826/73}} 『日本紳士録 第36版』]東京イ、ヰの部80頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月9日閲覧。</ref><ref name="history">NHK『[[ファミリーヒストリー]]』(2015年1月16日放送)。</ref>。母親は[[女学校]]時代に[[広島市への原子爆弾投下|原爆投下後の広島市]]に後片付けに入った[[被爆者|入市被爆者]]<ref>{{Cite news |title=石田純一が亡き母が被爆者入市被爆者だったと明かす |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2017-8-18 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1874219.html|accessdate=2020-1-4 |archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0104-2250-27/https://www.nikkansports.com:443/entertainment/news/1874219.html|archivedate=2020-1-4}}</ref><ref>{{Cite news|url= https://smart-flash.jp/entame/90072/ |title= 石田純一、ツッパリで窓ガラスを割り「何度も停学」の中学時代 |newspaper= Smart FLASH |publisher= 光文社 |date= 2020-01-03 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。4歳まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ワシントン州|ワシントン]]で育つ。[[東京都立青山高等学校]]を経て、[[早稲田大学大学院商学研究科・商学部|早稲田大学商学部]]中退。
最初の妻の府中市の緑の党社会運動部長[https://greens.gr.jp/about/org/kyoudoudaihyouuneiiin/#hosikawa 星川まり](1955年 - 、作家・翻訳家の[[星川淳]]の実妹)とは、[[1970年代]]に知り合って結婚<ref name="nikkei20111224">食の履歴書 石田純一さん、『日本経済新聞』平成23年12月24日S3面。</ref>。1974年、純一が20歳の頃に長男・[[いしだ壱成|壱成]]が誕生。役者をやりたい純一に対して父・武は「子どものために安定した仕事を見つけろ」と怒りを爆発させた<ref name="history"/>。
大学在学中、[[演出家]]となることを考えた石田は[[演劇]]を学ぶためにアメリカに渡った。[[東洋哲学]]に傾倒しており、[[ヒッピー]]的な志向であったまりとは、このアメリカ滞在中に離婚。帰国後の[[1978年]]には大学を中退、「[[演劇集団 円]]」の演劇研究所研究生となった。
=== 俳優デビュー、スターダムへ ===
「演劇集団 円」や、[[アクト青山ドラマティック・スクール]]での下積み生活を経て<ref name="nikkei20111224" />、[[1979年]]に[[日本放送協会|NHK]]ドラマ『あめりか物語』(日系三世のタイ人の店員役)で正式にデビューする。当初は「'''石田 純'''」の[[芸名]]を使用していた(のちに現在の名前に改名)。1980年、父・武が、仕事中突然[[脳卒中]]で倒れ、左半身に麻痺が残り、NHKを退職した<ref name="history"/>。父・武との溝を埋められないでいた純一は役者として芽が出ず、合わせる顔がなかった<ref name="history"/>。
[[1984年]]の[[昼ドラ]]『[[夢追い旅行]]』で準主役で出演しその名を知られると、[[1985年]]から[[1989年]]にかけて放送されたクイズ番組『[[TVプレイバック]]』にレギュラー解答者に抜擢され、その[[ルックス]]と[[萩本欽一]]や[[ザ・ドリフターズ]]のメンバーにも臆することのない軽快な話術が受け、知名度が上がることとなった。また、[[1987年]]にはテレビ朝日の音楽番組『[[オリジナルコンサート]]』の司会を務めた。
そして、[[1988年]]にテレビドラマ『[[抱きしめたい!]]』(フジテレビ系列)に二宮修治役として出演したことから、数多くの「'''[[トレンディドラマ]]'''」に出演し、[[バブル時代|バブル期]]を代表する俳優として活躍した<ref name="nikkei20111224" />。当初、二宮修治役は[[陣内孝則]]が演じる予定であったが、陣内が同時期に放送されたテレビドラマ『[[結婚してシマッタ!]]』(TBS系列)に主演として起用されたためにダブルブッキングが発生。陣内が「役が大きい方」を選んで『抱きしめたい!』への出演を辞退し、さらに次候補として挙げられていた[[加藤雅也]]もスケジュールが合わなかった<ref name="SHINCHO190127">{{Cite web|和書|url= https://www.dailyshincho.jp/article/2019/01270731/?all=1|title=「石田純一」「加勢大周」が今だから語れる「トレンディドラマ」の舞台裏|publisher=[[デイリー新潮]]|date=2019-01-27|accessdate=2021-12-06}}</ref>ことから、同役が石田に回って来たという経緯がある。ただ、それまで俳優として芽が出なかったこと、それに所属事務所の社長を継いでほしいとの話もあったこと<ref name="SHINCHO190127" />から、石田自身は同作品への出演が俳優としてのキャリアの最後のつもりであった<ref name="SHINCHO190127" />が、同作品の放映開始後から石田の人気が急上昇したことにより俳優を続けていくことになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/04/11/kiji/20190411s00041000132000c.html|title=石田純一、陣内孝則が蹴った役で廃業一転ブレーク 年収「70万円から100倍」|publisher=[[スポーツニッポン]]|date=2019-04-11|accessdate=2019-04-11}}</ref>。
=== 2度目の結婚、「不倫は文化」発言騒動 ===
[[1988年]]に女優の[[松原千明]]と再婚。[[1990年]]7月に長女・[[すみれ (モデル)|すみれ]]が誕生。
しかし[[1991年]]10月、それまで石田が公表していなかった、星川との間に儲けた長男・壱成の存在が明らかになり、「[[隠し子]]」として『[[週刊女性]]』にスクープされる。また、石田もその事実を認めた声明を出したため大きく報じられた。壱成は翌[[1992年]]に、「'''石田純一の息子・[[いしだ壱成]]'''」として芸能界デビューし、以降親子での共演なども見られることとなった。
また、石田は[[ファッションモデル]]・[[長谷川理恵]]との8年余りに及ぶ交際でも知られた。[[1996年]]10月、『[[FOCUS|フォーカス]]』のスクープを発端に長谷川との[[不倫]]についてマスコミから追及された石田は「[[文化_(代表的なトピック)|文化]]や[[芸術]]といったものが不倫という恋愛から生まれることもある。作品が素晴らしければ褒め讃えられて、その人の行為は唾棄すべきものとは僕は思えない」<ref group="注">なお、これは前日に[[川島なお美]]から聞いた言葉をそのまま言ったものであり、石田のオリジナルではない。</ref>と反論。[[平尾昌晃チャリティゴルフ]]で[[芸能レポーター]]の取材に答える石田の姿は、「'''不倫は文化'''」というフレーズと共に繰り返し報じられた<ref>{{Cite news | title = 石田純一、"不倫は文化"書いた記者にまさかの感謝「素敵な人生になった」 | newspaper = [[マイナビ|マイナビニュース]] | date = 2016-05-30 | url = https://news.mynavi.jp/article/20160530-a419/ }}</ref>。結婚中の不倫と前述の発言による「不倫バッシング」によって、40代は一転して不遇の人生に転落することとなる<ref name="nikkei20111224" />。
不倫騒動にもかかわらず、[[1997年]]4月に『[[スーパーJチャンネル]]』のメインキャスターに就任し、月曜日から木曜日までレギュラー出演していた。しかし、8月にまたも『フォーカス』に長谷川との密会現場を撮られたことから、翌[[1998年]]4月に降板<ref>{{Cite news | title = 「不倫は文化」発言で「石田純一」の得たもの失ったもの | newspaper = [[新潮社|デイリー新潮]] (週刊新潮 2016年3月17日号) | date = 2016-03-17 | url = http://www.dailyshincho.jp/article/2016/03170510/?all=1 }}</ref>。降板日には生放送で落涙している。
完全に干されてしまった石田は[[1999年]]に2度目の離婚。全盛期に3億円あった年収はゼロになり、8000万円の借金ができるなど経済的にも困窮し、それまで住んでいた[[マンション|高級マンション]]は引き払おうにも引越し代がないという始末であった<ref name="nikkei20111224" />。この頃の状況について石田は後に、「時間を持て余すことが何よりも辛かった」と語っている<ref name="nikkei20111224" />。
「不倫は文化騒動」以降は、[[バラエティ番組]]や[[情報番組]]への出演に主軸をおいた活動が続いているが、完全に俳優業をやめた訳ではなく、2000年代以降も本業の俳優としての活動は継続している。
=== 3度目の結婚、都知事選出馬騒動 ===
[[ファイル:Ph0125-01b.jpg|サムネイル|2016年、妻の[[東尾理子]]と]]
[[2009年]]に[[プロゴルファー]]の[[東尾理子]]と交際していることを公表。同年9月に出演したテレビの[[トーク番組]]において、翌春に理子と結婚することを発表した<ref>『[[ロンドンハーツ]]』 2009年9月29日放送。</ref>(実際には同年[[12月12日]]に結婚)。理子の実父で、元プロ野球選手の[[東尾修|修]]は石田とほぼ同年代であり、この結婚によって石田より4歳(学年では3学年)だけ年上の義父となった。
結婚から3年後の[[2012年]]11月5日には、二人の間に男児・理汰郎<ref name = ritaro>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2012/11/09/0005515817.shtml |title= 石田&理子のベビーは「理汰郎」と命名 |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2012-11-09 |accessdate= 2012-11-10 }}</ref>が誕生した<ref>{{Cite news|url= https://beauty.oricon.co.jp/news/2018495/full/ |title= 石田純一が出産報告会見で涙 愛息子は東尾パパ似 |newspaper= eltha |publisher= oricon ME |date= 2012-11-06 |accessdate= 2012-11-06 }}</ref>。翌[[2013年]]には理子夫人および理汰郎と共に同年度[[COTTON USAアワード]]を受賞している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cottonusa.jp/cottonaward/winners.php|title=COTTON USAアワード 過去の受賞者|publisher=COTTON USA JAPAN|accessdate=2020-04-15|archiveurl= https://web.archive.org/web/20161127215458/http://www.cottonusa.jp/cottonaward/winners.php |archivedate= 2016-11-27}}</ref>。[[2015年]][[8月31日]]には理子夫人が第2子妊娠を報告し<ref>{{Cite web|和書|url= http://sp.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/08/31/0008354812.shtml#btnMore |title= 東尾理子 第2子妊娠「なんとか」 |publisher= デイリースポーツオンライン |date= 2015-08-31 |accessdate= 2015-08-31 }}</ref>、[[2016年]][[3月24日]]に女児が誕生<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2069068/full/|title=東尾理子、第2子女児出産を報告「キセキに感謝で胸がいっぱい」|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-25}}</ref>。[[2017年]][[11月7日]]、理子夫人が第3子妊娠を報告<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/11/07/kiji/20171107s00041000245000c.html |title= 41歳・東尾理子が第3子妊娠を発表「主人にはもう少し働いてもらわないと」 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2017-11-07 |accessdate= 2017-11-07 }}</ref>。自身のコラムでは「手間がかかることもあって、僕は3人目に必ずしも積極的ではなかった」と語っている<ref>週刊新潮 2016年11月24日号。</ref>。
[[2016年]][[7月7日]]、[[舛添要一]]前[[東京都知事]]の辞職に伴う[[2016年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に「[[野党]]統一候補なら、出馬したい」と表明。しかし、[[民進党]]の[[松原仁]]都連会長は「実務経験がある方が必要。都政は極めて大きな舞台なので、一定の経験がないと大きな船を操れない」と擁立を拒否した<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2016/07/08/0009265668.shtml |title= 民進都連 石田純一擁立に否定的「経験がない」 |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2016-07-08 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。一方で、石田は出馬表明したことによる出演番組やCMなどの差し替えによる損害賠償が数千万円単位で発生していることを明かした<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20160710-3ZA6YRKEZFOTLKQY5YGPN3CN4I/ |title= 石田純一、CM差し替えで賠償請求「数千万とか。天文学的数字」 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 産経デジタル |date= 2016-07-10 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。[[7月11日]]、石田は会見を開き「正式に断念します。いろいろとお騒がせしました」と陳謝した<ref>{{Cite news|url= https://www.sankei.com/article/20160711-P23XLFOYOZJQ3HMQ724TDP73TI/ |title= 【東京都知事選】石田純一氏が出馬断念「いろいろとお騒がせしました」 理由は…「メディアのルールやおきて」 |newspaper= 産経ニュース |publisher= 産経デジタル |date= 2016-07-11 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。その後、所属事務所はCMなどのスポンサー契約やテレビのレギュラー番組がある限り、応援演説など、政治問題に携わることは難しいことを明かした<ref>{{Cite news|url= http://www.hochi.co.jp/topics/20160715-OHT1T50052.html |title= 【都知事選】石田純一、鳥越氏の応援演説しない |newspaper= スポーツ報知 |publisher= 報知新聞社 |date= 2016-07-15 |accessdate= 2020-04-15 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20160716013319/http://www.hochi.co.jp/topics/20160715-OHT1T50052.html |archivedate= 2016-07-16}}</ref>。
=== コロナ騒動 ===
[[2020年]][[4月15日]]、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]に感染したことを公表した<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2160061/full/ |title= 石田純一、新型コロナウイルス感染 14日に肺炎で入院…15日に陽性と確認 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2020-04-15 |accessdate= 2020-4-15 }}</ref>。所属事務所は当初、[[沖縄県|沖縄]]へ仕事で行き、宿泊先のホテルで体調を崩したと発表したが、一転、[[ゴルフ場]]でプレー中に体調を崩したと発表。沖縄県では[[玉城デニー]]知事が4月8日に「県外からの来県自粛と、沖縄県民の外出自粛要請」を出したばかりであり、石田が滞在したホテルは休館に追い込まれるなどしたため、強い批判を浴びた<ref>{{Cite web|和書|date=2020-4-18|url=https://www.j-cast.com/tv/2020/04/18384537.html?p=all|title=「コロナ」をまき散らした石田純一に沖縄県民が怒りの声「誰とゴルフをするために来たの?」「医療崩壊寸前で死ぬほどおびえているのに」|publisher=JCAST ニュース|accessdate=2020-4-19}}</ref>。その後、[[ファビピラビル|アビガン]]の投与を受けて治療を続け<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202004220000434.html|title=コロナ感染の石田純一 アビガン処方され回復傾向に|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2020-04-22|accessdate=2020-04-23}}</ref>、[[5月12日]]に退院したことを翌日のブログで報告した<ref>{{Cite news|title=コロナ感染の石田純一が退院を報告「適切な治療と温かい看護のお陰です」|newspaper=東スポWeb|date=2020-05-13|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/191953|accessdate=2020-05-13}}</ref>。しかし、退院後に妻・理子の制止を振りきって、マスクをつけずに外食をしたことが報じられ、更なる批判を浴びた。
== 人物 ==
=== 趣味・嗜好 ===
* 芸能界きっての[[イタリア]]好き。[[ピザ|ピッツァ]]・[[マルゲリータ (ピッツァ)|マルゲリータ]]の発祥の店「Brandi」に訪店するためにナポリまで足を運んだことがある。イタリア車である[[フェラーリ]]も愛用しており、数十年に渡ってフェラーリを買い続けている。[[イタリア人]]の生まれ変わりと占い師に診断されたこともあり、本人もそれを信じている。
* 高校時代は野球部に所属し、エースで4番打者だった<ref name="gendai">{{Cite web|和書|url=http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/145536|title=日本シリーズ共演で発覚! 義父・東尾修を凌駕した石田純一のマニアック解説(1/2)|publisher=[[日刊ゲンダイ]]|date=2013-10-29|accessdate=2013-11-02}}<br/>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/145536/2|title=日本シリーズ共演で発覚! 義父・東尾修を凌駕した石田純一のマニアック解説(2/2)|publisher=日刊ゲンダイ|date=2013-10-29|accessdate=2013-11-02}}</ref>。[[日本プロ野球|プロ野球]]は熱烈な[[阪神タイガース]]の大ファン。野球オタクとも言われている<ref name="gendai" />。時折、[[東京ドーム]]や[[横浜スタジアム]]で阪神戦を観戦していると語っている。[[2013年]][[10月26日]]、[[文化放送]]の[[2013年の日本シリーズ|日本シリーズ]]中継に義父の東尾修と一緒に出演。この時に、試合の流れをメモしたり、[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]の[[アンドリュー・ジョーンズ]]の所属していた[[アトランタ・ブレーブス]]についてレクチャーしたり、楽天の[[枡田慎太郎]]の打撃について指摘したりなど、リスナーを驚かせる一面も披露していた<ref name="gendai" />。
* 健康管理もかねて、毎日必ず5キロの[[ジョギング|ランニング]]を行っている<ref>{{Cite news |url = https://gooday.nikkei.co.jp/atcl/column/16/031600001/031900002/ |title = 石田純一さん/5キロのランニングとスクワットで太らない“高燃費”のカラダに |newspaper = 日経Gooday |publisher = [[日経BP]] |date = 2016-03-22 |accessdate = 2021-10-02 }}</ref>。
* かつては[[喫煙|喫煙者]]であったが、[[1996年]]頃を境に[[禁煙]]をしており、[[2016年]]5月30日に行われた[[世界禁煙デー]]のイベントには妻の[[東尾理子]]と共に参加し、[[受動喫煙]]防止の呼びかけを行っている<ref>{{Cite news |url = https://www.sankei.com/article/20160530-WNSJUNYTBNL2VIBFSTA7I65FYY/ |title = 石田純一夫妻らが、世界禁煙デーに合わせ街頭キャンペーン |newspaper = [[産経新聞]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |date = 2016-05-30 |accessdate = 2021-10-02 }}</ref>。同イベントで肺年齢を測定したところ、当時の実年齢より8歳高い「70歳」であり、肺年齢「18歳」の理子とは52歳差であった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.qlife.jp/square/healthcare/story57053.html |title = 肺年齢は52歳差!?石田純一さん・東尾理子さん夫妻が「禁煙」呼びかけ |website = Qlife |date = 2016-05-31 |accessdate = 2021-10-02 }}</ref>。
=== ファッション ===
* 80年代後半、私服は[[ヴェルサーチ]]を愛用しており、『抱きしめたい!』出演時もヴェルサーチを着用していた。
* 「'''素足に革靴'''」のスタイルを意識し始めたのは、スリップオンに素足のファッションがかつて[[ミラノ]]で流行した事に遡る。以前はそれほど素足にこだわっていなかったが、北海道を訪れた時に靴下を着用していたのを地元民に「プロ根性がない」とダメ出しされてしまい、それ以降はこだわったと語っている(ゴルフシューズや極寒の地などで靴下を履く必要が生じた際には、外見からは靴下の存在が分かりにくいカバーソックスを着用することもある)。
=== 思想・信条 ===
* 2015年[[9月17日]]夜([[第189回国会]]会期中)、[[国会議事堂]]前で行われた[[平和安全法制]]関連法案に対する抗議活動に参加し、かつての言葉「不倫は文化」に引っ掛け「戦争は文化ではありません。戦後70年間の誇るべき平和を80年、100年と続けていこう」と反対を訴えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASH9K4SMMH9KUTIL02D.html|title=国会前、なお抗議 石田純一さん「戦争は文化ではない」|publisher=朝日新聞|date=2015-09-17|accessdate=2015-09-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150917125532/http://www.asahi.com/articles/ASH9K4SMMH9KUTIL02D.html|archivedate=2015-09-17}}</ref><ref>{{Cite news|title=石田純一が国会前で行ったスピーチの内容は?|date=2023-4-15|newspaper=タスマデュラス|url=https://tusmaduras.com/ishida/|accessdate=2023-4-15}}</ref>。また、[[集団的自衛権]]の必要性を否定し、個別的[[自衛権]]のみで十分であるとの考えも表明した<ref>{{Cite news|url= https://lite-ra.com/2015/09/post-1502.html |title= 石田純一が国会前デモで安保法案反対を叫んだ! 「戦争は文化ではありません」 |newspaper= LITERA |date= 2015-09-17 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。デモ参加時のスピーチがマスコミに大きく取り上げられたことで、スポンサー筋から疎まれテレビ番組3本とCM1本を降ろされ、また、いくつかの企業からは「二度と政治的言動をするな」と厳重注意を受けるも、石田は「それはできない」と返したという報道が[[週刊新潮]]から出た<ref>{{Cite news|url= https://lite-ra.com/2015/10/post-1565.html |title= 石田純一が安保法制反対で「圧力」を受けていた…テレビ番組、CMの出演キャンセル、厳重注意も |newspaper= LITERA |date= 2015-10-08 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref><ref>「ワイド ふとどきものと人のいう(4)『川島なお美』通夜でひんしゅくの『石田純一』が安保反対デモの後遺症」[[週刊新潮]]2015年10月15日号 本人の発言。</ref>。しかし、所属事務所のマネージャーは「そんなことないですよ」と報道を否定。スポンサー筋より「今後は気を付けて下さい」「安保法案には反対や賛成があり、企業の顔として、そういうお客さまの気持ちも汲んで下さい」と注意を受けたことは認めたものの、番組やCMの降板は事実ではないとした<ref>{{Cite news|url=https://www.j-cast.com/2015/10/09247560.html |title=石田純一、番組やCMの降板なかった 安保反対スピーチの影響は出たのか |newspaper=[[J-CASTニュース]] |date=2015-10-09|accessdate=2020-04-15}}</ref>。その後、石田は同年12月6日の集会でも壇上に上がり「世界一平和で安全な国をなぜ変える必要があるのか」と訴えている<ref>{{Cite news|url= http://mainichi.jp/articles/20151207/k00/00m/040/014000c |title= SEALDs | 銀座をデモ行進 「憲法守れ!」と数千人 |newspaper= 毎日新聞 |publisher= 毎日新聞社 |date= 2015-12-06 |accessdate= 2020-04-15 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20151206224029/http://mainichi.jp/articles/20151207/k00/00m/040/014000c |archivedate= 2015-12-06}}</ref>。
== エピソード ==
* 2003年4月6日、[[皇族]]の「[[有栖川宮]]」を騙った詐欺グループが開いた結婚披露宴に出席していた<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/flash/20140213588.shtml |title= 石田純一 皇族詐欺パーティー出席を反省「軽率だった」 |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2003-11-11 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。{{Main|有栖川宮詐欺事件}}
* 2012年6月24日、台湾のタレント・[[羅志祥]](SHOW/ショウ・ルオ)のCD発売イベントMAGIC&有我在に出席した際に「華流応援隊長」に任命された。羅志祥より任命状を授与され、台湾でも話題となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000080858|title=SHOW、石田純一登場に「本物だ!」と大興奮|publisher=BARKSニュース|date=2012-06-26|accessdate=2013-11-02}}</ref>。
* [[週刊文春]]の「嫌いな夫婦ランキング」(2013年11月28日号)で1位になった<ref>『週刊文春』2013年11月28日号、P139。</ref>。
* 2015年10月1日の[[川島なお美]]の[[通夜]]にて、参列していた石田が[[マスメディア|マスコミ]]に向かって、川島の出世作である「[[失楽園 (渡辺淳一の小説)|失楽園]]」の当初の主演予定者は自分であり、当時自分が推していた女優もいたが自分が別仕事で降板することになったので女優も代役で川島に決まったことを突如暴露し、物議をかもした<ref>{{Cite news|url= https://www.cyzo.com/2015/10/post_24280_entry.html |title= 石田純一が川島なお美さん葬儀で超“KY発言”マスコミからは「ボケたの?」と心配の声も…… |newspaper= 日刊サイゾー |publisher= 株式会社サイゾー |date= 2015-10-08 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。
* [[2016年]][[12月12日]]、美容イベントに登場した石田は、[[記者]]に当日午後発表の『[[今年の漢字]]』の予想を聞かれ「金ですかね。[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオ五輪]]で[[金メダル]]ラッシュだったし、[[マイナス金利]]というニュースもあったし」と述べると、同年の夏に突然石田が都知事選に出馬すると表明したことで莫大な[[番組]]や[[コマーシャルメッセージ|CM]]の差し替えの違約金が発生する事態となったことを報道陣から指摘され、「それも“金”に入ってますね」などと苦笑しながら「本当にお騒がせしました」と平謝りした。しかし、その2時間後に発表された『今年の漢字』で、奇しくも「金」が選ばれた<ref>{{Cite news|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2016/12/12/0009745162.shtml |title= 石田純一 「今年の漢字」2時間前に的中 美肌タレントの表彰式で「金」ですかね |newspaper= デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ |date= 2016-12-12 |accessdate= 2020-04-15 }}</ref>。
== 家族・親族 ==
; 石田家
* 祖父・'''[[石田武太郎]]'''<ref name="shinshi36"/>([[1890年]] - [[1934年]]、中外商業新報記者、政治家) - 現在の大阪府[[富田林市]]出身<ref name="history"/>、住所は[[東京府]]荏原郡[[碑衾町]]<ref name="shinshi36"/>(現・東京都目黒区)。
* 父・'''[[石田武]]'''([[1926年]] - [[1989年]]、NHKアナウンサー)
* 母・石田静江([[1928年]] - [[2007年]])
* 姉・'''桃子'''(音楽家、[[1950年]] - )
* 元妻
** '''星川まり'''(いしだ壱成の母、作家、翻訳家の[[星川淳]]の妹)
** '''[[松原千明]]'''(すみれの母、俳優の[[原健策]]の娘、[[1958年]] - [[2022年]] )
* 妻・'''[[東尾理子]]'''(プロゴルファー、タレント、[[1975年]] - ) - 純一・理子夫妻には一男二女の子がいる。
* 息子・'''いしだ壱成'''(俳優、ミュージシャン、[[1974年]] - ) - 星川との間の長男。
* 娘・'''[[すみれ (モデル)|すみれ]]'''(女優、歌手、タレント、[[1990年]] - ) - 松原との間の長女。
* 孫
; 親戚
* 岳父・'''[[東尾修]]'''(野球解説者、元プロ野球選手)
* 従兄・'''[[渡辺興二郎]]'''(元山口朝日放送社長)
== 出演 ==
=== 映画 ===
* 暴行儀式(1980年2月16日公開、[[にっかつ]]) - 真人 役
* [[鉄騎兵、跳んだ]](1980年8月16日公開、にっかつ) - '''主演・岩田貞二 役'''
* [[父よ母よ!]](1980年9月20日公開、[[松竹]]) - 冬樹 役 ※「'''石田 純'''」名義
* さらば、わが友 実録大物死刑囚たち(1980年11月15日公開、[[東映]]) - [[正田昭]] 役
* [[青春の門]](1981年1月15日公開、東映) - 平野 役
* アゲインスト むかい風(1981年11月28日公開、[[東映セントラルフィルム]]) - 松永進 役
* [[未完の対局]](1982年9月15日公開、[[東宝]]/日中合作映画) - 森川 役
* [[小説吉田学校]](1983年4月9日公開、東宝) - 須永一雄 役
* [[w: The Cowra Breakout (miniseries)|カウラ大脱走]](1984年、[[オーストラリア]]) - Junji Hayashi 役
* [[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]](1986年1月25日公開、東宝) - [[前原一誠]] 役
* 泣き虫チャチャ(1987年2月21日公開、松竹) - 小野田千春 役
* [[恋人たちの時刻]](1987年3月14日公開、東宝) - 寒川洋二 役
* [[星の牧場]](1987年6月13日公開、[[東映クラシックフィルム]]) - ジャム作りのフリュート 役
* [[帝都物語]](1988年1月30日公開、東宝) - 辰宮洋一郎 役
* ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー(1988年12月3日公開、[[プロモーティヴEye21]]) - 桂 役
* [[愛と平成の色男]](1989年7月8日公開、松竹) - '''主演・長島道行 役'''
* [[雪のコンチェルト]](1991年10月12日公開、松竹)
* 極道追踪(1991年制作・1996年2月10日公開、[[香港]]) - 浅野 役
* [[The AURORA 海のオーロラ]](2000年8月5日公開、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 甘利シンジ 役 ※声の出演<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20171201041148/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/13360| title = 海のオーロラ| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-10-20}}</ref>
* LADY PLASTIC(2001年9月29日公開、[[ハマーズ]]) - 本人 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20011208160239/http://www.hammers.co.jp/ladyplastic/index.html|title=公式ホームページ|publisher=HAMMERS|date=|accessdate=2022-10-07}}</ref>
* [[マネーざんす]](2001年11月24日公開、[[つんくタウンFILMS]])
* [[ハンサム★スーツ]](2008年11月1日公開、[[アスミック・エース]]) ※特別出演
* [[旅立ち〜足寄より〜]](2009年1月24日公開、[[エム・エフボックス]]) - 足寄駅長 役 ※友情出演
* [https://sanken-movie.com/ 散歩屋ケンちゃん](2023年7月7日公開)- 離婚した父親役 ※息子である[[いしだ壱成]]と初共演
* TURNING POINT 3(2023年10月14日、エンタメイティブ) <ref>{{Cite web|和書|title=映画「TURNING POINT 3」上映会を成功させたい! |url=https://camp-fire.jp/projects/view/691873 |website=camp-fire.jp |access-date=2023-09-28 |language=ja}}</ref>
=== テレビドラマ ===
* [[俺たちは天使だ!]] 第8話(1979年6月3日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 大木昭一 役 ※「'''石田 純'''」名義
* あめりか物語(1979年、[[日本放送協会|NHK]]) - 日系三世のタイ人の店員 役
* [[ミラクルガール]] 第5話「包囲網のメロディー」(1980年4月21日、[[テレビ東京|東京12チャンネル]])※「'''石田 純'''」名義
* [[噂の刑事トミーとマツ]]([[TBSテレビ|TBS]])
** 第26話「決戦!トミコ対マツコ」(1980年4月23日) - 野口タツヤ 役 ※「'''石田 純'''」名義
** 第57話「トミマツ腰抜け、女は魔物だ!」(1981年1月21日)
* [[銀河テレビ小説]]「[[太郎の青春]]」(1980年、NHK)- 桜岡一郎 役 ※「'''石田 純'''」名義
* [[なっちゃんの写真館]](1980年、NHK)
* [[ポーラテレビ小説]]「元気です!」(1980年 - 1981年、TBS)
* [[出逢い (テレビドラマ)|出逢い]](1981年、TBS) - 室崎功治 役
* [[日曜劇場|東芝日曜劇場]](TBS・[[CBCテレビ|中部日本放送]]・[[毎日放送]]・[[北海道放送]])
** 第1255回「朝の台所」(1980年12月28日)
** 第1264回「おかしな二人の物語」(1981年3月8日)
** 第1292回「[[ぼくの妹に|ぼくの妹に その8]]」(1981年9月27日)
** 第1311回「雪のワルツ」(1982年2月7日)
** 第1343回「大文字はもう秋」(1982年9月19日) ※[[松原千明]]と共演
* [[木曜ゴールデンドラマ]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])
** 「[[氷点]]」(1981年4月9日)
** 「娘よ!お前は殺人者か!?」(1983年7月7日)
* [[警視庁殺人課]] 第6話「殺意のコネクション」(1981年5月18日、[[テレビ朝日]])
* [[火曜サスペンス劇場]](日本テレビ)
** 「[[花氷 (松本清張)#テレビドラマ|松本清張の花氷]]」(1982年3月30日) - 小泉次郎 役
** 「[[坂道の家#1983年版|松本清張の坂道の家]]」(1983年2月8日) - 山口武豊 役
* [[土曜ワイド劇場]]「[[3DKの通り魔]]」(1982年8月28日、テレビ朝日) - 青山 役
* [[マルコ・ポーロ シルクロードの冒険]](1982年、TBS・イタリア[[RAI]]他) - [[チンキム]] 役
* [[愛の劇場|花王 愛の劇場]](TBS)
** 「[[母も娘も]]」(1983年) - 叶正彦 役
** 「[[失われた過去 (小説)|失われた過去]]」(1986年)
* [[大江戸捜査網]] 第589話「連続暴行魔 女風呂の罠」(1983年4月2日、テレビ東京) - 寺沢 役
* [[ザ・サスペンス]]「闇のよぶ声」(1983年7月16日、TBS) - 田村樹生 役
* [[セゾングループの映画事業|西武スペシャル]]「[[波の盆]]」(1983年11月15日、日本テレビ) - 文夫 役
* [[年下のひと]](1983年、[[東海テレビ放送|東海テレビ]])
* [[夢追い旅行]](1984年、東海テレビ) - 岩船一郎 役
* [[影の軍団IV]](1985年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - 菊次 役
* [[木曜ドラマストリート]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])
** 「払い戻した恋人」(1985年10月24日)
** 「独身看護婦」(1986年3月13日)
* [[このままじゃ、ボクの将来知れたもの]](1986年、日本テレビ) - 清原 役
* [[女ともだち (柴門ふみの漫画)#テレビドラマ|女ともだち]](1986年、TBS) - 井沢紀夫 役
* [[おんな風林火山]](1986年 - 1987年、TBS) - [[北条氏政]] 役
* [[関西テレビ制作・月曜夜10時枠の連続ドラマ|森村誠一サスペンス]]「殺意の重奏」(1987年2月2日、関西テレビ)
* [[月曜ドラマランド]]「セーラー服露天風呂卒業旅行」(1987年4月13日、フジテレビ)
* [[キスより簡単]](1987年、フジテレビ)
* [[荒野のテレビマン]](1987年、フジテレビ) - 岸上譲二 役
* [[太陽の犬]](1988年、日本テレビ) - 川井年男 役
* ドラマスペシャル「[[スパゲティー恋物語]]」(1988年4月14日、フジテレビ) - 室川雄一 役
* [[現代恐怖サスペンス2]]「選ばれた女」(1988年7月4日、関西テレビ)
* [[抱きしめたい!]](1988年、フジテレビ) - 二宮修治 役
** 抱きしめたい!'89(1989年3月30日) - 二宮修治 役
** 抱きしめたい!'90(1990年1月3日) - 二宮修治 役
* [[ドラマ23]]「愛と憎しみの河」(1988年7月、TBS) - 高木敏彦 役
* [[月曜ミステリー劇場|土曜ドラマスペシャル]]「嫉妬のウェディングドレス」(1988年8月20日、TBS)
* [[追いかけたいの!]](1988年、フジテレビ) - 水沢慎一 役
* [[君の瞳に恋してる!]](1989年、フジテレビ) - 森田茂樹 役
** 君の瞳に恋してる!スペシャル(1989年10月9日) - 森田茂樹 役
* [[ウルトラマンを作った男たち]](1989年3月21日、TBS) - 飯沢宏美 役
* [[オイシーのが好き!]](1989年、TBS) - 森村邦彦 役
* [[男と女のミステリー]](フジテレビ)
** 「お嬢さん現金に気をつけて!」(1989年6月9日)
** 「女と男が愛する時」(1990年10月19日) - 善三 役
* [[同・級・生]](1989年、フジテレビ) - 飛鳥浩史 役
* [[ホテル物語・夏!]] 第3話「子はアカガイ?」(1989年8月9日、TBS) - 北村啓二 役
* [[想い出にかわるまで]](1990年、TBS) - 高原直也 役
* [[東京ストーリーズ]] 第15回「CHEAP LOVERS」(1990年2月8日、フジテレビ)
* [[恋のパラダイス]](1990年、フジテレビ) - 牧原悠作 役
* [[結婚の理想と現実]](1991年、フジテレビ) - 芹沢耕平 役
* ドラマスペシャル「メロドラマ」(1991年3月28日、フジテレビ)
* [[ハイレグクィーンロマンス ピットに賭ける恋!]](1991年9月23日、フジテレビ) - 川村嘉章 役
* [[世にも奇妙な物語]](フジテレビ)
** 秋の特別編「開かずの踏切」(1991年10月3日) - '''主演・津田陽介 役'''
** 冬の特別編「熊の木本線」(1996年1月4日) - '''主演・私 役'''
* [[しゃぼん玉 (テレビドラマ)|しゃぼん玉]](1991年、フジテレビ) - 朝倉秀之 役
* [[さよならをもう一度 (テレビドラマ)|さよならをもう一度]](1992年、フジテレビ) - '''主演・高木修平 役'''
* 危険な微笑(1992年10月2日、TBS) - '''主演'''
* [[家族の食卓|家族の食卓'93]]「シスターズ」(1993年1月3日、フジテレビ)
* [[ジェラシー (テレビドラマ)|ジェラシー]](1993年、日本テレビ) - '''主演・尾崎真人 役'''
* [[金曜エンタテイメント]](フジテレビ)
** 「結婚式」(1993年5月7日) - '''主演'''
** 「[[ツインズな探偵|ツインズな探偵2 ホステス保険金殺人の罠!]]」(2000年7月7日) - 村田洋一 役
* [[大人のキス]](1993年、日本テレビ) - 安倍直人 役
* [[花王ファミリースペシャル]]「夢は世界のデザイナー ケンゾー・ジュンコの青春物語」(1993年、関西テレビ) - '''主演・[[高田賢三]] 役'''<ref group="注">高田賢三氏もまた、[[2020年]]9月に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|コロナ]]に罹患している(同年[[10月4日]]没)。</ref>
* [[長男の嫁]](1994年、TBS) - 中村健一郎 役
** 長男の嫁2 実家天国(1995年) - 源健一 役
* 秋のドラマスペシャル「さすらい料理長の隠し味 伊」(1994年10月7日、TBS) - '''主演・三島 役'''
* [[ヘルプ! (テレビドラマ)|ヘルプ!]](1995年、フジテレビ) - 北野克彦 役
* [[きのうの敵は今日も敵]](1995年、TBS) - '''主演・嵐公平 役'''
* クリスマスドラマスペシャル「[[海がきこえる|海がきこえる 〜アイがあるから〜]]」(1995年12月25日、テレビ朝日) - 大沢正太 役
* [[透明人間 (テレビドラマ)|透明人間]](1996年、日本テレビ) - 遠山達夫 役
* [[コーチ (テレビドラマ)|コーチ]](1996年、フジテレビ) - 岩佐英昭 役
* [[仮面の女]](1998年、TBS) - 宮路司郎 役
* 平成ミステリー事件簿「オッパイポロリ」(1999年3月18日、テレビ朝日)
* [[レガッタ〜国際金融戦争]](1999年、NHK) - 明石哲彦 役
* [[月曜ドラマスペシャル]]「世紀末!男コンパニオン物語」(1999年12月13日、TBS) - 広太郎 役
* [[フレーフレー人生!]](2001年、読売テレビ) - 大杉智也 役
* [[Shin-D]]「[[御臨終 (テレビドラマ)|御臨終(エントリーNo.1)権力への挑戦状]]」(2001年、日本テレビ) - '''主演'''
* 性と街〜モテる技術〜(2002年10月4日、フジテレビ) ※特別出演
* [[笑う三人姉妹]](2005年、NHK)
* [[水曜ミステリー9]]「約束 いつか、虹の向こうへ」(2005年7月31日、テレビ東京) - '''主演・尾木遼平 役'''
* [[DRAMA COMPLEX]]「[[指 (松本清張)#2006年版|松本清張スペシャル・指]]」(2006年2月21日、日本テレビ) - 三枝公明 役
* [[不信のとき〜ウーマン・ウォーズ〜]](2006年、フジテレビ) - 小柳新吾 役
* [[赤い糸の女]](2012年、東海テレビ) - 志村征行 役
* [[おトメさん]](2013年、テレビ朝日) - 水沢博行 役
* [[天国の恋]](2013年、東海テレビ) - 海老原邦英 役
* [[FNS27時間テレビ (2014年)|27時間テレビ]]スペシャルドラマ「俺たちに明日はある」(2014年7月26日、フジテレビ)
* [[僕らプレイボーイズ 熟年探偵社]](2015年、テレビ東京) - 由井虎次 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2053663/full/|title=平均年齢65歳 高橋克実主演ドラマに伊東四朗、角野卓造らが出演|publisher=[[オリコン|ORICON]]|date=2015-06-02|accessdate=2015-06-02}}</ref>
=== 舞台 ===
* TANZI(1983年、[[池袋サンシャイン]])
* ソールジャーズプレー(1987年、[[相鉄本多劇場]])
* 女殺油地獄(1988年、[[銀座セゾン劇場]])
* 愛しのジュリエット(2000年、[[銀座博品館劇場]]/[[福岡西鉄ホール]])
* ツキコの月〜そして、タンゴ(2005年、[[帝国劇場]]・[[中日劇場]])
* 雪まろげ(2007年、帝国劇場・[[博多座]])
* 女信長(2009年、青山劇場・シアターBRAVA!)
* 夫が多すぎて(2014年、シアタークリエ)
=== テレビ番組 ===
'''過去のレギュラー'''
; 報道・情報番組(ローカルも含めて)
{|class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller"
!colspan=2|期間!!番組名!!役職
|-
!1997年4月!!1998年3月
|[[スーパーJチャンネル]](テレビ朝日)||月~木曜日メインキャスター
|-
!2010年4月!!2019年3月
|[[おはよう朝日です]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]]→朝日放送テレビ)||水曜日コメンテーター
|-
!2012年4月!!2013年9月
|[[やじうまテレビ!]](テレビ朝日)||金曜日コメンテーター
|}
; その他
* [[NNNドキュメント]](日本テレビ)ナレーション
* [[石田純一の街の達人]]([[BS日本|BS日テレ]])司会
* [[TVプレイバック]](1985年 - 1989年、フジテレビ)
* [[オリジナルコンサート]](1987年、テレビ朝日)
* [[ライオンのわがまま夢中船]](1987年4月 - 6月、テレビ東京)サブ司会
* [[快傑!ドクターランド]](1992年10月 - 1993年3月、TBS)司会
* 1993年度[[ミス・ユニバース・ジャパン|ミス・ユニバース日本代表]]選出大会(1992年12月2日、朝日放送)司会
* 1994年度ミス・ユニバース日本代表選出大会(1993年12月8日、朝日放送)司会
* [[メトロポリタンジャーニー]](1996年4月 - 1997年3月、フジテレビ)前期はレギュラーパネリスト、後期は司会
* [[『ぷっ』すま]](テレビ朝日)
** 番組初期の常連ゲストで、MCの[[草彅剛]]と[[ユースケ・サンタマリア]]から準レギュラーとして扱われた。番組HPに「ジゴロ純一」として勝手に担当コーナーを作られる、草彅の自動車免許取得特番のプレゼンターを務める等、多数の企画に登場。
* [[人気者でいこう!]](朝日放送)
** [[芸能人格付けチェック]](例年1月1日) - 2013年まで常連出演。2014年以降は、1度も出演していない。自称『2代目ミスター格付け』と呼ばれている。
* 石田純一の恋愛病棟24時(2003年、[[テレビ山梨]])
* [[TA☆RO]](2006年 - 2008年、[[中京テレビ放送|中京テレビ]])司会
** [[SAKAE TA☆RO]](2008年 - 2009年)
* 石田ism([[スカパー!プレミアムサービス|スカイパーフェクTV!]]ハッピー241、[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]]、[[テレビ埼玉]])
* [[大人の自由時間]]・石田純一の「社会の窓」([[日本BS放送|BS11]])
* [[行列のできる法律相談所]](日本テレビ)準レギュラー
* 女子ラボ.TV([[京都放送|KBS京都]])メインコメンテーター
** 女子ラボリューション([[テレビ大阪]])
* [[世界の超豪華・珍品料理]](フジテレビ)
* TOKYOモダン商店(BS日テレ)司会
* 日テレポシュレ(BS日テレ)
* [[石田純一のサンデーゴルフ]] (テレビ東京、2018年4月8日 - 2020年6月28日)
* 石田純一のシネマに乾杯(朝日放送)
* 石田純一・さとう珠緒のカタカナ英会話([[千葉テレビ放送]]、2020年3月11日 - 4月29日)
=== ラジオ ===
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
'''過去のレギュラー'''
* NHK-FM・サラウンドドラマ「マージナル」(1988年、[[NHK-FM放送|NHK-FM]]) - グリンジャ 役
* 花王ウェイクアップパートナー(1988年 - 1992年、[[横浜エフエム放送|FM横浜]])
* JTB MY VACATION(1993年 - 1994年、[[エフエム大阪|FM大阪]])
* 石田純一のBACCHUSの森(1994年 - 1998年、[[エフエム仙台|FM仙台]])
* 石田純一のEvergreen Weekend(1996年10月、[[エフエム東京|FM東京]])
* 石田純一のNo Socks J Life(2013年10月1日 - 2020年9月22日、[[全国FM放送協議会|JFN]])
* [[斉藤一美 ニュースワイドSAKIDORI!]](2017年4月 - 2022年3月、[[文化放送]]) - 火曜→木曜レギュラーコメンテーター → 木曜隔週レギュラーコメンテーター
=== テレビアニメ ===
* アンデルセン・ストーリーズ([[カートゥーン ネットワーク]]) - [[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]] 役
=== 吹き替え ===
* [[プリティ・ウーマン]](1995年12月29日、TBS)- エドワード・ルイス<[[リチャード・ギア]]> 役
=== ウェブテレビ ===
* 全日本女子パリピ選手権(2018年5月12日 - 13日、AbemaTV)<ref>{{Cite web|和書|url=https://abema.tv/channels/special-plus/slots/E1aQvCmQG43KXD|title=【MC田村淳】全日本女子パリピ選手権~既にネット界隈バズってる!大好評番組復活~ |website= AbemaTV |publisher= ABEMA |accessdate=2018-05-27}}</ref> - 審査員
=== DVD ===
* 人生をポジティブに生きる25の方法(2006年、[[avex trax]])
=== CM ===
* [[カシオ計算機]]「スーパー電子手帳」「ハイパー電子手帳」(1988年 - 1990年)
* [[UCC上島珈琲]]「アロマージュ」(1989年)
* [[龍角散]]「クララ咳止め液」(1989年 - 1990年)
* [[とらばーゆ]](1991年)
* [[日本たばこ産業]]「[[フロンティア (たばこ)|フロンティア]]」
* [[千趣会]]「ベルメゾン」[[室井滋]]と共演
* [[ミツカン]]「ぽんしゃぶ・ごましゃぶ」「すき焼きのたれ」(1994年)/「追いがつお つゆ」(1995年)
* [[明治乳業]]「[[明治ブルガリアヨーグルト|ブルガリアヨーグルト]]」(1996年)
* [[第一製薬]]「センロックハーブ」(1996年)
* [[エイブル]](1996年)
* [[ノーベル製菓]]「はちみつきんかんのど飴」(2007年)[[杉本彩]]と共演
* オーダーメイドソリューションズ「ドクターペン ライト」[[中村玉緒]]と共演
* [[任天堂]]「[[Wii Sports Resort]]・[[岡村隆史]] VS 石田純一編」(2009年)ゲーム中にあるゴルフで[[ナインティナイン]]と共演
* [[夢の街創造委員会]]「[[出前館]]」[[篠原ゆき子|篠原友希子]]と共演
* [[新天町 (福岡市)|新天町(福岡県福岡市にある商店街)]]「イタリッチなクリスマス」(2010年)
* [[白元]]「ミセスロイド」(2010年 - 2011年)東尾修、東尾理子、[[ローラ (モデル)|ローラ]]、[[板野友美]]と共演
* [[三幸製菓]]「三つの幸せ物語 石田純一の癒しの粒よりセレクションプレゼントキャンペーン」(2011年)
* [[クラシエ薬品|クラシエ]]「[[八味地黄丸]]」(2011年)
* [[ミオヤマザキ]] FirstSingle民法第709条(2014年)
* [[ベストバイ (日本)|ベストバイ]]
* [[東京靴流通センター]](2014年 - 2015年)[[山口もえ]]と共演
* パチンコ湖月(大分県のパチンコのローカルCM・2015年)[[8.6秒バズーカー]]と共演
* [[ベガスベガス]](2015年)
* [[オートウェイ]](2015年 - 2017年)
* メモリード(2017年 - 2020年5月)
== ディスコグラフィ ==
=== アルバム ===
* EGOIST(1992年5月21日、[[バンダイ・ミュージックエンタテインメント|アポロン]](EMOTIONレーベル))
# MINT JULEP
# 砂金
# 詩人の宝石
# HOLLYWOOD ROMANCE
# 7時間の恋人
# 百萬弗STAR(ミリオン・ダラー・スター)
# ジゴロ
#:[[松本隆]]作詞、[[田島貴男]]作曲。日本テレビ系『[[モクスペ]]』「芸能人はずかし&新作映像100連発」(2007年11月1日)において、「IDTV(イメージダウンTV)」のコーナーで紹介された。また、[[TBSラジオ]]の『[[コサキンDEワァオ!]]』に於いても話題の曲となっていた。
# 熱くなれないランデヴー
# ノー・ノー・ボーイ
# NEVERTHLESS
=== シングル ===
* MINT JULEP/7時間の恋人(1992年5月21日、アポロン(EMOTIONレーベル))
** 「EGOIST」と同時リリースの8cmCDシングル。「MINT JULEP」は[[松本隆]]作詞・[[羽場仁志]]作曲。「7時間の恋人」は[[北川純子]]([[SHARA]])とのデュエット。
* 逆にそれって愛かもね(2006年11月22日)
** [[杉本彩]]と「'''純一&彩'''」名義でリリースされたシングル。
=== その他 ===
* デイリー新潮 石田純一のこれだけは言わせて(2018年 - )
* 法務省矯正支援官
== 著書 ==
* エッセイ『落ちこぼれのススメ』(2000年、[[光進社]])
* 『マイライフ』(2006年、[[幻冬舎]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 交詢社編『日本紳士録 第36版』交詢社、1932年。
== 関連項目 ==
* [[不倫]] - 不倫にまつわる有名な発言とされている石田の発言(マスコミの一種の捏造)について記載。
* [[芸能人カレー部]]
* [[小石田純一]] - 石田のものまねネタが売りである。
== 外部リンク ==
* [https://www.ishidajunichi.com/ 石田純一オフィシャルサイト]
* [http://riku-ent.com/talents/junichi-ishida/ 石田純一提携事務所/リクエンターテイメント]
* [https://riku-agency.jp/management/profile/junichi-ishida 石田純一提携事務所/リクエージェンシー]
* {{Wayback|url=http://gree.jp/ishida_junichi/ |title=石田純一 公式ブログ |date=20210622170825}}
* {{Ameba ブログ|ishida-junichi|石田純一オフィシャルブログ「No socks J life」}}
*[https://www.youtube.com/channel/UCtvR_xPkefmTYENPnPCLrqg じゅんちゃんねる - 石田純一公式YouTubeチャンネル]
*{{NHK人物録|D0009071210_00000}}
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7,324 | 高温超伝導 | 高温超伝導(こうおんちょうでんどう、英: high-temperature superconductivity)とは、高い転移温度 (Tc) で起こる超伝導である。
ベドノルツとミューラー(ミュラー)が、La-Ba-Cu-O系において1986年に発見したことから始まり、その後転移温度が液体窒素温度(−195.8 °C, 77 K)を越える銅酸化物が発見された。ミュラーとベドノルツはこの業績により、1987年のノーベル物理学賞を受賞した。
高温超伝導において、「高温」とされる温度は時代や状況によって異なる。国際電気標準会議 (IEC) の国際規定IEC60050-815(2000) と日本工業規格JIS H 7005(1999) では、「一般的に約25 K以上の Tc を持つ超伝導体」と定義した。その後、転移温度が90 Kを超える超伝導体も登場し、現在では液体窒素温度(−195.8 °C、77 K)以上で転移するものを高温超伝導体と呼ぶことが多い。
室温程度で生じる高温超伝導は特に室温超伝導とも呼ぶ。
高温超伝導を示す物質のことを高温超伝導体という。
1985年、誘電体研究で著名なIBMチューリッヒ研究所のフェローとなっていたアレックス・ミューラーのもとで、ジョージ・ベドノルツはチタン酸ストロンチウムの研究を行っていた。この物質は強誘電体としてよく知られている絶縁体であるが、電子ドープにより半導体から金属的となり、低い転移温度ながら超伝導を示す。ミューラーはヤーン・テラー型格子変形と超伝導との関係に興味をもっていた。ベドノルツはある日、図書室でLa-Ba-Cu-Oペロブスカイト系で液体窒素温度まで金属になるという論文を知り、早速作ってみると、試料は30 K付近から抵抗が減少し、10 K以下でゼロ抵抗になるように見えた。
彼らはドイツの会議でこの結果を発表したが、誰にも評価されることはなかった。そこでIBM T.J. Watson研究所に試料を送って真偽を鑑定してもらったが、比熱測定に超伝導転移による跳びが見られなかったことから超伝導ではないという結果が返ってきた。超伝導を認められなかったものの、1986年4月、ベドノルツとミューラーはとりあえずZeitschrift für Physikというドイツの学術誌に論文を投稿した。
この論文が公表された1986年、少なくとも世界の数カ所で結果の追試が行われた。このうち東京大学の田中グループは、この物質の結晶構造の同定とマイスナー効果を確認し、誰もが間違いないと確信できるレベルでLa-Ba-Cu-O系で超伝導が起こっていることを証明した。田中研で超伝導の存在が判明したのが1986年11月13日であり、12月5日にボストンの材料研究学会においてこの結果が発表された。これ以後、数年間にわたり高温超伝導探索のフィーバーが続いた。1987年2月には、90 K級で転移するY-Ba-Cu-O(Y系超伝導体)が発見された。短期間のうちにTcが60 Kも高められたことになる。
超伝導転移温度はその後も次々と塗り替えられており、大気圧下では1993年に発見されたHg-1223の135 Kが最も高い温度となる。
2001年:青山学院大学の秋光純らのグループが40 Kが上限と考えられるBCS理論に基づく超伝導体で、極めて上限に近い転移温度39 Kの二ホウ化マグネシウムを発見。金属系超伝導物質では最高温度となる。
2005年:水銀系銅酸化物において高圧力下での166 Kの転移温度を記録したことが報告された。ただし超伝導現象の最も基本的な性質であるゼロ抵抗は全く実現されておらず、この温度を超伝導転移温度と呼んでいいかについては議論がある。
銅酸化物高温超伝導に関する研究論文は、1987年前後をピークとして発表数は減少傾向を示している。学術データベースの統計から判断すると、高温超伝導に関する研究は、2010年から2015年までの間に行き詰まりを迎えるとする見方もあった。
2008年:東工大の細野秀雄らにより、鉄を含んだ組成の酸化物が超伝導を示すことが分かり、新たな鉱脈として大きな注目を集めている(鉄系超伝導物質)。ただ、超伝導転移温度は最も高い場合でも56K程度であり、銅酸化物高温超伝導体に対しては今のところ低い。
2015年:硫化水素が150 GPa(150万気圧)の超高圧下において203 K(−70 °C)というこれまでになく高い温度で超伝導状態になったとの報告が、Nature誌に掲載された。さらに、同記事によれば、硫化水素中の硫黄原子の7.5%をリンに置換した上で250 GPaの圧力をかければ、280 K(+8 °C)で超伝導状態になるという。これは水の凝固点よりも高温である。
2016年1月29日:東京大学とパリ南大学の共同研究チームがBCS理論とは別の銅酸化物高温超伝導体の超伝導が高温で起きる原因となる新しいメカニズムを発見したと発表。2月1日付けのアメリカの科学雑誌「フィジカル・レビュー」に掲載された。数値シミュレーションによりBCS理論では説明の付かない電子の振る舞いを発見し、この異常な振る舞いが高温超伝導の直接の原因であることを突き止めた。高温超伝導体の設計に新たな指針を与える成果。
2019年5月23日、ランタン水素化物が170 GPa(170万気圧)の超高圧下において250 K(−23 °C)で超伝導状態になることをドイツのマックス・プランク研究所が発見し、Nature (2019年5月23日号528ページ)で報告した。
2020年2月6日、物質・材料研究機構と東北大学、東京大学、理研などで構成される国際研究チームが、マックス・プランク研究所が2019年に発見、発表した温度−23 °Cというほぼ室温で超伝導になる高圧下ランタン水素が、原子核の量子ゆらぎのおかげで広い圧力域で安定に存在する「量子固体」であることをコンピュータシミュレーションにより発見したと発表した。この発見は、水素を多く含んだ水素リッチ化合物による高温超伝導やさらには室温超伝導がこれまで考えられていたよりも遙かに低い圧力で実現できる可能性を示すものであった。同研究は、Nature誌にて現地時間2020年2月5日午後6時(日本時間6日午前3時)にオンライン掲載された。
2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH8S)が267 GPaの圧力下において、287.7 K(15 °C)で超伝導状態になることをニューヨーク州ロチェスター大学のグループが発見し、Natureで報告した。高圧化ながら摂氏0度を超える初の超伝導現象の報告となった。但し、Nature誌は2022年9月26日に、論文で用いられたデータ処理および分析方法に関して疑問が提起され、著者とNatureは解決に向けて取り組んできたが解決されなかったとして論文を撤回した。
2023年3月8日、ディアス博士らのグループが高圧下で水素化ルテチウムが294 K(21°C)で超伝導になったとする論文を再度Natureに発表、追試が行われ、理論的、実験的に否定的な結果が多い中、2023年6月9日、イリノイ大学シカゴ校のラッセル・ヘムリー教授のグループが追試に成功したという報告が、インターネット上の論文サーバである「arXiv」に報告された。
また、2000年前後には、フラーレンなどでも高温超伝導が生じるとする論文が数編提出されたが、後に全て研究者による捏造と判明して撤回された。
YBa 2 Cu 3 O 7 − δ {\displaystyle {\ce {YBa2Cu3O_{7-\delta}}}} (Tc〜93 K)や Bi 2 Sr 2 Ca 2 Cu 3 O 10 {\displaystyle {\ce {Bi2Sr2Ca2Cu3O10}}} (Tc〜109 K)といった銅酸化物高温超伝導体は全て、ペロブスカイト構造を基礎とした結晶構造をしている。
これら銅酸化物高温超伝導体の構造には以下のような特徴がある。
これらの超伝導体は、構成する元素の頭文字をとって呼ばれることが多い。たとえばYBa2Cu3O7-δはYBCOと呼ばれ、Bi2Sr2Ca2Cu3O10はBSCCO(ビスコ)と呼ばれる。一方、構成元素の物質量比(モル比)で呼ぶこともある。たとえばYBa2Cu3O7-δはY123、Bi2Sr2Ca2Cu3O10はBi2223などである。
高温超伝導体にはキャリアがホールであるものと、電子のものの2種類がある。前者をホールドープ型、またはp型と呼ばれ、後者は電子ドープ型、またはn型と呼ばれる。
ホールドープ型の高温超伝導体はホール濃度と温度により、右図のような状態をとる。ホール濃度がゼロのとき、反強磁性となり、ドープをすると反強磁性が消え、擬ギャップと呼ばれる状態になる。さらにドープすると超伝導になる。ドープを増やすと超伝導転移温度は上昇する。この領域をアンダードープ領域と呼ぶ。さらにドープすると転移温度は下がる。この領域をオーバードープ領域と呼ぶ。これ以上ドープすると超伝導は消え金属的になる。
高温超伝導においても従来型の超伝導と同様にクーパー対が形成されていることが分かっている。従来型超伝導では、BCS理論により、フォノンを媒介とするクーパー対の形成機構が解明されているのに対し、高温超伝導におけるクーパー対の形成機構に関しては、完全な意見の一致は得られていない。高温超伝導体の発見後すぐに行われた同位体効果実験から、高温超伝導機構はフォノン機構では説明できないとされている。膨大な実験的・理論的な研究により、高温超伝導物質中のCuO22次元面内の電子系における、反強磁性的なスピンの揺らぎを媒介にしたクーパー対形成機構で、高温超伝導の機構を理解できるという立場が主流となっている。しかし酸素の同位体置換により超伝導電子密度が変化するという報告もあり、フォノンも何らかの寄与をしているものと考えられている。
*MgB2(二ホウ化マグネシウム)が39Kで転移するが、分類の便宜上外した。
銅酸化物高温超伝導体は全て、ペロブスカイト構造を基礎とした結晶構造をしていて、2次元正方格子CuO2面がシート状に広がっていて、このシートの上下にはランタノイド等による電気伝導をブロックする層があり、CuO2面とブロック層が交互に積層する構造をとっている。またブロック層が存在しない無限層と呼ばれるものもある。
イットリウム(Y)を含む、90ケルビン(K)以上で超伝導転移を起こす化合物で、Y系高温超伝導体、Y系銅酸化物高温超伝導体とも書かれ、化学式は YBa2Cu3O7 である。構成する元素の頭文字をとってYBCO(ワイビーシーオー)または、構成元素の物質量比(モル比)からY123(イットリウムいちにさん)とも呼ばれる。初めて発見された液体窒素の沸点(77 K)を超える転移温度をもつ超伝導体。
1988年に科学技術庁金属材料技術研究所(現・物質・材料研究機構)の前田弘のグループによって開発された。90ケルビン(K)以上で超伝導転移を起こす化合物で化学式はBi2Sr2Ca2Cu3O10である。構成する元素の頭文字をとってBSCCO(ビスコ)または、構成元素の物質量比(モル比)からBi2223(ビスマスにににさん)とも呼ばれる。
REBa2Cu3Oy は希土類を含む銅酸化物超伝導体で線材化の技術が進み、実用化にむけて開発が進みつつある。セラミクスであるREBCO超伝導体はもろいので、線材として必要な屈曲性に劣るが、薄膜化する事により柔軟性を付与する事が可能になり、線材として使用することが可能になる。結晶配向性によっても臨界電流密度が大きく変わるため、試料全体に渡った結晶軸方位の 整列が必要でエピタキシャル成長を利用して線材の全体にわたって配向したREBCO膜を作製する 技術が要求される。結晶配向性の良好な緩衝層、高い超伝導特性を持つREBCOエピ膜、長尺に渡って超伝導特性が均一なREBCOエピ膜の作製が鍵となる。
結晶構造としてはFe(鉄)イオンが正方格子を形成しており、Feの3d軌道がフェルミ面を構成する。Fe同士は金属結合になっていると考えられ、ヒ素などのプニコゲン元素がFeと強い共有結合を作り、構造を安定化させている。このため、電子のドープを行なうと反強磁性スピン配列が消え、超伝導転移温度が高くなるという解釈もできる。
LnFeAsO1-XFXの母物質の一つであるLaFeAsOの測定では、160K(約マイナス110°C)付近で正方晶から斜方晶への転移が起きることがわかっている。この付近の温度では比熱のピークも見られ、La(ランタン)のスピン格子緩和時間が発散してスピン配列が生じている。Feのスピン配列はFeAs平面内でa軸とb軸の長さが等しいが、160K以下では両者の長さに差が生じ、反強磁性的な整列状態になる。これらの結果より、140Kがネール温度に相当すると見られる。
2015年にドイツのマックス・プランク研究所により、それまで約20年間破られていなかった転移温度の最高記録を約40度も上回る203kが硫黄水素化物によって実現したことにより、2020年現在、高温超伝導体の探求は水素化物に超高圧をかけることに向けられている。2019年にはランタン水素化物で超高圧下という条件下ながら従来の銅酸化物超伝導体の転移温度を100°Cも上回る、250kを達成した。2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH8S)が超高圧下という条件下ながら、287.7Kを達成し、超伝導の歴史上初めて水の凝固点を超える発見となった。
YBa2Cu3O7-δの発見で転移温度が液体窒素温度を越えてから、高価な液体ヘリウムにかわって安価な液体窒素を使えることから実用への期待が高まった。しかし加工が難しいことや臨界電流密度を高めるのが難しいことから応用はなかなか進んでいないが、近年はヘリウムの供給不足と価格高騰も重なり、高温超伝導体ならではのバルクでの用途が徐々に見出されつつある。応用としては送電線、高周波通信用超伝導フィルター、SQUID、磁界検出器、超電導リニア、米海軍の艦船推進用モーター、核磁気共鳴、MRIなど。ビスマス系超伝導体超伝導電磁石を使用した磁気浮上式鉄道の走行実験が2005年11月に実施され、成功した。 | [
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"text": "2016年1月29日:東京大学とパリ南大学の共同研究チームがBCS理論とは別の銅酸化物高温超伝導体の超伝導が高温で起きる原因となる新しいメカニズムを発見したと発表。2月1日付けのアメリカの科学雑誌「フィジカル・レビュー」に掲載された。数値シミュレーションによりBCS理論では説明の付かない電子の振る舞いを発見し、この異常な振る舞いが高温超伝導の直接の原因であることを突き止めた。高温超伝導体の設計に新たな指針を与える成果。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2019年5月23日、ランタン水素化物が170 GPa(170万気圧)の超高圧下において250 K(−23 °C)で超伝導状態になることをドイツのマックス・プランク研究所が発見し、Nature (2019年5月23日号528ページ)で報告した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2020年2月6日、物質・材料研究機構と東北大学、東京大学、理研などで構成される国際研究チームが、マックス・プランク研究所が2019年に発見、発表した温度−23 °Cというほぼ室温で超伝導になる高圧下ランタン水素が、原子核の量子ゆらぎのおかげで広い圧力域で安定に存在する「量子固体」であることをコンピュータシミュレーションにより発見したと発表した。この発見は、水素を多く含んだ水素リッチ化合物による高温超伝導やさらには室温超伝導がこれまで考えられていたよりも遙かに低い圧力で実現できる可能性を示すものであった。同研究は、Nature誌にて現地時間2020年2月5日午後6時(日本時間6日午前3時)にオンライン掲載された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH8S)が267 GPaの圧力下において、287.7 K(15 °C)で超伝導状態になることをニューヨーク州ロチェスター大学のグループが発見し、Natureで報告した。高圧化ながら摂氏0度を超える初の超伝導現象の報告となった。但し、Nature誌は2022年9月26日に、論文で用いられたデータ処理および分析方法に関して疑問が提起され、著者とNatureは解決に向けて取り組んできたが解決されなかったとして論文を撤回した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "2023年3月8日、ディアス博士らのグループが高圧下で水素化ルテチウムが294 K(21°C)で超伝導になったとする論文を再度Natureに発表、追試が行われ、理論的、実験的に否定的な結果が多い中、2023年6月9日、イリノイ大学シカゴ校のラッセル・ヘムリー教授のグループが追試に成功したという報告が、インターネット上の論文サーバである「arXiv」に報告された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "また、2000年前後には、フラーレンなどでも高温超伝導が生じるとする論文が数編提出されたが、後に全て研究者による捏造と判明して撤回された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "YBa 2 Cu 3 O 7 − δ {\\displaystyle {\\ce {YBa2Cu3O_{7-\\delta}}}} (Tc〜93 K)や Bi 2 Sr 2 Ca 2 Cu 3 O 10 {\\displaystyle {\\ce {Bi2Sr2Ca2Cu3O10}}} (Tc〜109 K)といった銅酸化物高温超伝導体は全て、ペロブスカイト構造を基礎とした結晶構造をしている。",
"title": "結晶構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "これら銅酸化物高温超伝導体の構造には以下のような特徴がある。",
"title": "結晶構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "これらの超伝導体は、構成する元素の頭文字をとって呼ばれることが多い。たとえばYBa2Cu3O7-δはYBCOと呼ばれ、Bi2Sr2Ca2Cu3O10はBSCCO(ビスコ)と呼ばれる。一方、構成元素の物質量比(モル比)で呼ぶこともある。たとえばYBa2Cu3O7-δはY123、Bi2Sr2Ca2Cu3O10はBi2223などである。",
"title": "超伝導体の名前"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "高温超伝導体にはキャリアがホールであるものと、電子のものの2種類がある。前者をホールドープ型、またはp型と呼ばれ、後者は電子ドープ型、またはn型と呼ばれる。",
"title": "性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ホールドープ型の高温超伝導体はホール濃度と温度により、右図のような状態をとる。ホール濃度がゼロのとき、反強磁性となり、ドープをすると反強磁性が消え、擬ギャップと呼ばれる状態になる。さらにドープすると超伝導になる。ドープを増やすと超伝導転移温度は上昇する。この領域をアンダードープ領域と呼ぶ。さらにドープすると転移温度は下がる。この領域をオーバードープ領域と呼ぶ。これ以上ドープすると超伝導は消え金属的になる。",
"title": "性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "高温超伝導においても従来型の超伝導と同様にクーパー対が形成されていることが分かっている。従来型超伝導では、BCS理論により、フォノンを媒介とするクーパー対の形成機構が解明されているのに対し、高温超伝導におけるクーパー対の形成機構に関しては、完全な意見の一致は得られていない。高温超伝導体の発見後すぐに行われた同位体効果実験から、高温超伝導機構はフォノン機構では説明できないとされている。膨大な実験的・理論的な研究により、高温超伝導物質中のCuO22次元面内の電子系における、反強磁性的なスピンの揺らぎを媒介にしたクーパー対形成機構で、高温超伝導の機構を理解できるという立場が主流となっている。しかし酸素の同位体置換により超伝導電子密度が変化するという報告もあり、フォノンも何らかの寄与をしているものと考えられている。",
"title": "機構"
},
{
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"tag": "p",
"text": "*MgB2(二ホウ化マグネシウム)が39Kで転移するが、分類の便宜上外した。",
"title": "実例"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "銅酸化物高温超伝導体は全て、ペロブスカイト構造を基礎とした結晶構造をしていて、2次元正方格子CuO2面がシート状に広がっていて、このシートの上下にはランタノイド等による電気伝導をブロックする層があり、CuO2面とブロック層が交互に積層する構造をとっている。またブロック層が存在しない無限層と呼ばれるものもある。",
"title": "銅酸化物超伝導体"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "イットリウム(Y)を含む、90ケルビン(K)以上で超伝導転移を起こす化合物で、Y系高温超伝導体、Y系銅酸化物高温超伝導体とも書かれ、化学式は YBa2Cu3O7 である。構成する元素の頭文字をとってYBCO(ワイビーシーオー)または、構成元素の物質量比(モル比)からY123(イットリウムいちにさん)とも呼ばれる。初めて発見された液体窒素の沸点(77 K)を超える転移温度をもつ超伝導体。",
"title": "銅酸化物超伝導体"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1988年に科学技術庁金属材料技術研究所(現・物質・材料研究機構)の前田弘のグループによって開発された。90ケルビン(K)以上で超伝導転移を起こす化合物で化学式はBi2Sr2Ca2Cu3O10である。構成する元素の頭文字をとってBSCCO(ビスコ)または、構成元素の物質量比(モル比)からBi2223(ビスマスにににさん)とも呼ばれる。",
"title": "銅酸化物超伝導体"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "REBa2Cu3Oy は希土類を含む銅酸化物超伝導体で線材化の技術が進み、実用化にむけて開発が進みつつある。セラミクスであるREBCO超伝導体はもろいので、線材として必要な屈曲性に劣るが、薄膜化する事により柔軟性を付与する事が可能になり、線材として使用することが可能になる。結晶配向性によっても臨界電流密度が大きく変わるため、試料全体に渡った結晶軸方位の 整列が必要でエピタキシャル成長を利用して線材の全体にわたって配向したREBCO膜を作製する 技術が要求される。結晶配向性の良好な緩衝層、高い超伝導特性を持つREBCOエピ膜、長尺に渡って超伝導特性が均一なREBCOエピ膜の作製が鍵となる。",
"title": "銅酸化物超伝導体"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "結晶構造としてはFe(鉄)イオンが正方格子を形成しており、Feの3d軌道がフェルミ面を構成する。Fe同士は金属結合になっていると考えられ、ヒ素などのプニコゲン元素がFeと強い共有結合を作り、構造を安定化させている。このため、電子のドープを行なうと反強磁性スピン配列が消え、超伝導転移温度が高くなるという解釈もできる。",
"title": "鉄系超伝導体"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "LnFeAsO1-XFXの母物質の一つであるLaFeAsOの測定では、160K(約マイナス110°C)付近で正方晶から斜方晶への転移が起きることがわかっている。この付近の温度では比熱のピークも見られ、La(ランタン)のスピン格子緩和時間が発散してスピン配列が生じている。Feのスピン配列はFeAs平面内でa軸とb軸の長さが等しいが、160K以下では両者の長さに差が生じ、反強磁性的な整列状態になる。これらの結果より、140Kがネール温度に相当すると見られる。",
"title": "鉄系超伝導体"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2015年にドイツのマックス・プランク研究所により、それまで約20年間破られていなかった転移温度の最高記録を約40度も上回る203kが硫黄水素化物によって実現したことにより、2020年現在、高温超伝導体の探求は水素化物に超高圧をかけることに向けられている。2019年にはランタン水素化物で超高圧下という条件下ながら従来の銅酸化物超伝導体の転移温度を100°Cも上回る、250kを達成した。2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH8S)が超高圧下という条件下ながら、287.7Kを達成し、超伝導の歴史上初めて水の凝固点を超える発見となった。",
"title": "水素化物超伝導体"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "YBa2Cu3O7-δの発見で転移温度が液体窒素温度を越えてから、高価な液体ヘリウムにかわって安価な液体窒素を使えることから実用への期待が高まった。しかし加工が難しいことや臨界電流密度を高めるのが難しいことから応用はなかなか進んでいないが、近年はヘリウムの供給不足と価格高騰も重なり、高温超伝導体ならではのバルクでの用途が徐々に見出されつつある。応用としては送電線、高周波通信用超伝導フィルター、SQUID、磁界検出器、超電導リニア、米海軍の艦船推進用モーター、核磁気共鳴、MRIなど。ビスマス系超伝導体超伝導電磁石を使用した磁気浮上式鉄道の走行実験が2005年11月に実施され、成功した。",
"title": "応用"
}
] | 高温超伝導とは、高い転移温度 (Tc) で起こる超伝導である。 | {{Unsolved|物理学|なぜ、特定の材料は50 [[ケルビン|K]]より非常に高い温度で、[[超伝導]]を示すのか?}}
'''高温超伝導'''(こうおんちょうでんどう、{{lang-en-short|high-temperature superconductivity}})とは、高い[[転移温度]] ({{Mvar|T{{Sub|c}}}}) で起こる[[超伝導]]である。
== 概要 ==
[[ヨハネス・ベドノルツ|ベドノルツ]]と[[カール・アレクサンダー・ミュラー|ミューラー]](ミュラー)が、La-Ba-Cu-O系において[[1986年]]に発見したことから始まり、その後転移温度が[[液体窒素]]温度({{Val|-195.8 |ul = degC}}, {{Val|77|ul = K}})を越える銅酸化物が発見された。ミュラーとベドノルツはこの業績により、[[1987年]]の[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。
高温超伝導において、「高温」とされる[[温度]]は時代や状況によって異なる。[[国際電気標準会議]] (IEC) の[[国際規定]]IEC60050-815(2000) と[[日本工業規格]]JIS H 7005(1999) では、「一般的に約{{Val|25|u = K}}以上の {{Mvar|T{{Sub|c}}}} を持つ超伝導体」と定義した。その後、転移温度が{{Val|90|u = K}}を超える超伝導体も登場し、現在では液体窒素温度({{Val|-195.8|u = degC}}、{{Val|77|u = K}})以上で転移するものを高温超伝導体と呼ぶことが多い。
室温程度で生じる高温超伝導は特に[[室温超伝導]]とも呼ぶ。
高温超伝導を示す物質のことを'''高温超伝導体'''という。
== 歴史 ==
[[File:Timeline of Superconductivity from 1900 to 2015.svg|thumb|upright=2|超伝導材料の年表。色は材料の異なるクラスを表す:
{{Unbulleted list|list_style=margin-left: 2em;
|{{Legend|#acc294|[[BCS理論|BCS]] (暗緑色の円)|css=border:2px solid #458234}}
|{{Legend|#dbef9C|[[重い電子系]] (浅い緑色の星)|css=border:2px solid #a6d71c}}
|{{Legend|#bddef5|[[銅酸化物超伝導体]] (青ダイヤ)|css=border:2px solid #5cb4e8}}
|{{Legend|#cfa1d6|[[バックミンスターフラーレン]]系 (紫の逆三角形)|css=border:2px solid #95329d}}
|{{Legend|#f79aaa|[[炭素]]-[[同素体]] (赤い三角形)|css=border:2px solid #ed0e58}}
|{{Legend|#fddfa2|[[鉄]]-[[第15族元素|第15族]]系(オレンジ正方形)|css=border:2px solid #fab42c}}
|{{Legend|#b3b3b3ff|[[ルテニウム酸ストロンチウム]] (灰色ペンタゴン)|css=border:2px solid #4d4d4dff}}
|{{Legend|#ff55ffff|[[ニッケル]]系 (ピンク六芒星)|css=border:2px solid #800080ff}}
}}]]
[[1985年]]、[[誘電体]]研究で著名な[[IBM]]チューリッヒ研究所のフェローとなっていた[[カール・アレクサンダー・ミュラー|アレックス・ミューラー]]のもとで、[[ヨハネス・ベドノルツ|ジョージ・ベドノルツ]]は[[チタン酸ストロンチウム]]の研究を行っていた。この物質は[[強誘電体]]としてよく知られている[[絶縁体]]であるが、電子ドープにより[[半導体]]から金属的となり、低い転移温度ながら超伝導を示す。ミューラーは[[ヤーン・テラー効果|ヤーン・テラー]]型格子変形と超伝導との関係に興味をもっていた。ベドノルツはある日、[[図書室]]で[[ランタン|La]]-[[バリウム|Ba]]-[[銅|Cu]]-[[酸素|O]][[ペロブスカイト]]系で液体窒素温度まで金属になるという[[論文]]を知り、早速作ってみると、試料は{{Val|30|u = K}}付近から抵抗が減少し、{{Val|10|u = K}}以下でゼロ抵抗になるように見えた。
彼らはドイツの会議でこの結果を発表したが、誰にも評価されることはなかった。そこでIBM T.J. Watson研究所に試料を送って真偽を鑑定してもらったが、[[比熱]]測定に超伝導転移による跳びが見られなかったことから超伝導ではないという結果が返ってきた。超伝導を認められなかったものの、1986年4月、ベドノルツとミューラーはとりあえず[[Zeitschrift für Physik]]というドイツの学術誌に論文を投稿した<ref>{{cite journal
|author = J. G. Bednorz and K. A. Müller
|title = Possible high''T''<sub>c</sub> superconductivity in the Ba−La−Cu−O system
|journal = Z. Physik, B
|volume = 64
|year = 1986
|pages = 189–193
|doi = 10.1007/BF01303701
|issue = 1|bibcode = 1986ZPhyB..64..189B }}</ref>。
この論文が公表された1986年、少なくとも世界の数カ所で結果の追試が行われた。このうち[[東京大学]]の[[田中昭二 (物理学者)|田中グループ]]は、この物質の[[結晶構造]]の同定と[[マイスナー効果]]を確認し、誰もが間違いないと確信できるレベルでLa-Ba-Cu-O系で超伝導が起こっていることを証明した。田中研で超伝導の存在が判明したのが1986年11月13日であり、12月5日にボストンの材料研究学会においてこの結果が発表された。これ以後、数年間にわたり高温超伝導探索のフィーバーが続いた。1987年2月には、{{Val|90|u = K}}級で転移するY-Ba-Cu-O([[Y系超伝導体]])が発見された。短期間のうちに{{Mvar|T{{Sub|c}}}}が{{Val|60|u = K}}も高められたことになる。
超伝導転移温度はその後も次々と塗り替えられており、[[気圧|大気圧]]下では[[1993年]]に発見されたHg-1223の{{Val|135|u = K}}が最も高い温度となる<ref name="sansouken20130130">{{Cite press release|和書|url=https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2013/pr20130130/pr20130130.html|title=これまでで最高温度となる153 Kでの超伝導転移を観測|date=2013/01/30|publisher=[[産業技術総合研究所]]|accessdate=2016-3-2}}</ref>。
[[2001年]]:[[青山学院大学]]の[[秋光純]]らのグループが{{Val|40|u = K}}が上限と考えられる[[BCS理論]]に基づく超伝導体で、極めて上限に近い転移温度{{Val|39|u = K}}の[[二ホウ化マグネシウム]]を発見<ref name="aoyama2007">{{Cite web|和書|url=http://www.aoyamagakuin.jp/news/2007/1129-01.html|title=秋光純大学理工学部教授がアメリカ物理学会(APS)より "2008 James C. McGroddy Prize for New Materials"を受賞|accessdate=2016-3-2|date=2007.11.29|work=青山学院ニュース|publisher=[[青山学院]]}}</ref>。金属系超伝導物質では最高温度となる<ref name="aoyama2007"/>。
2005年:水銀系銅酸化物において高圧力下での{{Val|166|u = K}}の転移温度を記録したことが報告された<ref name="iopscience">{{cite journal | journal = EPL (Europhysics Letters) | volume = 72 | issue = 3 | title = High-pressure effects in fluorinated HgBa 2 Ca 2 Cu 3 O 8 + δ | first1 = M. | last1 = Monteverde | first2 = C. | last2 = Acha | first3 = M. | last3 = Núñez-regueiro | first4 = D. A. | last4 = Pavlov | first5 = K. A. | last5 = Lokshin | first6 = S. N. | last6 = Putilin | first7 = E. V. | last7 = Antipov | url = http://stacks.iop.org/0295-5075/72/i = 3/a = 458 | year = 2005 | pages = 458–458}}</ref>。ただし超伝導現象の最も基本的な性質であるゼロ抵抗は全く実現されておらず、この温度を超伝導転移温度と呼んでいいかについては議論がある。
銅酸化物高温超伝導に関する研究論文は、1987年前後をピークとして発表数は減少傾向を示している。学術データベースの統計から判断すると、高温超伝導に関する研究は、2010年から2015年までの間に行き詰まりを迎えるとする見方もあった<ref>{{cite journal|author=Katharine Sanderson|title=Superconductivity research is down but not out|journal=[[ネイチャー|Nature]]|volume=443|pages= 376-377 |year=2006|doi= 10.1038/443376b}}</ref>。
2008年:[[東京工業大学|東工大]]の[[細野秀雄]]らにより、鉄を含んだ組成の酸化物が超伝導を示すことが分かり、新たな鉱脈として大きな注目を集めている([[鉄系超伝導物質]])。ただ、超伝導転移温度は最も高い場合でも56K程度であり、銅酸化物高温超伝導体に対しては今のところ低い。
2015年:[[硫化水素]]が{{Val|150|u=GPa}}(150万気圧)の超高圧下において{{Val|203|u = K}}({{Val|-70|u = degC}})というこれまでになく高い温度で超伝導状態になったとの報告が、[[ネイチャー|Nature]]誌に掲載された<ref name="nature2015">{{Cite web|url=http://www.nature.com/news/superconductivity-record-sparks-wave-of-follow-up-physics-1.18191|title=Superconductivity record sparks wave of follow-up physics|accessdate=2016-3-2|author=Edwin Cartlidge|date=17 August 2015|work=Nature News & Comment|publisher=nature.com}}</ref><ref>{{cite journal | journal = Nature | issn = 0028-0836 | volume = 525 | issue = 7567 | title = Conventional superconductivity at 203 kelvin at high pressures in the sulfur hydride system | first1 = A. P. | last1 = Drozdov | first2 = M. I. | last2 = Eremets | first3 = I. A. | last3 = Troyan | first4 = V. | last4 = Ksenofontov | first5 = S. I. | last5 = Shylin | url = http://www.nature.com/nature/journal/v525/n7567/full/nature14964.html |doi=10.1038/nature14964 | date = 03 Sep 2015 |pages = 73–76 | ref = harv}}</ref>。さらに、同記事によれば、硫化水素中の硫黄原子の7.5%を[[リン]]に置換した上で{{Val|250|u=GPa}}の圧力をかければ、{{Val|280|u = K}}({{Val|+8|u = degC}})で超伝導状態になるという<ref name="nature2015" /><ref>{{Cite arxiv|eprint=1507.08525|author=Yanfeng Ge, Fan Zhang, Yugui Yao|title=Possible Superconductivity Approaching Ice Point|class=cond-mat}}</ref>。これは[[水]]の凝固点よりも高温である。
2016年1月29日:[[東京大学]]と[[パリ第11大学|パリ南大学]]の共同研究チームがBCS理論とは別の銅酸化物高温超伝導体の超伝導が高温で起きる原因となる新しいメカニズムを発見したと発表<ref name="nikkeitech20160201">{{cite news|title = 東大など、従来理論を覆す高温超伝導のメカニズムを発見|url = https://xtech.nikkei.com/dm/atcl/news/16/013100381/|publisher = [[日経BP|日経テクノロジー]]|date = 2016年2月1日 | accessdate = 2016年2月14日}}</ref><ref name="mynavi20160201">{{cite news|title =東大ら、銅酸化物高温超伝導体のメカニズムを発見 - 従来の常識を覆す成果|url = https://news.mynavi.jp/techplus/article/20160201-a035/|publisher = [[マイナビニュース]]|date = 2016年2月1日 | accessdate = 2016年2月14日}}</ref><ref name="zaikei20160209">{{cite news|title =高温超伝導の新しいメカニズムを発見―東大・酒井志朗氏ら|url =http://www.zaikei.co.jp/article/20160209/291761.html|publisher = [[財経新聞]]|date = 2016年2月1日 | accessdate = 2016年2月14日}}</ref><ref name=":0">{{Cite press release|和書|url = https://www.t.u-tokyo.ac.jp/soe/press/setnws_20160202130755407182439514.html|date = 2016-02-02|title = 銅酸化物の超伝導はなぜ高温か?− 計算シミュレーションにより常識とは異なる、隠れていた複合粒子を発見− :物理工学専攻 今田正俊教授ら|publisher = 東京大学大学院工学系研究科|accessdate = 2016-2-14}}</ref>。2月1日付けのアメリカの科学雑誌「[[フィジカル・レビュー]]」に掲載された<ref name="nikkeitech20160201"/><ref name="mynavi20160201"/><ref name="zaikei20160209"/><ref>{{cite journal |first1 = Shiro |last1 = Sakai |first2 = Marcello |last2 = Civelli |first3 = Masatoshi |last3 = Imada |title=Hidden Fermionic Excitation Boosting High-Temperature Superconductivity in Cuprates |url=http://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevLett.116.057003 |year=2016 |month = Feb |journal=Phys. Rev. Lett. |issn = |publisher=American Physical Society |volume=116 |issue=5 |pages = 057003–057003 |doi=10.1103/PhysRevLett.116.057003 | ref=harv}}</ref>。数値シミュレーションによりBCS理論では説明の付かない電子の振る舞いを発見し、この異常な振る舞いが高温超伝導の直接の原因であることを突き止めた<ref name="nikkeitech20160201"/><ref name="mynavi20160201"/><ref name="zaikei20160209"/><ref name=":0" />。高温超伝導体の設計に新たな指針を与える成果<ref name="nikkeitech20160201"/><ref name="mynavi20160201"/><ref name="zaikei20160209"/><ref name=":0" />。
2019年5月23日、ランタン水素化物が{{Val|170|u=GPa}}(170万気圧)の超高圧下において{{Val|250|u=K}}({{Val|-23|u=degC}})で超伝導状態になることを[[ドイツ]]の[[マックス・プランク研究所]]が発見し、''Nature'' (2019年5月23日号528ページ)で報告した<ref name="nature20190523">{{Cite web|和書|title=室温に近い超伝導|url=https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v16/n8/%E5%AE%A4%E6%B8%A9%E3%81%AB%E8%BF%91%E3%81%84%E8%B6%85%E4%BC%9D%E5%B0%8E/99718|website=www.natureasia.com|accessdate=2020-03-13|publisher=|date=2019-05-23}}</ref>。
2020年2月6日、[[物質・材料研究機構]]と東北大学、東京大学、理研などで構成される国際研究チームが、マックス・プランク研究所が2019年に発見、発表した温度{{Val|-23|u=degC}}というほぼ室温で超伝導になる高圧下ランタン水素が、原子核の量子ゆらぎのおかげで広い圧力域で安定に存在する「量子固体」であることをコンピュータシミュレーションにより発見したと発表した<ref name="nims20200208">[https://www.nims.go.jp/news/press/2020/02/202002060.html 物質・材料研究機構公式サイト - 「ほぼ室温超伝導を示す高圧下ランタン水素は量子固体だった」]</ref>。この発見は、水素を多く含んだ水素リッチ化合物による高温超伝導やさらには室温超伝導がこれまで考えられていたよりも遙かに低い圧力で実現できる可能性を示すものであった<ref name="nims20200208"/>。同研究は、Nature誌にて現地時間2020年2月5日午後6時(日本時間6日午前3時)にオンライン掲載された<ref name="tohoku20200208">[https://www.nims.go.jp/news/press/2020/02/202002060.html 東北大学公式サイト - 2020年 | プレスリリース・研究成果 - 「ほぼ室温超伝導を示す高圧下ランタン水素は量子固体だった ~予測より低い圧力で超伝導になる理由を理論的に説明 低圧での室温超伝導実現へ道筋~」]</ref>。
2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH<sub>8</sub>S)が{{Val|267|u=GPa}}の圧力下において、{{Val|287.7|u=K}}({{Val|15|u=degC}})で超伝導状態になることをニューヨーク州[[ロチェスター大学]]のグループが発見し、Natureで報告した<ref name="nature20201015">{{Cite web|和書|date=2020-10-15 |url=https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/13478?utm_source=Twitter&utm_medium=Social&utm_campaign=NatureJapan |title=物理学:水素化物の室温超伝導 |publisher=Nature Japan |accessdate=2020-11-06}}</ref>。高圧化ながら[[セルシウス度|摂氏]]0度を超える初の超伝導現象の報告となった。但し、Nature誌は2022年9月26日に、論文で用いられたデータ処理および分析方法に関して疑問が提起され、著者とNatureは解決に向けて取り組んできたが解決されなかったとして論文を撤回した<ref>{{Cite journal|last=Snider|first=Elliot|last2=Dasenbrock-Gammon|first2=Nathan|last3=McBride|first3=Raymond|last4=Debessai|first4=Mathew|last5=Vindana|first5=Hiranya|last6=Vencatasamy|first6=Kevin|last7=Lawler|first7=Keith V.|last8=Salamat|first8=Ashkan|last9=Dias|first9=Ranga P.|date=2022-09-26|title=Retraction Note: Room-temperature superconductivity in a carbonaceous sulfur hydride|url=https://www.nature.com/articles/s41586-022-05294-9|journal=Nature|pages=1–1|language=en|doi=10.1038/s41586-022-05294-9|issn=1476-4687}}</ref>。
2023年3月8日、ディアス博士らのグループが高圧下で水素化ルテチウムが294 K(21℃)で超伝導になったとする論文を再度Natureに発表、追試が行われ、理論的、実験的に否定的な結果が多い中、2023年6月9日、イリノイ大学シカゴ校のラッセル・ヘムリー教授のグループが追試に成功したという報告が、インターネット上の論文サーバである「[[arXiv]]」に報告された<ref>{{Cite web|和書|title=ついに実現、室温超伝導? それともまたも幻で終わるのか? 100年の歴史の転換点、いま超伝導研究で進行している出来事とは {{!}} JBpress (ジェイビープレス) |url=https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/75692 |website=JBpress(日本ビジネスプレス) |access-date=2023-06-25 |publisher=日本ビジネスプレスグループ |date=2023-06-22}}</ref><ref name=":arXiv20230609">N. P. Salke, A. C. Mark, M. Ahart, R. J. Hemley, 2023, "Evidence for Near Ambient Superconductivity in the Lu-N-H System," arXiv:2306.06301.</ref>。
また、2000年前後には、[[フラーレン]]などでも高温超伝導が生じるとする論文が数編提出されたが、後に全て[[ヘンドリック・シェーン|研究者]]による[[捏造 (科学)|捏造]]と判明して撤回された<ref>{{cite book|和書|author=村松 秀|title= 論文捏造|series=中公新書ラクレ|publisher= 中央公論新社|year=2006|month=9|isbn= 978-4121502261}}</ref>。
== 結晶構造 ==
<chem>YBa2Cu3O_{7-\delta}</chem> ({{Mvar|T{{Sub|c}}}}〜{{Val|93|u = K}})や<chem>Bi2Sr2Ca2Cu3O10</chem> ({{Mvar|T{{Sub|c}}}}〜{{Val|109|u = K}})といった銅酸化物高温超伝導体は全て、[[ペロブスカイト構造]]を基礎とした[[結晶構造]]をしている。
これら銅酸化物高温超伝導体の構造には以下のような特徴がある。
* 2次元正方格子{{Chem| CuO|2}}面がシート状に広がっている。
* 多くの物質では、このシートの上下には[[ランタノイド]]等による電気伝導をブロックする層があり、{{Chem| CuO|2}}面とブロック層が交互に積層する構造をとっている。ブロック層が存在しない無限層と呼ばれるものもある。
== 超伝導体の名前 ==
これらの超伝導体は、構成する[[元素]]の頭文字をとって呼ばれることが多い。たとえば{{Chem| YBa|2|Cu|3|O|7-δ}}は'''YBCO'''と呼ばれ、{{Chem|Bi|2|Sr|2|Ca|2|Cu|3|O|10}}は'''BSCCO'''(ビスコ)と呼ばれる。一方、構成元素の[[物質量]]比(モル比)で呼ぶこともある。たとえば{{Chem| YBa|2|Cu|3|O|7-δ}}は'''Y123'''、{{Chem|Bi|2|Sr|2|Ca|2|Cu|3|O|10}}は'''Bi2223'''などである。
== 性質 ==
[[ファイル:高温超伝導の相図.png|right]]
高温超伝導体にはキャリアが[[正孔|ホール]]であるものと、[[電子]]のものの2種類がある。前者をホールドープ型、またはp型と呼ばれ、後者は電子ドープ型、またはn型と呼ばれる。
ホールドープ型の高温超伝導体はホール濃度と温度により、右図のような状態をとる。ホール濃度がゼロのとき、反強磁性となり、ドープをすると反強磁性が消え、擬ギャップと呼ばれる状態になる。さらにドープすると超伝導になる。ドープを増やすと超伝導転移温度は上昇する。この領域をアンダードープ領域と呼ぶ。さらにドープすると転移温度は下がる。この領域をオーバードープ領域と呼ぶ。これ以上ドープすると超伝導は消え金属的になる。
== 機構 ==
高温超伝導においても従来型の超伝導と同様に[[クーパー対]]が形成されていることが分かっている。従来型超伝導では、[[BCS理論]]により、[[フォノン]]を媒介とするクーパー対の形成機構が解明されているのに対し、高温超伝導におけるクーパー対の形成機構に関しては、完全な意見の一致は得られていない。高温超伝導体の発見後すぐに行われた[[同位体効果]]実験から、高温超伝導機構はフォノン機構では説明できないとされている。膨大な実験的・理論的な研究により、高温超伝導物質中の{{Chem| CuO|2}}2次元面内の電子系における、[[反強磁性]]的な[[スピン角運動量|スピン]]の揺らぎを媒介にしたクーパー対形成機構で、高温超伝導の機構を理解できるという立場が主流となっている。しかし[[酸素の同位体]]置換により超伝導電子密度が変化するという報告もあり、フォノンも何らかの寄与をしているものと考えられている。
==実例==
{| class="wikitable" style="text-align:center "
|+ 転移温度の例<small>(液体窒素等は比較用)</small>
!転移温度 <br />([[ケルビン]])
!転移温度 <br />([[セルシウス度|摂氏]])
!素材
!分類
|-
| 294
| +21
| [[水素化ルテチウム|NLH]] (高圧下)
| style="background:#8989f9" rowspan="4"|水素化物超伝導体
|-
| 287
| +15
| [[炭素質水素化硫黄|CH<sub>8</sub>S]] (高圧下) ※論文撤回疑義あり
|-
| 250
| -23
| [[ランタン水素化物|LaH<sub>10</sub>]] (高圧下)
|-
| 203
| -70
| [[硫化水素|H<sub>2</sub>S]] (高圧下)
|-
| style="background:#ddddff" |195
| style="background:#ddddff" |-78
| style="background:#ddddff" |[[ドライアイス]]の[[昇華 (化学)|昇華温度]]
| style="background:#ddddff" |
|-
| style="background:#ddddff" |184
| style="background:#ddddff" |-89.2
| style="background:#ddddff" |[[:en:Lowest temperature recorded on Earth|地表における世界最低気温]]
| style="background:#ddddff" |
|-
| style="background:#ddddff" |145
| style="background:#ddddff" |-128
| style="background:#ddddff" |[[四フッ化炭素|四フッ化炭素(テトラフルオロメタン)]]の沸点
| style="background:#ddddff" |
|-
| 133
| -140
| HgBa<sub>2</sub>Ca<sub>2</sub>Cu<sub>3</sub>O<sub>x</sub>(HBCCO)
| style="background:#f96060" rowspan="3"|[[銅酸化物超伝導体]]
|-
| 110
| -163
| [[BSCCO|Bi<sub>2</sub>Sr<sub>2</sub>Ca<sub>2</sub>Cu<sub>3</sub>O<sub>10</sub>(BSCCO)]]
|-
| 93
| -180
| [[イットリウム系超伝導体|YBa<sub>2</sub>Cu<sub>3</sub>O<sub>7</sub> (YBCO)]]
|-
| style="background:#ddddff"| 90
| style="background:#ddddff"| -183
| style="background:#ddddff"|[[液体酸素]]の沸点
| style="background:#ddddff" |
|-
| style="background:#ddddff" |77
| style="background:#ddddff" |-196
| style="background:#ddddff" |[[液体窒素]]の沸点
| style="background:#ddddff" |
|-
| 55
| -218
| SmFeAs(O,F)
| style="background:#808080" rowspan="3"|[[鉄系超伝導物質|鉄系超伝導体]]
|-
| 41
| -232
| CeFeAs(O,F)
|-
| 26
| -247
| LaFeAs(O,F)
|-
| style="background:#ddddff" |20
| style="background:#ddddff" |-253
| style="background:#ddddff" |[[液体水素]]の沸点
| style="background:#ddddff" |
|-
| 18
| -255
| [[超伝導電磁石|Nb<sub>3</sub>Sn(ニオブスズ)]]
| style="background:#c0c0c0;" rowspan="3"|金属低温超伝導体
|-
| 10
| -263
| [[超伝導電磁石|NbTi(ニオブチタン)]]
|-
| 9.2
| -263.8
| Nb([[ニオブ]])
|-
| style="background:#ddddff" |4.2
| style="background:#ddddff" |-268.8
| style="background:#ddddff" |[[液体ヘリウム]]の沸点
| style="background:#ddddff" |
|-
| 4.2
| -268.8
| Hg([[水銀]])
| style="background:#c0c0c0;"|金属低温超伝導体
|}<small>*{{Chem|MgB|2}}([[二ホウ化マグネシウム]])が39Kで転移するが、分類の便宜上外した。</small>
== 銅酸化物超伝導体 ==
{{main|銅酸化物超伝導体}}
銅酸化物高温超伝導体は全て、[[ペロブスカイト構造]]を基礎とした[[結晶構造]]をしていて、2次元正方格子{{Chem| CuO|2}}面がシート状に広がっていて、このシートの上下には[[ランタノイド]]等による電気伝導をブロックする層があり、{{Chem| CuO|2}}面とブロック層が交互に積層する構造をとっている。またブロック層が存在しない無限層と呼ばれるものもある。
=== イットリウム系超伝導体 ===
{{main|イットリウム系超伝導体}}
[[イットリウム]](Y)を含む、90[[ケルビン]](K)以上で[[超伝導]]転移を起こす化合物で、Y系高温超伝導体、Y系銅酸化物高温超伝導体とも書かれ、[[化学式]]は {{chem|YBa2|Cu|3|O|7}} である。構成する[[元素]]の頭文字をとって'''YBCO'''(ワイビーシーオー)または、構成元素の[[物質量|物質量比]](モル比)から'''Y123'''(イットリウムいちにさん)とも呼ばれる。初めて発見された[[液体窒素]]の[[沸点]](77 K)を超える[[転移温度]]をもつ[[超伝導体]]。
=== ビスマス系超伝導体 ===
{{main|ビスマス系超伝導体}}
1988年に[[科学技術庁]][[金属材料技術研究所]](現・[[物質・材料研究機構]])の[[前田弘]]のグループによって開発された<ref>[http://scienceportal.jst.go.jp/columns/highlight/20070712_01.html ビスマス系高温超電導体の米国特許取得で一苦労]</ref><ref>{{US patent|7132388}}</ref>。90[[ケルビン]](K)以上で[[超伝導]]転移を起こす化合物で[[化学式]]は{{Chem|Bi|2|Sr|2|Ca|2|Cu|3|O|10}}である。構成する[[元素]]の頭文字をとって'''BSCCO'''(ビスコ)または、構成元素の[[物質量|物質量比]](モル比)から'''Bi2223'''(ビスマスにににさん)とも呼ばれる。
=== REBCO ===
{{main|REBCO}}
{{chem|REBa|2|Cu|3|Oy}} は[[希土類]]を含む銅酸化物超伝導体で線材化の技術が進み、実用化にむけて開発が進みつつある<ref name="REBCO">[http://www.ees.nagoya-u.ac.jp/~web_dai1/studies/CC.html 超伝導システム応用に向けた超伝導線材の開発]</ref>。[[セラミクス]]であるREBCO超伝導体はもろいので、線材として必要な屈曲性に劣るが、薄膜化する事により柔軟性を付与する事が可能になり、線材として使用することが可能になる。結晶[[配向性]]によっても臨界電流密度が大きく変わるため、試料全体に渡った結晶軸方位の 整列が必要で[[エピタキシャル成長]]を利用して線材の全体にわたって配向したREBCO膜を作製する 技術が要求される<ref name="REBCO" />。結晶配向性の良好な緩衝層、高い超伝導特性を持つREBCOエピ膜、長尺に渡って超伝導特性が均一なREBCOエピ膜の作製が鍵となる<ref name="REBCO" />。
== 鉄系超伝導体 ==
{{main|鉄系超伝導物質}}
[[結晶構造]]としてはFe([[鉄]])[[イオン]]が[[正方格子]]を形成しており、Feの[[d軌道|3d軌道]]が[[フェルミ面]]を構成する。Fe同士は[[金属結合]]になっていると考えられ<ref name="f">{{Cite journal|和書
|last=広井
|first=善二
|year=2009
|month=1
|title=鉄系超伝導体の発見
|journal=パリティ
|volume=24
|issue=1
|pages=pp.26-28
|publisher=[[丸善]]
|issn=09114815
}}</ref>、ヒ素などの[[第15族元素|プニコゲン元素]]がFeと強い[[共有結合]]を作り、構造を安定化させている。このため、[[電子]]の[[ドープ]]を行なうと[[反強磁性]][[スピン角運動量|スピン]]配列が消え、[[転移温度|超伝導転移温度]]が高くなるという解釈もできる<ref name="a">{{Cite journal|和書
|last=細野
|first=秀雄
|year=2009
|month=1
|title=新系統(鉄イオンを含む層状化合物)の高温超伝導物質の発見-背景から最近の進歩まで
|journal=応用物理
|volume=78
|issue=1
|pages=pp.31-36
|publisher=応用物理学会
|issn=03698009
}}</ref>。
LnFeAsO<sub>1-X</sub>F<sub>X</sub>の母物質の一つであるLaFeAsOの測定では、160[[ケルビン|K]](約マイナス110[[セルシウス度|℃]])付近で[[正方晶]]から[[斜方晶]]への転移が起きることがわかっている。この付近の温度では[[比熱]]のピークも見られ、La([[ランタン]])のスピン[[結晶構造|格子]][[緩和時間]]が発散してスピン配列が生じている。Feのスピン配列はFeAs平面内でa軸とb軸の長さが等しいが、160K以下では両者の長さに差が生じ、反強磁性的な整列状態になる。これらの結果より、140Kが[[ネール温度]]に相当すると見られる<ref name="a"/>。
== 水素化物超伝導体 ==
2015年にドイツのマックス・プランク研究所により、それまで約20年間破られていなかった転移温度の最高記録を約40度も上回る203kが硫黄水素化物によって実現したことにより、2020年現在、高温超伝導体の探求は水素化物に超高圧をかけることに向けられている<ref name=nikke20200818>{{cite news|title =熱い超電導実現に突破口 リニアなどコスト低く|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62712630X10C20A8XY0000/|publisher=[[日本経済新聞]]|date = 2020-08-18|accessdate = 2020-09-12}}</ref><ref name="naturedigest20190523">[https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/98893 nature - 物性物理学:室温超伝導へ向けて]</ref>。2019年にはランタン水素化物で超高圧下という条件下ながら従来の銅酸化物超伝導体の転移温度を100℃も上回る、250kを達成した<ref name="nature20190523"/>。2020年10月14日、炭素質水素化硫黄(CH<sub>8</sub>S)が超高圧下という条件下ながら、287.7Kを達成し、超伝導の歴史上初めて水の凝固点を超える発見となった<ref name="nature20201015"/>。
== 応用 ==
{{Chem| YBa|2|Cu|3|O|7-δ}}の発見で転移温度が[[液体窒素温度]]を越えてから、高価な[[液体ヘリウム]]にかわって安価な[[液体窒素]]を使えることから実用への期待が高まった。しかし加工が難しいことや臨界電流密度を高めるのが難しいことから応用はなかなか進んでいないが、近年{{いつ|date=2016年3月}}はヘリウムの供給不足と価格高騰<ref>{{Cite web|和書|url=http://gigazine.net/news/20130928-global-helium-shortage/|title=ヘリウムの世界的供給不足は今後も続き、25年後には枯渇する危険性も|accessdate=2016-03-02|date=2013-09-28|publisher=[[GIGAZINE]]}}</ref><ref>{{Cite news|date=2014/3/22|newspaper=[[日本経済新聞]]|title=ヘリウム危機 超えゆく技術|url=http://www.nikkei.com/article/DGXZZO68601000Q4A320C1000000/|accessdate=2016-3-2}}</ref>も重なり、高温超伝導体ならではのバルクでの用途が徐々に見出されつつある。応用としては[[送電線]]、[[高周波通信用超伝導フィルター]]、[[超伝導量子干渉計|SQUID]]、[[磁界検出器]]、[[超電導リニア]]、米海軍の艦船推進用モーター、[[核磁気共鳴]]、[[MRI]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://mrlab.frsc.tsukuba.ac.jp/newpage/balc.html|title=高温超伝導バルク磁石を用いたMRIシステム|accessdate=2016-3-2|publisher=筑波大学 巨瀬・寺田研究室}}</ref><ref>{{cite journal | journal = Applied Physics Letters | volume = 98 | issue = 23 | title = Development of a magnetic resonance microscope using a high Tc bulk superconducting magnet | first1 = Kyohei | last1 = Ogawa | first2 = Takashi | last2 = Nakamura | first3 = Yasuhiko | last3 = Terada | first4 = Katsumi | last4 = Kose | first5 = Tomoyuki | last5 = Haishi | url = http://scitation.aip.org/content/aip/journal/apl/98/23/10.1063/1.3598440 | year = 2011 | doi = 10.1063/1.3598440 | ref = harv}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.istec.or.jp/fruit/news-pdf/H14-10-30.pdf|title=液体窒素温度で4Tを超える超強力超電導バルク磁石の開発に成功|accessdate=2016-3-2|date=2002年10月30日|format=PDF|publisher=国際超電導産業技術研究センター}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2011/110511_2/detail.html|title=高温超伝導バルク磁石を駆使して世界初のMRI画像を撮影 ―理研・筑波大・MRTe社が、直径6.2mm、高さ9.1mmで均一磁場を達成―|publisher=[[理化学研究所]]|date=2011年5月11日|accessdate=2016-3-2}}</ref>など。ビスマス系超伝導体[[超伝導電磁石]]を使用した[[磁気浮上式鉄道]]の走行実験が2005年11月に実施され、成功した<ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20051128/111084/ JR東海,高温超電導磁石を初めて搭載したリニアモーターカーの走行試験を開始]</ref><ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/NEWS/20050318/102798/ JR東海,リニアモータ車両の実物や最新の超電導コイルを展示]</ref>。
== 脚注 ==
{{reflist|30em}}
== 関連項目 ==
* [[超伝導]] - [[室温超伝導]]
* [[イットリウム系超伝導体]]
* [[強相関電子系]]
* [[結晶構造]] - [[立方晶]] - [[ペロブスカイト構造]]
* [[鉄系超伝導物質]]
* [[国際超電導産業技術研究センター]]
== 外部リンク ==
* [https://archive.fo/pASw 超電導関連用語(JIS)]
* [https://web.archive.org/web/20110831163133/http://www.sei.co.jp/news/press/06/prs457_s.html 高温超伝導ケーブルによる送電の実用化実験、アメリカ合衆国]
* [http://superlife.info Superconductivity in everyday life: Interactive exhibition]
* [https://web.archive.org/web/20110830233655/http://people.ccmr.cornell.edu/~jcdavis/ コーネル大学での高温超伝導研究]
* [https://web.archive.org/web/20080706005003/http://www.iop.org/ej/journal/SUST 超伝導の科学と技術]
* {{YouTube|c3asSdngzLs|高温超電導体の上で磁石が浮上するビデオ}}
* [https://web.archive.org/web/20080828193310/http://www.suptech.com/tech_faq.htm 高温超伝導技術]
* [http://www.istec.or.jp/ 国際超電導産業技術研究センター]
{{新技術|topics=yes|materials=yes}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こうおんちようてんとう}}
[[Category:超伝導]]
[[Category:セラミック材料]]
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7,325 | 雷 | 雷(かみなり、いかずち)とは、雲と雲との間、あるいは雲と地上との間の放電によって、光と音を発生する自然現象のこと。
また、ここでは「気象現象あるいは神話としての雷」を中心に述べる。
さまざまな気象状況で発生するものであり、雷雲の生じる原因によって熱雷・界雷・渦雷などに大別されている。夏季に雷雲など激しい上昇気流のあるところに発生するものが熱雷、四季をとおして寒冷前線に沿って発生するものが界雷、低気圧の域内や台風の中で発生するものが渦雷である。火山の噴火に伴い噴煙中とその周辺で生じるものは火山雷と呼ばれる。
雨を伴う場合は「雷雨(らいう)」とも言われる。
漢字(漢語)では「雷」と書くが、大和言葉では主に「かみなり」や「いなずま(いなづま)」などと言う。さらに古語や方言などでは、いかづち、ごろつき、かんなり、らいさまなどの呼び名もある。
音と光を伴う雷放電現象を雷電と呼ぶ。雷(かみなり)に際して起こる音は雷鳴であり、雷電の「雷(らい)」である。それに対して雷に際して起こる光は稲妻であり、雷電の「電」である。
現代日本語でいう雷(かみなり)は雷電とほぼ同義語であるが、遠方で発生した雷は光は見えるものの、風向きの影響などで音が聞こえないことがある。そのため、日本式天気図においては「過去10分以内に雷電または雷鳴があった状態」を雷としている。気象庁の定義によると「雷」とは「雷電(雷鳴および電光)がある状態。電光のみは含まない」とされている。 雷を発生させる雲を雷雲と呼び、その時に雲は帯電状態となっている。雲の中で起こる放電、雲と雲の間の放電をまとめて雲放電と呼び、雲と地面との間の放電を対地放電または落雷と呼ぶ。
なお、雷は主に風と雨を伴う雷雨時に氷の粒子で形成される雷雲によっておこる雷を指す場合が多いが、そればかりではなく、火山の噴火時や砂嵐時に砂の粒子の帯電で形成される雷雲によっておこる火山雷なども雷に含む。
大和言葉の「いなずま」もしくは「いなづま」(歴史的仮名遣いは「いなづま」。ただし「いなづま」は現代仮名遣いでも許容されている)の語源は、稲が開花し結実する旧暦(太陰暦)の夏から秋のはじめにかけて雨に伴い雷がよく発生し、稲穂は雷に感光することで実る、という信仰が生まれ、雷を稲と関連付けて 「稲の『つま(=配偶者)』」と解し、「稲妻」(いなづま)、あるいは「稲光」(いなびかり)などと呼ぶようになったといわれている。日本書紀には、「雷電(イナツルヒ)」と記された史記があり、奈良時代より雷と稲との縁が窺い知れる。
大和言葉「かみなり」の語源は、昔、雷は神が鳴らすもの、と信じられていて「神鳴り」と呼ばれたため。
雷の発生原理は研究が続けられており、さまざまな説が論じられているが、まだ正確には解明されていない。2021年現在、雷は主に、上空と地面の間または上空の雷雲内に電位差が生じた場合の放電により起きる、と言われており、主に以下のように説明されている。低気圧や前線等の荒天時に発生することが多いが、台風の際には雷が発生しにくい傾向がある。
電位差が発生した雲または大地などの間に発生する光と音を伴う放電現象。
地表で大気が暖められることなどにより上昇気流が発生し上空へ昇って行くと、あるところで飽和水蒸気量を超えて水滴(雲粒)が発生する。これが雲であり、湿度が高いほど低層から、気流の規模が大きいほど高空にかけて、発達する。
この水滴は高空にいくほど低温のため、氷の粒子である氷晶になる。氷晶はさらに霰(あられ)となり上昇気流にあおられながら互いに激しくぶつかり合って摩擦されたり砕けたりすることで静電気が蓄積される。成長して重くなる霰は下に、軽い氷晶は上に持ち上げられるが、後述のとおり霰は負、氷晶は正に帯電するため、雲の上層には正の電荷が蓄積され、下層には負の電荷が蓄積される。
雲の中で電位差が生じる原因は、長らく研究者の間で議論されており、異なる切り口からいくつかの説が出されてきた。そのうちのいくつかは現在でも支持されている。そして、これらを全体的観点からまとめた着氷電荷分離理論(高橋, 1978)が最も多くの支持を得ている。
上層と下層の電位差が拡大して空気の絶縁の限界値(約300万V/m)を超えると電子が放出され、放出された電子は空気中にある気体原子と衝突してこれを電離させる。電離によって生じた陽イオンは、電子とは逆に向かって突進し新たな電子を叩き出す。この2次電子が更なる電子雪崩を引き起こし、持続的な放電現象となって下層へ向って稲妻が飛んでいく。
また、下層の負電荷が蓄積されると、今度は地面では正の電荷が静電誘導により誘起される。この両者の間でも、電位差がある一定を超えると放電が起きる。
これらの放電は、大気中を走る強い光の束として観測される。1回の放電量は数万 - 数十万A、電圧は1 - 10億V、電力換算で平均約900GW(=100W電球90億個分相当)に及ぶが時間にすると1/1000秒程度でしかない。エネルギーに換算するとおよそ900MJであり、もし、無駄なくこの電力量をすべてためることができるなら、家庭用省電力エアコン(消費電力1kW)を24時間連続で使い続けた場合、10日強使用できる。
この間を細かく分けると、落雷(負極性の雷)においては、雷雲から最初に伸びる複数の弱い光の先駆放電(ステップトリーダー)、大地側から迎えるように伸びるストリーマ(線条・先行放電)、両者が結合して大量の電荷が本格的に先駆放電路に流入する主雷撃の3段階に大別され、電位差が中和されるまで放電が続く。ステップトリーダーが複数であるのに対し、ステップトリーダーと結合するストリーマは1ないしは数個までであり、結果、主電撃として目視確認できる放電路は少なくなる。典型的な夏雷であれば、1回の落雷において、その複数のステップトリーダーの広がりはおよそ10000 (m) 範囲であり、主電撃すなわち落雷はこの範囲で形成される。
主な夏雷は電子は雲から地表に、電流は地表から雲に流れる。冬雷の場合はその性質上これとは逆に電子は地表から雲に、電流は雲から地表に流れる。
放電現象が発生したときに生じる音である。雷が地面に落下したときの衝撃音ではなく、放電の際に放たれる熱量(主雷撃が始まって1マイクロ秒後には、放電路にあたる大気の温度は局所的に2 - 3万°Cという高温に達する)によって雷周辺の空気が急速に膨張し、音速を超えた時の衝撃波である。
稲妻の放つ光は光速で伝わるため、ほぼ瞬間に到達する。これに対して、雷鳴は音速で伝わるため、音が伝わってくる時間の分だけ、稲妻より遅れて到達する。そのため、雷の発生した場所が遠いほど、稲妻から雷鳴までの時間が長くなり、その時間を計ればおおよその距離も分かる。
発現地点までの距離(自分を中心とした半径)を P(キロメートル)、稲妻が光ってから(もしくはラジオにパルス雑音が入ってから)雷鳴が聞こえる瞬間までの時間を S(秒) とすると、次のように表される。定数0.34は気温を15°Cとしたときのキロメートル毎秒で表す音速。
雷鳴が聞こえる距離は通常で約10 - 15kmだが、雷雲外への放電がある場合などは、雷雲から30km以上離れていても雷鳴が聞こえることがある。
急激な上昇気流により低層から高層まで形成された雷雲は主に積乱雲などで構成され、熱雷と呼ぶ。夏季によく発生するため、俗に夏雷とも呼ばれる。局地的かつ散発的に発生し、持続時間は短い傾向がある。
積乱雲でも寒冷前線上などに発生する場合、また、温暖前線などで同様の原理が発生した場合の雷は界雷と呼ぶ。帯状にまとまって発生し、セルの世代交代があって前線の移動に付随して落雷域が移動することが多い。
前線に向かって湿った空気が流れ込むことによって形成された雷雲による雷など、熱雷と界雷の両方の特性を併せ持つものを熱界雷と呼ぶ。夏季において激しい雷雨を伴うことが多く、たびたび地上において被害を引き起こす雷。局地的にまとまって発生し、時に100kmを超える巨大な積乱雲群を構成して落雷域が広範囲に及ぶ。
上昇気流が発達した低気圧や台風などにより形成された雷雲による雷の場合を渦雷(からい、うずらい)と呼ぶ。性質としては熱雷や界雷に近い。勢力が強いものや移動速度が速いものは雷雲の移動速度が速いことから、防災上注意を要する。
雲内での放電を雲内放電 (inter cloud lightning : IC)、雲と雲の間の放電を雲間放電 (cloud to cloud lightning : CC) と呼ぶ。雷雲から地面への放電を対地雷 (cloud to ground lightning : CG) と呼ぶ。対地雷には上向きと下向き、正極性 (+CG) と負極性 (-CG) の分類があるから対地雷は結局4種類ある。
夜間、遠方で発生した雷による稲妻が雲に反射する現象および、雲内放電により雷雲自体が光って見える現象を幕電と呼ぶ。雷雲から15km以上離れている場合など、稲妻のみで雷鳴が確認できない時を指すことが多い。
幕電は上空が晴れていても確認できることがあり、強い閃光のわりに雷鳴が聞こえないなどといったことから、しばしば宏観異常現象ではないかとされることがある。
近年(1980年代 - )では大規模落雷に伴って発生するスプライト等の雷雲上空高度20 - 100kmの成層圏・中間圏・下部熱圏において起こる放電による発光現象も発見されている。
近代気象観測では、観測所における天気観測に雷も組み込まれ、目視観測が続けられてきた。一方、気象レーダー(雷検知器)による観測が拡大し、少しづつ代替されつつある。日本では、1990年代後半から2000年代にかけて測候所で、2010年代後半にほとんどの地方気象台で、目視による雷観測が廃止され、気象レーダーによる雷検出に代替された。
落雷被害における火災保険に関連して、被害を科学的に裏付ける資料として、観測記録を基にして雷に関する「気象証明」を気象台が発行している。民間にも同様のサービスがある。
国際気象通報式では、雷電等が観測時(観測直前10分間)にあったか否か、観測時になくとも前1時間内にあったか否か、雷の3段階強度、降水を伴うか否か、雨や雪の3段階強度などの組み合わせで区分される天気から選択して報告する。自動観測の場合は少し異なった区分になる。なお、雷電は電光と雷鳴を観測したことを指す。基本の記号は雷光(雷鳴なし)が()、雷電が()。
航空気象の通報式では、「特性」の欄のTSが雷電を表し、降水現象の欄のRA(雨)などと組み合わせて、あるいは単独で用いる。
ラジオ気象通報などの日本式天気図では、観測時の直前10分間に雷電(電光と雷鳴)または雷鳴が観測されたとき、天気を雷と表記する。天気記号は雷()、雷強し(ツ)。降雨や降雪、雹や霰が観測されていても、雷は最も優先順位が高いため単に雷とする。雷強しの記号は、1988年に雪強しとともに追加された。
20世紀に入ってからの観測により、雷から幅広い周波数帯の電磁波が放射されていることが分かっている。身近な例では雷由来のノイズがラジオで受信できる場合があり、原理上振幅変調を用いるAMラジオはその感度が高く、周波数変調であるFMラジオは感度が低い。
また、雷放電の高度が低い冬の日本海側の原子力発電所などで、雷と同時にX線やガンマ線などの放射線値の一時的上昇が観測されている。これにより雷が放射線を放出していると解明された。一方、宇宙線などの外から入ってきた放射線が制動放射を誘発し雷放電を励起しているとの研究がある。
雷の空中放電により、空気中の窒素と酸素が反応して窒素酸化物が生成(窒素固定)され、さらに酸素により硝酸に変化する。これらが地上に降下して硝酸塩が生成されることで植物が栄養分として利用できる物質となる。
雷は光核反応(原子核反応)の引き金になり得るとされている。2017年2月6日 17:34:06、柏崎にて、落雷の35秒後に 0.511 MeVの対消滅ガンマ線が観測されており、これが陽電子と電子が衝突し電子対消滅した時に放出された対消滅ガンマ線だと解釈されている(対消滅ガンマ線と誤認される他の可能性として環境バックグラウンドの輝線があるが、天然放射性核種 208Tl(0.583 MeV) や 214Bi (0.609 MeV)と明確に区別され、かつ、大気中での「対生成」で陽電子が発生した場合では落雷との時間差から区別される)。
北関東地方(栃木県、群馬県、埼玉県北部、茨城県)では特に夏の雷が多く「雷の銀座通り」等と呼ばれることがあるほどである。落雷保険の料率(保険料)も他地方に比べて高い。「上州(群馬県)名物、かかあ天下と空っ風」という言葉があるが、それに加えて雷も名物として知られる。関東地方の気象庁観測点では突出して雷日数の多い宇都宮市では、夏季に多くなる雷を「雷都(らいと)」という地域の愛称に取り込み、宇都宮市債や土産物の菓子の名称などに使われている。
北陸地方や新潟県、山形県庄内地方、秋田県などの日本海沿岸では、冬季に目立って多く発生することから冬季雷とも呼ばれる。冬季雷は、夏期のものが積乱雲から地面に向かって放電するのに対し地面から積乱雲に向かって、上向きに放電し、発生高度も300ないし500メートルと低い(夏季の雷の発生高度は3,000ないし5,000メートル)。落雷数こそ少ないものの発生のメカニズムから夏季の雷より数百倍のエネルギーを持つものが確認されるほか、一日中発雷することが多く雪やあられを伴うことが多い。また、はっきりとした落雷が無くても瞬間的な停電などの被害が出ることもある。海岸線から35キロメートル以上の内陸部では少ない。
また、冬季の雷には愛称があることが多く、「雪起こし」、「ブリ起こし」、「雪雷」などのような方言がみられる。特に、雪起こしが観測された場合は冬の始まりであると言い習わされる。
冬季雷の発生地域は日本海側沿岸部とノルウェーのノルウェー海沿岸部、および北アメリカの五大湖東側のみであり、世界的に見ても非常に珍しい気象現象である。
気象庁は国内の主要観測点で雷日数を集計し公表している。これによると、北関東は関東地方内では比較的雷日数が多い地域となっており、特に夏季の雷を特徴としている。関東各地の統計値によると、南関東では東京で年間雷日数が12.9日で、うち夏季(5月から9月)の雷日数は9.7日、同じく神奈川県横浜では年間12.6日のうち夏季8.2日であるが、北関東4県では、栃木県宇都宮では年間24.8日のうち夏季20.9日、群馬県前橋では年間20.4日のうち夏季18.9日、埼玉県熊谷では年間19.7日のうち夏季17.3日、茨城県水戸では年間16.7日のうち夏季13.1日となっており、南関東に比較し顕著に多くなっている。
また、日本海側気候である日本海沿岸各地では冬雷が多く、気象庁統計値によると、秋田31.4日、新潟34.8日、富山32.2日、金沢42.4日、福井35.0日、鳥取26.4日、松江25.4日、福岡24.7日などと、日本国内では雷、特に冬雷の多い地域となっている。一方、測候所では2010年10月に無人化観測を行ったため、雷日数を廃止した。
気象庁統計値によれば、1年間で雷日数が最も多かったのは石川県金沢市で記録した2005年の72日。
暖候期は4-9月、寒候期は10-3月の雷日数を示す。
昭和基地(南極)では雷日数は0.0日で観測はされていない。
ベネズエラのマラカイボ湖に注ぐカタトゥンボ川の河口付近は、カタトゥンボの雷と呼ばれる雷の常襲地帯である。2014年には、1時間に3600本の稲妻が認められ、「世界で最も稲妻が多い場所」としてギネス世界記録に認定されている。
落雷時のエネルギーは余りにも大きくしかも短時間(1/1000秒〜1秒)に発生するため、蓄電池などによる電気の蓄積は困難であり、また雷の発生場所や発生時刻の予測は、現在はまだ正確には不可能である。このため、雷を電力として利用することは現在の技術ではきわめて困難とされている。
古来より、雷は神と結びつけて考えられることが多かった。
ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテル(ジュピター)、バラモン教のインドラは天空の雷神であり最高神である。北欧神話のトールも古代では最高神であった(時代が下るとオージンが最高神とされた)。マライ半島のジャングルに住むセマング族でも雷は創造を司る最高神であり、インドシナから南中国にかけては敵を滅ぼすため石斧をもって天下る神(雷公)として落雷を崇めた。
欧米ではカシが特に落雷を受けやすい樹木とされたのでゼウス、ユピテル、北欧神話のトールの宿る木として崇拝した。欧州の農民は住居の近くにカシを植えて避雷針代わりとし、また、犬、馬、はさみ、鏡なども雷を呼びやすいと信じたので雷雨が近づくとこれらを隠す傾向があった。
雷雨の際に動物が往々紛れ出ることから雷鳥や雷獣の観念が生まれた。アメリカ・インディアンの間では、その羽ばたきで雷鳴や稲妻を起こす巨大な鳥(サンダーバード)が存在すると考えられた。
日本神話においても雷は最高神という扱いこそ受けなかったが、雷鳴を「神鳴り」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。天津神の1人で天孫降臨の前に葦原中国を平定したタケミカヅチ(建雷命、建御雷、武甕槌)はそういった雷神の代表である。雷(雷電)を祭った神社に「雷電神社」「高いかづち神社」などがあり、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)などを祭神としている。
日本では方言で雷を「かんだち」ともいうが、これは「神立ち」すなわち神が示現する意である。先述した稲妻の語源が示すとおり、雷は稲と関連づけられている。日本霊異記や今昔物語にあるように雷は田に水を与えて天に帰る神であったため、今でも農村では雷が落ちると「雷さまを自分の田んぼにお迎えする」 という意味から、青竹を立て注連縄(しめなわ)を張る、もしくは幣束を立て神を祀る地方がある。
雷神は平安時代になると、天神の眷属神として低い地位を占めるようになった。
また、雷が起きると、落雷よけに「くわばら、くわばら」と呪文を唱える風習がある。これは、菅原道真の土地の地名であった「桑原」にだけ雷(かみなり)が落ちなかったという話に由来するとされる。平安時代に藤原一族によって流刑された道真が恨みを晴らすため雷神となり宮中に何度も雷を落とし、これによって藤原一族は大打撃を受けた。このとき唯一、桑原だけが落雷がなかったので後に人々は雷よけに「桑原、桑原」ととなえるようになったといわれる。菅原氏の流れをくむ公家に桒原(くわばら)家があり、菅原氏は「桑原」の地名を道真由来と考えていたことがうかがえる。
また、菅原道真関連の桑原以外にも、雷が落ちないとする話は各地に伝えられており、兵庫県三田市桑原の欣勝寺や大阪府和泉市桑原の西福寺などに残っている。
「くわばら、くわばら」と唱えるのは、桑の木が神聖な力を持つという信仰があったためであるとも考えられている。詳細は「クワ」を参照。
雷神は古くから美術に表現されてきたが絵では京都建仁寺の俵屋宗達筆の障壁画、元禄時代の尾形光琳の作など、彫刻では日光東照宮、京都三十三間堂などのものが有名である。
俳句においては「春雷」は春の季語、「雷」「遠雷」「軽雷」は夏の季語、「稲妻」は秋の季語、「寒雷」は冬の季語である。
易では、「かみなり」という現象は「雷(らい)」と「電(でん)」の二つの部分で組み合わせられたもの。こちらの「雷」の字は「雷鳴」のみを指す。「電」は「稲妻」、つまり光の部分に当たる。
六十四卦の「雷火豊」と「火雷噬嗑」の「火」は「電」の意味である。 | [
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"text": "放電現象が発生したときに生じる音である。雷が地面に落下したときの衝撃音ではなく、放電の際に放たれる熱量(主雷撃が始まって1マイクロ秒後には、放電路にあたる大気の温度は局所的に2 - 3万°Cという高温に達する)によって雷周辺の空気が急速に膨張し、音速を超えた時の衝撃波である。",
"title": "発生の原理"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "稲妻の放つ光は光速で伝わるため、ほぼ瞬間に到達する。これに対して、雷鳴は音速で伝わるため、音が伝わってくる時間の分だけ、稲妻より遅れて到達する。そのため、雷の発生した場所が遠いほど、稲妻から雷鳴までの時間が長くなり、その時間を計ればおおよその距離も分かる。",
"title": "発生の原理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "発現地点までの距離(自分を中心とした半径)を P(キロメートル)、稲妻が光ってから(もしくはラジオにパルス雑音が入ってから)雷鳴が聞こえる瞬間までの時間を S(秒) とすると、次のように表される。定数0.34は気温を15°Cとしたときのキロメートル毎秒で表す音速。",
"title": "発生の原理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "雷鳴が聞こえる距離は通常で約10 - 15kmだが、雷雲外への放電がある場合などは、雷雲から30km以上離れていても雷鳴が聞こえることがある。",
"title": "発生の原理"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "急激な上昇気流により低層から高層まで形成された雷雲は主に積乱雲などで構成され、熱雷と呼ぶ。夏季によく発生するため、俗に夏雷とも呼ばれる。局地的かつ散発的に発生し、持続時間は短い傾向がある。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "積乱雲でも寒冷前線上などに発生する場合、また、温暖前線などで同様の原理が発生した場合の雷は界雷と呼ぶ。帯状にまとまって発生し、セルの世代交代があって前線の移動に付随して落雷域が移動することが多い。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "前線に向かって湿った空気が流れ込むことによって形成された雷雲による雷など、熱雷と界雷の両方の特性を併せ持つものを熱界雷と呼ぶ。夏季において激しい雷雨を伴うことが多く、たびたび地上において被害を引き起こす雷。局地的にまとまって発生し、時に100kmを超える巨大な積乱雲群を構成して落雷域が広範囲に及ぶ。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "上昇気流が発達した低気圧や台風などにより形成された雷雲による雷の場合を渦雷(からい、うずらい)と呼ぶ。性質としては熱雷や界雷に近い。勢力が強いものや移動速度が速いものは雷雲の移動速度が速いことから、防災上注意を要する。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "雲内での放電を雲内放電 (inter cloud lightning : IC)、雲と雲の間の放電を雲間放電 (cloud to cloud lightning : CC) と呼ぶ。雷雲から地面への放電を対地雷 (cloud to ground lightning : CG) と呼ぶ。対地雷には上向きと下向き、正極性 (+CG) と負極性 (-CG) の分類があるから対地雷は結局4種類ある。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "夜間、遠方で発生した雷による稲妻が雲に反射する現象および、雲内放電により雷雲自体が光って見える現象を幕電と呼ぶ。雷雲から15km以上離れている場合など、稲妻のみで雷鳴が確認できない時を指すことが多い。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "幕電は上空が晴れていても確認できることがあり、強い閃光のわりに雷鳴が聞こえないなどといったことから、しばしば宏観異常現象ではないかとされることがある。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "近年(1980年代 - )では大規模落雷に伴って発生するスプライト等の雷雲上空高度20 - 100kmの成層圏・中間圏・下部熱圏において起こる放電による発光現象も発見されている。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "近代気象観測では、観測所における天気観測に雷も組み込まれ、目視観測が続けられてきた。一方、気象レーダー(雷検知器)による観測が拡大し、少しづつ代替されつつある。日本では、1990年代後半から2000年代にかけて測候所で、2010年代後半にほとんどの地方気象台で、目視による雷観測が廃止され、気象レーダーによる雷検出に代替された。",
"title": "雷の観測"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "落雷被害における火災保険に関連して、被害を科学的に裏付ける資料として、観測記録を基にして雷に関する「気象証明」を気象台が発行している。民間にも同様のサービスがある。",
"title": "雷の観測"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "国際気象通報式では、雷電等が観測時(観測直前10分間)にあったか否か、観測時になくとも前1時間内にあったか否か、雷の3段階強度、降水を伴うか否か、雨や雪の3段階強度などの組み合わせで区分される天気から選択して報告する。自動観測の場合は少し異なった区分になる。なお、雷電は電光と雷鳴を観測したことを指す。基本の記号は雷光(雷鳴なし)が()、雷電が()。",
"title": "雷の観測"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "航空気象の通報式では、「特性」の欄のTSが雷電を表し、降水現象の欄のRA(雨)などと組み合わせて、あるいは単独で用いる。",
"title": "雷の観測"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ラジオ気象通報などの日本式天気図では、観測時の直前10分間に雷電(電光と雷鳴)または雷鳴が観測されたとき、天気を雷と表記する。天気記号は雷()、雷強し(ツ)。降雨や降雪、雹や霰が観測されていても、雷は最も優先順位が高いため単に雷とする。雷強しの記号は、1988年に雪強しとともに追加された。",
"title": "雷の観測"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入ってからの観測により、雷から幅広い周波数帯の電磁波が放射されていることが分かっている。身近な例では雷由来のノイズがラジオで受信できる場合があり、原理上振幅変調を用いるAMラジオはその感度が高く、周波数変調であるFMラジオは感度が低い。",
"title": "雷による電波などの放射"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "また、雷放電の高度が低い冬の日本海側の原子力発電所などで、雷と同時にX線やガンマ線などの放射線値の一時的上昇が観測されている。これにより雷が放射線を放出していると解明された。一方、宇宙線などの外から入ってきた放射線が制動放射を誘発し雷放電を励起しているとの研究がある。",
"title": "雷による電波などの放射"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "雷の空中放電により、空気中の窒素と酸素が反応して窒素酸化物が生成(窒素固定)され、さらに酸素により硝酸に変化する。これらが地上に降下して硝酸塩が生成されることで植物が栄養分として利用できる物質となる。",
"title": "雷による窒素固定"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "雷は光核反応(原子核反応)の引き金になり得るとされている。2017年2月6日 17:34:06、柏崎にて、落雷の35秒後に 0.511 MeVの対消滅ガンマ線が観測されており、これが陽電子と電子が衝突し電子対消滅した時に放出された対消滅ガンマ線だと解釈されている(対消滅ガンマ線と誤認される他の可能性として環境バックグラウンドの輝線があるが、天然放射性核種 208Tl(0.583 MeV) や 214Bi (0.609 MeV)と明確に区別され、かつ、大気中での「対生成」で陽電子が発生した場合では落雷との時間差から区別される)。",
"title": "雷による光核反応"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "北関東地方(栃木県、群馬県、埼玉県北部、茨城県)では特に夏の雷が多く「雷の銀座通り」等と呼ばれることがあるほどである。落雷保険の料率(保険料)も他地方に比べて高い。「上州(群馬県)名物、かかあ天下と空っ風」という言葉があるが、それに加えて雷も名物として知られる。関東地方の気象庁観測点では突出して雷日数の多い宇都宮市では、夏季に多くなる雷を「雷都(らいと)」という地域の愛称に取り込み、宇都宮市債や土産物の菓子の名称などに使われている。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "北陸地方や新潟県、山形県庄内地方、秋田県などの日本海沿岸では、冬季に目立って多く発生することから冬季雷とも呼ばれる。冬季雷は、夏期のものが積乱雲から地面に向かって放電するのに対し地面から積乱雲に向かって、上向きに放電し、発生高度も300ないし500メートルと低い(夏季の雷の発生高度は3,000ないし5,000メートル)。落雷数こそ少ないものの発生のメカニズムから夏季の雷より数百倍のエネルギーを持つものが確認されるほか、一日中発雷することが多く雪やあられを伴うことが多い。また、はっきりとした落雷が無くても瞬間的な停電などの被害が出ることもある。海岸線から35キロメートル以上の内陸部では少ない。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "また、冬季の雷には愛称があることが多く、「雪起こし」、「ブリ起こし」、「雪雷」などのような方言がみられる。特に、雪起こしが観測された場合は冬の始まりであると言い習わされる。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "冬季雷の発生地域は日本海側沿岸部とノルウェーのノルウェー海沿岸部、および北アメリカの五大湖東側のみであり、世界的に見ても非常に珍しい気象現象である。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "気象庁は国内の主要観測点で雷日数を集計し公表している。これによると、北関東は関東地方内では比較的雷日数が多い地域となっており、特に夏季の雷を特徴としている。関東各地の統計値によると、南関東では東京で年間雷日数が12.9日で、うち夏季(5月から9月)の雷日数は9.7日、同じく神奈川県横浜では年間12.6日のうち夏季8.2日であるが、北関東4県では、栃木県宇都宮では年間24.8日のうち夏季20.9日、群馬県前橋では年間20.4日のうち夏季18.9日、埼玉県熊谷では年間19.7日のうち夏季17.3日、茨城県水戸では年間16.7日のうち夏季13.1日となっており、南関東に比較し顕著に多くなっている。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "また、日本海側気候である日本海沿岸各地では冬雷が多く、気象庁統計値によると、秋田31.4日、新潟34.8日、富山32.2日、金沢42.4日、福井35.0日、鳥取26.4日、松江25.4日、福岡24.7日などと、日本国内では雷、特に冬雷の多い地域となっている。一方、測候所では2010年10月に無人化観測を行ったため、雷日数を廃止した。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "気象庁統計値によれば、1年間で雷日数が最も多かったのは石川県金沢市で記録した2005年の72日。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "暖候期は4-9月、寒候期は10-3月の雷日数を示す。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "昭和基地(南極)では雷日数は0.0日で観測はされていない。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ベネズエラのマラカイボ湖に注ぐカタトゥンボ川の河口付近は、カタトゥンボの雷と呼ばれる雷の常襲地帯である。2014年には、1時間に3600本の稲妻が認められ、「世界で最も稲妻が多い場所」としてギネス世界記録に認定されている。",
"title": "各地の雷"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "落雷時のエネルギーは余りにも大きくしかも短時間(1/1000秒〜1秒)に発生するため、蓄電池などによる電気の蓄積は困難であり、また雷の発生場所や発生時刻の予測は、現在はまだ正確には不可能である。このため、雷を電力として利用することは現在の技術ではきわめて困難とされている。",
"title": "電力としての利用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "古来より、雷は神と結びつけて考えられることが多かった。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテル(ジュピター)、バラモン教のインドラは天空の雷神であり最高神である。北欧神話のトールも古代では最高神であった(時代が下るとオージンが最高神とされた)。マライ半島のジャングルに住むセマング族でも雷は創造を司る最高神であり、インドシナから南中国にかけては敵を滅ぼすため石斧をもって天下る神(雷公)として落雷を崇めた。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "欧米ではカシが特に落雷を受けやすい樹木とされたのでゼウス、ユピテル、北欧神話のトールの宿る木として崇拝した。欧州の農民は住居の近くにカシを植えて避雷針代わりとし、また、犬、馬、はさみ、鏡なども雷を呼びやすいと信じたので雷雨が近づくとこれらを隠す傾向があった。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "雷雨の際に動物が往々紛れ出ることから雷鳥や雷獣の観念が生まれた。アメリカ・インディアンの間では、その羽ばたきで雷鳴や稲妻を起こす巨大な鳥(サンダーバード)が存在すると考えられた。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日本神話においても雷は最高神という扱いこそ受けなかったが、雷鳴を「神鳴り」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。天津神の1人で天孫降臨の前に葦原中国を平定したタケミカヅチ(建雷命、建御雷、武甕槌)はそういった雷神の代表である。雷(雷電)を祭った神社に「雷電神社」「高いかづち神社」などがあり、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)などを祭神としている。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本では方言で雷を「かんだち」ともいうが、これは「神立ち」すなわち神が示現する意である。先述した稲妻の語源が示すとおり、雷は稲と関連づけられている。日本霊異記や今昔物語にあるように雷は田に水を与えて天に帰る神であったため、今でも農村では雷が落ちると「雷さまを自分の田んぼにお迎えする」 という意味から、青竹を立て注連縄(しめなわ)を張る、もしくは幣束を立て神を祀る地方がある。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "雷神は平安時代になると、天神の眷属神として低い地位を占めるようになった。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また、雷が起きると、落雷よけに「くわばら、くわばら」と呪文を唱える風習がある。これは、菅原道真の土地の地名であった「桑原」にだけ雷(かみなり)が落ちなかったという話に由来するとされる。平安時代に藤原一族によって流刑された道真が恨みを晴らすため雷神となり宮中に何度も雷を落とし、これによって藤原一族は大打撃を受けた。このとき唯一、桑原だけが落雷がなかったので後に人々は雷よけに「桑原、桑原」ととなえるようになったといわれる。菅原氏の流れをくむ公家に桒原(くわばら)家があり、菅原氏は「桑原」の地名を道真由来と考えていたことがうかがえる。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、菅原道真関連の桑原以外にも、雷が落ちないとする話は各地に伝えられており、兵庫県三田市桑原の欣勝寺や大阪府和泉市桑原の西福寺などに残っている。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "「くわばら、くわばら」と唱えるのは、桑の木が神聖な力を持つという信仰があったためであるとも考えられている。詳細は「クワ」を参照。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "雷神は古くから美術に表現されてきたが絵では京都建仁寺の俵屋宗達筆の障壁画、元禄時代の尾形光琳の作など、彫刻では日光東照宮、京都三十三間堂などのものが有名である。",
"title": "雷と神話"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "俳句においては「春雷」は春の季語、「雷」「遠雷」「軽雷」は夏の季語、「稲妻」は秋の季語、「寒雷」は冬の季語である。",
"title": "文化の中での雷"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "易では、「かみなり」という現象は「雷(らい)」と「電(でん)」の二つの部分で組み合わせられたもの。こちらの「雷」の字は「雷鳴」のみを指す。「電」は「稲妻」、つまり光の部分に当たる。",
"title": "文化の中での雷"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "六十四卦の「雷火豊」と「火雷噬嗑」の「火」は「電」の意味である。",
"title": "文化の中での雷"
}
] | 雷(かみなり、いかずち)とは、雲と雲との間、あるいは雲と地上との間の放電によって、光と音を発生する自然現象のこと。 また、ここでは「気象現象あるいは神話としての雷」を中心に述べる。 | {{Otheruses}}
{{Redirect|稲妻}}
[[ファイル:Lightning over Oradea Romania 3.jpg|thumb|250px|住宅近郊への落雷]]
[[ファイル:Lightning animation.gif|thumb|250px|稲妻]]
'''雷'''(かみなり、いかずち)とは、[[雲]]と雲との間、あるいは雲と地上との間の[[放電]]によって、光と音を発生する自然現象のこと<ref>[http://kotobank.jp/word/%E9%9B%B7?dic=daijirin&oid=DJR_kaminari_-020 大辞林 第三版] - [[コトバンク]]</ref>。
また、ここでは「気象現象あるいは神話としての雷」を中心に述べる。{{main2|雷の被害とその対策・回避方法|落雷}}
== 概説 ==
さまざまな気象状況で発生するものであり、雷雲の生じる原因によって熱雷・界雷・渦雷などに大別されている<ref name="koujien">広辞苑 第6版</ref>。[[夏|夏季]]に雷雲など激しい[[上昇気流]]のあるところに発生するものが熱雷<ref name="britanica">ブリタニカ百科事典「雷」</ref>、[[四季]]をとおして[[寒冷前線]]に沿って発生するものが界雷、[[低気圧]]の域内や[[台風]]の中で発生するものが渦雷である<ref name="britanica" />。[[火山]]の[[噴火]]に伴い[[噴煙]]中とその周辺で生じるものは[[火山雷]]と呼ばれる<ref>[https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/rovdm/Asosan_rovdm/word2.html 火山活動に関係する用語] 阿蘇山火山防災連絡事務所</ref>。
=== 表現、語彙、語義 ===
[[雨]]を伴う場合は「'''[[雷雨]]'''(らいう)」とも言われる<ref name="britanica" />。
[[漢字]]([[漢語]])では「雷」と書くが、[[大和言葉]]では主に「'''かみなり'''」や「'''いなずま'''(いなづま)」などと言う。さらに[[古語]]や[[方言]]などでは、'''いかづち'''、'''ごろつき'''、'''かんなり'''、'''らいさま'''などの呼び名もある。
音と光を伴う雷[[放電]]現象を'''[[雷電]]'''と呼ぶ。雷(かみなり)に際して起こる[[音]]は'''[[雷#雷鳴|雷鳴]]'''であり、雷電の「雷(らい)」である。それに対して雷に際して起こる[[光]]は'''[[稲妻]]'''であり、雷電の「[[電]]」である。
現代日本語でいう雷(かみなり)は雷電とほぼ[[同義語]]であるが、遠方で発生した雷は光は見えるものの、風向きの影響などで音が聞こえないことがある。そのため、[[日本式天気図]]においては「過去10分以内に雷電または雷鳴があった状態」を雷としている。気象庁の定義によると「雷」とは「雷電(雷鳴および電光)がある状態。電光のみは含まない」とされている。
<!--鳥取の方言では「どんどろけ」という<ref>{{Cite web|url=https://www.sankei.com/article/20211202-K4LHWAN3MBES5HEEHY636E5NOQ/|title=鳥取の郷土料理 どんどろけ飯|publisher=産経ニュース|date=2021-12-02|accessdate=2021-12-02}}</ref>。
-->
雷を発生させる雲を[[積乱雲|雷雲]]と呼び、その時に雲は[[帯電]]状態となっている。雲の中で起こる放電、雲と雲の間の放電をまとめて'''[[雲放電]]'''と呼び<ref name="raihoudenn">{{Cite journal|和書 |author=[[河崎善一郎]] |title=身近なプラズマ -雷- 1.雷放電とは -雷放電の物理- |journal=プラズマ・核融合学会誌 |issn=09187928 |publisher=プラズマ・核融合学会 |year=2004 |month=jul |volume=80 |issue=7 |pages=589-596 |naid=110003827794 |doi=10.1585/jspf.80.589 |url=https://doi.org/10.1585/jspf.80.589}}</ref>、雲と地面との間の放電を'''対地放電'''または'''[[落雷]]'''と呼ぶ<ref name="raihoudenn"/>。
なお、雷は主に[[風]]と[[雨]]を伴う[[雷雨]]時に[[氷]]の[[粒子]]で形成される雷雲によっておこる雷を指す場合が多いが、そればかりではなく、[[火山]]の[[噴火]]時や[[砂嵐]]時に[[砂]]の粒子の帯電で形成される雷雲によっておこる[[火山雷]]なども雷に含む。
== 語源 ==
[[大和言葉]]の「いなずま」もしくは「いなづま」([[歴史的仮名遣|歴史的仮名遣い]]は「いなづま」。ただし「いなづま」は[[現代仮名遣|現代仮名遣い]]でも許容されている)の[[語源]]は、[[イネ|稲]]が開花し結実する[[旧暦]]([[太陰暦]])の夏から[[秋]]のはじめにかけて雨に伴い雷がよく発生し、稲穂は雷に感光することで実る、という信仰が生まれ、雷を稲と関連付けて 「稲の『つま(=配偶者){{efn2|日本の[[古語]]では「[[妻|つま]]」は男女を問わず配偶者の意味。}}』」と解し、「'''稲妻'''」(いなづま)、あるいは「'''稲光'''」(いなびかり)などと呼ぶようになったといわれている{{efn2|落雷によって大気中の[[窒素]]が田畑に固着されるため収穫が増えたという説がある。なお、現在では十分に窒素肥料が蒔かれているため、落雷した田とそうでない田の間で稲の生長に差異はほとんど見られず、自動車等の内燃機関から排出される窒素酸化物の量が増えたことも相対的に落雷による収量の差異が見られなくなる一因として挙げられる。}}。[[日本書紀]]には、「'''雷電(イナツルヒ)'''」と記された史記があり、[[奈良時代]]より雷と稲との縁が窺い知れる<ref name="nhkthunder">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/10/special/kenkyushitsu/scicallab6/ |title="雷が豊作をもたらす”というのは本当なのか? ~言い伝えに「サイエンス」で迫る!~ |publisher =日本放送協会 |date=2022-10-08 |accessdate=2023-06-29}}</ref>。
大和言葉「かみなり」の語源は、昔、雷は[[神]]が鳴らすもの、と信じられていて「神鳴り」と呼ばれたため。
== 発生の原理 ==
雷の発生原理は研究が続けられており、さまざまな説が論じられている<ref>日本大気電気学会 編『大気電気学概論』オーム社{{要ページ番号|date=2019年8月}}</ref>が、まだ正確には解明されていない<ref name="britanica" />。2021年現在、雷は主に、上空と地面の間または上空の雷雲内に[[電位差]]が生じた場合の[[放電]]により起きる、と言われており、主に以下のように説明されている。低気圧や前線等の荒天時に発生することが多いが、台風の際には雷が発生しにくい傾向がある。
電位差が発生した雲または大地などの間に発生する光と音を伴う放電現象<ref>https://www.otowadenki.co.jp/knowledge_mechanism/ 雷が発生するしくみ] 音羽電機工業</ref>。
=== 雷雲の発生 ===
[[ファイル:Thunderstorm formation.jpg|thumb|300px|積乱雲の形成過程]]
地表で大気が暖められることなどにより[[上昇気流]]が発生し上空へ昇って行くと、あるところで[[飽和水蒸気量]]を超えて水滴(雲粒)が発生する。これが雲であり、[[湿度]]が高いほど低層から、気流の規模が大きいほど高空にかけて、発達する。
この水滴は高空にいくほど低温のため、氷の粒子である[[氷晶]]になる。氷晶はさらに[[霰]](あられ)となり上昇気流にあおられながら互いに激しくぶつかり合って摩擦されたり砕けたりすることで[[静電気]]が蓄積される。成長して重くなる霰は下に、軽い氷晶は上に持ち上げられるが、後述のとおり霰は負、氷晶は正に帯電するため、雲の上層には正の[[電荷]]が蓄積され、下層には負の電荷が蓄積される。
雲の中で[[電位]]差が生じる原因は、長らく研究者の間で議論されており、異なる切り口からいくつかの説が出されてきた。そのうちのいくつかは現在でも支持されている。そして、これらを全体的観点からまとめた着氷電荷分離理論(高橋, 1978)が最も多くの支持を得ている<ref>[http://fnorio.com/0089thunderbolt1/thunderbolt1.html#5 FNの高校物理 電荷分離メカニズム] 2011年5月29日閲覧。</ref>。
* 水は固体よりも液体の方が[[結合解離エネルギー]]が低いため、水滴中には多くの[[水素イオン|H<sup>+</sup>]]や[[水酸化物イオン|OH<sup>-</sup>]]が生成される。ただし、H<sup>+</sup>は氷に浸透しやすいため、水滴・氷晶・霰が接触しあう環境では、氷が正、水が負に帯電する。
* 同じ環境中に氷晶と霰がある場合、霰にはより多くの雲粒が蒸発・昇華([[降水過程#凝結過程|ライミング]])するが、その時の潜熱の影響で霰は氷晶よりも温かくなる。溶媒中で起こるイオン結合の繰り返し過程の中で、拡散しやすいH<sup>+</sup>が低温側へ拡散するため、低温側が正、高温側が負に帯電する。
* 気温が-10℃ - 0℃位の比較的暖かい環境下では、霰へのライミングに伴う潜熱で霰の表面が溶けて水膜ができる。既述のように、水膜中のイオンのうちH<sup>+</sup>は氷に浸透しやすいので霰の各部分は正、水膜部分は負に帯電する。この霰に外から氷晶が衝突してくると、氷晶は水膜の一部を取り去って負に帯電し、霰は全体として正に帯電する。
* よって、雲水量が少ない(湿度が低い)環境で氷晶と霰が衝突すると、低温の氷晶が正、高温の霰が負に帯電する。雲水量が多い(湿度が高い)環境で氷晶と霰が衝突すると、低温の氷晶が負、高温の霰が正に帯電する。
=== 稲妻 ===
[[ファイル:Raio.gif|thumb|left|250px|稲妻のアニメーション]]
上層と下層の電位差が拡大して空気の[[絶縁 (電気)|絶縁]]の限界値(約300万[[ボルト毎メートル|V/m]])を超えると[[電子]]が放出され、放出された電子は空気中にある気体原子と衝突してこれを[[電離]]させる。電離によって生じた陽イオンは、電子とは逆に向かって突進し新たな電子を叩き出す。この2次電子が更なる[[電子雪崩]]を引き起こし、持続的な放電現象となって下層へ向って稲妻が飛んでいく。
また、下層の負電荷が蓄積されると、今度は地面では正の電荷が[[静電誘導]]により誘起される。この両者の間でも、電位差がある一定を超えると放電が起きる。
これらの放電は、大気中を走る強い光の束として観測される。1回の放電量は数万 - 数十万[[アンペア|A]]、電圧は1 - 10億[[ボルト (単位)|V]]、電力換算で平均約900[[ギガ|G]][[ワット (単位)|W]](=100W電球90億個分相当)に及ぶが時間にすると1/1000秒程度でしかない。エネルギーに換算するとおよそ900[[メガ|M]][[ジュール|J]]であり、もし、無駄なくこの電力量をすべてためることができるなら、家庭用省電力エアコン(消費電力1[[キロワット|kW]])を24時間連続で使い続けた場合、10日強使用できる。
この間を細かく分けると、落雷(負極性の雷)においては、雷雲から最初に伸びる複数の弱い光の'''先駆放電'''('''ステップトリーダー''')、大地側から迎えるように伸びる'''ストリーマ'''(線条・先行放電)、両者が結合して大量の電荷が本格的に先駆放電路に流入する'''主雷撃'''の3段階に大別され、電位差が[[中和]]されるまで放電が続く。ステップトリーダーが複数であるのに対し、ステップトリーダーと結合するストリーマは1ないしは数個までであり、結果、主電撃として目視確認できる放電路は少なくなる。典型的な夏雷であれば、1回の落雷において、その複数のステップトリーダーの広がりはおよそ10000 (m) 範囲であり、主電撃すなわち落雷はこの範囲で形成される<ref>[http://www1a.comm.eng.osaka-u.ac.jp/ 大阪大学河崎研究室]・日本放送協会共同動画撮影成功。「見えない雷 2万分の1秒の世界」日本放送協会制作、2011年2月5日放送にて発表。</ref>。
主な夏雷は電子は雲から地表に、[[電流]]は地表から雲に流れる。冬雷の場合はその性質上これとは逆に電子は地表から雲に、電流は雲から地表に流れる。
{{wide image|Lightnings sequence 1 resize1005.jpg|1000px|稲妻の過程(0.32 秒ごとに撮影)}}
=== 雷鳴 ===
{{Sound|Thunder.ogg|雷鳴}}
放電現象が発生したときに生じる音である。雷が地面に落下したときの衝撃音ではなく、放電の際に放たれる熱量(主雷撃が始まって1マイクロ秒後には、放電路にあたる大気の温度は局所的に2 - 3万[[セルシウス度|℃]]という高温に達する<ref name="raihoudenn" />)によって雷周辺の空気が急速に膨張し、[[音速]]を超えた時の[[衝撃波]]である<ref>{{Cite journal|和書 |author=阿部寿人, 松山克胤, 藤本忠博, 千葉則茂 |title=稲妻のパターンに従った雷鳴の生成 |journal=情報処理学会研究報告. CG,グラフィクスとCAD研究会報告 |issn=09196072 |publisher=情報処理学会 |year=2004 |month=nov |volume=117 |pages=67-72 |naid=110002781715 |url=http://id.nii.ac.jp/1001/00038178/}}</ref>。
稲妻の放つ光は[[光速]]で伝わるため、ほぼ瞬間に到達する。これに対して、雷鳴は音速で伝わるため、音が伝わってくる時間の分だけ、稲妻より遅れて到達する。そのため、雷の発生した場所が遠いほど、稲妻から雷鳴までの時間が長くなり、その時間を計ればおおよその距離も分かる。
発現地点までの距離(自分を中心とした半径)を ''P''(キロメートル)、稲妻が光ってから(もしくはラジオにパルス雑音<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=mAEhIin2LT8 一例]</ref>{{出典無効|date=2021年7月|title=YouTubeの個人アカウントにアップされた動画。[[WP:SELFPUBLISH]]参照}}が入ってから)雷鳴が聞こえる瞬間までの時間を ''S''(秒) とすると、次のように表される。定数0.34は気温を15℃としたときの[[キロ]][[メートル]]毎秒で表す音速。
:<math>P=\, 0.34S</math>
雷鳴が聞こえる距離は通常で約10 - 15kmだが、雷雲外への放電がある場合などは、雷雲から30km以上離れていても雷鳴が聞こえることがある。
{{clear}}
== 種類 ==
[[ファイル:Chaparral Supercell 2.JPG|thumb|250px|[[スーパーセル (気象)|スーパーセル]]]]
=== 熱雷 ===
急激な上昇気流により低層から高層まで形成された雷雲は主に[[積乱雲]]などで構成され、'''[[熱雷]]'''と呼ぶ。夏季によく発生するため、俗に夏雷とも呼ばれる。局地的かつ散発的に発生し、持続時間は短い傾向がある。
=== 界雷 ===
積乱雲でも[[寒冷前線]]上などに発生する場合、また、[[温暖前線]]などで同様の原理が発生した場合の雷は'''界雷'''と呼ぶ。帯状にまとまって発生し、[[降水セル|セル]]の世代交代があって前線の移動に付随して落雷域が移動することが多い。
=== 熱界雷 ===
前線に向かって湿った空気が流れ込むことによって形成された雷雲による雷など、熱雷と界雷の両方の特性を併せ持つものを'''熱界雷'''と呼ぶ。夏季において激しい雷雨を伴うことが多く、たびたび地上において被害を引き起こす雷。局地的にまとまって発生し、時に100kmを超える巨大な積乱雲群を構成して落雷域が広範囲に及ぶ。
=== 渦雷 ===
上昇気流が発達した[[低気圧]]や[[台風]]などにより形成された雷雲による雷の場合を'''渦雷'''(からい、うずらい)と呼ぶ。性質としては熱雷や界雷に近い。勢力が強いものや移動速度が速いものは雷雲の移動速度が速いことから、防災上注意を要する。
=== 放電 ===
雲内での放電を雲内放電 (inter cloud lightning : IC)、雲と雲の間の放電を雲間放電 (cloud to cloud lightning : CC) と呼ぶ。雷雲から地面への放電を対地雷 (cloud to ground lightning : CG) と呼ぶ。対地雷には上向きと下向き、[[正極]]性 (+CG) と[[負極]]性 (-CG) の分類があるから対地雷は結局4種類ある。
=== 幕電 ===
[[ファイル:Lightning Tokyo Aug 2008.JPG|thumb|220px|right|雷鳴を伴わない雲と雲間の稲光(2008年8月28日22:48東京上空)]]
夜間、遠方で発生した雷による稲妻が雲に反射する現象および、雲内放電により雷雲自体が光って見える現象を[[幕電]]と呼ぶ。雷雲から15km以上離れている場合など、稲妻のみで雷鳴が確認できない時を指すことが多い。
幕電は上空が晴れていても確認できることがあり、強い閃光のわりに雷鳴が聞こえないなどといったことから、しばしば[[宏観異常現象]]ではないかとされることがある。
=== 超高層雷放電===
近年([[1980年代]] - )では大規模落雷に伴って発生するスプライト等の雷雲上空高度20 - 100kmの[[成層圏]]・[[中間圏]]・下部[[熱圏]]において起こる放電による発光現象も発見されている。{{main|超高層雷放電}}
== 雷の観測 ==
近代[[気象観測]]では、観測所における[[天気]]観測に雷も組み込まれ、目視観測が続けられてきた。一方、[[気象レーダー]]([[雷検知器]])による観測が拡大し、少しづつ代替されつつある。日本では、1990年代後半から2000年代にかけて[[測候所]]で、2010年代後半にほとんどの[[地方気象台]]で、目視による雷観測が廃止され、気象レーダーによる雷検出に代替された<ref>『[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/kaisetu/index.html 気象観測統計の解説]』、気象庁、2021年4月1日改正版、pp.33-34</ref><ref>「[https://www.data.jma.go.jp/suishin/oshirase/pdf/20191226.pdf 地方気象台及び測候所における目視観測通報の自動化について]」、気象庁 [https://www.data.jma.go.jp/suishin/cgi-bin/oshirase/oshirase.cgi 配信資料に関するお知らせ]、2019年12月26日付、2012年12月29日閲覧。</ref>。
落雷被害における[[火災保険]]に関連して、被害を科学的に裏付ける資料として、観測記録を基にして雷に関する「気象証明」を気象台が発行している。民間にも同様のサービスがある<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/shinsei/shoumei/shoumei-faq.html 気象証明・鑑定について]」、気象庁、2012年12月29日閲覧。</ref>。
国際気象通報式<ref group="注">[[地上実況気象通報式|SYNOP]]・[[海上実況気象通報式|SHIP]]などに用いる96種天気。[[地上天気図#天気]]参照。</ref>では、雷電等が観測時(観測直前10分間)にあったか否か、観測時になくとも前1時間内にあったか否か、雷の3段階強度、降水を伴うか否か、雨や雪の3段階強度などの組み合わせで区分される天気から選択して報告する。自動観測の場合は少し異なった区分になる。なお、雷電は電光と雷鳴を観測したことを指す。基本の記号は雷光(雷鳴なし)が([[ファイル:Symbol code ww 13.svg|20px]])、雷電が([[ファイル:Symbol code ww 17.svg|20px]])<ref>気象業務支援センター [http://www.jmbsc.or.jp/hp/online/f-online3y.html ファイル形式配信データ] 「{{PDFLink|[http://www.jmbsc.or.jp/hp/online/data/surface_format.pdf 地上気象観測フォーマット]}}」、2012年12月29日閲覧。</ref><ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kurashi/symbols.html 国際式の天気記号と記入方式]」、気象庁、2023年1月21日閲覧。</ref><ref>過去の気象データ検索 > 「[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/man/tenki_kigou.html 天気欄と記事欄の記号の説明]」、気象庁、2023年1月21日閲覧。</ref>。
[[航空気象]]の通報式<ref group="注">[[定時飛行場実況気象通報式|METAR]]や[[運航用飛行場予報気象通報式|TAF]]</ref>では、「特性」の欄のTSが雷電を表し、降水現象の欄のRA(雨)などと組み合わせて、あるいは単独で用いる<ref>「[https://www.jma-net.go.jp/naha-airport/metar_taf.html METAR報とTAF報の解説]」、那覇航空測候所、2022年8月16日閲覧。</ref>。
ラジオ[[気象通報]]などの[[地上天気図#日本式天気図|日本式天気図]]では、観測時の直前10分間に雷電(電光と雷鳴)または雷鳴が観測されたとき、[[天気]]を雷と表記する。天気記号は雷([[ファイル:Japanese Weather symbol (Thunderstorm).svg|18px|雷]])、雷強し([[ファイル:Japanese Weather symbol (Thunderstorm).svg|18px|雷]]<sub>ツ</sub>)。降雨や降雪、雹や霰が観測されていても、雷は最も優先順位が高いため単に雷とする<ref>理科年表FAQ > 山内豊太郎「[https://official.rikanenpyo.jp/posts/6653 天気の種類はいくつあるのですか。その記号も教えてください。]」、[[理科年表]]オフィシャルサイト(国立天文台、丸善出版)、2008年3月、2023-01-25閲覧。</ref>。雷強しの記号は、[[1988年]]に[[雪強し]]とともに追加された。
== 雷による電波などの放射 ==
20世紀に入ってからの観測により、雷から幅広い周波数帯の[[電磁波]]が放射されていることが分かっている。身近な例では雷由来のノイズ<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=caroggkFZHI 一例]</ref>が[[ラジオ]]で受信できる場合があり、原理上[[振幅]]変調を用いる[[AMラジオ]]はその感度が高く、周波数変調である[[FMラジオ]]は感度が低い。
また、雷放電の高度が低い冬の日本海側の[[原子力発電所]]などで、雷と同時に[[X線]]や[[ガンマ線]]などの[[放射線]]値の一時的上昇が観測されている。これにより雷が放射線を放出していると解明された<ref name="榎戸.2018">{{Cite journal|和書 |author=榎戸輝揚, 中野俊男, 楳本大悟, 土屋晴文, 和田有希, 古田禄大, 中澤知洋, 湯浅孝行, 奥田和史, 牧島一夫, 佐藤光輝, 佐藤陽祐 |title=雷雲ガンマ線の観測プロジェクトと雷での光核反応の検出 |journal=日本物理学会講演概要集 |publisher=日本物理学会 |year=2018 |volume=73.1 |issue=セッションID: 22pK305-7 |pages=176-176 |naid=130007646755 |doi=10.11316/jpsgaiyo.73.1.0_176 |url=https://doi.org/10.11316/jpsgaiyo.73.1.0_176}}</ref>。一方、[[宇宙線]]などの外から入ってきた放射線が[[制動放射]]を誘発し<ref>{{Cite journal|和書 |author=高橋周作, 新田英智, 東郷翔帆, 鴨川仁 |title=飛翔体を活用した雷活動に関連する高エネルギー放射線の研究 |journal=大気球シンポジウム: 平成28年度 |publisher=宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所(JAXA)(ISAS) |year=2016 |month=nov |naid=120006831907 |url=http://id.nii.ac.jp/1696/00018440/}}</ref>雷放電を励起しているとの研究がある<ref>{{Cite journal|和書 |author=鳥居建男 |title=雷雲中における放射線発生メカニズムに関する研究 |journal=大阪大学 博士論文 |year=2004 |issue=甲第9919号 |naid=500000248405 |url=https://hdl.handle.net/11094/778}}</ref>。
== 雷による窒素固定 ==
雷の空中放電により、空気中の[[窒素]]と[[酸素]]が反応して[[窒素酸化物]]が生成([[窒素固定]])され、さらに酸素により[[硝酸]]に変化する<ref>{{Cite journal|和書 |author=橋本燎, 亀山宗彦, 佐藤孝紀, 小川浩史 |title=雷放電が誘発する大気-海洋境界層における新たな窒素循環像の解明 |journal=日本地球化学会年会要旨集 |publisher=日本地球化学会 |year=2020 |volume=67 |issue=2020年度日本地球化学会第67回 |pages=8 |naid=130007977298 |doi=10.14862/geochemproc.67.0_8 |url=https://doi.org/10.14862/geochemproc.67.0_8}}</ref>。これらが地上に降下して[[硝酸塩]]が生成されることで植物が栄養分として利用できる物質となる<ref>[http://www.nodai.ac.jp/journal/nakanishi/0808.html 根粒菌はすごい] - [http://www.nodai.ac.jp/journal/ 東京農業大学WEBジャーナル]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://bsikagaku.jp/f-knowledge/knowledge11.pdf |title=「化学肥料に関する知識」肥料と生態系の窒素循環 |publisher=BSI生物科学研究所 |accessdate=2020-10-21 |language=ja|format=pdf}}</ref>。
== 雷による光核反応 ==
雷は光核反応(原子核反応)の引き金になり得るとされている<ref name="榎戸.2018"/><ref>{{cite web |url=https://www.nature.com/articles/nature24630 |title= Photonuclear reactions triggered by lightning discharge |publisher= nature |accessdate=2021-02-23 |language=en |format=}}</ref>。2017年2月6日 17:34:06、柏崎にて、落雷の35秒後に 0.511 MeVの[[対消滅]]ガンマ線が観測されており、これが陽電子と電子が衝突し電子対消滅した時に放出された対消滅ガンマ線だと解釈されている<ref name="榎戸.2018"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2017-11-24 |title= 雷が反物質の雲をつくる -雷の原子核反応を陽電子と中性子で解明- |publisher= |accessdate=2021-03-25 |language=ja |format=}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://thdr.info/files/20180303_宇宙線と雷_榎戸_雷が起こす光核反応の物理.pdf |title=雷が起こす光核反応の物理|date=20210306023418 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author=榎戸輝揚, 和田有希, 土屋晴文 |title=雷放電が拓く高エネルギー大気物理学 |journal=日本物理学会誌 |issn=0029-0181 |publisher=日本物理学会 |year=2019 |volume=74 |issue=4 |pages=192-200 |naid=130007703185 |doi=10.11316/butsuri.74.4_192 |url=https://doi.org/10.11316/butsuri.74.4_192}}</ref>(対消滅ガンマ線と誤認される他の可能性として環境バックグラウンドの輝線があるが、天然放射性核種 208Tl(0.583 MeV) や 214Bi (0.609 MeV)と明確に区別され、かつ、大気中での「対生成」で陽電子が発生した場合では落雷との時間差から区別される)。
== 各地の雷 ==
[[ファイル:Global_Lightning_Frequency.png|thumb|250px|世界の雷の発生頻度]]
=== 北関東 ===
[[北関東]]地方([[栃木県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]北部、[[茨城県]])では特に夏の雷が多く「雷の銀座通り」等と呼ばれることがあるほどである。落雷保険の料率(保険料)も他地方に比べて高い。「[[上野国|上州]](群馬県)名物、[[かかあ天下]]と[[からっ風|空っ風]]」という言葉があるが、それに加えて雷も名物として知られる。[[関東地方]]の[[気象庁]]観測点では突出して雷日数の多い[[宇都宮市]]では、夏季に多くなる雷を「[[宇都宮市#雷都|雷都]](らいと)」という地域の愛称に取り込み、宇都宮市債や土産物の菓子の名称などに使われている。
=== 日本海側 ===
[[北陸地方]]や[[新潟県]]、[[山形県]][[庄内地方]]、[[秋田県]]などの[[日本海]]沿岸では、[[冬|冬季]]に目立って多く発生することから[[冬季雷]]とも呼ばれる。冬季雷は、夏期のものが積乱雲から地面に向かって放電するのに対し地面から積乱雲に向かって、上向きに放電し、発生高度も300ないし500メートルと低い(夏季の雷の発生高度は3,000ないし5,000メートル)。[[落雷]]数こそ少ないものの発生のメカニズムから[[夏|夏季]]の雷より数百倍のエネルギーを持つものが確認されるほか、一日中発雷することが多く[[雪]]や[[霰|あられ]]を伴うことが多い。また、はっきりとした[[落雷]]が無くても瞬間的な停電などの被害が出ることもある。[[海岸|海岸線]]から35キロメートル以上の内陸部では少ない。
また、冬季の雷には[[愛称]]があることが多く、「雪起こし」、「[[ブリ]]起こし」、「雪雷」などのような[[方言]]がみられる。特に、雪起こしが観測された場合は冬の始まりであると言い習わされる。
冬季雷の発生地域は日本海側沿岸部とノルウェーの[[ノルウェー海]]沿岸部、および北アメリカの[[五大湖]]東側のみであり、世界的に見ても非常に珍しい気象現象である。
=== 気象庁国内観測点の雷日数の統計値 ===
[[気象庁]]は国内の主要観測点で雷日数を集計し公表している。これによると、[[北関東]]は[[関東地方]]内では比較的雷日数が多い地域となっており、特に夏季の雷を特徴としている。関東各地の統計値によると、[[南関東]]では[[東京特別区|東京]]で年間雷日数が12.9日で、うち夏季(5月から9月)の雷日数は9.7日、同じく[[神奈川県]][[横浜市|横浜]]では年間12.6日のうち夏季8.2日であるが、北関東4県では、[[栃木県]][[宇都宮市|宇都宮]]では年間24.8日のうち夏季20.9日、[[群馬県]][[前橋市|前橋]]では年間20.4日のうち夏季18.9日、[[埼玉県]][[熊谷市|熊谷]]では年間19.7日のうち夏季17.3日、[[茨城県]][[水戸市|水戸]]では年間16.7日のうち夏季13.1日となっており、南関東に比較し顕著に多くなっている。
また、[[日本海側気候]]である[[日本海]]沿岸各地では冬雷が多く、気象庁統計値によると、[[秋田市|秋田]]31.4日、[[新潟市|新潟]]34.8日、[[富山市|富山]]32.2日、[[金沢市|金沢]]42.4日、[[福井市|福井]]35.0日、[[鳥取市|鳥取]]26.4日、[[松江市|松江]]25.4日、[[福岡市|福岡]]24.7日<ref>気象庁 平年値の更新について ―平年値(統計期間1981~2010年)を作成しました―</ref>などと、日本国内では雷、特に冬雷の多い地域となっている。一方、測候所では2010年10月に無人化観測を行ったため、雷日数を廃止した<ref group="注">[[気象台#特別地域気象観測所へ移行]]を参照のこと。</ref>。
気象庁統計値によれば、1年間で雷日数が最も多かったのは[[石川県]][[金沢市]]で記録した2005年の72日。
;年間雷日数の上位記録(統計期間1981 - 2010年、気象官署のみ)
{| class="wikitable"
!順位
!雷日数
!観測地点
!暖候期
!寒候期
|-
|1位
|42.4日
|[[石川県]][[金沢市]]
|12.3日
|31.1日
|-
|2位
|35.0日
|[[福井県]][[福井市]]
|11.6日
|23.4日
|-
|3位
|34.8日
|[[新潟県]][[新潟市]]
|11.7日
|23.1日
|-
|4位
|32.2日
|[[富山県]][[富山市]]
|16.5日
|15.7日
|-
|5位
|31.4日
|[[秋田県]][[秋田市]]
|10.9日
|20.5日
|-
|6位
|26.6日
|[[熊本県]][[熊本市]]
|22.0日
|{{0}}4.6日
|-
|7位
|26.4日
|[[鳥取県]][[鳥取市]]
|12.6日
|13.8日
|-
|8位
|25.4日
|[[島根県]][[松江市]]
|12.6日
|12.8日
|-
|9位
|25.1日
|[[鹿児島県]][[鹿児島市]]
|18.8日
|{{0}}6.3日
|-
|10位
|24.8日
|[[栃木県]][[宇都宮市]]
|22.6日
|{{0}}2.2日
|-
|参考
|12.9日
|[[東京都]][[千代田区]]
|10.8日
|{{0}}2.1日
|-
|}
暖候期は4-9月、寒候期は10-3月の雷日数を示す。
;年間雷日数の下位記録(統計期間1981 - 2010年、気象官署のみ)
{| class="wikitable"
!順位
!雷日数
!観測地点
|-
|rowspan="2"|1位
|rowspan="2"|4.9日
|[[北海道]][[帯広市]]
|-
|北海道[[釧路市]]
|-
|3位
|6.8日
|北海道[[網走市]]
|-
|4位
|8.8日
|北海道[[札幌市]]
|-
|5位
|9.3日
|[[宮城県]][[仙台市]]
|-
|6位
|10.2日
|北海道[[旭川市]]
|-
|7位
|11.2日
|北海道[[稚内市]]
|-
|8位
|11.8日
|[[和歌山県]][[和歌山市]]
|-
|9位
|11.9日
|[[岡山県]][[岡山市]]
|-
|10位
|12.2日
|北海道[[函館市]]
|-
|}
[[昭和基地]](南極)では雷日数は0.0日で観測はされていない。
===ベネズエラ===
[[ベネズエラ]]の[[マラカイボ湖]]に注ぐ[[カタトゥンボ川]]の河口付近は、[[カタトゥンボの雷]]と呼ばれる雷の常襲地帯である。2014年には、1時間に3600本の稲妻が認められ、「世界で最も稲妻が多い場所」として[[ギネス世界記録]]に認定されている<ref>{{Cite web|和書|date= 2014-01-31|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3007566|title=「稲妻世界最多」でギネス認定、1時間に3600本 ベネズエラ |publisher=AFP |accessdate=2019-02-15}}</ref>。
== 記録 ==
<!--{{Location map~|World|label=|lat=|long=|position=right}}-->
{{Location map+|World|float=center|width=1000
|places=
{{Location map~|World|label=マラカイボ湖|lat=9.815833|long=-71.556667|position=right}}
{{Location map~|World|label=ミシオネス州|lat=-27|long=-55|position=top}}
{{Location map~|World|label=コルドバ州|lat=-31.416667|long=-64.183333|position=bottom}}
|label=この節に登場する場所を記した地図。発生場所のみ示した。}}
[[ファイル:Catatumbolightning.jpg|サムネイル|カタトゥンボの雷]]
* '''観測史上最長の稲妻''': {{convert|709|km|mi|abbr=on}};[[アルゼンチン]]・[[ミシオネス州]] - [[ブラジル]]・[[リオグランデ・ド・スル州]] - 同国[[サンタカタリーナ州]] - 南大西洋、[[2018年]][[10月31日]]<ref name=Lang2020>[https://public.wmo.int/en/media/press-release/wmo-certifies-megaflash-lightning-extremes WMO certifies Megaflash lightning extremes] 世界気象機関、2020年6月24日発表、2020年6月28日閲覧</ref><ref name="GIGAZINE">[https://gigazine.net/news/20200626-lightning-record-brazil-argentina/ 「雷の長さ」世界記録が更新される、なんと全長700kmの巨大雷] GIGAZINE、2020年6月26日配信、2020年6月28日閲覧</ref>。以前の世界記録はアメリカ合衆国[[オクラホマ州]]で[[2007年]][[6月20日]]に記録された{{convert|321|km|mi|abbr=on}}であり<ref name=Lang2016>{{cite journal |last1=Lang |first1=Timothy |last2=Pédeboy |first2=Stéphane |last3=Rison |first3=William |last4=Cerveny |first4=Randall |last5=Montanyà |first5=Joan |last6=Chauzy |first6=Serge |last7=MacGorman |first7=Donald |last8=Holle |first8=Ronald|title=WMO World Record Lightning Extremes: Longest Reported Flash Distance and Longest Reported Flash Duration |journal=[[Bulletin of the American Meteorological Society]] |volume= 98|issue= 6|pages=1153–1168 |date=September 2016 |doi=10.1175/BAMS-D-16-0061.1 |pmid=28111477 |pmc=5240975 |bibcode =2017BAMS...98.1153L }}</ref><ref name=wmolightning>{{cite news|title=WMO rules on longest distance and longest duration lightning flashes|url=http://public.wmo.int/en/media/press-release/wmo-rules-longest-distance-and-longest-duration-lightning-flashes|accessdate=16 September 2016|publisher=World Meteorological Organization|date=16 September 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160917075936/http://public.wmo.int/en/media/press-release/wmo-rules-longest-distance-and-longest-duration-lightning-flashes|archivedate=17 September 2016|url-status=live}}</ref>、これを2倍以上更新したことになる<ref name="GIGAZINE"/>。
* '''単一の稲妻の観測史上最長継続時間''':16.73秒;アルゼンチン・[[コルドバ州]] - [[サンタフェ州]] - [[ブエノスアイレス州]]、[[2019年]][[3月4日]]<ref name=Lang2020/><ref name="GIGAZINE"/>。以前の記録はフランス・[[プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏]]で[[2012年]][[8月30日]]に観測された7.74秒であり<ref name=Lang2016/><ref name=wmolightning/>、これを2倍以上更新したことになる<ref name="GIGAZINE"/>。
* '''1年間で最も多い回数の落雷''':最も多い場所で1 km<sup>2</sup>あたり年平均233回;[[ベネズエラ]]・[[マラカイボ湖]]([[スリア州]]・[[トルヒージョ州]]・[[メリダ州]])の[[カタトゥンボの雷]]<ref name="NASA lightning">{{cite web |url=http://www.nasa.gov/centers/marshall/news/news/releases/2016/earths-new-lightning-capital-revealed.html |title=NASA – Earth's New Lightning Capital Revealed |publisher=Nasa.gov |accessdate=2 May 2016 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160505171850/http://www.nasa.gov/centers/marshall/news/news/releases/2016/earths-new-lightning-capital-revealed.html |archivedate=5 May 2016 |url-status=live }}</ref><ref name=Albrecht2016>{{cite journal |last1=Albrecht |first1=Rachel |last2=Goodman |first2=Steven |last3=Buechler |first3=Dennis |last4=Blakeslee |first4=Richard |last5=Christian |first5=Hugh |title= Where are the lightning hotspots on Earth? |journal=[[Bulletin of the American Meteorological Society]] |volume=97 |issue=11 |page= 2051|date=December 2016 |doi=10.1175/BAMS-D-14-00193.1 |bibcode =2016BAMS...97.2051A |doi-access=free }}</ref>。
== 被害と対策・回避方法 ==
{{see|落雷}}
== 電力としての利用 ==
落雷時のエネルギーは余りにも大きくしかも短時間(1/1000秒〜1秒)に発生するため、蓄電池などによる電気の蓄積は困難であり、また雷の発生場所や発生時刻の予測は、現在はまだ正確には不可能である。このため、雷を電力として利用することは現在の技術ではきわめて困難とされている<ref>[http://www.gakkai-web.net/butsuri-jrsession/2013/e.html 風力発電とエネルギー問題 (質問) 落雷を電力として利用する方法はないのですか。何が解決されれば実現が可能なのですか。] 2013年度 日本物理学会 第9回Jr.セッション</ref>。
== 雷と神話 ==
古来より、雷は[[神]]と結びつけて考えられることが多かった。
[[ギリシャ神話]]の[[ゼウス]]、[[ローマ神話]]の[[ユーピテル|ユピテル]](ジュピター)、[[バラモン教]]の[[インドラ]]は天空の[[雷神]]であり[[最高神]]である。[[北欧神話]]の[[トール]]も古代では最高神であった(時代が下ると[[オーディン|オージン]]が最高神とされた)。[[マライ半島]]の[[熱帯雨林|ジャングル]]に住む[[セマング族]]でも雷は創造を司る最高神であり、[[インドシナ]]から南中国にかけては敵を滅ぼすため石斧をもって天下る神(雷公)として落雷を崇めた。
欧米では[[カシ]]が特に落雷を受けやすい樹木とされたのでゼウス、ユピテル、北欧神話のトールの宿る木として崇拝した。欧州の[[農民]]は住居の近くにカシを植えて[[避雷針]]代わりとし、また、[[イヌ|犬]]、[[ウマ|馬]]、[[はさみ]]、[[鏡]]なども雷を呼びやすいと信じたので[[雷雨]]が近づくとこれらを隠す傾向があった。
雷雨の際に動物が往々紛れ出ることから[[ライチョウ|雷鳥]]や[[雷獣]]の観念が生まれた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[インディアン]]の間では、その羽ばたきで雷鳴や稲妻を起こす巨大な[[鳥類|鳥]]([[サンダーバード (伝説の生物)|サンダーバード]])が存在すると考えられた。
[[ファイル:Raijin-ogata-emuseum.JPG|thumb|220px|雷神([[尾形光琳]]画)]]
[[日本神話]]においても雷は最高神という扱いこそ受けなかったが、雷鳴を「神鳴り」ということからもわかるように雷を神々のなせるわざと見なしていた。[[天津神]]の1人で[[天孫降臨]]の前に[[葦原中国]]を平定した[[タケミカヅチ]](建雷命、建御雷、武甕槌)はそういった雷神の代表である。雷(雷電)を祭った神社に「[[雷電神社]]」「高いかづち神社」などがあり、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)などを祭神としている。
日本では[[方言]]で雷を「かんだち」ともいうが、これは「神立ち」すなわち神が示現する意である。先述した稲妻の語源が示すとおり、雷は稲と関連づけられている。[[日本現報善悪霊異記|日本霊異記]]や[[今昔物語]]にあるように雷は田に水を与えて天に帰る神であったため、今でも農村では雷が落ちると「雷さまを自分の田んぼにお迎えする」<ref name="nhkthunder"/>
という意味から、青竹を立て[[注連縄]](しめなわ)を張る、もしくは[[御幣|幣束]]を立て神を祀る地方がある。
[[雷神]]は[[平安時代]]になると、[[天神]]の眷属神として低い地位を占めるようになった。
また、雷が起きると、落雷よけに「くわばら、くわばら」と[[呪文]]を唱える風習がある。これは、[[菅原道真]]の土地の地名であった「桑原」にだけ雷(かみなり)が落ちなかったという話に由来するとされる。平安時代に藤原一族によって流刑された道真が恨みを晴らすため雷神となり宮中に何度も雷を落とし、これによって藤原一族は大打撃を受けた。このとき唯一、桑原だけが落雷がなかったので後に人々は雷よけに「桑原、桑原」ととなえるようになったといわれる。菅原氏の流れをくむ公家に[[桒原家|桒原(くわばら)家]]があり、菅原氏は「桑原」の地名を道真由来と考えていたことがうかがえる。
また、菅原道真関連の桑原以外にも、雷が落ちないとする話は各地に伝えられており、[[兵庫県]][[三田市]]桑原の[[欣勝寺]]{{efn2|儒学者・[[平賀蕉斎]]による[[随筆]]『蕉斎筆記』([[寛政]]12年自跋)に「三田市摂州三田の近所に桑原の欣勝寺といふ寺有、此開山は通元和尚と云て、[[道元]]和尚の弟子なり(中略)此和尚至て大徳也しが、或時死人の弔をし給ひけるに、鳴神落かゝりけるを、早速[[袈裟]]を投かけ給ひければ、忽鳴神も静に成けり、其夜より夢に鳴神来り、袈裟を戴しより成仏せり、其証拠には袈裟の端焦れ居申、此後桑原欣勝寺と唱ふるものあらば、其所へは落まじと誓ひを立けるといふこと、三夜迄続て夢に見られけるとなり、今宝物の第一と成残りも有りし也、世に桑原々々といひ、又は桑原欣勝寺といふ事は此故也となん」とある。}}や[[大阪府]][[和泉市]]桑原の[[西福寺 (和泉市)|西福寺]]{{efn2|西福寺で配られている説明によれば、「[[重源|俊乗坊重源]]と言う僧が一心に雨乞いをしていた際、近隣の住民が身の回りの世話をしていた。ひとりの女性が袖をまくり上げて井戸端で洗濯をしていると、空が曇って雷が鳴り始めた。すると、女の白い二の腕に目が眩んだ雷神が井戸の中に落ちたので女が井戸に蓋をした。出す出さないの問答の末、雷神は、出してくれたらもう2度とこの地に落ちないと約束をして助けてもらった」と書かれている。}}などに残っている。
「くわばら、くわばら」と唱えるのは、[[桑]]の木が神聖な力を持つという信仰があったためであるとも考えられている。詳細は「'''[[クワ]]'''」を参照。
雷神は古くから美術に表現されてきたが絵では京都[[建仁寺]]の[[俵屋宗達]]筆の[[障壁画]]、[[元禄時代]]の[[尾形光琳]]の作など、[[彫刻]]では[[日光東照宮]]、[[京都三十三間堂]]などのものが有名である。
== 文化の中での雷 ==
=== 季語 ===
[[俳句]]においては「春雷」は[[春]]の[[季語]]、「雷」「遠雷」「軽雷」は[[夏]]の季語、「稲妻」は[[秋]]の季語、「寒雷」は[[冬]]の季語である。
=== 易 ===
易では、「かみなり」という現象は「雷(らい)」と「電(でん)」の二つの部分で組み合わせられたもの。こちらの「雷」の字は「雷鳴」のみを指す。「電」は「稲妻」、つまり光の部分に当たる。
* 「雷」は[[八卦]]の中の「震」相当する。木気であり、方角としては[[東]]を指す。
* 「電」は[[八卦]]の中の「離」相当する。火気であり、方角としては[[南]]を指す。
六十四卦の「雷火豊」と「火雷噬嗑」の「火」は「電」の意味である。
=== 故事成語・ことわざ ===
* 付和雷同
* 青天の霹靂
* 地震、雷、火事、親父
* 電光石火
* 雷が多い年は豊作<ref>[http://www.city.sano.lg.jp/komoku/kankyou/emap/kisyou21.html 天気のことわざ]</ref>
== 雷に関連する作品・命名等 ==
=== 小説 ===
* 『雷桜』([[宇江佐真理]])
* 『雷獣伝説〈1〉闇の咆哮」/「雷獣伝説〈雪雷篇〉』([[斉藤英一朗]])
* 『雷神、翔ぶ』([[丸山健二]])
* 『雷神の剣 ― 介錯人・野晒唐十郎』([[鳥羽亮]])
* 『雷(いかづち)の娘シェクティ』([[嵩峰龍二]])
* 『遠雷』([[立松和平]])
* 『[[グスコーブドリの伝記]]』([[宮沢賢治]])人工雷によって作物の収量を増やす発想が登場する。
=== 音楽 ===
* [[四季 (ヴィヴァルディ)|四季]]([[アントニオ・ヴィヴァルディ]])
* [[四季 (ハイドン)|四季]]([[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]])
* [[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|交響曲第6番「田園」]]([[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]])
* [[幻想交響曲]]([[エクトル・ベルリオーズ]])
* [[雷鳴と稲妻]](あるいは「雷鳴と電光」。[[ヨハン・シュトラウス2世]])
* [[アルプス交響曲]]([[リヒャルト・シュトラウス]])
* [[グランド・キャニオン (組曲)|グランド・キャニオン]]([[ファーディ・グローフェ]])
* [[雷鳴-out of kontrol-]]([[m.o.v.e]])
* [[FUSE OF LOVE#収録曲|駆け抜ける稲妻]]([[倉木麻衣]]、アルバム『[[FUSE OF LOVE]]』に収録)
* [[OLIVE (松任谷由実のアルバム)#Side B|稲妻の少女]]([[松任谷由実]]、アルバム『[[OLIVE (松任谷由実のアルバム)|OLIVE]]』に収録)
* 雷が鳴る前に([[槇原敬之]]、アルバム『君は僕の宝物』に収録)※[[矢野顕子]]が[[カバー]]している。
* [[Octave (米米CLUBのアルバム)#収録曲|春雷 coup de foudre]]([[米米CLUB]]、アルバム『[[Octave (米米CLUBのアルバム)|Octave]]』に収録)
* [[愁雷]]([[野口五郎]]、シングル)
* [[春雷 (ふきのとうの曲)|春雷]]([[ふきのとう (フォークグループ)|ふきのとう]]、シングル)
* [[Glass Age#アナログB面|春雷]]([[さだまさし]]、アルバム『[[Glass Age]]』に収録)
* [[青いイナズマ]]([[林田健司]]、後に[[SMAP]]がカバー。いずれもシングル)
* [[冬の稲妻]]([[アリス_(フォークグループ)|アリス]])
* 稲妻パラダイス([[堀ちえみ]])
* [[稲妻]]([[大川栄策]]、シングル)
* Thunder([[NEWS (グループ)|NEWS]] [[増田貴久]]、アルバム『[[EPCOTIA]]』に収録)
=== 鉄道車両 ===
* [[JR貨物EH200形電気機関車]]の愛称、「ECO-POWER ブルーサンダー」
* [[JR貨物EF510形電気機関車]]の愛称、「ECO-POWER レッドサンダー」
* [[JR西日本681系電車|JR西日本681系]]・[[JR西日本683系電車|683系電車]]。『[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]』という愛称の列車がある。
=== 自動車・オートバイ ===
* [[トヨタ・カローラレビン]] - 「レビン」(Levin) は、[[スペイン語]]で「稲妻」を意味する語
* [[トヨタ・スプリンタートレノ]] - 「トレノ」(Trueno) は、[[スペイン語]]で「雷鳴」を意味する語
* [[ヤマハ・YZF1000Rサンダーエース]] (ThunderAce)
* [[ヤマハ・YZF600Rサンダーキャット]] (ThunderCat)
* [[スズキ・イナズマ]]
* [[アプリリア・RSV1000R#Tuono|aprilia・TUONO-1000]] - 「トゥオーノ」(Tuono) は、[[イタリア語]]で「雷鳴」を意味する語
=== 航空機 ===
* [[雷電_(航空機)|雷電]]([[旧日本海軍]]の[[戦闘機]])
* [[紫電改#強風から紫電へ|紫電]](旧日本海軍の戦闘機)
* [[紫電改]](旧日本海軍の戦闘機 上記「紫電」の文字通り改良型)
* [[震電]](旧日本海軍の戦闘機)
* [[電光]](旧日本海軍の夜間戦闘機)
* [[天雷]](旧日本海軍の局地戦闘機)
* [[P-38 (航空機)|P-38ライトニング]]([[アメリカ陸軍]]の戦闘機)
* [[F-35 (戦闘機)|F-35ライトニングII]](アメリカ空軍・海軍・[[海兵隊]]の戦闘機)
* [[P-47 (航空機)|P-47サンダーボルト]]([[アメリカ陸軍]]の戦闘機)
* [[A-10 (航空機)|A-10サンダーボルトII]]([[アメリカ空軍]]の[[攻撃機]])
* [[F-84 (戦闘機)|F-84サンダージェット]](アメリカ空軍の戦闘機)
* [[F-105 (戦闘機)|F-105サンダーチーフ]](アメリカ空軍の[[戦闘爆撃機]])
* [[イングリッシュ・エレクトリック ライトニング]]([[イギリス空軍]]の戦闘機)
* [[MC.202 (航空機)|MC.202フォルゴーレ]](イタリア語で稲妻の意、[[イタリア空軍]]の戦闘機)
* [[サーブ 37 ビゲン]]([[スウェーデン語]]で稲妻の意、[[スウェーデン]]空軍の戦闘機)
=== 艦船 ===
* [[雷 (雷型駆逐艦)]]
* [[雷 (吹雪型駆逐艦)]]
* [[いかづち (護衛艦・初代)]]
* [[いかづち (護衛艦・2代)]]
=== 人物 ===
* [[イヴァン4世|イヴァン雷帝]]
* [[雷電爲右エ門|雷電為右衛門]]
* [[ウサイン・ボルト]](Usain St. Leo Bolt)
<!-- * [[高木ブー]] - [[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[バラエティ番組]]『[[ドリフ大爆笑]]』シリーズの雷様コントが有名。-->
=== 食べ物 ===
* [[エクレア]](エクレール) - 西洋菓子。エクレア ({{lang|fr|éclair}}) は[[フランス語]]で雷の意。
* [[雷おこし]] - 東京・浅草の名物菓子。
=== テレビ番組 ===
* [[雷波少年]]
* [[イナズマン]]、[[イナズマンF]]
* [[イナズマイレブン]]
=== その他 ===
[[ファイル:DIN_4844-2_Warnung_vor_gef_el_Spannung_D-W008.svg|thumb|100px|高電圧注意のピクトグラム]]
* [[電撃戦]]
* [[雷切]]
* [[雷撃]]([[魚雷]]攻撃)
* ☇ (U+2607) - [[Unicode]]における雷の記号
* 高電圧注意の[[ピクトグラム]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[日本大気電気学会]]編『大気電気学概論』 [[オーム社]]、[[2003年]]、ISBN 4-339-00751-X
== 外部リンク ==
{{sisterlinks|commons=Category:Lightning|d=Q33741}}
{{wiktionary|かみなり}}
* [http://www.franklinjapan.jp/ フランクリンジャパン]
* [http://www.rikuden.co.jp/kaminari/ 北陸電力 雷情報(雷センター)]
* [http://www.chuden.co.jp/kisyo/ 中部電力雷情報]
* [http://www.tohoku-epco.co.jp/weather/ 東北電力落雷情報]
* [http://thunder.tepco.co.jp/ 東京電力雨量・雷観測情報]
* [https://www.saej.jp/ 日本大気電気学会]
* [http://fnorio.com/0089thunderbolt1/thunderbolt1.html 雷の科学] < FNの高校物理
* [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/toppuu/thunder4-3.html 気象庁|雷から身を守るには]
* {{Kotobank}}
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[[Category:雷|*]]
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7,327 | 古名 | 古名(こめい)とは、古い呼び方のこと。古称ともいう。 | [
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] | 古名(こめい)とは、古い呼び方のこと。古称ともいう。 | '''古名'''(こめい)とは、古い呼び方のこと。'''古称'''ともいう。
== 古名の例 ==
* [[ごろつき]]・[[ごろ]]:[[雷]]
* スズナ:[[カブ]]、スズシロ:[[ダイコン|大根]] - [[春の七草]]の項も参照。
* 千年(ちとせ)川:[[筑後川]]
* [[ガリア]]:[[フランス]]
* [[コロンビア (古名)|コロンビア]]:[[アメリカ合衆国|アメリカ]]
* [[大和]]:[[日本]]
* [[ビザンティオン|ビザンチン(ビザンティウム)]]:[[イスタンブール]]
* 大坂:[[大阪]]
* ロンデニウム:[[ロンドン]]
* ルテティア:[[パリ]]
* ウィンドボナ:[[ウィーン]]
* [[カルタゴ]]:[[チュニス]]
* アンティグアグアテマラ:[[グアテマラシティ]]
* [[テノチティトラン]]:[[メキシコシティ]]
* 漢城:[[ソウル特別市|ソウル市]]
* [[江戸]]:[[東京]]
==関連項目==
[[Category:名前|こめい]]
[[category:言葉の文化|こめい]] | null | 2016-10-16T11:16:00Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%90%8D |
7,328 | 三九秘宿 | 三九秘宿(さんくのひしゅく)とは、宿曜経に述べられ、宿曜道で用いられている占いの技法のひとつ。
まず、生まれた時に月がどの二十七宿にあったかによって、 本命宿(その人物の守護星としての二十七宿)を決め、 その位置関係によって、日の吉凶や他人との相性などを見るというもの。
西洋占星術におけるアスペクトに似た概念であるが、現代インド占星術ではほとんど廃れてしまい、宿曜道にのみ残る占いである。 | [
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本命宿(その人物の守護星としての二十七宿)を決め、
その位置関係によって、日の吉凶や他人との相性などを見るというもの。 西洋占星術におけるアスペクトに似た概念であるが、現代インド占星術ではほとんど廃れてしまい、宿曜道にのみ残る占いである。 | {{出典の明記|date=2011年4月}}
'''三九秘宿'''(さんくのひしゅく)とは、[[宿曜経]]に述べられ、[[宿曜道]]で用いられている占いの技法のひとつ。
まず、生まれた時に[[月]]がどの[[二十七宿]]にあったかによって、
本命宿(その人物の守護星としての二十七宿)を決め、
その位置関係によって、日の吉凶や他人との相性などを見るというもの。
[[西洋占星術]]における[[アスペクト (占星術)|アスペクト]]に似た概念であるが、現代[[インド占星術]]ではほとんど廃れてしまい、宿曜道にのみ残る占いである。
{{DEFAULTSORT:さんくのひしゆく}}
[[category:占星術]]
[[Category:宿曜道]] | null | 2021-09-02T08:13:19Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B9%9D%E7%A7%98%E5%AE%BF |
7,329 | 与党 | 与党(よとう、英訳:ruling party, governing party)とは、政権を構成し行政を担当する政党のこと。政権与党(せいけんよとう)や政府与党(せいふよとう)とも呼ばれる。
対義語は、野党。
日本では明治期に、吏党・民党が必ずしもそれぞれ「親政府」・「反政府」を意味するものではなくなっていったため、次第にこれに代わって「与党」・「野党」という言葉が用いられるようになった。 与党とは、行政府を与る(あずかる)あるいは行政府に与する(くみする)政党の意味である。一般には内閣を組織している政党を指す。内閣が一党で組織される場合には単独内閣、内閣が複数党で組織される場合には連立内閣とよばれ、また、内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとる場合には閣外協力と呼ぶ。与党の要件は党として現在の政権を恒常的に支持し、政権協定などの形で参与することである。日本では一般的には政権を担っている政党を指して用いられている。
議院内閣制のように内閣は議会の多数派を基盤として成立し民意が一元的に表れるシステムを一元代表制と呼ぶ。英連邦王国や日本、ドイツなどの議院内閣制の国においては、行政府の存立には議会(多くは下院)の信任を要し、通常、議会多数派が政権を担い与党となっている。イギリスでは政権を担う政党は政権党 (government)、担わない政党は反対党 (opposition) と呼ばれる。一般に議院内閣制の下では与党は基本的に議会で多数を占めているが、与党内の分裂あるいは連立与党間の連立解消も生じることがあり、これによって少数与党に転落しているケースもある。また英連邦王国など、元首がまず内閣を任命し、後に議会が信任の可否を判断する制度の国でも、連立工作で過半数を得た勢力がない場合に当初より少数与党の内閣が発足する場合もある。明治憲法下の日本において憲政の常道により内閣が任命されていた時代では、過半数を制しているか否かに関わらず衆議院第1党が内閣を構成し、政局により内閣が倒れた場合は第2党が内閣を構成していたため、発足当初からの少数与党のケースが頻発した。冒頭の通り、日本では「与党」は一般的には政権を担っている政党を指して用いられているが、イギリスなどとは異なり、日本では「政府・与党連絡会議」のように政府 (government) とは区別して用いられている。日本の英字新聞では与党に相当する語として ruling party (支配する党)を使うことが多い。
これに対してアメリカ型大統領制のように大統領(首長)と議会とは別々に選出され民意が二元的に表れるシステムは二元代表制と呼ばれる。このような政治制度の場合には必ずしも議会多数派が政権を担っているわけでなく、また議会が二院制であれば上下両院で多数派が異なっていることもある。アメリカでは議会の多数党と大統領の所属政党が一致するとは限らない。また議会では多数党・少数党といった分け方がなされることもあるが、上下両院で多数派が異なっていることも多いということもあって、通常、「共和党」あるいは「民主党」といった政党の固有名詞が使われるにとどまる。アメリカの政治ニュースが日本で報道される場合に「◯◯政権の与党・□□党」といった表現が用いられる(この場合大統領の所属政党を指す)ことがあるが、アメリカではこれに対応する表現は見つけがたい。日本の地方公共団体も二元代表制だが、首長が無所属の場合でも議会でその政策を恒常的に支持している政党や会派があるときはそれらを実質的に「与党」と表現することがある。
なお、自由選挙が行われていない国における執権政党は与党とは呼ばれない。ヘゲモニー政党制を参照。 | [
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"text": "日本では明治期に、吏党・民党が必ずしもそれぞれ「親政府」・「反政府」を意味するものではなくなっていったため、次第にこれに代わって「与党」・「野党」という言葉が用いられるようになった。 与党とは、行政府を与る(あずかる)あるいは行政府に与する(くみする)政党の意味である。一般には内閣を組織している政党を指す。内閣が一党で組織される場合には単独内閣、内閣が複数党で組織される場合には連立内閣とよばれ、また、内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとる場合には閣外協力と呼ぶ。与党の要件は党として現在の政権を恒常的に支持し、政権協定などの形で参与することである。日本では一般的には政権を担っている政党を指して用いられている。",
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"text": "議院内閣制のように内閣は議会の多数派を基盤として成立し民意が一元的に表れるシステムを一元代表制と呼ぶ。英連邦王国や日本、ドイツなどの議院内閣制の国においては、行政府の存立には議会(多くは下院)の信任を要し、通常、議会多数派が政権を担い与党となっている。イギリスでは政権を担う政党は政権党 (government)、担わない政党は反対党 (opposition) と呼ばれる。一般に議院内閣制の下では与党は基本的に議会で多数を占めているが、与党内の分裂あるいは連立与党間の連立解消も生じることがあり、これによって少数与党に転落しているケースもある。また英連邦王国など、元首がまず内閣を任命し、後に議会が信任の可否を判断する制度の国でも、連立工作で過半数を得た勢力がない場合に当初より少数与党の内閣が発足する場合もある。明治憲法下の日本において憲政の常道により内閣が任命されていた時代では、過半数を制しているか否かに関わらず衆議院第1党が内閣を構成し、政局により内閣が倒れた場合は第2党が内閣を構成していたため、発足当初からの少数与党のケースが頻発した。冒頭の通り、日本では「与党」は一般的には政権を担っている政党を指して用いられているが、イギリスなどとは異なり、日本では「政府・与党連絡会議」のように政府 (government) とは区別して用いられている。日本の英字新聞では与党に相当する語として ruling party (支配する党)を使うことが多い。",
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] | 与党とは、政権を構成し行政を担当する政党のこと。政権与党(せいけんよとう)や政府与党(せいふよとう)とも呼ばれる。 対義語は、野党。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
'''与党'''(よとう、{{smaller|[[英語|英訳]]:}}{{en|ruling party, governing party}})とは、[[政権]]を構成し[[行政]]を担当する[[政党]]のこと。'''政権与党'''(せいけんよとう)や'''政府与党'''(せいふよとう)とも呼ばれる。
対義語は、'''[[野党]]'''。
== 概要 ==
日本では[[明治]]期に、吏党・民党が必ずしもそれぞれ「親政府」・「反政府」を意味するものではなくなっていったため、次第にこれに代わって「与党」・「野党」という言葉が用いられるようになった。
与党とは、[[行政機関|行政府]]を与る(あずかる)あるいは行政府に与する(くみする)政党の意味である。一般には[[内閣]]を組織している政党を指す。内閣が一党で組織される場合には単独内閣、内閣が複数党で組織される場合には[[連立政権|連立内閣]]とよばれ、また、内閣には加わらないものの内閣の方針を基本的に支持する形をとる場合には[[閣外協力]]と呼ぶ{{Sfn|橋本五郎|飯田政之|加藤秀治郎|2006|p=72}}。与党の要件は党として現在の政権を恒常的に支持し、政権協定などの形で参与することである。[[日本]]では一般的には政権を担っている政党を指して用いられている{{Sfn|飯尾潤|2007|p=78}}。
[[議院内閣制]]のように内閣は議会の多数派を基盤として成立し民意が一元的に表れるシステムを一元代表制と呼ぶ{{Sfn|飯尾潤|2007|p=18}}。[[英連邦王国]]や日本、[[ドイツ]]などの議院内閣制の国においては、行政府の存立には[[議会]](多くは[[下院]])の信任を要し、通常、議会多数派が政権を担い与党となっている。[[イギリス]]では政権を担う政党は政権党 {{en|(government)}}、担わない政党は[[野党|反対党]] {{en|(opposition)}} と呼ばれる{{Sfn|飯尾潤|2007|p=79}}。一般に議院内閣制の下では与党は基本的に議会で多数を占めているが、与党内の分裂あるいは連立与党間の連立解消も生じることがあり{{Sfn|西尾勝|2001|p=103}}、これによって少数与党に転落しているケースもある。また[[英連邦王国]]など、[[元首]]がまず内閣を任命し、後に議会が信任の可否を判断する制度の国でも、連立工作で過半数を得た勢力がない場合に当初より少数与党の内閣が発足する場合もある。[[大日本帝国憲法|明治憲法]]下の日本において[[憲政の常道]]により内閣が任命されていた時代では、過半数を制しているか否かに関わらず[[衆議院]]第1党が内閣を構成し、政局により内閣が倒れた場合は第2党が内閣を構成していたため、発足当初からの少数与党のケースが頻発した。冒頭の通り、日本では「与党」は一般的には政権を担っている政党を指して用いられているが、イギリスなどとは異なり、日本では「政府・与党連絡会議」のように政府 {{en|(government)}} とは区別して用いられている{{Sfn|飯尾潤|2007|p=79-81}}。日本の[[英字新聞]]では与党に相当する語として {{en|[[:en:Ruling party|ruling party]]}} (支配する党)を使うことが多い。
これに対して[[アメリカ合衆国|アメリカ]]型[[大統領制]]のように[[大統領]]([[首長]])と議会とは別々に選出され民意が二元的に表れるシステムは二元代表制と呼ばれる{{Sfn|飯尾潤|2007|p=18}}。このような政治制度の場合には必ずしも議会多数派が政権を担っているわけでなく、また議会が二院制であれば上下両院で多数派が異なっていることもある。アメリカでは議会の多数党と大統領の所属政党が一致するとは限らない。また議会では多数党・少数党といった分け方がなされることもあるが、上下両院で多数派が異なっていることも多いということもあって、通常、「[[共和党 (アメリカ)|共和党]]」あるいは「[[民主党 (アメリカ)|民主党]]」といった政党の固有名詞が使われるにとどまる{{Sfn|飯尾潤|2007|p=79}}。アメリカの[[政治]][[ニュース]]が日本で[[報道]]される場合に「◯◯政権の与党・□□党」といった表現が用いられる(この場合大統領の所属政党を指す)ことがあるが、アメリカではこれに対応する表現は見つけがたい{{Sfn|飯尾潤|2007|p=79}}。日本の[[地方公共団体]]も二元代表制だが、首長が[[無所属]]の場合でも議会でその政策を恒常的に支持している政党や会派があるときはそれらを実質的に「与党」と表現することがある{{Sfn|飯尾潤|2007|p=80}}。
なお、[[自由選挙]]が行われていない国における執権政党は与党とは呼ばれない。[[ヘゲモニー政党制]]を参照。
== 民主国家における長期与党政党 ==
* {{flag|メキシコ}}:[[制度的革命党]] ([[1929年]]-[[2000年]]、[[2012年]]-[[2018年]])
* {{flag|日本}}:[[自由民主党 (日本)|自由民主党]] ([[1955年]]-[[1993年]]、[[1994年]]-[[2009年]]、[[2012年]]-)
* {{flag|スウェーデン}}:[[スウェーデン社会民主労働者党]] ([[1917年]]-[[1936年]][[6月]]及び1936年[[9月]]-[[1976年]]、[[1982年]]-[[1991年]]、1994年-[[2006年]]、[[2014年]]-)
* {{flag|デンマーク}}:[[社会民主党 (デンマーク)|社会民主党]] ([[1929年]]-[[1945年]]、[[1953年]]-[[1968年]]、[[1975年]]-[[1981年]]、1993年-[[2001年]])
* {{flag|ノルウェー}}:[[ノルウェー労働党]] (1936年-[[1965年]]、[[1973年]]-1981年、[[2005年]]-[[2013年]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=飯尾潤 |title=日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ |date=2007 |publisher=中央公論新社(中公新書) |isbn=9784121019059 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=西尾勝 |title=行政学 |date=2001 |edition=新版 |publisher=有斐閣 |isbn=9784641049772 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=橋本五郎 |author2=飯田政之 |author3=加藤秀治郎 |title=Q&A日本政治ハンドブック : 政治ニュースがよくわかる! |date=2006 |publisher=一藝社 |isbn=4901253794 |ref=harv}}
==関連項目==
*[[連立政権]]、[[閣外協力]]
*[[ウェストミンスター・システム]]
*[[吏党]]、[[民党]]
*[[与党空白区]]
*[[オール与党]]
{{DEFAULTSORT:よとう}}
[[Category:政党]] | 2003-04-26T15:32:58Z | 2023-11-02T08:26:04Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E5%85%9A |
7,331 | 野党 | 野党(やとう)とは、「政府から離れた在野の政党」を意味する。政権・内閣・行政を担わない政党のことであり、それを担う与党と対峙する。
明治期に、吏党・民党がそれぞれ必ずしも「親政府」・「反政府」を意味するものではなくなっていったため、次第にこれに代わって「与党」・「野党」という言葉が用いられるようになった。
単純小選挙区制の議会においては、デュヴェルジェの法則に従って二大候補が形成される傾向にあり、従って議会を占める政党は二大政党制がとられることになる。このような場合には政権の奪取に失敗した野党も未来の政府を構成する可能性が高く、公的な性格を帯びると認識される。
より比例代表制に重点をおいた選挙システムにおいては、複数の野党が形成される。このような多数野党は世界の一般である。
長期に渡って単一の党派による支配が続いている組織化の進んだ民主政体(一党優位政党制)においては、野党が名目・形式・体裁だけの平等主義に弱体化され、ゲリマンダーによって野党に不利な選挙システムを構築される場合がある。
イギリスなどウェストミンスター・システムに基づいた議院内閣制の諸国においては、野党第一党に女王陛下の野党(Her Majesty's Loyal Opposition)、または公式野党(Official Opposition)と呼ばれる公式な地位が与えられ、その党首にも同時に「野党指導者(Leader of the Opposition)」の称号が与えられて特別な歳費も支給されることがある。
この場合、野党第一党の党首らは、公式な制度として影の内閣を組織する事例が多い。
※令和5年(2023年)12月21日現在
ゆ党(ゆとう)とは、政権に対し是々非々で中立な立場を取る野党のこと。野党の中でも、与党に融和的な政党に対して言う。
日本では「野党」という場合、対立的な姿勢をとる政党のみを示すことが多く、これと区別して呼ぶことがある。「ゆ」は五十音順では「や」と「よ」の中間にある文字であり、すなわち「野党(や党)」と「与党(よ党)」の中間に位置するという意味である。
竹下登によれば、1993年の細川連立政権発足により自民党が初めて野党となった時、自民党に対して「与党が野党になるのは大変だが、自民党は『ゆ党』になる」と言う意見があったといい、竹下自身は「自民党は政権の重みを知っているので、『与党はけしからん』だけではダメだ」という意味で捉えている。ただ、この用語は主に反与党の立場を取る人物・団体が「ゆ党」たる立場の団体に対して使用することが多く、その際には若干の軽蔑のニュアンスが含まれることが多い。1996年(平成8年)に連立与党の社民党と新党さきがけの所属議員が離党して旧民主党が発足した当初、分離の主な理由は当時の橋本龍太郎内閣そのものとの対立ではなかったことから内閣に対する姿勢が曖昧であり、民主党に対してゆ党という表現が使われた。
2016年(平成28年)1月には衆議院本会議の代表質問において、おおさか維新の会が「私たちは与党でもない野党でもない」と述べた。民主党がこの発言を問題視し、維新および当時友好関係にあった改革結集の会の2党は野党ではなく「ゆ党」であると主張し、衆院予算委員会で野党の質問時間に含めない考えを示し、最終的に与野党が2党に時間を譲り合う“ゆ党”扱いとなった。これに対し維新は「政権に参加していない党は野党だ」と主張し、抗議として与党からの配分時間のみを返上したうえで予算委員会を欠席する事態となった。 | [
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] | 野党(やとう)とは、「政府から離れた在野の政党」を意味する。政権・内閣・行政を担わない政党のことであり、それを担う与党と対峙する。 | {{otheruses||音楽ユニット|THE 野党|議会制における野党|野党 (議会制)}}{{複数の問題
| 出典の明記 = 2016年7月6日 (水) 03:42 (UTC)
| 独自研究 = 2021年1月4日 (月) 17:31 (UTC)
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'''野党'''(やとう)とは、「[[政府]]から離れた[[在野]]の[[政党]]」を意味する。[[政権]]・[[内閣]]・[[行政]]を担わない政党のことであり、それを担う[[与党]]と対峙する。
== 概要 ==
明治期に、[[吏党]]・[[民党]]がそれぞれ必ずしも「親政府」・「反政府」を意味するものではなくなっていったため、次第にこれに代わって「与党」・「野党」という言葉が用いられるようになった。
[[単純小選挙区制]]の[[議会]]においては、[[デュヴェルジェの法則]]に従って二大候補が形成される傾向にあり、従って議会を占める政党は[[二大政党制]]がとられることになる。このような場合には[[政権]]の奪取に失敗した野党も未来の政府を構成する可能性が高く、公的な性格を帯びると認識される。
より[[比例代表制]]に重点をおいた[[選挙]]システムにおいては、複数の野党が形成される。このような多数野党は世界の一般である。
長期に渡って単一の[[党派]]による[[支配]]が続いている組織化の進んだ[[民主主義|民主政体]]([[一党優位政党制]])においては、野党が名目・形式・体裁だけの平等主義に弱体化され、[[ゲリマンダー]]によって野党に不利な選挙システムを構築される場合がある。
== 公式野党 ==
{{main|野党 (議会制)|{{仮リンク|Loyal opposition|en|Loyal opposition}}|女王陛下の野党 (イギリス)|{{仮リンク|野党指導者 (イギリス)|en|Leader of the Opposition (United Kingdom)}}|影の内閣|{{仮リンク|野党第一党党首 (日本)|en|Leader of the Opposition (Japan)|es|Anexo:Líder de la oposición (Japón)}}}}
[[イギリス]]など[[ウェストミンスター・システム]]に基づいた[[議院内閣制]]の諸国においては、野党第一党に'''[[女王陛下の野党 (イギリス)|女王陛下の野党]]'''({{en|Her Majesty's Loyal Opposition}})、または'''[[野党 (議会制)|公式野党]]'''({{en|Official Opposition}})と呼ばれる公式な地位が与えられ、その党首にも同時に「野党指導者({{en|Leader of the Opposition}})」の称号が与えられて特別な歳費も支給されることがある。
この場合、野党第一党の党首らは、公式な制度として[[影の内閣]]を組織する事例が多い。
== 日本の国政野党 ==
※令和5年(2023年)12月21日現在
* [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]
* [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]]
* [[日本共産党]]
* [[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]
* [[れいわ新選組]]
* [[教育無償化を実現する会]]
* [[みんなでつくる党]]
* [[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]
* [[参政党]]
== 主な野党共闘 ==
* [[民共共闘]]
* [[社共共闘]]
*[[社公民路線]]
== ゆ党 ==
'''ゆ党'''(ゆとう)とは、[[政権]]に対し是々非々で[[中立]]な立場を取る'''野党'''のこと。野党の中でも、[[与党]]に融和的な政党に対して言う。
[[日本]]では「野党」という場合、対立的な姿勢をとる政党のみを示すことが多く<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E5%85%9A-143821 野党] - コトバンク</ref>、これと区別して呼ぶことがある<ref>[http://kotobank.jp/word/%E3%82%86%E5%85%9A ゆ党とは - コトバンク](2012年12月25日閲覧)</ref><ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120119/stt12011918020006-n1.htm|title=新党きづな 各党あいさつ回り 「ゆ党」目指すも前途多難|date=2012-01-19|accessdate=2012-12-25|newspaper=産経新聞}}</ref>。「[[ゆ]]」は五十音順では「[[や]]」と「[[よ]]」の中間にある文字であり、すなわち「野党(や党)」と「与党(よ党)」の中間に位置するという意味である。
[[竹下登]]によれば、1993年の細川連立政権発足により自民党が初めて野党となった時、自民党に対して「与党が野党になるのは大変だが、自民党は『ゆ党』になる」と言う意見があったといい、竹下自身は「自民党は政権の重みを知っているので、『与党はけしからん』だけではダメだ」という意味で捉えている<ref>竹下登・赤松広隆「小沢・細川クンにモノ申す」『文藝春秋』1994年4月号 168ページ</ref>。ただ、この用語は主に反与党の立場を取る人物・団体が「ゆ党」たる立場の団体に対して使用することが多く、その際には若干の軽蔑のニュアンスが含まれることが多い。[[1996年]]([[平成]]8年)に連立与党の[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]と[[新党さきがけ]]の所属議員が離党して[[民主党 (日本 1996-1998)|旧民主党]]が発足した当初、分離の主な理由は当時の[[第1次橋本内閣|橋本龍太郎内閣]]そのものとの対立ではなかったことから内閣に対する姿勢が曖昧であり、民主党に対してゆ党という表現が使われた。
[[2016年]]([[平成]]28年)[[1月]]には衆議院本会議の代表質問において、[[日本維新の会 (2016-)|おおさか維新の会]]が「私たちは与党でもない野党でもない」と述べた。[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]がこの発言を問題視し、維新および当時友好関係にあった[[改革結集の会]]<ref>{{Cite news |title=おおさか維新と改革結集、政策協議会設置で合意|newspaper=産経新聞|date=2016-02-10 |url=https://www.sankei.com/politics/news/160210/plt1602100047-n1.html|accessdate=2020-02-05}}</ref>の2党は野党ではなく「ゆ党」であると主張し、衆院予算委員会で野党の質問時間に含めない考えを示し、最終的に与野党が2党に時間を譲り合う“ゆ党”扱いとなった<ref name="sankei20160107">{{Cite news |title=おおさか維新は「ゆ党」? 衆院予算委の質問時間めぐり与野党紛糾|newspaper=産経新聞|date=2016-01-07 |url=https://www.sankei.com/article/20160107-CCHEN2X7CRIXTOR4WP57E6N3KU/|accessdate=2020-02-05}}</ref>。これに対し維新は「政権に参加していない党は野党だ」と主張し、抗議として与党からの配分時間のみを返上したうえで予算委員会を欠席する事態となった<ref>{{Cite news |title=【衆院予算委】おおさか維新「民主がいじめ」 予算委を欠席 「ゆ党」への質問時間「削減」に抗議 |newspaper=産経新聞|date=2016-01-08 |url=https://www.sankei.com/article/20160108-7J255XZ2RJJMXLM2T426EJN2AI/|accessdate=2020-02-05}}</ref>。
===現在「ゆ党」と呼ばれている政党===
* [[日本維新の会 (2016-)]]<ref name="tyuniti">[https://www.chunichi.co.jp/article/372239 維新と国民、第三極「ゆ党」の行方は(中日新聞)]</ref>
* [[国民民主党 (日本 2020)]]<ref name="tyuniti"/>
=== 現存する政党で過去に「ゆ党」と呼ばれていた政党 ===
* [[公明党]]
===過去に存在した政党で「ゆ党」とされた事例===
* [[民社党]]
* [[新自由クラブ]]
* [[みんなの党]]→[[日本を元気にする会]]
* [[新党大地・真民主]]
* [[新党日本]]
* [[新党きづな]]
* [[日本のこころ (政党)|次世代の党→日本のこころを大切にする党→日本のこころ]]
* [[新党改革]]
* [[日本維新の会 (2012-2014)]]
* [[希望の党 (日本 2017)|希望の党]]→[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党 (2018-2020)]]
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[政党]]
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* [[衛星政党]]
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7,333 | インド占星術 | インド占星術(インドせんせいじゅつ、梵: Jyotiṣa)は、インドに伝わる占星術のこと。インド本国の他、ネパールやチベットなど周辺の地域でも行われている。 もともと、白道上の月の位置に着目したナクシャトラ(中国系暦法・占星術では二十七宿という)を用いた占星術だったが、ヘレニズム時代にギリシアから太陽と月、5惑星とラーフ、ケートゥといった九曜、十二宮と十二室に基づくホロスコープ方式の占星術を取り入れて、現在のナクシャトラ(白道二十七宿)と黄道十二宮を併用した形になったと言われているが、古い時代のことなのではっきりしたことはわかっていない。 また仏教に取り入れられたものは、簡略化(月の厳密な度数で決めず、1日に1つというように割り当てる)・仏教化し 『宿曜経』 にまとめられ、密教の一部として中国に伝えられた。さらに、平安時代には日本にも伝えられて宿曜道となった。
月の白道上の位置を基にしたナクシャトラという概念があり土着のものと推測されるが、記録に残る伝承が神話体のものしか存在しないため、はっきりとしたことはわかっていない。
中国発祥の二十七宿、二十八宿と似ているが、それぞれ発祥を異にするとされる。ただし、後の時代に相互に関連していくようになる。
紀元後2世紀までにギリシアの占星術技法がインドに伝えられ、西暦150年にはインドのサンスクリット語に散文体にまとめられた。西暦269年にはそれが韻文化され、『ヤヴァナジャータカ』(yavanajaataka 『ギリシャ式出生占術』)という文献にまとめられた。
以後独自の発展を遂げて、現在の形のインド占星術となる。
基本的には西洋占星術に似てはいるが、インド占星術独自の技法を用いる。
まず最初に、宮についてはインド占星術はある天体座標を基準点に固定しそこから30度ずつ12分割するが、西洋占星術は春分点を基準に12分割しているため地球の歳差運動により黄道を移動するので、その結果惑星の在住する星座(サイン)が異なることが多い。そのずれの度数をアヤナムシャと呼ぶ。
基本的に室(ハウス)の意味が宮(サイン)より重視されている。西洋占星術の春分点は74年に1度、春分点が西に移動するのに伴って移動するので、西洋占星術とインド占星術では惑星が在住する宮が違うことがある。また大部分のインド占星術がハウス(室)システムにイコールハウス(室は30度固定、アセンダントがある星座を1室とし、第一室の宮の境を第一室の境とみなして扱うこと)を使う。惑星はその在住する室とその惑星が支配する室、アスペクトを形成する惑星の影響を強く受ける。たとえば支配宮の象意を在住室の象意の表す事象にもたらす、というように解釈される。 その惑星が在住する室や宮によって、影響力の強弱が変化することもある。ただし強弱と吉凶は必ずしも同じでない。
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ラグナ(アセンダント在住宮)と呼ばれる第一室の分析も重視される。第一室に在住する惑星やアスペクトする惑星、第一宮の支配惑星の在住する室やその度数とそれにアスペクトする惑星等により、健康運の良し悪しや外見や精神的特徴等を占う。また他の室の支配星とのコンジェクト、アスペクト、惑星交換等で財産運(ダーナヨガ)、成功運(ラージャヨガ)等を占う。
月の分析も重視される。ナクシャトラ(二十七宿)により大体の性格や行動をみたり、満月に向かう月(吉星と解釈)なのか新月に向かう月(凶星と解釈)なのか、高揚または減衰しているかということで、占星術的な意味をもたせている。生時がわからないときは、仮に月の在住する宮を第一室(アセンダント)として占うこともある。インド占星術では太陽よりも月をどちらかというと重視する。
アスペクトは独自のものである。室単位で扱い、第1・7室(0・180度)が各惑星共通アスペクトで、火星は第4・第8室、木星は第5・第9室、土星は第3・第10室にもアスペクトを形成する。
ヨーガという、ある特定の惑星と室、宮の配置に占星術的な意味を結びつけた概念もある。
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アシュタカヴァルガという宮ごとに数値で吉凶を表す手法(惑星ごとや全体に点数を算出する)も、インド占星術独自である。
ダーシャ、ゴチャラ(トランジット)、アシュタカヴァルガなどを組み合わせて、バースチャート上に表された人生の出来事がいつ起こるのかを読み取る。
インド占星術には大きく2つの流派あり、現在では『ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ』という古典を基にしたパラーシャラ方式が主流だが、以前はもう一派のジャイミニ方式が広く使われていた。現在は占いたいテーマにより使い分けられている。精神的・霊的な内容を占う時はジャイミニを使う傾向がある。
インド占星術にとどまらず、相談者の情報を知らずに占う場合、ホロスコープだけでは熟達しないと正確な判断は難しい。それゆえ、インド占星術家は曜日占い、顔・手相、指紋の相など他の要素も併用して占断することもある。
以下、西洋占星術との相違点を中心に、インド占星術の特徴をいくつか例示する。専門用語などに関しては西洋占星術の項目も参照されたい。
最も重要な西洋占星術との相違点として、インド占星術では、十二宮などの占星座標は、天球上の恒星に対して固定されたいわゆるサイデリアル方式に基づくのが主流である。 このような方式をインドではニル・アヤナ (nirayana 『固定式惑星路』)という。インド政府公認の座標(ラヒリ アヤナムシャ)があり、国内外の占術家の多くはそれに従っている。
ちなみに西洋占星術では春分点を白羊宮0度とするトロピカル方式を用いる占術家が圧倒的に多数派である。インドではこの方式をサ・アヤナ (saayana 『移動式惑星路』)と言う。 ヒッパルコスによって発見された地球の歳差運動により、春分点は72年に1度程度移動する。 当然この方式では距星となる星座と占星座標とは歳差運動により年々ずれていく。 ニル・アヤナとサ・アヤナは、インドに西洋占星術がもたらされた紀元後300年ごろは一致していたがその後差が拡大していき、21世紀初頭現在ではニル・アヤナのほうがサ・アヤナより24度ほど東にずれている。
インド占星術で特に重視されている要素としてパンチャーンガ (pancaaGga)がある。 これは五つ(パンチャ)の要素(アンガ)と言う意味。
インドでは具注暦には必ずこの五要素が記されており、これの事もパンチャーンガと呼ぶ。 このうち、個人の運命を見るときに主に使われるのはナクシャトラである。詳しくはそれぞれのリンクを参照されたい。
インド占星術では、古典西洋占星術と同じく実在惑星として7惑星(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星(漢訳七曜))をさらに月の軌道要素から導きだされる点を架空天体としてラーフ、ケートゥも用いる。これらの9つの占星惑星をナヴァ・グラハ(nava graha、漢訳(九執、九曜))と総称する。
木星、金星、月、水星が生来的に吉星とし、ラーフ、ケートゥ、土星、火星、太陽が生来的に凶星とされる。水星は中立に扱う場合もある。
また機能的に吉星や凶星をわける評価法もあって、支配する室や在住する室等の惑星の状態、他の惑星のアスペクトの影響などにより、機能的に吉星になったり凶星になったりする。
ラーフは月の交点(黄道と白道の交わる点)のうち昇交点であり、降交点はケートゥである。日食と月食の食と関係が深い為重視された。後に西洋占星術に輸出され、ラーフ(羅睺)にはドラゴン・ヘッドもしくはノース・ノードという名が、ケートゥ(計都)にはドラゴン・テールもしくはサウス・ノードという名がつけられた。
伝統を重んじる立場から、もしくは影響力が小さいと判断されているのか、西洋占星術と違い近世に発見された天王星、海王星、冥王星のいわゆるトランス・サタニアン(土星以遠惑星、trans-Saturnian)は、一般には用いない。同様に小惑星も無視する。 しかし、古典西洋占星術と同様に占断の際に特に障害になっていない模様である。
(英語版同項目より)
Planets in maximum exaltation, mooltrikona (own sign), and debilitation, are(惑星の高揚、ムーラトリコーナ、減衰は下記のとおりである):
Rahu and Ketu are exalted in Taurus/Scorpio and debilitated in Scorpio/Taurus respectively. They are also exalted in Gemini and Virgo.
The natural planetary relationships are:
月の白道上の位置を基にした二十七宿のこと。内容は二十七宿のところに少し記載してある。
インド占星術独自の技法であり、分割図ごとに占うテーマが決まっている。 分割図とは占星惑星の黄径や離角などの数値に一定の数式を当てはめて、新たなチャートを引き出す技法である。ナヴァグラハと呼ばれる9分割図が有名である。 これを取り入れた西洋占星術では、ハーモニクス(調波)と呼ばれている。
(英語版同項目より)詳細は英語版を参照。
Varga (分割図)(Sanskrit: varga, 'part, division'.) There are sixteen varga, or divisional, charts used in Jyotisha(インド占星術を行うものに使われる分割図は16ある):
Four other vargas are attributed to Jaimini:(ジャイミニ式分割図)
Besides Rāshi (D-1), Navamsha (D-9), Dreshkana (D-3), Dasamsa (D-10) and Trimsamsa (D-30) are considered significant divisional charts.
ハウス・システムは、アセンダント・ホール・サイン・ハウス(東の地平線と交わっている宮を全て第一室と見なし、順次、宮を室に当てはめていく方式)やイコールハウス(室を東の地平線と黄道の交点から30度ずつ機械的に区切っていく方式)など、簡便なものが主流。古くは西洋古典占星術でもこのような方式が主流だったが、インドでは伝統を重んじる立場から主流である。
(英語版同項目より)
The zodiac signs in Jyotisha correspond to parts of the body:
ホロスコープのチャートは、17世紀までのヨーロッパの西洋占星術と同じく方形に描かれる。 また、第1室を左側に描く方式の他に上に描く方式などもある。(インドの各地方により東・西・南・北で4方式ある模様) 個々のハウスは、正方形で描く南インド式(中国の一部の占星術と同様)と、三角形と菱形とで描く北インド式の二種類が主流。
(英語版同項目より) There are two chart styles used in Jyotisha:代表的なもの2つ
また、占星惑星の解釈にもかなりの相違点がある。
例えば、月が心の状態を示す点は共通だが、インドでは「心の安定」、西洋では「心の不安定」を主に表す。(在住場所・星座やアスペクトする惑星により安定か不安定かは異なる。)
また土星が「制限」「支配」などの意味を持つのは共通だが、インドでは自分が支配・制限するもの(部下、奴隷など)を示すのに対し、西洋では自分を支配・制限するもの(かなり年上の上司、妻にとっての夫など)を示す。(これも月の場合と同じく状態による)
また、ラーフとケートゥは、西洋占星術では、少なくともラーフ(ドラゴン・ヘッド)に関しては悪い意味を持たないが、インド占星術ではともに凶星とされる。(ラーフは自己執着と躁状態・一時的な繁栄とその反動、ケートゥは自己否定と鬱状態・一時的な没落とその反動)
基本的にヒンドゥー教の因果業法論、宿命論に基づいており、開運法の実行によりある一定の効果があると信じられている。 ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラによれば、惑星には各々真言(マントラ)が決められており、巡ってきたダシャーの惑星の真言を決められた数、詠唱することのみ記載されている。 インドでは民間信仰として、チャート上で悪い影響を及ぼすと判断された惑星を支配する神々を祀ったお寺に参拝し、加持祈祷を行ってもらったり、善業を積む意味での寄付または喜捨を行う風習がある。 なお商業主義により現在開運法として行われている、惑星を表す宝石等を身に着けることは『ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ』には記載されていない。
ウパーヤ(運命改善方法)としてではないが、ジョーティッシュと関連する古典医学書スシュルタサンヒター、チャラカサンヒターにおいて、鉱物と金属は病気を予防し健康維持に役立つアウシャダ(薬)であると規定される。そのため、本来はアーユルヴェーダとジョーティッシュ両方の知識を補完した上で、ホロスコープから個人に必要な鉱石や金属を調べた。古代より過去のカルマとして心身に現れる否定的な影響を退けると同時に、良い影響を微細身に吸収する方法として宝石療法は伝承されている。
ウパーヤ(加持祈祷、寄付、瞑想、真言を唱える、断食、沈黙行など)の本質は、神に自分を明け渡すことである。ジョーティッシュはじめ古代ヴェーダ聖典の教えを現代に引き継ぐ聖者アマチ(マーター・アムリターナンダマイー)らは、悲惨な運命を回避・軽減するには自らの意志で行う修行によって霊的に成長するのが望ましいとしている。 | [
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"text": "ホロスコープのチャートは、17世紀までのヨーロッパの西洋占星術と同じく方形に描かれる。 また、第1室を左側に描く方式の他に上に描く方式などもある。(インドの各地方により東・西・南・北で4方式ある模様) 個々のハウスは、正方形で描く南インド式(中国の一部の占星術と同様)と、三角形と菱形とで描く北インド式の二種類が主流。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "(英語版同項目より) There are two chart styles used in Jyotisha:代表的なもの2つ",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "また、占星惑星の解釈にもかなりの相違点がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "例えば、月が心の状態を示す点は共通だが、インドでは「心の安定」、西洋では「心の不安定」を主に表す。(在住場所・星座やアスペクトする惑星により安定か不安定かは異なる。)",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また土星が「制限」「支配」などの意味を持つのは共通だが、インドでは自分が支配・制限するもの(部下、奴隷など)を示すのに対し、西洋では自分を支配・制限するもの(かなり年上の上司、妻にとっての夫など)を示す。(これも月の場合と同じく状態による)",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、ラーフとケートゥは、西洋占星術では、少なくともラーフ(ドラゴン・ヘッド)に関しては悪い意味を持たないが、インド占星術ではともに凶星とされる。(ラーフは自己執着と躁状態・一時的な繁栄とその反動、ケートゥは自己否定と鬱状態・一時的な没落とその反動)",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "基本的にヒンドゥー教の因果業法論、宿命論に基づいており、開運法の実行によりある一定の効果があると信じられている。 ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラによれば、惑星には各々真言(マントラ)が決められており、巡ってきたダシャーの惑星の真言を決められた数、詠唱することのみ記載されている。 インドでは民間信仰として、チャート上で悪い影響を及ぼすと判断された惑星を支配する神々を祀ったお寺に参拝し、加持祈祷を行ってもらったり、善業を積む意味での寄付または喜捨を行う風習がある。 なお商業主義により現在開運法として行われている、惑星を表す宝石等を身に着けることは『ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ』には記載されていない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ウパーヤ(運命改善方法)としてではないが、ジョーティッシュと関連する古典医学書スシュルタサンヒター、チャラカサンヒターにおいて、鉱物と金属は病気を予防し健康維持に役立つアウシャダ(薬)であると規定される。そのため、本来はアーユルヴェーダとジョーティッシュ両方の知識を補完した上で、ホロスコープから個人に必要な鉱石や金属を調べた。古代より過去のカルマとして心身に現れる否定的な影響を退けると同時に、良い影響を微細身に吸収する方法として宝石療法は伝承されている。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "ウパーヤ(加持祈祷、寄付、瞑想、真言を唱える、断食、沈黙行など)の本質は、神に自分を明け渡すことである。ジョーティッシュはじめ古代ヴェーダ聖典の教えを現代に引き継ぐ聖者アマチ(マーター・アムリターナンダマイー)らは、悲惨な運命を回避・軽減するには自らの意志で行う修行によって霊的に成長するのが望ましいとしている。",
"title": "特徴"
}
] | インド占星術は、インドに伝わる占星術のこと。インド本国の他、ネパールやチベットなど周辺の地域でも行われている。
もともと、白道上の月の位置に着目したナクシャトラ(中国系暦法・占星術では二十七宿という)を用いた占星術だったが、ヘレニズム時代にギリシアから太陽と月、5惑星とラーフ、ケートゥといった九曜、十二宮と十二室に基づくホロスコープ方式の占星術を取り入れて、現在のナクシャトラ(白道二十七宿)と黄道十二宮を併用した形になったと言われているが、古い時代のことなのではっきりしたことはわかっていない。
また仏教に取り入れられたものは、簡略化(月の厳密な度数で決めず、1日に1つというように割り当てる)・仏教化し 『宿曜経』 にまとめられ、密教の一部として中国に伝えられた。さらに、平安時代には日本にも伝えられて宿曜道となった。 | '''インド占星術'''(インドせんせいじゅつ、{{lang-sa-short|Jyotiṣa}})は、[[インド]]に伝わる[[占星術]]のこと。インド本国の他、[[ネパール]]や[[チベット]]など周辺の地域でも行われている。
もともと、[[白道]]上の[[月]]の位置に着目した[[ナクシャトラ]](中国系暦法・占星術では[[二十七宿]]という)を用いた占星術だったが、[[ヘレニズム]]時代に[[ギリシア]]から太陽と月、5惑星とラーフ、ケートゥといった[[九曜]]、[[サイン (占星術)|十二宮]]と[[ハウス (占星術)|十二室]]に基づく[[ホロスコープ]]方式の占星術を取り入れて、現在の[[ナクシャトラ]]([[白道]][[二十七宿]])と黄道十二宮を併用した形になったと言われているが、古い時代のことなのではっきりしたことはわかっていない。
また[[仏教]]に取り入れられたものは、簡略化(月の厳密な度数で決めず、1日に1つというように割り当てる)・仏教化し 『[[文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経|宿曜経]]』 にまとめられ、[[密教]]の一部として[[中国]]に伝えられた。さらに、[[平安時代]]には[[日本]]にも伝えられて'''[[宿曜道]]'''となった。
== 歴史 ==
=== インド土着の占星術 ===
月の[[白道]]上の位置を基にした[[ナクシャトラ]]という概念があり土着のものと推測されるが、記録に残る伝承が神話体のものしか存在しないため、はっきりとしたことはわかっていない。
[[中国]]発祥の[[二十七宿]]、[[二十八宿]]と似ているが、それぞれ発祥を異にするとされる。ただし、後の時代に相互に関連していくようになる。
=== ギリシア由来の占星術 ===
[[紀元]]後[[2世紀]]までにギリシアの占星術技法がインドに伝えられ、西暦[[150年]]には[[インド]]の[[サンスクリット]]語に[[散文]]体にまとめられた。西暦[[269年]]にはそれが[[韻文]]化され、『ヤヴァナジャータカ』(yavanajaataka 『ギリシャ式出生占術』)という文献にまとめられた<ref>David Pingree, 1963, "The Indian Iconography of the Decans and Horas", ''Jouranal of the Warburg and Courtauld Institutes'', '''26'''(3/4): 225.</ref>。
以後独自の発展を遂げて、現在の形のインド占星術となる。
==特徴==
基本的には[[西洋占星術]]に似てはいるが、インド占星術独自の技法を用いる。
まず最初に、宮についてはインド占星術はある天体座標を基準点に固定しそこから30度ずつ12分割するが、西洋占星術は春分点を基準に12分割しているため地球の[[歳差運動]]により[[黄道]]を移動するので、その結果惑星の在住する星座(サイン)が異なることが多い。そのずれの度数を[[アヤナムシャ]]と呼ぶ。
基本的に[[ハウス (占星術)|室(ハウス]])の意味が[[サイン (占星術)|宮(サイン]])より重視されている。[[西洋占星術]]の[[春分点]]は74年に1度、春分点が西に移動するのに伴って移動するので、西洋占星術とインド占星術では惑星が在住する宮が違うことがある。また大部分のインド占星術がハウス(室)システムにイコールハウス(室は30度固定、アセンダントがある星座を1室とし、第一室の宮の境を第一室の境とみなして扱うこと)を使う。惑星はその在住する室とその惑星が支配する室、[[アスペクト (占星術)|アスペクト]]を形成する惑星の影響を強く受ける。たとえば支配宮の象意を在住室の象意の表す事象にもたらす、というように解釈される。
その惑星が在住する室や宮によって、影響力の強弱が変化することもある。ただし強弱と吉凶は必ずしも同じでない。
「ナバムーシャ」(9分割図)に代表される分割図は、インド占星術において多用され独自のものである。
[[ラグナ (インド占星術)|ラグナ]](アセンダント在住宮)と呼ばれる第一室の分析も重視される。第一室に在住する惑星やアスペクトする惑星、第一宮の支配惑星の在住する室やその度数とそれにアスペクトする惑星等により、健康運の良し悪しや外見や精神的特徴等を占う。また他の室の支配星との[[コンジェクト]]、[[アスペクト (占星術)|アスペクト]]、[[惑星交換]]等で財産運(ダーナヨガ)、成功運(ラージャヨガ)等を占う。
[[月]]の分析も重視される。[[ナクシャトラ]]([[二十七宿]])により大体の性格や行動をみたり、満月に向かう月(吉星と解釈)なのか新月に向かう月(凶星と解釈)なのか、高揚または減衰しているかということで、占星術的な意味をもたせている。生時がわからないときは、仮に月の在住する宮を第一室(アセンダント)として占うこともある。インド占星術では太陽よりも月をどちらかというと重視する。
アスペクトは独自のものである。室単位で扱い、第1・7室(0・180度)が各惑星共通アスペクトで、[[火星]]は第4・第8室、[[木星]]は第5・第9室、[[土星]]は第3・第10室にもアスペクトを形成する。
[[ヨーガ]]という、ある特定の惑星と室、宮の配置に占星術的な意味を結びつけた概念もある。
[[ダシャー]]という、それぞれの惑星がいつ強い影響力を発揮するのかを示す技法がある。惑星・星座・両方を使うものなど多種類のダシャーがあるが、惑星を使う120年周期のヴィムショッタリ・ダシャーが最もよく使われる。
[[アシュタカヴァルガ]]という宮ごとに数値で吉凶を表す手法(惑星ごとや全体に点数を算出する)も、インド占星術独自である。
ダーシャ、ゴチャラ(トランジット)、アシュタカヴァルガなどを組み合わせて、バースチャート上に表された人生の出来事がいつ起こるのかを読み取る。
インド占星術には大きく2つの流派あり、現在では『[[:en:B%E1%B9%9Bhat_Par%C4%81%C5%9Bara_Hor%C4%81%C5%9B%C4%81stra|ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ]]』という古典を基にしたパラーシャラ方式が主流だが、以前はもう一派のジャイミニ方式が広く使われていた。現在は占いたいテーマにより使い分けられている。精神的・霊的な内容を占う時はジャイミニ<ref>惑星等・宮・室などの象意は変わらないが、アスペクト等や表示体という概念や星座によるダシャーなどがパラーシャラ方式と違う。</ref>を使う傾向がある。
インド占星術にとどまらず、相談者の情報を知らずに占う場合、ホロスコープだけでは熟達しないと正確な判断は難しい。それゆえ、インド占星術家は曜日占い、顔・手相、指紋の相など他の要素も併用して占断することもある。
以下、[[西洋占星術]]との相違点を中心に、インド占星術の特徴をいくつか例示する。専門用語などに関しては西洋占星術の項目も参照されたい。
===ニル・アヤナ(サイデリアル式ハウスシステム)===
最も重要な西洋占星術との相違点として、インド占星術では、[[十二宮]]などの占星座標は、[[天球]]上の[[恒星]]に対して固定されたいわゆる[[サイデリアル方式]]に基づくのが主流である。
このような方式をインドではニル・アヤナ (nirayana 『固定式惑星路』)という。[[インド]]政府公認の座標(ラヒリ アヤナムシャ)があり、国内外の占術家の多くはそれに従っている。
ちなみに[[西洋占星術]]では[[春分点]]を白羊宮0度とする[[トロピカル方式]]を用いる占術家が圧倒的に多数派である。インドではこの方式をサ・アヤナ (saayana 『移動式惑星路』)と言う。
[[ヒッパルコス]]によって発見された地球の歳差運動により、春分点は72年に1度程度移動する。
当然この方式では[[距星]]となる星座と占星座標とは[[歳差]]運動により年々ずれていく。
ニル・アヤナとサ・アヤナは、インドに西洋占星術がもたらされた紀元後300年ごろは一致していたがその後差が拡大していき、21世紀初頭現在ではニル・アヤナのほうがサ・アヤナより24度ほど東にずれている。
===パンチャーンガ===
インド占星術で特に重視されている要素としてパンチャーンガ (pancaaGga)がある。
これは五つ(パンチャ)の要素(アンガ)と言う意味。
*[[ナクシャトラ]] (nakSatra 『二十七宿』)
*[[ティティ]] (tithi 『朔望日』)
*ヴァーラ (vaara 『[[曜日]]』)
*[[ヨーガ]] (yoga 『和』 月と太陽の黄経を足した数値を13度1/3で割ったもの)
*カラナ (karaNa ティティを前半と後半に二等分した時間単位)
インドでは[[具注暦]]には必ずこの五要素が記されており、これの事もパンチャーンガと呼ぶ。
このうち、個人の運命を見るときに主に使われるのはナクシャトラである。詳しくはそれぞれのリンクを参照されたい。
===使用する占星惑星===
インド占星術では、古典西洋占星術と同じく実在惑星として7惑星(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星(漢訳[[七曜]]))をさらに月の軌道要素から導きだされる点を架空天体として[[ラーフ]]、[[ケートゥ]]も用いる。これらの9つの占星惑星をナヴァ・グラハ(nava graha、漢訳(九執、[[九曜]]))と総称する。
木星、金星、月、水星が生来的に吉星とし、ラーフ、ケートゥ、土星、火星、太陽が生来的に凶星とされる。水星は中立に扱う場合もある。
また機能的に吉星や凶星をわける評価法もあって、支配する室や在住する室等の惑星の状態、他の惑星のアスペクトの影響などにより、機能的に吉星になったり凶星になったりする。
ラーフは[[月の交点]]([[黄道]]と[[白道]]の交わる点)のうち昇交点であり、降交点はケートゥである。[[日食]]と[[月食]]の[[食 (天文)|食]]と関係が深い為重視された。後に西洋占星術に輸出され、ラーフ(羅睺)にはドラゴン・ヘッドもしくはノース・ノードという名が、ケートゥ(計都)にはドラゴン・テールもしくはサウス・ノードという名がつけられた<ref>ジム・テスター 『西洋占星術の歴史』 [[山本啓二]] 訳、[[恒星社厚生閣]]、161-163頁。</ref>。
伝統を重んじる立場から、もしくは影響力が小さいと判断されているのか、西洋占星術と違い近世に発見された[[天王星]]、[[海王星]]、[[冥王星]]のいわゆるトランス・サタニアン(土星以遠惑星、trans-Saturnian)は、一般には用いない。同様に[[小惑星]]も無視する。
しかし、古典西洋占星術と同様に占断の際に特に障害になっていない模様である。
(英語版同項目より){{出典無効|date=2022年8月}}
{| class="wikitable" cellpadding=2 cellspacing=2
|- bgcolor=#cccccc
! Sanskrit Name(サンスクリット語名) !! English Name !! Abbreviation(略号)!! Gender(性別) !! [[Guna]](性質)
|-
| [[Surya]] (सूर्य) || [[太陽|Sun]] || Sy or Su || M(男) || [[Sattva]](浄質)
|-
| [[Chandra]] (चंद्र) || [[月|Moon]] || Ch or Mo || F(女) || [[Sattva]]
|-
| [[Mangala]] (मंगल) || [[Mars]] || Ma || M || [[Tamas]](濁質)
|-
| [[Budha]] (बुध) || [[Mercury (planet)|Mercury]] || Bu or Me || N || [[Rajas]](激質)
|-
| [[Brihaspati]] (बृहस्पति) || [[木星|Jupiter]] || Gu or Ju || M || [[Sattva]]
|-
| [[Shukra]] (शुक्र) || [[Venus]] || Sk or Ve || F || [[Rajas]]
|-
| [[Shani]] (शनि) || [[Saturn]] || Sa || M || [[Tamas]]
|-
| [[Rahu]] (राहु) || [[Lunar node|North Lunar Node]] || Ra || M || [[Tamas]]
|-
| [[Ketu (mythology)|Ketu]] (केतु) || [[Lunar node|South Lunar Node]]|| Ke || M || [[Tamas]]
|}
Planets in maximum exaltation, mooltrikona (own sign), and debilitation, are(惑星の高揚、ムーラトリコーナ、減衰は下記のとおりである):<ref name="名前なし-1">Sutton, Komilla (1999). ''The Essentials of Vedic Astrology'', The Wessex Astrologer Ltd, England, p.21.</ref>
{| class="wikitable" cellpadding=2 cellspacing=2
|- bgcolor=#cccccc
! Graha(惑星)!! Exaltation(高揚宮) !! Mooltrikona(ムーラトリコーナ) !! Debilitation(減衰宮) !! Sign Rulership(支配宮)
|-
| [[Sun]] || 10° Aries || 4°-20° Leo || 10° Libra || Leo
|-
| Moon || 3° Taurus || 4°-20° Taurus || 3° Scorpio || Cancer
|-
| [[Mars]] || 28° Capricorn || 0°-12° Aries || 28° Cancer || Aries, Scorpio
|-
| [[Mercury (planet)|Mercury]] || 15° Virgo || 16°-20° Virgo || 15° Pisces || Gemini, Virgo
|-
| Jupiter || 5° Cancer || 0°-10° Sagittarius || 5° Capricorn || Sagittarius, Pisces
|-
| [[Venus]] || 27° Pisces || 0°-15° Libra || 27° Virgo || Taurus, Libra
|-
| [[Saturn]] || 20° Libra || 0°-20° Aquarius || 20° Aries || Capricorn, Aquarius
|}
Rahu and Ketu are exalted in Taurus/Scorpio and debilitated in Scorpio/Taurus respectively. They are also exalted in Gemini and Virgo.
The natural planetary relationships are:<ref name="名前なし-1"/>
{| class="wikitable" cellpadding=2 cellspacing=2
|- bgcolor=#cccccc
! Graha(惑星) !! Friends(友愛宮) !! Neutral(中立宮) !! Enemies(敵対宮)
|-
| [[Sun]] || Moon, Mars, Jupiter || Mercury || Venus, Saturn
|-
| Moon || Sun, Mercury || Mars, Jupiter, Venus, Saturn || No enemies
|-
| [[Mars]] || Sun, Moon, Jupiter || Venus, Saturn || Mercury
|-
| [[Mercury (planet)|Mercury]] || Sun, Venus || Mars, Jupiter, Saturn || Moon
|-
| Jupiter || Sun, Moon, Mars || Saturn || Mercury, Venus
|-
| [[Venus]] || Mercury, Saturn || Mars, Jupiter || Sun, Moon
|-
| [[Saturn]] || Venus, Mercury || Jupiter || Sun, Moon, Mars
|-
| [[Rahu]], [[Ketu (mythology)|Ketu]] || Mercury, Venus, Sun || Mars || Sun, Moon, Jupiter
|}
===[[ナクシャトラ]]===
月の[[白道]]上の位置を基にした[[二十七宿]]のこと。内容は二十七宿のところに少し記載してある。
{| class="wikitable" align="center" cellspacing="2" cellpadding=""
|- bgcolor=#cccccc
!#!! Name !! Location !! Ruler(支配星) !! Pada 1 !! Pada 2 !! Pada 3 !! Pada 4
|-
| 1|| [[Ashvinī]] (अश्विनि) || 0 - 13°20' Aries || Ketu || चु Chu || चे Che || चो Cho || ला La
|-
| 2|| (भरणी) || 13°20' - 26°40' Aries || Venus || ली Li || लू Lu || ले Le || पो Lo
|-
| 3 ||[[Krittikā]] (कृत्तिका) || 26°40' Aries - 10°00' Taurus|| Sun || अ A || ई I || उ U || ए E
|-
| 4 ||[[Rohini (nakshatra)|Rohini]] (रोहिणी)|| 10°00' - 23°20' Taurus || Moon || ओ O || वा Va/Ba || वी Vi/Bi || वु Vu/Bu
|-
| 5 || [[Mrigashīrsha]] (म्रृगशीर्षा)|| 23°20' Taurus - 6°40' Gemini || Mars || वे Ve/Be || वो Vo/Bo || का Ka || की Ke
|-
| 6 || [[Ardra (nakshatra)|Ārdrā]] (आर्द्रा) || 6°40' - 20°00' Gemini || Rahu || कु Ku || घ Gha || ङ Ng/Na || छ Chha
|-
| 7 || [[Punarvasu]] (पुनर्वसु)|| 20°00' Gemini - 3°20' Cancer || Jupiter || के Ke || को Ko || हा Ha || ही Hi
|-
| 8 || [[Pushya]] (पुष्य) || 3°20' - 16°20' Cancer || Saturn || हु Hu || हे He || हो Ho || ड Da
|-
| 9 || [[Āshleshā]] (आश्लेषा) || 16°40' Cancer - 0°00' Leo || Mercury || डी Di || डू Du || डे De || डो Do
|-
| 10 || [[Maghā]] (मघा)|| 0°00' - 13°20' Leo || Ketu || मा Ma || मी Mi || मू Mu || मे Me
|-
| 11 || [[Pūrva]] or [[Pūrva Phalgunī]] (पूर्व फाल्गुनी) || 13°20' - 26°40' Leo || Venus || नो Mo || टा Ta || टी Ti || टू Tu
|-
| 12 || [[Uttara]] or [[Uttara Phalgunī]] (उत्तर फाल्गुनी) || 26°40' Leo - 10°00' Virgo || Sun || टे Te || टो To || पा Pa || पी Pi
|-
| 13 || [[Hasta]] (हस्त) || 10°00' - 23°20' Virgo || Moon || पू Pu || ष Sha || ण Na || ठ Tha
|-
| 14 || [[Chitrā]] (चित्रा) || 23°20' Virgo - 6°40' Libra || Mars || पे Pe || पो Po || रा Ra || री Ri
|-
| 15 || [[Svātī]] (स्वाति) || 6°40' - 20°00 Libra || Rahu || रू Ru || रे Re || रो Ro || ता Ta
|-
| 16 || [[Vishākhā]] (विशाखा) || 20°00' Libra - 3°20' Scorpio|| Jupiter || ती Ti || तू Tu || ते Te || तो To
|-
| 17 || [[Anurādhā]] (अनुराधा) || 3°20' - 16°40' Scorpio || Saturn || ना Na || नी Ni || नू Nu || ने Ne
|-
| 18 || [[Jyeshtha]] (ज्येष्ठा) || 16°40' Scorpio - 0°00' Sagittarius || Mercury || नो No || या Ya || यी Yi || यू Yu
|-
| 19 || [[Mūla]] (मूल) || 0°00' - 13°20' Sagittarius || Ketu || ये Ye || यो Yo || भा Bha || भी Bhi
|-
| 20 || [[Pūrva Ashādhā]] (पूर्वाषाढ़ा) || 13°20' - 26°40' Sagittarius || Venus || भू Bhu || धा Dha || फा Bha/Pha || ढा Dha
|-
| 21 || [[Uttara Ashādhā]] (उत्तराषाढ़ा) || 26°40' Sagittarius - 10°00' Capricorn || Sun || भे Bhe || भो Bho || जा Ja || जी Ji
|-
| 22 || [[Shravana]] (श्रवण) || 10°00' - 23°20' Capricorn || Moon || खी Ju/Khi || खू Je/Khu || खे Jo/Khe || खो Gha/Kho
|-
| 23 || [[Shravishthā]] (श्रविष्ठा) or [[Dhanistā]] || 23°20' Capricorn - 6°40' Aquarius|| Mars || गा Ga || गी Gi || गु Gu || गे Ge
|-
| 24 || [[Shatabhishā]] (शतभिषा)or [[Shatataraka]] || 6°40' - 20°00' Aquarius || Rahu || गो Go || सा Sa || सी Si || सू Su
|-
| 25 || [[Pūrva Bhādrapadā]] (पूर्वभाद्रपदा) || 20°00' Aquarius - 3°20' Pisces || Jupiter || से Se || सो So || दा Da || दी Di
|-
| 26 || [[Uttara Bhādrapadā]] (उत्तरभाद्रपदा) || 3°20' - 16°40' Pisces || Saturn || दू Du || थ Tha || झ Jha || ञ Da/Tra
|-
| 27 || [[Revati (nakshatra)|Revatī]] (रेवती) || 16°40' - 30°00' Pisces || Mercury || दे De || दो Do || च Cha || ची Chi
|}
===分割図(ハーモニクス)の重視===
インド占星術独自の技法であり、分割図ごとに占うテーマが決まっている。
分割図とは占星惑星の[[黄径]]や[[離角]]などの数値に一定の数式を当てはめて、新たなチャートを引き出す技法である。ナヴァグラハと呼ばれる9分割図が有名である。
これを取り入れた西洋占星術では、[[ハーモニクス]](調波)と呼ばれている。
(英語版同項目より)詳細は[[:en:Varga_%28astrology%29|英語版]]を参照。
'''Varga''' (分割図)([[Sanskrit]]: ''{{IAST|varga}}'', 'part, division'.) There are sixteen varga, or divisional, charts used in Jyotisha(インド占星術を行うものに使われる分割図は16ある):<ref>Sutton, Komilla (1999). ''The Essentials of Vedic Astrology'', The Wessex Astrologer Ltd, England, pp.61-64.</ref>
{| class="wikitable"
! Varga(サンスクリット名) !! Divisor(分割数) !! Chart(略号) !! Area of Influence(目的)
|-
| Rasi || 1|| D-1|| Body, Physical Matters and all General Matters(体、物質的・一般的事項)
|-
| Hora || 2|| D-2|| Wealth, Family(富、家族)
|-
| Dreshkana|| 3|| D-3|| Siblings, Nature(年下の兄弟、自然)
|-
| Chaturthamsa || 4|| D-4|| Fortune and Property(幸運と反映)
|-
| Saptamsa|| 7|| D-7|| Children/Progeny(子供と子孫)
|-
| Navamsa|| 9|| D-9|| Wife, Dharma and Relationships(妻、使命と人間関係)
|-
| Dasamsa|| 10|| D-10|| Actions in Society, Profession(社会的活動、職業)
|-
| Dvadasamsa|| 12|| D-12|| Parents(両親)
|-
| Shodasamsa|| 16|| D-16|| Vehicles, Travelling and Comforts(乗り物、旅行と娯楽)
|-
| Vimsamsa|| 20|| D-20|| Spiritual Pursuits(精神的探求)
|-
| ChaturVimsamsa|| 24|| D-24|| Education, Learning and Knowledge(教育、学習と知識)
|-
| SaptaVimsamsa|| 27|| D-27|| Strengths and Weakness(強みと弱み)
|-
| Trimsamsa|| 30|| D-30|| Evils, Failure, Bad Luck(悪、失敗、不運)
|-
| KhaVedamsa|| 40|| D-40|| Maternal Legacy(母方の遺産)
|-
| AkshaVedamsa|| 45|| D-45|| Paternal Legacy(父方の遺産)
|-
| Shastamsa|| 60|| D-60|| Past birth or Karma(過去生、業)
|}
Four other vargas are attributed to Jaimini:(ジャイミニ式分割図)
{| class="wikitable"
! Varga!! Divisor!! Chart!! Area of Influence
|-
|Panchamsa|| 5|| D-5|| Fame & Power
|-
|Shasthamsa|| 6|| D-6|| Health
|-
| Ashtamsa|| 8|| D-8|| Unexpected Troubles
|-
| EkaDasamsa/Rudramsa|| 11|| D-11|| Death and Destruction
|}
Besides Rāshi (D-1), Navamsha (D-9), Dreshkana (D-3), Dasamsa (D-10) and Trimsamsa (D-30) are considered significant divisional charts.
===ハウス・システム===
ハウス・システムは、アセンダント・ホール・サイン・ハウス(東の地平線と交わっている宮を全て第一室と見なし、順次、宮を室に当てはめていく方式)やイコールハウス(室を東の地平線と黄道の交点から30度ずつ機械的に区切っていく方式)など、簡便なものが主流。古くは西洋古典占星術でもこのような方式が主流だったが、インドでは伝統を重んじる立場から主流である。
(英語版同項目より)
{|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2"
|-
!House(室)
!Name(名前)
!Karakas(支配惑星)
!Meanings(意味)
|-
|-
|1
|Lagna(ラグナ)
|Sun
|destiny(宿命), physique(肉体), skeleton(骨格), hair, appearance(外見), head, brains(脳)
|-
|2
|Dhana
|Jupiter, Mercury, Venus, Sun, Moon
|wealth(富), family relationships(家族関係), speech(スピーチ), eyesight(視野), death(死)
|-
|3
|Sahaja(弟妹)
|Mars
|mind(精神), communication, environment(幼年環境), siblings(年下兄弟), short journeys(短期旅行)
|-
|4
|Sukha(住居)
|Moon
|inner life(私的生活), emotions(情動), home(家), past life(過去生) [[karma]], mother(母親)
|-
|5
|Putra(子供)
|Jupiter, Mercury
|creativity, children, spiritual practices
|-
|6
|Ari(敵)
|Mars, Saturn
|illness(病気), injury, enemies(敵), litigation, daily work(日常労働), foreigners(外国人), service(サービス)
|-
|7
|Yuvati(妻)
|Venus, Jupiter
|business and personal relationships(仕事と個人人間関係), marriage(結婚), spouse
|-
|8
|Randhara(遷移)
|Saturn
|length of life(寿命), physical death(肉体的死), serious illness(持病), spiritual quest(霊的探索)
|-
|9
|Dharma(精神探求)
|Jupiter, Sun
|luck(幸運), fortune, spirituality(精神性), [[dharma]](使命), [[guru]](精神的導師), father(父), soul(魂)
|-
|10
|Karma(行為とその結果)
|Mercury, Jupiter, Sun, Saturn
|dream fulfillment(夢の達成), current karmas(直接的カルマ), career(キャリヤ), past lives
|-
|11
|Labha(獲得)
|Jupiter
|gains(利得), profits from work(仕事からの利益), ability to earn money(お金を稼ぐ能力)
|-
|12
|Vyaya(出費)
|Saturn, Ketu, Rahu
|loss(損失), intuition(直観), sorrow(悲しみ), imprisonment(投獄), foreign travel(外国旅行), [[moksha]](無執着)
|-
|}
The zodiac signs in Jyotisha correspond to parts of the body:<ref>Charak, Dr. K.S. (1996). ''Essentials of Medical Astrology'', Uma Publications, pp.5-6.</ref>
{|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2"
|-
!Sign(サンスクリット名(英名))
!Part of Body(宮に該当する体の部分)
|-
|Mesha (Aries)牡羊座
|head
|-
|Vrisha (Taurus)牡牛座
|mouth
|-
|Mithuna (Gemini)双子座
|arms
|-
|Karka (Cancer)蟹座
|two sides
|-
|Simha (Leo)獅子座
|heart
|-
|Kanya (Virgo)乙女座
|digestive system(消化器系)
|-
|Tula (Libra)天秤座
|umbilical area
|-
|Vrikchika (Scorpio)蠍座
|generative organs
|-
|Dhanu (Sagittarius)人馬宮
|thighs
|-
|Makara (Capricorn)山羊座
|knees
|-
|Meena (Pisces)魚座
|feet
|}
===ホロスコープ表記===
ホロスコープのチャートは、17世紀までのヨーロッパの西洋占星術と同じく方形に描かれる。
また、第1室を左側に描く方式の他に上に描く方式などもある。(インドの各地方により東・西・南・北で4方式ある模様)
個々のハウスは、正方形で描く[[南インド]]式(中国の一部の占星術と同様)と、三角形と菱形とで描く[[北インド]]式の二種類が主流。
(英語版同項目より)
There are two chart styles used in Jyotisha:代表的なもの2つ
{| align="center"
| valign="top"| [[Image:Birth Chart (northern format).png|frame|North Indian(北インド方式)]]
| valign="top" | [[Image:Birth Chart (southern).png|frame|South Indian(南インド方式)]]
|}
===象意の相違===
また、占星惑星の解釈にもかなりの相違点がある。
例えば、月が心の状態を示す点は共通だが、インドでは「心の安定」、西洋では「心の不安定」を主に表す。(在住場所・星座やアスペクトする惑星により安定か不安定かは異なる。)
また土星が「制限」「支配」などの意味を持つのは共通だが、インドでは自分が支配・制限するもの(部下、奴隷など)を示すのに対し、西洋では自分を支配・制限するもの(かなり年上の上司、妻にとっての夫など)を示す。(これも月の場合と同じく状態による)
また、ラーフとケートゥは、西洋占星術では、少なくともラーフ(ドラゴン・ヘッド)に関しては悪い意味を持たないが、インド占星術ではともに凶星とされる。(ラーフは自己執着と躁状態・一時的な繁栄とその反動、ケートゥは自己否定と鬱状態・一時的な没落とその反動)
===開運法===
基本的に[[ヒンドゥー教]]の[[因果業法論]]、[[宿命論]]に基づいており、開運法の実行によりある一定の効果があると信じられている。
[[:en:Bṛhat Parāśara Horāśāstra|ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ]]によれば、惑星には各々真言([[マントラ]])が決められており、巡ってきたダシャーの惑星の真言を決められた数、詠唱することのみ記載されている。
インドでは民間信仰として、チャート上で悪い影響を及ぼすと判断された惑星を支配する神々を祀ったお寺に参拝し、加持祈祷を行ってもらったり、善業を積む意味での[[寄付]]または[[喜捨]]を行う風習がある。
なお商業主義により現在開運法として行われている、惑星を表す宝石等を身に着けることは『ブリハット・パラーシャラ・ホーラー・シャーストラ』には記載されていない。
ウパーヤ(運命改善方法)としてではないが、ジョーティッシュと関連する古典医学書スシュルタサンヒター、チャラカサンヒターにおいて、鉱物と金属は病気を予防し健康維持に役立つアウシャダ(薬)であると規定される。そのため、本来はアーユルヴェーダとジョーティッシュ両方の知識を補完した上で、ホロスコープから個人に必要な鉱石や金属を調べた。古代より過去のカルマとして心身に現れる否定的な影響を退けると同時に、良い影響を微細身に吸収する方法として宝石療法は伝承されている。
ウパーヤ(加持祈祷、寄付、瞑想、真言を唱える、断食、沈黙行など)の本質は、神に自分を明け渡すことである。ジョーティッシュはじめ古代ヴェーダ聖典の教えを現代に引き継ぐ聖者アマチ([[マーター・アムリターナンダマイー]])らは、悲惨な運命を回避・軽減するには自らの意志で行う修行によって霊的に成長するのが望ましいとしている。
== 関連項目 ==
*[[ヴァーストゥ・シャーストラ]] - インド風水
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
==Bibliography==
{{see|en:Jyotiṣa bibliography}}
;Encyclopedic treatments:
*Kim Plofker, "South Asian mathematics; The role of astronomy and astrology", (online edition, 2008)
*[[David Pingree]] and Robert Gilbert, "Astrology; Astrology In India; Astrology in modern times", [[Encyclopedia Britannica]] (online edition, 2008)
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*Satish Chandra, "Religion and State in India and Search for Rationality", ''Social Scientist'' (2002).
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*Richard Houck, ''Digital Astrology'', Groundswell Press (1998) ISBN 0964161273. [An excellent overview of the complicated and fascinating topic of ''ashtakavarga'', the relative strength of each of the houses of the chart.]
*Richard Houck, ''Hindu Astrology Lessons'', 1997, Groundswell Press, Gaithersburg, MD, USA.
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*[[Sanjay Rath]], ''Introduction to Vedic Astrology''.
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*C.L. Diwan, ''Discovery of Astrology,1994, Amar Jyoti Press, Jhansi, UP, India.
*"Hindu Electional Astrology", [A compendium on Vedic system of electional astrology by V K Shridhar] [http://www.besttime-election.com]ISBN 81-901413-0-9 .
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7,334 | タレント政治家 | タレント政治家(タレントせいじか)とは、タレントであったことによる大衆的な人気や知名度を活用して政治家になった人物のことである。
国会議員などの場合には、タレント議員とも言う。
タレント政治家については、明確な定義があるわけではない。
タレント業を生業としている者(芸能人)だけについてそう呼ぶ場合もあれば、単にメディアを通じて高い知名度があるという理由でタレント政治家と呼ばれる場合もある。メディアを通じて高い知名度があった場合には学者・作家・芸術家といった文化人や、スポーツ選手、ジャーナリスト、特に放送局の社員であって厳密にはタレントには含まれないはずのアナウンサーや記者出身の政治家などについてもそのように表現されることもある。日本においてはテレビの普及以降、高橋圭三・宮田輝・田英夫・秦豊・畑恵・黒岩祐治・丸川珠代・杉尾秀哉・小池百合子などアナウンサー・ニュースキャスター出身の政治家は増えている。彼らはメディアを通じて自身の諸活動が大衆に認知されている、というよりメディア自体が職場であった者であるが、いずれもメディアにおいて仕事をしてきた結果メディアを通じて高い知名度を得ている。またメディア側の変質もあり(高橋圭三や秦豊は放送局退社後もフリーアナウンサー・司会として長くメディアにおいて活動していた人物であり、芸能人や文化人的な一面も備えた存在であった)、選挙時にはアナウンサー出身者もタレント候補として扱われるようになっていった。 さらには本人はタレント活動を行っていなくても、親族に著名人がいる場合にはタレント政治家に準じた扱いをされることもある(例:大泉洋の兄・大泉潤(函館市長))。
個人として高い知名度を持つタレントは、選挙のための広報活動を行わなくとも有権者に認知されるため、選挙活動においては有利に働くこともある。たとえば作家・タレントとして高い知名度を持っていた青島幸男は、選挙公報作成と政見放送録画を除いて当人や秘書や支援者は一切の選挙運動を行わなかったが、それでも毎回当選していた。
政党がタレントの擁立に走る背景としては、短期間の選挙運動で大量の得票ができるタレント候補は、選挙戦術上有効であるということや、選挙演説などで党の広告塔的役割を担ってもらうことができるということなどがある。一方で政治に関する経験や知識の少ないタレントが立候補するとの批判、および政党・政治団体タレントを立候補させることを有権者から集票するための安易な客寄せに過ぎないとの批判がしばしば行われるが、職業差別に過ぎないとの反論もある。最終的には有権者の判断次第、というのが大方の見方である。
前述のようにタレント政治家と呼ばれる政治家(あるいは候補者)には文化人やアナウンサー、あるいはタレント業を職業とするものであっても政治に関し専門的に学んだ者も含まれている。
タレント政治家の中には自らをタレント政治家と扱われたり、知名度のみで当選したとされたりすることに不満を持つ場合も少なくない。そのため選挙の際にはマニフェストなど政策の具体性を強調したり、親族あるいは友人や師弟関係にある者その他の交友の深いタレント(あるいは著名人)が応援演説を申し出てきてもあえて断ったりして、自らがその他のタレント政治家とは一線を画するとする戦術を採ることも多い。
作家やタレント等、他分野での高い知名度を持つ議員は帝国議会創設間もない時期からおり、小説「佳人之奇遇」で知られる東海散士は1892年の第2回総選挙から8回連続当選している。1908年の第10回衆議院議員総選挙に、日露戦争で対露強硬論を唱え「バイカル博士」として大衆的人気を集めた東京帝国大学教授の戸水寛人が出馬、当選している。ただし、当時の帝大教授のステータスを考えれば現在の学者出身タレント議員とは同列に出来ない面もある(当時の貴族院には帝大や帝国学士院会員の任命枠があった。また戸水は法学博士であり他の学問と比較すると政治と距離が近い)。政治講談で知られる伊藤痴遊は政治活動を開始した後に講談師となったが、東京市会や第16回衆議院議員総選挙、第18回衆議院議員総選挙で当選している。
1898年の第5回総選挙と第6回総選挙に芸術家の川上音二郎、1915年の第12回衆議院議員総選挙に歌人の与謝野鉄幹、1928年の第16回衆議院議員総選挙に作家の菊池寛らが立候補しているが、いずれも落選している。また貴族院議員の中には、画家の黒田清輝、「虎狩りの殿様」で著名となった徳川義親など、高い知名度を持ち、現在ならタレント議員と目されたような人物が幾人か存在した。前記の戸水寛人と並んで帝大七博士として有名になった小野塚喜平次も、帝国学士院枠で貴族院議員になっている。ただし徳川義親と黒田清輝は継承した爵位による就任であり、個人の声名のみで議員となったわけではない(徳川は侯爵議員なので本人の能力にかかわらず議員の地位は約束されていた。黒田は子爵議員)。終戦後も貴族院では、ジャーナリストの長谷川如是閑、作家の山本有三や武者小路実篤といった有名人が勅選議員に任じられている。
1946年、戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松が、一般的にはタレント議員第一号と言われている。ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人代議士」と形容された。この年の選挙には作家の石川達三と元横綱の男女ノ川登三(立候補時は本名の坂田供次郎)が立候補しているが、いずれも落選している。男女ノ川の伝記を書いた川端要壽は、「今の選挙なら、男女ノ川や石川ほどの知名度があればまず当選していただろう。時代が悪かったともいえるし、国民が真面目だったともいえる」と書いている。
「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。政治家藤山愛一郎の親族であったとはいえ、選挙前までは全く政治活動に関わっておらず、政治的な発言も無かった藤原がそれまでに例のない大量得票をしたことは社会に大きな印象を与えた。また藤原は当選時前夫藤原義江とは既に離婚しており、「藤原あき」は芸名(通名)であった。従って参議院では当時の規則により本名の「中上川(なかみがわ)あき君」と呼ばれた。タレント候補は選挙時には芸名を使用できるが、ひとたび議員となれば参議院内では本名で活動しなければならないという規則が存在していることが広く知られるようになり、タレント議員の特徴の一つとして認識された。
こうしたことから藤原は「タレント議員のはしり」と言われるようになり、またこれ以後タレント議員というマスコミ用語が定着、現在のような意味合いで使用される表現となった。
日本国憲法下で参議院が誕生し、1980年まで参議院選挙には全国区制があったため、知名度のあるタレントが議員になりやすい傾向があり、1960年代から1970年代にかけてタレント議員が急増すると、「芸能院」と揶揄されることもあった。
1968年参議院選挙では、自民党から作家の石原慎太郎が300万票を超える大量得票でトップ当選したほか、社会党からNHK記者の上田哲、無所属で放送作家・テレビタレントの青島幸男、漫才師の横山ノック(山田勇)が初当選。
1971年参議院選挙でも、社会党からニュースキャスターの田英夫、女優の望月優子(鈴木美枝子)、自民党から歌手の安西愛子(志村愛子)、講談師の一龍齋貞鳳(今泉正二)、無所属で落語家の立川談志(松岡克由)、放送作家・テレビタレントの野末陳平(繰り上げ当選)らが当選する。
1974年参議院選挙では、自民党からNHKアナウンサーの宮田輝、女優・テレビタレントの山東昭子、経済評論家の斎藤栄三郎、女優の山口淑子(大鷹淑子)、社会党からニュースキャスターの秦豊、無所属では漫才師のコロムビア・トップ(下村泰)らが初当選を果たした。これらの中には、山東が日立グループ、宮田がトヨタグループからの全面的な支援をうけていたように、組織型選挙のいわば広告塔的な役割を果たしていたものも多い。
1977年参議院選挙でも、自民党から女優の扇千景(林寛子)、無所属でテレビ司会者の八代英太(前島英三郎)、元NHKアナウンサーの高橋圭三らが当選している。
1983年に参議院選挙の全国区制が廃止・比例代表制厳正拘束名簿式が導入された。この制度では個人名での投票が認められないため、タレント候補の擁立は下火となる。ただし、1989年参院選でプロレスラーのアントニオ猪木(猪木寛至、スポーツ平和党)、1992年参院選で元プロ野球選手の江本孟紀(同)が比例区で当選した例がある。
2001年から個人名でも投票できる比例代表制非拘束名簿式に改定されたため、知名度による集票力を見込んで政党がタレント候補を擁立するケースが再度注目されるようになった。
非拘束名簿式になって初めての選挙となった2001年参議院選挙では、多くの政党がタレント候補の擁立に走り、舛添要一、大仁田厚(以上自民党)、田嶋陽子(社民党)、大橋巨泉(民主党)らが比例区で当選を果たした。 また、自由連合が政治経験が全くないタレント候補を大量に擁立したが、当選者を出すことができなかった。当選を果たした大橋・田嶋が短期間で辞職したこともあり、安易なタレント擁立に対する批判が強まった(ただし、田嶋の議員辞職は神奈川県知事選挙立候補という理由がある)。この選挙時の自由連合の代表であり、タレント擁立の当事者であった徳田虎雄は、「二世議員より苦労して一流になったタレントのほうがまし」という反論をしている(ただし、徳田が引退した際には子息の徳田毅が後継者になっている)。またスポーツ紙ではスポーツ選手を含めたタレント候補は選挙活動中の動向について、他の候補よりも記事として掲載されやすい傾向がある。選手以外では1964年東京五輪で女子バレーが金メダルを獲得したときの監督である大松博文、「日本レスリングの父」八田一朗も議員経験がある。
その後も自由連合のような極端な事例こそないものの、参院選の比例区を中心としたタレントの擁立は続いた。
浮動票の多い都市部ではタレント候補に票が集まりやすいとされ、タレント政治家を輩出しやすいと言われている。特に大阪府ではお笑いタレントの当選が注目されることが多いため、「お笑い票」「お笑い百万票」が存在するとマスコミで表現、揶揄されることがある。ただし2004年の大阪府知事選挙では江本孟紀と2019年の埼玉県知事選挙では青島健太が立候補するも落選しており、必ずしも知名度だけが当選に影響を与える理由にはならないとされる。またタレント政治家は他の都市部でも輩出し他の地域では「タレント票」として注目されることもあるが、これらの票も有権者の投票行動を客観的に調査したものではなく、組織票のような明確な根拠はない。
都市部の国政選挙では1983年に横山ノックが全国区から大阪府選挙区に転進して当選、1986年に西川きよし(西川潔)が参院選で初当選し3期つとめ、参議院東京都選挙区でも1986年に小野清子、1992年に森田健作(鈴木栄治)、1998年に中村敦夫、2004年に蓮舫、2007年に丸川珠代、2013年に山本太郎、2016年に朝日健太郎、2019年に塩村文夏、2022年には生稲晃子が初当選するなど、タレント候補の当選が注目された。2022年の東京都選挙区では当選者6人中4人をタレント候補が占めた(朝日、蓮舫、生稲、山本)。これ以外でも神奈川県選挙区では1995年に松あきら(西川玲子)、愛知県選挙区では1992年に新間正次(のち当選無効)、1995年に末広真季子などがそれぞれ当選している。
地方の国政選挙でも、参議院では2001年に柏村武昭(広島県選挙区)、2004年に鈴木陽悦(秋田県選挙区)、林久美子(滋賀県選挙区)、2007年に松浦大悟(秋田県選挙区)、友近聡朗(愛媛県選挙区)、2010年に徳永エリ(北海道選挙区)、石井浩郎(秋田県選挙区)、2013年に和田政宗(宮城県選挙区)、清水貴之(兵庫県選挙区)、2016年に杉尾秀哉(長野県選挙区)、平山佐知子(静岡県選挙区)、古賀之士(福岡県選挙区)、2019年に芳賀道也(山形県選挙区)、石垣のりこ(宮城県選挙区)、2021年に宮口治子(広島県選挙区再選挙)、2022年に三上絵里(広島県選挙区)がそれぞれ当選したほか、同年には愛媛県選挙区で元南海放送アナウンサーの永江孝子とローカルタレントのらくさぶろうのタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(永江が当選)と2022年には長野県選挙区でものまねタレントの松山三四六と元TBSキャスターの杉尾秀哉のタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(杉尾が当選)。また、衆議院でも、参議院議員から転身したプロレスラーの馳浩(石川1区)、2012年の第46回衆議院議員総選挙で五輪メダリスト初の衆議院議員となった堀井学(北海道9区)、2021年第49回衆議院議員総選挙でF1ドライバーの山本左近(比例東海ブロック)、2019年参議院選挙落選の山本太郎(比例東京ブロック、2022年参議院議員に再転出)などわずかながら当選例がある。なお、地方選出の国政選挙の場合は定数が1議席のみということが多く、浮動票だけでなく地元経済界や労働組合などのバックアップを受けた組織型選挙を展開することも多い。
地方自治体選挙においてもタレント政治家が当選を果たすことも少なくない。地方自治体におけるタレント政治家の例としては、
日本ではタレント出身の政治家が首相になった例は現時点まではないものの、国政において三権の長である国会議長や閣僚に登りつめた例は少なからず存在する(括弧内の氏名は公職就任時における本名)。
日本では国会議員は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められている(ただし、参議院議員の芸名・通名使用が認められたのは1997年の事である)が、国務大臣等行政府の役職に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。
このため、閣僚として入閣したタレント議員は、行政府の公文書に対しては本名で署名する事となっている。例えば、元参議院議員扇千景は国土交通大臣(国務大臣)としての公文書には本名の「林寛子」で署名をしていたが、このような規定のない参議院議長としての公文書には芸名(通名)の「扇千景」で署名をしていた。
東国原英夫前宮崎県知事の場合は、選挙の際には芸名(そのまんま東)としたものの、公的には使いづらいと判断し、知事就任後は本名を用いている(政界引退後も本名で活動)。一方、知事就任後も公文書を除いて芸名を使用している(いた)例としては、横山ノック元大阪府知事(本名・山田勇)と森田健作千葉県知事(本名・鈴木栄治)の例があるが、『全国市町村要覧』では、前者は本名を掲載していたのに対し、後者は芸名を掲載している。
日本の場合、有名人が選挙への立候補を表明した時点で、公職選挙法や放送法の規定から派生したメディア側の自主規制により、選挙終了まで各メディアでのタレント活動ができなくなるのが一般的である。ニュースや選挙関連の番組を除いて、テレビ、ラジオへの出演はできなくなり、雑誌や新聞での連載等も中断される。この規制により、テレビショッピング番組に起用していた女優の生稲晃子が2022年の参院選(東京都選挙区)に出馬した影響で同候補出演の映像が使用できなくなったとして、番組制作会社から損害賠償請求の裁判を起こされた事例もある。ただし、2001年の参院選に立候補した大橋巨泉や2022年の参院選に立候補した水道橋博士は選挙期間中も雑誌の連載を継続していた。
横山ノックが司会を務めた「ノックは無用!」(関西テレビ)では、選挙期間中は本人が番組を降板するのみならず、番組のタイトルも「ロックは無用!」に改題されていた。義家弘介が担当していた「ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない」(ニッポン放送)は公示期間中放送休止になっていた。
当選した場合、タレント活動を継続するかどうかはその者の判断による。議員の兼職自体が禁じられているわけではなく、他の職業の者であってもそれまでの仕事を継続する者も少なくないが、タレント政治家の場合はその仕事が世間に露出するものであることから、しばしば論議の的となる。
山東昭子が1987年に参議院環境特別委員長を務めていた時、テレビ東京のゴルフ番組「ゴルフだよ人生は」の収録で公害健康被害補償法の審議を欠席したため、政治職務よりタレント活動を優先したと非難され、委員長辞任に追い込まれた例がある。
橋本聖子は1996年に現職参議院議員としてアトランタオリンピックの自転車競技に出場している。2010年の参院選で当選した柔道選手の谷亮子は、立候補表明時に議員活動と現役選手を両立させ、次回オリンピック出場を目指すと明言し、賛否両論が巻き起こった(当選後に政治職務に専念し、次回のオリンピックに出場しないことを表明した)。一方で、同じ選挙に自民党から立候補した女優の三原じゅん子は、当選した場合は女優を引退すると表明し、これを受けて、当選後は各メディアでは「元女優」などと表記されている(ただし例外として2011年3月に放送されたテレビドラマシリーズ「3年B組金八先生」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した)。また、歌手の中条きよしは国会の委員会内での自身のCDやディナーショーを宣伝する発言が騒動となり、その後芸能活動については引退する意向を表明することとなった。
プロレスラーではアントニオ猪木が第15回参議院議員通常選挙で比例区から、馳浩は第17回参議院議員通常選挙で石川県選挙区から、第19回参院選では大仁田厚が比例区から立候補して初当選し、第20回参議院議員通常選挙では神取忍が2006年に繰上当選、木村健悟(引退後)・西村修・土方隆司が第17回統一地方選挙でそれぞれの議会に立候補して初当選した。馳はのち本格的に政治家に転身することとなってプロレスラー引退を表明して2006年8月27日に両国国技館で引退試合を行ったが、2017年7月26日(衆議院議員時代)と2021年1月4日(衆議院議員時代)と2023年1月1日(石川県知事時代)に限定で復帰し、2023年1月4日に石川県知事としての会見では「私は死ぬまでプロレスラーです」と生涯現役プロレスラーとも取れる発言をした。
覆面レスラーが地方議員になった場合、覆面姿のまま議会に入場しようとすると「病気などの理由を除き、帽子やコートの着用」を禁じた議会会議規則に抵触すると判断される可能性がある。過去に覆面レスラーが地方議員になった例として、ザ・グレート・サスケ(岩手県議)、スペル・デルフィン(大阪府和泉市議)、スカルリーパー・エイジ(大分市議)、グレート☆無茶(長野市議、のちに長野県議)、タコスキッド(福岡県太宰府市議)があるが、サスケ、デルフィン、無茶、タコスキッドは議会の別室で素顔の本人確認をすること等を条件に覆面姿の議場入場は認められたが、エイジは覆面姿での議場入場は認められなかった。
公営競技の現役選手で政界に進出した例としては、競輪選手で徳島県小松島市議である米崎賢治の例がある。
落語家や講談師、漫才師などの演芸分野から政界に進出した例として、国政では前述の横山ノックのほか、立川談志、一龍齋貞鳳、コロムビア・トップ、西川きよし(いずれも参議院議員)などの例があり、地方議会では落語家から三遊亭らん丈(東京都町田市議)、三遊亭窓里(埼玉県川越市議)、林家とんでん平(札幌市議)、三遊亭洋楽(北海道函館市議)、桂三発(三重県安濃町議→津市議)、漫才師から青空球児・好児の青空好児(東京都世田谷区議)、母心の嶋川武秀(富山県高岡市議、のちに富山県議)などの例があり、議員活動の合間を縫う形で高座・舞台への出演などを続けるケースも多い。
浜田幸一(元衆議院議員)や小沢遼子(元埼玉県議会議員・元浦和市議会議員)、杉村太蔵(元衆議院議員)、上西小百合(元衆議院議員)、宮崎謙介(元衆議院議員)、金子恵美(元衆議院議員)、豊田真由子(元衆議院議員)、太田房江(元大阪府知事)、横粂勝仁(元衆議院議員)のように政治家からタレント・文化人の活動を行う「元議員タレント」もいる。知名度やクリーンなイメージにより政党に起用されるタレント議員に対し、話術に長け時事問題をこなせる元議員タレントはテレビ局等より重宝される。他にはタレントから政治家となり引退後大学教授となった人物に野末陳平(元参議院議員)がいる。太田房江はタレント活動を行った後に参議院議員となっている。またタレント出身でない現職の政治家でも、ゲスト出演等でタレント的な活動を行うこともある。
タレント政治家はタレント業が本来の生業であるため、政界を離れた後、芸能界やスポーツ界に復帰し活動を再開するケースも少なくなく、俳優から政界に転じた中村敦夫(元参議院議員)は政界引退後は俳優業に戻っている。前出の江本孟紀(元参議院議員)は野球解説者に復帰、東国原英夫(元宮崎県知事・元衆議院議員)と森田健作(元千葉県知事・元衆・参議院議員)はタレント業を再開、荻原健司(元参議院議員)もスキー選手・指導者となったが2021年に長野市長として政界に復帰した。横光克彦(衆議院議員)は政界進出後一旦は芸能活動を自粛、落選後再び俳優業を再開、2017年には再度政界復帰し再び芸能活動を停止するという経緯を辿っている。
落語家の立川談志が1971年参院選全国区で50人中50位の最下位当選した際、インタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」と答えた。
大相撲力士の旭道山和泰は1996年10月に第41回衆議院議員総選挙に新進党から比例区で立候補し、当選した。出馬当初は廃業届を日本相撲協会に渡したが、落選した際の配慮のために当初は保留扱いとなり、当選後に正式に廃業届が受理された。断髪式までは丁髷を結ったまま登院した。
麻生太郎はクレー射撃選手としてモントリオールオリンピックへの出場経験があるが、一般には世襲政治家としての側面が強く、タレント政治家とはみなされていない。
国家元首となった芸能分野の出身者は、第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、第13代フィリピン大統領ジョセフ・エストラーダ、第6代ウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーが広く知られる。レーガンは任期満了後政界を引退したが、エストラーダは大統領退任後も政治活動を続け、2013年には首都マニラの市長に当選している。第45代アメリカ大統領を務めたドナルド・トランプは、実業家出身であるがテレビ番組司会者としても活動していた。他には第50代グアテマラ大統領ジミー・モラレスなどがいる。
元スポーツ選手では第25代リベリア大統領ジョージ・ウェア(元サッカーリベリア代表)がいる。
コメディアン出身のマリヤン・シャレツは第11代スロベニア首相をつとめた。
パキスタンの元クリケット選手であるイムラン・カーンは2018年から2022年まで同国の首相をつとめていた。ブラジルでは1990年にジーコがスポーツ担当大臣をつとめ、1995年からはペレが初代スポーツ大臣をつとめた。サッカージョージア代表であったカハ・カラーゼはビジナ・イヴァニシヴィリ内閣・ イラクリ・ガリバシヴィリ内閣で副首相・エネルギー大臣を務め、2017年よりは首都トビリシの市長を務めている。
2003年から2011年までカリフォルニア州知事を務めたアーノルド・シュワルツェネッガーは在職中も映画にカメオ出演するなど一定の芸能活動を続けていたが、退任後は俳優業を再開し、就任前同様に映画主演も行っている。またクリント・イーストウッド元カリフォルニア州カーメル市長も、退任後俳優や監督業を続けている。イギリスでは下院議員を務めた作家のジェフリー・アーチャーが、一旦政界を引退して文筆活動に戻った後、再び政界に復帰している。アイスランドのスタンダップコメディアンのヨン・ナールは首都レイキャビクの市長になり、アルメニアでは人気コメディアンのハイク・マルチアンが首都エレバンの市長になった。
アメリカ合衆国の元プロレスラージェシー・ベンチュラは1990年にミネソタ州ブルックリンパーク市長に当選し、1998年から2002年までミネソタ州知事を務めた。
韓国では国会議員になった芸能人やアナウンサーが多く、1978年の第10回総選挙で当選した洪性宇以降、2020年の第21回総選挙まで崔戊龍・李順載・姜富子・崔仏岩(崔英漢)・李朱一(鄭周逸)・申栄均・鄭漢溶・申星一(姜信永)・金乙東・崔鍾元などの俳優や朴映宣・韓善教・李季振・柳根粲・柳政鉉・高旼廷・裵賢鎮・韓俊鎬・朴省俊・金恩慧などのアナウンサーが当選し国会議員を務めた。
ロシアのレスリング選手であるアレクサンドル・カレリンは2000年に現職国会議員としてシドニーオリンピックのレスリング競技に出場し銀メダルを獲得したことがある。同じくロシアのフィギュアスケート選手エフゲニー・プルシェンコは2007年3月、サンクトペテルブルク立法議会議員に当選し、2011年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート男子シングルに出場し銀メダルを獲得している。しかし、プルシェンコは当選後も競技続行の妨げになるとして議会に殆ど出席していなかったため、強い批判を浴びた。2014年ソチオリンピックの招致活動に地方議員として参加するなどしたものの、議会内活動はほとんどできないまま2011年12月、ソチオリンピックへの出場を目指して競技に専念するため、翌年の任期満了をもって政界を引退する意向を表明した。クロアチアの格闘家のミルコ・クロコップは現職国会議員時代に試合を組んでおり、来日もしている。阪神タイガースで三冠王など活躍したランディ・バースは本名のランディ・バス名義でロートン市議員を経て、オクラホマ州の上院議員に当選している。元力士の旭鷲山(小結)は母国モンゴルの国民大会議議員に当選している。元力士で引退後日本でタレント活動をしていた把瑠都(大関)は、母国エストニアの国会(リーギコグ)の総選挙に出馬し、一旦は落選したものの繰り上げ当選している。
自由選挙制度が行われない体制である国家においても、政治任用によってタレントが政治的役職に就くこともある。中華人民共和国の中国人民政治協商会議には、スポーツ関係者枠や文化芸術枠が存在し、映画監督のチャン・イーモウや女優のコン・リーなどが委員になっている。また、元タレントである権力者の配偶者が政治的な役割を果たすことも多い。フアン・ペロン夫人であったエバ・ペロン、毛沢東夫人であった江青が特に知られている。 | [
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"text": "タレント政治家(タレントせいじか)とは、タレントであったことによる大衆的な人気や知名度を活用して政治家になった人物のことである。",
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"text": "国会議員などの場合には、タレント議員とも言う。",
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"text": "タレント政治家については、明確な定義があるわけではない。",
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"text": "タレント業を生業としている者(芸能人)だけについてそう呼ぶ場合もあれば、単にメディアを通じて高い知名度があるという理由でタレント政治家と呼ばれる場合もある。メディアを通じて高い知名度があった場合には学者・作家・芸術家といった文化人や、スポーツ選手、ジャーナリスト、特に放送局の社員であって厳密にはタレントには含まれないはずのアナウンサーや記者出身の政治家などについてもそのように表現されることもある。日本においてはテレビの普及以降、高橋圭三・宮田輝・田英夫・秦豊・畑恵・黒岩祐治・丸川珠代・杉尾秀哉・小池百合子などアナウンサー・ニュースキャスター出身の政治家は増えている。彼らはメディアを通じて自身の諸活動が大衆に認知されている、というよりメディア自体が職場であった者であるが、いずれもメディアにおいて仕事をしてきた結果メディアを通じて高い知名度を得ている。またメディア側の変質もあり(高橋圭三や秦豊は放送局退社後もフリーアナウンサー・司会として長くメディアにおいて活動していた人物であり、芸能人や文化人的な一面も備えた存在であった)、選挙時にはアナウンサー出身者もタレント候補として扱われるようになっていった。 さらには本人はタレント活動を行っていなくても、親族に著名人がいる場合にはタレント政治家に準じた扱いをされることもある(例:大泉洋の兄・大泉潤(函館市長))。",
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"text": "個人として高い知名度を持つタレントは、選挙のための広報活動を行わなくとも有権者に認知されるため、選挙活動においては有利に働くこともある。たとえば作家・タレントとして高い知名度を持っていた青島幸男は、選挙公報作成と政見放送録画を除いて当人や秘書や支援者は一切の選挙運動を行わなかったが、それでも毎回当選していた。",
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"text": "政党がタレントの擁立に走る背景としては、短期間の選挙運動で大量の得票ができるタレント候補は、選挙戦術上有効であるということや、選挙演説などで党の広告塔的役割を担ってもらうことができるということなどがある。一方で政治に関する経験や知識の少ないタレントが立候補するとの批判、および政党・政治団体タレントを立候補させることを有権者から集票するための安易な客寄せに過ぎないとの批判がしばしば行われるが、職業差別に過ぎないとの反論もある。最終的には有権者の判断次第、というのが大方の見方である。",
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"text": "前述のようにタレント政治家と呼ばれる政治家(あるいは候補者)には文化人やアナウンサー、あるいはタレント業を職業とするものであっても政治に関し専門的に学んだ者も含まれている。",
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"text": "タレント政治家の中には自らをタレント政治家と扱われたり、知名度のみで当選したとされたりすることに不満を持つ場合も少なくない。そのため選挙の際にはマニフェストなど政策の具体性を強調したり、親族あるいは友人や師弟関係にある者その他の交友の深いタレント(あるいは著名人)が応援演説を申し出てきてもあえて断ったりして、自らがその他のタレント政治家とは一線を画するとする戦術を採ることも多い。",
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"text": "作家やタレント等、他分野での高い知名度を持つ議員は帝国議会創設間もない時期からおり、小説「佳人之奇遇」で知られる東海散士は1892年の第2回総選挙から8回連続当選している。1908年の第10回衆議院議員総選挙に、日露戦争で対露強硬論を唱え「バイカル博士」として大衆的人気を集めた東京帝国大学教授の戸水寛人が出馬、当選している。ただし、当時の帝大教授のステータスを考えれば現在の学者出身タレント議員とは同列に出来ない面もある(当時の貴族院には帝大や帝国学士院会員の任命枠があった。また戸水は法学博士であり他の学問と比較すると政治と距離が近い)。政治講談で知られる伊藤痴遊は政治活動を開始した後に講談師となったが、東京市会や第16回衆議院議員総選挙、第18回衆議院議員総選挙で当選している。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "1898年の第5回総選挙と第6回総選挙に芸術家の川上音二郎、1915年の第12回衆議院議員総選挙に歌人の与謝野鉄幹、1928年の第16回衆議院議員総選挙に作家の菊池寛らが立候補しているが、いずれも落選している。また貴族院議員の中には、画家の黒田清輝、「虎狩りの殿様」で著名となった徳川義親など、高い知名度を持ち、現在ならタレント議員と目されたような人物が幾人か存在した。前記の戸水寛人と並んで帝大七博士として有名になった小野塚喜平次も、帝国学士院枠で貴族院議員になっている。ただし徳川義親と黒田清輝は継承した爵位による就任であり、個人の声名のみで議員となったわけではない(徳川は侯爵議員なので本人の能力にかかわらず議員の地位は約束されていた。黒田は子爵議員)。終戦後も貴族院では、ジャーナリストの長谷川如是閑、作家の山本有三や武者小路実篤といった有名人が勅選議員に任じられている。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "1946年、戦後初の衆議院議員総選挙、第22回衆議院議員総選挙に大選挙区の東京1区から立候補して当選した吉本興業(東京吉本)所属の演歌師・石田一松が、一般的にはタレント議員第一号と言われている。ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人代議士」と形容された。この年の選挙には作家の石川達三と元横綱の男女ノ川登三(立候補時は本名の坂田供次郎)が立候補しているが、いずれも落選している。男女ノ川の伝記を書いた川端要壽は、「今の選挙なら、男女ノ川や石川ほどの知名度があればまず当選していただろう。時代が悪かったともいえるし、国民が真面目だったともいえる」と書いている。",
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"text": "「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた藤原あきが、1962年7月の第6回参議院議員通常選挙全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。政治家藤山愛一郎の親族であったとはいえ、選挙前までは全く政治活動に関わっておらず、政治的な発言も無かった藤原がそれまでに例のない大量得票をしたことは社会に大きな印象を与えた。また藤原は当選時前夫藤原義江とは既に離婚しており、「藤原あき」は芸名(通名)であった。従って参議院では当時の規則により本名の「中上川(なかみがわ)あき君」と呼ばれた。タレント候補は選挙時には芸名を使用できるが、ひとたび議員となれば参議院内では本名で活動しなければならないという規則が存在していることが広く知られるようになり、タレント議員の特徴の一つとして認識された。",
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"text": "こうしたことから藤原は「タレント議員のはしり」と言われるようになり、またこれ以後タレント議員というマスコミ用語が定着、現在のような意味合いで使用される表現となった。",
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"text": "日本国憲法下で参議院が誕生し、1980年まで参議院選挙には全国区制があったため、知名度のあるタレントが議員になりやすい傾向があり、1960年代から1970年代にかけてタレント議員が急増すると、「芸能院」と揶揄されることもあった。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "1968年参議院選挙では、自民党から作家の石原慎太郎が300万票を超える大量得票でトップ当選したほか、社会党からNHK記者の上田哲、無所属で放送作家・テレビタレントの青島幸男、漫才師の横山ノック(山田勇)が初当選。",
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"text": "1971年参議院選挙でも、社会党からニュースキャスターの田英夫、女優の望月優子(鈴木美枝子)、自民党から歌手の安西愛子(志村愛子)、講談師の一龍齋貞鳳(今泉正二)、無所属で落語家の立川談志(松岡克由)、放送作家・テレビタレントの野末陳平(繰り上げ当選)らが当選する。",
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"text": "1974年参議院選挙では、自民党からNHKアナウンサーの宮田輝、女優・テレビタレントの山東昭子、経済評論家の斎藤栄三郎、女優の山口淑子(大鷹淑子)、社会党からニュースキャスターの秦豊、無所属では漫才師のコロムビア・トップ(下村泰)らが初当選を果たした。これらの中には、山東が日立グループ、宮田がトヨタグループからの全面的な支援をうけていたように、組織型選挙のいわば広告塔的な役割を果たしていたものも多い。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "1977年参議院選挙でも、自民党から女優の扇千景(林寛子)、無所属でテレビ司会者の八代英太(前島英三郎)、元NHKアナウンサーの高橋圭三らが当選している。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "1983年に参議院選挙の全国区制が廃止・比例代表制厳正拘束名簿式が導入された。この制度では個人名での投票が認められないため、タレント候補の擁立は下火となる。ただし、1989年参院選でプロレスラーのアントニオ猪木(猪木寛至、スポーツ平和党)、1992年参院選で元プロ野球選手の江本孟紀(同)が比例区で当選した例がある。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "2001年から個人名でも投票できる比例代表制非拘束名簿式に改定されたため、知名度による集票力を見込んで政党がタレント候補を擁立するケースが再度注目されるようになった。",
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"text": "非拘束名簿式になって初めての選挙となった2001年参議院選挙では、多くの政党がタレント候補の擁立に走り、舛添要一、大仁田厚(以上自民党)、田嶋陽子(社民党)、大橋巨泉(民主党)らが比例区で当選を果たした。 また、自由連合が政治経験が全くないタレント候補を大量に擁立したが、当選者を出すことができなかった。当選を果たした大橋・田嶋が短期間で辞職したこともあり、安易なタレント擁立に対する批判が強まった(ただし、田嶋の議員辞職は神奈川県知事選挙立候補という理由がある)。この選挙時の自由連合の代表であり、タレント擁立の当事者であった徳田虎雄は、「二世議員より苦労して一流になったタレントのほうがまし」という反論をしている(ただし、徳田が引退した際には子息の徳田毅が後継者になっている)。またスポーツ紙ではスポーツ選手を含めたタレント候補は選挙活動中の動向について、他の候補よりも記事として掲載されやすい傾向がある。選手以外では1964年東京五輪で女子バレーが金メダルを獲得したときの監督である大松博文、「日本レスリングの父」八田一朗も議員経験がある。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "その後も自由連合のような極端な事例こそないものの、参院選の比例区を中心としたタレントの擁立は続いた。",
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"text": "浮動票の多い都市部ではタレント候補に票が集まりやすいとされ、タレント政治家を輩出しやすいと言われている。特に大阪府ではお笑いタレントの当選が注目されることが多いため、「お笑い票」「お笑い百万票」が存在するとマスコミで表現、揶揄されることがある。ただし2004年の大阪府知事選挙では江本孟紀と2019年の埼玉県知事選挙では青島健太が立候補するも落選しており、必ずしも知名度だけが当選に影響を与える理由にはならないとされる。またタレント政治家は他の都市部でも輩出し他の地域では「タレント票」として注目されることもあるが、これらの票も有権者の投票行動を客観的に調査したものではなく、組織票のような明確な根拠はない。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "都市部の国政選挙では1983年に横山ノックが全国区から大阪府選挙区に転進して当選、1986年に西川きよし(西川潔)が参院選で初当選し3期つとめ、参議院東京都選挙区でも1986年に小野清子、1992年に森田健作(鈴木栄治)、1998年に中村敦夫、2004年に蓮舫、2007年に丸川珠代、2013年に山本太郎、2016年に朝日健太郎、2019年に塩村文夏、2022年には生稲晃子が初当選するなど、タレント候補の当選が注目された。2022年の東京都選挙区では当選者6人中4人をタレント候補が占めた(朝日、蓮舫、生稲、山本)。これ以外でも神奈川県選挙区では1995年に松あきら(西川玲子)、愛知県選挙区では1992年に新間正次(のち当選無効)、1995年に末広真季子などがそれぞれ当選している。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "地方の国政選挙でも、参議院では2001年に柏村武昭(広島県選挙区)、2004年に鈴木陽悦(秋田県選挙区)、林久美子(滋賀県選挙区)、2007年に松浦大悟(秋田県選挙区)、友近聡朗(愛媛県選挙区)、2010年に徳永エリ(北海道選挙区)、石井浩郎(秋田県選挙区)、2013年に和田政宗(宮城県選挙区)、清水貴之(兵庫県選挙区)、2016年に杉尾秀哉(長野県選挙区)、平山佐知子(静岡県選挙区)、古賀之士(福岡県選挙区)、2019年に芳賀道也(山形県選挙区)、石垣のりこ(宮城県選挙区)、2021年に宮口治子(広島県選挙区再選挙)、2022年に三上絵里(広島県選挙区)がそれぞれ当選したほか、同年には愛媛県選挙区で元南海放送アナウンサーの永江孝子とローカルタレントのらくさぶろうのタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(永江が当選)と2022年には長野県選挙区でものまねタレントの松山三四六と元TBSキャスターの杉尾秀哉のタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(杉尾が当選)。また、衆議院でも、参議院議員から転身したプロレスラーの馳浩(石川1区)、2012年の第46回衆議院議員総選挙で五輪メダリスト初の衆議院議員となった堀井学(北海道9区)、2021年第49回衆議院議員総選挙でF1ドライバーの山本左近(比例東海ブロック)、2019年参議院選挙落選の山本太郎(比例東京ブロック、2022年参議院議員に再転出)などわずかながら当選例がある。なお、地方選出の国政選挙の場合は定数が1議席のみということが多く、浮動票だけでなく地元経済界や労働組合などのバックアップを受けた組織型選挙を展開することも多い。",
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"text": "地方自治体選挙においてもタレント政治家が当選を果たすことも少なくない。地方自治体におけるタレント政治家の例としては、",
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"text": "日本ではタレント出身の政治家が首相になった例は現時点まではないものの、国政において三権の長である国会議長や閣僚に登りつめた例は少なからず存在する(括弧内の氏名は公職就任時における本名)。",
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"text": "日本では国会議員は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められている(ただし、参議院議員の芸名・通名使用が認められたのは1997年の事である)が、国務大臣等行政府の役職に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。",
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"text": "このため、閣僚として入閣したタレント議員は、行政府の公文書に対しては本名で署名する事となっている。例えば、元参議院議員扇千景は国土交通大臣(国務大臣)としての公文書には本名の「林寛子」で署名をしていたが、このような規定のない参議院議長としての公文書には芸名(通名)の「扇千景」で署名をしていた。",
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"text": "東国原英夫前宮崎県知事の場合は、選挙の際には芸名(そのまんま東)としたものの、公的には使いづらいと判断し、知事就任後は本名を用いている(政界引退後も本名で活動)。一方、知事就任後も公文書を除いて芸名を使用している(いた)例としては、横山ノック元大阪府知事(本名・山田勇)と森田健作千葉県知事(本名・鈴木栄治)の例があるが、『全国市町村要覧』では、前者は本名を掲載していたのに対し、後者は芸名を掲載している。",
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"text": "日本の場合、有名人が選挙への立候補を表明した時点で、公職選挙法や放送法の規定から派生したメディア側の自主規制により、選挙終了まで各メディアでのタレント活動ができなくなるのが一般的である。ニュースや選挙関連の番組を除いて、テレビ、ラジオへの出演はできなくなり、雑誌や新聞での連載等も中断される。この規制により、テレビショッピング番組に起用していた女優の生稲晃子が2022年の参院選(東京都選挙区)に出馬した影響で同候補出演の映像が使用できなくなったとして、番組制作会社から損害賠償請求の裁判を起こされた事例もある。ただし、2001年の参院選に立候補した大橋巨泉や2022年の参院選に立候補した水道橋博士は選挙期間中も雑誌の連載を継続していた。",
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"text": "横山ノックが司会を務めた「ノックは無用!」(関西テレビ)では、選挙期間中は本人が番組を降板するのみならず、番組のタイトルも「ロックは無用!」に改題されていた。義家弘介が担当していた「ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない」(ニッポン放送)は公示期間中放送休止になっていた。",
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"text": "当選した場合、タレント活動を継続するかどうかはその者の判断による。議員の兼職自体が禁じられているわけではなく、他の職業の者であってもそれまでの仕事を継続する者も少なくないが、タレント政治家の場合はその仕事が世間に露出するものであることから、しばしば論議の的となる。",
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"text": "山東昭子が1987年に参議院環境特別委員長を務めていた時、テレビ東京のゴルフ番組「ゴルフだよ人生は」の収録で公害健康被害補償法の審議を欠席したため、政治職務よりタレント活動を優先したと非難され、委員長辞任に追い込まれた例がある。",
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"text": "橋本聖子は1996年に現職参議院議員としてアトランタオリンピックの自転車競技に出場している。2010年の参院選で当選した柔道選手の谷亮子は、立候補表明時に議員活動と現役選手を両立させ、次回オリンピック出場を目指すと明言し、賛否両論が巻き起こった(当選後に政治職務に専念し、次回のオリンピックに出場しないことを表明した)。一方で、同じ選挙に自民党から立候補した女優の三原じゅん子は、当選した場合は女優を引退すると表明し、これを受けて、当選後は各メディアでは「元女優」などと表記されている(ただし例外として2011年3月に放送されたテレビドラマシリーズ「3年B組金八先生」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した)。また、歌手の中条きよしは国会の委員会内での自身のCDやディナーショーを宣伝する発言が騒動となり、その後芸能活動については引退する意向を表明することとなった。",
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"text": "プロレスラーではアントニオ猪木が第15回参議院議員通常選挙で比例区から、馳浩は第17回参議院議員通常選挙で石川県選挙区から、第19回参院選では大仁田厚が比例区から立候補して初当選し、第20回参議院議員通常選挙では神取忍が2006年に繰上当選、木村健悟(引退後)・西村修・土方隆司が第17回統一地方選挙でそれぞれの議会に立候補して初当選した。馳はのち本格的に政治家に転身することとなってプロレスラー引退を表明して2006年8月27日に両国国技館で引退試合を行ったが、2017年7月26日(衆議院議員時代)と2021年1月4日(衆議院議員時代)と2023年1月1日(石川県知事時代)に限定で復帰し、2023年1月4日に石川県知事としての会見では「私は死ぬまでプロレスラーです」と生涯現役プロレスラーとも取れる発言をした。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "覆面レスラーが地方議員になった場合、覆面姿のまま議会に入場しようとすると「病気などの理由を除き、帽子やコートの着用」を禁じた議会会議規則に抵触すると判断される可能性がある。過去に覆面レスラーが地方議員になった例として、ザ・グレート・サスケ(岩手県議)、スペル・デルフィン(大阪府和泉市議)、スカルリーパー・エイジ(大分市議)、グレート☆無茶(長野市議、のちに長野県議)、タコスキッド(福岡県太宰府市議)があるが、サスケ、デルフィン、無茶、タコスキッドは議会の別室で素顔の本人確認をすること等を条件に覆面姿の議場入場は認められたが、エイジは覆面姿での議場入場は認められなかった。",
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"text": "公営競技の現役選手で政界に進出した例としては、競輪選手で徳島県小松島市議である米崎賢治の例がある。",
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"text": "落語家や講談師、漫才師などの演芸分野から政界に進出した例として、国政では前述の横山ノックのほか、立川談志、一龍齋貞鳳、コロムビア・トップ、西川きよし(いずれも参議院議員)などの例があり、地方議会では落語家から三遊亭らん丈(東京都町田市議)、三遊亭窓里(埼玉県川越市議)、林家とんでん平(札幌市議)、三遊亭洋楽(北海道函館市議)、桂三発(三重県安濃町議→津市議)、漫才師から青空球児・好児の青空好児(東京都世田谷区議)、母心の嶋川武秀(富山県高岡市議、のちに富山県議)などの例があり、議員活動の合間を縫う形で高座・舞台への出演などを続けるケースも多い。",
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"text": "浜田幸一(元衆議院議員)や小沢遼子(元埼玉県議会議員・元浦和市議会議員)、杉村太蔵(元衆議院議員)、上西小百合(元衆議院議員)、宮崎謙介(元衆議院議員)、金子恵美(元衆議院議員)、豊田真由子(元衆議院議員)、太田房江(元大阪府知事)、横粂勝仁(元衆議院議員)のように政治家からタレント・文化人の活動を行う「元議員タレント」もいる。知名度やクリーンなイメージにより政党に起用されるタレント議員に対し、話術に長け時事問題をこなせる元議員タレントはテレビ局等より重宝される。他にはタレントから政治家となり引退後大学教授となった人物に野末陳平(元参議院議員)がいる。太田房江はタレント活動を行った後に参議院議員となっている。またタレント出身でない現職の政治家でも、ゲスト出演等でタレント的な活動を行うこともある。",
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"text": "タレント政治家はタレント業が本来の生業であるため、政界を離れた後、芸能界やスポーツ界に復帰し活動を再開するケースも少なくなく、俳優から政界に転じた中村敦夫(元参議院議員)は政界引退後は俳優業に戻っている。前出の江本孟紀(元参議院議員)は野球解説者に復帰、東国原英夫(元宮崎県知事・元衆議院議員)と森田健作(元千葉県知事・元衆・参議院議員)はタレント業を再開、荻原健司(元参議院議員)もスキー選手・指導者となったが2021年に長野市長として政界に復帰した。横光克彦(衆議院議員)は政界進出後一旦は芸能活動を自粛、落選後再び俳優業を再開、2017年には再度政界復帰し再び芸能活動を停止するという経緯を辿っている。",
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"text": "落語家の立川談志が1971年参院選全国区で50人中50位の最下位当選した際、インタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」と答えた。",
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"text": "大相撲力士の旭道山和泰は1996年10月に第41回衆議院議員総選挙に新進党から比例区で立候補し、当選した。出馬当初は廃業届を日本相撲協会に渡したが、落選した際の配慮のために当初は保留扱いとなり、当選後に正式に廃業届が受理された。断髪式までは丁髷を結ったまま登院した。",
"title": "日本のタレント政治家"
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"text": "麻生太郎はクレー射撃選手としてモントリオールオリンピックへの出場経験があるが、一般には世襲政治家としての側面が強く、タレント政治家とはみなされていない。",
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"text": "国家元首となった芸能分野の出身者は、第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、第13代フィリピン大統領ジョセフ・エストラーダ、第6代ウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキーが広く知られる。レーガンは任期満了後政界を引退したが、エストラーダは大統領退任後も政治活動を続け、2013年には首都マニラの市長に当選している。第45代アメリカ大統領を務めたドナルド・トランプは、実業家出身であるがテレビ番組司会者としても活動していた。他には第50代グアテマラ大統領ジミー・モラレスなどがいる。",
"title": "世界におけるタレント政治家"
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"text": "元スポーツ選手では第25代リベリア大統領ジョージ・ウェア(元サッカーリベリア代表)がいる。",
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"text": "コメディアン出身のマリヤン・シャレツは第11代スロベニア首相をつとめた。",
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"text": "パキスタンの元クリケット選手であるイムラン・カーンは2018年から2022年まで同国の首相をつとめていた。ブラジルでは1990年にジーコがスポーツ担当大臣をつとめ、1995年からはペレが初代スポーツ大臣をつとめた。サッカージョージア代表であったカハ・カラーゼはビジナ・イヴァニシヴィリ内閣・ イラクリ・ガリバシヴィリ内閣で副首相・エネルギー大臣を務め、2017年よりは首都トビリシの市長を務めている。",
"title": "世界におけるタレント政治家"
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"text": "2003年から2011年までカリフォルニア州知事を務めたアーノルド・シュワルツェネッガーは在職中も映画にカメオ出演するなど一定の芸能活動を続けていたが、退任後は俳優業を再開し、就任前同様に映画主演も行っている。またクリント・イーストウッド元カリフォルニア州カーメル市長も、退任後俳優や監督業を続けている。イギリスでは下院議員を務めた作家のジェフリー・アーチャーが、一旦政界を引退して文筆活動に戻った後、再び政界に復帰している。アイスランドのスタンダップコメディアンのヨン・ナールは首都レイキャビクの市長になり、アルメニアでは人気コメディアンのハイク・マルチアンが首都エレバンの市長になった。",
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"text": "アメリカ合衆国の元プロレスラージェシー・ベンチュラは1990年にミネソタ州ブルックリンパーク市長に当選し、1998年から2002年までミネソタ州知事を務めた。",
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"text": "韓国では国会議員になった芸能人やアナウンサーが多く、1978年の第10回総選挙で当選した洪性宇以降、2020年の第21回総選挙まで崔戊龍・李順載・姜富子・崔仏岩(崔英漢)・李朱一(鄭周逸)・申栄均・鄭漢溶・申星一(姜信永)・金乙東・崔鍾元などの俳優や朴映宣・韓善教・李季振・柳根粲・柳政鉉・高旼廷・裵賢鎮・韓俊鎬・朴省俊・金恩慧などのアナウンサーが当選し国会議員を務めた。",
"title": "世界におけるタレント政治家"
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"text": "ロシアのレスリング選手であるアレクサンドル・カレリンは2000年に現職国会議員としてシドニーオリンピックのレスリング競技に出場し銀メダルを獲得したことがある。同じくロシアのフィギュアスケート選手エフゲニー・プルシェンコは2007年3月、サンクトペテルブルク立法議会議員に当選し、2011年バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート男子シングルに出場し銀メダルを獲得している。しかし、プルシェンコは当選後も競技続行の妨げになるとして議会に殆ど出席していなかったため、強い批判を浴びた。2014年ソチオリンピックの招致活動に地方議員として参加するなどしたものの、議会内活動はほとんどできないまま2011年12月、ソチオリンピックへの出場を目指して競技に専念するため、翌年の任期満了をもって政界を引退する意向を表明した。クロアチアの格闘家のミルコ・クロコップは現職国会議員時代に試合を組んでおり、来日もしている。阪神タイガースで三冠王など活躍したランディ・バースは本名のランディ・バス名義でロートン市議員を経て、オクラホマ州の上院議員に当選している。元力士の旭鷲山(小結)は母国モンゴルの国民大会議議員に当選している。元力士で引退後日本でタレント活動をしていた把瑠都(大関)は、母国エストニアの国会(リーギコグ)の総選挙に出馬し、一旦は落選したものの繰り上げ当選している。",
"title": "世界におけるタレント政治家"
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{
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"text": "自由選挙制度が行われない体制である国家においても、政治任用によってタレントが政治的役職に就くこともある。中華人民共和国の中国人民政治協商会議には、スポーツ関係者枠や文化芸術枠が存在し、映画監督のチャン・イーモウや女優のコン・リーなどが委員になっている。また、元タレントである権力者の配偶者が政治的な役割を果たすことも多い。フアン・ペロン夫人であったエバ・ペロン、毛沢東夫人であった江青が特に知られている。",
"title": "世界におけるタレント政治家"
}
] | タレント政治家(タレントせいじか)とは、タレントであったことによる大衆的な人気や知名度を活用して政治家になった人物のことである。 国会議員などの場合には、タレント議員とも言う。 | {{複数の問題
| 出典の明記 = 2017年3月22日 (水) 18:32 (UTC)
| 独自研究 = 2019年2月
| 内容過剰 = 2019年2月
}}
'''タレント政治家'''(タレントせいじか)とは、[[タレント]]であったことによる大衆的な人気や[[知名度]]を活用して[[政治家]]になった人物のことである。
[[国会議員]]などの場合には、'''タレント議員'''とも言う。
== 概説 ==
タレント政治家については、明確な定義があるわけではない。
タレント業を生業としている者([[芸能人]])だけについてそう呼ぶ場合もあれば、単にメディアを通じて高い知名度があるという理由でタレント政治家と呼ばれる場合もある。メディアを通じて高い知名度があった場合には学者・作家・芸術家といった[[文化人]]や、[[スポーツ選手]]、[[ジャーナリスト]]、特に[[放送局]]の社員であって厳密にはタレントには含まれないはずの[[アナウンサー]]や記者出身の政治家などについてもそのように表現されることもある。[[日本]]においては[[テレビ]]の普及以降、[[高橋圭三]]・[[宮田輝]]・[[田英夫]]・[[秦豊]]・[[畑恵]]・[[黒岩祐治]]・[[丸川珠代]]・[[杉尾秀哉]]・[[小池百合子]]などアナウンサー・[[ニュースキャスター]]出身の政治家は増えている。彼らはメディアを通じて自身の諸活動が大衆に認知されている、というよりメディア自体が職場であった者であるが、いずれもメディアにおいて仕事をしてきた結果メディアを通じて高い知名度を得ている。またメディア側の変質もあり(高橋圭三や秦豊は放送局退社後も[[フリーアナウンサー]]・司会として長くメディアにおいて活動していた人物であり、芸能人や文化人的な一面も備えた存在であった)、[[選挙]]時にはアナウンサー出身者もタレント候補として扱われるようになっていった。 さらには本人はタレント活動を行っていなくても、親族に著名人がいる場合にはタレント政治家に準じた扱いをされることもある(例:[[大泉洋]]の兄・[[大泉潤]]([[函館市]]長)<ref>{{Cite web|和書|title=大泉洋の兄、光GENJIの元メンバー…統一地方選・衆参5補選の個性派候補を直撃〈週刊朝日〉 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/2068 |website=AERA dot. (アエラドット) |date=2023-03-29 |access-date=2023-04-27 |last=村上新太郎}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=大泉潤氏「弟の知名度なければ勝利なかった」 函館市長選で初当選 |url=https://mainichi.jp/articles/20230423/k00/00m/010/171000c |website=毎日新聞 |access-date=2023-04-27 |language=ja}}</ref>)<!--([[石原宏高]]あたりを頭に浮かべて書いてみたものの、この例だと[[世襲政治家]]の領分とも判断したのでコメントアウトとしておきます。) -->。
個人として高い知名度を持つタレントは、選挙のための広報活動を行わなくとも有権者に認知されるため、選挙活動においては有利に働くこともある。たとえば作家・タレントとして高い知名度を持っていた[[青島幸男]]は、[[選挙公報]]作成と[[政見放送]]録画を除いて当人や[[秘書]]や支援者は一切の選挙運動を行わなかったが、それでも毎回当選していた。
[[政党]]がタレントの擁立に走る背景としては、短期間の選挙運動で大量の得票ができるタレント候補は、選挙戦術上有効であるということや、選挙演説などで党の広告塔的役割を担ってもらうことができるということなどがある。一方で政治に関する経験や知識の少ないタレントが立候補するとの批判、および政党・政治団体タレントを立候補させることを[[有権者]]から集票するための安易な客寄せに過ぎないとの批判がしばしば行われるが、[[職業差別]]に過ぎないとの反論もある。最終的には[[有権者]]の判断次第、というのが大方の見方である。
前述のようにタレント政治家と呼ばれる政治家(あるいは候補者)には[[文化人]]や[[アナウンサー]]、あるいはタレント業を職業とするものであっても政治に関し専門的に学んだ者も含まれている。
タレント政治家の中には自らをタレント政治家と扱われたり、知名度のみで当選したとされたりすることに不満を持つ場合も少なくない。そのため選挙の際には[[マニフェスト]]など政策の具体性を強調したり、親族あるいは友人や師弟関係にある者その他の交友の深いタレント(あるいは著名人)が応援演説を申し出てきてもあえて断ったりして、自らがその他のタレント政治家とは一線を画するとする戦術を採ることも多い。
== 日本のタレント政治家 ==
=== 歴史 ===
作家やタレント等、他分野での高い知名度を持つ議員は[[帝国議会]]創設間もない時期からおり、小説「[[佳人之奇遇]]」で知られる[[東海散士]]は[[1892年]]の[[第2回衆議院議員総選挙|第2回総選挙]]から8回連続当選している。[[1908年]]の[[第10回衆議院議員総選挙]]に、[[日露戦争]]で対露強硬論を唱え「バイカル博士」として大衆的人気を集めた[[東京大学|東京帝国大学]]教授の[[戸水寛人]]が出馬、当選している。ただし、当時の帝大教授のステータスを考えれば現在の学者出身タレント議員とは同列に出来ない面もある(当時の[[貴族院 (日本)|貴族院]]には帝大や[[帝国学士院]]会員の任命枠があった。また戸水は[[博士(法学)|法学博士]]であり他の学問と比較すると政治と距離が近い)。政治講談で知られる[[伊藤痴遊]]は政治活動を開始した後に講談師となったが、東京市会や[[第16回衆議院議員総選挙]]、[[第18回衆議院議員総選挙]]で当選している。
[[1898年]]の[[第5回衆議院議員総選挙|第5回総選挙]]と[[第6回衆議院議員総選挙|第6回総選挙]]に芸術家の[[川上音二郎]]、[[1915年]]の[[第12回衆議院議員総選挙]]に歌人の[[与謝野鉄幹]]、[[1928年]]の[[第16回衆議院議員総選挙]]に作家の[[菊池寛]]らが立候補しているが、いずれも落選している。また貴族院議員の中には、画家の[[黒田清輝]]、「虎狩りの殿様」で著名となった[[徳川義親]]など、高い知名度を持ち、現在ならタレント議員と目されたような人物が幾人か存在した。前記の戸水寛人と並んで[[七博士意見書|帝大七博士]]として有名になった[[小野塚喜平次]]も、帝国学士院枠で貴族院議員になっている。ただし徳川義親と黒田清輝は継承した爵位による就任であり、個人の声名のみで議員となったわけではない(徳川は侯爵議員なので本人の能力にかかわらず議員の地位は約束されていた。黒田は子爵議員)<ref group="注">子爵議員は互選であり、黒田は有力者への接待として絵画を贈っていたようである。内藤一成「貴族院」同成社、P76。</ref>。終戦後も貴族院では、ジャーナリストの[[長谷川如是閑]]、作家の[[山本有三]]や[[武者小路実篤]]といった有名人が勅選議員に任じられている。
[[1946年]]、戦後初の衆議院議員総選挙、[[第22回衆議院議員総選挙]]に[[大選挙区制|大選挙区]]の[[東京都第1区 (1946年)|東京1区]]から立候補して当選した[[吉本興業]]([[東京吉本]])所属の[[演歌]]師・[[石田一松]]が、一般的にはタレント議員第一号と言われている<ref>[[矢野誠一]] 「タレント議員第一号・石田一松」『さらば、愛しき藝人たち』、矢野誠一、[[文藝春秋]]、[[1985年]]、121-135頁。</ref>。ただ石田当選時には芸能人等を指して「タレント」と表現する用法はまだ存在しておらず、石田は在職中「タレント議員」と呼ばれることはなく、専ら「芸能人[[衆議院|代議士]]」と形容された。この年の選挙には作家の[[石川達三]]と元[[横綱]]の[[男女ノ川登三]](立候補時は本名の坂田供次郎)が立候補しているが、いずれも落選している。男女ノ川の伝記を書いた川端要壽は、「今の選挙なら、男女ノ川や石川ほどの知名度があればまず当選していただろう。時代が悪かったともいえるし、国民が真面目だったともいえる」と書いている<ref>川端要壽「下足番になった横綱」P190、2003年1月1日文庫版初版、小学館文庫(初出1996年)</ref>。
「タレント議員」という呼称がマスコミ等で使用されるようになった契機は、職業をまさに「タレント」と称していた[[藤原あき]]が、[[1962年]]7月の[[第6回参議院議員通常選挙]]全国区において116万票の大量得票でトップ当選した際の報道であった。政治家[[藤山愛一郎]]の親族であったとはいえ、選挙前までは全く政治活動に関わっておらず、政治的な発言も無かった藤原がそれまでに例のない大量得票をしたことは社会に大きな印象を与えた。また藤原は当選時前夫[[藤原義江]]とは既に離婚しており、「藤原あき」は芸名(通名)であった。従って参議院では当時の規則により本名の「中上川(なかみがわ)あき君」と呼ばれた。タレント候補は選挙時には芸名を使用できるが、ひとたび議員となれば参議院内では本名で活動しなければならないという規則が存在していることが広く知られるようになり、タレント議員の特徴の一つとして認識された。
こうしたことから藤原は「タレント議員のはしり」と言われるようになり、またこれ以後タレント議員というマスコミ用語が定着、現在のような意味合いで使用される表現となった。
[[日本国憲法]]下で参議院が誕生し、[[1980年]]まで参議院選挙には[[全国区制]]があったため、知名度のあるタレントが議員になりやすい傾向があり、1960年代から1970年代にかけてタレント議員が急増すると、「'''芸能院'''」と揶揄されることもあった。
[[第8回参議院議員通常選挙|1968年参議院選挙]]では、自民党から作家の[[石原慎太郎]]が300万票を超える大量得票でトップ当選したほか、社会党からNHK記者の[[上田哲]]、無所属で放送作家・テレビタレントの[[青島幸男]]、漫才師の[[横山ノック]](山田勇)が初当選。
[[第9回参議院議員通常選挙|1971年参議院選挙]]でも、[[日本社会党|社会党]]からニュースキャスターの[[田英夫]]、女優の[[望月優子]](鈴木美枝子)、[[自由民主党 (日本)|自民党]]から歌手の[[安西愛子]](志村愛子)、[[講談師]]の[[一龍齋貞鳳]](今泉正二)、無所属で落語家の[[立川談志]](松岡克由)、放送作家・テレビタレントの[[野末陳平]](繰り上げ当選)らが当選する。
[[第10回参議院議員通常選挙|1974年参議院選挙]]では、自民党からNHKアナウンサーの[[宮田輝]]、女優・テレビタレントの[[山東昭子]]、経済評論家の[[斎藤栄三郎]]、女優の[[山口淑子]](大鷹淑子)、社会党からニュースキャスターの[[秦豊]]、無所属では漫才師の[[コロムビア・トップ]](下村泰)らが初当選を果たした。これらの中には、山東が[[日立グループ]]、宮田が[[トヨタグループ]]からの全面的な支援をうけていたように、組織型選挙のいわば広告塔的な役割を果たしていたものも多い。
[[第11回参議院議員通常選挙|1977年参議院選挙]]でも、自民党から女優の[[扇千景]](林寛子)、無所属でテレビ司会者の[[八代英太]](前島英三郎)、元NHKアナウンサーの[[高橋圭三]]らが当選している。
[[1983年]]に参議院選挙の全国区制が廃止・[[比例代表制]][[厳正拘束名簿式]]が導入された。この制度では個人名での投票が認められないため、タレント候補の擁立は下火となる。ただし、[[第15回参議院議員通常選挙|1989年参院選]]でプロレスラーの[[アントニオ猪木]](猪木寛至、[[スポーツ平和党]])、[[第16回参議院議員通常選挙|1992年参院選]]で元プロ野球選手の[[江本孟紀]](同)が比例区で当選した例がある。
[[2001年]]から個人名でも投票できる比例代表制[[非拘束名簿式]]に改定されたため、知名度による集票力を見込んで政党がタレント候補を擁立するケースが再度注目されるようになった。
非拘束名簿式になって初めての選挙となった[[第19回参議院議員通常選挙|2001年参議院選挙]]では、多くの政党がタレント候補の擁立に走り、[[舛添要一]]、[[大仁田厚]](以上自民党)、[[田嶋陽子]]([[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]])、[[大橋巨泉]]([[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]])らが[[参議院比例区|比例区]]で当選を果たした。
また、[[自由連合 (日本)|自由連合]]が政治経験が全くないタレント候補を大量に擁立したが、当選者を出すことができなかった。当選を果たした大橋・田嶋が短期間で辞職したこともあり、安易なタレント擁立に対する批判が強まった(ただし、田嶋の議員辞職は神奈川県知事選挙立候補という理由がある)。この選挙時の自由連合の代表であり、タレント擁立の当事者であった[[徳田虎雄]]は、「[[世襲政治家|二世議員]]より苦労して一流になったタレントのほうがまし」という反論をしている(ただし、徳田が引退した際には子息の[[徳田毅]]が後継者になっている)。またスポーツ紙ではスポーツ選手を含めたタレント候補は選挙活動中の動向について、他の候補よりも記事として掲載されやすい傾向がある<ref>三浦博史「ネット選挙革命」(PHP研究所)</ref>。選手以外では[[1964年東京オリンピック|1964年東京五輪]]で女子バレーが金メダルを獲得したときの監督である[[大松博文]]、「日本レスリングの父」[[八田一朗]]も議員経験がある。
その後も自由連合のような極端な事例こそないものの、参院選の比例区を中心としたタレントの擁立は続いた。
* [[第20回参議院議員通常選挙|2004年参議院選挙]]では[[神取忍]](自民党・[[繰り上げ当選]])、[[竹中平蔵]](自民党)、[[荻原健司]](自民党)、[[山谷えり子]](自民党)、[[喜納昌吉]](民主党)、[[白眞勲]](民主党)、[[浮島とも子|浮島智子]]([[公明党]])が当選。
* [[第21回参議院議員通常選挙|2007年参議院選挙]]では[[丸山和也]](自民党)、[[義家弘介]](自民党、後に衆議院議員へ転出)、[[青木愛 (政治家)|青木愛]](民主党)、[[横峯良郎]](民主党)、[[田中康夫]]([[新党日本]])が当選。
* [[第22回参議院議員通常選挙|2010年参議院選挙]]では[[阿達雅志]](自民党・繰り上げ当選)、[[堀内恒夫]](自民党・繰り上げ当選)、[[三原じゅん子]](自民党、後に[[神奈川県選挙区]]へ転出)、[[谷亮子]](民主党)、[[有田芳生]](民主党)、[[真山勇一]]([[みんなの党]]・繰り上げ当選)が当選。
* [[第23回参議院議員通常選挙|2013年参議院選挙]]では[[渡邉美樹]](自民党)、[[藤巻健史]]([[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]])が当選。
* [[第24回参議院議員通常選挙|2016年参議院選挙]]では[[青山繁晴]](自民党)、[[今井絵理子]](自民党)、[[石井苗子]]([[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]])が当選。
* [[第25回参議院議員通常選挙|2019年参議院選挙]]では、[[須藤元気]]([[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]])が当選するも、以下に挙げる多くのタレント候補が全員落選した。自民党の山本左近、立憲民主党の[[市井紗耶香]]、[[おしどり (お笑い)|おしどりマコ]]、[[奥村政佳]]、[[斉藤里恵]]、[[白沢みき]]、[[国民民主党 (日本 2018)|国民民主党]]の山下容子、[[小山田経子]]、[[れいわ新選組]]の山本太郎。
* [[第26回参議院議員通常選挙|2022年参議院選挙]]では[[赤松健]]<ref group="注">漫画家で衆参通じて初めて国政選挙に当選した。なお、日本における漫画家出身の議員は、地方議会議員を含めると杉浦茂([[杉柾夫]])、[[安藤泰作]]の前例がある。</ref>(自民党)、[[青島健太]]<ref group="注">新潟県出身のスポーツ選手経験者で地方選挙・国政選挙を通じて初めて当選した。なお、同県出身のタレント政治家は極めて稀である。</ref>(日本維新の会)、[[猪瀬直樹]](日本維新の会)、[[中条きよし]](日本維新の会)、[[松野明美]](日本維新の会)、[[水道橋博士]]([[れいわ新選組]])、[[東谷義和]](ガーシー、[[NHK党]])が当選するも、以下に挙げるタレント候補が落選した。[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]の沢邑啓子、菅原美香、[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]の山下容子、日本維新の会の[[神谷ゆり]]、[[参政党]]の[[武田邦彦]]など。
浮動票の多い都市部ではタレント候補に票が集まりやすいとされ、タレント政治家を輩出しやすいと言われている。特に[[大阪府]]では[[お笑いタレント]]の当選が注目されることが多いため、「'''お笑い票'''」「'''お笑い百万票'''」が存在するとマスコミで表現、揶揄されることがある<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/116550 『「お笑い票」の行方は?』産経新聞の2008年1月18日ネット掲載記事]</ref>。ただし[[2004年]]の[[2004年大阪府知事選挙|大阪府知事選挙]]では江本孟紀<ref>『タレント票 各党「脅威」 Newsプラス 大阪のタレント票』毎日新聞2010年4月14日大阪版記事</ref>と[[2019年]]の[[2019年埼玉県知事選挙|埼玉県知事選挙]]では青島健太が立候補するも落選しており、必ずしも知名度だけが当選に影響を与える理由にはならないとされる。またタレント政治家は他の都市部でも輩出し他の地域では「'''タレント票'''」として注目されることもあるが、これらの票も[[有権者]]の[[投票行動]]を客観的に調査したものではなく、[[組織票]]のような明確な根拠はない。
都市部の国政選挙では[[1983年]]に[[横山ノック]]が全国区から[[大阪府選挙区]]に転進して当選、1986年に[[西川きよし]](西川潔)が参院選で初当選し3期つとめ、参議院[[東京都選挙区]]でも1986年に[[小野清子]]、1992年に[[森田健作]](鈴木栄治)、1998年に[[中村敦夫]]、2004年に[[蓮舫]]、2007年に[[丸川珠代]]、2013年に[[山本太郎]]、2016年に[[朝日健太郎]]、2019年に[[塩村文夏]]、2022年には[[生稲晃子]]が初当選するなど、タレント候補の当選が注目された。2022年の東京都選挙区では当選者6人中4人をタレント候補が占めた(朝日、蓮舫、生稲、山本)。これ以外でも[[神奈川県選挙区]]では1995年に[[松あきら]](西川玲子)、[[愛知県選挙区]]では1992年に[[新間正次]](のち当選無効)、1995年に[[末広真季子]]などがそれぞれ当選している。
地方の国政選挙でも、参議院では2001年に[[柏村武昭]]([[広島県選挙区]])、2004年に[[鈴木陽悦]]([[秋田県選挙区]])、[[林久美子]]([[滋賀県選挙区]])、2007年に[[松浦大悟]](秋田県選挙区)、[[友近聡朗]]([[愛媛県選挙区]])、2010年に[[徳永エリ]]([[北海道選挙区]])、[[石井浩郎]]([[秋田県選挙区]])、2013年に[[和田政宗]]([[宮城県選挙区]])、[[清水貴之]]([[兵庫県選挙区]])、2016年に[[杉尾秀哉]]([[長野県選挙区]])、[[平山佐知子]]([[静岡県選挙区]])、[[古賀之士]]([[福岡県選挙区]])、2019年に[[芳賀道也]]([[山形県選挙区]])、[[石垣のりこ]]([[宮城県選挙区]])、2021年に[[宮口治子]]([[広島県選挙区]][[2021年日本の補欠選挙|再選挙]])、2022年に[[三上絵里]]([[広島県選挙区]])がそれぞれ当選したほか、同年には[[愛媛県選挙区]]で元南海放送アナウンサーの[[永江孝子]]<ref group="注">過去[[愛媛県第1区|愛媛1区]]にて衆議院議員1回当選。</ref>とローカルタレントの[[らくさぶろう]]のタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(永江が当選)と2022年には長野県選挙区でものまねタレントの[[松山三四六]]と元TBSキャスターの杉尾秀哉のタレント候補同士の一騎打ちとなったことがある(杉尾が当選)。また、衆議院でも、参議院議員から転身したプロレスラーの[[馳浩]]([[石川県第1区|石川1区]])、[[2012年]]の[[第46回衆議院議員総選挙]]で五輪メダリスト初の衆議院議員となった[[堀井学]]([[北海道第9区|北海道9区]])、[[2021年]][[第49回衆議院議員総選挙]]で[[フォーミュラ1|F1]]ドライバーの[[山本左近]]([[比例東海ブロック]])、2019年参議院選挙落選の[[山本太郎]]([[比例東京ブロック]]、2022年参議院議員に再転出)などわずかながら当選例がある。なお、地方選出の国政選挙の場合は定数が1議席のみということが多く、浮動票だけでなく地元経済界や労働組合などのバックアップを受けた組織型選挙を展開することも多い。
地方自治体選挙においてもタレント政治家が当選を果たすことも少なくない。地方自治体におけるタレント政治家の例としては、
* 首長では[[美濃部亮吉]]([[東京都知事]]。元参議院議員)、[[青島幸男]](東京都知事。元参議院議員)、[[石原慎太郎]](東京都知事。元参議院議員・元衆議院議員。知事退任後再び衆議院議員)、[[猪瀬直樹]](東京都知事。知事退任後参議院議員)、[[舛添要一]](東京都知事。元参議院議員)、[[小池百合子]](東京都知事。元衆議院議員)、[[黒岩祐治]]([[神奈川県知事一覧|神奈川県知事]])、[[横山ノック]]([[大阪府知事一覧|大阪府知事]]。元参議院議員)、田中康夫([[長野県知事一覧|長野県知事]]。知事退任後参議院議員を経て衆議院議員)、[[東国原英夫]]([[宮崎県知事一覧|宮崎県知事]]。知事退任後衆議院議員)、[[橋本大二郎]]([[高知県知事一覧|高知県知事]])、[[森田健作]]([[千葉県知事一覧|千葉県知事]]。元参議院議員・元衆議院議員)、[[橋下徹]]([[大阪府知事一覧|大阪府知事]]を経て[[大阪市長]])、[[三反園訓]]([[鹿児島県知事一覧|鹿児島県知事]]、知事選落選を経て衆議院議員)、[[玉城デニー]]([[沖縄県知事一覧|沖縄県知事]]、元衆議院議員、元[[沖縄市]]議会議員)、[[平松邦夫]](大阪市長)、[[荻原健司]]([[長野市]]長、元参議院議員)、[[馳浩]](石川県知事、元参議院議員、元衆議院議員)などが挙げられる。
* 地方議会議員では[[堀井学]]([[北海道議会|北海道議]]。道議退任後衆議院議員)、[[追風海直飛人]]([[青森県]][[板柳町]]議、のち[[青森県議会|青森県議]])、[[田宮謙次郎]]([[茨城県]][[下館市]]議)、[[田口禎則]]([[浦和市]]議・[[さいたま市議会|さいたま市議]]を経て[[埼玉県議会|埼玉県議]])、[[プリティ長嶋]]([[千葉県]][[市川市]]議を経て[[千葉県議会|千葉県議]])、[[林家とんでん平]]([[札幌市議会|札幌市議]])、[[三遊亭窓里]](埼玉県[[川越市]]議)、[[土方隆司]](埼玉県[[狭山市]]議)、真山勇一([[東京都]][[調布市]]議。市議退任後[[参議院議員]])、[[青空球児・好児|青空好児]](東京都[[世田谷区議会|世田谷区議]])、[[須藤甚一郎]](東京都[[目黒区議会|目黒区議]])、[[木村健悟]](東京都[[品川区議会|品川区議]])、[[阿部光利]](東京都[[台東区議会|台東区議]])、[[石井めぐみ]](東京都[[国立市]]議)、[[三遊亭らん丈]](東京都[[町田市]]議)、[[斉藤里恵]](東京都[[北区 (東京都)|北区]]議。区議退任後参議院議員選挙落選を経て[[東京都議会|東京都議]])、[[船場太郎]]([[大阪府]][[大阪市会|大阪市議]])、[[スペル・デルフィン]](大阪府[[和泉市]]議)、[[鳳城ひろき]]([[兵庫県]][[宝塚市]]議)、[[鈴木浩子]](千葉県議)、[[都築龍太]](さいたま市議)、[[西村修]](東京都[[台東区議会|台東区議]])、[[松野明美]]([[熊本市議会|熊本市議]]、のち[[熊本県議会|熊本県議]]を経て参議院議員)、[[橋本侑樹]]([[東京都]][[渋谷区議会|渋谷区議]])、[[嶋川武秀]](富山県[[高岡市]]議、市議退任後[[富山県議会|富山県議]])、[[長井秀和]](東京都[[西東京市]]議)、[[上原チョー]]([[栃木県]][[真岡市]]議)、[[後藤祐樹]](千葉県[[八街市]]議)上原康樹(岩手県議)などが多数が進出している。
=== 三権の長・閣僚 ===
日本ではタレント出身の政治家が[[内閣総理大臣|首相]]になった例は現時点まではないものの、国政において三権の長である国会議長や閣僚に登りつめた例は少なからず存在する(括弧内の氏名は公職就任時における本名)。
* 国会議長(就任日)
** [[扇千景]](林寛子) - [[参議院議長]](2004年7月30日)
** [[山東昭子]] - 参議院議長(2019年8月1日)
* 閣僚(初入閣日)
** [[石原慎太郎]] - 環境庁長官(1976年12月24日)
** [[山東昭子]] - 科学技術庁長官(1990年12月29日)
** [[田名部匡省]] - 農林水産大臣(1991年11月5日)
** [[八代英太]](前島英三郎) - 郵政大臣(1999年10月5日)
** [[扇千景]](林寛子) - 建設大臣(2000年7月4日)
** [[小野清子]] - 国家公安委員長(2003年9月22日)
** [[小池百合子]] - 環境大臣(2003年9月22日)
** [[舛添要一]] - 厚生労働大臣(2007年8月27日)
** [[福島瑞穂]] - 消費者担当大臣(2009年9月16日)
** [[蓮舫]](村田蓮舫) - 行政刷新担当大臣(2010年6月8日)
** [[岡崎トミ子]] - 国家公安委員長(2010年9月17日)
** [[小宮山洋子]] - 厚生労働大臣(2011年9月2日)
** [[山谷えり子]](小川惠里子) - 国家公安委員長(2014年9月3日)
** [[馳浩]] - 文部科学大臣(2015年10月7日)
** [[丸川珠代]](大塚珠代) - 環境大臣(2015年10月7日)
** [[橋本聖子]](石﨑聖子) - 東京オリンピック・パラリンピック担当大臣(2019年9月11日)
=== 公的場面での芸名(通名)使用 ===
日本では[[日本の国会議員|国会議員]]は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められている(ただし、参議院議員の[[芸名]]・[[通名]]使用が認められたのは1997年の事である<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/goiken_gositumon/faq/a08.html 議員について:よくある質問:参議院] 参議院公式サイト</ref>)が、[[国務大臣]]等[[行政府]]の役職に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。
このため、閣僚として入閣したタレント議員は、行政府の[[公文書]]に対しては本名で署名する事となっている。例えば、元参議院議員[[扇千景]]は[[国土交通大臣]](国務大臣)としての公文書には本名の「林寛子」で署名をしていたが、このような規定のない参議院議長としての公文書には芸名(通名)の「扇千景」で署名をしていた。
[[東国原英夫]]前[[宮崎県知事一覧|宮崎県知事]]の場合は、選挙の際には芸名(そのまんま東)としたものの、公的には使いづらいと判断し、知事就任後は本名を用いている(政界引退後も本名で活動)。一方、知事就任後も公文書を除いて芸名を使用している(いた)例としては、[[横山ノック]]元[[大阪府知事一覧|大阪府知事]](本名・山田勇)と[[森田健作]][[千葉県知事一覧|千葉県知事]](本名・鈴木栄治)の例があるが、『全国市町村要覧』では、前者は本名を掲載していたのに対し、後者は芸名を掲載している。
=== タレント活動 ===
日本の場合、有名人が選挙への立候補を表明した時点で、[[公職選挙法]]や[[放送法]]の規定から派生したメディア側の[[自主規制]]により、選挙終了まで各メディアでのタレント活動ができなくなるのが一般的である。ニュースや選挙関連の番組を除いて、テレビ、ラジオへの出演はできなくなり、雑誌や新聞での連載等も中断される。この規制により、[[テレビショッピング]]番組に起用していた女優の[[生稲晃子]]が2022年の参院選([[東京都選挙区]])に出馬した影響で同候補出演の映像が使用できなくなったとして、[[番組制作会社]]から[[損害賠償|損害賠償請求]]の裁判を起こされた事例もある<ref>{{Cite web|和書|title=生稲晃子氏の出馬予定で映像使用できず通販会社が損害賠償請求 生稲氏側は反論 |url=https://hochi.news/articles/20220607-OHT1T51180.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2022-06-07 |access-date=2022-07-10}}</ref>。ただし、2001年の参院選に立候補した[[大橋巨泉]]や2022年の参院選に立候補した[[水道橋博士]]は選挙期間中も雑誌の連載を継続していた。
[[横山ノック]]が司会を務めた「[[ノックは無用!]]」([[関西テレビ放送|関西テレビ]])では、選挙期間中は本人が番組を降板するのみならず、番組のタイトルも「ロックは無用!」に改題されていた。[[義家弘介]]が担当していた「[[ヤンキー先生!義家弘介の夢は逃げていかない]]」([[ニッポン放送]])は公示期間中放送休止になっていた。
当選した場合、タレント活動を継続するかどうかはその者の判断による。議員の兼職自体が禁じられているわけではなく、他の職業の者であってもそれまでの仕事を継続する者も少なくないが、タレント政治家の場合はその仕事が世間に露出するものであることから、しばしば論議の的となる。
[[山東昭子]]が1987年に参議院環境特別委員長を務めていた時、[[テレビ東京]]のゴルフ番組「ゴルフだよ人生は」の収録で[[公害健康被害の補償等に関する法律|公害健康被害補償法]]の審議を欠席したため、政治職務よりタレント活動を優先したと非難され、委員長辞任に追い込まれた例がある。
[[橋本聖子]]は[[1996年]]に現職参議院議員<!--1995年当選-->として[[1996年アトランタオリンピック|アトランタオリンピック]]の自転車競技に出場している。2010年の参院選で当選した柔道選手の[[谷亮子]]は、立候補表明時に議員活動と現役選手を両立させ、次回オリンピック出場を目指すと明言し、賛否両論が巻き起こった(当選後に政治職務に専念し、次回のオリンピックに出場しないことを表明した)。一方で、同じ選挙に自民党から立候補した女優の[[三原じゅん子]]は、当選した場合は女優を引退すると表明し、これを受けて、当選後は各メディアでは「元女優」などと表記されている(ただし例外として2011年3月に放送されたテレビドラマシリーズ「[[3年B組金八先生]]」の最終回で過去の出演者達が卒業生として勢揃いで集合する場面では卒業生の一人として特別出演した)。また、歌手の[[中条きよし]]は国会の委員会内での自身のCDやディナーショーを宣伝する発言が騒動となり、その後芸能活動については引退する意向を表明することとなった。
[[プロレスラー]]では[[アントニオ猪木]]が[[第15回参議院議員通常選挙]]で比例区から、[[馳浩]]は[[第17回参議院議員通常選挙]]で石川県選挙区から、[[第19回参議院議員通常選挙|第19回参院選]]では[[大仁田厚]]が比例区から立候補して初当選し、[[第20回参議院議員通常選挙]]では[[神取忍]]が2006年に繰上当選、[[木村健悟]](引退後)・[[西村修]]・[[土方隆司]]が[[第17回統一地方選挙]]でそれぞれの議会に立候補して初当選した。馳はのち本格的に政治家に転身することとなってプロレスラー引退を表明して2006年8月27日に[[両国国技館]]で[[引退試合]]を行ったが、2017年7月26日(衆議院議員時代)と2021年1月4日(衆議院議員時代)と2023年1月1日(石川県知事時代)に限定で復帰し、2023年1月4日に石川県知事としての会見では「私は死ぬまでプロレスラーです」と生涯現役プロレスラーとも取れる発言をした。
[[覆面レスラー]]が地方議員になった場合、覆面姿のまま議会に入場しようとすると「病気などの理由を除き、帽子やコートの着用」を禁じた議会会議規則に抵触すると判断される可能性がある。過去に覆面レスラーが地方議員になった例として、[[ザ・グレート・サスケ]](岩手県議)、[[スペル・デルフィン]](大阪府和泉市議)、[[スカルリーパーA-ji|スカルリーパー・エイジ]](大分市議)、[[グレート☆無茶]](長野市議、のちに長野県議)、タコスキッド(福岡県太宰府市議)があるが、サスケ、デルフィン、無茶、タコスキッドは議会の別室で素顔の本人確認をすること等を条件に覆面姿の議場入場は認められたが、エイジは覆面姿での議場入場は認められなかった。
[[公営競技]]の現役選手で政界に進出した例としては、競輪選手で徳島県小松島市議である[[米崎賢治]]の例がある<ref>現役オートレーサー梅内幹雄が船橋市議選に立候補 ニッカンスポーツ 2015年3月29日</ref>。
[[落語家]]や[[講談師]]、[[漫才師]]などの演芸分野から政界に進出した例として、国政では前述の横山ノックのほか、[[立川談志]]、[[一龍齋貞鳳]]、[[コロムビア・トップ]]、[[西川きよし]](いずれも参議院議員)などの例があり、地方議会では落語家から[[三遊亭らん丈]](東京都町田市議)、[[三遊亭窓里]](埼玉県川越市議)、[[林家とんでん平]](札幌市議)、[[三遊亭洋楽]](北海道函館市議)、[[桂三発]](三重県安濃町議→津市議)、漫才師から[[青空球児・好児]]の青空好児(東京都世田谷区議)、[[母心 (お笑いコンビ)|母心]]の嶋川武秀(富山県高岡市議、のちに富山県議)などの例があり、議員活動の合間を縫う形で高座・舞台への出演などを続けるケースも多い。
=== その他 ===
[[浜田幸一]](元衆議院議員)や[[小沢遼子]](元[[埼玉県議会|埼玉県議会議員]]・元[[浦和市]]議会議員)、[[杉村太蔵]](元衆議院議員)、[[上西小百合]](元衆議院議員)、[[宮崎謙介]](元衆議院議員)、[[金子恵美 (1978年生の政治家)|金子恵美]](元衆議院議員)、[[豊田真由子]](元衆議院議員)、[[太田房江]](元大阪府知事)、[[横粂勝仁]]<ref group="注">ただし政界進出前にフジテレビ系列のバラエティ番組・[[あいのり]]への出演経験がある。</ref>(元衆議院議員)のように[[政治家]]からタレント・[[文化人]]の活動を行う「元議員タレント」もいる。知名度やクリーンなイメージにより政党に起用されるタレント議員に対し、話術に長け時事問題をこなせる元議員タレントはテレビ局等より重宝される<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/36709?page=1 “このハゲー!”豊田真由子、“炎上芸”上西小百合……「元議員タレント」はありかなしか]週刊文春2020年4月22日</ref>。他にはタレントから政治家となり引退後大学教授となった人物に[[野末陳平]](元参議院議員)がいる。太田房江はタレント活動を行った後に参議院議員となっている。またタレント出身でない現職の政治家でも、ゲスト出演等でタレント的な活動を行うこともある。
タレント政治家はタレント業が本来の生業であるため、政界を離れた後、芸能界やスポーツ界に復帰し活動を再開するケースも少なくなく、俳優から政界に転じた[[中村敦夫]](元参議院議員)は政界引退後は俳優業に戻っている。前出の[[江本孟紀]](元参議院議員)は[[野球解説者]]に復帰、[[東国原英夫]](元宮崎県知事・元衆議院議員)と[[森田健作]](元千葉県知事・元衆・参議院議員)はタレント業を再開、[[荻原健司]](元参議院議員)もスキー選手・指導者となったが[[2021年]]に長野市長として政界に復帰した。[[横光克彦]](衆議院議員)は政界進出後一旦は芸能活動を自粛、落選後再び俳優業を再開、[[2017年]]には再度政界復帰し再び芸能活動を停止するという経緯を辿っている。
落語家の[[立川談志]]が[[第9回参議院議員通常選挙|1971年参院選]]全国区で50人中50位の最下位当選した際、インタビューで「寄席でも選挙でも、[[真打]]は最後に上がるもんだ」と答えた。
[[大相撲]][[力士]]の[[旭道山和泰]]は[[1996年]]10月に[[第41回衆議院議員総選挙]]に[[新進党]]から比例区で立候補し、当選した。出馬当初は廃業届を[[日本相撲協会]]に渡したが、落選した際の配慮のために当初は保留扱いとなり、当選後に正式に廃業届が受理された。[[断髪式]]までは[[丁髷]]を結ったまま登院した。
[[麻生太郎]]は[[クレー射撃]]選手として[[1976年モントリオールオリンピック|モントリオールオリンピック]]への出場経験があるが、一般には[[世襲政治家]]としての側面が強く、タレント政治家とはみなされていない。
== 世界におけるタレント政治家 ==
=== 国家元首 ===
国家元首となった芸能分野の出身者は、第40代[[アメリカ合衆国大統領]][[ロナルド・レーガン]]、第13代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]][[ジョセフ・エストラーダ]]、第6代[[ウクライナの大統領|ウクライナ大統領]][[ウォロディミル・ゼレンスキー]]が広く知られる。レーガンは任期満了後政界を引退したが、エストラーダは大統領退任後も政治活動を続け、[[2013年]]には首都[[マニラ]]の市長に当選している。第45代アメリカ大統領を務めた[[ドナルド・トランプ]]は、実業家出身であるがテレビ番組司会者としても活動していた。他には第50代[[グアテマラの大統領|グアテマラ大統領]][[ジミー・モラレス]]などがいる。
元スポーツ選手では第25代[[リベリアの大統領|リベリア大統領]][[ジョージ・ウェア]](元[[サッカーリベリア代表]])がいる。
=== 首相・閣僚 ===
コメディアン出身の[[マリヤン・シャレツ]]は第11代[[スロベニアの首相|スロベニア首相]]をつとめた。
[[パキスタン]]の元クリケット選手である[[イムラン・カーン]]は2018年から2022年まで[[パキスタンの首相|同国の首相]]をつとめていた。[[ブラジル]]では1990年に[[ジーコ]]がスポーツ担当大臣をつとめ、1995年からは[[ペレ]]が[[スポーツ省 (ブラジル)|初代スポーツ大臣]]をつとめた<ref name="サッカーキング">{{Cite web|和書|title = セカンドキャリアで政治の道を選んだサッカー選手たち{{Pipe}}サッカーキング|url = https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20141202/255178.html|date = 2014-12-02|author = サッカーキング編集部|website = サッカーキング|accessdate = 2023-2-23|ref=harv}}</ref>。[[サッカージョージア代表]]であった[[カハ・カラーゼ]]は[[ビジナ・イヴァニシヴィリ内閣]]・
[[イラクリ・ガリバシヴィリ内閣]]で副首相・エネルギー大臣を務め、2017年よりは首都[[トビリシ]]の市長を務めている。
=== 知事・市長 ===
[[2003年]]から[[2011年]]まで[[カリフォルニア州]]知事を務めた[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]は在職中も[[映画]]に[[カメオ出演]]するなど一定の芸能活動を続けていたが、退任後は俳優業を再開し、就任前同様に映画主演も行っている。また[[クリント・イーストウッド]]元カリフォルニア州[[カーメル]]市長も、退任後俳優や監督業を続けている。[[イギリス]]では下院議員を務めた作家の[[ジェフリー・アーチャー]]が、一旦政界を[[引退]]して文筆活動に戻った後、再び政界に復帰している。[[アイスランド]]のスタンダップコメディアンの[[ヨン・ナール]]は首都レイキャビクの市長になり、[[アルメニア]]では人気コメディアンの[[ハイク・マルチアン]]が首都[[エレバン]]の市長になった<ref>{{cite news|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/03/post-11836.php|title=イタリア、ウクライナ、グアテマラ......お笑い芸人が政治を支配する日|newspaper=|publisher=|date=2019-03-13|accessdate=2019-04-22}}</ref>。
アメリカ合衆国の元プロレスラー[[ジェシー・ベンチュラ]]は1990年に[[ミネソタ州]]ブルックリンパーク市長に当選し、1998年から2002年まで[[ミネソタ州]]知事を務めた。
=== 議員 ===
韓国では[[国会議員]]になった芸能人やアナウンサーが多く、1978年の[[第10代総選挙 (大韓民国)|第10回総選挙]]で当選した[[洪性宇]]以降、2020年の[[第21代総選挙 (大韓民国)|第21回総選挙]]まで[[崔戊龍]]・[[李順載]]・[[姜富子]]・[[崔仏岩]]([[崔英漢]])・[[李朱一]]([[鄭周逸]])・[[申栄均]]・[[鄭漢溶]]・[[姜申星一|申星一]]([[姜信永]])・[[金乙東]]・[[崔鍾元]]などの俳優や[[朴映宣]]・[[韓善教]]・[[李季振]]・[[柳根粲]]・[[柳政鉉]]・[[高旼廷]]・[[裵賢鎮]]・[[韓俊鎬]]・[[朴省俊]]・[[金恩慧]]などのアナウンサーが当選し国会議員を務めた<ref>{{Cite web |title=국회로 간, 정치를 사랑한 스타들 [4.13 총선 특집] |url=https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2016/04/13/2016041300726.html |website=조선일보 |date=2016.04.13 |accessdate=2022-03-22 |language=ko}}</ref><ref>{{Cite web |title=고민정·배현진·한준호…방송인 출신 국회의원 대거 등판 |url=https://www.hankyung.com/politics/article/202004163677H |website=hankyung.com |date=2020-04-16 |accessdate=2022-03-22 |language=ko}}</ref>。
[[ロシア]]のレスリング選手である[[アレクサンドル・カレリン]]は2000年に現職国会議員として[[シドニーオリンピック]]のレスリング競技に出場し銀メダルを獲得したことがある。同じくロシアの[[フィギュアスケート]]選手[[エフゲニー・プルシェンコ]]は[[2007年]]3月、[[サンクトペテルブルク]]立法議会議員に当選し、[[2011年]][[バンクーバーオリンピック]]のフィギュアスケート男子シングルに出場し銀メダルを獲得している。しかし、プルシェンコは当選後も競技続行の妨げになるとして議会に殆ど出席していなかったため、強い批判を浴びた。[[2014年]][[ソチオリンピック]]の招致活動に地方議員として参加するなどしたものの、議会内活動はほとんどできないまま[[2011年]]12月、ソチオリンピックへの出場を目指して競技に専念するため、翌年の任期満了をもって政界を引退する意向を表明した。クロアチアの格闘家の[[ミルコ・クロコップ]]は現職国会議員時代に試合を組んでおり、来日もしている。[[阪神タイガース]]で[[三冠王]]など活躍した[[ランディ・バース]]は本名のランディ・バス名義で[[ロートン市]]議員を経て、[[オクラホマ州]]の[[上院]]議員に当選している。元力士の[[旭鷲山昇|旭鷲山]]([[小結]])は母国[[モンゴル]]の[[国民大会議]]議員に当選している。元力士で引退後日本でタレント活動をしていた[[把瑠都凱斗|把瑠都]]([[大関]])は、母国[[エストニア]]の国会([[リーギコグ]])の総選挙に出馬し、一旦は落選したものの[[繰り上げ当選]]している。
===その他 ===
自由選挙制度が行われない体制である国家においても、政治任用によってタレントが政治的役職に就くこともある。[[中華人民共和国]]の[[中国人民政治協商会議]]には、スポーツ関係者枠や文化芸術枠が存在し、映画監督の[[チャン・イーモウ]]や女優の[[コン・リー]]などが委員になっている。また、元タレントである権力者の配偶者が政治的な役割を果たすことも多い。[[フアン・ペロン]]夫人であった[[エバ・ペロン]]、[[毛沢東]]夫人であった[[江青]]が特に知られている。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
* [[元オリンピック・パラリンピック選手の日本の国会議員の一覧]]
* [[単純接触効果]] - 繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果
* [[ポピュリズム]]
* [[世襲政治家]] - タレント政治家の血縁の世襲候補がタレント的な扱いを受ける場合がある。
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{{DEFAULTSORT:たれんとせいしか}}
[[Category:芸能人]]
[[Category:政治家]]
[[Category:政治問題]] | 2003-04-26T16:10:02Z | 2023-10-19T11:16:17Z | false | false | false | [
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7,335 | 国会議員一覧 | 国会議員一覧(こっかいぎいんいちらん)は、日本の国会議員(衆議院議員および参議院議員)の一覧。
現職の国会議員については以下を参照。
元国会議員(元衆議院議員および元参議院議員)のうち現在記事が執筆されている、または近日執筆予定である者の一覧を以下に示す(五十音順)。
※なお、括弧内は議員在任期間。 | [
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参議院議員一覧(さんぎいんぎいんいちらん) | {{日本の統治機構}}
'''国会議員一覧'''(こっかいぎいんいちらん)は、[[日本の国会議員]]([[衆議院]]議員および[[参議院]]議員)の一覧。
'''現職の国会議員については以下を参照。'''
*'''[[衆議院議員一覧]]'''(しゅうぎいんぎいんいちらん)
*'''[[参議院議員一覧]]'''(さんぎいんぎいんいちらん)
==元国会議員==
元国会議員(元衆議院議員および元参議院議員)のうち現在記事が執筆されている、または近日執筆予定である者の一覧を以下に示す(五十音順)。
※なお、括弧内は議員在任期間。
===あ===
*[[逢沢寛]]
*[[逢沢英雄]](1976年 - 1983年)
*[[相澤英之]](1976年 - 2003年)
*[[愛知揆一]](1950年 - 1973年)
*[[愛知治郎]](2001年-2019年)
*[[愛野興一郎]]
*[[青木一男]]
*[[青木茂 (参議院議員)|青木茂]]
*[[青島幸男]](1968年 - 1989年、1992年 - 1995年)
*[[青山丘]](1976年 - 1990年、1993年 - 2005年)
*[[赤城宗徳]](1952年 - 1976年、1979年 - 1990年)
*[[浅沼稲次郎]](1936年 - 1960年)
*[[芦田均]](1932年 - 1959年)
*[[飛鳥田一雄]](1953年 - 1963年、1979年 - 1983年)
*[[東祥三]](1990年 - 2003年、2009年 - 2012年)
*[[安倍晋三]] (1993年 - 2022年)
*[[安倍晋太郎]](1958年 - 1991年)
*[[鮎川金次郎]]
*[[新井将敬]](1986年 - 1998年)
*[[荒舩清十郎]]
*[[有田喜一]]
*[[有田八郎]]
*[[粟屋敏信]](1986年 - 2003年)
*[[五十嵐広三]]
*[[池内沙織]]
*[[池田勇人]](1949年 - 1965年)
*[[池田正之輔]]
*[[石井紘基]]
*[[石上俊雄]]
*[[石田幸四郎]]
*[[石田勝之]]
*[[石田博英]]
*[[石橋湛山]]
*[[石橋政嗣]]
*[[石原慎太郎]]
*[[礒崎陽輔]](2007年-2019年)
*[[市川雄一]]
*[[出光佐三]]
*[[井戸正枝]](2009年 - 2012年)
*[[伊藤英成]]
*[[伊藤茂]]
*[[伊藤宗一郎]]
*[[伊東秀子]]
*[[伊東正義]]
*[[稲葉修]]
*[[犬養健]]
*[[井上喜一]](1986年 - 2009年)
*[[井上敏夫 (海軍軍人)|井上敏夫]](1908年 - 1913年)
*[[今泉昭]]
*[[上田哲]]
*[[上田清司]](1993年 - 2003年)
*[[植竹繁雄]]
*[[宇佐美登]]
*[[内田常雄]]
*[[宇野宗佑]](1960年 - 1996年)
*[[江崎真澄]]
*[[江田三郎]](1963年 - 1977年)
*[[江藤隆美]]
*[[江本孟紀]](1992年 - 2004年)
*[[扇千景]](1977 - 1989年、1993 - 2007年)
*[[大出彰]]
*[[大内啓伍]]
*[[大久保直彦]]
*[[大島九州男]]
*[[太田正孝]]
*[[大西正男]]
*[[大沼瑞穂]](2013年-2019年)
*[[大野伴睦]]
*[[大橋巨泉]]
*[[大平正芳]](1952年 - 1980年)
*[[小笠原三九郎]]
*[[岡田正勝]]
*[[奥田敬和]]
*[[奥野誠亮]]
*[[小此木彦三郎]]
*[[尾崎行雄]](1890年 - 1953年)
*[[小里貞利]]
*[[越智通雄]]
*[[小渕恵三]](1963年 - 2000年)
===か===
*[[柿沢弘治]]
*[[鹿島守之助]]
*[[梶山静六]]
*[[梶原康弘]]
*[[春日一幸]]
*[[片岡直輝]]
*[[片岡直温]]
*[[勝間田清一]]
*[[加藤紘一]](1972年 - 2002年、2003年 - 2012年)
*[[加藤六月]](1967年 - 2000年)
*[[加藤鐐五郎]](1924年 - 1946年、1952年 - 1963年)
*[[金丸信]](1958年 - 1992年)
*[[金子一平 (政治家)|金子一平]]
*[[金子満広]]
*[[鎌田さゆり]]
*[[亀井静香]](1979年 - 2017年)
*[[賀屋興宣]]
*[[河井案里]]
*[[河上丈太郎]]
*[[川崎正蔵]]
*[[川島正次郎]]
*[[川田悦子]]
*[[河村勝]]
*[[河村たかし]](1993年 - 2009年)
*[[神田厚]]
*[[木内四郎]]
*[[木倉和一郎]]
*[[岸信夫]](2004 - 2012年、2012 - 2023年)
*[[岸信介]](1942年 - 1943年、1953年 - 1979年)
*[[北村直人]]
*[[木部佳昭]]
*[[木村武雄]]
*[[木村守男]]
*[[木村義雄 (香川県の政治家)|木村義雄]]
*[[旭道山和泰]]
*[[清瀬一郎]]
*[[鯨岡兵輔]]
*[[久保亘]]
*[[熊谷弘]]
*[[熊代昭彦]]
*[[倉田寛之]]
*[[栗原君子]](1992 - 1998年)
*[[栗本慎一郎]]
*[[黒澤酉蔵]]
*[[黒田長礼]]
*[[黒柳明]]
*[[桑原豊]]
*[[源田実]]
*[[小池政恩]]
*[[小泉純一郎]](1972 - 2009年)
*[[小泉純也]](1937年 - 1945年、1952年 - 1969年)
*[[河野一郎]]
*[[河野謙三]]
*[[河本三郎]](1992年 - 2000年、2003年 - 2009年)
*[[河本敏夫]](1949 - 1996年)
*[[高良とみ]]
*[[古賀潤一郎]]
*[[小坂善太郎]]
*[[小坂徳三郎]]
*[[小平忠]]
*[[伍堂卓雄]]
*[[後藤田正晴]]
*[[五島正規]]
*[[小西理]]
*[[小林興起]]
*[[小林絹治]](1932 - ?、1952年 - 1960年)
*[[小林正巳]](1972 - 1979年)
*[[小森龍邦]](1990 - 1996年)
*[[近藤鉄雄]]
*[[ガーシー|ガーシー(東谷義和)]](2022 - 2023年)
===さ===
*[[斎藤邦吉]]
*[[斎藤十朗]]
*[[斎藤隆夫]]
*[[酒井忠正]]
*[[阪上善秀]]
*[[坂田道太]]
*[[坂本昭 (政治家)|坂本昭]]
*[[坂本金弥]]
*[[坂本三十次]]
*[[桜内義雄]]
*[[迫水久常]]
*[[佐々木更三]]
*[[佐々木秀典]]
*[[佐々木良作]]
*[[笹山登生]]
*[[佐藤栄作]](1949年 - 1975年)
*[[佐藤謙一郎]]
*[[佐藤敬夫]]
*[[佐藤孝行]]
*[[佐藤泰三]]
*[[鮫島宗明]]
*[[沢たまき]](1998年 - 2003年)
*[[椎名悦三郎]]
*[[塩川正十郎]]
*[[塩崎潤]]
*[[志賀節]]
*[[重宗雄三]]
*[[篠田弘作]]
*[[島田久]]
*[[島田俊雄]]
*[[正力松太郎]](1955年 - ?)
*[[白川勝彦]]
*[[陣内孝雄]]
*[[新村源雄]]
*[[永末英一]]
*[[末広まきこ]]
*[[菅野悦子]](1990年 - 1993年)
*[[鈴木善幸]](1947年 - 1990年)
*[[鈴木茂三郎]](1946年 - 1967年)
*[[砂田重民]]
*[[首藤信彦]](2000 - 2005年、2009 - 2012年)
*[[瀬戸山三男]]
*[[園田直]]
*[[園田天光光]]
===た===
*[[大松博文]]
*[[高瀬荘太郎]]
*[[高橋昭一]](2009年 - 2012年)
*[[田川誠一]]
*[[竹入義勝]]
*[[竹内藤男]]
*[[竹下登]](1958年 - 2000年)
*[[武知勇記]]
*[[建部遯吾]]
*[[武村正義]]
*[[田沢吉郎]]
*[[達増拓也]]
*[[辰巳孝太郎]](2013年-2019年)
*[[田中伊三次]](1942年 - 1983年)
*[[田中角栄]](1947年 - 1990年)
*[[田中英夫 (政治家)|田中英夫]]
*[[田中六助]]
*[[田邊圀男]]
*[[田邊七六]]
*[[田邊誠]]
*[[谷洋一]]
*[[谷川和穂]]
*[[谷川昇]]
*[[玉置一徳]]
*[[玉置和郎]]
*[[田村元]]
*[[樽井良和]]
*[[千田正]](1947年 - 1962年)
*[[塚田一郎]](2007年-2019年)
*[[塚田十一郎]]
*[[塚原俊平]]
*[[塚本三郎]]
*[[辻第一]](1979年 - 1993年、1996年 - 2000年)
*[[辻政信]]
*[[辻恵]]
*[[津島恭一]]
*[[土屋義彦]]
*[[都築譲]]
*[[堤康次郎]]
*[[鶴岡洋]]
*[[鶴見祐輔]]
*[[手島栄]]
*[[寺田栄]]
*[[土井たか子]]
*[[遠山清彦]]
*[[徳川慶光]]
*[[徳田虎雄]]
*[[豊田真由子]]
===な===
*[[中泉松司]]
*[[中尾栄一]]
*[[中川一郎]]
*[[中川智子]]
*[[中島源太郎]]
*[[中島知久平]]
*[[中島洋次郎]](1992年 - 1999年)
*[[中野寛成]]
*[[中野譲]]
*[[中西一善]]
*[[中西啓介]]
*[[永末英一]]
*[[中曽根康弘]]
*[[中田宏]]
*[[中村鋭一]]
*[[中村三之丞]]
*[[中村正三郎 (政治家)|中村正三郎]]
*[[中山利生]]
*[[中山正暉]]
*[[永岡洋治]]
*[[灘尾弘吉]]
*[[楢崎欣弥]]
*[[成田知巳]]
*[[二階堂進]]
*[[中尾栄一]]
*[[永田寿康]]
*[[西尾末広]]
*[[西川きよし]]
*[[西川太一郎]]
*[[西田信一]]
*[[西村栄一]]
*[[二之湯武史]](2013年-2019年)
*[[野坂参三]]
*[[能勢和子]]
*[[野末陳平]]
*[[野田実]]
*[[野中広務]]
*[[信田邦雄]]
*[[野呂昭彦]]
===は===
*[[計屋圭宏]]
*[[橋本清仁]]
*[[橋本登美三郎]]
*[[橋本龍太郎]]
*[[長谷川峻]]
*[[畑英次郎]]
*[[秦野章]]
*[[鳩山威一郎]]
*[[鳩山一郎]]
*[[鳩山和夫]]
*[[鳩山秀夫]]
*[[浜田幸一]]
*[[浜田卓二郎]]
*[[浜野昇]]
*[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]
*[[早川久美子]]
*[[原健三郎]]
*[[原陽子]]
*[[原田憲]]
*[[半田善三]]
*[[樋貝詮三]]
*[[平泉渉]]
*[[平野貞夫]]
*[[平野達男]]
*[[広川弘禅]]
*広川シズエ ※[[広川弘禅]]の妻
*[[福島譲二]]
*[[福田赳夫]] (1952年 - 1990年)
*[[福田一]]
*[[福田昌子]]
*[[福家俊一]]
*[[藤枝泉介]]
*[[藤井勝志]]
*[[藤井恒男]]
*[[藤尾正行]]
*[[藤田雄山]]
*[[藤田幸久]]
*[[藤波孝生]]
*[[藤巻健史]]
*[[藤山愛一郎]]
*[[船田中]]
*[[不破哲三]]
*[[星島二郎]]
*[[細川護熙]]
*[[保利茂]]
*[[堀之内久男]]
*[[本名武]]
===ま===
*[[前尾繁三郎]]
*[[前田房之助]]
*[[増田甲子七]]
*[[益谷秀次]]
*[[町村金五]]
*[[町村敬貴]]
*[[松浦周太郎]]
*[[松田竹千代]]
*[[松永光]]
*[[松野信夫]]
*[[松野頼三]]
*[[松宮勲]]
*[[松本和巳]]
*[[松本善明]]
*[[松村謙三]]
*[[丸谷金保]]
*[[丸山和也]]
*[[三木武夫]](1937年 - 1988年)
*[[三木武吉]]
*[[三沢淳]]
*[[水島広子]]
*[[水田三喜男]]
*[[溝手顕正]]
*[[三塚博]](1972年 - 2003年)
*[[三ッ林弥太郎]]
*[[美濃政市]]
*[[御法川英文]]
*[[箕輪登]]
*[[三村申吾]]
*[[宮崎謙介]]
*[[宮澤喜一]]
*[[宮沢胤勇]]
*[[宮本一三]]
*[[宮本顕治]]
*[[三好英之]]
*[[武藤嘉文]]
*[[村井仁]]
*[[村岡兼造]]
*[[村上正邦]]
*[[村越祐民]]
*[[村田敬次郎]](1969年 - 2000年)
*[[村山富市]]
*[[森本晃司 (政治家)|森本晃司]]
*[[森岡正宏]]
*[[森清 (千葉県の政治家)]]
*[[森清 (愛媛県の政治家)]]
*[[森曉]]
*[[森矗昶]]
*[[森美秀]]
===や===
*[[八代英太]]
*[[矢野絢也]]
*[[山内一郎]]
*[[山口敏夫]]
*[[山口和之]]
*[[山崎巌]]
*[[山崎猛 (政治家)|山崎猛]]
*[[山崎達之輔]]
*[[山下貴史]]
*[[山下元利]]
*[[山下徳夫]]
*[[山下善彦]]
*[[山名靖英]]
*[[山中貞則]]
*[[山花貞夫]]
*[[山村庄之助]](1958年 - 1959年)
*[[山村新治郎 (11代目)|山村新治郎]](1964年 - 1992年)
*[[山本幸雄]]
*[[山本譲司]]
*[[山本孝史]](1993 - 2000年、2001年 - 2007年)
*[[吉田茂]]
*[[吉田之久]]
*[[米沢隆]]
*[[米田建三]]
===わ===
*[[若井康彦]]
*[[若泉征三]]
*[[若狭勝]]
*[[若林秀樹]]
*[[若林正俊]]
*[[脇雅史]]
*[[和嶋未希]]
*[[早稲田柳右衛門]]
*[[和田一郎 (政治家)|和田一郎]]
*[[和田一仁]]
*[[和田耕作]]
*[[和田貞夫]]
*[[和田静夫]](1968年 - 1986年、1990年 - 1993年)
*[[和田隆志]]
*[[和田教美]]
*[[和田鶴一]]
*[[和田春生]]
*[[和田洋子]]
*[[和田博雄]]
*[[渡瀬憲明]]
*[[渡部篤]]
*[[渡部一郎]]
*[[渡部一夫]]
*[[渡辺栄一]]
*[[渡辺嘉蔵]]
*[[渡辺浩一郎]]
*[[渡辺紘三]]
*[[渡部恒三]]
*[[渡辺三郎]]
*[[渡辺省一]]
*[[渡辺四郎]]
*[[渡辺惣蔵]]
*[[渡辺孝男 (政治家)|渡辺孝男]]
*[[渡辺武 (日本共産党)|渡辺武]]
*[[渡辺武三]]
*[[渡辺具能]]
*[[渡辺秀央]]
*[[渡部正郎]]
*[[渡辺美智雄]](1963年 - 1995年)
*[[渡部通子]]
*[[渡辺貢 (政治家)|渡辺貢]]
*[[渡部行雄]]
*[[渡邊良夫]]
*[[渡辺芳男]]
*[[渡辺義彦]]
*[[渡部義通]]
*[[渡辺朗]]
*[[綿貫民輔]]
*[[亘四郎]]
*[[鰐淵俊之]]
*[[藁科満治]]
==関連項目==
*[[世襲政治家一覧]]
*[[女性政治家の一覧]]
*[[日本の女性国会議員一覧]]
{{デフォルトソート:こつかいきいんいちらん}}
[[Category:日本の国会議員一覧|*]] | 2003-04-26T16:17:08Z | 2023-08-26T11:23:25Z | false | false | false | [
"Template:日本の統治機構"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E5%93%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
7,337 | アラブ (曖昧さ回避) | アラブ(Arab ) | [
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}
] | アラブ(Arab ) アラブ人
アラブ世界
アラブ首長国連邦
アラブ種 - ウマの品種名。単にアラブとも。アラビア半島原産。
アラブ系種 - 上記を基に作られた品種。アラ系と略される。
アングロアラブ - アラブ系種同様アラブ種を基に作られた品種。アアと略される。 | '''アラブ'''(''Arab'' )
* [[アラブ人]]
* [[アラブ世界]]
* [[アラブ首長国連邦]]
* [[アラブ種]] - [[ウマ]]の[[品種]]名。単に'''アラブ'''とも。[[アラビア半島]]原産。
** [[アラブ系種]] - 上記を基に作られた品種。'''アラ系'''と略される。
** [[アングロアラブ]] - アラブ系種同様アラブ種を基に作られた品種。'''アア'''と略される。
== 関連項目 ==
* [[アラビア (曖昧さ回避)]]
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:あらふ}} | null | 2022-09-12T03:04:14Z | true | false | false | [
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) |
7,340 | ダヒ | ダヒまたはダヒー(ヒンディー語、ネパール語:दही ウルドゥー語:دہی)は、インドやネパール、パキスタンで作られる乳製品。ヨーグルトの一種である。
インド英語ではカード (Curd) と訳されるが、レンネットなどの蛋白質分解酵素による凝固ではなく主に乳酸菌による凝固である点で、ヨーグルトである。インド文明圏は中央アジアの牧畜文化との結びつきも強い。日本のヨーグルトに見かけが近いが、比較的硬めに固まっている。
そのまま食べたり、ラーイター(ダヒーをベースにしたサラダの様なもの)を作ったり、ラッシーにして飲んだり、肉や野菜の煮込み料理に加えたりする。
ベンガル語ではドイ (doi)、タミル語ではタイール (thayir)、テルグ語ではペルーグー (perugu) と呼ぶ。 | [
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] | ダヒまたはダヒーは、インドやネパール、パキスタンで作られる乳製品。ヨーグルトの一種である。 インド英語ではカード (Curd) と訳されるが、レンネットなどの蛋白質分解酵素による凝固ではなく主に乳酸菌による凝固である点で、ヨーグルトである。インド文明圏は中央アジアの牧畜文化との結びつきも強い。日本のヨーグルトに見かけが近いが、比較的硬めに固まっている。 そのまま食べたり、ラーイター(ダヒーをベースにしたサラダの様なもの)を作ったり、ラッシーにして飲んだり、肉や野菜の煮込み料理に加えたりする。 ベンガル語ではドイ (doi)、タミル語ではタイール (thayir)、テルグ語ではペルーグー (perugu) と呼ぶ。 | {{独自研究|date=2013年10月}}
[[File:Curd_in_a_traditional_Manipuri_earthen_pot.JPG|thumb|ダヒー]]
[[File:Curd in Sri Lanka.jpg|thumb|[[スリランカ]]の水牛ヨーグルト({{lang|si|මී කිරි}})。インド英語でCurdと併記されている。]]
'''ダヒ'''または'''ダヒー'''([[ヒンディー語]]、[[ネパール語]]:{{lang|hi|दही}} [[ウルドゥー語]]:{{lang|ur|دہی}})は、[[インド]]や[[ネパール]]、[[パキスタン]]で作られる[[乳製品]]。[[ヨーグルト]]の一種である。
[[インド英語]]では'''[[カード (食品)|カード]]''' (Curd) と訳されるが、[[レンネット]]などの[[蛋白質]]分解[[酵素]]による[[凝固]]ではなく主に[[乳酸菌]]による凝固である点で、ヨーグルトである。[[インド文化圏|インド文明圏]]は[[中央アジア]]の牧畜文化との結びつきも強い。日本のヨーグルトに見かけが近いが、比較的硬めに固まっている。
そのまま食べたり、[[ライタ|ラーイター]](ダヒーをベースにした[[サラダ]]の様なもの)を作ったり、[[ラッシー]]にして飲んだり、肉や野菜の[[煮込み]]料理に加えたりする。
[[ベンガル語]]ではドイ (doi)、[[タミル語]]ではタイール (thayir)、[[テルグ語]]ではペルーグー (perugu) と呼ぶ。
== 関連項目 ==
* [[インド料理]]
* [[パキスタン料理]]
{{Commonscat|position=left}}
{{South-asia-stub}}
{{デフォルトソート:たひ}}
[[category:インドの食文化]]
[[Category:ヨーグルト]] | 2003-04-26T18:44:39Z | 2023-08-01T00:24:39Z | false | false | false | [
"Template:独自研究",
"Template:Lang",
"Template:Commonscat",
"Template:South-asia-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%92 |
7,341 | 議員 | 議員(ぎいん、英: legislator)とは、国や地方自治に設置されている議会を構成し、表決権を行使することを通じて有権者の意思を反映させることのできる立場にある者を指す。
現代の議員の選出は原則として公選制であり、その国の法律で定めるところの選挙権を有する有権者からの投票によって選出される。なお、日本の公職選挙法第10条において、被選挙権は日本国民が有するものと定められている。
国権の最高機関としての国会(議会)あるいはそれに類する組織を設置している国家には、定員こそ違えど議員としての権限を有する者がいることになる。また、その国の地方自治体にも議会が存在し、それを構成する議員達がいる。ほとんどの議会制民主主義国家では、国民による選挙で選出された議員によって議会が構成されている。議会は「国民の代表」である議員によって構成されている事から、国民が政策の決定に直接関与していなくても、国民全てが決定したものと見做される(議会の審議機能)。
議員は「議院自律権」を持ち、議長や事務局の選出、議員の資格争訟・懲罰・会議運営等について議会が自ら行う事とされ、他からの干渉を受けないというもので国権として独立した機関を保っている。
議員は有権者の代表として、予算や法律の制定、政府の監視などの権能を有している。現在ほとんどの議会制民主主義国家では、権力分立の観点から議会と政府との役割は分担され政治権力の分散が図られている。基本的に議会は「議決機関」、政府は「執行機関」と位置づけられ、それにより議員は立法を、政府は行政を司る事とされている。
主な仕事は、自らが所属する議院や委員会において議案の審議に参加し、修正などの作業に関わり最終的に表決することである。また、陳情を聞いたり集会に参加することで選挙民の意見を伺い、国や地方自治体の政策に反映させることである。
国会議員は立法の権限を司っており、国家における最高機関及び法治国家の根幹である法律を制定する議決機関としての役割を担当している。対して地方議会議員は、その地方での条例を制定する権能を有している。
行政に対しては、予算承認権をはじめとした政府に対する監視・監督のための様々な権限を持つ。議会の立法権能に付随したものと言われることもあるが、国政全般について質問するために証人を喚問し、資料を提出させる「国政調査権」は重要な権能である。また、議会が制定する法律が本来的な上位の法であり、政府が定める政令は補完的・従属的である。
司法に対しては、裁判官の選任または在任について何らかの関与をすることが多い。日本では国会において、議員で構成された裁判官弾劾裁判所と裁判官訴追委員会を設置する。
議員の公務遂行においては、資質(立法能力、質問能力)だけではなく、廉直性(汚職に関与しない事など)、さらには私生活上の道徳性についてまで、国民の厳しい監視を受けるに至っている。議員の権限は、行政府の権力集中に対する重要な牽制となっている。
国家の最高議決機関を両院制としている国では、上院と下院に分かれていることが多い。これらに所属している議員をそれぞれ上院議員、下院議員と呼び、英語でもupper house, lower houseなどと呼ばれる。ただし上院や下院はいずれも便宜的な名前であり、正式名が各国で別に存在する。例えば、アメリカ連邦議会のアメリカ合衆国上院は直訳すると「合衆国元老院」であり、アメリカ合衆国下院は「合衆国代議院」である。
世界的な視点で見れば、日本の参議院議員が上院議員に、衆議院議員が下院議員に相当するが、日本の国会議員を指す場合に普通は上院議員、下院議員という言葉は用いない。日本の新聞やニュースではほとんどの国の上下院議員を「アメリカ上院議員」などと国名を付けて呼び、大統領選挙のときなど国名が自明である場合や、複数の議員の名前を挙げるときなど繰り返しになる場合には国名を省略する。
所属する議会の権限によって、議員の権利や権限も大きく変わる。日本でいえば、国会議員には不逮捕特権や免責特権があるが、地方議会議員にはこれがない。 | [
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] | 議員とは、国や地方自治に設置されている議会を構成し、表決権を行使することを通じて有権者の意思を反映させることのできる立場にある者を指す。 現代の議員の選出は原則として公選制であり、その国の法律で定めるところの選挙権を有する有権者からの投票によって選出される。なお、日本の公職選挙法第10条において、被選挙権は日本国民が有するものと定められている。 | {{独自研究|date=2012年12月}}
{{混同|議院}}
{{Otheruses|国会や地方議会の議員|商工会議所の議員|商工会議所|商工会の議員|商工会}}
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[[ファイル:108th-Congress-being-sworn-in.jpg|thumb|220px|right|議場に集まった国会議員]]
'''議員'''(ぎいん、{{lang-en-short|legislator}})とは、[[国家|国]]や[[地方公共団体|地方自治]]に設置されている[[議会]]を構成し、[[表決|表決権]]を行使することを通じて[[有権者]]の意思を反映させることのできる立場にある者を指す<ref> {{Cite web|和書|title=議員とは|url= https://kotobank.jp/word/議員-49866|website=コトバンク|accessdate=2021-08-17|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典|last=第2版}}<br />{{Cite web|和書|title=政治家とは|url=https://kotobank.jp/word/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6-85850|website=コトバンク|accessdate=2021-08-17|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典|last=第2版}}<br />{{Cite web|和書|title=政治家とは|url= https://www.13hw.com/jobcontent/05_05_01.html|website=13歳のハローワーク|last=村上|first=龍|accessdate=2021-08-17|language=ja}}<br />を参考に記述</ref>。
現代の議員の選出は原則として[[公選制]]であり、その国の[[法律]]で定めるところの[[選挙権]]を有する[[有権者]]からの[[投票]]によって選出される。なお、[[日本]]の[[公職選挙法]]第10条において、[[被選挙権]]は[[日本国民]]が有するものと定められている。
== 概要 ==
[[国権]]の最高機関としての[[国会]](議会)あるいはそれに類する組織を設置している[[国家]]には、[[議員定数|定員]]こそ違えど議員としての権限を有する者がいることになる。また、その国の地方自治体にも[[地方議会|議会]]が存在し、それを構成する議員達がいる。ほとんどの[[議会制民主主義]]国家では、[[国民]]による[[選挙]]で選出された議員によって議会が構成されている。議会は「国民の代表」である議員によって構成されている事から、国民が政策の決定に直接関与していなくても、国民全てが決定したものと見做される(議会の審議機能)。
議員は「議院自律権」を持ち、[[議長]]や[[事務局]]の選出、議員の資格争訟・懲罰・会議運営等について議会が自ら行う事とされ、他からの干渉を受けないというもので国権として独立した機関を保っている。
議員は[[有権者]]の代表として、[[予算]]や[[法律]]の制定、[[政府]]の監視などの権能を有している。現在ほとんどの議会制民主主義国家では、[[権力分立]]の観点から議会と[[政府]]との役割は分担され[[政治権力]]の分散が図られている。基本的に議会は「[[議決機関]]」、政府は「[[執行機関]]」と位置づけられ、それにより議員は立法を、政府は行政を司る事とされている。
== 役割 ==
主な仕事は、自らが所属する[[議院]]や[[委員会]]において[[議案]]{{要曖昧さ回避|date=2022年4月}}の[[審議]]に参加し、修正などの作業に関わり最終的に[[表決]]することである。また、[[陳情]]を聞いたり[[タウンミーティング (対話集会)|集会]]に参加することで選挙民の意見を伺い、国や地方自治体の[[政策]]に反映させることである<ref>https://www.13hw.com/jobcontent/05_05_01.html</ref>。
[[国会議員]]は[[立法]]の権限を司っており、国家における最高機関及び[[法治国家]]の根幹である[[法律]]を制定する議決機関としての役割を担当している。対して[[地方議会議員]]は、その地方での[[条例]]を制定する権能を有している。
[[行政]]に対しては、予算承認権をはじめとした[[政府]]に対する監視・監督のための様々な権限を持つ。議会の立法権能に付随したものと言われることもあるが、国政全般について質問するために証人を喚問し、資料を提出させる「[[国政調査権]]」は重要な権能である。また、議会が制定する法律が本来的な上位の法であり、政府が定める[[政令]]は補完的・従属的である。
[[司法]]に対しては、[[裁判官]]の選任または在任について何らかの関与をすることが多い。日本では[[国会 (日本)|国会]]において、議員で構成された[[裁判官弾劾裁判所]]と[[裁判官訴追委員会]]を設置する。
議員の[[公務]]遂行においては、資質(立法能力、質問能力)だけではなく、廉直性([[汚職]]に関与しない事など)、さらには私生活上の道徳性についてまで、国民の厳しい監視を受けるに至っている。議員の権限は、行政府の権力集中に対する重要な牽制となっている。
<!--== 議員と利権 ==
議員を仲立ちとする地方と国との[[利権]]関係やそれに起因する諸問題は、今も昔も[[政治]]の世界では避けて通ることができない。議員を選出する側である有権者は、諸制度の改善や地元地方への[[インフラストラクチャー|インフラ整備]]などによる[[社会]]的・[[福祉]]的な恩恵、又は国家的なイベントや高速交通機関の誘致や[[公共事業]]の[[受注]]などによる[[経済効果]]を求めるし、議員の側も地元への便宜をはかることで次の選挙での再選を期そうとする。社会的な利益の還元として地元を潤す形であれば特に法を犯すこともないが、一部の議員の強烈な圧力によって公共事業の計画を大幅に変更させたり、公共事業をばらまいたりといった行為がしばしば非難の対象となる。こういったことは日本に限らず[[アメリカ]]でも聞かれる話で、少し古い話だが、[[1950年代]]後半に[[アメリカ陸軍]]の[[準中距離弾道ミサイル]][[MGM-31 (ミサイル)|MGM-31 パーシング]]の主契約企業の選定作業で、元[[ミシガン州]]知事であった陸軍長官ウィルバー・ブラッカーが、[[契約]]を[[ミシガン州]]の企業に与えるように地元から圧力をかけられていたことがあった。候補に挙がっていた企業の中でミシガン州の企業は[[クライスラー]]だけであったが、実際に受注したのは[[マーティン・マリエッタ]]であった。
こうした議員を仲立ちとする利権が、制度の不備の改善や交通網の整備といった[[公共の福祉]]を大幅に超えて特定の[[個人]]や[[企業]]に対する不正な[[利益]]供与に至ると[[汚職]]という形になり、[[刑事事件]]にも発展していく。議員の汚職は幾度となく問題となり、[[逮捕]]者が出たり、有罪[[判決]]が出て議員としての職を失ってしまったりするような事件が起こっても後を絶つことがない。また、有罪判決を受けて[[失職]]してしまったにも関わらず、有権者の地元への恩恵の期待から、その議員が次の選挙で再び当選してしまうことも決して珍しいことではない。
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== 議員の種類 ==
国家の最高議決機関を[[両院制]]としている国では、[[上院]]と[[下院]]に分かれていることが多い。これらに所属している議員をそれぞれ[[上院議員]]、[[下院議員]]と呼び、[[英語]]でも''upper house'', ''lower house''などと呼ばれる。ただし上院や下院はいずれも便宜的な名前であり、正式名が各国で別に存在する。例えば、[[アメリカ合衆国議会|アメリカ連邦議会]]の[[アメリカ合衆国上院]]は直訳すると「合衆国元老院」であり、[[アメリカ合衆国下院]]は「合衆国代議院」である。
[[世界]]的な視点で見れば、日本の[[参議院議員]]が上院議員に、[[衆議院議員]]が下院議員に相当するが、日本の国会議員を指す場合に普通は上院議員、下院議員という言葉は用いない。日本の[[新聞]]や[[ニュース]]ではほとんどの国の上下院議員を「アメリカ上院議員」などと国名を付けて呼び、大統領選挙のときなど国名が自明である場合や、複数の議員の名前を挙げるときなど繰り返しになる場合には国名を省略する。
所属する議会の権限によって、議員の権利や権限も大きく変わる。日本でいえば、国会議員には[[不逮捕特権]]や[[免責特権]]があるが、地方議会議員にはこれがない。
=== 日本の議員 ===
* [[日本の国会議員|国会議員]] - [[国会 (日本)|国会]]における議員。
** 衆議院議員
** 参議院議員
* [[日本の地方議会議員|地方議会議員]] - [[日本の地方議会|地方議会]]における議員。
** 都道府県議会議員
** 区議会議員
** 市町村議会議員
* 議会以外の議員 - [[皇室会議]]<ref>[[皇室典範]]28条。</ref>や[[皇室経済会議]]<ref>[[皇室経済法]]8条1項。</ref>には「議員」が置かれている。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[政治家]]
* [[国会議員]]
* [[地方議会議員]]
* [[参政権]] - 各国の被選挙権年齢
* [[議員報酬]]
* [[議員定数]]
* [[議員会館]]
* [[議員宿舎]]
* [[議員年金]]
* [[議員立法]]
* [[議員連盟]]
* [[族議員]]
* [[陣笠議員]]
* [[Twitter議員]]
* [[有識者議員]]
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== 外部リンク ==
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[[Category:議員|*]] | 2003-04-26T18:53:20Z | 2023-12-16T10:22:49Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B0%E5%93%A1 |
7,342 | ヨーグルト | ヨーグルト(トルコ語: yoğurt、ブルガリア語: Кисело мляко、ドイツ語: Joghurt、英語: yoghurt,yogurt)は、乳に乳酸菌や酵母を混ぜて発酵させて作る発酵食品のひとつ。乳原料を搾乳し利用する動物は専用のウシ(乳牛)だけでなく、水牛、山羊、羊、馬、ラクダなどの乳分泌量が比較的多く、搾乳が行いやすい温和な草食動物が利用される。 ヨーグルトに溜まる上澄み液は乳清(英語ではwhey〈ホエイ〉)という。
FAOとWHOによって定められたヨーグルトの厳密な定義によると、「ヨーグルトとは乳及び乳酸菌を原料とし、ブルガリア株(Lactobacillus bulgaricus)とサーモフィルス株(Streptococcus thermophilus)が大量に存在し、その発酵作用で作られた物」と定められている。
日本において乳等省令では「発酵乳」(乳等省令2条39項)のことである。
ヨーグルトの起源はヨーロッパ、アジア、中近東にかけての様々な説があり、およそ7000年前とされる。生乳の入った容器に環境常在菌である乳酸菌が偶然入り込んだのがはじまりと考えられている。
気温の高い地方では、生乳のままだと腐りやすいが、乳酸菌で乳を発酵させると保存性がよくなる。イランなどでは乳を醗酵させた後で乳脂肪分を分離し、バターを得ることも行われていた。
ヨーグルトに相当する食品は世界各国に存在し、それぞれの国でさまざまな名称を持つ。欧米や日本において用いられる「ヨーグルト」という言葉は、トルコ語でヨーグルトを意味する「ヨウルト(yoğurt)」に由来する。ヨウルトは「攪拌すること」を意味する動詞yoğurmakの派生語で、トルコにおけるヨーグルトの製法を反映している。
イリヤ・メチニコフ(微生物学者:ノーベル生理学・医学賞 1908年受賞)がブルガリア(当時はロシア領だが直前までオスマン帝国領)を訪れた際に、ブルガリア人が長寿で有ることを発見し、その原因を現地の伝統食品であるヨーグルトであるとし、『ヨーグルト不老長寿説』を発表した事によって広まった。なお、日本語のヨーグルトという呼称は直接にはドイツ語のJoghurtを由来とする。
乳酸菌は通常、腸内細菌として棲息しているが、ヨーグルトの乳酸菌は、腸内定着することはできない。ただし、その代謝物などが腸内のウェルシュ菌(Clostridium)などを減少させ、Bifidobactoriumなどの在来乳酸菌を増殖させるという整腸作用をもつ。結果として、腸内細菌叢中のウェルシュ菌などの比率の低下と産生される物質を減少させ、腸管免疫系を活性化させるとされている。乳酸菌の耐酸性には差違がありヨーグルトでよく利用されている「ブルガリア株」は胃酸で不活化(死滅)する。また、生存し胃を通過したとしても小腸内で胆汁酸により不活化(死滅)するため大腸内に定着はしないが、その菌体や代謝産物が腸内で有効に働くとされる。一方、ビフィズス菌もヨーグルトで利用されるが、胃酸、胆汁酸で不活化(死滅)せず、大腸内で定着する性質を有する。定常的に摂食することで乳清由来乳酸による腸内環境が弱酸性(pH5.3から)化し、糞便菌叢の胆汁酸(弱アルカリ:pH8.2から)に耐性があるクロストリジウム属(Clostridium)株の生育を減少させ、腐敗産物(アンモニア、フェノール、p-クレゾール、インドール、スカトールなど)生成量を低減させると報告されているが、詳細メカニズムは解明されていない。
「免疫力を高める」「アレルギーが治る」などの宣伝文句が使われるが、ヒトを対象にした臨床試験では支持する結果が得られていないとする指摘もある。
乳中の水溶性ビタミンは乳源動物の血中濃度にほぼ依存し変化するが、牛乳にビタミンCがほとんど含まれていないのは、ウシなどの動物は自らビタミンCを合成できるので摂取する必要がないためである。乳酸菌は発酵の際にビタミンCも生成し、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる。このため、ヨーグルトには若干のビタミンCが含まれている。
ヨーグルトが形成される過程で、乳酸菌の働きによりラクトースの一部がグルコースとガラクトースに分解されるため、乳糖不耐症の牛乳を飲むと下痢をしてしまう人がヨーグルトと共に牛乳を飲んだ場合、牛乳だけよりも症状が軽減されるとの研究がある。
発酵行程において乳酸菌のL.bulgaricusとS.thermophilusは共生関係にあると報告されている。これは、それぞれの菌単独で発酵させた場合よりも数分の1の短時間で発酵が進むことで分かる。この菌は長期間の共生により、代謝物を相互に利用しあたかも1つの菌のように振る舞う。その結果、ゲノムサイズが縮小するという進化を起こしている。
単体で種菌を入手し牛乳と混ぜることで作ることもできるが、市販されているプレーン・ヨーグルトに含まれる乳酸菌を使って作ることもできる。したがって、出来の良いヨーグルトを種として取っておき、それを使うこともできる。ただし、雑菌の混入を完全に阻止出来ない一般家庭において植え継ぎ(残ったヨーグルトを続けて種菌として使用し続ける)を行った場合、環境中に常在している乳酸菌が混入し増殖するほか、乳酸菌以外の雑菌として大腸菌(Escherichia coli), Klebsiella aerogenes, Citrobacter freundiiなども増殖する可能性があるが、雑菌の混入は外見からは判断できないとする見解がある。
基本的な作り方は以下のとおりである。ヨーグルトメーカーを使うと作りやすい。
ブルガリアでは伝統的なヨーグルトはセイヨウサンシュユなどの葉の朝露にいる乳酸菌から作られているが、日本にもあるサンシュユの木の枝を使ってもヨーグルト状のものを作ることができる(ただし、安全かは不明)。
近代的な製法では、温度調整済と殺菌済み原料乳と副原料(脱脂粉乳やバターなど)に培養した種菌(乳酸菌スターター)を加え、40°Cから45°Cの環境下に一定時間置くことで生産される。プレーンヨーグルトでは一定の状態に達した物を、冷却により発酵を停止しさせ容器への充填を行う。あるいは、加熱殺菌を行い加糖ヨーグルトや果実加工品、低カロリー甘味料などを添加した製品が大量生産される。なお、種菌(菌株)の組合せ、発酵温度、発酵時間、酸素濃度などの調整により異なった特徴を与えることが可能である。
ヨーグルトが固まる原理は、乳内の糖を乳酸菌が分解し作り出した乳酸によって、乳が酸性に傾くことで乳内のカゼインが固まることによる。pH4.6(等電点)を超えた当たりから凝固し始める。乳酸菌は酸に対してある程度の耐性を持つため、他の酸に弱い雑菌(ブドウ球菌や一部の大腸菌)の増殖を抑えて増殖する。
地域毎に原料乳や製法が異なるため、様々な特徴をもつヨーグルトが存在している。
カルグルトは、皇室で食されるヨーグルトで、発酵には皇室専用の菌を使い、牛乳はジャージー種とホルスタイン種の低温殺菌牛乳をミックスさせて作られ、水で割って飲まれている。
欧米や東アジアではデザートとして食べることが多いが、南アジア、中央アジア、カフカース、中東では塩味の料理に頻繁に用いられる。煮込み料理に加えたり、野菜と和えるほか、タンドリーチキンのマリネやケバブのソースにも使われる。
世界各地には、インドのラッシーやトルコのアイランなど様々なヨーグルト飲料が存在する。欧米ではスムージーに加えたり、氷菓(フローズンヨーグルト)の素材とすることもある。
イランの「カシュク(Kashk)」、アフガニスタンの「クルート(Qurūt)」、アラブ人の「ラバナ(Labanah)」など、ヨーグルトを脱水加工した保存食品もある。
日本国内では明治20年代、ヨーグルトは「凝乳」の呼び名で牛乳の残りを利用した整腸剤として販売されており、名のあるものでは1912年、東京の阪川牛乳店により「ケフィール」という滋養食品が開発されている。そして1915年、広島市のチチヤス乳業がヨーグルトの名称で販売をおこなったが、工業生産され一般に普及したのは戦後であり、1950年に明治乳業から発売された「ハネーヨーグルト」(瓶入り)が知名度を大いに高めた。
ヨーグルトは、発売開始当初は牛乳瓶と同じ瓶に入れられて販売されていたが、消費者の目には「腐ったミルク」「固まったミルク」と見られてしまい、販売業者にクレームが出たことから、牛乳との誤解を避けるため、前述の「ハネーヨーグルト」を経て1975年以降は、徐々に紙容器等を経て現在の形状のテトラパックやプラスチック容器に入れて販売されるようになっていった。
初期のヨーグルトは寒天やゼラチンで固められガラス瓶に充填されたハードタイプで、プレーンタイプの普及は特有の酸味と香りにより普及が進まず、受け入れられるまで期間が必要であった。
なお、日本の明治乳業は、イリヤ・メチニコフの誕生日の5月15日を「ヨーグルトの日」と制定している。
日本のトップブランドである明治ブルガリアヨーグルトは、ブルガリアのヨーグルトよりも酸味が抑えめで甘いとの意見がある。
市販のヨーグルトは以下の種類に分けられる。
製法では容器に充填してから発酵させるハードタイプなヨーグルトとなる後発酵と、タンク内で発酵させたのちに容器に充填するソフトタイプなヨーグルトとなる前発酵がある。
2012年現在は、大型(400 - 500グラム前後)のプレーンタイプのものと、70 - 100グラム前後の個食用プラスチック容器に入った加糖・味付きタイプの2種類が主に流通している他、150 - 200グラムのタイプのものも。また、一部には往年の「ハネーヨーグルト」のようなガラス瓶(大雑把には牛乳瓶を太くして口を広げ、高さを縮めた形のもの)など様々な形状で販売されている。 | [
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"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "ヨーグルトの起源はヨーロッパ、アジア、中近東にかけての様々な説があり、およそ7000年前とされる。生乳の入った容器に環境常在菌である乳酸菌が偶然入り込んだのがはじまりと考えられている。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "気温の高い地方では、生乳のままだと腐りやすいが、乳酸菌で乳を発酵させると保存性がよくなる。イランなどでは乳を醗酵させた後で乳脂肪分を分離し、バターを得ることも行われていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 5,
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"text": "ヨーグルトに相当する食品は世界各国に存在し、それぞれの国でさまざまな名称を持つ。欧米や日本において用いられる「ヨーグルト」という言葉は、トルコ語でヨーグルトを意味する「ヨウルト(yoğurt)」に由来する。ヨウルトは「攪拌すること」を意味する動詞yoğurmakの派生語で、トルコにおけるヨーグルトの製法を反映している。",
"title": "歴史"
},
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"text": "イリヤ・メチニコフ(微生物学者:ノーベル生理学・医学賞 1908年受賞)がブルガリア(当時はロシア領だが直前までオスマン帝国領)を訪れた際に、ブルガリア人が長寿で有ることを発見し、その原因を現地の伝統食品であるヨーグルトであるとし、『ヨーグルト不老長寿説』を発表した事によって広まった。なお、日本語のヨーグルトという呼称は直接にはドイツ語のJoghurtを由来とする。",
"title": "歴史"
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"text": "乳酸菌は通常、腸内細菌として棲息しているが、ヨーグルトの乳酸菌は、腸内定着することはできない。ただし、その代謝物などが腸内のウェルシュ菌(Clostridium)などを減少させ、Bifidobactoriumなどの在来乳酸菌を増殖させるという整腸作用をもつ。結果として、腸内細菌叢中のウェルシュ菌などの比率の低下と産生される物質を減少させ、腸管免疫系を活性化させるとされている。乳酸菌の耐酸性には差違がありヨーグルトでよく利用されている「ブルガリア株」は胃酸で不活化(死滅)する。また、生存し胃を通過したとしても小腸内で胆汁酸により不活化(死滅)するため大腸内に定着はしないが、その菌体や代謝産物が腸内で有効に働くとされる。一方、ビフィズス菌もヨーグルトで利用されるが、胃酸、胆汁酸で不活化(死滅)せず、大腸内で定着する性質を有する。定常的に摂食することで乳清由来乳酸による腸内環境が弱酸性(pH5.3から)化し、糞便菌叢の胆汁酸(弱アルカリ:pH8.2から)に耐性があるクロストリジウム属(Clostridium)株の生育を減少させ、腐敗産物(アンモニア、フェノール、p-クレゾール、インドール、スカトールなど)生成量を低減させると報告されているが、詳細メカニズムは解明されていない。",
"title": "人体への効果"
},
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"text": "「免疫力を高める」「アレルギーが治る」などの宣伝文句が使われるが、ヒトを対象にした臨床試験では支持する結果が得られていないとする指摘もある。",
"title": "人体への効果"
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"text": "乳中の水溶性ビタミンは乳源動物の血中濃度にほぼ依存し変化するが、牛乳にビタミンCがほとんど含まれていないのは、ウシなどの動物は自らビタミンCを合成できるので摂取する必要がないためである。乳酸菌は発酵の際にビタミンCも生成し、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる。このため、ヨーグルトには若干のビタミンCが含まれている。",
"title": "人体への効果"
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"text": "ヨーグルトが形成される過程で、乳酸菌の働きによりラクトースの一部がグルコースとガラクトースに分解されるため、乳糖不耐症の牛乳を飲むと下痢をしてしまう人がヨーグルトと共に牛乳を飲んだ場合、牛乳だけよりも症状が軽減されるとの研究がある。",
"title": "人体への効果"
},
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"text": "発酵行程において乳酸菌のL.bulgaricusとS.thermophilusは共生関係にあると報告されている。これは、それぞれの菌単独で発酵させた場合よりも数分の1の短時間で発酵が進むことで分かる。この菌は長期間の共生により、代謝物を相互に利用しあたかも1つの菌のように振る舞う。その結果、ゲノムサイズが縮小するという進化を起こしている。",
"title": "発酵"
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"text": "単体で種菌を入手し牛乳と混ぜることで作ることもできるが、市販されているプレーン・ヨーグルトに含まれる乳酸菌を使って作ることもできる。したがって、出来の良いヨーグルトを種として取っておき、それを使うこともできる。ただし、雑菌の混入を完全に阻止出来ない一般家庭において植え継ぎ(残ったヨーグルトを続けて種菌として使用し続ける)を行った場合、環境中に常在している乳酸菌が混入し増殖するほか、乳酸菌以外の雑菌として大腸菌(Escherichia coli), Klebsiella aerogenes, Citrobacter freundiiなども増殖する可能性があるが、雑菌の混入は外見からは判断できないとする見解がある。",
"title": "発酵"
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"text": "基本的な作り方は以下のとおりである。ヨーグルトメーカーを使うと作りやすい。",
"title": "発酵"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "ブルガリアでは伝統的なヨーグルトはセイヨウサンシュユなどの葉の朝露にいる乳酸菌から作られているが、日本にもあるサンシュユの木の枝を使ってもヨーグルト状のものを作ることができる(ただし、安全かは不明)。",
"title": "発酵"
},
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"paragraph_id": 15,
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"text": "近代的な製法では、温度調整済と殺菌済み原料乳と副原料(脱脂粉乳やバターなど)に培養した種菌(乳酸菌スターター)を加え、40°Cから45°Cの環境下に一定時間置くことで生産される。プレーンヨーグルトでは一定の状態に達した物を、冷却により発酵を停止しさせ容器への充填を行う。あるいは、加熱殺菌を行い加糖ヨーグルトや果実加工品、低カロリー甘味料などを添加した製品が大量生産される。なお、種菌(菌株)の組合せ、発酵温度、発酵時間、酸素濃度などの調整により異なった特徴を与えることが可能である。",
"title": "発酵"
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"text": "ヨーグルトが固まる原理は、乳内の糖を乳酸菌が分解し作り出した乳酸によって、乳が酸性に傾くことで乳内のカゼインが固まることによる。pH4.6(等電点)を超えた当たりから凝固し始める。乳酸菌は酸に対してある程度の耐性を持つため、他の酸に弱い雑菌(ブドウ球菌や一部の大腸菌)の増殖を抑えて増殖する。",
"title": "発酵"
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"text": "地域毎に原料乳や製法が異なるため、様々な特徴をもつヨーグルトが存在している。",
"title": "世界のヨーグルト"
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"text": "カルグルトは、皇室で食されるヨーグルトで、発酵には皇室専用の菌を使い、牛乳はジャージー種とホルスタイン種の低温殺菌牛乳をミックスさせて作られ、水で割って飲まれている。",
"title": "世界のヨーグルト"
},
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"text": "欧米や東アジアではデザートとして食べることが多いが、南アジア、中央アジア、カフカース、中東では塩味の料理に頻繁に用いられる。煮込み料理に加えたり、野菜と和えるほか、タンドリーチキンのマリネやケバブのソースにも使われる。",
"title": "ヨーグルトを使用した料理・食品"
},
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"text": "世界各地には、インドのラッシーやトルコのアイランなど様々なヨーグルト飲料が存在する。欧米ではスムージーに加えたり、氷菓(フローズンヨーグルト)の素材とすることもある。",
"title": "ヨーグルトを使用した料理・食品"
},
{
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"text": "イランの「カシュク(Kashk)」、アフガニスタンの「クルート(Qurūt)」、アラブ人の「ラバナ(Labanah)」など、ヨーグルトを脱水加工した保存食品もある。",
"title": "ヨーグルトを使用した料理・食品"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "日本国内では明治20年代、ヨーグルトは「凝乳」の呼び名で牛乳の残りを利用した整腸剤として販売されており、名のあるものでは1912年、東京の阪川牛乳店により「ケフィール」という滋養食品が開発されている。そして1915年、広島市のチチヤス乳業がヨーグルトの名称で販売をおこなったが、工業生産され一般に普及したのは戦後であり、1950年に明治乳業から発売された「ハネーヨーグルト」(瓶入り)が知名度を大いに高めた。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "ヨーグルトは、発売開始当初は牛乳瓶と同じ瓶に入れられて販売されていたが、消費者の目には「腐ったミルク」「固まったミルク」と見られてしまい、販売業者にクレームが出たことから、牛乳との誤解を避けるため、前述の「ハネーヨーグルト」を経て1975年以降は、徐々に紙容器等を経て現在の形状のテトラパックやプラスチック容器に入れて販売されるようになっていった。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
},
{
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"text": "初期のヨーグルトは寒天やゼラチンで固められガラス瓶に充填されたハードタイプで、プレーンタイプの普及は特有の酸味と香りにより普及が進まず、受け入れられるまで期間が必要であった。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
},
{
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"text": "なお、日本の明治乳業は、イリヤ・メチニコフの誕生日の5月15日を「ヨーグルトの日」と制定している。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
},
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"text": "日本のトップブランドである明治ブルガリアヨーグルトは、ブルガリアのヨーグルトよりも酸味が抑えめで甘いとの意見がある。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
},
{
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"text": "市販のヨーグルトは以下の種類に分けられる。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "製法では容器に充填してから発酵させるハードタイプなヨーグルトとなる後発酵と、タンク内で発酵させたのちに容器に充填するソフトタイプなヨーグルトとなる前発酵がある。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "2012年現在は、大型(400 - 500グラム前後)のプレーンタイプのものと、70 - 100グラム前後の個食用プラスチック容器に入った加糖・味付きタイプの2種類が主に流通している他、150 - 200グラムのタイプのものも。また、一部には往年の「ハネーヨーグルト」のようなガラス瓶(大雑把には牛乳瓶を太くして口を広げ、高さを縮めた形のもの)など様々な形状で販売されている。",
"title": "日本におけるヨーグルトの普及"
}
] | ヨーグルトは、乳に乳酸菌や酵母を混ぜて発酵させて作る発酵食品のひとつ。乳原料を搾乳し利用する動物は専用のウシ(乳牛)だけでなく、水牛、山羊、羊、馬、ラクダなどの乳分泌量が比較的多く、搾乳が行いやすい温和な草食動物が利用される。
ヨーグルトに溜まる上澄み液は乳清(英語ではwhey〈ホエイ〉)という。 | [[File:Yogurt of the Bulgarija Pavilion of Expo 2005 Aichi Japan.jpg|thumb|250px|ヨーグルト(薔薇を浮かべたもの。2005年愛知万博のブルガリア館のヨーグルト)]]
[[File:Yogurt of the Caucasus common Pavilion of Expo 2005 Aichi Japan.jpg|thumb|250px|2005年愛知万博のコーカサス共同館のヨーグルト]]
{{栄養価 | name=ヨーグルト 全脂無糖<ref>[[文部科学省]] 「[https://www.mext.go.jp/a_menu/syokuhinseibun/1365297.htm 日本食品標準成分表2015年版(七訂)]」</ref>| kJ =259| water=87.7 g| protein=3.6 g| fat=3.0 g| satfat=1.83 g| monofat = 0.71 g| polyfat =0.10 g| opt1n=[[コレステロール]] | opt1v=12 mg| carbs=4.9 g| sodium_mg=48| potassium_mg=170| calcium_mg=120| magnesium_mg=12| phosphorus_mg=100| zinc_mg=0.4| copper_mg=0.01| selenium_ug =3| betacarotene_ug=3| vitA_ug =33| vitE_mg =0.1| vitK_ug=1| thiamin_mg=0.04| riboflavin_mg=0.14| niacin_mg=0.1| vitB6_mg=0.04| vitB12_ug=0.1| folate_ug=11| pantothenic_mg=0.49| opt2n=[[ビオチン|ビオチン(B<sub>7</sub>)]] | opt2v=2.5 μg| vitC_mg=1| note =ビタミンEはα─トコフェロールのみを示した<ref>[[厚生労働省]] 「[https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000114399.pdf 日本人の食事摂取基準(2015年版)]」</ref>。別名:プレーンヨーグルト| right=1 }}
'''ヨーグルト'''({{Lang-tr|yoğurt}}、{{lang-bg|Кисело мляко}}、{{Lang-de|Joghurt}}、{{Lang-en|yoghurt,yogurt}})は、[[乳]]に[[乳酸菌]]や[[出芽酵母|酵母]]を混ぜて[[発酵]]させて作る[[発酵食品]]のひとつ。乳原料を搾乳し利用する動物は専用の[[ウシ]](乳牛)だけでなく、[[スイギュウ|水牛]]、[[ヤギ|山羊]]、[[ヒツジ|羊]]、[[ウマ|馬]]、[[ラクダ]]などの乳分泌量が比較的多く、搾乳が行いやすい温和な草食動物が利用される。
ヨーグルトに溜まる上澄み液は'''[[乳清]]'''(英語ではwhey〈ホエイ〉)という。
== ヨーグルトの定義 ==
[[国際連合食糧農業機関|FAO]]と[[世界保健機関|WHO]]によって定められたヨーグルトの厳密な定義<ref>{{Cite web|url=https://www.fao.org/fao-who-codexalimentarius/sh-proxy/jp/?lnk=1&url=https%253A%252F%252Fworkspace.fao.org%252Fsites%252Fcodex%252FStandards%252FCXS%2B243-2003%252FCXS_243e.pdf|title=Standard for Fermented Milks (CXS 243-2003)|accessdate=2020-11-03|publisher=食品規格委員会|format=PDF}}</ref>によると、「ヨーグルトとは乳及び乳酸菌を原料とし、ブルガリア株(''Lactobacillus bulgaricus'')とサーモフィルス株(''Streptococcus thermophilus'')が大量に存在し、その発酵作用で作られた物」と定められている。
日本において[[乳等省令]]では「[[発酵乳]]」(乳等省令2条39項)のことである。
== 歴史 ==
ヨーグルトの起源はヨーロッパ、アジア、中近東にかけての様々な説があり、およそ7000年前とされる<ref name="jslab.23.143">堀内啓史、[https://doi.org/10.4109/jslab.23.143 ヨーグルトの温故知新 ― ブルガリアの伝統的なヨーグルトを科学することで生まれた研究成果 ―] 日本乳酸菌学会誌 2012年 23巻 3号 p.143-150, {{doi|10.4109/jslab.23.143}}</ref>。生乳の入った容器に環境[[常在菌]]である乳酸菌が偶然入り込んだのがはじまりと考えられている。
[[気温]]の高い地方では、[[生乳]]のままだと腐りやすいが、[[乳酸菌]]で乳を発酵させると保存性がよくなる。[[イラン]]などでは乳を醗酵させた後で乳脂肪分を分離し、[[バター]]を得ることも行われていた。
[[ファイル:Zakład leczenia kumysem, w Kaskadzie pod Warszawą - (Rysował Ksawery Pillati) (58820).jpg|サムネイル|427x427ピクセル|ワルシャワの発酵乳の工場を描いた版画<br />発酵中の乳を攪拌する様子が描かれている]]
ヨーグルトに相当する食品は世界各国に存在し、それぞれの国でさまざまな名称を持つ。[[欧米]]や[[日本]]において用いられる「ヨーグルト」という言葉は、[[トルコ語]]でヨーグルトを意味する「ヨウルト({{Lang|tr|yoğurt}})」に由来する。ヨウルトは「[[攪拌]]すること」を意味する[[動詞]]{{Lang|tr|yoğurmak}}の[[派生語]]で、[[トルコ]]におけるヨーグルトの製法を反映している。
[[イリヤ・メチニコフ]](微生物学者:ノーベル生理学・医学賞 1908年受賞)が[[ブルガリア]](当時は[[ロシア]]領だが直前まで[[オスマン帝国]]領)を訪れた際に、ブルガリア人が長寿で有ることを発見し、その原因を現地の伝統食品であるヨーグルトであるとし、『ヨーグルト不老長寿説』<ref>牧野聖也、池上秀二、[https://doi.org/10.4109/jslab.24.10 ヨーグルト乳酸菌が産生する菌体外多糖の利用と培養条件の影響] 日本乳酸菌学会誌 2013年 24巻 1号 p.10-17, {{doi|10.4109/jslab.24.10}}</ref>を発表した事によって広まった<ref name="jslab.23.143"/>。なお、日本語のヨーグルトという呼称は直接にはドイツ語の{{Lang|de|Joghurt}}を由来とする<ref>[[小学館]]『国語大辞典(新装版)』1988年</ref><ref>[[岩波書店]]『広辞苑』第五版 1998年</ref><ref>[[三省堂]]『大辞林』第三版 2006年</ref>。
== 人体への効果 ==
乳酸菌は通常、[[腸内細菌]]として棲息しているが、ヨーグルトの乳酸菌は、[[腸]]内定着することはできない。ただし、その[[代謝物]]などが腸内の[[ウェルシュ菌]](''Clostridium'')などを減少させ、''Bifidobactorium''などの在来乳酸菌を増殖させるという整腸作用をもつ。結果として、腸内細菌叢中のウェルシュ菌などの比率の低下と産生される物質を減少させ、腸管免疫系を活性化させるとされている<ref name="kagakutoseibutsu1962.38.248">後藤真生、「[https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu1962.38.248 腸内常在菌は腸管免疫系にどのように影響するか?]」『化学と生物』 2000年 38巻 4号 p.248-249, {{doi|10.1271/kagakutoseibutsu1962.38.248}}</ref>。乳酸菌の耐酸性には差違がありヨーグルトでよく利用されている「ブルガリア株」は胃酸で不活化(死滅)する。また、生存し胃を通過したとしても小腸内で[[胆汁酸]]により不活化(死滅)するため大腸内に定着はしない<ref>瀧口隆一、鈴木豊、[https://doi.org/10.11209/jim1997.14.11 乳酸菌の人工消化液中での生残性] 腸内細菌学雑誌 2000年 14巻 1号 p.11-18, {{doi|10.11209/jim1997.14.11}}</ref>が、その菌体や代謝産物が腸内で有効に働くとされる。一方、[[ビフィズス菌]]もヨーグルトで利用されるが、胃酸、胆汁酸で不活化(死滅)せず、大腸内で定着する性質を有する<ref>神戸保、「[https://doi.org/10.11468/seikatsueisei1957.27.224 ヨーグルト]」『生活衛生』 1983年 27巻 4号 p.224, {{doi|10.11468/seikatsueisei1957.27.224}}</ref>。定常的に摂食することで[[乳清]]由来[[乳酸]]による腸内環境が弱酸性([[水素イオン指数|pH]]5.3から)化し、糞便菌叢の[[胆汁酸]](弱アルカリ:pH8.2から)に耐性があるクロストリジウム属(''Clostridium'')株の生育を減少させ、腐敗産物(アンモニア、フェノール、p-クレゾール、インドール、スカトールなど)生成量を低減させると報告されている<ref name="jsfm1984.10.29" />が、詳細メカニズムは解明されていない<ref name="jsfm1984.10.29">寺田厚、原宏佳、長部康司 ほか、[https://doi.org/10.14840/jsfm1984.10.29 ヨーグルトの投与が糞便菌叢および腐敗産物生成量に及ぼす影響] 食品と微生物 1993年 10巻 1号 p.29-34, {{doi|10.14840/jsfm1984.10.29}}</ref>。
「免疫力を高める」「アレルギーが治る」などの宣伝文句が使われるが、ヒトを対象にした臨床試験では支持する結果が得られていない<ref>夏目幸明、「[https://diamond.jp/articles/-/96173 ヨーグルトは身体に良い」はウソだった!?] ダイヤモンドオンライン 2016年7月22日</ref>とする指摘もある。
乳中の水溶性[[ビタミン]]は乳源動物の血中濃度にほぼ依存し変化する<ref>佐藤基佳 ほか、「[https://doi.org/10.11252/dobutsurinshoigaku.12.93 乳牛と新生子牛の血中ビタミンB{{sub|1}}、B{{sub|2}}、B{{sub|6}}およびB{{sub|12}}濃度]」『動物臨床医学』 2003年 12巻 2号 p.93-98, 動物臨床医学会, {{doi|10.11252/dobutsurinshoigaku.12.93}}</ref>が、[[牛乳]]にビタミンCがほとんど含まれていないのは、ウシなどの動物は自らビタミンCを合成できるので摂取する必要がないためである。[[乳酸菌]]は発酵の際に[[ビタミンC]]も生成し、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる<ref name=kyoto>石井智美、「{{PDFlink|[http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/files/img/publish/alpub/jcas_ren/REN_04/REN_04_009.pdf 内陸アジアの遊牧民の製造する乳酒に関する微生物学的研究]」『国立民族学博物館地域研』JCAS連携研究成果報告4、2002、pp103-123}}</ref>。このため、ヨーグルトには若干のビタミンCが含まれている。
ヨーグルトが形成される過程で、[[乳酸菌]]の働きにより[[ラクトース]]の一部が[[グルコース]]と[[ガラクトース]]に分解されるため、[[乳糖不耐症]]の牛乳を飲むと[[下痢]]をしてしまう人がヨーグルトと共に牛乳を飲んだ場合、牛乳だけよりも症状が軽減される<ref>村尾周久ほか、「[https://doi.org/10.4327/jsnfs.45.507 乳糖不耐症者による牛乳とヨーグルト飲用後の呼気中水素と腹部症状の相違]」『日本栄養・食糧学会誌』 45巻 6号 1992年 p.507-512, {{doi|10.4327|jsnfs.45.507}}。</ref>との研究がある。
== 発酵 ==
発酵行程において乳酸菌の''L.bulgaricus''と''S.thermophilus''は共生関係にあると報告されている。これは、それぞれの菌単独で発酵させた場合よりも数分の1の短時間で発酵が進むことで分かる。この菌は長期間の共生により、代謝物を相互に利用しあたかも1つの菌のように振る舞う。その結果、ゲノムサイズが縮小するという進化を起こしている<ref>佐々木泰子、「[https://doi.org/10.4109/jslab.26.109 ヨーグルトを造る乳酸菌共生発酵研究の最近の知見]」『日本乳酸菌学会誌』 2015年 26巻 2号 p.109-117, {{doi|10.4109/jslab.26.109}}</ref>。
=== 基本的な作り方 ===
単体で種菌を入手し牛乳と混ぜることで作ることもできるが、市販されているプレーン・ヨーグルトに含まれる乳酸菌を使って作ることもできる。したがって、出来の良いヨーグルトを種として取っておき、それを使うこともできる。ただし、雑菌の混入を完全に阻止出来ない一般家庭において植え継ぎ(残ったヨーグルトを続けて種菌として使用し続ける)を行った場合、環境中に常在している乳酸菌が混入し増殖するほか、[[乳酸菌]]以外の雑菌として[[大腸菌]](''Escherichia coli''), ''Klebsiella aerogenes'', ''Citrobacter freundii''なども増殖する可能性がある<ref name="jhej1987.46.881">村上和保、「[https://doi.org/10.11428/jhej1987.46.881 家庭で作られるケフィールの細菌汚染状況]」『日本家政学会誌』 1995年 46巻 9号 p.881-883, {{doi|10.11428/jhej1987.46.881}}</ref>が、雑菌の混入は外見からは判断できないとする見解がある<ref name="jhej1987.46.881"/>。
基本的な作り方は以下のとおりである。ヨーグルトメーカーを使うと作りやすい。
# 乳を[[沸騰]]させ、30度から45度程度(菌種によって異なる)に冷えるのを待つ。
# 種菌またはヨーグルトを小量混ぜる。
# 30度から45度程度(菌種によって異なる)で一晩置く(暖かい地方では単に放置する)。65℃の温度で23秒間加熱すれば[[乳酸菌]]を[[殺菌]]できることが知られている<ref>野白喜久雄ほか 『改訂醸造学』 1993年3月。ISBN 978-4-06-153706-4</ref>ため、乳が高温すぎると乳酸発酵が行われない。
ブルガリアでは伝統的なヨーグルトは[[セイヨウサンシュユ]]などの葉の朝露にいる乳酸菌から作られているが<ref name="jslab.23.143"/><ref name="jspp-cornus">[https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=2235 日本植物生理学会-みんなのひろば- 質問:樹木の枝に住む乳酸菌について]</ref>、日本にもある[[サンシュユ]]の木の枝を使ってもヨーグルト状のものを作ることができる<ref>[https://dailyportalz.jp/b/special03/0122/ @nifty:デイリーポータルZ:牛乳に木の枝を入れるとヨーグルトになるらしい]</ref>(ただし、安全かは不明<ref name="jspp-cornus"/>)。
近代的な製法では、温度調整済と殺菌済み原料乳と副原料(脱脂粉乳やバターなど)に培養した種菌(乳酸菌スターター)を加え、40℃から45℃の環境下に一定時間置くことで生産される<ref name="jslab.23.143"/>。プレーンヨーグルトでは一定の状態に達した物を、冷却により発酵を停止しさせ容器への充填を行う。あるいは、加熱殺菌を行い加糖ヨーグルトや果実加工品、低カロリー甘味料などを添加した製品が大量生産される。なお、種菌(菌株)の組合せ、発酵温度、発酵時間、酸素濃度などの調整により異なった特徴を与えることが可能である<ref name="jslab.23.143"/>。
ヨーグルトが固まる原理は、乳内の糖を乳酸菌が分解し作り出した乳酸によって、乳が酸性に傾くことで乳内の[[カゼイン]]が固まることによる。{{要出典範囲|pH4.6([[等電点]])を超えた当たりから凝固し始める|date=2018年9月}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89-2170|title=カード(かーど)とは - コトバンク|accessdate=2018-11-06|last=小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ)|first=ASCII.jpデジタル用語辞典,デジタル大辞泉,栄養・生化学辞典,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,ブリタニカ国際大百科事典|website=コトバンク|language=ja-JP}}</ref>。乳酸菌は酸に対してある程度の耐性を持つため、他の酸に弱い雑菌(ブドウ球菌や一部の大腸菌)の増殖を抑えて増殖する。
== 世界のヨーグルト ==
地域毎に原料乳や製法が異なるため、様々な特徴をもつヨーグルトが存在している。
* ブルガリアのヨーグルトは先住民の[[トラキア人]]により始まり、支配者が変わってスラブ人に引き継がれ現代に続いている。ブルガリアでは[[聖ゲオルギオス|聖ゲオルギ]]の日である5月6日に家畜の放牧を始めるとともに、家々でヨーグルトを作り始めている<ref name="jslab.23.143"/><ref>[https://www.japa.org/tips/kkj_0903/ 世界の人々の暮らし ~ブルガリア~] 日本成人病予防協会</ref>が、近代的な工場で大量生産された製品も多く流通し、現在でも常時どの家庭でもヨーグルトを料理などに使っている。また、ヤギの乳を使ったヨーグルトなどいろいろなものが販売されている。[[素焼き]]の入れ物に入れて作り、そのまま素焼きの器ごと販売する地域が多いのは、菌がバランスを崩さずに生きるのを助けるためである。この場合、常温のまま販売される。また、素焼きの器は[[多孔質]]なので、水分が適度に抜けてヨーグルトがほどよく濃縮されるという効果がある。
<div style="border:solid gray 1px; float:left; padding:0.5em">
; 凡例
* 地域名:ヨーグルトの名前 - 使われる乳のタイプ
** 特徴など。
</div>
{{Clear}}
* [[インド]]/[[パキスタン]]:[[ダヒ]](dahi、[[ヒンディー語]])、ドイ(doi、[[ベンガル語]])、タイール(thair [[タミル語]])、[[カード (食品)|カード]](curd、[[英語]]) - [[牛乳]]、[[山羊乳]]、[[水牛乳]]
** 地方によっては、素焼きの器に入れて作られそのまま売られている。また、地方により味が違う。工業的に作られる物よりも、地方で自家製のものが多く販売されている。
* [[ネパール]]:ダヒ(dahi、[[ネパール語]])
* 西[[スマトラ]]:[[ダディ]](dadih、[[インドネシア語]]) - 水牛乳
* [[スリランカ]]:カード(curd、英語) - 牛乳、水牛乳
** 硬く濃厚な味。素焼きの器に入れて作られて売られる。地方で自家製のものが多く販売されている。
* [[中国]]([[青海省]]):スアンナイ(酸奶) - 牛乳、[[ヤク]]乳<ref>崔岱遠『中国くいしんぼう辞典』 川浩二訳 みすず書房 2019年、ISBN 978-4-622-08827-1 pp.193-196.</ref>
* [[モンゴル]]:[[アイラグ]] - [[馬乳]]
* [[中央アジア]]:[[クーミス]] - 馬乳、[[ラクダ乳]]
* [[アフガニスタン]]:マースト(māst、[[ダリー語]])
* [[イラン]]:[[レーベン]]/マースト(māst、[[ペルシア語]]) - 牛乳、山羊乳
* [[イラク]]:リバン(liban、لبن [[アラビア語]])
* [[シリア]]、[[レバノン]]、[[パレスチナ]]:ラバン(laban、لبن アラビア語)
* [[エジプト]]:[[ザバディ]](zabadi、アラビア語) - 牛乳、山羊乳、水牛乳
* [[グルジア]]:[[マツオーニ]](matsoni、[[グルジア語]]) - 牛乳、山羊乳、羊乳
* [[アルメニア]]:[[マツン]](matsun、[[アルメニア語]])
* [[ギリシャ]]:[[ヤウルティ]](giaurti、[[ギリシャ語]])
* [[トルコ]]:[[ヨウルト]](yoǧurt、[[トルコ語]]) - 牛乳、ヤギ乳、羊乳
* [[ブルガリア]]:[[キセロ・ムリャコ]]({{Lang|bg|Кисело мляко}}、''kiselo mljako''、[[ブルガリア語]]) - [[牛乳]]、[[羊乳]]
* [[ロシア]]:[[ケフィール]](kefir) - [[スメタナ]](Smetana-[[ロシア語]]) -牛乳
* 北[[スペイン]]:[[クァハダ]](cuajada)/マミヤ(mamiya) - 牛乳、山羊乳
* [[スカンジナビア]]半島:[[テッテ]] - 牛乳、[[脱脂乳]]
** より濃厚なヨーグルト。素焼きの器に作られ売られる。普通のヨーグルトとは区別されて売られている。
=== カルグルト ===
カルグルトは、皇室で食されるヨーグルトで、発酵には皇室専用の菌を使い、牛乳は[[ジャージー種]]と[[ホルスタイン種]]の[[低温殺菌牛乳]]をミックスさせて作られ、水で割って飲まれている<ref>横田哲治 『天皇家の健康食』 新潮社、2001年12月、18-21頁</ref>。
== ヨーグルトを使用した料理・食品 ==
[[File:Cacik-1.jpg|thumb|150px|[[トルコ料理]]のヨーグルトソース、ジャジュク(cacık)。ギリシャの[[ザジキ]]などと類似した料理]]
欧米や東アジアでは[[デザート]]として食べることが多いが、[[南アジア]]、[[中央アジア]]、[[カフカース]]、[[中東]]では塩味の料理に頻繁に用いられる。煮込み料理に加えたり、野菜と和えるほか、[[タンドリーチキン]]の[[マリネ]]や[[ケバブ]]の[[ソース (調味料)|ソース]]にも使われる。
世界各地には、インドの[[ラッシー]]やトルコの[[アイラン]]など様々な[[飲むヨーグルト|ヨーグルト飲料]]が存在する。欧米では[[スムージー]]に加えたり、[[冷菓#氷菓|氷菓]]([[フローズンヨーグルト]])の素材とすることもある。
イランの「[[カシュク]](Kashk)」、[[アフガニスタン]]の「[[クルート]](Qurūt)」、[[アラブ人]]の「[[ラバナ]](Labanah)」など、ヨーグルトを脱水加工した[[保存食品]]もある。
=== ヨーグルトを使用した料理・食品 ===
* [[ザジキ]](ギリシャ、[[キプロス]])
* [[ムサカ]]([[バルカン半島]])
* [[ライタ (料理)|ライタ]](インドなど。刻んだ野菜とスパイスをヨーグルトに加えた料理)
== 日本におけるヨーグルトの普及 ==
日本国内では明治20年代、ヨーグルトは「凝乳」の呼び名で牛乳の残りを利用した[[整腸剤]]として販売されており、名のあるものでは[[1912年]]、東京の阪川牛乳店により「ケフィール」という滋養食品が開発されている<ref>宮崎正勝『知っておきたい「食」の日本史』P213 角川ソフィア文庫</ref>。そして[[1915年]]、[[広島市]]の[[チチヤス乳業]]が'''ヨーグルト'''の名称で販売をおこなった<ref name="mdm.201611004">小田宗宏、{{PDFlink|[https://www.eiken.co.jp/uploads/modern_media/literature/2016_11/004.pdf 身近で活躍する有用微生物II 食品と有用微生物 -西洋の食文化と微生物]}} モダンメディア 2016年11月号(第62巻11号)</ref>が、工業生産され一般に普及したのは戦後であり、[[1950年]]に[[明治乳業]]から発売された「[[ハネーヨーグルト]]」(瓶入り)が知名度を大いに高めた。
ヨーグルトは、発売開始当初は牛乳瓶と同じ瓶に入れられて販売されていたが、消費者の目には「腐ったミルク」「固まったミルク」と見られてしまい、販売業者にクレームが出たことから、牛乳との誤解を避けるため、前述の「ハネーヨーグルト」を経て[[1975年]]以降は、徐々に紙容器等を経て現在の形状の[[テトラパック]]やプラスチック容器に入れて販売されるようになっていった。
初期のヨーグルトは寒天やゼラチンで固められガラス瓶に充填されたハードタイプで<ref name="mdm.201611004" />、プレーンタイプの普及は特有の酸味と香りにより普及が進まず、受け入れられるまで期間が必要であった<ref name="mdm.201611004" />。
なお、日本の[[明治乳業]]は、[[イリヤ・メチニコフ]]の誕生日の[[5月15日]]を「'''ヨーグルトの日'''」と制定している。
日本のトップブランドである[[明治ブルガリアヨーグルト]]は、[[ブルガリアのヨーグルト]]よりも酸味が抑えめで甘いとの意見がある<ref>{{Cite web|和書|title=【衝撃】明治ブルガリアヨーグルトをブルガリア人が食べた感想「ウマすぎてヨーグルトが好きになった」|url=https://rocketnews24.com/2018/11/07/1132453/|website=ロケットニュース24|date=2018-11-07|accessdate=2019-11-27|language=ja}}</ref>。
=== 種類 ===
市販のヨーグルトは以下の種類に分けられる。
製法では容器に充填してから発酵させるハードタイプなヨーグルトとなる後発酵と、タンク内で発酵させたのちに容器に充填するソフトタイプなヨーグルトとなる前発酵がある<ref>[https://web.archive.org/web/20141025115920/http://www.nyukyou.jp/dairy/yogurt/yogurt03.html ヨーグルトの製造方法|ヨーグルトと乳酸菌飲料|乳と乳製品のきほん知識|一般社団法人日本乳業協会]</ref>。
; プレーンヨーグルト
: 生乳や脱脂粉乳、クリーム、乳タンパクなどの乳製品のみを調合し発酵させたタイプ。後発酵のハードヨーグルトが多いが前発酵を用いたソフトヨーグルトタイプもある。
; ハードヨーグルト
: 固形のヨーグルト。甘味料や果肉などが加わる。後発酵タイプと、前発酵タイプがある。前発酵タイプでは寒天やゼラチンなどのゲル化剤で固めてハードタイプとする。
; ソフトヨーグルト
: 前発酵でタンクで発酵させたあとカードを破砕、撹拌し半流動性を持たせたもの。撹拌中に果肉などを混合させる。
; フローズンヨーグルト
: [[アイスクリーム]]のように前発酵のヨーグルトをフリージングしたもの。
; ドリンクヨーグルト
: 前発酵のヨーグルトを均質機などで細かく砕いて液状にしたもの。
; パウダーヨーグルト
: 乾燥させ粉末化したヨーグルト。水で希釈して飲料としたり、またはそのまま使い調理に用いる、原料がヨーグルトだけで出来たタイプと、増粘剤などを添加し牛乳に加えることで短時間で通常のヨーグルト状に固めることを目的としたタイプがある。
; 動物乳を主原料としないヨーグルト
: [[Image:Soy yogurt image2.jpg|thumb|100px|Alpro soya yogurt]]
: 大豆ヨーグルト([[w:Soy yogurt|Soy yogurt]])には、大豆[[豆乳]]とブルガリアヨーグルトにもつかわれている[[w:S. thermophilus|ストレプトコッカス サーモフィルス]]と[[w:L. Bulgarivus|ラクトバチルス ブルガリクス]]が使われる。
2012年現在は、大型(400 - 500グラム前後)のプレーンタイプのものと、70 - 100グラム前後の個食用プラスチック容器に入った加糖・味付きタイプの2種類が主に流通している他、150 - 200グラムのタイプのものも。また、一部には往年の「ハネーヨーグルト」のようなガラス瓶(大雑把には[[牛乳瓶]]を太くして口を広げ、高さを縮めた形のもの)など様々な形状で販売されている。
{| class="wikitable"
|+ おもなヨーグルトの菌株例
!メーカー!!style="white-space:nowrap"|ヨーグルト!!菌株
|-
|rowspan="4"|[[明治 (企業)|明治]]||[[明治ブルガリアヨーグルト|ブルガリア ヨーグルト]]||[[ラクトバチルス・デルブルエッキイー・ブルガリクス]] 2038、[[w:Streptococcus thermophilus|ストレプトコッカス サーモフィルス]] 1131
|-
|[[明治プロビオヨーグルトLG21|LG21]]||[[ガセリ菌|ラクトバチルス ガセリ]]LG21
|-
|[[明治ヨーグルトR-1|R-1]]||ラクトバチルス・デルブルエッキイー・ブルガリクス OLL 1073R-1
|-
|PA-3||[[ガセリ菌|ラクトバチルス ガセリ]] PA-3
|-
|[[森永乳業|森永]]||ビヒダス||[[w:Bifidobacterium longum|ビフィドバクテリウム ロングム]] BB536
|-
|[[雪印メグミルク|雪印]]||ナチュレ||[[ガセリ菌SP株|ラクトバチルス ガセリ SP]]、ビフィドバクテリウム ロングム SP
|-
|[[フジッコ]]||[[カスピ海ヨーグルト]]||[[ラクトコッカス属|ラクトコッカス]] ラクティス サブスピーシーズ クレモリス FC、[[アセトバクター]]・オリエンタリス<ref>桐生 高明, 木曽 太郎, 駒 大輔, 田中 重光, 中野 博文, 村上 洋、「食品用途に利用可能な機能性糖質ラクトビオン酸の生産法の開発」、『日本食品科学工学会誌』2016年 63 巻 4 号 137-141 DOI https://doi.org/10.3136/nskkk.63.137</ref>
|-
|[[ヤクルト本社|ヤクルト]]||ソフール||[[ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株|ラクトバチルス ガゼイ シロタ]]
|-
|[[協同乳業|メイトー]]||LKM512||[[ビフィズス菌|ビフィドバクテリウム]] ラクティス LKM512
|-
|[[タカナシ乳業|タカナシ]]||LGG||[[w:Lactobacillus rhamnosus|ラクトバチルス ラムノーザス]] GG
|-
|rowspan="2"|[[オハヨー乳業|オハヨー]]||生乳ヨーグルト||[[w:Lactobacillus acidophilus|ラクトバチルス アシドフィラス]] L-55
|-
|ロイテリヨーグルト||[[ラクトバチルス・ロイテリ菌|ラクトバチルス・ロイテリ]]
|-
|[[日本ルナ|ルナ]]||バニラヨーグルト||ビフィドバクテリウム HN019、[[w:Lactobacillus plantarum|ラクトバチルス プランタラム]] HSK201
|-
|[[ダノンジャパン|ダノン]]||BIO||ビフィドバクテリウム BIO
|-
|[[カルピス]]||届く強さの乳酸菌||プレミアガセリ菌CP2305
|-
|[[四国乳業]]||8020ヨーグルト||[[L8020乳酸菌|ラクトバチルスラムノーザス]] KO3
|}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Yogurt|Yoghurt}}
* [[乳製品]]
* [[カスピ海ヨーグルト]]
* [[飲むヨーグルト]]
* [[カレーヨーグルト]]
* [[フローズンヨーグルト]]
* [[ヤスダヨーグルト]]
* [[ヨープレイ]]
* [[ギリシャヨーグルト|水切りヨーグルト]](ギリシャヨーグルト)
* [[ヨーグル]] - ヨーグルト風味の[[駄菓子]]
* [[ラクトバチルス・ロイテリ]]
* [[芥川龍之介]] - 実家で酪農をしていて、[[バルカン戦役]]で[[トルコ軍]]に対し、[[バルカン]]の兵士が一歩もひけをとらなかったのがヨーグルトが要因だったため、「不老長寿を願う人に止らず、忠君愛国の士の奮って飲用すべき所なりと信ず」という広告を作成したことがある<ref>新沼杏二『チーズの話』 新潮選書 P.107-108 ISBN 4-10-600238-8</ref>。
* [[フロマージュ・フレ]] ([[w:Fromage frais|Fromage frais]])
* [[みき (飲料水)]][[奄美群島|奄美]]のものは米と[[サツマイモ]]を原料とするが、ヨーグルト並に大量の[[乳酸菌]]が含まれ、同様に、整腸作用を有し、当該地域に百歳を越える長寿者が多数いる要因の一つとも考えられている。
* [[プロバイオティクス]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
* {{PDFlink|[https://www.j-milk.jp/sp/tool/kiso/berohe0000004ak6-att/berohe0000004awz.pdf 乳製品のはなし] Jミルク}}
== 外部リンク ==
* [https://www.j-milk.jp/knowledge/nutrition/berohe000000eflf.html ミルク解体新書 第8回 ヨーグルト学] Jミルク
* {{Hfnet|120|プロバイオティクス(乳酸菌、ビフィズス菌など)}}
* {{Hfnet|4741|ビフィズス菌}}
* {{Hfnet|1164|ケフィア (ヨーグルトきのこ)}}
* [https://hfnet.nibiohn.go.jp/notes/detail.php?no=2143 【新型コロナ】「感染症予防にプロバイオティクスが効く」等の情報に注意] [[国立健康・栄養研究所]]
* [https://www.ejim.ncgg.go.jp/pro/communication/c03/07.html プロバイオティクスについて知っておくべき5つのこと] [[厚生労働省]]
* {{CRD|2000014299|ヨーグルトに関する資料|[[香川県立図書館]]}}
{{乳}}
{{Food-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:よおくると}}
[[category:ヨーグルト|*]]
[[Category:冷菓]]
[[category:トルコの食文化]]
[[category:ロシアの食文化]]
[[category:ウクライナの食文化]]
[[category:ギリシャの食文化]]
[[category:中近東の食文化]]
[[category:アラブ人の食文化]]
[[category:ブルガリアの食文化]]
[[category:イランの食文化]]
[[Category:バルカンの食文化]]
[[Category:トルコ語からの借用語]]
[[Category:発酵乳製品]] | 2003-04-26T19:05:46Z | 2023-10-31T22:50:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%88 |
7,343 | マンゴー | マンゴー(檬果・芒果、英: Mango、学名: Mangifera indica)は、ウルシ科マンゴー属の果樹、またその果実。別名で、菴羅(あんら)、菴摩羅(あんまら)ともいう。マンゴーの栽培は古く、紀元前のインドで始まっており、仏教では、聖なる樹とされ、ヒンドゥー教では、マンゴーは万物を支配する神「プラジャーパティ」の化身とされている。
リンネの『植物の種』(1753年) で記載された植物の一つである。
日本語のマンゴーは、英語の mango から、さらには、ポルトガル語の manga、マレー語(現代マレーシア語・インドネシア語でも同じ)の mangga、タミル語の மாங்காய் (māṅkāy マーンカーイ) から伝わった。
漢字表記の「芒果(現代中国語でmangguo)」は、マレー語の mangga もしくは他の東南アジアの言語からの直接の音写である。
仏典の菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅などは、サンスクリットの āmra(アームラ)の音写である。ただし、同じウルシ科のアムラタマゴノキ (Spondias pinnata) を意味する amra(アムラ)との混同が見られる。
原産地はインドからインドシナ半島周辺と推定されている。そのうち、単胚性(一つの種から一個体繁殖する)の種類はインドのアッサム地方からチッタゴン高原(ミャンマー国境付近)辺りと考えられ、多胚性(一つの種から複数の個体が繁殖する)の種類はマレー半島辺りと考えられている。インドでは4000年以上前から栽培が始まっており、仏教の経典にもその名が見られる。現在では500以上の品種が栽培されている。インド・メキシコ・フィリピン・タイ・オーストラリア・台湾が主な生産国で、日本では沖縄県・宮崎県・鹿児島県・和歌山県・熊本県で主にハウス栽培されている。
マンゴーの木は常緑高木で、樹高は40メートル以上に達する。開花と結実時期は地域により差がある。枝の先端に萌黄色の複総状花序を多数付ける。花は総状花序と呼ばれる小さな花が房状で咲く状態になり、開花後に強烈な腐敗臭を放つ。この腐敗臭により受粉を助けるクロバエ科などのハエを引寄せている。マンゴーの原産地の熱帯地域は、ミツバチにとって気温が高すぎるため、マンゴーは受粉昆虫としてハエを選んだと考えられている(日本のハウス栽培では受粉を助ける昆虫としてミツバチをビニールハウス内に飼っている)。果実は系統によって長さ3-25センチ、幅1.5-15センチと大きさに開きがあり、その形は広卵形とも勾玉形とも評される。果皮は緑色から黄色、桃紅色などと変異に富むが、果肉は黄橙色をしていて多汁。果皮は強靱(きょうじん)でやや厚く、熟すと皮が容易に剥けるようになる。未熟果は非常に酸味が強いが、完熟すると濃厚な甘みを帯び、松脂に喩えられる独得の芳香を放つ。
マンゴーはウルシオールに似た「マンゴール」という接触性皮膚炎(かゆみ)の原因となる物質が含まれており、高率にかぶれを引き起こすため注意が必要である。痒みを伴う湿疹などのかぶれ症状は食べてから数日経って発症・悪化する場合があり、ヘルペスなどと誤診されることもある。
熟した実を中心にある種に沿って切り、生のまま食用にするのが一般的だが、ジュース・ラッシー・ピューレ・缶詰・ドライフルーツなどにも加工される。香港では果肉またはピューレにゼラチン・砂糖・生クリームなど、ほかの材料を合わせたマンゴープリンが有名である。そのほか、ムース・ケーキ・シャーベット・スムージー・グミなどの洋生菓子も盛んに作られている。また、未熟果を塩漬け・甘酢漬け・チャツネにする。東南アジアでは未熟果に唐辛子入りの砂糖塩につけて食したり、炒め物などの料理に使用したりする。
栄養面では、特にカロテンが豊富で、ビタミンAやビタミンCが多く、抗酸化作用が効果が期待できる。また葉酸も含まれ、貧血や口内炎予防もなる。
地域によってはパパイヤのようにマンゴーの未熟果実を野菜として、おやつとして食する文化が一般的である。タイとベトナムでは緑色の未熟果実が庶民のおやつとして食べられている。これには塩をつけて食べる。ほとんど甘みはなく、未熟な果実の鮮烈な酸味と歯ごたえを楽しむ。台湾では小ぶりのマンゴーの未熟果実を丸ごとシロップ漬けにしたおやつが食べられている。インドではマンゴーの未熟果実を乾燥させ粉末にしたものはアムチュール(en)と呼ばれ、酸味付けのスパイスとして使用される。ガラムマサラにアムチュールを加えた複合スパイスはチャットマサラと呼ばれ、インド料理では広く使用される。
インドは世界最大のマンゴー生産国。年間収穫量は約160万トンで、世界各国に輸出する。4000年以上前から栽培が始まっており、現在では500以上の品種が栽培されている。マンゴーの王と呼ばれるアルフォンソ・マンゴーは、3月から5月にかけて実り始め7月頃に終わる。甘く特有の香りがある。雨期の数ヵ月前に数日間雨が降り、その雨により一気に熟する。この雨をマンゴー・レインと呼び、デカン高原では4月中旬から5月初旬に降る。雨期が始まる6月中旬で、アルフォンソ・マンゴーの季節は終わる。デーヴガル産のアルフォンソ・マンゴーが最高だと言われ、実が大きく味が濃い。2006年より条件付で日本への輸入が解禁された。現在輸入できる品種はアルフォンソ種・ケサー種・チョウサ種・バンガンパリ種・マリカ種・ラングラ種である。なおベンガル地方で古くからマンゴーの葉のみを食べさせた牛の尿から黄色顔料インディアンイエローを製造していたが、牛が飢餓状態になるため動物虐待として1908年に取引が禁止された。
日本では露地栽培により果実を実らせることが難しいため、農家ではビニールハウス栽培を採用している。ハウス栽培を行う目的は高い気温の確保ではなく、マンゴーの開花時期が日本の雨季と重なるため、水に弱いマンゴーの花粉を雨から守ることで受粉をさせ、結実させるためである。
日本では植物防疫法によって、侵入を警戒する農業大害虫のミバエ類が発生している国・地域からのマンゴーの生果実の輸入は原則として禁止されている。しかし、輸出国において果実に寄生する対象ミバエ類の完全殺虫処理技術等が確立されれば、各国より申請された品種について日本側(農林水産省)が検討し、問題無いとの結論に至ったものは殺虫処理などの条件を付して日本への輸入が認可されるようになった。殺虫処理技術には飽和水蒸気による果実の加熱処理である蒸熱処理や温水に果実を漬ける温湯浸漬という工程が用いられることが多い。これら条件付き輸入解禁により、1990年代後半ごろから全国のスーパーなどの小売店でフィリピン産などのマンゴー果実が安価で売られ、また菓子などの加工物の原材料としても幅広く用いられるようになり、一気に代表的な熱帯産果物の一種として日本の社会に浸透した。
日本では写真の花切りがマンゴーの切り方として定着している。切り方は中央の平たい種をさけ、実の幅が狭い方を縦にし、魚を3枚におろすように縦から包丁を入れて3枚に切る。皮を切らないように、果肉の切った面にさいの目状に切り目を入れる。そして両手で皮側を押し上げて果肉を反り返すと花のような形になる。
日本国内ではおよそ3000トンのマンゴーが生産されており、品種はほぼ全てがアーウィン種となる。また、国内の生産量の上位は沖縄県、宮崎県、鹿児島県の順となっている。
通常のマンゴーは完熟する前に収穫されているため、通常は追熟と呼ばれる経過を経て食されるが、宮崎県にて栽培されるマンゴーは全てが樹上にて完熟し、自然に落果したものを「完熟マンゴー」として出荷している。通常のマンゴーに比べ非常に甘く柔らかいことが特徴。通常のマンゴーはハウス栽培にて年中収穫されるが、宮崎県産の完熟マンゴーは4月中旬から7月頃までしか出荷されていない。出荷段階で完熟しているため、常温では数日、冷蔵でも1週間程度しか保存ができず、また樹上から自然落果するタイミングも測れないため出荷が不安定となり、他県のマンゴーに比べて高額で取引される。
また収穫された完熟マンゴーの中でも厳しい基準をクリアしたもののみ「太陽のタマゴ」のブランドを名乗ることが許され、解禁日の初競りでは2玉で50万円の値を付けた例もあり、非常に高額な値段で取引が行われている。太陽のタマゴも出荷自体は4月後半から行われているが、旬は糖度が増す6月~7月となる。完熟マンゴーの内、太陽のタマゴが占める割合は多い年でも2割以下となる。
マンゴーはタイ語でマムアンといい、タイでの旬は4月から7月である。もち米とともに調理したカオニャオマムアンはタイの名物料理である。またマムアンクアンという菓子も存在する。
タイでは60種類以上の品種が栽培されているが、条件付で日本への輸入が解禁されたのが1987年で、日本へ輸入できるマンゴーの生果実は、植物防疫法施行規則による植物検疫が受けられるキオウサウェイ種、チョークアナン種、ナンカンワン種、ナンドクマイ種(泰: นํา้ดอกไม้)、ピムセンダン種、マハチャノ種及びラッド種の計7種類である。外国産のマンゴーではメキシコ、フィリピンについで3番目の輸入量である。
日本人には糖度の高さと肌理細かな食感が特徴のナムドクマイ種が最も好まれ、日本に輸入されているタイ産マンゴーのほとんどを占めている。ナムドクマイとはタイ語で「花のしずく」という意味で、しずく状のマンゴーの形が名前の由来である。
台湾語で「ソァイアー」(檨仔)と呼ばれる。 | [
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"text": "マンゴーの木は常緑高木で、樹高は40メートル以上に達する。開花と結実時期は地域により差がある。枝の先端に萌黄色の複総状花序を多数付ける。花は総状花序と呼ばれる小さな花が房状で咲く状態になり、開花後に強烈な腐敗臭を放つ。この腐敗臭により受粉を助けるクロバエ科などのハエを引寄せている。マンゴーの原産地の熱帯地域は、ミツバチにとって気温が高すぎるため、マンゴーは受粉昆虫としてハエを選んだと考えられている(日本のハウス栽培では受粉を助ける昆虫としてミツバチをビニールハウス内に飼っている)。果実は系統によって長さ3-25センチ、幅1.5-15センチと大きさに開きがあり、その形は広卵形とも勾玉形とも評される。果皮は緑色から黄色、桃紅色などと変異に富むが、果肉は黄橙色をしていて多汁。果皮は強靱(きょうじん)でやや厚く、熟すと皮が容易に剥けるようになる。未熟果は非常に酸味が強いが、完熟すると濃厚な甘みを帯び、松脂に喩えられる独得の芳香を放つ。",
"title": "植物学上の特徴と分布"
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"text": "マンゴーはウルシオールに似た「マンゴール」という接触性皮膚炎(かゆみ)の原因となる物質が含まれており、高率にかぶれを引き起こすため注意が必要である。痒みを伴う湿疹などのかぶれ症状は食べてから数日経って発症・悪化する場合があり、ヘルペスなどと誤診されることもある。",
"title": "マンゴーとかぶれ"
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"text": "熟した実を中心にある種に沿って切り、生のまま食用にするのが一般的だが、ジュース・ラッシー・ピューレ・缶詰・ドライフルーツなどにも加工される。香港では果肉またはピューレにゼラチン・砂糖・生クリームなど、ほかの材料を合わせたマンゴープリンが有名である。そのほか、ムース・ケーキ・シャーベット・スムージー・グミなどの洋生菓子も盛んに作られている。また、未熟果を塩漬け・甘酢漬け・チャツネにする。東南アジアでは未熟果に唐辛子入りの砂糖塩につけて食したり、炒め物などの料理に使用したりする。",
"title": "食材としての利用"
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"text": "栄養面では、特にカロテンが豊富で、ビタミンAやビタミンCが多く、抗酸化作用が効果が期待できる。また葉酸も含まれ、貧血や口内炎予防もなる。",
"title": "食材としての利用"
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"text": "地域によってはパパイヤのようにマンゴーの未熟果実を野菜として、おやつとして食する文化が一般的である。タイとベトナムでは緑色の未熟果実が庶民のおやつとして食べられている。これには塩をつけて食べる。ほとんど甘みはなく、未熟な果実の鮮烈な酸味と歯ごたえを楽しむ。台湾では小ぶりのマンゴーの未熟果実を丸ごとシロップ漬けにしたおやつが食べられている。インドではマンゴーの未熟果実を乾燥させ粉末にしたものはアムチュール(en)と呼ばれ、酸味付けのスパイスとして使用される。ガラムマサラにアムチュールを加えた複合スパイスはチャットマサラと呼ばれ、インド料理では広く使用される。",
"title": "食材としての利用"
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"text": "インドは世界最大のマンゴー生産国。年間収穫量は約160万トンで、世界各国に輸出する。4000年以上前から栽培が始まっており、現在では500以上の品種が栽培されている。マンゴーの王と呼ばれるアルフォンソ・マンゴーは、3月から5月にかけて実り始め7月頃に終わる。甘く特有の香りがある。雨期の数ヵ月前に数日間雨が降り、その雨により一気に熟する。この雨をマンゴー・レインと呼び、デカン高原では4月中旬から5月初旬に降る。雨期が始まる6月中旬で、アルフォンソ・マンゴーの季節は終わる。デーヴガル産のアルフォンソ・マンゴーが最高だと言われ、実が大きく味が濃い。2006年より条件付で日本への輸入が解禁された。現在輸入できる品種はアルフォンソ種・ケサー種・チョウサ種・バンガンパリ種・マリカ種・ラングラ種である。なおベンガル地方で古くからマンゴーの葉のみを食べさせた牛の尿から黄色顔料インディアンイエローを製造していたが、牛が飢餓状態になるため動物虐待として1908年に取引が禁止された。",
"title": "各国のマンゴー"
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"text": "日本では露地栽培により果実を実らせることが難しいため、農家ではビニールハウス栽培を採用している。ハウス栽培を行う目的は高い気温の確保ではなく、マンゴーの開花時期が日本の雨季と重なるため、水に弱いマンゴーの花粉を雨から守ることで受粉をさせ、結実させるためである。",
"title": "各国のマンゴー"
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"text": "日本では植物防疫法によって、侵入を警戒する農業大害虫のミバエ類が発生している国・地域からのマンゴーの生果実の輸入は原則として禁止されている。しかし、輸出国において果実に寄生する対象ミバエ類の完全殺虫処理技術等が確立されれば、各国より申請された品種について日本側(農林水産省)が検討し、問題無いとの結論に至ったものは殺虫処理などの条件を付して日本への輸入が認可されるようになった。殺虫処理技術には飽和水蒸気による果実の加熱処理である蒸熱処理や温水に果実を漬ける温湯浸漬という工程が用いられることが多い。これら条件付き輸入解禁により、1990年代後半ごろから全国のスーパーなどの小売店でフィリピン産などのマンゴー果実が安価で売られ、また菓子などの加工物の原材料としても幅広く用いられるようになり、一気に代表的な熱帯産果物の一種として日本の社会に浸透した。",
"title": "各国のマンゴー"
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"text": "日本では写真の花切りがマンゴーの切り方として定着している。切り方は中央の平たい種をさけ、実の幅が狭い方を縦にし、魚を3枚におろすように縦から包丁を入れて3枚に切る。皮を切らないように、果肉の切った面にさいの目状に切り目を入れる。そして両手で皮側を押し上げて果肉を反り返すと花のような形になる。",
"title": "各国のマンゴー"
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"text": "日本国内ではおよそ3000トンのマンゴーが生産されており、品種はほぼ全てがアーウィン種となる。また、国内の生産量の上位は沖縄県、宮崎県、鹿児島県の順となっている。",
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"text": "通常のマンゴーは完熟する前に収穫されているため、通常は追熟と呼ばれる経過を経て食されるが、宮崎県にて栽培されるマンゴーは全てが樹上にて完熟し、自然に落果したものを「完熟マンゴー」として出荷している。通常のマンゴーに比べ非常に甘く柔らかいことが特徴。通常のマンゴーはハウス栽培にて年中収穫されるが、宮崎県産の完熟マンゴーは4月中旬から7月頃までしか出荷されていない。出荷段階で完熟しているため、常温では数日、冷蔵でも1週間程度しか保存ができず、また樹上から自然落果するタイミングも測れないため出荷が不安定となり、他県のマンゴーに比べて高額で取引される。",
"title": "各国のマンゴー"
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"text": "また収穫された完熟マンゴーの中でも厳しい基準をクリアしたもののみ「太陽のタマゴ」のブランドを名乗ることが許され、解禁日の初競りでは2玉で50万円の値を付けた例もあり、非常に高額な値段で取引が行われている。太陽のタマゴも出荷自体は4月後半から行われているが、旬は糖度が増す6月~7月となる。完熟マンゴーの内、太陽のタマゴが占める割合は多い年でも2割以下となる。",
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"text": "マンゴーはタイ語でマムアンといい、タイでの旬は4月から7月である。もち米とともに調理したカオニャオマムアンはタイの名物料理である。またマムアンクアンという菓子も存在する。",
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"text": "タイでは60種類以上の品種が栽培されているが、条件付で日本への輸入が解禁されたのが1987年で、日本へ輸入できるマンゴーの生果実は、植物防疫法施行規則による植物検疫が受けられるキオウサウェイ種、チョークアナン種、ナンカンワン種、ナンドクマイ種(泰: นํา้ดอกไม้)、ピムセンダン種、マハチャノ種及びラッド種の計7種類である。外国産のマンゴーではメキシコ、フィリピンについで3番目の輸入量である。",
"title": "各国のマンゴー"
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"text": "日本人には糖度の高さと肌理細かな食感が特徴のナムドクマイ種が最も好まれ、日本に輸入されているタイ産マンゴーのほとんどを占めている。ナムドクマイとはタイ語で「花のしずく」という意味で、しずく状のマンゴーの形が名前の由来である。",
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"text": "台湾語で「ソァイアー」(檨仔)と呼ばれる。",
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}
] | マンゴーは、ウルシ科マンゴー属の果樹、またその果実。別名で、菴羅(あんら)、菴摩羅(あんまら)ともいう。マンゴーの栽培は古く、紀元前のインドで始まっており、仏教では、聖なる樹とされ、ヒンドゥー教では、マンゴーは万物を支配する神「プラジャーパティ」の化身とされている。 リンネの『植物の種』(1753年) で記載された植物の一つである。 | {{Redirect|菴摩羅|仏教用語|阿摩羅識}}
{{生物分類表
|名称 = マンゴー
|色 = lightgreen
|画像= [[File:Mango_and_cross_section_edit.jpg|250px]]
|画像キャプション = マンゴー
|status = DD2.3
|status_ref = <ref>World Conservation Monitoring Centre (1998). ''Mangifera indica. The IUCN Red List of Threatened Species'' 1998: e.T31389A9624842. {{DOI|10.2305/IUCN.UK.1998.RLTS.T31389A9624842.en}} Downloaded on 01 January 2019.</ref>
|界 = [[植物界]] [[:w:Plantae|Plantae]]
|門 = [[被子植物門]] [[:w:Magnoliophyta|Magnoliophyta]]
|綱 = [[双子葉植物綱]] [[:w:Magnoliopsida|Magnoliopsida]]
|目 = [[ムクロジ目]] [[:w:Sapindales|Sapindales]]
|科 = [[ウルシ科]] [[:w:Anacardiaceae|Anacardiaceae]]
|属 = [[マンゴー属]] ''[[:w:Mangifera|Mangifera]]''
|種 = '''マンゴー {{Snamei||Mangifera indica|M. indica}}'''
|学名 = {{Snamei||Mangifera indica}} {{AU|L.}} {{small|([[1753年|1753]])}}<ref name="YList">{{YList|id=6042|taxon=Mangifera indica L. マンゴー(標準)|accessdate=2023-01-29}}</ref>
|和名 = マンゴー
|英名 = Mango
}}
'''マンゴー'''(檬果・芒果、[[英語|英]]: Mango、[[学名]]: {{Snamei||Mangifera indica}})は、[[ウルシ科]][[マンゴー属]]の[[果物|果樹]]、またその[[果実]]。別名で、'''菴羅'''(あんら)、'''菴摩羅'''(あんまら)ともいう{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}。マンゴーの栽培は古く、[[紀元前]]の[[インド]]で始まっており、[[仏教]]では、聖なる樹{{efn2|アソカノキ([[ムユウジュ|無憂樹]])、[[インドボダイジュ]](インド菩提樹)、[[サラノキ]](沙羅双樹)、マンゴーと[[エンジュ]]を加えて「仏教五木」」。}}とされ、[[ヒンドゥー教]]では、マンゴーは万物を支配する神「[[プラジャーパティ]]」の化身とされている。
[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]の『[[植物の種]]』([[1753年]]) で[[記載]]された植物の一つである<ref>{{Cite book|last=Linnaeus|first=Carolus|year=1753|title=Species Plantarum|location=Holmia[Stockholm]|publisher=Laurentius Salvius|page=200|url=https://www.biodiversitylibrary.org/page/358219|ref=harv|language=la}}</ref>。
== 名称 ==
日本語のマンゴーは、[[英語]]の mango から、さらには、[[ポルトガル語]]の manga、[[マレー語]](現代[[マレーシア語]]・[[インドネシア語]]でも同じ)の mangga、[[タミル語]]の {{Lang|ta|மாங்காய்}} (māṅkāy {{small|マーンカーイ}}) から伝わった。
漢字表記の「芒果(現代中国語でmangguo)」は、マレー語の mangga もしくは他の[[東南アジア]]の言語からの直接の[[音写]]である。
仏典の菴羅・奄羅・菴摩羅・菴没羅などは、[[サンスクリット]]の [[:sa:आम्रम्|āmra]](アームラ)の音写である。ただし、同じウルシ科の[[アムラタマゴノキ]] ({{Snamei||Spondias pinnata}}) を意味する [[wikt:sa:अम्र|amra]](アムラ)との混同が見られる。
==植物学上の特徴と分布==
[[ファイル:Mango flower.jpg|thumb|left|マンゴーの花]]
原産地は[[インド]]から[[インドシナ半島]]周辺と推定されている。そのうち、単胚性(一つの種から一個体繁殖する)の種類はインドの[[アッサム地方]]からチッタゴン高原([[ミャンマー]]国境付近)辺りと考えられ、多胚性(一つの種から複数の個体が繁殖する)の種類は[[マレー半島]]辺りと考えられている。インドでは4000年以上前から栽培が始まっており、[[仏教]]の経典にもその名が見られる。現在では500以上の品種が栽培されている。インド・[[メキシコ]]・[[フィリピン]]・[[タイ王国|タイ]]・[[オーストラリア]]・[[台湾]]が主な生産国で、日本では[[沖縄県]]・[[宮崎県]]・[[鹿児島県]]・[[和歌山県]]・[[熊本県]]で主にハウス栽培されている。
マンゴーの木は常緑高木で、樹高は40メートル以上に達する。開花と結実時期は地域により差がある。枝の先端に萌黄色の複総状[[花序]]を多数付ける。花は[[総状花序]]と呼ばれる小さな花が房状で咲く状態になり、開花後に強烈な腐敗臭を放つ。この腐敗臭により受粉を助ける[[クロバエ科]]などの[[ハエ]]を引寄せている。マンゴーの原産地の熱帯地域は、[[ミツバチ]]にとって気温が高すぎるため、マンゴーは受粉昆虫としてハエを選んだと考えられている(日本のハウス栽培では受粉を助ける昆虫としてミツバチをビニールハウス内に飼っている)。果実は系統によって長さ3-25センチ、幅1.5-15センチと大きさに開きがあり、その形は広卵形とも勾玉形とも評される。[[果皮]]は[[緑色]]から[[黄色]]、桃紅色などと変異に富むが、[[果肉]]は[[黄橙色]]をしていて多汁。果皮は強靱(きょうじん)でやや厚く、熟すと皮が容易に剥けるようになる。未熟果は非常に酸味が強いが、完熟すると濃厚な甘みを帯び、[[松脂]]に喩えられる独得の芳香を放つ。
{{Clearleft}}
==マンゴーとかぶれ==
マンゴーは[[ウルシオール]]に似た「マンゴール」という[[接触性皮膚炎]](かゆみ)の原因となる物質が含まれており、高率にかぶれを引き起こすため注意が必要である。痒みを伴う[[湿疹]]などのかぶれ症状は食べてから数日経って発症・悪化する場合があり、[[ヘルペス]]などと[[誤診]]されることもある。
==食材としての利用==
[[ファイル:Mango pudding.JPG|thumb|left|[[マンゴープリン]]]]
{{栄養価 | name=マンゴー(生)| water =83.46 g| kJ =250| protein =0.82 g| fat =0.38 g| carbs =14.98 g| fiber =1.6 g| sugars =13.66 g| calcium_mg =11| iron_mg =0.16| magnesium_mg =10| phosphorus_mg =14| potassium_mg =168| sodium_mg =1| zinc_mg =0.09| manganese_mg =0.063| selenium_μg =0.6| vitC_mg =36.4| thiamin_mg =0.028| riboflavin_mg =0.038| niacin_mg =0.669| pantothenic_mg =0.197| vitB6_mg=0.119| choline_mg =7.6| vitB12_ug =0| vitA_ug =54| betacarotene_ug =640| lutein_ug =23| vitE_mg =0.9| vitD_iu =0| vitK_ug =4.2| satfat =0.092 g| monofat =0.14 g| polyfat =0.071 g| tryptophan =0.013 g| threonine =0.031 g| isoleucine =0.029 g| leucine =0.05 g| lysine =0.066 g| methionine =0.008 g| phenylalanine =0.027 g| tyrosine =0.016 g| valine =0.042 g| arginine =0.031 g| histidine =0.019 g| alanine =0.082 g| aspartic acid =0.068 g| glutamic acid =0.096 g| glycine =0.034 g| proline =0.029 g| serine =0.035 g| right=1 | source_usda=1 }}
熟した実を中心にある種に沿って切り、生のまま食用にするのが一般的だが、[[ジュース]]・[[ラッシー]]・[[ピューレ]]・[[缶詰]]・[[ドライフルーツ]]などにも加工される。[[香港]]では果肉またはピューレに[[ゼラチン]]・砂糖・[[生クリーム]]など、ほかの材料を合わせた[[マンゴープリン]]が有名である。そのほか、[[ムース (食品)|ムース]]・[[ケーキ]]・[[シャーベット]]・[[スムージー]]・[[グミ]]などの洋生菓子も盛んに作られている。また、未熟果を[[塩漬け]]・甘酢漬け・[[チャツネ]]にする。東南アジアでは未熟果に[[唐辛子]]入りの砂糖塩につけて食したり、炒め物などの料理に使用したりする。
栄養面では、特に[[カロテン]]が豊富で、[[ビタミンA]]や[[ビタミンC]]が多く、抗酸化作用が効果が期待できる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}。また[[葉酸]]も含まれ、貧血や口内炎予防もなる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}。
地域によっては[[パパイヤ]]のようにマンゴーの未熟果実を野菜として、おやつとして食する文化が一般的である。[[タイ王国|タイ]]と[[ベトナム]]では緑色の未熟果実が庶民のおやつとして食べられている。これには塩をつけて食べる。ほとんど甘みはなく、未熟な果実の鮮烈な酸味と歯ごたえを楽しむ。[[台湾]]では小ぶりのマンゴーの未熟果実を丸ごとシロップ漬けにしたおやつが食べられている。[[インド]]ではマンゴーの未熟果実を乾燥させ粉末にしたものは[[アムチュール]]([[:en:Amchoor|en]])と呼ばれ、酸味付けのスパイスとして使用される。[[ガラムマサラ]]にアムチュールを加えた複合スパイスは[[チャットマサラ]]と呼ばれ、[[インド料理]]では広く使用される。
=== 種類 ===
;アップルマンゴー
:メキシコ産アーウィン種で、果実は大型で重さ400 - 500グラムにもなる。熟すと果皮が赤くなる。果肉はオレンジ色で、濃厚な甘味が特徴。日本でも宮崎県、沖縄県で栽培されている。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}
;タイマンゴー
:ペリカンマンゴー(フィリピンマンゴー)に似た姿で、平たくて黄色い品種。甘さとやや酸味がある。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}
;フィリピンマンゴー(ペリカンマンゴー)
:カラバオ種で、果実が平たくて黄色い。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}
;ブラジルマンゴー
:アップルマンゴーのケント種。ブラジル産のため、北半球では輸入物が冬に出回る。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}
;キーツマンゴー
:果皮が緑色のまま完熟するのが特徴。繊維が少なくて甘い。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}
;オーストラリアマンゴー
:果皮が黄色地にピンク色を帯びた色になるため、「ピーチマンゴー」ともよばれる。口当たりが良く、やさしい甘さがある。{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}
{{gallery
|ファイル:Carica papaya 1 (Piotr Kuczynski).jpg|アーウィン種の果実
|ファイル:Large mango.jpg|ペリカンマンゴー種の果実
}}
{{Clearleft}}
== 各国のマンゴー ==
===インド===
[[File:110 years ancient mango tree of Gopalganj, Bangladesh.jpg|thumb|バングラデシュのGopalganjの110年の古代マンゴーの木]]
インドは世界最大のマンゴー生産国。年間収穫量は約160万トンで、世界各国に輸出する。4000年以上前から栽培が始まっており、現在では500以上の品種が栽培されている。マンゴーの王と呼ばれるアルフォンソ・マンゴーは、3月から5月にかけて実り始め7月頃に終わる。甘く特有の香りがある。[[雨期]]の数ヵ月前に数日間雨が降り、その雨により一気に熟する。この雨をマンゴー・レインと呼び、[[デカン高原]]では4月中旬から5月初旬に降る。雨期が始まる6月中旬で、アルフォンソ・マンゴーの季節は終わる。デーヴガル産のアルフォンソ・マンゴーが最高だと言われ、実が大きく味が濃い。2006年より条件付で日本への輸入が解禁された<ref>{{Cite press release|title=インド産マンゴウの生果実の輸入解禁について|publisher=農林水産省|date=2006-06-23|url=http://www.maff.go.jp/www/press/2006/20060623press_1.html|access-date=2023-12-09|archive-url=https://web.archive.org/web/20060701132714/http://www.maff.go.jp/www/press/2006/20060623press_1.html|archive-date=2006-07-01}}</ref>。現在輸入できる品種はアルフォンソ種・ケサー種・チョウサ種・バンガンパリ種・マリカ種・ラングラ種である。なお[[ベンガル地方]]で古くからマンゴーの葉のみを食べさせた[[牛]]の[[尿]]から黄色[[顔料]][[インディアンイエロー]]を製造していたが、牛が飢餓状態になるため[[動物虐待]]として1908年に取引が禁止された<ref>{{Cite web |title=【フェルメール事典】第2部(5)「インディアンイエロー」牛の尿で作る絵の具 |url=https://www.sankei.com/article/20190316-C3YS7YEHQRLRRM2WVETJEGGCCI/ |website=産経ニュース |date=2019-03-16 |access-date=2023-12-09 |publisher=産経新聞社}}</ref>。
===日本===
[[ファイル:Mango_no_tabekata.JPG|thumb|left|花切りにしたマンゴー]]
日本では露地栽培により果実を実らせることが難しいため、農家ではビニールハウス栽培を採用している。ハウス栽培を行う目的は高い気温の確保ではなく、マンゴーの開花時期が日本の雨季と重なるため、水に弱いマンゴーの花粉を雨から守ることで受粉をさせ、結実させるためである<ref>[http://www.ntv.co.jp/megaten/library/date/05/07/0703.html 所さんの目がテン番組HP マンゴー]</ref>。
日本では[[植物防疫法]]によって、侵入を警戒する農業大害虫の[[ミバエ]]類が発生している国・地域からのマンゴーの生果実の輸入は原則として禁止されている。しかし、輸出国において果実に寄生する対象[[ミバエ]]類の完全殺虫処理技術等が確立されれば、各国より申請された品種について日本側([[農林水産省]])が検討し、問題無いとの結論に至ったものは殺虫処理などの条件を付して日本への輸入が認可されるようになった。殺虫処理技術には飽和水蒸気による果実の加熱処理である蒸熱処理や温水に果実を漬ける温湯浸漬という工程が用いられることが多い。これら条件付き輸入解禁により、1990年代後半ごろから全国のスーパーなどの小売店でフィリピン産などのマンゴー果実が安価で売られ、また菓子などの加工物の原材料としても幅広く用いられるようになり、一気に代表的な熱帯産果物の一種として日本の社会に浸透した。
日本では写真の花切りがマンゴーの切り方として定着している。切り方は中央の平たい種をさけ、実の幅が狭い方を縦にし、魚を3枚におろすように縦から包丁を入れて3枚に切る{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}。皮を切らないように、果肉の切った面にさいの目状に切り目を入れる。そして両手で皮側を押し上げて果肉を反り返すと花のような形になる{{sfn|猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|2012|p=209}}{{efn2|大型のマンゴーになると見た目だけでは種の向きの判断が難しい場合がある。その場合はまな板の上に転がし、安定した方向と平行に種が入っている為それを避けて包丁を入れる。}}。
{{Clearleft}}
日本国内ではおよそ3000トンのマンゴーが生産されており、品種はほぼ全てがアーウィン種となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jircas.go.jp/sites/all/themes/mango/minisynop/synopsis05-002.html#:~:text=%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C,%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%EF%BC%88%E5%9B%B31%EF%BC%89%E3%80%82|title=日本のマンゴー生産量|accessdate=2020/06/04|publisher=国立研究開発法人 国際農林水産業研究センター}}</ref>。また、国内の生産量の上位は沖縄県、宮崎県、鹿児島県の順となっている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ohisamakudamono.com/?mode=cate&cbid=2623321&csid=0 |title=鹿児島県産のマンゴー |accessdate=2022-04-08}}</ref>
====完熟マンゴー/太陽のタマゴ====
通常のマンゴーは完熟する前に収穫されているため、通常は追熟と呼ばれる経過を経て食されるが、[[宮崎県]]にて栽培されるマンゴーは全てが樹上にて完熟し、自然に落果したものを「完熟マンゴー」として出荷している。通常のマンゴーに比べ非常に甘く柔らかいことが特徴。通常のマンゴーはハウス栽培にて年中収穫されるが、宮崎県産の完熟マンゴーは4月中旬から7月頃までしか出荷されていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nissei-com.co.jp/japan_premium/journey/mango.html|title=宮崎県産宮崎マンゴー|accessdate=2020/06/04|publisher=NISSEI}}</ref>。出荷段階で完熟しているため、常温では数日、冷蔵でも1週間程度しか保存ができず、また樹上から自然落果するタイミングも測れないため出荷が不安定となり、他県のマンゴーに比べて高額で取引される<ref>{{Cite web|和書|url=https://type.jp/st/feature/1017|title=「マンゴーが僕を見て微笑んだ」宮崎県のセールスマン・東国原英夫氏がヒットを連発できた理由|accessdate=2020/06/04|publisher=株式会社キャリアデザインセンター}}</ref>。
また収穫された完熟マンゴーの中でも厳しい基準をクリアしたもののみ「太陽のタマゴ」のブランドを名乗ることが許され、解禁日の初競りでは2玉で50万円の値を付けた例もあり、非常に高額な値段で取引が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.the-miyanichi.co.jp/kennai/_38078.html|title=太陽のタマゴ最高50万円 宮崎市などで初競り|accessdate=2020/06/04|publisher=宮崎日日新聞}}</ref>。太陽のタマゴも出荷自体は4月後半から行われているが、旬は糖度が増す6月~7月となる。完熟マンゴーの内、太陽のタマゴが占める割合は多い年でも2割以下となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.ntv.co.jp/category/society/272895|title=完熟マンゴー「太陽のタマゴ」初セリ 宮崎|accessdate=2020/06/04|date=2015年4月13日|website=日テレNEWS24|publisher=日本テレビ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231209015759/https://news.ntv.co.jp/category/society/272895|archivedate=2023-12-09}}</ref>。
===タイ===
{{出典の明記|date=2023年6月|section=1}}
マンゴーは[[タイ語]]でマムアンといい、タイでの旬は4月から7月である<ref name="Bangkok">JTB『るるぶ タイ・バンコク 2015年版』2014年、34頁</ref>。もち米とともに調理した[[カオニャオ・マムアン]]はタイの名物料理である<ref name="Bangkok" />。また[[マムアングアン|マムアンクアン]]という菓子も存在する。
タイでは60種類以上の品種が栽培されているが、条件付で日本への輸入が解禁されたのが1987年<ref>{{Cite journal|author=川上清彦|year=2004|title=海外検疫の現場から(7) タイ産マンゴーおよびマンゴスチン|url=https://www.jppa.or.jp/archive/pdf/58_12_32.pdf|journal=植物防疫|volume=58p=32|accessdate=2023-12-09|format=PDF}}</ref>で、日本へ輸入できるマンゴーの生果実は、[[植物防疫法施行規則]]<!--別表2の付表第17-->による植物検疫が受けられるキオウサウェイ種、チョークアナン種、ナンカンワン種、ナンドクマイ種({{Lang-th-short|นำ้ดอกไม้}})、ピムセンダン種、マハチャノ種及びラッド種の計7種類である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/pps/j/law/houki/saisoku/saisoku_86_html_86.html|title=タイ産マンゴウの生果実に関する植物検疫実施細則|website=農林水産省植物防疫所ホームページ|publisher=[[農林水産省]]|accessdate=2023-06-14}}</ref>。外国産のマンゴーではメキシコ、フィリピンについで3番目の輸入量である。
日本人には糖度の高さと肌理細かな食感が特徴のナムドクマイ種が最も好まれ、日本に輸入されているタイ産マンゴーのほとんどを占めている。ナムドクマイとはタイ語で「花のしずく」という意味で、しずく状のマンゴーの形が名前の由来である。
===台湾===
[[ファイル:冰讃芒果雪花冰.jpg|thumb|台湾にある「冰讃」の芒果雪花冰]]
台湾語で「ソァイアー」({{lang|zh-hant|檨仔}})と呼ばれる。
=== 中国 ===
[[File:Mangoes, The Precious Gift that Great Leader, Chairman Mao Personally Gave to the Mao Zedong Thought Propaganda Team of Capital Workers & Peasants, China, 1968 - Jordan Schnitzer Museum of Art - DSC09533.jpg|thumb|毛沢東と同一視されたマンゴーは、祝賀パレードの先頭に据えられたり、防腐処理を施されたうえで各地の労働者にも送られたりした<ref name="KokusaiVol2N1P18-19"/>。]]
{{Main|マンゴー崇拝}}
[[1968年]][[8月5日]]に[[中国共産党中央委員会主席]]の[[毛沢東]]が、[[パキスタン]]外務大臣の{{仮リンク|ミアン・アルシャッド・フセイン|en|Mian Arshad Hussain}}から贈られた{{仮リンク|シンドリー・マンゴー|label=シンドリー種|en|Sindhri}}を、[[清華大学]]に進駐している首都工農毛沢東思想宣伝隊に授けたことがきっかけで、マンゴーを毛沢東と同一視する動きがあった<ref name="KokusaiVol2N1P18-19">{{Cite journal|author=増子保志|date=2017-07-02|title=毛沢東からの贈り物 -毛沢東崇拝のなかのマンゴー効果-|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/kjoho/2/1/2_18/_pdf|journal=日本国際情報学会誌『Kokusai-Joho』|volume=2|issue=1|pages=18-19|publisher=日本国際情報学会|format=PDF}}</ref>。
また、2020年代のペットブームの際は、中国語でマンゴーを意味する「芒果」(マングオ)の「果(グオ)」の発音が、犬をあらわす「狗(ゴウ)」の発音と似ていることから、「芒狗(マンゴウ)」と名付けてペットとしてかわいがる動きがあった<ref>{{Cite web |title=マンゴーの種までペットに? 若者が「何でもペット化」するワケ|url=http://j.people.com.cn/n3/2023/0821/c206603-20061097.html|website=人民網日本語版|publisher=人民日報 |date=2023年08月21日 |access-date=2023-12-09}}</ref>。
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一方、香港ではタピオカ入りの{{仮リンク|楊枝甘露|zh|楊枝甘露}}があり、こちらは2021年に台湾で爆発的な人気を起こし、2022年には日本でも供給されるようになった<ref name="NikkeiXtrend20221227">{{Cite web |title=23年ヒット確実? 香港発“楊枝甘露”が上陸、コストコが導火線 |url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/watch/00013/02092/ |website=日経クロストレンド |access-date=2023-12-09|date= 2022年12月27日|author=桑原恵美子}}</ref>。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
<references />
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author =猪股慶子監修 成美堂出版編集部編|title = かしこく選ぶ・おいしく食べる 野菜まるごと事典|date=2012-07-10|publisher = [[成美堂出版]]|isbn=978-4-415-30997-2|page =209|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Mango|Mango}}
{{Wikispecies|Mangifera}}
{{Wiktionary}}
* [[マンゴー (ライフゲーム)]]
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[[Category:マンゴー|*]]
[[Category:ウルシ科]]
[[Category:果物]]
[[Category:香辛料]]
[[Category:インドの国の象徴]]
[[Category:1753年に記載された植物]] | 2003-04-26T19:28:35Z | 2023-12-09T02:19:38Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%BC |
7,344 | コイ目 | コイ目(コイもく、Cypriniformes、Carp)は、硬骨魚類の分類群の一つ。6科で構成され、コイ・フナ・タナゴ・ドジョウなどの淡水魚を中心に、およそ4,000種が所属する大きなグループである。中でもコイ科は世界で約3,000種が知られ、魚類で最大の科を構成する。食用あるいは観賞魚として利用される種類も数多く、人間にとっても馴染み深い分類群となっている。
本稿では分類群としてのコイ目の構成、およびコイ類全般の特徴について記述する。日本を含む世界各地に分布するコイ科魚類の1種、コイ(Cyprinus carpio)および関連する文化については、コイの項目を参照のこと。
コイ目には2006年の時点で3,200を超える種が記載され、魚類の目の中ではスズキ目(約1万種)に次いで2番目に大きな一群となっている。現生の魚類2万8,000種の1割以上、淡水産種(約1万2,400種)に限れば四分の一以上がコイ目の仲間で占められる。1994年の時点(約2,600種)から10年余りの間に新たに600種以上が新種記載されるなど、分類の拡大傾向が続いている。
所属する魚類はほぼすべてが淡水魚で、熱帯から寒帯にかけての河川や湖沼、さらには山岳地帯の渓流に至るまで、その生息域は幅広い。ユーラシア大陸・北アメリカ大陸・アフリカ大陸および周辺の島嶼地域を中心に繁栄する一方、南アメリカ大陸には分布しない。強酸性の湖にも生息できるウグイなど、水質の悪い環境への適応もしばしば認められる。成魚の大きさは1cm程度の超小型種から3mに達するものまでおり、体色・食性・繁殖形態なども多種多彩である。
コイ目魚類に共通する重要な特徴として、咽頭歯の存在がある。本目の魚は口の中に歯(顎歯および口蓋歯)をもたず、喉の部分に咽頭歯と呼ばれる歯が発達している。咽頭歯は大きく発達した咽頭骨に形成される。咽頭歯の本数や配列、成長段階での形成過程は詳細に調べられており、特にコイ科では重要な分類形質として利用されている。
多くの種類は口ヒゲをもち、上顎を突き出すことができる。頭部には鱗がない。鰭は棘条をもたず軟条のみからなるが、一部の種類の背鰭には棘条に似た頑丈な鰭条がみられる。背鰭は1つだけで、ドジョウ科の一部を除いて脂鰭を欠く。口蓋骨は内翼状骨と接続する。下咽頭骨に形成された咽頭歯は、パッド状に拡張した基後頭骨突起とかみ合い、飲み込んだ餌はこの部分ですりつぶされる。
コイ目はカラシン目やナマズ目などとともに骨鰾上目と呼ばれるグループに属し、この仲間に共通する特徴としてウェーベル氏器官(ウェーバー器官とも)と呼ばれる独特の構造を有している。ウェーベル氏器官は変形した4つの脊椎骨によって構成され、内耳と浮き袋を連絡し、脳に音を伝える機能をもつ。
コイ目は2上科6科で構成される。コイ目は同じ骨鰾上目のネズミギス目・カラシン目・ナマズ目・デンキウナギ目と近縁である。近年、アメリカ国立科学財団(NSF)によってコイ目の詳細な系統解析プロジェクト(Cypriniformes Tree of Life、CToL)が進められるなど、本目の生物多様性を解明するための努力が続けられている。
コイ科 Cyprinidae は約3000種を含み、淡水魚として最大の科となっている。メキシコ南部までの北アメリカ、アフリカおよびユーラシア大陸に分布する。ほぼすべてが淡水産であるが、ごく一部に汽水域に進出する種類が知られる。多数の水産重要種を含み、アクアリウムなどで飼育される観賞魚も多い。ゼブラフィッシュ(Danio rerio)など、一部の魚種は生物学における重要なモデル動物として利用されている。本科に所属するパーカーホは、コイ目中の最大種で3mに及ぶこともあるが、一般的なコイ科魚類は体長5cm未満である。咽頭歯は1-3列で、各列とも8本を超えることはない。多くの種類では唇は薄く、ひだや突起はない。上顎はほぼ完全に前上顎骨のみによって縁取られ、前に突き出すことが可能である。コイ科魚類の最古の化石は、アジアにおける始新世の地層から産出する。
次の亜科と、所属未定のいくつかの属がある。
ドジョウ上科 Cobitoidea は4科99属842種で構成される。フクドジョウの仲間はかつてドジョウ科に所属していたが、現在ではタニノボリ科に移されている。間在骨(opisthotic)を欠き、眼窩蝶形骨が上篩骨・篩骨複合体と接続するなどの特徴がある。
ギュリノケイルス科 Gyrinocheilidae は1属3種からなり、東南アジア山岳地帯の渓流に分布する。いずれも藻類のみを摂食し、観賞魚として人気のある種類である。
咽頭歯および口ヒゲをもたない。口は下向きで吸盤状に変化しており、岩などに張り付くことで急流をやり過ごす。鰓の開口部は小さく、2列のスリット状になっている。
サッカー科(ヌメリゴイ科) Catostomidae には4亜科13属72種が属する。ほとんどの種は北米に分布するが、Catostomus catostomus はシベリア、イェンツーユイは中国にも分布する。体長1mに達する大型種を含む。ほとんどの種類は底生魚で、口は下向きについていることが多い。始新世から漸新世にかけて化石属が知られている。咽頭歯は1列16本以上。唇は厚く肉質で、ひだや突起をもつものが多い。上顎は前上顎骨と主上顎骨によって縁取られる。
ドジョウ科 Cobitidae は2亜科26属177種で構成され、ドジョウ・シマドジョウなどが所属する。日本を含めたユーラシア地域およびモロッコに分布し、特に南アジアで多様な種分化が認められる。底生性で、体長は最大種で40cmほどになる。Pangio 属(クーリーローチ)や Botia 属(クラウンローチ)など、観賞魚として知られる仲間も多い。本科は Cobitididae と綴られることもあるが、現在ではこのアルファベット表記は受けいれられていない。
体は細長いか、あるいは紡錘形。口はやや下向きで、3-6対の口ヒゲをもつ。眼の下にトゲ状の突起をもつ。咽頭歯は一列。
タニノボリ科 Balitoridae は2亜科59属590種で構成され、ユーラシア地域に広く分布する。フクドジョウ亜科はかつてドジョウ科に含められていたが、ウェーベル氏器官の形態上の特徴から、現在ではタニノボリ亜科と併せて単系統群を構成するとみられている。590という種数は概算値であり、有効魚種の全体的な再検討が望まれている。新種の記載も近年相次いでおり、多くの未発見種が存在すると考えられている。 | [
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] | コイ目(コイもく、Cypriniformes、Carp)は、硬骨魚類の分類群の一つ。6科で構成され、コイ・フナ・タナゴ・ドジョウなどの淡水魚を中心に、およそ4,000種が所属する大きなグループである。中でもコイ科は世界で約3,000種が知られ、魚類で最大の科を構成する。食用あるいは観賞魚として利用される種類も数多く、人間にとっても馴染み深い分類群となっている。 本稿では分類群としてのコイ目の構成、およびコイ類全般の特徴について記述する。日本を含む世界各地に分布するコイ科魚類の1種、コイおよび関連する文化については、コイの項目を参照のこと。 | {{生物分類表
|名称 = コイ目
|画像=[[ファイル:Ojiya Nishikigoi no Sato ac (3).jpg|280px]]
|画像キャプション =群泳する[[ニシキゴイ|錦鯉]] ''Cyprinus carpio''
|省略 = 条鰭綱
|亜綱 = [[新鰭亜綱]] {{Sname||Neopterygii}}
|上目 = [[骨鰾上目]] {{Sname||Ostariophysi}}
|目 = '''コイ目''' {{Sname|Cypriniformes}}
}}
'''コイ目'''(コイもく、{{Sname|Cypriniformes}}、[[:en:Carp|Carp]])は、[[硬骨魚綱|硬骨魚類]]の分類群の一つ。6科で構成され、[[コイ]]・[[フナ]]・[[タナゴ亜科|タナゴ]]・[[ドジョウ]]などの[[淡水魚]]を中心に、およそ4,000種が所属する大きなグループである。中でも[[コイ科]]は世界で約3,000種が知られ、[[魚類]]で最大の[[科 (分類学)|科]]を構成する。食用あるいは[[観賞魚]]として利用される種類も数多く、人間にとっても馴染み深い分類群となっている。
本稿では[[生物の分類|分類群]]としてのコイ目の構成、およびコイ類全般の特徴について記述する。[[日本]]を含む世界各地に分布するコイ科魚類の1種、コイ(''Cyprinus carpio'')および関連する文化については、'''[[コイ]]'''の項目を参照のこと。
== 概要 ==
コイ目には[[2006年]]の時点で3,200を超える種が記載され、[[魚類]]の[[目 (分類学)|目]]の中では[[スズキ目]](約1万種)に次いで2番目に大きな一群となっている。現生の魚類2万8,000種の1割以上、淡水産種(約1万2,400種)に限れば四分の一以上がコイ目の仲間で占められる<ref name=Nelson2006/>。[[1994年]]の時点(約2,600種)<ref name=Ueno2005>『新版 魚の分類の図鑑』 pp.54-55</ref>から10年余りの間に新たに600種以上が新種記載されるなど、分類の拡大傾向が続いている。
所属する魚類はほぼすべてが淡水魚で、[[熱帯]]から[[寒帯]]にかけての[[川|河川]]や[[湖沼]]、さらには山岳地帯の[[渓流]]に至るまで、その生息域は幅広い。[[ユーラシア大陸]]・[[北アメリカ大陸]]・[[アフリカ大陸]]および周辺の島嶼地域を中心に繁栄する一方、[[南アメリカ大陸]]には分布しない。強酸性の湖にも生息できる[[ウグイ]]<ref>『日本の淡水魚 改訂版』 pp.259-264</ref>など、水質の悪い環境への[[適応 (生物学)|適応]]もしばしば認められる。成魚の大きさは1cm程度の超小型種から3mに達するものまでおり、体色・[[食性]]・[[繁殖]]形態なども多種多彩である。
== 形態 ==
[[ファイル: Mylocheilus robustus 01.jpg|thumb|right|コイ科魚類(''Mylocheilus robustus'')の咽頭歯の化石。コイ目の魚類は顎に歯をもたず、喉の部分に咽頭歯が発達する]]
コイ目魚類に共通する重要な特徴として、'''咽頭歯'''の存在がある。本目の魚は口の中に歯(顎歯および口蓋歯)をもたず、喉の部分に咽頭歯と呼ばれる歯が発達している。咽頭歯は大きく発達した咽頭骨に形成される。咽頭歯の本数や配列、成長段階での形成過程は詳細に調べられており<ref name=Katachi2005>『魚の形を考える』 pp.69-114</ref>、特にコイ科では重要な分類形質として利用されている。
多くの種類は口ヒゲをもち、上顎を突き出すことができる。頭部には[[鱗]]がない。[[鰭]]は棘条をもたず軟条のみからなるが、一部の種類の[[背鰭]]には棘条に似た頑丈な鰭条がみられる。背鰭は1つだけで、ドジョウ科の一部を除いて脂鰭を欠く。[[口蓋骨]]は内翼状骨と接続する。下咽頭骨に形成された咽頭歯は、パッド状に拡張した基後頭骨突起とかみ合い、飲み込んだ餌はこの部分ですりつぶされる。
コイ目は[[カラシン目]]や[[ナマズ目]]などとともに[[骨鰾上目]]と呼ばれるグループに属し、この仲間に共通する特徴としてウェーベル氏器官(ウェーバー器官とも)と呼ばれる独特の構造を有している。ウェーベル氏器官は変形した4つの[[椎骨|脊椎骨]]によって構成され、[[内耳]]と[[鰾|浮き袋]]を連絡し、[[脳]]に音を伝える機能をもつ。
== 分類 ==
コイ目は2上科6科で構成される<ref name=Nelson2006>{{cite book|author= Nelson JS |title=Fishes of the world (4th edn) |publisher=John Wiley and Sons |location= New York |year=2006}}</ref>。コイ目は同じ骨鰾上目の[[ネズミギス目]]・カラシン目・ナマズ目・[[デンキウナギ目]]と近縁である。近年、[[アメリカ国立科学財団]](NSF)によってコイ目の詳細な系統解析プロジェクト('''Cypriniformes Tree of Life'''、'''CToL''')<ref name=CToL>{{cite web |title= Cypriniformes Tree of Life |publisher =CToL| url= http://bio.slu.edu/mayden/cypriniformes/home.html/ |accessdate=2009-01-31 }}</ref>が進められるなど、本目の[[生物多様性]]を解明するための努力が続けられている<ref name=Nelson2006/>。
===コイ上科 ===
==== コイ科 ====
{{Main|コイ科}}
[[ファイル: Zebrafisch.jpg|thumb|right|[[ゼブラフィッシュ]] ''Danio rerio'' (ダニオ亜科)。実験動物として汎用され、[[遺伝子改変動物|遺伝子改変モデル]]も作出されている]]
[[ファイル: Carassius auratus grandoculis3.jpg|thumb|right|[[ニゴロブナ]] ''Carassius buergeri grandoculis'' (コイ亜科)。琵琶湖の固有亜種で、当地の[[郷土料理]]である[[鮒寿司]]の原料として利用される]]
[[ファイル: Ctenopharyngodon idella 01 Pengo.jpg|thumb|right|[[ソウギョ]] ''Ctenopharyngodon idella''。水生植物を主食とする東アジア原産のコイ類。日本には戦中戦後にかけて移植され、以来全国各地に分布範囲を広げている]]
[[コイ科]] {{Sname||Cyprinidae}} は約3000種を含み、淡水魚として最大の科となっている。[[メキシコ]]南部までの[[北アメリカ]]、アフリカおよびユーラシア大陸に分布する。ほぼすべてが淡水産であるが、ごく一部に[[汽水域]]に進出する種類が知られる。多数の水産重要種を含み、[[アクアリウム]]などで飼育される観賞魚も多い。[[ゼブラフィッシュ]](''Danio rerio'')など、一部の魚種は[[生物学]]における重要なモデル動物として利用されている。本科に所属する[[パーカーホ]]は、コイ目中の最大種で3mに及ぶこともあるが<ref name=Nelson2006/>、一般的なコイ科魚類は体長5cm未満である。咽頭歯は1-3列で、各列とも8本を超えることはない。多くの種類では唇は薄く、ひだや突起はない。上顎はほぼ完全に前上顎骨のみによって縁取られ、前に突き出すことが可能である。コイ科魚類の最古の[[化石]]は、アジアにおける[[始新世]]の[[地層]]から産出する<ref name=Nelson2006/>。
次の亜科と、所属未定のいくつかの属がある。
* {{Sname||Psilorhynchinae}}
* [[コイ亜科]] {{Sname||Cyprininae}}
* [[ダニオ亜科]] {{Sname||Danioninae}}
* {{Sname||Leptobarbinae}}
* [[タナゴ亜科]] {{sname||Acheilognathinae}}
* [[カマツカ亜科]] {{Sname||Gobioninae}}
* [[ウグイ亜科]] {{Sname||Leuciscinae}}
* [[クセノキプリス亜科]] {{Sname||Oxygastrinae}}
===ドジョウ上科 ===
'''ドジョウ上科''' Cobitoidea は4科99属842種で構成される。フクドジョウの仲間はかつてドジョウ科に所属していたが、現在ではタニノボリ科に移されている。間在骨(opisthotic)を欠き、眼窩蝶形骨が上篩骨・[[篩骨]]複合体と接続するなどの特徴がある。
==== ギュリノケイルス科 ====
[[ファイル: Chinese algae eater.jpg|thumb|right|アルジーイーター ''Gyrinocheilus aymonieri'' (ギュリノケイルス科)]]
[[ファイル: Ictiobus niger.jpg |thumb|right|サッカー科の1種(''Ictiobus niger'')]]
'''[[ギュリノケイルス科]]''' {{Snamei||Gyrinocheilidae}} は1属3種からなり、東南アジア山岳地帯の渓流に分布する。いずれも[[藻類]]のみを摂食し、観賞魚として人気のある種類である。
咽頭歯および口ヒゲをもたない。口は下向きで[[吸盤]]状に変化しており、岩などに張り付くことで急流をやり過ごす。鰓の開口部は小さく、2列のスリット状になっている。
* ギュリノケイルス属 ''Gyrinocheilus''
==== サッカー科 ====
{{Main|サッカー科}}
[[サッカー科]](ヌメリゴイ科) {{Sname||Catostomidae}} には4亜科13属72種が属する。ほとんどの種は北米に分布するが、{{Snamei||Catostomus catostomus}} はシベリア、[[イェンツーユイ]]は中国にも分布する。体長1mに達する大型種を含む。ほとんどの種類は底生魚で、口は下向きについていることが多い。始新世から漸新世にかけて化石属が知られている。咽頭歯は1列16本以上。唇は厚く肉質で、ひだや突起をもつものが多い。上顎は前上顎骨と主上顎骨によって縁取られる。
==== ドジョウ科 ====
[[ファイル: Botia histrionica.jpg |thumb|right|ゴールド・ゼブラ・ローチ ''Botia histrionica'' (ドジョウ科)]]
[[ファイル: Cobitis biwae(Hamamatsu,Shizuoka,Japan,2007).jpg |thumb|right|[[シマドジョウ]] ''Cobitis biwae'' (ドジョウ科)。日本固有種で、本州と四国に広く分布する]]
[[ファイル: Cobitis shikokuensis 2.jpg |thumb|right|ヒナイシドジョウ ''Cobitis shikokuensis'' (ドジョウ科)]]
[[ファイル: Beaufortia kweichowensis.jpg |thumb|right|チャイナバタフライ ''Beaufortia kweichowensis'' (タニノボリ科)。吸盤状に拡大した胸鰭・腹鰭を使って岩などに張り付く]]
[[ドジョウ科]] {{Sname||Cobitidae}} は2亜科26属177種で構成され、[[ドジョウ]]・[[シマドジョウ]]などが所属する。日本を含めたユーラシア地域および[[モロッコ]]に分布し、特に南アジアで多様な[[種分化]]が認められる。底生性で、体長は最大種で40cmほどになる。''Pangio'' 属([[クーリーローチ]])や ''Botia'' 属([[クラウンローチ]])など、観賞魚として知られる仲間も多い。本科は Cobiti'''di'''dae と綴られることもあるが、現在ではこの[[アルファベット]]表記は受けいれられていない<ref name=Nelson2006/>。
体は細長いか、あるいは紡錘形。口はやや下向きで、3-6対の口ヒゲをもつ。眼の下にトゲ状の突起をもつ。咽頭歯は一列。
* '''ドジョウ亜科''' Cobitidae 19属130種。多くの種類は[[吻]]に1対のヒゲを有する。頭部の側線系が明瞭で、尾鰭はやや丸みを帯びる。
** アジメドジョウ属 {{Snamei||Niwaella}}
** シマドジョウ属 {{Snamei||Cobitis}}
** ドジョウ属 {{Snamei||Misgurnus}}
** 他16属
* '''アユモドキ亜科''' Botiinae 7属47種を含み、インド・中国・日本および東南アジアの島嶼域に分布する。体は側扁し、吻のヒゲは2対。頭部側線系は不明瞭で、尾鰭は二又に分かれる。日本からは[[アユモドキ]](固有種)が知られる。
** アユモドキ属 ''Leptobotia''
** 他6属
==== タニノボリ科 ====
{{Main|タニノボリ科}}
[[タニノボリ科]] {{Sname||Balitoridae}} は2亜科59属590種で構成され、ユーラシア地域に広く分布する。フクドジョウ亜科はかつてドジョウ科に含められていたが、ウェーベル氏器官の形態上の特徴から、現在ではタニノボリ亜科と併せて単系統群を構成するとみられている。590という種数は概算値であり、有効魚種の全体的な再検討が望まれている。新種の記載も近年相次いでおり、多くの未発見種が存在すると考えられている。
* '''フクドジョウ亜科''' Nemacheilinae
** ホトケドジョウ属 ''Lefua''
** ''Schistura'' 属
** 他27属
* '''タニノボリ亜科''' Balitorinae
** ''Balitora'' 属
** 他28属
== 出典・脚注 ==
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Cypriniformes}}
{{wikispecies|Cypriniformes}}
* [[魚の一覧]]
* [[コイ]] - コイ科の1種(''Cyprinus carpio'')と関連する文化について。
== 参考文献 ==
* Nelson JS, Fishes of the World (4th ed), New York, John Wiley & Sons INC, 2006, ISBN 0-471-25031-7
* 上野輝彌・坂本一男 『新版 魚の分類の図鑑』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 2005年 ISBN 978-4-486-01700-4
* 川那部浩哉・水野信彦・細谷和海 編・監修 『日本の淡水魚 改訂版』 [[山と溪谷社]] 1989年 ISBN 4-635-09021-3
* 松浦啓一編著 『魚の形を考える』 東海大学出版会 2005年 ISBN 4-486-01674-2
* 岩井保 『魚学入門』 [[恒星社厚生閣]] 2005年 ISBN 978-4-7699-1012-1
== 外部リンク ==
* [http://www.fishbase.org/Summary/OrdersSummary.cfm?order=Cypriniformes FishBase‐コイ目] (英語)
* [http://comiya.net/fish/order/coi_mc/index.html コイ目専門・コイ目一覧表]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こいもく}}
[[Category:コイ目|*]] | 2003-04-26T20:36:33Z | 2023-12-12T01:30:45Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A4%E7%9B%AE |
7,345 | カダヤシ目 | カダヤシ目(英: Cyprinodontiformes)は、硬骨魚類の分類群の一つ。キプリノドン目あるいはキュプリノドン目とも呼ばれる。2亜目10 科109属で構成され、カダヤシ・グッピー・ソードテールなど小型の熱帯魚を中心に1,013種が所属する。
本目はかつてメダカ目と呼ばれていたが、メダカ科がダツ目に移動されたため、呼称がカダヤシ目に変更されたという経緯がある。
カダヤシ目に所属する1,013種の魚類のうち、996種は淡水魚である。南北アメリカ大陸とアフリカ大陸の河川・湖沼に分布する仲間がほとんどで、ごく一部がヨーロッパの地中海沿岸やアジアの淡水域に産する。日本には在来のカダヤシ目魚類はいないが、カダヤシ(Gambusia affinis)およびグッピー(Poecilia reticulata)が移入種として全国各地に定着している。
体色の性的二形が顕著なグループで、多くの場合雄は雌よりも鮮やかな色彩をもつ。観賞魚やモデル生物として利用される種類も多く、世界各地の水族館や個人のアクアリウムで飼育対象とされるほか、生物学の研究材料として長年にわたり貢献した歴史をもつ。本目の魚類は発生の機構や成長の過程が多様性に富んでおり、卵の大きさは0.3-3mmまで幅広く、胚発生の期間は1週間程度から1年を超える種までさまざまである。
本目にはカダヤシ科・ヨツメウオ科など、体内受精による繁殖をおこなう卵胎生の魚類が多数所属する。雄は臀鰭の鰭条が変形した交接器をもち、雌との交尾に使用する。卵は雌の体内で孵化し、仔魚が産出される。
トウゴロウイワシ目・ダツ目と近縁で、カダヤシ目を含めた3グループの間で分類体系の変遷を多く重ねてきた。主に骨格上の特徴に基づき、現在のカダヤシ目の単系統性は支持されている。尾鰭の骨格は対称性をもち、後縁は平坦あるいは丸みを帯び二又に分かれることはない。第一後擬鎖骨は鱗のような形態をしている。腹鰭は通常腹部にあり、もたないものもいる。ダツ目とは異なり、上顎を突き出すことができる。鋤骨・上擬鎖骨をもち、外翼状骨・後翼状骨(頭部を構成する骨の一つ)を欠くことが多い。
カダヤシ目はアプロケイルス亜目・カダヤシ亜目の2亜目からなり、10科109属1,013種で構成される。
本目の分類は1960年代にGreenwoodらによって構成された体系を長く基本とし、当時は「キプリノドン科」に多数のグループが一つにまとめられていた。1980年代初頭にParentiがこの「キプリノドン科」が単系統群ではないことを明らかにし、複数の科を分割することによって現在の分類体系の基礎が作られている。
アプロケイルス亜目 Aplocheiloidei は3科36属493種で構成される。鮮やかな色彩をもつ種類が多く、観賞魚として人気の高い一群である。左右の腹鰭の基部は互いに近い位置にある。3個の基鰓骨をもち、臀鰭に対する背鰭の位置は前後さまざま。
本亜目には「年魚」と呼ばれる一群が含まれる。年魚は雨季に形成された一時的な池沼に産卵する。卵は乾燥に耐える厚い絨毛膜をもち、休眠によって乾季を乗り越える。通常は次の雨季に孵化するが、1年以上卵のままでいる場合もある。こうした年魚の生活史は分類上の系統を反映しているわけではなく、独立に獲得される様式であることが示されている。
アプロケイルス科 Aplocheilidae は2属7種からなり、マダガスカル・セーシェルなどアフリカ東部の島嶼地域、およびインド亜大陸から東南アジアにかけて分布する。雌の背鰭には黒い斑点がある。
かつてアプロケイルス亜目の魚類は、すべて本科にまとめられていた。現在ではアフリカ大陸に分布するグループをノソブランキウス科、新世界に住む一群をリウルス科として分離し、本科にはアフリカ島嶼地域とアジアに生息する少数のグループが含められている。
ノソブランキウス科 Nothobranchiidae 科 には6属250種が所属し、サハラ砂漠南部から南アフリカにかけてのアフリカ大陸に分布する。雄には3本の赤縞が斜めに走行する。
リウルス科 Rivulidae は28属236種を含み、フロリダ半島南部から中央アメリカ、アルゼンチン北東部にかけて分布する。多くは全長8cm未満、最大種でも20cmほどの小型魚類で、3cmに満たない超小型種も含まれる。多数の未記載種が知られ、分類は今後も拡大するものとみられる。上擬鎖骨は後側頭骨と癒合せず、第一後擬鎖骨を欠く。一部に腹鰭を欠く種類がある。
フロリダ半島と西インド諸島に分布するマングローブ・リウルス(Kryptolebias marmoratus、以前は Rivulus 属に所属)および同属の仲間は、正常に機能する卵巣と精巣を同時に有するという、魚類あるいは全ての脊椎動物の中でも際立った特徴を有している。一匹の個体の中で体内受精が完了し、受精卵を産むことができる。本属を独立の Kryptolebiatinae 亜科、残るすべての属をリウルス亜科 Rivulinae として細分類する見解もある。
キプリノドン亜目 Cyprinodontoidei は4上科7科73属520種で構成される。腹鰭の基部は近接せず、基鰓骨は2個。
フンドゥルス上科 Funduloidea は3科23属85種からなる。プロフンドゥルス科とグデア科は姉妹群の関係にあるとみられている。
プロフンドゥルス科 Profundulidae は1属5種を含み、中央アメリカの淡水域に分布する。体外受精により繁殖する。
グーデア科 Goodeidae は2亜科18属40種で構成され、北アメリカ(米国ネバダ州からメキシコ中西部)に分布する。
フンドゥルス科 Fundulidae は4属50種からなり、カナダ南東部からユカタン半島にかけての低地に分布する。本科の仲間の多くは顕著な広塩性を示し、生息域は淡水域から塩分濃度の高い沿岸海域まで広範囲に及ぶ。背鰭の起始部は臀鰭の真上か、やや前にある。
ヴァレンキア上科 Valencioidea は1科1属2種で構成される。いずれも卵生の魚類である。
ヴァレンキア科 Valenciidae は1属2種からなり、スペイン南東部・イタリア・ギリシャ西部に分布する。主上顎骨に細長い突起がある。本科の魚類は地中海周辺の淡水域に分布する。
キプリノドン上科 Cyprinodontoidea は1科9属104種を含む。カダヤシ上科と姉妹群を構成すると考えられている。
キプリノドン科 Cyprinodontidae は2亜科9属104種で構成される。アメリカ合衆国・中央アメリカ・南アメリカと、アフリカ北部・地中海沿岸地域に分布する。背鰭の起始部は臀鰭よりも後方にある。体長8cm未満の小型魚類で、卵生。
カダヤシ上科 Poecilioidea は2科40属319種で構成される。
ヨツメウオ科 Anablepidae は2亜科3属15種を含み、メキシコ南部から南アメリカにかけて分布する。上耳骨・上後頭骨は頑健。腹鰭は胸鰭の後端よりも後ろに位置する。背鰭の起始部は臀鰭よりも後方にある。
カダヤシ科 Poeciliidae は3亜科37属304種で構成され、アメリカ東部から南アメリカ、およびアフリカの低地に分布する。交接器の有無はさまざま。胸鰭の位置は高い。本科内部の構成は、Ghedotti(2000)の見解に基づいた変更が近年加えられている。 | [
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"text": "カダヤシ科 Poeciliidae は3亜科37属304種で構成され、アメリカ東部から南アメリカ、およびアフリカの低地に分布する。交接器の有無はさまざま。胸鰭の位置は高い。本科内部の構成は、Ghedotti(2000)の見解に基づいた変更が近年加えられている。",
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] | カダヤシ目は、硬骨魚類の分類群の一つ。キプリノドン目あるいはキュプリノドン目とも呼ばれる。2亜目10 科109属で構成され、カダヤシ・グッピー・ソードテールなど小型の熱帯魚を中心に1,013種が所属する。 本目はかつてメダカ目と呼ばれていたが、メダカ科がダツ目に移動されたため、呼称がカダヤシ目に変更されたという経緯がある。 | {{生物分類表
|名称 =カダヤシ目
|色 = 動物界
|画像=[[画像: Guppy coppia gialla.jpg |250px]]
|画像キャプション =[[グッピー]] ''Poecilia reticulata'' (カダヤシ科)
|界 = [[動物界]] [[:w:Animalia|Animalia]]
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|目 = '''カダヤシ目''' [[:w:Cyprinodontiformes|Cyprinodontiformes]]
|下位分類名 = 下位分類
|下位分類 = {{Center|本文参照}}
}}
'''カダヤシ目'''({{lang-en-short|Cyprinodontiformes}})は、[[硬骨魚綱|硬骨魚類]]の分類群の一つ。'''キプリノドン目'''あるいは'''キュプリノドン目'''とも呼ばれる。2亜目10 科109属で構成され、[[カダヤシ]]・[[グッピー]]・[[ソードテール]]など小型の[[熱帯魚]]を中心に1,013種が所属する。
本目はかつて'''メダカ目'''と呼ばれていたが、[[メダカ科]]が[[ダツ目]]に移動されたため、呼称がカダヤシ目に変更されたという経緯がある。
== 概要 ==
[[Image: Gambusia affinis male.jpg |thumb|right|[[カダヤシ]]の雄 ''Gambusia affinis'' (カダヤシ科)。1916年に[[台湾]]から日本に移入された本種は、現在では東北地方以南の各地に分布している]]
カダヤシ目に所属する1,013種の[[魚類]]のうち、996種は[[淡水魚]]である。[[アメリカ州|南北アメリカ大陸]]と[[アフリカ大陸]]の[[河川]]・[[湖沼]]に分布する仲間がほとんどで、ごく一部が[[ヨーロッパ]]の[[地中海]]沿岸や[[アジア]]の[[淡水]]域に産する。日本には在来のカダヤシ目魚類はいないが、[[カダヤシ]](''Gambusia affinis'')および[[グッピー]](''Poecilia reticulata'')が[[外来種|移入種]]として全国各地に定着している<ref name=Tansuigyo>『日本の淡水魚 改訂版』 pp.430-431</ref>。
体色の[[性的二形]]が顕著なグループで、多くの場合雄は雌よりも鮮やかな色彩をもつ。[[観賞魚]]や[[モデル生物]]として利用される種類も多く、世界各地の[[水族館]]や個人の[[アクアリウム]]で飼育対象とされるほか、[[生物学]]の研究材料として長年にわたり貢献した歴史をもつ。本目の魚類は発生の機構や成長の過程が多様性に富んでおり、[[卵]]の大きさは0.3-3mmまで幅広く、[[胚発生]]の期間は1週間程度から1年を超える種までさまざまである。
本目にはカダヤシ科・ヨツメウオ科など、[[体内受精]]による繁殖をおこなう[[卵胎生]]の魚類が多数所属する。雄は臀鰭の鰭条が変形した交接器をもち、雌との交尾に使用する。卵は雌の体内で孵化し、[[仔魚]]が産出される。
[[トウゴロウイワシ目]]・[[ダツ目]]と近縁で、カダヤシ目を含めた3グループの間で分類体系の変遷を多く重ねてきた。主に[[骨格]]上の特徴に基づき、現在のカダヤシ目の[[単系統群|単系統性]]は支持されている。尾鰭の骨格は対称性をもち、後縁は平坦あるいは丸みを帯び二又に分かれることはない。第一後擬鎖骨は[[鱗]]のような形態をしている。腹鰭は通常腹部にあり、もたないものもいる。ダツ目とは異なり、上顎を突き出すことができる。[[鋤骨]]・上擬鎖骨をもち、外翼状骨・後翼状骨(頭部を構成する骨の一つ)を欠くことが多い。
== 分類 ==
カダヤシ目はアプロケイルス亜目・カダヤシ亜目の2亜目からなり、10科109属1,013種で構成される<ref name=Nelson2006>{{cite book|author= Nelson JS |title=Fishes of the world (4th edn) |publisher=John Wiley and Sons |location= New York |year=2006}}</ref>。
本目の分類は1960年代にGreenwoodらによって構成された体系<ref name=Greenwood1966>{{cite journal|author=Greenwood PH, Rosen DE, Weitzman SH, Myers GS |title=Phyletic studies of teleostean fishes, with a provisional classification of living forms |journal=Bull Am Mus Nat Hist |year=1966 |volume=131|pages=339-456|id= }}</ref>を長く基本とし、当時は「キプリノドン科」に多数のグループが一つにまとめられていた。1980年代初頭にParentiがこの「キプリノドン科」が単系統群ではないことを明らかにし、複数の科を分割することによって現在の分類体系の基礎が作られている<ref name=Palenti1981>{{cite journal|author=Palenti LR |title=A phylogenetic and biogeographic analysis of cyprinodontiform fishes (Teleostei, Atherinomorpha) |journal=Bull Am Mus Nat Hist |year=1981 |volume=168|pages=335-557|id= }}</ref>。
=== アプロケイルス亜目 ===
'''アプロケイルス亜目''' [[:w:Aplocheiloidei|Aplocheiloidei]] は3科36属493種で構成される。鮮やかな色彩をもつ種類が多く、観賞魚として人気の高い一群である。左右の腹鰭の基部は互いに近い位置にある。3個の基鰓骨をもち、臀鰭に対する背鰭の位置は前後さまざま。
本亜目には「年魚」と呼ばれる一群が含まれる。年魚は[[雨季]]に形成された一時的な[[池沼]]に[[産卵]]する。卵は乾燥に耐える厚い[[絨毛膜]]をもち、[[休眠]]によって[[乾季]]を乗り越える。通常は次の雨季に孵化するが、1年以上卵のままでいる場合もある。こうした年魚の[[生活史 (生物)|生活史]]は分類上の系統を反映しているわけではなく、独立に獲得される様式であることが示されている<ref name=Palenti1981/>。
==== アプロケイルス科 ====
[[Image: Pachypanchax omalonotus 02.jpg|thumb|right|アプロケイルス科の1種(''Pachypanchax omalonotus'')]]
'''[[アプロケイルス科]]''' [[:w:Aplocheilidae|Aplocheilidae]] は2属7種からなり、[[マダガスカル]]・[[セーシェル]]など[[アフリカ]]東部の島嶼地域、および[[インド亜大陸]]から[[東南アジア]]にかけて分布する。雌の背鰭には黒い斑点がある。
かつてアプロケイルス亜目の魚類は、すべて本科にまとめられていた。現在ではアフリカ大陸に分布するグループをノソブランキウス科、[[新世界]]に住む一群をリウルス科として分離し、本科にはアフリカ島嶼地域とアジアに生息する少数のグループが含められている<ref name=Costa2004>{{cite journal|author=Costa WJEM |title=Relationships and redescription of Fundulus brasliensis (Cyprinodontiformes: Rivulidae), which description of a new genus and notes on the classification of the Aplocheiloidei |journal=Ichthyol Explor Freshwaters |year=2004 |volume=15|pages=105-120|id= }}</ref>。
* ''Aplocheilus'' 属
* ''Pachypanchax'' 属
==== ノソブランキウス科 ====
[[Image: Aphyosemion australe gold.jpg|thumb|right|アフィオセミオン・オーストラレ ''Aphyosemion australe'' (ノソブランキウス科)]]
[[Image: Nothobranchius rachovii male 450px.jpg |thumb|right|ノソブランキウス科の1種(''Nothobranchius rachovii'')]]
'''[[ノソブランキウス科]]''' [[:w:Nothobranchiidae|Nothobranchiidae 科]] には6属250種が所属し、[[サハラ砂漠]]南部から[[南アフリカ]]にかけてのアフリカ大陸に分布する。雄には3本の赤縞が斜めに走行する。
* ''Nothobranchius'' 属
* 他5属
==== リウルス科 ====
[[Image: Mangrove_rivulus.jpg|thumb|right|マングローブ・リウルス ''Kryptolebias marmoratus'' (リウルス科)。自家受精による単独繁殖が可能な魚類]]
'''[[リウルス科]]''' [[:w:Rivulidae|Rivulidae]] は28属236種を含み、[[フロリダ半島]]南部から[[中央アメリカ]]、[[アルゼンチン]]北東部にかけて分布する。多くは全長8cm未満、最大種でも20cmほどの小型魚類で、3cmに満たない超小型種も含まれる。多数の未記載種が知られ、分類は今後も拡大するものとみられる<ref name=Nelson2006/>。上擬鎖骨は後側頭骨と癒合せず、第一後擬鎖骨を欠く。一部に腹鰭を欠く種類がある。
フロリダ半島と[[西インド諸島]]に分布するマングローブ・リウルス(''Kryptolebias marmoratus''、以前は ''Rivulus'' 属に所属)および同属の仲間は、正常に機能する[[卵巣]]と[[精巣]]を同時に有するという、魚類あるいは全ての[[脊椎動物]]の中でも際立った特徴を有している。一匹の個体の中で[[体内受精]]が完了し、受精卵を産むことができる。本属を独立の Kryptolebiatinae 亜科、残るすべての属をリウルス亜科 Rivulinae として細分類する見解もある<ref name=Costa2004/>。
* ''Kryptolebias'' 属
* ''Rivulus'' 属
* 他26属
=== キプリノドン亜目 ===
'''キプリノドン亜目''' [[:w:Cyprinodontoidei|Cyprinodontoidei]] は4上科7科73属520種で構成される。腹鰭の基部は近接せず、基鰓骨は2個。
==== フンドゥルス上科 ====
'''フンドゥルス上科''' [[:w:Funduloidea|Funduloidea]] は3科23属85種からなる。プロフンドゥルス科とグデア科は[[姉妹群]]の関係にあるとみられている。
===== プロフンドゥルス科 =====
'''[[プロフンドゥルス科]]''' [[:w:Profundulidae|Profundulidae]] は1属5種を含み、中央アメリカの淡水域に分布する。体外受精により繁殖する。
* ''Profundulus'' 属
===== グーデア科 =====
[[Image: Ameca splendens.jpg|thumb|right|グーデア科の1種(''Ameca splendens'')]]
[[Image: Xenotoca eiseni.JPG|thumb|right|ハイランド・カープ ''Xenotoca eiseni'' (グーデア科)]]
'''[[グーデア科]]''' [[:w:Goodeidae|Goodeidae]] は2亜科18属40種で構成され、[[北アメリカ]]([[アメリカ合衆国|米国]][[ネバダ州]]から[[メキシコ]]中西部)に分布する。
* '''Empetrichthyinae 亜科''' 2属4種からなり、ネバダ州南部に分布するが、うち1種(アッシュメドウズキリフィッシュ、''E. merriami'')は既に[[絶滅]]したものとみられる。以前はキプリノドン科に含められていたグループ。腹鰭とその骨格をもたない。上鰓骨はY字型。体外受精をする。
** ''Crenichthys'' 属
** ''Empetrichthys'' 属
* '''Goodeinae 亜科''' 16属36種を含み、メキシコに分布する。体内受精を行うグループで、雄は臀鰭の前方の鰭条が短く変形した交接器をもつ。[[卵巣]]は部分的に癒合する。卵が小さく[[卵黄]]をほとんどもたないなど、発生過程に特徴が多い。体高の高いものから細長いもの、[[肉食動物|肉食性]]あるいは[[草食動物|草食性]]の種類までさまざまで、[[生態]]および体形には多様性がみられる。
* ''Goodea'' 属
* 他15属
===== フンドゥルス科 =====
[[Image: Mummichog.jpg|thumb|right|[[マミチョグ]] ''Fundulus heteroclitus heteroclitus'' (フンドゥルス科)。モデル生物として重要な種類]]
'''[[フンドゥルス科]]''' [[:w:Fundulidae|Fundulidae]] は4属50種からなり、[[カナダ]]南東部から[[ユカタン半島]]にかけての低地に分布する。本科の仲間の多くは顕著な広塩性を示し、生息域は淡水域から塩分濃度の高い沿岸海域まで広範囲に及ぶ。[[背鰭]]の起始部は臀鰭の真上か、やや前にある。
* ''Fundulus'' 属
* 他3属
==== ヴァレンキア上科 ====
'''ヴァレンキア上科''' [[:w:Valencioidea|Valencioidea]] は1科1属2種で構成される。いずれも卵生の魚類である。
===== ヴァレンキア科 =====
[[Image: Samaruc a l'aula de la natura, parc de Marxalenes.JPG|thumb|right|ヴァレンキア科の1種(''Valencia hispanica'')]]
'''[[ヴァレンキア科]]''' [[:w:Valenciidae|Valenciidae]] は1属2種からなり、[[スペイン]]南東部・[[イタリア]]・[[ギリシャ]]西部に分布する。主上顎骨に細長い突起がある。本科の魚類は地中海周辺の淡水域に分布する。
* ヴァレンキア属 ''Valencia''
==== キプリノドン上科 ====
'''キプリノドン上科''' [[:w:Cyprinodontoidea|Cyprinodontoidea]] は1科9属104種を含む。カダヤシ上科と姉妹群を構成すると考えられている。
===== キプリノドン科 =====
[[Image: Cyprinodon diabolis.jpg|thumb|right|キプリノドン科の1種(''Cyprinodon diabolis'')]]
'''[[キプリノドン科]]''' [[:w:Cyprinodontidae|Cyprinodontidae]] は2亜科9属104種で構成される。アメリカ合衆国・中央アメリカ・南アメリカと、アフリカ北部・[[地中海]]沿岸地域に分布する。背鰭の起始部は臀鰭よりも後方にある。体長8cm未満の小型魚類で、卵生。
* '''Cubanichthyinae 亜科''' 1属2種。[[キューバ]]・[[ジャマイカ]]に分布する。雄の背鰭は大きい。[[頭頂骨]]をもつ。
** ''Cubanichthys'' 属
* '''Cyprinodontinae 亜科''' 2族8属102種。頭頂骨をもたない。
** Orestiini 族 3属57種。[[チチカカ湖]]など南アメリカの高標高地域に分布する''Orestias'' 属、地中海周辺に生息する ''Aphanius'' 属、および[[トルコ]]の[[固有種]]である ''Kosswigichthys'' 属など、地理的に不連続な分布を示す一群である。歯骨が延長し、下顎が頑健となっている。''Orestias'' 属の仲間は腹鰭・鋤骨・第一後擬鎖骨をもたず、鱗を欠く種類もいる。
*** ''Aphanius'' 属
*** ''Kosswigichthys'' 属
*** ''Orestias'' 属
** Cyprinodontini 族 5属45種。アメリカ合衆国南東部から中央アメリカ・西インド諸島に分布する。''Floridichthys carpio'' など[[汽水域]]・海水に進出する種類もいる。第一椎骨には神経棘がない。一部の種類は腹鰭を欠く。
*** ''Cyprinodontis'' 属
*** 他4属
==== カダヤシ上科 ====
'''カダヤシ上科''' [[:w:Poecilioidea|Poecilioidea]] は2科40属319種で構成される。
===== ヨツメウオ科 =====
[[Image: Vierauge.jpg|thumb|right|ヨツメウオ科の1種(''Anableps sp.'')。瞳孔が分割された大きな眼を使い、水上と水中を同時に見ることができる]]
'''[[ヨツメウオ科]]''' [[:w:Anablepidae|Anablepidae]] は2亜科3属15種を含み、メキシコ南部から南アメリカにかけて分布する。上耳骨・上後頭骨は頑健。腹鰭は胸鰭の後端よりも後ろに位置する。背鰭の起始部は臀鰭よりも後方にある。
* '''Anablepinae 亜科''' 2属14種。卵胎生で、雄は[[精管]]と連続した交接器をもつ。交接器が左にのみ動く「左利き」と、右にしか動かない「右利き」の雄が存在する。雌の生殖孔も同様で、左に開口するものと右に開くものとがいる。左利きの雄は右に開口した雌と交尾し、右利きはその逆と考えられている<ref name=Nelson2006/>。
** ''Anableps'' 属 [[ヨツメウオ]]と総称されるグループで、メキシコ南部から南アメリカ北部にかけて3種が知られる。眼球が上部に突き出し、[[瞳孔]]が水面に対して水平に分割されていることが特徴。分割線と水面を合わせるように泳ぐことで、水上と水中の両方に、同時に焦点を合わせることができる。[[椎骨]]の数はカダヤシ目中で最も多く、45-54個に達する。全長32cmに達し(本目で最大)、雌が雄よりも大きい。
** ''Jenynsia'' 属 南アメリカ南部の低地に11種が分布する。眼は通常の形態。雌は最大12cmに成長するのに対し、雄は4cm程度である。
* '''Oxyzygonectinae 亜科''' 1属1種で、''O. dovii'' のみを含む。[[ニカラグア]]・[[コスタリカ]]・[[パナマ]]の[[太平洋]]側の淡水域に分布し、河口付近に進出することもある。交接器をもたず、体外受精をする。
* ''Oxyzygonectes'' 属
===== カダヤシ科 =====
[[Image: Black Molly 2.jpg|thumb|right|ブラックモーリー ''Poecilia sphenops'' (カダヤシ科)]]
[[Image: Limia perugiae 01.jpg|thumb|right|リミア・ペルギアエ ''Limia perugiae'' (カダヤシ科)。[[ドミニカ共和国]]([[イスパニョーラ島]]東部)の固有種]]
[[Image: Akwarium 14.12.05 r. 001.jpg|thumb|right|[[ソードテール]] ''Xiphophorus helleri'' (カダヤシ科)]]
[[Image: 18 marca 06 r. 015.jpg|thumb|right|[[サザンプラティフィッシュ]] ''Xiphophorus maculatus'' (カダヤシ科)]]
[[Image: Poeciliawingei2.jpg|thumb|right|カダヤシ科の1種(''Poecilia wingei'' [[エンドラーズ・ライブベアラ]])]]
'''[[カダヤシ科]]''' [[:w:Poeciliidae|Poeciliidae]] は3亜科37属304種で構成され、アメリカ東部から南アメリカ、およびアフリカの低地に分布する。交接器の有無はさまざま。胸鰭の位置は高い。本科内部の構成は、Ghedotti(2000)の見解に基づいた変更が近年加えられている<ref name=Ghedotti2000>{{cite journal|author=Ghedotti MJ |title=Phylogenetic analysis and taxonomy of the poecilioid fishes (Teleostei: Cyprinodontiformes) |journal=Zool J Linn Soc |year=2000 |volume=130|pages=1-53|id= }}</ref>。
* '''Aplocheilichthyinae 亜科''' 1属1種で、''A. spilauchen'' のみを含む。アフリカ西部の[[セネガル川]]・[[コンゴ川]]の河口付近に分布する本亜科は、他のすべてのカダヤシ科魚類の起源となった一群とみなされている。本亜科はかつて6属を擁したが、残る仲間はすべてProcatopodinae 亜科に移された。
** ''Aplocheilichthys'' 属
* '''Procatopodinae 亜科''' 2族9属78種を含む。
** Fluviphylacini 族 1属5種。南アメリカに分布し、体長2cm未満の超小型種からなる。かつては独立の亜科として分類されていた。
*** ''Fluviphylax'' 属
** Procatopodini 族 8属73種からなり、すべてアフリカに生息する。
*** ''Procatopus'' 属
*** 他7属
* '''カダヤシ亜科''' Poeciliinae 9族27属225種で構成され、南北アメリカ大陸および西インド諸島に分布する。1属(''Tomeurus'')を除き卵胎生で、雄は臀鰭の鰭条が長く伸びた交接器をもつ。[[カダヤシ]]・[[セイルフィン・モーリー]]・[[グッピー]]・[[ソードテール]]・[[サザンプラティフィッシュ]]など、観賞魚として人気の高い魚種が数多く所属する。[[セイルフィン・モーリー]]など汽水域・沿岸海域に進出する種類もある。
** Alfarini 族 1属2種。
*** ''Alfaro'' 属
** Priapellini 族 1属4種。
*** ''Priapella'' 属
** Gambusini 族 3属57種。
*** ''Gambusia'' 属
*** 他2属
** Heterandrini 族 6属45種。
*** ''Heterandria'' 属
*** 他5属
** Girardini 族 3属11種。
*** ''Girardinus'' 属
*** 他2属
** Poeciliini 族 6属88種。''Limia'' 属の仲間はそのほとんどが西インド諸島の固有種で、それぞれが分布する島の淡水域で重要な地位を占める魚類である。
*** ''Limia'' 属
*** ''Poecilia'' 属
*** 他4属
** Cnesterodontini 族 5属15種。本亜科で唯一の卵生魚類である ''Tomeurus'' 属(1種)は独立の族 Tomeurini として扱われることもある。
*** ''Cnesterodon'' 属
*** ''Tomeurus'' 属
*** 他3属
** Scolichthyini 族 1属2種。
*** ''Scolichthys'' 属
** Xenodexini 族 1属1種。
*** ''Xenodexia'' 属
== 出典・脚注 ==
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>
== 関連項目 ==
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{{wikispecies|Cyprinodontiformes}}
* [[魚の一覧]]
* [[熱帯魚]]
* [[卵生メダカ]]
== 参考文献 ==
* Nelson JS, Fishes of the World (4th ed), New York, John Wiley & Sons INC, 2006, ISBN 0-471-25031-7
* 上野輝彌・坂本一男 『新版 魚の分類の図鑑』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 2005年 ISBN 978-4-486-01700-4
* 川那部浩哉・水野信彦・細谷和海 編・監修 『日本の淡水魚 改訂版』 山と溪谷社 1989年 ISBN 4-635-09021-3
== 外部リンク ==
* [http://www.fishbase.org/Summary/OrdersSummary.cfm?order=Cyprinodontiformes FishBase‐カダヤシ目] (英語)
* [http://comiya.net/fish/order/kadayashi_mc/index.html カダヤシ目専門・カダヤシ目一覧表]
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7,346 | スズキ亜目 | スズキ亜目(学名:Percoidei)は、スズキ目に所属する魚類の分類群の一つ。魚類で最多の約10,000種を抱えるスズキ目の中でも最大のグループで、3上科79科の下に少なくとも549属3,176種が含まれる。
スズキ亜目はスズキ目に所属する20亜目の中で最も大きな一群であり、スズキ目全体の3割以上の魚類が記載される。スズキ目に含まれる160科のうち、約半数に当たる79科が本亜目に所属する。3上科に細分されるが、アカタチ上科(Cepoloidea)はアカタチ科のみ、Cirrhitoidea 上科はタカノハダイ科・ゴンベ科など5科だけを含み、残る73科はすべてスズキ上科(Percoidea)に分類される。
最も多くの魚種を含むのはハタ科(450種超)で、テンジクダイ科(約270種)がこれに続き、以下ニベ科・ペルカ科・イサキ科・アジ科・チョウチョウウオ科・メギス科・タイ科・フエダイ科の順に大きなグループとなっている。これらの上位10科はいずれも100種以上を含み、合計1,965種はスズキ亜目全体の62%を占める。その一方で26科は1属のみで構成され、そのうちスギ科・ギンカガミ科などの10科は、1属1種の単型となっている。
スズキ亜目の魚類はその多くが海水魚で、純粋な淡水魚はおよそ380種(全体の1割強)に過ぎず、その半数はペルカ科に所属する。
スズキ亜目の魚類は形態の多様性が著しく、すべてのグループに共通する点を示すことはできない。原棘鰭上目や骨鰾上目など、下位の真骨類と比較した場合には、概ね以下の表に示すような形態学的特徴を挙げることができる。これらの特徴の多くは、棘鰭上目の他のグループにも共通するもので、本亜目に限られた形質ではない。また、あくまでも一般的な傾向であり、例外も多数存在する。
スズキ目をいくつかの目に細分する分類法もあり、その場合にはここに挙げたスズキ亜目か、それに近い形のものが「スズキ目」となる。「スズキ類」という表現も使われるが、これはスズキ属・スズキ科・スズキ亜目、あるいはスズキ目全般と、様々な範囲に対して用いられる。
本稿では、Nelson(2006)によりまとめられたスズキ亜目の体系を扱う。スズキ亜目の分類基準となる形質には二次的な変異や退化が多く入り混じり、下位分類は不確定なものが多い。それぞれの科をどの亜目に含めるか、またスズキ亜目内部における科同士の分離・統合が盛んに検討されており、以下に示す体系は暫定的なものに過ぎない。
スズキ上科 Percoidea は73科524属3,084種で構成される。
Cirrhitoidea 上科は5科21属73種で構成される。
アカタチ上科 Cepoloidea にはアカタチ科のみ、1科4属19種が所属する。 | [
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] | スズキ亜目は、スズキ目に所属する魚類の分類群の一つ。魚類で最多の約10,000種を抱えるスズキ目の中でも最大のグループで、3上科79科の下に少なくとも549属3,176種が含まれる。 | {{生物分類表
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* [[アカタチ上科]]({{sname||Cepoloidea}}) - 1科
}}
'''スズキ亜目'''([[学名]]:{{sname||Percoidei}})は、[[スズキ目]]に所属する[[魚類]]の分類群の一つ。魚類で最多の約10,000種を抱えるスズキ目の中でも最大のグループで、3上科79科の下に少なくとも549属3,176種が含まれる<ref name=Nelson2006>『Fishes of the World Fourth Edition』 pp.341-387</ref>。
== 概要 ==
スズキ亜目はスズキ目に所属する20亜目の中で最も大きな一群であり、スズキ目全体の3割以上の魚類が記載される<ref name=Nelson2006/>。スズキ目に含まれる160科のうち、約半数に当たる79科が本亜目に所属する<ref name=Nelson2006/>。3上科に細分されるが、アカタチ上科({{sname||Cepoloidea}})は[[アカタチ科]]のみ、Cirrhitoidea 上科は[[タカノハダイ科]]・[[ゴンベ科]]など5科だけを含み、残る73科はすべて[[スズキ上科]]({{sname||Percoidea}})に分類される。
最も多くの魚種を含むのは[[ハタ科]](450種超)で、[[テンジクダイ科]](約270種)がこれに続き、以下[[ニベ科]]・[[ペルカ科]]・[[イサキ科]]・[[アジ科]]・[[チョウチョウウオ科]]・[[メギス科]]・[[タイ科]]・[[フエダイ科]]の順に大きなグループとなっている<ref name=Nelson2006/>。これらの上位10科はいずれも100種以上を含み、合計1,965種はスズキ亜目全体の62%を占める<ref name=Nelson2006/>。その一方で26科は1属のみで構成され、そのうちスギ科・ギンカガミ科などの10科は、1属1種の[[単型 (分類学)|単型]]となっている<ref name=Nelson2006/>。
スズキ亜目の魚類はその多くが[[海水魚]]で、純粋な[[淡水魚]]はおよそ380種(全体の1割強)に過ぎず、その半数はペルカ科に所属する<ref name=Nelson2006/>。
== 形態 ==
スズキ亜目の魚類は形態の多様性が著しく、すべてのグループに共通する点を示すことはできない<ref name=Ueno2005>『新版 魚の分類の図鑑』 pp.116-121</ref>。[[原棘鰭上目]]や[[骨鰾上目]]など、下位の[[真骨類]]と比較した場合には、概ね以下の表に示すような[[形態学 (生物学)|形態学]]的特徴を挙げることができる<ref name=Nelson2006/>。これらの特徴の多くは、[[棘鰭上目]]の他のグループにも共通するもので、本亜目に限られた形質ではない<ref name=Nelson2006/>。また、あくまでも一般的な傾向であり、例外も多数存在する<ref name=Nelson2006/>。
{| class="wikitable"
|| ||'''下位真骨類'''||'''スズキ亜目'''
|-
||'''鰭の棘条'''||いずれの[[鰭]]にも欠く||[[背鰭]]・臀鰭・腹鰭に棘条をもつ
|-
||'''腹鰭'''||腹の位置にあり、軟条は6本以上||胸の位置にあり、1棘5軟条
|-
||'''胸鰭'''||基底は水平で、腹部に近い部位にある||基底は垂直で、体の側面に位置する
|-
||'''尾鰭'''||主鰭条は18-19本であることが多い||主鰭条は17本以下で、さらに少ないことが多い
|-
||'''上顎を縁取る骨'''||主に主上顎骨、一部は前上顎骨||前上顎骨
|-
||'''眼窩蝶形骨・中烏口骨'''||存在する||存在しない
|-
||'''[[鱗]]'''||円鱗 ||櫛鱗
|-
||'''[[鰾]]'''||有気管鰾 ||無気管鰾
|-
|}
== 分類 ==
[[スズキ目]]をいくつかの目に細分する分類法もあり、その場合にはここに挙げたスズキ亜目か、それに近い形のものが「スズキ目」となる。「スズキ類」という表現も使われるが、これは[[スズキ属]]・[[スズキ科]]・スズキ亜目、あるいはスズキ目全般と、様々な範囲に対して用いられる。
本稿では、Nelson(2006)<ref name=Nelson2006/>によりまとめられたスズキ亜目の体系を扱う。スズキ亜目の分類基準となる形質には二次的な変異や[[退化]]が多く入り混じり、下位分類は不確定なものが多い<ref name=Nelson2006/>。それぞれの科をどの亜目に含めるか、またスズキ亜目内部における科同士の分離・統合が盛んに検討されており、以下に示す体系は暫定的なものに過ぎない。
=== スズキ上科 ===
'''[[スズキ上科]]''' {{sname||Percoidea}} は73科524属3,084種で構成される。
* '''[[w:Centropomidae|ホソアカメ科]]''' Centropomidae - 1属12種。
*: Nelson(1994)では[[アカメ属]]が含まれ<ref name=Nelson1994>『Fishes of the World Third Edition』 pp.341-387</ref>、和名として[[アカメ科]]があてられていた<ref name=Ueno2005/>。
* '''[[タカサゴイシモチ科]]''' {{sname||Ambassidae}} ({{sname||Chandidae}}) - 8属46種。
* '''[[アカメ科]]''' {{sname||Latidae}} - [[アカメ]]など2属9種<ref name=Nelson2006/>。
* '''[[モロネ科]]''' {{sname||Moronidae}} - 3属8種<ref name=Nelson2006/>。
*: 北大西洋・地中海沿岸に分布する[[ヨーロピアンシーバス]]・[[ホワイトバス]]が所属する。Nelson(2006)の体系では[[スズキ (魚)|スズキ]] ''Lateolabrax japonicus'' など[[スズキ属]]も暫定的に本科に含められるが、独立の[[スズキ科]] {{sname||Lateolabracidae}} として分離することも多い<ref name=Nakabo2013>『日本産魚類検索 全種の同定 第三版』 pp.1956-2031</ref>。
* '''[[ペルキクティス科]]'''<!--和名の根拠が必要--> {{sname||Percichthyidae}} - 11属34種<ref name=Nelson2006/>。
*: 分類学的位置付けに多くの問題を抱える一群。スズキ(''L. japonicus'')を本科に含め、和名をスズキ科とする見解もある<ref name=Ueno2005/>。また、Nelson(2006)の体系では、[[オヤニラミ]]({{snamei||Coreoperca}})および[[ケツギョ]]類({{snamei||Siniperca}})を本科あるいは Centropomidae 科に含めるか、ケツギョ科 {{sname||Sinipercidae }}として分離するかは不確定とされている<ref name=Nelson2006/>。さらに、クシスミクイウオ属({{snamei||Howella}})を独立のクシスミクイウオ科 Hoewllidae として扱う場合もある<ref name=Nakabo2013/>。
* '''[[w:Percillidae|Percillidae 科]]''' - 1属2種。
* '''[[ホタルジャコ科]]''' {{sname||Acropomatidae}} - [[ホタルジャコ]]・[[アカムツ]]・オオメハタなど8属31種。
*: 温帯の深海に生息する比較的小型のグループ。ホタルジャコ属は腹部に[[生物発光|発光器官]]をもち、肛門が腹鰭の基部に近い位置にある。
* '''[[カワリハナダイ科]]''' {{sname||Symphysanodontidae}} - 1属6種<ref name=Nelson2006/>。
* '''[[イシナギ科]]''' {{sname||Polyprionidae}} - 2属5種。
*: オオクチイシナギ・コクチイシナギなど深海性大型魚のグループ。
* '''[[ハタ科]]''' {{sname||Serranidae}} - [[キンギョハナダイ]]・[[サクラダイ]]・[[クエ]]・[[マハタ]]・[[アカハタ]]など3亜科64属475種。
*: スズキ亜目で最大の種数を誇るグループ。ミハラハナダイ属 {{snamei||Giganthias}} をミハラハナダイ科 Giganthiidae として分離する見解もある<ref name=Nakabo2013/>。
* '''オニハタ科'''<ref name=Nakabo2013/> {{sname||Centrogeniidae}} - [[オニハタ]]のみ1属1種。
* '''[[オニガシラ科]]''' {{sname||Ostracoberycidae}} - 1属3種。
* '''[[シキシマハナダイ科]]''' {{sname||Callanthiidae}} - 2属12種。
* '''[[メギス科]]''' {{sname||Pseudochromidae}} - 4亜科20属119種。
* '''[[グランマ科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Grammatidae}} - 2属12種。
* '''[[タナバタウオ科]]''' {{sname||Plesiopidae}} - 2亜科11属46種。
*: インド太平洋に分布。大きな口と細長い体を持つ。沿岸の岩礁に生息する。
* '''[[ノトグラプトゥス科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Notograptidae}} - 1属3種。
* '''[[アゴアマダイ科]]''' {{sname||Opistognathidae}} - カエルアマダイなど3属78種。
* '''[[ディノペルカ科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Dinopercidae}} - 2属2種。
* '''チョウセンバカマ科''' {{sname||Banjosidae}} - [[チョウセンバカマ]]のみ1属1種。
*: 別名はトゲナガイサキ。体高は高く、腹鰭は大きく黒い。背鰭棘・臀鰭第2棘は長い。
* '''[[サンフィッシュ科]]''' {{sname||Centrarchidae}} - [[オオクチバス]]・[[コクチバス]]・[[ブルーギル]]など3亜科8属31種。
* '''[[ペルカ科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Percidae}} - [[ヨーロピアンパーチ]]・[[イエローパーチ]]など3亜科10属201種。
* '''[[キントキダイ科]]''' {{sname||Priacanthidae}} - [[キントキダイ]]・ホウセキキントキ・[[クルマダイ]]など4属18種。
*: 世界中の熱帯・亜熱帯海域に18種が知られる。眼球が大きく、口は大きく斜め上に開く。
* '''[[テンジクダイ科]]''' {{sname||Apogonidae}} - [[マトイシモチ]]・[[クロイシモチ]]・[[テンジクダイ]]・[[ネンブツダイ]]など2亜科23属273種。
*: 海水魚が多いが淡水・汽水魚もおり、世界中に300種以上を含む。10cm 以下の小型種が多い。[[マウスブルーダー]]で、卵は雄が口の中で保護する。
* '''[[ヤセムツ科]]''' {{sname||Epigonidae}} - 6属25種。
* '''[[キス科]]''' {{sname||Sillaginidae}} - [[シロギス]]([[キス (魚)|キス]])・アオギス・ホシギスなど3属31種。
*: インド太平洋の沿岸域に30種ほどが知られるグループ。口が小さく、体つきが細長い。背鰭は二つに完全に分かれ、臀鰭が前後に長い。食用種が多い。
* '''[[キツネアマダイ科]]''' {{sname||Malacanthidae}} - キツネアマダイ・アカアマダイなど2亜科5属40種。
*: ほとんどすべてが海水魚で、水深 50-200m 程度のやや深い海底に生息する。砂地の海底にトンネルを掘って生活する。背鰭は前後に長く連なり、臀鰭もやや長い。アマダイ亜科とキツネアマダイ亜科に分けられるが、前者を[[アマダイ科]] {{sname||Branchiostegidae}} として分割する場合もある<ref name=Nakabo2013/>。
* '''アクタウオ科'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Lactariidae}} - [[アクタウオ]]のみ1属1種。
* '''ディノレーステース科'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Dinolestidae}} - [[ロングフィンパイク]]のみ1属1種。
* '''[[ムツ科]]''' {{sname||Scombropidae}} - 1属3種。
* '''オキスズキ科'''<!--和名の根拠が必要--> {{sname||Pomatomidae}} - [[オキスズキ]]のみ1属1種。
* '''ネーマティスティウス科'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Nematistiidae}} - [[ルースターフィッシュ]]のみ1属1種。
* '''[[シイラ科]]''' {{sname||Coryphaenidae}} - 1属2種。
* '''スギ科''' {{sname||Rachycentridae}} - [[スギ (魚)|スギ]]のみ1属1種。
* '''[[コバンザメ科]]''' {{sname||Echeneidae}} - [[コバンザメ]]・クロコバン・シロコバンなど4属8種。
* '''[[アジ科]]''' {{sname||Carangidae}} - [[コバンアジ]]・[[イケカツオ]]・[[マアジ]]・[[ブリ]]など4亜科32属140種。
* '''ギンカガミ科''' {{sname||Menidae}} - [[ギンカガミ]]のみ1属1種。
* '''[[ヒイラギ科]]''' {{sname||Leiognathidae}} - [[ヒイラギ (魚)|ヒイラギ]]・オキヒイラギ・コバンヒイラギ・ネッタイヒイラギなど3属30種。
* '''[[シマガツオ科]]''' {{sname||Bramidae}} - [[シマガツオ]]・ヒレジロマンザイウオ・[[ベンテンウオ]]・リュウグウノヒメなど2亜科7属22種。
* '''[[ヤエギス科]]''' {{sname||Caristiidae}} - 2属5種。
* '''[[ハチビキ科]]''' {{sname||Emmelichthyidae}} - [[ハチビキ]]など3属15種。
* '''[[フエダイ科]]''' {{sname||Lutjanidae}} - [[フエダイ]]・[[ハマダイ]]・[[スジタルミ]]・[[アオチビキ]]など4亜科17属105種。
* '''[[タカサゴ科]]''' {{sname||Caesionidae}} - [[タカサゴ]]など4属20種<ref name=Nelson2006/><ref name=Nakabo2013/>。
* '''[[マツダイ科]]''' {{sname||Lobotidae}} - 2属5種。
* '''[[クロサギ科]]''' {{sname||Gerreidae}} - [[クロサギ (魚)|クロサギ]]・[[ダイミョウサギ]]など8属44種。
*: 暖海性で、小型-中型の海水魚。沿岸性で汽水域にも進出する。吻を前方に長く突き出し、砂中の無脊椎動物を吸い込んで捕食する。
* '''[[イサキ科]]''' {{sname||Haemulidae}} - [[イサキ]]・[[コロダイ]]・[[コショウダイ]]・[[シマセトダイ]]など17属145種。
*: 熱帯の海を中心に約150種が知られる大きなグループ。体は平たく、背鰭は前後に分かれず連続的。尾鰭はV字状で胸鰭が尖る。尖った歯が並ぶ口は小さく、口唇が厚い。
* '''[[イネルミア科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Inermiidae}} - 2属2種。
* '''[[イトヨリダイ科]]''' {{sname||Nemipteridae}} - [[イトヨリダイ]]・ヒトスジタマガシラなど5属64種。
*: 温暖な海域のサンゴ礁や深海底に60種以上が知られる。尾鰭上端が細長く伸びるものが多い。
* '''[[フエフキダイ科]]''' {{sname||Lethrinidae}} - [[ハマフエフキ]]・シロダイ・[[ノコギリダイ]]・メイチダイなど5属39種。
*: 太平洋西部からインド洋の熱帯の海に数十種が知られる。主に沿岸部の岩礁に生息する。
* '''[[タイ科]]''' {{sname||Sparidae}} - [[マダイ]]・[[チダイ]]・[[キダイ]]・[[クロダイ]]・[[ヘダイ]]など33属115種。
*: ほとんどが海産魚で、世界中の熱帯から温帯の海に生息する100種以上を含む大きな科。体長 1m を超えるものもいる。背鰭は二つに分かれず連続的。雌雄同体か、成長とともに性転換をする。
* '''[[ケントラカントゥス科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Centracanthidae}} - 2属8種。
* '''[[ツバメコノシロ科]]''' {{sname||Polynemidae}} - [[ツバメコノシロ]]など8属41種。
* '''[[ニベ科]]''' {{sname||Sciaenidae}} - [[ニベ]]・[[シログチ]]・オオニベなど70属270種。
*: 世界中の海に生息し、200種以上を含む。背鰭が前後2つに分かれ、前部が発達する。
* '''[[ヒメジ科]]''' {{sname||Mullidae}} - [[ヒメジ]]・[[アカヒメジ]]・[[ヨメヒメジ]]・[[マルクチヒメジ]]・[[オジサン]]・[[ホウライヒメジ]]・[[オキナヒメジ]]など6属62種。
* '''[[ハタンポ科]]''' {{sname||Pempheridae}} - [[キンメモドキ]]・[[ミナミハタンポ]]など2属26種。
*: 太平洋・インド洋・大西洋の西部に生息。平たい体・大きな眼球・前後に短い背鰭などが特徴。
* '''[[アオバダイ科]]''' {{sname||Glaucosomatidae}} - 1属4種。
* '''レプトブラマ科'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Leptobramidae}} - [[ビーチサーモン]]のみ1属1種。
* '''[[ソコニシン科]]''' {{sname||Bathyclupeidae}} - 1属5種。
* '''[[ヒメツバメウオ科]]''' {{sname||Monodactylidae}} - 2属5種。
* '''[[テッポウウオ科]]''' {{sname||Toxotidae}} - 1属6種。
* '''[[マルスズキ科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Arripidae}} - 1属4種。
* '''[[w:Dichistiidae|Dichistiidae 科]]''' - 1属2種。
* '''[[イスズミ科]]''' {{sname||Kyphosidae}} - [[メジナ]]・[[イスズミ]]など5亜科16属45種。
*: 全世界の海に生息し、藻類を食べる植物食性と、海底の無脊椎動物を捕食する動物食性のグループがいる。
* '''[[スダレダイ科]]''' {{sname||Drepaneidae}} - 1属2または3種。
* '''[[チョウチョウウオ科]]''' {{sname||Chaetodontidae}} - 11属122種。
* '''[[キンチャクダイ科]]''' {{sname||Pomacanthidae}} - 8属82種。
* '''エノプロスス科'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Enoplosidae}} - [[オールドワイフ]]のみ1属1種。
* '''[[カワビシャ科]]''' {{sname||Pentacerotidae}} - [[カワビシャ]]・[[ツボダイ]]など3亜科7属12種。
* '''[[ナンドゥス科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Nandidae}} - 3亜科4属21種。
*: Nelson(2006)では熱帯魚として知られる {{snamei||Dario}} 属および {{snamei||Badis}} 属を本科に含めているが、[[FishBase]]など独立の科({{sname||Badidae}})として扱うこともある<ref name=FishBase>{{cite web |title= Badidae|publisher = FishBase| url= http://www.fishbase.org/Summary/FamilySummary.php?Family=Badidae |accessdate=2011-12-25 }}</ref>。
* '''[[w:Polycentridae|Polycentridae 科]]''' - [[リーフフィッシュ]]など4属4種。
* '''[[シマイサキ科]]''' {{sname||Terapontidae}} - [[シマイサキ]]・[[コトヒキ]]・[[ヒメコトヒキ]]など16属48種。
*: インド太平洋に約50種が知られ、海水・汽水・淡水で棲み分ける。
* '''[[ユゴイ科]]''' {{sname||Kuhliidae}} - [[ユゴイ]]・[[オオクチユゴイ]]・[[ギンユゴイ]]など1属10種。
*: インド太平洋域に分布し、13種がそれぞれ淡水・汽水・沿岸浅海に棲み分ける。淡水生の種は降河回遊をおこない、汽水域や海で産卵すると考えられている。
* '''[[イシダイ科]]''' {{sname||Oplegnathidae}} - [[イシダイ]]・[[イシガキダイ]]など1属7種。
*: 日本・オーストラリア・タスマニア・ガラパゴスなどの沿岸に局地的に生息する。歯が癒合し、短いくちばしの様になる。成体の背鰭は前部が狭く後部が幅広い。
=== Cirrhitoidea 上科 ===
'''[[w:Cirrhitoidea|Cirrhitoidea 上科]]'''は5科21属73種で構成される。
* '''[[ゴンベ科]]''' {{sname||Cirrhitidae}} - [[オキゴンベ]]・[[サラサゴンベ]]・[[クダゴンベ]]など12属33種。
*: インド太平洋・大西洋沿岸に生息する。沿岸部の岩礁や[[サンゴ礁]]に多く、鮮やかな体色の小型種が多い。
* '''[[キロネームス科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Chironemidae}} - [[ケルプフィッシュ]]など2属5種。
* '''[[アプロダクテュルス科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Aplodactylidae}} - 1属5種。
* '''[[タカノハダイ科]]''' {{sname||Cheilodactylidae}} - [[タカノハダイ]]・ユウダチタカノハ・ミギマキなど5属22種。
*: 亜熱帯・温帯海域に分布する。体は側扁し、厚い唇と小さな口をもつ。
* '''[[ユメタカノハダイ科]]'''<ref name=Ueno2005/> {{sname||Latridae}} - 3属8種。
=== アカタチ上科===
'''アカタチ上科''' {{sname||Cepoloidea}} にはアカタチ科のみ、1科4属19種が所属する。
* '''[[アカタチ科]]''' {{sname||Cepolidae}} - アカタチ・イッテンアカタチ・ソコアマダイなど2亜科4属19種。
*: 大西洋ヨーロッパ沿岸・地中海・インド太平洋に分布。細長い体で、背鰭・臀鰭も長い。
== 出典・脚注 ==
{{Commons|Category:Percoidei}}
{{Wikispecies|Percoidei}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* Joseph S. Nelson 『Fishes of the World Fourth Edition』 Wiley & Sons, Inc. 2006年 ISBN 0-471-25031-7
* Joseph S. Nelson 『Fishes of the World Third Edition』 Wiley & Sons, Inc. 1994年 ISBN 0-471-54713-1
* 上野輝彌・坂本一男 『新版 魚の分類の図鑑』 [[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]] 2005年 ISBN 978-4-486-01700-4
* 岡村収・尼岡邦夫監修 山溪カラー名鑑 『日本の海水魚』 [[山と渓谷|山と溪谷社]] 1997年 ISBN 4-635-09027-2
* 川那部浩哉・水野信彦・細谷和海編 山溪カラー名鑑 『改訂版 日本の淡水魚』 山と溪谷社 1989年 ISBN 4-635-09021-3
* 中坊徹次編 『日本産魚類検索 全種の同定 第三版』 東海大学出版会 2013年 ISBN 978-4-486-01804-9
==関連項目==
* [[魚の一覧]]
* [[スズキ目]]
== 外部リンク ==
* [http://www.fishbase.org/Summary/OrdersSummary.cfm?order=Perciformes Perciformes] - Froese, R. and D. Pauly. Editors. 2008. [[FishBase]]. World Wide Web electronic publication. www.fishbase.org, version (10/2008). (英語)
* [http://comiya.net/fish/order/suzuki_mc/index.html スズキ目専門・スズキ目一覧表]
{{デフォルトソート:すすきあもく}}
[[Category:スズキ目|*]] | 2003-04-26T20:39:50Z | 2023-12-31T09:33:17Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%82%AD%E4%BA%9C%E7%9B%AE |
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